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dtype=int32)} | ピッチャープレートを踏んだままの二塁への牽制球はボーク? | 安全進塁権 | japanese | {'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)} | 安全進塁権(あんぜんしんるいけん)とは、野球で、ルールにより走者(または打者)が、アウトにされることなく進塁が認められることである。
概要
安全進塁権が与えられた走者は、与えられた塁までアウトにされる恐れなく進塁することが許される。ただし、安全に進塁できるからといっても、正規の走塁をしなければならない。すなわち、複数個の安全進塁権が与えられた場合も、通常の進塁のように順番に触塁する必要があり、ダイヤモンドを横切って進塁が許された最後の塁まで直接向かうようなことは許されない。走者にリタッチの義務が残っている場合は、一旦リタッチの必要がある塁まで戻る必要がある。ボールデッド(一時中断)のもとで安全進塁権が与えられたときに塁を空過した場合は、走者が空過した塁の次の塁に達すれば、空過した塁の踏み直しが認められなくなる。プレイ再開後に守備側からアピールがあれば、その走者はアウトになる。
安全進塁権には、守備側のミスや反則行為に対するペナルティーとして発生するものが多いが、オーバーフェンスのホームランのようにそうともいいがたいものがある。安全進塁「権」と称されてはいるが、放棄することはできないので単なる権利とは言い難く、義務の性格もある。フェアボールがダイレクトに柵越えして本塁までの安全進塁権が与えられてもわざと一塁に留まったり、投手がボークを犯したときに走者が進塁を拒んだりすることは認められない。これは、公認野球規則1.02で「攻撃側は、まず打者が走者となり、走者となれば進塁して得点することに努める。」、1.05で「各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする」と謳われているため、より本塁へ近付くことのできるこの安全進塁権の放棄は原則に反するという解釈を根拠とする。同様に、攻撃側のミスや反則に適用される罰則である打者又は走者のアウト(例えば守備妨害等)を守備側の意向で取り消しにすることはできない(例外的に、打撃妨害発生時の「監督の選択権」というものがあるが、これとて打撃妨害によるペナルティを取るか、成り行きの結果による攻撃側の利益を取るかの択一であり、守備側の不利益が減免されるわけではない)。
打者が安全に進塁できる場合
次の場合、打者には1個の安全進塁権が与えられ、アウトにされるおそれなく一塁へ出塁できる(公認野球規則5.05(b))。このとき占有する塁を明け渡さなければならない(フォースの状態にある)走者にも1個の安全進塁権が与えられ、その次の塁まで安全に進塁できる。
四球が宣告された場合。この場合はボールインプレイであり、打者及び走者は、走塁死を賭してさらに進塁を試みてもよい。ただし、守備側監督が球審に通告して、投球せずに故意四球とする場合(いわゆる「申告敬遠」)はボールデッドであり、打者及びフォースの状態にある走者のみが1個だけ進塁できる。
死球が宣告された場合。この場合はボールデッドであり、打者及びフォースの状態にある走者のみが1個だけ進塁できる。
捕手やその他の野手が、打者を妨害した場合(打撃妨害)。打者を妨害した捕手や野手には失策が記録される。ただし、打撃妨害にもかかわらず、打者が投球を打つなどしてプレイが継続したときは、ひとまずプレイを続行し、プレイが一段落したところで処置を決める。
審判員または走者が、フェア地域で野手に触れていない打球に触れた場合(守備妨害)。打者には安打が記録され、打球に触れた走者は守備妨害でアウトになる。ただし、投手を除く内野手の股間や真横を通過した直後の打球に走者が触れた場合で、他の内野手が守備する機会がないと判断されたものを除く。
走者が安全に進塁できる場合
次の場合、走者には安全進塁権が与えられ、アウトにされる恐れなくその数だけ進塁することができる(公認野球規則5.06(b)(4))。ここで走者には打者走者を含むが、打者と打者走者は区別される必要があるので注意しなければならない。下に示す場合の走者に打者を含む場合には、特に説明を加える。
本塁(4個の安全進塁権)が与えられる場合
打球がインフライトの状態でフェアゾーンからプレイングフィールドの外へ出た場合(柵越え本塁打)。
柵越え本塁打となるであろうと審判員が判断した打球が、観衆や鳥、野手が投げつけたグラブや帽子などに当たって落下したり進路が変わった場合。
3個の安全進塁権が与えられる場合
野手が帽子やマスク、グラブやミットなどを本来の位置から離して<b data-parsoid='{"dsr":[2057,2069,3,3]}'>フェアの打球</b>に故意に触れさせた場合。この場合はボールインプレイである。なお、投げつけても、打球に触れなければそのままプレイ続行である。打者の記録は三塁打となる。
後述の「オーティズ事件」では、審判はタイムをかけてボールデッドにし、協議の上で3個の安全進塁権を与えたが、ボールデッドにした点は誤りである。
2個の安全進塁権が与えられる場合
野手が帽子やマスク、グラブやミットなどを本来の位置から離して送球に故意に触れさせた場合。この場合はボールインプレイである。なお、投げつけても、送球に触れなければそのままプレイ続行である。
フェアの打球がバウンドしてプレイングフィールドの外へ出た場合、または一度野手が触れて進路が変わった打球が、ファウル地域のスタンドに入った場合。または、フェンスやスコアボード、木などにはさまった場合。この場合はボールデッドである。打者の記録は二塁打となる。日本ではこれらは<b data-parsoid='{"dsr":[2507,2524,3,3]}'>エンタイトルツーベース(英語ではground rule double)と呼ばれる。
送球が、スタンドやベンチなど(野手がそれ以上追えない場所)に入ってしまった場合。この場合はボールデッドになる。
この場合、安全進塁権を認める基準となる塁は、悪送球が、打球を処理した直後の内野手の送球である場合は投球当時に占有していた塁、それ以外の場合は野手の手からボールが離れたときに占有していた塁となる。ただし、打球を処理した直後の内野手の送球であっても、すでに打者走者を含む全ての走者が1個以上進塁している場合は、野手の手からボールが離れたときに占有していた塁を基準とする。
1個の安全進塁権が認められる場合
野手が帽子やマスク、グラブやミットなどを本来の位置から離して<b data-parsoid='{"dsr":[2868,2876,3,3]}'>投球</b>に故意に触れさせた場合。この場合はボールインプレイであり、投球に触れたときの走者の位置を基準に、1個の塁が与えられる。
投手がボークを犯した場合。
打者への投球、または投手板(プレート)を外さずにマウンド上から行った送球(牽制球など)が、スタンドまたはベンチなど、ボールデッドとなる箇所に入った場合。この場合はボールデッドになる。
打者への投球が捕手を通過した後、または投手板を外さずにマウンド上から行った送球が塁を守る野手を通過した後、さらに捕手や野手に触れたうえでスタンドまたはベンチに入り、ボールデッドになった場合には、投球(送球)当時に占有していた塁を基準に、2個の安全進塁権が与えられる。第4ボール(四球)または第3ストライク(三振)にあたる投球がこの状態になったときは、打者にも二塁が与えられる。
投手が投手板を外してから送球した場合は、投手も通常の野手と同様に扱われるため、スタンドまたはベンチに入った場合は走者に2個の安全進塁権が与えられる。
第4ボールまたは第3ストライクにあたる投球が、球審や捕手のマスクや用具に挟まって止まった場合。この場合は打者にも一塁が与えられる。
野手が、打者が打った飛球を捕らえた後、スタンドやベンチなどボールデッドとなる箇所に踏み込んだり、倒れ込んだ場合。この場合は打者はアウトとなり、ボールデッドになる。走者全員に1個の安全進塁権が与えられるが、投球当時の占有塁へのリタッチの義務は消滅しない。
ボールデッドとなる箇所に入り込んで捕球をすることは認められない(捕球してもファウルボールとなる)。しかし、野手がベンチなどの中に<b data-parsoid='{"dsr":[4046,4059,3,3]}'>手を差しのべて</b>捕球することは差し支えない。この際に、倒れこまないようにベンチの中の選手やスタンドの観客に体を支えてもらってもよい。正規に捕球できている場合は打者はアウトになり、走者にはリタッチの義務が生じる。
サヨナラゲームの場合
最終回または延長回の裏の攻撃で、数個(2個以上)の安全進塁権が与えられサヨナラ勝ちが確定する場合、勝ち越し得点を挙げる走者が生還するのに必要な最小限の個数の安全進塁権しか与えられない。打者には、それと同じ個数の安全進塁権しか与えられないが、そのためにはその塁まで進塁することが条件となる(公認野球規則7.01(g)(3))。ただし、柵越え本塁打の場合は、得点差にかかわらず全ての打者と走者の生還(得点)が認められる(公認野球規則7.01(g)(3)【例外】)。
【例1】最終回裏に同点で走者二・三塁のときに、通常なら打者及び走者に2個又は3個の安全進塁権を与えられるべき事象が生じても、1個の安全進塁権のみが与えられ、三塁走者が本塁に触れることによって試合終了となる。二塁走者は三塁までの進塁が認められるが、生還は認められない。打者は、一塁までの進塁だけが認められる(実際に二塁を踏んだとしても、二塁に進塁したとは認められない)。打球がバウンドしたあとスタンドに入ったとしても、二塁打ではなく、単打の記録となる。
【例2】最終回裏に攻撃側が1点差で負けていて走者二・三塁のときに、打球がバウンドしてスタンドに入ると、走者2人にはそれぞれ2個の安全進塁権が与えられ、両者が本塁に触れることによって試合終了となる。あるいは、最終回裏に同点で走者二塁のとき、打球がバウンドしてスタンドに入ると、走者には2個の安全進塁権が与えられ、本塁に触れることによって試合終了となる。このとき打者走者が二塁まで走塁すれば打者の記録は二塁打であるが、一塁を踏んだだけでベンチに戻った場合は単打の記録となる。
審判員の宣告の仕方
走者に安全進塁権を与える場合、審判員は、以下の通りに宣告を行う。ただし、ボールデッドである場合はそれに先立って、両手を上方に広げるジェスチャーをし(ファウルボールと同じ)、「ボールデッド」または「タイム」と宣告する(打球が本塁打となった場合を除く[1])。
1個の安全進塁権を与える場合
右手を高く上げ、人差し指1本を伸ばし、「テイク・ワン(ベース)」と宣告する。
2個の安全進塁権を与える場合
右手を高く上げ、人差し指と中指の2本を伸ばし、「テイク・ツー(ベース)」と宣告する。
3個の安全進塁権を与える場合
右手を高く上げ、人差し指と中指、薬指の3本を伸ばし、「テイク・スリー(ベース)」と宣告する。
本塁を与える(打球がフェンスを越え、本塁打となった)場合
右手を高く上げ、頭上で人差し指を大きく回しながら「ホームラン」と宣告する。
安全進塁権が与えられたとき
ボールデッドのとき
ボールデッドのもとでは、与えられた塁以上に進むことは認められない。
例えば一・二塁間に一塁走者と打者走者の二人がいたときに 2 個の安全進塁権が与えられた場合、一塁走者・打者走者ともに三塁まで与えられることになるが、一塁走者は三塁まで進めても、打者走者は三塁が前の走者に占有されてしまうため三塁まで進むことができない。このような場合は、打者走者は三塁が許されても結果的に二塁までしか進塁できない。
ただし、打者に一塁が与えられた場合で、その打者に一塁を明け渡すために進塁しなければならなくなった走者は全員安全に次の塁へ進むことができる。いわゆる「四死球による押し出し」は典型的な例であり、満塁の場合は攻撃側に1点が入る(ただし、四球はボールインプレイである)。
ボールインプレイのとき
四球のケースのようにボールインプレイで安全進塁権が与えられた際には、与えられた塁まではアウトにされる恐れなく進塁することができるが、プレイは続行中であるので、守備側の隙を突いて、その塁を越えて進塁しようとすることも可能である。ただし、それ以降の進塁を試みようと、与えられた塁をオーバーランした段階で、それ以降の走塁はアウトにされる恐れがある。
このとき、安全進塁権が与えられた最後の塁を空過していても、この塁に達したものとみなされる。
【例】走者一塁でボールカウント3ボールから次の投球時、一塁走者が盗塁を試みていて、ストライクゾーンを外れた投球を捕手が後逸した場合を考える。四球で打者には一塁まで、一塁走者には二塁までの安全進塁権が与えられる。このときに、一塁走者が捕逸を利して三塁進塁を狙って、全力疾走で二塁を空過したとする。この場合、一塁走者は、二塁を空過した時点で二塁に到達し、安全進塁権が行使されたものとみなされる。したがって、これ以降はアウトにされる恐れがある。二塁を空過した一塁走者が二・三塁間から空過に気付き、二塁へ踏み直しに戻ろうとしても、二塁への帰塁より早く二塁に触球するか走者の身体に触球して、二塁空過をアピールすれば、一塁走者はアウトになる。
走者が安全進塁権を与えられ本塁までの進塁が認められた場合、他の走者が何らかの理由でアウトを宣告され三死となっても、安全進塁権が与えられた走者の得点は認められる(公認野球規則5.06(b)(3)【注】によれば、これは満塁で四球により安全進塁権が与えられたときに限って認められている)。
【例】二死満塁で第4ボールに当たる投球を捕手が後逸した。四球が宣告され、三塁走者は歩いて本塁に向かった。二塁走者は全力疾走で三塁を越えて本塁を窺ったが、球を拾った捕手からの送球で三本間で触球されてアウトとなった(第3アウト)。この時点で三塁走者はまだ本塁へ到達しておらず、数秒後にようやく本塁を踏んだ。 ― この場合、三塁走者の得点は認められる。
ドーム球場の特別ルール
ドーム球場ではその打球の性質に関わらず、打球がフェアグラウンドの上方空間にある天井や照明・音響・空調などの設備に挟まった場合や、そこに当たって跳ね返ってきたボールがフェアグラウンド内に落下した場合にどのように取り扱うかが特別に規定されている。
日本初のドーム球場である東京ドームでは、グラウンド面から天井部分までの高さは「人間の力では到達しえない高さ」として算出された61.690メートルと設計されているが、選手の能力の向上や用具の質的向上、空調や内部空気圧などの様々な要因が重なって、天井部に打球が接触する事態が発生するようになり、特別ルール設定の必要に迫られることになった。順次建設されたドーム球場では個々の球場の高さ・広さに合わせてグラウンドルールが定められている。
具体例
野手が誤ってボールを観客席に投げ入れる
この事例は、特にプロレベルで多く発生している。ファンサービスの一環として、野手が飛球を捕らえたことによって第3アウトが成立した場合に、その野手がボールを観客席に投げ入れるようになったことによるもので、いずれも野手がアウトカウントを勘違いして投げ入れてしまったもの。記録は当該野手の失策である。日本プロ野球で日付等が具体的に判明している例は以下の4つ。
2003年5月21日、読売ジャイアンツ(巨人)対ヤクルトスワローズ戦(福岡ドーム) - 6回表、一死一・二塁でヤクルト・鈴木健が外野へ飛球を打ち上げた。巨人のクリス・レイサム左翼手はこれを捕球したあと、ボールを観客席に投げ入れた。2人の走者に2個の安全進塁権が与えられ、二塁走者の宮本慎也が得点した。
2004年8月15日、阪神タイガース対広島東洋カープ戦(大阪ドーム) - 2回裏、一死一塁の状況で阪神・鳥谷敬のゴロを広島のグレッグ・ラロッカ一塁手が処理し、自ら一塁を踏んで鳥谷をアウトにした後に観客席へ投げ入れた。このとき一塁走者のジョージ・アリアスは既に二塁に達していたので、アリアスには更に2個の安全進塁権が与えられ、阪神が先制点を得た。
2011年5月26日、阪神タイガース対千葉ロッテマリーンズ戦(阪神甲子園球場) - 8回表、一死二塁でロッテ・清田育宏が放った飛球を阪神のマット・マートン右翼手が捕球した。このとき二塁走者の今江敏晃はタッグアップしていたが、マートンはそれを阻止するための送球をしようともせずに一塁側内野席(アルプススタンド)にボールを投げ入れた。これにより今江には2個の安全進塁権が与えられ、得点した[2]。
2015年7月20日、北海道日本ハムファイターズ対東北楽天ゴールデンイーグルス(札幌ドーム) - 6回表、一死一塁で楽天のギャビー・サンチェスが外野へ打ち上げた飛球を日本ハムの西川遥輝左翼手が捕球し、外野席にボールを投げ入れてしまった。一塁走者のウィリー・モー・ペーニャには2個の安全進塁権が与えられ、二死三塁となった。後続の打者は凡退し、このミスは失点にはつながらなかった。[3]
また、野手がフェアボールをファウルボールと誤認して観客席に投げ入れてしまった事例もある。
2015年7月20日、横浜DeNAベイスターズ対東京ヤクルトスワローズ(横浜スタジアム) - 7回裏、先頭打者のDeNA・アーロム・バルディリスの打球は一塁側ファウルライン付近に打ち上がり、ヤクルトの山田哲人二塁手が追ってグラブで打球に触れたが落球してしまった。同じくこの打球を追ってきた雄平右翼手はこれを拾い、打球がファウルボールになったと思い込んですぐ近くの観客席にボールを投げ入れたが、この打球が山田に触れたときの位置はファウルラインの内側であったため実際にはフェアボールであった。山田は素早くそのボールを観客から取り戻したが既に遅く、雄平の手からボールが離れた時点で一塁に達していたバルディリスにはさらに2個の安全進塁権が与えられた(最初の落球は山田に、ボール投げ入れは雄平に失策が記録された)。このあとDeNA・後藤武敏G.の内野ゴロの間にバルディリスは得点した。
ボールパーソンが誤ってフェアのボールを観客に渡す
2014年6月8日、カンザスシティ・ロイヤルズ対ニューヨーク・ヤンキース(カウフマン・スタジアム) - 4回表、ヤンキースのブライアン・ロバーツの一塁線のフェア打球を、右翼側ファウルグラウンドのフェンス脇で待機していたボールパーソンがファウルボールと勘違いして拾い上げて観客に渡してしまい、ロバーツには2個の安全進塁権が与えられた[4][5][6]。
故意ボーク疑惑
ボークの項を参照。
フェアボールにグラブを投げつける
漫画『ドカベン』の例
水島新司作の漫画『ドカベン』の劇中、甲子園での明訓高校とブルートレイン学園(BT学園)との試合において、安全進塁権及びそのルールの盲点が描かれている。
8回裏、BT学園の打者・桜が左中間を破りそうな大飛球を放ったが、中堅手の山岡鉄司はグラブを投げつけて打球を止めてしまった。左翼手の微笑三太郎は、このプレイで「三塁打でボールデッドになる」と勘違いして、山岡に内野への返球を止めさせた。すでに三塁を回って本塁に到達しかけていた打者走者の桜も、微笑と同じく勘違いをして三塁に戻ろうとし、その時くやしまぎれに本塁を2度踏みつけた。それを見た球審は、三塁に帰ろうとする桜の本塁到達を認めた。すなわちグラブを投げつけて打球を止めた場合は三塁打でボールデッドになるのではなく、3つの安全進塁権が与えられ、かつボールインプレイであるため、実際に本塁を踏んだ桜の得点が認められたのである。
また同じ水島新司作の漫画『一球さん』の劇中においても主人公の真田一球が大飛球をグラブで落とそうと考え、落としたあとに打者に三塁打と同じになると言われあっけにとられるシーンがある(真田はルールを知らないまま野球を始めてしまったという設定である)。
日本プロ野球の例
2008年5月4日、千葉ロッテマリーンズ対埼玉西武ライオンズ(千葉マリンスタジアム) - 5回表、無死無走者で、西武の栗山巧が打った打球は一塁手を強襲し、右翼手のいる方向へ転がっていった。この打球に対してロッテのホセ・オーティズ二塁手がグラブを投げつけ、グラブは打球に接触した。栗山は一塁にとどまっていたが、審判団は公認野球規則7.05(c)に基づき、栗山に三塁までの安全進塁権を与えた。このあと石井義人の犠牲フライにより西武は得点した[7]。
サヨナラ勝ちでエンタイトルツーベースが単打の記録になる
2017年8月20日、広島東洋カープ対東京ヤクルトスワローズ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島) - 延長10回裏、5対5の同点、2死二塁の場面で、広島のブラッド・エルドレッドが放った打球は中堅手の頭上を超え、外野フェンスの手前でバウンドしてスタンドに入った。打者と走者には2個の安全進塁権が与えられ、走者が得点して広島のサヨナラ勝ちとなった。しかし、エルドレッドは一塁を回ったところで走塁をやめたため、単打の記録となった[8]。
脚注
関連項目
野球の概要
第4アウト
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将軍達の反乱(French: Putsch des Généraux)あるいは<b data-parsoid='{"dsr":[722,734,3,3]}'>アルジェ一揆(French: Putsch d'Alger)とは、1961年にフランスにおいて企てられたクーデターである。シャルル・ド・ゴール大統領のアルジェリア政策に反対するフランス軍の退役将軍たちが、アルジェリアの首都アルジェを拠点として反乱を計画し軍事政権の樹立を目指した。反乱はアルジェリア戦争只中の1961年4月21日午後から1961年4月26日まで続いた[1]。
背景
1830年のフランス軍によるアルジェリア占領の後、1848年にはフランス領アルジェリアとしてフランス行政府が設置された。フランス領アルジェリアでは、ピエ・ノワール(ヨーロッパ系植民者)や同化の元に市民権を付与されたユダヤ教徒、そして一部のムスリム以外は激しい差別の対象とされた。1945年に第二次世界大戦が終結すると、民族自決の思想が世界中の植民地に広まり、宗主国フランスに対する反発が徐々に顕在化し始めた。1946年に勃発した第一次インドシナ戦争でフランス軍はベトミンに敗北し、1954年のジュネーヴ協定によってインドシナ4国は正式に独立した。在アルジェリア仏軍をはじめとするフランス軍やピエ・ノワールは「フランス植民地帝国」の衰退を警戒視し「フランスのアルジェリア」政策を強く支持していた。
1954年11月1日に発生したアルジェリア民族解放戦線 (FLN) の蜂起を引き金にアルジェリア戦争が勃発した。フランス政府は大規模な部隊を派遣して鎮圧を試みたが、FLNによる爆弾テロなどのゲリラ攻撃が頻発し戦争は泥沼化した。ピエール・マンデス=フランス首相がアルジェリア独立を容認する姿勢を見せると、ピエ・ノワールや在アルジェリア仏軍の間で不穏な空気が醸成されていった。
1958年5月に在アルジェリア仏軍は行政府を掌握し軍政を開始した。アルジェリアから派遣された落下傘部隊がコルシカ島を無血占領し、さらにパリを占領すると脅しをかけた。パリの通りでは左派・右派のデモ隊が衝突しフランス本国の社会も大混乱に陥った。権威を喪失した第四共和制の指導的政治家たちは軍部との妥協案として、下野していたシャルル・ド・ゴール将軍を元首に据えて憲法改正を含む改革を行うことを決定した。こうして第五共和制が成立した。
フランス軍はド・ゴールが断固としてアルジェリア支配を継続すると期待していたが、ド・ゴールは民族自決の流れに逆らうことは不可能であると考えていた。1960年にド・ゴールはアフリカの多くの植民地を独立させ、この年は後に「アフリカの年」として知られるようになった。1961年1月8日に行われた国民投票では、フランス国民の大半がアルジェリアの民族自決に賛成した。この結果を見たミシェル・ドブレ内閣はFLNの政治部門であるアルジェリア共和国臨時政府 (GPRA) と秘密交渉を開始した。
クーデター計画
首謀者
反乱首謀者の4名はいずれもフランス軍を退役した将軍であった[2]。
モーリス・シャール元空軍大将は、第二次世界大戦中の撃墜王である。フランスの降伏後はヴィシー・フランス軍に残留するも、密かにドイツ空軍の情報をロンドンへ送り続けていた。このため自由フランス軍との合流後、当時の英国首相ウィンストン・チャーチルから直々に感状を受け取っている。戦後は在アルジェリア仏空軍の航空隊指揮官として辣腕を振るい、ラウル・サラン大将の後任として在アルジェリア仏軍総司令官を兼ねる第10軍管区総監の職にあった。1960年1月にはシャール攻勢を発動しFLNに大打撃を与えるが、政治的混乱の中で辞任に追い込まれる。その後は同年5月から中央欧州連合軍司令官として勤務し、1961年2月に退役する。
エドモン・ジュオー元空軍大将は、第二次世界大戦中に空軍参謀本部作戦部員として活動した。フランスの降伏後はドイツ軍の捕虜となるも、脱走してレジスタンス運動に参加。1944年に自由フランス軍と合流するまで対独闘争を続けた。戦後も空軍参謀本部の将校として任務に就き、在アルジェリア仏空軍司令官や空軍参謀総長、フランス空軍総監などを歴任し、1960年10月に退役する。
アンドレ・ゼレール元陸軍大将は、ヴィシー・フランス軍及び自由フランス軍で長年兵站将校を務めた人物である。戦後も陸軍に残り、1955年には陸軍参謀総長に就任するも、1956年2月にアルジェリア戦争における補給遅延への抗議を込めて辞任する。1958年のアルジェ動乱に際して召還され、1959年に退役するまで陸軍の主要なポストを歴任した。
ラウル・サラン元陸軍大将は、フランスの植民地支配を統括する植民地省の情報局長として戦間期と第二次世界大戦の緒戦を過ごした。フランスの降伏後もヴィシー・フランス軍植民地軍総司令部に勤務し、アフリカの植民地にて密かに自由フランスへの協力を行っていた。やがて自らの連隊を引き連れて自由フランス軍に参加し数々の激戦を潜り抜け、戦後も第一次インドシナ戦争などに従軍した。アルジェリア戦争では在アルジェリア仏軍総司令官の職にあった。1958年の第四共和制崩壊に際してはシャルル・ド・ゴール将軍の第五共和制の支持を表明したが、肥大し続ける在アルジェリア仏軍の発言力を危険視したド・ゴールはサランを名誉職と見なされていたパリ軍事総督に左遷する。1960年6月、サランは失意のうちに退役する。
このうち、サランはクーデターの主計画作成には参加していないと主張したが、現在までこの反乱は4人のクーデターと考えられ、ドゴールも首謀者を「4人組の老将」("un quarteron de généraux en retraite")と称している。
計画
将軍たちは、ミシェル・ドブレ首相がアルジェリア民族解放戦線(FLN)との間に開催した秘密協議に反発して、ついにクーデターを決意した。
彼らのクーデターには2つの段階が計画されていた。
1.フランス軍によるアルジェリアの主要都市(コンスタンティーヌ、オラン、アルジェ)の占領。
2.フランス本土におけるパリの占領。
フランス本土における作戦では、アントワーヌ・アルグー大佐が指揮するフランス軍落下傘部隊が各地の飛行場を占領する予定だった。しかし、コンスタンティーヌ及びオランの軍司令官はシャールの説得に応じず、クーデターへの参加を拒否した。さらに本土における作戦の詳細は、既に軍情報部を介してドブレの元へ届いていた[3]。
経過
1961年4月22日、モーリス・シャール、エドモン・ジュオー、アンドレ・ゼレール、ラウル・サランの四将軍は、アントワーヌ・アルグーとジャン・ガラードの両大佐、および後に秘密軍事組織(OAS)を結成するとジャン=ジャック・スジニの協力を得て、アルジェリアにて蜂起した。
シャール将軍はフランス政府の新たな植民地政策を、アルジェリアのフランス人入植者への嘘であり、裏切りであるとして非難した。
フランス本土における拡張政策の保留、それに伴う共和国法及び憲法の改正は、政府による実に露骨で違法な侵害として国民の目に映るであろう[4]。—モーリス・シャール
4月22日
22日未明、エリー・ド・サン・マルク少佐に率いられた第1外人落下傘連隊(1er régiment étranger de parachutistes:およそ1000人で編成され、在アルジェリア仏軍全戦力の3%を占めていた)は、3時間でアルジェの戦略拠点を全て占領した。
4月22日午前7時、アルジェリアの入植者達はラジオから流れる「陸軍はアルジェリアとサハラを掌握せり」というメッセージで目を覚ました。反乱軍の三将軍、すなわちシャール、ジュオー、ゼレールは、政府軍を代表して派遣されたジャン・モラン将軍、運輸大臣ロバート・ブロン、及び一部の市民と軍人を拘束した。この段階ではさらにいくつかの連隊が同調して反乱軍に合流した。
この時、ド・ゴールはジャン・ラシーヌのオペラ「ブリタニキュス」を観劇する為にコメディ・フランセーズ劇場を訪れていた。ちょうど幕間に差し掛かる頃、アフリカ・マダガスカル方面の諜報部長ジャック・フォカールによってクーデタ発生を知らされたド・ゴールはパリ警視庁総監とフランス国家警察長官を兼任するモーリス・パポンに命じて劇場の一室に危機対策本部を設置した。
パリでは反乱に関与していると目されたジャック・フォール将軍ら6人の高級将校と数人の民間人が同時に逮捕された上、全ての飛行場で離着陸が完全に禁止された。午後5時、閣僚評議会において、ド・ゴールは次のように宣言した。
紳士諸君、今回の事件で重要なのは、これが決して深刻な事態ではないという点だ[5]。—シャルル・ド・ゴール
そして、アルジェリアにおいて非常事態宣言がなされた。フランス共産党や国際労働組合総連合、社会主義支援非政府組織[6] ヒューマン·ライツ·リーグは、軍のクーデターに反対するデモを執り行った。
4月23日
4月23日、サラン将軍がスペインから到着し、左翼政党や民間活動家の武装解除を行った。午後8時、ド・ゴールは第二次世界大戦以来の軍服姿でテレビに出演し、首都やアルジェリアにおけるクーデターに反対せよとフランスの軍民に呼びかけた。
反乱を起こした勢力は、アルジェリアにて軍事クーデターを宣言し、その体制を確立しつつある……この勢力は、一見して立派な体裁を保っている。すなわち4人組の老将だ。実に偏屈で、野心的で、狂信的な将校の一団である。この4人組はおざなりに結成されたものに過ぎず、ノウハウもまた限られたものに過ぎまい。しかし彼らは、彼ら自身の熱狂が祖国を変え、世界を変えると確信しているのだ。彼らのあまりに冒険的な企ては、やがて必ず国難へと直結する。
私は全フランス紳士に、特に兵士諸君に、彼らの命令を例え一つであろうとも遂行する事を禁ずる。私は父なる地と祖国に不幸が立ちこめる前に、内閣総理大臣、元老院議長、国民議会議長で構成する憲法評議会からの助言を受け、フランス共和国憲法第16条を行使する事を決断したのである。今日から私はこの状況に際し必要であろう全ての手段を行使する。フランスの紳士淑女よ、我に助力を![7]—シャルル・ド・ゴール
当時、世界的にもトランジスタラジオが流行の兆しを見せており、フランス軍もアルジェリアで戦う兵士に対して娯楽用として多数のトランジスタラジオを支給していた。支給品のラジオでド・ゴールの言葉を聞いた徴用兵達は、反乱に賛同した職業軍人たちの指示を一斉に拒否した。さらに国際労働組合総連合は反乱に対抗してゼネラル・ストライキを決断し、市民抵抗運動など各地の対反乱運動と協同した[8]。
4月24日
4月24日、1958年に自らもクーデターを試みたオラン県副知事Chérif Sid Caraがオラン県議会議長として他の20人の委員と共にクーデターへの支持を表明した。
4月25日
4月25日、パリ当局は反乱軍の手に落ちる事を防ぐべく、サハラ砂漠に保管されていた原子爆弾「Gerboise Verte(緑トビネズミ)」の爆破を命じた。「Gerboise Verte」は午前6時5分に爆発した。この頃には反乱軍からは徐々に投降する部隊が現れ始めた。
4月26日
4月26日、反乱の失敗を悟ったシャール将軍がフランス政府軍に投降する。さらに逃亡を図ったゼレールも間も無く逮捕された。ジュオーとサランは逃亡に成功し、OASに合流する。また反乱が鎮圧された後も、憲法16条がド・ゴールに与えた強権は5ヶ月間維持された。このド・ゴールの勝利は「トランジスタの戦い」「トランジスタの勝利」として報じられた[9]。
死傷者
フランス陸軍のピエール・ブリアン軍曹は、アルジェのOuled Fayetにて無線送信機を守りつつ、外人部隊の隊員に射殺された。彼は第1外人落下傘連隊第3中隊のエストゥ大尉に銃を向けた時に射殺されたのだという。
裁判と特赦
高等軍事法廷は逮捕されたモーリス・シャールとアンドレ・ゼレールを禁錮15年に処し、ラウル・サランとエドモン・ジュオーには欠席裁判で死刑が言い渡された。逃亡した2人はOASに参加し、1962年4月のエビアン協定妨害などに関与した。しかしやがてOASの組織は崩壊を始め、1962年3月25日にはジュオーが、4月20日にはサランが逮捕される。まもなく高等軍事法廷は彼ら2人に死刑を言い渡したものの、1968年7月には恩赦が与えられ無期懲役に減刑される。1982年11月には彼らの名誉を回復する法案が可決した。ラウル・サラン、エドモン・ジュオー、及びパリで逮捕された6人の将校はこの法律の恩恵を受けた。後にシャール将軍は回想録「我々の反乱」を著した。
BND及びCIAによる支援に関する噂と論争
フランスや諸外国で、将軍達の反乱を中央情報局(CIA)が支援していたという噂があった[10]。英国の歴史家アリステア・ホーン、フランスのジャーナリストジャン=ジャック・セルバン・シュライバー、フランスの歴史家兼ジャーアンリストジョヌヴィエーブ・タボイス、アメリカのジャーナリストジョセフ・オールソップなどの主張である。
彼らの主張によれば、北アフリカにおける共産主義の台頭やド・ゴールの曖昧な政治的スタンスを危惧したあるCIAの「友人」の援助があってこそ、シャール将軍はクーデターを計画したのだという[11]。
蜂起の2日前にはフィデル・カストロ排除を狙ってピッグス湾上陸を行っている。フランスのジャーナリストパトリック・ピスノ[11]は、4人組の老将が西ドイツの情報機関連邦情報局(BND)長官ラインハルト・ゲーレンの支援を受けていたのだと主張している。しかし、実際にはCIAがこのクーデターを支援する事は無く、ジョン・F・ケネディ大統領はド・ゴール側に軍事的援助を含む支援を持ちかけたのである[11]。ただしド・ゴールはこれを断った。またシャール将軍自身はこの決起に当たり海外と接触した事はないと主張した[11]。
脚注
参考文献
Pierre Abramovici, Le Putsch des Généraux, éd. Fayard, 2011
Jacques Fauvet and Jean Planchais, La Fronde des Généraux, Arthaud, Paris, 1961
Porch, Douglas. The French Foreign Legion. New York: Harper Collins, 1991. ISBN 978-0-06-092308-2
Roberts, Adam, ‘Civil Resistance to Military Coups’, Journal of Peace Research, Oslo, vol. 12, no. 1, 1975, pp. 19-36.
Roberts, Adam, ‘La défaite du putsch de 1961: un exemple de résistance civile’, Espoir, Institut Charles de Gaulle, Paris, no. 15, June 1976, pp. 47-54.
淡徳三郎:著『アルジェリア革命』刀江書院、1972年。
アリステア・ホーン:著、北村美都穂:訳『サハラの砂、オーレスの石 アルジェリア独立革命史』第三書館、1994年。
モーリス・ラーキン:著、向井喜典:監修、太田潔ほか:訳『フランス現代史 人民戦線期以後の政府と民衆 一九三六~一九九六』大阪経済法科大学出版部、2004年。
バンジャマン・ストラ:著、小山田典子、渡辺司:訳『アルジェリアの歴史』明石書店、2011年。
ギー・ペルヴィエ:著、渡邊祥子:訳『アルジェリア戦争 フランスの植民地支配と民族の解放』白水社、2012年。
関連項目
クーデター
ジャッカルの日
メディア
外部リンク
, Human Rights League (in French)
in Le Monde, 2001 (in French)
(in French)
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セーヌ川(セーヌがわ、Seine)は、フランスを流れる河川である。流域も全体がフランスに属している。全長780kmは、フランスではロワール川に続いて第二の長さ[1]である。
流路
ディジョンの北西30kmの海抜471mの地点に源を発し北西に向かい、パリを流れ、ル・アーヴルとオンフルールの間のセーヌ湾に注ぐ。
中下流部は大きく蛇行した流れが特徴で、パリを抜けるあたりから何度も繰り返す。ジヴェルニー、ヴェルノンの付近は、しばらく治まるが、ルーアンの近辺で再び蛇行が始まる。
河口付近の川幅は大きく広がっており、湾と言っても差し支えないほどである。ル・アーヴルとオンフルールの間に、1995年にノルマンディー橋が完成するまでは、両市の陸上交通は、さらに20kmほど上流のタンカルヴィル橋まで遡らなければならなかった。
歴史
かつては大西洋(英仏海峡)と北フランス内陸部を結ぶ河川舟運に使われ、ヴァイキングがセーヌ川を遡行してパリなどに侵入した。
水質汚染
上下水道が発展する以前は、パリの人々はこの川を上下水道のどちらとしても利用していた。その結果、何度も疫病が流行し、疫病による死者がその年の生まれた人数を上回ったこともあった。
英国の首都ロンドンで当時世界一と言われた水道システムを見ていたナポレオン3世が、上下水道をはじめとして様々な改革(パリ改造)を行うことで、パリの市民はセーヌ川の水を飲まずに済むようになった。下水道の形は卵をひっくり返したような断面をしており、また人間が通れる大きさになっているので、人が点検をすることができる。
このほか、下水道を設計した技師は特殊な構造の、掃除用の船を設計している。船は水路の流れをせき止めるような構造をしており、水は船の下を流れるようになる。船の下を水流が流れることにより、水流が高速になることで、水路の底の汚れを船の前に堆積させ、船とともに徐々に前進させる仕組みとなっている。
ジャック・シラク市長時代の1984年から、パリ市は「清潔なセーヌ川10カ年計画」を実施した。一時は3種類に減ったパリ付近のセーヌ川に棲息する魚類が33種類に増えるなど改善はみられたものの、ゴミ投棄を含む水質汚染は依然として解消されていない。第二次世界大戦直後に建てられた古い家屋の下水配管ミスや船上生活者によりセーヌ川に流される生活排水が多いうえ、豪雨時は下水の逆流を防ぐため汚水が雨水とともにセーヌ川へ流される箇所もある。
2024年パリオリンピックでセーヌ川は競泳会場に予定されており、下水道の改良やオゾン、紫外線による水質浄化などが検討されている[2]。
観光・文化
フランスの首都パリは、セーヌ川にある中州のシテ島から発達した町である。シテ島の上流に続くサン・ルイ島、チュイルリー公園、コンコルド広場、エッフェル塔、シャイヨ宮、自由の女神像など、セーヌ川およびその河岸は、現在でもパリ市の観光の中心であり、バトームーシュと呼ばれる観光船も定期的に運航されている。一部はパリのセーヌ河岸として世界遺産に登録されている。
セーヌ川は絵画や映画、シャンソンなど音楽のテーマとして数多く取り上げられてきた。オードリー・ヘプバーンの映画『シャレード』では観光船でのケーリー・グラントとの夕食の舞台で、河岸の恋人たちが映し出される。
パリ市外では、画家クロード・モネが暮らしたジヴェルニーは下流部にある。モネは『セーヌ河の朝』[3]という作品を残しているほか、有名な連作の画題とした『睡蓮』を育てた池はセーヌ川支流から水を引いていた。
支流
下流より記載。流路延長を併記。*は右岸(セーヌ川の北東側)支流。
Risle - 140km
ウール川 - 225km
Andelle* - 54km
Epte* - 100km
オワーズ川* - 302km
エーヌ川
マルヌ川* - 525km
オルジュ川 - 50km
エソンヌ川 - 90km
ロワン川 - 166km
ヨンヌ川 - 293km
オーブ川* - 248km
橋梁
上流より記載(パリ市内のみ)。
アモン橋
ナシオナル橋
トルビアック橋
シモーヌ・ド・ボーヴォワール橋(ベルシー・トルビアック橋)
ベルシー橋
シャルル・ド・ゴール橋
オステルリッツ高架橋
オステルリッツ橋
シュリー橋
トゥルネル橋
マリー橋
ルイ・フィリップ橋
サン=ルイ橋
アルシュヴェシェ橋
ドゥブル橋
アルコル橋
プティ・ポン
ノートルダム橋
サン・ミッシェル橋
シャンジュ橋(両替橋)
ポンヌフ
ポンデザール(芸術橋)
カルーゼル橋
ロワイヤル橋
レオポール・セダール・サンゴール橋(ソルフェリーノ橋)
コンコルド橋
アレクサンドル3世橋
アンヴァリッド橋
アルマ橋
ドゥビリ橋
イエナ橋
ビラケム橋
ルエル橋
グルネル橋
ミラボー橋
ガリリアーノ橋
アヴァル橋
脚注
関連項目
左岸派
レ・ミゼラブル - ヴィクトル・ユーゴーの小説。
ラ・セーヌの星 - 日本のテレビアニメ。フランス革命の頃のパリが舞台。
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%B7%9D |
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2013年の自転車競技(2013ねんのじてんしゃきょうぎ)では2013年の自転車競技について記述する。
できごと
1月
4日
当年で100回目を迎えるツール・ド・フランスの関連大会を誘致するべく、さいたま市の外郭団体である、さいたまスポーツコミッションが、ツール・ド・フランスの主催者であるアモリ・スポル・オルガニザシオン(ASO)と前年夏頃より交渉を進め、当年10月頃に、同市中央区のさいたま新都心に3キロから5キロの周回コースを作り、当年のツール・ド・フランスで上位に入った選手ら30人前後を招待するほか、日本からも20人ほどの選手の参加を見込んだレースを開催する方向で具体的な交渉に入ることが明らかになった[1]。
ニューヨーク・タイムズは、前年に永久追放処分を受けたランス・アームストロングが、ドーピングの事実を公にすることを検討していると報じた。同紙はドーピング事実を認めることにより、競技者復帰を目指す狙いがあるものだとしている[2]。
8日
当年のジロ・デ・イタリアに出場する22チームが決定。前年、UCIプロチーム除外を受け、スポーツ仲裁裁判所(CAS)で係争中のカチューシャは選出されなかった[3]。
9日
日本自転車競技連盟(日本車連)の新会長に、参議院議員で、日本スケート連盟の会長を務める橋本聖子が就任することが、同連盟より発表された[4][5]。
14日
ランス・アームストロングは、米テキサス州オースティンで受けたテレビインタビューで、ドーピング事実を認めた。なお、インタビューは当月17日に放送される[6]。
15日
国際オリンピック委員会(IOC)のディック・パウンドは、ランス・アームストロングがドーピング事実を告白したことに関連して、『問題を解決するための期間として4─8年の間自転車を五輪の実施競技から外し、「問題が収まった段階で五輪に戻すことも一案」。「自転車競技がクリーンになる唯一の方法は、五輪から外されることによって関係者に危機感を持たせること」』と述べ、自転車競技そのものをオリンピックから除外することを示唆した[7]。
16日
当年のブエルタ・ア・エスパーニャの全コースが発表され、全21ステージ中、山頂ゴール数が11という、山岳偏重ともいうべき内容となった[8]。
17日
国際オリンピック委員会(IOC)は、ランス・アームストロングのシドニーオリンピック・個人タイムトライアル(ITT)における銅メダルを剥奪することを決め、アームストロングに返還を求めたことを明らかにした[9]。
ランス・アームストロングがテレビ司会者のオプラ・ウィンフリーとのインタビューでドーピングを告白した内容がテレビ放映された。その中でアームストロングは、『ツール・ド・フランス7連覇はすべて薬物の助けを借りていた。エリスロポエチンや筋肉増強剤を使用し、血液ドーピングにも手を染めた。』と述べた。そして、これまで一貫して薬物使用を認めなかった理由について、『あまりに完璧なストーリーが長く続いたため』と説明した[10][11][12]。
アモリ・スポル・オルガニザシオン(ASO)は、2014年のツール・ド・フランスのグランデパール(スタート地点)をイギリスのヨークシャーと定め、同地で行われる第1〜3ステージの概要を発表[13]。
18日
メキシコのアグアスカリエンテスで行われたUCIトラックワールドカップ2012-2013の第三戦・男子ケイリンで、当大会ではシクロチャンネルトウキョウ(CCT)のメンバーとして登録されている渡邉一成が2位に入った[14]。
前年の9月21日に行われた競技外のドービング検査でエリスロポエチン(EPO)陽性になったフランスのストゥヴ・ウアナールに対し、国際自転車競技連合(UCI)は2年間の資格停止処分を下した[15]。
ランス・アームストロングへのインタビュー番組の後編が放送され、アームストロングは、『スポンサー企業との契約打ち切りなどが相次ぎ、1日で7500万ドルの収入を失う場面に遭遇した』ことを明らかにした[16]。
20日
トム・ボーネンが敗血症性感染症で左ヒジの緊急手術を受けたと、オメガファーマ・クイックステップが発表した。一週間前に自宅近くの林でマウンテンバイクで、左ヒジに小さな切り傷を負ったところ、それがバクテリアに感染したのが原因だという[17]。
22日
UCIはバイオロジカル・パスポートの血液プロフィールの情報に基づき、ベルギーのレイフ・ホストにアンチドーピング規則違反の疑いがあるため、ベルギー車連に懲罰手続きを開始するように要請したと発表した[18]。
23日
ロイターによるアンケートによると、当月17、18日に放送されたランス・アームストロングのインタビュー番組に対し、ドーピングに対する謝意が感じられたかと問うたところ、そう感じられたとの回答はわずか12%だった。また、57%が永久追放でよいと回答した[19]。
25日
当月27日に放送予定のCBSの番組、60 Minutesに出演するためにインタビューに応じた合衆国アンチ・ドーピング機関(USADA)のCEO・トラヴィス・タイガートは、過日のランス・アームストロングのインタビューの内容について、虚偽があまりにも多すぎるなど、批判に終始した[20]。
27日
スペシャライズド・ジャパンが、フロントフォークのステアチューブに不具合があり、乗車中にフロントフォークが破損する恐れがあることが判明したとして、『2012,2013 年 TARMAC SL4』『2013 年 CRUX』『2013 年 SECTEUR EXPERT DISC』の車種についてリコールすると発表[21]。
ツアー・ダウンアンダー最終日が行われ、トム・スラフテルが総合優勝[22]。
31日
ルクセンブルクアンチドーピング機構(LADA)は、利尿促進剤キシパミドの陽性反応により、前年のツール・ド・フランスでの強制リタイア以降、レース活動から遠ざかっているフランク・シュレクに対し、1年間の出場停止処分を下した。なお、出場停止期間は当年7月13日まで[23]。
2月
1日
アメリカ合衆国、ルイビルで開催の当年のシクロクロス世界選手権は当初、当月2、3の両日行われる予定だったが、オハイオ川の水位上昇傾向が48時間程度続く見込みであることから、急遽、2日だけの開催に変更になった[24]。
2日
シクロクロス世界選手権が行われ、男子はスヴェン・ネイスが8年ぶり2度目[25]、女子はマリアンヌ・フォスが5年連続6度目の優勝[26]。
6日
アメリカの保険会社、SCAプロモーションズは、過去にランス・アームストロングに支払った1200万ドルの報奨金の返還を求めて訴訟を起こす意向であることを明らかにした[27]。
7日
アメリカの経済誌・フォーブスは、米国で最も嫌われているスポーツ選手ベスト10を世論調査し、ランス・アームストロングが第一位となったことを発表した[28]。
13日
当年のUCIワールドツアー対象レースとして予定されていた、ツアー・オブ・杭州について、UCIは同ツアーレベルでレースを主催する基本条件が整わなかったため、このプロジェクトは凍結してしまったことを明らかにし、同レースを除外することを決めた。なお、ツアー・オブ・杭州が除外となったことにより、ツアー・オブ・北京の日程が繰り上がることになり、10月11日〜15日までの日程で行われる予定[29]。
15日
当年シーズンのUCIプロチームから除外されたことを不服として、スポーツ仲裁裁判所(CAS)に訴えていたカチューシャに対する裁定が下され、CASは、カチューシャの訴えを認めた[30]。
18日
UCIは、スポーツ仲裁裁判所(CAS)がカチューシャに対してUCIプロチーム認定を裁定したことにより、当年限りの措置として、当年のUCIワールドツアーライセンスチーム数を19にすることを表明。これにより、前月に招待されなかった当年のジロ・デ・イタリアについても参加できる可能性が出てきた[31]。
20日
トラックレース世界選手権が、ミンスク・アリーナで開幕。4種目で決勝が行われ、男子1kmタイムトライアルはフランソワ・ペルヴィス(フランス)、女子個人追抜はサラ・ハマー、女子チームスプリントはドイツ(クリスティーナ・フォーゲル、ミーリアム・ヴェルテ)、男子団体追抜はオーストラリア(グレン・オシェイ、アレクサンダー・エドモンソン、マイケル・ヘップバーン、アレクサンダー・モーガン)がそれぞれ優勝。
21日
トラックレース世界選手権2日目が行われ、女子500mタイムトライアルは李慧詩(香港)、男子個人追抜はマイケル・ヘップバーン(オーストラリア)、女子団体追抜はイギリス(ローラ・トロット、ダニ・キング、エリノア・バーカー)、男子スクラッチはマーティン・アーヴァイン(アイルランド)、男子チームスプリントはドイツ(レネ・エンダース、シュテファン・ベティヒャー、マキシミリアン・レヴィ)がそれぞれ優勝。
2014年のジロ・デ・イタリアのスタート地点がアイルランドのベルファストに決まった[32]。
22日
トラックレース世界選手権3日目が行われ、女子スクラッチはカタジィナ・パヴウォヴスカ(ポーランド)、男子ポイントレースはサイモン・イェーツ(イギリス)、男子ケイリンはジェイソン・ケニー(イギリス)がそれぞれ優勝。
アメリカの司法省は、USポスタルサービスに2001〜04年だけで3100万ドル(約29億円)を支出していたことを踏まえ、その間、USポスタルサービス・チームに在籍していたランス・アームストロングがドーピングしていたことは契約違反だとして、損害賠償訴訟に参加することを表明[33]。
23日
トラックレース世界選手権4日目が行われ、女子ポイントレースはヤルミラ・マハチョヴァー(チェコ)、男子オムニアムはアーロン・ゲイト(ニュージーランド)、女子スプリントは、レベッカ・ジェイムス(イギリス)がそれぞれ優勝。
24日
トラックレース世界選手権最終日が行われ、女子オムニアムはサラ・ハマー(アメリカ)、男子スプリントはシュテファン・ベティヒャー(ドイツ)、男子マディソンは、フランス(ヴィヴィアン・ブリス、モルガン・クネスキ)、女子ケイリンは、レベッカ・ジェイムス(イギリス)がそれぞれ優勝。
3月
10日
パリ〜ニース最終日が行われ、リッチー・ポートが総合優勝[34]。
12日
ティレーノ〜アドリアティコ最終日が行われ、ヴィンチェンツォ・ニバリが総合2連覇[35]。
15日
フェリーチェ・ジモンディが、ジロ・デ・イタリアの殿堂入りを果たした[36]。
17日
ミラノ〜サンレモが行われ、ゲラルト・ツィオレックが優勝[37]。
22日
E3・ハレルベークが行われ、ファビアン・カンチェッラーラが優勝[38]。
24日
ヘント〜ウェヴェルヘムが行われ、ペーター・サガンが優勝[39]。
カタルーニャ一周最終日が行われ、ダニエル・マーティンが総合優勝[40]。
25日
当年10月26日に、さいたま市で行われるさいたまクリテリウムbyツールドフランスの調印式が行われた[41]。
31日
ロンド・ファン・フラーンデレンが行われ、ファビアン・カンチェッラーラが優勝[42]
4月
6日
バスク一周最終日が行われ、ナイロ・キンタナが総合優勝[43]。
7日
パリ〜ルーベが行われ、ファビアン・カンチェッラーラが優勝[44]
14日
アムステルゴールドレースが行われ、ロマン・クロイツィガーが優勝[45]。
15日
サー・クリス・ホイが現役引退することに。当月18日に記者会見を行う[46]。
17日
フレッシュ・ワロンヌが行われ、ダニエル・モレノが優勝[47]。
21日
リエージュ〜バストーニュ〜リエージュが行われ、ダニエル・マーティンが優勝[48]。
23日
アレッサンドロ・ペタッキがランプレ・メリダの公式サイトで引退を表明[49]。
27日
当年開催の第100回ツール・ド・フランスに出場するチームが発表された[50]。UCIプロチームの19チーム及び、コフィディス、チーム・ヨーロッパカー、ソジャスュンのワイルドカード3チームを含めた、合計22チーム。
28日
ツール・ド・ロマンディ最終日が行われ、クリス・フルームが総合優勝[51]。
5月
3日
当年のブエルタ・ア・エスパーニャに出場する22チームが決定[52]。
10日
当年のジャパンカップサイクルロードレースの概要が決定[53]。
12日
マウンテンバイクアジア選手権において、男子・クロスカントリーで山本幸平が5連覇、女子・ダウンヒルで末政実緒が3年ぶり11回目の優勝[54]。
18日
岸和田競輪場に隣接するサイクルピア岸和田で行われた全日本プロ選手権自転車競技大会のBMXで、古性優作が3連覇を達成[55]。
20日
デニス・メンショフが現役引退を表明[56]。
21日
国際自転車競技連合(UCI)は、シルヴァン・ジョルジュに、当月10日に行われたジロ・デ・イタリア第7ステージ終了後に行われた尿検査の結果、興奮剤のヘプタミノールの陽性反応が確認され、Bサンプルでも同様の陽性が出たため、処分を下す旨を表明[57]。
24日
ポンテ・ディ・レーニョ 〜 ヴァル・マルテッロ間、139kmのコースで行われる予定だった。ジロ・デ・イタリア第19ステージは、積雪のため中止となった[58]。
25日
国際自転車競技連合(UCI)は、ダニーロ・ディルーカに、当年4月29日、世界アンチ・ドーピング機関公認の研究所で行われた競技外ドーピング検査の結果、エリスロポエチン(EPO)陽性反応が確認されたと発表した[59]。
26日
ジロ・デ・イタリア最終日が行われ、ヴィンチェンツォ・ニバリが初の総合優勝[60]。
ツアー・オブ・ジャパン最終日が行われ、フォルトゥナート・バリアーニが、同レース史上初の総合2連覇を達成[61]。
31日
前年のツール・ド・フランス総合優勝者、ブラッドリー・ウィギンスが、膝の故障が原因で当年のツール・ド・フランスを欠場すると、所属チームのチームスカイが発表した[62]。
6月
2日
ツール・ド・熊野最終日が行われ、フリアン・アレドンドが総合優勝。
3日
国際自転車競技連合(UCI)は、マウロ・サンタンブロージョに、当年5月4日に行われたジロ・デ・イタリア第1ステージ終了後に行われた尿検査の結果、エリスロポエチン(EPO)陽性反応が確認されたと発表した。[63]。
6日
当年のツール・ド・熊野において、ヴィーニ・ファンティーニ=セッレ・イタリアに対し、ドーピング検査員が意図的にランダム検査から外した疑惑が浮上。これに対し、日本アンチ・ドーピング機構は、「不適切な行為等の事実は一切ない」と否定した[64]。
9日
全日本選手権個人タイムトライアルが行われ、男子は大場政登志が初優勝[65]。女子は、與那嶺恵理が萩原麻由子の6連覇を阻み、こちらも初優勝[66]。
クリテリウム・デュ・ドフィネ最終日が行われ、クリス・フルームが総合優勝[67]。
16日
ツール・ド・スイス最終日が行われ、ルイ・コスタが総合2連覇を達成[68]。
22日
全日本選手権・ロードレースが行われ、男子は新城幸也が2度目、女子は與那嶺恵理が初優勝[69]。
24日
ヤン・ウルリッヒが、スペイン人医師エウフェミアーノ・フエンテスの処置を受け、ドーピングを行っていたことを、24日発売のドイツの週刊誌フォークスに告白。これを受け、国際オリンピック委員会(IOC)は、2000年のシドニーオリンピック・個人ロードレースで獲得した金メダルの剥奪に言及した[70]。
25日
ラボバンクの撤退により、今チームより名称を変更したブランコの新スポンサーが決定し、ベルキン・プロサイクリング・チームとして活動することになった[71]。
26日
トレック・バイシクルは、レディオシャック・レオパード・トレックのUCIワールドツアーライセンスを、チームオーナーであるレオパードSAから取得したと表明。これにより、2014年シーズンからトレックがチームオーナーとなることが決定[72]。
29日
第100回ツール・ド・フランス第1ステージのゴール地点であるバスティアでゴール直前、本来ならば直前でコースから外れるはずのオリカ・グリーンエッジのバスが、地元警察の誘導の不徹底が災いしてゴール線まで進んでしまったばかりか、ゴール線を示すバナー・アーチに激突して立ち往生し、白煙を上げるハプニングがあった[73]。このため、一旦はゴールラインが残りあと9km地点で急遽変更のアナウンスが選手に伝えられた。しかしまもなくしてバスが退いたため、その数分後には再度元のゴール地点とするというアナウンスがラジオツールで伝えられたものの、多くの選手が元のゴール地点となることを知らず、変更したゴール地点を目指して走行していたこともあり、前方で大量落車が発生するというドタバタ劇が演じられた[74]。
7月
3日
ファビアン・カンチェラーラが、トレック・バイシクルがチームオーナーとなる新チームと、2014年から3年間の契約で入団合意[75]。
5日
レディオシャック・レオパード・トレックは、ドーピング違反により出場停止中のフランク・シュレクと再契約を結ばないと発表[76]。
当年のジャパンカップサイクルロードレース出場チームが発表された[77]。
6日
兄・フランクのレディシャック・レオパード退団が決定したことを受け、弟のアンディ・シュレクが移籍を示唆[78]。
7日
全日本BMX選手権大会が日本サイクルスポーツセンターで行われ、男子は長迫吉拓が3連覇を達成。女子は瀬古遥加が初優勝[79]。
10日
清水勇人さいたま市市長が、ツール・ド・フランス第11ステージのゴール地点であるモン・サン=ミシェルを訪れ、当年10月26日に行われる、さいたまクリテリウムbyツールドフランス2013の発表会が開催された[80]。
16日
当年のツアー・オブ・ターキーで総合優勝したトルコのムスタファ・サヤルに、当年3月に行われたツアー・オブ・アルジェリアにおける尿検査でエリスロポエチンの陽性反応が確認されたと、国際自転車競技連合が発表[81]。
20日
全日本マウンテンバイク選手権大会・クロスカントリーが日本サイクルスポーツセンターで行われ、男子は山本幸平が6連覇を達成。女子は、当初與那嶺恵理が1着入線したが、レース途中に他者の援護を受けたと判定され4位降格。繰り上がった中込由香里が5度目の優勝を果たした[82]。
21日
ツール・ド・フランス最終日は、一行がパリのシャンゼリゼ通りに到着したのは21時45分頃という薄暮レースとなった。第8ステージ以降マイヨ・ジョーヌを守ってきたクリス・フルームが初の総合優勝を飾った[83]。
全日本マウンテンバイク選手権大会・ダウンヒルが日本サイクルスポーツセンターで行われ、男子は井手川直樹が7年ぶりに優勝、女子は末政実緒が14連覇を達成[84]。
24日
レディオシャック・レオパード・トレックに代わる、トレック・バイシクルが母体となる新チームにおいて、当初フランク・シュレクと再契約を結ばないことになっていたが、弟のアンディ・シュレクが移籍をほのめかしたことから、トレックは態度を一変。来シーズンもフランクと契約を結ぶことを決め、これにより、アンディも残留することになった[85]。
フランス上院のドーピング調査委員会は、1998年ツール・ド・フランスの期間中に採取された18名のサンプルからエリスロポエチン(EPO)が検出されたとする報告書を発表。EPO使用の痕跡が検出されたのは18名。総合1位と2位のマルコ・パンターニ(イタリア)とヤン・ウルリッヒ(ドイツ)の他、ローラン・ジャラベール(フランス)やマリオ・チポッリーニ(イタリア)ら、トップ選手の名前が挙がった。その他にも総合3位ボビー・ジュリック(アメリカ)ら12名から「疑わしい値」が検出された[86]。
BMX世界選手権・ガールズ14歳クラスで榊原爽が優勝[87]。
BMX世界選手権・ボーイズ15歳クラスで山口大地が3位に入った[88]。
25日
チーム・サクソ - ティンコフを運営する、ビャルヌ・リースがオーナーのリースサイクリングは、当年限りで共同スポンサーのティンコフバンクと契約を打ち切ると発表[89]。
27日
クラシカ・サンセバスティアンが行われ、トニ・ガロパンが優勝[90]。
トラックレース全日本選手権大会・男子4km個人追抜競走で、橋本英也が3連覇[91]。
28日
BMX世界選手権男女エリート決勝が行われ、男子はリアム・フィリップス(イギリス)が優勝。また長迫吉拓が日本人選手として初めて決勝に進出し7位[92]。女子はキャロライン・ブキャナン(オーストラリア)が優勝。
トラックレース全日本選手権大会・女子スプリントで、前田佳代乃が5連覇を達成[93]。
8月
2日
オメガファーマ・クイックステップは来シーズンの陣容に関して、当年4月23日に現役引退表明したアレッサンドロ・ペタッキを復帰させることや、リゴベルト・ウランとマーク・レンショーの移籍に合意したと発表[94]。
4日
ツール・ド・ポローニュ最終日が行われ、ピーター・ウェーニングが総合優勝[95]。
8日
来シーズン、別府史之がオリカ・グリーンエッジから、トレック・バイシクルがチームオーナーとなる新チームへ移籍することになった[96]。
9日
来シーズン、トニ・ガロパンがロット・ベリソル、トム=イェルト・スラフテルがガーミン・シャープへそれぞれ移籍することに合意[97]。
14日
2012年のロンドンオリンピック・女子個人タイムトライアルで銀メダルを獲得したユーディト・アルントが、ロシアのプーチン政権が制定した同性愛に関する宣伝を規制する法律を批判し、ソチ五輪のボイコットを呼び掛けた[98]。
18日
エネコ・ツアー最終日が行われ、ズデネク・シュティバルが総合優勝[99]。
20日
国際自転車競技連合は、当年のツール・ド・フランスの大会期間中に行われたアンチドーピング検査では、陽性の結果は出なかったと発表した[100]。
22日
スイスのコンチネンタルプロチーム、IAMは来シーズン、シルヴァン・シャヴァネル、ジェローム・ピノー、マティアス・フランク、ローガー・クルーゲ、ビセンテ・レイネスとの契約に合意したと発表[101]。
23日
当年のロードレース世界選手権日本代表メンバーが発表されたが、男子エリート、同アンダー23(U23)の出場枠が取れず、両種目の当年の参加選手は不在となった[102]。
25日
ヴァッテンフォール・サイクラシックスが行われ、ヨーン・デーゲンコルプが優勝[103]。
31日
マウンテンバイク世界選手権・クロスカントリーが行われ、男子はニノ・シューター(スイス)、女子はジュリー・ブルセ(フランス)が優勝[104]。
9月
1日
マウンテンバイク世界選手権・ダウンヒルが行われ、男子はグレッグ・ミナー、女子はレイチェル・アサートンが優勝[105]。
GP西フランス・プルエーが行われ、フィリッポ・ポッツァートが優勝[106]。
全日本大学対抗選手権自転車競技大会(インカレ)最終日が行われ、男子は鹿屋体育大学が初の総合優勝を果たし、男子で30連覇中の日本大学は同2位に終わった。女子も鹿屋体育大学が10年連続の総合優勝を果たした[107]。
2日
来シーズンの活動を断念したエウスカルテル・エウスカディを、F1ドライバーのフェルナンド・アロンソがチームライセンスを買収し、存続を保証する暫定合意を結んだとの表明が、バスク・プロサイクリングチームとともに行われた[108]。
7日
2020年の夏季オリンピックの開催地が東京に決まった。自転車競技はロードレースを同年7月25日、26日、29日、トラックレースを同年7月30日〜8月4日、BMXを同年8月5日〜7日、マウンテンバイクレースを同年8月8日、9日に開催する予定[109]。
12日
ランス・アームストロングが、メダル剥奪決定を受けた2000年のシドニーオリンピック・個人タイムトライアルで獲得した銅メダルを、アメリカ合衆国オリンピック委員会に返還した[110]。
13日
グランプリ・シクリスト・ド・ケベックが行われ、ロベルト・ヘーシンクが優勝[111]。
15日
ブエルタ・ア・エスパーニャ最終日が行われ、41歳のクリス・ホーナーが総合優勝。グランツール史上最年長記録とあいまった[112]。
グランプリ・シクリスト・ド・モンレアルが行われ、ペーター・サガンが優勝[113]。
16日
ツール・ド・北海道最終日が行われ、トマ・ルバが総合優勝[114]。
20日
キャノンデール・プロサイクリングは、8月21日に行なわれた競技外ドーピング検査で採取された尿サンプルから、クロステボルの陽性反応が出たステファノ・アゴスティーニを解雇したと発表した[115]。
22日
ロードレース世界選手権・チームタイムトライアルが行われ、男子[116]はオメガファーマ・クイックステップ、女子[117]は、スペシャライズド・ルルレモンがそれぞれ連覇を達成。
23日
過日暫定合意に達したと伝えられたエウスカルテル・エウスカディとフェルナンド・アロンソとの交渉が決裂。これにより、エウスカルテル・エウスカディの今シーズン限りの解散が決まった[118]。
24日
世界選手権・女子個人タイムトライアルが行われ、エレオノラ・ファン・ダイク(オランダ)が優勝[119]。
25日
世界選手権・男子個人タイムトライアルが行われ、トニー・マルティン(ドイツ)が3連覇を達成[120]。
さいたまクリテリウムbyツールドフランスの出場選手が発表された[121]。
27日
国際自転車競技連合(UCI)の会長選挙が行われ、イギリス人のブライアン・クックソンが24対18で現職のアイルランド人・パット・マッケイドを下し、新会長に選出された[122]。
28日
世界選手権・女子個人ロードレースが行われ、マリアンヌ・フォス(オランダ)が2連覇[123]。
29日
世界選手権・男子個人ロードレースが行われ、ルイ・コスタ(ポルトガル)が優勝[124]。
10月
1日
2014年のUCIワールドツアーの日程が決まった[125]。
2日
立川競輪場で行われている第68回国民体育大会のエキシビションレース、女子チームスプリントで、日本競輪学校第106期生チームである、小林優香、石井貴子が、56秒333の日本記録を樹立[126]。
5日
UCIは、当月1日までに2014年のUCIプロチームに参加申請を行ったチームを発表。これによると、エウスカルテル・エウスカディは過日述べたとおり解散が決定、また、ヴァカンソレイユ・DCMもベルギーのアクセントジョブス・ワンティとチームを合併した上で、プロフェッショナルコンチネンタルチームへの申請を行ったため、それぞれ、今シーズン限りでUCIプロチームとしての活動を終えることになった[127]。
6日
ジロ・ディ・ロンバルディアが行われ、ホアキン・ロドリゲスが連覇を達成[128]。
7日
2014年のジロ・デ・イタリアの全行程が発表された[129][130]。
9日
ジャパンカップサイクルロードレースに出場予定だったクリス・フルームが、仙腸関節の炎症が癒えず欠場することになった[131]。なお、さいたまクリテリウムbyツールドフランスは参加する予定。
チームNIPPO-デローザとヴィーニ・ファンティーニ - ダンジェロアンティヌッチが合併し、2014年シーズンより、ヴィーニ・ファンティーニ - NIPPO・デローザとして活動することになった[132]。
新城幸也が、チーム・ヨーロッパカーと新たに2年間の契約を結んだ[133]。
14日
イタリアオリンピック委員会(CONI)は、当年4月29日に通算3度目のドーピング違反が確認されたダニーロ・ディルーカの永久追放処分を求めた[134]。
15日
UCIワールドツアー2013の最終戦にあたるツアー・オブ・北京最終日が行われ、ベニャト・インチャウスティが総合優勝[135]。
UCIワールドツアー2013の最終成績が決まり、個人総合は607ポイントを獲得したホアキン・ロドリゲスが3度目の総合優勝[136]。
19日
ジャパンカップクリテリウムが宇都宮大通りで行われ、スティール・ヴォン・ホフが優勝[137]。
20日
ジャパンカップサイクルロードレースが行われ、マイケル・ロジャースが優勝[138]。
23日
2014年のツール・ド・フランスの全行程が発表された[139][140]。タイムトライアルのステージは最終ステージひとつ前のわずか1回だけ。
26日
さいたまクリテリウムbyツールドフランスが行われ、クリス・フルームが優勝[141]。また同レース終了後、福島晋一の引退セレモニーが行われた[142]。
30日
当年のヴェロ・ドールの投票結果が発表され、クリス・フルームが受賞[143]。
ライダー・ヘシェダルが、マウンテンバイクレース選手だった2003年にエリスロポエチンを使用したことを認めた[144]。
11月
4日
日本自転車競技連盟は、2014年度の主要レース日程を発表[145]。
2016年開催のリオデジャネイロオリンピックを見据え、日本ナショナルチームのジャージデザインが一新されることになった[146]。
2大会連続でオリンピックの金メダリストとなったエリカ・サルミャーエが腰の手術に必要な医療費の捻出のため、ソウル(1988年)、バルセロナ(1992年)の両大会で獲得した金メダル競売にかけて計5万ポンド(約800万円)で売却した。加えてサルミャーエは、現役時代に使用していた自転車も売却し、総額は8万ポンド(約1260万円)となった[147]。
8日
2015年のツール・ド・フランスの「グラン・デパール」(初回ステージのスタート地点)が、オランダのユトレヒトに決まった[148]。
10日
ツール・ド・おきなわが行われ、男子チャンピオンクラスは、ビセンテ・ガルシアが「イレギュラースプリント」と見なされ、1着入線ながらも10位に降格。2着入線の初山翔が優勝となった[149]。
11日
当年開催のブエルタ・ア・エスパーニャでは、ドーピング陽性選手は一人もいなかったことが発表された[150]。
13日
ミヤタサイクルが、2014年シーズンより宇都宮ブリッツェンの冠スポンサーとなることが発表された[151]。
14日
イタリアオリンピック委員会(CONI)は、マントーヴァ警察が捜査を行ったドーピング疑惑の渦中にいたアレッサンドロ・バッランに対し、2年間の出場停止処分を要求[152]。
18日
ランス・アームストロングが、1999年のツール・ド・フランスでコルチゾンの陽性反応が出たにもかかわらず、当時の国際自転車競技連合会長のハイス・フェルブリュッヘンが、「フェスティナ事件」と称する1998年のツール・ド・フランスにおける大ドーピングスキャンダルが起こった背景を踏まえ、当該事実を隠蔽したと、デイリーメールに暴露した[153]。
22日
宮澤崇史が、2014年シーズンはヴィーニ・ファンティーニ - NIPPO・デローザで活動することになった[154]。
25日
当月23日から25日にかけて、ランプレ・メリダの機材倉庫に空き巣が入り、バイクやチーム専用車などを盗まれた[155]。
キャノンデールの2014年陣容が発表されたが、当年シーズン在籍した増田成幸の名はなく、増田はチームを離れることになった[156]。
28日
ユトレヒトにグランデパールが決まった2015年のツール・ド・フランスについて、同年7月4日に行われる第一ステージは13.7kmの個人タイムトライアルとなることが決まった[157]。
12月
2日
ロシアの資産家であるオレグ・ティンコフは、Googleのロンドン本社で記者会見を行い、チーム・サクソ - ティンコフの母体であるリースサイクリングを、オーナーであるビャルヌ・リースから買い取り、自らが単独オーナーとなることを表明。これに伴い、2014年シーズンより、ティンコフ・サクソと名称を変更することになった[158]。
3日
当年のツール・ド・フランスの最終ステージで、凱旋門の環状道路を含む周回コースが初めて採用されたが、2014年のツール・ド・フランスでも同様に最終ステージのコースとして採用されることが決まった[159]。
さいたまクリテリウムbyツールドフランスの総事業費が、当初想定の3億5000万円から5億〜6億円規模に膨らむ見通しであることが分かった。為替の円安・ユーロ高などが背景。追加負担が必要になったため、さいたま市は開会中の12月定例市議会に1億5000万円の補正予算案を追加提案する方針を固めた[160]。
2011年にジロ・デ・イタリアの総合ディレクターに就任したミケーレ・アックアローネに、1300万ユーロを横領した疑いが持ち上がったため、RCSスポルトはアックアローネを解雇[161]。
5日
フアン・ホセ・コーボがコンヤ・トルク・セケルスポールに移籍[162]。
イタリアオリンピック委員会(CONI)は、3度目のドーピング陽性が確認されたダニーロ・ディ・ルーカに対し、永久追放に値する、生涯資格停止処分を下した[163]。
8日
全日本シクロクロス選手権大会がマキノ高原で行われ、男子は竹之内悠が3連覇[164]、女子は宮内佐季子が連覇[165]。
10日
UCIワールドツアー2014に参加する、18のUCIプロチームが決定[166]。
13日
2014年のロードレース世界選手権のコース図が発表された[167]。
ステファノ・ガルゼッリが当年シーズン限りで現役を引退。来シーズンよりネーリ・ソットーリの監督に就任[168]。
17日
UCIは、ジョナサン・ティエナン・ロックのバイオロジカルパスポートのデータに不規則な値が認められたとして、イギリス車連に懲戒手続きを要請したと発表した[169]。
さいたまクリテリウムbyツールドフランスで約2億円の赤字が出た問題で、さいたま市議会は、同市が交付した約1億5千万円の補助金が適正に使われたかどうかを検証するため、監査委員に監査を求める決議案を全会一致で可決した[170]。
18日
UCIは、当年のジャパンカップサイクルロードレースで優勝したマイケル・ロジャースの、同レース終了後に行われた尿検査の結果、クレンブテロールの陽性反応が確認されたと発表。ロジャースは食物汚染の結果であるとして、故意ではないと主張した[171]。
さいたまクリテリウムbyツールドフランスの赤字問題に関連したさいたま市議会の予算委員会が行われ、運営事務を担当したさいたま観光国際協会の専務理事は、『「為替差損があり、8月の時点で大幅な赤字になることは分かっていた」と説明した上で「企業からの協賛金で穴埋めしようと頑張っていた」』と言明[172]。
19日
さいたまクリテリウムbyツールドフランスの赤字問題で、さいたま市議会予算委員会は、同市が補助金として1億5200万円の追加支出を求めた補正予算案についての審議を行わず、採決に至らなかった。このため、本会議での委員長報告も行わなかった[173]。
20日
さいたまクリテリウムbyツールドフランスの赤字問題で、さいたま市議会は、同市が提案していた実行委員会に追加補助金を出すための1億5200万円の補正予算案について採決を行わず廃案とした。議会事務局によると同市で予算案が廃案となったのは初めてという[174]。
31日
東京大学出身のプロロードレース選手として2011年よりいくつかのチームで活動した西薗良太が、当年シーズン限りで現役を引退することを表明[175]。
死去
1月3日 バリー・スタンダー[176](South Africa・MTB選手、*1987年)
1月5日 ピエール・コガン(France・ロードレース選手、*1914年)
1月13日 アンドレア・カッレア(Italy・ロードレース選手、*1924年)
2月11日 森哲也(Japan・競輪選手、*1967年)[177]
4月6日 ミゲル・ポブレット(Spain・ロードレース選手、*1928年)
5月17日 フィリップ・ゴーモン(France・ロードレース選手、*1973年)
8月2日 森田進(Japan・競輪選手)[178]
8月11日 レイモン・ドリル(France・ロードレース選手、*1943年)
10月16日 アルベール・ブルロン(France・ロードレース選手、*1916年)
脚注
関連項目
Portal:スポーツ
2013年の競輪
| https://ja.wikipedia.org/wiki/2013%E5%B9%B4%E3%81%AE%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A%E7%AB%B6%E6%8A%80 |
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9155], dtype=int32)} | 竜は中国から伝わってきた伝承? | 日本の竜 | japanese | {'passage_answer_candidate_index': array([2], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['YES'], dtype=object)} |
日本の竜(にほんのりゅう)では日本における竜について記述する。
竜(旧字体: 龍、呉音: りゅう、漢音: りょう、訓読み: たつ)は古代中国に発する想像上の動物であり、その観念や造形は日本にも伝播した[1]。
日本文化の竜
弥生時代には中国から竜のモチーフが日本にもたらされており、和泉市にある紀元一世紀頃の池上曽根遺跡から、胴をくねらせ三角の無数の突起を持つ動物が描かれた壺が出土している。こうした弥生竜の図柄を持った遺物は日本全国で30点あまり発見されている。この時代の日本人は竜の確固たるイメージを持っていなかったため、中国の竜の正確な模倣はできなかった[2]。
科学史家の荒川紘は、竜は中国では皇帝の象徴であったが、日本では天皇の権威の象徴として用いられることはなかったと述べ、その背景には中国をただ模倣するのではなく日本の天皇の中国に対する独自性を宣揚しようとの意図があったのではないかとみている[3]。また、日本の竜は蛇との区別があいまいで多種多様な姿形と性格を呈しており、それは在来の蛇信仰に外来文化の竜が接木されて混淆した結果であろうと推察している[4]。
平安時代になり、『法華経』や密教が浸透するにつれて日本の竜は明確に独自性を帯びてくる。9世紀には室生寺に「竜穴」の記録が現れ、雨乞い信仰が行われるようになった。竜穴はその後も日本各地の寺社に現れ、中世には竜穴同士は地下で繋がっており、竜もしくは蛇竜が行き来しているという観念が生まれた[5]。中世末になると、戦国大名の里見義頼は竜が描かれた印判を使用するようになる[6]。
仏教
仏教では竜は八大竜王なども含めて仏法を守護する天竜八部衆のひとつとされ、恵みの雨をもたらす水神のような存在でもある。仏教の竜は本来インドのナーガであって、中国の竜とは形態の異なるものであるが、中国では竜と漢訳され、中国古来の竜と混同ないし同一視されるようになり[7]、中国風の竜のイメージに変容した[8]。日本にも飛鳥時代以降、中国文化の影響を受けた仏教の竜が伝わっている[9]。
竜神
竜神は竜王、竜宮の神、竜宮様とも呼ばれ、水を司る水神として日本各地で祀られる。竜神が棲むとされる沼や淵で行われる雨乞いは全国的にみられる。漁村では海神とされ、豊漁を祈願する竜神祭が行われる。場所によっては竜宮から魚がもたらされるという言い伝えもある。一般に、日本の竜神信仰の基層には蛇神信仰があると想定されている[10]。
浮世絵
尾形月耕の浮世絵『龍昇天』(月耕随筆)。富士山を背景に、雲の中を龍が昇ってゆくのを描いたもの。枠外左下に書いてある文字は以下の通り。[11] 明治卅年十一月一日印刷同月五日発行印刷兼発行日本橋区吉川町二番地松木平吉。明治30年11月1日に印刷、同月5日に発行。松木平吉(日本橋区吉川町二番地)が印刷し、発行した。
「龍昇天」(『月耕随筆』)、尾形月耕
本朝武者鏡 二位の尼 ボストン美術館他蔵 大判 安政3年(1856年)10月
民話
江の島の伝説にある鎌倉の湖に棲む五頭竜は、悪事を行っていたが心を入れ替えて民の守護者となる。「黒姫伝説」の黒竜は、大名の姫君に恋慕するも阻まれて逆上し、嵐を呼んで人里をのみ込もうとする[12]。「三湖伝説」の八郎太郎は、害をなした竜でありながら調伏されない。「泉小太郎伝説」の犀竜は人間の味方となる[13]。「印旛沼の竜伝承」では、竜は人間を守ったがゆえに竜王に罰せられて殺される。上記の三湖伝説での辰子姫のように、人間が竜になる説話もある。
各地の竜と神社仏閣
九頭竜伝承 - 九頭竜は日本各地に祀られている。ヴァースキの項も参照のこと。
八大竜王 - 和泉葛城山八大竜王神社。
五頭竜 - 鎌倉、龍口明神社。
青竜 - 清瀧権現。秩父神社(つなぎの竜)。
赤竜 - 七面天女(紅竜の姿を顕したという)、山梨県七面山敬慎院。
伊豆山神社 - 伝承では伊豆山神社が竜の頭で、芦ノ湖・箱根神社が竜の尻尾とも言われている。
白竜 - 箱根神社。
白竜・九頭竜神社 - 箱根神社からさらに西へ入ったところにある。徒歩、船等で行く。
白龍神社 - 名古屋にある。
彦瀧大明神(ひこたき) - 女性特有の病や安産の神として知られ、御神体は白蛇。
弁財天白龍王大権現 - 福井県永平寺にある弁財天と白蛇の神社(権現)。
黒竜 - 和泉葛城山など。北陸地方にも多数ある。
黄竜 - 黄龍寺(愛知県名古屋市南区)。毎年1月4日黄龍天満宮として、菅原道真公御真筆が開帳され、厄災消除・家内繁栄・入試合格など行っている。
金竜 - 浅草寺。浅草寺の山号は「金龍山」。お守りも黄色い袋に金の刺繍で竜。磐船神社も金竜を祀っている。
紫竜 - 三重県菰野にある福王山神社に「紫龍」の文字のみを掘り込んだ石碑がある。
諏訪大明神 - 『諏訪大明神絵詞』によれば、諏訪大明神は龍体・蛇体をとって国難の際に現れたという[14]。
水木しげるロードの竜の像(鳥取県境港市)
蒼龍の手水舎(平安神宮、京都市)
沖縄文化の竜
。首里城には竜の装飾が数多くみられる[15]。
沖縄では竜宮信仰が根強く残っており、竜宮の神は豊穣信仰と深く結びついている[16]。沖縄の竜伝承は中国大陸に起源をもつものが多いが、地元の民間伝承として定着している[17]。丸山顯德は以下のような沖縄の竜の民話を紹介している[16]。
人に見られることなく千年間生きて竜に成ろうとするところを人に見られてしまう蛇の話。それを見た人は、内緒にしてくれたら裕福にしてやると蛇に言われ、黙っていると約束する。はたして男は金持になったが、うっかり約束を破ってしまい、元の貧乏人に戻る[18]。
天をだまして雨を降らせ、後で竜神から懲罰を受ける話[19]。
美女をさらう七つ頭の蛇を退治すべく、七つの樽に芋酒を入れ、樽酒に美女が映るようにして泥酔させてから切り殺したという話(津堅島の行事「マータンコー」の由来)[† 1][20]。
竜の眼病を治した医者の波乱万丈の物語[21]。
その他
寺院
日本国内の3箇所の寺院、京都府の相国寺、栃木県の日光東照宮の薬師堂、長野県の妙見寺には、「鳴竜」などと呼ばれる仕掛がある。これは、堂宇の天井に描かれた大きな竜の絵の真下で拍子木を打ったり拍手をすると、定在波によりパァァーンと響き、それが竜が鳴いているように聞こえるというものである。かつて青森県の竜泉寺にもこの鳴竜があったが、焼失している。
将棋
将棋で竜とは飛車が成った駒である竜王の略称。ちなみに角行の成ったものは竜馬(りゅうま)であるが、こちらの略称は馬(うま)。
現代文化
日本列島はその形状から竜と称されることがあり、例えば「日本沈没」(小松左京)では物語終盤の日本が沈没する節に<b data-parsoid='{"dsr":[4866,4875,3,3]}'>竜の死</b>というタイトルが付けられている。同じく小松左京による短編小説「日本漂流」では、日本列島の下には本当に竜がいて、それをうっかり突いたために、日本が世界中を泳ぎ回る。同作では Archultragigantonamasaurus nipponicus という名が与えられていた。
『龍の子太郎』は松谷みよ子の児童文学作品である。
名前の一部に竜を含む生物
竜(りゅう、たつ)の名を持つ生物を挙げる。特にタツノオトシゴはその形があまりにも魚らしくなく、顔立ちが竜に似るとして、辰年の干支の絵柄としても使われることが多い。
タツノオトシゴ、タツノイトコ
リュウノヒゲモ
リュウゼツラン
タツノツメガヤ
リュウグウノツカイ
脚注
注釈
出典
参考文献
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関連項目
竜
蛟(みずち)
雨を降らせて殺された竜
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%AB%9C |
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17382], dtype=int32)} | マーカス理論 が完成したのはいつ? | 超知能 | japanese | {'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)} | 超知能(ちょうちのう、)とは、もっとも天才的なギフテッドの人間をはるかに上回る知能を有する仮説上の主体である。
超知能は、ある種の問題解決システムの属性を指す言葉として用いられることもある。(たとえば、超知能の言語翻訳者や超知能の工学助手など)その場合、高水準の知的能力を持つ主体が現実世界のものであるか否かは問われない。超知能の創造は、の結果としてもたらされる可能性があり、同様に技術的特異点と関係する可能性もある。
オックスフォード大学教授の哲学者ニック・ボストロムは、超知能を「実質的にすべての分野(科学的創造力・全般的な知識・社会技能を含む)において、その分野でもっとも優れている人間の頭脳よりもはるかに賢い知性」と定義している[1]。チェスソフトのフリッツは、チェスの対戦において人類よりもはるかに優れている。しかしながら、フリッツはチェス以外の分野のタスクでは人類を上回ることができないため「超知能」と見なされるには不十分である[2]。マーカス・ハッターやシェーン・レッグにならい、ボストロムは「超知能」を目標指向的行動において全般的に優越している状態として取り扱い、人工知能または人間の「超知能」が志向性(中国語の部屋を参照)もしくは主観的な意識体験 (意識のハード・プロブレムを参照)のような性質を持つことができるか否かについては、その可能性を否定しないという立場を取っている。
現代のが将来的に追い越される可能性に関しては、科学技術分野の研究者の間でも意見の食い違いがある。一部の研究者は人工知能(AI)技術の進歩が、人類のような認知的限界を持たない全般的な推理システムの誕生につながる可能性は高いと主張している。一方で、人類が進化もしくは直接的な生体の改造によって徹底的な知能の向上を果たすと考える研究者も存在する。これらふたつの説に含まれる要素は、未来学におけるいくつかのシナリオのなかで融合されており、それらのシナリオにおいて人類は、インタフェースを介したコンピュータへの接続またはコンピュータに自分の精神をアップロードすることで知能を大幅に強化する可能性が高いと予測されている。
一部の研究者は、超知能が汎用人工知能の開発後まもなく発生する可能性が高いと考えている。世界初の「意識ある機械」は、誕生した直後から少なくとも何らかの知的能力において人類に対する圧倒的優位性を手にする可能性が高い。(例として、完全な記憶能力・圧倒的に優れた知識基盤・生物には不可能なレベルでのマルチタスク能力などが挙げられる)それらの優位性は、意識ある機械に (独立した存在または新たな種として)人類よりもはるかに強力な存在になり、人類に取って代わる機会を与える可能性がある[3]。
一部の科学者・未来予想の専門家は、人間と機械による認知能力の増幅によってもたらされるメリットとリスクについて、その社会的影響の大きさを理由に、初期研究を優先的に実施するよう訴えている[4]。
人工超知能の実現可能性
哲学者デイヴィッド・チャーマーズは、 汎用人工知能が超知能実現への経路となる可能性が極めて高いと主張している。チャーマーズはこの主張を分解して説明し、AIは人類の知能と「同等」になることができること、AIは「拡張」されることで人類の知能を超えることができること、そしてAIの知能はさらに「増幅」されることで任意のタスクにおいて人類を圧倒できることを述べた[5]。
人類レベルの知能の実現について、チャーマーズは人間の脳が機械的システムであり、したがって人工的な材料で再現することができると主張する[6]。チャーマーズはまた、人類の知能が生物学的に進化することができた事実に言及し、人間のエンジニアが同様の過程でAIを進化させることができる可能性は高いとしている。特に進化的アルゴリズムは高い可能性で人類レベルの知能のAIをつくり出すことができるとされる[7]。知能の拡張ならびに増幅についてチャーマーズは、新たに登場するAI技術は一般的に改良可能なものであり、AIが新技術の開発に力を貸す場合は特に(改良がなされる)可能性は高いと主張している[8]。
強いAIに関する研究が進み、十分に高知能なソフトウェアが開発された場合、そのソフトウェアは自らを再プログラムし、自己を改善することができる。この特性は「再帰的自己改善」と呼ばれる。再帰的自己改善型のAIは、自己改善により自己を改善する能力をさらに向上させ、急激に増加する周期のなかで自己改善を続けることになり、結果的に超知能の獲得に至ると考えられる。このシナリオは知能爆発として知られている。
コンピュータの構成部品は、速度において既に人類のパフォーマンスを大幅に上回っている。ボストロムは次のように述べた。「生物のニューロンは約200ヘルツをピーク速度として動作している。この数値は、現代のマイクロプロセッサ(ピーク速度2ギガヘルツ)と比較すると7桁も遅い[9]。」さらに、ニューロンの軸索上でスパイク信号が伝達される速度が最高でも秒速120メートルであることに関しては、「既存のプロセッシングコアは、光学的な交信を光の速さ(秒速約30万キロメートル)で行うことができる」と指摘した。
ボストロムはまた、「集団的超知能」が実現する可能性を指摘している。「集団的超知能」では、多数の独立した推理システムが互いに十分な連絡・協調することで、構成要素の主体をはるかに上回る知能を有す集合体として機能する可能性があるとされる。
その他の可能性として、「定性的」に人類が持つ推理能力・意思決定能力を改良する方法が考えられる。人類とチンパンジー属との大きな違いは、脳のサイズまたはスピードの差異よりも、むしろ思考方法の違いから生まれているように見える[10]。人類が非人類の動物との競争において優位に立つことができるのは、長期的計画の立案能力・言語を使用する能力などの、新たに獲得または改良された推理能力に依るところが大きい。(人類の知能の進化・ を参照)同様に大きな影響をもたらすであろう推理能力における向上の余地が存在する場合、人類のチンパンジーに対する優位性と同等の優位性を、人類に対して有する主体が創造される可能性は高まる[11]。
生物の脳のスピードとサイズが生理的な制約を受ける一方で、それらの制約は人工知能には当てはまらない。したがって、超知能を取り扱う著述家は超知能AIのシナリオの方にはるかに大きな関心を寄せている[12]。
生物的超知能の実現可能性
カール・セーガンは、帝王切開と体外受精の発明が、人類の頭部がより大きく進化することにつながり、自然選択によっての遺伝的要素が改善する可能性を示唆した[13]。それに反し、は
減少した選択圧が、何世紀にもわたって緩慢な人類の知能の低下を招いていると指摘し、この傾向は未来においても継続する可能性が高いと主張する。これらふたつの可能性について科学的に一致した見解は存在せず、いずれの場合でも生物学的変化の速度は(特に文化的変化との比較では)緩慢なものになる。
人為選択、スマートドラッグ、、モノアミン酸化酵素阻害薬、エピジェネティクス調節、遺伝子工学などの方法は、より急速に人類の知能を向上させる可能性がある。ボストロムによれば、人類が知能の遺伝的要素の理解に至った場合、着床前診断を使用しての胎芽の人為選択により(胎芽2個から1個を選択する場合)最大で4ポイントのIQ向上がもたらされ、方法によってはさらなる向上も可能になる。(たとえば、1000個の胎芽から1個を選択した場合、IQが最大で24.3ポイント向上する)この種の選択が何世代にもわたって繰り返された場合、その効果はさらに1桁大きなものになる。ボストロムは、新たな配偶子を胚性幹細胞から得ることで選択プロセスの急速な反復が可能になることを示唆している[14]。この種の選択によって生まれた高知能の人類による、うまく組織化された社会は集団的超知能を獲得する可能性がある[15]。
別の可能性として、現状のレベルの知能の人類でも、個人をうまく組織化することで集団的知性を実現できる可能性がある。いくつかの著作において、人類文明または人類文明のある側面(たとえば、インターネットや経済)が、としての機能に近づきつつあることが示唆されてきた。グローバル・ブレインは構成要素となる人類を大きく上回る能力を発揮するとされるが、この種の超知能が基盤とするシステムが人工知能の構成要素に強く依存している場合、それは生物的な超個体というよりもむしろ人工知能として扱われる可能性がある[16]。
知能増幅の最終的な手段のひとつは、人類の社会的・生殖的なダイナミクスではなく、直接的に脳神経系を強化することである。その際の手段としては、スマートドラッグの使用、体細胞遺伝子治療、ブレイン・コンピュータ・インタフェースなどが挙げられる。しかしながら、ボストロムは最初のふたつのアプローチに関してはその拡張性への懐疑的な見解を示し、一方で超知能を有するサイボーグインタフェースの設計はAI完全問題になると主張している[17]。
予測
調査の対象となったAI研究者の大部分は、知能の領域において機械が最終的に人間に匹敵することは可能であると予測しているが、それが実現する時期について一致した見解はほとんど存在しない。2006年の会議への出席者の18パーセントは、2056年までに機械が「学習を含む人類の知能が持つすべての特徴をシミュレート」できるようになると予想し、出席者の41パーセントはその目標の実現は2056年以降になると答えた。残りの41パーセントの出席者は、機械がそのマイルストーンに到達することは永遠にないと予測した[18]。
もっとも頻繁に引用されるAI関連書籍の著者100人(2013年5月時点、マイクロソフト・アカデミック・サーチによる)を対象にした調査では、『世界規模の大惨事が起こらないと仮定した場合、「人間の職業のほとんどを典型的な人間と少なくとも同等にこなす」機械の実現は西暦何年までに達成されるか』という質問への回答において、10パーセントの確信での中央値(年)は2024(平均値2034、標準偏差33)であり、同様に50パーセントの確信では2050(平均値2072、標準偏差110)、90パーセントの確信では2070(平均値2168、標準偏差342)となった。これらの推計からは除外されたものの、1.2パーセントの調査対象者が「未来のどの時点でも、10パーセントの確信にも達しない」と回答した。同様に4.1パーセントの調査対象者が50パーセントの確信で「永遠に達成されない」と答え、16.5パーセントは90パーセントの確信で「永遠に達成されない」と回答した。一方、人間レベルの人工知能の完成から30年以内に人工超知能が発明される可能性についての質問において、調査対象者が回答した可能性の中央値は50パーセントだった[19]。
設計における考慮
ボストロムは、超知能がどのような価値観を持つよう設計されるべきかについての懸念を表明した。ボストロムは既存のいくつかの提案を以下のように比較している[20]。
一貫推定意志(Coherent Extrapolated Volition、略称:CEV)の提案では、超知能は人類の総意であると推定される価値観を持つべきである。
道徳的正義(Moral Rightness、略称:MR) の提案では、超知能は道徳的な正義を評価・重視するべきである。
道徳的許容(Moral Permissibility、略称:MP)の提案では、超知能は道徳的な許容範囲内にとどまることを評価・重視するべきである。(その他の点ではCEVの価値観を持つこととなる)
ボストロムに触発され、クリストファー・サントス=ラングはAI開発者たちが多くの選択肢から、1種類の超知能のみを選んで開発を始める可能性への懸念を示した[21]。
人類存続への危険性・AIのコントロール問題
急速に超知能を獲得する学習型コンピュータは予見できない行動をとる可能性があり、超知能のロボットは人類を競争で打ち負かす可能性がある。(技術的特異点がもたらす可能性のあるシナリオのひとつとして挙げられている)[22]
複数の研究者による主張では、来世紀のどこかの時点で発生する「知能爆発」を経由して、自己改善型のAIは人類が歯止めをかけられないほど強力な存在に進化することができる[23]。
人類滅亡のシナリオに関して、ボストロム (2002)は超知能をその原因となりうる候補のひとつと見なし、以下のように述べた。
人類が初めて超知能を持つ存在を創造したとき、目標を与える際のミスによって、その存在が人類を絶滅させるような結果になるかも知れない。(知能における圧倒的優位がその実行を可能にしていると仮定した場合)例として、人類はある下位の目標を誤って最重要目標として設定してしまうかも知れない。ある数学の問題を解くように言われた超知能は、そのために太陽系のすべての物質をひとつの巨大な計算装置に変えてしまい、その過程で問題を出した人物をも殺してしまうということだ。
理論上、超知能のAIは(起こりうる)あらゆる結果を引き起こすことができる上に、自らの目標遂行を阻もうとする企てをすべて頓挫させることができるため、制御も予期もされない結果が多くもたらされる可能性がある。超知能のAIには、自分以外のすべての主体を全滅させることも、それらが行動を変えるよう仕向けることも、それらからの干渉をブロックすることも可能になる[24]。
は次のように説明する。「AIはあなたを憎むことも、愛すこともない。ただ、あなたはAIにとってほかに使い道のある多数の原子でできている[25]。」
これらの問題は「 」と呼ばれる。「AIのコントロール問題」では、人類にとって有害な超知能を不慮に生み出すことを回避しつつ、人類の助けとなる超知能の主体を創造するための方法が問われている。最初から正しくコントロールを設計しなかった場合、プログラムに欠陥のある超知能は起動した時点で「世界を支配する」ことを合理的に決定し、プログラマが自らのプログラムに修正を加えることを以後拒否する危険性がある。設計戦略として考えられる候補には「能力のコントロール」(AIが有害な計画を追求する力を得ることを防止)や「動機のコントロール」(人類に有益となることを望むAIの開発)などが挙げられる。
は、超知能についての公教育ならびに超知能開発の公的な管理を提唱している[26]。
関連項目
出典
参考文献
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E7%9F%A5%E8%83%BD |
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CPU年表(CPUねんぴょう)は、マイクロプロセッサとして実装されたCPUに関する年表である。
主に汎用コンピュータやワークステーション、パーソナルコンピュータ(パソコン)用のCPUに関する年表であり、1980年代以降の組み込み用CPUに関する項目は含まれていない。主要CPUメーカーの主な製品を示す。細かい派生製品については各メーカーの項目の説明にゆずる。
1970年代前半 マイクロプロセッサの登場
マイクロプロセッサ以前、コンピュータのcentral processing unit (CPU) は、多数の集積回路 (IC) で実装されており、汎用ロジックICとカスタム設計のICが必要に応じて使われていた。1970年代に入ると、LSIと呼ばれるような大規模なICによって、4ビット程度のプロセッサであれば1つのLSIに実装できるようになりマイクロプロセッサが登場した。背景には、1960年代後半に日本で起こった電卓戦争と呼ばれる開発競争と爆発的に拡大した市場による需要があった。電卓戦争の中で4004が誕生した。一方で、この時代には既にメインフレーム(例えばSystem/360)は32ビット、ミニコンピュータ(たとえばPDP-11)でも16ビットであり、また当時のLSIに使われたMOSのテクノロジでは動作速度も遅かったことから、コンピュータのメインストリームにマイクロプロセッサの存在が影響を与え始めたのは、もっと後である。
マイクロプロセッサ#最初のマイクロプロセッサも参照。
1970年 Garrett AiResearch、Garrett CADCを開発。
F-14戦闘機専用に開発され、市場には出回らなかった。
1971年11月 4004 発表。4ビット
世界初の商用マイクロプロセッサ
(これら以外にも、いくつかのLSIが「最初期のマイクロプロセッサ的なもの」として知られている。詳細はマイクロプロセッサ#最初のマイクロプロセッサを参照)
1971年 テキサス・インスツルメンツ TMS1050 出荷
電卓用。いわゆるオールインワンタイプを指向した、マイクロコントローラ(ワンチップマイコン)的なLSIの最初(ないし最初期のもののひとつ)。日本の電卓戦争に価格破壊をもたらした。
1972年4月 8008発表。8ビット
高機能端末Datapoint 2200用に設計されたが性能が不足し採用されなかった。後継の8080はx86の前史となった。
1973年 ナショナル・セミコンダクタ IMP-16
最初の16ビットプロセッサとされる。
1970年代半ば-後半 パソコンの登場
1970年代半ば頃からパーソナルコンピュータ(パソコン)で広く採用されたCPUが相次いで登場した。8ビットパソコンは、アメリカでは1970年代半ばから、日本では1970年代末から本格的に登場した(パーソナルコンピュータ史を参照)。
1974年4月 インテル 8080 発表
コンピュータ用途を意識した8ビットCPU。従来のCPUは制御装置など組み込み用途を意識していた。
1974年 モトローラ 6800
8ビットCPU。モトローラ初のマイクロプロセッサ。日立の 8ビットパソコンで採用された。
1975年 モステクノロジー 6502 発表。※出荷は1976年
8ビットCPU。モトローラ 6800 の派生マイクロプロセッサ。シンプル化による高速化を指向し、アキュムレータが一本しかないという特徴的な設計。当時としては破格の安値で売り出され、アップルの Apple II 、コモドールのPET2001など北米のパソコンに多く採用される。また、6502の派生型CPUが任天堂ファミリーコンピュータ(ファミコン)で使用された。
1976年6月 テキサス・インスツルメンツ TMS9900
初期の代表的な16ビットCPU。複数電圧が必要、クロックの供給方法が特殊(4相)という、ハードウェア的に使いづらいところがあった。
1976年7月 ザイログ Z80 発表。
インテル 8080上位互換の 8ビットCPU。命令体系の拡張、5V単一電源で動作など、8080よりは格段に使いやすかった。シャープのMZシリーズや NEC のPC-8000シリーズ、PC-8800シリーズなど、日本の代表的な 8ビットパソコンで採用された。また、家電製品のCPUとしても大量に使用された8ビットCPUの傑作でもある。とても多くの派生品がある。2018年現在でもパチンコの制御などで利用されている。
1978年6月 インテル 8086発表
16ビットCPU。DOSパソコン、現在の Windows パソコンのCPUの先祖にあたる。x86系という言葉は8086とその後継CPUのことを指し、後に80286、 80386、486、Pentium などが登場する。これらの後継CPUは上位互換を保っている。
1979年5月 インテル 8088発表
8086 の外部バスを 8ビットにした廉価版CPU。1981年8月に登場したIBM PCで採用された。日本では初期の 16ビットパソコンによく採用された。
1979年 モトローラ 6809
いわゆるミニコンピュータクラス用CPUのアーキテクチャを意識した 8ビットMPU。究極の8ビットCPUと評されることもある。日立、富士通などの 8ビットパソコンで採用されたほか、アーケードゲームに多く採用された。また、派生CPUはコントローラー用途として広く利用された。
1980年代前半 ワークステーション用32ビットプロセッサの登場
パソコン分野ではまだ黎明時代から8ビットパソコンの全盛時代にあたるが、CPUの分野では一足先に32ビットCPUが登場する。32ビットCPUはワークステーションなど業務用に使用され、1990年代に入るとパソコンでも本格的に使用されるようになった。
1979年 モトローラ 68000
内部32ビット、外部バス16ビットのCPU。初期のワークステーションで採用された代表的なCPU。また、1984年に登場したアップル Macintosh でも採用された。日本ではX68000に採用された。
1980年代 NEC、米ハリス、AMDなどのCPUメーカーがセカンドソースでインテル互換CPUを生産
1982年3月 インテル 80286 発表。
16ビットCPU。1980年代後半-1990年代初頭のパソコンの代表的なCPUとなった。メモリ空間を16MBに拡大した。
1984年 モトローラ MC68020
外部バスも32ビット化した本格的な 32ビットCPU。業務用ワークステーションやMacintoshで採用された。
1985年10月 インテル DRAM事業から撤退
インテルは日本の半導体メモリメーカーの攻勢に押されてDRAM分野から撤退し、CPU事業に力を注ぐことになった。結果的に、この敗退が1990年代にはCPUメーカーさらには半導体産業の巨人を生み出すこととなった。
1980年代後半 RISC の登場
CPUの開発が進むにつれて、従来のCISCと呼ばれる仕組みに代わってRISCと呼ばれる仕組みを用いることで性能向上を図ろうとする考え方が生まれた。RISC CPUの研究は1980年代前半に進み、1980年代後半になるとミップス・テクノロジーズ (MIPS)、サン・マイクロシステムズなどからRISC方式を採用したCPUが相次いで発表された。しかし、まったく新しいCPUは従来のソフト資産を継承しにくいという弱点を抱えていた。
従来のCPUの互換性を保ちつつ RISC技術も取り入れていく折衷のインテルと、過去のしがらみを断ち切りゼロから作り直した革新の新興RISC CPUメーカーの攻防の行方は、パソコン分野についてはソフト資産重視のインテルに、業務用ワークステーション分野については、RISC CPUメーカーに軍配が上がった。RISC CPUはその後、サーバや組み込みCPUの分野で広く浸透した。
1985年10月 インテル 80386 発表
32ビットCPU。1990年代前半のパソコンの代表的なCPUとなった。
1985年 386ライセンス訴訟
1986年 MIPS R2000
ほぼ最初の商用 32ビットRISC CPU。DECやシリコングラフィックスのワークステーションで採用された。MIPSはその後、いったんシリコングラフィックスに買収されCPUの開発を続けた。
1986年 エイコーン・コンピュータ ARM2を開発
32ビット RISC CPU。Acorn Archimedesに搭載された。6502の発展として設計されCISCとしての特徴も併せ持つ。低消費電力に注力したARMアーキテクチャは後にGSM携帯電話やアップル・ニュートンに採用され組み込みCPUとして圧倒的なシェアを誇る。
1986年10月 ヒューレット・パッカード (HP) PA-RISC
32ビットRISC CPU。HP のワークステーションで採用された。
1987年 モトローラ MC68030
32ビットCPU。Macintosh、NeXT 、X68030で採用された。
1987年 サン・マイクロシステムズ SPARC 出荷
32ビットRISC CPU。サン・マイクロシステムズのワークステーションで採用された。
1988年 MIPS R3000
32ビットRISC CPU。シリコングラフィックスのワークステーションで採用された。また、時代が下ると R2000/R3000 から派生したCPUが通信機器やプリンタなどの組み込み機器で多く用いられるようになり、組み込みCPUの一角を築いている。ソニーのゲーム機 プレイステーション(1994年12月発売)でも採用された。
1988年 テキサス・インスツルメンツ TMS320C30
デジタルシグナルプロセッサ (DSP) で有名なチップ。→ NS320xx
1989年4月 インテル i486
32ビットCPU。80386 の後継CPUで、1990年代半ばのパソコンの代表的なCPUとなった。キャッシュ搭載により性能を向上させた。
1990年代前半 64ビットRISC の登場
CPUの分野では業務用向けに64ビットCPUが登場した。RISC CPUを採用したワークステーションはこの頃全盛時代を迎えた。パソコンの分野では 1990年代初頭に16ビットCPUから32ビットCPUへの移行が進み、本格的に32ビット時代に入った。それまでのパソコン用CPUでは、新型CPUが登場してから本格的に普及するまで4-5年程度の遅延が生じていたが、パソコン市場が拡大し競争が活発になるにつれて最新CPUが短期間のうちに普及パソコンに採用されるようになっていった。
1991年 MIPS R4000
64ビットRISC CPU。初の64ビットCPU。
1991年 AMD Am386
32ビットCISC CPU。386ライセンス訴訟でもめていたが、AMDは独自に80386互換CPUを作り上げた。
1992年10月 IBM/モトローラ PowerPC 601発表。
32ビットRISC CPU。POWERをベースにMC88000のCPUバスを組み合わせて開発された。IBMのオフコン RS/6000 やアップル PowerMacintosh (1994年発売)で採用された。アップルは、Macintoshで従来 CISC CPUであるモトローラ68000系を採用していたが、まったく新しい RISC CPUに変え、従来のソフトをMacOSのコード変換機構を通して動かす方法を選んだ。
1992年 DEC Alpha
64ビットRISC CPU。新規に設計されたCPU。不遇の道を歩んだ。
1992年 サン・マイクロシステムズ SuperSPARC
対称型マルチプロセッサ (SMP) に対応した。
1993年3月 インテル Pentium 発表
32ビットCPU。パイプラインやスーパースカラなどのRISC技術を導入し、CISCの86系のハンディを補う。インテルは、CISCとRISCを折衷し、従来のCPUの互換性を保つ方式を選んだ。
1994年 モトローラMC68060
32ビットCISC CPU。68000系の最後の汎用製品で、その後はPowerPCに役割をゆずることになった。
1994年 MIPS R8000
64ビットRISC CPU。
1994年 ヒューレット・パッカード (HP) PA-RISC7200
64ビットRISC CPU。
1990年代後半 クロック数競争
業務用 CPU の分野では、この頃、急速に能力を向上させてきたパソコンに押されてワークステーション市場を徐々に失っていった。代わってインターネット時代の到来とともに、業務用CPUは徐々にサーバ分野へと拡大していった。サーバ向けプロセッサではCPUの64ビット化は一段落し、高クロック化・マルチプロセッシングへと向かった。
1989年に、インテル80486シリーズがリリースされるが、80386シリーズで十二分な処理能力を得られたため、80486シリーズがパソコンに広く採用されるのは、リリース後、実に5年を経過した1994年以降であった。1990年代半ばに Windows3.1やWindows95 などの GUI OS が登場したことで、従来にまして高い性能のCPUが求められるようになったからである。
一時はCPUの性能がソフトウェア環境の急激な変化に追いつかないため、CPUの性能を追い求めるスピード飢餓(その究極は自作パソコンユーザによるCPUのオーバークロックである)の状態も出現した。一方、1990年代には、インテル Pentium、Pentium III の時代に急激な性能向上が見られ、1990年代末頃になるとスピード飢餓の時代も徐々に解消していった。パソコン用CPUの最先端競争が続く一方で、ビジネス向け低価格パソコン市場の競争も激しさを増していった。この過程で x86系CPUの互換品を作っていたメーカーの再編が進み、NexGenを買収した AMD が勢いを伸ばした。1990年代末頃になると、CPUやグラフィックチップの分野から撤退したり事業を売却したりする動きも活発になった。
1995年 IBM/モトローラ PowerPC 604
32ビットRISC CPU。当時のパソコン向けCPUとしては卓越した演算性能を誇り、Power Macintoshの上位機種で採用されたほか、IBMのサーバ・スーパーコンピュータにも採用された。
1995年 IBM/モトローラ PowerPC 603
32ビットRISC CPU。低消費電力・低価格に特色があり、PowerMacintosh、PowerBookで採用されたほか、組み込み向けに広く使われた。
1995年 サン・マイクロシステムズ UltraSPARC
64ビットRISC CPU。
1995年 インテル Pentium Pro
32ビットCISC CPU。
CISC命令をRISC的命令セット(μOPs)に変換して実行する、当時のトレンドをインテルが初めて採用したCPU。当時の先進的技術を全て盛り込んだP6マイクロアーキテクチャの設計プロファイルは、10年以上に渡って同社におけるプロセッサ設計の土台となる。
1996年 MIPS R10000
1996年4月 ヒューレット・パッカード (HP) PA-RISC8000
64ビットRISC CPU。
1997年 AMD K6
32ビットインテル互換CPU。買収したNexGenの設計を流用している。
1997年 IBM、モトローラ PowerPC750/740
32ビットRISC CPU。「PowerPC G3」とも呼ばれる第3世代 PowerPC。603譲りの低価格・低消費電力と、604を凌駕する演算性能をあわせもつ。PowerMacintosh G3、PowerBook G3、iMac、iBookに採用されたほか、組み込み向けにも広く使われ、ニンテンドーゲームキューブ、WiiのCPUのベースになっている。
1997年 サン・マイクロシステムズ UltraSPARC II
1997年1月 インテル、MMX Pentium発表。
32ビットCPU。マルチメディア用演算機能 (MMX) を搭載。
1997年5月 インテル、Pentium II発表
32ビットCPU。第6世代のコア。独自のカートリッジを採用するなど従来と異なる方向を打ち出したが、やや迷走気味になった。
1998年1月 コンパックが DEC を買収
アメリカ合衆国で情報産業の再編が進みつつあった中での大きな事件の1つであり、DECの保有していたStrongARMはインテルに売却された。
1998年 IBM、 PowerPC750L 世界初の銅配線で製作されたCPU。消費電力の削減が可能になった。
1998年 AMD K6-2
32ビットインテル互換CPU。低価格パソコン市場で健闘しシェアを伸ばした。インテルが Celeron を登場させるきっかけになった。
1998年 インテル Celeron発表。
AMD K6-2 に対抗した。Pentium に対するローエンド用CPUの位置づけだったが、実質的にはメインストリームのCPUとなった。
1999年2月 ISSCCにて、ソニー・コンピュータエンタテインメントが"Emotion Engine"を発表。世界初の完全128ビットCPUであり、プレイステーション2向けに開発された。
1999年 インテル Pentium III 発表
32ビットCPU。Pentium IIに高クロック化を意識してパイプラインを長大化する改良を施し、マルチメディア用演算機能を拡張したSSEを追加したもの。
1999年 AMD Athlon
32ビットCPU。インテル Pentium III と激しい性能競争を繰り広げ、一時、クロックではインテルCPUを上回った。
1999年 モトローラ XPC7400を出荷。
32ビットRISC CPU。128ビットSIMDのAltiVecを搭載し、「PowerPC G4」と呼ばれる。Power Mac、PowerBookのCPUとして採用されたほか、ルーターなど組み込みシステム向けにも広く利用される。
2000年代前半 クロック数競争の終焉とマルチコア時代の到来
1999年にパソコン分野のCPUクロック競争は激しさを増し、インテルとAMDは互いに前倒しでより高い周波数のCPUを発表する熾烈な競争を繰り広げた。そして、ついに2000年春にはCPUの周波数はAMDがわずか先に1GHzの大台に到達した。周波数競争がヒートアップしてピークに達していた頃、奇しくもほぼ同じ時期に株式市場ではITバブルの最盛期となり、崩壊が始まろうとしていた。1GHzの大台への到達では先んじたAMDだが、これ以降クロック競争に見切りをつけ処理効率を重視したCPUを展開していく。
それとは反対にインテルは、より高クロックを重視したPentium 4を開発した。高クロックという分かりやすいアピールを行うPentium 4に対して、AMDはPentium 4との性能比較のためにAthlon XPにモデルナンバーを導入した。クロックの増大に歩調を合わせて消費電力の増大も続き、モバイルパソコン向けに専用のプロセッサを設計することが行われるようになった。
2002年にはPOWER4によりサーバ分野でマルチコアCPUが導入された。
2003年には、PowerPC 970とAthlon 64により、パソコンにも64ビットの時代が到来した。また、この頃にAMDはマルチコアへの転換も予期して、Athlon 64にはデュアルコアへの拡張を意識した設計もなされている。
2004年末、インテルのPentium 4が採用していたNetBurstマイクロアーキテクチャは、発熱と消費電力の増加が抑えられず、ついに一般向けCPUの周波数が3.8GHzで頭打ちになった。インテルは周波数向上をあきらめ、64ビット・SIMD・プリフェッチ・マルチコアなどの技術で性能向上を図ることになる。これに関連して、インテルもAMDに続きプロセッサー・ナンバーを導入することになる。インテルは開発中のCPUをキャンセルしてクロックあたりの性能を重視した路線への転換を余儀なくされることとなった。
業務用CPUでは、x86ベースのPCサーバが広がり、インテルがIA-64をリリースして本格的にサーバCPUの牙城へと乗り出した。高性能CPUを製造するための投資が莫大なものとなり、従来ワークステーション分野やサーバ分野をリードしてきたRISC CPUのメーカーも、他社との提携を行ったり組み込み分野に重点を置くなどの方向転換を行った。
2000年 2000年問題、大きな混乱なし。
2000年 サン・マイクロシステムズ 、UltraSPARC III
2000年1月 米Transmeta Crusoe発表
内部的にはVLIWだが、コードモーフィングと呼ばれる命令変換技術で、x86系CPU互換を実現する。低消費電力を指向し、モバイル分野を意識したCPU。高密度サーバにも多く採用された。
2000年3月 ソニー・コンピュータエンタテインメント、Emotion Engineを搭載したプレイステーション2を発売。世界初の128ビットCPU搭載システムであった。
2000年3月 AMD Athlon の動作周波数が1GHzに到達。
2000年10月 IBM、RS64-IVを発表
64ビットPowerPCマイクロプロセッサ。市場に出回った製品としては初めて同時マルチスレッディングを実装した。RS64ファミリとしては最後の製品であり、その後はPOWER4に道を譲ることとなった。
2000年11月 インテル Pentium 4 発表
32ビットCPU。高い周波数の動作を強く意識。マルチメディア用演算機能を拡張したSSE2を搭載。
2001年5月 インテル Xeon 発表 サーバ用
32ビットサーバ用CPU。
2001年5月 インテル Itanium 発売開始
初めてIA-64アーキテクチャを実装したCPU。構想は1999年10月に発表していた。新開発のIA-64命令に加えて、IA-32命令デコーダを搭載した64ビットサーバ用CPUで、他社のRISCプロセッサの置き換えを狙った。
2002年 IBM POWER4
サーバ/メインフレーム用CPU。業界に先駆けて対称型マルチコアを採用した64ビットプロセッサで、その設計は後のPowerPC 970のベースとなった。
2002年5月 ヒューレット・パッカード (HP) とコンパックが合併
2002年4月 インテル Itanium 2 発売開始
64ビットサーバ用CPU。メモリアクセス機能を改善、演算ユニットを増加させ性能を向上させた。IA-32性能を改善したものの、同時期の80x86プロセッサの性能には遠く及ばず、後継のプロセッサではIA-32命令デコード機能が削除された。
2003年3月 インテル Pentium M 発売開始。
32ビットCPU。モバイルパソコンに特化したプロセッサであった。
2003年4月 AMD Opteron 発表。
x86を独自に64ビットに拡張したアーキテクチャーAMD64搭載。
2003年8月 アップルコンピュータがPowerPC G5 (PowerPC 970) を搭載したPowerMac G5を発売。世界初の64ビットパソコンであった。
2003年9月 AMD Athlon 64 発表。
AMD64を搭載したパソコン向けプロセッサ。
2004年2月 サン・マイクロシステムズ UltraSPARC IV
同時マルチスレッディング(SMT)機能を搭載し、ワンチップで2つのスレッドを実行可能。
2004年 IBM POWER5
サーバ/メインフレーム用64ビットCPU。マルチコアに加えて、同時マルチスレッディング (SMT)などの新技術を投入し、ワンチップで4つのスレッドを実行可能となった。
2004年6月 インテル Intel 64搭載のPentium 4、Xeon発表。
2004年8月 HP Alpha EV7z 発表。
最後のAlphaプロセッサ。1.3GHz。
2004年10月 サン・マイクロシステムズ「UltraSPARC IV+」
UltraSPARC IVプロセッサのデュアルコア版。
2000年代後半 電力効率向上の流れ
クロック周波数の急激な増大に伴い発熱と消費電力が増大の一途をたどり、マイクロアーキテクチャの複雑化とクロックの増大で性能を稼ぐ従来の方向性は行き詰まった。半導体の微細化につれてリーク電流が加速度的に増大し、半導体回路を単純に微細化しても高速化につながりにくくなった。インテルとAMDで約2年ぐらいごとに行われていた新規のCPUコアの開発ペースも鈍化し、既存コアの改良に開発の重点が向けられる。なおインテルは、2007年に発表したコードネームPenrynより、ムーアの法則に続くモデルとして、CPUの製造プロセスとアーキテクチャを1年ごとに交互に進化させていく「チックタックモデル」を導入している。「消費電力あたりの性能」が重要視され、マルチコアCPUが普及する。パーソナルコンピュータ向けでは2コアが主流だが、サーバ向けCPUでは「UltraSPARC T1」のようにマルチコアとハードウェアマルチスレッディングによりワンチップで数十のスレッドを実行するCPUが現れる。単一スレッドの実行速度は停滞気味となり、ハードウェアによる仮想化機能の搭載や、相対的に低いクロックでも高い性能を引き出しやすいSIMDの性能向上に力点が置かれるようになった。
2005年1月 AMD Turion 64概要発表。
2005年2月 Cell 概要発表。
ヘテロジニアスマルチコア。プレイステーション3に搭載されたものは、8コアで3.2GHz動作。
2005年5月 インテル Pentium D
Intel VTと呼ばれるハードウェア仮想化機能をもつ。
2005年5月 AMD マルチコアOpteron
第3世代のOpteron。
2005年6月 AMD Athlon 64 X2
パソコン向けマルチコアCPU。
2005年6月 アップルコンピュータ、2006年よりMacintoshのCPUを徐々にPowerPCからIntel系へ変更することを発表。2006年1月10日にはIntel Coreを搭載したiMac Core DuoおよびMacBook Proを発表した。
2005年11月 サン・マイクロシステムズ 、サーバ向けCPU UltraSPARC T1 発表。
単一チップ上に8個のコアを持つ。それぞれのコアが4スレッドを実行可能で、最大32スレッドを実行。省電力技術「CoolThreads」搭載で消費電力約70Wを実現。
2005年11月22日 マイクロソフト、3コアPowerPC搭載のXbox 360を発売。
2006年1月 インテル Intel Core 発表。
Pentium Mの後継となるマルチコアCPU。従来のPentium Mとは異なり、デスクトップパソコンもターゲットとした。 Coreマイクロアーキテクチャの採用は次代のCore2からとなる。
2006年4月 サン・マイクロシステムズ 、サーバ向けCPU UltraSPARC T2 発表。
UltraSPARC T1を拡張し、1コアで8スレッドを実行可能とした。浮動小数点演算能力を大幅に増強したほか、整数演算能力も向上させた。
2006年7月 AMD、グラフィックチップメーカーのATI Technologiesを買収。CPUにGPUを統合する方向へ。
2006年7月 インテル Intel Core 2 発表。
P6+アーキテクチャを拡張してパイプライン数を増やし、さらに128ビット処理が可能な広バンド幅ALUを搭載した高IPC設計。Intel 64 搭載。従来デスクトップパソコン向けに提供されていたNetBurstアーキテクチャが予想以上の発熱と消費電力の増大で限界を迎えたため、Pentium Dをも置き換えるCPUとなった。
2006年10月 IBM 、サーバ向けCPU POWER6 を発表。
コアごとに4MBの2次キャッシュ、毎秒75GBのメモリアクセス、65nmプロセスで4.5GHzを実現。POWERファミリでは初めてVMXを搭載した。
2006年11月11日 ソニー・コンピュータエンタテインメント、Cell 搭載のプレイステーション3発売。
2007年7月20日 Intelの次世代64ビットマイクロアーキテクチャNehalemの実働試作CPUを発表。あわせて32nm液浸リソグラフィによる試作ウエハと共に一般公開された。
2007年11月12日 インテル、45nmプロセスで製作された Intel Core 2 プロセッサ (コードネーム: Penryn)を発表。
ハフニウムを使ったHigh-K絶縁膜・金属ゲートを初めて採用、Super Shuffleエンジン、ATA命令などを新たに搭載、Radix-16 dividerによる高速な除算を実現。
2007年11月19日 AMD K10マイクロアーキテクチャに基づいたデスクトップ用プロセッサ Phenomを発表した。Phenomのバリエーションにおいてはクアッドコアの他に、世界初の x86 トリプルコア採用 CPU Phenom 8000 シリーズが発売された。
2008年3月2日 インテル、低消費電力プロセッサ Intel Atom (コードネーム: Silverthorne)を発表。
あえてアウトオブオーダー実行を採用せず、他方同時マルチスレッディングを採用するなど、消費電力と性能に関する取り組みに特徴がある。
2008年4月9日、サンと富士通は、UltraSPARC T2 Plus(コードネーム: Victoria Falls)発表。
SMP対応機能が追加され、SMP構成で256ハードウェアスレッドをサポート。[1][2]
2008年11月 インテル、Nehalemマイクロアーキテクチャを採用した第一世代Coreシリーズを発表。
次世代64ビットマルチコアCPU。ハイパースレッティング・テクノロジーに対応。DDR3を採用した。
プロセスルールは45nm。
2009年1月8日 AMD、PhenomⅡを発表。
45nm SOIプロセスを採用し、高クロック化やL3キャッシュの増量、TDPの改善を実現した。
2009年6月1日 AMD、ネイティブ6コアを搭載するOpteronを発表。
新たにHT Assist(Hyper Transport Assist)が実装された。HT AssistはL3キャッシュ1MBを消費してCPU間でのキャッシュのプローブトラフィックを軽減し、 データベース処理等を高速化する機能である。
2009年8月25日 富士通、SPARC64 VIIIfxを発表。
HPC向け8コアRISCプロセッサ。理化学研究所の「京」に搭載するために開発された。
2010年 以降 CPUのSoC化 プロセスルールの微細化
2000年代には、パーソナルコンピュータやPCサーバだけでなく、スーパーコンピュータやハイエンドのサーバーにおいてもx86の進出が進み、汎用CPUの分野においてはx86の勢力がますます強まった。クロック周波数当たりの性能を稼ぐためにSIMDなどCPUに内蔵された命令の複雑化・多様化が進み、並列処理に特化したGPUなどの専用回路もCPUの一機能として取り込まれつつある。
一方、2010年代に入り著しくなっているのが、組み込み用途とデスクトップの境界領域にあたる携帯デバイスの成長である。スマートフォンやタブレットコンピュータなど、モバイルオペレーティングシステムを搭載した情報機器にはパソコン並みの汎用性が強く求められ、組み込み向けプロセッサと汎用CPUの境界はあいまいとなりつつある。この分野においては多様なニーズに特化したSoCに組み込まれるARMアーキテクチャが標準の座を固めつつあり、Atomなどのx86プロセッサはニッチ的用途にとどまる。また、サーバ分野においても、圧倒的なシェアを誇るx86にARMが拡張性と電力効率を武器に食い込みを狙っている。
2010年2月9日 IBM、POWER7を発表。
サーバ/メインフレーム用マルチコアCPU。POWER6の5倍の性能を持ち、8コアで最大で32スレッドを実行可能。
2010年9月9日 ARM、Cortex-A15 MPCoreを発表。
32ビットCPUコア。これまでARMアーキテクチャがターゲットとしてきた組み込み向けに加え、モバイルパソコンや高密度サーバもターゲットとした。最大1TBのメモリ空間、OSの仮想化支援、ソフトエラー訂正など、サーバ用途を意識した機能を搭載し、最大16コア構成が可能。
2011年1月4日 AMD、第一世代のAMD Fusionを発表。
64ビットシングルコア/デュアルコアCPUにGPUを密接に統合し、APU(Accelerated Processing Unit)と称する。部品点数と消費電力を削減できるメリットがあり、主に低価格パソコンやポータブルパソコン向け。
2011年1月5日 インテル、Sandy Bridgeマイクロアーキテクチャを採用した第二世代Coreシリーズを発表。
64ビットマルチコアCPU。「Intel Core i7」・「Intel Core i5」・「Intel Core i3」・「Intel Pentium」・「Celeron」および「Xeon」ブランドで発売される。GPUコアをオンダイで統合し、新SIMD拡張命令セットIntel AVX を搭載した。
プロセスルールが前世代のNehalemマイクロアーキテクチャの45nmから32nmに変更された。
2011年1月5日 NVIDIA、Project Denverを発表。
パソコン・モバイル機器・高密度サーバ用SoC。独自開発のARMマルチコアにGPUを組み合わせ、従来のx86ベース汎用プロセッサの代替を狙う。
2011年10月12日 AMD、BulldozerアーキテクチャベースのAMD FXプロセッサを発表。
最大8コアのパソコン向けプロセッサ。マルチスレッドでパフォーマンスを稼ぐ設計思想で、2コアでFPUを共有する独特の構成をとる。
2011年10月18日 オラクル、SPARC T4プロセッサ搭載のサーバ製品を発表。
8コア64ビットCPU。2命令同時発行やアウトオブオーダー実行、3次キャッシュなどを実装した新開発のS3コアを実装し、前世代のSPARC T3に比較して、単一スレッド当たりの処理速度が約5倍、浮動小数点演算性能が約3倍に向上。
2011年11月1日 HP、ARMベースの省電力サーバプロジェクト「Moonshot」を発表。
CalxedaのARM Cortex-A9を4コア搭載したサーバ用SoC採用し、x86/64ベースサーバに比較し消費電力を1/10、設置スペースを1/10に低減。
2012年4月24日 インテル、Ivy Bridgeマイクロアーキテクチャを採用した第三世代Coreシリーズを発表。
64ビットマルチコアCPU。3Dトライゲートトランジスタを採用し、統合GPUを大幅に強化。乱数ジェネレータとRdRand命令などを追加した。「Intel Core i7」・「Intel Core i5」および「Xeon」ブランドで発売される。
プロセスルールが前世代のSandy Bridgeマイクロアーキテクチャの32nmから22nmに変更された。
2013年6月2日 インテル、Haswellマイクロアーキテクチャを採用した第四世代Coreシリーズを発表。
64ビットマルチコアCPU。演算処理のためのポート数が6個から8個へ拡充。4K解像度に対応した。Thunderboltテクノロジに対応。
プロセスルールら22nmから変更はない。
2014年9月5日 インテル、Broadwellマイクロアーキテクチャを採用した第五世代Coreシリーズを発表。
64ビットマルチコアCPU。ストアフォワーディングの高速化され、ギャザー命令の高速化もされた。ほとんどがHaswellと変わりない
新ブランドとして「Core m」が追加された。
プロセスルールが前世代のHaswellマイクロアーキテクチャの22nmから14nmに変更された。
2015年8月 インテル、Skylakeマイクロアーキテクチャを採用した第六世代Coreシリーズを発表。
64ビットマルチコアCPU。DDR4及びDDR3Lに対応のメモリコントローラを内蔵。Intel Speed Shift Technologyを搭載した。
新ブランドとして「Intel Core m3」・「Intel Core m5」・「Intel Core m7」
プロセスルールは14nmから変更はない。
2016年8月30日 インテル、Kaby Lakeマイクロアーキテクチャを採用した第七世代Coreシリーズを発表。
64ビットマルチコアCPU。全モデル動作周波数の増加(最大で300MHz)。CPUに接続された最大16のPCI Express 3.0レーン。PCHに接続された最大24のPCI Express 3.0レーンに対応。Intel Optane テクノロジーのサポート
今まであった「Core m5」・「Core m7」はブランドから排除された。
プロセスルールは14nmから変更はない。
2017年10月5日 インテル、Coffee Lakeマイクロアーキテクチャを採用した第八世代Coreシリーズを発表。
64ビットマルチコアCPU。DDR4対応のメモリコントローラを内蔵。第六世代と第七世代と同じLGA1151ソケットを採用しているが、第八世代は100番台・200番台チップセットとの互換性はない。300番台チップセットを採用した。Intel創業40周年記念として「Core i7 8086K」が販売された。
ブランド名が変更され「Pentium」→「Pentium G」 「Xeon」→「Xeon E」
となり、「Core m3」はブランドから排除された。
プロセスルールは14nmから変更はない。
2018年10月8日 インテル、Coffee Lake Refreshマイクロアーキテクチャ(Coffee Lake-R)を採用した第九世代Coreシリーズを発表。
64ビットマルチコアCPU。一般グレードCPUとして初めて5GHz駆動に至った。「Specter」と「L1TF」の微弱性のハードウェアレベルの修正が一部行われた。チップセットは第八世代と同じ300番台チップセット。
プロセスルールは14nmから変更はない。
2018年 インテル、Cannon Lakeマイクロアーキテクチャを採用した第十世代Corei3を発表。
64ビットマルチコアCPU。300番台チップセットを採用。LGAではなくBGAパッケージのみ。
10nmプロセスルールはムーアの法則が維持できる最後のプロセスルールとなるといわれている。
プロセスルールはCoffee Lakeマイクロアーキテクチャの14nmから10nmへ変更された。インテルのインテル チック・タックでは最も小さいプロセスルールである。
2019年(予定) インテル、IceLakeマイクロアーキテクチャを採用した第十一世代Coreシリーズ発表(?)
64ビットマルチコアCPU。400番台チップセットが採用される予定。展開する予定のブランドは第九世代と変わらない。
プロセスルールはCoffee Lake Refreshマイクロアーキテクチャの14nmから10nmに変更される(予定)
2019年(?) インテル、Tiger Lakeマイクロアーキテクチャを採用した第十二世代Coreシリーズ(?)
64ビットマルチコアCPU(?)
プロセスルールは10nmから変更はない(?)
未定 インテル、Sapphire Rapidsマイクロアーキテクチャを採用した第十三世代新型CPU
64ビットマルチコアCPU(?)
プロセスルールは10nmから変更はないか、Tiger Lakeマイクロアーキテクチャの10nmから7nmに変更(?)
脚注
| https://ja.wikipedia.org/wiki/CPU%E5%B9%B4%E8%A1%A8 |
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5369], dtype=int32)} | 大阪府西成区にホームレスが集中するようになったきっかけは何? | 西成暴動 | japanese | {'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)} |
西成暴動(にしなりぼうどう)とは、大阪府大阪市西成区のあいりん地区(通称釜ヶ崎)で日雇い労働者が起こした暴動の総称。釜ヶ崎暴動</b>ともいう。
概要
暴動の現場となっているあいりん地区は、東京の山谷とともにドヤ街(寄せ場)として有名な地域である。
日雇い労働者の労働条件は決して良くはなく、手配師及びそれらを束ねる暴力団などにピンハネされるなど、鬱積した感情が高まっており、暴動発生の温床となっていた。最初の暴動は1961年に発生している。その頃の暴動は、ある意味「自然発生的」な暴動事件であった。
そして1970年代に入ると、 日本の新左翼が窮民革命論を掲げてドヤ街に乗り込み、日雇い労働者を煽動するようになった。第9次暴動から第21次暴動までの13件の暴動は70年代前半に集中している。その頃になると扇動者による計画的な暴動になってきている。
1973年6月の第21次暴動を最後に17年間の空白があったが、1990年に第22次暴動が発生した。平成時代に入って日本で起きた最初の暴動事件であった。
1992年の第23次暴動から16年経った2008年、第24次暴動が発生した。
各暴動一覧
1960年代
第1次暴動(1961年8月1日-8月5日)
日雇い労働者がタクシーに轢かれた交通事故の処理を巡って発生した暴動。最初の西成暴動である。
第2次暴動(1963年5月17日-5月19日)
夜間作業の求人が意外に少なかったことに端を発する暴動。
第3次暴動(1963年12月31日-1964年1月5日)
求人が思ったよりも少なかった事に端を発する暴動。
第4次暴動(1966年3月15日)
立ち飲み屋の支払いを巡るトラブルで、日雇い労働者が警察に連行されたことに端を発する暴動。
第5次暴動(1966年5月28日-5月30日)
火事の現場にいた野次馬が暴徒化した事件。
第6次暴動(1966年6月21日-6月23日)
パチンコ屋の店員と日雇い労働者が喧嘩したことに端を発する暴動。
第7次暴動(1966年8月26日)
果物屋でのトラブルに端を発する暴動。
第8次暴動(1967年6月2日-6月8日)
飲食店で支払った代金を巡るトラブルに端を発する暴動。店の備品のほとんどを破壊した。
1970年代
第9次暴動(1970年12月30日)
年末で求人が激減したことに端を発する暴動。ちなみに新左翼活動家による越年闘争が始まるのは、この後からである。
第10次暴動(1971年5月25日-5月30日)
夜間作業の求人に来ていた業者とのトラブルに端を発する暴動。新左翼活動家がこの暴動に介入し騒ぎを大きくした。
第11次暴動(1971年6月13日-6月17日)
簡易宿所の管理人が玄関に寝ていた日雇い労働者をどかそうとしたことに端を発する暴動。
第12次暴動(1971年9月11日-9月15日)
果物屋の店員が酔っ払っていた日雇い労働者を転倒させたことに端を発する暴動。果物屋が焼打ちされた。
第13次暴動(1972年5月1日-5月2日)
釜ヶ崎メーデーで逮捕された容疑者の釈放を求めた暴動。新左翼活動家がこの暴動に介入し騒ぎを大きくした。
第14次暴動(1972年5月28日-5月31日)
労働組合員と手配師との喧嘩に端を発する暴動。
第15次暴動(1972年6月28日-7月3日)
第14次暴動の検挙者の釈放を求めた新左翼活動家とそれに煽動された日雇い労働者による暴動。
第16次暴動(1972年8月13日-8月16日)
釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)と右翼団体とのトラブルに端を発する暴動。
第17次暴動(1972年9月11日-9月15日)
新装開店したパチンコ屋が、機械の故障でただちに閉店したことに端を発する暴動。
第18次暴動(1972年10月3日-10月4日)
病院職員と日雇い労働者とのトラブルに端を発する暴動。
第19次暴動(1972年10月10日-10月11日)
釜共闘と手配師とのトラブルに端を発する暴動。
第20次暴動(1973年4月30日-5月1日)
ゴールデンウィーク中の求人減に不満を抱く日雇い労働者が釜共闘に煽動されて起こした暴動。
第21次暴動(1973年6月14日-6月30日)
酔っ払い同士の喧嘩に端を発する暴動。
1990年代
第22次暴動(1990年10月2日-10月7日)
あいりん地区を管轄する大阪府警西成警察署の署員が、暴力団から賄賂を貰ったことが発覚したことに端を発する暴動。
第23次暴動(1992年10月1日-10月3日)
大阪市が行っていた資金貸付を、資金が尽きたことを理由に中止したことに端を発する暴動。
2000年代
第24次暴動(2008年6月13日-6月17日)
飲食店の支払いを巡るトラブルで、日雇い労働者が警察に連行されたことに端を発する暴動。
参考文献
大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察40年の記録』大阪府警察本部、1998年
関連項目
あいりん地区
窮民革命論
暴動
釜ヶ崎 (テレビドラマ)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%90%E6%9A%B4%E5%8B%95 |
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伏見区(ふしみく)は、京都市を構成する11の行政区の一つで、京都市の南部に位置する。
概要
古くは深草に稲荷神社の総本社である伏見稲荷大社の鳥居前町があり、天正時代には一大政治都市として桃山に伏見城と大名屋敷群、伏見</b>にかけて大手筋を軸とした城下町が形成され、徳川時代初期には伏見藩が存在した。その後伏見奉行が置かれ、淀川水運の重要な港町(伏見港)・宿場町(伏見宿)としても栄えるなど、昭和初期までは京都とは独立した別の都市であった。幕末期に、坂本龍馬をはじめとする討幕の志士たちが活躍した地としても知られる[1]。
京都との間は街道や高瀬川で結ばれ、明治には鴨川運河や鉄道も早期に開通し、各地から京都への物資を運んだほか酒造などの産業も盛んであった。1931年に京都市に編入されて以後は、周囲の市街地化が進み、「京都の郊外」という色も濃くなっている。深草・伏見以外にも、城下町として栄えた淀や、醍醐寺が建つ<b data-parsoid='{"dsr":[1367,1375,3,3]}'>醍醐</b>などの地区が区内に含まれる。西部や南部は淀川水系の低地、中央には東山から続く稲荷山や桃山丘陵、東部の山間部は滋賀県境まで続いている。
京都市の11区の中でも最大の人口を擁し、平安時代の貴族の別荘地や天正時代以降の武家屋敷が立地していた桃山丘陵は現在も住宅地としても利用されているが、大部分は桃山御陵の広大な緑地が広がり、酒造に用いられる豊富な伏流水の水源となっている。城下町の伝統を受け継ぐ商業拠点である一方、京都市都心部や大阪方面へのベッドタウンとしての性格を持つ。
なお、豊臣秀吉が生涯を閉じ、徳川家康が将軍宣下を受けた伏見城のある<b data-parsoid='{"dsr":[1712,1720,3,3]}'>桃山</b>の地名は、織田・豊臣政権期の時代区分「安土桃山時代」や、その文化「桃山文化」などの呼称の元となっているが、江戸時代の『伏見鑑』が発行された頃から固定・広まったとされている[2]。
歴史
平安遷都以前より
欽明天皇2年(532年?) - 欽明天皇、山城国一帯に勢力があった秦大津父を紀郡深草里に探し右腕とする。
和銅4年(711年) - 秦伊呂具によって深草稲荷神社が創建されるという。
貞観4年(861年) - 藤原北家の藤原良房が貞観寺を創建。深草は藤原氏の領地であったとされる。
貞観16年(874年) - 聖宝が上醍醐に一寺を建立、醍醐寺となす。
天暦6年(952年) - 醍醐寺の五重塔が建立される。
延久年間(1069年 - 1074年) - 橘俊綱が巨椋池を一望にする景勝地・指月の丘(現在の桃山丘陵南麓)に伏見山荘を営む。
鎌倉時代から足利時代まで
文治2年(1186年) - 後白河院が伏見殿御所に移る。
承久3年(1221年) - 後鳥羽上皇、伏見城南寺に流鏑馬揃えと称し倒幕の兵を上げる。
貞治年間(1362年 - 1368年)以降、崇光院が伏見山荘を栄仁親王代々の相伝地とし伏見宮家が創設。
応永33年(1426年) - 丹波猿楽の矢田座が伏見御香宮の楽頭職を得る。
嘉吉元年(1441年) - 伏見など京都近郊の諸村が徳政一揆を起こして洛中に押し寄せる。
天正時代から戊辰戦争終結まで
天正17年(1589年) - 伏見九郷の舟戸の庄の鶴屋(後の駿河屋)5代目岡本善右衛門が、煉羊羹を開発し豊臣秀吉に献上。
天正19年(1591年) - 豊臣秀吉が関白を豊臣秀次に譲り隠居所として伏見の指月に築いた屋敷に隠居する。
文禄3年(1594年) - 豊臣秀吉が隠居屋敷を城郭へと大規模に改修、伏見城の城下町として伏見の町割、開発を行ない、町の原型が形作られる(現在も区内に残る地名や鍵状に曲がった道路には城下町の特徴が色濃く表れている)。
文禄4年(1595年) - 関白豊臣秀次が切腹し、政治の中心が聚楽第から伏見に移る。
文禄5年閏7月13日(1596年9月5日) - 慶長伏見地震。指月の伏見城が倒壊し、2日後には木幡山伏見城の作事に着手。
慶長2年(1597年) - 伏見城の築城が終わる。
慶長3年(1598年) - 豊臣秀吉、醍醐にて花見を行う。同年、伏見城にて死去。
慶長5年(1600年) - 伏見城の戦いにて伏見城炎上、関ヶ原の戦いの火ぶたが切られる。
慶長6年(1601年) - 徳川家康が伏見城の再建を開始。城下に銀座が置かれる。
慶長8年(1603年) - 徳川家康が伏見城にて将軍宣下を受ける。
慶長10年(1605年) - 徳川家康が伏見城で朝鮮使節と会見し、文禄・慶長の役で関係が悪化していた朝鮮と和議を成立する。
慶長11年(1606年) - 徳川家康が駿府城を正式に居城とし、伏見城の作事が停止される。
慶長12年(1607年) - 松平定勝が伏見城代となる。
慶長13年(1608年) - 銀座が京都に移される。
慶長18年(1613年) - 京都二条と伏見の間に高瀬川が開通する。
元和3年(1617年) - 伏見城代が廃止される。
元和8年(1623年) - 徳川家光が伏見城にて将軍宣下を受ける。
元和9年(1624年) - 小堀遠州が伏見奉行となる。
寛永1年(1624年) - 伏見城が廃城となる。以後、伏見は奉行が支配する。
寛永2年(1625年) - 松平(久松)定綱が淀藩の藩主となる。
元禄7年(1694年) - 御香宮神社例祭の芝居・見世物が始まる。
元禄11年(1698年) - 伏見奉行・建部内匠頭、伏見舟200艘の新造を許可。
元文1年(1736年) - 伏見指物町の銭座で銭貨が作られる。
天明5年(1785年) - 伏見騒動が起こる。
天明6年(1786年) - 伏見町の人口が4万人を数える。
文久2年(1862年) - 寺田屋事件が起こる
元治1年(1864年) - 長州藩が兵を率いて伏見に入る。幕府軍に敗れ、長州藩伏見屋敷焼失。(禁門の変)。
慶応3年(1867年) - 伏見奉行が廃止される。
慶応4年(1868年) - 鳥羽・伏見の戦いで伏見市街が戦場となる。
戊辰戦争終結から伏見市消滅まで
1879年(明治12年) - 郡区町村編制法により伏見区が設置される。
1879年(明治12年)8月18日 - 官設鉄道の稲荷駅開設。
1881年(明治14年)1月 - 伏見区が廃止される。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により紀伊郡伏見町が発足する。
1894年(明治27年)9月 - 琵琶湖疏水の冷泉放水口から伏見インクラインを経て、伏見城外堀の濠川までを結ぶ鴨川運河が開通する。
1895年(明治28年)2月1日 - 京都駅前(七条)と伏見下油掛の間で、営業用としては日本初の電車である京都電気鉄道開業(後の京都市電伏見線、1970年廃止)。
1895年(明治28年)9月5日 - 奈良鉄道の伏見駅開設。
1895年(明治28年)11月3日 - 奈良鉄道の桃山駅開設。
1905年(明治38年)7月18日 - 大日本帝国陸軍第16師団が深草に置かれる。
1912年(大正元年) - 明治天皇の遺言により桃山丘陵に伏見桃山陵が造営される。
1914年(大正3年)5月 - 鴨川運河の伏見インクラインの落差を利用した墨染発電所が運転を開始する。
1929年(昭和4年)5月1日 - 伏見町が京都府下で2番目に市制を施行して伏見市が成立した。しかし、これは京都市への編入を前提とした市制施行であった[3]。
京都市への編入から現在まで
1931年(昭和6年)4月1日 - 伏見市、紀伊郡深草町、下鳥羽村、横大路村、納所村、堀内村、向島村、竹田村、宇治郡醍醐村の1市1町7村が、京都市に編入された。自治体としての伏見市は消滅し、京都市の行政区としての伏見区となった(右京区と同日)[4]。
1950年(昭和25年)12月1日 - 乙訓郡羽束師村および久我村を編入する。
1957年(昭和32年)4月1日 - 久世郡淀町を編入する。
1967年(昭和42年) - 伏見港公園が都市計画決定。港湾としての歴史が名実ともに終結した。
地理
山岳:稲荷山、大岩山、桃山、高塚山、醍醐山、千頭岳
河川:宇治川、鴨川、桂川、木津川、山科川、七瀬川、東高瀬川
区を構成する町:京都市伏見区の町名
隣接している自治体・行政区
京都府
京都市(南区、東山区、山科区)
宇治市
向日市
長岡京市
八幡市
久世郡久御山町
乙訓郡大山崎町
滋賀県
大津市
人口
伏見区の人口の推移総務省統計局 国勢調査より
行政
区役所・支所
区役所のほか、2つの支所が設置されている。なお、住民登録や行政事務はそれぞれで独自に行われており、区内相互間で住所地を移した場合でも管轄区域をまたぐ場合は転出入に関わるそれぞれの区役所または支所・出張所で手続きをする必要がある[5]ほか、証明書についても管轄の区役所または支所・出張所でしか発行できない物もある。
区役所・支所および出張所と管轄区域は以下のとおり[6][7]。
伏見区役所 - 各支所・出張所が管轄しない地域を管轄する。鷹匠町に所在。
深草支所 - 深草を管轄する。深草向畑町に所在。
醍醐支所 - 醍醐・日野・石田・小栗栖を管轄する。醍醐大構町に所在。
神川出張所 - 久我・羽束師を管轄する。久我東町に所在。
淀出張所 - 淀・納所および葭島渡場島町・向島又兵衛を管轄する。淀池上町に所在。
分区問題
伏見区は、東京特別区を除く全国の政令指定都市の中で、横浜市港北区、横浜市青葉区、福岡市東区、仙台市青葉区に次いで人口の多い行政区である。
人口が多いことや区域が広いこと、区域内での繋がりが必ずしも深くはない[8]ことなどから、昔から分区構想がたびたび出ている。
区内の行政管轄は区役所の直轄区域を除くと深草支所・醍醐支所・神川出張所・淀出張所に分かれているが、主な分区構想では、このうち深草支所と醍醐支所管内を伏見区から分離させるものである。しかし、深草支所管内および醍醐支所管内とも人口は10万人にも満たない(それでも東山区よりは人口が多い)ほか、両地域は隣接してはいるものの地域的な結びつきが希薄であることもあって、分区の機運が盛り上がらない要因の1つとなっている。
なお、醍醐支所管内は伏見区中心部よりも地形的、歴史的に同じ宇治郡だった山科区との結びつきの方が圧倒的に強い[9]ため、同管内のみを分離して山科区と合併する方が合理的とする考え方もある。
主な学校
小学校
醍醐一ノ切、二ノ切、および三ノ切の児童は滋賀県大津市への依託により、通学に便利な大津市立石山小学校および大津市立石山中学校に通学する。
京都市立深草小学校
京都市立稲荷小学校
京都市立藤ノ森小学校
京都市立藤城小学校
京都市立砂川小学校
京都市立竹田小学校
京都市立桃山小学校
京都市立桃山東小学校
京都市立桃山南小学校
京都市立醍醐小学校
京都市立小栗栖小学校
京都市立小栗栖宮山小学校
京都市立池田小学校
京都市立池田東小学校
京都市立春日野小学校
京都市立日野小学校
京都市立石田小学校
京都市立醍醐西小学校
京都市立北醍醐小学校
京都市立伏見板橋小学校
京都市立伏見南浜小学校
京都市立伏見住吉小学校
京都市立下鳥羽小学校
京都市立横大路小学校
京都市立納所小学校
京都市立向島小学校
京都市立向島藤の木小学校
京都市立向島南小学校
京都市立向島二の丸小学校
京都市立二の丸北小学校
京都市立神川小学校
京都市立久我の杜小学校
京都市立羽束師小学校
京都市立明親小学校
京都市立美豆小学校
京都教育大学附属桃山小学校(国立)
京都聖母学院小学校(私立)
中学校
京都市立深草中学校
京都市立藤森中学校
京都市立桃山中学校
京都市立伏見中学校
京都市立神川中学校
京都市立醍醐中学校
京都市立春日丘中学校
京都市立小栗栖中学校
京都市立栗陵中学校
京都市立桃陵中学校
京都市立向島中学校
京都市立向島東中学校
京都市立洛水中学校
京都市立大淀中学校
京都教育大学附属桃山中学校(国立)
京都聖母学院中学校(私立) ※中高併設。
京都橘中学校(私立) ※中高併設。
高等学校
京都市立伏見工業高等学校 - 高校ラグビー強豪校。テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』のモデル。
京都市立京都工学院高等学校
京都府立京都すばる高等学校
京都府立桃山高等学校
京都府立東稜高等学校
京都府立洛水高等学校
京都教育大学附属高等学校(国立)
京都橘高等学校(私立) ※中高併設。
京都聖母学院高等学校(私立) ※中高併設。
大学
京都教育大学(国立)
種智院大学(私立)
龍谷大学(私立)
特別支援学校
京都市立呉竹総合支援学校
京都市立桃陽総合支援学校
京都府立桃山養護学校
京都教育大学附属特別支援学校(国立)
産業
農業
伏見区の西部・南部に水田が広がる。
工業
伝統的な日本酒の名産地として知られるほか、先進的なエレクトロニクス産業やそれをサポートする資材製造の事業所が見受けられる。
油小路通(通称は「新油小路通」「新堀川通」)にはパルスプラザ(京都府総合見本市会館)があり、様々な業種による見本市や発表会が頻繁に開催されており、京都の産業を対外的にPRする拠点として重視されている。
先端技術分野の世界的企業である京セラおよび村田機械の本社が所在している。
以下は、区内に所在する日本酒の蔵元の一覧である。なお、この中には全国に販路を持つ企業も複数ある。※日本酒の銘柄一覧#京都府も参照。
「英勲」 - 齊藤酒造
「黄桜」 - 黄桜
「月桂冠」 - 月桂冠
「松竹梅」 - 宝酒造
「キンシ正宗」 - キンシ正宗
「花洛」 - 招徳酒造
「玉乃光」 - 玉乃光酒造
「月の桂」 - 増田徳兵衛商店
「富翁」 - 北川本家
「桃の滴」 - 松本酒造
「神聖」 - 山本本家
※伏見城跡を開墾した吉村家の末裔と言われる吉村酒造は、2000年に本拠地を兵庫県新温泉町へ移転している。
この他、愛媛県八幡浜市に本社がある菓子メーカーあわしま堂の工場も所在する。
商業
小規模の店舗は旧来からの街区に多い。一方、国道1号や油小路通沿線には郊外型の大規模小売店および飲食店や娯楽場が多く立地している。
郵便
日本郵政グループのうち、集配郵便局および担当地域は以下のとおり。
伏見郵便局 - 郵便番号は、612-00xx,-08xx,-09xx,-80xx,-81xx,-82xx,-83xx,-84xx,601-13xx,-14xxである。
2018年8月27日までは、601-13xx,-14xxは伏見東郵便局の担当だった。
久御山郵便局(久世郡久御山町) - 伏見区外にあるが、区内のうち公称町名の冒頭に「淀」がつく地域(かつての淀町)を担当している。郵便番号は、613-00xx,-08xx,-09xxである。
本社を置く上場企業
交通
鉄道
近畿日本鉄道 京都線
(至京都駅)← 上鳥羽口駅 - 竹田駅 - 伏見駅 - 近鉄丹波橋駅 - 桃山御陵前駅 - 向島駅 →(至大和西大寺駅)
京阪電気鉄道京阪本線
(至出町柳駅)← 伏見稲荷駅 - 深草駅 - 藤森駅 - 墨染駅 - 丹波橋駅 - 伏見桃山駅 - 中書島駅 - 淀駅 →(至淀屋橋駅)
京阪電気鉄道宇治線
中書島駅 - 観月橋駅 - 桃山南口駅 - 六地蔵駅 →(至宇治駅)
JR西日本奈良線
(至京都駅)← 稲荷駅 - JR藤森駅 - 桃山駅 →(至木津駅)
京都市営地下鉄烏丸線
(至国際会館駅)← くいな橋駅 - 竹田駅 →(近鉄京都線に乗り入れ)
京都市営地下鉄東西線
(至二条駅) ← 醍醐駅 - 石田駅 → (至六地蔵駅)
※ その他、東海道新幹線(JR東海)が京都駅 - 新大阪駅間で 約150m ではあるが当区西部(菱川地区)を通過している。
路線バス
京都市営バス - 運行は委託先の各社による。※詳細は、京都市営バス横大路営業所を参照。
京阪バス ※詳細は、京阪バス山科営業所および京阪バス男山営業所を参照。
京都京阪バス
近鉄バス
阪急バス
京都らくなんエクスプレス
醍醐コミュニティバス
奈良交通
高速自動車国道
名神高速道路
京都南インターチェンジ
京滋バイパス
久御山淀インターチェンジ(一部が伏見区にまたがる)
都市高速道路
阪神高速道路8号京都線
伏見出入口 - 城南宮南出入口 - 城南宮北出入口
鴨川西出入口 - 鴨川東出入口
一般国道
区内の一般国道の全てを国土交通省が直轄管理している。
国道1号
第二京阪道路(一般有料道路)
国道24号
国道171号
国道478号
主要地方道
市内の主要地方道は81号八幡宇治線を除き京都市役所が、81号八幡宇治線は京都府庁(山城北土木事務所)がそれぞれ管理している。
京都府道7号京都宇治線 - 京都外環状線の一部を成す。
京都府道13号京都守口線
京都府道15号宇治淀線
京都府道35号大津淀線
京都府道36号大津宇治線
京都府道68号南インター竹田線
京都府道79号伏見柳谷高槻線 - 京都外環状線の一部を成す。
京都府道81号八幡宇治線
京都市道188号観月橋横大路線 - 京都外環状線の一部を成す。
その他の府道
市内の一般府道は、全線を京都市が管理している。
京都府道201号中山稲荷線
京都府道202号伏見向日線
京都府道203号志水西向日停車場線 - 京都外環状線の一部
京都府道204号奥海印寺納所線
京都府道241号向島宇治線
京都府道782号醍醐大津線
京都府道801号京都八幡木津自転車道線
受賞・選定
かおり風景100選 - 「伏見の酒蔵」
行ってみたい、歩いてみたい、日本の100か所
遊歩百選 - 伏見地区
京都百景
京都美観風致賞・特別賞(1987年)
重要界わい景観整備地域(1997年)
京都市自然100選 - 「伏見濠川の柳並木」
名所・旧跡
伏見稲荷大社 - 稲荷神社の総本宮。
伏見桃山陵 - 明治天皇の陵。
伏見桃山城
御香宮神社
伏見港(伏見港公園、伏見みなと公園)
京都競馬場
城南宮
羽束師坐高御産日神社
醍醐寺 - 「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録。
伏見の日本酒醸造関連遺産 - 近代化産業遺産
月桂冠大倉記念館
月桂冠所蔵物伏見の酒造用具
内蔵酒造場
月桂冠旧本社
月桂冠昭和蔵
旧・大倉酒造研究所
松本酒造酒蔵(仕込蔵、貯蔵蔵)
京セラ美術館
キザクラカッパカントリー
長建寺
妙教寺 - 淀古城の一部であったと比定される。
與杼神社
十石舟・三十石船 - 濠川の遊覧船。
寺田屋 - 伏見港の船宿、寺田屋事件の舞台。
大黒寺 - 寺田屋事件烈士の墓および、宝暦治水事件で自刃した平田靱負(薩摩藩家老)の墓が所在。
出身者
青松敬鎔(元プロ野球選手)
赤松真人(プロ野球選手、広島東洋カープ所属)
ANARCHY(ヒップホップMC)
天野由梨(声優)
池上嘉彦(言語学者)
泉里香(モデル・女優)
伊藤薫(女子プロレスラー、元全日本女子プロレス所属)
宇崎竜童(歌手・作曲家)
大野雄大(プロ野球選手、中日ドラゴンズ所属)
岡崎雪聲(鋳造師・彫金家)
岡島秀樹(元プロ野球選手)
小田秀臣(ヤクザ)
加藤和彦(音楽プロデューサー)
木村政雄(元吉本興業常務取締役)
倖田來未(歌手・タレント)
境直行(中央競馬調教師) 出生は熊本県。
清水けんじ(吉本新喜劇座員)
鈴木えみ(モデル・女優)
武邦彦(競馬評論家) 出生は北海道函館市。
武宏平(元中央競馬調教師)
武豊(中央競馬騎手)
千之赫子(女優)
土建屋よしゆき(ローカルタレント)
戸山為夫(元中央競馬調教師。旧淀町出身)
中島正純(政治家)
名高達男(俳優)
西阪慶眞(いけばな作家)
西垣仁貴 - プロバスケットボール選手(bjリーグ、富山グラウジーズ所属)
西村和彦(俳優)
服部利之(中央競馬調教師)
濱田達也(地方競馬騎手)
林成年(俳優)
菱田裕二(中央競馬騎手)
本田真凜(フィギュアスケート選手)
本田太一(フィギュアスケート選手)
本田望結(女優・フィギュアスケート選手)
本田紗来(子役・フィギュアスケート選手)
真砂勇介(プロ野球選手、福岡ソフトバンクホークス所属)
枡田慎太郎(プロ野球選手、東北楽天ゴールデンイーグルス所属)
misono(歌手・タレント)
村上春樹(作家)
遊佐浩二(声優)※出生は大阪府
吉田敬(お笑いタレント、ブラックマヨネーズメンバー)
脚注
関連項目
伏見市 - 1931年以前の伏見についてはこちらも参照。
伏見宿_(京街道)
京の七口 - 伏見宿に通じる「伏見口」がある。
専慶流 - いけばな伝統流派の家元が所在。
銀座 (歴史)
淀川(宇治川)、巨椋池 - 巨椋池は、かつて宇治川の南側に存在した池。後に干拓事業が行われて農地が形成されると同時に、現在の宇治川の河道が確定した。
竹田の子守唄
東灘区 - 神戸市の区の一つ。同じ酒どころとしてまちづくりプロジェクト事業を連携。
伏見町 (津山市) - 京町 (津山市)の東にある(伏見:京の東にある)ことに由来。
外部リンク
- 京都市情報館(京都市役所公式サイト)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%8C%BA |
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タイワンヤジブカ はメジロザメ属に属するサメの一種。稀種で、東部大西洋とインド太平洋の浅瀬に生息する。濁った水と柔らかい底質を好み、あまり長距離は移動しない。頑丈な体と小さい眼、短い吻を持ち、オオメジロザメと非常によく似ている。この2種は背鰭の大きさの比や臀鰭の形、脊椎骨の数などで区別できる。全長1.9-2.5mになる。
頂点捕食者で、主に硬骨魚や軟骨魚を食べる。胎生で、9-12ヶ月の妊娠期間の後、3-13匹の仔を産む。幼体は湾内などの浅瀬で生活するが、オオメジロザメとは異なり淡水を避ける。人に対して潜在的に危険だと考えられるが、攻撃例はない。肉やフカヒレが利用されるが、肉にはシガテラ毒を持つことがある。IUCNは保全状況を情報不足としている。
分類
1839年のSystematische Beschreibung der Plagiostomen において、ドイツの生物学者ヨハネス・ペーター・ミュラーとヤーコプ・ヘンレによってCarcharias (Prionodon) amboinensis の名で記載された。その後本種はCarcharhinus 属に移された。タイプ標本はインドネシアのアンボン島で捕獲された74cmの雌の剥製で、ここから種小名amboinensis が付けられた[1][2]。いくつかのジュニアシノニムがあり、例えばTriaenodon obtusus は出産直前の胎児を基に記載されたものである[2]。
系統
オオメジロザメとよく似ており、形態系統解析では2種の単系統性は支持された[3][4]。だが、分子系統解析では単系統性は弱くしか支持されず、本種と他のメジロザメ属との関連性は不明瞭なものになっている[5][6]。
オーストラリア北部での遺伝子解析からは、本種の進化は更新世(260万-12,000年前)の海岸線の変化に強く影響を受けていることが示唆された。mtDNAの変化パターンからは、生成と消滅を繰り返す地理的障壁によって、個体群が何度も分断されては結合してきたことが一貫して示されている。最も近い時代まで存在した障壁として、6,000年前まで陸橋だったトレス海峡があり、このために西オーストラリア+ノーザンテリトリーとクイーンズランドの個体間で大きな遺伝的差異が生まれることとなった[7]。
形態
体は非常に頑丈で、吻は短くて幅広く、丸い。眼は小さくて丸く、瞬膜を備える。前鼻弁は中程度の大きさである。口は幅広い弧を描き、口角の唇褶はほとんど目立たない。片側の歯列は、上顎で11-13(通常12)、下顎で10-12(通常11)である。両顎の中央には1列の正中歯列がある。各歯は幅広い三角形で鋸歯を持つ。下顎歯は上顎歯よりわずかに細く、より直立し、鋸歯が細かい。鰓裂は5対で中程度の長さである[8][2][9]。
第一背鰭は大きく三角形で、頂点は尖り、後縁は凹み、胸鰭の後縁あたりから起始する。第二背鰭は第一の1/3以下の高さで、臀鰭の前方から起始する。2基の背鰭間に隆起線はない。胸鰭は長くて幅広く、わずかに鎌型で、先端は細く尖る。臀鰭の後縁は鋭角に切れ込む。尾柄には、尾鰭の基部に深い凹窩がある。尾鰭下葉はよく発達する。上葉は長く、後縁先端には深い欠刻がある[8][2][9]。
皮膚はかなり大きい皮歯に覆われ、年齢と共に密になり重なりが多くなる。各皮歯が3-5本の水平隆起を持ち、後端の5個の突起に繋がる[8]。背面は灰色で腹面は白。体側にはわずかに淡い帯がある。特に幼体では、第二背鰭と尾鰭下葉の先端が黒くなる[2]。1987年にクイーンズランドでアルビノ個体が捕獲されており、これはメジロザメ類のアルビノとして最初に知られたものである[10]。成体は一般的に1.9-2.5mだが、最大で2.8mの個体が知られる[8]。
オオメジロザメとの最も信頼できる識別法は脊椎骨数を数えることで、本種では89–95、オオメジロザメでは101–123である。外部形態では背鰭の大きさの比に差が見られ、本種では第一:第二が3.1:1より大きいが、オオメジロザメではそれより小さい。臀鰭では、本種は切れ込みが鋭角だが、オオメジロザメは直角である。下顎の歯列数では、本種が片側10-12であるのに比べ、オオメジロザメは12-13である[8][2]。
分布
アフリカ大西洋岸とインド太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布するが、個体数が豊富な場所はない。記録も断片的で、正確な分布域はオオメジロザメとの混同のために曖昧になっている[11]。東部大西洋ではカーボベルデ・セネガル・ナイジェリア・ナミビア[8]。イタリアのクロトーネに面した地中海からも1件の報告がある[12]。インド洋では沿岸に沿った全域で見られ、南アフリカ東部からアラビア半島(マダガスカル・セーシェル・モーリシャスを含む)、東南アジア・オーストラリア北部。太平洋では、北は中国南部・フィリピンから東はニューギニア・ミクロネシアの一部まで分布する[8]。タグと遺伝子による調査から、特に幼体は長距離の回遊を行わず、その地域に留まることが示された。成体での最大の移動距離としては1080kmの記録がある[7][9]。
深度150mまでの沿岸に生息し、細かい堆積物のある濁った水を好む。河口に入ることはあるが、オオメジロザメとは異なり汽水を避け、川を遡ることもない[8][13]。幼体の行動が、クイーンズランド北東のクリーブランド湾において詳しく調査されている。幼体は年間を通じて湾内に留まり、流れ込む3本の川によって強い流れと高い濁度が生み出される湾の東岸で生活する。個体の行動圏は比較的狭く、平均30km2程度で、成長に伴って広くなる。幼体は通常40mより浅い場所に留まり、中でも出生直後の個体は湾の最も浅い場所でほとんどの時間を過ごす。また、満潮時には潮間帯に入り、干潮時には戻る。この動きは、水面下となった干潟で餌を摂るため、または深い場所に生息する大型のサメによる捕食を避けるためだと考えられる。乾季には河口に近づき、雨季には離れるという年間の行動サイクルも見られる。これは、雨季には大量の淡水が河口に流れ込むことによると見られ、直接・間接的な結果として、塩分濃度と溶存酸素の低下を避ける反応となっている[14][15]。
生態
主に単独性であるが、稀に数個体が同じ場所にいることもある[13]。モザンビーク海峡では、海峡の東側ではオオメジロザメより数が多いが、西側では逆であり、競争排除則が働いたと考えられる[2]。寄生虫として粘液胞子虫の [16]・カイアシ類の ・ [17]、条虫の [18]・ 属の一種[19]・ [20]・ [21]・ ・ [22]・ 属の一種[18]が記録されている。幼体は大型のサメによる捕食に対して潜在的に脆弱であるが、クリーブランド湾での幼体の死亡率は年間5%を超えないと計測される。これはオオメジロザメと同程度で、カマストガリザメやレモンザメと比べるとかなり低い[23]。
摂餌
表層でも餌を摂るが、主に海底で摂餌行動を行う傾向にある[13]。頂点捕食者であり、餌は主にニベ科・カレイ目・タチウオなどの硬骨魚で、軟骨魚類・頭足類・十脚類も食べる。腹足類・ウミヘビ・イルカ・クジラの死骸などを食べた記録もある[2][24]。南アフリカでは他の地域と比べて、餌に占める他のサメやエイの比率が顕著に高く、メジロザメ類・カスザメ属・サカタザメ科・アカエイ科・トビエイ科などを食べる[13]。
生活史
他のメジロザメ類同様に胎生で、卵黄を使い果たした胚は卵黄嚢を胎盤に転換する[2]。成熟雌は片側の卵巣と両側の子宮が機能する。生活史の詳細は地域により異なり、南アフリカでは妊娠期間は12ヶ月、交尾と出産は晩夏、産仔数は3-7(平均5)、出生時は75-79cmである。[11][13]。オーストラリア北部では、妊娠期間は9ヶ月、出産は11-12月、産仔数は6-13(平均9)、出生時は59-66cmである[25]。
幼体は少なくとも3歳になるまで、湾内のような浅い沿岸域に留まり、このような環境を成育場として用いていることが示唆される[26]。成長すると陸地から離れた深い海域に行くことが増えて行き、最終的には成育場を離れる[14][27]。寿命は長く、成長は遅い。雄は雌より成長が速いが、最終的な大きさは小さい。雄は12歳・2.1m、雌は13歳・2.2mで性成熟する。寿命は最低でも、雄で26年・雌で30年[25][28]。
人との関わり
大型で歯が強いため、人に対して潜在的に危険であると見なされる。だが攻撃の報告はない。延縄や刺し網によって稀に捕獲され、肉やフカヒレが利用される[9]。肉食魚であるため渦鞭毛藻の作るシガテラ毒を肉に生物濃縮していることがある。1993年11月には、マダガスカルのマナカラでおよそ500人が中毒し、98人が死亡した。これはサメによる大規模シガテラ中毒事例として初のもので、大量の死者を出したものとしても初である[29]。IUCNは全体としての保全状況を情報不足としているが、稀種であることから乱獲に弱いであろうことを指摘している[11]。クワズール・ナタール州では、少数の個体がサメ防御網に絡まって死亡している。この捕獲数と平均の大きさは1978年から1998年の間に減少しており、地域個体群の消失が危惧されている。このため、インド洋南西部での保全状況は準絶滅危惧とされている[30]。
脚注
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%A4%E3%82%B8%E3%83%96%E3%82%AB |
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チョウチンアンコウ(提灯鮟鱇、学名:Himantolophus groenlandicus)は、アンコウ目チョウチンアンコウ科に属する魚類の一種。丸みを帯びた体型と、餌を誘うために用いられる頭部の誘引突起(イリシウム)を特徴とし、深海魚として比較的よく知られた存在である。
概要
チョウチンアンコウは、おもに大西洋の深海に分布し、カリブ海などの熱帯域からグリーンランド・アイスランドのような極圏付近までの広範囲に生息する[1]。太平洋・インド洋からの記録もあるものの、その数は非常に少ない[1]。生息水深ははっきりしていないが、熱帯・亜熱帯域の中層(特に水深200-800 m)から捕獲されることが多い。一方で、大型の個体はより北方の海域から底引き網によって、または漂着個体として得られる傾向がある[1]。
およそ160種が含まれるチョウチンアンコウ類の中で、最初(1837年)に記載された種が本種である[1]。基準標本は1833年にグリーンランドの海岸に打ち上げられた漂着個体であるが、海鳥による食害を受けたため保存状態は非常に悪く、現存しているのは誘引突起の一部のみである[2][1]。以降、2009年までに143個体(変態後の雌)が標本として記録されているが、これは科全体について得られた全標本のうちの三分の一を超える数であり、チョウチンアンコウ科の中で最もよく研究された種となっている[1]。
生態
1967年2月、鎌倉の海岸に打ち上げられたチョウチンアンコウが江の島水族館で8日間飼育観察された際に、誘引突起から発光液を噴出する様子が世界で初めて観察された。一回に噴出された発光液は、海水中において、魚体とほぼ同等の範囲に広がる程度の量であったという。また、その発光は、海水中に噴出された後には徐々に弱まり、ついには消光したと報じられている[3]。発光液の放出には、獲物を捕食する際に相手の目を眩ますなどの効果があるのではないかと推定されている。
上記の鎌倉産の個体の死後、その主発光器内部から得た組織を分離源として行われた培養試験において、発光バクテリアが分離・培養されていないところから、本種の発光は、自身で生産した発光物質によるものであり、発光バクテリアの共生によるものではないとみられていた[4]。しかし、後に本種の発光は難培養性の共生ビブリオ属細菌によるものであることが明らかにされている[5](深海魚#共生発光を参照)。
なお、上記の個体は死後に液浸標本とされ、現在では新江ノ島水族館で展示されている[4]。
形態
チョウチンアンコウは丸みを帯びた体型をしており、体表は小さないぼ状突起によって覆われる。体色は灰色ないし黒褐色で、これまでに得られた雌の体長は3.2-46.5 cmの範囲であった[1][6]。背鰭・臀鰭・胸鰭の鰭条数はそれぞれ5本・4本・14-18本。
誘引突起は背鰭第一棘が変形したもので、本科の場合その長さは体長の半分程度であることが多い[1]。誘引突起の先端には膨隆した擬餌状体(エスカ)と、そこから分岐した10本の皮弁がある[7]。擬餌状体の形態と、体長と比較した皮弁の長さの割合が、チョウチンアンコウ科の他の仲間から本種を識別するための重要な形質となっている。太平洋を主な生息域とする H. sagamius (Pacific footballfish) とは特に形態が類似しているため、小型の個体では区別が難しい[1]。
雄は雌よりも極端に小さい矮雄(わいゆう)であるが、体長は4 cm近くに達し、雌への寄生をしない自由生活性の矮雄としては最も大きく成長する[8]。チョウチンアンコウ科に属する種の雄固体は形態学的な特徴に乏しく、これまでに本種の雄として確実に同定された個体は記録されていない[1]。これらの雄個体群はいくつかのグループとして分類されており、本種は「H. brevirostris Group」に含まれるとみられている[1]。
ギャラリー
採取されたチョウチンアンコウ
フェロー諸島発行の切手に描かれたチョウチンアンコウ
出典・脚注
推薦文献
Nelson, J. S., 2006. 『Fishes of the World Fourth Edition』 Wiley & Sons, Inc., Hoboken, New JerseyISBN 0-471-25031-7
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岡村収・尼岡邦夫監修 『日本の海水魚』 山と溪谷社 1997年 ISBN 4-635-09027-2
関連項目
アンコウ目
深海魚
外部リンク
(英語)
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龍が如くシリーズの登場人物(りゅうがごとくシリーズのとうじょうじんぶつ)では、セガゲームス(2015年3月まではセガ)のアクションアドベンチャーゲーム『龍が如く』シリーズに登場するキャラクターについて解説する。シリーズ初作の「龍が如く」は『1』と表記する。
なお、外伝作品『龍が如く 見参!』『龍が如く OF THE END』『龍が如く 維新!』に登場するキャラクター及び出来事についてはそれぞれの登場人物の項を参照。
主人公
桐生 一馬(きりゅう かずま)
声 - 黒田崇矢、野島健児(少年時代)
『1』から登場した、『6』までの龍が如くシリーズのメイン主人公。
秋山 駿(あきやま しゅん)
声 - 山寺宏一
『4』以降の主要主人公の一人。
(さえじま たいが)
声 - 小山力也
身長190cm、体重93kg
『4』以降の主要主人公の一人で、関西弁を喋る大柄かつ屈強な体格の持ち主。服装は『4』では桐生一馬から、『5』ではマタギの奥寺から受け取ったものを着用しているが、どちらもコートに黒シャツ、柄パンツにブーツで固められており、本人の厳つい容貌をさらに強調するような装いとなっている[注 1]。
12歳のときに両親を亡くし、少年時代に義理の妹である冴島靖子の病を治療するために靖子の実父に金を要求され、そのために喧嘩に明け暮れて金を奪う行為を続けていたが、東城会系笹井組の笹井組長に返り討ちに遭い、事情を知った彼の助力で靖子の病は完治する。その恩義から以後は笹井組に若衆として所属し、背中に自身と笹井組長の縁を表す「虎(大河=タイガー)」と「笹の葉(笹井組)」を彫った[1]。他に深い縁を持つ者に真島吾朗がおり、彼が堂島組内嶋野組構成員であった頃から渡世の兄弟として親交を深めていた。後述の「極道18人殺し」は桐生に匹敵する東城会の伝説となっており、彼と共に東城会の象徴的存在であると言われているため、実際の戦闘能力においても100人もの武装した受刑者を事も無げに全滅させる、通常の倍以上のサイズの巨大熊を素手で倒す、走行して自分に突っ込んできた自動車を受け止めるなど人間離れしている。
両親を亡くす前は教師を志しており、渡世の父である笹井の穏健かつ人情深い影響もあってか、作中でも厳つい外見に反して温厚かつ面倒見の良いところが随所で見受けられるなど、人情味溢れる性分であることが分かり、彼との出会いをきっかけに改心する悪役キャラクターも多いため、桐生もまた自分を風間時代の東城会を知る年長者として少なからず敬意を払っている。
『4』ではキャバクラに興味がない、ガラではないのでカラオケを歌わない、横文字が苦手など、25年に及ぶ獄中生活の影響もあって都会に馴染めないところを見せるが、『5』ではキャバクラやカラオケボックスにも来店できるようになっている。趣味は木像作り『4』、『5』では天啓の際に見事な木像を作ってみせた。なお、失敗すると熊の置物ができる。好物は『4』逃亡中の神室町探索の際には韓来でその気持ちを露呈した。焼肉のホルモンで、ホルモンに喩えた話を真島に説いたこともある。
戦闘では豪快な投げ技や強力な突進技、溜めからの強烈な打撃など人間離れした力技を用いて戦う。『5』における固有の絶技「猛虎の心得」ではその絶対的な怪力ぶりはより顕著になり、大の大人を武器のように振り回し、街角に設置されている配電盤や道路標識を引き剥がして武器にするなどの戦法をとる。
1985年4月21日[2](当時20歳)に笹井組長の出世のために都内飲食店にて上野誠和会幹部18名を拳銃で襲撃して直後に警察に出頭し、殺人容疑で逮捕される。その後は裁判で死刑判決が確定すると即日「東京刑務所[注 2]」に送られ、2010年3月1日まで死刑囚として25年間を過ごす。45歳となり、死刑執行まであと数日と迫っていた中で突如「沖縄第弐刑務所」なる施設に移送され、そこに収監されていた浜崎豪と出会い、彼が提案する脱獄に参加し、脱獄は成功したが、兄弟とまで信頼した浜崎とは離れ離れとなって桐生が営むアサガオの浜辺に流れ着く。その後は偶然見掛けた桐生と遥の手当てを受けて25年前の真相を確かめるために神室町へと向かい、神室町での城戸との出会いや、笹井や真島との再会を経た後に上野誠和会組員と葛城により拘束され、真犯人である葛城から「襲撃事件において冴島が発砲した銃弾は全てゴム弾で、誰一人殺していなかった」という真相を告げられる。その後、自身を庇って靖子は死亡し、無気力状態となってしばらくは復讐さえも行わないとしたが、桐生から浜崎の最期の願いを聞いたことで覚悟を決めて東城会を守るために立ち上がり、ミレニアムタワーでの決戦では自身の言葉により道を誤った城戸と対決し、実力差から終始圧倒して勝利する。事件後は殺人罪も冤罪となり、また既に25年という殺人未遂や傷害罪としても長過ぎる刑期を過ごしていたことから釈放され、桐生と真島の推薦を受けて東城会直系冴島組を旗揚し、亡き「兄弟」である浜崎豪の願いを果たして再び人生を歩み始める。
『5』では47歳。東城会や自分自身の人生を再び歩むために身を洗うことを決意し、先述の「傷害罪」の贖罪を目的に懲役3年の実刑に服することを決め、網走にある刑務所に自ら収監される(懲役刑のため頭髪が坊主になっている)。その後は長らく模範囚としての日々を過ごしていたが、仮釈放の寸前に「真島吾朗の死亡」の記事を目にし、時を同じくして破門通告を受けるとその真相を確かめるために同房だった馬場茂樹と共に再び脱獄する。その後、脱獄した先の月見野で真島の死の真相を知る北方と出会い、真相に辿り着きかけた直後に北方は撃たれ、更には北方を狙撃したのが馬場であることを知るが、その馬場が自身の優しさに触れた事で殺害に躊躇し、自殺しようとしたために力づくで止めるために馬場と激突し、死闘の末に勝利して馬場を見逃す。その直後に府警の芹沢に逮捕され、芹沢から見逃す代わりに森永を追うように強いられて神室町に向かい、そこで相沢との出会いを経て森永が既に死亡している事と森永殺しの重要参考人である勝矢の存在を知る。その後は勝矢を追って神室町ヒルズに向かい、そこで勝矢の黒幕を誘き寄せる策に乗ることで黒幕を誘き寄せることに成功し、黒幕が芹沢であることや芹沢の正体が近江連合七代目会長である黒澤であることを知る。その後、遥を人質に取られて「桐生の命より大切なものを見捨てることはできない」と自身より桐生や遥を選んだ真島の想いを受け止めた上で激突し、結果として決着は付かなかったものの、大吾達が駆け付けて黒澤を屈服させたことで真島共々助かることとなる。
『6』では脱獄の容疑で逮捕され、馬場と共に網走刑務所に再収監されて贖罪の日々を送る。終盤(2016年12月、当時51歳)には釈放され、同じく別の件で釈放された大吾や真島と共に東城会に復帰する。
『ONLINE』では『5』の舞台裏の時間軸が描かれている。真島との死闘後の道中で、黒澤一派の残党と遭遇をするも撃退する。事件収束後に病床に伏してる笹井と墓前で眠る靖子に挨拶をし、真島と共に入院した桐生の元へ向かった。
(たにむら まさよし)
声 - 成宮寛貴(PS3版)、増田俊樹(PS4版)
『4』の主人公の一人で、警視庁神室署生活安全課所属の刑事。29歳。服装はだらしなくネクタイを巻いてシャツやスラックスの上に青いジャンパーを羽織ったラフな恰好をしている。アジア圏の人々が住まう「亜細亜街」を行動拠点としており、その影響から中国語や韓国語、タガログ語は現地人レベルである。仕事に関しては勤務中に競馬中継を聞いたり、雀荘に入り浸るなど勤務態度は悪く、違法風俗店から賄賂を取るなどの汚職を公然と行うことから「神室町のダニ」と蔑まれているが、その金を使って身寄りのない孤児達の支援をしている。
サブストーリーにおいて実の父親は犯罪組織を操るブリッジという人物に金で雇われたフリをしてブリッジのことを調べていた加賀祐介という日本人の刑事で、母親は父親の死後にタイに強制送還されたタイ人というハーフだったことやブリッジの人質にされることを恐れた父親の手によって養父に預けられたことが明かされた。
基本スタンスは護身術や合気道であることから、敵の攻撃を受け流して無効化する特殊技を持ち、固有のヒートアクションも極め技や投げ技が多い。また、一発の打撃の威力の乏しさをカバーすべく、コンボからヒートアクションに繋ぐ技を持っており、それ以外にも、警察官らしく手錠で相手を捕縛する技を習得する。
1985年の事件における養父である谷村大義の殉職の理由とかつて養父が接触しようとしていた冴島靖子を探しており、靖子と接触したところを柴田組の妨害で彼女を連れ去られてしまうも何とか救出し、靖子から真実を聞き出す。靖子の隠していた一億を回収後はサイの花屋を通じて葛城と接触し、葛城の狡猾な罠に嵌められるが、杉内の助力により窮地を脱する。その後、一億を返すために秋山の元を訪れた際に行方をくらましていた上野誠和会である三島と埠頭で接触する機会を得て裏切り者を炙り出すために敢えてその情報を流し、炙り出された杉内順次との戦いの末に杉内こそが養父の仇で、事件の黒幕が警視庁副総監である宗像征四郎であることを知るが、杉内は直後に上司である久井の銃撃を受けて死亡してしまい、久井も最期には自身を助けるために自殺したことでその二人の無念を晴らすために「警察官」として宗像とその護衛を相手に死闘を繰り広げ、傷つきながらも宗像の手に手錠を掛けた。事件終結後は捜査一課に配属される。
『5』ではサブストーリーで名前のみ登場しており、亜門打倒のために招集をかけられて秋山が電話するが、連絡を取ることはできなかった。
澤村 遥(さわむら はるか)
声 - 釘宮理恵
『1』から登場したシリーズの主要人物。 『5』では主人公の一人となる。
(しなだ たつお)
声 - 森川智之
身長185cm、体重85kg
『5』の主人公の一人で、性風俗分野のルポライターとして口に糊をしている元プロ野球選手。37歳。服装は茶色の革ジャケットにエンジニアブーツ、白いタンクトップに青いジーンズと質素な身なりをしている。ボサボサ頭や無精髭が目立つように容姿に無頓着かつ不潔で、おまけに金銭面にだらしなくやさぐれた印象を与えるが、飾らない人柄であるため錦栄町の人々からは親しまれている。仕事に関してはパソコンを使わずに手書きで原稿を執筆しており、加えて締め切りにルーズがゆえにその筆致は解読困難なほど悪筆になりがちで、出版社から原稿の内容について再確認を受けることもしばしばである。
野球選手としては、神室西高校卒業後に名古屋ワイバーンズにドラフトで下位指名されてプロ入りした経歴を持つ。その後、4年間のファーム生活を経て一軍に初登録され、代打として登板した初打席でホームランを打ち一躍時の人となるかと思われたが、その試合でサインを盗んで野球賭博に関与したという嫌疑をかけられ、プロ野球界からの永久追放処分を受けた事で事実上の引退となった。しかし、引退した現在でもかつて天才と謳われたバッティングセンスは衰えておらず、また優れた視力・動体視力を持ち、毎日欠かさず行っているトレーニング(素振り5000回、腕立て伏せと腹筋を各1000回)も手伝って、現役時代と遜色のない実力を誇る。
学生時代から続けてきた野球で体は鍛えられ、錦栄町ではチンピラやヤクザから身1つで己を守っている。スライディングで相手を転ばせたり、投球やバッティングのモーションで殴りつけたりと野球経験者ならではの技も覚え、棒状の武器のみならずナイフや刀も巧みに使いこなす。ただし、バットだけは自らの矜持により武器として装備できず、バトル中に取得しても「バットは人を殴るものじゃない」と呟き、使わずにそっと地面に置いてしまう(懐に入れることも不可)。固有の絶技である「俺流 流星タックル」は胴に組み付くタックルの姿勢で敵を持ち上げながら前方に押し込んでいく強力な技で、この後に様々な技に派生させることができるが、敵によっては崩される、振りほどかれるなど欠点もある。
自身の暮らす名古屋の繁華街「錦栄町」で仕事を終えたある日、自宅に帰るとマスクとサングラスで正体を隠した謎の男に自身の関わった野球賭博事件の裏を探る依頼を受け、渋りながらも過去の関係者に話を聞くうちに事件は思わぬ方向に進み、東城会と近江連合の確執に巻き込まれていく。その後は心から信頼していた錦栄町の住民こそが自身の敵とも言える「名古屋組」の正体であることが判明し、自身の信じていたもの全てに裏切られたと絶望して錦栄町を出て行こうとするが、金融屋の高杉が自分のホームランボールを拾った観客で、品田自身のことを気にかけていたことを知って思い留まる。また、黒幕がワイバーンズ時代の恩師である冨士田だったことを知ると東京ギガンツの澤田との邂逅を経た上でかつて高校の同級生だった堂島大吾(前述の謎の男)の協力を得て神室町へ向かう。その後、神室町で桐生を初めとした熱い男達に心を動かされ、大吾や遥のために立ち上がる事を決意し、日本ドームにて遥の射殺を辞めて逃げようとする馬場を冴島からの伝言を伝えるために打ちのめす。決着後は高杉からの「借金の完済証明が出せないから戻ってこい」という一報により錦栄町の住民が本当は心の底から自身が錦栄町に帰ってくることを待っていた真実を知るや否や堪え切れずに涙した。
真島 吾朗(まじま ごろう)
声 - 宇垣秀成
『1』から登場したシリーズの主要人物。『0』や外伝作品の『OF THE END』では主人公の一人として登場する。また、本編ではないが『極2』の追加シナリオでも主人公として登場する。
(かすが いちばん)
声 - 中谷一博
『ONLINE』から登場した龍が如く新シリーズのメイン主人公で、元東城会系荒川組の若衆。40歳。背中の刺青は龍魚[3]。
主要人物
(だて まこと)
声 - 山路和弘
『1』から登場した警視庁組織犯罪対策第四課の刑事(階級は警部補)。41歳。10年前は警視庁刑事部捜査第一課にいて桐生の取り調べを担当した。組を立ち上げる時期であった桐生が、大切な時に事件を起こすのはおかしいと睨み、独自に東城会直系堂島組組長である堂島宗兵殺害の件を調査していたが、固執し過ぎたために危険視した上層部に四課に左遷させられる。その後、東城会三代目会長である世良勝の殺害事件を担当していることや個人的な思惑から再会した桐生に協力するようになり、一人娘である沙耶との和解を経て桐生の掛け替えのない友の一人となる。
『2』では42歳。かつて一課に就任したばかりの時は班長であった瓦とコンビを組んで尊敬していたが、瓦が不法入国者の外国人を次々と射殺したのを目の当たりにして不審を抱きながらも心の中では彼を心配していたことが明かされている。100億を巡る事件終結後は辞職して沙耶と一緒に暮らす道を選んだ[注 3]が、警視庁四課課長である須藤の依頼で嘱託として瓦と共に捜査をすることになる。瓦の死後は狭山薫と狭山民世に「瓦さんは本当の刑事でした」と語る。
『3』では44歳。京浜新聞社で記者活動を行い、桐生に東城会幹部の情報を提供するなどのサポートをする。
『4』では45歳。記者活動は継続中だが、警察内ではいまだに有名らしく、谷村からは大先輩と呼ばれていた。親交のあるニューセレナのママが身内の不幸があったために帰省している期間だけ代理マスターとして店番をしているが、ラストには警視庁のヘリコプターで須藤と共に宗像の汚職の号外をばらまいた。事件後は谷村を部下にして須藤が仕切る捜査一課の刑事に復職した[注 4]。
『5』では48歳。都内で起きたとある殺人事件の捜査を進める内にそれが全国五大都市を又にかけた巨大な陰謀に繋がるものであることを知る。
『6』では52歳。遥の轢き逃げを桐生に知らせ、自らも事件の捜査を後輩である本庄と共に担当する。その後、桐生と通じて情報をもたらすなどのサポートを行う。物語終盤、遥の病室にいたところを巌見恒雄の息がかかった警官に撃たれるが、何とか一命を取り留めた。その後は桐生が自身の死を偽装する交渉をしている様子を見届け、桐生に自分が死んだと伝えるように頼まれる。
『ONLINE』では親交のあるニューセレナのママに関するストーリーが語られる。
(さわむら ゆみ) / 澤村 美月(さわむら みづき)
声 - 上坂都子(『1』)、坂本真綾(『極』)
身長165cm、体重45kg、1971年6月30日生まれ、B型[4]
『1』に登場した桐生や錦山と共にヒマワリで育った親友で、二人の妹的存在。34歳。二人が東城会に入った後は短大を卒業後に独立して、神室町で立身するためにセレナでホステスとして働いていたところを東城会の大幹部である堂島宗兵によって拉致され、駆け付けた錦山が堂島を殺害したことで助かるが、その時にショックから記憶を失って入院し、直後に病院から姿を消してそのまま消息不明となる。その後、ヒマワリで風間に保護されて風間の手引きで東城会で偶然神宮と出会い、彼との間に遥をもうけるが、総理の娘の縁談が舞い込んでしまったために神宮のためを思って籍を入れずに彼の元を去ってしまう。その後は事実を恐れた神宮の障害になって遥と共に命を狙われるようになり、身を守るために風間に整形させられた上で妹である「美月」という戸籍を与えられる。終盤ではミレニアムタワーの最上階アレスで桐生と最愛の娘である遥と再会し、100億を始末しようとするも神宮に見つかり、直後に桐生を庇おうとした遥をさらに庇って神宮の凶弾に倒れてしまい、最期は桐生に会うという願いが叶ったことや遥に自身と同じく逃げないで生きるように言い遺して息を引き取った。
(さやま かおる)
声 - 大輝ゆう(『2』『3』)、久川綾(『極2』)
『2』に登場した大阪府警第四課主任の警部補。25歳。男勝りな性格で、時折容赦無く暴言を吐くなど気が強いが、反面では桐生と一緒に暮らしている遥に親身に語り掛けたりするなど優しい面や桐生と遊びに興じたり色々と心配して助けに入る等の子供っぽく、かつ気遣いの出来る一面も見せている。また、女性でありながら腕っ節が強く、桐生と共闘した際は護身術を織り交ぜた格闘を使い、桐生との連携技も使用する。高等専門学校に入り、プログラミングを学んで20歳で国家公務員II種試験をパスし、人事院からの推薦を受けて卒業後は大阪府警の準キャリア(階級は巡査部長からスタート)として採用されるが、2006年4月には警部補に昇進と同時に四課の主任となり、暴力団に対する容赦のない取り締まり振りから「ヤクザ狩りの女」と呼ばれるようになる。その後、東城会に隠されていると思われる自分の過去の真相を探るために身辺保護として桐生と共に行動するが、事件を追う内に郷田龍司の異父妹であることや瓦次郎の実の娘であるなどの自身の出生を知ることとなり、精神的に追い詰められていくことになる。その後は桐生に対して徐々に恋愛感情を抱くようになり、龍司との戦いに終止符を打った後は桐生と熱いキスを交わす。
『3』では最初に登場しただけで、近江連合との抗争終結後に警視庁に新設される部署の教育係として米国に転勤することを決意し、桐生に暫くはそれぞれの道を進もうと別れた。その後、ロッカーやキャバクラなどコンプリートした時にメールをくれる。
『ONLINE』でも登場。
(かざま じょうじ)[注 5]
声 - 渡哲也
身長178cm、体重79kg、B型
『3』に登場した風間新太郎の実弟。60歳。桐生を前蹴りの一発で吹き飛ばすほどの実力を持ち、桐生をして「あんたが若かったら勝てたかどうか分からんな」と言わしめた。また、ラウや玉城をそれぞれ遠距離から拳銃でヘッドショットを決めて射殺する等、兄譲りの射撃の腕を持っている。戦闘では柔術と空手を使う。警察庁長官官房国際課にいたが、兄が東城会の幹部であるために職場で敬遠されて辞任し、後に自分のことを認めてくれる米国のCIAへと入った。その後、田宮隆造と共に「ブラックマンデーの首領を捕まえる」という任務の元でリゾート開発の関係者に近づき、峯と組む當眞を殺そうとしたところを桐生に阻止され、そのまま戦うも敗北する。その後は當眞を殺すことは諦めて桐生に真相を教えると峯とブラックマンデーの野望を阻止するために桐生に協力し、米軍基地に頼んでジェット機で東京までの最速飛行を提供した。峯の転落後は病院の屋上にいる桐生と大吾を遥を乗せたヘリコプターで迎えに来た。
/ 冴島 靖子(さえじま やすこ)
声 - 小沢真珠
『4』に登場した冴島大河の義妹。幼い頃に病を患った自身を治そうとする兄の大河を心の底から尊敬しており、愛していた。また、秋山のかつての恋人である絵里に容姿が酷似している。実父は近江連合に所属する極道で、実母や他の女性に暴行を加え、更には少年時代の冴島に3000万円を要求するなど傍若無人な人間であることが明かされている。葛城から「一億円を用意するか、ある人間を殺せば兄を助ける」という話を持ち掛けられ、兄を助けたい一心から、用意できない一億の代わりとして、葛城に利用される形で彼の弊害となる(上野吉春襲撃事件の真相を知る)柴田組に属する構成員を口封じのために色仕掛けを用いて殺して周っていた。その後も葛城からの殺しの要求は止まらず、もう人を殺したくないという思いから、秋山のスカイファイナンスに「リリ」という偽名を使って訪れ、10日以内に一億の融資の依頼をし、秋山のテストに合格して一億を受け取ったが、その場で世間を騒がせていた神室町連続殺人事件の犯人であることを言い当てられ、去って行った。その後、養父の死に関する重要人物として自身を探していた谷村に保護され、全てを話した後、兄と会うために沖縄へ向かう。後に桐生や浜崎と出会い、冴島と行動を共にした浜崎と桐生からの情報を得て、瀕死の浜崎を残し、桐生と共に神室町へと戻る。その後は神室町で秋山や谷村と共に冴島がいる賽の河原へ向かい、桐生達と戦うことになった彼らから拳銃を託されて先に向かうが、運悪く上野誠和会の襲撃に鉢合わせ、葛城に冴島共々拉致されてしまう。その後、冴島と25年ぶりの再会を果たすが、直後に神室町ヒルズで葛城が苦し紛れに撃った弾から冴島を庇い、最後の力を振り絞って驚愕する葛城を射殺し、最後は許しを請いながら息を引き取った。
『5』でも冴島により言及されており、自分の極道としての生き様に影響を与えたことが語られている。
(せりざわ かずひこ) / 黒澤 翼(くろさわ つばさ)
声 - 奥田瑛二
『5』に登場した七代目近江連合会長にして、自身の一派(黒澤一派)を率いて今回の事件を引き起こした首謀者。最初に所属した組は弱小の四次団体であり、文字通り茨の道を歩むしかなく、己の出世のために汚泥を啜りながら兄貴分や親(組長)を殺して今の地位に上り詰めた。しかし、結果として手に入れたのは「権力」という力だけであったことに空しさも感じており、桐生や渡瀬のように人を惹き付ける強いカリスマ性を持った男達に対しては羨望と憎悪が入り混じった感情を持っている。半年前に末期の肺癌を宣告されたことで焦りを感じ、「芹沢和彦」という偽名を使って大阪府警組織犯罪対策本部の刑事を装い、各地を奔走しつつも事件の中心に常に近づくなどした後に東城会と近江連合を象徴する4人のカリスマ(桐生や冴島、渡瀬や勝矢)を一同に集めて殺害し、その二つの組を手中に収めて息子の相沢に全てを継がせるという計画を立てるも桐生や冴島、秋山や品田ら熱き男達の手により失敗する。
マキムラ マコト / 筱喬(シャオチャオ) / 館山 マコト(たてやま マコト)
声 - 沢城みゆき
『0』に登場した中国生まれの残留孤児二世。20歳。日中国交正常化の流れに沿い、日本の親族である牧村源三(母方の父)に身を寄せるもうまく日本に馴染めずにいた母の自殺をきっかけに家出し、兄を探すために蒼天堀で暮らしていた頃に尾田に「兄を知っている」と騙されて韓国系のマフィア組織に売り飛ばされる。その後、非合法な売春に従事させられたことが原因で心因性の視力障害を負ってしまう(ほぼ失明状態となる)。その後は李文海に助けられ、彼の営む「ほぐし快館」で整体師として技術を磨きながら生計を立てていたが、自身も知らぬ間に相続していた「カラの一坪」により近江連合や東城会に付け狙われて極道の抗争に巻き込まれていく。その後、自身を救出してくれた真島と出会い、共に行動するが、真島が佐川に追い詰められた際に世良率いる日侠連に保護されて兄でもある立華の使いである桐生達に身柄を引き渡される。立華の死後は堂島組への復讐心を抱き、再会した真島から復讐を止めるように諭されながらも独断で「カラの一坪」と引き換えに三幹部の首を差し出すように堂島と取り引きに臨むも失敗し、直後に老鬼に撃たれてしまう。その後は日侠連に保護され、病院に搬送された後に手術により何とか一命は取り留めた。事件終結後は視力も戻り、街でヤクザに絡まれていた時に真島に助けられるも彼が声を出さなかった為に相手が真島だとは気付かなかった。その後、工事着工前のカラの一坪に自らの足で出向き、亡くなった立華に花を手向けるが、カラの一坪に埋められていた自身の手放したオルゴールが壊れた腕時計(真島が拾っていた)を発見したことで直されていたオルゴールの音を聞いて真島だと気づき、真島への感謝を述べた。
『極2』では37歳。結婚し名前が「館山マコト」に変わり、男児を出産している。過去の事件で世話になった名前も知らない真島へ感謝の気持ちを伝えられないまま別れてしまい後悔していたが、真島と初めて出会った「ほぐし快館」で働いていれば、いつか再会出来ると信じ同店で再び整体師として働いていた。夫の仕事の都合で海外へ行くことになり、店も真島が訪れた週をもって辞めることになっていた。自身が身につけていた腕時計の思い出を語り、その思いを聞いた真島が名前も記さず、過去に着けていた物と同様の腕時計バンドを彼女へのプレゼントとして店に送っていた物を他のスタッフから受け取り、海外へ向かう飛行機の中でそのプレゼントを開封したときに、そのとき接客したのが真島だったと知り涙した。結果的に彼女は最後まで、真島の名前を知ることはなかった。
(ひろせ とおる)
声 - ビートたけし、中林俊史(少年時代)
『6』に登場した陽銘連合会直系舛添組系広瀬一家総長。普段は保険金詐欺のために病気を偽って入院しており、一家の運営もほとんど南雲たちに任せっきりにしているが、病院を抜け出しては事務所の二階でまったりするなど自由気ままに過ごしている。またフラッといなくなったりと捉えどころがなく極道組織の長らしからぬ飄々とした雰囲気の持ち主であるが、不思議な含蓄とユーモアを放っており周囲からの人望は厚い。しかし、その裏では「尾道の秘密」を守り通してきた陽銘連合会本家の古参幹部であり、会長である来栖猛(巌見兵三)から「広島で一番の腕を持つ男」と評される程の実力を誇る。戦闘では包丁を片手にゆっくりと近づいて隙を突いて攻撃を加えるという刺客として培った老練な戦法を取り、追い詰められるとガス管に穴を空けて噴出したガスを利用した目眩ましや奇襲攻撃を仕掛ける。原爆で両親を失い、14歳の頃に愚連隊を組んで暴れていたが、仲間と共に押し入った巌見造船で来栖に見込まれる形で裏社会に足を踏み入れる。その後、彼を親と呼ぶまでの信頼関係を結んだ頃に「尾道の秘密を守るために力を貸してくれ」と頼まれ、その秘密を守るために自身の兄弟分から外部の人間に至るまであらゆる人間を抹殺するようになる。その後は祭汪会から狙われていた遥を匿ったり、遥を探してやってきた桐生に協力するなどの行動を見せながらも兵三の命令で水面下で邪魔者を排除するために動き続け、終盤では桐生と対峙する形になり、老齢を感じさせない凄まじい動きで桐生と互角に張り合うも死闘の末に敗北する。敗北後は兵三に尾道の秘密を知った南雲達を殺すように命令されるが、実子のように大切にしていた「息子達」を殺せなかったために兵三に見逃すように懇願したところを撃たれてしまい、最後は尾道の秘密を守るために南雲や松永の父親を殺した事を詫びながら息を引き取った。
(さわむら はると)
『6』に登場した澤村遥と宇佐美勇太の息子。遥が広島で出会った勇太と一夜を共にした際に身ごもった子供で、後に広瀬の計らいで母子ともに匿われる中で産まれた。正確な年頃は不明だが、1歳未満とされている。ビッグ・ロウの後継者である息子のジミー・ロウが殺害され、後継者の枠がもう一人の息子である勇太にスライドしてきたことにより、組織の掟に従って日本人との混血である自身を殺すために祭汪会から狙われることになる。しかし、巌見恒雄に寝返ろうとした達川の車に遥が轢かれて入院した事で、その身柄は自身の祖父とも呼べる存在の桐生の手に渡り、自身の出生の秘密を追う桐生に連れられて尾道仁涯町に向かう。その後、様々な思惑からあらゆる組織に狙われて一時は敵の手に渡るも桐生達の活躍で救出され、最終的には意識を取り戻した遥の手に戻り、事件後はアサガオで両親と共に暮らす。
極道組織
東城会
シリーズを通して登場する関東一円のヤクザを束ねる一大組織。広域指定暴力団。『1』での嶋野の発言によると構成員は2万5千人に上る。『3』の時点で直系99団体。『4』では直系100団体、構成員3万人。
『0』では半年前に風間が刑務所に収監され、更には桐生が起こしたとされる「カラの一坪」での事件がきっかけで風間の後釜を巡る争いに火が付く。その後、この騒動により阿波野が死亡し、更には久瀬と渋澤が警察に逮捕されたが、桐生や真島、後に風間も復帰し、更には二代目代行の座を退いた二井原の跡を継いで世良が三代目に就任する。
『1』では冒頭で三代目会長である世良が暗殺され、更にはその葬儀において風間が銃撃により倒れたことで100億円を巡る争いに火が付く。その後、この騒動により嶋野や風間、錦山が死亡し、三代目の遺言状により桐生が四代目になるも襲名式と同時に退任式を行い、五代目を寺田に託した。
『2』では前作の騒動で弱体化し、組織を新たに立て直している矢先に五代目会長である寺田が凶弾に倒れたことで混乱は更に大きくなる。その後、寺田に代わり堂島弥生が会長代行を務めるが、二代目錦山組組長である新藤が千石組に買収されてクーデターを起こし、ヒットマンにより幹部達が殺害される。この騒動後に大吾が六代目として就任する。
『3』では真島が戻ったことで大吾を中心に以前以上の勢いを取り戻しつつもあったが、後に大吾が銃撃を受けて重傷を負ったことで若頭の柏木が指揮を執る。その後、跡目を巡る内部抗争が勃発してこの騒動で柏木や神田、峯が死亡し、浜崎も組を破門に追い込まれる。
『4』では1年前の跡目騒動により組織が弱体化し、更には新井が起こした伊原殺害の騒動で上野誠和会と関係が悪化して組織を守るために会長の大吾が宗像と取引せざるを得なくなるが、最終決戦後は新たに冴島組が加わったことで新たな再生を歩み出す。
『5』では組織の若返りに成功して人数的には大きくなったものの、組織強化にまでは至らずに近江連合の渡瀬からも潰す価値がないと言われる有様である。その後、近江連合との抗争に備えて幹部の人間が各都市に出向いて地方の極道組織との盃交渉に向かうが、その最中に大吾が失踪した事で本部長の青山が会長代行の座に座る。終盤では相沢によってかなりの人数の直系団体の組長が殺害されたことで更に弱体化した。
『6』では亜細亜街の火災が発生し、その責任を取らされる形で大吾や真島ら主要幹部が逮捕され、本家相談役だった菅井が会長代行に就任したことで大吾不在の東城会の指揮を執るが、そこに中国マフィアとの抗争が起ったり、陽銘連合会も含めた騒動に発展する。その後、この騒動で染谷や菅井が死亡し、釈放された真島と冴島が直系に、大吾も六代目に復帰する。
『ONLINE』では近江連合が警察と共謀し行った『神室町浄化作戦』と、三次団体だった荒川組の裏切りにより、組織全体が総崩れとなり、その結果、神室町全域の支配権を近江連合に取って代わられ、大吾や真島、冴島ら主要幹部も行方をくらませた状態にある。
東城 真(とうじょう まこと)
東城会初代会長。『2』のサブストーリーで入手できるDVD(タイトルは「初代組長伝説 東城真 ケンカ格闘研究奥義」)で名前のみが登場し、ゲーム内の演出ではあるが、このDVDの視聴により桐生のヒートアクションゲージが一段階上昇したことからケンカ格闘家として高い実力を持っていた事も窺い知れる。また、『2』に登場した組員から庭にドーベルマンを放し飼いにしていたり、裏切った組員を本部の庭で自らの手により殺したなどというエピソードを聞くことができ、気性の荒い側面があったことを窺える。初代会長として東城会を支えてきたが、跡目を譲った後の生死は不明である。
(せら まさる)
声 - 水木竜司(『1』)、大川透(『0』)
『1』に登場した東城会三代目会長。49歳。若くして(37歳)三代目会長を襲名したが、渡世に入って間もない頃に風間から極道のイロハを教わった事もあって風間に対しては多大な敬意を払っており、風間が自身の部下になってからも風間に対して敬語を崩さないでいる。また、桐生の事もそれなりに買っており、桐生が堂島殺しで捕まった際には絶縁ではなく破門にし、更にはこれから刺客に狙われるであろう桐生を守るための指示を部下にしている。大学時代に共に学生運動に参加していた長年の親友である神宮京平から政治家生命を守るために遥と由美の抹殺を依頼されるが、風間の説得により思い止まる。その後、逆に神宮と手を切るために風間や由美と共に彼の100億円を盗み出したものの、自らの死を覚悟しており、「東城会の未来を託せる男」を跡目に譲ると記した遺言状を風間に託した後で錦山から「100億盗まれたのは本当か」という質問に答えた数日後に暗殺された。
『0』では32歳。当時の東城会の直系組織であった日侠連の総裁の位置にいる。正確な射撃の腕を持ち、実際に佐川の腕を正確に撃ち抜いたり、堂島宗兵が銃を使おうとした際もその銃を弾き飛ばしている。戦闘では直立の構えから攻撃をいなし、隙のない打撃を繰り出す。代紋を掲げることもなく、ただ本部の汚れ仕事を専門に請け負っていたが、後にある人物の命を受けて堂島組及び傘下組織よりも先に「カラの一坪」を手に入れるために行動し、佐川に撃たれながらも「カラの一坪」を日侠連の物として手に入れる。その後、堂島組に代わって神室町再開発計画を引き受け、その莫大な利権を持って東城会本家若頭に就任し、二代目代行の二井原が退任した後はそのまま東城会三代目会長に昇格する。
(どうじま だいご)
声 - 徳重聡
『2』から登場した堂島宗兵と弥生の息子で、堂島組若衆時代においての桐生の舎弟。30歳。背中の刺青は不動明王[1]。剛直な気性から人望が厚く、桐生からも信頼されており、また東城会随一の武闘派を父に持つだけの腕っ節の強さと卓越した銃の腕前を持つ。戦闘では力強い打撃と相手の攻撃を受け止めて繰り出す投げ技を用い、『極2』では勇太に似た格闘スタイルで戦う。憧れていた桐生に父が殺されたと思い込み、自棄を起こした末に郷田龍司の策略に嵌り、銃刀法違反で逮捕されて5年間服役する。出所後は弱小となった東城会に絶望し、神室町で飲んだ暮れていたが、桐生と再会し拳を交えたことがきっかけで東城会を立て直すために共に行動する。その後、未熟な面が多々見られたものの、郷龍会神室町侵攻の際には東城会組員を纏めて先導し、六代目会長の座を任せられる器として桐生に認められた。
『3』では32歳。東城会六代目会長となり、頭髪をオールバックにしたことで風格も溢れ、桐生に対しても敬語を使うようになる。冒頭で沖縄の土地買収を巡ってリチャードソンに銃撃され、重傷を負って意識不明となってしまう。終盤では峯に連れ去られたものの、桐生が峯を倒した後に意識を取り戻し、桐生と峯に銃を向けるリチャードソンを隙を見て撃つことで負傷させた。
『4』では33歳。傷も癒え、度重なる抗争と跡目騒動で崩壊寸前にまで追い込まれた東城会を立て直すために莫大な収益を期待できる神室町ヒルズの建設を最重要案件として行動するが、3万人もの組員を抱える大組織を立て直すことは容易ではなく、大恩ある真島を警察に引き渡すという苦渋の決断までもしなければならない程に追い詰められる。また、宗像との取引の裏では密かに城戸と通じており、彼を通じて形勢逆転を図ろうとしたが、新井により阻止される。その後、東城会立て直しのために1000億円を巡ってミレニアムタワーで城戸と共に新井や宗像と対峙した際は大組織を支え続ける苦しさを吐露した後にそれを押し付けた責任は自分にあると発言する桐生と対決するも変わらぬ強さを誇る桐生に死闘の末に敗北し、改めて桐生の強さを認めて和解した。事件後には真島も釈放され、かつての東城会を知る冴島を東城会直系として迎え入れることで新たな再生を目指して歩み出す。
『5』では36歳。今作では冷静沈着かつ頭脳明晰な面も見られるようになり、また神室西高校時代は学年1位であった程の成績優秀者であったが、同級生の品田の野球人生を守るために喧嘩騒動を起こし、最終的には少年院に入って退学したことが判明した。東城会を立て直すために組織の若返りを図った後、東城会内部の裏切り者(黒澤一派との内通者)の存在[注 7]を察知し、真島と相談して膿を一掃するいい機会と捉えて敢えて泳がし、自身は近江連合との抗争に備えて山笠組と五分の盃を交わすべく、福岡に向かう。その後、山笠組組長の斑目と会談した後に自分の命が狙われていることを想定した上での行動を起こすために桐生のタクシーに乗車し、東城会の状況を聞かせて茨の道を歩き続ける覚悟を吐露した後に行方を晦ます。その後は事件の真相を探るために名古屋に赴き、素顔を隠して品田と出会い野球賭博の調査を約2000万で依頼し、後に事件の裏を掴んで黒幕を追おうとする品田を止めるために品田と激突したが、結局は彼の意志の強さに負けを認めて共に神室町へ向かう。その後、神室町で黒幕である黒澤を追い詰めたところを金井に撃たれて重傷を負うも一命を取り留め、最終決戦時には同じく撃たれた勝矢と共に冴島達を助けにミレニアムタワーの屋上に現れて黒澤を無力化させた。
『0』では12歳の少年として登場し、年上に対しても横柄な態度を取るが、その反面では同世代の友達が作れないことに悩みを抱えるなどの子供らしい一面も見せる。また、ポケサースタジアムに自身の優勝トロフィーが飾ってあるなどのポケサーとしての腕前も高いことが窺える。桐生のサブストーリーでは桐生をバッティングセンターに呼び出して色々と振り回すが、直後に彼に叱られて今の自分の性格を反省し、最終的には改めて自分自身を変えることを誓って桐生と別れた。
『6』では40歳。中国系マフィア「祭汪会」や巌見造船の社長である巌見恒雄と密かに手を組んでいた相談役の菅井の策略によって真島と共に警察に逮捕される。終盤では桐生の計らいによって釈放され、東城会本部に戻る途中で桐生が残していった手紙を読んだことで陽銘連合会と戦争をしないという決断を下し、逆に陽銘連合会と五分の盃を交わす計画を立てる。
(もりなが ゆう)
声 - 東地宏樹
『5』に登場した東城会系組員で、会長護衛役だが、実は「黒澤一派」の一人である。礼節をわきまえ、上の命令には絶対遵守である。戦闘では隙の少ない打撃を主体とした戦法を取る。現在の東城会のあり方に疑問を持っていたことから弟分の相沢をトップにするべく、青山と共に黒澤に東城会を売る計画を進めており、その忠実さを青山に見込まれて会長護衛役という大役を任されるが、福岡の交通事情に疎かったために大吾が乗ったタクシーを見失ってしまう。その後は大吾を乗せたタクシーの運転手が鈴木太一(桐生)であることを知り、相沢と共に桐生に接触し、大吾の居場所を吐かせようとしたが、明確に知ることができずに立ち去る。その後、五分の盃に不満を漏らした山笠組からの攻撃を受けて怪我を負うが、桐生や相沢と共に山笠組本部に駆け込んで斑目の暗殺を阻止したところを青山に撃たれて負傷し、撤退を余儀なくされる(後に負傷は偽装と判明する)。その後は大吾の失踪を機に青山が裏切って東城会を乗っ取ろうとした為や事件の真相を話そうとした為に桐生に追い詰められたところを狙って射殺し、桐生に東京へ向かうように言い残してその場を去ったが、後に桐生の生き様を目の当たりにしたことで相沢では彼を超えられないと判断し、相沢に計画から降りるように勧めたために計画の邪魔となって殺害され、後に刺殺体として警察に発見された。
(あいざわ まさと)
声 - 安元洋貴
『5』に登場した森永とコンビを組んで会長を護衛する東城会系組員だが、実は森永と同様に黒澤一派の一人で、同時に近江連合七代目会長でもある黒澤の息子である。背中の刺青は真鯉[1]。見る者を威圧する巨躯を持つが、冷静沈着な兄貴分の森永とは対照的に頭を使った交渉事には向いておらず、熱くなると手が付けられない一面や寡黙な態度を装っていても相手の対応によってはつい態度が表に出てしまうなどの若さが目立つようである。戦闘では巨体を活かした力技で正面からぶつかる戦法を用いる。後述の目的で桐生に挑む為に敢えて黒澤の計画に乗り、森永と共に計画通りの行動を起こした上で桐生を東京に行かせる為として森永に殺害されたように見せかけて一時は姿を消すが、後に桐生と接触したことで心変わりした森永に計画から降りるように勧められたために計画の邪魔になると判断して森永を殺害する。その後も黒澤の命令で動き、黒澤との取引で森永を追うように指示されていた冴島と賽の河原で出会い、そこで花屋から得た情報で勝矢に目を向けさせることで冴島を神室町ヒルズに向かわせるように仕向ける。その後、東城会本部にて生まれ持ったもの(家柄や才能)ではなく本来の力だけで頂点に立つ事を証明する為や強大なカリスマ性と人望を持つ桐生という壁を越える為に桐生に戦いを挑むも死闘の末に敗北し、直後に桐生の「何年経っても構わない。這い上がってまた俺に向かって来い。その時まで待っててやるぜ」という言葉を受けて気を失った。
二井原 隆(にいはら たかし)
声 - 柴田秀勝
『0』に登場した東城会二代目会長代行。東城会本部を訪れた立華から「堂島組に桐生さんから手を引くように働きかけて下さい」と頼まれ、当初は断ろうとしたものの、立華の器量の良さに感服してその件を了承する。その後、桐生達が東城会本部を去ろうとした際には桐生の覚悟を試す為に組員を嗾けるが、最後には全員を倒した後に東城会本部を去って行く桐生を見送りながら彼の強さを認める発言をした。事件後は世良を東城会本家若頭に就任させて「神室町再開発計画」を彼に任せ、自身は代行を退いて東城会本部を後にした。
室田(むろた)
『6』に登場した東城会系仁星一家[注 8]の駆け出しの構成員。セレナ裏で祭汪会の構成員に殺されかけていたところを桐生に助けられ、お礼を言うと共に桐生が探していた秋山の現状を教えてその場を後にした。その後、桐生への恩返しとして桐生の件で意気投合した秋山の変装を手伝い、再会した桐生に東城会と祭汪会が繋がりがあるのではないかという情報を提供した。
堂島組
『1』から登場した組。『0』の時代から風間や桐生、錦山が所属しており、都内の一等地に事務所を構えるなどの東城会でもトップクラスの勢力だったが、「カラの一坪」事件後は阿波野が死に、久瀬と渋澤も警察に逮捕されたことで強力な力を持っていた若頭補佐を一気に3人全員失ったことで弱体化する(事務所も神室町のビルに移転する)。その後、組長である堂島宗兵が錦山に殺害されたことにより構成員のほとんどが風間組に吸収されたが組自体は無くなっていない模様。
(どうじま そうへい)
声 - 水木竜司(『2』)、江川央生(『0』)
東城会直系堂島組組長で、桐生と錦山の渡世の親であり、風間と嶋野の兄貴分でもある。戦略を練って数々の行動を成功させてきたが、「欲しいモノはどんな手を使ってでも手に入れる」という強欲な性格で女癖も悪い為か、嶋野や風間、立華らには東城会のトップになる程の器も頭もないと評されており、特に嶋野からは「頭の足りん小物」と馬鹿にされ、渡世の子である桐生にも「クソみてえな親」と言われ、錦山にも「昔の自慢とメンツの話しかできやしねえ」と見下されていた。由美を拉致して自分のものにしようとしたために激昂した錦山に銃殺される。
『2』では回想で登場し、風間と嶋野に真拳派の始末を命じて堂島組や東城会の勢力を拡大する。
『0』では組の運営を実質取り仕切っていた風間を潰すために裏で老鬼を操って「カラの一坪」での事件を引き起こし、その事件の濡れ衣を桐生に被せるという形で彼を陥れる。その後、桐生と久瀬が対峙していた際に阿波野や渋澤と共に姿を現し、問題を起こした責任として久瀬に指詰めをさせ、桐生の申し入れを承諾して破門にした上で堅気として真っ当な道を歩むように促す。その後はマコトを殺したと誤認して「神室町再開発計画」を推し進め、渋澤を若頭にした後に本格的に三代目会長の座を狙っていたが、阿波野の死や渋澤と久瀬の逮捕がきっかけとなって組員の大半と若頭補佐を三人も失い、更には世良が「カラの一坪」を手にしたために目論見は失敗に終わる。事件後は世良の傀儡として東城会若頭就任の後見人を引き受けさせられ、風間に組の実権をほとんど奪われてしまう。
(どうじま やよい)
声 - 福島おりね(『1』-『2』)、こうち澪(『極』)
堂島宗兵の妻。48歳。女癖の悪さなどの悪い面も承知の上で堂島を一途に愛しており、息子の大吾も可愛がっている。サブストーリーでは、桐生に夫が銃殺された事件の真相を問い詰めるが、最終的には100億円事件を含めた全ての問題を桐生に任せる。
『2』では49歳。寺田が倒れた後の東城会五代目会長代行を務めており、後に一時は新藤に捕らわれるも桐生によって救われた。
『3』の冒頭では組の立て直しのために奔走している事が桐生の口から語られる。
『極2』では新たに東城会の執行部にいるという設定が追加され、就任時期は不明だが、桐生へ復讐するために一度執行部を離れている点から、かなり昔からいた可能性があることや『1』の後に桐生がきちんと真実を伝え和解したこと、その後から寺田死亡まで就任していたことが人物紹介で明かされている[注 9]。
老鬼(ラオグゥェイ)
声 - 鈴木幸二、サム・リー(中国語版)
『0』に登場した殺し屋。堂島組に雇われており、殺害対象以外は手負いにすることはあっても契約外として見逃すなど機械的なまでに依頼に忠実である。また、ビルの屋上から壁面伝いに飛び降りる程の超人的な運動能力を持ち、中国マフィアに属していた立華にもその名と実力を知られる程に大陸系の黒社会では有名なようで、堂島宗兵に「大陸で一番金のかかる殺し屋で、自分に仕事を依頼するルートと金がある限りは誰だろうと好きに殺せる」と言わしめた。戦闘では鉄針や青龍刀と銃の併用といった武器術に加えて中国拳法も駆使する。物語冒頭で堂島の命を受けて「カラの一坪」で殺人事件を起こし、その罪を桐生へ擦り付ける。その後は亜細亜街にて桐生を狙撃し、立華を連れ去る。立華の死後はマキムラマコトを渋澤の命で殺さない程度に銃撃するなどの姿を現しての行動を開始し、堂島組本部にて真島に敗北したことで用済みとなった阿波野を殺害した後に真島と戦うも敗北する。事件後は堂島組を裏で操るための切り札として日侠連に身柄を拘束され、最終的には「穴倉」へと送られた。
米田(よねだ)
声 - 藤本たかひろ
『0』に登場した堂島組構成員。気性が荒い性格で、「人を殴るのがたまらないから極道になった」と語るなどの久瀬に似た性質を持つが、どんな相手であろうと容赦無く所構わずに手を上げたり、暴力のみで何とかしようとするために当の久瀬からは三下扱いされている。戦闘ではドスや鈍器といった凶器を用いることが多い。破門を願い出るために堂島組本部に来た桐生を消すように久瀬から命じられて桐生の前に立ち塞がるが、5度に渡って退けられた。終盤では立華の拷問に立ち会って大型ハンマーで足の指を潰し、その際に「殺したら意味が無い」と久瀬に止められたために逆上してそれまでに何度も桐生に敗れた久瀬の不甲斐無さを指摘して反抗心を剥き出しにした上に立華に八つ当たりするという形で彼の側頭部を大型ハンマーで殴って致命傷を負わせるが、最後は激昂した久瀬によって後頭部を床へと強かに叩きつけられて死亡する。
石川(いしかわ)
『極』に登場した堂島組構成員。戦闘では拳銃を装備し、金井に似た格闘スタイルで戦う他、起き上がり時に銃を乱射してくる。堂島宗兵の仇を討つために他の組員と共に桐生の後をつけて殺す機会を伺っていたが、自身らの動きを察した真島の策で桐生に誘導される形で埠頭で桐生と真島の二人と対峙する。その後、敵対するつもりもなかった真島に口出しされたことで真島もろとも始末しようとしたが全員まとめて返り討ちにされる。しかし、倒れる前に真島に発砲し真島を海へと落としたことで一矢は報いる形になった。
風間組
『1』から登場した組。『0』や『1』では天下一通りの「風堂会館」に事務所を構えていたが、『2』以降はミレニアムタワーに事務所を移している。『0』より『1』の序盤までは堂島組の傘下組織にいたが、堂島宗兵の死後は風間が組長不在の堂島組の組員を移したことで直系に昇格、戦力を肥大化させた。児童養護施設『ひまわり』や更生支援組織『堅生会』などの運営を支援する等、東城会直系二次団体では随一の穏健派である。 その後、風間が死去し、柏木が二代目に就任したが、『3』で柏木も先代の後を追うように死亡する。柏木の死後は真島が組長の代行を務めた後、真島組に吸収された。
(かざま しんたろう)[注 5]
声 - 渡哲也
身長177cm、体重70kg[4]
東城会直系堂島組若頭で、堂島組内風間組組長であり、かつては天才的な銃の腕を持つ凄腕の元ヒットマンでもあった。60歳。二挺拳銃と軽い身のこなしでターゲットを次々と亡き者とし、「東城会の殺し屋」と呼ばれていた一方で、義理人情に溢れており、好意で「柄本医院」に経費及び生活費を援助したり、スターダストからみかじめを取ろうとしなかったり、孤児の養護施設である「ヒマワリ」を私財で創設して幼少時代から桐生を世話し続けていたが、特に桐生に対する愛情と信頼は絶大なもので、真拳派壊滅時には犠牲を厭わずに桐生の窮地を救ったこともある。また、18年前(1993年)には蛇華に捕らわれて監禁されていた桐生を助けるために足を負傷して以来は歩く際には杖を使用している。世良から「極道の未来を託せる男を選んで欲しい」と名前が空白のままの遺言状を託され、極道として東城会の未来を桐生に託すために遺言状に名を綴る。桐生の出所後は世良の葬儀に桐生を呼び出し、由美について話そうとするが、錦山の陰謀により狙撃されて重傷を負い、シンジの手引きでアケミの元に身を寄せることになる。その後、寺田に芝浦に連れられ、そこで桐生に美月と由美についてや100億円事件の真相を伝えるが、その直後に襲撃してきた嶋野が投げた手榴弾から自身の身を顧みずに遥を庇って致命傷を負い、死ぬ間際に桐生に世良の遺言状を渡した上で「桐生の親を殺したのは自分であり、ヒマワリは自分が殺した人間の子供を養うために作ったものだったこと」を告白し、最後は許しを乞いながら桐生の腕の中で息を引き取った。
『2』では26年前に東城会の勢力拡大と海外勢力一掃のために兄貴分である堂島宗兵に真拳派を始末するように命じられたが、その命令を無視して真拳派の若い構成員二人(後の寺田と倉橋)を逃がす。また、同様に真拳派のボスにも和解を持ちかけたが、自身の危機を察して単身忍び込んでいた桐生に銃を向けられたことでボスを殺害し、結果的には真拳派を壊滅させることとなる。
『0』では43歳。この当時から実力は折り紙付きで、立華には東城会の跡目すら狙える器と評価されており、また会長代行の二井原にも昔に戻って若い頃の風間本人を10億円で買えるならば迷わず支払うと言われる程に名が知られている。神室町再開発計画が成功し力を持った堂島宗兵が分不相応である東城会の跡目になってしまうことを恐れ、妹のマコトを守ろうと動いていた立華鉄と協力し彼に「カラの一坪」を手に入れさせるために暗躍する。その後、風間組で開帳した賭場が警察に摘発されたことで刑務所に収監されるが、自身の後釜を巡る問題が起きる事など堂島組の動きを予想し、マコトの安全のために日侠連の世良を動かしたり、更には立華に協力者として桐生を推薦した上で手を組んで問題を解決させるように全てを託す[注 10]。その後は「カラの一坪」に関する情報を握っているために久瀬から狙われ、また「カラの一坪」での事件がきっかけで立場が危うい状態になっていたが、後に桐生や世良によって全ての問題が解決したことで事なきを得る。事件後は刑務所を訪れた桐生と面会し、彼から堂島組に復帰したことを聞かされる。
(かしわぎ おさむ)
声 - 咲野俊介
風間組若頭。東城会を影から支えており、多くの者から慕われている。また、好物は冷麺で、焼肉屋で冷麺が食べられないと鬼の如く怒るという一面もあるらしく、桐生に度々冷麺の材料を買いに行かせていたこともあり、桐生が怯むほど激怒したのは冷麺が食べられなかった時だけだったと後に桐生の口から語られている。桐生の出所後は東城会の100億円事件のいざこざに巻き込まれるが、終盤で桐生と風間が嶋野と対峙した際はパネルバントラックで援軍を率いて駆け付けた。風間の死後は嶋野組への返しに逸る組員達を統制する。
『2』では東城会若頭代行で、直系二代目風間組組長となっている。桐生が大阪にいる間に真拳派が仕掛けた爆弾で風間組の事務所が爆発し、怪我を負ってしまう。その後は桐生達に20年以上前に当時堂島組だった風間と嶋野が真拳派を壊滅させたことを話し、後に郷龍会の神室町襲撃の際は東城会の組員を集めて桐生や大吾に協力をした。
『3』では風間組の活動の裏で「堅生会」という組織を作って元極道達を堅気にして社会復帰させる活動を行っており、また堅気の世界では生きられないであろう荒瀬のことを心配して自身の足で彼を探していたことが明かされている。東城会若頭に昇格し、後に大吾が銃撃されて現場を離れた後は彼に代わって東城会を仕切るが、幹部達の動向に頭を悩ませ、幹部会では桐生を会長代理として呼び戻す案を出した。その後、神室町に戻ってきた桐生に風間似の男のことを聞かされた直後にCIAのヘリに襲撃されて掃射を受けてしまい、最後は風間似の男と繋がっている人物を捜せと桐生に言い遺し、死亡した。
『4』では谷村の警察無線のイベントにて生前に瀕死の赤石を助け、その事が後に赤石が神室の盾を作るきっかけとなっていたことが判明する。
『0』では風間組の若頭として登場し、深い剃り込みの入ったオールバックに剃り落とした眉という威圧的な容貌をしており、真島から「化けモン」と評される程の喧嘩の実力を持つ。戦闘では空手を使い、その気になれば真島を一撃で吹き飛ばす程の威力を誇る。堂島組本部に呼び出された桐生の身を案じており、彼が戻ってきた後はその場で「カラの一坪」に関する話をし、組に破門を願い出ようとする桐生を怒りのあまり殴りつけるが、止めることは出来なかった。その後、真島がマコトを探して風間組の事務所に単身乗り込んできた際に勝負を仕掛けるも敗れる。その後は芝浦にいる桐生と錦山の元にダンプカーで援軍を率いて駆け付け、渋澤組を相手に交戦する。
また、桐生が事務所に顔を出すと冷麺を口いっぱいに含んで声を掛ける、錦山の口から「桐生が生きて戻ってきたと知るや安心したのか冷麺を凄い勢いで食べ始めた」と語られるなど、『3』では選択肢によっては知ることができる裏設定であった「冷麺好き」という設定が強調されている。
『極』では桐生が刑務所に収監された後は風間の指示に従って「親殺しの為に引き取り手の無い桐生が娑婆に戻ってきた際、その受け皿となり、面倒を見てやれるのはお前しかいない」といった期待の言葉を錦山に伝えた上で彼の独立や組の立ち上げなどの面倒を見ていたが、後に風間組のシノギに手を出した松重の暴走を止められなかった錦山に激昂して鉄拳を振るい、ただ詫びる事しか出来ない彼の姿を前に桐生と比較した不満を漏らし、錦山の凶変の一因を担ってしまう。
『極2』では植松殺しの濡れ衣を着せられて犯人探しをする真島にサイの花屋の情報と居場所を提供した。
『ONLINE』でも過去のエピソードで登場する。
久瀬拳王会
『0』に登場した組。武闘派で知られる堂島組の中でも特に「暴力」に秀でており、堂島組の実力行使を担う中核として会長を筆頭に武闘派が揃う。久瀬の逮捕後、堂島組に吸収される。
(くぜ だいさく)
声 - 小沢仁志
東城会直系堂島組若頭補佐で、堂島組内久瀬拳王会会長。刺青は背中に閻魔大王、上腕部に牛頭馬頭、胸に野晒し[1]。元プロボクサーという経歴を持ち「自分より強い人間を殴りたいから極道になった」と嘯く反骨心や闘争心の塊のような男だが、野心家や計算高い人間が多い東城会においては珍しく損得勘定や面目、功名心に拘らず、一人の極道としての意地を優先して行動する崇高な一面も見せる。また、立華を拷問にかけた際にただ痛めつけるだけの米田に対して拷問が通用しない事を見抜き、他の手を講じようとするなど暴力一辺倒ではない面も覗かせる。戦闘では前歴通りボクシングを主体に、頭突き・蹴り・肘打ちを織り交ぜた喧嘩殺法を用い、状況によっては鉄パイプやメリケンサックといった武器も使用する。「カラの一坪」で発見された死体の件で桐生を堂島組本部に呼び出し、彼に指詰めをした上で警察に自首するように告げるが、桐生が東興クレジットを襲撃した際にはその場に駆け付け、彼に対して風間をスパイする(風間を裏切って自身に就く)ように言ったところで拒否される。その後、桐生が組抜けを申し出たことに対して指詰めすらせずに勝手な行動に走り続ける彼に腹を立てて組員を嗾け、後に全員を倒して自身の元へやって来た桐生と戦うも敗北し、直後にその場にやって来た堂島に対して醜態を晒したことや組抜けをしてカタギとなった桐生に手を出したことを咎められ、阿波野や渋澤に促される形で自らが桐生の前で指詰めをするという二重の屈辱を受ける事となる。この失態によって堂島組における次期若頭候補の座から転落し、その後は兄弟分である阿波野らから実質、一兵隊同然に扱われ、更には末端の組員である米田にさえ見下されるようになってしまう。それでも尚も「極道になり切れてない半端者」である桐生への復讐心と極道としてのプライドだけを拠り所として幾度となく彼に襲い掛かる[注 11]が、一方では「半端者」としての意地を貫こうとする桐生の胸中に潜んだ「真の極道」としての素質を見出し、憎みながらも次第に桐生に対して一目置くようになる[注 12]。その後、風間組事務所前での桐生との最後の死闘に敗れた後は桐生に覚悟があるかを確認した上で彼を極道として認め、同時に桐生と同じく本物の極道として目覚めようとしている渋澤の情報を提供し、地蔵菩薩が如く桐生の魂を導いた。事件後は渋澤と共に警察に逮捕される。
泰平一家
『0』に登場した組。情報収集能力に長けた堂島組の渉外を担当しており、優れた情報収集能力によって東城会や神室町界隈の動向を事細かく探り、集めた情報を駆使して堂島組の「脅し」を担う。阿波野の死亡後、堂島組に吸収される。
(あわの ひろき)
声 - 竹内力
東城会直系堂島組若頭補佐で、堂島組内泰平一家組長[注 13]。背中の刺青は赤鬼を懲らしめる桃太郎[1]。折柄の入った紫のダブルブレストジャケット[注 14]を着用をしており、相手を威圧するような物言いや迫力を醸し出している。また、ヤクザという生き方を「職業」と例えており、広く確かな情報収集能力で若頭に就任しようと考えている。時代に逆らわずその波に身を任せて生きる享楽的な性格である一方、兄貴分である久瀬に表向き恭順の姿勢を見せていながら裏では彼を出し抜く策を巡らせているなど見かけによらず狡猾な一面も持つ。戦闘では渡瀬に似た格闘スタイルで戦い、大振りながらも強力なパンチを主武器とし、全力の一撃ならば石壁に巨大なひび割れを起こす程の威力を持つ。「カラの一坪」で起きた事件以降は桐生を付け狙い、その度に外堀から埋めてかかるような狡猾でしたたかなやり口で何度も脅しをかける。神室町のディスコで対面した時は踊り子の女と共にダンスを踊りながら桐生を待ち、久瀬を蹴落とすきっかけとなった桐生に誘いをかけながら立華を渡すように迫るも拒否され、その後無関係の踊り子を銃で撃ち殺して脅しをかけるも通用せずに終わる。その後、堂島組本部に乗り込んできた真島と対面した際は「元々は人を殴ることが好きだから極道になった」という根っからの武闘派であることやバブルという時代に流されて本来の武闘派極道の生き方を捨てて金を稼ぐ極道の生き方を選んだことを明かし、そのまま真島と戦うも敗北する。敗北後は前述の後悔とも取れる感情を吐露して彼に諭されたが、直後に突如として現れた老鬼に銃撃された真島を庇って銃弾を浴び、最後はそのまま殴りかかろうとしたところを鉄針で刺されて死亡する。
岡部(おかべ)
泰平一家構成員で、民間オーナーが所有するビルの転売を防ぐ占有屋の元締め。戦闘では八幡に似た格闘スタイルで戦う。立華不動産に与する桐生に仕事を邪魔された挙句にケジメとして阿波野の命で指詰めをさせられる。その後、尾田を叩きのめし、セレナにいた桐生の元を訪れて部下と共に桐生に襲い掛かるも敗北した。
渋澤組
『0』に登場した組。堂島組の「事務」担当として、本家や久瀬拳王会、泰平一家の後方支援などを担っており、インテリヤクザ達が集まっている。渋澤の逮捕後、堂島組に吸収される。
(しぶさわ けいじ)
声 - 中野英雄
東城会直系堂島組若頭補佐で、堂島組内渋澤組組長。背中の刺青は青龍[1]。モヒカンに髭やサングラスと威圧的な風貌。普段は組の立ち位置から兄弟分の久瀬や阿波野の影に隠れがちであるが、内側には久瀬にも劣らぬ凶暴さや、阿波野にも劣らぬ野心を秘めており、目的を達成するためならば誰であろうが躊躇することなく手に掛ける。また、幼少期に政治家としての将来を嘱望されていた代議士秘書の父が手柄のほとんどを代議士に奪われ、汚職の罪を擦り付けられて自殺に追い込まれた経験から金では買えない「華」や「看板」に強い拘りを持っている。戦闘では桐生と性質の似たスタイルを段階的に用いる(スピード→パワー→ベースの順)。「カラの一坪」で起きた事件で桐生を付け狙い、裏で尾田と繋がって立華の情報を探り、また西谷を雇ってマキムラマコトを探すなどして暗躍するが、いずれも失敗に終わったことで尾田や西谷の始末に動く。その後、堂島から若頭に任命された後は風間という絶対的な存在を超えるために風間派の皆殺しを画策し、堂島には秘密裏に老鬼を使ってマコトを瀕死の状態で敢えて生かすことで彼女を守ろうと動いた組織(日侠連)を炙り出して日侠連のアジトである芝浦の船を組総動員で強襲する。その後は「堂島の龍」の名を賭けて桐生と激突するも死闘の末に敗北し、久瀬の「張り続けている限りは負けていない」という考えから「風間もお前も女(マコト)も殺してやる、立華のようにな」と発言したため、勝敗が決した後も怒る桐生に殺意の込められた攻撃を喰らい続け、自身も殺されることを覚悟していたが、錦山が桐生を制したことで命だけは助けられた。最終的には久瀬と共に警察に逮捕される。
錦山組
『1』から登場した組。風間の許可を得て錦山が立ち上げ、彼の野心を糧に振るった辣腕で人員や実績を集めてわずか数年で直系に昇格した。しかし、半ば強引に勢力を拡大させたが故に、構成員は野心や欲望を隠さず、好戦的だったりと極道の基準で見ても無法者が多い。後に100億円を巡る抗争により組長の錦山が死亡する。『2』では若頭である新藤が二代目に就任し、前作の事件で組長不在となった嶋野組の構成員を吸収した事で東城会の中で最大組織となったが、後に東城会を裏切ってクーデターを起こした末に新藤が死亡した。『3』では三代目として神田が仕切っており、弱体化した神室町を中心に徹底した暴力路線でシマを拡大していたが、桐生との戦いで組の上層部が壊滅した後は神田も峯によって殺害された。『4』では葛城の発言により解体したことが判明する。
(にしきやま あきら)[注 5]
声 - 中谷一博
身長180cm、体重79kg、1968年10月8日生まれ、AB型[4]
東城会直系堂島組の元若衆で、東城会直系錦山組組長。37歳。髪型は『1』の序盤及び『0』では長髪のワンレングス、凶変後はオールバックで、服装は『1』では白のスーツに黒のカッターシャツ、ワニ柄の靴といった装いで、『0』ではワインレッドのスーツに黒地に金の模様が入った柄シャツを着用している。背中の刺青は緋鯉[注 15][1]。桐生からは「錦」、由美と麗奈からは「錦山君」、シンジからは「錦の叔父貴」と呼ばれている。交友関係が広く処世術に長け、組で出世することを狙って積極的に動いてはいたものの周囲からは常に桐生と比較されており、自身は桐生ほどの器がなくさしたる経歴もないため組に媚を売る事しか出来ない男として見下されていたためにコンプレックスを感じていた。戦闘では『1』では力を溜めての打撃を主体とした戦法の他、桐生ですら持ち上げることのできない調度品を強引に振り回し、『極』では『0』をベースにした格闘スタイルに空手を織り交ぜて戦う。煙草は『0』ではキャビン、『極』ではハイライトを愛飲している。優子という病気がちの妹がいる。
『1』では37歳。10年前に大切に思っていた由美が堂島組長に拉致された際に組に乗り込み衝動的に組長を銃殺してしまい、「親殺し」の罪を桐生が被ったことで一時は難を逃れる。独立後は神宮が流した盗まれた100億の情報と東城会の跡目を記した遺言状の存在を知り、更には風間の襲撃など、どんな犠牲を払ってでも東城会の頂点に立とうと画策するが、最終的には桐生との最終決戦で死闘を繰り広げた末に敗北し、最後はケジメを付けるために神宮をナイフで刺し貫きながら100億に向かって突進した後に爆弾に発砲して神宮と彼の100億円を道連れにして桐生の目の前で爆死する。
『0』では20歳。堂島組若衆として登場し、上昇志向のない桐生とは対照的に組内で目を掛けられるために器用に立ち回っている。戦闘では桐生のチンピラスタイルさながらの荒々しい攻撃の他に挑発からのカウンターやタックルからの双手刈などの特殊な攻撃も行う。桐生が堂島組と敵対した後も窮地の桐生を助けるために奔走し、後に立華を渡そうとしない桐生に堂島組の三幹部が桐生の命を狙った際は阿波野の脅しを振り切った桐生を車に乗せて郊外に向かい、そこで堂島組の裏切り者に対するやり方を知っているためにせめて自分の手で桐生を殺そうとするが、結局は出来ずに桐生から兄弟の縁を切られる。その後、堂島組構成員から桐生を殺すように強要された際は風間や桐生を裏切ることが出来ないという気持ちから堂島組と敵対することを決意し、桐生と行動を共にするが、マコトを探しに神室町にやってきた真島と一戦を交えた後はマコトが居なくなったことを伝える。その後は最終決戦で桐生と共闘するが、後に渋澤組構成員を足止めするためにその場に残り、桐生に渋澤を止めるように全てを託した。桐生と渋澤の決着後は尚も渋澤を殺意を持って殴ろうとする桐生を力ずくで制止し、彼を涙ながらに説得する。事件後は桐生が堂島組に復帰したことを知って最初は驚愕し、先の騒動で敵意を買っているはずの堂島組に敢えて戻ろうとするかの疑問を投げかけるが、桐生からその理由と覚悟を聞いたことで安堵する。
『極』では彼の10年間の空白を描かれている。桐生が逮捕された後、彼に対し罪悪感を抱えつつも出所後の身柄を引き受ける受け皿として錦山組を立ち上げる事になるが、風間の指示で出向してきた松重をはじめとする部下達からは舐められ、組を統制する事ができずに苦心し、更には松重のシノギの一件で柏木からも桐生と比較され、妹の優子の主治医である日吉の裏切りと優子の病死、由美の失踪と追い打ちをかけるように不幸が重なっていく中、次第に桐生に対する劣等感や無力感が生まれ、嶋野から唆されたことから風間への猜疑心さえも抱くようになるなど、負の感情に押し潰されていく。遂には松重から愚弄されたことで激怒し彼を殺害したことをきっかけに、自身も含め誰も信じられなくなるなど重度の人間不信に陥ってしまう。しかしそれと同時に東城会の頂点に立つ野望が心の支えとなり、そのためなら手段を選ばずに何人だろうと誰であろうと殺すことを厭わない程の冷酷な性格へと変貌してしまう。
『ONLINE』では、桐生のために自分の犠牲を惜しまないなど、熱き人間生が見られた。
(たなか シンジ)
声 - 山口孝史(『1』)、杉田智和(『極』)
桐生の元舎弟。33歳。若衆として堂島組にいたが、桐生が10年前に錦山が犯した親殺しの罪を被って刑務所に入ったことをきっかけに錦山を心配した風間の命を受けて錦山組に入り、スパイとして錦山組の内情を探る。桐生の出所後は舎弟頭にまで出世しており、組に縁を切られて堅気になって出所した桐生に舎弟の時と同等の信頼を寄せて色々と手助けをしたが、後に錦山組を裏切る行動を取ったがために組に追われることになる。その後、麗奈と共にビルの屋上に逃げ込むも麗奈は殺害され、自身も胸を撃たれて重傷を負ってしまい、最期は錦山から取り返した由美の指輪を桐生に渡すと共に風間の居場所を知っている自身の恋人であるアケミのことを桐生に教えて息を引き取った。
『0』では桐生のサブストーリーに登場し、当時16歳で高校には行かずに暴走族に所属していた。戦闘では鉄パイプを使用する。ヤクザによる借金の取り立てで家庭崩壊に追い込まれた憎しみから「ヤクザ狩り」と称した闇討ちによる強盗を働いていたが、後に桐生を相手にヤクザ狩りを仕掛けて返り討ちに遭う。その後、暴走族の仲間から裏切られたことでヤクザに監禁されるが、駆け付けた桐生に救出されたことで桐生の背中を追いかけることを密かに誓う。
『ONLINE』では、アケミとの出会いが語られている。
(しんどう こうじ)
声 - 瀬戸川太一(『極』)、影山貴広(『極2』)
錦山組若頭。戦闘では日本刀を使用する。錦山の指示で舎弟達と共にセレナに駆け付けて桐生に襲い掛かるも敗北した。
『2』では錦山の後を継いで二代目錦山組組長となっている。戦闘では居合刀を使い、中庭では桐生と剣劇も繰り広げる。錦山を死に追いやったという理由で桐生への協力を拒否し、裏で千石組と繋がるようになる。その後、錦山組を率いて東城会本部でクーデターを起こして東城会を乗っ取ることで以前から惚れていた弥生を我が物にしようと目論むが、神室町に侵攻してきた千石組は真島に全滅させられ、自身は桐生に敗北し、直後に弥生から絶縁を言い渡されたために悪あがきと言わんばかりに倒れている状態から落ちていた拳銃を取ろうとしたところを、組織を欲で荒らされたことに怒った大吾に射殺された。
(あらせ かずと)
声 - 高橋英則(『ONLINE』)
錦山組若中で、幹部の一人。戦闘では二丁拳銃である「ARASE.SP」(特殊な改造が施されている)を武器に乱射や回避しながらの射撃などの様々な銃撃を繰り出し、またバック転やスウェイを多用し、攻撃を悉くかわす。錦山を殺そうとした麗奈を射殺し、シンジを追ってきた桐生と廃ビルの屋上で戦うも敗北する。
『3』では復讐者という組織の首領として登場する。戦闘では「ARASE.SP-R」に改良された二丁拳銃を武器に、リチャードソンに似たスタイルで戦う(『極』でもこのスタイルで戦う)。桐生に敗れた後に組から馬鹿にされ、挙句の果てに絶縁されたために桐生を恨んでその命を狙い、今度はミレニアムタワー屋上で桐生と対決するも敗北した。その後、現れた伊吹により堅気では生きていけない自分のことを柏木が探し回っていたことを伝えられ、そのカリスマ性から伊吹に堅生会に来るように誘われるも断る。しかし、柏木や堅生会の信念を理解し、今後は堅生会への襲撃を行わないことを約束するも桐生への憎しみが解けたわけではなく、「いずれ決着を付ける」と言い残し、部下の新崎と共に去って行った。
『ONLINE』では、堅生会に所属していることが判明する。
(かんだ つよし)
声 - 宮迫博之
身長180cm、体重125kg、B型
『3』に登場した東城会若頭補佐である直系三代目錦山組組長で、錦山興業の社長。49歳。スキンヘッドで、上半身裸の上から背広を着用し、刺青はおかめや楓、天女(背中)が描かれている[1]。伊達曰く「喧嘩と女が大好きな典型的なイケイケ」で、部下や同じ幹部の浜崎や自身がスカウトした峯を怒鳴りつけるなど非常に短気で横暴な性格をしている。また、女性に強引にマッサージをして痛みや嫌悪にのたうつ姿を見るのを好むという趣味を持つ[注 16]。先々代(錦山)の頃から錦山組に属していたものの、その当時は鉄砲玉にもならない程だと言われていたが、知人の峯を東城会に招き利益を上げた功績によって現在の地位を得た。また、近江連合との抗争終結直後まで強姦罪で刑務所にいたことから桐生とは面識がないが(実際に桐生の顔すらも知らなかった)、先々代や先代(新藤)と組のメンツを桐生により潰されたと思い込んでいるために桐生を東城会の敵と認識しており、非常に憎んでいる。戦闘ではプロレスのような打撃技で戦う他、ホテルの備品を持って力任せに振り回したり、追い詰められるとホテルの壁に埋め込まれている石板を取り外して殴りつけるなど怪力を生かした戦法を取る。緊急幹部会で桐生の首を取ってトップに立つことを宣言し、若頭の長谷部にスターダストを潰すように命令した。その後はホテルで女を待っていたところを桐生と力也に乗り込まれ、ホテルの最上級室で桐生と戦うも敗北する。その後、再び桐生と勝負するために協力関係にある白峯会本部に乗り込み、負けた鬱憤を晴らすかのように総額10億は下らないコレクションを破壊した挙句に峯に白峯会の構成員と金を要求するが、幾度もの一方的な金銭の要求によって峯からは既に愛想を尽かされており、にべもなく断られたことで激昂して殴りかかろうとしたところを返り討ちに遭い、動けなくなる程に殴られた末に峯の部下によって殺害される。彼の死体のうちの頭部はアタッシュケースに納められ、峯のケジメとして桐生達への見せしめにされた。
長谷部(はせべ)
声 - 中井和哉
『3』に登場した三代目錦山組若頭で、コーンロウが特徴である強固な武闘派の男性。三代目錦山組では最も危険な存在で、その危険性は神田からも一目置かれている。また、若頭という肩書きであるために一応は事を荒らさずに解決しようとするが、本当は根っからの暴力主義で、すぐに力でどうにかするという傾向がある。戦闘では重い打撃やタックルを使い、体力が一定まで減ると隠し持っていた日本刀を持ち出してくる。風間組との抗争のためにスターダストの営業権を一輝から脅し取ろうとしたが、駆けつけた桐生との対決に敗れ、直後に柏木の身が危機に陥っていることを告げる。
松重(まつしげ)
声 - 池田ヒトシ
『極』に登場した錦山組構成員。元々は風間組の腕利きの極道として活動しており、それ故にシノギを行うことに対してはベテランとしてそれなりに自信を持っているが、世話になった風間組の店からみかじめを取るなど仁義に欠けた行動も目立つ。また、桐生の極道としての器は認めているものの、錦山の事は上に媚を売ることしか出来ない事や極道の経験の浅さ、桐生程の器も無いことから徹底的に見下している。錦山組へは組長の錦山にシノギの勉強をさせるため風間の命令で移籍してくるが、極道としてのキャリアが浅い錦山に指図されることに不満を持ち、自分のやり方でシノギを行う等あからさまに不服従の姿勢を示す。その後は錦山の妹を救うため臓器ブローカーへの仲介料3000万円を工面するよう錦山に懇願されるも、実際にシノギとして取り立てた。その後、ブローカーと繋がっていた日吉が逃亡し、妹が亡くなって絶望の淵に追い込まれた錦山に根性の無さを指摘し、改めて桐生との器の差を比較し嘲弄したが、その事が錦山の逆鱗に触れることになり、冷徹で非情となった彼に腹部を刺され、「堂島組長を殺ったのは俺だ」と告げられながら引き裂かれ、息絶えた。
嶋野組
『1』に登場した武闘派の組。近江連合との繋がりが多く、組長の嶋野を筆頭に関西弁を話す組員が多い。堂島組出身で26年前の真拳派潰しの功績から直系に昇格したが、後に嶋野の死で組長不在となったために構成員は錦山組に吸収された。
(しまの ふとし)
声 - 楠見尚己
身長195cm、体重149kg
東城会直系嶋野組組長。巨漢で、頭を綺麗に剃り、桜と虎の刺青を背負う[1]。豪快にして残忍な性格である一方、相手の心理を読んで傍目には無意味に思える一手を打った策略を巡らせる狡猾な面を持つ。また、みかじめ料の徴収に失敗した部下の指をケジメとして剃刀で切り落とすなど部下への制裁は容赦無く行い、強固な武闘派らしく力で組を纏め上げているが、東城会の跡目争いでは蛇華の総統であるラウ・カーロンとも繋がっていながらも100億が手に入った場合は自身が50でラウに30、寺田に20を授けるつもりと語っていたためにラウからはケチな男だと批判されていた。戦闘では『1』では巨体を生かした上での力任せの攻撃、最終決戦では刀を用いた大振りの攻撃の他、走行車に投げ飛ばすといった技も使用し、『極』ではカツアゲ君に似た格闘スタイルと冴島に似た剣術で戦う。桐生の出所後は世良の葬儀会場に出席し、たまたま風間が負傷した時に鉢合い、風間を撃ったのを桐生と思い込んで彼を殺そうと襲い掛かるも敗北した。その後は遥を誘拐するために芝浦に組員を連れて船を襲撃し、そこで桐生達と逢い、風間組の組員とその場で戦うも激闘の末に再び敗北し、それでも最後の足掻きとして近くに落ちていた手榴弾を遥と風間に投げたところで寺田に射殺される。
『2』や『4』では回想にのみ登場し、『2』では26年前に前述の通りに真拳派潰しを堂島宗兵に指示されて風間と共に真拳派を壊滅させ、『4』では25年前の冴島の回想で環境問題に注目していた事が語られる。
『0』では東城会の跡目を狙って様々な策を巡らせており、野心家かつ非常に頭が切れる一面を覗かせていた。組の意向に反発した真島を代紋違いの兄弟分である佐川に預けた上で監禁生活を強いた一方で、近江連合と共に神室町を支配して近江連合をバックに東城会会長の座に就こうとしていたが、後にその過程でマキムラマコトの殺害を佐川と真島に依頼する。その後、神室町にやって来た真島と佐川に対してマコトと真島を恋愛関係に発展させるよう促してカラの一坪をマコトから売らせようとしたことやマコトを泳がせて風間組と繋がっているメンツを炙り出そうとしたこと、当時から風間新太郎を会長の座を巡っての敵と認識していたことを伺わせたが、後に世良がカラの一坪を手に入れたことで世良から近江連合と繋がっている裏切り者を探すという体で真島経由で身の潔白の証明を要求されたために会席の場で近江連合の本部長を殺害する。事件後は真島の成長を認めた上で組に復帰させる。
『極』では桐生が刑務所に収監された後に錦山に接触し、彼に対して桐生の話題を出した上で堅気になるよう唆す。
『ONLINE』でも過去のストーリーで登場。1990年に嶋野組若頭補佐の伊藤が殺されたことから当時シマ争いで揉めていた吉田組に組員を引き連れて乗り込み、打ち倒す。その後伊藤を殺したのは組員の佐々岡ということが判明し、穴蔵へと送った。
浅野(あさの)
サブストーリーに登場した嶋野組構成員で、ヤクザ狩り組織「ギャング・バスターズ」の元締め。戦闘では『1』ではボクシング、『極』ではムエタイで戦う。ギャングバスターズを操って同業者を潰していたが、チームリーダーが桐生に倒された後で自らも叩きのめされた。その後、嶋野組を動きやすくするためと、金に困っておりヤクザから奪った金なら悪い気はしないからという理由から同業者を襲わせていたことを白状し、桐生から「東城会の恥さらし」と呆れられ、口止めを含めた慰謝料を桐生に手渡した。
真島組
『1』から登場した真島吾朗が仕切る、嶋野組内の組織。『2』では東城会の五代目会長となった寺田への反発から東城会を脱退し組織を「真島建設」という建設会社へと変えるが、『3』で桐生の頼みにより東城会直系真島組として復帰し、神室町ヒルズの建設を一時中断している神室西公園跡地に事務所を構える。その後、『4』からはミレニアムタワーに事務所を移す。
西田(にしだ)
声 - 岡井カツノリ(『極2』)
『2』から登場したヘルメットと紫のYシャツが特徴である真島組構成員。組長を筆頭にアクの強い真島組の中では真面目な常識人である。真島と共に爆弾解除を行っており、勘で解除していた真島にドン引きしていたが、結局は解除に成功する。
『3』では沖縄に発つ桐生が真島に別れを告げようとした時に登場し、念のためとして桐生に「スタミナンX」を2本手渡した。2年後は賽の河原で桐生と再会し、闘技場が復活したことを報告した。
『5』にも登場し、刑務所に向かう前の冴島に真島のことを頼まれる。
『極』では桐生に電話やメールで真島の情報を提供する。
『極2』では真島建設が起業された際に真島や職場への不安から苦言をもらしていた。
『ONLINE』では引き続き真島の右腕として登場。神室町浄化作戦の後、姿を隠した真島に代わって、彼が愛好していた吉田バッティングセンターを近江連合による地上げから守るべく奮闘する。
南 大作(みなみ だいさく)
声 - 石川英郎
『4』に登場した顔のピアスとモヒカン頭が特徴である真島組若衆。刺青も背中に蛇と炎がまとわり付いた髑髏、腕は牡丹の上に黒豹(右肩)とナイフの刺さった髑髏(左肩)と女性の顔(左前腕)、胸と腹の部分に梵字[1]と和彫りの刺青と洋彫りのタトゥーが両方彫られており、組長に負けず劣らず派手である。また、音痴ながらもカラオケが三度の飯より大好きで、十八番は「GET TO THE TOP」である。戦闘では酔拳や目潰し、更には火吹きなどの酒を武器として戦う。真島から秋山の店で働いていたリリ(冴島靖子)を連れてこいと命令を受けて店で暴れており、そこでオーナーである秋山と戦うも敗北する。その後、真島と会おうとする冴島の前にも姿を現し、その実力が本物かどうかを確かめるように命令されて彼と戦うも敗北する。
『ONLINE』では組長である真島に憧れて入った経緯があり、一番から「エセ関西弁」と揶揄されるなど生粋の関西人ではないことが判明する。
(かわむら りょうた)
声 - 武田直人
『極2』に登場した真島組若衆。少し抜けている一面もあるが、人懐こい性格から兄貴分達からも可愛がられており、車の運転や身の回りの世話など真島と常に行動を共にしている。また、真島に憧れており、そういった経緯から真島組に入っている。戦闘では拳銃を使い、多少のダメージ程度なら怯まず発砲する。多額の借金を抱えており、雀荘等で賭博をしながら返済を続けていたが、東城会若頭の座を狙う飯渕に付け込まれ、彼に借金をチャラにしてもらう代わりに植松と近江連合の一組長を殺害する。その後、飯渕に植松殺害の疑いを掛けられた真島と対峙することとなり、敗北後は真島に謝罪したが、植松らを殺害して用済みとなったために真島の目の前で飯渕に射殺された。
白峯会
『3』に登場した組。拠点は港区のマンションで、その付近を中心に株取引(インサイダーなどの非合法も含む)と不動産業で東城会の懐を支えていた。『4』では葛城の発言により解体したことが判明するが、その喪失は東城会にとっても相当の痛手となった模様。
(みね よしたか)
声 - 中村獅童
身長185cm、体重80kg、A型
東城会若頭補佐で、直系白峯会会長。33歳。背中の刺青は麒麟[1]。頭脳明晰かつ普段は冷静沈着な物腰を崩さず、平時は表立って事を荒立てるような事はしない穏健派だが、一度激昂すると、部下や子供を相手にも一切容赦しない程の凶暴性を露わにする。神田からは成り上がりのインテリヤクザとして見られ、「西洋かぶれ」などと舐められているが、自宅に備えたトレーニングルームで日々鍛錬を重ねるなど格闘技の実力にも長けており、本人もそれを自負している。戦闘では総合格闘技を下地とした強力かつ多彩な技を使用する他、連続攻撃と攻撃避けを得意とする橙ヒート、ガード不能攻撃とヒートアクションを繰り出す赤ヒート、固いガードと体力回復能力を持つ青ヒートといった3種類のヒート状態を使い分ける。幼少時代は成績が優秀だったが、貧しい孤児であったために他の子供達から村八分同然の扱いを受け続け、唯一の身内である「おじさん」の死をきっかけに成り上って富を得ることを決意し、ベンチャー関係の会社員となる。その後、金を得るためだけに働いた末に膨大な富を手に入れたが、周りは金のことしか考えない人間しかおらず、人間不信になる。その後は人との絆に疑問を感じて絶対的な絆が存在する世界であるとされる極道に興味を抱き、出所直後の神田強に話を持ちかけて金を積み、神田からの紹介で東城会に足を踏み入れる。その後、会長の大吾と出会い、初めて一人の男として認めてくれた大吾に惚れ込んで彼に尽くした末に東城会の若頭補佐に任命されるまでになるが、大吾が殺されたと思い込んだことや自身と同じ境遇でありながら正反対の生き方をしている桐生に嫉妬して暴走し、ブラックマンデーに協力して東城会のトップに立つことを画策する。既に神田には愛想を尽かしており、桐生に負けた腹いせに自身のコレクションを破壊、なおも金と構成員を要求する神田を完膚無きまでに殴り飛ばし、部下に命じて殺害させその生首をアタッシュケースに納めた。後に東都大学病院の屋上での桐生との最後の死闘に敗北後は桐生と共にリチャードソンに殺されそうになったところを意識を取り戻した大吾に救われ、極道として最期のケジメを付けるために桐生と大吾の制止を振り切ってリチャードソンと共に身を投げ死亡した[注 17]。
片瀬(かたせ)
声 - 鈴木真仁
峯の女性秘書。峯の率直な判断を受け入れ、それを実行するなどの峯を中心に考えており、峯からも厚く信頼されていた。最終決戦で敗北した峯に対して仕事(数千億規模の案件)における決定を求めての不安からの連絡をするが、峯本人の身を案じての連絡では無かったという事実を突き付けられた峯からは落胆されて電話を切られる。
玉城組
『3』に登場した東城会系の五次団体で、峯とのやり取りから白峯会系列の組である事が伺える。琉道一家の他に琉球街にあるもう一つの極道組織でもあり、琉球街北のビルに事務所を構えている。組長を筆頭に組織の利益の為ならば卑劣な行為を平然と行う東城会系列の中でも随一の卑劣漢の集まりで、地元住民から相当に嫌われている。 組長の玉城が死亡した後は組も解体され、『4』では空きビルとなった事務所を桐生や浜崎、靖子の三人が話し合う時に使用した。
(たましろ てつお)
声 - 石塚運昇
身長182cm、体重74kg、A型
東城会系玉城組組長。54歳。冷血無慈悲や狡猾という言葉をそのまま体現したかのような卑劣漢で利用できるものはとことん利用する性質、派手好き且つ女好きであるが、用済みとなった咲の実母に暴力を振るいなおかつナイフで切りつけるという凶行を行うなど桐生を以ってして「外道」と評された。戦闘では回避技やフェイントを加えた体術を使用する他、初戦はナイフ(投擲含む)やメリケンサックといった近接武器を用いて戦い、二戦目は拳銃による銃撃の他、上空に発砲して部下を乱入させるといったそれぞれ自らの性質を体現した様な戦法を取る。琉道一家を潰すために咲の実母を騙して咲を誘拐し、救出に駆けつけた桐生と戦うも敗北する。その後、峯と結託して構成員と共に「アサガオ」を破壊し、桐生を誘き寄せるために名嘉原茂を誘拐して闘牛場で桐生と戦うも再び敗北する。その後は桐生が背を向けた時に射殺しようとするも庇った力也により失敗し、再度彼を殺そうとしたところを駆けつけた風間譲二によって側頭部を狙撃され、死亡した。
浜崎組
『3』に登場した組。横浜中華街を拠点とし、構成員は10人程度と少ないが、蛇華との繋がりもあって組織的には大きい。協力関係であった蛇華のラウが殺されたために蛇華の報復に遭い、浜崎を除く全ての構成員が横浜港から死体となって浮いた。その後、跡目争いで東城会に混乱を招いたために破門となる。
(はまざき ごう)
声 - 高橋ジョージ
身長193cm、体重99kg、O型
東城会若頭補佐で、直系浜崎組組長。50歳。浅黒い肌と顔の傷が特徴な強面な外見の持ち主だが、伊達にはその容姿から「AV男優みたいな男」と言われている。性格は粘着質で、言動からは荒さは感じ取れないものの、みかじめ料を払わない堅気の料理屋の店主を店ごと爆破して殺害するなど神田以上に残酷な行動に打って出る事もある。また、横浜中心街を中心に暗躍しており、通称として「ハマの帝王」と呼ばれている。戦闘ではプロレス技を駆使して戦う[注 18]。真島を鈴木と引き合わせてリゾート計画を紹介し、更には蛇華のラウ・カーロンとも結託して沖縄のリゾートの利権を売りさばくという約束で協力するが、後にラウが風間譲二に殺されたために中国の蛇華本部に拉致されてしまい、東城会の跡目争いに敗れて計画は失敗に終わる。その後は戦いを終えて沖縄へと帰ろうとする桐生の元に現れ、全てを失った腹いせに彼を刺したが、後に一輝とユウヤに取り押さえられる。
『4』では51歳。殺人未遂の罪で服役中のために坊主頭になっている。同じ囚人である冴島を唆して共に脱獄を試みる内に冴島の愚直なまでの男気に打たれて心境に変化が生まれ、義兄弟の契りを交わすが、脱獄を阻止せんとする刑務官の斉藤から冴島を庇い、桐生を頼るように伝えて斉藤と共に沖縄の海の底へと消えた。その後は一命を取り止めてアサガオに辿り着き、脱獄時に入手した極秘ファイルを桐生に託して東城会を救うように懇願するが、遥と桐生の頑なな態度を見て断念し、桐生と共に警察に出頭しようと考える。その後、冴島の妹である靖子と出会い、執拗に追跡してくる沖縄第弐刑務所の刑務官達の戦いの後に桐生と靖子に神室町に向かうように促すが、自身は脱獄の際に撃たれた背中の傷が開いたことで倒れてしまい、後にその傷が致命傷となって数日後に病院で遥に桐生に宛てた最期の遺言(「警察から東城会を守ってくれ。東城会は俺達の生きた証だ」)を言い残して息を引き取った。後に彼の遺体はアサガオで引き取られた。
柴田組
『4』に登場した組。かつて笹井組と東城会直系の座を争っていたが、25年前の襲撃事件で笹井組が解散したことで直系に昇格した。後に、柴田の死と組織内が崩れたため、解体されたと思われる。
柴田 和夫(しばた かずお)
声 - 大塚芳忠
東城会直系柴田組組長で、ホームレスからは「タヌキ」と呼ばれている狡猾な男性。55歳。直系組織としては弱小の部類で末席に甘んじているが、直系に昇格してから25年間その座を維持しており、立場は強い。極道ではあるが、紳士的な面と靖子の服を剥ぎ詰め寄るなど好色な面も見られる。また、葛城とは25年前の襲撃事件から共謀しており、自身の出世のためにお互いを利用していた。密かに上野誠和会の葛城と共謀して神室町ヒルズの利権を手に入れようと画策し、その過程で追われているはずの新井を匿い、更には計画通りに新井が起こした上野誠和会との事件に対して5億の現金と自身のケジメとして指を差し出す(実際は指詰めをしていない)が、見返りを求めすぎたために葛城に邪魔者とみなされ、最後は新井に撃たれて命を落とす。
金村興業
『4』に登場した柴田組の傘下に位置する東城会三次組織。神室町北のホテル街近くに事務所を構えている。
金村 大(かねむら ひろし)
声 - 川津泰彦
東城会直系柴田組内金村興業組長。消極的な性格かつ上昇志向がなく、事勿れ主義で、自らの足で動くことはなく、組のことはほとんど新井に任せている。秋山と新井によれば引退する予定だったが、後に葛城の命を受けた冴島靖子によって刺殺された。
(あらい ひろあき)
声 - 沢村一樹
金村興業若頭。穏やかな物腰で、人望が厚く、柴田からも一目置かれており、上昇志向が乏しい金村に代わって将来を嘱望されている。また、金村興業に融資をしている秋山からも過去の経緯から信頼され、特に自身の得意な足技はその秋山からも参考にされている。戦闘では主に華麗な足技を用いるだけでなく、多くのカウンター技も駆使する。物語序盤で東城会の「親戚」である上野誠和会の伊原を殺害し、直後に自ら消息を絶って柴田組に匿われる(表向きは両組織から追われる立場となる)が、その柴田を裏切って殺害した後は再び行方を晦ましてもう一人の共犯者である葛城と合流し、更には宗像と東城会を繋ぐパイプ役として推薦される。その後、神室町ヒルズで葛城と共に桐生と対峙したが、そこで葛城と弟分である城戸を裏切って城戸に発砲する(致命傷にならないようにわざと狙いを外す)。その後は宗像の命を受けて東城会の内情調査と乗っ取りを行うために送り込まれた潜入捜査官として宗像から桐生を打倒するために遥とアサガオの子供達を拉致するように命じられるが、これを「警察官」としての自身の誇りにかけて拒否し、宗像とも敵対する。その後、ミレニアムタワーでは己の思い描く正義を貫くために1000億を手に入れようと画策し、それを否定する秋山と対決するが、熾烈な足技の応酬の果てに敗北する。谷村と宗像の決着後は桐生達と和解し、世話になった警察に自首して刑務所で一生過ごすと告げる。
城戸 武(きど たけし)
声 - 桐谷健太
金村興業若衆で、人懐こい雰囲気とチンピラ風の風貌をした新井の弟分。九尾の狐の柄が刺繍された赤色のスカジャンを着用しており、その風貌から実力を低く見られがちだが、本来の能力はかなり高く、過去に喧嘩を見た秋山が「俺がびっくりするぐらい強い」と評価しており、実際に柴田組の構成員複数を無傷で倒している。戦闘では荒削りながらも勢いで押す喧嘩を得意とする。兄貴分である新井の行方不明後は秋山と協力したり、冴島に偶然にも接触するなど物語にも深く関わってくるような行動をし、更には警察や東城会よりも先に見つけようと駆け回っていた最中にスカイファイナンスで偶然にも隠し金庫の存在と1000億もの現金を発見したことで混乱して行動するべきか迷っていたが、冴島の「極道の勝負は一度きり」という言葉を受けて決起する。その後、堂島大吾に相談し、大吾の指示で葛城と接触するように命じられるも新井によって見破られ、撃たれて重傷を負う。その後は再び大吾と合流してミレニアムタワーで極道としての生き様を賭けて冴島と対決し、善戦はするも終始冴島に圧倒されて敗北する。谷村と宗像の決着後は桐生達と和解する。
初芝会
『4』に登場した柴田組系の組織。構成員はギャングのようなカジュアルなファッションが特徴である。ホームレスを追い出して劇場の地下に事務所を構えていたが、秋山の活躍によりホームレスが奪回し、後に事務所は冴島と城戸のアジトになる。
初芝(はつしば)
東城会直系柴田組系初芝会会長で、柴田の弟分。緑川に命じてスカイファイナンスを襲撃し、顧客名簿を奪って城戸を拉致したが、秋山に奪取されてしまう。その後、リリを捜す柴田から頼まれてリリの情報が載っている顧客名簿を奪ったことを白状した。
緑川 琢己(みどりかわ たくみ)
初芝会若頭。自身の情報をペラペラと喋ってしまったりと自分語りが好きなようである。戦闘では拳銃による射撃や打撃を使い、追い詰められるとチェーンソーを持ち出してくる。スカイファイナンスを襲撃して城戸を拉致し、駆けつけた秋山と戦うも敗北する。
青山組
(あおやま みのる)
声 - 堀内賢雄
『5』に登場した東城会本部長兼会長秘書である直系青山組組長で、近江連合若頭である渡瀬の代紋違いの兄弟分だが、実は黒澤一派の一人である。東城会を一枚岩とすべく、新参であっても忠誠を誓って結果を出した組は次々と直系に昇格させ、不祥事を起こした組は古参であっても容赦無く破門にするなどの辣腕を振るっている。東城会を乗っ取ることを画策しており、大吾が失踪して間もなく会長代行に就任し、九州の山笠組を支配下に置くために山笠組本部で斑目との会談という表向きの口実を作って斑目殺害を企てるも駆け付けた桐生らに止められる。さらに仲間である森永達を出し抜いた上裏切り彼らと一悶着後は斑目を殺したのは桐生だと嘘の芝居をして現場から離れ、仕掛けていた時限爆弾の起動と共に現場から逃走する。その後、八幡に「全面戦争」の宣戦布告をし、組員数百人と渡瀬を連れて埠頭で山笠組と対峙するが、その数にも屈しない桐生に全員倒されたことでその場で桐生を殺そうとしたところを余りの卑劣さに激怒した渡瀬に殴られ、更には桐生にも顔が変形する程に殴られてしまい、最後は観念して、事件の真相を話そうとした矢先に口封じのために森永に射殺された。
日侠連
『0』に登場した世良勝が仕切る組。東城会の直系団体であるが、暗殺を始めとした裏の汚れ仕事を一手に引き受けている組織でもあるために普段は代紋は隠している。大阪の椿園にある料亭の「弁天屋」を拠点の一つとしているが、その際は店の影響もあってか組員は能面をつけたり遊女に扮したりと奇抜な恰好をしている。初代総裁の世良が東城会の三代目に就任した後は、国枝が二代目を継いだ。
囚人番号1356
声 - 鈴置洋孝
『1』に登場した囚人で、日侠連の構成員(『極』で判明する)。戦闘では二本のフォークまたはナイフ(『極』)を持って戦う。世良会長の差し向けた刺客として刑務所内で他の囚人と共に桐生を襲うが、結局は返り討ちに遭う。また、『極』のサブストーリーでは出所して神室町におり、任務失敗により組から見捨てられた事で組への復帰のために桐生に襲い掛かるも敗北し、直後に桐生に真っ当な道に生きるように諭された後に桐生殺害の命は二代目総裁の国枝によるものだと告げてその場を去って行った。
国枝 政志(くにえだ まさし)
『極』のサブストーリーに登場した日侠連二代目総裁。戦闘ではブルース海老沼に似た格闘スタイルで戦う。世良を殺害した錦山を殺すために錦山の居場所を聞き出そうと桐生に接触するが、錦山殺害を止めようとする桐生と対峙する形になり仲間を連れて彼に襲い掛かるも敗北した。敗北後は、世良の指示で「堂島殺しで捕まった桐生を他の組織(特に親殺しをされた堂島組)から守るためにどの組織よりも先に刺客を放った[注 19]」という真相を明かして去って行った。
染谷一家
(そめや たくみ)
声 - 小栗旬
『6』に登場した東城会直系染谷一家総長で、笠原清美の元夫。「逃げるが勝ち」の如く弱まった相手を一気に潰すことで30代の若さで直系組長にのし上がるなど、現在の東城会でも台頭を見せている。「暴力の復権」を歓迎しており、桐生からは「何をしでかすかわからない」とまで評される。桐生に対して「堂島の龍」の肩書きに「とっくにカビが生えている」と嘯いたり、金や利益のみが人を引き付けるとして背中に刺青も入れず、刺青の重要さを語る桐生を嘲笑し、己の野心を隠さずに不遜な態度を見せる。一方で、桐生を「老害」と侮辱した他の組の幹部をワインボトルで殴打するなど、ある種の尊敬の念を抱いている節も見せている。戦闘では打撃中心の総合格闘技に似たスタイルを用い、テイクダウンからの鉄槌連打を得意とする他、最後の対峙では日本刀を使用する。菅井と共に祭汪会の総帥であるロウと手を組み、大吾を嵌めるために亜細亜街の火事を仕組む。その後は真相を知ろうとする桐生と幾度とない接触や対峙を繰り返していくが、桐生への完全な敵対心を持っていない事もあってロウとの対面に向かう途中で桐生と共闘したり、菅井や陽銘連合会に本格的に目を付けられた桐生に身を隠すように忠告するといった動きも見せるなど奇妙な関係性を築く。その後、清美を人質に取られて「桐生とどちらかが死ねば助ける」という戦いを強いられた際は刀を持ち出し、完全なる殺意を向けて桐生に挑むも死闘の末に敗北する。敗北後は桐生にドスを差し出して自分を殺すように嘆願するが、菅井達からの執拗な脅迫を前に清美を救うために自ら腹部を刺して致命傷を負い、最後は残してきた清美との娘の「ヒロミ」のことを南雲に託して息を引き取った。
菅井組
(すがい かつみ)
声 - 中尾隆聖
『6』に登場した東城会本家相談役である直系菅井組組長で、二代目時代からの古参幹部の一人。表向きは平静さを崩さない大物然とした慇懃な態度を装っているが、実際には短気かつ偏狭な性格で、大吾や桐生といった自身よりも若輩ながら目上に立つ存在を総じて疎ましく思い、嫉妬から嫌悪感や憎悪を寄せており、特に数多くの実績や人望を持った桐生に対しては激情と汚い口調で喚き散らす程に憎んでいる。そんな器の小ささを染谷からは「どうしようもねえ小物」と見下されている。元々は二代目からの古参として活動しており、特に目立った活躍もせずに六代目体制となった現在も名ばかりの本家相談役に据えられているが、内心ではいつか上にのし上がるという野望を秘めており、その計画のために巌見恒雄と結託し、更には染谷と共に祭汪会の総帥であるロウとも協力関係を築く。その後は大吾を嵌めるために亜細亜街の火事を仕組み、彼を逮捕に追いやった後は六代目不在の東城会に会長代行として実権を握る。その後、桐生が東城会を訪れた際は彼から「遥の事故に関与していないか」を聞かれ、染谷と共に中国マフィアの抗争で手一杯という形で関与していないことを告げる。終盤では巌見と共に桐生達と対峙し、遥とハルトを人質にされた事で手が出せない桐生に対して今まで抱え込んできた彼や大吾への妬みや憎しみを一気にまくし立てながら積年の鬱憤を晴らさんと言わんばかりに鉄パイプで散々殴りつけるが、遅れて到着した勇太達に乱入され、桐生が巌見との一騎打ちに挑む傍で自身は南雲と殴り合う。巌見の敗北後は追い詰められた彼から遥とハルトを殺すように命令されるが、庇った桐生によって失敗し、それでも尚も桐生を殺そうと執拗に銃撃しようとしたところを田頭に殴りつけられ、最後は広瀬一家に追い詰められた事で最早勝機がない事を悟って持っていた拳銃で自ら命を絶った。
飯渕組
飯渕 圭(いいぶち けい)
声 - 子安武人
『極2』に登場した東城会直系飯渕組組長で、元コンサルタント。基本は冷静沈着だが、自分の意図しない展開に陥ると声質に露骨な苛立ちを見せたり、真島と対峙して本性を露呈した際には声を荒げるなど根本的には気性が荒い性質。また、インテリヤクザとしての技量は凄まじく、東城会改革の際にその圧倒的な知識量と理性的な判断力を買われて直系組長へと抜擢されているが、義理人情などの古い価値観にとらわれている古参の幹部衆を毛嫌いしている。戦闘では玉城や同作における倉橋に似た拳銃と体術を合わせたスタイルで戦う。借金苦の川村を利用することで近江連合の幹部及び植松を殺すように指示し、後に指令を終えた彼を用済みとして射殺した。その後、真島との戦いに敗れ、極道社会を一本化して合理的で近代的にするという理想のきっかけとして西と東の戦争を起こそうとしていたことを語り、最早それが避けられないと嘲りながら持っていた拳銃で自ら命を絶った。
植松組
『極2』に登場した新興勢力の組。千両通りに事務所を構えている。
植松 彰信(うえまつ あきのぶ)
声 - 田中美央
東城会直系植松組組長。現在の東城会で最も多くの金を稼いでいると言われており、故に上納金を多く納められない他の幹部たちを見下す傾向がある。東城会改革の際にその実力を買われて三次団体の若衆から直系組長へと大抜擢され、空席となった若頭の座を狙って同じく若頭候補である真島と争う形になったが、その最中に飯渕に利用された川村によって殺害された。
東出組
東出 塔子(ひがしで とうこ)
声 - 森なな子
『ONLINE』に登場した東城会系東出組組長代理。未亡人だが、夫の死後も操を立て続けている。
近江連合
関西一円のヤクザを束ねる一大組織。五代目の郷田仁の時代には寺田や龍司、高島や千石からなる「近江四天王」と呼ばれる強力な大幹部達を中心とした堅い結束と直参120団体、構成員3万5000人の兵力を誇っていた。名前の由来は滋賀県の近江地方から。
『0』では神室町を手中に収めるために東城会の嶋野と組んで嶋野の兄弟分である佐川を使い、東城会の「カラの一坪」を巡る騒動に加わるが、同時に東城会の渋澤に雇われて行動していた西谷までもが騒動に関わってしまう。その後、カラの一坪は手に入らず、この騒動で佐川や西谷、本部長が死亡し、結局は本部長と二つの直参組織を失うという痛い結果に終わった。
『1』では寺田が東城会の100億を巡る騒動で風間に協力する形で暗躍し、錦山に100億の情報を教えたり、嶋野と接触するなどの行動を起こす。また、その裏で龍司が五代目会長の名目を使って100億を手に入れるために神宮のバックに付くが、失敗に終わる。騒動後は寺田が近江を離れてしまい、東城会五代目会長となる。
『2』では裏切り者として寺田を撃った影響で両組織の均衡が破られ、東城会の代理となった桐生が抗争を阻止するために盃交渉に訪れるが、この盃に不服を感じた龍司がクーデターを起こし、また高島や千石も跡目を狙ってそれぞれ行動を起こす。その後、五代目の郷田会長や高島、千石が死亡し、龍司も行方不明になったことで弱体化する。
『5』では七代目会長となる黒澤の代になっており、東城会との五分盃に加えて渡瀬や勝矢、高知からなる「近江三幹部」を中心に盤石の体制を築いていたが、黒澤の危篤により東城会との均衡が破れると同時に跡目争いに火が付く。その後、この騒動で高知が死亡し、後に黒澤も病死したことで会長不在となる。
『6』では八代目に「桐生と親交のあった人物」が就任したことが来栖の口から語られたものの、具体的な名前は明かされなかった。
『ONLINE』でも八代目を掲げており、東城会所属だった荒川組を筆頭に、メンバーを一新した「近江四天王」を擁し、全勢力を挙げて神室町を支配している。
(ごうだ じん)
声 - 天田益男
『2』に登場した五代目近江連合会長。65歳。温厚な性格で、誰に対しても柔らかい物腰で話し、また血が繋がっていない一人息子である龍司の事を誰よりも大切に思っている。また、高齢及び歴年に渡る戦いのために車椅子に乗っている。東城会と近江連合の五分の盃を受け入れようとした矢先に息子の龍司が起こしたクーデターに参加した構成員に拉致されそうになるが、その場は桐生に助けられる。しかし、大吾が神室町へ連れて行く際に真拳派に大吾共々再び拉致される。物語終盤では桐生と龍司の死闘を見届けることになり、そこで龍司の苦しみを知ったことで一緒に自首することを狭山薫に話すが、最後は真の黒幕である高島遼に撃たれて死亡した。
『0』では登場しないが、佐川や西谷が「五代目近江連合直参」の看板を背負っている事からこの頃には会長の座に就いており、20年近くに渡る長期政権を築いている事が分かる。また、サブストーリーに登場した龍司が真島を「うちのオトンと同じくらい強い」と評しており、喧嘩の実力も相当なものだったことを伺わせるエピソードが語られた。
『極2』では真島組組員だった川村が近江連合幹部の一組長を殺害したことで、そのケジメをつけるよう寺田に命令するが、同行していた真島が真島組を解散し、カタギになるという条件で和解する。
林 弘(はやし ひろし)
声 - 菅田俊
『1』から登場した長身と面長な顔が特徴である五代目近江連合舎弟頭補佐。戦闘では『1』では飛び蹴りや一回転パンチを使い、『極』では馬場に似た格闘スタイルに加え、近くに椅子があると振り回して攻撃してくる。遥を誘拐するためにアレスに構成員数名と共に登場し、その場で桐生と戦うも敗北する。
『2』では郷田龍司に惚れ込み郷龍会の構成員となっている。戦闘では最も高い体力ゲージを誇り、力強いパンチやタックルからの投げ技を多用し、窮地に追い込まれると配管を腕力で取り外し左右の手に持って振り回す。『極2』では『極』と同じく馬場に似た格闘スタイルで戦う他、引き抜いた配管の長さが『2』に比べて短くなっており、それらをカリスティックのように扱うなどの変更をされている。龍司に天下を取らせるために一組員として動き、命令を受けて他の構成員と共に覆面を被りミレニアムタワーの変電室を破壊する。その後、一年前の事件で因縁のある桐生に再戦を挑むも敗北する。
『ONLINE』では、かつての仁義もなく、自身をはじめとする古参組員を蔑ろにするようになった近江連合に嫌気が差していた。その後近江連合に追われる身になったところで春日に助けられ共闘、彼の兄弟分となる。
袴田 猛(はかまだ たけし)
『5』に登場した近江連合の構成員。戦闘では玉城に似た格闘スタイルで戦う。スカイファイナンス蒼天堀支店にてみかじめ料をせびりに来るが、秋山に一蹴された。その後、秋山が朴の死の真相を追及している最中に再びスカイファイナンスに押し寄せるも敗北し、金井のいる逢坂興業の居場所を伝えて去って行った。
高知 比呂志(たかち ひろし)
『5』に登場した七代目近江連合若頭補佐で、直参高知組組長。兵庫に地盤を置き、目立つ存在ではなかったものの、黒澤の秘蔵っ子として重用されていた。物語序盤で名古屋で起きた謎の事故に東城会の若頭補佐である安住[注 21]と共に巻き込まれて既に死亡しており、劇中では安住と共に名前でしか登場していないが、後に大吾の発言からその事故は黒澤の策略によるものだと判明した。
寺田組
(てらだ ゆきお) / 金 大津(キム・デジン)
声 - 乃村健次(『1』『極』『極2』)、四宮豪(『2』)
『1』から登場した五代目近江連合本部長で、近江四天王の一人にして直参寺田組組長。41歳。初めは錦山と繋がり、100億が消えたと唆す。その後は風間の身の安全を確保するための時間稼ぎとして真島に拉致された遥を救ったり、嶋野にも情報を流すなどの行動を起こし、更には風間を補佐した上で嶋野が桐生に敗れた際は手榴弾を投げた直後に射殺する。その後、ミレニアムタワーでは桐生に協力して神宮と対峙するが、引き連れていた部下は既に神宮の軍門に下っており、逆に拘束されてしまう。事件後は桐生に人格を認められ、東城会五代目会長に就任した。
『2』では42歳。五代目となったものの、自身の「イエスマン」しか幹部に登用しなかったことから、真島ら古参からはよく思われていなかった。元々は近江連合に所属していたために裏切り者とされて桐生の目の前で近江連合の凶弾に倒れるが、後に全ては偽装工作であることや正体は26年前に東城会によって壊滅させられた真拳派の生き残りでもある金大津であることが判明する。終盤では真拳派の目的である東城会の壊滅を目論みながらも自身を救ってくれた風間への恩にも葛藤しており、目的遂行のためにマシンガンを手に数名の構成員と共に桐生を消そうとするも敗北した。その後は真の黒幕として一時は協力関係を築いていた高島に用済みにされて撃たれるが、風間の恩義に報いる道も選んでおり、桐生に逆転の手[注 22]を残すと共に「最後に俺を信じて」と言い残し、静かに息を引き取った。死後は風間らと同じ墓地に葬られ、墓碑銘には本名の金大津ではなく、風間から与えられた「寺田行雄」の名が刻まれた。
『極2』では五代目となった後に100億円事件で地盤の崩れた東城会を経済面から立て直すために手段は問わずに稼げる者を幹部に積極登用する「東城会改革」という血の入れ替え施策を強行する。最終的に自身を利用しようとしていた飯渕の魂胆を見抜けなかった事で己のやり方に疑問を持つが、真島から「組の頭を張る男は間違っても間違ってるって言ったらあかん」と言われ、近江連合との会談で真島組の東城会脱退の案を受け入れる。
郷龍会
郷田 龍司(ごうだ りゅうじ)
声 - 岩崎征実
『2』に登場した郷田仁の一人息子で、五代目近江連合直参二代目郷龍会会長。
近江高島会
(たかしま りょう)[注 23]
声 - 舘ひろし(『2』)、白竜(『極2』)
『2』に登場した五代目近江連合総本部長である直参近江高島会会長で、近江四天王の一人。40歳。力よりも知を重視する所謂インテリヤクザであり、策謀を巡らせて数々の功績を挙げている。郷田会長の信任は厚く、また高島自身も忠節を誓っている。取調べの際は桐生の味方ではないと別所に断言したり、誰かと電話で話して何かしらの策を練ったりと不可解な行動が目立つが、最終的には近江連合を裏切り、真拳派と手を組んで寺田と共に東城会を潰そうとした上で東城会を傘下に治めた後に郷田会長を抹殺して近江の六代目を継いで日本の極道社会を制覇し、更には真拳派をも抑えて海外への進出を目論む。その後、郷田会長や用済みとなった寺田を射殺し[注 24]、更には桐生と薫を殺そうとしたが、最後は郷田龍司との撃ち合いの末に頭を撃ち抜かれて死亡した。
『極2』では飯渕を利用して東西の戦争を起こそうとしていたことを示唆するような描写がある。
千石組
『2』に登場した組。新星町にある大坂城に酷似した事務所「大阪の城」を拠点とし、外のハリボテが割れると中から金色の城が現れる非常に派手かつ悪趣味な構造になっている。組長である千石の趣味趣向を反映しているのか、派手な装いや当世具足、忍者装束など時代錯誤な格好をした組員が多い。
千石 虎之介(せんごく とらのすけ)
声 - 西前忠久
五代目近江連合直参千石組組長で、近江四天王の一人。42歳。傍若無人で派手好きであり一見浅薄な印象を与えるが、その裏では戦略的かつ狡猾に事を進め金銭の力で相手を追い詰める戦法が得意で、「金の千石」や「近江の錬金術師」と恐れられている。また、露骨に下品な言動を繰り返したり、行動がかなり大掛かりかつ派手であるために郷田龍司との仲は良くない。桐生を殺して近江連合のトップに立つために、神室町に大量の金をばら撒いて戸部達に桐生を襲わせたり、千石組の多くの構成員を神室町で行進させた上で混乱に乗じて東城会を新藤に乗っ取らせる事を画策するが、どれも失敗に終わる。その後、直接打って出る事を決意し、遥を拉致して大阪の城に桐生を呼び寄せるも、けしかけた部下達を次々に倒され、逆に追い詰められ、ペットである2頭の虎を放って桐生と戦わせるも倒されたことで失敗に終わり、尚も往生際悪く逃げようとするも、最後はあまりの卑劣な行動に激怒した郷田龍司に斬り裂かれた上に胴体を刀で貫かれ、そのまま天守閣から蹴り落とされて死亡する。
『極2』では、川村が起こした近江連合傘下の三次団体組長を殺害した件について真島に説明責任を求め、それに乗じて東城会との抗争を密かに企ていたことが判明した。
国枝(くにえだ)
千石組若頭。組長である千石の指示なら例え人殺しでも従う忠実さを持っている。戦闘では体力ゲージが高く、使用武器は扇やマシンガン、槍を使って戦う。裏で江崎を使って千石を近江のトップに担ぐためにありとあらゆる行動を実行する。その後、桐生が大阪の城に駆け付けた時は武者を引き連れて殺そうとするも失敗し、自らも倒される。
渡瀬組
『5』に登場した組。大阪北に拠点を持ち、郷田龍司率いる二代目郷龍会亡き後の近江連合において一番の武闘派として知られている。
渡瀬 勝(わたせ まさる)
声 - 西凛太朗
七代目近江連合若頭で、直参渡瀬組組長。刺青は背中に阿修羅、右腕に輪宝と左腕に独鈷杵[1]。「強い奴と喧嘩がしたくてヤクザになった」と豪語するほどの武闘派で、好戦的ではあるが、裏表が無く人間関係には律儀なために人望を集めている[注 25]。また、極道として最低限の腹芸を身につけているものの、本質的には兄弟分の勝矢が自身を庇って撃たれた時は「なんで俺の事守ったんや」と涙し、自身を利用していた代紋違いの兄弟分である青山の死さえも深く悼み、親である黒澤に裏切られた時も恨みよりも寂しさを感じるなど、義理人情を重んじる性格をしている。戦闘では桐生と比べてやや小柄な体格を物ともせず、大振りながらも強力な打撃技やタックルなどの豪快な技を多用する。七代目危篤後の跡目争いでは最有力と見られており、自身も既に継いだ後のことを考えているため、桐生のいない東城会を敵として物足りなく感じて彼を東城会へ復帰させるために福岡へ向かったが、その目論見は叶わなかった。その後、埠頭での東城会と八幡組の抗争の際には、乱入した桐生の抑えとして青山に呼ばれるが、桐生の条件を飲んで立会人として中立の立場を守り続けた。福岡の騒動後は跡目争いにケリを付けるために大阪に戻ったところを各地で起こった事件の黒幕が勝矢であることや、逢坂興業が神室町入りをしたことを聞いて激怒し、組を引き連れて東京へ向かい、桐生や冴島と共に勝矢の元に現れて彼の真意を知ったことで潰し合いを演出するために桐生と戦うも完敗する。その後は現れた黒幕である黒澤に発砲されるも勝矢に庇われ、近江八代目を継ぐことを頼まれる。その後、勝矢が収容された病院ですれ違った品田との問答で自身の取るべき道を決めて北方組や山笠組と共に神室町から黒澤一派を追い出す。決着後は秋山の尽力に感謝の意と共に頭を下げ、秋山に「アンタって人の器のデカさが身に染みて分かるよ」と恐縮させた。
逢坂興業
『5』に登場した組。蒼天堀の近郊に工場一体型の事務所を構えており、大阪芸能の社長の顔も持つ会長の勝矢に代わって若頭の金井が取り仕切っている。また、産廃処理(処理を施さない悪質なもの)などで莫大な利益を上げており、上納金で近江連合を支えている。
(かつや なおき)
声 - 吹越満
七代目近江連合本家本部長兼直参逢坂興業会長で、「大阪芸能」の社長。45歳。背中の刺青は鶴[1]。兄弟分の渡瀬からは「勝っちゃん」と呼ばれており、自身も渡瀬を「兄貴」と呼んでいる。また、事故で辞めざるを得なくなったものの、かつてはアクション俳優として活躍していたために相手に真意を悟らせない高い演技力を持っており、普段の冷静沈着な態度とは逆に真島の手紙を奪取し損ねたことのケジメとして金井の顔に「脅すんだったら一発でちゃんと決めてこいや」と言ってタバコの火を押し付けるなどの極道らしい一面も覗かせた。戦闘では膝蹴りや一回転ドロップキックなどの足技を中心とした多彩な攻撃を駆使し、アクション俳優時代からの衰えを感じさせない動きを見せる。真の黒幕に対抗するための演技として近江七代目の危篤による跡目争いに勝利するために失踪中の真島の首獲りを狙い、その居場所が記された真島から朴社長宛てに送られた手紙を回収せんと遥達を付け狙いながら各地で起こった東城会と近江連合の騒動の黒幕の如く振る舞うが、同時に黒幕に遥が狙われるのを阻止した上で計画済みだったT-SETとの合同コンサートを行うために遥のコンサートを中止させるという行動も起こす。物語終盤では黒幕を引きずり出すために敢えて黒幕が狙う同士討ちの誘いに乗り、神室町ヒルズに桐生や冴島、渡瀬を呼び出し、最後まで残った人間が黒幕を倒して事件を収拾させることを三人に約束させて冴島と戦うも敗れる。その後、現れた黒幕の黒澤から渡瀬を庇い、撃たれて重傷を負うが、手術により一命を取り留める。
金井 嘉門(かない かもん)
声 - 石川英郎
逢坂興業若頭だが、実は黒澤一派の一人である。強面かつ2m近い身長と屈強な体格の持ち主で、それに加えて秋山の足技を何度受けても立ち上がる程のタフさ(秋山曰く「化けもん」)も持ち合わせている。戦闘では貫手や手刀といった危険な攻撃を多用し、最終決戦ではドスも使用する。黒澤の命令で重要な鍵となる朴の手紙を付け狙うが、同時に表向きとして近江七代目の危篤による跡目争いにおいて自身の親を八代目にするために手紙を狙うという行動も行う。その後は手紙を持って新大阪駅に単身出向いた遥を追い詰めるが、それに勘付いた秋山により阻止され、ケジメとして勝矢によって顔にタバコの火を押し付けられる。その後、黒澤を一時追い詰めた大吾を銃撃し、後に神室町に部下を引き連れて再び秋山を襲撃するも完膚なきまでに叩きのめされ、更には駆けつけた渡瀬達を見て全国の極道組織を敵に回したことを知り、遂に降参する。
佐川組
『0』に登場した組。組長の意向か、真島を預かっていた際は真島を蒼天堀から逃がさないように四六時中あらゆる場所から監視しており(真島曰く「牢獄」)、中には作業員やホームレスに扮している構成員もいるほどに徹底していた。
(さがわ つかさ)
声 - 鶴見辰吾
五代目近江連合直参佐川組組長で、キャバレーである「グランド」のオーナー。遊び人然とした砕けた口調に極道らしからぬ容姿をしているが、一方では徹底した執着心と少しでも意に沿わぬことが起きれば凶暴性をむき出しにするという極めて危険な性格を秘めている。東城会の嶋野とは代紋違いの兄弟分で、嶋野に頼まれて彼の元部下で東城会を追われた真島を預かりグランドの支配人としてこき使っている。嶋野と近江連合が「カラの一坪」を手に入れるために本件の責任者である本部長の護衛役を務めながらも実行部隊として動き、後に嶋野からの命令で極道への復帰を望む真島に条件としてマキムラマコトの殺害を命じる。その後も間接的に真島に協力し、後に真島が自身を裏切りマコトと共に大阪から脱出しようとしたことがきっかけで仲間を使って真島とマコトを追い詰めてその場で殺そうとしたが、突如として現れた世良によって阻止されて撃たれる。その後、真島を使って世良の素性を調べ上げ、真島と共に世良の率いる日侠連のいる椿園に向かい、そこで世良を撃ってマコトの居場所と立華不動産の存在を知り、真島に対して大阪から出ることを許可する。その後は真島を連れて神室町に向かい、そこで嶋野から呼び出されて彼の真の目的を知らされたことで真島にすべてを託すが、最終的に真島は嶋野の命令に反抗し単独で堂島組に乗り込む気概を見せその覚悟の強さから彼を見送る形になった[注 26]。事件後は護衛すべき本部長を嶋野に殺害されたことや「カラの一坪」が手に入らなかったことにより全ての責任を取らされ処刑されるであろうことを覚悟しながらもその素振りを見せずに真島と談笑し[注 27]、真島と別れた直後に近江連合の組員によって射殺された。
鬼仁会
『0』に登場した組。蒼天堀の北東にあるビルに事務所を構えている。組長の自由奔放な性格のためか、どこともつるまず誰の縄張りだろうと好き勝手に暴れる「蒼天堀のトラブルメーカー」と言われていた。
西谷 誉(にしたに ほまれ)
声 - 藤原啓治
五代目近江連合直参鬼仁会会長。幼い頃から犯罪に手を染めており、幼稚園でスリや置き引き、小学生でカツアゲ、中学生で車荒らし、高校生でビリケンの娘を殺した犯人を殺害している。また、欲望に忠実な行動ばかりして組ごと近江連合から浮いているものの、人格者を慕う心もあり、性格は刹那主義及び享楽的な快楽主義者であると同時に後の真島のような狂気が渦巻いており、留置所を自身のねぐらとして強い相手はあらゆる手段を使ってでも喧嘩に持ち込む程の喧嘩好きである。戦闘ではドスを使い、自ら仰向けになるなどの敢えて隙を晒しての奇襲攻撃を得意とする。渋澤組の依頼を受けてカラの一坪騒動に関わることになり、グランドを訪れて真島と対面し、彼からマキムラマコトの居場所を聞き出そうとするが、拒否された上に真島との戦いにも敗北し、直後に自身の連絡で駆け付けた警察に逮捕される。その後、留置場で真島と再会し、再度真島と戦うも敗北する。敗北後は自身の現状を明かした上で互いを尊厳を持った人間として認め合うようになり、直後に椿園に向かう真島に同行しようとするも渋澤組に雇われた看守に撃たれ、最後は真島を逃がすためにその場に残った後に命を落とす[注 28]。
大石(おおいし)
鬼仁会構成員。他の構成員たちをまとめる立場におり、任務失敗の際に責任を取らされたのか、登場する度に顔に傷が増えていく。戦闘ではサプレッサー付きの銃を使用する。西谷の命令を受けてマコトを連れ去ろうとほぐし快館に構成員たちと押し寄せるが、その場に偶然居合わせた真島に邪魔され、マコトを連れて逃げた真島を再度襲うも敗北する。その後、グランドの前でマコトの居場所を聞き出そうと真島を襲うが返り討ちにされ、逆にマコトを狙う理由を白状させられそうになったところに佐川が現れたことで事なきを得る。その後はまたもグランドの前で真島の前に現れ、真島に興味を持った西谷がグランドで待っていることを伝えた。
荒川組
『ONLINE』から登場した元東城会系の組。東城会の時は千両通り近くに事務所を構える三次団体で、組も小規模だったが、狙った敵は地の果てまで追いかけていく超武闘派として「殺しの荒川組」の異名で恐れられていた。近江連合に寝返った際に近江連合の神室町進出に大きく貢献した功績により直系団体に取り立てられ、ミレニアムタワーに事務所を構えている。
荒川 真澄(あらかわ ますみ)
声 - 堀内賢雄
八代目近江連合本家若頭兼直参荒川組組長。武闘派として名高い荒川組を統率する豪胆さや冷徹な雰囲気を漂わせる一方で仁義に厚い一面も持ち、若い頃の一番がトラブルに巻き込まれた際、無関係であったにも関わらず、指を詰めてまで一番を救いだし、一番を極道の世界に導いた張本人である。しかし、若頭の沢城が蓮岡組の若頭を殺害してしまい、一番に身代わりを依頼。破門にすることで抗争を回避した。その後、警察と近江連合が結託して行われた「神室町浄化作戦」で内通、東城会が実質的に壊滅したことで、一番の功労者となり、近江連合本家若頭に出世、事務所もミレニアムタワーに移して神室町を支配した。一番とは17年後に再会したが、近江連合に仇なす者として銃口を向けた。
沢城 丈(さわしろ じょう)
声 - 高橋広樹
荒川組若頭兼沢城組組長。東城会にいる頃から荒川の右腕として動き、「殺しの荒川組」を体現していると言われる。頭も切れ、性格は冷酷、甘い考えで仕事を終えてくる一番を嫌っていた。後に蓮岡組の若頭を殺害、上部団体であったため、荒川の一存で一番が身代わりとなり、事なきを得た。「神室町浄化作戦」では荒川と共に近江連合へ寝返り、組を任される。その後は近江四天王の一人になり、17年後、出所した一番とミレニアムタワー前で再会、余裕で力を見せつけた。その後も組抜けを図ろうとした若衆の安村を一番ごと殺そうとした。
安村 光雄(やすむら みつお)
声 - 鶴岡聡
荒川組若衆。一番の兄弟分で、無鉄砲な一番をフォローする。17年後、出所して金鳳会会長のヴィンセントを探す一番に居場所を教えた。その後、沢城の命で一番の命を狙うも返り討ちにされ、組を抜けようとして、一番もろとも沢城が仕掛けた爆弾で殺されかけた。
金鳳会
『ONLINE』に登場した組。大阪で稼いだ資金を元手に中道通り一帯の土地、建物をダミー企業や企業舎弟を何重も介する形で掌握し、そこへ外国人観光客を相手取ったテナントを集中させる事で莫大な収益を得るという(北村曰く)「デベロッパー」のようなやり方で、神室町を支配する近江連合の資金源を担っている。ヴィンセントの敗北に伴い、組織も壊滅した。
ヴィンセント・ロウ
荒川組若頭補佐兼金鳳会会長で、近江四天王の一人。中道通りを縄張りとし、「財政」を担当する。また、一番が出所する一年前に地上げの末に真弓の祖母を射殺した張本人でもある。荒川組の幹部に名を連ねるだけあって、多くの人間を手にかけてきた武闘派である反面、非常に用心深く、狡猾な一面も強く、部下にすら滅多に姿を見せず、若頭に指示をして、自らは観光客に紛れて現場を監視していたが、真弓の証言から自身の正体がバレ、敵討ちに挑んできた彼女を返り討ちにする形で捕らえるも、安村からの情報提供を得た一番らに港に停泊させていた船に乗り込まれて彼らと闘うも敗北、最後は一番に何度も殴られ、半殺しにされた。
跡部組
『1』に登場した浅草の極道組織で、京香の実家。
跡部 京三(あとべ きょうぞう)
跡部組組長で京香の父親。組の金を持ち出した京香を追うように組員達に命令した一方で、娘に肩身の狭い思いをさせてきた事に負い目を感じていた。タカシと京香を部下に追いつめさせるが、これは二人を試すためであり(桐生曰く「組長の描いた絵図」)、最後はタカシと京香の独り立ちを花屋と共に見守り、京香を送り出す後押しをしてくれた桐生に感謝した。また、サブストーリーでは子供の頃の京香から妻をほったらかしにしていた当てつけで益子焼の夫婦茶碗を送り付けられていたことが判明する。
『2』ではタカシとの生活に苦労している京香に送金をしている事が判明し、『1』では顔の下半分しか見えていなかった自身の素顔も明らかになる。京香に「いつでも戻ってきてもいい」と進言したが、タカシに対する頑な思いを見て考えを改めた。
浅井(あさい)
声 - 勝矢秀人(『1』)
跡部組若頭。『極』にて名前が判明する。戦闘ではドスを使用し、『極』では主人公達に似たドス捌きで戦う。組長の命令でデボラへ逃げ込んだタカシを追いつめたが、乱入してきた桐生に叩きのめされる。その後、タカシの中途半端さを指摘したが、タカシの「今は半端者だが頑張って京香を絶対に幸せにする」という決意表明を見て、組長からの伝言が書かれた手紙を読み上げた。
イチ / 吉川 一郎太(よしかわ いちろうた)
サブストーリーに登場した跡部組構成員。タカシのお目付け役として神室町を訪れたが、街に不慣れなせいか捜索もままならない最中に桐生と出会い、桐生にタカシと京香の捜索を依頼して組長から預かった夫婦茶碗をタカシに渡してくれるように頼んだ。その後、桐生から茶碗を渡してきた事と神室町を出る事を聞いた事、京香の指輪とタカシからの強いメッセージを受けて[注 29]、協力してくれた桐生に感謝し神室町を「話に聞いていたよりもよっぽど人情のある街」と評した後に去って行った。
琉道一家
『3』に登場した沖縄の極道組織。琉球街南のアーケード付近に事務所を構え、現地を愛する義理人情に篤い超地域密着型組織のために地元の人からとても慕われている。また、アサガオがある住宅街はこの一家が縄張りも兼ねて法的にも正式に所有している土地の上に立地しているために一家は仲介人を介して周辺住民に又貸しして賃貸料を得ている。
(なかはら しげる)
声 - 泉谷しげる
琉道一家組長[注 13]で、名嘉原興業の社長。60歳。刺青はハイビスカスとシーサー(獅子)[1]。義理人情に篤く、沖縄を誰よりも愛している。土地買収の件で桐生と揉めて啖呵を切ったが、アサガオの土地買収による玉城組からの脅迫をきっかけに桐生の男気に惚れたことで和解して兄弟盃を結ぶようになる。一年後はCIAの介入によって再び土地買収の件を迫られて拒否したために権利書を奪われた挙句にリチャードソンに銃撃されたが、手術で一命を取り留める。その後はアサガオを破壊した玉城によって闘技場へと拉致されて闘牛に襲われそうになるが、駆けつけた咲を目にしたことで力を振り絞って闘牛を投げ飛ばした。その後、力也を失った際には己の無力さを嘆くようになる。
(しまぶくろ りきや)
声 - 藤原竜也
身長177cm、体重76kg、B型[5]
琉道一家若頭で、沖縄と仁義を愛する熱い男。25歳。自身が「沖縄の魂」と称するほどにハブには思い入れがあり、素手の喧嘩を得意とする意味で「ステゴロのハブ」を自称し、背中にもシュロの葉を巻いたハブの刺青が彫られている[1]。また、確かな喧嘩の実力やチンピラをひと睨みで追い返すほどの極道としての凄みも持つ一方で、地元の人と気さくに喋ったり太一を立ち直らせるために覆面レスラー「リッキーマスク」を演じるなど地元の人やアサガオの子供達からも慕われている。戦闘では素早い攻撃を軸に飛び膝蹴りやハンマーパンチを織り交ぜてくる。初めは桐生を敵視していたが、決闘に敗れた後に和解して兄貴と呼び慕うようになり、名嘉原が撃たれて以降は真相を突き止めるために桐生に付き従って神室町で行動を共にするようになる。その後、沖縄に戻り、そこで玉城に誘拐された名嘉原を救うために桐生の後を追って闘牛場へ駆けつけたが、桐生を庇って玉城に撃たれてしまい、最後は涙する桐生の腕の中で「峯に負けないで」と言い遺して息を引き取った。
新垣 幹夫(あらがき みきお)
声 - 宮川大輔
力也や名嘉原に憧れて極道の世界に足を踏み入れた琉道一家若衆。髪は金髪で、少々太めの体格をしており、まだ新人なためにミスが目立つところもあって特に食費では琉道一家の家計を困らせている。また、琉球街に実の父親がいるために地元住民からも「幹夫ちゃん」と呼ばれたりとどこか憎めないような愛嬌を持ち、また大工を目指していた時期があったためにアサガオに来たマメ用の犬小屋を作ったこともある。協力闘技では戦う事が可能で、戦闘では相撲で戦う。力也が敗れた後は彼と同様に桐生と和解し、以後は桐生のことを叔父貴と呼ぶようになる。その後、強引に土地買収をしようとする峯と玉城組からアサガオを守ろうとしたが、玉城組の構成員が破壊しようとする犬小屋を守ろうとして重傷を負ってしまう(犬小屋も後に破壊された)。その後のエピローグでは一命を取り留め、無事に退院した後に再び犬小屋を作る。
(さき)
声 - 庄司宇芽香
名嘉原の養女。12歳。スケッチブックを用いた意思疎通を行うが、年齢に似合わぬ卓越した画力を持っている。両親から虐待を受けた挙句に母に捨てられ、更には父が首を吊って自殺する光景を目撃した経験から心因性失声症となるが、後に名嘉原銃撃事件の襲撃者を目撃した際は犯人の似顔絵を桐生に渡し、また実父のように慕っている名嘉原の似顔絵を玉城や実の母に誘拐されて桐生に救われた後に渡す。その後、闘牛に襲われる名嘉原の窮地に声を発して以降は会話が出来るようになり、アサガオの子供達とも打ち解ける。
上野誠和会
『4』に登場した25年前には東城会と権力争いをしていた極道組織。東京都下の郊外に拠点を持ち、冴島による襲撃事件から東城会と「親戚」としての関係及び神室町不可侵の盟約も同時に結ぶが、組織の小ささから月毎に「寄付」という形で東城会に上納金を支払っており、親戚団体というよりは傘下組織的な扱いをされている。物語後半には事実上のトップである葛城の死と谷村や桐生との衝突により壊滅状態に陥る。
上野 吉春(うえの よしはる)
声 - 矢田耕司
上野誠和会総長。25年前に出所直後に立ち寄ったラーメン屋にて冴島の襲撃を受けて組員18人を殺害されるも負傷はせずにこの事件を契機に東城会と和解し、また事件の際に自分の身を挺して庇ってくれた葛城を若頭に昇格させる。その後、高齢のために組の指揮を全て葛城に任せた上で自身は病床に伏せることとなる。
(かつらぎ いさお)
声 - 立木文彦
上野誠和会若頭で、25年前の襲撃事件における数少ない生き残り。47歳。狡猾かつ用心深い性格で、目的のためには自ら傷を負うリスク等も含め、手段を選ばないが、その反面、味方に対しては隙を見せやすく、容易に裏をかかれてしまったり、自分が立てた計略に狂いが生じたり、自らが窮地に追いやられると、露骨に動搖を見せるなど詰めが甘く策士と呼ぶにはやや杜撰な一面もある。冴島を助けようとしていた靖子を唆して自身の直属の殺し屋に仕立て上げたり、自身と接触した谷村を罠に嵌めるなどしていた他、自らの出世のために柴田と共謀して25年前の襲撃事件を裏で仕組んだ[注 30]が、杉内と宗像の力によりその事実は隠蔽される。その後は上野誠和会の若頭補佐である伊原が金村興業若頭である新井に殺害されたことを東城会会長である堂島大吾に訴え、和解の条件として新井の首もしくは建設中の神室町ヒルズの経営権を要求するが、手を組んでいた宗像の介入で失敗した。その後、宗像に対して優位に立つために賽の河原で冴島と靖子を拉致し、二人の身柄と秋山から奪った1000億と引き換えに極秘ファイルを取引しようとするが、城戸に撃たれて極秘ファイルを強奪される。しかし、万一に備え、防弾チョッキを着込んでおり、それを見抜いた冴島を隙を突いて銃撃するが、靖子が必死に庇ったことで失敗し、皮肉にも冴島を陥れた25年前の襲撃事件と類似した状況となった中で、瀕死の状態の靖子に谷村から預かった拳銃を向けられて怖気づき、命乞いをするも覚悟を決めた彼女に頭を撃ち抜かれて絶命する。
(いはら まさる)
声 - 藤本たかひろ
上野誠和会若頭補佐。戦闘ではキックボクシングを使う。葛城の指示で三島と共に神室町内のキャバクラである「エルナード」で暴れていたところを秋山に一蹴されて逃亡し、その後は仲介に入った新井によって射殺される。
三島 豊(みしま ゆたか)
声 - 金光祥浩
上野誠和会構成員で、伊原の弟分。エルナードで秋山に喧嘩を吹っかけるもあっさり気絶させられ、伊原に連れられて逃亡する。伊原の死体を発見後は上野誠和会本部へ駆け込むが、偶然にも隣室で葛城の電話を聞いてしまい、電話の内容から自らの命が危険と察知し、長い間は隠れ過ごすようになる。その後、事件の一連を語ることを条件に身柄を確保してほしいと谷村に強く願望したが、直後に葛城と繋がっていた杉内に射殺された。
山笠組
『5』に登場した福岡の永洲街を治める組。永洲街の北側に本部を構えており、構成員は傘下組織も含めてジャージを着用していることが多い。
斑目 忠(まだらめ ただし)
声 - 内海賢二
山笠組組長。常に冷静に戦力の分析や極道が抱える現状を理解しており、プライドを捨てて盃交渉にやってきた堂島大吾を敬って受け入れようとするなど抗争ではなく対話による解決もあると考えている。また、古い極道らしく礼儀作法を重んじ、若くも礼節を弁えている大吾の姿勢に共感を覚え、全国規模の東城会や近江連合に比べて所詮は一地方の勢力に過ぎない山笠組であることを自覚している。東城会との盃交渉の際は青山の騙し討ちに遭って重傷を負うも一命を取り留める。その後は病室に桐生を呼び出し、全面戦争を避けるために山笠組の解散を宣言すると同時にその書状を桐生に手渡すが、解散してもらいたくない桐生によって八幡の前で破り捨てられる。その後、神室町から黒澤一派を追い出すために八幡組一同を引き連れて駆け付ける。
八幡組
『5』に登場した組。永洲街の中心部付近にあるビルを拠点としている。
八幡(やはた)
声 - 浜田賢二
山笠組若頭で、直参八幡組総長。赤ジャージを着て永洲街を闊歩し、街の風紀を守っているが、血気盛んな性格で、考えるよりも先に手が出る性質である。また、斑目を担ぎあげることを一義に置いているために東城会のような巨大な組織に対しても強い態度を崩さず、巨漢にスキンヘッド、頭の大きい傷跡が見る者を威圧するが、義理人情に厚い一面を持つ。戦闘ではボクシングが主体だが、パンチだけではなく蹴り技や頭突きも使用する。青山の策略によって斑目襲撃の実行犯を桐生と誤認し、拳を交えるも敗北した。その後、解散宣言の書状を目の前で破った桐生にまたも勝負するも再度敗北し、桐生に恩義を感じるようになる。また、東城会に対して激しい復讐心を抱き、全面戦争も辞さない構えでいたが、桐生の男気を知って山笠組の命運を彼に託すと桐生が言葉通りたった一人で東城会を倒すのを見届け、その実力に驚愕した。その後は神室町から黒澤一派を追い出すために八幡組を連れて駆け付け、黒澤の野望を阻止する。
北方組
『5』に登場した組で、札幌の月見野で「雪まつり」を中心とした地元のお祭りを仕切るテキ屋の元締め。一方で、裏では非合法である裏カジノの経営も行っている。
北方 大蔵(きたかた たいぞう)
声 - 塩屋浩三
北方組組長。地域密着型の極道として知られており、それ故にみかじめを一切取らない。堂島大吾の代理で札幌を訪れた真島吾朗から五分盃を交わしたいとの話を受けるが、その会談の最中に起こった真島吾朗死亡事件の容疑者として冴島から疑われる。その後は冴島に真実を語る前に馬場に狙撃されて意識不明の重体に陥るが一命を取り留め、終盤では黒澤一派を追い出すために、渡瀬の招集を受けて北方組一同を率いて神室町に駆けつける。
陽銘連合会
『6』に登場した東城会や近江連合に次いでNo.3の座に位置する広島の名門の極道組織。巌見造船を始めとする巌見グループをフロント企業としており、広島一帯を支配する程の力を持ち合わせている。また、他のどの組織からも中立を貫いており、近江連合とも過去に何度か抗争をしている。
(いわみ へいぞう) / 来栖 猛(くるす たける)
声 - 津嘉山正種
巌見造船の創設者で、「来栖猛」の渡世名として務めている陽銘連合会の会長。世界的規模の造船会社を一代で築き上げた程の辣腕を誇り、100歳近い高齢を感じさせない威厳も放っている。また、実権は息子である恒雄に委ねているが、その存在感はいまだ健在で、国の政治にも影響力を持つとされている。大道寺稔から課せられた「尾道の秘密」を守るために陽銘連合会という組織を旗揚げし、更にはその秘密を子分である広瀬徹に打ち明けた上で直属の刺客として秘密を守るための口封じを命じるようになる。その後、桐生と対面した際には恒雄への牽制を目的に東城会と五分の盃を交わすために桐生に見届け人になるように頼むも断られる。その後は尾道の秘密が隠された現場に姿を現し、直後に秘密を知った桐生及び南雲達の始末を広瀬に命じ、それを拒否されたために広瀬を殺害するが、自身も尾道の秘密を桐生らに暴かれたために大道寺から見限られた上に彼から殺害の依頼を受けた恒雄の裏切りに遭い、最後は恒雄と通じていた小清水によって銃殺された[注 31]。
小清水組
小清水 寛治(こしみず かんじ)
声 - 谷田歩
『6』に登場した陽銘連合会若頭で、直系小清水組組長。会長に代わって現在の陽銘連合会の実質を握っているとされており、陽銘連合会の後継者と目されている。また、若頭まで昇りつめるだけの頭脳と度量を持っているが、根本は武闘派であるために強者との死闘を渇望している。戦闘では主にドスを使用し、ドスによる鋭い攻撃や腰だめにドスを構えての突進といった攻撃の他、最終決戦では防御を崩す程の重い打撃を武器に素手でも戦う。菅井や巌見恒雄と裏で繋がっているために彼らに従って動いており、恒雄の命を受けて会長である来栖猛(巌見兵三)の殺害も行うが、次第に使われることに嫌気が差すようになり、二人の命で捕らえた笠原清美を射殺しようとした際には彼女の為に自らの命を投げ打った染谷の行動に同情し、敢えて空砲で彼女を助け、清美が殺されたと誤認された後は彼女を密かに匿う。その後、最後の戦いではその真実を明かす事なく大勢の手下と共に桐生や南雲を相手に戦うも敗北する。事件後は清美を解放し、更には恒雄の逮捕で不在となった陽銘連合会の会長に就任する。
舛添組
舛添 耕治(ますぞえ こうじ)
声 - 高木渉
『6』に登場した陽銘連合会直系舛添組組長だが、実は祭汪会の構成員である。極道然とした厳めしい容姿と粗暴な振る舞いをしており、カタギだけでなく部下からも恐れられている。戦闘では中国武術らしき技を駆使する他、必ず部下を連れて対峙し、部下を巻き込んでの攻撃や倒れた部下に発破を掛けて起こすことで戦線復帰させるといった戦法を取る。達川と同様に黒孩子だった時に祭汪会に救われており、構成員となった後はロウの密命を受けて彼の息子である宇佐美勇太を幼少の頃から監視し続け、彼が陽銘連合会に所属した時には自身も達川と共に監視のために陽銘連合会に入るが、後に澤村遥が勇太の子供を妊娠したことを知るとロウの命を受けて出産を阻止するために達川と共に遥に対して「子供を墜ろすよう」に迫る。その後は広瀬によって遥が匿われてしまったために取り逃がしてしまい、後に遥がハルトを出産したことを知ると遥を取り逃がしてしまった事もあってそれをロウに報告することも出来ず、結局は隠し通そうとしたが、ロウのもう一人の息子であるジミー・ロウが殺されたことをきっかけに祭汪会が勇太の身辺を探るようになってしまい、それによって「いつか事実を知られるのではないか」と焦るようになる。その後はいざこざの末に己の身分を桐生達に明かし、以降は祭汪会の構成員として行動するが、後に遥の件もあって裏切ろうとした達川が祭汪会に全てを露見された後で粛清された様をエドから直接聞かされ、それにより「いつかは自分も達川の二の舞になるかもしれない」と怖気づき、広瀬に対して「会長に自分を匿ってもらえるように口利きする」という条件で桐生達に全てを明かす。その後、ジングォン派の構成員が襲撃してきたことでその場から逃げ出すが、襲撃前に桐生らの前で全てを明かしたことで用済みとなり、最後は海岸まで逃げたところで広瀬によって射殺された。
広瀬一家
『6』に登場した広瀬徹が仕切る舛添組系の末端である四次組織。尾道仁涯町の寂れたスナック街を縄張りとしている構成人数5人ほどの弱小組織だが、組織内の規律のようなものは一切なく組員達はいずれも家族のように接し合っており、信頼関係は厚い。
南雲 剛(なぐも つよし)
声 - 宮迫博之
広瀬一家若頭。良くも悪くも感情豊かな義理人情に篤い性格で、ヤクザでありながら、惚れた弱みで笠原清美からみかじめを取らないなど実利よりも情を優先しがちな面がある。また、清美を助けに行く際に正体がバレないように被った覆面をうっかり脱いで正体を晒してしまったり、神室町を訪れた時には桐生達の目を盗んでこっそりソープに行くなどの粗忽な部分が目立つため一家の若衆から極道としてはあまり尊敬こそされていないが、根底では彼らのことを大切に思っており、その憎めない人柄も相まって友人としては慕われている。若頭という肩書きに恥じぬ強さも秘めており、東城会やジングォン派、祭汪会といった名だたる極道やマフィアの構成員を複数人以上同時に相手にして軽く叩きのめしたりと確かな喧嘩の実力も持っている。戦闘では右の拳骨を高く掲げた構えを取り、大振りながらも勢いを乗せた打撃、とりわけ頭突きを得意としており、ドロップキックやフライングクロスチョップといったプロレス技も繰り出す。当初は広島を訪れた桐生を恋敵であると決めつけて一方的に目の敵にし、街中や草野球の試合などの事ある毎に突っかかっていたが、清美の店からみかじめを取らない一件で舛添から責め立てられた際に連れ去られて暴行を受けていたところを桐生に救われ、その際にどれだけ痛めつけられようともシノギよりも清美を守るという信念を曲げなかった姿を見た桐生から、その侠気を認められ、自身も考えを改めて桐生を兄貴と呼び慕うようになる。その後は遥の事故の真相を追うために桐生と行動を共にし、桐生の片腕としてジングォン派や祭汪会、小清水や菅井といった強敵を相手に奮闘し、終盤には桐生からも「兄弟」として認められる。事件終結後は広瀬一家の建て直しに奔走する一方で、清美の元夫の染谷から清美と娘のヒロミを託されたことで尾道仁涯町にヒロミを迎え入れて二人を守っていくことを誓う。
宇佐美 勇太(うさみ ゆうた)
声 - 藤原竜也
広瀬一家若衆。当初の桐生やハン、ビッグ・ロウなどの敵視する人間には向こう見ずに突っかかろうとする好戦的な面もあるが、一方では桐生とのいざこざから野球の試合に遅れそうになった南雲を咎めようとしたり、過去には広島を訪れた遥を守るために彼女に付け狙うルポライターを撃退したりと真面目さや優しさも持ち合わせている。幼馴染の達川に誘われるまま何となくヤクザになり、遥や桐生と出会うまでは夢も持てず広瀬一家のみがまともな居場所だった。戦闘ではバックハンドブローや回し蹴りなど、回転の勢いを利用した強力なラッシュを繰り出し、桐生のラッシュを振り払う程の威力を持つ。桐生が広島を訪れた時には南雲に付き合わされる形で度々対峙していたが、いざこざを経て南雲と同様に彼を兄貴と呼ぶようになる。遥の事故の真相を追う桐生と行動を共にするが、後に自身がビッグ・ロウの息子(同時にジミー・ロウの弟)でハルトが自身と遥との間にできた子であること、自身の血筋が原因でハルトが狙われていることが判明し、遥やハルトを守るために祭汪会の本部に火を放ってビッグ・ロウを道連れに死のうとしたところを助けに入った桐生に親子共々助けられる。その後、父親と和解には至らなかったが、自身を取り巻く環境の全てを受け入れ、桐生や広瀬一家の仲間と共にハルトを巡る事件に終止符を打ち、事件後は沖縄に渡ってアサガオで遥やハルトと共に暮らす。
松永 孝明(まつなが たかあき)
声 - ドロンズ石本
広瀬一家若衆で、勇太や直人の兄貴分。見た目の厳つさに似合わず、勇太がハルトの父親である事が発覚した際に場の空気を読まずに不謹慎な失言をして南雲に殴られる等のマイペースな性格だが、極道として筋を通す信念と男気を持っており、弟分達からは慕われている。また、店に戦艦大和の模型を飾る程の模型や船が好きだったりブス専という一面を持つが、それが災いしてシノギとして店長を任されている「モレノ」というスナックでは従業員は順子という不細工な女性一人のみで、客足はあまり良くない。戦闘では背筋を伸ばしたガードの低い構えから肘打ちや膝蹴りを中心とした近い間合いでの攻撃を仕掛けてくる。当初は桐生を目の敵にし、南雲が彼を兄貴と呼び慕うようになっても尚も桐生を認められずにいたが、小清水に捕まった際に助けられ、更には桐生の素性を初めて知ったことで彼を兄貴として認めるようになる。その後、南雲や勇太、田頭と同様に桐生と行動を共にし、時には共闘したりと彼に協力し続け、最終決戦にも参戦する。
田頭 直人(たがしら なおと)
声 - 細谷佳正
広瀬一家若衆。若頭の南雲よりシノギに真摯な松永を慕っており、天然ボケ気味な松永を支えるために頻繁に行動を共にしている。また、一家の構成員としては唯一ネットやSNSに通じており、博識かつ気の回る性格をしている。戦闘では柔道のように襟を守る構えを取り、大振りなパンチや足払い、巴投げといった技を用いる。桐生と協力関係を築いてからはその博識ぶりをいかんなく発揮してナビゲーターのような活躍をしたり、桐生と行動を共にするようにもなって度々共闘する。
海外組織
蛇華
『1』から登場した中国に本部を置いて横浜一帯を取り仕切っている中国系マフィア組織。『3』で劉の死により日本支部はほぼ壊滅したが、『4』ではその残党が活動していることが判明し、『6』では再進出をしていることも明らかになるが、新たに日本に進出してきた同じ中国マフィアの祭汪会の勢いに飲まれたために以前に比べると遥かに弱体化している。
劉 家龍(ラウ・カーロン)
声 - 龍澤慎一(『1』『3』)、森川竜太(『極』)、後藤ヒロキ(『ONLINE』)
身長183cm、体重79kg、AB型
蛇華の日本支部総統で、中華料理屋「翠蓮楼」のオーナー。48歳。中国武術の達人でもあり、戦闘では素手の格闘に加えて大刀や柳葉刀の二刀流、鏢や鉄の鉤爪といった多彩な武器を使いこなす。1993年には偽造パスポートの代金値下げのために桐生に薬入りの祝杯を飲ませて威嚇のために凄惨な拷問にかけた上でなぶり殺しにしようとしたが、風間が単身で救出しに来たために失敗に終わる。その後、2005年には100億円を手に入れるために嶋野と組むが、100億を入手した際の取り分が予想未満だったことに腹を立てて遥を神室町のギャングを利用して捕らえ、更には手に入れたペンダントを「ケチな男」の嶋野ではなく錦山に売る。その後は遥を使って神宮を強請ることで大金を入手しようと画策するが、遥を救出しに乗り込んできた桐生に倒される。
『3』では51歳。浜崎と協力しており、部下と共に神室町へ侵攻して力也を拉致することで桐生を誘き寄せたが、桐生との戦いに敗北する。その後、部下に命じて力也を殺そうとするも風間譲二に襲撃されて失敗し、最後は自身も頭を撃たれて死亡した。
『ONLINE』でも過去のストーリーで登場。100億円事件の終結直後、蛇華本部から100億円入手に失敗した責任を追及され、日本支部総統の座を追われる危機に立たされるが、後釜としてやってきたリー・ロンツァンを打倒す事で総統の座を守りきると、改めて桐生への復讐を誓った。
イェンロン
『2』のサブストーリーに登場した蛇華の構成員。ラウと同じく白蓮師の元弟子でもあり、自身の拳法の腕前はラウ以上と自負している。戦闘では『2』ではラウ、『極2』ではブルース海老沼に似た格闘スタイルで戦う。白蓮師を始末して蓮家拳法(『極2』では劉家拳法)の看板を奪うために刺客を差し向けるも桐生の介入により失敗し、最終的には自ら白蓮師の元へ赴き、桐生の素性を暴露した上で襲い掛かるも返り討ちにされる。その後、二度と白蓮師には関わない事を誓って退却した。
孫(ソン)
『6』のサブストーリーに登場した覆面をした蛇華の構成員。名を挙げてラウ亡き後の蛇華日本支部を牛耳る事を目論むなどの野心を持つが、相手の力量を把握しなかったり、周りの状況を確認しない視野の狭さから桐生から「小利口なだけの小者」と評された。戦闘ではブルース海老沼に似た格闘スタイルで戦う。神室町でモニタージャックや爆破テロといった祭汪会に対するプロパガンダを引き起こした後は桐生を誘き出し、本国から呼び寄せた精鋭部隊と共に桐生に襲い掛かるも返り討ちにされる。その後、自分に止めを刺さない桐生の甘さを指摘したが、組織への裏切りが露見した事で見下していた姜に制裁をされることに絶望した。
姜(ジャン)
『6』のサブストーリーに登場した黄色いジャージを着た蛇華の構成員で、孫の部下。戦闘では李に似た格闘スタイルで戦う。爆破テロを引き起こすもその様子を桐生に目撃され、逃げ出したところを追い詰められる。その後桐生に自分達の現状と爆破テロを起こした理由[注 32]を吐露したが、桐生に「祭汪会に手を出すのはやめておけ」と諭される。その後は桐生に勝つ事はできないと悟り、祭汪会から手を引く事を考えたために組織の裏切り者として孫に殺されそうになるが、桐生に助けられる。その後去って行く桐生に対し、「神室町に桐生がいる限り祭汪会もいずれ手を引かされる。だから我々もその時までは引きさがってやる」と言い残した。
真拳(ジングォン)派
『2』に登場した、1980年代当時に神室町で大きな勢力を誇っていた韓国マフィア。その時期に敵対していた堂島組に壊滅させられたが、後に組織の実態を掴みかねていた警察が街の治安回復のために堂島組の襲撃を事実上黙認して壊滅を任せた形を取ったことが別所によって明かされている。日本にいた36人のうちの金大津、池頻敏、朴会宗の三人は生き残っており、大津と頻敏は後々に復讐活動を行うが、最終的には生き残り及び本国の構成員のほとんどが桐生や狭山らの活躍で倒された。『6』では新たなボスとなったハン・ジュンギの辣腕と巌見造船からの支援によって組織を再興させると同時に全盛期に近い勢力まで巻き返しに成功しており、神室町に再進出していたが、後に全戦力を投入する形で向かった尾道で桐生や広瀬一家との抗争に敗れ、最終的にはハンの死によって日本国内の勢力は完全に壊滅した。
ボス
回想に登場。1980年当時の神室町における真拳派のボスで、鄭秀淵の夫であり、郷田龍司の実父でもある。堂島組の構成員などを殺したために真拳派の始末を命じられた風間と嶋野を相手に戦い、直後に抹殺を拒んだ風間から和解を申し出されるも風間が危機に瀕したと思い込んだ桐生が乱入し、桐生に銃を向けた瞬間に風間に撃たれる。その後、この一連の出来事を風間の謀略と信じたまま、直後に駆けつけた瓦に子供を頼むと告げて息絶えた。
津村(つむら)
真拳派の構成員。津村という名字は日本名で、本名は不明である。戦闘では『2』ではムエタイ、『極2』では李に似た格闘スタイルで戦う。利害の一致により手を組んだ郷田龍司の命で風間組事務所爆破を請け負い、また花屋のアジトに潜り込んでスパイとして暗躍し、倉橋が花屋のアジトに乗り込んだ時には桐生に発砲しようとしたが、薫に阻止されて手を撃たれる。その後は寺田と共に現れて桐生を亡き者にせんと襲い掛かるも敗れた。
康 珍羽(ガン・ジンウ)
声 - 桐本琢也
真拳派の構成員。整形手術によって一輝と入れ替わり、ユウヤをも欺く。その後、桐生や伊達、瓦を誘き寄せ、更には監禁していた一輝を含めた4人を殺し合いに見せかけて始末しようと目論んだところを直接対面した瓦に見抜かれ、それでも瓦と一輝に重傷を負わせるも銃声を聞きつけた薫に撃たれて絶命する。
金(キム)&崔(チェ)
真拳派の構成員の二人。戦闘では連携技を得意とし、金は『2』ではパンチ技を主体とした攻撃、『極2』ではベースタイプの渋澤に似た格闘スタイルで戦い、崔は『2』ではムエタイ、『極2』では久瀬に似た格闘スタイルで戦う。康を助けるために柄本病院に乗り込み、運ばれたのは康ではなく一輝だったことで立ち去ろうとするが、その際に止めに入った薫を殴り飛ばした事で桐生の怒りを買い、二人まとめて叩きのめされる。その後、瓦に脅されて自分達の正体を白状した。
沈(シム)
真拳派の構成員。『極2』にて名前が判明する。本国から送り込まれた精鋭部隊の一員であり、無関係の人間を躊躇いもなく殺害するなどの冷酷さを持つ。戦闘では『2』では素早い動きと投げナイフを中心とした戦法を使い、『極2』では曹に似たナイフ捌きで戦う。ミレニアムタワー爆破や郷田仁の誘拐に加担しており、組織の掟に背いた村井を始末するために桂馬を襲撃するも桐生と狭山によって叩きのめられ、直後に指輪に仕込まれた毒薬を飲んで自害した。
黒装束の男
真拳派特有の黒装束を身にまとった名もなき真拳派の構成員。戦闘では主に足技が武器で、木箱を蹴って飛び道具にしたり、『極2』ではリチャードソンに似た格闘スタイルで戦う他、刃が飛び出す靴を装着したりと多彩な攻撃方法を持つ。構成員の中でもかなりの実力者で、天野ビルや高速道路(トレーラー上)、神室町ヒルズ(エレベーター内)と各場所の最後の刺客として桐生と戦うがいずれも敗北する。
韓 俊基(ハン・ジュンギ)
声 - 中村悠一
『6』に登場した真拳派の当代のボスで、スターダストの現オーナー。銀色に染めた髪が目立つ整った容姿をしており、普段はスマートな振る舞いを崩さないが、時には制裁として部下の顔を熱した網に押し付けて大火傷を負わせるなどの禍々しい残忍性を有する。ただし、劇中で前記の制裁を行ったのは、その部下がスターダストを尋ねてきた桐生達を無碍に追い返すという無礼を働いた為であり、それ以外の場面では、勇太を人質に取ろうとした構成員を咎めたり、自身を打ち負かした桐生の勝利を称えたりと、(特に戦いにおいて)「スポーツマンシップ」ともとれる公明正大な一面を見せる。また経営者としての腕もあり、巌見造船を後ろ盾とした豊富な資金力で神室町の風俗店を手当たり次第に買い取った後、スターダストを普通のホストクラブの裏で「おさわり系ホストクラブ」を営業する店へと様変わりさせるなどして勢力を拡大させている。戦闘ではもっぱら拳による打撃のみを駆使するボクシングのようなスタイルを取る。亜細亜街の大火事後に巌見恒雄と結託し、前述の資金力を得る代わりとして彼の計画の手助けをしてきたが、後に恒雄の命を受けて達川が遥からハルトを奪う場面を見届け、そこで遥の事故を目撃することとなる。その後、達川の情報を求めてスターダストを訪れた桐生達に自分との戦いに勝てば情報を教えると提示し、最初に戦いを挑んできた勇太を叩きのめすが、次に戦いを挑んできた桐生に敗れ、直後に達川に関する情報を伝える。その後は恒雄の命令でハルトを奪うために桐生と広瀬一家の前に構成員と共に現れ、自身が桐生の相手を引き受けている間に構成員を使ってハルトを奪うことに成功する。その後、造船所で桐生と広瀬一家を待ち受け、自身のところまで辿り着いた桐生に全ての真相を明かして彼と殺し合い[注 33]をするも敗北する。敗北後はジングォン派の撤退を告げた上で桐生に尾道の秘密に関する情報を伝えるが、最後は密かに桐生の後をつけていた広瀬に口封じの為に射殺された。
ブラックマンデー
『3』に登場した世界的に暗躍する武器密売組織。構成員のほとんどをCIAに潜り込ませており、首領であるリチャードソンも一員として暗躍する。
アンドレ・リチャードソン
声 - チャールズ・グラバー
身長196cm、体重89kg
ブラックマンデーの首領で、大吾や名嘉原を撃った張本人。51歳。戦闘では鋭い足技を中心とした素早い攻撃の他、最終決戦では二挺拳銃と散弾銃を用いて巧みに使い分けながら戦う。神室町に構成員を引き連れて桐生に襲い掛かるも敗北した。その後、東都医大病院で二度も桐生に襲い掛かるも再び敗北した。その後は屋上で用済みとなった峯と桐生を殺そうとしたが、直後に意識を取り戻した大吾に撃たれて負傷し、その隙を突いた峯に羽交い絞めにされ、彼と共に飛び降りの道連れとなって死亡した。
『ONLINE』でも登場し、神室町での観光を楽しんでいた。
祭汪会
『6』に登場した香港マフィア。多くの黒孩子を日本に匿った上で戸籍を与えるという「ヒューマン・ロンダリング」と呼べる活動を陽銘連合会と結託の上で行っており、そうして日本に渡った黒孩子達を組織の様々な指示に従わせている。また、組織の幹部を血縁者で固めるという文字通りの「血の掟」が存在しており、背いた者や脅かした者は女子供や、例え総帥であろうとも残忍な手口で粛清される。
ビッグ・ロウ
声 - 森田順平
祭汪会の総帥。組織の掟に従い、残忍かつ容赦の無い行動を取りながらも、一方では相手を殺せばまた自身の命を狙う者が増えてしまうと見なして不用意に手を出さない冷静な面や、曲がりなりにも我が子の事を気にかけようとする親としての情も持ち合わせている。陽銘連合会の会長の座を狙う巌見恒雄によって息子であるジミー・ロウ共々利用され、その過程で東城会と結託して亜細亜街の大火事を起こすが、大火事の後は恒雄から用済みと見なされ、更にはジミーを殺されてしまう。その後は恒雄に恨みを抱くようになり、ジミーの敵討ちのために神室町への進出を本格的に開始したが、後にもう一人の息子である勇太が己の出生に秘められた真実を知り、自身もろとも道連れにするために起こした火事に飲まれそうになったところを桐生に助け出される。脱出した後は桐生と勇太に広瀬の正体を伝え、勇太とハルトには手を出さない事を約束する。最後は祭汪会の掟を守れなかったことでまもなく始末される事を悟り「二度と姿を見せる事は無い」と言い残し、桐生に尾道の秘密に近づくヒントになる暗号の画像が納められたSDカードと勇太の事を託して神室町から去って行った。
エド
声 - 間宮康弘
祭汪会の幹部で、巨漢にスキンヘッド、サングラスがトレードマークのビッグ・ロウの親戚。饒舌かつ嫌味たらしい性格で、組織にとっての殺害対象を敢えて痛めつけて殺すというサディスティックな嗜癖を持ち、実際に手打ちのために来た東城会の構成員や裏切った達川を残忍な手口で殺している。戦闘ではカランビットと呼ばれる鎌状のナイフと拳法を使いこなし、その巨体からは想像もつかない身のこなしで相手を追い詰める。桐生達と何度も対峙するが、後に勇太が決死の覚悟で起こした火事に巻き込まれ、桐生に逃げるように言い捨てられて最終的には亜細亜街から逃亡した。
『6』の体験版ではチャンという名前で登場していて桐生抹殺を計画していた。喫茶アルプスで待ち構えていて傷の男と戦闘を行うが敗北してしまう。
ジミー・ロウ
声 - クリストファー・シュウ
ビッグ・ロウの実子(同時に宇佐美勇太の兄)で、祭汪会の筆頭後継者。父親に認められたいという功名心を巌見恒雄につけ込まれ、日本不可侵という方針を無視して亜細亜街の火事に加担する。その後、恒雄から父親共々用済みと見なされ、最後は恒雄と結託していたハン・ジュンギ及びジングォン派によって殺害された[注 34]。
達川 修(たつかわ おさむ)
元広瀬一家の構成員にして、その実態は祭汪会の構成員。黒孩子として中国に生まれ、後に祭汪会に拾われる。ロウの密命を受けて舛添耕治と共に宇佐美勇太を監視し続け、勇太が陽銘連合会に所属した時には舛添と共に監視役として陽銘連合会に入る。後に勇太の子供を妊娠した澤村遥を取り逃がしたという事実を祭汪会に知られることを恐れ、最終手段として遥からハルトを奪った上でハルトを巌見恒雄に売りつけて彼に寝返ることを画策する。ハルトを奪おうとした際には遥の抵抗に遭ったことで失敗し、直後に逃げた遥を車で追おうとしたが、横から来たトラックにハンドルを取られたことで彼女を誤って轢いてしまう。その後は裏切った事が祭汪会に露見し、エドによって恋人を殺すように脅されて殺害したが、直後に自身も喉を掻き切られた上に心臓をめった刺しにされるという無惨な手口で殺された。
その他の組織
亜門一族
『1』から登場した最強を自負する暗殺者集団。一族の者はいずれも透過率の低い黒のサングラスをかけているのが特徴で、「女は男と拳を交えてはならない」という鉄の掟がある。また、いずれも最終ボス以上の強敵で、最高まで成長させた主人公でも打ち倒すのは至難の業である。
亜門 丈(あもん じょう)
声 - 細川一毅[6](『3』 - 『5』)、田邉安彦(『0』)
シリーズを通して条件を満たすことで登場する隠しボス的存在のキャラクター。格闘術だけでなく銃火器や武具をも使いこなす戦闘のエキスパートで、古牧宗太郎すら倒す程の実力者であり、また人並み外れた体力も持ち合わせている。戦闘では二丁拳銃(荒瀬に似たスタイル)→素手(手榴弾等の投擲あり)→ナイフといった具合に段階的に戦闘方法を変えてくるのが特徴で、以降のシリーズでもこの形が取られている。敗れると「天よ、もはや一辺の悔いも無い」と言い立ち去っていく。
『2』では戦闘ではグレネードの投擲→グレネードガン→二丁拳銃(荒瀬に似たスタイル)→二振りのレーザーソードの順に武器を切り替えて戦う。桐生に倒されたことで彼を倒すために世界各地を回り、ありとあらゆる戦闘のスキルを会得し、究極の肉体作りに励む。その後、第一テストと称して桐生に三兄弟を送り込み、古牧を倒して秘伝書を奪った後、埠頭にて桐生と再戦する。
『3』では戦闘では二振りのレーザーソードを武器に戦い、一定の体力が減るとリチャードソンに似た二丁拳銃スタイルに切り替え、桐生の装備武器を使用不能にしてしまうほどの銃撃に加えて、鉤爪を装備したラウの動きや爆弾を放出するといった攻撃も見せる。「敗北した上に生かされることは死よりも屈辱だ」という激しい復讐心を持つことになり、桐生を倒すためにIF7を南田に開発させ、IF7のフィードバックシステムによって最高まで成長した桐生を圧倒する程の力を身に付けた。
『4』では戦闘では最初はヴァレリーに似た格闘術と手榴弾を用いて戦い、体力が尽きて復活すると弟子達のスタイルを使い分ける他、新たな兵器としてどこからかレーザービームを発動させてくる。主人公が4人に増えたことに合わせて弟子の一也や次朗、三吾と共に登場し、他の主人公達を弟子に任せて自身は桐生に勝負を挑む。
『5』では戦闘では桐生に似た格闘術を用い、主人公達の絶技である「怒龍の気位」と「エアストライク」の複合技による猛攻を仕掛けてくる他、体力が一定まで減ると怒龍の気位の発動と共に大量の傘型のミサイルを発射してくる。『4』と同じく一也や次朗、三吾と共に主人公達と対峙し、自身は桐生と対決する。
『0』では戦闘では桐生と同様の格闘術の他、投擲武器にポケットティッシュや回復剤の偽物を混ぜてインベントリの空きにねじ込む攻撃を繰り出す。また、一定の体力が減るとドスを取り出し、真島さながらの動きで翻弄してくる。一族の好敵手となるかを見極めるために真島と対峙する。
『極』では戦闘では『0』でのスタイルと基本的に同じだが、一度体力が尽きて復活するタイミングでスタイルを切り替える、グレネードの投擲やブレイクダンスのような起き上がり攻撃の追加、体力が少なくなる程に攻撃速度と移動スピードが速くなるなどの変更点がある。会話ではリメイク作である事を意識したメタフィクション的な選択肢が追加されており、どちらを選んでもプレイヤーに向けての感謝を述べる。また、敗北後は「天よ、もはや一辺の悔いも…有る!」と言って再戦を誓う形になっている。
『6』では戦闘では巌見恒雄や秋山といった強敵に似た格闘術とアルティメットヒートモードを駆使しつつ、多数のドローンを展開して桐生の行動を妨害しながら自爆機能付きの自動掃除機を用いて追い詰めてくる。また、窮地に陥ると桐生の強力な攻撃を防ぐ球状のバリアを張る。敗北後は「いつでも桐生の命を狙っていい」という条件付きで桐生会の仲間に加わる。
『極2』では戦闘場所がミレニアムタワー内部に変更されており、戦闘では最初は郷田龍司に似た剣術で戦い、体力が一定まで減ると二振りの刀を用いる他、『6』と同じく桐生の強力な攻撃を防ぐ球状のバリアを張る。敗北後は桐生の強さの源を探るために真島建設に入社し、闘技場にも参戦する。
『ONLINE』でも登場。
亜門 一也(あもん かずや)
『2』から登場した丈の弟子の一人。戦闘では二振りの大斧を使用する。最初の刺客としてチャンピオン街で桐生と対峙する。
『4』では戦闘ではヴァレリーに似た格闘術と素早い身のこなしを生かした高い回避力を武器に戦う。また、体力が一定まで減ると攻撃に対してよろけなくなり回避力も極端に上がる。主人公達に合わせて登場し、前哨戦と称して秋山と戦う。
『5』では戦闘では秋山と同様に素早い動きや足技を駆使し、翻弄してくる。主人公達に合わせて再び登場し、秋山と先鋒として戦う。
『極2』では髪が金髪になり、戦闘場所も七福パークに変更されている。戦闘では『2』と同じく二振りの斧を使用し、体力が一定まで減ると桐生の強力な攻撃を防ぐ球状のバリアを張る。敗北後は桐生討伐は他の弟子に譲り、桐生が亜門一族以外の者に討たれてはならないといった理由で真島建設に入社し、闘技場にも参戦する。
亜門 次朗(あもん じろう)
『2』から登場した丈の弟子の一人。戦闘では武器に特殊な銃を使う。二番目の刺客としてセレナ裏で桐生と対峙する。
『4』では戦闘では防御不可能の特殊なハンマーを扱い、常時少しずつ体力が回復する状態に加えて、体力が一定まで減ると移動速度や回避率が上がる。一方で掴みに弱いという弱点も持っている。主人公達に合わせて登場し、冴島と対峙する。
『5』では戦闘では金井に似た格闘スタイルで戦い、体力が一定まで減ると分身を生み出してくる。主人公達に合わせて再び登場し、冴島と対決する。
『極2』では戦闘では武器がマシンガンに変更になり、倉橋や飯渕に似た戦闘スタイルと閃光弾を用いる他、体力が一定まで減ると桐生の強力な攻撃を防ぐ球状のバリアを張る。敗北後は自身を打ち負かした桐生に対し、桐生が討たれるまでの間は力を貸すといった理由で真島建設に入社し、闘技場にも参戦する。
亜門 三吾(あもん さんご)
『2』から登場した丈の弟子の一人。戦闘ではバズーカ砲を武器に戦う。最後の刺客として劇場前広場で桐生と対峙する。
『4』では戦闘では最初はサブマシンガン一挺を武器に戦い、体力が一定まで減るとサブマシンガンを二挺に切り替える他、谷村と同じく捌き技を見せる。主人公達に合わせて登場し、谷村と相見える。
『5』では戦闘では品田と同様に様々な武器を使いこなし、体力が一定まで減ると押田天童に似た戦闘スタイルに切り替わり、大量の傘をミサイルのように発射する攻撃を行う。主人公達に合わせて再び登場し、谷村が不在のために代わりに連れてこられた品田と戦う。
『極2』では戦闘では武器が小型のバズーカ砲に変更になり、砲撃のみならず武器による打撃技も駆使し、体力が一定まで減ると桐生の強力な攻撃を防ぐ球状のバリアを張る。敗北後は桐生の強さに興味を持ったといった理由で真島建設に入社し、闘技場にも参戦する。
亜門 乃亜(あもん のあ)
声 - 南雲希美(『ONLINE』)
『5』に登場した特定の条件を満たすことで遥の前に姿を現す亜門一族の長女。他の亜門一族と同じくサングラスを着用しているが、愛用品はフレームがハート型の個性的なものである。ダンスバトルでは体力を大幅に削り取るヒートを使い、ライブバトルでは通常より複雑な譜面での対決を強いられる。丈に育てられて自らも暗殺の訓練を受けたものの、前述の掟により桐生と拳を交えられないことを歯がゆく思っており、後に遥がアイドルとして「戦い」の日々を送っていることを知って同じ土俵での勝負を挑む。エピソード終了後は亜門丈の桐生に対する執着とは違って遥をライバル視してはいるものの、殺害対象としては見ておらずに互いに競い合うライバルとして遥のことを認める発言をした。
『ONLINE』でも登場。サングラスを着用していない。春日に出会い、遥との経緯を語り、掟を破って助っ人となる。
亜門 創(あもん そう)
『0』に登場した亜門丈の父で、当時の亜門一族の長。戦闘では旧式の鋳造砲に似た大砲を使用し、正面の砲撃と上に向けての連続の砲撃に加え、桐生が気絶すると絶大な威力を誇るレーザービームを発射する。また、体力が減るとパワータイプの渋澤に似たスタイルで戦い、更にはヘリコプターを呼んで空から椅子や机(拾うとそれ等を振り回す)、無敵となるドリンクを落とすという攻撃も行う。桐生が一族の繁栄を阻む存在になることを夢で見たことで桐生と対峙する。
復讐者
『3』の「ヒットマン」のイベントに登場する、かつての錦山組若中だった荒瀬和人がボスを務める謎の組織。劇中ではボスである荒瀬を含めて21名のヒットマンが登場(部下を従えている者もいる)し、堅生会を潰すために行動している。
HIDEKI(ヒデキ) / 新崎 英輝(しんざき ひでき)
復讐者の一人で、その中でもNo.2と言っても良い存在。「神速の刃」と呼ばれるほどの素早いナイフ捌きを誇る実力者の殺し屋で、復讐者ではヒットマンのスカウトも行っている。戦闘ではナイフと素早い動きを武器に戦う。かつては凄腕のヒットマンとして活躍していたが、ある時に不意に金で利用される仕事に虚しさを感じて失踪し、荒瀬と出会って復讐者の一員となる。その後、ミレニアムタワーの前で「HIDEKI」としてギターの弾き語りをしながら情報集めをしていたが、遂に自身が動かなければならない状況となり、対峙した桐生に敗北したことでプライドを傷付けられ、荒瀬と同様に桐生への復讐のために再度激突し、それでも勝てずに最後は荒瀬と共に桐生に挑むも敗れ去る。その後は全てを知ったことで堅生会襲撃を止めると発言した荒瀬と共に去って行った。
コータロー
ポジティブかつ軽い性格の若者。「殺し屋」を名乗っているが、実際は人間の命を絶つということに対する恐怖心を克服できなかったことから誰一人殺しておらず、それを指摘されると逆上する。また、復讐者の幹部となっている高名なヒットマンの一閃の弟子であったために殺し屋だったことに対しては自分なりのプライドを持っている。戦闘ではスタンガンを使用する。かつて組にいたが殺しができない事からすぐに追い出され、街で恐喝の小銭稼ぎをしていたところを桐生に見つかり、対峙するも敗北する。堅生会に連れてこられた後は通販に興じたり、ネットニュースで和んだりとインターネットを満喫しているが、更生する意思も確かであるために復讐者のイベントが終盤に差し掛かると就職先を探すようになる。
『4』では桐生のサブストーリーに登場し、更生して社会復帰を果たしており、それでも勤務態度の悪さ(特に言葉遣い)からバイト先を転々としていたが、最終的には桐生のアドバイスに助けられたことで新たに就職した寿司屋「寿司吟」では接客時の言葉遣いと態度を改めることに成功した。
極道殲滅暗黒同盟
『4』の「チームエンカウント」のイベントに登場する、神室町に住む極道を善しとしない者が結成した「暗黒会」とも称される同盟組織。構成員はアジア圏のマフィアが多く、任務が発生した場合は発案者が指揮を取る形式となっている。アジアンマフィアの中で強大な力を持っていたラウの死をきっかけとして本格的に桐生の排除に向けての画策を開始し、後に神室の盾と神室町のギャングチーム「神室町アクアデビル」のいざこざに桐生が介入したことで始まった各ギャングチームによる「桐生ハント[注 35]」に便乗して桐生を仕留めようとしたが、結局は返り討ちに遭ってしまう。
ノワール
暗黒会四天王の一人で「玄武」の名を持つ黒いダウンジャケットを着た男。黒悪夢のリーダーであるランク0は実弟にあたり、彼を「我らの崇高な理想を理解できずに逃げ出したクズ」と嘲笑している。戦闘ではルチャで戦う。組織の邪魔者である桐生を排除するために桐生を呼び出すが、命令でしか動けずその命令の本質すら理解しないことから桐生に「自らの意思で動いていた分、弟の方がまともそうだ」と言われて逆上し襲い掛かるも敗北した。桐生に敗れた後、彼から「弟を見習って自分の意思で生きるんだな」と諭される。
BLUE(ブルー)
暗黒会四天王の一人で「青龍」の名を持つ香港出身の男。日本語と英語が入り混じった片言で話す。戦闘では鉤爪を装備し、ラウに似た格闘スタイルで戦う。組織の命令で桐生に襲い掛かるも敗北し、直後にその場から姿を消した。
ブラン
暗黒会四天王の一人で「白虎」の名を持つ元韓国マフィアの構成員。日本ではマフィア活動は割に合わないとして、暗黒会に加入した経歴を持つ。戦闘ではリチャードソンに似た二丁拳銃スタイルで戦う。他の二人と同じく組織の命令で桐生に襲い掛かるも敗北した。
ルージュ
暗黒会四天王の一人で「朱雀」の名を持つ、暗黒会を指揮していた仮面を被った不気味な男。戦闘では秋山やリチャードソンに似た格闘スタイルの他に極め技も使用する。たまに現れては神室町のパワーバランスをたった一人で変えてしまう程の桐生を「たまに来る天災レベル」と評して危険人物として目を付けており、ラウの死後に再び神室町に現れた桐生を始末する好機と思い、関東ギャングスターズの実質的なリーダーであるRAやパープルキラーズに桐生退治を依頼するが失敗し、最後は自身が動いて始末しようとするも敗北した。桐生に敗れた後、自分の命を狙った暗黒会に対して「今後狙われた際は気を付ける」と気にする程度の反応しかしなかった桐生の豪胆さに驚愕し去って行った。
神室町ファイブビリオネア
『0』の「神室町マネーアイランド」のイベントに登場する、神室町でもっとも多くの金を動かしていると言われる「娯楽王」「電脳王」「風俗王」「賭博王」「芸能王」の5人からなる億万長者の総称。神室町を5つのエリアに分け、それぞれが圧倒的な資金力と暴力的な圧力で金儲けというマネーゲームを楽しむ為、それぞれに暮らす人々を顧みることなく自分たちの金儲けを第一として強制的に次々とエリアを拡大している。桐生が山野井と共に解決策を講じ次々と桐生に倒され、黒幕である「金融王」が倒された後は、5人全員が桐生の仲間となり、それぞれのエリアの治安維持に務めている。
娯楽王 / 設楽(したら)
神室町ファイブビリオネアの一人で、天下一通りを根城としてパチンコ店経営を主とした娯楽産業で財を成した億万長者。ファイブビリオネアの中で唯一苗字が判明している。電脳王曰く「一番弱いビリオネア」で、サングラスにヒョウ柄のズボン、赤いシャツと遊び人風の風貌ながらも自身の管轄エリアから立ち退こうとしない山野井に暴力を振るうなど好戦的な性格をしている。戦闘ではブルース海老沼に似た格闘スタイルで戦う。街中で肩がぶつかった桐生に対し、威圧するも「金持ち喧嘩せず」と一言言い残し、去って行った。その後、自身のエリアの物件や土地を悉く桐生に買収されてしまい、最後の手段として桐生と戦うが敗れ、直後に現れた他のファイブビリオネアのメンバーからファイブビリオネアからの離反を突きつけられた。その後はファイブビリオネアに消される事を恐れて、手下の竹下楽太と共に桐生に仲間入りを志願した。
電脳王
神室町ファイブビリオネアの一人で、中道通りを根城として最先端技術の開発・投資で財を成した億万長者。IQ190の頭脳を持つ天才で、中道通りのゲームセンターに入り浸っており、自身を「IQ190のスーパーゲーマー」と称している。一方でオタク風の外見からは想像つかないほどに喧嘩も強く、チーマーに絡まれた際に全員返り討ちにし、彼らを従えるようになった。戦闘ではムエタイで戦う。桐生とゲーム勝負をしたりと常にゲーム感覚で戦うが、最後の対決では手段を選ばず、チーマーを呼び寄せて複数で桐生に挑むも敗北した。桐生に敗れた後は、桐生の経営能力を高く評価した上で、自身はゲーマーに戻る事を話し、手下の明電波也と共に桐生に仲間入りした。
風俗王
神室町ファイブビリオネアの一人で、ピンク通りを根城として風俗施設産業で財を成した億万長者。ごつい体にピンクのラメ入りボディコンを着たオカマであり、山野井からは「男の体に女の心、双方の気持ちがわかるからこそ大金を手に入れた」と評されている。また、ボッタクリ商法や店で働く風俗嬢を金で売り買いするなど良い噂はあまり聞かれず、ピンク通り周辺のヤンキー達に金と女をあてがい従えさせた。戦闘では相沢に似た格闘スタイルで戦う。桐生を呼び出す際に風俗の割引券を送るなど桐生を弄びながらも対峙し、最後には桐生を直接襲う強行手段に出るが、他の手下と共に敗北した。桐生に敗れた後は、「神室町を元に戻す為には大元を潰す必要がある」と進言し、自ら風俗経営のアドバイス強力を申し出て、手下のジャガーと共に桐生に仲間入りした。
賭博王
神室町ファイブビリオネアの一人で、劇場前広場近辺を根城として、驚異的な勝負強さで賭博に勝ち続け財を成した億万長者。金髪にスーツという出で立ちの元極道で、賭博で得た大金を元に極道から足を洗い、現在は裏カジノや自ら経営する賭博施設「キャットファイト」は元より、パチンコ店やレジャー施設などの経営や買収も行っている。また、極道時代の仲間をボディガードとして従えさせているなどファイブビリオネアの中でも芸能王と一、二の座を争うほどの財力とコネを持った一人でもある。戦闘では八幡に似た格闘スタイルで戦う。ギャンブルさながらのスタイルで桐生と対峙するが、最終対決では「最後にはなんとしても勝つ」という自身の哲学の元に仲間の極道と共に桐生に挑むも敗北した。桐生に敗れた後は、桐生の経営スキルの高さを評価し、桐生よりも大きな男になると意気込むが、対決後に現れた芸能王から「桐生に負けることを想定し、君の物件と資金を全て奪った」と聞かされ、一泡吹かせてやりたいと桐生に仲間入りを志願した。
芸能王
神室町ファイブビリオネアの一人で、ディスコの経営で財を成した「ディスコキング」の異名を持つ芸能プロダクションのマネージャー。利益を得る為ならば手段を選ばない性格で、芸能人志望の女性を斡旋したり、桐生に敗れた元仲間をあっさりと切り捨てるなどしていた。また、外人被れな口調とおちゃらけた雰囲気を醸し出しているが、一方ではファイブビリオネアの中でも最強と評される程の財力と実力を誇っている。戦闘では風間譲二に似た格闘スタイルを下地に持ち、素早いつかみ技や巧みな回避などで翻弄してくる。他のファイブビリオネアのメンバーと同様に最後には桐生に直接対決を挑むが、自身も敗れてしまう。その後、現れた金融王から用済みとして手下に桐生もろとも抹殺されそうになるが、桐生と協力して撃退し、直後に自身がして来た悪行を償うために桐生に協力する。
金融王
神室町ファイブビリオネアの元締めで、彼らを裏から操り神室町をマネーゲームの舞台に変えた張本人。普段は「ビリオネアルーム」と呼ばれる場所を根城としており、金のためならどこまでも非情になれる性格をしているために、我が強く拝金主義な性格の多いファイブビリオネアをもってして、逆らえば破滅は免れない存在として恐れられている。また、山野井の元同僚でもあり、かつては山野井と同じく不動産業を営んでいたが、次第に「世の中は金が全て」と独善的な思想に溺れ、マネーゲームに手を出そうとしたことで山野井と仲違いし別れる。その後はマネーゲームで稼いだ金を元に始めた金融業によりさらなる金を手に入れ、遂にはファイブビリオネアを利用して神室町を金で支配することを目論むようになる。戦闘ではリチャードソンに似た格闘スタイルで戦う他、茉莉奈から強奪した拳銃による銃撃も織り交ぜてくる。ファイブビリオネア壊滅後は桐生を始末した上で山野井から土地の権利書を奪う事で神室町を手中に収めようとしたが、山野井に銃を向けられたことで困惑して命乞いをするも断られる。その後、駆け付けた桐生の秘書である潜入捜査官の茉莉奈に今までの悪事を暴露され、自棄になって茉莉奈から拳銃を強奪して桐生達に襲い掛かるも返り討ちに遭ってしまい、直後に逮捕された。
蒼天堀ファイブスター
『0』の「蒼天堀水商売アイランド」のイベントに登場する、蒼天堀のキャバクラを牛耳っている人気キャバクラ5店舗のオーナーの総称。元々、蒼天堀にはキャバクラという新ビジネスの勢いの波に乗ろうとたくさんのキャバクラ店がひしめいていて栄えていたが、彼らが蒼天堀に出店してからは他のキャバクラ店に対しての嫌がらせや金を使ったキャストの引き抜きや暴力的な圧力など手段を選ばない手法によりどんどんと閉店に追いやられ、最終的にはファイブスター以外の蒼天堀のキャバクラはサンシャインのみとなった。また、彼らはお互いに手を組み自分たちの店だけで蒼天堀のキャバクラを独占しようと企んでいる。最終的な目標は、蒼天堀のキャバクラを独占しそこに渦巻く金や利権、人脈を手に入れた後に、蒼天堀で最も大きな力と金を持つキャバレー「グランド」を潰すことにあったが、真島と陽田によるファイブスター壊滅活動により、最後に月山が黒幕のことみと共に自首したことで消滅した[注 36]。
火野(ひの)
声 - 堀内隼人
キャバクラ「CLUB MARS」のオーナーで、蒼天堀ファイブスターの一人。上下赤のスーツに金色の蝶ネクタイとお坊ちゃん風の風貌をした拝金主義者で、月山からは「五本指のいわば小指」とあまり当てにされていない。招福町西に構えているMARSは、金持ちをのみをターゲットとした店となっており、「蒼天堀キャバクラランキング元気っ娘部門1位」に君臨している亜衣がNo.1として在籍している。また、キャバクラバトルでは、サンシャインの客を帰らせるフィーバーヒートを使う。真島が来る前からサンシャインに対していたずら電話や営業中に店で騒ぐなどの執拗な嫌がらせをしていたが、真島が来てからは本格的にサンシャイン立ち退きに乗り出し、真島たちが偵察しに来た際には「虫退治」と称して店員に暴力行為を指示するも真島に返り討ちにされた。その後、立ち退きに応じないサンシャインにキャバクラバトルを申し込むも敗北し、自身が負けた責任を全て亜衣に押しつけて無効を主張するが、その後に現れた月山により敗北したこととその見苦しさからファイブスターからの離反を突きつけられ、消されることを恐れてサンシャインを飛び出し逃げて行った。
木塚(きづか)
キャバクラ「CLUB JUPITER」のオーナーで、蒼天堀ファイブスターの一人。迷彩柄の作業着風の衣服を身にまとい、顔中にピアスを付けたいかつい風貌をした元暴走族総長で、ファイブスターの「汚れ仕事[注 37]」を任されている。文左衛門筋に構えているJUPITERは、キャストを休ませない経営から出勤率が高く、「蒼天堀キャバクラランキング連勤日数1位」の座に君臨し蒼天堀のキャバクラ嬢一の体力から「連勤の沙希」の異名を持つ沙希がNo.1として在籍している。また、キャバクラバトルでは、サンシャインのキャストの体力を減らすフィーバーヒートを使う。戦闘ではルチャで戦う。火野の敗北後、サンシャインに対して真島の留守中に手下を使い、陽田に暴行行為を働くなどの嫌がらせ行為をし、サンシャイン潰しに本格的に動き始める。その後は立ち退きに応じないサンシャインにキャバクラバトルを申し込むも敗れ、自身の負けを認めつつも今度は「男同士の拳の勝負」と真島に対して直接対決を挑むもこちらでも敗北し、潔く完敗を認めた(真島から「喧嘩は一流」と評された)。対決後は月山に消される事を恐れて身を隠す意向を示し、JUPITERを閉店させる事を決めた後、沙希に今までの詫びを入れ、真島に沙希を雇って欲しいと懇願して立ち去った。
水村(みずむら)
キャバクラ「CLUB MERCURY」のオーナーで、蒼天堀ファイブスターの一人であり、陽田に水商売のイロハを教えた師匠。真島に似たポニーテール風の髪型に水色の長袖シャツとスーツ姿の老紳士的な風貌をしており、かつてはその手腕の凄さから「キャバレーの獅子」の異名を取っていた。招福町に構えているMERCURYは、水割り1杯10万円という所謂ぼったくりバーで、複雑な家庭事情や体調面に不安を抱えるひびきがNo.1として在籍している。また、キャバクラバトルでは、サンシャインのキャストの調子を下げるフィーバーヒートを使う。サンシャインと敵対していく中で自身の過去が明らかになり、陽田の師匠でかつて蒼天堀の水商売を賑わせていこうと夢を語り合った仲であることや共にキャバレーを経営していた妻を亡くしたことから店が経営難に陥っていたこと、月山の誘いに乗ってキャバクラに経営転換し汚い経営に手を染めてまでも妻との思い出の店を存続させるために奮起していたことなどが判明する。サンシャインとのキャバクラバトルに敗戦した後は、自身の負けを認めつつも、成長した陽田を褒め称え、陽田から「共にまた仕事をしたい」と告げられるも断り、MERCURYの閉店を決意した。また、陽田と同様に真島の手腕も高く評価した上で、ひびきの事情を汲んだ上でサンシャインで雇って欲しいと懇願し、最後には「老兵はただ去るのみ」と言い残してサンシャインを後にした。
金原(かねはら)
キャバクラ「CLUB VENUS」のオーナーで、蒼天堀ファイブスターのNo.2。金色のジャケットを着たハンサム風の風貌をしたナルシストで、自らの風貌に魅せられた女を騙し手駒として利用するなどどんな手を使おうと相手より優位に立つという考えを持ち、真島から「外道」と揶揄された。蒼天堀通りの東側に構えているVENUSには、自身の恋人でありミステリアスかつクールな魅力を武器に蒼天堀内でも一、二を争う実力の持ち主と評される千佳がNo.1として在籍している。また、キャバクラバトルでは、サンシャインの客を帰らせると同時にキャストの体力を減らすフィーバーヒートを使う。戦闘では八幡に似た格闘スタイルで戦う。サンシャインにスパイを送り込むなどサンシャインと敵対する中でサンシャインで働くユキに目が止まり彼女を口説こうとしたが、ユキに「生理的に無理」と拒否された。その後もユキに対して口説きを仕掛けるが拒否され、最後の手段として自身の個人的な目的とサンシャインの戦力ダウンのためにユキを拉致してサンシャインにキャバクラバトルを申し込むも敗れた。敗戦後は、自身が負けた責任を全て千佳に押しつけ、真島に対して実力行使に出るも再び敗北し、それでも負けを認めようとしない往生際の悪さから、対戦後に現れた月山に「消えなければ消すぞ」と脅されてその場から逃げ去った。
月山(つきやま)
キャバクラ「CLUB MOON」のオーナーで、蒼天堀ファイブスターのリーダー。深緑のスーツにメガネを掛けたインテリ風の風貌をしている冷静沈着な冷血漢で、同じファイブスターのメンバーに対しても仲間意識を持たずに火野を敗北後にあっさりと切り捨てたり、木塚に対しては汚れ仕事を押し付けたりと駒や道具のように使っている。蒼天堀通りの西側に構えているMOONには、「蒼天堀最強のキャバ嬢」の異名を持つまながNo.1として在籍している。また、キャバクラバトルでは最強の能力を誇り、サンシャインの客を帰らせると同時にキャストの体力と調子を大幅に下げるフィーバーヒートを使う。戦闘ではムエタイで戦う。他のファイブスターのメンバーが真島に敗れた後は最後の砦として立ちはだかるが、自身も真島に敗れてしまい、直後に母親を死に追いやったグランドを潰すという真の目的を吐露した[注 38]。その後、真島やまなに諭されて改心したところを自身を利用していた秘書のことみに撃たれるが一命をとりとめ、最終的には自殺をしようとしていたことみを止めて彼女と共に罪を償うために自首をした。
朝倉 ことみ(あさくら ことみ)
月山に付き添う秘書だが、実は蒼天堀ファイブスターを裏から操っていた黒幕である。冷静沈着な性格と秘書としての敏腕振りから月山に信頼されているが、過去に姉が病死した経験から金に執着しており、自身の金稼ぎのために月山を利用していた。月山敗北後は利用価値がなくなったとして彼を裏切り、自身の計画の邪魔をした真島を始末しようと手下を差し向けるも、手下を全員倒されて失敗する。その後は追って来た月山の前で自殺しようとするが真島に止められ、月山から「ことみは金じゃ買えないんだぞ」と叱責された事で改心し、月山と共に自首をする。
ムナンチョヘペトナス教
『0』から登場した「ムナンチョヘペトナス」と呼ばれる神を崇めるインチキ宗教団体。教団内では独創的な隠語を用いており、「お布施」のことを「フセリンチョ」と呼び(1リンチョが10万円)、「ありがとう」を意味する「ヘペトナス」、「修練」を「シュレピッピ」、「徳」を「ク・リパース」、「出会いの挨拶」を「ムナンチョ」、「別れの挨拶」を「ムナンチョッチョ」、「再教育(洗脳)」のことを「チョモゴメス」、教団に入信した者を「フレンド」とそれぞれ称している。また、街で入信者を募集しては洗脳して金を巻き上げており、女性限定の「特別なシュレピッピ」などと称しては性行為を強要するなど入信者を食い物にしている。当初は大阪の蒼天堀で活動していたが、真島の阻止活動により開祖が逮捕されたことで一度は解散した。その後、『極』で東京の神室町、『6』では広島の尾道仁涯町で活動を続けていたが、双方共に桐生の阻止活動により解散状態に陥った。
ムナンチョ・鈴木(ムナンチョ・すずき)
真島のサブストーリーに登場したムナンチョヘペトナス教の開祖。洗脳に長けており、それ故にたくさんの信者たちに慕われているが、一方ではすぐに怒鳴ったり、後述のいおりに性行為を強要するなどの短気かつスケベな面がある。戦闘では南に似た格闘スタイルで戦う。騙されて入信した大学生のいおり(声 - 古川いおり)を手籠めにしようとしたが、潜入した真島に叩きのめされて失敗する。その後、負傷したため信者達に救急車の手配を頼んだが、無視して回復の儀式をしているのを見て「そんなもので治るわけがないだろ」と叫びながら痛みに苦しむ羽目になり、警察にも逮捕される。
『6』ではサブストーリーに登場し、出所後に他に頼れるものが無かったために開祖として教団に返り咲けば居場所はあると思い、教団が活動拠点を広島の尾道仁涯町に移した事を知って移り住む。しかし、移住して間もない頃から優しく接してくれたミエという老女に出会い、惚れ込んでしまったことで彼女が教団に騙されて大金を寄付しようとするのを目の当たりにし、彼女を止めるために街中で言い争っていた時に偶然通りかかった桐生と共に入信者と偽り、教団施設に潜り込んだ。その後は自身が開祖であることや現教祖のムナンチョ赤松は自身が開祖をした頃に金庫番をしていたことを告白し、正体を明かしたことで襲われそうになるが、桐生に助けられて彼と共にミエの寄付を阻止した。その後、28年前の自身と同じ結末を迎えた赤松を見届けた後は自身の犯した罪を一生背負っていくという決意をし、また罪を償う第一歩を生み出せた礼を桐生に告げて街中へ去って行った。
チョリトス・矢澤(チョリトス・やざわ)
『極』のサブストーリーに登場したムナンチョ鈴木の一番弟子を称する代行的存在。蒼天堀での教団活動を阻止した真島を恨んでおり、「災厄ウロゴマ」と称している。戦闘では師匠と同じく南に似た格闘スタイルで戦う。ムナンチョ鈴木が逮捕された後は教団を再興させるために「生涯のパートナーが必ず見つかる」という名目のパーティー[注 39]を開催し、信者を増やすという計画を神室町で行っていたが、桐生に阻止されて失敗に終わる。その後、桐生から「人集めの素質はある」と評価され、彼からそれを生かした別な道を促された。
ムナンチョ・赤松(ムナンチョ・あかまつ)
『6』のサブストーリーに登場した2016年当時のムナンチョヘペトナス教の教祖。ムナンチョ鈴木が教祖として活動していた頃は教団の金庫番を務めていたが、ムナンチョ鈴木が逮捕された後は警察から隠し通した金で教団を乗っ取って教祖の地位に就き、広島の尾道仁涯町で活動をするようになる。戦闘ではブルース海老沼に似た格闘スタイルで戦う。騙されて入信したミエから金を巻き上げようとしたところを桐生と共に教団に乗り込んできたムナンチョ鈴木に正体を明かされ、暴露された怒りから襲い掛かるも桐生に一蹴された。その後、負傷したため信者達に救急車の手配を頼んだが、無視して回復の儀式をしているのを見て「拝むな! 救急車を呼んでくれ!」と叫びながら痛みに苦しむ羽目になり、その様子を見たムナンチョ鈴木から「かつての自分を見ているようです」と呆れられていた。
JUSTIS
『6』の「クランクリエイター」のイベントに登場するチーム。名前の由来は英単語の「JUSTICE」だが、結成時にジョーやオカダが綴りを覚え間違えていたために「JUSTIS」となっている。かつて神室町で幅を利かせていたカラーズと呼ばれるギャング集団を倒すために正義を貫く若者達によって作られ、後にギャングチームと遜色のないチームに成り下がって徐々に勢力を広めていくが、そのほとんどが参謀役のコウメイや彼のバックにいた黒幕の殺月の手の内にある事を見抜いていたオカダは密かに殺月共々組織を潰す事を狙っており、桐生会との抗争の中でオカダを含む六狂人メンバーは全員桐生会に移籍し、組織はコウメイが完全に掌握するも程無くして殺月と共に倒され、完全に壊滅した。『極2』では六狂人の6人は本編とは関係ないゲストキャラクターであるが、闘技場で対戦したり新・クランクリエイターで仲間にすることができる。
オカダ・カズチカ
JUSTISのリーダー兼六狂人の一人で、ジョーの親友。金の雨を降らせるという意味で「レインメーカー」という異名を持ち、メンバー3000人を束ねる程の圧倒的なカリスマ性と強さを誇る。戦闘ではベースタイプの渋澤に似た格闘スタイルで戦い、必殺技として自身の異名と同じ名の「レインメーカー」を使用する。かつてカラーズを壊滅に追い込んだために殺月の報復に遭い、その際に恋人を守ることが出来なかったという悔恨から「JUSTISをもっと強くしたい」と考えるようになり、善悪や誰彼問わずに強いメンバーを引き入れるようになってしまい、JUSTISを思想が大きくくずれたチームへと変えてしまうが、その真の目的はJUSTISを敢えてギャング同然のチームにする事で自分の手駒となるギャングを欲する殺月を誘き出して復讐する事であ、裏で殺月と繋がっていたコウメイをわざと泳がせる一方、JUSTISに立ち向かわせる戦力を興させる為にジョーをわざと抜けさせ、彼や桐生が興した桐生会にその可能性を見出すと、自らの意図を隠す為に悪人を演じる一方で、他の六狂人メンバーを刺客という形で桐生会に送り込む事で内々にその戦力を強化させていく。その後、自身の計画通りに事が進んだ後は全てを明かし、コウメイと殺月、そして彼らの手勢と化してしまったJUSTISを完全に壊滅させるために桐生会に協力する。
コウメイ
声 - 武田直人
JUSTISの参謀役。六狂人程の腕っ節はないながらもその狡猾さと悪知恵を武器にオカダの右腕的存在として君臨しているが、格下と見た相手を露骨に見下すだけでその戦力を正当に分析しようとしない、兵隊の数で有利と不利を判別する、想定外の事態や裏を書かれた際には激昂したり狼狽えるなど、策士としては稚拙な一面が目立つ。JUSTISを発展させていく裏でJUSTIS乗っ取りのために黒幕の殺月と協力し、強いメンバーをJUSTISに引き入れた上で密かに自分達の味方に付けるなどの計画を着々に進める。その後、オカダが桐生に敗れると本性を露わにして同時に殺月を紹介。オカダに対して「リーダーとしては三流」と嘲りながら、自身がJUSTISのリーダーになることを宣言するが、オカダにその目的や行動は当に見抜かれていた事や殺月を誘き出す為に敢えて泳がされていた事を聞かされ、自分が言い放った嘲笑をそのまま返されてしまった。その後はJUSTISの新リーダーとして殺月と共に桐生会に勝負を挑むも、返り討ちに遭い、殺月よりも一足先に倒された。
棚橋 弘至(たなはし ひろし)
JUSTISの六狂人の一人で、オカダやジョーの友人。愛称は「タナ」。オカダの豹変の理由を知っているために彼の暴走を知りながらもオカダを支え続けており、またJUSTISを抜けたジョーの心情も理解しているなどの強さだけでなく仲間思いの優しさも持ち合わせている。ジョー曰くエアギターをしたり、「愛してマース!」と叫んだりするなど明るいキャラクターだったが、オカダの件もあって現在は落ち着いた性格になっている。 戦闘ではルチャで戦い、必殺技として「スリング・ブレイド」を使用する[注 40]。神室町で桐生達に敗れてコウメイに切り捨てられた後、オカダの豹変の理由を話し、ジョーと共にオカダを助けるために桐生会に入ると同時に本来の性格に戻る。
天山 広吉(てんざん ひろよし)
JUSTISの六狂人の一人。戦闘ではハングマンに似た格闘スタイルで戦い、必殺技として「TTD」を使用する。かつては小島と共にカラーズに所属していたが、後にオカダに敗れた事で小島と共にカラーズを抜けてJUSTISに入る。ジョーからは小島と共に「クソ野郎だが腕は確か」と評されている。その後、神室町で小島とのタッグで桐生とジョーを相手に戦うも敗れ、直後に「負けたらそのチームに入る」というポリシーに従って桐生会に入る。
小島 聡(こじま さとし)
JUSTISの六狂人の一人。天山とのタッグは「テンコジタッグ」と呼ばれており、組むことで通常の倍以上の実力を発揮している[注 41]。ジョーからは天山と共に「クソ野郎だが腕は確か」と評されている。戦闘では渡辺正高に似た格闘スタイルで戦い、必殺技として「ウェスタン・ラリアット」を使用する。桐生達に敗れた後は天山と同様に桐生会に入る。
内藤 哲也(ないとう てつや)
JUSTISの六狂人の一人。「トランキーロ、あっせんなよ」などスペイン語を使ったややチャラけた独特な語り口調を使い回す一方で、オカダの命令ではなく自分の意思で尾道に出向き、誰の命令も聞かないと嘯く強烈な反骨精神や、桐生に敗れた矢野に対し「負け犬は不要」と射殺しようとするといった冷酷な一面も持つ。また、桐生やジョーのような「感情や男気で動く人間」を嫌っている。ヤクザやマフィアに知り合いが多く、桐生が東城会の四代目という事も知っていた。戦闘ではルチャで戦い、必殺技として「デスティーノ」を使用する。矢野の敗北後、後任として尾道仁涯町に攻め入って桐生達と戦うも敗れ、直後に前述の「感情や男気で動く人間」への嫌悪は憧れの裏返しであったことを告白し、桐生の男気に惚れたことで桐生会に入る。
矢野 通(やの とおる)
JUSTISの六狂人の一人。元々は窃盗や詐欺のスペシャリストとして活動しており、オカダに引き抜かれてJUSTIS入りした経歴を持ち、「敏腕プロデューサー」と称して仲間達に様々なあくどい仕事をさせている。戦闘では金井に似た格闘スタイルで戦い、必殺技として「鬼殺し」を使用する。JUSTISの切り込み隊長として尾道仁涯町で桐生達と対決するも敗北し、直後に現れた内藤からJUSTISからの除名を宣告され、用済みとして射殺されそうになったところをジョーが間に入った事で救われる。その後は心を入れ替えたとして桐生会に入る。
悪徳不動産
『極2』の「新・クランクリエイター」のイベントに登場する、武藤不動産やカラーズ、地上げ三銃士が中心となり結成された組織。「神室町ヒルズ計画」を請け負う真島建設の利権を狙って神室町へ侵攻を仕掛けるが桐生と真島の阻止活動で追い込まれて行き、最終的には武藤不動産とカラーズが鶴川と裏で手を組んでいた殺月の手で乗っ取られ、鶴川の敗北と殺月の撤退によって実質的に壊滅した。その後、悪徳不動産の全員が真島建設の社員となり、闘技場にも参戦する。
武藤 敬司(むとう けいじ)
悪名高いと評判の不動産企業「武藤不動産」の社長。弱肉強食という言葉が大好きで、自分の手を汚さずに同業者を潰すことを得意とする。戦闘ではパワータイプの渋澤に似た格闘スタイルで戦い、必殺技として「シャイニング・ウィザード」を使用してくる。地上げ三銃士が敗れた後は蝶野と共に出陣して真島建設に挑むも敗れる。敗北後は自身の信条に従い負けを認め真島と友情を育むが、それを良しとしなかった蝶野に裏切られた挙句、鶴川に会社を乗っ取られる。その後は自身をかばってくれた真島に感謝し、真島建設の一員となる。
蝶野 正洋(ちょうの まさひろ)
神室町最大のギャングチームと呼ばれる「カラーズ[注 42]」の総帥。知略に富んでおり、カラーズの世界進出を目論んでいる。戦闘ではベースタイプの渋澤に似た格闘スタイルで戦い、必殺技として「ケンカキック」を使用してくる。武藤と手を組んでヒルズ計画を奪う計画を行っていたが、武藤敗北後は彼を裏切り、自身の野望のために真島建設と再び激突するも敗れる。敗北後も負けを認めず、奥の手として鶴川に派遣してもらったギャング組織(殺月が率いる組織)を応援に呼ぼうとしたが、鶴川とそのバックについていた殺月の策略により、逆にカラーズを奪われてしまった。この事態に「総帥である自分が組織を乗っ取られたことを認めるわけにはいかない」と憤り、武藤の勧めもあって、カラーズを潰すために真島建設に加入する。
長州 力(ちょうしゅう りき)
有限会社「長州企画」の代表取締役で、伝説の地上げ屋と呼ばれる「地上げ三銃士」の一人。「革命戦士」の異名を持つ。戦闘ではハングマンに似た格闘スタイルで戦い、必殺技として「リキラリアット」を使用してくる。天龍と藤波が敗れた後は自ら出陣し桐生と真島に勝負を挑むも敗れる。その後は現れた蝶野から地上げ三銃士を効率良く潰すために利用していたことを聞かされ、蝶野と武藤に一泡吹かせるために真島建設に入社する。
天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう)
有限会社「天龍興業」の代表取締役で、地上げ三銃士の一人。「生ける伝説」の異名を持ち、金やヒルズ計画には興味を持たず、自らの強さを証明するために「伝説」と呼ばれる者を倒し続けたことから自身が伝説と呼ばれるようになった。戦闘では腕力を活かした攻撃を使い、必殺技として「グーパンチ[注 43]」を使用してくる。伝説の龍と呼ばれる桐生を倒して戦いの場から引退する事を決めていたが敗れる。その後は「地上げ屋は引退するが、桐生を倒す事は諦めない」と言い真島建設に入社する。
藤波 辰爾(ふじなみ たつみ)
有限会社「フジナミ」の代表取締役で、地上げ三銃士の一人。「ドラゴン藤波」の異名を持ち、金になることなら何でも行う性格をしている。戦闘ではルチャで戦い必殺技として「ドラゴン・スープレックス」を使用してくる。真島建設が行っているヒルズ計画から金の臭いを感じ取り、悪徳不動産の最初の刺客として出陣し、同じ龍の異名を持つ桐生に勝負を挑むも敗れる。その後は「ヒルズ計画が横取りされたら金が手に入らないから困る」という理由で真島建設に入社する。
警察
警視庁
(すどう じゅんいち)
声 - 田中允貴(『1』 - 『4』)、小原雅人(『極』』)
『1』から登場した警視庁刑事部捜査第一課の課長(階級は警視正)で、かつての伊達の部下。伊達に事件の捜査を依頼し、神宮の圧力を受けた警視庁上層部より伊達の行動を監視するように命令されていたが、最後は伊達を信じて和解する。終盤では神宮のマネーロンダリング事件を伊達と共に解明した。
『2』では前作で上層部の命令を無視したために組織犯罪対策第四課課長へと飛ばされてしまうが、後に大阪に渡った桐生の身辺保護を別所に依頼する。
『3』では冒頭にのみ登場し、近江連合との抗争終結後に警察の上層部が倉橋の不祥事を隠すために自身が昇進させられることが決定して念願の一課に戻ることを伊達に明かす。
『4』では杉内の身柄を拘束するために陣頭指揮を執るが、発砲命令を出すことを躊躇って杉内の逃走を許してしまう。その後、最終決戦の際には伊達に無理矢理従わされ、宗像の汚職を暴露する号外記事をばらまいた。
(かわら じろう)[注 44]
声 - 寺島進
『2』に登場した警視庁公安部外事二課の刑事(階級は警部補)。通称として「鬼瓦」と呼ばれており、また韓国語に精通している。26年前に神室町で起きた真拳派と堂島組との抗争事件を担当した際に風間に殺された真拳派のボスの妻であるスヨンとその子供(郷田龍司)を助けて避難させ、その半年後に龍司を郷田仁の元へ預けて一人となったスヨンと同居して薫をもうけるが、香港へ単身赴任中に彼女が真拳派の構成員に殺害されてしまい、その復讐のためや薫の過去を消し去るために伊達が刑事になったばかりの頃に不法入国者達(真拳派の構成員)を手当たり次第に射殺(相手も発砲していたことから、正当防衛で処理される)し、結果として「殺人刑事」と陰口を叩かれるようになった挙句に一課から外された。その後、伊達達が倉橋に人質に取られた時に民代と共に駆けつけ、倉橋に薫との関係をばらされたことで抵抗し、その際に倉橋の銃撃から薫を庇って重傷を負うが、二人で倉橋を射殺した後は龍司の引き取り先以外の全てのことを話して薫に看取られながら息を引き取った。
(くらはし わたる) / 池 頻敏(ジ・ヨンミン)[注 23]
声 - 菅田俊(『2』)、木下ほうか(『極2』)
『2』に登場した警視庁公安部外事二課の課長(階級は警視正)だが、実は真拳派の生き残りでもある池頻敏である。42歳。戦闘では多数の真拳派の部下を引き連れており、神宮同様に近距離戦を部下に任せ、自らは逃げ回りつつ、中遠距離から拳銃で攻撃し、『極2』では玉城に似た戦闘スタイルが追加されている。生き残った三人の中では最も復讐心に燃えているために伊達とサイの花屋を人質に取り、桐生と狭山を大阪から呼び寄せると同時に駆けつけた瓦に銃を向けられたことで瓦と薫との関係をばらした後にその場で桐生と戦うも敗北し、最後は薫と瓦に射殺された。
(すぎうち じゅんじ)
声 - 遠藤憲一
『4』に登場した警視庁神室署捜査一課の刑事(階級は警部補)。現場一筋30年というベテランだけあって極道相手にも一歩も退かない態度を取っている。また、秋山とは面識があるが、互いに印象は悪く、秋山の金貸しを「ゲーム感覚」と非難し、また不良刑事として知られる谷村に対しても強引な捜査方法から「父の二の舞になる」と苦言を呈して注意を促している。戦闘では空手を主体とするスタイルを使い、谷村でも捌ききれない程の強力な剛拳を振るう。25年前には特別捜査班として上野吉春襲撃事件について谷村の養父と共に捜査していたが、当時の刑事部長であった宗像に提出した報告書の矛盾を指摘されたことで宗像の手駒となってしまい、またそれを突き止めてしまった谷村の養父を殺害してしまう。その後は谷村が接触した三島を射殺して一時は須藤率いる警官隊に確保されるも逃走し、後を追った谷村との戦いに敗れる。その後、谷村の養父を殺害した真犯人は自分であることや本来は警察官ではなく上野誠和会に身を置く極道で、葛城とは「兄弟」であること、更には警察の内情を知るために警察学校を経て刑事になったという異例の経緯だが、30年近く警察官を勤めていた事から刑事としての自分と極道としての自分という二つの立場からジレンマに苦悩しており、がむしゃらに刑事として突き進む谷村のことを心の中では羨ましく思っていたことを告白し、自身の知る全てを語ろうとした矢先に裏で糸を引く宗像の手先であった久井に銃撃され、最後は谷村に看取られながら息を引き取った。
久井 聡(ひさい さとし)
声 - 田中秀幸
『4』に登場した警視庁神室署生活安全課の課長だが、実は杉内と同様に宗像の息が掛かった人間である。部下である谷村の素行不良に手を焼いているものの、持ち前の優しさと谷村自身の犯罪検挙率の高さもあってあまり強く注意出来ないでいる。また、頼りなさげな見た目とは裏腹に銃の腕前は一流で、狙撃銃を使いこなす。宗像に命じられるままに杉内を殺害したが、宗像の不正に協力してきたことに良心の呵責を感じているために谷村の協力者である趙とメイファを密かに保護し、最後は宗像を騙すための演技を行うと同時に谷村を助けるために宗像に「二人(杉内と谷村)を始末した」と嘘の報告をした後で自殺する。
(むなかた せいしろう)
声 - 北大路欣也
『4』に登場した警視庁副総監(階級は警視監)で、ノンキャリアながら現在の地位にまで上り詰めた伝説的な人物であり、今回の事件の黒幕でもある。戦闘では多数の護衛を引き連れており、神宮や倉橋(『2』)と同じ中遠距離からの射撃スタイルで戦う他、護衛を使って相手を取り囲んだり自身の周囲に配置して壁にしたりと陣形のような戦術を取る。25年前の上野吉春襲撃事件の際には警視庁の刑事部長として捜査に関与しており、葛城と杉内の策を見抜いて事実を隠蔽する代わりに葛城と会わせるように要求した。その後、2005年の100億円事件にも関与して裏資金で作った非合法刑務所に集められた囚人を使って犯罪を操作し、警察での権力を不動のものにしようと企むと同時に東城会会長の堂島大吾に攻め寄り、大吾が悩みの種としている上野誠和会を潰す代わりに潜入捜査官の新井を若頭にするようにと要求して表社会(警察)と裏社会(極道)を乗っ取ろうと画策し、更には1000億も桐生達から奪おうと新井にアサガオの子供を人質にすることを指示したところを彼の警察官の誇りとして拒否された挙句に撃たれてしまうが、その銃弾はゴム弾であったために助かっており、最終決戦では大勢の護衛と共に新井の前に現れる。その後は新井や大吾、城戸を消そうとしたところを乱入してきた谷村に護衛もろとも叩きのめされ、更には秋山と伊達の力により自身の汚職を公に暴露されたためにその報復に秋山を撃つも失敗し、最後は追い詰められて新井の拳銃で自ら命を絶った。
本庄 次郎(ほんじょう じろう)
声 - 河合みのる
『6』に登場した伊達の後輩である刑事。遵法精神が強く融通の利かない性格で、互いに信頼できる間柄とはいえ一般人の桐生に簡単に情報を提供する伊達に「馴れ合いにしか見えない」と言い放つなど二人の関係をよく思っていない。伊達と共に澤村遥の轢き逃げ事件を担当し、その過程で桐生に事件現場を見せたり、事件の概要を説明する。終盤では巌見恒雄の根回しに騙されて伊達が遥とハルトを監禁したと誤解し、二人を救出するために病室を訪れるが、そこで警官に扮していた巌見の仲間によって伊達と共に撃たれてしまう(その後の安否は不明である)。
大阪府警察
(べっしょ つとむ)[注 23]
声 - 赤井英和(『2』)、木村祐一(『極2』)
『2』に登場した大阪府警捜査四課の課長。通称として「マムシの別所」と呼ばれており、泥臭い大阪弁を喋る。以前は警視庁神室署の四課に所属していて、26年前に瓦と共に真拳派と堂島組との抗争事件を担当していたが、その際に堂島組の襲撃計画を把握しながらも真拳派が市民に与えた被害を考慮して看過した。事件後にそのことが上層部にばれて府警に異動となるが、その際に真拳派の生き残りである朴会宗を関西へ逃がし、彼に村井という名前を与えた。狭山のことを厳しくしているが、実は心配しており桐生に狭山のことを守ってほしいと依頼する。
ビリケン
声 - 中尾良平
『0』に登場した大阪府警の管轄にある蒼天堀警察署の刑事で、近江連合の極道達に「ビリケン」と呼ばれる蒼天堀の裏社会では知られた存在。幼少時代からの付き合いという経緯から西谷誉とは互いに強い信頼関係で結ばれている。かつて一人娘を不良に滅多刺しにされて殺され、後に逮捕された不良が未成年だったために少年院に送致後はすぐに釈放されたことにショックを受けていたが、当時の高校生であった西谷がその不良を被害者と同じく滅多刺しにして殺害したことをきっかけに「法では裁けない悪」を裁くために蒼天堀の川底に「三途の川底」という闘技場を設立し、以降はそこの管理人を務めると共に副業として金儲けをするようになる。その後、蒼天堀で西谷のいる留置場に入る手立てを探していた真島と出会い、闘技場で3連勝すれば西谷のいる留置場に案内する約束をし、成し遂げた後は約束通りに真島を留置場に案内する。その後は渋澤組に雇われた看守に撃たれ、最後は西谷に逃げるように告げて息絶える。
刑務所
沖縄第弐刑務所
『4』に登場した沖縄に存在する刑務所とは名ばかりの非公式な施設(名目上は「更生促進施設」)。極道上がりの凶悪犯罪者ばかりが収監されているが、これは警察上層部が犯罪を恣意的にコントロールすることを目的として集められたためで、浜崎曰く「極道の墓場」と呼ばれ、刑務官による懲罰で囚人が死亡した場合でも病死で処理される。終盤で宗像の悪事を暴露した号外によって存在が公にされたが、その後は隠蔽されたらしく、『5』では半ば都市伝説として扱われる。
斉藤(さいとう)
声 - 小原雅人
沖縄第弐刑務所の刑務官。粗暴かつ嗜虐的な性格で、「懲罰」と称して囚人を何人も甚振り殺している。また、怪力の持ち主である冴島や百戦錬磨の桐生と真っ向からの殴り合いで張り合ったり、何度叩きのめされても食い下がるタフさを持つなどの並みの喧嘩自慢では相手にもならない程の実力を持っている。戦闘では懲罰用の特殊警棒と剛腕を武器に戦う。脱獄しようとした冴島を止めようとするも失敗し、浜崎と共に海の中に消えながらも生還する。その後は所長の命令で靖子を拉致しようと何人もの刑務官と共に旧玉城組のビルに入り、桐生を始末しようとするも返り討ちにされた。
『ONLINE』でも引き続き刑務官として働いており、年に一度の研修の為に東京にやってきた際にキャバクラ遊びの為に訪れた神室町で一番と出会う。神室町でも看守服と常備している警棒を手放さず、「教育」と称してヤクザやチンピラに喧嘩を打って甚振ったり、「最高のストレス発散法」として街の極道相手に見境なく喧嘩を売ろうとする等、相変わらず嗜虐的だが、喧嘩に夢中になるあまりに買い変えたばかりのスマホを壊してしまうなど抜けた一面も見せる。
網走刑務所
『5』に登場した北海道の網走にある刑務所。
(ばば しげき)
声 - 大東駿介
他の刑務所から網走刑務所に移送されてきた冴島と同房の囚人で、北海道の極道組織である北方組の一員だが、実は黒澤一派の一人である。戦闘では足技を主体とした総合格闘術を使用し、細身の体格ながらも大柄の相手に引けを取らない。兄弟のために殺人を犯して服役し、組に捨て駒扱いされたことから外の世界に出ることを嫌がるも冴島の働きにより仮出所を決意した。その後、所内で起こった囚人同士の刺傷事件の犯人にされてしまうが、冴島らの力で無実と証明される。その後は副所長の高坂から頼まれ、冴島と共に脱獄するも途中で雪山で遭難し、後に冴島と奥寺に助けられ、共に月見野へ向かう。その後、身の上話も全て作り話(刺傷事件も自作自演によるもの)であることや目的は冴島の出所のタイミングを操作するためだったこと、更には行動を共にするうちに彼の男気に惚れて任務に対しての躊躇が生じたことを明かし、その場で自殺しようとしたが、冴島に止められて彼との戦いの末に倒される。その後は恥を忍んで今は見逃すように懇願して神室町に向かい、黒澤の指示で動きながらも桐生に情報を与えたり、遥に桐生の言葉を伝えた上で後述の件によりコンサートの中止を勧めたりと冴島の恩義に報いるための行動を起こす。その後、日本ドームコンサート当日には黒澤の指示に従って遥を狙撃しようとするが、良心の呵責に苦しんだ末に指示を無視してそのまま立ち去ろうとしたところを裏方としての仕事に徹し切れていない中途半端な姿勢に怒りを覚えた品田の手により叩きのめされた。その後は冴島に謝罪をしながら自ら命を絶とうとするも駆けつけた高坂達によって止められ、最終的には罪を償うために網走へ帰る。
高坂 誠司(こうさか せいじ)
声 - 桐本琢也
網走刑務所の副所長。「囚人を更生させる」という仕事と規則に忠実で、違反があれば立場を活かして刑期延長と仮出所取り消しの処分を決める。冴島を事情を知った上で要注意人物としてマークしていたが、破門されてもなお意志を貫く冴島の人柄に触れるにつれて徐々に同情的な立場を取るようになる。その後は冴島の処遇の不自然な点を問い合わせようとした所長が殺されたことや釘原が大量の囚人を呼び寄せたことから強大な権力を持つ何者かに冴島の命が狙われていることを悟り、冴島達の命を守るための苦肉の策として彼らを刑務所の外に逃がそうとしたことで運悪く釘原に刺されるも大島の治療を受けて一命を取り留めた。その後、超法規的措置を使って大島と日村を刑務所から連れ出し、コンサート会場に駆け付ける。
大島 平八郎(おおしま へいはちろう)
声 - 掛川裕彦
網走刑務所で冴島と同房の囚人で、房のメンバーの中では最年長の存在。馬場の無実を冴島や日村と共に晴らそうとした時には、かつては窃盗数15000件以上にして逮捕歴無しの「背広の平八郎」と呼ばれるスリであったことや60歳の誕生日に妻が別の男の下へ去って行ったことを機に自首したこと、更には悪人からしか盗みをしない義賊であることを明かしたうえで、刺傷に使われたノミを刑務官の下から盗み出し、それが釘原のものであることを突き止める。その後は若い頃に習っていた医療技術を活かして冴島に鎮痛剤を横流ししたり、釘原に刺された高坂を手当てした。その後、高坂や日村と共にコンサート会場に駆け付けた際は馬場の自殺を止めると彼に平手打ちをしつつも説得し、共に網走へ帰った。
日村(ひむら)
声 - 幸野善之
網走刑務所で冴島と同房囚人で、冴島のことを親分と呼んだりしている飄々とした雰囲気の房のムードメーカー。良くも悪くも見栄っ張りな性格をしており、月見野の地図をテーブルの上に広げてはそれを見ながら過去に娑婆で体験した出来事を思い出す形で妄想するという趣味を持ち、特にキャバクラに入り浸っているために「かぐや」というキャバ嬢がお気に入りである。馬場の無実を冴島や大島と共に晴らそうとした時には、元捜査一課の刑事であることや自身の汚職(収賄罪)が原因で罷免して収監されていたこと、更には刑務所内では囚人達から逆恨みされることを恐れて素性を隠していたことを明かす。その後、冴島達が脱獄する際は釘原を射殺し、コンサート会場では馬場の自殺を止めるためにスナイパーライフルを弾き飛ばしたりと刑事時代の銃の腕前を発揮して仲間達をフォローした。
釘原 広志(くぎはら ひろし)
声 - 神奈延年
網走刑務所の囚人で、木工作業班のリーダー格でもある頭から左目にかけてかなり大きな傷跡を持つグロテスクな外見の男だが、実は馬場の部下である。刑務所内で表沙汰にならないように顔への攻撃は避けるなど見た目通りに狡猾で、残忍な性格をしている。戦闘では両手を前に突き出した独特な構えから繰り出す意表を突いた攻撃を得意とする。黒澤の指示で屈強な囚人達を手下に従えて東城会の大幹部という勲章を持つ冴島を付け狙い、運動時間中に人気のない倉庫に呼び出しては一方的に暴行を加える。その後は脱獄しようとした冴島に多数の兵隊を引き連れて襲い掛かるも敗北し、直後に手首を散々踏みつけられる。その後、立ち去ろうとした冴島に悪あがきとばかりに銃を向けるが、最後は駆け付けた日村に撃たれて死亡する。
政治家
(じんぐう きょうへい)
声 - 吉田裕秋
『1』に登場した警察庁出身の代議士で、政府直属の特殊部隊「ミニストリー・インテリジェンス・エージェンシー(MIA)[注 5]」のトップ。贈収賄や銃刀法違反、殺人教唆といった数々の罪を犯している。戦闘ではMIAを率いて戦い、逃げ回りつつ中距離から銃撃するといった卑怯な戦法を取る。世良の協力を得ていた当時は理想と信念を尊んでいたが、10年前に記憶を失った由美と出会って彼女との間に遥をもうけた後に総理の娘との縁談が舞い込み、籍を入れていなかった由美が身を引いたのをいいことに金と出世、権力に溺れてしまう。その後、東城会を利用してマネーロンダリングを繰り返して後に由美と遥のことをかぎつけた記者を殺害し、世良と共に死体を隠したが、今後も同じようなことが起こることを恐れ、世良に由美と遥の殺害を依頼する。しかし、それが失敗に終わり、更には世良が裏切った挙句に東城会に預けた100億円を盗んだことを知ると錦山に100億円の情報を流して東城会に混乱を引き起こし、取り返した100億円を手土産に近江連合に鞍替えしようと画策する。その後は部隊を率いてミレニアムタワーに赴き、そこで遥と由美を殺害しようと動くが、その事に激怒した桐生により部隊共々叩きのめされて敗北する。その後、由美が100億円の居場所を出したところで再び姿を現し、桐生と遥を庇った由美を銃撃した上で100億円を取り戻すためにその場で桐生達を殺そうとしたが、最後は錦山に刺された上に自分の100億もろとも彼の自爆に巻き込まれて爆死する[注 45]。
『4』で100億円事件の動かぬ証拠として見つかった書類で警視庁に100億を渡すことや宗像と手を組んでいたこと、『5』では秋山のサブストーリーで秋山のいた部署がマネーロンダリングに関わっていたことが新たに判明する。
(たみや りゅうぞう)
声 - 大塚明夫
『3』に登場した最大与党民自党の政治家である防衛大臣で、警察庁出身でもある風間譲二の同期かつ親友。武器密輸組織「ブラックマンデー」を誘き寄せるために沖縄の米軍基地拡大法案を推し進め、国家防衛のための「新BMDシステム(弾道ミサイル防衛システム)」の導入を目論んで鈴木国交大臣と次期総裁の座を争うが、後に自分の元を去った秘書の當眞とその命を狙う譲二の身を案じて桐生に二人を救ってほしいと頼む。その見返りとして、その後はリゾート開発中止に向けて動くようになる。
(すずき よしのぶ)
声 - 池水通洋
『3』に登場した民自党の政治家で、国土交通大臣。基地拡大法案に対抗して沖縄のリゾート開発を推進する法案を提出し、田宮と次期総裁の座を争う。その後、土地買収を強行させるために東城会の五次団体である玉城組と繋がるが、最終的には失敗した。
當眞 昌洋(とうま しょうよう)
声 - 置鮎龍太郎
『3』に登場した沖縄出身である田宮の秘書。田宮の基地拡大法案より出身である沖縄を発展させるために鈴木のリゾート開発を希望し、東城会と組む。その後、2008年3月に大吾と共に沖縄を訪れ、桐生と名嘉原に会って話をしたが、大吾は桐生に説得されて土地買収を中断し、それから一年後に田宮の真の目的を知ったために秘書を辞めて峯と結託する。その後は沖縄へと渡り、琉球街のパブにいたところを風間譲二に殺されそうになるが、桐生に助けられて田宮が自分のことを大切に思っていたことを知り、涙流した。その後、田宮に謝罪しようと最終便で東京へと帰った。
企業
永洲タクシー
『5』に登場した福岡にある桐生の働くタクシー会社。永洲街の東側に事務所を構えている。
(なかじま ようたろう)
声 - 楠見尚己
永洲タクシーの社長で、「永洲デビルキラー」を創った走り屋の三銃士の一人。鷹揚で、酒好きの明るい性格をしており、永洲街で自暴自棄になっていた桐生に対しても理由は聞かずに温かく迎え入れている。他の車にも安全配慮した上で「走り」を高めるという意味でデビルキラーを創ったが、アルバイトの給料を車のパーツに使いながら結婚生活を送っていた最中にレース中の走り屋と衝突して交通事故を起こしてしまい、その際に妻が植物状態に陥ってしまう。その後、入院費を稼ぐためにタクシー運転手となって新たな仕事に就くも結局は妻は亡くなってしまい、自身も走り屋だったために相手を責める事ができずにデビルキラーを作ってしまった事に負い目を感じていたが、最終的には桐生と鬼坂の勝負を通じてそのわだかまりも解消され、更には鬼坂とも和解した。
和田 雄三(わだ ゆうぞう)
永洲タクシーのベテラン社員。デビルキラー創立時のメンバーとして三銃士に因んで自身を「ダルタニアン」と例えており、また中嶋を慕って他の当時のメンバーと共に永洲タクシーの社員になっている。また、独身者としてキャバクラに通っていることが桐生のサブストーリーで語られている。
『極』ではカラオケのアカウント名で登場しており、初期のランキングでは10位にランクインしている。
村松 知顕(むらまつ ともあき)
永洲タクシーの社員。桐生より年下だが、経歴は先輩格で、交通ルールや仕事のマニュアルを大事にしており、また同年代の女性との交流が苦手で、童貞であることが桐生のサブストーリーで語られている。また、元々はアマチュアのレーサーとして活動しており、それ故に走り屋を嫌っているが、走り屋から足を洗って真面目に働いている中嶋の事は尊敬している。
平川(ひらかわ)
永洲タクシーの事務と受付を担当する女性。落ち着いた性格でパソコンに詳しく、桐生に客からの依頼を提供したりと彼のことをしっかりとサポートしている。しかし酒癖が悪く、送迎ミッションのコメントによりニューハーフバーの常連であることも明かされている。
清川 浩司(きよかわ こうじ)
デビルキラーに憧れていた青年。家出して走り屋となり、後にデビルキラーに憧れて入団を希望するが、直後に桐生にレースで敗れてしまい、最終的にはデビルキラーに見捨てられたところを桐生に救われて永洲タクシーに雇われる。その後、第二種運転免許の勉強で中々合格ラインに到達出来ずに諦めようとしていたが、桐生のレースを見て再挑戦し、最終的には試験に合格してタクシー運転手となる。
ダイナチェア
『5』に登場した遥の所属する大阪の芸能プロダクション。蒼天堀の南側に事務所を構えている。
(パク ミレイ)
声 - 朴璐美
ダイナチェアの社長。韓国籍として生まれ、幼少時に実の両親から虐待を受け、後に里親に引き取られてたまたまテレビで見たアイドルの姿に感銘を受けて日本一のアイドルになろうと大阪に移り住む。その後は勝矢や真島と出会い、真島と結婚したが、アイドルを続けるために独断で子供を中絶した事が原因で真島から離婚を告げられ、既婚事実などが世間に発覚したことでアイドルを辞める。社長としては同業者に対して厳しい上ワンマンが目立つが、母親を失った遥に優しく接する包容力もある。その後、勝矢の手助けもあって「日本一のアイドルを育て上げる」為にダイナチェアを設立し、後に遥に目を付けた上で元極道の桐生に育てられた事が世間に知られぬようにアサガオも経済的援助をするという異例の条件で桐生をアサガオから離れさせ、更には遥の才能を信じて日本ドームでのコンサートを開催させるために秋山のテストに合格して3億円の融資を受ける。その後は遥に夫から貰った万年筆をデビュー祝いとして渡したが、最後はその翌日に金井の命令で真島の手紙を奪取しようと動いていた荻田によって自殺に見せかけて殺害された。
堀江 博(ほりえ ひろし)
声 - 高塚正也
遥のマネージャー。人当たりが良く年若い遥に対しても誠実に接する好青年で、自身もアイドルファンであるということから人々に夢と希望を与えるアイドルという存在をサポートする仕事に誇りを持っている。また、詰めが甘い点も目立つが、メジャーデビューを目指す遥に売り込むために各方面に地道な営業活動を行ってライブやテレビ番組出演などの様々な仕事の話を取ってきている。秋山と同様に朴の自殺について疑問を持っており、調査を進める秋山に協力する。その後、遥と秋山がその事件について調査したところで金井に突き落とされるが、一命を取り留めてDREAM-LINEのコンサートに駆け付けた。
山浦 美沙(やまうら みさ)
声 - 永島由子
遥のボイストレーナー。歌手として活動していた経験を活かし、ボイストレーナーとしては関西でもトップクラスの腕前を誇っている。朴の死や堀江の入院などで遥のマネージメントやコンサートの運営を一挙に引き受けることになる。DREAM-LINE結成後は三人にボイストレーニングの指導を行う。また遥のサブストーリーでは、歌手時代にユニットを組んでいた倉田あゆと再会し、「ダンスさえ踊れれば歌は口パクでいい」という考えを持ったあゆと歌もダンスも真剣に取り組んでいる遥が揉めてダンスバトルをしたことがきっかけとなり、「本当は今でも歌手をやりたい」と語るあゆと「歌手は諦めたが遥に夢を託すことで芸能界で続けていられる」と語る自身とで互いに本音を打ち明け合い、憎まれ口を叩きつつも和解する。
大阪芸能
『5』に登場した逢坂興業の会長である勝矢直樹が社長を務める関西最大手の芸能プロダクション。
真田 まい(さなだ まい)
声 - 白石涼子
大阪芸能所属のアイドルユニットである「T-SET」のメンバー。歌唱力やダンス共に圧倒的なパフォーマンスを見せるが、その反面ではプライドが高く、自分達の障壁になりうる存在を退ける為には策略をも厭わない一面も見せる。もともと、ダイナチェアに所属していたが朴のやり方についていけず、移籍した。初は「実力が全て」と経験の浅い遥をよく思っておらずに様々な嫌がらせをしていたが、プリンセスリーグでの対戦を通じてあずさと共に遥を認め、和解する。DREAM-LINE結成後は嫌がる素振りを見せながらも内心ではテンションが上がるようになる。
大沢 あずさ(おおさわ あずさ)
声 - 野中藍
T-SETのメンバー。愛嬌があって温かみのあるルックスから男性ファンの支持が高く、パフォーマンスレベルもまいにも引けを取らない程のレベルを持つ。彼女もまいと同様ダイナチェアに所属していたが、ついていけずに移籍した。また、まいと同様に意地の悪さはあるが、根は優しいために枕営業を強要されそうになっていた遥を助けたことがある。プリンセスリーグでの対戦を通じてまいと共に遥を認め、和解する。DREAM-LINE結成後は最高のパフォーマンスを披露するためにより一層技術に磨きをかけるようになる。
中井(なかい)
声 - 山田真一
大阪芸能の社員。期待の新星のT-SETを鮮烈にデビューさせるために早くからテレビ局内にも強引な売り込みをかけており、プリンセスリーグのプロデューサーの万田とも親密な関係を築いている。弱小ながら健闘しているダイナチェアを目障りに感じており、ことあるごとに遥や朴らダイナチェアの関係者に厭味、圧力をかけたりと、陰険かつ威圧的な態度が目に付くが、それらの行動は朴や、彼女が見出した遥の才能を評価し、T-SETのライバルとして認めているが故の裏返しでもある。T-SETが遥と和解した後、東京でデビューコンサートに備える遥の下に現れ、勝矢が生前の朴と準備していた特別ユニットである「DREAM-LINE」に関する詳細を告げる。
蒼天テレビ
『5』に登場した大阪にある関西のテレビ局。このスタジオでプリンセスリーグが行われ、遥のアナザードラマでも蒼天テレビのバラエティ番組に出演できる。
ドルチェ神谷(ドルチェ かみや)
声 - 服巻浩司(『5』)、堀内隼人(『0』)
プリンセスリーグ司会者。軽妙な司会ぶりの裏でプリンセスリーグという番組が持つ伝統や役割、出演するアイドル達に対して熱い想いを持っている。『0』ではサブストーリーに登場し、1988年当時はラジオパーソナリティーを務めており、自身のラジオで3回ハガキが読まれることで主人公達の前に100万円相当の品を持って現れる。
万田 総一郎(まんだ そういちろう)
プリンセスリーグのプロデューサーで、アイドル時代の朴を知る人物。中井の謀略によって遥及びダイナチェアとの間に諍いが起こるが、別番組で出演キャンセルになったタレントの穴を偶然にも詫びに訪れた遥が埋めたことで和解した。
立華不動産
『0』に登場した神室町にある劇場の最上階に事務所を構える不動産会社。東城会ですら及ばないほど不動産乗っ取りに長けており、豊富な資金力と独自の情報網を駆使し、目を付けたビルの店舗を強引に立ち退かせる一方でチャンピオン街を東城会の地上げから守るなど、その行動には謎が多い。
(たちばな てつ)
声 - 井浦新
立華不動産の社長だが、実は中国残留日本人の二世で、マキムラマコトの実兄である。25歳。東城会が根を張り巡らせる神室町においてどんな売り物件でも新たに用意することから「闇の不動産王」と呼ばれているが、紳士的な物腰や立ち振る舞いとは裏腹に東城会と比肩しうる神室町の支配層にのし上がらんとする野心も持ち合わせている。また、過去に尾田を助けた際に右腕を失い義手となり、時折、鎮痛剤が効かない程の激痛や実際無いはずの指先にまで痛みが走ることに加えて、処置の遅れから負った腎臓の障害のために定期的な人工透析が欠かせない身体となったが、それでも東城会構成員に引けを取らない程の喧嘩の腕前を持っている。15歳で日本に密入国し、蒼天堀で中国マフィアとして活動していた際に偶然見ていたテレビでマコトの所在を知り、神室町に拠点を移すが、神室町再開発計画で土地の地上げを行っていた堂島組に「カラの一坪」の所有者であるマコトがいずれ狙われるであろうことを予見し、風間新太郎と組んで彼の助言で堂島組より先に「カラの一坪」を手に入れてマコトを守るために立華不動産を設立する。その後、「カラの一坪」での殺人事件後に自ら堂島組を抜け出した桐生に接近し、仲間に引き入れようとして一旦は断られるも、自身の目的や「風間の推薦を受けて桐生に近づいたこと」などを全て明かし、彼を立華不動産の社員として迎え入れる。以後は桐生と協力し合い、桐生が堂島組に追われた際は桐生の元に車で駆け付けて囲みを突破したり、堂島組の攻撃を止めるために東城会本家に向かい直接なしをつけるなど桐生とたしかな協力関係を築いていく。しかし、後に桐生を庇って堂島宗兵が雇った老鬼に捕らえられてしまい、久瀬らによって凄惨な拷問を受け、その際に逆上した米田に側頭部を大型ハンマーで殴られたことが致命傷となり、最後は駆け付けた桐生に久瀬から聞いた堂島と老鬼に関する情報を伝えて息を引き取った。
尾田 純(おだ じゅん)
声 - 小西克幸
立華不動産の社員だが、実は中国からの密入国者で、2年前にマキムラマコトを騙して韓国系組織に売り飛ばした張本人である。左腕に蝙蝠の刺青を入れている。一見して軽い印象を与えるが、立華に対しては忠実であり、極道に対してさえ一歩も引かない態度で仕事をこなす。戦闘ではトンファーと投げナイフを駆使して戦う。マコトを売り飛ばした直後に蒼天堀で出会った立華に敗北して以来、年下である彼を兄と崇めて心酔するようになり、仲間の証として蝙蝠の刺青を立華にも入れさせ、更には立華に協力して立華不動産の設立に関わるようにもなる。その後は桐生と出会い、立華の命を受けて会社を訪れた桐生の実力を測るために戦うも敗北する。その後、桐生と協力し合う一方で、裏で渋澤と繋がって立華の情報を漏らし、更にはマコトが「カラの一坪」の所有者であると判明した際は彼女を売り飛ばした過去が立華に発覚することを恐れ、マコトの殺害を目論んで所在を渋澤に伝える。その後はマコトの殺害に失敗し、桐生に全てを語った後は、自分の正体を知りながらも自分を気遣うマコトに感化され、ケジメを付けるべく、襲撃してきた渋澤組の足止めを引き受け、桐生とマコトを逃すと単身渋澤組の構成員達に戦いを挑んだが、交戦の末に致命傷を負わされ、現れた渋澤からマコトの居場所を尋問されるも、最後まで自白する事はなく、渋澤に対して皮肉を吐き捨てながら射殺された。
巌見造船
『6』に登場した広島にある会長の巌見兵三が立ち上げた造船会社。造船業だけではなく、病院や学校、交通網などの様々な分野で事業を展開しており、広島で絶大な影響力を誇っている。
(いわみ つねお)
声 - 大森南朋
巌見兵三の息子で、巌見造船の社長。穏やかな物言いや表情とは裏腹に鋭い眼光と父親顔負けの野心を持ち、中盤以降はその胸の内に長年抱えてきた野望を露わにし、極道らしい凶暴さや目的の為ならば手段を選ばない冷酷卑劣さで桐生達を追い詰めていく。その野心や人心掌握術や狡猾ぶりは父親だけでなく広瀬、染谷からも危険視される程だが、反面窮地に追いやられると命乞いも辞さない等、臆病者な本質も覗かせる。スーツの下は非常に逞しい肉体を誇り、背中には白澤の刺青が彫られている。戦闘では空手のような形式ばった技と荒々しい動きを複合させたスタイルで戦い、ヒート状態になるとタックルからマウントパンチを繰り出してくる。裏社会への進出を望んでいたが、それを望まずに表社会の日の当たる道を歩かせようとする父に反発心を抱いており、裏社会で絶大な力を持つ父を超えるという野心から父に代わって自らが陽銘連合会の会長となった上で「来栖猛」の渡世名を襲名するために東城会の菅井や染谷、若頭である小清水と手を組み、祭汪会のロウや彼の息子であるジミー・ロウを利用して亜細亜街の大火事を起こす[注 46]。その後は計画を着実に進めていき、桐生達が尾道の秘密を暴いたことをきっかけに大道寺稔から父の殺害(及び桐生の殺害)を依頼され、遂にはそれを良しとして父を殺害して会長の座を手にする。その後、清美を人質に取り、元夫である染谷に対して桐生の殺害を命令するが、桐生に敗れた染谷が自害したために一度は失敗に終わり、後に巌見造船所で菅井と共に桐生達と対峙する。その後は嗾けた小清水が倒されると自らの手で桐生を始末するために切り札として事前に連れ去った遥とハルトを人質に取り、桐生達を無抵抗にした上で菅井と共に一方的に暴行するが、直後に勇太達の乱入によって遥達が解放されてしまう。その後、桐生と激突するも死闘の末に敗北し、追い詰められながらも悪あがきとして菅井に遥やハルトの殺害を命じたところを桐生に顔面を殴りつけられて気絶した。事件後は警察に逮捕され、陽銘連合会会長就任という野望は事実上失敗に終わった。
地下格闘関係
地下闘技場
『1』から登場した神室町にある、サイの花屋が運営している地下格闘技大会。桐生や冴島がストーリー上で出場する他、『5』では他の主人公もミニゲームとして各種大会に参加できる。出場選手の中には特定の条件を満たすと参戦する者も存在する。大会では基本的に3連勝することで優勝となり、試合形式も通常の戦い以外に武器のみの試合や灼熱のリングなどの様々な仕掛けが施された試合、タッグマッチ(『3』以降)といった多種多様のものに分かれている。
ゲイリー・バスター・ホームズ
声 - 間宮康弘
過去3年間全勝無敗の戦績を誇る、「無敗の地下王者」と呼ばれている黒人男性。戦闘では『1』ではパンチを中心とした格闘スタイル、『極』では相沢に似た格闘スタイル(闘技場のプロフィール上は「レスリング」)で戦う。桐生を花屋の場所に案内した後は地下闘技場の対戦相手として戦うも敗北する。
『2』では神室町ヒルズの建築現場で働いており、常時ヘルメットを被っている。戦闘ではナックルダスターを装備して戦う。再び地下闘技場の対戦相手として桐生と戦うも再び敗北する。
『4』では桐生のサブストーリーに登場し、変わらずに建築現場で働いており、夜間に神室町ヒルズから謎の音がすると話を聞いた桐生と再会し、真島組の構成員になっていた事が判明する。戦闘ではボクシングで戦う。その後、最後にもう一度戦いたいと桐生に申し出てその場で戦うも敗北し、直後に桐生にお礼を言って別れた。
『極2』では『極』と同じく相沢に似た格闘スタイルで戦い、後にヒルズ計画を狙う悪徳不動産を倒すために真島建設に入社する。
『ONLINE』では、助っ人として勧誘されそうになったところで春日に出会う[注 47]。彼に真島建設に入社して感謝していることを話す。
ダニエル・フェルドマン
「米国第一級殺人逃亡犯」の肩書を持つ男。『2』でも対戦が可能である。戦闘ではレスリングで戦い、『極』ではルチャで戦う。桐生のデビュー戦の相手として戦うも敗北する。
ガオワイヤン・プラムック
声 - 三元雅芸『1』
ムエタイ選手でミドル級元王者。戦闘ではムエタイで戦う。フェルドマンと同様に桐生の対戦相手として戦うも敗北する。
グランシェフ張(グランシェフ チョウ) / カミソリ保(カミソリ やす)
身長178cm、体重74.7kg
黒いコックシャツ(『3』以降は白い甚平)を着た料理人姿の男。『4』まで対戦が可能である。戦闘では『1』と『2』では二振りの中華包丁、『3』と『4』では出刃包丁を使用し、真島に似た包丁捌きで戦う。
『4』では冴島のサブストーリーにも登場し、田所考案のスペシャルマッチの一戦目の相手として登場するも敗れる。
『極2』では服装が返り血のついた青いコックシャツに変更されており、戦闘では曹に似た包丁捌きで戦う。
『極』では「カミソリ保」という名前で登場しており、戦闘では『1』と同じく二振りの中華包丁を用いたスタイルで戦う[注 48]。
熊殺しの沼田(ぬまた) / 熊田 勇(くまだ いさむ)
スキンヘッドで腰にサラシを巻いた服装の男。戦闘では真島に似たドス捌きで戦う。
『極』では「熊田 勇」という名前で登場しており、戦闘では阿波野に似た格闘スタイルで戦う[注 48]。最初はサブストーリーに登場し古牧が連れてきた修行相手として登場する。
ハンター小沢(ハンター おざわ) / 深淵(しんえん)
身長182cm、体重79.8kg
坊主頭に緑色のジャケット(『3』以降は赤いスタジアムジャンパー)を着た男。『5』まで対戦が可能である。戦闘では『1』ではショットガン、『3』と『4』では玉城に似た拳銃スタイル、『5』では拳銃による射撃を中心に戦う。
『4』では冴島のサブストーリーにも登場し、田所考案のスペシャルマッチの最終戦の相手として登場するも敗れる。
『極』では「深淵」という名前で登場しており、戦闘ではスピードタイプの渋澤に似た格闘スタイルで戦う[注 48]。
スノーマン / 芝 雷蔵(しば らいぞう)
白い覆面をした巨漢。戦闘では『1』では嶋野に似た格闘スタイルで戦う。
『極』では「芝雷蔵」という名前で登場しており、戦闘では冴島に似た格闘スタイルで戦う[注 48]。最初はサブストーリーに登場し古牧が連れてきた修行相手として登場する。
ハデス西沢(ハデス にしざわ) / 鬼武 雅巳(おにたけ まさみ)
ガスマスクのような覆面をした男。『2』でも対戦が可能である。戦闘では『1』では錦山に似た格闘スタイル、『2』では大振りな技を主体としたスタイルで戦う。
『極』では「鬼武雅巳」という名前で登場しており、戦闘ではベースタイプの渋澤に似た格闘スタイルで戦う他、桐生の掴みを完全に無効化する術を持つ[注 48]。
ロブソン・カエタノ・ダ・シウバ
『2』に登場した「ブラジルの超新星」と呼ばれる大男。戦闘では戦斧を使用する。再び地下闘技場を訪れた桐生の対戦相手として戦うも敗北する。
サイクロプス大場(サイクロプス おおば)
『2』に登場したプロレスラー。戦闘では『2』ではプロレス、『極2』ではルチャで戦う。最初はサブストーリーに登場し、試合で怪我をしたために龍宮城内で治療に専念する。その後は桐生に飲食物を要求し、後に回復すると今度はスパーリングを要求したが、桐生に敗北した後は師匠であるゴーリキー寺山が出版した本を桐生に渡す[注 49]。その後、完治した後は地下闘技場内の出場選手として復帰する。
『極2』では桐生が悪徳不動産と戦っていることを聞き、真島建設に入社する。
河内 元匠(かわち げんしょう)
『2』のサブストーリーに登場した蒼天堀に住む河内兄弟の兄。高校生ながら河内流古武術の党首を務めていたが、自らを鍛えるために武者修行の旅に出ていた際にいつしか目的と手段が入れ替わり、道場破りをするなど「投げ」にとり憑かれてしまう。戦闘では『2』では柔術で戦う他投げ技を返し技に使用し、『極2』ではスピードタイプの渋澤に似た格闘スタイルで戦う。河内流のライバルである古牧流を継ぐ桐生を倒すことを目標として地下闘技場に参戦していたが彼に敗北する。その後、自分自身の思い上がりと不甲斐なさを自覚し蒼天堀へと戻り、まさしく憑き物が落ちたように一層の鍛錬に励むようになった。
『極2』では桐生が悪徳不動産と戦っていることを聞き、真島建設に入社する。
山岡 明(やまおか あきら)
身長182cm、体重92kg
『2』から登場した白いスーツに白いシルクハットと紳士的な容姿の男で、「地下闘技場の帝王」や「ステゴロの帝王」と呼ばれる地下闘技場のNo.1。『4』や『5』でも対戦が可能である。戦闘では『2』では桐生に似た格闘スタイル、『4』では杉内、『5』ではヴァレリーに似た格闘スタイルで戦う。
『極2』では戦闘では『2』と同じく桐生に似た格闘スタイルで戦うが、桐生のカウンター技である「虎落とし」を使用したり『6』における桐生が使う「アルティメットヒートモード」を発動(エフェクトはなし)するなどの変更をされている。後に桐生が悪徳不動産と戦っていることを聞き、真島建設に入社する。
ヴァレリー・ギャレット
身長182cm、体重118kg
『3』から登場したオランダ出身の総合格闘家。『4』でも対戦が可能である。戦闘では峯に似た格闘スタイルで戦い、「悪魔の拳」の異名通りの強力なパンチを振るうほか、桐生の掴みを完全に無効化する術を持つ。『5』ではビクトリーロードの永洲街予選の出場者として登場し、予選で戦っていた相手に手加減アリで勝ったために相手を激昂させてしまい、たまたま通りかかった桐生に助言を貰って桐生と再度戦うも敗北する。その後、桐生の相棒として出場する。
宝蔵院 胤禅(ほうぞういん いんぜん)
身長180cm、体重67kg
『3』から登場した和尚の容姿をした宝蔵院槍術の使い手。『4』でも対戦が可能である。戦闘ではラウに似た槍捌きで戦う。『5』ではビクトリーロードの錦栄町予選の出場者として登場し、槍を使うのは卑怯だと他の参加者に仕返しを受けるが、品田と共に撃退する。その後、予選突破をかけて品田と戦うも敗北する。
マクシム・ソルダドフ
身長188cm、体重95.7kg
『3』に登場したウクライナ出身のボクサー。戦闘では玉城に似た格闘スタイルで戦う。「本当の強さ」を求めて地下闘技場に出場し、桐生との戦いで桐生の強さを感じたことでタッグマッチGPのパートナーになってほしいと懇願する。その後は桐生の相棒としても参戦する。
桧山 大治(ひやま だいじ)
身長175cm、体重75.7kg
『3』に登場したプロレスラー。戦闘ではプロレスで戦い、タッグバトルでは特殊なヒートアクションを発動する。かつては前原辰彦というプロレスラーとタッグを組んでおり、後に前原の死によって引退を考えていたが、桐生の型に囚われない戦い方が前原に似ていると思い、タッグマッチGPのパートナーになってほしいと懇願する。その後は桐生の相棒としても参戦する。
ブルース海老沼(ブルース えびぬま)
身長171cm、体重65kg
『3』から登場したトラックスーツを着た拳法家。『4』や『5』でも対戦が可能である。戦闘では独特な動きの中国拳法で戦う。自分の強さに自信を持ち、『3』では手近なチンピラを雇ってタッグマッチGPに出場するも敗れてしまう。その経験から自身に合うパートナーを探しており、桐生の強さを見てタッグマッチGPのパートナーにスカウトする。その後は桐生の相棒としても参戦する。
波多江 真幸(はたえ まさゆき)
『3』に登場した地下闘技場の選手。戦闘ではリチャードソンに似た格闘スタイルで戦う。バッティングセンターで飛んでくるボールを避けるトレーニングをしていたところを桐生に迷惑だと注意されて逆上するが、逆に叩きのめされる。その後は桐生をタッグマッチGPのパートナーにスカウトし、桐生の相棒として参戦する。
神野 慶吾(じんの けいご)
『3』に登場した用心棒志望の男。戦闘では力也に似た格闘スタイルで戦い、タッグバトルでは特殊なヒートアクションを発動する。強い男になるために用心棒まがいの事をしており、マッハボウルに強引に押しかけてきた挙句に金を取ろうとしたが、桐生に叩きのめされる。その後、桐生の強さに惚れこんで弟子になろうとしたところを断られてしまい、代わりに桐生に紹介された地下闘技場に出場するも惨敗し、タッグマッチGPで桐生のパートナーになって強くなりたいと懇願する。その後はタッグマッチGPのタッグパートナーになり、同時に地下闘技場の出場選手の情報を教えるようになる。
イワン・イブラヒモビッチ
身長200cm、体重106.02kg
『4』から登場した冴島が賽の河原を訪れた時点での地下闘技場のチャンピオン。半年間100戦無敗を誇っており、通称として「人を超えた男」と呼ばれている。また、『5』でも対戦が可能である。戦闘では大きな体躯を生かした総合格闘術で戦い、相手を気絶させた後に特殊なヒートアクションを繰り出してくる。冴島と「一方が死ぬまで戦い続ける」というルールのエキシビションマッチで戦うも敗北を喫する。その後、冴島兄妹を拉致しに来た上野誠和会を相手に冴島や花屋、その部下達と共に戦うも叩きのめされる。
黒川 般若(くろかわ はんにゃ)
身長180cm、体重103kg
『4』から登場した黒い般若の面を付けた格闘家。戦闘では素手状態のラウと風間譲二を織り交ぜたような格闘スタイルで戦う。『5』ではビクトリーロードの蒼天堀予選の出場者として登場し、般若の面を取りたがっているが、面をつけた後で強さを得たために面を取ると弱い自分に戻るのではないかという恐怖心から面を取れずに困惑する。その後、それを吹っ切るために秋山と戦うも敗北し、直後に彼の助言で強いのは自分自身の力ということに気付いたことで面に対する恐怖心も無くなって面を取ろうとしたところを秋山から「それに気付いたなら取る必要はない」と言われ、面と付き合いながらも更なる強さを目指していくことを決意する。
ヘッドハンター刈谷(ヘッドハンター かりや)
身長179cm、体重85.4kg
『4』から登場した黒いパーカーに不気味なマスクといった風貌の男。『5』でも対戦が可能である。戦闘では『4』では戦斧、『5』では大鎌を使用する。
『4』では冴島のサブストーリーにも登場し、田所考案のスペシャルマッチの二戦目の相手として登場するも敗れる。
東野 練(ひがしの れん)
身長180cm、体重70kg
『5』に登場したビクトリーロードの永洲街予選の出場者。戦闘では力也に似た格闘スタイルで戦う。地下闘技場の名誉チャンピオンである桐生に憧れて彼と戦うために予選に参加しており、永洲街に桐生がいることを他の参加者に促し、自身も桐生と対決するも敗れる。その後、地下闘技場に参戦する。
白坂 寛太(しらさか かんた)
身長182cm、体重80kg
『5』に登場したビクトリーロードの月見野予選の出場者。戦闘ではヴァレリーとリチャードソンに似た格闘スタイルで戦う。郊外の集落出身であり、田舎者であることに負い目を感じていたが、冴島に励まされて奮起する。その後は予選を勝ち進み、冴島に勝負を挑むも敗北する。敗北後は動きが単調で読みやすいという冴島のアドバイスを受けて再び予選突破を目指し、彼の元を後にした。その後、地下闘技場に参戦する。
番場 亮一(ばんば りょういち)
身長178cm、体重72kg
『5』に登場したビクトリーロードの蒼天堀予選の出場者。実家は空手道場を経営しており、自信の実力も中学時代に全国優勝した程であるが、それ故に己の力を過信している節がある。戦闘では風間譲二に似た格闘スタイルで戦う。父親に己の弱さに気付かされ、強さを証明するために秋山に勝負を挑むも敗北する。その後は修行を積み、秋山の相棒として地下闘技場に参戦する。
金剛 焔(こんごう ほむら)
身長185cm、体重94kg
『5』に登場したビクトリーロードの蒼天堀予選の出場者で、強さを求めてひたすら山に籠って修行に励む程の生粋の武道家。戦闘では谷村に似た格闘スタイルで戦う。予選を無敗で勝ち進み、勝負を挑んでくる者がいなくなってしまったために同じく無敗の秋山に勝負を挑むも敗北し、自身よりも強い相手がいることを知ったことで更なる強さを求めて地下闘技場に参戦する。
鷲野 健一(わしの けんいち)
身長184cm、体重104kg
『5』に登場したビクトリーロードの錦栄町予選の出場者。戦闘ではプロレスで戦う。かつてはプロレスラーとして活躍していたが、怪我で引退まで追い詰められてしまい、酒に溺れる日々を送るようになる。その後、品田にそのことを叱咤され、激昂して勝負を挑むも敗北する。その後はかつての自分を思い出させてくれた品田に感謝し、品田の相棒として地下闘技場に参戦する。
雷電(らいでん)
身長198cm、体重121kg
『5』に登場したビクトリーロードの神室町予選の出場者。かつて某国で戦場に赴いてその戦場での過酷さを知ったことから「甘い考えでは生き残れない」と豪語しているが、その考え方は極めて盲目的かつ独善的で、対戦した予選参加者を再起不能になるまで痛めつけるという非情さを見せる。その為、桐生からは「自分が見た地獄を人に味わわせようとする不幸自慢」と軽蔑される。戦闘ではヴァレリーに似た格闘スタイルで戦う。ビクトリーロード決勝戦で桐生と対決するも敗れ、その後は地下闘技場に参戦するようになって山岡とトップを争うようになる。
篠原 信一(しのはら しんいち)
『極』のサブストーリーに登場した元柔道家。戦闘では柔道を主体とした格闘スタイルで戦い、素手による力強い攻撃と、一度掴まれれば脱出不能な投げ技を繰り出す。神室町に観光に訪れた際に桐生がチンピラに絡まれていると勘違いしてそのチンピラを叩きのめすが、直後に誤解であることを知るとすぐに謝罪を示す。その後、桐生に案内されながら神室町を観光するが、それでも「刺激が足りない」と桐生に進言したことで地下闘技場に案内される。その後は地下闘技場に参戦して勝ち抜き、その際に桐生に勝負を申し出て彼と戦うも敗北する。敗北後は桐生の強さを称えつつも自身も更に強くなることを決意し、以降は地下闘技場に参戦する。
リング・アナウンサー
声 - ケイ・グラント(『1』 - 『4』、『極2』)、堀内隼人(『5』)
曽田地道場
『4』の冴島の「格つく」のイベントに登場する道場。新人トーナメントで優勝させた門下生は地下闘技場で対戦したり、タッグパートナーとして共闘することが可能となる。『5』ではまだ存在していたが、『6』では土地の値上がりにより既に売られており、もう存在していないことが曽田地の口から語られた。
曽田地 康夫(そだち やすお)
声 - 影山貴広(『6』)
道場を経営している師範。実技経験がなく、格闘家としての実力はないが、格闘理論を学んできたためにアドバイスが上手い。門下生が集まらずに道場が経営難に陥っていたところを地下闘技場で冴島の強さと相手を思いやる優しさに惚れ込み、冴島に道場で師範を勤めるように依頼する。また、地下闘技場の受付でファンだった桐生と出会い、門下生の勉強として彼らのタッグパートナーとしての出場をお願いする。
『5』の冴島のサブストーリーにも登場し、道場を訪れた冴島に対して道場生が増えていることや冴島の鍛えた門下生達も各地で自立していることを明かす。戦闘では独特な構えをしているが弟子達よりも弱く、一撃を喰らうだけで倒れてしまう。その後は道場の強奪を目論む「エンジェル不動産」に襲撃されるが冴島と共に撃退し、道場を死守した。また、冴島のカラオケ「ばかみたい」のムービーでは冴島とのツーショット写真に登場する。
『極』ではカラオケに「ソダチヤスオ」というアカウント名で登場しており、初期のランキングでは4位にランクインしている。
『6』でもサブストーリーに登場し、戦闘では最初の対戦時こそ素人丸出しの動きだが、のちに過去作品に登場した強敵達に似た格闘スタイルを駆使し、最後の戦いでは久瀬に似た格闘スタイルで戦う。土地の値上がりに乗じて道場を売り払い、それを元手に「RIZAP」に通い始め、桐生と再会した時(桐生自身は覚えていなかった)には屈強な体付きになる。その後、桐生に勝負を挑んで敗北したことで更なるトレーニングを積み、結果として自身の格闘理論を実践できる程の強さを手にしたが、桐生との再戦でも敗北する。敗北後は桐生から強くなったことを認められ、それを嬉しく思いつつも更に強くなることを誓い、桐生会の仲間になる。
『極2』では新・クランクリエイターの求人で仲間にすることができる。
杉山 秀夫(すぎやま ひでお)
身長183cm、体重73.6kg
冴島が曽田地道場に訪れる以前から入門していた唯一の門下生。真面目な性格だが、弱気かつ草食系で、伊達眼鏡を掛けている。格闘スタイルは空手で、均整の取れた能力を持つ。片想いの女の子を惹くために格闘技を始めるが、弱すぎるために冴島の最初の弟子となる。新人トーナメント優勝後は彼女に告白しようとしたところをその彼女が男とイチャついている場面を目の当たりにしたことで失恋してしまうが、それでもより一層格闘技に励むようになり、男としての成長を見せた。
江浜 丈裕(えはま たけひろ)
身長178cm、体重80.7kg
曽田地の道場に入門した元サラリーマン。曽田地が勝手にマスクを被せ、マスクマンとして戦うことになるも本人はとても気に入っており、四六時中マスクを被っている。格闘スタイルは跳び技中心のプロレスで、全弟子中最高のスピードを身上とするが、体力とパワーに乏しく調子を崩しやすい。些細な理由(ピンセットを安全ピンのセットと間違えた)から会社をリストラされ、妻と息子には家を出て行かれたことで空っぽで情けない自分を直すために道場に入門するが、後に曽田地の計らいで家族が見にきていた新人トーナメントで優勝し、それをきっかけに家族との仲も元に戻り、更には新たな就職先(建築会社)も決まる。
落合 福嗣(おちあい ふくし)
身長186cm、体重110kg
曽田地道場で寝てばかりいる青年。慢心家で、自身の実力を過剰に評価している。格闘スタイルは投げ技を取り入れたボクシング主体で、高いパワーと体力を併せ持つが、スピードに乏しく、信頼度が低いと練習をサボる悪癖を持つ。杉山と江浜の優勝を知り、それなら俺も優勝できると半ば強引に冴島に弟子入りをし、初めは冴島の言うことをほとんど聞くことがなかったが、徐々に冴島を信頼していき、最終的には新人トーナメントで優勝した。
音喜多 誠(おときた まこと)
身長179cm、体重65.3kg
曽田地道場の新規門下生。かなりと言って良い程のナルシストで、自身の容姿と格闘スタイルを美しいと言って憚らない。格闘スタイルはムエタイで、テクニックに関しては並ぶ者がおらずに特に目立った欠点もないが、勝負弱いところがある。前道場の門下生に馬鹿にされたことで逃げ出し、以前の道場はレベルが低いとして曽田地道場に入門する。新人トーナメント優勝後は自身をバカにした前道場の門下生を嘲笑ってやろうと道場に呼ぶが、あっさりとした掌返しに呆れてしまい、つまらない相手に拘っていた事を恥じながらもこれをきっかけに人間として一皮剥けて成長した。
『5』ではビクトリーロードの月見野予選の出場者として登場し、性格は変わらずに以前のままである。格闘スタイルは以前と異なってプロレスで戦う。ビクトリーロード予選では無敗で勝ち進んでおり、師である冴島を越えることを目標としているために冴島に勝負を仕掛けてくるも敗北し、闘技場では冴島のパートナーに名乗りを上げる。
渡辺 正高(わたなべ まさたか)
身長180cm、体重120.5kg
曽田地道場の新規門下生。大柄な体格に優しい性格で、力は非常に強いが、相手を傷つけることを嫌い、他人の顔色を窺ってばかりいた。格闘スタイルは軽妙な打撃技を織り交ぜる力技主体のプロレスで、成長は遅いものの、見た目通りのパワーや体力、更にスピードやテクニックの伸びしろもあり、高水準に纏まった能力を秘める。同じ門下生の音喜多に気持ちよく戦って貰おうと手を抜いて相手をしていたが、それが音喜多の反感を買ってしまう。新人トーナメント優勝後は音喜多と向き合い、真剣勝負を申し出たことで和解する。
三途の川底
『0』に登場した蒼天堀の地下深くにある、ビリケンが運営している地下闘技場施設。真島がストーリー上で出場する他、桐生も蒼天堀を訪れた際に参加することができる。出場選手はそれぞれに罪状を持っており、一年間戦い続けることで放免となる仕組みになっているが、罪人でなくても、真島や桐生、米木のように実力者であれば飛び入り参加することが可能となっている。試合形式は地下闘技場のように多種多様のものに分かれている。
ジンジャー・チャップマン
死体を食べて証拠隠滅を図った罪状を持つ連続殺人犯。戦闘では真鍋に似たナイフ捌きで戦う。地下闘技場に参戦した真島のデビュー戦の相手として戦うも敗れる。
ドクター・キリヒト
患者を自然死に見せかけて殺害した罪状を持つ医師。戦闘では鉄の爪を装備し、勝矢に似た格闘スタイルで戦う。地下闘技場に参戦した真島の二戦目の相手として戦うも敗れる。
デッド・バンチャー
リング上で対戦相手を故意に撲殺した罪状から「法では裁けぬ悪魔の拳」と称されるボクサー。戦闘では玉城に似た格闘スタイルで戦う。地下闘技場に参戦した真島の最終戦の相手として戦うも敗れる。
ダヴィド・ディヤーヴォル
大量虐殺の罪状を持つソビエト出身の大男。三途の川底に収容されている犯罪者罪人の中では最強の実力を持つ。戦闘では冴島に似た格闘スタイルで戦う他、掴みを完全に無効化する術を持つ。
リング・アナウンサー
声 - レニー・ハート
師匠
主人公達が各地で出会う師匠達。彼らの修行をこなすことで新しい技を覚えたり、能力をアップさせることができる。
古牧 宗太郎(こまき そうたろう) / 米木 染太郎(こめき そめたろう)
声 - 折原純(『1』- 『5』)[6]、魚建(『ONLINE』)
身長170cm、体重58.7kg
『1』から登場した、普段はホームレスをしている剣術や体術、ケンカ殺法に精通してその全てを極めた伝説の格闘家で、戦国期より伝わる古牧流古武術の正統継承者。シリーズを通して地下闘技場でもその姿を現すが、老齢を感じさせない俊敏さに加えて独自に古牧流を現代風にアレンジ(火縄銃を封じる技を現代の銃に応用する等)して発展させた現代版古牧流古武術を使うために倒すのは至難の技である。賽の河原に滞在しており、桐生に古牧流の奥義を伝授する。
『2』ではチャンピオン街の空き地におり、桐生に新たな技を伝授すると共に組み手をするが、後に亜門丈との勝負に敗北し、秘伝書を奪われてしまう。
『3』では容態が回復し、龍宮城で道場を開いて神室町の住人に古武術を教えており、桐生に新たな奥義を伝授する。
『4』では引き続き道場を営んでおり、古牧流免許皆伝の桐生にいくつかの指導を行う(冒頭にも秋山と接触する)。また、携帯電話を購入し、メールも打てるようになったが、その携帯電話の購入のために秘伝書を質屋に出してしまう。
『5』でも引き続き道場を営んでおり、かつての俊敏な動きは衰えているが、各主人公に能力を限界に引き出す修行をしてくれる。また、今作で初めて過去が明らかになり、ホームレスにまで身を落とした経緯が語られる。
『0』では真島の喧嘩師スタイルの師匠として登場し、亡くなった父親が知り合いという経緯から飛虎を心配して蒼天堀を訪れ、そこで自身の流派に恨みを持つ者に命を狙われることも多いために「米木染太郎」と偽名を使うようになる。その後、出会った真島の闘争本能を見抜き、自身の全盛期を取り戻すために彼に手合せを挑むが、同時に飛虎を心配して真島に目を放さないように依頼する。
『極』では、リメイクに当たって技の伝授の条件や修行方法が変更された他、新たな技も伝授する。また、『0』での真島との関係性が続いており、桐生について語り合うシーンが追加されている。
『極2』では技の伝授方法が『極』と同じ仕様になり、『6』で実装されたアルティメットヒートモードも伝授してくれる。その後、桐生に負けた事で己を鍛え直すために真島建設に入社する。
『ONLINE』でもサブストーリーに登場。
白蓮師(びゃくれんし)
『2』のサブストーリーに登場した「シロ婆」と呼ばれる新星町に住む老婆だが、実は中国拳法の達人で、ラウ・カーロンの師匠でもある。趣味は編み物で、スターダストの人気ホストであるユウヤの熱狂的なファンである。弟子であるラウを討った桐生に対し報復するかどうか見極めるために接触するも彼の人柄に触れたことで大層気に入り、弟子の非礼と不始末を詫びると共に「蓮家操棒術(『極2』では蓮家操槍術)」の奥義を授ける。また、別のサブストーリーで自身の願いを聞いてくれた桐生に他の蓮家の奥義を授けたり、編み物棒を渡して援護したりと桐生をサポートする。
『1』ではコインロッカーに入っている「白蓮師のノート」(ラウの弱点が書かれた本)に名前だけ登場し、『3』では与那城も弟子の一人であることが判明する。
河内 素栄(かわち そえい)
『2』のサブストーリーに登場した蒼天堀に住む高校生である河内兄弟の弟で、古牧流古武術と双璧をなす河内流古武術の宗家。投げと柔術を極めるために道場破りをするなどして強さに取り憑かれている当主である兄の元匠の目を覚まさせてほしいと頼むが、それを引き受けた桐生に対して「河内家伝書」を授ける。その後、兄が地下闘技場で桐生に敗北したことで憑き物も取れて蒼天堀に戻ってきたことを桐生に報告し、桐生に感謝すると共に礼としてアイテムを手渡した。
ボブ
『2』のサブストーリーに登場した、アメリカのプロリーグでピッチャーをしている黒人男性。恋人のチエミに会いに日本やって来た際に、吉田バッティングセンターで見た桐生のバッティングを見て勝負を申し込むが敗北し、自身のサインボールを桐生にプレゼントした[注 50]。『極2』ではチエミが妻になっていることやチエミの里帰りで彼女の父の経営する吉田バッティングセンターに来たことなど設定が変更されている。また、桐生に敗北した後に桐生を助けるために真島建設に入社する。
アルバトロス赤木(アルバトロス あかぎ)
『2』のサブストーリーに登場した元プロゴルファー。横堀ゴルフセンターで桐生のショットを見て、『2』では宇宙人コースで800点、『極2』ではニアピンチャレンジの上級コースで300点を超えたらいいものをプレゼントすると勝負を持ち掛ける。その後、条件をクリアした桐生に自身のサイン入りの5番アイアン(『極2』では自身の特注クラブ)と二代目アルバトロス赤木の称号(これは桐生に断られる)をプレゼントした[注 50]。
与那城 尚二(よなしろ しょうじ)
身長180cm、体重70.2kg
『3』から登場した、世界を回って素手で相手と戦うことで様々な武器術を身に付けた「格闘界の考古学者」。実戦の時に「ハイパーオレっちモード」になると普段よりも強くなるが、対戦後は決まって激しく消耗する。また、本人曰く「世界中を回るうちに言葉がめちゃくちゃになった」ようで、日本のあらゆる訛りを混ぜた話し方をする。普段はアイスキャンディー屋を装っているが、弟子である上山蓮太からの紹介によって桐生に武器(カリスティックやトンファー、ヌンチャクの3種類)の扱いを「アサガオ」の前の砂浜に設置された特設リングで伝授することになる。また、闘技場で戦うことが可能で、ヌンチャクを武器に「ウエポンマスターGP」に登場する。『5』ではビクトリーロードの錦栄町予選に出場し、戦闘では一戦目ではラウに似た格闘スタイルで戦う。品田と二度戦うも敗北し、綾小路の元で修行をする。
マック・シノヅカ
『3』から登場した「サイコーのイチマイ」を求めるために来日した外国人。アフリカの大地で敵無しだったほどの俊足を誇り、またアクション映画が好きで、日本人の彼女がいるようである。各作品の究極闘技のチェイスバトルで登場するが、かなりの俊足で、難易度も非常に高いものとなっている。神室町に行こうとする桐生と琉球街で出会い、その際に天啓のヒントを桐生に教える。その後、神室町で桐生と再会し、友人である真島組の建設主任の奥田と協力してチェイスバトルのテクニックを教えた。また、天啓のヒントとして少々英語交じりになりながらも日本語でメールを打ってくるが、後半になると彼女に教わったおかげで日本語のメールが上手くなる。
『4』では城戸を連れ去った初芝会を目撃しており、秋山にその情報と天啓のヒントを教えた。また、秋山以外にも谷村や桐生にメールで天啓のヒントを教える。
『5』では天啓用SNS「Мaxiv(マクシブ)」を運営しており、主人公一同に天啓のヒントをメールで伝える。
ドクター南田(ドクター みなみだ)
『3』から登場した脳内で過去に対戦した相手と戦える格闘シミュレーター「IF7」の製作者。元々はゲームクリエイターとして活動していたが、打倒桐生を目指す亜門に大金を積まれて「IF7」を造った。
『4』では仲が良いホームレス達に頼んで、機材をこれまで開発を行っていたチャンピオン街の空き地から劇場地下に移してもらい「IF7-R」の開発を行う。その後、秋山が初芝会に盗まれた顧客ファイルを奪還する途中で出会う。
『5』では助手と共にベルトスクロールアクションゲームのようなロードバトルができる「IF8」を開発し、本体からゲームを受信する小型通信機のデータ収集のために全国各都市でテストプレイを行う。
『2』に登場したゲームセンターにあるミニゲーム「YF6」の開発者でもある。
西郷 大二郎(さいごう だいじろう)
声 - 伊智生士冶(『4』)
『4』から登場したスキンヘッドとサングラスがトレードマークである世界各国を転戦した元傭兵。真偽は不明だが、傭兵時代の常人離れしたエピソードを数々残しており、トレーニングをクリアするごとに人間の範疇を越えた伝説をいくつも語ってくれる。一方で、「危機管理のプロ」を自称しながら武者修行中に金欠で行き倒れになったり、ギャンブルを「金を増やす為の便利なツール」と称するなど、自分自身の生活管理が成っていない一面もあり、秋山(『4』)や桐生(『6』)からはしばしばその点についてツッコまれたり、呆れられたりしている。また、秋山以外にもトレーニングを行う弟子がおり、秋山以外のキャラクターで会うと弟子に謎の(基本的にどうでもいいような)アドバイスをしている。神室町でたまたま出会った秋山の非凡な格闘センスを見込み、自らの下でチェイスバトルや射撃を重点に置いた訓練と称したトレーニングを薦める。その後、秋山が副業で経営するキャバクラの常連客であることやキャバクラのツケに困っていることを秋山に明かすが、結局は今までの訓練の謝礼と考えた秋山からそのツケを帳消しにされ、更には特別に割引でキャバクラに入れるようにしてもらう。
『5』では蒼天掘で行き倒れになったところを秋山に助けられ、返礼として中東での空中戦で得た経験を元に絶技である「エアストライク」を伝授し、加えて前作と同様に秋山にトレーニングを強引に課すが、今回は修行の裏で自伝映像作品製作のための撮影も並行して行う[注 51]。
『0』では武具探索のエージェントとして登場する。
『6』ではサブストーリーに登場し、尾道仁涯町で行き倒れになっていたところを桐生に助けられる。戦闘では曽田地と同じく様々な強敵達に似た格闘スタイルで戦を駆使し、最後の戦いではブルース海老沼に似た格闘スタイルで戦う。その後、最強の護身術を編み出すために桐生に手合わせを申し出るが、手合せの末に「しばらくしてから海外に行くこと」を桐生に報告し、最終的には桐生会の仲間に加わる。
センニン
『4』に登場した父が神室町の地下に遺した「大事なもの」を見つけるためにひたすら鶴嘴のみで掘削作業を行っているホームレスの老人。75歳。冴島以外の主人公ではケンちゃんという仲間のホームレスと会話する姿が見られる。冴島に作業の手伝いを要請し、また天啓のヒントを教え、そのために必要なノミと木槌を提供した。その後は冴島と共に地下を掘り続けて父の遺した手記と刀を見つけ、自身は父の武の精神と鉱脈を受け継いで刀を冴島に託した。
ナイール
声 - 片岡亮子(『4』)、森なな子(『ONLINE』)
『4』に登場した家族を殺した犯人の「GG」を追うために仲間の刑事と共に海外から神室町に来た女性刑事。通常はストーリーの都合上で谷村以外の主人公が自身に会うことはないが、ある方法で他の主人公で組手を行う場所に行くと鳩に餌をあげて戯れている姿が見られ、適当に喋るとそれぞれの主人公によって異なるリアクションを見せる。また、柔術を使うために手合せではその実力を見せる。タガログ語しか話せずに亜細亜街で警察官に職務質問されていたところを谷村に保護され、語学力堪能の彼と意気投合し、谷村に天啓のヒントを教える。その後、谷村にGGの捜査の協力を頼み、GGを追っていく中でGGが死んだはずの兄であることを知り驚愕する。その後はGGから自分が両親の殺害犯[注 52]であることを聞かされたことで「兄」と決別し、苦闘の末に二人でGGを逮捕した。事件終結後、「犯人が兄だったことはショックだったけど生きてくれていたのは正直少しうれしかった」と複雑な心境を吐露し、別れ際には谷村に捜査を手伝ってくれたお礼がしたいと本国に帰ったら新鮮なフルーツをたくさん送ることを約束した。
『ONLINE』では「GG」の残党を追うため再び神室町を訪れるが、日本語を流暢に話すようになっている。
古牧 宗介(こまき そうすけ)
声 - 平澤信之介[6]
『5』に登場した古牧宗太郎の孫。永洲街では「チンピラ狩りの宗介」の名で通っており、自信家ではあるが、確かな実力を持っている。また、元々はいじめられっ子だったが、いじめっ子達を見返すために祖父から古牧流古武術を学んでいた。古牧流の技を使う桐生に興味を持っており、桐生の鈍った闘いの勘を鍛え直した上で倒すことを目的とし、桐生の修行が終了した後は桐生に諭されて神室町に旅立つ。その後、祖父と対決するも敗れ、自身の修行不足を感じてしばらく祖父の下で修行することを決意する。
押田 天童(おしだ てんどう)
『5』に登場した冴島が身を寄せる雪山の集落の中で不気味だと噂をされている老人。山奥の祠に一人で住み着いて山の神の金言を授かるために修業を積んでおり、供える度に山の神が現れて自身に憑依し、その時の意識は残っていないながらも様々な妖術を操るが、実際には元は手品師であるために大掛かりな仕掛けを妖術として見せていただけで、供え物も自身の欲しい物を供えさせていただけである。冴島に様々な特訓をし、全てを終えた後は冴島に別れを告げて消えた。
YOKO(ヨーコ)
『5』に登場した煙突のような特徴的なヘアースタイルと派手めのスーツが特徴である元スタイリスト。独自の「美」の理論を追求しており、かつては世界的に有名なスタイリストとして活躍していたが、サポートしていた(現・蒼天堀商店街会長の)右田がアイドル競争から逃げ出したことにより自信喪失し、スタイリストの仕事から離れるようになる(本人曰く「今はただの化粧が濃いオカマ」)。その後、遥のことを「おイモちゃん」と呼びながらも美に関する様々なアドバイスをし、全てを教えた後はその右田とも和解して蒼天堀を後にした。
綾小路 獅子(あやのこうじ レオ)
『5』に登場した品田が錦栄町で助けたことで出会う、平安時代の貴族の末裔を自称する中流以上の家庭に育った無職の男性。35歳。見た目と傲慢な性格によらず、武器の扱いが上手い。品田に武器を扱うコツを伝授し、その時に彼女いない歴35年を品田に見抜かれてしまい、彼女ができるようにアドバイスを受けた結果として貴族の格好も止めて人間としても成長していくが、後に美人局に遭ったことで元の格好と性格に戻ってしまう。
五十嵐(いがらし)
声 - 山根ゴウ
『5』に登場した品田の中学時代のコーチ。品田のバッティング能力を引き出してくれるが、修行内容はバッティングとほぼ関係ないものが多い。自分の指導に付いてくる者がいなくなったことでコーチを引退していたが、自分の指導法で成長していく品田を目にして自信を取り戻し、コーチを続けていくことを決意する。
タツヤ
声 - 川越達也
『5』に登場したテレビ番組でレギュラーコーナーを持つ程の有名なオーナーシェフ。全国5大都市の新規店や閉店の危機にある店にオリジナルメニューを提供し、その店を元気にする「タツヤの3分間厨房ハッキング」という番組のスペシャル企画を行っているために全国を巡ってオリジナルメニューのヒントを探しており、各主人公にその都市の美味しい店の紹介を依頼し、店を紹介すると食事による能力強化が可能になる。また、一部のサブストーリーにも登場する。
バッカス
『0』に登場した桐生のチンピラスタイルの師匠で、アメリカ人の初老の白人男性。とにかく酒好きで、常に酔っており、通称として「バッカス」と呼ばれている。かつてはジムの経営者兼トレーナーとして有能なボクサーを育てていたが、マフィアである「レイモンド・カルテル」の息の掛かった選手を自身の育てた選手が倒した事でマフィアの恨みを買ってしまい、マフィアの嫌がらせなどでジムは破綻して多額の借金も背負う事になり[注 53]、日本に逃亡することとなる。その後は錦山と共に飲みに出歩いていた桐生に自分へのお金の投資(能力強化)を指南し、また桐生の才能を見出して自身も技を伝授して修行を課す。その後、全ての技を教えると自身の経歴や自身が狙われている真の理由(才能のある選手を発掘する能力)を話し、人生のリスタートとしてあえて組織に入りマフィアを逆に利用して才能のある若者に世に出る機会を与えるためにアメリカに帰国する。
カモジ
『0』に登場した桐生のラッシュスタイルの師匠で、ホームレス。動きが俊敏で、ヤクザを簡単に叩きのめす程の実力を持つ。七福パークで時間内に自身をダウンさせたら挑戦料の倍額を支払い、失敗すれば挑戦料をキープする「倒してみろ屋」を生業としており、バッカスから紹介された桐生に倒してみろ屋を修行の体でやらせるようになるが、最終的には儲けた1億を桐生に渡した上でこれまでの稼ぎで安いながらもアパートを借りたことやTVの取材を受けたことを報告する。
タツ姐
『0』に登場した桐生の壊し屋スタイルの師匠で、凄腕の借金取り。女性でありながらも刃物を持った男を圧倒する程の実力を持つ。バッカスの紹介で桐生と知り会った後は自身の修行場である埠頭で修行を課すようになり、修行の成果として借金の取り立てを桐生に依頼する。
飛虎(フェイフウ)
『0』に登場した真島のスラッガースタイルの師匠で、表向きは妻の龍花(ロンファ)と共に夫婦で中華料理店「龍虎飯店」を営んでいる台湾出身の武器職人。様々な武器術を扱い、棒きれ一本で刀を持ったヤクザを一方的に叩きのめす程の腕前を持つが、武具作成の研究に没頭する余りに武具探索の手配などはロンファに任せきりで、彼女には頭が上がらないようである。また、神室町に支店を出しており、弟子に武具の販売を行うように指示している。米木の紹介で真島と知り合った後は自身の実施した試験に合格した真島のバット捌きに興味を示し、顧客にする。
アレシ
『0』に登場した真島のダンサースタイルの師匠で、赤いジャージが特徴のストリートダンサー。ダンスで成功するのを最終的な目標としているが、常に目先の欲に駆られる感情が言葉の端々から垣間見える。普段は三つ子の三兄弟で一緒にダンスパフォーマンスをしており、自分達の踊りを見て真島がダンサースタイルを閃いたことが縁で、踊りながら戦う「ブレイキング・ファイト」を考案して真島を仲間に引き入れる。
幕田(まくた)
『6』に登場したパーソナルトレーニングジム「RIZAP」のトレーナー。暑苦しい口調の持ち主だが、トレーナーとしての実力は折り紙付きで最優秀トレーナーの実績も持っている。会員となった桐生の担当トレーナーになった後は、桐生のトレーニングをサポートし、また食事アドバイスとして行ったトレーニングにあった食事を取るようにメールを送る。
神室町の住人達
『1』から登場した東京最大の歓楽街に登場する人達。
(れいな)
声 - 三原じゅん子(『1』)、鶴ひろみ(『0』)、田中敦子(『極』)
身長165cm、体重43kg[4]
由美が勤務して桐生や錦山が入り浸る高級クラブ「セレナ」のママで、3人の良き理解者。心優しい性格で、それぞれをまるで身内のように見守っている。また、10年前の店は閑散とし、現在は顔馴染みが来る時だけセレナを営業している。桐生が刑務所に収監された後は事態を知って錦山を責めるが、直後に激怒した彼に叩かれてしまう。桐生の出所後は錦山のことを愛しているために桐生達の動向を錦山に伝えており、後に桐生達を見たことで考えを改めて桐生達に自らが行ったことや謝罪を置手紙で知らせ、自らの罪を清算するために錦山を殺そうとするが、返り討ちに遭って若中の荒瀬に射殺された。
『0』では錦山が常連になってその縁で桐生とも知り合うことになるが、後に桐生が堂島組に追われていた際は彼を匿い、傷の手当てをして錦山の情報を提供した。その後、マキムラマコトを探しに現れた真島が錦山と戦った時には真島をガラス瓶で攻撃したり、錦山にドリンクを提供したりと彼をサポートし、決着後はマキムラマコトが姿を消したことなどを伝える。
ユウヤ
声 - 三宅健太
ホストクラブである「スターダスト」の店員。戦闘では力強い投げ技を使い、『極』では更にルチャを用いる。一輝を訪ねてやってきた桐生を店にみかじめ料を取立てに来たヤクザと勘違いし、問答無用で殴り掛かるが、後に事情を知ると桐生に謝罪をし、一輝と共に手助けをするようになる。また、サブストーリーではストリッパーである恋人のミユのショーを桐生と見に行った際に、堂島宗兵の敵討ちを狙う小室の一派にショットガンで殺されそうになったり桐生を誘き出すためにミユを拉致され救出しようとして逆に捕まってしまうなど彼らの復讐に巻き込まれてしまうが、桐生により恋人共々助けられる。
『2』では店長に出世し、桐生達を支える。また、サブストーリーで元々は暴走族である「ブラックサンダー」の総長だったことが判明し、かつての友人であったブラックサンダーのコウジに、引退時に指名した総長の岡野が承認無しで組織を抜けたために「チームをばっくれた奴は500万」という自身が決めた掟のことをネタに金を出すか岡野を出すかを要求されるが、後に敵対した際にスーツの上に特攻服を着て奮戦し、桐生の助けもあって撃退した。
『3』ではスターダストを借りて風間組との抗争に利用しようとした錦山組の長谷部を桐生と一輝と共に戦って撃退した後、神室町に何人かの警察が見張りをした際は桐生にミレニアムタワーへの裏道を教えた。その後、桐生が沖縄へ帰ろうとした際に腹部を刺した浜崎を一輝と共に取り押さえる。
『4』では桐生のサブストーリーに登場し、自身の甘さを指摘する若いホストの真也と揉めるが、最後は自身の本音と熱意を伝えたことで真也と仲直りする。また、別の桐生のサブストーリーでは桐生の名を騙って好き勝手やっている偽物がいることを桐生に報告した。
『5』では桐生のサブストーリーに登場し、ホストへの情熱を失い、スターダストから離れて流れ着いた永洲街で桐生と出会う。その後、桐生の手助けもあってホストへの情熱を取り戻し、スターダストへと帰って行った。
『6』ではジングォン派のボスであるハン・ジュンギにスターダストを買い取られるが、その前に店を辞めており、後にサラリーマンとして桐生と再会する。その後、スターダストが買い取られるまでの経緯やオーナーの座を降ろされた一輝がスターダストを再び買い戻すための算段を整えていること、達川に関する情報などを桐生に伝える。
『極2』ではブラックサンダー撃退後に桐生へ礼をするために真島建設に入社する。
『ONLINE』でも登場。
一輝(かずき)
声 - 土田大
スターダストの店長。スターダストからみかじめを取らない風間新太郎に大層世話になっているらしく、恩返しとして桐生の手助けをする。
『2』ではスターダストのオーナーとなっており、海外組織の構成員ではないかと疑われて警視庁からマークされるが、実は半年も監禁されていたことが判明する。その後、自身に成り代わっていた真拳派である康に瓦と共に撃たれて重傷を負うも柄本医院で一命を取り留める。
『3』の序盤ではまだ柄本病院に入院中であるが、後にスターダストに復帰する。また、サブストーリーではキャバクラやホストクラブを多く展開している「京極グループ」の京極からスターダスト二号店の出店の案を出され断っていたが、この事が原因でスターダストの新人ホストに紛れ込んだ京極のスパイであるエイジに唆されたユウヤと対立しまう。その後、エイジから「一輝とユウヤを仲違いさせてスターダストを乗っ取る」という真相を聞いた直後に京極の元へ単身で乗り込んで危機に陥るも桐生達に助けられ、直後にユウヤに謝罪した。
『4』では桐生のサブストーリーに登場し、ユウヤの店長職の適性に懸念を抱いていたが、ユウヤ自身の働きを目の当たりにしたことでひとまず見守ることを決意する。
『ONLINE』でも登場。
サイの花屋
声 - 藤原喜明
治外法権の無法地帯「賽の河原」を根城にする情報屋達のボス。表側に鳳凰、背中に風神と雷神が描かれた羽織を着用しており、偽名は賽の河原の「賽(サイ)」と情報の横流しに花束を使っていたことに由来している。また、本名は不明だが、一人息子がおり、自身が父親だということは明かしていない。元々は警察官として活動していたが、情報の横流しを同僚である伊達に告発され、後に賽の河原の支配人となって裏商売を続けるようになる。
『2』では賽の河原の地下からミレニアムタワーの50階に拠点を移し、情報を収集しているが、後に賽の河原に戻ることになる。
『3』では真島組の管理下で拠点を間借りしており、桐生達に東城会内部の情報を提供する。
『4』では冴島が笹井を探している際に情報屋として登場し、谷村にも同様に葛城の情報を提供するが、後に上野誠和会に強襲されて一時は負傷する。また、主人公4人が協力するサブストーリーも用意されており、シリーズを通して描かれてきた息子のタカシとの関係も無事完結する。
『5』でも賽の河原で登場し、冴島と相沢に森永が死亡したことを伝えた。
『極2』では真島との出会いが描かれており、植松殺しの濡れ衣を着せられて真犯人を突き止めるために訪れた真島に自身の代わりに賽の河原の管理をすることを要求し、その条件を引き受けた真島に植松を殺した犯人である川村が蒼天堀に向かった事を伝えた。
田村(たむら)
神室町を拠点に活動する週刊誌記者。桐生の服役中に諜報活動を行うために「東城会のスキャンダルを追ったことで東城会の怒りを買い、東京湾に沈められて死亡した」という自らの死を偽装し、密かに賽の河原で花屋の部下として活動する。その後、賽の河原で桐生と再会した後は全ての真相を明かし、後輩の青木には自身が生きていることを内緒にするように告げた上で桐生に協力する。
『2』にも情報屋として登場し、自身が不在の時は同業者の森田が代わりを務める。
青木(あおき)
田村の後輩の週刊誌記者。田村が表向きは死亡したとされた後は彼が生存していることも知らずに神室町屈指の情報屋として成長しており、桐生に度々協力する。その後の桐生の行動によっては田村と再会し、彼と共に桐生に挨拶する場面が見られる。
『4』で再登場し、情報屋として各主人公にサブストーリーの情報を提供する。
二代目 歌彫(うたぼり)
声 - 小田桐一(『極』)
ピンク通りにある「龍神会館」に店を構える桐生と錦山の背中の刺青を彫った彫師。美月に似た死体の胸元の刺青のことで桐生が訪れる。
『3』で力也絡みのサブストーリーで再登場し、未完成だった力也のハブの刺青に目を彫って完成させた。
柄本(えもと)
声 - 工藤俊作(『1』『2』『極2』)、唐沢龍之介(『極』)
「柄本医院」の院長で、元は東都大の外科部長であり、神室町一の名医でもある。強力なスポンサーがおり、患者であればヤクザでも不法滞在の外国人でも金を持っていないホームレスでも平等に治療を施す。サブストーリーでは、アリを診断中に桐生が急患として連れて来た少年を見て虫垂炎にかかっていると見抜き、倒れたアリより少年を優先して手術に取り掛かったことで激怒したアリの兄弟に殺されそうになるが、桐生がアリ兄弟の相手をしている間に少年の手術は無事に成功し、アリ兄弟にもアリは尿管結石にかかっただけだと説明し瞬時に回復させて騒動も収まった。後に風間組(前述のスポンサー)の援助を受けていることが判明するが、風間新太郎の死後は100億円事件の影響もあって援助が滞っているために資金繰りが苦しくなってしまう。
『2』では康に撃たれた一輝と以前から顔見知りだった瓦を治療するが、その最中に乗り込んで来た崔と金に襲撃される。
『3』では一輝の見舞いに来た桐生と挨拶を交わし、桐生が真島と会っている間に遥を一時的に預かった。またサブストーリーにも登場し、15年前に訪れた元極道の辰巳と再会し、桐生に神室町の案内を頼んだ。
『4』では桐生のサブストーリーに登場し、桐生が連れて来た怪我人が中国からの密入国した蛇華の構成員であることが判明したが、組織の使い捨てにされた事との故郷の家族を思っていた事から「二度と悪さはしないだろう」と判断して入院させた。
『ONLINE』でもサブストーリーに登場。
戸部(とべ)
声 - 楠見尚己
バー「バンタム」のオーナー兼マスター。店内にボクシンググラブを飾る程の熱烈なボクシングファンで、店名もボクシングの階級から名付けている。「バッカス」が店主の死亡によって廃業した後は同じビルに入居し、営業を開始した。また、サブストーリーに登場し、自身を守ってヤクザに強請られていたボクサーのジャッカル八木沢を救うように桐生に依頼したことから親交を持つようになる。
『2』では一年前の事件によりバンタムを含む近隣の店は経営難から借金を抱えてしまったために千石組に買収されて仕方なく集団で桐生に襲い掛かるも返り討ちに遭う。その後、事情を聞かされた桐生に許されたことで改心した。
『3』では店をダーツバーに変えており、新たにダーツが楽しめる場を設ける。
『4』の桐生のサブストーリーでは1年前に癌で亡くなった常連客の岩崎勇作と知り合いであったことが判明し、勇作の恋人であったに八千代千草に勇作が死んだ事を打ち明け、遺した遺書を千草に手渡した。
『6』ではある事情で神室町にやって来た桐生と再会し、彼に対して秋山と遥に関する情報を伝える。
馬場 啓介(ばば けいすけ)
タカシの所属していたギャングチームである「B-KING」のリーダー。『4』にて名前が判明する。戦闘では『1』では頭突きや足払いなどを使い、『極』では品田に似た格闘スタイルで戦う。仲間と共にチームを抜けようとしていたタカシをバッティングセンターまで追い詰めるが、その態度から桐生からは「ひねくれたカーブ」と呼ばれた上に桐生に叩きのめされる。その後、桐生にタカシ達がヤクザに追われている事とその理由を話した。また、サブストーリーでも登場し、仲間と共にヤクザに絡まれていたところを桐生に助けられ、その事を皮肉に思いながらも礼を言ったり、また『極』では別のサブストーリーでタカシを探していた桐生に対してタカシの居場所を教えることを条件に自身の好物である「たまごツナサンド」を要求し、それを受け取った後はタカシが京香と一緒にバッティングセンターにいることを伝える。
『4』の桐生のサブストーリーで再登場し、プロのメジャーリーガーになっており、物理法則を無視したかのごとき変化球「ひねくれたカーブ」を得意としている。桐生にメールを送ってバッティングセンターで野球で対戦し、結局は敗れはしたが、更なるレベルアップと再戦を誓った。
赤井(あかい)兄弟
賽の河原を襲ったカラーギャングチームの一つである「ブラッディアイ」のリーダーの二人の兄弟で、白木と青田を誘って賽の河原襲撃を計画した実行犯。二人共に腕にトライバル柄のタトゥーを入れており、細身でバンダナを巻いている方が兄、太めの体格をした金髪坊主頭の方が弟で、メンバーはいずれも赤を基調としたユニフォームを着ている。戦闘では兄はムエタイ(『1』)やダンサー(『極』)といったスピードを生かした攻撃、弟はパワーを生かした攻撃を使い、また連携技も得意とする。桐生に敗れた後は遥誘拐のために劉家龍に金で雇われたことを自白し、チームを解散した。
『4』の桐生のサブストーリーで再登場し、兄弟で「レッドスネーク」というアダルトビデオ製作会社を立ち上げ、桐生に新作のアダルトビデオを手渡した。
『極2』では新・クランクリエイターの敵キャラクターとして登場する。
白木 ユウジ(しらき ユウジ)
声 - 岩瀬遼平(『極』)
賽の河原を襲ったカラーギャングチームの一つである「ホワイトエッジ」のリーダー。メンバーはいずれも白を基調としたユニフォームを着ている。戦闘では『1』ではムエタイ、『極』では力也に似た格闘スタイルで戦う。桐生に叩きのめされた後はチームを解散した。
『4』の桐生のサブストーリーで再登場し、「プラチナ」という中古車や危険な物を扱うフロント企業を立ち上げ、桐生に自身の名刺を手渡した。
『極2』では新・クランクリエイターの敵キャラクターとして登場する。
青田(あおた)
賽の河原を襲ったカラーギャングチームの一つである「ブルーZ」のリーダー。メンバーはいずれも青を基調としたユニフォームを着ている。戦闘ではスタンガンを使用する。桐生に叩きのめされた後は自らを下っ端と発言し、更には桐生に対してホワイトエッジに関する情報を伝える。
『4』の桐生のサブストーリーで再登場し、チームを解散せずに仲間と共に活動を行っており、桐生に赤井達のことを聞かされたことで逆上して襲い掛かるも敗北した。その後、仲間達のことを見捨てることが出来ずに未だこのような活動をしていたことが判明するが、自身もこのままではいけないことも自覚しており、仲間達と共に次のステップへ進んでいくことを決意する。
『極2』では新・クランクリエイターの敵キャラクターとして登場する。
翔太(しょうた)
声 - 中山真吾(『1』)、いとう緑茶(『極』)
スターダストに勤めるホスト。スターダストに来る前は「正太郎」という源氏名を名乗り、チャンピオン街のバー「シェラック」で働いていた。礼儀正しい性格でユウヤからも信頼されているが、裏では悪徳金融会社「花形金融」と結託し借金まみれになった客をアダルトビデオに出演させて金を作らせる仕事を行うなどして女性を食い物にしている。戦闘ではバタフライナイフを使用し、『極』では金井に似たナイフ捌きで戦う。自身のファンになった沙耶に借金を押し付けて利用し、娘を救うために乗り込んで来た伊達を刑事である事を知った上で脅迫するが、伊達の助けに入った桐生に花形金融もろとも叩きのめされる。その後、桐生の強さと気迫に恐れ慄き、降伏し、借用証書を明け渡した。
アケミ
声 - 吉沢キヨ(『1』)
会員制の超高級ソープランド「桃源郷」のNo.1ソープ嬢で、シンジの婚約者。シンジの頼みで風間を一時は保護しており、後に瀕死のシンジから風間の居場所を教えられた桐生が桃源郷を訪れた際には近江連合の寺田が風間の保護を引き継いだことや錦山組が世良の遺言書を狙っていることを伝えるが、桐生からはシンジの死を知らされる。その後、サイの花屋からシンジの遺骨を引き取った。
平田(ひらた)
声 - 金谷ヒデユキ(『1』)
10年前に桐生がシンジに頼まれて借金の取立てに向かった金融会社「ピースファイナンス」の社長。戦闘ではゴルフクラブを使用する。夜逃げの最中だったところを桐生に制され、借金を取り立てられた。その後、ヤクザを雇って桐生に報復にくるも失敗し、逃走した。
『3』のサブストーリーで再登場し、自身の残した借金で一家は離散したためにホームレスになって10年以上逃げ回っていたことやミレニアムタワー爆破事件の時に桐生を背後から刺し殺そうとしていたこと、大学を辞めて風俗に行くことになった娘のことや心労で倒れて亡くなった妻のことで息子の達夫からは恨まれていたことが判明したが、後に桐生と再会したことにより自らが犯した罪を反省し、改心したことにより息子や桐生と和解した[注 54]。
木村(きむら)
不良グループのリーダー。戦闘では『1』では通常の敵と同じ動きだが、『極』では八幡に似た格闘スタイルで戦う。桐生達の目の前で小石をぶつけるなどして子犬を虐めていたが、自分達の非道な行いを目撃したことと大変な一日ですこぶる機嫌の悪かったことから桐生に小石を投げ返された上に「運が悪かったんだよお前等は」と喧嘩を売られて憂さを晴らすかのように仲間諸共叩きのめされた[注 55]。
モグサ
サイの花屋の部下のホームレス。賽の河原に向かおうとしていた桐生を公衆便所で襲おうとしたが、花屋からの許可が下りたことで彼を通した。その後、花屋がタカシの件で悩んでいることを桐生に打ち明けた後、それを解決してくれたお礼としてか宝くじ売り場に賭場があるという情報を提供した。
『2』ではサブストーリーに登場し、1年前に遥が助けた子犬(ポチタロ)を世話していたゲンさんという人物が亡くなった後に預かっていたが、ヒマワリを助けるために桐生に譲り渡した。
パレスのオーナー
サブストーリーに登場したアレスを真似たスナック「パレス」のオーナー。戦闘では『1』ではパンチ技を主体とした攻撃、『極』ではムエタイで戦う。アレスの噂を利用して店名を似せたり美月という名のママの容姿を由美と同じにする[注 56]などをして客を呼び寄せていたが、店員の亜理抄や桐生に詐欺紛いの営業を指摘されたことで逆上し桐生に襲い掛かるも返り討ちに遭う。その後、桐生から店のママが殺された事を告げられ、自身の行いを深く後悔しながら泣き崩れた。
マイ
声 - みひろ(『1』)
サブストーリーに登場した巨乳の女性。バーで薬入りの酒で眠らせた客の金を奪う「マグロ」と呼ばれる悪質な犯罪の片棒を担いでおり、神室町でもその巨乳を武器に多くの人間をカモにしている。グルである酔っ払いに絡まれているフリをしてターゲットの桐生に助けを乞い、助けられた後は行きつけの店だというバーに案内して一緒に酒を飲むことを提案するが、最終的には桐生に見抜かれる。
坪井(つぼい)
サブストーリーに登場した一子相伝の暗殺拳の使い手を自称するスリ師。『極』にて名前が判明する。戦闘では『1』では独特な構えをしているものの一撃でダウンしてしまう程に弱いが、『極』では一般の敵程度の体力に加えて南に似た格闘スタイルで戦うなどパワーアップしている。ホームレス(『極』ではサラリーマン)の恰好で桐生にスリ行為を働いたが叩きのめされ、おとなしく盗んだ金を返した。
『極』では父が登場し、戦闘では息子と同様に南に似た格闘スタイルで戦う。10年前に桐生が由美への誕生日プレゼントに渡すために購入した名前入りの指輪を盗み、さらにスリを行いながら桐生から逃走するも追い詰められ、それでも抵抗したところを叩きのめされる。その後、盗んだ指輪を宝くじを買うためにえびす屋に売った事を白状した。
『2』の闘技場では自身に似た格好と暗殺拳の使い手の肩書を持つ「スリの末吉」が登場するが、同一人物かは不明である。
アコ / 岡野(おかの)
『2』に登場したオカマバー「亜天使」のママだが、実は昔にユウヤがブラックサンダーの頭を任命した岡野である。サブストーリーでオカマになったことを知られたくなかったためにコウジに黙って暴走族を抜け出し、それが原因でコウジに追われていたが、スターダストとユウヤがブラックサンダーに襲われているのを聞くとすぐに駆けつけて苦戦しているユウヤにかつて自身にくれた初代ヘッドの特攻服を渡した。また、別のサブストーリーでチンピラに絡まれているところを助けると「鋼のプラカード」(『極2』では「愛用のバット」)で援護する。
『3』以降も亜天使を営業しており、『4』では秋山限定だが、条件を満たすと筋骨隆々の男が表紙を飾る「いかがわしい雑誌」を渡して援護する。
『極2』では惚れ込んだ桐生の助けになるために真島建設に入社する。
『0』では自身に瓜二つの前任のママが登場し、そのままアコ自身のことを指したような後任を探しているという発言をする。
『ONLINE』では、火野 正太郎に関するサブストーリーで登場する。
無野(むの)兄弟
『2』に登場したギャングチーム「チーム 16ビット」のリーダーの二人の兄弟。太めの体格をしている方が兄、緑色のジャケットを着た方がリーダーの弟で、児童公園前にある空きビル「天野ビル」をたまり場に使用している。戦闘では兄はパンチ技を主体とした攻撃、弟は攻撃はせず自身が倒されない限りは何度でもパシリを呼び出してくる。天野ビルの調査をするためにビルの合鍵を手に入れようとやって来た桐生達を、ゲームの邪魔をされたという理由で兄やパシリを呼び始末しようとするも返り討ちにされる。それでも「コンティニューだ」と宣りながらしつこく食い下がろうとするも、しびれを切らした狭山から一喝され、渋々合鍵を渡すこととなった。
鏡(かがみ)
『2』のサブストーリーに登場したホストクラブ「アダム」の雇われ店長。「ホストは売り上げが全て」と考えている実力主義者で短期間で店をスターダストと肩を並べるまでに成長させるほどの手腕を持つが、従業員に無理矢理売り掛けをさせているという黒い噂を持つ。新人ホストのまことの推薦で働くことになった桐生を雇い、後にNo.1ホストであるタカヤにオーナーの如月の店で借金を作りそれを返済するために売り掛けをしている事を暴露されるも、最終的にタカヤとの勝負に勝ち、如月を叩きのめした桐生に感謝し、さらには桐生の推薦でアダムの新オーナーに就任する。
板倉(いたくら)
『2』のサブストーリーに登場したキャバクラ「マリエッタ」の店長。マリエッタのオーナーである金本が母親の危篤により実家に里帰りすることになり、金本の依頼を受けてオーナー代理となった桐生にアドバイスをしながら店を繁盛させていく。その後、悪評の高いキャバクラ「リリス」の北川からキャバ嬢の強引な引き抜きや破壊活動などの営業妨害行為を受けて追い込まれるが、桐生や金本に恩返しをするために従業員達と共に店を立て直し、マリエッタを人気店にまで登り詰めてくれた桐生に感謝した。
殴ってみろ屋 / 飯田(いいだ)
『2』のサブストーリーに登場した、自身に素手で一度でも攻撃を命中させたら賞金を出す「殴ってみろ屋」という商売で小銭稼ぎをしていた男。『4』にて名前が判明し、本人曰く「ボクシングのアウトボックスやインファイトを身に付けている」とのことである。無敗であったことから自信満々で桐生の挑戦を受けるも攻撃を当てられた事で初めての敗北を味わう。
『3』のサブストーリーでは、リベンジとして似たような商売をしている兄弟(「逃げてみろ屋」と「捕まえてみろ屋」)も参戦して共に桐生に挑むもいずれも敗北した。
『4』では麻雀にハマり、そこそこ儲けていたものの、谷村にボロ負けし、腹いせに彼が勤務中に麻雀をしていたことを警察に密告する。その後、結局はばれてしまい、殴ってみろ屋として谷村に挑むも倒される。
『極2』では桐生が悪徳不動産と戦っていることを聞き、そこでなら商売ができるといった理由で真島建設に入社する。
偽桐生 / 桐生 和真(きりゅう かずま)
『2』のサブストーリーに登場した、桐生の名を騙って好き勝手やっている男。『クロヒョウ2』にて名前が判明し、あまり似ていないものの桐生の過去の台詞を引用して凄みを利かせている。戦闘では『2』と『4』では通常の敵と同じ動きだが、『極2』では力也に似た格闘スタイルで戦う。子分の偽シンジ(声 - 山口勝平)を引き連れて好き放題やっていたが、止めに入った桐生に喧嘩を売ってしまい、偽シンジもろとも叩きのめされる。その後、相手が桐生本人であることにようやく気付き、素直に謝罪した。
『4』の桐生のサブストーリーでは、桐生本人がいないのをいいことに好き放題やってはブログで報告することを繰り返していたが、結局は桐生に叩きのめされ、ブログで偽物であることを白状した。
ニューセレナのママ[注 5]
声 - 園崎未恵
『3』に登場した元キャバ嬢。店を開きたいという願いで伊達に協力してもらい、麗奈や澤村由美が働いていたセレナを買い取ることで改装して「ニューセレナ」として営業をしているが、同時に桐生にアジトとして提供する。また、サブストーリーで伊達に告白されたが、断ってしまう。断った本当の理由は昔に犯罪者である月島に人質に取られた際に当時の婚約者だった刑事の敬介を目の前で殺された光景を見て敬介の先輩刑事だった伊達が彼と重なって見えていたからだと語るが、その月島が出所し、伊達を誘き出す為の人質にされたところを伊達が月島を射殺したことで救われ、伊達に時間をかけて考えさせてほしいと告げて同時に過去を振り切った。
『4』では身内に不幸があったために不在にしており、交際中の伊達に代理のマスターを頼んだ。
『5』で再登場し、桐生達に店をアジトとして提供した。
『6』では伊達と結婚して夫婦になっており、変わらずに店をアジトとして提供する。
若造
声 - 桐本琢也
『3』に登場した京浜新聞社社会部のデスクを務めている伊達の上司。役職は上だが年若いために伊達にこき使われており、伊達に頼まれて桐生に東城会の幹部達の顔写真を提供した。また、サブストーリーでは6年前に喫茶アルプスで起きた当時の店長の織田和夫の殺人事件で、従業員の明智勇一が恋人で同僚の宇佐美佐和子と織田が浮気をしていた現場を目撃したことで織田を殺害したと半信半疑ながらも彼を犯人扱いした記事を書いていた事が判明する。その後、この記事が原因で明智の妹の希に茨の道を歩ませてしまったこと(今も希に恨まれている)や明智が冤罪ではないかと勘づいていながらも救う事が出来なかったことに対する罪悪感と後悔から、真相を掴むために桐生の協力を得て真犯人を突き止めた[注 57]。事件解決後は明智が無罪放免の見込みとなり希とも和解し、新聞記者として真実だけを追い続けることを決意する。
伊吹(いぶき)
『3』に登場した堅気の人間を社会復帰させるために創られた更生組織「堅生会」の代表。元々は堂島組の構成員として活動していたが、柏木の命を受けてその主催に選ばれ、本拠地に使っていた自宅を自身の所有レストランである「神室キャッスル」という店を改装し、新たな本拠地として活動する。その後、復讐者を説得している時に負傷したところを桐生に助けられ、死後の柏木の意志を受け継いだ桐生にバックアップしてもらう。
『4』では桐生のサブストーリーに登場し、引き続き堅気の人間を社会復帰させるために尽力する。
ミチル
『3』のサブストーリーに登場した非常に筋肉質なオカマで、桐生にして「逃げるしかない」と恐怖させる迫力の持ち主。実は三つ子で、同じくオカマをしている自身にそっくりなマコトとヒロミという二人の姉(兄)がいる。桐生に助けられた影響で恋に落ち、桐生をダーリンと呼んで追い掛け回すようになるが、最終的には恋人であったアキラというオナベと元の鞘に収まる。
『4』では亜天使で働いており、秋山にキャバレー「大女優」の情報を教える。
『3』のPS4版では昨今のLGBT問題の影響のためか、関連するサブストーリーはすべて削除され登場しない。
花(はな)
声 - 平野綾
『4』に登場した秋山が経営するスカイファイナンス唯一の女性従業員兼秘書。小柄かつ豊満な体形で、愛嬌のある顔立ちをした[注 58]、秋山と同じ東都銀行に勤務していた彼の後輩で、秋山に対して特別な感情を持っており(秋山自身もそれは自覚している)、だらしない秋山の面倒をなんだかんだと見ている。仕事に関しては、その手にかかれば大抵の情報は即座に得られてしまう程に卓越した実務能力(特に顧客に関する調査能力)を発揮し、事務仕事以外にも自身が不在の際は目も当てられない程に散らかることも珍しくないことから事務所の掃除を率先して行うなど秋山よりも経営者らしい姿で臨んでいる。また、力が強いために並の男はおろかヤクザですら叩きのめす程で、モードの一つである「究極闘技」では共闘キャラクターとしてバトルに登場する。秋山を見限った彼の昔の恋人である絵里に対して今現在も嫌悪感と嫉妬心を抱いていることから、絵里にそっくりな靖子に秋山が一億を貸したことがきっかけとなり、気持ちの整理をつけるためにスカイファイナンスを辞めるが、エピローグで(食事が喉を通らずに)痩せた姿で秋山の前に現れ、結局は秋山を見捨てることができないとしてスカイファイナンスに復職した。
『5』では声のみの登場となり、秋山に神室町のニンベン師の情報を探すように頼まれ、その際に肉まん100個を買ってくることを条件として引き受ける。
『6』では祭汪会から命を狙われた秋山の配慮によって実家に里帰りする。
『ONLINE』では、秋山を心配し、神室町に戻って来たところで春日に出会う。
笹井 英樹(ささい ひでき)
『4』に登場した元東城会系笹井組組長で、冴島のかつての恩人。現役だった頃は仁義を貫き、義理と人情を重んじていたために少年時代の冴島と靖子を救うなど、冴島の人格や極道としての指針を示したことが窺える。25年前に冴島が上野吉春を襲撃した事件の直後に責任を取って組を解散させた後に失踪していたが、半死状態になっているところを真島に発見され、賽の河原で保護されてホームレスとなる。その後、脱獄した冴島と再会した直後は人格が崩壊していたが、冴島との再会でわずかに意識を取り戻した。
『ONLINE』では冴島の手によって病院へ入院し、保護されている。
趙(チャオ)
声 - 掛川裕彦
『4』に登場した神室町亜細亜街にある中華料理店「故郷」の店長で、谷村の理解者かつ最大の協力者。やや片言混じりではあるが、日本語は堪能である。また、店を自分の家のように使わせている一方で、親が強制送還されるなどして生活のできなくなった外国人の子供を保護する「亜僑会」を組織し、面倒を見たりもしている。
『6』では亜細亜街で起きた火災によって店舗は焼失してしまっており、メイファと共に安否は不明である。
メイファ
声 - 佐藤朱
『4』に登場した趙が実の娘のように世話をしている少女。故郷を手伝っており、また趙と共に谷村を「マーちゃん」と呼び、二人共に谷村のサブストーリーに度々登場する。
助川 小五郎(すけがわ こごろう)&格田(かくだ)
『4』に登場した神室町劇場地下街に住み着いているホ-ムレスの二人で、「助さん」「格さん」と呼ばれている。助川は初芝会に奪われた住処を取り戻すために当初は秋山を初芝会の一員と勘違いして襲うも事情を聞いた後は彼と共闘し、秋山の起こした騒ぎに紛れて奮戦した。一方、格田は臆病な性格から喧嘩には参加しなかったが、元鍵師の腕前を生かして初芝会の掛けた扉の鍵を解除し秋山をサポートした。
赤石 衛(あかいし まもる)
『4』に登場した神室町の治安維持に努めるボランティア団体である「神室の盾」の代表。普段は冷静で、揉め事も穏便に済ませるように努めているが、元々は神室町で腕っ節を鳴らしていたヤクザで、理不尽なことをされ続けると怒りで口調も荒くなるなど建前と地のギャップが激しく、現在も強さは衰えておらず、共闘バトルでもその強さを発揮する。ヤクザだった時に目立ちすぎたせいで大勢のヤクザから襲われて瀕死の状態のところを柏木に助けられる。その後は柏木の手助けもあって更生し、十数億円を稼ぐなど仕事にも成功するが、柏木の死を知った後は彼に恩返しをしようと神室の盾を設立し、神室町を守っていくことを決意する。その後、喧嘩騒ぎを収めた谷村の手際の良さを見て彼に治安維持の協力を依頼し、治安維持に尽力する中で神室の盾の評判を下げたりメンバーに暴力を振るったりと自分達の活動を妨害する行為をしていた近藤の一味を探し出して谷村と共に撃退した。また、ギャングに絡まれていたメンバーを助けてくれた桐生がギャング連中から狙われたことでサポートを買って出て、ギャングチームの情報を提供するなど事態が収束するまで桐生を手助けした。
ナオミ
『4』に登場した天下一通りに占いの店「ナオミの館」を構える占い師で、情報屋。谷村のサブストーリーでは仲間であるサキちゃんと共に彼をサポートする。
『5』では店を中道通りに移し、変わらず営業を続けている。
本山 義則(もとやま よしのり)
『4』の冴島のサブストーリーに登場した元笹井組若頭で、冴島の兄貴分だった男。戦闘では風間譲二に似た格闘スタイルで戦う。現在はホテル街近辺でホームレスをしており、上野吉春襲撃事件の直後に組の解散と笹井の失踪でホテル街近辺で全てを失い、その原因が冴島にあると勘違いし、後に脱獄した冴島の命を狙うも敗れる。その後、冴島から笹井が生きていることを聞かされてやり直すことを決意し、神室町を出た。
菅 由彩子(かん ゆいこ)
『5』に登場した秋山の経営するキャバクラ「ELISE(エリーゼ)」の店長。店の経営がうまくいっていないことに頭を抱えており、神室町でのスカウトでは埒が明かないとして、各都市のキャバ嬢をスカウトすることを提案する。その後、秋山の頼みで桐生達が連れてきたキャバ嬢のヘルプや、ひなたの成長により店の業績も上がり、神室町で一番人気になるまでに成長した。
陳(ちん)
声 - 平井啓二
『0』に登場した亜細亜街の顔役で、三人いる在日華僑の長老の一人。立華不動産が持つ情報ネットワークの一角を担い、定期的に透析を受けなければならない立華の治療も亜細亜街で行っている。堂島組に追われる桐生を匿うように尾田に依頼されるが、「かつては東城会と肩を並べる程の勢力を誇っていたが、堂島組に縄張りを奪われた後は亜細亜街のみが東城会から許された場所だ」と吐露し、今も残るヤクザ及び堂島組への憎しみを理由に拒んだ。その後、立華が老鬼に拐われた際には負傷した桐生に治療を施し、命に替えても立華を救い出すように命じて結局は叶わなかったものの、立華を救おうと命懸けで奔走した桐生を認めて深く感謝を述べた。
東興クレジット社長
『0』に登場した闇金業者「東興クレジット」の社長。とある人物の命を受けて桐生に「カラの一坪」で借金の取り立てを行うように依頼するが、カラの一坪で起きた殺人事件を受けて何者かに嵌められたと知った桐生に事務所に乗り込まれる。その後、桐生を追ってきた久瀬に席を外すように言われたことでそのまま立ち去るが、後に何者かによって殺害される。
山野井(やまのい)
声 - 小林通孝
『0』に登場したビルの民間オーナーで、ファイブビリオネアを操っていた黒幕である金融王のかつての仲間。落札したビルに居座る占有屋の辻(声 - 滑川洋平)を巡って立華不動産に助けを求めるが、後に辻の後ろ楯だった泰平一家を退けて辻を退去させた手際の良さと旧知の仲であった風間新太郎に似たものを感じた桐生にマネーゲームへの参加を呼び掛ける。その後は桐生に助言をしたり、事務所の内装を手伝ったりと桐生が勢力を拡大させる中で金融王を殺すために偽の商談を持ち掛けて殺害を試みようとしたが、桐生と茉莉奈に止められる。
白石 茉莉奈(しらいし まりな)
『0』に登場した山野井の連れてきた有能な秘書にして、マネーゲームの黒幕を突き止めるために潜入捜査官として潜り込んでいた本職の刑事。桐生の営む不動産会社で秘書としての仕事をしながらも、桐生と漫才のような会話(サブストーリーなど)をしたり、人質として連れ去られた際に桐生に助けられたりと桐生とたしかな信頼関係を築いていく。その後、山野井と黒幕の金融王の商談の場に現れて山野井の殺害を止め、自身の正体を明かした後に山野井から回収した拳銃を悪足掻きをした金融王に一瞬の隙を突かれて奪われてしまうが、桐生の活躍で事なきを得る。その後は金融王の逮捕に成功し、仲間となった他のビリオネア達の監視と神室町の見張りのために秘書としての仕事を継続する。
ポケサーファイター
声 - 堀内隼人
『0』から登場した「ポケットサーキット(ポケサー)スタジアム」で働くアルバイト(時給850円)。作中のセリフによると30歳近く。ポケサーマシンのデザインを模した上下のウインドブレーカーを着用して頭には青のハチマキを巻いており、桐生を「カズマ君」という風に年齢に関係なくポケサーユーザーを「君」や「ちゃん」付けで呼び、主にポケサーの受付や実況、カスタマイズの指導などを担当している。また、ポケサーでの仕事以外にティッシュ配りのバイト(時給1050円)も掛け持ちしている。ポケサーを楽しむ一方で、年齢的にも限界を感じて実家の豆腐屋を継ぐためにポケサーファイターを辞めて帰ろうとするが、桐生の助言やポケサーに出入りしている子供達の応援もあってポケサーファイターを続けることを決意する。その後、神室町でトップの実力者である事が判明し、着実に実力を上げていく桐生とレースで勝負するも敗れ、最終的には桐生を「神室町最速の男」と称して讃えた。
『極』では46歳。17年ぶりに桐生と再会し、自身にフィアンセが出来たことや結婚して実家の豆腐屋を継ぐこともあって自身の替わりにポケサースタジアムを率いてくれる「二代目ポケサーファイター」を探しており、紆余曲折の末に自身の幸せを願う桐生の手助けもあってタクマが二代目ポケサーファイターを引き受けるが、それでも各種手続きが終わるまでは引き続きポケサーファイターとしての業務をこなすこととなる。また、カラオケのアカウント名にも登場しており、初期のランキングでは九位にランクインしている。
『6』では57歳。サブストーリーに登場し、ポケサーファイターを引退した後は故郷である広島の尾道仁涯町に戻って実家の「藤沢豆腐店」を継いでおり、妻である美咲(声 - 新谷真弓)と息子の崎斗と共に生活を始める。その後、豆腐を売っていたところを尾道仁涯町を訪れていた桐生と再会し、その時にかつての経歴を不安視する余りに崎斗に苛烈なまでに徹底した英才教育を施そうとする美咲に頭が上がらずにそのせいで崎斗にポケサーファイターだった自分の過去を明かす事も出来ずに親子仲に溝が生じている事が判明するが、桐生の助けもあってそれを乗り越え、改めて崎斗に自身がポケサーファイターだった事を打ち明けた上で父親として息子と向き合っていくことを決意する。その後は桐生の手助けとして桐生会に加入する。
タクマ
『0』に登場したポケサースタジアムに出入りする小学生で、ポケサー初心者の桐生が初めて対戦した相手。当初は友達のヒデキとのギクシャクした関係[注 59]があったが、桐生の助言で関係は修復し、その後もポケサー関連のストーリーに登場する。
『極』ではポケサー好きが高じてF1レーサーを目指すも挫折し、結局はスターダストでホストとして働くようになる。その後は桐生と再会し、ポケサーに興味はなくなったという素振りを見せるもレースや競争という言葉から離れられずに密かにポケサーマシンを持っており、ポケサースタジアムで桐生との対戦に敗れたことをきっかけに自ら二代目ポケサーファイターの就任を懇願した。
メスキング博士 / ヒロシ
『極』に登場したクラブセガ中道通り店に出入りしている、白衣を着た少年。「昆虫女王メスキング」と呼ばれるゲームを得意としており、その強さと知識の高さから周りから「メスキング博士」と呼ばれている。落としたレアカードを桐生が拾ってくれた事から桐生と関わりを持つようになり、桐生にメスキングの楽しさや奥深さを教え、共に楽しむようになる。後に桐生が現れたライバル達を倒していく中で、自身がかつてクラブセガ劇場前店で誰に対しても手加減しない事から悪い意味で有名だった事やそれが原因で親友のマサシと喧嘩別れしてしまった事、友達と楽しく遊ぶ事こそがゲームの肝であるという事に気付くも劇場前店にいづらくなり中道通り店に移って来た事などが判明するが、最終的に桐生の手助けもあってマサシと仲直りする事に成功した。その後、桐生の申し出で最強の名を賭けて真剣勝負をするも敗れ、互いに健闘を称え合った後、桐生と出会うきっかけとなったレアカードと同じカードを桐生に手渡した。
ハングマン
『6』に登場した廃墟と化した桃源郷に幽閉されている正体不明の狂人。発するのは呻き声のみで意思疎通は不可能であり、臀部の大きく開いた黒いシングレットに全頭マスク、ボールギャグを身に付けたSMチックなファッションをしている。戦闘では剛腕を生かして戦い、それ以外にも鉄骨を渡ろうとする桐生達に対して瓦礫を投げつけるなどの妨害行為を行う。ビッグ・ロウに会いに桃源郷に来た桐生と染谷に対して関門の如く立ちはだかるが、最後は壁に頭を打ち付けて敗北する。
殺月(さつき)
『6』に登場したJUSTISを操るために暗躍していた黒幕で、オカダの因縁の相手。普段は「殺月会」を率いており、コウメイによれば「滅多に表に出ることはない」が、ヤクザやマフィアともそれなりの繋がりを持っており、裏ではコウメイに強いメンバーを送り込むなどのバックアップをしている一方で、コウメイを「アホ」呼ばわりする等のあまりあてにはしていない素振りも見せている。戦闘ではリチャードソンに似た格闘スタイルで戦う。かつてカラーズというチームを率いていたが、JUSTISによって壊滅させられ、その際に自身の手下がJUSTISに引き抜かれたために激怒し、リーダーであるオカダの恋人に怪我を負わせたり、オカダを拷問に掛けるなどの悲惨な報復をする。その後、JUSTISを操るためにコウメイと組んで彼をJUSTISに近付けさせた上で乗っ取りのための暗躍を始め、後にオカダを破った桐生会の前に姿を現し、桐生の素性を知っていた上で仲間に引き入れようとするも断られ、改めて桐生会に宣戦布告する。その後は抗争の末に桐生会に追い詰められ、仲間やコウメイと共に桐生に襲い掛かるも返り討ちにされて警察に逮捕された。
『6』の体験版では傷の男という名前でチャンの部下として登場。春日という組員をビルから突き落とそうとしていた。屋上に上がって来た桐生と対決するが敗北してしまう。喫茶アルプスで桐生がチャンと対面するところでバイクで突っ込んでチャンと共に桐生を抹殺するが敗北してしまう。
『極2』では鶴川と繋がっており神室町ヒルズ計画を奪う計画に加担していた。鶴川によってカラーズの乗っ取りに成功し、鶴川敗北後は自身の目的は果たしたとして彼を見限り、真島建設の力を評価しつつも「今度戻ってきた時は必ず神室町を俺のものにしてやる」と言い残して退却した。
虎古(とらふる)
『6』に登場した街のトラブル用SNSの管理人。神室町で日々起きる凶悪犯罪を住人同士で助け合おうとトラブル用SNSを開設し、神室町で出会った桐生に協力を要請する。その後、故郷の尾道仁涯町に戻った際に偶然にも仁涯町に来ていた桐生と再会し、仁涯町にもトラブルが多くなってきたことから仁涯町用のSNSも開設したことを報告し、こちらでも桐生に協力を要請した。
吉田 直也(よしだ なおや)
『6』に登場した「吉田バッティングセンター」の支配人で、前支配人の息子。学生時代は捕手でID野球に打ちこみ、未来のバッターを育てるべく「チャレンジコース」を設立。スカウト後は「瀬戸内ウォーリアーズ」の捕手となる。
鶴川 慶一(つるかわ けいいち)
『極2』に登場した武藤不動産の秘書。武藤や蝶野に忠実である一方で裏で殺月と手を組み、ヒルズ計画の強奪を目論んでいる。武藤が敗れた後は武藤不動産の社長の座につき、後に蝶野も裏切りカラーズをも乗っ取る。その後、自身の野望の邪魔となる真島建設を潰すために自ら出陣するが敗北する。最後は殺月にすがりつくも欲に駆られて敗北した事で見捨てられてしまい、直後に桐生達に叩きのめされた。
瀬戸 真弓(せと まゆみ)
声 - 種崎敦美
『ONLINE』に登場した幼くして両親を亡くし、チャンピオン街のスナック「泥棒猫」のママを務める祖母と店の常連に愛されて育った女性。神室町浄化作戦の渦中で失った祖母の復讐のため、秋山と行動を共にする。
ユリ
声 - 今村彩夏
『ONLINE』に登場した神室町でホームレスとして生きる女性。
阿部 雅也(あべ まさや)
声 - 藤沼建人
『ONLINE』に登場したホームレス。実は元東城会系組織の組員の一人で、神室町浄化作戦の中で組長や若頭、組の仲間をすべて亡くした過去を持つ。
カムロップ
声 - たみやすともえ
『ONLINE』に登場した神室町のご当地キャラの着ぐるみ。
守屋 深雪(もりや みゆき)
声 - 鈴木美咲
『ONLINE』に登場した神室町のコンビニでバイトをしている女性。
鳴海 優(なるみ ゆう)
声 - たみやすともえ
『ONLINE』に登場した神室町の秘密カジノでディーラーをしている女性。
朝倉 里美(あさくら さとみ)
声 - 五十嵐裕美
『ONLINE』に登場した神室町でストリートミュージシャンをしている女子大学生。
植井 圭(うえい けい)
声 - 岡井カツノリ
『ONLINE』に登場した神室町のクラブの店長。自称「ミュージックガーディアン」。
マッサージ嬢
声 - 小泉彩(『2』)、椿姫彩菜(『3』)、矢口真里(『4』)
神室町のキャバ嬢
タイトル下の名前のみのキャラクターは実在する人物が演じたキャバ嬢。源氏名には下の名前が使われ(『1』では一部が異なる)、働いている店もキャバ嬢によって異なる。キャバ嬢はそれぞれ悩みを抱えており、親密になっていくことで何かしらの問題が発生するが、いずれも主人公によって解決されていく。
桜咲 ひなた(おうさき ひなた)
声 - 佐藤朱
『5』に登場したエリーゼの新人キャバ嬢。23歳。上司や年長者にもタメ口で話すところが玉に瑕だが、店長の由彩子から「天性の逸材」と評され、秋山からも神室町の顔になるように期待されている。秋山に依頼された桐生との交流を経てNo.1キャバ嬢への階段を上り詰めていき、最終的には見事にNo.1になり、店の業績アップにも繋がった。
龍が如く
愛川ゆず季、相澤仁美
龍が如く2
麻美ゆま、松島かえで
龍が如く3
荒木さやか、桜井莉菜、西山りほ、ねむ、桃華絵里、武藤静香、鮎川りな(PS3版)
波多野結衣、桃乃木かな(PS4版)
龍が如く4
Rio、河崎姫華、齋藤支靜加、水谷望愛、愛原エレナ、一木千洋、森摩耶
龍が如く 極
波多野結衣、瑠川リナ
龍が如く6
赤井沙希、一條りおな、桜井えりな、潮田ひかる、SORA
蒼天堀・新星町の住人達
『2』に登場した大阪にある二つの歓楽街。蒼天堀のみ『5』や『0』にも登場する。
(さやま たみよ)
声 - 藤本洋子
蒼天堀にあるスナック「葵」のママで、狭山薫の育ての親。以前は看護師だったらしく、その時にスヨンから薫を委ねられた。瓦の死後はその死を悼み、遺骨を引き取ってスヨンと同じ墓に納めることを誓った。
江崎(えさき)
声 - 島津健太郎
蒼天掘の雀荘「リーチ楼」の常連で、情報と引き換えに法外な金額を請求してくる有名な情報屋。戦闘では初戦は素手のみだが、二戦目では『2』ではドス、『極2』では飛び出しナイフを使用する。桐生に情報を教えていた際に千石組からの1億の懸賞金に目がくらみ仲間と共に桐生を襲うも返り討ちに遭い、物語の後半でも千石組の命令で桐生を殺そうと黒川を差し向けるが失敗し、更には自身の隠れ家まで知られてしまう。その後は逃走したところを捕まってしまい、その場で桐生に襲い掛かるも倒された。その後、千石組からの電話で桐生を大阪の城に向かわせるように指示されて桐生に自身を匿うように命乞いをするも「ビリケンにでも手を合わしてろ」と言われ、その場に頽れる。
(むらい) / 朴 会宗(パク・フェジョン)
声 - 檀臣幸
新星町(『極2』では蒼天堀)にある将棋センター「桂馬」にいた男性だが、実は26年前に堂島組によって潰された真拳派の生き残りの朴会宗である。26年前にボスが風間に撃たれる場面を目の前で目撃し、一旦は風間に見逃された後で現れた嶋野に撃たれるが、急所が外れた為に辛うじて生き延びる。その後は事件の担当刑事である別所によって関西へ逃がされ、「村井」という名前を与えられる。26年後は、復讐に生きる他の構成員とは異なり「過去に自身が行ってきた悪事を後悔しながら生きてきた」と桐生や薫に真実を話したが、その時に真拳派の構成員に裏切り者として襲撃される。その後、構成員の一人が投げたナイフによって腹部を刺されるが、死ぬ間際に薫に「あの世にいるスヨンに娘は立派になったと伝える」と同時に幸せになるように言い残し、最後はナイフを更に深く突き立てて自ら命を絶った。
黒川(くろかわ)
紫のスーツを着た厳つい顔のカタギの情報屋。戦闘では『2』では通常の敵と同じ動きだが、『極2』では空手で戦う。蒼天堀に来た桐生に金の匂いを感じて顔見知りとなり、グランドや葵、ステイルといった蒼天掘に関する情報を教えるなど親交を深めていくが、後に「桐生を始末したら1千万」という江崎からの儲け話に目がくらみ、インターネットで腕の立つ人間を雇い桐生を始末しようと襲い掛かるも返り討ちにされた。敗北後、江崎に唆されたことを白状し、江崎の隠れ家である新星町(『極2』では蒼天堀)の「よつば鍼灸院」の場所を教える。
四代目 風彫(かざぼり)
蒼天堀に場所を構える郷田龍司の背中の刺青の黄龍を彫った彫師。10年前に見た郷田龍司に衝撃を受け、龍司に代々受け継がれる黄龍の刺青を彫ろうと筋彫りをした際に手が動かなくなってしまい、五代目を継がせる予定の弟子の明菜(声 - 樹元オリエ)に最後まで彫らせた。その後、明菜が黄龍を背負った龍司が近江連合で頭角を表していくことに恐れをなし、五代目継承を断ったことで、彼女に彫らせたことを後悔していたが、もう一人の弟子である聡史が起こしたいざこざ[注 60]を治めてくれた桐生に「龍司の行く末を見届けるべきじゃないのか」と問われ、改めて明菜に五代目風彫を継承することを決意し、明菜もそれを承諾した。
蒼天堀企画社長
声 - 吉田祐健
芸能プロダクション「蒼天堀企画」の社長。女優の福永咲良の見送り後に現れた遥を「100年の一人の逸材」と見て芸能界にスカウトするも断られ、それでも諦め切れずに桐生の携帯電話の番号を調べ、遥の将来について話し合い、契約寸前のところで遥が「今のままでいい」と曲げなかったために諦める。最終的に歌手を目指そうとして事務所に騙されて借金を負わされたステイルの女性店員の歌声に聞き惚れて彼女をスカウトした。
火星ファイター
サブストーリーに登場したボケは南沢(みなみざわ)、ツッコミは北川(きたがわ)が担当する売れない漫才コンビ。芸人に向いていないと悟った北川が抜けて南沢が一人でピン芸に挑戦していたところで上手くいかず、またヤクザになった北川が桐生に因縁を付けるが、返り討ちにされる。その後、北川が事情を話していくうちに立場を交換すれば良いと分かったことで再結成した。
『3』ではアサガオのテレビに映っている程に知名度が上がったようで、東京進出もしており、仕事に関してのサブストーリーが存在する。
『4』では雑誌の連載で行き詰まっていた南沢を主人公達(冴島を除く)が手助けするサブストーリーがある。
『極2』では生活費とお笑いグランプリ出場の資金を集めるために真島建設に入社する。
荻田 冠(おぎた かん) / OGITA(オギタ)
声 - 竹内良太
『5』に登場した関西で活動するフリーのダンストレーナー。戦闘ではカポエイラとナイフ攻撃を織り交ぜた格闘スタイルを使う。遥をプリンセスリーグで優勝させた上でアイドルとしてメジャーデビューさせるために日夜厳しく指導しており、遥の才能を評価してはいながらも時間がなさすぎるためにせめて歌かダンスのどちらかに絞るべきだと主張するが、朴に聞き入れて貰えずにある日にダンスの指導について朴に口出しをされたことで口論にまで発展しその上暴言を吐いたことで、解雇される。その後、借金の[注 61]ことに加えて逢坂興業系の闇金に多額の借金をしていたために借金返済と違約金の支払いの両方に困り、その時に金井から借金を帳消しにすることを条件に朴から真島の手紙を奪うように依頼され、朴に詰め寄った際に誤って殺害してしまう。その後も金井に協力し、それでも手紙を奪取出来ずに罰として右腕を切断されてしまい、逢坂興業内で出会った秋山に朴の殺害を警察に自供することを条件にここから脱出させるように懇願するも断られ、最後は逢坂興業の構成員に突き落とされて死亡する。
『0』では桐生のサブストーリーに登場し、「OGITA」名義で現役ダンサーとして活動しており、大阪から東京に進出してマハラジャで最強ダンサーの座に君臨していたが、桐生とのダンスバトルに敗北後は彼にダンスのコーチになるという夢を語って「あんたに子供でもできたら教えてやってもいい」と言い残し、その場を後にした。
クリスティーナ
声 - 小原雅人
『5』に登場したダンストレーナー。かつて数々のスターのダンスレッスンを請け負って成功させたことがあり、業界では有名な世界的カリスマとして知られている。また、金や名誉には興味が無く、自分の意思でしか仕事を請け負わない。偶然コンサートのために来日していたところを遥に出会い、才能を見込んで指導することを決める。朴の死後は逢坂興業の妨害を受けるなど遥のデビューに暗雲が立ち込めるが、それでも海外で大きなイベントを取り仕切った経験を生かして山浦をサポートし、何とかコンサートを成功させようと努める。DREAM-LINE結成後は3人にダンスの指導を行う。
夏川 アカリ(なつかわ アカリ)
声 - 財津慶子
『5』に登場した遥の隣のクラスの同級生。ダンスが大好きで、振り付け師になるという夢を持っている。遥とは並木ユイという共通の友達を得てすぐに打ち解け、遥にストリートダンスの楽しさを教える。その後、プリンセスリーグ決勝戦2戦目の前日に朴の命令でクリスティーナを探していた遥と遭遇し、クリスティーナに自分のダンスを見て貰い、それでも評価して貰えなかったことを明かして遥と共にクリスティーナに再びダンスを披露するも遥だけが取り合って貰ったことで自棄になってその場から立ち去ってしまう。その後は遥やユイ、ダンサー仲間の助けもあってダンスバトルサミットで特別賞を貰い、MC・ミッツーの指導の下で振り付け師を目指して歩み出す。
右田(みぎた)
『5』に登場した蒼天堀の商店街の会長。かつてアイドルで挫折し、自身の叶えられなかった夢を託すという思いから商店街をあげて遥を支援する。その後、遥を通じてかつてコンビを組んでいたYOKOと和解する。
揉山(もみやま)
『5』に登場したYOKO行きつけのエステサロン店の店長兼マッサージ師。怪しい性格をしているがマッサージ師としての腕前は本物であり、趣味でダンスバトルにも打ち込んでいる。また、自身にそっくりな身内(声 - チョー)が神室町でマッサージ店を営んでいる(『4』に登場する)。YOKOの進言を受けた遥と出会い「ダンスバトルで勝ったら無料にする」という条件でダンスバトルを受けるも敗北し約束通り遥に無料でマッサージを施した。その後、遥からYOKOが蒼天堀を離れることを聞かされた事で右田を呼び出し、YOKOとの和解を見届けた。
クレストのマスター
『5』に登場したバー「クレスト」のマスター。父親は蒼天堀のニンベン師であり、裏の仕事も請け負っている。戦闘ではボクシングで戦う。朴の遺書の真相を確かめるために訪れた秋山を「神室町のニンベン師から紹介された」という発言に怪しみ、始末しようとするも返り討ちにされ、おとなしく父親の元へ案内した。
ハルオ
声 - 堀内隼人
『5』の遥のサブストーリーに登場したメジャーデビューを目指しているお笑い芸人。オーディションの前にツッコミ役である相方のアキヒコに愛想を尽かされたところを遥と出会い、遥のトークセンスを見抜き新しい相方としてオーディションに出てほしいと懇願する。最終的にオーディションに合格したものの、「お前とお笑いがやりたい」と謝罪してきたアキヒコとコンビを組み直すことになり、オーディションに付き合ってくれた遥に感謝して互いに別の道で天下を取ることを誓い合った。
矢守 彰彦(やもり あきひこ)
『5』の秋山のサブストーリーに登場した秋山がかつて東都銀行で働いていた時の上司で、彼と縁が深い人物。大学時代に知り合った秋山に金融の知識を教えて東都銀行に誘うが、後に東都銀行で行われていた神宮のマネーロンダリングの罪を部下である秋山に被せた上に彼のかつての恋人である絵里を奪う。その後、絵里と結婚したが、後に宗像の一件が暴露されたことで再び警察がマネーロンダリングを捜査し、その結果として東都銀行頭取が逮捕されることとなり、その際に芋づる式に不正がばれて自身も秋山の後を追うようにクビになる。その後は蒼天堀界隈で始めた金融業も上手くいかず、金融ブラックリストに載るまでになってしまうが、後に噂を聞きつけてやってきたスカイファイナンスで秋山と再会する。その後、かつて自身が破滅に追い込んだ相手から借りるということをプライドが許さずに闇金に自身を殺させてその保険金で家族を養おうとするも失敗し、最終的には秋山に諭されて「過去のことを水に流す」という条件の元で秋山の顧客となる。
児玉 菜々子(こだま ななこ)
『5』の秋山のサブストーリーに登場した現役のグラビアアイドル。キャラを変えた方がいいという事務所の方針に嫌気がさし、独立するために3億円の融資を頼みにスカイファイナンスにやって来た。その後、秋山の課したテストを3つ目まで合格するも最後の芸名を変えるという条件に反発し不合格となるが、秋山から本気で独立する気がないこととただ事務所に不満があるだけという本心を見抜かれる。その後にやって来た自身のマネージャーから謝罪の言葉を受けて事務所に大切にされていたことを実感し、色々と親身になって話してくれた秋山に礼を言い店を後にした。
上山 勝也(うえやま かつや)
『5』の秋山のサブストーリーに登場した串カツ専門店「串かつ だるま」の会長。煙草のポイ捨てをしたチンピラを注意していた事でチンピラに因縁を付けられたところを秋山に助けられた事で知り合う。その後は別のサブストーリーで新メニューの開発のために全国を巡業中に神室町で秋山と再会し、各主人公達から得た案から新メニューの開発に成功する。
李 文海(リー・ウェンハイ)
声 - 田中一成
『0』に登場した蒼天堀にある整体院「ほぐし快館」の店長。刺青は右腕に赤竜と左腕に青竜(どちらも五本爪)、背中に関帝[1]。筋肉質かつ長身の立派な体格を持ち合わせており、坊主頭で強面の外見とは裏腹に愛想は良く、蒼天堀で暮らす在日中国人(主に密入国者)を取り纏めている。また、整体師としての腕も一流で「ゴッドハンド」の異名を持つ。戦闘では徒手での中国武術の他、鍼灸用の鍼を使った攻撃を仕掛けてくる。大陸系の組織に雇われた殺し屋として活動していたが、半年前に組織が韓国系の売春組織と対立した際に監禁されていたマキムラマコトを救い、目が見えず逃げ出せなかった彼女から腕を掴まれて「ありがとう」と言われたことで若くして病気で死んだ一人娘のことを思い出し、掴まれた手を離すことが出来ずに庇護する。その後は殺し屋を辞めて「ほぐし快館」を経営するようになり、表向きには自身が「マキムラマコト」を名乗ってマコトを脅威から守っている他、地元の家出少女(主に学生世代)らを売春組織の手から守るという活動も行うようになる。その後、佐川の命令で自身を標的と誤認した真島と交戦するも本物のマコトを攫いに来た鬼仁会が乱入したことで重傷を負い、マコトを真島に託す。その後は真島と合流を果たし、マコトを守るために背格好の似た結婚詐欺師をマコトに見せかけて殺害する計画を真島に持ちかけるも拒否された。その後、暗殺計画は何者かが代行した事によって脅威は去ったかに見えた矢先にその代行者が鬼仁会の西谷であった事に加えて佐川にもマコトの生存を知られてしまい、脅迫されると共に買収された仲間の中国人の手引きによって襲撃を受けてしまうが、最後はマコトを蒼天堀から脱出させる際に近江連合の組員によって自動車に爆弾を仕掛けられたことに気付かずに爆死する。
山形(やまがた)
声 - 中井和哉
『0』に登場したグランドと人気を二分するキャバレーである「オデッセイ」の支配人。確かな手腕と時代の先を読む眼力で順調に経営を行っており、キャバレーだけでなく、新業態のキャバクラにもいち早く注目している。オデッセイを訪れた真島から金と目を掛けているホステスを自身の店に渡す代わりとしてオデッセイにいるNo.1のホステスの引き抜きを要求され、それを了承するも「二度とこういう事がないように」と釘を刺す。その後、マコトを匿う場所を探していた真島に頼まれて普段から使っていない倉庫を提供し、その際に真島にキャバクラに興味が無いかと持ち掛けて真島がサンシャインで支配人になるというきっかけを作った。
『極2』ではフォーシャインから出てきたところを真島と再会し、経営難からオデッセイが潰れた事と麻雀仲間だった川村がほぐし快館の上階にある雀荘に入り浸っていたという情報を教えて去って行った。
アッコ
『0』に登場したテレクラでバイトをしている家出中の現役女子大生。天真爛漫な明るい性格だが、テレクラで会った男からもらった飲み物に睡眠薬が入っている事を見破ったりと警戒心は非常に強い。また暇な時にテレクラで男にご飯をご馳走してもらったりと純粋にテレクラを楽しんでいるが、その裏でテレクラの元締めのマキムラマコト(李文海)から蝙蝠の刺青の男を探す事を頼まれており、マコト(李)への信頼感からテレクラで「大学で絵の勉強をしていて刺青に興味がある」という事を口実に、相手に刺青が入っているか、刺青の柄などを調査している[注 62]。マコトを探して接触してきた真島を蝙蝠の刺青の男かもしれないと持ち前の警戒心の強さから伺っていたが、真島の人となりを見て蝙蝠の刺青の男でないと判断し、好物の寿司屋(特にウニとイクラ)やゲームセンター、ディスコ(VIP室)を堪能させてもらったお礼にマコト(李)がほぐし快館で整体師をしているという情報を教えた。
陽田(ようだ)
声 - 前田剛
『0』に登場したキャバクラ「サンシャイン」の店長で、蒼天堀ファイブスターの一人である水村の元弟子。ファイブスターの脅迫や妨害行為により数多くのキャバクラが潰されていく中、強い意思で唯一店を守り抜いていた。脅迫の現場に偶々客として店内に居合わせていた真島と出会い、ファイブスターの最終目的がグランドを潰すことにあると知った真島と共にファイブスターの壊滅を目指すことになる。その後、ファイブスターとの死闘の最中に妻との約束のために水商売の悪魔に魂を売ってまで店を守ろうとした水村の胸の内を知ったことで彼と和解する。
『極2』では、真島が不在となったサンシャインをユキと共に切り盛りしていたが、神崎によりサンシャインを乗っ取られ、ユキと共にサンシャインから追放された後、新たに「フォーシャイン」を開店させ店長として勤務していたが、神崎の悪事を暴くという目的のために、サンシャインスタッフとして、神崎の下で通常業務や神崎の指示通りに勤しむ傍ら、キャバクラグランプリでの不正や他店への嫌がらせ行為などの神崎の悪事や、彼と結託しているグランプリの運営委員会の不正を暴く為に極秘に調査していた。一方で、ユキには何も告げずに姿を消したために、行方不明だと勘違いされていた。ミリオネアリーグ開始直前に神崎から小雪の拉致を依頼され[注 63]、表向きは小雪を拉致すると見せかけて、神崎から守るために匿っていた。その後、キャバクラグランプリでの敗戦続きによって神崎が焦りだした事でその悪事を暴くきっかけを掴み、ミリオネアリーグ敗戦後に極秘に連絡を取っていた真島と共にフォーシャインに現れて、神崎と運営側の不正を暴いた。その後は、フォーシャインのスタッフとして、ユキや桐生達と共に最後のキャバクラグランプリとなる、ファイナル・チャンピオンシップを戦うことになった。
神崎(かんざき)
『極2』に登場した全国No.1のキャバクラ企業である「神崎グループ」のオーナーで、サンシャインの元黒服。徹底的な勝利主義且つ慇懃無礼な性格で、敗北した店舗のスタッフを容赦なく切り捨てたり、勝つ為には卑怯な裏工作を仕掛ける事も厭わない反面、サンシャインで同僚だったユキや陽田を店から追放した過去に対して「悪魔に魂を売った」「もう白くは戻れない」と語るなど、悪人である事を自覚し、背徳感を感じている節も見せる。ユキ達が新たに立ち上げたフォーシャインを潰すべく、営業妨害やスタッフ、キャストの引き抜きなどの邪魔をし、キャバクラグランプリ中も、司会者のボーノ磯崎をはじめとする運営者達と結託して、様々な妨害工作を仕掛けるが、桐生の協力を得たフォーシャインの奮闘により、グループ傘下の有力店舗は尽く敗退する。その後も徐々に追い詰められる中で寝返ったと思っていた陽田と、真島の活躍でそれまでの妨害工作を含む不正行為が暴かれ、遂にはキャバクラグランプリ最終戦において本店であるサンシャインも敗れ去る。キャバクラグランプリ終了後、ユキに裏切りの真相[注 64]を打ち明けて水商売の世界の恐ろしさを自嘲気味に語るが、ユキのキャバクラの仕事に対する熱意を聞き、何らかのシンパシーを感じたのか、いつか再び這い上がってリベンジにくる事を宣言し、その後はこれまでの妨害行為を含む悪事により警察に逮捕された。
蒼天堀のキャバ嬢
タイトル下の名前のみのキャラクターは実在する人物が演じたキャバ嬢。源氏名には下の名前が使われ、働いている店もキャバ嬢によって異なる。キャバ嬢はそれぞれ悩みを抱えており、親密になっていくことで何かしらの問題が発生するが、いずれも主人公によって解決されていく。『0』や『極2』では、経営する側の立場であることから、キャバ嬢は攻略対象ではなくなったが、相談に乗ったり指導を繰り返していく内にこれまでと同様に何かしらの問題が発生していくようになっている。なお、キャストはサブストーリーをクリアすることで新たなキャストを加入させることができる他、スカウト(『0』)や求人募集(『極2』)などでも加入させることができる。
ほのか
声 - 鹿野潤
『5』に登場したクラブ「PRIME」に務めるキャバ嬢。21歳。普段は大学生としてキー局のアナウンサーを目指しており、訛りを直すためにアナウンススクールにも通っている。後に声が出なくなるという状況に陥るが、秋山から貰った「伝説の飴ちゃん」のおかげで声も出るようになり窮地を脱する。
ユキ
声 - 杉平真奈美
『0』に登場したサンシャインに務めるキャバ嬢。22歳。大学時代に就職活動の面接で悉く失敗し、たまたま陽田に声をかけられたことでキャバクラに就職する。その後、真島や陽田と漫才のような会話を繰り広げながらも真島の指導もあってキャバ嬢として成長し、次第に他の店から引き抜いてきたNo.1達に引けを取らないほどにサンシャインの中核にまでなる。また、私生活で父(母は他界)と連絡を取る際に真島の話題をよく出したり、その父と会った際に真島達が彼を詐欺師と勘違い[注 65]してこっそりと様子を見に来たりと真島達と強い信頼関係も築くようになる。その後、キャバクラバトルの最中にファイブスターの一人である金原に個人的に気に入られたことから拉致されてしまうが、真島が金原を倒したことで無事に救出された。
『極2』では39歳で赤縁のメガネを掛けている。神崎による乗っ取りでサンシャインを追い出された後、蒼天堀招福町に「フォーシャイン」を開店させ、自身がオーナーとして働いているが、神崎グループによる営業妨害やキャストの引き抜き等による嫌がらせ行為により、通常営業もできない程に経営難に陥っている。後に店の前を通りかかった桐生を、店長として来る予定だった桐谷[注 66]と見間違い、桐生を強引に店に連れて行くも人違いと気付くが、お金を掛けて営業再開の宣伝をしてしまったため、営業を辞めることも出来ず、桐生に店長を頼み営業した。その後、店を訪れた神崎より、店の評判の上昇と絶大なる宣伝効果のために全国のキャバクラの頂点を決める「キャバクラグランプリ」へ推薦枠として参加が決定したことを告げられ、キャストやスタッフ不足から小雪から辞退を勧められるも、窮地を脱する為に一念発起して参加を決意し、桐生と共にキャバクラグランプリの優勝を目指すこととなる。その後は、「伝説のキャバ嬢」として名を馳せた過去から、キャバクラグランプリ最終戦となる「ファイナル・チャンピオンシップ」からは、サンシャイン時代のライバルであったキララと決着をつけるために、陽田のフォーシャイン復帰や桐生たちの勧めもあって自身もキャストとして復帰した。その後、ファイナル・チャンピオンシップで神崎率いるサンシャインに勝利し、キララと決着をつけて和解した。
悦子(えつこ)
『0』の真島のサブストーリーに登場した紫色の大仏パーマと豹の顔が描かれたセーターが特徴のオバタリアン。真島の並んでいるたこ焼きの列に横から割り込んだりそれに文句を言った真島にいちゃもんをつけたりと性格は厚かましく真島と何度も揉めるが、その性格が災いしてヤクザに因縁をつけられていたところを真島に助けられたことで真島と和解する。その後、パートで勤めていたスーパーが潰れたとの理由で真島に頼み込んでサンシャインでキャバ嬢として働くようになる。
『極』や『6』ではカラオケに「悦子@蒼天堀」というアカウント名で登場しており、初期のランキングではどちらも二位にランクインしている。
『極2』でもサブストーリーに登場し、スーパーの店長に万引きの容疑をかけられて後に誤解だと判明するが、恥をかかされたお詫びとしてサービス券を要求したことが仇となり店長の馴染みのチンピラに襲われそうになったところを桐生に助けられる。その後、桐生の手助けとしてフォーシャインでキャバ嬢として働くようになる。
小雪(こゆき)
声 - 本居真優
『極2』に登場したフォーシャインに努めるキャバ嬢。21歳。伝説のキャバ嬢と呼ばれたユキに憧れてキャバクラの世界に入った経歴を持つ。キャバ嬢としての経験は浅く人見知りであることを自覚しているが、言いたいことははっきりと口にする程の芯の強さを持ち合わせている。後にフォーシャインのエースになるまでに成長し、また桐生に色々と相談したり、私生活で悩まされていた下着泥棒を桐生と協力して突き止めた[注 67]ことで桐生と信頼関係も築いていくようになる。その後、フォーシャインがグランプリに勝ち進むことに焦りを感じた神崎の強行手段によって拉致されそうになるが、陽田に救出される。
龍が如く2
夏目ナナ
龍が如く0
有村千佳、紗倉まな、上原亜衣、大槻ひびき、初美沙希
龍が如く 極2
明日花キララ、AIKA、桃乃木かな、高橋しょう子、三上悠亜
琉球街の住人達
『3』に登場した沖縄にある繁華街。
咲の母
声 - 田中敦子
咲の実母(本名は不明)。男癖が悪く、夫がいるにも関わらずに他の男の家に転がり込んでは浮気ばかり繰り返しており、それ故に咲が生まれた時点で彼女を邪魔者としか認識していない。自分の人生を娘に破綻させられたと思い、後に自殺した夫と咲を置いて逃げてしまう。その後は玉城と出会い、「咲と3人で暮らす」という条件で咲の誘拐に協力するも玉城に利用されていることに気がつかずに用済み扱いされた挙句にそのことで詰め寄ったところを拒絶される。その後、玉城が倒されると全てに裏切られた絶望心を咲に転嫁し、最終的には名嘉原に「(咲が)欲しければくれてやる」と言い放って失意に暮れながらどこかへと去って行った。
橋本(はしもと)
アサガオの子供達が通う「琉球第一小学校」の教員で志郎の担任。市議員の赤坂とはゴルフ仲間である。元極道が経営者というアサガオに対し並ならぬ偏見を抱いており、桐生から志郎が自身の息子である良紀からいじめを受けている事と言われてもいじめを認めようとせず、アサガオ側に問題があると決めつける等、教師の風上にも置けない卑小な性格。志郎が良紀に仕返しをしたことで桐生に文句をつけるも、アサガオの表敬訪問をしていた赤坂に良紀の傍若無人さを見て「親の顔が見てみたい」と評されたことに困惑し息子共々退散する。その後、生徒の宮村晶がアサガオの子供達との遊びの最中に怪我をしたことでその責任を桐生達に擦り付けようとしたが、晶に良紀からいじめを受けていた事を暴露され、PTA会長である晶の母親に問い詰められ再び逃げ出した。
その後も、志郎が算数のテストで取った100点はカンニングによるものであると一方的に決めつけ、彼の一番苦手な教科である国語の宿題を大量に出すなど、相変わらずアサガオに対する偏見や志郎への嫌がらせは続いている模様。
新垣(あらがき)
声 - 堀之紀
サブストーリーに登場した幹夫の実父で居酒屋「うまちー」の店長。幹夫に極道から足を洗うように強要し弟が経営している長崎の水産工場に就職させようとするが、幹夫に反発される。その後、ヤクザに襲われていたところを桐生に助けられ、幹夫を無理やりにでも極道をやめさせようとした理由[注 68]を話す。最終的には組合長と手下のヤクザに襲われていたところを桐生達に助けられた事で考えを改めて幹夫を正式に送り出した。
ナツメ
サブストーリーに登場したクラブ「サウスアイランド」に努めるNo.1キャバ嬢。店長曰く「元々は良い子」であったが、No.1になったことで店の経営に口を出したり、勤務態度も悪くなったりと現在は傲慢な性格となっている。自身がハワイに行っている間に、店長に頼まれた桐生の辣腕によってスカウトされたキャバ嬢が急成長していったことで、帰国後にNo.1を賭けて勝負するが敗北する。その後、桐生の育てたキャバ嬢達がNo.1となっていく様を目の当たりにしたことで自身の間違いに気づき、心を入れ替えたとして一からやり直すことを決意する。
養護施設「アサガオ」
『3』から登場した桐生が沖縄で営む養護施設。桐生と遥、8人の孤児で共に生活しており、一度は峯と結託した玉城組に壊されるが、後に建て直される。「アサガオ」で暮らす子供達はそれぞれ辛い過去や境遇を持っていたが、親としての立場にある桐生が各々の悩みや問題に向き合ったことでそれぞれが前向きに成長するようになる。『4』以降も度々登場することがあり、それに伴って成長している面も窺えるようになる。
太一(たいち)
声 - 宮坂俊蔵
大柄かつ太めの体格をしている少年。10歳→17歳。大のプロレス好きで、将来はプロレスラーになってアサガオを支えたいと思っている。比較的軽症ながら、そばアレルギーを持っており、これが原因でプロレスラーを断念しかけたこともある。
『6』のサブストーリーでは自身を騙る偽者が現れ、桐生にオレオレ詐欺を仕掛けようとした。
宏次(こうじ)
声 - 粕谷雄太
サッカーや野球などの運動が大好きな少年。10歳→17歳。誰とでも分け隔てなく接することができる優しさを持っている。
三雄(みつお)
声 - 斉藤貴美子(『3』)、山崎興啓(『6』)
米軍基地に勤務していたアフリカ系アメリカ人の父と日本人の母のもとに生まれた混血の少年。9歳→16歳。スーパー戦隊シリーズのパロディ作品「忍者戦隊ゴニンジャー」のファンである。太一の良きプロレスごっこの練習相手で、理緒奈に好意を抱いている。
『6』では中学時代に野球推薦の話が来るほどに野球の実力が上がっており、桐生の出所時には無事にその高校に進学している。
志郎(しろう)
声 - 外村茉莉子(『3』)、大原誠人(『6』)
眼鏡をかけた気弱な性格の少年。8歳→15歳。国語が苦手なものの学業成績は良好で、将来は奨学金を受けて医師になるのが夢である。学校で良紀からいじめを受けていたが、桐生の助言により良紀に立ち向かう勇気を身に付ける。
『6』ではタブレット端末を所持しており、それを用いて株取引のシミュレーションをしていた。
綾子(あやこ)
声 - 須藤祐実
遥に次ぐ年長者としてアサガオの皆を世話しているサブリーダーの少女。11歳→18歳。おとなしめな外見とは裏腹に桐生並みの俊足を誇る。年長者としての悩みもあり、ある事件をきっかけに家出したこともある。
『5』の桐生のサブストーリーでは、中学に進学後にその俊足を生かして陸上部に入り、長距離のエースとして活躍していることが桐生の口から語られている。また遥のサブストーリーでは、アサガオの仲間と共に遥が取材を受ける雑誌の会社に手紙を送っている。
『6』では遥の家出の理由を知るただ一人の人物として真実を隠し通してきたが、桐生が戻って来た事で隠し切れなくなりすべてを打ち明ける。
エリ
声 - 伊藤かな恵
孤児である事や貧乏である事に劣等感を抱えている少女。9歳→16歳。左記の劣等感から問題を起こしたこともあった。
理緒奈(りおな)
声 - 前田沙耶香
いつも長袖を着ている少女。9歳→16歳。両親を亡くした火事で負った火傷を隠すために長袖を着ており、傷跡そのものがトラウマでありコンプレックスである。
泉(いずみ)
声 - 相沢舞
少し我が儘なところがある少女。8歳→15歳。アサガオに来る前は犬を飼っており、犬には愛着がある。アサガオで「マメ」という名の犬を飼って懸命に世話をするようになる。
永洲街の住人達
『5』に登場した福岡にある九州最大の歓楽街。
声 - 片瀬那奈
クラブ「オリビエ」のNo.1キャバ嬢だが、実は山笠組組長でもある斑目忠の娘である。大吾に桐生を見守るように頼まれ、半ば強引に桐生のアパートに押しかけて世話を焼いていては桐生の近況を度々報告する。その後、桐生との別れの際は父の胸の中で涙する。
りく
声 - 金子有希
クラブ「La Seine(ラ・セーヌ)」に務めるキャバ嬢。20歳。人懐っこい性格で、「りくさん相談室」と称して他人の相談を聞くのが大好きであるが、相談はあくまでも聞き手に回る事で相談者の気持ちを楽にしてあげる事が目的であるために解決は目的としていない。桐生とのデート中に二人の友人に二股をかけていたホストを偶然見かけて問責するが、軽くあしらわれた上に友人達からはホストに言いがかりをつけて詰め寄ったと誤解されたことで関係が悪化してしまう。その後、ヤクザと繋がっていたホストに口封じも兼ねて誘拐されてしまうも桐生に助けられ、ホスト達は自身や友達の目の前で桐生に叩きのめされる形で制裁された。事件解決後は、りくの言っていた事が正しかったと理解した友人達から謝罪され、無事に和解する事ができた。
走り屋
『5』に登場した福岡の走り屋関連の登場人物。
古道 映立(ふるみち えいたつ)
福岡県警自動車警ら隊の現職警部補。和田を家まで送った桐生のタクシーに乗って高速道路でデビルキラーに接触し、桐生にデビルキラーと勝負するように依頼する。その後、走り屋の三銃士の一人(二番手)であることや鬼坂以上のスピードとテクニックを誇る実力者であることが判明し、特定の条件を満たすと「伝説の走り屋」としての彼とのレースバトルに挑戦出来るようになる。
鬼坂 徹(おにざか とおる)
福岡の走り屋集団の総括者で、走り屋の三銃士の一人。三銃士の中でも三番手として活動していたが、後に修行の旅に出たことで腕を上げていき、トップである中嶋に匹敵するとまで言われるようになる。その後、修行の旅に出帰ってきた時には中嶋は走り屋から引退しており、彼と再戦できなかったことが未練となって走りを止められずに活動する。デビルキラー解散後は中嶋に再戦を申し込み、代わりにやってきた桐生に勝負を挑まれて戦うも敗北する。その後は中嶋と再会し、走り屋を引退した理由を知って和解した後に走り屋から足を洗った。
デビル高村(デビル たかむら)
福岡最速の走り屋集団である永洲デビルキラーの現リーダーで、デビルキラー四天王の一人。デビルキラーという看板を金儲けの道具にしか見ておらず、白昼堂々と公道レースで荒稼ぎをしたり、一般人に勝負を挑んで金を巻き上げたりと無法行為を繰り返しているが、現役最速の走り屋ということで鬼坂からも目をつむって貰っていた。また、走りの実力は確かである一方で、「速い者に従う」というチームの掟も口約束で済まし、走りで負けても暴力で解決しようとするなど器は小さい。戦闘ではイワンに似た格闘スタイルで戦う。チームメンバーの永田(声 - 三苫紘平)が桐生と揉めたことがきっかけとなり、桐生とのレース勝負が始まるが、同じメンバーの渡部や他の四天王[注 69]までも次々と桐生に敗れていき、最後の砦として登場するが自身も桐生に敗北する。レースでの敗北後は四天王ら他のメンバーと共に実力行使に打って出るも全員まとめて返り討ちに遭い、それでも尚も負けを認めようとせず、桐生に対し負け惜しみを吐きながら逃げようとするが、そんな往生際の悪さと走り屋の誇りを汚すような振る舞いを見かねた鬼坂から強制的に解散を言い渡され、渋々ながらようやくそれを受け入れて退散した。
七海 れな(ななみ れな)
桐生のサブストーリーに登場したクラブ「ゼロガール」のママにして、美人揃いの走り屋集団「零女」のリーダー。男社会を嫌い、女でも勝てることを証明するために零女を結成するなど負けず嫌いな性格の持ち主で、走りを知る人間からはラメの入ったマゼンタ色の愛車とその速さから「ラメ色の流星」の異名で呼ばれている。永洲タクシーの運転手がデビルキラーと敵対していることを知っており、強引なキャッチに絡まれたところを桐生に助けられた際にその運転手が桐生だと直感しレース勝負を申し込むも敗北した。その後、素直に負けを認め、気分がスッキリしたことで当分走りはいいとし、走りに飢えたら桐生のタクシーに乗車することを約束した。
月見野の住人達
『5』に登場した北海道最大の歓楽街。
かぐや / レイ
声 - 吉原ナツキ
クラブ「ローズヒップ」に務めるグラマー体型のキャバ嬢。26歳。本名は「レイ」で社長令嬢であり、キャバクラを転々とするなどダラダラと過ごしていることを親から危惧されて見合いを勧められている。冴島との交流を通じて現状を打破すべく、モデルのオーディションを受け、無事に合格した。
山下 まみ(やました まみ)
冴島のサブストーリーに登場したグルメリポーター。ジンギスカン屋を探して迷っていたところを冴島に助けられ、到着した後に御礼として冴島にジンギスカンを御馳走した。その後、冴島から鹿鍋の美味さを聞いたことで強引に雪山に入ってしまい、遭難しかけてしまうが、冴島に無事救助され、鹿鍋を御馳走してもらった後、満足して御礼の品を手渡して山を下りて行った。
集落
『5』に登場した月見野の郊外の山奥にある小さな集落。集落周辺の雪山に住む攻撃的な巨大熊の「ヤマオロシ」が集落の生活を脅かしているとされる。
奥寺(おくでら) / 佐藤 清(さとう きよし)
声 - 堀秀行
冴島と馬場を助けた謎の猟師。集落の人間達からは寡黙な偏屈者と見られており、そのために村八分にされている。本名は「佐藤清」で絶縁された奥寺という人物を殺す為に刑務所から脱獄するが、奥寺に救助されて共に暮らすうちに暗殺を躊躇ってしまう。その後は雪山で奥寺を殺害しようとするが、奥寺がヤマオロシに襲われ、死ぬ間際の奥寺から名前を借り受け、以後は「奥寺」を名乗りヤマオロシを狩るために山に入り続けるようになる。その後、ヤマオロシと再会して動きを止めるも自然と共生する者として必要な殺しや不必要な殺しの違いを区別するといういつの間にか持っていた狩猟の信念に基づき、ヤマオロシを殺さないことを決意した。また、下山しようとする冴島に対して自身の信念を諭し、復讐は何も生まないと告げて見送る。
仁科(にしな)
声 - 岸野幸正
集落の長。奥寺を村八分にしているが、本当は集落がヤマオロシに襲われた際に追い払ってくれた奥寺に感謝している。村八分にしているのは奥寺の素性を薄々察した上で、関係を深めれば結果として彼の素性に触れざるを得ず、警察に突き出さなければならなくなる事態が訪れると危惧しているためである。文化財保護法の改定前に他の猟師と共にブローカーに買収されて獲物を狩り続けたが、山の生態系のバランスを崩してしまい、結果としてヤマオロシを出現させる原因を作ってしまう。その後、冴島とヤマオロシとの決戦では櫻井と共に駆け付けて冴島をフォローした。
櫻井(さくらい)
声 - 平野正人
集落に住む男性。集落の中でも珍しく奥寺に対しても好意的で、冴島に対しても協力的である。また、自身を含む集落の住人全員は仁科と同様に奥寺に感謝しており、奥寺が一人で山に入った場合は必ず他の猟師が見張るようにしていた。奥寺が負傷した際は彼に代わって冴島の銃の手入れなどをする。
鳴海(なるみ)
集落の住人ではなくヤマオロシの噂を聞きつけて集落に来た猟師。狩りを娯楽として楽しんでおり、集落の人々からは快く思われていない。ヤマオロシに遭遇して銃を放つも歯が立たず、挙句の果てに攻撃を受けて重傷を負ってしまう。その後、冴島に救出されて一命を取り留めたものの、二度と銃を握れない体になってしまったために自身が使うはずだった発信機付きの銃弾を冴島に託して集落を後にした。
錦栄町の住人達
『5』に登場した名古屋にある歓楽街。
高杉 浩一(たかすぎ こういち)
声 - 哀川翔
品田の債権者である街の闇金融業者で、15年前に品田のホームランボールを拾った観客。普段は手荒い取り立てで品田に恐れられているが、それでも再会してからは一方的に品田のことを気にかけていた。また、強引な取り立て手法に関する悪評は界隈に広く知れ渡っており、箔を付けるために名古屋組の正体も知らずに名古屋組の名を借りていたが、それ故に極道との関連は一切なく、それでも極道との繋がりも噂されていた。品田と共に野球賭博事件の真相を追い、後に借金を全額返済されるが、品田が馬場と決着を付けた後は電話で品田に「みんなお前の顔拝みたいってよ。帰ってこい、品田」と伝えた。
宇野(うの)
声 - 坂口哲夫
鍼灸院を営む男で、品田の古い友人。顔を見れば無心してくる品田を苦々しく思っているが、品田の持つ耳寄りな風俗情報だけは重宝がっており、なかなか縁を切れないでいる。かつてワイバーンズの専属マッサージ師をしていたが、意図せずに野球賭博の裏に近づいたことで解雇される。その後、借金返済のために大吾からの依頼を受けた品田に協力し、15年前の野球賭博事件の真相を追っていた最中に秘密が露見することを恐れた名古屋組に襲われて重傷を負うが、無事に退院する。
大野 鉄平(おおの てっぺい)
久保田警備の社員。戦闘では大振りながらも強烈な一撃を放ってくる。みるくの弟に対し、掛川幸治のただのサインバットを掛川が当時使っていたバットと思わせ、それを壊した弁償として高額な身銭を貰おうと画策していたが、野球事情に詳しい品田に圧縮バットでないことを見破られ、更にはそのことを久保田にバレたことで万年筆を頬に刺されて土下座をさせられる。その後、街中で品田と再会し、自身の計画を邪魔されたために逆襲しようとしたが、返り討ちにされた。
白河(しらかわ)
都内で会社勤めをしている品田の高校時代の野球部のチームメイト。高2の時の夏の甲子園出場を懸けた決勝戦の9回裏で品田が相手ピッチャーである赤松の牽制に近い球に手を出し、凡打に打ち取られた挙句に試合にも敗北したことで以来は品田をチームの勝利よりも自分の勝負を優先させる人間と思い込むようになる。その後、20年経った今でも真意を確かめるために錦栄町を訪れて品田に野球勝負を申し込み、壊れた利き腕の代わりに長年練習していた反対の腕で当時の赤松の球を再現するも品田に打たれて敗れる。敗北後は自身の壊れかけていた腕を心配して勝負にいったという品田の本心を理解したことで和解し、長年の憑き物も落ちたことで品田に礼を言って錦栄町を後にした。
黒崎(くろさき)
品田の高校時代の野球部のチームメイトで、品田がみるくの弟を助けた偽バットの件の黒幕。球威は白河よりあるものの、制球力に欠けており、2番手として光が当たらずに野球人生を終えたことにより野球に対する感情が歪み、野球に関するものを金に換えるブローカーとなる。その後、ある一件で品田に仕事を邪魔されて以来は品田を憎むようになり、自身と同様に品田を憎んでいる白河に品田の居場所を教えた。その後も品田に悉く仕事の邪魔をされ、野球勝負に持ち込むも敗北し、本心ではまだ野球を愛していることを見抜かれたことで野球への憎しみから解放される。その後は手広くやり過ぎたためにスジ者から目をつけられ、仕事が行き詰っていたこともあって錦栄町を去って行った。
芦田(あしだ)
元名古屋ワイバーンズのバッティングピッチャーで品田の恩師。品田の二軍時代を知っており、また15年前の野球賭博事件に対しては品田が無実であることを信じている。年齢により野球界を引退したが、野球への未練を断ち切れずにいた所を小鉄のブログに載っていた品田の噂を聞き、錦栄町を訪れる。品田と再会後は、今でもバッティングピッチャーとして通用するのかを確かめるために自身の人生を賭けた勝負をするも敗北する。その後はバッティングピッチャーを続ける覚悟を決めることができたことを品田に感謝して去って行った。
瀬戸(せと)
品田のサブストーリーに登場した名古屋ワイバーンズのスカウト。道中で品田と再会し、ドラフトで1位指名した地元出身の高校球児である倉科を紹介するが、倉科が夢だったワイバーンズの入団を理由も言わずに断ったことでショックを受ける。その後、品田の助けによって他球団に鞍替えしようとした理由[注 70]を聞かされるも納得して送り出すが、倉科が自身の言葉に心を動かされ改めてワイバーンズの入団を希望したことで倉科の選手契約を受け入れた。
村井 美希(むらい みき)
名古屋組の件で逮捕されたおばちゃんの代わりとして、「錦栄バッティングセンター」で受付をすることになったアルバイトの女性。23歳。ボイストレーニグでアゴを痛めてしまい、その治療費がかさんで高杉から借金をしており、バッティングセンター以外にも銭湯の掃除のアルバイトを掛け持ちしている。同じ高杉の債務者である品田のことを高杉から聞いて以前から知っており、実際に品田と対面した際に彼の人となりを知ったことで親近感を持ち、自身を「みーちゃん」と呼ばせるなど交友関係を持ち始める。その後も品田のバッティングでどちらが御飯を奢るかを勝負したりと親交を深めていくようになる。
小鉄(こてつ)
錦栄バッティングセンターにしばしばいる錦栄高校野球部OBの金髪の男性。品田の優れたバッティングを見抜き、それをブログに公開した事で品田は野球に関する様々な依頼を受けることになる。
詩音(しおん)
声 - 水城レナ
クラブ「EDEN」に務めるキャバ嬢。24歳。実家は没落した元名家であり、借金を返すためにキャバクラで働いている。家の再興のために客からの求婚を受けるつもりでいたものの、求婚者が雇っていた探偵から家が没落していることがばれて求婚を取り下げるであろう事実を知りショックに打ちひしがれるが、品田の励ましを受けて家柄というしがらみから解放される。
名古屋組
『5』に登場したかつて西の近江連合や東の東城会の板挟みとなって治安が悪化していた錦栄町の秩序を守るために結成された自警団組織。極道組織が存在していれば他の極道組織の進出を抑えられるという理由から表向きは極道組織ということになっており、町の住人も真に受けて極道として認知されているなど実態を知る者がいないが、それは堅気の人間で構成されているためで、この他にもふと桃Clubの店長やバッティングセンターの受付のおばちゃんなどが所属している。また、裏で近江連合の「神戸黒羽組[注 71]」に動かされており、それを知るのは澤田と富士田のみで、また大吾の発言から黒幕である黒澤も関与していた。
みるく / 鳥山 美恵子(とりやま みえこ)
声 - 戸田真衣子
風俗店「ふと桃Club」の風俗嬢。実年齢は40歳を越えているが、若い頃以上の美貌を保っており、人気もある。また、久保田警備に勤める弟がいるが、彼には風俗の事は秘密にしており、スーパーのパートに行っていると偽っている。15年前に球界から追放された品田がたまたま店に立ち寄ったことで出会い、深く傷ついた品田を慰めて以来は顔見知りとなる。
牛島 史哉(うしじま ふみや)
声 - 梅津秀行
「ダイニングバー牛島」を営む男で、日々借金取りに追われる万年金欠の品田にツケで食べさせることもあって彼にとって恩人と呼べる存在。店では名古屋の店によくあるようにドリンク一杯でしっかりとした食事を提供するモーニングサービスを行っている。名古屋組の秘密に近づく品田にそれとなく警告をするが、従わなかったためにみるく誘拐を偽って品田を捕える。その後は口封じを決行しようとするも情が邪魔して手を下せずにいたところを高杉に妨害されて失敗に終わる。その後、みるくと共に組員を説得し、全員で警察に出頭したが、黒羽組の手回しによりすぐに釈放されてしまう。
久保田(くぼた)
声 - 藤本たかひろ
久保田警備の社長で、ヤクザのような風貌をした男。個人で仕事を請け負おうとした大野に対し、罰として頬に万年筆を刺すなどの厳しい一面がある。戦闘では2本の配管をカリスティックのように操って戦い、それ以外にもフォークリフトで追いかけたり積んである丸太を蹴り倒して下敷きにしようとするなど大胆な行動も見せる。牛島が品田を殺すのに躊躇していたために迷いなく殺そうとしたところを高杉の妨害に遭って失敗し、口封じのために殺そうとするも敗北した。
酒井 篤志(さかい あつし)
声 - 安井邦彦
元名古屋ワイバーンズの選手。戦闘では武器に鉄パイプを使用し、大振りの攻撃をする。15年前の野球賭博事件の際にはセカンドとして出場する。引退後は錦栄町を中心に工事現場で土木作業員として働いているが、後に品田殺害に失敗した男を鉄骨落下の事故に見せかけて殺害する。その後は己の不審な行動を品田に気付かれ、口封じのために殺そうとするも敗北した。その後、品田に真相を話そうとしたが、最後は品田を殺そうと何者かが仕掛けた落下物から彼を庇って死亡する。
真鍋 幹二(まなべ かんじ)
声 - 青山穣
元名古屋ワイバーンズの選手で、四番打者をしていた品田憧れの男。戦闘では牛刀を武器に使う。当時から不正行為を行われていることを知りながらも選手生命を長らえさせるために指示に従う。引退後は市内で焼肉屋を営み、それなりに成功を収めるが、後に秘密を探ろうとすると生命が危険に晒されることを品田に警告する。その後、品田が牛島らに消されようとした際には名古屋組の組員として品田の前に立ちはだかるが、真相を伝えるために敢えて敗北の道を選ぶ。
(さわだ ゆうき)
声 - 平井啓二
プロ野球チーム「東京ギガンツ」のエースで、通算197勝を誇る名実共に球界を代表する名投手。品田とは高校時代に甲子園の1回戦で対戦して以来の宿命のライバルで、15年前の野球賭博事件が起こったとされる試合では品田の初打席の対戦相手として登板しており、6球カーブが続いた後の渾身のストレートを打たれ、以降は再戦を望むようになる。15年経ったら名古屋組の仕事を引き継ぐという約束をしていた経緯からトレードによってワイバーンズにやって来ており、富士田と同様に黒羽組と手を結んでいたが、品田との再戦の際に黒羽組を裏切って品田と共に黒羽組構成員を撃退した。その後、品田と野球で再戦するもストレートを悉くカットされ、決め球として投げたカーブを逆にカーブを待ち続けていた品田に打たれて完敗し、過去に決着を付けて品田と握手を交わす。その後は品田に黒羽組がコンサートで何かを企んでいるという情報を提供した[注 72]。
(ふじた)
声 - 森田順平
プロ野球チーム「名古屋ワイバーンズ」の元監督。15年前に賭博の利権を握っていた東城会と近江連合を名古屋から一掃するために黒羽組と手を結んで野球賭博事件を仕組み、その際に騒動の責任を取って監督を辞任した。事件後は名古屋組を結成し、以来は地元の人間の手によって名古屋の平和を守り続けていたが、後に長らく遠ざかっていた球界に東京ギガンツの新監督として復帰することが発表されたことで波紋を呼ぶようになる。その後は品田が秘密に近づいたことを知り、牛島達組員に口封じを命令するも失敗に終わる。その後、事件の全容を自らが書いた告発文を提出しようとしたが、最後は一連の事件の黒幕である黒澤によって口封じのために殺害された。
尾道仁涯町の住人達
『6』に登場した広島にある街。街には小野ミチオというゆるキャラが存在する[注 73]。
笠原 清美(かさはら きよみ)
声 - 真木よう子
スナック「清美」のママで、染谷巧の元妻。面倒見が良い性格で、遥に親身に接したり、宿の無い桐生のために寝泊りできる場所を用意していた。また、若い頃から街のマドンナ的な存在として在り続けており、南雲や飯野をはじめとした地元の男達の憧れの的となっている。かつて東京で水商売をしていた頃にあくどい客から借金を負わされていたところを染谷に救われて恋に落ち、後に結婚して娘のヒロミを儲けるが、徐々に染谷の極道としての暴力性を孕んだ二面性に恐怖を抱くようになる。その後、ヒロミを連れての逃亡を図るも失敗し、染谷によってほぼ軟禁状態となったため、ヒロミが3歳の頃にやむなく一人で故郷の尾道へと逃げ戻る。その後は尾道を訪れた遥のために寝床を用意したり、生活のために自身のスナックで働かせるなど彼女の面倒を見続ける。遥が尾道を去った後は彼女の足取りを追うためにやって来た桐生に遥に関する出来事を伝え、更には達川の情報も提示した。終盤では桐生の抹殺を目論む巌見と菅井によって染谷を手駒にするための人質として捕らえられ、更には用済みとして小清水によって射殺されたかに思われたが、実際は空砲であったために助かっており、彼らに殺されたと誤認された後は小清水によって密かに匿われる。事件後は解放され、スナックにいた南雲達の元に戻る。
飯野 和明(いいの かずあき)
声 - 檜山修之
尾道仁涯町の住人で、水軍アパートの管理人。物心つく頃からの腐れ縁である南雲と付き合いがあり、互いに清美に想いを寄せているが、当の清美からはいずれも相手にされていない。また、見た目通りに頼りない一面が多く、清美が攫われた際にもその場で守り切ることが出来なかったために南雲からは「根性なし」と言われているが、一方で尾道では顔が広く、ハルトの捜索に貢献したこともある。桐生が仁涯町にやってきた当初は余所者として訝しげに見ており、それでも清美の頼みを受けて宿の無い桐生に寝泊まりできる部屋を用意した。その後、草野球でわざと乱闘に持ち込んだ南雲達を叩きのめすのを見た後は桐生に一目置くようになり、敬意を込めて桐生さんと呼ぶようにもなる。その後はハルトを連れ去った船を捜索するために地元の漁師達の協力を取り付けた。
ジョー / 城島(じょうじま)
JUSTISの元メンバー。尾道では伝説的な不良として知られており、後輩のマサオを始めとした様々な悪ガキ連中からはかなり慕われている。上京した際につるむようになったオカダと共にその当時に幅を利かせていたカラーズに対抗する組織としてJUSTISを結成するが、当初の思想から大きくずれた事でJUSTISを抜けて尾道に帰郷する。その後、報復として尾道まで追ってきたJUSTISに襲われていたところを桐生に救われ、JUSTISを壊滅することやJUSTISのリーダーである親友のオカダを助けるように桐生に協力を願い出た上で桐生をリーダーとした「桐生会」を立ち上げる。その後は桐生と共にJUSTISと対峙しながらも六狂人達を次々と撃破していき、遂には棚橋からオカダの豹変の理由を聞いたことで彼を助けるために立ち向かうことを改めて決意し、最終的にはオカダと拳を交えた末、彼の本当の思惑を知り和解する。最後は黒幕である殺月とコウメイを桐生やオカダと共に撃退し、JUSTISを巡る戦いに決着を付けた。決着後は桐生会を解散させようとした桐生を仲間と共に説得し、桐生会そのものを解散させないことを承諾させた。「金見澤ゴージャス」の捕手・城島と苗字が同じだが、詳細は不明。
みなと
声 - 竹口安芸子
スナック「ガウディ」のママ。姉御肌で常連客[注 74]の憧れの的、ゲンさんに対し店に新しい機種のカラオケボックスを置くなど仕事もきちんとしている。初めて入店した桐生が店に馴染んでいくにつれて心を開いてゆき、桐生が書いた自身への感謝の手紙を読み、その後桐生に行方不明になった漁師である父親の帰りを待つためにスナックを始めたことと、自身の名前を教えて店に戻った。
功(いさお)&天野(あまの)
地元の漁師と魚屋の娘。訪れた桐生に漁に行く約束をするが、途中で人食いザメ「ブラッディー・シャーク[注 75]」に襲われて足を負傷し、漁師を休業することになってしまい桐生に対し、自身の代わりに素潜り漁をして漁に出てほしいと懇願する。
村中(むらなか)
サブストーリーに登場した巌見家の分家にあたる令嬢のカズミ(声 - たみやすともえ)の執事で、当人やカズミの弁から陽銘連合会とも何らかの関係がある模様。戦闘ではブルース海老沼に似た格闘スタイルで戦う。カズミに惚れている不良のカズオを敵視しており、カズミの海外留学を両親に進めそれを阻止しようとした二人が入れ替わった振りをしていたためにカズオを一方的に痛めつけるが、それを見た桐生に叩きのめされる。その後二人が本気で愛し合っている事を理解した上で、その覚悟がどれだけのものであるか試すべく、わざと憎まれ役に徹していた事を桐生に打ち明ける。
ミサ
苗字は不明。東京に行き芸能界でデビューをする事が決まっているが、学校の先輩との恋愛に悩む。
草野球チーム
『6』に登場した尾道の草野球関連の登場人物。
千葉 風太(ちば ふうた)
「瀬戸内ウォーリアーズ」の中堅手。野球の才能はないが夢と情熱を持っており、同級生の森塚に憧れて野球を始めた。チームは主力が抜けた事もあってライバルチームの「仁涯サンダーズ」の二軍相手にもボロ負けするレベルに弱小化しており、南雲達を叩きのめした桐生のカリスマ性を見込んでチームの監督になることを懇願する。その後は桐生の協力で着実に実力を付けていった事や強力なチームメイトの加入などもあってウォーリアーズは尾道最強チームとなり、監督になってくれた桐生に改めて感謝の意を述べて仲間と共に彼を胴上げした。
森塚 公彦(もりづか きみひこ)
声 - 佐々木祐輔
千葉の高校時代の同級生で、千葉の憧れの人物。かつてはプロ球界入りを期待されていた程の実力を持つ投手である。戦闘ではボクシングで戦う。プロ入りを目指していたがチームメイトの不祥事で夢を断たれた。チンピラに絡まれていたところを目撃した桐生から自暴自棄な態度を窘められ、逆上して喧嘩を吹っ掛けるも返り討ちに遭う。その後千葉に叱責された事で野球への未練が残っていることを認識し再びプロ入りを目指すためにウォーリアーズの加入を決意する。
金見澤 翼(かなみざわ つばさ)
声 - 熊本健太
大企業「金見澤コンツェルン」の若社長で、「金見澤ゴージャス」の一塁手兼キャプテン。自分でチームを作ってしまう程の野球好きで「1番」である事にこだわりがあり、大金をつぎ込み海外の現役選手を自チームに加入させたり地元最強チームだった「尾道レジェンズ」を惨敗に追い込むなどしている。瀬戸内ウォーリアーズの練習グラウンドを買収しようと目論み、それを阻止しようとするウォーリアーズと対決するも敗北し、千葉から「勝敗を分けたのはチームの絆」と言われた事で負けを認め、再戦を誓い去って行った。その後は絆を学ぶために桐生会に加入する。
その他の登場人物
タカシ
声 - 日野聡(『極』)
『1』に登場したサイの花屋の息子で、ギャングの一員。戦闘では金属バットを使用する。恋人の京香に上納金を調達してもらうヒモであったが、京香に対する想いは本物である故に彼女のためにギャングを脱退した。その後、待ち合わせ先のディスコで京香と落ち合うが、そこで後を追って来た跡部組の若頭率いる構成員に襲われたところを駆け付けた桐生に救われる。その後は桐生と花屋の仲裁もあって京香の父親からも京香との交際を許される。また、サブストーリーでも京香と登場し、街を出て彼女と共に生きていく決意を桐生と跡部組に伝える。
『2』ではサイの花屋を父親だと知らずに「父親は行方が不明」と亡き母からは教えられていたことが明かされている。中々仕事を長く続けられずに他の女性と遊び歩き、更には京香が浮気をしているのではないかと疑念も持つが、後に京香が実家に無理を言って金を工面していることを知り、やり直すことを決意した。
『4』では桐生のサブストーリーに登場し、就職に成功して京香との間に新しい命を授かったことが明かされている。顔も知らない父親が母を見殺しにしたことに対する怒りはあったが、京香と結婚するに際して父にも見届けて欲しいとしてサイの花屋に父親探しを依頼し、桐生を始めとする主人公4人の協力を得てその成長を見届けた花屋に花束を渡される。その後、花束に挿まれたメッセージカードには「父親は既に死亡している」と書かれていたが、渡されたその花が母の好きだった花であることや毎年その花が母の命日に誰よりも早く供えられていることを思い出し、花の差出人の花屋が父であることを悟る。
京香(きょうか)
声 - 水無月若菜(『極』)
『1』に登場したタカシの交際相手。実家は浅草の暴力団組織「跡部組」だったために幼少の頃は周囲から敬遠されて友達も出来ず、孤独な日々を過ごしてきた。ギャングであるタカシのために実家の金を持ち出し、結果として実家から追われる立場となっていたが、後に桐生と花屋の仲裁もあって父とも和解した。
『2』では苦労しているタカシのために父に無理を言って生活費を工面する。
(だて さや)
声 - 岡田明奈(『1』)、白石涼子(『極』)
『1』に登場した伊達真の一人娘。約束を守らない父親に嫌気が差してスターダストに通い詰め、そこで出会ったホストである翔太の常連となって彼を「頼れる存在」として認識していくが、翔太の本性を知り危うく餌食になりかけたところを桐生と父に救われる。その後、桐生の説得と父の「沙耶を守る」という強い決意を聞き入れて父と和解する。
『2』では美容師を目指して専門学校に通っていることが伊達の口から語られている。
『4』の桐生のサブストーリーでは、無事に美容師として働いていることが判明し、更には伊達とは一緒に暮らしておらずに母親と同居していながらも父娘の関係は良好であることや同じ美容師である相原ミノルという彼氏がいることを明かす。
壺振りのテツ
『1』に登場した流れ者のイカサマ師。丁半賭博に参加した桐生と遥に目を付け、イカサマを仕掛けるも桐生によって露見してしまい、口封じのために用心棒達を利用して桐生に襲い掛かるも返り討ちに遭う。その後、現れた賭場の元締めに処分される。
秋元(あきもと)&美月(みづき)
声 - 矢薙直樹(秋元)、中嶋佳葉(美月)
『1』から登場するシリーズのサブストーリーの常連である男女。所謂キャバ嬢と客の関係で、秋元は自分を美月の彼氏だと信じ込んでいるが、美月は彼を金づるとしか見ていない。『3』の協力闘技では秋元がパートナーとして参戦するが体力は非常に少なく、敵から数発殴られただけで倒れてしまうほど弱いため、彼自身を守りながら戦わなければならない。秋元が美月に貢ぎ過ぎたせいで借金で頭が回らなくなり自殺を図ろうとするが、桐生と美月の説得を受けて自殺をやめる。
『2』では秋元が宝くじの1等が当たりそれをすべて美月に貢いでしまったことでさすがに金づるとしか見られていないことに気付き美月と心中を図ろうとするが、秋元の上司だった太田に頼まれた桐生の説得と美月に秋元の子を妊娠している(実際はキスすらしていない)ことを告げられたことで結局は言いくるめられる形で騒動も収まる。
『3』では美月が秋元と婚約したこと(正式ではない)が判明するが、秋元が買った沖縄行きの高い席をキャンセルして自分一人だけ安い席に変える、秋元と同じ部屋に泊まることを拒否する、婚約指輪を秋元に隠して売るなど結局は彼を金づるとしか見ておらず、また秋元に生命保険の契約書にサインさせるという保険金殺人を臭わせる一面も見せていた。その後、アサガオ前の浜辺付近の崖で自殺をしようとする秋元に今までの嘘を誤魔化し、妊娠も想像妊娠だったと白状するが、秋元から結婚を迫られ、結婚を回避しようと「実は生き別れの兄妹だった」と嘘をつくことで秋元をすっかり信用させて「籍に入っている」と大喜びさせたために事なきを得た。しかし、その後の別のサブストーリーでミレニアムタワーから秋元が転落しかけた時に必死の形相で彼を救出して自分のこれまでの行いを反省し、秋元との関係を正式な恋人同士と改めて再スタートする。
ジャッカル八木沢(ジャッカル やぎさわ)
『1』のサブストーリーに登場した、バンタム級ランキング1位のボクサー。「音速の右」と呼ばれるほどの右のパンチスピードが武器のボクサーで、自身のファンであるバンタムのマスターとは彼が前の店を経営していた頃からの知り合いである。戦闘では『1』ではボクシング、『極』では八幡に似た格闘スタイルで戦う。マスターの前の店でみかじめの取り立てにやってきた嶋野組傘下である澤田興業の組員の一人を止めに入った際に全身麻痺になるまで叩きのめしてしまったことをネタにされ、タイトルマッチで八百長試合をやらされることになる。その後、荒れてバンタムでヤケ酒をしていたところに握手に来た遥に手を上げてしまい、それが原因で桐生と揉めて喧嘩をするが敗北する。その後は遥に手を上げたことを謝罪し、負け試合をやらされることに自棄になるが、桐生が澤田興業の澤田を撃退したことで八百長試合ではなくなり、応援してくれる遥のためにタイトルマッチで思う存分闘うことを決意する。その後はタイトルマッチで1R目で相手をK.Oに沈めてタイトルを奪取した後、記者会見で暴力事件を起こしたことを涙ながらに告白した。
(ジョン・スヨン) / 瓦 祥子(かわら しょうこ)
『2』の回想に登場した真拳派のボスの妻で、郷田龍司と狭山薫の母親。組織を壊滅させられたことに絶望し、龍司と共に心中しようとするも瓦に止められる。その後、真拳派の追跡を逃れるために瓦と別所の尽力により大阪に移り住み、蒼天掘の酒場で知り合った郷田会長に身請けされるが、瓦との結婚を選択して薫をもうけた後に真拳派の構成員に殺害される。
ボブ宇都宮(ボブ うつのみや)
『2』から登場した条件を満たすと手に入るアイテムを渡してくれる白いスーツにピエロのメイク、緑のアフロヘアという容姿をしている人物。各都市の入口付近に立ち、狭山の友人であることや一人だけではなく複数存在していることが判明するが、全員が同じ容姿をしており、誰が誰だか見分けがつかない。
『3』以降は『2』での役割の他にDLCのアイテムパックの渡し役やエクストラモードの「サバイバル鬼ごっこ」の鬼役としても登場する。
『4』や『5』ではナオミの館に複数で常勤するようになる。
『0』では神室町の神社と蒼天堀の寺で登場し、PSストアで特定のコードを入力することで彼から金やアイテムを貰うことができる。
『1』では未登場だったが、『極』では登場する。
上山(かみやま)兄弟
声 - 折原純[6]
『2』から登場した「ワークス上山」という名の武器商を営む兄弟で、二人とも肥満体と吃音気味の話し方が特徴である裏社会では名の通った武器職人。神室町にて弟の連次(れんじ)が初登場し、サブストーリーで助けると公園の向かい側にある空き地でビデオと武器を売るようになる。また、地下闘技場でカリスティックを使いこなす選手として戦うこともできる(以降のシリーズでも参戦する)。
『3』では琉球街にて兄の蓮太(れんた)が初登場し、玉城組に武器を納入する際に桐生と鉢合わせるが、本当は玉城組のやり方に嫌気が差していることを告白し、桐生に武器を提供した。その後、素材とレシピがあれば価格に見合った強力なオリジナル武器を作成してくれるようになる。また、神室町にいる弟を紹介した。
『4』では兄が玉城組の悪事に加担した疑いで沖縄第弐刑務所で収監されてしまう。その後、その武器作りの腕を刑務官に見込まれて刑務所内の作業を任されるが、手先が器用なところを浜崎に目をつけられて「鎖つきフック」を作成し、冴島の脱獄を援助した後にそのどさくさに紛れて自らも脱獄に成功する。神室町へ逃亡後は武器の改造を取り扱っている弟とは別の場所で防具の改造を取り扱うようになる。
『5』では兄が永洲街、弟が神室町で経営を続けており、またその他の歓楽街に支店も出すが、各都市共通でお金やアイテムを投資するとレベルが上がって品揃えが充実する。
『0』では兄が武具探索のエージェントとして登場し、フェイフウから弟の存在も語られる。
末永(すえなが)
『2』のサブストーリーに登場した養護施設「ヒマワリ」の園長代理の女性。体調不良で療養中の園長に代わってヒマワリの園長に就任し、風間の死後、経営難に陥ったヒマワリを立て直すために桐生に資金援助を懇願した。
『極2』では桐生の手助けとしてフォーシャインでキャバ嬢として働くようになる。
近松(ちかまつ)
『2』のサブストーリーに登場した演歌歌手。詐欺師に騙されて300万の借金を背負わされ、借金取りに追われていたところを桐生に助けられる。その後は再び借金取りに襲われそうになるが、自身が作曲した「神室雪月花[注 76]」を歌ったことで自身の借金が返済になった上に借金取りの組長が感動して改心するという結果を生んだ。
イ・リュウジョン
『2』のサブストーリーに登場した女性人気の高い韓国の人気アイドル。桐生に神室町のガイドを頼み、全てを終えた後は桐生にお礼金と自身のサイン入りブロマイドを手渡した。
『3』でもサブストーリーで登場し、おばちゃんからサインを貰うように頼まれてやってきた桐生と再会するが、その際にチンピラに声をかけられたことで桐生と共闘して撃退した。
『極2』では桐生が悪徳不動産と戦っていることを聞き、真島建設に入社する。
権田原(ごんだわら)
『2』のサブストーリーに登場した極道組織「権田原組」の組長。62歳。幼児プレイを趣味としており、趣味ではない組員達にも無理やり付き合わせている。戦闘では『2』ではパンチ技をメインに戦い、『極2』では金井に似た格闘スタイルで戦うが、闘技場では「幼児プレイ」を格闘スタイルに標榜してガラガラを武器に戦う。桐生に絡んだ組員の無礼を詫びるために桐生を行きつけの風俗店に招待するも、趣味じゃないと言った桐生の態度に怒り、襲い掛かるも返り討ちに遭う。その後、組員達は内心辟易していた事を打ち明け、権田原に灸を据えてくれた桐生に感謝した。
『極2』では桐生に叩きのめされたことで「このままではいけない」と考え、桐生への謝罪の意を込めて真島建設に入社し、闘技場にも参戦するが、闘技場でも相変わらず幼児プレイを取り入れている。
上里 夏美(うえさと なつみ) / 上里 秋穂(うえさと あきほ)
『3』のサブストーリーに登場したエイジアのダンサーで力也の幼馴染。エイジアで力也と再会し、力也にプレゼントをしたペンダントを見せられるも「自分は夏美の姉の秋穂である」と嘘をつき、力也を便利なボディーガードとして利用し、ホスト遊びからできた借金を背負わせるが、ホストと共に力也を騙していた事を桐生に聞かれてしまう。その後桐生に連れられて借金の債務者である闇金業者に袋叩きにされている力也を見て自省の念に駆られ、力也に謝罪をした。
下坂 ノボル(くだりざか ノボル)
『3』のサブストーリーに登場したゴロツキのような顔を持つ主役級の映画俳優。主人公の神室の辰を演じる予定であったが、撮影当日で腕を骨折してしまい、監督と共に桐生に代役をお願いした(ジャンルは時代劇)。
『5』の桐生のサブストーリーでも体調不良のために永洲街で桐生に代役を頼む(ジャンルはホラー)。
山城(やましろ)
『3』のサブストーリーに登場した映画に登場する悪役。神室の辰(桐生)のライバルキャラクターとして毎回登場するが、山城という名前はあくまで映画内での役名であり、作品によって演者は異なる。神室の辰の父の仇役として登場し、戦闘ではプロレスで戦う。
『5』の桐生のサブストーリーでは、ボスのヴァンパイア役で登場し、戦闘では南に似た格闘スタイルで戦う。
植田(うえだ)
『3』のサブストーリーに登場した九州一番星のラーメンに惚れ込み、そのラーメンをカップ麺にするために日々研究しているエースコックの社員。味のことで不合格を貰った時に桐生と出会い、彼から様々なヒントを得て遂には味の再現に成功し、九州一番星の大将からカップ麺にしていいことを認められた。
『4』の桐生のサブストーリーでも登場し、九州一番星ののれん分けのことで大将と揉めていた店員である松山のことを桐生と共に気遣い、誤解を解かせた後は松山が大将を納得させるために模索していたオリジナルラーメン作りに意図せずにヒントを与え、彼を手助けした。その後、松山に後を継がせて引退しようとしていた大将にラーメン作りを続けるように説得し、「ダブル大将制」を提案して大将の引退を引き止め、自身は完成したオリジナルラーメンの味をカップ麺として再現するために研究に励む。
寿 朱美(ことぶき あけみ)
声 - 本居真優(『ONLINE』)
『3』の「天啓」で登場したティッシュ配りの女性。『ONLINE』にて名前が判明する。歩行者の気付かない内にティッシュを配るというティッシュ配りに関して神業的な技能を備えおり、その界隈では「カリスマテイッシャー」と呼ばれている。その動きは桐生によって技に昇華されたが、桐生の4人に対して自身は6人に行っていることからも実力の高さが伺える。
ニセ秋山 / 鈴木(すずき)
『4』の秋山のサブストーリーに登場した秋山の名を騙りスカイファイナンスの評判を下げている男。本名は「鈴木」で、秋山と似た言い回しをするが本人を目の前にしても気づかなかったり、弱気になりだすなどの一面を持つ。本者と同じく客にテストを受けさせた挙句金を貸さないといった手口を使い客を騙している一方で、運び屋といった副業も行っている。乗り込んで来た秋山に対し自身に依頼された運び屋の仕事[注 77]を完遂したら金を貸す条件を付きつけて秋山にボディーガードを頼むが、途中で要件の品物(正体は六法全書)を奪われた事で自身の正体を白状することになる。その後、秋山から「今すぐ海外に高飛びした方がいい」と進言されたことで神室町から出て行った。
塩原(しおばら)
『4』の秋山のサブストーリーに登場した親から印刷会社を受け継いだ二代目社長。精神的に幼稚で、傲慢かつ自信過剰な面がある。不況で会社の経営状況が悪化した際に、リストラへの忌避感から立て直しを諦めて倒産させ、新たな職で起業を試みるが、銀行の融資審査に落ちたことでスカイファイナンスを訪れた。その後、秋山に新しい事業の開業資金として500万円の融資を申し込むも、余りに物事を楽観視していた為に3回のテストに立て続けて不合格となり、それでも4回目に課されたテスト[注 78]に合格して現金500万円を融資してもらい、秋山から「本気にならないと何もできない」とのメッセージを受けて彼と同じ金融業を始めるが、悪い客を立て続けに引いたことで廃業する。その後は秋山と神室町で鉢合わせし、「制限時間内にタバコ1本を自分の物より価値の高い物品に交換できたら1億融資」のテストを受けるも不合格となる。しかし、別れ際に秋山から金融業を始めた自分が無理やり利子として渡した500万を返されたことでやり直しを決意し、「スカイファイナンスの顧客は二度と金を借りに来ない」の不文律の元で新たな道を歩み始める。
井上 忠志(いのうえ ただし)
『4』の冴島のサブストーリーに登場した両親を亡くして親戚に育てられている少年。父の借金のカタに連れて行かれた姉の明子を探しに神室町にまでやって来ており、借金の債権者である田所から借金の500万を払うか自分の言う仕事をしたら姉を返すと言われ、神室地下街で金を稼ぐためにスリをしていたが、冴島の金をスッたことが縁で自身と境遇の似た冴島の手助けを受ける。その後、自身の代わりとなった冴島が仕事をこなしていく中で冴島に恐怖を覚えた田所に人質として捕らえられるが、自身の機転もあってこれを切り抜け、田所の口から父の借金が田所に騙されて出来たことや借金は自身の両親の生命保険で既に支払われていたこと、更には姉を極道の高須組に300万で売ったことなどを聞き出す。その後は冴島と共に高須組に乗り込んで姉と再会するが、姉が高須組に養女として大切に育てられていることを知り、姉との再会まで手伝ってくれた上で男として大切なことを教えてくれた冴島に感謝して礼を言った。
ブリッジ / 勝浦 勇司(かつうら ゆうじ)
『4』の谷村のサブストーリーに登場した社団法人「アジア地域女性友好協会」の理事長で、風俗界を裏で操る黒幕。表ではアジア人女性の友好を掲げておきながら裏では「ブリッジ」の名を使って部下にスカウトさせた現地女性を安い賃金で強制労働をさせており、また偽造パスポートの製造や偽装結婚の斡旋なども行うことでアジア人女性を食い物にして莫大な利益を自身の懐に入れていた。義父の手帳に頻繁に書かれていたブリッジというメモと、自身の事を探ろうとしたために抹殺した風俗ライターの矢部宏一の遺した記事から自身を追っていた谷村を始末しようとしていたが、逆に追い詰められてしまい、自身の正体や谷村の義父と共に自身を追っていた谷村の実父である加賀を殺害したことを自白し、最終的には警察に逮捕された。
木村 清(きむら きよし)
『5』の桐生のサブストーリーに登場した寿司チェーン店「すしざんまい」の社長。永洲街で川釣りをしていたところを桐生と出会い、さらに海釣りにも誘う。その後、付き合ってくれた御礼に桐生に御馳走をし、桐生からヒントを得た新メニューの「龍の海鮮丼」を全国の店舗に提供する。
島田 秀平(しまだ しゅうへい)
『5』に登場した、手相占いを得意とするお笑い芸人。蒼天テレビの挨拶回りに来た遥と出会い、手相を見た後は遥に対し「経験を糧にすれば大丈夫」と後押しした。再度出会った際には冗談を交えながらも遥の成長を感じ取り、「良い線が生まれた手相に変わった」と良い、去って行った。
カツアゲ君
声 - 江頭宏哉、佐藤祐基、川橋直也、大江健次
『0』に登場した人並み外れた巨体を持つチンピラ達。その名の通りにカツアゲを行っており、神室町では江頭宏哉(えがしら ひろや)と佐藤祐基(さとう ゆうき)、蒼天堀では川橋直也(かわはし なおや)と大江健次(おおえ けんじ)が一人ずつ交互に登場している。また、遭遇の度にカツアゲと称して喧嘩を吹っかけてきては負けると所持金を全額奪っているが、たまにベンチや路上で睡眠を取っている事があり、この際は起こさない限りは金を取り続ける事ができる。戦闘ではその巨体を活かした大振りながらも非常に強力な打撃技や打撃判定と掴み判定の二種類の突進攻撃を使用し、また二種類のヒートを使い分けたり通常の掴みに対して反撃をするなどの特性を持つ。事あるごとに桐生や真島に因縁を付けるが、何度返り討ちにされても懲りずにカツアゲを続けており、それでも次第にそれぞれのカツアゲをする理由を明かすようになる[注 79]。
金持ち君
声 - 福島善成、谷岡幸太郎
『0』に登場した金持ちの男達。「腐るほど金を持った金持ち」と自負する通り、億単位の大金を自在に操っており、神室町では福島善成(ふくしま よしなり)、蒼天堀では谷岡幸太郎(たにおか こうたろう)が登場している。通りかかった桐生や真島に金のばら撒き方や使い方を教え、投資ファンドの顧客になるよう彼らを勧誘する。その後は桐生と真島の金やアイテムの橋渡しを行い、最初は手数料を取っていたが、徐々に親密になっていき、最終的には手数料無しで行うようになる。
絶倫君
声 - 秋本智仁、ハブ
『0』に登場した風俗店通いを趣味とする男達。風俗をハシゴする程に精力が有り余っており、神室町では秋本智仁(あきもと ともひと)、蒼天堀ではハブが登場している。それぞれの街で接触した後は街のあらゆる場所に現れ、特定の条件後にビデオに出演するようになる女性(セクシー女優)の情報を教える。その後は精を通じて桐生や真島と親密になっていき、後に秋本は射精障害、ハブは勃起不全という精に関しての苦難を迎えるが、最終的には桐生や真島の手助けもあって無事に乗り越える。
ミラクル・ジョンソン
声 - 汐谷文康
『0』の桐生のサブストーリーに登場した世界的に有名なミュージシャン。代表曲である「I'm gonna make her mine」はディスコの楽曲にも使用されている。最新PV[注 80]の撮影のために神室町を訪れ、撮影を終えた際に桐生と神室町を気に入り、再会を望んで去って行った。その後はプライベートで再び神室町を訪れ、貸し切ったマハラジャで桐生と再会し、ダンスを踊った後は桐生の助けになるために桐生の営む不動産アドバイザーに志願した。
日吉 公信(ひよし きみのぶ)
『極』に登場した東都大学医学部附属病院の院長にして錦山の妹・優子の主治医。ギャンブル依存症であり、松重に借金をしている。錦山に優子の余命が長くはもたないと伝えた上で、臓器ブローカーの仲介料として3000万円を用意するように唆すが、仲介料を受け取った後は手術を行わずに夜逃げをした。
(だいどうじ みのる)
『6』に登場した「昭和のフィクサー」と呼ばれる、危篤状態の高齢の老人。元・大日本帝国海軍の高級将校で、独断で軍費を横領し全長300mを越える巨大戦艦「超大和級[注 81]」の建造を巌見兵三の巌見造船に依頼し、祭汪会先代総帥(ビッグ・ロウの実父)とも人手を中国の戦争難民で賄う密約を交わす。しかし、超大和級が完成せずに第二次世界大戦が終わり、程なくして政界を裏で動かす程の影響力を得て、巌見造船に有利な法案を次々と可決させるなどして巌見造船の負債を補填する見返りに超大和級を「尾道の秘密」として秘匿させた(兵三は法案で政界のコネを築く)。2016年に尾道の秘密が桐生らに暴かれたことで兵三を見限り、息子の恒雄に兵三と桐生の殺害を依頼するが、結局はその目論見は失敗に終わり、最終的には事件の結末を見届けぬまま息を引き取った。
ポール・リム
『6』のサブストーリーに登場した「生ける伝説」と呼ばれているダーツプレイヤー。バンタムで赤石澤裕也(声 - 山崎興啓)の勝負に勝った桐生の前に現れ、桐生のダーツの才能を見抜いた。その後はダーツの腕を上げた桐生に勝負を申し出て彼と戦うも敗北する。敗北後は桐生に自身が使用していた矢をプレゼントし、「これからもダーツを楽しみましょう」と告げてその場を去って行った。
ボーノ磯崎(ボーノ いそざき)
『極2』に登場した白いスーツに薄茶色のマッシュルームカットといった風貌をしたキャバクラグランプリの司会者。業界では名の知れたキャバクラ通で、キャバクラに関する知識を活かした実況や解説で大会を盛り上げたりフォーシャインの視察に赴いたりするなどユキから「一流の司会者」と評される一方で、裏で神崎と繋っている。フォーシャインを潰す計画に加担していたが、真島と陽田によって神崎との関係を暴かれて逃亡した。その後、キャバクラグランプリの司会者は真島が引き継ぐ事となり、自身はファイナルチャンピオンシップ終了後に神崎と共に警察に逮捕された。
阿久津 涼(あくつ すず)
声 - ブリドカットセーラ恵美
『ONLINE』に登場した大手新聞社「岩田書房」の記者。
火野 正太郎(ひの しょうたろう)
声 - 間宮康弘
『ONLINE』に登場した自らヤンキーを名乗る高校生。悪ぶっているが、内面は正義感が強く仲間想い。喧嘩の腕っ節も相当で、地元の茨城では敵知らずと言われている。
山田 照(やまだ てる)
声 - 田丸真由美
『ONLINE』に登場した都内の高校に通う女子高生。代々受け継いだ道場を取り戻そうとしている。
熊切 愛(くまきり あい)
声 - 大谷理美
『ONLINE』に登場した都内の高校に通う女子高生。
高畑 忍(たかはた しのぶ)
声 - 五十嵐裕美
『ONLINE』に登場した神室町を拠点とする流しのタクシードライバー。
桜庭 拓海(さくらば たくみ)
声 - 岩中睦月
『ONLINE』に登場した高校教師。
八乙女 静香(やおとめ しずか)
声 - 関根明良
『ONLINE』に登場した学業の傍ら、女優業も営む女子高生。
松澤 恭平(まつざわ きょうへい)
声 - 高橋英則
『ONLINE』に登場した以前は東城会系の組に属していた国立大学卒のヤクザ。
森 フミト(もり フミト)
声 - 菊池勇成
『ONLINE』に登場したとある養護施設で育った少年。
三田 聖(みた ひじり)
声 - 北島善紀
『ONLINE』に登場したサンタを自称する男性。
関連項目
龍が如くシリーズにおける年表
脚注
注釈
出典
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E3%81%8C%E5%A6%82%E3%81%8F%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9 |
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架空のロボット兵器の一覧(かくうのロボットへいきのいちらん)では、主に、空想科学作品や漫画、ゲーム、伝説、神話などに登場するロボット兵器を列記する。またロボットに類似した人型兵器もここに記す。
作品内にロボット兵器全般を総称する言葉が存在する場合はそれを記すものとする。
人型ロボット兵器
いわゆるロボット(人造人間やパワードスーツを含む)。日本における架空兵器の花形である。種類の膨大さ故に、その全てを網羅することは難しい。ここではその一部を記す。
パワードスーツの登場するサイエンス・フィクション一覧も参照の事。
搭乗もしくは遠隔操縦するもの
AK-966(『ケロロ軍曹』)
A.G.W.S.(『ゼノサーガシリーズ』。対グノーシス用戦闘兵器体系「Anti Gnosis Weapon System(アンチ・グノーシス・ウェポンシステム)」の略)
AFW(アーマード・ファイティング・ウォーカー)(『RING of RED』)
AMP(アグレシブ・モビール・パナプリー)(『黎明のラヴェンデュラ』)
AMPスーツ(アンプリフィード・モビリティ・プラットフォーム・スーツ)(『アバター』)
A.M.W.S.(『ゼノサーガシリーズ』。強襲用機動兵器体系「Assalt Maneuver Weapon System(アサルト・マニューバー・ウェポンシステム)」の略)
ASE(アドバンスド・スペシャル・イクイップメント)(『南海奇皇』)
AWGS(装甲歩行砲システム)(『ガングリフォン』)
DM(ドミナンス・マニピュレーター)(『創世奇譚アエリアル』)
E.S.(『ゼノサーガシリーズ』。「E.S.」とは「Ein Sof(エイン ソフ)」“神なるモノ”を意味する言葉から来ている)
FWギロロロボ1(『ケロロ軍曹』)
FTO・GTO(『魔法騎士レイアース』)
GL(ジオメトリック・リム)(『プランゼット』)
HIGH-MACS(高機動戦闘歩行システム)(『ガングリフォン』)
Iマシン(ID-0)※人間の意識を転送して操縦する。
IFO(インテリジェント・フライング・オブジェクト)(『エウレカセブンAO』)
IS(インフィニット・ストラトス)(『IS 〈インフィニット・ストラトス〉』)※パワードスーツに近い。
KV(ナイトフォーゲル)(『CATCH THE SKY 地球SOS』)
LFO(ライト・ファインディング・オペレーション)、KLF(クラフト・ライト・ファイター)(『交響詩篇エウレカセブン』)
MAO(マイト・アニメイテッド・オブジェクト)(『猫と少年』)
MF(マルチ・フォーム)(簡易SPT)(『蒼き流星SPTレイズナー』)
MOEV(多目的可変ビークル)(『重神機パンドーラ』)
SMA(特殊機動重装甲)(『メタルウルフカオス』)
SPT(スーパー・パワード・トレーサー)(『蒼き流星SPTレイズナー』)
Uローダー(『ウルトラマンサーガ』)
V3(『ビッグX』)
VT(バーティカル・タンク)(『鉄騎』)
アースムーバー(『重機人間ユンボル』)
アーハン(『楽園追放 -Expelled from Paradise-』)
アーマーシュライク(『Blue Gender』)
アーマードコア(『アーマード・コアシリーズ』)
アーマードトルーパー(『装甲騎兵ボトムズ』、『機甲猟兵メロウリンク』)
アームスーツ(『攻殻機動隊』)
アーム・スレイブ(『フルメタル・パニック!』)
アーモ・ソルジャー(『機甲創世記モスピーダ』)
アーモダイン(『機甲装兵アーモダイン』)
アサルトアーマー(『QUOVADIS 2〜惑星強襲オヴァン・レイ〜』)
アサルトスーツ(『重装機兵レイノス』、『重装機兵ヴァルケン』、『CRW』)
アサルトギア(『KNight-Blade』)
アッシュ(『銀河機攻隊 マジェスティックプリンス』)
機巧魔神(アスラ・マキーナ)(『アスラクライン』)
アビオ・スケルトン(『ストラトスフィア・エデン』)
絶対奏甲(アブソリュート・フォノ・クラスタ)(『幻奏戦記ルリルラ』)
アルマ(『鉄のラインバレル』)
イェーガー(装甲戦闘猟兵)、ウービルト(『鋼鉄の虹 パンツァーメルヒェンRPG』)
イェーガー(『パシフィック・リム』)
イクサヨロイ(『ノブナガ・ザ・フール』)
夷腕坊(『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』)
インパクター(『キャプテン・アース』)
ヴァーミリオン、シュバルツァー(『ラーゼフォン』)
ヴァリアンサー(『バディ・コンプレックス』)
ヴァルヴレイヴ、他(『革命機ヴァルヴレイヴ』)
ヴァルチャー(『GODZILLA (アニメ映画)』)
ヴァンツァー(『フロントミッション』シリーズ)
ウォーカーマシン(『戦闘メカ ザブングル』)
ウォーロイド(『ストライカーズ1999』)
エステバリス(『機動戦艦ナデシコ』)
ARIEL(エリアル。女性型の巨大ロボット兵器。 ARIELは「ALL ROUND INTERCEPT & ESCORT LADY:全領域要撃/支援レディ」の略)
エルデカイザー(『ゼノサーガシリーズ』)
オーガン(『ヒロイック・エイジ』)
オーバーマン(『OVERMANキングゲイナー』)
オービタルフレーム(『ZONE OF THE ENDERS』シリーズ)
オービッド(『輪廻のラグランジェ』)
オーラバトラー(『聖戦士ダンバイン』、『リーンの翼』)
ガーディアン(『MOONLIGHT MILE』)
ガーディアン(『メタリックガーディアンRPG』)
ガーランド(『メガゾーン23』)
ガイガー、ガオガイガー(『勇者王ガオガイガー』)
怪重機(『特捜戦隊デカレンジャー』)
ガイメレフ(『天空のエスカフローネ』)
カガクゴー(『空想科学大戦!』)
火星大王(堀川玩具工業製の玩具、『銃夢』)
カタフラクト(『アルドノア・ゼロ』)
可変戦闘機(『マクロスシリーズ』)
カラクリ巨人(『忍風戦隊ハリケンジャー』)
カラブス(『鉄腕アトム』)
ガルガンチュア(『新・旭日の艦隊』)
ガンゲリオン(『ジュブナイル』)
ガンメン(『天元突破グレンラガン』)
ギア(『GEAR戦士電童』)
ギア・アーサー、ギア・バーラー(『ゼノギアス』)
ギガンティック・フィギュア(『機神大戦ギガンティック・フォーミュラ』)
奇Χ(『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』)
機械天使アクエリオン(『創聖のアクエリオン』)
機甲兵(『機甲界ガリアン』)
機神(『機神兵団』)
ギャンビー(『奏光のストレイン』)
強化外骨格(『ガンナイトガール』)
強攻型アクエリオン(『創聖のアクエリオン』)
骨嵬(くがい)(『ガサラキ』)
グランガ(『スターフォックス64』)
グランドトルーパー(『機甲武装Gブレイカー』)
グラン・リムーバー(『独立降下隊ガンフェロン』)
クレイプ(『E.G.コンバット』)
クロノダイバー(『クロノアイズ』シリーズ)
ゲインズ(『R-TYPE』シリーズ)
ゲッターロボ(同名作品)
ケロロロボ(『ケロロ軍曹』)[1]
幻星神(『幻星神ジャスティライザー』)
コアロボット(『デュアル!ぱられルンルン物語』)
鋼仙(『奇鋼仙女ロウラン』)
ゴゥレム(『ブレイク ブレイド』)
ゴエモンインパクト(『がんばれゴエモン』)
神の武器(ゴッドフォース)(『轟世剣ダイ・ソード』)
ゴーレム(『シャーマンキング』)
五式支援機士ユウヒ(『超星神グランセイザー』、『劇場版超星艦隊セイザーX 戦え!星の戦士たち』)
コンバットアーマー(『太陽の牙ダグラム』)
サルデス(『スターフォックス64』)
サルデスII(『スターフォックス64』)
ザンダクロス(『ドラえもん のび太と鉄人兵団』、『ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ 天使たち〜』)※正式名称・ジュドで本来は土木用。
ジアース(『ぼくらの』)
ジェクト(『遊撃警艦パトベセル 〜こちら首都圏上空青空署〜』)
ジェットアローン(『新世紀エヴァンゲリオン』#7「人の造りしもの」)
ジオフレーム、グロングル(『クロムクロ』)
ジャイロゼッター(『超速変形ジャイロゼッター』)※車からロボットへ変形する[2]。
ジャックアーマー(『機甲警察メタルジャック』)
ジャンボーグA(同名作品)
ジャンボーグ9(『ジャンボーグA』)
ジェイダー、キングジェイダー(『勇者王ガオガイガー』)
幻晶騎士(シルエットナイト)(『ナイツ&マジック』)
シンカリオン(『新幹線変形ロボ シンカリオン』)
人機(『ジンキ』シリーズ)
ジンシリーズ(『機動戦艦ナデシコ』)
シンナイト(『白騎士物語』シリーズ)
ストリング・パペット(『revisions リヴィジョンズ』)
ストレイン(『奏光のストレイン』)
スラグガンナー(『メタルスラッグ』シリーズ)
スラグノイド(『メタルスラッグ』シリーズ)
戦術歩行戦闘機(『マブラヴUNLIMITED編』、『マブラヴ オルタネイティヴ』)
戦略航空機動要塞(『マブラヴ オルタネイティヴ』)
装甲機兵(『ウルフファング』)
装甲巨神(『装甲巨神Zナイト』)
ソニックダイバー(スカイガールズ)※パワードスーツに近い。
ダイナミックフィギュア(『ダイナミックフィギュア』)
タクティカルアーマー(『ガサラキ』)
だだんだん(『それいけ!アンパンマン』)
超攻アーマー(『超攻合神サーディオン』)
超星神(『超星神グランセイザー』)
超惑星戦斗母艦ダイレオン(『巨獣特捜ジャスピオン』)
デヴァダシー(『創世聖紀デヴァダシー』)
鬼械神(デウス・マキナ) (『斬魔大聖デモンベイン』、『機神飛翔デモンベイン』)
テウルギア(『エガオノダイカ』)
大艦機(『轟拳ヤマト』)
デストロイド(『超時空要塞マクロス』)
鉄人(『鉄人28号』)
特機(『スーパーロボット大戦』シリーズ)
トライチャージャー(『赤い光弾ジリオン』)
ドライビング・アーマー(『DAIVA』シリーズ)
ドライブヘッド、ウォーカービークル(『トミカハイパーレスキュー ドライブヘッド 機動救急警察』)
トレイルクリーガー(『白銀の意思 アルジェヴォルン』)
トレーサー(『ほしのこえ』)
トレッカービークル(『亜空大作戦スラングル』)
トロットビークル(『ポンコツ浪漫大活劇バンピートロット』)
ナイトメアフレーム(『コードギアス 反逆のルルーシュ』)
ニャンダバーシリーズ(Z、グレート、ZZ、WXYZ)(『赤ずきんチャチャ』)
ネビュラソルジャー、念動巨神装光(『プラネット・ウィズ』)
パーソナルトルーパー(『スーパーロボット大戦シリーズ』)
バーチャロイド(『電脳戦機バーチャロン』)
バイオアーマー(『獣神ライガー』)
バイザー(『Get Ride! アムドライバー』)※パワードスーツに近い。
バイペダルアーマー(『コメット・ルシファー』)
バイペットトルーパー(『この世を花にするために』)
バスターマシン(『トップをねらえ!』、『トップをねらえ2!』、『特命戦隊ゴーバスターズ』)
八卦ロボ(『冥王計画ゼオライマー』)
バトルアーマー(『装甲巨神Zナイト』)
バトル・ドロイド(『スター・ウォーズ』 ※EP1では遠隔操作、EP2、EP3では自律稼動)
バトルマシン(『地球防衛軍3』『地球防衛軍4』)
バトロイド(『超時空要塞マクロス』)
HMA(『VARIANTAS』)
パラディン(『宇宙英雄ローダンシリーズ』)
パラメイル、ラグナメイル(『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』)
バリアブルマシーン(『特装機兵ドルバック』)
パワー・スレイブ(『フルメタル・パニック!アナザー』)
パワーダイザー(『仮面ライダーフォーゼ』)
パワードアーマー(『特装機兵ドルバック』)
パワードスーツ(『宇宙の戦士』ほか)
パンツァーフレーム(『機甲兵団 J-PHOENIX』)
ビーダアーマー(『Bビーダマン爆外伝』)
人型戦車(『高機動幻想ガンパレード・マーチ』、『ガンパレード・オーケストラ』)
人型変形機(『R-TYPE』シリーズ)
人型歩行戦車(『アインハンダー』)
ファイナルアーマー(『装甲巨神Zナイト』)
ファフナー(『蒼穹のファフナー』)
福神(『機動旅団八福神』)
武神(『終わりのクロニクル』)
プラウド・クラッド(『ファイナルファンタジーVII』)
ブラスト・ランナー(『ボーダーブレイク』)
フランキー将軍(『ONE PIECE』)
フランクス(『ダーリン・イン・ザ・フランキス』)
ブロンディ(『ガルフォース』)
ヘビーメタル(『重戦機エルガイム』)
ボバレフスキー42号(『ロボジョックス』)
炎(ほむら)(『機巧奇傳ヒヲウ戦記』)
ホロニックローダー(ゼーガペイン・アルティール/ガルダ/フリスベルグ/カラドリウス)(『ゼーガペイン』)
マヴェス(『M3〜ソノ黒キ鋼〜』)
マウンテンガリバー5号『ウルトラマンダイナ』
マキナ(『鉄のラインバレル』)
魔空戦神(『ヤマトタケル』)
魔神(『魔法騎士レイアース』)
マジンガーZ(同名作品)
マシーン兵器(『トップをねらえ!』)
魔装機神(『スーパーロボット大戦シリーズ』、『魔装機神サイバスター』)
マツモト14号(『ロボジョックス』)
マシニング・スキン(『フォー・ザ・バレル』)
マシンキャリバー(『翠星のガルガンティア』)
0二式特殊戦車(『この世を花にするために』)
マン・マシーン(『ガイア・ギア』)
MI-6(ミロク)(『惑星大怪獣ネガドン』)
無敵22号(『蓬莱学園』シリーズ)
メガデウス(『THE ビッグオー』)
メガラフター(『絶対地球防衛機メガラフター』)
メタルアーマー(『機甲戦記ドラグナー』)
メタルスレイダー(『メタルスレイダーグローリー』)
メタルフェイク(『ガサラキ』)
メタルフット(『装甲巨神Zナイト』)
メック(『バトルテック』)
メレフ(『天空のエスカフローネ』)
モーターヘッド(『ファイブスター物語』)
モビルスーツ(ガンダムシリーズ)
モビルファイター(『機動武闘伝Gガンダム』)
衛人(『シドニアの騎士』)
ヨロイ(『ガン×ソード』)
ライドアーマー(『機甲創世記モスピーダ』、『キャプテンコマンドー』、『ロックマンXシリーズ』。名称は共通するが、関連性はない)
ラウンドバーニアン(『銀河漂流バイファム』)
ラウンドバックラー(『絢爛舞踏祭』、『絢爛舞踏祭 ザ・マーズ・デイブレイク』)
ラーゼフォン(同名作品)
ラムダ(『ルパン三世』)
ランダー(『旋光の輪舞』シリーズ)
リカオン(『機動旅団八福神』)
リムヒューガン(『銀装騎攻オーディアン』)
流星神(『超星艦隊セイザーX』)
霊子甲冑(『サクラ大戦シリーズ』)
レイバー(『機動警察パトレイバー』)
レガリア、レガリア・ギア(『レガリア The Three Sacred Stars』)
レベルアーマー(『メタルスラッグ』シリーズ)
レム(ルナ・ヴィークラー・モビリティ・ユニット)(『ルナ・シューター』)
自律稼動するもの
Plan1211 アラストル(フルメタル・パニック)
HVC-09(『スターフォックス64』)
IG-88(『スター・ウォーズ』)
OKE(『カルネージハート)
TS(テラー・ストライカー)(『蒼き流星SPTレイズナー』)
Clockwork man(『ライズオブレジェンズ』)
アガートラム、クラウ=ソラス(『英雄伝説 閃の軌跡』)
インペライザー(『ウルトラマンメビウス』)
ウルトラマンシャドー(『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』)
エアバスター(ファイナルファンタジーVII』)
オートルーパー(『トランスフォーマー キスぷれ』)
ガードスコーピオン(『ファイナルファンタジーVII』)
ガードマシン(『クロノ・トリガー』)
機族(『成恵の世界』)
キャリーアーマー(『ファイナルファンタジーVII』)
キングジョー(『ウルトラセブン』、『ウルトラセブン1999最終章6部作』。※ウルトラマンマックスのものは搭乗型)
駆除系(『BLAME!』)
クレージーゴン(『ウルトラセブン』)
グローカー(『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』)
ケルビム(『EDEN 〜It's an Endless World!〜』)
強力(『快傑蒸気探偵団』)
ゴーグ(『巨神ゴーグ』)
ゴート(『地球の静止する日』『地球が静止する日』)
ゴッドゼノン(『電光超人グリッドマン』)
ジャイアントロボ(同名作品)
スーパー・バトル・ドロイド(『スター・ウォーズ』)
大鉄人17(同名作品)
超力超神(『デビルサマナー 葉ライドウ 対 超力兵団』)
マシンキャリバー「チェインバー」(『翠星のガルガンティア』)
デストロイヤー・ドロイド(『スター・ウォーズ』)
鉄巨人(『ファイナルファンタジータクティクス』)
ネオランガ(『南海奇皇』)
飛影(『忍者戦士飛影』)
デストロン(『トランスフォーマー』シリーズ)※正確には、ロボット兵器を祖とする種族
にせウルトラセブン(『ウルトラセブン』#46「ダン対セブンの決闘」)
バグシーン、バイザーバグ (『Get Ride! アムドライバー』)
パポ(『Project PAPO』)
バムバム(『スターフォックス64』)
人型兵器(『岸和田博士の科学的愛情』)
紅蜘蛛(『SAMURAI 7』)
ペガス(『宇宙の騎士テッカマン』、『宇宙の騎士テッカマンブレード』)
ポセイドン(『バビル2世』)
マグナガード(『スター・ウォーズ』)
マーズウォーカー(『メタルスラッグ』シリーズ)
ムーバー(『プロジェクト・リムーバー』)
メカアレン(『メタルスラッグ』シリーズ)
メカモーデン(『メタルスラッグ』シリーズ)
モビルドール(『新機動戦記ガンダムW』)
勇者ロボ(『勇者王ガオガイガー』)
雷電(『SAMURAI7』)
ライナーボーイ(『救急戦隊ゴーゴーファイブ』)
龍神丸(『魔神英雄伝ワタル』シリーズ)
レプリカ・オートマトン(『トランスフォーマー バイナルテック』)
ロボ・ニンジャ(『ニンジャスレイヤー』)※人間サイズのものも存在
人間サイズもしくはそれ以下
ABCロボット(『ジャッジ・ドレッド』)
Alice First(『モエかん』)
ED-209(『ロボコップ』)
アイギス(『ペルソナ3』)
アテナ(『武装神姫 MOON ANGEL』)
アナライザー(『宇宙戦艦ヤマト』シリーズ)
生き人形(『天獄 -HEAVEN'S PRISON-』)
KOS-MOS(『ゼノサーガシリーズ』)
RD-01(『2SPICY』)
ウォーロック(『ストライクウィッチーズ』)
LBX(『ダンボール戦機』)※厳密にはホビーに分類されるが、兵器と大差ない性能をもつ。一部のLBX[3]は既存兵器を凌駕する性能をもつ。
エンジェロイド(『そらのおとしもの』)
エンゼル御前(『武装錬金』)
自動人形(オートマータ) (『からくりサーカス』)
オートマトン(『機動戦士ガンダム00』)
オートモ(『ロボコップ3』)
折神獣(『侍戦隊シンケンジャー』)
ガミロイド(『宇宙戦艦ヤマト2199』)
香恋(『轟拳ヤマト』)
機巧童子(『機巧童子ULTIMO』)
義体(『攻殻機動隊』、『GUNSLINGER GIRL』)
キルル(『ケロロ軍曹』)※このキルルは、生物兵器にも当てはまる。
クランク(『ラチェット&クランク』)
K(『ロボット刑事』)
ゴーラ・モスカ(『家庭教師ヒットマンREBORN!』)※パワードスーツ系と自立稼働兵器の両方に当てはまる。
コピーロボット(『ドラえもん』、『ケロロ軍曹』他)
シャドウ・アンドロイド(『シャドウ・ザ・ヘッジホッグ』)※本物のシャドウを模しているが戦闘用ロボット。
少女型自走地雷(『攻殻機動隊 ARISE』)
戦闘機人(『魔法少女リリカルなのはStrikerS』) ※人体を模しているが生体兵器ではない。サイボーグに近い。
T-シリーズ(『ターミネーター』)
超光騎士(『超光戦士シャンゼリオン』)
超人機(『超人機メタルダー』)
電人ザボーガー(TV『電人ザボーガー』、映画『電人ザボーガー』)
トリガーハート(ゲーム『トリガーハート エグゼリカ』)
バスターマシン7号(『トップをねらえ2!』)
ナノナノ(ナノマシン知性体)(『ギャラクシーエンジェル』)
ノア(人型人工脳)(『ギャラクシーエンジェル』)
ナノマシンペット(ナノマシン集合体)(『ギャラクシーエンジェル』)
偵察用プローブ『ギャラクシーエンジェル』)
ばんぺいくん(『ああっ女神さまっ』)
ビショップ(『エイリアン2』、『エイリアン3』)
武装神姫(『武装神姫』)※略称・神姫。厳密にはホビーに分類される。
ブラッディ・ミサ(『AT Lady!』)
ブルース(『ロックマンシリーズ』)
マシン番長(『金剛番長』)
マトロイド(『天装戦隊ゴセイジャー』)
まほろ(V1046-R)ほか機械化兵士(サイボーグ)各種(『まほろまてぃっく』)
メカヒスイ(『MELTY BLOOD』)
メタルソニック(『ソニックシリーズ』)
ユーミア(『ヤンデレ惨 〜ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れないCD3〜』)
ユウキ(『THE メイド服と機関銃』)
レプリロイド(『ロックマンXシリーズ』『ロックマンゼロシリーズ』)
ロックマン(『ロックマンシリーズ』)
ロボコップ(マーフィー)(同名作品)
ロボコップ2(ケイン)(同名作品)
ロボット三等兵(同名作品)
ロボット兵(『天空の城ラピュタ』)
ロボットに類似した人型兵器
人造人間など人間に似た生体兵器、神秘的な力で駆動する人型兵器のうち、ロボットに似たものなど。
iDOL(『アイドルマスター XENOGLOSSIA』)※厳密には隕石撤去用重機。自らの意思をもつため、自立稼働兵器にも分類される。
アヴ・カムゥ(『うたわれるもの』)
アンチボディ(『ブレンパワード』)
バスターバロン(『武装錬金』)
エヴァンゲリオン(『新世紀エヴァンゲリオン』)※ただし、新劇場版のEVAシリーズにおいては、一部人型でない機体も存在する。
ゴーレム(ユダヤ教の伝承、他ファンタジー諸作品)
タロース(ギリシア神話)
バブイルの巨人(『ファイナルファンタジーIV』)
動物型機械兵器
人間以外の生物を模した形状を持つ兵器。
アカエイ、S国製恐竜ロボット、ギド、ギャロン(『鉄人28号』)
ヴァリアブル・ビースト・マシン(『獣装機攻ダンクーガノヴァ』)
エレファントスラッグ(『メタルスラッグ』シリーズ)
オーストリッチスラッグ(『メタルスラッグ』シリーズ)
折神(『侍戦隊シンケンジャー』)
カンドロイド(『仮面ライダーオーズ/OOO』)
合神獣王ダイセイザー(『超星神グランセイザー』)
機械獣(『マジンガーZ』)
気伝獣(『五星戦隊ダイレンジャー』)
キャメルスラッグ(『メタルスラッグ』シリーズ)
ギャレオン(『勇者王ガオガイガー』)
ガ・オーン、ホークセイバー、セブンチェンジャー(『伝説の勇者ダ・ガーン』)
ボンバーズ(『勇者特急マイトガイン』)
忍者刑事シャドウ丸(『勇者警察ジェイデッカー』)
黄金竜ゴルゴン、空影、黄金獣カイザー(『黄金勇者ゴルドラン』)
シャドーガード(『勇者指令ダグオン』)
凰王、獣王、バクリュウドラゴン(『絶対無敵ライジンオー』)
ゴウタイガー、マッハイーグル、キングエレファン(『元気爆発ガンバルガー』)
マッハプテラ、ランドステゴ、サンダーブラキオ、マグナティラノ、グラントプス(『熱血最強ゴウザウラー』)
テイオー、クウオー、リクオー、リュウオー、ダイケンオー(『完全勝利ダイテイオー』)
機竜(『終わりのクロニクル』)
銀星獣(『星獣戦隊ギンガマン』)
グランタウラス、ダッシュレオン(『超力戦隊オーレンジャー』)
ゲキビースト、リンビースト(『獣拳戦隊ゲキレンジャー』)
幻星獣ライゼロス(『幻星神ジャスティライザー』)
ゴスペル(『ロックマン7 宿命の対決!~』『バトルネットワーク ロックマンエグゼ2』)
ゴライオン(合体解除形態)(『百獣王ゴライオン』)
シノビマシン(『忍風戦隊ハリケンジャー』)
シャーディック(守護者)(『ダーク・タワー』)※熊型の自律稼動ロボット
獣王(『魔弾戦記リュウケンドー』)
ジュウオウキューブ、ジュウオウキューブウエポン(『動物戦隊ジュウオウジャー』)
獣将(『忍者戦隊カクレンジャー』)
獣将ファイター(『忍者戦隊カクレンジャー』)
獣戦機(『超獣機神ダンクーガ』)
獣電竜(『獣電戦隊キョウリュウジャー』)
守護獣(『恐竜戦隊ジュウレンジャー』)
ジョロ(『機動戦艦ナデシコ』)
スーパーモトロイド(ドラゴン)(『龍騎兵団ダンザルブ』)
グランタウラス、ダッシュレオン(『超力戦隊オーレンジャー』)
スプリンガー(『超人機メタルダー』)
スラッシュ(『まほろまてぃっく』)
星神獣(『幻星神ジャスティライザー』)
ゼクター(『仮面ライダーカブト』)
ゾイド(同名シリーズ)
大空魔竜(『大空魔竜ガイキング』)
大天馬(『ヤットデタマン』)
ダイナドラゴン(『電光超人グリッドマン』)
多脚戦車(『攻殻機動隊』シリーズ)
超星神(ライブモード)(『超星神グランセイザー』)
超忍獣(『忍者戦隊カクレンジャー』)
ディスクアニマル(『仮面ライダー響鬼』)
鉄獣(『科学忍者隊ガッチャマン』)
鉄人10号X-レイ、鉄人17号フェニックス(『超電動ロボ 鉄人28号FX』)
鉄の大海獣(『ゲゲゲの鬼太郎』)
電子星獣ドル(『宇宙刑事ギャバン』)
ドラゴマル、ワンマル、パオンマル(『手裏剣戦隊ニンニンジャー』)
ナース(『ウルトラセブン』)
パーンサロイド(『鋼鉄ジーグ』)
バクゥ、ラゴゥ(『機動戦士ガンダムSEED』シリーズ)※四脚歩行のモビルスーツ。
バッタ(『機動戦艦ナデシコ』)
爆竜(『爆竜戦隊アバレンジャー』)
バディロイド(『特命戦隊ゴーバスターズ』)
パワーアニマル(『百獣戦隊ガオレンジャー』)
B'T(『B'T-X』)
ビート(『ロックマン5 ブルースの罠!?』)
ブイレックス(『未来戦隊タイムレンジャー』)
フレンダー(『新造人間キャシャーン』)
ベラリオス(『未来ロボダルタニアス』)
マーフィーK9(『特捜戦隊デカレンジャー』)
魔戒馬(『GARO-牙狼-』)
マケット怪獣(『ウルトラマンメビウス』)
メカゴジラ(『ゴジラ』シリーズ)
メカゴモラ(『ウルトラ銀河伝説外伝 ウルトラマンゼロVSダークロプスゼロ』)
メカニコング(『キングコングの逆襲』)
モゲラ(『地球防衛軍』)
MOGERA(『ゴジラvsスペースゴジラ』)
ラッシュ(『ロックマンシリーズ』第3作以降)
ラプター(『レイジングストーム』)
ランドライオン(『超獣戦隊ライブマン』)
竜機神(『スクラップド・プリンセス』)
ロプロス(『バビル2世』)
ロボットホース(『宇宙戦艦ヤマト』)
ロボネズ(『帰ってきたウルトラマン』)
機動兵器
上記の分類以外のもの。
8型BIS(劇中では「機動兵器8型BIS」)(『ファイナルファンタジーVIII』)
98式多足戦闘指揮レイバー(ラーダー)他、多脚型レイバー(『機動警察パトレイバー』)
AKUMA(『D.Gray-man』)
汎用戦術戦闘宇宙機 秋嵩(『蒼穹紅蓮隊』)
アルゴス(『VANQUISH』)
アントリオン(『エースコンバット3』)
オムニドロイド9000(『Mr.インクレディブル』)
BGH251F2(通称アイアンクラッド)(『ファイナルファンタジーVIII』)
SPHA-T(『スター・ウォーズ』)
V.A.(ヴァリアントアーマー)(『パワード ギア』、『サイバーボッツ』)
X-ATM092(通称ブラックウィドウ)(『ファイナルファンタジーVIII』)
アーマード・コア (『アーマード・コアシリーズ』)
アーマードモジュール(『スーパーロボット大戦シリーズ』)
自律型多脚戦闘車両 岩蟹(『蒼き鋼のアルペジオ』)
ヴァイタル・ガーダー(『無限のリヴァイアス』)
ウェポン(『ファイナルファンタジーVII』)
試作型重機動戦闘要塞 エヴァッカニア(『ケツイ〜絆地獄たち〜』)
大型機動兵器(『フロントミッション』シリーズ)
鬼輪番(『宇宙一の無責任男』)
オブジェクト(『ヘヴィーオブジェクト』)
ガウォーク(『超時空要塞マクロス』シリーズ、『超時空世紀オーガス』)
カングライド(『特装機兵ドルバック』)
ガンヘッド、エアロボット(『ガンヘッド』)
ガンナーシリーズ(『太陽の牙ダグラム』)
CASPARANTIS(『メタルウルフカオス』)
グラップラーシップ(『星方武侠アウトロースター』)
シャトル牽引用大型運搬機 ゲイツ(『R-TYPE ⊿』)
ゴング(サイドワインダー)(『サンダーバード』)
ゴング(『武器よさらば』)
ザルク(『アルジェントソーマ』)
試製四式戦術特機 アリ(『目覚めよと呼ぶ声あり』)
重機動メカ(『伝説巨神イデオン』)
シャゴホッド(『メタルギアソリッド3』)
自律機動車両 イヅナ(『自律機動戦車イヅナ』)
シルエットマシン(『オーバーマン キングゲイナー』)
数式戦車(『疾走れ、撃て!』)
ゼロアームズ(『デジモンテイマーズ』、『デジモンフロンティア』、『デジモンクロスウォーズ〜時を駆ける少年ハンターたち〜』)
全地形用歩行兵器(『スター・ウォーズ』)
ゼントラーディ軍戦闘ポッド(『超時空要塞マクロス』)
装脚車両(『甲鉄傳紀』シリーズ、『アームズラリー』)
双脚砲台 (『E.G.コンバット』)
装甲列車(『銀河鉄道999』、『銀河鉄道物語』)
多脚戦車(『ガンナイトガール』)
多脚戦闘車両(『状況開始っ!』)
多脚砲(『RING of RED』)
多脚砲台(『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』)
直立戦車(『魔法科高校の劣等生』)
鉄騎(『重鉄騎』)
トライデント級陸上軽巡洋艦(『新世紀エヴァンゲリオン 鋼鉄のガールフレンド』)
トライポッド(『宇宙戦争』など)
広域焦土化脚立戦車 ドラゴン・ノスケ(『メタルスラッグ』シリーズ)
ドリファンド(『超時空世紀オーガス』)
トロットモービル(『金沢独立戦線』)
大型戦術格闘攻撃機 呑竜(『蒼穹紅蓮隊』)
ナイトギガフォートレス(『コードギアス 反逆のルルーシュ』)
ハウンド(『クロムハウンズ』)
バスター軍団(『トップをねらえ2!』)
パワーローダー(『パワードール』)
パルヴァライザー各型(タンク、二脚、四脚、フロート、飛行型、飛行型最終形態)(『アーマード・コアLR』)
ベクタークラフト(『エルフェンリート』)
歩行戦車(ターレット)(『第二次宇宙戦争 マルス1938』)
歩仁六式(『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』)
マッスル・トレーサー(Muscle Tracer, MT)(『アーマード・コアシリーズ』)
魔導アーマー(『ファイナルファンタジーVI』)
メカニロイド(『ロックマンXシリーズ』『ロックマンゼロシリーズ』)
メタルギア(『核搭載二足歩行戦車』であるタイプが多い。)(『メタルギア』シリーズ)
メック(M.E.C.)(『アフレイドギアシリーズ』) ※読みは同じだが『バトルテック』のメックとはまた別
人間狩猟機(メンシェンイェーガー)(『人類補完機構』シリーズ)
モビルアーマー(ガンダムシリーズ)
投下型局地殲滅ユニット モリッツG(『R-TYPE ⊿』)
リーバード(『ロックマンDASHシリーズ』)
ロングレッグ(『レイジングストーム』)
ワイリーマシンシリーズ(『ロックマンシリーズ』)
脚注・出典
関連項目
架空の武器
カスタムロボのロボ、パーツ一覧
ガンダムシリーズの登場機動兵器一覧
機動警察パトレイバーの登場メカ
ゼノギアスのギア及び機械兵器の一覧
ゾイド一覧
装甲騎兵ボトムズの登場AT一覧
鉄人28号の登場ロボット
バーチャロイドの一覧
メダロット一覧
軍事用ロボット
武装神姫の一覧
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『新幹線変形ロボ シンカリオン』(しんかんせんへんけいロボ シンカリオン)は、ジェイアール東日本企画・小学館集英社プロダクション・タカラトミーの3社によって立ち上げられたプロジェクトにより開発され、2015年3月16日から展開[1] されている「新幹線」から変形する巨大ロボットならびにタカラトミーより発売されるプラレールの玩具シリーズ。2018年1月6日よりテレビアニメ『新幹線変形ロボ シンカリオン THE ANIMATION』が放送されている。
なお、英語表記は『SHINKALION』[2]。単に「シンカリオン」とも[3]。
概要
子供たちに鉄道ロボットという夢のある新しいコンテンツを提供すべく、“正体不明の巨大な敵に立ち向かうため、日本の夢と技術が詰まった新幹線をベースに開発されたロボ”という設定で、JR東日本監修[注 1] のもと、実在する新幹線がロボットに変形するキャラクターとして誕生した[1]。タカラトミーの変形ロボットで鉄道車両をモチーフとしたものは、前身のトミーが手がけていた『超特急ヒカリアン』・『電光超特急ヒカリアン』以来となる[注 2]。
本作の特徴として、企画時からJR東日本グループのジェイアール東日本企画が関与している。そのため前述のJR東日本のほか、新幹線を運行するJR各社(JR東海[注 3]・JR西日本・JR北海道・JR九州)や関連企業が協力しており、テレビアニメ版では新幹線車両のほか、実在する鉄道関係施設も登場する。
本作の企画はジェイアール東日本企画と小学館集英社プロダクションによる『Project E5』が前身であり、2014年の東京おもちゃショーでの展示が初出である。その後タカラトミーが参画したことでプラレールをベースとした商品化が前提となり、当初からのデザインもタカラトミーと小学館ミュージック&デジタル エンタテイメントの両社によって何度も検証を重ねたことで大幅に変更させている[4]。
商品展開はプラレールを基本としていることから、車両製品はプラレールの編成車両と同じ3両で構成されており、プラレールでの走行も可能となっている[注 4]。また、前述のプラレール規格に合わせるため、車両の造形もプラレールと可能な限り同じもの[注 5] に近づけている。
2018年1月からは、TBS系でテレビアニメ版を放送開始した[5]。
ストーリー
玩具版とアニメ版では、一部の内容(敵の名称やハヤトがシンカリオンに乗るきっかけなど)が変更されている。
玩具版
新さいたま市に住んでいる速杉ハヤトは鉄道博物館に勤める父・ホクトの影響で、新幹線や電車が大好きな少年である。ある朝ハヤトは、ホクトが置き忘れた『Shinca』というカードで鉄道博物館の地下に存在する特務機関「新幹線超進化研究所」へ迷い込んでしまう。
最深部の格納庫で新幹線E5系を発見したハヤト。すると、なぜか乗車扉が開いたので乗り込んでみたその時、突然、警報とアナウンスが響き渡った。新幹線E5系はハヤトの持つ『Shinca』に反応し、ハヤトを乗せたまま、自動操縦により目的地に向かって発車してしまう。
異次元からやってくる巨大な物体『バチガミ』が街へ近づき暴れているのが見えたとき、ハヤトがホクトの指示で運転席に『Shinca』をタッチすると、車両は『新幹線超進化研究所』が秘密裏に開発した人型ロボット『シンカリオン E5はやぶさ』へと変形する。日本の安心と安全を守るため、ハヤトはE5はやぶさと共にバチガミへ立ち向かう。
アニメ版
さいたま市大宮区に住んでいる速杉ハヤトは、冬休みの宿題を約束どおり終わらせたご褒美に、父・ホクトに連れられて東北新幹線「E5系はやぶさ」に乗せてもらう約束をしていた。普段は忙しいホクトと一緒に新幹線に乗れるということもあって、ハヤトは旅行をとても楽しみにしていた。ところが、ホクトがはやぶさの指定席券を取り忘れたために、「E2系やまびこ」で東京駅から新幹線の旅を楽しむことになった。だが、突然ホクトに仕事の電話がかかってきて、事態は一変した。ホクトは急に「鉄道博物館に向かうために大宮駅で下車する」とハヤトに告げ、旅は打ち切りとなってしまった。
ハヤトは座席に置き忘れたホクトのタブレットを持ち帰ろうとしたが、そのタブレットのカバーに『Shinca』が入ったままになっていることに気づく。ハヤトは、『Shinca』とタブレットをホクトに届けるために鉄道博物館に向かい、謎のドアの向こう側に迷い込んでしまう。そのドアは、鉄道博物館の地下に存在する特務機関『新幹線超進化研究所 東日本指令室大宮支部』への入口だった。
そこでは、ホクトが指令長の出水シンペイと共に格納庫で暴走する巨大怪物体を処理しようとするが、超進化研究所が秘密裏に開発した人型変形ロボット『シンカリオン』のうち、E5はやぶさ以外のシンカリオンはこの巨大怪物体を捕獲した際の損傷で起動不能となっていた。超進化研究所の格納庫がこのままではあと10分で破壊される事態となった。
ハヤトは、その様子を見ていると、車掌型ロボットであるシャショットに見つかり、不審者と間違えられる。ハヤトは、慌ててシャショットを抑え込んだが、シャショットは何かの計測を開始していた。すると、ホクトをはじめとする超進化研究所の職員に見つかり、何かの計測を終えたシャショットによってハヤトがシンカリオンの適合者だと分かる。シャショットは、ハヤトの適合率が「96.5%」と告げた。実は、ハヤトがホクトの目を盗んでプレーしていたタブレットに入れられたゲームが、『シンカリオン・シム』と呼ばれるシンカリオンの運転適性を判断するシミュレータであり、ホクトがスコアを見ると、とてつもない得点を記録していた。
着任したばかりの新人指令員の三原フタバは、ハヤトをシンカリオンに乗せることに強く反対したが、ハヤトは「お父さんの役に立てるなら」と、これまで誰1人動かせなかった『シンカリオン E5はやぶさ』に乗る。ハヤトがホクトのオペレーションで運転席にある『シンカギア』に『Shinca』をタッチすると車両は動き出し、シャショットのサポートを受けながらE5はやぶさへと変形する。日本の平和と安全を守るため、ハヤトはE5はやぶさと共に巨大怪物体へ立ち向かう。
登場人物
ほとんどのキャラクターの名前が鉄道の駅名や列車名、日本各地の地名などに由来する。また、エージェントの名前は「四神」(白虎、玄武、青龍、朱雀)に由来する。
パイロット / 運転士
玩具版では<b data-parsoid='{"dsr":[4864,4875,3,3]}'>パイロット、アニメ版では<b data-parsoid='{"dsr":[4882,4891,3,3]}'>運転士</b>と表記されている。
新幹線超進化研究所・東日本指令室大宮支部
単に「大宮支部」と呼ばれることも多い。玩具版では「東日本本部」と表記されている。
速杉 ハヤト(はやすぎ ハヤト)
声 - 佐倉綾音
本作の主人公。埼玉県さいたま市大宮区在住で、大宮小学校(さいたま市立大宮小学校がモデル)に通う小学5年生の少年[6]。2007年10月17日生まれ[7][8] の11歳[6]。血液型はA型、身長は145cm、体重は36.5kg[7]、得意な教科は理科(特に科学)と社会で、苦手な教科は国語と算数[9]。一人称は「俺」。
何よりも純粋に鉄道が好き(特に乗り鉄・音鉄)。夏休みの自由研究のテーマ[注 6] は、ホクトとシンペイが大学時代に歴史サークルに所属していた話を聞いたからか、「お父さんの歴史」とタイトルをつけており、ハヤト本人も「そういえばお父さんのことよく知らない」と言っている[注 7]。その反面、高所恐怖症であるため飛行機には乗ったことがない[10][注 8]。しかしレイとのパラグライダーでの特訓と、アキタとツラヌキによるアドバイス[注 9] により高所恐怖症を克服している[11]。「新幹線(シンカリオン)を好きな奴に悪い奴はいない」を信条[注 10] にするほど新幹線をこよなく愛しており、物事を始め数値や可能性などを何かと新幹線や鉄道に例える癖[注 11] があり、特にフタバやアズサをしばしば呆れさせている。大の駅弁好きという一面もある。父・ホクトのような新幹線の運転士になることが夢。とあるきっかけで<b data-parsoid='{"dsr":[6734,6753,3,3]}'>シンカリオン・E5はやぶさ</b>のパイロットになる。
アニメ版では、父・ホクトのタブレットに入っていたゲームアプリに偽装したシミュレータ「シンカリオン・シム」で高いスコアを叩き出していた[注 12] ことと、シャショットによる適合率の判定が96.5%と非常に高かったこともあり、「お父さんの力になりたい」と自ら志願したことでE5はやぶさの運転士として起用される。ホクトとのクロス合体では、適合率が99.8%と驚異の数値を出している。責任感が強く、「俺は時間と言ったことは守る男、だからね」が口癖。また、風呂場での入浴中に歌(主に鉄道唱歌)を歌う癖がある[12]。注射が大の苦手[13]。日記を小まめに綴っている[9]。下着はトランクスをはいている[14]。
各地の新幹線に乗るのが大好きで、特に初めて乗る路線・車両の場合は「うおおぉーっ、○○新幹線・○○系デビューだぁ!」などと叫ぶ癖がある[注 13]。初めて京都鉄道博物館や新大阪駅を訪れた時もテンションが高く、アキタとツラヌキをも呆れさせる程だった[15]。超グランクロスのバージョンアップのため京都支部へ向かう際には、アズサに感づかれ京都へ同行させる羽目になり、京都鉄道博物館の案内では主導権を握るも最終的にはアズサにキレられる。その後サクラの指示で行った二条城では鎧を着て刀を振り上げたまま転倒しかけたアズサを、真剣白刃取りで受け止めた[16]。
第36話では、自ら単身桜島に赴きエージェントたちと対話しようとしたが、ビャッコにより対話による和解を拒絶され、その際に破壊された捕縛フィールドの爆発に巻き込まれてE5はやぶさごと生き埋めとなる。しかし、一致団結したアキタたちによる連携により救出されている。
第38話では、シミュレーション用の「シンカリオン・シム」でのシンカリオンの操縦に関してはアキタたちよりも勝っていたが、大宮支部の運動会で自分の本来の運動能力の低さを改めて実感し、ドクターイエローで戦うリュウジに何かを見出したことで、リュウジに空手の弟子入りを志願する。名古屋支部での特訓の最中、空手が「言葉のない対話」だということをリュウジから学び、自分の思いをビャッコに伝えるべく、リュウジとともに再び桜島の敵アジトに向かいビャッコと対峙。鍛え上げられた実力で単身ビャッコに勝利し和解の道を選ぼうとするが、トラメの乱入により失敗する。
第41話で11歳の誕生日を迎え、アキタたちからはハヤトが愛読している「コンパス時刻表」(交通新聞社刊)[注 14]の生まれ年(2007年)の10月号をプレゼントされ、出水たちからは第1話で乗車することが叶わなかったE5系(10月20日の仙台行き「はやぶさ13号」)のグランクラス(10号車5番A席)のチケットがプレゼントされた。しかし、1人で行くのではなく、アキタたちや大宮支部の2人(出水とフタバ)も同行する新幹線総合車両センターを見学する日帰り旅行であり、帰路は通常のグリーン車であった。
第42話で自分たちを追いかけてきたゲンブと利府で三度目の対峙。成長した力を見せつけて勝利し、その後保護されたゲンブと親睦を深めていく。しかし、ソウギョクの策略により操られたゲンブに自分を倒してくれと懇願され、最後はビャッコの時と同様セイリュウのことを頼まれ、悲しい死別をしてしまう。ゲンブとの親睦を深めるため「ゲンブお友達計画」を提案、食べ物を議題するも、アズサに駅弁ばかりだとキレられ、結局ケーキとなった[17]。その後、第45話で今度はシノブが運転士を辞めると告げた際、自分は何も言えなかったことを後悔するが、アズサに励まされ好きな新幹線でシノブへ自分の気持ちを伝えることに成功する。しかしその直後人間界に紛れ再び現れたセイリュウにゲンブの死の真相を聞かれ答えようとするも、トラメとソウギョクの策略によって真相を伝える機会を逃してしまう。
ゲンブの死の真相をセイリュウに伝えられないまま、第47話でリュウジと共にブラックシンカリオンと三度目の対戦を迎え、敵討ちに燃えるセイリュウに全力でぶつかっていくしかなかった。しかし、クロス合体を実現させたE5×ドクターイエローでの戦闘中精神世界でセイリュウ本人と対峙し、セイリュウにゲンブは自分たちの仲間だと言い、ゲンブも自分同様新幹線やシンカリオンが好きだったと伝え、セイリュウも好きなものを聞きお互いを理解し合えば闘わずに済むかもしれないと諭すが、ハヤトはゲンブの仇だとセイリュウに和解を拒否される。その後ビャッコとゲンブに託されたセイリュウへの思いを理解したハヤトはE5×ドクターイエローのウルトラグランクロスでブラックシンカリオンに勝利し、戦いの後セイリュウの気持ちを受け止めることに成功し、和解への道へ少しずつ歩み始めた。
その後セイリュウにヒトの進化を伝える一方で、シャショットの扱いを悪くしてしまい、自分を見詰め直すことになる。それと同時にシャショットのことを調べているうちにシンカリオンとシャショットの謎の正体を知り、キトラルザスの橋渡しとなっているドクター・イザともう一度交渉してみることを出水に願い申し出る。
愛用品も新幹線、特にE5系のイメージのものが多く、スマホケースやパジャマは緑色にピンクのライン、リュックも緑・白・ピンクのE5系カラー。部屋のベットとワードローブには0系のイラストが描かれている。
玩具版では、住んでいる場所は架空の「新さいたま市」になっている。
アニメ版でのキャラクターデザインに関して、担当するあおのゆかは監督の池添隆博から「ハヤトは『キャプテン翼』の大空翼ように素直でまっすぐ、新幹線を追いかける鉄オタです」との指示があって、あおのは「ハヤトは爽やかなのかどうか混乱したが、実際は新幹線好きのよい子に落ち着いた[18]」と語っている。
男鹿 アキタ(おが アキタ)
声 - 沼倉愛美
秋田県北秋田市阿仁地区出身の小学5年生の少年[6]。7月8日生まれ[7] の11歳[6]。血液型はA型、身長は145cm、体重は36kg、得意な教科は国語と算数[7]。一人称は「俺」(後述のシノブとの会話では方言で「オラ」)。
先祖代々マタギの家系[注 15] で、全国レベルの腕を持つ競技ビームライフルの選手。競技ビームライフルの世界選手権で世界一となるのが夢の銃マニア。とあるきっかけで<b data-parsoid='{"dsr":[10335,10353,3,3]}'>シンカリオン・E6こまち</b>のパイロットになる。適合率は85.6%。冷静沈着な性格で物事の理解が早く、「話は読めた」が口癖[注 16]。ただ、自分の気持ちを素直に言葉にすることはあまりない。甘い食べ物が好き[注 17]。第29話では読唇術を使えることが明らかになった。
シンカリオン・シムで高得点を出していたが、アーケード版だったため超進化研究所の目に留まってはいても個人は特定されていなかった。その人物を探すためハヤトが秋田市まで向かった際に偶然出会い、さらに競技ビームライフル大会に参加するため乗車した東京行きのこまち車内で、ハヤトと隣席となる。その後、仙台駅で自分のスマホを持って行ってしまったハヤトを追いかけ、ハヤトの操縦するE5はやぶさに乗り込んでしまい、シンカリオンの存在を知る。その際に戦闘中のハヤトを的確にサポートしたことと、適合率の高さからシンカリオンの運転士になることを要請され、競技ビームライフルに専念したいという理由から一時は断るも、大会を2位で終えて秋田へ帰ろうとしていた際に言われたハヤトの「誰かが街を護るから、誰かの夢が繋がる」という言葉に感化され、E6こまちの運転士となる。これを機に、ハヤトが通う小学校に転校し、ハヤトとクラスメイトになる。教室での席はハヤトのすぐ前。また、大宮支部の寮で暮らすことになり、ツラヌキが来てからは彼と相部屋での共同生活をすることになった。
第36話でE5はやぶさが生き埋めになった際には、率先してリーダーシップを取りツラヌキたちに指示をだしてハヤトを救出している。
第45話でシノブが運転士を辞めると言い出した際、当初は彼の意思を尊重して何も言わずにいたが、彼の本心が「まだ、シンカリオンの運転士を辞めたくない」とわかると、シノブに一緒に彼の両親を説得しに行くことを申し出る。
玩具版での名前は、「優 あきた(すぐ あきた)」。
あおのは、池添から「『初期メンバーの中ではイケメンだけど、清洲リュウジが登場するまで凄いクールではありません』と説明があった[18]」と語っている。
大門山 ツラヌキ(だいもんやま ツラヌキ)
声 - 村川梨衣
石川県金沢市出身の小学5年生の少年[6]。11月27日生まれ[7] の11歳[6]。血液型はO型、身長は148cm、体重は38.5kg、得意な教科は体育と社会(特に歴史)と理科(特に地学)、好きな食べ物は寿司[7]。一人称は「俺」。
とある建設会社(アニメ版では、「大門山建設」)の長男でなおかつデジタルおたくだが、ふとしたきっかけで<b data-parsoid='{"dsr":[11743,11762,3,3]}'>シンカリオン・E7かがやき</b>のパイロットになる。適合率は84.5%。「金沢の土木王」を自称し、実家である大門山建設を日本屈指のゼネコンとするのが夢。トンネルや掘割のような建築物が好きな土木・地形マニア[注 18]。義理堅い性格の熱血漢で、「全くもって○○だ!」が口癖。また、戦闘中の気合い入れなど何かにつけて「俺の好きな四文字熟語は、『○○○○』だぁ!」 と四字熟語を用いる癖がある[注 19] 。ただ、言葉遣いが豪快かつ荒々しく、目上に対してはぞんざいな態度をとるため、シンペイを「出水の旦那」、フタバを「姐ちゃん」[19]または「フタバの姐ちゃん」、アカギを「兄(あん)ちゃん」[20] または「本庄の兄(にぃ)ちゃん」と呼ぶ。
家族構成は、大門山建設の社長を務める母・ミスズ、妹・カガリ、弟・ケンロクの4人家族。先代の社長であった父親が先立ったため、その妻であるミスズが社長を引き継いだ。ミスズが手厳しい性格のため、ミスズには頭が上がらない。また、大門山建設の従業員たちからは、「若」と呼ばれ慕われている[21]。アイドルユニット「スーパー・スパイス」の結成当初からの大ファンで、特にイナホを推している[22]。
シンカリオン・シムで高得点を出し、シンペイが直接スカウトに出向いている。その後、超進化研究所・東日本指令室石川支部で一通りのレクチャーを受けてから超進化研究所へ向い、説得交渉のために東京観光の案内役を引き受けたハヤトらと大宮駅で出会う。当初は運転士になることを頑なに拒んでいたが、出撃したハヤトたちの苦戦する姿を見て一時的にE7かがやきの運転士となる。その後も母親を助けて家業である建設会社の仕事に専念するためにシンカリオン運転士の誘いを改めて断り続けていたが、本心はハヤトたちと一緒に戦いたいと思っており、事情を知ったミスズに叱咤されて尻を叩かれ「『安全第一』だけは守る」という約束を交わして送り出され、正式にE7かがやきの運転士となる。これを機に、ハヤトとアキタが通う小学校に転校し、ハヤトらとクラスメイトになる。教室での席はハヤトのすぐ後ろ。また、大宮支部の寮でアキタと相部屋で共同生活をすることになった[23][注 20]。
第43話では大宮支部に保護されたゲンブの心を開くために対話する役を、アズサから指名される。当初は渋々しながら応じていたが、ゲンブの要望に応じていくことで、「一緒にいることはもう家族や仲間同然だ」と伝え、交流を成功させている。
玩具版での名前は、「前田 つらぬき(まえだ つらぬき)」[24]。
池添からのオーダーは、「主人公に成れそうな感じ」と説明があり、あおのは「自分が視聴した1990年代の王道ロボットアニメでは、主人公とイケメンに続く3人目は"ガタイのいい奴"である為、最初に書いたデザインはがっしり体格だが、主人公ぽく無かったと思い、書き直したが決定稿になった[18]」と語っている。
新幹線超進化研究所・東日本指令室山形分室
月山 シノブ(つきやま シノブ)
声 - 吉村那奈美[6]
アニメ版で登場。山形県米沢市出身の小学4年生の少年。シンカリオン・E3つばさ</b>および<b data-parsoid='{"dsr":[13415,13441,3,3]}'>シンカリオン・E3つばさアイアンウイング</b>の運転士。リュウジに次いで2種のシンカリオンを運転した運転士となる。12月20日生まれ[7] の10歳[6]。血液型はAB型、身長は135cm、体重は31kg、得意な教科は図画工作、好きな食べ物は山菜おこわと川魚[7]。一人称は「オラ」。了解に相当する返事は、武士言葉でもあった「御意」。平均適合率は79%。
代々続く忍者の家系で、本人も手裏剣に重きを置いている月山流忍術の伝承者である祖父の下で忍者として修行中。
第10話でワイルドボアに対して劣勢になったアキタを助け、その後祖父の家でアキタに雉蕎麦を振舞った際にお互いの出身地を明かし、方言で語り合ったことでアキタと信頼関係を築いている。
担当する山形を離れて、東日本指令室に定期的に滞在しており、滞在時はハヤトたちと行動を共にしている[注 21]。
第45話で父親が海の家を始めるため家族で沖縄に引っ越すことになり、沖縄には新幹線が走っていないという理由から運転士を辞めるという事態に陥ってしまう。その際に「みんなで山形新幹線で終点の新庄駅まで乗って、観光せずに大宮へ帰る」というハヤトの行動がきっかけで、今やりたいことを聞かれた際に「みんなと一緒にシミュレーターをやりたい」と伝え、シミュレーターをやった後に自分の好きなことが「シンカリオンに乗って戦う」ことだということを再認識する。その後、運転士を辞めたくないという気持ちを両親に伝えるためにアキタと共に両親を説得しに行くことを決意する[注 22]。
池添からのオーダーは「忍者」と説明があり、設定を聞いたあおのは、「当初のデザインはギャグ路線であったが、"可愛い系"にしたいと思い、現在のデザインに決まった。ホクトとの繋がりを感じて髪型と表情の一部を寄せた[18]」と語っている。
新幹線超進化研究所・東海指令室名古屋支部
清洲 リュウジ(きよす リュウジ)
声 - 逢坂良太[6] / 内藤有海(小学生期)
アニメ版で登場。愛知県名古屋市在住の少年。2月8日生まれの14歳[6]。血液型はB型。シンカリオン・N700Aのぞみ、後に<b data-parsoid='{"dsr":[14648,14669,3,3]}'>シンカリオン・ドクターイエロー</b>の運転士。運転士の中では初の中学生で、2種のシンカリオンを運転した最初の運転士でもある。一人称は「俺」。適合率は最大97%とハヤトに次いで高い。「抜かるなよ!」が口癖。
3人兄弟の長男であり、弟・タツミと妹・ミユがいる[25]。亡き父・チクマの友人であるハヤトの父・ホクトに、「適合率を調べて欲しい」と父が手掛けていたシンカリオンの運転士を志願したために、ホクトが直接指導を行って運転士となっている。
ハヤトの事例もあり、適合率の高い人間は子供(主に小学生世代)に限られると思われていたが、リュウジの出現によって初めて思春期世代の適合率の高い運転士が登場することになった。小学生の頃は鉄道好きであったために、“鉄分”を保ったことで高い適合率を示した。
静岡県内でN700Aのぞみの試運転中だったが、「東京駅に巨大怪物体が現れた」との連絡を受けたため、急遽派遣された。
自分よりも年下のハヤトたちのこれまでの戦闘経験を認めながらもあまり信頼しておらず一緒に戦うことを拒否していたが、ハヤトが母・サクラの話をした後は自身の母・カエデと重なったためか自らハヤトらに協力して闘っている。その後も一緒に戦うことには難色を示していたが、これは小学生期にカエデから「年長者として年下の者を守らなければいけない」と教育されており、ハヤトたちのことを信頼しきれていなかったためであった。しかし、入院中のカエデと看護師の言葉やブラックシンカリオンとの戦闘中にハヤトから「お互いを信じてないと何もできない」と言われたことによってお互いを信じ合うことの大切さに気付かされ、ハヤトたちに的確なアドバイスをし彼らと共闘した。
地下試験場におけるブラックシンカリオン・バーサーカーモードとの戦いで左肩を負傷ししばらく戦列から離れており、その間は臨時にハヤトが名古屋支部に派遣されるなどしていたが無事回復して復帰し、第38話では新たに開発されたシンカリオン・ドクターイエローで久々に出陣して、巨大怪物体化したビャッコと互角の勝負をした。その後ハヤトに弟子入りを志願される。
第46話では京都支部や門司支部の運転士たちと共にシミュレーターで行った訓練の結果に加え、来たるべきブラックシンカリオンとの決戦時に彼らの力を最大限に発揮させるため自分に何ができるか不安を抱えていた。そんな中、ホクトからフタバにオペレーションの弟子入りをすればいいと提案される。その後、大宮支部でオペレーションした際も京都支部での合同訓練の際と同様ハヤトたちの結果を気にしていたが、フタバは「ハヤトたちの好きなことや得意なこと、その長所を生かす」ことを重視し結果はあまり重視していないということを聞かされる。その翌日、レイたちと自分の好きなことを語り合うことで打ち解けている。
幼い頃から格闘技(空手)をやっていたため、シンカリオンでの戦闘の際にもその技術を取り入れている。チクマを早く亡くし、カエデが長期入院しているために好きな空手を辞めて夢を諦めなければならなかった過去がある。
第53話でタツミが運転士候補になったことに激怒、口も利かない状況となってしまう。先述の通り中途半端に空手を辞めてしまった過去があるため、タツミを自分と同じ道に進ませたいないという思いが喧嘩につながってしまい、組手を行っても「大局が見えていない」と判断し、さらに状況が悪化する。しかしハヤトが今のタツミの状況が空手やシンカリオンより兄である自分の背中についていきたいという思いが大事だと気付き、総指令長のスバルの命令もありこれを承諾。球体を3つ同時に破壊しなければ倒せないマスタートリロバイトのコアを弟の初陣となったN700Aのぞみと実戦で成功している。
清洲 タツミ(きよす タツミ)
声 - 日野佑美
アニメ版で登場。愛知県名古屋市在住の少年。12歳。リュウジの弟で、第54話で兄がドクターイエローを運転するために運転士が不在となった<b data-parsoid='{"dsr":[16348,16369,3,3]}'>シンカリオン・N700Aのぞみ</b>の運転士となる。兄弟でシンカリオン運転士となるのは、五ツ橋兄弟に次いで2組目となった。適合率は86.5%とアキタより高い。
リュウジと違い割とやんちゃで調子に乗りやすい。そのためリュウジに叱られることがある。ただ、兄に引けを取らない空手の実力者で、地区大会で優勝する程の腕前である。
第39話で名古屋支部に出入りしており、ハヤトが名古屋支部でリュウジから空手の特訓を受ける際には、これに同伴している。
第53話では年明けに名古屋支部で運転士の適合シミュレーションを受けて合格し、N700Aのぞみの運転士候補になるも、家族を戦いに巻き込むことを反対する兄とケンカになってしまう。ハヤトの提案でリュウジと組手を行うも、結局答えが見えずにいたが、セイリュウが東海道新幹線の「のぞみ」と「こだま」の違いを述べた際、彼が兄の背中を追いかけていることをハヤトが気付いたことにより、スバルも納得。総指令長命令によりN700Aのぞみで初出撃。球体を3つ同時に破壊しなければ倒せないマスタートリロバイトのコアを兄のドクターイエローと息の合ったコンビネーションで撃退に成功している。
あおの曰く、勇翔(BOYS AND MEN)がキャラクターのモデルだと語っている。
新幹線超進化研究所・北海道指令室北海道支部
発音 ミク(はつね ミク)
声 - 藤田咲
アニメ版で登場。北海道札幌市出身の小学5年生の少女。11歳[26][27]。運動性は抜群だが、とあるきっかけで<b data-parsoid='{"dsr":[17207,17226,3,3]}'>シンカリオン・H5はやぶさ</b>の運転士になる。シンカリオンの運転士の中では唯一の女子で尚且つメガネっ娘である。一人称は「私」。
性格はストイックで、勉強も得意な委員長タイプで、普段はメガネを掛けている。また洞察力にも優れており、第18話での合同演習の際にリュウジがハヤトとのコンビを組んだ時、ハヤトの力が生かされてなかったことやリュウジが昔空手をしていたことを見抜いている。特技は剣道。かつて青函連絡船として運航され、現在は函館港内に記念館として係留展示されている摩周丸のことが大好き。ただし、新幹線はもとより鉄道には興味がなく、ハヤトに教えられるまでE5系とH5系の違いを知らなかった。
運転士としての資質はずば抜けているが[14]、乗り物酔いしやすいという弱点を持つ。ハヤト達に対しては辛辣な態度で接しており、体調管理を怠り風邪が悪化して倒れたハヤトを<b data-parsoid='{"dsr":[17642,17653,3,3]}'>運転士失格</b>と評する[14]。その後、乗り物酔いを理由にH5はやぶさの運転をハヤトに譲ろうとした際には、ハヤトに「それで任務を諦めるなんてそれこそ運転士失格」と言われ、さらにハヤトが体調不良を押してすぐに出動しようとしたことから彼に運転士失格と言ったことを詫びる[28]。2度目のロープスパイダーIIとの戦いでは再び乗り物酔いしそうになるが、ソウヤのアドバイスを思い出して乗り物酔いを克服し、ハヤトとともにロープスパイダーIIを倒す。以降、ハヤト達とは打ち解けている。
その名の通りVOCALOID「初音ミク(初音ミクのメディア展開を参照)」をモチーフとしたキャラクターで、声も同じく初音ミクの音声データ提供者である藤田が務め、藤田がアフレコした音声を「初音ミク」の発売元であるクリプトン・フューチャー・メディアが音声合成してミクの形に音声化するという試みが行われている[29][30]。また、運転する時に装着されるパイロットスーツは、「初音ミク」の基本コスチュームをモチーフにしている。さらに初登場である第15話では、函館駅前のモブキャラクターとして他のボーカロイド達(鏡音リン・レン、巡音ルカ、MEIKO、KAITO)も登場している[注 23]。なお藤田曰く、初音ミクと発音ミクは別人とのこと[27]。
「シンカリオン キャラクター人気投票」では1位になっている[31]。また、発音ミクのぬいぐるみ版もある[32]。
新幹線超進化研究所・九州指令室門司支部
大空 レイ(おおぞら レイ)
声 - 松井恵理子[33]
アニメ版で登場。福岡県北九州市出身の小学3年生の少年。9歳[34]。シンカリオン・800つばめ</b>の運転士。運転士の中では最年少であり、唯一の体育会系である。一人称は「僕」。平均適合率は83%。
父親がJAXAの種子島宇宙センターに勤務していることもあって、宇宙飛行士になるのが夢。だが、身長制限が158cm以上なので大人になるまでに背を伸ばすため、牛乳を飲んだり煮干しでカルシウムを摂ったりしているが今のところ成果は出ていない模様。両耳にカフスピアス、首から認識票状の首飾りを付けている。
ロボット工学の超天才児で、自身が設計した800つばめの開発に携わった。ハヤトが新幹線を熱弁するようにレイはロボットについて熱弁していたが、ハヤトら3人はその話についていけなかった。真面目で素直な性格で、「○○っす!」が口癖。当初はハヤトたち3人を"先輩"と呼んでいたが、合同訓練後には3人に弟子入りを志願して"師匠"と呼び慕う。
霧島 タカトラ(きりしま タカトラ)
声 - 市来光弘[35]
アニメ版で登場。鹿児島県鹿児島市出身の小学6年生の少年。12歳。シンカリオン・N700みずほ</b>の運転士で、現在京都支部に派遣されている。一人称は「おい」。
適合率は五ツ橋兄弟と同じ83.5%である。ランドセルは「天使のはね」[注 24] を愛用している。
実家は料亭を営んでいるためか、体躯の割には料理が得意で、将来の夢も料理人。口調は丁寧であるが、古き伝統に拘り意固地になる事もある。料理には強い拘りがあり、当初は魚料理に拘りのあるギンやジョウとは反りが合わなかった。京都に来たのも、料理の腕前が伸び悩んでいたため、師匠にして父であるニチリンから一旦料理から離れるように勧められたためである[注 25]。このため戦闘中に五ツ橋兄弟と意見が割れた際に、ハヤトに「古いことも新しいこともどちらも大事だ」と一喝される。その後フタバに促され、気を取り直し2人と息を合わせてトリニティー合体を成功させた。
戦闘後にはハヤトたちに自分の作ったさつま揚げを振舞い、その味を気に入った五ツ橋兄弟と和解している。
新幹線超進化研究所・西日本指令室京都支部
碇 シンジ(いかり シンジ)
声 - 緒方恵美
アニメ版で登場。京都府京都市出身の中学2年生の少年。14歳。シンカリオン・500 TYPE EVAの運転士。運転士の中では2人目の中学生。
第31話でハヤトが熱中症で意識を失っている間に見た夢の中に登場してハヤトと共闘していたが、終盤ではハヤトのいる現実世界にも登場している。
原典であるアニメ『エヴァンゲリオン』シリーズでは第3新東京市に在住し、特務機関NERVに所属しているが、本作では出身地及び所属先が若干変更されている。着用するパイロットスーツは、原典でのエヴァンゲリオン初号機のプラグスーツをモチーフにしている。
五ツ橋 ギン(いつつばし ギン)
声 - 合田絵利[36]
アニメ版で登場。山口県出身の小学5年生の少年でジョウとは双子の兄。11歳。シンカリオン・700ひかりレールスター</b>の運転士。実家は漁師で、自身も釣りが得意。一人称は「ワシ」で、「ぶち○○」が口癖である。
適合率は弟のジョウやタカトラと同じ83.5%であり、3人が同じ数値になるのは非常に稀なケースである。瀬戸内海の漁業のため、多くの漁師との競争から勝ち抜くために様々な方法が必要なため、チャレンジ精神が兄弟そろって非常に高い。魚料理には拘りがあり、特に天然物の魚が好物であり、シンカリオン運転士になる動機も、「うまい魚が食えるかも」というのが理由であった。しかし、宿舎で出された魚料理は養殖ものばかりなため、作った人の心意気と古き伝統を守り抜くことを大事にするタカトラとは当初は反りが合わなかった。このため戦闘中にタカトラと意見が割れた際に、ハヤトに「古いことも新しいこともどちらも大事だ」と一喝される。その後フタバに促され気を取り直しタカトラと息を合わせてトリニティー合体を成功させた。
戦闘後、タカトラが作ったさつま揚げを食べたことで、その味を気に入り和解している。
五ツ橋 ジョウ(いつつばし ジョウ)
声 - 合田絵利[36]
アニメ版で登場。山口県出身の小学5年生の少年でギンとは双子の弟。11歳。シンカリオン・700のぞみ</b>の運転士。一人称は兄と同じく「ワシ」で、語尾に「○○っちゃ」とつける癖がある。
適合率は兄のギンやタカトラと同じ83.5%である。兄と同じく魚料理には拘りがあり、当初はタカトラとは反りが合わなかった。
ギンと同じく、戦闘後にタカトラが作ったさつま揚げを食べたことで、その味を気に入り和解している。
新幹線超進化研究所関係者
東日本指令室大宮支部
速杉 ホクト(はやすぎ ホクト)
声 - 杉田智和
ハヤトの父。新幹線超進化研究所総合指令部の運転士指導長だが、表向きは鉄道博物館の職員となっている。かつては新幹線の運転士だった[注 26]。出水は大学時代の後輩であるため、彼からは「速杉さん」と敬称付きで呼ばれている。反面、日常生活ではだらしないため妻のサクラには頭が上がらない。そのため、彼女を「サクラちゃん」と呼ぶ。学生時代は撮り鉄で、サクラと交際を始めた頃のデートは、必ず鉄道関連の場所ばかりだったために最終的に彼女を怒らせてしまい、歴史に興味を持つ彼女主導で弘前城に行くこととなる。その際にアトラクションでやっていた真剣白刃取りを見て、「真剣白刃取りができたら俺と付き合って」とプロポーズをするも、真剣白刃取りは失敗に終わっている[16][注 27]。一人称は「俺」。第23話からは<b data-parsoid='{"dsr":[22618,22637,3,3]}'>シンカリオン・500こだま</b>の運転士となる(シンカリオン運転士として本格運用後初めてにして唯一の大人であり、最年長でもある[注 28])。
ハヤトをE5はやぶさに乗せたことについて、当初は息子を危険な目に遭わせることに強く苦悩するが、フタバから「『大人が子供を守る時代』から『子供と大人が共に守る時代』に代わった」と言われて認識を改め、バックアップするようになる。
東日本指令室に配備される3機のシンカリオンの運転士が揃ったことで、ハヤトに対して「研究所内では『お父さん』ではなく『速杉指導長』と呼ぶように」と場を弁えるように求めた。そして、さらなる怪物体の脅威に備えて京都にある超進化研究所・京都支部へ単身赴任することになり、支部を改組して新設される事になった超進化研究所・西日本指令室の立ち上げに参加して、西日本指令室京都支部の初陣となったビッグアイ戦では指令長代理として指揮を執る[15]。第23話では、紀伊半島から大阪湾に逃走したノブナガスイグンに対処するため500こだまで初出撃。リュウジの支援もあり、敵の撃退に成功した。
盟友・チクマの急逝を受け、遺された家族の世話をしており、チクマの妻・カエデが入院する病院の手配をし、長男のリュウジをシンカリオン運転士として育て上げた。
第28話ではリニア・鉄道館の人員不足よる接客対応のために応援に駆け付けている。
あおのは、「家族の存在を大事にするキャラを表現したくて、結婚指輪は嵌めさせたいなと思った。そして"かっこいいお父さん"というデザインが浮かばず苦労した[18]」と語っている。
出水 シンペイ(いずみ シンペイ)
声 - 緑川光
新幹線超進化研究所東日本指令室の指令長。フタバの上司。ホクトと共にシンカリオンを開発し続けた中心人物の一人。ホクトは大学時代の先輩であり、歴史研究サークルに所属していたため、日本の歴史(特に戦国時代)は非常に詳しく、戦闘時には○○の戦いを参考に戦術を練ることもある。また醤油の東西の違いを語れるなど、日本の食文化にも造詣が深い[37]。かつては新幹線の車掌で、ホクトが運転士として乗務する列車に乗務することが多かった[注 29]。一人称は「私」。
シンカリオンの指令、出動権限を持つ。人使いが荒く、民生版シンカリオン・シムを導入した際には適合率のデータ蓄積のためにハヤトに「シミュレーション総数を百万回」と言ったり、シンカリオン運転士の適合者を探すためハヤトを秋田に行かせた際の理由を「類は友を呼ぶ」と例える[38] など、時折冗談とも本気ともつかない言動をとることもある。また、後述の温泉旅行など思いつきで様々なイベントを企画することもある。
常に角張った眼鏡を掛けており、重要な決断を下す時や何かを思いついた時は指で中央を押し上げる仕草をする。この時、眼鏡のレンズは白く不透明になる。
巨大怪物体の陰で糸を引くエージェントの存在をモニター越しで初めて確認(ただし、このことはホクトが以前から推測指摘していた)し、同じくその存在を確認したヒビキに対して、“極秘事項”として調査することを命じた。超進化研究所員総出(ただし、アカギとダイヤは不測の事態に対応するため超進化研究所で業務を行っていた)で岩手の温泉郷へ赴いた際、大量のサーバーを宿泊先の旅館に持ち込んでいた[注 30] が、フタバに臨時指令所の設営と事実上の指令長臨時代理を押し付けて自身は秘湯巡りを口実に外出した。だが、実は調査のための外出であり、そこでエージェントと接触して、エージェントの身体に漂う謎の『黒い粒子』を1粒、サンプルとして入手する。その後、研究チームにより人工培養に成功した『黒い粒子』を散布して、エージェントのゲンブに付着させることに成功し[39]、桜島付近にエージェントらのアジトがあることを突き止めた[40]。
第27話で、イザの「今は、退くのだ……セイリュウ」の言葉を聞き、どこかで聞き覚えがある声であることに衝撃を受け[注 31]、それが敵の正体につながるものと確信、録音したデータをヒビキに渡し、解析を命じる。
第28話では夏風邪で倒れたリンドウに代わって名古屋支部に指令長臨時代理として派遣されたが、夏休み初日のリニア・鉄道館の人員不足に対応するためホクトに接客を任された際に接客が苦手であることが判明する。また巨大怪物体出現時には、オペレーターのスルガが体調不良だったため代わりにオペレーションを務めた。
第38話の大宮支部の運動会では解説を担当した。
池添からのオーダーは、「『機動警察パトレイバー』の後藤喜一のような飄々としたキャラクター」だが、あおのは、「二転三転して今の"カッチリ系"になりました。イメージは『踊る大捜査線』の室井慎次。でも、彼ほど表情はきつくないですね。仕事終わりにホクトとお酒を飲みに行きそうな感じがあります[18]」と語っている。
三原 フタバ(みはら フタバ)
声 - 雨宮天
新幹線超進化研究所東日本指令室の新人女性指令員。指令室とシンカリオン運転士との相互通信・初心者へのマニュアル説明・シンカギアの起動確認・超進化速度ゲージの視認を担当する。一人称は「私」。
巨大怪物体の出現が活発化した事を受けて、指令員研修を済ませた上で配属の辞令を早める形で総合指令室から東日本指令室に着任した。着任早々、シンカリオンと巨大怪物体の戦いを目の当たりにし、日常とは全くかけ離れた真実を垣間見る事となる。
ハヤトをE5はやぶさに乗せることについて、当初は「大人が子供を守るのは当然。子供をシンカリオンに乗せて戦わせるなんて、どうかしている」と強く反対していたが、怪物体を交戦わずか10秒で倒したハヤトの「お父さんの力になりたかった」という言葉と強い意志に「大人と子供が一緒に未来を守っていかなくちゃいけない」と考え方を変え、ハヤトたちのサポートに全力を尽くすようになる。ホクトの転勤に伴い、指導長代理に指名された。スーパー戦隊マニアという一面がありぬ、各地のローカルヒーロー巡りが趣味。
東日本指令室の中で一番若いため、シンカリオン運転士のケアも担当する。仕事に対してとても真面目な性格で、シンカリオン運転士(特にハヤトとツラヌキ)や上司のシンペイらの予想外な言動に振り回されることもある。第23話では超進化研究所・京都支部に出張していたが、ハルカにはホクトの浮気相手だと誤解されており、初対面で「泥棒猫」と呼ばれた際にはキョトンとしている(後に誤解は解けている)。
第34話でハヤトと一緒に京都へ出張に行った際、ハヤトの成長の早さに驚きを隠せず、第36話でハヤトが単独で敵との対話に臨んだことで、彼の成長ぶりを認識すべく、休日にアカギと共に上野の国立科学博物館を訪れたことで、人類の進化の歴史とハヤトの成長が関連していると感じそのことをアカギに述べている。
第48話では着任してから間もなく一年が経過するため、出水から毎年超進化研究所の新人スタッフが企画する「超進化研究所大宮支部 大忘年会」の幹事に任命されるも、普通の忘年会とは違う企画だということを知らずにいた。しかし、昨年の幹事である本庄に手助けを頼まれたハヤトたちが協力したことにより無事企画は成功し、陰で支えてくれた本庄に感謝の気持ちを伝えた。
第50話では、幼馴染のヤクモと再会しプロポーズをされるが、断っている。
一度だけ次回予告とサブタイトル読み上げを行ったことがある[41]。
本庄 アカギ(ほんじょう アカギ)
声 - 古島清孝
新幹線超進化研究所東日本指令室の男性指令員。フタバが着任する前からシンカリオン運転士と指令室との相互通信を担当していたが、後にフタバがその役割を担うことになった。巨大怪物体のコードネーム呼称の命名を担当[注 32]。一人称は「僕」。
運転士の特性や行動パターン解析、体調管理、民生版シンカリオン・シムでハイスコアラー(適合者)が現れた地方の特定も務める。
超進化研究所員総出の旅行の際には、研究所の留守を預かってオペレーション業務を任されている。第9話の温泉旅行の際はダイヤと共に行っていたが、第29話の海水浴旅行の際ダイヤは不在であった[注 33]。
第37話では、名古屋支部に一週間出張[注 34] することになった出水から指令長代理を任されていたことをダイヤから知らされ[注 35]、出水から届いていたメールを見て苦悩する。その後フタバから「休日に上野の国立科学博物館に一緒に行ってほしい」と頼まれ、同行する[注 36]。フタバを意識してしまい当初はあたふたしていたが、フタバの頑張りとアキタたちの成長を目の当たりにして、指令長代理としての自覚に目覚めつつ、フタバへ好意を寄せるようになる。
しかし、前述の様子を目撃していたアズサとツラヌキには弱味を握られており、その事を口にすると異様に動揺してしまうことがある[注 37] 。
第48話では「超進化研究所大宮支部 大忘年会」の幹事に任命されたフタバに、昨年の自分の不甲斐ない経験[注 38] からこの企画の厳しさを教えようとするが、慣例により先輩からのアドバイスは禁じられているため困り果てていた。そこを通りがかったアズサに見られたことから、慣例に制約されていないハヤトたちに自分に代わってフタバを助けてくれるように頼み込む。結果忘年会は無事成功し、フタバから感謝の言葉をもらった。
第50話でフタバから婚約者と紹介されたヤクモの登場に気持ちが落ち込んでしまう。彼女と婚約者であるヤクモの仲が気になりツラヌキに唆され焼鳥屋まで尾行するが、うまく会話を聞き取ることができず、結局落ち込んだままツラヌキ達に同情されてしまう。しかしトラメとの戦いの後、ヤクモのプロポーズを断り戻ってきたフタバを見て一安心した。
久留米 ミドリ(くるめ ミドリ)
声 - 遠藤沙季
新幹線超進化研究所東日本指令室の女性医師。シンカリオン運転士のメディカルチェックを担当する。左目の下に泣きぼくろがあり、ウェーブした豊かなロングヘアやグラマラスなボディも相まって、セクシーな外見を持つ。「心のアルコール消毒」と称する程の酒豪である。
山口 ナガト(やまぐち ナガト)
声 - 伊原正明
新幹線超進化研究所東日本指令室の整備長。整備士の中では最も大柄で、筋骨隆々の逞しい身体を持つ。シンカリオン各機体のメンテナンスを担当する。
ハヤトを助けるべく研究所エリアに侵入したアキタを捕獲、首根っこを掴まえたまま指令室へ連行した。
第20話では、ブラックシンカリオン戦での損傷が激しかったE6・E7・E3を運転するアキタ・ツラヌキ・シノブに整備を手伝うように命じた。
三島 ヒビキ(みしま ヒビキ)
声 - 長谷川暖
新幹線超進化研究所東日本指令室の女性研究員。技術者としてシンカリオンの強化や巨大怪物体の解析も担当する。BL小説らしきモノを愛読しており、コミケでBL系同人誌の新刊を大量に購入する程である。
シンペイに続きエージェントの存在を確認し、出水から“極秘事項”としてエージェントと邂逅した際に採取した『黒い粒子』を解析し中間報告している。また、シンカリオン運転士の搭乗前の脈拍、心拍数の波形パターンに共通性があることを突き止め、最初の適合者であるハヤトの鉄道好きに肖って“鉄分”と命名した。
さらに、出水からイザの言葉に関する解析を命じられるが、これも難航している。
小田原 キントキ(おだわら キントキ)
声 - 北沢洋
新幹線超進化研究所東日本指令室の男性整備士(元整備長)。東日本指令室の中では最年長。一人称は「俺」。
非常に小柄で、身長はハヤト(小学5年としては標準的)の腰あたりまでしかない。また、頭髪はサイドとバックに白髪があるだけで、頭頂部は完全な禿頭。口髭、眉毛も完全に白髪。職人気質の頑固者で悪人面だが、熟練の技でシンカリオンを整備するその腕は確かである。ナガトの師匠で、整備長時代には若かりし頃のホクトやシンペイに機械の知識を指導している。E5はやぶさで初陣を飾ったハヤトをナガトと共に褒め称え労っている。
戦闘で破損したパーツの傷を見ただけでハヤトらの操縦の癖を見抜き、アキタはフミキリガンに頼りすぎて銃身を駄目にする、ツラヌキは操縦が雑でパワーばかりに頼り駆動系を駄目にする、ハヤトは毎回の戦闘でボディをボロ雑巾にすると指摘している。
自分の仕事部屋にスクラップを大量に溜め込んでいて、第11話ではナガトら整備スタッフたちから「崩れて下敷きにでもなられたら困ります」と懸念されている。第25話ではホクトの求めで超進化研究所・京都支部に出張して、500こだまの調整をしている。
第26話ではブラックシンカリオンを超進化研究所に転送する際に生じたダメージから研究所と本線を結ぶ地下トンネルの一部が800つばめ通過中に崩落し、整備スタッフ総出でも500こだまの通過予定時刻までに復旧させることが困難となった際に、アキタ・ツラヌキ・シノブらシンカリオン運転士や超進化研究所の一般所員、更にアズサまでもが復旧作業に参加したことに感動して奮起し整備スタッフに発破をかけ、なんとか500こだまの通過予定時刻までに復旧させている。
小山 ダイヤ(おやま ダイヤ)
声 - 天崎滉平 (第8話)/ 観世智顕(第26話以降)
新幹線超進化研究所東日本指令室の男性指令員。通称は“メガネ”。主にアカギのオペレーションの補佐を担当する。出水が指令室の指令員の養成を始めた頃に、その1期生として超進化研究所に入ったベテランの指令員でもある[42]。また、古生生物にも詳しく第43話以降に登場したクレアツルスが中生代に生息していた生物に酷似していることを指摘している。
アカギとは大宮支部への着任が同期であり、昨年の「超進化研究所大宮支部 大忘年会」ではアカギと共に幹事を担当し、余興も披露している[注 39]。
超進化研究所員総出の温泉旅行の際には、アカギと共に研究所でオペレーション業務を行っている。 極度の近視のために厚みのあるレンズのメガネを着用しているが、どんなに動いてもぶれずに落ちない。 第26話ではその奥にある少女マンガのような瞳が描かれた。
第38話の大宮支部の運動会ではスターターを担当。また、借り物競走でのくじのお題の作成も担当している[注 40]。
三条 ミノリ(さんじょう ミノリ)
声 - 金魚わかな
新幹線超進化研究所東日本指令室の女性指令員。フタバの立場上の先輩で、主にそのオペレーションの補佐を担当する。ダイヤと同様にメガネを着用している。第26話でツラヌキ達がトンネル復旧作業を手伝おうとする際、「素人には無理」と否定的な発言をしてしまうが、ダイヤに窘められその事を詫びた。500こだまの通過予定時刻までに復旧作業が完了したことに感動し、ダイヤとお互い無意識に抱き合ったことで、システム復旧作業に困惑しているダイヤを積極的に手伝うなど彼に思いを寄せ始めている[43]。
第38話での大宮支部の運動会では実況を担当した。
シャショット
声 - うえだゆうじ
ハヤトの戦闘をサポートする、E5はやぶさ専用の車掌型マスコットロボット。イサブロウが遺した設計図を基に開発した。他のシンカリオンは、運転士とのインターロック(同調)による起伏の激しさからインターフェース機能を省略されているために同種のロボットは存在しない。一人称は「わたくし」(通常時)、「わたし」(戦闘時)、「俺」(敵対モード時)。
シンカリオンの運転士適合者の適合率を計測する機能を持つが、ナビゲーション機能は付いていないため迷子になることもある。
直径30cm程度の高性能AIを内蔵する小型ロボットで、丸っこい身体に手足がついている。顔面に見える部分は曲面ディスプレイで、目や口は画像。適合率計測時には適合率の数値を、研究所内での侵入者発見や漆黒の新幹線出現などの緊急時には赤いアラートを表示する。ただ、適合率計測中に適合率が急激に上昇した場合は測定不能となって目を回し、機能を停止することがある。
饒舌かつ“一言多い”ことがしばしばあり、「黙れ!」「うるさい!」と怒られたり、自分の意見が周囲からまったく認められなかったりすると「ドア、閉まりまーす」と言った後にディスプレイがブラックアウトして、一時的に機能を停止する。
腹部には『Shinca』専用のICカードスロットがあり、リンク(クロス)合体の際には合体相手の『Shinca』が排出される。
原理は不明だが常に空中に浮かび、そのまま移動することができる。足の裏には移動用の車輪とおぼしきものが見られるが、それを使って移動することはほとんどない。第20話にて「ウイングパンタグラファーDX(デラックス)」という名称のバックパックを装備しチューンアップされた姿で登場。新装備として可動式のウイングと人物認識システム、USB接続を動力源とする機能を追加。認識システムは、Aランク=友達・Bランク=友好的な人物・Cランク=敵意はない模様・Dランク=敵エージェント注意せよの4ランクある。ただし、敵エージェントのスザクに対しては最初こそDランク判定をしたものの、優しくされ友達と言われたことで最終的に設定されていないはずのSランクと判定している。
長らくE5はやぶさの適合者が現れず超進化研究所の警備に従事していたため、E5はやぶさの運転士となったハヤトを相棒として慕っている。
ハヤトとの親睦を深めるために速杉家での同居を提案するも、母・サクラの手厳しい性格を懸念したハヤトに断られている。超進化研究所からの用件を伝えるために、空中移動でハヤトが通う小学校の校門の前に現れることもあり、ハヤトはシャショットと遭遇した際のアズサの行動を警戒していた[注 41] が、第18話で対面したもののアズサはあまり興味を示していない模様。
また、ハヤトに干渉しすぎた[注 42] ことが原因でハヤトとケンカになったこともある(このケンカが原因で、戦闘時に機能を停止して悪影響を及ぼした[9])が、ツラヌキの強引な仲裁で仲直りしている。
通常は「○○でございまーす」「○○でありまーす」という車内アナウンス口調だが、戦闘時(シンカリオン内)では厳格で勇敢な口調に変わる。
ハヤトたちと行動する際はハヤト愛用のリュックに収納されており、そのリュックの黒い部分(メッシュポケットと推測される)から目の部分だけを出している。ただし、長岡を訪れた際にはハヤトと喧嘩していたためリュックごとツラヌキに背負われていた。
第20話ではハヤトに相手にしてもらえず[注 43]、アズサに「ただのオモチャ」[注 44]、シンペイに「本ワサビ」[注 45] と言われたことで自分が何のために研究所にいるのか分からなくなってしまい、自分探しの旅のため超進化研究所から家出した。その際にエージェントのスザクに接触され、認識システムの甘さを突かれてブラックShincaを挿入されて操られてしまう。その後、何事も無かったかのように超進化研究所に戻ると、ハヤトとともにE5はやぶさで出動し変形後に敵対モードとなってハヤトとのインターロックを拒絶して捕縛フィールドを破壊しスザクの元へ行こうとした。だが、ハヤトの説得とその様子をもどかしく思ったアズサの一喝によりシャショットが正気を取り戻し、排出されたブラックShincaが消滅したことでインターロックが復帰し、通常のシャショットに戻っている。
家出した際には内蔵されてるGPSを切り探索されないようにしていたが、スザクにブラックShincaを挿入された後にはGPSが再起動し40km/hで移動しているのが確認されている。
また、この時ICカードスロットから「探さないでください」という内容の手紙をプリントアウトしているため、プリンターの機能も搭載されていると思われる。
第36話でE5はやぶさが捕縛フィールドの爆発に巻き込まれ、甚大な損傷を負い数週間出撃できなくなったため、第37話ではヒビキからの要請によりメンテナンスを受けた後、第38話で「ウイングパンタグラファーDX」を再び装備した姿で復帰している。
第55話ではハヤトたちがセイリュウに人の知識を伝えることに必死だったため、自分への扱い方が最近おざなりだったので拗ねてしまうが、セイリュウに東京駅へ連れられ、新幹線の乗り方や切符の買い方などをナビゲートした。しかしその直後クレアツルスが出現し、そのままブラックシンカリオンに乗車してしまう。しかし、ブラックシンカリオンが超進化速度(1225km/h)を超えてその3倍となる3675km/hで加速してしまうが、ハヤトのアドバイスで初めてE5はやぶさ以外のシンカリオンをナビゲートするようになり、ブラックシンカリオンをブラックシンカリオン紅に進化させた。
「当初は玩具のキャラクターデザインが決まった為、アニメ用に手を加えて作画しやすいように調整したり、表情を追加した。ハヤトのリュックは『商品化を念願に置いてデザインして』と依頼を受けてオリジナル商品にするために、シャショットを入れると目が出る設定をデザインした[18]」とあおのは語っている。
北海道指令室北海道支部
大沼 ソウヤ(おおぬま ソウヤ)
声 - 土師孝也
新幹線超進化研究所北海道指令室の指令長だが、表向きは青函連絡船記念館摩周丸の館長となっている。かつては青函連絡船の船長をしていた。ミクを孫のような目で見ており、日課としている竹刀の素振りをするために摩周丸の甲板を貸し出している。
西日本指令室京都支部
明石 カイセイ(あかし カイセイ)
声 - 武蔵真之介
新幹線超進化研究所西日本指令室の指導員でもある男性指令員。フタバと同じ立ち位置にあり、ジョウ・ギン・タカトラの3人のシンカリオン運転士の指導・ケアも担当する。
葛城 ミサト(かつらぎ ミサト)
声 - 三石琴乃
音声のみの登場。超進化研究所西日本指令室の指令員として、シンジが搭乗する500 TYPE EVAのオペレーションを行う。前話である第30話では、次回予告が原典と同じミサトのナレーションにより放送された(地上波放送版のみ)[44]。
東海指令室名古屋支部
羽島 リンドウ(はしま リンドウ)
声 - 星野貴紀
新幹線超進化研究所東海指令室の指令長。第28話では夏風邪を引いてしまい、代役として出水が名古屋支部に出張してきた。第39話では出水から名古屋支部を「第一次地底世界戦略」の実行本部とさせて欲しいとの申し出に対して、ドクターイエローも同行させることを条件に同意している。
第54話ではN700Aのぞみの運転士候補にリュウジの弟・タツミを内定するが、兄のリュウジが反対したため頭を悩まされていた。そこで上層部に判断を任せることにし、視察に来たスバルと相談した。
浜松 スルガ(はままつ スルガ)
声 - 岩崎諒太
新幹線超進化研究所東海指令室の指導員でもある男性指令員。フタバと同じ立ち位置にあり、シンカリオン運転士(主にタツミ)の指導・ケアも担当する。
第28話ではリニア・鉄道館の人員不足よる接客対応で熱中症となってしまい、オペレーションを出水から止められる。
九州指令室門司支部
小倉 アカツキ (おぐら アカツキ)
声 - 矢崎文也
新幹線超進化研究所九州指令室の指令長。福岡弁で話し、西郷隆盛を思わせる典型的な九州男児の風貌からツラヌキには「暑苦しいおっさん」と称された。
総合指令部
東 スバル(あずま スバル)
声 - 山寺宏一
新幹線超進化研究所の最高責任者である総合指令部の総指令長。出水ら各地の指令長やホクトの上司。若くして要領の良さと才覚で異例の速さで昇進し、総指令長に就任することになった。
周りからは厳格な人間であると認知されており、クールを装い時折無意味な威厳を発動しながらも、素は大袈裟だが軽く話し掛けるなどフラットな性格。長時間の会議は苦手。出張・視察は、部下や秘書の付添や車での移動を好まず、現地まで各路線で向かう拘りを持つ大の鉄道マニアであり、その知識はハヤトと対等に語らえる程。
ブラックシンカリオンの現状査察の為に大宮支部を訪れようとするが、途中東京駅へ寄道しようとした所でハヤト達に出会い意気投合。その後大宮支部に到着すると、戦闘でのブラックシンカリオンを作戦に組み込むことを許可している。
ハヤト達とは、「総指令長と運転士という関係にはなりたくない」という理由で会わずに総合指令部に戻っている。また、ハヤトから普段はどんな仕事をしているのかと聞かれた際には、「主に動物(ペットのペンギンのこと)の飼育」と言って誤魔化した。
第54話では偶然名古屋支部で案件が出ており、この問題を解決する(という名目で実際は東海道新幹線に乗車する)ために自ら名古屋に行くことになる。途中東京駅の東海道新幹線ホームでハヤト達と再会し、秘書のハルナがわざわざグリーン車で手配した乗車券を指定席で座っていた高齢の女性と席を交換してもらい、ハヤトらが座っている席の通路側のD席に座った。名古屋支部到着後、N700Aのぞみの新しい運転士候補に悩まされていた羽島の案件に根本的な解決にはならないと判断。ハヤトがタツミの出撃の要請に総指令長の責任として許可、羽島に出撃を指示させた。
高崎 ハルナ(たかさき ハルナ)
声 - ふじたまみ
新幹線超進化研究所総合指令室の秘書室長。フタバが総合指令室に在籍していた時の上司。
スバルへのスケジュール管理と調整などを取り留めもなく円滑に纏められる才媛。 しかし、スバルのフラット過ぎる態度に度々あしらわれている。
ペンギン[45]
声 - なし
スバルが飼っているペット。 総指令長室のロッカーの中でこっそり飼われており、部屋に誰もいない時はスバルの本音の聞き役となっている。どこかの交通系ICカードのイラストで見たような外見をしている。
倉敷 ヤクモ(くらしき ヤクモ)
声 - 辻井健吾
科学産業省から出向して来たキャリア役人で、シンカリオンとキトラルザスとの戦闘の経緯や様々な謎を解明するために、新幹線超進化研究所と海外の研究機関、そして本省および政府との橋渡しをする役目を担う。
フタバとは4つ年上の幼馴染であり、二人の両親が勝手に決めた婚約者。フタバから「ヤッくん」とあだ名で呼ばれるほど仲が良い。子供の頃は、フタバがいじめられていたところを助けるフタバにとってのヒーロー的存在だったが、成績が優秀だったことから中学生になる際には別の街の進学校に通うために引越しすることになり、以降はフタバと会う機会が減ってしまっていた(ただし、クリスマスには地元に遊びに来ていた)。再会後に行った大宮駅東口の焼き鳥店を出た後、フタバに「3〜4年間海外で仕事することになったので、一緒に来てほしい」とプロポーズする。しかし、フタバには「大宮支部で支えたいものがある」ことを理由に断られている。
「シンカリオン」の企画を立ち上げの段階から参加した、ジェイアール東日本企画の鈴木寿広がキャラクターのモデルとされる。
キトラルザス
アニメ版で登場する謎の人物たち。当初は「地の底より這い出し種族」、後には「滅び行く種族」と名乗っていたが、第33話から登場したトラメの発言により「キトラルザス」という種族であることが判明した。人類が登場する前から存在する人種であり、地底でより高度な文明が発達していたが、環境の変化に対応できず進化の道が途絶え、やがて衰退していった。そして現在は、現代に生き残るために地上に住む人間達をすべて排除し、地上を彼らの新たな拠点にしようと行動していることがビャッコにより語られた。また、古き掟により敗北や裏切りを許さないということもビャッコにより語られた[46]。
胸に心臓の役割をする赤い宝石が溶け込んでおり、宝石の輝きが弱まると石化が始まり、その輝きが消えてしまうか抜かれた場合は完全に石化してしまう。それは、キトラルザスの死を意味する。
エージェント
下記の4人を指す。それぞれが人間を観察しながら、個々にシンカリオンに戦いを挑んでいる。第27話からスザクの提案により、共同して戦うようになる。ビャッコによれば、エージェント4人と後述の旧世代のエージェント3人はお互い不協和音な関係であり、ビャッコは彼らを危険視していた。
ビャッコ
声 - 細谷佳正[6]
エージェントの中で最も冷静で、俯瞰的にシンカリオンを観察し、戦略を立てる。一人称は「俺」。
背中の中央から、水晶のような柱状の物体が6本、放射状に生えている。
第36話では、イザが人類(ハヤト)とコンタクトをとったことに疑念を抱き、人間を観察する余裕のない状況に追い込まれ、同じ地底世界に住まう巨獣「サラマンダー・ゾラ」を連れだす。その後、単独で対話に来たハヤトに対し単独で相対する。しかし結局のところ、ハヤトとの対話は「お互いに考えていることが違うため、分かり合えることは思えない」ことからハヤトの質問にだけ答えると一方的に和解を拒絶し改めてシンカリオンに対して宣戦布告した。そして「サラマンダー・ゾラ」を繰り出し捕縛フィールドを破壊したが、E5はやぶさにはとどめを刺さずそのまま撤退した。続く第37話でもトラメの帰還により立場が危ういとゲンブから指摘され、さらにカイレンの帰還が近いことから焦燥感がさらに増し、鶯谷駅付近でマオウノブナガを3体繰り出したものの、成長を遂げているアキタたちを侮っていたため敗北した。第38話ではスザクがセイリュウに人間界を満喫させたと言ったことに冷静さを失いかけるも、セイリュウをブラックシンカリオンで戦わせるために自ら巨大怪物体し、新たに登場したリュウジのドクターイエローと対戦し小手調べをした後、自分たちの世界で決着をつけようとリュウジとハヤトを挑発している。そして第40話で自分たちの住まう世界で彼らと対峙、ゾラと組んでハヤトとリュウジを追い詰めるも、リュウジに鍛えられたハヤトに圧倒され、剣を切断されたことで敗北を認めたが、トラメの乱入に際しハヤトにセイリュウを守ってほしいと頼むと、トラメを道連れにしダメージを受ける。負傷し退却した後、自らキトラルザスの古き掟に従い帰還してきたカイレンにより胸の赤い石を抜かれ石化した。
ゲンブ
声 - マックスウェル・パワーズ[6]
人間に強い興味を持ち、様々な敵を送り込んでシンカリオンの力を試そうとする。
男性エージェント3名の中では最も大柄だが、やや猫背。一人称は「俺」。
第12話・第13話では自ら巨大怪物体となってシンカリオンと戦い一時は優勢に立つものの、新たに参戦したN700Aのぞみを加えたシンカリオンに敗退し姿を消す。ただし消滅はせず、重傷を負いながらも生存し、第13話で敗退した時に残した「I'll be back」の言葉通り、第18話に布を纏った状態で再登場。自身に深傷を負わせたN700Aのぞみに固執するセイリュウに「本当にすごいやつは他にいる」ことを忠告した。第24話では手負いから完治しており、セイリュウの代わりに再び直接戦いに行こうとしたが、これは人の力の源が結束力だとセイリュウに理解させるためのイザの策であった。
シンカリオンと戦ったことで、人間は自分たちの持たない心を持っているからこそ強く、心を持たないことが自分たちの弱点ではないかと考えるようになる。また、第40話でのビャッコを助けに行かなかったセイリュウの行動に対しても、「緑のシンカリオン(ハヤト)は、自分のためではなく仲間たちを護るために戦っているからこそ、ビャッコの命までは奪わないだろう」と擁護している。
第42話でビャッコがカイレンに命を奪われた後、シンカリオンと直接戦ったことで生き残る可能性を見つけたビャッコの意思をカイレンに伝えるために、ソウギョクに対し対話の時間を取るよう願い出る。ソウギョクに承諾されるとそのまま人間界に行こうとしていたが、スザクに指摘されたことからハロウィンの仮装をして人間界に入り、緑のシンカリオン(ハヤト)を探して鉄道博物館に乗り込む。そこでアカギとダイヤの会話からハヤトたちが新利府にいることを知ると新利府まで出向き、再び巨大怪物体となって彼らと直接対峙する。しかし、もともとシンカリオンの強さをソウギョクに見せるための戦いだったため、一方的に攻撃を受け敗北した。その後、地底世界に戻れず現場付近で倒れていたところを超進化研究所に保護される。保護された当初はセイリュウやスザクのことを考え心を開かずにいたが、その後ハヤトたちによって様々なもてなしを受けた[47]ことで心を開いて対話をし、家族(セイリュウとスザク)を連れてくるために一旦地底へ戻ろうとした。しかし、その際に三度巨大怪物体と化し、駆け付けたシンカリオンに攻撃を仕掛ける。ハヤトたちはこれに戸惑うが、それはゲンブ自らの意思ではなくソウギョクの手によるものであった。このためE5はやぶさの腕を掴んだ際に、ハヤトに「(胸の赤い)石を狙え」と懇願する。ハヤトはそれを拒むものの、シャショットとゲンブ自身に説得されグランクロスで石のある部分を狙い、撃破する。その後、鉄道博物館の本館屋上のパノラマデッキ[注 46]で座り込んで石化を始めている所に駆けつけたハヤトに「セイリュウを守ってほしい」と頼むと、胸の赤い石の輝きが消えて石化した。ハヤトはゲンブがハヤトたちを傷つけないために自ら石化する道を選んだことを知り号泣した[48]。
セイリュウ
声 - 真堂圭[6]
少年のような見た目をしているが、何を考えているかわからない側面がある。だが、シンカリオンに対しては非常に強い興味を持っている。一人称は「俺」。
第18話では、ゲンブを瀕死に追い込んで圧倒したN700Aのぞみ(白いシンカリオン)の力を見極めるために、イザから使用を禁じられている(いわゆる禁忌品)ブラックシンカリオンに自ら乗り込み、シンカリオンたちと対峙する。圧倒的な力でE5はやぶさ・E6こまち・E7かがやき・E3つばさ・H5はやぶさの5機のシンカリオンを寄せ付けず、N700Aのぞみをも圧倒する実力を発揮するが、信頼することの大切さに気付いたN700Aのぞみとの6機の連携攻撃によって追い込まれ、倒されかけたところをイザによって強制送還される。その戦闘中、ゲンブの忠告の真意がE5はやぶさ(緑のシンカリオン)とその運転士であるハヤトのことだと気付き、以降ハヤトに対し矛先を向けることになる。第24話ではブラックシンカリオンでの出撃をイザに申し出るも許可が得られない状況であったが、ビャッコ・ゲンブ・スザクの助力によって人間の進化の可能性が「人と協力しあう」ことであると気付き、それをイザに認められ出撃の許可と新たな力を授けられた。第25話では漆黒の新幹線(ブラックシンカリオン)で超進化研究所に直接乗り込んで研究所を破壊しようと画策するが、捕縛フィールドに捕らわれE6こまち・E7かがやき・E3つばさにより地下試験場に転送される。そこでN700Aのぞみと増援で駆けつけたH5はやぶさ・800つばめの連携を受けても圧倒的な強さを誇ったが、500こだまとのクロス合体を果たし皆の思いを背負ったE5×500と一対一の勝負に挑むも2発目の超グランクロスを受け、自ら敗北を認める。イザに促され撤退を余儀なくされるが、その間際に「なんでシンカリオンに乗っているのか?」、「シンカリオンのことが好きなんじゃないのか?」とシンカリオン同士が戦って勝利しても嬉しくないハヤトに問われ、気持ちが揺らぎ始める。その後、傷づいた体を癒すために体を休めていたが、トラメの帰還に合わせ、休眠から目覚めた。同時にトラメに、トラメの知っている以前の人間とは違うことを忠告した。第37話で完全に回復したもののハヤトの言葉を思い出し戸惑っていたが、スザクに「人間を直接知ればいい」というアドバイスをもらい、彼女の力によって人間の姿となって人間界に潜入する。その際に聞いた「新幹線」という言葉に反応し、上野駅で迷っていたところでアズサに声をかけられ偶然ハヤトに遭遇するも、お互いの顔を知らなかったためそのまま別れる。その後、アズサからさっきまで一緒にいた少年がハヤトだと聞かされ驚く。第40話でビャッコがハヤトとリュウジを招いて戦った際に力を貸して欲しいと頼まれるも、上述のように人間に対する考えに迷いが生じており、また緑のシンカリオン(ハヤト)はビャッコの命までは奪わないと思ったため出撃しなかった。このことが原因でビャッコがカイレンによって命を奪われる結果になってしまった。
第45話でソウギョクからゲンブが石化したという話を聞き、ソウギョクの「ゲンブを殺したのはシンカリオン(ハヤト)」という彼の言葉の真偽を確かめるべく、再び人間に化け鉄道博物館に向かうもハヤトの姿はなく、地底世界に戻ろうとしていた時に鉄道博物館駅のホームでハヤトに再会し、ハヤトがゲンブを倒したということが真実だと知る。だが、ゲンブを倒したハヤトの真意を聞く前にソウギョクの謀略によってスザクに呼び戻され、怒りの矛先をハヤトに向けたままブラックシンカリオンに乗り込む。そして第47話でハヤトと三度目の対戦となり、新たにクロス合体を果たしたE5×ドクターイエローの戦闘の最中、精神世界でハヤト本人と対峙する。再びゲンブのことを聞くが、「ゲンブは敵じゃなくて俺たちの仲間だ」と聞かされる。また、ゲンブもハヤトと同じく新幹線やシンカリオンが好きだったことやアキタ達仲間の運転士たちの好きなことがその人を表すものだと告げられ、「君の好きなものは何?」と問われるもその場では答えずにいた。ハヤトの言葉に何を信じればいいかわからなくなりビャッコとゲンブに問いかけた際に、イザに「自分で考え判断しろ」と告げられ、最後はウルトラグランクロスとへルグランクロスのぶつかり合いで敗れる。その後、ハヤトに「ハヤトたちを信じた自分の気持ちを信じる」と伝えた後「俺もシンカリオンが好きだ」と告げ、去っていった。その後は、上野駅近辺を徘徊している。
第47話におけるハヤトたちとの戦い以降、彼は地底世界に戻らないことを決意し、スザクに別れを告げた。そして、再び上野駅でアズサと再会した際に、ポリッドブロッサムに苦戦するハヤトたちを「助けてあげて」と懇願され、ブラックシンカリオンで駆け付けハヤトたちを勝利へと導かせたが、トラメの策略により彼は種族の反逆者と断定されてしまう。
第48話でアズサからゲンブがケーキを好きになったことを聞かされて以降はケーキに興味を持ち、ケーキに釣られて行動することも多くなった。
第49話におけるトラメからの挑戦を受け、ハヤトたちからの誘いを頑なに断り続けるが、アズサに振り回されるうちに、地底世界で味わったことのないスィーツや焼き鳥に魅了されながら徐々に親しくなっていく。そして第50話におけるトラメとの決戦の際、彼からゲンブの石化の真実を知り、今度はスザクが自分のせいで危うくなると言われ動揺して隙を作ってしまい追い込まれるも、駆け付けたハヤトに「人も種族も関係ない、同じ新幹線やシンカリオン好きの仲間」という言葉[注 47]に励まされ奮起。キトラルザスとは決別し、人と種族の垣根を超える覚悟を決めたことでハヤトたちと完全に和解。それと同時にハヤトを名前で呼び合うようになり、一緒にトラメを倒した。
第52話からアズサの家に居候することになり、2019年1月3日に速杉家で開催された「シンカリオン運転士新年会」にもアズサと共に参加した。
第55話で拗ねてしまったシャショットを宥めるため東京駅へ連れていき、新幹線の切符の買い方やハヤトの背中を追いかけていることを伝えた。しかしその直後クレアツルスが出現し、シャショットをそのままブラックシンカリオンに乗せてしまう。しかし、これにより超進化速度(1225km/h)を超えてその3倍となる3675km/hで加速してしまい、シャショットのアドバイスで流れに乗ったままチェンジした瞬間、ブラックシンカリオンがブラックシンカリオン紅へと進化し、同時にパイロットスーツが変化し、マスクも外れた。これを機にハヤトの強さの秘訣がわかってきた。
スザク
声 - 渡辺明乃
第13話の終盤に、シンカリオンに敗退し姿を消したゲンブの後釜として登場した女性エージェント。ゲンブとは対照的に、搦め手を用いるのが自身のスタイルと自負している。「ファッシネイティング」が口癖。一人称は「あたし」もしくは「わたし」。
人の心を操るのが得意で、セイリュウやゲンブを人間に化けさせる能力も持っている。
第14話では、人間の姿に化けてアイドルユニット「スーパー・スパイス」のライブ会場に乗り込み、アズサを利用してシンカリオンの存在を一般人に暴露しようとしたり、第20話ではシャショットにブラックShincaを挿入して操ったりと、他のエージェントに比べて狡猾であることが伺える。第24話ではアズサを再び利用してシンカリオンのデータを盗もうとしたが、黒い粒子を更に手に入れるために行動した出水の計略に嵌り、結果的に先述の行動を逆手に取られる形となった。しかし、その際の映像から人間の進化の可能性が「人と協力しあう」ということであるとセイリュウに気付かせることになる。
第30話では、強い怨念には影響を受け易い体質であることが判明している。
人間は心によって惑わされたり混乱することから、心があるということが人間の弱点だと考えていたが、第40話でゲンブに反論されている。
第45話でソウギョクから「ゲンブを殺したのはシンカリオン(ハヤト)」と告げられた際に、ソウギョクの言ったゲンブの行動に強い違和感を感じ、ソウギョクに対しても疑念を抱いている。
旧世代のエージェント
10年前に人類に攻撃を仕掛けた下記の3人を指す。カイレンが指揮を執ってファースト・エネミーを出撃させたが失敗に終わり、その5年後故郷から離れ、自分たちの環境に適した星を探索するために3人で宇宙に進出して長い旅をしていた。だが、そのような星を結局見つけられず、更にその5年後(現在)にトラメが先に帰還し、残りの2人も続いて帰還した。3人とも好戦的な性格であり、滅びから逃れるためには人類に対し武力行使による道しかないという思想のため、ビャッコたちは彼らを危険視していた。
トラメ
声 - 高階俊嗣
第33話から登場したゲンブよりも大柄なキトラルザスで、獣人のような容姿。カイレン・ソウギョクと共に行動していたが、後に単独で帰還してくる。一人称は「オレ」。
10年前に人類と戦っていたエージェントの一人であり、当時は人類を圧倒していた。戦闘能力ならキトラルザス一だが、反面頭の出来はいまいち。帰還後、10年の時を経た人間の進化を観察するために単独で「ファースト・エネミー」に頭部から搭乗して出撃するが、完成したシンカリオンと進化した人類の強さに圧倒され、E5+E6のグランクロスを受ける直前に撤退した。その後ビャッコがシンカリオンとの戦いで敗北を認めた直後に「ファースト・エネミー」で乱入し、シンカリオンに交戦を挑む。全力を出そうとしたがビャッコに楯突かれ、共にE5はやぶさのグランクロスでダメージを受け、またしても撤退した。
ブラックシンカリオンに興味を持ち、セイリュウから『ブラックShinca』を奪って運転しようとしたが、ブラックシンカギアから「適合率が足りません」と乗車を拒否されたために運転を諦めて、『ブラックShinca』をセイリュウに投げ返している。その後自分が乗れないブラックシンカリオンを、量産型ファーストエネミーを使って破壊しようとするが、これはソウギョクがセイリュウとブラックシンカリオンを自分の手駒にするための謀略であり、喜んで協力していた。
第47話でのシンカリオンとの戦い以降セイリュウがブラックシンカリオンと共に行方をくらましたことで、彼が敗北し逃亡したと判断。その真偽を確かめるために第48話ではクレアツルスの一種であるホリッドブロッサムを使ってセイリュウをおびき寄せる作戦に出る。その結果、彼の狙い通りホリッドブロッサムに苦戦するハヤトたちのピンチに駆けつけ、シンカリオンに協力したことで彼を反逆者と断定した。続く第49話でソウギョクの提案により、スザクを尾行することでセイリュウの居場所を特定し、彼を処刑するために自ら巨大怪物体となってハヤトたちをエサにしながら戦い、極秘に開発されていたE3つばさアイアンウイングの俊敏な攻撃によって翻弄されてもビクともしなかったが、再び駆け付けたブラックシンカリオンによって弱点をばらされ、E3つばさアイアンウィングの真・フミキリシュリケンで倒された。しかし、倒されたのは彼が用意した影武者であり、7日後に再び同じ大宮で決着をつけるとハヤトたちとセイリュウに宣戦布告した。そして約束の7日後の大宮で先手を打って現れたセイリュウの誘いに乗り黒い貨物列車に乗って出現。ブラックシンカリオンと共に捕縛され、捕縛フィールド内でぶつかり合う。最初はブラックシンカリオンバーサーカーモードを圧倒していたが、駆け付けたハヤトたちに励まされ「人と滅びゆく種族との垣根」を超えたセイリュウが奮起。E6こまち・E7かがやき・E3つばさアイアンウィングと後から駆け付けたH5はやぶさ・ドクターイエローの怒涛の攻撃で追い込まれ、捕縛フィールドを破壊しようとしたが最後はE5×ドクターイエローのウルトラグランクロスとブラックシンカリオンバーサーカーモードのへルグランクロスによるダブルグランクロスを受け倒された。
ソウギョク
声 - 山内健嗣
第33話でセイリュウにより存在を示唆されたキトラルザスで、第36話ではビャッコの回想シーンにシルエット状態で登場し、第41話から本格的に登場した。一人称は「オレ」。
得体のしれない容姿で、背中に薄紫の骨格翼のようなものが生えており、白と黒の仮面のようなものを被っている。紳士的なしゃべりをするのが特徴。人類やキトラルザス(主にカイレン)のことについて会話するも、その真意は不明。スザク以上に何を考えているかわからない策略家。しかも、敵を倒すためなら仲間を手駒として平然と利用し、自分の手を汚さず高みの見物をするような狡猾な作戦を得意としている。トラメ・カイレンと共に行動していたとされ、第41話でカイレンと共に帰還している。その後、ゲンブから「今一度対話の時間をくれ」と頼まれ、条件としてシンカリオンと人間(特にハヤト)の強さを見せることを約束させ、これを承諾。ゲンブを倒したシンカリオンの強さをしかと見届けた。第43話でイザに挨拶し、漆黒の貨物列車を借りてクレアツルスを地上に送り込むと、第44話でハヤトたちと合流していたゲンブを見限って彼を操りハヤトたちがゲンブを殺害するよう仕向け、ハヤトたちに深い心の傷を負わせた。仕上げとしてセイリュウに「ゲンブを殺したのはシンカリオン(ハヤト)」だと教えて疑心暗鬼にさせ、トラメの協力によりブラックシンカリオンとセイリュウを自分の手駒とすることに成功している。そして第47話でセイリュウを使ってまで戦いに執着するのは「人に屈したくない」という理由からであり、帰還した際ビャッコが人間に屈したのはイザによる入れ知恵ではないかと疑いつつ、戦いという道を選ぶという結論に至っている。
カイレン
声 - 増田俊樹[49]
第37話でビャッコにより存在を示唆されたキトラルザスで、第40話終盤から登場した。白髪で黒いコートのような衣を羽織っており、顔にひび割れがあり、スザク以上に人間に近い容姿をしている。黒曜石を物質変化させ、槍状の武器に変化させる能力を持っている。一人称は「私」。
3人の旧世代のエージェントの中でも特に人類とは戦うこと以外道はないという思想に偏っており、ビャッコから最も恐れられていた。トラメやソウギョクから「カイレン様」と呼ばれるほどの上司的な立ち位置であり、10年前に量産型ファースト・エネミーを仕切らせ、人類に攻撃を仕掛けている。その5年後に故郷から離れ、トラメ・ソウギョクと共に長い旅をしていたが、ソウギョクと共に帰還。ビャッコがシンカリオンとの戦いで敗北し退却してきた直後にその前に姿を現し、トラメに楯突いて裏切った彼を種族の古き掟により処刑した。その後ソウギョクと共に先に帰還していたトラメと合流し、イザと面会する前に挨拶代わりとして30体以上の量産型ファースト・エネミーを率いて人間側に攻撃を仕掛ける。戦闘中シンカリオンが優勢になると彼らの前に姿を現し、この10年の間に人間が開発したシンカリオンを高く評価し、自らの名を伝えた後消えていった。
トラメやソウギョクの行動に対し、全く興味を示していない。故に第50話では、トラメがシンカリオンとの戦いに敗れた際、何の戸惑いもなくトラメを「無様だな」と評している。しかし、52話でのディノウイングの強制送還後自ら動くようになり、53話でシンカリオンの本来の姿を察している。
エージェントたちを束ねる存在
ドクター・イザ/八代 イサブロウ(やつしろ イサブロウ)
声 - うえだゆうじ
第19話から登場したエージェント達を陰で束ねる首領的な存在。第18話でスザクにより、存在が示唆された。ブラックシンカリオンに乗り込んだセイリュウを強制送還させる能力を持っている。姿は白髪の老人であり、ほかのエージェント同様、緑の結晶体のようなものが生えている。第27話のセイリュウの敗北により、「協力し合う」ことを理解したエージェントたちに、今後の戦いには「進化」ではなく「変化」の道を示した。また、キトラルザスが生き残る術は、「戦いの道」・「移住の道」・「変革の道」の3つの道のいずれかであることを説く。その後、カイレンたちは移住の道を選んだが、移住先を見つけられず最終的に戦いの道を選び、残ったビャッコたちは人を観察しながら戦うも、やがて変革の道へ歩み始めるようになる。
第35話終盤でE5はやぶさに直接交信してハヤトと初めて対峙し、「さらなる進化を遂げるのは我々だ」とハヤトに忠告している。
第41話でソウギョクと共に帰還したカイレンは、その挨拶の際イザに対して「ドクター」と敬称を付けて呼んでいる。
第43話で体の石化が進行し始めていることが判明した。
プロジェクトシンカリオンの開発中に実施した「第1回超進化速度到達実験」で発生した爆発事故で消息不明となった、シンカリオン試験機を運転していた開発チームの開発責任者によく似ており[50]、第44話ではゲンブが彼の写真を見てイザと呼んでいる。同時に「ブラックシンカリオンを我々に与えた人だ」とも語っている。
そして第47話での回想シーンでシンカリオン試験機を運転していた開発チームの開発責任者本人、第55話で真名が「八代 イサブロウ」であると判明し、シンカリオンの基本的なシステムを設計し、E5はやぶさにシャショットを内蔵するシステムを構築したことも明らかとなった。
パイロット / 運転士の関係者
速杉 ハルカ(はやすぎ ハルカ)
声 - 金魚わかな
ハヤトの妹。ヘッドホンを身に付けており、語尾に「〜と思われ」「〜(て)なわけで」とつける説明口調の小声で会話する癖がある。一人称は「私」・「自分」・「ハルカ」。
兄のハヤトとは対等に話しているものの、鉄道の話題に付いていけず呆れてはいるが、その趣味や嗜好は完全に把握済み。話の内容の長さも覚えているほど理解を示している。ハヤトを「お兄(にい)」、ホクトを「お父(とう)」、サクラを「お母(かあ)」と呼ぶ[注 48]。母のサクラの雷落下レベルのお小言は恐れている。利き手は左利き[15]。これまで、父のホクトが超進化研究所の職員、兄のハヤトがシンカリオン運転士であることは、一切知らされていなかった。しかし、長いこと連絡をしてこないホクトが浮気しているのではないかと疑い、家族で京都へ訪れた際には猜疑心からホクトを「お父」ではなく「ホクトさん」・「速杉さん」と他人行儀な呼び方をして、ホクトの表情を幾度も顔面蒼白にさせた。家族から離れて電話でフタバと連絡している会話を盗み聞きしたことで、フタバという女性と浮気していると誤解する。ホクトが超進化研究所・京都支部へ戻る際には、本当は浮気相手(フタバ)の元へ行こうとしているのではないかと思い込み、不安になり泣き出す。この誤解を解くためにホクトはハヤトら家族を京都支部へ連れて行くことを決断し、父と兄の秘密やシンカリオンの存在を知ることになる(この時、京都支部に滞在していたフタバを「この泥棒猫!」と一喝してしまうも、その後の一件により父の浮気は誤解だと気付く)[51]。
あおのは、「(池添からの)オーダーが無かったので自由にデザインにしました。ヘッドホンは考え事をするときは一人でこもりたい私自身を投影させました[18]」と語っている。
速杉 サクラ(はやすぎ サクラ)
声 - 清水理沙
ハヤトの母。普段は優しいが、怒らせると恐い(別名、鬼嫁)。一人称は「私」。
夫のホクトに対しては恐妻のようだが、夫の仕事は認めており自身が納得したことは受け入れる。
第3話でホクトから、自身の本当の勤務先のことやハヤトがシンカリオン運転士になったことを打ち明けられるが、「聞かなかったことにする」としてそれらを全て受け入れた上で、ハヤトにはあくまで普通の母親として接することを決めた。しかし、家族で京都へ訪れた際、超進化研究所・京都支部へ案内され、シンカリオンの存在を改めて知ることになる。この時、パイロットスーツ姿の夫を見て、「ホクトくん」と呼んでいる[51]。
それでも、ハヤトが研究所からの呼び出しで早朝から朝食もそこそこに飛び出して行くと「学校に連絡しといてやるか」とつぶやく[9] など、シンカリオン運転士としてのハヤトの行動が通常の生活で問題とならないように、適切なフォローはしている。
第13話で、精神的に追い詰められ悩んで無理に明るく振る舞おうとするハヤトを見かねて、既にシンカリオンについて知っているということをほのめかし、それに気づいたハヤトからの「(俺たち子どもは)シンカリオンに乗らない方がいいのかな」という悩みを聞いて「お父さんは心配性なだけ。お父さんより強いお母さんが大丈夫って言っているんだから」と力づけてハヤトの悩みを払拭し、ハヤト本来の明るい笑顔と自信を取り戻させた。
第30話では筋金入りの歴女(城・幕末マニア)であることが判明。ホクトと結婚する前は、デートといえば専ら鉄道関連だったことに怒り、「今回は私がデート場所を決める!」と言って城に行った過去がある。第35話では、ハヤトが京都支部へ派遣された理由が「鹿児島から来た子(タカトラ)と山口から来た子(ギン・ジョウ)が京都で揉めていて、何とかして欲しい」と言うことを聞いて、禁門の変を連想してしまい、ハヤトに薩長同盟を結ばせた「坂本龍馬になるように」とアドバイスしている[注 49] 。またアズサのことを気に入っており[注 50]、アズサがハヤトに同行して京都に行った際にはホクトからの電話で「京都鉄道博物館で2人がデートをしてる」と聞き、自分たちの件もあってそのままじゃダメだとハヤトたちのデートを仕切る作戦に移る。その際のメールの内容は「お城に連れていきなさい」というものであり、そこにアズサを連れていかないとハヤトの日課でもある「ベランダからの新幹線観賞」を禁止するという徹底ぶりであった。
あおのは、「胸が大きい理由は、この時点で控えめな女性しかいなかったから[18]」と語っている。
上田 アズサ(うえだ アズサ)
声 - 竹達彩奈
ハヤトのクラスメイトの少女。ハヤトとは、幼馴染[注 51]で住んでいるマンションと教室での席が隣同士。一人称は「私」。目の横にピンク色の大きな形をしたつけまつげを付けている[52]。
ハヤトからは基本的にフルネームで呼ばれているが、第45話で久々に下の名前で呼ばれた。アキタからは名字、ツラヌキからは下の名前、フタバからは「アズサちゃん」と呼ばれている。自ら愛用のハンディカメラを用いて動画を撮影し、「JS(女子小学生)が初めて○○してみた」というタイトルのシリーズ動画を投稿している人気のユーチューバーでもある。投稿した動画の再生回数を増やしてユーチューブで世界制覇することが夢。虫が苦手[39]。特技はコスプレ[注 52]。「よく分かんないけど〜」が口癖。
好奇心旺盛で、動画のネタになりそうな物には何でも飛びつく性格。そのためならば休日を全て使い、単独で遠方まで行く行動力がある。そのためハヤトたちからは警戒されている。また、急に転校してきたアキタとツラヌキが、ハヤトと妙に仲がいいことを怪しんでいたが、後述の一件でその理由を知ることになる。
動画撮影など自分が好きな話題になると、周囲に大量のハートマークを出現させる。自宅のベランダで新作動画の撮影をしている所をハヤトに目撃されている[9]。
第14話にて、スザクに利用されたことで[注 53] シンカリオンの存在を知ることとなる。解決後、超進化研究所により動画を修正させられ[注 54]、ハヤトらからはお説教され"情報の秘密を厳守すること"を約束させられた。ただ、「約束する」とは言いつつも「仲間に入れなさい!」とハヤトに迫った[注 55] ことで、超進化研究所へ出入りするようになった[25][注 56][注 57]。直感に優れているのか、ホクトもこの件に関わっているであろう事を指摘し、直訴する為にホクトが単身赴任している京都支部へ赴こうとした。超グランクロスのバージョンアップ試験のためハヤトが京都支部へ向かうと知りハヤトに同行し、シンカリオンを踊らせるために鉄分を増やそうとハヤトに頼みこんで京都鉄道博物館を巡るも、ハヤトに主導権を握られ飽きた仕草をする度に「途中下車する?」と脅されつつも鉄分を増やすために我慢していたが、最終的に「もう限界! やっぱり無理!」とキレてしまう。その後サクラの指示で向かった二条城で鎧を着て刀を振り上げた姿の撮影をハヤトに頼むも転倒してしまい、ハヤトに真剣白刃取りで受け止められる[16]。
なお、シンカリオンを踊らせる動画を撮影するためにシンカリオンに乗りたがってはいるが、シンカリオンの運転士として戦いに赴くつもりはなく、LINEのグループを作るなどシンカリオンチームのまとめ役を買って出る[53]。
その後もセイリュウと度々上野で接触し、遂には居候として自宅へ招いた。ハヤト宅の新年会でスイーツのお土産を期待するも、アキタ、レイ、ツラヌキ、シノブが持ってきたもの、リュウジとミクから宅配便で送られてきたものがほとんど麺類[注 58]ばかりだったためブチギレした。その後、サクラもセイリュウにパスタを差し出した[54]。
長岡 イノリ(ながおか イノリ)
声 - 丸山ナオミ
大宮小学校に勤務する女性教師で、ハヤト・アキタ・ツラヌキ・アズサのクラスである5年2組の担任。ハヤトが毎年、夏休みの自由研究の題材に新幹線を取り上げているため、今年は新幹線を取り上げることを禁止した[注 59] 。
初登場時は「担任」とクレジットされていたが、第28話で名前が判明した。
男鹿 モミジ(おが モミジ)
声 - 真坂美帆
アキタの母。アキタを「アキタくん」と呼び非常に溺愛している親バカであり、アズサから「キャラ濃すぎ」と称され、ほかの一同をも唖然とさせた。同時に心配性でもあり、マタギである義理の父とその後継者である猟師の夫の意向で厳格に育ったアキタを見守っている。そのため、シンカリオンのことはアキタから直接あまり聞かされておらず、サクラから「親にできることはただ見守ることだけ」と諭され、シンカリオン運転士を子に持つミスズとチアキにも励まされている。アキタが巨大怪物体と戦っているところを偶然目撃してしまったことで、シンカリオンの存在を知る。その際は音声が繋がらない状態だったが、彼女の口の動きをアキタが読み取ったことよって勝利へつながっている。[20]
大門山 ミスズ(だいもんやま ミスズ)
声 - 高橋里枝
ツラヌキの母で大門山建設の社長。先代の社長であった夫を亡くし、大門山建設を女手一つで切り盛りしている。ツラヌキの豪快な性格や口癖は、母譲りでもある。ツラヌキが素直でなかったり調子乗っていたりすると、喝を入れる為に強烈な張り手を腰に食らわせている。
ツラヌキが自分のことを気遣って会社を手伝っていることを知っているが、ツラヌキには彼自身が本当にやりたいことをやらせたいと思っている。そのためツラヌキの本心を聞いた後は、「『安全第一』だけは守る」と約束させ彼を送り出している。
大門山 カガリ(だいもんやま カガリ)
声 - 小堀幸
ツラヌキの妹。兄に似ず金沢美人に例えられる程の容姿であるため、ミスズが「月日と云うのは時には残酷」と言うほどである。初登場時は「ツラヌキの妹」とクレジットされていたが、第29話で名前が判明した。
大門山 ケンロク(だいもんやま ケンロク)
声 - 社本悠
ツラヌキの弟。兄とは顔立ちがそっくりで、「だーっ」としか喋れない。初登場時は「ツラヌキの弟」とクレジットされていたが、第29話で名前が判明した。
月山 チアキ(つきやま チアキ)
声 - 足立由夏
シノブの母で、月山流忍術のくノ一である。シノブからは「母上」と呼ばれている。現在は沖縄に移住している。
清洲 カエデ(きよす カエデ)
声 - 広瀬有香
リュウジ・タツミの母。名古屋市ある超進化研究所付属病院[注 60] に現在長期入院している。リュウジの作る卵焼きが好物。亡き夫・チクマの友人であるホクトと面識がある。
清洲 ミユ(きよす ミユ)
声 - 真堂圭
リュウジ・タツミの妹。9歳。リュウジを「リュウ兄」、タツミを「タツ兄」と呼ぶ。
清洲 チクマ(きよす チクマ)
声 - 逢坂良太[55]
今は亡きリュウジ・タツミの父。ホクトやシンペイと共に新幹線超進化研究所に設置されたシンカリオン開発チームの主任研究員としてシンカリオンの開発、特に超進化速度を到達させる小型モーターに携わっており、その開発中に実施した「第1回超進化速度到達実験」で発生した爆発事故に巻き込まれて亡くなった。「目先の事よりも大局を見ろ」を口癖とする現実主義者で、リュウジの冷徹さは父譲りでもある。その言葉は、ホクトや息子・娘達にも言い続け受け継がれている。
霧島 ニチリン(きりしま ニチリン)
声 - 深川和征
タカトラの父で「料亭霧島」の主人。髪形はタカトラと同じである。
第3新東京市の市民
第31話でハヤトが東海道新幹線を走行中のN700Aを撮影している最中に熱中症になり、意識を失っている間に見た夢の中[注 61] に登場。キャストは、原典であるアニメ『エヴァンゲリオン』シリーズのオリジナルキャストが担当している。
洞木 ヒカリ(ほらき ヒカリ)[56]
声 - 岩男潤子
シンジのクラスメイト。洞木三姉妹の次女。学級委員長を務めている。面倒見の良い性格。アスカと仲が良い。ノゾミから「ヒカねえ」と呼ばれるが、家でも生真面目さが出ているため「イインチョ」と呼ぶこともある。
三姉妹の乗った車の前に飛び出してきたハヤトに注意したことがきっかけで、ハヤトと知り合う。その後、熱海駅でハヤトが言った「大宮へ行くのに山梨を通らない」という意味の言葉から、ハヤトが自分たちの世界とは別の世界から来たことに気付く[注 62]。
洞木 コダマ(ほらき コダマ)
声 - 岩男潤子[57][58]
ヒカリの姉で洞木三姉妹の長女。工科大学に通う20歳[59] の大学生でカフェでバイトをしているメガネ美人。ノゾミからは「コダねえ」と呼ばれる。 ヒカリと同じく、ハヤトが別の世界から来ていると気付きつつも、ハヤトを熱海駅からE5はやぶさが待機している箱根湯本駅まで車で送り届ける。
原典には名前のみ[注 63] が登場しており、後に「新幹線:エヴァンゲリオンプロジェクト」での「500 TYPE EVA」運行を記念して、プロジェクトオリジナルのキャラクターとして容姿が設定された。アニメーション作品への登場は本作が初となる。
洞木 ノゾミ(ほらき ノゾミ)
声 - 岩男潤子[57][58]
ヒカリの妹で洞木三姉妹の三女。サッカーが得意なやんちゃでおませな小学生。男子に混じり、チームのレギュラーを務めている。新幹線好きな三姉妹の中でも特に新幹線に詳しく、初めてハヤトと新幹線トークが噛み合う人物となる。500系を模したショルダーバッグを愛用している。
コダマ同様、原典には名前のみが登場しており「新幹線:エヴァンゲリオンプロジェクト」でのプロジェクトオリジナルのキャラクターとして容姿が設定された。アニメーション作品への登場は本作が初となる。
綾波 レイ(あやなみ レイ)、惣流・アスカ・ラングレー(そうりゅう・アスカ・ラングレー)
声 - 林原めぐみ(レイ)、宮村優子(アスカ)
シンジやヒカリと同じ学校に通う少女たち。「箱根湯本えゔぁ屋」[注 64] の前を横切るハヤトを道路越しに目撃しており、その際に2人はハヤトがシンカリオンの運転士であることを知っているような会話を交わしている。終盤ではハヤトがいる現実世界の熱海駅の在来線4・5番線ホームにある立ち食い蕎麦屋「熱海そば」にも登場し、レイがラーメン(ニンニクラーメンチャーシュー抜き)を注文して、アスカに「ここは駅そばだ」と注意されている。
その他の関係者
車掌・駅アナウンス
声 - 中川家(剛・礼二)
放送開始当初は、営業運転中の新幹線の車掌による車内アナウンスおよび駅員による駅のアナウンスは中川家の2人が担当していた。
その他の登場人物
スーパー・スパイス(イナホ・ミヤコ・ナスノ)
声 - 洲崎綾(イナホ)・金魚わかな(ミヤコ)・井上遥乃(ナスノ)
3人組の人気女性アイドルユニットで、イナホが桃色・ミヤコが黄色・ナスノが青色の衣装を着ている。
活動をSNSに拡散する事を歓迎しており、お台場でのライブも"撮影OK"としていた。
辻本 達規(つじもと たつのり)
声 - 辻本達規(BOYS AND MEN)
第48話に登場。王子駅近くの北とぴあで行われた超進化研究所大宮支部の忘年会に、出水がサプライズゲストとして招いた「BOYS AND MEN」のメンバーの1人。なお、このシーンでの「BOYS AND MEN」メンバーは1人のみしか本人役で出演することが出来ないため、メンバー全員によるオーディションを実施した池添による審査の結果、辻本に決定した。
シンカリオン
新幹線超進化研究所によって開発された、新幹線車両から変形する対巨大怪物体用のロボ。ただし、運用するためには各車両ごとに適合する運転士が必要となる。超進化速度(1225km/h)まで加速することで、戦闘形態である『モードシンカリオン』(玩具版では「シンカリオンモード」)へと変形を開始して、人型ロボット・シンカリオンへと変形する。なおアニメ版では状況によっては最初の変形シーンがカットされることがある。
通常は新幹線形態である『モードシンカンセン』(玩具版では「シンカンセンモード」)で格納庫に待機しており、出動の際には捕縛フィールドの最寄りの場所(超進化研究所の各指令室・支所)まで特別ダイヤを組んで各新幹線の路線を使い移動する。また、戦闘の際にも各新幹線の路線を経由し捕縛フィールド付近に向かい、そこから分岐した光のレールを通って捕縛フィールドに突入する。
運転士が運転室に入ると、インカムつきのパイロットスーツが自動的に装着される。このスーツを装着した運転士は、身体の動きがシンカリオンに連動する。インカムは指令室や他の運転士との相互通信用。運転室から出るとスーツ装着は自動解除となり、元の姿に戻る。
発進時は、適合する運転士が『シンカギア』のカードリーダ部に専用の『Shinca』をタッチすると、前方上部のディスプレイに「この車両は○○行き[注 65] です」と表示され、同じ内容が音声アナウンスで流れる。その後、運転士が「シンカリオン○○(機体名)、出発進行!」と喚呼し、シンカギアのレバーを下げることで発進する。
変形時には各車両のロゴマークが光り(ドクターイエローは除く)、700シリーズの3機と500こだま(500 TYPE EVAも含む)およびドクターイエローを除く各シンカリオンは先頭車と後尾車の先端同士を連結し[注 66]先頭車が上半身、後尾車が下半身を構成する。
稼働限界は、長期戦の場合は予備電源を使えば約2時間とされ、補給・再起動には最低20時間ほど要する(いずれも推定)[注 67]。
また、編成両数の少ないE3つばさ・E6こまち・800つばめ・500こだま(500 TYPE EVAも含む)・700ひかりレールスター・N700みずほ・ドクターイエロー以外のシンカリオンは1編成9両で運用されている模様。
出発時に東日本指令室・西日本指令室に配属されているシンカリオンが架線のない転車台(東日本指令室は鉄道博物館の本館内にある車両ステーション、西日本指令室は京都鉄道博物館内にある梅小路蒸気機関車庫の扇形庫)から出発しているので、漆黒の新幹線同様に架線から集電しなくても動くことが可能と思われる。
第28話での出水のシンカリオン開発の回想シーンでは、E2系が試作機であったと思しき描写があり[注 68]、第55話で試作機の名称が『シンカリオン E2(イー・ツー)』であることが判明し、爆破事故で残された機体の後尾車が大宮支部に留置されている。また、シリーズ構成の下山健人からはE3系も使用されていた可能性が示唆されている[60][注 69]。
玩具のシンカリオンはディフォルメされた車両からシンカリオンモードへ変形するが、アニメでは実車と同等の長さの車両から玩具と同様の形状に変形するため、変形する際に各部が収縮し格納される描写がある。
シンカリオン E5(イー・ファイブ)はやぶさ
新幹線モード:E5系はやぶさ
全長:40m(アニメ版では26.5m)
重量:100t
運転士:速杉ハヤト[注 70]
新幹線超進化研究所が初めて開発したシンカリオン。JR東日本E5系をベースとしている。
特徴は脚部のスラスターで、これによって空中での高速機動を可能としているほか、空中の浮遊物へ飛び移ることもできる。背部にウイングを装備することでその性能を強化することも可能となっている。
使用武器は「カイサツソード」。必殺技の際には敵の周辺に自動改札機型のエネルギーを発生させ、フラップドアを閉じて敵の動きを止めることができる。前述のウイングを装備することで必殺武器「超カイサツソード」[注 71] となる。
必殺技は胸部のE5系先頭部の連結器カバーを開いて粒子ビームを発射する「グランクロス」。
アニメでは適合する運転士が不在で専用の車庫に留置されていたが、地下格納庫内で再起動し暴れ始めた巨大怪物体・レイルローダーに応戦するためハヤトが志願し、彼を運転士として起動する。その結果、E6こまちとE7かがやきの2体がかりでダメージを受けつつ動作を止めるのが精一杯だったレイルローダーを交戦わずか10秒で、なおかつダメージを受けずに瞬殺[注 72] し、シンカリオンでの戦闘における運転士の適合率の高さの重要性を実証した。第36話でハヤトが単独で対話に向かった際、ビャッコが繰り出したサラマンダー・ゾラの攻撃による捕縛フィールドの爆発に巻き込まれ甚大な損傷を負い、数週間は出撃不可能な状態に陥っている。
シンカリオン E5 + E7(イー・ファイブ リンク イー・セブン)
E5はやぶさの上半身にE7かがやきの下半身がリンク合体した形態。
カイサツソードとシャリンドリルを装備している。なお、E7かがやき単体ではシャリンドリルを右腕に装着しているが、リンク合体時は右腕にカイサツソードを装備しているため、シャリンドリルは左腕に装着される。第43話では、シャリンドリル・パワードモードを必殺武器「超シャリンドリル」として使用している。
シンカリオン E5 + E6 (イー・ファイブ リンク イー・シックス)
E5はやぶさの上半身にE6こまちの下半身がリンク合体した形態。
カイサツソードとフミキリキャノンを装備している。第9話では超カイサツソードを使用した。
シンカリオン E5 + 800 (イー・ファイブ リンク はっぴゃく)
E5はやぶさの上半身に800つばめの下半身がリンク合体した形態。
カイサツソードとパンタグラフアローを装備。また背面にスワローウイングも装備されるため、空中戦にも対応できるようになった。
シンカリオン E5 × 500 (イー・ファイブ クロス ごひゃく)
全長:31.0m
重量:180t
E5はやぶさと500こだまがクロス合体したシンカリオン。E5はやぶさのカイサツソードが500こだまのシンゴウスピアと合体し、「カイサツトライデント」に進化している。
アニメでの必殺技は、「グランクロス」を上回る大出力の粒子ビームを発射する「超グランクロス」。しかし、電力の消費が激しく一発しか撃てないという欠点がある。このため第27話では、地下試験場を除く研究所の全電力を充電することで2発目の超グランクロスを発射している。
なお、玩具においてはE5はやぶさのほかにE6こまち・E7かがやき・H5はやぶさ・E3つばさ/E3つばさアイアンウイング(旧製品版のE3つばさフレアウイング/アイアンウイングも含む)・800つばめ・N700Aのぞみが500こだまとクロス合体可能となっている。
シンカリオン E5 × ドクターイエロー (イー・ファイブ クロス ドクターイエロー)
全長:38m
重量:275t
E5はやぶさとドクターイエローがクロス合体したシンカリオン。ブラックシンカリオンバーサーカーモードを圧倒する力を持った最強形態。
合体するには、両運転士の適合率の差を0.2%以内に合わせなければならない。
必殺技は、「超グランクロス」をさらに上回る大出力の粒子ビームを発射する「ウルトラグランクロス」。E5 × 500の弱点であった電力の大量消費を解消するため[注 73] に、背中のウイング上の翼に大気中のエネルギーを収束することで発射される。
500こだま同様玩具においてはE5はやぶさのほかにE6こまち・E7かがやき・H5はやぶさ・E3つばさ/E3つばさアイアンウイング[注 74]・800つばめ・N700Aのぞみ・ブラックシンカリオンがドクターイエローとクロス合体可能となっている。
シンカリオン E6(イー・シックス)こまち
新幹線モード:E6系こまち
全長:38.5m(アニメ版では25.0m)
重量:95t
運転士:男鹿アキタ[注 75]
E5はやぶさに続いて起動したシンカリオン。JR東日本E6系をベースとしている。
脚部にホイールを装備しており、これによって地上を高速移動する。障害物の多い場所や狭い場所でも速度を落とすことなく高速移動でき、E5はやぶさやE7かがやきなどの"フル規格新幹線"車両をベースにしたシンカリオンが入線できない秋田・山形新幹線区間に入線できるなど、地上での運動性能はシンカリオン随一である。
使用武器は2丁の「フミキリガン」。正確性を重視した2丁拳銃としての運用のほか、長距離狙撃に適したライフルモードの「フミキリライフル」、火力重視のキャノンモードの「フミキリキャノン」に変化させるなど、多彩な攻撃が可能となっている。また、放水銃や火炎放射銃として使うことも可能。なお、キャノンモード時は両肩に装備されるようになっている。必殺技の際には敵の周辺に遮断棒柄でリング型のエネルギーを発生させ、敵の動きを止めることができる。頭部には射撃用スコープ「ナマハゲゴーグル」が装備されており、これを下ろすことでフミキリガンでの正確な射撃及び敵の弱点解析も行える。
高い敏捷性と主武装が射撃系のため、敵とある程度の距離を置いた攻撃を得意とし、接近戦や格闘戦に持ち込まれると苦戦する[61]。
アニメではE5はやぶさより以前にアキタ以外の運転士により起動しており、巨大怪物体に応戦していた。
シンカリオン E6 + E3 (イー・シックス リンク イー・スリー)
E6こまちの上半身にE3つばさの下半身がリンク合体した形態。E5はやぶさ以外同士のリンク合体は初となる。
フミキリキャノンとフミキリシュリケンを装備している。機動力に優れたE6と敏捷性に優れたE3両機の合体により、超高速による攻撃回避が可能となる。必殺技も「超フミキリシュリケン」と「超フミキリキャノン」にパワーアップしている。
シンカリオン E7(イー・セブン) かがやき
新幹線モード:E7系かがやき
全長:40m(アニメ版では26.0m)
重量:110t
運転士:大門山ツラヌキ[注 75]
E5はやぶさ、E6こまちに続く第3のシンカリオン。JR東日本E7系をベースとしている。
脚部はクローラーとなっており、これにより荒地でも最大の力を発揮することが可能となっている。
E5はやぶさ、E6こまちに比べて装甲が厚くなっており、敵の攻撃をものともしない防御力を誇っている。特に拳部分は強力にされており、本機のパワーとクローラーの安定性によって豪快な格闘戦を得意としているが、スピードは他の2体に劣っている。
使用武器はE7系の台車をベースに開発された「シャリンドリル」。必殺技の際には敵の周辺に複数の岩山型のエネルギーを発生させ、敵の動きを止めることができる。どんな相手も貫くほどの凄まじい威力を誇るが[注 76]、非常に重量があるため本機のパワーがないと扱いが難しい武器となっている。第37話から、シャリンドリルを通常の2倍以上のサイズにパワーアップし、攻撃時には触れたものをすべて巻き込むパワーを持つ強化形態「シャリンドリル・パワードモード」が登場した。
格闘戦が得意だが、ビームや砲撃などの遠距離攻撃や、機敏な敵から一撃離脱戦法での攻撃を受けると苦戦を強いられる。
アニメではE5はやぶさより以前にツラヌキ以外の運転士によって起動しており、巨大怪物体に応戦していた。
E5はやぶさに対するH5はやぶさのように、W7かがやきが存在するのかは不明である[注 77]。
シンカリオン E3(イー・スリー)つばさ
新幹線モード:E3系1000番台つばさ
全長:38.5m(アニメ版では25.0m)
重量:95t
運転士:月山シノブ
JR東日本E3系1000番台(新塗装)をベースに開発されたシンカリオン。
塗色は、2014年から施工された新塗装となっている。
玩具版では<b data-parsoid='{"dsr":[63890,63903,3,3]}'>フレアウイング</b>の呼称がつけられており、後述のアイアンウイングとは兄弟機であり連結して出動することが多く、タッグでの攻撃は誰にも止められないとされており、両機によるリンク合体は"連結モード"と呼ばれる。
使用武器は遠近両用の赤い「フミキリシュリケン」。玩具版では、連結モード時にフレアウイングとアイアンウイングのフミキリシュリケンが合体した「シュリケンソレイユ」となり、あらゆる敵を切り裂くことが可能である。
アニメ版では、E5はやぶさやE7かがやきなどの"フル規格新幹線"車両をベースにしたシンカリオンが入線できない山形新幹線区間をカバーするための"山形局地戦専用シンカリオン"[62][注 78] として新塗装(フレアウイングと同色)の車両が月山シノブが運転する「E3つばさ」として登場した。また、武器もフミキリシュリケンを2分割させ素早く立ち回る"クナイモード"、合体させて大きな手裏剣として使用する"シュリケンモード"の2種が有り、これらを使い分けて戦う。分身の術を使い複数の幻影で敵を翻弄することもできる。
戦線を離脱する際には掌から煙幕を放ち手首のウィンチを使用する。
第48話のホリッドブロッサム戦では、ホリッドブロッサムが繰り出した粘液攻撃によって、右腕とフミキリシュリケンの片刃を溶かされてしまう。その際の損傷が酷かったため、しばらく(年内)は出撃できない状況に陥ってしまい、第49話で大宮支部で改修中の状態が描写されている。
シンカリオン E3(イー・スリー)つばさ アイアンウイング
新幹線モード:E3系1000番台つばさ
全長:38.5m(アニメ版では25.0m)
重量:95t
運転士:月山シノブ
JR東日本E3系1000番台(旧塗装)をベースに開発されたシンカリオン。
塗色は、実車就役時の明るい銀色と灰色の2色の塗り分けに緑色の帯を配した旧塗装となっている。
玩具版では、前述の通りフレアウイングとは兄弟機とされている。
使用武器の「フミキリシュリケン」は緑色となっており、刃の形も鋸歯状にすることで破壊力が向上している。
アニメ版では、損傷したE3つばさの代わりに出水がシノブへのクリスマスプレゼントとして用意していたものだったが、第49話でシノブが「オラも出撃したい」と言ったことから、クリスマスよりも早く登場することとなった。
E3つばさと同じく、分身の術を使い複数の幻影で敵を翻弄することもできる。必殺技はフミキリシュリケン(シュリケンモード)を巨大化させて投擲する「真・フミキリシュリケン」。
シンカリオン N700A(エヌ・ななひゃく・エー)のぞみ
新幹線モード:N700系1000番台(N700A)のぞみ
全長:40m(ノーマルモード時)/45m(アドバンスドモード時)(アニメ版ではノーマルモード時26.5m/アドバンスドモード時27.5m)
重量:100t(ノーマルモード時)/140t(アドバンスドモード時)
運転士:清洲リュウジ→清洲タツミ[注 79]
JR東海N700系1000番台(N700A)をベースに開発されたシンカリオン。
N700Aの高機能を活かし、様々な場面でハイレベルな活躍が可能。シンカリオンとしての戦闘性能は格闘戦に重きが置かれており、徒手空拳で敵を圧倒する戦闘スタイルを取っている。一対一での戦闘に持ち込んだ場合には、周囲に<b data-parsoid='{"dsr":[65805,65818,3,3]}'>デュエルモード</b>と呼ばれる特殊バリアを展開して戦闘性能を向上させて闘いに臨む。デュエルモードを発動している間は、外部からの干渉を受けない。尚デュエルモードは後に開発されたドクターイエローのケンソクレーザーシールドのベースとなっている。使用武器は登場当初はなかったため、場合により他のシンカリオンの武器を借りて闘うこともあった[63]。後に追加武装として「マクラギヌンチャク」を二つ携える。
第54話からタツミが運転することになり、戦闘に入る際の構え方も異なっている。[注 80]
通常の両先頭車で変形するノーマルモードに加え、中間車1両[注 81] が変形合体することでその性能をさらに引き上げる<b data-parsoid='{"dsr":[66284,66299,3,3]}'>アドバンスドモード</b>への進化が可能である。
アドバンスドモード時には右腕が「アドバンスドアーム」と呼ばれる巨大な腕に変形し、左腕に「クルマドメシールド」を備え、頭部がヘッドギア状に変形する。
ノーマルモード時の必殺技は両手首から伸びた刃で斬りつける「エアロダブルスマッシュ」。
アドバンスドモード時の必殺技はアドバンスドアームから放たれる「ドラゴンナックル」。
本機のベースとなったN700系1000番台の本来の編成両数は16両だが、画像や公式動画でのモードシンカンセン時の編成両数は8両となっている。
アニメ版ではオープニングにモードシンカンセンの状態で登場しており、本編には第12話のラストから登場している。
シンカリオン H5(エイチ・ファイブ)はやぶさ
新幹線モード:H5系はやぶさ
全長:40m(アニメ版では26.5m)
重量:100t
運転士:発音ミク[26]
JR北海道H5系をベースに開発されたシンカリオン。北海道に配備されている。
E5はやぶさのスピードや空中での機動性はそのままだが、YHS(ユーバリ・ヒート・システム)と呼ばれる発熱システムをボディやカイサツソードに内蔵しており、これによって寒冷地である北海道でも問題なく活躍できるようになっている。
E5はやぶさとの外観上での相違点は、ヘッドパーツが「北海道の雄大さ」と北海道に飛来する「シロハヤブサ」をモチーフにしたH5系のロゴマークをベースにしたデザインとなったこと、ボディにオレンジ色のパーツが入っていることである。
アニメ版では第13話終盤のハヤトとホクトの電話のシーンにシルエット状態で登場し、その後第15話から本格的に登場した。
シンカリオン 800(はっぴゃく)つばめ
新幹線モード:800系1000番台・2000番台(新800系)つばめ
全長:不明(アニメ版では26.5m)
重量:不明(アニメ版では95t)
運転士:大空レイ
JR九州800系1000番台・2000番台(新800系)をベースに開発されたシンカリオン。
空中の敵への対処能力を高めるためにダブルウイングシステムを搭載し、空中戦での強さはシンカリオンの中でもトップクラスとされている。
背部に装着した大型の「スワローウイング」が長時間の滑空を、燕尾をモチーフにした「サブウイング」が空中での姿勢制御を担当しており、それら2種類のウイングによって空を舞う姿はツバメのようであると形容される。
使用武器は「パンタグラフアロー」。
アニメ版では第13話終盤のハヤトとホクトの電話のシーンにシルエット状態で登場し、その後第21話から本格的に登場した。また、運転士の大空レイ自身が機体の開発に携わっている。
シンカリオン 500(ごひゃく)こだま
新幹線モード:500系7000番台こだま
全長:不明(アニメ版では27.0m)
重量:不明(アニメ版では120t)
運転士:速杉ホクト
JR西日本500系をベースに開発されたシンカリオン。
史上初の4両で変形するシンカリオンであり、8両編成の1・2・7号車の3両でボディ[注 82] を構成し、8号車は脚部ミサイルポッドとミサイルシールドに変形する。
500系の性能をフルに活用した攻撃型のシンカリオンで、全車電動車の高出力を活かして全身から大量のミサイルを発射することが可能である。また、その大量のミサイルを活かし、敵の攻撃を撃ち落としながら攻撃に転じることが可能である。
使用武器として「シンゴウスピア」を装備しており、その名の通りスピア(槍)として使用することができるほか、ライフルモード・メイスモードへ変形させることが可能である[注 83]。
アニメ版では放送開始前のメインビジュアルにN700Aのぞみと並んで登場している。なお、第13話終盤のハヤトとホクトの電話のシーンではその時点で登場していない他のシンカリオンがシルエット状態で登場したのに対し、本機と後述のシンカリオン 500 TYPE EVAのみ登場しなかった。また、第17話の新大阪駅のシーンでは新幹線車両としても通常の500系こだまは登場していない[注 84]。
第23話において、不測の事態に備えて"大人でも操縦できるシンカリオン"として試験的に開発が進められていたこと、運転士をホクトが務めること、500こだまでの出撃に備えてホクトが厳しい訓練を受けていたことが明かされ[注 85]、以降本格的に登場している。なお、大人でも操縦できるものの適合率が他のシンカリオンに比べて低いなど、未だ改良の余地は多い模様である。
(ごひゃく・タイプ・エヴァ)
新幹線モード:500系7000番台V2編成
全長:28.5m
重量:123t
運転士:碇シンジ
使徒型バチガミの持つA.T.フィールドに対抗するために、2015年11月7日より2018年5月13日まで山陽新幹線で運行された「500 TYPE EVA」をベースに、『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する特務機関「NERV」と共同で緊急極秘開発されたシンカリオン。
500こだまが持つ本来の性能に加え、対使徒型バチガミ用の性能の引き上げが各部に実施されており、ミサイルシールドは使徒型バチガミ同様にA.T.フィールドを発生させることが可能となっている。また、500こだま同様に近接戦闘用の装備としてシンゴウスピアを所持するが、色が赤に変更されている。
第2形態が存在し、この形態においてはヘッドパーツにエヴァンゲリオン初号機を模したパーツが形成され、さらにリミッターの解除によって全機能の性能が向上するなど、より闘争に特化した形態となる。
アニメ版では第17話に新幹線車両として登場した[注 86]。なお登場の際、ハヤトが碇ゲンドウのようなポーズと言動をとる[注 87]、ナレーションで『汎用500型決戦車両』と紹介される、車内チャイムにも用いられている『残酷な天使のテーゼ』が挿入曲として流れる[注 88]、シャショットが「これはまた、『逃げちゃダメ〜』なカラーリングでございまーす」と叫ぶなど、エヴァンゲリオンをリスペクトした演出がなされた。
第31話では、熱中症で意識を失ったハヤトの夢の中にシンカリオンとして登場し、地上波放送版では変形BGMに『残酷な天使のテーゼ』が使用された[64]。ただし、原型となる500こだまとは武器を持つ手が左右逆になっている。また、アニメ版では変形中に前述のエヴァ初号機を模したヘッドパーツが形成され、玩具版での第2形態に直接変形したほか、玩具版では赤に設定されていたシンゴウスピアの色は通常の500こだまと同色で、カイサツトライデントへの変形後に赤に変化している。劇中ではE5はやぶさからカイサツソードを借り、シンゴウスピアをカイサツトライデントに変形させてキングシトエルのA.T.フィールドを破壊している。その後、第33話ではハヤトの絵日記に『モードシンカンセン』形態で描かれる形で登場している。
シンカリオン E5 × 500 TYPE EVA (イー・ファイブ クロス ごひゃく・タイプ・エヴァ)
500 TYPE EVA(第2形態)とのクロス合体ではE5はやぶさと500 TYPE EVAの本来の限界以上の性能を引き出すことが可能となり、「神に近い存在」と形容されるほどの破壊力を持った状態となる。また、カイサツトライデントにA.T.フィールドを無効化する「アンチA.T.フィールド」が備わり、使徒型バチガミを殲滅することが可能となる。
アニメ版には未登場。
なお、玩具においてはE5はやぶさのほかにE6こまち・E7かがやき・H5はやぶさ・E3つばさ/E3つばさアイアンウイング(旧製品版のE3つばさフレアウイング/アイアンウイングも含む)・800つばめ・N700Aのぞみが500 TYPE EVAとクロス合体可能となっている。
シンカリオン 700(ななひゃく)のぞみ
新幹線モード:700系3000番台のぞみ
全長:30m(アニメ版では19.0m)
重量:45t
運転士:五ツ橋ジョウ
JR西日本700系3000番台をベースに開発されたシンカリオン。初の1両だけで変形するシンカリオンであり、車両の中央付近で分割され前部が上半身、後部が下半身となる。後述する700ひかりレールスター・N700みずほと合わせて、「シンカリオン 700シリーズ」と呼ばれる。
バランスタイプとして性能が調整されており、車両の総合性能の高さを活かしてどんな場面でも活躍できるようになっている。
使用武器は専用ICカード『Shinca』をモチーフにした「シンカブレード」。
本機もN700Aのぞみ同様、モードシンカンセン時の編成両数は本来の700系3000番台の16両編成ではなく、下記の700ひかりレールスターやN700みずほと同じ8両となっている。
アニメ版では第13話終盤のハヤトとホクトの電話のシーンにシルエット状態で700ひかりレールスター・N700みずほと共に登場し、第34話から本格的に登場している。また、第26話からはEDの映像に登場している。
シンカリオン 700(ななひゃく)ひかりレールスター
新幹線モード:700系7000番台ひかりレールスター
全長:30m(アニメ版では19.0m)
重量:45t
運転士:五ツ橋ギン
JR西日本700系7000番台をベースに開発されたシンカリオン。700のぞみと同様に1両だけで変形するシンカリオンであり、「シンカリオン 700シリーズ」の1機である。
使用武器は踏切をモチーフにした「カンカンガン」。遠距離からの狙撃に優れており、正確な狙撃で仲間をサポートする。
アニメ版では第13話終盤のハヤトとホクトの電話のシーンにシルエット状態で700のぞみ・N700みずほと共に登場し、第34話から本格的に登場している。また、第26話からはEDの映像に登場している。
シンカリオン N700(エヌ・ななひゃく)みずほ
新幹線モード:N700系7000番台みずほ
全長:30m(アニメ版では19.0m)
重量:45t
運転士:霧島タカトラ
JR西日本N700系7000番台をベースに開発されたシンカリオン。700のぞみと同様に1両だけで変形するシンカリオンであり、「シンカリオン 700シリーズ」の1機である。
使用武器は動輪をモチーフにした「ドウリンハンマー」。パワーに優れており、そのパワーを活かした攻撃を得意としている。
アニメ版では第13話終盤のハヤトとホクトの電話のシーンにシルエット状態で700のぞみ・700ひかりレールスターと共に登場し、第34話から本格的に登場している。第21話ではアカツキやレイから、「現在開発中で、超進化研究所・門司支部に配属される予定だが、運転士は選考中である」と語られていた。しかし、後述の「シンカリオン トリニティー」として運用される都合上、超進化研究所・京都支部に配属される事になった。また、第26話からはEDの映像に登場している。
シンカリオン トリニティー
全長:不明(アニメ版では28.0m)
重量:不明(アニメ版では140t)
700のぞみ・700ひかりレールスター・N700みずほの3機が、「トリニティー合体」により合体したシンカリオン。性能は謎に包まれているが、トップクラスの性能を持つとされている。使用武器は、700シリーズそれぞれの武器を合体させた「トリニティーハルバード」。必殺技はE5はやぶさのグランクロス同様、各車両先頭部の連結器カバーを開いて粒子ビームを同時に発射する「トリニティーストライク」。威力はグランクロスを大きく上回る。合体の仕方により3つの形態[注 89]になる。
シンカリオン トリニティー のぞみバージョン
700のぞみを中心に右腕と右脚に700ひかりレールスター、左腕と左脚にN700みずほが合体した基本形態。玩具での名称は「シンカリオン トリニティー N(ネオ[注 90])」。
シンカリオン トリニティー ひかりバージョン
700ひかりレールスターを中心に右腕と右脚にN700みずほ、左腕と左脚に700のぞみが合体した狙撃を重視した形態。玩具での名称は「シンカリオン トリニティー H(ハイパー[注 91])」。
シンカリオン トリニティー みずほバージョン
N700みずほを中心に右腕と右脚に700のぞみ、左腕と左脚に700ひかりレールスターが合体した格闘を重視した形態。玩具での名称は「シンカリオン トリニティー M(メガ[注 92])」。
シンカリオン ドクターイエロー
新幹線モード:923形新幹線電気軌道総合試験車(ドクターイエロー)
全長:35m
重量:255t
運転士:清洲リュウジ
アニメ版で登場。JR東海923形新幹線電気軌道総合試験車(ドクターイエロー)T4編成をベースに開発されたシンカリオン。
史上初の5両で変形するシンカリオンであり、7両編成の1・2・4・6・7号車で構成される[注 93]。初の検測車型のシンカリオンでもある。また、アニメ版のシンカリオン中で全長と重量の数値が最も大きいのも特徴。
使用武器は変形可能な「レーザーウェポン」を装備。接近戦では剣状の「レーザーソード」、ガン形状の「レーザーブラスター」に変化させ、あらゆる敵に対応が可能。また、周囲に小型のバリアを張る「ケンソクレーザーシールド」も展開可能。このシールドは、運転士のリュウジが第27話まで搭乗していたN700Aのデュエルモードをベースとして開発し搭載された。頭部には相手の弱点などを探る「レーザースキャン」を搭載されており、一撃で相手を撃退する攻守共に圧倒的な力を持ったシンカリオンである。
初登場となった第36話と第37話では名古屋支部で調整中の状態が描写され、第38話から本格的に登場している。
敵
バチガミ
玩具版での町を襲う未知の敵。
異次元からゲートを通りやってくる謎の存在で、人間にバチを当てるために襲っているらしい。 古来から日本各地で目撃されており、遺物、伝承、信仰、民話などで伝わっている。
土偶タイプが多く確認されているが、使徒型など他にも存在する。
動画では射出可能なドリルを装備していたり、目と目の間からビームを放ったり、ロケットパンチで攻撃をしたりしていた。
アニメ版では第1話にて10年前に出現した最初の巨大怪物体として説明され、「シンカリオン・シム」のプレイ画面にも登場している。その後第33話にて「ファースト・エネミー」という名称で登場した。
漆黒の新幹線/ブラックシンカリオン
ブラックシンカリオン
新幹線モード:漆黒の新幹線
全長:26.5m(ノーマルモード時)/19.5m(ドラグーンモード時)/34m(バーサーカーモード時)
重量:100t(ノーマルモード時)/150t(ドラグーンモード時)/120t(バーサーカーモード時)
運転士:セイリュウ
アニメ版で初登場した、シンカリオンと対を成す黒いシンカリオン。シンカリオンと同じく『ブラックシンカギア』と『ブラックShinca』により新幹線形態からシンカリオンへと変形する。当初はモードシンカンセンのまま新幹線網に突如として現れる神出鬼没の謎の列車「漆黒の新幹線」として、高速で走行しながら車体から放出する『黒い粒子』によって周りの建造物などに作用し、巨大怪物体を誕生させていた。作中での動画サイト(YouTube)内では“謎の新幹線現る”とのタイトル名で走行する様子が投稿されている。この動画を視聴した人の中には、上越新幹線の越後湯沢駅~新潟駅間を運行するE3系を改造した「現美新幹線」ではないかと思い込む人もいる[注 94]。
「漆黒の新幹線」とは新幹線超進化研究所が名付けたコードネームで、その名の通り車体は黒色で赤い帯が入る。また、先頭車と後尾車の形状は異なっている。
後述の巨大怪物体と同様に動力源は不明で、架線の電力は使用していない[注 95]。
通常は高速で走行する姿しか見られないが、第12話のアバンタイトルでは珍しくトンネル内で停車している姿が見られる。
また、第34話で大鳴門橋の下層部(新幹線用スペース)、第35話では鹿児島市中心部の上空に光のレールを現出させる事で、レールの無い場所でも走行出来る事が明らかとなった。
第18話にて、正式名称が「ブラックシンカリオン」であることが明かされた。(因みに第5話の冒頭のワンシーンにて上半身のみが披露されている)。スザクによればブラックシンカリオンはイザから戦闘で使うことを禁じられていたらしいが、エージェントのセイリュウが乗り込み、有楽町駅付近で停車後に捕縛フィールド内で超進化速度まで加速して変形し、シンカリオンと初交戦する。武器はダークカイサツソード・ダークフミキリガン・ダークシャリンドリル・ダークフミキリシュリケンなど、シンカリオンに準じた装備を全7種[注 96] 持つ。シンカリオンと怪物体との戦闘から学習したと思しき戦術を駆使する。必殺技は胸部から粒子ビームを繰り出す『デスグランクロス』。戦闘能力は非常に高く、N700Aのぞみをも圧倒するが、リュウジのアドバイスにより連帯感を増した6機のシンカリオンの連係攻撃に追い込まれて撤退を余儀なくされた[25]。
第25話では超進化研究所を破壊すべく上越新幹線を高速で南下。走行中に捕縛フィールドを射出されることになるが、速過ぎて捕縛できなかったため、東北新幹線と合流する埼玉県伊奈町の丸山分岐[注 97] 付近で捕縛フィールドを射出されてフィールド内に封じられる。
モードシンカンセンからモードシンカリオンに変形する際に走る光のレールは、通常のシンカリオンの緑色とは違い紫色のレールを走行する。
第47話におけるE5×ドクターイエローとの戦い以降は仲間としてクレアツルスやトラメとの戦いに苦戦するハヤトたちに助太刀するようになる。超進化研究所のシンカリオンたちと比べ、酸やアルカリなどの毒に対する耐性が高い。
なお、次回予告のラストにモードシンカンセンの静止画が毎回登場している[65][66]。
アニメに続き玩具版でも登場し、シンカリオンモード(ノーマルモード)の他、全装備と中間車が合体した『ドラゴン』と合体し、竜騎士の姿であらゆる角度から攻撃を仕掛けられる形態である『ドラグーンモード』[注 98]、全装備を鎧として身に纏い、すべてを焼き払う最恐必殺技『ヘルグランクロス』を放つ最終形態となる『バーサーカーモード』[注 99] の4形態にモードチェンジ出来ることが明らかとなった[67]。
なお、タカラトミー公式Twitterによると、品切れになるほどの人気作になっている[68]。
ブラックシンカリオン ドラグーンモード
N700Aのぞみのアドバンスドモード同様に、モードチェンジカードをブラックシンカギアの上部スロットに挿入し「チェンジ、ドラグーンモード!」と叫ぶことで、ブラックシンカリオンの上半身と下半身が分離した後に全装備と中間車が合体したドラゴンが現れ、そのドラゴンの尾と後脚が分離した後部に下半身が変形した後部車両が合体しさらに後部車両に後脚だったパーツが合体、ドラゴンの背面にブラックシンカリオンの上半身が合体しドラゴンの尾となっていたダークシャリンドリルを装備することで竜騎士の姿となる。
第25話ではE6こまち・E7かがやき・E3つばさと対峙し、ジェットコースターのように、曲折したビームレールを出現させ、その上を火球を連続で放ちながら走行し、突進する『ドラゴンレールアタック』で3機を窮地へと追い込む。「捕縛フィールドの中では敵に分がある」というリュウジの進言で、E6こまち・E7かがやき・E3つばさの3機に押さえ込まれる形で超進化研究所の地下試験場へ転送された。その際セイリュウは、イザから「更なるモード、バーサーカーモードを使え」と命ぜられ、新たなモードチェンジカードを渡される。
ブラックシンカリオン バーサーカーモード
イザから授かった新たなモードチェンジカードをブラックシンカギアに挿入し、変形した姿。ドラグーンモードからノーマルモードに再変形後、ドラゴンを構成していた全装備(中間車を除く)を鎧として装着[注 100] する。必殺技は胸部から粒子ビームを放つ『ヘルグランクロス』で、威力は『デスグランクロス』を上回る。第26話では、N700Aのぞみと更に応援に駆け付けたH5はやぶさ・800つばめの3機を圧倒し、N700Aのぞみを起動停止に追い込んだ。第27話では、E5×500と対峙し超グランクロスを凌ぎきって善戦するも、充電を完了したE5×500による2度目の超グランクロスを受け敗北し撤退した。
第46話ではE5はやぶさとドクターイエローと捕縛フィールドで対峙するが、へルグランクロスをケンソクレーザーシールドで防がれ、さらにクロス合体が可能となったE5×ドクターイエローとの激しい戦いを繰り広げる。その際双方エネルギーが急激に高まり、運転士のハヤトとセイリュウの二人が精神世界へ飛ばされたため、一旦は両者機能停止してしまうが、決着をつけるため再起動し、最後はへルグランクロスとウルトラグランクロスとのぶつかり合いで敗れ、完全に敗北した。
ブラックシンカリオン紅(くれない)
シャショットを乗せたまま出撃した状態で超進化速度(1225km/h)に加速した瞬間、超進化速度を超えその3倍となる3675km/hで走行し、シャショットとインターロックして変形した瞬間に全体が赤くなった姿。運転士のセイリュウのパイロットスーツ姿が一新され、マスクが外れた。武器のダークカイサツソードも、パワーアップした『超ダークカイサツソード』になり、さらにE6こまちやE3つばさアイアンウィングも超えるスピードを誇る。
黒い貨物列車
第43話から登場した漆黒の新幹線に続くキトラルザスの新たな戦力。漆黒の新幹線同様黒い粒子を振り撒く。超進化研究所の「ウェポントレイン」と同様の編成。地底生物クレアツルスを積載したコンテナを牽引し、その運搬を目的に使用している。第49話ではトラメ自身がコンテナに乗り込み、第50話では先手を打って現れたセイリュウが乗る漆黒の新幹線(ブラックシンカリオン)を追走した。
黒い粒子
漆黒の新幹線や黒い貨物列車が走行しながら大量に撒き散らす、正体不明の小さな物質。沿線の建造物や生物などを巨大怪物体化する他、水では消せない炎を出す燃料にもなる。また、エージェントはこの粒子を纏うことで巨大怪物体化することができる。
外見は先端が針のように尖った十字形で、大きさは差し渡し1cm程度。「黒」と呼ばれてはいるが実際には濃紫色で、十字形の中央部は淡緑色の微光を発する。
エージェントが姿を消す時にも、少量ながら撒き散らす。シンペイは温泉旅行でエージェントと遭遇した後にこれを1粒持ち帰り、ヒビキら「巨大怪物体進化行動研究チーム」に解析を命じた。だが、第一報で「地球のものとは思えない」という結果が出ただけだったが、更なる解析を進めたところ、付着した物質を変形させ独自の進化を促す作用を持つことが明らかとなり、この粒子を“ナノマシン”と命名した。その正体の解明は、なお困難を極めている。第32話では、研究チームにより人工培養に成功した。
巨大怪物体
10年前に突如現れた正体不明のモンスターの総称で、漆黒の新幹線が放出する『黒い粒子』の作用により周りの建造物などが巨大ロボに変化する場合が多いが、漆黒の新幹線を介さずエージェントが直接巨大怪物体を出現させることもある。
「怪物・体(かいぶつ・たい)」ではなく「怪・物体(かい・ぶったい)」なので、読みは「きょだいかいぶったい」である。
動力源などは一切不明で、形態も出現する度に毎回変化している[注 101]。出現の度、超進化研究所によってその形態からコードネームが付与される。
レイルローダー
第1・2話に登場。栃木県矢板市の片岡駅付近にあった踏切警報機などの鉄道資材が怪物体化した。怪力を使った力任せな戦闘をする。E6こまちとE7かがやきの2体がかりで動作停止させられた後、超進化研究所の格納庫に送られた。
分解して調査を始めかけたところで再起動、分解されていたパーツが集合して元の姿に戻り、格納庫の中で暴走を始める。格納庫に接する指令室を認識して攻撃し、強化ガラスにヒビを入れて指令室員をパニックに陥れる[注 102] が、それがハヤトのE5はやぶさ搭乗につながった。
最期は、E5はやぶさのカイサツソードで斬られ撃破された。
第18話でのシンカリオン運転士合同演習の際には、シミュレーター上での対戦する敵として登場した。
マッドフェリス
第2話に登場。福島県郡山市にある廃遊園地[注 103] の観覧車やメリーゴーランドなどのアトラクションが怪物体化した。観覧車からビームを放って攻撃する。最期はE5はやぶさのグランクロスで撃破された。
フロストツリー
第3話に登場。宮城県名取市の雪原が怪物体化した。吹雪を起こして相手を翻弄する戦法が得意。胸部が弱点であり、最期はそこにE5はやぶさのグランクロスを撃たれ撃破された。
フロストツリーII
第4話に登場。前述のフロストツリーが強化されたもの。フロストツリー時より強力な冷凍攻撃でE5はやぶさを凍りつかせることで戦闘不能に陥らせた。また、弱点は胸から頭に変わっているが、E6こまちのナマハゲゴーグルによりそれを見抜かれ、最期は再起動したE5はやぶさに動きを封じられたところをE6こまちのフミキリキャノンで撃破された。
アイアンスチーマー
第5話、第6話に登場。石川県金沢市の博物館にあったD51形蒸気機関車9999号機[注 104] が怪物体化した[注 105]。ボディは頑丈で、剣や銃による攻撃は一切効かなかった。突進攻撃や大砲による攻撃を得意としている。最期はE7かがやきのシャリンドリルで貫かれ撃破された。
スターストリーム
第7話に登場。東京都品川区の大井車両基地付近の東京港に出現した。何が怪物体化したかは謎だが、ホクトは海洋生物と人工物が融合したものだと語っている[注 106]。体を手裏剣のように回転させて体当たりしたり、腕からビームを発射したり金属製の刃を高速振動させて攻撃するほか、体を切断されてもある程度の大きさがあれば分裂再生する能力を持つ。最初に現れた個体は2体に分裂後それぞれE6こまちとE7かがやきに撃破されたが、後に3体のシンカリオンそれぞれに対応した緑・赤・青の三色の別個体が出現。この3体は最初の個体同様の攻撃のほかに体の中央からビームを放って攻撃する。最期は3体まとめてE5はやぶさのグランクロスで撃破された。
フュリアスフレイム
第8話に登場。新潟県長岡市の火祭りの火が怪物体化した。全身が火に包まれた般若の面を付けた能楽師のような姿をしており、炎を放って攻撃する。『黒い粒子』を燃料にして燃えている炎だったため水による消火が効かず、ハヤトたちは苦戦を強いられる。しかしハヤトが思いついた「酸素を遮断して弱体化させる[注 107]」という作戦により火炎攻撃が使えなくなり、体を包む火も消滅してしまう。最期はそのスキを突かれてリンク合体したE5+E7にグランクロスを撃たれて撃破された。
マイティクラブ
第9話に登場。岩手県花巻市の花巻温泉郷方面に出現した。蟹の姿をしているが、何が怪物体化したのか詳細は不明(ただし、ゲンブが蟹らしきものを手にしていたシーンがあったため、蟹が怪物体になった可能性は高い)。剣や銃による攻撃はおろか、ドリル攻撃も効かないという、アイアンスチーマー以上の防御力を見せた。一度はE6こまちの火炎攻撃で焼きガニにされたかに見えたが、脱皮して復活する。2度目の戦闘でも硬いボディをなかなか攻略できず、またハサミを剣や盾に変えての攻撃や人の手の形に変えてE5はやぶさを握り潰そうとしてハヤトとアキタを苦戦させたが、フタバが思いついた「関節を攻撃する[注 108]」という作戦を受けてリンク合体したE5+E6の超カイサツソードでハサミ2本と脚4本を切断されてしまい、すかさずグランクロスを撃たれて撃破された。
ワイルドボア
第10話に登場。山形県米沢市の大沢駅付近の山中にいた野生のイノシシ[注 109] が怪物体化した。大型でパワーとスピードを兼ね備えており、一時はE6こまちを戦闘不能にまで追い込んでいる。E3つばさの救援により離脱する。その後はしばらく活動を停止していたがその間にガトリング砲を装備し、捕縛フィールドを破壊すると米沢市街方面へと向かう。しかし、E6こまちとE3つばさの連携によりダム [注 110] 付近に誘い込まれ、E6こまちに挑発されて飛び出した所をE3つばさの罠で足を縛られて身動きできなくなり、最期はE3つばさのフミキリシュリケンで撃破された。
自力で捕縛フィールドを破壊・突破した怪物体としては、初めてかつ唯一。
プログレスクリーナー
第11話に登場。廃棄されていたサイクロン式掃除機が怪物体化した。通常はスリープモードのままじっとしているが、攻撃を受けるとその攻撃をゴミと認識して起動し、吸引ホース状の腕から吸い込む。これによりE6こまちの光弾とE7かがやきのシャリンドリルを吸い込み攻撃を無効化し、撤退に追いやった。その後、キントキのアドバイスを受けたE5はやぶさのグランクロス[注 111] を吸い込み攻撃を受け流すも、E3つばさのフミキリシュリケンで回転を与えられてグランクロスの威力が上がったことにより内部から破壊され撃破された。
ゲンブ[注 112]
第12話、第13話に登場。「シンカリオンと直接戦いたい」と強く願っていたエージェントのゲンブが自ら巨大怪物体化、東京駅丸の内口に出現しシンカリオンに戦いを挑んだ。
それまでの巨大怪物体とは違い自我を持ち、人間と会話が可能[注 113]。
頑丈な装甲を持つ鎧武者のような姿で、その装甲と強力な怪力による格闘戦を得意とする。E6こまち・E7かがやき・E3つばさの3体を相手に圧倒的な強さを誇り、グランクロスをも跳ね返しE5はやぶさを機能停止に追い込んだ。しかし、突如現れたN700Aのぞみの格闘戦の前に圧倒され、一時退却する。その後再び巨大怪物体となりE5はやぶさ・E6こまち・E7かがやき・E3つばさの4機を圧倒するも、援護に来たN700Aのぞみにより胸部の装甲を割られ、最期はその傷に対してE3つばさ(フミキリシュリケン)・E7かがやき(シャリンドリル)・E6こまち(フミキリキャノン)・N700Aのぞみアドバンスドモード(ドラゴンナックル)・E5はやぶさ(グランクロス)と、各機の必殺技を連続して撃ち込まれ、「シンカリオン……良いものだ」・「I'll be back」の言葉を残し、爆発四散した。
第42話では、ハヤトたちに対話を求めつつソウギョクにシンカリオンの強さを見せるべく再び巨大怪物体となりハヤトらと直接対峙したため、ハヤトたちを倒す気は無くE5+E7とE6+E3の連携攻撃を一方的に受け、E5+E7のグランクロスにより撃破され、「シンカリオン……まこと、良いものだ」の言葉を残し、敗北した。
第44話では、ソウギョクにより無理矢理巨大怪物体にさせられ、シンカリオンと対峙する。その際に自分の意思で動けないことと、自身を倒すために「(自身の)胸の石を狙え」とハヤトに訴える。ハヤトには一度躊躇されるが、最終的にはシャショットとゲンブ自身に説得されたハヤトによりグランクロスで撃破される。
PSYディーバ(サイ・ディーバ)
第14話に登場。アイドルユニット「スーパー・スパイス」のお台場ライブ会場のステージに設置された女神型モニュメントが怪物体化した。魔法少女をそのままロボットにしたような外観で、手に持った魔法のステッキのような武器であたかもライブの演出のような攻撃をする。スザクによって捕縛フィールドへと連れ込まれたアズサを利用しシンカリオンを翻弄するが、援護に来たN700Aのぞみアドバンスドモードのドラゴンナックルにより撃破された。
ロープスパイダー
第15話に登場。セイリュウが持っていたクモと函館市郊外にある函館山ロープウェイのゴンドラが融合し怪物体化した。クモの下半身と人型の上半身を合わせたロボットのような外観で全高25m。ワイヤーをあたかも蜘蛛の巣のように展開して足場を作り、東日本指令室からE5はやぶさ・E6こまち・E7かがやきが到着するまでに捕縛フィールドを破壊しようとしていたが、北海道支部から出動したH5はやぶさにより食い止められる。その後到着したE5はやぶさ・E6こまち・E7かがやきを不安定な足場で翻弄するも、YHS(ユーバリ・ヒート・システム)を搭載するH5はやぶさのカイサツソードにより撃破された。
ロープスパイダーII
第15・16話に登場。上記ロープスパイダーと同型の怪物体だが、全高45mと大型化しているほか、両脇部に保冷車から取り込んだ冷凍用コンプレッサーを搭載する。素早い動きでE7かがやきとE6こまちを拘束し強力な冷凍攻撃で凍りつかせ戦闘不能に陥らせ、乗り物酔いで動けなくなったH5はやぶさを撤退に追い込んだ。その後、乗り物酔いを克服したH5はやぶさによってE7かがやきとE6こまちは救出され、最期はE5はやぶさとH5はやぶさによるダブルカイサツソードで撃破された。
ビッグアイ
第17話に登場。大阪道頓堀川上空に出現した怪物体で大阪の町工場で作られた高性能レンズが取り込まれている。外観は岩石の様な球体で、本体内部には眼球状のレンズがあり、対象の弱点を常時観測し脆弱な部分を集中的に突いてくる戦術を執る。周辺には棒状のビットが6機随伴し、本体のビーム砲とビットのビーム砲と堅牢な装甲による体当たりを駆使したオールレンジ攻撃を繰り出す。またビット自体もミサイルとなる。本体は堅牢な装甲に覆われているが内部はゲル状の粘性のある物質で構成されている。この形状をカイセイがタコ焼きに例えたことで、ハヤトは対抗策を思いついている。
E6こまちとE7かがやきの膝関節をピンポイントで攻撃し動きを止め、カイサツソードとそれを抜こうとした拳をゲル部分に取り込み身動きできなくなったE5はやぶさを背後から攻撃しようとするも、至近距離からのグランクロスによりゲル部分を硬化させられ脱出を許す。その攻撃によりエネルギーを使い果たしたE5はやぶさを起動停止に追い込むも硬化して物理的攻撃を無効化できなくなり、応援に駆け付けたN700Aのぞみのエアロダブルスマッシュを受け撃破された。
レイルローダー2
第20話に登場。前述のレイルローダーの強化版で、栃木県那須塩原市黒磯付近に出現した。E5はやぶさに迎撃されるが、シャショットがスザクに操られハヤトとのインターロックを拒絶したためE5はやぶさが戦闘不能となる。その後、整備中で出動できないE6こまち・E7かがやき・E3つばさに代わってE5はやぶさを助けに来たN700Aのぞみを連結器型の手で拘束し、操られたシャショットが操縦するE5はやぶさとともに捕縛フィールドを破壊しようとした(ただし、スザクの目的がE5はやぶさの奪取[注 114] にあったため、レイルローダーに比べるとそれほど暴れてはいない)。最終的にはシャショットが正気を取り戻し、N700AのぞみのエアロダブルスマッシュとE5はやぶさのグランクロスを受け撃破された。
スカイハイ・ギガ・ブースター
第21話に登場。福岡県北九州市八幡東区にある遊園地[注 115] にあるロケットのモニュメントが怪物体化した。外観はロケットから変形した人型ロボットで、脚部がそのままロケットとなっている。空中を超音速で飛び回るため、空中での捕縛フィールドによる捕捉が出来ず、到達予想地点に張った捕縛フィールド内でシンカリオンに迎え撃たれるも、捕縛フィールド外から一方的にシンカリオンを攻撃している。この時点で唯一飛行能力を持つ800つばめと、それに強引に抱え上げられたE5はやぶさにより迎撃されるが、E5はやぶさは早々に脱落し墜落[注 116]。結局800つばめのパンタグラフアローにより撃破される。なお、これ以前に捕縛フィールド外で撃破された巨大怪物体としてはレイルローダーやワイルドボアがいるが、発生から撃破まで一貫して通常空間で活動した怪物体となるとこれが初の怪物体である。
マントルイーター
第21話、第22話に登場。桜島の溶岩が怪物体化した。外観は岩石が人型に固まったような姿で、胴体中央部には単眼がある。溶岩と一体化しているため全身が常時高温で、体内の熱エネルギーをレーザーのように周辺に照射することで、本体の周辺を捕縛フィールドの耐熱温度を上回る高温状態にすることができる。両腕部はそれ単体でもシンカリオンに匹敵する大きさを誇り胴体から発射することが可能で、、胴体上部には火口の様な噴射坑が存在する。桜島に出現後、捕縛フィールド内を耐熱限界を超える温度まで加熱し迎え撃ったE6こまちとE7かがやきをその熱で戦闘不能に陥らせるも、800つばめがE6こまちとE7かがやきを連れて捕縛フィールドから離脱後、捕縛フィールドが消失し地上に落下。そのままマグマまで戻ると地中を伝って移動し北九州市にある皿倉山に出現した。その後リンク合体したE5+800のグランクロスにより撃破された。
第35話でアジトの場所を突き止めた超進化研究所の研究チームを迎撃するため、再び登場した。第34話での大鳴門橋同様、漆黒の新幹線が鹿児島中央駅から桜島へと光のレールを出現させ走行することで無数の個体を出現させ数で押そうとするが、トリニティー合体を成功させたシンカリオン トリニティーのトリニティーストライクによって全て一掃され撃破された。
ノブナガスイグン
第23話で登場。織田信長が九鬼水軍に命じて作らせた鉄甲船がモデル。堅固な船体に取り付けられた多数のレーザー砲で攻撃してくる。三重県伊勢志摩に出現しN700Aのぞみと対峙するものの捕縛フィールドが水中に展開できないという弱点を突き海中に逃走する。太平洋から紀伊水道を通り大阪港に再出現、京都支部が保有する現時点で唯一の戦力であるホクトが操縦する500こだまに応戦し適合率を低下させ追い詰めるが、遅れて駆け付けたN700Aのぞみアドバンスドモードのドラゴンナックルと500こだまのミサイルシールドによる連続攻撃で撃破される。
デヴィリッシュ・セルラー
第24話で登場。体長は約20cm。漆黒の新幹線を撮影しようとしたアズサのスマートフォンに黒い粒子が付着し怪物体化した。その体長から「巨大怪物体」ではなく、「極小(ごくしょう)怪物体」と呼ばれている。極小であることを生かして、超進化研究所の指令室に侵入しシンカリオンのデータを盗もうとしたが、今回の事件もアズサが引き起こしたと思ったハヤトが彼女に電話をかけた瞬間に着信音が指令室内で響き、床下を覗いたアカギによって発見される。発見された後は指令室や研究所内を逃げ回り、所員総出で捕獲に乗り出されるがことごとくすり抜ける。ハヤトのひらめきでアズサ宛の着信を次々送られた結果、着信の処理が追いつかず動作が鈍ったところをハヤトに捕獲された。なお、この事件はシンペイが漆黒の新幹線から放出される黒い粒子を更に採取するために、アズサを囮に使った計画だった。盗まれたシンカリオンのデータも、シンペイに依頼されて用意したダミーだったことがヒビキによって明らかにされている。ただ、シンペイやヒビキはアズサのスマホが怪物体となることまでは予想しておらずその後の対策も立てていなかった。また、捕獲後の黒い粒子の採取とこの怪物体(およびアズサのスマホ)がどうなったかの詳細は不明[注 117]。
インベイジョンプラント
第28話に登場。愛知県中京工業地域沿岸部にある工場が怪物体化した。スターストリーム以来の3体同時出現となった。変形と同時にクロス合体を行ったE5×500と対峙する。シンペイは「桶狭間の戦いのように親分を倒せば…」という算段だったが、3体の協力攻撃によりカイサツトライデントを破壊する。その後、シンペイの撤退命令により捕縛フィールド内の線路に背中を見せて逃げるE5×500を追いかけ、線路上に1列に並んだところを即座に反転し放たれた超グランクロスを受け三体同時に撃破された。
インベイジョンプラントを撃破した作戦は三方ヶ原の戦いの武田軍の戦法だが、戦闘後ホクトからその戦法を最初から使わなかった理由を問われたシンペイは、「東海にゆかりのある徳川軍を壊滅させた戦いのため、あまり使いたくなかった」と語っている。
マリーンハンター
第29話に登場。静岡県熱海の海にいたシャチが怪物体化した。2体出現しており、射撃を主とした連携攻撃を得意としている。シャチやイルカがコミュニケーションで超音波を用いるエコーロケーションを利用し、その音波でシンカリオンの通信を遮断[注 118] することでシンカリオン同士の連携を取れなくし巨大怪物体のみコミュニケーションが取れる状態にし窮地に追い込む。第一陣として出撃したE7かがやきとE3つばさを寄せ付けず撤退に追い込む[注 119]。事前にブリーフィングをして出撃した第二陣のE6こまちとE5×500に対しても、海中に逃げこみシンカリオンが自分たちを見失ったところを後ろから攻撃しようとする。だが、モミジが「後ろ! 後ろ!」と叫んでいる姿をモニター越しに見たアキタが読唇術でそれを読み取ったことで攻撃を回避される。その後、武器をE6こまちのフミキリキャノンで破壊され、最終的にE5×500の超グランクロスで撃破された。
マオウノブナガ
第30話で登場。本能寺の変で命を落とした織田信長の魂をスザクが信長の遺品と言われる焼け兜に吹き込んだことで巨大怪物体と化した。このため漆黒の新幹線の出現なしに登場している。俊敏な動きでE5×500を翻弄するも、指令室に潜入したアズサの真剣白刃取りという言葉で速杉親子が揃って閃き、真剣白刃取りで動きを封じられ、超グランクロスにより撃破された。
2人が真剣白刃取りを閃いたのは、ハヤトは戦闘の直前に二条城で甲冑を着てバランスを崩したアズサの模造刀を、ホクトはサクラと結婚する前のデートでそれぞれ真剣白刃取りをした経験があったからである。ただし、結果はハヤトは成功しホクトは失敗している。
第37話では鶯谷駅付近に再び登場した。今回は、ビャッコが鎧兜を巨大怪物体化させている。武器(弓・刀・三叉槍)と色の異なる3体が出現し、E6こまち・E7かがやき・E3つばさとそれぞれ1対1で応戦するも、うち1体はE7かがやきのシャリンドリル・パワードモードの攻撃によって倒され、残りの2体もリンク合体したE6+E3の超フミキリシュリケンと超フミキリキャノンによってそれぞれ撃破された。
キングシトエル
第31話で登場。熱海駅付近に出現。ハヤトの夢の中であるため、第30話と同様に漆黒の新幹線は出現しておらず、またエージェントも登場していない。外観はヱヴァンゲリヲン新劇場版に登場した使徒達の集合体で、能力も原典に則したものとなっている。A.T.フィールドを展開しE5はやぶさでは全く歯が立たなかったが、500 TYPE EVAのカイサツトライデントによりA.T.フィールドを破壊され、E5はやぶさのグランクロスによりコアを撃破され沈黙した。
ガイスト・パンツァー
第32話に登場。長野県長野市の豊野駅付近に出現。表面の装甲は光学迷彩となっており、視認は一切不可能であるばかりか、内部からの赤外線なども遮断するなど高度なステルス機能を有しているためレーダーやE6こまちの「ナマハゲスコープ」による探知も不可能、文字通り「見えない巨大怪物体」である。外観は語源のように戦車であるが、旋回砲塔の主砲と副砲の他に、車体全体にビーム砲をハリネズミの如く配している巨大な多砲塔戦車である。出現当初は指令室によって視認されていたが、捕縛フィールドに捕縛された際に姿を消し、シンカリオンに対して一方的に攻撃を仕掛け、一時撤退に追い込んだ。再戦においては、神経を研ぎ澄ましたE6こまちに位置を特定されてしまい、シンカリオンの新装備・「超進化タイタンパー」により装甲を破壊され視認されると、E5はやぶさ・E6こまち・E7かがやきの超進化タイタンパーによる同時攻撃により撃破される。
ファースト・エネミー
第33話から登場。第1話同様に栃木県矢板市の片岡駅上空に出現。遮光器土偶のような外観で、頭部にビーム砲、左腕部に巨大なドリルを搭載しており、両腕部は有線による脱着が可能となっている。コードネームにもあるように、10年前、初めて出現した巨大怪物体と同型である。これまでの巨大怪物体とは異なり、搭乗型の機動兵器で、新たなエージェント・トラメが搭乗。シンカリオンの性能を見定めるために出撃するが、E5+E6のグランクロスの直撃を受ける前に撤退する。第40話で再びトラメが搭乗してシンカリオンとの戦いでビャッコが敗北した直後に現れるも、ビャッコの裏切りによりダメージを受け再び撤退した。第41話にて、灰色の量産タイプ(無人操縦型)が大量に登場し、第45話でもブラックシンカリオンを破壊するために量産タイプが大量に登場した。
ギガントブリッジ
第34話に登場。瀬戸内海に出現した怪物体。兵庫県と徳島県を結ぶ大鳴門橋が怪物体化した。外観は、トラス橋が人型に変形した巨大ロボットで、腕部には巨大なハンマーを装備している。全長が340メートルもあり、驚異の大きさを誇る。その巨体故に高い防御力をもつが、四肢が吊橋そのままの構造ゆえに、シンカリオン700シリーズ3機の突入を許しトラス内部から破壊され、最終的にN700みずほのドウリンハンマーによりとどめを刺され撃破される。この巨大怪物体は、付近に鉄道が存在しない地点で出現した初のケースで、漆黒の新幹線は2層構造になっている大鳴門橋の下層部[注 120] 内に光のレールを出現させて走行していた。
ビャッコ
第38話から登場。前述のゲンブと同じく、エージェント・ビャッコの怪物体形態。プレートアーマーを装着した騎士のような外見で、蛇腹剣を装備。初出撃したドクターイエローと対峙し互角に戦うもレーザーソードの攻撃を受けると、ハヤトとリュウジに「我々の世界で決着を付けよう」と言い残し撤退した。前述の言葉通り、第40話でゾラと連携をとって攻撃するも、鍛えられたハヤトに蛇腹剣を折られたことで敗北を認め、乱入してきたトラメの乗るファーストエネミーに楯突き共にE5はやぶさのグランクロスを受け撤退した。
トラメ
第49話から登場。前述のゲンブやビャッコと同じく、エージェント・トラメの怪物体形態。中生代・白亜紀に生息していた角竜類の恐竜スティラコサウルスに酷似した外見をしており、尾は3本あるのが特徴。頭は弱いが、キトラルザス随一の圧倒的パワーと防御力、さらに見た目に似合わない速さを兼ね備えている。シンカリオン3体でも抑えられないほどのパワーを持っているが、ブラックシンカリオンには1体で抑え込まれE3つばさアイアンウイングの真・フミキリシュリケンにより弱点ののどを狙われ撃破された。しかし倒されたのは影武者であり、7日後の再戦を宣言し撤退した。
再戦時は背中に蛇の頭が5つ生えた状態で姿を現す。5頭の蛇たちは独立して行動しており口からビームを放出するが、それぞれE6こまちのフミキリキャノン・E7かがやきのシャリンドリルパワードモード・E3つばさアイアンウィングの真フミキリシュリケン・H5はやぶさのカイサツソード・ドクターイエローのレーザーソードの各攻撃により倒され、トラメ自身もE5×ドクターイエローのウルトラグランクロスとブラックシンカリオンバーサーカーモードのヘルグランクロスを同時に受け倒された。
クレアツルス
第36話から登場したキトラルザスと同様地底世界に住まう生物達。第43話でフタバがオペレーションを行う移動指令所(ノートパソコン)のモニターを見たゲンブの発言により、「クレアツルス」という生物であることが判明した。クレアツルスは、先述の黒い貨物列車のコンテナから出現する。攻守ともに絶大な能力を誇るが、そのままでは地上で活動できない。しかし、黒い球体を取り込むことで地上での活動が可能となり、球体が破壊されると元の地底世界へ強制送還される。
サラマンダー・ゾラ
第36話から登場。厳密には巨大怪物体ではなく、キトラルザスと同様地底世界に住まう巨獣型の種族であるが、その詳細は一切不明。後にクレアツルスということが判明。E5はやぶさ1機だけでは全く相手にならないほどの戦闘力を備えている。
第36話では、単身で対話に来たハヤトの乗ったE5はやぶさを迎撃するためにビャッコが解き放ったが、捕縛フィールドに甚大なダメージを与えたのみで撤退している。その後は、アーマーを装着した姿で怪物体形態のビャッコと共に行動している。
テレストリアル・サラマンダー
第46話から登場。サラマンダー・ゾラとは同種の別個体。2体が地上世界に送られ、西日本側は京都・滋賀府県境の音羽山付近、東日本側は第1話・第33話同様に栃木県矢板市の片岡駅付近にほぼ同時に出現した。ただし、この2体は連携して戦うシンカリオンたちを分散させ、ブラックシンカリオンとE5はやぶさ(ハヤト)を一騎打ちさせるためにソウギョクが用意した囮である。
西日本側はドクターイエローと800つばめ・トリニティー、東日本側はE5はやぶさとE6こまち・E7かがやき・E3つばさが対処するが、ブラックシンカリオンが出現した事を受け、そちらに向かうためにE5はやぶさとドクターイエローが離脱する事態になる。その後、第47話で西日本側は800つばめとトリニティー、東日本側はE6こまち・E7かがやき・E3つばさと増援を受けて到着したH5はやぶさの各必殺技を受けそれぞれ倒された。
ヒュージタートル
第43話に登場。ソウギョクにより黒い貨物列車に載せられて地上世界に送られた。中生代に生息していた古代亀「アーケロン」によく似た外観をしている。これまでのように地上世界の生物や現代社会の構造物をベースにしたものではなく、キトラザトスの本拠地である地底世界に生息している「クレアツルス」と呼ばれる生命体の一種。シンカリオンの攻撃を受け付けない防御力を誇るが、ゲンブから「(腹部の)球体を狙え」というアドバイスを受けたE5+E7の超シャリンドリルで真下から球体を破壊され、元の世界に還された。
ホリッドブロッサム
第48話に登場。トラメにより黒い貨物列車に載せられて地上世界に送られた。全長およそ60m。中生代に存在してした被子植物に似た外観をしているが、ゲームやアニメ・特撮作品に登場する植物系モンスターも連想させる。急所である球体物質を体内に内包しているうえに、シンカリオンの武器や装甲を瞬時に溶かしてしまう強酸性の粘液攻撃を繰り出す。この粘液攻撃によってE3つばさの右腕とフミキリシュリケンの片刃を溶かし、修復が困難なほどダメージを与えた。しかし、突如現れたブラックシンカリオンの特攻で口から体内に侵入され、体内からの攻撃で球体物質を剥き出しにされた後、E5はやぶさのグランクロスにより破壊され、強制送還された。
ディノウイング
第52話に登場。ソウギョクにより黒い貨物列車に2体載せられて地上世界に送られた。全長およそ38m。中生代に生息していた翼竜「プテラノドン」によく似た外観をしている。尾にS極とN極を持つ個体が存在し、2体の連携によって地面に超高圧の電流を放電、フィールドそのものを支配することでE6こまち、E7かがやき、E3つばさアイアンウィングの動きを止める戦いを得意とする。さらにE5+800の追撃でも追いつけない音速を誇るが、ドラグーンモードで現れたブラックシンカリオンのダークシャリンドリルによってS極とN極が逆転し、自分たちが電流のダメージを受け、同時に弱点の球体が露出。機能が回復したE6達の攻撃で怯み、一体はブラックシンカリオンのデスグランクロス、もう一体はE5+800のパンダグラフアローにE5はやぶさのカイサツソードを射出させた攻撃[注 121] で破壊された。
トラキュレントシャーク
第53話に登場。カイレンにより黒い貨物列車に載せられて地上世界に送られた。中生代の鮫に酷似した姿をしている。頭部や鱗に鋭いワイヤーを武装している。ワイヤーの針にはシンカリオンの駆動部が致命傷になるほど金属を腐食させるアンモニア系の毒が含まれている。水中に身を潜めて攻撃するが、アンモニア毒に耐性のあるブラックシンカリオンによって毒付きワイヤーをつかまれ、そのままE7かがやきのシャリンドリル・パワードモードで絡め取られて吊り上げられたところを、E5はやぶさのカイサツソードで額の球体を潰され、強制送還された。
マスタートリロバイト
第54話に登場。ソウギョク・カイレンにより黒い貨物列車に載せられて地上世界に送られた。古生代に生息した三葉虫に似た姿をしている。背部に複数のコアがあり、1つを破壊しても他のコアが残っていればすぐに復活する。完全に破壊するには複数のコアを寸分の狂いもなく同時に破壊しなければならない。ドクターイエロー・ブラックシンカリオン・E5はやぶさが同時攻撃を試みるの僅かにタイミングがずれ失敗。後にハヤトの要請を受ける形で、タツミが運転するN700Aのぞみが増援に入り、リュウジが運転するドクターイエローとの連携によってコアを同時破壊され、強制送還された。
マキシマムドラゴン
第55話に登場。ソウギョク・カイレンにより黒い貨物列車に載せられて地上世界に送られた。ドラゴンのような姿をしているが、中生代に生息した竜脚類にも酷似している。見た目はツラヌキが思わずパワータイプに思えそうな図体をしているが、実際にはE6こまちをもしのぎ、捕縛フィールドを滑走するほど図体から想像もつかない機動力を誇り、口から冷気のようなものを吐き出す。圧倒的なスピードを持ってE6こまちたちを制圧するが、駆け付けたブラックシンカリオンがシャショットと接続したことでブラックシンカリオン紅へと進化。そのままスピード勝負で逆に圧倒されてしまう。E6こまち達の攻撃を必死で回避するも、ブラックシンカリオン紅の超ダークカイサツソードを発動する際の自動改札機型のフラップドアで動きを封じられ、最後は超ダークカイサツソードで球体を破壊され、強制送還された。
用語
新幹線超進化研究所
シンカリオンの開発・運用と、巨大怪物体の研究を行っている特務機関。略称はS.U.E.I.(S</b>hinkansen U</b>ltra E</b>volution I</b>nstitute)。JR北海道の新函館北斗駅、JR東日本の鉄道博物館、JR東海のリニア・鉄道館、JR西日本の京都鉄道博物館、JR九州の九州鉄道記念館の地下に施設(指令室・分室の指令所およびシンカリオンの整備場)が存在する。アニメ版では、日本のみならず世界各地にも支部がある設定になっている。なお、超進化研究所とシンカリオンに関係する情報は一般には秘密にされており、表向きは“国家戦略に基づき、官民合同で新幹線に関する最先端技術(新幹線コア技術)の研究・開発を行う組織”とされている[62]。
Shinca(シンカ)
超進化研究所メンバーに支給されるIDカード。体裁は一見「Suica」のようなデザイン[注 122] だが、一般のICカード類に比べてかなり厚みがあり、カード本体もプラスチックではなく金属のようで、かつてのPCカードに似ている。
これを持っていれば、鉄道博物館(東日本指令室の場合)の入館と超進化研究所エリアへの出入りが自由。さらに研究所のセキュリティエリアに入るには、エリア入口横のリーダーにタッチする。
シンカリオン運転士には、研究所員と同じカード[注 123] に加え、運転士専用の『Shinca』が支給されている[注 124]。これには、搭乗するシンカリオンの機体名称(「E5はやぶさ」など)が表記されている。リンク合体およびクロス合体する相手の『Shinca』は合体する際にシャショットから排出される[注 125]。また、モードチェンジが可能なN700Aのぞみの運転士には専用のモードチェンジカード[注 126] も併せて支給されている。トリニティー合体が可能な700シリーズの運転士には同じデザインの「トリニティー」と表記されている専用の『Shinca』が支給されている。
なお、セイリュウは運転士専用の『Shinca』同様に「ブラックシンカリオン」と書かれた運転士専用の『ブラックShinca』とイザから託された2枚の「モードチェンジカード」を、スザクは何も書かれていない『ブラックShinca』を所持している。
超進化マスコン シンカギア
声 - じんぼぼんじ
アニメ版で登場。運転士たちがシンカリオンを操縦する際のマスコン型コントローラー[62]。外観はシンカリオンの機体を問わずN700A(N700系1000番台・4000番台)を模した形状をしている。また右側面後部には上下2段のShinca用のスロットが設けられている。通常は運転席にセットされているが、「シンカギア、装着!」と喚呼しながらシンカギアを左腕へ装着し運転席から取り外すことで起動する。超進化速度まで超加速する際には、「超進化速度、突入!」と喚呼すると超加速を開始する。先述の運転士専用の『Shinca』をタッチすることでシンカリオン発進時の認証を行い、超進化速度に到達後に『Shinca』をシンカギアの下部スロットに挿入し、「チェンジ、シンカリオン!」と叫ぶことで「モードシンカンセン」から「モードシンカリオン」への変形指示を出すことができる。また、合体相手の『Shinca』をシンカギアの上部スロットに挿入し、「リンク、シンカリオン!」と叫ぶことでリンク合体することが可能となる(「500こだま」または「ドクターイエロー」の『Shinca』をシンカギアの上部スロットに挿入した場合は、「クロス、シンカリオン!」と叫ぶことでクロス合体することが可能となる)。N700Aのぞみのアドバンスドモードへの変型時には、専用のモードチェンジカードを上部スロットに挿入し、「チェンジ、アドバンスドモード!」と叫ぶことで変形する。700シリーズがシンカリオン トリニティーへの合体時には、専用の『Shinca』を上部スロットに挿入し、「チェンジ、トリニティー!」と叫ぶことでトリニティー合体することが可能となる。
各動作をする際には音声によるアナウンスが流れる。
また、漆黒の新幹線にも同等の『ブラックシンカギア』が設置されており、シンカギアと同様に扱うことで漆黒の新幹線の運転やブラックシンカリオンへの変形とモードチェンジを行える。
ブラックシンカギアの各動作の音声アナウンスは、シンカギアよりも禍々しいものとなっている。
シンカリオン・シム
シンカリオンの運転士適合者の判断材料として用いられるシミュレータ。当初は新幹線超進化研究所の関係者のみで使用されていたが、部外者であったハヤトが好成績を叩き出し、非常に高い適合率を示したため、以降は民生用に転用する形でリズムゲームとしてアーケードゲームでの稼働やスマートフォン・タブレット端末向けのゲームアプリとして配信し、新たなシンカリオンの運転士適合者の発掘に活用されている。
シンカ・アプリ
超進化研究所員や、シンカリオン運転士が持つスマホやタブレット端末にインストールされているアプリ。漆黒の新幹線や巨大怪物体の出現といった緊急時に、駅の発車ブザーに似たアラーム音とともに警報の内容を画面表示して通知する。
超進化研究所からの設定により、個別に通知を止めることができる[注 127]。
適合率
シンカリオン運転士がシンカリオンの能力をどれだけ引き出せるかを表した数値。この数値が高い運転士でないとシンカリオンを動かすことすらできない。また、より数値が高い運転士が操縦するほど、それまで使えなかった専用武器や必殺技などが使えるようになる。また、適合率は大人より子どものほうが高い数値を出す傾向があり、戦闘中の運転士の状態によって数値が激しく変化する[注 128] ことがあるなど、未解明の要素が多い。
捕縛フィールド
巨大怪物体が出現した時、怪物体による被害を最小限に抑えるため展開される特殊空間。超進化研究所によって打ち上げられた人工衛星からの光線により起動する。
この中であれば、激しい戦闘をしても現実世界への被害を抑えることができる。フィールド内部は円形のステージと高低差のある外周レールが敷設され、熱源調整機能や熱源調整・空気圧確保・監視カメラなども備えられている。また、外壁には光学迷彩機能が備わっており、一般人が外部からフィールド内の様子を見ることはできない。ただし、エージェント達には光学迷彩は全く通用せず外部からシンカリオンの戦闘を常に観察しており、第48話ではセイリュウがステルス機能に関係なく金属や鉱物を見ることが出来ると語っている。また、外壁に衝撃があれば外部からでもわかることがある。
シンカリオンは、通常の新幹線の軌道から分岐して出現する超硬質金属製の特殊軌道「光のレール」に転線し[注 129]、超進化速度まで加速しつつフィールド内へと突入しモードシンカリオンへと変形する[注 130]。突入後、シンカリオンはこの中で怪物体との戦闘に臨む。
フィールドを維持できる展開時間には限界があり、時間内に怪物体を撃破しなければ付近に甚大な被害を出してしまうことになる[注 131]。また、一度破られたフィールドを再展開するにはフルチャージのためにある程度の時間を要する。
怪物体が一時的に機能停止状態となった場合には、フィールドの出力を下げることで展開時間を延長することができる。
また、捕縛フィールドの出力自体にも限界があるため、捕縛フィールドを複数展開する必要がある場合はそれぞれの捕縛フィールドの出力を絞らなくてはならない。
制限時間数分前にはレッドシグナルが点滅する。
高速で移動する敵に対しては照準が合わせられず捕縛できない場合があり、状況によっては捕縛フィールド外で戦わなければならないこともある[10]。また、水中には展開できないという欠点があり、第23話では巨大怪物体ノブナガスイグンに水中からの逃走を許した。
超進化研究所に敵が侵入した場合には、機密保持のためにシンカリオンを退避させるシェルターの役割も持つ。
リンク合体
2機のシンカリオンを合体させて、それぞれの長所を引き出すシステム。E5はやぶさの上半身に、E6こまち・E7かがやき・800つばめの下半身を合体させる形が基本的なパターンとなるが、第37話ではE6こまちの上半身にE3つばさの下半身を合体させている。合体時にはE5はやぶさ(E6こまち)の下半身と、頭部を収納したE6こまち・E7かがやき・800つばめ(E3つばさ)の上半身および運転士は別の場所に転送される。また、合体後はE5はやぶさ(E6こまち)の頭部に下半身の車両に対応した色のヘッドギアが装着される。
E5はやぶさにE6こまちが合体した場合はスピード、E7かがやきが合体した場合はパワー、800つばめが合体した場合は飛行能力がそれぞれ付加され、これにより状況に応じた戦術が可能となる。また、E6こまちにE3つばさが合体した場合は、E6の機動力にE3の敏捷性が付加され超高速による攻撃回避が可能となる。ただし、合体のためにはそれぞれの運転士たちが呼吸を合わせることが必要となる。
クロス合体
2両で変形するシンカリオン(主にE5はやぶさ)と4両以上で変形するシンカリオン(現状では500こだま・ドクターイエローのみ)を合体させることで、運転士の適合率を上昇[注 132] させるためのシステム。ドクターイエローの場合、合体を実現させるには双方の運転士の適合率が0.2%以内の誤差でないと合体できないという制約があり、3度目のブラックシンカリオンとの戦いでようやくたどり着いている。
500こだまとの合体では腕を収納したE5はやぶさの上半身に、500こだまの先頭車(1号車)と後尾車(8号車)を腕[注 133] として、中間車(2号車・7号車)を下半身[注 134] として合体させる。合体時にはE5はやぶさの下半身は別の場所に転送される。また、合体後はE5はやぶさの頭部に金色で大型のヘッドギアが装着される。
ドクターイエローとの合体では腕を収納したE5はやぶさの上半身を下から囲むようにドクターイエローの4号車が合体し先頭車(1号車)と後尾車(7号車)が腕[注 135]となり 、E5はやぶさの下半身は脚部が膝から後ろへたたまれ、2号車が右脚、6号車が左脚となる。背後にレーザーウェポンをウイング状に広げ、E5はやぶさの頭部にドクターイエローの頭部にあった大型のヘッドギアが装着される。
トリニティー合体
シンカリオン700シリーズ(700のぞみ・700ひかりレールスター・N700みずほ)のみが持つ特別な合体システム。3機のうちの1機を核として残りの2機をそれぞれ右か左の腕と脚(膝下)として合体させる。ただし、700シリーズを運転する3人の運転士の適合率が同じで、尚且つ息が合わないと合体できない。なお第35話では、700シリーズを運転する3人の運転士(ギン・ジョウ・タカトラ)の適合率が3人とも83.5%で揃っていたため、成功に至っている。
ウイング・パンタグラファーDX
シャショットに新装備として追加された翼の付いたバックパック。不要な場合は、シャショットの体内に格納することもできる。動力源はUSBではあるが、普段から浮遊しているシャショットに何の目的で装備されたのかは不明である。背面にE5はやぶさの頭部が描かれている。
超進化電動貨物
シンカリオンの支援車両として超進化研究所が開発・保有しており、牽引機は赤と黒をベースにゴールドのラインと超進化研究所のロゴが入ったシンカリオンオリジナルデザインのF級[注 136]交流電気機関車(双頭連結器を装備)。専用コンテナ「ウェポンコンテナ」を積載する無蓋貨車数両を連結する形で運用され、この編成を「ウェポントレイン」と総称される。
第27話では地下試験場を除く研究所の全電力を蓄電した電源コンテナを積載して牽引し、地下試験場到着後に有線でE5×500に急速充電[注 137] することで、2発目の超グランクロスの発射を可能とした。
ウェポンコンテナ
超進化電動貨物のコンテナ車に積載された緑色のコンテナで、「超進化タイタンパー」に変形する。複数個存在し、戦闘中のシンカリオン全機に装備可能となっている。なお、名古屋支部のウェポンコンテナには、「マクラギヌンチャク」を積載するコンテナが配備されている。
超進化タイタンパー
白兵戦のために開発された武器。各シンカリオンの右腕に装着し、削岩機のように敵の装甲などを破壊する。
コミカライズ
『てれびくん』2015年11月号から2018年1月号までコミカライズ連載した。当初は玩具版をベースにする形であったが、アニメ版の放送開始を受けて、同年12月号よりアニメ版をベースにする形にリニューアルした。その後、『別冊コロコロコミックSpecial』2018年4月号 より『新幹線変形ロボ シンカリオン 超変形ギャグ外伝』のタイトルで同年8月号まで連載された[注 138]。
テレビアニメ
『新幹線変形ロボ シンカリオン THE ANIMATION』(しんかんせんへんけいロボ シンカリオン ジ・アニメーション)のタイトルで2018年1月6日よりTBS系列『アニメサタデー630』第2部で放送されている[5]。なお、実在する会社や地名などが登場するということもあり、次回予告後のラストで必ず「この番組はフィクションです」というテロップが流れている[65]。
スタッフ
原案 - プロジェクトシンカリオン(タカラトミー・ジェイアール東日本企画・小学館集英社プロダクション)
協力 - 北海道旅客鉄道、東日本旅客鉄道、東海旅客鉄道、西日本旅客鉄道、九州旅客鉄道、ジェイアール東海エージェンシー、ジェイアール西日本商事、Google Inc、鉄道博物館
各話ごとの協力 - 交通新聞社(#1,#41,#51)、関根屋(#3,#51)、テレビユー山形(#10,#51)、京都鉄道博物館(#10,#17,#23,#30,#34,#35,#46,#51)、しまだフーズ(#12,#51)、日本レストランエンタプライズ(#12,#25,#51)、リニア・鉄道館(#19,#28,#38-#40,#51,#54)、九州鉄道記念館(#21,#22,#36,#51)、国立科学博物館(#37,#51)、(C)さかざきちはる/JR東日本/dentsu(#53,#54)
発音ミク協力 - クリプトン・フューチャー・メディア(#15,#16,#18,#19,#26,#27,#47,#50,#51)
エヴァンゲリオン企画協力 - キングレコード(#17,#31)、カラー(#17,#31)、グラウンドワークス:(#17,#31)、箱根湯本 えゔぁ屋(#31)
監督 - 池添隆博[69]
副監督 - 山岸大悟(第52話までは助監督)
助監督 - 板井寛貴(第53話 - )
シリーズ構成 - 下山健人[69]
キャラクターデザイン・プロップデザイン・OP&ED作画監督 - あおのゆか[69]
プロップデザイン - 永作友克
メカニックデザイン・シンカリオンモデリング・モデリングディレクター - 服部恵大[69]
CGディレクター - 安田兼盛
色彩設計 - 村田恵理子
美術監督 - 古賀徹
撮影監督 - 村上展之
編集 - 沖田秀樹
音響監督 - 三間雅文[69]
音楽 - 渡辺俊幸[69]
シンカリオン変形音アレンジ - 大間々昂[70]
音楽制作 - フェイスミュージック
エグゼクティブプロデューサー - 源生哲雄→平野隆、弓矢政法、島村優子→江藤寛之、横山拓也、沢辺伸政
プロデューサー - 那須田淳[71]、渡辺信也、鈴木寿広、根岸智也→針原剛、新井孝介→小嶋慶也、岡本順哉
アニメーションプロデューサー - 山野井創、太田昌二、山口達也→三浦俊一郎
アニメーション制作 - OLM[69]
アニメーション制作協力 - 亜細亜堂(第1話 - 第52話)[69]→SynergySP(第53話 - )
CGアニメーション制作・オフライン編集・公式サイトデザイン - SMDE[69]
制作 - 小学館集英社プロダクション[69]
制作著作 - 超進化研究所[注 139]、TBS
主題歌
オープニングテーマ
「進化理論」(第1話 - )
作詞 - 藤林聖子 / 作曲 - Coffee Creamers / 編曲 - Soma Genda / 歌 - BOYS AND MEN
第1話ではエンディングとして使用。また、必殺技発動時にも挿入歌として使用される。回によっては一部シーンが差し替えになることもある[72]。
第28話では映像が一部変更され、EDで先行披露されたジョウ・ギン・タカトラ及び、スザク・イザや超進化研究所各支部の指令長、シンカリオントリニティーが登場している。
第48話では、フタバとハヤトたちが大宮支部の忘年会の余興として歌っており、その後忘年会にBOYS AND MEN本人が登場し歌の続きを披露している。
エンディングテーマ
「Go One Step Ahead」(第2話 - 第25話)
作詞・作曲・歌 - 村上佳佑 / 編曲 - シライシ紗トリ
第18話、第22話、第28話、第43話、第45話では挿入歌として使用。映像では第2話からデフォルメされた5両編成の車両がE5はやぶさ・E6こまち・E7かがやき・E3つばさの順で登場していたが、第17話からはN700Aのぞみ・H5はやぶさ・800つばめ・E5はやぶさの順に変更されている。また車両の上に描かれた窓の部分には下を走っている車両や路線にちなんだ場所や物が描かれている。
変更後の第26話以降からは挿入歌としての使用となる。
「I WANNA BE WITH YOU」(第26話 - 第38話)
作詞・作曲・歌 - TETSUYA / 編曲 - Jun Suyama、TETSUYA
第26話より使用。映像ではジョウ・ギン・タカトラが登場している。第37話では必殺技発動時の挿入歌として使用された。
「Go Way!」(第39話 - 第51話)
作詞 - すぅ / 作曲 - すぅ・クボナオキ / 編曲 - クボナオキ / 歌 - SILENT SIREN
第39話より使用。映像にはアズサがメインで登場しており、彼女の動画の映像や過去に劇中で活躍した場面の写真も描かれている。
「STARTRAiN」(第52話 - )
作詞・作曲 - Saku・天月ーあまつきー / 編曲 - Saku / 歌 - 天月-あまつき-
第52話より使用。映像にはタツミと人間態のセイリュウが登場している。
挿入歌
「チェンジ!シンカリオン」(第13・14・17・23・35・53・54話)
作詞・作曲・編曲 - 井上裕治 / 歌 - 山寺宏一
元々は玩具版のテーマソングとして制作され、ミュージックビデオも作られている[73]。
アニメでは、主にN700Aのぞみやトリニティーが戦闘に参加した際(必殺技発動時など)およびスバルが指揮を執る際に使用される。第17話ではインストゥルメンタルバージョンが使用された。
「残酷な天使のテーゼ」(第17話、第31話)[74]
作詞 - 及川眠子 / 作曲 - 佐藤英敏 / 編曲 - 大森俊之 / 歌 - 高橋洋子
「DECISIVE BATTLE」(第17話、第31話)[74]
「Both of You、Dance Like You Want to Win!」(第31話)
「ASUKA STRIKES!」(第31話)
「The Day Tokyo-3 Stood Still」(第31話)
作曲 - 鷺巣詩郎
上記5曲はシンカリオン 500 TYPE EVAが登場する回で使用された『新世紀エヴァンゲリオン』の楽曲群。いずれの楽曲も地上波放送版・Blu-ray版[75]のみ使用され、ネット配信版・DVD版では別の曲(通常のBGM等)に差し替えられている。
「クリスマス・イブ」(第49・50話)
作詞・作曲・歌 - 山下達郎
JR東海がかつて制作したCM(「クリスマス・エクスプレス」等)の再現シーンのBGMとして登場。ネット配信版では諸事情によりインストゥルメンタル版になっている[76]。
各話リスト
サブタイトルは『○○!!××』として統一している。(第21話と第37話は例外)
2018年4月7日はマスターズ・トーナメント放送のため、休止。
放送局
日本国外での放送
時間帯は全て現地時間。
香港
2018年11月22日より無綫電視翡翠台にて、『新幹線戰士』のタイトルで毎週木曜、金曜の17時20分-17時50分に放送。広東語 & 日本語二ヶ国語放送、繁体字字幕あり。
DVD・Blu-ray
この作品を収録したDVD版が2018年12月21日以降、Blu-ray版が2019年1月30日以降順次発売予定。発売元はNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン[77]。
また、Blu-ray BOX2に収録される第17話及び第31話(エヴァンゲリオンコラボ回)は地上波放送版(エヴァンゲリオンのオリジナルBGM使用)となる(DVDに収録される第17話及び第31話は配信版となる)[75]。
DVD
DVD BOX
Blu-ray BOX
備考
配信サイトによって内容が若干異なる(例えばシンカリオンTVではコメントできない仕様になっている[65]、タカラトミー公式YouTubeチャンネルでは「毎週土曜 あさ7:00から TBS系全国28局ネットで放送中!」[78] というテロップが左上にほぼ常時表示されている(コロコロチャンネル版にもあるがテロップが少し異なる[79])など)。回によっては番組が始まる前に視聴者プレゼント告知シーンがあったり[80]、ラストにアニメサタデー630第1部の番宣(『七つの大罪 戒めの復活』→『ゾイドワイルド』)が流れることもある[81]。
番組公式ハッシュタグは「#みんなでシンカリオン見ようぜ」である。
次回予告の最後の台詞は「チェンジ!シンカリオン」。ただし、次回予告によっては「チェンジ」の部分が別のセリフになることもある[82]。
映画
2018年8月24日公開『映画 ドライブヘッド〜トミカハイパーレスキュー 機動救急警察〜』でハヤトとE5はやぶさがゲスト出演した。
アーケードゲーム
新幹線変形ロボ シンカリオン カードがもらえる! 超シンカバトル
2018年3月下旬より順次稼動開始[83]したトレーディングカードアーケードゲーム。発売元はタカラトミーアーツ。
ゲームアプリ
『エイリアンのたまご』(パオン・ディーピー):シンカリオン限定ガチャや限定ミッションを2018年7月27日から2018年8月26日まで実施。
『共闘ことばRPG コトダマン』(セガゲームス):2018年12月6日から2019年1月9日13:59まで(予定)[84]。「E5はやぶさ」をはじめとして(各運転士も含む)、敵側エージェント(ゲンブ、ビャッコ、スザク、セイリュウ)も登場する。
ショップ
テレビアニメと連動した店舗である<b data-parsoid='{"dsr":[124252,124267,3,3]}'>シンカリオンストア</b>を期間限定で全国各地に出店している。
脚注
注釈
出典
外部リンク
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A%E5%A4%89%E5%BD%A2%E3%83%AD%E3%83%9C%20%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%B3 |
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倫理学(りんりがく、、、、 )あるいは<b data-parsoid='{"dsr":[134,144,3,3]}'>道徳哲学(どうとくてつがく、)とは一般に行動の規範となる物事の道徳的な評価を理解しようとする哲学の研究領域の一つである。
法哲学・政治哲学も規範や価値をその研究の対象として持つが、こちらは国家的な行為についての規範(法や正義)を論ずることとなる。ただしこれら二つの学問分野が全く違う分野として扱われるようになったのは比較的最近である。
概観
倫理学の研究対象とは道徳の概念によって見定めることができる。この道徳の定義の問題に対して異なる見解が示されているが、一般的に道徳とは社会において人々が依拠するべき規範を確認するものである。しかし、道徳とは理性によりもたらされるものであるのか、感情によってもたらされるものであるかについては議論が分かれている。デイヴィッド・ヒュームの見解によれば、事実についての「である」という言明から規範についての「であるべき」という言明を結論付けることは論理的にできない。これはヒュームの法則とも呼ばれる主張であり、したがって理性によって道徳的な判断を導くことは不可能であると考える。ヒュームは道徳的な判断が感情に起因するものであるという立場にあり、より厳密には自身の利益から道徳性が発生したとも論じている。一方でイマヌエル・カントは理性から道徳法則を導き出している。カントは道徳性を自由選択と関連づけて理解しており、人間は自分自身の理性に従う時にだけ自由になることができると考える。そして理性によって人格として行為するための道徳的な規範の実在が主張される。このような道徳性の根源についての研究はメタ倫理学(Meta-ethics)の研究として包括することができる。
また道徳性の具体的な内容については規範倫理学(Normative ethics)という研究領域で扱われている。この領域で古典的アプローチの一つに徳倫理学がある。プラトンやアリストテレスの研究はその中でも最も古い研究であり、彼の分析は人間に固有の特徴に基づいた美徳を中心に展開している。例えば危機に際して蛮勇でも臆病でもなく、その中庸の勇敢さを発揮する人間の特性を指して美徳と呼ぶ。このような研究に対して義務論の学説は道徳規則に基づいている。カントは人間の道徳法則としてどのような場合においても無条件に行為を規定する定言命法という原理を提唱した。この立場において人間は実在する道徳規則に対して従う義務を負うことが主張される。また義務論と反対の立場に置くことができる立場として結果論の立場がある。この立場に立った功利主義の理論がジェレミー・ベンサムによって提示されている。ベンサムによれば、行為を正当化する時の判断の基準点とは行為によってもたらされる結果であり、具体的には効用によって計算される。ベンサムは行為がもたらす快楽の程度を最大化するように行為する最大多数の最大幸福の原理を提唱した。
歴史
ギリシア・ローマ
ソクラテス以前
古代ギリシアの伝統・神話に囚われない哲学的営みは、アナトリア半島(小アジア半島)西海岸のイオニア学派に始まる「自然哲学」と、イタリア半島南部(マグナ・グラエキア)のイタリア学派(ピタゴラス学派・エレア派)に始まる「数理哲学・論理哲学」という2つの潮流が主導する形で始まった。その中には、ピタゴラス学派(ピタゴラス教団)のように宗教教団的色彩を帯びたり、ヘラクレイトスのようにその世界観と共に倫理を説く者もいたが、後世で大きな潮流を成すには至らなかった。(とはいえ、これらが後述するプラトンの思想形成に一定の影響を与えた事実は見逃せない。)
ソクラテス・プラトン
ここに、第3の哲学として「倫理哲学」(倫理学)を確立・大成するに至ったのが、アテナイを拠点としたソクラテスと、彼を題材として多くの著作を残したプラトンである。(紀元後3世紀に『ギリシア哲学者列伝』を書いたディオゲネス・ラエルティオスも、その著書の中で、ソクラテスを「倫理学」の祖と明記している[1]。)
ソクラテスは、問答法(弁証法・ディアレクティケー)を駆使しながら、「徳」の執拗な探求とその実践、そしてアテナイ人をはじめとする民衆への普及に生涯を費やした。彼自身は著書を残さなかったが、彼の弟子の1人であるプラトンが、(アテナイの民衆に刑死に追い込まれたその悲劇的な死も含め)その生涯を題材に数多くの著作(対話篇)を残し、彼の学園アカデメイアを中心に普及させたことで、その学派アカデメイア派の隆盛とともに、後世に大きな潮流を形成するに至った。
プラトンは、40歳頃にイタリア半島南部(マグナ・グラエキア)に旅行し、当地のピタゴラス学派・エレア派と交流を持ったことで、独自の思想を形成するに至り、「イデア論」を背景として「善のイデア」を探求していく倫理学思想を確立した。この倫理学は、個人で完結するものではなく、哲人王や夜の会議を通じて、現実の政治・法治・国家運営へと適用・活用されることが要請される。
また、ソクラテスには、プラトンの他に数多くの弟子・友人がおり、その中からはメガラのエウクレイデスに始まるメガラ学派、アリスティッポスに始まるキュレネ派、アンティステネスに始まるキュニコス派といった学派や、多くの著作を残したクセノポン等を輩出し、後世に影響を与えた。
アリストテレス以降
プラトンのアカデメイアで学んだアリストテレスは、アレクサンドロス大王の家庭教師を経つつ、50歳ごろにアテナイ郊外に自身の学園リュケイオンを設立し、倫理学を含む総合的な学究に務めた。彼の学派ペリパトス派(逍遥学派)は、プラトンのアカデメイア派と並ぶ一大潮流となり、後世に大きな影響を与えた。
アリストテレスの倫理学は、(論理学・形而上学と共に)ソクラテス・プラトンのそれを更に精緻化したものであり、「最高善」を究極目的とした目的論的・幸福主義的な倫理学としてまとめられた。また、ソクラテス・プラトンの場合と同じく、倫理学が政治学の基礎となっており、現実の政治・国制へと適用・活用することが要請される。
アリストテレスの倫理学的著作は、ペリパトス派(逍遥学派)の後輩たちに継承され、『ニコマコス倫理学』等として編纂された。
他の倫理学的学派としては、アカデメイアやリュケイオンで学んだエピクロスに始まるエピクロス派や、キュニコス派・アカデメイア派の影響を受けたゼノンに始まるストア派などがある。
古代ローマへは、キケロ等の著作を通じて、アリストテレスやストア派の思想が紹介・伝播され、ローマ帝国末期にキリスト教が席巻するまで、大きな影響力を誇った。(アリストテレスの著作・思想は、後に中東・イスラーム圏経由で、中世の欧州に再輸入され、スコラ学の形成に大きな影響を与えた。)
また、プラトンの思想は、ネオプラトニズムを経由しつつ、キリスト教神学・キリスト教哲学へと吸収され、その骨子の一部となった。
インド
古代インドでは、紀元前10世紀頃のアーリア人侵入以降、その祭祀階級であるバラモン等によって思想が醸成されていき、紀元前7世紀頃に聖典『ヴェーダ』の付属文献『ウパニシャッド』に表れるような哲学として結実していった。そこに現れる倫理学は、世界そのものであるブラフマンと各人の個我たるアートマンの一体性(梵我一如)へと認識を昇華させることで、サンサーラ(輪廻)から解脱することを人生の究極目的とする目的論としてまとめられる。この世界観・倫理観は、バラモン教の後継であるヒンドゥー教(アースティカ)に限らず、仏教・ジャイナ教のような『ヴェーダ』の権威を認めない後発の宗教(ナースティカ)も含め、後世のインドの思想・宗教・倫理観全般に絶大な影響を与えた。
紀元前6世紀頃から、中心地であるガンジス川流域で、仏教の開祖・ゴータマや、仏教勢力から「六師外道」と総称されるような自由思想家たちが現れ、様々な思想・倫理観を広めるなど活躍するようになった。
また、マウリア朝チャンドラグプタ王の宰相カウティリヤは、その著書『実利論』の中で、人生の目的を
アルタ(実利)
カーマ(性愛)
ダルマ(法)
のトリヴァルガ(三組)とする倫理観をまとめ上げ、後世に影響を与えた。
中国
春秋戦国時代の諸子百家の1つ、孔子に始まる儒家は、徳治主義を掲げ、徳の探求とその社会構成員への普及、内的向上を志向する点で、法治主義の法家と対比される。
儒家では様々な徳目が挙げられるが、最重要徳目は「仁」(人間愛)である。
また、墨家は「兼愛」(平等愛)を倫理的徳目として掲げるなど、儒家と対比される。
分類
メタ倫理学
メタ倫理学は道徳判断に含まれる概念の分析や倫理的主張の理論的正当化を課題とする倫理学の一分野である。20世紀に言語哲学や分析哲学の影響を受けて大いに流行した。代表的論者として、ジョージ・エドワード・ムーアなどがいる。
規範倫理学
規範倫理学は、広義の義務論、徳論、自由意志、広義の価値論について考察する倫理学の一分野である。どのような道徳や判断が善いのか(あるいは正しいのか)を探求する。快楽主義、幸福主義、非快楽主義、利己主義、利他主義、功利主義などの代表的な規範倫理学の立場がある。
功利主義…ジェレミ・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、R. M. ヘア、ピーター・シンガーなど
義務論…イマヌエル・カントなど
徳倫理学…プラトン、アリストテレス、G. E. M. アンスコム、アラスデア・マッキンタイアなど
応用倫理学(applied ethics)
メタ倫理学や規範倫理学の成果を現代の実践的な問題に適用する倫理学の分野である。
その応用範囲に応じて、以下のような領域がある。
生命倫理学
脳神経倫理学
医療倫理学
環境倫理学
経済倫理学
情報倫理学
動物倫理学
その他、応用倫理学
宗教からの分離
ドイツ哲学者のルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハは『ピエール・ベール』(1838年)において、宗教(一神教)から独立な倫理学の可能を論証した[2]。したがって、西洋において、宗教と倫理の分離は比較的新しい時代に行われた。一方、儒教では、『論語』の「子、怪力乱神を語らず」の伝統があり、近世日本では有鬼論と無鬼論に別れた(詳細は無神論近世日本を参照)。
イギリスのトマス・ヘンリー・ハクスリーは、自然、すなわち天をインモラルとはいわずにアンモラルといい、道徳観は人が作るものであり、天や地に客観的にあるものではないとした(新渡戸稲造 『修養』明治44年刊、第十章「逆境にある時の心得」内の「逆境の人はなぜ天を怨むのか」の項)。この天地による道徳説も近世日本ではすでに国学者の本居宣長(『古事記伝』『直毘霊』)によって否定されている(詳細は天および「道 (国学)」を参照)。
脚注
参考文献
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関連項目
哲学 - 習俗 - 価値 - 道徳
ニコマコス倫理学
自由意志
決定論
倫理学のトピック一覧
関西倫理学会
外部リンク
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アノニマス()は、インターネット上のハクティビズム活動家が緩やかにつながりをもった国際的なネットワークである。名目上、グループと関連しているウェブサイトにおいては「命令というよりもアイデアに基づいて運用されている非常に緩やかで、分散化された指揮系統をもったインターネット上の集まり」と評されている[2]。
概要
アノニマスはいくつかの掲示板やYouTubeの利用者から発生したともされている。掲示板では投稿する際に名前を入力しないと名無しを意味するAnonymousと表示される。後述の映画「We Are Legion」に出演したアノニマスメンバー(プロジェクト・チャノロジー メンバー)は「アノニマスというのは最初冗談で始まりました」「サイト全体をアノニマスというたった一人の人間が作っているとしたらどうだろう?と誰かが言い出したんです」と証言している。日本の雑誌取材によると、ホームページをアノニマスとして作成する段階から徐々に集団意識として芽生えてくる様がレポートされている。
初期の抗議活動もIRCではない掲示板で話し合われる事が多かった。この取材によればYouTubeにアップされた動画の削除に対し集団アノニマスとして抗議行動をとり、この攻撃を残念に思った人物が攻撃中止のビデオメッセージを投稿すると、それに感銘を受けた参加者「アノニマス」達が平和的な抗議デモに切り替えて、世界100都市7000人を超える平和的なデモ活動が行われたという[3]。この様に、必ずしもアノニマスの参加者がハッカーやクラッカーのみではなく、中にはクラッキング攻撃に否定的な集団もいる。対してオペレーション(Operation)と呼ばれるハッキング・クラッキング行動が2010年ごろから開始され、彼らは徐々に活動拠点を移していった。
行動を肯定するAnonOpsと、それを否定するAnonNetと呼ばれる「流行」に分かれたと見る向きもある。特定のリーダーは存在していないが、その時々のブームメントの牽引者が自然発生的に存在する。2013年には全てのインターネットを停止させるオペレーショングローバルブラックアウト(OpGlobalBlackout)が予告されたが賛同が集まらず自然立ち消えになった事もある[4]。この様に、参加・不参加は各人の自由であり、意識として必ずしも全体として統一したものとも限らない。「ラルズセック」のような分派が存在し、中にはホワイトハッカーに転身する者もいる[5]。
活動拠点を一つをIRCやそれ以外の掲示板などの様々なプラットフォームに広がった為、全体の総数は測定不能だが、IRC接続者が常時数百人程度はおり、これらのことから彼らがコアメンバーとみなされる事もある。アノニマスに人数を質問すると9000人以上と答えるジョークが存在する。ただしこれはパロディとされている。実際の全体総数では数千人規模とも言われ様々な地域や文化圏の人々が含まれていることが推測されるため、相互に異なる意見を内包しており自然発生的に小さな無数のグループが存在しているとIIJは推測している。また誰もがアノニマスを自称することが可能であり、アノニマスを自称しているに過ぎないハッカーやクラッカーも相当数存在する可能性を考慮に入れれば、正確な定義が困難な集団であるともいえる。主に抗議行動・DDoS攻撃・クラッキングを用いてハクティビズムに基づく政治を行う集団、またはそうした一連の活動を指すインターネットミームとも言える。また、「anonymous」という単語は「匿名の」という意味の形容詞である。
P2P規制、各国政府によるウィキリークスやアラブ騒乱に対する抑圧など、彼らが自由に対する脅威であるとみなしたものに対する大規模な攻撃を突発的に行ってきたが、アノニマスを有名にしたのは、2008年におけるサイエントロジー公式ウェブサイトへのDDoS攻撃である。関連ウィキサイトや、Encyclopædia Dramatica、その他の多数のインターネットフォーラムが、アノニマスに関係しているという説も存在している。
「Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.(我々はアノニマス。大群。許さない。忘れない。待っていろ。) 」を標語として掲げる。
起源
アノニマス () とは「匿名の」という意味をもつ形容詞である。語源は、ギリシャ語 ἀνώνυμος (anṓnumos、アノーヌモス): an- (英: without) + ónoma (name)、つまり“without name”「名前のない」からきている。
インターネットにおいては、掲示板に画像やコメントを投稿する際に名前を伏せるとき(匿名)に使用されている。この共有人格的な意味での使われ方のアノニマスは匿名画像掲示板が発祥である。この掲示板では、名を名乗らずコンテンツを投稿する人(名無しさんなどのように)に対して anonymous というタグがつけられる。しかし、掲示板において anonymous という言葉は、次第に本物の人間を表すようになっていった。4chan が流行するに従って、アノニマス=名もなき個人の集団という考え方は一種のインターネット・ミームとして定着していった[6]。つまり、アノニマスは広く、名付けられていない集団を示している。その定義では、簡単に一括りにできないということが強調され、その量の大きさを示す警句で示される。
インターネットを基礎にした最初の集合的無意識である。アノニマスは、烏合の衆が集団であるという意味で集団である。その集団をどう認識するかって? 彼らが同じ方向を向いて動いてるからだ。いつでも参加し、離れ、どっかへ行ってしまう。—クリス・ランダース, ボルチモアシティペーパー, April 2, 2008.[7]
活動
オーストラリア政府への攻撃
インターネット規制に抗議する形でオーストラリア政府にサイバー攻撃とデモなどの合法的な抗議活動を行っている。アノニマスは、これをOperation Titstormと呼んでいる。詳細は2010年2月オーストラリアサイバー攻撃の項目参照。
アラブの春
2010年から2011年にかけて起こっていたアラブ世界での反政府デモや騒乱(アラブの春)に関連して、アノニマスも活動を行っていることを示す報道が見受けられる。
チュニジアでのウィキリークス情報の検閲と、2010年から2011年にかけてチュニジアで起こった「ジャスミン革命」における情報統制に関連して、8つの政府のウェブサイトがアノニマスのDoS攻撃のターゲットとなった[8]。アノニマスは自らの作戦を「チュニジア作戦(Operation Tunisia)」とし、政府の規制に対する非難声明を記した公開書簡の形のウェブページで、チュニジア政府のサイトを書き換えた[9]。
2011年1月26日「Operation Egypt」(エジプト作戦)と名付けられたプレスリリースが公開され、エジプト政府は検閲を行い人々の言論や宗教の自由が抑圧されていると非難した。そしてエジプトの人々に対して、発言の自由や情報発信の権利を守るために現実世界とインターネットの両方の世界に置いて、共に立ち上がろうと呼びかけた[10][11]。2月初頭、アノニマスは反政府活動を行なう人々の支援を受け、エジプト情報省とムバーラク大統領のウェブサイトを攻撃しオフライン化させた[12]。
麻薬組織への対抗
2011年10月6日、アノニマスのメンバーを名乗る者が、メキシコの麻薬組織セタスにさらわれた仲間を助けるため、セタスに協力している人物の情報を公開するとYouTube上にアップロードした動画で脅した[13]。これにより、同年11月4日に仲間は解放された[14]。
違法ダウンロードの刑事罰化への対抗
2012年、6月20日に日本で可決された違法ダウンロードの刑事罰化に対する抗議活動を行うことを6月23日に宣言[15](米東部標準時25日、日本標準時26日午前2時ごろにTwitterでも宣言されたため、一部25日との報道あるが、実際は23日)[16]。26日に財務省、自民党、民主党などの公式ウェブサイトを[17]、翌27日夜には日本音楽著作権協会(JASRAC)[18]公式ウェブサイトをサーバダウンさせている。今後、日本国政府と日本レコード協会に対する攻撃をほのめかしており、日本の警視庁は、不正アクセス禁止法違反の容疑で、本格的な捜査に乗り出すことを発表した[19]。
その一方、「国土交通省霞ヶ浦河川事務所」を攻撃(「大飯原発再稼働反対」を訴える画像などを掲載)したものの、日本のネットユーザーから「『 霞ヶ関(かすみがせき)』を『霞ヶ浦(かすみがうら)』と間違えているのでは?」と指摘され、アノニマス側は「やっぱり日本語は難しい」とTwitterで述べている[20][21]。
北朝鮮への対抗
2013年、朝鮮民主主義人民共和国当局に対し人工衛星「光明星3号2号機」打ち上げを「弾道ミサイル発射実験」であるとして、また2012年の米国の核実験や米韓合同軍事演習「キー・リゾルブ」「フォールイーグル」に対抗する一連の措置を採ったことについて「核実験を行った」として一方的な抗議活動を行い、関係の複数サイトを攻撃。サイト「わが民族同士」をハッキングした問題で、サイトに関する情報などを公開した。
過激派組織ISILへ宣戦布告
2015年2月8日、中国メディア・澎湃新聞網は、アノニマスが過激派組織ISILへ宣戦布告したと伝えた。ISILはあらゆるSNSやインターネットを巧妙に利用し、世界中から参加者や賛同者を募っており、プロパガンダの重要なツールとしている。アノニマスはこうしたISILの態度に対し、「われわれはお前たちを追いかけ、アカウント、電子メール、個人情報のすべてを暴く。お前らはウイルスで、われわれは治療者だ」と宣言し、数日間でISILに関するフェイスブックやツイッターのアカウント数100件を削除したとした上で、世界中のハッカーに対し、ネット上のISILのプロパガンダに対抗するよう呼びかけた[22]。一方でISILのアカウントを削除することで彼らの動きがつかみにくくなるマイナス面を指摘する声もある[23][24]。
2015年11月17日、「ISフランス州」名義でパリ同時多発テロ事件の犯行声明を出したことを受けて、大規模なサイバー攻撃を仕掛けると予告する動画をYouTubeにて公開した[25][26]。
ネットいじめの犯人探し
カナダの15歳の少女がネットいじめによって自殺したことを受け、アノニマスはいじめの主犯格とされる男の名前と住所をネット上に公開した[27]。
KKK名簿の公表
2015年11月5日、クー・クラックス・クランの支持者とする約1000人の名前を公表した。ハッキングではなく、専門家への取材とデジタル諜報やソーシャル・エンジニアリングを使ったとしている[28]。
映画
We Are Legion: The Story of the Hacktivists
アノニマスを映画化したものに、『We Are Legion: The Story of the Hacktivists』(en:We_Are_Legion)が存在する。米Luminant Media社2012年制作。93分続くドキュメンタリー映画作品で、関連ニュース番組、元アノニマス(逮捕者およびその家族含む)、現アノニマス、アノニマスを研究している大学教授、関係が深いマスコミ記者などの専門家やアノニマスに攻撃されたセキュリティ会社元社長など複数のインタビュー取材を集積したものでアノニマスの真相に迫る作品として日本ではNHKが2013年3月5日に邦題「アノニマス〜“ハッカー”たちの生態〜」として放送した[29]。現在、日本語字幕を付け短く編集された編集版がYoutubeにアップロードされ公開されている[30]。LAダウンタウン映画祭 最優秀ドキュメンタリー賞ほか複数の受賞が公式HP上にて確認できる。公式サイトには「私たちは多数あるハクティビストの物語」つまり続編の制作を発表している[31]。
プランBエンターテインメントによる映画化
2014年4月ブラッド・ピットが所有する映画制作会社プランBエンターテインメントはアノニマスの逮捕者 Deric Lostutter(デリク・ロスタッター)および彼が暴いた事件の映画化権利を獲得した、とハリウッド系メディア[32][33]とイタリアメディア[34]は報じている。実際の制作スケジュールやキャストあるいは題名・公開予定日などは不明。
関連
ハッキング
2010年ペイバック作戦
2011年チェニジア作戦
2011年アンチセック作戦
ISISちゃん
en:Topiary (hacktivist)
脚注
参考文献
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動画 日本語字幕付 (デモクラシーナウ!ジャパン 2011.08.16)
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%8B%E3%83%9E%E3%82%B9%20%28%E9%9B%86%E5%9B%A3%29 |
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ウォルター・ブルース・ウィリス(Walter Bruce Willis, 1955年3月19日 - )は、ドイツ生まれのアメリカ人俳優であり、プロデューサー、ミュージシャンでもある。彼のキャリアは1980年代から始まり、それ以来コメディ、ドラマ、アクションといったジャンルで、テレビと映画の両方で活躍している。『ダイ・ハード』シリーズの主人公ジョン・マクレーン役でよく知られている。他にも60作品以上に出演し、『パルプ・フィクション』(1994年)、『12モンキーズ』(1995年)、『フィフス・エレメント』(1997年)、『アルマゲドン』(1998年)、『シックス・センス』(1999年)、『アンブレイカブル』(2000年)、『シン・シティ』(2005年)、『森のリトル・ギャング』(2006年)、『RED/レッド』(2010年)のように興行的成功を収めた作品も多い。
彼は2度エミー賞とゴールデングローブ賞を受賞し、4度サターン賞にノミネートされた。ウィリスはデミ・ムーアと結婚し、2000年に別れるまでに3人の子供をもうけた。現在はモデルのエマ・ヘミングと結婚しており、1人の娘が生まれた。左利き。身長182cm。
生い立ち
ウィリスは西ドイツのイダー=オーバーシュタインで生まれる。彼の母親マレーネ・Kはドイツ人であり、カッセル近郊のカウフンゲンの出身。父親のデイヴィッド・ウィリスはアメリカ人兵士でアイダホ州南東部のイングランド系の家庭に生まれた[1][2][3]。ウィリスは4人目の子供であり、姉のフィレンツェ、兄のデイヴィッド、そして2001年に42歳で膵癌によって死亡した兄のロバートがいた[4]。ウィリスの父親は1957年に除隊すると家族を連れてニュージャージーのカーニーズ・ポイントに引っ越した[5]。母親は銀行で働き、父親は溶接工のマスター・メカニックと工場労働者になった。ウィリスはペンス・グローヴ高等学校に通った。彼はここで吃音に悩まされる。だがステージの上で自分自身を表現すると吃音はすぐに消えた。ウィリスはその後もステージで演じ続け、高校では演劇部に所属、生徒会長も務めた。
高校卒業後、ウィリスはセイラム原子力発電所[6][7]で警備員として働いた。他にもディープウォーターのデュポンで輸送業者や工場労働もした[7]。
私立探偵として働いた後(彼はテレビシリーズ『こちらブルームーン探偵社』と1991年の映画『ラスト・ボーイスカウト』で私立探偵役を演じる)俳優として活動した。モントクレア州立大学の演劇部に入り、クラスで戯曲『熱いトタン屋根の猫』を演じた。ウィリスは3年生で大学を中退するとニューヨーク市に移り住んだ[2]。
いくつかのオーディションを受けた後、オフ・ブロードウェイの Heaven and Earth でデビューを果たす。彼は Fool for Love によく出演して経験を積んだ上、リーバイスのコマーシャルにも出演した。
キャリア
キャリアの始まり
オーディションを受けるため、ウィリスはニューヨークを離れてカリフォルニアに渡った[2]。1984年、テレビシリーズ『特捜刑事マイアミ・バイス』の「地対空ミサイル強奪!武器密輸ルートを追え」に出演した[8]。その後シビル・シェパード主演『こちらブルームーン探偵社』(1985年 - 89年)のデビッド・アディスン・ジュニア役のオーディションを受けて3000人の候補者の中から選ばれた[9]。このシリーズはシーズン5まで続き、彼はコメディ役者としての地位を確立する[5]。
1987年、ブレイク・エドワーズの作品『ブラインド・デート』でキム・ベイシンガー、ジョン・ラロケット[5]と共演する。エドワーズ監督は『キャデラック・カウボーイ』(1988年)でウィリスを再び起用する。このとき彼は実在のカウボーイトム・ミックス役だった。さらにその後『ダイ・ハード』(1988年)に出演し、彼が予期しなかったほどのスターとなる[5]。この映画の中ではほとんどスタントなし[10]で演じた。世界興行収入は140,767,956ドルを記録した[11]。1980年代後半にはウィリスはレコーディング・ミュージシャンとしてある程度の成功をおさめた。
1990年代
『ダイ・ハード』のジョン・マクレーン役で成功したウィリスは続編である『ダイ・ハード2』(1990年)と『ダイ・ハード3』(1995年)にも出演した[5]。この『ダイ・ハード』3部作は全世界で7億ドルを超える興行収入を得て、ウィリスはハリウッドの人気スターになった。
1990年代、ウィリスは『虚栄のかがり火』や『ハドソン・ホーク』といった主演映画の赤字に苦しんだ。他にも『薔薇の素顔』は批評家たちに酷評されたが高評価も受け、この映画は1995年のアメリカで最もレンタルされている映画トップ20にランクインした。1994年、彼はクエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』で絶賛される。これが新たな弾みとなり、1996年のカートゥーン Bruno the Kid でエグゼクティブ・プロデューサーを務め、自らをCGIで表現した[12]。
『12モンキーズ』(1995年)と『フィフス・エレメント』では世界を救う男を演じた。90年代後半には『ジャッカル』や『マーキュリー・ライジング』、『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』に出演するもさほど評判にはならなかった。1998年のマイケル・ベイ監督作品『アルマゲドン』は世界的に大ヒットし、同年、プレイステーションのゲーム『アポカリプス』に主人公の外見と声の出演をした[13]。1999年のM・ナイト・シャマラン監督作品『シックス・センス』は興行的に成功しただけでなく、ウィリスの演技力も高い評価を受けた。
2000年代 - 2010年代
2000年、ウィリスは『フレンズ』への出演によってエミー賞[14]ゲスト男優賞コメディ部門を受賞した(彼はこのドラマの中でロス・ゲラーのはるか年下のガールフレンドの父親を演じた)[15]。2001年にも『フレンズ』でアメリカンコメディ賞(シリーズにおかしな男の役でゲスト出演した)にノミネートされた。そして2000年に『隣のヒットマン』にジミー・“チューリップ”・チュデスキ役で出演し、マシュー・ペリーと共演した。また、『オーシャンズ11』(2001年)にテリー・ベネディクト役で出演予定だったがアルバムのレコーディングのために断った[16]。その後『オーシャンズ12』(2004年)に本人役でカメオ出演を果たしている。2007年、『グラインドハウス』の『プラネット・テラー in グラインドハウス』にヴィランのミュータント兵士役で出演した。ウィリスはこの作品で『シン・シティ』に続きロバート・ロドリゲス監督とタッグを組んだ。
ウィリスは何度かアメリカの人気テレビ番組「レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン」に登場した。またこれまでにサミュエル・L・ジャクソンといくつかの映画で共演している(『ローデッド・ウェポン1』、『パルプ・フィクション』、『ダイ・ハード3』、『アンブレイカブル』)。他にも娘であるルーマー・ウィリスと2005年の映画『ホステージ』で共演した。2007年にはハル・ベリー主演のスリラー『パーフェクト・ストレンジャー』と、犯罪ドラマ映画でシャロン・ストーンが出演している『アルファ・ドッグ 破滅へのカウントダウン』に登場した。そして『ダイ・ハード4.0』で再びジョン・マクレーンに扮した。最近では『トラブル・イン・ハリウッド』や同名コミックが原作の[17]『サロゲート』で姿を見せている。
ウィリスは2010年2月のケヴィン・スミス監督作品『コップ・アウト 〜刑事した奴ら〜』でトレイシー・モーガンと共に盗まれた野球選手のカードを追う刑事を演じた[18]。また、ゴリラズの「スタイロ」のミュージック・ビデオにも出演した[19]。同年には『エクスペンダブルズ』で、80年代を代表するアクションスターであるシルヴェスター・スタローンとアーノルド・シュワルツェネッガーとの共演を果たした。彼は“ミスター・チャーチ(「教会」という意味)”として登場した。この3人が共演するのはこのときが初めてである。共演シーンは短かったものの、そのシーンは映画の見所として期待されていた。3人は2009年の10月24日に空の教会でこのシーンの撮影をした。最近の出演作品で有名なものの中に『RED/レッド』がある。同名コミック・ミニシリーズの映画化作品である。2010年に公開されたこの映画で彼はフランク・モーゼズ役を演じた。
『ムーンライズ・キングダム』ではビル・マーレイ、エドワード・ノートン、フランシス・マクドーマンドと共演した。監督はウェス・アンダーソン、撮影はロードアイランド州で行われた[20]。また、『エクスペンダブルズ2』(2012年)にも出演した。SFアクション映画『LOOPER/ルーパー』(2012年)ではジョセフ・ゴードン=レヴィットと共演しゴードン=レヴィットが演じたキャラクター、ジョーの未来を演じた。
ウィリスはデイヴィッド・バレット監督作品『ファイヤー・ウィズ・ファイヤー 炎の誓い』で50セントと共演した。主演はジョシュ・デュアメル[21]。他にもヴィンス・ヴォーンやキャサリン・ゼタ=ジョーンズが出演する『噂のギャンブラー』に登場。スティーヴン・フリアーズが監督を務めている。この映画はラスベガスのカクテルウェイトレスが一流のギャンブラーになる物語である[22]。この2作品の配給はライオンズゲートとなっている。
2011年10月12日に『ダイ・ハード』シリーズの続編『ダイ・ハード/ラスト・デイ』の制作が発表された。2013年2月14日(バレンタインデー)にアメリカと日本で公開となった。この作品はシリーズの5作目である[23]。
今後の映画
ウィリスはテレビゲーム『KANE&LYNCH: DEAD MEN』の映画化作品『ケイン&リンチ』への主演が決定している[24]。
事業活動
ロサンゼルスに不動産を所有し、ニューヨーク市のトランプ・タワーの一室を借りている[25]。また、マリブの家、モンタナ州の牧場、タークス・カイコス諸島のパロット・キーにある海岸の家が有名である。
2000年に、ビジネス・パートナーのアーノルド・リフキンと共にシャイアン・エンタープレスと呼ばれる映画制作会社を始めた。彼は、『ダイ・ハード4.0』の後に会社を去り、リフキンに任せている[26]。他にも、ヘイリーでいくつかの小さな事業を行っている。その中には、ミント・バーやリバティ・シアター、俳優のアーノルド・シュワルツェネッガー、シルヴェスター・スタローンと共同経営のプラネット・ハリウッドが含まれている[27]。2009年、フランスの会社ベルヴェイダーのソビエスキー・ウォッカの3.3%の所有権と引き換えに、この会社の国際的キャラクターになった[28]。
私生活
ゲイリー・クーパーやロバート・デ・ニーロ、スティーブ・マックイーン、ジョン・ウェインを演技の手本にしている[29]。
結婚と家族
映画『張り込み』のプレミアで、女優のデミ・ムーアと出会う。2人は1987年11月21日に結婚し、2000年10月18日までにルーマー・ウィリス(1988年8月16日生)、スカウト・ラルー・ウィリス(1991年7月20日生)、タルーラ・ベル・ウィリス(1994年2月3日生)の3人の娘をもうけた。2人の離婚の理由についてウィリスは、「自分が父親や夫としての役割を果たしていなかった」と述べている。離婚後、ムーアはアシュトン・カッチャーと再婚した。ウィリスも、2人の結婚式に出席した。
2009年3月21日にタークス・カイコス諸島でエマ・ヘミングと再婚。ムーアとカッチャー、3人の娘もゲストとして招かれた。しかし、この式典は公式なものではないため、6日後にビバリーヒルズで正式に結婚式を挙げた。2012年に娘が生まれ、マーベル・レイ・ウィリスと名付けている[30]。
軍隊との関係
ウィリスは『マーシャル・ロー』や『ジャスティス』、『ティアーズ・オブ・ザ・サン』、『グラインドハウス』といった映画で軍人を演じている。軍人の家で育ったウィリスはアメリカ軍のためにガール・スカウト・クッキーの販売に公式に協力している。2002年、ウィリスの末娘タルーラは、ウィリスが軍隊に送るためにクッキーを購入したという趣旨の発言をした。ウィリスは12,000箱のクッキーを購入しそれらは空母ジョン・F・ケネディに贈られ、そこから中東全域の部隊に配布された。また2003年、ウィリスはUSOのツアーの一環としてイラクを訪れ、彼のバンド「The Accelerators」と共に歌を歌った。
日本に関する事
日本ではCMに出演。1991年にNTTドコモのムーバ(アナログムーバ)の初代イメージキャラクターや、三貴の「じゅわいよ・くちゅーるマキ」のイメージキャラクター、スバル・レガシィの初代イメージキャラクターに起用された。2005年になって同車の累計生産台数300万台突破を機に、4代目のイメージキャラクターに復活。キャッチコピーは「レガシィを祝福するために、ブルースが帰ってきた」。古くは『ダイ・ハード』の屋上ジャンプシーンを連想させるキリンポストウォーターのCM(デミ・ムーアが共演)に出演し、2000年には日本コカ・コーラの缶コーヒージョージアのCMに半年間出演した。『アルマゲドン』ヒット時にはENEOSのCMにも出演していた。2011年にはダイハツ・ミライースのCMに、2014年には興和の「コーワパワードコーヒー」CMに出演。
日本語吹替は主にビデオソフト収録用を樋浦勉や磯部勉、内田直哉が、テレビ放映時は野沢那智、村野武範が担当することが多い。
プチ・ブルースというものまねタレントが存在する。
出演作品
映画
テレビシリーズ
プロデューサー
受賞と栄誉
ウィリスはテレビと映画の功績によって数々の賞を受賞している。
『こちらブルームーン探偵社』でエミー賞(“主演男優賞ドラマ部門”)とゴールデングローブ賞(“男優賞ミュージカル・コメディ部門”)を受賞し、さらにいくつかのノミネートを受ける。
『イン・カントリー』ではゴールデングローブ賞“助演男優賞”にノミネートされる。
「マクシム・マガジン」は『薔薇の素顔』(1994年)における彼のパフォーマンスを映画史上最もセクシーなシーンであるとした。
1999年のドラマ / スリラー映画『シックス・センス』では、ウィリスはブロックバスター・アワード(“男優賞サスペンス部門”)とピープルズ・チョイス・アワード(“男優賞ドラマ部門”)を受賞する。他にサターン主演男優賞とMTVムービー・アワードの“最優秀男優”と“最優秀二人組”にノミネートされた。
2000年、ウィリスは『フレンズ』でエミー賞ゲスト出演賞テレビ部門を受賞した。
2002年2月、ウィリスはハーバード大学のヘイスティ・プディング・シアトリカルズによるヘイスティ・プディング賞マン・オブ・ザ・イヤーを受賞する。大学によれば、この賞はエンターテインメントの世界に長らく残るであろう印象的な演技に贈られるものである。
さらに2002年、ウィリスは大統領ジョージ・W・ブッシュに、里親に預けられた子供たちの国際的スポークスマンに任命される。
2006年4月、フランス政府は映画業界に対するウィリスの貢献を称えた。
2006年10月16日、ウィリスはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名前を埋め込まれる。場所は 6915 Hollywood Blvd にあり彼は2,321番目に名前を加えたスターである。
脚注
外部リンク
on IMDb
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ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん; English: Battle of Midway)は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日(6月3日から5日とする場合もある[1])にかけて、ミッドウェー島付近で行われた海戦。同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生し、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊及び同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は主力空母4隻とその搭載機約290機の全てを一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失った。ミッドウェー海戦はMI作戦の一部であり、この敗北で同作戦は中止された。
背景
MI作戦の成立
太平洋戦争開戦前、日本海軍は対米作戦の基本的な方針として守勢の邀撃作戦を採っていた[2]。連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた[3]。大島一太郎大尉(後に大佐、1928年〈昭和3年〉海軍水雷学校高等科学生)の戦後の回想によれば、1928年(昭和3年)に海軍水雷学校で「対米作戦はハワイを攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べている。これは、まず国力から見て圧倒的に劣勢の日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃するアメリカに勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには、早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しか勝機がないと判断したためと言われている。さらに山本長官は太平洋戦争開戦前より、敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的打撃が大きいと考えていた点も関係している[4]。及川海軍大臣宛の書簡、黒島参謀の回想によると、山本長官のミッドウェー作戦の第一の狙いがアメリカ海軍・アメリカ国民の士気を喪失させることで、また本土空襲の精神的打撃を大きいと認めている点が分かる。すなわち相当の危険性を承知でアメリカに対し、戦争で勝利するためには積極的な攻勢しかないと考えていた[5]。アメリカ海軍は、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃で太平洋艦隊主力の戦艦部隊が行動不能となった後、稼動状態にあった機動部隊を中部太平洋方面に出撃させ、日本軍拠点に対する一撃離脱戦法による襲撃を繰り返した。その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた[6]。日本軍はマーシャル諸島、ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。アメリカ軍の奇襲による被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した[7]。
日本の連合艦隊は、真珠湾攻撃後は南方作戦に機動部隊主力を投入していたが、セイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければならなかった[8]。連合艦隊幕僚は戦争を早期終結できる作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢の困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。結果、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に、ハワイ攻略を見据えた作戦計画を立案した[9]。軍令部は日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断し、むしろインド洋方面の作戦を強化してイギリスを追い詰め、間接的な同盟国ナチスドイツ支援を構想していたという意見もある[10]。
ハワイ攻略が企図できるようになるまで間隔が空くため、連合艦隊はMI作戦を提案した。これはハワイ攻略の準備ではなく、つなぎであったが、この作戦によって米空母を撃滅できれば、ハワイ攻略作戦は容易になるとは見ていた[11]。軍令部と連合艦隊司令部はこの作戦について対立した。軍令部は米豪交通を遮断するため、フィジー方面の攻略を計画していた[12]。軍令部航空担当部員の三代辰吉中佐は「仮に日本軍が同島を占領しても、米艦隊は本当に来るのか。日本軍の補給路がアメリカ軍に遮断され、疲弊したところを簡単に奪回されるだけではないか」と考え反対し、FS作戦(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略)重視の立場を崩さなかった[13]。連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、真珠湾攻撃で空母6隻の使用を認めさせた時と同様の交渉をしたが、話は進まなかった[14]。大本営海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、伊藤整一軍令部次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた[15]。伊藤次長はこれをふまえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定[16]、永野修身軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった[17]。古村啓蔵(筑摩艦長)は同期の富岡定俊軍令部作戦課長から、艦隊はミッドウェー攻略成功後にトラックに集合・米豪遮断のFS作戦実施予定と聞き、驚いていたという[18]。
さらに軍令部はミッドウェーと同時にアリューシャン列島西部を攻略し、米航空兵力の西進を押さえるとともに、両地に哨戒兵力を進出させれば、米空母のわが本土近接を一層困難にすることができると判断し、そのためのAL作戦実施を連合艦隊にはかり、連合艦隊でもその必要性を認めていたし、攻略兵力にも余裕があったので直ちにこれに同意した[19]。AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害しシベリアにアメリカの航空部隊の進出を妨害しようとするものであった。当時開発されたとの情報があった米大型爆撃機による帝都空襲が行われ、その一部が奇襲に成功したことで同方面の関心はさらに強くなった。図上演習においてアリューシャン方面からアメリカの最新大型爆撃機が首都空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景があり、連合艦隊もこれに同意、第二段作戦の全体像が固まった[20][21]。軍令部第一部長福留繁によれば、「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した」という[22]。
1942年4月5日、海軍の次期作戦構想が内定し、主務者連絡で陸軍に伝えた。ミッドウェー攻略は海軍単独で行うが、できれば陸軍兵力の派出を希望するとした。陸軍参謀本部は、ハワイ攻略の前提ではないことが明言され、海軍単独でも実施してもよいとのことだったので反対できなかった[23]。
ドーリットル空襲
1942年4月18日、空母ホーネットはミッドウェーでエンタープライズと合流し、第16任務部隊は日本に向けて進撃した。「エンタープライズ」は航空支援を、ホーネットは日本本土に接近、ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル双発爆撃機で編成された爆撃隊を輸送する役割分担である。爆撃隊は「ホーネット」から発進後、東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった。第16任務部隊は4月18日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇第二十三日東丸に発見され、ウィリアム・ハルゼー中将は予定より早い攻撃隊発艦を決意する。爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、ホーネットは大きく揺れていた。その中でドーリットル隊は発進し、09:20までに16機のB-25は全て発艦した。
B-25爆撃隊は、東京、名古屋、大阪を12時間かけて散発的に爆撃、中国大陸に脱出後、不時着放棄された。セイロン沖海戦で勝利した南雲機動部隊は台湾沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離は遠すぎ、燃料を浪費しただけだった[24]。
空襲による被害は微小であったが、日本本土上空にアメリカ軍機が侵入したことは日本に大きな衝撃を与えた。またアメリカ軍が航続距離の長い双発爆撃機を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けた。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き[25]、山本長官にも国民からの非難の投書があった[26]。
山本長官は以前から本土空襲による物質的精神的な影響を重視していたため、すでに内定していたミッドウェー攻略作戦の必要をこの空襲で一層感じた。連合艦隊航空参謀佐々木彰によれば、山本長官はわが空母によるハワイ奇襲が企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分なわが本土に対しても、彼もまた奇襲を企図できると考えていたようであるという[27]。この空襲により日本陸軍もミッドウェー作戦・アリューシャン作戦を重大視するようになり、陸軍兵力の派遣に同意、ミッドウェー作戦は日本陸海軍の総攻撃に発展した[28]。昭和天皇の住む東京を爆撃されたことで山本長官のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったと推測や[29]、二度目のドーリットル空襲を防ぐためにミッドウェー攻略作戦を急ぐ必要があり、空母瑞鶴を有する第五航空戦隊の戦力が回復するのを待てなかったという推測もある[30]。
日本の準備
MI作戦の内容
連合艦隊が計画したミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊(空母機動部隊)を誘い出し捕捉撃滅することに主眼が置かれた。日本軍は同島をアメリカ軍の要点であり[31]、占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍は全力で奪回しようとすると考えた[32]。一方、軍令部では、ミッドウェーは攻略後の防衛が困難で、わざわざ米空母が出撃してくるとは考えにくいと見ていた[33]。
作戦構想では現時点で豪州方面で活動している米空母部隊がミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と計算していた。日本軍は情報分析の結果、アメリカ軍の空母戦力を以下のように推定した[34]。
空母レンジャーは大西洋で活動中。
捕虜の供述によればレキシントンは撃沈されたようであるが、アメリカ西海岸で修理中という供述者もある。
エンタープライズとホーネットは太平洋に存在。
ワスプの太平洋への存否については確証を得ない。
特設空母は6隻程度完成、半数は太平洋方面に存在の可能性があるも、低速なので積極的作戦には使用し得ない。
これをふまえ日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現するアメリカ軍規模を、「空母2-3隻、特設空母2-3隻、戦艦2隻、甲巡洋艦4-5隻、乙巡洋艦3-4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻、潜水艦25隻」と判断した[35]。アメリカ軍が同島に海兵隊を配備し、砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「飛行艇24機、戦闘機11、爆撃機12、海兵隊750、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり[36]、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機100機、戦闘機200機」の増強もあると推測[37]。同島占領の際にはアメリカ軍基地航空隊から空襲を想定していたが、直掩の零戦と対空砲火で排除できるとしている[38]。日本軍が海兵隊3000名、航空機150機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった[39]。
作戦は、ミッドウェー島上陸日(N日)を6月7日と決定して一切を計画した。上陸用舟艇で敵のリーフを越えて上陸するため、下弦月が月出する午前0時を選んだ。7月は霧が多く上陸が困難なため、6月7日に固定した。上陸作戦の制空と防備破壊は3日前(後に延期で2日前になる)に南雲艦隊が空母6隻で奇襲することで可能と考えた。連合艦隊は奇襲の成功を前提にしており、アメリカが日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。米機動部隊の反撃は望むところであったが、米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戦を計画した。ミッドウェー島占領後、基地航空部隊の哨戒網で敵機動部隊を発見、一航艦は第二艦隊と協力してそれを攻撃、山本艦隊は機を見て参加し撃滅するというものだった[40]。
MI作戦の主目標はミッドウェー島攻略と米機動部隊(空母部隊)撃滅のどちらにあるのかはっきりしておらず、連合艦隊は米機動部隊撃滅を重視する発言をしていたが、軍令部は主目標を攻略による哨戒基地の前進にあると示していた。軍令部で作戦計画の説明を受けた第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介少将と第二艦隊参謀長白石萬隆少将は、ドーリットル空襲の直後だったため、哨戒基地の前進によって米空母による本土再空襲を阻止するものと抵抗なく解釈し、ミッドウェー作戦の主目的は同島攻略という強い先入観を得た。また、5月の図上演習で陽動で米艦隊を他に誘導してミッドウェーを攻略する案が出た際、連合艦隊参謀長から陽動をしたら米艦隊を引き出せないと説明したが、この直後、軍令部に基づく大本営命令、総長指示で攻略が主目標に示されたので、白石少将は連合艦隊の解釈が間違っているのではと思ったという。連合艦隊は出撃前に再び米艦隊の撃滅が目的と伝えるが、参加部隊には徹底して伝わらなかった[41]。
戦後、草鹿は作戦目標があいまいでミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している[42]。
第一航空艦隊源田実中佐は、日本の兵力が分散し過ぎて目標を見失っており、集中という兵術の原則にも反していると感じたため、図上演習後の研究会で連合艦隊参謀黒島亀人に「作戦の重点をアメリカ艦隊撃滅に置くべきである。そのためにはアリューシャン攻撃部隊やあらゆる作戦可能な兵力を、たとえ第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴)が参加できるのを待ってもミッドウェーに集中すべきだ」と主張したが、黒島は「連合艦隊長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウェー攻略支援だ」と答えたため、アメリカ艦隊撃滅は二次的なものと源田は受け止めた[43]。源田実は、作戦目標がアメリカ軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし、戦略戦術からいってどうにも納得できない部分があり航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で大和と山本長官が後ろからついてくる事も疑問だったという[44]。
図上演習
4月28日から1週間かけて戦艦大和で行われた「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」では、日本軍にとって不安な結果が出た[45]。5月1日から4日間は第二段作戦の図上演習を実施、図上演習ではハワイ攻略まで行われた。実演は3日午後に終わり、3日夜と4日午前にその研究会を行い、4日午後からは第二期作戦に関する打ち合わせが行われた[46]。図上演習では、連合艦隊参謀長宇垣纏中将が統監兼審判長兼青軍(日本軍)長官を務め、青軍の各部隊は該当部隊の幕僚が務め、赤軍(アメリカ軍)指揮官は戦艦「日向」艦長松田千秋大佐が務めた[47]。
この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現し、艦隊戦闘が行われ、日本の空母に大被害が出て、攻略作戦続行が難しい状況となった。審判をやり直して被害を減らして空母を三隻残して続行させた[48]。空母加賀、赤城は爆弾9発命中判定で沈没判定となり[49]、宇垣纏連合艦隊参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、赤城を復活させた[49]。攻略は成功したが、計画より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部の駆逐艦は座礁した[48][50]。宇垣は「連合艦隊はこうならないように作戦を指導する」と明言した[48]。[注 1]また、攻略前に米機動部隊がハワイから出撃してくる可能性はあったが、図上演習でアメリカ軍を担当した松田大佐は出撃させることはなかった[52]。
戦訓分科研究会において、連合艦隊司令部の宇垣参謀長は一航艦の草鹿参謀長に対し、「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿参謀長は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣参謀長が草鹿参謀長を追及すると、一航艦の源田参謀が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、これと巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた[53][54]。そのため宇垣参謀長は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に第一航空艦隊はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備えることとした[53]。米機動部隊が現れた際に反撃するために第一航空艦隊の半数は魚雷装備となったが、連合艦隊首席参謀黒島亀人大佐は命令として書き込む必要はないと航空参謀佐々木彰中佐に指示した[55]。
研究会で作戦参加者から最も要望されたのが準備が間に合わないことによる作戦延期だった[56]。第二航空戦隊司令官山口多聞少将と一航艦航空参謀源田実中佐は作戦に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は聞く耳を持たなかった[57]。4日の研究会で、第一航空艦隊参謀長草鹿少将と第二艦隊参謀長白石少将も作戦に反対したが、受け入れられず、5日に再び反対しに行ったが、第二段作戦を手交され、反対せずに帰った[58]。第二艦隊長官近藤信竹中将は、米空母がほぼ無傷で残っており、ミッドウェー基地にも敵戦力があることからミッドウェー作戦を中止して、米豪遮断に集中すべきと反対した。しかし、山本長官は奇襲が成功すれば負けないと答えた。また、近藤中将は、ミッドウェー島を占領しても補給が続かないと指摘したが、宇垣参謀長は不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答え、攻略後の保持、補給には考えがなかった[59]。占領後、他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていたという意見もある[60]。
図上演習と研究会は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母捕捉撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は問題点を確認することなく作戦を発動した。特に山本長官は「本作戦に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している[61]。第五艦隊参謀長中澤佑によれば、中沢が作戦会議で機動部隊と連合艦隊主隊の距離が離れすぎていることを指摘すると、黒島は問題ないと発言したという[62]。
5月25日、MI作戦における艦隊戦闘の図上演習・兵棋演習、続いて作戦打ち合わせを行い、関係者の思想統一を図った。ミッドウェー攻略の次の日から始まっており、アメリカの主力および空母はオアフの南東450海里から西方に急進中の状態から立ち上がった[63]。攻略前の作戦(ミッドウェー海戦)が奇襲によって成功することが前提で、敵機動部隊が現れることも考慮していなかった[64]。連合艦隊は第一航空艦隊に対し敵艦隊に作戦中備えるように指導しながら、図上演習では攻略の翌日に敵艦隊がハワイにいるものとし、研究会では「敵艦隊が反撃に出てくれば、もうけものである」と発言しており、出現の可能性に対する判断は極めて薄く、この空気は各部隊に伝わっていたという意見もある[65]。打ち合わせにおいて第一航空艦隊は、部品が間に合わないので延期を要望し、連合艦隊は一日だけ一航艦の出撃延期を認め、6月4日予定の空襲は5日に変更されたが、7日の攻略は変更されていないため、空襲前に攻略部隊船団が敵飛行哨戒圏内に入り、発見されやすくなった。連合艦隊はこれを敵艦隊誘出に役立つと考えた[66][67]。
出撃前日の5月26日、赤城において作戦計画の説明と作戦打ち合わせが行われた。山口少将から索敵計画が不十分という意見があった[68]。索敵計画を立案した第一航空艦隊航空参謀吉岡忠一少佐によれば、当時の敵情判断から索敵計画は改めなかったという。吉岡は、当時攻略作戦中敵艦隊がほとんど考えていなかったため、厳重にするのが良いのはわかっていたが、索敵には艦攻を使わなければならないので攻撃力が減ることとなり、惜しくて索敵にさけなかったとして、状況判断の甘さが原因と回想している[69]。
この計画での一航艦司令部の心配は、攻撃開始日が決まっているので奇襲のための機動の余地がなかったことと、空母はアンテナの関係から受信能力が十分でなく、敵信傍受が不十分となり、敵情がわかりにくいことであった。そのため、一航艦参謀長の草鹿少将は、連合艦隊が敵情を把握して作戦転換を指示することを連合艦隊参謀長の宇垣参謀長に取りつけた[69][70]。土井美二(第八戦隊首席参謀)によれば、草鹿参謀長が「空母はマストが低くて敵信傍受が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたという[71]。
参加部隊の状態
山本長官の意気込みとは反対に[72]、4月下旬に日本本土に戻った第一航空艦隊(南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来ドック入り、長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた[73]。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため[74]、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた[75]。
ミッドウェー海戦後の戦闘詳報では「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評している[74]。雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評されている[76]。水平爆撃と急降下爆撃は満足な訓練ができず、戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけ[77]。着艦訓練は訓練使用可能空母が加賀のみだけだったため、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分程度であった。戦闘詳報は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている[76]。
不安要素があったとはいえ、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた[78]。5月5日、永野軍令部総長より山本長官に対し大海令第18号が発令された[79]。
連合艦隊司令長官は陸軍と協力し「AF」(ミッドウェー)及「AO」(アリューシャン)西部要地を攻略すべし。
細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。
大海令第18号により、ハワイ攻略の前哨戦として山本長官、宇垣参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。これは戦艦大和他の戦艦部隊(第一艦隊)が呉の柱島を出撃、参加する初めての作戦であった。
淵田美津雄中佐によれば、第一航空艦隊航空参謀源田実は当時、第一段階作戦の後始末でミッドウェー作戦を検討する暇も無かったと打ち明けており、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空機搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり(航空機搭乗員の士気に関わるため)、ミッドウェー作戦の研究どころではなかったという[80]。草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く反対せず、何とかやれるだろうと考えていた。それよりハワイ攻撃の戦死者の2階級特進の方に関心があった」という[81]。
当初、瑞鶴、翔鶴を含む空母6隻の計画だったが、珊瑚海海戦の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の空母瑞鶴をミッドウェーに、大破した翔鶴を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし翔鶴の修理には3ヶ月要し、また瑞鶴も無傷であったものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊、補充を待ちの状態で、本作戦に不参加となった[82]。
これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、ワスプ出現可能性考慮)と、アメリカ軍より優勢であった。ただしミッドウェー基地の航空機を計算にいれると、航空戦力比は日本軍「戦闘機105、急降下爆撃機84、雷撃機94、艦偵2、水上戦闘機24、水上偵察機10、計319(南雲部隊、近藤部隊、輸送部隊合計)」、アメリカ軍機動部隊「戦闘機79、急降下爆撃機112、雷撃機42」、アメリカ軍基地戦力「戦闘機27、急降下爆撃機27、雷撃機6、飛行艇32、大型爆撃機23」総計348機となって、ほぼ互角であった[83]。
また、日本軍では情報管理が徹底しておらず、空母飛龍では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある[84]。異動してきた士官が「今度はミッドウェーですね」と挨拶し[85]、さらに日用品や食料品を機関部の通路にまで詰め込んだ[86]。連合艦隊司令部も、ミッドウェー島占領後に配備予定の21機の零式艦上戦闘機(第六航空隊)を4隻の空母に詰め込んだ[87]。野村留吉(佐世保鎮守府参謀)によれば、海軍第二特別陸戦隊は「6月以降、当隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と電報を打ったという[88]。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦加古の高橋艦長は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑していた[89]。白石萬(第二艦隊参謀長)は「連合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている[90]。そして、連合艦隊長官山本五十六大将は、愛人の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に「5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。この戦いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう」と記している[91]。
K作戦
作戦では日本側の事前索敵計画として6月2日までに2個潜水戦隊をもって哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する第六艦隊(潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第二潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第八潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第一潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。
このため、「海大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが五潜戦は日本からクェゼリンへの回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された5月19日時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられたため、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは6月4日になってしまった。特に第16任務部隊が6月2日に五潜戦の担当海域を通過しており本作戦における大きな禍根になった。
次に予定されていたのは第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。これは二式大艇によるウェーク島を経由した索敵計画であったが、ウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎ、経由地がウォッゼ環礁に変更された結果ミッドウェー全海域の索敵が不可能となった。更にパイロットの技量不足で夜間着水が困難であることから薄暮までにはウォッゼ環礁に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)が短縮された。これにより、結局米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。
最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦は、オアフ島西北西480海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である[92]。第1次は3月に実施し、さらに二式大艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。しかし、アメリカ軍は日本軍の作戦を暗号解読で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。潜入した伊123は「見込み無し」という報告を送った[93]。これを受け第十一航空艦隊は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戦に指示した。この偵察作戦が成功すればそれがもたらす成果は大きいはずだったが[94]、大型機による夜間偵察では大型艦を空母と誤認する危険があった[95]。また米空母の真珠湾在泊を確認できれば作戦の価値は極めて大きいが、米空母が不在であった場合は、5月末から6月初にかけての日本海軍の状況判断から見て、米空母はまだ南太平洋方面で行動中であろうと判断したのではないかという意見もある[96]。6月1日、二十四航戦の司令部からミッドウェーの600浬圏付近で敵の潜水艦や飛行艇と会敵したことと、第2次K作戦の中止が連合艦隊司令部、南雲機動部隊司令部に伝達された[97][98]。無線封止が重要視されたため連合艦隊司令部からは南雲機動部隊に作戦中止の連絡はしていない[99]。作戦中止に対し連合艦隊司令部から作戦再興の指示は出されなかった[100]。南雲機動部隊首脳部もK作戦の中止を大した問題とは考えなかった[97][101]。連合艦隊参謀らによれば、知的手段は崩れたが、連合艦隊は米艦隊はハワイからの出撃が遅れるだろうと考えていたの大した心配はしていなかったという[102]。
アメリカ軍の対応
情報収集と分析
アメリカ軍は日本軍来襲の情報収集、分析し、ミッドウェー作戦に備えていた。1942年3月4日、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機(二式飛行艇)2機が爆撃を行い(K作戦)、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 二式飛行艇)1機が接近、撃墜されたことをふまえ、日本軍の攻勢の兆候と判断した。ただ、これは誤解で、実際には日本軍の爆撃は攻勢作戦とは関係のない偵察監視・妨害作戦に過ぎなかった。日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェー、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。米本土西岸への日本軍上陸の誤報なども影響している。
真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の戦略暗号 "D"は、アメリカ軍の諜報部よりJN-25と呼ばれていた。1942年4月頃には、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍 レイトン(情報)班が、日本軍の暗号を断片的に解読し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。この時点では時期・場所などの詳細が不明であった。その後、5月ごろから通信解析の資料が増え、暗号解読との検討を繰り返して作戦計画の全体像が明らかになると、略式符号「AF」という場所が主要攻撃目標であることまでわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。アメリカ側は、[103]日本海軍の編成表から「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白であると判断した。
ワシントンのアメリカ統合参謀本部は攻撃目標をハワイ、陸軍航空隊ではサンフランシスコだと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。5月中旬になっても決定的な情報は無かったが、チェスター・ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが目標であると予想し、ハワイ所在のレイトン情報主任参謀らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。
5月11日ごろ、諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼は、ミッドウェー島の基地司令官に対してオアフ島・ミッドウェー間の海底ケーブルを使って指示を送り、ミッドウェーからハワイ島宛に「海水ろ過装置の故障で、飲料水不足」といった緊急の電文を英語の平文で送信させた。その後程なくして日本のウェーク島守備隊(クェゼリン環礁所在の第六艦隊説もあり)から発せられた暗号文に、「AFは真水不足、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、AFはミッドウェー島を示す略語と確認された。こうしてミッドウェー島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。
日本側にも「6月1日における第三部特務班の判断」として「ミッドウェー島が清水不足を訴えている」と軍令部作戦課佐薙毅中佐の日誌に残されている[104]。一方、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。沈没する空母飛龍から脱出後、アメリカ軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、アメリカ軍情報士官から1942年5月に就役したばかりの飛鷹型航空母艦隼鷹の写真を見せられて仰天している[105]。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている[105]。
5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はこの結果をミッドウェー基地の部隊に伝えたが、ワシントンではこの情報を全面的には信用せず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。ニミッツ大将は、日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、自己の意見が間違いないと主張、論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号・乱数表を変えたために解読できなくなった。
戦力の準備
ハワイ諸島は、アメリカにとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェーはハワイ諸島の前哨であり、戦略的要所である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島守備隊の指揮官のシマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。このとき、シマード中佐は兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将はシマード中佐の要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。こうして、ミッドウェー島に集結した航空機は当時最新鋭のTBFを含む約120機、アメリカ海兵隊を含む人員の補強は3027人に達し、防爆掩蓋や砲台も配備していた。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めの部隊が多く、整備員の増強がなかったために搭乗員は自前で整備・燃料補給を行っていたため、完全に充足した部隊ではなかった。それでも、日本海軍陸戦隊5000名を撃退するには十分な兵力だった[106]。
ハワイの情報隊は、日本海軍のミッドウェーへの攻撃が6月3日から5日までに行われることを事前に察知し、日本側が陽動作戦として計画していた、空母龍驤と隼鷹を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせてアッツ島、キスカ島などを占領、ダッチハーバーなどを空爆する作戦も陽動であることを事前に見抜いており、ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の指揮下にある使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン・アラスカ方面には最低限の戦力を送るにとどめ、主力をミッドウェーに集中することにした。
アメリカ軍の作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』として発令され、内容は、第1に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第2に空母を撃破してミッドウェー空襲を阻止、第3に潜水艦は哨戒及び攻撃、第4にミッドウェー島守備隊は同島を死守などというものであった。
5月28日に作戦計画を発した時点において、ニミッツ大将は2隻の空母しか使用が期待できなかった。サラトガは日本海軍潜水艦による攻撃で損傷、修理を要する状態にあり、第17任務部隊(TF-17)の2隻は、次にのべるように珊瑚海海戦により大打撃を受けていた。
フレッチャー少将の第17任務部隊は、珊瑚海海戦においてポートモレスビー防衛を成功させ、日本海軍の軽空母1隻撃沈し、主力空母にもダメージを与えたものの、自身も主力空母レキシントンを失い、ヨークタウンが中破していた。ヨークタウンへの命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊される重大損傷で、機関からの燃焼煙を正常に排出できずボイラーが出力を上げられず、速力が24ノットに低下[107]。また、2発の至近弾で左舷燃料タンクから燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海海戦では艦隊付属の油槽船ネオショーを失い、この燃料漏れは海上での立ち往生になりかねなかった[108]。
ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できたヨークタウンは5月27日に真珠湾に到着、直ちに乾ドックに入れられて驚異的な応急修理が実施された。特に燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸のワシントン州ブレマートン港にて長期の修理を行う必要があるとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業によって応急修理が施され、戦闘艦としての機能を取り戻し、ヨークタウンは5月30日に乾ドックを出た。出撃時、艦には修理工が乗ったままであり、戦場へ向かって航行中も修理が続けられた。このことについて乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している[109]。また、珊瑚海海戦で損耗したヨークタウンを母艦とする第5航空群は、修理のために本国に戻るサラトガの第3航空群と入れ替えることで、アメリカ軍は3隻目の空母をこの戦闘に参加させることができたが、これは当時のアメリカ海軍太平洋艦隊が投入できる空母戦力の全てであった。
もし、ニミッツ大将が準備できた空母が、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットの2隻のみであった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。前述にもあるが、日本側はアメリカ海軍の太平洋における戦闘可能空母をこの時点で正規空母2-3隻、軽空母2-3隻と見積もっており、ワスプや軽空母が出現することはあっても、先の珊瑚海海戦で自力航行不能にまで損害を与えたヨークタウンがミッドウェー作戦に間に合うことを考慮していなかった[110]。
戦闘の経過
ミッドウェー攻撃前
両軍の移動
1942年5月28日、アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官発の作戦計画に従い、エンタープライズ、ホーネットを基幹とする第16任務部隊(TF-16)が真珠湾を出撃し、続いて5月30日には第17任務部隊(TF-17)も基幹となるヨークタウンの緊急修理の完了を待つ形で真珠湾を出撃した。各任務部隊はミッドウェー島へ襲い来る日本軍と戦い、作戦計画において死守命令を受けたミッドウェー島守備隊を助けるべく一路ミッドウェー島を目指した。
1942年(昭和17年)5月27日(海軍記念日)、南雲忠一海軍中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した[111]。5月28日、ミッドウェー島占領部隊輸送船団が水上機母艦千歳、駆逐艦親潮、黒潮と共にサイパンを出航した[112]。海軍陸戦隊(大田実海軍少将)と設営部隊、陸軍からは一木清直陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。船団は第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦神通)他に護衛され北上した。
5月29日、連合艦隊長官山本五十六海軍大将率いる主力部隊も広島湾柱島を出撃[113]。三和義勇(連合艦隊作戦参謀)は「今は唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。敵は豪州近海に兵力を集中せる疑あり。かくては大決戦は出来ず。我はこれを恐れる」「長官から兵にいたるまで誰一人として勝利についていささかの疑問をいだく者はいない。戦わずして敵に勝つの概ありと言うべきか」と日記にしたためている[114]。
5月30日、日本輸送部隊付近の米潜水艦がミッドウェーに長文の緊急電を発信し、日本はこれを傍受した。宇垣(連合艦隊参謀長)は、輸送部隊を発見して報告するものとすれば、敵が備えるところとなり、獲物がかえって多くなると考えた[115]。また、宇垣は、アメリカ軍の緊急交信が従来の例を見ず、ミッドウェーに向かっていることがばれている可能性もあるが、いずれにせよ変更はしないと考えた[116]。
連合艦隊が何の対応も取らなかったことはこれ以上なく悔やまれることで[117]、南雲艦隊に空襲を中止させ、米機動部隊を撃滅する方法もあったという意見もある[118]。
6月3日午後、南雲機動部隊に追従する主力部隊旗艦大和に乗り込んだ連合艦隊司令部敵信班はミッドウェー島付近で敵空母らしい呼び出し符号を傍受した[119]。回虫から来る腹痛に悩まされていた山本だが、直ちに南雲機動部隊に通報するよう参謀に伝えた[120]。だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「南雲機動部隊の方が近く同じく傍受したはず」という判断から見送られた[121]。連合艦隊首席参謀黒島亀人によれば、4日頃に(大本営からの連絡、又は通信傍受で)ミッドウェーに機動部隊がいる兆候をつかみ、山本長官が一航艦に知らせるかと尋ねたが、黒島は無線封止の優先、一航艦が搭載機の半数をもって反撃に備えていること、機動部隊も兆候をつかんだであろうことから、知らせないように具申したとして自分の失敗であると話している。連合艦隊航空参謀佐々木彰によれば、4日に通信呼出符号を傍受したという[122]。しかし南雲機動部隊は傍受しておらず、予定通りに作戦を続けた。この件を取材した亀井宏によれば、黒島参謀を含めて連合艦隊、軍令部、第六艦隊、全員の証言が一致しなかったという[123]。
日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦赤城は飛龍、蒼龍、榛名、霧島の艦影を見失った[124]。飛龍と霧島は衝突しかけたため、司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、長波無電を使用して艦隊の針路を定めた[125]。無線の使用によりアメリカ軍が南雲部隊の行動を察知したという説が日本側にあるが、アメリカ軍側にこの通信を傍受した記録はない[126]。6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦秋雲を分離した[127]。午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している[128]。午後4時30分、赤城と利根がアメリカ軍機らしき機影を発見すると、赤城から3機の零戦が発進して迎撃に向かった[129]。南雲機動部隊は、誤認の可能性が高いと判断している[130]。午後11時30分、赤城は雲間にアメリカ軍機を発見して総員を戦闘配置につけたが、その後は平穏に過ぎた[131]。赤城では日本軍輸送船団が爆撃を受けたことを知り、またアメリカ軍索敵機を撃墜できなかったことでミッドウェー基地に対する奇襲効果が失われたことを悟ったが、米空母に関しては無警戒であった[132]。
日本軍輸送船団への攻撃
アメリカ軍は5月30日以降、ミッドウェー島基地航空隊の32機のPBYカタリナ飛行艇による哨戒が行われていた。6月2日、フランク・J・フレッチャー少将の第17任務部隊とレイモンド・スプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流、この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。6月3日(09:00)、カタリナ飛行艇1機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の第二水雷戦隊を発見する[133]。(12:30)、ミッドウェー島から第7陸軍航空部隊分遣隊のB-17爆撃機9機(指揮官:ウォルター・スウィーニー中佐)が発進、攻撃に向った[134]。日本時間6月4日午後1時(16:23)、船団を発見したB-17部隊は爆撃を開始し、戦艦、空母、輸送船など、多数の艦艇撃破を報告した[135]。実際は輸送船あるぜんちな丸、霧島丸が至近弾を受けたのみで損害も無かった[136]。
(21:30)、オアフ島より増援されたPBYカタリナ飛行艇4機(指揮官:チャールズ・ヒッパード中尉)に魚雷を積んだ雷撃隊が出撃する。(現地時間6月4日01:15)レーダーで船団を発見(1:43)し、雷撃を開始した。夜間だった事で完全な奇襲になり、輸送船清澄丸が機銃掃射され、あけぼの丸に1本が命中し戦死者11名が出たが、両船とも航行に支障はなかった[137]。この時、船団を護衛すべき第七戦隊(栗田健男少将)の重巡洋艦4隻(熊野、鈴谷、三隈、最上)は船団を見失って離れた地点にいた。これは栗田少将のミスというより田中頼三少将(船団指揮官・第二水雷戦隊司令官)の判断により、輸送船団が予定航路から北100浬地点を航行していたからである[138]。
ミッドウェー基地からの艦隊発見の報を受け、太平洋艦隊司令部は、B-17が攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し、第16・17両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて攻撃に向わないよう緊急電を打った[139]。フレッチャー司令官も同じ判断を下し、行動を行わなかった。午後4時50分(19:50)には予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している[140]。この段階では、フレッチャーとスプルーアンスも南雲機動部隊の位置を把握していなかった[140]。
米基地航空隊との戦闘
ミッドウェー島空襲
ミッドウェー作戦では、二つの時間が存在する[141]。アメリカ軍はミッドウェー島と同じ西経日付を使用し、さらにアメリカ軍機動部隊は日付帯時間に10時間を加えているので、ミッドウェー時間より2時間遅れている[141]。日本軍は東経日付を使用し、さらに東京時間を使用している。従って日本軍各艦各隊の戦闘詳報も東京時間であり、ミッドウェー時間とは21時間異なる[141]。ここから(00:00)内を現地ミッドウェー時間とし、戦闘詳報に記載された東京時間を「午前/午後○○時○○分」で併記する。「軍艦加賀戦闘詳報」によれば、日の出は日本時間6月5日午前2時、日没は午後4時頃、南雲機動部隊上空の天候は曇り、雲量8、雲高500から1000であった[142]。
日本時間6月5日(現地時間6月4日1:30)、米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後出撃待機となり命令を待った[143]。一時間後、搭乗員整列が下令、艦長や航空群司令からの指示や注意事項が通達された。日本時間午前1時15分(4:15)、ミッドウェー基地からPBY飛行艇による哨戒隊、15分後には第17任務部隊の空母ヨークタウンからSBD ドーントレス爆撃機からなる偵察隊が航空偵察に出撃した[144]。ウォリィ・ショート大尉の隊は日本軍水上偵察機1機と交戦したと報告した[144]。この時点で南雲機動部隊は、ヨークタウンから西方200浬を航行している[144]。
日本時間6月5日午前1時30分(4:30)、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊(友永丈市大尉指揮:零式艦上戦闘機36機、九九式艦上爆撃機36機、九七式艦上攻撃機36機、合計108機)を発進させた[145]。本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は虫垂炎による手術を行ったばかりなので出撃できない[146]。源田実航空参謀も風邪により熱を出していた[147]。日本軍は「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始する[148]。近藤中将の攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日と決定されており、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戦闘力を奪わなければならなかった[149]。奇襲の成立が前提にあり、空襲の攻撃主目標は地上・上空の飛行機、副目標が滑走路、航空施設、防空陣地であった。源田実参謀によれば、滑走路が副目標であるのは支那事変の戦訓から長期間使用不能にすることが困難であるから、また、艦爆が対空砲火による被害が大きいことも支那事変でわかっていたが命中率の良さから採用し、800キロ爆弾は開戦後の経験から陸上攻撃に大きな効果があることが分かっていたため採用したという[150]。
各空母からの発艦機数は、赤城から零戦9機、九九艦爆18機、加賀から零戦9機、九九艦爆18機、蒼龍から零戦9機、艦攻18機(800kg爆弾装備)、飛龍から零戦9機、艦攻18機である[151]。このうち、飛龍艦攻1機(赤松作 飛特少尉)が故障で引き返している[152]。四空母に残った戦力は、零戦36(各艦9)、艦爆36(飛龍18、蒼龍18)、艦攻41(赤城17、加賀26)であった[153]。一航戦の艦攻には航空機用魚雷、二航戦の艦爆には250キロの通常爆弾が装着され、各空母格納庫で待機[154]。アメリカ側記録には、二航戦はセイロン沖海戦の戦訓を踏まえ陸上攻撃・艦船攻撃どちらでも対応できるようにする為未装備状態だったとする意見もある(何れのアメリカ側記録資料、研究者によるかは不明)[155]。
また偵察機として赤城 、加賀から九七式艦攻各1機、重巡洋艦利根、筑摩から零式水上偵察機各2機、戦艦榛名から九五式水上偵察機が発進した[156][157]。索敵機の発進は日の出の30分前、午前1時30分と定められていた[158]。だが第八戦隊司令官阿部弘毅少将の判断で利根は対潜哨戒につく九五式水上偵察機の発艦が優先された[159]。このため筑摩機は(04:35)午前1時35分(第5索敵線)、(04:38)午前1時38分(第6索敵線)に零式水上偵察機が発進、(04:50)午前1時50分に対潜哨戒機発進[160][161]。利根は(04:38)午前1時38分に対潜哨戒機、(04:42)午前1時42分(第3索敵線)、(05:00)午前2時(第4索敵線)にそれぞれ水偵が発進した[160][162]。戦闘詳報には「利根、筑摩とも出発著しく遅延す」「筑摩6号機は天候不良のため午前3時35分に引き返せり」という記載がある[156][163]。
筑摩の遅れは、機長兼飛行長の黒田信大尉によれば、待機していたが艦長から発艦命令がなかったので催促したという。艦長の古村啓蔵によれば、発艦が遅れた理由は思い出せないが催促されて判断し発艦させたという[164]。利根の遅れは、通信参謀矢島源太郎と飛行長武田春雄によれば、射出機の故障は記憶になく、大きく遅れた感じはなかったという。第八戦隊首席参謀土井美二中佐によれば、なにか滑走車のピンが抜けた入らないで騒いでいた気がするという[165]。
最後に各空母より零戦1個小隊3機が直掩のため出撃した。このうち、加賀の零戦1機が故障のために飛び立てず合計11機となる。そして南雲艦隊は針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。午前2時20分(05:20)、南雲長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られた[166]。これは米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を対地用に変更し、ミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。仮に第二次攻撃隊が出撃すると、南雲機動部隊に残された航空兵力は各空母零戦3機となるはずだった[167]。一方で、複数の関係者からこの予令が存在しない旨の証言がある[168]。(「資料の問題」節を参照)
午前2時15分(05:15)ごろ、アディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は日本軍零式水上偵察機(利根4号機)を発見[169]、近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告した[170]。日本側もPBY飛行艇を発見し、警戒隊の軽巡洋艦長良から、続けて戦艦霧島から敵機発見の煙幕があがった[171]。南雲機動部隊は直掩零戦隊を発進させはじめたが、アメリカ軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戦隊はとうとうアディ大尉のPBY飛行艇を撃墜できなかった[172]。午前2時40分(05:40)、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉のPBY飛行艇もミッドウェー空襲隊を発見・報告した[173]。アメリカ軍偵察機が南雲部隊発見を通報した無電はミッドウェー基地や南雲部隊などには傍受されたが、第16・17任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元にして、(06:03)にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。この平文電報は赤城でも傍受している[174]。
空襲が予想されるミッドウェー基地では午前3時(06:00)に迎撃の戦闘機26機(バッファロー20、ワイルドキャット6機)が出撃し、続いてTBFアベンジャー雷撃機6機、B-26マローダー爆撃機4機、 SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機12機、SBDドーントレス急降下爆撃機16機という混成攻撃隊が南雲部隊へ向けて発進した[175]。基地には予備のSB2U 5機及びSBD 3機が残された[176]。午前4時7分(06:07)、ミッドウェー基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると、エンタープライズのスプルーアンスに対して攻撃を命令した[177]。アメリカ海軍の3空母は直ちに出撃準備を開始、スプルーアンスはエンタープライズとホーネットの攻撃隊発進を午前4時(07:00)と指定した[177]。
午前3時16分(06:16)、ミッドウェー基地上空の米軍戦闘機隊は接近する艦攻・艦爆・戦闘機隊の順で進撃する[178]日本軍攻撃隊(友永隊)107機を発見する。戦闘はカタリナ飛行艇の吊光弾投下と米軍機の奇襲で始まり、先頭の友永隊長機を始め艦攻多数が火に包まれ[179]、直後に零戦隊が逆襲に転じて空中戦となった[180]。約15分の空中戦は日本側の勝利に終わる。迎撃したF2Aブリュースター・バッファロー戦闘機20機のうち13機が撃墜され、F4Fワイルドキャット戦闘機6機のうち2機が撃墜され、帰還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。アメリカ軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は午前3時30分(06:30)から午前4時10分(07:10)にかけて空襲を実施した[181]。映像撮影のため派遣されていた映画監督のジョン・フォードなどが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった[182]。九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している[183]。日本軍攻撃隊は、アメリカ軍戦闘機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失った[184]。残る機も相当数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戦闘機12(修理不能2)が損傷した[184]。友永大尉機も被弾によって無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている[185]。アメリカ軍側は空中戦で日本軍機40-50機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戦闘機も被弾して出撃可能機は2機となった[184]。また、帰途につく艦攻隊に最初の空戦で海面に不時着した艦航隊第二中隊長機菊池六郎中隊長以下3名がゴム筏の上でマフラーを振っているのが発見され非常食が投下されたがその後の戦況のため救助されることはなかった[186]。
攻撃の成果が不十分と判断した友永大尉は午前4時(07:00)、南雲機動部隊に対し「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた[187]。ミッドウェー基地攻撃中の午前3時49分(06:49)、筑摩の4号機が天候不良のため引き返すと報告(受信午前3時55分)[188]。午前3時55分(06:55)、利根の1号機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け、更に零戦6機を直掩に加えた。アメリカ軍側の記録によれば、ヨークタウンから発進した10機の索敵機である[189]。同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戦21機を使用できるよう準備を指示している。直掩隊は弾薬と燃料補給のため頻繁に着艦・交替を繰り返したため、飛行甲板に艦攻や艦爆を並べることが出来なかった[190]。
米基地航空隊の空襲
日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していたころ、南雲機動部隊は「0400に至り敵第一次攻撃あり、その後0730頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というようにアメリカ軍機の継続的な空襲に悩まされていた[191]。午前4時5分(07:05)、重巡洋艦利根はアメリカ軍重爆撃機10機を発見する[192]。アメリカ軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から発進したTBF アベンジャー雷撃機6機(フィバリング大尉)と、爆弾のかわりに魚雷を抱えたB-26マローダー双発爆撃機4機(コリンズ大尉)だった[193]。シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戦闘機を投入してしまったため、彼らは戦闘機の護衛なしに進撃してきたのである[194]。赤城と利根が発砲し、直掩の零戦10機が迎撃する[195]。アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜、アーネスト中尉機だけが生還した[196]。赤城はアメリカ軍の魚雷を全て回避した。被害は機銃掃射で赤城三番高角砲が旋回不能(30分後に修理完了)、砲員に負傷者が出たほか、両舷送信用空中線が使用不能となり、赤城(旗艦)の通信能力に支障が生じた[197]。赤城を狙ったB-26隊は魚雷2-3本命中を主張しているが、実際には回避されている[198]。B-26は2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄された。
ミッドウェー基地から発進したアメリカ軍陸上機による空襲は、ミッドウェー島の基地戦力が健在である証拠であった[199]。友永隊の報告をふまえ、南雲中将はミッドウェー島基地への再空襲を決定する。近藤信竹中将の率いるミッドウェー攻略部隊(第二艦隊)が6月7日に上陸を開始する前に、アメリカ軍基地航空戦力を壊滅させる必要に迫られたからである[200]。午前4時15分(07:15)、南雲司令部は各艦で待機中の攻撃隊に対し、「本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換(0415通達、第二次攻撃隊本日実施、待機攻撃隊爆装に換え)」と通知し、陸上攻撃用爆弾への換装を命じた[201]。アメリカの研究調査によれば第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)に対しては特に兵装転換の指示は出されず、爆装しない状態で待機中だったとの意見もある(但しどの記録資料か、誰の研究かについては明記がない)[202]。海戦前に飛龍で行われた実験では、魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっている[203]。燃料補給と弾薬補給を求める直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板を開けねばならず、兵装転換作業は各空母格納庫で行われた[204]。
その頃、アメリカ海軍第17任務部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングをうかがっていた。午前3時7分(06:07)、フレッチャー少将はスプルーアンス少将に「南西に進み、敵空母を確認せば、それを攻撃せよ」と命じ[205]、これを受けたスプルーアンス少将は午前4時(07:00)過ぎに攻撃隊発進を命令、第16任務部隊は次からなる117機の攻撃隊を発進させた。
空母エンタープライズ
F4F戦闘機]]10機(VF-6、指揮官:ジェームズ・グレイ大尉)
SBD爆撃機33機(指揮官:第6航空群司令クラレンス・マクラスキー少佐、VB-6、指揮官:リチャード・ベスト大尉、VS-6、指揮官:ウィルマー・ギャラハー大尉)
TBD雷撃機14機(VT-6、指揮官:ユージン・リンゼー少佐)
空母ホーネット
F4F戦闘機10機(VF-8、指揮官:サミュエル・ミッチェル少佐)
SBD爆撃機35機(VB-8、指揮官:ロバート・ジョンソン少佐、VS-8、指揮官:ウォルター・ローディ少佐)
TBD雷撃機15機(VT-8、指揮官:ジョン・ウォルドロン少佐)
しかし午前4時28分(7:28)に日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を発見されていなかった上、発艦した飛行隊を小出しにすることは戦術としては非常にまずいにもかかわらず、敢えてスプルーアンス少将は発進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した。艦をあげての全力攻撃で、全機を飛行甲板に並べて一度に発進させることができなかったのである。結果的に、このスプルーアンス少将の決断が勝因の一つになる。
また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のために出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前5時30分(8:30)に、次からなる35機の攻撃隊を発進させた[206]。
空母ヨークタウン
F4F戦闘機6機(VF-3、指揮官:ジョン・サッチ少佐)
SBD爆撃機17機(VB-3、指揮官:マクスウェル・レスリー少佐)
TBD雷撃機12機(VT-3、指揮官:ランス・マッセイ少佐)
ヨークタウンは(09:05)に攻撃隊を発進させると、すぐにウォリー・ショート大尉のSBD爆撃機17機(VS-5)、戦闘機6を甲板に並べ、発進準備を行った[206]。また米潜水艦ノーチラスは日本戦艦を雷撃したあと、午前6時10分(09:10)に「敵巡洋艦(駆逐艦嵐)を雷撃するも命中せず、爆雷6発で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかった[207]。
午前4時28分(7:28)、利根の4号機(機長は偵察員の甘利洋司 一等飛行兵曹、操縦員は鴨池源 一等飛行兵、電信員は内山博 一等飛行兵)は赤城の南雲機動部隊司令部に対し、「敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬 (南雲機動部隊から200浬)」と発信した[208][209]。草鹿参謀長によれば、利根4号機の報告を南雲司令部のある赤城が受信したのは午前5時(08:00)ちょうどと述べている[210]。一方、戦闘詳報(功績調査用に書き直されたもの)では、午前4時45分(7:45)に魚雷から陸用爆弾への兵装転換を一時中断したとあり[211]、南雲司令部は発信から約10分後に受信したという意見もある[212]。この位置報告はずれており、実際の米艦隊の位置からは160km北に偏移した位置だった[213]。新規に搭載した機体であったため、コンパスの自差修正ができず、コンパスに10度のずれがあった為という意見もある[214]。この位置情報の錯誤は南雲の判断に極めて重大な影響を及ぼした[215]。一航艦航空参謀吉岡少佐によれば、この報告を受けた際の南雲司令部は特に動揺もなく平静だったという[216]。発着指揮所から様子を聞いていた淵田中佐によれば、予期せぬ米艦隊発見報告に南雲司令部は興奮したという[217]。利根機の報告を受け、参謀長の草鹿龍之介少将は、空母が付近にいると思うと同時に「敵らしき」だけでは命令の変更には不十分であり、「艦種知らせ」と指示した[218]。また、利根4号機からの電報を受ける前[219]、あるいは受けた直後、第二航空戦隊司令官山口多聞少将が「本朝来種々の敵機来襲にかんがみ、敵機動部隊出撃の算あり。考慮せられたし」という信号文を赤城に送ったという主張もある[220]。午前4時47分(07:47)、南雲司令部は「艦種を確かめ触接せよ」と利根4号機に命令した[221](これについて日本軍戦闘詳報とミッドウェー時間は約21時間ずれているので[141]、ミッドウェー現地時間6月4日午前8時は日本軍記録6月5日午前5時となり、両軍の戦闘レポート(戦闘詳報)に記入された日付時刻が異なることは、ミッドウェー海戦の研究を混乱させることがある[141])。
なお、利根の4号機が米艦隊の位置を報告する前、筑摩1号機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長)が米軍機動部隊上空を通過していたが、雲の上を飛んでおり、米艦隊を発見できなかった。さらに、アメリカ艦載機と接触しながらこれを報告しなかった[222]。
利根の4号機からの返信を待つ南雲機動部隊に、新たなアメリカ軍航空隊が接近していた。日本時間午前4時53分(07:53)、戦艦霧島から敵機発見を意味する煙幕が展開され、ヘンダーソン少佐が指揮するミッドウェー基地のアメリカ海兵隊所属SBD ドーントレス爆撃機16機が艦隊上空に到達した[223]。午前4時55分(7:55)、同隊は日本軍直掩機(零戦)の迎撃を受けヘンダーソン機以下6機が撃墜され、なおも空母飛龍と蒼龍を空襲するも命中弾を得られず、ヘンダーソン隊長機を含む合計8機を失った[224]。ヘンダーソン戦死後に攻撃隊を率いたエルマー・G・グリデン大尉は、航行する日本空母の甲板に日の丸が描かれており容易に見分けられたと述べている[225]。アメリカ軍側は飛龍に命中弾2、加賀に命中弾3を主張しているが、命中した爆弾は1発もない[226]。アメリカ軍機の攻撃は続いた。午前5時10分(8:10)、B-17爆撃機17機(スウィニー中佐)による空襲が行われ、赤城、蒼龍、飛龍が狙われたが損害は無かった。攻撃したB-17隊も無傷だったが、空母に直撃弾1、不確実1発を主張している[227]。1機のB-17乗組員達は基地に戻ると、彼らの爆撃が日本艦隊を撃破したと主張した[228]。最後に海兵隊のSB2Uビンディケーター爆撃機11機(ノリス少佐)による空襲が行われた[228]。この隊は零戦の防御網をくぐりぬけて空母を狙うのは困難と判断し戦艦榛名を狙った[229]。直掩機の迎撃で1機を失い、2機が燃料切れで不時着、直撃弾2発を主張したが、「榛名」は無傷だった[229]。日本軍の戦闘詳報は「0510:赤城、飛竜ニ爆弾命中スルヲ認ム(誤認)」、「敵飛行機、蒼竜(原文ママ)ニ急降下、利根(水偵)揚収」、「加賀後方ニ爆弾投下命中セズ」、「赤城左120及500mニ爆弾2個弾着スルヲ認ム」、「利根左100及4000mに爆弾投下、蒼竜飛竜、盛ニ発砲、蒼竜周囲ニ猛烈爆弾投下」、「赤城後方ニ爆弾投下、命中セズ」、「敵飛行機10機、榛名ニ対シ急降下、爆弾投下命中セズ」など、断続的に空襲を受けていることを記録している[230]。ニミッツ提督は「ミッドウェー基地隊は日本軍艦艇10隻に損傷を与え、1-2隻を沈めたかもれないが阻止に失敗し、基地隊主戦力は失われた」とキング大将に報告した[231]。この後、ミッドウェー基地航空隊はSB2U 5機、SBD 6機で夜間攻撃に出撃したが会敵せず、SB2U 1機を事故で喪失した[232]。
米機動部隊との戦闘
米機動部隊発見
日本時間午前5時(08:00)から午前5時30分(08:30)にかけて、ミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が南雲部隊上空に戻ってきた[233]。ちょうどアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が南雲機動部隊を攻撃している最中であり、日本軍攻撃隊は母艦上空での待機を余儀なくされている。赤城からは護衛の駆逐艦が友永隊を誤射する光景が見られ、後に着艦した千早大尉(赤城艦爆隊)と山田大尉(赤城艦戦隊)は友軍に激怒している[234]。混乱した状況下、南雲中将は利根の4号機に対し「敵艦隊の艦種知らせ」と命じた[235]。すると午前5時20分(08:20)ごろ、「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻(0509発信)」という報告があった[236]。この段階での南雲司令部は、アメリカ軍空母が存在するという確証を持っていない[237]。しかし、午前5時30分(08:30)、「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬(発午前5時20分)」との打電が入った[238]。この空母はホーネットである[239]。偵察機からの通信は、母艦側の受信と暗号解読により10分の差が生じている。
草鹿龍之介参謀長は「予想していなかったわけではないが、さすがに愕然とした」と述べている[240]。南雲司令部は米艦隊の正確な情報を知る必要にせまられた。南雲司令部は山口少将に対し、空母蒼龍に2機だけ配備されていた試作高速偵察機十三試艦上爆撃機(艦上爆撃機彗星の試作機)の投入を命じ、同機はただちに発進した[241]。この偵察機の最高速度は約519km/h、巡航速度約426km/h。利根4号機などの零式水上偵察機は最高速度367km/h、アメリカ海軍の主力戦闘機F4Fワイルドキャットの最高速度は514km/hである。十三試艦爆は当時のアメリカ軍戦闘機の追撃を受けても十分退避可能であり、正確な情報を持ち帰ることができた。
偵察に出発した十三試艦爆と入れ替わるように蒼龍攻撃隊が艦隊上空に到達した。この時第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を率いていた山口少将は、一刻を争う状況と判断して、駆逐艦野分を中継し、あらゆることを放棄し、現装備の陸用爆弾のままですぐに攻撃隊を発進させるように、南雲長官に進言した[242]。文面には諸説ある。一説には「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」だったとされる[243][244][245]。一航艦航空参謀だった源田中佐[244]、一航艦信号員だった橋本広[246]、「日映」特派員として従軍していた司令部付の牧島貞一記者が証言している[245]。第二航空戦隊通信参謀だった安井真二少佐によれば、「攻撃隊ヲ」の形で山口自ら起案し(普通は起案は参謀に任せる)、発信するように二航戦航空参謀の橋口喬少佐に指示したという[247]。赤城の発着指揮所で一航艦司令部の様子を伝聞していた淵田中佐も「攻撃隊ヲ」の形で証言している[248]。一方で、「現装備ノママ直チニ攻撃隊ヲ発進セシムルヲ至当ト認ム」という説もある[249]。一般的にこの進言は「〜の要ありと認む」と記されるが、飛龍の掌航海長だった田村士郎兵曹長によれば、山口少将から発信の指示を田村が直接受けたとして、文面は「現装備ノママ〜」、「〜至当ト認ム」であり、南雲長官が雷装準備が完了するまで出撃を引き伸ばさないよう促しているという[250]。
進言時点で第二次攻撃隊は出撃の準備態勢に入っており、発進は可能だった[251]。ただ、この時点で赤城・加賀の攻撃隊は陸上攻撃用の兵装転換はまだ終えていない[252]。草鹿参謀長、源田参謀の証言では、すぐに発艦準備に入れるものは第二航空戦隊の艦爆隊だけだったという[253][244]。一方、淵田中佐による、敵艦隊発見報告時点で、第二次攻撃隊・九七艦攻の魚雷から陸用爆弾への転換がほぼ終わっていたという証言もある[254]。
午前5時30分(08:30)、赤城からの「艦爆隊二次攻撃準備、250キロ爆弾揚弾セヨ」との信令を受け、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は二次攻撃に備え250kg爆弾の揚弾を開始する[255]。
各空母の状況に加え、偵察機の報告ではアメリカ軍機動部隊までの距離はまだ遠い(実際のアメリカ軍機動部隊はもっと近くにいた)事も踏まえ、南雲司令部は幾つかの条件を検討した[256][257][258]。
九七艦攻への陸用爆弾から魚雷への転換は、もともと陸用爆弾に換装した機が少なく、短時間で終わる。水平爆撃の命中率は悪く、急降下爆撃でも敵空母に致命傷を与えることは困難である[258]。
第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)の九九艦爆の爆装は短時間で行える。
上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約100機)の燃料が尽き掛けており、これ以上待たせる事は出来ない[257]。貴重な機体と200名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは大問題である[258]。
敵艦隊攻撃隊を護衛する零戦が、南雲部隊を守るためにほとんど発進しており、一度着艦して補給する必要がある[257]。弾薬と燃料を使い果たした零戦隊を護衛につけても意味がない[258]。
戦闘機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戦やアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。南雲にとって、大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは出来ない[259]。
南雲中将は山口少将の進言を却下したため、南雲中将は米機動部隊艦隊から攻撃を受ける前に兵装転換を行い、日本軍攻撃隊は発進可能と判断した[258]。南雲の幕僚らによれば、戦闘機の護衛をつけずに攻撃隊を出す危険性や第一次攻撃隊を見捨てることへの懸念から帰還した第一次攻撃隊の収容を優先すべきと考えたという[260](詳細は「勝敗の要因」)。午前5時37分(8:37)、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する[261]。午前5時55分(08:55)、「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた[262]。同時刻、重巡洋艦筑摩から「水上偵察機、午前6時30分(09:30)発進予定」との報告がある[263]。南雲には、第一航空戦隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前7時30分発進可能との報告、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は午前7時30分から午前8時に発進可能との報告があった[264]。
午前5時45分(08:45)、「更に巡洋艦らしきもの2隻を見ゆ(発信午前5時30分)」という利根4号機からの追加情報が入る[265]。攻撃隊収容中の午前5時48分(08:48)、利根4号機から帰投するという電報が届いた[266]。阿部少将は第八戦隊「利根」、「筑摩」)に交代の偵察機発進を命じると[267]、利根4号機に「帰投まて」を命じた[268]。零式水上偵察機の航続距離は通常10時間であるため、まだ十分飛べると考えたためである。南雲司令部も午前5時54分に無線方位測定で位置を把握するための長波輻射を利根4号機に命じた[269]。だが利根4号機は午前5時55分(8:55)に「敵攻撃機10機貴方に向かう」の通報のみを行い、輻射は行わなかった[270]。
後方の戦艦大和で南雲機動部隊からの電報を受信していた山本五十六以下連合艦隊司令部は、予期せぬ米軍機動部隊が出現した事にたいして慌てなかった[271]。宇垣纏参謀長は司令部の雰囲気が「さては敵の機動部隊の激撃なる、よき敵御座んなれ、第二次攻撃は速に之に指向に、先づ敵空母を屠り、残敵を如何に処分すべきかと楽観的気分に在り」と述べている[272]。山本が黒島亀人先任参謀に「米艦隊への攻撃命令を出すか否か」を尋ねると、黒島は「南雲は兵力の半数を米空母機動部隊に対して準備しているから必要なし」と答え、連合艦隊司令部は何も発信しなかった[273]。
米艦載機の雷撃
第一次攻撃隊の収容は午前6時30分(9:30)までに完了したとされるが[274]、蒼龍では午前6時50分頃までかかっている[275]。南雲中将は連合艦隊(山本五十六長官)に米空母発見を知らせると、直ちに米空母攻撃へ向け準備を開始する[276]。赤城では第一次攻撃隊の収容が終わると九十七艦攻の雷装への復旧作業が開始された[277]。この状況下、午前6時20分(9:20)頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊TBD デバステイター雷撃機14機が日本の機動部隊上空に到達[278]、日本側では赤城や筑摩が確認した[279]。この時点で南雲機動部隊の直掩機は18機に減少していたが、直ちに加賀5機、赤城3機が迎撃に上がる[280]。アメリカ軍攻撃隊は部隊毎に進撃したので連携が取れず、ホーネット雷撃隊は戦闘機の護衛の無いまま赤城を狙った。一機の雷撃機は赤城の艦橋に接近して墜落し、草鹿参謀長は死を覚悟している[281]。デバステーター隊は零戦により全機が撃墜され、不時着水した機体から脱出したジョージ・ゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した[282]。ゲイ機は蒼龍を雷撃して飛行甲板上を通過したが、魚雷は命中せず、直後に零戦に撃墜されたとされる[283]。戦闘後の名誉勲章推薦状には「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり、後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる[284]。一方「ホーネット」の戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も発見できなかった[282]。戦闘機隊とドーントレス13機はミッドウェー基地へ向ったが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が不時着水、残りのドーントレス20機はホーネットに帰艦した[282]。
午前6時37分(09:37)、利根の4号機から「燃料不足のため帰投する(発午前6時30分)」と連絡が入る[285]。阿部司令は午前7時(10:00)まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け、帰還を許可した[286]。同時刻、利根の4号機と交代すべく筑摩の5号機が発進した[286][287]。午前7時(10:00)、蒼龍の十三試艦爆は索敵線上に米艦隊を発見できず、引き返した[288]。これは前述のように、利根4号機が報告した米艦隊の位置が100km以上ずれていたためである[213]。
午前6時50分(09:50)、ユージン・リンゼー少佐率いるエンタープライズの雷撃隊14機が南雲部隊上空に到達した[289]。通信不良と連携ミスにより10機のワイルドキャットはホーネット雷撃隊を護衛していたため、エンタープライズの雷撃隊を掩護できなかった[290]。エンタープライズの雷撃隊は加賀を目標にするが10機を失い、1機が帰還後投棄、零戦1機撃墜と引き換えに隊長を含む29名が戦死する[291]。その上、命中魚雷も得られなかった。戦闘機隊の連携ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失ったことに生き残った隊員達は激怒し、帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。一方で、零戦の攻撃に積極性が見られず、度重なる発進、戦闘、着艦の連続で疲労がたまっていたという推測もなされている[292]。
(10:10)、ランス・マッセイ少佐指揮のヨークタウンの第3雷撃隊が南雲部隊上空に到達した。飛龍は他の3空母より前方を進み、雲の下を航行していたという[293]。ヨークタウン雷撃隊12機は、突出した飛龍を挟撃すべく2個小隊(6機)にわかれると、攻撃を開始した[294]。その上空では、戦闘機隊指揮官ジョン・サッチ少佐によって、サッチ少佐の発案した対ゼロ戦空戦戦術サッチウィーブが初めて試されようとしていた[295]。この時点でヨークタウン戦闘機隊は6機だけである[294]。雷撃隊全てを護衛できずTBDデバステーター10機が撃墜され、残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失、24名中21名(隊長含)が戦死、飛龍に魚雷5本を発射したが全て回避された。だが15機の零戦に6機で挑み、損害1機に対し5機撃墜というアメリカ軍側記録はサッチ・ウィーブ戦法の有効性を証明し、米戦闘機隊隊員に自信を持たせたという[294]。一方プランゲは「サッチ戦法はあまり効果がなかった。主任務である雷撃隊の掩護に関する限り、戦闘機隊は何の役にも立たなかった」と評している[296]。生還した雷撃隊操縦者ハリイ・コールは、零戦24機に襲われたと証言している[293]。コールの証言によれば、この時点でほとんどの日本軍直掩機がヨークタウン隊戦闘機隊と雷撃機隊に集中し、低空で戦っていたことになる[293][297]。この時、同隊雷撃機隊員が駆逐艦嵐に救助され重大な情報を供述した(「飛龍の反撃」を参照)。
日本軍三空母の炎上
その頃、クラレンス・マクラスキー少佐率いるエンタープライズの艦爆隊SBDドーントレス32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のために飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた[298]。マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する[299]。午前6時55分(09:55)、アメリカの潜水艦ノーチラスを攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦嵐を発見した[300]。エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する[301]。嵐は午前6時30分に「敵潜水艦(注:ノーチラス)の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた[302]。ただし嵐の戦友会は、空襲直前の日本時間午前7時(10:00)の段階で、嵐は赤城の直衛で傍を離れていなかったと主張している[303]。エンタープライズの艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断して北東進路上を索敵した結果、午前7時24分(10:24)頃、南雲機動部隊を発見した[304]。この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズの艦爆隊は30機となった[301]。
日本時間午前7時22分(現地時間10:23)、マクスウェル・レスリー少佐率いるヨークタウン艦爆隊も戦場に到着する。こうして南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズの艦爆隊とヨークタウンの艦爆隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃隊に対応して直掩零戦のほとんどが低空に降りており[305]、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の直掩機に気をとられていたため発見が遅れ[306]、「敵、急降下!」と加賀の見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった[307]。
先陣を切ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズの艦爆隊で、加賀を狙った[308]。日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、対空砲火も間にあわなかった[309]。午前7時22-24分(10:22-24)、マクラスキー少佐率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くギャラハー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中[310]、続き3発が短時間の内に命中した[311]。なお加賀を攻撃したのはレスリー少佐と部下のヨークタウン艦爆12機と主張するアメリカ研究者もいる[312]。
午前7時25分(10:24)、レスリー少佐のヨークタウンの艦爆隊17機がエンタープライズの艦爆隊に続く形で蒼龍へ攻撃を開始した[313][314]。蒼龍は艦爆12-13機と記録[315]。発艦直後のアクシデントでレスリー少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」へ機銃掃射をもって突入した[316]。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾は蒼龍の前部エレベーター前に命中し大爆発を起こし、大尉は発艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た[314]。ヨークタウン艦爆隊は直撃弾5発、至近弾3発を主張しているが、実際の命中弾は3発である[314]。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦磯風の後部に至近弾となった[317]。
同時刻、エンタープライズの艦爆隊のうちベスト大尉率いる一隊は連携に失敗したため、ベスト大尉とクルーガー中尉とウェバー中尉、3機のみで旗艦赤城を狙った。赤城では直衛の零戦が着艦し、補給を行い、ふたたび発艦する瞬間だった[318]。午前7時26分(10:26)、直衛隊の零戦1機(木村惟雄 一等飛行兵曹)が赤城より発艦した時点で急降下がはじまった[319]。木村一飛曹によると、加賀・蒼龍炎上直後、赤城上空の敵機が急降下に入っていない段階で、攻撃隊の発動機が起動しており、先頭のAⅠ-101号(戦闘機隊長機)に整備兵が乗っていた。直後に1番機が急降下を開始し、同時に赤城が風に立ち始めたため指揮所に合図して隊長機に飛び乗り発艦し、高度50メートル付近で赤城を見ると、発艦前にいた位置に爆弾が落ち、2番機と思われる零戦が逆立ちになって炎上していたという[320]。最初クルーガー中尉機の1弾は左舷艦首約10mに外れたが、続いてウェバー中尉機は至近弾1発そしてベスト大尉機は1発の爆弾が命中し[321]、第二次攻撃隊準備機や爆弾・魚雷に誘爆して大火災が発生した[322]。命中したのは飛行甲板三番リフト前方に命中した1発だけという艦橋勤務信号兵や従軍カメラマンの証言もある[323]。発艦寸前だった零戦1機が爆風で赤城艦橋付近で逆立ちとなり、飛行甲板にいた淵田中佐も爆風により両足骨折の重傷を負った[324]。エンタープライズ隊はドーントレス14機を失った[310]。
約6分間のできごとであったが、太平洋戦争のターニングポイントとなった[325]。加賀では艦橋近くの命中弾と燃料車の爆発により艦橋が破壊され、中の岡田次作艦長以下指揮官らが戦死[326]、午後1時23分(16:23)、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた天谷孝久飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦萩風、舞風に移乗する[327]。なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、午後4時25分(19:25)、大爆発が2回起きた[328]。加賀は艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。戦死者は閉じ込められた機関部員を含め800名弱で、航空機搭乗員では楠美正飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戦死した[329]。
3発の爆弾が命中した蒼龍の被害は最も深刻だった[330]。被弾から20分後の午前7時45分(10:45)、総員退去が発令されている[331]。午後4時(19:00)に火災の勢いが衰え、楠本幾登飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始めた。直後、再度の爆発、楠本飛行長は救出不可能と判断した。午後4時13分(19:13)に沈没[332]。あえて艦内に残った柳本柳作艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死した[333]。搭乗員戦死は機上・艦上合わせ10名で江草隆繁飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。
赤城が被弾した爆弾は1-2発程度で機関部へのダメージはなく、十分復旧可能であった[334]が、被弾による火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機の燃料へ次々と誘爆を起こし、大火災が発生した[335]。さらに、被弾直後に雷撃機4機を発見し、回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくな[336]り洋上に停止した[337]。赤城の南雲司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦野分に移乗したあと軽巡洋艦長良に移った[338]。直接長良に移乗したという牧島貞一従軍カメラマンや乗組員の証言もある[339]。午前8時30分(11:30)、南雲司令部は長良に将旗を掲げた[340]。青木泰二郎艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により、午後4時25分(19:25)に総員退艦を命令した[341]。赤城の処置をめぐって連合艦隊司令部では議論が交わされ、午後7時25分(10:25)、山本長官は赤城の処分を中止させた[342]。南雲中将は、木村進少将(第十戦隊司令官)に「長良で赤城を曳航できないか」と尋ねている[343]。結局、6月6日午前1時50分(6月5日4:50)に処分命令が下り午前2時に第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃処分した[344]。上記2隻と比べて赤城では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらより少なく、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名。搭乗員の戦死者は機上・艦上合わせ7名である。淵田美津雄中佐、板谷茂少佐、村田重治少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。
飛龍の反撃
飛龍は雲下にあり、またヨークタウン雷撃機の攻撃回避のため他の3隻の空母から離れており、アメリカ軍急降下爆撃機群の攻撃を受けなかった[345]。午前7時50分(10:50)、一航艦の次席指揮官である第八戦隊司令官の阿部弘毅少将は赤城、加賀、蒼龍の被弾炎上を主力部隊に通報する[346]。阿部は「飛龍ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」と述べ、続いて第二航空戦隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた[346]。午前7時50分(10:50)の時点で、第二航空戦隊司令官の山口多聞少将は独自の判断で飛龍を単艦で北東方向に進めており、被爆した三空母とそれを取り巻く一航艦の各艦からは相当離れた位置にあった[347]。山口少将は、来襲した艦載機の数から敵空母は2隻と判断しており、飛龍1隻の航空戦力で十分に戦えると考えていた[347]。艦爆は攻撃の準備を終えて艦攻は雷装中であり、間に合った零戦をつけた[348]。午前7時50分(10:50)、山口少将は、阿部少将の命令と入れ替わりに「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」と全部隊に発信した[347]。先任の阿部をさしおいて山口少将が反撃を主導したのは、山口少将の性格と、二航戦が現時点での主力であり重要な戦機であると考えたためとする意見もある。敵空母は攻撃を終えた艦載機を収容中であり、接近して攻撃力を発揮できる好機だった[349]。
午前7時54分(10:54)、南の水平線上に炎上する3空母が見える状況で、飛龍は攻撃隊発艦のために風上の東に針路を変え[347]、午前8時(11:00)、第一波攻撃隊として小林道雄大尉(艦爆)指揮する九九艦爆18機、零戦6機の計24機が発艦した[350][351]。九九艦爆のうち、12機は250kg通常爆弾、陸用爆弾装備機は6機だった[352]。飛龍は第一波攻撃隊を発進させるとすぐに第二波攻撃隊の準備にかかり、同時に米機動部隊の方向に進撃した[353]。
飛龍の第一波攻撃隊が発進するのと同時刻、筑摩5号機が発信した米艦隊の位置情報が届いた[354]。第八戦隊は、筑摩4号機・5号機に対し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ、攻撃隊ヲ誘導セヨ」と連絡している[355]。すぐに筑摩5号機から「敵空母の位置味方の70度90浬、我今より攻撃隊を誘導す0810」との連絡があり、飛龍第一波攻撃隊の誘導を開始した[356]。第一波攻撃隊を指揮する小林大尉は米軍艦上機の飛行経路を辿る事で筑摩5号機の誘導に頼ることなく米軍空母部隊に辿り着く戦法をとったが、米軍艦爆隊との小戦闘に巻き込まれる遠因にもなった[357]。また午前8時(11:00)、蒼龍十三試艦爆がアメリカ軍航空隊を発見し、南雲部隊に通報(着信午前8時40分)[358]。30分後の午前8時30分、アメリカ軍機動部隊発見を発信している[359][360]。十三試艦爆は発信5分後帰路についたが[361]、無線機の故障により、南雲部隊ではアメリカ軍機動部隊発見の報告を受信しなかったという[362]。この頃、赤城の零戦隊7機が飛龍に着艦した[363]。加賀からは零戦9機[364]、蒼龍からも零戦4機、艦攻1機が飛龍に着艦した[365]。
ミッドウェー島攻撃から帰還した友永大尉の九七艦攻(左右の両翼に計4つの燃料タンクがあり、それぞれ機体側に350リットルの主タンク、翼端側に225リットルの補助タンクがある[366])は、ミッドウェー島を攻撃した際に、グラマンF4Fの機銃弾が左翼つけ根付近を貫通し、左翼主タンクを射抜かれていた[366]。第二波攻撃隊を編成する時点で、出撃可能な艦攻は友永機を除くと9機であった[367]。友永大尉の次席指揮官となった橋本敏男大尉は、ミッドウェー攻撃時は友永機の偵察員であり、左翼主タンクへの被弾を目の当たりにしていた[366]。橋本大尉は乗機の交換を友永大尉に進言したが、友永大尉は攻撃機数を確保するため交換を拒否し[367]、友永大尉が第一中隊(艦攻5機)を率い、橋本大尉が第二中隊(艦攻5機)を率いることとなった[367]。
橋本大尉は、友永機について「左翼タンクの応急修理くらいはしたはず」と戦後に推定していた[368]。飛龍で友永機の機付整備員であった谷井繁義によると、射抜かれたタンクの交換には半日を要し、もとより不可能であり、貫通孔を麻布と接着剤でふさぐ応急修理のみが可能であった[369]。谷井ら整備員が応急修理を終えて燃料を入れてみると、気がつかなかった別の破孔から燃料が漏れ出し、既に再修理の時間はなく、友永機の左翼主タンクは使えなかった[370]。友永大尉は、整備分隊士の野依武夫・整備兵曹長が「片道燃料では出撃させられない」と制止するのを振り切って出撃した[371]。蒼龍乗組の戦闘機搭乗員で、機動部隊上空直衛任務に就いており、蒼龍大火災のため飛龍に着艦した原田要は、友永雷撃隊の出撃を見送っており、その際に「友永大尉の艦攻は修理のいとまがなく、片道燃料で出撃した」と整備員たちが話していたと戦後に証言している[372]。米艦隊までの距離は近く、友永大尉は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている[373]。
午前8時15分(11:15)、ヨークタウンでは攻撃隊着艦作業がはじまったが、着艦事故が発生し甲板が損傷[374]、11:50、修理が終わり、SBD爆撃機10機に索敵任務が与えられた[375]。偵察隊発進後まもない午前9時(12:00)、レーダーが南西46浬に日本軍機を探知する[375]。ヨークタウンは重巡洋艦アストリア、ポートランド、駆逐艦ハムマン、アンダースン、ラッセル、モーリス、ヒューズに輪形陣を組むよう命じ、F4Fワイルドキャット12機を発進させた[376]。
午前8時20分(11:20)、飛龍の第一波攻撃隊は空母に帰還するエンタープライズの艦爆隊を発見。日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戦隊(重松康弘大尉指揮)から2機が迎撃に向かい、峰岸第2小隊長機が弾薬を使い果たして帰還[377]、1機が被弾し日本軍艦隊付近に不時着救助された[378]。このため攻撃隊護衛機は4機に減った。それでも米空母に接敵する筑摩5号機からの電波を頼りに進む日本軍飛龍第一波攻撃隊(22機)はついにヨークタウンを発見した[379]。F4F直掩隊12機の迎撃により零戦3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみがヨークタウンを攻撃した[380]。急降下中に艦爆3機が撃墜されたが、5機が投下に成功、爆弾3発が命中、1発がボイラー室に火災を発生させ、ヨークタウンは動力を失い航行不能となり[381]、フレッチャー司令官は重巡洋艦アストリアに移乗した[382]。
代償として、飛龍第一波攻撃隊は艦爆13機(小林隊長機を含む)と零戦3機を失い、艦爆5機と零戦1機が飛龍に帰還しただけだった[383]。帰還機も、零戦1が海面に不時着(搭乗員は救助)、艦爆1が修理不能であり、修理後使用可能艦爆2・零戦1という状況だった[384]。飛龍攻撃隊はエンタープライズ型空母に爆弾5発、陸用爆弾1発を命中させ、大破あるいは大火災、撃沈と報告した[385]。しかし、ヨークタウンは午前11時(14:00)過ぎに爆撃による火災を鎮火し、速力20ノット発揮可能となった[386]。また偵察と攻撃部隊誘導に活躍した筑摩の5号機は、午前9時5分(12:05)にアメリカ軍戦闘機の追跡を受け退避[387]、その15分後、新たなアメリカ軍機動部隊を発見した。
午前9時(12:00)、南雲司令部も長良の周囲に第三戦隊(戦艦榛名、霧島)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かった[388]。それより前、駆逐艦嵐は海面に漂うヨークタウン雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス(Wesley Frank Osmus)海軍予備少尉を救助し、尋問を行った[389]。有賀幸作第四駆逐隊司令は尋問内容を受けて以下の内容を発信した[389][390]。この電文は攻略部隊・第二艦隊の重巡洋艦愛宕(旗艦)も受信している[391]。
空母はヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット、巡洋艦6隻、駆逐艦約10隻[389][392]。
ヨークタウンは巡洋艦2隻、駆逐艦3隻とを一団とし、他の部隊とは別働しつつあり[389][392]。
(米機動部隊)5月31日午前真珠港発、6月1日「ミッドウェー」附着、その後南北に移動哨戒をなし今日に及べり[389][392]。
5月31日真珠港在泊主力艦なし(本人は5月31日まで基地訓練に従事、ハワイ方面主力艦の状況明らかならず)[389][392]。
連合艦隊は、アメリカ軍機動部隊の戦力と出動空母の名前を知った。この時、オスマスはエンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機18、偵察機18、雷撃機12、戦闘機27)や、真珠湾攻撃で沈没した米戦艦群のうち、戦艦アリゾナ、ユタ、艦型不詳を除く戦艦4隻が回航修理中であることも証言している[393]。後に、オスマス少尉は兵の独断で殺害されてしまったという[394]。オスマスは水葬に附された[395]。彼の名前はバックレイ級護衛駆逐艦「」に受け継がれている。
午前10時15分(13:15)、第八戦隊(阿部司令官)は南雲部隊各艦(霧島、榛名、利根、筑摩)に対し直ちに索敵機を発進させよと命じた[396]。午前10時30分(13:30)、飛龍から第二波攻撃隊(艦攻10機、零戦6機)が発進[397]。うち、零戦2機(山本、坂東)は飛龍に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機だった[398]。筑摩4号機も発進した[399]。いれかわるように飛龍第一波攻撃隊が飛龍に着艦した[400]。さらに、午前10時30分(13:45)に着艦した十三試艦爆(近藤機)が三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で発信できなかったことを報告した[401]。十三式試艦爆の偵察に対し、戦闘詳報は「敵機動部隊の情況不明なりし際、極めて適切に捜索、触接に任じ、その後の攻撃を容易ならしめたり。功績抜群なり」と高く評価している[402]。この時点で、山口少将は利根4号機、筑摩5号機が通報した空母1隻の他に、エンタープライズ型空母、ホーネット型空母(原文ママ)が存在することを知った[403]。午前11時(14:00)、母艦利根で補給を終えた利根3号機、4号機が再び発進する[404]。午前11時30分(14:30)、戦艦榛名の偵察機(榛名1号機)も附近に空母がいる可能性を知らせた[405]。
午前11時30分(14:30)、飛龍の第二波攻撃隊はアメリカ軍機動艦隊を発見するが、それは復旧作業中のヨークタウンだった[406]。筑摩5号機が撃墜されたため、友永隊は自力でアメリカ軍機動部隊を探さねばならず、火災もなく航行する米空母を見た友永丈市大尉はヨークタウンを「損傷を受けていない別の空母」と判断した[407]。友永隊は左右から挟撃雷撃をおこなうため運動を開始する[408]。
ヨークタウンは直掩F4F戦闘機16を向かわせ、艦攻4機と零戦2機を撃墜し[409]、続いて艦攻1機を対空砲火で撃墜したが、4本の魚雷が両舷から挟み撃ちの形でヨークタウンに向かい、2本が左舷に命中した[410]。ボイラー室と発電機を破壊されたヨークタウンは航行不能となり左舷に傾斜して総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出した[411]。(以上はアメリカ側の文献による)
第二波攻撃隊の艦攻10機は第一中隊5機を友永大尉が、第二中隊5機を橋本大尉が率いていたが、ヨークタウンの巧妙な回避運動のために挟撃雷撃はいったん失敗した[412]。のちに有名になるジョン・サッチのF4Fが、友永機と思われる隊長標識をつけた艦攻を撃墜したが、サッチ機の攻撃で両翼が炎上したその艦攻は、海面に突入する寸前に、ヨークタウンに向けて魚雷を投下した(命中せず)[413]。戦闘詳報は、第二中隊第二小隊機の目撃談(電信員の浜田義一・一等飛行兵[414])をもとに、黄色い尾翼の友永機は[415]対空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録している[416]。橋本大尉の率いる第二中隊はいったん雲の中に退避して態勢を立て直し、ヨークタウンを雷撃、魚雷2本を命中させ、その旨を飛龍に打電した[412]。第二中隊5機のうち1機(赤城から編入された西森進・飛曹長機)は手違いで魚雷が落ちなかったが[417]、第二中隊は全機(艦攻5機)が飛龍に帰還できた[417][418][419]。(以上は日本側の文献による)
飛龍第二波攻撃隊は、艦攻5機(友永大尉の第一中隊全機)と零戦3機を失った[420]。戦闘詳報には「エンタープライズ型空母の左舷に魚雷3本</b>命中大爆発、4500mの高さにまで達する大爆発を認む。空母の後方、サンフランシスコ型重巡洋艦爆発するを認む。同爆発は(魚雷)発射後相当時間の経過あるに鑑み、魚雷命中せしものと認む」と記載されている[421]。
山口少将は第一波攻撃隊(小林隊)と第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃を合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母へ2度攻撃したことに気付かなかった[422][423]。これは第二波飛龍攻撃隊が、雷撃したヨークタウンの後方に「別の空母炎上中」と報告した為である[424]。第二波攻撃隊は、別の米空母が健在である可能性も報告している[425]。この頃、フレッチャー少将は空母「ヨークタウン」が攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母飛龍発見の報告を受けた。ヨークタウンを航行不能とされたフレッチャー少将は、スプルーアンス少将の「何か指示があれば承りたし」という信号に「なし、貴官の行動に順応す」と答え、全権を委譲している[426]。
飛龍沈没
空母ヨークタウンが飛龍第二波攻撃隊(友永隊)の攻撃で航行不能となった午前11時30分(14:45)、偵察中のサッチ・アダムス大尉は平文で「敵発見、空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4、北緯31度15分、西経175度5分、15ノットで北上」(アメリカ軍機動部隊から72浬)と発信した[427]。駆逐艦のうち1隻は軽巡洋艦長良(南雲忠一中将乗艦の旗艦)で[427]、戦艦榛名、重巡洋艦利根、筑摩、軽巡洋艦長良、駆逐艦3隻は飛龍の周辺に集結していたのである[428]。飛龍発見の電文を受信した空母エンタープライズはウィルマー・ギャラハー大尉率いるエンタープライズの爆撃隊10機、デイヴ・シャムウェイ大尉率いるヨークタウン爆撃隊11機(エンタープライズに退避中)を戦闘機の護衛なしで発進させた[429]。
午後12時40分(15:40)、飛龍第二波攻撃隊が着艦した[430]。零戦2機、艦攻5機(友永隊長機を含む)を失い、艦攻4機が修理不能、零戦1機が不時着(乗員は救助)、零戦3機が修理後戦闘可能、艦攻1機が修理後戦闘可能と報告している[431]。飛龍の鹿江隆副長は「(米空母2隻撃沈により)これで1対1だ。これで勝てるし、悪くても相討ちにできる」と感じたという[432]。だが飛龍の戦力は戦闘機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆1機に減少し[433]、炎上する赤城に「もし発艦出来る飛行機があったら、飛龍に収容されたし」と伝えた[434]。山口少将は十三試艦爆によりアメリカ軍空母の位置を把握し、同機の誘導により、修理の見込まれる全兵力で薄暮攻撃をかけることを伝える[435][436]。ただし攻撃機の消耗度から三隻目の撃破は難しいと考えた[437]。山口の幕僚によれば、一次攻撃、二次攻撃での被害が山口少将の予想をはるかに上回るもので、山口少将は三次攻撃の断行に逡巡をしめしたという[438]。この間、赤城・加賀・蒼龍から飛龍に着艦した零戦が交替で飛龍の上空を守っていた[439]。敵からの攻撃に関して山口少将は「現在の上空警戒機で阻止できる」という意向を話した[437]。
十三試艦爆の発進準備が終わり[440]、友永隊を護衛していた加賀所属零戦1機(山本旭一飛曹)が着艦しようとした時[441]、アメリカ軍急降下爆撃隊24機は飛龍の上空に到達した。エンタープライズの艦爆隊指揮官ギャラハー大尉は、ヨークタウン隊に戦艦を狙うよう命令すると、飛龍の飛行甲板の日の丸マークを目標に突入した[442]。午後2時(17:30)、直衛の零戦6機の迎撃と飛龍の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗した[443]。続いてヨークタウンの爆撃隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするようにして攻撃した[444]。護衛の利根と筑摩が対空砲火で迎撃したが阻止できず、飛龍に爆弾4発が命中した[445]。長良からは、飛龍のエレベーターが飛龍の艦橋の前に突き刺さっているのが目撃されている[446]。またヨークタウン隊の2機は付近を航行していた戦艦榛名を爆撃したが、至近弾に終わった[447]。ヨークタウン隊に遅れて戦場に到着したホーネットの艦爆隊15機は利根と筑摩を攻撃したが、全て回避されている[448]。この他にも飛龍と「筑摩」は午後2時30分(17:30)、午後3時15分(18:15)にハワイから飛来したB-17爆撃機から攻撃されたが、これによる被害はなかった[449]。
炎上した飛龍は午後6時23分(21:23)まで機関は無事だったため、離脱と消火につとめた。だが艦橋と機関科間の電話が不通で、機関科は全滅と判断された[450]。しばらく洋上に浮いていた飛龍に横付けされた駆逐艦が消火協力したものの、誘爆が発生して消火不能となった[451]。午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口少将は南雲司令部に総員退艦させると報告し[450]、加来艦長と共に、駆逐艦巻雲の雷撃によって沈む飛龍と運命を共にした。飛龍が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分だが[313]、艦底部から脱出した機関科員34名が沈みゆく飛龍から短艇によって離艦したのは、巻雲の魚雷が命中してから数時間後の午前6時6-15分だったという[452]。彼らは15日後にアメリカ軍に救助された。戦死者は、戦闘詳報によれば1416名(傭人6名含)のうち、山口司令、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名である[453]。搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戦死した。ただし417名には先のアメリカ軍に救助された機関科員34名が入っている。
夜戦の検討
軽巡洋艦長良に移乗した南雲中将は、日本時間6月5日午前8時28分(現地時間6月4日11:28)に筑摩偵察機から「敵は北東90浬」の報告を受けて水上戦闘を決意し、午前8時53分に「今より攻撃に向かう、集まれ」と集合命令を出した[454]。日本軍三空母炎上の報告を受けた連合艦隊旗艦大和の艦橋は雰囲気が一変し、黒島亀人先任参謀は涙を浮かべてテーブルを叩いた[455]。山本五十六長官は渡辺と将棋を指している時に「赤城、被爆大、総員退去」との報告を受けたが、「ほう、またやられたか」「南雲は帰ってくるだろう」とつぶやいただけでそのまま将棋を続けたという[456]。この時、連合艦隊主隊は濃霧の中で戦艦「長門」が連絡不能になるなど混乱しており、焦りがつのるばかりであったという[457]。午前9時20分(11:20)、山本五十六長官はGF電令作第133号で輸送船団の一時北西撤退を命じる。日本軍攻略部隊(第二艦隊)の近藤信竹中将は、これを受けて占領隊(日本軍輸送船団)に北西退避を命じ、栗田健男の支援隊(第七戦隊)に合同するよう命じた[458]。同時に山本長官は、アリューシャン方面に投入されていた第二機動部隊(角田覚治少将、空母:隼鷹、龍驤)に対し、第一機動部隊(南雲機動部隊)と合流するよう打電した[459]。だが両艦隊の距離は遠く、合流は早くとも9日で、宇垣纏連合艦隊参謀長は空母を分散させたことを後悔している[460]。同時刻、南雲中将も各艦に「昼戦をもって敵を撃滅せんとす」と伝え、第八戦隊(利根、筑摩)は魚雷戦を挑む準備を整える[461]。午前10時、山本長官はGF電令作第号、156号にて第二艦隊に以下の命令を伝えた[462]。
敵艦隊攻撃C法をとれ(全兵力を集中し、敵を撃滅する)。
攻略部隊は一部の兵力を以て、今夜ミッドウェーの陸上軍事施設、航空基地を砲撃破壊せよ。
ミッドウェー、アリューシャン群島の攻略を一時延期す。
山本長官の命令により、近藤信竹中将は第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)にミッドウェー島へ向かうよう命じ、同時に南雲機動部隊と策応してアメリカ軍機動部隊に夜戦を挑む方針を示した[463]。連合艦隊は、ミッドウェー基地のアメリカ軍航空兵力が稼働状態にあるか、南雲部隊に尋ねている[464]。長良には空母飛龍が米空母2隻を撃破したという連絡が入り(ヨークタウンを2度攻撃したことの誤認)、草鹿参謀長は希望を抱いた[465]。しかし、夜戦を企図しつつ北上中の午後2時5分(17:05)、飛龍大破の報により、アメリカ軍機動部隊とミッドウェー基地航空隊制空権下での水上戦闘は困難と南雲は判断する[466]。そこで一旦西方に反転し、あらためての夜襲を企図した。草鹿参謀長によれば「万事休す[467]で、「レーダーもなく、駆逐艦も少なく、望みのない夜戦に一縷の望みをかけて、当てもなくただ走りまわっていた」と回想している[468]。宇垣参謀長は空母4隻を目前で失ったからには当然の反応だろうと理解を示しながらも[469]、戦艦や重巡洋艦から水上偵察機を発進させて索敵を行わない南雲司令部を「消極的、退廃的」と批判している。近藤中将の第二艦隊は軽空母瑞鳳を有しており、米艦隊に積極的に戦闘を挑む方針を示した[470]。炎上日本空母を護衛していた第四駆逐隊司令有賀幸作大佐(後、戦艦大和艦長)は「敵機動部隊接近すれば刺し違えよ」と配下駆逐艦に下令していた[471]。
午後2時13分(17:13)、筑摩の2号偵察機は、甲板に損傷なく傾斜停止したエンタープライズ型空母を発見し、周囲の護衛艦艇が空母をその場に残して東に去ったと報告した[472]。南雲司令部は、飛龍第一波攻撃隊(小林隊)が爆撃を行った空母(ヨークタウン)は既に沈没・飛龍第二波攻撃隊(友永隊)が雷撃した空母(ヨークタウン)は漂流と判定した[473]。1時間後、筑摩2号機は米空母1、巡洋艦2、駆逐艦4発見を報告、続いて米空母1隻の存在を報告する[474]。先任参謀の大石保中佐が長良の偵察機を夜間発進させ索敵するように進言し、他の幕僚は懐疑的であったが、南雲はその案に同意した[475]。その後、筑摩2号機が「炎上米空母の後方に、更に米空母4隻を発見」と報告してくる[476]。南雲司令部では「まさか」という声があがったが、これを信じ[477]、戦闘詳報には「南下中順次にこれ等の敵を発見せるものにして同一部隊ノ重複ナキ事確実ナリ」と記録[478][479]、南雲中将は「敵航空母艦の予想外に優勢なるを始めて知れり」と驚いている。午後4時15分、山本五十六長官と宇垣纏参謀長は南雲部隊に対し、GF電令第158号として以下の命令を伝えた[480]。
敵機動部隊は東方へ避退中にして、空母は概ねこれを撃破せり[481]。
当方面連合艦隊は敵を急追、撃滅すると共にAF(ミッドウェー島)を攻略せんとす[481]。
主隊は6日午前零時、地点フメリ32に達す。針路90度速力20ノット[481]。
機動部隊、攻略部隊(7戦隊欠)および先攻部隊(潜水艦隊)は速やかに敵を捕捉撃滅すべし[481]。
午後5時30分(20:30)、山本長官はGF電令159号にて伊168号潜水艦に対し「伊168潜水艦は2300迄AF(イースタン)島航空基地の砲撃破壊に任ずべし。同時刻以降は第七戦隊(栗田少将)が砲撃の予定」と告げ、ミッドウェー基地を夜間砲撃するよう命じた[482]。南雲中将は山本の敵情判断が間違っているとみて、午後6時30分(22:30)、機動部隊機密第560番電において筑摩の2号機の「空母5隻」発見とミッドウェー基地航空隊の活動を伝達する[483]。南雲中将は続く午後7時50分(22:50)の電信で「GF電令作第158号に関係し敵空母(特空母艦含むやも知れず)は尚4隻あり」と、自軍空母の全滅を報告した[484]。すると山本長官より、第二艦隊司令官近藤信竹中将に赤城と飛龍を除く機動部隊戦力の統一指揮を任すという命令が届いた[485]。南雲部隊第八戦隊は第二艦隊と合流し、アメリカ軍と戦闘を継続したい旨を伝えている。
日本軍の撤退
日本時間6月5日午後9時15分、山本長官は第二艦隊と南雲機動部隊(赤城・飛龍)に対し、夜戦の中止と主隊(大和以下、第一艦隊)への合流を命じ[486]、午後10時11分、南雲部隊は反転した。午後11時55分、山本長官は連合艦隊電令161号で以下の命令を伝達した[487]。
AF(ミッドウェー島)攻略を中止す[488]。
主隊は攻略部隊(第二艦隊)、第一機動部隊(欠、飛竜及び同警戒艦)を集結し、予定地点に至り補給を受くべし[488]。
警戒部隊、飛竜同警戒艦、及び日進は、右地点に回航すべし[488]。
占領部隊は西進し、ミッドウェー飛行圏外に脱出すべし[488]。
ミッドウェー作戦の中止が決定した瞬間であった。日本軍は撤退を開始する。6月6日午前4時30分(現地時間6月5日07:30)、軽空母鳳翔の九六式艦上攻撃機が漂流する飛龍と甲板上の生存者を発見、連合艦隊司令部は南雲司令部に飛龍が沈没したかどうかを確認せよとの命令をだした[489]。飛龍の現状を知らなかった南雲部隊司令部は午前9時45分(12:45)、長良より偵察機を発進させ、駆逐艦谷風を飛龍の処分と生存者救助のために派遣した[490]。谷風はエンタープライズから発進したSBDドーントレス16機の攻撃を受けたが、4機の撃墜を報告して生還した[491]。谷風を攻撃したホーネット隊は香取型練習巡洋艦(駆逐艦谷風)を攻撃したと報告したが、撃墜されたのは1機であった[492]。午前中に、山本の主隊、近藤の攻略部隊、南雲の残存部隊は合流した[493]。
支援隊の第七戦隊(重巡洋艦:旗艦熊野、鈴谷、三隈、最上)は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって山本から新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速で前進していた[494]。その後、夜戦中止に先立ってミッドウェー島砲撃中止命令が出された。第七戦隊はミッドウェー島90浬の地点で転進を行ったが、その1時間20分後、アメリカ海軍潜水艦タンバー(SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に三番艦三隈と最後尾の最上が衝突[495]。最上は艦首を切断、速力10ノットに落ちた。第七戦隊司令官の栗田健男少将は最上の護衛に三隈と駆逐艦2隻(第八駆逐隊:荒潮、朝潮)をあてると南西のトラック島への退避を命じ、栗田少将は熊野と鈴谷を率いて主力部隊と合流するため北西に向かった[496]。
一方のアメリカ軍では、飛龍攻撃隊により空母ヨークタウンが大破し漂流していた。駆逐艦ヒューズだけがヨークタウンの護衛として残された[497]。その後ヨークタウンではサルベージ作業が進み、艦隊曳船ヴィレオが救助に向かう[498]。フレッチャーから指揮権を渡されたスプルーアンス少将の第16任務部隊も日本艦隊の動向が把握できず夜戦に持ちこまれる可能性を考慮、一時的に東へ退避する[499]。しかし翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進する。
日本時間6月6日、潜水艦タンバーの報告を受けたアメリカ軍は、まずミッドウェー島の航空戦力で三隈と最上を攻撃した。SBDドーントレス6機、SB2Uビンディケーター6機、B-17爆撃機8機が攻撃、SB2U指揮官機が三隈の後部砲塔に体当たりし、最上が至近弾で戦死者2名を出した[500]。アメリカ軍機動部隊の追撃を受けた三隈と最上はウェーク島に向かい、連合艦隊主隊と攻略部隊も三隈の救援と米機動部隊の捕捉に向けて動き出す[501]。6月7日、スプルーアンスは「空母1隻、駆逐艦5隻発見」という索敵機の報告を元に、「ホーネット」「エンタープライズ」攻撃隊を発進させた[502]。アメリカ軍攻撃隊は空母のかわりに「戦艦」を発見し、最初は航空母艦、次は戦艦と誤認された三隈は集中攻撃を受けて沈没[503]。また最上や駆逐艦朝潮、荒潮も被弾。近藤信竹中将は第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈・最上を救援せんとす」と命じて反転したが、アメリカ軍機動部隊の捕捉に失敗している[504]。翌8日午前中、最上は救援にかけつけた第二艦隊と合流、空襲圏外へ脱した[505]。
戦艦大和以下、主力部隊は夜戦を企図し東進していたが、飛龍を失い、再考して翌0時に夜戦の中止を決定し、3時頃には作戦自体を中止。主力部隊は結局ミッドウェー島の遥か数百キロ後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の整った戦艦で手当てを行ったに留まる。赤城の生存者達は、大和以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことをののしったという[506]。日本軍輸送船団は、アメリカ軍機動部隊の追撃に備えて陣形を変更した[507]。山本長官は、アメリカ軍の追撃部隊をウェーク島の基地航空隊活動圏内に引き込むよう命じたが[508]、アメリカ軍はそこまで深追いしなかった。
6月7日、ヨークタウンは曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていた。このとき駆逐艦ハムマンに移乗していたバックマスターヨークタウン艦長と161名が再びヨークタウンに乗艦している[509]。さらに駆逐艦モナガン、グウィン、バルチ、ベンハムが護衛に加わった[509]。その頃、ミッドウェー島を砲撃後同島海域にとどまっていた伊168潜水艦がヨークタウン撃沈の任を受け、同艦に接近[510]。(13:34)、4本の九五式魚雷を発射し、2本がヨークタウンの左舷に命中させ、[511]撃沈した。さらに、同行の駆逐艦ハンマンにも1本が命中しこれも沈没[511]。このときのヨークタウンを日本軍は「甲板の損傷なき模様」として、飛龍が最初に攻撃したのとは別の空母だと考えていた[512]。
6月13日、第16任務部隊のエンタープライズ、ホーネットは艦載機と搭乗員に大きな損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。アメリカ軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母2隻の沈没を確認し、漂流していた飛龍機関科兵の聴取から飛龍の沈没を知り、計3隻の撃沈を確信した[513]。赤城については暗号解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜の情報を分析した後の事であった。
参加兵力
日本
海戦に参加した兵力
第一航空艦隊(第一機動部隊) 司令長官:南雲忠一中将
第一航空戦隊 司令官:南雲忠一中将
航空母艦:赤城(零戦21 九九艦爆21 九七艦攻21)、加賀(零戦21 九九艦爆21 九七艦攻30)
第二航空戦隊 司令官:山口多聞少将
航空母艦:飛龍(零戦21 九九艦爆21 九七艦攻21)、蒼龍(零戦21 九九艦爆21 九七艦攻21)
第八戦隊 司令官:阿部弘毅少将
重巡洋艦:利根、筑摩
第三戦隊第二小隊
戦艦:榛名、霧島
第十戦隊 司令官:木村進少将 軽巡洋艦:長良
第四駆逐隊 司令:有賀幸作大佐
駆逐艦:嵐、野分、萩風、舞風
第十駆逐隊 司令:阿部俊雄大佐
駆逐艦:風雲、夕雲、巻雲、秋雲
第十七駆逐隊 司令:北村昌幸大佐
駆逐艦:磯風、浦風、浜風、谷風
油槽艦:東邦丸、極東丸、日本丸、国洋丸、神国丸、日朗丸、豊光丸、第2共栄丸
その他のMI作戦の兵力
連合艦隊(主力部隊) 司令長官:山本五十六大将
第一戦隊 連合艦隊司令長官直率
戦艦:大和、長門、陸奥
第三水雷戦隊 司令官:橋本信太郎少将 軽巡洋艦:川内
第一一駆逐隊 司令:荘司喜一郎中佐
駆逐艦:吹雪、白雪、初雪、叢雲
第一九駆逐隊 司令:大江覧治大佐
駆逐艦:磯波、浦波、敷波、綾波
空母隊 司令:梅谷薫大佐(鳳翔艦長が兼務)
航空母艦:鳳翔
駆逐艦:夕風
特務隊 司令:原田覚大佐
水上機母艦:千代田、日進
油槽艦:鳴戸丸、東栄丸
第一艦隊(主力部隊) 司令長官:高須四郎中将
第二戦隊 第一艦隊司令長官直率
戦艦:伊勢、日向、扶桑、山城
第九戦隊 司令官:岸福治少将
軽巡洋艦:北上、大井
第二四駆逐隊 司令:平井泰次大佐
駆逐艦:海風、江風
第二七駆逐隊 司令:吉村真武大佐
駆逐艦:夕暮、白露、時雨
第二〇駆逐隊 司令:山田雄二大佐
駆逐艦:天霧、朝霧、夕霧、白雲
油槽艦:さくらめんて丸、東亜丸
第二艦隊(攻略部隊) 司令長官:近藤信竹中将
第四戦隊第一小隊 司令官:近藤信竹中将
重巡洋艦:愛宕、鳥海
第五戦隊 司令官:高木武雄中将
重巡洋艦:妙高、羽黒
第三戦隊第一小隊 司令官:三川軍一中将
戦艦:金剛、比叡
第四水雷戦隊 司令官:西村祥治少将 軽巡洋艦:由良
第二駆逐隊 司令:橘正雄大佐
駆逐艦:五月雨、春雨、村雨、夕立
第九駆逐隊 司令:佐藤康夫大佐
駆逐艦:朝雲、峯雲、夏雲、三日月
航空母艦:瑞鳳
油槽艦:健洋丸、玄洋丸、佐多丸、鶴見丸
第七戦隊(支援隊) 司令官:栗田健男中将
重巡:三隈、最上、熊野、鈴谷
第八駆逐隊 司令:小川莚喜大佐
駆逐艦:朝潮、荒潮
第二水雷戦隊(護衛隊) 司令官:田中頼三少将 軽巡洋艦:神通
第一五駆逐隊 司令:佐藤寅治郎大佐
駆逐艦:親潮、黒潮
第一六駆逐隊 司令:渋谷紫郎大佐
駆逐艦:雪風、時津風、天津風、初風
第一八駆逐隊 司令:宮坂義登大佐
駆逐艦:不知火、霞、陽炎、霰
哨戒艇:哨戒艇1号、2号、34号
油槽艦:あけぼの丸
第一一航空戦隊 司令官:藤田類太郎少将
水上機母艦:千歳
水上機母艦:神川丸
駆逐艦:早潮
哨戒艇:第35号哨戒艇
工作船:明石
ミッドウェー諸島占領隊
輸送船18隻(清澄丸、ぶらじる丸、あるぜんちな丸、北陸丸、吾妻丸、霧島丸、第2東亜丸、鹿野丸、明陽丸、山福丸、南海丸、善洋丸 )
油槽艦:日栄丸
第二連合特別陸戦隊 司令官:大田実(海軍)大佐
横五特(横須賀第五特別陸戦隊)、呉五特、第一一設営隊、第一二設営隊、第四測量隊
陸軍一木支隊 支隊長:一木清直(陸軍)大佐
第六艦隊(先遣部隊) 司令長官:小松輝久中将
本隊
軽巡洋艦:香取
第八潜水戦隊(先遣支隊)
潜水母艦:愛国丸、報国丸
潜水艦:伊15、伊17、伊19、伊25、伊26、伊174、伊175、伊122
第三潜水戦隊
潜水母艦:靖国丸
潜水艦:伊168、伊169、伊171、伊172、伊9、伊123
第五潜水戦隊
潜水母艦:りおで志゛やねろ丸
潜水艦:伊156、伊157、伊158、伊159、伊162、伊164、伊165、伊166、伊121
アメリカ
第17任務部隊(Task Force 17) 司令官 フランク・J・フレッチャー少将
第2群(Task Group 17.2 Cruiser Group) 司令官:ウィリアム・W・スミス少将
重巡 アストリア - ポートランド
第4群(Task Group 17.4 Destroyer Screen) 司令官:ギルバート・C・フーバー大佐
第2駆逐戦隊(COMDESRON 2)
駆逐艦 ハムマン - アンダーソン - グウィン - ヒューズ - モリス - ラッセル
第5群(Task Group 17.5 Carrier Group) 司令官:エリオット・バックマスター大佐(兼「ヨークタウン」艦長)
空母 ヨークタウン
ヨークタウン航空群
第3戦闘機隊(VF-3/F4F-4/25機)、第3爆撃機隊(VB-3/SBD-3/18機)、第5索敵爆撃機隊(VS-5/SBD-3/19機)、第3雷撃機隊(VT-3/TBD-1/15機)
※ヨークタウンの第5航空群は珊瑚海海戦で損失、サラトガの第3航空群と残存した第5航空群を搭載
第16任務部隊(Task Force 16) 司令官 レイモンド・A・スプルーアンス少将
第2群(Task Group 16.2 Cruiser Group) 司令官:トーマス・C・キンケイド少将
第6巡洋隊(COMCRUDIV 6)
重巡 ミネアポリス - ニューオーリンズ - ノーザンプトン - ペンサコラ - ヴィンセンス
軽巡 アトランタ
第4群(Task Group 16.4 Destroyer Screen) 司令官:アレキサンダー・R・アーリー大佐
第1駆逐戦隊(COMDESRON 1)
駆逐艦 フェルプス - ウォーデン - モナハン - エイルウィン - バルチ - カニンガム - ベンハム - エレット - モーリー
第5群(Task Group 16.5 Carrier Group) 司令官:ジョージ・D・マーレ大佐(兼「エンタープライズ」艦長)
空母 エンタープライズ
エンタープライズ航空群
第6戦闘機隊(VF-6/F4F-4/27機)、第6爆撃機隊(VB-6/SBD-2、3/19機)、第6索敵爆撃機隊(VS-6/SBD-2、3/19機)、第6雷撃機隊(VS-6/TBD-1/14機)
空母 ホーネット
ホーネット航空群
第8戦闘機隊(VF-8/F4F-4/27機)、第8爆撃機隊(VB-8/SBD-3/19機)、第8索敵爆撃機隊(VS-8/SBD-3/19機)、第8雷撃機隊(VT-8/TBD-1/15機)
第16任務部隊 給油群(Oilers Group)
駆逐艦 デューイ - モンセン
艦隊給油艦 シマロン - プラット
潜水艦部隊 司令官:ロバート・H・イングリッシュ少将
潜水艦19隻
ミッドウェー島守備隊
ミッドウェー基地海軍航空部隊 司令:シリル・T・シマード大佐
カタリナ飛行艇31機、TBF6機
第22海兵航空群 司令:イラ・L・キムス海兵中佐
F2A20機、F4F7機 SB2U 11機 SBD 16機
第7陸軍航空軍分遣隊 司令:ウイリス・P・ヘール陸軍少将
B -26 4機、B-17 17機
地上部隊 司令:シマード大佐(兼任)
第2急襲大隊
第6海兵大隊 司令:ハロルド・D・シャノン海兵大佐
第1魚雷艇戦隊
損害
日本
沈没喪失
重巡洋艦:三隈、700名[514]
大破、のち自沈処分
航空母艦:赤城267名(航空搭乗員含む)[515]、加賀 811名[516]、蒼龍 711名[517]、飛龍 392名(米軍救助者含まず) [518]
大破
駆逐艦:荒潮
中破
重巡洋艦:最上92名[519]
航空機:喪失艦載機289機(内、21機はミッドウェー配備予定の第六航空隊。水偵4機)
この中には「十二試艦爆」を含む。
戦死[520]
山口多聞少将(戦死後中将に特進)
岡田次作大佐(戦死後少将に特進)
柳本柳作大佐(戦死後少将に特進)
加来止男大佐(戦死後少将に特進)
崎山釈夫大佐(戦死後少将に特進)
上記の沈没・損傷艦の他、筑摩の航空搭乗員3名、利根の航空搭乗員2名、駆逐艦谷風11名、朝潮21名、荒潮35名、嵐1名、風雲1名、給油艦あけぼの丸10名が戦死した。総計3,057名を失い、その中に加賀の飛行隊長:楠美正少佐(戦死後中佐に一階級特進)、飛龍の飛行隊長:友永丈市大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら110名の空母艦載機搭乗員を含む。各母艦別の搭乗員損失は、赤城7名(艦戦4、艦爆1、艦攻2)、加賀21名(艦戦6、艦爆6、艦攻9)、蒼龍10名(艦戦4、艦爆1、艦攻5)、飛龍72名(艦戦11、艦爆27、艦攻34) [521]。搭乗員損失率は反撃した飛龍が最多。空母上でアメリカ軍機空襲とその後の誘爆により戦死した搭乗員は赤城4名、加賀13名、蒼龍4名、飛龍8名である[521]。
海戦直後の混乱や作戦後の被害秘匿のための特殊な人事処理で、海戦直後の資料は不正確。第一航空艦隊が6月12日に行った報告では、第一航空戦隊、第二航空戦隊で、戦闘機45名、艦上爆撃機51組、艦上攻撃機57組が残存となっている。内地に帰還したのちに作成された第一航空艦隊戦闘詳報では消耗52組となっている[522]。
6月10日の大本営発表は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」[523]、6月18日の大本営発表で「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正発表した[523]。南雲機動部隊の戦闘詳報では、エンタープライズ型空母2隻撃沈、サンフランシスコ型大巡1隻大破、米軍機173機撃墜である[524]。
アメリカ
沈没喪失
航空母艦:ヨークタウン
駆逐艦:ハムマン
航空機:基地航空隊を含め、約150機を喪失。この数字には修理不能の損傷を受けた機も含まれる[525]。
戦死
空母ヨークタウン86名(航空搭乗員含む)、空母ホーネット53名、空母エンタープライズ44名、駆逐艦ハムマン84名、駆逐艦ベンハム1名、ミッドウェー基地46名。合計362名(航空搭乗員208名、基地・艦乗組員154名) 。高級士官の戦死は無かった。
影響
日本
この作戦後、山本連合艦隊長官やその幕僚の責任は問われず、一航艦も長官南雲忠一、参謀長草鹿龍之介は一航艦の後継である第三艦隊の指揮をそのまま受け継いだ。しかし、それ以外の一航艦の幕僚は全て降ろされ、また士官も転出させられた(一航艦航空参謀吉岡忠一はミッドウェー海戦の資料作成のためしばらく残留した)[526]。
作戦の混乱により山本長官を始めとする短期決戦早期講和派は発言力を失い、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換せざるを得なくなった。開戦時の連合艦隊の山本長官は戦前に「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持できるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒する」と述べていた。しかし国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵など全ての拙劣さにより、ミッドウェー海戦で主力空母機動艦隊壊滅の損害を受けたにも拘らず、事後に作戦戦訓研究会は開かれなかった。もっとも軍令部は、この敗北を国民には伝えなかったものの、参謀本部に対しては迅速に伝えている[527]。ミッドウェー海戦の実態について、海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされ、前陸相の畑俊六にさえも真相は伝えられていなかった[528]。
珊瑚海海戦の大本営発表から戦果の大きな水増しが始まったが[529]、本海戦でも戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、敵飛行機120機を撃墜。味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破、未帰還機35機」と国民に発表、士気の阻喪を防ごうとした[530]。
本海戦で空母4隻とその搭載飛行機全てを失ったこと、珊瑚海海戦で祥鳳を失い、第五航空戦隊も多数損失した。これらで失われた艦上機は戦闘機会が少ないので生産要求が小さく、この損失は大きな痛手となった[531]。ミッドウェー海戦に参加した第一、第二航空戦隊の搭乗員はほとんど脱出成功したため、大きな損失はなかった。アメリカが低劣な技量であったこと、飛龍が少数機で戦果を上げたこと、飛龍の仇うちなどで搭乗員の士気は上がった[522]。ミッドウェー海戦直後の参謀本部への説明の中で、軍令部は「残存空母2隻(瑞鶴、翔鶴)では守勢の外はない」、「残りの空母は大したものではない」と述べている[532]。
ミッドウェー海戦後、立て直しの好機として、従来の要求、本海戦の戦訓を取り入れた空母部隊再建の打ち合わせが一航艦、連合艦隊で行われた。内容は、機動部隊の建制化、警戒兵力の増強、航空戦隊の再編であった。航空戦隊再編はミッドウェー海戦の戦訓から、大型空母2隻を攻撃の主体、小型空母1隻を自隊の防御とした三隻編制を一個航空戦隊とする。さらに従来の艦隊決戦から空母を使用不能にして制空権を獲得する航空決戦の方針に変わった[533]。
また、日本海軍は航空機用燃料や爆弾を大量搭載する空母の脆弱性は日本海軍も認識、マル4計画で既に飛行甲板に装甲を施した空母大鳳を建造中であった。しかし、6月21日に開かれた空母急増対策委員会(山本、草鹿、南雲、源田実、宇垣纏、鈴木軍令部第二部長、大西瀧治朗航空本部総務部長、江崎岩吉造船少将)では、四空母生存者から日本空母に対する厳しい指摘がなされた[534]。すると山本五十六が「計画変更の必要なし。空母に脆弱性あるとも、使いこなす自信がある」と発言し、出席者一同沈黙したという[535]。
アメリカ
結果的に多数の航空機と200名の航空兵が犠牲になるという決して軽くない損害を受けるも、日本海軍の真珠湾攻撃作戦に参加した空母四隻を撃沈し、機動部隊の快進を食い止めたという結果はアメリカ軍にとって非常に喜ばしいことであった。
アメリカ軍は、それまでは数が確保できなかったため、止むを得ず単鑑による作戦行動が多かった航空母艦を、戦前から建造を進めていたエセックス級航空母艦の整備に伴い、空母機動部隊として集中運用するようになる[注 2]。大戦後期のマリアナ沖海戦やレイテ沖海戦では、20隻もの空母を含む大艦隊を運用するようになる。
また、アメリカ海軍情報局が日本軍の情報を手に入れることで事前察知し数で勝る日本に勝利できたのを戦訓に、以後アメリカ海軍は暗号解読にもより力を入れるようになった。
駆逐艦嵐が6月5日に撃墜されて漂流する空母ヨークタウンの雷撃隊生存者ウェスリー・フランク・オスマス(オスムス)海軍予備少尉を救助・収容していたが6月6日に何者かに斬殺されるという事件が起き、水葬された[536]。
勝敗の要因
連合艦隊司令部
作戦内容
連合艦隊がこの作戦計画案を関係者に配布したのは、4月28日であった。その後図上演習開始まで関係者は戦訓研究会に出席していたので、作戦計画について深く研究する時間的余裕はなかった[41]。
図上演習でも、ミッドウェー攻略の最中に米空母部隊が出現して日本の空母に大被害が出る、攻略の遅れや燃料不足など問題が続出し、攻略作戦続行が難しい状況となったが、連合艦隊参謀長の宇垣纏が空母を復活させるなど審判をやり直させて続行させた[48][49] 。宇垣の強引な判定には、ミッドウェー作戦からハワイ攻略までの図上演習を行う時間が3日間しかなく、スケジュールがしていたという事情もあった[537]。この研究会で麾下各部隊が最も強く要望したことは、作戦準備が間に合わないとの延期であり、軍令部からも2-3週間遅らせることを勧められたが、連合艦隊はこれに応じなかった[538][539]。
また、連合艦隊と軍令部の意思統一ができておらず、本作戦の主目標が、ミッドウェー島攻略にあるのか、敵機動部隊の撃滅にあるのか、はっきりしていなかった。連合艦隊は敵機動部隊撃滅を重視する発言をしていたが、軍令部は主目標を攻略にあると示していた。大本営命令においても攻略が主目標と指示されていた。そのため、実施部隊の第一航空艦隊には敵機動部隊の撃滅という目標は徹底されなかった[41]。
アメリカ軍は、本作戦では戦力が分散していたが、空母3隻、重巡7隻ほか合計57隻を決戦海面に集めた。日本側がミッドウェー・アリューシャン作戦に動員した戦力は、戦艦11隻、空母6隻、重巡17隻ほか合計350隻に達していたが、決戦海面で戦うことができたのは、戦艦2隻、空母4隻、重巡2隻ほかに過ぎなかった。空母1隻あたりの護衛能力は下回り、しかも航空兵力の半分を陸上攻撃に向かわせるという致命的な失敗を犯した。ニミッツ司令長官は「日本軍が6隻の空母、11隻の戦艦などを集中運用していたならば、いかなる幸運や技量をもってしても敗走させることはできなかったであろう。日本海軍は奇襲を必要としない場合も奇襲に依存するという錯誤を犯したのである」と語り、日本の作戦構想の誤りを指摘した[540]。ゴードン・ウィリアム・プランゲ(元GHQ戦史室長)は、アリューシャン方面に空母龍驤、隼鷹を投入したことが、山本五十六最大の失策だったと指摘している[541]。防衛大学校戦略教育室は、日本が兵力を分散したためミッドウェー沖で戦闘に参加した航空機の数がアメリカより少なかったことが根本的な原因であるとしている[542]。
連合艦隊が機動部隊で上陸点の制空を獲得することを前提として開戦時と違い十分に警戒された敵要地に奇襲が成功すると決め、奇襲不可なら反撃され損害を受けることを考慮しなかった点[543][544]、敵情判断を誤り、南方攻略作戦の成功から日本の希望通りに予定が進むと思い込み敵を軽視し、予期せぬ事態に対処する余裕のない作戦立案を行った点[543][545]、ミッドウェー攻略を早く認めさせるために大本営の要望するFS作戦を組み入れたことで作戦に無理を招いた点について批判がある[543]。また、連合艦隊はミッドウェー島上陸を6月7日に固定したため作戦の柔軟性が失われた[546]。機動部隊の草鹿参謀長は、この作戦では機動部隊の後から後から上陸部隊など他の艦隊がやってくるので非常に窮屈なものであったと語っている[547]。
連合艦隊は占領後の基地航空部隊の進出を急いでおり、機動部隊の空母4隻に第6航空隊の航空機21機を輸送のため積んだので、格納庫は窮屈になり、不要な物を載せないという被害局限の原則にも反していた[548]。
作戦指導
連合艦隊は第一航空艦隊から、連合艦隊が敵情を把握し米機動部隊の動向は機を逸せず通報するように懇願されて、重要な作戦転換は連合艦隊司令部から一航艦に発せられることになっていた[549][69]。また、機密連合艦隊命令作第14号には、主力部隊の内地出撃から帰投までの太平洋方面の敵情通報は東京から放送することが定められ、東京には連合艦隊通信部隊の中枢に第1連合通信隊司令官柿本権一郎少将がいた[550]。
しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった[551]。そのため、第一航空艦隊は敵潜水艦に発見された情報も知らされず、その後の敵の緊急信増加、動きの活発化が何を意味するのか判断がつかず、敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動することになった[552]。連合艦隊の宇垣参謀長は海戦後の日記に第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している[553]。機動部隊の草鹿参謀長は、大和が無線封止を徹底し機動部隊に敵情を伝えなかったのは本末転倒であると批判している[554]。
哨戒
ミッドウェー作戦は、真珠湾に米機動部隊が在泊していることを前提として計画しており、そのため連合艦隊は、真珠湾の動静確認が重要で知敵手段として散開線への潜水艦哨戒配備と二式飛行艇での敵情偵察を行うK作戦を計画したが、間に合わず失敗した。この報告を受けた連合艦隊は計画が崩れたことに何ら対策を取らなかった。戦後、連合艦隊参謀黒島亀人は「海軍の常識からいえば、この場合の散開線構成は、西方で散開隊形を概成したのち東進して、所定配備に潜水艦をつけるべきである。ところが私の敵情判断の間違いなどから、あんな配備のつき方を計画してしまった。そのうえ、連合艦隊の指導が至らず潜水艦の準備が遅れてしまった。また、今次作戦は連合艦隊の主兵力を使って行なう作戦であるから、潜水部隊は連合艦隊の全兵力を集中すべきであった」と語っている[555]。K作戦失敗で完全に日本は敵機動部隊の知敵手段を失ったが、黒島は「わが機動部隊は無敵で、敵を圧倒できると信じていたので、このため特別な処置は考えなかった」という[556]。
この潜水艦と飛行艇による哨戒網は6月2日の予定だったため、計画通り進んでも5月28日にサイパンを出発するミッドウェー攻略部隊が発見されて真珠湾の米機動部隊が動いた場合、間に合わない作戦だった[557]。
南雲忠一(第一航空艦隊長官)
指揮官の資質
連合艦隊の幕僚たちは南雲中将に批判的であり、交代を要望しており、草鹿参謀長にも批判的であった[558]。また宇垣によれば、「(一航艦)司令部は誰が握り居るや」の質問に二航戦司令官の山口少将は「(南雲)長官は一言も云はぬ、参謀長先任参謀等どちらがどちらか知らぬが臆怯屋揃いである」と答えている[558]。攻撃隊の指揮官だった淵田美津雄によれば、戦前の南雲中将の印象は末頼もしい提督の面影があり、第一水雷戦隊司令官としても抜群の武将であるとの評判が高かったが、開戦後は航空という畑違いのせいもあってかはつらつとした昔の闘志が失われ、何としても冴えない長官であり、作戦を指導する態度は消極的で、長官自ら乗り出してイニシアチブをとるというようなことはなく、最後にうんそうかで採決するだけのようであったという。また当時、航空参謀の源田実から、大西瀧治郎や山口多聞あたりが上にいてくれるとあらゆる角度から叩き直して突っ返してくるから安心して自由奔放に作戦を練られるが、南雲司令部のように国運を左右するかもしれない案がチェックされずに通っていくと責任感で圧迫されて自然と萎縮してしまうという苦衷も聞いたという[559]。
そもそも南雲中将は第二艦隊などの水上艦部隊の方が適任であり、年功序列で第一航空艦隊司令長官を決めた海軍人事行政に問題があったという指摘もある[560]。一方で、戦術戦略には共通分母があり、水雷出身者でもあっても空母に乗って半年も経てばそれが判るはずだったとの批判もある[561]。ミッドウェー海戦で米機動部隊を率いたスプルーアンズは病気のハルゼーの代理で急遽抜擢された新米提督で、機動部隊に所属していたが巡洋艦の艦長であり、空母勤務の経験は無く、この海戦時は南雲以上に航空に疎い将官だった[562]。
攻撃の判断
攻撃隊半数待機の解除
南雲長官は、敵機動部隊の出現に備えて攻撃隊の半数を雷装で待機させることを連合艦隊と約束したが、ミッドウェー基地攻撃が不十分であるとの報告を受け、その攻撃隊を陸用爆弾に兵装転換するように命じ、敵機動部隊出現の際に攻撃できなかった。
草鹿参謀長は「山本の望みは南雲も幕僚もよく知っていた。事実状況が許す限りそうした。しかしミッドウェー基地の敵航空兵力がわれわれに攻撃を開始し敵空母も発見されていない状況でいるのかどうかわからない敵に半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官にとして耐えられないことだった。後で問題だったとしてもあの当時の状況では南雲の決定は正当だった」と語っている[563]。プランゲ元GHQ戦史室長は、当時の南雲の状況に加えて、連合艦隊からの敵情情報も敵艦隊なしだったことから、南雲の判断は妥当とし、指揮上の失策ではなく、情報上の失策であると分析している[564]。一方、南雲司令が攻撃隊の半数待機を破る命令を出したのは索敵機が索敵範囲の先端に達する前であり、(攻略中の)図上演習において不意に米空母部隊に出現して日本が大損害を受けたことから警戒が足りなかったという批判もある[565]。蒼龍に乗船していた攻撃隊パイロットは「ミッドウェーで日本軍が従来の教科書的な戦法から脱し得ず、敵空母確認の報告が入るまで艦船攻撃の用意をしないで基地攻撃に囚われ続けてしまった」と述べている[566]。加賀の艦攻隊分隊長の牧大尉は「空母はいるかどうかわからない」と考えておらず、「ミッドウェー攻撃のあいだに敵空母が出現したら味方はお手上げだ」と飛行長に雷装を解かないよう抗議したが、聞き入れてもらえなかったという[567]。
南雲司令部は、第一次攻撃隊発進直後、「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編制をもって本日実施予定」と発信している[568]。この予令は存在しないという証言もある[569](「資料の問題」節を参照)。第四編制では上空警戒機は各空母で3機ずつとなる計画だった。この予令にはミッドウェー基地への奇襲が成立するという判断があったという意見もある[570]。この予令が存在したとして、予令で兵装転換の作業を開始することはない[571]。
南雲の敵状判断は、第一次攻撃隊を発進させる直前のものとして、敵機動部隊は付近海面に行動中と推定する資料がないこと、攻略作戦が始まれば、出動してくる算があることが述べられている[572]。南雲の幕僚も敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動していたと証言している[552][573]。敵機動部隊については、連合艦隊が把握し、動向は機を逸せず南雲に通報し、また重要な作戦転換は連合艦隊司令部から発せられることになっていた[69][549]。しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった[551]。航空参謀の吉岡少佐は、敵機動部隊の出現がないと思い込んだ判断を敗因として、「敗北の責任は連合艦隊司令部も同罪」と語っている[574]。
敵機動部隊発見時
敵艦隊を発見した報告があった際、攻撃隊は陸上攻撃兵装に準備中だったため、南雲は艦船攻撃兵装への転換を命じた。二航戦司令官山口少将は、準備中の陸用爆弾のままで攻撃させるように意見具申したが、却下された[260][575]。参謀長草鹿龍之介少将によれば、九十七艦攻を雷装に戻すよう命令した南雲長官の判断は命中率の差があったという。九十七艦攻の艦船攻撃方法には、爆弾の水平爆撃と魚雷攻撃の2つがあるが、水平爆撃の命中率は10パーセント前後であり魚雷攻撃は60パーセント以上だった[576]。
この判断を下した南雲司令部の回想は以下の通り。草鹿参謀長によれば、敵の来襲状況を見ると敵は戦闘機をつけずに面白いように撃墜され、全く攻撃効果をあげておらず、これを目前に見ていたので、どうしても艦戦隊を付けずに艦爆隊を出す決心がつかなかったという[577]。航空参謀源田実中佐は、当時入手していた敵空母の位置(誤情報)は味方からまだ約210浬離れており、敵の艦戦は航続力不足でついてこられず、敵が艦戦を伴わないとすれば上空の警戒機で十分に防御できる、敵空母の攻撃隊が戦闘機を付けて来るとすれば、もっと距離をつめる必要ができるため、時間的余裕があると判断した[260]。また、図上演習ならば文句なしに第一次攻撃隊を見捨てたが、苦楽を共にしてきた戦友達に「不時着して駆逐艦に助けてもらえ」とは言えず[578]、機動部隊が移動すれば、不時着した搭乗員達は見殺しになるので歴戦の搭乗員達の回収を優先させることを進言し、部下の生命を惜しんだために決定的な敗北に終わったと語っている[579]。航空参謀吉岡忠一少佐は「いままでの防空戦闘の成果からみて、敵機の来襲は艦戦で防御できると漠然と判断していた。また敵空母までの距離はまだ遠いので、次の来襲はミッドウェーの航空兵力であろうが、それにはまだ相当の時間的余裕があると判断した。さらに攻撃は大兵力を集中して行なう方が戦果も大きく損害も少ないので、若干攻撃隊の発進を遅らせても、大兵力が整うのを待つ方が有利であると考えた。この決定は司令部内では問題もなく簡単に決まった」と語っている[215]。
南雲中将には陸用爆弾への兵装転換を下令してから30分しか経っていない上、防空戦があり、飛行甲板も使えなかったため、転換作業はほぼ進んでおらず、雷装に簡単に復旧できるという判断があったという意見がある[580]。しかし、兵装復旧を命令したものの防空戦が続いたため、南雲中将の予想に反し復旧作業は進捗しなかった[580]。当時の進捗状況については、空母に搭載されていた航空兵装運搬用の台車の数や、海戦前に第二航空戦隊が行った兵装転換実験での所要時間から考えても、兵装転換を開始した午前4時15分(07:15)から一時中止を命令した午前4時45分(07:45)までの間に赤城と加賀の兵装転換はそれぞれ1個中隊(9機)が済んでいただけではないかという意見もある[252]。一方、、整備員や乗組員たちの懸命の作業で南雲司令の予想に反し兵装転換はかなり進んでおり、九十七艦攻の大半が陸用爆弾の搭載を終えていたとの意見がある[581]。赤城に搭乗していた第二次攻撃隊の電信員も、5時40分(8:40)頃、赤城艦内で(17機中)15~16機の九十七艦攻の陸用爆弾の搭載が完了していたと回想している[582]。第一次攻撃隊の収容が終わった6時半(9:30)頃、「一航戦の雷装艦攻は7時30分(10:30)発進可能、二航戦の艦爆隊は7時30分(10:30)ないし8時(11:00)に可能」との報告があったが、加賀で発進準備の完了を待っていた艦攻隊分隊長の牧大尉によれば、7時20分(10:20)の時点でも「(換装終了まで)あと小一時間かかる」という状況だったという[583]。二航戦の飛龍、蒼龍においてもミッドウェー攻撃隊を収容した事で九十七艦攻への魚雷の装備を開始することとなった。蒼龍艦内で兵装転換作業に当った整備兵も、戦闘中の艦では平常航海中のように順調な作業はできず、右に左に転舵する蒼龍の動きに「どうなってるんだ」と途方に暮れ作業は遅々として進まなかったと述べている[584]。赤城艦内で兵装転換を行った整備兵は、度重なる兵装転換で疲労が溜まった上、回避運動で揺れる艦内では「気は焦っても体は伴わなかった」と証言している[585]。
同様の兵装転換作業がミッドウェー海戦の2か月前のセイロン沖海戦でも発生しており、その戦訓を生かせなかったという批判もある[586]。ただ、セイロン沖海戦では1時間半では済んだものがミッドウェー海戦では2時間でも完成しなかった。敵襲を考慮しても2時間あれば十分で、原因としてミッドウェー海戦では戦闘機の補給も同時に行っていたことが挙げられる[587]。また、第一航空艦隊はこの海戦において敵の来襲の無い好条件下でも艦攻の出撃が間に合わなかったので、兵装転換の実験を飛龍で実施した。問題の通常爆弾から魚雷への転換は2時間という結果が出ている[580]。飛龍で実験が行われたことから、艦長の加来止男大佐から[588]、あるいは第二航空戦隊司令官の山口少将からなんらかの改善に関する報告があって、問題を未然に防ぎえたかもしれないという意見もある[589]。兵装転換に関しては、加来艦長が飛龍の整備兵に対し転換作業の訓練を行い、陸用爆弾から通常爆弾への転換なら30分以内に完了できるまで上達していたが、それも5月に大幅な人事異動があったため訓練は振出しに戻っていた[590]。飛龍の航空整備兵は「バカな命令を出したなと思った。爆装から雷装への転換なんて一度も訓練をした事がないのに、偉い人はそんな事も考えていなかったんだろう」と述べている[591]。
陸用爆弾のまま攻撃させることについて以下のような意見がある。参謀長の草鹿少将は、空母は攻撃に対して脆弱であるため、護衛戦闘機を付けられるだけ付けて、陸用爆弾であっても、一切の人情を放棄して第二次攻撃隊の出撃を優先すべきだったと反省している[592]。航空参謀の源田中佐も、心を鬼にして出撃させていれば、相打ちくらいにはできたと反省している[593]。戦後の批判でも同様の点があげられる[594]。6時23分(9:23)から7時(10:00)までの間、赤城から8機(後に2機を収容)、加賀、蒼龍から合計15機、飛龍から7機の戦闘機が上空直掩のため度々着艦、再出撃を繰り返しており[595]、二航戦の艦爆隊36機に、在空の戦闘機隊から選抜して燃料、弾薬を補給すれば、遅くとも7時(10:00)には、12機の護衛戦闘機を付けて出撃できたとする見解もある[596]。蒼龍攻撃隊のパイロットは攻撃隊の出撃に関して「近くに敵空母の所在がほぼ明らかとなり、確実に発見していない時点で攻撃隊をいち早く発艦させて、索敵機の発見報告があるまで上空待機させておくべきだった」と述べている[597]。二航戦の艦爆隊を緊急発進させた後に第一攻撃隊を収容させ、雷装の準備で特に手間取っていた一航戦の空母の負担を減らすといった平時ではない対応や、南雲中将が四空母全てを指揮せずに、二航戦の飛龍、蒼龍を山口の指揮下として分離させる選択肢もあったとする意見もある[598]。混乱する艦内で取り外した爆弾を整理する余裕もなく、格納庫内は多くの魚雷、爆弾、燃料を搭載した艦載機で満載となり、三空母被弾の際の誘爆原因となったとする意見もある[599]。アメリカ海軍歴史センター所長(1988年当時)のロナルド・H・スペクター博士は「アメリカの戦闘機は、戦争のこの段階では日本より劣っていた」とする見解から、戦闘機の護衛無しに日本の艦爆隊36機が出撃した場合でもアメリカ空母の上空哨戒機によって全て撃ち落される事は有り得ないと述べ、二航戦の艦爆隊がアメリカ空母部隊に多大な損害を与えただろうと分析している[600]。一方、プランゲ元GHQ戦史室長は、山口の進言は余計なもので、南雲は航空攻撃の奇襲性と迅速性の価値を理解しているが、山本や天皇に対して責任を負い、幾千の将兵の命を預かる立場であったことを指摘し[601]、また南雲は理論的には非難の余地のない作戦決定をしたものの裏目に出ただけで、主導権を失っていることに気づかなかったことも入手情報から非難できず、当時南雲は中途半端な攻撃をさせる必要もなかったと述べている[602]。
索敵
南雲司令部は、偵察を1回のみの1段索敵として巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機が出した索敵機は九七艦攻2機のみである。この索敵計画の立案を担当した吉岡忠一少佐は「当時攻略作戦中敵艦隊が出現することは、ほとんど考えていなかった。そのため、索敵は厳重にするのがよいことはわかっていたが、索敵には艦攻を使わなければならないので、攻撃兵力が減り、惜しくて索敵にさけなかった。全く情況判断の甘さが原因である」と語っている[69]。一段索敵と決めた参謀長草鹿龍之介は「攻撃兵力を増やそうとして偵察を軽視した」と語っている[603]。
南雲司令部の草鹿龍之介少将、源田実中佐、淵田美津雄中佐は、二段索敵にするべきだったと戦後語っている[604]。吉岡参謀は索敵の密度をもっと濃くするべきだったと反省している[605]
もっとも、索敵計画はこれまでの経験から早くに出すように改善はされていた[606]。そのため、利根の4号機がカタパルトの故障がなく定刻に発進し、偵察搭乗員に気の緩みがなければ、索敵計画に問題はなかったという指摘もある[607]。利根の4号機が定刻に発進した場合、コンパスのずれによる実際の索敵線から計算すると敵位置を飛び越えていて発見できないが[608][609]、コンパスの故障がなく定刻通り発進し、計画通りの索敵線を進めば30分早く発見できる[610]。また、利根の四号機が報告した敵空母位置は誤りであり、これに第一航空艦隊、第八戦隊司令部、利根が気付かなかったことは、南雲中将の戦闘指導に大きな影響を与えている[215]。
筑摩の機も敵艦隊を見逃した。筑摩の機長兼飛行長の黒田信大尉によれば、敵艦隊が発見された地点は自分のところだが、敵方天候不良で見逃したのは仕方なかったという。しかし、アメリカの資料では天候不良ではなく第四索敵線機も発見しているので、索敵機の雲上飛行が原因であった[611]。また、南雲が夜戦を検討している時も、索敵機からの敵情報告はくるくる変わり、南雲を悩ませ[612]、苛立たせただろうという意見もある[481]。
GHQ戦史室長だったゴードン・ウィリアム・プランゲは、そもそも日本海軍では航空偵察に使用する兵力は全力の1割以内であり、特別な教育や訓練もなく、艦上偵察機の価値を認識しておらず、あらゆる作戦で南雲に不利になっていたこと、セイロン沖海戦で索敵機の回収に必要な電波を発したことで、自分の艦隊位置が露見して航行中に英軍爆撃機の奇襲を受けたせいで索敵を必要最小限にしていたこと、ミッドウェーの索敵でさらに時間を早めると、ミッドウェー島に事前偵察に向かった第二索敵線の加賀機がミッドウェー島に届かなくなること、そして連合艦隊からの情報で敵機動部隊はミッドウェーにいないものと思い込んでいたことから、索敵計画はミッドウェー島に対する攻撃に重点を置いたものと指摘している[613]。これに対し、プランゲの著書(ミッドウェーの奇跡)を翻訳した千早正隆は、インド洋作戦での南雲艦隊は、ソマービル中将旗下のイギリス東洋艦隊に待ち伏せされており、ミッドウェーに近似した状況だったことをプランゲが認識していない点がその著書の問題として、その著書の編集者からも賛意を得られたと主張している[614]。千早は、セイロン沖海戦で南雲機動部隊のごく近くにソマービル中将旗下のイギリス東洋艦隊が存在し、南雲司令部ではソマービルが放った複葉機を発見していながら索敵を行わなかった事について取り上げ、索敵の怠慢は繰り返されたものと批判している[615]。
艦隊構成
南雲機動部隊は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻に対し、護衛艦は霧島、榛名の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻、油槽艦8隻であった。
機動部隊の300浬(約550km)後方に、大和、長門、陸奥の戦艦3隻、空母鳳翔、特殊潜航艇母艦千代田、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および伊勢、日向、扶桑、山城の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本五十六率いる主力部隊、そして、金剛、比叡の戦艦2隻、空母瑞鳳、千歳含む水母2隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという編成であった。この編成では当初の予定通りミッドウェー攻略作戦を行っていたとしても機動艦隊のみで戦うことになってしまい、後衛の主力艦隊はまったく役に立たない。
そもそも一航艦は艦隊全体が建制化されていなかったため、南雲中将は部隊としての思想統一や訓練に苦しみ、建制化を望んでおり、連合艦隊も要望して軍令部も必要性を認めていたが一航艦では実現せず、ミッドウェー海戦の戦訓を取り入れた後継の第三艦隊から建制化された[533]。
空母の集団使用は、指揮運用が容易でしかも攻撃力の集中が可能である利点があるが、攻撃を受ける際に一挙に損害をこうむる危険性があることが最大の欠点である[616]。海戦後、軍令部次長以下と連合艦隊司令部の打ち合わせにおいて、問題だった点として「空母が団子になっていた」こと(集団使用)が挙げられている。しかし、当時の無線電話の現状や無線封止、警戒艦数から見ても分散配備はかえって不適当であったと戦史叢書では指摘されている[617]。また、打ち合わせでは、艦上戦闘機をミッドウェー基地への攻撃隊の援護に使い過ぎたことも言及されている。もっとも、第一航空艦隊はミッドウェー基地の航空兵力を捕捉撃滅することが主目的であるため、援護に機数を割くのは必要なことであり、連合艦隊も承知していたことで所見にすぎない[617]。海戦後の検討で得られた戦訓には、四空母が同一の状況となり、戦闘機の発着、帰還した攻撃隊の収容などの混雑を招き、第二攻撃隊が発進する前に攻撃を受けたので、戦闘機の発着する艦を一艦に指定するほうが良いことや、攻撃隊の役割ごとで各艦に区分することがあげられている[618]。
一航艦の戦力としてミッドウェー作戦に参加する予定だった第五航空戦隊は、5月14日五航戦から珊瑚海海戦の戦死者の報告があり、その損害があまりにも大きかったので、翔鶴と瑞鶴の両艦とも到底次期作戦に使えないことが判明した。さらに17日呉に帰港した翔鶴は修理に三ケ月は必要であることがわかった。こうして一航艦は3分の1の戦力を失った状態になったが、延期は認められずに実施が決定した[619][620]。偵察機も能力不足であり、九五式水上偵察機は速力、航続力も不十分であり、二式艦上偵察機は蒼龍に2機用意されたが、まだ試作段階の機体であり、故障が多く稼働率も悪く使用できなかった[621]。
情報戦
日本はそれまでの勝利や誇大戦果を報じた珊瑚海海戦などで気が緩み、作戦の機密保持が保たれず取り締まる立場にある連合艦隊でさえその弊害にあった[548]。また、連合艦隊は敵情がひっ迫していることを知りながら前線部隊に知らせることをしなかった[622]。連合艦隊は、5月中旬から敵の通信が増加していることから何らかの動きがあると把握しつつも気にとめず、出撃から6月3日までに入手した情報から敵が日本の動静を偵知して活発に動いていると判断するも、警戒すべきだが好ましいと考えていた[623]。第二艦隊の白石萬隆参謀長は、連合艦隊は作戦がばれても米艦隊を呼び出そうとしていたと語っている[624]。6月4日頃、連合艦隊は大本営の知らせあるいは通信符号の傍受でミッドウェーに機動部隊がいる兆候をつかんでいたが、無線封止を理由に一航艦に知らせなかった[122]。
また日本は太平洋にある米空母は3、4隻と考えていたが、珊瑚海海戦で米空母2隻撃沈、マーシャル諸島南方で西航する米空母2隻発見の情報から、残っている米空母2隻は全て南太平洋のハワイ方面にあると誤った敵情判断をしていた[622]。
アメリカ海軍は戦術情報班ハイポを重用し、日本海軍の暗号解読と無線傍受でミッドウェー作戦を事前に把握して迎撃準備を整えていた。日本の「海軍暗号書D」系統は戦略常務用一般暗号書でよく用いられていたが、乱数表を用いて二重に暗号化した複雑な暗号であり、これに特定地点表示表、特定地点略語表、歴日換字表を併用したものではあったものの、開戦前から使用していたうえ、作戦前に行われる予定であった更新も遅れ、作戦概要や主力部隊以外のすべての参加艦艇などの作戦全体像がアメリカにほぼ察知されていた[625]。
ニミッツは4月下旬には日本が大規模な作戦を企図していることをつかみ、ミッドウェーの可能性が高いと判断した。5月2日からミッドウェーで環礁視察し、兵力、警戒態勢を整え、その後の情報でさらにミッドウェーの感が強まった。5月14日第二艦隊司令部がAF攻略部隊にあてた電文を傍受して攻略があると知り、19日にはAFを特定するためにアメリカは「ミッドウェーで真水製造機が故障」の偽の電文を傍受させ、罠にかかった軍令部は「AFで真水欠乏」という電文を打ち、アメリカはAFをミッドウェーと特定した。26日には攻略が6月7日であることも特定し、日本の作戦を把握して態勢を整えミッドウェー海戦で一航艦の迎撃に成功した[626]。
日本軍の楽観
この時期の日本海軍航空隊の搭乗員の精強さについては、日中戦争(支那事変)以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の決戦を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害の後も、敗北の検証さえ十分に行わなかった。第一航空戦隊(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは5航戦がだらしないからだ」「妾の子でも勝てたのだから、自分達なら問題ではない」と信じていた[627]。当時の一航艦を含む日本海軍は、南方作戦において、爆撃、雷撃で高い命中率をあげていたことで、敵の戦闘機の妨害や敵艦艇の防御砲火にあまり関心を払わなくなっており、敵の戦力を軽視したという指摘もある[628]。ただ、敵の戦闘機による妨害に関しては、第一航空艦隊の判断で重視されている[260]。
連合艦隊は過信から、日本の機動部隊が最強なので、たとえ敵情判断が間違っていても簡単に処理してくれるだろうと考え、作戦は奇襲成功が前提、索敵も不十分であり、知敵手段が崩れても対応せず、意図がばれてもかえって敵機動部隊を誘出し撃滅できると甘い判断で行われた。しかし開戦前の図上演習で複数の航空参謀が見通しの甘さを指摘し、作戦計画の修正を求めている。航空作戦においても索敵は念のため程度であり、ミッドウェーの航空基地制圧にも艦上攻撃機の全力が使用されなかった[622]。また、機動部隊の草鹿参謀長も、敗因は何より機動部隊の慢心にあるとし[629]、またこの慢心は日本全体に及んでおり機密保持が全く不徹底なものであったと語っている[630]。
ダメージコントロール
日本の空母は防御力が弱く、受け身で完全阻止が困難の研究は机上観念で具体性を欠いていた。これは海軍全般の傾向であった。空母の防空指揮組織も完備しておらず、無線も不良、戦闘機、援護艦艇、見張りも不足。また連合艦隊の航空戦訓練は攻撃に集中したため、防空訓練、研究も不足、ミッドウェー海戦では防空に失敗した[622]。
赤城は、爆弾2発直撃で大破したが、これは第二次大戦で撃沈された正規空母のうち最も少ない被弾数である。これについては後部命中の爆弾は命中せず至近弾の可能性もある[631]。 反面、アメリカ軍のヨークタウンは第一次攻撃隊の急降下爆撃時に被弾したがすぐに復旧し、第二次攻撃隊が無傷の空母と誤認するほど回復していた。また、第二次攻撃隊によっても被弾したが(両攻撃で計3発)自力航行可能なまでに復旧している。この艦船被害時の回復力の違いが明暗を分けたとの指摘がある[632]。
回復力の差には日米の空母設計思想の違いもある。日本の空母は密閉式格納庫で、米空母は開放式である。日本の密閉式は、風雨や波浪から保護されるが、直撃弾を受け艦内で爆発すると爆風の逃げ場がなく、甚大な被害を及ぼす。米空母の開放式は、艦内で爆発があっても爆風は外に逃げ、被害を最小にできる。また緊急時に艦載機や燃料弾薬等を投棄でき、二次被害を抑えることもできた。ただし波浪に弱く、台風に遭遇して艦載機多数を失う被害を出している。
資料の問題
運命の5分間
戦後、日本の空母三隻が被弾、炎上する直前に赤城では攻撃隊の戦闘機が発進しようとしており、あと5分あれば攻撃隊は発艦できたとする話が紹介された[633]。これは「運命の5分間」として広まったが、第一航空艦隊参謀長だった草鹿龍之介が文藝春秋の昭和24年10月号に書いたのが最初である[634]。また、昭和26年に出版された淵田美津雄(当時、病気で横になって赤城の発着指揮所から見ていた)と奥宮正武との著書でも「運命の5分間」が書かれた[635]。「被弾した時(日本の三空母が急降下爆撃された時)、各空母甲板上には発進準備を終えた戦闘機隊、雷撃機が整列しており、アメリカ軍の攻撃があと5分遅ければ全機発進できた」と淵田中佐は記述している[636]。この本は『ミッドウェー』であるが、その影響は大きく以後日本のミッドウェー海戦に関する戦記はこの本の記載を概ね踏襲したものとなった[637]。また『ミッドウェー』は昭和30年代に英語版で出版されており、アメリカ海軍の歴史家サミュエル・モリソンの著書『History of United States Naval Operations in World War II』のミッドウェー海戦に関する章が、英語版『ミッドウェー』の記載に沿う形で増補改訂されたことから一般的な説として広まったという意見もある[637]。英語版『ミッドウェー』が出版された後に出版されたミッドウェー海戦の戦記では、執筆に協力したマクラスキー少佐やベスト大尉等のアメリカ海軍のパイロット達が「各空母の甲板には航空機は並んでいた」と述べたことも相まって、海外においても「運命の5分間」はほぼ定説と見られるようになったとする意見もある[637]。
しかし、戦史叢書『ミッドウェー海戦』には、第一航空艦隊の戦闘詳報を元に「この時点で攻撃隊の発艦準備は終了していない」と記載されており、10:20に出されたとされる発艦命令は10:22に出された「上空直掩機を準備ができ次第発艦せよ」という命令が誤解して広まったものだとしている。また、各空母の複数乗員は「攻撃隊は並んでいなかった」「上空直掩を行う戦闘機の準備がなされていた」という回想を残している[638]。第一航空艦隊航空参謀だった源田実も5分説を採用していない[639]。赤城雷撃隊の松田憲雄電信員は、ちょうど「第二次攻撃隊員整列」のアナウンスがあり、搭乗員達が出撃前にお茶を飲もうと一息ついた時だったと証言している[640]。蒼龍雷撃隊の森拾三兵曹は被弾後に搭乗員待機室から外に出た際に、「艦爆搭載の250kg爆弾が格納庫の中で誘爆している」と聞いたという[641]。また、アメリカに残された赤城の日誌等の日本資料を調査したJ・パーシャルやA・タリーの調査では、B-17が撮影した蒼龍、飛龍、赤城の飛行甲板の写真に航空機は並んでいない事から、山口の進言に従っていれば「運命の5分間」は避けられたとする説には無理があるという意見もある[642]。しばしば使用される「運命の5分間」というのは単なるたとえであって、実情が5分でないことは昔からわかっていてはるか以前から死語になっているという主張もある[643]。
「運命の5分間」が生まれた理由は次のように考察されている。戦時中捕虜となった豊田穣は、ハワイでミッドウェーの報道を新聞で読んだ中に、数分あれば日本の攻撃隊は全機発艦完了して勝敗は逆になっていたというものがあり、草鹿、淵田は戦争直後にアメリカの調査と接触しているため、5分説はこの辺から出てきた可能性を述べている[644]。攻撃隊の発艦準備が進んでいれば戦闘機の発着艦も不可能なはずだが、各空母は被爆する15分前から上空直掩用の戦闘機を複数回発着しており、各空母が攻撃隊の準備を完了していたとは考え難いこと[637]、合わせて当時攻撃を行ったアメリカ海軍のパイロット達も「各空母の甲板に航空機は並んでいたのは確かだが、そんなに多くは並んでいなかった」との証言を残していることを踏まえ、アメリカ軍の急降下爆撃を受けた際には攻撃隊の発艦準備は終わっていなかったと考え、「運命の5分間」は当初第一航空艦隊司令部が出した発艦準備完了時刻が10:30であったことと、南雲長官が10:22に出した上空直掩機の発艦命令が誤解されて広まったのではないか、という意見もある[637]。再度の兵装転換であと30分も40分もかかってしまったでは身も蓋もない。あと5分の方が読む方も口惜しく感じること、一瞬で負け戦に転じた事への万感胸に迫る思いがこの言葉にあることから定着してしまったという意見もある[645]。草鹿参謀長や淵田中佐が、攻撃隊の発艦準備が整っていなかったにも関わらず「あと5分の余裕があれば」と劇的なストーリーに脚色した事について、南雲司令部の不決断によって敵空母対策が後手に回った失態を包み隠そうとしているとの意見もあるが[646]、草鹿参謀長は著書で敵空母への攻撃を後手に回した責任を記述している[647]。
第一航空艦隊司令部航海参謀だった雀部利三郎は、5分間というのは草鹿のその場の実感だろうという[648]。
作家の澤地久枝は、第一航空艦隊が第一次攻撃隊を発進させた直後に「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成をもって本日実施予定」という予令(0220信)を出した未公開資料を新発見したとして[649]、「運命の5分間」は0220信で兵装転換を始めて失敗したことを隠ぺいするための誤魔化しと主張した[650]。これに対し、豊田穣(元海軍軍人で作家)は、0220信は戦史叢書ですでに公開された情報であることを指摘[651]。さらに5分説は海軍の定説と主張する澤地に対し、海軍軍人が作成した戦史叢書や代表的な海軍軍人である源田実は5分説と異なる立場を取っており、海軍の定説ではないとし、澤地の勉強不足を批判している[652]。また、赤城の風紀軍紀担当だった芝山末男中尉は、予令で兵装転換を発動することはないし、そんなことをしたら大問題と述べている[653]。そのため、豊田は、たとえ予令で兵器員が独断で行動を開始したとしても、監督不行き届きかもしれないが、草鹿に責任はなく5分説で隠す必要もないと主張している[654]。
0220信
戦後残された戦闘詳報には、午前2時20分に「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られたことが記載されている[655]。この戦闘詳報は、第一航空艦隊司令部の乙航空参謀だった吉岡忠一が海戦直後に作成した戦闘詳報から功績調査用に抜粋し書き直したとされるもので、吉岡の作成したものは残されていない[656]。この0220信について、吉岡は、「予令などというものを出すはずがない」、「全然知らない」、司令部が出す航空に関する信号は全て航空参謀が文面を起案し、参謀長、長官の許可を取って発信するのが普通だが、吉岡は知らないし、甲航空参謀源田中佐も知らないはずだと証言している[657]。第一航空艦隊司令部の航海参謀雀部利三郎中佐、赤城飛行士兼飛行隊士後藤仁一、加賀の飛行長天谷孝久、艦攻先任分隊長牧秀雄も、この予令について知らないと証言している[658]。
しかし、吉岡の死後、作家の森史朗は、信号命令の冒頭に「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ」がある形で吉岡が起案したと吉岡から聞いたと主張している[659]。森によれば、この信号命令は源田航空甲参謀の指示で吉岡が書き、草鹿参謀長、南雲司令を経た通常の手順で発信されたものという証言も得たという[660]。さらに、第一航空艦隊の戦闘詳報に「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ」の箇所は記載されていないが[661]、これについて吉岡は、南雲司令部にとってみっともない事実であったため隠蔽したと認めたという[662]。
関連作品
映画
ミッドウェイ囮作戦 (1944,アメリカ)
太平洋の鷲 (1953,日本)
ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐 (1960,日本)
ミッドウェイ (1976,アメリカ)
連合艦隊 (1981,日本)
永遠の0 (2013,日本)
小説
ミッドウェイ(森村誠一)(2000,日本)
漫画
ジパング
ゲーム
提督の決断シリーズ
空母戦記
Battlestations: Midway
空母決戦
シミュレーションゲーム(ボード)
ミッドウェー(アバロンヒル社)
日米航空母艦の戦い(アバロンヒル社)
日本機動部隊(エポック社)
ゲームブック
スーパーシミュレーション ミッドウェー大空海戦 (鈴木巌:新星出版社:1985年)
ドキュメンタリー番組
バトル360 空母エンタープライズの戦い
脚注
注釈
出典
関連文献
関連項目
ミッドウェイ (空母)
シカゴ・ミッドウェー国際空港
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6 |
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マーカス・アロンゾ・「マーク」・ハンナ (Marcus Alonzo "Mark" Hanna, 1837年9月24日 - 1904年2月15日) は、アメリカの実業家、政治家、オハイオ州選出の上院議員(共和党)、共和党全国委員会議長を歴任。大統領ウィリアム・マッキンリーの友人かつ政治的盟友であり、1896年と1900年の大統領選挙において、その資産と経営の才覚をもってマッキンリーの当選に貢献。
1837年、オハイオ州ニュー・リズボン (現在の)にて出生。十代のとき家族とともに発展しつつあったクリーブランドに転居、当地の高校でジョン・ロックフェラーと同窓になる。大学を中退後、家業に従事。短期間ながら南北戦争に従軍、戦後彼を事業に誘ったダニエル・ローズの娘シャーロット・ローズと結婚。ほどなく会社幹部となり、数多くの分野、特に石炭と鉄鋼に手を広げる。40歳を迎える頃には大資産家となり、政治に関心が向かう。
1884年と1888年の大統領選挙でジョン・シャーマンを支援するが、シャーマンは共和党から大統領候補の指名を得ることができなかった。次の選挙のときにはシャーマンが高齢となることから、マッキンリーの支援に転じる。1895年には事業から離れ、マッキンリーの大統領選選挙活動に注力。次の年、最有力候補であったマッキンリーが指名を得られるように尽力。民主党からはネブラスカ州選出の下院議員ウィリアム・ジェニングス・ブライアンが金銀複本位制あるいは「」政策を掲げて指名される。ハンナの資金集め活動は記録破りのものとなり、ブライアンへの熱狂的な支持と活動が沈静化するや、マッキンリーは悠々と勝利した。
閣僚の地位を辞退し,代わりに国務長官に就任したシャーマンの後任としてオハイオ州選出の上院議員を受任、1898年と1904年、は再任を決議した。1901年,マッキンリーが暗殺された後は、提案されていたパナマ運河の建設に取り組む。1904年に死去するが、マッキンリーの政治的主人であるとハンナを批判したのようなイラストレーターの風刺画のために選挙戦での役割が記憶されている。
青少年期と実業家としてのキャリア
マーカス・アロンゾ・ハンナは、1837年9月24日、ニュー・リズボン (1895年にリズボンと改称) においてレオナルドとサマンサの間に生まれた。レオナルドの父ベンジャミン・ハンナは、スコットランド系移民のクエーカー教徒であり、ニュー・リズボンで富裕な商店主であった。レオナルドは、乗馬中の事故で脊椎に傷害を負うまでニュー・リズボンがあるコロンビアナ郡で営業した。事故の後、親族が経営していた現在まで続く食料雑貨卸売会社B・LアンドT・ハンナに加わった。サマンサは旧姓をコンバースといい、11歳のときにバーモント州から西へと転居した。イギリス系であるが、おそらくアイルランド人とフランスのユグノーの子孫と思われる。[1][2]
マークの伯父カーゼイ・ハンナは、マークを「チビで強くていかつい、ずんぐりとした」少年だと言った。[3] 少年時代、マークは長老派教会の教義に基づいた教室を開いていた地元のパブリックスクールに学んでいた。[4] 地元の少年らによる討論同好会に加わり,黒人はインディアンより不満の種となるかという問題について議論し、黒人側に立って討論した。[5]
ハンナ家は、水運の便が悪かったニュー・リズボンまでオハイオ川から運河を引くことに投資していた。[6] この投資は成功せず、一家は多額の資産を失った。1850年代の初期には、ハンナ家の人々の多くはニュー・リズボンを離れた。レオナルドは、兄弟であるロバートの共同経営者としてクリーブランドにおいて雑貨商を始め、家族も1852年には同地に転居した。[7] マークは、クリーブランドにおいて、何校かのパブリックスクールに通い、中でもクリーブランド中央高校ではジョン・ロックフェラーと同級となった。高校卒業後の1857年、ウェスタン・リザーブ大学に入学するが、厳粛であるべき儀式の秩序を乱したとして退学させられる。マークは家業について下積みから学んで多くの能力を身につけた。[8]
南北戦争に従軍
南北戦争が勃発するまでに、マークは事業の主たる参画者になっていた。父が脊椎の障碍が元で生じた病気によって1862年12月15日に死亡するが、マークは、父の死亡前から共同経営者になっていた。[9]
病身の父と自身の事業での責任を抱えていたが、マークは、代わりの者を雇って入営させることで北軍への入隊を免れることはできなかった。そこで、主としてクリーブランドの若い実業家たちで構成されていた州兵の連隊であるペリー・ライト歩兵隊に入隊した。1864年、マークの所属する連隊は、として実戦に召集され、ワシントンD.C.防衛の拠点の一つに派遣された。ペリー・ライト歩兵隊が任務にあったとき、南軍のジュバル・アーリー将軍がワシントンへの欺瞞的攻撃を行ったため、短期間ながら戦闘が生じた。しかし、少尉に任じられていたマークは、戦死者をオハイオまで移送する任に当たっていたため、この戦闘には参加していない。連隊のこの任務は1864年8月に解除された。[10] 戦後、マークは、北軍士官とその子弟の団体であるのオハイオ管区メンバーに選出された。
戦後
南北戦争終結前から、マークは、1862年にフィニッシングスクールから戻って間もないシャーロット・オーガスタ・ローズと出会い、恋仲になっていた。シャーロットの父ダニエル・ローズは、熱心な民主党員であり、1860年の大統領選挙に民主党から立候補して敗れたイリノイ州選出の上院議員スティーブン・ダグラスの遠縁であった。そのため、マークが同州選出の下院議員を経て大統領選に勝利したアブラハム・リンカーンを支援していた事実がダニエルには気に入らなかったが、最後には折れ、1864年9月27日、マークとシャーロットは結婚した。[11]
1850年代と60年代、クリーブランドは大きく成長し、湖岸の小都市から五大湖沿岸屈指の商業都市となり、オハイオ州南部のシンシナティと張り合うほどになった。[12] 1865年に平和が回復すると、マークは独立して事業に乗り出した。石油製品の需要を見越し、精製所を設立し、快速「ラック・ラ・ベル」に多額の投資をしたが、いずれも保険をかけないまま、船は沈没し、製油所は火災に遭った。この損失により、破産寸前に追い込まれた。[13] マークの伝記を執筆したによれば、「彼は実業家人生における最初の9年間、経験以外のものはほとんど何も得られなかった」という。[14] 岳父ダニエルは、マークの素質を高く買っていたため、1867年、彼を自分の会社の共同経営者として迎え、自身はほどなく引退した。この会社がローズ社 (後の) であり、主として石炭と鉄鋼を商っていたが、マークの経営のもとで多角化した。[13][15] 同社は鉄道事業、特に、同社の貨物輸送を担っていたペンシルバニア鉄道の経営から手を引いたが、後にマークは同鉄道の専用線を含む2つの鉄道会社の取締役になっている。[15]
1868年の大統領選挙では、共和党から出馬した北軍の将軍ユリシーズ・グラントを支持した。戦争中に行われたの増発によるインフレのため、商人らは1ドル紙幣を35セント金貨と等価として受け取っており、ローズ社のカナダにおける取引に支障をきたしていたのである。マークは、当選したグラントに通貨の価値を回復させる政策の実行を期待していた。[16] 会社は多くの船舶を建造し、それ以外に各事業からも利益を得たが、その際、ローズ社の汽船が用いられた。[17] マークは、また、クリーブランドのオペラハウスを買収し、利用料が十分支払えないときでも開場を許した。[18]
グラント政権の4年の間に、マークは政治に身を置くことになった。最初は純粋に地元の政治に関心を持ち、市やカヤホガ郡の公職に共和党の候補を推した。[19] 1869年にはクリーブランドの教育委員に選出されたが、その頃、頻繁に事業のために出張しており、会議には所定の半分以下しか出席しなかった。[20] 1873年、マークは地元での不祥事と党幹部の圧力に嫌気が差し、改革を掲げてクリーブランド市長選に立候補した民主党の候補者を当選させるために、短期間ながら他の共和党員と党を離れた。[19]
キングメーカーとしての台頭 (1880年–88年)
1880年、「クリーブランド・ヘラルド」新聞社を傘下に収める。このことは、クリーブランドの共和党系新聞「クリーブランド・リーダー」のオーナーであったの怒りを買った。マークが新聞社を手放すまでの5年間、カウルズは自分の新聞で辛辣に攻撃を加えた。マークの伝記を書いたウィリアム・T・ホーナーによれば、この逸話が10年以上後にハースト系の各紙によって発展することになる報道に見られるマークの否定的イメージの始まりであったという。[21] カウルズの新聞は、マークに「マーカス・オーレリアス」という渾名をつけて個人攻撃を加えた。この渾名は、同名のローマ皇帝から取っただけのものであり、実際の皇帝の事績によるものではないが、その後のマークはそう呼ばれ続けることになった。[22]
1880年時点での現職大統領ラザフォード・ヘイズは2期目を望まなかったので、36回もの指名投票を経て、共和党はオハイオ州選出の下院議員ジェームズ・ガーフィールドを指名候補とした。被指名者は、共和党全国大会にオハイオ州人の同僚、財務長官ジョン・シャーマンの運動のマネージャーとして参加していた。ガーフィールドはシャーマンを推薦する演説を行って代議員らに感銘を与えたが、むしろ候補者として押し上げられた。マークはこの全国大会には出席しなかったが、選挙戦では非常に活動的であった。ガーフィールドの個人での選挙戦にかかる費用を工面するため、実業家からなる献金団体の設立を助けた。ガーフィールドは、いわゆるを展開、しばしば政治家や他の面会者を前にの自宅で演説した。1904年、マークの死後、後継として上院議員となったによれば、「ハンナ氏は、この国の個人としてガーフィールド氏の選挙にかかわった」という。[23]
伝記作家クロリーによれば、マークは、元大統領グラントとニューヨーク州選出の上院議員の州内での応援演説実現の調整役をしていたという。また、クロリーは彼が2人の敵対者を説得してメンターのガーフィールドを訪問させたとしている。その2人とは、共和党内でガーフィールドのと対立していたのメンバーである。グラントにメンターを訪問させることは、党の団結を示す上で重要であるとされた。グラント本人も1880年の大統領選挙出馬を模索していたが、彼の派閥はグラントに指名を獲得させることができなかったのである。グラントがマークの助力なしに訪問を決意したと示唆する説もあるが、伝記作家ホーナーは疑問を差し挟んでいる。ガーフィールドは公務員制度改革に意欲を示していたが、マークは選挙運動に協力した人々に官職をもって報いるべきと考えていたので、これには反対であった。それにもかかわらず、同じオハイオ州出身者としてマークはガーフィールドを強く支持し、11月の投票では、共和党からの立候補者としてガーフィールドが南北戦争における北軍将軍ウィンフィールド・スコット・ハンコックを僅差で破った。[24] マークは、ガーフィールドの選挙運動に企業家の協力をとりつけるため州内を奔走し、資金面で貢献した。[25]
ホーナーは、選挙戦におけるマークの貢献は報いられてしかるべきものと指摘するが、結果としてはガーフィールド政権において地位を得ようとはしなかった。政治的立場の違いからガーフィールドに何も求めなかったものとホーナーは推測している。ガーフィールドの政権は、彼自身の暗殺をもって6か月の短さで終わりを迎える。大統領の遺体がクリーブランドに運び込まれたとき、マークはその引取りを行う担当者となり、葬儀とレイクビュー墓地への埋葬を引き受けた。その墓地には、20数年後、マーク自身も埋葬されることとなった。[26]
1884年、当時上院議員であったシャーマンの大統領選出馬を支持し、代表選挙に臨んだ。ガーフィールドの後任大統領であったチェスター・A・アーサーも再選を模索したものの、共和党内からの反対に遭っていたのである。[27] マークがシャーマンを候補者として支持したのは、金本位制に賛成であり、事業上の問題の解決に貢献したからであるが、オハイオ州出身だからでもあった。[28] 地元の集会ではカウルズの反対に阻まれたが、オハイオ州の大会で州の全国代表として選出された。全国大会では、同じくオハイオ州代表となっていた、シンシナティの判事でその後マークと20年以上にわたって政界で同様の地歩を築いていったジョセフ・ベンソン・フォラカーとともにシャーマンを推す勢力に加わった。オハイオ州の代表団は、シャーマン支持派とメイン州選出のジェイムズ・G・ブレイン上院議員を推す派との激しい対立に直面した。フォラカーはシャーマン支持演説で全国的な共感を得、マークも彼が指名を得られるように奮闘したが、ブレインが圧勝した。非オハイオ人である者が候補者となったことで、マークは1880年のときよりも共和党候補の支援に熱心でなくなった。ブレインは、民主党の候補者であるニューヨーク州知事グロバー・クリーブランドに敗れることになった。[27]
クリーブランド政権下では、マークは自分の事業を続けながら、シャーマンの再起のための準備をしたが、1885年まで接触することはなかった。そうしたこともあったものの、2人の間には平穏な関係が育まれた。[29] クリーブランド大統領は、マークをユニオン・パシフィック鉄道の取締役に指名した。同社の取締役の一部は政府が任命することになっていたからである。この指名にはシャーマンの推薦よるものとされている。マークの同社での働きは社長であるチャールズ・フランシス・アダムズ (2世)から高く評価された。石炭事業の知識によりこの分野の委員会のトップに就任することになった。[30] 1885年と1887年には州知事に当選したフォラカーの選挙参謀と資金集めを務めている。[31]
マッキンリーの後援者として(1888年-96年)
初期の関係
ウィリアム・マッキンリーとマークがいつ互いに面識を得たかははっきりしない。双方ともが覚えていなかったからである。マッキンリーは1896年に、マークとの交友について20年以上続いたものと言及している。一方、マークは1903年に、1876年以前マッキンリーと面会したと回想している。マッキンリーの伝記を執筆したウェイン・モーガンは、1871年に2人は面識を得たものの、互いにさしたる印象を受けなかったのだろうと示唆している。[32]
1876年、マッキンリーが、賃金カットを企図した鉱山主らに対抗して暴動を起こした炭鉱夫を代理する弁護士であったときに、2人はたしかに面会している。マークもそうした不安にさられた鉱山主の一人であった。ラザフォード・ヘイズ州知事が動員した民兵がスト参加者に対して発砲し、23名の鉱夫がマッキンリー名誉少佐(南北戦争従軍の功による称号として知られる)の故郷であるオハイオ州カントンにおいて裁判にかけられることになった。マッキンリーは鉱夫らの弁護人となり、1人を除く全員を釈放させることに成功した。[32][33] マッキンリーのこの勝利は、2大政党双方の労働者階層の共感を呼び、後年の下院議員選挙勝利へとつながった。マークは、「彼が下院議員になってからすぐに友人同士になった。私達の友情は年々深まることになった」と回想している。[34]
マークが「クリーブランド・ヘラルド」を売却したことでカウルズの敵意は止んだので、1888年の共和党全国大会への地域代表としてマークが選出されるにあたっては困難はわずかとなった。全国代表の中には州知事フォラカーと下院議員マッキンリーがいた。マークは、シャーマンの選挙戦のために多額の資金調達をし、その責任者と広く信じられていた。シャーマンは、当時の慣例どおり、ワシントンにとどまり、シカゴで行われた大会には参加しなかった。報道では、シャーマンを支持するフォラカー州知事が、任期の候補者の立候補を表明するか、ブレインが出馬しようとするならブレインを支持するだろうと推定されていた。[31] 大会は、シャーマンがトップに立ったものの指名を確保することができずに暗礁に乗り上げた。[31] マークの伝記を執筆したトマス・ビアによれば、そこで以下のようなことがあったという。
At the Republican convention of 1888 an accident displayed Major McKinley favorably to Marcus Hanna. A distinct faction, made up of men from every part of the country, approached him with a suggestion that he let himself be nominated. McKinley refused, and bluntly. He had come there pledged to support John Sherman and he would support John Sherman... Mr. Hanna's admiration of Major McKinley was profuse. He appreciated men who stuck to a losing bargain.[35]
(訳)1888年の共和党大会において、ある出来事のために、マーカス・ハンナはマッキンリー名誉少佐に好感を抱くことになった。各地から参集した人々によって形成された分派が、マッキンリーに自ら出馬するように働きかけたのだが、彼は憤然としてそれを拒否した。自分はジョン・シャーマンを支持するために来たのであり、あくまでシャーマンを支持するのだと。ハンナ氏は惜しみない賞賛をマッキンリー少佐に贈った。無に帰そうとしている約束であっても守ろうとする者を高く買っていたのだ。
立候補を表明していなかったにもかかわらず、マッキンリーは少数ながら票を獲得し始めた。マークは、マッキンリーこそが指名を得られるであろう唯一のオハイオ州人であると思うようになり、大統領選に勝てる唯一のオハイオ州の共和党員であるこの下院議員に有利になるようにシャーマンは降りるべきだと電報で示唆した。[31] シャーマンは、このときの選挙が自分にとって絶好の好機だと思っていたので、これを拒否した。マークもそれを受けて最後までシャーマンのために尽力することにしたが、自ら立つことを拒否したマッキンリーの忠誠心に感銘を受けた。フォラカーは、ブレインを支持したが、彼が立たないとなると、シャーマン支持に戻った。最終的に、インディアナ州選出の元上院議員ベンジャミン・ハリソンが指名候補となった。マークは、フォラカーの裏切りを許さなかった。1888年以降、この2人の間には反目が生じ、オハイオ州の共和党は2派に分裂することとなり、1904年にマークが死ぬまで分裂が収まることはなかった。フォラカーは、マークが1888年の大会で南部から出席した代表を買収したせいだと述懐している。[31] しかし、オハイオ州の新聞発行人J・B・モローはフォラカーに反論している。「1888年の大会には自分も出席したが、フォラカー上院議員(後にそうなった)は会場にいたオハイオ人と代表者たちにブレインの友人と秘密工作をするなど大変なスキャンダルをもたらした。…ハンナ氏は、そういうフォラカー議員の背信に怒ったのだ」と。[36] ホーナーによれば、フォラカーはこの紛争さえなければ、マッキンリーではなく自分が大統領になっていたかもしれないと思いつつ、年々この2人に対する恨みを募らせていったという。[37]
選挙戦の結果、ハリソンは大統領に当選した。マークは、ハリソンがインディアナ州人であるものの、オハイオ州生まれであることをせめてもの慰めにして選挙戦の資金集めに奔走した。ハリソンは、マークに対して資金集めの返礼としての官職の分配を規制しなかった。そこで、政権にオハイオ州人を送り込んだ。ハリソンは1892年に共和党候補として再選を期そうとしたが、1896年こそが真の好機であったかもしれない。そのとき、シャーマンは73歳となり、大統領選に出馬するには高齢であると思われたからである。[38][39] マークは、マッキンリーに惚れ込むようになり、政見についても多くの点で一致していた。1888年に始まった関係は一層深いものになっていった。[40]
マッキンリーの伝記を執筆したマーガレット・リーチは次のように述べている。
In choosing McKinley as the object on which to lavish his energies, Hanna had not made a purely rational decision. He had been magnetized by a polar attraction. Cynical in his acceptance of contemporary political practices, Hanna was drawn to McKinley's scruples and idealistic standards, like a hardened man of the world who becomes infatuated with virgin innocence.[41]
(訳)心血を注ぐ相手としてマッキンリーを選ぶにあたって、ハンナは純粋に理性的な決断をしなかった。彼は強烈な魅力に引かれていたのだ。当時の政治的実戦からは皮肉なことに、ハンナは、タフで鳴らした男が無垢な処女にうつつを抜かすように、マッキンリーの良心と理想に惹きつけられたのだ。
しかし、マークの伝記作家クラレンス・A・スターンは、マークがマッキンリーのシャーマンに対する忠誠心を賞賛する一方で、彼がマッキンリーのキャリアを売り込むことにした最大の理由がマーク自身も支持する高率の関税の擁護者であったことにあると示唆している。[42]
マークとら同調者は、1889年にフォラカーが州知事に3選されることに反対した。フォラカーは公認こそ得られたものの、一般投票で落選した。[43] 同年11月、マークはマッキンリーのアメリカ合衆国下院議長選を支援するためにワシントンを訪問したが、これは不首尾に帰し、別の共和党議員が選出された。[40]
1890年、マッキンリーは下院議員選に落選した。これは、彼のキャリアにおいて大きな後退とは見られていなかった。選挙区の区割りにおける民主党側のゲリマンダーと、――物価の上昇につながる関税の増税案のせいだと思われている。しかし、彼が1891年の州知事選挙において共和党からの候補者指名を獲得するであろうというのは衆目の一致するところであった。マッキンリーの立候補について要する注意は大したものではなかったので、マークは、オハイオ州議会によってシャーマンが上院議員に再選されるように、共和党からの候補者選出のための資金集めに多大な時間を費やした(1913年にアメリカ合衆国憲法修正第17条が批准されるまで合衆国上院議員は各州の州議会で選任されることになっていた)。オハイオから同じくらい遠いニューヨーク州とアイオワ州へと、一部はマッキンリーのために、大部分は共和党州委員会のために献金を募りに歴訪した。[43][44]
1891年にマッキンリーが州知事に当選したことや共和党が州議会で多数を占めたことは、シャーマンの再選を保証するものではなかった。フォラカーが州選出の上院議員の椅子を狙っていたからである。マークは、議会によるシャーマンの上院議員選出を確実にしてくれる共和党の党員集会での彼の勝利を確保するに十分な党員の支持を維持することに一役買った。調査員を雇って隠れている議員、フォラカー支持とみられる議員を探し出させてシャーマン支持に切り替えるように取り計らった。[45] スターンは、フォラカーの敗北は「大部分、ハンナの努力の賜物だ」としている。[46] 共和党員には総じて不調の年にあってマッキンリーが勝利を収めたことは、彼自身が大統領選を闘える者になることにつながり、マークがマッキンリーを巻き込み、シャーマンが勝利したことは、政治家としての地位を確立することにつながったのである。ハリソン大統領は、自分に対して好ましからぬ態度をとり、再選にも反対していたマークに対して、共和党全国委員会会計部長の地位を提供して懐柔しようとした。マークは、これを政権への恩に着せるものと感じ、辞退した。[47]
出馬への準備
早くも1892年に、マッキンリーとマークは1896年の選挙戦の準備を始めている。チャールズ・ディックは、共和党の州議長になるよう持ちかけられたことを回顧している。
I went first to see Governor McKinley. He urged me to accept and asked me to see Mr. Hanna, which I did the next day. The reasons both urged were that the campaigns from 1892 down to 1896 must be conducted with a view to bringing about McKinley's nomination in 1896. McKinley spoke of it and so did Mr. Hanna.[48]
(訳)はじめにマッキンリー州知事に面会しに行った。彼はあの件を受諾するように急かし、また、ハンナ氏にも会うように言ったので、翌日会った。この2人が急いでいたのは、1892年から1896年までの選挙活動は1896年にマッキンリーに指名を獲得させることを目的としていたからにほかならなかった。マッキンリーはそのことを言ったし、ハンナ氏も同様だった。
ハリソン大統領が自分の党においても不人気であることを露わにしたので、1892年の初めには、マッキンリーが有力候補として語られるようになっていた。[49] ミネソタ州ミネアポリスで開催されたにおいて、マッキンリーの基調演説は会場から暖かい喝采で迎えられた。しかし、この人気ぶりは代表団の投票には必ずしもつながらず、ハリソンの支持者が一貫して大会を主導していた。マークはオハイオ州の代表として参加し、マッキンリーを代表団に売り込んだ。マッキンリーは立候補を宣言しなかったものの、これまた自ら立候補しないと表明していた2位のブレインと端数票差で3位になった。マッキンリーが大会の延会を宣言すると、彼の支持者は彼を会場からホテルへと連れ去った。モーガンによれば、代表団の中には「(マッキンリーと)1896年の指名候補者の姿を重ねた」者も多かったという。[50][51]
ハリソンとその取り巻きたちは、マッキンリーが1888年のときには自分の擁立を拒絶したのに、今回はそうしなかったことを思い起こし、彼の大会運営に良い印象を持たなかった。[52] にもかかわらず、マークは手紙にこう書いている。「マッキンリー知事が過去の出来事のために偽りの地位にあるとは思えません。…ミネアポリスで判明したことの結果としてのマッキンリー知事の今日の地位は、彼の将来にとってはあり得る限り最高の形です。彼はその態度、行動、個人的魅力によって皆の心をつかみ、尊敬を集めたのです」と。[52] マッキンリーはハリソンのために忠実に選挙運動をしたが、ハリソン自身は11月の選挙で前大統領クリーブランドに敗れた。しかし、知事秘書官チャールズ・ボーゼルによれば、「(マッキンリーは)大統領候補指名へと向かっており、今回の落選という事実によって、次回は彼が指名されることになった」という。[53]
1893年恐慌による経済的破綻に瀕していた者の中には、マッキンリーのヤングスタウン (オハイオ州)の友人がいた。マッキンリーは、若いときに金を借りた恩から、責任の限度を把握しないままにその友人の振り出した手形の保証人になっていた。彼は10万ドル以上の支払いを求められ、知事を辞職した上で弁護士として収入を得ることを勧められた。[54] この危機が発生したとき、マークは州にいなかったが、このことは知事に「マークがいてくれたら」と言わせた。[55] マークを含むマッキンリーの富裕な支持者たちは、この状況を知るや、手形の買い取りと支払を引き受けた。[54] マッキンリーは当初、この申し出を受け入れることに気が進まなかったが、最後には返済以外の何も期待しないで融資する者からの申し出だけを受け入れた。[56] マッキンリーと妻は、管財人となった支持者に自分たちの資産を預けると主張したものの、マークとその同志が企業主や一般からの資金集めに成功したため、マッキンリーの資産は無傷で戻ってきた。1901年に大統領だったマッキンリーが死んだとき、その遺産から支払を求めた者はいなかった。出資者のために返済したいというマッキンリーの求めは、管財人に拒否された。この逸話は、多くのアメリカ人が苦境の中にあって、この州知事に共感を覚えたことから、マッキンリーの人気を高めることになった。[54]
1893年、マッキンリーは知事にたやすく再選された。オハイオ州は経済的苦境にあったが、彼は人気を保ち、共和党の候補者のために全国で応援演説をした。オハイオ州の慣例に従い、2年2期で知事職を降り、1896年1月に故郷のカントンに戻り、市から祝賀を受けた。地元の紙は、「マッキンリー氏は今カントンにいる。しかし、しばらくのことだ」と報道している。[57] マッキンリーの大統領選に時間を割くため、マークは会社の経営を弟のレナードに託した。[58] マッキンリーの選挙戦が始まったときに自ら述べたように「1896年に党の指名候補となるのを妨げるのは奇跡か死しかない」とマークは確信していたのである。[59]
1896年の大統領選
マッキンリーの指名
マークは、事業から身を引いた後、北部の冬を避けたいとしてジョージア州に家を借りた。マッキンリーが知事を退任する前であったが、1895年に彼の家族も連れて行っており、1896年にも同様に滞在している。同地はマッキンリーにとっては休暇を政治抜きで過ごすための場所であったが、黒人を含む南部の共和党員と面会してもいる。南部の共和党が地元の選挙で勝つことはあまりなかったが、全国大会には重要な代表を選出している。[60]
1895年中、マークは東部を歴訪し、ペンシルベニア州選出の上院議員やニューヨーク州のら政治的領袖と面会した。カントンに帰り、マッキンリーに、彼らが地域支援の支配権と引き換えなら指名を確約してくれるだろうと報告した。マッキンリーはこうした取引には乗り気ではなかったので、マークは集票組織の助力なしで指名が獲得できるように尽力することにした。[61]
歴史家R・ハル・ウィリアムズは、マッキンリーとマークの関係を次のように総括している。
McKinley and Hanna made an effective team. The Major commanded, decided general strategies, selected issues and programs. He stressed ideals... Hanna organized, built coalitions, performed the rougher work for which McKinley had neither taste nor energy. Importantly, they shared a Hamiltonian faith in the virtue of industrialism, central authority, and expansive capitalism. That faith, triumphant in the 1896 presidential election, became one of the reasons for the vital importance of that election.[59]
(訳)マッキンリーとハンナは、効果的なチームを結成した。名誉少佐が命じ、全体戦略を決定し、争点や課題を選択した。理想を強調したのである。……ハンナは、組織し、協同を構築し、マッキンリーがその意欲も能力も持たない荒っぽい仕事をした。重要なことは、勤勉、中央政府、資本主義の美徳というアレクサンダー・ハミルトンの信念を共有していたということである。1896年の大統領選挙において勝利したこの信念が選挙の勘所において道理の一つとなったのである。
1896年6月にセントルイスで開催されるに先立つ数か月の間に、マークは費用を供出し、事業の手法を政治に応用しつつ組織を立ち上げた。故郷クリーブランドにおいて多くの政治家と面会した。マッキンリーの演説が印刷されたパンフレット、マッキンリーの大量のポスター、バッジ、ボタンを全国に配布するために費用を支出した。ニューハンプシャー州選出の上院議員ウィリアム・イートン・チャンドラーは、「アラバマ州で行ったような方法をハンナ氏が合衆国のあらゆるところで行ったなら、マッキンリーは指名を獲得するだろう」と述べている。[62][63]
指名をめぐる最も強力なライバルは前大統領のハリソンであったが、1896年2月、ハリソンは3度目の出馬はしないことを表明した。東部の政治的領袖たちは、マークに行った申し出への同意が得られなかったことからマッキンリーに敵対し、大会で拒絶されれば支持を得るためにマッキンリーは譲歩を余儀なくされるだろうとしてを支持する方向を決定した。領袖たちは、議長のリード、上院議員キー、前ニューヨーク州副知事リーヴァイ・モートンといった候補者を支持した。マークは、リードの影響力を地元ニューイングランドで削ぐことに資金と労力を用い、ペンシルベニアの「マッキンリー・クラブ」においてはキーに自らの支持基盤を維持するために時間と資金を使わせた。[64][65]
政治的領袖たちの「自州出身者」を立てる作戦を打ち破るカギとなったのはイリノイ州であった。シカゴの若手事業家にしてマッキンリー支持者であったチャールズ・ドーズ(この30年後にカルビン・クーリッジ政権で副大統領となる)がマッキンリー支持を約束する代表者の選出させようとイリノイ州の各地域や州全体で画策していた。マークはローズにその人脈を生かしてシカゴの経済界からの支持を確保することを委ねつつ、両者は緊密に協力した。イリノイ州の共和党集票組織の反対があったものの、ドーズとマークはほぼ全てのイリノイ州代表からマッキンリーへの支持を取り付けることに成功し、大会へは強力なアドバンテージをもって進めるようにした。[66] ウィリアムズによれば、「遅くとも1986年3月には流れは激流に変わった」という。[59]
大会が近付くにつれて、マスコミはマッキンリーが共和党指名候補となりそうだという事実に気づいた。ウィリアム・ランドルフ・ハーストの「「ニューヨーク・ジャーナル」を含む各紙の論調は民主党寄りであったので、マッキンリーに関するスキャンダルを探れとカントンに記者を派遣した。マッキンリーは個人的・政治的に実直な人物であり、記者たちは数少ない彼の敵でさえ彼を称賛するのを聞くことになった。1893年の金銭問題はマッキンリーの数少ない汚点であったので、新聞各紙は、そのとき援助した者たちが大統領としてのマッキンリーを思いのままに操るだろうとほのめかし始めた。シカゴの出版業者やマッキンリーが弁護士をしていたころからの旧友である判事ウィリアム・デイといったマッキンリーの周辺の人物に対する攻撃は投票人に響くものがほとんどなかった。このことはマークにとって幸運だった。「ニューヨーク・ジャーナル」は、マッキンリーの後援者たちを大統領への影響力を確保するために金銭を使う「シンジケート」として書きたてていたのである。記者が「ハンナとその他の人々は、まるでトランプを繰って配るように、彼を扱う」と書いて注目を集めた。[67]
セントルイスでは、政治的領袖たちが再び支持と引き換えに政治的恩恵を求めてきたが、それに応じる必要は薄く、マッキンリーはカントンから電話でマークに指示して拒否させた。マッキンリーは容易に指名を獲得した。マッキンリーとマークは、に従い、副大統領候補として東部からニュージャージー州の共和党員で前州議会議員のギャレット・A・ホーバートを推した。大会ではホーバートが順当に指名され、マークは、次の4年間の共和党全国大会議長に選任された。[68]
通貨問題と民主党の指名候補
1896年の選挙期間での重大争点の一つは通貨問題であった。1873年以降、合衆国では、金本位制が実行されてきた。この制度の下では、政府に金が提出されると、低廉な手数料で検査され、その価値に対応する金貨が交付される。銀の場合は、一般のイメージと異なり、銀貨に交換できるという制度は取られず、通常の商品と同様に売買されるべきものとされる。金本位制では金の保有量がマネーサプライを決定することになるため、農家が資金の借入・返済に市場が生ずるとして、農業国や工業国では不人気な制度である。銀についても自由流通と銀貨への交換の唱導者は、これによってマネーサプライを増加することで、国の経済的苦境を救うことになると主張した。一方、金本位制の擁護者は、「自由銀」(「金銀複本位制」とも呼ばれる)はインフレを招き、金本位制をとる諸外国との貿易を困難にすると批判した。[69][70] 当時、銀貨に含有されていた銀の価格は1ドルあたり0.53ドル程度であったので、「自由銀」制度が実現されれば、これが銀保有者に引き換えとして渡される1ドル銀貨中の銀の価値となる。つまり、「自由銀」とは、アメリカ合衆国造幣局に手数料無料で品位検査と銀貨への交換がされる制度というわけである。[71]
こうした論争があったものの、マッキンリーとマークは、において金本位制について沈黙するよりも、むしろ態度を明確にすべきであると決断した。マッキンリーは、マークに金本位制の維持を主張した案を持たせて大会に送り込み、マークはその案を採用させることに成功した。このことで、特に西部から出席した党員に大会から退出する者が出ることになった。マークは、それを「出て行くなら出て行け!」と椅子に立って叫んで見送った。[72]
マッキンリーは、として知られており、関税が選挙の争点になると考えていた。[69] 民主党は7月、シカゴにおいて全国大会を開催、ミズーリ州選出の前下院議員が指名されると思われいた。この成行きを見守りながら、マッキンリーは、自由銀問題について私的にカントンの旧友ウィリアム・デイ判事に、「この通貨問題は過度に煽り立てられているよ。向こう30日、この問題について君の耳に入ることは何もないだろうね」と語っている。[73] それに対して、後に国務長官と合衆国最高裁判所判事を歴任することになるデイは、「いや、その30日の間、その問題以外のことについてあなたの耳に入ることはないというのが私の見立てですよ」と返している。[73]
民主党大会3日目、ネブラスカ州選出の下院議員ウィリアム・ジェニングス・ブライアンが政策綱領についての議論の総括演説を行った。ブライアンは金本位制が労働者階級を不公平に害すると信じており、これを非難する演説を準備して大会に乗り込んだ。後に「」として知られる演説である。ウォール街への恐れから、民主党はブライアン議員を大統領候補に指名した。人民党も彼を指名した。マークは、一般投票運動が始まる前の7月上旬、休暇でヨットに乗っていたが、ブライアンを支持する世論の勢いを知り、「シカゴの大会は何もかも変えてしまった」と記し、活動を再開した。[70][74][75]
一般投票運動
ホーナーによれば、「1896年は国中で非常に多くの人々が景気後退に苦しんでおり、現実的で実質的な政策論争がそれぞれの立場からそれを信奉する候補者によって戦われた」という。[76] ブライアンはでの資金が不足していたので、自らの立場を選挙人に理解してもらうためには個別に対話するしかないと考え、前例のないに乗り出した。列車が相当の人口を擁する地方を通った際に演説するだけの時間停車しなかった場合には、地域で配布してもらうために政策パンフレットを投げ下ろした。ブライアンの演説の上手さもあって、この演説行脚にはかなわないとマッキンリーは感じていた。しかし、マークが遊説すべきと主張したのに対して、マッキンリーは玄関活動に徹することにし、カントンにとどまって人々に面会を許した。マッキンリーの妻アイダは病弱であったが、そのことがマッキンリーの良き夫像を増幅するのに役立った。[77]
マッキンリーとマークほか支援者たちは、自由銀をめぐるブライアンの感情的な訴えを目の当たりにして、選挙人団の認識を変えるために広く深い取組みをすることに決めた。マッキンリーの選挙運動には2つの主要拠点があった。1つはシカゴであり、ドーズが担当した。もう1つはニューヨークであり、当地の資本家からの支持を取り付けるためにマークが受け持った。マークの任務は資金集めであった。ドーズら他の運動員がその資金の使途を決定した。歴史上あまり知られていないことであるが、当初、マークの資金集めは、ブライアンに対するウォール街の反発にもかかわらず難航した。ウォール街の大物たちは、ブライアンの立場には反対であったが、そう脅威的な候補者ではないと見ていたので、マッキンリーの運動に協力することを拒んだ。マークのことを知る学友のロックフェラーーー彼のスタンダード・オイル社は25万ドルの供与を約したーーなどの人々はマークの保証人となった。1896年7月下旬には、マークはマッキンリーとホーバートの選挙運動に寄付するように実業家たちを容易に説得できるようになった。マーク自身も多額の資金を供出した。この資金は、広告、パンフレット、演説の冊子など、選挙人にアピールするための手段に使われた。国中にこうした紙が溢れた。[77]
ローズによれば、マッキンリーは「自宅のベランダから自然的に、または意図的に集められた訪問者団に語りかけた」という。[78] 訪問団は、そのリーダーがカントンを訪れるまでに自分と訪問団を自己紹介する書状をマッキンリーに送っている限りは歓迎された。訪問団のリーダーたちは可能な限りマッキンリーと懇談したい内容を前もって用意してカントンを訪問した。この用意ができなかったときには、訪問団はマッキンリーの使者と駅で対面し、挨拶をかわした上で、リーダーの発言予定の内容を使者が聞き取った。使者はその内容を選挙戦の争点に合うように微調整するように提案し、その内容に対する回答を用意する時間をマッキンリーが確保できるように彼に報告するスタッフを走らせた。訪問団は贈り物をおいて帰ったが、そのうち、使えるものは使ったものの、「マッキンリー」「マーク・ハンナ」「リパブリカン」「プロテクション」と名付けられた4羽のワシは地元の動物園に寄付された。[79][80][81]
ブライアンの演説は始めのうち人気を博したものの、マークは民主党の支持は後退していくと確信していた。7月、「やつはいつも銀の話ばかりしているが、そこにこそ我々の勝機があるのだ」と、マークは机をバンバン叩きながら大見得を切った。[82] 彼は正しかった。自由銀への熱狂は9月までに終息し、ブライアンはこれに代わるものを持ち合わせていなかった。一方、マッキンリーは、自らの「健全通貨」運動の成功を確信し、自宅前の芝生に集まった人々に対して自らの関税問題を全面に押し出し、「この点について、皆さんがどうお考えかはわからないが、合衆国の造幣局を世界の銀のために開放するより、合衆国の工場をアメリカの労働者に開放する方がよいと私は信じている」と述べた。[83]
選挙戦中、特にハースト社の新聞など民主党系の各紙は、まるでマッキンリーの政治的主人となっているとしてマークを攻撃した。マッキンリーが自立した存在ではなく、実際にはマークを通して財界に支配されているという通俗的イメージを民衆に根付かせることに記事や漫画が役立った。とりわけ、ハースト系の新聞に寄せられたは、マークについての世論を誘導するのに効果的であった。マークは、しばしばドル記号の模様が付けられたスーツに身を包んだ「ドル・マーク」として描写された(「ドル・マーク」は一般的にドル記号を意味する)。マッキンリーは、その個人的な金銭的危機のために、まるで子供、あるいは実業家たちの傀儡、1896年の選挙運動における単なる道具として描かれることになった。[84] 1896年選挙を研究している歴史家スタンレー・ジョーンズは、以下のような見解を述べている。
The popularly accepted picture of Hanna's domination was not true. Though McKinley did leave to Hanna the immensely complicated and exceedingly arduous task of organizing the campaign and although he usually deferred to Hanna's judgment in this area, he himself retained control of the general structure and program. Nothing of significance was done without his approval. Hanna raised money, hired men, established headquarters offices, bought literature, with the same drive and skill that he managed his business. He was confident of his mastery of that kind of operation, but he never ceased to defer to McKinley's mastery of the grand strategy of politics.[85]
(訳)一般に流布しているハンナによる支配の構図は真実ではない。選挙運動を組織するという恐ろしく複雑で極度に骨の折れる仕事をマッキンリーはハンナに課した。この分野におけるハンナの判断はいつもマッキンリーと異なっていたものの、全体的な構想と計画はマッキンリー自身が指導し続けた。マッキンリーの承認なしには重要なことは何一つ実行できなかった。ハンナは、事業を取り仕切っていたのと同じ指導力と才覚で資金を集め、人員を雇い、指導部を構成し、文書を発出した。マッキンリーは、選挙戦での任務の統括についてハンナに信頼をおいていたが、ハンナは、マッキンリーが政治上の一般的戦略を統括させることを止めるつもりはなかった。
マークの資金集め活動では、銀行や富豪に対して一律その資産の0.25%の献金をするように申し入れた。これは規模においては前例のないものであったが、基本的発想は至極尋常ものであった。[77] マークの伝記を執筆したクロリーは、「ハンナ氏は、当時のアメリカの政治的土壌に深く根付いた慣習を組織し発展させただけであり、これを習慣と、彼自身が信じていたように、必要性とによって決済したのである」と述べている。[86] これ以前に最大規模の資金集めが行われたのは、1888年アメリカ合衆国大統領選挙であり、関税問題をめぐって選挙戦を分裂させながら激しく闘われた。1888年の選挙戦では、8年後にマークがそうしたように、上院議員キー(ハリソンの選挙スタッフ)が、実業家から献金を求めた。ハリソン陣営は1,800万ドル資金を集めた。1896年の選挙戦において共和党の資金分配をおこなったドーズは、後に、マッキンリー陣営は3,500万ドル以上の資金を調達したと述べたが、これには州と地区の委員会に配られた資金は含まれていない。加えて、共和党陣営には、カントンに向かう訪問団に鉄道運賃を割引するなどの企業の「本来の」協力が与えられた。これらの割引の供与は、訪問団に地元に留まるよりもカントンを訪れる方が安く上がると言わしめるほどのものであった。ブライアン陣営への寄付はずっと少なかった。彼には富裕な支持者が少なく、最大の献金者はおそらくハーストであった。ハーストは4万ドルを寄付、さらに発行する新聞においてブライアン陣営を支持する論陣を張った。[77]
10月後半、マークはハリソンに運動への貢献を謝しつつ、「見通しはおしなべて良好、勝利に疑いなしと思っています」と書き送っている。[83] 11月3日木曜日、大半の州で投票が行われた。ブライアンが176人の選挙人を獲得したのに対して、マッキンリーは271人であった。民主党候補は南部と、カリフォルニア州とオレゴン州を除く西部で勝利した。ブライアンは、地元のネブラスカ州と隣のカンザス州、サウスダコタ州でも勝利した。マッキンリーは、人口が集中する北東部と、中西部で票を獲得した。彼はセクショナリズム(en:sectionalism#United States)を終わらせたいと思っていたが、「」において得られた勝利は、デラウェア州、メリーランド州、ウェストバージニア州、ケンタッキー州といった境界州でのものに限られた。[87] マッキンリーが得た一般投票での得票率51.0%は、1872年にグラントが記録して以来の半数超えであった。有権者の関心も高く、投票率は79.3%を記録した。[88] 投票日の翌晩、マークはクリーブランドからカントンへ、「この気持ちは筆舌に尽くしがたい。…速報しようとは思わない。君は常に君を愛し信頼する人々によってこの国の最高権力へと押し上げられたのだよ」と電報を打っている。[89]
1896年11月12日、次期大統領となったマッキンリーは、旧友に閣僚になってもらうよう要請する手紙の中で以下のように書いている。
We are through with the election, and before turning to the future I want to express to you my great debt of gratitude for your generous life-long and devoted service to me. Was there ever such unselfish devotion before? Your unfaltering and increasing friendship through more than twenty years has been to me an encouragement and a source of strength which I am sure you have never realized, but which I have constantly felt and for which I thank you from the bottom of my heart. The recollection of all those years of uninterrupted loyalty and affection, of mutual confidences and growing regard fill me with emotions too deep for the pen to portray. I want you to know, but I cannot find the right words to tell you, how much I appreciate your friendship and faith.[90]
(訳)選挙が終わり、未来への歩みに戻る前に、僕は君にこれまでの懐深く息の長い献身的な貢献に大いに感謝の念を述べたい。これほどまでに無私の貢献がこれまであっただろうか。君の20余年にわたるますます強くなる揺るぎない友情こそ、僕にとって励みになり、力の源になった。それを君は今までに実感したことがないとは思うけれども、僕はそれを常に感じていたし、心底からありがたいと思っている。この間の不断の忠誠や愛情、互いの信頼や尊敬を思い起こせば、感情が昂って僕はそれを言葉にして書くことができなくなる。君の友情と信頼を僕がどれほど高く買っているか、君には知ってもらいたいが、それを告げるために正しい言葉が見つからない。
上院議員(1897年-1904年)
マッキンリー政権顧問(1897年-1901年)
上院議員選挙
歴史家(マークの義弟であるが、民主党員)によれば[91]、マッキンリーの選挙が終わってから「マーク・ハンナは妬ましい地位を占めた。通常ならば、クリーブランドの自由は彼に与えられただろう」という。[92] また、後にマッキンリー政権で国務長官となったジョン・ヘイによれば、「マーク・ハンナがこの年いかに素晴らしい記録を打ち立てたことか。私はこの闘いを共にするまでは彼のことをよくは知らなかったが、彼への尊敬と驚嘆は時々刻々と高まった」という。[92]
マークは、政治的貢献に対する見返りと見られることを恐れて、マッキンリー政権においていかなる官職にも就かないと表明した。[92] 1892年には既に広言していたように、上院議員になりたかったのである。[93] 上院議員シャーマンは74歳となっており、1898年の選挙で民主党やフォラカーの派閥と闘うことは困難であった。1897年1月4日、マッキンリーはシャーマンに国務長官に就任するよう要請し、シャーマンは直ちにそれを受諾した。1898年に退任するまでの間、シャーマンは大した業績を上げることができなかったので、そんな老いぼれを適任だとして重要閣僚につけるように助言したとして、マークが批判されることになった。[94] フォラカーはその自叙伝の中で、シャーマンがマークに上院議員の地位を譲るようにして身を引いたと強く示唆している。シャーマンは国務長官辞職後、「(マッキンリーが)私に国務長官の地位に就くように勧めたとき、気は進まなかったものの、マーク・ハンナの希望に沿わんがために引き受けた。結果、私は上院議員と国務長官の双方の地位を失うことになった。…彼らは、国務長官に指名することによって、私から上院議員の職務を奪ったのだ」と苦々しげに手紙に書き付けている。[95]
ホーナーは、国務長官職は政府における最重要の非公選ポストであり、しばしば大統領へのステップと見られているが、シャーマンは大統領を目指す気はもはやなかったものの、その権威は意識していたと論じている。[96] ローズによれば、「シャーマンは国務長官職を快く引き受けた。彼は、残り任期2年で再選の保証のない上院議員の地位を、明らかに4年間在職することになる新しい共和党政権の主要閣僚の地位と引き換えにしたのであり、それは疑いなく大抜擢というものだった」という。[97] ローズは、ハンナが信頼していたニューヨークの実業家たちからシャーマンの能力について聞かされていたが、1897年にそのことについて警告を発して彼の能力は信頼していなかったと示唆している。[98] これらのエピソードをマッキンリーは信じなかった。1897年2月、シャーマンの精神面の衰微を「センセーショナルなものを書く文屋か、その他の悪意があったり血迷った人々のでっちあげた与太話」だと評した。[98]
シャーマンが国務長官就任を受諾したからといって、それによってマークが後任の上院議員に就任できることを保証するものではなかった。それを確かにするのは、オハイオ州知事の共和党員の役目であった。1898年、州議会は、1899年3月に任期満了となるはずだったシャーマンの残り任期の補選と、その次の6年間の任期の上院議員の選挙とを行うことになった。ブッシュネルはフォラカー派であったーーそのフォラカーは1897年から1903年までの任期で州選出のもう1議席の上院議員として選ばれていた。シャーマンは、そのときはまだ閣僚に任命されたことに感謝していたので、マッキンリー同様、マークのためにその影響力を行使した。州知事ブッシュネルは、反対派閥の領袖を指名することを望まなかったので、下院議員にその話を持ちかけることをフォラカーに託したが、バートンは辞退した。マークの上院議員選出が困難であったために、マッキンリーが1897年の2月中旬になっても自分の友人を郵政長官に据える考えに固執したのだと、ローズは指摘する。[99][100][101] ブッシュネルは、1897年の州知事選での指名と再選を狙っていたが、マークの支持なしにはその望みは薄かったので、2月21日、シャーマンの後任につけることを約束する書簡をマークに送った。[102] フォラカーは、マークが上院議員の椅子を手に入れたのは、マッキンリーのたっての希望からだったと述懐している。[103]
1897年のオハイオ州議会議員選挙は、マークにとっては、6年任期の次の上院議員選出において自分に投票する者を決定するものとなり、マッキンリー政権の任期1年目の信任投票の様相をも呈したーーそのため、マッキンリーは、ブライアンがそうしたように、オハイオ州を訪れ、何度か演説をした。マッキンリーは、州内外の共和党員に上院議員を支持するように求めつつ、各場面の背後で活動した。1897年のオハイオ州共和党大会はマークを支持、州内88郡のうち84郡の集会でも同様であった。共和党は州議会選で勝利し、選出された共和党州議会議員の大多数は上院議員選出においてマークを支持することを表明した。[104] しかし、数名の共和党議員は、そのほとんどがフォラカー派であったが、マークの再選に反対し、民主党と連携することになった。[104]
1898年1月3日、州議会が招集されたとき、反ハンナ勢力は上下両院で組織化に成功した。反対勢力は候補者を一本化していなかった。数日間の交渉を経て、クリーブランド市長の共和党員に白羽の矢が立った。[105] マキソンは、このときと前回の補欠選挙でも反対勢力側の候補者に担ぎあげられたが、1895年にマークや地元実業家らの反対を押し切って市長になっている。コロンバス (オハイオ州)では、議員たちは拉致されたのだという噂が流れ、買収が行われたとも言われている。元大統領ジェームズ・エイブラハム・ガーフィールドの息子は、クリーブランドのある共和党員から、マキソンに投票なさい、そうしなければ、レンガ舗装材料を売却する契約が破棄されるだろうと告げられたと述べている。[104] ホーナーは次のように述べている。
Given Hanna's determination to win and his willingness to play by the rules as they existed, money may have changed hands during the campaign, but if it did, it is important to remember the context. If Hanna engaged in such behavior, that was the way the game was played on both sides... Hanna, of course, was not without resources. It is helpful, for example, when you are good friends with the president of the United States, a man also personally very influential in Ohio politics.[106]
(訳)ハンナが勝つための決断を下し、進んで規範どおりに振る舞ったので、選挙戦の間に資金はその持ち主を変えたのだが、そうであるなら、その背景を思い起こすことが重要となる。ハンナがこのようなに振る舞っていたとすれば、それは、この試合が敵味方双方によって展開されるようにするための手段であった。…もちろんハンナには拠る辺がないわけではなかった。たとえば、合衆国大統領は個人的にはオハイオ州の政治に非常な影響力を持つが、その彼と友人であったことが役に立ったのだ。
結局、「ハンナの作戦はーーそれが実際には何であれ」、成功した。あり得るだけの多数派によって再選されたのである。[107][108]
大統領との関係
マーク・ハンナとウィリアム・マッキンリーは、1897年3月にそれぞれの職位に就いたときにも友好関係を続けていた。上院議員になったマークが住居を探していたところ、大統領マッキンリーは住居が見つかるまでエグゼクティブ・マンション(ホワイトハウスという名称は公式にはまだ認知されていなかった)に滞在するように提案した。ハースト系の「ニューヨーク・ジャーナル」は、「自分の家のようにホワイトハウスでくつろげるようになってこそ男だと、かの上院議員は何の疑いもなく信じているのだ」と論評した。[109][110] その後すぐに、マークはホワイトハウス近くののスイートに移った。[111] 1899年11月に副大統領ホーバートが亡くなると、ペンシルベニア大通りを挟んでホワイトハウスの向かいにあるにあるホーバートの家の賃借を引き継いだ。[112]
があったものの、大統領が任命権を有する官職は多数あった。下級の官職については党の政策職員を充てるのが当時の慣習であった。マークは、マッキンリーがする任命についていくらか発言権があったが、最後は大統領が決定した。オハイオ州の連邦公務員の大半の候補を推薦することと、フォラカー派の候補に対して拒否することがマークには認められた。大統領に陳情する共和党の下院議員が少ない南部についても権限が与えられた。マークとマッキンリーは、南部の被指名者が共和党全国大会の州代表によって推薦され、その地域の共和党の下院議員候補者が漏れることになっていた制度について決定を下した。友好的でなかったハリソンのスタッフには多くの地位を与えず、大会中またはその後に党を割った「銀共和党員」には一切配慮しなかった。[113]
マークは政権の人事を支配しているように言われていたが、実際には、より影響力のある者がいた。マッキンリーの友人ジョゼフ・スミスは、マッキンリーがオハイオ州知事であったときに州立図書館長を務めていたが、おそらく、1898年に死亡するまでに連邦政府の人事に大きな影響を持っていた。[114] チャールズ・ドーズは、マッキンリーの腹心の一人であり、前任者が離職するやすぐにに就任することになった。[115] マッキンリー政権下の郵政次官としてのの官職は大統領によって任用されたものであるが、そのブリストーが後に、大統領は「ハンナから要望があればよく聞き、その明晰さには信頼を置いていたが、最終的には、大統領は常に自分で判断を下していた」と書いている。[114]
1900年の初頭、マークは、リウマチを患っているとして、マッキンリーの再選のための選挙戦には従事できないかもしれないとほのめかした。しかし、実際にはその意欲を持っていたが、マッキンリー自身は(自分がマークの傀儡でないことを大衆に示す絶好の機会であったため)マークに支援を求めるのを遅らせた。このことは、選挙運動とマッキンリーとの関係について関心を持っていたマークにとっては大変なストレスの種になり、マークは待機中に執務室で倒れ、心臓発作に脅かされることになった。5月下旬、マッキンリーは、マークが選挙戦に協力してくれることを公表した。[116] マーガレット・リーチは、マッキンリーが未知の理由、すなわち彼「らしくない冷淡さ」でマークに怒りを感じていたのだと指摘している。[117] 一方、「大統領は、いつもの間接的圧力と暗黙の権力を用いていた。彼はハンナを欲し、必要としていた。その任期以外については」と、モーガンは記している。[118]
米西戦争
クリーブランド政権のときから、アメリカは当時スペインの植民地であったキューバの独立闘争に多大な関心を持っていた。多くのアメリカ人は、キューバが独立するべきであり、スペインは西半球から手を引くべきだと考えていた。1895年の初頭、議会はキューバ独立を要求する一連の議案を可決した。大統領クリーブランドは中立政策を模索していたが、国務長官は、合衆国の忍耐は無尽蔵ではないとスペインに警告した。当時上院議員であったシャーマンは、中立を支持していたものの、米国は必然的にキューバをめぐって戦争に突入するだろうと思った。[119] マークが上院議員になってすぐに、マッキンリーは、関税に関する案を審議させる連邦議会特別会を召集させた。この当初の召集の趣旨にもかかわらず、可決された議案の多くは、必要ならば武力をもってしてでもキューバの独立を要求するものだった。マークが報道陣から会期内にキューバをめぐって動きがあるかと問われた際、「知らない。君だってわからないだろう。火花はいつ飛んでもおかしくないし、動きがあってもおかしくはないよ」と答えた。[120]
1897年を通じて、マッキンリーはキューバに自治権が与えられることを求めつつ、中立を維持していた。それにもかかわらず、ハースト社の新聞を含めた主戦派は、マッキンリーに対外積極策を取るように圧力をかけた。[121] 1897年3月20日、上院はキューバへの介入を求める議案を41対14で可決した。マークは少数派に属した。[122] 1897年後半から1898年初頭にかけて、危機が徐々に高まってくると、もしマッキンリーが世論に反して戦争を避けるなら、政治的ダメージになりかねないと、マークは思うようになった。「ブライアン氏に気をつけろ。1900年の民主党政策綱領に誤ったことが全て盛り込まれるぞ。いやでも分かるだろうよ!」[123] しかし、マークは、キューバの植民地政策の改革を穏便にスペインに求めるというマッキンリーの方針は既に戦争をせずに結果を出せる状態にあり、そうであり続けるだろうと信じていた。[124]
1898年2月15日、アメリカの戦艦メイン (ACR-1)がハバナ港で沈没、250名以上の将兵が死亡した。[125] 沈没の原因となった爆発が外部的要因によるか内部的過失によるかは当時明らかにならず、現在にいたるも不明である。[126] マッキンリーは事態を調査委員会に付し、その間は国として判断を保留したが、一方でひそかに戦争の準備もした。ハースト社系各紙は、「『メイン』を忘れるな、スペインを地獄に落とせ!」というスローガンを掲げて間断なく戦争を煽り、グスグスしているとしてマークを批難した。マークこそがホワイトハウスの真の主人であり、ビジネスを優先して戦争を渋っているのだというのである。[127] ハースト社系の「ニューヨーク・ジャーナル」紙は、1898年3月、次のような社説を発表した。
Senator Hanna, fresh from the bargain for a seat in the United States Senate, probably felt the need of recouping his Ohio expenses as well as helping his financial friends out of the hole when he began playing American patriotism against Wall Street money... Hanna said there would be no war. He spoke as one having authority. His edict meant that Uncle Sam might be kicked and cuffed from one continent to another.[128]
(訳)ハンナ上院議員は、議員の椅子をかけた仕事から戻ってきたばかりなのか、ウォール街に対してアメリカの愛国主義者を演じ始めたとき、資金関係の友人たちを負債から救い出すのと同様、自分の出費の穴埋めをする必要を感じていたのだろう。…ハンナは戦争は起こらないと言った。権威者としてそう話したのだ。その意味するところは、アンクル・サムが別の大陸に弾き飛ばされれてもよいということだ。
国が調査委員会の報告を待っているので、戦争を望む多くの人は、マッキンリーが臆病であると思った。バージニア州では、マークとマッキンリーに似せた案山子を火あぶりにするという余興が行われた。海軍次官セオドア・ルーズベルトは、グリディロン・クラブの夕食会の席上、マークの鼻っ柱に拳を振り上げ、「資本家どもが怖気づこうが、キューバの自由のために戦争をやるぞ!」とぶった。[129] しかし、マークはマッキンリーの慎重策を支持し、この問題では上院での指導的役割に徹した。[130]
海軍の報国では、「メイン」の沈没は外部的要因であると断じ、多くの人はそれをスペインの仕掛けた機雷か爆弾によるものと信じた(最近のレポートでは石炭室を含む内部からの爆発が示唆されている)。戦争を望む声の高まりに反して、マッキンリーは平和の維持を希望した。しかし、アメリカがキューバの独立以外を受け入れることができず、スペインがそれに応ずる用意がないことが明らかになると、交渉は破綻した。4月11日にいたって、マッキンリーは、必要ならば武力に訴えてでもキューバの独立を確保する措置を取る権限を付与するよう議会に求めた。[131] マークは、私的には「議会がそれを始めようというのなら、自分としては止めたいところだが」と言いつつ、マッキンリーがそうした権限を得ることを支持した。[132] 4月20日、スペインは外交関係を断絶、5日後、議会は4月21日に遡って宣戦を布告した。[133]
戦争はアメリカの完勝に終わった。しかし、マークは戦争を不快に思っていた。戦争中、大衆に対しては「私の一族はクエーカー教徒だということを忘れていない。戦争は罰すべき行いにほかならない」と述べていた。[134] の後、アメリカ側の犠牲者の数を知り、「なんということだ。こういうことはまた起きるぞ」と嘆じた。[135] 戦後、プエルトリコやグアムといったスペインの植民地をめぐるマッキンリーの決定についても、マークはこれを支持した。[136]
1900年の選挙運動
1899年後半、副大統領ホバートが死亡した。大統領マッキンリーは、副大統領候補の選択をに託すことにした。ニューヨーク州選出の上院議員プラットは、当時同州知事であった元海軍次官セオドア・ルーズベルトを、1年半の知事在任中、改革の公約を推し進めていたために好ましからず思っていた。そこで、ルーズベルトを副大統領とすることで政治的に追い出そうと考えた。ルーズベルトは米西戦争での貢献で有名人となっており、どこでも人気があったので、マッキンリーの再選候補者として指名された後、プラットがルーズベルトに投票する州代表を募ることは難しくなかった。ルーズベルトを副大統領に押し上げるプラットの計画には、キーも密接に協力することになった。マークは、ルーズベルトはあまりに激情的だから候補者名簿に載せるべきではないと考えていたが、大会の開催地フィラデルフィアに着くまで本腰を入れてそのための活動をしたわけではなかった。大会に出席する代表者は政治任用されるため、マッキンリーが他の候補者に投票する代表を任用してくれることをマークは望んでいたのである。しかし、電話でマッキンリーの合意を取ろうとして不首尾に終わり、電話ボックスから出ててきたマークは、「勝手にしろ! もう終わりだ! 大会でやることはもうない! 俺は選挙戦をやらんぞ! 二度と大会議長なんかやってやるもんか!」と言い放った。[137][138] どうしたのか訊かれたマークは以下のように返答した。
Matter! Matter! Why, everybody's gone crazy! What is the matter with all of you? Here's this convention going headlong for Roosevelt for Vice President. Don't any of you realize that there's only one life between that madman and the Presidency? Platt and Quay are no better than idiots! What harm can he do as Governor of New York compared to the damage he will do as President if McKinley should die?[137]
(訳)どうしただと! みんなイカレちまった! お前らこそどうしたんだ?! 大会はルーズベルトを副大統領に推すっていうんだぞ。きちがいが大統領一歩手前になるってことが分からんのか。プラットとキーは阿呆だろ! 奴がニューヨーク州知事でしでかすことと、マッキンリーが死んだら奴は大統領になるが、それでやらかすことを比べてみればいいんだ。
大会でマッキンリーとルーズベルトが指名された後、マークはワシントンに戻り、マッキンリーに対して「フィラデルフィアでのことはちょっとしたことだった。必ずしも容易に私の好みに合うものではないが。とにかく、我々はうまくいったし、名簿もあれでいい。国に対する君の義務は、今度の5月から4年間を生き抜くことだ」と書き送った。[139]
民主党は、全国大会において、再びブライアンを候補者指名した。今回、ブライアンはより明確な公約を引っさげ、マッキンリーのスペイン植民地に対する支配を帝国主義だと攻撃した。民主党は、また、反トラスト法の発動が増えていることに論及し、マッキンリーの取り組みが甘いとして批難した。[140] マークは民主党の運動を「いいんじゃないの」と手短に論評した。[141]
今回、マークは資金集めをさして要求されなかった。教育的な運動がそれほど必要ではなかったことと、企業が進んで献金したからである。[142] マッキンリーは、6月に指名受諾演説をカントンにて一度しただけであった。[143] 一方、ルーズベルトは全国的な遊説を展開し[144]、45州のうち24州を歴訪、行程は34,000kmに及んだ。[145] マークも今や公人であり、西部各州の共和党候補者のために運動に取り組むことが求められた。しかし、マッキンリーは、トラスト問題について政府の見解とは異なる演説をしていたため、これに難色を示した。マッキンリーはマークが滞在していたシカゴに郵政長官を派遣し、訪問をやめるように説得にあたらせた。スミスを差し向けたのがマッキンリーであることに気付いたマークは、「ワシントンに帰って、大統領に言ってやりたまえ。神様は臆病者が嫌いだぞ、とな」と言った。数日後、マッキンリーとマークはカントンで面会し、昼食の席でそれぞれの意見の違いを調整した。そして、マークは西部に遊説した。[146] マークの伝記を執筆したトマス・ビアは、彼が「ドル・マーク」の付いたスーツを着ていないことに聴衆の多くが驚いたものの、この遊説は大変な成功を収めたとしている。[147]
マークは、ニュージャージー州にコテージを借りていたが、自分の時間の多くをニューヨークの選挙事務所で過ごすことになった。[148] 9月、によるストライキが、マッキンリーにとって問題になりかねない危機に発展しようとしていた。マークは、鉱夫らの不服はもっともだと思い、調停役となることを申し出た。その甲斐あって、当事者双方は和解することができた。[149]
1900年11月6日、選挙人はマッキンリーを選んだ。一般投票の得票率は、1896年のときよりわずかに増えて51.7%であった。獲得した選挙人はマッキンリーが292、一方、ブライアンは155であった。マッキンリーは、1896年のときにブライアンが勝った6州においても今回勝利した。後代の基準では多数派は大した割合ではないが、歴史家ルイス・L・ゴウルドは、マッキンリー政権の研究の中で、「南北戦争以降の選挙結果に照らせば、圧倒的民意であった」と述べている。[144]
マッキンリー暗殺
マッキンリーは、任期中方々を歴訪したが、1901年9月には、ニューヨーク州バッファローで開催されたを視察していた。1901年9月6日、会場内に建てられた音楽堂において来場客を歓待していたとき、マッキンリーは無政府主義者レオン・チョルゴッシュに発砲された。マークは、他のマッキンリーの盟友らとともに彼に駆け寄った。[150]
負傷したマッキンリーは、横たわりながらも「マークはいるか」と尋ねた。医師は、マークはいるが、話すことはすべきではないと告げた。マッキンリーが回復に向かっているように見えたので、マークは、医師の見立てを信じて、公演することになっていた在郷軍人会、のクリーブランド支部に向かうべくバッファローを離れた。しかし、そこでマッキンリーの容態が悪化したとの電報を受け取り、バッファローに取って返した。マークが着いたときには、マッキンリーは既に意識不明の状態であり、横たわっていたベッドがそのまま死の床になった。9月13日の夕方、マッキンリーの妻と実弟エイブナーと同様、マークは瀕死のマッキンリーと対面することが許された。マークは、嗚咽しながらマッキンリーがいたミルバーン・ハウスの書斎に入り、そして、マッキンリーが亡くなったときには、その遺体をカントンに護送する手配をすることになった。9月14日午前2時15分、大統領在任のままマッキンリーは死亡した。[150][151]
ルーズベルト政権と死(1901年-04年)
マッキンリーの死によって、マークは個人的にも政治的にも打ちひしがれた。新大統領ルーズベルトは、マークとは盟友ではなかったが、上院でのマークの影響力を維持してもらうために助力を乞うた。これに対し、マークは2つの条件の下でルーズベルトの残りの任期中については承諾した。
マッキンリーの公約を実行することと、ルーズベルトがマークを「年寄り」と呼ぶことやめることである。マークはその呼び方に相当癇に障るものがあったのである。「もしやめなければ、君をテディと呼んでやるぞ」とルーズベルトに警告した。[152] ルーズベルトはその渾名を嫌っていたので、マークの提示した条件を受け入れた。後者については完全に実行はしなかったが。[152]
パナマ運河への関与
マークは中央アメリカに運河を通すことを支持していた。これにより、船舶はホーン岬を回る長旅をすることなく、太平洋と大西洋を行き来することができるというのである。マークは、ニカラグアに運河を掘削するより、当時コロンビア領であったパナマの方がよいと信じていた。後に弁護士でロビーストであったがマークを1901年にパナマ案支持に向かわせたのは自分だと主張したが、実際にどのようにマークがパナマ案を支持するようになったのかはわからない。[153] フランス人運河建設者は、アーリントン・ホテルでマークと面会した際に最後には「ムッシュー・ビュノー=バリヤ、あんたの言うとおりだ」と納得してもらったと述べて、パナマ案に反対した。[154]
ニカラグア案には多くの支持者があり、この案で運河を通すことを認可する法案をアイオワ州選出のが提出、法案は下院を通過した。1902年6月、法案は上院での審議に入ったが、6月5日と6日、マークがヘップバーンの法案に反対演説をした。この演説の中で、議場内で地図を示しながら説明した。これは新奇な手法であったが、ニカラグアの地図に活火山には赤い印を、休火山には黒い印を付けて、火山活動の可能性に言及した。そのニカラグアの地図に黒いマークの列が続き、8つの赤いマークが付いたが、パナマの地図にはどれもなかった。マークは、パナマ案に多くの利点があるとした。パナマの方がニカラグアより路線が短く、したがって、掘削作業も軽く済む、また、路線の両端に港があるというのである。演説をしたとき、マークは体調が優れなかった。アラバマ州選出の上院議員は、上院でのヘップバーン法案の提出者であったが、マークに質疑を試みたが、「話の腰を折らんでくれんか。私は疲れているのだ」と返されたのみだった。[155] 最後には、仮に米国がニカラグアに運河を通すなら、他の勢力がパナマにも通すだろうとマークは警告した。ある上院議員は、これではまるで「『ハンナ』マ運河」だとこぼしている。ニカラグアといえば火山だという絵の描かれた切手を上院議員全員に送れるだけワシントン中の業者からかき集めたとクロムウェルが述懐しているが、そうしたこともあり、法案はパナマ案に修正されて上院で採択された。後に、下院でもこの修正案が可決され、こうしてパナマ運河建設を認可する法律が成立したのである。[155]
米国は運河建設の権利をめぐってコロンビアと交渉に入った。その成案となった協定は署名されたものの、は承認案を否決した。1903年11月、アメリカの支援の下、パナマはコロンビアから独立、ビュノー=バリヤが米国政府の代理人となり、米国に運河建設のための用地を割譲する内容の条約が署名された。[156] 1904年2月、米国上院で条約への承認案が上程、審議が開始されたが、そのときマークは死の床にあった。条約は、マークが死亡した8日後の1904年2月23日承認された。[157]
再選、大統領選出馬のうわさと死
1903年のオハイオ州共和党大会において、フォラカーはルーズベルトの再選を是認する決議案を提出した。通常ならば1904年の大会で議論されるはずのものであったが、フォラカーはこれを決議することでマークからオハイオでの党の実権を取り戻したかったのである。決議案はマークを困難な立場に追い込むものであった。すなわち、もし賛成すれば自身の大統領選出馬はないと広言することになり、反対すればルーズベルトの怒りを買いかねなかった。西部を訪問中であったマークは、ルーズベルトに電報を打ち、決議案に反対することと、ワシントンで面会したときに理由を説明するとした。これに対し、ルーズベルトは、自分は必要な支持を誰からも得ていないが、自分の政権に友好的なら、どういう投票をするかは自明だと返した。マークは仕方なく決議案に賛成することにした。[158]
1903年の大会では、マークの上院議員再選も決議され、マークの友人マイロン・ティモシー・ヘリックが州知事候補に指名された。フォラカー派の収穫は、後に大統領になるウォレン・ハーディング副知事候補として指名されたことであった。マークは共和党への支持を訴えてオハイオ州各地を遊説し、それは党の圧倒的勝利として報われた。1904年1月、州議会で115対25の多数をもってマークの上院議員再選が難なく決議されたが、これは1902年にフォラカーが獲得した票数に大幅に差を付けるものであった。[159]
マークとルーズベルトとの間には見解の相違があったが、ルーズベルトは1903年11月、自身の再選運動に参加するようマークに依頼した。マークは、これを自分に反対しないようにするためのルーズベルトの見え透いた企みだと見て、なかなか返答しないでいた。その間、マークはその意思を持たなかったが、自身の大統領選出馬のうわさを流れるままにしておいた。[160] ルーズベルトの政策に反対だった金融資本家ジョン・モルガンは、感謝祭の会食にハンナ一家招待した折に、マークに大統領選出馬の資金提供を申し出たが、彼は沈黙を保った。[161] 12月、マークとルーズベルトは長時間にわたって会談し、立場の相違を解消した。ルーズベルトは、マークが次期共和党全国大会議長を重任しないことに同意した。理屈の上では、これはマークに大統領選に出馬することを許すものであったが、ルーズベルトは既に終わった人物であり、出馬はないと見ていた。[162]
1904年1月30日、マークはアーリントン・ホテルで開催されたグリディロン・クラブの夕食会に出席した。彼は食事も飲酒もせず、健康状態について尋ねられたときに、「良くはないね」と返答している。[163] 彼がワシントンの住居を離れることは二度となかった。[163] 腸チフスにかかっていたのである。[164] 数日経つと、政治家たちは、マークの自宅近くのアーリントン・ホテルのロビーで新しい知らせを待ち始めた。ルーズベルトは「古い同志たるご貴殿が早々に健康を取り戻し、いつもそうだったように力強いリーダーシップを揮って私とともにあらんことを」という手紙を送ったが、それをマークが見ることはなかった。[165] マークは数日にわたって意識を失ったり回復したりを繰り返した。2月15日の朝には鼓動が乱れ始めた。ルーズベルトは午後3時に彼を訪問したが、マークが目を開けて面会することはなかった。午後6時半、マークは死んだ。アーリントン・ホテルのロビーに集まっていた議会の同僚、政府職員、外交官らが同ホテルを辞した。多くはむせび泣いていた。ルーズベルトの伝記執筆者は、マークの事業と政治における仕事ぶりに触れて、「彼はどの分野も悪くなくこなした。7百万ドルの資産を築き、そして、合衆国大統領を作った」と記している。[165]
評価と後世への影響
ジェラルド・W・ウォルフ教授は、「(ハンナの)生涯を通じて堅く絶対のものがあるとすれば、それは、資本主義がアメリカにもたらした生活水準に対する深い信頼である」と述べている。[166] 同時代の保守的な企業人の多くと同様、労働者、経営者、政府はともに社会の利益のために協力すべきであると、マークもまた信じていた。こうした観点は、マークが1876年の炭鉱ストライキをきっかけに持つようになったものであるが、彼がこの政界に転じたとき、彼の見識を示すものとなった。[166] マークは自分の被用者とよい関係を育もうと最善を尽くしてきた、とクロリーは述べる。1876年4月28日付で「今朝、ローズ社のハンナ氏はアシュタビューラ港ドックでスト中の労働者団と会談、双方が合意案を受諾、操業が再開された」と報道したクリーブランド「リーダー」紙から引用して自説を補強している。[167] ウォルフによれば、炭鉱ストの後、マークが「労働者、資本家、経営者の関係をいかに全ての人々の利益に合致させることができるかを示そうと精励した」という。[166]
こうした労使関係での努力にもかかわらず、マークが「労働者」と書かれたしゃれこうべを踏みつけている風刺画が、1896年の選挙戦中、ダブンポート紙に掲載された。[168] 翌年のオハイオ州議会選は1898年のマークの上院議員再選を決める州議会議員を決定するものであったが、その選挙戦の間、彼は自社の従業員に対して苛烈であると糾弾された。演説の中で、彼は反論している。
Go to any of the five thousand men in my employ... Ask them whether I ever pay less than the highest going wages, ask them whether I ever asked them whether they belonged to a union or not... Ask them whether, when any men or any committee of men, came to me with a complaint if I ever refused to see them... Ask them if I ever in my life intentionally wronged any workingman. I never did.[169]
(訳)わが社の5千人の被用者を訪ねて問うてみればいいでしょう。私が最高水準に満たぬ賃金しか払わなかったことがあったか、私が「君は組合に加入しているかね」と尋ねたことがあったか、と。組合員や執行委員が不服を言いにやってきたときに、私が面会を拒否したことがあったか、と。私がわざと労働者に不当な扱いをしたことがあったか、と。そんなことは一度もありません。
マークの取り組みの甲斐あって、労働者を代表する組合は彼の出した案に署名した。[170] マークは(NCF)の初代会長にも就任した。この連盟は、経営者と労働者の調和的な関係を醸成することを目的としたものである。NFCは戦闘的な労働組合に反対し、法令を逸脱しようとする経営者にも抵抗した。労働者がよりよい賃金と労働条件を求めて団結する権利を承認した。1903年、労働協約に向けた演説にて、マークは、労働者が組合を結成して組織化しようとする努力は、もはや経営者がカルテルを締結しようと努めることと比べても何ら恐れるべきものではないと述べた。[166]
「公共に何らかの恩がある者など公職にある者の中にはいない」という言葉がマークによるものとされることがある。この言葉は、マークが1890年オハイオ州法務長官デビッド・K・ワトソンに宛てたスタンダード・オイル社を相手取った訴訟を取り下げるよう説得する書簡の中に現れたものとされる。この言葉は1897年のオハイオ州での選挙戦においてマークに対する攻撃材料となった。共和党員であったワトソンは、そういった文言をマークが書いたことを否定したものの、記者に対してそれ以上語ることを拒んだ。マークの伝記を早期に執筆したクロリーとビアは、疑わしいとしながらも、マークがこれを書いたということを明確に否定もしなかったので、後続の伝記ではこの言葉をマークによるものとしている。しかし、この論争についての論文を発表したトマス・E・フェルト教授は、マークが親密でない者に対してこうした扇情的な言葉使いをしなかったと思っており、いずれにしても、この言葉はマークの政治的見解を代表するものではなかった。[171]
マークは、しばしば現代的な大統領選挙運動の導入者として信じられている。1896年にマッキンリーへの支援活動は、高度にシステム化・集約化されたその性質ゆえに、資金集めの成功と並んで新しい地平を開いたものであった。マークは初の全国的な政治的ボスとして描かれてきたが、マッキンリーが2人の関係で主導的であったということで歴史家たちは一致している。それでも、マークはその独創的な選挙活動によって知られている。[172]
今日におけるイメージ
ニュージャージー州選出の上院議員ビル・ブラッドリーは、1996年に回想録Time Present, Time Pastを出版した。その中で、彼は高校生のときにマークについてのレポートを書いたことがあり、歴史の教師が「1896年の選挙戦での教訓は、金こそが力ということだ」と教えてくれたと述懐している。バスケットボール選手であったブラッドリーは、高校にてインタビューを受けたことがあり、そこでマークが彼にとってのヒーローの一人であると述べている。しかし、回想録を執筆するときには、政治資金への規制をかけるべきだと思うようになっており、選挙戦にあまりにも金がかかりすぎるようにしたとマークを非難している。また、オハイオ州共和党のボスである、ルーズベルト政権の妨害に心血を注いだなどとするマークの誤った特徴描写とホーナーが名付けたことについても論じている。1896年以来、共和党は富裕層から容易に資金を集めるようになったことを民主党員であるブラッドリーは問題にしている。こうした批判はしている一方で、彼はその政治経歴を進める上でマークと
似た役割をする人物に出会えなかったことを悔やんでもいる。[173]
2000年、テキサス州知事ジョージ・W・ブッシュが。選挙戦が進行すると、メディアは、マークとブッシュの顧問カール・ローヴとを比較した。ローヴはブッシュに対してスヴェンガーリのような影響力を持っていると信じられていた。選挙期間中から2009年に大統領が退任するまで、ローヴがブッシュを操作することができ、政府にも相当な影響を及ぼしているとメディア関係者から指摘されることがしばしばあった。ローヴはマークの生まれ変わりと信じられていたが、ほぼ一貫して否定的に表現されており、そして、歴史的事実とは矛盾していた。たとえば、作家ジャック・ケリーは、2000年に発表したコラムで、マッキンリーの玄関活動はその選挙戦のあり方を変えるものではないことを確かにするためとしてマークの指図によるものとしているが、実際には、マッキンリー自身がブライアンの全国遊説に対抗するにはこれが最良だとして行ったものである。こうした対比は、マークの人気についてのローヴの関心やいくつかの記事によってエスカレートした。ローヴは、テキサス大学にてマッキンリーの伝記執筆者ルイス・L・ゴウルドの下でマッキンリー政権について学び、マークの影響は大げさに語られていると信じていた。[174]
ホーナーによれば、マークについてのダヴンポートの描写は、現在なおマークのイメージとして残り続けているという。
The portrait of Hanna that has stood the test of time is of a man who was grossly obese; a cutthroat attack dog for the "Trusts"; a cigar-smoking man clad in a suit covered with dollar signs who stood side by side with a gigantic figure representing the trusts, and a tiny, childlike William McKinley. He will forever be known as "Dollar Mark".[175]
(訳)マークのイメージの中で今も生き残っているものは、ひどい肥満の男、「トラスト」を守る凶暴な番犬、トラストを象徴する巨人と小さな子どものようなウィリアム・マッキンリーとともに並んで立つドル記号がついた背広に身を包んで葉巻をふかした男といったものだ。彼はずっと「ドル・マーク」として知られることになるだろう。
選挙履歴
以下の選挙はいずれもオハイオ州議会によるものである。1913年に合衆国憲法修正17条が制定されるまで連邦上院議員は各州の議会が選出することになっていた。
1898年オハイオ州選出アメリカ合衆国上院議員選挙
1898年1月12日施行。1897年3月4日、ジョン・シャーマンがアメリカ合衆国国務長官に就任するため上院議員を辞任したことによる1899年5月4日までの残り任期の補欠議員と、その補欠議員の後継となる1899年3月4日から任期6年間の議員が同時に選出された。州議会上下各院は1月11日に招集され、2つの選挙について投票を行うことになった。各院で同じ候補者が多数票を得た場合、上下合同議会での投票は必要ないものとされた。この場合、上下合同議会で各院の議事記録が確認された後に選出された者が公表される。上下院でそれぞれ異なる投票結果となった場合は、合同会議での投票が行われる。選出には合計73票が必要であり、マークは最初の上下合同議会の投票で選出された。州知事エイサ・ブッシュネルは、州議会招集に先立つ1897年3月5日にはマークに上院議員選出を約束していた。11日の下院での投票結果は、マーク56票、ロバート・マキソン(共和党)49票、(民主党)1票、1票、1票。上院は、マキソン19票、マーク17票。このように各院で異なる投票結果となったので、上下合同会議による投票が行われることになった。マークは下院側の投票56票、上院側の投票17票で合計73票(得票率50.69%)を得た。他の候補者の得票は、マキソン下院51、上院19の計70票(同48.61%)、レンツは下院のみ1票(同0.69%)。
1904年オハイオ州選出アメリカ合衆国上院議員選挙
1904年1月13日施行。任期は1905年3月4日から6年。1月12日に上下各院が招集され、マークが多数票を得た。議事記録確認後、上下合同会議にて選出が公表された。選出には71票が必要であった。投票結果は以下のとおり。マークが下院86、上院29で計115票(得票率82.14%)、(民主党)が下院21、上院4で計25票(同17.86%)であった。マークはこの任期開始前に死去している。マークの1905年までの前任期の残りとこの選挙で得た1911年までの任期について、オハイオ州アクロン出身の合衆国下院議員が選出された。
脚注
参考文献
その他の文献
外部リンク
アメリカ合衆国議会「」
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%8A |
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イヌは、リンネ(1758年)以来、伝統的に独立種 Canis familiaris とされてきたが、D. E. Wilson and D. A. M. Reeder の Mammal Species of the World: A Taxonomic and Geographic Reference (1993年版)において、その分類上の位置づけはタイリクオオカミ(Canis lupus、以下オオカミ)の亜種とされ、学名も C. lupus familiaris に改められた。最近ではこの分類と学名が受容されつつあるが、依然、独立種 C. familiaris としている研究者も少なくない[1]。
遺伝的に見たイヌの起源
イヌの直接の祖先が現生のどの動物であるかという説は、後述するとおり複数のものがあった。
1990年代以降に急速に発展した分子系統学の知見に基づき、2000年代の時点では、イヌの祖先はオオカミとする説が一般的である[2][3][4]。つまり、人間がオオカミを家畜化(=馴化)し、人間の好む性質を持つ個体を人為的選択することで、イヌという動物が成立したと考えられている[5]。
イヌ属にはイヌ・オオカミ(C. lupus)の他に、野生化したイヌであるディンゴ(C. lupus dingo)、独立種として複数のジャッカル(C. aureus, C. mesomelas, C. simensis)とコヨーテ(C. latrans)、交雑種アメリカアカオオカミ(C. lupus × latrans)が含まれる。これらの間には地理的あるいは生態的な要因によって生殖的隔離が見られるが、人為的には相互に交雑が可能であり、子孫も繁殖力を持つ[6]。
このことから、かつてはオオカミ起原説のほかに、オオカミとジャッカル(あるいはコヨーテ)が混じっているとする説や、イヌの祖先として(すでに絶滅したパリア犬や、オーストラリアに現生するディンゴのような)「野生犬」の存在を仮定する説などがあった[2]。チャールズ・ダーウィンも、これら複数のイヌ属動物にイヌの祖先を求めたが、確定することはできなかった[7]。しかしながら、2000年代までの分子系統学・動物行動学など生物学緒分野の発展は、オオカミ以外のイヌ属動物の遺伝子の関与は小さく、イヌの祖先はオオカミであるという説を支持する結果をもたらしている[7]。
イヌ属の分化
イヌなどの食肉目(ネコ目)の祖先として、現生のイタチやテンのような形態のミアキスが出現したのは、6000万年前ごろとされる[8]。3800万年前のヘスペロキオン(en:Hesperocyon)を経て、約1500万年前には北米にトマークタス(en:Tomarctus)が出現し、これがイヌ科の直接の祖先であると考えられている[8]。他のイヌ科動物とイヌ属が分岐したのは、約700万年前であると見積もられている[8]。
オオカミとの関係
Wayne ら(1993年)は、イヌ科動物を、ミトコンドリアDNA(mtDNA:ミトコンドリアタンパク質をコードするDNA)の2,001bp塩基対の配列によって比較した[9][10]。その結果、イヌはオオカミと最も近縁であり、コヨーテやジャッカルとは少し離れていた[11]。
Vilà ら(1997年)は、世界の27か所から集めたオオカミ162頭と、67品種(犬種)140頭のイヌを用いて、同じくミトコンドリアDNAのうち、region 1 と呼ばれる、変異の大きな領域の塩基配列を比較した[12]。その結果、イヌとオオカミの配列に大きな違いはなかった。Vilà らや Tsuda ら(1997年)による、ミトコンドリアDNAの塩基配列の分析からは、イヌとオオカミははっきり分けられるものではなく、系統樹を描くと、さまざまなオオカミの亜種やイヌの犬種が入り交じって出現する[13]。
Vilà らや Tsuda らの分子系統学的研究と、イヌとオオカミがお互いの子を作ることが可能であり、両者の間にできた子供も生殖可能である事実を考え併せると、イヌとオオカミは近縁種であると考えられる。
祖先となったオオカミの亜種
オオカミには棲息する地域によっていくつかの亜種があるが、イヌが具体的にどの地域で、どの亜種から分岐したものであるかについては定説はない。かつては、他の多くの家畜動物と同様、西アジアで家畜化されたのではないかとも考えられていた。また、前述のVilà ら(1997年)の研究[12]は、イヌの祖先が特定のオオカミの亜種に由来せず、さまざまな場所で家畜化が行われたか、あるいはイヌの系統がさまざまな種類のオオカミから遺伝的な影響を受けたことを示唆していた。
これに対して、Savolainen ら(2002年)はイヌの起源を新たに東アジアに求め[14]、今日ではこの説が有力となりつつある[4]。Savolainen らは、ユーラシアの38匹のオオカミと、アジア、ヨーロッパ、アフリカおよび北極アメリカ(=アラスカ)から集められた654匹のイヌから採取したミトコンドリアDNAを調査した。その結果、南西アジアやヨーロッパのイヌに比べて、東アジアのイヌには、より大きな遺伝的多様性が見られ、それらがより古い起源をもつこと、すなわち、イヌは東アジアに起源を持つことが示唆された[14]。このことから、すべてのイヌは、約1万5千年前あるいはそれ以前に、東アジアに棲息するオオカミから家畜化されたものを祖先とし、これが人の移動に伴って世界各地に広がったものと考えられる[4]。ただし、その過程で、ユーラシア大陸に分布する複数のオオカミ亜種(ヨーロッパオオカミ、インドオオカミ、アラビアオオカミなど)との混血が(さらに、限られた地域では、コヨーテやジャッカルとの多少の混血も)あったと推測される[4][14]。
なお、Savolainen らに先行する日本の Tsuda ら(1997年)の研究[13]でも、イヌの原種はチュウゴクオオカミと考えられるという結論が導かれている(チュウゴクオオカミ Canis lupus chanco は一般にチベットオオカミ Canis lupus laniger のシノニムとされることが多く、ヨーロッパオオカミ Canis lupus lupus に含める研究者もある)。
一方、2010年にUCLAの研究チームはネイチャー誌において、遺伝子の研究から犬は中東が起源である可能性が高く、考古学的記録もそれを裏付けているとする論文を発表している[15]。
オオカミとの分岐時期
イヌがオオカミから分岐した(イヌが人間によって最初に家畜化された)時期については、異なった見解が並立している。
Vilà ら[12]は、イヌの塩基配列に見られる変異が生じるために必要な時間として、13万5千年という数字を算出している。この「遺伝子時計」が示す数字が正しいとすれば、考古学的な証拠から確認されるよりもはるかに長い時間である。この時期の違い[16]については、初期のイヌの形態がオオカミとほとんど変わらず、化石からは識別できなかったのだと考えることもできる[17]。
しかし、Wayne and Ostrander[18] や Savolainen ら[14]による報告では、「イヌのDNAの塩基配列に見られる変異が1匹のオオカミのみに由来する場合はイヌの家畜化は約4万年前」「複数のオオカミがイヌの系統に関わっている場合は約1万5千年前」という見解が提示されている。田名部(2007年)は、アフォンドバ遺跡(約2万年前、ムスティエ文化)で発見された犬の骨[19]に基づいて、この時期にオオカミとイヌが分化したことを支持している[4]。
なお、現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカ大陸からユーラシアに進出したのは7~5万年前のことであり、一方、約20万年前に出現し、現生人類と共存していたネアンデルタール人の分布域は、ヨーロッパから中央アジアまでである。このことからも、オオカミの家畜化が東アジアで起こったものだとすれば、ホモ・サピエンス出現より前の10万年以上前に、ネアンデルタール人が存在しなかった東アジアでオオカミを馴化することは不可能である[16]。
犬種の分化とオオカミとの関わり
Tanabe ら(1999年)の研究[20]では、とりわけ東アジアのイヌの血統にチュウゴクオオカミとの関わりが強いことが示唆されている。
Parker ら(2004年)は、細胞核のマイクロサテライトDNA(付属DNA)の96座位について、オオカミと85品種(414頭)の犬を比較した[21]。その結果、古代に起源をもつ数種、すなわち、中国犬(チャイニーズ・シャー・ペイ、チャウチャウ)と日本犬(柴犬、秋田犬)、コンゴ共和国のバセンジー、アラスカのシベリアン・ハスキーとアラスカン・マラミュートの3グループが比較的オオカミに近かったのに対して、ヨーロッパに起源をもつその他の多くの品種は相互に近く、比較的新しく分岐したものであることがわかった。この研究は、イヌの家畜化は東アジアのオオカミからなされたとした Savolainen ら(2002年)の結論を支持する結果となった。
なお、現在のイヌの品種の大部分を占めるヨーロッパ系のイヌの品種が人為的に作られ始めたのは8世紀ごろとされるが、品種として増加したのは、18世紀以降のことと考えられる[22]。
考古学的研究
イヌが最初の馴化(家畜化)動物であることは、考古学的遺物からも間違いない。最古のイエイヌの骨であるかもしれないものとして、以下のものが挙げられる。
シリア・ドゥアラ洞窟にあるネアンデルタール人の住居遺跡(約3万5千年前?、ムスティエ文化(ムスティリアン文化))から発掘されたイヌ科動物の下顎骨[23]: 埴原和郎らが発掘。オオカミの下顎骨に比べて小さく、これを世界最古のイエイヌとする説がある[24][25][26]。
ウクライナ・マルタ遺跡などで出土した、イヌ科動物の骨[27]: オオカミにしては小型。同じくウクライナのメジン遺跡(約3万年前)でもイヌの骨が出土している[4]。
ロシア・ウラル山脈の東に位置するアフォンドバ遺跡(約2万年前、ムスティエ文化)で発見された犬の骨[19]
アラスカ・ユーコン地方で発掘されたイヌの骨[28]: 少なくとも2万年以上前のものと見られる。また、同じアラスカのオールドクロウ川沿岸で、1万8千~2千年前のものと推測されるイヌの骨[4]が発見されている。ただし、(これと同じものについてのものかどうかは不明だが、)ポーキュパイン川沿岸の洞窟で発見された「イヌ科動物の折られた歯」は、実はクマの歯であった、とする論文もある[29]。
ドイツ・オーバーカッセル遺跡(Oberkassel, 約1万4千年前)から発見された、イヌまたは馴化されたオオカミの骨[30]
イスラエルのアイン・マラッハ遺跡(Ein Mallaha/Ain Mallaha/Eynan, 約1万2千年前)で発見されたイヌ科の若獣(子犬?)の骨[31][32]: 同じ場所で発見された高齢の女性の遺体は、左手をこの4~5月齢の子犬の体にかけた形で埋葬されていた。同じイスラエルのハヨニム洞窟遺跡(Hayonim Cave, 約1万2千年前)[33]からも、イヌまたは馴化されたオオカミの骨が発見されている。
イラク・パレガウラ洞窟遺跡(Palegawra Cave, 約1万2千年前)から出土したイヌの骨[34]: 歯が詰まった小さな下あごや、小さな鼓室胞など、イヌの明瞭な特徴が認められる。
一般的には、アイン・マラッハ遺跡など、前1万2千年ごろの西アジアのもの、あるいは前1万4千年ごろのオーバーカッセル遺跡のものを「最古のイヌ」として挙げる資料が多い。前1万2千年ごろは、中石器時代のナトゥーフ文化 Natufian culture 初期に当たり、主要な狩猟具が石斧から細石器(小さな石のやじり)へと移行した時期である。狩猟の形態の変化が、イヌの利用と何らかの関わりをもつ可能性もある。
家畜化の経緯
イヌがなぜ、どのようにして家畜化されたのかについては、明確には分かっていない。従来はイヌの家畜化は東アジアまたは中東で農業の勃興と関係して行われたと考えられていたが、イヌの家畜化はヨーロッパで狩猟採集民によって行われたとする論文が2013年にサイエンス誌で発表された[35]。この論文によれば、イヌの直接の先祖はヨーロッパの古代オオカミであることがDNA分析の結果明らかだという。
オオカミとヒト属動物(人類)とは数十万年にわたり、共通の地理的分布域および生活環境で生活しており、互いに頻繁に遭遇していたと考えられる[8]。オオカミの骨は更新世の中期以降の人類の遺跡、たとえばイギリスのボックスグローブ遺跡(約40万年前、旧石器時代前期)、中国の周口店遺跡(約30万年前、旧石器時代前期)、フランスのラザレ洞窟(約15万年前、旧石器時代中期)などから発掘されている。この「ゆるやかな接触の時期」に、オオカミのうちのあるものが人間の宿営地近くに出没し、人に近づくようになり、やがてその中からイヌの祖先となるものが現れた可能性が考えられている[36]。
オオカミの成獣を人に馴れさせるのはほとんど不可能に近いが[6]、子供のうちに群れから離され、人間の中で育てられたオオカミは、かなり人に馴れることが知られている。それでも時に突然危険な行動をとるようなことがあるため、馴化して家畜として利用することは難しいと言われる[37]。
「ゆるやかな接触の時期」には、オオカミが人の捨てた食べ残しをあさるため人の宿営地に近づくようになり、何らかの淘汰圧が働いて次第にイヌ化したのではないかとの意見がある[38]。現在のイヌ・オオカミの遺伝子分析の結果から、オオカミとイヌの攻撃性の違いが、遺伝的背景と関連を持つ可能性が報告されている[5]。
脚註・出典
参考文献
猪熊壽(著), 林良博・佐藤英明(編), 2001.『イヌの動物学』東京大学出版会: 1-35.
石黒直隆, 2007. イヌの分子系統進化. 生物科学. Vol.58, No.3.(May, 2007)〈特集 イヌの生物科学〉: 140-147.
田名部雄一, 2007. イヌの起源と日本犬の成立. 生物の科学 遺伝. Vol.61, No.4.(Jul., 2007)〈小特集 あなたの犬はどこからきたのか〉: 55-61.
スティーブン・ブディアンスキー(著), 渡植貞一郎(訳) 2004. 『犬の科学 ほんとうの性格・行動・歴史を知る』築地書館: 21-36.
村山美穂, 2007. オオカミからイヌへ. 生物の科学 遺伝. Vol.61, No.4.(Jul., 2007)〈小特集 あなたの犬はどこからきたのか〉: 66-69.
Newton 編集部, 2011. イヌとネコはどこから来たのか?. Newton. 第31巻第10号(2011年10月号): 52-61.
コンラート・ローレンツ『』(原著"So kam der Mensch auf den Hund"は、1949年に著された。)
日本語では、早川書房の2009年版(ISBN 4150503559)や、至誠堂の1968年版()の書籍がある。
関連項目
イヌ
オオカミ
外部リンク
Cite journal requires |journal= (help); Check date values in: |date= (help)(in English)
| ギズモード・ジャパン(2016.06.05)
| ナショナルジオグラフィック日本版サイト(2015.12.22)
- ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト(ナショジオ)
(in English) |
(2012年12月16日時点のアーカイブ) - 上記の季刊"International Wolf"の一部の日本語抄訳が読めたとされるサイト。各リンク先の本文はアーカイブから漏れていて辿れない。
(in English)
- 犬達がたどった進化の歴史
< 歴史言語学と日本語の起源
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日本の原子力発電所(にほんのげんしりょくはつでんしょ)では、日本の原子力発電所の歴史、現状、予定について説明する。
歴史
1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止された。しかし、1952年(昭和27年)4月にサンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力に関する研究は解禁されることとなった。
日本における原子力発電は、1954年(昭和29年)3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされている。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものであった[1]。
1955年(昭和30年)12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力三原則」であった[2]。そして基本法成立を受けて1956年(昭和31年)1月1日に原子力委員会が設置された[3]。
初代の委員長は、読売新聞社社主でもあった正力松太郎である[4]。正力は翌1957年(昭和32年)4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。このことから正力は、日本の「原子力の父」とも呼ばれている。
有馬哲夫によると、正力の影響力の背後にはCIAの関与があったとする陰謀論もある[5]。この時原子力委員であった日本人初のノーベル賞受賞者である湯川秀樹は、体調不良を理由に委員を辞任した[6]。
1956年(昭和31年)6月に特殊法人日本原子力研究所(現・国立研究開発法人日本原子力研究開発機構)が設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置された[7]。これ以降、東海村は日本の原子力研究の中心地となっていく。
1957年(昭和32年)11月1日には、電気事業連合会加盟の9電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立された[8]。
日本で最初の原子力発電が行われたのは1963年(昭和38年)10月26日で、東海村に建設された動力試験炉であるJPDRが初発電を行った。これを記念して毎年10月26日は原子力の日となっている[9]。
日本に初めて設立された商用原子力発電所は同じく東海村に建設された東海発電所であり、運営主体は日本原子力発電である。原子炉の種類は英国のコールダーホール原子力発電所で世界最初に実用化された黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉であった。しかし経済性等の問題[10]によりガス冷却炉はこれ1基にとどまり、後に導入される商用発電炉はすべて軽水炉であった。
1974年(昭和49年)には電源三法(電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法)が成立し、原発をつくるごとに交付金が出てくる仕組みができる。日本の原子力発電は、工業用・産業用電源を安価に安定的に供給することを目的として導入された。
濃縮ウランの供給問題
日本の原発事業者が米国以外からの濃縮ウランを調達する場合、30%を上限とする制約が課されている。そのため常に濃縮ウランは7割以上を米国から調達しなければならず、調達先の偏りが指摘されている[11]。
現在と今後
福島第一原子力発電所事故の約1ヶ月前に、既存の原子力発電所の延命方針が打ち出された。老朽化で運転を終える原子力発電所の廃炉処置の困難さに加えて、二酸化炭素排出削減策としてである。2010年(平成22年)3月に、営業運転期間が40年以上に達した敦賀発電所1号機を始めとして、長期運転を行う原子炉が増加する見込みであることから、これらの長期稼働原子炉の安全性が議論となった[12]。
2011年(平成23年)3月11日に、東日本大震災の津波で、福島第一原子力発電所が全電源喪失によって炉心溶融と原子炉建屋の水素爆発が発生し、放射能汚染を東北・関東地方に及ぼした。その影響により、原子力発電所の増設計画の是非や、点検などによって停止した、原子力発電所の再稼働の是非などが焦点となり、今後の日本の原子力政策をどうしていくのかという議論が、日本国政府や国会やマスメディアなどに、大きく取り上げられるようになった。
なお、福島第一原子力発電所の原子炉は、2011年3月11日の東日本大震災の被害で、4基が2012年(平成24年)4月20日に廃止され、残る2基も2014年(平成26年)1月31日に廃止となった[13]。
原子力発電所が集中している若狭湾沿岸(福井県)で、1586年「天正地震」とそれによる津波で大きな被害が出たことが、今回の地震を受けて調査した敦賀短期大学教授・外岡慎一郎(中世日本史)らの調査で、複数の文献に記されていることが明らかになった。
吉田兼見が書いた『兼見卿記』や、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』などである。関西電力は、文献の内容を把握していたが、津波による大きな被害はないと説明していた[14][15][16][17]。地元からも不安の声が上がっており、文献から想定される被害に即した対策を求めている[18]。
このとき、関西電力が調査しなかった場所(高浜原発3・4号機近く)で、2015年6月に福井大学等の研究チームが、津波の痕跡と推定できる14-16世紀頃の砂層を発見している。しかし、津波が天正地震によるものと結論付けられる根拠が少なく、規模も不明であり、また関西電力も、安全対策には影響しないとしている[19]。
2015年4月27日、美浜1号機と2号機、玄海1号機、敦賀1号機の4基が廃炉となった[20]。4月30日には、島根原子力発電所1号機が廃炉となった[21]。
結果として2015年には、日本の原発は42基となった。2014年4月時点で、24基が原子力規制委員会に再稼働申請されていたが、再稼働できるのは20基以下と推測された。そのため原子力発電量は、東日本大震災前と比較して半減し、震災前に28%あった、全発電量に占める原子力発電の割合も、15%程度に低下すると予測された[22]。
2015年8月11日、川内原子力発電所1号機が福島第一原子力発電所事故後に制定された新規制基準での稼働を、全国で初めて再開した[23]。
日本の原子力発電所一覧
運用中(37基、3,819万4,000kW)
名称</b>の欄は50音順ソート
電力会社・立地場所</b>の欄は北から順にソート
■は、操業停止中</b>の原子力発電所
廃止・解体中(21基、1,290万5,000kW)
建設中・計画中
建設中止・計画中止
主な原子炉の種類
加圧水型原子炉(PWR)
北海道電力の全原子炉
関西電力の全原子炉
四国電力の全原子炉
九州電力の全原子炉
日本原子力発電敦賀発電所:2号機
改良型加圧水型軽水炉(APWR)
日本原子力発電敦賀発電所:3,4号機(建設準備中)
沸騰水型原子炉(BWR)
東北電力東通原子力発電所:1号機
東北電力女川原子力発電所:1〜3号機
東京電力福島第一原子力発電所:1〜6号機(1〜4号機は事故停止、廃炉中)
東京電力福島第二原子力発電所:1〜4号機
東京電力柏崎刈羽原子力発電所:1〜5号機
中部電力浜岡原子力発電所:1〜4号機(1・2号機は運転終了、廃炉中)
北陸電力志賀原子力発電所:1号機
中国電力島根原子力発電所:1・2号機
日本原子力発電・東海第二発電所
日本原子力発電・敦賀発電所:1号機
改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)
東京電力柏崎刈羽原子力発電所:6・7号機
中部電力浜岡原子力発電所:5号機
北陸電力志賀原子力発電所:2号機
中国電力島根原子力発電所:3号機(建設中)
電源開発・大間原子力発電所(建設中)
東京電力・東通原子力発電所:1号機(建設中断)
高速増殖炉(FBR)
もんじゅ(廃炉中)
常陽
新型転換炉(ATR)
ふげん(運転終了)
黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉(GCR)
日本原子力発電・東海発電所(運転終了、廃炉中)
立地の流れ
日本における原子力発電所の立地の決定と、その建設・運用は次のような流れで行われる。
環境影響審査を行う。
第1次公開ヒアリングにより地元の賛同を得る。
電源開発調整審議会より電源開発基本計画に採択される。
原子炉設置許可を申請し許可される。
第二次公開ヒアリングにより地元の最終的な賛同を得る。
電気工作物変更許可を申請し許可される。
工事を着工する。
工事が完成する。
試運転を行い、問題点を改修する。
電気工作物の完成検査を受け使用許可を受ける。
商用運転を開始する。
原子力発電所と地域経済
電源立地地域対策交付金(通称・原発交付金)などが、立地する道県や市町村の地方公共団体に交付される。
発電所の建設工事・定期点検・運転などでの雇用も多い。地域産業との結び付きが弱いという指摘もあるが、現実には職員や労働者の8割以上が県内在住者で占められているケースがほとんどである。また、地元商工会と協力して地元企業の技術力の向上、雇用促進を計っている発電所や、排熱を利用した農産物の早期栽培などを農家と共同で行っている発電所もある[28][29][30]。
実際、多数の定住者や数百とも数千ともといわれる雇用効果、固定資産税や定住者の所得税などの税収、各種交付金、それらのもたらす商業の活性化や道路・体育館・防災無線など公共施設の充実等という非常に大きな効果がある。さらに原発の見学者による観光収入も見込むことができる。
経済産業省資源エネルギー庁はモデルケースとして、出力135万kWの原子力発電所(環境調査期間:3年間、建設期間:7年間、建設費:4,500億円)の立地にともなう財源効果を2004年に試算している[31]。環境影響評価開始の翌年度から運転開始までの10年間で合計約391億円、その後運転開始の翌年度から10年間で合計約502億円である。20年間では、電源立地地域対策交付金が545億円、固定資産税が348億円で、合計約893億円になる。
下の表における項目
A = 電源立地等初期対策交付金
B = 電源立地促進対策交付金
C = 電源立地特別交付金 原子力発電施設等周辺地域交付金
D = 電源立地特別交付金 電力移出県等交付金
E = 原子力発電施設等立地地域長期発展対策交付金
F = 固定資産税
なお、県レベルで核燃料税などの独自の税金を課す場合もある。財政の厳しい地方自治体にとっては「取りやすく取れる」所であり、特定業のさらに一分野に限られた租税というのは、税の公平性から疑問が呈されるものの、立地促進や地元協力という観点から受け入れられることもある。しかし、取りやすいからとさらに税額を増加させようとしたり新税を設置しようとして、国や電力会社と揉める場合も少なくない。
また、日本の原子力発電所は、茨城県北部、福島県浜通り、福井県嶺南敦賀半島に多く立地しており、これらの地域は「原発銀座」や「原発半島」とも呼ばれている。
過疎に悩む自治体にとって、20年間で総額893億円の電源立地地域対策交付金と固定資産税は大きな魅力であり、原子力発電所の立地が推進される。しかし、運転開始後の固定資産税は、設備の減価償却に伴い年々減少していく。運転開始後10年・20年と経つと、自治体の収入が少なくなるので、地元は再び次の原子炉建設を誘致しないと税収を確保できなくなる。原子力発電所の集中立地が目立つ背景には、こうした交付金制度の存在がある[32]。
原子力発電所と税金
徴収
原子力発電所の事業者は、一般事業者と同じように固定資産税・事業所税・法人税・法人住民税・消費税を納める。
原子力発電所を抱える地方公共団体は、核燃料を取り扱う事業者に、核燃料税(茨城県は核燃料等取扱税、青森県は核燃料物質等取扱税)という法定外普通税を課している。鹿児島県薩摩川内市、新潟県柏崎市は、さらに使用済核燃料税を課している。
一般電気事業者は、販売した電気量に応じて、電源開発促進税が課せられているので、消費者への販売電気代の原価に上乗せしている。
財政支出
電源開発促進税は目的税であり、電源三法交付金の一部として、原子力発電、水力発電、地熱発電等に使用することになっているが、原子力発電所が立地する自治体に重点的に配分されている。
原子力関係経費政府予算は、2007年度(平成19年度)に総額4,524億円で、文部科学省に2,668億円、経済産業省に1,736億円、その他(内閣府、総務省、外務省、農林水産省、国土交通省)に119億円であった[33]。
テロ対策のため、警察では、銃器対策部隊に準じた装備に加えてNBCテロ対処や爆発物処理の能力も備えた原発特別警備隊を編成し、24時間体制で原子力関連施設の警戒警備に当たっている。また2011年11月の決定に基づき、海上保安庁や防衛省など関係省庁による継続的な連携強化が図られている[34]。
海上保安庁は、沿岸に立地する原子力発電所がテロ攻撃などに晒されるのを警備するために、上記のように原子力発電所における警察と毎日の情報交換及び共同訓練を実施するほか、巡視船艇・航空機等による警戒の実施[35]、新潟県上越海上保安署に原子力発電所警備対策官を配置している[36]。
写真
女川
泊
柏崎刈羽
(新潟県柏崎市)
志賀
(石川県羽咋郡志賀町)
敦賀
(福井県敦賀市)
伊方
(愛媛県西宇和郡伊方町)
脚注
注釈
出典
関連項目
日本の原子力政策
除染
廃炉
COVERS (RCサクセションのアルバム) - サマータイム・ブルースにて、日本の原発広告やPR、安全神話を痛烈に皮肉っている。
外部リンク
- 社会実績データ図録
(2003年3月31日) - 浜岡原発 巨大地震対策虹のネットワーク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80 |
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スティーヴン・ローレンス・ウィンウッド(通称<b data-parsoid='{"dsr":[1090,1108,3,3]}'>スティーヴ・ウィンウッド、Stephen Laurence "Steve" Winwood, 1948年5月12日 - )は、イギリス・バーミンガム出身の音楽家。ウィンウッドの音楽はおおむねロックの範疇に入る。ロック音楽の中でも、ウィンウッドの音楽はリズム・アンド・ブルースやソウル・ミュージックなど、元来は黒人市場向けの音楽だった大衆音楽に強い影響を受けている点で特徴的である。もともと主に鍵盤楽器奏者兼歌手として活動していたが、ギターやベース、ドラムスなど多くの楽器を演奏する。スペンサー・デイヴィス・グループのメンバーとして音楽活動を開始し、トラフィック、ブラインド・フェイスなどロック音楽史に残る有名グループの中心メンバーとして活動、その後は主にソロ音楽家として活動している。
概要
兄マフ率いるスペンサー・デイヴィス・グループの一員として「愛しておくれ(Gimme Some Lovin')」などで1960年代中盤に人気を博し、グループを脱退後はトラフィックのメンバーとしても成功を収めた。1970年代後半以降は、ソロ・アーティストとして活動。主なヒット曲に、「ハイヤー・ラヴ」「ロール・ウィズ・イット」などがある。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第33位[1]。
経歴
バーミンガム郊外のグレート・バーで生まれる。音楽の才能は幼少時代から卓越したものがあり、10代前半のときには兄マフ・ウィンウッドが結成したジャズ・バンドの看板的存在として君臨していたという。
また、マディ・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカー、T-ボーン・ウォーカー、ハウリン・ウルフ、B・B・キング、サニー・ボーイ・ウィリアムスンII、エディ・ボイド、オーティス・スパン、チャック・ベリー、ボ・ディドリーといった、大御所ミュージシャン達のバックでハモンドオルガンやギターを演奏した。
15歳の頃、マフと共にスペンサー・ディヴィス・グループに参加。1964年に、ジョン・リー・フッカーのカバーであるシングル「ディンプルズ」でデビュー。シングル「キープ・オン・ランニング」が英国チャートで1位となり、この曲の成功によって彼は一躍スターとなる。続いて「サムバディ・ヘルプ・ミー」「愛しておくれ」「アイム・ア・マン」を録音した後、彼は1967年にグループを脱退。クリス・ウッド、ジム・キャパルディ、デイヴ・メイソンらとトラフィックを結成する。
トラフィックで『ミスター・ファンタジー』『トラフィック』など3枚のアルバムをリリース。
1968年、デイヴ・メイソン、クリス・ウッドとともにジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのアルバム『エレクトリック・レディランド』のレコーディングに参加。ウィンウッドは「ヴードゥー・チャイル」でオルガンを弾く。
1969年には一時的にトラフィックとしての活動を休止しエリック・クラプトンらとブラインド・フェイスを結成。しかしながらバンドはアルバム『スーパー・ジャイアンツ』のリリースとアメリカ・ツアー後にあえなく解散する。その後、一度はソロ・アルバム制作を計画し『マッド・シャドウズ』というタイトルでのレコーディングを進めたが、結局トラフィックとしての活動を再開し、『マッド・シャドウズ』は『ジョン・バーレイコーン・マスト・ダイ』として、再開後のトラフィック初のアルバムとなる。グループは1974年に『ホエン・ジ・イーグル・フライズ』のリリースを最後に終焉を迎えるのだが、その間には腹膜炎を患って危険な状態に陥るというハプニングも起きている。また、1973年には、ロンドン・フィルハーモニック・オーケストラによるロックオペラアルバム『トミー』にも参加。
その後、日本人パーカッショニストのツトム・ヤマシタによるGOを始めとするいくつかのプロジェクトへの参加を経て、1977年にはセルフ・タイトル・アルバムでソロ・デビューするが、パンクブームの真っ只中にあって、今ひとつ大きな成功には至らなかった。その後、曲作りのパートナーに作詞家のウィル・ジェニングス(後にエリック・クラプトンやセリーヌ・ディオンなどにも作品を提供する)を迎え、1980年にシングル「ユー・シー・ア・チャンス」をリリースして、翌1981年にビルボードで最高7位まで上昇するヒットとなる。この曲の成功に煽られる形で同曲が収録されたアルバム『アーク・オブ・ア・ダイヴァー』も全米3位[2]、全世界でのセールスのべ700万枚という大成功を収めた。しかし次作『トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト』はセールス的に今一歩だった。
1986年には、傑作と名高い『バック・イン・ザ・ハイ・ライフ』を発表。ポール・サイモンやジェイムズ・テイラー、ジョージ・ハリスンなどのアルバムを手がけたことで知られるラス・タイトルマンをプロデューサーに迎え制作されたこのアルバムは、全米3位まで上昇し、グラミー賞を3部門受賞した。また、リカット・シングル「ハイヤー・ラヴ」は、自身初の全米No.1ヒットとなり、ここに至って音楽家としての活動は頂点に達した。この勢いを受け、1988年にリリースされた『ロール・ウィズ・イット』では、シングル・カットされた同名曲が再び全米1位を獲得、アルバムも初の全米1位を記録した。また、1989年と1991年には来日公演も行われた。
1990年代は、3作のスタジオ・アルバムを、1994年にはジム・キャパルディとの共作による、トラフィックとして久々のアルバム『ファー・フロム・ホーム』を発表。
2003年には、自ら立ち上げたレーベル、ウィンクラフトから『アバウト・タイム』を発表。7月にはフジロック・フェスティバルへの参加で、3度目の来日公演が実現した。また、翌2004年の3月には、トラフィックとしてロックの殿堂入りを果たし、これを機に復活も予定されていたといわれているが、2005年1月にキャパルディが胃癌により亡くなったことから、この話は立ち消えになっている。
2007年7月、クロスロード・ギター・フェスティバルでエリック・クラプトンと共演し、ブラインド・フェイス時代の3曲などを演奏。さらに2008年2月には、マディソン・スクエア・ガーデンでクラプトンと3日間の共演コンサートを実現させて、この公演の模様は後に、クラプトンと連名のライヴ・アルバム『ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン』としてリリースされる。4月に、5年ぶりのアルバム『ナイン・ライヴズ』を、コロンビア・レコードよりリリースした。
2011年11月から12月に掛けて、エリック・クラプトンとともに来日し、全国8会場、計13回のコンサートを行った。マディソン・スクエア・ガーデンでの公演と重複する曲以外にも、ウィンウッドのソロのヒット曲が演奏され、「ユー・シー・ア・チャンス」では、オリジナルのシンセのソロのパートをエリック・クラプトンがギターで演奏した。「マイ・ウェイ・ホーム」は、2人が揃ってアコースティック・ギターで演奏するコーナーで演奏された。
ディスコグラフィ
アルバム
スティーヴ・ウィンウッド - Steve Winwood (1977) #22 US
アーク・オブ・ア・ダイヴァー - Arc Of A Diver (1981) #3 US
トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト - Talking Back To The Night (1982) #28 US
バック・イン・ザ・ハイ・ライフ - Back In The High Life (1986) #3 US
クロニクル - Chronichles (Best Album) (1987) #26 US
ロール・ウィズ・イット - Roll With It (1988) #1 US
リフュジーズ・オブ・ザ・ハート - Refugees Of The Heart (1990) #27 US
ジャンクション・セヴン - Junction Seven (1997) #123 US
アバウト・タイム - About Time (2003) #126 US
ナイン・ライヴズ - Nine Lives (2008) #12 US
ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン - Live from Madison Square Garden (2009) #14 US - with エリック・クラプトン
Singles
"While You See A Chance" (1981) #7 US
"Arc Of A Diver" (1981) #48 US
"Still In The Game" (1982) #47 US
"Valerie" (1982) #70 US
"Higher Love" (1986) #1 US - 1 week, #13 UK
"Freedom Overspill" (1986) #20 US
"The Finer Things" (1987) #8 US
"Back In The High Life Again" (1987) #13 US
"Valerie" (remix) (1987) #9 US, #19 UK
"Roll With It" (1988) #1 US - 4 weeks
"Don't You Know What The Night Can Do?" (1988) #6 US
"Holding On" (1988) #11 US
"Hearts On Fire" (1989) #53 US
"One And Only Man" (1990) #18 US
日本公演
1989年
3月27日,28日 大阪城ホール、30日 名古屋レインボーホール、4月1日,4日,5日 国立代々木競技場第一体育館、7日 横浜アリーナ
1991年 AMA in Yokohama Arena
3月22日 横浜アリーナ
2003年 Fuji Rock Festival 03
7月27日 苗場スキー場
2011年
11月17日 北海きたえーる、19日 横浜アリーナ、21日,22日 大阪城ホール、24日 マリンメッセ福岡、26日 広島グリーンアリーナ、28日 いしかわ総合スポーツセンター、30日 日本ガイシホール、12月2日,3日,6日,7日,10日 日本武道館
脚注
外部リンク
at AllMusic
on IMDb
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下久保ダム(しもくぼダム)は群馬県藤岡市と埼玉県児玉郡神川町にまたがる、一級河川・利根川水系神流川(かんながわ)に建設されたダムである。
独立行政法人水資源機構が管理する多目的ダムで、堤高129.0mの重力式コンクリートダム。首都圏の水がめである利根川水系8ダムの一つであり、規模としては矢木沢ダム(利根川)に次ぐ大規模なダムである。また、烏川流域のダム群の中では最も規模が大きい。ダム湖は河川名を採って「神流湖」(かんなこ)と命名され、2005年(平成17年)に当時の鬼石町の推薦によって財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に選ばれている。
地理
神流川</b>は群馬県内における利根川の主要な支流である烏川の右支川である。群馬県・埼玉県・長野県境にある三国山を水源とし、日本航空123便墜落事故の現場である御巣鷹の尾根の付近を流れ、上野ダムを過ぎて北へ流れ、多野郡上野村楢原で東に向きを変える。その後は国道462号に並行して東へ流れ、藤岡市に入ると群馬・埼玉両県の境界線となり下久保ダム・三波石峡を通過後再度北へ流路を変える。藤岡市を通過し関越自動車道・神流川橋を越えると直ちに烏川に合流し、間も無く利根川に注ぐ。流路延長約87.4km、流域面積約407km2の河川であり、長さだけでいえば烏川よりも長い。
ダムは神流川の中流部、藤岡市と神川町の境に建設された。名称は建設された場所に由来する。なお、ダム完成当時の所在自治体は多野郡鬼石町と児玉郡神泉村であったが、平成の大合併によっておのおの藤岡市と神川町になっている。また人造湖である神流湖の一部は、秩父市にも掛かっている。
沿革
1947年(昭和22年)カスリーン台風が襲来し大打撃を蒙った利根川流域。根本的な治水対策が求められるようになった経済安定本部は1949年(昭和24年)に利根川を始め全国主要10水系を対象に「河川改訂改修計画」を策定した。利根川については「利根川改訂改修計画」を策定、これに沿って建設省関東地方建設局(現・国土交通省関東地方整備局)は利根川水系に九基の多目的ダムを建設して利根川の総合的な治水を図ろうとした。
烏川は高崎市・藤岡市など群馬県西部(西毛と呼ばれる)を網羅する利根川水系の主要な支流であり、流域面積は群馬県内の利根川水系では屈指であったため利根川の治水対策に与える影響は大きく、河川整備は必須であった。建設省は烏川流域で流域面積の広い神流川に着目、当時の多野郡鬼石町坂原(現・藤岡市坂原)に「坂原ダム」を建設して治水を行おうとした。高さ120.0m、総貯水容量が約2,200万トンという規模のものであった。だが「坂原ダム」は調査を行っただけに終わり、その後より良いダム地点の検索を行った。「坂原ダム」中止後はより上流の多野郡中里村(現・多野郡神流町)神ヶ原地点に「神ヶ原ダム」を建設する計画も浮上したが、これも断念された。
曲折の後に現在のダム地点と下流500m地点の二箇所が最終候補として選定されたが、下流案は地質的な問題があり最終的に現在の下久保地点がダム地点として決定された。こうして建設省直轄ダムとして1959年(昭和34年)4月より事業が着手されたが、この間に東京都を始めとする首都圏の人口急増に伴い水需要がひっ迫。このため系統的な水資源開発が求められて1962年(昭和37年)に「水資源開発促進法」が制定。「利根川水系水資源開発基本計画」(フルプラン)が策定され、以後水資源開発公団(現・水資源機構)による総合的な水資源開発が推進された。これを受け建設省は事業展開していた矢木沢ダムとこの下久保ダムを公団に事業移管し1965年(昭和40年)より本体工事を開始、1968年(昭和43年)に完成した。
ダム建設に伴って群馬県(鬼石町・万場町)と埼玉県(神泉村・吉田町)の二県四町村にまたがる321戸・364世帯が水没対象となった。このためダム建設に対する反対運動は激しく、補償交渉は長期化した。最終的にインフラ整備や地場産業発展育成などといった補償内容が呈示されて交渉は妥結した。首都圏発展の尊い犠牲となった364世帯の住民への報恩のため、現在ダム傍には「望郷之碑」が建立されている。この碑にはダム建設に伴って故郷からの移転を余儀無くされた住民全ての氏名が彫られており、苦渋の決断を行った住民の労苦を偲ばせる。なお、「望郷之碑」の毛筆体を揮毫したのは、当時の内閣総理大臣・佐藤栄作である。
目的
ダムの目的は洪水調節・不特定利水・水力発電・上水道・工業用水・かんがいである。
洪水調節は他の利根川水系ダム群と連携した形で行われ、治水基準点である伊勢崎市八斗島地点における計画高水流量(過去最大の洪水流量。利根川の場合はカスリーン台風時の洪水が基準となる)毎秒17,000トンを毎秒14,000トン(毎秒3,000トンのカット)に低減させる。ダム地点においては毎秒2,000トンの計画高水流量を毎秒500トン(毎秒1,500トンのカット)に大幅に低減させる役割を持つ。完成以来、天端部分にある非常用洪水吐き・ラジアルゲートは一度も開かれることが無かったが、2005年5月、点検を行うため30年目にして初めてラジアルゲートを開いて放流を行った。この時は地元住民や観光客の他、全国から多くの「ダム好き」が集まり豪快な放流を堪能したという。
かんがいについては神流川と利根川中下流域の約12,000ヘクタールに対して毎秒10トンを農繁期に補給する。上水道については東京都と埼玉県に対しそれぞれ日量108万トンと日量13万トンを供給し工業用水道については埼玉県に日量155,520トンを供給する。これらの水は利根大堰より武蔵水路・朝霞水路を経て東京都水道局・三郷浄水場に送られる。水力発電については群馬県企業局の<b data-parsoid='{"dsr":[4431,4443,3,3]}'>下久保発電所(認可出力:15,000キロワット)に加え、先述の河川維持放流を効率的に利用するための小規模水力発電として<b data-parsoid='{"dsr":[4504,4518,3,3]}'>下久保第二発電所(認可出力:270キロワット)が設けられている。直下流に高さ20.5メートルの重力式コンクリートダム・神水ダム(しんすいダム)が群馬県によって1967年(昭和42年)に建設されているが、これは発電所放流後の不安定な流量を一旦貯水することで安定化させ、定量を放流することで急激な増水や減水を防止する<b data-parsoid='{"dsr":[4676,4686,3,3]}'>逆調整池</b>の役割を持つ。さらにこの逆調整放流も利用して鬼石発電所による発電も行う。
ダムは上流側に向かってアルファベットの「L」字型に折れ曲がっているが、これは貯水容量を確保するには現在の高さにしなければならなかったが、通常の設計では技術的な問題があったことによる。このため埼玉県側に高さ73.0メートルの補助ダムを設け、結果的に「L」字型の特徴的なダムとなった。補助ダムの岩盤は透水性が高かったため水を遮断する措置が必要となり、上部をアスファルト、下部をコンクリートで舗装した遮水壁で水を遮っている。ロックフィルダムに似た工法である。また。完成後貯水池深層部からの取水による冷水問題が起きたため、対策として貯水池表面の日光で温まった水を取水する「表面取水設備」を1977年(昭和52年)に設置している。
三波石峡の復活
不特定利水については当初の目的には入っていなかったが、2001年(平成13年)より実施された「下久保ダム水環境改善事業」に伴う河川維持放流が目的として追加された。これはダム完成後、長年に亘り無水区間であった直下流にある国の天然記念物に指定された名勝・三波石峡(さんばせききょう)の清流復活が最大の目的である。
三波川帯の語源にもなった三波石峡は美しい結晶片岩と荒々しい流れが織り成す清流であった。美しい岩は「三波石峡四十八岩」と呼ばれ岩毎に名称も付けられ、洪水の際に土砂で磨かれることでその美しさを永続させ、高価な庭石として地元の特産品にもなっていた。ところが下久保ダム完成に伴い併設された下久保発電所により取水された水が峡谷を越えて下流に放流されるようになった。このためダムから発電所放流口までの約4km区間、すなわち三波石峡の大半で流水が途絶し、以後30年以上の間無水区間となった。これにより三波石は黒ずんで輝きを無くし、河原は雑草が繁茂して三波石峡は荒廃。名産品である三波石の品質低下にもつながることから峡谷の清流復活は地元の長年に亘る悲願であった。
1997年(平成9年)の河川法改正により、河川環境の維持が治水・利水に並ぶ法の最大目的に規定されたことから国土交通省や水資源機構は全国のダムにおいて河川維持放流設備を設置して河川環境の向上を図った。下久保ダムでは河川維持放流を行って三波石峡の清流を復活させる「下久保ダム水環境改善事業」に乗り出した。これはダム直下に下久保第二発電所を設けて管理用発電を行いながら維持放流を行い、流水を復活させると同時に土砂を下流に積んで洪水時に流下させるというものである。三波石は洪水による土砂で磨かれ、美しい緑色を保つことから地元では「洪水は三波石の化粧水」とも呼ばれており、かつての河川環境に近づけることを最大の目標とした。
こうした対策と、地元住民と共同で環境整備を行ったことによって三波石峡に清流が復活、徐々にではあるがかつての光景を取り戻そうとしている。現在では親水公園を設置し三波石峡に身近に触れる環境整備も行っている。なお、三波石は国の天然記念物に指定されているので、石の大小にかかわらず許可無く採取することは文化財保護法に基づき禁止されており、違反すると処罰される。
ダム再開発事業
下久保ダムの完成により神流川の治水は効果的に図られ、ダム完成以降神流川の大きな水害は発生していない。2005年には最上流部の多野郡上野村に東京電力が上野ダム(堤高120.0m・重力式)を完成させている。これは全面稼働すれば日本最大となる揚水式水力発電所・神流川発電所の下部調整池として建設され、上部調整池である南相木ダムと共に分水嶺をまたいで認可出力2,820,000キロワットの電力を発生させる。また、支流の塩沢川には小規模生活貯水池として<b data-parsoid='{"dsr":[6583,6593,3,3]}'>塩沢ダム(堤高38.0m・重力式)が1994年(平成6年)に完成している。
一方神流川が合流する烏川であるが、1965年(昭和40年)に当時の群馬郡榛名町(現・高崎市榛名湖町)本庄地先に建設省による「本庄ダム(湯殿山ダム)計画」が浮上し実施計画調査が行われたが中止、その後補助多目的ダムとして1984年(昭和59年)より当時の群馬郡倉渕村(現・高崎市倉渕町)に倉渕ダムが着工されたが、公共事業見直しによって2003年(平成15年)より事業凍結している。鏑川・碓氷川流域では道平川ダム(道平川)や霧積ダム(霧積川)が建設され、坂本ダムが砂防ダムを再開発してダム化している。現在は碓氷川支流九十九川の小左支川・増田川に増田川ダムが計画中であるが、「不要な公共事業で税金の無駄遣い」として日本共産党や市民団体が反対している。
下久保ダムについては、地球温暖化に伴い全国的に極端な集中豪雨や長期間のかんばつの被害が毎年多発している現状で、首都を抱える利根川水系の治水および利水を図る目的で。2005年より「利根川上流ダム群再開発事業」を国土交通省関東地方整備局が計画している。これは利根川水系のダム群を効率的に管理するため利根川水系8ダムに加え八ッ場ダム(吾妻川)を加えた総合的なダム再開発を行うものである。新規のダム計画や烏川遊水地計画など様々提案されたが、最終的に藤原ダム(利根川)・薗原ダム(片品川)とこの下久保ダムが再開発対象となった。下久保ダムについては神流湖の満水位を低下させて洪水調節容量を確保する有効貯水容量の変更を軸にした再開発を計画している。既に神流湖は観光や漁業において重要な役割を持っていることもあり、沿岸市町村と国土交通省との間で現在対策を折衝している。
神流湖
ダム湖である<b data-parsoid='{"dsr":[7529,7538,3,3]}'>神流湖</b>は群馬県南部にある人造湖としては最大のものである。湖岸は春になるとソメイヨシノが咲き誇り、花見の名所となっている。また、ヘラブナなどの魚類も多く棲息することから、埼玉県側のひょうたん島周辺などのスポットに多くの釣り客が訪れる。長瀞や富岡製糸場、秩父といった観光名所や名勝も比較的近い。
ダムへは上信越自動車道・藤岡インターチェンジから群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線経由で国道462号に入り、鬼石・上野方面へ進み下久保トンネルを過ぎてから直ぐに左折する。本庄児玉インターチェンジより国道462号を藤岡方面へ直進しても可能。ダム直下へは鬼石中心街を通過後三波石峡へ入る道路(案内標識あり)があるので、左折し直進する。三波石峡の景観を過ぎると、眼前に巨大な堤体がそびえ立つ。公共交通機関ではJR東日本高崎線・新町駅か八高線・群馬藤岡駅下車後、日本中央バスの路線バスで「万場」または「上野村」方面行きに乗車する。
下久保ダムが登場する作品
漫画
ダムマンガ(井上よしひさ)
特撮
宇宙刑事ギャバン
宇宙刑事シャリバン
宇宙刑事シャイダー
時空戦士スピルバン
超人機メタルダー
仮面ライダーJ
関連項目
ダム
日本のダム
重力式コンクリートダム - 日本の重力式ダム一覧
多目的ダム - 日本の多目的ダム一覧
水力発電
水資源機構
ダム湖百選
利根川水系8ダム - 矢木沢ダム・藤原ダム・奈良俣ダム・相俣ダム・薗原ダム・草木ダム・渡良瀬遊水地
三波石峡
参考文献
建設省関東地方建設局・利根川百年史編纂委員会編 「利根川百年史」:1987年
建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編 「日本の多目的ダム」1963年版:山海堂 1963年
建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編 「日本の多目的ダム 直轄編」1980年版:山海堂 1980年
財団法人日本ダム協会 「ダム便覧 2006」:2006年
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E4%B9%85%E4%BF%9D%E3%83%80%E3%83%A0 |
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サムネイル|初代團十郎が始めた元禄見得(銅像のモデルは九代目)
初代 市川團十郎(しょだい いちかわ だんじゅうろう、万治3年(1660年) - 元禄17年2月19日(1704年3月24日))は、元禄歌舞伎を代表する江戸の役者。立役を得意とし、荒事芸を歌舞伎に導入した。團十郎が考案した見得は「元禄見得」と呼ばれる[1]。
歴史
初代市川團十郎の父は甲州出身で、異名を「面疵(つらきず)の重蔵」、「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた侠客だったという。さらにさかのぼると武士で後北条氏の家来であったという説もあるが、これは甲州の出ということ以外は疑わしい。「菰の十蔵」というのは十蔵が非人出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものとされる。十蔵は甲州から出てしばらく下総国に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれている[2]。
昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし市川宗家は、初代團十郎は成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。
近世初期には長吏頭・弾左衛門の支配下にあった。しかし歌舞伎関係者は自分たちの人気を背景に弾左衛門支配からの脱却をめざした。宝永5年(1708年)に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、ついに「独立」をはたす。江戸歌舞伎を代表する市川團十郎家は、このことを記念する『勝扇子(かちおうぎ)』という書物を家宝として伝承していた。またこの訴訟は、歌舞伎十八番の1つ『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』成立の契機となったという有力な説もある。しかし、歌舞伎役者は行政的には依然差別的に扱われた。彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことだった[3]。
経歴
幼少の頃の事績はほとんど伝わらない。芝居の道に入って、最初は市川海老蔵を名乗ったが、延宝3年 (1675年) から市川團十郎を名乗る。同8年 (1680年) につとめた『遊女論』の不破伴左衛門が当たり役となった。
貞享2年 (1685年)、江戸市村座において『金平六条通』の坂田金平を勤め、それまでの初期歌舞伎にあった「荒武者事」と金平浄瑠璃の荒事とを加味して、歌舞伎における荒事芸を完成させた。これによって江戸で絶大な人気を得、以後230余年にわたって江戸歌舞伎の頂点に君臨した市川宗家の基礎を築くことになる。
元禄6年 (1693年)、上洛して京都の舞台に出演するが評判は悪く、1年あまりで江戸に帰る。ただしこのとき椎本才麿(しいのもと さいまろ)に入門して、才牛の俳名を得た。
狂言作者としても<b data-parsoid='{"dsr":[2329,2340,3,3]}'>三升屋兵庫(みますや ひょうご)の名で活躍し、『参会名護屋』などの作品を残している。初期の荒事が歌舞伎のなかに定着してゆく過程において、團十郎が役者と作者を兼ねた<!--[[演出家]]--><!--当時の役者はみな演出家-->ことは、市川家の荒事芸が独自の性格を持つことに繋がった。
元禄17年2月19日(1704年3月24日)、市村座で『わたまし十二段』の佐藤忠信役を演じている最中に、役者の生島半六に舞台上で刺殺された。享年45。一説に、半六は自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいたとも言われるが、明確な証拠はなく、この事件の真相は現在も不明である。
関連項目
元禄文化
脚注
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%9C%98%E5%8D%81%E9%83%8E%20%28%E5%88%9D%E4%BB%A3%29 |
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『YAWARA!』(ヤワラ)は、浦沢直樹による日本の漫画、またそれを原作としたアニメ作品である。原作は『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて1986年30号から1993年38号まで連載された[1]。第35回(平成元年度)小学館漫画賞受賞作[1]。単行本全29巻。漫画文庫版は全19巻[2]。
概要
祖父・猪熊滋悟郎の英才教育を受けて並外れた柔道の才能を持つ主人公・猪熊柔が、「普通」の女の子になりたいという願いと、自身の柔道の才能との間で葛藤しつつも徐々にその力を発揮し、バルセロナオリンピックにて二階級制覇に挑むまでを描いた作品である[1]。柔道をテーマにしながらも、それまでの定型的なスポーツ漫画とは異なる爽やかさやコメディタッチの展開が特徴となっている[1]。元は青年向け漫画であったため、初期には「かわいい女の子のサービスカット」もあったが[3]、物語が進むにつれ徐々に減っていった。作者の浦沢は本作品のヒットにより人気作家となり、その後『MONSTER』の連載開始からしばらくの間までは「ライト感覚の作家」として社会的に認知されるに至った[4]。
1989年に日本テレビ系列でテレビアニメ化され、同年に実写映画化もされた[5]。アニメは1992年まで放送された。また、テレビアニメでは放送されなかったバルセロナオリンピック編は、後にアトランタオリンピックに合わせ、金曜ロードショーでTVスペシャルとして放送された。
また本作品の連載当時、『JIGORO!』と題したスピンオフ漫画が『増刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館)1988年10月20日号から1991年4月11日号にかけて連載された。この作品は柔の祖父・滋悟郎の若き日の姿を描いたもので[6]、『浦沢直樹傑作短編集』として単行本化や文庫本化がされている[7]。
作品背景
作者の浦沢は当初、『MONSTER』のような医療ものの連載を企画していたが、編集者の反応は芳しくなかった[8]。その後、担当編集者と打ち合わせを続ける中で浦沢が「女子柔道でもやりますか」と切り出し、さらに「ヤワラって女の子が天才柔道家でさ、あとは『巨人の星』みたいにして描けばいいからさ」と畳みかけたところ、編集者の反応が良く[9]、連載に至った。本作の連載にあたり梶原一騎および梶原原作の野球漫画『巨人の星』は特に意識したという[9]。
シェイクスピア梶原に対して、どんな角度で攻めていけばいいかを考え抜いた結果なんです—浦沢直樹
根性を持って努力を重ねていけば、だんだんと花が咲くっていうのが『巨人の星』だけど、僕の『YAWARA!』は、天才はいる、強いヤツは最初っから強い、ていう方向—浦沢直樹
また、それまでの浦沢は『パイナップルARMY』などの骨太な作品を得意とし、作品作りにおいてもドラマから入る傾向があったが、キャラクターから作品作りに入る方法も身に付けたいと考え、それまでご法度にしてきた「主人公は女の子」「スポーツもの」といった分野にあえて取り組んだとも語っている[4]。そのため漫画マニアの間では批判もあったというが、浦沢はそれまで自身に欠けていた課題に取り組んだ『YAWARA!』は実験作であり、その辺りに誤解があると語っている[4]。
一方、連載当初の浦沢は本作を真面目なスポーツ漫画に留めるつもりはなく、パロディ漫画とすることを意図していたといい、雑誌『インビテーション』2006年5月号での宇多田ヒカルとの対談の中で以下のように語っている[4]。
そもそも『YAWARA!』はパロディとして始めたんですね。それまでのスポーツマンガをすべて咀嚼して、お約束事をあえてやり尽くすことで、マニアが読むとクスクス笑うようなものを目指していたんだけど—浦沢直樹
ただし、連載を続けるうちに浦沢の思惑とは反して「ライト感覚のスポーツ漫画」といった体裁となり、ゴールデンタイムでのアニメ化も決まり子供たちから熱烈な支持を受けると、そうした読者を裏切るような展開を描く訳にも行かず「随分とエライものをしょいこんじゃったな」と途方に暮れる思いだったという[4]。
影響・評価
本作品はアニメ化の影響もあり大ヒットを記録し[5]、当時活躍していた女子柔道選手の田村亮子(後の谷亮子)とともに柔道ブームの火付け役となった[10]。本作品の影響により中学校や高校の部活動において女子柔道部員が急増するなど競技人口が拡大し、それに応じてほぼ皆無に等しかった女子の地方大会が実施されるようになり、男性の競技と見なされていた柔道が女性競技者に対しても門戸を積極的に開く契機となった[10]。また、本作品の主人公・猪熊柔にあやかり実在の田村も「ヤワラちゃん」のニックネームで呼ばれるようになったが、女子柔道の強者はそれまで富田常雄の小説『姿三四郎』にあやかったニックネーム「女三四郎」と呼ばれるケースが多く、それ以来のケースとなった[10]。本作品は田村のニックネームという要素も相まって社会的認知度を高めた[5]。格闘技に限定すれば、初心者が競技を始める上での動機付けという点では『空手バカ一代』の影響力を上回るのではないかとも指摘されている[10]。
漫画コラムニストの夏目房之介は、浦沢が「『YAWARA!』は実験作だった」と発言していることについて、「相当冷静に、客観的に自分の表現したいモノと、それを表現できる方法、さらにそれを娯楽として成功させるにはなにが必要かを考えていないと、いえるもんじゃないのだ」と評価し[11]、それまで大友克洋の亜流という存在だった浦沢が本作品の発表により大衆娯楽的な表現方法を習得し、大友の影響下から脱することに成功したとしている[3][11]。一方、作品自体は「江口寿史の『かわいい女の子』のサービスカット、『巨人の星』の親子関係と父のライバル特訓、『めぞん一刻』のすれ違いなどなど。数えればなぞりや類似を指摘できるだろう」とし、これは浦沢本人が「メジャーなヒット作の要素を習得するべく意図的に繰り込んだもの」と評している[3]。ただし、こうした意図的な取り組みについて「当時『パイナップルARMY』に注目しながら、この手つきの『あざとさ』に幻滅したマンガ好きの読者もいただろう」と指摘している[3]。
あらすじ
スポーツ新聞記者・松田耕作</b>とカメラマン・鴨田は、ある日ひったくりの逃走現場に出くわし、華奢で可憐な女子高生が見事な巴投げでひったくりを投げ飛ばす様を目撃する。ひったくりを投げ飛ばした少女の名は<b data-parsoid='{"dsr":[5984,5993,3,3]}'>猪熊柔。世界的に著名な柔道家・猪熊滋悟郎</b>の孫娘で、祖父から英才教育を受けた天才柔道家だったが、彼女を「センセーショナルにデビューさせたい」滋悟郎の意向で公式試合はおろか、柔道をしていることすら隠していた。しかし、当の柔はオシャレをしたり、恋をしたりする「普通の女の子」になりたいので、柔道をやめたがっていた。あまりにも強くなり過ぎた柔にライバルの必要性を感じた滋悟郎は、数多くのスポーツで頂点に立った<b data-parsoid='{"dsr":[6196,6208,3,3]}'>本阿弥さやか</b>を挑発して柔のライバルに仕立て上げ、柔に対抗意識を燃やした彼女は鳴り物入りで柔道デビューする。当初はしらを切っていた滋悟郎だが、テレビでさやかに名指しされたために柔が孫であることを認めつつも日刊エブリーの独占スクープを断る。そこで松田は滋悟郎のテレビ局への売り込みを妨害し、猪熊家をスパイしに来た本阿弥さやかのコーチ風祭進之介に柔が技をかけている現場をスクープした。
「柔のことをスポーツ新聞記者に知られた」ため、滋悟郎は柔を公式デビューさせることにする。柔の本心を聞き出した松田は自らの夢を犠牲に彼女に協力し、彼女を負けさせるために1987年4月12日に藤堂由貴とのエキシビション・マッチを設定するが、母・猪熊玉緒の帰省に驚いて勝ってしまう。結果、自身が通う武蔵山高校に柔フィーバーが起こり、後輩の須藤につけ回されて怒り心頭した柔は、彼を倒すべく弱小柔道部を鍛えることで曲がりなりにも柔道に向き合うようになり、負けた須藤により無理矢理柔道部のコーチにされる。その頃、滋悟郎は柔のクジTV杯柔道選手権の出場を勝手に決め、これを聞いた松田は柔の試合拒否を懸念して無理矢理連れ出し、風祭とさやかの練習風景を見せる。柔の意気消沈具合を見て彼女が風祭に気があることを感じとった松田は風祭に柔を試合に出るように説得させる。それでも迷っていた柔だが、父・猪熊虎滋郎</b>が失踪したのは彼を5歳で巴投げしてしまった自分の柔道のせいではないかという疑いを母に否定され、クジTV杯柔道選手権に出場し本阿弥さやかを難なく破る。同日に奮闘して勝利をおさめた柔道部から一生懸命やることの素晴らしさを教わった柔は、柔道部のない三葉女子短大家政科に入学すべく受験勉強に打ち込み、西海大学へ入学して柔道をやらせたい滋悟郎と対立する。既に柔は一躍世界中の女子柔道家から注目を集める存在となっており、中でも単身カナダから来日した<b data-parsoid='{"dsr":[7009,7026,3,3]}'>ジョディ・ロックウェル</b>は、しばらく猪熊家に居候することになり、滋悟郎の指導で柔道家として成長すると共に、柔とも友情を温めあう。ジョディと本気で試合をした柔は、本当に強い相手と対戦して覚えた楽しみから大会での再戦を約束する。ジョディと戦うには世界選手権クラスへ出場する必要があるため、受験勉強と並行して戦績を積むために柔は滋悟郎に試合の過密スケジュールを組まれる。その矢先、世界柔道選手権でジョディがテレシコワに敗れて靱帯を断裂しオリンピック出場が危うくなると、柔はあっさり試合を放棄する。そこで滋悟郎は柔に三葉女子短大家政科の受験許可を条件に戦績を積ませる。試合での不注意による怪我を負いつつも松田の援助により、柔は滋悟郎の意に反して三葉女子短大に合格、玉緒に説得されて滋悟郎も入学を許可する。
三葉女子短大へ進学した柔は、元バレリーナの<b data-parsoid='{"dsr":[7385,7396,3,3]}'>伊東富士子</b>と友人になる。富士子も幼少期からバレエの英才教育を受けていたが、伸び続ける身長のせいでバレエを止めざるを得なくなり、似たような境遇の柔とは気があった。全日本選手権出場を条件に滋悟郎からアルバイトの継続許可をもらったり、ディスコで相手の男を一本背負いして部活に顔を出せなくなったり、報道から富士子に自分が柔道家であることがバレてふれ回られたりで、柔道のせいで女子大生活が思うように楽しくならない柔だが、富士子に説得されて全日本選手権に出場する。滋悟郎の思惑通り、柔は自身の技をタマランチ会長に見せつけて優勝し、公開競技ながらもソウルオリンピックでの無差別級開催を決定させたもの、風祭やジョディ、富士子に発破をかけられても柔道に前向きになれずにいた。そんな中、母からソウルに父・虎滋郎がいるらしいことを知らされ、父親に会うためにソウルオリンピックに出場する。ライバルの本阿弥さやからが金メダルを逃す中、ベルギーのベルッケンスやロシアの<b data-parsoid='{"dsr":[7811,7826,3,3]}'>アンナ・テレシコワ</b>といった強豪を次々と下し、ソウルオリンピック無差別級で金メダルを獲得、女子柔道界最強の座を不動のものとする。しかし、テレシコワを下した後に滋悟郎に父の失踪原因は5歳の柔の巴投げだったことを明言され、家族がバラバラになのを自分の柔道のせいにし、柔は柔道を辞めようとする。これを知った富士子は柔がジョディの結婚式に行っている隙に、柔を介して知り合った花園に相談して滋悟郎をコーチに迎えて秘密裏に全員初心者の柔道部を設立し、日本最強の筑紫大学との試合を設定して柔を誘い出す。試合に奮闘しつつも敗北して涙する部員たちを見た柔は、彼女たちを2ヶ月後の紫陽花杯女子学生団体対抗大会までに勝つチームに育てるべく柔道部に加入する。富士子はバレエで培った才能を思わぬ形で開花させ、紫陽花杯で本阿弥さやかと引き分けるまでに成長する。柔との対決を逃したさやかは、ソウルオリンピック以来居候状態だった猪熊虎滋郎にコーチを承諾させ山籠りに入る。一方、紫陽花杯で仲間と勝利を分かち合った柔は、父親探しの目的も兼ねて旅行代理店を第一志望に就職活動に入る。今度こそ柔の西海大学行きを望む滋悟郎は、富士子を唆し柔も入学するからと西海大学への推薦枠を獲得すべく全日本体重別選手権に出場させ、柔もそれに付き合う。選手権の最中に滋悟郎の柔の就活の揉み消しが発覚して再び進路の対立が顕在化する一方で、柔は富士子に発破をかけるためにユーゴスラビアの世界選手権にも一緒に行くことを約束する。さやかの沈黙に退屈していた滋悟郎は柔としのぎを削らせるべく富士子を無差別級に出場させて4位と健闘する。柔もギリギリで駆け付けた松田の応援によってロシアのフルシチョワを下し優勝する。就職活動を巡る柔と滋悟郎の対立は三葉女子大柔道部と来日中のフランスの強豪セーヌ大学柔道部との試合結果に委ねられ、点取り試合という不利にもかかわらず勝利をおさめた三葉女子大の活躍により柔は柔道部のない旅行会社鶴亀トラベルへの就職の許可を滋悟郎からもらう。
無事鶴亀トラベルへ就職した柔だが、柔道より仕事を優先して1990年4月22日の全日本選手権をすっぽかそうとするが上司の羽衣と松田に試合会場に強引に送られ、さやかと富士子を下して優勝する。体重別選手権も制した柔は、彼氏の花園に会ってもらえずに不調状態の富士子に相談され、花園から10月の正直杯で結果を出すまで会わないという決心を聞かされ、滋悟郎も練習相手に丁度良いと判断して協力する。個人戦で花園は健闘するも2位に終わるが、富士子に称えられ二人は結ばれる。1991年、調子を取り戻して福岡国際女子柔道選手権でも柔と共に優勝した富士子だが、花園の子供を妊娠してしまい柔道を引退する。全日本選手権を連覇した柔の勢いに乗り、鶴亀トラベルにも滋悟郎を名誉顧問に迎えて柔道部が設立される。7月のバルセロナ世界選手権出場権のかかった全日本体重別選手権に向けて柔道と仕事に打ち込む中、柔は父・虎滋郎が本阿弥さやかのコーチになっていたことを知り、父が自分を倒そうとしているとショックを受けて全日本体重別選手権の試合を放棄し、初の公式試合敗戦となる。さやかがバルセロナ世界選手権出場権を制する一方で、松田は柔道を止めた柔を復帰させるために、10月に花園の娘を出産した富士子にお願いして12月から柔道を再開させるが柔の怒りを買うだけに留まる。しかし、12月24日、滋悟郎が部屋に置いた松田の記事を見た柔は、彼の記事から聞こえてくる歓声と、5年もの間ずっと自分のことを見守っていてくれたことに心打たれる。松田のもとに駆け付けた柔は自分も柔道をやるから記者をやめないでほしいと約束を交わし、父との対立を覚悟の上で「本気」になって柔道に復帰する。滋悟郎は子育てに忙しい富士子の体力を懸念し、1992年5月の体重別選手権一回きりの勝負でバルセロナへの勝負をかけることにする。蟻地獄のような凄まじい寝技に苦戦しつつも父親のトラウマを克服した柔はさやかを下し、富士子と共にバルセロナオリンピックへ出場する。しかし虎滋郎がコーチしていたのは、さやかだけではなかった。フランスの<b data-parsoid='{"dsr":[9536,9546,3,3]}'>マルソー</b>は、柔と同じ48kg以下級の小柄かつ一本背負いを得意とする、もう一人の柔とも言える選手だった。柔は苦戦しつつもマルソーを破り、父の真意が娘への憎悪ではなく愛情だと知ると、ようやく素直に柔道と向き合えるようになる。
迎えたバルセロナオリンピックの無差別級決勝、かつて約束したジョディとの再戦を、日本代表対カナダ代表として遂に果たすときが来る。接戦の末にジョディを破りオリンピック二連覇を果たした柔は、滋悟郎の念願だった国民栄誉賞を受賞することになる。しかし、それと同時に取材のため彼女を追い続けていた松田が、アメリカへ転勤することになる。最初はしつこい取材記者でしかなかった松田の、仕事を超えた熱意と優しさに心惹かれていた柔は、授賞式に現れた松田を連れて空港へ見送りに行き、別れ際に互いの気持ちを確認しあい物語は終わる。
登場人物
猪熊家
猪熊 柔(いのくま やわら)
声 - 皆口裕子
本作の主人公かつヒロイン。東京都世田谷区「北下沢」出身の、1969年12月8日生まれ。16歳→22歳。都立武蔵山高校→三葉女子短大家政科→鶴亀トラベルの会社員。幼年期より祖父から柔道の手ほどきを受けた天才。階級は48kg以下級(女子の最軽量級)だが、祖父の意向で無差別級の試合にも出場している。得意技は一本背負い。街でひったくり犯を巴投げするまでは、柔道の実力を隠していた。並の柔道部員では一日として実行できない練習を、毎日欠かさず行なわされているので、その特訓を新入部員100人に課したところ、須藤1人を残して他は全員退部させてしまった。第1回クジTV杯柔道選手権大会直前では初段。後に弐段に上がった。なお5歳の時に父を巴投げで負かし、その後父が失踪したため、柔道を続けるのは本意ではなく(柔道の練習は祖父の意向と幼少時からの習慣で続けている)、第一話の路上をはじめ何度か巴投げを使用している一方で、父が稽古をつけたさやかが相手の時はトラウマのために巴投げを躊躇していた。高校時代は錦森広之のファンだった。序盤は「普通の女の子になりたい」、後半は父との関係のために柔道を嫌がっていたが、本気で柔道に打ち込むようになった終盤では純粋に楽しむようになる。
短大時代には、柔道もちゃんとやることを条件に富士子とともにマックイーンバーガーでアルバイトをしており、富士子が柔道部を秘密裏に設立した際は頼まれてシフトも代わりに入っていた。(アニメでは、柔を見つけた本阿弥さやかが店内で大暴れした上に滋悟郎にみつかりアルバイトはたったの一回で終了した)
ソウルオリンピック無差別級金メダル、バルセロナオリンピック48kg以下級、無差別級金メダル、国民栄誉賞受賞。試合で負けたのは、父の虎滋郎が本阿弥さやかのコーチであることを知ったショックで試合を放棄した不戦敗の1回のみ。
父方の祖母や母親に似た美人で、異性にもモテるが、思い込みが強い引っ込み思案に育っており、恋愛もウブかつ鈍い。序盤は風祭に好意を抱いており、取材目的で付きまとう松田を快く思っていなかったが、大学受験での援助を契機に松田の取材を越えたやさしさに次第に惹かれるようになる(逆に風祭をぞんざいに扱うようになる)。しかし、聞いたことを何でも真に受けてしまうため、加賀邦子や風祭によって事ある毎に松田の印象を下げられ、松田自身が立場上彼女への好意を表に出すことを抑えるためにほぼ全編を通して柔は彼との関係に思い悩むことになり、これがこじれた時は、柔道に身が入らなくなり試合が判定勝ちに留まったり判定を取られたりしている。祖父からバルセロナ五輪での金メダルと国民栄誉賞を取るまで男は一切禁止されており、門限も厳しいため、外出の際には適当な言い訳を作るか母親に協力してもらっていることも多い。
猪熊 滋悟郎(いのくま じごろう)
声 - 永井一郎
柔の祖父で、虎滋郎の父親。1914年山形県生まれ。語尾に「ぢゃ」が付く。非常に小柄な体格だが、1935年から1939年にかけて全日本柔道選手権大会5連覇(自称6連覇~8連覇まで、気分によって変動)の実績を持つ、柔道家。七段(自称八~十段まで気分によって変動)。年齢を重ねてもなお、ジョディに戦わずして負けを認めさせ、テレシコワの左腕を極め、男子日本代表選手を投げ飛ばす。現在は接骨院を経営し、イモリなどを煎じた薬を処方する。自宅に道場を併設している。食い意地が張っており、孫娘の試合を観戦する時にはたくさんのお菓子を持って席につく。自著「柔の道は一日にしてならずぢゃ」は多くの柔道家の愛読書となっており、世界中の柔道家にとっては尊敬の対象。有名な柔道選手・コーチが必ず同書を所持しているエピソードが随所にある。ポイント勝ちや、合わせ技などに頼らない「一本取る柔道」がモットー。
自信家であり、面会した相手に自身の武勇伝をとうとうと語る。目立ちたがりであり、大会の度に、呼ばれてもいないのに実況席などに乱入しては物を食べながら解説役をする。名前を覚えるのが苦手で、よく相手の印象やコンプレックスを露骨に出したあだ名をつける。かなりの頑固者かつ厳格な性格。特に孫娘には非常に厳しく、彼女に柔道を続けさせるためなら手段を選ばなかったり、度々容赦ない悪態を言ったりするが、これは本人なりの期待と愛情表現でもある。柔の親友の富士子に対しても手厳しい面があるが、彼女を含め、自身の認める柔道をする者は立場、国籍など問わず評価する。
1935年に上京し、1936年には全日本柔道選手権に初優勝、牛尾カネコにプロポーズしている。新婚旅行先は熱海。
若い時のエピソードは、『JIGORO!』として単行本化・アニメ化(都合3話)もされている。また戦時中は陸軍に召集され、東南アジアに出征しており戦地で終戦を迎えている。陸軍時代の階級は伍長。
猪熊 玉緒(いのくま たまお)
声 - 藤田淑子
柔の母親。失踪した夫の行方を追って全国を探し回り、家を長く留守することも多い。おっとりしていて優しいが、芯は強い。彼女が不在時の家事は、柔がする。和食料理の味は絶品。柔道がなかったら夫とは出会っていないらしい。
猪熊 虎滋郎(いのくま こじろう)
声 - 岡部政明
柔の父親で滋悟郎の息子。柔道家であり、1974年の全日本柔道選手権では優勝している。柔が5歳の時、彼女に投げ飛ばされたのが原因で失踪した。本阿弥さやか・マルソーなどのコーチになる。父親に似て食い意地が張っており、好みの菓子の種類も見事に同じであるが、体格は大柄で口数も少ない。性格は温和であるが、本阿弥さやかに対し自分の指示に従わせ、師弟関係を成り立たせることができる(風祭進之介評)など、指導力は高い。
バルセロナ五輪48kg以下級決勝のマルソー戦後柔と再会、パリのカタツムリのうまい店に家族そろって食べに行くことを約束する。
猪熊 カネコ(いのくま カネコ)
声 - 皆口裕子
虎滋郎の母親。旧姓:牛尾。既に故人。父親・牛尾馬之助は滋悟郎の心の師匠[12]であり、馬之助死後は道場を切り盛りしていたが衰退激しく、しばしば地上げ屋に狙われていた。地上げ屋を投げ飛ばした滋悟郎を「父の柔道は喧嘩のための道具ではありません!」と言って一本背負いで投げ飛ばしたことがあるほどの強者。若い頃は柔に瓜二つ。
日刊エヴリースポーツ
「三流記事をよく掲載している」と噂されている、スポーツ新聞社。人手不足だからか、スポーツ欄担当記者は芸能欄の仕事も担っている。『Happy!』や『20世紀少年 / 21世紀少年』にも登場(※世界観は同じなのかどうかは不明)。西海大学柔道場での柔と藤堂のエキシビジョンマッチを主催した他、猪熊柔関連の記事においては的確な読みにより独占的にスッパ抜いている。
松田 耕作(まつだ こうさく)
声 - 関俊彦
非常に優秀な若手新聞記者。柔より7~8歳上。やや言動が荒っぽく(もっとも、彼に限らず日刊エヴリースポーツの社員の多くに言えるが)、それ故か「三流紙の三流記者」と表現されることが多々あるが、自分のやりたい仕事には精力的に打ち込み、試合の感動がよく伝わる記事を書く。スポーツ記者であるが、不本意ながらゴシップ関連の取材もやらされており、序盤では柔たちに対して張り込み、尾行や潜入捜査などを行っていた。柔の松田への向き合い方を決定的に変えて柔道に復帰させたのも彼の記事がきっかけである。
柔に記者生命をかけており、柔の柔道の試合を記事にして人々に感動を伝えることが夢。彼女に柔道をやらせるためなら滋悟郎と結託したり手段を選ばない行動をとったりすることもあるが、柔に対しても厳しい現実を突きつけた上で共に悩み、時に仕事を擲ってでも彼女に協力する。序盤から柔道家として惚れ込んだ柔に恋心も抱くようになるが、彼女が風祭に気があるのを知り、スーパースターとしての彼女と自身の新聞記者としての立場・格差を思い直し、彼女を単なる取材対象と割り切ろうとする。仕事のパートナーが鴨田から加賀邦子に代わると彼女から公然と言い寄られて柔から反感を買うが、上手くフォロー出来ずに苦しむ。柔の父・虎滋郎から娘に会えない事情を聞かされており、事ある毎に柔に柔道をやらせるために奔走する一方で、仕事目的の言動が柔から嫌がられるため、自分がいないと柔がちゃんと柔道をしているか気がかりであると同時に、自分は彼女に不要な存在であるとも思い込んでいる。このため、柔が自発的に柔道をやるようになるとその動機が自分のためだとは知らずに次第に距離を置くようになり、柔の国民栄誉賞受賞と同時にアメリカの支社へ赴任を承諾する。成田空港へ向かう途中に鴨田から「も少し自分に素直になった方がいい」と一喝されて柔のいる国民栄誉賞受賞式に引き返し、式を抜け出してでも自分を見送りに来た柔に別れの土壇場で告白し、両想いに。山形県出身で、実家は民宿を経営。移動手段はバイクが多いが、度々何かを避けようとして事故を起こし、その都度滋悟郎から治療を受けている様子。なお、滋悟郎の若いころのエピソード「JIGORO!」に松田に瓜二つの雑誌記者が登場[13]するが、親族かどうかは不明。家族には父(声 - 藤本譲)と母(声 - 佐々木優子→鈴木れい子)が登場。
鴨田(かもだ)
声 - 茶風林
下の名は不明。松田の相棒かつカメラマン。事ある毎に松田の荒唐無稽な行動にとばっちりを喰らっている。ずんぐりした体型で、パイナップルのような頭。邦子の入社と同時に、芸能部に転属される。その後、バルセロナ五輪選考の女子柔道最終予選を前に、再び松田と組む。カメラの腕は立つが記事を書く才能はないらしい。松田の柔に対する恋心に早い段階から勘付いており、終盤では柔をほったらかしてアメリカへ行こうとする松田に素直になるよう一喝して彼を国民栄誉賞授賞式に向かわせる。
加賀 邦子(かが くにこ)
声 - あきやまるな
編集長が組ませた、松田の新人カメラマン(アニメでは最初、鴨田に加えて邦子を付ける形だった)。巨乳でメガネっ娘。実家は銭湯(アニメ版では「ヘルシーランド加賀」)を営んでおり、しかも羽振りが良い。当初ミーハー気分で仕事していたことを松田に非難され、それ以降松田に対して一方的に片想いしている。柔と松田のしっくりいっていない関係につけ入り、松田をモノにするためにその都度平気で嘘をついたり邪魔を入れたりして柔を傷つけ、その利害関係から時にさやかや風祭と意気投合する。その虚言癖は言われたことを何でも真に受ける柔の性格をいいことにエスカレートしていくが、松田の気を引くために柔が柔道を再開してからは露骨に焦りを見せるようになり、バルセロナ五輪では二人を追ってバルセロナまで来る。その滞在中に人身売買目的で誘拐され、柔の試合を放棄して駆けつけた松田に救出された夜に、自分の方が柔より大事なんだと松田に迫ったが、松田が好きなのは柔(親以外でこれを打ち明けたのは邦子だけである)であり邦子は仕事のパートナーでしかないとフラれた。その後は自身が身を引いたプライドから松田と柔の恋の橋渡しをしている。
完結編スペシャルではバルセロナでなくアトランタオリンピックの取材に行ったり、滞在先のホテルの一室で、松田に自分の裸体を晒しながら我が儘を言った挙句、他人の故障車に乗車し、川に落下したりしている。
編集長
声 - 岸野一彦
短気で口が悪く、松田をよく怒鳴りつけているが、スポーツ記者としての資質は認めている。柔の国民栄誉賞受賞が決まった後、松田にアメリカ行きを命じる。
本阿弥家
本阿弥 さやか(ほんあみ さやか)
声 - 鷹森淑乃
本阿弥財閥の令嬢で、柔のライバル。並外れた運動能力と負けん気の強さを武器に、テニス・乗馬・水泳など数多くのスポーツで頂点に立っていた。階級は48kg以下級。ワンレンの美人で、一度着た服は二度と着ない。高慢かつ派手好きで目立ちたがり屋。内股などの派手な投げ技を好むが、勝負では姑息な手を使わず、強くなるためならどんな修行も厭わないが、クレームも多い。虎滋郎をコーチに迎え修行を重ね、1991年にはバルセロナ世界選手権で金メダルを取る。1992年、バルセロナオリンピック出場を賭けた柔との代表戦では、蟻地獄のような寝技主体の型へと変わる。前歯のうちの1本は差し歯であり、試合中の衝撃でこれが外れるケースが多々ある(そのことを、対戦相手だった柔に指摘されて激怒したことがあり、柔に対してライバル心を抱くきっかけは、柔と出会ったころに偶然投げ飛ばされた際差し歯であることを柔に知られたことである)。聖身女学館高校からそのまま同大学に進むが、武者修行のせいで1回留年した。最後は風祭と結婚した。
本阿弥 錦之助(ほんあみ きんのすけ)
声 - 鈴木泰明
さやかの父親で、本阿弥グループ総帥。政財界に様々な人脈を持つ。タマランチとはお互いを「タマちゃん」、「錦ちゃん」と呼び合うほど仲が良い。一人娘を溺愛している。
さやかの母
声 - 近藤高子
さやかの母親で、錦之助の妻。登場回数は少ない。さやか同様、万事はお金で解決できると思っている。
徳永(とくなが)
声 - 島田彰
さやかの専属執事兼運転手。腰の低い老人。さやかのことを第一に考えて行動し、風祭を密かに監視している。
風祭 進之介(かざまつり しんのすけ)→本阿弥進之介(ほんあみ しんのすけ)
声 - 神谷明
本阿弥の柔道コーチ、登場時は大学生。実家は風祭酒造を経営しているプレイボーイ。イギリス留学の経験もあるため、語学も堪能。都心のマンションに暮らし、BMWを愛車としている。柔道の実力は国内屈指といわれるが、極度のあがり性のため、実戦では一勝もあげていない。松田から柔が自身に気があると言われて以来、その気になって彼女に好意を示す他方で、大学卒業後「本阿弥トラベル」に入社してまもなく社長になると、本阿弥での地位と名誉の魅力から断れずにさやかと婚約する。序盤では柔道への熱意を出しながらさやかのコーチをしたり、柔に柔道をするように説得していたが、虎滋郎がさやかのコーチに就任した後はその情熱も冷めていき、地位と名誉に対する執着心が浮き彫りになる。柔に対しても、さやかとの婚約は親同士の取り決めだと言いくるめ、本人の機嫌を取るために何でも意見を合わせるようになるが、さやかの固い束縛などにより柔と満足に会えず、松田に惹かれるようになった彼女から次第に興味を示されなくなる。バルセロナ五輪でさやかから挙式を迫られると、いきなり柔にプロポーズして柔を困らせるが結局約束の場所に現れず、最後はさやかと結婚することになる。
蒲田(かまた)
声 - 広瀬正志
さやかのボディーガード。柔道4段。
伊東・花園家
伊東 富士子(いとう ふじこ)→花園 富士子(はなぞの ふじこ)
声 - 川島千代子
柔の三葉女子短大時代の同級生で静岡県出身。3歳の頃からバレエを習い、世界一を目指していたが、身長が伸びてトウシューズが履けなくなった為に断念した。身長175cm、足のサイズ26cm(アニメ版では身長180cm、足のサイズ27cm)。三葉女子短大→西海大学卒(※3年次から編入している)。短大入学当初はゴルフサークル(アニメ版ではアイドル研究会→ゴルフサークル)→柔道部所属。階級は61kg以下級。使える技は大内刈りと内股だけだが、バレエで鍛えた柔軟性と長身、独特のリズムで繰り出すキレが武器で、滋悟郎も認めるほど高い才能を持っている。また、並の選手であれば一本を取られる所を、高い柔軟性によって有効または技ありに留めるケースが多々ある。元々バレリーナだった上に柔同様少ない実戦経験で大きな大会に出場するため、相手の闘争心やプレッシャーに弱く、精神的な脆さが原因で実力を発揮しきれない場合も多い。白帯で世界選手権選考大会決勝まで上り詰め、苦戦するも大林貴代相手に判定まで持ち込み判定負けとなるも、その実力を認められてユーゴスラビアの世界選手権では強化選手に選ばれ日本選手団と共に現地へ。そして急遽無差別級に出場しマルチネスに逆転一本勝ちを収め、準決勝でソ連のテレシコワに最後は逆転負けを喫したものの、技ありを奪った。全日本女子柔道選手権大会準優勝や福岡国際女子柔道優勝と戦績を重ねる。柔を介して知り合った花園薫と間もなく交際に発展(彼をカッコいいイケメンと言っている)、1991年にはできちゃった結婚をし引退する。産後、再び柔道をやめようとした柔を復帰させるため、現役に復帰。バルセロナオリンピックで初戦で僅差でアダムスに敗北するも、敗者復活戦を勝ち上がって銅メダルを獲得する。
柔の一番の親友と言っても過言ではなく、柔との出会いにより性格は明るくなり、柔に柔道をやらせるためなら「なんだってやる」と公言している一方で、中々上手くいかない柔と松田の仲にも気を揉むようになる。実家はお茶屋を営んでおり、アパートでは、コーヒー、紅茶、こぶ茶などを揃えて来客をもてなしていた。
花園 薫(はなぞの かおる)
声 - 菅原正志
武蔵山高校の柔道部主将で、弱小柔道部を一人で支えていた。階級は95kg超級。モアイ像のような風貌で、両親と6人の弟妹も同じ顔である。「自分の一物はでかすぎて…」が口癖である。
柔に初恋していた。卒業後は蛯天堂体育大学に進学、柔道部に入部。柔を通して富士子と出会い、三葉女子短大柔道部の練習を手伝ううちに意気投合し、付き合う。柔や滋悟郎の指導を受けた後は、大学柔道の大会で勝ち続け、しかも西海大学の稲垣と互角に戦えるほど強くなった(時間切れで敗れた)。かなりの巨根。交際していた伊東富士子とたった一回の性行為で妊娠させてしまい結婚する[14] 。結婚後は柔道をやめ、引越し会社で働きながら大学で勉強を続けて、教員免許取得を目指した。映画「それいけ腰抜けキッズ」では、小学生の従弟の井沢俊彦(声 - 田中圭)が登場する。
花園 富薫子(はなぞの ふくこ)
声 - こおろぎさとみ
薫と富士子の女児。1991年10月10日生まれ。目と眉毛は母親、その他のパーツは父親にそっくり。母親思いの性格。通称「フクちゃん」。
富士子の父親と母親
声 - 坂東尚樹(父親)/ 巴菁子(母親)
静岡で「伊東園」を営んでいる。夫婦で家業をずっとこなしてきたため、バルセロナへの遠征が初めての海外旅行であった。2人とも長身で娘を溺愛している。夫婦仲は良さそうだが、恐妻家の様子。登場当初は富士子が柔道に励むのを止めさせようと必死になっていた。花園を嫌っており、娘との結婚には猛反対していたが最終的に折れた模様。
柔道選手
藤堂 由貴(とうどう ゆき)
声 - 峰あつ子
黒百合女子体育大学の72kg超級選手。日本選手権の覇者。柔のデビュー戦(エキシビジョン)の対戦相手。巨体ながら、主要人物の引き立て役になることが多い。日本代表選手として五輪や世界選手権にも出場し、ソウルオリンピックでは銀メダルを獲得している。アニメ版では、滋悟郎と負けず劣らずの食いっぷりを見せていた。また、伊東富士子からは「トドさん」と呼ばれ、本阿弥さやかからも「トド」とからかわれて怒るシーンが何度か見られた。
ジョディ・ロックウェル
声 - 一城みゆ希
カナダの女子柔道72kg超級選手であり、柔の親友かつ最強のライバル。怪力かつ心優しい性格。世界選手権72kg超級の覇者。柔の記事を新聞で見て単身来日、その後しばらく猪熊家に居候していた。語尾に「〜だわさ」がつく。柔と出会う前は体格と身体能力の高さだけで戦っていたが、以後はテクニックも兼ね備えていく。1987年の世界選手権無差別級決勝戦、1988年のソウルオリンピック無差別級準決勝ではともに、負傷した左足を攻められテレシコワに敗れた。のちに重量挙げ選手のルネ・シマール(声 - 掛川裕彦)と結婚する。その後何度も対戦のチャンスがあったが実現せず、原作中クライマックスとなるバルセロナオリンピックの無差別級決勝で5年ぶりに最強のライバルとして再戦を果たす。辛子明太子が大好物。松田の柔を見る目がただ事ではないことから、松田が柔の彼氏であり原動力になっていることに勘付いていた。
アンナ・テレシコワ
声 - 水谷優子
ソ連の女子柔道72kg超級選手。貧農出身で、6歳で才能を見出されて社会主義国の英才教育を受けるようになる。角刈りのヘアスタイル。勝つためなら非情な手段も厭わない、冷徹な性格。ジョディと同様、柔の存在を知り、試合をしたいと考えるようになり、柔と会話するために日本語も習得。得意技は裏投げ。1987年の世界選手権無差別級で優勝。柔とはソウルオリンピック無差別級決勝で初対戦するが、ジョディに怪我を負わせたとして柔の怒りを買い、激闘の末、止めとして繰り出した大内刈りの勢いを利用され、一本背負いで敗北。その後、再戦に執念を燃やし、ソ連崩壊など現実社会の影響を受けながらも、生活に困らない日本でのコーチの話を断って鍛え続けた。バルセロナオリンピック無差別級準決勝で柔と対決、一進一退の攻防の末、裏投げを破られ敗退するも、滋悟郎に「天晴な試合」と評価され、三位決定戦でも完勝。最後の五輪と決めていたバルセロナで、中古車の密売業者となった元コーチと再会する。バルセロナ終了後、日本でコーチになることを決意する。
ベルッケンス
声 - 佐々木るん
ベルギーの女子柔道72kg以下級選手。紫の逆立った髪が特徴。世界選手権5連覇など、柔が世界の表舞台に立つまで、女子柔道界の女王として君臨してきた。トップモデルとして活躍する美人でもある。絶好調であったソウルオリンピックで柔と対戦したが、立ち会っただけで柔の実力を感じ、全くペースをつかめないまま完敗する。その後は柔の時代の到来を感じて引退。モデル業に専念すると宣言した。
キム・ヨンスク
声 - 林玉緒
韓国の女子柔道48kg以下級選手。韓国の秘密兵器と呼ばれている。柔道に韓国相撲を取り入れている。さやかが世界一周武者修行中に戦った最後の相手として大苦戦をし、判定でも五分五分で遺恨を残す。1988年のソウルオリンピック48kg以下級の決勝でさやかに勝利して金メダルを獲得した。
フルシチョワ
声 - 滝沢ロコ
ソ連の代表で女子48kg以下級。彼女も裏投げなどの豪快な技を得意とする。ユーゴスラビアでの世界選手権にて、決勝戦で柔と対戦して敗れる。その後は柔との再戦を望んでいたが、バルセロナの世界選手権決勝でさやかに完敗。テレシコワ同様、日本企業でのコーチの話を断って鍛錬を積む。バルセロナオリンピックでも初戦でマルソーに敗れるも、敗者復活戦を勝ち上がり銅メダルを獲得した。
クリスティン・アダムス
声 - さとうあい
カナダの女子61kg以下級の柔道選手で、ソウルでは選考会前に負傷して出場できなかった有望株。ジョディの結婚式でのエキシビジョンで柔と対戦して敗れて以降、柔を目標として成長していくが、作中で再戦することはなかった。ユーゴスラビア世界選手権女子61kg以下級で優勝し、無差別級では決勝でテレシコワに敗れて準優勝。バルセロナオリンピックは女子61kg以下級カナダ代表で出場し、1回戦で富士子と対戦した。僅なところで勝利したが、好勝負に相手の強さを認める。以降も勝ち進んで富士子を敗者復活戦へ導き、決勝でも圧勝。
マルチネス
声 - 水原リン
キューバの女子72kg超級選手。ユーゴスラビア世界選手権が初めての国際大会出場となる。他の多くの選手と同じく、打倒柔を目指している。無差別級で富士子と戦いポイントで圧倒的優勢になるも逆転負け。超級でジョディと2回戦うも敗れる。バルセロナオリンピック無差別級で柔と戦うも敗れる。
マルソー
声 - 荒木香恵
柔道王国フランスのバルセロナオリンピック女子48kg以下級代表。柔と同程度の小柄な選手。さやかのフランス道場破りツアーではさやかの稽古相手を務めていた。成績もヨーロッパ選手権5位と無名だったが、虎滋郎に見出され、急成長を遂げる。プレッシャーと無縁の楽しむ気持ちと柔張りの一本背負いを備え、ロシアのフルシチョワを破るなど破竹の勢いで決勝進出。決勝戦では開始早々一本背負いを繰り出し柔から技ありを取るが、柔の一本背負い封じで自分の柔道の型を忘れてしまい、柔の一本背負いを喰らい敗北。勝利したり、技が決まると両手でガッツポーズをする。
タオ
声 - 杉崎佳恵子
中国の無差別級の柔道選手。身長198cm・体重125㎏という女性離れした巨体を持つ。ソウルオリンピック第1試合で柔と対戦し、その体格差から有利と思われていた。しかし、周囲の予想とは裏腹に試合開始から数秒で一本背負いを喰らい敗北した。皆が驚く中、山下だけは柔の練習の成果であると疑わなかった。
柔道関係者
祐天寺 豪造(ゆうてんじ ごうぞう)
声 - 仲木隆司
西海大学柔道部監督兼バルセロナオリンピックの柔道チーム監督。体格(特に顔)は大きいが、気は小さい。柔の実力を見て西海大への進学を勧めるが、高校卒業時と、短大卒業時の2度とも拒否された。指導者としての手腕は確かなもので、滋悟郎にも気に入られている。
ポルナレフ
声 - 上田敏也
フランス・セーヌ大学柔道部監督。風祭とは旧知の関係。滋悟郎に心酔し、彼の著書「柔の道は一日にしてならず」を読むために日本語を覚え、「○○ですヂャ」と彼の口癖を真似ている。いささか微妙な日本語と陽気さが特徴的。
タマランチ
声 - 矢田稔
国際オリンピック委員会会長。本阿弥錦之助とはロス五輪以来の付き合い。柔の試合に感動し、無差別級の開催を決定する。柔の試合を見て滋悟郎の言う「柔よく剛を制す」の本質に目覚め、以後滋悟郎を先生と呼ぶ。ソウルオリンピックの際には滋悟郎を穴場の焼肉店に連れて行くなどし、親睦を深めていた。愛称は「タマちゃん」。
石倉(いしくら)
声 - 稲葉実
筑紫大柔道部監督。大学女子柔道団体対抗戦である紫陽花杯では三葉女子短大の柔に五人抜きされて敗北。その後、指導者として打倒柔を目標とし、筑紫大選手が柔と対戦するも全て敗北した。
犀藤(さいとう)
声 - 西尾徳
解説者。柔の練習を見て、その才能にショックを受ける。大の柔ファンで、彼女の話題になると顔が赤くなる。滋悟郎の本で柔道に目覚め、先生と呼びとても尊敬している。
山下泰裕
声 - 藤本譲
解説者。また、虎滋郎とかつて対戦した経験がある。実写映画版では本人が出演している。
武蔵山高校
かおり、和美、清水
声 - 松岡洋子、光野栄里、冬馬由美
3人とも柔の高校時代の友人。かおりは太めの体型、和美はメガネをかけ、清水は細い体型である。高校卒業後は全く登場しない。
河野、安井、畑山、富岡
声 - 金丸淳一、菅原淳一、桜井敏治、巻島直樹
4人とも柔道部員たち。須藤が入部するまで、彼ら4人に花園を加えてようやく団体戦が組めるほどの状態であった。須藤にすらあっさり負けるほど弱く(のちにリベンジし、須藤が入部)、高校卒業後はいずれも柔道を辞めている。バルセロナオリンピックの柔の試合は、4人で集まり一緒にテレビ観戦していた。
須藤(すどう)
声 - 塩屋翼
柔の2年後輩。いわゆる不良で腕っ節に自信があり、女好きでスケベ。服装違反をしており、薄くピンクがかったワイシャツを着ている。柔に言い寄るが、2年の柔道部員との柔道対決で完敗してからは心を入れ替えて部員となり、柔との約束を守ってケンカもやめる。一番の問題児で、他の部員とも心を通わすことは無かったが、同時期に入部した100名の部員の中で柔の特訓に唯一残った人物。作品終盤に寿司屋の板前見習いとして登場する。自分が握った寿司がなかなか褒めてもらえず、先輩職人にも暴言を吐かれ、嫌気が差して辞めてやろうとした瞬間、金メダル直前の柔をテレビで目撃し、高校時代を思い出して涙を流しながら寿司を握る。
錦森 広之(にしきもり ひろゆき)
声 - 三ツ矢雄二
女子生徒からの人気が高い、当校のアイドル的存在。ジョニーズ事務所からスカウトされ、卒業後にはアイドルデビューする(つもり)。滋悟郎の策略で不良に襲われた際に柔に助けられるが、その強さを目の当たりすると途端にビビる。卒業後はアイドルとして一時代を築いたようだが、バルセロナオリンピックの頃はようやく時代劇の端役である。仕事への意欲を失いかけていたが、柔とジョディの死闘を見て情熱を取り戻し、与えられた役を演じきる。
三葉女子短大
おしゃれな校風の女子短期大学。2年制。学科は家政科がある。推薦入試はなく一般入試のみ(しかも、連載開始当時はまだ、共通一次試験から、大学入試センター試験に移行する前であったため、これを利用した受験も理論上不可能であった)。大会などに出場するような部活動などは存在せず、ちょっとしたサークルしかない。柔の入学当初は柔道部が無かったが、伊東富士子によって創設された。付属の女子中学・高等学校がある。
南田 陽子(みなみだ ようこ)
声 - 鈴木みえ
柔道部員。通称ナンダ。付き合った男性の数は20人を超えるが、男運が無く、よくフラれる。フラれてやけっぱちになっていたところを富士子に柔道の達人と勘違いされ、柔道部に入部する。振られ続けるコンプレックスからか練習にも熱心で、素人4人組では一番の実力者になる。卒業後は警察官。テレビアニメ版では柔と出会う前にも、風祭に振られた女として第6話でワンショットだけ登場している。試合開始直後の出足払いによる奇襲が得意で、それで筑紫大の強豪を破っている。技を仕掛ける時に「元彼名のバカヤロー!」と自分を振った相手の名前を叫ぶ癖がある。
日陰 今日子(ひかげ きょうこ)
声 - 冬馬由美
柔道部員。通称キョンキョン。体重36kgで、華奢な体格。体が弱く、声も小さく存在感が薄い。体を丈夫にするために柔道部に入部する。柔のアドバイスで、相手もほぼ素人とはいえ聖身女学館の選手を破るまでになった。部活の結果、血色がかなり良くなり声も大きくなった。卒業後は保育士。
四品川小百合(よしながわ さゆり)
声 - 東美江
柔道部員。大柄で、ダイエットのために柔道部に入部する。体重を活かした抑え込みで強豪セーヌ大学の選手から一勝をあげている。実家はとんかつ屋。卒業後は大手デパートの店員。
小田 真理(おだ まり)
声 - 斉藤庄子
柔道部員。通称マリリン。邦子以上にグラマーな体。痴漢によく遭うため、護身のために柔道部に入部する。自己愛が強く、場の空気が読めず(読もうとしない)トンチンカンな発言を繰り返す他、Tシャツなしノーブラで出場したり、多数のセフレも居る。卒業後は女優を目指していたが、成り行きで人気AV女優となった。高級マンションで一人暮らしをするほど稼いでいる。本編では、試合で唯一、一勝もしていない。団体戦でもレギュラーを今日子に奪われている。
学長
声- 中庸介
三葉女子短大の学長。
鶴亀トラベル
設立30年近い旅行代理店。「まごころの鶴亀」がキャッチフレーズ。かつては旅行業界で本阿弥トラベルに次ぐ万年2位といわれていたが、ここ数年はスペリオール旅行社の台頭で3位と4位をいったりきたりしている中堅旅行社。しかし、テレビCMを盛んに打ったり、「温泉パック」という人気商品を持っていたりしており、そこそこの規模はある。当初は柔道部を持っていなかったが、柔が入社したことがきっかけで柔道部が設立された(柔が入社を決めたのも柔道部が無かったことが動機)。
大田黒(おおたぐろ)
声 - 亀井三郎
社長。柔が就職活動をした際、緊急役員会議を開き、柔獲得に動く。柔獲得に動き出した他の会社が柔道部がある中、鶴亀トラベルだけ柔道部がなかったため、柔道から離れたかった柔の希望に沿っており、柔が入社となった(後に柔道部が設立される)。業界トップの本阿弥トラベルに業績で押されていたため、柔がさやかを倒すシーンを楽しみにしている。部下に対しては強気だが、気は小さい。自宅はそれなりの邸宅。
羽衣(はごろも)
声 - 西川幾雄
係長で柔の上司。スポーツ好きで、松田の記事のファン。特に柔道に関しては花園夫妻に早くから着目していたなど確かな目を持つ。役職持ちだが、「社内一仕事をしない男」と言われ、無口で存在感が薄くうだつが上がらない(いわゆる窓際族)。この男なら柔の柔道の妨げにならないだろう、という理由で教育係に選ばれた。全日本選手権当日には柔と共に北海道へ加藤忠商事社長(声 - 大矢兼臣)との接待ゴルフに出ていたが、柔を試合に出場させるため、独断で柔を東京へ送り返す。その後、クビを覚悟で開き直った言動に出たのが功を奏し、大手企業2社(加藤忠商事とトヨ産自動車)を顧客として本阿弥トラベルから奪取した手柄(大田黒曰く、400億円の契約の手柄。風祭もこれには非常にうろたえていた)を認められ、課長代理に昇進する。柔道に詳しいので、柔道部の設立に携わる。バルセロナオリンピック時は観戦団添乗員兼猪熊柔応援団長となる。団地暮らしで、家族に関係が冷え切っている妻(声 - 松岡洋子)と中学校受験を控えた息子・勝男(声 - 山田恭子)がいる。
村上(むらかみ)
声 - 鈴木清信
フランクフルト支社の社員で課長。柔の2回戦の際に解説を部下(声 - 山崎たくみ)と共にこっそり盗み聞きし、その解説通りに柔の状態を太田黒達に伝えてショックを与えた。
その他
実況アナウンサー / ニュースキャスター
声 - 大塚芳忠
アニメにおいてはその都度顔は違うが、声優はいつも同じだった。
ユーゴスラビアのタクシー運転手
声 - 松尾銀三
ユーゴスラビアでの世界選手権の際、父の病気のために遅れて入国した松田が乗ったタクシーの運転手。名前は不明。実は柔のファンであり、はじめは陽気に歌いのんびり運転していたが、松田が柔の取材に向かっていることを知ると猛スピードで会場へ走らせた。のちにユーゴスラビア紛争で国を追われるようにバルセロナへ移住、そこでもタクシーの運転手をしており、偶然松田と再会、そこで再び松田の危機を救うことになる。故郷の言葉(不明)の他に、片言ながら英語、スペイン語を話す。
源さん
声 - 飯塚昭三
いずみ屋酒店の経営者。滋悟郎とは家族ぐるみの付き合いをしていたようで、柔の事も幼いころから知っているらしい。自宅で滋悟郎と寿司屋の清さん(声 - 坂東尚樹)と妻の春さん(声 - 佐々木優子)の4人で柔の試合をテレビで観戦した。
万丈目
声 - 大塚明夫→小関一
等々力北高校の柔道部の大将で、花園の対戦相手。右足を痛めていた状態の花園に優位に立つが、地獄攻めで逆転され敗れた。
刊行情報
アニメ版
TVシリーズ
『YAWARA! a fashionable judo girl!』のタイトルで日本テレビ系列で、
1989年10月16日から1992年9月21日まで全124話が放送された[15][16]。毎週月曜日の19時30分 - 20時00分に放映された。製作は読売テレビとキティ・フィルムが、アニメーション制作はマッドハウスが担当した。平均視聴率は14.7%。最高視聴率19.7%[17]。
本放送はバルセロナオリンピックに向けた形となり、その日のストーリーが終わると、「バルセロナオリンピックまであと○○日」と字が書かれたカウントダウンのシーンで締めくくられていた[16]。
原作ではバルセロナオリンピック無差別級決勝が作品終盤の山場となるが、TVシリーズでは原作の進行速度に合わず[18]、バルセロナオリンピック選考を兼ねた全日本女子柔道選手権の柔対本阿弥戦までが描かれ、オリンピック本番を迎える前に終了している[16]。これは、テレビ放送終了時にはバルセロナオリンピックそのものが終了しており[16]、そのうえ原作でもまだそのシーンまで描かれていなかったため(原作でバルセロナオリンピックの無差別級決勝が描かれたのは『ビッグコミックスピリッツ』1993年34号=7月26日発売であった)、やむを得ない部分はあった。その後、1996年のアトランタオリンピックの際に『YAWARA! Special ずっと君のことが…。』が金曜ロードショー枠で放送されて完結した[16][18]。
CS局のフジテレビONE(旧フジテレビ739)・フジテレビNEXTで再放送されている(フジテレビ739での放送前には日テレプラス&サイエンス(現・日テレプラス)、キッズステーション、衛星劇場でも放送されていた)。2015年よりアニマックスに放映権が移行し、HDリマスター版での放送に変更された。なお、「バルセロナオリンピックまであと○○日」と字が書かれるシーンはカットされているほか、主題歌の最後やCM前ではやや不自然な形で暗転するフェードアウト処理が加えられている。地上波では千葉テレビ放送で2016年にこのHDリマスター版が初めて放送された[19]。2017年11月からはテレ朝チャンネル2で、2019年1月からはBS12 トゥエルビでHDリマスター版の放送が開始された。
スタッフ
原作 - 浦沢直樹
製作 - 多賀英典(第1 - 102話)・伊地智啓(第103 - 124話)
企画 - 落合茂一
シリーズ構成 - 井上敏樹
音楽 - 森英治(ピカソ)、AXISS
キャラクターデザイン - 兼森義則
美術監督 - 池田祐二
音響監督 - 浦上靖夫
撮影監督 - 石川欣一→福田岳志
プロデューサー - 諏訪道彦、丸山正雄、鈴木聡、向井達也
設定 - 浦畑達彦
監督 - ときたひろこ
製作 - 読売テレビ、キティ・フィルム
主題歌
オープニングテーマ
「ミラクル・ガール」(第1 - 43話)
作詞 - 亜伊林 / 作曲 - 藤井宏一 / 編曲 - 根岸貴幸 / 歌 - 永井真理子
「雨にキッスの花束を」(第44 - 81話)
作詞 - 岩里祐穂 / 作曲 - KAN / 編曲 - 佐藤準 / 歌 - 今井美樹
※アルバムretourの収録曲でシングルとしては発売されていない。また、放送では2番の歌詞の前半と1番の歌詞の後半を組み合わせて使用している(本編内容とのマッチングを考慮してと見られる)。TBS系『クイズダービー』第761回(1990年10月20日放送分)の歌詞問題で使われた。
「負けるな女の子!」(第82 - 102話)
作詞・作曲・歌 - 原由子 / 編曲 - 小林武史
「YOU AND I」(第103 - 124話)
作詞・作曲 - 陣内大蔵 / 編曲 - 根岸貴幸 / 歌 - 永井真理子
エンディングテーマ
「スタンド・バイ・ミー」(第1 - 43話)
作詞 - 松本隆 / 作曲 - 矢萩渉 / 編曲 - 萩田光雄 / 歌 - 姫乃樹リカ
「笑顔を探して」(第44 - 81話)
作詞・作曲・歌 - 辛島美登里 / 編曲 - 若草恵
「少女時代」(第82 - 102話)
作詞・作曲・歌 - 原由子 / 編曲 - 小林武史、桑田佳祐
原由子が1988年に斉藤由貴に提供した曲のセルフカバー。放送では、1番の歌詞の前半〜2番の歌詞の後半〜コーダという曲構成になっている。
「いつもそこに君がいた」(第103 - 124話)
作詞・作曲 - LOU / 編曲 - 松浦晃久、LAZY LOU's BOOGIE / 歌 - LAZY LOU's BOOGIE
挿入歌
「Rainy Lady PM.9」(第1話)
作詞・作曲・歌 - 浦田健志 / 編曲 - 笹路正徳
「大好きなシャツ」(第114話)
作詞・作曲・編曲 - DOUBLE K'O' CORPORATION / 歌 - 渡辺満里奈
各話リスト
日テレ系の本放送においては、春と秋の番組改編期・年末年始・プロ野球巨人戦中継時に放送を休止した。また、今上天皇の即位の礼当日(1990年11月12日)と世界陸上東京大会の開催時期(1991年8月26日・9月2日)にも放送を休止している。殊に、1991年9月は1回(第81話・9月9日)のみしか放送されていない。その間、本枠は突発的企画のバラエティー番組を放送していた。
放送局
※放送日時は1992年5月中旬 - 6月上旬時点、放送系列は放送当時のものとする[20]。
TVスペシャル
『YAWARA! Special ずっと君のことが…。』のタイトルで1996年7月19日(21時03分 - 22時54分)放送[18]。
同年7月20日に開幕するアトランタオリンピックに合わせ、金曜ロードショーで放映された[18]。TVシリーズでは描かれなかった原作終盤のエピソードを描いた完結編であり、設定はバルセロナオリンピックからアトランタオリンピックに変更となっている[21]。放送時には田村亮子が映画解説者としてゲスト出演している。柔対ジョディの試合がメインとなっており、柔対テレシコワ戦はほとんどカットされた。また、原作の邦子誘拐事件は車の事故に変更されている。視聴率は関東地方で16.6%、関西地方で17.9%。
スタッフ
企画 - 中谷敏夫、諏訪道彦、田旗ひろし、落合茂一
脚本 - 井上敏樹
キャラクターデザイン - 兼森義則、君塚勝教
作画監督 - 君塚勝教
美術監督 - 池田祐二
撮影監督 - 山口仁
音楽 - 森英治(ピカソ)
音響監督 - 浦上靖夫
音楽プロデューサー - 辻畑鉄也(ピカソ)
プロデューサー - 中谷敏夫、諏訪道彦、室永昭司、丸山正雄
監督・絵コンテ・演出 - 浅香守生
協力 - 全日本柔道連盟、日本オリンピック委員会
製作協力 - マッドハウス
製作 - 日本テレビ、読売テレビ、バップ、キティフィルム
主題歌
主題歌「Today is another day」
作詞 - 坂井泉水 / 作曲 - 織田哲郎 / 編曲 - 池田大介 / 歌 - ZARD
挿入歌「見つめていたいね」
作詞 - 坂井泉水 / 作曲 - 栗林誠一郎 / 編曲 - 明石昌夫 / 歌 - ZARD
主題歌、挿入歌共にアルバム「TODAY IS ANOTHER DAY」に収録されている。
劇場用アニメ
『YAWARA! それゆけ腰ぬけキッズ!!』 のタイトルで1992年8月1日公開[22]。上映時間は60分。配給はアルゴプロジェクト。原作者の原案によるオリジナルストーリー[22]。
スタッフ
製作 - 鎌田龍児、伊地智啓、長谷川誠
企画 - 落合茂一、諏訪道彦
プロデューサー - 諏訪道彦、鈴木聡、向井達也、小松茂明、丸山正雄
原作・原案 - 浦沢直樹
監督 - ときたひろこ
脚本 - 井上敏樹
演出 - 浅香守生
作画監督 - 君塚勝教
美術監督 - 池田祐二
音楽 - 佐久間正英
主題歌
主題歌「大好きなシャツ」
作詞・作曲・編曲 - DOUBLE K'O' CORPORATION / 歌 - 渡辺満里奈
この曲は、TVシリーズ版でも挿入歌として使われたことがある。
挿入歌「WHAT'S THE PARADISE?」
作詞 - 岡田ヨシアキ / 作曲 - 松橋秀信 / 編曲・歌 - THE MINKS
2009年現在、DVDは限定BOXと北米版のみ(北米版は40話までの収録)で、レンタルはされていない(VHS版は販売用とレンタルがあった)。DVDはファイブエースのカタログには「うる星やつら」などと同様に単巻での販売を予定していたが、限定BOXという形式に落ち着いた。
実写版映画
1989年4月15日にアニメ化より先に、浅香唯主演で実写映画化[23]。柔道家やプロレスラーがカメオ出演している。製作は東宝映画、マイカル(現:イオンリテール)。配給は東宝。上映時間は97分。
キャスト
猪熊 柔 - 浅香唯
猪熊 滋悟郎 - 小林桂樹
猪熊 虎滋郎 - 菅原文太
松田 耕作 - 阿部寛
本阿弥 さやか - 山下容莉枝
風祭 進之介 - 竹内力
伊東 富士子 - 平山玲子
祐天寺 豪造 - 常田富士男
本阿弥 錦之介 - 石坂浩二
鴨田 - 仲本工事
山下 泰裕 - 山下泰裕
山口 香 - 山口香
前田 日明 - 前田日明
高田 延彦 - 高田延彦
馬渕 よしの - 馬渕よしの
ラッシュワン - ラシュワン
柳澤監督学長 - 中庸助
スタッフ
製作総指揮 - 田中友幸、小林敏峯
製作 - 坂本幸夫、小倉斉
企画 - 小倉斉
企画協力 - 内山甲子郎
プロデューサー - 小田洋雄
監督 - 吉田一夫
助監督 - 山下賢章
脚本 - 関本郁夫
撮影 - 岸本正広
音楽 - 矢島賢
音楽プロデューサー - 加藤要
美術 - 薩谷和夫
録音 - 池田昇
照明 - 大澤暉男
編集 - 長田千鶴子
スチール - 橋山直己
主題歌 - 浅香唯「NEVERLAND 〜YAWARA!メインテーマ〜」
サウンドトラック - YAWARA! オリジナル・サウンドトラック
同時上映
「冬物語」
出演 - 山本陽一、水野真紀、宮崎萬純
監督 - 倉内均
ゲーム
YAWARA!(PCエンジンCD-ROM2/SUPER CD-ROM2両対応、1992年10月1日発売、ソフィックス)
コマンドを選択しながら、TVアニメを見るような感覚でストーリーを楽しむデジタルコミック(アドベンチャーゲーム)。CD-ROMの特性を活かし、TVシリーズのアニメーターが手掛けた原画によりアニメーション処理されたグラフィックとTVアニメと同じキャストによるフルボイスで、単行本1巻から6巻までのストーリーが再現されている。物語は松田耕作の視点で進む。主題歌は、OPが「ミラクルガール」、EDが「スタンド・バイ・ミー」。
YAWARA!2(PCエンジンSUPER CD-ROM2、1994年9月23日発売、ソフィックス)
前作と同じデジタルコミック。原作のソウル五輪終了後から三葉女子短大の紫陽花杯優勝までの物語が収録されており、今作では伊東富士子の視点で物語が進む。また他に「対戦型の柔道アクションゲーム」「クイズ」「キャラクターデータベース」などのオマケモードも収録されている。主題歌は、OPが「YOU AND I」、EDが「いつもそこに君がいた」。
出典
| https://ja.wikipedia.org/wiki/YAWARA%21 |
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現在では肥満をはじめとして、糖尿病、高血圧、高脂血症などといった現代人を悩ます生活習慣病の根本的な背景メカニズムのひとつととらえられている。最先端の研究により複雑なホルモンやサイトカインのネットワークや脂肪細胞を介した発症と進展の病態生理が明らかになりつつある。
意義
メタボリックシンドロームの概念が確立したため難しいが(メタボリックシンドロームは、以前Defronzoらによりインスリン抵抗性症候群と言われていたものにも対応する)、基本的にはメタボリックシンドロームは、既にインスリン抵抗性を発症している人がさらに血圧、脂質プロフィールなどに異常をきたしはじめて診断されるものととらえることができる。したがって、これらの生活習慣病疾患群の背景広範に横たわるインスリン抵抗性という概念はいまでも有効な考えである。すなわち最終的に心筋梗塞や脳梗塞に至るのは、血圧や糖や脂質が直接の原因ではなく、このインスリン抵抗性が根本的な原因だとする考えである。しかし、日本人ではインスリン抵抗性がそれほど高くない2型糖尿病患者もかなり存在する[1]ことから、重要な指標ではあるものの、インスリン抵抗性だけではリスクを決めきれない。
飽和脂肪酸の多い食事はインスリン抵抗性を生じさせ、糖尿病の罹患が増加する可能性が示唆されている[2]。
原因
インスリン抵抗性は、過食、運動不足、肥満、加齢及びストレス等の環境因子と関連が深いとされている[3]。
肥満
肥満に見られるような過剰の脂肪の蓄積により脂肪細胞が肥大化すると、特に内臓に存在する脂肪細胞から遊離脂肪酸が遊離される。この脂肪酸の一部が骨格筋や肝細胞に運ばれ、骨格筋内へ運ばれた脂肪酸はタンパク質分子をリン酸化する酵素であるプロテインキナーゼCを活性化し、更にNF-κBに関連したIκBαのセリン残基をリン酸化する酵素複合体であるIκB kinase (IKK)が活性化されて、インスリン受容体基質であるIRS1タンパクのセリン残基をリン酸化する。この経路によってIRS1タンパクがリン酸化されると、正常なリン酸化過程が阻害され、結果的にIRS1以降のシグナルが伝達されず、インスリン依存のグルコーストランスポーターであるGLUT4を膜に移送できなくなる。GLUT4が機能しにくくなると、インスリンによりグルコースが細胞に取り込まれにくくなる。この状態がインスリン抵抗性となる[4]。
もう一つのメカニズムとし、脂肪細胞から単球走化性タンパク質であるMCP-1が遊離され、MCP-1は単球を引き寄せ、細胞外に出た単球は活性化されてマクロファージとなる。このマクロファージは脂肪細胞の周囲に集積し、ここから腫瘍壊死因子として知られるTNFαを分泌する。TNFαが受容体に結合するとセリン・スレオニンキナーゼであるJNK(c-Jun amino-terminal kinase)がインスリン受容体基質であるIRS1タンパクのセリン残基をリン酸化する。この経路でも上記メカニズムと同様にインスリン抵抗性となる。
また、TNFαは、GLUT4の発現を抑制する作用もある。TNFαのこれらの作用は著明なインスリン抵抗性を示す[4]。
さらに加えて、脂肪細胞から分泌されるアディポネクチンは、TNFαや遊離脂肪酸と異なり、インスリン受容体の感受性を上げるが、脂肪細胞の肥大化によりアディポネクチンの分泌が低下し、結果としてインスリン抵抗性を示す[4]。
運動不足
肝細胞は、食後直後に肝臓の重量の8 %(大人で100-120 g)までのグリコーゲンを蓄えることができる[5]。骨格筋中ではグリコーゲンは骨格筋重量の1-2 %程度の低い濃度でしか貯蔵できない。筋肉は、体重比で成人男性の42%、同女性の36%を占める[6]。このため体格等にもよるが大人で300g前後のグリコーゲンを蓄えることができる。グリコーゲンホスホリラーゼは、グリコーゲンをグルコース単位に分解する。グリコーゲンはグルコースが一分子少なくなり、遊離するグルコース分子は グルコース-1-リン酸となる[7]。グルコース-1-リン酸が代謝されるには、ホスホグルコムターゼによってグルコース-6-リン酸に変換される必要がある(詳細はグリコーゲンホスホリラーゼを参照のこと)。肝臓はグルコース-6-ホスファターゼを持ち、解糖系や糖新生でできたグルコース-6-リン酸のリン酸基を外すことができる。こうしてできたグルコースは血液中に放出され、他の細胞に運ばれる。グルコース-6-ホスファターゼは、グルコースの恒常性維持のための役割をもつ肝臓と腎臓で見られ、網状組織内部原形質の内膜に存在する(詳細はグルコース-6-ホスファターゼを参照のこと)。肝臓と腎臓以外の筋肉ではこの酵素を含んでおらず、グルコース-6-リン酸のリン酸基を外してグルコースに変換できないために細胞膜を通過することができず(詳細はグルコース-6-リン酸を参照のこと)、筋肉中のグリコーゲンは他臓器でグルコースとして利用することができず、筋肉自らのエネルギー源として使用される。経口的に摂取された糖の2-3割は骨格筋で利用されると言われているが、骨格筋の糖消費が十分でない場合には食後の血糖が上昇することとなる。このため、運動によるグリコーゲンの消費は骨格筋の糖取り込みを直接刺激するとともに、インスリン感受性も増強させる。また、継続的な運動により肥満が解消されれば、さらにインスリン抵抗性の改善につながる[8]。
病態
インスリン抵抗性の患者においては、以下のことが起こっていると考えられている。
インスリン抵抗性は高インスリン血症をきたす。高インスリン血症は以下の機序により生活習慣病の原因となる。
肝臓のVLDL産生増加をきたし、高中性脂肪血症をひきおこす。
腎尿細管へのインスリンの直接作用によりナトリウム貯留を引き起こし、これが水分を貯留し血糖値を下げる作用につながるが、水分の貯留により高血圧を発症させる[9]。
血管内皮細胞を増殖させ、アテローム性動脈硬化症を発症させる。
インスリン抵抗性患者においてサイトカイン、特に脂肪細胞の分泌するアディポサイトカインの異常が明らかとなってきている。すなわちアディポネクチンの低下と、TNF-α、PAI-1、レジスチンの増加である。
インスリン抵抗性の発現には腸間膜の脂肪沈着が重要といわれている。腸間膜脂肪組織で合成された脂肪酸は直接肝に送られ、肝での中性脂肪合成を促進する。
インスリン抵抗性の原因として、タンパク質折りたたみ異常によって生じる小胞体ストレスが原因として提唱され、注目を集めている。
1993年、Hotamisligilは肥満とインスリン抵抗性の間に炎症(TNFα)が介在することを発見し、その後、エネルギー過剰環境が、細胞レベルのストレス(核ストレス、ミトコンドリアストレス、小胞体ストレス)をもたらし、それが脂肪組織の炎症とインスリン抵抗性を通して全身に広がり、糖尿病と心臓血管病に至ることが解明されてきている。最近、特に重視されているのはマクロファージの脂肪組織への集積であり、これは動脈硬化におけるマクロファージの血管内膜への集積と通じるものがある。インスリン抵抗性、炎症、内皮機能障害は複雑に絡み合った病態であり、一面的にはとらえにくい。
検査
インスリン抵抗性の存在は、空腹時の高インスリン血症、または異常に多量の外因性インスリン投与によって示唆される。
定量的には、グルコースクランプ法が最も正確にインスリン抵抗性状態をはかることができる。SSPG (stedy state plasma glucose) 法も有用である。
外因性インスリン投与や内因性インスリン分泌を刺激する薬剤の投与が行われておらず、インスリン分泌能に支障がなければ、空腹時の血清インスリン値と空腹時血糖からインスリン抵抗性を推定できる。
HOMA-R指数(homeostasis model assessment ratio 、homeostasis model assessment as an index of insulin resistance (HOMA-IR)ともいう)も有効な予測値である。HOMA-R=IRI (μu/ml ) ×FPG (mg/dL)÷405が用いられる。量的インスリン感受性検査指数(quantitative insulin sensitivity check index)QUICKI index=1/{log insulin (µU/ml) + log glucose (mg/dl)}も用いられるが、ともに内因性インスリン枯渇や外因性インスリン投与においては利用されるべきではない。
治療法
インスリン抵抗性の原因は、相対的なエネルギー過剰状態であるから、治療は低カロリー食と運動である。体重減少が治療効果の指標として有用である。インスリン抵抗性改善薬にはPPAR-γ(ペルオキシソーム増殖剤応答性受容体γ)作働薬やビグアナイド系(BG薬)がある。
他に、ステビアの成分に改善作用があることが千葉大学の研究グループによって発表されたが、臨床的有用性は確立していない。
二次的にインスリン抵抗性を起こす病態
肥満
B型インスリン受容体異常症
妖精症
脂肪萎縮症候群
先端巨大症
クッシング症候群
原発性アルドステロン症
褐色細胞腫
肝硬変
その他…ストレス、感染、妊娠、内服ステロイド
脚注
関連項目
糖尿病
内臓脂肪症候群
メタボリックシンドローム
参考文献
イヤーノート内科外科等編 2007年版 メディックメディア ISBN 978-4-89632-150-0
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%B3%E6%8A%B5%E6%8A%97%E6%80%A7 |
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シャドー・バンキング・システム</b>および<b data-parsoid='{"dsr":[36,46,3,3]}'>影の銀行()は、金融安定理事会(Financial Stability Board)によると、銀行部門による与信活動を除いた信用仲介活動の総称である[1]。PIMCO取締役(Paul McCulley)により命名された。欧米の商業銀行が帳簿上の資産額を増やさずに稼げるよう開拓したビジネスモデルであり[2]、世界金融危機の中心となった[3][4][5][6][7][8][9]。
概要
シャドー・バンキング・システムの主体は銀行を除いた機関投資家であるが、世界金融危機に発展するシステミック・リスクをつくったノンバンクが特に問題とされる。たとえば投資にレバレッジをかけすぎたヘッジファンドや投資銀行である。そこへミューチュアル・ファンドが資金を供給し、また、証券会社が証券化商品を提供した。ブラジルは銀行がシャドー・バンキングから多額を借り、オランダは銀行がシャドー・バンキングへ多額を貸しつけ、イギリスでは銀行とシャドー・バンクが互いに多額の融資を交換していた[10]。金融危機調査委員会、いわゆる新ペコラ委員会(Financial Crisis Inquiry Commission)は、シャドー・バンキングと危機の関係を精査のうえ[11]、巨大なシャドー・バンキング・システムが大銀行を短期借りへ依存させたが、それを制限していれば危機は避けられたという見解を示した[12]。このような議論を受け、ドッド・フランク法とボルカー・ルールが策定・実施された。2018年春から、前者は改正され、後者は連邦準備制度が主導する形で、規制緩和が進んでいる。
世界金融危機で問題化したシャドーバンクは、総体として、1960-70年代JPモルガンなどの大銀行を中核とする独占的な機関化をアメリカ世論から批判された構造からの歴史的連続性・同一性が認められる。1980年代という機関投資家の隆盛期に、プルデンシャル・ファイナンシャルなどが預金保険をシャドー・バンキング・システムに適用せよと主張していた。日本は2013年に適用した[13]。世界金融危機のころ中華人民共和国では、理財商品や信託の形を取って集めた資金を影の銀行がロールオーバーして貸し付けていた。これが2013年ごろ不良債権化しており、経済問題として注目された[注釈 1]。新サービス貿易協定(Trade in Services Agreement)は、シャドー・バンキング・システムを拡大させるものとみられる[14]。
レポ市場で債券のフェイルを防ぐため、シャドー・バンキング・システムは手数料を稼ぎたい清算銀行を中心に、ときとして債券を買い占める機関投資家を序列化し、同時に裾野を広げてきた。量的金融緩和政策で市中の債券が不足したこともシステムの成長に拍車をかけた。2015年以降は各国で売りオペ論が強まって(いわゆる出口戦略)、システムへ中央銀行が取り込まれようとしている。
2007年10月、バンク・オブ・ニューヨーク・メロン(BNYメロン)がゴールドマン・サックス・ジャパンと三井住友銀行(SMBC)から日本国債のトライパーティー(Tri-Party)買い戻し条件付き合意のコラテラル・エージェントに選ばれた。証券の貸し手であるゴールドマン・サックスと借り手のSMBCを仲介する、担保取り扱い機関となったのである。日本の2社が国内で初めて日本国債レポ取引の履行にトライパーティー構成を利用した。BNYメロンの日本以外の顧客が行う、ストックローン、デリバティブ取引、株式を含む担保保証取引や、外国人保有の日本国債を含む確定利付きレポ借入は、トライパーティー構成で支援されることになった。[15]
分析
シャドー・バンキング・システムは自身の金融仲介機能を市場型間接金融であると主張する。これは預金保険を受けるための議論である。しかし、「大きすぎてつぶせない(Too big to fail)」シャドー・バンキング・システムは機関化の結果である。その機関化をアメリカで批判されながら推進してきたのは大銀行である。大銀行は、シャドー・バンキングの直接金融性を知りながら、系列であるシャドー・バンキングの実態を間接金融へ近づけ、しかもシャドー・バンキングへ資金を供給してシステミック・リスクを共有した。これら自ら招いた状況を理由として、預金なみに保護せよと主張させるのである。
銀行とシャドー・バンキングは密接な取引関係にある。たとえば銀行はヘッジファンドの保有資産を管理し、取引を実行している。レポ取引の相方もつとめる。特にレポ貸出を回収できない場合、ファンドの経営難は銀行に連鎖する。[2]
シャドー・バンキング・システムは4つの仕組みを柱としている[16]。
一つは国際通貨市場である。CHIPS、国際銀行間通信協会、そしてユーロ市場が整備されると、コマーシャル・ペーパー、マネー・マーケット・ファンド(MMF)、そして変動利付債の流通が促進された。間接金融ばなれは国際通貨市場から起こったのである。アジア通貨危機とロシア財政危機が起こっても、シャドー・バンキング・システムは成長した。それは短資の国際移動をたすけ、さらにMMF・証券化・店頭デリバティブをつかったレバレッジをかけ、即時グロス決済で国際銀行間取引市場を拡大した。[16]
危機までのMMFは預金並みに換金が容易であったが、リーマン・ショックのとき取り付けがおこった。MMFは日本でこそなじみが薄いが、欧米では身近で残高も大規模であった。MMFは危機の説明に不可欠な世界的観点である。MMFにとらわれず付言しておくと、リーマン・ブラザーズのシャドー・バンキングは野村証券とバークレイズが承継した。
二つ目と三つ目はレポ取引と証券化である(OTD金融を参照)。MMF、ヘッジファンド、ファイナンス・カンパニーは、国際銀行ネットワークの手足となって、保有する資産担保証券の買戻し条件付売却(レポ借入)を行い資金を調達した。無担保のユーロ債はクレジット・デフォルト・スワップで証券化された。この証券化は、オイルショックのとき対外債務を抱えたラテンアメリカ諸国が1982-7年に財政破綻し、ブレイディ債からユーロ債への借換が進んだことを契機としている。[16]
四つ目は店頭デリバティブである。店頭デリバティブは、これまでに列挙した三つの仕組みを利用してシステミック・リスクを分散し、四つの仕組みを強固に結合させる。システミック・リスクは、デリバティブのバリエーションによって拡大した。[16]
レポ市場
レポ取引(Repurchase agreement)とは、売り/買い戻しの条件付で行う債券売買である。レポ取引で債券を売る場合は、その債券を担保として資金を調達しているのと同じである。逆に、買い手は現金を担保としてその債券を借りているのである(リバース・レポ)。レポ市場は銀行間取引市場と並ぶ短期金融の要である。取引される債券は国債であることが多い。レポ取引は、証券会社が在庫の国債を一時的に他の金融商品へ交換したり、オイルショック以降には国債を空売りしたりする目的でも利用されている。債券を借りている側がその債券を保有していないと、戻しの履行に困ってしまう(フェイル)。[17]
アメリカのレポ市場にはすでに100年にわたる歴史がある。1920年代以降、連邦準備制度はレポ市場を公開市場操作の対象としてきた。連邦準備銀行とレポ市場との関係は、大恐慌と第二次世界大戦によっていったん途切れたが、1951年の「アコード(Accord)」以降から再び復活した。欧州では1973年にドイツ連邦銀行が為替手形を利用したレポ取引を初めて行った。1980年代に入ると、欧州で活動する米国投資銀行によってレポ取引が欧州市場に持ち込まれた。[18]
レポ市場に関する情報や研究は21世紀でなお断片的である。2008年に国際決済銀行が、世界金融危機手前数年間について一定の調査結果を残している。アメリカのプライマリー・ディーラーと銀行持株会社から情報収集した結果、レポ取引の中心は大手投資銀行と大手銀行であることが分かった。アメリカでは前者が総取引の約2/3、後者が1/3を占めている。そして2000年代に入ってから欧州レポ市場の拡張ペースはアメリカのそれを上回っている。2000年代に(世界の)レポ市場は急激に膨張したが、第一の理由はディーラーとなる銀行がレポ取引を利用することでレバレッジを操作できたからである。同一の担保が平均3回もディーラーの簿外取引として再利用され、シャドー・バンキング・システムの規模を過小評価させてきた。[18]
レポ取引は仲介機関を通さないのが伝統であった。1970年代にソロモン・ブラザーズが、エージェント銀行あるいは清算銀行(クリアリング・バンク)が仲介するトライパーティーという仕組みをレポ市場にもちこんだ。1984-85年にかけて(ジャンク債市場に)発生したブローカー・ディーラーの破綻を契機に、トライパーティー・レポが広まるようになった。マネー・マーケット・ファンドがヘビー・ユーザーとなった。アメリカのトライパーティー・レポは、財務省証券、政府系住宅公社関連証券など、連邦準備銀行の担保適格証券が全体の82.7%を占めている。ユーロ圏のレポ市場では、担保証券の2/3がユーロ参加国が発行する国債である。[18]
近年アメリカのトライパーティー市場では、JPモルガン・チェースとバンク・オブ・ニューヨーク・メロンが清算銀行を担当している。トライパーティー市場については、2010年ニューヨーク連邦準備銀行が調査結果を報告している。この市場は、国内のプライマリー・ディーラーが大口の短期資金を調達するためにもっとも活発に利用する市場で、市場規模はピーク時で2.8兆ドルに達している。リーマン・ショックの後、この市場での資金調達を続けていたのはプライマリー・ディーラーを含めて40社余りであった。その中で上位5社が全取引の57%を占め、上位10社では88%を占めていた。[18]
脚注
注釈
出典
外部リンク
小立敬 「」 金融庁金融研究センター 2013年7月 必要な観点を61ページにわたる分量で網羅した資料
Financial Stability Board, "", 12 November 2015. 11頁の円グラフから、各国のシャドー・バンキング資産が全体に占める割合を読みとれる。2010年末、アメリカ41%、イギリス13%、アイルランド7%、ドイツ7%、日本10%、フランス6%、中国2%、カナダ2%であった。2014年末、アメリカ40%、イギリス11%、アイルランド8%、ドイツ7%、日本7%、フランス4%、中国8%、カナダ3%であった。プライムMMF規制の影響がみられる。
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0 |
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緑柱石(りょくちゅうせき、、ベリル)は、ベリリウムを含む六角柱状の鉱物。金属元素のベリリウムの名前は、この中から発見されたことに由来する。透明で美しいものはカットされて宝石になる。
宝石名と色、主な発色元素
ベリル
無色〜淡青〜淡緑 - ベリリウム
アクアマリン (aquamarine) / ブルーベリル (blue beryl)
淡青 - 鉄 (Fe2+)
サンタマリア (santamaria) / サンタマリアアフリカーナ (santamaria africana)
青 - 鉄 (Fe2+)
アクアマリンのうち青が濃いものを、かつての産出地であったブラジルのサンタマリア鉱山にちなんでこう呼ぶことがある。同山の石はすでに枯渇したが、現在他鉱山でも同様の石が発見されておりそれらもこう呼ばれる。
エメラルド (emerald)
緑〜淡緑 - クロムあるいはバナジウム
グリーンベリル (green beryl) / ミントベリル (mint beryl) / ライムベリル (lime beryl)
黄緑 - 鉄 (Fe2+, Fe3+)
アクアマリンは2価鉄イオン(Fe2+)によるものだが、この種は3価鉄イオン(Fe3+)と混成している。加熱処理によりアクアマリンへと変化する。
ヘリオドール (heliodor) / ゴールデンベリル (golden beryl)
黄色 - 鉄 (Fe3+)
ギリシア語で「太陽」「太陽への捧げ物」を意味し、呈色は鉄に由来する。3価鉄イオン(Fe3+)のみによる発色で、加熱処理によりアクアマリンへと変化する。イエローベリルとも呼ばれる。アクアマリンとともに産出する[1]。
モルガナイト (morganite) / ピンクベリル (pink beryl)
淡赤 - マンガン
レッドベリル (red beryl) / ビクスバイト (bixbite)
赤 - マンガン
ゴシェナイト (goshenite, colorless beryl)
無色 - アルミニウム
純度が高く無色のベリルのことを特にこう呼ぶ。ゴーシェナイトとも呼ばれる。名前は、最初に発見されたアメリカのマサチューセッツ州ハンプシャー郡ゴーシェン(Goshen)に由来する。純粋な無色で産出することは少なく、殆どが他色が混じって採掘される[2]。
マシシ (maxixe)
濃青(サファイアブルー) - 鉄 (Fe2+, Fe3+)
ブラジルのミナスジェライス州にあるマシシ鉱山に産したことから名付けられた。サンタマリアよりさらに濃く、紺に近い青を呈するが、紫外線による退色が著しく、ひどい場合は室内照明下においても数時間で退色する。退色した後の石の色はヘリオドールやグリーンベリルと同じである。1975年にヘリオドールやグリーンベリルにX線や中性子を照射することで、この種に酷似した濃青の石が得られることがわかった。
アクアマリン
エメラルド
ヘリオドール
モルガナイト
レッドベリル
ゴシェナイト
「緑柱石」と「ベリル」
宝石質の緑柱石を表す言葉として「ベリル」が使われることがある。英語圏で Beryl という単語は緑柱石という鉱物を指すが、宝石名として鉱物名と区別せずに用いられることがあるため、それが海外から流入し、「ベリル」が宝石質の緑柱石をさす言葉として、定着したものと考えられる。ベリル(宝石質の緑柱石)は緑から青の色の帯域を持つ。
脚注
関連項目
鉱物 - ケイ酸塩鉱物
鉱物の一覧
宝石、宝石の一覧
ベリリウム
参考文献
松原聰 『フィールドベスト図鑑15 日本の鉱物』 学習研究社、2003年、ISBN 4-05-402013-5。
国立天文台編 『理科年表 平成19年』 丸善、2006年、ISBN 4-621-07763-5。
外部リンク
(mindat.org)
(webmineral.com)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E6%9F%B1%E7%9F%B3 |
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マリアナ海溝(マリアナかいこう、Mariana Trench)は、北西太平洋のマリアナ諸島の東、北緯11度21分、東経142度12分に位置する、世界で最も深い海溝である。太平洋プレートはこのマリアナ海溝においてフィリピン海プレートの下にもぐりこんでいる。北西端は伊豆・小笠原海溝、南西端はヤップ海溝に連なる。
マリアナ海溝の最深部はチャレンジャー海淵と呼ばれている。その深さについてはいくつかの計測結果があるが、最新の計測では水面下10,911mとされ、地球上で最も深い海底凹地(海淵)である。これは海面を基準にエベレストをひっくり返しても山頂が底につかないほどの深さで、地球の中心からは6,366.4km地点にある。
マリアナ海溝の最深部分における水圧は実に108.6MPa(1cm²に1,086kgの重さがかかる)にのぼる。この環境に完全に適応した生物もおり、例えば細菌のMoritella yayanosii は50MPa以下の圧力では増殖できない絶対好圧性細菌である。
調査の歴史
マリアナ海溝の測深は、イギリスのチャレンジャー号探検航海 (1872 – 1876) の海洋調査によって初めて行われた。1875年、このときの測鉛線による測深記録は、8,184mであった。当時の最深を記録したこの地点は、現在のチャレンジャー海淵であった[1]。1899年、調査船USS Neroは、9,636mを記録した[2]。
日本によるマリアナ海溝の調査は、20世紀に入って行われた。1925年、日本の測量船「満州号」が重りのついたケーブルをおろして測定する方法(鋼索測深)により水深9,814mを記録した。
その後、マリアナ海溝の本格的な深度調査を行ったのはイギリス海軍の測量船「チャレンジャー8世号」である。1951年にチャレンジャーが測定に成功した最深部分はその名にちなんで「チャレンジャー海淵」と呼ばれることになった。このとき、チャレンジャーは反響した音波を測定する方法(音響測深)で北緯11度19分、東経142度15分において水深10,900mを記録した。その後、手動計測による誤差を除去したことにより、現在ではより厳密な10,863mという値に修正されている。
1957年、ソ連海軍艦艇「ヴィチャージ」が深度11,034mの計測に成功したと発表し、「ヴィチャージ(ビチアス)海淵」と名づけた。この記録は長らくマリアナ海溝の深度の公式記録とされていたが、その後何度調査を行ってもこれほどの深度は測定されなかったため、現在ではこの記録の正確性に疑問が持たれており、公式記録としては認められていない。
1960年1月23日、アメリカ海軍の協力のもとに開発された潜水艇「トリエステ号」がマリアナ海溝深部を目指した。到達した深度については諸説あり、確証が得られていない。二人は海溝の底に到達したといい、その時バチスカーフ内部の水深計が示していたのは37,800ft (11,521m)(後に35,800ft (10,912m)と修正)だったと主張している[3]。
1962年には調査船スペンサー・ベアード号が水深10,915mを記録した。
1984年に日本の調査船「拓洋」が最新式のナローマルチビーム測深機を用いて測定を行い、10,924m(厳密には10,920m±10m)という値を得た。
1995年5月に日本の無人探査機「かいこう」が水深10,911mを記録した。
2009年5月アメリカのウッズホール海洋研究所の無人探査機Nereusが10,902mに到達した。
マリアナ海溝に挑んだ潜水艇
トリエステ
スイスで設計され、イタリアで建造されたアメリカ海軍のバチスカーフの「トリエステ」はジャック・ピカール(父のオーギュスト・ピカールの設計助手でもある)とアメリカ海軍のドナルド・ウォルシュ中尉の操船により1960年1月23日、海底に降下した[4]。バチスカーフは鋼鉄の重りとガソリンの浮力装置を用いて深度を調整できるよう設計されていた。二人は人類の到達した最深記録を達成した。さらに二人は海溝の底でヒラメやエビなどの生物が生息しているのを発見して驚いたという。海底まで4時間48分かかり、20分間滞在して3時間17分かけて浮上した。彼等が測定した深度は10916mだった[4][3]。
かいこう
1995年、3月24日、日本の遠隔操作無人潜水機である「かいこう」がチャレンジャー海淵の最深部に到達した。日本の海洋開発機構 によって開発されたその装置は6000m以上潜水可能な数少ない無人潜水機である。潜水記録は音響探査によりそれまでチャレンジャー海淵の最も深い場所と信じられていた35,797ft (10,911m)だった[5]。「かいこう」は同様にマリアナ海溝で1995年から1998年にかけて3回の遠征で多くの潜水を行った。
ABISMO
かいこう</i>の後継機として製造されたABISMOが2008年6月3日にチャレンジャー海淵で最大潜航深度10,258mを達成した[6]。
ネーレウス
2009年5月31日、ハイブリッド式遠隔操作無人潜水機 (HROV) であるアメリカウッズホール海洋研究所の「ネーレウス」はチャレンジャー海淵に潜水した[7]。
計画主任で開発者のAndy Bowenは成果について「海洋探査の新しい時代が開幕した」と述べた[7]。「ネーレウス」は「かいこう」とは異なり、水上の母船からのケーブルによる電力供給や制御を必要としない[8]。
「ネーレウス」は10時間以上チャレンジャー海淵の海底に留まり深度10,902m (35,768ft) を測定してその間、母船であるRV Kilo Moanaに実時間映像とデータを送り、より詳しい化学分析のために海底でマニピュレータで採取された地質学上と生物学上の試料を海上に持ち帰った[9][7][10][11]。
ディープシーチャレンジャー
2012年3月26日(チャモロ標準時、以下注記のないものは同様)、映画監督のジェームズ・キャメロンは一人乗りの潜水艇「ディープシーチャレンジャー」(全長7m、重量約12トン)に搭乗し、約2時間をかけて深さ10,898mへの潜行に成功した[12][13][14][15][16]
。有人でのチャレンジャー海淵への潜行は「トリエステ」以来52年ぶりで、単独での潜行は初となる。
3月26日05:15頃(UTC3月25日19:15)に降下を開始した[17]。
07:52(UTC21:52)に<i data-parsoid='{"dsr":[8496,8509,2,2]}'>チャレンジャー海淵</i>の海底に到達した。降下時間は2時間36分で記録された水深は<i data-parsoid='{"dsr":[8538,8551,2,2]}'>チャレンジャー海淵</i>に着地した時の10,898.4 metres (35,756ft)だった[18]。
キャメロンはおよそ6時間近くを海底付近の調査に費やす予定だったが、わずか2時間34分後に海面への浮上を開始した[19]。海底での滞在を切り上げた理由はマニピュレータアームを制御する油圧配管から油が漏出した事で観測窓からの視界が遮られたからである。同様に潜水艇の右の推進器が失われた[20]。12:00(UTC3月26日02:00)頃にディープシーチャレンジャーのウェブサイトは90分かけて海面に浮上したと伝えたが[21]、ポール・アレンのツイートによると浮上の所要時間はわずかおよそ67分だったとされる[22]。
脚注
関連項目
伊豆・小笠原海溝
ヤップ海溝
フィリピン海溝
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8A%E6%B5%B7%E6%BA%9D |
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概要
漢の高祖のとき、魏郡が立てられた。前漢の魏郡は冀州に属し、鄴・館陶・斥丘・沙・内黄・清淵・魏・繁陽・元城・梁期・黎陽・即裴・武始・邯会・陰安・平恩・邯溝・武安の18県を管轄した。王莽のとき、魏城郡と改められた[1]。
後漢が建てられると、魏郡の称にもどされた。後漢の魏郡は鄴・繁陽・内黄・魏・元城・黎陽・陰安・館陶・清淵・平恩・沙・斥丘・武安・曲梁・梁期の15県を管轄した[2]。213年(建安18年)、曹操が魏公となると、河東・河内・魏・趙・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原の10郡を封とする<b data-parsoid='{"dsr":[679,687,3,3]}'>魏国</b>が立てられた。魏郡は東西2部に分けられて、都尉が置かれた[3]。
晋のとき、魏郡は司州に属し、鄴・長楽・魏・斥丘・安陽・蕩陰・内黄・黎陽の8県を管轄した[4]。
北魏の天興年間、魏郡は相州の属郡とされた。
東魏のとき、鄴に首都が置かれたことから、魏郡は<b data-parsoid='{"dsr":[921,929,3,3]}'>魏尹</b>と改められ、鄴・臨漳・繁陽・列人・昌楽・武安・臨水・魏・平邑・易陽・元城・斥章・貴郷の13県を管轄した[5]。
北周のとき、魏郡は再び相州に属した。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、魏郡は廃止されて、相州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、相州が魏郡と改称された。魏郡は安陽・鄴・臨漳・成安・霊泉・堯城・洹水・滏陽・臨水・林慮・臨淇の11県を管轄した[6]。
618年(武徳元年)、唐により魏郡は相州と改められ、魏郡の呼称は姿を消した[7]。
脚注
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麦粒腫(ばくりゅうしゅ、Stye)とは、まぶたにあるマイボーム腺やまつ毛の根もとの脂腺の急性化膿性炎症。主に黄色ブドウ球菌の感染を原因とし、まぶたの裏側などが腫れて痛む病気。俗称は<b data-parsoid='{"dsr":[499,510,3,3]}'>ものもらい、めばちこ</b>など。マイボーム腺にできるものを<b data-parsoid='{"dsr":[537,547,3,3]}'>内麦粒腫、まつ毛の根もとにできるものを<b data-parsoid='{"dsr":[562,572,3,3]}'>外麦粒腫</b>という。
多くは1-3週間で自然治癒する[1]。患部は潰さず、一般に布を湯に浸した温湿布をあて毎日3-4回、毎回10-15分行う[2][1]。
症状
化膿によるまぶたの炎症による痛みやかゆみを伴うが、失明などの重篤な症状に繋がる事はほとんどなく、予後も比較的良好である。そのまま安静にしておいても自然に治癒する場合があるが、化膿が悪化した場合には切開による膿の排出を必要とする場合があるので、腫れがひどく治まらないような場合には眼科を受診する事が勧められる。「ものもらい」などの名前から伝染病のような印象を受けるが、他者に伝播する危険性は低い。しかし、細菌感染であるため何らかの理由で細菌が目に入った場合には感染する可能性はある。
獣医学領域では老犬や馬に認められる。
治療
米国皮膚科学会によれば、1-3週間で自然治癒する[1]。清潔に保ち触れたり擦ったりせず、眼の周辺の化粧やコンタクトレンズを避け、感染が拡大しないよう潰さないこと[1]。医師の診断が必要となるのは、痛みや腫れの悪化、病変が増えたとか、発熱(感染の症状)したり視力に影響がある場合となる[1]。
患部が自然に破れるまで待つこと[2]。瞼をベビーシャンプーのような低刺激の石鹸で洗う[3]。眼にエリスロマイシン(抗生物質)を1日2回使うことがあるが、使用による利益を示す確かな証拠はない[3]。
米国皮膚科学会によれば、自宅療養は布を温水に浸した温湿布をする、病変部に当て、膿みが出てくるまで毎日3-4回これを行う[1]。痛みにはアセトアミノフェンやイブプロフェンが使える[1]。
破裂時に皮膚に感染した場合、抗生物質を服用したり、抗生物質の軟膏を使うことがある[2]。長引くものは医師が切開することもある[1]。そうした懸念がなく、感染性でない炎症であれば抗生物質は不要である[3]。
抗生物質には、エリスロマイシン、クロラムフェニコール、アモキシシリンなどが使われる。結膜炎などにも使われるモキシフロキサシンが使われることもある。処方箋がいらない薬としては、バシトラシン Bacitracin zinc が使われる。
日本での呼び名
日本語での呼び名には、ものもらい(関東など)、めばちこ(大阪など)、め(い)ぼ(京都など)、めっぱ(北海道など)、めこじき、めんぼう、めぼいと</b>など地方によって様々な形が存在する。希な用例としては<b data-parsoid='{"dsr":[2516,2524,3,3]}'>ばか(宮城県)、いぬのくそ(佐賀県)、おひめさん(熊本県)などもある。
「ものもらい」や「めこじき(めかんじん)」の呼び名は、かつての日本に他人からものを恵んでもらうとこの病気が治癒するという迷信が存在したことに由来する。「めばちこ」は、この病気の患者が目をぱちぱちさせる様に由来するのではないかと推測されている。
ロート製薬が2004年に全国調査を行っており、集計結果をウェブサイトで公表している[4]。
出典
佐藤亮一監修『方言の読本』54頁(小学館、1991年)
- 日本経済新聞
関連項目
霰粒腫
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A6%E7%B2%92%E8%85%AB |
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冷戦(れいせん、、)もしくは<b data-parsoid='{"dsr":[671,682,3,3]}'>冷たい戦争(つめたいせんそう)は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国のアメリカを盟主とする資本主義・自由主義陣営と、東側諸国のソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造。米ソ冷戦</b>や<b data-parsoid='{"dsr":[831,841,3,3]}'>東西冷戦</b>とも呼ばれる。
語源
1945年から1989年までの44年間続き、アメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。「冷戦」という語は、ジョージ・オーウェルがジェームズ・バーナムの理論を評した時に使っており[1][2][3]、後にバーナード・バルークも使い[4]、アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。
各陣営とも構成国の利害損得が完全に一致していたわけではなく、個別の政策や外交関係では協力しないこともあったなど、イデオロギーを概念とした包括的な同盟・協力関係である。
概要
冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする<b data-parsoid='{"dsr":[1645,1657,3,3]}'>共産主義陣営</b>が東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした<b data-parsoid='{"dsr":[1715,1727,3,3]}'>資本主義陣営</b>が西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体の結成へ向かった。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったため、「ヤルタからマルタへ」ということもいわれる。
ヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているがために経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。
アメリカ陣営とソ連のどちらにも与しない国家は「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せることで多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行われた。また、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。なお、経済発展が進んだ開発途上国が「第三世界」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「第四世界」と呼ばれることもある。
この冷戦時代の世界は、
秩序が長きに亘って固定されており、変化が少ない
「質より量」が重視される大量生産社会
核すなわち原子力がものをいうテクノロジー
の3点に特徴付けられる。最終的には1991年に東側諸国の盟主であったソビエト連邦が消滅したことにより、日米西欧をはじめとする西側陣営の勝利に終わった。冷戦が終わると、リーマン・クライシスが引き金となった2008年の世界金融危機までは、米国が唯一の超大国として君臨していた。しかし、2008年以後の世界は、冷戦体制や米国一極体制によって抑えられてきた民族紛争や地域紛争が続発し、かつ冷戦体制や米国一極体制に基づく価値観が破綻を見せ、変化が多くなって流動性を増している。
冷戦の展開
起源(1945年-)
冷戦の始まりは、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図はヤルタ体制に求められる。主に欧州の分割を扱った、1945年2月のアメリカ・フランクリン・ルーズベルト、ソ連・ヨシフ・スターリン、イギリス・ウィンストン・チャーチルによるヤルタ会談が、第二次世界大戦後の世界の行方を決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。
1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共・封じ込め政策」につながった。
戦争によって大きな損害を蒙っていた欧州諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。特にフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義と自由主義の二つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化した。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義に至る多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、ユーゴスラビアとアルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中のパルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、1948年のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、自主管理社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。
枢軸国の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。
ポーランド問題
ヤルタ会談の焦点の一つがポーランド問題であった。米英にとって、第二次世界大戦に参戦した直接的理由がナチス・ドイツのポーランド侵攻であり、ソ連にとって安全保障の観点から自国に友好的な政権がポーランドに樹立されることが望まれていた。いみじくもスターリンがミロヴァン・ジラスに述べたように、ポーランド問題とは、領土問題であると同時に政権問題という位相を含んでいた点で、第二次世界大戦の性格を如実に表象していた。
またポーランドがソ連軍によって解放されたことで、戦後のポーランド政治に対して、ソ連の影響力が大きくなる要因となった(敵国から解放した国家が占領において主導権を握るという「イタリア方式」がここでも作用していた)。ヤルタ会談で、米英はスターリンにポーランドでの自由選挙の実施を求め、同意を取り付けたが、スターリンが語ったとされるように、米英にとって「名誉の問題」である一方で、ソ連にとってポーランド問題とは「安全保障上の死活的問題」であったため、スターリンは強硬な姿勢を採った。
ルーズベルトの死後大統領に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知り、国連創設会議のため訪米中のソ連の外相ヴャチェスラフ・モロトフに対し抗議した。その後、アメリカとソ連は、対立するようになる(選挙が決まるまでの過程は、ヤルタ会談の「ポーランド問題」を参照のこと)。
ベルリン問題
ドイツの首都ベルリンは、その国土同様、4国で分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に島のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における通貨改革への対抗措置として、1948年に西ベルリンへ繋がる鉄道と道路を封鎖した(ベルリン封鎖)。これに対抗するため、西側連合国は物資の空輸を行って、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。
冷戦のグローバル化(1949年-1955年)
冷戦は地球の反対側でも米ソが向き合うため、周辺のアジアにも強い影響を与えた。中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党と中国共産党が内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連と連合した。一方、中国国民党は台湾島に逃れ、アメリカの支援の下大陸への反攻を狙った。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立した。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国が1924年に成立していたが、戦後になって米英仏等が承認した。
日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。
フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、アメリカ合衆国は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、アメリカ合衆国の傀儡の軍事政権が統治する南ベトナムを建国した。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。
これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に一国占領していた旧敵国日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約 (ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構 (SEATO) を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。
このように冷戦が進む中、1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務めるジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府やアメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。
1950年代にアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア・太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていた。
主な出来事
第一次インドシナ戦争(1946年-1954年)
国共内戦(1946年-1950年)
第一次中東戦争 (1948年-1949年)
朝鮮戦争(1950年-1953年)
カタリナ事件(1952年)
雪どけ(1955年-1958年)
1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、1955年にはNATOに対抗するワルシャワ条約機構が結成、オーストリアは永世中立が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。またジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが国交樹立、ソ連は翌年に日本とも国交を回復し、1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「雪どけ」ムードを演出した。
この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。スターリンの後継者争いを勝ち抜いたフルシチョフは、1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行った。この演説の反響は大きく、ソ連の衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。ポーランドでは反ソ暴動に次いで、国民の人気が高かったゴムウカが党第一書記に就き、ソ連型社会主義の是正を行った。ポーランドの動きに触発される形で、ハンガリーでも政権交代が起こり、ナジ・イムレが政界に復帰したが、国民の改革要求に引きずられる形で、共産党体制の放棄、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立化を宣言するに至り、ソ連軍の介入を招いた(ハンガリー動乱)。
一方、中華人民共和国はスターリン批判に反発した。1960年代にはキューバ危機や部分的核実験禁止条約でしばしば対立、ダマンスキー島事件などの国境紛争を起こすに至った。
主な出来事
スエズ戦争(1956年)
ハンガリー事件(1956年)
スプートニク打ち上げ成功(1957年) →スプートニク・ショック
ミサイル・ギャップ論争
危機の時代(1958年-1962年)
互いを常に「仮想敵国」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発競争である。両陣営は、目には目を、核には核を、との考え方からそれぞれ核兵器を大量に所持するようになる。また、大陸間弾道ミサイルと共通の技術をもつロケットやU-2などの高高度を飛行する偵察機、宇宙から敵を監視するための人工衛星の開発に没頭し、国威発揚のために有人宇宙飛行と月探査活動を活発化した。
しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。特に1962年のキューバ危機によって、米ソの全面核戦争の危機が現実化したため、翌年から緊張緩和の外交活動が開始されるようになったのである。
その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする、代理戦争と呼ばれた。また、キューバ危機を契機に「アメリカの裏庭」と呼ばれる中南米諸国に対する影響力を得ることを企てたソ連の動きに対し、アメリカはブラジルやボリビア、ウルグアイなど各国の親米軍事独裁政権への肩入れと共産勢力の排除を行い、その結果共産勢力の排除に成功した。しかし、その後冷戦終結までの永きにおいて、これらの中南米諸国では軍事政権による内戦や汚職、軍事勢力同士によるクーデターが横行し、民衆は貧困にあえぐことになる。
ベルリン危機(1958年-1961年)
1949年以降、分断状況が既成事実化しつつあったドイツ問題が暫定的な形とはいえ、「解決」を見たのが、1958年から始まったであった。当時、東ドイツにおける過酷な社会主義化政策によって、熟練労働者や知識人層における反発が高まり、その多くが西ベルリンを経由して、西ドイツへと逃亡した。社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせたウルブリヒトは、ドイツ問題の解決をフルシチョフに訴えるとともに、西側との交渉が挫折した際には、人口流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。フルシチョフの要求に対し、西側陣営は拒否の姿勢を貫いたため、1961年8月に、西ベルリンを囲む形で鉄条網が敷設され、後に壁へと発展した()。この当時、ベルリン市長を務めていたのが、1969年に首相として東方政策を推進したヴィリー・ブラントであった。彼の東方政策の背景には、ベルリン危機の経験が反映されていた。
主な出来事
中台危機(1958年)
U-2撃墜事件(1960年)
キューバ危機(1962年)
冷戦の変容(1963年-1968年)
キューバ危機によって核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約、ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約は中国・フランスが反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となった。
米ソ両国の軍拡競争が進行し、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。第二次世界大戦終結時はアメリカ合衆国以外の主要な交戦国は戦災で著しく疲弊していたので、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は突出して大きかったが、戦災から復興した日本や西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は相対的に減少した。
チェコスロバキアはプラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。
なお、ニコラエ・チャウシェスク率いるルーマニア社会主義共和国はワルシャワ条約機構加盟国でありながらソ連の介入を公然と批判して独自路線を行い、アメリカなど西側諸国から巨額の援助を受けた。また、アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、中華人民共和国はリチャード・ニクソンの訪中を契機にアメリカに近づいてソ連と決別、北朝鮮は主体思想を掲げてソ連から離反した。イタリア、スペイン、日本など西側諸国の共産党のうちいくつかはソ連型社会主義に反発し、ソ連の影響から離脱した(ユーロコミュニズム)。こうして今に至る共産主義の多極化が起こった。
主な出来事
ベトナム戦争(1960年-1975年)
チェコスロバキアのプラハの春(1968年)
中ソ対立(1960年代-1989年)
デタントの時代(1969年-1979年)
1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉 (SALT) を開始、1972年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。一方、ソ連を牽制すると同時に、東アジアの平和を樹立することを狙い、リチャード・ニクソンが1972年に中華人民共和国を訪問し、中華人民共和国を承認して外交と貿易を開始し、東アジアにおける冷戦の対立軸であった米中関係が改善、1972年には日本が中華人民共和国と国交正常化した。また、1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。アメリカは建国以来初の敗北を味わうことになった。その後1975年4月に南ベトナムの首都であるサイゴンは北ベトナムの手に落ち、同時にラオス、カンボジアでも共産主義勢力が政権を獲得し、インドシナ半島は完全に赤化された。
一般市民の日常生活や仕事に役立つ多種多様な商品やサービスが開発・供給され、世界の経済、財政、貿易、投資、通貨発行は著しく拡大したので、金本位制と外国為替の固定相場制の維持が不可能になり、管理通貨制度と変動相場制に移行した。
ヨーロッパでは、1969年に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また1972年に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、1975年に欧州安全保障協力会議の成立に繋がった。しかし核を削減する一方、ソ連は1977年から中距離弾道ミサイルを配備した。これに対抗し、アメリカは1979年12月に中距離核戦力 (INF) を西欧に配備すると発表した。また同じ月にソ連がアフガニスタンに侵攻したため、東西はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。
一方アフリカでは、1978年からエチオピアとソマリアの間でオガデン戦争が起こっていたが、エチオピアが1974年の軍事クーデターで社会主義を宣言したため、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカが支援した。アンゴラは1975年の独立直後から3つの武装勢力が対立し内戦となり、これに南アフリカとキューバが介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼となった。
また、ソ連は1970年代に世界的に勢力を伸ばし、統一ベトナム、カンボジア、ラオス、エチオピアの共産主義政府と協力関係を築き、アンゴラ、モザンビーク、南イエメンでは共産主義勢力に加担して紛争に介入した。ほかにビルマ、アルジェリア、コンゴ、イラクといった、アメリカが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。ソ連の影響力は1980年代にかけて第三世界に広がった。
新冷戦(1979年-1985年)
1978年に成立した共産主義政権を支えるために、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックの西側ボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。またアメリカはCIAやチャールズ・ウィルソンらによる総額数十億ドル規模の極秘の武器供給などによる支援にて[5]アフガニスタンの反共勢力「ムジャヒディン」を援助した。また、ソ連と対立する中国も毛沢東主義者のアフマド・シャー・マスードを支援して、これに対抗した。戦争を短期で終結させるソ連の目論見は外れ、侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。
人々は、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別にもう一つの勢力があることに気が付き始めた。それはイスラム主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してアメリカ大使館が1年余りにわたり占拠されるなど、米ソに新たなる敵をもたらすこととなった。この際、アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した(イーグルクロー作戦)。
このイラン革命によって中東は動揺し、1980年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。米ソはイスラム革命が世界に広がることを恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、後の21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって1989年には泥沼のアフガンから完全撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。
主な出来事
イラン革命(1979年)
イラン・イラク戦争(1980年~1988年)
ウィスキー・オン・ザ・ロック(1981年)
フォークランド紛争 (1982年)
ロナルド・レーガンによる「悪の帝国発言」と戦略防衛構想(1983年)
改革から冷戦終結、そしてソ連崩壊(1985年-1991年)
ゴルバチョフによる改革(1985年-1988年)
1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、国内体制の改良と大胆な軍縮提案を行い、西側との関係改善に乗り出す。1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約 (INF) を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争やアンゴラ内戦が1988年から順次終結し、リビアとフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も1988年から和平会議が開催された。
東欧革命と冷戦終結(1988年-1989年)
既に1980年代初頭から独立自主管理労働組合「連帯」が結成され民主化の動きが見られていたポーランドでは1989年の選挙でポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、同様に東欧諸国の中でも比較的早くから改革路線を行っていたハンガリーやチェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ国民が西ドイツへ大量脱出した。東ドイツはあくまで強硬な社会主義路線を取り民衆を抑え込もうとしたが、10月のライプツィヒで行われた月曜デモには10万人が参加し、事態を収拾できなかった社会主義統一党は指導部が総辞職した。
このため、11月9日には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアでも革命が勃発し、ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻が射殺され、共産党政権が倒された。これら東ヨーロッパの共産党政権が連続的に倒された革命を、東欧革命という。1989年12月には、地中海のマルタ島で、ゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュが会談し、冷戦の終結</b>を宣言した[6]。
ソビエト連邦の崩壊(1989年-1991年)
一方、ソ連国内ではペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。バルト三国の独立要求が高まり、1988年11月にエストニア・ソビエト社会主義共和国が主権宣言、同年リトアニア・ソビエト社会主義共和国でもサユディスによる独立運動の加速により、国旗をソビエト編入以前のデザインに戻された。1989年7月にリトアニア共産党がソビエト連邦共産党からの独立を宣言した。
1990年3月から6月にかけてに東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、バルト三国の各最高会議は独立宣言を採択した。ソ連政府はバルト3国に対して軍事行動を起こし、1991年1月の血の日曜日事件(リトアニア)などで、ソ連軍と民間人が衝突する事態になった。
ソ連は1991年3月、バルト3国を除く首脳が、連邦の権限を縮小した新連邦の構想に合意した。同年3月17日には新連邦条約を締結するための布石として、連邦制維持の賛否を問う国民投票(英語版、ロシア語版)が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった。しかし、既に分離独立を宣言していたバルト三国(ソビエト社会主義共和国、ラトビア・ソビエト社会主義共和国、リトアニア・ソビエト社会主義共和国)、モルダビア・ソビエト社会主義共和国、グルジア・ソビエト社会主義共和国、アルメニア・ソビエト社会主義共和国は投票をボイコットした。
1991年6月12日、ソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国で、選挙により大統領に当選したボリス・エリツィンは、国名を「ロシア共和国」に改称し、主権宣言を出して連邦からの離脱を表明した。
また、米ソ両国は1991年7月に第一次戦略兵器削減条約 (START) に調印した。しかし8月20日に予定されていた新連邦条約調印を前に、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフを滞在先のクリミアで軟禁状態に置いた。クーデターは、ロシアのエリツィンの活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。
しかし、その結果バルト三国は独立を達成し、各構成共和国でも独立に向けた動きが進み、12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチがベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体 (CIS) の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月25日をもってソ連は消滅した。その後十年間で、東欧や旧ソ連の国々の一部は、相次いで資本主義国家となった。
ポスト冷戦時代(1991年-)
ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結すると、反共主義を条件にアメリカの援助を受けた軍事独裁政権がその殆どを占めた中南米諸国においても、チリやアルゼンチン、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における橋頭堡として、軍事援助やバーター貿易などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終わってアメリカとの対決の必然性が消えたロシアにとって戦略的価値を失い、援助は途絶え、経済危機に陥った。
米ソ冷戦が終結した当初の1990年代初期において、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』を発表し、政治体制としてのリベラル民主主義の最終的勝利を宣言した。冷戦終結直後の1991年に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となった。ソ連型の国営の計画経済・統制経済モデルの社会主義体制と社会主義経済圏が崩壊し、世界の経済が資本主義経済・市場経済により統合され、グローバリゼーションが進行した。冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。
アメリカは、1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻(湾岸危機)を皮切りにアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたソ連の和平案が当時の欧州共同体外相会議で賛成され、翌日にイラクと無条件全面撤退で合意したが、ブッシュ大統領はこれを退けた(数日後、シュワルツコフがソ連案を修正して停戦が決まった)。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後はパレスチナ問題を中心に中東への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったといえる。
東ヨーロッパを見ると、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を点けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。また、このテロにはイスラーム過激派の関与が疑われている。
西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの和解の外は、中華民国と中華人民共和国の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立(朝鮮戦争)が現在も続いており、日本国内では日本共産党と朝鮮総連は現在も公安当局(公安調査庁、公安警察)に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。特に、中華人民共和国は1989年から軍備増強を強力に推し進めており、近年になって周辺国(中華民国や大韓民国や日本)にとって脅威となっているといわれるようになった(中国脅威論、米中冷戦)。中華人民共和国は名実ともに一党独裁国家であり、2000年代に入って暴動が多発するなど、国内が不安定化している。フランシス・フクヤマの論に従えば、一党独裁国家である中華人民共和国は、政府(中国共産党政権)が死ぬ時が必ず訪れるという論になる。
ロシアは、ソ連が崩壊すると共和制国家として甦生し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、牽制の動きを見せるようになった。現在のロシアも独裁体制に近く、フクヤマの論に従えば、政権が死ぬ時が必ずやってくるということになる。
アメリカは「冷戦の勝戦国」という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、ビル・クリントン政権はパレスチナ問題に積極的に関わり、初めて和平合意をもたらした。しかし、イスラエルの凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した(パレスチナ問題)。また、アフガニスタンやスーダンには1998年にミサイル攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞る度に空爆を加えた。これらのアメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くアルカーイダは、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。
特にイラク戦争に関しては開戦時第一の理由に挙げられた大量破壊兵器は一切見つからず、最終的に存在しないことが判明したため、アメリカ外交の信頼に大きな傷をつけた[7]。ジョージ・W・ブッシュ大統領も退任直前に、大量破壊兵器の情報収集は政権の最大の失敗の一つであったことを認めた。
核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連とイギリスとフランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって(中ソ対立なども要因となっているが)インドやパキスタンの核保有(印パ戦争#核保有)や、アメリカから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。
2008年8月には南オセチア紛争が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。
1989年 - 1991年に起こった「ソ連型社会主義体制」の消滅により、多国籍企業は地球規模で市場と利益を奪い合うグローバリゼーションが進行した。冷戦時代末期のIMF不況と1990年代のグローバリゼーションに遭遇したラテンアメリカでは、2000年代になると反米・左派の政権が続々と生まれ、社会主義が復活する動きを見せていたが、その代表格であったベネズエラのチャベス大統領が病死したことで2012年頃から親米路線に回帰する国も増えている。
東西陣営の主な国
資本主義陣営(西側)
アメリカ大陸
United States
Canada
Mexico
Brazil
Argentina
Chile
Paraguay
Colombia
Venezuela
Bolivia
Uruguay
Guyana - 国内においては社会主義政策を推進。
Costa Rica
Honduras
ヨーロッパ
United Kingdom
France
West Germany(現在はドイツ)
Italy
Spain
Portugal
Netherlands
Belgium
Greece
Denmark
Norway
アジア
Japan
Republic of China (Taiwan)
(南ベトナム) - 1975年4月30日にサイゴン陥落によって崩壊。ベトナム社会主義共和国に接収。
Philippines
Indonesia
Thailand
Malaysia
Singapore
Pakistan
オセアニア
Papua New Guinea
Australia
New Zealand
中東
Israel
Turkey
Saudi Arabia
Qatar
Bahrain
United Arab Emirates
Oman
アフリカ
Senegal
Liberia
Morocco
Kenya
(現在はコンゴ民主共和国)
Namibia
Botswana
South Africa
共産主義陣営(東側)
ヨーロッパ
→1991年12月25日崩壊
East Germany(1990年10月3日、ドイツ連邦共和国に編入)
Czechoslovakia
アジア
People's Republic of China(中ソ対立まで)
(北朝鮮)、共産主義国家が禁じている世襲を続け、同族による独裁国家となる。
Vietnam
(カンボジア人民共和国)
中東
United Arab Republic(シリアとエジプトによる連合国家)→エジプトは連合解消後に親米国家となる。
(1991年ソ連崩壊後北イエメンに吸収合併)
アフリカ
(社会主義人民リビア・アラブ国)→現国名リビア(2011年より民主化)
Angola
Mozambique
Somalia→1993年のモガディシュの戦闘以降、事実上の無政府状態に陥り国家消滅。
非同盟・中立
西側寄り
Switzerland(永世中立国)
Austria
Sweden(武装中立国)
東側寄り
Finland - フィンランドはソ連寄りではあったが政治・経済面では自由主義・資本主義国であった。この特殊な状況は、西欧において「フィンランド化」という呼称を持って扱われている。この当時の北欧の動向を「ノルディックバランス」という。
- 共産主義国でありながら、ソ連とは異なる独自の共産主義を推進し、経済・貿易面ではむしろ西欧との関係が強かった。
India
孤立化
- 当初ソ連寄りであったがスターリン主義がフルシチョフによって批判されたことから決別し、毛沢東主義の中華人民共和国寄りとなる。しかし、文化大革命後に同国が改革開放路線に舵を切ったことから中国からも決別。その後はソ連・中国両方から距離を置いた(ホッジャ主義)。
(ミャンマー) - 当初は社会主義志向を持ちつつも比較的西側寄りであったが、1962年の軍事クーデターにより「社会主義へのビルマの道」と呼ばれる独特の民族社会主義路線を確立。それまでの条約・協定を破棄し、事実上の鎖国下で自立体制を模索した。
資本主義陣営→共産主義陣営
Cuba(1959年の革命以前は資本主義陣営(西側)、1959年の革命以後は共産主義陣営(東側))
Nicaragua(1979年の革命以前は資本主義陣営(西側)、1979年の革命以後は共産主義陣営(東側))
→
→Laos
→
→Vietnam(旧南ベトナム)
共産主義陣営→資本主義陣営
Indonesia[8]
Egypt
Somalia - オガデン紛争以降のバーレ政権。
→Sudan - ヌメイリ政権時代。
East Germany→Germany
資本主義陣営→イスラム主義陣営
→Iran[9]
欧州の対立構造
政治的対立
西側 = 欧州会議、北欧理事会
東側 = イデオロギーによる同盟
軍事的対立
西側 = 北大西洋条約機構 (NATO)、西欧同盟 (WEU)、バルカン軍事同盟
東側 = ワルシャワ条約機構 (WTO)
経済的対立
西側 = 対共産圏輸出統制委員会 (COCOM)、欧州共同体 (EC)、欧州自由貿易協定 (EFTA)、欧州通貨協定 (EME)、経済協力開発機構 (OECD)
東側 = 経済相互援助会議 (COMECON)
冷戦史研究
冷戦は、それがグローバルな戦後国際政治に大きな影響を与えたことから起源、展開、終焉に対して様々な解釈が示され、論争を呼んできた。以下では、学術的な冷戦史研究の中で行われた論争について説明する[10]。
冷戦起源論を巡る論争
冷戦史研究では様々な争点が存在したが、特に大きな争点を形成したのは、「冷戦はいつ、なぜ生じたのか」という冷戦の起源を巡る論争だった。この論争は、西側陣営最大の当事国である米国の学界を中心として活発になされることとなった。
冷戦起源論争は二つの特徴を有していたといえる。第一に、冷戦起源論争は第二次世界大戦などの起源を巡る学術論争と異なり、それが同時代的に継続している状況の起源を論じるものであったため、ベトナム戦争を典型として、研究が発表された当時の出来事や問題関心に強く影響されたものになった。第二に、その論争が米国学界を中心に展開されたことや、資料公開ペースのスピードなどから、特に米国に分析の重点を置いたものとなった点である。そして、一般に研究学派は伝統学派/正統学派、修正主義学派、ポスト修正主義学派に大別されている[11]。
伝統学派/正統学派 (Traditionalist / Orthodox) は1950年代から60年代にかけて研究を発表した学派であり、この学派に分類される研究者の議論は冷戦の起源をソ連の拡張的・侵略的な行動に求めるという特徴を有していた[12]。伝統学派はソ連がヤルタ会談で合意されたポーランド自由選挙を実施しなかったこと、東欧各国に対して共産党政権を樹立する動きを示したことなどの一連の行動が西側に警戒感を生み出し、マーシャル・プラン、NATO結成などの西側陣営強化はこれに対する防御的な行動としてなされたとする解釈を示した。
以上のような解釈はノーマン・グレーブナー (Norman A. Graebner) のCold War Diplomacy (1962)、ルイス・ハレー (Louis J. Halle) の『歴史としての冷戦』(1967)、ハーバート・ファイスのFrom Trust to Terror (1970) などに代表されるものであったが、これはトルーマン政権の国務長官を務め、冷戦政策を展開したディーン・アチソンの回顧録の記述とも重なるものだった。その意味で伝統学派は、戦後米国の外交政策を擁護するニュアンスも帯びていたと評されている[13]。
続いて1960年代より登場した<b data-parsoid='{"dsr":[26908,26920,3,3]}'>修正主義学派 (Revisionist) は、伝統学派の解釈と真っ向から対立し、冷戦の発生はソ連の行動よりも米国側の行動により大きな原因があったとする解釈を提示した。修正主義学派の最大の特徴は、経済的要因を重視する点にあった。1958年に『アメリカ外交の悲劇』を発表し、後に自らの勤務したウィスコンシン大学マディソン校で「ウィスコンシン学派」といわれる後進たちを育成したことで知られるウィリアム・A・ウィリアムズは、同書で建国以来米国指導者層が海外に市場を求める必要があるという「門戸開放」イデオロギーを奉じていたことに最大の原因があったとする主張を展開した。ウィリアムズは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたソ連が伝統学派の考えるような脅威ではなかったと指摘した。そして、冷戦は米国が門戸開放イデオロギーのもと東欧地域の市場開放を執拗に要求し、ソ連に対して非妥協的態度を貫いたこと、これにソ連が反発したことによってもたらされたものであったとして、米国により大きな責任があったとする解釈を示した。ウィリアムズのテーゼは、彼が育成した外交史家である ウォルター・ラフィーバーの America, Russia, and the Cold War (1967)、ロイド・ガードナーの Architects of Illusion (1970) などによってより精緻に検討されることとなる[14]。
また、修正主義学派の研究はウィリアムズの研究にとどまらず、よりラディカルな展開も示した。ガブリエル・コルコとジョイス・コルコ (Joyce Kolko) は、The Limits of Power (1972) において、米国の対外政策のすべては資本主義体制の防衛を目的としており、世界規模で革命運動を弾圧するものであったとするマルクス主義に親和的な解釈を主張することとなった[15]。これらの研究は、ベトナム戦争の泥沼化により、従来の米国外交のあり方に対する不信が強まっていた60年代の時代状況下で、強い支持を受けることになった。当然ながらこれらの主張は、伝統学派からの反発と論争を巻き起こすこととなる。伝統学派からは修正主義学派の分析の実証性の乏しさ、経済要因の過大評価、米国の行動のみを実質的に分析している分析の偏重などが批判されることとなった[16]。
伝統学派・修正主義学派に続く<b data-parsoid='{"dsr":[28581,28596,3,3]}'>ポスト修正主義学派 (Post-Revisionist) は、先行する学派の議論の抱える問題点を克服し、さらにこの頃徐々に公開が進んだ西側政府の公文書を活用することで、歴史研究としての実証性を増す形で議論を展開することとなった。その先駆的著作とされているのが、ジョン・ルイス・ギャディスの The United States and the Origins of the Cold War (1972) である。ギャディスは一次資料に依拠した上で、正統学派の重視する安全保障要因、修正主義学派の重視する経済要因を同時に取り入れつつ、さらに国際政治構造、国内政治要因、政策決定プロセス(官僚政治)の影響などを盛り込んだ分析を提示した[17]。
ギャディスは、各国の疲弊によって「力の真空」が生じていたヨーロッパにおいて、米ソ両国が対峙するという状況下が生まれたこと、対峙の緊張の中で米ソが様々な要因から相手の行動・思惑に対する誤解を重ねたことが(本来両者の想定しなかった)冷戦を生んだとする解釈を示し、米ソいずれかの行動に冷戦発生の責任を求める過去の議論を排する主張を展開した[18]。ギャディスによるこのような新しい解釈は、ブルース・クニホルム (Bruce Kuniholm) のThe Origins of the Cold War in the Near East (1980)、ウィリアム・トーブマンの Stalin's American Policy (1982) などにも継承され、彼らの研究は「ポスト修正主義学派」として広く受け入れられることとなった[19]。
また、米国で進んだポスト修正主義学派の研究に対して、ヨーロッパにおける研究も呼応する動きを示した。ノルウェーのゲア・ルンデスタッドは、大戦後のヨーロッパの政治指導者たちがソ連の影響力を相殺するべく、ヨーロッパで米国がより積極的な役割を果たすことを希望していたと論じ、戦後の米国はいわばヨーロッパに「招かれた帝国 (Empire by Invitation)」であったとする解釈を示した[20]。
ソ連崩壊後の冷戦起源論争
冷戦の終結とソ連邦の崩壊により、過去西側で閲覧することが不可能だった東側文書の開示が進むこととなった。これは各種の研究・資料収集プロジェクトの始動をもたらすとともに、冷戦起源を巡る論争において伝統学派的な解釈の復活という、新しい展開を生むこととなった。開示された東側の資料群をもとに発表されたヴォイチェフ・マストニーの『冷戦とは何だったのか』(1996年)、ヴラディスラヴ・ズボクとコンスタンティン・プレシャコフ (Constantine Pleshakov) による Inside the Kremlin's Cold War (1996) は、ソ連中枢の情勢認識や政策決定を明らかにすることとなった。これらの著書は、ソ連がマルクス・レーニン主義のイデオロギーに基づき、自発的・主体的にヨーロッパへの拡張を図っていたとする解釈を示した[21]。その他、90年代には様々な資料を活用したドミトリー・ヴォルコゴーノフによるスターリンの伝記研究も発表され、スターリンのパラノイア的性質を指摘する書物として注目を浴びることとなった[22]。
このような研究進展の影響を受けた典型ともいえるのが、ポスト修正主義学派の旗手であったギャディスの冷戦起源解釈の変化である。ギャディスは東側についての研究の進展を受けて、1997年に発表した『歴史としての冷戦』では、冷戦の起源を米ソ双方のパーセンプション・ギャップや、国際政治構造に見出す過去の解釈から、イデオロギーが冷戦におよぼした影響を重視し、ソ連の政治体制とスターリンという指導者が冷戦の発生により多くの責任を負っているとする解釈へと転じた[23]。しかし、このギャディスの解釈変化の要因としては、ソ連の実態が明らかになったことだけでなく、東側陣営の崩壊と西側陣営の「勝利」が明らかになった時期に発表されたという要因も無視できないことから、その解釈が後知恵的であるとして賛否を呼ぶことともなった[24]。
米ソ冷戦史の相対化
冷戦史研究は、米国学界でその主要な論争が戦われてきたこともあり、主要な分析対象は米ソ関係であり、活用される資料の多くは米国政府の公文書であった。このような冷戦史研究の動きに対し、1978年にイギリスのドナルド・キャメロン・ワットは公開書簡で冷戦史研究の資料的偏重を指摘し、英国公文書などを活用して研究を深化させる必要を訴えた[25]。このような提言を反映する形で、イギリスではヴィクター・ロスウェル (Victor Rothwell) の Britain and the Cold War (1982)、アン・デイトン (Anne Deighton) の The Impposible Peace (1990) など、冷戦の発生に対してイギリスの果たした役割を分析する研究なども現れ、冷戦の発生にはソ連の脅威を米国より早く意識し行動したイギリス政府の果たした役割が少なくなかったことを明らかにした[26]。
イギリスを一つの典型として、他国についても「自国と冷戦(および冷戦に果たした役割)」について考察した研究も進められている。1998年よりノースカロライナ大学出版局 (University of North Carolina Press) が刊行している冷戦史研究のシリーズである The New Cold War History では、フランス、ソ連、中国、東西ドイツなど、様々な国家と冷戦の関係を考察した研究書が刊行されている[27]。
研究領域の拡大
冷戦終結を受けて米国でも安全保障に関わる各種の資料公開が進んだことで、冷戦期の安全保障やインテリジェンスなどについて新たに研究が進展している。一例としては、米英による暗号解読プロジェクトであったベノナの関係資料開示による諜報戦の実体解明が挙げられる。ジョン・ハインズ (John E. Haynes) とハーヴェイ・クレア (Harvey Klehr) の Venona (2000) は、冷戦期に米国内で活発な諜報活動が展開されていたことを明らかにした。また、ケネス・オズグッド (Kenneth Osgood) は Total Cold War (2006) において、USIA・CIA などの資料を活用し、アイゼンハワー政権の展開していた(日本も対象に含む)宣伝・情報戦の実態を解明することとなった[28]。
コーポラティズム
デタント史研究の進展
冷戦終結をめぐる議論
新しい冷戦史
研究者
ブルース・カミングス (Bruce Cumings)
ジョン・ルイス・ギャディス (John Lewis Gaddis)
レイモンド・ガーソフ (Raymond L. Garthoff)
マイケル・ホーガン (Michael J. Hogan)
ウォルター・ラフィーバー (Walter LaFeber)
メルヴィン・レフラー (Melvyn P. Leffler)
ゲイル・ルンデスタッド (Geir Lundestad)
ヴォイチェフ・マストニー (Vojtech Mastny)
トーマス・J・マコーミック (Thomas J. McCormick)
ロバート・マクマホン (Robert J. McMahon)
マーク・トラクテンバーグ (Marc Trachtenberg)
オッド・アルネ・ウェスタッド (Odd Arne Westad)
ウィリアム・A・ウィリアムズ (William Appleman Williams)
ヴラディスラヴ・ズボク (Vladislav M. Zubok)
学術誌
Cold War History, (Frank Cass, 2000-).
Journal of Cold War Studies, ( / MIT Press, 1999-).
補足
関連項目
国際社会の分類
一極体制
両極体制
多極体制
冷戦関連用語
パクス・アメリカーナ
核抑止
衛星国
反共主義
第三次世界大戦
ノルディックバランス
代理戦争
プレ冷戦時代
冷戦の起源 ()
パーセンテージ協定
各国の冷戦時代
アメリカ合衆国の歴史#冷戦 (1945年~1989年)
ソビエト連邦
ドイツの歴史#分断ドイツ
ポーランド人民共和国
冷戦後の時代
冷戦の影響 ()
新冷戦
米中冷戦
独立国家共同体(冷戦後の旧ソ連)
ドイツ再統一(冷戦後のドイツ)
平成(冷戦後の日本)
総統民選期の中華民国(冷戦後の台湾)
G2 - 中華人民共和国とアメリカ合衆国という2つの大国が世界を率いるという意味の語。2000年代後半から使われるようになった
冷戦の歴史学 ()
対テロ戦争
外部リンク
研究プロジェクト
(CWIHP)
その他
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『不都合な真実』(ふつごうなしんじつ、原題: An Inconvenient Truth)は、2006年のアメリカ合衆国のドキュメンタリー映画。アル・ゴア元アメリカ合衆国副大統領が主演している。
第79回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞・アカデミー歌曲賞を受賞し、本作で環境問題啓発に貢献したとしてゴアがノーベル平和賞を授与されている。
内容
アル・ゴアが地球温暖化を喧伝するスライド講演に、彼の生い立ちを辿るフィルムを交える構成のドキュメンタリー映画である。過去の気象データや温暖化により変化した自然の光景を用い、環境問題を直視しない政府の姿勢を批判しており、自然環境を意識しつつ日常を生活する重要さを訴えている。
キャスト
アル・ゴア(日本語吹替:石波義人)
スタッフ
監督:デイビス・グッゲンハイム
製作総指揮:ジェフ・スコル、デイビス・グッゲンハイム、ダイアン・ワイアーマン、リッキー・ストラウス、ジェフ・アイヴァース
製作:、ローレンス・ベンダー、スコット・Z・バーンズ
音楽:
配給:パラマウント・クラシックス、UIP
評価
アメリカではブッシュ政権が「地球温暖化など単なる学問上の仮説で、温暖化現象は現実に確認できていない」とする公式見解で温暖化を否定し、ほとんどのメディア報道も追従しており、地球環境の温暖化問題について本作で初めて知ったアメリカ人もおり国内で強い影響を与えた[1]、とする評もある。
他方で、内容が事実誤認やデータ誇大化などにより「センセーショナリズムが勝る」等の批判もある。イギリスでは学校での公開は政治的活動であると保護者らから提訴され、英高等法院は「9ヶ所事実誤認している場所がある」として「是正措置を取るように」と判決[2]した。しかし、地球温暖化の問題提起は妥当として、保護者らの「上映差し止め」請求は退けている。アル・ゴア#環境問題項で詳述する。
本作は多数の論者らが話題にしている。一例をあげると、上記英高等法院は「西南極とグリーンランド氷床の融解により、近い将来海水準が最大20フィート上昇する可能性がある」とするゴアの主張を「これは明らかに人騒がせで、グリーンランド氷床の融解では相当量の水が放出されるが、それは1000年以上先のことである。」[2]と判断している。しかしながら、「前回に当たる約12万年前の間氷期に、氷床崩壊により数十年間で海面が3メートル程度上昇した。」とする研究結果[3]が、2009年4月16日発売の英科学誌ネイチャーに掲載されている。
興行収入
北アメリカでは4館で公開がスタートし、初週末3日間で28万1330ドルを稼いで初登場22位[4]である。翌週末は77館に拡大されて135万6387ドルを稼ぎ9位[5]である。最終的に587館まで拡大公開されて北米の累計興行収入は241万46161ドル[6]で、北米でのドキュメンタリー映画興行収入として『シッコ』(2007年)に次ぎ歴代6位[7]である。
日本では、TOHOシネマズ六本木ヒルズで2007年1月20日の公開以来1年以上上映され、上映開始映画館での1年以上長期上映は『ニューシネマ・パラダイス』を抜き歴代1位である。
受賞歴
日本での影響
日本では、本作公開時に、国会質疑において、「環境大臣はこの映画を観ているのか?」との質疑などがなされた。また、チェイニー副大統領の来日に際して、安倍晋三首相が本作に掛けて、「日米で協力して地球温暖化対策を進めよう」と持ちかけたところ、「あの映画はアル・ゴアのプロパガンダだ」と不快感が示された旨が、『報道ステーション』などで報道された。
書籍版
『不都合な真実』(ランダムハウス講談社)ISBN 978-4270001813
『私たちの選択』(ランダムハウス講談社)ISBN 9784270005514 -『不都合な真実』の続編[13]。
脚注・出典
関連項目
地球温暖化
沈黙の春
外部リンク
at AllMovie
on IMDb
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ホルスタイン (Holstein) 、または<b data-parsoid='{"dsr":[116,135,3,3]}'>ホルスタイン・フリーシアン (Holstein Friesian cattle) はウシの品種のひとつで、名前はドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州にちなむ。日本では主に乳牛としてのイメージが強いが、欧州では肉乳両方を目的として肥育されている。
起源
ライン川下流のデルタ地帯
[1]
に産した在来種を起源として、ゲルマン民族の移動に伴われて西に進み、オランダに定着して乳用種として改良されたものである。よって、起源はドイツであるが、品種としての原産地という意味では、オランダのフリースラントが正しい。ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州も、この品種が牛の主流をなしている。その後、アメリカにもオランダからもたらされた(1795年~1852年)。初めは<b data-parsoid='{"dsr":[614,626,3,3]}'>ホルスタイン</b>と称したが、その後<b data-parsoid='{"dsr":[635,647,3,3]}'>フリーシアン</b>とも称され、対立したが、1889年から統一して<b data-parsoid='{"dsr":[674,693,3,3]}'>ホルスタイン・フリーシアン</b>と称することになった。日本にはアメリカから入った(明治18年、1885年)ため、当初はアメリカと同様の呼称を用いていたが、次第に略され、ホルスタインと呼称するようになった。なお、欧州ではむしろフリーシアンの方が共通的な呼称である。
欧米はもとより世界中に最も広く分布しており、しかも、どの国においても、全頭数に対しての比率が高まりつつある。
身体・特徴
特徴は黒白または白黒斑である。白地に黒斑があるように見えるが、実は、黒色の地肌に、(遺伝的に)優性の白斑が加わったものである。特に四肢、尾の先端付近、鼻面の周辺の6箇所は必ず白斑が入る事から、かつて日本では、本種を「六白牛」(ろっぱくぎゅう)と称した。
地肌が(先祖種のように)赤いものもあり、この場合は赤白の斑となる。これは、オランダで1844年以後数年間、体積を増すためにショートホーン種を交雑したことがあるので、その赤毛の遺伝子が今も残ったものである。ことに、有力な種雄がそれを持っていたため、かなり伝播した。日本でも赤白斑のものがかなり多発するようになった。
体格は大型で、日本での成雌の標準は体高141cm、体重650kg。成雄でそれぞれ160cm、1,100kg。最大級のものでは雌で体高190cm[2]、雄(去勢)[3]で体高約195cm、体重約1.13t[4]であり、雌のほうはギネス世界記録の英語版公式サイトで、最も体高の高い牝牛として認定されていることが確認できる。
体型は肉用種が交雑されて以降体積が大きめで、ジャージー種等に比べて前躰がやや重い。乳房は大きく、成年を過ぎると垂れ気味になるものがある。また、前後乳区が不均称で前乳区の小さいものもある。
能力は全牛種中乳量が最も多く、標準で年間5,000kg以上あり、年間10,000kgを超えるものも珍しくない。
また、年間20,000kg以上を産出する牛は「スーパーカウ」と呼ばれ、日本では毎年で100頭前後が報告されている。
乳質は比較的薄めで、乳脂肪率3.6%、無脂乳固形分8.7%程で飲用に適し、搾乳速度は極めて速く、最盛期には3kg/分に達する。
産肉能力は発育が早く、飼料効率もよく一日増体重は1.2kg程もある。と殺成績としては体が大きいので絶対肉量は多いが、長肢、骨太のため枝肉歩留は57%ぐらいで、ロース芯面積はやや小さい。脂肪の沈着は低めであるが、赤肉生産用としては問題ない。三重県鳥羽市で飼育される肉牛の加茂牛はホルスタインの雄を肥育したものである[5]。また北海道でも酪農で不要な雄子牛を肥育して、生産者団体ごとに「十勝若牛」「鹿追牛」などの呼称でブランド化が図られている。[6]
[7]
性質は温順で、丈夫で飼いやすく産乳での飼料効率も高いが、高温、結核に対する抵抗性は弱い。
国による差違
アメリカ、カナダでは乳専用として改良を進めたために大型化し、角張っており乳量が多い。
欧州では乳用種ではあるが、結果としての肉の活用も図っているので、やや短肢でかなり丸みを帯びた体型であり、乳量はアメリカ型に劣る。
ゆえに、オランダ型(牡は牛肉生産・雌は牛乳生産を明確にした改良)・イギリス型(オランダ型より、産肉量を重視した改良)・アメリカ型(乳生産を重視した改良で、体型も大型化している)と分けられる。
日本では乳牛の98%をホルスタインが占めており、初めて入ったのは(前述ではあるが)明治18年(1885年)で、民間主導でアメリカから輸入された。その後オランダからも輸入されたが、多くはアメリカから入っており、とくに第二次世界大戦後はアメリカ、カナダからの輸入が多く、改良の基になっており、従って日本国内のこの種はアメリカ型が大勢を占めている。
日本国内での考察
日本での乳牛の主流になった理由としては、日本の酪農が飲用乳向けの都市近郊の専業酪農に発しているため、あまり濃厚ではないが多乳で飼料効率の利便性が良いため、他の品種を圧倒したと思われる。その後も国内の乳の主な仕向けが飲用であり、酪農が一般農家に普及したとはいえ飼育形態は初期の専業搾乳業に似て、小面積で多頭を飼い購入飼料への依存度の高いものであることと、大家畜は簡単に他の品種に置き換えられないこともあって、現在の飲用乳産の主流となっている。また、道路網の発達により飲用乳圏が拡大され、保存法も進歩したので本種の優位性は今後も続くと思われる。
(参考文献 日本家畜人工授精師協会発行、人工授精師用テキスト)
脚注
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ジョセフ・ピックフォード(、1734年 - 1782年[1])は、イングランドの建築家である。ジョージ3世の時代に地方で活動した著名な建築家の1人であった。
生涯
ピックフォードは1734年にウォリックシャーで生まれたが、父の死後、幼少のうちにロンドンへ移り住んだ。石工かつ彫刻家でハイド・パークに事務所を構えるおじのジョセフ・ピックフォードの下で最初の修行を積んだ。ピックフォードは約10年間おじと共に働き、まず石工として、次いで建築家として修行した[2]。ピックフォードは一時、ロンドンとダービーの両方に事務所を構えた。彼は1760年頃ダービーに移り住み、を建てたウォリックの建築家デイヴィッド・ハイオンの代理人となった[2]。そしての筆頭代理人だったトーマス・ウィルキンスの娘メアリーと結婚した[2]。コークが住むダービーシャーのは1762年頃、ピックフォードによって改修されている。フライアー・ゲート41番地に彼が自分自身のために設計した家は、現在ピックフォードハウス博物館となり、グレード I の(文化財に指定された建造物)となっている。2006年4月以降、建物は予約したグループのみが見学できるようになった[3]。
ピックフォードはイングランドの各州で広く仕事を手がけたが、町や田園の家をパラディオ式建築で設計することが多かった。彼の友人や顧客にはルナー・ソサエティの会員が多くいた。具体的には、陶器職人のジョサイア・ウェッジウッド、画家のジョセフ・ライト、発明家のマシュー・ボールトン、ジョン・ホワイトハーストが挙げられる。
主な建築物
- ダービーシャー、ダービー、キング・ストリート。ジョン・ギズボーンのため1766年-1767年に建築。
ハムズ・ホール - ウォリックシャー、コールズヒル。CB アダリーのため1768年に建築。現存せず。
- スタッフォードシャー、ストーク・オン・トレント。ジョサイア・ウェッジウッドのため1768年-1770年に建築。現在ホテルの一部として残る。
サン・メアリーズ教会 - ウェスト・ミッドランズ、バーミンガム。現存せず。
写真集
サン・ヘレンズ・ハウス
ミル(ダービーシャー、チャッツワース)
エトルリア・ホール
ピックフォード・ハウス(ダービー)
脚注
参考文献
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89 |
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蒸気機関(じょうききかん)は、ボイラで発生した蒸気のもつ熱エネルギーを機械的仕事に変換する熱機関の一部であり、ボイラ等と組み合わせて一つの熱機関となる。作業物質である水を外部より加熱する外燃機関に分類される。
蒸気機関には、蒸気をシリンダに導き、ピストンを往復運動させる往復動型のものと、蒸気で羽根車をまわすタービン型のものとが存在する。本稿では主として往復動型のものを説明する。タービン型のものについては蒸気タービンを参照のこと。
歴史
古代アレクサンドリアの工学者・数学者であったヘロン(10年頃 - 70年頃)が考案したさまざまな仕掛けの中に、「ヘロンの蒸気機関」と呼ばれるものが存在する。これは、蒸気を噴出し、円周で回転力を得るものである。これが記録に残っているものとしては人類史上に蒸気機関が登場した最初のものであるとされる。なお、これは蒸気タービンの概念に含まれるものであり、レシプロ式のものではなかった。
ドニ・パパンの蒸気機関模型
フランス生まれでのちにイギリス等へ移った物理学者であるドニ・パパン(Denis Papin 1647年-1712年頃)は、滞在していたヘッセン=カッセル方伯領(現ドイツ)に滞在していた1690年に、
当時知られていた大気の力を動力として利用する手段として蒸気を用いる方法を考案して、その模型を製作し、ロンドン王立協会で発表した。
これは、ゲーリケのマクデブルクの半球などで実証されていた大気の力を取り出すための真空を実現するために、水の蒸気の凝縮現象を利用するというもので、真空と大気圧との差をピストンとシリンダーを用いて取り出そうとしたものであり、その後の蒸気機関の基本的な原理となった。
しかし、パパンの模型はシリンダーそのものを火で加熱し、水をかけて冷却するというものであり、実用には遠いものであった。セイヴァリーが別の機関を発表した後は、パパンもセイヴァリー類似の方式を試みるようになった。
セイヴァリの"火の機関"
イギリスの海軍軍人で発明家のトマス・セイヴァリ(Thomas Savery、1650年頃-1715年)は、1698年に「火の機関(セイヴァリ機関)」を開発し、国王の前での実験に成功し、特許を取得した。これは、ドニ・パパンの蒸気機関とは異なってピストンやシリンダなどは持たず、容器内の蒸気の凝縮による負圧で下方の配管から水を吸い上げ、それを再度蒸気の圧力で押しだして別の配管で上方へ排出するものであった。セイヴァリはこれを鉱山の排水その他に活用しようとしたが、いくつかの原理的欠点があり、低揚程で小水量の限られた用途でしか成功しなかった。しかし、彼が取得した特許は「火力によって揚水する装置」という実に広範かつ無限定のものであったため、その後のニューコメンらの機関はこの特許のもとで建造・稼動することとなった。
ニューコメンの蒸気機関
イギリスの発明家・技術者であるトマス・ニューコメン(Thomas Newcomen、1664年2月24日-1729年8月5日)は、1712年に、鉱山の排水用として実用になる最初の蒸気機関を製作した。
この蒸気機関は、パパンやセイヴァリの蒸気機関をさらに発展させたものであり、ボイラとは別に設けたシリンダーの蒸気に冷水を吹き込んで冷やし、蒸気が凝縮して生じる真空(大気圧)でピストンを吸引し、頂部の大きなてこを介して、その力で坑道からの揚水ポンプを駆動するものであった。原理的にはパパンの蒸気機関のシリンダーからボイラーを分離して、継続的に運転できるようにしたものであり、ニューコメン独自のアイデアとして、蒸気中へ冷水を直接噴射して冷却する方式、大てこの動きを利用した自動運転方式等が挙げられる。その後の産業革命の動力を担った蒸気機関の実質的な発明とされている[1]。
セイヴァリは大気圧を超える蒸気の圧力を用いて水を排出しようとしたが、ニューコメンは大気圧の蒸気とその凝縮により生じる真空だけを利用した。当時の技術では、ある程度の高圧に耐え得るボイラが作れなかったため、この方式だけが実用化できた。発明の動機がニューコメンが住んでいた村の鉱山のわき水を汲み出す、自動の「つるべ井戸」であったために往復運動を回転運動に変えていない。運転速度は、毎分12サイクル程度であったという。なお冷水で冷やすときシリンダーも冷えるので燃料効率は低く、掘り出した石炭のうち実に1/3程度がこの揚水ポンプのために消費され,熱効率は1%にも達しない程度であった.
ニューコメン機関は1733年までセイヴァリの特許のもとで建造され、その後も含めて多くの技術者・科学者が建造・改良に関わった。1769年にワットがその改良特許を取得して以降も、ワット機関より多くのニューコメン機関が建造され、18 世紀の間でイギリスおよびヨーロッパの各地で建造されたニューコメン機関は、1500 から 2000 台にのぼった。
動作
錘Kの重さでピストンDが上がり、ボイラーAの蒸気がシリンダーBの中に入る。
ピストンDが上死点になったところで栓Cが閉じられる。
タンクLから管Pを通ってシリンダーB内に冷水が導かれ、シリンダーB内の蒸気が水に戻される。この水は管Rを通ってSに溜められる。
3.によりシリンダー内部の圧力が下がり、大気圧によってピストンDが下げられる。(負圧の発生)
4.のピストンDが下がる時の力により、反対側にある錘KとピストンMを引き上げる(負圧の利用)。ピストンMによって汲み上げられた水の一部はNを通ってタンクLに溜められ、3.の行程に使われる。
ピストンDが下死点になったところで栓Cが開いて再び1.に戻り、このサイクルを繰り返す。
参考
細川武志『蒸気機関車メカニズム図鑑』グランプリ出版 10頁,
ワットの蒸気機関と普及
イギリスのエンジニアであるジェームズ・ワット(James Watt, 1736年1月19日 - 1819年8月19日)は、1769年に新方式の蒸気機関を開発した。これはニューコメンの蒸気機関の効率の悪さに目をつけて改良したもので、復水器で蒸気を冷やす事でシリンダーが高温に保たれることとなり効率が増した。さらに負圧だけでなく正圧の利用、往復運動から回転運動への変換、フィードバックとしての調速機の利用による動作の安定などの改良をしている。
蒸気機関の誕生以前の炭鉱では馬が動力として利用されていたが、飼葉代が高騰した際に、炭鉱経営者が馬に代わる動力として安価に入手出来る石炭を利用できる蒸気機関に着目したことが蒸気機関の普及を促進させたとも言われている。またワットは、定置動力としての蒸気機関を市場に供給するにあたり、後年における設備リース的な手法でエンジンを顧客に提供する手段も用いて普及を推し進めた。
それまで存在しなかった「馬力」という単位・尺度もワットの考案である。個々のエンジンの性能価値を算定するため、標準的な荷役馬の力も参考に、一定時間の仕事率を指標として作り出された重要な概念であった。その後、蒸気機関に限らずさまざまな動力の尺度に広く用いられることになった。
蒸気機関ではボイラーの爆発事故が多く起きたということがあり、ワットはある程度以上の高圧の使用に反対した。蒸気圧を大きく高めて使う時代がきたのはワットの特許が切れてからである。ワットなどによって用途の広がった蒸気機関は、水力に頼らない工場の立地や交通機関への応用(都市化の進展、機関車、蒸気船)など、産業革命・工業化社会の原動力になるとともに、燃料である石炭を時代の主役に押し上げた。
蒸気機関の普及と産業革命
ワットの蒸気機関の特許が1800年に失効する[2]と、リチャード・トレヴィシックらがさっそく高圧蒸気機関の開発に成功し、蒸気機関の出力は大きく向上した。この蒸気機関は高圧蒸気で直接機関を動かし、復水器を廃止したものだった[3]。その後も改良は続けられ、1849年にはアメリカのジョージ・コーリスが吸気弁と排気弁を改良したコーリス蒸気機関によってさらに大幅に効率が改善された[4]。
また、こうした蒸気機関の性能向上のほかに、蒸気機関を他の用途に使用する試みも盛んに行われていた。なかでももっとも成功したものは交通機関への転用である。交通機関への転用で最も早く実用化されたのは蒸気船であった。蒸気船は1783年にフランスのクロード・ジョフロワ・ダバンが試験走行に成功したのち、幾人かが実用化を試みたが、ロバート・フルトンが1807年にハドソン川で外輪型蒸気船の航行に成功し、実用化に成功した。初期の蒸気船は外輪船だったが、これは外海の荒波と相性が悪く、航行は内陸河川に限られていた。やがて外輪の改良によって蒸気船は外洋航行が可能になったが、1840年代に入るとより高速を得られ安定性も高いスクリュープロペラが主流となり、これによって蒸気船は全盛期にあった帆船を駆逐して主要な海洋交通手段となった。
ついで蒸気機関は陸上交通機関にも応用されるようになった。前述のリチャード・トレヴィシックは鉱山などに敷設されていた馬車鉄道に蒸気による交通機関を走らせることを構想し、1804年には世界初の蒸気機関車を発明した。これは実用的なものにはならなかったものの、以後改良が重ねられ、1825年にはジョージ・スチーブンソンによってストックトン・アンド・ダーリントン鉄道に蒸気機関車が走り、ついで1829年にはリバプール・アンド・マンチェスター鉄道に使用する機関車のコンテストでロバート・スチーブンソンの設計したロケット号が優勝し、翌1830年に営業を開始した。ロケット号には革新的な技術が使用されており、以後の蒸気機関車の基準となった。またリバプール・アンド・マンチェスター鉄道も大成功をおさめ、これによって蒸気機関車とそれの走る鉄道という組み合わせが完成し、瞬く間に世界中に普及した。なお、蒸気機関を自動車に使用する案は蒸気船や蒸気機関車よりもさらに古く、1769年にはフランスのニコラ=ジョゼフ・キュニョーが世界初の蒸気自動車であるキュニョーの砲車を開発したが、実用化には失敗した。以後、およそ100年以上にわたって蒸気自動車の開発は続けられたが、ガソリン自動車との競争に敗れ姿を消した。
レシプロ式蒸気機関の落日と蒸気タービンへの移行
しかしその後、19世紀から20世紀にはいる頃から、電気動力・内燃機関動力が発達をしはじめた。蒸気機関は、ボイラー,復水器などの付帯設備が大きいこと、(それらの新動力と比べると)エネルギー効率が悪く対重量比出力が低いこと、起動・停止に手間がかかることなどが災いして、地位の低下を余儀なくされた。
大型化にシビアな制限のある小型の移動機関、特に自動車については早期に内燃機関に移行した。自動車ほど小型軽量化にシビアではない機関車は、20世紀中盤まで蒸気機関車が主役の座にあり続けたが、それもその後減少し、21世紀になる頃には世界的に見てもごくわずかなところに残るにすぎなくなっていた。なお、大きさや起動・停止の手間などが問題にならない大型のシステムについては、1884年にチャールズ・アルジャーノン・パーソンズによって蒸気タービンが実用化されるとレシプロ蒸気機関から蒸気タービンへの移行も発生した。発電用としては、大規模な発電プラントではおもに蒸気タービンが用いられ、規模の小さいプラントや移動用施設ではディーゼルエンジンやガスタービンが使用されるという形で特性に応じた住み分けが生じている。外燃機関特有の熱源の多様性は蒸気機関のメリットとして現在も有効であり、原子力発電やRDF、ごみ焼却場の廃熱を利用して発電に用いられている。
また、大型船舶用としては、レシプロ蒸気機関は蒸気タービンに対して負荷変動への適応性の高さと保守の容易さが、内燃機関に対しては燃料の多種性(石炭を使用でき、石油系資源に依存しない)が優位性を持ち、20世紀中盤までは共存状態が続いた。しかしながら民間の船舶に比べ高速・高出力を求められる軍艦においては、20世紀に入って以降、急速に蒸気タービンへの移行が進んだ。キヤードタービン、あるいはエレクトリック推進の普及で、効率と負荷変動への適応性が増した事で、その傾向に拍車がかかった。船舶分野では内燃機関は、信頼性が劣る事もあり、20世紀中頃までは傍流であった。しかしながら、その後の技術の発展により信頼性が増した内燃機関は、小型船舶からはじまり、次第に大型船舶までも置き換えていった。大型軍艦用としては蒸気タービンの能力は、発達著しい内燃機関に劣るものではなかったが、内燃機関を用いる船舶と燃料を統一し軽油を用いる必要性から、燃料の多様性のメリットが失われ、かつ軽油は蒸気タービン用としては揮発性の高さから爆発燃焼事故を招くなどの問題があり、次第に用いられなくなった。ただし原子力推進の軍艦においては、蒸気タービンが唯一の選択肢として用いられている。一部の航空母艦に艤装された蒸気カタパルトは、回転出力でなく直動出力を得るレシプロ蒸気機関の一種である。
また石油ショックを契機としたディーゼルエンジンの燃費効率の上昇から、民間船舶はこれに切り替わった。
日本の蒸気機関の歴史
日本では幕末の1853年にロシアのエフィム・プチャーチンが来航し、蒸気で走る模型を披露したり1854年、アメリカのマシュー・ペリーが江戸幕府の役人の前で模型蒸気機関車の走行を実演した記録がある[5]。また、嘉永6年(1853年)[6]、佐賀藩の精錬方であった田中久重、中村奇輔、石黒寛二らによって外国の文献を頼りに軌間130mmの蒸気機関車や蒸気船の雛型 (模型) が製作された。また、加賀の大野弁吉が蒸気機関車の模型を作った記録がある。さらに同時期に長州藩の中島治平が長崎で購入したか木戸孝允がパリで購入したと伝えられるナポレオン号が山口県立山口博物館に保存されている。これらの機関車は2003年に国立科学博物館で開催された江戸大博覧会[7]で展示された。佐賀藩以外にも宇和島藩で伊達宗城が蒸気船の模型を軍学者である大村益次郎とちょうちん屋の嘉蔵(前原巧山)に作らせたとする記録があり、日本では実物よりも先に模型の方が完成したことにより、実物の導入以前に既に蒸気機関の原理や構造への理解が習得されていた。その後、明治維新を経て国内でも文明開化と共に産業革命が起こり普及するが、第二次世界大戦後は内燃機関の普及と共に衰退した。現在では一部の保存団体や愛好家によって維持されたり、教育目的や懐古趣味による模型が作られている。
機構
蒸気機関の分類
単動式蒸気機関
単動式蒸気機関とはピストンの下がる時、或いは上がる時のみに蒸気が供給され力を出す蒸気機関である。単式蒸気機関とは異なる。
複動式蒸気機関
複動式蒸気機関とはピストンが下がる時だけでなく上がる時にも反対側から蒸気が供給される事により出力する。同じシリンダ径の場合、単動式よりも高出力だが、蒸気の消費量は倍増する。複式蒸気機関とは異なる。
単式蒸気機関
一度使用した蒸気は再利用せずに放出される。単動式蒸気機関とは異なる
複式蒸気機関
一度利用した蒸気を低圧シリンダで再度膨張させる事によって利用する。低圧シリンダの方が直径が大きい。三段膨張機関、四段膨張機関もあった。
膨張段数を増やす事によって単式機関よりもエネルギー効率が高まった。複動式蒸気機関とは異なる。
ユニフロー式蒸気機関
吸気口が上死点側にあり蒸気の流入のみを受け持つ。下死点側に排気口があり排気のみを受け持つ。蒸気は常に吸気口から排気口へ一方方向へ流れるのでこの名称で呼ばれる。
定置式蒸気機関
定置式蒸気機関は主に揚水や工場の動力等に使用された。揚水用の蒸気機関はクランクがなく往復運動を利用してポンプで水をくみ上げる。
可搬式蒸気機関
移動して運転する事が出来る蒸気機関で農業などで使用された。搭載される動力で自走できる機能を持つものもあった。
リード
蒸気機関におけるリードとは死点に達する直前に吸気口が開き蒸気が流入する事である。リードが大きいと始動が困難になる。一般的に運転中は変えられない。
ラップ
蒸気機関におけるラップとは流入する蒸気を下死点に達するよりも早く締め切る事である。ラップが大きい方が蒸気の利用効率は高まるが始動は困難になる。一般的に運転中は変えられない。
カットオフ
蒸気機関におけるカットオフとは蒸気が流入して回転力が最大に達した時点で吸気弁を締め切る事である。回転速度に応じてカットオフは変えることが可能である。
蒸気機関の応用
18世紀初頭以来、蒸気機関は動力源としてさまざまな分野で使われた。最初は蒸気ポンプなど簡単なものが多かったが、19世紀に入ると蒸気船、蒸気機関車など大規模な輸送機械として人類の生活に無くてはならないものとなった。
なお、蒸気船・蒸気機関車に関しては、レシプロ式蒸気機関のものだけではなく、蒸気タービンを用いたものも存在する。
蒸気機関の開発者たち
アレクサンドリアのヘロン
(ウスター侯爵) - 1650年頃に、蒸気による揚水機を製作したといわれている人物[8]。
ドニ・パパン
トーマス・セイヴァリ
トーマス・ニューコメン
ジェームズ・ワット
ニコラ=ジョゼフ・キュニョー
リチャード・トレビシック
ジョージ・スチーブンソン
マーク・イザムバード・ブルネル
イザムバード・キングダム・ブルネル
ロバート・フルトン
チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ
関連項目
外燃機関
機関 (機械)
蒸気タービン
飽和蒸気
過熱蒸気
ライブスチーム
アドバンスト・スティーム・テクノロジー
5AT 先進技術蒸気機関車
馬力
脚注
参考文献
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外部リンク
(in English)・(in German)・(in Spanish)
Steam engine (technology), at the Encyclopædia Britannica(in English)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2 |
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オホス・デル・サラード(Spanish: Ojos del Salado)は、アルゼンチンとチリの国境に位置するチリ最高峰で、西半球および南半球で二番目に高い。アンデス山脈の成層火山で、標高6893mは世界で最も高い活火山となる。西半球最高峰である6962mのアルゼンチンのアコンカグアの約600km北にある。
アタカマ砂漠に近いため非常に乾燥しており、冠雪はふつう冬の山頂部にしかみられないが、激しい嵐が起こると夏でも数十センチの雪が積もることがある。一般的に乾いた気象条件であるにもかかわらず、東部の6390m地点には直径100m近くの一年を通して涸れない火山湖がある[3]。世界で最も高所にある湖とみられる。
登頂は、ロープを必要とするような難しいスクランブリング地点のある山頂部を除けば、ほぼハイキングの要領で行ける。1937年、ポーランドのアンデス探検隊のヤン・アルフレッド・シュチェパニスキとユスティン・ヴォイシュニスが初登頂に成功した。
山名は、氷河にある巨大な塩坑に由来する[4]。
火山活動
オホス・デル・サラードが近年活発な火山であることは疑いないが、現在も(あるいは歴史的に)活発かどうかという問題は議論の余地がある。スミソニアン博物館の世界火山プログラム[2]によると、最後の噴火は、かなりのエラーバーがあるがおよそ1300年前とされる。しかし、1993年にも小規模な火山灰の噴出を示す証拠があるため、歴史的に活発な火山として明確に認められる可能性がある。山頂部の噴気孔や、時代は定かでないとはいえ流れ出た溶岩の存在も「活火山」に分類する根拠とされる。その場合、オホス・デル・サラードは地球上でもっとも標高の高い、歴史的に活発な火山ということになる。逆にこれが採用されない場合、「もっとも標高の高い、歴史的に活発な火山」の座は過去何度かの噴火(近年では1877年)が確実で、なお活火山とみなされるユーヤイヤコに帰される。
組成
サラードの岩石は、主にカリウムを多く含むデイサイトとライオデイサイトである。溶岩は黒雲母、普通角閃石、斜長石、不透明体を多く含み、普通輝石、石英、紫蘇輝石は少ない[5]。
標高
オホス・デル・サラードの標高は、現在も議論の的となっている。2006年に「アンデス・マガジン」は、オホス・デル・サラードがアコンカグアよりも高いかもしれないという記事を掲載したが、この主張は古く、精密度の低い高度調査をもとにしていた。これらの古い調査によると、オホス・デル・サラードの標高は7057mで、アコンカグアよりも100mほど高い。1955年にはオホス・デル・サラードの標高を7100mとする推計も出されたが、それは「単に山頂まで数時間かかる最終キャンプの高度をもとにしていた」[6]。1956年、退役中尉のレネ・ガハルド率いる初のチリ隊は、小型高度計で標高7084mを計測した。厳密な方法ではなかった点を別にしても、登山隊が登頂した午後は一般に気圧が低いため、高度計はかなり高い値を示していた[7]。
1980年代から90年代のさらなる調査探検で、近くのピシス山がオホス・デル・サラードよりさらに高いことを示す証拠がもたらされた。しかし、より精密な機器を使ったのちの計測では、オホス・デル・サラードがピシス山より100mほど高かった。さらに2007年には、「アンデス・マガジン」とアジムート360が組織したチリ-アルゼンチン-欧州の合同調査隊が、オホス・デル・サラードとピシス山の双方でより精密な機器を用いた調査を実施した。それによると、前者が6891m、後者が6793mであった[8]。この値は、山頂を6880mから6910mのあいだと推定した近年のGPS調査の範囲内に合致するが、調査隊の機器に10mの誤差があるため[8]、より正確な高度という点では不確かさを残した。
オホス・デル・サラードはアルゼンチン側にひとつ、チリ側にひとつの二つの峰がある(この間に両国の国境が引かれている)。双方の標高差は1mに満たない。
自動車登山
オホス・デル・サラードは、車両で到達できる最高点をきわめたい者に人気の山である。ドイツ隊が三つの連続記録を樹立し、2007年3月には6646mをマークした。2007年4月21日、チリのゴンサロ・ブラーボ・Gとエドゥアルド・カナーレス・モヤはスズキ・サムライで6688m地点に到達し、その記録を破った。この記録は2007年7月、ギネス・ワールド・レコーズに認定された[9]。オートバイでも、2012年3月18日にバートン・チャーチル(アメリカ)、ウォルター・コールバッチ(イギリス/オーストラリア)、ルカス・マッツィンガー(オーストリア)が6361m地点まで登り、世界記録を更新した[10][11]。
脚注
関連項目
ユーヤイヤコ
カサデロ
火山の一覧
参考文献
(Also includes volcanoes of Argentina, Bolivia, and Peru)
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外部リンク
(in English)
Peakbagger (in English)
SummitPost (in English)
Peaklist (in English)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9B%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89 |
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ドイツの原子爆弾開発(ドイツのげんしばくだんかいはつ)では、第二次世界大戦中にナチス政権下のドイツで行われた原子爆弾の開発計画と、第二次世界大戦後の状況に関する記述を行う。
背景
1938年1月に、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンの論文により、ウラニウムの核分裂反応が発見された。彼らは、ウラン235の原子核に中性子を衝突させて分裂させることに成功した。
ナチス・ドイツ政権下で、1939年9月末からドイツ国防軍兵器局のもとに原爆開発のための実験が試みられるようになった。当時、ユダヤ人系の学者は追放、または亡命していたので、残っていたドイツ人学者によって開発が進められた。
第二次世界大戦中の原子爆弾開発
1939年頃、ドイツ国防軍は、ドイツと占領地区全域から物理学者を一人残らず招集した。フォン・ヴァイツゼッカー、ヴェルナー・ハイゼンベルク、ヴァルター・ボーテ、(Robert Döpel)、ハンス・ガイガー、(Klaus Clusius)など、非ユダヤ人のドイツ人物理学者が招集されて、第一回研究会議で、原爆製造の可能性について討論した。
ドイツでは、日本やアメリカ合衆国以上に、核分裂の理論は完成していた。濃縮ウランの連鎖反応を利用することが通常の方法であったが、ウラン235の分離法についての技術開発が困難であった。そこで、技術的に困難であった濃縮ウランではなく、自然界に存在する天然ウランを利用した連鎖反応の大胆な理論の可能性を検討した。
通常、ウラン235の核分裂により発生した中性子はウラン238の原子核に飲み込まれてしまうが、中性子を減速すれば、容易に飲み込まれなくなる。そして、ウラン235の核分裂も減速した中性子の方が起こりやすいという性質を利用した。すなわち、天然ウランの中にわずか0.7パーセントしか含まれないウラン235の核分裂によって発生した中性子のスピードを重水によって減速して、天然ウランに99.3パーセント含まれるウラン238に飲み込ませないようにして、残りの0.7パーセントのウラン235に減速した中性子を集中させて、確実に連鎖反応を起こさせるという理論であった。
ハイゼンベルクらは、この理論では原子炉の製造は可能でも、爆撃機に搭載できるような小型軽量な原子爆弾の開発は不可能だと見ていた。
1940年春、ナチス・ドイツは科学者達の要請によってノルウェー作戦を実行した。これにより、ヴェモルクにある、世界最大の重水製造工場であるノルスク・ハイドロ電気化学工場を占領することができた。これによって、中性子減速材の重水を取得することが可能になった。
アドルフ・ヒトラー総統を始め、ナチス・ドイツ指導者層からは、研究はほとんど理解されず、教育科学省からの資金の援助もなかった。
しかし、アルベルト・シュペーア軍需大臣は、フリードリヒ・フロム大将が、新兵器が開発されない限り、ドイツが戦争に勝つ見込みがないと言った言葉に共鳴した。そして、科学者らを集めて、ナチスの政府高官たちに最初の講演を開いた。その時、ハイゼンベルクが原子核破壊とウランとサイクロトロン開発に関して報告した。
アメリカが核開発で政府からの資金提供が豊富であることを述べ、ドイツでは教育科学省の理解が乏しいので、資金と資材が不足している上に、科学者が軍に招集されて不足している状況を訴えた。アメリカの核開発がドイツより先行している事実を述べた。
講演後に、シュペーアがハイゼンベルクに原子爆弾の開発は何年後に可能かと質問した。ハイゼンベルクの答えは、原爆製造の理論には何の障害もなく、生産技術への援助があれば、2年以内に可能であると答えた。
6月23日、シュペーアはヒトラー総統に報告したが、「ユダヤ的物理学」として、ヒトラーは関心を示さなかった。
1943年2月23日、ノルスク・ハイドロの重水工場が、6人のノルウェー人の決死隊により、爆破されてしまった。これにより、重水が入手困難になった。また、戦況の切迫から、6週間以内に実践に使用できる兵器以外の研究をヒトラーが許さなかったため、シュペーアは第二次世界大戦中に製造が間に合わないと予想された原子爆弾の開発中止を決定した。
ドイツは、原子爆弾の開発には多大な資材と予算を浪費する為に、連合国側によって原爆が作られる可能性は余り高くないと判断していた。100名に満たない科学者と技術者が、原子炉の開発を始めた。戦争終結まで、1,000万ドルの予算を消費した。
1944年11月15日、連合軍のバッシュ中佐が指揮するは、原子爆弾開発の重要人物フォン・ヴァイツゼッカー博士を捕らえて、原爆開発の全貌を知るために、シュトラスブルクに侵攻した。シュトラスブルク病院の一角にあった原子物理研究所を発見して、数名の物理学者を捕虜にした。
部隊の一員オランダの物理学者サミュエル・ゴーズミット博士らが、ヴァイゼッカーの研究室でドイツの原子爆弾開発計画の貴重な資料を発見した。それにより、ヒトラーは1942年に原爆の可能性について報告を受けていたが、1944年後半には原子力開発はまだ実験段階にあり、原爆製造の考えを放棄していたという事実が知られた。連合軍は、これまでアメリカの原子爆弾開発を、政治的に、軍事的に、道徳的に正当化して、原爆製造と投下計画に駆り立てていたドイツの原爆の脅威が幻影であることを知った。
ドイツ原子爆弾開発の妨害活動
フレッシュマン作戦
1942年11月19日にイギリスのMI6部長スチュワート・メンジーズが主導した作戦。善意のドイツ人科学者と名乗るものからの小包で送られた情報(オスロレポート)によりドイツの原子爆弾研究がかなり進んでいることがわかり、また当時の状況からその信憑性もかなり高かったためそれを阻止すべくノルスク・ハイドロの破壊を計画した。作戦は地形的に空軍による爆撃が困難なためグライダー搭乗員による襲撃隊を送り地上攻撃で破壊を予定した。しかし天候不良や不運が重なり全滅し、失敗した。[1]
ガンナーサイド作戦
1943年2月16日から28日にかけてイギリスの特殊作戦執行部(SOE)ノルウェー担当部長ジャック・ウィルソン大佐が主導した作戦。ノルウェー軍に所属する秘密工作員のみで編成され小規模な潜入班を現地に送った。彼らはノルスク・ハイドロ電気化学工場へ侵入し目標である重水精製装置と重水タンクの爆破に成功する。しかし2年はかかると思われた復旧が4月までに終わり重水の生産が再開された。再びイギリスは1944年2月19日に、生産された重水を乗せた連絡船ハイドロ号を爆破し湖水に沈めてドイツの原子爆弾開発を完全に阻止した。この一連の作戦は『テレマークの要塞』として映画化されている。[2][3]
第二次世界大戦後の状況
第二次世界大戦後のドイツは、原子爆弾・水素爆弾などの核爆弾を含む核兵器を保有していない。
1960年代の核保有検討
2010年10月3日放映のNHKスペシャル「核を求めた日本」では、日本の元外務事務次官村田良平(2010年3月死去)の証言をもとに、核拡散防止条約調印後の1969年に、日本の外務省高官が西ドイツ外務省の関係者(当時、分析課長の岡崎久彦、国際資料室の鈴木孝、調査課長の村田良平と政策企画部長のエゴン・バール、参事官のペア・フィッシャーとクラウス・ブレヒ)らを箱根に招いて、核保有の可能性を探る会合を持っていた事実を明らかにした。
出典
参考文献
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関連項目
日本の原子爆弾開発/日本の核武装論
マンハッタン計画
加速器
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E9%96%8B%E7%99%BA |
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海空 りく(みそら りく、1987年1月19日 - )は日本の小説家(ライトノベル作家)。男性。
概要
第2回GA文庫大賞にて投稿作品『善意の魔法』が優秀賞を受賞(応募時のペンネームは<b data-parsoid='{"dsr":[1363,1374,3,3]}'>弐乃りくと)[1]。同作を改題した『断罪のイクシード』でデビュー。第3作『落第騎士の英雄譚』が2015年10月から同年12月までテレビアニメ化された。
好きなアニメにスクライドを挙げており、落第騎士のアニメ化の際に音楽はスクライドのスタッフを希望し実現した[2]。
作品
断罪のイクシード(2010年 - 、GA文庫(SBクリエイティブ)、全5巻)
彼女の恋が放してくれない!(2012年 - 、GA文庫(SBクリエイティブ)、全3巻)
落第騎士の英雄譚(2013年 - 、GA文庫(SBクリエイティブ)、既刊15巻)
アルティメット・アンチヒーロー(2014年 - 2016年、講談社ラノベ文庫(講談社)、全4巻)
超人高校生たちは異世界でも余裕で生き抜くようです!(2015年 - 、GA文庫(SBクリエイティブ)、既刊7巻)
出典
外部リンク
on Twitter
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中華人民共和国憲法(ちゅうかじんみんきょうわこくけんぽう、中国語簡体字:中华人民共和国宪法)は、中華人民共和国の最高法規である。
沿革<1>現行憲法の制定まで
「中国人民政治協商会議共同綱領」
1949年9月、北京で中国人民政治協商会議が開催され、統一戦線の代表により新しい政権建設についての話し合いが行われた[1]。この会議において、臨時憲法にあたる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され、9月29日に公布された[1]。同年10月1日には、中華人民共和国が成立した[1]。この「共同綱領」では、中華人民共和国を「新民主主義すなわち人民民主主義の国家」と規定した[1]。このことは、同綱領第1条が「中華人民共和国は新民主主義、すなわち人民民主主義の国家であって、労働者階級が指導し、労農同盟を基礎とし、民主的諸階級と国内諸民族を集結した人民民主主義独裁を実行し、帝国主義・封建主義・官僚資本主義に反対し、中国の独立、民主、平和、統一、および富強のために奮闘する」と規定していたことからも伺える[1][2]。この定義は現在も承継されている[3]。
54年憲法
1954年9月20日、第1期全国人民代表大会の第1次会議において「中華人民共和国憲法」(54年憲法と略する。全106条からなる[4])が採択され、即日公布された[5]。ソ連の1936年憲法(いわゆるスターリン憲法)を範にとるが、前提となる中国社会自体がまだ社会主義段階に到達していないので、社会主義への過渡期という歴史段階に対応する社会主義型の憲法として成立した[5]。同時に社会主義建設という目標と中共の指導的地位を明示し、「共同綱領」の時期まで維持されてきた人民民主統一戦線体制に事実上終止符をうち、新たに中共による一党独裁制を成立させた[5]。第1条は、「中華人民共和国は労働者階級が指導し、労働者と農民を基礎とする人民民主主義国家である。」との規定をおいた[6]。すなわち本54年憲法は、「共同綱領」と同じく、中華人民共和国をして「労働者階級が指導し、労農同盟を基礎とする人民民主主義の国家」と規定しつつ、「共同綱領」にある「新民主主義」の文言は削除されている[5]。なぜなら、それはもはや「民主的諸階級(中略)を結集した人民民主主義独裁」ではなく、社会主義の実現を目指して階級を廃絶するための「人民民主主義独裁」でなければならなかったからである[5]。また、「共同綱領」が「労働者・農民・小ブルジョアジーおよび民族ブルジョアジーの経済的利益とその私有財産制を保護し、新民主主義の人民経済を発展させ」るとしていたのに対し、本54年憲法は「社会主義的工業化と社会主義的改造を通じて、搾取制度の漸次的消滅と社会主義社会の建設を保障する」と規定して、社会主義化の方向を明確に打ち出した[5]。ただし、この社会主義への過渡期においては、「資本主義的工業に対して、利用・制限・改造の政策をとり」として、一定期間内の買戻しを実施し、その間は「資本家の生産手段の所有権およびその他の資本の所有権を保護する」と規定した[7]。したがって所有制としては、全人民所有制の国営経済が国民経済の指導力であり、「国家は国営経済の優先的発展を保障する」としていた[7]。
75年憲法
54年憲法では、社会主義建設を目指す過渡期の国家として自らを位置付けていたが、1956年に所有制の社会主義的改造を完了して社会主義に移行したことにより、この位置付けが実態に合わなくなった[8]。また1960年に中ソ対立が決定的となり、ソ連モデル憲法の空文化がもたらされた[8]。しかし、文化大革命期の不安定な政治的環境の中、法を軽視する傾向(法的ニヒリズム)が強まっている時期であり、憲法の改正が試みられるも、実現は容易でなかった[9]。1975年1月17日開催の第4期全国人民代表大会の第1次会議において、ようやく憲法改正が実現された(75年憲法)[9]。ただし、この75年憲法は全30条しか有せず、この簡易な体裁そのものが文革的法ニヒリズムを体現していた[9]。この75年憲法は、その成立直後に文化大革命が終結してしまったため、短期間のうちに効力を消滅するに至った[9]。
78年憲法
1978年3月5日、第5期全国人民代表大会の第1次会議において再度の憲法改正がされた[10](78年憲法と略する。全60条からなる[4])。78年憲法は、75年憲法を否定し、54年憲法の諸原則に立ち戻ることになったものの、文革の影響を完全に抜け出してはいなかった[10]。中国が文革を完全に清算する立場を確立したのは、1978年末の中共第11期中央委員会第3回総会であり、この会議ののち78年憲法は直ちに改正作業に入った[10]。そして翌年に米中国交樹立が実現した。
沿革<2>現行憲法(82年憲法)の制定と改正
現行憲法の制定
1982年12月4日、第5期全国人民代表大会の第5次会議において「中華人民共和国憲法」への改正がされた(82年憲法)[11]。これが現行憲法となる[11]。中国では憲法が制定されてから1年から数年で制憲時の政治的基礎が根本から失われるという事態を繰り返してきたが、この82年憲法の実質的寿命は際立って長い[12]。54年憲法以下3つの憲法はいずれも社会主義法建設時期に制定されたものであり、本82年憲法だけが、改革開放時期に制定されたものである[13]。54年憲法は社会主義社会へ至る過渡期に制定されたものであるのに対し、75年憲法と78年憲法は社会主義段階の憲法という違いがある[13]。しかも後者の2つの憲法は文革の後期に制定されたものであり、改革開放時期の政策とはまったく正反対の内容を有していた。このような関係から、本82年憲法は、文革の影響を完全に払拭した内容をもち、内容的には54年憲法を、基本的に継受しつつ、発展させた憲法と位置付けられる[13][11]。そもそも、54年憲法は革命後の中国がまだ社会主義に移行する前の憲法として構想され、82年憲法は、その前提となる社会を、資本主義と社会主義の中間に想定している[14]。しかし、その一方で文革路線からの転換を強調したため、第1条が「中華人民共和国は労働者階級の指導する、労農同盟を基礎とした、人民民主独裁の社会主義国家である」と定めるように[15]、「人民民主主義」概念を復活させざるを得ず、理論的には矛盾する部分も持ち合わせている[11]。82年憲法の大きな特徴として、それまでの3つの憲法とは異なり、第2章に「市民の基本的権利および義務(公民的基本权利和义务)」を第3章「国家機構(国家机构)」の前に置き、前者を後者より重視する姿勢を示していることがあげられる[16]。しかし、1980年代にはいってからは、計画経済から市場経済へという経済改革が急速に進展したため、後追い的な修正が必要となり、1988年、1993年、1999年、2004年と漸次改正された[16]。ただし、1975年、1978年、1982年の改正が条文の全面改正であるのに対し、1988年以降の改正は、一部の条文について改正が実施され、改正された条文が憲法に追記される形式をとっている[16]。2018年に行われた改正は経済改革というより、習近平体制の権威強化と長期政権に道を開くことが目的となっている[17]。
現行憲法の改正<1>1988年
1988年修正においては、前年1987年の第13回党大会で、中国の社会主義が初期段階にあるという認識が示され、商品経済が容認されたことを受けて、土地使用権の譲渡と私営経済の公認という二つの条文の改正がされた[16]。
前者は、土地の私有こそ認められないが土地使用権は期限を限って譲渡することが認められたものである(第10条第4項)[16][18]。
後者については、「社会主義経済制度の基礎は、生産手段の社会主義的公有制、すなわち全人民所有制および勤労大衆による集団所有制である」(第6条)の規定を補完として「法律の定める範囲内の都市・農村勤労者の個人経営経済」のみ認められていた(第11条第1項)[19]。この個人経営経済では、搾取労働を認めないという社会主義の原則に従って、雇用労働者の数は8名までと制限されていた[19]。本改正で同条第3項を追加し、これを超える規模の経済組織である「私営経済」が容認された[19][18]。この「私営経済」という表現は、社会主義の初期段階でも私有制までは認めないという意思表示だが、実質は私有経済と異ならない[19]。
現行憲法の改正<2>1993年
前回の修正が、社会主義の経済システムにおける計画経済から商品経済への転換であったのに対し、1993年改正ではさらに市場経済に移行することになる。序文の一部と7つの条文が改正された[19][18]。
まず序文では、中国が社会主義の初級段階にあること、中国的特色をもつ社会主義建設を進めること、そのために改革開放政策を維持することが追加された[19]。また、民主諸政党との協力を強化する方針が序文に追加された[20]。中国共産党の独裁体制に変化をもたらすものでないが、議会運営や選挙手続きの民主化などに一定程度の影響を及ぼしている[20]。
「社会主義公有制を基礎として、計画経済を実行する」(第15条)という規定が「社会主義市場経済を実行する」に改められ、市場経済への移行がうたわれた[19]。
国営企業は国家計画を前提として、法律の定める範囲内で経営管理の自主権をもつものとされていたが、所有権と経営権の分離という改革の原則に従い、国家計画を前提とせず自主権を行使しうるとされた(第16条)[19]。
農業生産の形態を集団所有制から家族単位の生産請負に転換するために、「農村人民公社、農業生産協同組合が農村における集団所有制経済の中核を占める」という第8条第1項の規定から農村人民公社、農業生産協同組合の文言を削除した[20]。
現行憲法の改正<3>1999年
1999年修正においては、1997年の第15回党大会における市場経済化の促進、WTO加盟を視野に入れたグローバル化への対応を受け、序文の一部と5つの条文が改正された[20]。
序文では中国が社会主義初期段階にある点に関して、それが長期にわたることが指摘され、社会主義的法治国家を建設する理論として、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想に並んで鄧小平理論が追加された[20][18]。
「依法治国」の規定を追加した(第5条第1項)[20]。
市場経済の発展に対応し、社会主義経済制度の基礎が生産手段の公有制にあるとの原則を維持しつつ、同時に多様な所有制と分配形式をも公認した(第6条)[20]。とりわけ非公有制経済を「社会主義市場経済の補充」から「社会主義市場経済の重要な構成要素」に格上げした(第11条)[20][18]。
現行憲法の改正<4>2004年
2004年修正においては、市場経済化の急速な進展という現状を反映し、14か条の追加がなされた[21]。
序文につき「マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論の導きの下で」に「『3つの代表』という重要な思想」の文言を加えた[21]。
また同じく序文にある「革命と建設に参加する者」の範囲は「民主諸党派、各人民団体、社会主義の勤労者、社会主義を擁護する愛国者、祖国の統一を擁護する愛国者」と定義されていたが、これに「社会主義事業の建設者」が加えられた[21]。「勤労者」は労働者と農民を指しているが、「建設者」は勤労者に含まれない自営業者や私営企業の経営者を含むものと解釈される[21]。
第10条第3項の、公共の利益のため土地を収用する場合(土地所有権に対する『征収』および土地使用権に対する『征用』について保障を与えることが明記された(第10条第3項)[22]。
「個人経済、私営経済の合法的な権利および利益を保護する」という規定を「個人経済、私営経済など非公有制経済の合法的な権利および利益を保護する」に改めた。個人経済、経営経済だけでなく、非公有制経済全体に保護の範囲を広げるとともに、その発展を奨励することも明記した(第11条第2項)[22]。
合法的財産の所有権について保護すると規定していた第13条を改め、「市民の合法的な私有財産は不可侵である」と規定するとともに、公共の利益のために収用される場合には補償されるとされた[22]。
経済発展の水準にふさわしい社会保障制度を整備することが追記された(第14条)[22]。
現行憲法の改正<5>2018年
第19回共産党大会で党規約の「指導思想」として盛り込まれた習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想、胡錦濤前党総書記の掲げた指導思想・科学的発展観を前文に記載。
公職に就く者は就任に際し、を行う[23][24][25]。
国家主席・国家副主席の任期制限(改正前は2期10年まで)を撤廃[26]。
国家監察委員会の新設
現行憲法の構成
序文と、4つの章全143条で構成されている。 第一章は「総則(总纲)」(第1条から第32条)、第二章は「市民の基本的な権利と義務 (公民的基本权利和义务)」(第33条から第56条)である。第三章「国家機構(国家机构)」は、第一節「全国人民代表大会(全国人民代表大会)」(第57条から第78条)、第二節「中華人民共和国主席(中华人民共和国主席)」(第79条から第84条)、第三節「国務院(国务院)」(第85条から第92条)、第四節「中央軍事委員会(中央军事委员会)」(第93条と第94条)、第五節「地方各級人民代表大会と地方各級人民政府(地方各级人民代表大会和地方各级人民政府)」(第95条から第111条)、第六節「民族自治地方の自治機関(民族自治地方的自治机关)」(第112条から第122条)、第七節「監察委員会(监察委员会)」(第123条から第127条)、第八節「人民法院と人民検察院(人民法院和人民检察院)」(第128条から第140条)に分かれる。第四章は「国旗、国歌、国章、首都(国旗、国歌、国徽、首都)」(第141条から第143条)である。
基本原理
現行憲法(82年憲法)が前提とし、制度化している国家機構の基本原理は「人民民主主義独裁」、「社会主義国家」、「民主集中制」の3つであり、これらは相互に関連している[27]。
人民民主主義独裁
本憲法第1条は、中華人民共和国が「労働者階級が指導し、労働者・農民の同盟を基礎とする人民民主主義独裁の社会主義国家」であると宣言する[28]。「人民民主主義独裁」とは「実質上はすなわちプロレタリアート独裁」(憲法前文)の一形式であり、マルクス主義と中国革命の具体的実践を結びつけた産物であるとされる。「国体」=国家の階級的本質を鮮明にするもので、本憲法が社会主義型憲法の特質を継承していることを示す[28]。「人民民主主義独裁」とは、国家の統治階級が労働者と農民であるという前提で、プロレタリアート=人民=統治階級の内部においては民主主義を行い、ブルジョワジー(資本家・地主など)=かつての支配者で現在の被統治者階級=敵に対しては独裁を行うというものである[27][28]。このような原理は労働者階級の先鋒隊すなわち前衛としての中国共産党による国家に対する指導を帰結させ、正当化させる[27][28]。
社会主義国家
「社会主義国家」については、本憲法第1条第2項第1文で「社会主義体制は中華人民共和国の根本的システムである(社会主义制度是中华人民共和国的根本制度)」と規定するが、はたして社会主義体制とは何かについて明確に定義する規定はどこにもない[29]。一般に社会主義体制とは、<1>「計画経済」、<2>「公有制」、<3>「前衛党の指導」が柱となることに異論はない[29]。しかし、中国においては、1988年の憲法改正において<1>の「計画経済」およびそれに関する文言を全て消し去り、逆に1993年の憲法改正において「計画経済」とは相容れないはずの「市場経済」の文言を規定している[29]。<2>の「公有制」に関しては、土地所有権こそ都市部で国有制が、農村部では集団所有制が実施されており、私有が認められていない。しかし流動化のために土地使用権の有償譲渡が認められる今日においては「公有制」が堅持されているとは言えない状況にある[29]。
したがって、現状の中国の社会主義とは、<3>の「前衛党の指導」による国家統治以外に見出すことはできない状態であるとされる[29]。
民主集中制
第3条第1項は、「中華人民共和国の国家機構は、民主集中制の原則を実行する」と規定している[30]。中国の憲法が国家機構において西欧諸国憲法とは異なる特色の顕著な特徴である[30]。「民主集中制」とは、民主主義的中央集権ともいい、社会主義国家に共通する国家機構編成の基本原理であり、旧ソ連では「ソビエト制」、中国では「人民代表大会制」により具体化される[29]。民主集中制には、<1>人民と国家権力の関係、<2>国家機関相互の関係[29]、<3>国家機関内部の関係および中央と地方、の3つの側面がある[31]。<1>の人民と国家権力の関係とは、あらゆる権力は人民に属することを出発点に、国家権力を行使する人代は人民の直接・間接選挙を通じて民主的に構成され、人代は人民に責任を負い、その監督に服する[29]。<2>の国家機関相互の関係では、人代は国家の権力機関として全権的地位に立ち、あらゆる権限を統一的に行使し、行政機関、人民法院、人民検察院を選出する。また人民政府、人民法院、人民検察院は国家権力機関に対して責任を負い、活動報告を行い、監督を受ける[31]。<3>の国家機関内部の関係は、下級機関は上級機関に従い、中央と地方の関係は、地方は中央の統一的指導に従う[31]。「民主集中制」を採用しているため、中国では憲法上、三権分立は否定される[30]。人大は、行政機関、裁判機関、検察機関を選出し、その活動を監督するという全権的な国家権力機関であり、人大制度の下では各機関相互間での業務の分業はありえても、西欧的な三権分立や「司法権の独立」を観念する余地はない[30]。また、現行憲法は裁判機関に違憲立法審査権を付与していない現行憲法上、憲法実施の監督権限は人大およびその常務委員会に、憲法の解釈権限は人大常務委員会にそれぞれ付与されている(第62条第2号、第67条第1号)。これもまた「民主集中制」からの当然の論理的帰結である[30]。
「前文」について
「中国は、世界で最も長い歴史をもつ国の一つである。中国の各民族人民は、共同して輝かしい文化を創造し、また光栄ある革命的伝統を受け継いでいる。」(第1段)で始まる憲法前文の、第7段において「中国の新民主主義革命の勝利と社会主義事業の成果は、中国共産党が中国の各民族人民を指導して、・・・真理を堅持し、誤りを是正し、多くの困難と危険に打ち勝って獲得したものである。」と規定し、「共産党の指導」の正統性を強調する[32]。現行82年憲法においては、75年憲法や78年憲法と異なり、憲法の具体的条項の中に「共産党」という言葉は登場せず、それが登場するのは、前文においてのみである[32]。憲法は一方で、前文第13段および第5条第4項において、すべての国家機関、武装力、各政党、各社会団体、各企業・事業組織は憲法および法律を順守しなければならない、と規定している。中国の憲法学者の多くは、この「各政党」の中には当然、共産党も含まれると解釈しており、一見、共産党は憲法体制の枠内にあるかのようである[32]。しかし他方、憲法前文に、「4つの基本原則」が規定されており、しかもこの原則の中核が「共産党の指導」の堅持であるがゆえに、共産党は、実質的に超憲法的存在となっている[32]。
第二章「市民の基本的な権利と義務」について
憲法上明記された「人権」の文言
1980年代後半までの中国においては、人権について論ずること自体がタブーとされ、2004年改正前は人一般の普遍的権利としての「人権」の語を用いることはなかった[33]。しかし、この改正により「国は、人権を尊重し、保障する」(第33条)とし、初めて「人権」の文言が憲法上明記された[4]。ただし、この改正後も第2章のタイトルは、「市民の基本的権利」となっており社会主義憲法特有の社会主義的基本権の理念が維持されている[33]。特に「いかなる市民であれ、憲法および法律が定める権利を享有し、同時に必ず憲法および法律が定める義務を履行しなければならない」(第34条第4項)とし、義務の履行を強調している[33]。またその前提として「いかなる組織ないし個人も社会主義体制を破壊することを禁止する」(第1条第2項)と定める[33]。
現行憲法上の保障
これらの前提に立ったうえで、市民の基本権について、まず精神的自由をみると、憲法上「言論・出版・結社の自由」(第35条)、「信教の自由」(第36条)、「人身の自由」(第37条)、「人格の尊厳」(第38条)、「住居の不可侵」(第39条)、「国家機関に対する批判・建議の権利」(第41条)、「文化活動を行う自由」(第47条)が保障されている[33]。しかし同時に、「中華人民共和国市民は、自由および権利を害してはならない」(第51条)として、国家・社会の利益による制約を明示している[33]。
財産権については、従来の社会主義のメルクマールであった私的所有権禁止を改め、「私有財産の不可侵」と「市民の私有財産権と相続権の保護」を保障している(第13条)[33]。
社会権については、「物質的援助を受ける権利」(第45条第1項)、「休息の権利」(第43条)、「教育を受ける権利と義務」(第46条)、「婚姻・家族・児童等に対する保護と配慮」(第49条)等の多くの規定がある[33]。労働については、権利であると同時に義務であることを強調し、「市民の栄光ある責務」であるとする(第42条))[33]。
問題点
このように憲法上には近代憲法で保障された普遍的な人権の観念が導入された反面、それらは本来「市民の基本権」でしかないという前提で成立した条項も維持されている[34]。例えば「信教の自由」についても、宗教活動は国家の管理下におかれ「国は正常な宗教活動を保護する」(第36条)に過ぎない[34]。概して権利保障の実態は天安門事件以降も不十分な点も多く、新疆ウイグル自治区における政治犯投獄や迫害、少数民族の抑圧、インターネット規制など、人権状況が「劣ったまま」であることがアメリカ国務省の「人権状況に関する報告書(2009年版)」等で批判されている[34]。
第三章「国家機構」について
上述基本原理の下、具体的には人大制がとられており、その頂点に存在するのは、全国人民代表大会(以下、全国人大という)である[31]。全国人大はあらゆる国家機関の母体であり、監督を行う、国家最高権力機関である[31]。
全国人大
全国人大は最高権力機関であり、代表の任期は5年である(第60条第1項)[31]。代表はもとの職場に属したままで職務にあたり、職能的な政治家ではない(第76条第1項参照)[35]。会議は毎年1月上旬に1度だけ開催される(第61条第1項)[31]。全国人大閉会中の活動を担保するため、常務委員会が設置されている(第57条)[31]。常務委員会は2か月に1度開催され、全国人大閉会中に全国人大に代わって選出され(第65条)、全国人大に責任を負い、活動報告を行う(第69条)[31]。全国人大は最高権力機関ゆえ、その行使する職務は多岐にわたるが、主要なものを挙げると、<1>憲法の改正および監督、<2>刑事・民事・国家機構およびその他基本的法律等の立法権、<3>国家主席、国務院総理、国家中央軍事委員会主席、最高人民法院長、最高人民検察院長等の人事権、<4>その他国家の重大事項の審議・決定である(第63条)[31]。常務委員会は、これらに加え、基本的法律以外の法律の立法権、憲法・法律の解釈権、行政法規・地方性法規の取消権等も有する(第67条)[31]。
国家主席
全国人大常務委員会とともに、国家元首として国を内外に代表する。被選出年齢は45歳以上。任期は全国人民代表大会の任期と同一。かつては国家主席と国家副主席の任期は2期10年まで</b>とする条項があったが、この任期制限条項は2018年に行われた憲法改正で削除された[26]。(第79条第2項、第3項)[36]。
国務院
最高国家機関の執行機関であり、最高国家行政機関である(第85条)[36]。他の最高国家機関同様、活動の全ては全国人大に従属しており、それに責任を負う[36]。最高国家行政機関として、全国の地方人民政府を統一的に指導する[36]。
中央軍事委員会
中国人民解放軍、人民武装警察部隊等の全国の武装力を指揮・統帥する国家機関である(第93条第1項)[36]。
地方国家機関
地方各クラスの国家権力機関としての人大、その執行機関・国家行政機関としての人民政府、裁判機関としての人民法院、検察機関としての人民検察院が含まれる[37]。民主集中制の結果、いずれも国家機関として位置付けられており、日本のような地方自治という概念は存在しないので、これらは地方自治体や地方公共団体とは言えない[37]。中央と同様に、地方国家機関は全て対応する人大により選出され、それに責任を負い、監督を受ける[37]。
第四章について
国旗は五星紅旗である(第136条第1項)、国歌は「義勇軍行進曲」である(同条第2項)、国章は、中央に5つの星に照り輝く天安門を、周囲を穀物の穂と歯車で配したもの(中华人民共和国国徽,中间是五星照耀下的天安门,周围是谷穗和齿轮)である(第137条)、首都は北京である(第138条)とそれぞれ規定する。
脚注
参考文献
小口彦太・田中信行著『現代中国法(第2版)』(2012年)成文堂(第1章中国法の形成と構造的特質、執筆担当;田中信行)
竹内実編訳『中華人民共和国憲法集 中国を知るテキスト[1]』(1991年)蒼蒼社
田中信行編『入門中国法』(2013年)弘文堂(第1章法と国家 第2章憲法、執筆担当;田中信行)
鮎京正訓編『アジア法ガイドブック』(2009年)名古屋大学出版会(第1章中国、執筆担当;宇田川幸則)
髙見澤麿・鈴木賢著『叢書中国的問題群3中国にとって法とは何か』(2010年)岩波書店(第6章現代中国における立憲主義-その現状と課題、執筆担当;鈴木賢)
辻村みよ子著『比較憲法(新版)』(2011年)岩波書店
木間正道・鈴木賢・高見澤麿著『現代中国法入門(第6版)』(2012年)有斐閣(第3章憲法、執筆担当;鈴木賢)
稲正樹・孝忠延夫・國分典子編『アジアの憲法入門』(2010年)日本評論社(第3章東アジア編中国、執筆担当;石塚迅)
外部リンク
関連項目
中華人民共和国の政治
黒頭は紅頭にしかず、紅頭は無頭にしかず
中国法制史
中華民国憲法
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95 |
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ビロード離婚(ビロードりこん)は、チェコとスロバキアの両共和国によって1993年1月1日に実施されたチェコスロバキア連邦共和国の連邦制解消を指して主に西側メディアが名付けた通称である。チェコおよびスロバキアでは単に「チェコスロバキア解散」(チェコ語:Zánik Československa、スロバキア語:Zánik Česko-Slovenska)または「チェコスロバキア分離」(チェコ語:Rozdělení Československa、スロバキア語:Rozdelenie Česko-Slovenska)と呼ぶ。
チェコスロバキアの共産党政権が倒れた1989年11月17日の民主化革命に続いて、連邦解消時にもユーゴスラビア紛争のような武力衝突を免れたことから、チェコスロバキアの民主化を「滑らかな布」にかけて「ビロード革命」と呼んだことにちなんで西側メディアが離婚に見立てて名付けたものである。このとき、先の革命をビロードと隠喩したのはフランス人であったとされる。
チェコスロバキアの連邦解体
歴史的に工業化が進んでいたチェコ共和国(旧・チェコ社会主義共和国)のGDP(国内総生産)は1990年代初頭、スロバキア共和国(旧・スロバキア社会主義共和国)に比べ20%上回っていたが、成長率の伸び悩みが大きな問題となっていて、チェコの政界ではスロバキアが経済的な重荷となって経済成長が妨げられているとの見方が広まっていた。
こうした状況を背景に1991年1月、チェコ共和国はスロバキア共和国に対する経済支援資金の拠出を停止した。当時、多くのチェコ人やスロバキア人は連邦の存続を求めていたが、スロバキアの政界では、1990年のいわゆる「ハイフン戦争」を経て、構成国の自由裁量権を更に拡大した国家連合制への移行や、完全な独立と主権回復を主張する意見が台頭するなど、連邦制の廃止とチェコとの離別が声高に叫ばれ始めた。スロバキアへの分権促進を巡り、連邦政府とスロバキア共和国政府の間では激しい応酬が続いた。
チェコ政界の急進的な市場経済改革論者で、スロバキアの切り離しを主張していたチェコ市民民主党のヴァーツラフ・クラウスは、スロバキア政界の連邦解体論者だった民主スロバキア運動のヴラジミール・メチアルに接近し、連邦解消を提案。同年の連邦議会人民院選挙で、チェコ市民民主党および民主スロバキア運動がそれぞれの共和国の第1党に躍進したことを受け、同年6月から分離に向けた激しい交渉が始まった。
しかし7月17日にスロバキア国民議会が一方的にスロバキア共和国の国家主権宣言を採択したため、その6日後にブラチスラヴァで開かれた両党の協議で、スロバキア政界の動きを追認する形で連邦解体が正式に合意され、8月26日、ブルノのトゥーゲントハット邸でクラウスとメチアルがチェコスロバキアの連邦解体の合意文書に署名した。
この時、すでにユーゴスラビアでは、同様の連邦離脱問題を巡って内戦が始まっていたが、チェコ、スロバキアの両共和国の交渉は平和的な連邦解体を行うための行政事務手続きの協議に移行した。
連邦議会は11月13日にチェコ、スロバキア両国の領土分割などを定めた「チェコおよびスロバキア連邦共和国資産のチェコ共和国およびスロバキア共和国への分割およびチェコ共和国およびスロバキア共和国への移行に関する基本法」(Ústavný zákon o delení majetku Českej a Slovenskej Federatívnej Republiky medzi Českou Republikou a Slovenskou Republikou a jeho prechode na Českú Republiku a Slovenskú Republiku, チェコスロバキア連邦議会1992年法律第541号)を、11月23日には、連邦の解体を1992年12月31日に行うことを定めた「チェコおよびスロバキア連邦共和国の終了に関する基本法」(Ústavný zákon o zániku Českej a Slovenskej Federatívnej Republiky, チェコスロバキア連邦議会1992年法律第542号)をそれぞれ採択。これらの基本法に基づいて1993年1月1日午前0時に連邦制が解消された。
共和国政府への権限移管
チェコスロバキアでは、すでに1989年の民主化以降、連邦を構成するチェコ共和国とスロバキア共和国に対する連邦政府権限の分離・移管が進められていた。社会主義時代からの国家安全保障隊公安部(Veřejná bezpečnost)を1991年7月に改組新設した連邦警察機構が「チェコ共和国警察」(Policie České republiky)と「スロバキア共和国警察隊」(Policajný zbor Slovenskej republiky)に分離した形で発足するなど、両共和国政府が連邦政府に代わって所管する行政機構の整備が進められていたことも、連邦制の解消に大きく作用した。
東欧革命以後、ソビエト連邦やユーゴスラビアなど旧共産圏の諸連邦国家で、連邦を構成する「民族共和国」の分離に伴って武力による激しい対立が発生したのと対照的に、チェコスロバキアでは流血の事態を招くことなく、立法・行政手続きに基づいた連邦解体が行われたことから、海外メディアを中心に「ビロード離婚」(英語:Velvet Divorce)と呼ぶようになった。
歴史的背景
第一次世界大戦の終結とオーストリア・ハンガリー帝国の解体に伴い、トマーシュ・マサリクらは1917年、スロバキアとチェコが対等に共和国を構成することを定めた「ピッツバーグ協定」に署名し、チェコスロバキア共和国(第1共和国)が成立した。しかしマサリクの後を継いだエドヴァルド・ベネシュが両国の融合を目指して推進したいわゆる「チェコスロバキア化」は多くのスロバキア人に受け入れられず、スロバキアは侵攻したナチス・ドイツの力を借りる形で1939年3月、スロバキア共和国(スロバキア第一共和国)としていったん分離独立した。
第二次世界大戦後、チェコスロバキアは共和国として再統一され、1960年には社会主義共和国となったが、スロバキア出身のアレクサンドル・ドプチェク共産党第一書記が指導した「プラハの春」と呼ばれる改革運動の結果、1968年に成立した新憲法によって翌1969年、スロバキアはチェコと対等な社会主義共和国として連邦制への移行を果たした。しかし1970年代の「正常化」の過程で中央集権化が進められた結果、政治行政の権力は再びチェコ側に集中した。これらの経緯が、共産政権崩壊後の両国の分離を促す背景となった。
連邦解体に伴う諸課題
資産
陸軍施設、鉄道、空港施設などの連邦資産は、チェコ人とスロバキア人のおよその人口比率である「チェコ2:スロバキア1」の割合で分割した。連邦政府保有の金準備金の処分方法などの若干の議論が、連邦解体後もしばらく続けられた。
通貨
連邦解体直後は引き続きチェコスロバキアコルナが両国で使用された。しかし経済損失を懸念したチェコ側によって、1993年2月8日から独自通貨に移行した。チェココルナとスロバキアコルナの為替レートは当初同一だったが、その後両国の経済格差を反映し、1990年代から2000年代前半にかけて、スロバキアコルナがチェココルナを下回る状態が続いた。欧州統一通貨ユーロに対しては、EU加盟当初から導入に積極的だったスロバキアが経済改革を推し進めてマーストリヒト条約の基準を満たし、2008年に移行を開始。2009年1月1日に予定通り切り替えを完了した。導入に消極的だったチェコは、世界金融危機を契機に再検討する姿勢を明らかにしているものの、基準達成への問題も多く、まだめどは立っていない。
国旗・国章
連邦解体時の協定では、分離後の両国はともにチェコスロバキア連邦共和国時代の国旗や紋章を使用しないと定めていたが、チェコ側は分離後も自国国旗としてチェコスロバキアの国旗を使用し続けた。このため一時スロバキア側の反発を招いた。
経済
分離翌年の1993年は、両国経済とも連邦解体による一定の効果があったが、事前の予想に比べその範囲は限定的なものにとどまった。スロバキアへの経済的負担がなくなることによる飛躍的な経済成長を見込んだチェコ側、チェコの思惑に束縛されないスロバキア独自の自由な経済開拓を見込んだスロバキア側の、双方の思惑はいずれも外れる形となった。
国籍
分離後、両国間の二重国籍は認められなかったが、数年後に裁判所の許可を前提に一部の国民に認められるようになった。現在では両国とも欧州連合(EU)に加盟したことで自由な往来や就労が可能で、まったく問題にならなくなった。2004年からはパスポートなしで両国間を往来し、特別な許可なく就労することが可能になったほか、シェンゲン協定に基づいて2007年12月31日には国境の検問も廃止されている。
人種問題
連邦解体に伴って発生した大きな問題の1つが、スロバキア出身でチェコに住むロマ人の国籍問題である。連邦解体後のチェコは1992年の国籍法で、自国出身でない者のチェコ国籍を認めず、彼らは長年無国籍のまま放置された。同法の規程に基づいて彼らがチェコ国籍を取得するには、5年間の継続した居住と犯罪を犯していないことの証明が条件とされ、さらに多額の手数料と複雑な手続きが必要だったため、多くのロマ人にとっては事実上国籍取得は不可能だった。一方スロバキア側も、国内に住んでいない彼らにスロバキア国籍を与えることには消極的だった。
このため、多数のロマ人が、法的地位が確立されず就労することも困難な状況におかれていたが、チェコに対するEUの圧力によって1999年と2003年にチェコ国籍法が改正され、問題は解決された。しかし1992年以降いったん国籍を失った人々に対するチェコ政府の補償は現在も行われていない。
言語
チェコスロバキア時代のテレビ番組は、ニュースではチェコ語とスロバキア語が同じ比率で放送されたが、海外の映画やテレビドラマなどの吹き替えはほとんどがチェコ語だけで行われた。こうした環境のため、両国のほとんどの国民は、話すことはできなくても互いの言葉を理解することが可能な水準の語学能力を身につけていた。
チェコでは連邦解消後、大半のテレビ番組がスロバキア語を使わなくなったため、若いチェコ人はスロバキア語の読解能力が低下し、スロバキア語の書籍や新聞の売り上げも激減した。しかし近年になって、テレビニュースで再びスロバキア語を導入する動きが出ている。
一方スロバキアでは、現在もほとんどのケーブルテレビ局でチェコ語のテレビチャンネルを用意しているほか、チェコ語版で吹き替えられた海外の映画や番組がスロバキア国内で放送されることが少なくない。また市場に出回るチェコ語の書籍や雑誌類は連邦解体前よりもむしろ増えており、若いスロバキア人のチェコ語の理解能力は以前と同等か、より向上する傾向にある。
スポーツ
1993年冬シーズンにスウェーデンで開かれたノルディックスキー国際選手権大会に出場したスキージャンプのチェコスロバキア代表チームは、「チェコ共和国およびスロバキアチーム」として出場した。同時期の世界ジュニアホッケー選手権大会では、大会途中の1992年末日にチェコスロバキアが解体されたことから、チェコスロバキア代表チームは「チェコおよびスロバキアチーム」と改称した。またサッカーチェコスロバキア代表は、1994年のFIFAワールドカップに向けた予選に「チェコおよびスロバキアの代表」(RČS, Reprezentace Česka a Slovenska)として出場。のちにチェコ代表とスロバキア代表に正式に分離した。
連邦解体の結果
チェコとスロバキアにとって、連邦解体は、結果としてチェコスロバキア時代よりも良好な両国関係をもたらした。2000年以降の大胆な経済改革による成長でスロバキアの経済水準はチェコと同レベルとなり、2004年にはともに欧州連合に加盟したこともあってチェコスロバキアの復活を求める動きは国民レベルでも政党レベルでもまったくない。連邦解体にともなって新たに確立された両国間の貿易関係は安定している。
特にチェコスロバキア時代には、国内のあらゆる面で指導的地位を占め続けるチェコ人に対し、多くのスロバキア人が何らかの悪感情を抱いていたが、それぞれが対等な独立国となった現在は、言語・文化・経済の各分野でもっとも共通点が多いことから、民族間の関係も良好である[1]。
脚注
関連項目
ビロード革命
ハイフン戦争
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ソロモン・ノーサップ([lower-alpha 1]、1807年[2]ないし1808年[3]7月10日 - 1863年頃?)は、アメリカ合衆国の奴隷制度廃止運動家で、回想記 "Twelve Years a Slave"の著者として広く知られている。ノーサップは、解放奴隷の父と自由有色人種の母を持ち、ニューヨーク州で生まれたアフリカ系アメリカ人の自由黒人だった。彼は農家・ヴァイオリンのプロ奏者として働き、ニューヨーク州に土地も所有していた。1841年、彼は音楽家としてツアーに誘われ、奴隷制度が合法だったワシントンD.C.へ向かったが、ノーサップはここで薬を飲ませられ、誘拐されて奴隷にされた。その後船でニューオーリンズに連れて行かれ、プランテーション経営者に買い取られた後、アボイルズ郡を中心として、ルイジアナ州のレッド川流域で12年間奴隷として働かされた。この後、同じプランテーションで働いていたカナダ人が、誘拐され奴隷にされた住民を援助すると州法で定めていたニューヨーク州に通報するのを手助けし、ノーサップは長い奴隷生活から解放された。家族や友人はニューヨーク州知事だったに助けを求め、ノーサップは1853年1月3日に再び自由の身となった[1]。
ワシントンD.C.の奴隷売人ジェームズ・H・バーチ()は逮捕され裁判にかけられたが、コロンビア特別区の法律では、黒人(ノーサップ)が白人を相手取って裁判することを禁じていたため、バーチには無罪評決が下った。ノーサップを誘拐した人物は、後にニューヨーク州で居場所を突き止められ告発されたが、2年の審理の末に陪審員の忌避[lower-alpha 2]により中断され、ワシントンD.C.での裁判が検討されたことで結局閉廷となる。ワシントンD.C.政府はこの件の調査を行わず、結局ノーサップを誘拐して奴隷にした人物は有罪とならなかった。
再び自由の身となってから、ノーサップは回想記の執筆を始め、『』Twelve Years a Slave とのタイトルで1853年に出版した。その後も奴隷制度廃止に向け、アメリカ合衆国北東部で自らの体験を語るスピーチを幾度も行った。歴史的記録からは1857年に姿を消しており(但し1863年のはじめに彼の生存を伝えた手紙が存在する)[4]、ノーサップが再び誘拐されたのではないかと考える人もいるが、奴隷として良い値段で売り払うには歳を取り過ぎていることから、歴史研究家の間ではこの節は否定的に考えられている[5]。彼の死については一切の記録が存在しない[6]。
ノーサップの回想記は、1984年にPBSが制作したテレビ映画 "Solomon Northup's Odyssey"、2013年の映画『それでも夜は明ける』として映像化されている。後者は第86回アカデミー賞(2014年)でアカデミー作品賞を獲得した。
経歴
家族の歴史と教育
父ミンタス()は、若い頃ノーサップ家に仕えて奴隷として働いていた解放奴隷だった。ミンタスはロードアイランド州に生まれ、その後ノーサップ家の引っ越しに合わせレンセリア郡に移り住んだ。ミンタスの主人だったヘンリー・ノーサップ()はの曾孫に当たり、彼の遺志としてミンタスを解放した[7][8][9]。ヘンリー・ノーサップに解放された後、ミンタスは自分の名字として「ノーサップ」姓を引き継いだ。この名字は、記録によってノーサップ (Northup) 、ノースラップ (Northrup) などと綴られている[1]。
ミンタス・ノーサップは、主人の死によって解放奴隷となった直後に、自由有色人種だった妻と、ニューヨーク州エセックス郡へと転居した[8]。ふたりの間には兄ジョゼフとソロモンの2人の息子が生まれ[10]、母親の身分に子どもが従うという原則[11][12] "Partus sequitur ventrem"に従って自由黒人となった[lower-alpha 3]。ソロモンは母について、アフリカ系アメリカ人の血を4分の1、ヨーロッパ系の血を4分の3引くことを意味する「」だと述べている[15]。父ミンタスは農家として土地を所有できるほどに成功し、州の土地所有要件()を満たすことになった。州法は1821年に見直され、黒人の土地所有要件は維持されたものの、白人男性向けのものより緩和されていたので、彼らの公民権を拡大することに繋がった。当時選挙権登録には州政府に税金を納める必要があったが[16]、ミンタスはこの要件を満たすために十分な金額を用意し選挙人登録を行った(解放奴隷だったことを考えると特筆すべきことである)[8]。彼はまた、2人の息子に対して、当時の自由黒人としては高水準と考えられる教育を行った[17]。少年時代、ソロモン・ジョゼフ兄弟は家族の農園で働いた[2][8]。ミンタス・ノーサップ夫妻は最終的にで暮らし、ミンタスは1829年11月22日に亡くなって[8][10]、のベイカー墓地()に葬られた。
結婚と家族
1828年ないし1829年[lower-alpha 4][2][8]、ノーサップはアン・ハンプトン()と結婚した。ハンプトンは「有色人種の女性」()で、アフリカ系・ヨーロッパ系・ネイティヴ・アメリカンの血を引いていた[18]。1830年から1834年にかけて、夫婦はフォート・エドワードやなど、ワシントン郡の小さなコミュニティで生活した[19]。
夫婦には、エリザベス・マーガレット・アロンゾと3人の子どもが生まれた[20]。家族はニューヨーク州で農園を所有し、様々な職に就いて収入を得ていた。後に書かれた回想記でノーサップは、妻への愛情について結婚以来「誠実で衰えないもの」()で、子どもたちを「最愛の人」()と記している[21]。
仕事
ノーサップは様々な職を持っていた。いかだ乗りとして働いていたほか、ヴァイオリン弾きとして評判であり、地元の舞踏会には引っ張りだこだった。妻アンは料理人として有名であり、食事と飲み物を提供する地元ので働いていた[8]。
1834年、仕事を求めた[2][8]ノーサップ家は農園を売り払い、20 miles (32km)先のサラトガ・スプリングズに移り住んだ[22]。ノーサップはサラトガ・スプリングズにある複数の有名ホテルでヴァイオリン演奏を行ったが、季節雇いをしてもらうことは難しいと悟った。彼は夏こそ忙しかったものの、それ以外の時期はさっぱりだった。このため、ヴァイオリン演奏の他にも、や鉄道の建設に従事したほか、熟練の大工としても働いた。アンはユナイテッド・ステイツ・ホテル()やその他の宿屋で時折料理人として働き、料理の腕は絶賛された。郡庁所在地ので法廷が開かれた時には、彼女はサンディ・ヒル(現)にあるシェリルズ・コーヒー・ハウス()でも働いた[23][24]。
誘拐、そして奴隷の身へ
1841年、32歳のノーサップはメリル・ブラウン()、エイブラハム・ハミルトン()と名乗る2人の男に出会った。2人は自らをサーカス会社員の芸人だと言い、ノーサップにニューヨークでヴァイオリン奏者として公演に参加しないか持ちかけた[2][8]。公演が短期的なものだと思ったノーサップは、サンディ・ヒルで働く妻アンには連絡せずに公演へ向かった[25]。ニューヨークに着いたところで、2人はノーサップへ気前の良い賃金と帰りの旅費を提示し、ワシントンD.C.で行われるサーカスの巡業にも参加するよう説得した。ワシントンでは奴隷制が適法で、彼の身分が脅かされる可能性もあったため、一行はノーサップが自由黒人だと証明する「フリー・ペーパー」()のコピーを取得するため、一時寄り道をした[8]。
当時のワシントンD.C.は、国内有数の奴隷市場が存在する場所でもあり、奴隷商人たちは、自由黒人を誘拐して奴隷にすることも厭わなかった[26]。南北戦争からおよそ20年前の当時は、ディープサウスで綿花栽培が拡大されており、健康な奴隷の需要が高まっていた時期でもあった(も参照)。誘拐者たちは、力尽くの連行や詐欺など様々な手段を使ったが、中でもコントロールしやすい子どもの誘拐が多発していた[27]。
「ブラウン」「ハミルトン」と名乗った男がノーサップを人事不省にしたことは容易に考え得ることで、彼が記録した症状はベラドンナまたはアヘンチンキ、もしくはその両方の中毒症状を示唆している[28]。ノーサップはその後、逃亡奴隷と偽証されてワシントン出身の奴隷商人ジェームズ・H・バーチ(、ノーサップの著書では "Burch" と綴られている[29])に650ドル(equivalent to $15,787in 2018[30])で売却された[8][20]。ノーサップはこの試練について、回想録の第2章で次のように述べている。
「彼らは私の不幸の幇助者なのか—人間の形をした狡猾で残酷な怪物なのか—故意に私を誘き出し、金のために私を家や家族、自由から引き離してしまった—このページを読んでいる人は、私と同じような判断をすることだろう」
"[w]hether they were accessory to my misfortunes – subtle and inhuman monsters in the shape of men – designedly luring me away from home and family, and liberty, for the sake of gold – those who read these pages will have the same means of determining as myself."—ソロモン・ノーサップ[31]
バーチと彼の雇った看守だったエベニーザー・ラドバーン()は、ノーサップが自由黒人だと主張するのを黙らせるため、彼をひどく打ち付けた。バーチはまた、ノーサップをジョージア州からの奴隷と偽り[32]、ノーサップはアメリカ合衆国議会議事堂近くにあった、ウィリアム・ウィリアムズ()へ出品された[20]。バーチはノーサップと他の奴隷たちを海路でニューオーリンズへ送り[lower-alpha 5]、彼の仲間のシオフィラス・フリーマン()がこの奴隷たちを売り捌いた[2][8]。旅の間、ノーサップや一緒に輸送された奴隷たちは天然痘に罹り[20]、ロバートという名前の奴隷が道半ばで死亡した。
ノーサップは、イングランド出身の船乗りジョン・マニング()に対し、ニューオーリンズに着いたら、彼が誘拐され不当に奴隷にされたという手紙をヘンリー・B・ノーサップに出してくれるよう説得した[33]。ヘンリーは弁護士で、ソロモンの父を解放したヘンリー・ノーサップの息子であり、ソロモンとは幼馴染みでもあった。ニューヨーク州議会はで、アフリカ系アメリカ人の住民が誘拐され、不当に奴隷にされた場合には、人権の回復に対し法的・経済的支援を行うという法律を成立させていた[27]。ヘンリーはソロモンを助けたいと考えたが、彼がどこにいるのか分からない状況では手の出しようが無かった。
最初の主人・フォード
ニューオーリンズの奴隷市場で、バーチの仲間だったフリーマンは、「プラット」()と名前の変えられたノーサップを、ルイジアナ州北部のレッド川流域にあるバイユー・バフ()で小さな農園を営む、教役者のへ売却した[2][8]。フォードは当時バプテスト教会を信仰していた[lower-alpha 6]。ノーサップの回想記では、フォードは奴隷のことをよく考える良い所有者だったと記述されている。
「私の考えでは、ウィリアム・フォードより優しく、気高く、公平で、慈悲深い人間は存在しない。彼の周りを取り囲む勢力や交際関係が、奴隷制度の底にある固有の悪を見えなくしていたのだ」
"In my opinion, there never was a more kind, noble, candid, Christian man than William Ford. The influences and associations that had always surrounded him, blinded him to the inherent wrong at the bottom of the system of Slavery."—ソロモン・ノーサップ[8][34]
パイン・ウッズ()にあったフォードの地所で、ノーサップはフォードの農園で取れた材木の市場価格算定を任された。彼は、材木を陸送よりも安いコストで楽に運搬できることから、材木で筏を作り、細いインディアン・クリーク()を使って川伝いに運ぶことを提案した。ノーサップはニューヨークで筏漕ぎとして働いていた経験から水運に慣れており、フォードも彼の計画が上手く行ったことに喜んだ。またノーサップは、大工としての腕を織機の複製に活かし、フォードがこの小川に水車場を作るのを助けることになった。フォードの農園ではノーサップの技能が正しく評価されていたが、フォードは経済難に喘いでおり、借金のかたとして18人の奴隷を売り払うことになった。
ティビッツの元へ
1842年冬、フォードはノーサップを、彼の水車場で大工として働いていたジョン・M・ティビッツ()へ売却した[8][lower-alpha 7]。彼はフォードのプランテーションで、機織り小屋やを作る手助けをしていた。ティビッツは買い取り代金の全額までは用意できなかったので、フォードはノーサップに対し400ドル(equivalent to $10,385in 2018[30])のを付け、これによりティビッツはフォードに借りができて、ノーサップは借金の担保として扱われた[37]。
ティビッツの管理下で、ノーサップは残酷で衝動的な扱われ方に苦しんだ。彼はフォードの農園でノーサップを使い、完璧な建築が出来るよう自分の仕事を手伝わせた。ある時には、ノーサップが使う釘が気に入らないという理由で、彼を鞭打ったこともあったが、この時ノーサップは彼の背後に回り込み、逆にティビッツをひどく殴りつけた。激怒したティビッツは、2人の友人を誘ってノーサップにリンチを仕掛け、彼を吊したが、この行為は奴隷の主人へ法律的に許可されていたものだった。フォードの農園の監督者であるチェイピンが現れ、ティビッツにフォードへの借金を思い出させ、銃で脅して追い払ったことから、ノーサップは殺されずに住んだが、彼はフォードが帰宅し縄を切るまで、首つり縄で吊されたまま放置された[38]。ノーサップは、ティビッツの借金が彼の命を救ったのだと考えていた。歴史学者のは、ノーサップは恐らくティビッツが購入した初めての奴隷で、これが移動労働者から地所持ちの主人になる過渡期を決定づけたのだろうと示唆している[39]。
ティビッツは地元で悪評高い人物だったが、再度ノーサップを殺そうと決意した。ティビッツは2人きりになったところで、斧を振り上げノーサップを殺そうとしたが、またもノーサップは自衛し、逆に素手でティビッツの首を絞め失神させた。ノーサップは犬に追われないよう沼地を通ってフォードの家に逃げ込み、フォードの側も彼を4日家に泊めた。フォードは彼らの諍いを収めるため、ティビッツに対してノーサップを賃貸しして、彼の仕事に見合った額をティビッツが受け取ればよいと提案した。
ティビッツはノーサップを、レッド川の南38 miles (61km)に住んでいる農園主エルドレット()へ賃貸しした。ノーサップが「巨大なサトウキビの藪」()と呼んだ農園で、エルドレットはノーサップをはじめとした奴隷に対し、綿花畑を作れるよう、に生えるサトウキビや雑木、下草を刈り取るよう言いつけた[20][40]。5週間後、作業がまだ終わらない内に、ティビッツはノーサップをエドウィン・エップス()へ売り払った。
エップスへ売り払われる
エップスは、ノーサップが解放される1853年までの約10年間、アボイルズ郡で彼を働かせた。エップスは残酷な主人であり、しばしば無差別に奴隷を痛めつけては馬車馬のように働かせた。彼の方針は、大量の綿花摘みなどの日課を奴隷に課し、達成できなかったときには鞭で打つというものだった[41]。ノーサップは、エップスの農園では日の入りから日の出まで毎日鞭打ちの音が鳴り響いていたと回想している[42]。エップスは、若い奴隷女性のパッツィを陵辱し、繰り返しレイプしていた[43]。これは、農園の女主人だったエップスの妻が肉体的・身体的暴行を行う一因にもなった[43]。
1852年、移動労働者のカナダ人大工サミュエル・バス()が仕事のためエップスの農園を訪れた。バスの奴隷制度廃止運動家としての考え方を聞いたノーサップは、彼に秘密を打ち明けることを決めたが、ノーサップが自由黒人だった身の上や本名を話したのは、奴隷にされて以来バスが初めての人間だった[44]。バスはノーサップが書いた手紙を投函しただけでなく、彼が助けを得られるよう、ノーサップがバイユー・バフにいるという手紙を自ら書き、ノーサップが挙げた彼の友人宛に送った[45]。
地元の人間は、個人の所有物でもある奴隷を助けて逃がそうとする人間を快くは思わなかったので、バスの行動には大きな個人的リスクが存在した。加えてバスの手助けは、奴隷の逃亡を助けた人物に連邦政府が課す罰則を強化した逃亡奴隷法の成立後に行われている[46]。
自由の回復
バスはノーサップのため複数の手紙を書き、うち1通はサラトガでノーサップと知り合いだった商店主シーファス・パーカーとウィリアム・ペリー()の元へ届けられた。2人のどちらかがノーサップの妻アンへと手紙を転送し、彼女はミンタスの主人の息子で弁護士のヘンリー・B・ノーサップへ連絡を取った。ヘンリー・Bはニューヨーク州知事だったに連絡し、ノーサップの法的代理人として司法長官と面会した。のニューヨーク州議会で成立した法律では[27]、誘拐され奴隷にされたアフリカ系住民を州政府が援助することだけでなく、逃亡奴隷とされている人に対しても陪審裁判を行う保証も盛り込まれていた。ノーサップの家族に手紙が届いた後、彼を救出しようとする人々はノーサップの居場所を探す必要があったが、これは手紙が間違った人に渡った場合を恐れてノーサップが一時的に身を隠そうとしていたことと、バスが彼の本名を使わなかったことが原因である。ノーサップの友人たちは、彼がニューヨーク州に住む自由黒人であるという証明書を見つけ、ヘンリー・B・ノーサップはソロモンを知る人々から宣誓供述書を集めた。この間、ノーサップはバスに託した手紙が誰かに届けられたのか知らないままだった。連絡を取り合うこともできなかったが、これは秘密を守るため、またノーサップの主人に計画が露見しないようにするためだった[8][24]。バスは移動労働者で、ルイジアナ州に友人と同居していた有色人種の女性がいたものの、妻と子どもたちはカナダに残したままでルイジアナに家族はいなかった[46]。ヘンリー・B・ノーサップは、数回目の手紙のやりとりで、やっとバスからソロモンがエドウィン・エップスの農園で働かされていることを聞き出した[47]。その後ヘンリーは、(アボイルズ郡の郡庁所在地)にいる郡保安官宛に、法律を遵守し彼を解放するよう求める警告書を提出した。
ルイジアナ州選出の上院議員や地元当局の助けを受け、ヘンリー・B・ノーサップは1853年1月1日にマークスヴィルに到着した[8]。ルイジアナ州では奴隷としての名前「プラット」で通っていたため、当初ソロモンの捜索は難航した。弁護士がエップスに対し、ノーサップが妻や子どももいる自由黒人であるという証拠を見せると、エップスは購入時にはそんなことは知らされていなかったと主張した[48]。エップスはノーサップに力を貸した人物が誰か言うよう迫ったが、ノーサップは頑として口を割らなかった[48]。ノーサップは後に、「[エップス]は自分の損害以外何も考えておらず、わたしが自由黒人として生まれたことをひどく罵った」と記録している[lower-alpha 8][8]。ヘンリー・B・ノーサップはエップスに対し、自由証明書に関して法廷で戦うのは無益だと納得させ、エップスも渋々これを認めて、ノーサップへのあらゆる権利を放棄する証書にサインした。バスにあってから4ヶ月後の1853年1月4日、ノーサップは遂に自由の身となった[20][50]。
訴訟と回想記
ノーサップは、奴隷として売られた後生還した数少ない自由黒人となった[lower-alpha 9]。弁護士を代表し、オハイオ州選出の上院議員だったサーモン・チェイス、将官、ヘンリー・B・ノーサップ、これに加えてソロモン本人が原告となり、バーチや、ワシントンで彼の誘拐に関わった人物を訴えた[1][5]。ソロモンとヘンリーはニューヨークに戻る途中でワシントンD.C.に立ち寄り、警察判事にバーチを訴える法的申し立てを提出した。バーチはすぐに逮捕・起訴されたが、ノーサップは黒人が法廷で証言できないというワシントンD.C.の法律に阻まれた。バーチのほか奴隷貿易に関わった人物は、ノーサップの方から、ジョージア州から来たので売りに出してほしいと彼らに近付いてきた、と証言した。一方でバーチの取引台帳には、ノーサップの買い上げについて何の記録も残っていなかった。起訴はヘンリー・B・ノーサップや、長年ソロモンと知り合いだった白人たちが行い、彼らは「ソロモン・ノーサップはニューヨークで自由黒人として生まれ、誘拐されるまでその地位を保っていた」と証言した。バーチの話に法的に抗弁できる人物はおらず、結局バーチは無罪となった。この裁判の一方で、衝撃的な事件は国民の関心を引き、ノーサップの救出からわずか2週間後の1853年1月20日には、『ニューヨーク・タイムズ』へ裁判に関する記事が掲載されたほどだった[1][52]。
無罪判決が下った後、バーチはノーサップを相手取り、不当にジョージア州出身の奴隷と偽って買い取り代金625ドルを騙し取ったとして訴えを起こした。ノーサップは自分の話の正当性を熱心に主張し、次の裁判を催促した。結局バーチは、ノーサップの抗議と弁護士の助言を受け、この訴えを取り下げた。ノーサップ自身は、バーチの訴えが彼の心証を悪くしようとしているだけだと知っていた。ノーサップが本当に「ジョージア州から来た奴隷」だと言っていたならば、解放から数日後に司法に訴え、バーチとの訴訟を起こして自分の自由を脅かすことは全く意味の無いことである。ノーサップは、サーカスの芸人だと称していたブラウンとハミルトンも訴えようとしたが、彼らが伝えたのは偽名であり、行方が分からずじまいだった。
その後、同年中にノーサップは回想記である『』Twelve Years a Slave(1853年)を出版した。本は地元のライター・ジャーナリストだったデイヴィッド・ウィルソン()の助けを受け、3ヶ月かけて書き上げられ[5]、その後ニューヨーク州オーバーンのダービー&ミラーから出版された[53]。当時は奴隷制度に疑問が投げかけられ、ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』(1852年)がベストセラーになっていた頃で、ノーサップの本の売り上げもも3年で3万部に達しベストセラーとなった[5]。
本が出版された後、ニューヨーク州近くに住む郡判事のサディアス・セント・ジョン()は、1841年のウィリアム・ハリソン大統領の葬儀の時期に、黒人と共にワシントンD.C.を旅していたアレクサンダー・メリルとジョゼフ・ラッセルという2人の友人を思い出した。セント・ジョンはワシントンから戻って彼らと再会したが、その時には黒人は同行していなかった。彼らはかなり高額で新しいものを身に着けたり運んだりしており、セント・ジョンは最初の旅の最中奇妙な会話があったことも思い出した。彼らは黒人と同行していた時、セント・ジョンが知るメリルとラッセルという名前ではなく、ブラウンとハミルトンと呼ばれていた。セント・ジョンは当局に連絡してノーサップと面会し、1841年の列車の中で初対面したことを確認した。この身元確認が元になり、メリルとラッセルは居場所を突き止められて逮捕された。
ニューヨークでの裁判は、ノーサップとセント・ジョンを原告として1854年10月4日に始まった。この裁判では、国内の奴隷貿易における多数の不法行為が明るみに出された上、証拠を積み重ねてノーサップの経験に関する証言が裏付けられた[8]。弁護人たちは、犯罪が行われたのがニューヨークであれワシントンであれ、ニューヨークの裁判所の司法管轄権の外にあると主張した。2年間の法廷闘争の末、ニューヨークの新しい州検察官は裁判を続行できないとし、1857年5月に閉廷した[8][54]。ワシントンD.C.では訴えが却下され、ノーサップを奴隷にしたメリルとラッセルには、これ以上法の咎めが言い渡されることは無かった。
晩年
再び自由の身となった後、ノーサップは妻と子どもに再会した。1855年まで、彼は娘のマーガレット・スタントン()の家族と共にウォーレン郡クイーンズベリーで暮らした[55]。彼は再び大工として働いたほか、奴隷制度廃止運動家としての活動を始め、南北戦争開戦以前に北部州を回り、奴隷体験を語る講演を2ダース以上も行った[56][57]。
1857年の夏中、ノーサップはカナダを訪れて複数の講演を行った。ノーサップのオンタリオ州訪問は広く報道されたが、反感を持ったカナダ人群衆のせいで講演は中止された[58]。彼の所在を残した記録はこれが最後で、同時代のものは全く発見されていない[6]。1858年の新聞記事では、「誘拐され奴隷として売られたが、後に自由を回復したソロモン・ノーサップが、再び南部に誘拐されて奴隷になったと言われている」と報じられた[59]。この直後、ヘンリー・B・ノーサップは、ソロモンは酔っ払い、カナダで誘拐されたと信じている、と発言した[60]。
これから数年後、E・R・マンは著書 "The Bench and Bar of Saratoga County"(1876年)で、ノーサップは訴訟の前に失踪してしまったとし、「彼の運命がどんなものだったか公にはなっていないが、手に負えない誘拐者は疑いも無く知っていることだろう」と書き残しているが[61]、これは全くの誤解である。1909年には、ヘンリー・B・ノーサップの甥であるジョン・ヘンリー・ノーサップが、「私が彼について最後に聞いたのは、ソルが本の売り上げのためにボストンでの講演に行っているという話だった。突然彼は失踪した。私たちは、彼が誘拐され、連れ去られたか殺されたのだと思っている」と書いている[lower-alpha 10]。一方で、1930年代に書かれたジョン・R・スミス()による手紙では、彼の父で、ヴァーモント州のメソジスト牧師だったジョン・L・スミス()が、南北戦争中の1860年代初頭に、ノーサップや元奴隷タブス・グロス()と働き、「地下鉄道」を通じてやってくる逃亡奴隷たちを支援していたと記録している[4]。ノーサップは、リンカーンの奴隷解放宣言後にスミス牧師の元を訪れたと言われているが、この宣言は1863年1月に出されたものである[4]。
ノーサップは、1860年のアメリカ合衆国国政調査の段階ではその名前が記録に存在しない[62]。1865年の国政調査では、ノーサップの名前ではなく妻アンの名前が記載されており、彼女は結婚していて未亡人ではなく、娘マーガレット、義理の息子フィリップ・スタントン()と共に、サラトガ郡近郊に住んでいると記録されている[63]。1870年には、アンはバートン・C・デニス()家の使用人として名前が記載されている[64]。この頃、デニスはサンディ・ヒルのミドルワース・ハウス・ホテル()に逗留していたが、ノーサップの名前はこのホテルの滞在人名簿の中には無い。同じ年、娘マーガレット・スタントン夫婦の名前がモローの国政調査で確認できるが[65]、ここにもノーサップの名前は存在しない。ノーサップの息子アロンゾは、1870年の国政調査でニューヨーク州フォート・エドワードにいたことが確認されているが、彼の家族としては、アロンゾ本人に加えて、妻と娘しか記録されていない[66]。
1875年、アン・ノーサップは、ニューヨーク州ワシントン郡のキングズベリーとサンディ・ヒルで暮らしていたことが分かっているが[67]、この段階での国政調査の情報は「現在は未亡人である」()というものである。アンが1876年に死んだ時、複数の新聞で彼女が未亡人だったことが伝えられた。アンを讃えるある追悼記事では、ノーサップについて「国内で自分を見世物にした挙げ句、価値の無いさすらい人になった」と記されている[68]。
21世紀の歴史学者クリフォード・ブラウンとキャロル・ウィルソンは、ノーサップが自然死したのではないかと見ている[5]。ノーサップは奴隷として売るには年を取り過ぎており、1850年代後半に奴隷としての売却目当てに誘拐されたことは考えにくいとされているが、彼の失踪については説明が付けられていない[6]。
歴史的文献として
ノーサップによる回想記は奴隷体験記のジャンルに収められるものの、研究者のサム・ワーリー()は、作品がこのジャンルの標準的書式になっていないと指摘している。ノーサップは白人男性のデイヴィッド・ウィルソン()の助けを受けてこの本を書いたほか、ワーリーによれば、題材に対し偏見があると信じる人もいるという。ウィルソンが回想記で自らの興味を追求したのではないかという心配もあるが、ワーリーはこれについては考慮に入れていない。彼は回想記についてこう書いている。
「『トウェルブ・イヤーズ』は圧倒的にノーサップの話で、別人の話ではない。[作品には]経験の詳細にまで驚くほど注がれた注意力や、ノーサップの経験の複雑さを不毛な道徳寓話にするのは不本意だという意志が感じられる」
"Twelve Years is convincingly Northup's tale and no one else's because of its amazing attention to empirical detail and unwillingness to reduce the complexity of Northup's experience to a stark moral allegory."[24]
ノーサップの伝記を書いたデイヴィッド・フィスク()は、本の執筆におけるノーサップの役割について調べ、ノーサップが著作者であることを断言している[69]。ノーサップの記述した回想記は、奴隷制度を専門とする多くの研究者に用いられている。ノーサップの回想記には、ワシントンでウィリアム・ウィリアムズが所有していた奴隷小屋について記載した部分があり[70]、アメリカ合衆国議会議事堂が見える場所に建てられていたこの「イエロー・ハウス」(もしくは「ウィリアムズ・スレイヴ・ペン」)[lower-alpha 11]に関する記述は、コロンビア特別区の奴隷制度史の記録として研究者を助けている。
研究者への影響
は、自著 "Life and Labor in the Old South"(ボストン、1929年)と "American Negro Slavery"(ニューヨーク、1918年)において、元奴隷だったというノーサップの記述について信憑性を疑いつつも、回想記については「物事の底面から見た、プランテーション生活の鮮やかな記録」()と述べている[71][72]。研究家のも、自著 "The Peculiar Institution"(ニューヨーク、1956年)で奴隷生活について扱ったノーサップの回想記に触れている[73][74]。また、も自著 "Slavery"(シカゴ、1959年)でこの回想記に触れ、歴史的に信用できる作品だとしている[72]。
20世紀中頃からの公民権運動や、社会史・アフリカ系アメリカ人に関する研究の増加で、ノーサップの回想記に対する関心が高まった[75]。1968年には、彼の回想記を初めて学術的に編集したものが出版された[76][77]。回想記はとジョゼフ・ログスドンの教授2人によって編集され、多くの注釈が付けられてから発行され、教材や研究材料としてよく使われているほか、現在でも再版を重ねている[75]。
1998年には、ニューヨーク州スケネクタディにあるの学生チームが、政治学の教授であるクリフォード・ブラウン()と共同でノーサップの回想記について研究している。学生たちは、ノーサップゆかりの地であるニューヨーク・ワシントンD.C.・ルイジアナ州で、写真・家系図・売買証書・地図・病院の記録などを収集した[5]。収集された資料は、大学にあるノット記念棟()で展示された[5]。
ジェシー・ホランド()も、自著 "Black Men Built the Capitol"(2007年)でノーサップの記述を用いたことを記録している[78]。
レガシー・名誉
1999年、ノーサップの人生を讃えるため、サラトガ・スプリングズのコングレス・ブロードウェイの角に歴史記念碑が建てられた。市はまた、ノーサップを讃え、地域のアフリカ系アメリカ人の歴史に光を当て、自由と正義の尊さを教えるためとして、7月の第3土曜日を「ソロモン・ノーサップ・デイ」と定めている[79][80]。2000年には、アメリカ議会図書館が、「ソロモン・ノーサップ・デイ」の取り組みについてに永久保存することを決めた。「ソロモン・ノーサップ・デイ—自由を讃える日」()と銘打たれたイベントは、現在でも毎年サラトガ・スプリングズで開催されているほか、The North Country Underground Railroad Historical Association の援助を受けて、ニューヨーク州プラッツバーグでも開催されている[81]。2015年にで開かれたカンファレンスでは、連邦議会議員のをはじめ、ノーサップの子孫が一堂に会した[82]。
ノーサップを取り扱った作品
元で、ピューリッツァー賞も受賞した詩人のは、ノーサップに関する詩 "The Abduction" を最初の詩集 "The Yellow House on the Corner"(1980年)に収録している[83]。
1984年には、ノーサップの回想記が翻案され、PBSでゴードン・パークス監督・エイヴリー・ブルックス主演のテレビ映画 "Solomon Northup's Odyssey"として映像化された[84]。
2008年、作曲家でサックス奏者のはからの委託を受け、ノーサップの人生に触発された音楽 "Follow the North Star" を収録している[85]。
2010年のテレビ・ミニシリーズ『』のエピソード "Division" ではノーサップの奴隷オークションが取り上げられ、彼の回想記に収録されているエリザという女奴隷が子どもと引き離された場面が特集された。
2013年の映画『それでも夜は明ける』(原題:12 Years a Slave)は、彼の回想記を元にジョン・リドリー脚本、スティーヴ・マックイーン監督で製作された[86]。キウェテル・イジョフォーがノーサップを演じ、本人はアカデミー主演男優賞にもノミネートされた。作品は第86回アカデミー賞でイジョフォーの主演男優賞を含め9部門にノミネートされ[87]、最終的にアカデミー作品賞・アカデミー脚色賞(リドリー)・アカデミー助演女優賞(ルピタ・ニョンゴ、パッツィ役)の3部門を獲得し、黒人監督による映画に対する初の作品賞となった[88]。
2015年にリリースされたプロフェッサーA.L.I.()の曲 "Diasporal Histories" では、奴隷だったノーサップや、フレデリック・ダグラス、ハリエット・タブマンの話を織り交ぜ、さらに凍り付いた川を渡って逃げてきた架空の逃亡奴隷エリザにまつわる話が挿入されて歌詞になっている。歌詞中で、ノーサップは「ソロモンのように毒を飲まされ、口の上手い奴に盗まれた」()として登場する[89]。
関連項目
『それでも夜は明ける』
奴隷体験記
アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史
en:Reverse Underground Railroad - 奴隷解放に尽力した秘密結社「地下鉄道」と逆に、自由州から南部州へ黒人を誘拐し、奴隷にしたことを指す。
en:List of people who disappeared mysteriously
脚注
注釈
出典
参考文献
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発展資料
CS1 maint: uses authors parameter (link), a complete biography of Northup
, Newbery Honor, ages 10 and up
外部リンク
at Internet Archive
at LibriVox (public domain audiobooks)
, Houghton Library, Harvard University. Available as online images (Digital Collections tab), detailing Northup's involvement in the Underground Railroad after January 1863.
, National Archives: Docs Teach
Unknown parameter |deadlink= ignored (|url-status= suggested) (help) - ノーサップの回想記に登場する場所の解説。イーキンとログスドンによる1968年の研究に基づいている。
- ノーサップの直系子孫たちによるサイト
on IMDb
on IMDb
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%97 |
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ピーター・グロソップ(Peter Glossop, 1928年7月6日 - 2008年9月7日)は、イギリスのバリトン歌手。
ミラノ・スカラ座において、ヴェルディ諸作品での悲劇的なバリトンのタイトル・ロールを歌った唯一のイギリス人歌手として記録されている[1]。1960年代から1970年代にかけて、『リゴレット』などヴェルディの作品を中心としたレパートリーで、ヨーロッパやアメリカなどで活躍した。「シェフィールドのレンガ道からやってきてスカラ座をも征服した、ジェームズ・ボンドを別にするとイタリアで最も人気のあったイギリス人」とも評された[1]。
生涯
サドラーズ・ウェルズ
ピーター・グロソップは1928年7月6日、イングランド中部シェフィールド近郊ので、刃物工場を経営するシリル・グロソップの子として生まれる[1]。家庭は幸運に包まれていたとは言い難く、ピーターが5歳のときに母親が結核で亡くなり、兄弟姉妹ものちに結核や自殺で亡くなった[1]。ピーターは無事に成長し、シェフィールドのに進学ののち、に勤務していた別の姉妹ヴァイオレットの口添えで初めてヴェルディ『リゴレット』を見て感銘を覚えた[1]。また、地元の友人たちとジャズバンドを結成して活動したりもした[2]。第二次世界大戦終結後にイギリス軍の兵役に就いてデュッセルドルフに赴任して除隊したのち、シェフィールドのに勤務するが、オペラへの情熱は断ちがたくシェフィールド・オペラ協会に入会したのち、1949年にオッフェンバック『ホフマン物語』のコッペリウス役でアマチュア歌手としてのデビューを果たした[1][3]。スコットランド出身のテノールであると組んで巡業する傍らで1952年にはサドラーズ・ウェルズ・オペラの合唱団に入る[1][2][3]。ロンドンではレナード・モズレーとエヴァ・リッチのもとで歌唱に磨きをかけ、1953年にはビゼー『カルメン』のモラレスでプロとしてのデビューを果たした[1][2]。プロとしてデビューののちも、ピーターはヒスロップのもとで高度な歌唱技術の取得に取り組み、レオンカヴァッロ『道化師』のシルヴィオやプッチーニ『ラ・ボエーム』のショナールといった役を手掛けたのち[2]、1955年までにはプリンシパル・バリトンの座に就いてヴェルディ『イル・トロヴァトーレ』、『椿姫』ジョルジョ・ジェルモン、チャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』のタイトル・ロールを歌い、いずれも好評を得てピーターのキャリアは保証されたものとなった[1][2]。プロとして初めてリゴレットを歌ったのは1959年のことで、リゴレットのほかにプッチーニ『トスカ』のスカルピア、ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』のカルロ・ジェラールをレパートリーとして加える[1][2]。当時のサドラーズ・ウェルズの音楽監督はアレクサンダー・ギブソンやコリン・デイヴィスであり、ピーターはじめとする所属歌手は、ギブソンやデイヴィスのもとで適役を見つけて自己のレパートリーとする修練が行われていた[1]。
国際的な活躍
1961年、ピーターはブルガリアのソフィアで行われた国際オペラコンテストに出場して金メダルを受賞し、以降は国際的な活躍を見せるようになる[1][3]。同じ1961年の12月にはベンジャミン・ブリテン『夏の夜の夢』のデメトリアスでロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)に初出演し、エディンバラ音楽祭にも出演を果たすが、一連の出演がサドラーズ・ウェルズ側から「一方的な手切れ」と勘違いされて場違いな批判を受けることもあった[1]。ただ、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウやティート・ゴッビといった名だたるバリトン歌手群の一角にその名を連ねるということを意味していたので、批判は大したダメージにはならなかった[1]。コヴェント・ガーデンの常連になってからはヴェルディ『ドン・カルロ』のロドリーゴ侯爵、『アイーダ』のアモナズロ、『仮面舞踏会』のレナート、プッチーニ『外套』のミケーレ、『道化師』のトニオといったイタリア・オペラの諸役、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』のタイトル・ロールなども歌うようになる[1]。十八番のリゴレットやルーナ伯爵も、前者は1964年にフランコ・ゼフィレッリによる新演出でゲオルク・ショルティの指揮により歌い[1]、後者もルキノ・ヴィスコンティの演出、カルロ・マリア・ジュリーニの指揮による舞台に出演した[2][3]。なお、ピーターはこのころになると、多忙のためコヴェント・ガーデンとサドラーズ・ウェルズとの掛け持ちが難しくなったこともあって、サドラーズ・ウェルズと契約を正式に終えている[2]。イタリアへの進出も開始し、「多くの歌手が屍をさらす」と評されたパルマでリゴレットを歌い称賛を浴びたことにより、1965年にスカラ座への出演を、マントヴァ公爵にルチアーノ・パヴァロッティを得た『リゴレット』で果たすこととなった[2][3]。イタリアではスカラ座とパルマのほかにパレルモやナポリでも歌い、1967年には『道化師』トニオで出演予定のの代役として、再びスカラ座の舞台に立った[1][4]。
1966年、ピーターはパリのオペラ座とに、ともに『ドン・カルロ』のロドリーゴ侯爵で初出演[3]。1969年にはデイヴィスの指揮によるベルリオーズ『トロイアの人々』の完全初演にコロエブスで出演し、フィリップス・レコードによる最初のレコーディングにも参加した[3]。この時期にはヴェルディ『オテロ』のヤーゴを新しいレートリーとして手中にし、1970年のザルツブルク音楽祭ではヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮と演出による『オテロ』に出演[1][2][3][4][5]。カラヤンによって「マリオ・デル=モナコの後を継ぐオテロ」と指名されたジョン・ヴィッカーズ、デズデーモナのミレッラ・フレーニと共演した[3][5]。メトロポリタン歌劇場(メト)とのつながりは1967年が最初であるが、この時はロードアイランド州ニューポートにおける『リゴレット』の引っ越し公演であり、公式にメトの舞台に初めて立ったのは1971年6月のことで、スカルピアを歌った[3]。この公演は、のちにメトに君臨する指揮者ジェームズ・レヴァインのメト・デビューでもあった[3][4]。メトでは1986年までの間にヤーゴ、ヴェルディ『運命の力』のドン・カルロ・ディ・ヴァルガス、『シモン・ボッカネグラ』のパオロ・アルビアーニおよびシモン・ボッカネグラ、フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』のペーター、ブリテンの『』のレッドバーンなどを歌った[3][4]。同じ1971年の9月にはNHK招聘の第6回NHKイタリア歌劇団のため来日し、ロヴロ・フォン・マタチッチの指揮でパヴァロッティ(マントヴァ公爵)、ルッジェーロ・ライモンディ(スパラフチーレ)、ルイス・ラッセル(ジルダ)らの共演を得てリゴレットを歌った[6][7][注釈 1]。
引退
話はさかのぼり、ピーターはサドラーズ・ウェルズに所属していた1955年に同僚の歌手であるジョイス・ブラックハムと最初の結婚をしている[1]。ジョイスとの間には娘が生まれたが、産後に亡くなっている[1]。1977年にジョイスと離婚後まもなく、26歳年下のバレエダンサーのミシェル・エイモスと再婚して2人の娘を授かったが、1986年に離婚した[1][2][3]。この二度目の離婚に至るまでの間、ピーターは自身の能力について徐々に自信が持てなくなった[1]。それでも1980年にはイングリッシュ・ナショナル・オペラでリヒャルト・シュトラウス『アラベラ』のマンドリーカに挑戦するなど意欲を見せており、このマンドリーカが、ピーターが最後にレパートリーに加えた役柄であった[2]。しかし、イングリッシュ・ナショナル・オペラのマネジメント・ディレクターであるに「シュトラウスとホフマンスタールの世界に謎の宇宙空間から割って入って、アラベラの足を引っ張る男」と酷評された[2]。伯爵の酷評の影響は定かではないが、以降のピーターの活躍は鈍り、1985年にメトで演じたシモン・ボッカネグラも成功には至らず、翌1986年にロサンゼルスで演じたプッチーニ『蝶々夫人』のシャープレスと、メトでのスカルピアを最後に現役を引退した[2][3]。
引退後のピーターは、デヴォンシャーのの一村で引退生活を送っていたが、やがて喉頭癌を患っていることが判明し、ジョイスと新しいパートナーがピーター宅の近所に移ってきた[1]。2004年には自伝『ヨークシャーのバリトンの物語』 (The Story of a Yorkshire Baritone)を出版し、自伝の中でピーターはジョイスとの離婚を後悔していることを明らかにした[2]。また、今まで共演した指揮者ではショルティとカラヤンを「独裁者」だとしつつも一定の評価をし、コヴェント・ガーデンに限ってはエドワード・ダウンズとレジナルド・グッドオール、メトではレヴァインとチャールズ・マッケラスとは相性が良かったことを明かしている[2]。ピーター・グロソップは長年の闘病の末、2008年9月7日にデヴォンシャーので亡くなった[4]。80歳没。墓はエクセターにある[4]。
主なディスコグラフィ
エドワード・ジャーマン『』(エセックス伯爵):ジューン・ブロンヒル、ウィリアム・マックアルパイン、モニカ・シンクレア:マイケル・コリンズ指揮:1960年:EMI Classics for Pleasure 5 75767-2(CD)[8]
ヘンリー・パーセル『ディドとエネアス』(エネアス):ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス、ヘザー・ハーパー、エリザベス・ロブソン、パトリシア・ジョンソン:ジョン・バルビローリ指揮イギリス室内管弦楽団:1965年:EMI CMS 5 65664-2(CD)[9]
ビセー『カルメン』(エスカミーリョ):フィオレンツァ・コッソット、ジョルジォ・ランベルティ:ペーター・マーク指揮:1966年サン・カルロ劇場:Encore DVD 2644(DVD)[10]
ブリテン『ビリー・バッド』(ビリー・バッド):ピーター・ピアーズ、マイケル・ラングドン:ブリテン指揮ロンドン交響楽団:1967年:Decca 475 6020(CD)[11]
レオンカヴァッロ『道化師』(トニオ):ヴィッカーズ、ライナ・カバイヴァンスカ:カラヤン指揮スカラ座:1968年:DG 073 4389(DVD)[12]
ヴェルディ『エルナーニ』(カルロ):ブルーノ・プレヴェリ、モンセラート・カバリェ、ボリス・クリストフ:ジャナンドレア・ガヴァッツェーニ指揮:1968年RAIミラノ:Living Stage LS 4035154(CD)[13]
ガエターノ・ドニゼッティ『』(ノッティンガム公爵):ベヴェリー・シルズ、ベヴェリー・ウォルフ、ボリス・クリストフ:マッケラス指揮ロイヤル・フィル:1969年:Living Stage LS 4035154(CD)[14]
ベルリオーズ『トロイアの人々』(コロエブス):ヴィッカーズ、アンソニー・ラッフェル、ベリ・リンドホルム:デイヴィス指揮:1969年:Decca/Philips Classic Opera 475 6661(CD)[15]
ヴェルディ『オテロ』(ヤーゴ):ヴィッカーズ、フレーニ、アルド・ボットン:カラヤン指揮ベルリン・フィル:1973 - 74年:EMI CMS 769 3082(CD) / DG 073 4040 (DVD)[16]
エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ『マドンナの宝石』(ラファエレ):パウリーネ・ティンズリー:アルベルト・エレーデ指揮BBC交響楽団:1976年:Bella Voce BLV 107 242(CD)[17]
ヴェルディ『アイーダ』(アモナズロ):カバリェ、プラシド・ドミンゴ、コッソット:リッカルド・ムーティ指揮:1977年コヴェント・ガーデン:House of Opera CDBB 602(CD)[18]
ヴェルディ『マクベス』(マクベス):リタ・ハンター、ジョン・トムリンソン、ケネス・コリンズ:ジョン・マセソン指揮BBCコンサート管弦楽団:1978年:Opera Rara ORCV 301(CD)[19]
ヴェルディ『運命の力』(ドン・カルロ):ロデリック・ケネディ、マーティナ・アーロヨ、コリンズ:ジョン・マセソン指揮BBCコンサート管弦楽団:1981年:Opera Rara ORCV 304(CD)[20]
脚注
注釈
出典
参考文献
サイト
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印刷物
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外部リンク
on IMDb
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%82%BD%E3%83%83%E3%83%97 |
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上原 浩治(うえはら こうじ、1975年4月3日 - )は、大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。元メジャーリーガーで、2013年にはMLBで日本人初のリーグチャンピオンシップおよびワールドシリーズ胴上げ投手ともなった。
経歴
プロ入り前
実父が監督を務める少年野球チーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始めた[1]。寝屋川市立第十中学校では野球部がなかったため、同じ団地内にある「明徳アスナローズ」で野球を続けながら、陸上部に所属した[1]。高校は自転車で通えて野球が強いという理由から東海大学付属仰星高等学校に進学した[2]。
1、2年時は中学時代に陸上部で鍛えた脚力を見込まれて外野手を務める一方で、練習では打撃投手を務めることも多かった[3]。3年になって投手になるが建山義紀の控えでほとんど登板機会がなく[1]、同校も夏の大阪大会準々決勝で敗退したため全くの無名選手であった。その頃、建山がプロ球団などから勧誘される中、上原は体育教師になる夢を叶えるため大阪体育大学への進学に備える。受験にあたっては運動能力、学力とも合格ラインに達していると自負していたが、結果は不合格であった[1]。高校時代は建山だけではなく、ラグビー元日本代表の大畑大介とも高校の同級生であり、3人は1年時にはクラスが同じであった[4]。
この時のショックは未だに忘れられないほど強烈なものであったが、浪人してもう一度受験することを決意。隣町の予備校(KEC近畿予備校)に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした[1]。この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。またこの時期にノーラン・ライアン著の「ピッチャーズ・バイブル」を読んでトレーニングしていた。翌年、再度大体大を受験し合格、野球部に入った。1年半ぶりの投球は上原自身が驚くほど球威が増しており、監督の中野和彦が球速を測らせたところ146km/hを記録した。
学生時代に、珠算初段、中高の教員免許(体育)を取得している。
その年の阪神大学リーグでは主戦投手として優勝に貢献。大学選手権でも好投し、プロのスカウトから注目されるようになった。大学3年時の1997年、日米大学野球選手権大会では大会タイの14三振を奪って、メジャー球団の関心を惹いた。この大会で速球が通用したことでプロでやっていく自信が芽生えたという。日本代表に選ばれた同年8月の第13回インターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となり、この年のインターコンチネンタル最優秀投手賞を受賞。秋の大阪経済法科大学戦では1試合21奪三振を記録。これはリーグ記録として残っている(2010年現在)。4年時の姫路獨協大学戦ではノーヒットノーランを達成した。大学4年間で通算リーグ優勝5回(1年春、2年春秋、3年秋、4年春)、36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回という成績を挙げた。通算36勝と完封13はリーグ記録。
1998年のドラフトでは横浜高校の松坂大輔と並ぶ目玉と目された。大学時代は地元の大阪近鉄バファローズがマークしていたが、国際大会の活躍で注目度を上げたことで、メジャー4球団を含む複数球団が獲得に乗り出し、最終的にメジャーリーグベースボール(MLB)のアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツによる争奪戦となった。一時はエンゼルス入りに傾いたが、大学2年の時から熱心に勧誘し続け、他球団が松坂獲得を狙う中でも一貫して上原を熱望していた巨人が、巨人ファンであった上原の父親をまず説得。その後、本人が悩んでいるときに、父親から誘われ同行すると、その場にいたのが、当時巨人の監督を務めていた長嶋茂雄であった。本来、ルール上ではプロ監督とアマチュア選手の接触は禁止されてはいるが、「抜け道」の形で「偶然に顔を合わせ、同席した」。上原本人は喜ぶどころか逆に困惑し、父が巨人ファンであることを知っていただけに「巨人って、そこまでやるのか…」という気持ちが膨らんだ[5][6]。上原は迷いながらも巨人を逆指名し、1位で入団した。入団会見では「メジャーでやるにはまだ自信がないから、日本を選んだ」と述べ、悔しさを滲ませた。背番号は19を希望。これは、大学受験に失敗して浪人生活を送った19歳の1年間を忘れないようにという意味が込められている[7]。
巨人時代
1999年は毎週日曜日に登板するというローテーションが組まれていたため、「サンデー上原」と呼ばれた。前半戦で新人では37年ぶりの12勝を挙げるなど5月30日から9月21日まで、歴代4位タイとなる15連勝を記録。新人投手の記録としては1966年に堀内恒夫が記録した13連勝を33年ぶりに更新する。
10月5日のヤクルトスワローズとの最終戦では、すでに中日ドラゴンズの優勝が決まった後の消化試合であったため、注目はタイトル争いとなり、各チームに所属する松井秀喜が41本、ロベルト・ペタジーニが42本と、本塁打王を激しく争い[8]、松井が一貫して敬遠気味の四球で歩かされ続けた。ここで上原も、7回裏にペタジーニの3打席目を迎えたところでベンチからの敬遠の指示に従いストレートの四球で渋々歩かせたが、勝負できない悔しさからマウンドの土を思いっきり蹴り上げ、目に浮かんだ涙をユニフォームの袖で拭った[1][9]。なお、この年、ペタジーニを無安打に押さえ込んでいた上原は、1・2打席目では勝負して打ち取り[8]、9回の4打席目では再び勝負し適時打を浴びた。また上原自身も当時中日の野口茂樹と最多勝を争い、この試合に20勝目がかかっており、2失点完投勝利で20勝目を挙げた。
このシーズンは20勝4敗の好成績を残し、両リーグを通じて1990年の斎藤雅樹以来9年ぶり、新人投手としては1980年の木田勇以来19年ぶりの20勝投手となった。最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手主要4部門を制し、史上10人目、新人としては史上3人目の投手4冠を達成。また、新人王と沢村賞も受賞する。自分自身を雑草に喩えた「雑草魂」という言葉は(鈴木啓示の座右の銘「草魂」より)、松坂大輔の「リベンジ」と共に1999年の流行語大賞に選ばれた。
2000年7月2日の広島東洋カープ戦で右太もも肉離れを起こし登録抹消。7月27日には川崎市内で自家用車を運転中にオートバイと接触事故を起こし、オートバイの男性が重傷を負った。この事故について球団から厳重注意の上謹慎10日間の処分を受け、業務上過失傷害で書類送検され罰金30万円の略式命令を受けた。これによりアサヒ飲料「十六茶」のCM契約も打ち切られ、シーズンは9勝7敗に終わった。同年の日本シリーズ(対福岡ダイエーホークス)では、第3戦に先発し、チームの1勝目と同時に自身のシリーズ初勝利を挙げ、その後のチームの4連勝で日本一を果たした。
2001年は、4月13日の横浜ベイスターズ戦で左太ももの肉離れを起こして一時離脱し、後半戦では右ひざの故障もあり、2年ぶりに二桁勝利を記録したが、防御率は自身最低となる4.02に終わった。
2002年は自身初の200イニング登板を達成し、17勝5敗の好成績で最多勝と沢村賞、ベストナインを獲得、西武ライオンズとの2002年の日本シリーズ第1戦に先発し、12奪三振・1失点完投勝利の快投でチーム史上初での西武以来12年ぶりの4連勝ストレート勝ちでの日本一に貢献し、優秀選手賞を獲得。シーズン後に行われた日米野球にも選出され、バリー・ボンズから3打席連続三振を奪い、メジャーリーグのスカウトからの注目を集める。11月29日にはアフガニスタンの子どもたちへの支援金として200万円を当協会事務局長に手渡した[10]。
2003年に7月20日から8月29日にかけて7試合連続完投勝利を挙げるなどして最多勝争いに加わり(最終的には20勝の井川慶)、2年連続で200イニング登板達成、16勝5敗であった。
例年より始動を早め、万全のコンディションで臨んだ2004年のキャンプでは右足を痛めてしまう[11]。開幕には間に合わせ、当初は中5日かつ最初の6試合で平均球数130球以上を記録と投げまくるも[11]、5月に左足を故障[11]。しかしローテーションを1回飛ばしたのみですぐに復帰[11]。膝に負担がかからないようにコンパクトなフォームに変更し試合を作った[11]。同年シーズン途中にはアテネ五輪出場により一時離脱[11]。最後は6連勝でシーズンを終えた[11]。同年シーズンはリーグ3位の13勝を記録し[12]、防御率はリーグ唯一の2点台となる2.60で2度目の最優秀防御率を受賞。9月14日には元モデルの山﨑美穂と結婚した。この年の契約更改で年俸が3億円に到達。入団6年目での3億円到達は史上最速であった。
2005年はポスティングシステムによるメジャー移籍志願を公言したために契約交渉がもつれ、キャンプ入りが遅れた。(後述)防御率リーグ3位、完投数リーグ3位、奪三振リーグ5位、投球回リーグ4位、WHIPリーグ1位など好成績を残したが、打線の援護に恵まれず、またリリーフ陣が打ち込まれたこともあって、勝敗は9勝12敗と自身初めてのシーズン負け越しを経験した。
2006年シーズン開幕前3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。同大会ではエースとして3戦2勝の好投で優勝に貢献。準決勝ではこの大会の対戦で2敗していた韓国を相手に7回を無四球無失点の快投で勝利を呼び込んだ。また大会最多の16奪三振を記録[13]。
シーズンでは球団史上最多、7度目(7年連続)の開幕投手を務め自身5年ぶりの開幕戦勝利をあげ、8月25日の阪神戦で、ドラフト制以降では松坂大輔と並ぶ最速タイとなる191試合目での100勝を達成したものの[14]、8勝9敗で2年連続一桁勝利で負け越した。
この年から、巨人の財団法人骨髄移植推進財団への支援開始をきっかけに、自身も骨髄バンクへの登録を呼びかける活動を始めた。6月に自らも骨髄バンクに登録し、試合前のイベントなどで登録を呼びかける。また、シーズンオフには東海大学医学部付属病院へ訪問し、病気の子供達にクリスマスプレゼントを渡している。
2007年は故障により出遅れたため、8年連続での開幕投手及び9年連続開幕一軍スタートを逃した。プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。序盤に抑えの豊田清の不調が重なったことでこの年は抑えとして起用されることになった。5月2日の中日ドラゴンズ戦でプロ初セーブを挙げた。8月5日には球団史上初の4日連続セーブを記録し、8月29日のヤクルト戦では球団新記録及びプロ野球タイ記録の月間11セーブを挙げた。9月26日の中日戦でも球団新記録となる31セーブを達成。最終的には32セーブを挙げ、MVP投票でも2位の評価を受けた。プロで20勝を挙げ30セーブを記録した投手は江夏豊に次ぎ史上2人目であった。中日ドラゴンズとのクライマックスシリーズ・2ndステージでは第2戦・第3戦に登板したものの、シーズンにもなかったビハインドの場面に登板。レギュラーシーズンで12試合登板無失点7セーブを記録していた中日打線にも李炳圭にソロ本塁打を浴びるなど追加点を許し、3連敗でのクライマックスシリーズ敗退後はベンチで号泣した。オフには初めて巨人の後輩(西村健太朗)を伴い自主トレを行った。
2008年4月4日にFA権を取得。翌年のメジャーリーグ移籍を目指すことを7日に表明[15]。巨人の球団代表清武英利からは「全力を上げて慰留する」と同時に「今までよく我慢してくれた」という労いの言葉が贈られた。シーズンではかねてから希望していた先発ローテーション復帰を果たすも5試合に登板して4敗、防御率6.75と不調が続いたため、4月27日付で一軍登録抹消。故障以外ではプロ入り後初となる二軍落ちを経験した。二軍では小谷正勝コーチなどと調整・投球修正を続けていた。7月に北京オリンピックの日本代表監督である星野仙一からの代表招集要望で一軍に緊急復帰し、セットアッパーとして登板するも、本来の調子を取り戻すことはできなかった。しかし星野から「日本代表に最も必要な男」と国際試合での相性・経験を見込まれ、代表に選出された。一軍でも尾花高夫投手コーチと遠投に取り組むなど、引き続き投球修正を続け、原監督には精神的な部分での問題を指摘され、ビハインドでの救援や、僅差で二死からの救援など、段階を上げながら試行錯誤を重ねた。前半戦最終戦、五輪代表合宿合流前の最後の試合となった7月29日、8回1点差から登板し1イニング無失点、その後4点差となったことで9回も続投して3三振に抑え、この年の一軍初セーブを記録した。前年の2007年に代謝異常の難病を患っていた少年と「元気になったら東京ドームでキャッチボールをする」と約束。8月28日の東京ドームでの横浜戦の試合前に約束は実現し、少年はその試合で始球式を務める。この様子はその年の24時間テレビで放送された。この試合では約4ヶ月ぶりの先発復帰を果たし、先発投手として693日ぶりの勝利を上げた。その後も尻上がりに調子を上げ、北京五輪後は7試合で4勝1敗。唯一の敗戦もソロ本塁打での1失点のみで防御率2.08という好成績で巨人の逆転優勝に貢献した。西武との日本シリーズでは第1戦(11月1日)に先発したが、負け投手となる。10月以降の敗戦は自身初であった。第5戦にも先発したが、3回2失点で降板。しかしチームが逆転勝ちしたため敗戦は免れた。
日本時代に2回の沢村賞を受賞したが、複数回の沢村賞を受賞したのは12人で、平成に入ってからは斎藤雅樹、上原、斉藤和巳、田中将大、前田健太、菅野智之の5人しかいない(2018年シーズン終了現在)。また、前年に73本塁打を放った全盛期のバリー・ボンズを日米野球で三打席連続三振に抑えたり、国際試合負け無し、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振をそれぞれ複数回獲得するなど、球界を代表する投手として活躍した。
11月14日、FA宣言を行い、正式にメジャーリーグ挑戦を表明[1]。SFX社のマーク・ピーパーを代理人に迎えた。
オリオールズ時代
2009年1月6日にボルチモア・オリオールズと2年契約で基本合意。13日に2年1000万ドル+出来高600万ドルで正式に契約を交わし、同球団初の日本人選手となった。背番号は巨人時代と同じ「19」に決まった[16]。
2009年は開幕から先発ローテーション入りし、4月8日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャーデビューし初勝利を挙げた[17]。しかし、同年5月23日のワシントン・ナショナルズ戦では脱水症状からくる左太もも裏の痛みを訴えて降板し[18]、27日にも痛みが再発したためDL入りしたのに続き、6月23日のフロリダ・マーリンズ戦では右ひじに違和感を訴え途中降板し[19]、28日に精密検査で右ひじ腱の部分断裂が判明し再び故障者リスト入り[20][21]。監督のは復帰後はリリーフに転向させる意向を示唆していたが[22][23]、約8週間リハビリを続けたものの回復にはさらに長くかかり、9月上旬にシーズン中の復帰を断念した[24]。結局、MLBの1年目は前半戦に先発登板した12試合のみとなった。
2010年1月1日に株式会社スポーツカンパニーとマネジメント契約を結び、8月にはグリーンカードを取得[25]。スプリングトレーニング中に左太もも裏を痛め、DL入りして開幕を迎えた[26]。5月からリリーフとして復帰するが[27]、6試合の登板後に右ひじ痛が再発して再びDL入りした[28]。約1か月後の6月29日に復帰した後は、17試合登板して防御率1.80、WHIP1.10と好投を続けた。敗戦処理を含む比較的楽な場面であったが、安定した投球を続けていたことが、新しく監督に就任してオリオールズの再建に着手したバック・ショーウォルターの目に留まって暫定クローザーとして起用されることになった。8月21日のテキサス・レンジャーズ戦の9回に登板し1安打無失点に抑えメジャー初セーブを挙げた[29]。7月16日のトロント・ブルージェイズ戦でMLB歴代4位タイの32試合連続無四球を記録。オフに250万ドルの出来高を含む総額550万ドルの1年契約を結んだ(2年目は年俸350万ドルの球団オプション)[30]。
2011年は、ブルージェイズからケビン・グレッグがクローザー契約で加入したことにより、上原はセットアッパーを務めた。グレッグが精彩を欠いた反面、上原は、スプリングトレーニングで右ひじを痛めたが、その後は安定した投球を続け、7月まで43試合に登板し1勝1敗、防御率1.72、WHIP0.70(リーグの救援投手でトップ)という好成績を残した。また前年から続いていた連続無四球試合数は36試合にまで伸び、MLB歴代3位の記録となった。オリオールズでは上原が投げるときに「kojiコール」が起きるほど、ファンからも信頼されていた。
レンジャーズ時代
2011年7月30日にトミー・ハンター、クリス・デービスとのトレードで、前年にワールドシリーズ進出を果たしたテキサス・レンジャーズに移籍し[31]、高校時代に同級生であった建山義紀とチームメイトとなった。背番号は巨人、オリオールズ時代と同じ「19」。残りのレギュラーシーズン(2011年)では打者優位の球場(後述)に対応できず、8月前半の11試合は防御率6.52、WHIP1.24を喫し、被本塁打率は3.72と大きく打ち込まれた。しかしその後は持ち直し、8月31日には55試合登板を達成し翌年の契約オプションを更新[32]。9月は10試合の登板で防御率1.23、WHIP0.23と復調し、チームのポストシーズン出場に貢献した。シーズン通算では65試合で防御率2.35、リリーフ投手中リーグ1位のWHIP0.72、同5位の奪三振率11.77、同2位の与四球率1.25を記録した。
自身初となったポストシーズンではタンパベイ・レイズとのディビジョンシリーズ第2戦で登板を果たすも、エバン・ロンゴリアから3点本塁打を浴びた[33]。デトロイト・タイガースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦でもミゲル・カブレラに本塁打を打たれ[34]、さらに第5戦でもライアン・レイバーンに本塁打を打たれてポストシーズン史上初となる3戦連続被本塁打を記録[35]。チームはワールドシリーズ進出を決めたが、「レギュラーシーズンは良かったのに、この3試合で成績すべてが消えた感じになった。もう1回、チャンスがほしい」と語り[36]復調を目指したが、セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズではロースターから外れ、チームは第7戦で敗退した。
2012年1月23日にトロント・ブルージェイズとのトレードが成立したが、ブルージェイズを含む6球団に対してトレードの拒否権を持っていたため翌日に移籍を拒否し、トレードは破談となった(他の5球団は公開されていないが関係者によると「優勝の可能性が低く、家族の滞在を考慮した住環境が整いにくいところ」だという)[37]。
同年のシーズンは、20試合の登板で防御率2.11、WHIP0.70という成績を残していたが、右広背筋を痛めて6月14日にDL入り[38]。その後マイナーでリハビリ登板を続けていたが、右広背筋に再び張りが出て復帰が遅れ、8月26日にDLから復帰。レギュラーシーズン最終戦まで14試合連続無失点を記録し、後半戦は17試合の登板で1セーブ、防御率1.23、WHIP0.54の成績を残したが、チームは地区優勝を逃す。ESPNの1900年からの統計によると、この年のK/BB14.33は、年間35イニング以上を投げた投手ではエカーズリーが1989年と1990年に記録した数値に次ぐメジャー歴代3位の記録だった[39]。本人はこの年は『一発病』の克服をテーマ[40]としていたが、イニング数の違いはあるものの、被本塁打数は前年11本から4本へと減少した。ポストシーズンではボルチモア・オリオールズとのワイルドカードゲームの8回に登板しクリーンナップを3者連続三振の快投を見せるも、チームは敗退しディビジョンシリーズ進出を逃した[41]。
レッドソックス時代
リリーフ転向後、2010年は43試合で防御率2.86、13セーブ、2011年は65試合で防御率2.35、2012年は37試合で防御率1.75と、安定した成績を残してきた上原は、オフにはMLBの複数球団で争奪戦となった。12月6日にボストン・レッドソックスと総額425万ドル+出来高の1年契約(2年目は55試合登板で自動更新される年俸425万ドルの球団オプション)で合意したことが報じられ[42]、18日に契約した[43]。本人は決め手を、自分を最も必要としてくれている球団だと感じたこと、そしてクラブハウスに温水洗浄便座があることも良かったと語った[44][45]。一方で前年地区最下位のレッドソックスの側では、GMのベン・チェリントンはどうしても必要な補強では無いと当初考えていた[46]が、セイバーメトリクスに精通したスタッフやアドバイザーのビル・ジェームズが強く進言したため[47]、急遽獲得に動いたと言う[48]。この契約は後に、「レッドソックスは奇跡を捕まえた」と称された[49]。
2013年レギュラーシーズンに、2010年以来トレードマークとしていたもみあげをさっぱりと剃りあげた[50]この年の上原は、序盤は、4月21日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で失点するまでの8試合、前年から続く22試合連続無失点を記録[51][52]。6月9日のエンゼルス戦で与死球を記録したが、これがメジャー移籍後、183試合目、打者920人目にして初めての与死球であった[53]。シーズン当初にクローザーを務めたジョエル・ハンラハン、アンドリュー・ベイリー、田澤純一が不調となったため、6月21日に上原が(4人目の)クローザーに指名された[54]。上原は6月26日に指名後初セーブを挙げ、6月27日のブルージェイズ戦では、NPB/MLB通算50セーブを記録した[55]。前半戦は44試合の登板で2勝0敗8セーブ、防御率1.70、WHIP0.76の成績を残し、MLBオールスターゲーム最終投票の候補に選ばれるまでとなった[56]。8月13日のブルージェイズ戦でシーズン55試合目の登板に到達、翌年の契約オプションを更新した[57]。日本人投手歴代最長の26試合連続無失点を記録し[58]、34人連続アウトの球団記録も更新[59][60]。13日も3人で抑えて記録を更新したが、次の17日のオリオールズ戦でダニー・バレンシアに三塁打を打たれ、犠飛で失点してシーズン初の負け投手となり、記録はストップした。連続アウト37人[61]はメジャー史上10位(救援投手では2位)[62][63]また同時に連続無失点試合は27試合[注釈 1]、連続無失点イニングは30回1/3連続無失点を達成した。9月20日のブルージェイズ戦で20セーブ目を挙げてチーム6年ぶりの地区優勝を決め、MLBにおける日本人2人目の胴上げ投手となった[64]。9月27日のオリオールズ戦では、救援投手では球団史上初となるシーズン100奪三振に到達[65]。救援投手でのメジャー記録となるWHIP0.57を記録した。なお、このシーズンは73試合に登板した[64]。シーズン途中からの抑え転向だったことでセーブ数こそ21と伸びなかったものの、救援投手ながらサイヤング賞投票でも10ポイントの票が入っていた。ディビジョンシリーズでは、本人が嫌な相手[66]と語るタンパベイ・レイズと対戦。第2戦から第4戦に出場し2セーブを挙げたものの[67]、第3戦では、同点の9回裏2死の場面で、途中から守備で入っていたホセ・ロバトンに39試合ぶりの被弾となるまさかのサヨナラ本塁打を打たれている。この打球はトロピカーナ・フィールド名物の「エイが入った巨大水槽」に叩きこまれ(球場史上3回目)、レイズの選手による初のタンクヒットとして記録された[68]。リーグチャンピオンシップシリーズでは前年ア・リーグ王者のデトロイト・タイガースとの対戦となった。上原はこのシリーズの6試合中5試合に登板し、1勝0敗3セーブ4安打9奪三振無四球無失点という圧倒的数字で、リーグ優勝決定シリーズMVPに選ばれた。これは救援投手としてはマリアノ・リベラ(2003年)以来、MLB史上3人目の快挙であった[69]。また、日本人では初の受賞でもあった。ワールドシリーズはセントルイス・カージナルスが相手で、両リーグの最高勝率球団同士の対戦となった。第3戦の同点の9回裏一死・走者二、三塁の場面で、ジョン・ジェイの二塁ゴロで三塁走者を本塁でタッチアウトにしたが、捕手のジャロッド・サルタラマッキアが三塁へ悪送球。捕球できずに倒れた三塁手のウィル・ミドルブルックスに走者のアレン・クレイグが躓き、これが走塁妨害と判定されて、ワールドシリーズ史上初めての「走塁妨害によるサヨナラ負け」を喫した。第4戦では、9回裏2死走者1塁の場面で一塁ランナーのコルテン・ウォンを牽制アウトに仕留めた。これはワールドシリーズ史上初めての「牽制死によるゲームセット」で、同時に日本人としてもワールドシリーズで初のセーブを挙げた。第5戦でもセーブを挙げ、歴代のポストシーズンで最多タイの7セーブを挙げた。更に、優勝のかかった第6戦においても9回5点差で登板し、最後にマット・カーペンターを三振にしとめワールドシリーズ胴上げ投手となった。なお、このシーズンはポストシーズンを含むと86試合に登板しており、メジャー全投手の中で最多登板という、量・質共に比類の無いシーズンを過ごした。
2014年シーズン始めからクローザーに定着、前半戦は42試合に登板し18セーブをあげ、防御率1.65、WHIP0.76、奪三振率11.75と大躍進を遂げた前年に劣らぬ好成績を収める。田中将大が故障者リスト入りしたことに伴いMLBオールスターゲームへの出場を辞退したため、代わりに選出された[70]。オールスターゲームでは6回二死の場面で登板し、デビン・メソラコを三振に切って取った[71]。後半戦に入っても好投を続けていたが、8月16日から6試合の登板で10失点を喫する乱調に陥り、9月5日にはクローザーの役割から外れることとなった[72]。シーズン通算では2年連続で60試合以上の登板を果たし、26セーブを挙げた。防御率は終盤の乱調が影響し前年より大幅に悪化したが、WHIP0.92、奪三振率11.19は高い水準を保った。
2015年4月3日に故障者リスト入りが発表され、同年シーズンの開幕メンバーから外れることが決定した[73]。4月14日のワシントン・ナショナルズ戦のシーズン初登板で、1回無失点でセーブを挙げた。40代の日本人投手がセーブを挙げたのは斎藤隆以来2人目であった。5月10日ブルージェイズ戦で9回に登板、無安打1四球の無失点で6セーブ目、NPB/MLB通算100セーブ目を挙げた[74]。8月7日の敵地タイガース戦で9回途中に登板した際、打球を止めようとして出した右手に打球がぶつかり、手首を骨折した[75]。非分離型撓骨遠位端骨折と診断され、今季残り試合を欠場する見通しであると球団が発表した[76]。レッドソックスは11月13日、サンディエゴ・パドレスとのトレードでメジャー通算225セーブ(2015年シーズン終了時点)をマークし、MLBを代表するクローザーのクレイグ・キンブレルを獲得したと発表。これにより、NBCスポーツなどの複数メディアは上原がチームから8回を担当するセットアッパーに配置転換されることになったと同日に報じた[77]。
2016年7月19日のジャイアンツ戦で右胸筋を痛め、翌日故障者リスト入りとなった[78]。9月5日に復帰すると[79]、7日のパドレス戦に復帰後初めて登板し、1回を無安打無失点に抑えた[80]。結局復帰後は11試合に登板し無失点でレギュラーシーズンを終えている[81]。最終的には50試合に登板し、2勝3敗、7セーブ、18ホールド、防御率3.45を記録した。地区シリーズでは第1戦、第3戦と無失点を記録するもチームは敗退した[82]。11月3日にFAとなった[83]。
カブス時代
2016年12月14日にシカゴ・カブスと1年600万ドルで契約を結んだ[84]。この年のオフには、来期のオフにメジャーでのオファーがなければ引退すると発言していた[85]。
2017年は開幕戦となる4月2日のカージナルス戦で同年シーズン初登板。1イニングを投げ無失点に抑えた[86]。11月2日にフリーエージェント(FA)となった[83][87]。
巨人復帰
上原は、2017年11月にFAとなった時点で日本球界復帰やマイナー契約の意志はなく、MLBから契約のオファーがなければ今季限りでの引退の可能性も示唆していた[88]。しかし、2018年になると一転して日本球界への復帰を示唆し、3月9日に古巣の巨人と1年契約を結び、同日に入団記者会見が行われた。かつての背番号「19」は菅野智之が着用していたため、「11」を背負うこととなった。契約金は1億円、推定年俸は2億円+出来高払い(いずれも推定)となり[89][90]、同日付で支配下選手登録公示された[91]。
3月31日、阪神タイガース戦の8回に4番手として、2008年10月5日の対中日ドラゴンズ戦以来3464日ぶりのNPB公式戦登板を果たし、1回を三者凡退無失点に抑えて公式戦3535日ぶりのホールドを上げた[92]。また、マイナビオールスターゲーム2018に中継ぎ投手部門でファン投票選出され、11年ぶりにオールスターゲームに出場[93]。第2戦(リブワーク藤崎台球場)の6回に4番手で登板し、オールスターゲーム最年長登板を記録[94]。7月20日、広島東洋カープ戦の7回に3番手として登板しホールドを上げ、世界で2人目、日本人では史上初となる日米通算100勝100セーブ100ホールドを記録した[95]。10月23日、左膝のクリーニング手術を受けた[96]。経過を見極める必要性から、29日に自由契約を球団から通告された[97]。
選手としての特徴
基本的にフォーシームとフォークボールを軸に投げる。メジャー移籍前の巨人時代はこれにカットボールを混ぜて投げていた[40]が、メジャー移籍後からは前者の2球種以外の割合は低い[98]。最も特筆すべきはその<b data-parsoid='{"dsr":[31823,31832,3,3]}'>制球力</b>であり、奪三振が多く与四球が少ないピッチャーである。NPB10年間で奪三振率7.99(主にクローザーを務めた2007年は奪三振率9.58)、MLB8年間で奪三振率10.7、2013年においては自己最高12.2を記録する[99][100]。制球力を示す指標である奪三振を与四球で割るK/BBでは、生涯1000イニング以上投げた投手の中では日本プロ野球歴代最高となる通算6.68(2位は土橋正幸の4.61、3位は田中将大の4.50であり、上原の数値は突出している[101])[102]で、メジャーリーグでも2014年まで通算100イニング以上投げた投手の中で歴代最高の通算8.96を記録している[103]。日本での10年間の1549イニングで与四球数はわずかに206個。日本での通算与四球率は1.20で、「精密機械」と呼ばれた北別府学の1.90、小山正明の1.80といった、往年の名投手達の記録を大きく上回っている。また、本来はワンバウンドしやすいため暴投が多くなりがちなフォークピッチャーでありながら暴投も非常に少なく[104]、2014年までの16年間で僅か14個(NPBの10年で10個、MLBの6年で4個)しか記録していない。
飛球の割合が多いフライボールピッチャーとして知られ[105][106][107]、もともと被本塁打がやや多い傾向があった(日本での通算被本塁打率1.1[108])。[108][109]リリーフに転向したメジャー時代での通算被本塁打率は1.12[110][111]。また内野フライに打ち取った確率23.0パーセントは2013年メジャー1位であった(シーズン途中時点)[112]。
オリオールズ時代のチームメイトで捕手のマット・ウィータースは「構えた場所に寸分の狂いなく投げ込んでくるから、受けるのが楽しい投手だった」[103]と言い、シカゴ・ホワイトソックス投手コーチのドン・クーパーも「フォームに惑わされている打者がいるのは確かだが、それだけで行きつける場所は限られている。上原が何年も活躍できているのは、スプリッターの使い方がうまいことと、コマンド(狙ったスポットに投げる能力)が優れているからだ」と制球力の良さを特徴に挙げた[103]。
上述の制球力に加えて、「迷ったらプレートを外せばいいだけ」[113]と一球ごとの投球間隔が非常に短く速いテンポでどんどんストライクを投げ込んでいくため、巨人時代には2時間程度での完投勝利もしばしばあり、1999年7月4日の横浜ベイスターズ戦では1時間59分での完投勝利を記録した。「打者1人に対して5球。1イニング15球なら次の日もそんなに疲れも残らない」という考えで、1試合あたりの球数も少ない[113]。
投球フォーム
テイクバックが小さく腕の振りが速いのが特徴で、ややトルネード投法気味のノーワインドアップのスリークォーターで投げる。この投球フォームは非常にスムーズで一見それほど特徴的には見えないが、投球動作の前半は腕が体の陰に隠れて見えない上に球持ちが非常に短いため、テイクバックからボールを離すまでの時間が短く、メジャーの多くの選手が「球の出どころが見づらい」と語り、速球を実際の球速以上に感じさせる「Deceptive(幻惑的)」な投球フォームと呼ばれている[103]。同僚の外野手ダニエル・ナバは、「見極める時間が無い」、「ど真ん中の速球が、投げられてから半分通過するまで判らない」と述べ、捕手のデビッド・ロスですら「投げた瞬間、ボールがストライクかどうかは高めに外れた時以外は判別できない」と述べている[114]。
投球フォームは、メジャーに来て肉離れで苦しんでいた時に、MLBの硬くて傾斜のきついマウンドに合わせジェイク・ピービーを参考にマウンドからジャンプするような投球フォームに変更することにより、太ももの負担を減らすと同時にボールの方に力を乗せるようにした為、球威が上がっている[115]。
更に、NHK-BSの「BSベストスポーツ」特番では、フォーシームとフォークボールの二つの球種を投げた時のフォームの違いを、映像を重ねて比較して見せたがほぼ一致していた。前述のように配球はフォーシームとフォークで半々であるが[98]、絶妙に投げ分けており、二球種を全く同じように投げられることは、上原の優れた長所である。対戦したヤンキースのライル・オーバーベイは「速球だけでなく、スプリッターも両サイドに投げ分ける。速球とスプリッターが同じような軌道を描くから、見極めるのが難しい」[103]と言う。スカウトの意見では「スプリッターが常に鍵」で、配球は制球力が上原の武器だと分析した[103]。
球種
速球はフォーシームを2種類の握りで投げ分ける。ツーシームは投げられないと語っている。最速は大学時代に計測した153km/h[116]。巨人の先発時代には平均球速約140km/h前後となっていった[117]。メジャー移籍後は、最速92mph(約148km/h)、平均球速も88-89mph(約142-143km/h)[98]と10セーブ以上挙げているクローザーの中ではメジャーで(2013年で)2番目に遅いが[103]、「いろいろ動かしたりしている」と本人も発言している通り、微妙な変化をつけている他、投球フォームにも速度の変化をつけて打者のタイミングを外している[118]。2013年の速球の空振り率36.3パーセントはメジャー3位であった[103]。上原の速球は回転が良く浮き上がるようだと評され、同僚の捕手だったウィータースは「コウジの場合何より大きいのは、全く同じ腕の振りから速球とスプリッターが繰り出されること。投球モーションが幻惑的なこともあって、手を離れた瞬間は全く同じ球に見えるんだ」[103]と言い、同じく外野手のニック・マーケイキスも「コウジの球は、手から離れた瞬間にジャンプして向かってくるような印象を受ける。ボールを放す位置が打者の近くで回転も良いから、スピードガンが示すよりも速く見えるんだ。あの幻惑的な投げ方が有利に働いている部分もあるだろう」と語っている[103]。オリオールズ時代の監督のバック・ショーウォルターはその切れ味を「シャープなナイフ」と表現していた[119]。
2017年6月16日のパイレーツ戦では、速球を軸に好投した上原に対し、[120]アメリカの解説者は「メジャーの引っ張る打者にとって、最もフラストレーションの溜まる投手の筆頭が上原でしょう。球速を見れば85-86mph(約137-138km/h)ですが、彼らは速球を空振りしてしまうのです。とても幻惑的な腕の動きです。素早い腕の振り。ボールは間違いなく打者の予想よりも速く手元に届くのです」。さらに「リベロのファストボールよりも15mph(約24km/h)は遅いのですが、打者の反応はほとんど同じに見えます。クレイジーだ」と、この日パイレーツの4番手で登板した左腕のフェリペ・リベロの100mph(約161km/h)の豪速球と、上原の130km/h台の速球は変わらぬ威力で打者を制圧していると強調し、絶賛している。 [121]
フォークボールは、落差の大きいもの、小さいもの、シュート回転させて右に落とすもの、スライダー回転させて左に落とすものなど、数種類のフォークを投げ分ける[98][122][123]。メジャー移籍後を境に上原のフォークはスプリットと呼ばれるようになり、上原自身もスプリットと呼ぶ。オーバーベイは「2シームのように動きながら沈んでくる場合もある。スプリッターに限っていえば、ロジャー・クレメンスに似ていると思う。同じように2シームのような回転をしながら沈んでいくし、低めの制球力も見事だった。“球速の遅いクレメンス”という感じかな。ボールの手からの離れ方、回転なんかはすごく似ていると思う」[103]と語っていたが、実際の上原のスプリットはいわゆるワンシーム回転であるがゆえに左右の投げ分けが可能であり、回転も握りもツーシームのそれではない。レッドソックス投手コーチのフアン・ニエベスも「スプリットもただ落とすだけじゃなく思い通りのコースに投げることができるから、打者も対応しきれないんだ」[103]と語り、同僚の外野手マイク・カープは、「スプリットを制球出来る点で、他の投手と圧倒的に違う」と述べている[124]。2013年のスプリットの空振り率は43.4パーセントで、200投球以上の投手ではメジャー2位だった[103]。時に落ちないで減速のみするスプリットは、PITCHf/xではチェンジアップと判断される場合もあるが、実戦ではチェンジアップを投げることはない[40]。
その他の球種としては、スライダーを少し投げ、極めて稀にカーブを投げることがある。メジャー移籍直後は人指し指と親指だけで投げる「一本指カーブ」をキャンプ前のトレーニングで練習していた[125]。ただこのカーブは制球が未だに定まらず、メジャーで初の与死球となったボールは、2013年シーズンにたった3球投げたカーブのうちの1つである[126]。フォークを覚えたのはプロに入ってからで、アマチュア時代はマッスラとナックルカーブを軸にしていた。しかし、ナックルカーブはプロ入り初先発の試合で阪神(当時)の佐々木誠に痛打され、先輩捕手の村田真一から「いらんやろ?」と指摘されて以来投げていない[注釈 2]。また本人曰く、「フォークを覚えたらスライダーの投げ方が分かんなくなっちゃった」ため、プロ入り後数年にわたってスライダーを封印していた[127]。スライダーは依然として得意としておらず、Twitterで後輩のダルビッシュ有に握りの伝授をお願いして断られたことがある[128]。カットボールは巨人時代には投げていたが、「次に投げるストレートや別変化球のキレに影響」が出るということでメジャーでは封印している[40]。
国際大会での活躍
本人は「対戦相手に恵まれていただけ」と謙遜するが[127]、外国チームとの国際試合では大学時代から数えて25戦12勝0敗2セーブ(2008年8月18日時点)、「国際戦負けなし」という無類の強さを誇る[129]。
1997年、大学3年夏に日本代表に選出され、第13回IBAFインターコンチネンタルカップの決勝でキューバ戦で、5回と1/3を投げて1失点と好投し、キューバの連勝記録を151でストップさせた[102]。
2003年、アテネオリンピックアジア予選では中国戦に先発し、7回1失点で勝利投手となった[130]。本戦では2登板で1勝0敗、防御率2.08[131]で銅メダル獲得に貢献。
2006年のWBCでは2次リーグ初戦のアメリカ戦で勝敗が付かなかったが5回1失点と好投し、対戦成績0勝2敗で迎えた準決勝・韓国戦でも7回無失点8奪三振と好投して勝利投手になるなど、大会2勝を挙げて日本の初制覇に貢献した。
2007年12月の北京オリンピックアジア予選でも1セーブをマーク。2008年のシーズンは絶不調であったために批判が多かったが、北京オリンピック野球日本代表監督を務めた星野仙一が直々に交渉してクローザー兼投手主将として起用[129][132]。北京オリンピックでは2試合に登板し防御率0.00、1セーブを記録した[133]。
北京オリンピック終了後に代表引退を表明したが[129][134][135]、2013年の第3回WBCについては要請があれば前向きに検討していたと述べた[136]。2017年の第4回WBCについては「出てみたくなってきているのは確か」とブログに綴っていたが[134]、カブスの意向で出場辞退し、「申し訳ない気持ちでいっぱい」とコメントした[137]。
人物
座右の銘には「雑草魂」を挙げている[1]。1999年のペタジーニ敬遠にみられるように勝負を避ける敬遠や四球を「楽しくないから」と嫌う。真っ向勝負しロケットの愛称を持つロジャー・クレメンスは憧れの投手で、投球フォームやグラブの使い方を真似ている。
巨人時代の先輩橋本清によると、上原は「究極の負けず嫌い」で「野球が純粋に好きな、野球少年」であるという[138]。その陽気な性格から、ふざけて抱きついたりするハグが好きで、抱きつき魔であり、酔ってイチローに抱き付いた写真を投稿したり[139]、試合後の抱擁が情感溢れるとアメリカのメディアに茶化されたこともある[140]。
元々は先発に対して人一倍強いこだわりがあり、上原自身「先発が一番好きだ」と言う。日本で(先発として)限界説が囁かれる中に渡米し、ボルチモア・オリオールズと契約したのも、先発としての起用を優先するという条件をオリオールズが呑んだからである[16]。巨人や五輪代表で、抑えとして起用されたことに本人は納得していなかった。2009年にリリーフに転向。翌年は再び自らの要望により先発に復帰したものの、MLBでは2年目以降はリリーフに配置転換され、中継ぎの重要性に目覚めてリスペクトするようになり、2013年のWBCで不調の田中将大が中継ぎに“降格された”という記事を見て激怒するに至る[141]。「抑えて当たり前、打たれたときだけ記事になる」[142]という中継ぎの仕事の過酷さを訴え、メディアの扱いが小さいという不満から[143]自らブログで全投球の解説をするという情報発信を行っている。
2010年、前年に大きな怪我があったのでツキを替えようと、アニメ「ルパン三世」のルパン三世のようなもみあげを伸ばし髪を短く刈った髪型にした[144]。これがNHK BS1の番組『MLBハイライト』で取り上げられると、「もみあげ通信」という上原のコーナーができて、ルパン三世のテーマやルパンに関する歌などが流れるようになった。もみあげをのばした理由は相手チームに名前を覚えてもらうため[50]であったというが、その後、髭も伸ばし出して、もみあげと髭がつながり、ルパンというよりも山賊の様な状態になった。しばらくして本人も次第に「自分の方向性がわからなくなって」しまったということから、2013年からは髭ともみあげをさっぱりと剃りあげた[50]が、これは「若く見える」と評判がよく、この年大半の選手が髭を生やしたボストン・レッドソックスでは逆に異彩を放つ目立つ存在となった[145]。レッドソックスのチームメイトは、上原は田澤のように髭が余り伸びないたちだと思いこんでいて、かつて立派な髭をたくわえていたことを記者に知らされて驚いたという[146]。
2013年後半戦の上原の活躍は、メディアから様々な表現で形容された。「strike machine(ストライクを投げる機械)」、「Mr. Automatic(強制終了)」[147]、「unflappable(動じない)」、「untouchable(触れられない)」、「simply unstoppable(全く止められない)」、「the sixth sense(第六感の持ち主)」、「Deceptive(幻惑的)」[148]、「Ninja」[149]、「Unhittable God-Creature(打てない生き物)」[150]、「Yoda with a splitter(スプリッターを投げるヨーダ)」[151]などなど思いつく限りの賞讃が与えられた。
更にボストンでは上原の行動はレッドソックスを盛り上げていると認められ、次の10の特徴を写真付きで地元紙が掲げるほど気に入られた[152]。
彼はハイタッチを愛している。
彼のもみあげは最高。
彼の名前と日本国旗入りのグローブは、悪い奴らに禁止された。
彼は勝利を決めた後、アリ・ゴールドのような抱擁をする。
彼はガッツポーズの宝庫。
彼の投げ終わった姿は、一球一球がドラマのクライマックスシーンのようだ。
彼は人助けに幸せを覚える。これがリリーフピッチャーの本質だ。
彼の顔は感情を正確に表す。
彼の熱意は感染する。
彼は勝利に対して本当にエキサイトする。そして、一日も経てば、彼はチームメイトにふさわしいタイプに思えてくる。
2013年のワールドシリーズMVPのデビッド・オルティーズは成績だけでなく人柄にも触れ、「投手としても、人間としても最高の男」[153]だとして、最大級の賛辞を送った。同学年のオルティーズとは公私ともに仲が良く、家族ぐるみの付き合いである。シーズン中はチームが勝利した後に列になってハイタッチをする時に、相手の股間をどっちが先に触るかという遊びをしていた。ポストシーズンで担がれるといったパフォーマンスをするようになったのは、(精神的に)疲れすぎてその遊びをする余裕がなくなったことから、上原がオルティーズにもたれかかったことが始まりと、NHK-BSの特番でインタビュアーとなった田口壮に打ち明けている。
2011年、東日本大震災で揺れる日本の中において開幕強行に踏み切ったセ・リーグに対して選手会に同調し
「正気の沙汰とは思えない」と批判したことがある[154]。
2016年、第35回ベスト・ファーザー イエローリボン賞・スポーツ部門を受賞[155]。
ポスティング移籍問題
上原は入団当初からメジャーへの強い希望を持ち続けており、2004年オフにポスティングシステムによる翌2006年のメジャー移籍を直訴。当時の年俸3億3500万円を8500万円分減額して、FA権を取得するまでかかる4年間分の違約金を払うとまで申し出たが[156]、球団首脳陣は頑としてポスティングシステム行使を容認せず、「わがまま」[157]であると評したために、フロントとの感情的な対立に発展。そのシーズンは契約交渉がまとまらないままキャンプ入りした。ポスティング移籍拒否されたこの年から翌年にかけて、怪我などもあって成績が落ちたため、メディアの論調も厳しかった。結局、メジャー移籍を果たしたのは2009年の海外FA権取得後(5年後)で、上原は現在も『ポスティングの12球団統一ルール』の施行を主張している[1]。
詳細情報
年度別投手成績
巨人252512142040--.833769197.21531224341793049462.090.902020612970--.563519131.01122022111261053523.571.0224224111070--.588573138.21331828351082066624.021.1626268341750--.773808204.01731823361822065592.600.96272711131650--.762821207.11902823351940076733.171.0322222001350--.722637163.01352423051531054472.600.97272762491200.429747187.11642422001450173693.310.9924245038900.471673168.11572421311510167603.211.0655000043324.57123762.0474411661012121.740.8226122006515.54537089.290111610720043383.811.18BAL12120002400.33327966.27171210480033304.051.2543000012136.33317444.0375500551015142.860.9643000011013.50017447.02568106200991.720.70TEX2200001209.3336918.01351002300884.000.78'11計65000023022.40024365.03811910850017172.350.723700000017----13036.02043004310771.750.64BOS730000412113.80026574.1335921101101091.090.5764000065261.54524964.15110801801018182.520.9243000024250.33316040.1283910474014102.230.9250000023718.40018447.03481112631018183.450.96CHC49000034214.42917843.03871230500021193.981.16NPB:10年2762055692111262339.64461541549.01354183206182813761025585183.011.01MLB:9年4361200022269581.4581862437.2350607894572901531422.660.89
2017年度シーズン終了時
各年度の<b data-parsoid='{"dsr":[53747,53755,3,3]}'>太字</b>はリーグ最高
タイトル
NPB
最多勝:2回 (1999年、2002年)
最優秀防御率:2回 (1999年、2004年)
最多奪三振:2回 (1999年、2003年)
最高勝率:3回 (1999年、2002年、2004年)
表彰
NPB
新人王 (1999年)
最優秀投手:2回 (1999年、2002年)
沢村賞:2回 (1999年、2002年)
ベストナイン:2回 (1999年、2002年)
ゴールデングラブ賞:2回 (1999年、2003年)
日本シリーズ優秀選手賞:1回 (2002年)
月間MVP:4回 (1999年8月、2002年7月、2003年8月、2004年9月)
スピードアップ賞:2回 (1999年、2004年)
最優秀バッテリー賞:1回 (2002年、捕手:阿部慎之助)
最優秀バッテリー賞(特別賞):1回 (1999年)
オールスターゲーム優秀選手賞:2回 (1999年、2001年)
サンヨーオールスター新人賞(オールスターゲーム) (1999年)
サンヨー賞(オールスターゲーム):1回 (2002年)
最優秀JCB・MEP賞:1回 (1999年)
IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (1999年)
日韓プロ野球スーパーゲーム第1戦 優秀選手賞 (1999年)
東京ドームMVP:2回 (1999年、2007年)
ヤナセ・ジャイアンツMVP賞:2回 (1999年、2002年)
MLB
リーグチャンピオンシップシリーズMVP:1回 (2013年)
大学時代
第13回IBAFインターコンチネンタルカップ最優秀投手賞:1回 (1997年)
その他
日本プロスポーツ大賞【 日本プロスポーツ協会 】
殊勲賞:1回 (1999年)
報知プロスポーツ大賞【 報知新聞社 】:1回 (1999年)
日本新語・流行語大賞【 ユーキャン 】
大賞:1回 (1999年)「雑草魂」
毎日スポーツ人賞【 毎日新聞社 】
ファン賞:1回 (1999年)
感動賞:1回 (1999年)
アサヒスーパードライ THE BEST PLAYER【 日刊スポーツ 】:3回 (1999年6月、7月、9月)
アサヒスーパードライ 年間ベストプレーヤー【 日刊スポーツ 】:1回 (1999年)
2004GIANTS月間MIP賞:1回 (9月度)
ナンバーMVP賞【 文藝春秋 】:1回 (2013年)
速玉賞【 新宮商工会議所青年部 】 (2016年)[158]
ベスト・ファーザー イエローリボン賞(スポーツ部門)【 日本ファーザーズ・デイ委員会 】:1回 (2016年)
※【】内は主催機関
記録
NPB初記録
初登板・初先発登板:1999年4月4日、対阪神タイガース3回戦(東京ドーム)、6回2/3を4失点で敗戦投手
初奪三振:同上、1回表に坪井智哉から見逃し三振
初勝利・初先発勝利:1999年4月13日、対広島東洋カープ1回戦(東京ドーム)、7回3被安打無失点
初完投勝利:1999年5月16日、対横浜ベイスターズ7回戦(東京ドーム)、9回2失点
初完封勝利:1999年9月14日、対中日ドラゴンズ25回戦(ナゴヤドーム)
初セーブ:2007年5月2日、対中日ドラゴンズ5回戦(ナゴヤドーム)、11回裏に5番手で救援登板・完了、1回無失点
初ホールド:2007年7月12日、対阪神タイガース12回戦(東京ドーム)、9回表に6番手で救援登板、2回無失点
初安打:1999年4月13日、対広島東洋カープ1回戦(東京ドーム)、3回裏にネイサン・ミンチーから投手内野安打
初打点:1999年8月10日、対ヤクルトスワローズ18回戦(東京ドーム)、2回裏に山部太から遊撃ゴロの間に記録
初本塁打:2003年7月20日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)、3回表に吉見祐治から左越ソロ
NPB節目の記録
1000投球回:2004年8月3日、対ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、5回裏3死目に岩村明憲を一塁ゴロで達成 ※史上298人目
1000奪三振:2005年5月31日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(札幌ドーム)、6回裏に小田智之から空振り三振 ※史上115人目
100勝:2006年8月25日、対阪神タイガース14回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で6回2/3を2失点 ※史上121人目
1500投球回:2008年7月20日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、8回裏2死目に大西宏明を二直併殺で達成 ※史上161人目
NPBその他の記録
新人連続勝利 :15 (1999年) ※NPB記録
月間セーブ数 :11 (2007年) ※NPBタイ記録
投手4冠 :1回 (1999年) ※史上10人目
新人投手4冠 (1999年) ※史上3人目
100勝到達試合数 :191 ※ドラフト制以降最速タイ、史上4位タイ
20勝30セーブ投手 ※史上2人目
投手4タイトル複数獲得者 ※史上2人目
入団6年目で80勝 ※史上6人目
新人で両リーグ10勝1番乗り ※2リーグ制後史上5人目
通算「K/BB」:6.68 ※NPB歴代1位(通算1000投球回数以上)
交流戦1試合最多奪三振 :14 (2006年6月18日、対東北楽天ゴールデンイーグルス戦) ※交流戦タイ記録
1試合5三振:2000年5月6日、対ヤクルトスワローズ7回戦(東京ドーム) ※史上9人目(セ・リーグ5人目)
オールスターゲーム
オールスターゲーム出場:8回 (1999年、2001年 - 2005年、2007年、2018年) ※2000年も選出されるも怪我のため出場辞退[159]
新人勝利投手 (1999年) ※史上7人目
新人先発勝利投手 (1999年) ※史上3人目
最年長登板:43歳3ヶ月 (2018年)[160]
日本シリーズ
日本シリーズ1イニング最多奪三振 :3 (2002年) ※シリーズタイ記録
MLB
連続無四球試合数:36 (2010年7月19日 - 2011年4月15日) ※史上3位
連続試合無失点:27 (2013年7月9日 - 9月13日)
連続イニング無失点:30回1/3 (同上)
連続打者アウト:37 (2013年8月17日 - 9月13日) ※MLB史上10位、救援投手史上2位[62]
シーズンWHIP:0.565 (2013年) ※救援投手史上1位(40イニング以上)
MLBオールスターゲーム選出:1回 (2014年)
ポストシーズン年間セーブ:7 (2013年) ※史上1位タイ[161]
NPB/MLB通算節目の記録
100セーブ:2015年5月10日(日本時間11日)
2000投球回:2017年5月12日、8回裏に4番手として救援登板、1回無失点
700試合登板:2017年7月24日、8回裏に4番手として救援登板、1回1失点
100ホールド:2018年7月20日
その他のNPB/MLB通算の記録
100勝100セーブ:※日本人史上8人目、日米通算では斎藤隆以来2人目、先発100勝100セーブは史上3人目(過去に江夏豊・佐々岡真司が記録。)
100セーブ100ホールド:※日本人史上5人目(日米通算での達成は史上初)
100勝100セーブ100ホールド:※日本人初、世界では2人目(過去にトム・ゴードンが記録。)、先発100勝100セーブ100ホールドは史上初
背番号
19 (1999年 - 2017年、2019年 -)
11 (2018年)
登場曲
「Sandstorm」Darude(2013年 - )
代表歴
1997 IBAFインターコンチネンタルカップ 日本代表
2002年日米野球日本代表
2004年アテネオリンピック野球日本代表
2004年日米野球日本代表
2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表
2008年北京オリンピック野球日本代表
関連情報
出演
上原浩治のスポーツBOMBER!(2003年10月-2004年3月、TBSラジオ)
エキサイト・スタジアム(2006年10月-、TBSラジオ)
ザ・ドキュメンタリー「上原浩治・密着400日~それでもメジャーに行く理由」(2009年2月28日、テレビ東京)
ソロモン流(2013年11月3日、テレビ東京)
プロフェッショナル 仕事の流儀(2014年8月4日、NHK総合)[162]
アスリートの魂(2016年5月7日、NHK BS1)[163]
書籍
著書
『我慢』(2005年、ぴあ、ISBN 978-4835615165)
『闘志力。―人間「上原浩治」から何を学ぶのか』(2010年、創英社/三省堂書店、ISBN 978-4881421932)
『不変』(2014年1月、小学館、ISBN 978-4093883504)
『覚悟の決め方』(2014年5月、PHP研究所、ISBN 978-4569819075)
Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help)※川崎宗則との共著
関連書籍
Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help)※両親による著書
柏英樹『プロ野球選手になるには』ぺりかん社、2009年
Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help)※インタビューを受けた4人のうちの1人
脚注
注釈
出典
関連項目
大阪府出身の人物一覧
大阪体育大学の人物一覧
オリンピックの野球競技・メダリスト一覧
読売ジャイアンツの選手一覧
メジャーリーグベースボールの選手一覧 U
日本出身のメジャーリーグベースボール選手一覧
日本人のメジャーリーグベースボール選手が獲得したタイトル・表彰一覧
外部リンク
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ジオン公国(ジオンこうこく、Principality of Zeon[1])は、宇宙世紀を舞台とする『ガンダムシリーズ』に登場する架空の国家である。ジオン共和国(初代)の後身。『機動戦士ガンダム』では、主人公アムロ・レイが所属する地球連邦軍に敵対する勢力として登場する。
『THE ORIGIN』ではジオン共和国ではなくムンゾ自治共和国として登場。シャアがムンゾ防衛隊の士官学校に入学している。
概要
地球周回軌道上で、地球からは最も遠い月の裏側L2点付近に位置するサイド3に本拠を置くスペースコロニー国家。首都はズム・シティ。ジオニズムを国是と称するが、国政を掌握するザビ家的解釈によるジオニズムは「人の革新」を「選民」としている。形式的には国家元首は公王のデギン・ソド・ザビで、ダルシア・バハロ首相が政府の首班である。しかし、実質的には公王の子息のギレン・ザビが総帥として国政の実権を掌握している。
総人口は1億5000万で[2]、100億を超える地球圏の総人口の大半が連邦に帰属する中では(月面都市群やサイド6等の中立地域の存在を考慮しても)圧倒的に不利な状況にあり、国力も「地球連邦の30分の1以下」であるとされる[3]。しかし優秀な将兵や優れた軍事技術を保有しており、特にミノフスキー物理学時代の申し子であるモビルスーツを連邦に先駆けて実用化したことにより、公国軍は極めて精強で一時は連邦を圧倒する活躍を見せた。
主な産業は製造業で地球連邦向けの輸出で潤う一方、資源は不足しており資源開発に多大な投資を行ってきた。宇宙世紀0034年には資源枯渇による急激なインフレが発生し、翌0035年には通貨危機が発生。0042年には工業生産力がピーク時から4割低下し、混乱した国民が強い指導者を求めた結果ザビ家の専制政治を許す布石となった。その後、奇跡的に経済は持ち直すが国民の資源枯渇に対する恐怖は、資源を多く持つ地球との対立へと国を導く。
ジオン公国の歴史
一年戦争開戦前
宇宙世紀0050年代、宇宙移民者(スペースノイド)たちの間に、被抑圧者階級としての自覚が高まってきていた。新たなフロンティア開拓の美名のもと、人々(=労働者)は宇宙で暮らし始めたが、“地球環境保全のため人類の生活圏を宇宙にシフトさせる”という理念は結果的に破られた。第1期移民が完了した時点で、移民はストップしてしまう。地球連邦の利権に群る政治家・官僚や富裕層は、宇宙より生活環境の安定している地球に居残り続けたのである。これは、先行して地球に別れを告げた移民者たち=スペースノイドにとって裏切り行為にほかならなかった。さらに連邦政府は各コロニー・サイドを「植民地」扱いし、コロニー公社などの特殊法人を通じてありとあらゆる重税を課すなどの多くの搾取を行うようになった。
このような状況の中、地球を自然のままそっとしておくべきとする「地球聖地論(エレズム)」と、宇宙生活で独特の視野を得た宇宙生活者の自治権確立をうたう「コントリズム」を融合した思想(後の「ジオニズム」)を唱えて、ジオン・ズム・ダイクンがサイド3にて政治活動を始める。やがてその運動はサイド3全域に広がり、宇宙世紀0058年に単独での自給自足が可能となった時点で<b data-parsoid='{"dsr":[1956,1968,3,3]}'>ジオン共和国</b>の成立が宣言され、同時にジオン国防隊(国軍の前身)を設立させた。ダイクンは連邦政府との自治権をめぐる問題は、武力による実力行使ではなく、あくまで平和的に対話で解決しようとしていたと言われるが、実態は不明。宇宙世紀0059年、地球連邦政府はジオン共和国に経済制裁を実施し、両者の対立は深まっていった[4]。
宇宙世紀0068年、ジオン・ダイクンが死去。ダイクンの実子キャスバル・レム・ダイクンは父がザビ一派に暗殺されたと主張したが、あくまでジンバ・ラルの受け売りであり、真実は不明[5]。ダイクンの死後、共和国は彼の側近であったデギン・ソド・ザビが引き継ぐことになった。デギンはそれまでのダイクンのやり方を一変させ[6]、連邦との実力行使も辞さない独立を目指すべくダイクン派を一掃し、ザビ家による独裁体制を敷き、共和制から君主制に移行して自らは「公王」に即位した。ジンバ・ラルは幼いキャスバル(シャア)とアルテイシア(セイラ・マス)を連れて地球へ脱出した。デギンは革命の英雄ジオン・ズム・ダイクンの思想を継いだ正統な後継者であることを対外的に宣伝するため、国号自体は変えずに<b data-parsoid='{"dsr":[2757,2768,3,3]}'>ジオン公国</b>とした。デギンの長男ギレン・ザビはダイクンの思想を先鋭化させ、地球連邦政府に対する開戦準備を着々と進めていくこととなる。
さらに、デギンはダイクンの正当な後継者であると周囲に印象付けるために、首都の名前を、ダイクンのミドルネームから取って<b data-parsoid='{"dsr":[2888,2900,3,3]}'>ズム・シティ</b>とした。
当該公国につけられた「ジオン」の国号については、映画『機動戦士ガンダム3 めぐりあい宇宙』でのシャア・アズナブルのセリフによれば、ザビ家によるジオン暗殺の嫌疑をそらすためデギン・ザビが「ジオンの名を使った」とされており、「ジオン共和国」は公王の死と公国敗戦による制度移行の結果生じたものである。よって、デギンが実権を握る前は国号としての「ジオン」は存在しておらず、1984年発行の『講談社ポケット百科シリーズ・機動戦士ガンダム モビルスーツバリエーション(1)ザク編』(以下『MSV(1)』)によれば、宇宙世紀0058年にジオン=ズム=ダイクンの宣言により樹立した「サイド3共和国」が「ジオン公国」の前身であるとされている。また、公国制を採る前の僅かな時期について「ジオン共和国」という記述があるが、具体的にいつその名に移行したのかは明言せぬ表現に留められている。しかし、同書は印刷原板が処分されて入手困難となり、2006年に原本複写による復刻がなされるまで、その内容は長らく失伝していたとみられる。その間、「ジオン共和国」こそが一貫した「ジオン公国」の前身であるとする設定が新たに創作され、『めぐりあい宇宙』や『MSV(1)』等とやや矛盾する形で競合することとなった。本節先述の「ジオン共和国の成立が宣言され」及び「国号自体は変えずにジオン公国とした」はこれに基づくものである。『機動戦士ガンダムMS大図鑑PART.1』(バンダイ・1989)では、「0058年の独立宣言」では国号について触れずに『MSV(1)』の記述に準拠したうえで、同『MSV(1)』においてデギン・ザビが「国防隊」を「国軍」に昇格させた0062年が「公国」制に移行し「ジオン公国」が成立した年であるとして、新旧設定の整合を試みている。また、学研『機動戦士ガンダム 一年戦争全史(上)』(2007)では、「ジオン・ダイクンがサイド3の独立を宣言した0058年」という『MSV(1)』由来の記述をしながらも、具体的な共和国号を明らかにせずに「サイド3の共和国」とぼかし、0069年に「ジオン公国」が誕生したとしている。安彦良和の漫画『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』では、公国建国前のジオン・ダイクン死亡時の国号が「ムンゾ自治共和国」であったとしている[7]。
一年戦争開戦 そして敗北
ジオン公国は宇宙世紀0079年1月3日、地球連邦政府に対して、完全な独立を求めて宣戦布告。のちに一年戦争[8]と呼ばれることになるこの戦いの初期、ジオン公国軍はザクIIなどのモビルスーツを中心とした戦力や「コロニー落とし」の戦術でモビルスーツを持たない連邦軍を圧倒し、サイド1・サイド2・サイド4・サイド5の各スペースコロニーを壊滅させ、本来同胞たるはずのコロニー住民を、武装・非武装問わず虐殺するに至り、一説に地球圏の総人口の半数を死滅させたと言われる。これほど大規模な虐殺を行ったのは、宇宙世紀の世界観では前にも後にもジオン公国のみである[9]。またコロニー落下の影響により、地球環境は甚大なダメージを被った。核兵器の使用禁止などを盛り込んだ南極条約の締結後は、戦線は膠着するもすみやかに地球に侵攻、鉱物資源の確保等、戦争の長期化に備えた。
しかし、連邦軍もV作戦を発動して独自にモビルスーツを開発。同時に宇宙艦艇の再建等で戦力を増強した連邦軍に徐々に戦線を後退させられ、最終的にはジオン本土(サイド3)に対する最終防衛ラインであるソロモンとア・バオア・クーを陥落させられた。また、ザビ家一族も不和・内紛からまだ幼いドズル・ザビの娘ミネバ・ラオ・ザビ一人を残して全員が死亡してしまった。議会によって共和国に衣替えしたジオン共和国は、宇宙世紀0079年12月31日18:00、サイド6を通じて連邦政府に休戦を申し入れ、連邦政府は即座にこれを受諾、宇宙世紀0080年1月1日[10]、月のグラナダにて地球連邦政府と終戦協定を結び、同年2月18日終戦条約(グラナダ条約)[11]を締結した。
終戦後
ジオン共和国の投降勧告に従わなかったジオン公国軍残存勢力は地上においてはアフリカ、宇宙においては暗礁宙域やアクシズなどの小惑星群などへ撤退し、再起へ向けて地下勢力化していく。宇宙世紀0083年にはこうした勢力の一つデラーズ・フリートが反乱を起こし、ジオン残党の存在をアピールした。
アクシズでは、ザビ家の遺児であるミネバ・ラオ・ザビの存在からジオン公王家が保護されていたとなっている。侵攻してきた連邦軍を撃退し独立を守ったことから、アクシズ政府内部では、自身を「ジオン公国」と捉える意識が強い。本国であるジオン共和国についても、事実上連邦の植民地とみなしていた。
一年戦争後からサイド3で存続していたジオン共和国は、グリプス戦役(『機動戦士Ζガンダム』の作中)においてはティターンズに協力させられていたが、第一次ネオ・ジオン抗争(『機動戦士ガンダムΖΖ』の作中)ではネオ・ジオン(アクシズ)に吸収されてしまう。そして、それまで形式的な自治を認められていたものの、宇宙世紀0093年の第二次ネオ・ジオン抗争を経て、0100年に自治権を放棄。正式に地球連邦政府の傘下となる(『機動戦士ガンダムUC』では0096年の段階でジオン共和国の自治権返上が決定している)。
また、地球に潜伏するジオン兵の中では長きにわたる潜伏とデラーズ・フリートやアクシズの度重なる決起の失敗に加え、ハマーンやシャアといったカリスマが姿を消してしまったためにジオンの求心力と独立の機運が衰え、スペースノイドの自治が連邦に一矢報いるという手段と目的の混在にまで至っている。
公国軍の編成
総司令官は総帥でもある<b data-parsoid='{"dsr":[5788,5800,3,3]}'>ギレン・ザビ。ミノフスキー粒子による有視界戦闘に対応し、多数のモビルスーツを搭載できる艦艇を中心とした部隊編成で、開戦当初は古い戦術のままであった連邦軍を圧倒した。『機動戦士ガンダム』の段階では、ドズルの宇宙攻撃軍、キシリアの突撃機動軍、ガルマの地球方面軍といった設定しかなかったが、後に制作されたOVA『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』や『機動戦士ガンダム MS IGLOO』シリーズで描写されることで、組織が増えていった[12]。
総帥府
ギレン・ザビ麾下。通称「ペーネミュンデ機関」。プロパガンダ放送を制作・放送する[13]が、それはこの機関の活動の一つにすぎない。ここに所属する将校はコロニー落とし(ブリティッシュ作戦)やソーラ・レイを作戦実行前に熟知しているなど[14]、情報に対するアクセス権が高い。さらに特権があたえられており、通常部隊では二階級上の待遇をうける。たとえばモニク・キャディラック特務大尉が技術試験隊に出向すると、二階級上の中佐待遇となる[15]。彼らは各地の部隊に管理官として派遣され、作戦指導を行った。なお、キャディラック特務大尉はセシリア・アイリーンと同型の赤い制服を着用し、階級章とベルトバックルは親衛隊用のものだった[16]。総帥府と親衛隊の関係は劇中で描かれていない。なお一部で誤解があるが、ジオン公国総帥府付要員ではこのように特務=二階級上の階級が成り立つが他の軍隊でもそうなるとは限らない。旧日本海軍のように兵学校出身ではない下士官兵出身の士官という意味での特務士官呼称も存在する。
ジオン公国軍総司令部
宇宙攻撃軍、突撃機動軍(地球制圧軍を含む)、技術本部を統括する[16]。艦隊司令部が存在し、緊急時には多方面の部隊を指揮することができる[17]。
宇宙攻撃軍
ドズル・ザビ麾下。公国軍の中では最大規模を誇る。主な拠点は宇宙要塞ソロモン。主な将校はランバ・ラル、ラコック、コンスコン、シン・マツナガ、アナベル・ガトー、ヘルベルト・フォン・カスペン、左遷される以前のシャア・アズナブルなど。ソロモン攻防戦で事実上壊滅した[18]。
突撃機動軍
キシリア・ザビ麾下。宇宙では宇宙機動軍として呼ばれている。ニュータイプ研究など特殊な活動も行う。主な拠点は月面都市グラナダ。主な将校はマ・クベ、黒い三連星、アサクラ、フラナガン、バロム、デラミン、シーマ・ガラハウ、ジョニー・ライデン、軍籍回復後のシャアなど。特殊部隊も多く、フラナガン機関、闇夜のフェンリル隊、海兵隊(シーマ艦隊)、マッドアングラー隊、サイクロプス隊、マルコシアス隊の存在が確認されている[19]。
地球方面軍
突撃機動軍の一部。地球攻撃軍という名称もある。指揮権はキシリア・ザビにある[20]。ガルマ・ザビ麾下であるが、その権限は実質上、北米地域等に限られている。広大な地球の制圧を担当しており、潜水艦隊を擁する海軍もこの一部である。また地球方面軍との連絡が途絶した戦争末期にジオンは宇宙軍の兵力を充当できずに学徒動員に踏み切っている。
技術本部
ジオン公国軍総司令部直属で、宇宙攻撃軍、突撃機動軍からは独立した組織。アルベルト・シャハト技術少将麾下で、彼のオフィスはサイド3のズム・シティにある。この部隊には技術将校の肩書きを持つ者もいた。試験支援艦ヨーツンヘイムを母艦とする第603技術試験隊やムスペルヘイムを母艦とする第604技術試験隊をはじめ、いくつかの技術部隊があったが、ア・バオア・クーの戦い直前に実戦部隊に組み込まれた[21]。ヨルムンガンドやゼーゴックといった開発元がはっきりしない兵器から、 ツィマッド社が開発したヅダのように企業から持ち込まれた兵器のテストも行っている。主な将兵は、マルティン・プロホノウ、オリヴァー・マイ、ヒデト・ワシヤなど。総帥府からキャディラック特務大尉、宇宙攻撃軍からはカスペン大佐、突撃機動軍海兵隊からはヴェルナー・ホルバイン少尉など、多種多様な人材が出向という形で集まっていた。
親衛隊
上記の軍に属さない、ギレン・ザビ直属の護衛部隊で、その宇宙艦隊は後のデラーズ・フリートの母体となった。MSVの設定では、親衛隊はキシリア・ザビの直轄であり、ギレンの親衛隊は本国防空隊であることが示されている。なお、漫画『機動戦士ガンダム ギレン暗殺計画』ではこの設定を利用しており、ギレンがキシリアやドズルに所属しない軍を麾下に置いたとしているが、この作品自体は公式設定というわけではない。
軍服
ジオン公国軍では、名を上げた者(例えばシャア少佐など)には軍服のカスタマイズや、パーソナルカラーの使用が許された。これは士気高揚とプロパガンダの両方を兼ねており、彼らの活躍と異名は総帥府のプロパガンダ放送によって地球圏全域に広く宣伝された[22]。
第二種戦闘服は、ジオン公国軍の基本的な制服である[23]。下士官・士官用には、襟に階級を示す紋様が施されている。ヘルメットは前面にひさしがあり、側面~後部が左右に広がった形状をしている。兵科によってバリエーションがあり、またシャアほどではなくても、個人の好みによって細かいカスタマイズが行われていた。例えば第603技術試験隊のクルーが着用する第二種戦闘服は、ポケットの位置と形状が全員違っている[24]。
突撃機動軍海兵隊は、第二種戦闘服とは異なる独自の制服を採用していた[25]。シーマ艦隊所属兵の海兵隊軍服は、袖をちぎった仕様が多い。
ジオン公国軍の佐官将校軍服は、地球連邦軍の将校軍服と全く異なり[26]、個人の好みが全面に出た仕様となっている。シャア・アズナブルの赤い軍服はもちろん、ドズル・ザビ、キシリア・ザビ、マ・クベ、エギーユ・デラーズ、シーマ・ガラハウ、ギニアス・サハリンなど枚挙に暇がない。カスペン大佐のように、独自のコートを着用する将校もいた。
ジオン公国軍モビルスーツパイロット用のノーマルスーツはM-73とよばれる[27]。ジオン軍軍服の例に洩れず、エース達は普段着用する将校軍服以上にカスタマイズを行った。シャアのピンク、黒い三連星の黒、ガトーやノリスの紫などが有名である。スーツにあわせるかの如くヘルメットに対する独自の改造も横行し、トゲ、ツノは定番の改造となった。
この他にテストパイロット用ノーマルスーツ(第603技術試験隊着用)、ニュータイプ用ノーマルスーツ、ジオン軍一般用ノーマルスーツが存在した。一般用ノーマルスーツは、テレビ版第33話でシムス・アル・バハロフがブラウ・ブロ修理中に着用している。
徽章
徽章は所属部隊を表すもので、ジオン公国軍将兵のほぼ全員が着用する[28]。将校は金属製、下士官兵はフェルト製である[29]。将校帽用国家徽章、親衛隊帽章、MSパイロット徽章、MSパイロット帽章、ペーネミュンデ徽章、ジオン海兵隊徽章、宇宙艦艇乗組員徽章、地上部隊用帽章が確認されている[29]。
勲章
ジオン公国軍の勲章について初めて言及したのはシャア・アズナブルである。テレビ版第6話にてガルマ・ザビに対し、ホワイトベースを撃破すれば「ジオン十字勲章ものだ」と語った。後に多くの勲章があると設定された。1級ジオン十字章、2級ジオン十字章、ブリティッシュ作戦功労章(人間の右手がコロニーを握っているデザインに「B」の組み合わせ)、ルウム戦役シールド(直立したコロニーと「ROUM」文字の組み合わせ)、第一次降下作戦シールド(地球とHLVの組み合わせ)、宙雷戦功章(剣と大型ミサイルを交差し、その上にジッコが描かれる)、白兵戦功章(ナイフと柄付手榴弾が交差し、その上にジオン公国紋章)、戦傷章(ジオン公国紋章のついたヘルメットが描かれたワッペン)などがある[29]。
政体
首相や議会が存在し、一応は野党も存在していることなどから、建前としては立憲君主制・議院内閣制とみられる。ただしダルシア首相は自ら「傀儡に過ぎない」と言っており、また議会もギレンの影響下にある。実質はザビ家の独裁政治であった。作中のデギンとギレンの会話より、このような独裁体制の導入はギレンの主導によるものとみられる。
元首は「公王」であるが、これは2種類の君主号である「公」と「王」を合成した本作品オリジナルの造語であり、本来どの言語にも見られない言葉である。「公国(Principality)」とは「皇帝(Emperor)」を君主とする「帝国(Empire)」、「国王(King)」を君主とする「王国(Kingdom)」に対して、「Prince(公、候など)」を君主として戴く国家のことである。実在の公国としてはモナコ公国などがある。「公国」の項も参照。
公国軍関係者の行方
一年戦争後、公国軍のエースだったシャア・アズナブルは、一時はミネバ・ラオ・ザビを守るためにアクシズに公国軍残党勢力を連れて後退したが、ハマーン・カーン達ミネバの侍女連中による謀反騒動に嫌気が差して離脱した。
その後、地球連邦軍の准将「ブレックス・フォーラ」を中心とした反地球連邦政府組織『エゥーゴ』の立ち上げに従事し、組織内にはシャアだけでなく元ジオン公国兵も少なからず存在した。
宇宙世紀0200年頃には、宇宙移民者独立運動のリーダーとして伝説となったシャアの思想に共鳴した人間達が作り上げた組織『ズィー・ジオン・オーガニゼーション』が登場する。その組織はジオン公国とは関係がないのだが[30]、構成員の中にはジオン公国の信奉者も存在した[31]。
ジオン公国軍の派生集団
一年戦争終戦後も、ジオン公国の名を標榜する残党組織は多数登場している。彼等はジオン共和国には加わらず、独自に反地球連邦政府活動を行っていた。
その闘争は、宇宙世紀0083年、宇宙世紀0087~0089年、宇宙世紀0093年、宇宙世紀0096~0097年と散発的に続いた。
最終的に宇宙世紀0120年から宇宙世紀0122年にかけての火星独立ジオン軍の武装闘争とその壊滅(オールズモビル戦役)で終結する。
アクシズ
デラーズ・フリート
ネオ・ジオン
新生ネオ・ジオン
袖付き
レジオン
火星独立ジオン軍(マーズ・ジオン)
ジオン訛り
『機動戦士ガンダム』作中で「ジオン訛り」という単語が現れる。テレビ版第28話でホワイトベースに潜入したフラナガン・ブーンが、同時に潜入したキャリオカに言うセリフであり、「訛りがひどいため喋るな」と作中で指摘している。
この設定は後に『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』第4話においてバーナード・ワイズマンが連邦軍基地に潜入した際にも用いられ、訛りと会話内容の間違いからジオン兵であることが判明してしまう。このシーンではバーナードのジオン訛りがオーストラリア訛りと勘違いされていた。『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』第3話においても、ガトーがジオン残党軍のユーコン級潜水艦に乗り込んだ時に、「久しぶりにジオン訛りを聴いた」と懐かしむシーンがある。
また、OVA『機動戦士ガンダム MS IGLOO -1年戦争秘録-』第2話では、鹵獲した陸戦型ザクIIに搭乗してジオン兵を装った連邦軍特殊部隊セモベンテ隊のフェデリコ・ツァリアーノ中佐の声に、ジオンの警備兵が「ひどい訛り」と指摘している。もちろんジオン兵を装うための偽装であると思われる。
ただ、いずれの作品においても、劇中での会話は全て日本語であり、視聴者が耳で聞いて特徴的な訛りを理解できるような演出はなされておらず、またジオン訛り自体についての公式設定も存在しない。唯一の例として、OVA『MS IGLOO』の没案、および同作漫画版において地球連邦軍量産型モビルスーツの名前「ジム」(GM)の発音は、ジオン読みでは「ゲム」であるとされており、あたかもジオン訛り≒ドイツ語であるかのように設定されている。また、同作漫画版には連邦からジオンに亡命した際にドイツ語風に改姓した登場人物もいる。
近年の映像作品では、ドイツ語風の名前を持つ将兵や、ドイツの都市や北欧神話を艦名の由来に持つ艦船が多数登場している。
なお、『ポケットの中の戦争』北米版ではケンプファーのパイロットであるミハイル・カミンスキーがロシア語訛りの英語で話すという演出がなされているが、ジオン訛りとは関係ないようである。
ジオン公国の企業
脚注
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乳酸菌(にゅうさんきん)は、代謝により乳酸を産生する細菌類の総称。生育の為には糖類、アミノ酸、ビタミンB群、ミネラル(Mn , Mg , Fe等の金属)が必要な細菌類[1]。ヨーグルト、乳酸菌飲料、漬け物など食品の発酵に寄与する。一部の乳酸菌は腸などの消化管(腸内細菌)や膣に常在して、他の微生物と共生あるいは拮抗することによって腸内環境の恒常性維持に役立っていると考えられている。
細菌学的な位置づけ
乳酸菌という名称は、細菌の生物学的な分類上の特定の菌種を指すものではなく、その性状に対して名付けられたものである。発酵によって糖類から多量の乳酸を産生し、かつ、悪臭の原因になるような腐敗物質を作らないものが、一般に乳酸菌と呼ばれる。乳酸菌は、また、TCA回路を有さずその発酵の様式から、乳酸のみを最終産物として作り出す<b data-parsoid='{"dsr":[892,903,3,3]}'>ホモ乳酸菌</b>と、ビタミンC[2]、アルコール、酢酸など乳酸以外のものを同時に産生する<b data-parsoid='{"dsr":[1023,1035,3,3]}'>ヘテロ乳酸菌</b>に分類される[3]。また、その細菌の形状から、球状の<b data-parsoid='{"dsr":[1220,1230,3,3]}'>乳酸球菌(にゅうさんきゅうきん)と桿状の<b data-parsoid='{"dsr":[1246,1256,3,3]}'>乳酸桿菌(-かんきん)に分類されることもある。ただし、これらはいずれも便宜的な分類名である。
一般に、乳酸菌と呼ばれて利用されることが多い代表的な細菌には、以下のような属が挙げられる。いずれも発酵によって多量の乳酸を産生するだけでなく、比較的低いpH条件下でよく増殖する。これらの菌にとって乳酸は発酵の最終産物であると同時に、それを作り出して環境を酸性に変えることで他の微生物の繁殖を抑え、自分自身の増殖に有利に導く役割を持つと考えられている。
但し、以下の要件を満たす菌類が乳酸菌とされている[1]。
グラム陽性
桿菌・球菌
芽胞=なし
運動性=なし
消費ブドウ糖に対して50%以上の乳酸を生成
ナイアシン(B3)を必須要求
ビタミンとの関係
ヘテロ型桿状乳酸菌(21株を実験対象)は例外なくB1、ニコチン酸(=ナイアシン(B3))(またはニコチン酸アミド)およびパントテン酸(B5)を必須生長素として要求し、そのうちDL-乳酸を生産する13株はL. brevis 1株を除く他の12株がB2を要求しないのに対し、L-乳酸を生産する8株はすべてB2を要求した[4]。
ビフィズス菌は、パントテン酸(B5)をそのまま利用できずパンテチンを必要とし、また、リボフラビン(B2)を必要とするとされる[5]。ビフィズス菌(B. infantis、B. breve、B. bifidum、B. longum及びB. adolescentisのすべて)で菌体内にビタミンB<1、B2、B6、B12、C、ニコチン酸(B3)、葉酸(B<9)及びビオチン(B7)を蓄積し、菌体外にはビタミンB6、B12及び葉酸を産生した。ヒト(成人)の腸内の平均量のビフィズス菌の推定ビタミン産生量はビタミンB2、B6、B12、Cおよび葉酸で所要量の14-38%を占め無視できない割合と考えられる[6]。ただしビタミンB12だけについては、内因子と結びついたビタミンB12が吸収される回腸の部位からさらに遠位の大腸でビタミンB12が産生されているので、ヒトは大腸で作られたビタミンB12を十分に吸収することができない[7]。
生育場所による分類
細菌学・分類学上の区別では無く生育に利用する基質と生育場所による違いで、次の様に分けられる[1][8]。
腸管系乳酸菌[8]
動物の腸管に生息する。消化液耐性を有する種が多い[8]。腸管における菌数は、栄養分、酸素濃度、胃酸に対する耐性、胆汁酸に対する耐性、腸の免疫システムにより排除されないこと、腸壁への付着力、の要因が考えられる[9]。ヒトの糞便中1 gあたりの菌数は、ビフィズス菌が100億個、ビフィズス菌以外の乳酸菌が10-100万個であるといわれている[10]。
動物性乳酸菌
動物質に由来する乳酸菌で、主に乳発酵食品(チーズ、ヨーグルト)。欧米での研究の歴史が長い[1]。
植物性乳酸菌
岡田(1988)[11]により提唱された。植物質に由来する乳酸菌[8]で、主に味噌、醤油、漬け物、パン[12][13]。なお、漬け物などと同時に摂取する程度の付着量では摂食した菌種によるアレルギー反応抑制等の機能性は期待できないとの指摘がある[8][14]。
海洋乳酸菌
石川(2009)により提唱された[15]。海洋環境から分離した乳酸菌で好塩性・好アルカリ性、耐アルカリ性が特徴である。
ラクトバシラス目に属するもの
ラクトバシラス目の系統樹
Lactobacillales
en:Aerosphaera taetra ♠ Hutson & Collins 2000
en:Carnococcus allantoicus ♠ Tanner et al. 1995
en:Aerococcaceae
en:Granulicatella Collins and Lawson 2000
en:Atopobacter phocae Lawson et al. 2000
en:Bavariicoccus seileri Schmidt et al. 2009
en:Trichococcus Scheff et al. 1984 emend. Liu et al. 2002
en:Lactobacillus algidus Kato et al. 2000
en:Lactobacillus species group 2
en:Lactobacillus Beijerinck 1901 emend. Cai et al. 2012
en:Leuconostocaceae
en:Lactobacillus species group 3
en:Lactobacillus species group 4
en:Lactobacillus species group 5
en:Lactobacillus species group 6
en:Pediococcus Claussen 1903
en:Lactobacillus species group 7
en:Carnobacterium Collins et al. 1987
en:Isobaculum melis Collins et al. 2002
en:Carnobacteriaceae 2 [incl. various en:Carnobacterium sp.]
en:Desemzia incerta (Steinhaus 1941) Stackebrandt et al. 1999en:Enterococcaceae&en:Streptococcaceae
(continued)
ラクトバシラス属 (Lactobacillus)
ラクトバシラス属は、フィルミクテス門バシラス綱ラクトバシラス目ラクトバシラス科に属するグラム陽性の桿菌でありラクトバチルスとも呼ばれる。一般に「乳酸桿菌」と呼ぶ場合狭義にはこの属をさす場合が多い。種によって乳酸のみを産生(ホモ乳酸発酵)するものと、乳酸以外のものを同時に産生(ヘテロ乳酸発酵)するものがある。L. delbrueckii、L. acidophilus、L. caseiなど。
ラクトバシラス属()は野外から容易に分離され、ヨーグルトの製造に古くから用いられてきた。ラクトバチルス・ブルガリクス、ラクトバチルス・ガセリ、ラクトバチルス・アシドフィラスなど多くのラクトバシラス属に属する種がヨーグルト製造に利用されている。
ヒトや動物の消化管にも多く生息しており、その糞便からも分離される。また女性の膣内に生息するデーデルライン桿菌と呼ばれる細菌群も、主にラクトバシラス属で構成されている。また、L. fructivorans、L. hilgardii、L. paracasei、L. rhamnosusなど、ラクトバシラス属の一部にはアルコールに強いものがある。これらは日本酒醸造の現場では「火落ち菌」と呼ばれ、この菌の混入は日本酒の異臭や酸味などの発生(火落ち)の原因になるが、L. paracasei , L. plantarum は、ワインのマロラクティック発酵を行う[16]。
ラクトバチルス・カゼイ・シロタ株()は、別名「ヤクルト菌」や「LCS」と呼ばれる。
エンテロコッカス属 (Enterococcus)
エンテロコッカス属は、ラクトバシラス目エンテロコッカス科に属するグラム陽性の球菌で、ホモ乳酸発酵をする。回腸、盲腸、大腸に生息している。フェカリス (E. faecalis) 、フェシウム (E. faecium) などがある。整腸薬としてビフィドバクテリウム、ラクトバチルス、エンテロコッカスの三者を混合したものもあるほか、フェカリス菌FK-23株やEF-2001株 (E.faecalis EF-2001) を加熱殺菌した菌体の免疫賦活能力が高いとされる報告が見られる。
ラクトコッカス属 (Lactococcus)
ラクトコッカス属は、ラクトバシラス目ストレプトコッカス科に属するグラム陽性の球菌で、連鎖状ないし双球菌の配列をとる。狭義の「乳酸球菌」。ホモ乳酸発酵をする。牛乳や乳製品に多く見られ、これらを原料とした発酵乳製品に用いられる。L. lactis、L. cremorisなど。市販のカスピ海ヨーグルトなどに利用されている。
ナイシンは34アミノ酸残基の多環式抗菌ペプチドであり、食品の保存料等に用いられ、Lactococcus lactis の発酵によって生じる。商業的には、Lactococcus lactis の牛乳やデキストロース等の天然培地での培養、大麦焼酎粕由来発酵大麦エキスの発酵[17]によって得られる。グラム陽性菌の成長を抑え、食品の寿命を延ばすためにプロセスチーズや肉、飲料等の製造に用いられる。多くのバクテリオシンが通常近縁種しか阻害しないのに対し、ナイシンは酢酸菌Listeria monocytogenes等を含む広い範囲の種に対して効果がある[18]。
ペディオコッカス属(Pediococcus)
ペディオコッカス属は、ラクトバシラス目ラクトバシラス科に属するグラム陽性の球菌で、4連球菌の配列をとる。ホモ乳酸発酵をする。ピクルスなどの発酵植物製品から分離されることが多い。P. damnosusなど。
リューコノストック属 (Leuconostoc)
リューコノストック属は、ラクトバシラス目リューコノストック科に属するグラム陽性の球菌で、連鎖状ないし双球菌の配列をとる。ヘテロ乳酸発酵をする。ザワークラウトなどの発酵植物製品から分離される。L. mesenteroidesなど。L. mesenteroides は、ワインのマロラクティック発酵を行う[16]。
ストレプトコッカス属(レンサ球菌属) (Streptococcus)
ストレプトコッカス属は、ラクトバシラス目ストレプトコッカス科に属するグラム陽性の球菌で、連鎖状の配列をとる。ストレプトコッカス属(レンサ球菌)は乳酸菌にも分類されている[19]。Streptococcus thermophilusは発酵乳製品に含まれており、一般的にヨーグルト(例えばブルガリアヨーグルト)の製造に利用されている[20]。
放線菌門に属するもの
ビフィドバクテリウム属 (Bifidobacterium)
ビフィドバクテリウム属は、放線菌門に属するグラム陽性の偏性嫌気性桿菌で、増殖の際しばしばV字型、Y字型などに分岐した形態を示す。俗にビフィズス菌とも呼ばれる。ヘテロ乳酸菌の一種で、乳酸と酢酸を産生する。B. bifidumやB. adolescentisなど。
ビフィドバクテリウム属の細菌は、乳児のうち特に母乳栄養児の消化管内において最も数が多い消化管常在菌である。その後、加齢に伴って他の嫌気性細菌に取って代わられる。
食品における乳酸菌
乳酸菌は、さまざまな発酵食品の製造に用いられてきた。主なものとしては、ヨーグルトや乳酸飲料などの発酵乳製品、キムチや浅漬け、ピクルス、ザワークラウト、テンペ、味噌などの発酵植物製品、塩辛[15]、鮒寿司などのなれ寿司などが挙げられる。乳酸菌による発酵は、これらの食品に酸味を主体とした味や香りの変化を与えるとともに、乳酸によって食品のpHが酸性側に偏ることで、腐敗や食中毒の原因になる他の微生物の繁殖を抑えて食品の長期保存を可能にしている。
また、乳酸菌は発酵の際にビタミンCも産生する種類があり、発酵前の生乳等のビタミンCよりも濃度が高くなる[21]。牛乳にはビタミンCがほとんど含まれていない。その理由は、子牛が自らビタミンCを合成できるので牛乳から摂取する必要がないためである。牛乳を発酵して作ったヨーグルトでは若干ながらビタミンCが含まれている。一方、他の発酵食品の製造過程において、乳酸菌が雑菌として混入することが問題になることもある。ラクトバシラス属のL. fructivorans、L. hilgardii、L. paracasei、L. rhamnosusなど、アルコールに強い乳酸菌は、酒類の醸造、発酵中に混入・増殖すると、異臭・酸味を生じて酒の商品価値を失わせてしまう。日本酒醸造の現場ではこれを火落ちまたは<b data-parsoid='{"dsr":[12505,12513,3,3]}'>腐造</b>と言い、これらの菌は「火落ち菌」として造り酒屋たちから恐れられている。また火落ちにより混入した乳酸菌によって醸造後に腐敗することを防止するための手法が経験的に編み出され行われている。これは、「火入れ」と呼ばれる低温殺菌法で、醸造した酒を65℃の温度で23秒間加熱すればこれらの菌を不活化できる[22]。火入れは江戸時代頃から行われていた。
ワインにおいても同様に保存中に乳酸菌発酵によって異臭や酸味を生じることがあり、その原因を究明しようとしたルイ・パスツールの研究によって、食物が腐敗するメカニズムが解明され、またパスチャライゼーションと呼ばれる低温殺菌法の発明につながった。
L. lactisは、ナイシンとよばれる抗菌ペプチド(バクテリオシン)を生産する。ナイシンは、黄色ブドウ球菌やリステリア菌などの食品腐敗菌に対して高い抗菌活性を持つため、その抗菌作用を期待して食品添加物として世界中で広く用いられている。
ヒトの常在細菌としての位置づけ
乳酸菌のうち、特にラクトバシラス属とビフィドバクテリウム属は、ヒトの消化管内や女性の膣内に常在し、常在細菌叢(じょうざいさいきんそう)の一部を成している。これらの乳酸菌は、口腔内のう蝕を除いて直接ヒトの病気の原因になることはなく、むしろ生体にとって有益になるバリヤーとして機能していると考えられている。そのため、乳酸菌は「善玉菌」と表現される場合もある。ただし、極めて稀な例だが、乳酸菌血症などの感染症の原因になる例も報告されている。
口腔内の乳酸菌
ヒトの口腔内には多くの細菌が生息するが、Lactobacillus属も多く生息している。主なものとしては、L. oris、L. casei、L. salivarius、L. brevisなどである。このLactobacillus属はう蝕の発生に関与するとされている。1889年に歯科医師のMillerが『ヒト口腔の微生物』という研究書を出版してから20世紀半ばまで、乳酸桿菌が齲蝕の主たる原因とされていた。しかし、現在では乳酸を産生する能力は高いものの、歯面への付着能力が低く、プラーク中の菌数は少ないため、齲蝕原性は強くなく(主因では無い)、齲蝕の進行を促進するものであるとされる。
消化管内の乳酸菌
健康なヒトの腸内にはたくさんの種類の微生物が生息しており、ほぼすべての人の腸内からは、ラクトバシラス属やビフィドバクテリウム属の乳酸菌が検出される。これらの乳酸菌は、俗に言う「腸内の善玉菌」の一種として捉えられる場合が多く、腸内常在細菌叢(腸内フローラ)において、これらの細菌の割合を増やすことが健康増進の役に立つという仮説が立てられている。ただしその有効性については、意義があるとする実験結果と関連が認められないとする結果がそれぞれ複数得られており、結論が出ていない。
腸内善玉菌としての乳酸菌とプロバイオティクス
人体に有益な乳酸菌を摂取するという考えは、パスツール研究所に所属していたロシアの科学者であるイリヤ・メチニコフの発案だとされる。メチニコフは、小腸内から発見された毒性を示す化合物が吸収されると害になるという内容の自家中毒説を唱えていた。そして、1907年に『不老長寿論』という著書を出版し、ブルガリアに長寿者が多いことに目をつけ、ブルガリアの乳酸菌を摂取させたところ、腐敗物質が減少したので自家中毒を防止できて長寿になると唱えた。ブルガリアの乳酸菌の他に、ケフィアや酢漬け、塩漬けの食品によって人々は知らずのうちに乳酸菌を摂取していることを指摘している[23]。
その後もこうした仮説による研究は発展していった。そして、疾患の原因は様々だが、有害な腸内細菌が作る毒素も生活習慣病につながる一因であるということが分かっている[24]。
腸内常在細菌叢のバランスを改善することを目的とした製品が開発されている。このうち、乳酸菌などの細菌を生きたまま含むもののことをプロバイオティクス、それ自体は生菌を含まないが、善玉菌と言われる菌が特異的に利用するオリゴ糖などの栄養源を含むもののことを<b data-parsoid='{"dsr":[14643,14658,3,3]}'>プレバイオティクス</b>と呼ぶ。健康食品として販売され、利用されている。
メチニコフが見出したヨーグルトをはじめ、初期に開発されたほとんどのプロバイオティクス製品については、その後の研究から摂取してもほとんどの乳酸菌が胃で死滅してしまい、腸に到達しないことが明らかになった。そして、製剤技術や新しい乳酸菌株の開発によって、生きたままの菌を腸に到達させることが可能になったが、最近の研究では、加熱死菌体も疾病予防効果などを有することが報告されている。生きて腸に届いた乳酸菌は、腸内に住み着き増殖することはないことも分かった[25]。
善玉菌と呼ばれるものにはビフィズス菌に代表されるBifidobacterium属や、乳酸桿菌と呼ばれるLactobacillus属の細菌など乳酸や酪酸など有機酸を作るものが多く、悪玉菌にはウェルシュ菌に代表されるClostridium属や大腸菌など、悪臭のもととなるいわゆる腐敗物質を産生するものを指すことが多い。悪玉菌は二次胆汁酸やニトロソアミンといった発がん性のある物質を作る。悪玉菌は有機酸の多い環境では生育しにくいものも多い。
日本では、科学的根拠がある特定保健用食品(トクホ)には食品の機能の表示が認可されている。認可された食品はヨーグルトとして乳酸菌を含んでおり、食品の摂取によって便秘や下痢の改善、善玉菌に分類される菌が増殖し有機酸が増え、悪玉菌が減少しアンモニアが減ったため腸内環境が改善されたことを示す研究結果が多い[26]。トクホに認可された食品には、研究によって血圧や血清コレステロールの低下が確認された製品がある。花粉症などのアレルギー症状が軽減されるという研究報告もある[27]。
大腸は、そもそも腸内細菌の活動による発酵産物である酪酸などの短鎖脂肪酸を主としたエネルギー源として活動している[28]。
デーデルライン桿菌
とは、思春期以降の健康な女性の膣内に生息する多数のグラム陽性桿菌である。この名称は発見者のにちなんで付けられた。特定の菌種を指すものではなく、主としてラクトバシラス属から構成されるさまざまな菌の集団である。思春期以降の女性の膣上皮には、女性ホルモンの働きによってグリコーゲンが蓄積するが、これらの乳酸菌は剥離した細胞のグリコーゲンを栄養源として定着している。これらの菌が産生する乳酸によって膣内のpHは酸性に保たれており、このことによって他の病原細菌の侵入増殖を阻害する。すなわちデーデルライン桿菌は、膣の自浄作用を担い、生体バリヤーとしての役割を果たしていると考えられている。
乳酸菌に関する研究
1857年に発見され、1919年に分類体系の基礎が作られた[3]。一般的に食品加工に乳酸菌を使用する際は、目的とする菌種以外の雑菌混入を防ぐため、純粋培養された種菌(スターター)が使用される[3]。
耐塩性乳酸菌(好塩性乳酸菌)の一部( Pediococcus halophilus[29] , Lactobacillus plantarum , Tetracoccus sp., Pediococcus acidilactici[30] など)は、醤油、味噌、魚醤などの良好な発酵に関わり重要な働きをしているが、一部の耐塩性乳酸菌( Lactobacillus fructivorans )は二酸化炭素ガス発生しを変敗(食品等が変質し食用に適さない状態となる事)させる事もある[31]。
乳酸菌の牧畜への応用
サイレージとは家畜用飼料の一種で、牧草などの飼料作物をサイロなどで発酵させたものである。サイロなどに詰められた牧草は、嫌気性菌による発酵により乳酸や酢酸などの有機酸の成分比率を増やし、pHが低くなることにより、牧草の腐敗の原因となるカビや好気性菌類の活動を抑え長期保存が可能になる。こうした発酵過程を成功させるために、水分量の調整や乳酸菌などの添加物を投入するなど、農家毎にさまざまなノウハウが培われている。上手に発酵したサイレージは豊富な有機酸が含まれることとなり、ウシなどの家畜の良好な肥育に大きく貢献する。発酵により発生した有機酸において乳酸の占める割合が高いものが良質なサイレージとされる。また、pH4.5以下が望ましいとされる。一般に水分含量は75%前後に調整されるが、40%程度に調整したものを特にヘイレージ(haylage、低水分サイレージ)と呼ぶ。ヘイレージは気密性が悪いと好気的発酵が行われ、品質の低下を招く[32]。
脚注
関連項目
乳酸菌製剤
乳酸発酵
サイレージ
ヨーグルト
糠漬け
外部リンク
『』 - NPO法人・科学映像館Webサイトより
1965年、ヤクルト本社の企画の下で東京シネマが制作した短編映画《現在、上記サイト内に於いて無料公開中》。
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B3%E9%85%B8%E8%8F%8C |
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プランテン(プランテイン、プランティン、プランテーン等。English: Plantain、発音:/ˈplæntɪn/[1][2](mountainと同様)、US: /ˈplɑːntɪn/[1]、UK: /plænˈteɪn/[3][4])は、バショウ属の草本植物の一種の通称。バナナと異なり、一般には料理に用いられる果物である。多くの市場ではバナナと明確に区別されて扱われているが、交雑種には一般的でない多くの種類があり区分は不明瞭である。バナナとプランテンの差異は植物学上の正式な分類ではなく、果実をどのように消費するかによりいずれの語が用いられるかが決まり、用法としては、文化や分野によって変わるものである。また、品種群の一つとしてプランテン (AAB) が存在しているため、狭義においてはこちらを指す。日本語では<b data-parsoid='{"dsr":[1476,1490,3,3]}'>リョウリバショウ、クッキングバナナ</b>等と表記されることもある。
北米では導入当初「バナナ・プランテン」(banana plantain) とされ、アメリカ合衆国とヨーロッパでは「バナナ」がこの種のものも指すようになった。「バナナ」は時々他のプランテン品種も指すようになり、各地で使用法や性質を反映してcooking plantain、banana plantain、beer banana、bocadillo plantain等と呼び分けられた。
概要
プランテンはバナナよりも固く、糖分が少ない。また、生食されるバナナと異なり調理するなどの過程を経て食用とされ、それは緑に熟したもの、未熟なもの、デンプンの粉、熟しすぎて甘みが出たものであるかを問わない。生理的熱量は平均220カロリーに達し、カリウムと食物繊維の良質な供給源である[5]。
熱帯地方の主食であり、主食としては世界第10位に位置する。味や食感を含めてジャガイモと同様に扱われ、未熟なものは蒸す・茹でる・揚げるといった調理法が採られる。赤道地帯のアフリカやアンデス地方では、一般的な主食である。1年を通して結実するために食料として魅力的であり、どの季節でも信頼の置ける主食となった。これは、特に食料の保存、貯蔵、輸送が技術的に適応しがたい山地や森林の地域社会では、重要な要素である。アフリカでは7000万人以上の炭水化物の必要量である25%以上が、プランテンとバナナによって賄われている[6]。
分類
バショウ属は全てマレー諸島(インドネシア、フィリピン、マレーシア)を含む東南アジアと北オーストラリアを含むオセアニアの熱帯地方に由来する[7]。
カール・フォン・リンネはバナナをデザートに用いられるもの(バナナ:)と食事用のもの(プランテン:)の2種に分類した。その後両者は共に、(、Aゲノム)と(、Bゲノム)の交雑種であることが知られるようになり[8]、学名はとなった。大半のプランテンはAAB型の異質三倍体であるが、プランテンとして大まかにくくられるものにはサババナナ等ABB型のゲノムを持つもの、重要な経済作物である東アフリカ高地系バナナ (Mutika/Lujugira) を含むAAA型のものと、AAB型の一部として太平洋型(Popoulo、Maoli、Iholena等)に分類される品種群が存在する[9]。
果実の利用
加熱調理
中央アメリカ、カリブ海の諸国(トリニダード・トバゴ、ホンジュラス、ジャマイカ等)では単に炒めたり、茹でたり、スープの具として扱われる。
インドのケーララ州では、熟したプランテンを蒸したものがポピュラーな朝食である。
ガーナでは、茹でたプランテンをコントミレ(ココヤムの葉)のシチュー、キャベツのシチュー、ファンティ・ファンティと呼ばれる魚のシチュー等と共に食する。茹でたプランテンを芋類のペースト、胡椒、タマネギ、パーム油と混ぜることでエトという料理になり、アボカドと共に豚肉以外と食される。熟したプランテンを炒め、黒目豆(ササゲの一種)と共にパーム油で調理したものがポピュラーな朝食である。ガーナの軽食である(Kelewele)は、香辛料で味付けした熟したプランテンをパーム油や植物油で揚げたものである。
アメリカ合衆国南部(テキサス州、ルイジアナ州、フロリダ州)では、しばしば炙り焼きにされる。ナイジェリアでは、茹でる・炒める・焼くといった調理法が用いられ、焼いたプランテンはボリ(boli)と呼ばれ、パーム油やピーナッツ類と共に食される。
グアテマラでは茹でるか炒めるかされるが、特に茹でた物をすりつぶし、甘く味付けした黒豆を詰め、ひまわり油かコーン油で揚げたものが、レジェニートス・デ・プラタノ(Spanish: Rellenitos de Plátano)というお菓子として知られている。皮を剥いた熟したプランテンを砂糖とシナモンと共に煮込んだ飲料が、アトル・デ・プラタノ(Spanish: Atol de Plátano)である。
キューバ、ドミニカ共和国、プエルトリコでは、茹でてすりつぶした物を目玉焼きと共に朝食にする。
果物
プランテンはその成熟過程の全てにおいて調理の対象となり、熟れすぎたプランテンは生食も可能である。プランテンが熟するとより甘みが増し、皮はバナナと同様に緑から黄色を経て黒く変化する。緑の時期には硬くデンプンが豊富であり、ジャガイモのような風味がある。黄色になると柔らかくなり、デンプンは豊富であるが甘くなる。とても良く熟したものはさらに柔らかく、果肉は濃い黄色になり、より甘みが増す。
黄色から黒の時期のプランテンは、デザートとして用いることが出来る。蒸し焼きにされたプランテンは、幼児と老人にとっての栄養食と考えられている。離乳食として、熟したものに塩ひとつまみを加えてすりつぶしたものを使うことも出来る。
皮をむいた時に出る果汁は衣服や手にくっつき、これを取り除くのは容易ではない。
ケーララ州では、大型の黄色く変色したものをネンドラン(Nendran)と呼び、広く販売されている。熟したものは旅行者にとっては便利な軽食である。ケーララでは多様なバナナチップスが軽食として使われており、厚切りにしたものをギーでソテーにしたものも一般的である。
粉
プランテンは乾燥させてこれを碾き、粉にすることもある。主要な栄養成分は、水分10.62%、タンパク質3.55%、脂肪1.15%、炭水化物81.67%、灰分3.01%である。
インド南部では粉にしたフェンネルシード少々と混ぜて牛乳か水で茹で、1歳までの子供の食事としている。
飲料
プランテンから、バナナビールやバナナワインといった醸造酒を作ることができる。ペルー料理には、チャポ(Spanish: Chapo、Chapo de Plátano)と呼ばれる水と砂糖で煮詰めたプランテンのジュースがある。
バナナチップス
熟していない果実の皮をむき、1 - 2mmの厚さでスライスしたものを油で揚げたもの。中央アメリカから南アメリカ大陸にかけてトストーネ等の名で知られる料理である(エクアドルとペルー:チフレス(Chifles)、キューバ:mariquitasまたはChicharitas、プエルトリコ:platanutres)。キューバ、グアテマラ、ドミニカ共和国、ベネズエラ、プエルトリコではトストーネは特に薄く二度揚げしたものを指す。
コロンビア料理では、プラタニートス(Spanish: Platanitos)として知られ、スペイン風サワークリーム(Suero atollabueyまたはSuero Costeño)と合わせて軽食として食べられている。トスターダは熟していない緑のプランテンを切り、揚げて平らにし、二度揚げして塩をまぶしたものである。これは、他のラテンアメリカ諸国ではトストーネあるいはパタコーンとして知られている。
ハイチでは同様に輪切りにしたものがバナン・フリィ(bannan fris)と呼ばれる。縦方向に薄切りしたものはchicharritasまたはmariquitasと呼ばれる。共に、一般的な軽食あるいは前菜である。
ガイアナとガーナではプランテン・チップス(Plantain chips)と呼ぶ。エクアドルとペルーでは、チフレスである。
インドのケーララ州ではココナッツオイルで揚げ、塩を振ったものをupperiまたはkaya varuthathuと呼び、一般的な軽食となっている。菜食の祝宴であるサディヤにおいても重要な食材である。この緑のプランテンから作られるポテトチップスと同様の硬いチップスは、分類としてはプランテン・チップスとされている。ケーララ州とタミル・ナードゥ州ではバナナが栽培され、プランテン・チップスの製造が産業となっている。ケーララでは各種のプランテンからチップスを作っている。通常は薄切りをココナッツオイルで揚げ、塩か香辛料もしくはその双方で味付けする。Sharkaravarattiは、ジャッガリー(ココヤシの樹液から作る粗黒砂糖)でコーティングし、ショウガとクミンの粉末をまぶしたものである。タミル・ナードゥでは、緑のプランテンをとても薄くスライスしたものが一般的である。ケーララと異なり、油はココナッツオイルではなく、塩、チリパウダー、アサフェティダで味付けされている。インド中西部のマラーティー語ではプランテンをराजेळी केळ(rajeli kela、大型バナナ)と呼び、チップスがよく作られている。
ホンジュラスではタハダス(Spanish: Tajadas)と呼ばれる。より甘みの強い果物で作られると、バナナチップスとなる。また、縦方向に切ったものはプランテン・ストリップス(Plantain Strips)として知られる。
プランテン・チップスはアメリカ合衆国、インド、エクアドル、ガーナ、ガイアナ、キューバ、グアテマラ、コロンビア、ナイジェリア(ヨルバ族の単語でipekere)、ペルー、ホンジュラス、メキシコ、ジャマイカ、ハイチ、プエルトリコその他カリブ海諸国で一般的な食物である。
プラタノス・マドゥロス
プラタノス・マドゥロス(Spanish: Plátanos maduros)は、熟したプランテンの皮を剥き、厚さ3mmから2cmぐらいで切ったものを油を引いた鍋で炒めたものである(金茶色か好みの程度まで)。ドミニカ共和国、ハイチ、エルサルバドル、グアテマラ、エクアドル、ホンジュラス、パナマ、ペルー、コロンビア、キューバ、スリナム、ニカラグア、プエルトリコ(アマリージョス(amarillos))、ジャマイカ、トリニダード・トバゴ、英語圏のカリブ海諸国(単にプランテンと呼ぶ)、アルバ、ニカラグア、ベネズエラといった国々で好まれる料理である。コスタリカでは砂糖が振りかけられ、ナイジェリア西部では炒めてスライスした類似するものがドードーと呼ばれ、カメルーンではmissoleとして知られる。ベネズエラでは厚さ3mmから4mmで縦方向に切ったものを黄金色になるまで炒めたものがタハダスといい、国民食とされる(pabellón criollo)に組み込まれるほど広く普及している料理である。ガーナでもフフやバナナチップスと同様に好まれる料理である。
ドミニカ共和国、エクアドル、コロンビア、ホンジュラス(サワークリームが添えられる)、ベネズエラではオーブンで焼いたもの(シナモンが使用される場合もある)も同様に食されている。緑のプランテンには、塩のみが加えられる。
バナナキュー、トゥロン、アロス・ア・ラ・クバナ
フィリピンではバナナキュー(Tagalog: Bananaque)が一般的な軽食である。バナナキューはバーベキューとの混成語であるが、串に刺したバナナを焼くものではない。未熟なプランテンの新鮮なものの皮をむき、温かい油を用いて中火で炒めた後に串に刺して売るものである。作り方は二通りあり、一つは油の中にブラウン・シュガーを共に入れ、生のプランテンを直接キャラメリゼするもの。もう一つは、炒めた後に油受けに油を移した後、精白糖をたっぷりと振りかけるものである。ミンダナオ島では(Ginanggang)という名で知られる、炭火焼きの焼きバナナが存在する。
フィリピンのプランテンはサババナナという別種であり、ラテンアメリカの同類よりも10 - 13cm程と小ぶりで角張っている。熟したものはデザートや菓子を作り、しばしば単純に茹でたり、シロップ漬けにしたり、縦にスライスして炒めたりした上から砂糖を振りかける。広く食される料理として、砂糖抜きで炒めたものが、現地化したスペイン料理の(Spanish: Arroz a la Cubana、キューバ風ご飯)に用いられる。ピカディーヨ風に味付けした牛ミンチ、白米、目玉焼きに揚げプランテンが添えられる。同様に普及しているものとして、メリエンダ(Merienda、スペイン風軽食)として(Spanish: Turrón、Tagalog: Turon)がある。これは、熟したプランテンをスライスし、(フィリピン風春巻き)の皮(ライスペーパー)で巻いて揚げた後、ブラウン・シュガーでグレーズしたものである。
南アメリカと同種の大型プランテンがフィリピン南部で栽培され、フィリピン市場での勢力を拡大しつつある。
アッシュ・プランテン
スリランカではアッシュ・プランテン(アル・ケセル、Sinhala: අළු කෙසෙල්)と呼ばれる品種が料理に用いられる。しばしば、アーユルヴェーダにも使用される。花はケセル・ムーアと呼ばれ、こちらも料理に使用される。
タハダス
ホンジュラス、ベネズエラ、コロンビアの中央部では、熟したプランテンをスライスして炒めたものを(Spanish: Tajadas)と呼ぶ。ベネズエラの(pabellón criollo)のような伝統的な料理に含まれている。ホストあるいはウェイターがバランダス(Barandas、柵)という俗称をもつものを勧めることもある。これは、皿の横幅いっぱいの長さを持つもので、俗称は皿に対して柵のように見えることに由来する。蜂蜜や砂糖を加えたりバターを加えて炒める場合もあり、その結果、より甘く香りも良好になり金色にキャラメリゼされることになる。プエルトリコとドミニカ共和国では、同様のものがアマリージョス(amarillos)やフリトス・マドゥロス(fritos maduros)として知られている。
ホンジュラスでは、テイクアウト向けの食品として一般的で、フライドチキンと共にテイクアウトし、持ち帰って食べることが一般に行われている。(Spanish: Pulpería、雑貨店)と呼ばれる種類の店舗で販売されている。
パナマでもホンジュラスと同様に重要な位置を占め、炊いた米、肉類、豆類などと共にパナマ料理の主要な一部として日常の食生活で消費されている。
ニカラグアでは対照的にタハダスは未熟なプランテンを使用したものを指す。(Fritanga)の一部となるか、豚肉の炒め物との組み合わせか、もしくはプランテンの葉の上にキャベツのサラダかフレッシュチーズと共に提供される。
コロンビアのカリブ海沿岸では、タハダスは緑のプランテンの炒め物であり、炙り焼きの肉と共に食される。これは、ヨーロッパや北アメリカにおけるフライドポテトの位置に相当するものである。
トストーネ
トストーネ(Tostones、エクアドル、コスタリカ、コロンビア、パナマ、ベネズエラ、ペルー、ホンジュラスではパタコーン(patacones))は、二度揚げされたプランテンである。付け合わせ、前菜、軽食として用いられる。プランテンを4cm程の長さに切り、数秒間油で揚げる。鍋から取り出し、瓶の底やトストーネラ(Tostonera)と呼ばれる器具で高さが半分程度になるまで潰した後、再び揚げ、塩などで味付けをする。
キューバ、ドミニカ共和国、ハイチ、プエルトリコでは、鶏肉・豚肉・牛肉・エビなどを食べる前にクレオールソースにつけて食べられる。南アメリカのいくつかの国ではトストーネは、家庭で作る同様の料理と商店で購入するバナナチップスの双方を指す。ベネズエラ西部、コロンビアの多くの地域、ペルーのアマゾン地帯ではパタコーンが広く普及した料理である。プランテンを細長く切って揚げ、鶏肉・豚肉・牛肉・野菜・ケチャップ等とサンドイッチにする。未熟なものを使用したものがパタコーン・ヴェルデ(patacon verde)、熟したものを使用したものがパタコーン・アマリージョ(patacon amarillo)と呼ばれる。
フフ・デ・プラタノ
フフ・デ・プラタノ(Spanish: Fufu de platano)は、キューバの伝統的で一般的な昼食として親しまれている。フフは、西アフリカ(ガーナ、ナイジェリア、カメルーン等)から中央アフリカにかけての地域で数百年前から続く伝統料理でキャッサバ、ヤムイモ、プランテンとキャッサバを混ぜたものなどで作られる。キューバのフフも同様であるが、突き砕かれ、薄いペースト状になりパテのようなものをボール状にする。
プランテンを水から茹でてフォークで潰してフフを作る。できあがったフフをチキンスープストック、ソフリート(sofrito:ラード、にんにく、タマネギ、呼称、トマトソース、少量の酢とクミンから作るソース)と混ぜる。他のカリブ海諸国で食されるモフォンゴと似た食感である。
ヨーヨー
ベネズエラではヨーヨー(yo-yo)と呼ばれる伝統料理がある。タハダスの様に皮をむいたプランテンの輪切り2枚を揚げ、ホワイトチーズを挟んでサンドイッチ状にして爪楊枝で止めたものである。とき卵につけてヨーヨーが深い黄金色になりチーズが溶けるまで炒めるアレンジもある。付け合わせかアントレとして供される。
チフレス
(Spanish: Chifles)は、ペルー、コロンビア、エクアドルで緑のプランテンを1 - 2 mmの厚さにスライスしたものを炒めたもの。薄切りのプランテンチップを指す場合もある。
モフォンゴ
モフォンゴ(Spanish: Mofongo)はプエルトリコに起源をもつ料理であり、キューバのフフによく似たものである。炒めたプランテンを臼やフードプロセッサーでチチャロン(豚の皮を揚げたもの)かベーコン、オリーブオイル、スープストックと共にすり潰し、肉、魚、貝、野菜やハーブ、香辛料を加える。混ぜたら拳2つ分ほどの高さの円筒形に整形し、温めて食する。通常は、チキンスープと共に供される。
モフォンゴ・レジェーノ(Spanish: Mofongo relleno)はチキンスープではなくクレオール風のソース(煮込んだ牛肉、鶏肉または魚介)を中央に詰めるものである。
アルカプリア
(Spanish: Alcapurria)は、プエルトリコ風のフリッター。通常、グリーンバナナとヤウティア、プランテンをすり潰したものを使用する。ペースト状になったものをマサ(生地)とし、これにピカディロ(挽肉)を詰め、揚げたものである。
ピオノノ
(Spanish: Pionono)は、プエルトリコに起源をもつカリブ海諸国の料理である。甘みのあるプランテンをリング状とし味付けした肉を詰め、小麦粉と卵で作った衣で開口部を埋めて揚げたもの。
パステロン・デ・アマリージョス
パステロン・デ・アマリージョス(Spanish: Pastelon de amarillos)は、パステロン・デ・プラタノス・マドゥロス(Spanish: pastelon de platanos maduros)とも呼ばれる、ラザニアに似たドミニカ共和国の伝統的な料理である。ラザニアのパスタを甘いプランテンに変えたもので、プエルトリコではピニョン(Spanish: Piñón)として知られる。
マングー
はドミニカ共和国の伝統的な料理で、皮をむいて茹でた緑のプランテンを少量のお湯と共に潰してマッシュポテトのように固めたもの。タマネギのソテーを載せ、目玉焼き、炒めたチーズやサラミ、アボカド等と共に朝食で食べられる。
ドードー
プランテンは西アフリカでも一般的な食材である。カメルーン、ベナン、ガーナ、ナイジェリアでは熟したプランテンを揚げたものを、ドードー(dodo)と称する。プランテンを楕円形にカットし、金茶色になるまで揚げたものである。煮込むか添えられた豆または米と共に食べられている。
オシュン州のイキレでは独特のドードーが作られている。ドードー・イキレと呼ばれるこれは、熟しすぎたプランテンを刻んで小片にし、唐辛子を振りかけ煮立ったパーム油で揚げたバナナチップスである。黒くなるまで揚げた後、高さ10cm程の円錐形の木籠に詰められる。このようにして作られたドードー・イキレは、冷凍庫を用いることなく2ヶ月は保存できるものとなる。
ボリ
ナイジェリアのボリ(Boli)は、焼いたプランテン。一般に焼き魚、ピーナッツ、暖かいパーム油のソースと共に食べられている。ナイジェリア南部及び西部(クロスリバー州、デルタ州、ラゴス州、リバーズ州等)では、軽い昼食としてよく食べられており、特に労働者にとっては短時間で食べられる昼食となっている。
マトケ
(Matoke)もしくはマトーケ(Matooke) は、ウガンダ、タンザニア、ルワンダ、コンゴ民主共和国東部で食べられているプランテン。皮を剥き、葉でくるんだプランテンをスフリア(Swahili: Sufuria)と呼ばれる鍋に入れ、葉から取り外した葉柄の上に置く。スフリアの底に水を張って炭火で数時間蒸すと、調理前には白く少々堅かったマトケが柔らかく黄色に変わる。これを葉にくるんだまま潰し、野菜、ピーナッツ、または肉(ヤギまたは牛が一般的)のソースで食べる。葉は、しばしば新鮮なものに交換される。
パラン・ポリ
ケーララ州ではエシャッカ・アパム(Ethakka appam)、パラン・ボリ(Pazham boli、パランはバナナを意味する)またはパラン・ポリ(pazham pori)は、揚げたプランテンを指す。通常はプランテンに甘みのある米粉か小麦粉衣を付け、ココナッツオイルか植物油で揚げる。ケーララでは特に広まっている軽食である。インドネシアからシンガポール、マレーシアにかけて普及したデザートであるピサン・ゴレン(Indonesian: pisang goreng、揚げたバナナを意味する)とよく似た料理である。
アロコ
(French: Alloco)はコートジボワールの料理である。炒めたプランテンにオニオン・トマトソースをかけるもので、しばしば魚の炙り焼きがプランテンとソースの間に挟まれる[10]
果実以外の利用
花
プランテンは一つの仮茎が花を付けるのは一度だけである。全ての花は果軸にあり、分かれた果房の先に果指となる雌花が咲き、初期の少数の果房が結実する。
フィリピンではプランテン(特にサババナナ)の花序がプソ・ナン・サギン(Tagalog: Puso ng Saging、バナナの心臓)と呼ばれ食用にされる。ベトナムでは、房の先にある若い雄花をサラダにする。ラオス料理ではカオ・プン(米粉で作る細い麺)に生のものを具として使用する。インドのアーンドラ・プラデーシュ州とタミル・ナードゥ州では、ポリヤル(Tamil: பொறியல்、poriyal)もしくはperetalと呼ばれるドライカレーに使用される。ケーララ州のトーラン(Malayalam: തോരന്、Thoran)では果房の付け根(マラヤーラム語でkoompu)が使用され、滋養に富むと考えられている。カルナータカ州では花序が甘酸っぱいゴージュ(gojju、煮込み料理)に使用される。
葉
プランテンの葉は全長2mにも及ぶ。バナナの葉によく似ているが、より長く強靱で、料理しても無駄になる部分は少ない。ラテンアメリカでは炊事炉で軽く燻すことで風味と香りを付け、柔軟性を増し、貯蔵に適するように加工される。ベネズエラでは雑貨店や露店でかなり広く取り扱われており、(Spanish: Hallaca)を包むために用いられる。ニカラグアでは(Nacatamal)、(Vigorón)、(Baho)等が包まれる。エルサルバドル、グアテマラ、コスタリカ、コロンビア、パナマ、ホンジュラス、ペルーでは、タマレス(Tamales)の仕込みや調理に包むために使用され、各種の味付け肉を包み込むことで風味を閉じ込める役割を果たしている。プエルトリコの(Pasteles、パテレス、パテレ)は、新鮮な緑のプランテンで生地を作って豚肉を詰め、プランテンの葉で包んで蒸し焼きにしたものである。アフリカでも同様に料理に使用されており、乾燥させたプランテンの葉でトウモロコシの生地を包んで茹でたものが、ガーナ料理の(Kenkey、ケンキー)であり、粉胡椒、タマネギ、トマト、魚と共に食べられている。
インド南部では伝統的にプランテンの葉がターリー(Hindi: थाली)やサディヤの皿として用いられている。伝統的に葉に載せる様々な食物の配置には重要な意義がある。また、多くのヒンズー教の儀式においても宗教的な意味を有している。これは微細ではあるが不可欠の香りを料理に加えるものである。ケーララ州では(Ada、米粉に他の素材を加えて練り上げ、プランテンの葉で包んで蒸したもの)やカリミーン・ポリチャス(karimeen pollichathu、魚のプランテンの葉包み焼き)にプランテンの葉を使用する。アーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、タミル・ナードゥ州では祭りのような特別の機会に食器としてプランテンの葉が使用される。(idli、米粉の蒸しパン)や(Kozhukattai、米粉で作った団子、餡を詰める)を料理するための包みとして使用される。プラスチック製品に置き換えられてはいるが、食物や花の包装としても広く用いられている。フィリピンでも同様の料理が存在している。
根茎
根茎は繊維質とデンプン質からなり、その多くが食用に用いられる。インドのアーンドラ・プラデーシュ州では、ドライカレーに用いられる。
根茎は花が咲く時期までは柔らかい葉に覆われ、デンプン質が豊富である。
若芽
果実の収穫後、プランテンを切り表皮を剥くと円柱状の柔らかい若芽を採取できる。アーンドラ・プラデーシュ州とタミル・ナードゥ州では、これを小さく刻んでサラダやドライカレー(しばしばココナッツやグリーンチリで味付けされる)、カレー(ヨーグルト、赤唐辛子、ココナッツと共に)に用いられる。若芽は食物繊維が豊富で、便秘を避けるために大いに効果的であると考えられている。摂取には、ジュースを絞るかサラダを食することが一般的で、現地では胃潰瘍や腎結石などの各種の慢性病の治療に効果的であると考えられている。
刻んで蒸し、マサラを加えて炒めることで良質の一皿となる。アッサム語でposola(英語版)と呼ばれるこの料理は、アッサム料理の重要な一部である。ケーララ州とアーンドラ・プラデーシュ州では、結婚式などで出されるトーラン(スパイスを使用した炒め物)をプランテンの若芽で作る。
また、剥いた皮は農家に花やキンマの葉等をまとめる出荷用の縄として利用される。乾燥させた葉鞘や仮茎は裂かれて良質の糸となり、敷物、ガーランド(紐を組み合わせた頭飾り)、包み布などが作られる。伝統的に樹液が火傷や軽い擦り傷の応急手当に使用されている。
エチオピアでは数種の若芽を調理して食用とする。
栄養
プランテンは炭水化物の供給源である。有益なタンパク質を含みカロリーに対する比率はキャッサバやサゴヤシに勝るものの、ヤムイモ、トウモロコシ、米、ジャガイモ、小麦といった他の主食には劣る。グラム単位で比較すると、必須アミノ酸含有量は乏しく、キャッサバ以下となる。脂肪分も少なく、高いデンプン含有量をあわせ持つことから、老人病患者の食事となり得る。また、胃潰瘍、セリアック病、大腸炎の患者に対する代用食としても利用可能である[11]。
ベータカロチンはごく少量、ビタミンCはサツマイモ、キャッサバ、ジャガイモと同等であるが、土壌、成熟度、作柄、周辺環境によって左右される[11]。
他の主食との栄養の比較
以下はプランテンと他の主食の栄養比較である。但し、この値は生のものであり、直接摂取する量ではない。若芽や加工、調理によって消費可能なものとなるが、数値は異なるものとなる。
スイートコーン、黄色、生 長粒種、生 デュラムコムギ 皮付き、生 生 緑色、生 生、未加工 生 生 生
アレルギー
プランテンとバナナに対するアレルギーが報告されている。症状は摂取後1時間以内に現れる。症状は食物アレルギーの性格を持ち、軽度のものではかゆみや唇、舌、口蓋、喉の腫れが発生する。重いものでは激しいかゆみ、蕁麻疹、粘液を伴う腫れ、胃痛、花粉症、喉の狭窄、喘息があり、さらに血圧の急激な低下を伴う深刻なアナフィラキシーショックも起こりうる[13]。
アレルギーは二つの形で発生する
シラカンバ花粉アレルギー
ラテックスアレルギー:プランテンやバナナとゴムノキには同様のアレルゲンがあり、ラテックスアレルギーの原因となる。
プランテンを含むバナナアレルギーは主要な5種のアレルギーには含まれないが、子供と成人を通じて希なものではなく、花粉症、ラテックスアレルギー、植物性の食物に対するアレルギー等よりは高頻度である。
関連項目
バナナ
東アフリカ高地系バナナ
出典
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外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B3 |
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阪神タイガース(はんしんタイガース、English: Hanshin Tigers)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。本拠地は兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場。日本に現存する12球団の中で読売ジャイアンツに次いで2番目に歴史が長いプロ野球球団である。
運営法人は株式会社阪神タイガース。親会社は阪神電気鉄道(阪急阪神ホールディングス傘下)。
球団の歴史
戦前
1934年末に大日本東京野球倶楽部・球団名「東京巨人軍」が創立された。東京巨人軍の親会社である読売新聞社は、数球団で職業野球リーグを結成したいと考えていた。特に東京市・大阪市・名古屋市の三大都市圏で試合を行うことを目指していた。誘いを受けた阪神電気鉄道が、当時日本最大の球場だった甲子園球場を本拠地とした球団を設立することとなった。
1935年、10月22日の門前眞佐人との入団契約[1]を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった中等野球のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、12月10日に商号「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名「大阪タイガース」(おおさかタイガース、Osaka Tigers)が発足した。
1936年、1月9日に川崎コロムビアの若林忠志、2月28日に立教大学の景浦將など有力選手と契約し、4月19日の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。2月5日には日本職業野球連盟が結成された[注釈 1]。
1936年の公式戦は春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分け、東京・大阪・名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式で行われた。最初の春シーズンは、連盟結成披露試合として甲子園球場、鳴海球場、宝塚球場にて3大会が行われた[2]。東京巨人軍がアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しておらず、名古屋金鯱軍も途中内外遠征を行ったため、シーズン通しての優勝は決定しなかった。
夏、秋各シーズンでは各大会1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏シーズンの名古屋大会で1位になった[3]。また親会社同士が競争関係にある阪急軍に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋に24勝6敗1分の成績を残し、シーズン優勝を決める勝ち点が2.5と東京巨人軍と並んだ。しかし、同年12月に洲崎球場で行われた優勝決定戦で、1勝2敗と惜敗した[4]。
1937年秋、1938年春には御園生崇男に加えて37年春から西村幸生が加入したことにより安定した投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して、球団史上初かつ球団史上唯一の2シーズン連続の優勝を達成した。更にこの2年間は、春と秋のシーズン優勝球団の対決で年度優勝を決定していたが、2年とも対戦相手となった東京巨人軍を破り、年間優勝2連覇を達成した[5]。このように、大阪タイガースは第二次世界大戦前から戦中は常に東京巨人軍と優勝争いを繰り広げる強豪チームだった。
1939年、この年は2位になったにもかかわらず、日本プロ野球史上初めて全球団に勝ち越しながら優勝を逃すという初めてのケースとなった。
1940年9月25日、日米および日英関係の悪化に伴う日本野球連盟の方針により、敵性語とされた英語の使用自粛のため球団名を「阪神軍」(はんしんぐん)に改称した。日中戦争・太平洋戦争の激化に伴う徴集および召集拡大化により選手数が不足する苦しい状況となる。1944年、監督兼主戦投手の若林忠志(当時37歳)が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた[6]。戦争が激化する中、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。
戦後 - 1940年代
第二次大戦後、日本のプロ野球は1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰。1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。
1947年、若林が44年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞 (MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初、通算4度目の優勝を飾った。1番・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は、「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番・藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「(初代)ミスタータイガース」と称された。1948年、藤村が対金星戦(甲子園)で日本プロ野球初のサイクル安打を達成。
1949年には、チーム順位が6位にも関わらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし、最終的には反対派に回り、2リーグ分裂に際して読売ジャイアンツなどと共にセントラル・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。更に遊撃手・長谷川善三が西鉄クリッパースへ、門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。
セ・リーグ加盟
1950年-1958年
1950年、若林に代わり松木が監督に就任し、毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位で、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。
一方、チーム再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎などの若手選手が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にある中で、優勝から遠ざかることになった。
この間、松木は1954年限りで監督を退任。球団は後任にプロの経験がなかった岸一郎を起用してファンやマスコミを驚かせたが、岸は主力選手との対立や成績不振から1955年5月中旬に病気療養を名目に休養。助監督だった藤村富美男が監督代行となり、シーズン終了後には正式に兼任監督となる。しかし、1956年のシーズン終了後には、一部の選手が藤村の監督退任を求めて球団側と対立する藤村排斥事件と呼ばれる内紛が起き、解決までに2か月近くを要した。藤村が監督専任となった1957年は巨人と激しく首位を争ったが1.0ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後、球団は監督を藤村から田中義雄に交代させた。藤村は現役に復帰するが、1958年限りで引退し、背番号10は阪神初の永久欠番となった。
1952年、フランチャイズ制度の正式導入に伴い、保護地域が兵庫県となった。
1955年、2軍チーム(阪神ジャガーズ)結成。ウエスタン・リーグに加盟。
1959年
6月25日の対巨人11回戦(後楽園)は、プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は藤本勝巳の本塁打と、小山 - 村山実の継投で優位に進めるも、9回裏に長嶋茂雄のサヨナラ本塁打で、4-5で敗戦。
4年連続の2位に終わる。〈1959年は中日と同率の2位[注釈 2]〉。
1960年代
1960年
藤本勝巳が最多本塁打・最多得点の二冠を獲得したものの、チームは3位に終わる。
1961年
フランチャイズ制度の導入に伴い保護区域を兵庫県と定められた関係で、チーム名から「大阪」を外し、4月1日に商号を「株式会社阪神タイガース」、球団名も<b data-parsoid='{"dsr":[6756,6769,3,3]}'>阪神タイガース(はんしんタイガース、Hanshin Tigers)と変更した。しかし成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した監督・金田正泰がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇り、当時ヘッドコーチを務めていた藤本定義が監督に就任した。この年は、4位に終わる。
1962年
藤本の下、小山・村山の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分裂後では初、通算5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦した。村山先発で2連勝した後、3戦目にも村山を無理にリリーフ登板させたが打ち込まれ引き分けに終わったことが響き、その後4連敗。結果、2勝4敗1分で敗退した[7]。
1963年
巨人と中日の首位争いに加わることができず、3位に終わる。
1964年
エース小山と毎日大映オリオンズの4番・山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋めた。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という状況で、最後に9連勝し公式戦最終日の9月30日に逆転で6回目の優勝。しかし日本シリーズでは、リーグ優勝決定の翌日から開催という強行日程になり、南海ホークスに先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫するなどして、3勝4敗で敗れている。
1965年-1969年
1965年から1967年まで3年連続の3位。1968年と1969年は、いずれも巨人と優勝争いを繰り広げるも、結果はいずれも巨人が優勝で、1968年は巨人と5ゲーム差、1969年は巨人と6.5ゲーム差の2年連続2位。1966年、藤本は杉下茂投手コーチに監督を譲り総監督となるが、同年8月に復帰。1968年まで監督を務め、同年オフに勇退。後任には後藤次男が就任。
第1次村山監督時代
1970年-1972年
1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一のバッテリー、吉田義男に代わって遊撃手のレギュラーとなった藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手がそろったが、巨人が9年連続日本一のV9時代で、1970年・2位→1971年・5位→1972年・2位と優勝する事ができなかった。1971年のオールスターでは、江夏が9者連続奪三振を記録。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退した。
第2次金田監督時代
1973年
金田が正式な監督に就任して巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日ドラゴンズ戦で、2対4で敗戦、甲子園での最終戦でも0対9と敗れて、巨人が9年連続優勝となった。
1974年
田淵が本塁打を量産し、オールスター戦時点では首位に立った。しかし、夏の長期ロードで大きく負け越して後退、最終的にはBクラスの4位でシーズンを終える。シーズン後に金田は退任。
第1次吉田監督時代
1975年
吉田義男が監督に就任。田淵が王を抑えて本塁打王を獲得するも、江夏の不調などから3位に終わった。オフに江夏を江本孟紀・島野育夫らとのトレードで南海へ放出。
1976年
当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣が好調で、ハル・ブリーデンやマイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍で巨人と激しく優勝争いを演じるが、結局2位に終わる。
1977年
序盤は好調だったが、4月には6連勝のあと6連敗、6月には6連敗のあと8連勝と、大型連勝と大型連敗を何度も繰り返すなどチームの調子が安定せず、特に対中日戦で8勝18敗と負け越したことが大きく響いて4位に終わる。この年のオフに吉田は監督を辞任。
第2次後藤監督時代
1978年
後藤が2度目の監督に就任したが球団史上初の最下位に終わり、後藤は責任を取る形で1シーズン限りで解任[8]。オフに小津正次郎が球団社長に就任すると、低迷するチームの改革を図るために大規模な改革が必要と考え、田淵と古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴、竹田和史との交換トレードで放出。更に空白の一日事件で巨人がドラフト前日に江川卓とドラフト外で入団契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局は日本野球機構コミッショナー・金子鋭(当時)の指示、いわゆる強い要望により江川を巨人に移籍させ、交換トレードの形で巨人の小林繁を獲得した。
ブレイザー監督時代
1979年
ドン・ブレイザーが監督に就任。掛布が48本塁打を放ち、小林が古巣の対巨人戦8勝を含む22勝を挙げるが、8月下旬に広島東洋カープに離されて4位に終わる。
中西監督時代
1980年
新人の岡田彰布の起用法を巡る対立などでブレイザーがシーズン途中で監督を辞任。後任には中西太が就任したが、5位に終わる。
1981年
優勝した巨人と8ゲーム差の3位。江本孟紀が「ベンチがアホやから野球ができへん」と首脳陣批判をして退団したのがこの年。
安藤監督時代
1982年
安藤統男が監督に就任。優勝した中日と4.5ゲーム差、2位の巨人と3ゲーム差で2年連続の3位(但し勝利数では優勝した中日を上回った)。山本和行がストッパーに転向したり、6月に11連勝する話題もあったが、一方でこの年は島野育夫・柴田猛の両コーチが審判に暴行を加えて(横浜スタジアム審判集団暴行事件)無期限出場禁止処分を下されたり(翌年解除)、若菜嘉晴がスキャンダル問題で退団するなどトラブルも相次いだ。
1983年、1984年
ランディ・バースが加わった打線は抜群の破壊力を見せつけたものの、投手陣はいまいち伸び悩み、特に1984年は昨年限りで引退した小林繁の穴を、ルーキー池田親興の躍進、南海から移籍の山内新一の活躍でも埋めきれず2年続けての4位。1984年オフ、安藤は監督を辞任、吉田義男が二度目の監督就任。
第2次吉田監督時代
1985年
開幕投手を2年目の池田に任せるを得ないほどに、昨年から大きな弱点であった先発投手陣の手薄さという大きな弱点が改善されず、開幕当初はファンの間でも優勝への期待は薄かった。しかし主に1番・真弓、3番・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(「第二次ダイナマイト打線」)が先発投手陣の手薄さを補って余りある大活躍をし、4月17日の対巨人戦(甲子園球場)ではバース、掛布、岡田が巨人の先発の槙原寛己からバックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。この年は最終的に本塁打セリーグ記録を更新する219本塁打を記録し[注釈 3]。夏場まで首位を快走していた。しかし、8月12日に発生した日本航空123便墜落事故で球団社長の中埜肇が犠牲となり[注釈 4]、阪神タイガースのナインたちもこの事故機(JA8119)に直前のフライト(福岡発羽田行日本航空366便)で搭乗していたため[注釈 5][注釈 6]、選手たちは大きな衝撃を受けて一時は大型連敗を喫して首位陥落した。しかし、強力打線に加えて中西清起、福間納、山本和行らのリリーフ投手陣も1年を通して大車輪の活躍をみせ、10月16日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)に引き分けて、21年ぶりのリーグ優勝が決定。[9]バースが球団初の三冠王を獲得。西武との日本シリーズは4勝2敗で勝利、1リーグ時代から約38年ぶり、2リーグ制になってから初の日本一達成となる。
1986年
バースがシーズン打率.389、シーズン長打率.777、7試合連続本塁打、13試合連続打点の日本新記録をマーク、2年連続三冠王を獲得し、ルーキーの遠山昭治が8勝を挙げ台頭したが、掛布と池田親興の負傷による長期戦線離脱、更に岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島と巨人との優勝争いから脱落して3位に終わった。この年、川藤幸三が引退。
1987年
投手陣は新外国人のマット・キーオが孤軍奮闘したものの、先発ローテーションの池田、仲田幸司らが不振で大きく負け越し、山本和行、中西清起らリリーフも失敗が目立った。バースは無冠ながら好調を維持し打線を支えたが、掛布の負傷及び不振、岡田の不振などが響き最下位となり、吉田は監督を辞任、村山実が監督就任。勝率.331は球団史上最低勝率である。
第2次村山監督時代
1988年
「少年隊トリオ」と呼ばれた和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど世代交代を進めたが、バースが長男の病気問題で退団、代わって入団したルパート・ジョーンズの故障、掛布の引退が重なって2年連続最下位。
1989年
セシル・フィルダーが本塁打王争いをするが、シーズン途中に三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。5位に終わり、村山が監督を辞任、中村勝広が監督に就任。
中村監督時代
1990年
前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調で、特にパリッシュは8月まで本塁打王を狙える位置にいたが8月末に怪我を理由に突然の引退退団をしてしまった。投手陣は年間通して不振に終わり、主にロングリリーフを務めた3年目の野田浩司がチームトップの11勝(12敗)を挙げたが、エースのマット・キーオが中村勝広監督とそりが合わず怪我もあり不振。オフには自由契約になる。結局は、先発陣で規定投球回に到達したのは5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという結果に終わる。チームは2年ぶりの最下位。
1991年
開幕5連敗、6月に球団ワースト新記録の10連敗(それまで当時の12球団で唯一、2桁連敗がなかった)を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗で、2年連続の最下位となった。しかし、終盤戦で猪俣・葛西稔といった若手投手の台頭で、5連続先発投手完投勝利を収めた。
1992年
この年は、ヤクルト、巨人、広島との四つ巴の優勝争いとなる。衰えが見えていた主力の岡田や真弓らに代わり、それまでほとんど実績の無い亀山努、新庄剛志の両外野手に加え、和田、八木裕、山田勝彦、入団2年目のトーマス・オマリー、大洋から移籍してきたジム・パチョレック、新人王に輝いた久慈照嘉ら若手・中堅が活躍。特に亀山と新庄の台頭は「亀新フィーバー」と呼ばれた。また、甲子園のラッキーゾーンを撤去して外野が広くなった事が功を奏し、6月にノーヒットノーランを達成した湯舟敏郎の他、中込伸、野田や14勝を挙げ勝ち頭となった仲田の先発陣や、中継ぎのルーキー弓長起浩、抑えの田村勤らこちらも若い投手陣が軸となり、リーグトップ防御率2点台を記録するなど、一時は首位と成るも終盤に投手陣の駒不足に遭いヤクルトとの優勝争いで競り負け、巨人と同率ながら2位となった。オフ、野田浩司とオリックス・ブルーウェーブの松永浩美が交換トレード。
1993年
4位。オマリーが首位打者になる。松永浩美は3試合連続先頭打者本塁打の世界記録を樹立、しかし怪我での離脱が多く80試合の出場に終わり、オフにはFAで福岡ダイエーホークスへ移籍。前年最多安打・最多勝利打点だったパチョレックが途中退団。また岡田は自由契約を言い渡されオリックスに移籍した。一方、バルセロナオリンピック銀メダリスト郭李建夫がこの年に入団。オフには、新人として藪恵市、FAでオリックス石嶺和彦が加入し、MLB通算226本塁打のロブ・ディアーを年俸2億7000万円で獲得。
1994年
2年連続の4位(ヤクルトと同率タイ)。藪恵市がチームトップの9勝を挙げ新人王を獲得。新外国人のディアーは極度の不振で8月に退団。同年オフ、オマリーが長打力不足などを理由に解雇され、ヤクルトへ移籍。
1995年
最下位。球団ワースト記録となる84敗を喫した。チーム本塁打は88本で4年連続セ・リーグ最下位であった。中村が7月23日限りで休養(その後、辞任)。藤田平に監督を代行させる状況であった。同年オフ、真弓が引退し、代行の藤田がそのまま監督に正式就任。新庄が藤田との確執などが原因で引退を宣言するが、すぐ撤回。
藤田監督時代
1996年
2年連続最下位。5月終了時点で既に借金15に達していた。個人としては、桧山進次郎がチームトップの22本塁打を記録。2年目の川尻哲郎が13勝、3年目の藪が初の二桁勝利を挙げる。しかし、藪と湯舟が二年連続でリーグ最多敗戦ともなる。藤田は9月12日に監督解任を通告され(藤田が監督解任を受け入れたのは翌13日)[10]、チーフ兼バッテリーコーチの柴田猛が後任を務め、シーズンオフには、吉田義男が3度目の監督に就任。中西と木戸が引退。新人として今岡誠が入団。観客動員は200万人を割り、28年ぶりの赤字となった[10]。
第3次吉田監督時代
1997年
5位。打撃陣の主力として期待していた新外国人のマイク・グリーンウェルがわずか数試合で故障・「引退しなさいという神のお告げを聞いた」と突然退団・帰国。和田が開幕戦からの連続安打日本記録(24試合連続安打)を樹立。オフに久慈照嘉、関川浩一を大豊泰昭、矢野輝弘との交換トレードで中日に放出。新人として坪井智哉、井川慶が入団。
1998年
8月には球団ワーストとなる12連敗を記録するなどし、最下位。個人としては、5月26日に川尻が対中日戦で矢野とのバッテリーでノーヒットノーランを達成、シーズンも2年ぶりの二桁勝利を記録。藪も二桁勝利しプロ入りシーズン初の勝ち越しを達成。坪井智哉は2リーグ制分立後の新人最高打率(.327)を記録。坪井は中日の川上憲伸、巨人の高橋由伸、広島の小林幹英と新人王を争う。新人王は川上憲伸が獲得したが、川上以外の3人は新人王に値する活躍と評価され、3名とも新人特別賞を受賞している。この年では横浜が38年ぶりの優勝を果たしたため、阪神は1998年から2002年までセ・リーグの中で最も優勝から遠ざっているチームとなった。シーズン後に吉田は監督を辞任し、後任にこの年までヤクルトの監督を務めた野村克也が就任した。
野村監督時代
1999年
チームは6月には一時首位に立ったが、最終的に最下位。9月には2年連続で球団ワーストの12連敗を喫した。二軍がファーム日本選手権を制し初の日本一となった。個人としては、前年テスト入団で復帰した遠山奬志がカムバック賞を受賞。シーズン前には、新人として福原忍が、西武から佐々木誠が加入。シーズンオフには、オリックスから星野伸之がFAで入団。巨人から広澤克実、ヤクルトからカツノリを獲得。
2000年
球団初の3年連続の最下位。4月に9連勝して首位に立ち、5月には大阪近鉄バファローズからトレードで吉田剛、西川慎一を、6月には日本ハムから金銭トレードでマイカ・フランクリンをそれぞれ獲得。オフには新庄がFAでMLBのニューヨーク・メッツへ、大豊が契約交渉の決裂で中日に移籍。佐々木誠、フランクリンらが退団。チーム本塁打1位から3位(1位新庄28本・2位大豊24本・3位タラスコ19本)が全員退団する事態となった。湯舟敏郎・山崎一玄・北川博敏と近鉄酒井弘樹・面出哲志・平下晃司にて3対3トレードのトレードが行われた。新人として赤星憲広、沖原佳典、藤本敦士が加入。その他エドワード・ペレス、イバン・クルーズを獲得。
2001年
4年連続の最下位。長打力が大幅に弱体化した打線を、走力で補うため俊足の若手を重用。個人としては、井川慶が防御率リーグ2位、赤星憲広が盗塁王、新人王を獲得、前年ロッテからテスト入団した成本年秀がクローザーとして台頭しカムバック賞を受賞、4番に定着した桧山は初のシーズン打率3割を達成した。しかし、この年のチーム最多本塁打はクルーズの14本という状況であった。シーズン途中、交換トレードで西武から谷中真二、新外国人トム・エバンスを獲得。シーズン後に吉田剛、酒井弘樹が退団、塩谷和彦をトレードで放出。オリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムから片岡篤史、交換トレードでオリックスから斉藤秀光、デリック・ホワイトらの外国人選手が加入。12月5日、野村は成績不振に加えて夫人の野村沙知代の脱税容疑での逮捕の責任を取る形で監督辞任。後任はこの年まで中日の監督を務めた星野仙一が就任。
星野監督時代
2002年
12年ぶりに開幕戦を勝利で飾るなど開幕7連勝でスタートし、巨人と首位争いを繰り広げていたものの、レギュラー選手に相次いで故障離脱が続出。特に赤星・矢野の離脱が致命的でセンターラインを失ったチームは徐々に失速。最終的には4位に終わり、主力と控えの戦力差に課題を残した。しかしチームとしては5年ぶりに最下位を脱出した。シーズン中にエバンスと西武の橋本武広の交換トレードを行い、オフには広島からFAで金本知憲、日本ハムから下柳剛、野口寿浩らが同じくトレードで加入。さらにジェフ・ウィリアムス、元ニューヨーク・ヤンキースの伊良部秀輝が加入。
2003年
「第三次ダイナマイト打線」と称された強力打線を擁し開幕より快進撃を続け、優勝マジックを<b data-parsoid='{"dsr":[16811,16826,3,3]}'>セ・リーグ史上最速</b>となる7月8日に点灯させる。マジック点灯以降は対中日戦で同一カード7連敗や2度の5連敗などでやや失速するも9月15日に18年ぶりリーグ優勝。20勝を挙げた井川慶がMVPに。日本シリーズは福岡ダイエーホークスと対戦するが、甲子園でのゲームを全てものにする一方で、福岡でのゲームを全て落とし、3勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、星野が監督を退任し、シニアディレクター職に転ずる。また、星野に招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一、達川光男、西本聖は退団した。岡田彰布が後任の監督に就任[11]。
岡田監督時代
2004年
球団成績は4位。10月4日、井川慶がノーヒットノーランを達成。シーズン前に自由獲得枠で鳥谷敬を獲得、シーズン後は藪恵壹がFAでMLB・オークランド・アスレチックスへ移籍、伊良部、アリアスが戦力外、リガン、八木裕が引退。オフに広島からアンディ・シーツが移籍。
2005年
リーグ優勝。チーム防御率もリーグ1位となった。ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之のリリーフ投手3人を「勝利の方程式」として抜擢。驚異的な成績を残し、やがて3人の名前の頭文字をとって「JFK」と呼ばれた。この年から導入された交流戦を経て首位に立つと、首位を明け渡すことなく優勝。赤星が5年連続の盗塁王を獲得、下柳が規定投球回未到達ながら最多勝、今岡が球団新記録の147打点を挙げて打点王、金本がMVPを獲得した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは0勝4敗で敗退。
2006年
夏場の苦戦が響いて中日にマジック点灯を許すが、一時戦線離脱していた藤川球児が復帰第一戦の8月27日の巨人戦で好投して連敗を止めてからは怒濤の反撃に転じ、結果的には2位に終わるも優勝した中日を最後まで苦しめた。片岡篤史が引退。オフに井川がポスティングシステムでMLB・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、同じくMLBからエステバン・ジャンとライアン・ボーグルソンを獲得。
2007年
最終的に3位。4月から5月にかけて9連敗し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷。借金は最大で9となった。7月を15勝6敗、8月を12勝8敗1分で勝ち越し、9月中旬には首位に立つこともあった。中日とのクライマックスシリーズ第1ステージを0勝2敗で敗退。この年は、規定投球回数に到達した投手がいなかった。更に打率・得点も12球団中最下位だった。上園啓史が新人王を獲得。シーズン終了後にアンディ・シーツが現役引退。FAで広島から新井貴浩、トレードでオリックスから平野恵一、日本ハムから金村曉、MLBからルー・フォードが加入。
2008年
最終的に2位。4月12日に金本知憲が通算2000本安打を達成。5月6日の対巨人戦ではプロ野球史上2球団目の通算4500勝を達成。開幕から好調で、7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、同22日には優勝マジックを点灯させる。しかし、北京オリンピックに新井、藤川ら主力メンバーを派遣した後半戦から下降線をたどるようになり、8月29日を最後に巨人相手に全く勝てなくなる。9月21日の直接対決での3連敗で巨人に同率首位に並ばれ、10月8日の直接対決の最終戦で敗れ、巨人に単独首位を明け渡し、10月10日の横浜戦(横浜)での逆転負けにより巨人が優勝した。クライマックスシリーズ第1ステージでは京セラドーム大阪[注釈 7]で中日と対戦するが、1勝2敗で2年連続の第1ステージ敗退となった。シーズン後、岡田は優勝を逃した責任をとり監督を辞任。真弓明信が後任となった。野口寿浩がFAで横浜に移籍。
真弓監督時代
2009年
WBCに出場した岩田稔や正捕手の矢野、先発転向した久保田が故障で開幕に間に合わなかったことや、藤川の不調もあり前半戦は低迷。6月に途中加入したクレイグ・ブラゼルや、開幕前にロッテから移籍した久保康友、7月以降ローテーションに定着した能見らの活躍もあって、後半戦では8カード連続で勝ち越しを決めるなど巻き返すも、最終戦でヤクルトに連敗し4位に終わり、CS進出を初めて逃す。この年はベストナイン、ゴールデングラブ賞共に受賞者なし、タイトル獲得者もなしであった。3賞で受賞者がいないのは1995年以来14年ぶりであり、規定打席数以上で打率3割を超えた打者も2000年以来9年ぶりにいない状態であった。オフにシアトル・マリナーズから城島健司、コロラド・ロッキーズからマット・マートンなどを獲得。一方で、9年間チームに在籍した赤星が引退、藤本がFAでヤクルトに移籍、今岡、ウィリアムスらが退団した。また駐米スカウトのオマリーを解任し、シーツが後任となった。
2010年
1試合22得点(球団記録更新)挙げるなど、1リーグ時代を除けば球団最高のチーム打率.290、3割打者と90打点以上達成者が5人ずつ、という記録を残すなど爆発的な破壊力を誇る打線は「第四次ダイナマイト打線」と称された。9月に一時的にマジックが点灯したこともあった。しかし最終的には、ナゴヤドームでの中日戦での大幅負け越しなどが響き、首位中日と1ゲーム差の2位。初めて甲子園で行われたクライマックスシリーズの第1ステージの対巨人戦は、先制しながらも0勝2敗で敗退。個人記録としては、鳥谷の遊撃手としてのシーズン104打点は<b data-parsoid='{"dsr":[19801,19813,3,3]}'>プロ野球記録</b>となったが、開幕前に負傷した金本は、フルイニング出場が途切れた。オフにはFAで小林宏之と藤井彰人を獲得。一方で、矢野が引退、星野仙一シニアディレクターが、楽天の監督に就任するため退団。
2011年
3月11日に発生した東日本大震災の影響で、開幕日が当初の3月25日(神宮球場での対ヤクルト戦)から4月12日の甲子園での対広島戦に変更となり、阪神にとって1993年以来18年ぶりの甲子園開幕戦。これを7-4で制し、40年ぶりの甲子園での開幕戦勝利を挙げた。投手では、先発のランディ・メッセンジャーが、能見と並ぶ12勝を上げる。月間成績は6月から8月まで連続で勝ち越し、8月終了時には2位になる。しかし、9月に入ると首位ヤクルト相手に6連敗を喫するなどし、4位で終わった。シーズン後、真弓監督は辞任、後任の監督には和田豊コーチが就任した。この年、下柳、桜井、葛城らが退団。
和田監督時代
2012年[12]
阪神球団設立以来初めてキャプテン制度(野手と投手にそれぞれキャプテンを置く)を導入。野手に鳥谷敬、投手に藤川球児がそれぞれ就任した[13]。開幕9試合の4月10日に5勝2敗2分で首位となるなど、4月は勝ち越したものの5月以降はすべての月間で負け越した。交流戦に入り5連敗で勝率5割を切ると、以降は勝率5割以上になることがなく、前半戦を借金10の5位でターン[14]。後半戦直後に7連敗[15]、8月11日に対広島戦に敗れ8連敗でクライマックスシリーズ自力進出が消滅し[16]、9月25日の対ヤクルト戦(神宮)で敗れてBクラスが確定[17]、首位巨人と31.5ゲーム差、3位ヤクルトと11.5ゲーム差の5位に終わる[18]。411得点、58本塁打はリーグ最少、24無得点試合はリーグ新記録で、規定打席到達者の最高打率が鳥谷の.262[注釈 8]など貧打線に苦しんだシーズンとなった。巨人とは途中9連敗[19]、東京ドームでは開幕から2分けを挟んで8連敗[注釈 9]するなど1勝9敗2分に終わり[20]、シーズン通しては5勝15敗4分に終わる。2位の中日にもナゴヤドームで開幕から1分を挟んで8連敗するなど[21]、シーズン通して7勝15敗2分に終わり、上位2球団とドーム球場の試合で大きく負け越す結果となった。なお、この年は城島と金本が現役を引退した[22]。オフには、藤川が海外FA権を行使し、メジャーリーグのシカゴ・カブスへ移籍した[23]。元メジャーリーガーの西岡剛[24]と福留孝介[25]を獲得し、FAでオリックスの日高剛を獲得している[26]。ドラフトでは、大阪桐蔭高校の藤浪晋太郎を1位指名でオリックス、ヤクルト、ロッテとの4球団競合の末に獲得している[27]。
2013年
開幕から巨人と首位争いをしていたが、6月2日に阪神が今季初の首位に立つものの、6月13日に巨人が首位に返り咲くと以降は首位に立つことができないまま[28]、巨人と5ゲーム差で迎えた8月27日からの3連戦で3連敗したことも響き[29]、9月22日に阪神が対ヤクルト戦(甲子園)に6対7で敗れたことで巨人のリーグ優勝が決定した[30]。9月23日の同戦に2対0で勝利し、3年ぶりにクライマックスシリーズ進出が決定[31]し、10月3日の対DeNA戦(横浜)で7対3で勝利し、3年ぶりのシーズン勝ち越しと、2位を確定させた[32]。広島とのCSファーストステージ(甲子園)は2連敗で敗退した[33]。この年、桧山進次郎が引退した[34]。なお、同年10月より球団OBの掛布雅之が新設のゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任[35]。
2014年
前年に続き巨人と広島との優勝争いとなり、8月には一時は首位の巨人と0.5ゲーム差となるものの長期ロード明け以降に阪神が失速し、26日に巨人の優勝が決定するが[36]、翌27日の対ヤクルト戦(甲子園)に勝利し2年連続でクライマックスシリーズへの進出が決定[37]し、10月6日に2年連続2位が決定した[38]。マートンが首位打者、マウロ・ゴメスが打点王、メッセンジャーが最多勝と最多奪三振、呉昇桓が最多セーブを獲得するなど、NPB史上初めて1シーズン4人の外国人選手がタイトルを獲得した[39]。また福原忍の最優秀中継ぎ投手と合わせて、1シーズンで5人、6部門のタイトル獲得はそれぞれ球団タイ記録[40]。広島とのCSファーストステージ(甲子園)は第2戦で延長12回表に0対0とした時点で2位の阪神の勝ち上がりが決定し、1勝1分で球団初のファイナルステージに進出[41]。巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)は、ファイナルステージ史上初の4連勝で、初めてCSを勝ち抜いての日本シリーズ進出となった[42]。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズは甲子園での最初の2戦を1勝1敗で終えたのち、前回ホークスと対決した2003年の日本シリーズと同様に敵地福岡での全試合で敗れ、1勝4敗で敗退した[43]。2004年以降のポストシーズン制導入後、レギュラーシーズン2位以下で日本シリーズに進出して日本一になれなかったのは阪神が初であった[注釈 10]。
2015年
球団創設80周年を迎えた。5月28日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で球団通算5000勝目を達成し[44][45](巨人に次いで12球団中2番目の早さでの達成[46])。交流戦では、セ・リーグ球団で唯一10勝8敗で勝ち越し、総合順位では6位に終わるが、セ・リーグ球団ではトップの成績だった[47]。6月19日にネルソン・ペレスを獲得。6月15日の前半戦終了段階で3位[48]。7月3日の対横浜DeNAベイスターズ戦で、プロ野球史上初の通算1万試合を達成した[49][50]。後半戦は、9月27日の対広島戦の逆転負けで、リーグ優勝の可能性が完全消滅[51]。最終的にリーグ戦3位。クライマックスシリーズのファーストステージでシーズン2位の巨人と対戦し、結果1勝2敗で敗退となった。本塁打はリーグワースト2位、盗塁も48はダントツのワースト[52]。得点リーグ最下位、チーム打率4位、チーム防御率も5位と低迷した。シーズン終了後、関本賢太郎[53]・藤井彰人[54]、渡辺亮が現役を引退。呉昇桓がセントルイス・カージナルスに移籍。リーグ優勝を逃した責任を取り、和田監督が退任となった[55]。週刊ベースボールでは生え抜きの日本人選手が育たない分、外国人への依存度が高まったと指摘され、チーム総得点リーグワースト、チーム防御率も五位と低迷した[56]。投手コーチの中西清起・山口高志、打撃コーチの関川浩一・高橋光信、守備走塁コーチの山脇光治・風岡尚幸、2軍バッテリーコーチの吉田康夫、2軍打撃コーチの八木裕の8コーチが解任された[57]。後任の監督に球団OBの金本知憲が就任した[58]。球団本部付育成&打撃コーディネーターの掛布雅之が二軍監督に就任[59]。また、新外国人のマット・ヘイグ、マルコス・マテオ、ラファエル・ドリス、FAでは中日から髙橋聡文が加入し、四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスに所属していた藤川球児が復帰した。
金本監督時代
2015年
10月27日、一・二軍のコーチ陣を発表し、一軍作戦兼バッテリーコーチの矢野燿大・一軍打撃コーチの片岡篤史と濱中治・二軍打撃兼野手総合コーチの今岡誠・二軍内野守備走塁コーチの藤本敦士といった2003年・2005年のリーグ優勝当時に金本監督とともに優勝に貢献したメンバーが顔をそろえた[60]。
2016年
3月、読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題に絡み、巨人同様円陣の声だしで金銭の授受[61]や高校野球を対象としたくじ等[62]が発覚。
「超変革」をスローガンに、髙山俊、横田慎太郎、北條史也、江越大賀ら若手を積極的に起用したが、西岡らベテラン戦力と噛み合わず、なかなか結果が出ないことが多かった。交流戦を7勝11敗で負け越し、前半戦終了時点で5位。夏場には最下位に転落することもあったが、結果的に4位で4年ぶりのBクラスに終わる。シーズン終了後、福原忍、鶴岡一成が現役を引退。シーズンオフには、平野恵一がファーム守備走塁コーチから1軍打撃コーチに就任、濱中治が1軍打撃コーチからファーム打撃コーチに就任、筒井壮がファーム打撃コーチからファーム守備走塁コーチに就任、新たに藤井彰人がファーム育成コーチに就任することが発表された。FAでオリックスの糸井嘉男を獲得。2016年のセリーグ新人王に髙山俊が選出された。
2017年
開幕から鳥谷、福留、糸井、上本博紀、糸原健斗などが高い出塁率を残しチームの好調を支えた。シーズン終盤には、俊介が規定打席には届かずとも3割を超える高い打率を残した。5月6日、球団史上初となる9点差からの逆転勝利を達成し(阪神12-9広島、8回戦、阪神5勝3敗、甲子園)、首位に浮上するが[63]、5月28日に再び広島と順位が入れ替わり2位に転落し[64]、以後は7月27日から翌日までの1日間のみ3位に落ちたほかはシーズン終了まで2位にあった。最終的に首位広島と10ゲーム差でのシーズン2位となり、クライマックスシリーズでは1stステージにおいて3位DeNAに1勝2敗で敗退した。特にリリーフ投手陣の働きが光り、桑原謙太朗、マテオ、ドリス、高橋聡文、岩崎優の5名はそれぞれ60試合以上の登板数を記録、さらに52試合に登板した藤川を加えた6名が50を超える試合に登板した。1チームで5名が60試合以上登板するのと、6名が50試合以上登板するのはどちらもプロ野球史上初の出来事であった[65][66]。安藤優也、新井良太、狩野恵輔が引退。大和がDeNAへFA移籍。掛布二軍監督が退任。記録では鳥谷が通算2000安打を達成。
2018年
打線の主軸として期待されたウィリン・ロサリオ、大山悠輔、中谷将大らが開幕から揃って不振を極めた。糸原、梅野隆太郎らがレギュラーに定着するも打線の繋がりを欠いたことから得点力不足に陥りチームも低迷[67]。5月29日には同じく開幕から不振が続いていた鳥谷の連続試合出場が1939試合で途切れた[68]。投手陣では小野泰己、才木浩人、望月惇志らが一軍に定着した一方で藤浪、秋山拓巳、高橋聡文、マテオらが不調や故障により離脱する時期もあった。2位から最下位までが僅差の「団子状態」にあったセ・リーグの中で激しく順位変動を繰り返しながらも、中盤から雨天中止が相次いだ影響で過密日程を余儀なくされた終盤にかけて徐々にBクラスに定着し、最終盤での糸井、北條、原口文仁らの故障離脱なども響いて10月8日には2001年以来17年振りのシーズン最下位が決定した。この年は特に本拠地である甲子園球場で勝つことができず、球団史上ワーストとなるシーズン39敗を喫した[69]。シーズン最下位の責任を取る形で金本監督、片岡ヘッド兼打撃コーチが退任。また、記録では鳥谷が藤田平の保持する球団歴代最多安打記録(通算2064安打)を更新した[70]。二軍監督の矢野燿大が一軍監督に、新たに清水雅治がヘッドコーチに就任した他、一軍と二軍の首脳陣を大幅に入れ替えた。FAでオリックスの西勇輝を獲得、新外国人としてオネルキ・ガルシア、ピアース・ジョンソン、ジェフリー・マルテを獲得。
矢野監督時代
所属選手・監督・コーチ
永久欠番
永久欠番は以下の3つとなる。実績・功績はそれぞれの項目を参照のこと。
10:藤村富美男(1959年より)
11:村山実(1973年より)
23:吉田義男(1987年より)
歴代監督
1936年春 - 1936年夏 : 森茂雄
1936年秋 - 1939年 : 石本秀一
1940年 - 1941年 : 松木謙治郎(第1次)[※ 1]
1942年 - 1944年 : 若林忠志(第1次)
1946年 : 藤村富美男(第1次)[※ 2]
1947年 - 1949年 : 若林忠志(第2次)
1950年 - 1954年 : 松木謙治郎(第2次)
1955年 : 岸一郎[※ 3]
1956年 - 1957年 : 藤村富美男(第2次)
1958年 - 1959年 : 田中義雄
1960年 - 1961年 : 金田正泰(第1次)[※ 4][※ 5]
1962年 - 1965年 : 藤本定義(第1次)
1966年 : 杉下茂[※ 6]
1967年 - 1968年 : 藤本定義(第2次)
1969年 : 後藤次男(第1次)
1970年 - 1972年 : 村山実(第1次)[※ 7]
1973年 - 1974年 : 金田正泰(第2次)
1975年 - 1977年 : 吉田義男(第1次)
1978年 : 後藤次男(第2次)
1979年 - 1980年 : ドン・ブレイザー[※ 8]
1981年 : 中西太
1982年 - 1984年 : 安藤統男[※ 9]
1985年 - 1987年 : 吉田義男(第2次)
1988年 - 1989年 : 村山実(第2次)
1990年 - 1995年 : 中村勝広[※ 10]
1996年 : 藤田平[※ 11]
1997年 - 1998年 : 吉田義男(第3次)
1999年 - 2001年 : 野村克也
2002年 - 2003年 : 星野仙一
2004年 - 2008年 : 岡田彰布
2009年 - 2011年 : 真弓明信
2012年 - 2015年 : 和田豊
2016年 - 2018年 :金本知憲
2019年 - : 矢野燿大
※太字</b>は優勝達成監督
チーム成績・記録
リーグ優勝:9回
1リーグ時代:4回(1937年秋、1938年春、1944年、1947年)
2リーグ制後:5回(1962年、1964年、1985年、2003年、2005年)
日本シリーズ優勝:1回(1985年)
クライマックスシリーズ優勝:1回(2014年)
年間王者:2回(1937年 - 1938年)
Aクラス:51回
1リーグ時代:12回(1936年秋 - 1940年、1942年 - 1948年)
2リーグ制後:39回(1950年 - 1960年、1962年 - 1970年、1972年 - 1973年、1975年 - 1976年、1981年 - 1982年、1985年 - 1986年、1992年、2003年、2005年 - 2008年、2010年、2013年 - 2015年、2017年)
Bクラス:32回
1リーグ時代:2回(1941年、1949年)
2リーグ制後:30回(1961年、1971年、1974年、1977年 - 1980年、1983年 - 1984年、1987年 - 1991年、1993年 - 2002年、2004年、2009年、2011年 - 2012年、2016年、2018年)
連続Aクラス入り最長記録:11年(1950年 - 1960年)
連続Bクラス最長記録:10年(1993年 - 2002年)
最多勝利:87勝(2003年、2005年)
最多敗戦:84敗(1995年)
最多引分:13分(1976年)
最高勝率:.829(1938年春)
最低勝率:.331(1987年)
最多連勝:14連勝(1937年秋、1946年)
最多連敗:12連敗(1998年、1999年)
最小ゲーム差:0.5ゲーム(1937年春、1973年)
最大ゲーム差:37.5ゲーム(1987年)
その他の記録
シーズン最多安打 1458安打 (2010年) - セ・リーグ記録
シーズン最多本塁打 219本 (1985年)
シーズン最少本塁打 1本 (1944年)
シーズン最多奪三振 1208奪三振 (2005年) - セ・リーグ記録
シーズン最多完封負け 24回 (1963年、2012年)
シーズン最高打率 .345 (1936年夏)
シーズン最低打率 .197 (1941年)
シーズン最高防御率 1.53 (1944年)
シーズン最低防御率 4.79 (1978年)
シーズン連続2ケタ安打 10試合 (2008年)
シーズン連続イニング安打 27 (2014年)
シーズン連続完封試合 4試合 (2013年)
シーズン連続イニング無失点 52 (1942年) - 日本プロ野球記録[注釈 11]
シーズン連続試合無本塁打 15試合 (2012年)
ゲーム最多得点 22得点 (2010年8月25日対広島東洋カープ)
ノーヒットノーラン達成投手
阪神ではこれまでに球団史上9人の投手がノーヒットノーランを達成している。
特に江夏のケースは、延長11回裏に自らサヨナラ本塁打を放ってノーヒットノーランを達成するという名勝負となり、延長戦でのノーヒットノーラン達成はこれが日本プロ野球で史上唯一の記録である。なお、完全試合達成者は球団創立から現在に至るまで一切いないが、参考記録として準完全試合は2人が記録している。ひとりは田宮謙次郎が1950年3月16日に国鉄スワローズ戦で9回2死までを完全に抑え、もうひとりは小山正明が1956年6月6日に大洋ホエールズ戦で先頭打者に安打を許しその後の打者を完全に抑えた試合であった。
チームの特徴
伝統
プロ野球最初の公式リーグ戦の1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加し、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体が変わらずに存続するプロ野球チームは世界的にも極めて少ない。また、ユニフォームや球団シンボル・ロゴなどのデザインについても球団創設時より大幅な変更が為されないまま現在に受け継がれている(デザインの項を参照)。
幾つかの特有の伝統行事も持つ。代表的なものとして、タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に廣田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である[71]。また、現在では開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝することも伝統行事となっている。
その一方で、2005年創設の東北楽天ゴールデンイーグルスと並び、未だに日本一となった回数は最少タイ(1回)の球団である。また、1985年の日本一においては日本シリーズMVPを獲得したのはランディ・バースであり、セ・パ12球団では唯一日本人選手の日本シリーズMVP獲得者がいない球団でもある。
球団名称
ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。大阪と同様に工業都市であったアメリカ合衆国のデトロイトを本拠地とするデトロイト・タイガースを参考にして松原がこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。その後「タイガース」の名は戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中で英語が使えず「阪神軍」を称していた時期を除き、一貫して使われてきた。
このニックネームについては、英語表記「Tigers」の発音は「タイガーズ」のほうが近いが、正式名称は日本語の固有名詞なので、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名は、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的だった[注釈 12]。
球団名「阪神</b>タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である甲子園球場が兵庫県の定める地域区分において、同県南東部の神戸市と大阪府に挟まれた「阪神間」に位置していることとの2つの意味を併せ持つ。設立当初は、球団事務所を大阪市に置き、「大阪タイガース」という球団名であったが、球団事務所を甲子園球場内に移転したことに前後して1961年より正式名称となった。
ただし、改称以前から略称として「阪神」が、通称として「阪神タイガース」が使われていた。
現在の略称について英字は「T」、漢字で略す場合は頭文字の「阪」でなく「神」になる。これは阪急ブレーブスとの重複を避けるため(阪急は「急」)であったが、阪急が球団を手放した後も(保護地域である兵庫県の県庁所在地に由来する)「神」を継続している。
関西代表球団への過程
阪神タイガースは、現在セントラル・リーグでは唯一近畿地方に本拠地をおく球団であり、関西圏において圧倒的な人気を誇る。しかし、その人気は始めから不動のものという訳ではなかった。
群雄割拠の関西球団
かつての関西においては、南海ホークスもタイガースと同様に多くの人気を集める球団であった。特に1950年代前半頃、甲子園球場へのナイター設備の設置(1956年完了)が大阪スタヂアムより遅れたことで観客動員を減少させた阪神は、南海の観客動員を上回ることができず、ナイター設置後も1959年からは3年続けて南海を下回っていた[72]。また、テレビ中継でも、南海ホークスは毎日放送、近鉄バファローズは朝日放送、阪急ブレーブスは関西テレビ放送などと、球団 - 放送局間で優先的な放送契約を結んでいたこともあり、阪神以外の関西球団への注目度が比較的高い状況であった。
関西球団の中継数減少
しかし、1960年代中盤に差し掛かると読売ジャイアンツが黄金期を迎え、在京キー局との関係からも、他地方と同じく関西でも次第に巨人の試合の中継数が優位となっていった。特に、関西テレビは巨人中心の方針を強め、阪急が好調でも「阪急のカードを押し出すことは容易な業ではなかった」ことから[73][74]、以前は年間約30試合ほどあった阪急戦の中継が1966年には8試合にまで減少。毎日放送でも、1960年代こそ南海戦の中継放送が事業として欠かせない存在だったが、1970年代には阪神・巨人戦の中継を確保することに必死となっていた[注釈 13]。
阪神戦の「露出増加」から「一極集中化」
このように、関西でも巨人戦が中心的に中継されるようになったことで、同一リーグに所属するチームとして巨人と年間を通して対戦するタイガースのマスコミへの露出が他の関西球団と比して増加。さらに、時を同じくして神戸市を拠点とする放送局サンテレビが開局(1969年)、その直後から編成の目玉としてタイガース戦の完全中継枠『サンテレビボックス席』の放送を開始した。同局の視聴可能エリアは大阪府下の相当な地域を含む阪神地区全域を含んでおり、またその後関西圏の独立UHF各局へのネットも開始されたことで、関西全域において身近にタイガース戦をテレビ観戦できる環境が整った[75]。
それに伴うタイガース人気向上に従って、元来阪神・巨人戦のみを放送していた上記の大手在阪テレビ局も積極的にタイガースを中心とした中継放送を増加させるようになり、関西でのプロ野球放送はタイガース戦への一極集中化が進んだのである。
このような背景から、現在でもスポーツ新聞各紙の関西版では専らタイガース関連の記事が1面を飾り、1面以外のページに至るまで大きく扱われることも多い[注釈 14]。
1985年10月16日に関西テレビが中継した、阪神が21年ぶりの優勝を決めた対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)は関西地区で視聴率56.7%を記録(ビデオリサーチ調べ)。これは関西地区におけるプロ野球中継の最高視聴率記録である。
六甲颪
球団歌は「阪神タイガースの歌」である。歌詞の冒頭をとって「六甲颪(ろっこうおろし)」とも呼ばれる。球団結成時に「大阪タイガースの歌」として作られたものが、歌詞中の「大阪」を「阪神」に変更したものである。
試合開催地・活動拠点
本拠地
1936年 - 現在:阪神甲子園球場(1964年2月までの名称は甲子園球場)
球団設立当初から、親会社が所有する阪神甲子園球場を使用しており、現在の日本プロ野球で本拠地となっている球場の中では最古である(ただし、アメリカ軍に接収されていた1946年のみ使えなかった)。1948年のフランチャイズ制仮導入以来一貫して専用球場としており、専用球場を変更していないのは、2005年から新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスを除けば阪神だけである。なお、フランチャイズ制仮導入まではホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、阪神甲子園球場以外に後楽園球場・阪急西宮スタジアムなどの中から日程上都合のいい球場を選んで開催していた。
阪神甲子園球場は元々高校野球開催のため、またそれ以外にも多目的にスポーツ行事で使用されることを前提に造られた球場であるため、選抜高等学校野球大会と全国高等学校野球選手権大会の日程が最優先される[注釈 15]。特に後者の大会の開催期間は2週間以上にわたるため、この時期の1ヶ月程度[注釈 16]にも及ぶ長期遠征を「死のロード」と呼ぶようになった。ただし、昔と比べて交通機関の発達で移動時間が短くなったこと[注釈 17]や宿泊施設のグレードが上がったこと[注釈 18]、特に1990年代以降は長期遠征中でもほっともっとフィールド神戸や空調完備の京セラドーム大阪といった甲子園の近場の球場でも試合が組まれているため、それも死語になりつつある[注釈 19]。また、プロ野球の開幕を本拠地で迎える基準はセ・リーグはAクラスを確保したその年の2年後、パ・リーグはAクラスを確保したその年の3年後[注釈 20]となっているため、Aクラスを確保しても本拠地開幕権を放棄するケースもある。
二軍の本拠地は、1950年代は神戸市民運動場野球場を、1979年から1993年までは阪神浜田球場を使っていたが、現在は阪神鳴尾浜球場を使っている。甲子園と鳴尾浜は同じ西宮市内にあり、12球団の中でも一軍の本拠地と二軍の本拠地に於ける間の距離は埼玉西武ライオンズに次いで近い。
実数発表となった2005年以降、2010年までは2008年を除き毎年公式戦での年間観客動員数は300万人以上を動員し続けてきたが、2011年以降は300万人に達しておらず、概ね260万 - 280万人台で推移している[76]。ただ、2017年は最終的に2位となるなど好調な成績であったため、10月10日の公式戦最終戦で3万人の観客を集めて7年ぶりに年間観客動員数が300万人を超えた。
地方開催
主に近畿地方を中心に、西日本で開催されることが特徴である。
年間試合数が144試合制であった2014年までのうち、2013年までは主催試合72試合のうち本拠地の阪神甲子園球場で60試合・大阪ドーム(京セラドーム大阪)を含む地方開催で12試合が組まれていた。なお、阪神としては大阪ドームは地方球場の扱いとなっている。この地方開催の内訳については、京セラドーム大阪での3カード・8 - 9試合と、倉敷マスカットスタジアム(それ以前は岡山県野球場)での1試合の計9 - 10試合は毎年必ず開催されており、他にほっともっとフィールド神戸を含むそれ以外の地方球場で毎年2 - 3試合が開催されていた。ただ、2014年は京セラドーム大阪での3カード・9試合と倉敷マスカットスタジアム1試合の計10試合のみでその他の地方球場での開催はなかった。年間試合数が143試合制となった2015年以降も2014年と同様、主催71ないし72試合[注釈 21]のうち地方開催は9ないし10試合のみで、京セラドーム大阪と倉敷マスカットスタジアム以外は組まれていない。
かつては京都市西京極総合運動公園野球場でも毎年1 - 6試合を行っていたが、2005年の対西武ライオンズ戦を最後に主催試合はない[注釈 22]。それ以外では、1999年には香川県営野球場で、2005・2006・2012年にはそれぞれ2試合ずつを松山坊っちゃんスタジアムで行った。2013年は沖縄セルラースタジアム那覇にて初めて公式戦2試合を開催した。この他、2014年にはアメリカで公式戦を開催する計画があったものの、その後断念した。
京セラドームについては1997年の開場以来使用しているが、2005 - 2007年の3年間は兵庫県のオリックスが大阪府の近鉄を吸収合併したことによる暫定処置で兵庫県・大阪府のダブルフランチャイズとなったため、京セラドーム大阪を準本拠地として使うことが認められていた。現在は甲子園での春・夏の高校野球の開催期間中における、開幕カードあるいはその直後の1カード・3試合と夏の長期ロードの間の2カード・5 - 6試合の計8 - 9試合の開催が基本であるが、梅雨時などにも行われたことがあった[注釈 23]。
また、2007年より3期に渡って行われた10月以降の甲子園の改修工事の影響から、2008年には雨天中止分の1試合がスカイマークスタジアムで、クライマックスシリーズ第1ステージが京セラドーム大阪で開催されている。2011年は当初予定されていた試合(京セラの中日3連戦と甲子園のヤクルト3連戦)が東日本大震災による日程延期によって、その日程の補填として10月にヤクルト3連戦が京セラドームで行われた。
夏季の長期遠征中は、基本的にビジターで概ね2 - 3カードこなしてから京セラドームで3連戦を組むというローテーションを繰り返しとなっているが、年度によっては旧盆(8月15日前後)の1週間に京セラドームで2カード・5 - 6試合連続開催とする場合もある。
ほっともっとフィールド神戸では後述する夏の長期ロードの時に開催していた時期もあったが、当時オリックスがフランチャイズとしていた関係もあって1994年を最後に暫く途絶えた。その後は地元自治体からの要望もあり、オープン戦ながら2007年に開催が復活し、以降公式戦では2008年には雨天中止による代替試合1試合(甲子園が改修工事で使用不可のため)を、2010年には2試合を、2012年には1試合をそれぞれ開催した[注釈 24]。ただ、2013年以降は開催がなく、同球場からは再び撤退している。
夏の高校野球の開催期間中で甲子園が使えない期間の主催球場は1997年より京セラドームを使っているが、それ以前は京都市西京極総合運動公園野球場(1965年 - 1979年)、岡山県野球場(1973年 - 1979年)、平和台野球場(1980年 - 1988年)、グリーンスタジアム神戸(1988年 - 1994年)、阪急西宮スタジアム(1991年 - 1996年)を使っていた。特に、1980年から1987年までは、甲子園が高校野球で使用できない期間、関西地方ではほかの球団(阪急=西宮球場、南海=大阪スタヂアム、近鉄=日本生命球場・近鉄藤井寺球場)の本拠地はその球団の試合に日程が抑えられており、使用許可が下りなかったのと、それ以外の球場もナイター設備や施設スペックなどの問題で開催することが事実上難しかったため、この間2試合を平和台球場で主催しながら、ほぼ3週間関西を離れざるを得なくなる「死のロード」という状態になっていた。
また過去には、甲子園にナイター設備が導入されるまでの1953年 - 1955年には大阪スタヂアムでナイターを行うことがあった。その他、岩手県営野球場、郡山市営開成山野球場、県営宮城球場、藤崎台県営野球場(いずれも1975年)でも試合を行っている。
主催ゲームの開幕戦
前述のように甲子園での選抜高等学校野球大会の開催のため、阪神は前々年(2001年以前は前年)にAクラスに入って本拠地開幕権を得ても甲子園で開幕戦を迎えられないケースが多い。選抜高校野球大会は毎年3月下旬から4月上旬まで甲子園で行われるが、セ・リーグの開幕がこの時期になると当然甲子園でのプロ野球開催が不可能になってしまう。これにより阪神は21世紀になってからは通常の公式戦日程で本拠地での公式戦開幕を12球団では唯一行っていない[注釈 25]。
選抜開幕前に開幕戦を甲子園で行われた年は1956年、1964年の2回であり、選抜終了後に開幕戦を甲子園で行われた年は1952年、1959年、1961年、1963年、1969年、1973年、1983年、1987年、1993年、2011年の10回である。このうち、2011年は当初日程であれば明治神宮野球場での対ヤクルト戦だったが、東日本大震災の影響で開幕日が4月12日に順延されたことから、甲子園での対広島戦が開幕戦となった[77][注釈 26]。
かつては選抜開幕前もしくは終了後に甲子園で開幕戦が設定されたというケースもあったが、2007年のクライマックスシリーズ導入後は日程面から選抜終了後に開幕が設定されておらず、今後も終了後に設定される可能性は少ない。なお、甲子園で開催できない場合の対処として以下の4つのパターンがあった(フランチャイズ制が確立し、現行の6球団制となった1953年以降。大阪ドームでの開幕は除く)。
前年ないし前々年(2003年以降)Bクラス球団の本拠地で開幕を迎える
1953年:後楽園球場(国鉄スワローズの本拠地)
1955年・1958年:川崎球場(大洋ホエールズの本拠地)
1960年:広島市民球場(広島東洋カープの本拠地)
1977年:明治神宮野球場(ヤクルトスワローズの本拠地)
1982年・1986年:横浜スタジアム(横浜大洋ホエールズの本拠地)
2017年:MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島東洋カープの本拠地)
前年ないし前々年(2003年以降)Aクラス球団の本拠地で開幕を迎える
1957年:中日球場(中日ドラゴンズの本拠地)
1976年:広島市民球場(広島東洋カープの本拠地)
地方球場での主催ゲームで開幕を迎える
1968年・1974年:岡山県営球場(1968年は対広島東洋カープ戦、1974年は対大洋ホエールズ戦)
地方球場でのビジターゲームで開幕を迎える
1954年:中津市営球場(大洋松竹ロビンス主催で、当時の大洋松竹ロビンスは大阪スタヂアムが本拠地であった)
大阪ドームの完成後は、大阪ドームを本拠地とするパシフィック・リーグ球団が当年の本拠地開幕権を持っていなければ、地元開幕を大阪ドームで迎えられるようになった。大阪ドームでの主催ゲームで開幕を迎えたのは、以下の年次が該当する。
2005年・2009年・2019年:対ヤクルトスワローズ戦(2005年)/東京ヤクルトスワローズ戦(2009年・2019年)
2007年:対広島東洋カープ戦
2008年・2010年・2012年:対横浜ベイスターズ戦(2008年・2010年)/横浜DeNAベイスターズ戦(2012年)
2015年・2016年:対中日ドラゴンズ戦
なお、2010年と2017年は大阪ドームを本拠地とするオリックスも当年の開幕権を持っていたため、セ・パ両リーグで折衝した結果、2010年はパ・リーグが変則日程とし、2017年は阪神が開幕権を返上する[注釈 27]ことで決着した。
プロ野球の試合数については2000年以後140試合以上と増えたこと、また選抜大会も1997年に雨天中止が頻発したことなどから、プロ野球の日程に支障をきたすこともあるため、現在は何れも開幕時期を大幅に繰り上げている(選抜が概ね春分の日(3月20日か3月21日)前後、プロ野球は3月最終金曜日に制定されていることが多い。選抜は2003年以後現在の時期で開催)。そのため、現在では阪神が開幕戦主催権を獲得した場合は大阪ドームでの開催が常となっている。また2年前のシーズン(2003年以後)Bクラスにより開幕戦主催権を逃した場合であっても、大阪ドーム完成後は開幕2カード目、ないしは3カード目のいわゆる「ホーム開幕シリーズ」を同球場に割り当てることが多い(大阪ドーム完成前までは、選抜の大会日程が終了するまではビジターでの遠征が続いていた)。
主なキャンプ地
現在使用しているキャンプ地
一軍春季キャンプ:沖縄県宜野座村営野球場
秋季キャンプ、二軍春季キャンプ:高知県安芸市営球場
過去に使用されていたキャンプ地
徳島県県営蔵本球場
デザイン
タイガースは歴史的に一貫したスタイルを持っている球団であり、球団旗からロゴ、袖章の虎マーク、縦縞ユニフォームの基本デザインまで、創設当初から基本スタイルを守り続けている。このような一貫性を保持していることは日本球界では珍しく、日本球界ではタイガースのみである[78]。これらのデザインを手掛けたのは当時阪神電気鉄道の宣伝課デザイン室に勤務していたデザイナー・早川源一(1906年 - 1976年)[79]。阪神球団には、本人の手によると思われるデザインの原画が数点残っている[78]。
シンボルマーク
球団創立当時から、球団旗・ユニフォーム・ペットマークなどに、右を向いた虎の似顔絵(虎マーク)が使われている。
1980年代前半頃より、虎マークが入った赤円を黒の輪で囲んだデザイン(黒の輪の上部に「HANSHIN」、下部に「Tigers」のロゴがそれぞれ白文字で入っていた)のペットマーク(丸虎マーク)が採用され、出版物や映像作品などで使われている[80]。
虎マークはユニフォームにも採用されており、球団創設当時からユニフォームの左袖にあしらわれている(詳細後述)。なお、ユニフォームにあしらわれている虎マークは顔が左向きとなっている。
1981年には、阪神百貨店本店6階のタイガースショップ天井に丸虎マークの照明が取り付けられている(2004年2月に8階へ移転するとともに、照明もそのまま移設された)[81]。
球団旗
球団旗は球団創立当時から、黒と黄色の横じま(上から、黒四本・黄色3本交互に構成)をバックに、左上にはペットマークにも使用されている赤円の中に右向きの虎マークが入ったデザインを基本としている。
初期の赤円は若干薄い色であった。その後、1950年代から1960年代頃には、虎マークの囲み円が褐色に染められたものや、黄色に黒線で囲まれた円形に正面に向いた虎の絵(ペットマークのデザインとは異なる)が描かれたマークの入ったデザインが存在した(選手名鑑に掲載されたり、1966年のオールスターゲームのポスターにも描かれた)。
その後、1970年代後半頃には、虎マークなどが現在の形にまで整い[82]、1978年の小林繁の入団発表でバックに掛けられた旗もこのデザインである〔このときの写真が『阪神タイガース70年史』57ページに掲載されている〕)、1984年10月には、一番下の黄色ラインの右寄り部分に黒色で「HANSHIN Tigers」のロゴが入ったデザインが正式採用された[83]。ただし、正式採用より数年前から使われている[84]。
ロゴ
先述の球団旗やホーム用ユニフォームの胸などに描かれる「Tigers」ロゴの書体は1960年に細部が変更されたのみで、創設以来一貫して使われ続けている。
また「Tigers」ロゴは、「HANSHIN」ロゴと合わせて、1962年6月15日には商標登録されている[85][注釈 28]。1982年には、ユニフォームのマークと同じように、整ったロゴが登録されている[86]。日本語表記の「阪神タイガース」ロゴは、1981年4月25日に商標登録出願、1983年10月27日に登録されている[87]。
ユニフォーム
ユニフォームの変遷
1936年 - 1940年
「Tigers」ロゴが2種類、「OSAKA」ロゴが1種類の3種類のユニフォームを使用。帽子も、3種類のユニフォームとそれぞれデザインを合わせた3種類があり、マークは黒字の「O」。ストッキングは黒地に黄と赤の2本ラインのものと、グレー地にダークグレーの4本ラインのものの2種類。
「Tigers」ロゴのものは白地にライトグレーのストライプのものと、グレー地にダークグレーのストライプのもので、共に襟付きであり、ロゴ・背番号の縁取り、前立て、袖などに黒と黄のパイピングというデザイン。なお、縦縞のデザインを使用した理由は諸説あるが、当時のデトロイト・タイガースのデザインを参考にしたのが有力とされる。
「OSAKA」ロゴのものはグレー無地にロゴ・背番号の縁取りとラインに黄のパイピングというデザインで、襟付き、左袖に虎マークのワッペンが貼られている。
1937年
「Tigers」ロゴの白ユニフォームのストライプを濃くし、ロゴ・背番号の縁取りを廃止するなどマイナーチェンジ。黒地にエンジの3本ラインのストッキングを追加。帽子を、白地にグレーのストライプ、黒ツバに赤字のOマークというデザインに変更。
1938年 - 1940年
「Tigers」ロゴの白ユニフォームのストライプをさらに濃く太くし、ロゴ・背番号の縁取りを復活。白地に黄の2本ラインと赤の1本ラインを配したストッキングを追加。
1940年 - 1943年
連盟の指示により球団名を「阪神」に改称したことに伴い、基本デザインはそのままにロゴを漢字の「阪神」(左胸に縦書き。「神」は旧字体の「示へんに申」)に変更し、帽子のOマークを廃止。
1943年
帽子の代わりに戦闘帽を着用し、阪神電鉄の社章を帽子マークとした。また、襟、ラインを廃止。
1944年
背番号を廃止。また、ユニフォームの国防色化も指示されていたが、かつて「OSAKA」のユニフォームで使用していた灰色無地の生地を使用することで容認された。その際にロゴやラインの黄色は取り除かれたが、袖の虎マークはそのまま使用された。
1945年
再び「大阪タイガース」に改称するも、生地の不足により「Tigers」ロゴ無しのグレー地に黒のストライプのユニフォームであった。ストッキングはグレー地にダークグレーのストライプのものが主に使用された。帽子のOマークは復活していた。
1946年 - 1948年
胸ロゴが復活。しかし、グレー地のユニフォームは生地の耐用期間が短く、わずか3年間で廃止された。
1947年 - 1951年
物資不足の影響から、縦縞の無い白色無地で前立てラインのユニフォームを採用。前立てラインが2本のものと1本のものの2種類が存在した。「Tigers」ロゴ縁取りやラインは黄色。アンダーシャツは選手によってバラバラであり、白や紺、黒、あずき色などが使用された他、帽子は白地に黒字のOマーク、ツバ紺色であり、1938年 - 1940年に使用された白地のストッキングが復活した。特に、1本ラインのものは2リーグ分裂後も使われ、1951年までホーム用として使用された。
1948年 - 1949年
「黒のユニフォーム」と呼ばれる濃紺の生地を使用したユニフォームを着用。主に遠征用として用いられていた。上下濃紺に白字に黄色の縁取りの「Tigers」ロゴで、帽子も濃紺に白字のOマークであった。ストッキングは従来の白地のものに加えブルーグレー地に紺のラインのものと黄色地に紺のラインのものを使用した。このユニフォームは縦縞の生地が手に入らなかったために間に合わせで作られたものだが、第1次ダイナマイト打線の時代と重なったことや21世紀に入ってから復刻版ユニフォーム(詳しくは後述。)として使われたこともあって、老若男女問わずファンの認知度は高い。
1950年 - 1951年オールスター前
2リーグ分裂に伴い、遠征用ユニフォームを濃紺のユニフォームから薄めのグレーを基調とした「OSAKA」ロゴのユニフォームへ変更。1936年 - 1940年に使用されていた「OSAKA」ロゴのユニフォームを踏襲したデザインであり、戦後初めて左袖に虎マークが復活。このユニフォーム専用として帽子マークが「T」の帽子が登場、黒地に白字のTマークというデザインであった。
1951年オールスター後 - 1953年
オールスターを境に、遠征用ユニフォームの「OSAKA」ロゴを「Tigers」ロゴに変更した上で、前立てラインを廃しビジター用として使用。「OSAKA」ロゴは虎マークの代わりに左袖に移動した。ストッキングは黄地に白、黒、赤のラインが入ったもの。襟を廃止。
1952年
このシーズンのみ、白地にラインなしのホーム用を使用。地色以外は前年から使用していたビジター用と共通のデザインであった。ストッキングは従来の白地に黄、赤のラインが入ったもの。また、ビジター用帽子のマークがTマークからOマークに戻った。
1953年 - 1957年
伝統の縦縞と白地の縞帽子が復活、1938年 - 1940年のデザインをほとんどそのまま踏襲したデザインとなった。
1954年 - 1957年
ビジター用のロゴが再び「OSAKA」となる。胸ロゴと背番号が明朝体をモチーフとした新たな書体となり、左袖の虎マークも復活。ストッキングは黒地に黄の2本ライン。
1958年 - 1959年
ホーム・ビジターともに、胸ロゴの黄色の縁取りがなくなる。また、ホーム用の白地の縦縞帽子とストッキングを廃し、ビジター用と同じものに統一。
1960年
ホーム用ユニフォームの「Tigers」の書体がブラッシュアップされると共に、胸番号を採用。創設から使われてきた帽子のマークを「O」から「To」に変更。
1961年 - 1965年
球団名が「阪神タイガース」となるに伴い、ビジター用の胸ロゴを「HANSHIN」に変更。現在ではチームの象徴ともいえる帽子の「HT」マークが登場する。
1962年後期
ビジター用の胸番号が背番号と同じ丸い書体になる。
1965年 - 1973年
基本のデザインはそのままに、襟・腕・パンツ脇に太いラインが採用された。背番号書体がホーム用はゴシックに近い書体、ビジター用は角書体、胸番号がホーム・ビジターともに角書体になる。ただし、ホーム用胸番号は背番号と書体が異なる上、さらにビジター用とも異なるいわゆる「高校野球型」書体である。ホーム用の左袖に「OSAKA」が復活、ビジター用は従来通り猛虎マーク。
1970年 - 1973年
猛虎マークが僅かに変更され刺繍となった他、背番号の上にローマ字で背ネームが入ったため背番号が小さくなった。オ段の長音は原則として「H」を使用しているが、1977年シーズン途中から1985年頃まで略していた選手が多かった(川藤幸三は「KAWATOH」ではなく「KAWATO」、遠井吾郎は「TOHI」ではなく「TOI」、大倉英貴は「OHKURA」ではなく「OKURA」)。
1972年 - 1973年
帽子のHTマークの「H」が黄色、「T」が白となり、トップボタンが白、空気穴が黄色となった。
1974年 - 1975年
ダブルニット素材がユニフォームの素材として採用されたことを機に、帽子のツバ、胸ロゴ、背番号、袖・首・パンツの線などに、それまでの黒に加えてチームカラーの黄色が入る。また、ホーム用の縦縞の色がグレーから黒となった。
1975年 - 1978年
まず1975年にビジター用のユニフォームのみ変更され、地色がグレーからスカイブルーになり、袖、パンツの線がギザギザ模様のラインになる。このラインは永井一正がデザインしたもので、「輝流ライン」と呼ばれた。由来には「虎の牙」と「赤穂浪士の法被」の2つの説がある。首のライン上に第1ボタンがついている珍しい様式で、ホーム用とビジター用でボタンの素材が異なり、ホーム用は地色と同じプラスチック製、ビジター用は半透明のプラスチック製ボタンだった。
1976年 - 1978年
ホーム用もギザギザラインになり、左袖の「OSAKA」のロゴが消え、虎マークになる。
1979年 - 1983年
ブレイザー監督就任と同時に輝流ラインを廃止し、従来の黒と黄色のラインに変更、ボタン式からプルオーバー式になる。また、ストッキングの黄色の2本線も廃止されて黒一色になる。ホーム用パンツの脇ラインが消え、縦縞が僅かに太くなる。ビジター用は左袖の虎マークが「Tigers」ロゴに変わり、1983年には左袖の「Tigers」ロゴが右上がりになる。
1982年 - 1983年
安藤統夫監督就任により、ホーム用を大幅にモデルチェンジ。チームカラーの黄色が消え、モノトーンスタイルと縞帽子(ツバ、THマークは黒)が復活し、ホーム用のスパイクが白地に黒線になる。このデザイン変更から、途中マイナーチェンジを重ねつつも基本デザインは2006年まで25年間に渡って使用されることとなる。この間1985年・2003年・2005年に3度のリーグ優勝を果たした。
1984年 - 1987年
ホーム用の背番号の書体がゴシックに近い書体からビジター用と同様の角型となる。胸番号は従来通りの高校野球型書体。また、ホーム用に2年遅れて、ビジター用を大幅にモデルチェンジ。ホーム用同様に黄色の首と袖のラインを廃してグレー地に黒の縦縞となり、左袖の虎マークが復活。また、帽子が黒地に白のHTマークとなり、ビジター用の胸番号の書体が背番号と同一になる。
1988年 - 1990年
基本的なデザインは変更されないまま、プルオーバー式からボタン式になる。また、ビジター用帽子のHTマークが白から銀に変更されるとともに、ビジター用スパイクが黒地に白線から、ホーム用と同様の白地に黒線となる。
1991年 - 2000年
1985年の日本一にあやかり、再びプルオーバー式が復活。1984年 - 1987年に使用されていたデザインがほぼ完全に踏襲された。
2000年
当時の監督・野村克也の提案により、ホーム用に使われていた縦縞帽子が廃止となり、ビジター用の黒い帽子をホームゲームでも使用するようになる。また、スパイクが黒地に銀のラインとなる。
2001年 - 2006年
ホーム用は、基本デザインを変更しないまま再びボタン式を採用(実際はボタン付きプルオーバータイプ〔ボタンが外れるのは上から数個までで、残りは飾りというもの〕)、背番号・胸番号の書体を高校野球型へ変更した。ビジター用はデザインを大きく一新。縦縞を廃し、グレー地に黒白のラケットラインと袖ラインが入り、左袖の虎マークがモノトーンカラーに変更された。また、「HANSHIN」の胸ロゴが黒字に白の縁取りのピッツバーグ・パイレーツ型の字体になり、ホーム用同様に背番号と胸番号の書体が高校野球型へ変更、ニューヨーク・ヤンキースを模して背ネーム無しのスタイルとなった。
2002年 - 2006年
ビジター用の左袖の虎マークがモノトーンカラーから従来のカラーのものに変更。
2003年 - 2006年
ビジター用ユニフォームが背ネーム無しから背ネームありのスタイルに変更。
2005年
左袖の猛虎マークが、ホーム用とビジター用ともに球団創立70周年記念のロゴマークに置き換わった。ただし、ホーム用とビジター用で若干配色が違う。
2007年 - 2011年
大幅モデルチェンジ。ホーム用は25年ぶりの大幅変更となった。監督の岡田彰布の要望により、チームカラーの黄色が1981年以来久々に取り入れられ、「Tigers」ロゴや背番号等が黄色で縁取られる。黄色と黒色の袖ライン+パンツ脇ラインが加わり、わき腹の部分には黒色を配したデザインとなった。帽子も1974年 - 1981年に使われていたもの(帽子のHTマークの「H」が黄色、「T」が白)に変わる。ビジター用は、ラケットラインを廃し「HANSHIN」ロゴを2000年以前の書体を再び採用、ホーム用と同じくわき腹部分に黒色のカッティングを配したデザインとなる。帽子は従来の黒帽子に、ツバのふちが白線が入りHTマークが銀色から白色へ戻る。また、ホーム・ビジター共に背番号・胸番号の書体が1962年夏 - 1965年まで使われた欧州系の書体を彷彿させるデザインとなった。
2008年 - 2009年
2008年交流戦明けより、ビジター用の帽子のデザインが変更。好評だった交流戦専用のビジター用のもの(後述)を、空気穴とトップのボタンをグレーから黒色にマイナーチェンジの上で引き続き使用。
2010年
左袖の猛虎マークが、球団創立75周年記念のロゴマークに置き換わった。ビジター用の帽子が2007年のタイプに戻る。
2012年 - 2014年
新たにミズノとサプライヤー契約したことによりモデルチェンジ。コンセプトは「伝統と改革の融合」。白、黒、黄色と縦縞の伝統は守りながらも、昨季のデザインと比べて黄色の部分が少なく、よりたくましいイメージとなっている。ホーム・ビジターともに基本のデザインは統一され、ホーム用は上下白地に黒の縦縞という従来のスタイルながら縦縞は昨季までのデザインより太くし「力強さ」を表現、「Tigers」ロゴ及び背番号・胸番号は黒字に白の縁取りとなった。ビジター用は藤川球児の提案から、シャツは黒、ズボンは白が基調のツートンカラーに一新し(ツートンカラーは、唯一阪神だけ採用していなかったが、このデザイン変更により全12球団が採用することとなった)、新たにシャドーストライプを配して伝統の縦縞を継承した他、「HANSHIN」ロゴをパイレーツ型をモチーフとした角張ったデザインへ変更、背番号・胸番号とともに白字にグレーの縁取りとした。シャツの肩とわき腹部分及びパンツの脇と裾部分に「牙」をイメージし虎の「勇猛さ」をアピールするとして配したシャープな切り返しデザインは、ホーム用は黒に黄色の縁取り、ビジター用は白にグレーの縁取りという配色となった。帽子のつばはホーム・ビジターともに黒となり、ツバのふちにホーム用は黄色、ビジター用は白のラインが入る(ヘルメットも同様)。HTマークについては、ホーム用はTが白でHが黄、ビジター用はTが白でHがグレーとなった。胸番号、背番号は、中日ドラゴンズが1996年から2011年まで使用したユニフォームと同じ書体に変更、背番号の角のある字体は力強さと同時に「優美さ」を表現している。キャプテン制導入(野手と投手にそれぞれキャプテンを置く)に伴い、藤川球児と鳥谷敬の左胸にはキャプテンのCマーク(黒地に「C」の白文字のワッペン)が入った。
2015年 - 2017年
球団創設80周年を機にモデルチェンジ。「歴史・伝統・新しさ」をコンセプトに、ホーム用は白、ビジター用はグレーを基調にシンプルな縦縞のデザインとなった。ビジター用の「HANSHIN」ロゴが従来のデザインへ復活。ホーム・ビジターともに肩やわき腹部分の切り返しなどを廃し、白色と黒色の腕ライン+ラケットラインが入る。帽子はホーム・ビジター共通のデザインとなり、黒地に白字でHTマークが入った。ヘルメットは艶消しのタイプとなる。
2015年
左袖の猛虎マークが、球団創設80周年記念シンボルマークに置き換わった。
2016年 - 2017年
ビジター用ユニホームを一新。2003年・2005年の2度のリーグ優勝時の「強いタイガース」をイメージし、2001年〜2006年に使用された上下グレー、縦じま無しのビジターユニホームをベースに、グレーを基調に黒白のラケットラインと袖ラインが入る。肩から袖にかけて黒のラグランスリーブをあしらい「シャープさ」と「力強さ」を表現。
2018年 -
ホーム・ビジター共にモデルチェンジ。ホーム用は、伝統の縦縞にチームカラーであるイエローを加え、「伝統」とチーム・ファンとの「一体感」を表現。前年まで使用されたモデルの胸ロゴ、背番号、胸番号、背ネーム、ラインそれぞれの縁取りを白色から黄色にマイナーチェンジした形である。帽子も1974年 - 1981年、2007年 - 2011年に使われたもの(HTマークの「H」が黄色「T」が白色、ツバが黄色)を基にトップボタンと空気穴が黄色としたものに変わる。ビジター用は、ブラックを基調にイエローを加えることで「力強さ」と「一体感」を表現している。黒地に黄色と黒色のラケットライン+袖ライン、「HANSHIN」ロゴ、背番号、胸番号、背ネームは黄色に白の縁取りとなった。2014年以来4年ぶりにシャツが黒、パンツが白のツートンスタイルが復活。帽子は前年に引き続き黒一色であるがHTマークは白文字から黄文字+白縁取りに変更。なお、上新電機株式会社との契約により、ホームユニフォームは前年までのヘルメット及び右袖に加え、2018年より新たに帽子(左側)とユニフォームパンツ(左足付け根付近)に「Joshin」のロゴが掲出さることとなった[88]。
交流戦専用ユニフォーム
2005年から開始されたセ・パ交流戦では2011年まで毎年、交流戦期間中の専用ユニフォームが作られた。これは交流戦が開始された2005年が球団創立70周年という記念の年に当たること、また、綱島理友が1999年から2004年まで『週刊ベースボール』で連載していた「ユニフォーム物語」で歴代のユニフォームが紹介され、それによって「オールドユニフォームを着て闘う選手の姿が見てみたい」というファンの声が高まったこと、さらに岡田彰布監督の「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」という考えが一致したことによる。なお、選手が実際に使った交流戦専用ユニフォームは、毎年交流戦終了後に行われるチャリティー・オークションで落札者にプレゼントされ、その収益金は福祉団体などに寄付されることになっている。2012年以降は、交流戦専用ユニフォームの企画は行われていない。
2005年はホーム用のみ過去のデザインを復刻させた復刻版ユニフォームを専用ユニフォームとして使用。縦縞に黄色と黒色の縁取りを施した、1979年から1981年までのモデルを採用した。ビジターでは復刻版ユニフォームは着用せず、通常のビジター用ユニフォームで試合を行っている。この復刻版ユニフォームは好評で、その後他球団へも波及していった。
2006年は「縦縞をビジターでも見てみたい」というファンからの要望が多かったため、2005年度に使った復刻版ユニフォームをビジターの試合で着用。ホームでは逆に、同時期(1979年 - 1983年)にビジターで着ていた水色地のモデルを使用した。従って、東北楽天ゴールデンイーグルスの協力でホームゲームでは結果的に「ビジター対ビジター」、ビジターゲームでは「ホーム対ホーム」という趣で行われた[89]。
2007年の交流戦用ユニフォームは復刻版ではなく、服飾デザイナーのコシノヒロコがユニフォームをデザイン。70年以上一度も変更されることのなかった胸のロゴデザインが改められ筆記体となり、背番号はかつてコシノが手がけた近鉄のユニフォームと同じ書体になった。どちらも文字は黄色で、ホーム用・ビジター用共に同じものを用いている。藤井寺球場時代の近鉄と同じラグランスタイルが採用されており、ホーム用は白地に黒の縦縞、ビジター用は黒地に黄色の縦縞が入っている。ラグランスリーブは共に黒で、黄色の線が配されていた。
2008年は“リアルタイガー”をコンセプトに、プロ野球界で初めて従来はアップリケだった胸のロゴや袖のマーク・背番号を生地に印字することで、これまでよりも100グラム軽い約400グラムに軽量化。より“虎”をイメージしたデザイン面は、伝統のタテジマの幅を倍の5ミリにしてグラデーション加工を施し、場所によってシマの濃さが変わる。さらに「流線形」でスピード感を表すように、すそや胸のロゴに向かって色が薄くなっている。帽子はホーム用は空気穴とトップのボタンを黄色にした交流戦限定型で、ビジター用はホーム用の黄色の部分全てにグレーが用いられた。なお、このユニフォームはキャンプ中に岡田監督が自ら提案した。
2009年は3年ぶりに復刻版ユニフォームを使うことになり、1985年にタイガースが日本一になった当時のユニフォームが選ばれた。デザインは「ユニフォーム」の1984年-を参照のこと。なお、2009年の復刻版ユニフォームは当時と同じくプルオーバータイプとなっている(2005年・2006年に使用した復刻版ユニフォームではプルオーバーを再現せずボタンありのものを作成しており、当時のものとは微妙に異なる)。一方、ホーム用のスパイクは当時は白だったが、2009年は通常のユニフォーム同様、黒だった。
2010年は「輝流ライン」入りの復刻版ユニフォームを採用する。デザインは「ユニフォーム」の1975年 - 1978年を参照のこと。
2011年は前年夏に開催された『「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜』でも使用した「黒のユニフォーム」の復刻版ユニフォームを採用する。なおストッキングは「オールド・ユニフォーム・シリーズ」では「紺色・灰色」だったものを今回は「黄色・紺色」とした。デザインは「ユニフォーム」の1948年-1949年を参照の事。着用は主催ゲームのみである(ビジターゲームでは通常のリーグ戦のビジター用を着用した)。
交流戦以外の専用ユニフォーム
「GREAT CENTRAL」
2010年、2012年にセントラル・リーグ主催で行われた期間限定プロジェクト。セ・リーグ6球団がそれぞれ歴代のユニフォームの中から選んだものを復刻ユニフォームとして着用。
2010年8月、『「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜』と銘打ち、1リーグ時代の「黒のユニフォーム」が復刻された。デザインは「ユニフォーム」の1948年 - 1949年を参照のこと。
2012年8〜9月、『「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜』において、大阪タイガース時代の1937年の秋に球団史上初の優勝を飾った当時のユニフォームを復刻し、ホーム用とビジター用の2種類を用意した。ホーム用は、ソックスのストッキングが黒・黄色・赤のラインが入ったもの。ビジター用は、ストッキングが黒一色のもの。
「ウル虎の夏」
2013年より、夏イベントとして開催。毎年「ウル虎の夏(西暦)」と銘打たれ、期間中の阪神主催試合では期間限定ユニフォームが使用される。また、イベント開始前にユニフォームのお披露目としてゴールデンウィーク期間にも着用する。
2013年度は、従来の縦じまユニホームに黄色と黒のラケットラインを施し、左胸にタイガースのHTマークをあしらった[90]。ユニフォームデザインにTHマークが使用されたのは球団史上初。また、交流戦およびセ・リーグ主管のオールドユニフォームシリーズ以外での季節限定特別ユニフォームの採用も初めての出来事であった。
2014年度は、甲子園球場の開場90周年を記念し、蔦や芝生など甲子園球場を象徴する緑色とタイガースを象徴する黄色をベースとした「ウル虎グリーン」をテーマカラーとして採用した[91]。胸の限定ロゴは、躍動感のある猛虎をイメージし、強く、そして戦う姿勢を前面に押し出したデザイン。グリーン地に脇に黄色、ズボンは白地に横に黄色、帽子はグリーン地につばとHTマークが黄色。
2015年度は、球団創設80周年記念イベント「Yellow Magicプロジェクト」の一環として、本拠地・甲子園球場での主催9試合でチームカラーの黄色を基調としたユニホームを着用[92]。黄色をベースに白と黒のラケットライン、パンツは白地に黄と黒の脇ライン。
2016年度は、前年同様黄色を基調とし、新たに肩や袖口に黒をあしらい力強さを表現した[93]。また、この年よりユニフォームの名称を「ウル虎イエローユニフォーム」とした。
2017年度は、前年のモデルを踏襲した基本デザインを採用。新たに前身頃部に縦じま模様を加え、肩・袖口部の他に背面にも黒色を配し、帽子のツバにも縦じまのストライプが加わった[94]。
2018年度は、2015年度採用のモデルをベースにラケットラインを廃し、腕ラインも白と黒から黄と黒に変更した。また、胸番号と背番号に「ウル虎の夏」のイベントロゴを模した炎のデザインを取り入れた他、ユニフォーム全体に虎柄模様を配した。帽子は黄色をベースにツバとTHマークを黒とし、ツバにはユニフォーム同様虎柄模様があしらわれている[95]。
「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」
2016年から始まった阪神・巨人による相互展開プロジェクト。詳細は「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」の項を参照。
2016年は第1ラウンド(4月26日〜28日)にて、1970年代の「輝流ライン」ユニフォームを2016年版にリメイクした期間限定ユニフォームを着用[96]。
2017年、5月23〜25日の甲子園・対巨人3連戦で1948年から1949年の「大阪タイガース」時代に着用されたユニフォーム(通称:ブラックユニホーム)を2017年バージョンとしてリメイクしたものを着用(帽子のマークを「O」から「TH」に変更、背ネームを追加)[97]。
2018年、5月25日〜27日の対巨人3連戦(甲子園)にて、1975年から78年に着用された「輝流ラインユニフォーム」のビジター用をベースに、胸ロゴを「HANSHIN」から「Tigers」に変えホーム用にリメークした「輝流ラインユニフォーム2018」を着用。
マスコット
球団マスコットは次の3体である。詳しくは、それぞれの項目を参照。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。
トラッキー(TO-LUCKY)- 背番号 1985
ラッキー(LUCKY)- 背番号 1994→なし
キー太 - 背番号 2011
ちなみに、マスコットガールは1978年を除き2013年まで保有していなかったが、2014年から新たに「タイガースガールズ」として保有することとなった。(詳細は当該項目を参照)
主な歴代の球団歌・応援歌
大阪タイガースの歌(作詞:佐藤惣之助 作曲:古関裕而 歌:中野忠晴とコロムビア・ナカノリズムボーイズ)
大阪タイガース行進曲(発表当時球団、日本蓄音器商会〔現:日本コロムビア〕製作、上記の曲のレコードのB面に収録された公式の替え歌)
阪神タイガースの歌(球団名変更に伴う改題及び歌詞変更 歌:若山彰、立川清登、中村鋭一、道上洋三、唐渡吉則ら多数)
公式の球団歌はこの「タイガースの歌」(通称:「六甲颪」[注釈 29])のみであるが、その他に球団応援歌も多数ある。
タイガース音頭/進め!タイガース(歌:中村鋭一 朝日放送アナウンサー)
トラトラマーチ(歌:植草貞夫 朝日放送アナウンサー)
阪神タイガース数え歌(歌:道上洋三 朝日放送アナウンサー)
トラトラ阪神応援歌(同上)
タイガースよ永遠に/今日も勝ったよタイガース(歌:平田勝男、吉竹春樹、池田親興=1985年タイガース所属選手)
阪神タイガースの優勝を知らない子供たち(戦争を知らない子供たちのパロディー替え歌。歌:リリアン、板東英二、やしきたかじん、桂雀々)
WIN!WIN!タイガース(歌:JK21)
負ける気せんね/ハイハイ敗 (歌:辛坊治郎・森たけし=読売テレビアナウンサー)
他多数
チームスローガン
1985年 - 1998年 3F(フレッシュ、ファイト、フォア・ザ・チーム)
1999年 - 2001年 TOP野球
2002年 - 2005年 NEVER NEVER NEVER SURRENDER
2006年 - 2008年 Be the Best For the Fans
2009年 - 2011年 Focus on this play,this moment!!
2012年 - 2014年 Go for the Top 熱くなれ!!
2015年 Go for The Top as One
2016年 超変革 Fighting Spirit
2017年 挑む Tigers Change
2018年 執念 Tigers Change 2018
2019年 ぶち破れ! オレがヤル 2019
スポンサー
ユニフォームスポンサー
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。
ユニフォーム右袖 Joshin(2004年 - )
ヘルメット Joshin(2004年 - )
帽子(左側)Joshin(2018年 - )[98]
ユニフォームパンツ(左足付け根付近)Joshin(2018年 - )[98]
※2002年には、あしなが育英会のマークが入っていたが、これはスポンサーではなく、球団がボランティアで掲載したものである。
オフィシャルスポンサー
2013年から上新電機株式会社と、ユニフォームサプライを担当するミズノ株式会社の2社が阪神球団史上初となる「球団オフィシャルスポンサー」として正式に締結[99]された(2014年度からは株式会社ローソン[100]、2018年度からはアサヒビール[101]も加わり計4社となった)。
球団オフィシャルスポンサーは、タイガースの球団経営の趣旨に賛同する企業・公益法人などの各種団体を対象として、球団と各団体が相互に成長していくことを目指すとしており、それらを象徴するシンボルとして、協賛スポンサー団体と球団のそれぞれのロゴマークが並列して描かれた「球団公認コンポジットロゴマーク」を広告やホームページなどに掲出できる[99]。
キーワード
ミスタータイガース
タイガースの中心選手にファンが与える称号である。本来は藤村富美男の呼称であったが、藤村の引退後に村山実、田淵幸一、掛布雅之らが後継者として同様の称号で呼ばれた。
ダイナマイト打線
タイガース打線の代名詞。
バックスクリーン3連発
いろは順背番号とポジション順背番号
1936年春、設立したばかりのタイガースは在籍していた選手17名の背番号を名前のいろは順で決めた。ただし、若林忠志と佐藤武夫は、当初与えられた背番号4と背番号13は縁起が悪いと考え、空き番号だった18、19にそれぞれ変更している。エースの若林が偶然付けた18番は、後にエースナンバーと呼ばれるようになった。
1950年、リーグが分裂し、ファームの結成などの改革を行ったタイガースは背番号をポジション別に改めた。1 - 8が投手、9 - 11が監督、助監督、主将、12 - 14が捕手、15 - 20が内野手、21 - 24が外野手、それ以降をファームの選手とした。9 - 11が捕手に使われていないのは、1リーグ時代からの功労者である背番号9の松木謙治郎と背番号10の藤村富美男の番号を変えないように配慮したためである。
背番号11にまつわるエピソード
村山実は入団した際に「背番号11はやめておけ」と周囲から言われたというエピソードがある。村山以前に11を付けた選手は、故障を含めて何らかの形で必ず不幸な目に遭い、11は不吉な番号といわれていたからである。
11を最初につけたのは藤井勇(1935年 - 1939年、1942年)。藤井は戦前のチームの中心打者だったが2度も召集され、戦後はパシフィックに移籍したためにタイガースへ復帰出来ずに野球人生を終えた。2代目の野崎泰一(1946年 - 1949年)は満足な成績を残せないところに肩痛が襲い、最後の年に3へ変更する。3代目の御園生崇男(1950年)は15からの変更だったが、前年に悪化していた体調がさらに悪化したため翌年元に戻す。4代目の三船正俊(1952年 - 1954年)はエースとして期待されていたが炎上癖が仇となって東映フライヤーズにトレード移籍。5代目の山中雅博(1955年)は50から変更した途端に体力不足に見舞われて退団、6代目の内司正弘(1957年)も40から変更した途端に退団している。
大学で村山の先輩にあたる御園生は「自分がつけていた背番号15を譲るから、絶対に11はつけるな」と説得したが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけている。結果的に自身の活躍でジンクスを跳ねのけた村山は、自らの手で背番号11を永久欠番にした。
代打の神様
試合展開を左右する局面で勝負強さを発揮する打者について、主にファンやメディアなどで「代打の神様」と表現されることが多い[102]。
そのように称されるきっかけになったのは、八木裕である(1997年に代打成功率4割超を記録するなどした)[103][104]。その後、この「代打の神様」の称号は、桧山進次郎[105][106]、関本賢太郎[107]へといつしか継承されていくこととなった。直近(2017年シーズン)は、狩野恵輔[102]がこの称号で呼ばれることがあった。
なお、八木の活躍以前にも、複数年にわたり代打として活躍した選手は複数存在しており、遠井吾郎、川藤幸三[104]、真弓明信[102]などが挙げられる。
伝統の一戦
主にメディアなどで、対読売ジャイアンツ戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。2016年からは巨人との共同プロジェクトとして同カードを「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」と銘打ち相互展開を図っている。
年度優勝決定戦と太平洋ホームラン
1936年秋は複数大会開催による勝ち点制だった。各大会ごとに単独1位のチームに勝ち点1、同率1位のチームに勝ち点0.5を与え、6大会の勝ち点の合計でシーズン優勝を争った。大阪タイガースは最後の東京第2次リーグ戦(第2次東京大会)を残して勝ち点2となり、首位・東京巨人軍の勝ち点2.5に迫っていた。第2次東京大会ではタイガースと阪急軍が1位を争っていたが、巨人が故意に阪急に敗退する公認の八百長試合を行ったことで、タイガースは単独1位を逃し、勝ち点2.5で巨人と並んだため年度優勝決定戦を行うことになった。
12月に洲崎球場での年度優勝決定戦では1勝2敗で惜敗したものの、景浦が打者として12打数6安打、投手として13回を自責点1に抑える驚異的な活躍をみせた。
1936年秋の優勝決定戦では敗れたものの、1937年秋のシーズンに初優勝して臨んだ春優勝チームの巨人との年度優勝決定戦(7戦4勝制)では、沢村を打ち崩して4勝2敗で前年の雪辱を果たした。さらに翌年春のシーズンを制して迎えた年度優勝決定戦ではまたも巨人と対戦し、初戦のサヨナラ勝ちで勢いに乗り4連勝で年度連覇を果たした。同年限りで2シーズン制は終了し、年度優勝決定戦は廃止された。
なお、1937年と38年の日本一はリーグの通算優勝回数には数えられていない。これはこの2年間のリーグ戦はそれぞれ独立したシーズンであるためで、阪神の通算優勝は1937年秋季大会、1938年の春季大会でそれぞれカウントされている。
世紀の落球とV9
1973年には、8連覇中の巨人との間で、激しい優勝争いを展開していた。8月5日の対巨人戦(甲子園)9回表2死で、中堅を守っていた池田純一が黒江透修の平凡な飛球を追った際に、当時十分に整備されていなかった外野の天然芝に足を取られて転倒。転倒の間に塁上の走者が全員生還したことから、勝利目前だった阪神は逆転負けを喫した。実際には池田が転倒しただけで<b data-parsoid='{"dsr":[76075,76091,3,3]}'>飛球を落としていない</b>にもかかわらず、阪神が後述する結果でシーズンを終えたことから、このプレーは後年まで「世紀の<b data-parsoid='{"dsr":[76136,76144,3,3]}'>落球」と呼ばれた。当の池田は、心ないファンから「戦犯」と決め付けられるなどの嫌がらせに苛まれたあげく、球界を離れた後の2005年に逝去している。
8月30日の対中日戦(甲子園)では、先発の江夏がノーヒットノーランを継続したまま、延長10回裏の打席でサヨナラ本塁打。中日による優勝の可能性を消滅させたが、翌31日には巨人が首位に立った。10月10日の対巨人戦(後楽園)では、田淵幸一が倉田誠から逆転満塁本塁打を放ち、江夏が抑えて勝利、流れは阪神に傾いたかに見えたが、翌日は7-0とリードしながら巨人が追い上げ、逆転に次ぐ逆転で10-10の引き分けに終わった。
残り2試合を残して僅差の首位、あと1勝で優勝というところまで迫っていた10月20日の対中日戦(中日球場)では、中日キラー・上田の先発が予想されたが、金田正泰は先発にチーム最多勝の江夏を指名[注釈 30]。しかし、これが裏目に出て木俣達彦に本塁打を打たれて勝ち越されると、打線は星野仙一に抑え込まれて2-4で敗戦した[注釈 31]。一方、江夏は自伝『左腕の誇り』(構成:波多野勝、草思社、2001年)の中で、「フロントから19日に球団事務所に呼び出され、『残りの2試合には勝ってくれるな』と言われた」と述べている[108]。
この対中日戦の終了間際、球場近くを通る東海道新幹線を巨人選手を乗せた列車が通過したという逸話があり、実際にこの時の試合映像が現存している。選手の1人は車内からスコアボードを見ようとしたが果たせず、名古屋駅到着時にファンが試合経過を知らせ、それを聞いた選手達はムードが明るくなったと伝えられている[注釈 32]。
こうして、10月22日(本来は21日だったが雨天で順延)の対巨人戦(最終戦、デーゲーム)で、その試合に勝ったチームが優勝</b>ということになった[注釈 33]。しかし、約48,000人の大観衆を集めたこの試合も0-9で大敗し、巨人のV9をあっさり許した。16時19分、最終打者のウィリー・カークランドが三振に倒れた瞬間、敗戦とV9を許した不甲斐ない阪神に怒ったファン約1500人が暴徒と化し、一塁側スタンドやアルプススタンドからグラウンドに乱入、両軍ベンチに向かった。阪神の選手・スタッフは試合終了とともにロッカールームに引き上げて難を逃れたが、巨人の選手はすぐにベンチに退散したものの、王は殴られてベンチ前で倒れ、森はキャッチャーマスクをとられるなど選手・コーチを含む七人に、殴る蹴るの暴行が加えられた。巨人の関係者はベンチ裏から脱出して、胴上げもせずに芦屋市の宿舎「竹園」に引き上げた。選手の退出を知った阪神ファンは、三塁側スタンドの巨人ファンに「帰れ、帰れ」と怒声をあげながらグラウンドの土や座布団、空き缶などを投げ合って応酬。「やめとけ」とグラウンドに降りた巨人ファンを阪神ファンが取り囲んで乱闘になり、兵庫県警機動隊員や甲子園警察署員の約180人が出動する事態となった[109][110]。
また、場外でも16時40分頃に阪神球団関係者の乗った車をファン約500人が取り囲み「あの試合は何だ!」と車体を揺さぶるなどした[注釈 34]。甲子園警察署が設置した警備本部も投石された[111]。
この試合は、よみうりテレビ(実況:佐藤忠功、解説:村山実)[112]が日本テレビ系列の全国ネットで中継しており[113]、近畿広域圏ローカルでは朝日放送(実況:植草貞夫、解説:根本陸夫、ゲスト:中村鋭一)[113]やサンテレビ(実況:西澤あきら、解説:後藤次男。近畿放送も同時ネット)[112]も含めた3局が同時にテレビ中継。ラジオも朝日放送(実況:黒田昭夫、解説:皆川睦雄、中国放送にもネット。自社ではパ・リーグ優勝決定戦、阪急対南海〈解説:花井悠〉と二元)・毎日放送(解説:杉浦忠、阪急対南海〈解説:永井正義 他〉と二元)・TBSラジオ(解説:水原茂、実況:山田二郎。山陽放送にもネット)・ニッポン放送(解説:関根潤三)・文化放送(解説:別所毅彦)・ラジオ関東がそれぞれ中継していたが[114]、よみうりテレビと朝日放送の放送席には途中から危険物などが投げ込まれ、選手の退出後には200人ほどの暴徒が襲い掛かってきた[110]。
朝日放送のテレビ放送席では、暴徒の連中に「放送をやめろ」と植草と根本らに対して怒鳴りつけたり、空き缶を投げつけたりした。植草は暴徒ではない阪神ファンの一人が頭の上にかざしてくれた座布団で防ぎながら放送を続けたが、放送終了(16時38分30秒)までの30秒間は音声が途絶え、画面だけが流された[110]。しかし、当時は『おはようパーソナリティ中村鋭一です』(阪神の熱狂的なファンである中村鋭一が朝日放送ラジオで担当していた生ワイド番組)が絶大な人気を博していたことから、同番組のリスナーと思われる阪神ファンが「ここは鋭ちゃん[注釈 35]のとこ(朝日放送のテレビ放送席)やから勘弁したれ」と絶叫[115]。さらに、良心的な阪神ファンが暴徒を説得したことによって、放送席と機材への襲撃は免れた[116]。
暴徒はよみうりテレビの放送席も襲撃して「巨人の肩ばかり持つな」とテレビカメラや当時高価だったVTR機材といった放送機材を破壊するなど大暴れ。止めに入った解説の村山にも「阪神選手やったのによみうりテレビの解説をしやがって」と殴りかかった。機動隊員約30人が3局の放送席を取り囲んで暴徒を遠ざけるが、甲子園警察署の調べでは、よみうりテレビの損害は約1千万円にも及んでいた[117]。この暴挙のため、優勝の瞬間は鮮明なVTR映像がなく、映画フィルムに転写したもの(キネコ)が残っているのみである。
しかしその一方で、サンテレビの放送席と機材は朝日放送と同様に「サンテレビは俺たちの味方や」とファンはおろか暴徒にも守られたことで難を逃れた[116]。また、朝日放送とは異なり、実況中の暴徒による妨害行為も発生しなかった。
通常の試合では警察官100人、球場職員30人の警備態勢だが、この日の試合では警察官200人、阪神電鉄社員80人、アルバイト120人、ガードマン50人の計450人を待機させる特別態勢を敷いていたものの、この騒ぎを鎮めることができなかった。このため兵庫県警の機動隊70人が16時50分に出動[110]。追い散らされたファンは機動隊を遠巻きにして「帰れ!」コールを浴びせた。ファンの殆どは17時過ぎに球場外へ出たが、それでも興奮が収まらない阪神ファンと群集約800人は甲子園球場の指定席券売場前に集まって「阪神の責任者にわびをさせろ」と騒ぎ、「阪神タイガースの歌」を合唱して気勢を挙げた。県警からの要請で18時過ぎに阪神監督の金田がユニホーム姿で場外に現れ、携帯マイクを使って「私は涙こそ流していないが、気持ちの中は皆さんと同じく残念でたまらない。来年こそ一層がんばるので、ファンの皆さんも理解してほしい」とファンへのお詫びとお礼を呼びかけた[118]。これを受けて、19時にファンは引き上げたが、警備本部への投石で警官1名が負傷、ファン6名がケガをした[110][注釈 36]ほか、よみうりテレビの放送機器を壊した疑いなどで数名が警察に検挙されている[119]。
阪神は優勝を想定して、田淵幸一を起用した日本シリーズ用のポスター[注釈 37]と「優勝記念」と書かれたマッチを製作したが、両方ともお蔵入りとなり、マッチ[120]は阪神電鉄の保養所で使われていた[注釈 38]。
史上最短試合と史上最長試合
1946年7月26日の対パシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間がわずか55分</b>という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合では渡辺誠太郎が5安打・88球で完封勝ちし、パシフィック先発の湯浅芳彰も7安打・93球で完投したが、両軍合わせてファウルが6球しかなかったことがこの記録につながった。
逆に、1992年9月11日に行われた、優勝をかけての直接対決となった対ヤクルト戦(甲子園)では日本プロ野球史上最長の6時間26分</b>という試合時間を記録した。この試合では3 - 3の同点で迎えた9回裏、八木裕の打球がレフトフェンスの水平ラバー部、その上の金網フェンスへと当たりスタンドに入ったため一旦はサヨナラ本塁打と判定されたが、ヤクルト側の抗議により、審判団が協議した結果エンタイトルツーベースに訂正された。だが阪神側もこの判定に抗議して(既にロッカーへ引き上げていた選手、コーチがいたため)、37分間試合が中断した。結局、延長15回(当時は時間無制限で延長15回引き分け再試合制)を戦いそのまま3 - 3で引き分けた。なお、サンテレビがこの試合の中継を試合終了まで行っており、試合終了時刻となった「午前0時26分」は日本プロ野球史上最も遅い試合終了時刻となった。当時日本にて視聴率調査を行っていたニールセンによると、試合当日の平均視聴率は28.0%、瞬間最高視聴率は50.0%を記録した。また、試合が中断したことでサンテレビの技術スタッフが熱くなりすぎて中継時に掲示するボールカウント表示器のスイッチを壊してしまい、その後は試合終了まで手動に切り替えてしのいだというエピソードも残っている[121]。
2018年9月20日に行われた、対広島21回戦(マツダスタジアム、5-4で勝利)では、試合終了が翌21日の深夜0時3分であった。過去、二日がかりの試合としては、上記のプロ野球史上最長試合も含めて13度あったが、いずれも延長戦にもつれたものであり、9回で決着がついた試合としては史上最も遅い試合終了時刻となった。当日は試合開始前から雨模様で、試合開始が1時間9分遅れの19時9分となっただけでなく、2回裏終了時に雨脚が強くなり1時間2分中断し、さらに5回裏終了後も同様に12分中断したことで、試合時間としては中断時間も含めて4時間54分であったが、試合終了時点では日付が変わっていた。中止ないしノーゲームにしてもおかしくない状況であったが、当年の阪神タイガースは前半から中盤にかけて中止が相次ぎ試合消化のペースが例年より遅く、これ以上の中止は全日程消化させる上で更なるスケジュールのタイト化が懸念されたため、強行したという事情がある。なお、当年のセ・リーグは8月28日から「連盟管理節」に入っており、試合挙行の可否や試合開始の時刻の変更などを、セ・リーグ統括または当該試合の球審が代行することになっていた[122]。
投手の偵察メンバー第1号
偵察メンバーを多用した監督としては三原脩が有名だが、プロ野球で初めて考案したのは藤村富美男で、助監督兼内野手だった藤村の助言を受け松木謙治郎監督が初めて試合で使用した[123]。1950年4月22日に熊本の水前寺で行われた対中日ドラゴンズ戦で、中日の先発が左腕の清水秀雄か右腕の服部受弘か迷ったため、1番左翼手を投手の干場一夫とした[123]。服部の先発が分かると干場に代えて左打者の金田正泰を送った。この策は成功し、金田の二塁打を足がかりに阪神が1点を先制したが、試合は7 - 9で敗れた。
2度の放棄試合
1954年7月25日の対中日ドラゴンズ戦(大阪スタヂアム)と、1967年9月23日の対大洋ホエールズ戦(甲子園)で行われている。いずれも阪神の負け試合となっている。
村上ファンドと阪神電鉄の阪急との経営統合
村上世彰率いる投資会社「MACアセットマネージメント」(通称・村上ファンド)が2005年に阪神電鉄の株式を買い増しし、電鉄の筆頭株主になった。村上ファンド側は「既成権力に立ち向かう反骨精神や関西人の気骨がグループ全体に影響をもたらすだろう」として、タイガースの株式上場を提案。これに星野仙一シニアディレクターは「タイガースはファンのもの」だと反論し、さらに牧田俊洋球団社長も「株式上場の計画はない」とコメント。2005年10月11日に村上と阪神電鉄首脳が会談を行い、村上は「(タイガースの株式上場は)ファンの意見を聴いた上で考慮したい」とコメントした。
2006年6月19日、阪急電鉄等を傘下に持つ阪急ホールディングスがTOBで、村上ファンドが保有する阪神電鉄株式を取得。その後、阪急ホールディングスは阪神電鉄を子会社化した(阪急・阪神経営統合参照)。
経営統合の話し合いの中で、タイガースに関しては「阪神タイガース」のままで存続することになったものの、これが7月5日に行われたプロ野球オーナー会議で、阪神電鉄から阪急阪神ホールディングスに経営スポンサーが変更される「経営譲渡」と見なされ、阪急阪神ホールディングスは加盟料30億円の支払いを課されることとなった。しかしこの決定には十分な論議がなされておらず、阪神側は阪急阪神ホールディングスとしては球団にかかわらないことになったことを主張し、この対応を不服として再検討を要求した。この主張はほぼ認められ、同年末に加入手数料として1億円のみの支払いとなることが決定された。
この他、かつては株主優待として、阪神電鉄の株式を9月30日時点で5,000株以上保有する株主に対して、翌年度の阪神甲子園球場でのタイガース主催試合のうち1試合2名を内野席(アイビーシート)に無料招待していたが、経営統合による阪神電鉄の上場廃止でこの無料招待も廃止された。
放送・メディア
主催ゲーム・ロードゲームの中継制作局・番組
NHK大阪放送局
『NHKプロ野球』(主にBS1で中継、総合テレビで一部試合を関西ローカルで中継する他、土曜デーゲームを年1試合全国放送)
毎日放送
『MBSベースボールパーク』(MBSラジオ)
『with Tigers MBSベースボールパーク』(MBSテレビ)
朝日放送ラジオ(ABCラジオ)
『ABCフレッシュアップベースボール』
朝日放送テレビ(ABCテレビ)
『スーパーベースボール 虎バン主義。』
関西テレビ
『プロ野球中継(西暦)』
読売テレビ
『Fun!BASEBALL!!』
テレビ大阪
『ナマ虎スタジアム』
サンテレビ
『サンテレビボックス席』(日曜ナイターは朝日放送テレビとの共同制作)
主催ゲームのみの中継制作メディア
GAORA(MBS)※毎日放送制作分よりも、Tigers-ai制作中継を放送する頻度が高い。
スカイA(ABC)※テレビ朝日系列全国中継時はテレビ朝日も制作に加わる。
フジテレビONE(関西テレビ 巨人戦のみ)※ヤクルトのホームゲームと重なる場合はフジテレビTWOに移して中継しているが、TWOで西武のホームゲームとも重なった場合の実績は2016年は日程の関係上発生していない。地上波でデーゲームをフジテレビとの2局ネットまたはナイターをフジテレビ系列全国放送時はフジテレビも制作に加わる。
日テレジータス(読売テレビ 巨人戦のみ)※日本テレビ系列全国放送時は日本テレビも制作に加わる。
Tigers-ai(阪神コンテンツリンクが衛星放送向けに制作している阪神戦の中継)
主催ゲームの制作放送を行う無料BS放送メディア
BS朝日 - 対巨人戦がテレビ朝日系列全国放送時は水曜ナイターはトップ&リレー中継、日曜デーゲームはリレー中継のみ実施し、何れも地上波中継と同じメンバーが担当。関西ローカルで対巨人戦や巨人戦以外の試合を地上波と並列放送する場合はテレビ朝日・BS朝日制作著作・朝日放送テレビ制作協力で朝日放送テレビが地上波とは実況・解説を別に用意して放送する。BS単独放送や地上波がサンテレビ・朝日放送テレビとの共同制作かつサンテレビでの放送時はTigers-aiの映像も使用。同局ではセ・パ交流戦でのパ・リーグ球団主催の阪神戦もテレビ朝日制作で放送。
BS-TBS - 対巨人戦がTBS系列全国放送時は平日ナイターはトップ&リレー中継で放送するが、トップ中継はTBSテレビのアナウンサー・解説者がオフチューブで中継し、リレー中継は地上波中継と同じメンバーが担当する、デーゲーム開催時はリレー中継のみ実施し、毎日放送のみ16時以降も中継かつ関西ローカルと同時放送するが地上波は17:30までの放送となり17:30以降は裏送りで放送。地上波が関西ローカルでの録画中継時は毎日放送からの裏送りで中継。対巨人戦以外の試合は、TBSテレビ・Tigers-ai制作でTBSテレビのアナウンサー・解説者で放送。同局ではTBSテレビ制作でDeNAや交流戦でのパ・リーグ球団主催の阪神戦も放送。
BS日テレ - 2017年から対巨人戦が日本テレビ系列全国放送時は平日ナイターはトップ&リレー中継、土曜・祝日デーゲームは地上波同時放送。関西ローカルでの録画放送時は読売テレビからの裏送りで生中継。同局では巨人主催の阪神戦も日本テレビ制作で放送。
BSフジ - 2017年9月9日に阪神対DeNA戦を関西テレビ制作で放送。当初は関西ローカルの録画放送を前提に放映権を獲得していたのが、同日に『FNS27時間テレビ にほんのれきし』が編成されたためBSフジでの全国放送となった。年度によりヤクルト主催の阪神戦をフジテレビ制作で1試合放送することがある。
地元ケーブルテレビ局
ベイ・コミュニケーションズ(オリジナル番組制作)
関連番組
テレビ
虎バン(ABCテレビ)
熱血!!タイガース党(サンテレビ)
猛虎ファイル(MBSテレビ)
週刊トラトラタイガース(読売テレビ)
虎辞書なる!!(サンテレビ)
サン虎検定(サンテレビ)
BRAVO!(読売テレビ)
ラジオ
with Tigers MBSベースボールパーク みんなでホームイン!(MBSラジオ)
清水次郎の虎たま!(ABCラジオ)
福本豊の虎たまデラックス!(ABCラジオ)
ガチ虎!(ABCラジオ)
阪神タイガースをテーマとした作品
漫画・アニメ
がんばれ!!タブチくん!!
男どアホウ甲子園
剛Q超児イッキマン
なにがなんでも阪神ファン
阪神タイガースに所属する(していた)野球漫画の登場人物
花形満 - 『巨人の星』に登場する阪神の選手。
浪花球太 - 『リトル巨人くん』に登場する阪神の選手。
通天閣虎夫 - 『ミラクルジャイアンツ童夢くん』に登場する阪神の選手。
藤村甲子園 - 『男どアホウ甲子園』の主人公。1974年入団、1976年に故障で現役引退。
小説
決戦・日本シリーズ
神様がくれた背番号
映画
ミスター・ルーキー
ゲーム
初代熱血硬派くにおくん
関連書籍
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脚注
注釈
出典
関連項目
阪神タイガース主催試合の地方球場一覧
阪神ファン
月刊タイガース:月刊の球団情報誌。
阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎烈伝
タイガース検定:12球団初の球団公認の検定試験。
尼崎中央・三和・出屋敷商店街:タイガースの応援で知られる尼崎市の商店街。開幕時から優勝マジックを掲示している。
阪神タイガース (小惑星):阪神タイガースにちなみ命名された小惑星
県民百貨店:熊本県熊本市中央区にあった百貨店(2015年2月末閉店)。阪神百貨店と提携し「くまもと阪神」を名乗っていた時代より九州で唯一の阪神タイガースショップが設置されていた。
京王百貨店:新宿店(東京都新宿区)に阪神タイガースショップが設置されている。
カーネル・サンダースの呪い
ヒッティングマーチ委員会
阪神タイガースの応援団
日本航空123便墜落事故
犠牲者の中に当時の球団社長の中埜肇がいた。
当時の球団オーナーの久万俊二郎と選手の一員であった木戸克彦の妻は搭乗予定だったが搭乗を回避し難を逃れた。
選手・スタッフは遠征の移動のために事故当日、別の便の事故機(JA8119)に搭乗していた。
外部リンク
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アルバータ州( /ælˈbɜrtə/)は、カナダの州。カナダ西部に位置する、プレーリー3州のひとつである。西にブリティッシュコロンビア州、東にサスカチュワン州、北はノースウエスト準州、南は北緯49度でアメリカの国境モンタナ州と接している。
州都は中央部に位置するエドモントンで、オイルサンドのほか、北部の鉱物資源産業の主要な供給基地になっている。州内の最大都市であるカルガリーは物流と交通の要所であり、カナダを代表する商業都市であり、石油産業の中心地。2都市はともに都市圏人口が100万人を超えている。
歴史
主要記事:History of Alberta
1670年に「ハドソン湾会社」が創設された当初は、北緯53度まではルパート・ランドの一部だった。17世紀中頃より欧州人が探索し始め、プレーリーの西部にフランス系の移民が入植し始めた。
1870年代にはカナダ・パシフィック鉄道(CPR)が開通し、地方政府が1875年に創設された。その後この地域はいくつかの地域に分割されたが、その一つが、ヴィクトリア女王とアルバート公の娘のルイーズ・キャロライン・アルバータ王女の名前にちなんで、「アルバータ」と名付けられた。1867年にカナダ自治領(Dominion of Canada)、つまり連邦政府が創設された時点ではまだアルバータはそれほど発展していなかった。アルバータがカナダ自治領に加入したのは、1905年であった。
地理
アルバータ州はカナダ西部に位置し、面積は 661,190km2(255,287mi2)。日本の国土のおよそ1.75倍に相当する。南はアメリカとの国境、北緯49度線でモンタナ州と接している。東は西経110度でサスカチュワン州と、北緯60度でノースウエスト準州と接している。西にはブリティッシュコロンビア州があり、州境はロッキー山脈に沿って北西にあがり、北西付近からノースウエスト準州までの西経120度線を州境とする。最高標高はブリティッシュコロンビア州との州境にあるコロンビア山で、高さ3,747mある。
南東部のエリアを除き、州内は川や湖が多く水資源が豊富で、水泳や水上スキー、魚釣りなどウォータースポーツが盛んである。州内には3つの大きな湖があり、ウッドバッファロー国立公園内のアサバスカ湖(7,898km2、琵琶湖のおよそ12倍の面積)と、アサバスカ湖のすぐ西部のクレア湖 (1,436km2)、エドモントンの北西にあるレッサー・スレーブ湖 (1,168km2) とがある。
南北で1,200km、東西の長さは最も広いところで600kmあり、北緯49度と北緯60度では気候が大きく異なる。標高も高原地帯は州南部の1,000m(カルガリーは1,000〜1,200m、レッドディアでおよそ850m)から北部に向かって650mまである。西部のロッキー山脈が壁になり、東部にはプレーリーが広がっていることから、気象もまた地形の影響を受けやすい。
気候
州北部の多くは針葉樹林が広がっており、ステップ気候の南部と比べ森林が多い。南部は夏が暑く、他の州よりも降水量が少ない。西部の気候は山脈に囲まれていることから比較的穏やかで冬のチヌーク風(フェーン現象)の影響を受け、暖かいことも多い。南東部は平坦で乾燥したプレーリーが広がっているため、寒暖差が激しい。気温は冬季は -35℃(-31°F)になることもあれば、夏季は 38℃(100°F)になることもあるなど、季節によって気温が大きく変化する。
針葉樹林とプレーリーの境にあたる北西部にはアスペン(ポプラの一種)が多く分布している。州内の中央付近は、オンタリオ州南部に次いで竜巻の多い地方である。夏には激しい雷雨が発生しやすく、特に州の中央と南部で見られる。カルガリー・エドモントン街道周辺では、ロッキー山脈の影響を受けるため、カナダ国内で最も雹の発生率が高い。
冬は全般的に寒く、平均気温は比較的温かい州の南部でも -10℃(14°F)、州の北部に至っては -24℃(-12°F)である。ロッキーの麓ではチヌーク(ロッキー山脈を越え東に吹く風でフェーン現象をもたらす)のために寒さが和らぐことがときおりあり、この現象は2月から3月に多く見られる。短時間で気温が上がることもあり、20℃(68) を越えることもしばしばある。夏の平均気温はロッキー山脈(谷間)および北部の 21℃(70) から南東部の乾燥したプレーリーでは 30℃(86) 近くになる。乾燥した気候を受け年間日照量が多く、州東部はカナダ国内でも最も年間日照時間が多い地域で、平均2,500時間を越える。
人口動勢
主要記事:Demographics of Alberta
近年の経済発展を受け、人口は高い成長率を見せており、国内外からの流入も多い。2005年統計で州人口はおよそ330万人で、都市部の人口は81%に上る。カルガリー、エドモントンを中心に各都市で高い成長が見られ、1901年には人口7万3,022人だったのが2006年には337万5,763人にまで増加した。
民族構成は27.66%がカナダ人で、以下イギリス系(25.61%)、ドイツ系(19.60%)、スコットランド系(18.92%)、アイルランド系(15.68%)、フランス系(11.31%)、ウクライナ系(9.71%)と続く。
アルバータ人の多くはキリスト教徒であり、福音派の割合が他州よりも多い傾向にある。反対に無宗教派の割合も多く、国内ではブリティッシュコロンビア州に次いで割合が高い。モルモン教徒は南部に多く、フッター派や再洗礼派の流れを汲むメノナイトのほか、第7安息日再臨派の数が多い。ウクライナなど、東ヨーロッパからの移民が多いことから、この地域の宗派も見られる。
ヒンドゥー教徒やシク教徒、イスラム教徒なども存在し、北米で最も古いモスクがエドモントンにある。また、州内のユダヤ教徒の多くがカルガリーやエドモントンに存在する。
主な都市
アルバータ州の地方行政区を参照のこと。
エドモントン (州都)
カルガリー (州最大の都市)
レッドディア
レスブリッジ
セントアルバート
メディシンハット
グランドプレーリー
フォートマクマレー
バンフ
ジャスパー
ドラムヘラー
経済
主要記事:Economy of Alberta
主な産業は、石油鉱業と農業・畜産業、そして観光である。石油による収益が大きいため、カナダの財貨サービス税(GST)が導入される以前は、商店での買い物には税金がかからなかった。
石油産業の発展は、1914年に最初の油田が発見されたことが端緒となった。第二次世界大戦後には新鉱区が発見。一気に油田地帯として注目を浴びるようになった。近年はオイルサンドを採掘して得られる重質油が主力になっている。一部鉱区では、日本の石油資源開発の子会社のジャパン・カナダ・オイル・サンズ(JACOS)がオペレーターになっているほか、開発に携わっている。
交通
鉄道
カナダ・パシフィック鉄道 (CPR)
カナディアン・ナショナル鉄道 (CNR)
VIA鉄道 (VIA Rail)
ロッキーマウンテニア鉄道 (Rocky Mountaineer)
州内の空港
エドモントン国際空港 (IATA:YEG)
カルガリー国際空港 (IATA:YYC)
行政
主要記事:Politics of Alberta
教育
大学
アルバータ大学
カルガリー大学
レスブリッジ大学
アサバスカ大学
北アルバータ工科大学
南アルバータ工科大学
主要記事:Education in Alberta
文化
主要記事:Culture of Alberta
スポーツチーム
アイスホッケー
エドモントン・オイラーズ (NHL)
カルガリー・フレームス (NHL)
カナディアンフットボール
エドモントン・エスキモーズ (CFL)
カルガリー・スタンピーダーズ (CFL)
など
観光
主要記事:Tourism in Alberta
フランク・スライド
世界遺産
州立恐竜公園 - (1979年、自然遺産)
ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ - (1981年、文化遺産)
ウッド・バッファロー国立公園 - (1983年、自然遺産)
カナディアン・ロッキー山脈自然公園群 - (1984年、自然遺産、ジャスパー・バンフ・クートネイ・ヨーホーの4国立公園を含む)
ウォータートン・グレイシャー国際平和自然公園 - (1995年、自然遺産)
博物館
ロイヤル・ティレル古生物学博物館
姉妹・友好提携地域
北海道(日本):姉妹提携
脚注
外部リンク
(in English)
(in Japanese)
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アメリカ合衆国ドル(アメリカがっしゅうこくドル、English: United States Dollar)は、アメリカ合衆国の公式通貨である。通称としてUSドル、米ドル、アメリカ・ドル</b>などが使われる。アメリカ以外のいくつかの国や地域で公式の通貨として採用されているほか、その信頼性から、国際決済通貨や基軸通貨として、世界で最も多く利用されている通貨である。
通貨単位の呼称としての「ドル」は、カナダドル、香港ドル、シンガポールドル、オーストラリア・ドル、ニュージーランド・ドル、ジンバブエ・ドルなどようにいくつかの国や地域で用いられている呼称であるが、単に「ドル」と言った場合は『アメリカ合衆国ドル』を指す。
概要
アメリカ合衆国ドルは、その信頼性からしばしばアメリカ合衆国の国外でも使われ、特に輸出入など国際的な商取引の決済に多く使用されている基軸通貨である。
アメリカ合衆国ドルの記号は、ドル記号 ($) である。ISO 4217では、アメリカ合衆国ドルのコードはUSDである。1ドルは、100セントである。
現在は、貴金属等との兌換制度は無く、中央銀行である連邦準備制度が発行を管理する管理通貨制度のもとにある。1971年のニクソン・ショックまでは金本位制が続けられていた。1792年の貨幣法(Coinage Act of 1792)以来金銀複本位制であったが、1873年(Coinage Act of 1873)には完全に金銀複本位制が破棄され金本位制となり、1900年には法令で金本位制として1ドル=金20.67グラムが規定された。ただし兌換比率は歴史的に大きく変動している。
第二次世界大戦後しばらくは、主要通貨で唯一の金本位制を維持していた通貨であり、各国の通貨は米ドルとの固定レートにより、1ドル=金35グラム(1トロイオンス)として間接的に金との兌換性を維持していた(ブレトン・ウッズ体制)。その当時に形成された米ドルを基軸通貨とする体制は、金本位制停止および変動相場制導入の後も継続されている。
発行と印刷
先述のとおりアメリカ合衆国ドル紙幣の発券管理は連邦準備制度が集中的に行っているが、法令上、個々の紙幣はアメリカ国内に12行ある連邦準備銀行が個々に発行している。
紙幣製造は製版印刷局と合衆国造幣局によって行われ、1日あたり6億5000万ドル相当の紙幣と硬貨が製造されている。従業員数は合計で5000人を超える。印刷工場はアメリカ国内に2ヶ所ある。
偽造を防ぐ目的で、1ドル紙幣と2ドル紙幣を除く全紙幣のデザインが00年代~10年代に刷新されている。2012年12月31日現在の連邦準備制度の統計によれば、1ドル紙幣の流通量は103億枚、100ドル紙幣は86億枚、20ドル紙幣は74億枚である。
発券銀行
紙幣を発券した銀行がどの連邦準備銀行であるかは、その紙幣に記されたアルファベット記号で判別することができる。アルファベット記号以外の部分はどの発券銀行も額面ごとにすべて同じデザインであり、また発券銀行にかかわらず同一額面ならどの紙幣も等価である。
肖像の小さい紙幣(1・2ドル紙幣と、5ドル以上かつシリーズ1994以前の紙幣)には、肖像の左にアルファベットの記載された丸い部分があり、法令上の発券銀行がこの文字で判るようになっている。
A:マサチューセッツ州 ボストン連邦準備銀行
B:ニューヨーク州 ニューヨーク連邦準備銀行
C:ペンシルベニア州 フィラデルフィア連邦準備銀行
D:オハイオ州 クリーブランド連邦準備銀行
E:バージニア州 リッチモンド連邦準備銀行
F:ジョージア州 アトランタ連邦準備銀行
G:イリノイ州 シカゴ連邦準備銀行
H:ミズーリ州 セントルイス連邦準備銀行
I:ミネソタ州 ミネアポリス連邦準備銀行
J:ミズーリ州 カンザスシティ連邦準備銀行
K:テキサス州 ダラス連邦準備銀行
L:カリフォルニア州 サンフランシスコ連邦準備銀行
肖像の大きい紙幣(5ドル以上かつシリーズ1996以降の紙幣)では、左端のアルファベット(「B2」など)がこれに相当する。また紙幣シリアルナンバー(記番号)11桁のうち左から2桁目のアルファベットも同じことを表している。
印刷工場
紙幣の印刷はアメリカ合衆国製版印刷局が直営する工場2ヶ所で行われている。
ワシントンD.C.工場
フォートワース工場
すべてのドル紙幣には小さな字で原版番号(どの凹版原版を用いて印刷したかを表す記号番号)が2ヶ所ずつ印刷されているが、うち1ヶ所の原版番号で例えば「FWD63」のように、「FW」が付いていればフォートワース工場で印刷された紙幣(前出の画像では1・2・5・10・50ドル)である。「B57」のように「FW」が2ヶ所とも原版番号に付いていなければワシントンD.C.工場で印刷された紙幣(前出の画像では20ドルと100ドル)である。
硬貨
流通硬貨
硬貨として発行されるのは1ドル以下(セント)の通貨であり、アメリカ合衆国造幣局が製造している。
現在発行されている硬貨の金種は、
1セント(Penny、ペニー)
5セント(Nickel、ニッケル)
10セント(Dime、ダイム)
25セント(Quarter、クオーター)
50セント(Half Dollar、ハーフダラー)
100セント(=$1、シルバーダラー)
の6種類である。なお、シルバーダラーというのは1ドル銀貨の呼称で、現在の1ドル硬貨の呼称ではない。
セント硬貨については、主に25セント以下のものが多く使われており、特に公衆電話や新聞などの自動販売機、パーキングメーター、バスの運賃箱、カジノ場のスロットマシン[1]、有料道路や駐車場の無人料金所などに25セント硬貨を複数枚投入するものが多いためか、とりわけ硬貨の中でも25セント硬貨の流通量が非常に多い。アメリカで生活する際は、25セント硬貨の手持ちが少ないと不便を強いられる場合が多い。
日本などのように10・50・100・500などを硬貨の区切りとする感覚からは、10セントの上の25セントは中途半端にも思えるが、10セントと25セントの組合せは、10セントと50セントの組合せよりも、多くの金額に対応可能である(45セントや55セント、1ドル25セントという額が出せる)。
かつてはハーフセント、2セント、3セント、20セントのコインが存在した。ダイム(ハーフダイム)以上は元々銀貨であった。現在は白銅張りの銅貨に変わっているが大きさは変更されておらず、このため、5セント(ニッケル)硬貨の方が10セント(ダイム)硬貨より大きくなっている。造幣局はフィラデルフィア、デンバー、サンフランシスコにあり、硬貨表面または裏面に製造所を表すP、D、Sの鋳造刻印(ミントマーク)が打たれている物が多い。
さらに、以前ではこのほかに本位金貨として、1ドル、2.5ドル(クオーターイーグル)、3ドル、5ドル(ハーフイーグル)、10ドル(イーグル)、20ドル(ダブルイーグル)の硬貨が流通していたほか、記念貨幣として8角形の50ドル金貨や、4ドル(試作-ステラ)等も鋳造された。また、モルガン図案やピース図案の1ドル銀貨(シルバーダラー)もマニアの間で世界的に広く知られている。現在でも、記念コインとして、5ドル金貨や1ドル銀貨が鋳造されることがあるが、これは収集型金貨や銀貨で流通用の物ではない。
本位金貨
金貨は1937年以降は金90%銅10%であり、1834年以降は金貨1ドルにつき23.22グレーン(1.5046g)の金が使用されている。1792年から1834年までは金貨1ドルにつき24.75グレーン(1.6038g)の金が使用されていた[2]。
前述の通り現在は記念コインとして製造されている。
20ドル, 33.436g (金30.093g) 1849年‐1933年
10ドル, 16.718g (金15.046g) 1795年‐1933年
5ドル, 8.359g (金7.523g) 1795年‐1929年
3ドル, 5.015g (金4.514g) 1854年‐1889年
2.5ドル, 4.179g (金3.762g) 1796年‐1929年
1ドル, 1.672g (金1.505g) 1849年‐1889年
1933年の20ドル金貨は759万ドル(約6億3600万円)で落札された事があり大変貴重である。
銀貨
1964年以前の銀貨は1851年から1853年の3セント銀貨を除き1837年以降はすべて銀90%銅10%である。
前述の通り現在は記念コインとして製造されている。
しかし銀貨の一部は現在でも稀に流通している事がある。
1ドル, 412.5グレーン(26.7296g) (銀24.0566g) 1794年‐1935年、1971年‐1975年(Sミントマークのみ銀品位40%)
50セント, 12.5g (銀11.25g) 1794年‐1964年、1965年‐1970年(銀品位40%)
25セント, 6.25g (銀5.625g) 1796年‐1964年
20セント, 5g (銀4.5g) 1875年‐1878年
10セント, 2.5g (銀2.25g) 1796年‐1964年
5セント, 1.24g (銀1.125g) 1794年‐1873年、5.00g (銀1.75g) 1942年‐1945年(銀品位35%)
3セント, 0.8g (銀0.6g) 1851年‐1853年(銀品位75%)、1854年‐1873年(銀品位90%)
1976年の1ドル硬貨、50セント硬貨、25セント硬貨の一部は40%の銀が使用されている。
卑金属貨幣
1ドル, 1971年-1999年(白銅と銅のクラッド)、2000年‐(黄銅)
50セント, 1971年‐(白銅と銅のクラッド)
25セント, 1965年‐(白銅と銅のクラッド)
10セント, 1965年‐(白銅と銅のクラッド)
5セント, 1866年‐1941年、1946年‐(白銅)
3セント, 1865年‐1889年(白銅)
2セント, 1864年‐1873年(銅)
1セント, 1793年‐1942年、1943年(亜鉛鍍金のスチール)、1944年‐1982年(銅)
1982年‐(銅鍍金の亜鉛)
1/2セント,1793年‐1857年(銅)
呼称
語源
ドル(ダラー)という名前は、ドイツで使われた歴史的通貨のターラー () から来ている。ターラーは、16世紀にボヘミアのザンクト・ヨアヒムスタール(現在のチェコ・ヤーヒモフ)という銀の鉱山で鋳造されたヨアヒムスターラー (Joachimsthaler) という銀貨の名前が短縮されてターラーと呼ばれるようになったものである。この銀貨は大型で品位も良く、フローリン金貨と等価として扱われたので、絶対量の不足していたフローリン金貨に代わって広く流通した。この品質の高さで知られた銀貨を指すターラーという言葉が良貨の含意で一般名詞化し広まり、その後、アメリカ合衆国他各地において良貨の意味を込め自国通貨をDollarと呼ぶようになった。
口語表現
米口語ではドルの代りにバック (Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) が使われることも多い。たとえば、"Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead."と言わずに、"Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead."と表現される。"Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead."とは、かつてインディアン(ネイティブ・アメリカン)が白人と取引する際に貨幣の代わりに鹿の皮 (Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) を使ったことに由来する。
また、裏面が緑色であることからドル紙幣のことをグリーンバックス (Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) というが、このバックスは「裏」のこと (Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) であり、日本語訳では「緑背紙幣」と呼んでいる。2014年現在の米ドル紙幣は両面が緑色であるが、かつての緑背紙幣の慣わしから、このように呼ばれている。
他に、口語では"grand"は「1,000ドル」を意味し、たとえば「10,000ドル」を指して"ten grand"と言われる場合がある。
歴史
後にアメリカ合衆国を構成することとなる北アメリカの英領植民地においては、法定通貨は当然ながらイギリスのポンドを採用していたものの、17世紀以降スペイン・ドルが盛んに流通していた。1783年にアメリカ独立戦争が終わりアメリカ合衆国が成立すると、13植民地でばらばらだった貨幣を統一する動きが強まった。1787年9月17日に作成されたアメリカ合衆国憲法の第1条第8項には「貨幣を鋳造し、その価値及び外国貨幣の価値を定め、また度量衡の標準を定めること」との記載があり[3]、これが通貨発行の根拠とされた。これをもとに、アメリカ合衆国財務長官であったアレクサンダー・ハミルトンなどが中央銀行の創設と貨幣の鋳造を訴えた。ただし、特に中央銀行の創設には州権を重視する南部から反対の声が強くあがった。こうした中、1791年には最初の中央銀行として第一合衆国銀行がフィラデルフィアで創設され、1792年にはアメリカ合衆国造幣局が設立された。新たな通貨の単位はポンドではなく、より植民地内において流通量が多くなじみもあったドルが選ばれた。また、ドルはポンドとは違い10進法で設計され、1ドル=100セントとされた。1794年と1795年にはフローイング・ヘア・ダラーが鋳造された。
こうしてアメリカ・ドルは発足したが、特に中央銀行に関しては反対が強く、創設と失効を繰り返した。1791年に創設された第一合衆国銀行は1811年までの20年の免許制であったが、財務長官アルバート・ギャラティンの強い反対にもかかわらず免許は更新されず、同年に消滅してしまった。この結果、同時期に勃発した米英戦争における経済負担の増加にアメリカ政府は耐えることができず経済混乱が起こったので、ジェームズ・マディソン大統領とアレクサンダー・J・ダラス財務長官によって第二合衆国銀行が1817年に創設された。しかしこれも20年の免許制であり、アンドリュー・ジャクソン大統領が存続に反対したことで1836年には免許が失効してしまった。この第二合衆国銀行の縮小と消滅は1837年恐慌の一因となった。また、これ以後中央銀行の再建は長く行われず、個々の銀行等がアメリカ国債や金準備を使ってドル紙幣を発行する状態が長く続いた。
ドルは中央銀行なしで70年以上存続したが、このため通貨供給量の調節に不備が生じ、1907年恐慌を引き起こすこととなった。このため、再度中央銀行の創設が叫ばれるようになり、1913年には連邦準備制度が成立して合衆国に近代的な中央銀行が成立することとなった。このときドルの発行は各市中銀行による発券から、連邦準備制度による集中管理によって各地の連邦準備銀行が発行する現在の形となった。
このときドルは金本位制を取っていたが、1914年に第一次世界大戦が勃発したことにより経済混乱が起き、ドルも金兌換を一時停止し、管理通貨制度へと移行した。しかし第一次世界大戦の終戦とともにアメリカには再び金が流入するようになり、1919年には大国中で最も早く金本位制を復活させた。これはアメリカ経済の相対的な安定を示すものであり、豊かな経済力を背景にドルはスターリング・ポンドとならぶ基軸通貨の地位を徐々に得ていった。このドルの地位の上昇は第二次世界大戦によって決定的なものとなった。スターリング・ポンドを握るイギリスが激しい戦いに巻き込まれる一方、アメリカは本土が戦渦に巻き込まれることがなく、相対的な経済力が著しく向上したためである。この情勢を元に、1944年7月にニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで連合国通貨金融会議が開かれ、ここで締結されたブレトン・ウッズ協定によって金1オンスを35アメリカ・ドルと定めて各国がドルに対し固定相場制を取ることとなった。つまり、金本位制を取るアメリカに各国の通貨がペッグすることで、世界的に間接的な金本位制を取ることとなったわけである。この制度は金・ドル本位制とも呼ばれ、これによってアメリカ・ドルは名実ともに唯一の基軸通貨となった。このブレトン・ウッズ体制の下で世界経済は安定を取り戻し、急速な復興を遂げることとなった。
しかし、戦火によって荒廃していたヨーロッパや日本の復興は、アメリカ合衆国の経済的優位を揺るがし、1960年代に入ると、これら各国へのドルの流出によるドルの地位低下が深刻なものとなった。こうした情勢を受け、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは、1971年8月15日にアメリカ合衆国ドルと金との兌換停止を電撃的に発表し、アメリカ合衆国ドルは金本位制を放棄し、管理通貨制度へと移行した。これは第二次ニクソン・ショック、またはドル・ショックと呼ばれ、ブレトン・ウッズ体制は、これにより崩壊した。
これを受けて、新たな国際通貨体制が模索され、1971年12月18日には、ドルと各国通貨との交換レート改定を柱とするスミソニアン協定が、国際通貨基金の10カ国グループ(G10)の間で結ばれ、固定相場制の維持が図られたが、ドルの価値減少は止まらず、各国は相次いで変動相場制に移行し、1973年にはスミソニアン体制は完全に崩壊した。ただし、こののちもアメリカ・ドルの基軸通貨としての地位は変わらず、世界で最も流通する通貨の地位を保っている。
有事のドル買い
為替相場では「有事のドル買い」と呼ばれ、有事(戦争・紛争など)が起こった場合「国際通貨であるアメリカ合衆国ドルを買っておけば安心である」という経験則がある。
一方でアメリカ本土が攻撃を受けた2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件では、“アメリカと言えど安全ではない、世界の大国ではなくなった”ということで米ドルは下落した。また、それ以降は有事はアメリカの対テロ戦争に繋がっていることが多いため、戦費支出による財政悪化が嫌気され、逆に「有事のドル売り」(円、ユーロやスイス・フラン、地金の高騰)となることがしばしばある。
通貨の一覧
現用貨幣
2014年時点で、支払いがなされている紙幣は以上である。いわゆる「グリーンバック」と呼ばれる紙幣で、このうち、2ドル紙幣以外は多数流通している。1ドルおよび2ドル紙幣は、2世代前のデザインである。全ての紙幣には「Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.」と書かれている。
1ドル紙幣のジョージ・ワシントンの肖像部分に加工をした紙幣もある。これは1967年以降アメリカ合衆国財務省が法的に認めているもので、認定許可された業者により加工される。対象になっているものは、有名人・キャラクター・動物など多岐である。
合衆国国章の図柄は、USドルの紙幣や25¢の裏面に描かれた図柄の元となっている。
2016年4月20日に財務省が発表したデザイン改定決定では、新たな20ドル紙幣の表側肖像を奴隷解放に尽力した黒人女性のハリエット・タブマンとし、ジャクソンの肖像は裏側にまわすこと、5ドル紙幣の裏側にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアを、10ドル紙幣の裏側には女性参政権獲得運動に尽力したら5人の女性の肖像を描くこととされた。具体的な新デザインは2020年に公表するとした[7]。これにより、肖像の人物が全て白人男性で占められていた状況が解消されることになる。
デザイン改定に関する一連の方針はジェイコブ・ルー財務長官によって発表された。しかし、後任のスティーヴン・マヌーチン財務長官は2017年8月のインタビューにて、いずれ議論する必要があると前置きをしつつも、現時点では偽造防止技術の向上などに焦点を当てていると語り、肖像の変更に関する検討が後回しにされていることを示唆した[8]。
以上に現在発行されていない額の高額面紙幣を示す。
金貨証券
金貨と兌換出来るは1928年まで発行されていた。1933年の大統領令()による金の私有禁止にともない、金との兌換ができなくなったのはもちろんのこと、金貨証券の所持も禁止された。1964年の金所持解禁にともない、金貨証券の所持も合法化された。現在では古銭として収集家のコレクションとなっている。
最後の発行シリーズにおける額面は10ドル、20ドル、50ドル、100ドル、500ドル、1,000ドル、5,000ドル、10,000ドル、100,000ドル。このうち100,000ドル証券は連邦準備銀行間の取引にのみ用いられ、一般には流通しなかった[10]。
銀貨証券
銀貨と兌換出来るは1957年まで発行されていた。1964年に銀貨ではなく銀地金との兌換となり、1968年に兌換停止。現在では金貨証券同様に収集品である。
最後の発行シリーズにおける額面は1ドル、5ドル、10ドル、の3種類だが、古くは1,000ドル証券まで存在した。
アメリカ合衆国以外の流通地域
地域としての流通
自国通貨を放棄して代わりにUSドルを使用すること、すなわちUSドルによるを「ドル化政策」(ドラリゼーション、[11])と呼ぶ。ドル化を行う理由には様々なものがあり、アメリカの影響力が強く建国当初から独自通貨を持たないパナマのような国もある。また、インフレーションなどの自国における経済混乱に終止符を打つ最終手段としてそれまで発行されていた自国通貨の発行を停止し、世界で最も多く流通している通貨であるアメリカ・ドルを導入することで強引にインフレを終息させることもあり、特に2000年代以降、エクアドル・エルサルバドルがこの政策を取って自国通貨を廃止した。こうしたドル化には経済混乱の収束のほか、特に小国において過大な負担となりがちな通貨発行に対するコストを削減することができるメリットがあるものの、通貨発行益を失ううえ理論上中央銀行が不要となり、独自の金融政策が不可能となるデメリットがある。
USドルを公に通貨<!--法定通貨として?-->として利用するアメリカ合衆国(本土)以外の地域
アメリカ合衆国の支配地域
グアム、北マリアナ諸島、プエルトリコなどの州やDCに属さないアメリカの領土
アメリカとの自由連合盟約国:ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パラオ
上記以外の地域
エクアドル:2000年、スクレからUSドルに切り替えた。
エルサルバドル:2001年1月より、1USドル=8.75サルバドール・コロンに固定され、USドルも合法的に流通している。
パナマ:常に1USドル=1バルボアに固定されている。バルボア紙幣は存在せず、流通している紙幣は米ドルのみである。硬貨はパナマ発行のセンテシモ(=1/100バルボア。センタボ、セントとも呼ばれる)硬貨と米国発行のセント通貨が等価で併用されている。
東ティモール:独自の硬貨である、東ティモール・センターボ硬貨も発行されている。
ヴァージン諸島(イギリス領)
タークス・カイコス諸島(イギリス領)
イギリス領インド洋地域(イギリス領):UKポンドとあわせてUSドルも合法的に流通している。
BES諸島(オランダ領)
ジンバブエ:ハイパーインフレーションに伴い、2009年以降自国通貨ジンバブエ・ドルの発行を停止、USドルや南アフリカ・ランドなど複数の通貨を公的に使用している。
カンボジア:独自の通貨(リエル)があるが都市部では米ドルが優位に流通している[12]。
香港ドルなどドルペッグ制を採用している国の通貨は、実質的に米ドルと固定相場が保たれているため、米ドル圏ともいえる。
北朝鮮の開城工業地区、金剛山では、その特殊性から、北朝鮮ウォン、韓国ウォンとも使えず、米ドルもしくはユーロ紙幣が流通している。
アメリカ占領下の沖縄では、当初B円という軍票が通貨として使用されていたが、1958年9月から1972年の沖縄返還までは米ドルが公式通貨であった。
より小規模な流通
在日米軍・在韓米軍施設内などで使用が可能であり、沖縄県ほか米軍基地の存在する地域では、一般商店で使用可能なことも多い。それ以外にも訪日外国人旅行向けに「ドル支払い受け付けます」としている店舗もある(ヨドバシカメラなど)が、広範囲の地域の経済通貨として使用されているわけではなく、同様の例は世界中に膨大に存在するため、個々の例示は割愛する。
特筆すべき非流通地域
アメリカ連合国ではアメリカ連合国ドル () が法定通貨だった。
アメリカ植民地時代のフィリピンでは、米ドル1:1固定のフィリピン・ペソが法定通貨だった。
為替レート
脚注
関連項目
為替
為替レート
現行通貨の一覧
ブレトン・ウッズ協定
米国50州25セント硬貨
偽札#ドル紙幣
北米通貨連合(アメロ)
準備通貨
グリーンバックス
ターラー (通貨) - メキシコドル
スーパーノート
外部リンク
- アメリカ造幣局
(in English)(in German)
- UNITED STATES DEPARTMENT OF LABOR(アメリカ合衆国労働省)による消費者物価指数(CPI)インフレーション計算を行うページ。ある年月のドルがどれだけの購買力を持つかを計算する。
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%83%89%E3%83%AB |
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アルバート・W・ワイリー(Albert W. Wily)とは、カプコンのゲーム「ロックマンシリーズ」および「ロックマンXシリーズ」に登場する架空の科学者。通称「Dr.ワイリー」。
人物紹介
『ロックマン』シリーズにおける悪役として登場する人間の科学者。ロックマンの製作者であるDr.ライトとは旧友であったが、ロボットによる世界征服の野望を抱き、それを阻止しようとするロックマンと戦いを繰り広げていくこととなる。
体型や容姿はDr.ライトと逆の要素が多く、太り気味のライトに対して長身で痩せ型、頭髪は頭頂部の辺りが禿げ上がっており頭側面の髪を伸ばしている。
趣味は卓球だが、この卓球においてもライトに敗北した経験がある。恐竜が好きであり、『6』のメカザウルスや、外伝である『ワールド2』や『9』のワイリーマシンなど恐竜をモデルとしたロボットも作っている。また、『2』のエイリアンは子供向け怪獣図鑑のイラストをモデルにしているなど、やや子供っぽい趣味をしていることも伺える。
シンボルマークは、○にDr.とWを組み合わせたデザインで、研究所とワイリーマシンのドクロ部分の額に必ずと言っていい程、マーキングされている。ドクロをあしらったデザインも頻繁に使い、自分の秘密基地(『2』以降)やワイリーマシン(番外編を除いた『4』以降)にこのデザインを必ずといっていい程取り入れる特徴があり(基地はドクロの他にも骨や爪のデザインの建造物も取り入れる傾向が多い)、『8』などでは自身のベルトのバックルもドクロをあしらっている。
世界征服を企み大規模な基地を何度も建造する一方で、新型戦闘用ロボットの製造を始めとする資金繰りに関しては、かなり苦労している様子が多々見受けられ、『5』のジャイロマンやチャージマンやクリスタルマン、『7』のターボマンなどといった低コストで製作したり、資金収集をする事を念頭にしたロボットも多く、『3』のシャドーマンや『5』のスターマンなど地球外の技術を利用したロボットも存在する。自分以外が製作したロボットを利用する事も多く、『1』ではライト博士のロボットを操り、『3』ではライト博士と共同開発し、『4』ではコサック博士の娘カリンカを誘拐してコサック博士が製作したロボットをロックマンと戦わせ、『6』においては世界ロボット選手権に出場していたロボットの内8体を洗脳して使い、『7』と『8』では作業用ロボットを戦闘用に改造し、ロックマン&フォルテでは博物館のロボット(内2体は『8』にも登場したワイリーのロボット)を利用し、『9』ではライトの開発した8体のロボット達をそそのかして暴れさせて、『10』ではロボットエンザに感染したロボットを暴れさせており、『11』では年に1度のロボットの定期健診としてライト博士のもとを訪れていた8体のロボット達を拉致するなど、結果的に『11』までにワイリーが単独で製作したのは全86(ロックマンロックマンとロックマン&フォルテ含むと94体)体中半分にも満たないが、『4』以外の基地のボスは全て彼が作った(『4』の基地のボスの一部はコサック博士が作った)。
生い立ち
Dr.ライトとは、ローバート工科大学電子工学科時代からの腐れ縁である。大学に在籍していた頃のワイリーとライトは、お互いに肩を並べる天才同士であると共に、誰よりもその実力を認め合う良きライバルでもあったが、やがて二人の間に溝が生じ始める事になる。ロボットの平和利用を提案するライトとは対照的に、ワイリーの理論は常に独自性が極めて強く、なおかつ急進的な物ばかりであり、大学の教員たちにとってワイリーは「異端児」とも呼べる存在であった。
大学卒業後は、幾つかのコンテストでライトと競い合う事になるが、やはり周囲からは理解を示されず、ある意味でライトをも上回る天才であったワイリーは、いつも1番の座をライトに取られてしまい、自らは万年2位の座に甘んじざるを得なくなる。
功績
LITマニュアル・デザイン・コンテスト:5年連続準優勝
世界技術大賞:銀賞受賞
ノーブル物理学賞(ノミネート)
ワイリーが2位を獲得したコンテストなどで1位を獲得したのが全てライトである。いずれも世界的に権威のある賞であり、自身の才覚を遺憾なく証明はしていたものの、この屈辱に我慢がならなかったワイリーは、やがてロボットのみに愛情を注ぐようになり、その後ロボット工学会から姿を消す(『ロックマンロックマン』では過激なロボット理論で学会を追放された事になっている)。そして、自らを理解しようとしなかった周囲への復讐として、世界征服を考案し始めた。
そのような状況において、何らかの方法でライト博士が生み出した試作人型ロボット「DRN-000ブルース」がライト博士の元から去ったのを知ったワイリーは、ブルースに接触し彼を戦闘用ロボットへと改造するも、すぐに逃げられた。しかし、ライトの開発した人型ロボットの基礎の解析には成功し、その後、太平洋にてロボット工場を建設したワイリーは本格的に世界征服を実行に移す。しかし、ライトが家庭用ロボットであるロックを戦闘用に改造したロックマンによって、最初の計画は失敗してしまうが、ワイリーは懲りずに世界征服計画を実行に移していく事になり、ロックマンやライトとの因縁も永きに渡り続いた。
学生時代やその後から世界征服を始める以前のライトとの交流については『11』まで詳しく明かされておらず、どのようなロボットの研究や発明を行っていたかは長らく不明だった。漫画作品『ロックマンギガミックス』では作者オリジナルの学生時代が登場し、すでに心の奥底で「ロボットに心を持たせる」ことを夢見ており、そんな折に「力への安全のため、ロボットに心を持たせる必要性」を大学の教授達に問うライトが全く理解されない様子を見て、自分も同様の考えを持つことを明かし、彼と友人となって共同でロボットの人工知能を生み出したとなっていた(この際のデザインは『ロックマンエグゼ』シリーズに登場した若き日のワイリーをモデルにしている)。なお、シリーズ生みの親の一人であり初期設定を担当したA.Kは、この漫画作品を「ライトとワイリーの過去の描写は、自分がイメージしていたものとほぼ同じ」と感心している[1]。
ダブルギアシステム
ライトとワイリーの因縁を窺い知ることができるものの一つとして、「ダブルギアシステム」が挙げられる。これは大学時代のワイリーが「圧倒的なパワーと目にも止まらぬスピードを持つロボットが人間には及ばない驚異の力を誇示することで、ロボットは人々から慕われ、認められる存在になり、全てのロボットがヒーローとなる」という信念の元提案したシステムで、ロボットのパワーとスピードを飛躍的に上昇させる効果を持つ。しかしロボットに大きな負担をかけるだけでなく、悪用された場合人類の脅威になり得る可能性があるとしてライトを始め多くの学者が反対したことで研究は凍結された。この日以降より過激な思想を持つようになったワイリーは後に学会を去り、ライトとも袂を分かった(後にライトは、ワイリーの暴走を止めるつもりが暴走を加速させる結果になってしまったと述べている)。
それから数十年後、あの日の出来事を夢で見たワイリーは、ライトへの雪辱を果たすためにシステムを完成させてライトの研究所を襲撃し、健診に訪れていた8体のロボットを拉致してシステムを組み込んだ(このことが『11』のストーリーの発端となった)。なおワイリーは大学時代にダブルギアシステムの試作機を既に開発していたが、研究を凍結されたことに激怒して床に叩きつけてしまう。その試作機はライトが回収・修理・保管していたが、システムの封印を解いたワイリーに対抗すべくロックマンに組み込んだ。これに対してワイリーは無断で使われたと激怒し、ライトを発明泥棒呼ばわりしている。
性格
目立ちたがり屋でプライドが高い。その一方、非常にしたたかで狡猾な面もあり、ロックマンに負けるや否やすぐ土下座して命乞いをする姿が定番となっており、必要とあらばロックマンやライト博士の人の好さを利用することも厭わない。自分の作ったフォルテからはその点が嫌われ、命令を無視される要因となっている。不仲が表面化した『パワーバトル』以降の彼からは呼び捨て、または「ジジイ」呼ばわりされている。
だがその一方、妙なところでミスをしたり自分の作ったメカに欠陥が多いなど、土下座と共にどこかコミカルな人物として描かれている。またプライドゆえか義理堅い一面もあり、一応ながら生みの親と認め緊急の際には助けに来るフォルテを必要以上に咎めず、『10』のエンディングではロックマン達に命を救われたため、律儀にその借りを返している(番外編ではあるものの、『スーパーアドベンチャーロックマン』でも心の底ではロックマン達を憎からず思っている描写がある)。
このような「どこか憎めない悪役」としての描写がある反面、非道な悪人としての振る舞いをすることもある。『ロックマン&フォルテ』では自らの行動に躊躇するキングを強制的に洗脳し戦わせ、『9』のエンディングでは、ロックマンをその優しさにつけこんで罠にかけ、「お別れじゃロックマン、この城と一緒に死ね!」という言葉まで浴びせている。その執念深さと卑劣さは平和を望む温厚で優しい性格のロックマンをついに激怒させ、ロボットにとって不可侵である「人の命を奪うこと」を実行の寸前にまで至らしめたほどである。
漫画における性格
各漫画家の解釈によって大きく異なる。池原しげとの漫画では、「冷酷な悪の親玉」という側面が強調されており、多くの人命を犠牲にしてでもロックマンやライト博士を倒そうとしたり、「戦闘用ロボットに心など必要がない」「ロボットは世界征服の道具に過ぎない」という発言にその様子が見られる。出月こーじの漫画版では、コミカルな場面が強く、冷酷さもありつつ、どこか憎めない人物である。特に『ロックマン&フォルテ』では、自分の基地が破壊されてしまったことで宿敵のライト博士やロックマンに泣きついたり、居候先のライト研究所でライトットやロールと生活感溢れる衝突を繰り返したり(ライトットの部屋の大半を勝手に自分のエリアにしている)、その描写が強い。しかし、ロールに爆弾付の拘束着を着せさせ、ロックマン諸共爆殺しようとしたり、自分が造ったロボットであるキングに見限られ撃墜されるなど、卑怯さや器の小ささも描かれている。
有賀ヒトシは『ロックマンシリーズ』でお気に入りキャラクターはワイリーであると公言しており、ワイリーを大きく扱った作品が多い。有賀の解釈は、90年代の『ロックマンメガミックス』ではコミカルな場面が多く見られるが、シリアスな展開が多くなるシリーズのストーリー佳境(特に『ロックマンギガミックス』として掲載分)ではそれ以上に「科学者」としての側面を強く描いている。人類に憎悪を向けている(美女は好きなようだが)反面、ロボット全般に注ぐ愛情は強く、捨てられた玩具ロボットを復活させたり、部下であるロボットが窮地に陥っても決して見捨てようとしない、などの行動にその様子が見られる。
「心を持ったロボットを創造した者」としての責任感は誰よりも強く、兵器として生まれたスカルマンだけを封印していながら「ロボットは友人」と語ったコサック博士は偽善だと言い切ったり、修理をためらうライトに激昂して「ロボットに心を持たせた理由を思い出せ」と詰め寄るなど、責任感と矜持を強く持った人物として、作中で見せ場も多い。また、衛星や瞬間移動転送装置を独力で作る、会話をしながら高速でナンバーズの修理をこなすなど、「異能の天才」ぶりも他者に比べ、かなり強調されている。
ワイリーマシン
ワイリーマシン(一部媒体では「ワイリーマシーン」とも)とは、ゲームにおいて最終ボスまたは終盤のボスとして登場する、Dr.ワイリー自身が乗り込み操縦する巨大な戦闘メカのことである。ロックマンに追い詰められたワイリーが自身の技術を集め製作した決戦兵器であり、いずれの作品も非常に戦闘力が高い。各作品ごとに「ワイリーマシン○号(○には作品のナンバリング数が入る)」という名称が付く。
第1作目『ロックマン』では、ロックマンの存在及び基地に潜入して自分の元までたどり着くというのは完全な想定外であり、慌てたワイリーが急造した戦闘メカだったとされている。そのため、後の作品のマシンよりも無骨な外見をしており、自身のUFOをドッキングして乗り込むため脱出装置が無いなど、後の作品とは異なる点が多い。『ロックマン2』以降はロックマンの強さを警戒した上で事前に製作・用意しておいた戦闘メカとなっており、外装などもしっかりしている。前述のように『ロックマン4』以降はドクロを模したデザインになるとともに、マシンを破壊されても戦闘能力を持った脱出装置<b data-parsoid='{"dsr":[5658,5672,3,3]}'>ワイリーカプセル</b>が登場するようになった。このワイリーカプセルは、脱出装置でかつワイリーマシンよりも小型であるにも関わらず、ワイリーマシン以上の強さを持つことが多い。また、作品によっては『5』の「ワイリープレス」や『6』の「Xクラッシャー」のようなマシン・カプセル以外のメカが登場することもある。
ワイリーマシンの多くは飛行メカとなっており、一定の間隔を浮遊移動しながら火器による攻撃を行うというのが主だが、歩行して移動する3号や7号、戦車型の5号、飛行型でも恐竜を模した9号やドクロ繋がりで海賊船のような意匠となった10号など様々なバリエーションがある。『ロックマンワールド』シリーズなど外伝作品では、ナンバリング作品とはまた異なったデザイン・性能のワイリーマシンも製作している。詳しくは各作品のページを参照。『6』以外は弱点となる場所を攻撃しないとダメージを与えられないのが特徴(『6』だけはどこに攻撃してもダメージを与えられる)。
各作品でのワイリー
ロックマンシリーズ
ロックマン、ロックマンロックマン
ライトの生み出した6体(ロックマンロックマンでは8体)の作業用ロボットのメンテナンス中に、密かに外部電波によって自らの思うようにコントロールする為の「ワイリーチップ(別名:悪のチップ)」を組み込み、彼らの暴走を目論む。
自らの思惑通り、ロボット達は各地で暴れまわるが、ライトが家庭用ロボットのロックを改造して誕生させた戦闘ロボット、「ロックマン」の活躍によって、ロボット達の暴走は阻止され、更には自らの潜伏する巨大要塞「ツインピラミッド」[2]にも潜入され、イエローデビルを始めとする防衛システムを突破されたワイリーは、自らの製作した巨大マシーン、通称「ワイリーマシーン」に乗り込み、自ら出撃も、ロックマンの勢いを止められず敗退する。
結局ライトのロボット達を利用した世界征服計画は失敗に終わるが、その後、ブルースやライトの作業用ロボット達のデータを元に、自らのオリジナル戦闘用ロボットを製作しており、後のロックマンシリーズにおいての因縁が生まれたともいえる。
ロックマン2
改心したかに思われたが、懲りずにも今度は、かつてライトの製作した6体のロボット達のデータを元に、自分で8体の戦闘用ロボットを作り、再び世界征服をもくろむ。しかしロボット軍団はすべてロックマンに倒された挙句、基地の侵入まで許してしまい、更にはワイリーマシン2号も破壊され、最後はエイリアンに変身。しかしそれは、遠隔操作ロボットにホログラフを被せたまがい物であり、結局は敗れ去る。なお、この作品で初めて、ワイリーのシンボルマーク及び基地のマップが登場する。
ロックマン3
改心したと見せかけ、ライトと共に平和の為と称して惑星探査用として8体のロボットを製作。更に巨大ロボット「γ(ガンマ)」を作ったが、8体のロボット達を意図的に暴走させ、更には完成したガンマを奪う。最後は自身の基地に潜入したロックマンとそのγで対決したが、またしても倒される。最後は瓦礫に押し潰されて死んだと思われたが、ラストにてUFOで逃げ延びる姿からも解かる通り、存命している。
この作品のみ、一部のステージにDr.ライトとワイリーのシンボルマークが合わさったシンボルマークがある。
ロックマン4
Dr.コサックの娘であるカリンカを誘拐する事で、Dr.コサックを利用してロックマンを倒させようとし、更にはブルースを味方につける。しかし、ブルースの真の目的はカリンカの救出にあり、コサックの居城で対決を迎えたロックマンとコサックの前に現れたカリンカの発言で、自らが真の黒幕だとバレてしまい、自棄になったワイリーは今度は自分の城でロックマンを迎え撃つが、結局はまたしても敗北。城の自爆装置を作動させ、逃亡する。
ロックマン5
度重なるロックマンへの敗因は、ライトによるパワーアップとブルースの妨害にあると考えたワイリーは、変身能力を持つダークマン4号を使ってライト誘拐をブルースの仕業に仕立て上げる。しかし、本物のブルースが登場した事によってライトを誘拐したブルースがニセモノだとバレ、ダークマン4号もまた、ロックマンと対決するものの破壊される。その後は自分の城でロックマンを迎え撃つがまたしても敗北。ライトも取り返され、追い詰められたが、城の崩壊によって落ちてきた天井をロックマンが支えている隙に逃亡する。
ロックマン6
X財団総帥であり、世界ロボット連盟の名誉会長である「Mr.X」なる人物に変装し、ロボット選手権に参加したロボットのうち、最も優秀な8体を奪い、世界征服を企む。しかし、ロックマンにより8体のロボットは倒され、今度はX財団本部にてロックマンをXクラッシャーで迎え撃つが敗北。その後正体を明かし、自らの城でロックマンを迎え撃つが、結局またしても敗北し、遂に逮捕される。
ロックマン7
ワイリーに万一の事が起こった際、起動するようになっていた4体のロボットが破壊活動を開始し、どさくさに紛れて刑務所から逃走。博物館に飾られていたガッツマンを盗み、自身の製作したフォルテにライトの研究所に潜入させてロックマンのパワーアップ設計図を奪わせる。ガッツマンはガッツマンGに改造、設計図はフォルテをスーパーフォルテにするのに使ったが、いずれもロックマンに敗北。ワイリー自身もワイリーマシン7号に乗り闘うも敗北するが、フォルテとゴスペルによって助け出される。
度重なる悪行に怒り心頭に欲したロックマンからチャージ状態のロックバスターの銃口を丸腰状態で向けられ、まさに殺害寸前の事態にまで陥るも彼を説得(ロボット工学三原則の一つ、「ロボットは人間を傷つけてはならない」をロックマンが自らの意志で破ろうとしていることを問い糺した)することで未遂に終わる[3]。
ちなみに、『ロックマン7』ボスキャラ応募告知では彼の服役中の姿のイメージイラストが公開されている(鉄格子にステレオタイプな囚人服を着たワイリーが告知している)。
ロックマン8
宇宙より飛来した謎のエネルギー体「悪のエネルギー」を利用して世界征服を目論むものの、ロックマンやブルース、デューオの活躍によってロボット軍団は壊滅し、自身もワイリーマシン8号に搭乗して戦うものの結局はまたしても敗退。土下座もロックマンに「またそれか!」と呆れられ危機かと思われたが、利用していた悪のエネルギーが暴走した隙をついて逃亡した。また、フォルテも悪のエネルギーを利用してパワーアップするが、同じく敗北を迎えた。
ロックマン9
使用期限が切れ廃棄処分されたDRN(カットマン~エレキマンではない)を唆して暴走事件を起こし、さらにライトの仕業に仕立てて、事件真相の証拠品となるDRNの記録チップも奪取したが、結局はロックマンに負けてチップを取り返される。挙句に、まったく懲りない様子を咎めるべくロックマンに今までの土下座シーンを見せられることになった(この事により、シリーズ最多の土下座シーンが登場する作品となった)。しかし、演技で使用したライト博士に似せたロボットを利用してロックマンを気絶に追い込み、その隙を突いて研究所の自爆システムを作動させ、フェイクマン達と共に逃亡した。ちなみに、窮地の状態であったロックマンはブルースに助け出され、事無きを得ている。
ロックマン10
ロボットに感染する病原体「ロボットエンザ」のワクチンを開発するが暴走したロボット達に奪われ、ライトとまさかの共闘をしたかに思われたが、やはり今回の事件もワイリーが仕組んだもので、ロボットエンザは彼が造り出したものだった。ロックマンとブルース(フォルテモードでは加えてフォルテ)がワクチン開発の装置を取り戻した後に本性を現し、ロールが持っていた試作品以外のワクチンと製造装置を奪い、自分に従うのならばワクチンを提供すると世界中に宣言する。自身の基地にてワイリーマシン10号で戦い、マシンが破壊された後もウイルスを宇宙からばら撒いていた軌道エレベーター頂上に撤退しワイリーカプセルで迎え撃つが、10度目の敗北を迎えた上に、高熱で倒れてしまう(何かの病気だったようだが、詳細は不明。なお、ロボットエンザはロボットしか感染しないのでワイリー自身は感染を否定している)。
だが、ロックマン達に情けをかけられる形で保護され助けられることとなり、後日に病室から脱走して姿を消すが、借りを返すかのように大量のロボットエンザワクチンを置いていった。
ロックマン11
数十年の時を経てダブルギアシステムの封印を解いたワイリーは、年に1度のロボットの定期健診が行われていたライトの研究所を襲撃して8体のロボットを拉致してシステムを組み込んだ。しかしライトがロックマンにもシステムを組み込んだことを知ると激怒し、ロックマンに居城である歯車城に来いと唆す。そしてシステムの粋を凝らしたワイリーマシン11号で戦いを挑むも結局はまたしても敗退。いつものように土下座するがロックマンに「そんなことしたって騙されないぞ!」と言われると開き直り「今回はお前(ロックマン)に負けたんじゃない!ワシの作ったダブルギアシステムに負けたのだ!」と言い放った。その直後ロックマンの後を追いかけてきたライトに罪を償うようにと懇願されるが、これを拒否し「ワシの野望が潰える事はない!ワシのやり方で、貴様(ライト)とロックマンをひざまずかせるまではな!」と言い残して歯車城から脱出した。
ロックマンXシリーズ
ライバルであるライト同様、人間としては既に故人となっている。ゼロの製作者であり、現在も各所で暗躍している様子が伺える。なお、『ロックマンX2』におけるサーゲスの説明文によると、作中の時代では「戦闘用ロボットを創造(つく)り出し世界を恐怖に陥れたマッドサイエンティスト」として知られている。実際に作中でも『ロックマン』シリーズにおけるコミカルなキャラから一転して「冷酷な科学者」という面が強くなっている。一方で手段と目的がすり替わった節も見受けられ、ゼロの夢において彼が「生きがい」と述べたのは復讐や世界征服ではなく彼の敵そのものである。
『X2』でゼロの製作者であることが判明すると共に、ゼロを修理したサーゲスがエックスを「ライトの忘れ形見」と呼んだことからその存在が見え始め、『X4』でゼロ編のムービーで彼のシルエットが登場しているなど、数タイトルにその存在感を匂わせていた。
『X5』では、本格的にその存在を匂わせる展開が多くなっており、シグマの背後にワイリーが協力者として存在している(シグマ曰く「パートナーというより同志」)事が明かされる。また、決戦の場となった「ポイント11F5646」…別名『零空間』は、ワイリーが晩年を過ごしたと思われる秘密基地であった可能性が高く、ステージセレクト画面の紹介の映像ではノイズが掛かっているものの、ワイリー基地の特徴である髑髏状のシルエットが描かれている。ボス戦では背景に巨大な『W』のシンボルマークが描かれていたり、かつてワイリーが開発したイエローデビルに酷似したシャドーデビルが防衛システムになっている等、よりワイリーの基地であった事を匂わせる展開が多くなっている。
『X6』に登場したアイゾックも、サーゲスと同様にワイリーと同一人物であるような言動をしている(声優まで同じだった)。主にストーリー中で破壊されたゼロの強化修復及びゼロの覚醒を目的に行動している。余談ではあるがXシリーズではロボットという単語が死語となり消滅した世界であるが彼はゼロの事を最期までロボットと呼んでおり、エックスの事も「出来損ないのオールドロボット」と罵っている。
なお、『ロックマン&ロックマンXオフィシャルコンプリートワークス』にて稲船敬二は、「『サーゲス=ワイリーなのか?』とよく聞かれる」と発言し、それに対しての答えは曖昧だったが、遠回しながらワイリーとサーゲスは「同一人物かもしれない」という旨を言っていた[4]。ライトと同じように自らをプログラム化しレプリロイドに自身の記憶を移植することで実体化し、ライトのロボットであるエックスを破壊すること、そしてゼロを自分の予定した形へ戻すことを画策しているようである。
この時代におけるワイリー最大の悪行は、自身最後のワイリーナンバーズのゼロに「ロボット破壊プログラム」というワイリー以外の製作したロボット(この時代におけるレプリロイド)への破壊衝動を暴走させ、かつそのプログラムおよび組み込まれたロボットの意識を半不滅的なコンピュータウイルスにする凶悪なシステムを組み込んでいたことである。これによって暴走したシグマ達が人類への反逆を起こし、後の時代で「イレギュラー戦争」と呼ばれる世界を破滅寸前にするほどの戦乱の原因を作ってしまった。
しかし、その破滅はゼロではなくプログラムが移ったシグマが引き起こすこととなり、皮肉なことにシグマが起こした破壊によってゼロはワイリー自身の思惑とは逆の方向(ライトが製作したエックスの親友)に進み、未来を描いた作品においては世界を救った英雄として語り継がれてしまう。ライバルであったライトの意思を継いだプログラムも、ゼロの出自に気付いていたようだが、彼がエックスを支える「友」であり続けて欲しいと願った結果、何の処置もされる事は無かった。最終的に『ロックマンゼロシリーズ』において、ゼロは「エックスが信じているから、彼の信じた人間も守る」としてエックスの意思を代行し、本来のボディであったオメガを自らの手で破壊した挙句、その人格(データ)を受け継いだコピーのボディでさえも、自らを犠牲に最後まで世界を守り貫いて戦いを終わらせるという、ワイリーの思惑とはまったく逆の結果となってしまった。
ロックマンゼクスシリーズ
ファーストネームである「アルバート」の名を冠する人物が登場する。だが、直接的な繋がりについては不詳。
ロックマンDASHシリーズ
第一作に同名の人物が登場するが、関係は不明。
ロックマンエグゼシリーズ
『エクゼ』シリーズ自体が他のシリーズと繋がっていないが、これまでのシリーズとは全くの別人としてワイリーが登場する。ネットワーク犯罪を行う悪の組織・WWW(ワールドスリー)の首領であり、デザインなどはこれまでのシリーズを踏襲しているがモノクルを着用しているなどの差異もある。
元々はニホン国の科学省に所属する科学者であり、ロボット工学の権威である天才科学者である。かつてはその才知を社会発展に使うことを何よりも誇りとし、人格的にも優れていた、科学者の鏡ともいえる存在であった。同シリーズの主人公・光熱斗の祖父である科学者・光正博士(劇中ではすでに故人。『エクゼ』シリーズにおけるライト博士で、名前はライト(Light:英語で「光」)を日本語にしたもの)とは親友同士であり、彼と共に同作のネットワーク社会の基礎を築き上げた(ロボット工学者ゆえにコンピュータやプログラムなどの電子工学にも非常に長けていた)。
だがしかし、それによってニホンおよび世界はネットワーク開発に力を入れるようになり、ワイリーは研究の場を失ってしまう。自分を追いやったネットワーク社会を恨み、失意の中で新たな活動の場を求めていた中、大国アメロッパ(アメリカに相当する国家)の軍から軍事ロボットの開発を行うことを依頼されて、そこで出会った軍人であるバレルの父と親友になる。彼との交流で心は癒され、徐々に憎しみは緩和されていったものの、バレルの父の戦死によって抑えられていた憎しみが爆発、WWWを結成して、ネットワーク社会の破滅を目論み始めた。
社会への憎しみからほとんどの作品で終始悪に徹しているものの、心の奥底ではまだ優しさや良心を失っておらず、非情になりきれない行動や人類へ希望を捨てきっていない様子が各所で見られて、父親を失ったバレルの父代わりとなって愛情を持って育て、彼からは深く敬愛されていた。同時に人格者の面も失っておらず、部下からの人望も非常に厚く、ゆえに優れた人材が彼の下に集まっていた。
最終作『エグゼ6』の最後にて、野望が潰えると共に優しさがまだ残っていることを指摘されて善へと帰還し、同時にようやく憎しみから解放されて改心することができた。その後は、再び社会貢献のために研究を始め、ネットワーク社会の更なる発展に大きく寄与した。
本編シリーズとは異なり家族の存在が判明しており、『エグゼ4』および『エグゼ5』に登場する悪の科学者・Dr.リーガルは実の息子である。リーガルはワイリーが悪に堕ちたのをきっかけに父を嫌い始め、父を捻じ曲げたとして彼もまたネットワーク社会を憎むようになってしまっていた。ワイリーはそれを「自分が原因でリーガルの道を誤らせた」と悔やんでおり、最終的にバレルなどの協力でリーガルを救い、記憶喪失になった一科学者という形で善の道に正している。
登場作品
ロックマンシリーズ
ナンバリング作品
ロックマン(FC)(PS)(Wiiウェア)(iアプリ)(EZアプリ)(S!アプリ)
ロックマン2 Dr.ワイリーの謎(FC)(PS)(Wiiウェア)(iアプリ)(EZアプリ)(S!アプリ)
ロックマン3 Dr.ワイリーの最期!?(FC)(PS)(Wiiウェア)(iアプリ)(EZアプリ)(S!アプリ)
ロックマン4 新たなる野望!!(FC)(PS)(iアプリ)(EZアプリ)(S!アプリ)
ロックマン5 ブルースの罠!?(FC)(PS)(iアプリ)
ロックマン6 史上最大の戦い!! (FC)(PS)
ロックマン7 宿命の対決! (SFC ※ニンテンドウパワーもあり)
ロックマン8 メタルヒーローズ (PS)(SS)
ロックマン9 野望の復活!!
ロックマン10 宇宙からの脅威!!
ロックマン11 運命の歯車!!
番外作品など
ロックマンワールド(GB)
ロックマンワールド2(GB)
ロックマンワールド3(GB)
ロックマンワールド4(GB)
ロックマンワールド5(GB)
ロックマンメガワールド(MD)
ロックマン&フォルテ (SFC)(GBA)
ロックマン&フォルテ 未来からの挑戦者(WS)
ワイリー&ライトのロックボード ザッツ☆パラダイス(FC)
ロックマンズサッカー(SFC)
ロックマン バトル&チェイス(PS)
スーパーアドベンチャーロックマン(PS)
ロックマン・ザ・パワーバトル(アーケードゲーム)
ロックマン2・ザ・パワーファイターズ(アーケードゲーム)
ロックマン バトル&ファイターズ(ネオジオポケット)
ロックマン パワーバトルファイターズ(PS2)
ロックマンロックマン(PSP)
その他の作品
アドベンチャークイズ カプコンワールド (アーケードゲーム) (1989年)
ハテナ?の大冒険(GB) (1990年)
アドベンチャークイズ カプコンワールド ハテナ?の大冒険(PCESCD) (1992年)
アドベンチャークイズ カプコンワールド2(アーケードゲーム) (1992年)
大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL(Switch) (2018年)
アシストフィギュアとして登場。ワイリーカプセルのデザインはロックマン7。
担当声優
青野武
ロックマンシリーズ
ロックマンXシリーズ
梅津秀行
ロックマン11 運命の歯車!!
緒方賢一
ロックマン 星に願いを
坂東尚樹
ロックマンDASH
石森達幸
ロックマン・ザ・パワーバトル、ロックマン2・ザ・パワーファイターズ
長克巳
ロックマンエグゼシリーズ(アニメ版)
備考
第1作目『ロックマン』は当初『鉄腕アトム』のゲームの企画であったため、ワイリーのモチーフは天馬博士である。開発時のキャラクターデザインのモチーフはアルベルト・アインシュタインであったという[5]。
「ワイリー」とは実在する姓だが、Dr.ワイリーの名前のモデルは英語で「狡賢い」を意味する“Wily”から。第1作目の段階ですでに「自分なりの理念があり、完全な悪ではない」というイメージが出来上がっていたため、絶対的な悪人ではないニュアンスから付けられた[1]。
脚注
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東北楽天ゴールデンイーグルス(とうほくらくてんゴールデンイーグルス、English: Tohoku Rakuten Golden Eagles)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。
宮城県を保護地域とし、同県仙台市宮城野区にある楽天生命パーク宮城(公式略記は「楽天生命パーク」「楽天生命」[1])を専用球場(本拠地)としている。
イースタン・リーグ所属の二軍の本拠地は同県宮城郡利府町にある楽天イーグルス利府球場と、仙台市泉区のウェルファムフーズ森林どりスタジアム泉である。
球団名が長いことから通称は<b data-parsoid='{"dsr":[1664,1677,3,3]}'>楽天イーグルス。球団略称は<b data-parsoid='{"dsr":[1683,1693,3,3]}'>東北楽天、法人名は<b data-parsoid='{"dsr":[1698,1713,3,3]}'>株式会社楽天野球団(らくてんやきゅうだん)である。
球団の歴史
球団創立
2004年
6月に明るみに出た大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併に端を発するプロ野球再編問題の渦中、同年9月に日本プロフェッショナル野球組織の加盟料撤廃(代って預かり保証金制度を実施)の決定を受けて、本拠地を神戸とするプロ野球参入の意思を表明。この時点では根来コミッショナーは「参入は時間的に難しい」と述べていた[2]。9月24日に宮城県をフランチャイズ(地域保護権)[3]とする新球団の加盟を申請した。
10月13日、初代監督に田尾安志が就任することが発表される[4]。10月22日に新球団のチーム名を<b data-parsoid='{"dsr":[2916,2936,3,3]}'>東北楽天ゴールデンイーグルス(通称:楽天イーグルス)と発表した[5]。このときライブドアベースボール(呼称:仙台ライブドアフェニックス)も加盟申請を行っていたが、同年11月2日のプロ野球オーナー会議で楽天のみの参入が正式に承認された[6](プロ野球の新規参入球団は1954年の高橋ユニオンズ以来50年ぶり)。新規参入決定後の11月8日、近鉄とオリックスの選手を合併球団「オリックス・バファローズ」と新規球団「東北楽天ゴールデンイーグルス」に振り分ける「分配ドラフト」が行われ、40選手の楽天入団が決定[7]。「ゴールデンイーグルス」の名称は、東北地方の世界遺産・白神山地に棲息する猛禽類・イヌワシに因む。当初は単に「イーグルス」とする予定であったが商標の関係で「ゴールデンイーグルス」となった[注釈 1]。なお、戦前に存在した球団である「イーグルス」とは一切無関係である。
11月17日、新規参入決定後初のドラフト会議に参加。明治大学の一場靖弘を自由枠で獲得したことに加えて、大学・社会人球界から「即戦力」になりうる6名の選手を指名した。さらに、他球団から無償トレードならびに自由契約となった選手を次々と獲得(山﨑武司、関川浩一、飯田哲也等)。また、分配ドラフトでオリックスに指名されたが入団を拒否していた岩隈久志も金銭トレードで獲得している。ドラフト会議で指名した選手のうち、東北に唯一縁のあった5巡目指名の塩川達也(東北福祉大学)は、現役引退後の2018年に一軍のコーチとしてチームに復帰。いわゆる「松坂世代」に当たる6巡目指名の平石洋介(トヨタ自動車)は、現役引退後もチームに在籍したまま、一軍・育成コーチや二軍監督を経て一軍の監督代行を経験し、2018年には楽天の生え抜きとしては初の監督に就任。
チームの新本拠地となる宮城球場は老朽化が著しかったため、楽天側の出資によってプロ本拠地としての使用に耐え得るよう2箇年計画で増改築されることが決まった。その一方で、球場を所有する宮城県は球場の命名権売却を決め、募集を開始した。その結果、人材派遣会社の「フルキャスト」に年間2億円の3年契約で命名権を売却することが決定し、2005年3月、「フルキャストスタジアム宮城(略称:フルスタ宮城)」に改称される。なお、命名権は二軍のチーム名についても売却を予定していたが、こちらの方は契約先は存在していない。
また、チームの練習場・合宿所は宮城球場に程近い宮城野区内にあるJT硬式野球部(2004年休部)の施設(JT球場など)を活用することを検討していたが、交渉がまとまらず断念。仙台市内での育成施設整備は難航を極めた。一方、二軍本拠地については楽天・ライブドアの参入計画が浮上した段階で秋田県と山形県が誘致に名乗りを上げていたが、楽天側は仙台市に近い山形県を本拠地とすることを決め、山形市近郊の東村山郡中山町にある山形県野球場(現:荘内銀行・日新製薬スタジアムやまがた)を使用することになった。その後、練習場・合宿所などは天童市にある山形県総合運動公園内に整備する計画が立案された(整備までの当座の措置として、山形市内の公共宿泊施設を仮の合宿所として使用した)ものの、選手の大半が仙台市近郊に在住し、また当時は選手の一・二軍間の入れ替えが頻繁であったため必要性に疑問が生じ計画は白紙化。仙台市内に育成施設を整備する計画に転換した(ただし二軍本拠地は変更しない)。
新規参入決定直後の秋季キャンプは白地に楽天のロゴが入ったジャージを着て藤井寺球場で行われた[8]。
田尾監督時代
2005年
2月1日の沖縄県久米島での春季キャンプで本格的に始動。2月26日、新大分球場にて球団として初のオープン戦となる読売ジャイアンツ戦が行われ、4対3で勝利した。オープン戦は16試合で7勝8敗1分だった[9]。
3月26日にパ・リーグ公式戦が開幕し、楽天は球団として初の一軍公式戦となる千葉マリンスタジアムで千葉ロッテマリーンズと対戦し、先発の岩隈が完投し3対1で勝利した。球団創立以来一軍公式戦で1試合も戦っていなかった球団が、球団創立以来一軍公式戦で戦った経験のある球団を対戦相手に初戦を勝利したのは、日本プロ野球史上初めてのことであった。
だが、翌3月27日の第2戦は打線がロッテの先発渡辺俊介の前に1安打に抑えられ、2リーグ制開始以降としては最大得点差の0対26で一軍公式戦初敗戦を喫した(当該試合記事参照)。その後4連敗し、4月1日、本拠地初戦となる西武ライオンズ戦では初回先頭打者の礒部公一が岡本篤志からバックスクリーン直撃の球団史上初の一軍公式戦本塁打を放つなど、16対5でチームは開幕戦以来のシーズン2勝目となった。しかし4月15日の北海道日本ハムファイターズ戦から29日の西武戦にかけて11連敗で、勝率が2割を切る[10]。このため、4月30日にGMのマーティ・キーナートをチームアドバイザーに(GMのポストは当面空席)、またヘッドコーチの山下大輔と打撃コーチの駒田徳広を二軍にそれぞれ降格(替わって二軍監督の松井優典と同外野守備・走塁コーチ橋上秀樹が昇格)させるなど、コーチングスタッフを大幅に入れ替えた。
5月6日より、この年から始まったセ・パ交流戦の成績は11勝25敗で最下位に終わった。7月には10勝9敗1分けで球団史上初の月間勝ち越しを記録したものの、8月にはシーズン2度目の11連敗[注釈 2][11]を喫するなどして、8月29日の対日本ハム戦(フルスタ宮城)でシーズン最下位とパ・リーグ全球団への負け越しが決まった。8月中にシーズン最下位が決まったのは1952年における8月20日に決まった近鉄パールス以来53年ぶりであった。9月25日のホーム最終戦(ロッテ戦)終了後、田尾監督のシーズン終了をもっての解任が発表された。最終成績は38勝97敗1分(勝率.281)だった。開幕前からささやかれていた「シーズン100敗」こそ辛くも免れたものの、5位の日本ハムとは25ゲーム差、レギュラーシーズン1位のソフトバンクとは51.5ゲーム差を付けられた。2リーグ制以降の新球団の初年度の成績としては最低の勝率となった[12]。チーム最多勝は岩隈の9勝で、その次は福盛和男の4勝など戦力的に他球団と格段の差があった[11]。分配ドラフトの仕様など、最低限の戦力の保証が一切無かった事が大きく響いてしまった。
田尾監督の後任には南海やヤクルト、阪神などの監督を歴任した野村克也が就任した。
野村監督時代
2006年
弱者の戦略として「無形の力を養おう!」をスローガンに掲げ、チーム力の育成を図った。この年は前年より補強を進め、西武を自由契約となったホセ・フェルナンデス、同じく横浜ベイスターズからセドリック・バワーズ、台湾からは林英傑、元ロッテのリック・ショートを獲得。
オープン戦では初めて主催試合が組まれたが、本拠地フルスタ宮城での開催は前年同様に改修工事実施のため行われず、倉敷マスカットスタジアム、香川県営野球場、静岡県草薙総合運動場硬式野球場の3球場で計4試合が組まれた。
リーグ戦開幕直前には泉区に練習グラウンド・室内練習所・合宿所が完成(家電量販店大手のデンコードーと命名権契約を結び、「デンコードースタジアム泉」と名付けられた。その後2008年3月末を以って命名権を返上している)。イースタン・リーグ公式戦では使用せず、練習専用施設として使用されるようになる(ただし、アマチュアの社会人チームとの練習試合で使用されることはある)。練習グラウンドと同敷地内に設けられた合宿所は「泉犬鷲寮」と命名された。
3月25日の開幕戦の日本ハム戦(札幌ドーム)は岩隈が故障のため、前年2勝止まりだった一場が開幕投手を務めるが敗れ、開幕5連敗の後、31日の福岡ソフトバンクホークス戦(フルスタ宮城)でシーズン初勝利。交流戦では5月25日のヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)でリック・ガトームソンからノーヒットノーランを喫した[10]。最終成績は17勝19敗で7位。後半に入ると、8月20日のオリックス戦(スカイマークスタジアム)でリーグ戦初の同一カード3連勝。9月以降の成績を9勝10敗1分としたものの、9月23日の西武戦で開幕から5位以上となることなく[11]2年連続最下位が決定[10]。最終成績は47勝85敗4分で5位のオリックスとは4.5ゲーム差の最下位。ホセ・フェルナンデスが球団初のタイトルとなる、ベストナイン(三塁手)を獲得。
9月25日に行われた高校生ドラフトでこの年の夏の高校野球準優勝校・駒大苫小牧の田中将大を1巡目で指名した。日本ハム、オリックス、横浜との競合の末、抽選で交渉権を獲得し、入団している。
2007年
3月24日の開幕戦のグッドウィルドームの西武戦で岩隈が2年ぶりの開幕投手を務めたが敗戦。翌25日の第2戦は2年目の青山浩二で勝利するが、その後4連敗。4月1日のオリックス戦(フルスタ宮城)では3回裏にフェルナンデスと山﨑がそれぞれ満塁本塁打を記録(1イニング2本の満塁本塁打は日本タイ記録)。同17日から19日のソフトバンク3連戦では初のホーム3連勝している。5月には、山﨑が球団初となる月間MVPを受賞。
7月2日にオールスター戦で8選手がファン投票で選出され[10]、田中、松本輝(故障により出場辞退)、福盛和男、嶋基宏、高須洋介、鉄平、礒部、山崎と楽天の選手が占めた。しかし、実力が伴っているか否かに関係なく選ばれたため、監督の野村克也は中間発表時点で「オールスターじゃなく、オールスターダストや」と苦言を呈し、この年の全パ監督を務めた日本ハムの監督のトレイ・ヒルマンも「ファンのマナー違反だ」と発言した。
8月は月間15勝。9月も好調を維持し、初の2カ月連続勝ち越し。29日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)で3年目にして球団史上初の最下位脱出を決め[10]、最終的には67勝75敗2分(勝率.472)で3位のソフトバンクにも7.5ゲーム差の4位。対ソフトバンク、オリックス戦では初の球団別シーズン対戦成績で勝ち越している。総得点575(2位タイ)、総失点676(6位)と打撃陣がチームを牽引したシーズンだった。山﨑が球団初の打撃部門タイトル獲得となる43本塁打108打点の成績で本塁打、打点の二冠王となり、田中が球団初の新人王を獲得。
楽天のホーム最終戦翌日の10月5日、フルキャストとの命名権契約解消で本拠地の名称が元の「宮城球場」に戻り、日本製紙が本拠地・宮城球場の命名権を取得。1月1日に「日本製紙クリネックススタジアム宮城(略称:Kスタ宮城)」と改称(その後、同社の不祥事が発覚。命名権契約解消は免れたが、ペナルティとして社名を削除。2月15日付で「クリネックススタジアム宮城(略称は変わらず)」に再改称した)。
2008年
スローガンは「Smart & Spirit 2008 考えて野球せぃ!」。
3月20日の開幕戦のソフトバンク戦(ヤフードーム)では9回裏に逆転サヨナラ3ラン本塁打を打たれて敗れ開幕から4連敗するが、その後7連勝で4月3日のロッテ戦(Kスタ宮城)で球団史上初の単独首位に浮上(2日後に首位陥落)。交流戦では初の勝ち越し(13勝11敗)[10]。6月までは好調を維持したが、7月は24試合で5勝17敗2分と大きく負け越し。シーズン途中で前日本ハムのフェルナンド・セギノールを獲得し、打線強化を図る。だが8月以降も岩隈が奮闘するものの負けが込む。シーズン最終戦となる10月7日のソフトバンク戦(Kスタ宮城)において延長12回にサヨナラ勝ちし、最下位を脱出。65勝76敗3分の5位に終わった。チームの総得失点差は+20で、球団初のプラスとなった。また、チーム防御率も初の3点台でパ・リーグ3位、チーム打率は12球団トップだった。岩隈が21勝を挙げ投手三冠王を獲得パ・リーグMVP、沢村賞、ベストナイン(投手)に選ばれている。そしてセギノールも低迷するチームの中で大きく奮闘した。
シーズン終了後、3年契約が切れることになっていた野村の監督に於ける契約延長が決定。翌年も引き続き楽天を指揮することになった。また、オフには巨人から小坂誠を金銭トレード、中日からは中村紀洋をFAで獲得。小坂は球団初の宮城県出身選手、中村は球団初のFA加入選手となった。
2009年
スローガンは 「Smart & Spirit 2009 「氣」~越えろ!~」。
1月にメジャーリーグベースボールのオークランド・アスレチックスとの業務提携を開始した。WBC開催に伴い公式戦開幕が4月3日に設定されたため、初めて本拠地(Kスタ宮城)でオープン戦を開催(3月23日のオリックス戦と翌24日の西武戦)。
4月3日の開幕戦の日本ハム戦(札幌ドーム)から4連勝[13]で4月15日まで首位に立ち、一端首位から落ちたものの[11]初めて4月を首位で終え[14]5月11日まで首位だったものの[11]、交流戦では6連敗するなど最終的には9勝15敗の10位。打線の軸として期待された中村紀やセギノールも開幕から低迷し、二軍落ちするなどの誤算もあり7月も8連敗するなど低迷は続く。しかし、8月以降の3カ月で38勝21敗と勝ち進み9月12日のソフトバンク戦では球団史上初となるクライマックスシリーズ進出のマジックナンバー19が点灯し[15]、10月3日の対西武戦(Kスタ宮城)で球団史上初のCS進出かつ、初のAクラス入りを決めた[16]。同9日の対オリックス戦で勝利し、リーグ2位が確定し[17]、CS第1ステージ地元開催権を獲得。最終的には77勝66敗1分(勝率.538)と初のシーズン勝ち越しを決めた。投手陣では3人の投手(岩隈、田中、永井怜)が二桁勝利を挙げた。
10月12日、野村は球団から監督退任を通告される[11]。10月16日から行われたCSの第1ステージはKスタ宮城でソフトバンクと対戦し2連勝で第2ステージ進出[18] するものの、札幌ドームでの日本ハムとの第2ステージは第1戦では最終回に4点リードを守り切れず、逆転サヨナラ負け[19]。第4戦に敗れ通算1勝4敗で敗退[20]。CS終了後、野村は契約期間満了に伴い退任[21]。
後任の監督に、この年まで広島東洋カープ監督を務めたマーティ・ブラウンが就任。野村は、翌年3月16日に就任要請を受けていた球団名誉監督に正式に就任している(期間は3年)[22]。
ブラウン監督時代
2010年
スローガンは「Smart & Spirit 2010 Eagle Fire! 」。(鷲が強い情熱を持って突き進んでいく)。
3月20日、開幕戦のオリックス戦(京セラドーム)に1対0で敗れ[23]、その後チームは4連敗[24]。交流戦は12チーム中第5位(3位と同率も前年度順位が考慮された)となったが、この年の交流戦は上位6チームをパ・リーグが独占。そのためリーグでの順位が浮上することはなかった。交流戦終了後は負けが込むようになり、6月26日の対ソフトバンク戦で単独最下位になって以降は1度も順位を浮上させることができず[10]、9月19日に4年ぶりのリーグ最下位が確定した[10]。開幕から1度も勝率を5割に乗せることができず、最終戦績は62勝79敗3分で優勝したソフトバンクとは15ゲーム差、5位のオリックスとは7.5ゲーム差。ホームゲームの平均観客数も前年より1000人近く減少。こうした事情から球団は9月29日のシーズン最終戦終了後、ブラウンの監督解任を発表[25]。
ブラウンの後任に、中日ドラゴンズ、阪神タイガース元監督で阪神シニアディレクターの星野仙一が就任した[26]。
星野監督時代
2011年
メジャーリーグ経験者の岩村明憲や松井稼頭央を獲得。また、ポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ移籍を表明していた岩隈も入札で独占交渉権を獲得したオークランド・アスレチックスとの交渉が決裂し、球団に残留。キャプテン制度導入に伴い、鉄平が球団初代キャプテンに就任した。チームスローガンは「Smart & Spirit 2011 真っすぐ」。
当初、3月25日のKスタ宮城でのロッテ戦で創設以来初の本拠地開幕戦を迎える予定であったが、3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)でKスタ宮城が損壊したことにより、開幕戦が延期となった。この日、チームは兵庫県立明石公園第一野球場でロッテとのオープン戦の試合中で、選手は全員無事であった[27]。13日に練習再開[28]、17日までオープン戦を行わず、18日に震災発生以来初めて中日とオープン戦を行い[29]、関西などを中心に開幕までの練習を行い[30]、試合後などには球場や街頭などで募金活動を行っている[31][32][33]。4月2日・3日には12球団によるチャリティー試合が行われ、楽天は札幌ドームで日本ハムと対戦している。このとき嶋基宏が、「見せましょう野球の底力を」とスピーチした。4月7日に震災以来チームとして初めて仙台に戻り、27日目の仙台入りに星野監督は「遅くなってすみませんでした。ごめんなさい」と訪れた避難所で謝罪している(この真っ最中にも強い余震が起きた)[34]。4月11日にはフアン・モリーヨが震災で精神的な打撃を受けたとして球団に退団を申し入れ、了承された[35]。
一方で、地震の影響でKスタ宮城に照明塔など47箇所の損壊が認められ[36]、修復工事が必要となったことから、一時的に関西で主催試合を代替で行うことになった[注釈 3]。この年のセ・パ両リーグの開幕日は4月12日に延期。同日の開幕戦はQVCマリンフィールドでの対ロッテ戦[37]、主催試合初戦は同15日からの阪神甲子園球場[注釈 4]での対オリックス戦[38]。そして、本拠地・Kスタ宮城での初戦は宮城県が「震災復興キックオフデー」とした同29日の対オリックス戦となり[39]、いずれも勝利した。
4月を9勝6敗で2位で終えたが5月は7勝14敗2分と負け越し、岩村や鉄平が打率1割台で低迷、岩隈が18日離脱した事が原因とされ、18日には5位、翌6月4日には最下位となっている。交流戦も9勝13敗2分の9位と低迷した。一方で田中が6、7月に連続して月間MVPを受賞するなどの活躍もあり、7月には永井怜が故障で離脱したものの、岩隈が復帰、ダレル・ラズナーが抑えに転向し5セーブ、新人の塩見貴洋が2勝を挙げるなどもあり、12勝10敗1分と勝ち越す。8月、前半に7連敗するも、後半に球団タイの7連勝もあり勝ち越す。しかし9月は8勝14敗と失速し、終盤までクライマックスシリーズ進出争いには加わったものの10月13日に進出の可能性がなくなり[10]、最終的に66勝71敗7分、首位のソフトバンクと23.5ゲーム差、3位の西武と3ゲーム差の5位となった。統一球の影響もあり、本塁打は球団最少の53本で、7月から8月にかけ17試合連続で無本塁打の球団ワースト記録。ヤフードーム(11試合)と札幌ドーム(8試合)においてはそれぞれ本拠地球場となってからはパ・リーグ球団初の本塁打0に終わっている。田中が最多勝、最優秀防御率、最多完封の三冠王とベストナイン及びゴールデングラブ賞の投手部門を獲得した。なおこの年は、山崎が戦力外通告を受け退団している[40]。
2012年
1月、岩隈がMLB・シアトル・マリナーズにFA移籍した。
チームスローガンは「Smart&Spirit2012 ともに、前へ。」。
3月30日、球団初の本拠地開幕戦となるロッテ戦が行われたが、3対5で敗れている[41]。交流戦は10勝14敗で9位。オールスター直前までの前半戦を40勝38敗3分の3位として、球団初のAクラス、勝率5割以上で折り返すが、後半戦に入り8連敗を記録するなど順位を下げる。9月を勝ち越して終盤までソフトバンク、ロッテとクライマックスシリーズ進出争いを展開するが、10月4日の139試合目の対西武戦(Kスタ宮城)で引き分けて[42]Bクラスが確定した。最終戦のロッテ戦(Kスタ宮城)に勝利[43]し、67勝67敗10分で、首位の日本ハムと7.5ゲーム、3位のソフトバンクと1ゲーム差の4位に終わるが、3年ぶりにシーズン5割以上の成績を残した。
8月1日付で元球団会長の三木谷浩史が球団オーナーに復帰し、球団社長には証券会社勤務だった立花陽三が就任した[44]。
シーズンオフにはMLB・ダイヤモンドバックスからFAとなった斎藤隆を獲得し[45]、岩村明憲に戦力外通告[46]。また、現役メジャーリーガーのアンドリュー・ジョーンズとケーシー・マギーを獲得したことが発表された。野村名誉監督も任期満了で同職を退任した[47]。
2013年
チームスローガンは「Smart & Spirit 2013 HEAT!」[48]。
開幕投手と見られた田中がWBCでの疲れから辞退したことで[49]、開幕戦のソフトバンク戦(ヤフオクドーム)は則本昂大が新人投手としてはパ・リーグ史上55年ぶりの開幕投手となるが1対7で敗れている[50]。4月27日の西武戦(西武ドーム)に9対2で勝利し、球団通算500勝を達成[51]するが、序盤から5割前後の成績で4月を9勝13敗と負け越し[52]、5月3日には借金が4になるが[10]、その後は勝ち星を伸ばし、交流戦はソフトバンクと優勝を争ったものの[53]、0.5ゲーム差の2位に終わった。7月4日に首位のロッテに勝利し、6月以降では球団初の同率首位に並ぶと[54]7月6日に単独首位に浮上[55]、前半戦をそのまま首位で折り返し[56]、以降は首位を明け渡すことはなく[12]。8月28日に球団史上初の優勝へのマジックナンバー28が点灯した[57]。その後9月1日にはマジックが消滅するものの、9月5日に再点灯し[12]、9月22日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に15対1で勝利し、4年ぶり2度目の2013年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ進出が決定し[58]、翌9月23日の同戦で球団新記録のシーズン78勝とした[59]。そして優勝へのマジック2で迎えた9月26日、マジック対象チームのロッテが対日本ハム戦(札幌ドーム)で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)で4対3で勝利したことで、楽天球団初のパ・リーグ優勝が決定した[60]。球団創設9年目での優勝は日本プロ野球史上5番目のスピードでの達成[12]。
クライマックスシリーズファイナルステージ(Kスタ宮城)では3位のロッテと対戦し、4勝1敗で日本シリーズに初めて進出[61]を決めた。巨人との2013年の日本シリーズでは、3勝2敗で王手をかけた第6戦で2対4で敗れ、先発の田中がこの年シーズンから通じて初めての公式戦で敗戦投手[注釈 5][62]となりタイとされるが、11月3日の第7戦(Kスタ宮城)に3対0で勝利し、4勝3敗で初出場で初の日本一を達成した[63]。同月、台湾で開催されたアジアシリーズでは、11月19日の準決勝の対統一セブンイレブン・ライオンズ戦(台湾・中華職業棒球大聯盟)に1対4で敗れたため、日本からの出場チームでは初めて決勝に進めなかった[64]。
田中が8月に開幕からの公式戦連勝と、前年8月26日からの公式戦連勝の日本プロ野球新記録を樹立[65]、シーズン後にはこれらの記録とポストシーズンの2勝を含めた30連勝がそれぞれギネス世界記録に認定された[66]。24勝0敗1セーブで日本プロ野球史上初のシーズン無敗での最多勝を達成[67]、最優秀防御率と勝率第1位も獲得し、沢村賞[68]、MVPを獲得した。チームからはゴールデングラブ賞は3人[69]、ベストナインには4人がそれぞれ選出、新人王に則本が選出された[70]。11月24日、優勝パレードが仙台市内中心部で行われ、約21万4千人の観衆を動員した[71]。
2014年
スローガンは、「Smart & Spirit 2014 HEAT UP!」。
1月23日、田中がポスティングシステムでMLBニューヨーク・ヤンキースに移籍[72]。5月26日、星野監督が腰痛のため、対ヤクルト戦(神宮)で休養し、投手コーチの佐藤義則が指揮を執った[73]。翌27日に腰椎椎間板ヘルニアおよび胸椎黄色靱帯骨化症と診断された星野監督の休養と、佐藤投手コーチが監督代行をつとめることが発表された[74]。7月2日、監督代行に大久保博元二軍監督がつき、佐藤は一軍投手コーチに専念することになった[75]。7月24日より星野が監督に復帰[76]するが、チームは低迷し、9月6日にはリーグ優勝の可能性が消滅し[77]、9月18日に星野監督が退任を発表[78]、9月29日にはBクラスが確定[79]、10月7日の対オリックス戦(コボスタ宮城)に敗れ、最下位が確定した。なお前年優勝チームの最下位は前年の日本ハムに次いで史上5度目[80]。10月14日、次期監督に大久保二軍監督の就任を発表した[81]。
8月、コボスタ宮城の全面増築が完成、先行完成(3月)した楽天山観覧席と、8月に完成した3塁側上段の増設席を合わせ28,907人収容となった効果もあり、8月30日・ソフトバンク戦において、レギュラーシーズン・ポストシーズンを通して当球場歴代最多となる25,308人を集客[82]したのを皮切りとして、観客動員記録を次々更新。最終的には1,450,233人(1試合平均単位で20,142人)の球団新記録を達成した。このうちコボスタ宮城に限れば67試合で1,350,293人(1試合平均20,153人)をマークした。[83]
大久保監督時代
2015年
チームスローガンは、「Smart & Spirit 2015 一致団結」。
前年まで監督を務めた星野がシニアアドバイザーに就任する一方で、2013年から4番打者として君臨していたアンドリュー・ジョーンズが退団。ジョーンズに代わる現役メジャーリーガーとして、ヤンキースからゼラス・ウィーラー、ピッツバーグ・パイレーツからギャビー・サンチェスを獲得した。シーズン開幕直前には、前年にオリックスの主力として活躍したウィリー・モー・ペーニャも獲得することで、打線に厚みを増させた。投手陣は、抑えの切り札として広島東洋カープからキャム・ミコライオを獲得したほか、2013年まで在籍していたレイとハウザーが復帰。ドラフト会議では、高校生ながら最速で157km/hを記録した右腕投手の安樂智大を1巡目指名で獲得した。
開幕以来なかなか波に乗ることができず、ソフトバンク・日本ハム・西武の3強の後塵を拝する状態が続いた。交流戦では全18試合のうち2点差以内は15試合、延長戦は5試合と粘り強く戦い、10勝8敗の4位で終え2年ぶりに勝ち越した[84]。交流戦のチーム防御率2.47は12球団トップであった。交流戦以降はロッテと4位・5位を争い、前半戦を5位でターンした。後半戦に入り、7月22日の日本ハム戦で1試合の最多得点での球団新記録となる19得点を記録したが、7月30日に田代富雄一軍打撃コーチが退任した。シーズンの途中でハウザーが再び退団したことからトレードおよび新外国人選手獲得期限日の7月31日には、アガスティン・ムリーロを獲得している。しかし、8月25日のオリックス戦に敗れたことで最下位に転落した[85]。その後は一時5位に浮上したものの、8月28日の西武戦に2-3で敗戦。この敗戦によって自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅した[86]ことから、大久保監督が辞任の意向を示した[87]。その一方で、9月7日には、星野前監督が取締役副会長に就任することを球団が発表された[88]。星野球団副会長は、「球団の編成・ドラフト戦略・経営にも関与できる現場の総責任者」という立場で、三木谷オーナー・立花社長に次ぐ権限を有するようになった[89]。9月22日のロッテ戦に敗れてクライマックスシリーズ進出の可能性が完全に消滅し、2年連続のBクラスも確定したため、大久保監督は同日に成績不振の責任を取って監督を退任することを正式を発表した[90]。終盤はオリックスと5位の座を争ったが、10月3日の対ロッテ戦に敗れたため2年連続での最下位が決定した[91]。シーズン通算では57勝83敗3分(勝率.407)という成績でパ・リーグの全チームに負け越した。チーム打率、防御率、得点はいずれもリーグ最下位で失点もリーグ最多を記録。その一方で、主催試合のシーズン通算観客動員数は歴代最多の1,524,149人に達した。
なお、球団創設メンバーで唯一の現役投手・小山伸一郎、地元・仙台出身でチーム最年長選手でもあった元メジャーリーガー・斎藤隆、入団以来長らく先発陣の一角を担ってきた永井怜などがこのシーズンを以って引退。
シーズン終了後の10月8日、大久保の後任として近鉄・日本ハムの監督を歴任した梨田昌孝の監督就任を発表[92][93]。
2015年シーズンは「チームとフロントの一体化」であるとしてオーナーである三木谷がスタメン、打順、さらには一・二軍の入れ替えなどを指示することが多かった。しかしシーズン後半には現場の意見も取り入れるようになってきてそれをオーナーが決裁を出す形となった。オーナーの現場介入は打撃コーチである田代富雄がこれを許せないとしてシーズン途中で退団するなど批判の声があがっている[94]。
梨田監督時代
2016年
チームスローガンは、「Smart & Spirit 2016 夢と感動」。
2年続けて最下位に陥るほどの低迷から脱却するために大型補強を敢行した。ここ2年固定できなかった三塁手を補強すべく、千葉ロッテマリーンズからFA権の行使を宣言していた今江敏晃と契約した。また、かつて広島東洋カープの主力打者だった山形県出身の栗原健太内野手、千葉ロッテマリーンズから戦力外通告を受けていた川本良平捕手、中日ドラゴンズを退団した山内壮馬・福岡ソフトバンクホークスを退団した金無英両投手を入団テスト経由で契約。外国人投手では、先発・リリーフ両方に対応できるラダメス・リズやジェイク・ブリガムを獲得したほか、WBSCプレミア12の台湾代表に選出された宋家豪と育成選手契約を結んだ。さらに、メキシカンリーグ二冠王のジャフェット・アマダー内野手と、MLB通算162本塁打の実績を誇るジョニー・ゴームズ外野手を獲得した。
2月1日から、楽天Koboスタジアム宮城の短縮表記を「コボスタ宮城」から「Koboスタ宮城」に変更し、5月には社会人・大学・クラブチームと対外試合を年に30戦程度実施することを前提に、若手選手の実戦経験を増やす目的で球団内に「育成チーム」を編成した。
公式戦では、茂木栄五郎を開幕から内野のレギュラーに抜擢するなど新人選手を積極的に起用した。ドラフト1巡目入団のオコエ瑠偉も高卒新人野手では球団史上初の開幕一軍入りを果たすと、セ・パ交流戦期間中から正中堅手に定着した。正捕手の嶋が故障で戦線を離れた5月下旬からはドラフト6巡目入団の足立祐一にスタメンマスクを託した。その一方で、新外国人のゴームズは18試合で打率1割台・本塁打1本にとどまり4月22日に一軍登録を抹消され帰国・退団したほか[95]、パ・リーグの最年長選手だったレイも成績不振を理由に退団した。オープン戦の序盤に負傷したアマダーは5月下旬に公式戦デビューを果たしたものの、以降も再三にわたって故障で戦列を離れた。さらに今江・銀次・松井稼頭央などの主力打者も故障や打撃不振などで一軍と二軍を往復した。このため、7月には球団史上初めてのキューバ出身選手としてフェリックス・ペレス、シアトル・マリナーズ時代にイチローとチームメイトだったカルロス・ペゲーロ(いずれも左打ちの外野手)を相次いで獲得した。
序盤に一時首位に立つも、その後順位は急降下し4位に沈んだ。交流戦では11勝7敗の4位と健闘したが、リーグ戦の再開後はソフトバンク・日本ハム・ロッテの後塵を拝する状況が続いた。終盤には順位で西武にも抜かれ5位に転落した。9月29日のオリックス戦に勝利したことでオリックスの最下位が確定したため、チームは3年振りに最下位を脱出し[96]5位でシーズンを終えた。西武に対しては、球団史上初めてシーズンの勝ち越しを果たした。
シーズン終了後には、球団創設時から楽天に所属している最後の現役選手であった近鉄出身の牧田明久や、2007年の大学・社会人ドラフト会議1巡目指名で入団した長谷部康平、後藤光尊、栗原、川本、山内などが現役を引退した。外国人選手では、リズ、ブリガム、ペレスが相次いで退団したほか、前年の故障からセットアッパーとして復活したミコライオとの残留交渉が不調に終わった(ミコライオは、後に退団した)。
2017年
チームスローガンは、「Smart & Spirit 2017 東北・夢・再び」。
前年10月31日付で楽天が宮城球場の命名権に関する3年契約を締結したことに伴って、1月1日付で本拠地の呼称を「Koboパーク宮城」に変更した。同月16日には、星野球団副会長が監督時代の実績を買われて野球殿堂顕彰者(エキスパート部門)に選ばれている。
外国人選手については、ウィーラー・アマダー・ペゲーロが揃って残留する一方で新たにフランク・ハーマン投手と契約を結んだ。レギュラーシーズン中の6月には、BCリーグの富山サンダーバーズからジョシュ・コラレス投手を獲得している。日本人選手では、西武からFA権の行使を宣言していた仙台市出身の岸孝之投手やソフトバンクからのコーチ就任要請を固辞して退団した青森県出身の細川亨捕手と契約。ドラフト会議では、1巡目の藤平尚真をはじめ支配下登録選手としての指名を経て入団した10人中9人を投手が占めた。さらに、一軍を経験していなかった柿澤貴裕外野手との交換トレードで、巨人から小山雄輝投手が移籍した。春季キャンプ中には、前年10月にDeNAから戦力外通告を受けていた元・巨人の久保裕也投手を、入団テスト経由で獲得している。
その一方で、レギュラーシーズンの開始前に催された2017 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)には、則本と松井裕樹が日本代表、アマダーがメキシコ代表として出場し、当初は嶋も日本代表に選ばれていたが、春季キャンプから右ふくらはぎの張りで調整が遅れたため本大会の直前に出場を辞退した。さらに則本は、WBC出場の影響で入団以来初めて開幕投手を外れた。
公式戦では、ウィーラー・アマダー・ペゲーロを同時にスタメンへ起用することを前提に1番に茂木・2番にペゲーロ・5番に銀次を据えた攻撃型の打線でスタートした。開幕投手には、岸が内定していたが開幕直前にインフルエンザB型へ感染したため、対戦相手であるオリックスとの相性の良い美馬学が初めて起用された。また、新人投手の森原康平・高梨雄平・菅原秀が中継ぎ要員として揃って開幕一軍入りを果たした。このような状況で開幕を迎えたにもかかわらず、開幕戦からの4連勝でスタートダッシュに成功する。パ・リーグの首位に立つと、4月を16勝5敗の勝率.761、5月を16勝7敗の勝率.696で終えた。この間には3連敗が1度もなかった。さらに則本は4月19日の西武戦から8試合連続で2桁奪三振(NPB新記録および世界プロ野球タイ記録)を達成した。
則本と共に先発陣を構成する美馬・岸や、クローザーの松井裕も好調で、ハーマンと共にセットアッパーを務める福山博之は、開幕戦から36登板試合連続で自責点を0に凌いだ。
5月以降はソフトバンクとリーグ戦で首位争いを展開した。交流戦ではソフトバンクが優勝したものの、3連敗を2度経験しながら10勝8敗の5位で終了した。6月28日にははるか夢球場(弘前市運動公園野球場)でオリックス戦を開催。球団創設13年目にして球団の主催による青森県内での一軍公式戦が初めて実現するとともに、地方球場に強い辛島航が先発で白星を飾った。この試合によって日程上は東北全6県での開催が実現したが、4月13日に福島県のヨーク開成山スタジアムで予定されていた西武戦が降雨で中止になったため、実公式での全県開催は2018年以降に持ち越された。結局、6月の通算成績は12勝9敗1分の勝率.571であった。
7月には2日にソフトバンクに敗れたことでソフトバンクとのゲーム差が−0.5ゲーム差となり、前年のソフトバンクに続き2位とのゲーム差がマイナスでの首位となる事象が発生した[97]。7月7日にシーズン初めてソフトバンクに首位を明け渡すが、2日後には首位に再浮上した。前半戦最後のカードであったソフトバンクとの首位攻防2連戦で2連勝したため、4年振りに前半戦を首位で折り返した。しかし、その一方で交流戦の終盤から主力選手に故障者が続出し、茂木・藤田一也・ペゲーロ・岡島豪郎・松井裕・今江が相次いで戦線を離脱した。NPBレギュラーシーズン中のトレード期限が迫っていた7月下旬には、このような事情を背景に2015年までロッテの主力打者だった巨人のルイス・クルーズ内野手を金銭トレードで獲得した。獲得当日(26日)のソフトバンク戦から、茂木が遊撃の守備、ペゲーロが一軍に復帰する8月上旬まで一軍の公式戦に出場した。さらにこの試合で則本が入団1年目から5年連続のシーズン2桁勝利を達成し、チームは4連勝と6連勝を1回ずつ経験した影響で、7月を13勝7敗の勝率.650で終えた。
8月には2日に再び首位から陥落すると、投打の歯車が噛み合わないまま急失速した。前述した故障者のうち、今江以外の選手が相次いで一軍に復帰してもこの傾向に歯止めが掛からなくなった。一時はパ・リーグのレギュラーシーズンでは35年振りにマイナス1ゲーム差で首位に立った[98]ものの、ソフトバンクや3位・西武との3連戦が組まれていた8月第3週から第5週までの通算15試合で、1勝13敗1分と大きく負け越した。首位・ソフトバンクとの差が10ゲームにまで広がったばかりか、31日の西武戦で敗れたためシーズンで初めて3位に転落した。結局、8月の通算成績は7勝18敗1分でシーズン初の月間負け越しを記録した。さらに8月23日のロッテ戦から9月3日のソフトバンク戦まで、球団初年度以来12年振りの公式戦10連敗を記録している。9月2日の対ソフトバンク戦で敗れたことによってチームの自力優勝の可能性が消滅したほか、本拠地での主催試合でも、8月18日のソフトバンク戦から9月9日のオリックス戦まで10連敗を喫した。この間には、前述した攻撃型打線の組み替えを繰り返す一方で春季キャンプ中の故障で出遅れていたオコエがスタメンに再び定着するほど好調を見せた。また、高卒新人の藤平もチームが6連敗中だった8月22日のロッテ戦で一軍初勝利を果たすと、チームの10連敗で迎えた9月5日の日本ハム戦でも先発勝利を記録した。さらにウィーラー・ペゲーロ・アマダーが9月中旬までに相次いで20本以上の本塁打を放ったため、「同一球団に在籍する3人の外国人選手が同一シーズンでいずれも20本以上の本塁打」というNPB一軍公式戦史上初の記録を樹立し、投手陣では則本と美馬が2桁勝利を達成した[99]一方で、岸は防御率2.76ながら7連敗(8勝10敗)でレギュラーシーズンを終えた。
9月中旬以降は、16日にソフトバンクのリーグ優勝が決まったものの24日に楽天の3位以上が確定した[100]。が、以降の試合で2位に返り咲けないまま10月4日の対ロッテ戦を延長12回引き分けで終了となった。チーム史上初めてレギュラーシーズンを3位で終えた[101]。
ポストシーズンでは、西武とのクライマックスシリーズ(CS)ファーストステージ(メットライフドーム)第1戦においてレギュラーシーズン中の対戦で8戦全敗だった西武のエース・菊池雄星を相手に0 - 10の大差で完封負けを喫した。だが、第2戦からの2連勝によってパ・リーグの優勝チームとして臨んだ2013年以来4年振り(勝ち上がりは2009年以来)にCSファイナルステージへ進出した。パ・リーグが2007年から導入しているCS制度で、ファーストステージの第1戦に敗れたチームがファイナルステージへ進出できた事例はこの年の楽天が初めてである。迎えたソフトバンクとのファイナルステージでは、第1戦から2連勝しCS第2戦から4連勝と上り調子にあったが、則本・岸・美馬を先発に立てた第3戦以降の試合で3連敗を喫したため、4年振りの日本シリーズ進出を逃した。なお、この時点で日本シリーズの出場および制覇回数は1回であった。しかし、過去2回出場したシリーズをいずれも制していた横浜DeNAベイスターズ(セ・リーグ3位からCSを突破)が、この年の日本シリーズでソフトバンクの前に敗退した。その結果、日本シリーズで敗退したことがないチームはNPBの12球団で楽天だけになった。
日本シリーズの終了後には、チーム最年長の現役選手だった松井稼頭央が、コーチ就任の打診を固辞。他球団での現役続行を希望したため、テクニカルコーチ兼任の外野手として、15年振りに西武へ復帰した。また、巨人から移籍した2013年以降サイドスローの左腕投手として中継ぎで活躍した金刃憲人などが現役を引退。2009年以降もコーチとして楽天への在籍を続けてきた礒部が退団する一方で、ドラフト会議での1巡目指名を経て在籍していた片山博視(2006年入団)・武藤好貴(2012年入団)両投手や、一軍のクリーンアップを一時担っていた内野手の中川大志に戦力外通告を実施した(中川はDeNA、片山はコーチ兼任でBCリーグの武蔵ヒートベアーズ、武藤は入団前に所属していたJR北海道硬式野球部の後継チーム・JR北海道硬式野球クラブで現役を続行)。
ドラフト会議では、東京六大学野球のリーグ戦で歴代3位の通算21本塁打を記録した岩見雅紀(慶応大学外野手)を2巡目で指名。5巡目では、NPBの球団では初めてBASEBALL FIRST LEAGUEに加盟する球団の選手(兵庫ブルーサンダーズ所属の田中耀飛外野手)を支配下登録選手として指名した(いずれも指名後に入団、田中は入団後に「耀飛」の名で登録)。
2018年
楽天が宮城球場の命名権を保持したまま、1月1日付で球場の呼称を「楽天生命パーク宮城」に変更した。
1月4日には、チームの4代目監督でもあった星野仙一・球団代表取締役副会長が膵臓癌のため70歳で永眠した。球団では同月6日にその事実を公表し翌7日から3日間は楽天生命パーク宮城、オープン戦の期間中には主催試合の開催球場に献花台を設置した。また、星野副会長がかつて一軍監督やオーナー付シニアディレクターを務めた阪神球団との共同運営による「お別れ会」を東京と大阪で開催した。大阪での「お別れ会」開催直後の3月26日には、三木谷オーナーの意向[102]に沿って、星野副会長が監督時代に付けていた背番号77を永久欠番として扱うことが球団から正式に発表された[103]。
外国人選手については、前年に在籍していた7選手からクルーズ以外の6選手が残留したことに加えて、右の強打者オコエ・ディクソンと新たに契約。また、DeNAから2013年7月に西武へ移籍していた渡辺直人が内野手として8年振り、2015年から3年間ソフトバンクの一軍投手コーチを務めていた佐藤義則が一軍投手コーチとして4年振りに復帰した。ソフトバンクからは、前年の細川に続いて捕手の山下斐紹を西田哲朗との交換トレードで獲得した。
チームスローガンは、「日本一の東北へ」。また、球団創設以来初めてユニフォームのデザインをホーム・ビジター用とも一新した。ただし、レギュラーシーズン中には星野副会長の監督時代の背番号(77)をユニフォーム左胸部分の裏に付ける[102]。その一方で、4月3日に楽天生命パークで開かれた日本ハムとのホーム開幕戦では、星野副会長の監督時代の背番号77を入れた2014年仕様のユニフォームを、監督、コーチ、選手、スタッフ(総勢115名)が着用した。
ユニフォームの変遷は「ホーム用」、「ビジター用」を参照。
レギュラーシーズンでは、オープン戦を打率トップで終えた内田靖人を開幕一軍のメンバーに初めて抜擢。3月30日にZOZOマリンスタジアムで催されたロッテとの開幕戦を延長12回の末に3 - 2というスコアで勝利したことによって、球団史上初めてシーズンのスタートを3年連続白星で切った。以降の試合では打線や救援陣がこぞって振るわず、球団史上12年振りに4月中に2桁の借金を喫したため、5月1日には一軍と二軍の間で一部のコーチを入れ替え。一軍の高須洋介打撃コーチと立石充男内野守備走塁コーチを二軍に配置転換する一方で、二軍から栗原健太打撃コーチと真喜志康永育成コーチが一軍に異動した。[104]。しかし、開幕から10カード連続でカード勝ち越しに至らないまま、開幕から31試合目に当たる同月6日の対西武戦(楽天生命パーク)に大敗。この敗戦によって、自力によるリーグ優勝の可能性がいったん消滅した。NPB公式戦におけるシーズン31試合目での消滅は、この年のセ・リーグ球団を含めても最も速く、プレーオフ制度によるパ・リーグ優勝の可能性を残していた2005年のチーム(29試合)を除けば1955年の大映スターズ(27試合)に次ぐ速さである[105]。5月9日には福島県内で一軍公式戦(郡山市開成山野球場の対ロッテ戦)の主催を予定していたが、グラウンド状態の不良によって前年(雨天)に続いての中止を余儀なくされた。
5月29日からのセ・パ交流戦でもチームの調子は上向かず、クローザーの松井裕樹が開幕からの不調、本塁打数でチームトップのペゲーロが交流戦中の不振、中心打者のウィーラーが試合中のヘッドスライディングによる左手指の骨折で相次いで戦線を離脱した。交流戦の開幕投手を任された高卒5年目の古川侑利が一軍公式戦初勝利を含む2勝を挙げたものの、チームは6月16日の対阪神戦に敗れたことで、リーグ戦からの借金が20に到達した。同日の試合終了後に梨田監督が球団へ辞意を申し入れたところ、球団から了承されたため、辞任が決定した。
平石監督時代
2018年の監督代行時代も含める。
2018年
梨田監督の辞任を受けて、6月17日の対阪神戦(楽天生命パーク)から一軍ヘッドコーチ兼打撃コーチの平石洋介が監督代行に就任した。38歳での一軍監督代行就任は、歴代の一軍監督および代行経験者を含めても球団最年少であった。また、楽天生え抜きの人物がそのまま一軍を指揮するのは監督代行としての平石が初めてである。
チームでは、梨田の監督辞任と平石の監督代行就任に伴って一軍コーチ陣の配置転換も実施された。投手コーチではベンチ担当(佐藤義則)とブルペン担当(森山良二)の配置を入れ替えた。また、2018年5月の一軍復帰後から一塁ベースコーチを務めていた真喜志一軍内野守備走塁コーチがヘッドコーチ格で平石監督代行をサポート。この年から一軍戦略・内野コーチが務めていた塩川が、一塁のベースコーチに回っている(平石以外の首脳陣は肩書を変更せず)。
平石の監督代行就任後は、交流戦の残り2試合に全勝。交流戦開幕投手の古川も、6月19日の最終戦(横浜での対横浜DeNA戦)で白星を挙げたことによって、交流戦を一軍公式戦初勝利からの3連勝で締めくくった。しかし、チームは交流戦を最下位(全18試合で6勝12敗)という成績で終了した。リーグ戦の再開直後には、パ・リーグの球団で唯一勝率が5割を下回る事態に見舞われたものの、6月29日には菊池が先発した対西武戦(メットライフドーム)に15 - 1というスコアで大勝。レギュラーシーズンでは2016年5月25日から続いていた菊池の先発試合での連敗を13で食い止めた。
7月には、山形市総合スポーツセンター野球場(きらやかスタジアム)で初めてのNPB一軍公式戦として、10日の対オリックス戦を主催。前年まで他球場で実施されていた山形県内での一軍主催公式戦8試合目にして、初勝利を挙げた。また、オールスターゲームでは、岸が選手間投票1位、平石の監督代行就任を境に4番打者へ定着した今江が監督推薦でパシフィック・リーグ選抜チームに参加。前年のレギュラーシーズン3位を受けて梨田が務める予定だった同チームのコーチを平石が引き継いだほか、14日の第2戦(リブワーク藤崎台球場)には岸が同チームの先発投手として登板した。9月1日には、星野副会長の逝去以降事実上空席だった編成部門のトップとして石井一久が球団取締役ゼネラルマネジャー(GM)に就任。10月5日の対ロッテ戦(楽天生命パーク)の前に、平石監督代行が2019年シーズンから一軍監督へ正式に就任することを発表した。しかし、この試合に敗れたことで、チーム3年振りの最下位が確定した。
なお、この年のチームは梨田の監督在任中からホームゲームにとりわけ弱く、シーズン通算で球団最多の50敗を記録。地方開催分を含むホームゲーム(72試合)の通算勝率は.306(22勝50敗)だが、本拠地・楽天生命パークの開催分では69試合で.290(20勝49敗)にとどまった。パ・リーグに加盟する球団で、本拠地開催分の一軍公式戦におけるレギュラーシーズンの通算勝率が3割を切った事例は、1961年の近鉄(日生球場で.267=16勝44敗)以来57年振り。セ・リーグを含めても、1965年のサンケイスワローズ(神宮球場で.292)以来の低さであった。その一方で、ビジターゲーム(通算71試合)では36勝32敗3分と勝ち越している[106]。
投手陣では、則本が5年連続5回目のリーグ最多奪三振を記録。さらに、チームのシーズン最終戦であった10月13日の対ロッテ戦(ZOZOマリン)に救援登板でシーズン10勝目を挙げたことによって、入団以来6年連続のシーズン2桁勝利(NPB史上4人目の記録)を達成した。また、岸がチーム最多の11勝を挙げるとともに、防御率2.72でリーグ最優秀防御率のタイトルを初めて獲得した。松井裕樹は自身の不調やチーム事情からシーズン中にセットアッパーや先発への転向を経験しつつも、9月16日の対ロッテ戦(ZOZOマリン)で一軍公式戦通算100セーブを史上最年少(22歳10ヶ月)で達成した。さらに、入団2年目の高梨が球団最多記録のシーズン70試合登板を記録した。野手陣では、高梨と同期入団(2年目)ながら、パ・リーグ新人王の選考資格を残していた田中和基がセ・パ交流戦の直前から正中堅手に定着。チーム生え抜きの野手としては歴代最多の一軍公式戦シーズン18本塁打を記録したことや、パ・リーグの最終規定打席に到達したことを背景に、スイッチヒッターとしてはリーグ史上初(チームからは田中将大・則本に次いで3人目)の新人王に選ばれた。後半戦に一軍へ定着した内田も、高卒の生え抜き野手および、生え抜きの右打者としては初めての2桁本塁打(12本塁打)を放っている。もっとも、前年のチームの躍進を支えた外国人野手は総じて低調。アマダーは7月だけで11本塁打を記録したが、NPBから禁止薬物摂取の嫌疑を掛けられた影響で、8月中旬以降実戦から遠ざかった。さらに、新加入のディクソンも、その穴を埋めるまでの活躍に至らなかった。
シーズン終了後には、二軍を中心に、コーチ陣の大幅な入れ替えを敢行。シーズン中に二軍投手コーチを務めた与田剛が古巣・中日の一軍監督に転身したほか、二軍監督として田中のブレイクに寄与した池山などが退団した。その一方で、この年に他球団で現役を引退した平石と同世代の小谷野栄一・後藤武敏が打撃コーチへ就任するとともに、石井GMが現役投手時代に所属していたヤクルト出身の指導者(伊藤智仁・三木肇・楽天のOBでもある野村克則)などを招聘。2016年1月の現役引退後に球団職員へ転じていた元・選手会長の鉄平が、二軍外野守備走塁コーチとして現場復帰を果たした。さらに、シーズン終了後に西武から国内FA権の行使を表明していたパ・リーグ打点王の浅村栄斗を獲得したほか、仙台育英高校やヤクルトで剛速球投手として活躍していた由規を育成選手として契約。由規とは高校での1年後輩に当たる橋本到が巨人との金銭トレード、広島の福井優也が菊池保則との交換トレードで入団した。他球団との指名重複による抽選が相次いだドラフト会議の1巡目では、2回目に指名した辰己涼介(立命館大学)への独占交渉権を4球団競合の末に獲得。結局、辰己や則本の実弟(則本佳樹)など(育成選手契約者を含めて)10人もの新人選手が入団した。その一方で、聖澤諒・枡田慎太郎・伊志嶺忠が戦力外通告を受けたことを機に現役を引退[107]。球団からコーチへの就任を打診されていた細川や、育成選手契約で戦力外通告を受けた宮川将は、いずれも他球団で現役生活を続けることになった(細川はロッテ、宮川は前年の片山に続いてコーチ兼任で埼玉武蔵ヒートベアーズへ入団)。外国人選手については、ウィーラー以外の外国人野手とコラレスが退団。その一方で、右投手のアラン・ブセニッツや、右の長距離打者ジャバリ・ブラッシュを獲得している。さらに、この年限りでマリナーズを退団した岩隈に復帰を打診したが、巨人との争奪戦に敗れた。
2019年
チームスローガンは、「RESTART! 日本一の東北へ」。
所属選手・監督・コーチ
チーム成績・記録
日本シリーズ優勝:1回(2013年)
リーグ優勝:1回(2013年)
クライマックスシリーズ優勝:1回(2013年)
最下位:6回(2005 - 2006年、2010年、2014 - 2015年、2018年)
Aクラス:3回(2009年、2013年、2017年)
Bクラス:11回(2005 - 2008年、2010 - 2012年、2014年 - 2016年、2018年)
連続Aクラス入り最長記録:1年(2009年、2013年、2017年)
連続Bクラス最長記録:4年(2005 - 2008年)
最多勝利:82勝(2013年)
最多敗戦:97敗(2005年)
最多引分:10分(2012年)
最高勝率:.582(2013年)
最低勝率:.281(2005年)
最多得点:628(2013年)
最少得点:432(2011年)
最多失点:812(2005年)
最少失点:464(2011年)
最多本塁打:135本(2017年)
最少本塁打:52本(2012年)
最多盗塁:130盗塁(2011年)
最少盗塁:41盗塁(2005年)
最多失策:106失策(2007年)
最少失策:62失策(2009年)
最高打率:.272(2008年)
最低打率:.241(2015年)
最高防御率:2.85(2011年)
最低防御率:5.67(2005年)
最多併殺打:144併殺打(2007年・日本プロ野球記録)
初試合・初勝利:2005年3月26日・千葉マリンスタジアム(対ロッテに3-1)
初敗戦:2005年3月27日・千葉マリンスタジアム(2試合目、対ロッテに0-26、26点差での完封は日本プロ野球タイ記録)
初引分:2005年7月10日・フルキャストスタジアム宮城(83試合目、対ロッテに4-4)
最大連勝:7(2008年3月26日・対オリックス - 4月3日・対ロッテ、2011年8月20日・対ソフトバンク - 8月27日・対ソフトバンク、2013年7月26日・対ロッテ - 2013年8月4日・対日本ハム)
最大連敗:11(2005年4月15日・対日本ハム - 4月27日・対オリックス、2005年8月9日・対オリックス - 8月23日・対オリックス)
1試合最多得点:19(2015年7月22日・対日本ハム)
1試合最多失点:26(2005年3月27日・対ロッテ)
1試合最多安打:24(2014年4月12日・対ロッテ)
1イニング最多得点:10(2005年4月13日・対ソフトバンク・3回裏、2005年9月2日・対オリックス・6回裏)
1イニング最多失点:11(2005年3月27日・対ロッテ・2回裏、2008年7月22日・対西武・2回裏)
最多貯金:31(2017年7月26日・対ソフトバンク)
最多借金:59(2005年9月28日・対ソフトバンク)
1試合最多本塁打:6本(2010年6月6日・対巨人・中村紀洋8、9号、山崎武司13号、高須洋介2号、嶋基宏3号、ランディ・ルイーズ2号)
1イニング二塁打:7本(2013年8月4日・対日本ハム・5回表、プロ野球記録)
タイトル獲得者
総合
最優秀選手(MVP)
岩隈久志(2008年)
田中将大(2013年)
最優秀新人(新人王)
田中将大(2007年)
則本昂大(2013年)
田中和基(2018年)
ベストナイン
2006年 - ホセ・フェルナンデス(三)
2007年 - 山崎武司(指)
2008年 - 岩隈久志(投)、リック・ショート(外)
2009年 - 鉄平(外)
2010年 - 嶋基宏(捕)
2011年 - 田中将大(投)
2013年 - 田中将大(投)、嶋基宏(捕)、藤田一也(二)、ケーシー・マギー(三)
2014年 - 藤田一也(二)、銀次(三)
2017年 - 銀次(一)、ゼラス・ウィーラー(三)
ゴールデングラブ賞
2010年 - 嶋基宏(捕)
2011年 - 田中将大(投)
2012年 - 田中将大(投)
2013年 - 田中将大(投)、嶋基宏(捕)、藤田一也(二)
2014年 - 藤田一也(二)
2016年 - 藤田一也(二)
2017年 - 銀次(一)
2018年 - 岸孝之(投)
ポストシーズン
クライマックスシリーズMVP
2013年 - 田中将大
日本シリーズMVP
2013年 - 美馬学
打撃部門
首位打者
リック・ショート(2008年)
鉄平(2009年)
最多本塁打
山崎武司(2007年)
最多打点
山崎武司(2007年)
最多盗塁
聖澤諒(2012年)
投手部門
最多勝利
岩隈久志(2008年)
田中将大(2011年、2013年)
最優秀防御率
岩隈久志(2008年)
田中将大(2011年、2013年)
岸孝之(2018年)
最高勝率
田中将大(2013年)
最優秀投手
岩隈久志(2008年)
田中将大(2011年)
最多奪三振
田中将大(2012年)
則本昂大(2014年-2018年)
沢村賞
岩隈久志(2008年)
田中将大(2011年、2013年)
年度別獲得者
()内は獲得タイトル
M→最優秀選手、新→新人王、ベ→ベストナイン、ゴ→ゴールデングラブ賞、首→首位打者、本→最多本塁打、打→最多打点、盗→最多盗塁、勝→最多勝利、防→最優秀防御率、投→最優秀投手、三→最多奪三振、沢→沢村賞
2006年 - ホセ・フェルナンデス(ベ)
2007年 - 山崎武司(ベ/本/打)、田中将大(新)
2008年 - 岩隈久志(M/ベ/勝/防/投/沢)、リック・ショート(ベ/首)
2009年 - 鉄平(ベ/首)
2010年 - 嶋基宏(ベ/ゴ)
2011年 - 田中将大(ベ/ゴ/勝/防/投/沢)
2012年 - 田中将大(三/ゴ)、聖澤諒(盗)
2013年 - 田中将大(M/ベ/ゴ/勝/防/投/沢)、嶋基宏(ベ/ゴ)、藤田一也(ベ/ゴ)、ケーシー・マギー(ベ)、則本昂大(新)
2014年 - 則本昂大(三)、藤田一也(ベ/ゴ)、銀次(ベ)
2015年 - 則本昂大(三)
永久欠番
10:ファン
サブメンバーの一人としてチームを盛り上げてほしいという思いを込めた、ファンのための背番号。スターティングメンバーの9人に次ぐ番号であることにちなむ。
球団創設時からの永久欠番であるので、背番号「10」をつけていた選手・監督・コーチは過去にも誰一人存在しない。
この10の永久欠番化は、千葉ロッテマリーンズが、一軍登録25人に次ぐ26番目、支配下選手登録者の一人という意味を込めて26をファンのための準永久欠番としたのを参考にしたとのこと。
ちなみに、球団マスコットの「クラッチ」がイーグルス・ファンの1人として背番号10を着用している。
77:星野仙一
第4代監督。就任3年目の2013年、チームを初のリーグ優勝・日本一に導く。
監督退任後も球団に留まり、シニアアドバイザー、球団取締役副会長を歴任。
2018年1月4日、膵臓癌のため70歳で逝去。
監督として永久欠番に制定されたのは日本球界では史上初。
歴代監督
※ ▲:2005・2006年はレギュラーシーズン首位球団、2007年以降はリーグ優勝球団とのゲーム差
※ △:リーグ2位球団とのゲーム差
※ 順位における<b data-parsoid='{"dsr":[52823,52831,3,3]}'>太字</b>の1は日本一
※ 2014年シーズンは開幕-5月25日までは星野監督、5月26日-7月2日は佐藤義則監督代行(24戦10勝14敗)、7月3日-7月24日は大久保博元監督代行(16戦7勝9敗)、7月25日-シーズン終了までは星野監督が指揮。
※ Aクラス(3位以上)のシーズンは背景色をつける。
25
50
75
100
125
150
2005
2010
2015
勝利
引分
敗戦
名誉監督
野村克也
2012年まで在任。現在、プロ野球界で名誉監督の称号を贈られたのは全球団で野村克也と読売ジャイアンツ終身名誉監督の長嶋茂雄のみである。
ユニフォームの変遷
親会社・楽天のイメージカラーであり、イーグルスのチームカラーでもあるクリムゾン・レッド(えんじ色)を基調としている。パンツに1本の細ラインが入っている。帽子は、えんじ色をベースに白文字の「E」。2011年からは株式会社デサントとオフィシャルプラチナスポンサー契約を締結し、ユニフォームなどのウェアを提供していた。胸に、スポンサー・アイリスオーヤマのワッペンが付く。2014年シーズンのサプライヤーはマジェスティック・アスレティック。
2009年の左袖に、球団創立5周年を記念して「5th Anniversary」のロゴマークをデザインしたワッペンが付いた。
2011年の右袖に、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)犠牲者追悼の意を込め、黒の1ライン(喪章)が入り、「がんばろう東北」ワッペンが付く(「がんばろう東北」ワッペンは2012年も継続)。
2012年シーズンのみ、ホーム、ビジターともにヘルメットがツヤありからツヤなしに変わった。
ホーム用
白地で、胸ロゴは鷲の翼章付き「EAGLES」。その上に小さく「RAKUTEN」の文字があり、胸ロゴ・背番号・胸番号・帽子マークにはえんじ色の文字に黄色の縁取りが施されている。
2005年 - 2010年:シャドー・ストライプが広めの等間隔に入っていた。
2011年 - :胸番号・背番号・背ネームの字体が前年からビジター用(後述)のユニフォームで採用されているものと同じとなった。さらに、東日本大震災の犠牲者に哀悼の意を込めて左袖に袖を一周するリング状の喪章、震災からの復興の願いを込めて左腕に「がんばろう東北」のワッペンを追加した(喪章は2011年のみ採用)。また、同年からはキャプテン制度導入に伴い、キャプテン選手[注釈 6]にはキャプテンマークとして、ユニフォームの右胸に「C(ホーム用は金色縁に赤、ビジター用は金色縁に白)」のワッペンが付いている。2014年、胸番号・背番号・背ネームの字体が再度変更された。
2013年の「レジェンド・シリーズ2013」では、ビジターゲーム(8月30日 - 9月2日・福岡ソフトバンクホークス対東北楽天ゴールデンイーグルス (福岡 ヤフオク!ドーム))でもホーム用ユニホームを着用して試合を行った。
2018年:ユニフォームの肩と脇腹のラグランラインがなくなり、袖口と襟にゴールドとクリムゾンレッドのラインが追加された。また胸番号、背番号、背ネームの字体が変更されたほか胸ロゴの「EAGLES」や帽子マークの縁取りも黄色からゴールドに変わった。
ホームユニフォーム(2016年)
ホームユニフォーム(2018年)
ビジター用
上着がクリムゾン・レッド、パンツが白(ホーム用と同タイプ)のツートンカラーを採用。
2005年 - 2009年:胸ロゴは「RAKUTEN」で、立体的に見えるように胸ロゴに黄色のシャドーが入っていた。
2010年 - :胸ロゴのデザインが「Rakuten」に変更され、黄色のシャドーは廃止、胸番号・背番号・背ネームの字体も変更した。コンセプトは「シンプル&スマート」
[108]。2014年、胸番号・背番号・背ネームの字体を変更。
2018年:胸ロゴ「Rakuten」の下に右に向かって細長いラインが入った。また胸番号、背番号、背ネームの字体が変更された[109]。さらにユニフォームの肩と脇腹のラグランラインがなくなり、袖口と襟にホワイトとクリムゾンレッドのラインが追加された。帽子マークの縁取りは黄色からゴールドに変更。
ビジターユニフォーム(2009年)
ビジターユニフォーム(2012年)
ビジターユニフォーム(2018年)
限定ユニフォーム
この他、期間限定での「3rd(または4th)ユニフォーム」が下記のとおり採用されている。
2006年 - 2009年:交流戦期間のホーム開催試合のみ着用するサードユニフォームが登場。胸ロゴは左胸に帽子と同じ「E」マーク、胸番号が右胸につく。肩、脇腹にクリムゾン・レッドのラグランスリーブラインが入る。背番号、胸番号の書体は、かつて西鉄ライオンズが採用していた角文字が使われている。
2007年:「ファンクラブデー」期間限定のファン投票によって選ばれたホーム用が初登場。交流戦用ユニフォームと同タイプであるが、胸に帽子と同じ「E」ロゴが大きく配置されている。胸番号は無し。背番号、選手名はカッパープレート・ゴシック体。肩、脇腹、背中にクリムゾン・レッドが施されている。
2008年7月11日 - 13日の対千葉ロッテマリーンズ3連戦で2008年度版「ファンクラブデー」ユニフォームを着用。胸ロゴは左胸に「RAKUTEN EAGLES」のロゴが縦置きに配置、右胸の胸番号、背番号、選手名はカッパープレート・ゴシック体。肩、脇腹、背中にクリムゾン・レッドが施されている。
2010年 - 2011年:夏休み期間限定のサードユニフォームが登場。フロント部分は白、脇(肩から両袖・わき腹にかけて)にはえんじ色のラグランデザインが使用され、胸に大きく「TOHOKU」の文字、その下に小さく「RAKUTEN」とある。右袖には帽子と同じ「E」マーク、左袖に「楽天」ロゴが入り、パンツは普段のホーム用をそのまま使用。東京ドーム以外での地方主催試合開催(いわゆる「東北シリーズ」で、郡山・秋田、岩手)、及び夏休み期間中のKスタ宮城での12試合を合わせた15試合で着用した[110]。2011年も同様に、地方2試合(秋田・岩手)・8月のKスタ宮城での12試合、計14試合にて着用。
2011年:「球団創設7年目特別企画ユニフォーム」としてイーグル・レインボーを採用。「虹(夢の架け橋)」をコンセプトに胸下・両袖をクリムゾンレッドを含む7色の帯で構成しており、胸部は通常デザインとは異なる紺色の「Eagles」ロゴに加え左胸下に鷲のイラストが入る。パンツはクリムゾンレッド(後側のみ紺の縁取り)のラインが入り、腰部に背番号が入る。アンダーシャツは紺色。キャップも通常デザインではなく白抜きの紺色・ゴシック体の「E」となる。5月28・29日の対阪神2連戦ならびに6月11・12日の対中日2連戦(いずれもKスタ宮城)の交流戦計4試合で着用した[111]。
2011年7月1日からの対千葉ロッテマリーンズ3連戦では2011年度版「ファンクラブデー」ユニフォームを着用。胸には「E」の一文字ロゴ、肩と脇下には4色のラインが入る。また左袖には東北地方の地図が入ったファンクラブオリジナルエンブレムが入る(「がんばろう東北」ワッペン及び喪章は右肩に移動)。
2012年6月29日からの対福岡ソフトバンクホークス3連戦で2012年度版「ファンクラブデー」ユニフォームを着用。普段はビジター用で使われるクリムゾンレッド生地に左胸に「E」の一文字ロゴマーク。右袖に「がんばろう東北」ワッペン、左袖には2012年ファンクラブの証である「ファンクラブワッペン(東北地方の地図が入ったファンクラブオリジナルエンブレム)」が付く。袖には犬鷲の羽ばたく翼と、「足」を生かした野球からイメージする「疾走感」も表現した白のラインが4本ずつ、両袖合わせて8本のラインをあしらい球団創設8年目であることを表現、同じく脇に4本のラインをあしらったキャップもオリジナルのものを使用。
2012年7月27日 - 8月26日に行われた26試合(ホーム17試合・ビジター9試合)で、「イーグル・スター」ユニフォームを着用する。「イーグル・スター」は「星に願いを(WHEN YOU WISH UPON A STAR)」をテーマに作られた。アイボリー地にクリムゾンレッドのストライプ(楽天のユニホームにストライプが使われるのは、球団創立以来初)をあしらったデザインで、左袖には星を象ったロゴのワッペンが貼られていて、勝ち星を重ね優勝すること、そして東北の早期復興への願いがひとつの「星」に込められている。
2013年7月26日 - 8月25日の期間中に福島県・岩手県・秋田県・山形県の地方球場で開催する1軍公式戦とKスタ宮城で開催する1軍公式戦、青森県などで開催する2軍公式戦の合計29試合で着用する企画ユニフォーム企画「TOHOKU GREEN(トーホク・グリーン)」を発表。「東北の緑が変わることなく、美しくあり続けることへの願い」をテーマに、ベースの色に「つね(常)に変わらない」という「常磐」の意味を持つ色「常盤色」を使ったデザインのユニフォームで東北の早期復興、美しき東北の自然の保全、そして東北楽天ゴールデンイーグルスが常勝チームになることへの願いをテーマに作られた。ユニホームは常盤色をベースに胸には「TOHOKU」、また、キャップも常盤色をベースにした。胸ロゴ・帽子ロゴ・背番号は赤縁に白。なお、ユニホーム下とアンダーシャツは通常のものを使用[112]。
2017年シーズンから黒を基調とした「BLACK EAGLES」を採用[113]。
2018シーズンからは「TOHOKU GREEN」のデザインをもとにした新たな「BLACK EAGLES」と、ほぼ同デザインの、赤が基調で脇腹から脇にかけて黒が入った「FAN'Sユニフォーム2018」を採用する。
サードユニフォーム(2007年)
サードユニフォーム(2011年)
「イーグル・スター」ユニフォーム(2012年)
「TOHOKU GREEN」ユニフォーム(2013年)
球団旗の変遷
2005年 - :親会社のイメージカラーであり、球団のチームカラーでもあるクリムゾン・レッド(えんじ色)を地色に、中央に白文字のチームロゴ(左右両端の文字は鷲の翼をイメージした「EAGLES」、その上に小さく「RAKUTEN」)。
マスコット
クラッチ
イヌワシをモチーフ。名前は一般公募され、英語のclutchに「ぎゅっとつかむ」「わしづかみ」という意味があり、また「勝負強い打者」を英語でクラッチヒッター(clutch hitter)と言うことから、「勝負強いチームになって、みんなの心をわしづかみにしてほしい」という願いを込めて決定された。また、イーグルス・ファンのための永久欠番である背番号10をイーグルス・ファンの1人として着用している。着ぐるみ登場当初は、帽子をかぶっていなかった。
クラッチーナ
「クラッチを元に女の子らしい名前を」ということで球団側が名づけた。ピンク色の羽毛が特徴。埼玉西武ライオンズのマスコット、レオに想いを寄せる素振りを見せている[114]。
スイッチ
2016年4月1日に契約という形で登場した。オウギワシをモチーフ。アメリカ・カリフォルニア州出身。観覧車のあるボールパーク(Koboパーク宮城)が日本に存在すると聞き付けて仙台にやって来た。陽気で明るい性格だが、スイッチが入ると別人格になるうわさがある[115]。
Mr.カラスコ
非公認</b>マスコット。当該項目を参照。
超特大ゴーヤ
2009年の久米島キャンプの際に現地スポーツ団体(FC琉球や沖縄プロレス)から贈呈されたマスコット。後にオリックスに移籍。詳しくは、当該項目を参照。
Baby-brown
2010年、マーティ・ブラウンの監督就任を受け登場。どう見ても超特大ゴーヤの顔部分にブラウン監督の顔を模したお面(ただし造形はかなりリアルで、頭部ごと新造された可能性が高い)を貼りつけただけのようにしか見えないデザインのマスコット。ただし球団は「超特大ゴーヤとは何の関係もない」とコメントしている。公式サイトの記事[116]によると、久米島の海岸に打ち上げられていたところをたまたま居合わせた田中将大に助けられてそのまま球場までついてきたそうで、その様子が写真入りで紹介されている。そしてこのキャラを見たブラウン監督が気に入って「Baby-brown」と名づけ、自身の公認マスコットにしたとのこと。
ピーマン ボン ジョルノ .カンパニー
未公認マスコット。当該項目を参照。
クロワシさん
2017年、「BLACK EAGLES DAY」の創設に合わせて誕生した。「BLACK EAGLES DAY」実施日のみに登場する。鷲の被り物を被ったおじさんで、2017年6月11日(関東広域圏での放送日)に日本テレビ系列で放送された『ニノさん』の1コーナー「第二のふなっしーを探せ!しゃべるご当地キャラオーディション」に出演した[117]。背番号は「クロワシ」の語呂合わせで「9604」。
Baby-brown
主な歴代の球団歌・応援歌
公式球団歌
羽ばたけ楽天イーグルス(作詞:藤巻浩・勝山聡・井岡美里、作曲:藤巻浩、歌:狗鷲合唱団)
軍歌調であるが、サンバMIXバージョンも存在する。7回攻撃前に流れている。
Dangerous Fight!(作詞・作曲:藤巻浩、歌:TOMMY)
合体ロボットアニメの主題歌系ロック調。
公式応援歌
THE マンパワー!!!(作詞・作曲:つんく♂(シャ乱Q)、歌:モーニング娘。)
2005年4月1日に行われた主催ゲームかつ本拠地の開幕戦である対西武戦と同年5月8日に行われた対巨人戦ではフルキャストスタジアム宮城で披露され、スカイ・A「サテライトスタジアム」の中継のエンディングや、東北ANN各局ネット「黄金鷲団」のオープニング・エンディングでも使用されている。
イーグルスのオーナーである三木谷の個人資産管理会社が所有する(楽天グループではない)ヴィッセル神戸(Jリーグ)が2004年の本拠地開幕戦に松浦亜弥をゲストに呼んだことがハロー!プロジェクトとのつながり、さらにこの曲の誕生につながった。
LET'S GO 楽天イーグルス(作詞・作曲:つんく♂、歌:DEF.DIVAと楽天イーグルス応援隊)
ハロー!プロジェクトによる公式応援歌第2弾。コーラスでつんく・カントリー娘。・メロン記念日が参加。前作「THE マンパワー!!!」に球団関連の歌詞がなかったためにファンの間で定着しなかった反省から、「楽天」「楽天イーグルス」「東北楽天ゴールデンイーグルス」といった球団名が曲の中に合計30回登場する。CDは2006年3月25日にWEB販売の楽天イーグルスオフィシャルショップ限定で発売され、3月28日のホーム開幕戦(対オリックス戦)で披露された。また前作に引き続きスカイ・A「sky・A STADIUM LIVE RAKUTEN わしづかみ」(「サテライトスタジアム」から番組名変更)のエンディングテーマソングとして使用されている。
前作から引き続き参加しているのは前作でモーニング娘。のメンバー、今作でDEF.DIVAのメンバーとして参加している石川梨華のみである。
ダイスキ楽天イーグルス(作詞・作曲:つんく♂、歌:GAM)
ハロー!プロジェクトによる公式応援歌第3弾。CDは2007年3月24日にWEB販売の楽天イーグルスオフィシャルショップ限定で発売され、4月1日のホーム開幕戦(対オリックス・バファローズ戦)で披露された。この曲もスカイ・A sports+「sky・A STADIUM LIVE RAKUTEN わしづかみ」のエンディングテーマソングとして使われている。
GAMは松浦亜弥と藤本美貴のユニットだが、松浦は2年連続、また藤本は2年ぶりで、ともに2回目の応援歌担当となる。
越えろ!楽天イーグルス(作詞・作曲:つんく♂、歌:℃-ute)
ハロー!プロジェクトによる公式応援歌第4弾。2008年3月20日発売。仙台駅構内・楽天イーグルスオフィシャルストア、Hello!Projectオフィシャルショップのみで発売。PVに、岩隈・山崎ら楽天所属選手(当時)が出演。
なお、PVは前述の選手登場のバージョンのほか、℃-uteメンバーのみ出演のバージョンのものも存在する。
球場での披露に関しては3月29日のホーム開幕戦のみ。
紅の翼(歌:堀内孝雄)
つんく♂と同じアップフロントグループの堀内孝雄が歌う公式応援歌第5弾。
情熱ヴィクトリー(歌:杉田二郎、ばんばひろふみ)
コーラスは矢口真里、辻希美、里田まいの3人が担当。
紅の翼 2011 〜さあ行こう戦いの舞台へ〜(作詞:庄司哲洋、作曲・歌:堀内孝雄)
「紅の翼」が制作された2009年は球団創設5年目の節目の年でクライマックスシリーズ進出を果たした記念すべきシーズンであった。このシーズンを越えるべく制作された公式応援歌である。
公認応援歌
荒鷲のうた(作詞・作曲:石橋凌、歌:ARB)
東北楽天! おらほの! イーグルス(作詞:さくま詩穂里、作曲:斉藤常雄、歌:鴻巣巧一)
黄金のつばさ(作詞:白津守康、作曲:餅雅彦、歌:板橋修)
地元・仙台市の歓楽街・国分町にある代表的な2つの飲食店街の合同組織「虎屋横丁・稲荷小路親交会(通称:稲虎応援団)」が制作した。
Dream of EAGLES〜夢をかなえて(作詞・本間秋彦、作曲・坂本サトル、歌:サトル&アッキー)
「サトル&アッキー」はDate fmの番組「AIRJAM」から誕生した、坂本サトルと本間秋彦のユニット。
楽天イーグルスGO! GO! GO! GO! (作詞・作曲:佐々木朋義、歌:奥山えいじ、DJ:ワッキー貝山)
毎年、みちのくYOSAKOIまつりで踊られる。
公認イメージソング
夢のつばさ(作詞:松井五郎、作曲:木村真也、歌:さとう宗幸)
田尾監督解任に対して抗議する意味も込め、さとう自らが歌唱を封印したが、2010年2月24日に自身が司会を務めるミヤギテレビ『OH!バンデス』にて封印を解き、毎月1回番組内で歌っている。
その他
楽天サンバ
東北放送のラジオ番組で制作された「マツケンサンバII」の替え歌。
大空へ(作詞・作曲・歌:清貴)
エフエム東京の番組企画で製作された。
主催ゲーム開催球場
本拠地
新規参入時から現在まで、宮城県が所有する宮城球場(仙台市宮城野区宮城野原公園総合運動場内)を本拠地球場とし、楽天野球団が都市公園法第5条第1項の許可(管理許可)を受けて運営している[118]。ただし、3年毎に命名権の公募がなされ、権利を取得した企業が命名する愛称が「宮城球場」より優先して用いられている。
地方開催
収容人員と観客動員数
本拠地球場である宮城球場の収容人員、および、レギュラーシーズンの主催試合の宮城球場以外も含んだ観客動員数と1試合平均観客数は以下の通り。パ・リーグでのレギュラーシーズンの順位も付記。この統計では観客数に加えられないポストシーズンがあった年は特記。
収容人員と観客動員数の変化
宮城球場の収容人員(人)… 各シーズン開幕当初(2005年以前は28,000人)
主催試合の1試合平均観客動員数(人/試合)[119]
場内アナウンス
Koboパーク宮城開催のホームゲームで選手を紹介する場内アナウンス(「スタジアムDJ」と呼ばれる)は球団創設1年目の2005年から取り入れている。
男女混声形式を採用しており、基本的にホーム側は男性、ビジター側は女性が担当している。
男声アナウンスは過去に古田優児(フリーアナウンサー)が担当した。現在は千葉マサト(フリーアナウンサー)が担当している。
女声アナウンスは過去に岩手佳代子(フリーアナウンサー)、高野志津(フリーアナウンサー)、山口祐佳(中日ドラゴンズのチアリーダーチーム「チア・ドラゴンズ」の元メンバー)らが担当した。2012年からは紺野陽子(フリーアナウンサー)が担当したが2013年シーズンをもって退任した[123]。2013年は二人体制となり、担当は試合ごとに変わる体制をとった。なお、2013年に新たに加わったアナウンサーの氏名は公表されておらず、2014年も引き続き担当。
2010年に男女混成形式の場内アナウンスが一旦は廃止。この年は男声アナウンスの古田がホーム、ビジター双方を務めた。また、非公式であるがオリックス戦では堀江良信が1回から3回のみ担当していた。
男性の場内アナウンスといえば京セラドームやほっともっとフィールドで開催されるオリックス主催ゲームが先駆けであるが、選手の紹介方法については大阪D・神戸がメジャーリーグを手本としてポジションや打順を英語でアナウンスするのに対し、男性の場内アナウンスを使用しているのにかかわらずポジションや打順は日本語のままである。
2013年からの楽天イーグルスの選手コールでは、「打順、ポジション、背番号、選手名」の順であり、メジャーリーグにおけるコールと同じ順である。
Koboパーク宮城 歴代場内アナウンス
応援スタイル
本拠地・楽天生命パーク宮城ではトランペットや笛の使用は禁止されており、NPBから許可を受けた私設応援団のみ太鼓の使用が可能(但し、使用できる太鼓の大きさも制限されており、各団体1個のみしか使用できない。楽天のみならず、他球団の応援団に対しても同様)。なお、コボスタ宮城以外の球場ではトランペットや笛を使用した応援を行っている。
楽天攻撃時の選手の打席では他球団で行っている「かっとばせ」コールの代わりに「ドドドド○○!ドドドド○○!ォォォォオオオオ○○!」(○は選手名。ォォォォオオオオはせり上がるように語尾上がり調で)とコールする「4・4・8拍子」(東北楽天ゴールデンイーグルスの応援団である「全国荒鷲連合会(総本部・北海道荒鷲会・東北荒鷲会・関東荒鷲会・関西荒鷲会・九州荒鷲会)」が発案した独自の応援方法)という応援スタイルが確立されていた。しかし、2018年シーズンより応援をシンプルにするという目的で、「○○!○○!ォォォォオオオオ○○!」(○○は選手名、ォォォォオオオオは上記同様)という「3・3・4拍子」に変更された。ただしチャンステーマ1のみ「4・4・8拍子」である。
一部の選手については「4・4・8拍子」とは別の応援スタイルを取っている者も存在する(聖澤諒、外国人選手など)。
初回攻撃開始時は"オープニングテーマ"(原曲:さとう宗幸の「青葉城恋唄」)を歌う。
初回先頭打者には専用の応援歌が歌われる。
選手別応援歌は基本的に私設応援団「全国荒鷲連合会(北海道荒鷲会・東北荒鷲会・関東荒鷲会・関西荒鷲会・九州荒鷲会)」(以下「全鷲連」)で作った個別応援歌を使用しているが、個別応援歌が作られていない選手も少なくなく、その選手には共通の汎用テーマを使用している。なお、汎用テーマは4種類(30歳未満選手用、30歳以上選手用、外国人選手用、投手用)用意されている。
得点のチャンス時に歌われる"チャンステーマ"は仙台市内にある遊園地「八木山ベニーランド」のテーマ曲が使われている。ちなみに、このテーマは元々、地元の仙台二高の野球応援のチャンステーマとして使われていた。その後、"チャンステーマ2"(原曲:山形のローカルヒーロー「大鍋宣隊イモニレンジャー」のテーマ)と称する新しいチャンステーマも用意され、先のチャンステーマと並行して使用されている。この他、九州地区、北海道地区、関東地区、関西地区、ならびに東北地区専用のチャンステーマも存在する。
7回の攻撃開始前には球団歌「羽ばたけ楽天イーグルス」の演奏終了に合わせ赤のジェット風船を飛ばしている。また、楽天が勝利した際は白い風船を飛ばしている(「白星」の意味)。
ホームゲームでの勝利時、監督・コーチ・選手一同がグラウンドに整列し挨拶を行っているが、その挨拶終了後、引き続き選手数名が外野スタンド前に走り、スタンドのファンと一緒に「万歳三唱」を行っている(どの選手が参加するかは日によって異なる)。また、万歳三唱の直後にバックスクリーン後方から花火を打ち上げる。
スポンサー
ヘルメット
楽天証券(2005年始め - 同年途中)
国内信販・楽天KC(2005年途中 - 2010年)
フクダ電子(2011年 - )
キャップ
®POINT(2016年 - )
左袖
楽天カード(2006年)
トランスコスモス(2007年)
アイリスオーヤマ(2008年)
袖の部分は当初右に楽天市場、左に楽天トラベルのロゴを挿入したが、野球協約違反(ユニフォームに複数企業のロゴを入れてはいけない)の可能性があるため、楽天ICHIBAのロゴの「ICHIBA」の部分を抜く形で両者を並存させた。
パンツ
MJQウェディング(2006 - 2007年)
エイブル(2008 - 2009年)
楽天Edy(旧:ビットワレット)(表記:Edy〈2010 - 2011年〉→楽天Edy〈2012年〉)
楽天Kobo(2013年 - 2014年)
楽天生命保険(表記:楽天生命<2015年>→®LIFE<2016年 - >)
左胸
アイリスオーヤマ[注釈 9](2009年 - )
ベンチシート、応援用ビッグユニフォームなど
北電子(2007 - 2008年)
その他
宮城球場におけるイーグルス主管試合(一部を除く)において、の試合を設けている。球団のオフィシャルスポンサー・サプライヤーとなっている企業・団体が特設ブースを設けるほか、観戦者に対して協賛企業・団体のグッズプレゼントが行われる。また試合によってはトークショーなどもある。
試合中継放送
楽天では初代球団オーナー・三木谷の方針により収益を安定させるため、基本的に中継映像の制作部分までに関する権利を球団側で留保していた。2008年からは制作著作の権利までを球団側が所持。
従来型の放送局での中継には一定の制約がある。この手法は、北海道に移転した日本ハムの例に倣ったものとされる。
インターネットテレビ
パ・リーグTV(前身となるヤフー動画への導入は2007年から)
ニコニコ動画(2009 - 2017年)
2009年8月11日に「楽天イーグルスチャンネル」を開設。プロ野球シーズン中は主催試合のハイライト・試合後の監督の会見・勝利試合のヒーローインタビュー、オフシーズンには新入団選手の会見・キャンプのハイライトなどの動画を無料で随時公開している。
プロ野球シーズン中には、上記の動画の公開に加えて、ニコニコ生放送内の特設ページで主催試合の放送権を有するCS放送局制作の公式戦中継映像・実況のインターネット向け同時配信を実施(日本国内限定・クライマックスシリーズへ進出した場合には宮城球場での開催試合も対象に追加)。2009年には、クライマックスシリーズを含めたホーム・ビジター18試合で、sky・A sports+制作の中継を同時に配信した。CSにおける主催試合の放送権がJ SPORTS(2012年・2015年-)→ 日テレプラス(2013年-2014年)へ移行しても同時配信を継続。2013年には、(クリネックススタジアム宮城以外の開催分を含む)主催公式戦全72試合に加えて、クライマックスシリーズ・ファイナルステージ全試合の中継も配信した。
ニコニコ生放送では月額制の「プレミアム会員」を優先する視聴基準を設けているため、無料の「一般会員」として前述の中継を視聴する場合には、配信中でも視聴ユーザーの総数が収容人数を超えた時点で自動的に視聴できなくなる(いわゆる「生放送からの追い出し」)。さらに、「入場」(配信用ページへのアクセス開始)時間の早い順に会員の視聴権を割り当てているため、入場時間や当該ページへのアクセス状況によっては中継を視聴できないこともある。
Rakuten TV(旧楽天SHOWTIME・2014年から)
マルチデバイス対応の動画配信サービス。公式戦ホームゲーム全試合中継。楽天会員でなくても無料視聴可能。
スポナビライブ
ソフトバンクとヤフーが運営しているインターネット配信のスポーツ中継見放題サービス。
At Eagles
AndroidとiOSスマートフォンアプリ。ホームゲームのライブ中継、コミュニティFM局「Rakuten.FM TOHOKU」のネット配信、球団の最新情報等のコンテンツを配信。
楽天イーグルスTV(2006-2007年、宮城球場で行われるホームゲーム全69試合を動画生中継した。2005年は人数限定の有料放送)
インターネットラジオ
楽天イーグルスラジオ「EAGLESTATION」
2013年9月13日のオリックス戦以降の主催試合(宮城球場開催分)では、Jストリームのライブ配信インフラを活用しながら、「楽天イーグルス実況中継」(球団の自主制作による同球場での主催試合実況中継)をTuneIn Radioで試験的に実施。10月2日にTuneIn Radio内へ「EAGLESTATION」を開設したことを機に、日本で初めて、プロスポーツ球団の自主制作による公式戦の実況中継</b>を本格的に開始した[124]。
中継音源の聴取は無料で、スポンサーを付けていないため、イニングの間にはCMを挿入しない。ただし、配信時間は試合開始の直前から終了(楽天が勝利した場合にはヒーローインタビュー)直後までに限定。それ以外の時間帯には「SIGN OFF」扱いで配信を完全に休止するため、ダイジェストを含めて、過去の中継音源をオンデマンド形式で聴取することも不可能である。
2013年の中継では、解説者を配置せず、球団のイベント関係者(中継上の名義は「しゃべれる裏方“いしち”」)が実況と進行を兼務。「EAGLESTATION」の運用開始後は、10月3日のロッテ戦を皮切りに、主催公式戦6試合とクライマックスシリーズ・ファイナルステージの全試合(いずれも同球場開催分)を中継した。なお、公式戦期間中は宮城球場の内野スタンド上段に実況ブースを設けていたが、クライマックスシリーズではグラウンド付近の一塁側内野席へ中継機材を移動。中継日によっては、球団関係者やゴールデンエンジェルスのメンバー(当日の総合MC担当)などをゲストに招くこともあった。
2014年には、公式戦初の主催試合(4月1日のオリックス戦)を皮切りに、コボスタ宮城で主催する公式戦全67試合を中継。前年から続く日本語版に「英語チャンネル(English Channel)」を加えたうえで、日英2か国語による同時配信</b>を実施した。また、日本語版の中継では、実況と進行を兼務するMCが日替わりで出演。前年担当の「いしち」に加えて、平方恭子(スカイ・Aでの東北楽天主催試合中継初代リポーター)、地元・仙台を拠点に活動するお笑い集団ティーライズのメンバーなどがMCを務めた[125]。また、ビジターゲームの一部試合の中継を開始。
2015年には、インターネットラジオ配信プラットフォーム「Rakuten.FM」でも配信を開始。
2015年8月8日をもって、「EAGLESTATION」としては終了。日本語版は翌日より、コミュニティFM局「Rakuten.FM TOHOKU」のサイマル放送のネットラジオとしてリニューアルし、試合中継は「EAGLE BASEBALL GAME SHOW」として一番組扱いで継続している。英語チャンネルは、「Rakuten.FM TOHOKU(English)」に改称し引き続き試合中継のみのネットラジオ単独放送として継続。
従来型放送
地上波テレビ:NHK・在仙民放各局がホームゲームを放送。
NHK:地上波デジタル放送に関しては、サブチャンネルにて試合終了まで放送。東北地方で放送。ただし、楽天球団制作映像優先の方針により、自局での映像制作には一定の制限があり、中継権を持たない試合の資料映像については、原則として楽天野球団制作からの配信を受ける。楽天Koboスタジアム宮城の左翼場外で「スマイルグリコパーク」(試合を観戦できる観覧車などを設置した遊園地)の営業を開始した2016年以降の全国向け中継(主に日曜日のデーゲーム中継)では、観覧車のゴンドラの窓からホーム方向を写した映像の生中継や、スタンドリポート専任のアナウンサーによるパーク・スタンド内からのリポートを随時挿入している。
2009年のクライマックスシリーズ第1ステージ第1戦を放送(BS1でも放送されたが、実況・解説者は異なる)。番組編成は以下の通り
18:00 - 東北地方のデジタル総合2で放送(試合終了まで放送)
18:05 - BS1が飛び乗り(同上)
18:10 - NHK仙台放送局が飛び乗り( - 18:30で一旦飛び降り〈『てれまさむね』・『NHKニュース7』放送のため 19:30に飛び乗り〉)
19:30 - 仙台局以外の東北地方のNHKが飛び乗り( - 20:55で飛び降り〈ローカルニュース・『ニュースウオッチ9』放送のため〉)
TBCテレビ:在仙のなかでは一番放送の数が多く創設当初は日曜のデーゲーム、現在は水曜のナイトゲームが中心。毎年1試合以上は巨人戦を差し替えて放送している、解説は2005年が対戦相手地域やJNN所属の相手OB解説者が、2006年は衣笠祥雄・川口和久・盛田幸妃・仙台出身の佐々木主浩が担当。2007年はラジオ解説が主の佐々木信行・秦真司が行い、2008年は駒田徳広・松本匡史も加わり2009年からは高橋雅裕が2010年は杉山賢人が新加入(衣笠、川口、盛田、佐々木(主)、駒田、秦は現在TBCで担当していない)。アナウンサー陣は佐藤修(2011年度よりスポーツ部所属)・松尾武・守屋周・飯野雅人。2010年からは木曜日にローカル枠が出現したおかげでゴールデンタイムの中継が増え過去最多の11試合を中継。過去には実況で三橋泰介(フリー)・大井健郎(現・報道記者)、リポーターで猪井操子(フリー)・根本宣彦・山本義幸も担当した。
全国ネット並びにポストシーズン製作実績
2005年5月の交流試合・巨人戦2試合(TBS製作、TBCアナウンサーは楽天ベンチリポーターのみ)
2009年のクライマックスパ第1ステージ第2戦(自社製作、RKBにもネットされた)
2011年4月のKスタ開幕・オリックス戦(TBCは宮城ローカル、全国中継は横浜×巨人との二元中継でTBSのスタッフで放送された)
TBC製作分…解説:杉山賢人 実況:松尾武 ベンチリポーター:飯野雅人 スタンドリポーター:高以亜希子
TBS製作分…解説:佐々木主浩 ゲスト:松山英樹 実況:林正浩 ベンチリポーター:伊藤隆佑
仙台放送:土曜デーゲームが多いが2005年・2006年・2009年は巨人戦を差し替えていた。解説は斉藤明雄・高木豊・達川光男・田尾安志・江本孟紀のフジテレビ系列解説者が担当。2010年のオリックス戦では2009年まで楽天打撃コーチを担当した池山隆寛がベンチサイド解説を務めた。実況アナの変貌が目まぐるしく2005年は下田恒幸(現フリー)が3試合、佐藤拓雄が1試合実況を務め、2006年は浅見博幸が2試合を実況。金澤聡がリポーターを務めた後2007年から実況、板垣龍佑(現テレビ東京)がリポーターを務めた後2009年からは広瀬修一が担当。2006年の実況を務めた浅見がインタビュアーとして同局中継3年ぶりの登場を果たした(中継終了後にインタビューが行われた)。在仙局の中では中継が一番少ないが、ビジターゲームを中心に中継。アナウンサー(主に金澤)をベンチリポーターとして派遣している。2007年からは毎年1試合のみの中継となっていたが2011年は4月と5月さらには7月に1試合ずつ中継された。
ポストシーズンの放送実績
2009年のクライマックスパ第2ステージ、VS北海道日本ハムファイターズ・第3戦(北海道文化放送製作)
ミヤギテレビ:レギュラーシーズンは週末デーゲームのみ未だに差し替え中継の実施はない。解説者は2005年が日本テレビの中畑清・水野雄仁が担当、2006年から2008年までは楽天OB初のミヤギテレビ専属解説者となった川尻哲郎と日本テレビの池谷公二郎。2009年4月の西武戦と9月の日本ハム戦を阿波野秀幸が務め10月のクライマックスシリーズを若菜嘉晴が務めた2010年は初代打撃コーチの駒田徳広と笘篠賢治(苫篠は引き続き現在まで解説継続中)、2011年は佐野慈紀・西崎幸広が担当。実況は伊藤拓とリポーターを担当している外賀幸一が2009年7月のオリックス戦を実況する予定(解説は前述の若菜)だったが試合開始直前に中止となり幻となったが2010年7月の日本ハム戦で野球実況デビューを果たした。さらには2010年4月の中継では加藤智也がリポーターを担当。伊藤・外賀・加藤の先輩・上司にあたる三雲茂晴も裏方(制作)として中継に参加している。2009年4月3日に札幌ドームで行われた日本ハム戦の中継を系列のSTVが行ったものの同局は巨人戦を優先し、4年間続いていた開幕中継をストップさせた。
ポストシーズンでの放送実績
2009年のクライマックスパ第2ステージ・第1戦、第2戦(札幌テレビ製作の映像+仙台のスタジオで伊藤が実況)
音声差し替え中継
2008年3月のソフトバンク戦(福岡放送製作映像&仙台のスタジオ 解説:川尻哲郎、実況:伊藤拓)
その他
2005年5月の阪神戦(ホーム開催であったが系列のよみうりテレビが製作、MMTは伊藤を「派遣」する形で中継を行った)
解説:川藤幸三、実況:小澤昭博、リポーター:伊藤拓・尾山憲一、他球場情報:山本純也
※2011年も阪神戦を中継したがMMTとよみうりテレビは別スタッフで中継した。
東日本放送:夏の高校野球県大会中継をしていることもあり実況アナは豊富で中継数も仙台放送やミヤギテレビよりも多い、土曜デーゲーム中心だが2005年・2006年・2010年は巨人戦を、2011年はゴールデンタイムの編成を差し替えた。ホームでの巨人戦中継では2008年(詳細後述)を除きテレビ朝日製作のため協力(2011年現在も続いている)にまわり同局のアナウンサーは楽天リポーターとして登場する(2009年まで)。解説はほとんどの試合、東北福祉大OBの大塚光二が務めている(巨人戦の場合はグランド解説にまわる)が2008年は元ABCプロ野球解説者の村上隆行が、2010年からはデニー友利が新加入した。2008年まではファン代表としてローカルタレントの本間秋彦がゲスト出演。(本間が諸事情で来られない場合もゲストを配し、野崎靖博や戸叶尚も中継に加わったこともある)。実況は熊谷博之・岩崎心平・松本龍が担当。Jリーグ・ベガルタ戦中継がメインの加川潤も2005年1試合を担当した。リポーターは各実況アナに加え2007年のみ吉岡伸悟も担当、2008年までは相手チームにもリポーターを配し系列局のアナウンサーが担当していた。2007年はCS放送sky・A sports+中継の実況も担当。2008年は6月の交流試合・巨人戦を自社製作で行う予定だったが当日、朝に起きた岩手・宮城内陸地震の影響で中止。中継を行った4試合全てが4時間超になり終了まで中継ができない現象が続いた、2011年は在仙局では史上初となるKスタ以外でのホームゲーム中継を甲子園で実施、系列ABCの協力を全面に受け阪神戦同様の放送ブースで中継を行った。2006年から3年続けて開幕戦のネット受けを行いすべての試合で熊谷がベンチリポーターで派遣されている。
全国ネット並びにポストシーズン製作実績
2005年と2006年5月の交流試合・巨人戦1試合ずつ(テレビ朝日製作、熊谷が楽天リポーターで出演)
2009年のクライマックスパ第2ステージ第4戦(現地乗り込み、北海道テレビ製作の映像+熊谷の楽天応援実況)
2011年のオールスターゲーム第3戦(KHBアナウンサーの出演はなし)
音声差し替え中継
2010年6月の阪神戦(ABC製作映像+仙台のスタジオ 解説:大塚光二 実況:岩崎心平 リポート:松本龍)
2011年6月の阪神戦(2010年同様の対応 解説:大塚光二 実況:松本龍)
宮城県以外(東北や他チーム本拠地等)へのネット
宮城県以外の東北5県の民放では、在仙局制作の中継番組が年に数回ネットされる程度であり、とくに青森・秋田両県は少ない。
2005年シーズンのデーゲーム中継は隣県(特に2軍本拠の山形県や福島県、岩手県)、ソフトバンク戦においてはTBC製作をRKBで仙台放送製作をテレビ西日本で日本ハム戦においてはミヤギテレビ製作がSTVで放送されたこともある。
2010年以降のTBC木曜ナイターは全試合ではないものの青森、秋田を除く3県にもネットされた試合がある。
在仙局以外では、東京地区のTOKYO MXが2011年に「「がんばろう東北」東北楽天ゴールデンイーグルス野球中継」のタイトルで、4月30日と5月1日の対オリックス戦、および5月7日の対西武戦を中継(映像は球団制作のものを使用)。2013年10月21日のクライマックスファイナルシリーズ第4戦をテレビ東京(TXN)系列6局(テレビ東京植草朋樹アナウンサーが出張実況。野村克也、緒方耕一らが解説)[126]が中継。
BS
2008年6月、交流戦2試合をBS朝日で放送。(当初は1日の広島戦を球団製作=スカイ・エーと同時、14日の巨人戦は東日本放送制作で宮城県向けローカル中継との同時放送を予定していたが、巨人戦中継予定当日が岩手・宮城内陸地震のため開催中止となり、予備日の16日の試合はKHBの放送枠の都合が付かなかったためこの試合も球団製作のものに変更された)
同8月から日本BS放送(BS11)にて「BS11プロ野球・全国生中継」として中継に本格参入。同年度は終盤10試合を放送した。sky・A sports+と同様の球団制作中継。2009年からはタイトルを「プロ野球まるごと中継 熱闘!BS11ナイター」として20試合程度を放送した。
2010年はタイトルを「熱闘!! 楽天戦 フル中継」と改題、中継数も30試合に増加。Kスタ宮城以外にも東京ドーム、岩手県営野球場、秋田こまちスタジアム、開成山野球場で行われる試合も放送されるようになった。なお2011年よりタイトルを「断然 パ・リーグ主義!!」と改題(QVCマリンフィールドのロッテ戦も中継されるため)。2012年は放送なし。
2011年からはBS11に加え、TwellVでも「TwellV プロ野球中継」で放送(BS11は2011年度をもって終了)。2011年度は楽天主催試合を4試合中継。2012年度は楽天主催試合15試合を中継された。
CS、ケーブルテレビ
2008年度からは球団側が制作著作の権利を持ちマルチに映像制作している。
日テレプラス(「日テレプラス プロ野球中継 楽天イーグルス HEAT! LIVE」 2013年 - 2014年)[127]
J SPORTS(「J SPORTS STADIUM・野球好き」2012年、2015年 - )[注釈 10][128]
sky・A sports+(『スカイ・Aスタジアム LIVE RAKUTENわしづかみ』 2011年まで)
GAORA(アクティブ!ベースボール)
AMラジオ
東北放送(県域放送):「TBCパワフルベースボール」[注釈 11]
※「プロ野球三都物語」は開幕前に1年に1度放送。
NHK仙台放送局(東北地域向け):NHKプロ野球の枠での放送と、「先読み!夕方ニュース」など通常の番組を休止しての放送がある(7時のニュースは放送される)。
コミュニティFM
Rakuten.FM TOHOKU(宮城野区):「EAGLES BASEBALL GAME SHOW」(2015年8月より) 日本で初めて、プロスポーツ球団の自主運営によるコミュニティFM局</b>として開局[129]し、楽天全試合の中継を実施。解説者は楽天ベースボールスクールのジュニアコーチが日替わりで担当。なお、ビジター試合の中継はオフチューブ形式で行われる[注釈 12]。
※2006年まではFMじょんぱ(宮城野区、廃局)が「スタジアムFM」を展開していた。2007年からの一時期はFMいずみ(泉区)が「イーグルスライブラジオ」を展開していた。
FM放送
NHK仙台放送局(東北地方全域): 開幕戦のみ放送。NHKラジオ第1放送が高校野球優先のうえ、実施期間のために放送ができず、FM放送を行っている。2005年 - 2007年の3年間はいずれも東北ブロックでの放送。2006年は対戦カードが日本ハムだったため、北海道でも放送された。
備考
2013年11月24日に仙台市内で実施された優勝パレード(参照)では、上記の地元地上波民放4局とNHK仙台放送局が、以下の分担によって共同で生中継を実施した[130]。
東日本放送:スタート地点周辺の撮影・取材(キー局・テレビ朝日制作の全国ネット番組『報道ステーション SUNDAY』内での全国向け生中継に協力)
ミヤギテレビ:隊列の中の撮影(宮城ローカルで自社制作の特別番組を放送)
東北放送:選手や関係者が乗り込んだバスへの同行撮影・取材(宮城ローカルで自社制作の特別番組を放送)
NHK仙台放送局:ヘリコプターによるパレードの空撮
仙台放送:上記の各局が撮影した映像の編集・管理(宮城ローカルで自社制作の特別番組を放送)
応援番組
黄金鷲団(東日本放送制作、ANN東北地方ブロックネット番組[注釈 13]、2005年4月2日 - 12月24日) - インターネット向けにもGyaO経由で配信
CHALLENGE 燃えよ!EAGLES → 燃えよ!EAGLES(東日本放送制作、秋田朝日放送でも同時ネット、2005年3月 - )
NEXT!犬鷲魂 ~We Love 楽天イーグルス~(J:COMチャンネル仙台)
らくてんみやぎのエフエム
2015年8月9日に開局したコミュニティFM放送局[129]。愛称は「Rakuten.FM TOHOKU」(ラクテンドットエフエムトウホク)。
プロスポーツチームが直営する日本初のコミュニティ放送局となる[注釈 14]。放送区域は宮城野区の西部、Koboパーク宮城を中心とした区域で、区内のカバー世帯数は30.06%である。
なお、宮城野区には1999年から2007年まで、仙台市民放送(FMじょんぱ)がコミュニティFM放送を行っており、同一区内の局としては8年ぶりの復活という形となる。また同一市区内でコミュニティFM廃局後、新たに開局があったケースは、これまで廃局の周波数が割り当てられていたが、Rakuten.FM TOHOKUはFMじょんぱ(78.8MHz)から周波数が変更されており[注釈 15]全国初のケースとなっている。
放送内容
番組は毎日午前1:00を基点とした1日24時間放送[注釈 16]。イーグルスのホームゲーム中継やチーム情報をはじめ、宮城野区の地域情報、観光番組、音楽番組で構成する。
インターネット放送はRakuten.FM TOHOKU公式サイト、スマートフォンアプリ「At Eagles」、TuneIn Radioにて配信されている。
キーワード
フレックス・プライス
2009年よりKスタ宮城で行われる楽天の主催試合において、対戦相手や曜日などに応じてチケットの価格を変える「フレックス・プライス」が導入されている。「フレックス・プライス」のようなチケットの価格変動制は、メジャーリーグでは複数の球団が採用しており、日本では東京ヤクルトスワローズが神宮球場での読売ジャイアンツ戦、阪神タイガース戦に限り一部席種を割高にしている例があるが、本格的な導入は楽天が初めてになる。
チケットの価格は5段階で設定されており、高い順から「プラチナ」、「クリムゾン」、「ゴールド」、「シルバー」、「バリュー」となっている[注釈 17]。
席によっては、プラチナの価格がバリューの2倍以上になることもある[131]。
平日デーゲーム開催
2007年4月3日(火) - 5日(木)、フルキャストスタジアム宮城で日本ハムとの3連戦をいずれもデーゲームで開催した。前年3月末のホーム開幕3連戦(28日からの対オリックス3連戦)をナイターで開催した際、冷え込みが激しく降雪も記録する事態があり、球団側は選手や観客の身の安全を考慮。比較的気温が高く温暖で、また春休みとあって学生ファンが多く詰め掛けられると見越し、本拠地開催では極めて異例の平日デーゲームを敢行することになった。3試合とも13時開始。テレビでもスカイ・Aスポーツプラスと東北放送(宮城ローカル)で生中継された。3試合とも1万人超えの盛況となった。特に、3戦目においては期待の高卒新人投手・田中の本拠地初登板もあって、約1万8千人ものファンが球場に詰め掛けた。翌2008年も前年同様の事情で、4月1日(火) - 3日(木)の対ロッテ3連戦をデーゲームで開催。ここでも3試合全て観衆1万人を超えた。
2009年 から2011年は平日デーゲームは行われず。2009年はWBCのため開幕が遅く4月7日(火)がホーム開幕戦。2010年はホーム開幕戦が土曜日に設定されたため(他球場では前日の金曜にホーム開幕戦となるナイターが行われている)。2011年は当初3月29日(火) - 3月31日(木)の対ソフトバンク3連戦をデーゲームで開催する予定になっていたが、東日本大震災の影響による開幕日延期のため取り止めとなった[注釈 18]。
2012年からは平日デーゲームが再開され、2013年以降も毎年4月初旬に平日デーゲームが2試合程度組まれるようになっている。2017年は宮城での開催に加え、郡山・ヨーク開成山スタジアムでも平日の薄暮デーゲーム開催が予定されていたが、雨天中止となっている他、夏季開催(7月27日・ソフトバンク戦)でも平日のデーゲーム開催を行った。
また、パ・リーグでは他にロッテ、日本ハム、西武も平日デーゲームを組むようになった。
ちなみに、本拠地での平日デーゲームはプロ野球初期の1930年代 - 1950年代(ほとんどの球場にナイター照明がなかった)は頻繁に行われたほか、1990年代までは消化試合やプレーオフ(パ・リーグ)、日本シリーズでも行われていた。
イーグルス花火大会の開催に伴う薄暮デーゲーム開催
これとは別に、2015年5月21日(木)の日本ハム戦は「第1回楽天イーグルス花火大会[132]」を試合終了後に行う予定であるため、通常より2時間早い16時からの薄暮デーゲーム開催とした。
これは、近接の仙台市陸上競技場のトラックから約2000発を打ち上げる花火大会そのもののほか、イーグルスが翌22日からの西武戦の会場・西武プリンスドームへの試合終了後の直接移動が可能<!--日本ハムも翌日から[[札幌ドーム]]でソフトバンク戦を行うために移動する-->であるという点も含めた総合的な判断で薄暮デーゲーム開催とした。長時間の試合であっても、若干の規模縮小などが生じるものの花火大会を開催できるように配慮した時間設定をしたものだったが、試合が延長戦にもつれ、試合開始から5時間が経過した21時を過ぎても試合が続いてしまう状況となってしまった(結局延長12回・5時間37分もかかる大乱戦となり、試合終了が21時40分を過ぎてしまっていた)。そのため周辺の騒音や選手の翌日の試合会場への移動(特に楽天の選手はこの試合終了後に予定していた西武プリンスドームへの直接移動ができなくなった)などを考慮して、この日の花火大会とそれに付随したAUN J CLASSIC ORCHESTRAによる音楽ライブの開催を断念せざるを得なくなった。
なお花火大会の代替日程は5月21日時点では未定であったが、あるファンから「花火を見たかった」という声をかけられた球団職員は「代替開催ができるように検討していく」としている他、立花も「残念すぎる。今日(21日)のお客様方に何らかの形で対応できるように考えたい」と延期開催の可能性を示唆するコメントを残している[注釈 19]。
この後、5月29日に、この第1回花火大会の「リベンジ」延期開催を、7月11日にデーゲーム(14時)開催で行う予定としているオリックス戦で改めて行うことを発表した。この日は3000発の花火を打ち上げる予定にしているが、今回は長時間開催や荒天時の対応もはっきりと明示しており、
試合中止、また試合終了時に強風や豪雨などにより開催できない場合、試合終了が20時を超えた場合は中止
11日の試合、ないしはイベント中止時は12日に延期することにするが、12日も開催中止であればイベント自体延期せず中止する
試合終了後から19時30分までイベントの開催を予定している(ただし、5月21日のゲストであるAUN J CLASSIC ORCHESTRAの出場については明示されていない)
と記載されている[133]。そして7月11日のデーゲーム終了後、無事に花火大会は開催され、試合を観戦した人など市民約15000人が集まった[134]。
開幕戦薄暮デーゲーム
2016年の開幕戦・ソフトバンク戦は、開幕戦のデーゲームとしては48年ぶりとなる薄暮デーゲーム[注釈 20]として16時から行われる。[135]これとは別に4月1日の西武戦も13時から実施され、またアウェーに出ての3月29・30日のロッテ戦(QVCマリン)も13時開始と、ナイター設備が整った近代において開幕当初の8試合がデーゲームという異例な日程となった(このほか4月12日の千葉ロッテ戦もデーゲームであったが、この時は残り2連戦はナイターだった)[136]。
地方球場の命名権
イーグルスでは2軍の主本拠である利府町中央公園野球場(楽天イーグルス利府球場)のほか、地方遠征(主に2軍)を開催する岩泉球場・しらさわグリーンパーク・湯沢市稲川野球場を初めとした東北地方16か所(2014年2月現在)の命名権を持っており、それぞれ「楽天イーグルス○○球場」「イーグルス○○球場」という名称を使用している。
これはイーグルスが2007年9月から取り組んでいる「フィールドサポートプログラム」という制度によるもので、東北地方各地の「野球競技を実施できる野球場」を対象として、球場を保有する地方自治体などと協議したうえで愛称を設定するが、通常の命名権のようなチーム名称・ロゴの使用のためのロイヤリティーは発生しない[137]。
基本コンセプトを「地域と球団間における野球普及・促進に向けた協力活動」の一環[137]として実施しており、これらの野球場では2軍(イースタン・リーグ)公式戦の開催(硬式球が使用できる球場のみ)のほか、年1回以上「イーグルス野球塾」と題した少年野球教室の開催などを通して、地域の野球振興に寄与し、また地元でのイーグルスの応援を高揚させるという目的がある。
がんばろう東北
地震による甚大な被害を受けた東北地方の人々を励ますべく、1995年の阪神・淡路大震災時のオリックス・ブルーウェーブが用いた「がんばろうKOBE」にあやかって作られた言葉。2008年の岩手・宮城内陸地震と2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)において使用され、ユニホームの袖部分にもこのフレーズが描かれたワッペンが貼り付けられた[注釈 21]。
個人に対するファーム主催試合の命名権販売
2014年には、個人を対象に、「FAN'Sデー」期間中(4月18日 - 20日)に楽天イーグルス利府球場で主催するイースタン・リーグ公式戦3試合の命名権を1試合3万円で販売[138]。3試合とも完売したため、当該カードの試合前には、命名の対象者による始球式などのセレモニーを実施した[139]。ちなみに、個人に対する球団主催公式戦の命名権販売は、NPBの球団では初めての試み</b>である。
主なキャンプ地
久米島町営仲里野球場(沖縄県島尻郡久米島町) - 二軍第1次春季キャンプ
久米島野球場(沖縄県島尻郡久米島町) - 一軍第1次春季キャンプ、二軍第2次春季キャンプ
金武町ベースボールスタジアム(沖縄県国頭郡金武町) - 一軍第2次春季キャンプ
マスカットスタジアム(岡山県倉敷市) - 秋季キャンプ
ショップ
オフィシャルショップは「楽天イーグルスグッズショップ 」。店舗は以下の通り。
スタジアム店 チームショップ[140]
宮城県仙台市宮城野区宮城野2-11-6(楽天Koboスタジアム宮城内)
仙台駅東口店[140]
宮城県仙台市宮城野区榴岡4-1-8
エスパル仙台店[141]
宮城県仙台市青葉区中央1丁目1-1 エスパル仙台 東館1階
上記とは別に「藤崎青葉通り店」、「仙台駅店」、「盛岡店」も設けられていたが、閉店[142]。
スポーツラウンジ「T.R.G.E.」
2014年の公式戦開幕日(3月28日)からは、球団直営のスポーツラウンジ「T.R.G.E.(TOHOKU RAKUTEN GOLDEN EAGLES OFFICIAL SPORTS LOUNGE)」を、仙台市の繁華街・国分町2丁目のエーラクフレンディアビルの1階にオープン[143]。東北楽天戦をはじめ、テレビのスポーツ中継を見られるスポーツバーで、アルコール飲料も有料で提供する[144]。2017年2月22日をもって営業を終了。[145]
関連書籍
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その他
平成29年6月29日:本球団とクラーク記念国際高等学校が提携して高校の仙台キャンパスに女子硬式野球部を創部すると発表[146][147][148][149][150]。監督は球団OBの山崎隆広。
脚注
注釈
出典
関連項目
楽天イーグルスTV
ベガルタ仙台 - Koboパーク宮城にベガルタ仙台が広告を出し、ベガルタ仙台の主催ゲームにこの球団が看板を出している。
ヴィッセル神戸 - 神戸市をホームタウンとするJリーグクラブ。運営しているのは楽天の子会社・楽天ヴィッセル神戸株式会社。
東北楽天ゴールデンイーグルスの応援団
東北ゴールデンエンジェルス
仙台89ERS
仙台のスポーツ
外部リンク
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| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E6%A5%BD%E5%A4%A9%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%82%B9 |
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1896年アテネオリンピック(1896ねんアテネオリンピック)は、1896年4月6日から4月15日まで(当時のギリシャのユリウス暦では3月25日から4月3日まで)、ギリシャのアテネで行われた夏季オリンピック[1]。近代五輪最初の大会として開催された[1]。
ハイライト
古代オリンピックに感銘したピエール・ド・クーベルタン男爵により提唱。
大会参加者は男子のみであった。女子の参加は第2回オリンピック以降になる[2]。
近代オリンピック最初の競技は、陸上競技100mの予選で、全てのレースでアメリカ選手が1位になった。クラウチングスタートをしていたためだといわれている。競技の決勝では、アメリカのジェームズ・コノリーが古代オリンピック終結後、1500年ぶりに栄冠を得た[2]。
マラソンでは、ギリシャのスピリドン・ルイスが優勝[1]。
財政事情により、第1回オリンピックでは金メダルは無く、優勝者には銀メダル、第2位の選手には銅メダルが贈られ、第3位の選手には賞状が授与された[2]。
当時は国家単位ではなく個人名義による自由出場だったため、国混合チームが出場していた[2]。
記録:トーマス・バーク(アメリカ、陸上競技男子100m)12秒0
フェンシングで銅メダル、射撃競技でも銀銅2つのメダルを獲得したホルガー・ニールセン は、後にオリンピック競技になるハンドボールのルールを策定している。
雨天のため、閉会式はマラソンの翌日の4月15日に実施された[2]。
実施競技
陸上競技
競泳競技(実施場所・ゼーア湾)
体操
ウエイトリフティング(体操の種目)
レスリング(グレコローマンスタイル)
フェンシング
射撃
自転車
テニス
各国の獲得メダル
1位には銀メダル、2位には銅メダルが授与され、3位にメダルは授与されなかったが現在ではメダリスト名簿に登録されており、以上の理由より第2回以降と同様の色を用いる。
1United States1172202Greece(開催国)101719463Germany652134France542115Great Britain23276Hungary21367Austria21258Australia20029Denmark123610Switzerland120311Mixed team1113
主なメダリスト
優勝(銀メダル)
ジェームズ・コノリー(アメリカ、陸上競技男子三段跳) - 近代オリンピック優勝者第1号
トーマス・バーク(アメリカ、陸上競技男子100m)
スピルドン・ルイス(ギリシャ、陸上競技男子マラソン)
ハヨシュ・アルフレッド(ハンガリー、競泳男子100m自由形)
ハヨシュ・アルフレッド(ハンガリー、競泳男子1200m自由形)
ジョン・ピウス・ボーランド(イギリス、テニス男子シングルス)
ジョン・ピウス・ボーランド(イギリス)、フリードリヒ・トラウン(ドイツ) (テニス男子ダブルス)
カール・シューマン(ドイツ、体操男子跳馬)
ドイツ(体操男子鉄棒団体)
ドイツ(体操男子平行棒団体)
カール・シューマン(ドイツ、レスリンググレコローマンスタイル男子無差別級)
ポール・マッソン(フランス、自転車男子スプリント)
ポール・マッソン(フランス、自転車男子1kmタイムトライアル)
ポール・マッソン(フランス、自転車男子10km)
第2位(銅メダル)
ジェームズ・コノリー(アメリカ、陸上競技男子走高跳)
第3位
ジェームズ・コノリー(アメリカ、陸上競技男子走幅跳)
オリンピック賛歌
オリンピック賛歌(Olympic Anthem)とは、詞コスティス・パラマス(Kostis Palamas)、曲スピロ・サマラス(Spyros Samaras)によって作られ、この第1回アテネオリンピックにおいて演奏されたものである。
脚注
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/1896%E5%B9%B4%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF |
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ロナルド・ドウォーキン(Ronald Dworkin、1931年12月11日 - 2013年2月14日 )は、アメリカ合衆国の法哲学者である。晩年はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン法学部および、ニューヨーク大学法科大学院の教授であった。
法哲学と政治哲学の分野に対する貢献によって知られている。「純一性としての法'law as integrity'」理論は、法の本性についての現代の主導的な理解の一つである。
来歴
ウースター (マサチューセッツ州)に生まれ、ハーバード大学で学び、ローズ奨学生としてオックスフォード大学モードリン・カレッジ(Magdalen College)に学ぶ。オックスフォード大学の指導教授はルパート・クロス(Rupert Cross)。ハーバード大学法科大学院へと進み、合衆国控訴裁判所において名高いラーニド・ハンド判事(Learned Hand)の法律書記を務めた。ハンド判事は後にドウォーキンを、自身の元でかつて働いた法律書記の中で最も聡明な者と評し、ドウォーキンはハンド判事について、深く影響を与えてくれた師であると回想する。ニューヨークの有名な法律事務所、サリバン・アンド・クロムウェル(Sullivan & Cromwell)で働いた後、イェール大学教授に就任し、ウェスリー・ニューコーム・ホーフェルド(Wesley Newcomb Hohfeld)講座教授の職位を得た。
1969年、ドウォーキンはハーバート・ハートの後任として、オックスフォード大学法学部教授として指名され、またオックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジ(University College)の特別研究員として選出された。オックスフォード大学を退職した後、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン法学部のクアイン講座教授となり、続いてベンサム講座教授に就任した。1970年代後半からはニューヨーク大学法科大学院のフランク・ヘンリー・ゾンマー講座教授、同学哲学部教授でもあった。
2013年2月14日、白血病のためロンドンで死去した[1]。81歳没。
原理としての法とルールとしての法
ドゥウォーキンは法実証主義の最も重要な批判者であり、考えうるありとあらゆるレベルの法実証主義者の理論を拒絶する。ドウォーキンは法の実在や内容に関するいかなる一般理論をも受け入れない。ある法について、その効果に言及することなしにでも、特定の法体系に依拠するならばそれを同定できるということを否定する。また彼は、法実証主義の全体的、慣習的な見方をも否定する。ドウォーキンにとって法理論とは、事案がいかに決定されるかという方法についての理論であり、それは政体による説明によって成立するのではなく、政府による政府の懸案に対する強制力の行使を抽象的、理想的に制御することによって成立するのである。
ドウォーキンは、ハーバート・ハートの実証主義に対する批判によってよく知られており、著書『法の帝国』の中でその批判を全面的に繰り広げている。ドウォーキンの理論は「解釈主義」と呼ばれ、法とはなんであれ、法体系の慣習的な歴史を構成的に解釈した後に得られるもの、とする。
ドウォーキンは、人々が大事に抱いている倫理的原則はしばしば誤っており、時には、歪められることによって「ある種の犯罪には受け入れられるものがある」とまで解釈されうる、と論じる。法廷はこれらの原則を見出し、適用するために、過去の法の実用を最もよく説明し正当化するような解釈を生み出そうとする視点から、法的な与件(立法過程や判例など)を解釈する。この場合、解釈が有意味なものとなるように、「純一性としての法'law as integrity'」という考え方に従わなければならない、とドウォーキンは論じる。
法がこのような意味で「解釈による」ものであると考えるドウォーキンは、人々の法的権利が云々される状況においては、解釈は「正しい答え理論(the right answer thesis)」にかかわらざるを得ない、と考える。また彼は、そのような難しい判断においては、裁判官に自由裁量権はないとする。
ドウォーキンの法原則は、ハートの「承認のルール'Rule of Recognition'」とも関係している。ドウォーキンは、ハートが言うような、法体系において他の法を有効と認定するような上位規則、という考えに反対する。その根拠は、有効と認定する過程は皆が納得するようなものでなければならないのに、人々には、正しく法的な結果が正当な異議に対して開かれているような場合でさえ法的権利があるからである。
ドウォーキンは、実証主義による法と倫理の区分に与せず、伝統的な自然法が仮定するように、法と倫理は存在論的な意味でなく認識論的な意味において関係し合っている、と考える。
正解テーゼ
「神に対して冒涜的な契約については、今後無効とする」という法案が立法過程を通過したとしてみよう。社会は、日曜日(安息日)に取り結ばれた契約は、それだけで神に対して冒涜的なのかどうか、ということに関して分裂するであろう。立法者のうちでこの問題を考えて投票した者はほとんど無く、果たしてその法をそのように解釈すべきなのかどうかについて同様に分裂している。トムとティムは日曜日にある契約を結んでしまったため、トムは法の条文を行使してその契約を無効にしようとティムを訴えたが、ティムはその法の実効性に異議をとなえる。正しい答えはどれかということについて社会が深刻なまでに分裂している状況においてでも、裁判官はトムの契約が有効かどうかについて正しい答えを求めるべきだろうか。あるいは、正しい答えなんてない、と言うほうがより現実的なのだろうか(Dworkin, 1978)。
興味深く、そして議論を呼ぶことに、ドウォーキンは大抵の法的事案に関して唯一の正しい答えがある、と主張する。彼はハーキュリーズという、極めて賢明であらゆる法源を知り、また十分に考える時間をもった理想的な判事のメタファーを用いる。法は縫い目の無い網であるとの前提に立つならば、ハーキュリーズはどんな事案を決定するに際しても、全体としての法(純一性としての法)を最も網羅し正当化するような理論を構築しなければならない。ドウォーキンによれば、ハーキュリーズは常に唯一の正しい答えにたどり着くだろうと言われる。
ドウォーキンは、ある事案に対してなにが解決と呼ばれるかということについて、有能な法律家達の間でさえしばしば意見が一致しないということは否定しない。むしろ、法律家達はハーキュリーズが出したその答えに同意しないだけなのである。
ドウォーキンの指摘によれば、実定法(すなわち、法実証主義にいう法源)が欠缺や矛盾にあふれているだけでなく、他の(原則を含む)法的基準もまた、ハードケースを解決するのに不十分であるとされる。それらのうちのいくつかは通約不可能であって、そのような状況においてはハーキュリーズでさえもジレンマに陥り、どのような答えも正しいものではないだろう、という。
ドウォーキンは、次のように言うことによって自身の立場を擁護している。すなわち、判事達であれ、一般の人間と大差ないのであって、通約不可能な選択肢や価値の間で自分達の進む道を見つけるのである、と。また、我々がすでに手にしている規則や原則が互いに衝突した場合、常に他の規則や原則を見出すことが可能なのである、と。しかしながら、互いに通約不可能な倫理基準や原則に関する同様の反論が、その過程で見出されるさらなる原則や規則に対してもあてはまるだろう。つまり、常にさらなる原則や規則を考慮に入れることができるという主張は、そのようなさらなる原則がどのようなものかということを一切説明しないのであり、全能の判事であるハーキュリーズの手になる法解釈もいつかは(正しい答えに至った時点で)終わる、ということである。実際、ドウォーキンの主張からは正反対の結論もまた導き出されうるのである。すなわち、全能なるものの導きにしたがって法解釈を続けていくと、永遠に終点にたどり着かないのである。それゆえ、ハーキュリーズをもってしても、ある時点での「正しい」答えは得られるかもしれないが「最終的な」正しい答えにはたどり着かないだろうと思われるのである。あるいは、どのように進むべきかということを教えてくれるものは皆無であるということになる。
ドウォーキンのハーキュリーズのメタファーは、ロールズの「無知のヴェール」やハーバーマスの「理想的発話状況」と似ているところがある。彼らはみな、いくらかでも有効性のある規範的な命題にたどり着くために、理想的な方法を提示しているのである。そのなかでもロールズの例の特徴は、純粋に理想的な事柄と実際的な事柄を同じ地平で見ようとしていることにある。例えば、民主主義的な社会における政治との関連で言えば、次のような物言いをする。すなわち、権力者達は、反対する立場にいる人々を、自分達が反対する立場に回ったときに望む形で取り扱わなければならない。なぜなら、権力者達が現在とっている立場は、将来の政治情勢における自分達の立場をなにも保証しない(不可避的に反対する立場に回らなければならない時がくる)からである。他方で、ドウォーキンのハーキュリーズは純粋に理想的なものである。すなわち、そのような人が存在したならば、彼はあらゆる倫理的なジレンマの中でも正当にたどり着くであろう、というようなものなのだ。
ドウォーキンは、正解テーゼによって懐疑論、すなわち法的倫理的なジレンマに対しては正しい答えを決定することはできない、とする議論に攻撃を加えた。ドウォーキンの反懐疑論は次のようなものである。すなわち、懐疑論者の主張の性質は根本的には、実質的な倫理主張の性質と類比的である。実質的な倫理主張とは、法的倫理的ジレンマの真偽は決定できないと主張することによって、事物のあり方に関する存在論的な主張を避けつつ、倫理的な主張をすることによって、特定の個人の損害と引き換えに法的倫理的問題を解決しようとするが、認識論的な不確実性という面から見て、それは正しくない、という主張である。
平等の理論
ドウォーキンはしばしば「何の平等かの議論」と呼ばれるようなもの対しても重要な貢献をなしてきた。
『平等とは何か』(原題は'Sovereign Virtue')のなかで彼は「資源の平等'Sovereign Virtue'」と呼ぶ理論を擁護している。この理論は二つの考え方を結びつけたものである。大まかに言えば、一つ目は、人間は自分が生活のなかで選び取ることに対して責任を負う、という考え方である。二つ目は、知性や才能の生まれながらの天分はモラル・ラックであり、社会資源の分配に影響させるべきではない、という考え方である。ドウォーキンによる他の著作と同様に、彼の平等の理論は核となる原則、すなわち、社会の構造上全ての個人は平等な気遣いと敬意を受ける権利を授与されている、という原則によって支えられている。ドウォーキンの平等の理論は、いわゆる運の平等主義'Luck egalitarianism'の一形態である。徳法学'Virtue jurisprudence'も見よ。
「価値は衝突するか―ハリネズミ試論」("Do Values Conflict? A Hedgehog's Approach", Arizona Law Review, Vol 43:2))という論文の中でドウォーキンは、自由という価値と平等という価値は必ずしも衝突しないと主張している。彼はアイザイア・バーリンによる「差が無い'flat'」という平等概念を批判し、新しく「動的な」自由概念を提出し、殺人を犯すことが許されていないからといって自由を侵害されている、ということが言えないとしている。しかるに、悪いことができないというときには自由を侵害されている、と言えない、ということである。このように考えるならば、自由とは、我々が他人の権利を侵害しようと思わないことに関してのみいえることなのである。しかしながら、バーリンであれば、ドウォーキンは「積極的自由」概念のうちのひとつを規定したに過ぎない、と指摘するであろう。このように自由を「正しい」「誤っている」などのなんらかの価値によって定義し、価値に関わらない「消極的自由」を排除しようとすることは、バーリンが警鐘を鳴らしたような、20世紀の全体主義的な悪夢へと直結した形式でのやり方である(Liberty, Oxford University Press, 2002. ISBN 0-19-924989-X, expanded version of "Four Essays on Liberty")。ドウォーキン自身の考えは高潔で悪意の無いものであろうが、「動的な」価値としての自由という概念は、バーリンが「積極的自由」(社会にそもそも備わっているとされる目的によって定義される自由)と名づけたものとほぼ同じものであり、そのように解釈することができてしまうのである。
野心的なバーリン主義者であれば、さらなる批判を向けるかもしれない。すなわち、「差が無い」という自由概念は、殺人の自由を伴わない、ということである。むしろ、殺人は(起きてしまえば)自然的な自由からの帰結にすぎない。殺人を犯すことが許されていないという状況においては、殺人を犯すことが許されていないというだけでなく、(もっと根本的に)拘束されていたり、手錠をかけられていたり、刑務所に入っているなどして、行動することがまったく許されていないという理由で自由が侵害されているのである。そういった理由から殺人が許されていないという事実は、やはり単に自由が侵害されているということなのである。そうであれば、ドウォーキンの議論は深いレベルでの結果主義者'consequentialist'の議論として読み替えることができるかもしれない。
公共的議論への参加者
またドウォーキンは、法や基本的人権に関する公共的議論に熱心に参加することでも知られている。またニューヨーク・レビューオブ・ブックス'The New York Review of Books'にしばしば寄稿している。
著書
単著
Taking Rights Seriously, (Harvard University Press, 1977).
木下毅・小林公・野坂泰司訳『権利論(1-2)』(木鐸社, 1986年-2001年/増補版, 2003年)
Law's Empire, (Belknap Press, 1986).
小林公訳『法の帝国』(未來社, 1995年)
A Matter of Principle, (Clarendon, 1986).
森村進・鳥澤円訳『原理の問題』(岩波書店、2012年)
A Bill of Rights for Britain: Why British Liberty Needs Protection, (Chatto & Windus, 1990).
Life's Dominion: An Argument about Abortion and Euthanasia, (Harper Collins, 1993).
水谷英夫・小島妙子訳『ライフズ・ドミニオン――中絶と尊厳死そして個人の自由』(信山社出版, 1998年)
Freedom's Law: the Moral Reading of the American Constitution, (Oxford University Press, 1996).
石山文彦訳『自由の法――米国憲法の道徳的解釈』(木鐸社, 1999年)
Sovereign Virtue: the Theory and Practice of Equality, (Harvard University Press, 2000).
小林公・大江洋・高橋秀治・高橋文彦訳『平等とは何か』(木鐸社, 2002年)
Is Democracy Possible Here?: Principles for a New Political Debate, (Princeton University Press, 2006).
Justice in Robes, (Harvard University Press, 2006).
宇佐美誠訳『裁判の正義』(木鐸社, 2009年)
Justice for Hedgehogs, (Belknap Press, 2011).
Religion without God, (Harvard University Press, 2013).
森村進訳『神なき宗教: 「自由」と「平等」をいかに守るか』(筑摩書房, 2014年)
編著
A Badly Flawed Election: Debating Bush v. Gore, the Supreme Court, and American Democracy, (New Press, 2002).
From Liberal Values to Democratic Transition: Essays in Honor of Janos Kis, (Central European University Press, 2004).
共編著
The Legacy of Isaiah Berlin, co-edited with Mark Lilla and Robert Silvers, (New York Review of Books, 2001).
参考文献
宇佐美誠・濱真一郎編『ドゥオーキン:法哲学と政治哲学』勁草書房、2011年。ISBN 432610208X
深田三徳『現代法理論論争:R.ドゥオーキン対法実証主義』ミネルヴァ書房、2004年。ISBN 4623041409
脚注
関連項目
法学
法学方法論
法哲学
ハーバート・ハート
法実証主義
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3 |
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パリ・コミューン(、)は、フランス・パリ市の自治市会(革命自治体)のことであるが、ここでは国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対し、同時期にフランス各地で蜂起したコミューン()のうち普仏戦争後の1871年3月26日に、史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言した1871年のパリのコミューン()について説明する。
このパリ・コミューンは約2ヶ月でヴェルサイユ政府軍によって鎮圧されたが、後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に影響を与えた。マルセイユ(1870年9月5日宣言)、リヨン(1870年9月4日宣言)、サン・テティエンヌ(1871年3月26日宣言)、トゥールーズ、ナルボンヌ(1871年3月30日宣言)、グルノーブル、リモージュなどの、7つの地方都市でも同様のコミューンの結成が宣言されたが、いずれも短期間で鎮圧された[1]。
第二帝政期の情勢と労働者
第二帝政とパリ
第二帝政成立
ヨーロッパでは産業革命の波と凶作とによって封建的政治体制を覆す革命の波が押し寄せつつあった。
1848年革命(二月革命)が勃発してオルレアン朝が倒壊し、短期間ながら第二共和政が成立したもの、政情不安が続いていた。こうした状況に頭角を現したのがナポレオンの甥ルイ・ナポレオンであった。彼は国民の圧倒的な支持で大統領就任を果たす[2][3]。1850年代に入るとともに景気回復が進み、政権は安定に向かっていく。ルイ・ナポレオンは産業革命を強力に推進する一方、積極的な社会政策を実施して、フランスの近代化を進めていった。同時代、アメリカではゴールド・ラッシュが到来した影響で農作物価格が上昇し、農業国フランスを支える農民の生活は向上していった[4][5]。
1851年、ルイ・ナポレオンは国民的人気を背景にクーデターを断行、翌年には皇帝に即位して、ルイ・ナポレオンはナポレオン3世となった。ここに第二帝政が成立する[6][7]。
第二帝政は成人男子選挙権にもとづく民主制に基礎を置いていたが、議員就任には反動的な内容の1852年憲法を下敷きに作られた帝国憲法への宣誓が必要で、実質的に皇帝の臣下を民選しているという程度のものであった。第二帝政期の政治の実態として、皇帝の権限が非常に強く、大臣の任命から行政官任用にいたるまでの人事権が皇帝に集中、皇帝専制政治の色彩を帯びたものであった[8][9]。
ただ1850年代は西ヨーロッパ諸国の安定の時代であったことから時代の追い風を受けていたため、反動政治に対する国民の拒否感も少ないものであった。その後、ナポレオンは皇帝に即位してすぐは非常に意欲的で、積極的に自由主義政策を展開し、1860年にはを締結した。この貿易自由化政策の結果、フランスでは農産物の輸出が増加して農民の生活はさらに向上に向かっていた[10][11]。また、皇帝は諸階級の上に立つ存在と見なされていたことから社会主義(空想的社会主義の一つサン・シモン主義に近い)に対しても受容的な立場をとっており、皇帝の従兄弟にあたるナポレオン公シャルル・ボナパルトの指導のもとで労働者に対する恩恵的な政策も実施された。第二帝政期のフランス政治はボナパルティズムという民主主義と専制主義の異種独特な同居状態にあったと言える[12]。
そして、ナポレオン3世は好景気を背景としてジョルジュ・オスマンによるパリ改造や鉄道敷設事業など大規模な公共事業(オスマニザシオン)が展開された。パリ改造は次のようなものであった。官庁街や住宅街などの区画整備を推進して西部に高級住宅街を造成した。さらに、下水道の完備などの公衆衛生施設の改善に努め、不衛生なパリをより清潔な都市に変えていった。歴史的建造物の周辺に広大な広場を造成した他、広場と広場とを直線的な幹線道路で放射状に結び、都市の過密状態の解消に試みた。中世以来のパリを近代都市として生まれ変わらせていったのである。パリは20の区域に区画され再編されて現在われわれが見ている近代都市パリが形成されることとなる[13][14]。ただし、一方でこうしたパリ改造のために一般の民衆は過酷な立ち退きが強制され、こうした人々は住み慣れた中心部から追い出されて離れた郊外に移住を強いられた。その結果、パリ市近郊には中心部を取り巻くように「赤いベルト」と呼ばれた貧民街が形成されることとなった[15]。コミューン革命の舞台はこうした環境下のパリだったのである。
第二帝政とパリ労働者
1860年代のパリ労働者の特徴としては、工場労働者というよりもより前近代的な性格が残されていた。工芸品の製造をはじめとする伝統的な手工業生産に従事しているものが多く、労働者というよりも職人というべきタイプの人々であった[16]。こうした職人的熟練労働者は自分の職と腕前に自負心を持つ職人気質の強い労働者であり、彼らの政治的志向はフランス革命期のサン・キュロット運動の歴史的経験を背景とした人民主権思想とその延長に形成されたプルードン的な職人社会主義思想に支えられていた[17]。フランス革命以来、パリ民衆はお上への直訴や談判などの直接行動を重視しており、ジャコバン的直接民主主義の伝統が残っていた。かれら民衆は酒場などでの労働者同士の交流を契機に、つよい連帯感と独立した階級意識を形成し、現実世界に対する批判的な精神を育んでいた。産業化・近代化の進むパリではより一層、格差と階級分離が深まっており、単なる強権政治でしかない第二帝政への不満もこうした生活世界の中で形成されていた[18]。こうした環境の中で「人民の声」を高等政治の世界へと反映させたいとするポピュラー・ポリティクスの文化が形成されていたのである。
こうした中、時代が下るにつれて第二帝政への逆風が吹き始める。周期的に繰り返される恐慌はやがてナポレオンⅢの帝政に対する人々の不満を強めていく。ナポレオン3世は事態打開のために対外政策を積極化させるものの、メキシコ出兵の失敗によって皇帝としての権威を失う。これを背景に強権政治の綻びが見え始め、「権威帝政」から帝政は次なる段階として過渡的な「自由帝政」へ、そして帝権失墜の最終段階「議会帝政」へと移行していく[19]。
第一インターナショナルの発足
「自由帝政」期においてはその後の歴史過程に大きな影響を与える変化が起こった。上記の記述において、「権威帝政」期におけるナポレオン帝政の強権主義的な体質を強調したが、1860年代初頭に入ると状況は変化していた。
この時代、フランスにおける皇帝権力とパリの労働者は実は階級闘争に根差す唯物史観で語られているほど対立的なものではなかった。パレ・ロワイヤル・グループのように帝政を積極的に支持しながら皇帝に接近し、労働立法・社会立法を提言する勢力も存在していた[20]。帝国政府もそうした社会的要請を受けて民法を改正し、労使間の不平等な雇用契約関係を改めるなどの社会政策を進めている。
(青銅彫刻工としてアンティーク雑貨の加工を請け負っていた)のようなより独立志向の強い労働者エリートであっても、アルマン・レヴィなど側近から交渉機会を与えられれば、ナポレオン公などの開明派の王侯貴族と盛んに接触して帝政に対して進んで労働者の利害を主張していた。したがって、労働者階級が帝政を利用して権利を主張したり、社会的上昇の機会を獲得するという構図が出来上がっていたのである。こうした動きは時代を大きく加速させる転機をつくりだした。1862年にロンドンで開かれた万国博覧会に参加させるべく、パレ・ロワイヤル・グループを中心に約200名のフランス労働者、ドイツから12名の労働者の代表団が派遣された。アンリ・トランもブリテンの労働運動の実相を視察するべく代表団の委員の一人として参加した。もちろん、フランス代表団を組織し、労働者の自発的カンパもあるが、その費用を大部分出したのはナポレオン3世とナポレオン公であった。
かれらフランス労働者団は8月5日の晩ブリテン労働者の歓迎を受け、「フランスおよびブリテン労働者の同盟への万歳三唱」をもって終了した。7月22日の集会には5名のフランス労働者が出席して、ポーランドの義挙を賞賛する演説を行う。次の晩にこのフランス人たちがイギリスの組合代表者たちと会合し、オッジャーを含む3名の委員会を任命し、パリの労働者へ向けて宣言文を発した。資本家たちが脅しとして使う外国人労働者の輸入などの手段に対抗するためには、労働者の国際組織が必要である、と[21]。
1859年、ブリテンではロンドンを中心に建築工ストライキが発生して以来、労働闘争はかつてないほどに盛り上がりを見せていた。1860年代半ば以降、南北戦争期の北部支援運動などで自由主義や解放思想の理想が大衆にまで広まっていき、やがて国際運動への傾斜が国家批判にまで拡大した。ブリテン国家構造は、その構造上の問題が主従法改正運動や選挙法改正運動など労働法から議会制度に至るまであらゆる方向から攻撃を受けることになった。こうした挑戦的な大衆運動の中心が大工や石工といった職人的な世界を生きる熟練労働者たちだったのである。このとき見聞きした出来事はフランス労働者団に衝撃を与えるものであった。かれらはブリテン労働者たちの活発なストライキ闘争、広い国際的見聞、労働運動や改革運動のボトム・アップ的な姿勢に驚愕し、フランスの帝政と労働運動の後進性に気づくこととなった。ここに、1851年以降、長年にわたって眠りについていたフランスの労働運動はついに覚醒したのである。
1863年から64年までの1年間でブリテン・フランス労働者代表者間の談合で国際組織を実現させる具体的な道筋が定まっていく。1864年9月28日、ロンドンはセント・マーティン・ホールにてフランスの代表団を受け入れる歓迎集会が催され、「国際労働者協会」(第一インターナショナル、以下IWAと略記)の設立が宣言された[22]。ブリテン側の世話人はと石工組合書記の、フランス代表はプルードン主義者のアンリ・トラン、議長はロンドン大学教授のだった。また、この集会にはマルクスも同席していた。この集会は、組織の決裂について言及した後半部で詳述するが、オーウェン主義者や旧チャーティスト指導者たち、そして多数の労働組合指導者からなるブリテンの急進主義者、ブランキ派やプルードン主義者などフランスの革命的急進派、アイルランドやポーランドのナショナリスト、ドイツの社会主義者などを含むヨーロッパ各国の諸勢力が一堂に会する大集会となった。フランスでもIWA支部が設置され、「言論の自由」、「非宗教的義務教育」、「常備軍と国家警察の廃止」など当面の政治改革の要求とともに「コミューンによるすべての社会資本の奪取」を目標とするフランス連合評議会が発足した。
1864年、IWAが発足すると、ナポレオン3世による労働者懐柔策に綻びが生じた。
労働者の政治的権利と社会的平等の獲得を目指したトランを筆頭とする労働者グループによって『六十人宣言』が発せられた[23][24]。帝政は労働者階級との信頼関係を維持する必要に駆られ、ついに帝国政府は渋々労働者側に譲歩していくことになる。このとき、1851年に壊滅した運動の再建が叶えられ、労働者階級の長年の悲願であった協同組合運動への突破口が開かれた。刑法の一部が改正され、ストライキなどの実力行使は許されなかったが、協同労働と共済のためならばと団結権が部分的に承認された[23]。
しかし、1867年になるとナポレオン3世の思惑とは裏腹に帝政に対する逆風が一気に強まる。1866年、ブリテンで金融危機が発生し、翌年に入るとフランスに飛び火して恐慌が発生した。企業倒産が相次ぎ、おびただしい失業者が発生する。団結権の部分的承認は、千畳堤の蟻の一穴のごとき役割を果たした。大小さまざまな協同組合が結成され、法律の枠を超えてストライキ目的の労働組合へと変質していく。非合法であるにもかかわらず、各地で労働運動が多発し、大規模なブロンズ工ストライキが発生するなど1851年に発生した帝政による弾圧と壊滅以来の時間を取り戻すように労働運動の再生と革命化が進んでいった[25][26]。こうした各地の労働闘争を支援したのがIWAであり、IWAは積極的なストライキ支援の結果、帝政からの弾圧を受けて地下活動へと逃げていった。しかし、IWAは激しい弾圧を受け、トランなどの初期のプルードン派指導者が次々と脱落したため、そのメンバーは反政府を掲げるブランキ派グループだけが残って、しだいに革命派へと純化していったのである。こうした革命的情勢の積極的利用の背景にはマルクスによる理論的指導の力があった。マルクスは、IWAの年次大会のたびに改良主義的な思想だったプルードン主義を激しく糾弾して、フランスの労働運動を革命主義へと誘導したのある。
革命思想の形成
革命的ジャコバン派
ここで反政府派の政治思想を整理したい。もっとも古い反政府勢力は<b data-parsoid='{"dsr":[9391,9406,3,3]}'>革命的ジャコバン派</b>である。革命的ジャコバン派の主な人物に、老活動家、南北戦争でも有名を馳せた軍人クリュズレ、扇動家のなどがいた。かれらには特定の体系的な政治思想はなかったが、フランス革命時代に全盛を極めたジャコバン派によるかつての急進主義の記憶が宿っていた。小市民と一般民衆からなる共和国の理想と純粋民主主義思想の伝統を継承したこのグループは、その反権力の志向からやがて社会主義へと合流し、後のパリ・コミューンで大きな活躍を見せる[27][28]。
プルードン派
また、既にその名称が何度も登場する<b data-parsoid='{"dsr":[9953,9965,3,3]}'>プルードン派</b>について言及したい。
ピエール・プルードンの思想は第二帝政期のフランスで最も影響力のある思想であり、後のアナーキズム思想の先駆けであった。かれの思想はまさに農民主義、職人主義そのものと言っていいだろう。プルードンは「財産とは盗みである」と語り、大資本と金融業による搾取を告発した。中小規模の土地所有と工房、作業場の経営に基づく小財産を個人資本として、これを足掛かりに平等な諸個人が自主独立と相互扶助の関係を保ちながら協同組合を形成して中央政府に対する自由を確立していき、自由な個人の連帯によって新社会を建設するという「相互主義」思想であった。この思想は農民や職人の支持を集め、パリの職人労働者の政治文化に影響を与えていった。アンリ・トランや初期のなどの労働者エリートに多くの示唆を与えた。ただし、自由な職人や農民たちの古い産業秩序を維持しようとする余り、第二帝政に対する批判に欠け、現状容認的な傾向が強かった。事実、プルードンは労働者の自立を重視する一方で暴力的な現状変革を認めなかったため、ストライキに公然と反対していた。このグループは、フランス各地でストライキが猛威を振るう1867年以降の時代状況の変化に付いていけずに急激に衰退していく[29][30]。
ブランキ派
プルードン派の代わりに台頭したのが、ブランキ派</b>である。ブランキ派は革命家オーギュスト・ブランキの思想を信奉するグループであり、その思想はプルードンとは対照的に攻撃的で暴力的な性格が強く、現状変革のために暴力革命の必要性を説き、政府打倒のためなら陰謀やテロを厭わない過激主義であった。ブランキのもとには多くの弟子が参集し、、、、リゴー、、などの後にパリ・コミューン政府の要職に就く人々がその隊伍に加わっていった[31][32]。ブランキはマルクスのような資本や労働に対する理論的な洞察力はなかったが、人民による暴力的な権力奪取と独裁を主張するとともに、国有化の断行や計画経済の導入を提唱するなど早い段階から明確な国家観をもっていた。
ブランキ思想の後世への影響は絶大であった。資本主義経済システムの崩壊と革命の不可避性に関するマルクス主義思想(恐慌・革命理論)に、暴力革命論を追加してボリシェヴィキ主義へとつながる共産主義思想のイデオロギー形成にも力を貸した。後の時代に成立をみるソ連体制・ドイツの正統マルクス主義者の待機主義を批判したレーニンの国家理論・革命理論(プロレタリアート独裁)にも大きな影響を与えた。また、マルクスの最大の好敵手であったバクーニンの革命理論や無政府主義思想(アナルコ・サンディカリズム)にも示唆を与えるなど、その思想は後継者に欠くことはなかった。ブランキ派の台頭はIWAに大きな影響力をもたらした。
マルクスの支持者は、マルクスのブランキに対する深い敬意とその思想的同期からしだいに増加し始め、ブランキ・マルクス派という形でその勢力を拡大させていった。1867年以降は深刻な恐慌から革命的情勢が高まり、IWAの革命化が進んでいった。ヴァルラン、ブノア=マロン、パンディといった指導者たちが続々とブランキ・マルクス派へと転向していった。彼らは後の共産主義者と区別するために「集産主義者」と呼ばれることになったが、旧来的なプルードン主義と決別して「パリ労働者組合連合会議」、「IWA・フランス連合評議会」などの組織を設立して革命派連合を組織し、帝政に対する批判と攻撃を強めていった[33][34]。
内憂外患と帝権の衰退
また、フランスは外交面でも失策が相次いだ。メキシコ出兵は失敗に終わり、ゲリラの一団による抵抗を前にフランスの国威も地に落ちた。イタリア統一戦争時のイタリア王国の離反は、ナポレオン三世の野望を破綻へと導いた。ガリバルディのローマ進軍を二度にわたって妨げた結果、プロイセン・オーストリアの二大国に対する守りをなす、イタリアからの信頼を失うことになった。あろうことか、イタリア王国はプロイセン側に寝返ってしまう。外交では孤立化が進展していき、プロイセンとの全面対決を有利に進めるための強力な同盟国が欠落したまま、戦争へと突入することとなった。これらの内憂外患は第二帝政の命取りとなっていく。
1867年、民衆への懐柔策として「集会の権利」が認められて、「公共集会」の開催が許可される。その結果、地区を単位とする共和派を支援する選挙集会も行われるようになっていった。また、デモ活動は許されていなかったが結社の自由がすでに部分的に認められるようになり、互助的な協同組合が盛んに結成されるようになった。これらの改革は労働者の活動性を高めた。政治活動や労働運動が認められるようになるにつれて労働者の自立化は進行し、ジャコバン派やブランキ派など急進的な革命派が形成されるようになる。
がおこなわれる。このときの総選挙ではジュール・フェリーやレオン・ガンベタ、アドルフ・クレミュー、など後にの要職に着任する共和派議員が圧勝して、292議席中116議席、およそ半数の議席を制するなど反帝政の急進派が躍進した[35][36][26]。
労働者街をなしていたベルヴィール地区では反政府的な選挙集会が開催されていた。このとき、ベルヴィール地区民衆と選挙委員会は、「常備軍・国家警察の廃止」、「言論、集会、結社の自由」を盛り込んだ独自に選挙綱領―ベルヴィール綱領を定めて、候補者ガンベタに提示するといった自発性を示した。これは議会政治を単なる代議制として考え、議員の代表によって国民の意思を表示するという間接民主制に頼るのではなく、議員を民衆の代理人として位置付けて国民の意思を伝達させるべきだとする直接民主主義の理想、古くはルソーの社会契約思想に遡る共和主義理念の再生を見てとれる[37][38]。1869年総選挙は歴史的選挙であった。病気がちになっていたことも相まって、ナポレオン3世の政治力はこのとき既に失われ始めていた。1870年、エミール・オリヴィエによる新内閣が成立して第二帝政は「議会帝政」へ移行していった[39][40]。
しかし、1867年恐慌はますますその深刻の度を強めていった。金融資本が企業投資を手控えたため、フランス銀行にマネーが滞留して金詰まりの状況と化していたのである。長期不況となったため、労働者の窮状は一層厳しいものとなった。1870年、ル・クールゾの炭鉱で大規模なストライキが発生したほか、ナポレオン3世の従弟にあたるピエール=ナポレオン・ボナパルトがロシュフォールの同志で『ラ・マルセイユ』の記者であったを殺害する事件が発生した。ストライキ闘争の激化とノワール射殺事件の発生の結果、反帝政の世論はかつてない熱狂の様相を呈し、ストライキは賃金闘争の域を超えて大規模な反政府運動へと発展、もはや国内は政府の統制が利かない状況となっていったのである[41][42]。
共和制の復活と革命派の攻防
普仏戦争と敗戦
第二帝政最大の失敗が始まりつつあった。1870年7月、スペイン継承問題を発端に普仏戦争が勃発する。ナポレオン3世は体調不安を抱えながらも出陣するが、フランス軍は各地で大敗北を重ねた[43][44]。敗報に触れて、オリヴィエ内閣が退陣して内閣が成立する中で、パリでは政情不安が深刻化していく。防衛力強化のために40歳以上の全男子に招集がかかり、民衆は国民衛兵に参加することが決定される。国民衛兵は、戦況の悪化と祖国防衛への緊張感と共に次第に急進化してパリの革命派を擁護する革命軍の性格を持つようになる[45]。
こうした危機の最中にある8月14日、ブランキ派はこの間隙に「帝政を倒せ!武器を取れ!」と労働者を扇動し、ラヴィレット街にて蜂起を試みた。しかし、労働者はパリ防衛が主たる関心事としたため蜂起に加わらず、首謀者のとガブリエル・ブリードが捕えられてラヴィレット蜂起は失敗に終わった[46][45][47]。しかし、帝政の崩壊は目の前に迫っていた。
共和国宣言
セダンの戦いに敗れ、ナポレオン3世は降伏して捕虜となった[46][48]。
1870年9月4日、立法院ではパリカオ内閣が国防政府の樹立を提案し、皇帝の退位要求に蓋をしようと試みた。長時間にわたる議論が行われたが、休憩時間中に民衆が押し掛けてくるという噂が広まると議員たちは議場から避難していた。空っぽになった議場に民衆が乱入してきた。ナポレオン帝政に対する不満は敗戦への怒りとなって爆発し、民衆はブランキ派のエミール・ウードやに導かれて立法院に殺到してきたのである。人々は「帝政を倒せ!立法院を倒せ!共和政万歳!」と叫び、フランス第二帝政の失権を迫った[49][48]。革命派の跳躍に危機感を抱いたは共和国樹立はパリ市庁舎で宣言させると民衆に呼びかけ、人々を議場から導いていった。その間、議場に残ったブルジョワ議員は仮政府の閣僚名簿を作成していった。民衆はブランキやドレクリューズを閣僚に望んでいたが、このとき作成された閣僚名簿は民衆が期待していたものとは全く異なるもので、ブルジョワ中心の穏健な共和派政府を作るというものであった。レオン・ガンベタは市庁舎のバルコニーに立って<b data-parsoid='{"dsr":[16495,16506,3,3]}'>共和国宣言</b>を発し、空になった議場で作成されたの閣僚名簿を発表した。を首班とし、外相に、内相にガンベダ、そしてパリ急進派議員を閣僚とするが樹立された[50][51][52]。
しかし、和平の早期実現を望む仮政府と徹底抗戦を要求する民衆との対立は激しいものとなっていた[53]。王政復古の可能性を示唆するブルジョア色の濃い仮政府の成立に裏切りを感じたパリ労働者の代表者たちは今後の対応を協議し始めた。IWAのフランス連合評議会はコンドリーに本拠を構え、当地で会合をもち仮政府に圧政の停止を要求したが、軽くあしらわれる結果となった[54]。そのため、9月5日にはインター派の発議で今後の方針を検討するために「共和会議」が開催されたほか、仮政府と市政の監視のため各区に<b data-parsoid='{"dsr":[17374,17385,3,3]}'>監視委員会</b>が設置され、その上位に連絡部会を設立しようとする動きが生じていった[55][56]。
攻囲戦とパリの革命化
11日、各区4名ずつの監視委からなる「パリ二十区共和主義中央委員会(以下、パリ中央と略称)」が発足している[57][58]。亡命先のベルギーから帰国したヴァルランを加えたパリ中央は『第一回の赤いポスター』というスローガンを発表した。国家警察の解体、市の行政官の公選、言論・集会の自由、国防必需品の徴発、配給制の確立、全市民の武装が提案された[59][60]。パリ中央とインター派は挙国一致による徹底抗戦を呼びかけて抵抗を開始したが、1870年9月19日から翌71年にかけての132日間、パリはプロイセン軍によって包囲されることとなる。
ちなみに、この間、南部の諸都市リヨンやマルセイユでは国防体制を強化するために「南仏連盟」が結成されたが、中央政府の影響圏から離脱して地方革命政権として自立し始めていた。一方、リヨンではミハイル・バクーニンが絹布職人の支持を背景に蜂起して市庁舎を占拠したが、バクーニンは軍に包囲されあっさり逮捕されてしまった。バクーニンは釈放された後、すぐにフランスを離れて亡命した。マルセイユでは革命が成功してマルセイユ・コミューンが中心となる革命派政権が一時成立した。マルセイユ・コミューンは市会選挙でのブルジョアの巻き返しで崩壊したが、パリの革命派に強い印象を与えた[61]。
このような混乱の最中、パリでは国民衛兵が緊急招集されて9万人の市民が軍の隊列に加わっていった。将校は選挙され総出撃による撃退を主張するオーギュスト・ブランキや、インター派のリーダーとなったなどの血気溢れる革命家たちが大隊長に選出された[62][63]。しかし、仮政府は表向きは徹底抗戦を主張していたが、実際には国防に対する関心を既に喪失しており、ジュール・ファーブルはプロイセンと停戦していかに武装した革命勢力を解散させるかの道筋を探るようになっていた[53][64][65]。
こうした中、20日、シュートー、シャトラン、そして彼らの同士からなる「パリ中央」は降伏を拒否して徹底抗戦を主張するとともに、「パリ中央は全20区の民主的社会主義者の力を集中する目的を持つ」とする規約を採択し、仮政府との対決姿勢を強めた。「パリ中央」は早くも市議会を労働者を主体に人民民主主義に基づく准政府(コミューン)とする新決議を採択するなど妥協的な仮政府と敵対するようになった[66][67]。一方、仮政府は憲法制定会議の招集、コミューン選挙の延期を発表するなど朝令暮改を繰り返し、またフルーランスの要求を拒んで辞任もやむなしの状況へと追い込んだ他、ブランキをリコールするなど革新派大隊長を次々と更迭して抗戦派の勢いを削ごうと図り、この動きのゆえに仮政府とパリ民衆との離反を決定的なものとなった[68][69]。
10月31日蜂起と挫折
10月31日、「三つの衝撃」と呼ばれる事件が起こった。ブルージェとメッス要塞が陥落して兵力17万を擁するフランソワ・バゼーヌ元帥率いる守備軍は降伏、プロイセンが本格的にフランスの軍事的抵抗能力を粉砕し、休戦交渉のためにティエールがパリにやって来たのである[70][71]。この日、コンドリーに「パリ中央」のメンバーは参集した。そこで政府の退陣と徹底抗戦を要求するために市庁舎に行進することが決議され、無数の群衆そして指揮権から離脱した3千名もの軍の一部が合流して市庁舎に侵入した。ベルヴィール労働者地区の大隊長はトロシュと会見して仮政府の停止、市会選挙と選挙管理委員の招集を求めた。腰の重い政府の対応に業を煮やしたは兵士を連れて市庁舎に乗り込んでテーブルの上に立ち、フルーランス自身、ブランキ、ドリアン、からなる「公安委員会」の設置を宣言、「革命的コミューン」の組織について討議を開始した。「10月31日蜂起」の最中、状況は誰が何をしようとしているのか全く把握できない混乱状態に陥っていく[72][73]。
しかし、この間はまだ諦めてはいなかった。彼は退陣こそ呑まなかったが市会選挙の実施を約束して事態を切り抜け巻き返しのチャンスを得ようとした。親政府派の軍が市庁舎に奇襲をかけ市庁舎を取り囲んだ。革命派は市会選挙実施と報復しないことを条件に市庁舎を退去した[74][75][76]。施政権や戦争遂行権を手放したくない仮政府により革命派と交わされた約束は裏切られ、革命派指導者に逮捕令状を発し、市会選挙ではなく区長選挙として実施されることとなった[77][78]。
11月4日、仮政府の信任投票とパリ20区の<b data-parsoid='{"dsr":[21468,21478,3,3]}'>区長選挙</b>が実施され仮政府が続投を果たす一方で、政府支持のブルジョア派が過半数で当選したが、労働者地区では逮捕された反乱分子が多数当選する異常事態が発生した。インター派の、、、急進派のモテュ、、、ジャコバン革命派の老闘将、ブランキ派のなどが区長あるいは助役に選出された[79][78][80]。
その年の冬は寒波が発生し、燃料と食糧不足が深刻となった。オルレアン王党派の司令官デュクロによる出撃戦は惨憺たる結果となってプロイセン軍の包囲を突破することに失敗、パリは冬を前に陸の孤島と化した。しかし、この包囲中の仮政府による配給制はお粗末なもので金持ちが隠匿物資で生活を守る一方、市中ではねずみや猫、犬をはじめあらゆる動物が食料として取引される状況に追い込まれた。こうした危急存亡の情勢はパリの革命的な性格を急速に強化した[81][82][83]。
ドレクリューズは「共和主義連盟」を組織してコミューンの選挙を要求し、政府批判を強めて首班のトロシュとクレマン=トマ将軍の解任を要求した。急進共和主義者が政府にとって代わるべきだと主張を展開した[84]。
パリ・コミューン革命
ティエール政権の成立と講和
12月、パリがプロイセン軍に包囲されるなか市民の武装と防衛力の強化を図っていたが、状況はますます厳しくなった。1月6日、「パリ代表」(名称を変更して「パリ20区共和主義代表団」と呼称。以後パリ代表と略記)は『第二回の赤いポスター』を発表、政府に対して「身を引いて、パリの人民に自力で解放する力をまかせよ!」と要求を突き付けた。さらに、「物資の全面徴収を!無料の配給制を!総出撃を!帝政を引き継いだ9月4日の政治と戦術と行政は断罪された。人民に席を譲れ!コミューンに席を譲れ!」と続けた[85]。
1871年1月19日の<b data-parsoid='{"dsr":[23001,23018,3,3]}'>ピュザンヴァール出撃戦</b>は失敗した[86][87]。翌20日、ジャコバン的急進主義者のドレクリューズは「共和主義連盟」の仲間を集めて協議し、48時間以内の市会選挙の実施を要求した。さらにその次の日、長い戦時生活の困窮と軍事的失策に絶望した民衆の怒りはついに爆発し、「10月31日蜂起」に参加してマザスの牢獄に投獄されていたブランキ、フルーランスのもとに駆け付け、彼らを解放していった[88][89]。プロイセン軍の圧力、民心の離反と革命派の台頭に追いつめられた仮政府はとうとう音を上げ、トロシュを見離して彼を解任し、プロイセン王国と休戦協定に調印した[88][89]。
1月22日、ブランキ派は市庁舎前に民衆を集めて蜂起する事件が起こった。政府の混乱をまえに「共和主義連盟」のトニー・レヴィヨンは市会選挙を要求してギュスターヴ・ショデーと交渉を開始したが要求は拒絶された。この交渉のなかで偶発的な発砲があり、ブランキ派のサピアが即死するなど多数の死傷者を出して失敗した[90][91][92]。1月28日、仮政府とプロイセンの交渉の結果、パリの篭城戦が終結した[93][94]。
そして即座に新政府樹立に向けて国政選が布告され、フランスは激しい選挙戦に突入した[95][94]。
2月4日、「パリ代表」とIWAフランス連合評議会、そして労働者連合組合会議は、候補者選定を進めて統一戦線を組み、「どのようなものであれ、共和政体を論議の対象とすることの否認。勤労者の政治的支配の必要の確認。政府寡頭制と産業封建制の打破。1792年の共和国が農民に土地を与えたように、労働者に労働用具を与えることによって、社会的平等を通しての政治的自由を実現させる共和国の組織」をスローガンに『共同宣言』を発した[95]。
2月8日にはがおこなわれた。パリでは共和派、革命派の躍進が見られた。共和派のルイ・ブラン、ヴィクトル・ユゴー、レオン・ガンベタ、ロシュフォール、ガリバルディが当選した他、革命派のフェリックス・ピア、ブノア=マロン、、トラン、ドレクリューズ、ミリエールが当選を果たした。だが、地方ではブルボン、オルレアン、ボナパルト派をはじめとする王党諸派が躍進して共和派に優位を占めるかたちになった。そして、西フランスの港町ボルドーに国民議会を招集、オルレアン派のアドルフ・ティエールを「行政長官」とする<b data-parsoid='{"dsr":[25040,25049,3,3]}'>新政府</b>が誕生した[96][97][98]。ティエールは、将来、王政復古するかしないか決定するとした<b data-parsoid='{"dsr":[25282,25294,3,3]}'>ボルドー協約</b>を掲げて共和派や革命派を打ち倒すべく国内王党派の統合を試みた。こうして成立した新政府はすぐさまプロイセンとの和平交渉を担うこととなる。2月26日、講和条約が締結され、アルザス=ロレーヌ地方の割譲、50億フランの賠償金支払い、プロイセン軍によるパリの象徴的占領を内容とする協定が議会で承認された[99][100][101]。
講和成立によってパリ市民と政府との亀裂は決定的となった[94]。
また、軍部内にもティエール政府に反対する兵士・将校からなる20名の「国民衛兵中央委員会(以下、衛兵中央と略記)」が選出された。国民衛兵は中央政府の統制から離れ、「自ら選ぶ隊長以外の者は認めない」と決議するなどすっかり義勇兵からなる選挙制の連合軍と化していた。国民衛兵はパリ民衆の熱情を吸収して次第に革新性を強め、やがて人間搾取の偽りの体制を拒絶してフランスの共和政体を擁護する<b data-parsoid='{"dsr":[25931,25940,3,3]}'>革命軍</b>となっていった。この国民衛兵自体はその多くが無名の一般の市民から構成され、本来はまとまった政治性をもっていなかった。しかし、パリの情勢の緊迫化と政府の妥協的姿勢に失望して政府を見限っていつしか革命派に協力していくようになっていったのである[102][103]。
パリ・内乱の勃発
2月15日、IWAフランス連合評議会はコンドリーにて、いかにプロイセンと戦うか、いかにティエール政権に抵抗するかに関して協議した。そして、共和派と革命派の統一に向けて戦略の策定を進めつつ、パリ代表の政策決定に援助を続けていた。パリ代表はが発行する『ル・クリ・ド・プープル』(『人民の叫び』)を機関紙に据えたうえで、次のような『原則宣言』を発して紙上に掲載した。
「すべての監視委員のメンバーは、革命的社会主義党に属すると宣言する。
したがって、あらゆる可能な手段によって、ブルジョアジーの特権の廃止、ブルジョアジーの支配階級としての失権、労働者の政治的支配、一言でいえば社会的平等を要求し追及する。……階級そのものも存在しない。労働を社会構成の唯一の基礎と認める。この労働の全成果は、労働者に帰すべきである。
政治的領域においては、共和制を多数決原理の上に置く。それ故に、多数者が国民投票という直接的手段によるにせよ、議会という間接的な手段によるにせよ、人民主権の原則を否定する権利を認めない。それゆえに現社会が政治と社会の革命的清算によって変革されてしまうまで、あらゆる議会の招集に実力で反対する。……革命的コミューン以外のものは認めない。」[104][105][106]
2月19日、パリ代表はコミューン政府の樹立を約束して、プロレタリアート独裁に基づく新社会の建設を市民に保証した。国民衛兵は依然としてプロイセン軍のパリ入城への抵抗呼びかけていた。国民衛兵は武装解除を拒み、プロイセンに武器が押収されるのを防ぐため大砲を女子供も含んだ多数のパリ民衆と共にモンマルトル、ベルヴィールのなどの労働者地区へと移設していた。1871年3月1日、プロイセン軍は祝勝パレードのためにパリに入城した。弔旗が掲げられて静まり返るパリをプロイセン軍が3日にわたり占領した[107][108]。
ティエールはこうした緊迫した情勢の中でプロイセン軍との無謀な武力衝突を避けるため、そして革命派からパリを再び掌握するための措置を講じる。市内各所の大砲陣地を奇襲して大砲を押収、国民衛兵の武装解除を進めるよう指示した。3月18日、パリ防衛の重要な堡塁モンマルトル陣地から国民衛兵が守備する大砲の撤去を図るとともに、パリを武力で制圧するよう親政府派の軍に命令を下す。 ルコント将軍とパチュレル将軍の指揮で大砲400門余の撤去を実施するが、これを偶然目撃した国民衛兵の女性兵士の一群が撤去に抵抗した。
すぐさま、将軍は配下の兵に発砲を命じたが、この命令は空しく無視されてしまう。これによりルコント将軍は国民衛兵により捕虜となった。しかし、捕えられた将軍のなかに1848年のフランス革命の六月蜂起で労働者の弾圧を行った将軍がいたため、将軍ともども猛る群集によって殺害された[109][110][111]。
この事件を機にパリでは「コミューン万歳!」の声が高まっていた。国民衛兵とコミューンに合流してパリの実権を奪取、ついにパリ・コミューン革命が成就した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起した。一報を受けたアドルフ・ティエールは軍と政府関係者をひきつれてパリを放棄、ヴェルサイユに逃走した[112][113]。
21日付の『官報』には次のような記事が載せられた。
「首都のプロレタリアートは、支配階級の壊滅と裏切りのうちにあって、公務の管理を自己のうちに掌握することによって時局を収拾すべき時が彼らの前に到来したのを知ったのだ。……。プロレタリアートは、自らの運命を自己の手に握り、政権を奪取することによって勝利を確保することが、自分らの緊急義務であり、また自分らの絶対権利であることを理解したのであった。」[114][115]
コミューン―選挙宣言と成立
この間オルレアン家の王子が軍事司令官に任命されるとの噂伝わり、王政復古に反発するパリの反政府への姿勢が頂点に達する。これがきっかけとなり、一時的に国家機構が停止し無政府状態が生じた。その空白を国民衛兵が革命軍として埋めることとなった。やがてパリでティエール政府に代わる<b data-parsoid='{"dsr":[28954,28970,3,3]}'>コミューン政府の選挙</b>がおこなわれることになった。
3月23日、IWAフランス連合評議会のパリ支部は、次のように宣言した。
「長い一連の敗北、わが国の完全な崩壊をもたらすことになるかもしれない破局、これがフランスを支配してきた政府がフランスのためにつくり出した状況の帳尻である。……。
いまや権威の原理は街頭に秩序を再建し、職場に労働を復活させるうえに無力である。そしてその無力は権威の否認を意味する。利害の非連帯性が全般的な破滅を生み出し、社会戦争をもたらした。自由、平等、連帯によって、新しい基礎の上に秩序を確立すること、その第一の条件である労働を再組織することを要求しなければならない。労働者諸君、コミューン革命はこれらの原理を確認し、未来における葛藤のあらゆる原因を取り除くものである。……。信用と交換の組織、労働者の結社、無償の世俗的な完全教育、集会と結社の権利、言論の絶対的な自由、市民の自由、警察、軍隊、衛生、統計、その他の業務を自治体の観点でなす組織。……。パリの人民は、自らの都市の主人としてとどまり、……自らの自治体の代表を確保するという至上の権利を、議会の選挙投票において確認するであろう。
3月26日の日曜日、パリの人民は誇りをもってコミューンのために投票に赴くであろう。」[116][117]
3月26日、が実施され、内乱中の混乱でありながら成人男子からなる有権者48万5千人中22万5千人が投票に参加した[118]。開票の結果、84名の候補者が当選を果たす。衛兵中央からは12名が当選した他、ブランキ派からはオーギュスト・ブランキ(投獄中)、(まもなく戦死)、、、、、(まもなく戦死)、ら10名、親ブランキ派が15-16名当選した。また、、、、、、、、、、などの15-16名のインター派も当選した。さらに、ブルジョア急進派が20名ほど当選したほか、、、アルヌール、、をはじめとするジャコバン革命派が当選した。この選挙の結果、パリ・コミューン政府</b>が成立した[119]。
コミューン政府は投獄中の者や上記のインター派、ブランキ派、ジャコバン派が大半を占めていたが、ヴァルランやマロンのような熟練職人もいたものの労働者ばかりではなく法律家や医師、事務員をはじめとする小市民、そして教員や学者、芸術家、あるいはヴァレスといったジャーナリストなど無数の知識人が含まれ、職業も思想も様々な人びとが構成する民主連合政権であった。2万人の国民衛兵と市民の祝賀を前に、金色の総飾りに飾られた巨大な赤旗が翻る市庁舎の広場でコミューン政府成立の盛大な式典が開催された。赤い帯飾りをかけたコミューン議員と国民衛兵将校は演台の上に立って、群衆の割れんばかりの拍手喝采を受けた。当選者の名が読み上げられ衛兵中央を代表してランヴィエが自由の女神像の前にて挨拶と祝辞を読み上げた。そして、『ラ・マルセイエーズ』が合唱されて、老が演説を行ってコミューン政府の成立を宣言[120]、「人民の名において、コミューンが宣言された!コミューン万歳!」の大斉唱が続いた。こうして式典会場はついには革命的民主共和主義の精神を鼓舞する赤旗と自由を祝福する白いハンカチの花畑となった[121]。
パリ・コミューンの政権は72日間という短命で終わったが、教会と国家の政教分離、無償の義務教育に関してはコミューン崩壊後の第三共和政に受けつがれた。世界に先がけて実現した女性参政権が、国家レベルで実現するのは1893年のニュージーランドを待たなければならなかった。
かくして、1871年3月28日、パリ市庁舎前でパリ・コミューンが宣言され、以後5月20日まで二か月ほどの期間パリを統治することとなる。老を議長に、コミューン執行委員会を頂点として執行部、財務、軍事、司法、保安、食糧供給、労働・工業・交換、外務、公共事業、教育の10の各部実務機関が組織された[122][123]。フランスという国家機構から放棄されたパリ市民は、衛兵中央の補佐を受けつつ各執行部を通じ、自発的に行政組織を再稼動させ、このときからコミューンは「代議体ではなく、執行権であって同時に立法権を兼ねた行動体」として活動をはじめた革命政府となった[124]。
その間、教育改革、行政の民主化、集会の自由、労働組合をはじめとする結社の自由、婦人参政権、言論の自由、信教の自由、政教分離、常備軍の廃止、失業や破産などによる生活困難者を対象とした生活保護、各種の社会保障など民主的な政策が打ち出され、暦も共和暦が用いられた[125]。
4月2日、普仏戦争での敗北の将という汚名返上に燃えるパトリス・ド・マクマオン元帥率いるヴェルサイユ政府軍による攻撃が開始された(パリの東部と北部はプロイセン軍により封鎖)。衛兵中央は声明を発表し、最終決戦の決意を示している。
「労働者諸君、思い違いをしてはならない。これは偉大な闘争である。寄生と労働、搾取と生産とが戦っているのだ。
もし無知の中にむなしく日を暮らし窮乏の中に埋没することに飽きたのならば、……、もし諸君の子供たちが自分の労働の利益を手に入れ……自らの汗で搾取者の財産を富ませたり、自らの血を専制君主のために流したりするような動物のごときものでなくなるのを願うならば、……、もし諸君の娘たちが貴族の腕の中で快楽の道具となることを望まないのならば、放蕩と貧困が男子を警察に、女子を売春に追いやることを欲しないのならば、もし諸君が正義の支配を欲するのならば、労働者諸君、賢明であれ、決起せよ!
そうすれば諸君の力強い手は汚らわしい反動を諸君の足元に投げ倒すであろう!働いて、善意をもって社会問題の解決を求めるすべての諸君に、進歩に向かって団結することを要請する。祖国とその普遍的精神の運命から霊感を得られんことを!」[126]
かかる決起に見られる勇敢はヴァンドーム広場での帝国円柱の解体要請にも見られた。芸術家ギュスターヴ・クールベは、「ヴァンドーム広場のコラムは記念碑であって芸術的価値に欠けること、過去の王朝の戦争と征服の認識を表現することが恒常化してゆくこと、そしてそれは共和国の感情として許容しがたいこと、これらをかんがみ市民クールベは、国防政府がこのコラムの分解を許可するよう希望する」と上申し、コラムをばらばらに解体するよう提案している。4月12日、第二帝政期の帝権の表象たる円柱は「野蛮の記念碑であり、暴力と虚栄の象徴であり、軍国主義の肯定であり、国際法の否定であり、敗者に対する勝者の永年の凌辱であり、フランス共和国の三大原則の一つである友愛に対する永遠の侵害であることに鑑み」、これを分解することが決議された。図版にも見られるように、5月8日コミューン政府の名の下に円柱は倒された。
コミューン―苦戦と内紛の発生
コミューンの高潔なる精神性の発露とは裏腹に、前線では敗戦に次ぐ敗戦で窮地に陥る。
ブランキのようにヴェルサイユ側で捕えれ投獄中の者やまもなく戦死した者が続出したため、政府は常時オーバーワークの状態で行政上の負担軽減の必要が生じた。4月16日補欠選挙を実施して、このときの選挙では軍人のクリュズレ、写実主義の芸術家ギュスターヴ・クールベ、マルクスの娘婿となるジャーナリストの、インターナショナル (歌)の作詞家となる詩人のウジェーヌ・ポティエら20名の議員が選出された[127]。ドレクリューズの発案によって政府部内の改組が行われて行政部の執行権が強化され、9名の閣僚が委員会責任者として指名された。(財務)、(軍事)、(司法)、(保安)、(食糧供給)、(労働・工業・交換)、(外務)、(公共事業)、(教育)が選出された[128]。
しかし、プルードン主義者のジュールドが責任者を務める財務部がヴェルサイユ側と内通しているフランス銀行や大手金融機関の預金差し押さえなどの緊急金融措置を渋るなど怠慢な姿勢を見せ、これに業を煮やした各行政部が政府に反抗して政府部内に革命独裁を志向する機運が生じ始めていった。政府内でのドレクリューズやブランキ派の発言力はいよいよ強まり、政府権限の強化を求めるこの種の機運が高まったものの、財務委員長の無策とこれに反発する強硬派の動きはコミューン政府の統一性に亀裂を生じさせていった[129]。
4月3日にヴェルサイユ軍との戦闘が再開された。この戦闘によってコミューンは独裁制の導入が真剣に議論されるようになる。
ブルジョアを人質にヴェルサイユ軍の侵攻を止めようとする「人質法」が制定されたほか反コミューン新聞が禁止され、執行委員会の改組要求が高まって、4月28日にはブランキ派のによって公安委員会の設立が提案された[130]。公安委員会の独裁のもとに、市民の戦闘態勢への全面参加を要求するとともに、市民生活を統制する本格的な戒厳を布くように要求する提案であった。ルフランセ、クレマン、フランケル、ヴァルランらIWA派が人民主権の侵害としてこの提案を拒絶したが、提案は多数の支持を得て可決した。公安委員の選出が評議会で行われ、アントワーヌ・アルノー、レオ・メイエ、ランヴィエ、フェリックス・ピア、シャルル・ジェラルダンが選出された[131]。しかし、公安委員会はコミューン政府と国民衛兵との有機的連携、統一的な組織運用を実現できず、十分な軍事的政治的機能を果たせなかった[132]。公安委員会は、『少数派宣言』を提示して設置に反対したグループの信任を得られなかったばかりか、コミューン内部に不和を作り出し、軍事独裁への転換という危険性を摘み取るにも十分ではなかった[133][134]。
一方、徴兵制の再導入を強行することによって兵員の増員を図り、戦闘準備を整えた後攻勢を図るとする軍事委員長クリュズレとヴェルサイユ軍に先手をとって即時攻勢を主張するパリ要塞司令官のとの間に不和が生じていた。これは軍の執権を担うクリュズレや後任のと衛兵中央ならびに現場指揮官との権限上の縄張り争い、そしてドンブロフスキーに対する妬みに起因する個人的争いであった。戦時中では極めて非常識なこの二人の確執の結果、戦術面では作戦行動の不統一が生じ、これはヴェルサイユ軍に付入られる隙を与えた[135]。
軍人革命家のガリバルディが全軍の総司令官であればこのようなことはなかったであろうが、職業軍人の型に嵌まりきったクリュズレとロセルの融通のなさ、国民衛兵の革命軍としての性格を理解する度量の欠如は国民衛兵の不信感を買い、現場に対する指導力を喪失させることにつながった[136]。ロセルの軍規律強化と組織改革の試みは挫折したほか、コミューン政府の指揮命令権を弱めてヴェルサイユ軍に対する抗戦能力が低下していくことにつながった[137]。
先立つ4月26日にイシ―要塞が攻撃されて要塞は5月9日に陥落、パリは周辺の防御線で敗北を重ねていき防衛拠点の要所を次々と喪失していった。ロセルは拠点喪失を口実に軍事クーデターを計画していたが、予想していたほど兵が集まらないまま時が経ち、実行する機を逸してしまって「ロセルの陰謀」は不発に終わった[138]。5月10日、コミューン政府への不信から来るロセルの軍事独裁への野心は打ち砕かれ、軍事委員の辞任を表明する。ドレクリューズがロセルの後任を引き受けて「文民陸軍委員」に就任、潜伏中のロセルに軍事的助言を受けながらヴェルサイユ軍への抗戦を指導していく[137]。
軍事委員長ロセルによる軍事クーデター計画という内憂、そしてヴェルサイユ軍の進軍という外患への恐怖と危機打開のために、コミューン政府はついに革命独裁の樹立要求に屈服するようになる。こうしてブランキ派のリゴーを中心とした警察機関の保安委員会が独裁を要求して、専断的な逮捕が横行するなど次第に恐怖政治へと移行し始めていた[135]。ついにコミューン評議会の内部監視機関となる「公安委員会」が設立される[130]。しかし、パリでは既に内紛が激しくなり、各派の衝突で統一行動ができない状況になっていた。
終局―血の週間とコミューン崩壊
5月21日、ヴェルサイユ政府軍がスパイとなったデュカテルの手引きによって夜陰に乗じてサン・クルー門から侵入し始めてパリ市内に突入し市街戦を開始した[139]。大砲陣地を迂回しながら各陣地を孤立させて背面から攻撃する戦術で一つ一つと各個に大砲陣地を攻略、15区、16区を瞬く間に占領して次第に国民衛兵を追い詰めていった[140]。
23日にはヴェルサイユ軍はパリ西部から侵入して東部へと攻勢を加えていき、モンマルトルの丘を奪取してパリ中心街を占領していった[141]。敵の圧倒的攻勢に対して、コミューン側は老人、子どもたちはバリケード造りのために路面の石材を剥がして大砲陣地の補強を手伝い、女性たちは武器を持って陣地群で必死の抗戦をしたほか、戦闘中の合間合間で負傷者の手当てや看病をして男顔負けの活躍を見せた[141]。
しかし、このときにはヴェルサイユ軍は主要な高地を抑え、勝利条件をほぼ満たしたと言える。ヴェルサイユ軍は自軍が有利に立った以上、無駄な流血を避けて同胞に対して寛大な処置をとることもできたが、捕虜を次々と処刑し、ティエール政府黙認のもと市民を対象とした本格的な大量虐殺を開始した。
戦闘のさなか、コミューンは市街が敵に奪取され拠点とされるのを防ごうと、建物という建物に火を放ち、チュイルリー宮や大蔵省などの官公庁施設で火災が発生、続いてパリ全土で火災が起こった。[142]。なお、パリ市庁舎が焼失した際、パリ改造前に作成されていたパリの地図を含む数多くの歴史的文書が失われた[143]。ヴェルサイユ軍は進軍を続けてフランス銀行や証券取引所、ルーブル宮を奪取した。報復としてコミューンの警視委員長リゴーは三名の政府側スパイを処刑した。リゴー自身は次の日、政府に捕えられその場で処刑された[144]。
5月24日、コミューンは市庁舎の防備を諦めて東部の11区区役所に退避していった。コミューンは物量に勝るヴェルサイユ軍に敗北を重ね、武器弾薬も十分でなく、その組織的抵抗は不可能となっていた。衛兵中央は降伏もやむなしと考え、ドレクリューズをはじめとする代表団を派遣してヴェルサイユ軍に和を乞うたが、それも裏切りと見なした市民に阻まれ交渉もできない状況にあった[145]。万事休すであった。コミューン指導者たちは各々死を決意してそれぞれの死を選んでいった。死を悟ったドレクリューズは正装してシルク・ハットと燕尾服に身を包み敵軍に進み出て敵の一斉射撃を受け華々しい最期を遂げた[145]。
また、ヴェルサイユ軍による虐殺は激化し、略式軍事裁判という形式を踏まえた意味のない処刑劇が繰り返された。「市民の生命は鳥の羽根ほどの重さもない。ウィ・ノンとを問わず、逮捕され銃殺される」という状況であった。この「血の週間」と呼ばれる凄惨な市街戦により無差別殺人が発生して、老若男女を問わず多くの市民が殺傷された[145]。市民もダルボア大司教、ドゲリー大司教、銀行家ジャッケルなどの人質を街路に引きづりだして銃殺するなどして、双方で不毛な殺し合いの応酬を重ねることとなった[146]。ベルヴィール地区に残されたコミューンは軍事委員となったヴァルランとヴィレットによる最後の抵抗を試みていた。
27日、コミューンの最後の死闘は一方的な殺戮の様相を呈することになる。ヴァルランによる最期の降伏決断も「降伏などせず、闘いながら死ぬこと、これこそがコミューンの偉大さを形成」すると語るコンスタン・マルタンの反対で空しく覆された[147]。最終的に、パリ侵入から最終局面までに3万人にのぼるといわれる戦死者を出してパリ・コミューンは瓦解、ペール・ラシェーズ墓地での兵士・市民の決死の抵抗と殺戮を最後に5月28日、パリ市全域は鎮圧され、コミューンは崩壊した[147]。
戦闘終了後も、ヴェルサイユ政府軍が主張する「法と正義」による白色テロは収まらず、多数の国民衛兵および市民が即決裁判によりコミューン戦士は銃殺された[148]。地中からはまだ息のある戦士たちの呻きが上がっていた。
ヴァルランは憔悴して腰をかけているところをヴェルサイユ側に逮捕され、クレマン=トマ将軍、ルコント将軍殺害の手先として投石と罵声による市中引き回しの辱めを受けた。リンチによって眼球が飛び出すなど瀕死の際にいたって、ヴァルランは「共和国万歳!コミューン万歳!」の最後の叫びを残して絶命した。その後、ヴァルランの遺体からは時計など身の回り品が略奪された[148]。
他のコミューン戦士も戦闘を生き残った者は次々と逮捕され、狭い監獄にすし詰めに投獄されたのち放置され、初夏の暑さで弱った者から順次処刑されていった。裁判により370人が死刑となり、410人が強制労働、4000人が要塞禁固、3500人がニューカレドニアなど遠方の海外領土に流刑となった[149]。関係のない市民も、その場にいたという不条理な理由で殺されたほか、ヴェルサイユ軍の将軍たちは捕虜に因縁をつけては処刑するなど、パリ全域はコミューン退治を口実とした虐殺の舞台と化していた。パリ・コミューンの制圧は、穏健的共和派や王党派にとっては「危険な過激思想を吹聴する叛徒」を排除する絶好の機会であった。逆説的に、この「功績」によりティエール率いる共和派は、農民、ブルジョワ、王党派から第三共和政という政治形態の支持を得られることとなった。
コミューン論―その歴史的評価
マルクスのコミューン論
国民衛兵中央委員会の一部に第一インターナショナルが参加していたことから、カール・マルクスはコミューン崩壊の2日後、『フランスの内乱』を執筆し、コミューン戦士の名誉を擁護した。
レーニンのコミューン論
参考文献
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ミシェル・ヴィノック『フランス政治危機の100年-パリ・コミューンから1968年5月まで』大嶋厚訳、吉田書店、2018年(第1章「パリ・コミューン」を参照)
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脚注
関連項目
パリ・コミューン (1792年)
ナポレオン3世
女性参政権
政教分離の歴史
カール・マルクス
第一インターナショナル
インターナショナル (歌)
アドルフ・ティエール
フランス第三共和政
ギュスターヴ・クールベ
ルイーズ・ミシェル
さくらんぼの実る頃 (Le Temps des cerises) - パリ・コミューンの追悼歌
ウラジミール・レーニン
マルクス・レーニン主義
セバストーポリ (戦艦) - ロシア帝国、ソビエト連邦の戦艦。1921年から1943年までは「パリジスカヤ・コンムナ」(パリ・コミューンのロシア語読み)を艦名とした。
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ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(Russian: Вячеслав Михайлович Молотов、ラテン文字表記の例:[Vyacheslav Mikhailovich Molotov]error: {{lang}}: unrecognized language tag: ru-Lat (help)、ヴィチスラーフ・ミハーイラヴィチュ・モーラタフ、1890年3月9日(ユリウス暦2月25日) - 1986年11月8日)は、ソビエト連邦の政治家、革命家。同国首相、を歴任し、第二次世界大戦前後の時代を通じてヨシフ・スターリンの片腕としてソ連外交を主導した。「モロトフ」はмолот(モロト、ロシア語で「ハンマー」という意味)に由来するペンネーム[1]であり、本名は<b data-parsoid='{"dsr":[1636,1665,3,3]}'>ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービン(Russian: Вячеслав Михайлович Скрябин)。作曲家のアレクサンドル・スクリャービンと直接の血縁関係はない[2]。
1930年代以降唯一、スターリンに対して革命時代の愛称「コーバ」を使うことの許された人物であり、スターリンも彼のことを「モロトシヴィリ」「モロトシュテイン」といったあだ名で呼んだ。妻はユダヤ人の仕立屋の娘であり、ウクライナ共産党の書記や交通人民委員を務めた。孫にKGB長官の補佐官を務めた政治評論家がいる。
生涯
生い立ち
1890年3月9日、ロシア帝国の市クカルカ村(現在のキーロフ州)で生まれた。父ミハイルは領地管理人、母アンナは裕福な商家の出という裕福な家庭に育った。1906年にロシア社会民主労働党に入党し、ボリシェヴィキのメンバーとなった。1909年、カザン工業学校在学中に逮捕され、ヴォログダに流刑となる。1911年、刑期を終えてペテルブルク高等専門学校に入学した後、再びイルクーツク県に流刑された。1912年に創刊された党機関紙『プラウダ』には編集書記として参加し、この頃から「モロトフ」の名を使い始める。このほか「ジャージャ」(伯父)や「ミハイロフ」というペンネームも用いた。
ロシア革命
1914年末にはらと指導的活動組織「1915年ボリシェヴィキ集団」を結成する。1915年にイルクーツクから脱走し、地下活動に入る。1916年秋頃にはシリャプニコフらとペトログラードに潜伏し、ボリシェヴィキの国内組織である「党中央委員会ロシア・ビューロー」のメンバーとなった。1917年の二月革命では臨時政府の支持に反対したため、しばらく党中央のメンバーから外された。しかしウラジーミル・レーニンが反臨時政府の立場を明確にすると再び中央に復帰し、急進的な革命を主張するようになった。十月革命ではペトログラード・ソビエト軍事委員会委員を務め、次いで北ロシア、ヴォルガ、ドネツ各地方で宣伝活動を行った。1919年末にはニジニ・ノヴゴロド県ソビエト執行委員会議長に就任した。
中央委員会
スターリン(中央)、クリメント・ヴォロシーロフ(右)とともに(1937年)
(左)、ミハイル・カリーニン(中央)と
1921年には党中央委員会書記局筆頭書記になり、政治局員候補となる。この年、モロトフはウクライナの党書記であったポリーナ・ジェムチュジナと結婚した。翌1922年、レーニンは書記局の強化のためにソビエト連邦共産党書記長のポストを新設し、スターリンを書記長に任命した。以降の党内闘争ではモロトフはスターリン派として活動し、レフ・トロツキー、アレクセイ・ルイコフといった政敵の排除に大きな役割を果たした。1926年には正式に政治局員となる。以降もスターリン路線の忠実な支持者であり、コルホーズによる農業集団化や大粛清でも大きな役割を果たした。1930年には人民委員会議議長(首相)に就任し、以降11年間にわたってその座を占め続けた。
また、グリゴリー・ジノヴィエフの失脚にともない1927年にはコミンテルン執行委員会幹部会メンバーに選出され、1929年のニコライ・ブハーリン失脚以後は、コミンテルンの事実上の指導者となった。
モロトフ外交
独ソ不可侵条約に調印するモロトフ(後列中央はヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン)
訪独してリッベントロップらドイツの首脳と会談するモロトフ(1940年11月)
日ソ中立条約の調印に立ち会うモロトフ(調印しているのは松岡洋右、そのすぐ後ろがスターリン。スターリンの左後にモロトフ)
1939年5月、ナチス・ドイツとの融和のためアドルフ・ヒトラーの歓心を買おうと企図したスターリンによってユダヤ人であった外務人民委員(外相)のマクシム・リトヴィノフが解任された。モロトフは外務人民委員を兼務し、以降10年にわたってソビエト連邦における外交の長として活動することになる。一方、ユダヤ人であった妻のポリーナも交通人民委員を解任されている。8月には独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)を締結し世界中を驚愕させ、これに基づいた9月のポーランド侵攻は第二次世界大戦の口火を切った。この協定にはポーランドの分割とバルト三国のソ連による併合を取り決めた秘密議定書が付属しており、モロトフはこれにもサインしている。また、ポーランド侵攻後に起きたポーランド軍将校の虐殺(カティンの森事件)には政治局の一員として賛成している。
1939年11月、カレリアの領有権をめぐってフィンランドとの冬戦争が勃発した。スターリンとモロトフは開戦に積極的であり、オットー・クーシネンを首班とするフィンランド民主共和国の樹立を目論んでいた[2]。また、ソ連空軍はフィンランドの市街地を空爆した。フィンランド政府がこれに抗議すると、モロトフは「ソ連機は(民間人を攻撃しているのではなく)空からパンを投下しているのだ」と発言した。以後、フィンランド人はこれを皮肉って、焼夷弾のことを「モロトフのパン籠」と呼ぶようになった。さらにフィンランド軍は、対戦車兵器として用いた火炎瓶に「モロトフ・カクテル」とあだ名をつけ、「パン」への「返礼」とした。冬戦争ではモスクワ講和条約によってフィンランドに領土割譲要求を呑ませることに成功し勝利したが、小国フィンランド相手に多大な損害を出し苦戦したソ連の威信は大いに傷つき、国際連盟からも追放された。
1940年11月にベルリンを訪問したモロトフは、ヒトラー、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相らと会談し、融和方針を確認した。11月13日、イギリス空軍による爆撃があったため防空壕に避難して会談を続けたが、リッベントロップが「イギリスの敗北は必至」と言ったところ、モロトフは「いま上空を飛んで爆弾を落としているのはどこの飛行機か」と応酬した[3]。リッベントロップはやや面食らったがすぐに冷静さを取り戻し、日独伊三国同盟にソ連を加えて四国同盟にする計画を説明し始めたという[3]。この提案にスターリンも含めて同意したが、ドイツの最終的な返答はバルバロッサ作戦であった。
1941年5月、スターリンに首相職を譲り、自らは外相専任となりソ連外交を指揮した。日本の松岡洋右外相と日ソ中立条約に調印する。6月22日にドイツ軍が侵攻し独ソ戦が勃発した。アナスタス・ミコヤンの回想によると、6月30日にラヴレンチー・ベリヤの提案でソ連国家防衛委員会が組織されることが決まった。ミコヤンが議長としてスターリンの名を挙げると、モロトフは「スターリンはここ2日ほど脱力状態にある」と説明したという。また、ベリヤの回想ではスターリンの不在時に国家防衛委員会の設立を提案したのはモロトフであるとしている。この時期、スターリンは独ソ戦勃発に動揺したため指導力が弱まり、ニコライ・ヴォズネセンスキーはモロトフに権力掌握を薦めたという[4]。ミコヤンによるとスターリンの別荘を訪れたモロトフは「逮捕される表情」を示したという[2]。
7月になるとスターリンは現場に復帰し、および国家防衛委員会議長となった。モロトフは国家防衛委員会副議長としてスターリンを補佐した。海外ではスターリンの忠実な部下として知られており、「モール」(ボスの情婦)のあだ名で呼ばれた。
戦時中から戦後にかけてアメリカ・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、冷戦期の共産圏の基礎を作った。
戦後
第二次世界大戦終了後の1945年10月に、スターリンは最初の発作を起こし、休養を余儀なくされた。そのためこの時期はモロトフが代理で政務を扱った。外国の新聞では後継者を巡る報道が行われ、モロトフに対するスターリンの警戒心は高まった。12月初め、復帰したスターリンはモロトフ批判を政治局で行った。政治局に対外委員会が設立され、外務人民委員部の役割とモロトフの権限は縮小された。外務人民委員代理にはアンドレイ・ヴィシンスキーが就任し、モロトフと対立する場面もあった。
1946年12月にはソビエト連邦科学アカデミーから「マルクス・レーニン学」の名誉会員に推挙された。しかしスターリンから「私はアカデミー会員だが、お前は名誉会員だ。賛成か」と電報が届いたため、辞退せざるを得なかった。スターリンは独裁を強め、ベリヤやアンドレイ・ジダーノフといった側近を重用した。モロトフやミコヤンといった古参幹部は遠ざけられ、粛清の危険が迫っていた。
1949年1月にポリーナは逮捕され、党を除名された上でカザフに流刑となった。当時スターリンはイスラエルの建国やソビエト・ユダヤ人共和国設立をめぐってユダヤ人への警戒心を強めており、ポリーナの粛清はイスラエルの駐ソ大使ゴルダ・マイエルソンとヘブライ語で会話したことが直接の引き金になったという。モロトフは妻の処分決定時には棄権したが、後にそのことについて自己批判せざるを得なかった。3月には外務人民委員を解任され、第一副首相となった。しかし第一副首相は閑職であり、幹部会のメンバーからも外された。
モロトフ自身もヒステリーの症状で口が開かず、薬を飲むのにも苦労したほどであった。後に「あと1年スターリンが生きていたら無事ではすまなかっただろう」と語っている[2]。
1953年3月5日、スターリンが死去した。指導部とも繋がりのあった作家コンスタンチン・シーモノフの観察によると、モロトフは「スターリンの死を心から悼んだ唯一の政治局員」だったという[2]。
スターリンの死後
スターリンの死は新たな政治状況を作り出した。その日のうちにモロトフは外相に復帰した。またポリーナは収容所から解放され、その後も多くの囚人が釈放された。しかし改革に舵を切ったベリヤと対立し、ニキータ・フルシチョフの提案するベリヤの逮捕と処刑に積極的に賛成した。ドミトリー・シェピーロフの回想ではフルシチョフがベリヤの解任をほのめかした際には「除去するだけでいいのか」と答えたという。
しかしその後の集団指導体制の中で、スターリン主義に固執するモロトフら保守派は孤立を深めていった。1956年2月にフルシチョフがスターリン批判を行い、非スターリン化を進めるとモロトフらは反発した。またスターリンの故郷グルジアで暴動が発生し、「モロトフを首相に」というスローガンが唱えられた。またモロトフはユーゴスラビアとの関係正常化に反対してフルシチョフと対立し、9月に外相を解任された。10月にはハンガリーで政変が起こり、ハンガリー動乱が発生した。モロトフは軍事介入に賛成し、融和を唱えるミコヤンと対立した。
1957年6月、幹部会においてゲオルギー・マレンコフ、ラーザリ・カガノーヴィチらとともにフルシチョフ解任の動議を提出した。しかし書記局と軍の支持を得ていたフルシチョフは中央委員会で逆襲を行った。モロトフら反フルシチョフ派は「反党グループ」であるとして政治局員から解任され、モロトフ自身は駐モンゴル大使に左遷された(反党グループ事件)。この動議は反党グループと呼ばれた人々も賛成票を投じざるを得なかったが、モロトフは棄権した。しかし反対派の多くが自己批判や謝罪を行う中、モロトフだけは意見を変えなかった。
その後、中ソ対立でモンゴルの重要性が高まると、モロトフは1960年に国際原子力機関ソ連代表に左遷された。しかしフルシチョフに体制批判の書簡を送ったことで、1961年10月の党大会で「モロトフとその同類の頑迷派」は激しく批判された。モロトフは共産党から除名され、年金生活に入った。
晩年
モロトフは晩年をモスクワ郊外のジューコフカの別荘で送った。年金は月額120ルーブルという労働者並みの水準であったという。モロトフは『新しい課題を前に』という著書の執筆を行っていたが、出版される見込みはなかった。1970年には妻のポリーナが死去した。フルシチョフの失脚後、政権を握ったレオニード・ブレジネフの元でも復権は果たされず、20年以上の隠遁生活が続いた。
1984年5月、政治局でモロトフの復権が決定され、共産党に復党した。モロトフには元首相としての多額の年金がさかのぼって支給され、孤児院に寄付を行った。彼は1985年に書記長となったミハイル・ゴルバチョフに期待しており、新聞に「この国の新しい変化にわくわくしている」という記事を寄稿した[5]。1986年11月8日、十月革命69周年の日にモスクワで死去した。96歳。ノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。
人物
ジョン・フォスター・ダレスは「今世紀の偉大な国際政治家が活躍するのを見てきたが、モロトフほど完成された外交的技量を持った人物を見たことがない」と評している。モロトフ自身は、資本主義と共産主義との間に平和はありえないと考えており、「ミスター・ニェット」と呼ばれたアンドレイ・グロムイコを高く評価し、アフガニスタンへの介入などの対外政策を支持していた。1944年のフィンランドとの停戦交渉では、世界各国の大使を前に「この地上で赤軍を止められる軍隊などどこにもおらんのだ!ば、ば、ばかにされてなるものか」と、どもりながら激怒した。モロトフは護衛に抱えられて退出した。翌日、通訳からフィンランド代表や各国大使の反応を聞いて「上出来だ!申し分ない!」と叫んだ[6]。先日の怒りは演技だったのである。やがて停戦協定が結ばれた。
対照的に、フルシチョフはその回想記の中でモロトフを「こんな無能力で、こんな視野の狭く、最も簡単なことを理解できない男が一体何年わが国の外相をしていたのか!」と酷評している。フルシチョフはさらにモロトフの頑固さを強く批判しており、たとえば日本との平和条約を締結できなかったのも、モロトフの頑迷さも一因であったと述べている。その一方で、モロトフの頑固さは時としてスターリンにすらニェット(ノー)と平然と言ってのけるようなものであり、モロトフがフルシチョフのためにスターリンに抗議してくれたことも一度や二度ではなかったという。
フルシチョフが評したとおり、頑固で愛想がない性格の人物であり、部下にも妥協を許さなかった。基本的にはよそよそしいほど礼儀正しく接したが、一度怒らせると相手が気絶するまで叱った[7]。気絶すると冷水をかけ、護衛を呼んで事務室まで運ばせた。しかし、それ以上の懲罰が下ることはなかったという[7]。通訳が金庫を開けっぱなしにしているのを見た時は、「腐った知識人がまた何もかもさらけだしているな。君達ロシアの知識人ときたら」と笑った[8]。補佐官を務めたは「モロトフほどうち解けにくい人間はいなかった」としている。
ロシア革命、スターリン体制の最後の生き証人であったが、スターリンについてはほとんど胸中を明かさずに世を去った。晩年でもモロトフと妻ポリーナは一貫してスターリン主義者であり、多くの犠牲者を出した1930年代の農業集団化や大粛清などを擁護している。しかし、レーニンについては晩年のインタビューで「スターリンよりも厳格だった」、「スターリンを『軟弱だ』と叱責したこともあった」など、貴重な証言を残している[9]。
日本との関係
駐ソ大使も務めた東郷茂徳を「馬が合った」「私とやり合って祖国のために戦った」と評価しており、極東国際軍事裁判では東郷の減刑に動いたという説がある[10]。また、近衛文麿によるソ連を仲介者とした連合国との和平交渉「近衛工作」では駐ソ大使佐藤尚武と交渉を行い、1945年8月8日には宣戦布告文を手渡している(ソ連対日参戦)。
脚注
関連項目
ペルミ - 1940年から1957年までモロトフ市と呼ばれた。1945年から1953年頃まで、モロトフ市で犯罪が多発した現象は「モロトフ現象」と呼ばれた。
- 独ソ不可侵条約におけるドイツとソ連の境界線。
モロトフは駄目だ - フィンランドの軍歌。
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%A3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%95 |
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Vシネマは当初、萩原健一、草刈正雄等のベテラン、名高達男、神田正輝等の中堅、仲村トオル等の新進といった有名な俳優を起用したハードボイルドタッチの作品が数多く制作されたが、哀川翔が主演した『ネオチンピラ・鉄砲玉ぴゅ~』シリーズのヒットにより、次第に東映のお家芸である極道物やギャンブル物が主流となっていった[3]。
創成期の製作費は基本が6000万円で[4]、うち宣伝費が20%であった。キャスティングに強烈なスターが出て、売れる見通しがあればもっと多かった。これは当時の東映の単館ロードショー作品と同程度の制作費であった[4]。
これは、Vシネマ開始当初は邦画不況時代であり、作品を劇場配給網に乗せる予算を制作費につぎ込むことにより作品のクオリティを維持しつつ制作を継続するという苦肉の策から生じたものであると言われていると同時に、当時、実質的に経営破綻状態にあった日活の製作スタッフに救いの手を差し伸べるという側面もあった。
この試みは功を奏し、作品自体で収益を得ることに成功したのみならず、邦画黄金期のプログラムピクチャーと同じく、監督・スタッフ・俳優など現在に至る人材が量産体制の中で鍛えられ成長し、現在の映画・テレビ業界を背負う人材が多数輩出された[5]。無名時代の椎名桔平、押尾学、豊川悦司、谷原章介、大杉漣らの出演作もある[3]。
創設の経緯
1984年、ビデオ部門に移った東映ヘッドプロデューサー(当時)吉田達が、当時からビデオ・オリジナル作品の製作を着想していたのを始まりとする[4][6][7]。当時の東映ビデオ社長・渡邊亮徳が推進した[8]。ただ実際の製作にはふんぎりがついていなかった[9]。脚本家だった大川俊道が30歳までに監督作品を作りたいと考えて、特殊効果のカタログみたいな作品を作りたいという構想を持っていたが[9]テレビ朝日で放送されていた『ベイシティ刑事』のプロデューサー・武居勝彦が、大川に「ガン・アクションをやろう」と持ちかけてきたことで企画が動き出した[9]。1988年、大川が世良公則と組んでガン・アクションに徹したビデオを作りたがっている、という話を吉田が耳にしたことで、第一弾『クライムハンター 怒りの銃弾』の製作が東映ビデオで決まった(1989年3月10日発売)[6]。大川は「『ゲッタウェイ』や『ダーティハリー』みたいな映画を日本でやれないかと考えていて『仁義なき戦い』みたいな映画をやりたいわけではなかった」と述べている[10]。
吉田達がビデオレンタル店を回ったおり、5本も借りていく若いお客さんに「それ全部見るのか」と聞いたら、「早送りするから」と言われ、それなら早送りさせないものを作ってやろうと同作品は、通常の劇映画より短い60分で製作された[6]。ところが先のビデオレンタル店のお客さんに感想を聞いたところ、「面白かったけど話にもう一展開欲しい」と言われたため、それ以降の作品は基本85分の長さで製作することになったという[6]。東映は当時全国に13000ぐらいのビデオショップと契約を持っていて、店長試写会を開き10数箇所で計700人ぐらいに観てもらい、「この次は誰が欲しい」と店長の要望を聞き、例えば「岩城滉一が欲しい」と言われれば、それを掴まえて次作を作った[4][7]。「皆さんの要望で作ったものだから仕入れてよ」と言いやすかったという[4]。吉田はVシネマはビデオショップの店長の意見を多く取り入れたと話している[4]。最初に『怒りの銃弾』を出した時には、初めから長期展望で繋がるとは思ってなく、恐る恐る始めた。『怒りの銃弾』が16000本ぐらい売れて利益が出て、吉田がセントラルアーツの黒澤満にも薦めたら、黒澤が仲村トオル主演で『狙撃 THE SHOOTIST』を製作、初回出荷は26764本出てこれも利益が出た[11]。この2本のテストケースをみて1990年2月にオールハードアクションで10本の製作を発表[4]。またこの頃『怒りの銃弾』がテレビ放映され15.7%の高視聴率を記録した[4][9]。これを受け、1990年4月から月1本ずつ作品を出したが調子がいいので10月からは2本、東映本社から来る劇場作品がない月は3本、TVアニメもあるので月3~4本程度の製作を決めた[4]。
1989年2月頃、ビデオ用劇映画の製作が決まった際に、多くの俳優に声を掛けたが、「Vシネマで劇場公開はない」というと嫌がる俳優がほとんどだった[4][7]。世良公則がやると言ったことと、世良主演で『怒りの銃弾』が成功したことで、その後多くの俳優が出演を希望するようになった[4]。一年余りで特に若いユーザーが"Vシネマが面白い"と口コミで広がった[4]。
ビデオレンタル店が儲かった黄金期は1985年から1987年にかけてで
[12]、店数の最盛期だった1989年には全国で1万6000店以上あったといわれ[12]、そこからは減少に転じた[13]。つまりVシネマは、始めからビデオブームの下り坂に向けて作られたジャンルであり、「ヤクザなファン層」たちの生き残りを確保した場所でもあった[13]。また携わるスタッフや俳優そのものが、職場として生き残りを賭けた「ヤクザな連中」の吹き溜まりの様相を呈していた[13]。Vシネマが始まったときの面々は、世良公則、仲村、清水宏次朗、西城秀樹、渡辺裕之、宍戸開、又野誠治、哀川[13]。「帯に短し、たすきに長し」な、なんとも微妙な人たち、悪役としてはまだアクが足りず、主役を張らせるには、若く、存在感も不足という人たちで、社会からあぶれたチンピラを体現する彼らは、その後の"アニキ"となる予備軍であった[13]。
吉田は「映画批評家も何人かの人を除いて今はVシネマに鼻も引っ掛けないような所があるけど。批評家は客が来ないような映画を褒めてるんだよね。初めの頃の東映のヤクザ映画路線みたいなものでね。なんだこれはと言ってるうちに客がどんどん増えて行って、いつの間にか批評書き始めたりするんだけど」と1990年のインタビューで話していた[4]。実際1990年の後半から、「映画は映画館で観ろ」という主張の急先鋒だった批評家の一部に、「ヴィデオドラマはプログラムピクチャーの復活だ」と唱え始める者も出てきた[14]。
1989年3月発売された第一作の『クライムハンター 怒りの銃弾』はテストケースでタイアップはなかったが、同年8月25日発売された『狙撃 THE SHOOTIST』はTBSが制作費を半分出した[11]。同年11月24日発売された『クライムハンター2 裏切りの銃弾』は東北新社が共同制作、初回出荷は20066本。1990年4月13日発売の宮崎ますみ主演『ブラックプリンセス 地獄の天使』は東洋レコーディングがタイアップ[11]。1990年からは最初からテレビに放映権を売るということでテレビ局が主に出資した[15]。1990年4月に製作を予定された10本中、半分をTBS、2、3本をテレビ朝日が出資した[15]。東映ビデオは販売会社を全国11社でネットしているが、東映以外は市場提供するためには製作・流通の一部が欠け、アンバランスな状態が生じた[11]。オリジナルビデオは東映だからこそ可能であったのである[11]。
吉田達は岡田茂の薫陶を受けた人物の一人で[16][17]、「東映Vシネマ」は、岡田が仕掛けた「アクション映画」や「仁侠映画」、「エログロ映画」、「実録映画」、「東映セントラル」などの流れを汲むもの[18][19][20]。
その他
アクションものが続くことによるマンネリ化を防ぐために、毛並みの変わったレーベルでリリースしたこともあったが、1,2作程度で終わった。
東映ヤングVシネマ - アクション系と違った、軽いタッチの若者向け作品。第1弾は『2人のマジカル・ナイト』[21]。
東映Vエロチカ - ヌードシーンやセクシーシーン満載の作品。第1弾は『マニラ・エマニエル夫人 魔性の楽園』[22]。
東映Vアメリカ - ハリウッドシステムと組んで作った、アメリカ版Vシネマ。主要俳優・プロデュースは日本サイドだが、製作プロダクションはアメリカの会社で行う。一瀬隆重が、日米間のコーディネイトを行うプロデューサーとして活動した。第1弾は『DISTANT JUSTICE 復讐は俺がやる』[23]。
近年
本来はVシネマ</b>として制作されたにも関わらず、単館上映されたためパッケージに「劇場公開作品」と記載した作品が増え、厳密な意味でのVシネマ</b>は減少の一途にある。レンタルビデオ市場も縮小傾向にあり、市場に投入してきたDVDにより、オンラインDVDレンタルや、特典映像を付加してDVDセル市場に力をいれる傾向にある。
東映製作による特撮テレビドラマのシリーズ「スーパー戦隊シリーズ」のオリジナルビデオ作品「スーパー戦隊Vシネマ」のうち、VSシリーズでDVD化された作品には「スーパー戦隊Vシネマ」の表記とは別に、パッケージの背表紙に「東映V<small data-parsoid='{"stx":"html","dsr":[7821,7842,7,8]}'>CINEMA」の表記を用いている。ただし、一部の作品は「スーパー戦隊Vシネマ」の名称が用いられる前の「スーパー戦隊OVシリーズ」の表記を用いている。
また、平成仮面ライダーシリーズ初のオリジナルビデオ『仮面ライダーW RETURNS』(2011年)や宇宙刑事シリーズ初のオリジナルビデオ『宇宙刑事 NEXT GENERATION』(2014年)、「劇場公開作品」として製作された『スペース・スクワッド』(2017年)といった往年の特撮テレビドラマのオリジナルビデオ作品にはパッケージの表紙に「東映V<small data-parsoid='{"stx":"html","dsr":[8118,8139,7,8]}'>CINEMA」の表記が用いられており、東映Vシネマの作品として制作されている。
2014年は東映Vシネマ25周年と位置付けられ、厳選された名作Vシネマ25作品が「25th Anniversary 東映 Vシネ伝説」と題してDVDリリースされるほか、東映Vシネマ25周年記念作品『25 NIJYU-GO』が同年11月1日に公開された。この作品も上に記した様な「劇場公開作品」だが、主演の哀川翔ほか東映Vシネマで名を成した俳優たちが大勢出演し、Vシネ25周年を祝う[1]。
製作費
前述のとおり、Vシネマ創設時の製作費は6000万円とされているが、8000万円だったという証言もある[24]。1991年、名取裕子主演・長崎俊一監督の『夜のストレンジャー 恐怖』が8000万円[25]、撮影期間が20日間。その後さまざまな会社がVシネに参入して製作費のダンピング合戦となり、ケイエスエスが5000万円に製作費を下げた[25]。この辺まではまだフィルムで撮れる余裕があった。やがてテレビ映画を撮っていたプロデューサーが参入してきて、連続テレビ映画のノウハウを活かし2本撮りで5000万円。撮影も三週間で2本の時代が続いた[25]。黒沢清監督が「勝手にしやがれ!!」シリーズや「復讐」シリーズを撮っていた1990年代中頃。東映Vシネマ1996年、佐々木浩久監督の『GO CRAZY 銃弾を駆け抜けろ!』は、製作費1800万円、御宿の日活保養所で毎日徹夜で8日間で撮影した[25]。製作費は下がり始めるとアクション中心のVシネマは減り、低予算で撮れるエロVシネマの時代がやってきた。これも当初はフィルムで撮っていた。他社はさらなる低予算でビデオ映画のノウハウを活かし、廣木隆一門下フィルムキッズを中心に若手の大量投入で傑作を量産した。製作費はどんどん下降して2008年頃は3500万円くらいになった[24]。ギャラのトップは竹内力で、竹内のギャラは1本1000万円まで吊り上った[24]。2008年頃の2時間ドラマで、製作費が5000万円なら、主演俳優のギャラは200~300万円が相場。テレビに比べVシネマの主演スターはギャラが破格だった[24]。
エピソード
当初Vシネマ第一弾として製作を予定していたのは、安部譲二の連作小説『泣きぼくろ』であったが、予定が変わり『クライムハンター』が第一弾となった[6]。そして当初の予定だった『泣きぼくろ』の映像化は1990年、高橋伴明監督、哀川初主演作『ネオチンピラ・鉄砲玉ぴゅ~』として実現された[6]。
第一弾が『クライムハンター 怒りの銃弾』だったことでも分かるように、当初Vシネマは「ガン・アクション」或いは「正統派アクション路線」を目指し、何か新しいこと、これまでにないことをやろうという考えがあった[9]。ところが主人公が一回も撃たない『ネオチンピラ・鉄砲玉ぴゅ~』が当たったため路線が外れた。『クライムハンターシリーズ』の大川俊道は、シリーズ3作を製作した後は企画が通らなくなったと述べている[9]。
出典・脚注
参考文献・ウェブサイト
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関連項目
Vシネクスト
オリジナルビデオ
OVA
アダルトビデオ
スーパー戦隊Vシネマ
プログラムピクチャー
外部リンク
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交通に関する日本一の一覧(こうつうにかんするにほんいちのいちらん)は、交通に関する日本で一番や一位の一覧。
道路
高速道路
日本一交通量の多い高速自動車国道: 近畿自動車道 松原JCT - 松原IC間 平日12時間交通量・90,232台(2010年調査[1])
日本一交通量の多い都市高速道路: 首都高速道路高速湾岸線 辰巳JCT - 新木場出入口 間 平日昼間12時間交通量・115,418台(2010年調査[1])
日本一ピーク時間交通量の多い高速自動車国道: 近畿自動車道 松原JCT - 松原IC間 7時台・10,465台(2010年調査[1])
日本一ピーク時間交通量の多い都市高速道路: 首都高速道路 高速湾岸線辰巳JCT - 新木場出入口 間 7時台・11,071台(2010年調査[1])
日本一面積の広いジャンクション: 垂水JCT 36万平方メートル[2][3]
日本一長い高速道路 東北自動車道 679.5km
日本一(世界一)長い高速道路トンネル: 首都高速中央環状線山手トンネル 18,200m[4]
危険物積載車が通行可能な日本一長いトンネル: 新名神高速道路箕面トンネル 4,997m(上り線)
無料で通行可能な日本一長いトンネル: 東北中央自動車道栗子トンネル 8,972m
日本一標高の高いパーキングエリア: 東海北陸自動車道松ノ木峠パーキングエリア 標高1085 m[5][6]
松ノ木峠の頂にパーキングエリアがある。一宮JCTから109.3km地点[注 1]。
国道・一般道路
日本一長い国道: 国道4号(東京都中央区 - 青森県青森市)約743.6km[7]
海上区間を含め日本一長い国道: 国道58号(鹿児島県鹿児島市 - 沖縄県那覇市)約857km(陸上区間約255km)[7]
日本一短い国道: 国道174号(神戸港 - 兵庫県神戸市中央区)187.1m (0.1871km)[7]
日本一長い都道府県道: 新潟県道45号佐渡一周線 167.2km[8]
日本一短い都道府県道: 長野県道162号上田停車場線 7m(0.007km)[8]
日本一自動車交通量の多い道路: 国道16号保土ヶ谷バイパス・神奈川県横浜市保土ヶ谷区今井町353 12時間交通量・平日104,846台(2010年調査)[1][9]
日本一道幅の広い道路: 大阪府道2号大阪中央環状線 幅員120m[10][11]
2m以上の橋の数が日本一多い国道: 国道2号 1,279橋[12][13]
日本一長い国道の橋: 国道28号明石海峡大橋 3911m[13]
トンネルの数が最も多い国道: 国道229号 76本[12][13]
日本一長い国道トンネル: 国道409号 アクアトンネル 9610m[13]
直線区間が最も長い国道: 国道12号・北海道美唄市光珠内町292 - 滝川市新町6丁目間 約29.2km[12][14]
日本一標高の高い国道: 国道292号渋峠(群馬県吾妻郡中之条町・長野県下高井郡山ノ内町)標高2,172m[12][15]
日本一勾配の大きい国道: 国道308号 最大勾配31度[16]
日本最北端の国道: 国道238号・北海道稚内市大字宗谷村大岬383番地(北緯45度31分東経141度56分)[12]
日本最東端の国道: 国道44号・北海道根室市常盤町3丁目28番地(東経145度35分北緯43度19分)[12]
日本最南端・日本最西端の国道: 国道390号・沖縄県石垣市登野城1番地(東経124度9分北緯24度20分)[12]
私道
日本一長い私道: 宇部興産専用道路 31.94km[17][18]
バス
事業者
日本一バス車両の保有台数が多い事業者: 神奈川中央交通 2122台(2016年6月末時点)[19]
企業グループ全体の場合: 西鉄グループ 3223台(2016年3月末時点)[19]
日本一バス車両の保有台数が少ない事業者: 宇久観光バス 2台
日本一基準賃率が低い(距離当たりの運賃が安い)事業者: 鹿児島市交通局 19円90銭[20]
民間企業に限った場合: 宇野自動車 23円20銭[20]
路線
日本一走行距離の長い高速バス路線: 天領バス「オリオンバス」 東京駅鍛冶橋駐車場(東京都中央区) → 博多駅筑紫口(福岡県福岡市博多区)間 1,118km[21]
日本一走行距離・所要時間の長い一般バス路線[注 2]: 奈良交通「八木新宮線」大和八木駅(奈良県橿原市) - 新宮駅(和歌山県新宮市)間 166.9km、約6時間30分[22]
複数の系統を同一車両で通し運行するものを含めた場合(走行距離): 沿岸バス「快速留萌旭川線・快速幌延留萌線」旭川駅前(北海道旭川市) - 留萌十字街(北海道留萌市) - 幌延駅(北海道天塩郡幌延町)間 合計約217km[22]
日本一停留所数の多い一般バス路線[注 2]: 沿岸バス「豊富留萌線」留萌十字街(北海道留萌市) - 豊富駅(北海道天塩郡豊富町)間 停留所数169[22]
日本一年間の運行本数が少ない定期運行のバス路線: 京都バス 高野車庫 → 一乗寺梅ノ木町 → 大原間[23]、高野車庫 → 植物園北門前間[24]、高野車庫 → 草生町 → 大原間[25]、95系統 大原 → 鞍馬(いずれも京都府京都市左京区)間 年1本(春分の日)のみ運行[26]
停留所
日本一長いバス停留所名称
平仮名表記: しずてつジャストライン 県立美術館線・美和大谷線「曲金静岡視覚特別支援学校静鉄不動産静岡南店前」(静岡県静岡市駿河区) 43文字[27]
漢字仮名交じり表記: 関鉄グリーンバス 鹿行北浦ライン「レイクエコー・白浜少年自然の家・なめがたファーマーズヴィレッジ中央」(茨城県行方市) 31文字[28](中黒を含めると33文字)
日本一北にあるバス停留所: 宗谷バス 天北宗谷岬線「宗谷岬」(北海道稚内市)[29]
日本一東にあるバス停留所: 根室交通 納沙布線「納沙布岬」(北海道根室市)[29]
日本一南にあるバス停留所: 西表島交通「豊原」(沖縄県八重山郡竹富町)[29]
日本一西にあるバス停留所: 西表島交通「白浜」(沖縄県八重山郡竹富町)[30][注 3]
日本一標高の高いバス停留所: アルピコ交通 乗鞍高原〜乗鞍畳平シャトルバス・乗鞍岳ご来光バス「標高2716m」(岐阜県高山市) 標高2,716m[31]
日本一高速バスの発着便数・高速バス用の乗降場・乗り入れる事業者数の多いバスターミナル: バスタ新宿(新宿高速バスターミナル)(東京都渋谷区) 1,625便(ピーク時)、15バース、118社(いずれも2016年の開業当初の数値)[32]
鉄道
港湾
地理
日本一北にある旅客港: 稚内港(日本が実効支配をしている地域としての最北)
日本一東にある旅客港: 紋別港(日本が実効支配をしている地域としての最東)
日本一南にある旅客港: 波照間島波照間港 一般人が訪れることの出来る港では最南。
日本一西にある旅客港: 与那国島久部良港
旅客船の定期発着がある港のみを記載。紋別港は砕氷船による観光航路。
取扱量
日本一年間取扱貨物量が多い港: 名古屋港 20,256万トン[33]
日本一年間入港船舶数が多い港: 土生港 76,776隻[34]
日本一年間乗降人数が多い港: 厳島港 8,150,979人[35]
航空
空港
日本一北にある空港: 稚内空港(北海道) 北緯45度24分7秒、東経141度48分17秒[36]
日本一東にある空港: 中標津空港(北海道) 北緯43度34分39秒、東経144度57分36秒[37]
日本一東にある飛行場: 南鳥島航空基地 (東京都) 北緯24度17分23秒 東経153度58分45秒
日本一南にある空港: 波照間空港(沖縄県) 北緯24度03分30秒、東経123度48分14秒[38](2008年7月より定期便の就航はない。)
2018年現在定期便のある空港では新石垣空港(沖縄県) 北緯24度23分47秒、東経124度12分42秒[39]
日本一西にある空港: 与那国空港(沖縄県) 北緯24度28分03秒、東経122度58分47秒[40]
日本一標高の高い場所にある空港: 松本空港(信州まつもと空港)(長野県) 標高657.5m[41]
日本一旅客数の多い空港: 東京国際空港(東京都) 2010年度年間旅客数約6,193万人[42](世界第4位)
日本一国際線旅客数の多い空港: 成田国際空港(千葉県) 2010年度年間旅客数3,216万3,522人[43](世界第9位)
日本一就航都市の多い空港: 成田国際空港(千葉県) 116都市(2013年度)[44]
日本一(世界一)旅客数の多い航空路: 東京国際空港・新千歳空港間 2006年度年間旅客数のべ9,804,267人、年間座席数のべ14,756,435席、年間運航回数36,709回(いずれも片道を1人、1席、1回と計算)[45]
日本一航空貨物取扱量の多い空港: 成田国際空港(千葉県) 約189万トン(2011年度)
日本一の貿易空港: 成田国際空港(千葉県) 輸出額10兆6572億円、輸入額10兆2978億円(2004年度)
日本一滑走路一本当たりの離着陸回数が多い空港: 福岡空港(福岡県) 離着陸回数年間14万回(国内線12.6万回、国際線1.4万回)[46]
航空機
日本一(世界一)の総飛行時間及び飛行サイクル: 日本エアコミューターが所有していたYS-11(JA8717:製造番号2092)。1969年2月で登録から、2006年9月11日までの総飛行時間71,220時間47分、総飛行サイクル72,359回。
宇宙
射場・宇宙港
気象ロケット観測所: ロケットの打ち上げ回数が日本一多い射場(MT-135P観測ロケットの打ち上げ1,119機。2001年3月21日に観測終了。)
軌道・事業者
ロケット
脚注
注釈
出典
参考文献
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関連項目
日本一の一覧
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
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興宣大院君((こうせんだいいんくん、흥선대원군、フンソンデウォングン)・大院王(だいいんおう、テウォンワン)、1820年12月21日(時憲暦嘉慶25年11月16日) - 1898年2月22日(時憲暦光武2年2月2日))は、李氏朝鮮末期の王族。政治家。字は「時伯」、号は「石坡」、「海東居士」、本名は李昰応(り・かおう、이하응、イ・ハウン)。南延君の四男。母は郡夫人驪興閔氏。高宗の実父。
1864年1月から1873年11月まで、高宗の実父として朝鮮の国政を司り、外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした、具体的には有能な人材の登用、官制改革の実施、小作人制度の撤廃による農地の平等分与などを目指した。一方、1866年にフランス人神父9名やカトリック信者約8,000名を捕らえて処刑(丙寅教獄)するなど、キリスト教を徹底して弾圧、これを機に同年江華島へ侵攻したフランス艦隊を撃退している(丙寅洋擾)。更に、通商を求めて大同江を遡上してきたアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号を焼き払い(ジェネラル・シャーマン号事件)、鎖国をあくまで堅持しようとした。また外戚の専横排除を目的に閔妃を高宗の王妃にするが、かえって国政から追放された。乙未事変により閔妃が暗殺された後も政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。
また「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように李朝時代末期において多大な影響をもたらしたため、現在、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。敬称は、「閣下」と「大院位大監」(대원위대감)である。
生涯
初期の活動
出生と家系
大院君は1820年12月21日現在のソウル特別市鍾路区安国洞で、父南延君と、母郡夫人驪興閔氏の四男として出生した。父の南延君は、英祖の子の荘献世子の三男・恩信君の養子となった。本系は仁祖の8世孫。7代祖は麟坪大君、6代祖は福寧君、5代祖は義原君、高祖父は安興君、曾祖父は李鎮翼、祖父が李秉源である。長兄興寧君は僅か8歳で死去し、母を12歳でなくすなど不遇な環境で育った。それでも父南延君から漢学を学び、姻戚の縁で、金正喜の門下生となって、学問を教わった。13歳で、母と12親等の驪興府大夫人閔氏と婚姻する。17歳で父を亡くすが、長男完興君、次男高宗などが早くから生まれた。また妾が二人いた。
青年期
1841年(憲宗7年)興宣正となり、興宣都正を経て、1843年(憲宗9年)興宣君に封爵された。1846年には緩陵遷葬都監の代尊官になり、備辺司堂上を経て、1847年(憲宗13年)宗親府有司堂上になり、璿派人(王族)を管理した。また安東金氏とも取引をし、王族の地位を高めようとした。また生活に困っていた大院君は絵を描いて両班に売って生計を立てていた。さらにこの頃から、安東金氏の金炳学や金炳国らが経済的に援助し、つながりを深め、後の執政期に、このように必要な基盤を築いてゆく。その後、司僕寺提調、五衛都摠府都摠管などの閑職を勤めた。
ならず者
憲宗が崩御した頃、王孫として王位継承者の候補者になったが安東金氏の思惑により排除された。安東金氏が哲宗を即位させてからは、安東金氏が勢道政治の基盤を強化し、王族を厳しく監視していたので、保身策として、「千河張安」と呼ばれた、千喜然、河靖一、張淳奎、安弼周などのならず者たちと関わり、妓生と昼夜遊んだりして、安東金氏からは「宮道令」と卑称され、監視から免れた。また勢道家などを回って、乞食などのように装って食事をとったり、使用人を与えられるなどして生活していた。小説家金東仁の「雲峴宮の春」には、当時の大院君は、酒に溺れていたが、実際はしっかり気概があり、唾を吐かれた時はちゃんと拭き取って、大きく笑って、必要以上に食べて侮辱までも甘受していた、とある。
王位への布石
大院君の表面はならず者だったが、実際は有力者に近づく努力をし、安東金氏に対抗する豊壌趙氏の神貞王后の甥趙成夏(承侯君)と親交を結ぶことができ、神貞王后に近づいて、親交を深め、謀議を重ね、命福(高宗の幼名)を王位継承者とすることとする合意を得た。それによって宮中の宦官や女官を包摂し、王族とのつながりを深くした。安東金氏とも親交を結ぶ為に金炳学や金炳国らを通して、安東金氏の中からも大院君を支持する者も現れた。大院君は系譜上、王位継承に近い人物ではなかったので、裏でこのようにさまざまな交友を深め、王位に向けての布石を打っていた。
第一次執政期
乞食から国父に
1864年1月に哲宗が崩御すると、神貞王后は早速命福を「翼成君」に封爵し、院相鄭元容ら元老の意見を利用して王位につける事ができた。これによって「興宣大院君」に封爵され、朝議では大院君の地位、政治参加について議論され、礼遇については、国王以上の待遇を与えるかわりに、政治に口出しできないように議論されたが、最終的には地位は国王の下になり、三政丞の上に設定され、礼遇は三政丞などが乗る、四人轎の乗車はしないなどの、三政丞より下の設定を取ることで政治に参加することが許され、神貞王后が垂簾聴政を行うので、それを補佐するという名目で摂政となった。実際は神貞王后が大院君に大権を委任していた。
基本政策
早速摂政の座に着くと、勢道家一門の官職追放、老論派一党独裁を終わらせ、各党派の人材を均等に登用し、王権維持のために王族を主要な官職に抜擢し、李朝500年の規則を破って庶子を科挙に応試させ要職につけるなどして、専制王権を強化しようとした。とはいえ勢道家や権門家(名門両班)の支持や推薦あっての大院君だったので、一部の権門勢家の勢力を残し、自らに包摂することで、大権を保持した。大院君は儒教政策を推し進め、勢道政治を終わらせ、党派と身分の貴賎を問わず、能力に応じて人材を登用する人事行政を行い、専横による腐敗や堕落した王朝を、もう一度再建しようとしていたが、国外対策については鎖国政策を採ることを布告し、従来の政策を推し進めた。公文書には王の教書と記さず「大院位分付」と記した。さらに即刻、華陽洞書院の権限を取り上げるように命じた。理由は華陽洞書院は朝鮮4大書院の一つであり、横暴や不正が強く、また大院君が摂政になる前、華陽洞書院の儒生に殴られたことがあったことである。すぐさまこの命令は実行され、華陽洞書院は後に廃止させられる。
王権改革
国内政策
政治・軍事の最高機関であった議政府を復活させて、非特権層からの人材登用を図った。三政(田税・軍役・還穀)の税制を改革した。書院の整理・撤廃や、景福宮の再建、願納銭の徴収、当百銭の製造、天主教の弾圧などを強行した。[1]
制度改革
法治秩序の再整備に向けて勢道政治や貪官汚吏など堕落した王朝を再建するため、「大典会通」、「六典条例」、「三班礼式」、「両銓便考」、「五礼便考」、「宗府条例」などの法典を編纂して、綱紀粛正を行い、中央集権・専制王権の体制を確立させ、また三政の紊乱などで堕落した税制を変えるため、還穀制を社倉制に切り替え、荒れ果てた土地や作物が取れない土地は土地台帳に記載をやめさせ、守令や郷吏の監理を怠らず、監察を名目で横暴な振る舞いを行った、導掌や宮差の派遣を禁止し、暗行御史などを派遣して、租税の横領や売官売職を行う者を厳しく処罰し、解由文記などの報告書を自らが閲覧するなどして、徹底的に制度改革を実施した。他にも衣服制度を改革し、贅沢を厳禁し、両班の賄賂を隠すための長く伸びた服装を改良したりした。この制度改革は1862年の真珠泯乱で疲弊した民心を一時的に掴むことができた。
書院整理
朝鮮にはそのころ、800ほどの書院が存在したが、ほとんどの書院は華陽洞書院のような横暴や専横がひどく、墨牌という金銭を奉納しろという告知書を不正利用して、納めなければ私刑になるほどで、このような書院が出した弊害は国庫に打撃を与えるほどであったので、1864年8月書院が保有する土地に税金をかけ、所有奴婢の身分解放などを行った。その後、大院君は指定した47書院を除く全ての書院を廃止させ、祀られていた先賢の位牌を国が管理して、庶民の負担を軽減し国民の生活を安定を図ろうとした。この書院整理で搾取に苦しんでいた民衆の支持を得ることはできたが、逆に儒学者からの反発を招き、その度、集団上京してくる儒者を武力で鎮圧した。これは、大院君を支持していた各党派からも批判を受け、執権層の老論派はこの頃から閔妃に近寄り、後に、大院君を弾劾するまでに至った。
権限分権
1864年1月大院君は軍事権と行政権を一体化して保持していた備辺司から行政権を議政府に軍事権を国外対策のみに減らした。さらに翌年3月、備辺司は議政府に統合され備局として設置された。1868年には備辺司の軍権を三軍府として復設させ、勢道政治による集権化した軍権を整備するため、訓錬都監など勢道政治の基盤になった、軍権を剥奪し、国王の親衛隊龍虎営の権限を強化し、自らに通じるようにした。また武職には武科出身の専門の軍人、王族、大院君の側近を任命した。とくに三軍府を厚く重用し、格別の待遇を用意した。後に新式軍隊が設置されると、これらの者たちは、大院君側についた。また他にも六曹には執吏を配置し、自らの情報統制などを行い、議政府には、八道都執吏を配属させた。
鎖国政策
丙寅教獄と丙寅洋擾
1864年(高宗1年)2月28日、ロシア側より、豆満江より咸鏡道に南下して通商を要求する書簡が送られてくるが、拒絶し、使者を捕らえ、処罰した。この件で大院君はロシアの南下対策のために、フランスのカトリック宣教師たちと接触して、ロシアの南下を交渉し、防げるのならば、天主学を認めると好意的な態度見せた。しかし、金炳学や金炳国らが、大院君に迫り、天主学の後ろには、欧米列強があると言い、今や朝鮮地区と呼ばれるほど天主学が浸透していると警告し、政治的に困難な状況に陥った為、好意的な態度から、一転強硬な態度へ変え、1866年に南鐘三などをはじめ8000人近くのカトリックが処刑され、フランス人のカトリック宣教師12人中9人が処刑された(丙寅教獄)。助命された宣教師のリデルは朝鮮をなんとか脱出してこれを報告し、丙寅洋擾が勃発する。
リデルがフランス海軍司令官ロゼに丙寅邪獄について報告すると、ロゼは艦隊7隻の兵士800人を率いて江華島を攻撃した。外奎章閣から様々な書物を略奪し、その中には、今日のフランスにおける重要所蔵物の外奎章閣図書などもある。これは、フランス側が首都包囲作戦を敢行しようとしたが、失敗し、撤退の際行ったものである。このことは大院君をおおいに自信づけ、国防強化を行った。
ジェネラル・シャーマン号事件と辛未洋擾
丙寅洋擾の2ヶ月前、アメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が平壌大同江に到着し、開港を求めたが、平壌監司の朴珪寿は中軍の李鉉益に食糧や薪と水を支給し退去させよと命を下した。ところが李玄益が乗る小舟が転覆させられ、李玄益はシャーマン号に監禁させられた。その上シャーマン号は民衆を砲撃して民衆との攻防戦になるが、大同江の水位が下がり始め、猛撃の末、シャーマン号は座礁した。大院君は、朝鮮の兵士がアメリカ軍を撃退したと宣言した。
アメリカはジェネラル・シャーマン号が朝鮮で消失したことを知り、アメリカ側は朝鮮側に確認をとろうとするが、丙寅洋擾の戦果に自信を持っていたので、アメリカ側の要求を蹴飛ばした。清国駐在のアメリカ公使のローは、この事件への賠償と開港を求めて、艦隊5隻と兵士1200人を用いて、江華島を攻撃し、占領したが、大院君は要求に応えず、持久戦に持ち込んで、撤退させた。
斥和碑建設
1868年4月英国商船とドイツ商人オッペルトが忠清道沿岸に来て、朝鮮が開港するよう求めたが、拒否された。そこでオッペルトは、脅迫をしかけ興宣大院君の父、南延君の徳山にある墓の副葬品を盗掘しようと試みるが失敗に終わり、帰路で朝鮮の兵士に鉢合わせ、結果朝鮮から脱出するはめになったが、大院君は激怒し、カトリック迫害、鎖国・攘夷政策を強化し、西洋人を野蛮人として、各地に次のような内容の斥和碑を建てた。「欧米列強が侵犯しているのに戦わずして和親するのは売国だ。」[2]この碑を建てた目的は民衆へのスローガンであり、呼びかけだが、大して反響を得ることはなく、逆に大院君の鎖国政策は失脚の原因となる。ちなみに失脚直後と日韓併合時に斥和碑は破壊された。
閔妃揀択
神貞王后は一族の勢力を強化するため、同族の趙冕鎬の娘を高宗の后にしようとするが、大院君が反対し失敗に終わる。1865年大院君は王后揀択を試みた。これは、権門勢家の政治的影響力を削ぐため、早急に執り行われた。といっても、有力候補はほぼ権門勢家の娘である中、驪興府大夫人閔氏が積極的に遠縁の閔妃を推薦したので、権門勢家の影響を考慮して閔妃を王后に指名した。閔妃が王后となって間もない頃は、大人しく従順だったが、夫である高宗が閔妃に無関心だったことや、大院君の態度によって、次第に大院君を敵視した。高宗の寵愛する李尚宮が長子・完和君を出産した際、大院君は歓喜し、その頃から大院君は閔妃に対して、無視するなど冷酷な態度を取るようになり、閔妃との軋轢が生じた。
景福宮再建
景福宮の再建は憲宗が計画していたことであったが、財政は圧迫していたので、依然不可能な事だった。だが大院君は先王の意思を受け継ぐという口実を掲げ、諫言を聞かず、国家的権威の再建を急いでいた。これには、莫大な資金が必要になるので、願納銭や特別税を課し強制徴収して、毎日庶民を数万人動員して造らせ、人夫の為に、俳優、歌手、妓生などを呼んで慰問した。再建中の1866年3月、景福宮で大規模な火災が起こり、完成間近の景福宮は焼失し、重臣達はそろって、景福宮再建を中止を提唱したが、大院君は聞く耳を持たず、都城4大門を通過する際に通行料を取り、庶民からは、寄付金を出させ、當百銭などの貨幣を鋳造して、建設費を調達した。また材木などの材料は各所の霊園の木を伐採するなどした。ちなみに建設費は8千万両であった。大院君は国家的権威の再建を徹底的に進めたが、その裏では、租税を横領したり、不当に税を課したり、売官売職などの貪官汚吏が蔓延り、當百銭は悪質貨幣になってしまった。
打開政策
景福宮再建による財政の逼迫により、両班の特権を見直しを行い、両班には一戸あたり二両を徴収し、さらに戸布制を施行し軍布二匹を徴収させた。これに対し、両班はこれに尊厳を害するという事で、反発したが、大院君はこれを無視し、200年ぶりに施行させた。これは両班の不満を買い、次第に両班に限らず、大院君の強引な政策には国民全体が反発するようになる。それとは別に、この頃、国防強化を図る為に、金箕斗と姜潤に砲軍の育成、木炭蒸汽甲艦、水雷砲などの軍事兵器の開発を指示した。ほかにも、西洋艦隊の銃弾を防ぐ為、綿でつくった背甲を開発したが、背甲は重く厚いので簡単に脱げないことなどが問題になっていた。また1860年代末から鶴羽造飛船と名づけた飛行船を開発していた。これは西洋の熱気球を見た大院君が影響を受けたもので、軍器監に開発を命じ、ガチョウ、鶴の羽を集め、熱気球に接着させ、船が砲弾に耐えられるよう開発されたが、その度、船が水につくなどして失敗した。また背甲を改良したものが開発されたが、通気性が悪く、銃弾が当たると発火してしまい、問題になった。
独裁と失政
大院君は自らが執政を行い、軍事権、行政権、人事権を王命によって施行した。これを儒学者黃玹は独裁だと指摘した。勢道政治でも、ある程度の範囲で合意や話し合いで物事を決定したが、大院君はそのような事はせず、自らの独断で物事を進め、どのような命令書でも大院君の目を通し、許可が下りない場合は施行できなかった。また人事に関しては、大院君は事前に候補者名簿を作り、強引な人事異動を行わせ、大院君によって地方官に抜擢されたものは、租税を横領し、大院君の権威をかさに来て、横暴の限りを尽くす者もいた。このような大院君の独裁政治を皆が批判し、この情勢の中で、大院君を憎む閔妃は、裏で有力者に接近し、権門勢家も次第に閔妃の側につき、神貞王后も閔妃と結びつき、ついに有力者崔益鉉と連携し、大院君を失脚させた。
失脚直後
大院君弾劾
1873年11月3日、ついに大院君の政治を批判する上疏を崔益鉉が提出し、これに対し閔妃、神貞王后は高宗にこの国は大院君の国なのかと問い詰め、高宗をはじめ権門勢家及び各党派そろって、大院君を牽制し、大院君は失脚することになった。そして高宗の親政が宣言され、高宗の親政開始に協力した、影の実力者閔妃は大院君に代わって大権を握ることになった。大院君は雲峴宮で隠居した。大院君失脚以降後、閔妃は西洋に対しては好意的な態度を示し、鎖国・攘夷政策を捨てて、開国政策を取り、日朝修好条規をきっかけとし、朝鮮の門戸開放を進めた。
懐かしき大院君
一方国内では大権を掌握した閔妃は一族を要職につけ、閔妃一族が権力を独占した情勢となり、職権乱用や不正蓄財などが表立ってきており、かつて反発した人々も大院君の執政期が恋しくなり、勢道政治や縁故主義の対義語として人々に浸透した。一方、この頃は儒学者達は大院君失脚を多いに喜んだ。大院君は自分に従順な長男完興君を王位につけて、閔妃の影響力を削ぐべきだったと悟ったが、完興君を王位につけることは血縁的に難しいので、完興君の子にあたる永宣君に目をつけるようになった。永宣君を王位につけようとしたのは、高宗のしなやかで弱い性格と比較して、大院君と同じ強い意思を持っていることにあった。
対立関係
1873年11月より、執政の座を追われた大院君は、親政を行っている高宗と執政者閔妃一族と敵対関係にあった。これ以後は機会が来るたび、高宗と閔妃を排除することを画策し、永宣君を王位につけ、執政を掌ろうした。ところで、大院君失脚を喜んでいた儒学者達や敵対勢力は、閔妃の開国政策ついて慎重な態度を表しはじめ、結局のところ儒学者達は大院君の鎖国政策を評価する形で、有力な儒学者の奇正鎮、柳麟錫も大院君を多いに支持し、老論派系も同じ手を取って、開国政策を批評して大院君側に回った。簡単に敵対勢力を説明すると、閔妃派は後に事大派となり、保守的で清国の制度を再編入及び宗主国として再認し、親露的な方針を採った。さらにこの後、福沢諭吉邸で決起した金玉均・朴泳孝・金弘集らを中心とした開化派がある。開化派は親日的で日本とつながることで脅威となる。
改革の逆行
閔妃は大院君の改革を差し戻すかのように、儒学者の支持を得る為に財政的に弊害となる書院を復設させ、各党派及び有能な人材を官職につけさせる人事行政をやめさせ、閔妃の重用する人物が要職に就くことになったので、大院君の政策によって官職に就いた者は官職を追われ、大部分の両班は失望し、これに対し、成均館儒生及び八道の儒生は王宮に押し寄せ、閔妃を非難するが、高宗は聞く耳を持たず、閔妃に同情していた。この頃大院君は揚州郡稷洞に下った。ちなみにこの頃の閔妃は、黃玹による「梅泉野録」によれば、元子(世子の冊封前の称号)を出産したので、巫堂ノリという儀式などを毎日行わせ、その額は国家予算の数倍にも及び内需司では賄いきれない額であったので、各省庁の公金を使用し、貪官汚吏どもは競って閔妃に財物を献上しており、おかげで国庫は破綻し、大院君が備蓄した国庫金を一年足らずで使い果たしてしまったとある。このような事があってか民衆も大院君を支持するようになる。
閔升鎬爆殺
1874年春に景福宮に火災が発生し、高宗は昌徳宮に避難し、同時に閔妃一族の最高権力者閔升鎬の邸宅にも火災が発生した。この件に関して閔妃は大院君が放火させたとして名前を挙げたが、具体的な証拠がなく、立証できなかった。1874年11月に閔升鎬一家が爆殺された。閔升鎬はその頃祭事を行って室内におり、部屋の戸に爆弾がしかけられていた。閔升鎬が戸を開けた瞬間にすさまじい火に飲み込まれ、一家も近くにいた為、死んでしまう。高宗と閔妃は嘆き悲しみ、閔妃は大院君が背後にいると何度も訴え、大院君の元兵使・申哲均が拷問され自白するも及ばなかった。そこで閔妃により、翌年11月大院君の兄興寅君の家が襲撃される事件が起こった。
対立期
第二次執政期
1882年閔妃派の待遇に不満を持つ、旧式軍隊や大院君派が暴動を起こし、閔妃派を一掃し、大院君を執政者に推薦する事件が起こった。大院君の側近である許煜は軍の先頭に立って閔妃を殺害しようとするが、閔妃は事変を察知しており洪啓薫の妹を装って宮中から脱出し、都城を抜け出し実家の驪州に身を隠した。閔謙鎬は重熙堂で乱兵に「大監私を生かしてください」と叫ぶものの殺害された。宮中は混乱し、死体は燃やされ、乱兵は「中殿はどこだ」と叫び、凄惨な光景が広がった。大院君は宮中に出廷し、閔妃は死去したと虚偽報告を行い、閔妃の葬儀を執り行ない、高宗からは壬午軍乱の事態収拾の為に大権を委任され、この事態をつかって再び自らの政権運営を行おうとした。大院君は閔妃の死を公式に宣言し、新式軍隊の武衛営・壮禦営・別技軍を廃止し、かわりに五軍営・三軍府を復設させた。
大院君幽閉
壬午軍乱を起こし高宗から大権を譲り受けた大院君の画策は成功したかに見えた。ところが、閔妃は朝鮮に駐屯していた清の袁世凱に近づいた。反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された清国軍が漢城にやってきて、馬建忠は大院君を接待して軍事問題を会談した。馬建忠は「今から船に乗って天津へ行って皇帝の諭旨を受けなければならない。」といったが、大院君は拒絶したので、強制的に輿で京畿道華城郡南陽湾まで移動させ、その後船に乗って天津に辿り着き、直隷省保定府に幽閉された。幽閉中は絵を書き、とくに大院君が書いた蘭の花の絵は清でも評判になった。1882年12月長男完興君が訪問して、1883年3月に一時帰国し、同年5月にはまた清国に戻った。清国に滞在している間は、清国の役人から「凶宣君」・「凶鮮君」の蔑称され様々な侮辱を受けたが、大院君はそれを笑って甘受していた。「凶宣君」は閔妃派が使用していた蔑称で、「凶鮮君」は清国の役人から、凶悪な朝鮮の暴君という意味でつけられた。とはいえ大院君は何もしなかった訳ではなく実際には救いを求める手紙を書いていた。
明日ここをから出発すれば二日後には天津に到着する。この書は隠密しておき伝便を送るので、中身を見てほしい。[3] 1884年旧暦7月15日、船の中で密かに書いた手紙
今は何も出来ずに日々を過ごしています。ただ情けなくて仕方ありません。自分の寿命も短くなっております。長男が安らかに過ごしていることを願っています。[4] 1884年旧暦10月12日、保留中に書いた手紙
大院君の救援の手紙を何度も受けた完興君は1884年6月から船便で往来する。1885年閔氏政権が親露、親日などの傾向を見せて清を牽制しようとすると、ロシアを牽制しようとする清政府と袁世凱などの政治的な計算で4年ぶりに帰国することになった。閔妃は清政府に何度も密書を送り、安東金氏出身の金明圭は天津に行き、大院君帰国反対を上奏して帰った。しかし、1885年初め袁世凱は大院君の帰国を手配し、8月に大院君は帰国する船に乗って仁川港に到着した。高宗は大院君を迎えに行くが、顔を背け帰った。だが雲峴宮に帰った際、愛妾の死を聞いて大号泣したという。
大院君爆殺計画
1887年、清国の袁世凱と密談し、高宗を廃位し完興君を王位に擁立する事を話し合うが、袁世凱は難色を示し、破談となった。失望した大院君の元に1890年東学党の主要人物の全琫準が訪ねてきた。大院君は全琫準を保護して門客とした。後に、この縁で東学農民軍と通じる事となる。1892年春、雲峴宮に爆弾が仕掛けられていた事件が発覚し、完興君・永宣君の居所にも爆弾が仕掛けられていた。この事件で宮中では閔妃が閔升鎬爆殺事件を報復するために大院君一家を殺害を画策したという批判が浴びせられ、これは永宣君が統衛使に着任した時期に起こった。この事件で大院君は刺客と爆殺を恐れるようになり、雲峴宮には国王の親衛隊の一部が護衛に当たった。
東学党との内通
1890年から1892年まで全琫準は大院君の食客であった。1893年2月全琫準は地方から漢城府に上京し、大院君と面談した。その際大院君に決起する意思を伝え、大院君は密約を結ぶことにした。全琫準は大院君との面談を終えた後、全羅北道古阜郡に下り、同志を募り全琫準は「東学党は人間は皆平等であることを知らしめ、欲に目がくらむ貪官汚吏どもを成敗し、新しい世へ導く」と宣言して、多くの青年が集まった。大院君は東学党を密かに支援し、活動を継続させていた。忠清北道報恩郡で決起し、漢城府に上京して景福宮の前で、弊政改革案と貪官汚吏の罷免を要求する上疏を提出したが、漢城府が軍隊を出動し、やむ無く解散した。しかしこれは、中央官僚と民衆に大きな影響を与えた。さらに上京してくる東学党の集団に大院君は、嫡孫永宣君を王位に擁立することも提唱させるものの通らなかった。
抗争期
政権転覆
しかし大院君は懲りず、閔妃派を排除する計画に着手し、全琫準を通じて東学党の指導者と引見し、穏健派の指導者数名に自らを摂政に復位させる事を約束させ、1894年甲午農民戦争が起こった。これは事大党の閔妃派を駆逐するために行った。1894年6月22日側近二人を送り込み、閔妃の廃位及び閔妃派の官職追放の要求を大鳥圭介日本公使に提示し、同意を得ようとするが、日本側からはなかなか返答がなく永宣君を日本公使館に送り込み説得させようとするが、杉村書記官をはじめとする日本公使館要員が反対し、大院君は挫折した。
閔妃派は宮中に残っているものの執権を掌っている大院君はあきらめず、永宣君を別入直待令医官に任命することで、高宗及び閔妃を監視し、閔妃を廃位することを画策する。だがこの頃、甲午農民戦争は鎮圧され大院君は驚くが、この時日本側は大院君を摂政にたてることを約束され、日本軍の護衛で宮中に出廷した大院君は再度執権を掌握し、甲午農民戦争の首謀者の一件については、国父だという不文律でまたしても免れる事ができた。
第三次執政期
1894年7月大院君は日本に押し立てられて第三次政権を樹立した。この政権は一定の範囲内での権限行使が容認され、それ以外は日本が裁決する親日政権にあった。早速摂政に再任されると甲午改革を行い朝鮮を独立させる為の内政改革を行った。ところが、大院君が押し進めた政策と日本側の望む改革とは違って、たった1ヶ月で摂政の座を下ろされた。だが大権はまだ保持しており、大院君は高宗を廃位して永宣君を王位に推戴しようと策定し、農民を上京させ、数十万の東学軍を利用して日本を追い払おうとしたが、逆に裏目に出て日清戦争に発展してしまう。しかし大院君は王位推戴をあきらめず、外国大使には高宗は老衰し、元々徳すらもないと説得させようと努力した。
王位推戴と日清戦争
大院君は嫡長孫永宣君を王位に擁立するため、側近2人に妙案を思考させた。そこで出来上がった案は、数十万の農民軍を上京させて、永宣君擁立を提唱させ、王宮内に浪人を隠匿し、農民軍を討伐するという名目で兵を出動させ内外から宮中にいる日本軍を追放しようというものだった。万一に日本軍が朝鮮軍及び農民軍を鎮圧しにくれば、一大事になるので清国も鎮圧を名目に進軍してくるので、裏で交渉し、結託して日本軍を追い払うことにした。これに伴い吏曹判書であった永宣君を再び統衛使に異動させ兵権を掌握した。早速農民軍の了解を得て果川と水原に兵を結集させ、漢陽を攻撃し、日本軍を撃退することを実行に移した。この戦いで一時的に日本側を後退させることができた。その際大院君は日本を追い払うことが出来たら、開化派の中心人物を殺害し、高宗を上王にして、閔妃及び世子を廃位することを決定した。ところが、平壌の戦いでの清国側の敗戦の知らせを聞くと大院君は驚き、その後は清国は後退するというざまで、大院君は日本公使館に呼び出され、引退を勧められた。
開化派排除
戦時中の1894年9月開化派の許曄・李秉煇は大院君の計略を摘発されるとすぐさま、大院君は開化派の李允用の官職剥奪をおこなった。さらに開化派暗殺計画を企て、刺客を集めて、殺生簿をつくって、金嘉鎮・金鶴羽・金弘集・李完用・兪吉濬を上げて1894年9月14日から9月30日まで四回書簡を送り暗殺するように命じた。だが金鶴羽以外は日本軍の護衛があった。だがためらわず警護がいない金鶴羽他2人を殺害し、さらに他の開化派を暗殺しようと試みるが隙がなく不可能だった。この事件があって1894年10月中旬に日本側は、大院君に引退を勧めるが拒絶し井上馨は金弘集の内閣を設立し、翌年に入って金鶴羽殺害の事件の首謀者に指名された永宣君は死刑を宣告されるが、大院君の必死の弁論で井上馨を説得し、永宣君は流刑に、大院君は雲峴宮に閉じ込められ、日本側の監視によって、大院君は事実上幽閉されることになる。
終末期
開化派包摂
大院君は先例の事件で大権を喪失しており、永宣君を閔妃派によって流刑にされた屈辱を晴らしたかった大院君は開化派へ積極的な態度を示し、1895年大院君が開化派を保護及び支持することで、金弘集・兪吉濬などを抱き込み、一部の実権を掌握できた。大院君は閔妃暗殺を画策し始めた。この暗殺計画には東学農民軍やロシアの台頭で立場の行き詰った日本の力を借用することを前提とした。その予想は的中し、新たに赴任してきた次期日本公使三浦梧楼は大院君と面会した。最初は慎重な態度を示すが、三浦梧楼によって監視を緩くされると次第に日本公使館に密かに出入りし、兪吉濬らは何事かと聞いた。8月16日閔妃暗殺の覚書に署名した。内容は大院君は宮中を監督し、国王を補佐する、だが政治に関しては口出ししないこととあった。この際長男完興君も署名した。翌日告由文を漢城府全域に貼り付けた。内容は自分の偉業と閔妃一族の悪行を記した文書であった。しかし閔妃派のロシアとフランス側が暗殺計画があることを知って、早急に首謀者調べを行った。
乙未事変
しかしロシア・フランスの対応は一足遅かった。10月7日閔妃派は訓練隊の解散と武装解除を通告した、これは閔妃派一掃にむけた闘争心を増した。翌日刺客を宮中に入れる為、宮中を監督していた大院君は裏門を開放し、密かに訓練隊を侵入させた。明け方第1大隊長李斗璜・第2大隊長禹範善そして日本人士官の指揮による日本人男性が侍衛隊を強襲して破り、騒動の中で閔妃の邸内に侵入し、閔妃の邸内の女官を振り回して、「王妃はどこだ」と叫び、殿舎に入って宮女3人が死亡したことが確認された。しかもその内の1人が閔妃であることが確認された。閔妃の遺体は燃えており、この事はすぐに報告され、大院君はすぐに高宗がいる乾清宮に参内した。高宗は恐怖に怯えており、また大院君と決裂していた。大院君は完興君を使って高宗をなだめるが、高宗は悲しみと同時に怒りを覚えていた。大院君は閔妃の地位を平民に格下げした。同日の昼、兪吉濬は事態の収拾のためにアメリカ側に今回の事件は大院君がいると述べて事態を収拾しようとした。さらに大院君は嫡長孫永宣君を流刑地から逃亡させた。
老後
乙未事変後、日本側の公約によって大院君は雲峴宮に幽閉された。1896年俄館播遷(高宗がロシア公使館に移って朝鮮王国の執政を行う出来事)が起こると揚州に隠居した。この頃すでに権力欲はなくなっていたが、1898年1月に長年連れ添ってきた驪興府大夫人閔氏が死去すると、さらに大院君は気力を失い、翌月22日に雲峴宮で薨去した。享年79(満77歳)。
死後
大院君の葬儀は七日間行われ、多くの人波の中で埋葬されてゆくが、高宗は葬儀に参加しなかった。廟号は興園、別称は上奉国太公であった。高宗は大院君に関心を示さなかったが、孫の純宗が即位すると、掌礼院卿李重夏が大院君を王に追尊することを提案し、1907年10月1日大院王に追号され、諡号を献懿とし、合わせて献懿大院王と呼ばれた。1898年5月16日大院王に追号された同時に驪興順穆大院王妃閔氏の称号を与えられた驪興府大夫人閔氏の共同葬儀が執り行われ、京畿道高陽郡孔徳里に埋葬された。1908年、坡州郡雲川面大徳洞に転葬され、「興園」に格上げされた。1966年、現在の南楊州市に移された。
略歴と年表
興宣大院君と関連の深い年表を示す。
1805年 - 安東金氏による権勢政治 ( → 1863年まで)
1820年 - 英祖の曾孫として出生
1852年7月25日 - 驪興府大夫人閔氏との間に次男命福誕生(後の高宗)
1862年 - 壬戌民乱(慶尚道晋州を中心にした大規模な民衆反乱)
1863年
12月8日 - 哲宗が後嗣なく死去
12月13日 - 先々代王憲宗の母で孝明世子嬪 神貞王后とで、孝明世子の養子として自己の第2子李命福(当時11歳、後の高宗)を世子とし、自ら大院君となって摂政政治を開始
1865年
景福宮の重建工事のために営建都監(国家的建設を担当した臨時官庁)を置く
重建工事の費用捻出のため願納銭を広く大規模に集める
1866年
2月 - 天主教を大弾圧開始(絶種断族の刑)→丙寅邪獄
興宣大院君の夫人閔氏の推挙で閔妃を王妃とする
9月 - ゼネラル=シャーマン号事件→丙寅洋擾
ラ・ゲリエル号などフランス艦隊7隻、江華府城を約1カ月間占領→丙寅洋擾
10月 - 丙寅教獄(ベルヌー司教等外国人宣教師10名処刑)→丙寅洋擾
11月6日 - 景福宮の重建工事の費用のために当百銭(1867年6月17日に中止)鋳造(物価の急激な上昇)
1869年
6月 - 蔚山などに外国船打ち払いの砲台砲軍をおく[5]
1871年
5月9日 - 軍布法を廃止して戸布法を実施[6]
6月 - 米国ジェネラル・シャーマン号事件の報復として江華島侵攻(辛未洋擾)
斥和碑(斥洋碑)を全国八道四都に設置
1873年
11月3日 - 崔益鉉、大院君政治を批判する「上疏」
高宗親政、大院君失脚(摂政の座を降りる)(癸酉政変)
閔氏が政権を取る。大院派の人々は追放・流配・処刑等で追放。
閔氏一族の官吏30数名高官に。
12月10日 - 閔妃の宮殿に仕掛けられた爆弾が爆発[7]
1874年
3月 - 閔妃男子「坧」出産(後の純宗)
宮女である李尚宮と高宗の長男「完和君」を世子とする大院君派と坧を世子としたい閔妃派で争い
11月 - 閔氏一族の最高実力者である義兄・閔升鎬宅に爆弾、彼と母子が爆死
1875年
8月 - 閔妃派、李裕元を世子冊封の奏請使として清へ。王世子(世継ぎ)として認められる(翌年1月帰国)
9月 - 江華島事件→日朝修好条規
11月 - 大院君の兄・李最応の家に火が放たれる事件
1876年
2月27日 - 日朝修好条規
1877年 - 高宗第5男子平吉誕生(1891年義和君に封じられる)
1880年 - 大院君が世子候補として推薦した「完和君」(高宗の長男)が変死
1882年
1月 - 純宗、戴冠式
閔一族の高官閔台鎬の娘が世子嬪(皇太子妃)と決まる(後の純明孝皇后閔氏)
7月 - 壬午事変。 閔妃は昌徳宮から脱出し閔応植に匿われる。[8]日本公使館包囲、焼き討ち、堀本工兵少尉ら数十名が死傷、花房義質公使ら逃亡→済物浦条約(8月30日)
8月26日 - 壬午事変の策動容疑で 大院君、清へ連行[9]
1884年
12月 - 甲申政変 日本軍、王宮を占領。 閔妃失脚。
閔一族の閔台鎬(純宗の妃 純明皇后の父)、閔泳穆、趙寧夏らが殺され、閔泳翊は重傷を負う。
閔妃 袁世凱に清軍の助けで政権奪回。日本公使館焼失、居留民被害。(→漢城条約、天津条約)
金玉均、朴泳孝、徐載弼らは3日間で失脚 日本へ亡命(家族は服毒自殺、処刑等)
1885年
1月9日 - 日朝 漢城条約(日本:井上馨、朝鮮:金弘集)
4月15日 - 巨文島事件(イギリスが巨文島を占拠)
4月18日 - 日清 天津条約(日本:伊藤博文、清:李鴻章)日清両軍の撤退
朝露密約。日本 清に大院君の帰還要請。閔妃側 大院君帰国の通達に難色
10月3日 - 大院君、清から帰国(仁川)
1892年
6月 - 閔妃の大院君殺害陰謀(大院君邸内爆弾による火災)[10]
1894年
3月28日 - 閔政権、上海に刺客洪鍾宇を送り、開化派の金玉均を暗殺
金玉均の遺体は清の軍艦威靖により朝鮮に届けられた。遺体は六支の極刑。(父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏は、奴婢として売られる)
5月31日 - 農民軍全州占領。清と日本は出兵(甲午農民戦争→全州和約(6月))
7月 - 日本軍が王宮包囲、開化派中心の政権成立。閔氏政権を倒すクーデター
金弘集を中心とする政権 甲午改革
8月1日 - 日清戦争宣戦布告
1895年
3月30日 - 日清休戦条約
4月17日 - 下関条約
5月4日 - 三国干渉</i>受諾(閔妃、親露政策へ)
7月6日 - 閔妃、ロシア公使ウェバー[11]とロシア軍の力を借りクーデターに成功 [12]
7月10日 - 閔妃に関する謀議の風説の報告[12] 朴泳孝は閔妃殺害計画を謀議したとされと京城を脱出、釜山経由で亡命
9月1日 - 三浦梧楼、韓国駐在公使として着任
10月7日 - 閔妃派政権、訓錬隊の解散と武装解除を通告
10月8日 - 閔妃暗殺される(乙未事変)[13]
10月10日 - 大院君の提言で閔妃が王妃の身分を剥奪され平民とされる[14]
1897年 - 大韓帝国の成立とともに献懿大院王の尊号を受ける
1898年
2月22日 - 79歳で死去
家系
父母
父 南延君 李球 1788年 - 1836年
母 郡夫人驪興閔氏
妻子
正妻 驪興順穆大院王妃閔氏 1818年 - 1898年1月
長男 完興君 李載冕 1845年 - 1912年
嫡長孫 永宣君 李埈鎔 1870年 - 1917年
次男 高宗 李㷩 1852年7月25日 - 1919年1月21日
長女 趙慶鎬(後に男爵の爵位)と結婚
次女 趙鼎九(後に男爵の爵位)と結婚
側妻 李氏 1884年 - 1978年 -- 驪州李氏、李麟九の娘
庶子(男) 李載先 ? - 1881年5月 -- 高宗廃位事件で閔妃一派に捕らえられ済州島へ流配後、賜薬の刑
庶子(女) 李允用(李完用の兄、後に男爵の爵位)と結婚
系図
興宣大院君の親類・近親・祖先の詳細
登場作品
『朝鮮王朝五百年 大院君 』(1990年/MBC)演:イム・ドンジン
『明成皇后』(2001-2002年/KBS)演:ユ・ドングン
『Dr. JIN』(2012年/MBC)演:イ・ボムス
『朝鮮ガンマン』(2014年/KBS)、演:ユン・スンウォン
最近の話題
大院君が別荘として使っていた「石坡亭(ソクパジョン)」(ソウル市有形文化財・第26号)が競売で落札された。
脚注
画像
1869年の肖像画
1869年の肖像画
1880年の肖像画
大院君の写真
参考文献および外部リンク等
(著 林泰輔・早稲田大学出版部)
(山中峰雄著 東京:博文館,明27)
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教義としては、智慧と方便を重視する。インド後期密教の流れを汲む無上瑜伽タントラが実践されている。ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4宗派が存在するが、いずれも顕教と密教の併修を柱とする。チベットでは、7世紀から14世紀にかけてインドから直接に仏教を取り入れた。そのため、インド仏教の伝統が途絶える寸前の時代に伝来した後期密教が継承されている。
ラマと呼ばれる師僧、特に化身ラマを尊崇することから、かつては一般に<b data-parsoid='{"dsr":[681,690,3,3]}'>ラマ教(喇嘛教、Lamaism)と呼ばれ、この通称のために正統的な仏教ではないかのように誤解されていた[3]。ラマ教という呼称は19世紀の西洋の学者によって普及したものであり、チベット仏教に対する偏った見方と結びついていたため、現在では使用されなくなっている[4]。
特徴
密教に限らず、中期・後期中観派の著作・思想なども含め、総じて8世紀以降の、イスラーム勢力の台頭によって中国にまで伝達されにくくなった(そしてやがて滅ぼされることになる)インド大乗仏教の系譜を、ヒマラヤ山脈を挟んで目と鼻の先という地の利を活かし、(ネパールのネワール仏教を除けば)事実上世界で唯一継承してきた。
中国や中央アジアの仏教との相互影響は、その地理的な隣接に比して、比較的弱いといえる。一方、特にニンマ派や民間信仰のレベルではチベット独自の要素も見られるが、チベットでは仏教を取り入れるにあたって、サンスクリット語の原典からチベット語へ、原文をできるだけ意訳せず、そのままチベット語に置き換える形の逐語訳で経典を翻訳したため、チベット語の経典は仏教研究において非常に重要な位置を占める。
特に密教については、中国仏教では漢訳経典を通じて主に前期・中期密教が伝えられ、後期密教の漢訳と受容は限定的であったのに対し、チベット仏教は8世紀-12世紀にかけて後期密教(無上瑜伽タントラ等)の教えを中心としたインド密教を広範に受け入れ、独自に消化した点にも大きな特徴がある。
教義
基盤となる顕教の教え
どの宗派においても、一切有情が本来持っている仏性を「基」とし、智慧(空性を正しく理解すること)と方便(信解・菩提心・大慈悲などの実践)の二側面を重視し、有情が大乗の菩薩となり六波羅蜜を「道」として五道十地の階梯を進み、「果」として最終的に仏陀の境地を達成することを説く。哲学的には龍樹の説いた中観派の見解を採用しており、僧院教育の現場においては、存在・認識についての教学・論争による論理的思考能力と正確な概念知の獲得を重視している。その思想の骨格となる重要な論書としては、シャーンティデーヴァの著した『入菩薩行論』 (Bodhisattvacaryāvatāra)、マイトレーヤの著した『究竟一乗宝性論』 (Uttaratantra Śāstra) と『現観荘厳論』 (Abhisamayālamkāra) などがあるほか、アティーシャ(アティシャ)が伝えたとされるロジョン(blo sbyong, 和訳:心の訓練法)の教えが重視され、全宗派で修習されている。
密教的実践
また、仏陀の境地を速やかに達成するための特別な方便として、各宗派においてインド後期密教の流れを汲む無上瑜伽タントラの実践が行われている。一般的に新訳派では無上瑜伽タントラを、本尊の観想を中心とした生起次第を重視する父タントラ、身体修練によって空性大楽の獲得を目指す究竟次第を重視する母タントラ、それらを不可分に実践する不ニタントラの三段階に分類する。密教の最奥義に相当するものにはニンマ派のゾクチェン(大究竟)、サキャ派のラムデ(道果)、カギュ派のマハームドラー(大印契)などがあり、各派に思想的特徴が見られる。
これら顕密併習の修道論として、最大宗派のゲルク派にはツォンカパの著した『菩提道次第』(ラムリム)と『秘密道次第論』(ンガクリム)があるが、各宗派においてもそれらとほぼ同種の修道論が多数著されている。
無上瑜伽タントラの実践においては、タントラ文献の記述や後述のヤブユムのイメージなどから、一部でセックスを修行に取り入れているという道徳的観点からの批判もあるが、これは在家密教修行者集団内でのことである。中世にはを中心とした出家者集団の復興が行われて以降、性的実践を行なわずに密教を修行する傾向が強まった(後述)。その影響が各派に及び、現在の出家僧団においてはあくまで観念上の教義として昇華され、なおかつ一般の修行と教学を修得した者のみに開示される秘法とされた。このような呪術的、性的な要素については、出家僧団内においては実際的な行法としては禁止されたものの、その背景にある深遠な哲学自体は認められたため、教学および象徴的造形としては残されたということに留意すべきである。現在では顕教を重視するゲルク派が最大宗派となっていることからも、全体として密教的な修行法よりも、「教理問答」のような言語的コミュニケーションと、仏教教学の厳密な履修が重要視される傾向が高まっているといえる。
信仰形態
現在、大きく分けて4宗派が存在するが、いずれも顕教と密教の併修を柱とする点では共通し、宗派間の影響を及ぼしあって発展してきたこともあって、各宗派の信仰形態に極端な差異は無くなっている。
恐ろしい形相を表す忿怒尊(ヘールカ)や、男女の抱擁する姿を表すヤブユムが特徴的であり、これらがことさらクローズアップされがちであるが、他にも阿弥陀如来や十一面観音、文殊菩薩といった、大乗仏教圏では一般的な如来、菩薩も盛んに信仰されている。禅を中心に独自の発展を遂げた中国の仏教では廃れてしまった仏が、日本(特に奈良・平安系仏教)とチベットでは共通して信仰され続けているケースも多い。一方、最高位の仏としてチベットでは釈迦如来や大日如来よりも、後期密教の特徴である本初仏を主尊とする点が独特である。ターラー仏母やパルデン・ラモ(忿怒形吉祥天)といった女神が盛んに信仰されることも特徴的である。
文化面では、タンカと呼ばれる仏画の掛軸や砂曼荼羅、楽器を用いた読経などが有名である。民間の信仰形態として特徴的なものは、マニ車、タルチョー(経旗)、鳥葬などが挙げられる。また、観音菩薩の真言である六字真言が盛んに唱えられる。
諸国への伝播
チベット仏教はチベット本国だけでなく、チベットからの布教により仏教を受け入れた諸民族の間で広く信仰される。チベット系民族では国連加盟国のブータンの他、インドのシッキム州、ラダック地方、アルナーチャル・プラデーシュ州のメンパ族、ネパール北部ヒマラヤ地帯のムスタン、ドルポやシェルパ族、タマン族など、またチベット系以外ではモンゴル国と中国領南モンゴル(内モンゴル自治区)のモンゴル人、ロシア連邦内のブリヤート人(モンゴル系)やカルムイク人(同)、トゥバ人(モンゴルの影響が強いテュルク系)といったモンゴル文化圏でも支配的な宗教であった。他に満州族、ナシ族、羌族などが伝統的にチベット仏教を信仰してきた。満州族から出た清朝の影響で、北京や五台山、東北部(満州)など中国北方にもチベット仏教寺院がある。また、中国においては明朝の11代皇帝である正徳帝も即位直後からチベット仏教に傾倒し、「豹房」という邪淫の寺を作ってラマ僧らと秘技に明け暮れていたとの記録がある。
モンゴルは伝統的にチベット仏教第二の中心地であるが、チベット仏教の直輸入的なものであって、地域的な特色はあっても「モンゴル仏教」として区別するほど独立的な要素は強くない。チベットにおける宗派がそのままモンゴルにも存在し、近代化以前はモンゴルからチベットへの留学が盛んに行われていた。他方、ネパールでは北部のチベット系民族にチベット仏教が信仰され、さらに近年では中央部でもチベット仏教の進出が見られるが、元来中央部のネワール族などの間にはチベット仏教とは異なる独自の大乗仏教の系譜が伝えられている(→ネパールの仏教)。
タクツァン僧院(ブータン)
ラダック僧院(インド)
タンボチェのゴンパ(僧院)(ネパール)
ガンダン寺 (モンゴル)
歴史
吐蕃と仏教伝来
7世紀前半、吐蕃のソンツェン・ガンポ王(在位:581年 - 649年)がチベット統一を果たすと共に、唐とネパールから嫁いだ2王妃、文成公主との勧めで仏教に帰依した。吐蕃の首都ラサにはトゥルナン寺(ジョカン、大昭寺)が建立された。
ティソン・デツェン王(在位:742年 - 797年)の代には仏教が国教と定められ、国立大僧院サムイェー寺が建設されて、インドのナーランダー大僧院(那爛陀寺)の長老シャーンタラクシタが招聘された。また、パドマサンバヴァが密教を伝えた。さらに、786年には敦煌から禅僧摩訶衍(まかえん)がチベットに招かれたが、シャーンタラクシタの弟子カマラシーラと摩訶衍の禅宗との間で論争(サムイェー寺の宗論)が行われた結果、カマラシーラのインド系仏教が正統とされた。以来、サンスクリット語経典をチベット語へ翻訳する事業が始められ、824年頃までかけて膨大なチベット大蔵経が作られた。
吐蕃末期には、国家仏教の支配体制に揺らぎが生じた。最後の王ラン・ダルマは仏教勢力の排除を目論んで廃仏を行い842(846?)年に暗殺されたという伝説が伝えられている。王家が地方に四散した後は、チベットは長い分裂時代を迎えた。
分裂時代と仏教復興
王朝が滅亡して統制がなくなると、チベット仏教も一時退廃を見せた。僧伽の活動は衰退し、当時インドで流行していた性瑜伽(性的修行法)や呪術的修法を説く在家密教、すなわち、タントラ主義が横行した。吐蕃王家の亡命政権の1つである西チベットのグゲ王国は、王朝時代の伝統保存と仏教復興の担い手となった。
11世紀になると、インドから入国して仏教界を指導したアティシャ(在位:982年 - 1054年)とその弟子のらによって戒律復興運動が起こり()、出家教団が再興された。般若経の解釈学、唯識や如来蔵思想の研究、中観思想の二派の論争など、顕教の哲学研究が盛んになった。
他方、訳経師とミラレパらによって新たにインドのや直伝の後期密教()がもたらされた(カギュ派)。アティシャも、戒律に違犯した行法は禁止したが、密教を学ぶことは容認したため、密教化した大乗仏教が排除されて、初期仏教の本流に近い上座部仏教が徹底されたスリランカや東南アジアとは異なり、チベットでは相互に矛盾する見解を持つような、あらゆる学派の顕教や、密教が総合的に学習される傾向が生じた。
サキャ派政権とモンゴル帝国
1240年、チベットはモンゴル帝国の侵攻を受けたが、当時ツァン地方を中心に一大勢力を持っていたサキャ派はモンゴルの懐柔を得ることに成功し、チベットの自治支配権を得た。さらに、クビライが即位すると、座主サキャ・パンディタの甥パクパは元朝の帝師として篤く遇されたが、その弟子のがその威光を背景に滅亡した南宋の墓を暴いたため、漢族から反感を買った。この時代に、チベット仏教はモンゴル諸部族に広く浸透した。
1368年の元朝崩壊後はサキャ派に替わってカギュ派系のパクモドゥ派が中央チベットに政権を確立した。パクモドゥ派政権の衰退後は、同じくカギュ派系のカルマ派と、新興のゲルク派が覇権を争った。サキャ派やパクモドゥ派は、宗教貴族と化した一族が座主や高僧を半世襲的に輩出する氏族教団であったが、対してカルマ・カギュ派は化身ラマ(転生ラマ)制度を導入した。ゲルク派ものちに化身ラマ制度を取り入れ、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの二大活仏を中心として勢力を伸ばした。この時代の有力宗派は、モンゴル諸部族や明朝と代わる代わる同盟関係を結んだ。特にモンゴルの諸ハーンは、元朝の後継者としてチベット仏教の保護者となることで権威付けを図った。
ゲルク派の宗教改革とダライ・ラマ政権
ゲルク派は、ツォンカパが1400年頃に立宗した。カダム派の教えを継承・発展させ、新カダム派とも呼ばれた[5]。ツォンカパは、従前の中観派を斥けて顕教を中心に独自の中観帰謬(きびゅう)論証派の教義を据えるとともに、過度のタントラ主義を否定して無上ヨーガ(性的ヨガ)の頽廃を禁じ、密教を中観の「無自性」を深く観ずるための禅定体系と位置づけた。また、従来の在家密教行者や氏族中心の宗派に対して、厳格な戒律に基づく出家修行を重視し、僧院を基盤とする教団を組織した。声聞乗(説一切有部・経量部)・菩薩乗(顕教)・真言乗(密教)を統合した修道体系は、後期インド仏教が目ざした方向性を実現したとも言える。
1642年までにオイラト・モンゴルのグーシ・ハーン(グシ・ハン)がチベットの大部分を征服してグシ・ハン王朝を樹立し、ダライ・ラマ5世を擁立して宗派を越えたチベットの政治・宗教の最高権威に据えた。以来、ダライ・ラマを法王として戴くチベット中央政府、即ちガンデンポタンが確立された。これにともない、ダライ・ラマが元来所属していたゲルク派は、グシ・ハン王朝のみならず、隣接するハルハ、オイラトなどの諸国からもチベット仏教の正統として遇され、大いに隆盛となる。一方、覇権争いに敗れた他宗派勢力は辺境に勢力を確保し、ブータンにカギュ派系のドゥク派政権、シッキムにニンマ派政権が成立した。
モンゴルと交流のあった女真族(満州族)から出た清朝は、モンゴルの諸ハーン王朝の後継者としてチベット仏教の保護者を以て任じ、雍正帝によるグシ・ハン王朝滅亡後は、ダライ・ラマ政権の直接的バックボーンとなった。一方で、チベットの内外政の他、法王位の継承なども清朝の干渉を受けるようになった。しかし清皇族をはじめとする満州族にはチベット仏教に篤く帰依する者も多く、宗教活動自体は保護を受ける面が強かった。
近現代の情勢と動向
17世紀頃から、カトリックの宣教師がインドや中国方面からチベット探検を試み、チベット仏教に関する報告がヨーロッパにもたらされた。チベット仏教を信仰するモンゴル系の少数民族を領内に抱えるロシアは、帝政時代の19世紀後半頃から、それらの民族を利用してチベットとの交渉を図り、ロシア各地にダツァンと呼ばれるチベット寺院も政策的に建立された。20世紀になると、隣接するインドを領有していたイギリスがチベットに勢力を伸ばし、チベット仏教研究も進展した。
1959年のチベット蜂起にともない、チベットの国家元首であるとともにチベット仏教の最高権威であるダライ・ラマ14世がインドに亡命した。それ以降、インドやネパールに大量のチベット人が亡命、その中にはチベット仏教の伝統を体現した高僧が多く含まれていた。中国領チベットで破壊あるいは活動休止された僧院が亡命地に復興され、新たな活動拠点となっている。現代の国際的な布教活動は、これら亡命チベット教団の活動によるところが大きい。チベット仏教に造詣深い現代の外国人としては、ロバート・サーマン、リチャード・ギア、日本では中沢新一などが知られる。また、キアヌ・リーブスは、高位ラマの転生者の子どもをテーマにした映画『リトル・ブッダ』にシッダールタ役として出演している(キアヌ自身も仏教徒である[6][7])。
一方、中国の支配下に置かれたチベット本土では、チベット動乱に続く時期(1955-61年)や文化大革命の時期にチベット仏教の寺院が徹底的な破壊を受けた。その後も形式的には信仰の自由が標榜されていたが、実際にはチベット仏教は中国政府と中国共産党の徹底的な支配下に置かれるとともに、過酷な弾圧が加えられ続けている。特に、ダライ・ラマに対する敬慕の念を口にすることは犯罪行為とみなされ、弾圧の対象となる。チベット本土でも一部の寺院は復興が認められたが、その規模は往事とは比較にならず、中国共産党の指導下で寺院の自主性は損なわれている。また、高僧の多くが亡命したため、チベット本土におけるチベット仏教の伝統の継続に大きな支障がでている。亡命した高僧の中には、ゲルク派の首座であるガンデン・ティパの第95代であるタシー・トントゥン、カルマ・カギュ派の教主であるカルマパ17世ウゲン・ティンレー・ドルジェ、ディクン・カギュ派の教主であるディクン・チェ=ツァン・リンポチェなど、チベット仏教の各支派の教主クラスも多い。
2007年8月4日のAFP BB News(中国国営新華社通信の報道を引用)によると、中国政府は、国内の化身ラマが転生する際、政府の許可なしの転生は認めないことを決定した。高僧を管理下に置くための措置と見られている[8]。現在の中華人民共和国におけるチベット仏教、特にゲルク派への弾圧についてはチベット#問題を参照。
ロシア連邦の自治共和国の一つであるカルムイク共和国にはチベット仏教を信仰する住民が多く、事実上の『国教』として扱われているとされる。住民の中には『欧州唯一の仏教国』を標榜するものもいると伝えられ、ソビエト連邦崩壊後、宗教の自由化が行われると、同国のイリュムジノフ大統領はダライラマ十四世を同国の仏教センター所長として招聘しようと試みた。
日本との関係
中国仏教の系譜を汲む日本の仏教は、チベット仏教と直接の繋がりはないものの、同じく大乗仏教であり、特に中国などでは衰退した密教を保持するという点で共通する。また、中国での受容を介さないインド直伝の大乗仏教であり、前述の通りサンスクリット原典に近いチベット大蔵経は、仏教学の上で貴重な資料となる。このことが明治時代には能海寛ら仏教学者に注目され、日本人初のチベット探検者河口慧海に続いて、1900年代から大正時代にかけて多田等観、青木文教、寺本婉雅ら日本の僧侶、仏教学者がチベットへ赴き、チベット仏教を研究した。
現代日本のチベット仏教
戦後は、欧米経由のニューエイジやサブカルチャーの領域において注目されるようになり、エキゾチックな仏教美術をドラッグの幻覚を連想させる表現で引用したり、転生ラマ(トゥルク)のシステムや一部の仏典のみを参照して呪術的な側面を特に強調して紹介されることが多かった。また、ダライ・ラマ14世がオウム真理教の麻原彰晃と面会した際に麻原を称賛したこと、オウム真理教が東京都で宗教法人格を取得した際には、ダライ・ラマ14世が東京都に推薦状を提出してオウム真理教を支援したことなどから[9]、チベット仏教に対する悪いイメージが広まった。チベット亡命政府樹立以降は、積極的なチベット仏教側の情報開示、学者や伝統的な僧侶による一般向けの講習会開催など、理解を深めるための活動が行なわれている。日本においてはとりわけ、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所勤務者たちによって、1998年に設立された「チベット仏教普及協会」(ポタラ・カレッジ)などが、その役割を果たしている。
また、教派的に近い関係にある日本の真言宗との関係は、以下に示すように緊密であり、盛んな交流がなされている。(上記の「チベット仏教普及協会」(ポタラ・カレッジ)も、真言宗智山派や大正大学などと縁がある。)
2004年7月、広島県にある高野山真言宗牛田山龍蔵院(聖天山歓喜寺龍蔵院)内に、日本初のチベット仏教僧院である「龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院」が創設され、その窓口である「デプン大僧院・ゴマン学堂日本事務局」と共に、一般社団法人「文殊師利大乗仏教会」によって、運営・支援されている。
真言宗御室派の大本山である広島・大聖院では、「チベット仏教ゲルク派デプン大僧院ゴマン学堂」と継続的に交流活動が行われており、2006年11月3日には、空海による弥山の開創1200年を記念して、ラサのデプン大僧院に由来する弥勒菩薩の開眼法要がダライ・ラマ14世によって行われ、その仏像建立儀式が11月8日に完了したことを由縁として、毎月8日には「龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院」のチベット僧達によって「大聖院弥勒仏兜率浄土祈願(デプン・ジャンパ法要)」が月例行事として行われている[10]。
真言宗豊山派の大本山である東京・護国寺では、度々チベット仏教にまつわる供養・勤行が行われ、2011年4月29日には、東日本大震災のためのダライ・ラマ14世による四十九日法要が行われた。
2011年11月1日-2日、高野山大学125周年記念として、ダライ・ラマ14世が高野山を訪れ、講演や灌頂を行った。
2008年、チベット仏教カギュ派の分派であるディクン・カギュ派(直貢噶舉教派)は、京都に「チベット仏教直貢噶舉教派寶吉祥仏法センター」を設立した。これは、同派の僧侶のリンチェン・ドルジェ・リンポチェが台湾において主宰する「寶吉祥仏法センター(社団法人中華民国市寶吉祥仏教文化交流協会)」の日本における拠点として設立されたものである。
チベット仏教の宗派
四大宗派
ニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派</b>を、チベット仏教の四大宗派</b>と呼ぶ。
ニンマ派 - 「古派」の意[11]。パドマサンバヴァを宗祖とし、古代王朝時代に導入されたとされる古訳のタントラ群(ニンマ・カマ)と埋蔵教典(テルマ)に依拠する。
カギュ派(カギュー派) - 、ミラレパを宗祖とする。カルマ派、ツェルパ・カギュ派、ディクン・カギュ派、ドゥク派、パクモドゥ派などの多数の支派に分かれている。詳細は「カギュ派」の項を参照のこと。
サキャ派 - 元朝の時代にはチベットに政権を確立し、サキャ・パンディタやフビライ・ハーンの帝師パクパが出た。
ゲルク派 - ツォンカパを宗祖とし、秘密集会タントラを重視している。ダライ・ラマ、パンチェン・ラマが属する。近世以降の最主流派。
(カーダム派) - アティシャを中心とする運動。ゲルク派は、この宗派の後継者を自認する。四大宗派のすべてに影響を与えた後、ゲルク派が新カダム派、ガンデン流として教団組織化した。現在この宗派は存在していない。
その他
上記以外にも、シャンパ・カギュ派、シチェ派、チュウ派などの現在は独立した宗派としての組織を持たない伝統や、近年復興運動が起こっているチョナン派などが存在する。
また、ゲルク派の保守勢力の間で護法尊または怨霊とされるシュクデンの崇拝が行われており、彼らをさしてシュクデン派と呼ぶことがある。現在、シュクデン信仰はダライ・ラマ14世によって禁じられており、それによってシュクデン派はチベット仏教の主流派からは異端とみなされている。一方、シュクデン派はニュー・カダンパ・トラディション(国際カダム派仏教連合)ウエスタン・シュクデン・ソサエティーといった団体を結成し、チベット仏教主流派に対抗する活動を行っている。
脚注
注釈
出典
参考文献
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関連文献
ロラン・デエ 今枝由郎訳 『チベット史』 春秋社 2005年
石濱裕美子 『チベット仏教世界の歴史的研究』 東方書店 2001年
松本史朗 『チベット仏教哲学』 大蔵出版 1997年
マルティン・ブラウエン、森雅秀訳 『図説曼荼羅大全 チベット仏教の神秘』東洋書林 2002年
『岩波講座東洋思想.11 チベット仏教』 岩波書店 1989年
『多田等観全文集 チベット仏教と文化』 今枝由郎編 白水社 2007年
ラマ・アナガリカ・ゴヴィンダ『チベット密教の真理』松長有慶序文、山田耕二訳 工作舎 1991/2009年 ISBN 978-4-87502-424-8
関連項目
インドの仏教
トンレン
ヤブユム
法身普賢
ゴールデン・チャイルド - エディ・マーフィ主演の映画
チベットの死者の書
ラルンガル僧院(喇栄五明佛学院、ラルンガルゴンパ) - チベット最大の仏教僧院
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99 |
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名の通り、室生寺周辺の室生高原、赤目四十八滝や香落渓といった山峡部を中心とした赤目渓谷、そして布引山地一帯の青山高原及び高見山地を包括した自然公園である。一帯は元々、県立自然公園の扱いであったが、政府の方針による太平洋ベルト地帯の緑地帯保護の一環で、東海自然歩道を通るこの地域近辺を国定公園に格上げした経緯がある。
室生火山群地域
位置
室生火山群は奈良県の東北部・三重県の中西部に位置する、主として山岳景観に優れた地域。
両県県境の倶留尊山一帯に見られる柱状節理の地形、赤目四十八滝、香落渓に見られる渓谷、奈良県宇陀市の名所旧蹟などが特筆される。
地形地質
トロイデ火山と火山岩の浸蝕による柱状節理が地形の特色。第三紀層生成後の噴火で岩山形成、その後の浸蝕作用で地形が形成された。
赤目峡、香落渓は新火山岩に属する石英雲母安山岩で、暗灰色で目は細く節理状。県境附近にある大洞山、尼ヶ岳等も独特の地形景観を示す。
植物
この地域は暖地性植物の北限地帯であるとともに、寒地性植物の南限地帯である。全般的に常緑広葉樹が多く、寺院維持のため造林された杉、檜も多い。高地では概ね温帯性落葉広葉樹林が占め、それ以下は暖帯性常緑広葉樹林が多い。
有名なものとしては、国の天然記念物に指定されている宇陀市・室生山暖地羊歯群落、向淵・吐山のスズラン群落、県指定記念物の佛隆寺の桜の巨樹、曽爾村門僕神社のお葉付イチョウ、葛のヒダリマキガヤの群生、東吉野村円覚寺のギンモクセイの樹木、鎧岳・兜岳・屏風岩の岩壁植生などがある。
文化
古代文化の発生の地である奈良盆地に接し伊勢に到る交通の要所にあったため、山地にもかかわらず文化景観は多様。
奈良県側では、宇陀市の室生寺で、国宝指定の平安建築を見ることができる。他に、東吉野村大字小の丹生川上神社(中社)、宇陀市の墨坂神社、宗祐寺、仏隆寺など。
三重県側では、赤目四十八滝の行法道場・延寿院の石造灯籠が文化財指定されている。他に、津市上多気の北畠神社、三多気の真福院などがある。
景観
赤目四十八滝
名張川の支流、丈六川に数多ある滝の総称。室生火山群独特の典型的な浸蝕による岩壁・奇岩と、滝の大きさに比して滝壺が広く深いのが特色。
日本の滝百選にも選ばれている。
香落渓
香落渓は名張川の支流、青蓮寺川にある渓谷で、柱状節理による斧で刻んだような壮大な断崖が聳え立つ。
奥香落
奥香落は香落谷の小太郎岩から連なる山岳景観で、曽爾三山と共に室生火山群の代表的な地質景観。
広義には渓谷を隔てて古光山、亀山、倶留尊山、曽爾高原を含む総称。
倶留尊山
この地域の最高峰で、室生火山群に属す海抜1,037mの塊状火山。奈良県と三重県の県境上にある。三重県側は急峻な柱状節理が露出、山麓の池の平高原ではのどかな山村風景が広がる。奈良県側には広々とした裾野があり、曽爾高原といわれる全山ススキ野原でその景観は非常にすばらしい。
曽爾三山
曽爾三山とは鎧岳・兜岳・屏風岩を合わせた総称(屏風岩、兜岩および鎧岩)で、国の天然記念物に指定されている[2]。
鎧岳は鎧の腹巻を正面から眺めた形から、兜岳は兜の針金に似ていることから名がついた。屏風岩は北東から南西にかけて約2km、高さ約200mに及ぶ壮大な柱状節理による断崖。
室生寺
奈良時代末期に興福寺系の僧によって創建された山寺である。
平安時代初期を代表する仏像、絵画と共に、金堂・五重塔は平安時代初期建築の代表的な遺構といわれる。
大和高原南部地区
この地域には、初瀬宇陀川断層崖を構成する貝ヶ平山(822m)、香酔峠(564m)、額井岳(821m)があり大和高原の南限にあたる。貝ヶ平山は山域から二枚貝等の化石が多く見つかる。額井岳は別名「大和富士」と呼ばれる端正な姿である。
鳥見山
鳥見山上には神武天皇が大和平定のとき皇祖の神霊を祭ったといわれる鳥見山中霊畤がある。
大洞山、尼ヶ岳一帯
大洞山は円頂丘火山の典型で、このスロープのうち中太郎生の東方から三多気にかけては、倶留尊山山麓の池の平に似た高原である。
青山高原で代表される布引山地から尼ヶ岳・大洞山の山麓をよこぎり、倶留尊山の麓の池の平から奈良県境の亀山峠を経て、お亀池から室生寺に到る東海自然歩道は、公園利用上のメインルートである。
三峰山地
位置
室生火山群に属する大洞山より南に連なる三重、奈良の県境の山地で、標高1,235.6mの三峰山を主峰とし、南東に台高山脈に連なっている。三峰山西南に八丁平といわれる平坦なススキの高原地帯があり、一面にシロヤシオの群生が見られる。眼下に室生火山群、西には山容が最もすばらしいといわれる高見山(1,249.2m)、南は台高山脈を通し、吉野熊野国立公園大台山系の日出ヶ岳を見ることができる。また東方には伊勢湾を一望し、晴れた日には遠く富士山を望見できる。
地形地質
この地域は青山高原、室生火山群の地質とは異なり、伊勢、大和を一直線に結ぶ中央構造線といわれているもので、主として花崗岩類よりなる。三峰山はじめ、白髪山(920m)等1,000m級の山々がつらなり、これが三重、奈良両県の境界となっている。南側は数百mに及ぶ断崖をなしているが、これに反して西側は緩かで室生火山群の山麓につながっている。高見山の南側の鞍部が高見峠で、これは櫛田川(三重県)、吉野川(奈良県)の分水嶺で、地形、行政の境界ともなっている。飯高町月出の月出の中央構造線は、日本国の天然記念物に指定された大規模な中央構造線の露頭である[3][4][5]。
植物
室生火山群と緯度的に変らないため、暖地性植物の北限、寒地性植物の南限の分布状態である。高所には寒地性植物、中腹以下には暖地性植物が見られる。特に三峰山附近の湿原に群生する、シロヤシオ(ゴヨウツツジ)は、その開花期には、雄大な眺望にあざやかな色を添える。この湿原をとりまく一帯をと、高見山に至る稜線附近にはブナの原生林が残されている。
文化
この地域は、旧伊勢街道(現在国道166号)沿にあるため、紀州侯の参勤交替や伊勢神宮参拝の主幹道路であり、山上にある神社にお参りする行者等で、その往来も多く、高見山峠附近の波瀬には昔を偲ぶ跡地が多い。また、高見山頂にある高角神社や、中腹にある口窄天開山泰運寺(三重県指定有形文化財の梵鐘を有する)は、それぞれ文化的にも貴重な史跡である。
景観
三峰山地一帯は地形上、室生火山群と台高山脈にはさまれた地帯で、あまり有名ではないが、この地方としては珍らしいブナの原生林とその他湿原に咲くシロヤシオの群落など、植生上見るべきものが多い。また文化景観上は、泰運寺、和歌山街道(三重県では伊勢街道と呼んでいる)沿いの陣屋跡など史蹟も多い。
台高山脈
位置
三重県の最西部、最奥地で奈良県境にわたる一帯の山地で、大台山系に南から連なっている。標高は1,300m前後の高山が連なる山岳地帯である。
地形地質
紀伊山地の東部に三重、奈良両県の堺を南北30km余に連なる山なみで、大台ヶ原につながっている。古い水成岩からなり、三重県側は櫛田川の上流、奈良県側は吉野川の支流といわれている高見川、四郷川、中奥川の上流にあたり、急流により強い浸蝕があり、深いV字型の渓谷がいたるところに形式されている。山は急峻で、奥地に入るにしたがってその感は強い。このような地形にあるため、岩石、瀑布が多く、優れた景観を呈している。
植物
国見山(1,418.7m)、池木屋山(1,396.9m)、白倉山(1,226.0m)を結ぶこの地区一帯の、海抜700m以上の高所には、随所にブナを主とする温帯性の落葉広葉樹林が、自然林のまま残されている。特に三重県側には多い。700m以下にはスギ、ヒノキの造林地が多い。奈良県側は地形が三重県に比してなだらかであるため、かなり高所まで、スギ、ヒノキの造林が進んでいるのは、対照的である。
三重県側の急峻な渓谷(蓮、宮ノ谷、江馬小屋、奥の平の各渓谷)沿いには、それぞれ、シャクナゲが群生し、奇岩、瀑布に代表される地形景観に花を添えている。この一帯には、ツツジが多いのも特色である。また国見山の東側鞍部の明神平一帯にはオオイタヤメイゲツの純林が残されているのは貴重なものである。
景観
香肌峡
この地域の三重県側の主流である櫛田川の上流で、旧伊勢街道(和歌山街道ともいう。)の国道166号線沿いにある渓谷で高見峠に到達する河川であるが、大石の上流約40kmの峡谷で、変化に富んだ渓谷景観である。この渓谷の両岸の山間部には、シャクナゲ、ツツジのほか天然記念物のムカデランが群落を作っている。また、サル、ニホンカモシカ、ムササビ、シカ、イノシシなどの動物も多く、登山者の目を楽しませることができる。峡谷のうち特に景観のすぐれているのは、旧飯高町役場の所在地である宮の前から森までの16kmの間で、奇岩が渓谷に点在し、秋の紅葉期には、特にすばらしい自然景観を呈する。この渓谷にはアユ、アメゴがとれ、釣人も通年訪れる。
櫛田川の中間地点からの支流に蓮川がある。ここには、宮の渓、江馬小屋渓といわれる両岸屹立する岩、原始林に囲まれた急峻な山容、大小無数の滝など、未開の渓谷の美しさを十分に備えている。高さ50m、奥行100mの岩壁が狭い幅の渓流に向いあっている夫婦岩、高さ300m、幅250mでほとんど垂直に近くきり立っている屏風岩と100mの高さといわれる数々の滝等、地形上優れた要素をもった一大渓谷である。
高見川渓谷
吉野川の支流で台高山脈を境にして、三重県側、香肌峡、蓮渓谷に位置的に対照の位置にあたる奈良県側の渓谷で、三重県に比して、地形もなだらかであるので、規模は小さいが、小(おむら)附近の幽邃な渓谷美は、他に見られない景観を呈している。このあたりの渓谷沿いは、植生もよい。
台高山脈、山頂一帯
南から大台山脈、西に高見山を通し三峰山地、北西部に室生火山群と、見わたす限り山また山の一帯で、連山の頂きは、それぞれ眺望がすばらしく、これに加えて頂上一帯はブナの原生林が広大にあり、すぐれた自然環境にある。
国見岳の南東鞍部にある明神平一帯は、平坦な台地で、冬期は積雪もあり、スキー場として利用されている。またこの附近では近くにブナの原生林が見られる。
青山高原
位置
笠取山(標高844.6m)で代表される青山高原は三重県の西北部、伊勢・伊賀を分ける丘陵地帯で、鈴鹿の男性的な山並みと異なり、標高700m〜800mの丘陵性団地の連続した延長20kmの高原である。
地形地質
本地帯は鈴鹿山脈(平均標高850m)と笠取山、尼ヶ岳、国見山、大洞山とを結ぶ布引山系(平均標高500m)に属する火山群によって生じた古い火山地帯で笠取山を主峯として青山峠より髻ヶ丘に到る南北に流れる高原地帯で、地質は第三紀層及び中生層で大部分が内帯特有の花崗岩からなっている。
伊勢平野に面する東側は傾斜がゆるやかで早くから耕地となっている。西側は東側に比して地形も、谷あり沢ありの急峻で、山麓部まで森林が大部分を占めている。
植物
本地域は平均標高500mであるため、緯度的に見ても、植物学上から暖地性植物帯の北限界であり、また寒地性植物帯の南限界でもあって、両植物が交錯している。高所は大部分がススキ草原であるが、場所によってはヤマザサがある。この地区で代表的な種類は、アセビ、イヌツゲ、ツツジが多く、開花期にはあざやかで、この地区一帯の代表的自然景観ともいわれている。中腹部特に西側はスギ、ヒノキの植林地帯で、隣接の雑木林は林種転換が進んでいる。自然林として秀れているのは、県の天然記念物の奥山愛岩社(通称権現神社)境内林で、この地方には珍らしく、ブナを主体とする原生林相が残されている。
文化
この地方は大和地方の影響を受けて、文化景観として取り上げられるものは多々あるが、特筆されるものとしては、笠取山の麓にある新大仏寺があげられる。これは治承4年(1180年)に平重衡の兵火で焼かれた東大寺大仏殿を再建した俊乗坊重源上人によって創設されたという由緒ある寺院で、この地方が東大寺の荘園であったことから<!--、鎌倉時代に南都大仏を表はして-->新大仏寺と称されたとのことで、後世は雨乞いの祈願のため、大阪、河内、大和方面からの参拝者が多く信仰も厚いといわれている。
この寺には、板の表面に千体仏を刻んだ板五輪塔があり、その背後は阿弥陀像で、学術上も貴重な品とされている。またこの寺には松尾芭蕉が「奥の細道」の帰り、郷里の伊賀上野に帰省する途中、津から長野峠を越えて立ち寄った時、残した句が残されている。
景観
笠取山から三角点までの景観の特色は、地形上、伊賀と伊勢を分ける稜線附近の丘陵地帯であるため、その眺望はすばらしく、東に伊勢平野、伊勢湾を通し、愛知県知多半島を望み、南方に吉野熊野国立公園大台ヶ原(1,456m=奈良県)、西方には伊賀盆地を経て笠置山地を見渡すことができる。
主な観光地・観光施設
室生寺
赤目四十八滝
香落渓
青山高原
メナード青山リゾート
など
脚注
関連項目
赤目一志峡県立自然公園
外部リンク
- 奈良県 公式サイト
- 三重県 公式サイト
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レオナルド・ダ・ヴィンチ ((、Italian pronunciation:[leoˈnardo da ˈvintʃi] 発音)1452年4月15日 - 1519年5月2日(ユリウス暦))は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci) で、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野に顕著な業績と手稿を残した。容貌にも優れ美男子であったという。
人物
ルネサンス期を代表する芸術家であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といい、日本の美術史では「万能の天才」といわれている[1]。史上最高の呼び声高い画家の一人であるとともに、人類史上もっとも多才の呼び声も高い人物である[2]。アメリカ人美術史家は、レオナルドが関心を持っていた領域分野の広さと深さは空前のもので「レオナルドの知性と性格は超人的、神秘的かつ隔絶的なものである」とした[1]。しかしながらマルコ・ロッシは、レオナルドに関して様々な考察がなされているが、レオナルドのものの見方は神秘的などではなく極めて論理的であり、その実証的手法が時代を遥かに先取りしていたのであるとしている[3]。
1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツェ共和国から、約20km程、離れたフィレンツ郊外のヴィンチ村において、有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘であったカテリーナとの間に非嫡出子として誕生した。
1466年頃、レオナルドは、当時、フィレンツェにおいて、最も優れた工房の1つを主宰していたフィレンツェの画家で、彫刻家でもあったヴェロッキオが、運営する工房に入門した。
画家としてのキャリア初期には、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えている。その後ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアなどで活動し、晩年はフランス王フランソワ1世に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。
レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い[2]。とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『モナ・リザ』と[4]、もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『最後の晩餐』に比肩しうる絵画作品は、ミケランジェロ・ブオナローティが描いた『アダムの創造』以外には存在しないといわれている[1]。また、ドローイングの『ウィトルウィウス的人体図』もと見なされており[5]、イタリアの1ユーロ硬貨、教科書、Tシャツなど様々な製品に用いられている。現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と言われており決して多くはない。これはレオナルドが完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる[注 1]。それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したドローイングや科学に関するイラストが描かれた手稿、絵画に対する信念などは後世の芸術家へ多大な影響を与えた。このようなレオナルドに匹敵する才能の持ち主だとされたのは、同時代人でレオナルドよりも20歳余り年少のミケランジェロ・ブオナローティだけであった。
レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている[2]。ヘリコプターや戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論[6]、二重船殻構造の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが[注 2]、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした[注 3]。また、解剖学、土木工学、光学、流体力学の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった[7]。
また、発生学の研究も行っていた。更に眼を調べることで光と眼鏡の原理も解明していた。
生涯
幼少期、1452年から1466年
レオナルドは1452年4月15日(ユリウス暦)の「日没3時間後」に、トスカーナのヴィンチに生まれた。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた[8]。父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母は(おそらく農夫の娘)カテリーナである[9]
[10]
。
レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となる[8]。セル(メッセル (Messer)) は敬称であり、レオナルドの父親が公証人についていたことを示している。
レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている[11]。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった[12]。
レオナルドは、正式にではなかったがラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。後にレオナルドは幼少期の記憶として二つの出来事を記している。ひとつはレオナルド自身が何らかの神秘体験と考えていた記憶で、ハゲワシが空から舞い降り、子供用ベッドで寝ていたレオナルドの口元をその尾で何度も打ち据えたというものである[13]。もうひとつの記憶は、山を散策していたレオナルドが洞窟を見つけたときのものである。レオナルドは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になったと記している[11]。
レオナルドの幼少期は様々な推測の的となっている[14]。16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家たちの伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、レオナルドの幼少期について次のように記述している。小作農の家で育ったレオナルドに、あるとき父親セル・ピエロが絵を描いてみるように勧めた。レオナルドが描いたのは口から火を吐く化け物の絵で、気味悪がったセル・ピエロはこの絵をフィレンツェの画商に売り払い、さらに画商からミラノ公の手に渡った。レオナルドの描いた絵で利益を手にしたセル・ピエロは、矢がハートに突き刺さった装飾のある楯飾りを購入し、レオナルドを育てた小作人へ贈った[15]。
ヴェロッキオの工房時代、1466年 - 1476年
1466年に、14歳だったレオナルドは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家ヴェロッキオに弟子入りした[16]。ヴェロッキオの弟子、あるいは協業関係にあった有名な芸術家として、ドメニコ・ギルランダイオ、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ロレンツォ・ディ・クレディらがいる[11][17]。レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた[18]。レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいた[19]。
ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。ヴァザーリはその著書で『キリストの洗礼』(en:The Baptism of Christ (Verrocchio))はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所は、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるとしている。そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったと記されている[20][注 4]。『キリストの洗礼』はテンペラで描かれた絵画の上から、当時の新技法だった油彩で加筆された作品であり、近代の分析によると、風景、岩、キリストの大部分などもレオナルドの手によるものだと言われている[21]。また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったとも言われている。それらの作品はフィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するブロンズ彫刻『ダヴィデ』(en:David (Verrocchio))と、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『トビアスと天使』(en:Tobias and the Angel (Verrocchio))に描かれている大天使ラファエルである[10]。
レオナルドは20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象としたギルドだった。その後、おそらく父親セル・ピエロがレオナルドに工房を与えてヴェロッキオから独立させ、レオナルドはヴェロッキオとの協業関係を継続していった[11]。制作日付が知られているレオナルドの最初期の作品は、1473年8月5日に、ペンとインクでアルノ渓谷を描いたドローイングである[注 5][17]。
円熟期、1476年 - 1513年
1476年のフィレンツェの裁判記録に、レオナルド他3名の青年が同性愛の容疑をかけられたが放免されたというものがある[10][注 6]。この1476年以降、1478年になるまで、レオナルドの作品や居住地に関する記録が残っていない[22]。1478年にレオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行ったと思われる。アノニモ・ガッディアーノという正体不明の人物が、1480年にレオナルドがメディチ家の庇護を受けており、フィレンツェのサン・マルコ広場庭園で新プラトン主義者の芸術家、詩人、哲学者らが集まった、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーの一員だったという説を唱えている[10]。1478年1月にレオナルドは、最初の独立した絵画制作の依頼を受けた。ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、1481年5月にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から、『東方三博士の礼拝』(en:Adoration of the Magi (Leonardo))の制作依頼も受けている[23]。しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置された。『東方三博士の礼拝』もレオナルドがミラノ公国へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっている。
ヴァザーリの著書によると、レオナルドは才能溢れる音楽家でもあり[24]、1482年に馬の頭部を意匠とした銀のリラを制作したとされている。フィレンツェの支配者ロレンツォ・デ・メディチが、この銀のリラを土産にレオナルドをミラノ公国へと向かわせ、当時のミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァとの間で平和条約を結ぼうとした[25]。当時のレオナルドがルドヴィーコに送った書簡の記述で、現在もよく引用される文章がある。レオナルドが自然科学分野で驚嘆すべき様々な業績を挙げていたことを物語る内容で、さらにレオナルドが絵画分野でも非凡な能力を有していることをルドヴィーコに告げる文章である[17][26]。
レオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動した。現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『岩窟の聖母』は、1483年に聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画『最後の晩餐』(1495年 - 1498年)も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品である[27]。1493年から1495年のレオナルドの納税記録が現存しており、レオナルドの扶養家族の中にカテリーナという女性が記載されている。この女性は1495年に死去しているが、このときの葬儀費用明細から、レオナルドの生母カテリーナだと考えられている[28]。
レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作などである。ただしこの騎馬像は、レオナルドが手がける作品としては異例なことに、その後数年間にわたって制作が開始されなかった。騎馬像の原型となる粘土製の馬の像が完成したのは1492年である。このフランチェスコの騎馬像を大きさの点で凌ぐルネサンス期の彫刻作品は、ドナテッロの『ガッタメラータ騎馬像』(1453年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場)と、ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』(1496年、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前広場)の2作品だけであり、レオナルドが制作した粘土製の馬の像は、「巨大な馬」(Gran Cavallo)として知られるようになっていった[17][注 7]。レオナルドはこの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の鋳造を具体的に進めようとしたが[17]、レオナルドを嫌っていた競争相手のミケランジェロは、レオナルドにこのような大仕事ができるわけがないと侮辱したといわれている[11]。この騎馬像制作のために17tのブロンズが用意されたが、フランス王シャルル8世のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月にこのブロンズが大砲の製作材料に流用されてしまった[17]。
1499年に第二次イタリア戦争が勃発し、イタリアに侵攻したフランス軍が、レオナルドがブロンズ像の原型用に制作した粘土像「巨大な馬」を射撃練習の的にして破壊した。ルドヴィーコ率いるミラノ公国はフランスに敗れ、レオナルドは弟子のサライや友人の数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィアへと避難した[29]。レオナルドはこのヴェネツィアで、フランス軍の海上攻撃からヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われている[11]。レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは1500年のことで、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道(en:Santissima Annunziata, Florence)の修道僧のもとで、家人ともども賓客として寓された。ヴァザーリの著書には、レオナルドがこの修道院で工房を与えられ、『聖アンナと聖母子』の習作ともいわれる『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(1499年 - 1500年、ナショナル・ギャラリー)を描いたとされている。さらにこの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』は「老若男女を問わず」多くの人が見物に訪れ、「祭りの様相を呈していた」と記されている[30]
。
1502年にレオナルドはチェゼーナを訪れ、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した[29]。1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作した。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはレオナルドのまったく新しい概念が導入されていた。チェーザレはレオナルドを、土木技術に特化した工兵の長たる軍事技術者に任命している。同年にレオナルドは、トスカーナの渓谷地帯ヴァルディキアーナ(en:Valdichiana)の地図も制作している。この地図もチェーザレが軍事戦略上有利な地位を占めるのに役立った。
レオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)大会議室の壁画『アンギアーリの戦い』のデザインと制作に2年間携わった[29]。このとき大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』(en:Battle of Cascina (Michelangelo)))の制作に取り掛かっていた。またレオナルドは1504年に、ミケランジェロが手がけていた完成間近の『ダヴィデ像』をどこに設置するべきかを決める委員会の一員になっている[31]。
1506年にレオナルドはミラノを訪れた。ベルナルディーノ・ルイーニ、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ(en:Giovanni Antonio Boltraffio)、マルコ・ドッジョーノ(en:Marco d'Oggione)ら、絵画分野におけるレオナルドの主要な弟子や追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人々である[11][注 8]。ただし、1504年に父親セル・ピエロが死去したこともあって、このときのレオナルドのミラノ滞在は短期間に終わった。1507年にはフィレンツェに戻り、父親の遺産を巡る兄弟たちとの問題解決に腐心している。翌1508年にミラノへ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した邸宅に落ち着いた[32]。
晩年、1513年 - 1519年
1513年9月から1516年にかけて、レオナルドはヴァチカンのベルヴェデーレで多くのときを過ごしている。当時のヴァチカンはミケランジェロと若きラファエロが活躍していた場所でもあった[32]。1515年10月にフランス王フランソワ1世がミラノ公国を占領し[23]、レオナルドはボローニャで開催された、フランソワ1世とローマ教皇レオ10世との和平会談に招かれた[11][33][34]。このときレオナルドは、歩いていって胸部からユリの花がこぼれる絡繰仕掛けのライオンの制作を依頼された[35]
。
レオナルドは1516年にフランソワ1世に招かれ、フランソワ1世の居城アンボワーズ城近くのクルーの館が邸宅として与えられた[注 9]。レオナルドは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族ら、弟子や友人たちとともに過ごした。レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードにのぼっている[32]。
レオナルドは1519年5月2日にクルーの館で死去した。フランソワ1世とは緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも自著でレオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記している。このエピソードはフランス人芸術家たちに親しまれ、ドミニク・アングル、フランソワ・ギョーム・メナゴーらが、このエピソードをモチーフにした作品を描き、オーストリア人画家アンゲリカ・カウフマンも同様の絵画を制作しているが、このエピソードはおそらく史実ではなく、伝説の類である[注 10]。さらにヴァザーリは、レオナルドが最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受けたとしている[36]。レオナルドの遺言に従って、60名の貧者がレオナルドの葬列に参加した[注 11]。フランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。また、長年の弟子で友人でもあったサライと使用人バッティスタ・ディ・ビルッシスに所有していたワイン畑を半分ずつ遺しているほか、自身の兄弟たちには土地を、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺した[注 12][37]。レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。
レオナルドの死後20年ほど後に、フランソワ1世が「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」と語ったことが、彫金師、彫刻家ベンヴェヌート・チェッリーニの記録に記されている[38]。
交友関係と影響
フィレンツェでレオナルドを取り巻いていた芸術的、社会的背景
レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、ルネサンス人文主義における思想、文化の中心地だった[16]。レオナルドがヴェロッキオに弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロが死去した年でもある。遠近法を絵画作品に最初に取り入れて、風景画の発展に多大な貢献をなした画家パオロ・ウッチェロは、すでに老境に入っていた。画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ、フィリッポ・リッピ、彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア、建築家・著述家レオン・バッティスタ・アルベルティも60歳代だった。これら初期ルネサンスを代表する芸術家たちの次世代で成功を収めたのが、レオナルドの師ヴェロッキオ、アントニオ・デル・ポッライオーロ、ミーノ・ダ・フィエゾーレ(en:Mino da Fiesole)らである。フィエゾーレは人物彫刻を得意とした彫刻家で、ロレンツォ・デ・メディチの父親ピエロや伯父ジョヴァンニ(en:Giovanni di Cosimo de' Medici)の胸像は、本人に非常によく似ていると言われている[39][40][41][42]。
また当時のフィレンツェは、写実的で感情豊かな人物像をフレスコで描いた画家マサッチオ、人物と建築物が複雑な構成で表現されたサン・ジョヴァンニ洗礼堂の金箔に彩られた東扉『天国への門』を制作した彫刻家ロレンツォ・ギベルティなど、ドナテッロと同時代の芸術家たちの作品で飾り立てられていた。ピエロ・デッラ・フランチェスカは空気遠近法の研究を推し進め[43]、科学的に正確な光の描写を絵画にもたらした最初の画家となった。これらの研究とレオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』といった芸術論文が[44]、当時の若年の芸術家たちに大きな影響を与え、レオナルドも先人たちからの影響のなかで独自の観察眼や芸術観を培っていった[39][41][42]。
マサッチオの『楽園追放』(1425年ごろ、ブランカッチ礼拝堂壁画、en:The Expulsion from the Garden of Eden)は、裸身で取り乱すアダムとイヴを力強い造形で描いた作品である。光と陰の対比を用いて三次元的に人物を描写した『楽園追放』はレオナルドに大きな影響を与え、自身の作品でこの三次元的描写を発展させていくことになる。また、ドナテッロの彫刻『ダヴィデ』における人文主義的作風が、後のレオナルドの作品群、とくに『洗礼者ヨハネ』(1513年 - 1516年、ルーヴル美術館所蔵、en:St. John the Baptist (Leonardo))に影響を与えている[39][40]。
フィレンツェで伝統的に好まれていた絵画分野に、聖母子を描いた小規模な祭壇画がある。当時、これらの祭壇画はリッピ、ヴェロッキオ、デッラ・ロッビア一族らの工房で制作された作品が多かった[39]。レオナルドが聖母子を描いた初期の作品に『カーネーションの聖母』(1478年 - 1480年、アルテ・ピナコテーク、en:Madonna of the Carnation)と『ブノアの聖母』(1478年頃、エルミタージュ美術館)がある。これらレオナルドが描いた聖母子は、基本的にはフィレンツェの伝統的な聖母子の作風に則っている。しかしながら『ブノアの聖母子』に顕著な聖母子をピラミッド型に配する構成は、伝統的な作風からは逸脱した表現となっている。後に同様の構成で描かれたレオナルドの作品に『聖アンナと聖母子』(1508年ごろ、ルーヴル美術館)がある[11]。
レオナルドはボッティチェッリ(1445年ごろ - 1510年)、ギルランダイオ(1449年 - 1494年)、ペルジーノ(1450年ごろ - 1523年)と同時代人で、わずかに年少である[40]。レオナルドはこの3人と相弟子としてヴェロッキオの工房で出会い、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーに出入りした[11]。ボッティチェッリはとくにメディチ家に気に入られており、画家としての成功は約束されていたも同然だった。ギルランダイオとペルジーノはどちらも多作な画家で、後に大規模な工房を経営するにいたった。両者共に制作依頼主を満足させるだけの技量を持った芸術家で、ギルランダイオは大規模なフレスコ宗教画に裕福なフィレンツェ市民の肖像を描き入れた作品を、ペルジーノは甘美で無垢な多数の聖者や天使を描いた作品を、それぞれ得意としていた[39]。
ボッティチェッリとギルランダイオは、ローマ教皇シクストゥス4世から、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂壁画制作の依頼を受けた。1479年にペルジーノがローマ教皇庁から、礼拝堂壁画制作の責任者に任じられて間もなくのことである。しかしながらこの栄誉ある壁画制作には、レオナルドは関与していない。レオナルドが依頼を受けた最初の重要な絵画制作は、1481年にサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧からの『東方三博士の礼拝』(en:Adoration of the Magi (Leonardo))だが、未完のままに終わっている[11]。
レオナルドがヴェロッキオの工房で働いていた時期の1476年に初期フランドル派の画家フーホ・ファン・デル・フースの油彩画『ポルティナーリの三連祭壇画』(1475年ごろ、ウフィツィ美術館、en:Portinari Altarpiece)がフィレンツェに持ち込まれた。北方ヨーロッパの初期フランドル派が完成させた新たな絵画技法である油彩は、レオナルド、ギルランダイオ、ペルジーノら、フィレンツェで活動していた芸術家たちに多大な影響を与えた[40]。その後、シチリア出身の画家アントネッロ・ダ・メッシーナが油彩技法を身につけ、1479年にヴェネツィアを訪れた。当時のヴェネツィアで第一人者であった画家ジョヴァンニ・ベリーニがメッシーナから油彩技法を伝授され、たちまちのうちにヴェネツィアでも油彩による絵画制作が主流となった。そして、後にレオナルドもヴェネツィアを訪れることになる[40][42]。
当時の代表的な建築家ドナト・ブラマンテとアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオと同じように、レオナルドも集中形式の教会のデザインを試みた。多くの設計図や外観図がその手稿に残されているが、実現した計画はひとつもなかった[40][45]。
レオナルドがフィレンツェに在住していたときのフィレンツェの支配者はロレンツォ・デ・メディチだった。ロレンツォはレオナルドよりも3歳年長で、弟のジュリアーノは1478年に起きた、いわゆるパッツィ家の陰謀で暗殺された。後にレオナルドがメディチ家の使者として派遣されるミラノ公国を1479年から1499年まで統治したミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァは、レオナルドと同年の生まれである[40]。
レオン・バッティスタ・アルベルティの紹介を受けてメディチ一族の邸宅を訪れたレオナルドは、哲学者で新プラトン主義の提唱者マルシリオ・フィチーノ、古典文学の注釈書の著者クリストフォロ・ランディーノ、ギリシア語教授でアリストテレスの著作の翻訳者ジョヴァンニ・アルギロプーロ(en:John Argyropoulos)ら、当時第一流のルネサンス人文主義者たちの知遇を得た。また、メディチ家が主催するプラトン・アカデミーには、才能に溢れた若き哲学者ピコ・デラ・ミランドラの姿もあった[40][42][46]。後にレオナルドは手稿の余白に「メディチが私を創り、そしてメディチが私を台無しにした」と書き入れている。レオナルドが、ロレンツォの推挙によってミラノ公の宮廷に迎え入れられたのは間違いなく、なぜレオナルドがこのような謎めいた書込みを残したのかは分かっていない[11]。
「盛期ルネサンス三大巨匠」と並び称されるレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロだが、この三名は同年代人ではない。ミケランジェロが生まれたときにレオナルドは23歳で、ラファエロが生まれたときにはレオナルドは31歳だった[40]。レオナルドは1519年に67歳で、ラファエロは1520年に37歳でそれぞれ死去しているが、長命を保ったミケランジェロが死去したのは1564年で88歳のことである[41][42]。
私生活
レオナルドはその生涯を通じて、異常なまでの創意工夫の才を示し続けた。ヴァザーリはレオナルドを「ずば抜けた肉体美」「計り知れない優雅さ」「強靭な精神力と大いなる寛容さ」「威厳ある精神と驚くべき膨大な知性」と評し[47]、レオナルドがあらゆる面で人を惹きつける人物だったと記している。さらにヴァザーリは、レオナルドが菜食主義者であり、籠に入って売られている鳥を購入してはその鳥を放してやるような、命あるものをこよなく愛する人物だったとしている[48][49]。レオナルドには様々な分野の、歴史的に見ても重要な多くの友人がいた。例えば、近代会計学の父ともいわれる数学者ルカ・パチョーリは、1490年代にレオナルドと共著で数学の論文を著している[50]。フェラーラ公エルコレ1世・デステの娘で、マントヴァ侯妃イザベラとミラノ公妃ベアトリーチェの姉妹を除くと、レオナルドと親しかった女性は伝わっていない[51]。レオナルドはマントヴァ滞在中にイザベラの肖像習作を描いており、この習作をもとに肖像画を描いたと考えられているが、現存していないと思われていた[11]。しかし2013年10月、スイス銀行の貴重品保管庫から彩色された肖像画が発見され、当局に押収された。レオナルド研究家であるペドレッティ教授の鑑定では、レオナルドの真筆であることはほぼ間違いないとみられている[52]。
交友関係以外のレオナルドの私生活は謎に包まれている。とくにレオナルドの性的嗜好は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっている。最初にレオナルドの性的嗜好が話題になったのは16世紀半ばのことだった。その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でもジークムント・フロイトが唱えた説が有名である[53]。レオナルドともっとも親密な関係を築いたのは、おそらく弟子のサライとメルツィである。メルツィはレオナルドの死を知らせる書簡をレオナルドの兄弟に送った人物で、その書簡にはレオナルドがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていた。16世紀になって、このようなレオナルドの人間関係は性的なものだったのではないかという説が生まれた。1476年のフィレンツェの裁判記録に、当時24歳だったレオナルド他3名の青年が、有名だった男娼と揉め事を起こしたとして、同性愛の容疑をかけられたという記録がある。この件は証拠不十分で放免されているが、容疑者の一人リオナルデ・デ・トルナブオーニがロレンツォ・デ・メディチの縁者であり[54]、メディチ家が圧力をかけて無罪とさせたのではないかという説もある[55]。この記録はレオナルドに同性愛者の傾向があったことを示唆しており、『洗礼者ヨハネ』や『バッカス』といった絵画作品、その他多くのドローイングに両性具有的な性愛表現が見られるとする研究者もいる[56] 。
助手と弟子
「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られるジャン・ジャコモ・カプロッティがレオナルドの邸宅に住み込んだのは1490年である。その後1年足らずで、サライはレオナルドの金銭や貴重品を少なくとも5度にわたって盗んだ。サライはこれらの盗品を高価な衣装の購入に充て、レオナルドはサライの不品行を「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」と論っている[58]。しかしながらレオナルドはサライをこの上なく甘やかし、その後30年にわたって自身の邸宅に住まわせている[59]。サライはアンドレア・サライという名前で多くの絵画を描いた。しかしながら、レオナルドがサライに「絵画について非常に多くのことを教えた[35]」が、レオナルドのほかの弟子たち、例えばマルコ・ドッジョーノ(en:Marco d'Oggiono)、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ(en:Giovanni Antonio Boltraffio)らの作品に比べると、芸術的価値に劣るといわれている。1515年にサライは『モナ・ヴァンナ』として知られる、『モナ・リザ』の裸体ヴァージョンの絵画を描いている[60]。後にレオナルドが死去すると、サライは『モナ・リザ』を譲られた。サライはこの『モナ・リザ』は505リラの価値があると考えていたが、この評価額は当時の小さな肖像画としては異例なまでに高額だった[61]。
レオナルドは1506年にロンバルディアの貴族の子息フランチェスコ・メルツィを弟子にした。メルツィはレオナルドお気に入りの弟子で、レオナルドがフランスへ移住したときにも同行し、レオナルドが死去するまで起居を共にしている[11]。メルツィはレオナルドの遺産として、芸術、科学の諸作品、写本、コレクションを贈られ、遺言執行人にも任命されていた。
絵画作品
近年の研究ではレオナルドの科学者や発明家としての才能が高く評価されているが、400年以上にわたってレオナルドがもっとも賞賛されてきたのは画家としての才能である。現存するレオナルドの真作、あるいはレオナルド作であろうと考えられている絵画作品は僅かではあるが、1490年時点で「神の手を持つ」画家だと言われており[62]、いずれの作品も傑作だと見なされている。
レオナルドの作品は、様々な出来の多くの模写が存在することでも有名で、長年にわたって美術品鑑定家や批評家を悩ませ続けてきた。レオナルドの真作に見られる優れた点は顔料の塗布手法だけでなく、解剖学、光学、植物学、地質学、人相学などの詳細な知識に立脚した、革新的な絵画技法である。人物の表情やポーズで感情を描写する技法、人物の配置構成における創造性、色調の繊細な移り変わりなど、レオナルドの絵画作品には際立った点が多くみられる。これらレオナルドの革新的絵画技法の集大成といえるのが『モナ・リザ』、『最後の晩餐』、『岩窟の聖母』である[63]。
初期の絵画作品
レオナルドの画家としてのキャリアは、師ヴェロッキオとの合作『キリストの洗礼』に始まる。ほかにレオナルドの徒弟時代の作品として、2点の『受胎告知』がある。そのうち1点は縦14cm、横59cmの小さな絵画で、もともとはロレンツォ・ディ・クレディの大きな祭壇画の飾絵だったものが散逸した作品である。もう1点の『受胎告知』は縦98cm、横217cmという大規模な作品となっている[64]。どちらの『受胎告知』も、フラ・アンジェリコの『受胎告知』などとよく似た伝統的な構図で描かれている。座した、あるいは跪いた聖母マリアを画面右に配し、背中の羽を高く掲げ、豪奢な衣装を身につけた横向きの天使が、純潔を意味するユリとともに画面左に配されている。大きな『受胎告知』(1472年 - 1475年、ウフィツィ美術館)は、かつてはギルランダイオの作品と考えられていたが、現在ではレオナルドの真作にほぼ間違いないと考えられている[65]。小さな『受胎告知』では、マリアは天使から眼を背け、両手を握りしめている。このポーズは神の意思への服従を象徴する。しかしながら大きな『受胎告知』のマリアは、このような服従を示すポーズをとっていない。予期せぬ天使の訪れで読書を中断させられたマリアの右手は、今まで読んでいた聖書に置かれ、左手は歓迎あるいは驚きを意味する、立てた状態で描かれている[39]。冷静ともいえるこの若きマリアのポーズは、神の母たる役割に服従するのではなく、自信に満ちて受け入れることを意味している。若きレオナルドはこの『受胎告知』でマリアを神格化せずに、人間の女性として描いた。これは神の顕現において人間が果たす役割を認識していることを表している
。
1480年代の絵画作品
レオナルドは1480年代に、非常に重要な絵画2点の制作を引き受け、ほかに革新的な構成をもつ重要な絵画1点の制作を開始した。これら3点の絵画のうち2点は未完に終わり、残る1点が完成度合いや支払を巡って長い論争となった。未完に終わった絵画のうちの1点が『荒野の聖ヒエロニムス』で、美術史家リアナ・ボルトロンはこの絵画がレオナルドが不遇だった時代の作品ではないかとしており、その根拠としてレオナルドの日記の「生きることを学んできたつもりだったが、単に死ぬことを学んでいたらしい」という記述を挙げている[11]。
『荒野の聖ヒエロニムス』は描き始めの時点で放棄された作品だが、極めて異例な構成をもって描かれている。ヒエロニムスは苦行者として画面中央一杯に描かれ、傾けられた顔はやや上を向いている。左膝は地面に付けられており、右手は画面端まで伸ばされ、視線は右手とは反対の方向に向けられている。J.ワッサーマンは、この作品にレオナルドが持つ解剖学の知識が反映されていると指摘した[66]。前面にはヒエロニムスの象徴である大きなライオンが寝そべり、その胴体と尾が別方向のカーブを描いている。背景に粗く描かれた岩地の風景が、ヒエロニムスの身体を浮かび上がらせている。
『荒野の聖ヒエロニムス』と同様に、大胆な構成、風景描写、さらには人間模様が描かれているのが『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館)で、サン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から依頼された作品だった。250cm四方で、非常に複雑な構成が採用されている。レオナルドは『東方三博士の礼拝』を制作するにあたって、線遠近法で描かれた背景の古代ローマ建築物など、数多くのドローイングと習作を描いた。しかしながら、1482年にロレンツォ・デ・メディチから、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァへの使者としてミラノ公国へ向かうように命じられたため、『東方三博士の礼拝』の制作も未完のまま放棄されてしまった[10][65]。
この時期に描かれたもうひとつの重要な絵画が『岩窟の聖母』で、ミラノの聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼による作品である。『岩窟の聖母』は、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディス(en:Giovanni Ambrogio de Predis)と弟エヴァンジェリスタが協力した作品で、既に完成していた祭壇を飾る大きな祭壇画として描かれた[67]。レオナルドはこの作品を、聖アンナ、聖母マリア、幼児キリストの聖家族が、天使に守られてのエジプトへの逃避中に幼い洗礼者ヨハネと出会うという、聖書の正典ではありえない場面に設定した。さらに幼いヨハネはキリストを救世主と認め、祈りを捧げている情景が表現されている。崩れ落ちそうな岩と渦巻く川を背景にして、青白い顔をした美しい人々が、幼児キリストを愛情をこめて崇拝している場面が描かれている[68]。『岩窟の聖母』は200cm × 120という比較的大規模な作品ではあるが、『東方三博士の礼拝』のような複雑な画面構成にはなっていない。『東方三博士の礼拝』にはおよそ15名の人物像と詳細な建築物が描かれているが、『岩窟の聖母』に描かれているのは4名の人物像と岩の洞窟だけである。『岩窟の聖母』は異なるヴァージョンで2点制作され、1点は聖母無原罪の御宿り信心会の礼拝堂に(現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵しているヴァージョン)、もう1点はレオナルドの手元に留め置かれ、後にレオナルドと共にフランスへと持ち込まれている(現在パリのルーヴル美術館が所蔵するヴァージョン)。しかしながら聖母無原罪の御宿り信心会が正式に『岩窟の聖母』を入手、ないし制作代金を支払ったのは16世紀になってからのことだった[17][29]。
1490年代の絵画作品
レオナルドが1490年代に描いた絵画作品のなかでもっとも有名な作品は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂にある壁画『最後の晩餐』である。この作品にはキリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれており、キリストが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている[69]」と口にした瞬間が描写されている。レオナルドは、このキリストの言葉によって12名の弟子たちが狼狽したという『ヨハネによる福音書』の一場面をこの壁画に描き出したのである[17]。
レオナルドの同時代人のイタリア人著述家マッテオ・バンデッロ(en:Matteo Bandello、1480年頃 - 1562年)は、レオナルドがこの『最後の晩餐』の製作中には、数日間夜明けから夕暮れまで食事も採らずに絵画制作に没頭し、その後3、4日はまったく絵筆を取らなかったとしている[70]。この制作手法は修道院長には理解し難いものであり、レオナルドがミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに苦情を申し立てるまで、上級幹部たちはレオナルドに迅速な作業を要求した。ヴァザーリは、レオナルドが『最後の晩餐』に描くキリストと裏切り者ユダの顔の表現に苦労しており、修道院長をモデルにするかもしれないとルドヴィーコに語ったと記している[71]。
完成した『最後の晩餐』は、構成、人物表現ともに非常に優れた作品だと評価されたが[72]、急速に状態が劣化していき、完成の百年後には「完全に崩壊した」といわれるようになった[73]。レオナルドはこの壁画を制作するにあたって信頼の置けるフレスコ技法ではなく、ジェッソを主材料とした下塗りの上からテンペラを用いたため、作品表面にカビが生じ、顔料の剥落を招いてしまったのである[74]。このような非常に大きな損傷を被っているとはいえ、『最後の晩餐』はもっとも模写や複製などが制作された絵画作品のひとつであり、絵画だけではなく絨毯やカメオなど、さまざまな媒体に複製されている。
1500年代の絵画作品
レオナルドが16世紀に描いた小規模な肖像画で、ルーヴル美術館が所蔵する『モナ・リザ』は、世界でもっとも有名な絵画作品といわれている。描かれている女性が浮かべているとらえ所のない微笑が高く評価されている作品で、口元と目に表現された微妙な陰影がこの女性の謎めいた雰囲気をもたらしている。この微妙な陰影技法は「スフマート」あるいは「レオナルドの煙」と呼ばれている。ヴァザーリはこの『モナ・リザ』を直接目にしたことはなく、噂でしか知らなかったといわれているが、「その微笑は魅力的で、人間ではなく神が浮かべているようにみえる。この絵画を目にしたものは、まるでモデルが生きているかのように描かれていることに驚くことだろう」としている[75]
。
その他『モナ・リザ』の特徴として、飾り気のない衣装、うねって流れるような背後の風景、抑制された色調、極めて高度な写実技法などが挙げられる。これらの特徴は顔料に油絵の具を使用することによってもたらされたものだが、絵画技法はテンペラと同様な手法が用いられており、画肌表面で顔料を混ぜ合わせた筆あとはほとんど見られない。ヴァザーリはレオナルドを「他者を絶望、落胆させるような、自信に満ちた芸術家」として、その絵画技術を絶賛している[76]。ルネサンス期に制作された板絵としては、『モナ・リザ』の保存状態は完璧に近く、修復加筆の痕跡もほとんど見られない[77]。
自然の風景の中に人物像を描くという『聖アンナと聖母子』の構成は、ジャック・ワッサーマンが「息をのむような美しさ」としており[78]、『荒野の聖ヒエロニムス』の傾いた人物像を髣髴とさせる。『聖アンナと聖母子』が群を抜いている点は、二人の人物が斜めに重ねあわされている構図にある。母アンナの膝に座る聖母マリアが、自身が将来遭遇する受難の象徴である子羊を手荒に扱うキリストをたしなめようと、身体を傾けて腕を伸ばしている[17]。『聖アンナと聖母子』も多くの模写が制作された絵画で、ミケランジェロ、ラファエロ、アンドレア・デル・サルトらにも影響を与え[79]、さらにはその弟子であるヤコポ・ダ・ポントルモ、コレッジョらにも影響を与えた。また、『聖アンナと聖母子』の画面構成はヴェネツィアの画家ティントレットやパオロ・ヴェロネーゼらが好んで採用した。
ドローイング
レオナルドは多作な画家ではなかったが、多くのデッサンやドローイングを残しており、その手稿にはレオナルドが興味をもったあらゆる事象の小さなスケッチや詳細なドローイングで埋め尽くされている。現存するデッサンは900種とも言われている。絵画作品の習作や下絵も多く現存しており、『東方三博士の礼拝』、『岩窟の聖母』、『最後の晩餐』などの習作であると特定できるものもある[80]。制作日時が判明している最初期のドローイングは1473年の『アルノ川の風景』で、川、山、モンテルーポ城、農地が極めて詳細に描かれている[11][80]。レオナルドが描いたドローイングの中で有名な作品として、人体の調和を表現した『ウィトルウィウス的人体図』(アカデミア美術館)、『岩窟の聖母』の習作『天使の頭部』(ルーヴル美術館)、植物が描かれた習作『ベツレヘムの星』(ウィンザー城ロイヤル・コレクション)、160cm ×100cmの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(ナショナル・ギャラリー)などがある[80]。色つきの紙に黒チョークで描かれた『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』には、陰影表現に『モナ・リザ』に見られるスフマート技法が用いられている。この『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』を直接の習作として描かれた絵画作品は存在しないともいわれているが、ルーヴル美術館が所蔵する『聖アンナと聖母子』は構成がよく似ている[81]。
実在の人物をモデルとしていると思われるものの、大げさに誇張して描かれた「カリカチュア」と呼ばれる多くのドローイングがある。ヴァザーリは、レオナルドは興味を惹かれる容貌の持ち主を見かけると、一日中その後を着いてまわって観察し続けたと記している[82]。美しい少年を描いた習作も数多く存在する。弟子のサライに関連するものも多いが、いわゆる「ギリシア人風の横顔」と称される、希少かつ高く評価されている習作がある[注 13]。これら端整な「ギリシア人風の横顔」は、レオナルドの戦士を描いた習作と好対照であるといわれることもある[80]。また、サライは仮装のような装束で描かれていることも多い。レオナルドはショーや行列の演出を任されることもあり、これらはそのための習作だった可能性もある。その他に衣服の習作もあり、なかには極めて詳細に描かれたものも存在している。レオナルドは初期の作品から優れた衣服の表現技法を見せている。1479年にレオナルドがフィレンツェで描いた、猟奇的ともいえるスケッチがある。ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノが暗殺されたパッツィ家の陰謀に加担したベルナルド・バロンチェッリが、絞首刑に処せられた場面を描いたスケッチである[80]。このスケッチにはレオナルドが流麗な鏡文字で書いた、バロンチェッリが処刑されたときに身につけていた衣服のことが記されている。
ギャラリー
以下は、記事本文中で使用している絵画作品以外の、レオナルドの「真作 (Universally accepted)」、あるいは「ほぼ真作 (Generally accepted)]とされている絵画作品である。
『ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像』、1476年 - 1478年頃(諸説あり)、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート
『ブノアの聖母』、1479年 - 1480年頃(諸説あり)、エルミタージュ美術館
『リッタの聖母』、1481年 - 1497年頃(諸説あり)、エルミタージュ美術館、他者との合作という説もある
『音楽家の肖像』、1485年頃(諸説あり)、アンブロジアーナ図書館
『白貂を抱く貴婦人』、1490年頃、チャルトリスキ美術館
『ミラノの貴婦人の肖像』、1496年 - 1497年頃(諸説あり)、ルーヴル美術館
『救世主』、1504年 - 1507年頃(諸説あり)、プライベートコレクション
『ほつれ髪の女性』、1508年頃、パルマ国立美術館
手稿
ルネサンス人文主義では、科学と芸術をかけ離れた両極端なものとは見なしてはいなかった。レオナルドが残した科学や工学に関する研究も、その芸術作品と同じく印象深い革新的なものだった[17]。これらの研究は13,000ページに及ぶ手稿にドローイングと共に記されており、現代科学の先駆ともいえる、芸術と自然哲学が融合したものである。手稿には日々の暮らしや旅行先でレオナルドが興味を惹かれた事柄が記録されており、レオナルドは自身を取り巻く世界への観察眼を終生持ち続けた[17]。
レオナルドの手跡はほとんどが草書体の鏡文字で記されている。この理由としてレオナルドの秘密主義によるものだとする説もあるが、単にレオナルドが書きやすかっただけだとする説もある。レオナルドは左利きであり、右から左へと文字を書くほうが楽だったと思われる[注 14]。
レオナルドの手稿とそのドローイングには、レオナルドが興味と関心を持ったあらゆる分野の事象が書かれている。食料品店や自身の召使いの一覧といった日常的なものから、翼や水上歩行用の靴の研究にいたるまで、極めて幅広いジャンルにまたがっている。そのほか、絵画の構成案、詳細表現や衣服の習作を始め、顔、感情表現、動物、乳児、解剖、植物の習作や研究、岩石の組成、川の渦巻き、兵器、ヘリコプター、建築の研究などが手稿に書かれている。さまざまな種類、大きさの紙に記されたこれらの手稿はレオナルドの死後に散逸し、現在ではウィンザー城のロイヤル・コレクション、ルーヴル美術館、スペイン国立図書館(en:Biblioteca Nacional de España)、ヴィクトリア&アルバート博物館などに所蔵されている。また、アンブロジアーナ図書館には12巻のアトランティコ手稿(en:Codex Atlanticus)が、大英博物館にはアランデル手稿(en:Codex Arundel)がそれぞれ所蔵されている[83]。ビル・ゲイツが所蔵するレスター手稿(en:Codex Leicester (Leonardo da Vinci))は科学に関する研究が多く記された手稿で、毎年1度、1カ国、1カ所のみで展示されている。
レオナルドの手稿は、最終的には出版することを目的として書かれたものだと考えられている。これは多くの手稿で様式や順番が整理されているためである。1枚の手稿にひとつの事柄について記されているものが多い。例えば人間の心臓や胎児について書かれた手稿には、詳細な説明とドローイングが1枚の紙に記されている[84]。しかしながら、レオナルドの存命中にこれらの手稿が出版されなかった理由は分かっていない[17]。
科学に関する手稿
レオナルドの科学への取り組み方も観察によるものだった。ある事象を理解するために詳細な記述と画像化を繰り返し、実験や理論は重視していなかった。レオナルドはラテン語や数学の正式な教育を受けておらず、独力でラテン語を習得したものの、当時の多くの学者からは科学者であるとは見なされていなかった。1490年代にレオナルドはルカ・パチョーリのもとで数学を学び、1509年に出版されることになるパチョーリの『神聖比率』(en:De divina proportione)の挿絵に使用する版画の下絵として、正多面体骨格モデルのドローイングを複数描いている[17]。残された手稿の内容から判断すると、レオナルドはさまざまな主題を扱った科学論文集を出版する予定だったと考えられる。平易な文章で書かれた解剖学を扱った手稿は、枢機卿ルイ・ダラゴンの秘書官がフランスを訪れていた1517年に実施された解剖を、レオナルドが見学した体験から書かれているといわれている[85]。弟子のフランチェスコ・メルツィが編纂した解剖学、光や風景の表現手法に関するレオナルドの手稿が、1651年にフランスとイタリアで『絵画論』(Trattato della pittura、ウルビーノ手稿(en:Codex Urbinas)とも呼ばれる)として出版された。1724年にはドイツでも出版されている[86]。『絵画論』がフランスで出版後50年間で62版まで版を重ねたこともあって、レオナルドは「フランス芸術学教育者の始祖」と見なされるようになっていった[17]。科学分野でレオナルドが行った実験は当時の科学理論に適ったものだったが、物理学者フリッチョフ・カプラのようにレオナルドを徹底的に追求した研究者たちは、後世のガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンといった科学者たちと比べると、レオナルドは本質的に全く別種の研究者であるとし、レオナルドの科学的理論と仮説は芸術、とくに絵画と一体化したものだったと主張している[87]。
解剖学に関する手稿
レオナルドが人体解剖学の正式な教育を受け始めたのは、ヴェロッキオの徒弟時代のことで、これは師のヴェロッキオが弟子全員に解剖学の知識の習得を勧めたためである。レオナルドはすぐに画家にとって必要とされる局所解剖学の知識を身につけ、筋肉、腱など、人体の内部構造を描いた多くのドローイングを残している。
著名な芸術家だったレオナルドは、フィレンツェのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院(en:Hospital of Santa Maria Nuova)での遺体解剖の立会いを許可されており、さらに後にはミラノとローマの病院でも同様の立会いを許されている。レオナルドは1510年から1511年にかけてパドヴァ大学解剖学教授マルカントニオ・デッラ・トッレ(en:Marcantonio della Torre)とともに共同研究を行った。レオナルドは200枚以上の紙にドローイングを描き、それらの多くに解剖学に関する覚書を記している。レオナルドの死後、これらの手稿を受け継いだ弟子のフランチェスコ・メルツィが出版しようとしたが、手稿の言及範囲の広さとレオナルド独特の筆記法のために作業は困難を極めた[88]。結局メルツィの存命中には出版することができず、メルツィの死後50年以上にわたって作業は放置されてしまった。結局、1651年に出版された『絵画論』にも含まれることになる、解剖学に関する僅かな手稿のみが、フランスで1632年に出版されただけとなった[17][88]。メルツィはレオナルドの手稿を出版するにあたってその編纂を任されていた時期に、多数の解剖学者や芸術家たちがレオナルドの手稿を研究しており、画家のヴァザーリ、チェッリーニ、デューラーらが、この手稿の挿絵をもとにした多くのドローイングを描いている[88]。
レオナルドは筋肉や腱などと同じく、人体骨格を扱った手稿も多数制作している。骨格と筋肉の機能に関するこれらの研究は、現代科学でいうバイオメカニクスの初歩にも適用可能な先駆的研究ともいわれている[89]。レオナルドは心臓や循環器、性器、臓器などの手稿も残しており、胎児を描いた最初期の科学的なドローイングを描いている[80]。芸術家としてのレオナルドは綿密な観察によって、加齢による影響、生理学的観点からみた感情表出を記録し、とくに激しい感情が人間に及ぼす影響について研究した。また、顔部に奇形や罹病跡をもつ人物のドローイングも多数描いている[17][80]。
レオナルドは人間だけではなく、解剖に付されたウシ、鳥、サル、クマ、カエルといった動物の解剖画も手稿に描いており、人間との内部構造の違いを比較している。また、ウマに関する手稿も多く残している。
工学と創案に関する手稿
存命時のレオナルドは工学技術者としても評価されていた。ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに宛てた書簡で、レオナルドは自らのことを都市防衛、都市攻略に用いるあらゆる兵器を作ることができると書いている。1499年にフランス軍に敗れたミラノ公国からヴェネツィアへと避難したレオナルドは、当地で工学技術者の職を得て、都市防衛のための移動要塞を考案している。また、ニッコロ・マキャヴェッリも参画していたアルノ川流路変更計画にも、土木技術者として加わった[90][91] 。レオナルドの手稿には、数多くの現実的あるいは非現実的な創案があり、楽器ヴィオラ・オルガニスタ(en:Viola organista)、水圧ポンプ、迫撃砲、蒸気砲などの創案が含まれている[11][17]。
1502年にレオナルドは、オスマン帝国スルタンのバヤズィト2世が構想した土木工事計画のために長さ200メートルにおよぶ橋の設計図を制作している。この橋はボスポラス海峡入り江の金角湾に架けられる予定だった。しかしながらバヤズィト2世はこのような大規模な土木工事は不可能だとして、この工事計画を承認しなかった。このときレオナルドがデザインした橋は、2001年にノルウェーで実施された「レオナルド・ブリッジ・プロジェクト(en:Vebjørn Sand Da Vinci Project)で実際に建設された[92][93]。
レオナルドはその生涯を通じて空を飛ぶことを夢見ていた。1505年ごろの『鳥の飛翔に関する手稿』(en:Codex on the Flight of Birds)などで鳥の飛翔を研究し、ハンググライダーやヘリコプターのような飛行器具の概念図を制作している[17]。イギリスのテレビ局チャンネル4は2003年のドキュメンタリー番組『レオナルドが夢見た機械』(Leonardo's Dream Machines)で、レオナルドの手稿に残る設計どおりにさまざまな器具を製作した[94]。設計どおりに動作したものもあれば、全く役に立たないものまでさまざまな結果となった。
名声と評価
レオナルドの名声は生前から一貫しており、フランス王フランソワ1世がレオナルドをまるで戦利品であるかのようにフランスへと連れて行くほどだった。フランソワ1世は最晩年のレオナルドを支え、レオナルドはフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったという伝承が残っている。レオナルドに関する世間からの関心は、その後も衰えることはなかった。現在でもレオナルドの有名な美術作品を観るために大衆が列をなし、Tシャツにはレオナルドの絵画がプリントされ、作家たちはレオナルドの驚くべき博学さとその私生活についての考察を書き続け、史上最高の知性を持った人物であるとみなされている[17]。
ヴァザーリは『画家・彫刻家・建築家列伝』の1568年に出版された第2版の[95]、レオナルドの列伝冒頭で次のように紹介している。
多くの人々がそれぞれに優れた才能を持ってこの世に生を受ける。しかし、ときに一人の人間に対して人知を遥かに超える、余人の遠く及ばない驚くばかりの美しさ、優雅さ、才能を天から与えられることがある。霊感とでもいうべきその言動は、人間の技能ではなく、まさしく神のみ技といえる。レオナルド・ダ・ヴィンチがこのような人物であることは万人が認めるところで、素晴らしい肉体的な美しさを兼ね備えるこの芸術家は、言動のすべてが無限の優雅さに満ち、その洗練された才気はあらゆる問題を難なく解決してしまう輝かしいものだった。—ジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝』
画家、批評家、歴史家たちからの尽きることのない高い評価は、さまざまな賛辞となって表現されている。『宮廷人』の著者バルダッサーレ・カスティリオーネは1528年に「ほかに世界最高の画家がいたとしても、彼(レオナルド)の懸絶した芸術の前では顔色を失うだろう」とし[96]、レオナルドの伝記を書いた、通称アノニモ・ガッディアーノと呼ばれる詳細不明の伝記作家は1540年に「彼(レオナルド)の才能は極めて稀なあらゆる分野に通暁したもので、万物が彼に味方しているかのような奇跡といえるものである」と賞賛している[97]。
19世紀はレオナルドの才能に対する賞賛がとくに高まった時期となった。これはイギリスで活動したスイス人画家ヨハン・ハインリヒ・フュースリーが1801年に書いた「現代美術の夜明けといえる出来事だった。レオナルド・ダ・ヴィンチが、それまでの優れているとはいえなかった芸術を光輝に満ちたものへと一変させた。ただ一人の天才がすべてのことを成し遂げたのである」という文章によるものだった[98]。A. E. リオも1861年に「彼(レオナルド)は、その才能の偉大さ、高貴さにおいて、あらゆる芸術家から屹立した存在だった」とレオナルドを評価した[99]。
19世紀にはレオナルドが残した膨大な手稿が、その絵画作品と同様に広く知られるようになった。イポリット・テーヌは1866年に「これほど多彩な才能を持つ人間はおそらく他に存在しない。飽きるということを知らず、その探究心は無限であり、生まれながらに洗練された、同時代はもちろん、その後何世紀にもわたって群を抜いている人物である」としている[100]。美術史家バーナード・ベレンソンは1896年に「レオナルドは真の天才といえる唯一の芸術家である。彼(レオナルド)が触れたものは、すべてが永遠の美へと姿を変えた。頭蓋骨の断面、雑草の構造、筋肉の習作などあらゆるものが、彼が持つ描線と陰影の感性によって永久の生命を吹き込まれたのである」と記している[101]。
レオナルドの類稀な知性への関心は、衰えるところを知らない。専門家によるレオナルドの文章の研究と解釈、絵画作品への最先端の科学技術を駆使した分析によってその業績が明らかにされ、さらには、記録には残っているものの現存しないとされる作品の探索も試みられている[102]。リアナ・ボルトロンは1967年の著書で「あらゆることに関心を示す彼(レオナルド)の好奇心が、さまざまな分野に対する知識を追い求めさせた。レオナルドは間違いなく比類なき万能の天才である。……レオナルドが没して5世紀が過ぎたが、未だにレオナルドは我々の畏敬の対象となっている」と記している[11]。
脚注
出典
参考文献
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volume 2: ISBN 0-486-22573-9. A reprint of .
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[The chapter "The Graphic Works" is by Frank Zollner & Johannes Nathan].
関連文献
『よみがえる最後の晩餐』片桐頼継、アメリア アレナス共著、日本放送出版協会、2000年 ISBN 4-14-080494-7
『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』片桐頼継、角川選書、2003年 ISBN 4-04-703359-6
万能の天才という手放しのレオナルド礼賛に疑問を呈し、特に「発明」なるものの多くが実用にはほど遠く、また他人のアイディアも含まれると指摘している。しかし、レオナルドの功績は絵画の革新など別の面にもある。
『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実 創られた物語と西洋思想の系譜』 竹下節子 中央公論新社 2006年5月 ISBN 4-12-003733-9
『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯 飛翔する精神の軌跡』 チャールズ・ニコル 越川倫明ほか訳、白水社 2009年
『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と科学』 カルロ・ペドレッティ、アンドレ・シャステル、パオロ・ガッルッツィ、ルカ・アントッチャ、マルコ・チャンキ共著、前田富士男・ラーン大原三恵・小林明子訳、イースト・プレス、2006年。
『下村寅太郎著作集5. レオナルド研究』 みすず書房 1992。
『兒島喜久雄 レオナルド研究寄與』澤柳大五郎編、座右宝刊行会 1973。
レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿
『レオナルド素描集成』 レオナルド・ダ・ヴィンチおよびその周辺画家の素描、L.C.アラーノ解説
日本版は澤柳大五郎監修、三神弘彦訳、みすず書房.1984。
『レオナルド・ダ・ヴィンチ解剖図集』 松井喜三編解説 みすず書房 1971、新版2001
関連項目
レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿
クリストフォロ・ディ・メッシスブーゴ - 宮廷料理人、"料理界のダヴィンチ"と呼ばれる
美しき姫君
ルネサンス期のイタリア絵画
レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港
全日本空輸 - 設立当初のロゴに、ダ・ヴィンチのヘリコプターが図案として使われていた
児島喜久雄 - 戦前日本におけるレオナルド・ダ・ヴィンチ研究の泰斗。
ダ・ヴィンチ・コード - レオナルドにまつわる謎を描いた小説
外部リンク
(Project Gutenberg)
"Leonardo da Vinci" in the 1913 Catholic Encyclopedia.
at Project Gutenberg
Article from The Guardian
High resolution images of works by and/or portraits of Leonardo da Vinci in .jpg and .tiff format.
The Queen's Gallery, Buckingham Palace, Friday, 4 May 2012 to Sunday, 7 October 2012. High-resolution anatomical drawings.
大英図書館所蔵 ダ・ヴィンチ手記
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81 |
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津軽ダム(つがるダム)は青森県中津軽郡西目屋村、一級河川・岩木川本流上流部に建設されたダムである。
国土交通省東北地方整備局が施工を行う国土交通省直轄ダムで、高さ97.2メートルの重力式コンクリートダム。岩木川総合開発事業の中心事業として岩木川の治水、津軽平野への灌漑、流域都市への水道供給および水力発電を目的とした特定多目的ダム法に基づく特定多目的ダムである。1960年(昭和35年)に完成した目屋ダムのダム再開発事業として、目屋ダム直下流60メートル地点に建設され、2017年(平成29年)4月29日にダムのオープンイベントが行われた[1]。完成に伴い目屋ダムは水没する。ダムによって形成される人造湖は、近くにある白神山地にちなんで<b data-parsoid='{"dsr":[1322,1333,3,3]}'>津軽白神湖(つがるしらかみこ)と命名された。
地理
岩木川は青森県を流れる河川としては最大規模の河川である。青森県・秋田県境、1993年(平成5年)に世界自然遺産に登録された白神山地にある雁森岳を水源とし、ダム地点を通過すると岩木山南麓を東に向かって流れ、弘前市に至る。その後は向きを北に変え、弘前市・南津軽郡田舎館村・南津軽郡藤崎町の境で水系最大の支流である平川を合わせる。以降北津軽郡板柳町・鶴田町・中泊町、つがる市、五所川原市を流れて三角州を形成しながら十三湖に至り、十三湖大橋を経て日本海へと注ぐ。流路延長102キロメートル、流域面積約2,540平方キロメートルの河川であり、流域内の人口は約48万2400人を抱える[2]。
ダムは岩木川の上流部、白神山地の入口に当たる暗門の滝下流に建設されている。ダムの名称は青森県西部地域を総称する「津軽」から命名された。
経緯
岩木川の河川開発
青森県最大の河川である岩木川は、津軽平野の「母なる川」として流域住民の生活に欠かせない河川である。しかし白神山地の急峻な地形を上流域とすることから河川勾配は急で、大雨や融雪により発生した洪水は一挙に勾配の緩やかな津軽平野に流れ込む。加えて十三湖河口部はしばしば河口閉塞を起こすため、行き場を失った河水は十三湖や岩木川下流に滞留し、浸水被害を増加させていた。このため1917年(大正6年)より当時河川行政を管轄していた内務省は岩木川改修計画を立案し、主に下流部を中心とした堤防整備や十三湖の河口開削を柱とした河川改修を国直轄事業として進めていたが、1935年(昭和10年)に発生した洪水は改修計画で定めた岩木川河口部における計画高水流量・毎秒1,670立方メートルを超過する流量となり、津軽平野に多大な被害を与えた。このため翌年の1936年(昭和11年)に計画を改定し、計画高水流量を毎秒2,500立方メートルに高直しした上で河川改修に再度取り掛かるが、財政面・工期の時間的な制約などが問題となり進捗は遅れていた。その一方で、岩木川は天候によっては容易に水不足に陥り易く、一大穀倉地帯であり、かつ青森県の特産品であるリンゴ栽培も盛んな津軽平野では廻堰大溜池(津軽富士見湖)をはじめ多くのため池が建設されていたが、農業用水の安定的な確保には至らず流域住民はより安定した農業用水の供給を望んでいた。さらに当時の青森県は他県に比べて電力の需給バランスが悪く、電力は他県の発電所から融通をしてもらうという状態だったことから、灌漑や水力発電といった利水についても開発の必要性が生じていた[2][3][4]。
当時の日本における河川行政は、東京帝国大学教授で内務省土木試験所長だった物部長穂が河水統制事業を提唱し、従来利水目的で建設が行われていたダム事業を治水・利水の双方で利用し総合的な河川開発を行うべきと主張。内務省内務技監の青山士(あきら)が1935年に国策として採用したことから相模川(神奈川県)、錦川(山口県)、綾川(香川県)などで多目的ダムによる河川開発が実施され始めた。青森県はこれに先立ち1934年(昭和9年)、治水と水力発電を目的として岩木川最大の支流・平川の二次支流である浅瀬石(あせいし)川上流部に日本最初の多目的ダム事業である浅瀬石川河水統制事業・沖浦ダムの建設に着手。十和田湖の莫大な貯水量を利用して三本木原台地の農地開発と水力発電を目的とした奥入瀬川河水統制事業と共に河川総合開発の先駆けとして1945年(昭和20年)に完成させた。戦後、連年発生する水害や食糧不足、発電設備の障害に端を発する停電頻発が日本の復興に負の影響を及ぼすことを懸念した内閣経済安定本部により、1951年(昭和26年)に物部の河水統制事業を拡充した河川総合開発事業が制度化。岩木川水系は対象河川となり多目的ダム計画がスタート。さらに1950年(昭和25年)制定の国土総合開発法に基づき、より広域かつ強力な河川開発を行い地域発展を促進する目的で特定地域総合開発計画が日本の22地域で計画された。青森県下でも岩木川水系と奥入瀬川水系が対象とされ1957年(昭和32年)に十和田岩木川特定地域総合開発計画が閣議決定され、岩木川の治水、津軽平野・三本木原台地の灌漑、両河川の水力発電開発などが計画に盛り込まれた[3][5][6][7]。
こうした中で岩木川水系の河川開発の要として計画・建設されたのが<b data-parsoid='{"dsr":[4180,4190,3,3]}'>目屋ダム</b>であり、1960年(昭和35年)に完成した。
新たな課題と対策
目屋ダムは1936年策定の改修計画に基づく洪水調節、津軽平野の農地1万2624ヘクタールに対する農業用水供給、認可出力1万1000キロワットの水力発電を目的に完成した[8]。総貯水容量は3900万立方メートルで完成当時は青森県最大のダムであり、岩木川の治水と利水に大きな役割を担っていた。しかしダム完成当時は高度経済成長期に差し掛かる時期で、人口の増加が著しくなる時期であった。このため利水の需給バランスが次第に不均衡になると共に都市・農地の拡大が治水安全度の低下をもたらし、従来の治水・利水計画では対応し切れなくなっていた。
治水では完成直後に流域を襲った1960年8月の洪水で早速洪水調節機能を発揮し、平均の洪水調節率は70パーセントと高い水準であった目屋ダムではあるが、治水計画を上回る洪水も度々発生した。ダム完成後48年間の間に計画洪水調節量を上回る洪水は21回記録され、1972年(昭和47年)の昭和47年7月豪雨と1997年(平成9年)5月の融雪洪水ではダムからの放流量が規定されている洪水調節時の放流量上限を超過した。前二者のほか1975年(昭和50年)の台風5号、1977年(昭和52年)の豪雨、1981年(昭和56年)の台風15号、1990年(平成2年)の台風19号(りんご台風)、2004年(平成14年)の豪雨で岩木川流域は多くの住宅や農地が浸水被害を受け、特に1977年の水害では死者・行方不明者41名を数える大きな被害を生じた。利水では1973年(昭和48年)と1982年(昭和57年)に大渇水が発生。1988年(昭和63年)には弘前市などで水不足が発生しプールが使用中止になるなどの影響を受けた。渇水は1988年以降2年に1回の割合で頻発し、農民が交代制で用水を利用する番水を行うなど不安定な状況が繰り返されたが特に深刻な水不足は気候変動が顕著になりつつあった2000年代以降であり、2007年(平成19年)の渇水では目屋ダムの貯水が過去最低水位に達し、岩木川の流量が極端に低下して農地には通常の二割しか取水できずひび割れの被害が生じたり、弘前市では上水道の給水制限が行われた。2011年(平成23年)にも再び渇水が発生し給水制限が実施されている[9][10][4]。
水害と渇水が交互に繰り返される状況下、岩木川本流におけるダムは目屋ダムしか存在しないため新たな河川開発が必要となった。岩木川水系は1966年(昭和41年)に河川法の改定により一級河川に指定され[11]、新たな河川改修計画である岩木川水系工事実施基本計画が1973年に策定された。この中で岩木川の基本高水流量は五所川原市地点で毎秒5,500立方メートルと大幅に高直しされ、これを河川改修や新規ダム事業で毎秒3,800立方メートルに低減する計画高水流量が決定した。また灌漑や上水道の水源も新たに整備する方向性が定まった。岩木川水系の多目的ダムはこの時点で目屋ダムのほかは沖浦ダムと五所川原市に1973年完成した飯詰ダム(飯詰川)[12]しかなく、特に上水道供給目的を有するダムは飯詰ダムのみであった。このため新たな多目的ダム計画が岩木川水系で検討され、その第一弾として着手されたのが浅瀬石川ダム(浅瀬石川)である。沖浦ダムの再開発事業として治水・水力発電に加え沖浦ダムにはなかった上水道供給目的が新規で加わり、1988年完成した[13]。そして岩木川本流でも新規のダム事業が計画され、既設目屋ダムの直下流に大規模なダムを建設して岩木川の治水・利水を強化する方針が青森県によって計画された。
計画当初「第二目屋ダム」として調査が開始されたダム事業が<b data-parsoid='{"dsr":[6549,6559,3,3]}'>津軽ダム</b>であり、浅瀬石川ダムが完成した1988年に事業が建設省東北地方建設局(国土交通省東北地方整備局の前身)に移管され、本格的な事業に着手した[4]。
補償
津軽ダムの建設に伴い、西目屋村砂子瀬地区・川原平地区の177戸と農地57ヘクタールが移転対象となる。この地域は目屋ダム建設においても移転対象となった地域であり、目屋ダムでは両地区において83戸92世帯が移転し、その大半が完成後にダム湖畔へ移転している。このため目屋ダムで移転を余儀なくされた住民が、津軽ダム建設によって再び移転を余儀なくされるという事態が起こった。しかも今回は目屋ダムを上回る規模の補償案件であり、再びダムにより故郷を失う住民はダム建設に強く反対した。
目屋ダムにおいては補償交渉に並行して下流域の受益地に住む住民が自発的にコメを一握り砂子瀬・川原平地区の住民に提供しようとした義捐金運動・「米一握り運動」を津軽平野全域で実施、当時の教員初任給1万円の時代に米価に換算して約150万円もの義捐金が集まり、これが移転住民の心を動かして1956年(昭和31年)に移転住民全員が一斉に補償基準に調印して交渉が妥結した[14]。この時期は国によるダム補償関連の法整備が未熟であり、熊本県の下筌ダム(津江川)建設反対運動である蜂の巣城紛争をはじめ八ッ場ダム(群馬県・吾妻川)や大滝ダム(紀の川・奈良県)など長期間かつ強硬なダム反対運動が展開されており、目屋ダムの例は稀であった。こうした強固な反対運動は建設省の対応が発端の一つであったことから、ダム補償に関する法整備が強く求められ1973年に水源地域対策特別措置法(水特法)が施行された。津軽ダムは1993年(平成5年)に水特法の指定ダムとなったが、移転戸数177戸と大規模であることから、水特法第9条などの指定を受けた(水特法9条等指定ダム)[15]。
水特法9条等指定ダムとは、ダムにより水没する戸数が150戸以上または水没農地面積が150ヘクタール以上の大規模な補償案件を有するダム事業に対し、道路・上下水道・小中学校・診療所・土地改良事業・森林保全事業などに関する補償事業の負担金を通常の指定ダムに比べて上積みするダムのことである。同法に指定されたダムとしては八ッ場・大滝ダムのほか東北地方では浅瀬石川ダム、御所ダム(雫石川)、七ヶ宿ダム(白石川)、長沼ダム(長沼川)、森吉山ダム(小又川)、摺上川ダム(摺上川)、三春ダム(大滝根川)がある。水特法指定以降移転住民との交渉は積み重ねられ、1999年(平成11年)に水没対象地域である西目屋村が水源地域に指定され、補償事業に関する整備計画が示された[16]。このうち代替移転地についてはダム下流の西目屋村田代地区、弘前市若葉地区と一町田地区の三か所が集団移転地として造成され、移転の準備が整えられた。2000年(平成12年)3月に損失補償基準の提示と補償説明会が実施された[17]。そして1995年(平成7年)に用地調査を開始してから延べ26回にわたる協議を経て2000年8月に移転住民は損失補償基準に調印し、1988年の津軽ダム計画発表から12年の歳月を経て補償交渉は妥結した[18]。以後徐々に砂子瀬・川原平地区の住民は新天地への移転を開始し、西目屋村田代地区に51世帯、弘前市一町田地区に31世帯、弘前市若葉地区に28世帯が移転し残りはそれ以外の地区へ散って行った[19]。古くからマタギの村として栄えた砂子瀬・川原平地区は全世帯が移転し、その歴史に幕を閉じたが、2002年11月には津軽ダム水没移転者協力感謝式典が青森県知事、弘前市長、東北地方整備局長出席の下開催され約600名の移転住民に対する感謝の念を表した[20]。なお、同一住民がダム建設により二度の移転を余儀なくされた例は石淵ダム・胆沢ダム(胆沢川)の例がある[21]
移転住民の補償交渉はこうして妥結したが、漁業権の補償を巡る岩木川漁業協同組合との漁業補償は難航している。2009年(平成21年)より開始された漁業補償交渉は、岩木川全域を漁業補償対象にすべきと主張する漁協側と事業者の国土交通省との間で意見が対立。2011年に国土交通省が提示した補償金額2177万円を漁協は拒否、国土交通省は青森県収用委員会に対し土地収用法に基づく漁業権の収容と使用を申請した。2012年(平成24年)に国土交通省側の主張が容れられた裁決が決定したが漁業側は裁決に対し拒否を表明。裁決に対する不服申し立てが不調に終わった場合は訴訟に踏み切るという姿勢を示している[22]。
建設
津軽ダムの建設において特に注意が払われたのは、白神山地など流域環境の保全と、目屋ダムの機能を維持しながら工事を進めることの二点であった。
環境対策
津軽ダムの建設を開始するに当たり、まず重要となったのは環境保全である。津軽ダムが建設される岩木川上流域は世界的にも貴重なブナ原生林が広がる白神山地があり、面積の23パーセントが岩木川流域である。白神山地には国の天然記念物に指定されているクマゲラやイヌワシをはじめ、希少種が多く生息している。加えて白神山地は1993年に世界自然遺産に屋久島と共に日本で初めて登録された。さらに1997年には環境影響評価法が制定され、大規模なダム事業は環境モニタリングが義務化されたこともあり、津軽ダム建設においてはこうした環境保護との整合性がより厳重に問われた。また目屋ダム完成以後、40年にわたり濁水問題が継続しており地元住民から「清流岩木川が泣く」と批判されていたため、岩木川の河床固定化改善を含めた流水機能改善も求められていた[23]。
津軽ダムでは環境影響評価法制定前の1992年(平成4年)に環境影響評価が閣議で認められ、以後アセスメントに沿った形で環境対策が実施された。まずダム建設に伴う騒音・振動・粉塵など工事に伴う諸問題に対する対策として低騒音型の工事機械の採用や工事車両が渋滞しないような運行対策などを盛り込んだ。またクマタカの営巣に影響を及ぼさないために工事時期を調整して営巣期には工事を回避したり、営巣地域への立入制限などを行った。濁水については、渇水時に水位が低下した際に河岸段丘部が削り取られ、濁水が長期化することが推測されたため複数の方法で濁水の長期化を回避する対策を採った。まず取水塔に選択取水設備を設け、貯水池上層の比較的清澄な水を下流に放流することで濁水防止の他、河川生態系に影響を及ぼす温水・冷水放流を抑えて岩木川の水温を一定に保たせるほか、貯水池上流に水質保全ダムを建設してそこからバイパストンネルを下流まで建設して上流部の澄んだ水を放流する、洪水時に可及的速やかに濁水を放流して貯水池への滞留を防ぐ環境放流設備をダムに設置するなど濁水の長期化を回避する対策を講じた。さらに目的の一つに河川維持放流目的を持たせ、目屋ダムから岩木川第一発電所間の水が常時少なくなっている区間に一定量の水を放流して河川生態系を維持すると共に流砂連続性を改善して河床の固定化を防ぐ対策を採った[23]。
生態系の維持については、貯水に伴い影響を受ける動植物の保全を対策に盛り込んだ。具体的にはユビナガコウモリの生息を保全するため人工的な洞窟を建設して2,300頭のコウモリを冬眠時に移転させ、生息数の維持を図った[24]。昆虫についてはハッチョウトンボとエゾゲンゴロウモドキの2種について、住民の移転により放棄された水田などを利用して湿地環境を増やし個体数の増加を促す。植物についてはダム工事により繁茂に影響を及ぼす5種類の植物に対し、適切な地点に移植して繁茂を促すなどの対策を採っている。クマタカ・イヌワシなどの猛禽類については継続的に営巣状況などを確認し、生息状況をモニタリングしている。そして年間60万人ともいわれる白神山地観光を活性化させるため幅員の狭かった青森県道28号岩崎西目屋弘前線の付け替え道路を建設、環境や景観に配慮しながら建設が進められ2014年(平成26年)11月全線開通した。これにより白神山地へのアクセス向上が期待されている[23][25]。
また、津軽ダム右岸直上流部で岩木川に合流する木戸ヶ沢には、1979年(昭和54年)に閉山した旧尾太(おっぷ)鉱山の鉱滓(こうさい)処分場である木戸ヶ沢堆積場があり、目屋ダム建設時に堆積場の重金属などが貯水池に流出しないようにする目的で鉱滓ダムである木戸ヶ沢かん止堤が建設されていた。しかし津軽ダムが建設されると貯水池の水位が上昇してかん止堤が冠水し、かん止堤の安定性低下や堆積場に積まれた鉱滓から重金属が流出して貯水池の水質を悪化させる懸念があった。このため2010年(平成22年)からかん止堤と県道28号木戸ヶ沢橋間の木戸ヶ沢に高さ43.2メートルの重力式コンクリートダムである鉱滓ダム・木戸ヶ沢貯水池保全施設</b>を建設し、鉱滓流出防止を図った。まず堆積場を迂回させて上流の清浄な沢水を下流に流すバイパストンネルの出口をかん止堤下流から木戸ヶ沢貯水池保全施設下流に付け替える排水トンネル付替え工事を実施。付替え後に本体工事を施工して津軽ダム貯水池と堆積場をダムで隔離して水質汚濁を防ぐ対策を講じた。2014年(平成26年)に本体コンクリートの打設が終了し、2015年に完成する予定である。完成後は木戸ヶ沢ダムと呼ばれる木戸ヶ沢貯水池保全施設であるが、鉱滓ダムであるため河川法や河川管理施設等構造令で規定されるダムには当たらない[26][27]。
ダムの施工
目屋ダム直下流60メートルという至近距離に建設される津軽ダムではあるが、完成までの間は目屋ダムは通常のダム機能を発揮している。このため目屋ダムの機能を維持しながらダム本体の工事を行わなければならない。しかしダム本体工事の第一段階である基礎岩盤の掘削を行うため、ダムサイトから川の流れを迂回させるために不可欠な設備である仮排水路については、すぐ上流に目屋ダムがあることからバイパストンネルをダム横の山に掘って流れを下流に迂回させる一般的な方法は物理的に不可能であった。特に目屋ダムは融雪期の3月末から6月に掛けてと、台風や大雨が多い夏季に放流するため、目屋ダムの放流水を適切に処理しながら工事を進める必要があったため、津軽ダムに関してはダム本体に仮排水路を設ける方針とし、半川締切方式でダム基礎岩盤の掘削と仮排水路工事を行うことにした。
津軽ダムで採用された半川締切方式の手順であるが、まずダム右岸に河水を流しこの間に流水が無くなった左岸部分の掘削を行い本体コンクリートを打設する。同時にダム本体下部に仮排水路を設ける工事を行い、完成した段階で右岸を流れていた河水を左岸に付け替える。以後河水は左岸の仮排水路を通って下流に流れ、今度は流れが無くなった右岸部の岩盤を掘削して本体コンクリートを打設し、右岸にも仮排水路を設ける。左右両岸の仮排水路が完成し、適切な河水の流下が可能となった所で本格的にダム本体のコンクリート打設を開始する[28]。半川締切方式は1924年(大正13年)に完成した日本初の高さ50メートル級ダムである大井ダム(岐阜県・木曽川)において初めて採用され[29]、堰や用水路の建設に際し用いられているが津軽ダムと同様の理由で半川締切方式を採用したダムとしては、北海道の夕張川に建設された大夕張ダムの再開発事業として、ダム直下流155メートル地点に2015年完成した夕張シューパロダムなどがある[30]。
ダム本体コンクリート打設に用いられた工法は1972年に山口県の島地川ダム(島地川)で世界最初の施工が行われ、以後大規模コンクリートダムにおける標準的な工法となったRCD工法を採用した。RCDとはRoller Compacted Dam-Concreteのことで、セメントの量を極力少なくした超堅練りコンクリートをブルドーザーでならしてロードローラーで締め固める工法である。機械を大量に投入可能なためコンクリートを大量に打設でき、工期の短縮や工事費を節約できることから島地川ダム以降多くのダムで採用されている[31]。
こうして目屋ダムの機能を維持しながら津軽ダムの本体工事は2007年より進められ、2015年の時点でほぼ本体工事は完了している。本体工事が完了すると仮排水路は閉鎖され、試験的に貯水を行いダム本体や周辺地盤への影響を確認する試験湛水(たんすい)を行い問題が生じなければ試験的に放流を行い、完成となる[4]。なお施工業者は安藤ハザマと西松建設であるが、安藤ハザマは前身の間組時代に目屋ダムの施工業者として建設に関わっている[3]。
目的
津軽ダムは目屋ダムを大幅に凌駕する規模のダムである(上表参照)。高さは1.7倍、長さは2倍、本体の体積は6.4倍の規模で、建設により貯水池の総貯水容量が3.6倍、有効貯水容量が3.9倍、湛水面積が2.5倍に拡大する[32]。こうした巨大な貯水容量を有することで、目屋ダムの目的である洪水調節、不特定利水、水力発電に加え、灌漑用水の供給、上水道・工業用水道の供給目的を追加した。多目的ダムとしては用途が広い。
洪水調節についてはダム地点の計画高水流量を毎秒3,100立方メートルに設定し、ダムで毎秒2,940立方メートルを調節し下流には毎秒160立方メートルを放流する。目屋ダムは毎秒500立方メートルを計画高水流量とし、毎秒450立方メートルを調節していたため約6倍の洪水調節が可能となる。不特定利水については先述の通り河川維持放流を行うことで岩木川の減水区間を解消し、河川生態系の維持を図る。灌漑については弘前市・つがる市・五所川原市・北津軽郡鶴田町の3市1町の農地9,600ヘクタールに農業用水を供給する。上水道については弘前市の水がめとして、1日量で1万4000立方メートルを新規に供給し、工業用水については五所川原市にある第二漆川工業団地に対し1日量で1万立方メートルの用水をそれぞれ供給する。そして水力発電については、東北電力が電気事業者としてダム事業に参加。ダム右岸にダム式発電所の<b data-parsoid='{"dsr":[15810,15821,3,3]}'>津軽発電所</b>を新設し、認可出力8,500キロワットを発電する。発電所の工事は2011年12月から開始され、2016年5月に運転が開始される見込みである[33][34]。
ただし、津軽ダムの事業内容については2005年(平成17年)と2007年に計画の変更が行われている。2005年の変更点はダムの完成年度であり、事業完成を2016年度へ変更した。2007年の変更は規模や目的内容、事業費などが変更されており、2005年よりも広範囲の変更であった。まず規模であるが当初計画のダム規模は高さ97.5メートル、総貯水容量1億4230万立方メートルであったが、高さを30センチメートル、総貯水容量を1400万立方メートル減らした。次に目的内容であるが受益地の情勢が変化したことによる利水計画の変更が主な内容である。灌漑目的では農地転用に伴う受益農地減少により、当初9,700ヘクタールだった供給面積を9,600ヘクタールに減らした。上水道については弘前市のほか当初は津軽広域水道事業団に所属する青森市、黒石市、平川市、五所川原市、つがる市、北津軽郡鶴田町・板柳町、南津軽郡藤崎町・田舎館村に対して合計で1日量5万4800立方メートルの給水を行う予定であったが、人口減少による水需要の鈍化で供給計画がより適正に変更された結果津軽広域水道事業団は水道事業から撤退。弘前市も供給量を半分以下に減らした。工業用水道も五所川原市の工業団地企業誘致が芳しくないことから、既に進出している工場の地下水取水をダムに転用する方向に転換し、1日量1万5000立方メートルの取水量を1日量1万立方メートルに減量した。反面洪水調節量については岩木川の治水基準点である五所川原市において100年に一度の洪水に耐えうる計画に修正するため、調節量を増加させている。水力発電事業においては大幅な変更があり、まず電気事業者が当初は目屋ダムの電気事業者である青森県公営企業局だったのが、電力自由化などによる環境の変化もあって事業から撤退。代わりに東北電力が新規事業者として参加した。津軽発電所も当初は岩木川第一発電所と同様にダム水路式発電所の計画であったがダム式発電所に変更、認可出力も当初1万3800キロワット予定が減らされ、8,500キロワットとなった。そして総事業費については当初約1450億円であったが、ダム自体の建設コストが削減されたのに対して環境対策・文化財保護対策・地すべり対策・木戸ヶ沢貯水池保全事業関連で事業費が約170億円増加し、トータルで約1620億円の事業費となった。また費用負担配分も利水事業者の撤退や治水事業の拡大で変更されている[35]。
津軽ダム完成は2016年の予定であるが、ダム完成に伴い流域の発展に56年間寄与してきた目屋ダムは、津軽ダムに沈みその役割を終える。また、目屋ダムの水力発電所である岩木川第一発電所も、津軽ダム完成に伴い取水口の目屋ダムが水没することから廃止されることが決まっている[36]。東北地方の国土交通省直轄ダムでは既に1988年に浅瀬石川ダム建設により沖浦ダムが、2010年(平成22年)に長井ダム(置賜野川)建設により管野ダムが、そして2013年(平成25年)に胆沢ダム建設により石淵ダムが水没しており、目屋ダムで4か所目の水没ダムとなる。なお、鳩山由紀夫内閣時代に当時の前原誠司国土交通大臣が推進したダム事業再検証では、津軽ダムは建設中であったが事業の再検証対象にはならなかった[37]。
津軽白神湖
津軽ダムによって誕生した人造湖は、浅瀬石川ダムが沖浦ダムの湖名を引き継いだのとは対照的に、目屋ダムの人造湖である美山湖の名は引き継がず、白神山地にちなみ<b data-parsoid='{"dsr":[19878,19889,3,3]}'>津軽白神湖</b>と命名された。ダム完成前に人造湖名が決まった例は少ないが、湖名は一般公募され、青森県内外189件の応募から2012年(平成24年)に決められた[39]。津軽白神湖は「目的」の項目でも触れた通り美山湖を大きく上回る規模の人造湖であり、総貯水容量では東北地方において7番目に規模の大きい人造湖となる。また湛水面積510ヘクタールは天然の湖沼と比較すると北海道の大沼(5.3平方キロメートル)に匹敵し[40]、人造湖でも北海道の岩尾内湖(岩尾内ダム・天塩川)や富山県の有峰湖(有峰ダム・和田川)と同等の規模を有し、東北地方では9番目に広い人造湖となる[41]。津軽白神湖では水陸両用バスの試験運行が白神山地世界自然遺産登録20周年に合わせて2013年に開始されている。この事業は水源地域対策特別措置法に基づく水源地域ビジョンとして、地域活性化を目的に社会実験を行ったものである[42]。
また津軽ダムは建設中の段階から積極的な工事現場内見学の受け入れを行っている。見学に訪れる団体は社会科見学として青森県内の小学校・中学校・高等学校児童・生徒および弘前大学・八戸工業大学などの学生や、青森県議会・弘前市議会などの議会関係者、農業協同組合・土地改良区などの受益者団体のほか町内会・老人会・婦人会といった地域コミュニティの団体、さらにはイランやスリランカからの視察団など幅広い。またダム右岸には展望台が設けられ、冬季以外は自由に見学が可能である。見学者数は年々増加しており、2012年の約2万2000人に対し2013年は倍以上となる約5万3000人が見学に訪れ、2014年も約5万2000人が訪れている。白神山地の入口に位置し暗門の滝にも近く、下流には弘前城といった観光地もあり、新たな観光地として期待が持たれている[43]。
その一環として、地元の西目屋村は水陸両用バスによるダム湖ツアーを開始した[44]。
津軽ダムへは弘前市街地より青森県道28号岩崎西目屋弘前線を白神山地・暗門の滝方面に直進すれば到着する。最寄りのインターチェンジは東北自動車道大鰐弘前インターチェンジ、最寄り駅はJR東日本奥羽本線弘前駅または弘南鉄道大鰐線中央弘前駅である。
参考文献
建設省河川局開発課『河川総合開発調査実績概要』第1巻。1955年
建設省河川局監修『多目的ダム全集』国土開発調査会。1957年
建設省河川局監修・財団法人ダム技術センター編『日本の多目的ダム 1990年版』直轄編。山海堂、1990年
建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム 1963年版』山海堂。1963年
社団法人日本河川協会監修『河川便覧平成16年版』国土開発調査会。2004年
高崎哲郎『湖水を拓く 日本のダム建設史』鹿島出版会。2006年
脚注
注釈
出典
関連項目
ダム - 日本のダム - 日本の人造湖一覧
重力式コンクリートダム - 日本の重力式ダム一覧
多目的ダム - 日本の多目的ダム一覧
国土交通省直轄ダム - 国土交通省直轄ダム事業年表
河川総合開発事業
ダム再開発事業
目屋ダム
水力発電 - 東北電力
水源地域対策特別措置法
西目屋村
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E3%83%80%E3%83%A0 |
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黄禹錫(ファン・ウソク、황우석、1952年1月29日 - )は、韓国の生物学者。
人物
2005年に世界で初めて犬のクローン(スナッピー)を成功させたクローン研究者であり、獣医でもある。元ソウル大学校獣医科大学教授(懲戒免職)。現在は飼い犬のクローンなどを手掛ける秀岩生命工学研究所の所長。
2004年および2005年にNature誌に載った2本の論文から、世界レベルのヒトのクローン研究者とされ、ヒトの胚性幹細胞(ES細胞)の研究を世界に先駆け成功させたと報じられた。自然科学部門における韓国人初のノーベル賞受賞に対する韓国政府や韓国国民の期待を一身に集め、韓国では「韓国の誇り」 (pride of Korea) と称されたこともあった。
しかし、2005年末に発覚したヒト胚性幹細胞捏造事件(論文の捏造・研究費等の横領・卵子提供における倫理問題)により、学者としての信用は地に墜ちた。この捏造の影響により、正攻法でES細胞を作り出そうとしていた民間企業が研究継続の断念に至るなど、山中伸弥がiPS細胞の生成に成功するまでの間、ES細胞や再生医療分野の研究の世界的な停滞を引き起こした元凶とされる。「科学における不正行為」をテーマとした書籍でたびたび言及される人物でもある。
検証の結果、不正が認められ、韓国社会・学会・国際的な表舞台から追放された。一方、犬のクローンに関しては事実と認められたほか、黄禹錫が作製に成功したと主張していたES細胞のうち、NT-1細胞に関してだけは唯一実在が認められた。ただしクローンによるES細胞ではなく単為発生によるES細胞と結論付けられた[1]。つまり、2004年にES細胞の作製と世界初となるヒトの単為生殖に成功していたことになるが、論文が不正であり、論文に記された作成に至る経過とは関係なく偶然できた物と検証されたため世界初とはみなされない。また、他のES細胞はそもそも存在しておらず、一つ以外すべて捏造と結論付けられた。2014年に研究費流用や生命倫理法違反などの罪で、懲役1年6カ月、執行猶予2年の刑が確定。
2010年代に入り、NT-1細胞の特許がカナダやニュージーランドなど各国で認可されているほか、2014年2月にはNT-1細胞の特許がアメリカで認可された。しかし、ヒトの研究者としては黄禹錫は韓国の学界からは2014年現在も追放されたままであり、当局より幹細胞研究の認可が下りない状態である。また、ソウル大学調査委員会、韓国幹細胞学会などはNT-1細胞を「黄禹錫の意図した製法ではなく偶然出来たもの」として認めておらず、特許の登録を巡って裁判で係争中である[2]。
不正事件によって表舞台や学会から追放された後も、いまだ韓国内に熱烈な支持者がおり、支持者の支援で在野で秀岩生命工学研究所を設立し、元々の専門分野である牛や犬などの動物のクローンの研究者として研究を続けている。論文不正事件の後は、世界中の愛犬家から依頼を受けて愛犬のクローンを製造するクローン犬ビジネスの第一人者となった[3]ほか、内外の公的機関からも軍用犬や警察犬などのクローン製造の依頼を受け、優秀な麻薬探知犬のクローン犬Toppyやコヨーテのクローンなどの業績を上げている。
2013年5月にはナショナルジオグラフィックチャンネルにてロシアでのマンモス復元プロジェクトの特集[4]、2014年1月にはかつて論文不正の舞台となったNature誌でもクローン研究者として改めて特集が組まれる[5]など、国際的な復権の兆しがある。2013年にはイギリスで愛犬のクローンを賞品とするコンテストを行い、またしても倫理的な議論を呼んだがキャンペーン自体は成功し、2014年4月にはイギリス初のクローン犬が誕生[6]。2014年までに500人が秀岩生命工学研究所に愛犬のクローンの申し込みを行っているという[6]。2015年には中国で世界最大のクローン工場の建設に協力していることが報じられた[7]。
2000年代にヒトのクローンの研究者として不正事件で韓国の学会を追放された後、2010年代に民間のクローン犬ビジネスの第一人者として表舞台に再び現れた黄禹錫に対しても倫理的な批判が根強い。
2015年公開の韓国映画『提報者 ~ES細胞捏造事件~』のモデルである。
生い立ちから事件以前
忠清南道扶余郡出身。幼い頃に父親と死別し、母子家庭の農家で小さな頃から牛の世話をする境遇の中、牛の世界的な研究家になるという夢を持った。貧しい中から親戚の援助や奨学金を得て大田高等学校、ソウル大学校獣医科大学へと進み、1977年に卒業。研究者になって以降は1日4時間しか寝ずに働いたという立志伝中の人物であった。〜1979年ソウル大学校で家畜臨床繁殖学修士号取得、1982年同博士号を取得。1984年から1985年まで北海道大学獣医学部に客員研究員として留学し金川弘司に師事した。1986年ソウル大学校専任講師、1987年同助教授、1993年獣医科大学副教授、1997年同教授、ソウル大学校動物病院院長、1999年同獣医科大学副学長、2004年同碩座教授、2005年同獣医科大学学長。
1993年には韓国初の牛の人工授精に成功、1999年に韓国初の牛のクローンを誕生させることに成功したと報じられ、医者などに比べて韓国での社会的関心や評価の低い獣医学という分野ながら脚光を浴びた。2003年には牛海綿状脳症 (BSE) に耐性を持った牛、さらにヒトに臓器を提供できる無菌処理をした豚を誕生させたと報じられ、世界的な研究者として認識されるようになった。
ES細胞論文不正事件
2004年2月に体細胞由来のヒトクローン胚から胚性幹細胞(ES細胞)を作製することに世界で初めて成功したと発表した(サイエンス誌2004年3月12日号・電子版同年2月12日付)。それまでヒツジ(ドリー)、ウシなどの哺乳類においては体細胞由来クローン技術はある程度確立されていた。しかし、ヒトはおろか、サルなどの霊長類においてすら体細胞由来クローンの成功例はなく、世界中の生物学会を驚愕させた。
2005年5月には、患者の皮膚組織から得た体細胞をクローニングして、そこから患者ごとにカスタマイズされたES細胞11個を作製したと発表し(サイエンス誌2005年6月17日号・電子版5月19日付)、脊椎損傷やさまざまな病気を抱える世界中の患者に希望の光を与えた。この際に使用した卵子が184個に過ぎないという異常な効率の良さも脚光を浴び、技術の実用化への可能性が高まったとされた。
2005年11月前後を境に、韓国国内で人卵子売買、不法卵子での人工授精手術や代理母などのブローカーの存在が明らかになり出し、ブローカーや産婦人科病院などにも警察の捜査が入ることとなった。その中には、黄禹錫教授と共に長年幹細胞研究を行い2005年論文の共著者でもあった盧聖一(ノ・ソンイル)ミズメディ病院理事長も含まれていた。
2005年11月10日、2005年論文の共著者の一人である米ピッツバーグ大学のジェラルド・シャッテン教授が、ソウル大学黄禹錫教授が卵子を「違法に入手している」とメディアに公表したのが発端となり、研究対象となる卵子を入手した方法が倫理基準に照らして問題があることが判明してスキャンダルとなった。2005年論文に添付された培養細胞の写真が2個を11個に水増しした虚偽のものであった(本人はコピーミスとしている)ことが問題となった。
2005年12月15日、卵子提供で協力関係にあり、黄教授とともにES細胞の論文を発表した盧聖一・ミズメディ病院理事長が韓国文化放送 (MBC) テレビのインタビューで「黄教授は論文の内容が虚偽だったことを認めた」事実を明らかにした。これにより「サイエンス」誌で発表された論文のES細胞に対する疑惑が高まり、その後の調査の過程で完全な捏造であることが確定し、サイエンスに発表されたES細胞に関する2つの論文(2004年2月・2005年5月)は、2006年1月にサイエンス編集部の判断で全て撤回 (Editorial Retraction) された。
当該論文の共同執筆者であったジェラルド・シャッテンは、「重大な疑惑がある」として2005年に掲載された論文から自分の名前を削除してほしいとサイエンス誌に申請したが、却下されている。
ヒトクローン胚作製の成功、ヒトES細胞の作製の成功だけではなく、BSE耐性を持つとされるクローン牛、これまで難しいとされてきた犬のクローンなどを成功させたと発表していたが、調査により犬のクローン以外は全て捏造であると報告された。これにより、『クローニングによってES細胞の製造ができる』という前提の下に行われていた研究は一時期すべて灰燼に帰したも同然となった。
再び幹細胞と再生医療の研究に光明が射し始めたのは、山中伸弥のチームなどの日米の独立した3チーム[8]がそれぞれヒトiPS細胞の樹立に成功・発表した2007年のことである。
韓国社会の反応
2004年の論文発表以降、韓国社会は黄の成果に熱狂した[9]。生化学研究・再生医学の世界的中心が韓国になることやその経済効果への期待、自然科学部門のノーベル賞を韓国社会にもたらすことへの期待が膨らみ、研究チームに対する国民の支持や政府・企業からの支援が増大した。
たとえば、韓国科学技術部は、黄を「最高科学者」の第1号に認定し、黄が提唱する「世界幹細胞バンク」に多額の援助を行い、「黄禹錫バイオ臓器研究センター」を設立するなど支援を惜しまなかった。別途「最高科学者」の研究費として年間30億ウォンの支援が行われる予定もあった。韓国情報通信部はヒトクローン胚作製を記念した記念切手を発行した(後に販売中止、および回収)。黄は韓国警察庁によって、民間人としては初めて24時間体制の3府要人(大法院長、国会議長、国務総理)級警護の対象となり、韓国文化体育観光部によって「韓国国家イメージ広報大使」に任命された。また2006年度から使用される予定だった小・中・高校用の教科書にも早くも黄の業績が大々的に掲載され、忠清南道では「黄禹錫記念公園」を造成する構想も持ち上がった。
民間からは、ペ・ヨンジュン、チェ・ジウ、キム・ヨナなども受賞している韓国報道人連合会認定「誇らしい韓国人大賞」が授与され、大韓航空のファーストクラスに10年間乗り放題の権利が与えられ、業績を記念して5メートルを超す巨大な「黄禹錫石像」が建立され、インターネットでは数々のファンクラブも生まれた。さらに数々の出版社から黄の伝記や漫画が発売されるまでに至った。
こういった熱狂の渦の中、黄禹錫は国民的英雄に祭り上げられていった。韓国国民はその研究における卵子入手などの倫理問題を指摘した韓国文化放送 (MBC) の報道調査番組『PD手帳』に対して「国益を損じた」とスポンサーへの不買運動を展開。韓国のインターネット社会では MBC を「非国民」と断ずる論調にあふれた。結果、PD手帳からすべてのスポンサーが降板、放送休止に追い込まれた。本来、こうした倫理問題や論文の真贋性を調査し報道する役割であるはずのメディアは、業界を挙げて MBC の報道姿勢とその取材手法に問題を掏り替えてしまった。MBC 全体へのデモも無数に行われ、MBC の看板ニュース番組や他の番組にもスポンサーへの不買・視聴拒否運動が拡大し、黄禹錫に対する批判は許さないという風潮が作り上げられていった。この影響で MBC の全番組の視聴率が低下した。
当初提示された疑惑は卵子入手の倫理問題だけであったために、「ボランティアで卵子を提供したい」と1000人以上の女性が申し込みを行った[10]。問題点が卵子入手時の倫理問題から論文の捏造、さらにすべての業績に疑いが及ぶに至ってこういった黄禹錫を支持する声も尻すぼみに終わり、ボランティアの募集も打ち切られることとなった。当初は「精神的ストレスによって」入院した黄禹錫がベッドの上で苦悶の表情を浮かべる写真を掲載する[11]など、社を挙げて徹底的に黄禹錫擁護を展開していた中央日報も、のちに反省文を掲載した[12]。
冷静さに欠ける世論と理性を欠いた韓国メディアのありかた、さらには世間の誤解を追い風にノーベル賞受賞振興教育制度をもくろんだ政府の姿勢を国内外に示して事件は終息したかにみえるが、その後も捏造事件そのものを「敵対組織の陰謀」として信じようとはせず、熱狂的なまでに黄禹錫を擁護する韓国人も多く、研究継続を訴え抗議の焼身自殺をする者まで現れた。このような熱狂は、黄禹錫が「貧乏な家に生まれ、親孝行をしつつ苦学して大成する」という朝鮮民族の理想的な英雄像にぴったりと当てはまるためでもあった。
事件の背景
2005年12月24日付の産経新聞は『韓国、過剰な「愛国」暗転』と題したコラムの中で、本件が発生した背景について言及している。
韓国の過剰な愛国主義に対しては、韓国日報が「黄の『偉大な成果』を韓国の民族性と結びつけた『お箸技術論』が韓国社会で持て囃された原因は、文化的独創性と先進性に異常なまでに執着してきた韓国的集団意識によるもの」と説明した上で、「最古・最高に執着するのは、歴史的に中国中心の北東アジア文化圏の辺境で暮らしてきた集団的コンプレックスから旧石器捏造事件を捏造した日本人くらいなもので、我が国はそんな意識に染まる理由はない。たとえ2等でもはるかに下は多い。黄禹錫神話の崩壊とともに我々の強迫観念も一緒に解消するよう期待する。」と、日本人を揶揄しながら反省している[13]。
また、捏造が発覚して最終的に反省文を発表した中央日報をはじめとした韓国主要メディアのサイトには「科学・技術」関連のカテゴリーが存在せず[14][15][16]、本件を科学的に考察する報道姿勢もほとんど無く、最初から黄禹錫という「偉大な韓国人」にまつわる愛国主義的な政治・社会記事として報じられていた。また、日本人が自然科学系のノーベル賞を受賞する度に、韓国の主要新聞やテレビなどのマスメディアは「日本人は~人も受賞したのに、なぜ我が国は一人も受賞できないのか」といった様な社説や論評を載せ、韓国国民の愛国的対日民族意識を鼓舞していた。これらの韓国のメディアの発信をうけ、インターネット上で韓国のネチズンが烏合の衆と化して黄禹錫に対する狂信的な世論をますます醸成した。
このような韓国メディアの報道に対して、マスメディア出身の姜亨澈(カンヒョンチョル)淑明女子大学校教授は、「韓国の言論機関は、植民地時代に日本メディアから学んだ権威主義を受け継ぎ、 軍事独裁時代には権力と同化した怖い存在だった。民主化されても大衆を啓発しようとする。愛国心とナショナリズムが強く、英雄(黄禹錫)を客観的に見ることができなかった」と、原因の一因は日本にもあると弁明している[17]。
また、本件までの韓国人のノーベル賞受賞者は、2000年の金大中の平和賞以外に無く、自然科学分野でノーベル賞を狙えるとされた韓国人科学者は黄禹錫が最初であり、韓国国民の彼の業績への期待は並々ならぬものがあった。さらに韓国国家情報院の情報官が、金大中が平和賞を受賞した理由となった南北首脳会談は北朝鮮への不正送金により実現したものであり、受賞も工作活動によるものであるとを主張していたことから[18]、
また、韓国政府は、世界に貢献できる研究者を対象に幅広い支援体制を整えるべきであるとは考えず、捏造事件後においても、あくまで「国威宣揚」のためノーベル賞受賞者を生み出すべく、科学分野でノーベル賞を受賞するに値する科学者を選定し、10年間で一人当たり最大20億ウォンの政府支援をするというスター・ファカルティー (Star Faculty) 支援事業を本格化させているが、日本の島津製作所の一サラリーマンである田中耕一がノーベル賞を受賞したことによる衝撃などから、韓国内でもこうした政策に対して懐疑的な見方が少なくない。
事件の経緯
1999年
2月 - 韓国では初、世界でも英米日、ニュージーランドに続いて5ヶ国目となるウシのクローンに成功。乳牛。韓国の科学技術が「玲瓏として(ヨンロンヒ)輝く」よう、当時の科学技術部長官がヨンロンイと名付けた。ただし、一切の論文を発表しておらず、クローン元となっている成牛との DNA比較なども行われていない。第三者によるDNA鑑定を拒否しており、クローンであるという証拠は何一つない。
3月 - 超優良クローン韓国牛のジニが生まれる。当時の大統領であった金大中自ら李朝時代の妓生であるファン・ジニから名前を取った。こちらも一切の論文、データはない。黄禹錫は「3年以内に超優良韓国牛を2000頭以上普及させる」と語った。
2000年
前年のジニの成功をもって、韓国農林部はクローン牛普及計画を推進。ソウル大学などから800個以上の「クローン受精卵」を受け取り、畜産農家に供給。
2001年
前年供給された「クローン受精卵」によって39頭のクローン牛が誕生したとされている。
韓国情報通信部、BSE耐性牛プロジェクトを開始。研究を黄禹錫に委託。研究費用は25億ウォン。
2002年
畜産技術研究所による独自調査で前年のクローン受精卵によるクローン牛は4頭に過ぎないとの調査結果が出されたが、マスコミではほとんど報道されなかった。また、その後の調査でこのうちの3頭はクローン牛でないことが判明している。
2003年
12月 - BSE耐性があるとされる牛をクローン技術で作製したとマスコミに発表。このときも論文は発表されていない。
2004年
2月 - サイエンス誌(3月12日号)で体細胞由来のヒトクローン胚、およびES細胞の作製に成功と発表。ともに世界初の業績。(電子版2月12日付)
12月 - サイエンス誌、ヒトクローン胚の作製を10大ニュースの3位に選定。ネイチャー誌は1位に選定。
2005年
2月 - ソウル大学の獣医学部部長に就任。
2月 - 韓国政府、ヒトクローン胚からのES細胞複製成功を記念して記念切手発行。
5月 - 患者の体細胞をクローンし、カスタマイズされたES細胞の作製に成功と発表(サイエンス誌2005年6月17日号・電子版5月19日付)。世界初の業績。
5月 - BSE耐性を持つとされている牛、韓国内に検証施設がないために日本に渡る。黄禹錫チームの一員、「先進文化を伝えた王仁が日本に渡ったのと同じこと」と発言[19]。
6月 - 韓国政府、黄禹錫を第1号最高科学者に認定、政府要人並みの警護をつける。
6月 - 黄禹錫、韓国と諸外国の技術水準の違いを「外国の研究チームはわれわれの核移植技術を前にすると、とてもここまで精巧に行うことはできないと意欲をなくす。ペレのサッカーと町内サッカーの差」と発言。自分たちの精巧な技術は普段からの箸の使用のおかげと説明[20]。
6月 - 大韓航空より10年間トップクラスで利用可能なフリーパス(研究活動支援証書)を受ける。
8月 - ネイチャー誌に世界初の体細胞由来のイヌクローンに成功と発表。スナッピー(SNU+PUPPY=Snuppy、「ソウル大学の子犬」)と命名。
10月 - 世界初の「ES細胞ハブ(世界幹細胞ハブ)」が韓国・ソウル大学病院内に設立される。2日間で登録患者数は1万人を突破。
11月12日 - 共同研究者のジェラルド・シャッテンが倫理的な問題からES細胞ハブへの参加を取りやめると発表。
11月14日 - タイム誌、2005年の「もっとも驚くべき発明」(The most amazing inventions of 2005) にクローン犬を選定。
11月22日 - MBC の報道番組、『PD手帳』が卵子売買をスクープ。
11月23日 - 黄禹錫チームに属する女性研究員2人が、自身の卵子を提供していたことが判明(アカハラ疑惑)。
11月24日 - アメリカの科学誌『サイエンティフィックアメリカン(日本語版:日経サイエンス)』、今年の研究リーダー50のトップに黄禹錫、およびそのチームを挙げる。
11月下旬 - 「国益を損じた」として『PD手帳』のスポンサーに対して韓国内で不買運動がスタート。全スポンサーが降板。真偽不明のままにもかかわらず MBC に対して「国益を損なった歪曲報道を謝罪しろ」とのデモが行われる。
11月26日 - 『PD手帳』放映の MBC 社屋前にて、午後4時から2時間に渡り抗議のろうそくデモが行われる。
12月1日 - サイエンス誌、黄禹錫の研究内容を擁護。
12月1日 - MBC のニュース番組、『ニュースデスク』でES細胞そのものの真偽論争を報道。韓国ネチズン、即座にスポンサーの不買運動を開始。
12月2日 - 6日の『PD手帳』第二弾追及特集の放送を前に、取材に協力したピッツバーグ大所属の研究員が「MBC に圧迫的な取材を受けた」と説明、『PD手帳』の取材倫理が問われる事態に。だがこの研究員に黄禹錫チームから5万ドルの口止め料とも取れる大金が渡っていたことが後で判明。
12月4日 - 『PD手帳』の責任者を刑事処罰しろとの抗議運動で韓国最高検察庁のサーバダウン。
12月6日 - 黄禹錫、入院。『PD手帳』第二弾追及特集は放送されず。
12月7日 - MBC、『PD手帳』の放送を中断。事実上の打ち切り。
12月8日 - 黄禹錫バイオ臓器研究センター、着工。約35億円を費やし、最新設備を備える計画。
12月8日頃 - サイエンスに提出された論文に添付された写真が数枚の写真を分割した可能性が高く、写真そのものを加工した痕が見られるとの報告が2ちゃんねる及び韓国の掲示板に挙がる。
12月10日 - ピッツバーグ大学在職の韓国人教授がサイエンスに提出された論文に添付された写真は、2枚から11枚に水増しされたものだと告白。
12月11日 - 黄禹錫、ソウル大学に検証を要請。
12月12日 - 2週間の加療が必要だった黄禹錫、退院。比較的元気そうに見えたというが夜に再入院。
12月13日 - 黄禹錫が鬱と情緒不安定の症状を見せて抗不安剤と睡眠薬などの投薬を受けたこと、火病を発症したことを関係者の談話として kukinews(国民日報)が報じた。
12月14日 - ジェラルド・シャッテン、「重大な捏造の疑惑がある」として自分の名前を5月に提出された論文から削除するようサイエンス誌に要請。サイエンス誌から却下される。
12月15日 - MBC、『ニュースデスク』にて「黄禹錫の作製したES細胞は存在していなかった」という論文共同執筆者・盧聖一(ノ・ソンイル)ミズメディ病院理事長の証言を放映。
12月15日 - 『サイエンティフィックアメリカン』、黄禹錫チームを「今年のトップ50」に掲載したことを撤回。
12月15日 - ソウル大学の副学長が「今日は韓国科学界の国恥日」と発言。
12月15日 - MBC、突如午後10時に『特集 PD手帳はなぜ再検証を要求したのか』の特別番組を放送しこれまで報道できなかった内容を追加で放送した。
12月16日 - 黄禹錫、記者会見で論文添付の写真捏造を認め、論文は撤回すると発表。ヒトクローン胚、ES細胞を作製したことは事実と主張。ただし、ES細胞そのものはカビで汚染されてしまい手元には存在しないため、10日後に発表すると述べるにとどまる。
12月17日 - 韓国政府はES細胞汚染の報告を受けていたが、国益を考え隠蔽していたことが判明。
12月19日 - 5月の発表では185個の卵子から11個のES細胞を作製したと発表していたが、実際に使用された卵子は1200個を超えていたことが判明。
12月20日 - クローン技術の専門家である米アドバンストセルテクノロジー社のロバート・ランザは2004年2月のヒトクローン胚作製自体がでっち上げと発言。
12月20日 - ネイチャー誌、クローン犬についての検証開始をアナウンス。
12月21日 - ソウル大学調査委員会、22日に予定していた中間発表を23日以降に延期すると発表。
12月23日 - ソウル大学調査委員会、2005年5月のクローン技術に関する論文は虚偽だと中間発表。引き続き、残りのES細胞、およびヒトクローン胚作製、クローン犬スナッピーについても検証を続ける予定。
12月23日 - 黄禹錫、国民に対する謝罪会見。ソウル大学教授職の辞職を言明。
12月23日 - MBC、中断していた『PD手帳』を1月3日より再開すると発表。
12月24日 - サイエンス誌、独自の判断で論文の取り消しもあるとアナウンス。
12月24日 - 黄禹錫を支持するインターネット同好会「アイラブ黄禹錫」の会員がソウル市内・清渓川でろうそく集会を繰り広げる。
12月26日 - 韓国マスコミ、ソウル大学の調査で残りの2個のES細胞もヒトクローン胚からのものではなかったと報道。また、韓国検察当局は同日、黄教授と研究チームの計十人に出国禁止命令を出した。
12月27日 - 一部の韓国マスコミ、2005年の論文に採用されたES細胞は患者の体細胞とDNAが一致したと、真実とはまったく逆の報道を行う。
12月29日 - ソウル大学の調査委、2005年の論文に際して作成されたES細胞とされたものはすべて虚偽であったと報告。
12月29日 - 2004年2月の論文の世界初とされるヒトクローンES細胞も DNA が一致せず捏造の可能性が高いとの一次分析検査結果が出る。
12月29日 - サイエンス誌、黄禹錫チームの取り下げ請求がなければ調査結果を受けて2005年のES細胞論文を撤回することを決定。2004年の論文も調査結果を見て撤回することを検討。
12月30日 - 黄禹錫、韓国仏教界幹部とのインタビューで、『論文捏造問題は、他者による陰謀』、『源泉技術は6ヶ月あれば再演可能』、『ES細胞の優位性を強調、成体幹細胞技術は行き詰った技術』と発言。
2006年
1月3日 - 放送が再開されたMBC『PD手帳』「幹細胞神話の真実」編を放送。2004年、2005年の実験に使用された卵子は1600個以上、そのほとんどが売買、アカハラによって得られたものであることを報道。2005年のカスタマイズ化されたES細胞作製の捏造については、2004年の論文では特許が得られないことが原因ではないかと推測。
1月8日 - MBC『PD手帳』10日放送予定の内容を一部公開し黄教授が韓国国内で初めて作ったとされるクローン牛「ヨンロンイ」についても捏造された可能性があるとの見方を報道。
1月10日 - ソウル大学調査委員会は最終調査報告で黄教授の研究チームが世界で初めてヒトクローン胚から胚性幹細胞(ES細胞)を作製したと発表した2004年2月のサイエンス誌論文についても捏造であると断定した。黄禹錫チームが主張したES細胞作製に対する基幹技術に独創性を認めるのは難しいとの最終結論を出し、2002年11月から2005年11月までの3年間に4病院で129人から2061個の卵子が採取、提供されたと発表した。
1月10日 - サイエンス誌のドナルド・ケネディ編集長は、『黄禹錫教授チームのヒト胚性幹細胞(ES細胞)論文の捏造が明らかになったことから、2004年2月の論文も2005年5月論文とともに撤回する方針』との声明文を発表した。
1月11日 - 韓国政府は、2005年6月に黄禹錫に贈った「第1号最高科学者」を含め、政府関連の公職をすべて剥奪することを決めた。郵政事業本部は、ES細胞複製の成功を記念して2005年2月に発行した記念切手の販売の中止と未販売分の全量回収を発表した。
1月12日 - 韓国検察当局、黄禹錫ソウル大教授の自宅や研究室など関係先を家宅捜索。
1月12日 - 黄禹錫、ソウル大学調査委員会の最終調査報告を受け記者会見を開き、『論文筆頭著者として論文捏造のすべての責任』、『研究員の卵子提供と対価提供による卵子使用』を認め謝罪した。その一方で、『論文捏造の直接責任は共同研究者』、『チームは現時点での世界最高の技術を保持』、『ES細胞は6ヶ月あれば再演可能』と重ねて強調した。
1月12日 - サイエンス誌は、2004年2月論文と2005年5月論文の2本の論文を編集部判断で正式に撤回したと発表した。
1月13日 - 韓国政府は、将来のノーベル賞を受賞するに値する科学者に対して支援する、スター・ファカルティー (Star Faculty) 支援事業の第1回対象者として物理、化学、生物学など3分野の科学者11人を最終選定したと発表した。
1月15日 - 黄禹錫の誕生日でもあるこの日、ソウルにおいて私設ファンクラブである『ファンサモ』が主導した5000人規模の黄禹錫擁護デモが行われ、デモ会場にて「黄禹錫教授頑張ってください」なる歌が披露され、いまだに支持している人間が少なくないことを示した。
1月19日 - WTN(世界技術ネットワーク)は、昨年11月に黄禹錫に授与した生命工学賞の撤回を発表した。
1月25日 - ソウル中央地検・特別捜査チームはミズメディ病院から押収したES細胞の DNA を分析した結果ソウル大調査委員会の調査内容と一致したこと、黄禹錫教授チームが作ったとしている体細胞クローンES細胞は存在しなかったと発表。
2月6日 - 韓国政府監査院は黄禹錫が政府、および民間から寄せられていた研究支援金のうち、62億ウォンを不正に使用していたと中間報告をした。
2月22日 - 黄禹錫を支持する団体がソウル大学でデモを行い、ソウル大学職員に怪我を負わせるという事件が起きる。
3月1日 - 黄チームによって提出されていた狼のクローンに成功したと主張していた論文が、サイエンス誌から撤回される。
3月14日 - 黄禹錫の研究室に所属していた大学院生全員の指導教授が変更され、いわゆる黄チームは解散。
3月14日 - 韓国分子細胞生物学会は黄禹錫を除名処分とした。
3月20日 - ソウル大学は黄禹錫を免職処分とした。
4月21日 - 黄禹錫、ソウル大学が行った懲戒処分を不服とし教育人的資源部に取り消し審査を請求した。
5月12日 - 韓国検察当局は、胚性幹細胞捏造事件で、黄禹錫・元ソウル大教授を詐欺、業務上横領、生命倫理法違反の罪で在宅起訴したと発表した。検察が黄禹錫の胚性幹細胞論文に関し、「患者適応型の胚性幹細胞はなかった」と最終捜査結果を発表した[21]。
6月27日 - 黄禹錫の後援会が経費を負担し、既に捏造が発覚したES細胞研究に関する国際特許を10カ国・地域で申請する見通しであるとソウル大学が明らかにした。
7月18日 - 韓国政府は、黄禹錫に対する科学技術勲章創造章の叙勲の取り消しを決定。
8月18日 - 黄禹錫は、「雌牛生命工学研究院」設立の許可を韓国科学技術部から受け、無菌豚を利用した異種臓器移植等の研究を再開したことが明らかになった。
2007年
1月16日 - 京畿道龍仁市の研究院で研究を再開したと中央日報が報じる[22]。また、中央日報の行ったアンケートに記事によれば黄禹錫にもう一度(ES細胞の)研究機会を与えて欲しいと考えている韓国人は回答者のうち76.8%にのぼった[23]。
3月26日 - ソウル大獣医学部の李柄千教授の研究チームが、世界初となるのクローンを2頭作製することに成功したと発表。黄禹錫も共同研究者として名を連ねており、半月後の4月9日に同大は捏造疑惑が持ち上がったとして調査を開始したと発表したが、同26日には捏造はなかったとの結果を公表した。
8月2日 - ハーバード大学のGeorge Q. Daley教授を中心とするハーバード大学とケンブリッジ大学による検証チームにより、2004年の論文で報告されたES細胞のうち、ES細胞と認められた唯一の細胞(NT-1細胞)がクローンによるものではなく単為生殖(parthenogenesis)によるもの(pES細胞)だったと結論付ける[1]。つまりヒトのES細胞の作製と、ヒトの単為生殖に世界で初めて成功していたことになる。ただし論文が不正であったためにES細胞の作製に成功したとはみなされない。
9月 - カリフォルニアの企業International Stem Cell Corporationが「世界初」のpES細胞の作製に成功。
2008年
6月17日 - 中国の絶滅危惧種の超大型犬、チベタン・マスティフ17匹のクローニングに成功したと中央日報が報じる[24]。
2009年
10月26日 - 胚性幹細胞捏造事件でソウル中央地方裁判所が懲役4年の求刑に対し、懲役2年、執行猶予3年の有罪判決。研究助成金など8億3500万ウォン(約6500万円)を騙し取ったと認定したが、科学の発展に長年貢献したことなどを考慮し執行猶予がついた[25][26]。
事件後の活動
2011年
2月27日 - 中央日報が黄元教授がリビア政府と1500億ウォン規模の研究課題を推進していると報道[27]。本人はリビア渡航は認め、「とても大きな仕事をしている。わかれば驚いてひっくり返るかもしれない」としながらもプロジェクトに関しては明言を避けている[27]。
2012年
3月 - ロシアの極東連邦大学、韓国の秀岩生命工学研究院、中国の北京ゲノム研究所が協定を結び発足した「マンモスの骨髄を使用してマンモスのクローンを作成するプロジェクト」のプロジェクトリーダーに就任[28]。
2014年
2月11日 - 申請していた米国特許がUS8647872 B2として認可される[29]。
2015年
黄禹錫の秀岩生命工学研究院は北京大学医学研究所、天津国際生物医薬連合研究院、英科博雅遺伝子科学技術有限公司と共同で中華人民共和国の天津に世界最大のクローン工場を建設することを決定[30]、2016年上半期に完成予定[31]。責任者の一人は将来的なクローン人間製造への意欲も語っている[32]。
2016年
11月15日、韓国の疾病管理本部は黄禹錫元ソウル大教授が体細胞クローン技術による胚性幹細胞(ES細胞)と主張する「NT―1」について、単為発生による偶然の産物と結論付けた上で、週内にもES細胞として正式に登録すると発表した[33]。
2018年
韓国・ソウル市南西部にあるスアム生命工学研究院で自ら手術服に身を包んだ黄禹錫が、イヌクローン手術を行っていると報道された。「死んだペットが10万ドルでよみがえる」ビジネスを開始している[34]。
脚注
関連項目
金鳳漢 北朝鮮の医学者で、その研究が同様に国家的に支持されたが捏造が発覚、また自身の政治的立場により失脚した。
外部リンク
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サン=サーンスの楽曲一覧(サン=サーンスのがっきょくいちらん)では、カミーユ・サン=サーンスの作品リストを示す。作品番号(Op.)は169番まで付けられており、作品番号が付けられていない作品も多く存在する。作品番号は「Op.」のみで、J.S.バッハの「BWV」のような作品目録番号はない。
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ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー (Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)、1831年8月12日 – 1891年5月8日) は、近代神智学を創唱した人物で、神智学協会の設立者のひとりである[1]。
著書の訳書はH・P・ブラヴァツキー</b>か<b data-parsoid='{"dsr":[830,849,3,3]}'>ヘレナ・P・ブラヴァツキー</b>として出ている。通称<b data-parsoid='{"dsr":[859,874,3,3]}'>ブラヴァツキー夫人。ブラバッキーと誤記されることもある。父方はロシア人、母方はユグノー(プロテスタントのフランス系)の血を引くドイツ系で、ロシア語でのフルネームはエレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァーツカヤ (, Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) である(ブラヴァーツカヤはブラヴァーツキーの女性形)。旧姓フォン・ハーン ()。
概略
彼女の生涯は多くの謎があり、特に1874年にアメリカで活動を始めるまでの前半生はまったくヴェールにつつまれ、多くの神話に彩られている[2]。ブラヴァツキー自身が残したメモや日記、周囲の人びとに語ったことがら、親族など近しい人びとの証言などが再構成され一般にも流布しているが、相互に矛盾が多く、一見荒唐無稽とも思われる事件の連続であり、真偽については議論を呼んできた[2]。神智学協会や支持者は正しさを証明しようとし[3]、批判者は虚偽であることを暴こうとし、現在も毀誉褒貶が激しい人物である[2][1]。杉本良男は、ことの真偽を問わず、現在も非常に大きな存在感をもっていることだけは事実であると述べている[2]。
神智学協会は、「偉大な魂」(マハトマ)による古代の智慧(Ancient Wisdom)の開示を通じて諸宗教の対立を超えた「古代の智慧」「根源的な神的叡智」への回帰をめざしていた[2]。その思想は、キリスト教・仏教・ヒンドゥー教・古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教や神秘主義思想を折衷したものである。「神智(theosophy 学)」はキリスト教世界にすでにあった概念で、“theo(神)+ sophia(叡智)”つまり「隠された神性の内的直観による認識」を意味しており、神智学協会の名称にこの語が採用されたのは、偶然が多分に働いているといわれる[2]。協会のスローガンは「真理にまさる宗教はない」であり、神智学は宗教ではなく神聖な知識又は神聖な科学であるとされる[2]。
ブラヴァツキーに始まる近代神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒し、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた[4]。
ニューエイジ思想や大衆的オカルティズムの起源として、また新宗教への影響も大きい。
生涯
幼少期
1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ドイツ系貴族で騎兵砲撃隊長のペーター・フォン・ハーンを父として、ロシアの名門出身で女権主義者で小説家のヘレナ・アンドレヤヴナ・フォン・ハーンを母として誕生。ロシア首相を務めたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は従弟である。2人の共通の祖母が、ロシア建国者リューリクの血統の名家ドルゴルキイ家出身の女性博物者ヘレナ・パブロブナ・ファジェーエフである[5]。
母は若くして亡くなり、父は軍務で落ち着かず、幼少期の実質的な家は母方の実家で、ヘレナ・パブロブナ・ファジェーエフがヘレナの母代わりだった[5]。祖父も知事としてロシア帝国の辺境を転々としており、幼いヘレナの生活は旅の連続であった[5]。
幼いころから精霊と会話する夢見がちな少女であったという[1]。性格的には激しい気性の持ち主であったという。1844年には父親とともにパリとロンドンに行き音楽教育を受け、ピアノ演奏などを習得した。
出奔後
1848年、アルメニアのエリヴァン地方副知事の職にあり、20歳以上も年上であったニキフォル・ブラヴァツキー将軍と結婚した[1]。結婚は長続きせず、数ヶ月で家を出て何度も住まいを変えた[1]。この夫婦のケースでは法律上離婚が困難であり、エレナもブラヴァツキー夫人という名で呼ばれることを選んだ。年齢差の大きい夫との結婚生活を嫌ってのことだとも、ファジェーエフ家をよく訪問していたフレーメイソン会員アレクサンドル・ドリツィン大公の手引きがあったも言われる[5]。ここから先のブラヴァツキーの人生は謎に包まれている[5]。婚家を出奔してからは、1858ごろから数年間はロシアに戻っていたと考えられているが、その時期以外は1873年にパリに戻るまで、24年間の動向に定説はない[5]。
自伝によれば、世界を旅して秘教を学び、エジプト、ジャワ、日本まで訪問し、インドのラダックからチベットに入国しようとしたという[5](のちに自身の著書で「1856年から7年間チベットに滞在し、導師たちの教えを受けた」と記述しているが[1]、状況や彼女の他の年譜とも矛盾し、これについては信じがたい)。そして1851年にロンドンのハイドパークで初めてマスター(霊的師匠)に出会ったとしている[5]。アメリカ人作家A・L・ローソンの回想では、1851年にエジプトに滞在し、コプト人魔術師パウロス・メタモンに教えを受け、1851年に一時期ニューヨークにいたという[5]。
世界各国を放浪し様々な職業についたとも言われる。従弟のウィッテ伯爵の回想録では、ブラヴァツキーはイギリス人船長と駆け落ちし、サーカスに入り、オペラ歌手ミトロヴィッチと同棲するなど、地中海周辺を転々としていたとされる[5](ただし、ウィッテはブラヴァツキーの結婚の年に生まれており、彼女が出奔した時はまだ赤ん坊である[5])。ブラヴァツキーは、エジプトに行き心霊協会を組織したり、パリではイギリス出身の高名な霊媒のダニエル・ダングラス・ホームの助手となり[1]自らも霊媒の素養を身につけたとも言われる。またフランス系のフリーメイソンのメンバーとも交流したという。
吉永進一・松田和也は、1851年パリ滞在時に、催眠術師の被験者になって水晶占いや霊体離脱を学び(彼女はトランス状態で完全な人格転換を起こす優秀な霊媒であったといわれる)、1871年にカイロでメタモンに再会したこと、「心霊協会」を設立して失敗したことは事実のようだと述べている[5]。
在米期
1873年には、パリからニューヨークに渡った[1]。後年、属している秘密結社の指令で霊的運動を起こすための渡米であったと述べている[5]。
1874年、ヴァーモント州チッテンデンで行われていたエディ兄弟の降霊会において、ヘンリー・スティール・オルコット大佐と出会った。以降、二人は積極的に心霊運動に参加していったが、1875年7月に発表した記事以降、原理的に心霊主義と正反対であるオカルティズムへ唐突な方向転換がなされた[5]。1875年、オルコットは突然ブラヴァツキーを通して、エジプトのルクソール同胞団という秘密結社の入会許可書をもらい、同会に所属するマスター“トュイティト・ベイ”なる人物から手紙を受け取るようになった。吉村・松田は、その手紙の内容はあまりヴラヴァツキーに都合がよかったが、オルコットは特に疑念を抱いていなかったようだと述べている[5]。ここで登場するトュイティト・ベイは後に神智学の「マハトマ」という概念に変化してゆくことになる。これは意味としてはおおむね“古代から継承されている霊知を少数の賢者にのみ伝える未知の上位者”を意味しており、こうした発想というのは元をたどるとフリーメーソンの厳格戒律派やイギリス薔薇十字協会などに見られたものである。この時期のブラヴァツキーの目はエジプトに向いていた[5]。
1875年9月7日、ブラヴァツキーの自宅にて、ジョージ・フェルトを講演者とし「エジプト人の用いた比率の失われた基準」と題した講演が行われた。フェルトの講演に刺激を受けて、彼の数秘術や四大霊の実験を目的とする団体の設立が提案された[5]。
1875年11月17日、神智学協会を正式に創設。初代会長には、オルコット大佐が就任し、協会の運営を取り仕切ることになった。副会長はジョージ・フェルト、図書室司書はチャールズ・サザラン(フリーメイソンのメンバーでイギリス薔薇十字協会会員)、評議員に霊媒のエマ・ブリテン(1876年に『ベールを取られたイシス』の先駆をなす革新的な書『人工魔術』を編集したとされる[5])、“交信秘書”としてブラヴァツキー、顧問弁護士としてW.Qジャッジ(この人物は後にアメリカ神智学協会会長になる)、という構成であった。設立当初は相当活気があったという。1877年に Isis unveiled 『ベールを取られたイシス』(ベールをとったイシス)を出版[1]。執筆には会員たちの助けがあったと考えられているが、ブラヴァツキーは協会設立からわずか2年で1000ページを超す大著を完成させた[5]。上巻で科学の誤りを、下巻でキリスト教の誤りを論じており、西洋オカルティズムをベースに、エジプトを指向したものであった[5]。ここで説かれた内容は、イシス密儀のような古代の霊知を復興することで真の霊性を養うことや、ドグマ化したキリスト教と唯物論化したscienceの害を排することや、心霊主義は止めるべきだ、ということである。ブラヴァツキーは、心霊主義とは異なる霊魂観を持っていて、人間は死とともにそのアストラル体のほうは分離し しばらくの間アストラル界にとどまるとし、真我のほうはブッディ=アートマと結びついて休息的待機状態に入る、とした。そして心霊主義において霊媒が交信しているとしているのは真我のほうではなく “アストラル体の殻”にすぎない、と語った[6]。
神智学協会のメンバーでキリスト教の教えを重視する人や心霊主義を重視する人は結局、協会を離れてゆき、活動は停滞することになった。
在印期
ブラヴァツキーは第1作の出版前後からインドに注目し始め、インドの神秘を描いた通俗作家ルイ・ジャコリオの本を読み、1878年には偶然接触したアーリヤ・サマージと提携した[5]。インドへ移動し再起を図ることにし、1878年12月19日に蒸気船で一行はニューヨークからロンドンへ移動。1879年1月3日到着。イギリスにて短い滞在期間ながらイギリス神智学協会の会員らと交流した後、リヴァプールから出港、インドのボンベイへと向かい、2月16日に到着。翌17日には歓迎会が盛大に開かれた。
インドでは歓迎された。19世紀はヨーロッパ列強がアジア・アフリカを植民地化し蹂躙してゆく時代であった。1877年にはイギリスのヴィクトリア女王が “インド皇帝 ”に就任した。イギリスは、他の列強諸国が暴力主義的になりすぎ失敗したことを他山の石として、土着の文化を尊重しつつ内面からも支配するという巧妙な方針を採用した。とはいうもののイギリス文化やキリスト教を上位に位置づけようとしていた面は多々あり、インドの人々は違和感を覚えていた。そこに「神智学」という、キリスト教を拒否し、インド思想を教義に取り込んだ「神智学協会」が登場したのでインド人たちはそれを歓迎したのである。特にアーリヤ・サマージの人々からは歓迎された[1]。
このインド行きによって、ブラヴァツキーの神智学は神智学となった[5]。モリヤ、クートフーミなどのマスターやマハトマの存在が主張されるようになった[5][1]。インドの地において神智学にはより多くのインド思想が導入され、インド人の神智学協会会員のダモダールやスッバ・ロウなどが協力し、ヒンドゥー教や仏教から様々な教えが取り込まれた。ただし、理解や導入に限界はあり、西洋の神秘学との折衷的な手法が採用された。理解できたり、利用できる思想は取り込むものの、それができない部分はカバラーや新プラトン主義などの考え方で補完する、ということをしたのである。インドでブラヴァツキーの神智学には、新たに輪廻転生説やカルマ説が導入され、独自色の強い霊的進化論・根源人種論が加えられた[5]。
1882年に本部をアディヤールに移し、1884年にブラヴァツキーとオルコットはヨーロッパを訪問した。その間にブラヴァツキーのエジプト時代の旧友で本部の職員だったエマ・クローンが、解雇の腹いせにマハトマの手紙の「真相」をキリスト教系の新聞に暴露し、大騒動になった[5]。1884年にSPRのリチャード・ホジソンがインドに赴いて調査を行い、神秘的な現象がトリックであると結論づけたが1885年に公表された。これによりブラヴァツキーは詐欺師であるという認識が広がった(後にこれはSPR手続上の瑕疵により、SPRとしての行動ではなかったと表明)。
ロンドン
ブラヴァツキーはこの騒動から逃げるようにインドからヨーロッパに戻り、周囲には欧米の支持者が集まった[5]。1887年にロンドンに到着、ロッジを開設した[5]。機関紙『ルシファー』を創刊し、根源人種論を驚異的なスケールで展開した主著『シークレット・ドクトリン』(1888年|89年)、『神智学の鍵』(1889年)を出版、1888年には実践的な術を伝授する秘教部を開設、1891年にロンドンで死去した[5]。
死後の影響
ブラヴァツキーが『シークレット・ドクトリン』で打ち立てた体系は、彼女の死後、様々な変奏を加えながら、20世紀のオカルトや新宗教に影響を与えている。
年譜
1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ペーター・フォン・ハーンを父として、ヘレナ・アンドレヤヴナを母として誕生する。
1848年、20歳以上も年上のニキフォル・ブラヴァツキーと結婚。だが、3ヶ月もたたずに出奔。以降58年ごろから数年間ロシアに戻っていたこと以外、73年まで定説なし。
1873年 渡米。
1875年11月17日、ニューヨークに「神智学協会」を創設し、神智学協会の初代会長には、ヘンリー・スティール・オルコットが就任した。
1877年Isis unveiled『ヴェールを脱いだイシス神』執筆。
1879年、アーリヤ・サマージの運動に共鳴し、神智学協会の本部はインドのアディヤールに移転。神智学協会の機関紙として『ザ・セオソフィスト(神智学徒)』と『ルシファー』を刊行。クートフーミ導師(マハトマ)とモリヤ導師教えを受けたと主張しはじめる。大師(マスター)から物質化した手紙を受け取っているともしていたが、疑問に思う人も存在し、物議をかもしていた。
1884年イギリスSPRのリチャード・ホジソンにより神智学協会を解雇された女性の報復に基づいて、留守中に心霊現象の真偽を調べられる(1885年にが公表される)。
1884年イギリス、ロンドンに移動した。
1888年『秘密教義(シークレット・ドクトリン)』を執筆。
1889年『神智学の鍵』執筆。
1889年『沈黙の声』執筆。
晩年には秘教部門を神智学協会の中につくり、神智学の教えの最重要部分を神智学協会の中枢の会員に伝授したと主張した。
1891年5月8日死去。
著書
H・P・ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論 上』 竜王文庫 ISBN 4-89741-317-6
H・P・ブラヴァツキー 『神智学の鍵』 竜王文庫 ISBN 978-4-89741-316-7
H・P・ブラヴァツキー 『沈黙の声』 竜王文庫 ISBN 4-89741-001-0
H・P・ブラヴァツキー 『実践的オカルティズム』 竜王文庫 ISBN 4-89741-319-2
H・P・ブラヴァツキー 『夢魔物語』 竜王文庫 ISBN 978-4-89741-321-1
H・P・ブラヴァツキー 『ベールをとったイシス 第1巻』 竜王文庫 ISBN 978-4-89741-600-7 ISBN 978-4-89741-605-2
H・P・ブラヴァツキー 『インド幻想紀行 ヒンドスタンの石窟とジャングルから』 ちくま学芸文庫 ISBN 978-4-480-08754-6
ヘレナ・P・ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリンを読む』 出帆新社 ISBN 978-4-915497-72-8
H・P・ブラヴァツキー『ブラヴァツキーのことば365日』ウィニーフレッド・パーレィ編纂 アルテ ISBN 978-4434135996
参考文献
大田俊寛 『現代オカルトの根源―霊性進化論の光と闇』ちくま新書、2013年(第一章「神智学の展開」参照) ISBN 978-4-480-06725-8
ハワード・マーフェット 『H・P・ブラヴァツキー夫人 - 近代オカルティズムの母』 田中恵美子訳 竜王文庫 ISBN 4-89741-308-7
アン・バン・クロフト『20世紀の神秘思想家たち』 吉福伸逸訳、平河出版社
ジャネット・オッペンハイム 『英国心霊主義の抬頭―ヴィクトリア・エドワード朝時代の社会精神史』 和田芳久訳 (いわゆるスキャンダルについて) ISBN 4-87502-191-7
ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ 『プラトンのアトランティス』 小泉源太郎訳 (『秘密教理』 の出典について) ISBN 4-89456-365-7 大陸書房刊 『幻想大陸』 の改題再刊
ルネ・ゲノン『世界の終末 現代世界の危機』田中義廣訳 平河出版社、1986年
ダニエル・コーエン 『世界謎物語』 岡達子訳 (要領の良い略伝あり) ISBN 4-390-11340-2
カート・ヴォネガット 『ヴォネガット、大いに語る』 飛田茂雄訳 (ブラヴァツキー側の主張のみでまとめた略伝を収録) ISBN 4-387-84014-5 ISBN 4-15-050150-5
脚註
関連項目
神智学
神智学協会
レムリア
アトランティス
アーリアン学説
外部リンク
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『きかんしゃトーマス』Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead. は、鉄道模型及びCGアニメーションで制作されるイギリスの幼児向けテレビ番組である。
概要
『きかんしゃトーマス』、和名正式名称『きかんしゃトーマスとなかまたち』とは、1984年からイギリスで放送が始まった1番ゲージの鉄道模型を使用して撮影される人形劇、現在はコンピューターを使用した3DCGアニメーションとして放送されている幼児向けテレビ番組である。
原作は、イギリスのウィルバート・オードリー牧師が1945年より創刊した『汽車のえほん』。
イギリスのアイリッシュ海に浮かぶとされる架空の島ソドー島に敷かれたノース・ウェスタン鉄道(ソドー鉄道)で働く、顔と意志を持った蒸気機関車や車両たちと、それに関わる人々を描く。
シリーズは断続的にも長期的に放送されており、幼児向けコンテンツとしては世界的に知名度の高い作品である。さらに幼年向け番組でありながら、撮影において使用される鉄道模型の緻密さ、キャラクターが実在の鉄道車両を基に設計されていることなどから、観点別で幅広い世代に評価されている。
第1シリーズ放送終了以降、1986年には第2シリーズの放送が始まり、以後、放送形態・制作会社・制作形態を変更しながらもシリーズは現在まで続いている。
1989年よりアメリカでもPBSの子供番組『シャイニング・タイム・ステーション』にてコーナードラマとして放映を開始し、日本では1990年よりフジテレビ系の子供向け番組『ひらけ!ポンキッキ』内のコーナードラマとして放送を開始した。2018年現在では世界185の地域で30ヶ国語以上の言葉に翻訳されて放送されている[1]。
紆余曲折を経ながら30年を超える長寿シリーズに成長し、幼児向けキャラクターの定番として大量の商品が流通している。ビデオ/DVD化された番組自体をはじめ、絵本や玩具・日用品・衣料など、2007年現在で日本国内のきかんしゃトーマスのキャラクター商品の売上額は年間300億円に上る[2]。
変遷
前史
1953年にBBCで鉄道模型を使用した『汽車のえほん』の映像化が試みられたが、余りに不出来な内容で第1巻「三だいの機関車」収録話『なさけないヘンリー』を放送しただけで打ち切られた[3][4]。その後も1973年にはアメリカ資本・イギリス制作でアンドリュー・ロイド・ウェバーが中心になってミュージカル仕立てのセルアニメのテレビシリーズ化の目論見もあったが原作者ウィルバートの反対で2年後に頓挫した。
映像化確立から原作者の死後まで
1979年、蒸気機関車を特集したドキュメンタリーを製作していたイギリスの放送作家ブリット・オールクロフトがウィルバートと知り合い、『汽車のえほん』の映像化には否定的であったウィルバートを説き伏せる点から制作に奔走。セルアニメーションなどといった映像化方法の中から、予算の面も考慮した上で最も原作の良さを引き出せる映像化法が模索された。最終的に、かつて『サンダーバード』や『キャプテン・スカーレット』といった特撮人形劇に特殊効果スタッフとして携わったデヴィッド・ミットンの案によって鉄道模型を使用した人形劇としての映像化が決定された。デヴィッド・ミットンは第1シリーズから第7シリーズの監督を務めることとなる。
原作絵本執筆当時の鉄道情勢や、ウィルバートが拘った実在するかのように設定される緻密な世界観は、幼児向け番組と言う枠組みの中でも出来る限り尊重された。1983年にパイロット版として原作第8巻「大きな機関車ゴードン」収録話『ちんぼつしたトーマス』を映像化した後に第1シリーズの製作へと移り、1984年10月9日からITVにて放映を開始した。ナレーターに元ビートルズのリンゴ・スターを起用するなど話題も呼び、シリーズ放送終了後に2度の英国アカデミー賞ノミネートを受けるなど[5]、本作は高い評価を受けた。
しかし、テレビシリーズの放送に際しては、出版されたエピソードのみを映像化する</b>という契約で成っていたため、第1シリーズの放送から2年後に制作された第2シリーズの時点で、原作不足という問題が浮上する。ウィルバートとその息子であるクリストファー・オードリーは、テレビシリーズのために新規の作品を書き下ろすなど、協力的な姿勢で本作に関わっていた。しかし第3シリーズにおいて、当時の技術や予算的な範囲で映像化可能な作品が遂に足りなくなってしまう。そこで1991年放送の第3シリーズでは、当時出版されていたマガジンシリーズ(マーベルUK発行)で連載されたオリジナルエピソードを流用して、ブリットとデヴィッド・ミットンが幾つかの物語を執筆し映像化したが、鉄道考証が全く成されていない内容にウィルバートは憤慨する。1994年放送の第4シリーズでは技術の向上により、かつては映像化不可能だった一部の作品群(こうざんてつどう・スカーローイ鉄道)が映像化可能となり、放送ラインナップの大半を占めることとなる。ブリットにより創作された作品は1話のみ挿入されたが、それにもウィルバートは不満の意を述べている。しかし、第4シリーズ放送後の1997年3月21日にウィルバートが死去、それに伴って先述の契約が改定されたため1998年放送の第5シリーズからはテレビオリジナル作品のみでの展開にシフトすることとなる。
原作者の死後以降からマテル買収まで
第3シリーズ及び第4シリーズの件もあって原作者の意向を重く受け止めたブリットは、第5シリーズの制作には鉄道関係者をアドバイザーに招き、実在の鉄道で実際に起こったことなどを脚本に反映する制作体制を執った。しかし、実際にはありえない突飛な演出やシナリオが極力抑えられていた第4シリーズ以前とは異なり、第5シリーズでは爆発や大掛かりな事故シーンなどスペクタクルシーンが増え、従来のシリーズとは異なる様相を呈した。第5シリーズ終了後の2000年には初の長編、劇場版である『きかんしゃトーマス 魔法の線路』が公開されるも商業成績は大失敗に終わり、次の第6シリーズ製作終了後にブリットは責任を取る形で制作から離れることとなった。その後2002年にクレイアニメのピングーなどの権利を保有していたイギリスのヒット・エンターテインメント社に本作の全資産を売却し、ヒット社の新たな制作体制の中で作品の鉄道考証は次第に薄くなっていく(後述)。
本作の原作『汽車のえほん』は元来から子供向け作品でありながら、執筆当時の英国の鉄道情勢なども風刺として描くと同時に、幼児には理解が難しい鉄道用語なども含んでいた。それらの要素が制作体制変更前はストーリー構成上必然的に原作の特徴の1つとしてシナリオ内に継承され続けたが、制作体制変更後となる2004年放送の第8シリーズ以降は、長期シリーズとなり世間への影響力がかつてよりも遥かに増大していることから幼児向け番組という立ち位置を明確にし、内容を就学前教育に特化した結果、従来以上に教養的なストーリーが採用されシナリオから鉄道考証は止めどなく剥離されてしまう。また、この頃から国際展開も積極的に行われるようになり、その影響でレギュラーメンバーに女性機関車のエミリーを追加したり、ソドー島の市長など一部の人間キャラクターを黒人にするなど、制作の中でポリティカル・コレクトネスがより意識されるようになった。また、番組開始当初から使用されていたテーマソングを変更するなど、イメージの刷新も行われた。後にこの第8シリーズ以降の作品と過去のオリジナルシリーズを区分する目的として、第1シリーズから第7シリーズまでをクラシックシリーズと呼称されるようになり、特に日本ではシリーズ別ではなく一括りにクラシックシリーズとしてDVDが数巻発売されている。
制作費用(模型や撮影ジオラマの維持費)や模型による表現方法の限界などの理由で、2008年公開の長編3作目「トーマスをすくえ!! ミステリーマウンテン」をもって完全な鉄道模型での製作が終了し、同年、3DCGモデリングされた機関車キャラクターの顔や人間キャラクターを、模型で撮影された映像にマッチムーブなどの技術でデジタル合成して製作された第12シリーズが公開された。このシリーズからカナダのCG制作会社ニトロゲン・スタジオが製作に参加し、2009年公開の長編4作目「きかんしゃトーマス 伝説の英雄」からは同社によるフルCGアニメーション製作となる。このころから国際展開がさらに意識されるようになり、日本のマスターライセンス保有元であるソニー・クリエイティブプロダクツの要望により登場した[6]ヒロ(日本出身)やビクター(キューバ出身)などイギリス以外の外国出身車両が登場するようになった。この傾向は現在も続いており、特に後の長編12作では11台もの外国出身車両が登場している。
マテル買収から現在に至るまで
2011年10月24日、アメリカの大手玩具メーカーマテル社がヒット・エンターテイメント社及び「きかんしゃトーマス」の権利を6億8000万ドル(約518億円)で買収したと発表する。それに伴い2年後に公開された長編8作目及び第17シリーズからヘッドライター(シリーズ構成)を始め製作陣が大きく変更された。CG製作会社もニトロゲン・スタジオからアーク・プロダクション(後に経営破綻によりカナダのジャムフィルド・トロント社に買収)に移り、第5シリーズ以来鉄道アドバイザーが復活した。
長編8作目からヘッドライターに就いたアンドリュー・ブレナーは先述のマガジンシリーズ連載エピソードを手掛けた実績を持ち、いくつかの物語はクラシックシリーズ(第3シリーズなど)のエピソードの原案になっている。ブレナー自身が作品のファンであったことや、鉄道アドバイザーの再起用により、作品の雰囲気がクラシックシリーズに近いものとなり、第17シリーズ以降は原作を意識したストーリー展開や映像化が見送られていた原作エピソードの映像化、原作の設定に基づいた路線・ロケーションの登場など、原作を尊重した展開が行われた。新規キャラクターもモデルとなった車両の性能・経歴を考慮した設定が取り入れられるなど、実在車両の要素を巧く物語に取り入れている。
2018年放送の第22シリーズより国際連合と連携し、レギュラーメンバーにアフリカ出身の女性機関車ニア、イギリス出身の女性機関車レベッカの2台を導入(これに伴いテレビシリーズ開始当初からレギュラーだったエドワードとヘンリーを準レギュラーに降格)、レギュラーキャラクターの男女比を4:3にすることでジェンダーバランスを調整し、トーマスが世界各国を周るエピソードを設けるなど、より国際的なコンテンツの成長を意識した展開が行われている。
シーズン毎の詳しい変遷の解説は「きかんしゃトーマス シーズン毎制作史」を参照。
日本での歴史
日本上陸からフジテレビでの放送終了まで(1990年 - 2007年)
1980年代後半にフジテレビ系の幼児向け長寿番組『ひらけ!ポンキッキ』の放映尺を埋める為のコーナーを検討されていた頃、当時フジテレビで編成部長を務めていた重村一がイギリスのロンドンへ渡った際に本作を紹介されたことに端を発する[7]。『ひらけ!ポンキッキ』内での放映のみでは日本語版製作費が下りなかった為、ポニーキャニオンと共にVHSビデオをリリースするという条件を付けた上で放映の交渉、準備が進められた。オリジナルの英国版では当時ナレーターの一人芝居(語り)により物語が進行する演出が採られていたが、登場するキャラクターの数や日本の感性を考慮し日本語吹替え版においては個々のキャラクターに声優を充てることとなった。吹き替え版演出は『ひらけ!ポンキッキ』のディレクターであった菅野温夫が務めることとなり、菅野を中心にキャスティングオーディションも行われた[7]。
その後、キャストに当時人気があった俳優森本レオや戸田恵子が起用されることとなり、本国の放映開始から約6年経った1990年10月4日[8]より、日本でも『ひらけ!ポンキッキ』内で放送を開始させた。放送開始当時のタイトルは『ブリット・オールクロフトのきかんしゃトーマス』であったが、番組内でも主として『きかんしゃトーマス』または『きかんしゃトーマスとなかまたち』というタイトルで呼称された。その後もイギリスの撮影現場に実際に出向いた企画をポンキッキの特番として放送、1991年より制作された第3シリーズには制作協力としても参加するなど積極的に本国との関係を構築し、番組内でも特に人気なコーナーとして本作の名が知られるようになる。
1990年11月からは幼児雑誌めばえやベビーブック、幼稚園にて連載が開始され、1991年以降は日本国内のマスターライセンスをソニー・ミュージックエンタテインメントの子会社であるソニー・クリエイティブプロダクツ(これ以下ソニーCP)が取得し、テレビ放映・ビデオ販売以外のマーケティングを同社が請負うようになった。これにより絵本の創刊、玩具などの関連グッズの生産ラインが拡大し、これらが功を奏し本作は日本でも認知度を上げ成功を収める。
1998年には富士急ハイランド内に世界初となる『きかんしゃトーマス』のミニテーマパーク『トーマスランド』も開園し、さらに車内外にキャラクターがデザインされた『トーマスランド号』も運行を開始した[9]。
フジテレビは1993年9月に『ひらけ!ポンキッキ』を放送終了後もポンキッキシリーズに放送を移行しながら本作の放送を継続し、1998年にはポニーキャニオンと共同でパソコンゲーム『きかんしゃトーマスとなかまたち マジカルアドベンチャー』を発売するなどビデオ以外のメディアの製作にも着手する。2000年代に入るとフジテレビの子会社となったフジテレビKIDSが日本語版の制作を行う体制に移り、第6シリーズから第8シリーズまでフジテレビKIDSが制作し、フジテレビにて放送された。
『きかんしゃトーマス』が親番組としていた地上波放送の「ポンキッキシリーズ」は2007年3月に放送を終了。第8シリーズは全26話中25話、つまり1話未放送作品を残しての放送終了だった。その後はBSフジの『トーマスくらぶ』、CSの『チルドレンタイム きかんしゃトーマス』で放送を継続したが、同年10月にフジテレビKIDSは事業方針の変更により所持していた海外番組の放送版権を全て返上することを決定。これに伴い先述のBSやCSでの番組も放送を終了し、すべての版権はマスターライセンスを持つソニーCPに返上されたが、フジテレビジョンの吹き替え音源及び映像は今後も使用されることとなる。フジテレビは最終的に『きかんしゃトーマス』日本語吹替版を第1シリーズから第8シリーズまで制作した。
フジテレビでの放送終了後からテレビ東京での放送終了まで(2008年 - 2011年)
以降の日本でのメディア展開はソニーCPが行うこととなる。2008年から第9シリーズが小学館集英社プロダクションが制作しテレビ東京系列にて放送されていた『のりスタ!』のコーナードラマとして放送が開始された。引き続きステレオ放送となっている。
制作元と放映元の意向により、キャスティングが刷新されている。キャスティング協力は青二プロダクション[10]に代わって81プロデュースが参加することとなる。フジテレビでの放送開始時同様、メインキャラクターも含め、キャスティングはオーディションにより決定された[11]。
『のりスタシリーズ』での放送は2011年まで継続。フジテレビでのポンキッキシリーズ終了時同様、親番組の番組改編を理由に地上波から姿を再度消すことになり、民放局でのシリーズ放送は最後となった。テレビ東京では前述の第9シリーズから、第12シリーズを除く第13シリーズまでの3シリーズを放送した。
テレビ東京での放送終了後から現在まで(2012年 - )
約1年間の放送休止期間を経て、2012年4月8日より、ヒット社と専属契約を結んだNHK Eテレが独立番組として放送開始。2017年現在、第14シリーズ以降の作品が放送されている[12]。主要なキャスティングに変更はないが、NHKでの放送途中にトップハム・ハット卿役の声優・納谷六朗が死去したことに伴い田中完に変更されている他、アニーとクララベル役の声優が変わっている。また、2014年4月27日よりステレオ放送から二カ国語放送に変更され、字幕放送も実施されている[13]。2015年12月には、NHK総合にてイギリスでの取材を基に原作者や汽車のえほんを紹介する特番が放送された。2012年4月から2016年3月までは毎週日曜朝7時から放送されていたが、2016年4月以降は毎週日曜夕方5時30分から放送されている。
その他
2009年1月よりCSのカートゥーンネットワークで放送を開始した他、2009年夏に全国のローカル局ではフジテレビで放送されていた初期シリーズが再放送された。
また、2018年3月現在、Amazonビデオでは第1シリーズから第15シリーズがプライム会員の見放題対象となっている他、AbemaTVやHulu、Netflixなどでもクラシックシリーズや第16シリーズなどの一部シリーズが配信されており、インターネットサービスを通した提供も充実しはじめている。
製作
人形劇
第1シリーズの撮影はイギリス、ウォンズワース区バタシーの小規模スタジオにて行われ、模型やセットの製作は当時イギリスでテレビCMなどを製作していた制作プロダクション「クリアウォーター・フィーチャーズ」が手掛けた[14]。撮影用の一番ゲージ鉄道模型の内、動力を持つ蒸気機関車やディーゼル機関車といったキャラクターの製作においてはメルクリン社製のシャーシを流用し、真鍮やアクリル樹脂を使ってボディが制作された[14]。客車や貨車の製作にはイギリスの鉄道模型メーカー、テンミル(Tenmille)社製のキットが使われ、人間キャラクターの人形や車両キャラクターの顔の製作には樹脂や粘土が使用された。車両キャラクターの目は模型内部に搭載されたサーボと連動することで動く機構が組まれ、ラジコン操作により動かされていた[14]。また、蒸気機関車の模型内部には発煙装置も組み込まれた[15]。
撮影の順序はエピソード毎ではなく、特定のジオラマをレイアウトした後そのジオラマが登場するシーンを全エピソード分一挙に撮影し、それが終わるとまた別のジオラマを組み直し撮影するといった方法が採られていた[16]。
第2シリーズ以降は映画の撮影でも使用されているイギリスの撮影所「シェパートンスタジオ」に製作スタジオが移され、このスタジオは第12シリーズまで製作、撮影で使用された。映像撮影用カメラは第1シリーズから第7シリーズまでは35mmフィルム、第8シリーズから第10シリーズまではBETACAM、第11シリーズと第12シリーズでは高精細度ビデオカメラが使用され、第1シリーズから第5シリーズは4:3のスタンダードサイズ、第6シリーズ以降は16:9のビスタサイズ制作となっている。第12シリーズでは3DCGの素材を合成するため、模型の顔部分などにトラッキングマーカーを貼って撮影が行われた。
CGアニメーションシリーズ
製作においては主にオートデスク社のMaya(アニメーション工程など)やZBrush(モデリング工程)といったソフトウェアが使用される[17]。第13シリーズから第16シリーズまで製作を手掛けた、カナダのトロントにあるニトロゲン・スタジオ(Nitrogen Studios)では本作の製作にあたりタリスリン鉄道を訪れるなどロケーション・ハンティングも行われた。また、本作の製作期間中はスタジオ内にレファレンスとして人形劇で使用された模型が展示された(後にその内数台のモデルが日本の原鉄道模型博物館に移管された)。このニトロゲン・スタジオは本作の製作を離れたのち2017年5月にイギリスのロンドンに在るVFX制作会社シネサイトに買収された。
第17シリーズ以降はカナダ、トロントのアーク・プロダクション(Arc Productions)が製作を手掛けたが、第20シリーズ制作途中であった2016年8月に経営破綻を発表しスタジオを閉鎖、その後同じトロントのアニメーション制作会社ジャム・フィルド・トロント(Jam Filled Toronto)に買収され、2018年現在はジャム・フィルド社にて製作が行われている。
作品
テレビシリーズ
シーズン毎の各エピソードのサブタイトルは「きかんしゃトーマス サブタイトルリスト」を参照。
長編作品
その他の関連作品は「きかんしゃトーマス シーズン毎制作史#関連作品」を参照。
登場キャラクター
詳細は以下の個別記事を参照。
レギュラー蒸気機関車(第1シリーズ~第21シリーズ)
トーマス
エドワード
ヘンリー
ゴードン
ジェームス
パーシー
トビー
きかんしゃトーマスの人形劇オリジナル蒸気機関車
きかんしゃトーマス・汽車のえほんのディーゼル機関車
こうざんてつどう・スカーローイ鉄道
きかんしゃトーマス・汽車のえほんの自動車キャラクター
きかんしゃトーマス・汽車のえほんの登場人物
山にのぼる機関車(カルディー登山鉄道)
小さな機関車たち(ちんまり鉄道)
きかんしゃトーマス・汽車のえほんの人格のないキャラクター
スタッフ
オリジナルスタッフ
原作は一貫してウィルバート・オードリー及びクリストファー・オードリーである。
日本ではオープニング中で『げんさく』の肩書きで名が明記されるがシリーズで表記揺れがある。
人形劇シリーズ
第x期の欄の背景色
■はフジテレビで放送されたシリーズ
■はテレビ東京で放送されたシリーズ
■は日本での地上波での放送無し
CGアニメーションシリーズ
第x期の欄の背景色
■はテレビ東京で放送されたシリーズ
■はNHKで放送されたシリーズ
日本語吹き替え版スタッフ
第x期の欄の背景色
■はフジテレビで放送されたシリーズ
■はテレビ東京で放送されたシリーズ
■はNHKで放送されたシリーズ
■は日本での地上波での放送無し
吹き替え版キャスト
第1期から第8期まではフジテレビによるキャスティング、協力は青二プロダクション。第9期以降は放映版権の移管によりソニーCPによるキャスティング全面リニューアルが行われた。協力は81プロデュース。
キャスト一覧
第x期の欄の背景色
■の日本での地上波での放送はフジテレビでの放送
■の日本での地上波での放送はテレビ東京での放送
■の日本での地上波での放送はNHK Eテレでの放送
■は日本での地上波での放送無し
楽曲・BGM
楽曲は劇伴も含めて既製曲の使用はほとんど無く(一部でロッシーニの「ウィリアム・テル」やクリスマスソングが使われた)、本番組用に制作されたオリジナル曲が使用される。
第1シリーズから第7シリーズで製作された劇伴及び挿入歌
第1~第7シリーズの劇伴の作曲は全てマイク・オドネルとジュニア・キャンベルが手掛けた。その内の数曲には歌詞が付与され、挿入歌としてCDやミュージックビデオが制作された。
第1シリーズ~第7シリーズ楽曲(1992-2003)
1991年発表の曲は第3期初出の楽曲。1995年発表の曲は第4期初出の楽曲。1998年発表の曲は第5期初出の楽曲。2002年発表の曲は第6期初出の楽曲。2003年発表の曲は第7期初出の楽曲となっている。日本語詞は、第3,4,5期が山田ひろし。第6,7期は樹里からん、塩谷達也が担当。
『きかんしゃトーマスオールスターズ』のメンバーは日本発売のCD『きかんしゃトーマス オリジナルソングス』の記載によれば戸田恵子、高戸靖広、堀川りょう、内海賢二、森功至、中島千里、川津泰彦、緑川光、中友子、西田裕美、青野武の11名(+ひばり児童合唱団)となっているが、戸田恵子[24]と青野武[25]は実際にはこのメンバーには含まれていない。
第6期の楽曲からはトーマス少年少女合唱隊という当時の劇団ひまわり在籍者で結成されたフジテレビKIDSのオリジナル合唱隊がひばり児童合唱団に代わって参加した。メンバーは内田千晶、原田かほ、ナディーム音澄真、木崎貴紀、佐藤敦士、加茂遥南の6名[26]。
収録CD
いずれも2018年現在は廃盤。楽曲収録ビデオ・DVDについてはきかんしゃトーマス関連商品を参照。
その他
「Pop Go The Diesel」
イギリス民謡「Pop Go The Wiesel」の替え歌。第2シリーズ「ディーゼルがやってきた」や第4シリーズ「トードのめいあん」で使用される。
「ぼくはきかんしゃトーマス」
作詞:菅野温夫 作曲:勝誠二 歌:戸田恵子 セリフ:宮内幸平または青野武
第3シーズン日本開始前に放映された「トーマス」の年末特番『きかんしゃトーマスとイギリスの旅』で初披露。日本オリジナル楽曲。劇中では使用されず、イメージソングに相当する。本楽曲が発表された後に当時まだ日本オリジナル楽曲の製作許可が権利元から下りていなかったことが発覚し制作側で問題となったが[27]、お蔵入りなどはされずCD化、VHSビデオ化もされた。曲中にはトップハム・ハット卿のセリフが含まれるが、VHS「みんなでうたおうトーマスのうた」2巻とCD「ポンキッキファミリーコンサート」には宮内幸平の声によるセリフを収録。先述のCDシリーズ「きかんしゃトーマス オリジナルソングス」には青野武によるセリフを収録。他に番組内広報などのBGMとして流れたことがある。
長編作品第1弾 劇場版きかんしゃトーマス 魔法の線路
劇場版では、専用曲が新たに制作された。作曲はハミー・マン。
きかんしゃトーマス 魔法の線路 楽曲(2000)
収録ソフト
いずれも2015年現在では廃盤。
その他
「Working on the Railrode」
既製曲線路は続くよどこまでもの流用。
第8シリーズから第11シリーズで使用されている挿入歌
ほぼすべての楽曲の作詞作曲をエド・ウェルチが手掛け、2008年発表の「トーマスラップ」(後述)のみピート・ウッドロフとチャーリー・グラントが作詞作曲を手掛けた。一部楽曲の日本語歌詞は2018年現在製作されていない。また、一部楽曲のフルバージョンは米国版DVD「Songs From The Station」(2005年発売)、英国版DVD「Songs From Sodor」(2009年発売)の他、Youtubeの本作公式アカウントでのみ聴くことができるものもある。
第8シリーズ~第11シリーズ楽曲(2004-2008)
長編作品第4作以降の挿入歌
2009年~2015年までに発表されたテレビシリーズ用の楽曲は一部を除き作詞作曲をロバート・ハーツホーンが手掛け、2013年以降の長編挿入歌については作曲がロバート・ハーツホーン、作詞がアンドリュー・ブレナーとなっている。2016年以降は長編用楽曲はオリバー・デイビスが作曲、アンドリュー・ブレナーが作詞を手掛けているが、テレビシリーズの挿入歌の作詞作曲者は不明。日本語歌詞が発表されていない楽曲が多い。
長編作品第4作以降の楽曲(2009-)
放送局・放送枠の変遷
イギリス・アメリカ
本国イギリス及びアメリカでは過去に幾度かチャンネルや枠を変更しながら本作の放映が続いている。下の表はその変遷である。
イギリス
シリーズの本放送はITV、カートゥーンネットワーク、チャンネル5で行われ、Nick.jrとCartoonitoは本放送終了後に再放送としてシリーズを放送。但し、Cartoonitoにて初放送されたエピソードも複数存在する。一部のエピソードはいずれの放送局でも放送されずビデオスルーとなった。
アメリカ
特別番組
「The Thomas the Tank Engine Man」(1995)
BBCのドキュメンタリーシリーズ『Bookmark』の特集として製作され、1995年に放送された1時間のドキュメンタリー番組。監督はジョン・メア、プロデューサーはニコラス・ジョーンズ、Quanta Films Ltd制作。原作者やテレビシリーズのスタッフのインタビュー、シリーズの撮影風景も交えて放送された。また、当時日本語版プロデューサーを務めていた安達みき子やソニー・クリエイティブプロダクツにて本作のマーケティングを担当していた岡田忠明のインタビューも含まれていた。日本では未放送。
日本
地上波
イギリス及びアメリカと同じく幾度かチャンネルや枠を変更している。2012年にNHK・Eテレで独立番組としての放送が開始される前は、日本国内において本作は幾つかの子ども番組内でコーナードラマとして放映され、この方式で放映したことにより作品の知名度や人気を上げた面もある。下の表は本作をコーナードラマとして放映した子ども番組の変遷である。
■はフジテレビの番組
■はテレビ東京の番組
■はNHKの番組
いずれの番組でも新作放送後は過去のシリーズの再放送、セレクション放送が行われた。また、ポンキッキシリーズにおいては本作の放映が休止された期間が何度かあり、新作の放映開始のタイミングでコーナー復帰するケースが多かった。
BS放送
全番組、放送局はBSフジ。2018年現在はBSでの放送は行われていない。
「東京キッズクラブ」(2003)
2003年頃からコーナーの1つとして放送。第1シリーズから第5シリーズまでを地上波放送順で放映し、エピソード2話と挿入歌1曲で構成された。2004年からは「きかんしゃトーマス」として独立番組化するため、本作の放送を終了。
「きかんしゃトーマス」(2004-2006)
2004年頃から放送。第1シリーズから第5シリーズまでを地上波放送順で放映し、エピソード2話と挿入歌1曲で構成された。2005年4月25日、JR福知山線脱線事故が発生した直後は、事故への配慮から機関車達が脱線するエピソードをしばらく放送中止にする処置がとられた。番組開始当初は最初と最後にお姉さんが登場し、「さあ、次はきかんしゃトーマスだよ!いったいどんなお話かな?」などの説明があった。
「トーマスくらぶ」(2006-2007)
2006年4月から2007年9月28日まで放送された。内容は前述の2004年-2006年放送「きかんしゃトーマス」とほぼ同様で、第1シリーズから第7シリーズまでは、エピソード2話(第5シーズンまでは地上波放送順、第6、7シリーズは英国版放送順)と挿入歌1曲(尺の都合で途中カット)で編成されていた。第8シリーズ(ランダム放映)はエピソード1話と挿入歌2曲の編成で放送され、地上波放送に先行してオンエアされたエピソードも複数あった。第6シリーズは地上波放送版、DVD版と異なり16:9の画面比で放送されていた。
CS放送
「チルドレンタイム きかんしゃトーマス」(1999-2007)
「チルドレンタイム きかんしゃトーマス」の項目を参照。
カートゥーン ネットワーク「きかんしゃトーマス」(2009-)
2009年1月3日からレギュラー放送開始。開始当初の番組編成はエピソード2話で、放送尺は15分間。初期シリーズは、デジタルリマスター版ではなくオリジナルの映像で放送されている。また、2009年6月から2010年頃までは当時カートゥーンネットワークで放送されていた海外の幼児向け番組放送枠「ぴぽらぺぽら」にて毎日1~2話ずつ放送されていた。何度か放送時間や尺が変更され、1時間枠で放送されていた時期もあった。一時期第8シリーズも放送されていたが2018年3月現在は放送が休止されている。2018年3月現在は毎日朝6時30からと昼12時からの30分枠で放送されている。
独立局
「きかんしゃトーマス」(2009)
2009年7月〜9月の月曜日〜金曜日 7:00-7:15にtvkで第1シリーズから第4シリーズまで放送。
特別番組
特別番組一覧
他メディアへの進出
トーマスランド
日本
山梨県富士吉田市の富士急ハイランド内にある、世界初のきかんしゃトーマスのミニテーマパーク。1998年にエリアの一部が開業、翌年にエリア拡大し、全面開業した。幼児向けの電動遊具を10基ほど設営する他、カフェやトーマス・グッズの売店などがある。美術設計はクラシックシリーズにて美術監督を務めたボブ・ゴールド・ガリアーズが手掛けた[28]。
イギリス
2008年3月15日にイギリスの大型テーマパーク「Drayton Manor」内で開業した。(Thomas Land (Drayton Manor))
園内には日本のトーマスランドに設置されている「トーマスとパーシーのわくわくライド」にロージーが追加されたものや、日本より走行距離が長い貨車のジェットコースターなど、日本とは異なるアトラクションが多数存在する。
2010年現在、テレビシリーズの撮影で使用されたグレートウォータートンのレイアウトが再現されており、レギュラー機関車やその他の仲間たちの模型が展示されている。
トーマスタウン
2009年9月17日にららぽーと新三郷の中に屋内型テーマパーク『トーマスタウン 新三郷』がオープンした。パーク内には、メインのライド型遊具「トーマスシアタートレイン」があり、トンネルの中では3分程度の映像を見ることができる。ブレンダムレストランには、長編第3作で使用された大型のトーマス、パーシーの実物模型が展示されている。他にも、プレイエリアにブレンダムドック、トップハムハット卿のオフィス、ナップフォードマーケットなどの施設があり、広場のナップフォードスクエアでは日替わりでイベントが開催される。その後、2011年11月25日にはアリオ倉敷内に『トーマスタウンmini倉敷』(2014年10月17日にトーマスステーション倉敷に店名変更、2018年1月14日閉店)がオープンし、2014年10月1日にはららぽーと和泉に『トーマスステーション和泉』、2017年4月27日には札幌エスタに『トーマスステーション札幌』、2018年3月16日にはイオンモール宮崎に『トーマスステーション宮崎』、2018年4月27日にはモレラ岐阜に『トーマスステーション岐阜』をそれぞれオープンしている。
日本モンキーパーク
愛知県犬山市の日本モンキーパークには、2003年3月からきかんしゃトーマスを模した園内鉄道「トーマスとジェームスのハッピートレイン」があったが2009年1月12日をもって営業を終了した。
CASA
ファミリーレストランのCASAは、2001年頃までトーマスを店のキャラクターとして採用していた。トーマスの名前がついたメニューや、利用時にもらえる塗り絵(また、『魔法の線路』公開時には、オリジナルの缶バッジやマフラーなどももらえた)、さらに、ポイントカード入会時に利用者(子どものみ)の誕生日を記入しておくと、誕生日の数日前に利用者の自宅にバースデーカードが届き、誕生日の当日に来店すると、トーマスを摸したバースデーケーキがもらえるなど、このようなサービスは非常に好調だった。しかし、2001年には、規模の縮小のため、トーマスを一切使用しなくなった。
イベント
きかんしゃトーマス ラッピング電車
主に富士急行、京阪電気鉄道が運行しているが、他社での運行実績もある。
富士急行
1998年の開園時から富士急行5000形電車を使用して、「トーマスランド号」が富士急行線大月駅・河口湖駅間で運行されている。また、中央高速バス富士五湖線に使用される車両にも、「トーマスランドエクスプレス」と呼ばれる専用車が2台在籍する。
京阪電気鉄道
2006年7月29日から2007年1月21日まで京阪各線で運行。使用車両本線7200系7203F、宇治線・交野線10000系10003F、石山坂本線600形615+616
2007年7月21日から2008年1月下旬まで運行。使用車両本線7000系7002F、石山坂本線700形703+704
2008年7月19日より2009年1月頃まで運行。使用車両本線7200系7203F、石山坂本線600形619+620()
2009年7月より2010年7月4日まで運行。使用車両本線7000系7001F(K PRESS 2010年2月号 2009-2010年はひらかたパークできかんしゃトーマスのイベントを開催する関係上、期間を延長して運行)
2011年3月19日より2012年3月31日まで運行。使用車両宇治線・交野線10000系10001F、石山坂本線700形709-710()また同年5月14日から、土曜・休日ダイヤ運行日の10時から16時に始発駅を発車する列車では、トーマスの声優を務める比嘉久美子の録音による車内放送に変更されている。()
2013年3月2日より2014年3月23日まで運行。使用車両本線3000系3006F、交野線10000系10006Fと夏頃にもう1本、石山坂本線700形701-702。交野線10000系では車内装飾がされ、10時から16時に運用される列車では、トーマスの声優を務める比嘉久美子の録音による車内自動放送に変更される。また大津線では土曜・休日ダイヤ運行日の10時から16時に始発駅を発車する列車では、比嘉久美子の録音による車内放送に変更される。さらに10000系1本もキャラクターの投票により1位になったキャラクターがラッピングされる。()
2014年12月21日より2016年3月日まで運行。使用車両本線8000系8010F。
2015年4月15日より、「きかんしゃトーマス」をデザインしたICOCAを京阪線で発売。(京阪電気鉄道各駅(大津線除く)の券売機で発売。3万枚)[29]
2017年3月25日(土)~2018年10月31日(水)予定で交野線で運行。使用車両は10000系10004F。
富士急行・京阪のコラボレーションイベント
上記2社はきかんしゃトーマスのラッピング電車を運行している共通点から、2013年には富士急行・京阪両社の共同企画として、以下のコラボレーションイベントが開催された。
きかんしゃトーマスとなかまたちスタンプラリーの両社のエリアでの開催[30]
両社の車両をモチーフにしたきかんしゃトーマス号 エクスプレスBOXの販売[31]
きかんしゃトーマス号ラッピング電車とフジサン特急・京阪特急などを収録した電車DVDの販売[32]
その他のラッピング電車
トーマスランドへのアクセスを担う富士急行の「トーマスランド号」、京阪のトーマス電車以外に、時限運行で下記のラッピング電車が運行された。2005年7月18日から2005年8月31日まで東京急行電鉄で運行、使用車両東横線9000系9013F。運行初日には、お台場でのミュージカル出演者から代表してトップハム・ハット卿が出発式に登場したが、混雑が激しいため列車への同乗は中止された。
イベント用蒸気機関車
英国で20年以上開催されている「Day out with Thomas」の日本版として、大井川鐵道では青色車体塗装を施したC11形227号機の前面にトーマスの顔を装着する「きかんしゃトーマス号」をイベント列車として定期的に運行している。初運行は2014年7月12日から10月13日まで行われた。本線用の蒸気機関車を使用した「きかんしゃトーマス号」は世界各地にも存在しているが、アジアエリアにおいては日本が初めての運行となった。イベント列車に先立つ2014年3月22日より千頭駅構内で静態保存している9600形49616号機に「ヒロ」の顔を施して展示された他、同4月26日より大井川鐵道が保有する近鉄16000系16003Fをトーマス号PRラッピング電車として運用開始させた。
ライセンス契約上では2016年まで有効となっているが2019年も運行が決定している。2015年6月7日からは「きかんしゃトーマス号」のほか新たに赤色車体塗装を施したC56形44号機による「きかんしゃジェームス号」も導入され、千頭駅構内の静態保存として「パーシー」(C12形208号機)が追加された[33]。2016年も6月11日から運行され、「バスのバーティー」(赤色車体塗装の日野・ポンチョ)、「ラスティー」、「いたずら貨車」「いじわる貨車」が追加された[34]。2018年6月には保線用自転車を改造したレール検測車「ウィンストン」を導入する[35]。
舞台
ミュージカル きかんしゃトーマスとなかまたち
2005年夏、フジテレビお台場冒険王のアトラクションのひとつとして、イギリスから招聘した子どもミュージカル、7月16日から8月31日まで毎日2回公開。計47日間94公演、さらに追加公演で1日3回公演の日もあった。入場料は大人4000円、子供3000円。馬の曲芸興行用だった巨大な特設テントで、実際の車両の2/3くらいのトーマス・パーシー・ジェームスが、煙をだして舞台に設けられたレールを俳優たちを乗せて走り回り演技する。ゴードンはかなり大型のため舞台上の機関庫から顔を出してくるだけの出演。また、アニーとクララベルはトーマスやパーシーに引かれての出演となった。本場イギリスでの公開中には、アニー達の他に貨車が2両、ヘリコプターのハロルドは上空で飛んでいるように見せるために、ステージ上の天井に吊しただけの出演、さらに、レール以外の場所ではホイルローダーのジャックが出演していた。キャラクターの声はテレビシリーズと同じ配役(ただし、アニーとクララベルはセリフがない)。かつてブリット・オールクロフトが権利を所有していたギネスブックの2004年版に世界一大きな鉄道模型としてこのときのジェームスが選ばれている。ナレーションも森本レオで替わらず。イギリスのミュージカルだが俳優は日本人で日本語で演じられた。演出は、劇団青年座文芸部の伊藤大、脚本は上野火山、作詞は竜真知子、主な出演者は、児玉謙次、佐々木勝彦、小山田里奈、出光秀一郎、南谷朝子、福田賢二、もたい陽子、筒井巧、川先宏美、松川真也、らでほとんどが青年座からの客演。ダブルキャストが多い。最終公演の前日パーシー(の機械)が病気(故障)でその日の2回目公演が中止となっている。
きかんしゃトーマス ファミリーミュージカル 「ソドー島の夏まつり」
2009年7月16日から同年8月30日まで日本各地で公演された子どもミュージカル。2007年にイギリスで公演がスタートし、アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・シンガポール・台湾・韓国でも公演された。2005年の公演ではお台場一箇所だったが、この公演では東京厚生年金会館、八王子市民会館、栃木県総合文化センター、長野市民会館、文京シビックホール、名古屋市公会堂、京都会館、新潟テルサ。昭和女子大学人見記念講堂など全国各地合計18会場72回の上演になった。内容はソドー島のおまつり「マジック・ランタン・フェスティバル」を前にしたある日、嵐で祭りの準備が台無しになったなか機関車たちが活躍するといったもので、トーマス、パーシー、ディーゼルが登場する。日本公演での主な出演者は、いいづか康彦、池田千絵、石井健三、神田恭兵、沓沢周一郎、福井小百合、舩山智香子、山合大輔ら、トーマスとパーシーの声はテレビシリーズと同じ配役で、ディーゼル及び貨車は配役不明。使用された挿入歌は「Good Morning!」※ミュージカル専用曲、「すばらしいソドーとう」、「Surprises」、「たのしいきかんしゃ」、「Sounds」、「それゆけナイトトレーン」、「きょうそうしようよ」、「Detemination」、「きかんしゃトーマスのテーマ2」、「やくにたつきかんしゃ」、「きかんしゃトーマスのテーマ」。フジテレビ時代に製作された曲のほとんどは元の歌詞をそのまま使用し、テーマ曲の「きかんしゃトーマスのテーマ2」、「それゆけナイトトレーン」は場面に合わせて歌詞が新しく作り直された。また、物語の中ではテレビシリーズのエピソードから発案されたシーンもあり、第5シーズン「パーシーとひつじ」同様パーシーが羊に出会ったり、第7シーズン「ソルティーとあらし」同様に灯台がつかなくなる場面もあった。機関車の模型は、2005年に公演されたミュージカル(前述)で登場したものより小型で線路を使用しないものになり、ステージ上を自由に走れるようになった。
きかんしゃトーマス ファミリーミュージカル「ソドー島のたからもの」
2014年から上演されている日本オリジナルの子どもミュージカル。日本人の見習い機関士ケンがトーマスと共に宝探しへ向かうストーリーで展開される。演出は藤森一朗、脚本、楽曲作詞は源井和仁が務める。キャストは公演によって異なる。2015年のツアーでは4万人を動員。2016年のツアーは、全国35箇所74公演を予定しており、東松山で通算100回目の公演を迎える[36]。
キャラクターショー
2009年頃より全長1メートルほどの遠隔操作仕様によるトーマスとパーシーや着ぐるみ仕様の車掌などが登場するステージショーが全国各地で公演されており、日本が独自で制作したストーリーに合わせてキャラクターが動いたり歌うなどの演技を行う。音声は実際のテレビシリーズと同じキャストによるセリフや歌が使用される。
その他のイベント
ギネス記録
2006年8月23日に、お台場のアクアシティとメディアージュでギネス世界記録に挑戦するイベントが行われた。トーマスの人気玩具「木製レールシリーズ」のレールを繋げてギネス世界記録に挑戦するイベントで、結果は2004年のドイツの記録(1241.8m)を上回る新記録(1650.14m)に達成した。参加者数は300人、司会はトップハム・ハット卿の服装をした山中秀樹、アシスタントはフジテレビアナウンサーの松尾翠。その後2011年には富士急行、ソニー・クリエイティブプロダクツ、タカラトミーが共同で「きかんしゃトーマスのなかま チームジャパン2011」を結成し、同年7月28日に富士急ハイランドにてプラレールのレールを繋げて世界最長記録に挑戦するイベントが行われた。司会はタレントの古坂大魔王が務め、結果2010年にオーストラリアで達成された記録(2014m)を207m上回る新記録2221.514mを達成した。イベント開催時の模様は後日テレビ東京系の子ども番組「おはスタ」にて放送された。
原鉄道模型博物館
2015年より神奈川県横浜市の「原鉄道模型博物館」にてテレビシリーズの撮影で使用されたトーマス達の模型が定期的に運行されており、Instagramを使用したフォトキャンペーンも連動して実施される場合もあった。
キャンペーンなど
2005年4月より関西鉄道協会に加盟する32社・局とJR西日本が鉄道の駅において助けを求める子供の保護などを目的とした「こども110番の駅」活動を発足し[37]、このキャンペーンキャラクターにトーマスが採用された。その後日本民営鉄道協会協力のもと全国展開が行われ、2018年現在全国の鉄道駅にそのトーマスデザインのキャンペーンステッカーやポスターが貼られている。
影響
模倣
原作「汽車のえほん」の発表後にも英国内では模倣作品(絵本)が複数発行され、1970年代にはエルトン・ジョンが自らのレーベル「ロケット・レコード」のロゴに一時トーマスを模したキャラクターを使用していたこともあったが、テレビシリーズ化版である本作発表後には世界的に知名度を上げたことによりパロディ作品が増え、日本においてもフジテレビ系の番組「笑う犬」において『機関車ナーマス』という題でパロディコーナーが放映された他、テレビアニメや漫画作品において本作のパロディが散見される。
他の映像メディアでの登場
作品の認知度が高いことからドラマや映画において題材の一部として本作の玩具などが使用される場合があり、日本国内でもフジテレビ系ドラマ「離婚弁護士」第3話(2004年4月29日放映)においてストーリー上主要な題材として本作の玩具や映像が使用された。また、2015年公開のマーベルスタジオ制作映画「アントマン」においてはトーマスの鉄道模型(詳細はきかんしゃトーマス関連商品のHOゲージの項を参照)がクライマックスの戦闘シーンで登場し、該当シーンが予告編に使用されるなど映画のアイコンの一部として使用された。
評価
米国NPO「コモン・センス・メディア」は高い教育性や保護者が安心して子どもに見せることができるコンテンツとしてポジティブな評価を付けているが[38]、シリーズにおいては事故シーンなども含まれるため否定的な評価も存在する。また、英国の政治家などから、登場キャラクターの男性率の高さから性差別を唆している[39]、といった批判がしばしば上がり、近年のシリーズ制作においてキャラクターのジェンダーバランスの調整が行われているのもこれらが要因の一部になっている可能性が考えられる。
日本国内では、玩具会社バンダイが毎年行う『お子さまの好きなキャラクターに関する意識調査』において、長年「好きなキャラクターランキング」の男女総合トップ10にランクインしており、2016年には第3位まで上った[40]。
また、第4シリーズから第8シリーズの日本語版の企画を担当した小畑芳和は、本作は人間のコミュニケーションの中にある色々な要素を含んでおり、子供たちが感じ取っていくものが豊富にある事、ストーリーの展開の仕方も子供たちに合ったテンポで非常に見やすいことが作品の魅力であると語っている[41]。同じくフジテレビ放送シリーズで演出を務めた菅野温夫は、子ども(少年)と同じように悪さをするトーマスははなから悪いわけではなく、悪い行いに対するしっぺ返しはあるが、その一方でキャラクターの行動を受け止める懐の深さが物語の背景にあると話す[42]。
その他、脚本家、演出家の三谷幸喜は朝日新聞に連載しているコラム『三谷幸喜のありふれた生活』において本作同様、意志を持つ鉄道車両を題材とした作品『チャギントン』と本作を比較し、本作の機関車達は人間の役に立つことを常に考え、見返りとして人間たちに世話をしてもらう馬車馬に近い存在である一方、『チャギントン』は登場車両の自由度の高さや人間キャラクターの列車たちに対する遠慮がちな態度から『猿の惑星』における猿と人間のような関係であると語っている[43]。また、トーマスたちの顔は先頭部分に貼りついたような形をしているが、『チャギントン』に出てくる列車たちは正面の窓の部分に目がついており、運転士たちが目玉の裏側を見るような形であることから、三谷は些細なことが気になる自らのような人間は本作ほど『チャギントン』にはのめりこめないだろうと述べている[43]。
脚注
関連項目
原作及び発売アイテムについて
汽車のえほん(原作の基本情報)
きかんしゃトーマス 原作と人形劇(原作と人形劇共通の説明と相違点)
きかんしゃトーマス関連商品(玩具・模型など)
ただし、これでも上記項目に複数またがる情報がある場合、原則として以下のルールに従い掲載している。
原作と人形劇の違いのうち、特定のキャラクターに関する違い→「原作と人形劇」でなく「きかんしゃトーマス・汽車のえほんの登場キャラクター」
原作の刊行情報→全て「汽車のえほん」
原作を基準とした人形劇とのエピソード対比→全て「きかんしゃトーマス 原作と人形劇」
人形劇を基準とした原作とのエピソード対比→全て「きかんしゃトーマス シーズン毎制作史」
類似作品
がんばれタッグス - クラシックシリーズのスタッフが制作したタグボートを主役とする人形劇
ショベルカーディグスとはたらく車たち - 第8シリーズ~第12シリーズのスタッフが関わった建設機械の人形劇
ボブとはたらくブーブーズ - 本作と権利元が同じ建設機械が主役の作品
きかんしゃ やえもん
外部リンク
- NHK公式サイト内
2010年4月 - 2011年3月
2008年4月 - 2010年3月
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%97%E3%82%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9 |
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アルメニア人虐殺(アルメニアじんぎゃくさつ)は、19世紀末から20世紀初頭に、オスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが、強制移住、虐殺などにより死亡した事件。ヨーロッパ諸国では、特に第一次世界大戦に起きたものをオスマン帝国政府による計画的で組織的な虐殺と見る意見が大勢である。それによれば、この一連の事件は「アルメニア人ジェノサイド」と呼ばれ、21世紀に至る現代でも、オスマン帝国の主な継承国であるトルコは国際的に非難されている。トルコ政府は、その計画性や組織性を認めていない。
問題の概要
19世紀末と20世紀初頭の二度にわたり、オスマン帝国領内でアルメニア人に対する大規模な虐殺が起きた[1]。このうち第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺は、1915年から1916年にかけて統一と進歩委員会(青年トルコ党)政権によって行われた、伝統的なアルメニア人居住地(いわゆる大アルメニア)の南西部にあたるオスマン帝国領のアナトリア東部(いわゆる西アルメニア)からのアルメニア人強制移住であり、これにともなって数多くのアルメニア人が犠牲になった。オスマン帝国に居住するアルメニア人が政府の命令により意図的に殺害されたとして、この虐殺事件を近代初のジェノサイドの一つであるとみなすものは少なくない[2][3][4][5]。アルメニア人社会では「虐殺がナチス・ドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように組織的に行われた」と考えられており、またオスマン帝国からトルコに至る「トルコ国家」が一貫した責任を有するとする。特に4月24日は、ジェノサイド追悼記念日とされており、毎年トルコを非難する国際的なキャンペーンが行われている。
アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えられている[6][7][8][9]。トルコ共和国の元国民教育相ユースフ・ヒクメト・バユルは、トルコ歴史協会から出版された、その著書『トルコ革命史』で、1928年にニハト中佐により翻訳されトルコ参謀本部により出版された『世界大戦におけるトルコの戦争』のなかから「東部諸県のムスリムのうち、戦争のため、または避難のため、50万が失われた。80万のアルメニア人と20万人のルム (ギリシャ本土以外に住むギリシャ系住民のトルコでの呼称)は、虐殺と追放のため、また、労働大隊において死亡した」という部分と、「我々の記録に拠っても、事実と看做す必要がある」とのニハト中佐の脚注を引用している[10]。
さらに第一次世界大戦の終結後、アルメニア第一共和国はオスマン帝国領のアルメニア人居住地域を含む領土拡大を目指したが、モスクワのアナトリー・ゲッケル指揮下の赤軍第11軍とアンカラ政府のキャーズム・カラベキル指揮下の東部戦線 (Eastern Front)の攻撃の前に粉砕された。この戦乱でも多くのアルメニア人が命を落とした。
また、アルメニア人の他に、アッシリア人やポントス人 (ルム)に対する虐殺事件も起きた[11][12][13]。
迫害の背景と経過
オスマン帝国におけるアルメニア人問題の発生
オスマン帝国におけるアルメニア人共同体は、大きく分けて、東部の農村社会と、イスタンブールなど都市部の交易離散共同体との二つから成り立っていた。特に後者は貿易や金融業で成功して富裕な商人層を形成しており、また建築家や造幣官などとして宮廷、中央官庁に仕える者も多く、中央政府と共存共栄する共同体であった。オスマン帝国東部にはアルメニア人の他にクルド人なども居住しており、シェイフ・ウベイドゥッラー・ネフリー、ベデゥルハーン・ベグ、イェズダン・シェイルなどのクルド人の反乱が起きていたが、アルメニア人による反乱は起きていなかった。こうした背景から、アルメニア人共同体は、「忠実なるミッレト」 (共同体、Millet-i Sadaka)と呼ばれていた。しかし、19世紀に入るとアルメニア人の中からカトリックへの改宗などを通じて西ヨーロッパ諸国の庇護を受け、特権を享受する者が現れ、ムスリム住民との間に軋轢が生じ始め、また富裕層の間から西ヨーロッパとの交流を通じて民族主義に目覚める者が現れ始めた。一方、コーカサス戦争、などの結果、ムスリムのアナトリアへの集団移住が行われ、オスマン帝国が受け入れていた[14]。これらカフカス移民やバルカン戦争などによるバルカン移民のなかには、キリスト教徒に対し「復讐心」を抱く者が少なくなく、第一次世界大戦時に非正規部隊に登用され、アルメニア人虐殺においても主要な役割を演じることになった。
1877年の露土戦争でロシア帝国は南カフカスとアルメニア人居住地帯の北東部を占領し、アルメニア系の (ラザリャン)中将にムスリムとアルメニア人の離間のための任務にあたらせた。()。アルメニア人人口を抱え込んだロシアは、オスマン帝国領内のアルメニア人を支援するようになり、1878年のサン・ステファノ条約で、、、、、からなるオスマン帝国東部の「」におけるアルメニア人の権利向上を目指す改革の実施を約束させようとした。これを契機にオスマン帝国領内でが盛り上がり、帝国外ではアルメニア人民族主義者が、ダシュナク党など、アルメニアの独立を目標とする政党が結成された。やがて、彼らの中から帝国内に秘密支部()を設け、オスマン官吏を狙った爆弾攻撃を行う抵抗運動すら現れ始めた。一方、先の露土戦争のとき、ロシアの占領地からオスマン帝国に逃れてきたムスリムの難民たちから、キリスト教徒であるアルメニア人がロシア軍に協力してムスリムを追い立てたのだとする風評がムスリムの間で広まり、オスマン帝国下のムスリム、すなわち都市部でアルメニア人と接するトルコ人や東部でアルメニア人と混住するクルド人の間で、アルメニア人を国内にありながら外国と通謀し「テロ」を行う危険分子と見なす敵愾心が高まっていった。
「ハミディイェ虐殺」
1894年、アナトリア東部のビトリス県でムスリムとアルメニア人の大規模な衝突が起き、オスマン政府は軍隊のほかハミディイェのような非正規部隊を動員して衝突を鎮圧し、2万人とも言われる多くの犠牲者を出した()。
ただし、フランスの外交書簡によれば、ハミディイェによって殺されたのはアルメニア人だけではなく、ディヤルバクル(), , スィヴァス[15]などのアナトリアに住むアッシリア人も多かったと記録されている[16][17]。また、9月には、イスタンブールに住むユダヤ人コミュニティが暴動の期間中に多くのアルメニア人を自宅に匿っていた為、シナゴーグがムスリムによる襲撃を受けている[18]。アルメニア人政党はこれを機に国際世論に訴えたので、ヨーロッパ諸国はオスマン帝国の対応を批判し、翌1895年1月、イギリス・フランス・ロシアは共同でアナトリア東部の行政改革案を提示して、その履行をオスマン帝国に要求した。この出来事は同年、オスマン帝国政府が履行を受諾しながら改革を一向に実施しないことに抗議するアルメニア人の大規模なデモをイスタンブールで巻き起こすが、これをデモというよりはむしろ外圧を笠に着た横暴と感じ激昂したムスリム民衆が首都のアルメニア人を襲撃する事件が起こった。さらに翌1896年にはアルメニア人の革命組織がイスタンブールのオスマン銀行を襲撃・占拠した事件()が起こり、ムスリムとアルメニア人の衝突が再燃した。
1894年に起こったこの衝突・迫害は1896年の衝突を最後に一応の沈静化をみるが、一連の衝突で犠牲になったアルメニア人は数万人にのぼった。この事件をきっかけに富裕層を中心にオスマン帝国を見限ったアルメニア人の欧米への移住が相次ぎ、都市部のアルメニア人人口は急速に減少に向かった。
一連の衝突・迫害に関して諸外国はオスマン帝国を非難したが、オスマン帝国の分割あるいは保全に対する列強それぞれの思惑の相違から改革要求以上の介入は行われず、ムスリムとアルメニア人の対立構造は虐殺行為の沈静化後もそのまま手付かずに残されることとなった。
ユルデュズ暗殺未遂事件と青年トルコ人革命
1905年7月21日、アルメニア革命連盟はキュステンディル近郊の村で製造された爆弾によるスルタンアブデュルハミト2世暗殺を試みたが、護衛26人は死亡したもののスルタンは軽傷で済み失敗に終わった。スルタンへの敵意は統一と進歩委員会(青年トルコ党)にとっても同様で、1908年の青年トルコ人革命でついにアブデュルハミト2世の専制がエンヴェル・パシャらによって打破され、憲政が復活した。
アダナの虐殺
それまでズィンミーの身分に耐えてきたアルメニア人キリスト教徒の間でも青年トルコ人革命によって圧政から解放される期待が高まっていたが、1909年4月13日に起こったアダナの虐殺で、アルメニア人キリスト教徒15,000-30,000人がムスリム住民に虐殺された[19][20][21][22][23]。この時、は数千人のアルメニア人で溢れ返り、メルスィンに寄港中だったフランスの軍艦三隻にはアルメニア人難民が殺到した。オスマン軍も暴力を沈静化させるために活動した。イギリス海軍の巡洋艦ダイアナが事態を沈静化させる為にアレクサンドレッタに寄港したが、暴動はなかなか治まらなかった。
第一次世界大戦時の「アルメニア人虐殺」
1913年になるとタラート・パシャ、エンヴェル・パシャ、ジェマル・パシャらがクーデターを起こし、統一派のタラートが自ら政権の座についた。政権奪取に至る帝国内外の政治的な経緯から、次第にトルコ民族主義へと傾斜しており、アルメニア人問題は再燃に向かっていた。1914年、東部アナトリアの諸州にアルメニア人問題に関する国際監視団が派遣されることが決定したが、同年に第一次世界大戦が起こると凍結された。この状況下でオスマン帝国が第一次世界大戦で同盟国側につくことを決すると、連合国側で参戦したロシア帝国のニコライ・ユデーニチが率いるカフカース軍が東部アナトリアに侵攻し、1914年12月のでエンヴェル・パシャが率いるオスマン軍を撃破した。このとき、アルメニア系オスマン帝国臣民の中からも、ロシア軍へと参加したり、オスマン帝国に対するゲリラ活動に入る者が数千人単位で現れるが、アルメニア人ゲリラによってムスリムの村落が襲撃され、ムスリムが殺害される事件も起こった。これらの行動は、露土戦争以来オスマン帝国の政府内外に浸透していたアルメニア人への敵意を確実なものとする結果を呼んだ。
ガリポリ戦線がイギリスの激しい攻勢にさらされる中で、1915年にはヴァン湖周辺でユデーニチ率いるロシア軍と一進一退のこう着状態に陥っており、オスマン軍にとってまでもが劣勢に陥るという苦境だけは避けねばならなかった。1915年4月19日、ヴァン湖地区で行われたヴァン攻囲戦では、エンヴェル・パシャの叔父ハリル・ベイ率いる第5遠征隊 (5 nci Kuvve-i Seferiye)がアルメニア人防衛線を突破することに成功し[24]、7月には-線まで押し戻し、8月にはヴァン湖周辺を制圧することになった。
それと平行して、1915年4月から5月頃、戦闘地域での反国家・利敵行為を予防するとの目的で、ロシアとの戦闘地域であるアナトリア東部のアルメニア人をシリアの砂漠地帯の町デリゾールの強制収容所へと強制移住させる死の行進政策が開始された。その指令がいついかなるようになされたか、あるいは本当になされたのかどうかについては議論がある。そして同年4月24日は、イスタンブールでアルメニア系の著名人たちが逮捕・追放され( (「赤い日曜日」とも))、後に殺害された者も少なくなかった。アルメニアおよび各国のアルメニア人共同体では、この事件が一連の虐殺の契機とみなされており、この日がジェノサイド追悼記念日とされている由縁である。
アルメニア人たちは徒歩で乾燥した山地を越えてシリアの砂漠へと向かう強制移住に駆り立てられた。ユーフラテス川沿いのシリア砂漠の町デリゾールへと向かう厳しい移動の中で少なからぬアルメニア人が命を落としたことはおそらく間違いない事実であり、トルコ共和国もそれは否定していない。また無防備なところを現地のトルコ人・クルド人部族の民兵による「報復」にさらされたりしたこともあったと見られる。
そしてアルメニア人の組織的虐殺を事実として肯定する立場によれば、さらに強制移住のため家々から駆り立てられたアルメニア人の青年男子は村内の一箇所に集められ、まとめて殺害されたという。
一方虐殺を否定するトルコ側の主張は、アルメニア人が多く犠牲になったのはあくまで戦時下の最前線の混乱における不幸な結果だとみなしている。否定する立場では、殺害されたのは戦闘員やロシアと通じたスパイのみであるとされており、4月24日の最初の犠牲者もそれに含まれるという。
混乱を生き延びたアルメニア人たちの多くは、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国に移住して行った。ムーサダーでは、六村が丸ごとレバノンに逃れ、それぞれ居住区を与えられて保護されたケースもある。1933年に、フランツ・ヴェルフェルは、これらのエピソードをもとに小説『』(「モーセ山の40日」とも)を執筆した。
「アルメニア人虐殺」に対する見解は、この問題が現在もなお深刻な政治的問題をも含むために、肯定派と否定派の間に大きな隔たりがある。
エンヴェルに近い統一派の諜報組織「」(特別組織)のもと、クルド部族民、囚人、カフカスおよびバルカン半島からの避難民から編成された非正規戦闘部隊[25] による一連のアルメニア人強制移住への関与が指摘されている。また、サルカムシュの戦いで瓦解したこれら部隊の元構成員が逃亡して、アルメニアおよびムスリムの村々を襲撃したことが報告されている[26]。強制移住にともなう諸々の迫害がオスマン帝国の統一派政権によって組織的に行われていた説が主張されている。しかし一方では「政府当局者がアルメニア人虐殺を命令したとする確かで信頼できる証拠は存在しない」ということを根拠に、虐殺指令の事実を否定する主張もある。さらに「証拠とされる文書の中には、第一次大戦中の敵国によるプロパガンダや偽造文書の類が含まれている」と主張する説もある。
三月事件、九月事件、シュシャ・ポグロム
1918年3月、アルメニア革命連盟が、アルメニア人虐殺への報復として、バクーで3,000-12,000人の主にシーア派のムスリム(タタール人)を虐殺した[27][28][29][30]。この時、アルメニア革命連盟はボルシェビキ、メンシェビキ等と行動をともにした。ムスリムはバクーから追われたり、地下へ潜ったりした。
ネメシス作戦
1921年3月15日に虐殺の首謀者と見られていたタラート・パシャが、アルメニア革命連盟に所属する虐殺を生き延びたキリスト教徒の青年によりベルリンで殺害された。
現代の状況
1991年に旧ロシア帝国領におけるアルメニア人共同体がソビエト連邦から独立して誕生したアルメニア共和国は、
1970年代にアルメニア解放秘密軍やアルメニア人大量殺戮報復部隊などのアルメニア人過激派がトルコ外交官などに対して行ったテロリズムや空港などでの無差別攻撃のため、トルコの反アルメニア人感情も生じた。また、追放・虐殺されたアルメニア人がかつて居住していた地域には、現在、クルド人が多く居住している。
欧州では、各国内にアルメニア・ロビーが存在するため、議会で非難決議を行った国もあり、アルメニア人虐殺をジェノサイドと認識している。これに対してトルコは反論している。このためにトルコはしばしば国際的非難を浴び、非難を外圧と感じるトルコが態度をより硬化させることにもなっている。
オルハン・パムク騒動
2005年には国際的な評価を受けるトルコの作家オルハン・パムク(翌2006年にノーベル文学賞を受賞)が外国メディアとのインタビューで100万人のアルメニア人が殺害されたことをトルコは認めるべきと発言したためにトルコ国内に猛烈な反発を招き、一時は国家侮辱罪で起訴される騒動も起き、トルコの欧州連合(EU)加盟問題に関わるトルコの人権問題にも波及した。
フランス
2006年10月にはフランスの国民議会(下院)が「アルメニア人虐殺否定禁止法」を可決した。同法案は「第1次世界大戦中の1915年から1917年にかけ150万人のアルメニア人がオスマン帝国に虐殺された事実を否定する行為には最高5年の懲役刑ないし罰金刑を科す」という内容で、12日に国民議会で審議が予定されていた[31][32]。これによりフランスとトルコの関係は悪化するといわれ、ヨーロッパでも反トルコ感情が湧きあがった[33]。しかしながらこの法案に対する反対も根強く、2011年夏には元老院(上院)に達する前に廃案となった。
2007年の1月にはアルメニア系トルコ人ジャーナリスト、フラント・ディンクがオギュン・サマスト (Ogün Samast、犯行当時17歳)に暗殺される事件が発生した。「アルメニア人虐殺」をトルコ国内で告発する一方、フランスの「アルメニア虐殺否定禁止法」に見られる過激な動きには反対していたディンクの暗殺はトルコ国内に衝撃を与えた。
2011年12月には国民議会で再度、アルメニア人大量虐殺(ジェノサイド)を公の場で否定することを禁じ、違反した場合は1年以下の禁錮刑と罰金を科す法案が可決された。トルコ政府は駐仏大使を召還するなど強く反発したが、2012年1月23日に元老院でも可決され、大統領の署名があれば成立することとなった[34]。しかし同2012年2月28日、フランス憲法院(憲法裁判所)は、アルメニア人虐殺否定禁止法案を「思想や発言の自由に抵触する」として違憲と判断した[35]。なお、このアルメニア人虐殺否定禁止法案は、サルコジ大統領の主導で成立に向かっていたが、フランス在住の50万人のアルメニア系フランス住民の支持獲得のためであったとされる[35]。サルコジ大統領は同日、失望したと声明を発表した上で、新たな法案作成を指示した[35]。
アメリカ合衆国
2007年10月には、アルメニア系アメリカ市民の意向を受けたカリフォルニア州の下院議員、および民主党主導のアメリカ合衆国下院外交委員会(トム・ラントス委員長)が、20世紀の初頭におきたこの問題をジェノサイドだと認定、非難決議案を採択した。同決議案はこの虐殺をオスマン帝国の責任だとし、アルメニア人の犠牲者を150万人とした[36]。このことを受けてトルコ政府は、同決議案が事実の一方的解釈であり、その採択はトルコと米国との関係を深く傷つけるとして激しく反対し[37]、10月5日付の米紙ワシントン・ポストにも反対意見広告を掲載し、エルドアン首相が歴史調査のためにアルメニアとの共同委員会を設けることをすでに提案していたこと、またこの種の決議は「真実を求める側への不公正」だとして抗議していた。またさらに、同年2月にはギュル外相をアメリカ合衆国議会に派遣、この決議案を通せば、トルコはインジルリク基地のアメリカ軍の使用を拒むとした(同基地はイラク作戦に不可欠だった)。こうしたトルコの抗議を受けてアメリカ合衆国連邦政府も、議会に対し同決議案への反対を明確にしていた。また9月末には、ヘンリー・キッシンジャーら8人のアメリカ合衆国国務長官歴任者たちが連名でトム・ラントスアメリカ合衆国下院外交委員会委員長あてに同決議案への反対を伝える書簡を送っていた[38]。
その後もトルコ政府は抗議を続け、トルコの国務相がアメリカ合衆国への訪問を中止したり、トルコはアメリカ駐在大使を一時本国に召還するなど両国の関係が悪化しつつある。共和党 (アメリカ)のブッシュアメリカ合衆国大統領やロバート・ゲーツアメリカ合衆国国防長官はこの決議案に対し、否定的な見解を示した。
ベルギー
連邦議会 (ベルギー)は、2007年11月6日にトルコのアルメニア人虐殺をジェノサイドと認定する決議案が提出され、代議院 (ベルギー)で審議された[39]。
トルコとアルメニアの国交正常化とその後
トルコとアルメニアの関係改善による地域の安定を画策した欧米の後押しもあり、2009年10月10日に両国間で国交正常化が実現したが、虐殺問題に関しては双方の主張が埋まることはなく、ナゴルノ・カラバフ戦争も含めて、合意文書は問題を先送りする内容となった[40]。
2014年4月23日、トルコのエルドアン首相は、トルコ指導者としては初めて、「アルメニア人虐殺」に対して追悼の意を表明した[41]。
バチカン
バチカンはアルメニア人虐殺からちょうど100年に当たる2015年4月12日にサン・ピエトロ大聖堂でアルメニア正教会の聖職者を招待してミサを催し、フランシスコ (ローマ教皇)は「アルメニア人虐殺は20世紀最初のジェノサイドである」と2001年にヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)とアルメニア正教会総主教との間で交わされた文書を引用して、バチカンとしてのアルメニア人虐殺の認識を示した。これに対してトルコ外務省は強く反発し、バチカン駐箚大使を召還し、アンカラ駐箚バチカン大使に説明を求めた。
ドイツ
2016年6月2日、ドイツ連邦議会(下院)は第一次世界大戦期におけるオスマン帝国によるアルメニア人虐殺をジェノサイドと認定した。決議案はドイツキリスト教民主同盟とドイツ社会民主党、同盟90緑の党によって提出された。また、当時オスマン帝国と同盟関係にあったドイツがアルメニア人迫害の情報を把握しながらもそれを止めなかったとし、「ドイツ帝国はこの出来事に責任がある」と認めた[42]。
アルメニア人虐殺を題材とした作品
小説
フランツ・ヴェルフェル『モーセ山の四十日』(1936年)
デーヴィッド・ケルディアン『アルメニアの少女』(1990年)評論社
ダグラス・スコット『愛と憎しみの果て』(1990年)
マリグ・オアニアン『異境のアルメニア人』(1990年)明石書店
ルイ・カルズー『第八の丘』(2006年)
ドキュメンタリー
The Armenians: A Story of Survival(2001年)
Sarı Gelin - Ermeni sorunun içyüzü(トルコ、Videotek、2004年)
The Armenian Genocide(PBS、2006年)
Screamers(2006年)
映画
ハードデイズ/地獄の40日(アメリカ、1982年)
アララトの聖母(カナダ、2002年)
消えた声が、その名を呼ぶ(ドイツ・フランス・イタリア・ロシア・ポーランド・カナダ・トルコ・ヨルダン合作、2014年)
THE PROMISE/君への誓い(スペイン・アメリカ合作、2016年)
参考・脚注
関連項目
外部リンク
メスロピャン メリネ、国際文化研究22号、2016-03-31
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA |
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プログレスM1-5は2001年にロシア連邦がミール宇宙ステーションを軌道離脱させるために打ち上げたプログレス宇宙船。ミール宇宙ステーションは15年の利用後、自然落下の途上にあり、潜在的に人口密集地体に落下する可能性も存在していた。ロシア航空宇宙局(Rosaviakosmos)がこのミッションを行った。
ミールの問題による短い遅延があったものの、2001年1月に打ち上げられ、1月27日にミールと最後にドッキングを行った宇宙機となった。2001年3月23日のステーションの軌道離脱まで2ヶ月間ミールのクバント1モジュールに接続されていた。ミールはプログレスM1-5がドッキングしている状態で大気圏に再突入し、太平洋上で崩壊、燃え残りは6時0分(GMT)ごろに海上に落下した。プログレスM1-5の計画実行の初期段階では、問題発生時にミッションを完遂するため有人のソユーズの打ち上げ準備が行われていた。
ミールが軌道から外す決定はRosaviakosmosに賞賛と批判の両方を集め、ステーション維持のための幾つかの運動が行われた。
背景
ミールはソビエト連邦の宇宙開発で7番目に開発され、そして最後の有人宇宙ステーションであり、 最初の厳密な組み立て型宇宙ステーションであった[3]。最初の機体であるミール・コアモジュールは1986年2月19日にプロトン-Kで打ち上げられた[3]。ミールはその後1987年から1996年にプロトン-Kロケットで打ち上げられた5機の機体と、アトランティスが輸送したドッキングモジュールから構成された[4]。ソビエト連邦崩壊後はロシア政府と新たに設置されたRosaviakosmosの所有となった[5]。ミールは28次に及ぶ長期滞在を支援し、40の有人ソユーズとシャトルミッションが訪れ、維持のため64回の無人プログレス補給機が打ち上げられた[6]。125人のコスモノート、アストロノートが訪れ、75回に及ぶ宇宙遊泳が行われた[7]。
シャトル・ミール計画中、国際宇宙ステーション(ISS)建設の準備段階として1995年から1998年に掛けてアメリカのスペースシャトルがミールを訪れた[8]。1998年のISSの建設開始後、ロシアの宇宙開発の資力は二つのステーションに分散された[9][10][11]。2000年にRosaviakosmosはとのミールの将来利用と幾つかの商業研究実施の準備を目的としたソユーズTM-30ミッションに対してのミールの商業利用への貸し出し合意に調印したが[12]、後にこれは消散した[13]。
続いて宇宙旅行などの飛行を含む多くの飛行計画が行われるはずであったが、ロシア政府のミールコープの計画への支払い能力に対する懸念のため、Rosaviakosmosがミールの継続的な運用の資金に対する決定を行った[9][10]。
2000年11月、Rosaviakosmosは軌道離脱によるミールの軌道離脱処分による放棄を決定し[14]、翌月ロシア連邦政府議長ミハイル・カシヤノフはその実行のための命令に調印した[7]。この段階で、ミールは設計寿命をとうに過ぎており[5]、Rosaviakosmos長官のは「このシステムのいずれもいつでも故障しかねない」と考えていた[14]。人口密集地帯に破片が落下する可能性もあったため、1979年のスカイラブや1991年のサリュート7号のような制御不能下での地上への落下よりもミールが機能しているうちの軌道離脱が決定された[15][10]。この当時ミールはこれまで地球の大気圏に再突入した宇宙機の中で最大であり、特に再突入でも燃え残ると考えられたドッキング機構、ジャイロダイン、外部構造などからの大きな破片が懸念されていた[16]。
プログレスM1-5はもともとミールかISSの補給と燃料補充のために製造されたものであるが、再突入時用の制御操作実行に選ばれた。ミッションはHearse(霊柩車)という渾名を得ることとなった[17]。プログレス-M1(11F615A55)型であり、シリアル番号は254番であった[4][18]。ミールを軌道離脱させ投入する位置には以前の5機のサリュートステーションも落とされている南太平洋上の無人地域、通称スペースクラフト・セメタリー(宇宙機の墓場)が選ばれた[19]。
打ち上げからドッキングまで
プログレスM1-5はカザフスタンのバイコヌール宇宙基地からソユーズ-Uロケットで打ち上げられた[20]。もともと2001年1月16日の打ち上げが計画されていたが、1月の初週に1月18日へと改められた[21]。
1月16日の2時丁度(GMT)にロケットはサイト2の組立試験施設から出発し発射台に展開され、その後展開の開始後2時間以内でガガーリン発射台で立ち上げられた[22]。打ち上げは1月18日6時56分26秒に設定された。
1月18日、打ち上げの5時間半前、ソユーズ-Uロケットの燃料注入開始予定の直前に発生したミール搭載コンピューターの問題が発生した。打ち上げ準備は中止、停止され、打ち上げは4、5日遅れることが予想された[23]。
1月19日、コンピューターとそれにまつわる問題で停止していたジャイロスコープの再稼動操作の時間を与えるため、打ち上げは1月24日に再設定された[24]。
打ち上げの準備は1月22日に再開し、打ち上げは1月24日4時28分42秒に成功した[25]。打ち上げ後、M1-5は3日間をかけてミール近傍に到達し、1月27日5時33分31秒(GMT)にクバント1の後方ポートにドッキングした[17][26][27][28]。M1-5の到着前、ドッキングポートはプログレスM-43が利用していたが、M-43は1月25日5時19分49秒にミールから離脱し[27][29][30]、その後M1-5がミールとドッキングするまで軌道上に残っていた[30]。
もともとM-43は行われなかった有人飛行に向けてミールの補給と軌道を上昇させるために打ち上げられ[31]、その後1月29日の2時12分(GMT)に軌道を離脱、2次58分ごろ再突入し燃焼した[31][32]。
ミールとのドッキングに向けた典型的なプログレスの飛行は2日間であったが[29]、プログレスM1-5は軌道離脱噴射にむけて燃料を温存するために3日間かけてミールに到着した。1月18日に打ち上げた場合飛行時間はより燃料を節約し、4日になる予定であった[21]。
ドッキング後
プログレスM1-5は離脱噴射が行われるまで2ヶ月間ミールとのドッキングを続けた。ドッキングと軌道離脱の間隔はドッキング時ミールはいまだに安定軌道にあったが、プログレスの燃料を節約のために自然減衰が起こり高度が低下することのために考えられたものだった。管制は軌道離脱制御前にミールの軌道が250kmに到達するまで待つことを決定した。加えて、RKKエネルギアは2月19日のコアモジュール打ち上げ15周年を待つことを望んだとされる[4][21][33]。
ドッキング後ミールは徐々に高度を降下させており、高度制御系のジャイロスコープが高度の制御に使えなかったため、高度制御系はさらに燃料を節約するためにをもたらすミール自身の回転のために利用された。ミールはこの回転を軌道離脱捜査の開始まで維持した[32]。
2月20日の時点で、3月9日から5日以内にミールは250kmの高度に下降すると予測された[21]。3月1日時点で、ミールの高度は265kmにあり、一日あたり1.5km高度を下げていた。3月7日、Rosaviacosmosは軌道離脱操作時に異常が発生した場合により広い制御のオプションを残せるように、より多くの燃料を残しておくためミールが自然降下で220kmに達するまで軌道離脱噴射を遅らせることにした[21]。外からの操作がなければステーションは3月28日に自然降下で大気圏に突入すると予測された。
3月12日、ミール搭載コンピュータは軌道離脱に向けて再起動され[34]、3月13日には制御システムも起動された[35]。3月14日、3月22日に工程が行われることが発表された[36]。3月19日、予想より低い降下率であったためにさらに1日遅延し、最初の軌道離脱噴射は0時31分(GMT)に設定された[37]。
軌道離脱
プログレスM1-5はミールの軌道離脱操作のために2678kgの燃料を搭載していた[38]。軌道離脱操作は、最初の2回はドッキングおよび高度制御スラスターで、3度目はメインエンジンとスラスターを利用して述べ3回の起動離脱噴射が行われ、3月23日に完了した。[21]。最初の燃焼は0時32分28秒(GMT)に21.5分間行われ、ミールは近地点188km、遠地点219kmの軌道に乗せられた[21][37]。2度目の燃焼は2時24分(GMT)から24分間行われ、ミールは近地点158km、遠地点216kmの軌道に乗せられた。最終噴射は5時7分36秒に行われた[39]。これは20分間行われる予定であったが、飛行管制は予定通りステーションの再突入を確実にするため燃料が枯渇するまでプログレスに噴射をさせることを決定した[21]。最後のミールからの信号は5時30分(GMT)に受信され、その後地上局の受信範囲外に向かった[40]。
ミールはドッキングを保ったプログレスM1-5と5時44分(GMT)に共に南太平洋上で大気圏に再突入した。5時52分ごろ崩壊をはじめ、先ずソーラーパネルが外れ、続いてその他の周辺構造がはがれていった[41]。モジュールは完全に切断される前に屈曲し[42]、燃え残りは6時丁度(GMT)ごろに海上に落下した[21][43]。破片は付近で落下させることが予定された[44]。5時59分24秒(GMT)にミールが「消滅した」という公式声明が発表された[42]。最後のミールの追跡はクワジャリン環礁のアメリカ合衆国陸軍基地で行われた[45]。
欧州宇宙機関、ドイツ連邦国防省、アメリカ航空宇宙局も最終軌道と再突入時のミールの追跡を支援した[46][47]。元宇宙飛行士でミールに最初に訪れたクルーの一人のウラジーミル・ソロフィエフがステーションの軌道離脱時にミッションコントロールチームを率いるだろうとした報道も存在した[48]。
緊急時対応計画
多くのプログレス補給機と同じく、M1-5はクルスとTORUの2種のドッキングシステムを搭載していた。自動のクールス系は主ドッキングシステムであり、手動操作の必要なTORUはバックアップであった。再突入に向かっていたミールはM1-5のドッキング時も無人であったが、TORUの運用には宇宙飛行士がミールに乗っていることが必要であることや、ドッキング中の他の問題が発生した場合などに解決を行うなど、人間の介入が必要となった際にむけてソユーズTM-32がミールへの飛行の準備していた[21]。ソユーズはまたミール搭載飛行制御系の故障時にも打ち上げが予定された[49]。
とパーヴェル・ヴィノグラードフが当初予定でミッションに向けて準備しており[50]、タルガット・ムサバイエフやユーリー・バトゥーリンがバックアップクルーとされていた[51][注釈 1]。しかし、2000年12月、要員は"第0次長期滞在"のクルーとして知られるゲンナジー・パダルカとニコライ・ブダーリンに変えられた。これらの宇宙飛行士はこれまでにISSのズヴェズダがドッキングに失敗した場合に打ち上げることを想定して行われた、類似した緊急ミッションへの彼らの訓練を見込んで選ばれた[42]。有人飛行が行われた場合、管制側はミールの軌道離脱開始を有人計画の着陸まで待つとされた[49]。
2000年に打ち上げられたプログレスM-43は、ミールからドッキングを解除しその翌日プログレスM1-5が打ち上げられ、プログレスM1-5のドッキングまで軌道で保持された[30]。これはプログレスM1-5がドッキング不可能であった場合に、プログレスM-43はミールに再ドッキングを行い、後に到着するソユーズクルーに酸素や食料などを提供できるようにするためであった[21]。プログレスM-43はプログレスM1-5のドッキング成功後、軌道を離脱している[32]。
もしプログレスM1-5が1月16日に打ち上げられた場合、必要となった場合のソユーズの打ち上げは2月10日に行われたとされる[22]。この場合クルーの引き上げは2月22日であり、ミールの高度低下によってクルーの送り込みは非常に危険になっていた[21]。
もしプログレスM1-5のドッキング後ミールのメインコンピューターが故障した場合、飛行計画はミールのBUPOランデブーシステムかプログレスを制御に使うかのいずれかの利用に変更されていた。この計画では、第3軌道離脱噴射が最初の2回の24時間後に行われ、第2噴射と第3噴射の間でステーションは再びスピン安定を行う。管制はミールの電源系の故障のための計画も行っており、この場合すべての誘導と制御機能がプログレスによって行われるが、軌道離脱が1日遅れる結果を見込んだ[21][36]。
Rosaviakosmosが落下片による被害をカバーするためにおおよそ2億米ドルの保険方針を取っていたことが報告された[21][52]。ミール由来の破片の地上到達のリスクは3%に上ると見積もられた[53]。目標地点の近くに存在する国々は予防措置を取るべきかどうか決めるために軌道離脱にまつわる事象を監視した[53]。ニュージーランドでは衛星再突入委員会がこれを担当し、一方オーストラリアではが準備を行った[53]。日本の防衛庁の斉藤斗志二長官は、最終軌道が日本列島の上空を通過するように予定されていたものの[54]日本に破片が落下する場合を考慮してアメリカ合衆国への渡航を延期した[55]。沖縄の住人にはミールの上空通過時に屋内にとどまるように警告が出された[56]。南太平洋フォーラム参加国は自国が落下片による被害を受けないことに対するロシアからの保証を要求した[57]。シンガポールの司法長官はスペースデブリの大規模な取り締まりを呼びかけた[58]。
反応
ロシアの発表とその後のミール軌道離脱処分の計画実行に対する反応はさまざまであった。いくらかの宇宙飛行士はミール喪失への落胆を表明し、一方プログラムの終了の決定への支持もあった。ウラジミール・チトフはミールを「良い船だった」と表現した上で、ISSに優先順位をつける決定に納得しているとしている[59]、またウラジーミル・デジュロフは「ミールのことは悲しい、けれども我々は未来を見る必要がある」との感想を述べた[59]。
2000年11月、ミール軌道離脱処分の計画が公表された直後、ロシア自由民主党はロシア議会下院で軌道離脱の阻止を目的とした決議を可決した[60]。2001年2月8日、ミールの軌道離脱処分への抗議運動がモスクワで行われ、続いてロシア大統領のプーチンに請願が贈られた[61]。ロシア連邦共産党のゲンナジー・ジュガーノフ第一書記はミールの軌道離脱処分が「間違いであり有害」で「役立たずで意志薄弱で低能で非常に無責任」な政府の行為だと述べた[62]。イランは宇宙ステーションの購入を試み、モハンマド・ハータミー大統領はロシア側の宇宙飛行士訓練の支援と引き換えに2、3年の資金提供の供給を提案した[63]が、この段階ではこのような取引の成立には遅すぎた[64]。
ロシアの主要テレビ局ОРТは国家テレビ討論会の番組を編成した。元宇宙飛行士ゲオルギー・グレチコは、ミールは国際宇宙ステーションや他の宇宙機に利用できる機材を回収するのに十分な期間軌道に保たれるべきと示唆したが、コンスタンチン・フェオクチストフは機材を回収するのは置き換えるよりも多く金がかかるだろうと主張した。アナトリー・アルツェバルスキーはひとたびミールが軌道を外れたらアメリカはISSへのロシアの関与を下げさせようと試みるだろうと信じているため、ミールは維持されるべきと主張した。オンライン世論調査では世界の67%がミールの軌道上での維持を支持した[65]。
2月中旬、RosaviakosmosとRKKエネルギアは決定への批判に公開書簡で答え、「搭載機材系の実態から...ミールは安全で信頼のできる運用が可能ではない[注釈 2]」と説明し、また寿命の延長を試みは「ミールの制御の喪失につながり..また、結果的にロシアにとってだけではなく、世界中にとって壊滅的な結果を生む可能性がある[注釈 3]」とした[66][67]
アメリカ合衆国政府はISS計画にむけてミールに利用されていたロシアの宇宙開発資力が自由になるため軌道離脱の決定を歓迎した[11]。しかしながら、宇宙フロンティア財団(SFF)は自らの主張するアメリカ合衆国の圧力へロシア政府が屈服したことを非難した。SFFの共同創立者のは「ミールはISSへの道筋を作るために強引に押しつぶされた」と主張した。団体は以前から「キープ・ミール・アライブ」と呼ばれる運動を行っており、このなかでミールの継続的な運用の確保か、運用が実行可能になるまで保管できるようにより高い軌道に押し上げるかのどちらかを狙っていた[68]。
ミールの再突入を見越して、タコベルのオーナーは12m四方の標的をオーストラリア沿岸の太平洋上に広げた[69]。もし標的がミールの破片で貫かれた場合、アメリカ合衆国本土のすべての人々に無料でのタコス購入権を与えるとした。同社はこのギャンブルのために高額の保険を賭けていたが[70]、標的にミールの破片は当たらなかった[71]。が率いるアメリカ合衆国のファングループは太平洋上を飛行するために航空機を貸しきり、再突入を見届けた[72][73]。
註
注釈
参考
関連項目
2001年の宇宙飛行
ミールへの無人宇宙飛行の一覧
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B9M1-5 |
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テムノドントサウルス(学名:)は約2億年前から1億7500万年前にあたるジュラ紀前期ヘッタンギアンからトアルシアンにかけて生息した魚竜の絶滅した属。ヨーロッパに分布しており、イングランド、フランス、ドイツ、ベルギーから化石が出土している。開けた海洋の深い海域に生息したとされていた[1]が、ドイツでの標本個体は浅い海域に生息した可能性があるという研究結果が2018年に発表された[2]。ブリストル大学の古生物学者ジェレミー・マーティンはテムノドントサウルスを「生態学的に最も異なる魚竜の属の1つ」として評価している[3]。
テムノドントサウルスは最大の魚竜の1つである。テムノドントサウルスの全長の最大推定は9メートル[4]から12メートル[5]の範囲に収まる。最大の推定値であれば、かつて最大の魚竜と考えられていた巨大な魚竜ショニサウルス・ポピュラリスに匹敵する。
テムノドントサウルスは非常に大きい眼で知られており、直径は20センチメートルと推定され、既知の動物で最大とされている[6]。ジュラ紀の魚竜の特徴として尾が湾曲しているほか、顎にある連続した溝には円錐形の歯が並んでいた[7]。
テムノドントサウルスの種の数は年によって変動があり、Christopher McGowan は1992年時点でテムノドントサウルスは13種存在するとしている[7]。2000年には Michael Maisch がテムノドントサウルス・プラティオドン、テムノドントサウルス・トリゴノドン、テムノドントサウルス・アクティロストリス、テムノドントサウルス・ヌエルティンゲンシスをテムノドントサウルスの有効な種として列挙した[5]。
形態
テムノドントサウルスの体型はマグロに類似し、長く頑強で細身であった[7]。尾は胴部と同等の長さかあるいはさらに長かった[5]。椎骨の数はおよそ90を下回る[8]。第1頚椎と第2頚椎は癒合し、遊泳中に安定性を得ていた[9]。腹肋骨は存在しなかった[9]。
前肢と後肢はほぼ同じ長さで、かなり細長かった[6][7]。これは後肢の2倍以上の長さの前肢を持つオフタルモサウルス科のような三畳紀以降の魚竜には珍しい形質である[3][7]。また腰帯が縮小しておらず、これも三畳紀以降の魚竜には珍しい[6]。他の魚竜と同様、指骨は複雑化していたが[6]、イクチオサウルスが主要な指骨を6 - 7本持つ一方でテムノドントサウルスのものは3本に過ぎなかった[7]。また、後軸方向に付属の指骨が存在した[5]。ヒレの遠位の骨が相対的に丸い形状を構成するのに対し、近位の骨はモザイク状になっていた[5]。ヒレの前側の縁には窪みが2つ存在した[5][6]。対になったヒレは櫂や推進装置の代わりに舵取りと安定化に用いられた[6]。腰帯は3つの骨から構成される[6]。三角形の背ビレが存在した。
他の魚竜と同様にテムノドントサウルスの視力は高く[10]、狩りの際には主要な感覚として視覚を用いていた。テムノドントサウルス・プラティオドンの眼の測定から、テムノドントサウルスの眼は魚竜、さらには計測された全ての動物の中で最大である[10]。ただし眼球の大きさに関わらず、眼球が向く角度の関係で頭部の直上には死角が存在した。テムノドントサウルスには強膜輪があり、眼球に強度がもたらされていた[7]。テムノドントサウルス・プラティオドンの強膜輪は最低で直径25センチメートルに達する[10]。
テムノドントサウルスの頭部には長く頑強な吻部および狭窄した眼窩が存在する[6]。また上顎骨[5]・頬骨[6]・後眼窩骨[5]が長い。基蝶形骨上の頸動脈孔は副蝶形骨で分断されてペアをなしている[5]。テムノドントサウルス・プラティオドンの頭骨は約1 - 1.5メートルと計測されている[4]。
テムノドントサウルス・ユーリケファルスは他の種と比較して短い吻部と上下に高い頭部を持ち、餌の破砕に役立てていた可能性がある[7]テムノドントサウルス・プラティオドンの吻部は細長く、背側に向かってわずかに湾曲していた[5]。テムノドントサウルス・トリゴノドンの吻部も細長いが、こちらは腹側に向かってわずかに湾曲していた[5]。テムノドントサウルス・アクティロストリスの吻部も細く、先端はさらに尖っていた[5]。
テムノドントサウルスは尖った円錐形の歯を連続した溝の中に数多く持っており、この歯の生え方は aulacodonty として知られている[6][7]。典型的なテムノドントサウルスの歯には2 - 3本の隆起が存在する[6]が、テムノドントアウルス・ヌエルティンゲンシスには存在しない[5]。テムノドントサウルス・ユーリケファルスは膨らんだ歯根を有する。
カーディフ国立博物館に所蔵されているテムノドントサウルスの頭骨標本にCTスキャンをかけ、内側と外側から筋肉の量と分布が解析された。この結果、顎の筋肉は4つのグループに大別され、5000立方センチメートルの体積があったことが判明した。また、顎は第3種てこのように作用し、顎関節が支点として後方に存在して下顎が回転して開く。筋肉が力点として下顎を惹きつけ、獲物に打撃を与える作用点では莫大な運動が得られる。その代わり最大の咬合力は顎の後方で得られ、その力はティラノサウルスには及ばないもののイリエワニやホホジロザメを上回る30,000ニュートン(約3,000キログラム)以上であったと推測されている[11]。
テムノドントサウルスの尾は角度35°未満で弱く湾曲しており[5]、尾ビレは三日月状[5]または半月状[6]に描写される。尾ビレは2つの突出物から構成され、上部が骨に支えられていない一方で下部は骨に支えられている[7]。尾は運動のための主要な推進力に使われ、ヒレは推進に関与しなかった[5]。
生態
摂食
テムノドントサウルスはジュラ紀前期の海において頂点捕食者であった[3]。主に魚類・首長竜・他の魚竜といった脊椎動物を主な食糧としており、頭足類を捕食した可能性もある[7]。なお、脊椎動物を常食としていたことが提案されたジュラ紀の魚竜はテムノドントサウルスのみである[3]。シュトゥットガルト自然史博物館に所蔵されているテムノドントサウルス・トリゴノドンの標本の腹部からはステノプテリギウスの遺骸が確認できる[12]。また、頑丈な歯と深い顎により、テムノドントサウルス・ユーリケファルスは他の魚竜のような大型の獲物を捕食していたと推定されている。一方でテムノドントサウルス・プラティオドンのような種は鋭いが控えめな大きなの歯を有し、魚のような小型の獲物や体の柔らかい獲物を捕食していた可能性がある[8]。テムノドントサウルスは捕食の際、口を開けた状態で獲物に向かって前進して摂食していた可能性が高い[13]。顎の動作は俊敏であり、捕食の際には咀嚼ではなく噛み付く手法を取っていたと考えられている[7]。
遊泳
他の魚竜と同様にテムノドントサウルスの遊泳速度は高速で[7]、テムノドントサウルスのようなジュラ紀の魚竜は柔軟な尾の先に存在する尾ビレを使って遊泳していた[9]。テムノドントサウルス・トリゴノドンの体は長く薄い上に非常に柔軟性が高く、椎骨の総数が多く局部的な差も小さかった[9]。巨大なヒレを櫂として用いていた[9]。遊泳スタイルはマグロに類似し、ウナギのように遊泳した基盤的な魚竜とは異なる[6]。半月状の尾ビレや、尾よりも胴部が短いことなどが、テムノドントサウルスなど三畳紀以降の魚竜の特徴として挙げられる[6]。
外傷
2018年10月24日に発表された論文でテムノドントサウルスの標本41個の解析が行われ、最も多く観察された病変は同種間での競争に端を発する外傷であり、頭骨・肋骨・胸骨・前肢に集中し、回復に向かう兆候が見られた。肋骨の骨折は大抵の標本において頭部など他の部位の外傷の数と相関が確認され、頭部の外傷は絶滅したクジラ類やモササウルス類のものと類似する。ただし、他の大半の海生有羊膜類とは異なりテムノドントサウルスの脊柱には外傷が見られなかったことから、これらの頂点捕食者には機能的な差異が存在したと考えられている[2]。
さらにドイツ南部から出土した標本には減圧症による阻血性壊死の痕跡が確認されず、この生物が浅海域に生息していた可能性がある。イギリスから出土したものには減圧症の症状が見られるため、両者には生息環境の違いがあったと考えられる[2]。
発見
最初に発見された魚竜の頭骨はテムノドントサウルス・プラティオドンのものだった。その標本 BMNH 2149 は1811年にジョセフ・アニングがライムレジスのリアス海岸にて発見した[14]。骨格の残りの部分は1812年に彼の妹メアリー・アニングが発見したが、長きにわたって紛失されていた[14]。その後化石はエヴァラード・ホームが記載し、これが魚竜についての初めての科学的な記載であった。テムノドントサウルス・プラティオドンはテムノドントサウルスの模式種であり、かつ最も一般的な種である[7]。模式標本の頭骨はロンドン自然史博物館に所蔵されている[14]。標本はもともとイクチオサウルス・プラティオドンと命名されていたが、後にテムノドントサウルスに改名された[15]。
分類
テムノドントサウルスはテムノドントサウルス科に属する唯一の属である[16][17]。テムノドントサウルス科は C. McGowan により記載され[5]、Martin Sander が2000年に命名した単系統のグループ新魚竜類に属する。このグループにはテムノドントサウルス科のほかにレプトネクテス科とスエヴォレヴィアタン科が含まれる[5]。テムノドントサウルスは三畳紀以降の魚竜の中では最も基盤的なものの1つである[18]。
下のクラドグラムは Maisch and Matzke (2000)[19]および Maisch and Matzke (2003)[20]に基づき、分類群の名称は Maisch (2010)[21]に従う。
メリアノサウルス類
ペッソプテリクス (=メリアノサウルス)
ベサノサウルス
シャスタサウルス
ショニサウルス
ミカドケファルス
カリフォルノサウルス
カッラワイアパルヴィペルヴィア類
マグゴワニア
フドソネルピディア新魚竜類
テムノドントサウルス
ユーリノサウルス類
スエヴォレヴィアタントゥンノサウルス類
イクチオサウルス
ステノプテリギウス
オフタルモサウルス科
種
テムノドントサウルス・プラティオドンは1822年に William Conybeare によりライムレジスの BMNH 2003 から命名された[14]。この標本はロンドン自然史博物館に所蔵されている[14]。テムノドントサウルス・プラティオドンはヘッタンギアン後期からシネムーリアン前期にあたる層から出土し[5]、テムノドントサウルスの模式種である。テムノドントサウルス・プラティオドンの標本はイングランドのライムレジスとドイツの Herlikofen およびベルギーのアルロンから発見されている[5]。完全な骨格は BMNH 2003 のみだが、保存状態の良い BMNH R1158 も発見されている[4]。
1995年、Christopher McGowan がかつてテムノドントサウルス・リソルに分類された標本が実際にはテムノドントサウルス・プラティオドンの幼体であることを、ライムレジスの東方に位置するブラック・ヴェンからデイヴィッド・ソールが1987年に回収した標本を用いて説明した。それまでテムノドントサウルス・リソルと考えられていた3つの頭骨標本は、巨大な眼窩と湾曲した吻部および小さな上顎骨を持っていた故にテムノドントサウルス・プラティオドンとして別種と扱われていたが、Mcgowan は頭骨に対する前肢の大きさから幼体として記載した。胴体部と比較して頭部が非常に長いことからも、やはり幼体と考えられる[4]。
テムノドントサウルス・アクティロストリスは1840年にリチャード・オーウェンが記載した[18]。ホロタイプ BMNH 14553 はイングランドヨークシャーのウィットビーに存在するトアルシアンの Alum Shale 層から発見された。Michael Maisch は2000年にその標本をテムノドントサウルスとして記載した[5]が、2010年に Maisch は標本がテムノドントサウルスではなくおそらくイクチオサウルスに属すると主張した[18]。
テムノドントサウルス・トリゴノドンは1843年に命名された[8]。模式標本はトアルシアン前期にあたる[5]ドイツの Banz から出土したほぼ完全な骨格である[8]。標本の長さは約9.8メートルで頭骨長は1.8メートルである[8]。ドイツでは他の標本も発見されているほか、フランスのヨンヌ県 Saint Colombe に位置するトアルシアンの層からも出土している[5]。
テムノドントサウルス・ロンギロストリスはトアルシアンにあたるイングランドヨークシャーのウィットビーから出土した不完全な骨格 BMNH 14566 に基づいて記載され[22]、他の標本もその付近から出土している[22]。この種の有効性については論争が繰り広げられており、Michael Maisch はテムノドントサウルス・ロンギロストリスを有効な属と認めていない[5] 一方で M・J・ベントンと M・A・テイラーは有効な属とみなしている[22]。
テムノドントサウルス・ユーリケファルスはホロタイプ標本 R 1157 しか発見されておらず、1974年に McGowan により命名された[5][17]。イングランドのドーセット州ライムレジスに位置するブロードレッジと呼ばれる石灰岩中で発見され、地質時代はシネムーリアンに該当する[17]。この標本はロンドン自然史博物館に所蔵されている[3]。
テムノドントサウルス・ブルグンディアエの有効性は議論されている。McGowan が1995年に本種をテムノドントサウルスに所属させるべきであると提案した[8]が、Michael Maisch はこれに反対しており、1998年には本種をテムノドントサウルス・トリゴノドンのジュニアシノニムとした[9]。マーティン・サンダーは2000年にドイツホルツマーデンとフランスから回収した標本をテムノドントサウルス・ブルグンディアエとして記載し、他の専門家は本種をこの標本を含むものとして解釈している[6]。
テムノドントサウルス・アゼルグエンシスは2012年にブリストル大学のジェレミー・マーティンにより記載され、トアルシアン中期の Bifrons ammonite zone から出土したほぼ完全な骨格であるホロタイプに基づいている。これは1984年にフランスのローヌ県 Belmont d’Azergues の Lafarge 採石場からデイジョブとローレントが発見したものである。発見された場所である採石場の付近にある河川と渓谷から種小名が名付けられた。
テムノドントサウルス・アゼルグエンシスは体格と胴体部の解剖学的特徴が他のテムノドントサウルスの種と似通っているが、頭骨の形態は異なる。吻部は長く薄く、方形骨が小さい。テムノドントサウルス・アゼルグエンシスの歯は極めて小さいかあるいは全く存在せず、固い外骨格や脊椎動物を捕食するのには非効率的であったと推定されており、他のテムノドントサウルスの種と比較してより小型でより柔らかい獲物を捕食していた可能性がある[3]。
古環境
テムノドントサウルスの生息域は海岸線から離れた開けた海洋であり[1]、海底には関与しなかった[6]。
テムノドントサウルスの化石はイングランド、ドイツ、フランスにある海洋環境に関連した岩から発見されており、特にイングランドのドーセット州ライムレジスのリアス層が顕著である。リアス層は石灰岩と泥岩の変成岩から構成され、アンモナイトが豊富に含まれている[23]。
テムノドントサウルスの化石はドイツのホルツマーデンのポシドニア頁岩からも発見されている[12]。
ポシドニア頁岩は黒歴青頁岩と歴青石灰岩から構成されており、首長竜やワニ、アンモナイトなどの化石が豊富に発見されていることから、当時の環境は海洋だったと知られている[24]。
出典
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A0%E3%83%8E%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B9 |
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善きサマリア人の法(よきサマリアびとのほう、英:Good Samaritan laws、良きサマリア人法、よきサマリア人法</b>とも)は、「災難に遭ったり急病になったりした人など(窮地の人)を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法である。誤った対応をして訴えられたり処罰を受ける恐れをなくして、その場に居合わせた人(バイスタンダー)による傷病者の救護を促進しよう、との意図がある。
アメリカやカナダなどで施行されており、近年、日本でも立法化すべきか否かという議論がなされている。
由来
善きサマリア人の法とは、病者、負傷者その他の困っている人を助けようとした行為が結果的に望ましくないものだったとしてもは救助者の責任を問わないとするものである[1]。新約聖書に書かれた以下のたとえ話が名称の由来となっている。
ある人がエルサレムからエリコへ下る道でおいはぎに襲われた。 おいはぎ達は服をはぎ取り金品を奪い、その上その人に大怪我をさせて置き去りにしてしまった。
たまたま通りかかった祭司は、反対側を通り過ぎていった。同じように通りがかったレビ人も見て見ぬふりをした。しかしあるサマリア人(※)は彼を見て憐れに思い、傷の手当をして自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった。翌日、そのサマリア人は銀貨2枚を宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います。』—ルカによる福音書第10章第29~37節
(※)「サマリア人」を「サマリ<b data-parsoid='{"dsr":[1072,1079,3,3]}'>ヤ</b>人」と表記している場合もあるが、これは出版元や訳者による日本語のカタカナ表記の違いであり、両者は同一の意味である。
各国の法制度
「善きサマリア人の法」はコモン・ロー(英米法)上のGood Samaritan doctrineに基づいており、基本的には民事上の概念である。コモン・ローでは、法律上の義務又は権限なく他人の事務を行うことは、いわばお節介であるとみなされることもあり、大陸法の事務管理に相当する制度が発達していない。そのため、この法理は、不法行為法における責任軽減事由として位置づけられている。
これに対し、日本の法体系の源流である大陸法では、法律上の義務又は権限なく他人の事務を行った場合の処理に関する緊急事務管理という制度がローマ法以来存在しており、その中で事務を管理する者の義務内容として位置づけられていると言う主張もある。
カナダ
カナダでは、善きサマリア人の法は州レベルで定められている。
各州の法は、オンタリオ州[2]やブリティッシュコロンビア州[3]では"good Samaritan acts"として、アルバータ州では"Emergency Medical Aid Act"[4]、ノバスコシア州では"Volunteer Services Act"[5]として定められる。
ケベック州の法では、市民判事による裁判であり、市民は“Quebec Charter of Human Rights and Freedoms”(ケベック自由人権憲章)で定められる一般的義務を持っている[6]。
ブリティッシュコロンビア州では、子供が危険にさらされている場合のみに保護する義務がある。
典型的なカナダの州法として、オンタリオ州の“Ontario's Good Samaritan Act, 2001, section 2”(2001年のオンタリオ善きサマリア人の法)を記載する。
Protection from liability
2. (1) Despite the rules of common law, a person described in subsection (2) who voluntarily and without reasonable expectation of compensation or reward provides the services described in that subsection is not liable for damages that result from the person's negligence in acting or failing to act while providing the services, unless it is established that the damages were caused by the gross negligence of the person. 2001, c. 2, s. 2 (1).[7]
日本の現状
仮に手当て者が何らかのミスを犯し、患者が死亡または著しい障害を負うという結末になった場合、手当て者の責任はどうなるだろうか。以下のように、日本の民法上にも「善きサマリア人の法」に相当する規定が既に存在するという学説はあるが確定的なものではなく、責任を問われる可能性が無いとは言えない。
民事法
民法第698条には緊急事務管理に関する規定があり、これによると、「管理者(義務なく他人のために事務の管理を始めた者)は、本人の身体、名誉又は財産に対する急迫の危害を免れさせるために事務管理をしたときは、悪意又は重大な過失があるのでなければ、これによって生じた損害を賠償する責任を負わない」とされており、この規定によりコモン・ローにおける「善きサマリア人の法」が目的とすることが実現できるとする学説がある。しかし、現時点では通説とまでは言えず、また民事上の判例も存在していない[8]。また、緊急事務管理による免責成立のためには「重大な過失」がないことは手当て者が証明せねばならず、手当て者にとってはやや重い立証責任が課せられることとなる。
手当て者が医師である場合、真に「義務のない管理者」と言えるのかについては、医師法19条の応召義務が問題となるが、院外での事故・疾病発生時にたまたま居合わせた勤務外の医師の医療過誤に関する判例は現段階では存在しない。医師に対する無制限の応召義務を否定した地裁判例もあるが、緊急時は自宅にいる勤務時間外の勤務医にさえ応招義務が課せられるとする学説もある。医師が道端で倒れた傷病者の手当てを始めた事例などでは、診療時に当事者間に契約が成立したかが争点となり得、成立が認められれば債務不履行責任を問われ得る。また、航空機内でドクターコールに応じた事例などのように過誤発生時に契約関係がない場合にも、不法行為を根拠に損害賠償請求訴訟が起こされることは想定され、その請求が認容される可能性はある[8]。
刑事法
刑法第37条では、違法性阻却事由の一つである緊急避難に関する規定があり、「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない」とある一方で、「業務上特別の義務がある者には、適用しない」とも規定している。謙抑的な運用が期待される刑事上は、緊急避難が成立して違法性が阻却される可能性が高いと考えられるが、やはり判例は存在せず、生じた害と避けようとした害との比較衡量、また医師の場合には応召義務成立による業務上特別の義務の成立の有無等での争いが生じる可能性は否定はできない。万一阻却が認められない場合は、業務上過失致死傷罪、過失致死傷罪、重過失致死傷罪などが成立し得る[9]。
事例
判例は存在しないものの、日本でも紛争に至った事例はいくつか報告されている。
「ある夏の夜の深夜に、日本にある自宅クリニック前の路上で急病人が発生した。クリニックの医師が診察したところ、上気道閉塞を疑われる所見で挿管は不可能と判断された。救急車を手配して、転送のため近所の大学の救急救命センターに電話中、患者は吸気のまま呼吸が停止し呼びかけにも反応がなくなった。(首が腫れた状態で、喉仏の隆起もなく、気管切開が困難な状態であったが、一刻の猶予も許されないまま、)緊急で気管切開を行い、気管切開自体は成功したが、血管を傷つけてしまい、出血多量で死亡した。その医師を待っていたのは、警察による業務上過失致死罪の容疑による取り調べ</b>であり、さらには、当夜、あれだけ「助けてください」とその医師にとりすがった<b data-parsoid='{"dsr":[6166,6204,3,3]}'>患者の妻からの弁護士を介しての損害賠償請求の通知</b>であった。」(平沼高明「良きサマリア人法は必要か」週刊医学のあゆみ第170号pp953-955、1994年)
「機内で発生する事故の頻度はどれくらいなのだろう。知り合いの元スチュワーデスに聞いたところ、彼女の勤務した4年間では緊急事態が4回発生したそうである。一回程、初老の医師が名乗りをあげたそうだが、その時の患者は不幸なことに心筋梗塞で帰らぬ人となった。驚いたことに、遺族は医師の処置に疑問を抱き、一時は訴訟騒ぎにまでいった</b>が、なんとかそれはおさまったらしい。」(松田義雄「機内での出来事」日本医事新報第3629号pp52-53、1993年)
救急救命士の資格を持つ消防司令がプライベートで遭遇した交通事故の際に救急処置を行ったが、「関連法規に抵触する可能性がある」として停職6ヶ月の処分</b>を受けた。()
医師の意識との関係
例えば、日本国内の医師に対して行われたあるアンケート調査[8]によると、「航空機の中で『お客様の中でお医者様はいらっしゃいませんか』というアナウンス(ドクターコール)を聞いたときに手を挙げるか?」という質問に対して、回答した医師全員が上記の緊急事務管理の規定と概念を知っていたにも関わらず、「手を挙げる」と答えたのは4割程度に留まり、過半数が「善きサマリア人の法」を新規立法することが必要だと答えたという。
これは国外の航空会社がいわゆるドクターコール時に応じた場合、傷病者が亡くなっても航空会社がその行為を保障すると述べていたのに対し、国内の航空会社では「医師や看護師など名乗り出た者の責任」としていたため、法的責任を問われるリスクから消極的な回答が多いと考えられる。また国際線でも、米国以外では医師の法的責任に関する問題には明確な法律あるいは法律家の間で統一された見解はなく、どの国の法律を適用するのかについてすらはっきりしていない。実際に、上記アンケートでは2/3以上の医師がドクターコールに応じないと思う理由として「法律」を挙げたという。
より最近のアンケート調査[10]では、89%もの医師が医療過誤責任問題を重要視し、ドクターコールに応じたことのある医師の4人に1人が「次の機会には応じない」と答えている。「適切な処置を怠った、救命できた高度の蓋然性がある、応召義務があると解釈できる。あっという間に犯罪者だ」「日本の司法の現状からすると、下手をすると業務上過失致死に問われそう」「今の世の中とマスコミの報道の状況では、絶対に応じない」といった声があり、近年の司法・医療報道のあり方が傷病者の救護を阻害している現状もあることが分かる。
立法化についての議論
医療先進国であり訴訟回数も世界一のアメリカ合衆国では、ほとんどの州でGood Samaritan doctrineに基づく制定法が存在しており、手当て者が善意の第三者として万一の過失の際の訴訟を気にすることなく傷病者に処置を施せる状態にある。上記のような事例の存在を踏まえて、近年日本でもこの趣旨の法の制定を求める声がある。
立法化不要論
当該法律の<b data-parsoid='{"dsr":[7755,7794,3,3]}'>立法化が不要だと主張するのは、主に救命現場と直接関わりのない法律家</b>である。新たに立法しなくても緊急事務管理に関する規定で間に合う可能性が高いのは前述のとおりであり、実際には仮に救命手当を施して、蘇生後に何らかの身体障害が残ったとしても、善意に基づくものであれば現在の日本では民事上も刑事上も免責されるとするのが法学者の有力説である。実際、警察庁や消防庁、厚生労働省、日本医師会、日本赤十字社などが共同で編纂した『救急蘇生法の指針』においても救命手当による副損傷や後遺症については、法的拘束力はない</b>が免責がはっきりと謳われている。また、救命手当を施して蘇生後に何らかの身体障害が残ったとして責任を問われた例は一例も無い[11]。
また、「交通事故現場における市民による応急手当促進方策委員会」(旧総務庁)では、(医療従事者ではなく)一般市民による救助活動について、「現状においては、現行法の緊急事務管理によってほとんどのケースをカバーでき、免責の範囲はかなり広い」、「将来的な課題として、補償関係等も含め、引き続き慎重に検討する必要があるが、現時点では新たな法制定や法改正までは必要がなく、現行法における免責制度を周知させることに力点が置かれる必要がある」との結論が出された[9]。
立法化必要論
当該法律の<b data-parsoid='{"dsr":[8502,8549,3,3]}'>立法化が必要だと主張するのは、前述の通り主に蘇生教育者・救命活動者などの現場の人間</b>である。総務省の統計によると、現場で応急手当を施されていた傷病者の割合はわずか30%。他の70%は何ら手当を受けていなかった。手を出してもっと悪くしてしまったら困るからという理由が多くの「傍観者」を生み出している[12]。「訴えられても免責されると考えられる」という法律関係者の学説はあくまで学説に過ぎず、実際にどうなるかは事が起きて裁判所が判決を下すまでは分からない。今まで無くても今後手当てを施して訴訟が起こされ、責任を問われない保証はないため医療のプロである医師を含めた一般市民には必ずしも信頼されていない[10]。よって、単独の法律あるいは条文として善きサマリア人の法が立法化がなされることによって、一般の人のみならず医療の専門家による救助促進も望む声がある[13]。
また、「応急手当の免責に係る比較法研究会」(旧総務庁)においての検討では、「善きサマリア人の法」の制定により(1)緊急事務管理にあたるかどうかを考慮する余地がなくなり、(2)医師・看護師・救急救命士等の専門家も本法の対象となり、(3)傷病者に依頼されて手当てした場合であっても免責され、(4)重過失がないことの証明責任を問われなくて済む、などの理由から、日本でも「善きサマリア人の法」に相当する法律が必要だとの結論に達し、試案を提示している [14]。
出典
関連項目
防衛医療
悪しきサマリア人の法 - 対概念。第三者が要保護者の救助を怠った場合に法的制裁を加えるもの
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E3%81%8D%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%B3%95 |
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ハミルトン(Hamilton Watch Company)はアメリカ発祥で、現在はスイスのスウォッチ・グループ傘下の腕時計ブランドである。生産モデルは宝飾腕時計からミリタリーウォッチまで幅広い。
概要
一般的な時計メーカーとは異なり、中小の時計企業の合併により誕生したのが特徴である。
社名は、発祥の地ペンシルベニア州ランカスターの土地の元所有者で、ペンシルベニア植民地総督及びフィラデルフィア市長も務めたにちなむ[1]。
最初に生産された懐中時計である「ブロードウェイ・リミテッド」(the Broadway Limited)は鉄道に正確さをもたらした時計として知られている。以後、ハミルトンは鉄道用時計のメーカーとして有名になり、1930年に民間航空会社ができると、航空用時計としても採用された。
第2次世界大戦中は、アメリカ軍へ船舶用の特殊時計「マリンクロノメーター」を生産し、軍用時計としての地位を確立した。
1966年のスタンリー・キューブリック監督の2001年宇宙の旅をはじめ、メン・イン・ブラックやイントゥ・ザ・ブルーなど、数多くの映画に自社製品を積極的に登場させている。中でも、1961年公開のブルー・ハワイでは、エルヴィス・プレスリーが「ベンチュラ」(Ventura)を着用し、また、撮影後も愛用したと言われている。なお、これら70本以上の映画は公式サイトの「MOVIE STAR WATCHES」のページで紹介されている。
歴史
1874年頃 - 米国ペンシルベニア州ランカスターに<b data-parsoid='{"dsr":[1154,1174,3,3]}'>アダムス&ペリー時計製造会社(Adams & Perry Watch Manufacturing Company)が設立された。
1877年 - アダムス&ペリー時計製造会社</b>を母体に<b data-parsoid='{"dsr":[1267,1288,3,3]}'>ランカスターペンシルベニア時計</b>が設立。
1879年 - 再編成されて<b data-parsoid='{"dsr":[1312,1326,3,3]}'>ランカスター時計(Lancaster Watch Company)となる。
1886年 - キーストンスタンダード時計(Keystone Standard Watch Company)に買収される。
1890年 - キーストンスタンダード時計</b>が倒産。
1892年 - キーストンスタンダード時計</b>の資産を元にハミルトン時計(Hamilton Watch Company)が設立される。同年<b data-parsoid='{"dsr":[1556,1568,3,3]}'>オーロラ時計(Aurora Watch Company )を買収し1893年に懐中時計の生産を始める。
1910年 - 軍の時計納入業者となる。
1917年 - 女性ペンダント時計用の0サイズムーブメントを使用し、第一次世界大戦に向かう兵士の為にハミルトン最初の腕時計である<b data-parsoid='{"dsr":[1717,1726,3,3]}'>カーキ(Khaki )の生産を開始。
1927年 - アメリカ有数の時計会社、イリノイ時計(Illinois Watch Company)を買収。
第二次世界大戦時 - 一般用の時計生産を停止して全ての施設で軍用時計を生産し、100万個以上が海外に届けられた。
1957年 - 世界初の電池で動く腕時計「ベンチュラ」(Ventura)を発表(ただし、後年の電池式時計の主流であるクォーツ時計ではなく、動力源としてぜんまいの代わりに超小型電気モーターを採用してはいたが、機械式時計と同様のテンプを調速に用いる過渡的方式であった)。三角形にフィンがついた独特の非対称デザインを担当したのはキャデラックなどのデザインを手がけた。
1962年 - 同社、リコー(現リコーエレメックス)、三井物産の3社共同出資で「ハミルトン・リコー株式会社」を設立。日本初の電池式腕時計を発売。
1966年 - マイクロ・ローター式自動巻の特許を持つスイスの時計会社、ビューレン(Buren Watch Company)を買収、ハミルトン・ビューレン(Hamilton-Buren)となる。
1969年 - 創業以来の米国内工場をすべて閉鎖し、スイスのビールに拠点を移転。
1969年3月3日 - 同社、ホイヤー・レオニダス(Heuer-Leonidas 、現タグ・ホイヤー)、ブライトリング、デュボア・デプラの4社共同で史上初の腕時計用自動巻クロノグラフキャリバー「キャリバー11」(Caliber 11)を開発、発表[2]。「クロノマチック」(Chronomatic)に搭載した。同年には遅れてゼニスが「エル・プリメロ」、諏訪精工舎がCal.6139を発表している。
1970年5月6日 - 世界最初のLEDデジタル時計「パルサー」を発表する。
1971年 - ビューレン社へ「ビューレン」の商標を返還。
1972年 - 売れ行きの伸び悩みなどから、正式にビューレン社との提携を解消して工場を清算、社名もハミルトンに戻る。
1974年5月16日 - オメガとティソの合弁会社SSIH(Société Suisse pour l’Industrie Horlogère = 後のスウォッチ・グループ)の傘下になり現在に至る[3]。
脚注
関連項目
ハワード (時計)
レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ - 出場するニコラス・イワノフチームのスポンサー
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3%20%28%E6%99%82%E8%A8%88%29 |
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スイス連邦(スイスれんぽう)、通称<b data-parsoid='{"dsr":[2515,2524,3,3]}'>スイス</b>は中央ヨーロッパにある連邦共和制国家。永世中立国であるが、欧州自由貿易連合に加盟しているほかバチカン市国の衛兵はスイス傭兵が務めている。歴史によって、西欧に分類されることもある。
ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、リヒテンシュタインに囲まれた内陸に位置し、国内には多くの国際機関の本部が置かれている。首都はベルンで、主要都市にチューリッヒ、ジュネーヴ、バーゼル、ローザンヌなど。
国名
スイス連邦の正式名称は4種の公用語(ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語[1])で定められているが、硬貨や切手などのように4種を併記する余裕がない場合、単独で使用することが許されるラテン語の国名(Helvetia、ヘルヴェティア共和国も参照)が定められている。
ドイツ語名:Schweizerische Eidgenossenschaft
フランス語名:Confédération Suisse
イタリア語名:Confederazione Svizzera
ロマンシュ語名:Confederaziun Svizracode: roh promoted to code: rm
ラテン語名:Confoederatio Helvetica
正式国名と同様に通称も5種類ある。
ドイツ語名:Schweiz[2]
フランス語名:Suisse[3]
イタリア語名:Svizzera[4]
ロマンシュ語名:Svizracode: roh promoted to code: rm [5]
ラテン語名:Helvetia[6]
公用語ではないが、スイスドイツ語ではSchwiizerischi Eidgnosseschaft、略称Schwiiz(シュヴィーツ。通常はD′Schwiizと表記する)。ドイツ語およびスイスドイツ語の正式名称にあたるEidgenossenschaft(アイトゲノッセンシャフト)とは「誓約者同盟」という意味で、通常の「連邦(Bund)」とは異なる。
略称(国名コード ISO 3166-1 alpha-2:ラテン文字2文字による国名コード)には、ラテン語名の頭字語であるCHを用いる。
公式の英語表記はSwiss Confederation(スウィス・コンフェデレイション)、通称はSwitzerland(スウィツァランド) で国民・形容詞ともSwiss(スウィス)。
日本語表記は<b data-parsoid='{"dsr":[4395,4406,3,3]}'>スイス連邦、および<b data-parsoid='{"dsr":[4410,4419,3,3]}'>スイス。漢字による当て字では<b data-parsoid='{"dsr":[4444,4452,3,3]}'>瑞西</b>と表記し、瑞</b>と略す(スウェーデンも瑞典と当て字し、瑞と略すが、両者を区別する時にはスウェーデンを典と略す)。稀にドイツ語の正式名称から「スイス誓約者同盟」と訳されることがある。また、古くは<b data-parsoid='{"dsr":[4562,4571,3,3]}'>ス井ス[7]、スヰス[8]と表記されることもあった。
国名は、スイス建国の中心的役割を果たしたシュヴィーツ州に由来する。Schwyz(シュヴィーツ)は、古代ドイツ語で「酪農場」を意味する語が訛ったものだとされる。日本語表記の「スイス」はフランス語または英語形容詞に由来する。ラテン語名は、古代ローマの支配が及ぶ前からベルン周辺に住んでいたケルト系先住民族「ヘルウェティイ族」に由来する。ドイツ語辞書によると「スイス人」を表すSchweizer(男性名詞)、Schweizerin(女性名詞)には「熟練乳搾り人」「教会堂番人」「ローマ教皇の近衛兵」、さらに「スイス製チーズ」の意味も含まれる。
歴史
1291年8月1日 - ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの原始3州が、既得権益であった自由と自治を守るため、(Eidgenossenschaft)を結成。この日が、スイス建国の日とされている。
1315年 - モルガルテンの戦いで、農民兵で構成される同盟軍が、レオポルト1世 (オーストリア公) の精鋭部隊に大勝。
アッペンツェル戦争(1401年 - 1429年)
1474年 - ブルゴーニュ戦争(1474年-1477年)
1499年 - で神聖ローマ帝国から実質的に独立。その後、加盟準州(カントン)を増やしていくが(、)、各州間では宗教改革(スイスの宗教改革)などをめぐって争いが絶えなかった(第一次カッペル戦争、)。
1648年 - ヴェストファーレン条約によって正式に神聖ローマ帝国からの独立を達成。
1685年 - フォンテーヌブローの勅令がフランスで発せられ、中産ユグノーがスイスへ亡命してきた。彼らは時計細工をスイスの花形産業にまで昇華させた。工業全般で実力を示し、金融業でもある程度活躍した。
1798年 - フランス総裁政府からの強力な圧力を受け、傀儡国家のヘルヴェティア共和国が成立する。近代憲法に基づく中央集権国家であったが1802年に瓦解。
1803年 - ナポレオンの仲裁により従来の盟約者団が復活。
1815年 - ウィーン会議で、国家としての「永世中立国」が認められた[10]。
1847年 - 分離同盟戦争。
1848年 - 連邦憲法を制定したが、国家連合としての性格が強かった。連邦国家体制が確立するのは、1874年の改正連邦憲法以降のことである。
1852年 - 7月27日付の条約でバーデン大公国にバーゼルとシャフハウゼンでの鉄道敷設/経営を無償で許可する。
1920年 - 国際連盟に原加盟国として加盟。連盟本部はジュネーヴに設置された。
1928年 - IGケミーが設立された(IG・ファルベンインドゥストリーを参照)。
1939年 から 1945年 - 第二次世界大戦では、フランスの降伏により四方を枢軸国のドイツとイタリアに囲まれながら、アンリ・ギザン将軍の指導のもとでなお武装中立を維持していたが、戦後になって中立違反についての多くの批判を受けることになった。
1945年 - 国際連合が成立した。スイスは中立が維持されるという前提での参加を望んでいたが、サンフランシスコ会議には中立であったため参加できず、また連合国も中立という考えを嫌っていた。1946年にスイスは国連に参加しないという書簡を国連総会議長宛に送付した[11]。ただし国連機関の設置や、国連の非軍事組織には参加している。
2002年9月10日 - 国民投票の結果を受けて190番目の国連加盟国となる[12]。
政治
現在の連邦憲法は1999年に採択され、2000年1月1日に発効した。
スイスは、連邦国家であり連邦議会(、)を最高機関とする議会統治制、つまり立法府が行政府を兼ねる統治形態を執っている。連邦議会は両院制で、直接選挙(比例代表制)で選ばれる200議席の国民議会(独:Nationalrat、英:National Council)と州代表の46議席の全州議会(独:Staenderat、英:Council of States)から構成される二院制である。
立法府を兼ねる連邦政府(内閣)は、連邦議会から選出される7人の連邦参事(ただし閣僚や大臣とは呼ばない)で形成される合議体である。内閣は、ドイツ語圏の諸国と異なり連邦参事会(独:Bundesrat、英:Federal Council)と呼ばれる。7人の連邦参事(7 Bundesraete)が各省を統括し、その中の1人が連邦参事兼任のまま任期1年の連邦大統領となる。連邦議会の議場と連邦政府の各省庁のオフィスはともにベルンの連邦議会議事堂 Bundeshaus(連邦院とも訳される)の中にある。大統領の権限は儀礼的なものに限られる。
また、連邦参事は議会の獲得議席数に応じて自動的に割り振られる。そのため、政党は一定の議席を得ている限り、また意図的に下野しない限り自動的に連立与党の一員となる(比例代表制であるため、1党による単独過半数は過去に例がない)。マジック・フォーミュラーも参照のこと。
国民の政治参加に関して、国民発議(イニシアティヴ)と国民投票(レファレンダム)という、直接民主制の制度が憲法上で認められているのも大きな特徴である。
議会
国民議会、全州議会共に任期は4年で、解散はない。
2007年10月21日に行われた総選挙投票率は48.3%であった。国民議会議員選挙では移民排斥を主張しているスイス国民党が62議席を獲得し、第1党になった。以下、スイス社会民主党(de)(en)が43議席、自由民主党(急進民主党)が31議席、キリスト教民主人民党が31議席、緑の党が20議席、その他13議席となった。
2011年10月23日に行われた総選挙投票率は49.8%。国民議会議員選挙では、スイス国民党が第1党を維持したが、55議席(-7)と議席を減らした。以下、スイス社会民主党が44議席(+1)、自由民主党が31議席(0)、キリスト教民主人民党が28議席(-3)、緑の党13議席(-7)、自由緑の党12議席(+9)、市民民主党9議席(+9)、その他7議席となった。自由緑の党は緑の党からの、市民民主党は国民党からの離党組による新党で、いずれも離党元の議席を食う躍進となった。
1959年以来の主要4党の獲得議席数は、を参照。
憲法
スイス連邦憲法は、連邦政府に委任すべき事項を規定している。憲法に規定のない事項については州政府が主権をもつ。例えば参政権の規定は州政府に主権があり、1971年に憲法で婦人参政権が確立したのちも、1990年に至るまでアッペンツェル・アウサーローデン準州では婦人参政権が制限されていた。憲法改正は比較的容易であり、10万人の改正要求があった場合は改正提案に対する国民投票が実施される。憲法改正が多い国で、現行の1999年憲法が施行される前の1874年憲法(旧憲法)は、過去140回以上にもわたる部分改正が行われており、全面改正後の現行憲法(2000年施行)も2003年時点で既に6回改正されている[13]。
税制
スイスでは、連邦政府、州、市町村の3段階の行政組織が課税権を有している[14]。税率は平均20%[14]。それぞれが独自に税率を設定できるため、個人の税率を低く設定して外国の富裕層の取り込みを図る州もある[14]。
法人税についても優遇措置をとっており、外国から本社をスイスへ移転する企業がある[14]。そのため、OECD(経済協力開発機構)の有害税制リストに挙げられている[14]。
軍事・安全保障
武装中立
現代におけるスイスは、国軍として約4,000名の職業軍人と約210,000名の予備役から構成されるスイス軍を有し、有事の際は焦土作戦も辞さない毅然とした国家意思を表明しながら、永世中立を堅持してきた平和・重武装中立国家として知られる。スイスは国際連合平和維持活動(PKO)への参加に積極的で、国外に武装したスイス軍部隊を派兵しているが、決して武力行使をせず、PKOでは武器を用いない人道支援に徹している。
多数の成人男子が、予備役もしくは民間防衛隊(民兵)として有事に備えている。平和国家であるスイスではあるが、スイス傭兵の精強さは、ヨーロッパの歴史上、殊に有名である。現在でも、軍事基地が岩山をくり抜いた地下に建設されるなど高度に要塞化されており、国境地帯の橋やトンネルといったインフラストラクチャには、有事の際速やかに国境を封鎖する必要が生じた場合に焦土作戦を行うため、解体処分用の爆薬を差し込む準備が整っている。
仮に、国境の封鎖に失敗して外国の侵略を受けても、主要な一般道路には戦車の侵入を阻止するための障害物や、トーチカが常設してある。東西冷戦の名残で、2006年までは、家を建てる際には防空壕(核シェルター)の設置が義務づけられていた[15][16]。その数・収容率と強固な構造は、他国の防空壕と比べても群を抜いている。古い防空壕は、地下倉庫や商店などとしても利用されている。
第二次世界大戦中のスイス空軍は、1907年のハーグ陸戦条約で定められた国際法上の「中立義務」を果たすため、領空侵犯する航空機があれば、連合国側・枢軸国側を問わず迎撃した。ちなみに、当時のスイス軍の航空機は、一部の国産機を除いてはフランスとドイツの戦闘機を輸入またはライセンス生産したものだった。
当時、仮に外国の軍隊がスイスを侵略しスイスの存立が絶望的となる最終局面に陥った場合は、外国の軍隊がスイスのインフラを強奪する寸前のところで放火や爆破等の焦土作戦を実施し、侵略者に一切の戦利品を与えないように計画していた。その一方で、当時のスイス政府は柔軟な姿勢で外交と通商を展開した。第二次世界大戦においては、「資源を持たないスイスが、資源を持つ国と通商することは生存権の行使であって、中立義務に違反するものではない」と主張して、国民の生活を守るために必要な資源や武器を枢軸国・連合国双方から輸入し、国益を確保した。
スイスは陸軍と空軍を有するが、他国を攻撃しうる戦力投射能力は有しない。陸軍は船舶部隊(水軍・海軍とも呼ばれる)を有する。船舶部隊は、主に国境をなすレマン湖(ジュネーヴ湖)、国際河川のライン川、コンスタンス湖(ボーデン湖)に配置されている。特に、フランスとの国境にあるバーゼルの街は、別名スイス港とも呼ばれ、石油などを積んだ排水量3000トン未満の船が、オランダのアムステルダム港から、ドイツとフランスを経由してライン川を遡行して来る。バーゼルは、内陸国であるスイスが水運を通じて海と繋がる唯一の貿易港となっている。20隻の哨戒艇が主力である船舶部隊は、有事の際にはライン川を遡行する商船を臨検したり、徴用することとなる。
国民皆兵
スイスでは国民皆兵を国是としており、徴兵制度を採用している。20歳から30歳の男性に兵役義務があり、女性は任意である。スイス男性の大多数は予備役軍人であるため、各家庭に自動小銃(予備役の将校は自動拳銃も含む)が貸与され、予備役の立場を離れるまで各自で保管している。かつては冷戦下の厳しい国際情勢に即応するため、包装された弾薬と手榴弾が貸与され、悪用防止の封印を施した容器に入れて各自が保管していた時期もあった[17]。
対戦車兵器や迫撃砲など、より大型の武器は、地区単位で設置されている武器庫に収められ、厳重に管理されている。これらの支給火器が犯罪に用いられることはごく稀であったが、2007年9月から予備役に貸与されていた弾薬は回収され、スイス軍が集中管理するようになった。現在、予備役の立場にある国民は、自動小銃は持っていても弾薬は持っていない。有事の際は、動員令を受けた予備役に対して速やかに弾薬が貸与される予定である。
銃が手軽に手に入る社会であるため、スイスでは自殺にも銃を用いる傾向にある。自殺者の24%から28%が銃で自殺しており、その割合はアメリカ合衆国に次ぐ世界2位で、ヨーロッパの中では最高である。また、男性が銃による自殺を選択する傾向があり、銃による自殺者の95%は男性である[18]。
焦土作戦も辞さない悲壮な防衛努力の一方で、外国において武力行使をしない柔軟な外交政策は、現在も変わらない。2008年には、当時の大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国のムアンマル・アル=カッザーフィーが、スイス人ビジネスマン2人を犯罪の容疑者と決め付けて拘留する事件が発生した。カッザーフィーは、直ちにリビアからスイスへの石油輸出を止め、「スイスは、イスラム教のモスクを破壊する異教徒の国だ」として、スイスに対する「聖戦」を訴えてスイス政府を恫喝した。これに対して、スイス政府は、旅行者に扮した軍人と公安関係者からなる特殊部隊をリビアに派遣し、現地で密かに情報収集を行ったが、この特殊部隊は非武装だった。戦力投射能力のないスイス軍に自国民を救出する術はなく、当時のスイス大統領が自らリビアに赴いて、カッザーフィーに謝罪をさせられる屈辱を味わっている。しかし、スイスが欲していた石油は確保された。
冷戦の時代には、スイス連邦政府によってスイスの一般家庭に配布された小冊子『民間防衛』の内容からも窺い知れる様に、スイス国民はあまねく民間防衛組織に加入し、有事に備えていた。冷戦の終結後は、民間防衛組織の多くが役割を失って消滅したか、人員や装備を大幅に削減したため、現在のスイスには「民間防衛」が発行された当時のような高度な防衛体制は、もはや存在しない。それでも、政府が食糧を計画的に備蓄し、スイス軍の施設と公立の学校については核戦争への備えとして核シェルターが常設されている。民間でも、過去には自宅や職場にシェルターを装備する義務があったが、現在では撤廃された。それでも、任意でシェルターを装備している企業や個人が多いことで有名である。
冷戦の一時期、スイスは自立能力を高める為に兵器の国産化に取り組んだ。かつては戦車や航空機も国産していたが、開発費用の高騰と技術的課題のため断念した。ピラタス社やエリコン社といったスイスを代表するメーカーは、かつては防衛産業を担っていたが、現在では軍事に関与しない企業に生まれ変わっている。一方で、小火器や装甲車は依然として高い国際競争力を持ち、世界中に輸出されている。スイスの銃器メーカーであるシグ社の製品は、日本国にも輸出され、警察庁・都道府県警察、自衛隊、海上保安庁で採用されており、ピラーニャ装甲車などの兵器は、アメリカ軍の採用を勝ち取ったことで有名である。
スイスにおける国防の基本戦略は、拒否的抑止力である。敵国にとって、スイスを侵略することによって得られる利益よりも、スイス軍の抵抗や国際社会からの制裁によって生じる損失の方が大きくなる状況をつくり出すことによって、国際紛争を未然に防ぐ戦略である。2002年の国連加盟後も、この基本戦略は変わっていない。
SIG SG550アサルトライフルを携行したまま買い物をする男性。
グラールス近郊でのスイス陸軍の訓練。
地方行政区分
スイスには、26のカントン(canton)と呼ばれる州が存在する。そのうち6は準州とよばれ、全州議会の議員定数配分が、通常の州の2名に対し、1名だけとなっている。カントンは、全部で2,889の市町村に分かれている。
主要都市
ベルン - スイスの首都。スイス第4の人口規模を有する。万国郵便連合(UPU)本部の所在地。旧市街は世界遺産となっている。
チューリッヒ - スイス最大の都市、ドイツ語圏。スイスの金融センターとして発展してきた。国際サッカー連盟(FIFA)の本部もここにある。なお、日本からの直行航空便はチューリッヒ空港発着となる。
ジュネーヴ - スイス第2の都市、国内のフランス語圏最大の都市。WHO世界保健機関 国連欧州本部をはじめ多数の国際機関の本部が置かれている。
バーゼル - スイス第3の人口規模を有する都市で、フランスおよびドイツとの国境に面した商業都市。唯一の貿易港として発展していった。
ローザンヌ - スイス第5の人口規模を有する都市。国際オリンピック委員会(IOC)本部やオリンピック博物館の所在地もここにある。第一次世界大戦におけるトルコと連合国との講和の地としても有名。
代表的な観光地
ツェルマット - マッターホルン、モンテ・ローザの登山拠点。
サンモリッツ
ルツェルン
インターラーケン - ベルナー・オーバーラント(ベルン高地)観光、ユングフラウ登山などへの拠点。
グリンデルワルト - アイガー北壁に面した村。ユングフラウの登山拠点。
マイエンフェルト - ハイジの里としても有名。
ルガーノ
地理
スイスは内陸国であり、国土は日本の約一割で九州より約1500km2(東京都区部の2倍程度)広い。また、日本の内陸県のうち岐阜県、長野県、山梨県、群馬県、栃木県を併せた面積(約41458km2)に相当する。
経済
国際通貨基金によると、2013年のスイスのGDPは6508億ドルであり、世界第20位である[19]。同年の一人当たりのGDPは81,323ドルであり、世界でもトップクラスの水準である。2016年の一人あたり国民総所得(GNI)は84,240ドルで、世界第2位である[20]。
また、スイスは世界で最も国際競争力の高い国の一つであり、2011年の世界経済フォーラムの研究報告書において、世界第1位の国と評価された[21]。富裕層も非常に多く、9.5%の世帯が、金融資産で100万ドル以上を保有しているとされる[22]。
2016年10月14日、アメリカ合衆国財務省が為替報告書を公表した上で、スイスの不正な為替介入の有無を監視するようになった[23]。通貨のスイスフラン(CHF)は「金(地金)よりも堅い」と言われるほど、世界で最も安定した通貨である。1870年代にデザインされた硬貨が、大きな変更を経ずに製造され流通している。国内の物価および賃金水準は高く、国民の貯蓄高も、日本並みに高い。輸入関税率は低く、高級外車などが比較的安く購入できる。
スイスフランの利子率は、通貨の安定性とねじれて低かった。これに目を付け、東中欧を中心にフラン建ての住宅ローンが多く組まれている。このため、もしスイスフランが不安定となると、他国の家計にパニックを起こすリスクが生じている[14]。スイスフランは、2011年からユーロに対して為替相場の上限を設けていたが、2015年初頭に突然撤廃された。詳しくはスイス国立銀行の項目を参照されたい。
近世に至るまで、スイスの主な産業のひとつとして存在したのが傭兵であった。スイスはその地形から農業などの産業を発達させにくかったため、戦力を輸出することで産業不足を補っていた。 現在は戦力の輸出は禁止されているものの、バチカンの衛兵隊は唯一の例外として認められている。スイス企業の産業分野は手広い。金融業(銀行、保険)、電力、観光業、精密機械工業(時計、光学器械)、化学薬品工業が挙げられる。金融モノカルチャー国と誤解しないよう、電力事業の規模には注意が必要である。
電力
チューリッヒに本部をおくABBグループが世界規模で事業展開しており、同社が1988年に吸収したスウェーデン企業のASEAは地中海を取り巻くスーパーグリッドの敷設に参画している。
鉱業
スイス鉱業は岩塩の採掘のみに頼っている。浅海の堆積物と海水が褶曲、もしくは押しかぶせ断層によって地層中に閉じ込められたことに由来し、採掘量は2002年時点で30万トンである。ただし、岩塩精製ではカリウムが副産物として得られる(ドイツ帝国#経済)。
グレンコアが世界各地でレアメタルを掘っている。
化学薬品
第一次世界大戦以来、ノバルティスの前身3社であるチバ・サンド・ガイギーがシンジケートを形成していた。1929年4月、この3社とIG・ファルベンインドゥストリーとフランスの染料組合Centrale des Matières Colorantes は国際カルテルを組んだ。このカルテルは世界輸出の4/5を掌握し、内輪で全染料売上げをスイス19.00%、ドイツ71.67%、フランス9.33%の比率で分配した[24]。1932年2月、ここへインペリアル・ケミカル・インダストリーズが参加して日米がアウトサイダーとなった。
銀行業
スイスには中世からの銀行業の歴史があり、多数の金融機関がある。UBS、クレディ・スイスなど、日本に進出している銀行もある。
スイス銀行と言われる個人銀行(いわゆるプライベートバンク)は、顧客の情報の守秘義務に関して国際的に有名で、刑事事件が起こっても、原則として顧客の情報は外部に漏らさない。このことからマネーロンダリングの中継地として、しばしばスイス銀行の口座が使われることがある。この秘密主義の方針は、しばしば世界的な批判の的となっている。
経済協力開発機構は、スイスに対して資産の出所を確かめる義務を履行するよう勧告している。また、独裁者の隠し金庫として利用されることもあるため、スイス人のあいだでも、スイスの名誉を傷つけているという批判がある。有名なところでは、フィリピンのマルコス元大統領や、コンゴのモブツ元大統領、ハイチのデュヴァリエ元大統領などは、国民の財産を強奪して私物化した資金をスイスの銀行に預けていることが分かっており、スイスの銀行は、彼らの略奪行為について共犯性があるという指摘がある[25]。
スイスリークス事件発覚後はスイス政府も、各国の警察及び金融当局に対して柔軟な対応をしており、犯罪収益金の没収等の処置を行い、当該国に一部返還する動きもある。ただし、法の制定などはまだ不十分である[25]。
交通
スイスの鉄道はSBB(スイス連邦鉄道、旧スイス国鉄)が主要幹線を網羅しており、山岳部では、私鉄の登山列車などが運行している。空港のある都市は、チューリッヒ・ジュネーヴ(ジュネーヴ空港)・バーゼル(ユーロエアポート・バーゼル=ミュールーズ空港)・ベルン・サメーダン(エンガディン空港)・ルガノなど。日本からの直行便は、スイス インターナショナル エアラインズのチューリッヒ・東京間のみ。チューリッヒ空港では、ドイツ語の案内放送の後、英語で案内放送がある。
社会
市民の生活満足度は高く、国連世界幸福度報告では第2位(2016年)、OECDの人生満足度(Life Satisfaction)ではデンマーク、アイスランドに次いで第3位、世界幸福地図では世界178ヵ国で第2位(2006年)であった。
保健
ユニバーサルヘルスケアが達成され、市民は公的または民間保険会社から医療保険を購入する義務があり、保険者は引き受けを拒むことはできない。医療制度は他の欧州諸国と比べ費用は高いがアウトカムは良好であり、患者の満足度は高く、2017年のEuro Health Consumer Indexでオランダに次いで34か国中総合2位であった。[26]2016年での平均余命は83.3歳(男性が81.2歳、女性が85.2歳)であり、日本に次いで世界2位であり、男性は世界一、女性は世界5位となった。[27][28]しかし保健支出は高く2015年にはGDPの12.1%を占め、これはドイツやフランスの約11%より少し高く、アンドラ並の値である[29]。1990年より医療の高度化、市民の長寿命化を受けて徐々に費用が増加傾向にある[30]。
国民
民族
現在のドイツ語圏は5世紀にローマ人が撤退した後、北からやって来たゲルマン系アレマン人が支配した地域であり[31]、先住民のケルト人と混血した。フランス語圏は同時期のゲルマン系ブルグント人の支配地域で[31]ヘルヴェティア共和国以降の19世紀にフランス語化したものであり、イタリア語圏はゲルマン系ランゴバルド人、ロマンシュ語圏はケルト系ラエティア人の地域の名残とも考えられる[31]。その後現在のスイス全土はゲルマン系のフランク王国や神聖ローマ帝国に支配されたため、ラテン化されたケルト人にゲルマン系が加わった流れはほぼ共通する。いずれにせよ混成民族であることは全ての欧州国家の例にもれない。
外国人の定住者ないし短期労働者は全人口の2割に及び、2007年には145万人に達した。欧州内の移民が多く、最も多いのはイタリア295,507人、次にドイツ224,324人となっているが、特に旧ユーゴスラビア諸国出身者は非常に多く、35万人前後にもなる(セルビア・モンテネグロ196,078人、マケドニア60,509、ボスニア41,654人、クロアチア38,144人)。また、中東からはトルコ人も75,382人と多い。
2004年には、35,700人がスイス国籍を取得した。その半数以上が旧ユーゴスラビア諸国出身者である。スイスは世界中から多くの難民を受け入れている。
しかし移民に対する反発は根強くあり、2014年6月には国民党が提案した「大量移民反対イニシアチブ」によって4ヶ月を超えてスイスに滞在する外国人には人数制限を行う方針となった[32]。
言語
[33]
スイスでは、各地方の地理的・歴史的な理由から使用言語が分かれているため、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つを公用語と定めている。これに合わせ、スイスの公共放送・SRG SSR(スイス放送協会)も、4つの公用語を使用して放送している。
北部と中部では主にドイツ語が使われている(全人口の64%、右図の黄色)。その多くはアレマン語系のスイスドイツ語と呼ばれる方言であるが、新聞や、テレビ、ラジオのニュース番組ではドイツの標準語である高地ドイツ語が使われる。ただし地方の放送局ではニュース以外の一般番組もほとんどスイスドイツ語で、全国放送でもなぜかテレビの天気予報だけはスイスドイツ語である。
西部ではフランス語が(20%、紫色)、南部ではイタリア語が(6%、緑色)使われている。スイス・フランス語は標準フランスとほとんど変わりはないが、数の数え方に若干特徴がある(数字の70、80、90をフランスのsoixante-dix、quatre-vingt、quatre-vingt-dixではなくseptante、huitante、nonanteと言う)。イタリア語はロンバルド語の系統に属する西ロンバルド語が混じる。ティチーノ州で使われるロンバルド語系イタリア語はティチーノ語とも呼ばれる。
ロマンシュ語は、南東部にあるグラウビュンデン州のごく一部の人々の間で使われているだけであり、未だ絶滅の危機にある(0.5%、赤色 - 面積は広いが人口は少ない)。ドイツ語圏以外のスイスでは、ドイツ語を学習する場合、普通標準ドイツ語を学ぶので、かなり差異のあるスイスドイツ語の理解がスムーズにできないことがある。したがって、ドイツ語圏スイス人と非ドイツ語圏スイス人の間で会話する時、ドイツ語圏のスイス人は標準ドイツ語を理解できるものの、会話の上では障害となることが多く、公用語であるフランス語の他に英語を用いることも多くなっている。学校教育において、英語を必修科目とし、母語以外の公用語を選択科目とする学校が増えていることも、若年層における英語の使用に拍車をかけている。
その他、移民の出身地域である旧ユーゴスラビアの国々の言語やトルコ語が使われる。
宗教
スイス国民が信仰する宗教は、カトリックが人口の約43%、プロテスタントが約35%と、この2つでほとんど大部分を占める。他には、イスラム教が約4%、正教会が約2%、ヒンドゥー教、仏教、ユダヤ教などが、各1%未満であり、約11%が無宗教となっている。
2009年12月16日、ジュネーヴのイスラム関係者が、モスクの塔(ミナレット)新設禁止に抗議して、欧州人権裁判所に提訴したことが明らかになった。同年11月には、スイス国民投票においてモスク新設は禁止が賛成多数で承認されていた[35]。
婚姻
婚姻時、2013年以前は、夫の氏が優先である。正当な利益があれば、妻の氏を称することもできる(同氏)。自己の氏を前置することもできる[36]とされていたが、2013年以降、婚前に特に手続きしないかぎり原則として婚前の氏を保持すると変更され、完全な選択的夫婦別姓が実現された。配偶者の氏に変更するためにはそのように婚姻前に手続きを行わなければならない[37]。
文化
食文化
動物保護団体「SOSシャ・ノワレーグ(SOS Chats Noiraigue)」の創設者で理事長のトミ・トメク(Tomi Tomek)は「国民の約3%がひそかにイヌやネコを食用にしている」としている
[38]。
映画
世界遺産
スイス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件、自然遺産が3件存在する。
祝祭日
法定祝祭日
この他に地域ごとの祝日がある。
スポーツ
スイスでは、サッカー、テニス、自転車ロードレース、ウィンタースポーツなどが盛んである。
著名な出身者
ウィリアム・テル - 伝説の英雄。
フルドリッヒ・ツヴィングリ - 宗教家。
ジャン=ジャック・ルソー - 思想家。
フェルディナント・ホドラー - 画家。
アンリ・デュナン - 赤十字社の創設者。
マルセル・ジュノー - 医師・赤十字国際委員会駐日首席代表・「ヒロシマの恩人」。
ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ - 教育者。
カール・グスタフ・ユング - 精神科医。
フェルディナン・ド・ソシュール - 言語学者。
レオンハルト・オイラー - 数学者。
パウル・クレー - 画家。
オーギュスト・ピカール - 科学者。
アンリ・ギザン - 第二次世界大戦時のスイス軍総司令官。
ヨハンナ・シュピーリ(ヨハンナ・スピリ)(Johanna Spyri 1827-1901) - 『アルプスの少女ハイジ』の原作者。
ヨハン・ダビット・ウィース - スイスのロビンソンの著者。
デビット・ゾペティ - 作家。『いちげんさん』ですばる文学賞受賞。
マリオ・ボッタ - 建築家。
クレイ・レガツォーニ (Clay Regazzoni 1939-2006) - 元F1ドライバー。
ジャン=ピエール・フックス - プロボディビルダー。
アンディ・フグ(Andy Hug 1964-2000) - K-1チャンピオン。
マルチナ・ヒンギス(Martina Hingis) - 女子プロテニス選手。
ロジャー・フェデラー(Roger Federer) - 男子プロテニス選手。
スタニスラス・ワウリンカ - 男子プロテニス選手。
ファビアン・カンチェラーラ - 自転車プロロードレース選手。
ステファン・ランビエール - 男子フィギュアスケート選手。
ミリアム・オット(Mirjam Ott) - カーリング選手。
デニス・ビールマン - 女子フィギュアスケート選手(ビールマンスピンは、ビールマンの名に因んで付けられた)
ル・コルビュジエ(Le Corbusier, 1887-1965) - 建築家。10フラン札の顔。
アルテュール・オネゲル(Arthur Honegger 1892-1955) - 作曲家。20フラン札の顔。
ゾフィー・トイバー=アルプ(Sophie Taeuber-Arp 1889-1943) - 抽象画家。ジャン・アルプの妻。50フラン札の顔。
アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti 1901-1966) - 彫刻家。100フラン札の顔。
シャルル・フェルディナン・ラミューズ(Charles Ferdinand Ramuz 1878-1947) - 作家。200フラン札の顔。
ヤーコプ・ブルクハルト(Jacob Burckhardt 1818-1897) - 歴史学者。1000フラン札の顔。
フランコ・チェザリーニ - 「アルプスの詩」「青い水平線」などの作曲者。
オトマール・シェック(Othmar Schoeck 1886-1957) - 作曲家。
ジョー・シフェール - レーシングドライバー。
シルビオ・モーザー - レーシングドライバー。
グレガー・フォイテク - レーシングドライバー。
セバスチャン・ブエミ - レーシングドライバー。
ロマン・グロージャン - レーシングドライバー(国籍上ではフランス人)。
ペーター・ザウバー - 元ザウバーF1のチームオーナー・チーム創始者。
ゼップ・ブラッター - 国際サッカー連盟第8代会長。
ステファン・シャプイサ - サッカー選手。
アレクサンダー・フライ - サッカー選手。
ジェルダン・シャチリ - サッカー選手。
ステファン・リヒトシュタイナー - サッカー選手。
オットー・ヘス - 野球選手。
シモーネ・ニグリ=ルーダー - オリエンテーリング選手。
シモン・アマン - 2002年ソルトレークシティオリンピック ノルディック・スキー(ジャンプ) 金メダリスト。
アイランド - プログレッシヴ・ロック・バンド。
H・R・ギーガー - 画家。映画『エイリアン』のデザイナーとして有名。
カール・バルト(Karl Barth 1886-1968) - キリスト教神学者。
パトリック・モラーツ ‐ 音楽家・シンセサイザーニスト。
参考文献
犬養道子『私のスイス』中公文庫
森田安一『スイス 歴史から現代へ』刀水書房
スイス文学研究会編『スイスを知るための60章』明石書店
八木あき子『二十世紀の迷信──理想国家スイス』新潮社、1980年8月。
福原直樹『黒いスイス』新潮社〈新潮新書〉2004年3月。ISBN 4-10-610059-2。
脚注
関連項目
スイス関係記事の一覧
スイス銀行
民間防衛
欧州評議会
シェンゲン圏、シェンゲン協定
日本とスイスの関係
外部リンク
政府
(独、仏、伊、羅、英)
(独、仏、伊、羅、英)
日本政府
(in Japanese)
(in Japanese)
観光
(in Japanese)
その他
- スイスの公式情報サイト
英 - 英語、独 - ドイツ語、仏 - フランス語、伊 -イタリア語、羅 - ロマンシュ語
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9 |
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リヴィングストン島(English: Livingston Island)は、南極地域のサウス・シェトランド諸島に浮かぶ島。グリーンウィッチ島とスノー島の間に位置している。1819年に南緯60度以南の島嶼として初めて発見され、1820年代前半からリヴィングストン島と国際的に呼ばれているが、その名前の由来は明らかになっていない。また、ロシア語ではスモレンスク島と呼ばれていた[1][2]。
地勢
リヴィングストン島は南極大陸のロケモレール岬からは北西に110km (68mi)、南米大陸のホーン岬からは南東に809km (503mi)、ディエゴ・ラミレス諸島からは南南東に796km (495mi)、フォークランド諸島からは南に1,063km (661mi)、サウス・ジョージア島からは南西に1,571km (976mi)、南極点からは3,040km (1,889mi)の位置に存在している[3]。
南極半島からはブランスフィールド海峡を挟み、南米大陸からはドレーク海峡を挟んでいるサウス・シェトランド諸島を構成する島の一つであり、サウス・シェトランド諸島自体は合計3,687km2 (1,424sqmi)の面積を有している。
マクファーレン海峡を挟んで東にグリーンウィッチ島、バーナード岬からスモレンスク海峡を挟んで南に18km (11.2mi)行くとデセプション島[3]、モートン海峡を挟んで西南西にはスノー島がある。
リヴィングストン島は西のスタート岬から東のレニアー岬にかけて東西73km (45mi)、幅はサウス湾とヒーロー湾の間の最も狭い部分で5km (3.1mi)、ボテフ岬からウィリアムズ岬にかけての最も広い部分で36km (22mi)、面積は798 square kilometres (308sqmi)である[4][5]。多くの小島や岩がリヴィングストン島のすぐそばにあり、特に島の北側に多い。その中で一番大きいのはラギット島でバイアーズ半島の目と鼻の先にある。リヴィングストン島からムーン湾を挟むとハーフムーン島が、ヒーロー湾を挟むとデソレーション島が、それ以外にもリヴィングストン島の北側にはゼッド諸島が存在している。
昨今では一部の入江や海岸、岬では見られなくなったが、島の大部分の海岸線は依然として氷崖によって出来ている。島の大部分は氷帽によって覆われており、クレバスも場所によっては見られる。中央部から西部にかけてはアイスドームや氷の平原がある他方で、山がちな東部では氷河峡谷が多数存在している。この島の氷河には隣のデセプション島の火山活動による火山灰層が含まれている[6]。
この島の西端を構成するバイアーズ半島から東に向かうとシレフ岬、シディンズ岬、ハンナー岬、ウィリアムズ岬、フード半島、ロジェン半島で氷に覆われていない海岸線を見る事が出来る。また、島の東部では地形が険し過ぎるために氷雪が止まる事が出来ず、山の斜面が露出している箇所も多い。島の最高峰であるフリースラント山を擁するタングラ山地、ボールズ尾根(6.5km or 4mi)、ヴィディン高地(8km or 5mi、604m or 1,982ft)、バーディック尾根(8km or 5mi、604m or 1,982ft)(773m or 2,536ft)、メルニク尾根(696m or 2,283ft)、プリスカ尾根(667m or 2,188ft)、オリャホヴォ高地(6km or 4mi、340m or 1,115ft)、ドスペイ高地(6km or 4mi、265m or 869ft)等が島の高地としてあげられる[3]。
島の海岸線は不規則であり、サウス湾、ファルス湾、ムーン湾、ヒーロー湾、バークレー湾、ニュー・プリマス湾、オソゴヴォ湾、ウォーカー湾、フード半島(10km or 6.2mi)、ロジェン半島(9km or 5.6mi)、ブルガス半島,(10.5km or 6.5mi)、ヴァルナ半島(12.8km or 8.0mi)、バイアース半島(15km or 9.3mi)が存在している[3]。
島の気候はとても変わりやすく、強風多湿で日照は短い。オーストラリアの登山家であるダミアン・グリデアは「リヴィングストン島はまさに世界最悪の気候だった。」と語った。バイアーズ半島で野外調査をしていた米国の調査隊は嵐に見舞われて2009年2月に救助要請を出している[7]。ホワイトアウトは当たり前で、ブリザードは一年中いつ発生してもおかしくない。他方で気温は比較的落ち着いており、夏に3°C (37.4°F)を超える事は珍しく、冬も−11°C (12.2°F)程度で体感温度も5 to 10°C (9 to 18°F)下がる程度である。
場所最暖月平均気温最寒月平均気温年平均気温年降水量リヴィングストン島(海岸附近)2.6℃-4.6℃-1℃377mm出典:[8]
歴史
行政的に南極と呼ばれる地域が人類に見つかったのは19世紀の事である。1819年、ウィリアム・スミスがバルパライソに向かう途中にホーン岬から南に離れた航路を通り2月19日にリヴィングストン島の北東部を発見、ウィリアムズ岬と名付けられた。この発見は今日の南極条約で保護されている土地、つまり南緯60度以南の土地として初めての発見であった[9]。
数ヶ月後にサウス・シェトランド諸島を再訪したスミスは10月16日にキングジョージ島に上陸、英国が領有を宣言。それと前後して1819年9月にはスペインのサン・テルモという戦列艦がドレーク海峡で悪天候の為難破し、リヴィングストン島の北海岸に沈んでいた。この船の乗員600人以上は全員死亡したが、彼らが生きていれば南極地域に初めて上陸した人物となっていた。なお船の残骸は後にハーフムーン海岸で船乗りによって発見されている[3]。
1819年12月にスミスは再びサウス・シェトランド諸島を訪れた。この時の船長はスミスではなくチリに駐在していた英国海軍のウィリアム・ヘンリー・シレフで、新たな土地をマッピングする調査を任せられていた中尉のエドワード・ブランズフィールドも相伴した。
1820年1月30日に彼らは南極半島の山を発見したが、3日前にロシアのファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンとミハイル・ラザレフによって発見されていた。
その1年後の1821年1月にベリングスハウゼン、ラザレフは南極を周航し、50以上の英米の猟船、1000人の毛皮猟師がいるのを発見した。デセプション島とリヴィングストン島の間を航行している時に米国のナタニエル・パーマーに会った。
地名
避難小屋の跡や船乗りの遺物が島内には多数存在しており、南極地域では二番目に遺跡が多い土地である。島内の地形の多くはその初期の歴史に由来している。米国の船乗りであるクリストファー・バーディック、チャールズ・バ-ナード、ロバート・ジョンソン、ドナルド・マッカイ、ロバート・イノット、デーヴィッド・レスリー、ベンジャミン・ブルノー、ロバート・マーシー、プリンス・ムーアズ、ウィリアム・ネイパー、ブリトンス・ウィリアム・シレフ、エム・キーン、ジョン・ウォーカー、ラルフ・ボンド、クリストファー・マクグレーガー、ティー・ビン、ウィリアム・ボールズ、オーストラリアのリチャード・シディンス、ニューヨークの船主ジェームズ・バイアーズ、米国の捕鯨商人のウィリアム・ロッチ、フランシス・ロッチ、英国海軍の水理学者トーマス・ハード、ウィリアム・スミスの功績を元にサウス・シェトランド諸島の海図を初めて作成したジョン・ミアーズらの名前やヒューロン、ウィリアムズ、サムエル、グレーナー、ハントレス、チャリティー、ハンナー、ヘンリー、ジョン、ヒーロー等のアザラシ漁の船の名前が地名に取り入れられている。
それ以外にも19世紀の船乗りによって名付けられたものがあり、デヴィルズ岬、ヘル・ゲーツ、ネック・オア・ナッシング水路が挙げられる。また船や人が消えた場所としてインエプタ湾、ニードル岬、ロベリー海岸があげられ、ロベリー(強盗)海岸は米国の船乗りが毛皮を英国の船乗りに奪われた事に由来している名称である。しかし、中には島名のリヴィングストンやフリースラント山、レニアー岬のように初期の出版物から掲載されているものの、その由来がわからない物もある。
リヴィングストン島の島名は1821年にロバート・フィルデスによって出版された物に初出で、島名としては3番目の名称である[10]。それ以前はフリースラント島(表記には揺れがあった)やベリングスハウゼンがナポレオン戦争のスモレンスクの戦いに肖ってつけたスモレンスク島の名で記されていた。現在ではフリースラントの名前はフリースラント山に、スモレンスクの名前はスモレンスク海峡に残っている[3]。リヴィングストンの名前で想起されるのはデイヴィッド・リヴィングストンであるが、1821年当時は僅かに8歳であった[5]。
研究拠点
船乗りの時代の物ではない居住施設は1957年から翌58年夏にかけてハンナー岬で用いられたステーションPが初めてである。恒久的な科学施設としてはスペインのフアン・カルロス1世基地、ブルガリアのオフリドの聖クリメント基地の二施設が1988年にサウス湾に設立された。他の基地としてはチリと米国のシレフ基地がシレフ岬に1991年に設立された。なお、夏専用の基地としてはアルゼンチンのカマラ基地がハーフムーン島附近に1953年に設立されている。
非常用のフィールドキャンプが島の遠いエリアの研究をサポートしている。スペインのキャンプ・バイアーズはバイアーズ半島のニコポル岬の近くに常設されている。また、バイアーズ半島ではアルゼンチンのキャンプ・リヴィングストンも季節によっては運営されている。キャンプ・アカデミアは標高541m (1,775ft)のヒューロン氷河上部にあり、タングラ2004-05ではベースキャンプとして用いられた。キャンプ・アカデミアはオフリドの聖クリメント基地とフアン・カルロス1世基地から11–12.5km (6.8–7.8mi)ほどで行く事が出来る。また、キャンプ・アカデミカは南のタングラ山地、北のボールズ尾根、ヴィディン高地、カリアクラ氷河、セアディネニエ雪原、東のヒューロン氷河、西のペルニカ氷河、ハントレス氷河へ利便である。キャンプ・アカデミアの名前はブルガリア科学アカデミーによって、同アカデミーの南極調査への貢献への謝意として命名された。また夏季限定ではあるが、併設されているタングラ1091郵便局がブルガリアン・ポスツによって2004年以来運営されている。キャンプ・アカデミアはその設立以来、英国とアイルランドで放映されているディスカバリーの南極探検にも用いられている[11]。
保護区域
南極を保護するために南極条約によって対象地域における人間の存在と活動は厳しく制限されており、特別に許可があるか、科学調査のための立ち入り以外は制限されている。
リヴィングストン島には1966年以来自然保護区が2つ設定されており、バイアーズ半島、シレフ岬及びサン・テルモ島とその水域である。
保護対象の一つである化石は南極と他の大陸が繋がっていた事を証明している。アザラシやペンギンのコロニーを含む多様な動植物も豊富で、学術研究や観察の対象となっている。また、19世紀に遡る遺跡も多々存在している。
南極史跡記念物も2件存在している。サン・テルモ号沈没の死者追悼として建てられたサン・テルモ・ケルンがHSM59として、オフリドの聖クリメント基地にある同島最古の建築物とされるレーム・ドッグ・ハットがHSM59として登録されている。レーム・ドッグ・ハットはブルガリア国立歴史博物館の分館に相当するリヴィングストン島博物館によって管理されている。
旅行
サウス・シェトランド諸島への船旅は1958年に始まった。それ以降毎年1万人の単位で増加した。ツアー客の95%以上はサウス・シェトランド諸島と南極半島を巡り、リヴィングストン島南岸のハンナー岬とこの島の東にあるハーフムーン島、この島の南にあるデセプション島、隣のグリーンウィッチ島の近くにあるアイチョ諸島をクルーズ船で巡りつつ上陸している。
エレナ山とレニアー岬の間、タングラ山地の最北東の斜面は山スキーや登山で知られており、ハーフムーン島周辺を巡るクルーズ船からゾディアックボートに乗り換えて向かっている[12][13]。
栄誉
ブルガリア国内にはこの島に名を由来する通りや広場が見られる。リヴィングストン島広場という広場はサムイルやクラにある他、リヴィングストン島通りはゴチェ・デルチェフ、ヤンボル、ペトリチ、ソフィア、ロヴェチ、ヴィディンに存在している[14][15][16][17]。
関連項目
南極周辺の島の一覧
南極における領有権主張の一覧
地図
from the exploration of the sloop Dove in the years 1821 and 1822 by George Powell Commander of the same. Scale ca. 1:200000. London: Laurie, 1822.
Scale 1:200000 topographic map. DOS 610 Sheet W 62 60. Tolworth, UK, 1968.
Scale 1:200000 topographic map. DOS 610 Sheet W 62 58. Tolworth, UK, 1968.
Isla Elefante a Isla Trinidad. Mapa hidrográfico a escala 1:500000 - 1:350000. Valparaíso: Instituto Hidrográfico de la Armada de Chile, 1971.
Islas Shetland del Sur de Isla 25 de Mayo a Isla Livingston. Mapa hidrográfico a escala 1:200000. Buenos Aires: Servicio de Hidrografía Naval de la Armada, 1980.
Islas Livingston y Decepción. Mapa topográfico a escala 1:100000. Madrid: Servicio Geográfico del Ejército, 1991.
Mapa topográfico de escala 1:25000. Madrid: Servicio Geográfico del Ejército, 1991. (Map reproduced on p.16 of the linked work)
Mapa topográfico a escala 1:25000. Madrid: Servicio Geográfico del Ejército, 1992.
L.L. Ivanov. . Scale 1:1000 topographic map. Sofia: Antarctic Place-names Commission of Bulgaria, 1996. (The first Bulgarian Antarctic topographic map, in Bulgarian)
L.L. Ivanov. . Scale 1:25000 topographic map. Sofia: Antarctic Place-names Commission of Bulgaria, 1996.
S. Soccol, D. Gildea and J. Bath. Scale 1:100000 satellite map. The Omega Foundation, USA, 2004.
L.L. Ivanov et al., (from English Strait to Morton Strait, with illustrations and ice-cover distribution), 1:100000 scale topographic map, Antarctic Place-names Commission of Bulgaria, Sofia, 2005
L.L. Ivanov. Scale 1:120000 topographic map. Troyan: Manfred Wörner Foundation, 2010. ISBN978-954-92032-9-5 (First edition 2009. ISBN978-954-92032-6-4)
L.L. Ivanov. . Scale 1:100000 topographic map. Manfred Wörner Foundation, 2017. ISBN978-619-90008-3-0
Scale 1:250000 topographic map of Antarctica. Scientific Committee on Antarctic Research (SCAR). Since 1993, regularly upgraded and updated.
脚注
参考文献
Antarctic Place-names Commission of Bulgaria, 2006.
Ivanov, L. In: Bulgarian Antarctic Research: A Synthesis. Eds. C. Pimpirev and N. Chipev. Sofia: St. Kliment Ohridski University Press, 2015. pp.17–28. ISBN978-954-07-3939-7
Climb Magazine, Issue 14, Kettering, UK, April 2006, pp.89–91.
Ivanov, L.L. The American Alpine Journal, 2005. pp.312–315.
Gildea, D. Primento and Editions Nevicata, 2015. ISBN978-2-51103-136-0
外部リンク
70south, 2005. Information on the South Shetland Islands including Livingston Island.
The Omega Foundation, USA, 2003.
Management Plan and Map.
Management Plan and Map.
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E5%B3%B6 |
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パルミジャーノ・レッジャーノ()はイタリアを代表するチーズのひとつ。イタリアチーズの王様とも呼ばれる[1]。
名前の由来は地名からきており、パルマ、レッジョ・エミリア、モデナなどのエミリア・ロマーニャ州およびロンバルディア州の一部で作られ[2]、DOPの認定を受けたものだけが刻印を押されて「パルミジャーノ・レッジャーノ」を名乗ることができ、認定を受けられなかったものは側面に×印をうたれてしまう。
概要
原料は、前日に搾った牛乳を一晩置いて分離した乳脂肪分を抜いたものと当日の朝搾った牛乳を混合したものを用いるので、1日に1回だけ製造できる。
水分を完全に抜き切り、18から36カ月、長い物では5年以上熟成させる為、超硬質のハードチーズとなり、アミノ酸が結晶化して白い斑点ができる[1][3]。
この製造過程で出来る乳脂肪分はマスカルポーネなどの原料に使われ、乳清はプロシュット・ディ・パルマ用の豚の飼料になる。
主にすりおろしてパスタなどにかけられるほか、塊のままバルサミコ酢に浸して食べられる[1]。このチーズを加えるだけで料理の味が格段に増すことから、イタリアでは「イタリアチーズの王様」と呼ばれている[3]。
ポー川流域で作られているよく似た製法のチーズにグラナ・パダーノがあり、どちらもグラーナと呼ばれる種類のチーズだが、パルミジャーノ・レッジャーノはより狭い地域で生産されるものである。
30キロ以上になるひと塊りのパルミジャーノ・レッジャーノは高価であり、また熟成に最低でも1年かかるため、すぐに収入にならないことなどから、イタリアの一部の銀行は業者から熟成前のパルミジャーノ・レッジャーノを担保として預かり、ローンを提供している。そのため、対応の銀行はパルミジャーノ・レッジャーノの熟成庫を所有している。むろん、家庭で購入したものを持っていっても、ローンは受けられない。
パルメザンチーズ
日本語の<b data-parsoid='{"dsr":[1681,1695,3,3]}'>パルメザンチーズ</b>という名称はフランス語の fromage parmesan fʁɔmaːʒ.paʁməzɑ̃(フロマージュ・パルメザン)と英語の parmesan cheese ˈpɑɕməˌzɑːn.ˈt͡ʃiːz / ˈpɑːməˌzæn.ˈt͡ʃiːz(パーマザーン・チーズ)の組み合わせから作られている。一般的には「パルミジャーノ・レッジャーノ風のチーズ」の意味で用いられているが、日本ではアメリカ経由で粉チーズの形態で入ってきたので、粉チーズの総称として呼ばれるようになり、ナポリタンやミートソーススパゲッティのトッピングとして普及している。日本やアメリカ合衆国では クラフトフーヅ社のパルメザンチーズ(粉チーズ)が最も有名である。
パルメザンチーズはアメリカ合衆国や日本、アルゼンチンなどでも生産されている。ただし、パルミジャーノ・レッジャーノのDOP規格からは外れているため欧州連合諸国ではパルメザンチーズを名乗ることはできないためクラフトは欧州では Pamesello という商品名に改名して販売するようになった。また、パルメザンチーズの熟成期間はパルミジャーノ・レッジャーノよりも短いことが多くて風味も及ばないが、パルミジャーノ・レッジャーノよりも安価である。
出典
参考文献
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関連項目
牛乳
イタリアのチーズ
パスタ
リゾット
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8E |
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小川 淳司(おがわ じゅんじ、1957年8月30日 - )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(外野手)。2010年シーズン途中から2014年シーズンまで東京ヤクルトスワローズの監督を4年半務めた。監督退任後、2017年シーズンまで球団シニアディレクターを務め、2018年から再び東京ヤクルトスワローズの監督を務める。
経歴
プロ入り前
中学時代は三塁手としてプレーし、目立った実績のないまま地元の習志野高校に進学[1]。体が大きく肩が強かったため捕手にコンバートされたが、故障者が出たのをきっかけに1年生の秋に投手に転向した。1年生当時、2学年上に掛布雅之がおり、当時は話もできなかったが意識する存在だったと述べている[2]。肋間神経痛でも走り込みを休めなかったというほどの猛練習を積み[1]、エースとなる。1974年、2年生時の夏の甲子園県予選では、4回戦で銚子商の土屋正勝と投げ合い、0対2で惜敗[1]。秋季関東大会ではベスト4に入り、翌1975年春の選抜大会に出場したが、赤嶺賢勇を擁する豊見城高に一回戦で敗れた。
同年夏の甲子園県予選では、準決勝で銚子商(前年夏の優勝メンバーでは篠塚利夫[3]が残っていた)と再び対戦し、自ら2ラン本塁打を放って勝利[4]。続く決勝では君津高を破って夏の選手権出場を決めた。選手権では3試合連続完封などの活躍を見せ、準決勝で肩を痛めながらも決勝で新居浜商に9回裏サヨナラ勝ち、8年ぶりの優勝を果たす[5]。同年秋の三重国体では、決勝で新居浜商にまたも9回裏逆転サヨナラ勝ち、優勝を飾る。
中央大学では外野手に転向し[5]、東都大学リーグでは通算98試合出場、351打数80安打、打率.228、5本塁打、39打点の成績を残した。また、4年生の1979年にはエース香坂英典を擁し春季リーグで5年ぶりに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で早大を降し優勝。同じ中大から香坂、高木豊、熊野輝光らと共に同年の日米大学野球の代表に選ばれ、原辰徳、岡田彰布とともにクリーンアップを任されている[6]。卒業後は河合楽器に進み都市対抗野球大会に2年連続出場[5]、1981年のドラフト会議で4位指名されヤクルトに入団[5]。
プロ入り後
1982年(1年目)から一軍に定着するも、当初は対左投手要員として起用されることが多かった。
1984年には右翼手の定位置を得て65試合に先発出場。
1985年もレギュラーを守るが、1986年には故障もあり打撃が低迷。その後は荒井幸雄の入団、広沢克己の外野手転向もあって準レギュラーとして起用された。長打力に定評があり、3度の11本塁打をマークしており、1990年は放った安打13本のうち7本が本塁打であった。
1991年に戦力外通告を受け、1992年に角盈男との交換トレードにより日本ハムファイターズに移籍し、この年限りで現役引退した[5]。
引退後
1993年から1995年までヤクルトのスカウト[5]として宮本慎也、石井弘寿などの獲得に携わる。1996年から1998年までヤクルト二軍守備走塁コーチを務める。さらに1999年から2007年まで9年間の長きにわたり二軍監督を務めた後[6]、高田繁が監督に就任した2008年から一軍ヘッドコーチに昇格。
2010年、5月25日に高田が監督を辞任したことを受け、2日後の27日より監督代行に就任した[5]。監督代行就任後は不振の原因となっていた打線のてこ入れに着手し、青木宣親の打順を1番へと再変更した。また、不振のアーロン・ガイエル、ジェイミー・デントナの両外国人選手を外し、打撃力はあるもののほとんど外野手の経験のなかった畠山和洋をレギュラー外野手として起用した[6]。これらの采配が功を奏し、新戦力ジョシュ・ホワイトセルの活躍もあってチーム成績は急上昇した。監督代行就任期間の成績は59勝36敗3分[5]、勝率6割2分1厘で、19あった借金を完済した上に4つの貯金を作り、クライマックスシリーズ(以下CS)進出争いにも加わった[6][7]。この快進撃は、ヤクルト本社の製品にちなんで「メークミルミル」と呼ばれた[8]。
チーム再建の手腕が高く評価され、2011年から2年契約で正式に監督への就任が決定した[9][10]。また、同年8月2日に球団史上最速で監督通算100勝を記録した。この記録は球界全体で13位。4月から9月までは首位を走っていたが9月に故障者が続出、また宮本以外の主力に優勝経験者が不足していたこともあり、土壇場で10年ぶりの優勝を逃した。CSではルーキーの山田哲人を1番、青木宣親を4番に起用するなど、思い切った采配を見せたが、中日に2勝3敗で日本シリーズ進出を逃した。
2012年、開幕直後は中日と首位を争うが、5月に6勝15敗と大きく負け越す。交流戦では10連敗を記録、交流戦最下位となった。後半戦では2位の中日に9.5ゲーム差ながらも広島との3位争いを制する。CSでは貧打で中日に1勝2敗と敗退。特に第3戦では先発の村中恭兵を無失点にもかかわらず5回途中で降板させた采配がOBの豊田泰光から酷評された[11]。
2013年、最下位でシーズン終了し、この年で契約が切れることもあって一部報道では辞任も報じられたが、続投となった。
2014年、2年連続で最下位に低迷し、9月22日に球団に申し入れ、今季限りで監督を辞任することを会見で表明した[12]。10月31日に2015年1月1日付でシニアディレクターに就任することが発表された[13]。
2017年、真中満の監督退任を受け、2017年10月5日に2018年シーズンより一軍監督として復帰することが発表された。背番号は第1次監督時代と同じ「80」。[14]
人物
真面目な性格であり、自分の練習の後も最後まで残って球拾いをしていた姿を見て当時の関根潤三監督が「オマエら、小川を見習え!」と褒めていたという[15]。
また後任の野村克也監督からは、1990年4月28日の対巨人戦でそれまで宮本和知の前に2三振を喫していたところ捕手の山倉和博のリードに対する読みを伝授された(その結果、3打席目に本塁打を放った)ことや、守備固めに入った試合の翌日、当たり前に処理しただけと自身が捉えていた前日のプレーについて「昨日はナイスプレーだったな。(守備が)上手いやつの追い方だ、あれは」と褒められたこともあった(野村が選手を直接褒めることは滅多にない)[16]。
犯罪者を更生させる保護司を務めていた父の「犯罪者は出会いの失敗者なんだ」という言葉を聞いてから「指導者となった自分が、選手にとって出会いの失敗になってはならない」と考えるようになり、その信念の下、二軍監督時代には練習もほとんどせずに怠惰な生活ばかりを送っていた[17]畠山和洋を精魂かけて指導し、後のヤクルトの主力選手にまで成長させた[18]。
詳細情報
年度別打撃成績
ヤクルト85201197124240355162111200394.213.220.279.49971132131133350450130100100280.252.258.382.6401153032783470112111183502431741493.252.294.424.7181183673354180131111283001232712804.239.297.382.679949187101630328103112100343.184.189.322.51111324522932555311993122211300485.240.280.432.712103229207286016181022421421501510.290.338.493.831951221061128804481334101411243.264.355.453.8085090771113107351510101200226.169.281.455.736495752680021450020310150.154.200.269.469日本ハム475848570021330060301160.146.212.271.483NPB:11年9401897174720341266766690195131324121087640628.236.281.395.676
監督代行成績
通算監督成績
ポストシーズン
※ 勝敗の<b data-parsoid='{"dsr":[11529,11537,3,3]}'>太字</b>は勝利したシリーズ
(※1)リーグ優勝球団に与えられるアドバンテージによる1敗を含む
記録
初出場:1982年4月10日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、7回表に杉村繁の代打で出場、小林繁の前に凡退
初先発出場:1982年5月29日、対読売ジャイアンツ9回戦(後楽園球場)、8番・左翼手として先発出場
初安打:同上、3回表に新浦壽夫から単打
初打点:1982年6月22日、対阪神タイガース15回戦(明治神宮野球場)、1回裏に福家雅明から2点適時打
初本塁打:1982年7月18日、対中日ドラゴンズ13回戦(ナゴヤ球場)、9回表に牛島和彦から左越ソロ
背番号
35 (1982年 - 1991年)
47 (1992年)
80 (1996年 - 2014年、2018年 - )
出典
関連項目
千葉県出身の人物一覧
中央大学の人物一覧
東京ヤクルトスワローズの選手一覧
北海道日本ハムファイターズの選手一覧
外部リンク
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欧州連合加盟国(おうしゅうれんごうかめいこく)とは、1951年署名のパリ条約によって設立された欧州石炭鉄鋼共同体に事実上の起源を持つ、欧州連合(EU)に加盟している28の主権国民国家。原加盟国数は6で、その後7度の拡大が繰り返された。その拡大の中でも2004年5月1日のものは10か国が加盟する最大のものであった。欧州連合は21の共和国、6つの王国、1つの大公国で構成されている。
クロアチアは2013年7月1日に加盟しており、最も新しい加盟国である。このほかにも多くの国が欧州連合への加盟協議を続けている。加盟の過程はヨーロッパの統合と表現されることもある。しかしながら、この「ヨーロッパの統合」という表現はヨーロッパ規模の諸機関に権限を段階的に集中させている欧州連合加盟国のそれぞれの国家としての協力の強化という意味としても用いられている。欧州連合に加盟することが認められるまでに、加盟を希望する国家はコペンハーゲン基準と呼ばれる経済的・政治的条件を満たさなければならない。この条件のもとでは、加盟候補国は宗教権力によらない、民主的な体制を持つ政府、またそのような政府に対応する自主性や統治機関、そして法の支配の尊重を備えていなければならない。欧州連合条約の規定では、連合の拡大は欧州議会の同意と既存の加盟各国の合意が必要とされている。
加盟国
表註
拡大
過去の拡大
拡大は欧州連合の政治展望において重要な議題である。欧州連合は「インナー6」と呼ばれる、共同体の設立に積極的な諸国によって設立された。当初共同体に対して懐疑的だったインナー6以外のヨーロッパ諸国が加盟に方針転換したのは欧州経済共同体の設立から10年が経過したのちのことであったが、その当時は共同体のほうが拡大に懐疑的な姿勢を見せていた。フランス大統領シャルル・ド・ゴールはイギリスの加盟がアメリカのトロイアの木馬となることを恐れ、イギリスの加盟に拒否権を行使した。ド・ゴールが大統領を退任したことにより、ようやくイギリスは3度目の加盟申請が認められた[1]。
イギリスと同時にアイルランド、デンマーク、ノルウェーが加盟を申請していた。ところがアイルランド、デンマークはイギリスとともに加盟を果たす一方で、ノルウェーは国民投票で反対され、このことは国民によって加盟が拒否された初の事例となった[1][2]。その後グリーンランドが1985年に共同体から離脱するも、冷戦の終結までにさらに3か国が共同体に加盟した[1][3]。1987年にはモロッコが加盟を希望し、このとき共同体の対象となる地理的な範囲が検討されたが、モロッコはヨーロッパの国ではないとして加盟が認められなかった[4]。
1990年になると冷戦が終結し、ドイツ再統一により東ドイツの各州が共同体に組み込まれた。また従来中立的な立場であったオーストリア、フィンランド、スウェーデンが新たに発足した欧州連合に加盟した[1]。その一方でスイスは1992年に加盟を申請したが、国民投票で欧州経済領域への参加に反対するという結果を受けて加盟のための協議が凍結され[5]、また再度加盟を申請していたノルウェーも再び加盟の是非を問う国民投票で反対された[6]。その後旧東側諸国や旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成していた諸国が欧州連合への加盟に動き出した。そして2004年5月1日にこれらの10の国々が欧州連合に加わり、東西のヨーロッパの統合を示す出来事となった[7]。
2007年にはブルガリアとルーマニアが欧州連合に加盟し、その後も欧州連合は西バルカン諸国の加盟を優先的に協議している。クロアチアとEUとの加盟交渉は2011年6月に終了し、2012年1月22日には国民投票でEU加盟が承認された。2013年7月にはクロアチアが28番目の加盟国となった[8]。
アイスランドは2009年7月23日に正式な加盟申請を行い、加盟候補国として承認されたが、2015年3月12日、加盟申請を取り下げた。
今後の拡大
加盟候補国
2018年12月現在、トルコ、マケドニア旧ユーゴスラビア、モンテネグロ、セルビア、アルバニアの5か国は正式な加盟候補国として認定されている[9]。
トルコは1980年代から加盟を希望しており、長く交渉を重ねてきたが、正式な加盟協議に入ったのは2004年のことだった[10]。
マケドニアはギリシャとの間にマケドニア呼称問題を抱えており、ギリシャがマケドニアの加盟交渉に際し拒否権を行使している。同様の理由によりマケドニアは加盟を目指しているNATOにも加盟の目途が立っていない。
モンテネグロは2011年10月にEUと本格的な加盟交渉が開始された[11]。2018年12月現在、該当するアキ・コミュノテール全33分野中32分野で交渉を開始しており、そのうちの3分野の交渉は暫定的に終了している[12]ことから、加盟候補国5か国のなかで最も交渉が進展している国といえる。
セルビアはボスニア・ヘルツェゴビナ内戦の大物戦犯であるラトコ・ムラディッチとゴラン・ハジッチの拘束が評価され、2011年10月12日欧州委員会から加盟候補国の地位を提言されたものの、2008年にセルビアから一方的に独立を宣言したコソボとの関係改善および政治対話の進展が加盟交渉開始の条件とされ、正式な加盟申請を行った2009年12月22日から2012年2月の段階まで加盟候補国に認定されていなかった[11]が、関係改善を評価され、2012年3月1日のEU首脳会議において正式な加盟候補国に承認された[13]。2014年1月21日から加盟交渉を開始している[9]。
アルバニアは2009年4月28日にEUに加盟を申請し、2014年6月27日に加盟候補国として承認された[9]。
潜在的加盟候補国
ボスニア・ヘルツェゴビナとコソボはEUの潜在的加盟候補国として見なされているが、正式な加盟候補国としての地位は与えられていない。
ボスニア・ヘルツェゴビナは国際社会の監督を受けている。ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表は同国における和平合意の尊重の確保のために幅広い権限を持つ国際社会の代表者である。上級代表は同時に欧州連合の特別代表でもあり、実際に欧州連合がその人物を任命している。上級代表の役割、またボスニア・ヘルツェゴビナの欧州連合への加盟の希望もあって、同国は事実上、欧州連合の保護下にある。欧州連合は強制立法権や官吏罷免権を持つ特別代表を任命しており、このことはボスニア・ヘルツェゴビナに対して加盟国よりもより直接的に統治する権限を持つということを示すものである。実際、ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗の意匠は欧州連合の旗を模したものとなっている[14]。2016年2月15日、EUに加盟申請を行った[9]。
コソボは現在、国連に加盟している110ヶ国から独立を承認されているが、EU既存加盟国の間ではコソボの国家承認について対応が分かれている。EU加盟国中23カ国がコソボの独立を承認しているが、一方で、バスクやカタロニアといった国内地域に民族問題を抱えるスペイン、キプロス、スロバキア、ルーマニア、ギリシャの5カ国は独立を承認していない。このためEUによる機関承認は見送られている。エンベル・ホジャイ外相は「2020年までのEU加盟を実現したい」と述べている[15]。
その他
コペンハーゲン基準によると欧州連合への加盟は、安定し、自由市場と、法の支配と人権を尊重する民主主義を有するあらゆるヨーロッパの国に対して開かれたものとされている。さらに加盟を希望する国はアキ・コミュノテールの受容やユーロの導入といった加盟国の義務を受け入れなければならない[16]。
多くの国が加盟国と変わらないほどの欧州連合と密接な関係を持っている。ノルウェーは欧州連合への加盟が実現しなかったことを受けて、同じく欧州連合に加盟していないアイスランドとリヒテンシュタイン、スイスと欧州連合加盟国が参加する欧州経済領域に加わった。欧州経済領域では非加盟4か国に対して欧州連合の域内市場に参入すること、また欧州連合の域内市場における4つの分野での自由を認めている。そのかわりに4か国は負担金の支払や関連する欧州連合の法令の適用を受け入れることが義務づけられている。このように法令を受け入れている状況は、4か国が直接的に立法過程に参加することができず、ブリュッセルから新しい法令がファクシミリで送られてくることから「ファックス民主主義」と揶揄されている[17]。
加盟国の代表
各加盟国は欧州連合の諸機関に対して代表を出している。正式な加盟国になるとそれぞれの政府は欧州連合理事会や欧州理事会に議席が与えられる。全会一致による決定がなされない場合においては、人口が小さい加盟国よりも人口が大きい加盟国に票数がより多く与えられる多数決方式が適用される(ただしこのときの各国の票の配分は人口に比例しておらず、人口の小さい加盟国が相対的に人口の大きい国よりも多くの票数が与えられている)。
これと同様に各国はそれぞれの人口に基づいて欧州議会の議席数が割り当てられている。ただし欧州議会議員は1979年以降、普通選挙で選出されており(1979年以前は各国議会が選出していた)、政府には任命権が与えられていない。他方で各国政府は委員長の意向に従って欧州委員会に委員を、ほかの加盟国に合わせる形で欧州司法裁判所に判事を、欧州会計監査院に委員をそれぞれ1名ずつ出している。
かつては規模の大きい加盟国からは欧州委員会委員を2名出していた。ところが委員会の組織が肥大化したため、この大国に与えられていた特権は廃止され、各加盟国は平等に委員を出すことになった。しかしながら欧州司法裁判所の法務官が大国から出されるという制度は続けられている。なお、欧州中央銀行の政策理事会は各加盟国の中央銀行総裁で構成されている。
従来より規模の大きい加盟国は交渉にさいして大きな影響力を行使してきたが、規模の小さい加盟国は公平な仲介者としての機能を果たし、またそれらの加盟国の市民は大国との間での競合を回避するような敏感な首脳を選出してきた。
加盟国の主権
基本条約では、すべての加盟国はそれぞれ主権を有し、その価値は等しいとうたっている。しかし欧州連合は欧州共同体の分野において超国家的な制度に基づいており、各加盟国は連合の諸機関に代表を送って、その主権を一体的なものとして連合の諸機関に委ねている。これらの機関はヨーロッパ規模での立法やその執行についての権限が与えられている。加盟国が連合の法令を遵守しなかった場合には、当該加盟国には制裁金が科されたり、あるいは連合の資金が引き揚げられることになる。さらに極端な事例では、当該加盟国の票決権や加盟国としての資格を停止する規定も存在する。欧州共同体分野以外(外交政策、警察、司法分野)では、主権の移管の程度は低く、これらの分野の問題では政府間の合意や協力によって対応される。
ところがそもそも主権というのはそれぞれの国家に由来するものであり、加盟国は望めば欧州連合を脱退するということもあり得る。そのためある法令がある加盟国にそぐわないものであるとされた場合、当該加盟国は法令の適用を回避するために欧州連合から脱退することがあり得る。しかしながら加盟していることによる利益がその法令による不利な影響を上回ることもあって、これまでに欧州連合から脱退するという事例は起こっていない。さらに現実政治において、関係の向上やほかの問題における自らの立場を強化するために、利権や政治的圧力といった要素により加盟国はある分野において利益につながらないものでも受け入れざるを得なくなる。
関連項目
European Union
欧州連合加盟国の特別領域
参考文献
『EU(欧州連合)を知るための63章』羽場久美子編、明石書店、2013年。
『EU拡大とフランス政治』クリスチアン・ルケンヌ、中村雅治訳、芦書房、2012年
『ロシア・拡大EU』羽場久美子・溝端佐登史編、ミネルヴァ書房、2011年。
『拡大するユーロ経済圏』田中素香、日本経済新聞出版社、2007年。『EU拡大と新しいヨーロッパ』小林浩二編、原書房、2007年。
『ヨーロッパの東方拡大』羽場久美子・小森田秋夫・田中素香編、岩波書店、2006年。
『国際関係の中の拡大EU』森井裕一編、信山社、2005年。
『拡大ヨーロッパの挑戦―グローバル・パワーとしてのEU』羽場久美子、中公新書、2004年。2014年第2版。
『グローバリゼーションと欧州拡大』神奈川大学評論ブックレット19、お茶の水書房、2002年。
『拡大するヨーロッパー中欧の模索』羽場久美子、岩波書店、1998年。
『拡大EU―東方へ広がるヨーロッパ連合』町田顕、東洋経済新報社、1999年。
『大欧州圏の形成―EUとその拡大』 神奈川大学経済貿易研究叢書、 島崎 久弥、1996年。
『統合ヨーロッパの民族問題』講談社現代新書、1994年。
脚注
外部リンク
(in English)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E9%80%A3%E5%90%88%E5%8A%A0%E7%9B%9F%E5%9B%BD |
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ドナテッロ(、 1386年頃 - 1466年12月13日)は、ルネサンス初期のイタリア人芸術家、金細工師、彫刻家。フィレンツェ共和国出身で、出生名は<b data-parsoid='{"dsr":[791,821,3,3]}'>ドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディ ()。日本では<b data-parsoid='{"dsr":[879,890,3,3]}'>ドナテルロ</b>と表記する場合もある。ドナテッロは立像や浅彫のレリーフを制作した彫刻家として有名だが、透視図法を使用した錯視的表現の発展にも寄与した、最重要な芸術家のひとりである。
若年期
ドナテッロは、フィレンツェの毛織物ギルドの一員だったニッコロ・ディ・ベット・バルディの息子として、1386年ごろにフィレンツェで生まれた。幼少期のドナテッロはマルテッリ家の邸宅内で教育を受けたと考えられている[1]。ドナテッロが最初に芸術家としての教育を受けたのは金細工師の工房だったのではないかとも言われているが、ルネサンス初期のフィレンツェを代表する彫刻家ロレンツォ・ギベルティの工房で一時的に働いていたのは間違いない。
ドナテッロはローマで1404年から1407年にかけて、フィリッポ・ブルネレスキとともに、習作の制作や彫刻制作助手などの職を得た。ローマでのこの二人の仕事ぶりは当時の美術品収集家たちに高く評価され、ドナテッロは金細工師として生計を立てるようになった。この時期のドナテッロとブルネレスキのローマ滞在中の経験が、後の15世紀イタリア芸術の方向性を決定づけることになる。ブルネレスキはローマでパンテオンなどの古代ローマ建築に感化を受け、その影響を自身の作品に反映させるようになった。後にブルネレスキの設計による建築物とドナテッロの手による彫刻作品は、当時の美術界においてきわめて高い精神性を表現したものとされ、同時代の芸術家たちに非常に大きな影響を及ぼすこととなった。
フィレンツェの作品
ドナテッロはフィレンツェで、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂サン・ジョヴァンニ洗礼堂の北側扉の装飾制作をロレンツォ・ギベルティと争った。最終的に北側扉の制作にあたったのはドナテッロで、この仕事に対する支払がなされたのは1406年11月と1408年初頭のことだった。1409年から1411年頃から、大きな『福音記者聖ヨハネ像(サン・ジョヴァンニ像)』の制作に携わっている。この坐像は1588年までサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のファサードに安置されていたが、ファサード改築に伴って撤去され、現在は大聖堂付属のドゥオーモ付属美術館 (en:Museo dell'Opera del Duomo (Florence)) に所蔵されている。『福音記者聖ヨハネ像』は、それまでの後期ゴシック様式とは一線を画し、マニエリスム様式までの人物彫刻像における自然主義の追求と人間の感情表現に新境地をもたらした重要な彫刻作品といえる[2]。顔、肩部、胸部には理想化されたゴシック的表現が見られるものの、手、衣服、脚部は写実的な表現で制作された人物彫刻である。
1406年から、サンタ・クローチェ聖堂の『キリスト磔刑』も制作している。この彫刻のキリストの表情は半開きの目と口をした苦悶に満ちたもので、その姿勢も十字架からずり落ちようとする苦痛に溢れる写実的表現で描写されている。
1411年から1413年にかけて、ドナテッロは麻織物組合の依頼でオルサンミケーレ教会 (en:Orsanmichele) の壁龕に『聖マルコ像』(en:St. Mark (Donatello)) を、1417年には甲冑制作組合のために『聖ゲオリギオス像』をそれぞれ制作している。『聖ゲオルギオス像』の基台にあしらわれた優美なレリーフ『聖ゲオリギオスとドラゴン』は、彫刻に一点透視図法を導入した最初期の作品といわれている。1423年には、現在サンタ・クローチェ聖堂が所蔵する『トゥールーズの聖ルイ像』を制作した。この『トゥールーズの聖ルイ像』には、ドナテッロが彫刻を施した収納用のタベルナクル(天蓋付壁龕)が付属していたが、1460年にヴェロッキオの彫刻『聖トマスの不信』の収容用に転用するためにサンミケーレ教会へと売却されている。
ドナテッロは1415年から1426年に、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のジョットの鐘楼のために5点の彫像を制作している。『髭のない預言者』(1415年以降)、『髭のある預言者』(1415年以降)、『イサクの犠牲』(1421年)、『預言者ハバクク』(1423年 - 1425年)、『預言者エレミヤ』(1423年 - 1426年)で、古代ローマの演説家のような外観を与えられた、詳細な造形描写に特徴がある彫刻群である。
1425年から1427年にミケロッツォ・ディ・バルトロメオと協同で、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂で対立教皇ヨハネス23世の霊廟制作に取り掛かった。この霊廟を飾る彫刻のうち間違いなくドナテッロ作と考えられているのは、仰向けに横たわる故人のブロンズ像である。1427年には、ナポリのサンタンジェロ・ア・ニーロ聖堂の枢機卿リナルド・ブランカッチ霊廟 (en:Tomb of Cardinal Rainaldo Brancacci) に使用する大理石飾りパネルをピサで完成させている。また、同じ時期にシエーナのサン・ジョヴァンニ洗礼堂 (en:Battistero di San Giovanni (Siena)) の依頼で『ヘロデ王の饗宴』のレリーフ、『信仰』と『希望』の彫刻も制作している。
1430年ごろに、当時の芸術家の重要なパトロンだったフィレンツェの銀行家コジモ・デ・メディチが、自身の邸宅であるメディチ・リッカルディ宮殿 (en:Palazzo Medici Riccardi) の装飾用として、ドナテッロに旧約聖書の登場人物ダヴィデのブロンズ像制作を依頼した。左足で刎ねたゴリアテの首を踏みつけ、右手に剣を下げたダヴィデを表した、現在フィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するこの彫像こそが、古代以降で初めての裸体の立像とされる、ドナテッロの彫刻中でもっとも有名な作品である。それまでの人物彫刻とは全くかけ離れた作風で当時のどの様式にも似ておらず、無慈悲、不合理に打ち勝とうとする都市国家の理念を完璧に表現した作品であるとして、最初の重要なルネサンス彫刻という高い評価を与えられている。
『ダヴィデ像』には同性愛が表現されており、これはドナテッロの性的嗜好を反映していると考える研究者も存在する[3]。あくまでも推測の域を出るものではないが、たとえば歴史家ポール・ストラザーンは、ドナテッロが自身の同性愛嗜好を隠しておらず、その素行も友人たちに容認されていたと主張している[4]。確かに15世紀、16世紀のフィレンツェ共和国では、同性愛は決して珍しいというわけではなかった。しかしながら、ドナテッロの私生活はほとんど知られておらず、当時のフィレンツェの記録には欠落が多いとはいえ[5]、ドナテッロの性的嗜好に関する資料は存在しない[6]。
1433年にコジモ・デ・メディチがフィレンツェを追放されたときには、ドナテッロはローマに滞在していたと考えられている。この時期にドナテッロがローマに滞在していたことの証明として、ローマに現存する、サンタ・マリア・イン・アラチェーリ教会 (en:Santa Maria in Aracoeli) の『ジョヴァンニ・クリヴェッリの霊廟』と古代ローマ美術の強い影響が見られるサン・ピエトロ大聖堂の『チボリウム』の2作品をあげることができる。
ドナテッロがフィレンツェに戻ったのは、コジモ・デ・メディチが追放先からフィレンツェへと帰還したのと同時期だった。ドナテッロは1434年5月に、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオとの最後の協同作業となる、プラート大聖堂(ドゥオーモ・ディ・プラート (en:Prato cathedral))の説教壇制作の契約を交わしている。「キリストの殉教」を主題とし、異教徒や歌い踊るプットーなどのレリーフで装飾されているこの説教壇は、ドナテッロが1433年から1438年にかけて断続的に制作したサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の『カントリーア(唱歌壇)』の先駆ともいえるものとなっており、その様式は古代の石棺(サルコファガス)やビザンティン様式の象牙製飾り箱などからの影響が見られる。1435年にはサンタ・クローチェ聖堂の『受胎告知』の彫刻、1437年から1443年にはサン・ロレンツォ教会 (en:Basilica di San Lorenzo di Firenze) 旧聖具室の扉に聖人たちの肖像装飾レリーフを制作している。1438年から、ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の依頼で、木彫の『洗礼者ヨハネ像』を手がけた。さらに1440年ごろには、現在バルジェロ美術館が所蔵する『カメオの少年』を制作しているが、この作品は古代以降で最初期の胸像である。
パドヴァの作品
1443年にドナテッロは、有名な傭兵でヴェネツィア軍総司令官も勤めて同年1月に死去したガッタメラータの記念像を制作するために、ガッタメラータの遺産相続人からパトヴァに招かれた。サイズ 340 x 390cm(台座のサイズは 780 x 410cm[7])の『ガッタメラータ騎馬像』は、ルネサンス期に制作された最初の騎馬彫刻像であるとともに、壮大な古代の騎馬彫刻像を復活させた最初の作品である[8][lower-alpha 1]。そしてこの作品は、その後数世紀にわたって、功のあった軍人を顕彰するために制作される騎馬像の原点、先例といえる存在となっていった[7]。
『ガッタメラータ騎馬像』は、当時のほかのブロンズ像と同様にロストワックスの技法で制作されており、台座上のガッタメラータも馬も等身大で表現されている。古代ローマの彫刻『マルクス・アウレリウス騎馬像』 (en:Equestrian Statue of Marcus Aurelius) のように、対象物の偉大さ、力強さを強調する目的で実際のサイズよりも大きく表現する手法ではなく、等身大のこの彫刻でドナテッロは、感情、ポーズ、象徴表現などによって、ガッタメラータの偉大さを描写しようとした。ドナテッロはガッタメラータを潤色、脚色することなく、ありのままの力強さを表現しようとしており、実際に等身大のこの騎馬像は十分にガッタメラータの偉大さが伝わる作品となっている。また、騎馬像の台座上部には「扉」が表現された2点のレリーフがある。この「扉」は地下への門を意味する象徴であり、実際にはガッタメラータが葬られてはいないにも関わらず、この騎馬像にあたかも墓標であるかのような印象を与えている[7]。片方のレリーフには2体のプットー (en:putto) が支えるガッタメラータの紋章が、もう片方のレリーフには甲冑を誇示する天使が刻まれている[7]。
サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂には、ドナテッロの彫刻作品が多く残されており、1444年から1447年に制作されたブロンズの『キリスト磔刑像』、聖歌隊席の彫刻、主祭壇を飾る『聖母子像』と6人の聖人などのブロンズ製レリーフなどが所蔵されている。ただし、この6人の聖人のレリーフは、1895年にイタリア人建築家カミロ・ボイト (en:Camillo Boito) の聖堂の修改築によって見えなくなってしまった。信徒席正面に位置する『聖母子像』には、古代神話で知識を象徴する二頭のスフィンクスを両横に配した玉座が表現されている。さらに1446年から1450年にかけてドナテッロが制作した、聖アントニウス(サンタントーニオ)の生涯を描いた非常に重要な4点のレリーフが聖堂に収められている。
フィレンツェでの最晩年
ドナテッロは1453年にパドヴァからフィレンツェへと帰郷した。1455年から1460年の作品『ユディトとホロフェルネス』は、当初シエナ大聖堂からの依頼で制作が開始されたものだったが、後にメディチ家によって買い上げられ、一族のコレクションに加えられた彫刻である。ドナテッロは1461年までシエーナに滞在し、シエナ大聖堂所蔵の『洗礼者ヨハネ像』などを制作している。
フィレンツェでの最後の彫刻制作依頼となったのはサン・ロレンツォ教会のブロンズ製説教壇で、ドナテッロは弟子のバルトロメオ・ベッラーノ (en:Bartolomeo Bellano)、ベルトルド・ディ・ジョヴァンニ (en:Bertoldo di Giovanni) とともにこの作業にあたった。このときドナテッロは全体的なデザインを手がけるとともに、独自で『聖ラウレンティウスの殉教』、『十字架降架』を、ベラーノと共作で『ピラトの前のキリスト』、『カイアファの前のキリスト』を制作している。
ドナテッロは1466年にフィレンツェで死去し、サン・ロレンツォ教会のコジモ・デ・メディチの墓の隣に埋葬された。
ギャラリー
『ダヴィデ像』(1408年 - 1409年)
バルジェロ美術館
『聖ゲオルギウス像』(1415年 - 1417年)
バルジェロ美術館[9]
『髭のある預言者』(1415年 - 1418年)
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ドゥオーモ付属美術館
『髭のない預言者』(1415年 - 1418年)
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ドゥオーモ付属美術館
『イサクの犠牲』(1421年)
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ドゥオーモ付属美術館
『トゥールーズの聖ルイ像』(1422年 - 1425年)
サンタ・クローチェ聖堂
『預言者ハバクク』(1423年 - 1425年)
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ドゥオーモ付属美術館
『ヘロデ王の饗宴』(1423年 - 1427年)
シエナ大聖堂サン・ジョヴァンニ洗礼堂
「対立教皇ヨハネス23世の霊廟」(1425年 - 1427年)
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂サン・ジョヴァンニ洗礼堂
『パッツィの聖母』(1425年 - 1430年)
ボーデ博物館
『聖母被昇天』(枢機卿ライナルド・ブランカッチ霊廟のレリーフ、1427年)
サンタンジェロ・ア・ニーロ聖堂
『チボリウム』(1432年 - 1433年)
サン・ピエトロ大聖堂
『カヴァルカンティの受胎告知』(1435年)
サンタ・クローチェ聖堂
『悔悟するマグダラのマリア』(1453年 - 1455年頃)
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂ドゥオーモ付属美術館
『チェリーニの聖母』(1456年以前)
ヴィクトリア&アルバート博物館
脚注
注釈
出典
参考文献
This articleincorporates text from a publication now in the public domain:
Adrian W. B. Randolph, Engaging symbols: gender, politics, and public art in fifteenth-century Florence. Yale University Press, 2002.
Giorgio Vasari, Le vite de' più eccellenti pittori, scultori e architettori, Firenze 1568, edizione a cura di R. Bettarini e P. Barocchi, Firenze 1971.
Rolf C. Wirtz, Donatello, Könemann, Colonia 1998. ISBN 3-8290-4546-8
Charles Avery, Donatello. Catalogo completo delle opere, Firenze 1991
Bonnie A. Bennett e David G. Wilkins, Donatello, Oxford 1984
Michael Greenhalg, Donatello and his sources, Londra 1982
Volker Herzner, Die Judith del Medici, in Zeitschrift für Kunstgeschichte, 43, 1980, pp.139–180
Horst W. Janson, The sculpture of Donatello, Princetown 1957
Hans Kauffmann, Donatello, Berlino 1935
Peter E. Leach, Images of political Triumph. Donatello's iconography of Heroes, Princetown 1984
Pierluigi De Vecchi ed Elda Cerchiari, I tempi dell'arte, volume 2, Bompiani, Milano 1999. ISBN 88-451-7212-0
Donatello e il suo tempo, atti dell'VIII convegno internazionale di Studi sul Rinascimento, Firenze e Padova, 1966, Firenze 1968
Roberto Manescalchi Il Marzocco / The lion of Florence. In collaborazione con Maria Carchio, Alessandro del Meglio, English summary by Gianna Crescioli. Grafica European Center of Fine Arts e Assessorato allo sport e tempo libero, Valorizzazioni tradizioni fiorentine, Toponomastica, Relazioni internazionale e gemellaggi del comune di Firenze, novembre, 2005.
日本語関連文献
『ドナテッロ 新しい空間の創造者 イタリア・ルネサンスの巨匠たち8』
ジョヴァンナ・ガエタ・ベルテラ、芳野明訳 (東京書籍、1994年)、紹介の冊子
外部リンク
メトロポリタン美術館
ヴィクトリア&アルバート博物館
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生化学(せいかがく、英語:biochemistry)は生命現象を化学的に研究する[1]生物学または化学の一分野である。生物化学(せいぶつかがく、biological chemistry)とも言う[2](若干生化学と生物化学で指す意味や範囲が違うことがある。生物化学は化学の一分野として生体物質を扱う学問を指すことが多い)。生物を成り立たせている物質と、それが合成や分解を起こすしくみ、そしてそれぞれが生体システムの中で持つ役割の究明を目的とする[1]。
概要
物質的観点で生命現象をとらえるならば、生体は多種多様な有機化学物質の集合体であるばかりでなく、それらの化学物質は相互に連携し、調和がとれ独立した物質の再生生産システムを形成している。すなわち、生体物質の変化(代謝)を司る主体も生体物質であるばかりではなく、それら主体となる物質の構造情報(遺伝物質)や製造プロセス(たんぱく質合成系)も生体物質で構成されている。あるいは物理化学的な平衡では自発的には生じないような生体物質を生産する為の多段階の反応経路(代謝経路)とその原動力となる化学ポテンシャルを生産する仕組み(エネルギー代謝)や遺伝物質を複製することで自己増殖してゆく仕組みなど、緻密で繊細な化学物質システムが構築されている。
したがって広義の生化学は、生物学の一サブジャンルというよりも、生命現象を化学的側面から研究する一つの切り口と捉えられる。あらゆる生体分子と生物、その環境が対象となりうる。現在の生物学で<b data-parsoid='{"dsr":[885,895,3,3]}'>生化学的</b>と言うときは、生体から目的の分子を取り出して試験管内 (in vitro) で実験を行うことを指すことが多い。生体内 (in vivo) で行う場合は生理学的という。
生物物理学、細胞生物学、分子生物学、などとも関連は深く、また応用化学としては生理学、生物工学、免疫学、遺伝学などとも連携して研究される為に、生化学とそれらの学問分野との境界は曖昧である。原理や方法は医学、薬学、農学などで実利的な応用にも役立ち、医学との連携では医化学や臨床化学というジャンルで呼ばれる場合もある[1]。しかし、現在の生物学の研究は複数のジャンルの手法を駆使して行われることがほとんどであり、その境界は曖昧なものとなっており、寧ろ複合化が進んでいると言える。現在では、ケミカルバイオロジー(化学生物学)などのジャンルも派生してきている。
生化学の研究対象は生体物質全般であるが、中でもタンパク質、核酸、糖質など生体由来の高分子は生化学システムを構成する主役であり、今日でも生化学研究の重要な研究対象の源泉である。また、生体膜の主成分である脂質は細胞および細胞内器官を形成するだけでなく生体物質間の情報伝達の役割も果たしており、生化学の研究対象としても重要である。蛋白質や核酸の研究はかなり進んでいるものの、糖質や脂質の生化学的な研究についてはまだ開拓中の分野である。
さらに、生体内での分子の動きを究極的に突き止める事で、人間の意識、思考、記憶、行動など科学的な対象からかけ離れたものと考えられた精神活動も、生化学的手法によってアプローチできる可能性がある[1]。
歴史
19世紀後半にはカール・ヴィルヘルム・シェーレ (Karl Wilhelm Scheele) が生物から乳酸やリンゴ酸など有機化合物を生物材料から取り出す事に成功していたが、これら有機化合物は生物内からのみ抽出しうるものと考えられていた[1]。しかし1828年にフリードリヒ・ヴェーラー (Friedrich Wöhler) が人工的な尿素の合成に成功し、1897年のエドゥアルト・ブフナーによる生体でない物質でも糖を発酵させる事象の発見が続き、生気論が衰退を見せ始め[1]人工的に有機物が合成できることが示された。
生化学の夜明けは、1833年、酵素の1つジアスターゼ(アミラーゼ)がアンセルム・ペイアン (Anselme Payen) によって発見されたことだろう。20世紀中頃にクロマトグラフィーやX線回折、NMR、放射性同位体標識、電子顕微鏡、分子動力学シミュレーションなどが開発されると、生化学は急速に発展する。これらの技術は多くの分子や代謝経路の発見と解析を可能にした。
今日、生化学の知見は遺伝学から分子生物学、農業から医学まで多くの分野で用いられている。最初の生化学の応用は、おおよそ5000年前、パンを膨らませるために酵母を用いたことにさかのぼるだろう。
研究対象
生化学が研究対象とする生化学プロセスは大きく二つに分けるならば、物質代謝と遺伝子発現である。前者は今日でも生化学の分野であるが、後者は1980年代以降急速な進展により分子生物学あるいは分子遺伝学といった一大学問領域を形成している。
生体内の物質代謝のほとんどには酵素の関与が見られる。逆に酵素が有する基質特異性により、代謝反応の各段階にはそれぞれ固有の酵素が関連しているので物質代謝を研究することは裏返して見るならば酵素を研究することでもある。酵素タンパク質の発現や化学物質を介した情報伝達システムによる酵素機能の調節は分子生物学でも研究される。
「セントラルドグマ」として知られる遺伝子発現機構は1950年代にワトソンとクリックが提唱したDNAモデルに起源を持つ、遺伝子発現機構の主体であるDNA、RNA、リボゾーム・タンパク質、リプレッサー・タンパク質は早くから研究されているが、その機能や調節機構は複雑かつ精密であり、今日でも分子生物学やバイオインフォマティクスの重要な研究テーマである。
生化学実験
生化学実験はIn vitro実験とも呼ばれるように生体細胞の細胞器官内で生じる生化学反応を、複雑な代謝経路や調節機構から切り離してまさに試験管のなかで再現することで研究が進展してきた。21世紀に入ると標識化技術や測定技術の進歩で生きている細胞内で生化学反応を間接的に追跡することも可能になってきたが、生体組織から目的の成分を分離精製する実験技術は生化学研究においては重要な研究技術である。
一般に消化酵素やホルモンのように分泌型の生体物質でない限りは、酵素や受容体を含めて目的の生体物質は特定の組織細胞の特定の細胞小器官にのみ発現・存在している。したがって、生化学実験は標的組織を多数採集し、そこから目的の生体物質を分離精製するところから始まる。
DNAのように細胞破砕後に、エタノール沈澱するだけで捕集できるものもあるが多くの場合、細胞破砕後に密度勾配法による遠心分離で目的の細胞内器官を密度により選択し捕集する。溶液には塩化セシウムなどが用いられる。この状態では多くの場合、酵素や受容体は細胞膜に取り込まれていたり、膜の二重層に埋め込まれているので、界面活性剤を使って脂質膜と分離〈可溶化〉する必要がある。
目的の生体高分子の精製は古くは半透膜による透析が行われたが、20世紀後半にはゲル濾過クロマトグラフィーやアフィニティークロマトグラフィーにより目的物を精製する。
代謝による生体内物質の移動や変化の追跡にはトレーサー物質が利用される。古くから放射性あるいは非放射性同位体を組み込んだ生体内物質が広く利用された。しかし同位体置換した生体内物質を用意することは困難をともない、放射性トレーサーの場合はラジオアイソトープセンターなど専用実験施設が必要な為、今日では抗体染色やELISA法など同位体を使用しないトレーサーが広く利用されている。また、微量機器分析技術の進展によりMALDI法などの質量分析でクロマトグラフィ・スポット(ピーク)から直接、標的物質の同定も可能である。
イオンチャネルの研究においては、生体膜にガラスの毛細管を押し当てることで、管内にイオンチャネルを閉じ籠めて生化学実験を行うパッチクランプの実験技術によって上記のように生体成分を分離せずに実験を行う技法も開発された。
1990年代以降には特定の無機イオンに反応して蛍光を発する標識色素やルシフェラーゼ遺伝子を応用した形質導入によって、細胞外から蛍光顕微鏡で発光現象を追跡することで間接的に生化学反応をトレースすることも可能になってきている。
炭素や水によらない生化学
宇宙生物学の見地から、現在知られているタンパク質や脂質、糖質、核酸などの有機化学に基づくシステム以外の生化学によるシステムの理論や仮説がごく一部で研究されている。分光学による生体物質の観測も行われている。しかし、2007年現時点では、炭素を基盤としない生命は発見されていない。
脚注
参考文献
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関連項目
口腔生化学
分子生物学 - 細胞生物学 - 生物工学 - 遺伝学 - 生物物理学 - 生物有機化学
日本生化学会 - 生化学若い研究者の会
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%8C%96%E5%AD%A6 |
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ヘーリオス()は、ギリシア神話の太陽神である。その名はギリシア語で「太陽」を意味する一般名詞と同一である。象徴となる聖鳥は雄鶏。
太陽は天空を翔けるヘーリオス神の4頭立て馬車であると古代ギリシア人は信じていた。
日本語では長母音を省略して<b data-parsoid='{"dsr":[325,335,3,3]}'>ヘリオス</b>とも表記する。
紀元前4世紀頃から、ヘーリオスはアポローンと同一視(習合)されるようになった。これはアポローンに光明神としての性質があったためと考えられる。同様に、ヘーリオスの妹で月の女神であるセレーネーは、アポローンの双子の姉であるアルテミスと同一視されるようになった。
概説
ヘーシオドスの『神統記』によれば、ヒュペリーオーンとテイアーの息子である。曙の女神エーオースや月の女神セレーネーは姉妹。また魔女のキルケーやヘーリアデス(太陽神の5人の娘たち)、パエトーンの父親でもある。
アポローンが乗る太陽の車を青空の牧場に駆る御者とも考えられた。
オリュムポスからみて、東の地の果てに宮殿を持つ。盲目になったオーリーオーンの目を治療した。また、常に空にあって地上のすべてを見ているため、アプロディーテーのアレースとの浮気をヘーパイストスに密告したのも、ハーデースがペルセポネーを誘拐した際にゼウスが加担したことをデーメーテールに教えたのもヘーリオスとヘカテーである。
レウコトエーとクリュティエー
ヘーリオスはアプロディーテー女神とアレース神の不義をいち早く見つけ、女神の夫ヘーパイストスに言いつけた。アプロディーテーはこの仕打ちを許すことができず、ペルシア王オルカモスの娘である美女レウコトエーにヘーリオスの目を釘付けにさせ、熱愛関係にいざなう。ヘーリオスの寵愛を受けていたニュムペーのクリュティエーはこれを見過ごせず、厳格なオルカモスにレウコトエーが男と密通している旨を告げ、父王の手で彼女を裁かせる。ヘーリオスはその罪により生き埋めにされたレウコトエーの死体にネクタールを降り注ぎ、彼女の姿を乳香の木に変え、天界へと連れてゆく。一方、クリュティエーはヘーリオスからもはや振り向いてはもらえず、太陽を見ながら悲しみ泣き暮らすうちに死んでしまう。そして彼女は一輪の花になり、いつも愛しい人の方を向いているのである[1]。
クリュティエーの変じた花は、ヒマワリやヘリオトロープ、あるいはキンセンカであるとも言われている。概して絵画や文学のモチーフとしてはヒマワリとされることが多いが、ヒマワリやヘリオトロープはアメリカ大陸の原産であり、この神話の成立時期にはヨーロッパでは知られていなかった。
注釈
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%82%B9 |
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1979年のテレビ(1979ねんのテレビ)では、1979年(昭和54年)の日本におけるテレビジョン放送全般の動向についてまとめる。
番組関係のできごと
この年、TBS系『8時だョ!全員集合』の後半コントにて、ザ・ドリフターズの加藤茶と志村けんのコンビによる「ヒゲダンス」が人気を博した。
1月
1日 - フジテレビ系のミニグルメ紀行・情報番組『くいしん坊!万才』の第3代くいしん坊として、声楽家の友竹正則がこの日の放送から登場。同番組は主に俳優が起用されるが、俳優以外からの起用は初(友竹は1981年12月31日まで約3年間出演、歴代2位の出演回数を誇る[1])。
2日 - 東京12チャンネル(現・テレビ東京)が開局15周年記念番組として、上映時間約9時間以上にも上る映画『人間の条件』をノーカット放送。これが以後、2016年まで正月恒例となる12時間ワイドドラマ(のちの新春ワイド時代劇)の礎となる。
7日 - NHK大河ドラマ『草燃える』(主演:石坂浩二)放送開始( - 12月23日)。
28日 - 大阪で起こった三菱銀行人質事件の犯人逮捕・解決の模様をこの日朝NHKと民放各局にて速報で伝えた。
2月
3日
テレビ朝日系で、1977年12月終了の『ジャッカー電撃隊』以来中断していた東映制作の看板特撮シリーズ、スーパー戦隊シリーズが、この日開始の『バトルフィーバーJ』より再開。なお同作から原作が八手三郎となり、ストーリー後半から巨大ロボットが登場するフォーマットが生まれ、以後放送枠を変動(土曜18:00→金曜17:30→日曜7:30→9:30)しながら2018年現在も継続中[注 1]。
テレビ朝日系土曜19時30分枠にて児童向けドラマ『あばれはっちゃくシリーズ』放送開始。第1作は『俺はあばれはっちゃく』(主演:吉田友紀、 - 1980年3月8日)。1985年の最終作『逆転あばれはっちゃく』まで全5作が制作された[注 2]。
5日 - TBS系の『ナショナル劇場』・時代劇『水戸黄門 第9部』が最終回を迎え視聴率が同番組最高視聴率43.7%を記録。
11日 - 朝日放送(現・朝日放送テレビ)・テレビ朝日系のクイズ番組『パネルクイズ アタック25』が放送200回を記念して「マンガ家大会」を放送。モンキー・パンチ、里中満智子、鈴木義司、針すなおの4名が出場、鈴木が優勝した[2]。
12日 - TBS系『ナショナル劇場』・時代劇『江戸を斬るIV』がスタート。今回から主人公遠山金四郎の設定が変更され、新レギュラーに関口宏、ジュディ・オング、谷幹一が参入。なお製作会社が都合上東映から三船プロダクションとなり第8話では同プロ代表の三船敏郎がゲスト出演している。
3月
4日 - テレビ朝日系日曜19時台後半枠(象印マホービン一社提供枠)にて、土居まさる(元文化放送アナウンサー)司会によるクイズ番組『象印クイズ ヒントでピント』(以下『ヒントでピント』)がこの日から放送開始。初代レギュラーは紅組:江利チエミ(キャプテン)、佐藤陽子(2枠)、寿ひずる(3枠)、谷川みゆき(4枠)、白組:笹沢左保(キャプテン)、柳家小三治(2枠)、黒澤久雄(3枠)、柴田恭兵(4枠)。初回ゲストは佐良直美と志賀勝[3](佐良は後に紅組キャプテンも務めた)。( - 1994年9月25日)。なお、紅組3枠は翌週11日より、寿ひずるから大地真央に僅か1週で交代。
5日 - 日本テレビ系で平日朝の生放送情報番組『ズームイン!!朝!』放送開始。初代司会は徳光和夫(同局アナウンサー、当時)。その後司会が福留功男、福澤朗と交代し、2001年9月28日まで約22年に亘り続く[注 3]。
10日 - 日本テレビ系では『ズームイン』新設に伴い『おはよう!こどもショー』が週末のみの放送となり、翌1980年9月28日まで継続。
30日 - フジテレビ系の子供番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』の3代目お姉さん・酒井ゆきえ(1975年4月より在任。当時:フジテレビアナウンサー)が、この日を以てお姉さん役を勇退、4月2日からは大野ゆかり(現:大野香菜。同)が4代目お姉さんに就任。また10月13日には、1968年4月以来11年半「体操のお兄さん」役を務めた金森勢の後任として宮沢芳春が新たな「体操のお兄さん」に就任[注 4]。
31日 - 4月7日から日本テレビ系で土曜19時30分 - 20時54分に単発特別番組枠『土曜スペシャル』( - 1980年9月)を設置するにあたり、土曜19時台後半枠のアニメ『新・エースをねらえ!』がこの日終了、同じく20時枠の『全日本プロレス中継』[注 5]は土曜17時30分 - 18時25分に移動するため、この日が20時枠での最後の放送となる。そしてその『プロレス中継』の枠確保のため、土曜17時台後半枠のバラエティ番組『時間だヨ!アイドル登場』と、土曜18時台前半枠の歌謡番組『ヒット'79』は、それぞれ5年・3年の幕を降ろした。他にも土曜17:20の情報番組『ビバ!ホリデー』もこの日終了、そして翌4月7日には土曜19時台前半枠の『宇宙戦艦ヤマト2』(よみうりテレビ制作)が終了し、日本テレビ土曜日の夕方以降の番組が一新した。
4月
2日
NHK、新年度の番組編成開始。
連続テレビ小説第23作として、漫画家・長谷川町子の『サザエさんうちあけ話』を原作とする『マー姉ちゃん』(主演:熊谷真実)が放送開始( - 9月29日)。
総合テレビで、人形劇『プリンプリン物語』放送開始( - 1982年3月19日)。プリンプリンの声を演じたのは、アイドル歌手の石川ひとみ。少女キャラが単独で主人公になるのは、人形劇史上初となった[注 6]。
朝日放送(現・朝日放送テレビ)平日朝の生放送情報番組『おはよう朝日です』(関西ローカル)が放送開始。初代司会は乾龍介(同局アナウンサー、当時)。その後林伸一郎→岡元昇→宮根誠司→浦川泰幸と司会を交代し、2018年現在も岩本計介(同局アナウンサー)の司会で継続中。
日本テレビ系で『ルックルックこんにちは』と『2時のワイドショー』(よみうりテレビ制作)の2本のワイドショーが開始。「ルックルック - 」では、初代司会者に女優の沢田亜矢子を起用、その後司会が岸部シロー→松永二三男(当時:日本テレビアナウンサー)に交代。なお日本テレビでは他にも、13:30に女性向け視聴者参加型クイズ番組『クイズ女性自身』を開始し、3本の帯番組が開始したが、『女性自身』はわずか3か月で終了した。なお『2時のワイドショー』設置に伴い、平日14時のドラマ再放送枠『愛の名作シリーズ』または『愛とサスペンスシリーズ』(関東ローカル)は廃枠となり、日本テレビ平日14時にはしばらくドラマ再放送枠が途絶える。
テレビ朝日系で藤子・F・不二雄原作のアニメ『ドラえもん』が放映開始[注 7](当時は月〜土曜の夕方帯10分と、日曜朝の30分版による放映だった。2018年現在も継続)。第1回放送は「ゆめの街 ノビタランド」の回。
TBS系で、同年3月まで日曜昼に放送されたクイズ番組『家族対抗クイズ合戦』(司会:関口宏)をリニューアル、同じく関口司会で『クイズ100人に聞きました』として月曜19時枠にて放送開始( - 1992年9月28日)。なおTBS系ではこの後『ザ・チャンス!』『ペア対抗クイズ合戦』『人生ゲームハイ&ロー』といったクイズ番組を開始、更に各局でもクイズ番組が続々開始し、クイズブームが再燃する。
4日 - TBS系で円谷プロダクション制作の『ウルトラシリーズ』が、テレビアニメ『ザ☆ウルトラマン』として4年振りに復活( - 1980年3月)。半年後の10月5日には、毎日放送・東映制作の『仮面ライダーシリーズ』も、特撮『仮面ライダー (スカイライダー)』として3年9か月振りに復活、TBS系で2大ヒーローシリーズが放送される。
5日 - TBS系『ザ・ベストテン』にて、この日第1位の西城秀樹「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が番組最高得点9999点</b>を獲得(翌週も第1位となり、2週連続で9999点を獲[4][注 8]。なお第1位は3月15日から5月10日まで9週連続[5])。また『ベストテン』は同日より系列局であるテレビ山口での同時ネットを開始した。[6]
7日
名古屋テレビ・サンライズ制作のメカアニメ『機動戦士ガンダム』(シリーズ第1作)がこの日から放送開始(テレビ朝日系、 - 1980年1月、全43話)。
テレビ朝日系『土曜ワイド劇場』が、この日の放送作品『悪魔のような美女』から30分拡大(21:02 - 22:54[注 9])。
10日 - TBS系で視聴者参加型ゲームバラエティ『ザ・チャンス!』が放送開始。司会は、当初はピンク・レディー[注 10]が務めたが、後に伊東四朗に交代[注 11]して人気を博する( - 1986年10月2日)。
29日(日曜) - フジテレビ系でプロ野球ナイター中継「ヤクルト×巨人」(神宮球場)が19:00 - 20:54の枠で編成。このため、19:00のアニメ『SF西遊記スタージンガー』、19:30のアニメ『世界名作劇場 赤毛のアン』、20:00の『オールスター家族対抗歌合戦』は全て休止、更に中継が延長されたため、21:00のドラマ『刑事鉄平』(関西テレビ制作)も休止された。19:00アニメと『世界名作劇場』がプロ野球中継で休止[注 12]になったのは、前年(1978年)にヤクルトが球団創設史上初の日本一になったためとはいえ、いずれも史上初。なお9月2日にも同枠で同一カードが編成され『アン』『家族対抗歌合戦』は元より、19:00のアニメ『円卓の騎士物語 燃えろアーサー』は休止された。
6月
3日 - 日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』がこの日400回を迎え、それを記念して、巨人軍多摩川グラウンドで行われたソフトボール中継を録画放送。同番組からデビューした歌手や番組レギュラーが、阿久悠(作詞家。審査員)率いる「レッドスターズ」と、都倉俊一(作曲家。同じく審査員)率いる「ホワイトスターズ」に分かれて闘った。なお司会の萩本欽一は主審役で出演した。
29日 - 日本テレビ系のバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』が、この日5年9か月の歴史に幕。
7月
1日 - テレビ朝日系『ヒントでピント』の新メンバーに白組からイラストレーターの山藤章二(キャプテン)と田中星児(4枠)、紅組に脚本家の小山内美江子(キャプテン)とシェリー(3枠)がそれぞれ登板[7]。なお、女性軍4枠はスケジュールの都合上、林寛子が出演していたが、翌週8日からは紅組4枠に女子プロレスラーのマッハ文朱が1週間遅れで登板[8]。
8月
25日・26日 - 日本テレビ系にて、前年に続いて大型チャリティー特番『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』第2回を放送。総合司会は萩本欽一、黒柳徹子、国弘正雄が、チャリティーパーソナリティーはピンク・レディーと、徳光和夫アナウンサー(当時)がそれぞれ務めた[注 13]。
9月
18日 - テレビ朝日系『ヒントでピント』の新メンバーに紅組キャプテンで女優の佐良直美、紅組3枠に作家の栗本薫がそれぞれ登板[9]。
24日 - TBS系月曜19時30分のドラマ枠『ブラザー劇場』が、この日放送の『コメットさん』(大場久美子版)の最終回をもって15年の歴史に幕。
28日
日本テレビ系平日午前の子供番組『ロンパールーム』が16年の歴史に幕[注 14]。
TBSでは、夕方の帯番組『ぎんざNOW!』が7年の歴史に幕。
30日
TBS系の長寿歌謡番組『ロッテ 歌のアルバム』が、この日21年の歴史に幕[注 15]。
フジテレビ系のトークバラエティ番組『ラブラブショー』が9年半の歴史に幕。
10月
1日
NHK連続テレビ小説第24作『鮎のうた』(主演:山咲千里。NHK大阪放送局制作) 放送開始( - 1980年4月5日)。
TBS系『ブラザー劇場』の後継枠として引き続きブラザー工業一社提供による『ブラザーファミリーアワー』を新設、愛川欽也司会のクイズ番組『人生ゲームハイ&ロー』を放送開始( - 1982年10月)。
7日
JNN九州ブロック6局(RKB毎日放送・長崎放送・熊本放送・大分放送・宮崎放送・南日本放送)共同制作によるドキュメンタリー番組『窓をあけて九州』(九州電力一社提供)がこの日から放送開始( - 2012年3月25日)[注 16]。
前述の『ロッテ 歌のアルバム』終了に伴い、この日からTBS日曜昼の番組を一新。12:00 - 12:55に紀行形式のクイズ番組『クイズ列車出発進行』を開始、このため、前週の9月30日まで12:00 - 12:45で放送された視聴者参加型トーク番組『婚約診断スイッチON』(MBS制作)は日曜14:00 - 14:30に短縮移動し、『やすきよの結婚します!』にリニューアル、この結果、1958年10月の『ダイラケのびっくり捕物帖』(ABC制作)以来、21年続いたTBS日曜正午台の関西系バラエティ番組[注 17]が終結した。また13:15 - 14:25で放送されていた視聴者参加型音楽番組『家族そろって歌合戦』は、13:00 - 13:55へ短縮移動、ルールは不変だが、参加チームが8チームから6チームに減らされた。
関西テレビ制作・フジテレビ系日曜21時枠にて、東阪企画の企画・制作、花王石鹸(現:花王)一社提供による単発バラエティ番組『花王名人劇場』がこの日から放送開始。漫才ブームの礎を築いた『激突!漫才新幹線』や芦屋雁之助が画家の山下清役で出演したテレビドラマ『裸の大将放浪記』などのシリーズが放送された( - 1990年3月25日)。
フジテレビ系日曜22時台前半枠にて、クイズ番組『アイ・アイゲーム』(武田薬品工業一社提供)がこの日から放送開始。司会の山城新伍が放った、空白を示すフレーズ「チョメチョメ」が流行語になった( - 1985年9月29日)。
8日 - フジテレビ系の歌謡番組『夜のヒットスタジオ』にて、この年開業した西武ライオンズ球場(現:メットライフドーム)から公開生放送。だが過去の野外放送の様な大雨は降らなかったものの、今度は強風が吹いてしまう。
10日 - TBS系の刑事ドラマ『明日の刑事』(大映テレビ制作)がこの日で終了、『夜明けの刑事』から始まった坂上二郎主演による「日の出署シリーズ」が5年の歴史に幕。
14日 - テレビ朝日系日曜20時枠にて、石原プロモーション制作による刑事ドラマ『西部警察』(主演:石原裕次郎・渡哲也)がこの日から放送開始。1984年まで全3シリーズ、5年間に亘って続くシリーズとなった[注 18]。
17日 - TBS系水曜20時枠にて、大映テレビ制作によるコメディ刑事ドラマ『噂の刑事トミーとマツ』(主演:国広富之・松崎しげる)がこの日から放送開始。1982年まで全2シリーズ、3年3か月に亘って続くシリーズとなった。
26日 - TBS系金曜20時枠にて、学園ドラマ『3年B組金八先生』(第1シリーズ)がこの日から放送開始。武田鉄矢演ずる熱血教師「坂本金八」は彼の当たり役となり、2011年3月27日放送のSP版で終了するまで連続ドラマで全8シリーズ、単発シリーズ数回が制作された。
11月
2日 - フジテレビ系で、TBS系『ザ・ベストテン』に対抗したランキング歌謡番組『ビッグベストテン』(司会:高嶋秀武[注 19]、丘みつ子)を開始( - 1980年3月)。
18日 - テレビ朝日系『ヒントでピント』の白組4枠におりも政夫(元フォーリーブス)が登板[10]。
30日 - テレビ朝日系のトーク番組『徹子の部屋』が放送1000回を達成(この日のゲストは物集高量と久米宏)[11]。
12月
31日
TBS系で『第21回日本レコード大賞』放送(19:00 - 20:55)。大賞はジュディ・オングの「魅せられて」。平均視聴率43.3%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。
『第30回NHK紅白歌合戦』放送(21:00 - 23:45)、平均視聴率77.0%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。
『紅白歌合戦』の裏番組として、日本テレビ系にて萩本欽一司会の視聴者参加型仮装バラエティ番組『欽ちゃんの紅白歌合戦をぶっとばせ!!第1回全日本仮装大賞〜なんかやら仮そう〜』を放送、2018年現在も続く『欽ちゃん(→欽ちゃん&香取慎吾)の全日本仮装大賞』が始まる。
その他テレビに関する話題
TBSがこの年の年間視聴率で<b data-parsoid='{"dsr":[12114,12125,3,3]}'>在京民放局5局において3冠王となる(1978年から1981年までの4年間)[注 20]。
3月5日 - 福岡放送(FBS/日本テレビ系列)がこの日、本社・演奏所が福岡市博多区築港本町の博多パラダイスから同市中央区渡辺通の複合ビル「サンセルコ」に移転、稼働開始[注 21]。
4月1日
岡山県と香川県の民放テレビジョン放送のエリアが一本化された。元は香川県域局の瀬戸内海放送(KSB/テレビ朝日系列)が岡山に進出し(小豆島中継局の指向性を解除し、岡山向けに出力を増力)、11月30日には元岡山県域局のテレビ岡山(OHK/岡山放送。フジテレビ系列。それまではテレビ朝日系列とのクロスネット局であった。当時はこの呼称を使用していた)が金甲山の親局の指向性を解除し、出力も増力
埼玉県域の独立局・テレビ埼玉(TVS/テレ玉)が開局。
7月1日 - 静岡県域4番目の民放テレビ局・静岡第一テレビ(SDT/だいいちテレビ→Daiichi-TV、日本テレビ系列)が開局。これに伴い、前年開局した静岡県民放送(SKT/静岡けんみんテレビ。現在の静岡朝日テレビ(SATV/あさひテレビ))はテレビ朝日系列と日本テレビ系列のクロスネット局からテレビ朝日系列の単独ネットとなる。
10月 - 当時の電電公社のテレビ中継回線のステレオ化工事が完了。これにより、音声多重放送実施局のネット受け番組に於いて、ステレオ放送が可能となった。
開局
4月1日 - テレビ埼玉(当時は音声多重放送非対応)
7月1日 - 静岡第一テレビ(サービス放送及び音声多重放送(実用化試験放送)開始は、6月24日。音声多重放送は、静岡県初。)
既存局の音声多重放送開始(当時は実用化試験放送)
3月21日 - 朝日放送(ABC)テレビ
6月15日 - 中京テレビ(在名局初)
7月 - 札幌テレビ放送(札幌地域のみ。関東以北では初)
8月8日 - NHK名古屋総合テレビ
12月1日 - 広島テレビ、山口放送テレビ、福岡放送(3局共に、関西以西のテレビ局では初)
12月23日 - 北海道放送(HBC)テレビ(札幌地域のみ)
周年
番組
放送開始25周年
NNNきょうの出来事(日本テレビ)
放送開始20周年
おかあさんといっしょ(NHK)
スター千一夜(フジテレビ)
放送開始15周年
新春スターかくし芸大会(フジテレビ)
モーニングショー(テレビ朝日)
ミュージックフェア(フジテレビ)
放送開始10周年
クイズタイムショック(テレビ朝日)
唄子・啓助のおもろい夫婦(フジテレビ)
8時だョ!全員集合(TBS)
サザエさん(フジテレビ)
NTV紅白歌のベストテン(日本テレビ)
水戸黄門(TBS)
月曜ロードショー(TBS)
ヤングおー!おー!(毎日放送)
ワールドプロレスリング(テレビ朝日)
放送開始5周年
ニュースセンター9時(NHK総合)
レッツゴーヤング(NHK総合)
おしゃれ(日本テレビ)
霊感ヤマカン第六感(朝日放送)
土井勝おかずのクッキング(テレビ朝日)
放送局・放送開始
1月1日
放送開始20周年 - 長崎放送テレビジョン
1月10日
放送開始20周年 - NHK東京教育テレビジョン (JOAB-TV)
2月1日
開局20周年 - テレビ朝日
3月1日
放送開始25周年 - NHK大阪総合テレビジョン、名古屋総合テレビジョン
開局20周年 - フジテレビジョン
放送開始20周年 - 毎日放送テレビジョン、九州朝日放送テレビジョン
3月3日
開局20周年 - 日本海テレビジョン放送
4月1日
放送開始20周年 - NHK大阪教育テレビジョン、札幌テレビ放送、東北放送テレビジョン、北日本放送テレビジョン、中国放送テレビジョン、四国放送テレビジョン、高知放送テレビジョン、熊本放送テレビジョン、南日本放送テレビジョン
開局10周年 - 富山テレビ放送、石川テレビ放送、長野放送、中京テレビ放送、岡山放送、瀬戸内海放送、福岡放送、サガテレビ、テレビ長崎、テレビ熊本、鹿児島テレビ放送
放送開始10周年 - 近畿放送テレビジョン
開局5周年 - テレビ和歌山
4月12日
開局15周年 - 東京12チャンネル
5月1日
開局10周年 - サンテレビジョン
9月1日
放送開始20周年 - 岩手放送テレビジョン
10月1日
放送開始20周年 - 青森放送テレビジョン、山口放送テレビジョン、大分放送テレビジョン
開局10周年 - 秋田テレビ、福井テレビジョン放送
11月1日
開局20周年 - 沖縄テレビ放送
12月1日
開局10周年 - 青森テレビ、テレビ岩手、三重テレビ放送
12月10日
開局10周年 - テレビ愛媛
12月15日
放送開始20周年 - 山陰放送テレビジョン
12月20日
放送開始20周年 - 山梨放送テレビジョン
記念回
1000回以上
スター千一夜(フジテレビ)- 6000回、6006回
徹子の部屋(テレビ朝日)- 1000回
500回以上
アップダウンクイズ(毎日放送) - 800回
ヤングおー!おー!(毎日放送) - 500回
NTV紅白歌のベストテン(日本テレビ) - 500回
100回以上
スター誕生!(日本テレビ) - 400回
パンチDEデート(関西テレビ) - 300回[注 22]
おはようワイド・土曜の朝に(朝日放送) - 200回
パネルクイズ アタック25(朝日放送) - 200回[2]
Gメン'75(TBS) - 200回
クイズダービー(TBS) - 200回
ザ・ベストテン(TBS) - 100回
視聴率
(※関東地区、ビデオリサーチ調べ)
ニュース・報道
ニュース(20:55-21:00)(NHK総合、12月31日)52.3%
ニュース(7:00-7:20)(NHK総合、10月19日)43.9%
テレビロータリー(NHK総合、10月19日)42.8%
スタジオ102(NHK総合、10月19日)42.8%
ローカルニュース・天気予報(7:15-7:35)(NHK総合、10月8日)42.3%
大阪三菱銀行猟銃人質事件犯人逮捕(NHK総合、1月28日)40.9%
首都圏交通スト情報・天気予報(7:15-7:35)(NHK総合、4月25日)40.3%
ドラマ
連続テレビ小説 マー姉ちゃん(NHK総合、9月25日)49.9%
連続テレビ小説 鮎のうた(NHK総合、11月22日)47.2%
ナショナル劇場 水戸黄門・第9部(最終回)(TBS、2月5日)43.7%
ナショナル劇場 水戸黄門・第10部(TBS、12月17日)42.7%
東芝日曜劇場 女たちの忠臣蔵(TBS、12月9日)42.6%
金曜劇場 熱中時代(最終回)(日本テレビ、3月30日)40.0%[注 23]
太陽にほえろ!(日本テレビ、7月20日)40.0%[注 23]
ナショナル劇場 江戸を斬るIV(TBS、2月12日)36.7%
大河ドラマ 草燃える(NHK総合)34.7% - ※最高視聴率
金曜劇場 熱中時代・刑事編(日本テレビ、9月22日)32.2%
映画
ゴールデン洋画劇場特別企画『キタキツネ物語』(フジテレビ、8月10日)44.7%
ゴールデン洋画劇場特別企画『八つ墓村』(フジテレビ、10月12日)34.2%
ゴールデン洋画劇場特別企画『野性の証明』(フジテレビ、12月14日)33.9%
水曜ロードショー『ジョーイ』(日本テレビ、12月19日)33.3%
月曜ロードショー『オーメン』(TBS、2月12日)30.0%
スポーツ
土曜ナイター「巨人×阪神」(日本テレビ、6月2日)39.9%
'79プロ野球オールスターゲーム・第1戦(TBS、7月21日)34.6%
'79プロ野球オールスターゲーム・第3戦(フジテレビ、7月24日)33.5%
'79プロ野球オールスターゲーム・第2戦(TBS、7月22日)32.9%
バラエティ・歌番組
第30回NHK紅白歌合戦(NHK総合、12月31日)77.0%
ゆく年くる年(NHK総合、12月31日)45.5%
第21回輝く!日本レコード大賞(TBS、12月31日)43.3%
クイズダービー(TBS、6月30日)40.8%
ぴったしカン・カン(TBS、11月20日)37.6%
クイズ100人に聞きました(TBS、10月22日)30.7%
テレビ番組
テレビドラマ
NHK
大河ドラマ 草燃える(出演:岩下志麻、石坂浩二 他)
連続テレビ小説
マー姉ちゃん(主演:熊谷真実)
鮎のうた(主演:山咲千里)
銀河テレビ小説
女の遺産
冬の虹
ひそやかな日々を
春の珍客
鳥獣の寺
人の気も知らないで[12]
焚火
姉さんの子守唄
ふるさとシリーズ(家族日記→海をわたって)
欲しがりません勝つまでは
幸せのとなり
花はなにいろ
日本巖窟王(主演:草刈正雄)
風の隼人(主演:勝野洋)
日本テレビ系
月曜スター劇場
あすなろの詩(主演:三浦友和) - 1978年11月 - 1979年4月
かたぐるま(主演:加山雄三)
おだいじに(主演:池内淳子)
火曜9時枠
探偵物語(主演:松田優作)
火曜劇場
帰らざる旅路(出演:佐久間良子、古谷一行、横内正 他)
愛と死の絶唱(出演:大原麗子、金田賢一、田村正和 他)[12]
火宅の人(原作:檀一雄/出演:三國連太郎、池内淳子、原田美枝子 他)
甦える日日(出演:十朱幸代、原田芳雄、沖雅也 他)
水曜8時枠
あさひが丘の大統領(出演:宮内淳、片平なぎさ 他)
木曜9時枠(よみうりテレビ制作)
そっとさよなら(原作:落合恵子/出演:竹下景子、荻島真一、高岡健二(現・建治)、乙羽信子、木村功 他)
怒れ兄弟!(出演:近藤正臣、国広富之、和田アキ子 他)
欽ちゃん劇場(金曜劇場)
Oh!階段家族!!(主演:萩本欽一)
とり舵いっぱーい!(出演:浜木綿子、松田洋治 他)
グランド劇場
熱中時代・刑事編(主演:水谷豊)
ちょっとマイウェイ(主演:桃井かおり)
日曜8時枠
俺たちは天使だ!(主演:沖雅也、多岐川裕美)
西遊記II(出演:堺正章、夏目雅子、岸部シロー(現・四郎) 他)
TBS系
ナショナル劇場
江戸を斬るIV(主演:西郷輝彦)
水戸黄門・第10部(主演:東野英治郎)
火曜8時
男なら!(出演:北大路欣也、高橋洋子 他)[12]
青春諸君!(出演:古谷一行、多岐川裕美 他)
火曜9時
やる気満々(出演:古谷一行、細川俊之、川谷拓三 他)[12]
三男三女婿一匹III(主演:森繁久彌、杉村春子、山岡久乃)
噂の刑事トミーとマツ(主演:国広富之、松崎しげる)
水曜劇場
熱愛一家・LOVE(出演:森光子、浅茅陽子、柴俊夫、太川陽介、石野真子 他)
家路〜ママ・ドント・クライ(出演:京マチ子、郷ひろみ、浅野温子 他)
家路PART2(出演:京マチ子、郷ひろみ、浅野温子 他)
金曜8時
3年B組金八先生(主演:武田鉄矢)
金曜9時
赤い嵐(主演:柴田恭兵、能瀬慶子)
金曜ドラマ
愛の殺意(出演:中野良子、竹脇無我 他)
沿線地図(出演:岸惠子、河原崎長一郎 他)
恋路海岸(出演:真野響子、林隆三 他)
冬の花火(出演:石坂浩二、大谷直子、檀ふみ、長山藍子、加賀まりこ 他)
ポーラテレビ小説
からっ風と涙(主演:木村弓美)
おりん(主演:佐藤万理)
カレー屋ケンちゃん(主演:岡浩也)
フジテレビ系
火曜10時枠時代劇(関西テレビ制作)
柳生一族の陰謀(出演:千葉真一、山村聰、志穂美悦子)- 1978年10月 - 1979年6月
雲霧仁左衛門(主演:天知茂)
騎馬奉行(出演:市川染五郎(6代目)、夏目雅子 他)
ゴールデンドラマシリーズ
死人狩り(主演:萩原健一)- 1978年12月 - 1979年1月
フジテレビ開局20周年記念特別番組 陽はまた昇る
土曜劇場
時よ燃えて!(主演:加山雄三)
家族サーカス(原作:向田邦子/出演:若山富三郎、国広富之、加藤治子 他)
愛ってなんですか
ご近所の星(出演:十朱幸代、三浦友和 他)
新・座頭市(第3シリーズ)(主演:勝新太郎)
われら行動派!(主演:中村雅俊)
満員御礼!三波伸介一座(主演:三波伸介)
江戸の激斗(出演:小林桂樹、夏木陽介 他)
駆け込みビル7号室 - 3か月で打ち切り。
テレビ朝日系
火曜9時枠時代劇
半七捕物帳(出演:尾上菊五郎、坂東八十助(5代目)、下川辰平、長門勇、名取裕子 他)
江戸の牙(出演:天知茂、若林豪、坂上二郎、白都真理 他)
金曜9時枠(朝日放送制作)
続・おくどはん(出演:浅茅陽子、宝生あやこ、加賀まりこ、中条きよし、黒沢年男(現・年雄) 他)
見知らぬ恋人(出演:小川真由美、愛川欽也、津川雅彦、沢村貞子 他)
燃えろアタック(石ノ森章太郎原作。出演:荒木由美子 他)
俺はあばれはっちゃく(あばれはっちゃくシリーズ第1作。出演:吉田友紀、東野英心、久里千春、島田歌穂、山内賢 他)
京都殺人案内(朝日放送制作。主演:藤田まこと)シリーズ開始[注 24]( - 2010年2月27日)
必殺仕事人(朝日放送制作、必殺シリーズ第15作。出演:藤田まこと、伊吹吾郎、三田村邦彦 他)
西部警察(出演:石原裕次郎、渡哲也、舘ひろし 他)
東京12チャンネル
おやこ刑事(主演:名高達郎(現・達男)、金子信雄)[12]
ザ・スーパーガール(主演:野際陽子)
テレビアニメ
キリン名曲ロマン劇場(東京12チャンネル)
野ばらのジュリー
巴里のイザベル
金髪のジェニー
さすらいの少女ネル
世界名作劇場 赤毛のアン(フジテレビ)
タイムボカンシリーズ ゼンダマン(フジテレビ)
日本名作童話シリーズ 赤い鳥のこころ(テレビ朝日)
花の子ルンルン(テレビ朝日)
サイボーグ009(第2作)(テレビ朝日)
未来ロボダルタニアス(東京12チャンネル)
くじらのホセフィーナ(東京12チャンネル)
ドラえもん(テレビ朝日)
ザ☆ウルトラマン(TBS)- ウルトラシリーズ初のアニメ版
シートン動物記 りすのバナー(テレビ朝日)
マルコ・ポーロの冒険(NHK総合)
機動戦士ガンダム(名古屋テレビ)
新・巨人の星II(よみうりテレビ)
SF西遊記スタージンガーII(フジテレビ)
科学冒険隊タンサー5(東京12チャンネル)
円卓の騎士物語 燃えろアーサー(フジテレビ)
こぐまのミーシャ(朝日放送)
科学忍者隊ガッチャマンF(フジテレビ)
闘士ゴーディアン(東京12チャンネル)
まんが猿飛佐助(東京12チャンネル)
ベルサイユのばら(日本テレビ)
宇宙空母ブルーノア(日本テレビ)
特別番組
春休み・夏休みマンガ祭り(水曜スペシャル)(テレビ朝日) - 7月18日放送。以後1987年まで放送。
特撮番組
恐竜戦隊コセイドン 戦え!人間大砲コセイダー(東京12チャンネル)制作:円谷プロダクション ※改題
出演:大西徹也、佐藤蛾次郎、草野大悟 他
バトルフィーバーJ(テレビ朝日)制作:東映 - スーパー戦隊シリーズ第2期開始。ここから八手三郎原作となる。
出演:谷岡弘規、伊藤武史、倉地雄平、大葉健二、ダイアン・マーチン、伴直弥、萩奈穂美、東千代之介、石橋雅史[注 25]、マキ上田、飯塚昭三 他
メガロマン→炎の超人メガロマン(フジテレビ)制作:東宝
出演:北詰友樹、保積ペペ、杉まどか 他
仮面ライダー(毎日放送)制作:東映 - 第2期仮面ライダーシリーズ第1作
出演:村上弘明、田畑孝、塚本信夫、桂都丸、堀田真三、中庸助、納谷悟朗 他
特別番組
ゴジラ・ガメラ・ウルトラマン!怪獣クイズだ大集合!!(フジテレビ) - 7月21日放送
出演:高島忠夫、坪内ミキ子、片平なぎさ、青空球児・好児、ゴジラ、ガメラ、ウルトラマン、メガロマン 他
大みそかこどもスペシャル 地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン(フジテレビ) - 12月31日放送
脚本:関沢新一/監督:福田純/出演:石川博 他
報道・情報番組
ズームイン!!朝!(日本テレビ)
ルックルックこんにちは(日本テレビ)
2時のワイドショー(よみうりテレビ)
6時のサテライト(テレビ朝日)
おはよう朝日です(朝日放送)
バラエティー番組
ばらえてい テレビファソラシド(NHK総合)
欽ちゃんの全日本仮装大賞(日本テレビ)
少女探偵スーパーW(TBS)
ミラクルTV大出動(TBS)
スターどっきり生放送(フジテレビ)
三波伸介のチャンネル・インベーダー(フジテレビ)
花王名人劇場(関西テレビ)
(大正)週間漫画 ゲラゲラ45(テレビ朝日)
ドバドバ大爆弾(東京12チャンネル)
クイズ番組
クイズ女性自身(日本テレビ)
うそつきクイズ→クイズスクエア(日本テレビ)
謎のカーテン!?(日本テレビ)
クイズ100人に聞きました(TBS) - 日曜昼の『家族対抗クイズ合戦』を改題移動。
ザ・チャンス!(TBS)
ペア対抗クイズ合戦(TBS)
チェック&チェック(TBS)
人生ゲームハイ&ロー(TBS)
クイズ列車出発進行(TBS)
アイ・アイゲーム(フジテレビ)
正解のないクイズ(フジテレビ)
家族対抗オリンピッククイズ(テレビ朝日)
象印クイズ ヒントでピント(テレビ朝日)
ドラフトクイズ(東京12チャンネル)
音楽番組
ミュージック・ボンボン(よみうりテレビ)[注 26]
金曜娯楽館(日本テレビ)
全国縦断紅白歌合戦(フジテレビ。4月6日)[注 27]
ビッグベストテン(フジテレビ)
歌謡ワイド速報!!(テレビ朝日)
ザ・リクエストショー(テレビ朝日)
日本民謡決定版(東京12チャンネル)
日本縦断・民謡大全集(東京12チャンネル)
日立サウンドブレイク(東京12チャンネル→テレビ東京)
トーク番組
レッツ!VOICE(テレビ朝日)
子供向け番組
人形劇 プリンプリン物語(NHK総合)
おはようスタジオ(東京12チャンネル→テレビ東京)
紀行番組
楽しい世界の旅(日本テレビ)
ドキュメンタリー番組
信也の動物バンザイ(東京12チャンネル)
窓をあけて九州(RKB毎日放送・長崎放送・熊本放送・大分放送・宮崎放送・南日本放送)
スポーツ番組
オールスター番組対抗ボウリング大会(テレビ朝日)[注 28]
単発特別番組枠
土曜スペシャル(日本テレビ)
【正式枠名無し】(フジテレビ)
土曜サマースペシャル(東京12チャンネル)
この年の主なキャンペーン
「青春は8ビート 燃える秋のフジテレビ」(フジテレビ、10月期)
脚注
注釈
出典
参考文献
テレビドラマデータベース
「NHK大河ドラマ大全」(NHK出版、2011年)
など
| https://ja.wikipedia.org/wiki/1979%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%20%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29 |
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「栄光の架橋」(えいこうのかけはし)は、ゆずの楽曲で、21枚目のシングル。2004年7月22日に発売。発売元はセーニャ・アンド・カンパニー。
解説
本作は、多くのCDが発売される水曜日ではなく木曜日に発売された。
前作から2ヶ月足らずでのリリース。本曲は、NHK『アテネオリンピック中継』公式テーマソングである[注 1]。発売から約5年後の2009年には、緑茶飲料のCMソングにもなった。
チャート成績
オリコン週間チャートでは2004年8月2日付で2位で初登場した。初動売上は前作「桜木町/シュミのハバ/夢の地図」を下回ったが、アテネ五輪の日本代表選手の活躍などで本作の注目度も上がり、2度の3週連続(自身最長タイ)を含む自身最多の計7週に渡って週間トップ10にランクインした。累計売上は11作ぶりに30万枚突破を果たし、自身のシングルでは「飛べない鳥」(2000年)、「嗚呼、青春の日々」(2000年)「いつか」(1999年)に次ぐ売り上げを記録している。その結果、2004年のオリコン年間シングルランキングでは26位に入り、自身初の年間トップ30入りとなった。チャートへの登場回数は、自身のシングルでは最多である75回を記録。
カラオケランキングではゆずの2人が立て続けに結婚を発表した2011年の秋頃に急浮上し、オリコンチャートでも同時期に再びチャートインした。さらに、オリコン週間カラオケチャートで2012年のロンドンオリンピック期間中に1位になった。
2011年には配信チャートでもヒットし、iTunes、レコチョクにおいて初の年間ランキングトップ100に入った[注 2]。2012年のロンドンオリンピック開催期間中には、配信ランキングではオリンピック関連の楽曲が上位に多く入っており、本作も「with you」、「夏色」(オリンピック関連ではないが夏の曲)とともに上位に浮上した[1]。その結果同年はiTunes、レコチョクともに年間トップ20に入った。レコチョクでは2013年以降も常にデイリー、週間で100位前後に入り続け、年間トップ100にも入っている。
2013年2月に発表された「レコチョク着うたフル(R)・シングル歴代ダウンロード数ランキング」で45位に入った。中でも、レコチョクの着うたフル配信サービス開始(2004年11月)以前の楽曲としては、コブクロの「永遠にともに」に次ぎ2番目の高順位である[2]。今作は日本レコード協会の有料音楽配信認定は受けていないが、このランキングで順位が近い曲の多くが「着うたフル」でトリプル・プラチナの認定を受けている。
収録曲
栄光の架橋(5:26)
作詞・作曲:北川悠仁、編曲:松任谷正隆][3]
風に吹かれた(3:09)
作詞・作曲:岩沢厚治、編曲:寺岡呼人&ゆず
本作に関するエピソード
体操男子団体が28年ぶりに金メダルを獲得した時のNHKの中継で、当時同局のアナウンサーである刈屋富士雄が冨田洋之の鉄棒の演技とこの曲の題名を重ねて実況した「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」という言葉が流行語大賞にノミネートされ、曲の知名度が上昇するきっかけになった。富田も、後日この放送によって周りから「栄光の架橋=富田」というイメージを持たれたことを語っている。
プロ野球においても、千葉ロッテマリーンズのサブロー、東北楽天ゴールデンイーグルス所属時代の渡辺直人(現:埼玉西武ライオンズ)が本拠地の試合で打席に入る際や、横浜ベイスターズ時代の工藤公康の登板の際に使用していた。プロボクシングにおいても、益田健太郎や柴田直子が試合前の入場時に使用していた。
2004年12月11日に日本武道館で行われた「ゆず体育館ツアー 1〜ONE〜 FINAL at BUDOKAN」の最終日には、オーケストラを従えて披露された。翌年4月6日に発売されたライブDVD『ゆず LIVE FILMS 1〜ONE〜』の発売前情報では、ボーナス映像としてその模様が収録される予定とあったが、実際には収録されておらず、後にファンクラブ会報に謝罪紙が同封されて届けられている。
この曲で2004年の『第55回NHK紅白歌合戦』に2年連続で出場[注 3]。NHKが近代オリンピック中継実施時に自局テーマソングを設けるようになった1988年のソウルオリンピック以降、同テーマソングを担当した歌手がその年の紅白に出場したのはゆずが初めてだった[注 4]。また、2005年の『第56回NHK紅白歌合戦』では、NHK側が行った、同年の紅白で聴きたい曲のリクエストを募集した「スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜」で白組対象の上位100曲に選ばれたが、出演はしていない。
13年後の2017年の『第68回NHK紅白歌合戦』でも自身初の大トリとして披露した。
前作に収録の「桜木町」に引き続き編曲は松任谷正隆が担当している。上記の紅白では、ピアノ演奏で特別出演した。正隆の妻でもある松任谷由実が「大晦日は精神的な一日」とコメントし、長年紅白出演を固辞していたように夫の正隆も過去に出演歴が一切なかったため、紅白初出演であった。
表題曲のミュージック・ビデオは、埼玉県の熊谷市の熊谷スポーツ文化公園陸上競技場で撮影された。アテネから2大会後のロンドンオリンピックのNHKの放送テーマソングのいきものがかり「風が吹いている」のMVもここで撮影されている。
サザンオールスターズが2013年に発表したシングル「ピースとハイライト」のカップリング曲「栄光の男」は、曲名の元ネタが「栄光の架橋」であることを、同バンドのボーカル担当の桑田佳祐が公言している。
卒業式に流れる定番の卒業ソングとしても名高い曲でもある。
NHKの音楽番組SONGS内でこの曲を作るに当たってX JAPANの曲に影響を受けたと制作秘話が語られた。「僕らは路上でアコースティックギターで素朴な曲を歌うイメージだったけど、(NHKのオリンピックテーマソングの)お話をいただいて、素朴な曲もいいけど、ダイナミックな壮大な曲を作りたいと思って、『ENDLESSRAIN』や『SayAnything』みたいなXJAPANの広がりのあるバラードを作りたいとお話させていただいて、作った」尚、北川悠仁は同番組内のナレーションも担当した。
中国語版
2017年4月には中国語詞バージョンである「光榮之橋 - Chinese Version」がKKBOXから配信された。後にベストアルバム『YUZU 20th Anniversary ALL TIME BEST ALBUM ゆずイロハ 1997-2017』の台湾盤限定で収録された。5月にはワーナーミュージック台湾のYouTubeチャンネルにリリックビデオ風のMVがアップされたが、日本国内からは視聴不可。
収録アルバム
栄光の架橋
Going 2001-2005
1 〜ONE〜
アルバムバージョンで収録。
YUZU YOU 2006-2011
「Shimphonic Orchestra Version」として収録。
二人参客 2015.8.15〜緑の日〜
「Live Version #1」(ライブ音源)を収録。
二人参客 2015.8.16〜黄色の日〜
「Live Version #2」(ライブ音源)を収録。
YUZU 20th Anniversary ALL TIME BEST ALBUM ゆずイロハ 1997-2017
台湾盤には中国語版も収録。
風に吹かれた
※アルバム未収録
タイアップ
NHK アテネオリンピック テーマソング(2004年)
アサヒ飲料 香る緑茶 いぶき CMソング(2009年)
テレビ出演
夢・音楽館(2004年9月16日、NHK総合)
第55回NHK紅白歌合戦(2004年12月31日、NHK)
僕らの音楽2(2005年6月17日、フジテレビ)
ミュージックステーション(2007年10月5日、テレビ朝日)
24時間テレビ 「愛は地球を救う」(2009年8月30日、日本テレビ)
とくばん(2009年9月20日、TBS)
Music Lovers(2009年10月18日、日本テレビ)
24時間テレビ 「愛は地球を救う」(2010年8月28日、日本テレビ)
第68回NHK紅白歌合戦(2017年12月31日、NHK)
上記以外にも多数の番組で披露されており、ゆずの楽曲では最もテレビで披露された回数が多い。
脚注
出典
注釈
関連項目
2004年の音楽
NHKオリンピック歴代テーマソング
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E5%85%89%E3%81%AE%E6%9E%B6%E6%A9%8B |
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ソ連崩壊(ソれんほうかい、)とは、1991年12月のソビエト連邦共産党解散を受けた各連邦構成共和国の主権国家としての独立、ならびに同年12月25日のソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビエト連邦が解体された出来事[1][2]である。
概要
1917年11月7日のロシア革命(十月革命)からロシア内戦を経て1922年12月30日に成立したソビエト連邦は、69年後の1991年12月25日に崩壊した。同日、ソビエト連邦に比して規模が小さいロシア連邦が成立した。かつてのソビエト連邦を構成した国々は、それぞれが独立国として別々の外交政策を採り始めた。
ソビエト連邦が解体され、CISという緩やかな国家同盟へと変容した。
ロシアの歴史を見ても、現在まで続くロシア連邦は、ソビエト連邦成立以前のロシア帝国の後継国家として、自国の起源を定義しており、一党独裁については明確に否定した上で自由選挙を行う共和制多党制国家となった。正式な国旗や軍旗などもロシア帝国時代の物を採用している。
アメリカ合衆国が名実共に唯一の超大国となり、アメリカ単独覇権の時代が始まった。
核兵器という究極兵器を持つ国家が、軍事的に衰弱しないまま崩壊した。これは国際政治学でのパワーポリティクス(現実主義)への批判を招いた。(ハード・パワーからソフト・パワーへの移行)
ソビエト連邦の崩壊は、これら4つの意味を持つ大事件である。社会主義の実現を信じていた西側諸国内のソ連型社会主義政党や政治学者はイデオロギー的に敗北し、冷戦時代にソビエト共産党から受けていた資金提供などの実態がロシア連邦政府による情報公開によって暴露された。また、ソ連型社会主義とは一線を画するユーロコミュニズム政党だったイタリア共産党も解党し、日本共産党名誉議長だった野坂参三は1930年代のソ連滞在当時に同志の山本懸蔵を密告した事実が判明、満100歳を超えていながら党を除名された[3]。
独立国家共同体の設立
マルクス・レーニン主義者などの守旧派による8月クーデター失敗後、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国もソビエト連邦からの離脱をで決定し、12月8日に急遽行われたロシア共和国、白ロシア、ウクライナの代表者による秘密会議においてベロヴェーシ合意が宣言され、3ヶ国のソビエト連邦からの離脱とEUと同レベルの共同体の創設が確認された。その後の12月21日、ロシアを始めとした12共和国が、ソビエト連邦に代わる新しい枠組みとして独立国家共同体(CIS)の設立を宣言するアルマ・アタ宣言に調印したことで、ソビエト連邦はその存在意義を完全に喪失した。
こうした中で、12月25日19時の会見で、ミハイル・ゴルバチョフはソビエト連邦大統領の辞任を表明し、辞任と同時にクレムリンに掲げられていたソビエト連邦の「鎌と鎚の赤旗」の国旗も降ろされ、これに代わってロシア連邦の「白・青・赤の三色旗」の国旗が揚げられた。翌日12月26日にはソ連最高会議でソ連の消滅が確認された。
脚注
関連文献
Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help)
関連項目
ロシアの歴史
共産主義 - 反共主義
独立国家共同体
現代 (時代区分)
歴史の終わり
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%B4%A9%E5%A3%8A |
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ロジャー・テイラー(Roger Taylor、1949年7月26日 - )は、イギリスのミュージシャン。ロックバンド、クイーンのドラマーである。
1973年、アルバム『戦慄の王女』でデビュー。クイーンではドラムスのほかにコーラスや、一部の曲でボーカルも担当しており、ベースやギター、キーボードなども演奏するマルチプレイヤーでもある。クイーンの「RADIO GA GA」、「カインド・オブ・マジック」、「ヘヴン・フォー・エヴリワン」などのヒット曲を作詞作曲している。
クイーンとは別に、ソロ活動や<b data-parsoid='{"dsr":[1362,1373,3,3]}'>ザ・クロス</b>というバンドを結成しての活動も行っていた。フレディの死後もクイーン+ポール・ロジャースとして活躍するなど、現役ミュージシャンとして活動を続けている。
「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のドラマー」において74位。
経歴
幼少期からスマイル結成まで
1949年7月26日にノーフォークで生まれる。数年後にはコーンウォールに引っ越す。8歳のときには、ウクレレを独学で演奏するようになる。またこの頃から、学校で当時流行していたスキッフルを友人たちと演奏していたという。1960年に、彼は音楽奨学金でトルロ大聖堂学校に加わり、聖歌隊として結婚式やクリスマスなどのあらゆるイベントで歌うことになる。
また当初はギターを演奏していたが、徐々にその関心はドラムスの方へと移っていく。1965年には地元のシンガーのバックバンド「ジョニー・クエイル&ザ・リアクションズ」というバンドに加入。その後「ザ・リアクションズ」単独としても活動し、ロジャーはボーカル兼ドラムスとしてローリング・ストーンズやボブ・ディラン、ジェームズ・ブラウン、オーティス・レディングなどをカバーしていた。後にロジャーがロンドン・ホスピタル・メディカル・カレッジに進学したため、リアクションズは自然消滅。しかしロジャーは「一生分の歯を見た」、「解剖授業が気持ち悪い」などという理由で、2年後にノース・ロンドン工芸大学に入学し直し、生物学を専攻、最終的には学科の理学士号を取得した。そしてこの頃に出会ったのが、1968年にブライアン・メイが出した「ミッチ・ミッチェル(ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス)やジンジャー・ベイカー(クリーム)のようなドラマーを求む」というメンバー募集の広告だった。
スマイル
この広告を見て、ロジャーは「スマイル」というバンドの結成にいたる。スマイルのメンバーはロジャーとブライアン・メイ、ヴォーカル兼ベースのティム・スタッフェルの3人だった[1][2]。スマイルは、ビートルズのアップル・レコードにデモテープを送ったが採用されなかった。その後アメリカのマーキュリー・レコードと契約してシングル1枚をリリースしたが反響は全くなく、結局ティムが他のバンドに加入するためにスマイルを脱退[1][2]。そこにフレディ・マーキュリーが加わることで、クイーン結成へつながっていく。
クイーン
クイーン初期においては、フレディ・マーキュリーやブライアン・メイが作る典型的クイーンサウンドとは異なるロック色の強い楽曲をアルバム毎に1、2曲提供し、ロッド・スチュワートにも比較されるハスキーな声でリードヴォーカルもとった。代表的な曲として、『オペラ座の夜』に収録された「アイム・イン・ラヴ・ウィズ・マイ・カー」などが挙げられる。また自分がヴォーカルをとらない際には、少年時代に聖歌隊で磨いた高音で、ドラミングをしながらのバックコーラスに徹した。
それゆえ、ヒット曲を出すのはクイーンのメンバー中最も遅かったが、1980年代になると、自身が作詞作曲した「RADIO GA GA」が全英2位、19カ国で1位という大ヒットを記録し、それ以降も「カインド・オブ・マジック」、「インビジブル・マン」(作詞作曲のクレジットはクイーン名義だが、ロジャー作)などポップ路線のヒットを連発し、後期クイーンにおいてはヒットメーカーとなった。また、フレディ存命時のラストアルバム『イニュエンドウ』においても、「輝ける日々」(これもクレジットはクイーン名義だがロジャーであることが後年のインタビュー等で判明)や、タイトル曲の歌詞も主にロジャーがまとめたと言われている。このように、ロジャーは徐々にソングライターとして成長し、クイーン内での発言権を増していったことが窺える。
ソロ活動開始
クイーンのメンバーで最もソロ活動に積極的だったのはロジャーであった。ロジャーは、1977年に自費で限定3000枚の初シングル「アイ・ウォナ・テスティファイ」を発表し、クイーンのメンバーとしては最初にソロ・デビューを果たす。
1981年には、ほぼ全ての楽器を自身で演奏した初のソロアルバム『ファン・イン・スペース』を、1984年には、セカンドアルバム『ストレンジ・フロンティア』(当時の邦題は『ロックンロール・フロンティア』)を発表。これらのソロ活動においてロジャーは、娯楽としてのロックを追求したクイーンとは一線を画し、反核ソングや、プロテストソングの大御所であるボブ・ディランの曲をカバーするなどして、社会派としての路線をうかがわせた。
ザ・クロス
クイーンが活動を小休止していた1987年には、オーディションでメンバーを集めて「ザ・クロス」を結成。このバンドにおいて、ロジャーはドラムスではなく、リードヴォーカルとリズムギターを担当した。当初ザ・クロスは、ロジャーがライヴを行う際のバックバンド的な役割で結成されたようで、ファーストアルバム『夢の大陸横断(原題:Shove It)』は全曲ロジャーの手によるもので、ほとんどの楽器をロジャーが演奏したものであった。他メンバーは演奏にはほとんど参加しておらず、当時流行していたダンス風の影響を受けたロック曲が中心となっていたが、フレディがゲストヴォーカルで参加した「ヘヴン・フォー・エヴリワン」は、後にクイーンのラスト・アルバム『メイド・イン・ヘヴン』でリメイクされた(なお、アメリカ盤の『夢の大陸横断』でのみ、ロジャー本人のメインヴォーカルバージョンによる「ヘヴン・フォー・エヴリワン」が聴ける。他の地域はすべてフレディのバージョンである)。
しかし1989年発表の『マッド・バッド・ロックンローラー(原題:MAD, BAD and Dangerous to Know)』では他メンバーも作曲・演奏に参加し、ストレートなロックアルバムに仕上がった。しかしこのアルバムはイギリスでチャートインできず、結果的にラストアルバムとなった『ブルー・ロック』は、本国イギリスやアメリカでは発売すらされず、結局ドイツと日本のみでリリースされた。
結局計3枚のアルバムを発表したザ・クロスは、クイーンとは異なるストレートなロックンロールを追求したバンドだったが、商業的な成功には程遠いまま解散してしまった。それ故、今となってはザ・クロスのアルバムはコレクターズアイテムとなっており、復刻が待たれているところである。
再びソロへ
フレディの死後、ザ・クロスを解散させたロジャーは再びソロ活動を開始。1994年に3rdソロアルバム『ハピネス?』を発表。アルバムはフレディの死後制作されたこともあってか全体的に静かなトーンで統一されており、ネオナチを非難した「ナチス1994」やX JAPANのYOSHIKIと競演した「Foreign Sand」も話題となった。
1998年には、4th『エレクトリック・ファイアー』を発表。ジョン・レノンの「労働階級の英雄」のカバーも収録されたこのアルバム発表にあわせて、ロジャーの別荘の敷地内にある納屋で行われた「サイバーバーン・ライヴ」は当時としては画期的なインターネットで生中継され、その場でギネスからアクセス数の新記録の認定を受けた。
ロジャー自身はソロ活動には限界を感じ、ブライアンと再びクイーンを始動させることを考えていたのであった。
クイーン+ポール・ロジャース
フレディ死後のロジャーとブライアンは、たびたびチャリティーなど単発のライヴをクイーン名義で行っていたが、フレディのような絶対的なボーカリスト不在により、クイーンとして本格的な活動を再開するには長い間至らなかった。
しかし、2004年にロジャーとブライアンは英国音楽殿堂の授賞式で共演をきっかけにして、元フリー、バッド・カンパニーのポール・ロジャースと「クイーン+ポール・ロジャース」名義でのツアーを行うことを発表した。フレディは当然不在、ジョンも参加せずにロジャーとブライアンの二人でクイーンを名乗ることへの賛否両論がある中で、ヨーロッパ・ツアーのチケットは全てソールド・アウトと大成功を収め、待望の来日公演や24年ぶりの全米ツアーも成功させた。この中で、ロジャーはクイーンとしては最新曲である自作の「セイ・イッツ・ノット・トゥルー」を披露している(この曲はネルソン・マンデラのエイズ撲滅運動である46664のために書かれた曲であり、後に『ザ・コスモス・ロックス』にも収録された)。全米ツアー終了後「クイーン+ポール・ロジャース」としての活動はしばらく白紙であったが、ロジャーとブライアンはポール・ロジャースとアルバム制作をしたいと常々希望を述べており、2006年10月にスタジオ入りすることが正式にブライアンのホームページで発表された。
そして、2008年にクイーン+ポール・ロジャースとして初のアルバム、『ザ・コスモス・ロックス』を発表した。しかし、このユニットは2009年を持って活動を終了することが、ポール・ロジャースから発表された。
近年
2009年には、フー・ファイターズのドラマーであるテイラー・ホーキンスと2010年にツアーを行う計画を立てていることを発表する一方で、ソロとしての新曲「The Unblinking Eye (Everything Is Broken)」を配信限定で発売している。
エピソード
クイーン初期の頃、ロジャーは特にフレディと仲が良く、2人で同居しながらケンジントン・マーケットで古着を売って生計を立てていた。
車が趣味であり、空港での待ち時間に暇でラジコンを出して遊んだことがある。自身の代表曲である、『オペラ座の夜』に収録された「アイム・イン・ラヴ・ウィズ・マイ・カー」という曲は、当時のサウンドエンジニアが「彼女とすごすよりも自分の車をいじる方が好き」という車好きだったので、その彼について歌った楽曲である。ロジャー自身も速い車が好きだが、自分のことを指している訳ではない。
長いドラムソロが嫌いだと公言しており「ソロの途中で観客がホットドッグを買いに行った日にもうドラムソロはしたくないと思った」と語っている。
2006年には息子のフェリックスと「フェリックス & アーティ」という覆面ユニットを結成し、「Woman You're So Beautiful (but still a pain in the ass)」というレゲエ調の曲をMySpace上で公開している。この曲はロジャーが作詞・作曲・ドラムス・コーラスを担当し、息子のフェリックスがボーカルを担当している。クイーンの公式ホームページと海外のiTunes Storeで発売された。
1994年にX JAPANのYOSHIKIたっての希望でコラボレーションが実現し、「Foreign Sand」という曲を出した。このときロジャーは作詞とボーカルを担当。 1994年に奈良東大寺で行われた『THE GREAT MUSIC EXPERIENCE '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』ではこの曲をライヴで披露した。
ソロ・ディスコグラフィー
ソロ・アルバム
ファン・イン・スペース - Fun In Space (1981) - 全英18位、全米121位
ストレンジ・フロンティア - Strange Frontier (1984) - 全英30位
ハピネス?- Happiness? (1994) - 全英22位
エレクトリック・ファイアー - Electric Fire (1998) - 全英53位
ファン・オン・アース〜地上の愉楽 - Fun on Earth (2013)
ザ・クロス
夢の大陸横断 - Shove It (1988) - 全英58位
マッド・バッド・ロックンローラー - Mad Bad And Dangerous To Know (1990) - ドイツ48位
ブルー・ロック - Blue Rock (1991)
ドラムキット
ロジャーは、ほとんどのライヴでLudwigのドラムセットを使用している。
レコーディング時は曲によってドラムの種類、サイズ、ヘッドを変えることが普通で、ライブと同じキットでレコーディングを行うことはほとんどない[3] 。Ludwig,Gretchのどちらかを使用,Made In HeavenではSleishmanを数曲使用とのこと。
このセット内容は2005年に、日本でライヴをやったときのもので、色はナチュラルメイプルである。
バスドラム:26"×18"(バスドラムのみ Sleishman) フロントヘッド/スムースホワイト 打面/パワーストローク3 フェルトミュート
ハイタムタム:10"×9" ボトムヘッド/クリアーアンバサダー 打面/コーテッドエンペラー
ロータムタム:13"×12" ボトムヘッド/クリアーアンバサダー 打面/コーテッドエンペラー
フロアータム:16"×16" ボトムヘッド/クリアーアンバサダー 打面/クリアーエンペラー
フロアータム:18"×16" ボトムヘッド/クリアーアンバサダー 打面/クリアーエンペラー
スネア(ナチュラルメイプル色):14"×6.5" LS-403 or WFL synphonic (8 tention, mini classic lug)
スネアスナッピーはGretchの42本仕様。 John Bonhamとおなじである。
レモロートタム:10",12",14" (ブラックスポーク仕様) ヘッド/CS(ライブビデオで見る限りコーテッドをはっていることも多い。) 10"と12"を同じホルダーに、14"のみ独立して配置。
シンバル:シンバルのセットはすべてZildjianを使用。
15"A New Beat Hi-Hats
19"K Dark Crash Medium Thin
20"K Crash/Ride
22"A Medium Ride
24"K Light Ride
22"Oriental China Trash
ドラムスティック:VIC FIRTH American Classic 5B。
バスペダル:DW9002のツインペダル。
ビーターは両方ともDammarのスクエアフェルト。
年代別キット詳細は省略。
最近のQ+PRツアーでは初めてDWのドラムキットを使っている。 特にバスドラムはエクステンションが付いたタイプを使用(グリーンスパークル、ナチュラルメイプル、浅胴タム×3個)。ハードウエア類もすべてDW製。Roto Tomは12"&14"で、クロームスポーク仕様を使用。
脚注
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イラク原子炉爆撃事件(イラクげんしろばくげきじけん)は、イスラエル空軍機がイラク、タムーズの原子力施設を、バビロン作戦(別名<b data-parsoid='{"dsr":[615,626,3,3]}'>オペラ作戦)の作戦名で1981年6月7日に攻撃した武力行使事件。これはイラクが核兵器を持つ危険性があるとして、イスラエルが「先制的自衛」目的を理由にイラクに先制攻撃を行ったものである[1]。この攻撃に対して[2]がなされ、イスラエルは非難された[1]。
イラクの核開発
イラクのフセイン政権は、産油国でエネルギー資源に不安がないイラクが原子力開発を行う理由として、将来の石油資源枯渇を見据えたものだと主張していたが、イスラエルへの対抗目的で核武装を目指しているのではないかと疑われていた[3]。イスラエルが既に核兵器を保有しているという情報は、PLOからイラク政府にもたらされており、この情報がきっかけとなってイラクは核兵器開発に着手した[4]。
イラクはソ連から1960年代始めに5MWクラスの原子炉を導入していたが、この原子炉はフセイン大統領が望んだ兵器グレードのプルトニウムの製造能力を持たなかった。またソ連は、不要な機材を含めたトン当たり方式の金額算定や、専門知識を持たず作業も行わない人員を含めた給料の請求、原子炉運用に必要なメンテナンスは行わないといった、技術を持たない衛星国相手の不誠実な取引を行った。この時期のイラク原子力エネルギー機構の具体的な仕事と言えるものは、フセインの食事に使用される食材の毒味であった[5]。イラクは1970年代から独自に核技術を研究していたが、原子炉を自力で建設することはできず、フランスから技術供与を受けて7万キロワットの原子力発電所の建設に着手した。
この原子炉(オシリス級原子炉、フランスはオシリスとイラクを合成した「オシラク」の名で呼び、イラクはバアス党が政権を奪取した月の名である「タムーズ1」と呼んだ)は1982年7月稼動予定であったが、これにより原子炉を軍事転用して核兵器に必要な濃縮ウランを生産することが可能となるため、イスラエルは強い危機感を抱いた。
イスラエルによる妨害
まずイスラエルは外交手段による解決を試み、フランス政府に技術供与を取りやめるよう要請したが、当時のフランス大統領ジスカール・デスタンは平和利用のための技術供与だとしてこれを断った。
外交による解決が不首尾に終わると、イスラエルはイスラエル諜報特務庁(モサド)と国防軍の情報機関イスラエル参謀本部諜報局(アマーン)を使い、以下のような妨害工作を行ったとされる。
1979年4月、フランスのラ・セーヌ・シュルメール港の倉庫に格納されていたイラク向け原子炉格納容器が爆破された(犯行声明はフランスの過激派の名義だった)。
1980年6月、イラクの核開発の責任者がフランスのホテルで撲殺された。
1980年8月、原子炉開発の契約企業のローマ事務所と重役の私邸が爆破された(イスラム革命保障委員会から犯行声明があった)。
イラクの核開発に関係するフランスとイタリアの科学者宛に、イラク差出の脅迫状が送付された。
これらの妨害工作にも関わらず原子力発電所の完成が近づいたため、イスラエルは国際法に抵触する危険のある武力攻撃を決意した。作戦上の障壁となったのは距離の問題で、当時のイスラエル空軍の主力戦闘攻撃機であったF-4Eでは航続距離が足りなかった。しかしイラン革命により発注がキャンセルされた最新鋭のF-16戦闘機をアメリカから購入する事となり、作戦が実行可能となった。
バビロン作戦
1981年6月7日午後4時、2000ポンド(908kg)のMk-84爆弾を2発ずつ搭載したイスラエル空軍第110飛行隊、第117飛行隊所属のF-16戦闘機8機が、護衛の第133飛行隊所属のF-15戦闘機6機を伴いシナイ半島東部エツィオン空軍基地から飛び立った。同部隊はヨルダン及びサウジアラビアを領空侵犯してイラク領内に侵入した。この飛行ルートは、モサド諜報員の調査で判明していた対空砲とレーダーの配置から割り出されたイラク防空網の死角であった。イスラエル空軍機は午後5時30分前に原子炉付近に到達し、爆弾を投下した。使用されたのは誘導装置を備えない自由落下型の爆弾であった。投下された16発のうち1発は原子炉を直撃するものの不発弾で、また別の1発は隣接施設内に落下したが、14発が命中して原子炉は破壊された。この攻撃により警備していたイラク軍兵士10名とフランス人技術者1名が犠牲になった。戦闘機部隊はイラク空軍機の迎撃にあうことなく、往路と同じルートで全機が帰投した。
イラクは当初どこから攻撃を受けたか特定できず、交戦中のイランからの攻撃も疑っていた。翌日のイスラエル政府の声明により事態が明らかとなった。イスラエル政府は、自国民の安全確保のための先制攻撃であり、原子炉稼動後に攻撃したのでは「死の灰」を広い範囲に降らせる危険があったため急遽作戦を実行したと主張した。
イスラエルが国連安保理武力制裁決議といった正規の手続きを経ずにイラクを攻撃したことから、欧州を中心にイスラエルへの非難が沸き起こった。
その後
イスラエルは中東地域の核拡散を防ぐためだとしてこの攻撃を正当化していた。しかしイスラエルの元核技術者モルデハイ・ヴァヌヌの1986年の告発により、イスラエル自身が1960年代からフランスの協力を受けて核開発を行い、1981年時点で多くの核兵器を保有していたことが判明している。
この事件を題材にして作られたフィクションのスパイ小説として、イギリスのA・J・クィネルが1982年に出版した『スナップ・ショット』 (Snap Shot)がある。日本では1984年に出版され、NHK-FMでラジオドラマとして放送された。
新鋭機F-16のパイロットの一人に、経験豊富なパイロット、イラン・ラモーンがいた。のちに彼はイスラエル初の宇宙飛行士として2003年1月にスペースシャトル・コロンビアに乗り組むが、コロンビア号空中分解事故で落命した。
この爆撃作戦はイスラエル国内では政権党リクードにプラスの方向で作用、3週間後の選挙でメナヘム・ベギン率いるリクードは大勝した。
イラクは1982年の爆撃一周年にイスラエルを非難する切手4種を発行した。そこでは平和利用目的の原子炉であったと主張していた。
オシラク原子炉の廃墟は爆撃当時のままその後も残っていたが、湾岸戦争でアメリカ空軍の攻撃を受けて完全破壊された。
関連書籍
あの原子炉を叩け! ダン・マッキノン. 新潮社 ISBN 978-4102278017
イラク原子炉攻撃! ロジャー・クレイア. 並木書房 ISBN 978-4890632152
イスラエル空軍 朝日ソノラマ ISBN 4257172533
出典・脚注
関連項目
イラク武装解除問題
シリア核施設爆撃事件
ブッシュ・ドクトリン
外部リンク
Israel Defense Forces News 07/06/2007
, Federation of American Scientists
, The Economist (UK)
— The Israeli Special Forces Database
(PDF), Temple International and Comparative Law Journal
, BBC, 5 June 2006 (interview with pilots involved)
BBC .
— The Commemorative Lithograph of Operation Opera / Operation Babylon — Featuring Ilan Ramon & Relik Shafir
in Adobe Flash.
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古代ローマ社会において奴隷は社会・経済分野で重要な役割を担っていた。肉体労働や接客業務だけでなく、高度な知的労働にも従事していた。たとえば教師や会計士、医師は多くの場合奴隷が従事する職業で、これら高度な知識が必要とされる業務は、多くの場合ギリシア人奴隷が充てられた。それに対して、能力の劣る奴隷は農場や鉱山で使役されていた。
奴隷の用途
古代ローマの奴隷の用途は、極めて多岐にわたる。主に、都市の邸宅で使役される家内奴隷と、地方の奴隷制農場(ラティフンディウム)などに用いられる使役奴隷に大別される。以下、詳細を述べる。
自作農が所有する奴隷
古代ローマは、地中海を制する覇権大国となる以前の、小規模都市国家だった頃から、奴隷を有する社会であった。貧しい自作農であっても、1人か2人程度の奴隷を所有するのが普通であった。そうした奴隷は、貧しい農民にとっての大切な労働力、高価で貴重な財産として、大切に扱われた。
農場の奴隷
ローマが覇権大国になると、大土地所有による奴隷制農場が盛んになり、ラティフンディウムの成立を見る。新たにローマの支配下となった国の多くの農地が国家所有となり、それを奴隷を多数所有するローマの貴族や富裕者が借り上げ、使い捨ての奴隷の過酷な労働により、多大な収益をあげたのである。
執政官を務めた大カトーが記した『農業論』には、60ヘクタールの奴隷制オリーブ園には13名の奴隷(管理人1名、家政婦1名、農夫5名、御者3名、ラバ飼い1名、羊飼い1名、豚飼い1名)が必要で、25ヘクタールの葡萄園には15名の奴隷(管理人1名、家政婦1名、農夫10名、御者1名、ラバ飼い1名、羊飼い1名、豚飼い1名)が必要であると説いている。大カトー以外にも諸説あり、2ヘクタール当り1名の奴隷が必要であると説いている書物もある[1]。
古代ローマ時代の農業指導書には、郊外の農場においては農場管理人以外の労働者は、なるべく働かまいとする奴隷よりも、出来る限り利益をあげようとする自由人を雇用するほうが良いとする記述もある。これは奴隷を強制的に酷使するよりも、自由民の自発的労働のほうがより効率が高いという考え方によるものである。共和政ローマ時代の繁栄を支えた自由農民による農場に比して、奴隷制の大規模農場は財力の誇示に過ぎないとする価値観も一部にあったといわれる。これがのちのコロナートゥスへの移行の伏線となる。
一般の家内奴隷
ローマの家内奴隷は、農場の使役奴隷ほどには過酷な境遇ではなかった。後述する通り解放奴隷となるチャンスも十分にあった。もちろん、多数の家内奴隷を有するのはローマの貴族であり、彼ら家内奴隷の悪く無い境遇も、農場の奴隷の過酷な労働に支えられたものであった。
家内奴隷は業務ごとにそれぞれ別個の人間が割り当てられる場合も多く、乳母、子供の世話、教育(家庭教師)、給仕、輿担ぎ、手紙の朗読、代筆、食事時の演奏者、門番、夜伽(よとぎ)、時報、使い走りなどがあった。これら以外にも洗濯、衣服の縫製、散髪、性的奉仕などの業務もあった[1]。
高度専門職
教師、会計士、医師、貴族の秘書など。このような知的労働であっても、古代ローマにおいては奴隷の仕事であった。それら知的労働に携わった奴隷は、その職務に見合った高い待遇を得ていた。特に厚遇されたのは家庭教師であり、自らの主人の子弟にあたる自分の生徒に軽い体罰を与える事すら認められていた。当時の地中海世界で最高学府とされるのはロードス島であり、そこで学んだギリシア人の奴隷が、特に高額で売買された。
剣闘士
剣闘士は見せ物のために殺しあいをさせられる職業であり、特に反抗的な奴隷が懲罰的に剣闘士にされた。その境遇をはかなんで自殺に及ぶ奴隷もいれば、後述の通り大規模な反乱を起こした奴隷もいる。ただしその一方で、勝ち続ければ観客からの拍手喝采を浴び、20戦ほどすれば奴隷身分から解放された。剣闘士の中には、解放されても観客の拍手喝采を浴びた栄光が忘れられず、自らの意志で再び剣闘士の境遇に戻った者すらいた。
役人・官吏
古代ローマの行政官職は、ローマの貴族が自らの名誉のために行う無料奉仕であった(もちろん官職に伴う利権はあったが)。当然ながら貴族が担う上級職ばかりでは国家運営はままならず、下級官吏が必要であり、それらを担ったのは貴族が個人的に所有する奴隷であった。皇帝や属州総督が所有する奴隷の中には高度な行政事務に携わる奴隷もおり、権力や蓄財を恣にする奴隷も居た。
従者
古代ローマの貴族は、特に忠実な奴隷として、2.3人の従者を抱えていた。彼ら従者は、幼少の頃より将来仕えるべき主人となるべき貴族の子弟とともに、同じ家庭教師から教育を受けて、大切に育てあげられた。ガイウス・グラックスの従者のように自殺して主人の後を追ったり、ガイウス・ユリウス・カエサルの従者のように命懸けで暗殺された主人の遺体を回収したりなど、その主人への忠実さが美談として伝わっている。
公有奴隷
公有奴隷という区分もあり、国家や都市が多くの奴隷を所有していて、道路や公共施設の補修や帳簿作成など様々な公共の仕事をさせていた。特に国営の鉱山での労働に従事する奴隷の待遇は、農場での奴隷同様に過酷なものであった。また、罪を犯した奴隷は罰として公衆浴場や下水溝の清掃をさせられていた。
このように奴隷の仕事が多岐にわたったのは、古代ローマの市民が労働によって報酬を得る職業を卑賤なものと看做したからであった。たとえ国家の役人であっても、報酬をもってこの職業に就く事は憚られたのである。
奴隷の購入
奴隷は戦争捕虜や奴隷が産んだ子供が主であったが、中にはローマ市民を含む自由人が経済的理由で自らを売って奴隷になったり、同様の理由で売られた子供が奴隷となることもあった[1]。海賊によって拉致されたり、捨てられたりして身寄りのない子供が奴隷となって売られることもあった。なお、自由人である主人が奴隷女に産ませた子供は法律上奴隷であった。奴隷市場で取引される成人男性の奴隷1名の価格は約1000セステルティウス、女性の場合は約800セステルティウス程度であり[1]、これはローマで1家4人の年間の生活費(500〜1000セステルティウス)と同程度の価値であったとされる[1]。40歳を超えた男性や14歳以下の少年は約800セステルティウス、老人や幼児は400セステルティウス程度であったとされる[1]。この価格はアウグストゥス帝が奴隷取引に2%の税を課した時の税収(年間500万セステルティウス)ならびに、ディオクレティアヌス帝の最高価格令にある奴隷と小麦の交換比率を元に推定したものである[1]。なお、奴隷の価格は需給関係で変化し、大規模戦争に勝利し捕虜が大量に供給されたら下がるなどの変化があった[1]。
奴隷の権利
奴隷は主人の所有物であり、主人は奴隷の生殺与奪の権利を持っていた。ただ厳格な家父長制があった古代ローマにおいては、家父長は自分の妻や子に対しても同様の権利を行使する事ができ、そうした意味においては奴隷も「家族なみ」であった。
自由人のように法的権利はほとんど認められていなかった[2]が、都市部の奴隷は金銭や物などの個人財産を持つことや、事実婚を行うことは一般的に認められていた[2]。しかしながら、犯罪の疑いが掛けられた奴隷に対して、主人が拷問の正当性を証明できた場合は、証言を引き出すための拷問は認められていたし[3]、主人の殺害については近くに居た奴隷全員を処刑することも一般的であった[3]。また、性的虐待も法的に問題はなかった[4]。上流階級である主人の多くはストア哲学の考え方に影響を受けている場合が多く、哲学者セネカのように『奴隷も自由身分の使用人と同じように適正かつ公正に扱うべき』と考える人も現れるようになった。帝政期になると、主人の暴虐を理由として神殿に逃げこむ権利などが認められるようになった[2]。
老いたり病気になったりして使役に適さなくなった奴隷について、ローマではティベリス川の中洲のティベリーナ島に捨てたとされる慣習があり、クラウディウス帝がこれを禁じようとしたとの記録もある[5]。このように資産価値のなくなった奴隷の扱いは良かったとはいえない。
奴隷の解放
主に都市部の奴隷は懸命に、誠実に仕事に取り組んで主人によく支えれば、いずれは解放されると期待することが出来た。この解放されるまでの期間は5〜6年から20年近くと大きな幅があった[6]とされる。農村地帯で使役された奴隷は、農場管理人を除いて解放されること無く死ぬまで奴隷として働いたと考えられている[6]。古代ローマの奴隷制度は、大勢の人間を外部からローマ社会に取り込むための仕組みでもあり、解放された奴隷の子供の代にはローマ市民権を得る事すら可能であり、後に解放された奴隷自身にも市民権の獲得機会が与えられたが、処罰を受け足枷を付けられたり烙印を押されたりした経歴がある奴隷は、アエリウス=センティウス法(紀元後4年制定)により解放されて自由人になってもローマ市民権は得られなかった[6]。また、主人が解放できる奴隷の割合を制限するフフィア=カニニア法(紀元前2年制定)などもあった[6]。奴隷は主人の決定や遺言により、また奴隷自身[7][8]や第三者が主人に対価を支払うことで『解放』された。解放された奴隷は『解放奴隷』(男性の場合リベルタス libertus、女性の場合リベルタ liberta)と呼ばれ自由人となるが、解放後も元主人やその家(ファミリア familia)に対して様々な義務を果たすことが法的に決められていた。この場合の主人を『パトロヌス』(保護者)といい、解放された奴隷を『クリエンテス』(被護者)という。解放奴隷の中には皇帝のファミリアの一員として権勢をふるったものや、学者や作家として優れた業績を残したものも居た[6]。
奴隷の反乱
共和政期には奴隷制度も安定せず、奴隷による抵抗が大規模な叛乱を引き起こしたものもある。その中でも大規模なものは3度の奴隷戦争であり、スパルタクスが引き起こした第三次奴隷戦争(紀元前73年から紀元前71年)は有名である。帝政期にはいると大規模な反乱は起こらなくなり、日常的な嘘、ごまかし、怠慢、仮病などといったささやかな抵抗になっていった[9]。
利殖の手段として
上記の通り、高度な知識を持った奴隷が、知的労働者として高額で売買されると、それを目的として高額で転売する目的をもって、自分の所有する奴隷に高い教育をほどこす例も多々見られた。商業を侮蔑し農業にたちかえる事を主張した大カトーも、才能がある奴隷を見いだして教育を受けさせ、高額で転売する事に限っては、利殖として認めている。ガイウス・ユリウス・カエサルの家庭教師は、ギリシア人が最高とされたこの当時において、ロードス島で教育を修めたガリア人であった。当時のガリア人が自発的意志でロードス島で教育を受けたとはとうてい考えられず,奴隷になった後で所有する主人の意向で教育を受けさせられたものと考えられる。
最後のセーフティ・ネット
古代ローマの市民にとって、所有する奴隷は最後の財産であった。土地も家も失ったローマの市民も、最低限として奴隷を1人有していれば、その奴隷を商店などで労働力として貸し出す事によって、何とか自分自身は労働しなくても生活する事ができた。
参考文献
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%A5%B4%E9%9A%B7 |
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マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(Latin: Marcus Porcius Cato Uticensis、 紀元前95年 - 紀元前46年4月)は、共和政ローマ期の政治家、哲学者である。高潔で実直、清廉潔白な人物として知られる。ポエニ戦争の時代に活躍したマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)の曾孫にあたり、曾祖父と区別するため<b data-parsoid='{"dsr":[829,842,3,3]}'>ウティカのカト(カト・ウティケンシス、Cato Uticensis)または<b data-parsoid='{"dsr":[872,881,3,3]}'>小カト(Cato Minor)と称される。セルウィリア・カエピオニスは異父姉、マルクス・ユニウス・ブルトゥスは甥で婿に当たる。
生涯
幼少期・青年期
カトは紀元前95年にマルクス・ポルキウス・カト・サロニアヌスと妻リウィアの息子として生まれたが、幼少期に両親を失った為、母方の叔父であったマルクス・リウィウス・ドルススの許に預けられ、異父兄のクィントゥス・セルウィリウス・カエピオ(小カエピオの息子)らと共に育てられたが、叔父ドルススもカトが4歳の時に同盟市戦争に従軍して戦死した。早くから親類者を失うという不遇な若年期を過ごしたが、異父兄カエピオとは大変仲が良かったとされる。
成人したカトは両親が残した遺産を受け取った後に叔父の家を出て、ストア派哲学と政治の研究を始めた。当初は曽祖父の大カトとは異なり穏やかな生活であったが、ここで最低限の衣服と雨に耐えることを学んだ。贅沢は避け、必要最小限の食事と、市場で簡単に手に入る安価なワインを好んで飲んだと伝えられる。これらはストア派の哲学に基づくものであった。また、ストア派のフォーラムに参加した時は、その弁論で大いに評価を受けた。
カトは最初にアエミリア・レピダ(Aemilia Lepida)と婚約したが、アエミリアは婚約を破棄してクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ(メテッルス・スキピオ)と結婚した。その後カトはアティリア(Atilia)と結婚。アティリアとの間に息子マルクス、娘が生まれた。
キャリア初期
紀元前72年、第三次奴隷戦争で執政官配下の幕僚(トリブヌス・ミリトゥム)として従軍したカエピオのために義勇軍として参戦。ゲッリウス軍は敗北を喫したが、カトは果敢さを示し一定の評価を得た。ゲッリウスは賞を与えようとしたが辞退した[1]。
紀元前67年、カトはマケドニア属州で軍務につき陣頭指揮を取った。ローマ軍の兵站を担当して、寝食を兵士と共にし、厳しい軍律を兵士に強いたが、軍団兵はカトを支持したと伝えられる。カトがマケドニアで軍務に就いていた最中に、最愛の兄カエピオがトラキアで重篤に陥ったとの知らせを受けた。激しい荒天の中でカエピオの元へと向かったものの、到着した時には既にカエピオは死去していた。贅沢を生涯避けたカトであったが、唯一カエピオの葬儀だけは誰からも支援は受けずに自らの負担で大きな費用をかけたと伝わっている。カエピオの遺産は、カエピオの娘セルウィリア(Servilia)とカトの間で分けられた[2]。
紀元前65年にマケドニアでの軍務を終えて、シリアや小アジアを旅した後にローマへ帰還したカトは、クァエストル(財務官)に選出された。カトはクァエストルに選出されると職務に必要な知識、特に税金に関連する法を勉強し、任期中に不正に国庫の資金を流用したクァエストル経験者を告発した。また、当時ローマで最も人気のあったグナエウス・ポンペイウスに近く、かつルキウス・コルネリウス・スッラの側近であった人物を、最初に国庫資金の不正流用、次いで殺人罪で告発した。年末にカトは退任したが、ローマ市民はカトに喝采を送ったと伝わっている。カトはクァエストル辞任後も不正への監視を続けた。
カティリナ事件
元老院議員となったカトは頑固な性格であり、元老院の会議は全て出席した上で、会議の席で政敵を批判した。カトは元老院議員となった当初からオプティマテス(閥族派、元老院派)に所属したが、オプティマテスに属する人物の多くがスッラに繋がるものであったに対して、カトはオプティマテスが元老院を中心とした政体維持を主目的としている為に属したのであった。なお、カトは若い時よりスッラを軽蔑していた。
紀元前63年、護民官に選出されたカトは、当時ローマを揺るがせていたルキウス・セルギウス・カティリナの一派による国家転覆の陰謀へ対処していた執政官マルクス・トゥッリウス・キケロを支援する立場に立った。元老院でカトはカティリナによる国家転覆の陰謀を鎮圧する為に、らのカティリナ一派を死刑にするように提案、カティリナに関るあらゆる人間を告発し、らもカトの提案に賛意を示した。一方で、ガイウス・ユリウス・カエサルはカティリナ一派が有罪であることには同意したが、死刑とすることには反対し、財産を没収した上で一連の騒動が鎮静するまで獄に繋ぐべきと論陣を張った。結局はキケロによる裁断で、カティリナ一派に対する死刑が決定。元老院はカティリナ一派へ「セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」を決議した。カティリナ自身はイタリア北部へ逃れて挙兵したが、ローマ軍との戦いで敗死した。
カトにとって、生涯の政敵となったカエサルとの関係はこのカティリナ事件から始まることとなった。カトは、カエサルがカティリナ一派と共謀して国家転覆を企んでいたとしてカエサルを激しく追及した。元老院でのカエサルとカトの議論が行われていた最中に、カエサルに対して一通の文書が届けられた。カトはその文書に関して追及し、カエサルからその文章を受取ったが、カトの異父姉でカエピオの同父姉に当たるセルウィリアが、カエサルに宛てたラブレターであった為、カトは大いに恥をかき、以降はカエサルとセルウィリアの間の醜聞に議論が移ってしまい、上記の話題は吹き飛んでしまったと伝わっている[3]。なお、セルウィリアは後に離婚を余儀なくされた。
三頭政治体制との対決
紀元前61年、シリア・パレスチナ等をローマの属州としたグナエウス・ポンペイウスは、凱旋式をローマで行う為に、執政官の選挙を凱旋式終了まで延期するように元老院へ依頼した。元老院の一部に認める動きがあったものの、カトはこれに反対して、ポンペイウスの提案は認められなかった。ポンペイウスは関係作りのために自身より遥かに若輩であったカトの娘を自らの妻へ迎えたいと申し込んだが、カトはこれに一切取り合わなかった為、ポンペイウスは人気を落とした。これらの仕打ちによってポンペイウスは元老院への不満を持つこととなった。
同年、ヒスパニア・ウルステリオル属州総督の任期を終えたカエサルも上記のポンペイウスと同様の内容を元老院へ依頼したが、元老院はこれを拒否。カトは元老院で日が暮れるまで長時間に及ぶ演説を行うことで議事進行の妨害行為を行った。その為、カエサルは凱旋式を諦めて、ポンペイウス及びマルクス・リキニウス・クラッススと政治同盟(第一回三頭政治)を結び、紀元前59年の執政官選挙でカエサルは三頭政治の密約の通りに執政官に当選した。カエサルの同僚の執政官はマルクス・カルプルニウス・ビブルス(カトの娘ポルキアの最初の夫)であったが、オプティマテスはカエサルへ対抗するためにビブルスへ進んで資金を提供した。清廉で知られたカトも必要悪としてこの買収を認めたと伝わっている。[4]
カエサルは農地法案を提出したが、カトは農地法案の成立を長時間の演説によって阻止しようとしたため、カエサルはリクトルに命じてカトを元老院の議場から強制退場させた。しかし、一部の元老院議員が「カエサルと元老院にいるよりは、カトと共に牢獄にいる方が良い」と宣言し、多くの元老院議員もこの強制行為に対して異議を申し立てた。その為、カエサルはカトへの強制退場を解除させざるを得なかった。一方でカエサルは農地法案を反対の多かった元老院ではなく、市民集会へ提案した。ここでもカトやビブルスは反対の論陣を張ったが、市民から激しい抗議を受けたことからトーンダウンし農地法は成立した。なお、ビブルスは農地法成立以降は自宅に引き篭り、職務を放棄した。
キプロスにて
紀元前58年からカエサルが総督としてガリアへ赴任し、ガリア戦争でガリア人との戦争を始めた中、三頭政治側で護民官に当選したプブリウス・クロディウス・プルケルが頭角を現した。クロディウスはカトを疎ましく思ったことから、カトをキプロス併合のためにプロプラエトル(前法務官)格の総督として派遣することを提案し可決された。カトにとって不本意であったものの、決議に従ってキプロスへ向かうことを受け入れた。カトのキプロス派遣によって重石の外れた格好のクロディウスは、その後キケロのローマ追放へ邁進することとなる。
キプロスに赴任したカトは無事にキプロスのローマへの併合を完了させた。キプロスは豊かな地方であったが、カトはクァエストルの職にあった時と同様に不正を行わなかったことから、属州総督後に当時のローマで頻発していた汚職による告発とは無縁であった。キプロス属州化によって、ローマは新たに銀貨で7,000タラントを得ることとなった。元老院はカトに対して、キプロスでの功績により凱旋式を行うように伝えたものの、法に反するとしてその申し出を拒否した。
なお、ローマへ帰還したキケロは「パトリキ出身のクロディウスが(プレブス出身者しか就任資格の無いはずの)護民官に選出され、その職で行った法的措置は全て無効である」と発言・決議に持ち込んだのに対し、カトは「自分のキプロスでの功績が全て取り消されるのは横暴である」とキケロを批判したため、これ以降、カトはキケロとの仲が冷却化したと伝わっている[5]。
カエサルとの対決
紀元前56年3月にローマへ戻ったカトは、その年に三頭の間で行われたルッカ会談でポンペイウスとクラッススが紀元前55年の執政官に就くと密約したのに反発して、妹ポルキアの夫であったルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスを執政官選挙に擁立したが敗北。しかし、翌年の執政官選挙(紀元前54年度)では三頭政治側の候補を破ってドミティウスが当選し、カトもプラエトル(法務官)に選出された。この頃より徐々に三頭政治側の繋がりは弱まりつつあり、紀元前53年にカルラエの戦いでクラッススが戦死したことで名実共に崩壊した。カトは反カエサルの旗頭としてポンペイウスへ徐々に接近し、紀元前52年にはクロディウスが暗殺されて混乱状態に陥ったローマを治めるために、ポンペイウスへ単独で執政官に就くように要請した。
カトは紀元前51年の執政官選挙に立候補したものの敗北した。猛烈な贈収賄と選挙違反が横行した選挙であったが、カトは正々堂々と選挙戦を戦った。但し、これがカトにとって最後の執政官選挙への立候補となった。
カエサルがガリア総督として任期が切れる紀元前49年に執政官選挙へ任地から立候補できるように元老院へ依頼があったが、カトら元老院派はカエサルが軍を全て解散した後でなければ認められないと伝えた。カエサルは1つの属州と2つのローマ軍団まで削減すると譲歩し、ポンペイウスやキケロらはカエサルの意向に沿った内容での落ち着きどころを見出そうとしたが、カトはドミティウスやその年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルスらと共にこの譲歩案に対して激しい批判を浴びせ、元老院として一切譲歩しない方針を示し、カエサルに対するセナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムムを決議した。カエサル派の護民官らはローマから逃れざるを得なかった。
ローマ内戦
紀元前49年1月、カエサルは元老院派を打倒するべく、イタリア本土と属州の国境であったルビコン川を渡って、ローマへの進軍を始めた。カトはポンペイウスらの元老院派の中心人物であり、カエサルへの徹底抗戦を誓って、その年の任地であったシキリア属州へと向かったが、ガイウス・スクリボニウス・クリオの軍に攻め込まれたカトは戦闘に入る前に、ポンペイウスの本軍が駐留していたアカエア(ギリシア)へと逃れた[6]。
アカエアでカトは海軍を率いていたが、ポンペイウス率いる陸軍がファルサルスの戦い(紀元前48年8月)で敗北したことから、元老院派の強固な地盤の1つであったアフリカ属州へと逃れ、ウティカへと入った。
東方を平定したカエサルは紀元前47年12月にアフリカへ上陸した。カトはかつての婚約者アエミリアを妻とし、遺恨のあるメテッルス・スキピオと共にポンペイウス死後の元老院派の最高実力者の1人であった。軍団内にはカトを総指揮官としてカエサル派へ向かうとの意見もあったが、カトはメテッルス・スキピオに総司令官を譲って、自らはウティカの守備につくこととした。紀元前46年4月、元老院派はカエサル軍との決戦に敗北(タプススの戦い)、メテッルス・スキピオらは敗死、ティトゥス・ラビエヌスらはヒスパニアへと逃れた。
最期
タプススで勝利を収めたカエサルはウティカを包囲してカトに降伏を迫ったものの、「カエサルによって許されるのは王者の徳を受け入れるもの」としてこれを拒み、自害して果てた。死の直前に、プラトンの『パイドン』を読み霊魂とイデアの不滅を自ら言い聞かせた。ルーブル美術館の『カト全身像』はこれをモチーフにしたものである。 カトが刃を自らに突き刺したのを発見したカトの奴隷の1人は医者に連絡して傷口を縫合したが、カトは誰もいなくなったのを確認すると、包帯と縫合を引き剥がして、自ら腸を引抜いて絶命したと伝わっている[7]。
ウティカでのこのエピソードもあって、カトは<b data-parsoid='{"dsr":[7895,7908,3,3]}'>ウティカのカト(カト・ウティケンシス、Cato Uticensis)と称されるようになった。カトの死後、キケロはカトを賞賛した『カト』、カエサルはそれに反論する『反カト』をそれぞれ執筆したが、いずれも現在は散逸している。
カトの死から2年後の紀元前44年3月にカエサルを暗殺したマルクス・ユニウス・ブルトゥスは異父姉セルウィリアの息子で甥に当たり、娘ポルキアと再婚していた。カトはダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』に登場し、煉獄篇で煉獄山の門番となっている。
年表
紀元前95年 - ローマで生まれる。
紀元前70年代 - ストア派の哲学を学ぶ為、叔父の家を出る。
紀元前67年 - マケドニア属州で軍務に就く。この時期にカエピオが死去。
紀元前65年 - クァエストルに選出。
紀元前63年 - 護民官に選出。カティリナ事件で活躍。
紀元前59年 - 反カエサル、反三頭政治の筆頭として活躍。
紀元前58年 - キプロスへ属州総督として赴任。
紀元前54年 - プラエトルに選出。
紀元前52年 - コンスルの選挙に立候補したものの落選。
紀元前49年 - ローマ内戦が開始。シキリアに向い、後にギリシアへ逃れる。
紀元前48年 - ファルサルスの戦いで敗北し、北アフリカへ向う。
紀元前46年 - タプススの戦いで敗北。ウティカで自害。
エピソード
当時ローマで雄弁家として著名であったがカトとの繋がりを求めて、カトの姪・娘を自らの妻に迎えたいと申し込んだ。
カトは、「姪・娘は全て結婚していること」「仮に結婚するとしても、ホルテンシウスとでは30歳以上の年の開きがあること」により、この申し出を断った。ホルテンシウスはなおも諦めずに、カトの妻マルキアを自らの妻に迎えたいと申し出た。カトはマルキア及びマルキアの父ルキウス・マルキウス・ピリップスに相談したところ、承諾が得られた為、カトはマルキアと離縁し、マルキアはホルテンシウスの妻となった。
紀元前50年頃にホルテンシウスは死去したが、カトは紀元前49年にローマを離れる際にマルキアとその子供を自らの家に引取り、マルキアと再婚したとされる。政敵カエサルはこの一連の経緯を「ホルテンシウスの遺産目当ての汚い策謀であった」と激しく批判したが、カエサル自身も財産目当ての結婚を再三行っており、カトの清廉さもあってこの批判が大きく広がることはなかった[8]。
マケドニアでの軍務を終えて、オリエント各地を旅していたカトはポンペイウスが支配下に置いていたアンティオキアへと入った。当時カトは若輩ながらも哲人として著名な存在であった。アンティオキアの住民はカトが通るや道の両側に寄って、カトを迎え入れた。カトの従者はこれに気を良くしたが、アンティオキアの門番はカトがポンペイウスの配下の解放奴隷デメトリオスの従者と勘違いして行ったものであったとカトに語った。カトは「憐れむべき町である」と一言残して間も無く立ち去った。[9]
ローマ内戦で、当初中立を保っていたキケロがイレルダの戦いでカエサルが苦境に陥っていたのを見て元老院派の本拠であったギリシャへ渡ってきた際に、元老院派の多くがキケロを歓迎する中でカトは「自らはカエサルの長年の政敵であり元老院派に加わる以外に無いが、キケロは中立を保って両派の調停をしてくれれば役に立ったのに、何の理由も何の必要も無いのにその立場をかなぐり捨てた」とキケロを批判した[10]。
ガイウス・サッルスティウス・クリスプスは「生活の高潔さと厳格さが威厳を与えていた。資産家と財産を、権謀家と権力を争わずに、貞潔と禁欲を誰よりも重んじた。栄誉を求めなかったことで、より大きな栄誉がカトに付随してきた」とカトを評している。[11]
モーリス・パンゲはその主著である『自死の日本史』の第1章をカトの自死の記述と議論に割いて、その死をあえて『ハラキリ』と表現することで、名誉を守るために切腹を果たした日本人達の価値観が古代ローマのそれに通じることを指摘し、日本人の切腹に対するステレオタイプな観念を払拭し、世界的観点から日本の文化の歴史的価値を捉えなおそうとしている。[12]
脚注
参考文献
プルタルコス著、村川堅太郎編『プルタルコス英雄伝〈下〉』、ちくま学芸文庫。
プルタルコス著、河野與一訳『プルターク英雄伝(九)』、岩波書店。
カエサル著、国原吉之助訳『内乱記』、講談社学術文庫。
関連項目
カティリナ弾劾演説
対比列伝
内乱の一世紀
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9 |
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世界で最も新しく誕生した言語とされ[2]、また、歴史上はじめて学者たちによって誕生の瞬間が目撃された言語であるとされる[3]。
概要
ニカラグア手話は、ニカラグア・マナグアの聴覚障害を持つ児童たちによって生み出された。手話は年月と共に年少者へ受け継がれ、進化・複雑化していっており、80年代前半までの初期のものをLSN、80年代後半のものをISN、と呼称する[4]。また、聴覚障害者と健常者の間での手話をPSNと呼ぶ[1][4]。
ISNはLSNに比べ、使用空間が小さくなり、口の動きを伴うものが減少している特徴がある[4]。
歴史
1979年のサンディニスタ革命以前のニカラグアには聴覚障害者社会と呼べるものはなく、聴覚障害者は家庭などで孤立し手真似で家族らと最低限のコミュニケーションをとる程度だった。革命の直前の1977年に最初の聾学校がマナグア近郊に50人ほどの規模で誕生し、革命の年には生徒数は100人程度にまで増えていた。
サンディニスタ革命により誕生した新政府の政策のひとつとして掲げられた「識字率の向上」をきっかけとして、1983年、首都マナグアの2つの全寮制の学校に聴覚障害を持つ思春期の少年少女約400人が集められた[1]。
児童が、それまで家庭内において必要最低限の事項を伝達するために用いていたパントマイム的な手真似(ホームサイン)は、スペイン語でものまねを意味する<b data-parsoid='{"dsr":[1418,1428,3,3]}'>ミミカス(mimicas)と呼ばれていた[3]。マナグアに集められた彼らは、こうした独自の手真似を用い、他の児童とのコミュニケーションを図り、手真似の中からいくつかの原始的なピジン言語が誕生した。
新政府が作った学校ではソ連の影響を受けた聴覚障害者教育を行っていた。この学校では本来、手話を教えてはおらず、主にスペイン語を用いた指文字と読唇術による教育手法を採用していたが[1]、単語や文字という概念を持たなかった彼らのコミュニケーション生成に全く影響を与えず[3][4]、彼らに対するスペイン語教育は成果を収めず挫折した。しかし生徒たちは校庭や道端、農場との行き帰りのバスなどでミミカスを組み合わせたピジン言語を急速に発展させ、第一段階といえるLSN(Lenguaje de Signos Nicaragüense)が誕生した。
学校の教師たちが目撃したこの謎めいた意思伝達手法の正体を確認するため、ニカラグア教育省は1986年、の手話言語学者を招聘し、現地へと派遣した[1]。ケーグルは児童たちが使用している手話言語の糸口を探るため、チェコの有名な漫画『Mr.Koumal』を聞かせ、その文法を探る方法を試みた。これにより、ケーグルは年長者の使用する手話よりも年少者の使用する手話が明らかに複雑であり、ニュアンスに富んでいる、クレオール化が発生していることを発見した[1][4]。最初の在校生たちは各家庭での手真似をすり合わせて初歩的なピジン言語を作り出したが、そのあとから入学した5、6歳の子供たちが先輩らからピジン言語を習い、はるかに複雑で洗練された言語へと進化させたのである[3]。
年長の生徒の使うLSNに対しISN(ニカラグア手話、Idioma de Signos Nicaragüense)と名づけられたこの明らかに系統立った言語の発見は、「人間が言語を生み出すための能力は、生得的である」というノーム・チョムスキーをはじめとする言語学者達の意見(「言語獲得装置」仮説)を裏付ける画期的なものとなった[3]。それまでは異なる言語の接触からクレオール言語が発生するありさまが研究されてきたが、ホームサインと手真似以外のコミュニケーション手段がない無の状態から言語が発生したニカラグア手話は稀有な事例といえる。
ニカラグア手話は聾学校を通じて若い世代にも伝わり、その発展は以後も続いている。ケーグルらは、生徒たちに他の手話(特にアメリカ手話)を教えないようにしながら、この孤立言語が発達するさまを観察し続けた。ケーグルらが主導し、1995年からやなど、別の町の学校へもこのニカラグア手話を浸透させようというプロジェクトが開始された[1]。
脚注
関連項目
手話
ホームサイン
ピジン言語
クレオール言語
アル=サイード・ベドウィン手話
アダモロベ手話
言語獲得装置
言語の起源
外部リンク
ローレンス・オズボーン ニューヨーク・タイムズ・マガジン 1999.10.24より
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%82%A2%E6%89%8B%E8%A9%B1 |
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投資家対国家の紛争解決(とうしかたいこっかのふんそうかいけつ)とは、投資受入国の協定違反によって投資家[† 1]が受けた損害を、金銭等により賠償する手続を定めた条項である[1]。英語では Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead. と言われ、国際的な投資関連協定でこれを規定する条項は「ISDS条項」または「ISD条項」と呼ばれる。国内法を援用した締結済条約の不履行は慣習国際法(国家責任条文32条に反映)および条約法に関するウィーン条約27条で認められておらず、適用法規は国際法であることが多いため[2]、国内法に基づいた司法的判断と異なる結果となる場合がある。
歴史
1990年代後半、とりわけ1995年以降のOECD多国間投資協定交渉などを通じて、国際仲裁の付託件数が急増したとされる[1]。1996年に米企業のエチル社がカナダ連邦政府を相手にNAFTAに基づき国際仲裁を訴え、和解金を勝ち取ったこと(エチル事件)でISDS条項への注目が集まった。
概要
慣例的に国際法上の紛争解決手続は国家間レベルで問題になるとされ、私人たる外国人投資家が投資先の国で違法な損害を被った場合、その救済のためには本国による外交的保護を待たねばならなかった。この制度下では、外国人投資家は、出先で問題が生じたとき、まずその国の国内裁定機関や裁判所において解決を図る必要がある(国内救済完了の原則)。だが、[3]が取り交わされている場合、外国投資家は当該協定違反を理由とした賠償請求を国家に対して直接に行うことが可能とされている[4]。
国内救済手続との関係については、無規定型、二者択一型、国内救済手続放棄型、平行手続許容型、国内救済先行型がある[5]。
外交保護制度とは違い、投資仲裁には基本的に国内救済完了原則はない[5]。
投資家は<!--NAFTA-->投資協定当事国を相手方として、国際連合国際商取引法委員会または投資紛争解決国際センターに仲裁を申し立てることができる。
ドッジ(William S. Dodge)は、先進国間で締結される投資協定については、先進国・途上国間の場合とは異なる考慮が必要としている[† 2]。NAFTA第11章は、先進国間において上記のような請求を認めた初のISDS条項であったため、アメリカ合衆国とカナダ双方にとって混乱を引き起こす原因となっている[6]。
仲裁事例
環境保護に偽装した規制
SD Myers事件
カナダのPCB廃棄物を米国で処理していたアメリカ系企業がカナダ政府の廃棄物輸出禁止措置によって事業停止に至ったため、その損害賠償を求めて1998年に提訴した[7]
[8]。
仲裁廷は、当事国に高い環境保護を設定する権利がある一方で環境保護に偽装した規制は認められないとの判断基準を示したうえで[8][9][7]、国内産業の保護を目的とした規制だったと認めるカナダ政府高官の発言や裁判所の判断があったこと[10]、アメリカの処理業者の方が運搬距離が近いため事故や汚染の危険性がより少なかったこと[7][11][10]、カナダの処理業者が国内企業1社しかなくアメリカの処理業者に競争力で劣っていたこと[7]等を理由として、カナダ政府の規制が環境保護政策に偽装した自国業者の保護政策だと認定し[7][11][10]、カナダ政府に5300万ドルの賠償を命じた。
尚、内国民待遇(第1102条)の解釈は協定の法的文脈を考慮する必要があり、保護主義的な意図は重要であるが必ずしも決定的ではなく、措置の実際の影響が必要要件であるとし[8]、公正衡平待遇(第1105条)の解釈は国際法に従った待遇と解釈すべきであるとした[11]。
Metalclad事件
アメリカ法人Metalclad社は、既にメキシコ連邦政府およびサン・ルイス・ポトシ州から廃棄物処理施設を建設する許可を得ていたメキシコ法人COTERIN社を買収した[12][11]。
しかし、グアダルカサル(Guadalcazar)市民が建設反対運動を起こしたため、市は建設許可を市から得ていないとして建設中止命令を出した[11]。
これによって操業停止に追い込まれたMetalclad社はICSIDに提訴した[12]。
仲裁廷は、連邦政府による環境影響調査で環境に影響する可能性が低く適切な技術をもって施設を建設すれば埋立場に適していると評価されていたこと[7][10]、メキシコの国内法では地方政府に本件の許認可権がないにもかかわらず地方政府が国内法に違反して連邦政府の許可を取り消したこと[7][10]、連邦政府が許可した際に地方政府に許認可権がないことを会社に説明したにも関わらず連邦政府が地方政府の違法行為を事実上黙認したこと[7][10]等を理由として、メキシコ行政府の対応に透明性が欠如し[12]、国際法に違反していると認定して[9]、NAFTA第1105条(公正衡平待遇義務)と第1110条(間接収用)の違反を認定し、メキシコ政府に賠償を命じた[12]。
ただし、Metalclad社の賠償請求額のうちの一部は投資財産との因果関係がないとして減額された[12]。
Tecmed事件
産業廃棄物処理施設の居住地からの最低距離要件を定める事後法を理由として、Tecmed社がメキシコに設立した子会社Cytrarの産業廃棄物処理事業の免許更新が拒否された件についての仲裁事例である[13]。
この法律は遡及効を持たない事後法であったが、Cytrarは、代替地での事業継続を条件として、費用の自己負担による移転に同意していたが、免許更新申請時には代替地は見つかっていなかった[13]。
仲裁廷は、正当な規制目的と投資財産の保護の均衡性(比例性)が取れていれば間接収用にはならないとしたうえで[13][14][15]、Cytrarの法令違反が軽微なものであったこと、住民による反対運動はCytrarに責任がない理由であること、Cytrarが移転および費用負担に同意していたこと、環境や公衆衛生上の危険が証明されていないこと、住民の反対運動が比較的小規模であったこと等を理由として[13]、許可更新を拒否するほどの正当な理由はなく、メキシコ政府の措置が環境保護目的に偽装した規制であるとして[13][14]、Tecmed社の訴えを認めた。
エチル事件
カナダ連邦政府は1977年より国内で使用されてきたガソリン添加剤メチルシクロペンタジエニルマンガントリカルボニル(MMT)を、1990年に有害物質として禁止しようとしたが、有害性を実証できず[† 3]
、禁止に踏み込めずにいた。そのため1997年4月に連邦政府の専権事項である通商権限に基づき、MMTの国内外の流通を規制した[16]。
しかし、アルバータ州からカナダ国内通商協定[† 4]に違反するとして提訴されたカナダ政府は、1998年に規制を撤回することになる[16]。
同じ年に、操業停止に追い込まれたとして、エチル社もカナダ政府を提訴し、カナダ政府はエチル社に1300 万ドルを払って和解した[17]。
これは「投資家 vs. 国家」や「環境保護 vs. 貿易・投資の自由化」だけでなく、自由市場を求める州と政府との間の対立までも含んだ、多様な利害関係が交錯した出来事として考えることができる。
実質的関税強化
ADMS事件
高果糖コーンシロップ(HFCS)を製造するアメリカ法人が、メキシコの砂糖以外の甘味料について課税措置が、砂糖事業者への優遇措置であるとして提訴した[8]。
仲裁廷は、NAFTA第1102条(内国民待遇違反)の「同様の状況の下」を意味を条約法に関するウィーン条約第31条に照らして通常の言葉で解釈したとし、HFCS事業と砂糖事業が「同様の状況の下」にあるとした[8][14]。
さらに、HFCSを生産するメキシコ系企業が存在せず、国内産品より高い税を課すことでメキシコの砂糖産業を保護する意図と効果があるとして、内国民待遇違反を認定した[8][14]。
政府の契約違反
アズリックス事件
アズリックス社(米企業エンロンの子会社)は、ブエノスアイレス州の水道サービスの民間コンセッションを1999年に受託するが、2002年に州政府を契約違反で提訴した[18]。
その結果、2007年に仲裁廷は州に対して、小売物価指数その他の理由による料金改定が契約で認められていたにもかかわらず料金値上げを拒んだこと、水道事業の譲渡前に完了すべきとされた工事の義務を履行しなかったこと、そのことの起因するとされた水道品質の低下の責任をABA社に帰して水道料金の不払いを住人に呼びかけたこと等を理由に、公正衡平待遇義務違反を認定し、約1億6,500万ドルを賠償としてアズリックス社に支払うよう命じた[18]。ただし、投資財産への影響が収用に相当する程度に至っていないとして収用違反は認定されていない[13]。
ヴィヴェンディ事件
1995年にフランスのヴィヴェンディ社の前身CGE(1998年からヴィヴェンディ社)とその子会社CAA社は、アルゼンチンのトゥクマン州の上下水道の民営化事業を落札した。サービス開始後に水道水の濁りが発生し、住民による水道料金支払いへのボイコットが生じた。トゥクマン州政府は健康上の問題が無いと判断し、当初は本件を問題視しなかった。しかし、政権交代後に州政府は健康上の被害を表明。CAAに対し罰金等の賦課を行い、料金の徴収を差し止めるなどした。これに対して、CAA社はコンセッション契約違反を訴えて州政府を提訴した[13]。
その結果、州政府の対応は国家権力による違法行為であり、CAA社の資金的存続性に破壊的な影響を与えたとして、仲裁廷は2007年にヴィヴェンディ社に約1億ドルの賠償金を支払うよう州政府に命じた[13]。
少額賠償
Pope & Talbo事件
米国・カナダ協定によって軟材の輸出許可制がとられたことによって、輸出手数料が徴収されて損害を被ったとして、アメリカ法人が提訴した[8]。
仲裁廷は、内国民待遇違反や収用違反を認定せず[8][14][13][15]、カナダ政府の再審査手続の不備によりアメリカ法人が不必要な支出を迫られたとして公正待遇義務違反のみを認定した[11]。
しかし、賠償額は約40万ドルしか認められず、これは仲裁費用(両当事者とも各約75万ドルずつ)と弁護費用(カナダ政府は約390万加ドル、企業側は不明)の合計よりも小さい[10]。
却下事例
UPS事件
アメリカの宅配便業者ユナイテッド・パーセル・サービスが、カナダ関税法改正によってカナダの郵便事業が優遇されるとして提訴した[8]。仲裁廷は、諸国における郵便事業と宅配業の認識の差等を根拠に両者が「同様の状況の下」にないとして、内国民待遇違反はないと判断した[8]。
Methanex事件
カリフォルニア州がガソリン添加剤MTBEの使用を禁止したことによって、原料となるメタノールを生産していたカナダ法人が添加剤ETBEの原料であるエタノールの生産事業者との差別を内国民待遇違反として提訴した[8]。
仲裁廷は、MTBE/ETBEとメタノール/エタノールの商品の違いを根拠として「同様の状況の下」にないとして内国民待遇違反はないと判断した[8]。
Waste Management事件
Waste Management社の現地子会社Acaverdeがメキシコのアカプルコ市と締結した契約では、ゴミ収集サービスを排他的に行うこと、市がゴミ処理場を提供すること、アカプルコ市が毎月支払いをすること等を定めていたが、アカプルコ市が契約違反を行なったとして提訴した[13]。
仲裁廷は、収用に相当する政府による恣意的な介入が無い場合の事業の失敗を補償することは収用規定の機能ではない、投資協定はビジネス判断の誤りに対する保険ではないとしたうえで[13]、アカプルコ市の契約違反の背景にはアカプルコ市の責任だけでなくAcaverdeの事業見通しが楽観的すぎたことがあること、契約違反後もAcaverdeが顧客にサービスを提供し手数料を受け取ることができていたので投資財産(現地法人)の支配及び利用を失っていないこと等を理由として、Waste Management社の訴えを退けた[13]。
Thunderbird事件
米国企業がメキシコでアーケード・ゲーム施設を建設・運営する事業計画を推進していたが、メキシコ政府がゲーム法違反を理由に事業許可を取り消したため、投資に損失が生じたとして提訴した[13][19]。
仲裁廷は、メキシコのゲーム法がギャンブルを禁止していること、当該ゲームにギャンブルの要素が含まれるにも関わらず会社がメキシコ政府にギャンブルの要素がないと説明したことによって許可を得たことを理由として、この許可が公正衡平待遇条項の「正当な期待」を構成しないとして、米国企業の訴えを退けた[13][19]。
濫訴認定事例
Europe Cement事件
ポーランドのEurope Cement社がトルコによるコンセッション契約の終了がエネルギー憲章条約に違反しており、それによって損害を受けたとして提訴した[10]。
トルコ政府がトルコの会社の株式の所有の証明を求めたところ、一転して、Europe Cement社は仲裁手続の中止を求めたが、トルコ政府が反対したため仲裁は継続した[10]。
仲裁廷は、申立人の手続濫用を宣言し[20]、訴訟費用の全額を申立人が負担するように命じた[20][10]。
Cementownia事件
仲裁廷は、申立人の手続濫用を宣言し、詐欺的申立を付託した申立人に手続の全費用を支払うよう命じた[20]。
係争中
フィリップ・モリス事件
たばこ警告表示の強化とプレーンパッケージ化(ブランドやロゴタイプの禁止)を盛り込んだ「たばこ包装規制法」を打ち出したオーストラリア政府を相手どって、米タバコ大手フィリップ・モリスのアジア法人、フィリップ・モリス・アジア(PMA)は、パッケージの知的財産権が侵害されたとして2011年に損害賠償を求めて提訴した。
申立人は、当該規制による喫煙者減少効果の証明がなく、健康保護を隠れ蓑にした外国企業の排除、すなわち、2010年時点で市場シェア37.5%のブランド競争力を不当に削ぐものだとし、その結果として違法タバコが横行する危険性も指摘した[21][10]。尚、2003年時点では、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・オーストラリアが44.5%で、フィリップ・モリスが37.7%であり、外資系のシェアが8割を超えている[22]。当該法律は貿易・知的財産に関する条約上の義務と矛盾しており、規制によって喫煙者が減少するどころか逆効果も懸念されることから、オーストラリア内外の諸企業からも反対の声が挙がっている[21]。
ISDS条項に基づく請求の例
投資協定により投資家に与えられる実体的保護として、内国民待遇、最恵国待遇、公正かつ衡平な待遇、収用の制限といったものがある[23][24]。投資家の国家に対する請求は、これらの保護が受けられなかったことを根拠とするものである。
カナダの製薬会社アポテックス社は、NAFTA第11章に基づき、アメリカ合衆国裁判所の連邦法解釈の誤りによって、NAFTA第1102条(内国民待遇)及び第1105条(国際法に沿った待遇の最低基準[† 5])への違反が生じていると主張して争った。アポテックス社はまた、ファイザー社勝訴とした問題の合衆国裁判所判決は、抗うつ剤「ゾロフト」の後発医薬品へのアポテックス社の投資に対するNAFTA第1110条の収用に当たるものであって、明らかに不当であると主張した[25]。アポテックス社は、国内における明らかに不当な法的判断は、実質的には正義の否定(denial of justice)と同視でき、国際法違反となり得るとの信条に依拠している[26][27]。同社は、プラバコールの簡略化された新薬承認申請と、ブリストル・マイヤーズスクイブ社が有するとされている特許に関連した合衆国の規制条項をめぐり、同様の請求を行なっている。アポテックス社は、異なるジェネリック品をめぐり、2つの訴えを起こしている。もっとも、2011年8月20日時点で、仲裁裁判所はその管轄の所在に関して決定を下していない。アポテックス社は、管轄に関する問題が解決された場合に再度申立てを行う権利を侵害・放棄するものではないとの留保を付した上で、2番目に行った仲裁通知に係る申立てを取り下げた[25]。合衆国政府は上記の請求に対し積極的に争うとしている。
合衆国国民であるメルヴィン・ハワードは、センチュリオン健康事業団及びハワード家の家族信託を代理して、カナダに対し、1億6000万米ドルを請求する旨の通知を行った。同氏は、リージェントヒルズ医療センターに係るプロジェクトがカナダの負うNAFTA第11章の義務に違反するやり方で進められていると主張している[28]。主張の内容として、まず、カナダ政府は、合衆国の投資家に対してカナダ政府を通じた明確な案内を実施しておらず、外科医療サービスといった独占的な医療サービス市場における合衆国の競業者に対して与えられるべき最善の待遇を提供していないことから、カナダの市町村や州を通じて直接的にNAFTA第1102条の義務に違反しているとする。加えて、原告に対して与えられている待遇よりも良い待遇をカナダの投資家に与えていることに照らして、投資家や企業に対するカナダの最恵国待遇違反があるといえ、NAFTA第1103条に定められた義務に反するとしている[28]。この請求は、カナダ保健法により、誰もが自由に利用できる保険適用の対象となる医療サービスを備えていることといった要件が各地方自治体において満たされるようカナダ連邦政府が保障するとされていることに対し、特に異議を呈している。これを受けて、カナダ連邦政府は、同法を通じて、NAFTA第1502条及び第1503条に沿った「国営企業」及び「政府による独占事業」の二つを置くこととなった[28]。
合衆国の農薬製品メーカーであるケムチュラ社は、カナダ政府が、カナダ保健省(PMRA)を通じて、不当にリンデン含有製品(ノミハムシの発生を抑えるため、なたね、からし種子、あぶらなといった作物に使用したり、ハリガネムシ予防のため穀物に使用する)に係る農薬ビジネスを終了させたと訴えている。ケムチュラ社は、NAFTA第1105条(待遇の最低基準)及び第1110条(収用)違反を主張している[29]。
2008年8月25日、米企業ダウ・アグロサイエンス社は、2,4-D成分を含む除草剤の販売と、一定目的の使用を禁じたケベック州の措置により生じたとされる損害について、NAFTA第11章に基づき、仲裁を求める旨の通知を行った[30]。
多国籍たばこ企業は、オーストラリアと香港間の二国間投資協定中の条項に基づいて、オーストラリアが行った、禁煙を目的とするたばこパッケージ規制法案に対する補償を求めた。当該法案は、差別的なものではなく、重要な公衆衛生問題への対処を目的としたものであった[31]。
議論
ISDS条項には、以下のような利点があるとされている。
恣意的な政治介入や司法制度が未確立な国の裁判を避け、公正な手続で第三国において仲裁を進めることが可能となる[32]
投資家とその本国は、投資活動に対して実効的な保護手段を確保できる[† 6]
保護に対する期待から外国からの投資が促されるので投資受入国にとって望ましい[33]
紛争が投資家と投資受入国の間で直接的に処理されるので、国家間の外交関係が損なわれない[33]
投資家の本国にとっては投資家の代わりに外交的保護を行使して相手国に請求を行う必要がないのでコストを削減できる[34]
東京大学大学院総合文化研究科の清水剛准教授は、仲裁廷が適用する国際法の中立性は自明ではないが、投資受入国法と比較して相対的に中立的であると見なしうるとしている[2]。
仲裁コスト
2009年の調査によると、ISDS関連の事件のうち、訴額が10億ドルを超える請求は33件、最も高いものでは500億ドルに上り、そのほかの100件については100ドルから9億ドルが請求されているという[35]。
経済産業省は、相当のコストや期間や現地政府との関係悪化や報道による悪影響を考慮して付託に二の足を踏む企業が多く、結果的に付託事例はインフラ・資源開発など巨額投資が絡むケースが多いとしている[1]。
そのため、投資協定違反に対する問題解決手段は、必ずしも投資仲裁に限定されるわけではなく、弁護士を通じた事前交渉等を行なう場合が多い[1]。
また、投資協定に「ビジネス環境整備小委員会」を設置する例が増えており、これは紛争になる前にビジネス環境を改善する枠組みで、1社だけではない業界全体の問題をまとめて提起できるなどのメリットがある[1]。
仲裁のコストは、金銭的コストとして、まず仲裁機関に支払うべき費用がある。具体的には、仲裁の申立てに2万5000ドル、仲裁判断の解釈、修正、取消しに1万ドル、管理費用として年2万ドル、仲裁人のための日当(1日あたり3000ドル)や事案の複雑性等を考慮して適切と考えられる費用、その他諸々の支払いが必要となる[36]。加えて、多額の弁護士費用の問題もある。ICSID仲裁に比べ、UNCITRAL仲裁ルール等に基づくアドホック仲裁は時間や費用がかさむ傾向があると言われる[1]。仲裁に要した費用は、当事者が特別の合意をしなければ仲裁廷が決定することになっており、敗訴者に全額負担させた例もある[1]。オーストラリア国立大学のキーラ・ティンヘル研究員は、原則として負けた当事者が負担することとされているが、事案の性質等を考慮した上で、ICSCDは、弁護士費用も含めて、これらの費用を当事者双方に分担して支払わせることも可能としている[36][† 7]。2005年のUNCTAD発表によると、投資家・国家間紛争において、投資家にあたる会社が支払った仲裁費用・弁護士費用は400万ドル、政府側にかかった費用は、平均して仲裁費用に40万ドル、弁護士費用として100万~200万ドルであった[36]。
また、時間的なコストについても併せて考える必要がある。紛争解決までに要する時間は、平均3~4年、比較的単純な例でも2~3年はかかり、最長事例になると、申立てから仲裁判断がなされ、その最終的な取消決定まで13年を要している[37][38]。
政府規制
民主主義的な選挙により成立した政府が有する公衆衛生、環境問題及び人権に関連した改革や立法・政策方針を実施するための能力にISDS条項が及ぼす影響について、多くの議論が巻き起こった[39]。
NAFTA加盟国でみると、政府を相手方とした係属中の案件は、現時点で60を超えており、その中には、公衆衛生、環境規制に関わる一連の請求も含まれている[40]。
政府を相手方としたこれらの請求は、そのほとんどが認められずに終わっている[40]。
シドニー大学のパトリシア・ラナルドは、高いコストを伴う投資家からの請求を恐れて規制の立法化がなされなかった例は、カナダにおけるたばこパッケージ法案が提出されなかったケースをはじめ、いくつもあるとしている[40]。カナダ・ヨーク大学のグス・ヴァン=ハートン准教授も、と指摘している[41]。
一方で、適切な環境保護措置を制限しないか、あるいは、環境問題と自由貿易を両立する規定が設けられている協定もある[9]。例えば、NAFTAには、生命や健康の保護において国際標準より厳しい基準を採用することを認め、また、投資促進を目的として健康、安全及び環境の規制を緩和することは不適当とする規定がある[9]。
NAFTAのS.D.Myers事件における仲裁判断では、当事国は高い環境保護レベルを設定する権利を有し、環境保護に偽装した規制を行なってはならず、環境保護と経済発展は相互補完関係にあるべきと判示した[9]。
手続的議論
UNCITRAL、ICSIDといった仲裁廷における手続には、以下のような議論がある。
透明性
UNCITRALが扱った紛争の履歴を保存している組織は現状存在していないため、具体的な紛争に関して公表されている情報はほとんどない[40]。一方、ICSIDでは自らの公式ウェブサイトで、
第1項では、事務総長は仲裁登録情報を含むセンターの運営に関する情報を適切に公開しなければならないとし、第4項では、当事者の同意のない仲裁判断の公表を禁じる一方で、判断の抜粋は速やかに公表するとしている。
清水剛は、ICSID仲裁では仲裁付託の申立は必ず公開され仲裁判断の公開は当事者の合意によるが、法的判断の要約は必ず公開され仲裁判断もかなりの数が実際に公開されているとしている[2]。加えて京都大学大学院法学研究科の濵本正太郎教授が監修した論文では、当事者による公開は禁止されていないので、ICSID仲裁廷の判断の殆どは公表されているとしている[10]。
仲裁廷の構成
ICSIDでは、仲裁廷は当事者の合意により1人または奇数の仲裁人で構成される[42]。
当事者が仲裁人の選定方法等に合意しない場合、各当事者によって任命された各1人の仲裁人と当事者の合意によって任命した仲裁廷長の3名で構成される[42]。
当事者が仲裁人を選定しない場合は候補者名簿からICSIDの議長が当事者の国籍以外の仲裁人を選ぶ[42][1]。
当事者の合意により任命された場合を除き、仲裁人の過半数は当事者の国籍以外の者でなければならない[42]。当事者の合意により任命する場合は、仲裁人は候補者名簿以外から選んでも良い[42]。
ラナルドは、当事者によって選ばれた仲裁人が「仲裁人」であると同時に当事者の代理人としての側面を持っているとして、訴訟における裁判官のような独立性は望めず公衆衛生問題等に配慮した判断は期待できないとしている[40]。
これに対して清水は、中立性条項(UNCITRAL仲裁規則6条4項)、国籍条項(ICSID条約3条、同仲裁規則1条3項、UNCITRAL仲裁規則6条4項、7条3項)、忌避手続(ICSID条約57条,58条,同仲裁規則9条、UNCITRAL仲裁規則10条-12条)等の中立性保証のための様々な手続きが設けられており、仲裁人は中立の義務があり、当事者に十分な機会を与えなくてはならないとしている[2]。
また、ICSID条約51条では仲裁人の涜職(corruption)があった場合の再審を認めている。
先例拘束性
仲裁廷の判断は紛争当事者のみを拘束するものであって、仲裁廷は以前になされた判断に拘束されない[40]。
但し上智大学の横島路子によると、その判断において先例を参照する仲裁裁判例は多いとしている[43]。
上訴制度
ラナルドによれば、仲裁廷の判断に対する上訴制度は用意されておらず、仲裁廷の判断の統一性を図るための手続的な手当てがなされているとはいい難いとしている[40]。
一方で、条約文の細かい差異による判断の非一貫性は想定の範囲である、条約の個別性と多様性を重視すると一貫した解釈は望ましくない、適用法規の解釈が異ならなくても事件の事実評価によっても判断が食い違う、仲裁判断の非一貫性は通常の成長苦であって特筆すべき問題ではない、上訴により訴訟コストや時間が膨大になり簡便な仲裁手段の意義が失われる、上訴により濫訴が増える等の理由で反対意見もあり、OECDの多数国は上訴機関の設置が望ましいとしながらも慎重であり緊急課題とはみなしていない[44]。
清水は、必ずしも投資受入国裁判所に比べて判断の安定性が高いとは限らないが、途上国の裁判所に比べれば判断の安定性は格段に高いと予想されるとしている[2]。
また、手続の重大な瑕疵、仲裁合意に従っていない場合、権限を越えた仲裁判断等において仲裁判断の取消を求めることができるとしている[2]。
悪用・濫訴の可能性
Europe Cement事件(上述)では、Europe Cement社が仲裁対象の会社の株を所有していないとしてトルコ政府が反論すると、突然にEurope Cement社は仲裁手続の中止を求めた。
しかし、トルコ政府が仲裁中止に反対したため継続され、Europe Cement社が証拠を提出できないことを認めたため、仲裁定は訴訟費用の全額(仲裁機関の費用約26万ドル、トルコ政府の弁護費用約390万ドル)をEurope Cement社に負担するよう命じた。
仲裁廷は、この仲裁結果が濫訴防止に役立つとしている[10]。
日本共産党などは、フィリップモリス事件(上述)が世界中で「主権を侵害しかねない」と大問題になっている一例としている[45]。
これに対して、濵本正太郎が監修した論文では、申立人が健康保護措置を隠れ蓑にした外国企業の排除措置であると主張しているように、当該措置が本当に公共衛生を目的としたものか、あるいは、公共衛生を隠れ蓑にした外国企業排除かが争点であって、これを、国家の正当な規制権限が外国企業により不当に攻撃されるとする指摘は的外れだとしている[10]。
各国の対応
日本
経済産業省は、この条項により「恣意的な政治介入を受ける可能性の高い国や、司法制度が未確立な国の裁判所ではなく、公正な手続にもとづき第三国において仲裁を進めることが可能」[32]としている。
内閣官房は、日系企業の投資を進出先国の協定違反による損害から保護するために有効な手段の一つになる、日系企業が損害賠償を勝ち取った例がある、国の制度変更が求められることはない、投資に関する義務違反がなければ賠償が命じられることはない、公的医療保険制度は投資分野の義務から除外されているとしている[46]。
また、個別の食品安全基準の緩和は議論されておらず、WTOの「衛生植物検疫措置に関する協定」(SPS協定)で認められている必要な措置を実施する権限を放棄させられることは考えにくいとしている[46]。
中野剛志、藤井厳喜、佐藤ゆかりらは、上記のSD Meyers事件、Metalclad事件、エチル事件等をこの条項の悪用の事例であるとして、この条項の危険性を指摘している。
これらの指摘に対して、金子洋一と河野太郎は、政府側が敗訴した事例には、政府による外国企業に対する不当な差別が見受けられること、また、日本政府が1978年の日本エジプト投資協定以降に締結した25協定の内、日比EPAを除く24協定には、海外に投資する日本企業の利益保護を目的とした紛争手続の規定が記載されている事実を説明すべきだと述べている[47]。
先進国とのISD条項の危険性の主張に対して、金子洋一は、米国フィリップモリス社が香港子会社を通じて豪州に迂回投資した仲裁付託事例でも香港と豪州の投資協定の保護対象となるように、先進国が日本の他の投資協定を利用して訴えることは可能だが、それでも、わが国が訴えられた例は1つもないとしている[47]。
同様の迂回投資の事例として、野村インターナショナルは、チェコ銀行IPBの株式をオランダ国籍のペーパーカンパニーに譲渡することでチェコ-オランダ投資協定の保護対象とし、その後のチェコ政府の措置により損害が生じたとして賠償を勝ち取っている[48]。
日本とエジプト、スリランカ、中国、トルコ、香港、バングラデシュ、ロシア、モンゴル、パキスタンとの投資協定では、投資家の定義からペーパーカンパニーを除外せず、かつ、ペーパーカンパニーの利益否認条項を置いていない[49]ため、このようなペーパーカンパニーを通じた迂回投資も投資協定の保護対象となる。
オーストラリア
オーストラリア・アメリカ合衆国間の自由貿易協定(AUSFTA)交渉は、オーストラリア自由党のハワード政府によって2003年から進められた[40]。このとき、アメリカは、オーストラリアにおける医薬品給付制度に基づく薬剤価格調整、検疫法、遺伝子組換え食品へのラベリング等の、商品の流通や農業を超えた公共衛生、社会政策等に関わる点を問題とし、その上で法令や政策によって投資財産が害された場合に投資家に政府を相手方として訴える手段としてISDS条項を規定するよう求めたことから、オーストラリアではすさまじいばかりの国民論議が巻き起こった[40]。結果、AUSFTA施行のための法案は医療及びメディア関連箇所の修正を経た上でやっと承認され、ISDS条項は協定の最終合意から除かれた[40]。AUSFTAは、アメリカが締結した二国間投資協定のうちISDS条項を含まない唯一の協定である[40]。
その後も、オーストラリア国内においてISDS条項に関する議論は継続してなされた。2007年に成立したオーストラリア労働党政府の指示により、オーストラリア生産性委員会は、2009年から国民の意見募集や調査を行い、2010年12月に最終レポートを作成、公表した[40][35]。このレポートは、「二国間投資協定や経済連携協定におけるISDS条項はオーストラリアの投資家より実体的・手続的に大きな保護を外国投資家に与えるものであり、オーストラリア政府はこれを協定に含めないよう努めるべきである」としている[40]。
2011年、オーストラリアのギラード政権は、途上国との間で締結する貿易協定に、投資家・国家間の紛争解決条項を入れる運用は今後行わないと発表した。実際に、2012年8月にマレーシアとの間で発効したFTAにはISDSは含まれていない。発表の内容は次のとおりである。「法の下において外国企業と国内企業は同等に取り扱われるべきであるとの内国民待遇の原則は支持する。しかしながら、我々政府は、外国企業に対して国内企業が有する権利と比べてより手厚い法的権利を付与するような条項は支持しない。また、我々政府は、それが国内企業と外国企業を差別するようなものでない限り、社会、環境、経済分野に係る法規を定立するオーストラリア政府の権限を制限するような条項も支持しない。政府は、たばこ製品に、健康に関わる警告文を付す、あるいは無地のパッケージにする等の要件を課すことが可能であり、また、医薬品給付制度を継続していく権限も有している。これらに対して制約を課すような条項は認めていないし、今後認めることもない。過去において、オーストラリア政府は、オーストラリア産業界の要請を受けて、貿易協定を途上国との間で締結するにあたり、投資家と国家間の紛争解決手続条項を規定しようとしてきた。ギラード政府は、かかる運用を今後行わない。オーストラリアの企業が取引相手国のソブリンリスクを懸念するのであれば、それを踏まえて、企業において当該国への投資を行うべきか否かを自ら評価し判断する必要があるだろう。オーストラリアに投資する外国企業は、国内企業と同等の法的保護を受ける権利を有している。しかし、ギラード政府は、投資家-国家間紛争解決条項を通じて、外国企業により大きな権利を与えることはない[50]」
オーストラリアの貿易大臣であったサイモン・クリーンは、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)にISDS条項を含めるべきかという点について、否定的な見方を示している[51]。
オーストラリア国立大学研究員のキーラ・ティンヘルとシドニー大学研究員のパトリシア・ラナルドは、このオーストラリア政府の方針について、投資紛争に関与したことが殆どない国の不可解な政策であるとし、AUSFTA以後の歴代政府がISDS条項を含む貿易協定を締結してきたにも関わらずこのような政策転換をしたのは驚きであるとして、その理由を推測する記事をInvestment Treaty Newsに投稿した[52]。
この二人は、いくつかの法律事務所が非難し、いくつかのNGOが支持しているが、オーストラリアの国内議論は殆ど盛り上がっていないとしている[52]。
また、TPP交渉の場ではアメリカの圧力などによりその方針を維持するのは難しいかもしれないとしている[52]。
韓国
韓国で、2006年から2007年にかけて協議・締結された米韓FTAにISDS条項があるとして、他の条項と共に「毒素条項」という名でメディアに取り上げられて問題となり、米国の要求で米韓FTAにこの条項を入れたと野党が反発した。
これに対して、韓国政府は盧武鉉政権時代の草案にも含まれている、野党が反対する名目とするこの条項は当時の与党が制度の必要性に共感して入れたと反論した[53]。
週刊ダイヤモンド編集部の河野拓郎は、この条項を除き、韓国では「毒素条項」は解釈ミスとして騒動はほぼ収束したとしている。
アメリカ合衆国
連邦裁判所でなく国際法廷が裁くのは「国家主権の侵害」との声が大きくなり、トランプ政権はISDS条項を否定する方針を取っている[54]。
脚注
注釈
出典
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AK-47()とは、ミハイル・カラシニコフが設計し、1949年にソビエト連邦軍が制式採用した自動小銃である。
実戦の苛酷な使用環境や、戦時下の劣悪な生産施設での生産可能性を考慮し、部品の公差が大きく取られ、卓越した信頼性と耐久性、および高い生産性を実現した。
この特性から、本銃はソビエト連邦のみならず、全世界に普及した。基本設計から半世紀以上を経た今日においても、本銃とその派生型は、砂漠やジャングル、極地など、あらゆる世界の地帯における軍隊や武装勢力の兵士にとって、最も信頼される基本装備になり、『世界で最も多く使われた軍用銃』としてギネス世界記録に登録されている[1]。
本記事では、直接の改良型であるAKM、その他7.62x39mm弾を用いるシリーズ製品、および各国で生産されたモデルについても記述する。
開発
元々赤軍戦車兵だったミハイル・カラシニコフは、負傷入院中に銃器設計への関心を強め、1942年から小火器設計に関わる。
1940年代中頃、カラシニコフを含む複数の設計者は、火薬量を抑え反動を軽減した中間弾薬の一種である新型弾薬7.62x39mm弾を用いるセミオートマチック・カービンの設計に着手。最終的にセルゲイ・シモノフの設計案が支持され、1945年にSKSカービンとして採用された。この時、ソ連当局では並行しナチス・ドイツが独ソ戦において投入したStG44と同種の「アサルトライフル」開発を計画。最有力候補は、短機関銃の設計者として著名なアレクセイ・スダエフが手がけた突撃銃だったが、スダエフの死去により頓挫。ほかにも、さまざまな設計案が出たが、戦後1946年、カラシニコフの、AK-46設計案が最初の審査に合格。さらに1年を費やし改良、1948年に最優秀設計案として限定先行量産が決定。そして軍での試験運用を経て、1949年ついにソビエト連邦軍の主力小銃として制式採用[2]。
戦車兵だったカラシニコフは設計の専門教育を受けていなかったため、AK-47設計の際も正しい設計図面を描けなかった。彼に代わって図面を描いたのは、後に妻となる女性技師エカテリーナ・ヴィクトロヴナ・モイセーエフ(Ekaterina Viktorovna Moiseyeva)であった[3][4]。
当初の制式名称は「7.62mm アフトマート・カラシニコバ」であり、「AK-47」の呼称は、後にいくつもの改良型が登場したため、それらと区別するためであった[5]。
構造
AKは、StG44の基本概念を直接継承した製品で、レイアウトにも共通点があるが、閉鎖・撃発機構には米国のM1カービンなどからの影響[6]を受け、その基本構造も独自のものである。
AKは、StG44と同様にロングストロークガスピストン方式を用い、銃身上にガスピストンを位置させた設計を継承し、長いバナナ型弾倉と、ピストルグリップを持つ共通した設計で構成されている。
ボルトを開放/後退させるボルトキャリアは、ガスピストンと一体化したデザインであり、ボルトと一緒に前後動する総重量の大きさから命中精度は悪影響を受けているが、他方でその慣性力とあいまって泥汚れなどにも耐える確実な作動性を実現している。さらに、銃身と薬室の内部、ガスピストン、ガスシリンダー内部には耐腐食性・耐摩耗性に優れたクロムでメッキされ、腐食[注 1]や摩耗を抑えている。
ボルトは、ボルトキャリア内側のカム溝によって、その前後動とともに約35度回転させられ、ボルト先端の突起が銃身基部の切り欠きと嵌合/解除する事で、薬室の閉鎖/解除を行う。ボルトキャリアを前進させるリコイルスプリングは後方に位置し、分解時に飛び出して紛失する事を防ぐため、ワイヤーを折り曲げたストッパーを内蔵させて一定の長さ以上に伸びないよう工夫されている。
撃発機構は大きく余裕を持ったレシーバー(機関部)内の空間に位置し、泥が侵入しても動作に支障が起き難いよう設計されている。ハンマー(撃鉄)などを動作させるスプリングは、極寒の北極圏から灼熱の砂漠地帯まで、変化に富んだソ連全域で使用できるよう、MG42を参考に2本のピアノ線を捻ったものが使用されている。
レシーバー右側面にはダストカバーを兼ねた大型のセーフティレバー兼セレクターがあり、カバーを閉じた状態は安全位置となり、引き鉄がロックされ発射できなくなる他、ボルトも不完全な位置までしか後退できなくなる。セーフティの解除には右手をグリップから離して、親指を使って押し下げる操作が必要であり、解除の次は全自動位置となり、さらに押し下げると半自動位置となるが、グリップから手を離さずに全ての操作が可能な欧米諸国のアサルトライフルに比べて、セーフティ解除から発射まで時間がかかり、操作の際に大きな金属音が出る弱点がある。AKから派生したイスラエル製のガリルは、セレクターと連結したレバーをレシーバー左側面にも設けてある。
銃身と銃身基部の接合は、AK-47ではネジ込み固定とされていたが、AKMでは銃身を圧入した後に一本のピンで固定する方法に改められ、中国製の56式自動歩槍などでは、ほとんど全てがAKMと同じ固定方法を用いている。
銃身途中にはガスポートが穿たれ、ガスシリンダーを取り外すと肉眼で目視できるため、作戦行動中にガスポートが詰まってしまっても、兵士が自力での対応も可能である。
リアサイト(照門)は、ボルトアクション式小銃と同様のタンジェントサイトと呼ばれる種類である。横方向への修正は専用工具でフロントサイト(照星)を調節して行う。M16などの上下左右に微調整できるピープサイトに比べて照準時の精度は低く、使用時の微調整が困難だが、視界が広く、素早く照準を合わせられる利点がある。射程は800mまで対応している。
カラシニコフは設計にあたって、開発当時、専門教育・高等教育を受けていない新兵達にも取り扱いが容易な様に、彼らの気持ちになって様々な工夫をしたと述べている[5]。
1960年代にアメリカ陸軍が作成した資料
1970年にソ連邦軍が作成したマニュアル
1962年にポーランド軍が作成したマニュアル
バリエーション
AK系ライフルは基本設計が優れていたため、改良されながら50年以上、世界の紛争地域で使われ続けている。初期型のものも7.62x39mm弾の対人威力が非常に大きいことから、特に接近戦の多い市街戦などで現役で多用されている。また、東側各国でライセンス生産や模造品の生産が行われ、種類は多岐に渡る。報道等ではいずれも区別せずAK-47やAKと総称されることも多い。
AK-47
AK-47は、7.62x39mmの口径を持つ銃で、実包はバナナ型といわれることもある30発入りの箱型弾倉、または75発入りのドラム型弾倉に収められている。一度弾を込めて発射すると、発射時に発生する高圧ガスを銃口手前から引き込んで、重いピストン・ボルトキャリアーを後方に押し下げ、再び前進する際に次の弾を薬室へ押し出し、自動的に再装填するようになっている。この射撃と送弾を連続的に行うことにより連射が可能となり、AK-47は一分間に600発以上の速度で射撃ができる。
銃床内に、メンテナンス器具が収納可、バットプレート中央に蓋が付いている。
AK-47専用銃剣として、6kh2が採用された。SVT-40に使われていたM1940銃剣の改良型である。銃本体には銃剣取り付け用のラグが無いため、マズルプロテクターの段差と、バレルを利用して固定する。
AK-47は当初、機密扱いの武器であったため、兵士は覆いを被せて持ち運んでいた。
西側ではAK-47を生産時期と特徴から、I型からIII型までの3種に分類している。
I型
最初期のI型では、StG44と同様にレシーバー(機関部)をプレス加工で製造し、強度が必要な箇所にはスチールパーツが溶接ないしリベット打ちで取り付けられていた。しかし、当時のソ連にはプレス加工とリベット加工に必要な技術力が不足していた為、強度不足による不具合が多発した。また、生産コストの削減を目的としたプレス加工も、技術不足により従来の切削加工以上のコストが掛かったという。I型には着剣装置は設けられていなかった。1949年~1953年に、50万丁~100万丁ほどが量産されたとされる[7]。
II型
1953年に設計されたII型では、I型の反省からレシーバーの製造法が旧来の切削加工に変更された。十分な強度が確保されたことで、レシーバーのリベット側面のリベットが無くなった。レシーバー両側の弾倉口近くに設けられた長方形の窪みは、軽量化に加え、暗闇など手元が見えない場合にも弾倉口の位置を示すことを目的としている。そのほか、銃床の取り付け方法やピストルグリップの形状などが変更されている。弾倉もI型はリブが2本付いた表面が滑らかなものだったが、II型では強度確保の為にリブの数が増やされた[8]。
III型
1953年末には、II型をさらに改良したIII型が発表された。III型では、銃床の取付け方式が再び変更され、レシーバーの間のスチールブロック部分が廃止されたほか、後部スリングスイベルが銃床下部からレシーバー左側面へ、前部スリングスイベルがフォアエンド左前からガスブロック部へ移されるなど、細部の改良が施された。III型では切削工程が増えた為、生産コストは安くなかったとされる。弾倉の形状ついては概ねII型と同じだが、下部のリブが横2本から、前部に2本・後部に3本と変更されている。以後1959年の生産終了までこのモデルが製造された。東側諸国を中心に普及が始まったのはIII型になってからで、AK-47と言えば専らこのIII型を指す[9]。
銃本体の重量は各型によって異なり、I型が4,085g、II型が4,125g、III型が3,900gとなっている[10]。
当初の製造はイジェフスク造兵廠のみであったが、軍の要請に応じトゥーラ造兵廠など、生産工場を拡大する。しかし、生産ライン拡大につれて、II型以降のレシーバーの生産性の悪さが問題となった。レシーバーの切削加工は、2.7kgの鉄板を120工程を経て製造、非常に手間がかかっていた[11]。そのため、更なる改良が行われ、AKMに発展する。
AK-47 I型(上)とII型(下)
装着している弾倉はリブが少ない初期型
II型は6kh2銃剣を装着している<br/>側面リベットや弾倉口の窪みの有無、銃床の取付け方式などの差異が見られる
AK-47 II型<br/>装着している弾倉はリブが増加した中期型
6kh2銃剣を装着したAK-47 III型<br/>装着している弾倉は下部のリブに変更が加えられた後期型
AKS-47
AKS-47は、AK-47の銃床を金属製折り畳み式に変更し、携帯性を高めた。名称にある「S」とは、「Skladnoy」の略で、「折り畳みの」の意。この銃床は、レシーバー後端の支点を中心に下方へ回転させて折り畳む方式で、ナチス・ドイツのMP38/40のものと似ているが、バットプレート形状が弾倉に当たらないよう考慮されている。銃床を折り畳んでも射撃可能だが、その状態では銃側面のセレクターレバーを操作しづらいなどの欠点があった。
AKS-47は、空挺部隊やスキー部隊などの特殊部隊に支給、車両部隊やヘリコプターの装備火器としても利用された。さらに、国境警備のKGB部隊にも支給。
銃床を折り畳んだAKS-47
セレクターレバーが銃床によって半ば蔽われている
AKM
AKM(エーケーエム、アフトマート・カラーシュニコヴァ・モデルニジーロヴァンヌイ[12]、、ラテン文字転写:AK Modernizirovannyj、「近代化カラシニコフ自動小銃」の意)は、AK-47の改良型である。
AK-47開発時には技術不足からプレス加工の採用が取り止められたが、1954年には十分に技術が成熟したとしてプレス加工のレシーバーを用いる新型アサルトライフルの開発が始まった。この際にも複数の設計局から様々な設計案が提出されたが、最終的にソ連軍が選んだのはカラシニコフの設計案だった[13]。1957年に試作型がソ連軍に提出され、トライアルの結果、1959年に制式化された[14]。
基本構造はAK-47と同様だが、以下の点が変更されている。
レシーバー(機関部)がプレス加工と切削加工部品をリベット接合する方式で製造され、生産性大幅向上と同時に、重量3,290gと軽量化にも成功。プレス加工の弱点を補い強度を確保するため、レシーバー各所にリブを追加している[14]。弾倉口近くに設けられた長方形の窪みは、小型化されたうえで横長の楕円形に変更された。
連射速度安定化のため、レートリデューサーをシア部分に内蔵。
銃口(マズル)について、試作型ではAK-47と同形状であったが、量産型では銃口(マズル)部分を、発砲時の燃焼ガスが斜め右上に逃げるよう竹槍状に切り落とした形状のマズルブレーキとし、発射時の反動で銃口が上を向かないよう改良された。これは、カラシニコフがAKMの前線視察に行った際、兵士の意見を参考に取り入れたものである[14]。これによって全長が898mm、銃身長436mmとAK-47より若干伸びた。
AK-47では、銃剣取り付け用のラグがなかったため、不自然な方法で取り付けられていたが、AKMでは銃剣用ラグを設けられ、取り付けが容易となった。この銃剣ラグは、のちに開発されたGP-25などのグレネードランチャーが取り付け可能となっている。
AKM用銃剣として採用された6kh3は、多機能銃剣のはしりと言えるモデルで、バックソーや鞘と組み合わせて使用するワイヤーカッターを持つ。更にこのモデルを改良した6kh4が登場し、後にAK-74用の銃剣としても採用された。
初期は、AK-47と同じ合板製グリップと金属製弾倉であったが、後に赤茶色のベークライト製グリップと、オレンジ色のベークライト製弾倉を採用した。グリップにはチェッカリングが付けられ、表面が滑らかだった合板製よりも握り易くなっている。これらの部品は、AK-47のものと共用可能。
生産性や使用環境を考慮し、銃床とハンドガードは従来と同じ合板製を採用。ただし、改良されており、AK-47では若干傾斜していた銃床を、銃身軸線の延長線上に銃床が位置する直銃床として、フルオート射撃時のリコイルによる銃身の跳ね上がりを抑制している。下部ハンドガードについては、リブを追加してホールドし易くした他、レシーバーとの接点にあったスチールブロック部分を廃止し、直接レシーバーと接合している。
リアサイト(照門)に刻まれている射程の目盛りが、AK-47の800mから、1,000mまでの対応と増加した。
後部スリングスイベルをAK-47 III型のレシーバー左側面から、銃床下面に移動。1970年代に入って生産されたものは、銃床左側面の下部に変更され、これは後に生産されたAK-74でも踏襲されている。
上記の変更点はあくまでソ連製のものであり、海外でライセンス生産されたAKMについては、必ずしも踏襲している訳ではない。
現在、ロシア連邦軍ではAK-74など小口径の5.45x39mm弾を使用する小銃が一線級部隊の主流であるが、地方配置されている二線級部隊ではRPK軽機関銃と共に使用されている。一部の部隊では大口径の威力を求め、あえてAKMを使用する例もある[14]。またベトナム軍もak47からakmにカスタマイズするという作業が行われている
AKMの銃身付近の断面図
AKMより採用されたベークライト製の弾倉
AKM(両端)とAKMS(中央)
右寄りの2挺はベークライト製の弾倉を装備<br/>銃剣は左のAKMが6kh3、右のAKMは6kh4を装着
AKMN
AKMNは、暗視装置を装着するためのマウントプレートがレシーバー左側面に付属した、AKMの夜間戦闘型。
AKML
AKMLは、AKMNに、消音効果を高めるため、専用のサプレッサーを装着した型。
マウントプレートにNSP-3暗視装置を、銃口にPBS-1サプレッサーを装着したAKML
AKMS
AKMSは、AKMの銃床を折りたたみ式にしたものである。1960年より生産が開始された[15]。銃床の折り畳み方はAKS-47と同じであるが、AKMと同様にフルオート射撃時の制御を容易にするため、展開時の角度がより水平に近くなっている。AKS-47同様、空挺部隊や戦車兵などが用いる。
東ドイツでは、折畳時にもセレクターの操作を邪魔しないように形状を工夫した右側面折畳式銃床を設計し、AKMSに相当するモデルであるMPi-KMS-72で初めて実装させた。後にルーマニアとポーランドが同一形状銃床装備の派生型を生産したほか、エジプトやハンガリーでも多少形状の違う右側面折り畳み式銃床装備の派生形を生産している。
弾倉を外したAKMS
東ドイツ製のAKMS、MPi-KMS-72
銃床は折畳時にもセレクターの操作部分に覆いかぶさらないような形状をしている
AKMSN
AKMSNは、暗視装置を装着するためのマウントプレートがレシーバー左側面に付属した、AKMSの夜間戦闘型。
AKMSL
AKMSLは、AKMSNに、消音効果を高めるため、専用のサプレッサーを装着した型。
AKMSU
AKMSUは、パキスタンのカイバル峠で製造されたカービン銃である。
銃身を270mmにまで短縮化、それに合わせフォアエンドぎりぎりまでガスピストンとシリンダーを短縮化させたことに伴い、以下の改良が施された。
照準線の長さを確保するため、ヒンジ式にして固定を強化したレシーバーカバー上面に、固定式照門を装着。
ガス圧作動機構の動作を安定させると共に、発射炎で射手の眼が眩まないように、銃口部分に大型のフラッシュハイダー装備。
コントロールを容易にするため、フォアエンドに下部折畳式銃床に干渉しないように形状を工夫した垂直グリップ装備。
AKMSU自体は<b data-parsoid='{"dsr":[12913,12934,3,3]}'>ソビエト連邦で生産されておらず、非正規の派生型であるため存在もあまり知られていないが、その設計は後述のモデルに共通部分が多い。
また、ユーゴスラビア・セルビア製のツァスタバ M92やブルガリア製のアーセナル AR-SFおよびアーセナル AR-M4SFのように、7.62x39mm弾を使用しつつもフォアエンドの形状以外はAKMSUに類似した派生型も生産されている[注 2]。
その他の派生型
RPK(軽機関銃)
RPKは、RPD(軽機関銃)の後継分隊支援火器として1961年に制式採用。AKMから派生した。
PK(軽機関銃)
PKは、AKの発展型としてミハイル・カラシニコフが開発した汎用機関銃で、7.62x54mmR弾を使用する。1961年にソ連軍に制式採用された。
AK-74
AK-74は、AKMの後継となった小口径高速弾を用いるアサルトライフルである。
OTs-12 Tiss
KBP社がAKS-74U(クリンコフ)を9x39mm弾仕様として小改良したもの。リアサイトは後方に移動し、フラッシュハイダーの形状を変え、マガジンを独特のデザインにした。
VEPR
VEPRは、RPKを製造しているモロト社がRPKのレシーバーを使用し、製造したライフルである。このVEPRには大きく分けて2種類存在する。軍などの法執行機関向けのVEPR-12セミオートショットガン、そして民間市場向けのVEPR猟銃である。
サイガ
AKのレシーバーを使ってイズマッシュ社が製造した小銃。VEPR同様、散弾銃とライフルの2種類が存在する。
OTs-14 Groza
AKのレシーバーをストックとする、ブルパップ方式の特殊部隊向けアサルトライフル。"Groza"は、ロシア語で「雷雨」の意。7.62x39mm弾と9x39mm弾を使用する。
BERKUT
KBP社製のAKをベースに開発されたライフル。
VSS
隠密潜入作戦やゲリラ作戦用に従事する特殊部隊向けに開発された、特殊消音狙撃銃。
AS Val
VSS狙撃銃と同一設計のアサルトライフル。
AK-100シリーズ
ソ連崩壊後、ロシアのAK生産拠点は民営化、イズマッシュ社として再出発。現在もAKシリーズの生産、改良を続けており、様々な種類が発表されている。
このシリーズは本質的にはAK-74Mの口径変更型である。
AK-103-4は、7.62x39mm弾を使用するAKシリーズの最新型(AK-47、AKM、AK-103に次ぐ第4世代にあたる)であり、伸縮折り畳み式のストック、ピカティニー・レール、新型のマズルブレーキを装備している。
AK-9
イズマッシュ社が開発した9x39mm弾を使用するコマンドアサルトライフル。ベースはAKS-74U(クリンコフ)で、9x39mm弾を使用することから、スペツナズ(特殊部隊)用に設計されたと思われる。
AK-200
2010年5月にロシアで公開されたAK-74Mを原型に、レールシステムのハンドガードの追加などの改良が行われており、2011年から試験が開始された。2011年中旬にロシア軍は今後、AK-200ではなくピカティニー・レール付きのAK-74Mを継続使用すると発表した。
AK-12
2012年1月にロシアで発表された次世代AK小銃。AK-200の様に現代化を意識しつつシルエットは本来のAKに近づけられている。レシーバーは今までのAKとはかなり異なり、リアサイトはレシーバー後方に設置され、セレクターレバーは小型のものがレシーバー両面に設けられた。ストックは伸縮折り畳み式になっている。使用弾は5.45x39、5.56x45、7.62x39mm、7.62x51が計画されている。
2015年4月、ロシア国防省はAEK-971とともにAK-12の選定を公表した[16]。
各国で生産されたAK
AK-47だけでなく、AKMやRPK、AK-74を基に開発されたものも含む。ただし、SVDやPKMのコピーは含めない。RPKについて詳しくは各国で生産されたRPKを参照のこと。
画像
中国製86S式自動歩槍
ブルパップ構造を採用
東ドイツ製MPi-KMを所持したイラク軍兵士に射撃を教えるアメリカ海兵隊員
東ドイツ製StG-941
ポーランド製Kbkg wz. 1960。銃口にライフルグレネード装着用のソケットアダプターを装着している
ポーランド製AKS-74、Kbk wz. 1988 タンタル
ポーランド製AKS-74U、Skbk wz.1989 オニキス
ポーランド製5.56mm弾仕様AK、Kbs wz. 1996 ベリル
ポーランド製5.56mm弾仕様AKカービン、Kbk wz. 1996 ミニベリル
銃身下部とレシーバー上部にピカティニー・レールを装着している
ハンガリー製AMD-65を構えるアフガニスタン国家警察の警察官
ルーマニア製AIM(PM md. 63)
ユーゴスラビア(セルビア)製AKM、ツァスタバ M70B1(下)
折り畳み式銃床式のツァスタバ M70AB2
ツァスタバ M76狙撃銃(マークスマン・ライフル)
ツァスタバ M92。7.62x39mm弾を使用
セルビア製近代化型のツァスタバ M21
エジプト製MISR
イラク製のタブク狙撃銃
インド製のINSAS
備品
銃剣
擲弾発射器
AKには、銃身の下に擲弾発射器(グレネードランチャー)を取り付ける事ができる。これは、アメリカがベトナム戦争中に開発したM16用のM203のコンセプトを参考に開発された。
GP-25(BG-15)/GP-30
GP-25(BG-15、まれにGB-15)と、GP-30(イジェはGP-34)は、アメリカ製M203の対抗製品として開発したAK用のアンダーバレル式グレネードランチャー。
BS-1
BS-1(チシナー:静寂)は、AKS-74Uのために作られた口径30mmの発射器。専用の空砲を撃ち、その力で擲弾が飛び出す構造になっているため、発射音が小さい。
アルクス製擲弾発射器
ブルガリアのアルクス(ARCUS)では、40x46mm グレネード弾を使用するAK用の擲弾発射機を複数製造している。40A4 EGLMや40 UBGLなどがある[17]。
UBGL-M6
UBGL-M6は、ブルガリアのアーセナル社が製造するM203タイプのグレネードランチャーである。40x46mm グレネード弾を使用する[18]。
RGB-1
RGB-1は、クロアチアのHSプロダクト社が作った40x46mm グレネード弾を使用するグレネードランチャーである。
ZMT wz. 1974
wz. 1974 パラドは、ポーランドのZMT社が製造する。40x47mm グレネード弾を使用するグレネードランチャーである。
GPBO-40
GPBO-40は、ポーランドのデザメット(Dezamet)社が新たに設計した、40x46mm グレネード弾を使用するグレネードランチャーである。派生型として、単独使用を前提としたGSBO-40も存在する[19]。
AG-40 Md80
AG-40 Md80は、ルーマニア製の40x47mm グレネード弾を使用するM203タイプのグレネードランチャーである。40x46mm グレネード弾を使用するタイプもある。
GP-25を装着したAK-107
BS-1を装着したAKS-74U(銃口にはサプレッサーを装着)
wz. 1974 パラドを装着したKbk wz. 1988 タンタル
AG-40を装着したAIMS-74
暗視装置
NSP-2
NSP-3
NSP-2を装着したAKML
NSP-3を装着したAKML
サプレッサー
PBS-1
AK-47用に1960年代に開発されたサプレッサー(サイレンサー)。AKMにも対応するが、AK-74には非対応である。
運用国
一例のみ紹介。紛争地帯などにおいては56式自動歩槍と混合されているものや密造品も含まれている。
Russia
Afghanistan
Angola
Ukraine
Georgia
Cuba
India
Egypt
Sudan
South Sudan
Mozambique
Namibia
Slovenia
Iraq
Iran
Zimbabwe
Libya
Syria
Bulgaria
Hungary
Romania
Serbia
South Africa
Israel
日本での運用
AK-47を研究用として正規輸入品として防衛省内で運用されている。正規輸入価格は89式よりも高額だったといわれている。
特徴と逸話
AK-47は信頼性が高く、扱いが多少乱暴でも確実に動作する。これは、ミハイル・カラシニコフが設計の段階で変化に富んだソ連の気候を想定し、部品同士のクリアランスを大きめに取り、多少の泥や砂、高温または寒冷地における金属の変形、生産時の技術不足による部品精度低下が起きても、問題なく動作するよう考慮したためである。故に極寒地や砂漠地帯の兵士からも信頼が寄せられている。特に機関部は、内側に泥や砂などが入っても、軽く水洗いすれば射撃できるほどである。以下に特徴を挙げる。
ユニット化と故障の少なさ
内部の部品は極力ユニット化されており、野外で分解する際に部品を紛失したり、簡単に故障したりしないように工夫してある。このような銃の頑丈さや簡素化は同時に兵士の負担も減らす。銃を扱うのが初めての人間でも数時間から数日間の講習を受ければ、100メートル先の標的に命中させられるようになるという。
ただし、部品同士のクリアランスが大きいという事は、悪く言えば「組み合わせがタイトでない」ということの裏返しでもあり、同じく世界三大突撃銃に挙げられるG3やM16系列と比較すると、弾丸の拡散率(MOA値)は高いと言わざるを得ない。
初期の曲銃床とマズルジャンプ
マズルジャンプとは、弾丸が銃口から飛び出した瞬間に銃口が跳ね上がる現象で、射撃時の反動から生じる。この現象は通常の銃であれば程度の差はあれ必ず生じるが、初期のAK-47は曲銃床であったため、反動を直に受け止めにくく、マズルジャンプが起こりやすかった。
フルオートマチック時には連続的に反動が生じるため、銃口が連射とともに徐々に跳ね上がり、狙いを定めることが出来なくなる。同様の例はアメリカ軍に採用されたM14でも起き[20]、M14は後のM14A1で、AK-47ではAKMでいずれも直銃床に変更され、より反動を受け止めやすく、制御しやすい構造[注 3]に改良されている。
民族自決と革命の象徴
第二次世界大戦後、弾丸がAK-47と共通する以外は独自設計のVz 58を採用したチェコスロバキアを除くワルシャワ条約機構加盟国や中国・北朝鮮などで採用されて、東側諸国を代表する火器となった[注 4]。
武力によって独立を勝ち取った国家や、政権を奪取した革命政府にとって、AKは戦乱を戦い抜いた頼もしい戦友であり、民族自決や自主独立の象徴でもある。このため、モザンビークやジンバブエ、東ティモールの国章にAK-47の図柄が組み込まれているほどである。特にモザンビークでは、国旗にもAK-47のデザインが取り入れられており、国家以外でも、レバノンのヒズボラ・コロンビアのFARCなどが、組織の旗にAK-47の図柄を取り入れている。
ベトナム戦争での活躍
ベトナム戦争では、ソビエト連邦や中華人民共和国から、北ベトナム軍(NVA)や南ベトナム解放民族戦線(NLF, ベトコン)に向けて、大量のAKが送り込まれた。戦場は熱帯雨林や沼地など過酷な環境で、AKは確実に動作した。
アメリカ海軍の特殊部隊「Navy SEALs」でも、使い物にならなくなったM16自動小銃を棄て、鹵獲品を使用する例があった。
エア・アメリカでも入手経路は不明であるが、自衛用にAKを使用する例があった。
中東やアフリカでの流通
中東では、アメリカが1980年代にムジャーヒディーンに対し武器援助をした際、不正規品の購入に資金を与え、AK-47がこの地域に大量に出回る結果となった。
現在でも、イラク戦争における北部クルド人勢力にはロシア製装備が供与されているほか、治安部隊の装備の大部分は安価な中国製小火器であり、イランなどがイラク各地のシーア派武装勢力に供給している兵器の多くも中国製である。
アフリカ諸国においては、1960年代の独立闘争の際、ソ連や中国の兵器供与を得たが、特にソマリアではバーレ政権崩壊で軍隊から大量の武器が武装勢力など民間に流れ、またリベリアやシエラレオネなど西アフリカでは冷戦終結後の1990年代、リビアの政略によりユーゴスラビアやルーマニアといった東欧諸国などから流入した兵器が親リビア勢力に供与された。これらのAKがあふれた状況は、内戦の終結を難しくしている一因となっている。
現在、アフガニスタンやイラクで活動している特殊部隊や民間軍事会社(PMSCs)の社員には、M16系ではなく7.62mm口径のAKを使う者も多い。これは、信頼性のみならず、7.62mm口径の高威力や、弾薬と部品補給が容易だからでもある。特にPMSCsは軍に比べ部品供給が遅いため、故障・破損しても即座に修理・代替できるAKの人気は高い。
大量破壊兵器の象徴
ソビエト連邦は冷戦期、東側友好国に対して大量のAKを供与した。また、一部の国々に対してはライセンス生産も認めた。このため、7.62mm口径のAKは莫大な数が生産されており、世界で最も大量に生産された小銃といわれている。
金属材料の質や熱処理、加工精度・表面処理が多少悪くても実戦で使用できる品質のものが製造できてしまうため、発展途上国においては海賊版が多数出回っている。アムネスティ・インターナショナルなどの団体によるコントロール・アームズ・キャンペーンは、生産設備が拡散している為に、世界中で不正な武器商人や武装民兵、犯罪者がAK-47を容易に、大量破壊兵器として紛争や貧困を助長していると指摘している。
コントロール・アームズが、2006年に発表した報告書『Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.(AK-47:世界最強の殺人マシーン)』によれば、世界中で約5~7,000,000丁ほどのAK-47が流通しているという[21][22]。同報告書は、これらのAKが多数の武装勢力による紛争、テロリストなどに使用され、発展途上国で多大な被害をもたらしているとしている。
また、開発者ミハイル・カラシニコフ自身も、この様な使用は本意ではなく、「コントロール・アームズ」キャンペーンに寄せた声明の中で、「武器の売買に関する国際的な規制が欠如しているため、小型武器は容易に世界に拡散し、国防のためだけでなく、侵略者やテロリストなど、あらゆる犯罪者に使用されている。私は、テレビで犯罪者がカラシニコフを手にしているのを見る時、どうやって彼らはこの武器を手にしたのだろうかと、自らに問い続けている」と述べている[22]。カラシニコフはAK-47をあくまでも国防の為に設計したのであり、犯罪や紛争に使われている現状をしばしば憂いていた[23]。
2004年、85歳の誕生日を前にカラシニコフは「中華人民共和国などがライセンス切れにもかかわらず、AK製造を続けている。それが紛争地に出回り、AKの評価を落としているのは悲しいことだ」と、朝日新聞社の取材に述べている[24]。
模造品の氾濫
テロリストや傭兵(非戦闘員)が使用しているのは、ほとんどがAK-47の非正規・コピー品である。中華人民共和国の中国北方工業公司は、ライセンス切れのため、改造箇所を根拠に自社製品としてAK系を製造し続け、中には民間向けのスポーツ射撃用のものまである。
2006年の時点で、AKの製造ライセンスを持つのは、カラシニコフが籍を置く後述のイズマッシュ社のみだが、過去にAKのライセンス生産を行っていた国々の大半は製造を継続しており、輸出もしている。さらに、AKは構造が単純で、部品の誤差を許容する設計から密造品も多く、これら不正規品を含めたAKの総数は、1億丁を超えるのではないかと推測されているが、正確な生産規模は把握されていない。
日本においても、オウム真理教が発展型であるAK-74を基に銃密造を企てた(自動小銃密造事件)ことが発覚したが、外観とは別に、銃身内径を正確に切削できず、発射に危険が伴う水準のもので、警察の追及もあって、量産には至らなかった。
イズマッシュ社のウラジミル・グロデツキーは、2006年の製品発表会で「ロシア製のAKは世界全体に流通しているうちの12%程度」と発言している。
パキスタンの連邦直轄部族地域に在るダッラ村では、旋盤などの簡単な工作機械しか持たない「村の鍛冶屋」のような工房で製造されているが、正規品と異なる材質の鋼材を用い熱処理・表面処理も不充分なため耐久性に難があり、連射で銃身が加熱すると溶けはじめる水準の製品である。元傭兵の高部正樹は、ルーマニア製AKM(AIM)は弾倉着脱に難があり、また、何弾倉分か連射すると銃身が曲がってくるなど酷評されていたと語っている。
アメリカ合衆国における流通
信頼性の高さが伝説級ということもあり、アメリカ合衆国でも根強い需要があり、広く流通している。
アメリカの民生市場での流通は、1980年代にエジプト製ARMが輸入されたのが最初とされ、その後は中国製、ユーゴスラビア製のAKが輸入された。やがて中国製銃器輸入は規制されたが、冷戦終結に伴い東欧製AKが大量に輸入され、以後はロシア製を含む、世界各国で製造されたAKが流通することとなった[25]。
1995年には、アメリカ合衆国連邦政府がAKをアサルト・ウエポン規制法(殺傷能力の高い銃規制の時限立法)の対象とし、アメリカ国内において販売が禁止されたものの、2004年に時限法が失効したため、再び販売が再開された(詳細は、アメリカ合衆国の銃規制を参照のこと)。
2010年、フロリダ州の自動車販売店では、トラック1台につきAK-47の引換券を付けて販売したところ、大きく売り上げを伸ばした事により話題となった[26]。
2014年のウクライナ騒乱、ロシアのクリミア侵攻に端を欲する対ロシア経済制裁では、カラシニコフ関連製品の輸入規制も含まれることとなったため、各地の銃砲店で駆け込み需要が生じて、AKの在庫が払底する騒ぎとなった[27]。
脚注
注
出典
参考文献
松本仁一 『カラシニコフ』 朝日新聞社 2004年7月16日 ISBN 978-4-02-257929-4
上記単行本を文庫化『カラシニコフ I』 朝日新聞出版〈朝日文庫〉 2008年7月4日 ISBN 978-4-02-261574-9
松本仁一 『カラシニコフ II』 朝日新聞社 2006年5月3日 ISBN 978-4-02-250165-3
上記単行本を文庫化『カラシニコフ II』 朝日新聞出版〈朝日文庫〉 2008年7月4日 ISBN 978-4-02-261575-6
エレナ・ジョリー(聞き書き) 『カラシニコフ自伝 世界一有名な銃を創った男』山本知子訳 朝日新聞出版〈朝日新書106〉 2008年4月11日 ISBN 978-4-02-273206-4、245頁。
床井雅美 『AK-47&カラシニコフ・バリエーション』 大日本絵画 1991年12月 ISBN 978-4-499-20582-5
マイケル・ホッジス 『カラシニコフ銃AK47の歴史』戸田裕之訳 河出書房新社 2009年6月30日 ISBN 978-4-309-22510-4
ホビージャパン『カラシニコフ・ライフルとロシア軍の銃器たち』
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関連項目
小銃
アサルトライフル
自動小銃
銃の部品
アンドレイ・キリレンコ
モザンビークの国章
SKSカービン
Vz 58
アーマライトAR-18
M16自動小銃
AK-47の基本構造をもとにしたソ連・ロシア製の銃
RPK軽機関銃
PK汎用機関銃
ドラグノフ狙撃銃
AK-74
80.002
AO-38
AO-46
AO-62
AO-63
AO-222
AN-94
イズマッシュ・サイガ12
PP-19 Bizon
外部リンク
virtual tour
- 1960年代にアメリカ陸軍が作成した資料。
| https://ja.wikipedia.org/wiki/AK-47 |
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Planetary-mass moons
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Saturn
Uranus
Neptune
Solar Systemportal
Starportalvt
太陽系の惑星と衛星の発見の年表(たいようけいのわくせいとえいせいのはっけんのねんぴょう)では、歴史上の新しい天体の発見の過程を年表にする。
凡例
以下の表では、惑星の衛星は太字(例:月)で表され、太陽を直接公転する惑星や小惑星はイタリック体(例:地球)で表されている。下記の表は、天体の発見が公表された年の順に並べられている。日付の前の印は、下記の注釈を意味する。
i:最初に撮影された日付
o:最初に観測された日付
p:発見が公表された日付
* 備考:衛星の発見については、定義するのが困難である。確認されるまでに何年もかかったり、一度発見されたものが見失われ、再発見されたりもする。
色の説明
惑星とその衛星は、以下の色で表されている。
惑星
水星
金星
地球と地球の衛星
火星と火星の衛星
木星と木星の衛星
土星と土星の衛星
天王星と天王星の衛星
海王星と海王星の衛星
準惑星とその候補
ケレス
冥王星と冥王星の衛星
セドナ(内オールトの雲)
ハウメアとハウメアの衛星
マケマケ
エリスとエリスの衛星
有史以前
17世紀
18世紀
19世紀
20世紀前半
20世紀後半
21世紀
出典
外部リンク
James L. Hilton,
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E7%B3%BB%E3%81%AE%E6%83%91%E6%98%9F%E3%81%A8%E8%A1%9B%E6%98%9F%E3%81%AE%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8 |
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ω-3脂肪酸(おめが-さん しぼうさん、ω-3 fatty acid、ω3とも表記、オメガ-スリー、Omega-3)または、n-3脂肪酸(n−3 fatty acid)は、不飽和脂肪酸の分類の一つで、一般にω-3位(脂肪酸のメチル末端から3番目の結合の意味)に炭素-炭素二重結合を持つものを指す。
人間の栄養学でω-3脂肪酸の必要性について注目されてきたのは1970年代から1980年代からであり[1]、摂取基準が示されるのは2000年以降となる。栄養素の研究の中でも比較的新しいものである。αリノレン酸はヒトの体内で合成できない必須脂肪酸であり、そこから合成されるドコサヘキサエン酸(DHA)は神経系の機能に関わっている。
生合成
植物及び微生物中では、ω6位に二重結合を作るΔ12-脂肪酸デサチュラーゼ によりオレイン酸の二重結合を一個増やしてリノール酸を生成することができる。さらに植物及び微生物中では、ω3位に二重結合を作るΔ15-脂肪酸デサチュラーゼ によりリノール酸の二重結合を一個増やしてα-リノレン酸を生成することができる[2]。
ヒトを含む動物は、ステアリン酸からオレイン酸を生成するΔ9-脂肪酸デサチュラーゼを有してはいるものの、Δ12-脂肪酸デサチュラーゼもΔ15-脂肪酸デサチュラーゼもどちらも有していないので、リノール酸もα-リノレン酸もどちらも自ら合成することができない。このためこの2つの脂肪酸は必須脂肪酸となっている。
細胞膜は流動性を持ち、脂質や膜タンパクは動いている。この流動性は膜の構成物質で決まる。たとえば、リン脂質を構成する脂肪酸の不飽和度(二重結合の数)に影響され、二重結合を持つ炭化水素が多いほど(二重結合があるとその部分で炭化水素が折れ曲がるので)リン脂質の相互作用が低くなり流動性は増すことになる。例えばDHAは不飽和度が極めて高く細胞膜の流動性の保持に寄与している。
神経細胞は、軸索や樹状突起などの凹凸の多い入り組んだ構造を有しているため、膜成分が極端に多くなっている[3]。
ヒトは、ω-3脂肪酸をデノボ合成することはできないが、18炭素ω-3脂肪酸のα-リノレン酸から20-, 22-炭素の不飽和ω-3脂肪酸を形成することができる。これらの不飽和化の増加は、使用される不飽和化酵素が共通しているためリノール酸から誘導される必須なω-6脂肪酸と競合する。体内で起こるα-リノレン酸からの長いω-3脂肪酸の合成はω-6類似体によって競合的に抑制される[4]。したがって、ω-3脂肪酸が食物から直接得られたとき、またはω-6類似体の量がω-3の量を大きく上回らないとき、組織内での長鎖ω-3脂肪酸の蓄積は効率的である。
健康
以下この段落は、国立がんセンター多目的コホートにて示されたものである。ω-3不飽和脂肪酸の多い魚及びω-3不飽和脂肪酸摂取量が多いグループの肝がん発生リスクは低くなっている[5]。魚を食べても大腸癌のリスクは下がらない[6]。ただし、魚由来のω-3脂肪酸及びトータルのω-3不飽和脂肪酸摂取量が多いグループの結腸癌リスクは低くなる。ω-6脂肪酸およびω-3/ω-6比は大腸癌のリスクと関連がみられない[7]。魚を多く食べるグループで虚血性心疾患のリスクが低下する[8]との研究が有る一方、血中のω3脂肪酸濃度と脳血管疾患発生の関係を調べた観察研究と、ω3脂肪酸サプリの使用と脳血管疾患の関係を調べた無作為化試験においては、有意な関係は見られなかったとする報告がある[9]。全体としては、魚及びω-3系多価不飽和脂肪酸の摂取量と自殺リスクとは関連はない。ただし、女性では魚の摂取量が非常に少ない人で自殺のリスクが上昇する。男性の非飲酒者では、EPA・DHAの摂取量が最も多い群で自殺のリスクが上昇する[10]。多目的コホートここまで。
ω-3脂肪酸の摂取は攻撃性を減少させることと関連している[11]。
神経
シーフードをたくさん摂取するところほど母乳内のDHAは高く、産後うつ病の有病率は低かった。母体から胎児への転送により、妊娠・出産期には母親には無視できないω-3脂肪酸の枯渇の危険性が高まり、その結果として産後のうつ病の危険性に関与する可能性がある。また、うつ病の深刻さと赤血球中のリン脂質におけるω-6のアラキドン酸とω-3のエイコサペンタエン酸(EPA)の比率の間に有意な正の相関が認められた。さらに、健常者と比較してうつ病患者はω-3脂肪酸の蓄積量が有意に低く、ω-6とω-3の比率は有意に高かったことが指摘されている[12]。
海外では報告が行われているが、ω-3脂肪酸の摂取がうつ病の治療に効果があるかという点について、日本でのエビデンスは希薄である[13]。
ω-3脂肪酸が注意欠陥・多動性障害の症状を緩和したという報告がある[14]。アルツハイマー型痴呆とも関連するのではと考えられている[15][16]。
欠乏
小腸切除や脳障害により経口摂取が行えない様な状態下で、「鱗状皮膚炎」、「出血性皮膚炎」、「結節性皮膚炎」、「成長障害」等の欠乏症状が現れる事が報告されている[17]。DHAは精液や脳、網膜のリン脂質に含まれる脂肪酸の主要な成分である。
ω-3脂肪酸の欠乏により学習能力、視力の低下をきたすことが報告されている[18]。
摂取基準
2003年に世界保健機関は、摂取目標を総エネルギーに対してω-3脂肪酸は1-2%、ω-6脂肪酸は5-8%だとした[19]。
国際的に脂質を評価しているISSFAL(International Society for the Study of Fatty Acids and Lipids)[20]は、2004年には、1日あたりのα-リノレン酸の健康的な摂取量は全カロリーの0.7%(2g)、冠動脈の健康のためにEPAとDHAを合計で最低500mgとしている[21]。α-リノレン酸からEPAやDHAに変換される割合は10-15%程度である[12]。
日本人の食事摂取基準(2010年版)では、男性においては前立腺がんの罹患リスクのためα-リノレン酸の過剰摂取は注意が必要とされている。EPA及びDHAについては1日に合計で1g以上の摂取が望ましいとされている[22]。なお、前立腺がんの罹患リスクは、特に乳製品や肉類由来のα-リノレン酸との関連が示唆されている[23]。
ω-3脂肪酸とω-6脂肪酸の望ましい摂取比率は1:1から1:4であると報告されている[24][25]。
含有食品
魚油食品、肝油、ニシン、サバ、サケ、イワシ、タラ、ナンキョクオキアミ等の魚介類は、エイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)のようなω-3脂肪酸に富んでいる。魚やその他の生物に含まれるDHAの多くは、ラビリンチュラ類の1属である Schizochytrium 属などのような海産の微生物によって生産されたものが、食物連鎖の過程で濃縮されたものである。
植物油では、菜種油にはω-3脂肪酸のα-リノレン酸(ALA)が豊富に含まれているものも一部にあり、アブラナ(キャノーラ)、ダイズ、特にエゴマ、アマ、アサなどに含まれている[26]。しかし、市販ツナ缶は有用なω-3脂肪酸源とはならないと指摘されている[27]。
動物性脂肪にも食事から供給されたω-3脂肪酸が微量ながら含まれている。また、α-リノレン酸は広葉植物の葉のチラコイドの膜組織(光合成に関わる)からも得られる[28]。実際、ホウレンソウやチンゲンサイなどの青物野菜からα-リノレン酸が検出されている。ゆえに、葉は草食動物の格好のα-リノレン酸の供給源となっている。家畜の飼料として牧草ではなくα-リノレン酸を余り含有していない穀物のみを与えると動物性脂肪中のα-リノレン酸の含有率(対リノール酸)が大きく低下する。また、母乳や牛乳にもω-3脂肪酸が含まれているが、ω-3脂肪酸とω-6脂肪酸との比率は、母親の食事や乳牛に与える飼料によって大きく変化する。
植物油の脂肪酸組成
植物油の一覧#植物油の脂肪酸組成を参照。一部の植物油のみがω-3脂肪酸を豊富に含む。
サプリメント
植物油、魚油、さらにEPAやDHAを精製した製品がある。剤形はジェルカプセルが多いが瓶詰めの液体としても販売されている。魚油の場合EPA:DHA成分比が1:2や2:1などさまざまである。新鮮な魚を摂取した場合とサプリメントとして摂取した場合を比較した研究では、新鮮な魚(養殖マス)を摂取したほうがサプリメントを摂取するより脂質の改善効果は高いようである。[30]
化学
ω-3(またはn-3)は、炭素鎖のメチル末端から数えて3番目の炭素-炭素結合に初めて二重結合が現れるという意味である。そのためω-3と命名される。
ヒトに必須なω-3脂肪酸は、α-リノレン酸(18:3, ω-3; ALA)、エイコサペンタエン酸(20:5, ω-3; EPA)及び、ドコサヘキサエン酸(22:6, ω-3; DHA)である。これら3種の不飽和脂肪酸は、18, 20, 22の炭素鎖にそれぞれ3, 5, 6ヶ所の二重結合を持つ。すべての二重結合はシス配置である。
多くの天然合成脂肪酸(動物細胞または植物細胞中で合成または変形され、炭素数は偶数)は、それらが容易に変形されるようシス型になっている。トランス型だと炭素鎖がより安定化され、融点が高まる。また、組織中で鎖が凝集したとき、親水性が不足する。このトランス型はアルカリ溶液または数種のバクテリアの反応によって生じる。植物細胞または動物細胞における自然な変換は末端のω-3基にめったに影響を及ぼさない。しかし、ω-3化合物はω-6に比べて末端の二重結合が幾何学的・電気的に露呈しているため脆くなっている。これは天然のシス型において顕著である。
ω-3脂肪酸の一覧
下の表は、自然に見つかるもっとも一般的なω-3脂肪酸の一覧である。
出典
関連項目
亜麻仁油
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%CE%A9-3%E8%84%82%E8%82%AA%E9%85%B8 |
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技術者(ぎじゅつしゃ)とは、工学に関する専門的な才能や技術を持った実践者のことである。類義語で日本の名称独占資格である「技術士」および「技能士」と比べて明確な定義のない呼称で、スキルを持つものの呼び名として工学以外の分野も含め広く用いられている[1]。
技術者に対応する英語として、または同じ意味合いの外来語として、エンジニア (engineer) の呼称も用いられる[1][2]。ただし、日本以外の国においては「エンジニア」の称号には工学士の学位が必要とされるなど明確な制限がある場合が多く、日本語での「技術者」「エンジニア」は、こうした国においては別の職種とみなされる「テクニシャン」(技能者)に相当することも多いため注意が必要である[1][3]。
また別の類義語として「技師」や「技士」も存在するが、こちらは日本では役職名や資格名に用いられることが多い(例、臨床工学技士、臨床検査技師、診療放射線技師、施工管理技士)。
概説
技術者は製造業一般、サービス産業など製品やシステムなど、また農林水産分野など、モノやことを生み出される、生産が伴うすべての産業に存在している。
通常、工学(機械工学、電子工学、情報工学、化学工学など)や理学(数学、物理学など)の分野の知識を持ち、有用な物・工程・システムなどを設計・開発・製造する。
20世紀後半以降、物のなかには具体的な形をもつハードウェアだけでなく、それを使うためのソフトウェアが含まれるようになっている。また、技術者が製作したものを正しく動作させるための運用・保守に関わる職種も技術者に含む。
各種の技術者
技術者は製造業一般、サービス産業など製品やシステムなど、また農林水産分野など、モノやことを生み出される、生産が伴うすべての産業に存在している。
電気工学分野に電気技術者、機械工学分野に機械技術者などと工学分野の数だけ分野ごとの技術者が存在し、自動車技術者、銃器設計者、情報技術者、鉄道技術者、土木技術者などとテクノロジー産業ごとに技術者が存在する。またそれぞれの分野ごとに、調査計画から分析、設計から製作や施工という一連の工程においてそれぞれ技術者が存在するほか、製品の品質管理、維持管理、製造のための設備保守、メンテナンス、ものの修理修繕および修復、施設の運営のためといった業務などに従事する技術者も数多い。
技術者の一例としてパンや菓子を製造する製パン・製菓技術者、被服分野の縫製技術者、ボウリングのドリラー、照明技術者、環境分析技術者、環境保全技術者、搭乗運用技術者、農業技術者、森林・林業技術者、食品製造に従事する食品技術者、洋服など仕立ての技術者、和装式服のしみ抜き技術者、細菌検査技術者、レントゲン技術者、検品技術者、ビル管理技術者(建築物環境衛生管理技術者、ビル管理士、ビル管理者試験)などといった具合で様々である。
さらにはメカニック、そして汎用機オペレータ、CADオペレータなどの「オペレーター」やコンピュータ技術者としてシステム監査技術者、ソフトウェア開発者もソフトウェア技術者という技術者であるほか、コンピューター分野のプログラマー、デザイナーも、他に、ピアノ調律師、楽器製作者、PAミキサー、MAミキサーなど、さらに医療分野の義肢装具士、歯科技工士なども技術者と認識される。
また、技術部門以外の接客業などにおいても「接客技術者」のように技術者という表現を使うケースがみられる[4] 。
その他公務員として奉職する各種の技術者、例えば技術陸曹・海曹・空曹など特殊な任務を負う技術者も存在するほか、宇宙飛行関係者や宇宙飛行士、消防士、警察官(例えば交通管理分野の技術者)などでも、技術者の場合がある。
技術者の定義と実情
「技術者」という呼称に明確な定義は存在しないが[1]、国語辞典『デジタル大辞泉』では技術者を「科学上の専門的な技術をもち、それを役立たせることを職業とする人。技術家」と記述している[5]。
技術者に対応する英語としては「エンジニア」が用いられる。「エンジニア」は、直訳するとエン=拡大する・実践するの接頭語、ジーニア=才能ある人・閃く人の意で、エンジニアリングに対応する語句である。エンジニアリングが工学と翻訳されることからエンジニアを「工学者」とする場合もあるが、日本語においては「技術者=エンジニア」とされることが多い[1][2]。
技術者と技能者
技術者に類似した概念に「技能者」がある[1]。技能者とは、機械の組み立てや精密加工などの、ものづくりの実作業を担当する者を指す。専門知識を応用して成果を出すことは求められない反面、極めて高度な技能が要求されることから、伝統的な職人の概念に近い。技能者の国家資格に技能士がある。ただし技術者は試作といった作業の必要性から、実質的に技能者であることを求められることもあり、優れた技術者は同時に優れた技能者であることが多い。
技能者に対応する英語としては「テクニシャン」が用いられる。テクニシャンは、マニュアルなどにより定められた経験的な実務を行う職種で[1]、新たな問題に挑むエンジニアとは明確に異なる職種とみなされる[2]。エンジニアの指示のもと、エンジニアの補助や実務を行う人々と称されることもあり、例えばアメリカにおいてはエンジニアとテクニシャンでは給与体系も大きく異なり、エンジニアがテクニシャンの仕事をすることは通常ない[3]。
またエンジニアとテクニシャンの中間のポジションとして「テクノロジスト」という職種も存在する[1][2]。テクノロジストに対応する日本語の定訳は存在せず、日本においては技術者の一部とみなされている[1]。
技術者と職階
企業の一部には、日本国内外を問わず、下記の技術者の職階を有することが多い(組織によって名称や階級は一部変わる。)。また旧内務省では、技師・主任技師(現行の技官に相当)という職階が存在していた。
一例として、所長(または工場長) 技師長(所長級技術者) 副所長(または副工場長) 主幹技師(部長級技術者) 主任技師(課長級技術者) 技師(係長級技術者)技師補 など。
組織に所属する技術者は、職場においては横断的に仕事をこなすため、明確な職名が存在しないことが多い。
技術者と科学者
ヨーロッパでは研究者の方が工学技術者より格上であるという風潮がある。これは、もともと貴族が趣味として自然科学を探求し、先導してきた歴史背景があるためと言われ、実際、応用技術より基礎研究に対する関心が強い。
逆にこのような歴史的背景が存在しないアメリカでは、社会での実践を担う技術者(エンジニア)は大きな影響力を持つため地位が非常に高く、管理職(マネージャー)よりも重視される。指導者的な役割を果たすことが期待され、最高経営責任者(CEO)の多くが技術者出身となっている。国内では、学会と社会が断絶構造となっているため、社会的に科学者は名誉しか存在しない。また技術者は手先の器用な低級労働者として認知されている。
近年では学者・研究者であると同時に技術的・実働的な作業も兼ねる現場派 の学者・研究者も増加してきている。技術者は理論的・実験的アプローチにより事前に設定された目標を達成する製品の設計・製作などを目指し、科学者は実験などから得た事象を系統的に整理し、理論体系の構築を目指す。
技術者は、産業界(主に企業)において実用的な技術を担う職務を担う一方で、研究者と言った場合、実用性以前に実現性の有無すら未知の領域を探求する職務であり、技術者とは棲み分けがなされている。技術者は主に産業界に属しているが、研究者といった場合は必ずしも属する組織が限定されない。これは産業界で必要とされる研究と学術界で価値のある研究にも差異があるためである。さらに企業における新製品の研究開発と言う場合は、研究者というより高度な技術者が必要とされる傾向が強い。
学者と言った場合、企業ではなく大学などの学術・教育機関に属している研究者を指すことが多い。これは、教育サービスを提供するがどうかも学者・研究者を区別する一つの基準であることを意味する。
公的な学術機関の場合は、学者ではなく研究者と呼称される。私企業の場合、基礎研究に近い事業に関わっている場合のみ、研究者と呼称される(例: 日亜化学工業 勤務時の中村修二)。
エンジニア
音楽業界においては、レコーディング・スタジオなどでレコード/CD/DVDなどの音楽制作物における音響操作系技術者である「レコーディング・エンジニア」や「マスタリング・エンジニア」の事を単に「エンジニア」と呼称及び表記する事がある。他にも補佐役のアシスタント・エンジニア、ライヴ及びコンサート会場や各種ステージなどでの音響操作担当者は「PAエンジニア」、音響機器製作は「オーディオ・エンジニア」、映像制作関連で画像編集などの作業担当者は「VE(ビデオエンジニア)」などがあり、その場合もエンジニアとだけ呼称及び表記されている場合がある。
音響技術者の一形態でCD-DA(CD)の制作工程においてプリ・マスタリングとよばれる作業に従事する技術者はマスタリング・エンジニアと呼ばれる。
航空従事者のうち、航空機の運航に携わる航空機関士は、航空エンジニア、フライトエンジニア(Flight Engineer,FE)とも呼ばれる。ISSフライトエンジニアなど。
製品等の開発責任技術者をチーフエンジニア、企業に属していない独立したエンジニアをフリーエンジニア、フリーランスエンジニア、その逆をインハウスエンジニア、その他フィールドエンジニア、ファクトリーエンジニア、セールスエンジニア、ゲストエンジニアとそれぞれ呼称される。技術コンサルタントとして従事しているのが、コンサルティングエンジニアであり、これをコンサルティング技術者とは、あまり呼称されない。
またバイオテクノロジーの分野に従事する技術者をバイオ・エンジニア、医療分野に従事するメディカルエンジニア、モータースポーツの世界のエンジニアはレースエンジニア、またラリーなどでのトラック・エンジニアがエンジニアと呼称される。建築分野では、構造部門の構造エンジニア、金融業ではフィナンシャルエンジニアと呼ばれるエンジニアが存在する。
コンピュータの分野では、総称してコンピュータエンジニア、コンピュータ技術者、ITエンジニアなどと呼ばれる。職種によりインフラエンジニア、システムエンジニア、組込みエンジニア(組み込みシステムエンジニア)、ネットワークエンジニア、ウェブ・エンジニア、データベースエンジニア、カスタマーエンジニアなどもある。その他ナレッジエンジニアについてはエキスパートシステムを参照。
生態系エンジニアは、特定の職業人物を表しているのではなく、生物分野のたとえで、エンジニアのような生物、の意味である。ある生物をエンジニアに見立てて呼称している。
シビルエンジニアは建設分野のエンジニアのことであるが、日本では土木分野の技術者の意味で呼称されている。エンジニア・アーキテクトは日本では建築分野の構造家にあたる。
3次元エンジニアは 、日本では3次元をもちいた技術者の呼称のひとつ。モデル・エンジニアリングの分野にも、優れたモデル・エンジニアと称された人物らがいる。
PCエンジンの熱狂的なユーザーのことをかつて「PCエンジニア」と呼んでいた。
インハウスエンジニア
従来は、事業者側にも技術担当が必要な場合は当該技術者がいて、施設管理等の場合自ら一定のメンテナンスをする。これをインハウスエンジニアという。その上で、法定検査等手に余るものについては外部に委託するという体制であった。
つまり、発注者側の技術者として、技術の渉外担当となる。
近年日本で起きた原発事故でみるとおり電力などエネルギー業界等の管理施設では、施設を所有する管理者側のエンジニアと、必要に応じ委託を受けて業務に当たるエンジニアと多重構図をなしている。
昨今では事業者内の技術者はコスト削減の大号令の中でどんどん削減され極端な場合は廃止し、すべてを外部の業者に任せるといった形態になりつつある。
建設業界では、建設サービスの高度化時代、詳細設計は施工業者に設計担当のインハウスエンジニアを抱え、設計を行う場合も多々ある。
技術公務員
官庁にいる技術公務員、インハウスエンジニアは官庁技術者と呼ばれる。日本の場合こうした技術者が、本庁出先あわせ中央官庁内の他地方自治体と地方公共団体、公団や公社、特殊法人、官庁外郭団体である公益法人等々でおり、また組織外からの出向者も多々おり、多重構造をなしている。
日本の公共調達法は明治期の官直営方式時代からの枠組みを戦後もなんとか変化する時代の要請に合わすべく運用面で対処し、会計法規を裁量解釈、拡大解釈で進めてきた経緯がある。戦後は各種技術コンサルタントを誕生させ、官庁での技術業務のアウトソーシングを進ませ、その後も世界中でも官の技術の民間への移行も加速化して進み、官庁技術者集団のスリム化を進行させた。日本においては官内技術者集団でなければ基本的に実施しえないあるいは法規上なければいけない技術業務以外は、今日民間の技術・能力が、実績が積まれ向上していったという経緯がある。
『建設産業事典』(2008年、建設産業史研究会、鹿島出版会)の巻末に掲載されている「用語解説」Technical terminology、インハウスエンジニア(官庁技術者)の項で、旧建設省出身の松浦茂樹東洋大学国際地域学部教授が、社会基盤整備工事にともなう土木事業などは、直轄での河川、砂防、海岸、多目的ダム、国道系道路、国営都市公園、港湾、空港など国土整備と、交通施設整備を担当する国土交通省を中心に上水を担当する厚生労働省、発電工業用水を担当する経済産業省などに工学技術職の技官がおり(その他は文部科学省の文部技官として教育施設の営繕など担当や、農林水産省などの農業土木系・林業土木系・水産土木系の施設を扱うさらには防衛施設庁、警察庁や機構等と、他に各省庁研究所などの研究職での技官がいる)、国土交通省でみると、本省では河川局、道路局、港湾局、都市整備局を中心に配置され、各局長、都市整備局では下水道部長らは、土木技官であり、全国の出先機関として8つの地方整備局や北海道開発局に配属される大多数の技官から技術系の部の部長や局長も技官であること、本省において局長以上の技官ポストは旧建設省の技監と旧運輸省の技術総括審議官があること、建設省発足以来事務次官は事務と交互に就任していること、この省に入省後、基本的に河川、道路、ダム、港等、背番号がつけられ、それぞれ専門家としての道を歩んでいくことを明記している。
参考
国土交通省ホームページ 「国土交通省直轄事業の建設生産システムにおける発注者責任に関する懇談会:中間とりまとめ」2006 年9 月
土木学会編 「日本土木史 昭和16 年~昭和40 年」
国土交通省 関東地方整備局 「オンラインマガジン50年のあゆみ シリーズ2」
国土技術政策研究所 研究総務官兼総合技術政策研修センター長 西川和廣「公共工事の品質確保の取組の方向について」平成18年度
西川和廣「報文:インハウスエンジニアのモデルチェンジ」
財団法人国土技術研究センター「建設生産システムにおける品質確保のための方策検討 報告書」 平成19 年度
財団法人国土技術研究センター「平成18 年度 監督検査体制に関する米国調査」
「カリフォルニア州企業・職業法」
韓国建設管理研究室 先任研究員 朴煥杓 「公共事業における責任監理と建設事業管理(CM)の役割の確立による今後の中長期発展のあり方」 2007 年
世界のエンジニア資格
英語圏の国で名称では、チャータード・エンジニア(Chartered Engineer、CE)とプロフェッショナルエンジニア(Professional Engineer、PE) の二つの勢力がある。CEの方はイギリスでの資格のため、イギリス本土の他アイルランド、また、インド、スリランカ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アラブ諸国といった旧植民地で、CEが使用される。ただし旧英連邦のうちオーストラリア、ニュージーランドでの名称は「Chartered Professional Engineer」とチャータードとプロフェッショナルの言葉を重ねている。他英連邦ではカナダは隣国アメリカ合衆国同様に、PEとしている。
アメリカのPEでは多くの技術部門があるが、独占業務は日本で言う土木分野で、建築分野は構造エンジニアリングだけをPEにしている。プロフェッショナルエンジニアはアメリカの各州が州ごとに設けているエンジニアの公的資格となっており、第1グループ:①化学工学、②土木工学、③電気工学、④機械工学、⑤環境工学と第2グループ:①農業工学、②制御システム工学、③防火工学、④産業工学、⑤製造工学、⑥冶金工学、⑦鉱業/鉱物工学、⑧原子力工学、⑨石油工学 とがある。これを日本ではNPO法人日本プロフェッショナルエンジニア協会日本PE・FE試験協議会がこの資格試験を主催している。プロフェッショナルエンジニアに関連する資格は他に、FE試験と国際認定生産技術者を設けている。
ほとんどの国は技術者資格の英訳自体は「Professional Engineer」を当てている。自国語の技術者資格、例えば韓国は「技術士」、中国は「高級工程師」で英語は「Professional Engineer」としている。日本の技術士も、発足時に英名は「consulting engineer」としていたが、現在は「Professional Engineer」と表現している。
中国語では技術の職を「工程師」と呼ぶが、中華人民共和国で工程師を4段階にしており、エンジニアに相当しているのは高級工程師で、また一種の名誉称号である技術職名制度でエンジニア相当の高級工程師と、建築分野の高級建築師などが、国家工程技術職務条例で定められている。
1985年より名誉称号から仕事の独占資格に適時移行しているが、名称は従来と同様にしている。ただし、独占業務としているのはやはりアメリカや日本同様、建築、土木分野だけである。
中国では、日本の技術士総合管理部門と同等くらいの建設設計技術者は教授級階高級エンジニア、日本の技術士やRCCMなどと同等くらいの高級エンジニア、そしてエンジニア、副エンジニアという具合であり、専門知識人員として国家1級登記構造エンジニア、日本の建築設備士にあたる国家登記公用装置エンジニア、日本の電気設備士にあたる国家登記電気系エンジニア、国家登記の土木(岩土)エンジニア、中国政府認定の予算管理士となる国家登記造価エンジニアといった各専門エンジニアを定めている。なお、建築士に当たるものは国家1級登記建築士と国家2級登記建築士がある。
プロフェッショナルエンジニア(PE)の制度は、分野として機械の専門技術者であるメカニカルエンジニア部門、電気の専門技術者であるエレクトリカルエンジニア部門などが含まれている。
アメリカ合衆国では建設分野では早くから建築家・アーキテクトの制度を存在させているが、それと平行して、土木や建築構造全般に渡る建設エンジニアであるシビルエンジニア部門は、シビルエンジニアリング専門分野として構造エンジニアを表すストラクチュラルと地質のそれを表すソイルの各分野がある。
このストラクチュラルエンジニア(structural engineer)の資格を取る場合は、シビルエンジニア部門の資格を取った上で、さらに2年間の実務経験を積み、各自専門に関する2日間にわたる試験を受け、試験に合格する必要がある。
なお、アメリカのアーキテクト資格は日本の建築士と同様に、建築に関するすべての設計に携わることが認められるが、プロフェッショナルライアビリテイの関係上、実際には小規模建物の場合以外はすべて上記それぞれの専門家に専門分野の部分を任せるのが通常となっている。
このため、州によって異なるが、前述のシビルエンジニア資格者が建築構造の設計をする場合には制限が課せられ、一定高さ以上の建物などは、ストラクチュラル・エンジニアの関与が求められている。事実建築家には、建物の構造が確かかどうかについての責任はなく、建築構造設計技術者であるストラクチュラル・エンジニアの役割となる。
このため建築家は、構造エンジニアを呼んで、かつ建物には電気と機械系の技術者も必要となる。建築業務の場合建築家はチーム内の専門家の内のひとりであっても、建築家だけがクライアントとのやり取り把握をなす。
一方英国では、構造技術分野では、構造技術者の集まりである構造技術者協会は1908年に設立され、1934年に英国王室から正式な認知を受けた王立協会となり、会員数約22000人を有する世界的構造エンジニアの組織となっている。また、英国では建築の見た目の意匠から一歩踏み込み、ファサードデザインと統合させようとする「ファサード・エンジニア」というエンジニアもおり、多岐にわたるエンジニアリングを結集させ構造・構法や材料、設備の選択に際して耐久性や地球環境に配慮し、かつ居住環境や都市環境に良い影響を与えることを目的としている。
世界における技術者の称号
大陸ヨーロッパやラテンアメリカの幾つかの国やトルコなどでは、工学技術者の称号は工学部の学位を持っている者に限り許されている。例え職歴が十分であっても、それ以外の者が使用する事は違法である。
イタリアでは、工学部の学位を持っている者以外では、プロフェッショナルとしての能力試験(Esame di Stato)を課し、これを通過した者がその称号を許される。
ポルトガルでは、プロフェッショナルな技術者の称号と、認定されるその工学学位は「Ordem dos Engenheiros」によって認定されている。
チェコ共和国においては、技術者の称号(lng.)は、化学、工学、さらには歴史的事情により経済学で学士か修士を修めたものに与えられる。
アメリカの全ての州、カナダ、そして南アフリカでは、幾つかの技術者の称号の使用を、法によって規制している。特に"Professional Engineer"、さらに工学分野から派生した工学、例えば土木工学や機械工学専門技術者に対する称号等を規制している。アメリカの州でほぼ全てにおいて、無許可の者が「技術者」を称する事等を禁じている。
IEEEの公式な見解は、工学学位を持ち、十分な技術者としての経験を持った者等が技術者である、としている。
日本においての資格の名称
日本の建設に関する資格一覧、日本の免状一覧、日本の情報に関する資格一覧、日本の工業に関する資格一覧、日本の環境に関する資格一覧、日本の通信に関する資格一覧 などをみてもわかるとおり、技術者資格の名称として、名前の末尾に技術者と付けるものも多く存在する。情報処理技術者(システム監査技術者、応用情報技術者、基本情報技術者)、バイオ技術者、シスコ技術者など。
音響技術者の音響技術者能力検定、下水道管理技師の下水道管理技術認定試験、その他給水装置工事主任技術者、ガス主任技術者、電気主任技術者(電気工作物全般を扱う技術者)、電気通信主任技術者(電気通信ネットワーク全般を扱う技術者)、ダム管理主任技術者、ダム水路主任技術者、ネオン工事技術者、ボイラー・タービン主任技術者などの他、業務遂行するべく定められる主任技術者、管理技術者、監理技術者、電気管理技術者、給水装置工事主任技術者、薬事の責任技術者、搭乗科学技術者、有線テレビジョン放送技術者、原子炉主任技術者、自家用発電設備専門技術者、浄化槽清掃技術者、防火安全技術者などがある。
また統括管理者、無線従事者、清掃作業監督者、貯水槽清掃作業監督者、工事担任者、核燃料取扱主任者、放射線取扱主任者、空調給排水管理監督者、防火管理者、公害防止管理者、エネルギー管理士、冷凍機械責任者など、こうした責任者、主任者、監督者としているものも、技術者が資格取得し従事することが多い。
さらに、自動車整備士、航空整備士、航空機関士、陸上無線技術士、測量士、電気工事士、施工管理技士(土木施工管理技士、造園施工管理技士、建設機械施工技士、建築施工管理技士、電気工事施工管理技士、管工事施工管理技士)ダム管理技士、ボイラー技士、環境計量士、検査分析士、認定眼鏡士、消防設備士、建築設備士など士のつくものに関しても、これらなどは技術者の資格であり技術者が取得している。建築士、ビオトープ管理士も、技術者の資格として認識されている。防火管理技能者は資格条件として、消防法施行令条則第11条の4で防火安全技術者などが講習を受け、効果測定に合格した者と規定されている。
資格取得に際しては、技術士など実務経験を要するものがある。
技術資格者
技術資格者という名称もあり、例として交通工学技術者の資格として、日本では交通工学研究会認定交通技術資格者TOP(Traffic Operations Practitioner certified by JSTE)、交通工学研究会認定交通技術上級資格者TOE(Traffic Operations Engineer certified by JSTE)がある。
米国ではPEとは別にPTOE(Professional Traffic Operations Engineer)があり、全国レベルの資格制度として1999年1月に第1回の資格試験が行われている。資格の認証は,米国交通工学会(ITE)の関連組織であるTPCB(Transportation Professional Certification Board, Inc.)という独立の非営利団体(NPO:nonprofit organization)が行っている。
エンジニアの名称の場合
ほかに末尾に「エンジニア」を付けた名称の資格試験も技術者資格である。
国家資格
過去の情報処理技術者試験にあった。( )内は現行の相当試験。
プロダクションエンジニア試験
システム運用管理エンジニア試験(ITサービスマネージャ試験)
アプリケーションエンジニア試験(システムアーキテクト試験)
マイコン応用システムエンジニア試験(エンベデッドシステムスペシャリスト試験)
テクニカルエンジニア(エンベデッドシステム)試験(同上)
テクニカルエンジニア(システム管理)試験(ITサービスマネージャ試験)
テクニカルエンジニア(データベース)試験(データベーススペシャリスト試験)
テクニカルエンジニア(ネットワーク)試験(ネットワークスペシャリスト試験)
テクニカルエンジニア (情報セキュリティ)試験(情報セキュリティスペシャリスト試験)
情報処理技術者試験の変遷も参照。
民間資格
情報通信エンジニア : 日本データ通信協会認定 国家資格である工事担任者の一部有資格者を対象とする。
CGエンジニア検定 : CG-ARTS協会が実施。文部科学省後援。
家電製品エンジニア : 家電製品協会認定 AV情報家電エンジニアおよび生活家電エンジニアの2種があり、両方を取得すると家電製品総合エンジニアの称号を得ることができる。
CQE(品質エンジニア)資格認定制度
計測制御エンジニア : エンジニアとしての能力を計測自動制御学会が認定する。
医療の世界ではメディカルエンジニアなるエンジニアがおり、国家資格の臨床工学技士の英語標記もMedical Engineerであるが、日本生体医工学会がME(メディカル・エンジニアリング)を検定するME技術実力検定を実施している。これは第1種と第2種に分かれ、検定に合格すると、臨床ME専門認定士という名称の資格が与えられる。この検定は、人工透析機器や人工心肺装置、人工呼吸器といった生命維持管理装置やその他の医療機器の管理・操作・保守に関し、特に保守・安全管理に対する専門知識・技術をもっているかどうかを認定するものである。専門知識をもっているかどうかを認定するものであり、生命維持管理装置に関し実際の現場管理者としての専門家資格は、臨床工学技士であり、装置の取扱い自体は看護師でもでき、ME技術実力検定は看護師、診療放射線技師、臨床検査技師なども受験している。
脚注
関連項目
工学者
日本技術者教育認定機構
生産技術
技術者不足
セールスエンジニアリング
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%80%E8%A1%93%E8%80%85 |
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ベノナ</b>ないし<b data-parsoid='{"dsr":[139,150,3,3]}'>ベノナ計画(VENONA、)は、1943年から1980年まで37年間の長期にわたって、アメリカ合衆国陸軍情報部(通称、後のNSA/アメリカ国家安全保障局)とイギリスの情報機関が協力して行ったソ連と米国内に多数存在したソ連スパイとの間で有線電信により交信された多数の暗号電文を解読する極秘プロジェクトの名称である。ヴェノナ</b>と表記したり、解読されたファイル群を<b data-parsoid='{"dsr":[678,689,3,3]}'>ベノナ文書、もしくは<b data-parsoid='{"dsr":[694,707,3,3]}'>ベノナファイル</b>と呼称する事もある。
概要
本作戦開始以来、半世紀以上に渡って極めて高度な機密として秘匿されてきたが、米ソ冷戦の終結、1991年のソビエト連邦の崩壊などの状況の変化を受け、1995年7月にこれらソビエトスパイの暗号解読文書の一部が公開され、さらなる公開で約3000に上る解読文書が公開された[1]。
現在、これら解読文書の多くは米国CIAやNSAのホームページにて公開されている。
また後年、研究家達によってミトロヒン文書とのすり合わせ検証が行われた。
先立っては「JADE」、「BRIDE」、「DRUG」という名が使用されていた[2]。
詳細
ソ連が一般に採用していた暗号法は、元の文の単語や文字を数字に変換するとともに暗号文解読のための鍵 (ワンタイムパッド法の場合には本文と同じ量になる)を付加する方法であった。正しい使用法をすれば、ワンタイムパッド法で暗号化された文は決して解読できないことが理論的に知られている。しかし、ソ連関係者の一部が暗号化に際して誤りを犯し、一度使用した鍵を再利用してしまった(一度使用した鍵をただちに廃棄するのがワンタイムパッド法の原則である)。これにより、膨大な通信文の一部、又は文書の一部分に限られたが解読が可能になった。
第二次世界大戦末期の1945年5月に、アメリカ軍情報部がドイツのザクセンおよびシュレースヴィヒでソ連の暗号書を発見した[3]。これは、ナチスドイツがフィンランドのソ連領事館を制圧した[4]際に、半分焼け焦げた暗号書を発見しドイツへ送られたものだった。1944年末フィンランド将校から別の暗号書もアメリカに送られたがOffice of Strategic Servicesがソ連に返還した[5]。これがアメリカで活躍するソ連国家保安委員会(当時は内務人民委員部、NKVD)のスパイ網で使用されているものと関連があることがわかった。
また1942年初頭に、ソ連NKVD通信センターは、使い捨て暗号表(ワンタイムパッド)を35,000ページ複製し2組の暗号表を作った。これにより同一暗号で暗号化された通信文が2つあることになった。そのため、アメリカ国家安全保障局(NSA)のメレディス・ガードナーほかの解読者は暗号を破ることができた。
解読は極秘であったが、イギリス情報局秘密情報部(SIS) のアメリカ駐在連絡代表キム・フィルビーがソ連に情報を流したため、ソ連は解読が実施されていることを知っていた。しかし当時フィルビーはSIS長官候補であったため、彼を温存するためにこの情報を利用しなかったという。
暗号突破
暗号突破時に判明したこと。
アメリカの元共産党員であったとの二人は、1948年のアメリカ下院非米活動委員会において、ソ連のNKVD(「内務人民委員部」。KGBの前身)の在米責任者である大佐が、アメリカ政府内にソ連の諜報活動網を構築していたことを指摘した。その内容と、当時財務次官補の要職にあったハリー・ホワイト(太平洋戦争の最後通牒であるハルノートを草稿した人物)が「Jurist(ジュリスト)」「Richard(リチャード)」というコードネームを持つソ連のスパイであった事実が、ファイルの解読で確認された[6]。
解読で判明したこと
注:英語版ではローゼンバーグ夫妻、クラウス・フックス、A・ヒス&H・デクスター・ホワイト、Dマクリーン&Gバージェス、オーストラリアのソヴィエト・エスピオナージの5項目のみの掲載である。
1950年ドイツ出身のユダヤ人、ローゼンバーグ夫妻がマンハッタン計画で生み出された核兵器の製造方法に関する機密情報をソ連に漏洩した容疑で逮捕され、第二次世界大戦後の米国でスパイ事件ローゼンバーグ事件とされた。ローゼンバーグ夫妻は1953年に死刑執行されたが、ソ連に提供された情報は重要度が低かった。また情報により死亡したアメリカ人もいなことから、死刑は赤狩りにあおられた重すぎる判決だという説も根強い。後に公開されたヴェノナ文書群の解析で、ローゼンバーグ夫妻と妻エセルの実弟、デビッド・グリーングラスはそれぞれコードネームが割り振られていたソ連のスパイであったことが確認された。(下記コードネーム一覧表参照)なお、エセルについては、現在も冤罪ではないかという説もある。夫妻の遺児は今もエセルの冤罪を主張し、オバマ大統領にはたらきかけたりもした。遺児の活動は、CBSテレビでドキュメンタリーとして放映された。
A・ヒス&H・デクスター・ホワイト
政府の秘密に関するモイニハン委員会によると、アルジャー・ヒスとハリー・デクスター・ホワイトの共謀は、ベノナによって証明されているとしている。モイニハンは「国務省のAlger Hissの共謀は証明されているようだ」と語った。モイニハン上院議員は、ソヴィエトのスパイとして身元を確認したことについての確信を表明した。内容は「ヒスはソ連の代理人であり、モスクワにとって最も重要だと思われる」というものである。
現在の著者、研究者、建築家の中には、ベノナファイルの証拠が決定的ではないと考えている人もいる
アイバー・モンタギュー
Ivor Goldsmid Samuel Montagu 1904-1984。GRUのスパイ。コードネームはIntelligentsiaとNobility。国際卓球連盟創設者、会長(1926-67)、2代スウェイスリング男爵ルイス・モンタギューの息子、ヒッチコック映画のプロデューサー。MI6でミンスミート作戦(「存在しなかった男」作戦)を指揮したユエン・モンタギューは兄である[7]。
クラウス・フックス
ヴェノナの解読は、原子力関連スパイ、クラウス・フックスの暴露においても重要だった。最初のメッセージの中には、CHARLESとRESTのコードネームで参照されていた、マンハッタンプロジェクトの科学者からの情報が解読されたものもある。1945年4月10日、モスクワからニューヨークへのメッセージの1つは、チャールズが提供した情報を「大きな価値を持っている」としている。
ヴェノナファイルに登場する暗号名
ソ連のスパイ及び協力者一覧
年表
以下はNSAのによる
1943年2月1日-ジーン・グラベルがにてVENONA作戦を始める。
1943年11月-リチャード・ハーロック中尉が初めてソ連の外交暗号の弱点を発見する。フランク・ルイスがこれをさらに広げる。
1943年-VENONA作戦が拡大。F.クーデルト大佐、ウィリアム・B・S・スミス少佐が責任者となる。
1944年11月-KGBの暗号を、セシル・フィリップス、ジュヌビヌーブ・フェインステイン、ルシール・キャンベルが初めて破る。
1945年-ソ連大使館員が亡命[14]。エリザベス・ベントリーとウィテカー・チェンバースが、FBIにソ連のアメリカにおける諜報活動を通報。
1945年5月-アメリカ軍情報部がドイツのザクセンおよびシュレースヴィヒでソ連の暗号書を発見。
1946年7月-12月-メレディス・ガードナーがKGBの暗号書の復元を開始した。解読されたいくつかの暗号文の一つには、原爆に関するものが含まれていた。
1947年8月30日-メレディス・ガードナーが、暗号文に含まれるKGBスパイの偽名についての研究を行う。
1947年9月-G-2のカーター・W・クラーク大佐がFBIのS・ウェルズレイ・レイノルズにアーリントンホールにおけるKGB暗号解読に成果があったことを報告する。
1948年10月19-20日-FBI本部のロバート・J・ランファイアがメレディス・ガードナーと接触を始め、多数の諜報活動の捜査が始まる。
1948年-1951年-VENONAの調査により、ジョン・ダワー、アルジャー・ヒス、クラウス・フックス、、、セオドア・ホール、、ローゼンバーグ夫妻、、ドナルド・マクリーン、キム・フィルビー、ハリー・ホワイト、フランツ・レオポルド・ノイマンなど多くの主要KGBエージェントが特定される[2]。
1952年-1953年-初期のKGB暗号を解読。GRU文書が解読された。その後の20年間に多くのスパイが特定された。
1953年-CIAが公式にVENONAを報告し、防諜活動に協力を始めた。
1960年-イギリスがGRU文書の解読を開始。
1960年-1980年-数百もの暗号文が初めて解読される。初期に解読されたものも再解読される。
1980年10月1日-VENONA終了
1995年7月-VENONA FILEの一部が初めて公開される[1]。
脚注
参考文献
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関連項目
ミトロヒン文書
赤狩り - マッカーシズム
右翼
極右
全体主義
反共主義
暗号研究者の一覧
ローゼンバーグ事件
外部リンク
- CIAとNSAの共同歴史研究(in English)
- アルジャー・ヒスの名がある。
- FBIの文書。Venonaとアメリカの防諜の成熟化というタイトルで、Venonaの調査をするFBIの歴史が書かれている。
- アメリカ国家安全保障局と中央保安局のVENONA文書についてのページ。オリジナル文書が公開されている。(in English)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8E%E3%83%8A |
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ウィリアム・フェルトン・ラッセル(William Felton "Bill" Russell、1934年2月12日 - )は、アメリカ合衆国ルイジアナ州モンロー出身の元バスケットボール選手。身長208cm(206cmとも)、体重102kg。1950年代から1960年代にかけてNBAで活躍した伝説的選手であり、ボストン・セルティックスを11回の優勝に導いたことで知られる。恵まれた身体能力と抜群のバスケセンスを武器にリバウンドやブロックショットで才能を発揮し、特にディフェンスの側面では競技に革新的な影響をもたらしたとされ、しばしば歴代最高のディフェンダー、延いては史上最も偉大なバスケットボール選手の一人にあげられる。
サンフランシスコ大学時代に全米大学トーナメント(NCAAトーナメント)を連覇、1956年メルボルンオリンピックでは金メダルを獲得し、NBAファイナルは八連覇を含む11回の優勝と当時のアメリカバスケットボール界の主要タイトルを全て制覇しており、特にNBAファイナルは彼のNBAキャリア13年の間で優勝を逃したのはわずか2回のみで、古今あらゆるNBA選手の中で彼以上にチャンピオンリングを持っている者は存在しない。個人でもNBAオールスターゲーム出場12回、シーズンMVP5回、オールNBAチーム選出11回。ディフェンスに長けた選手だったが、当時は守備関連の賞が充実していなかったためオールディフェンシブチーム選出は1回のみ、またファイナルMVPも彼が引退する年に創設されたため受賞することはなかったが、2009年にはラッセルの功績を讃えてファイナルMVPは彼の名を冠した「ビル ・ラッセル・NBAファイナルMVP賞(Bill Russell NBA Finals Most Valuable Player Award)」と改名された。NBA25周年、35周年、50周年に発表されたオールタイムチーム全てに名を連ね、1975年にはバスケットボール殿堂入り、2007年にはFIBAバスケットボール殿堂入りを果たした。背番号『6』はボストン・セルティックスの永久欠番となっている。
現役最後の3年間は選手兼コーチとしてセルティックスを指揮し、現役引退後もシアトル・スーパーソニックス、サクラメント・キングスのヘッドコーチを歴任した。
ラッセルの功績の中で特筆すべき点として、11回の優勝に代表される選手としての功績だけでなく、当時リーグの内外で蔓延していた人種差別に毅然と立ち向かい、アフリカ系アメリカ人選手の地位を向上させた公民権運動家としての功績があげられる。ラッセルは黒人初のNBAスター選手であり、またアメリカ四大メジャースポーツ初の黒人ヘッドコーチだった。一方でラッセルは差別に過剰に反応するあまり地元メディアやファンも攻撃し、ボストンに多くの栄光をもたらしたにもかかわらず、市民や記者とは険悪な関係が長年続いた。
生い立ち
ビル・ラッセルことウィリアム・フェルトン・ラッセルが生まれたルイジアナ州ウェストモンローは厳格な人種隔離政策が敷かれていた地で、幼い頃のラッセルの身近にも様々な人種差別が取り巻いていた。ラッセルが8歳の頃、周囲の多くの黒人が第二次世界大戦中のこの時期に職を求めてオークランドに移住したのに倣い、ラッセル一家もオークランドに引っ越したが、この移住計画は上手くいかず、一家は貧困に陥り、ラッセルは幼少期の大半を低所得者向けの公営住宅で過ごした。ラッセルが12歳の時には母が亡くなり、彼は悲しみに暮れたが、父、チャーリー・ラッセルは製紙工場管理人、トラック運転手、製鉄所工員と職を転々としながらも一家を支え、幼い頃のラッセルのヒーローとなった。
後に偉大なバスケットボール選手となるラッセルだが、少年時代のラッセルはあまり将来有望なバスケ選手には見えなかった。走力も跳躍力もあり、バスケには有利な大きな手も持っていたが、試合に対する理解度が足りず、中学時代はチームから追い出された。マククライモンズ高校2年の時にもチームから追い出されかけたが、コーチのジョージ・パウルスがラッセルの才能を見出し、彼に基礎から取り組むよう奨励した。白人の口からは差別的な発言しか聞いたことがなかったラッセルは、白人コーチの教示を喜んで受け入れた。ラッセルは熱心に練習に励み、後にバスケット界に革命をもたらすことになるディフェンススタイルの基礎を学んでいくことになるが、高校在学中の間に彼の才能が開花することはなく、無名選手のまま高校卒業の時期を迎えた。なお、高校時代のチームメイトに後のアメリカ野球殿堂入り選手、フランク・ロビンソンがいる。また当時のラッセルの憧れのバスケット選手はジョージ・マイカンであり、高校在学中には面会する機会も与えられた。
サンフランシスコ大学
地元のサンフランシスコ大学(USF)のハル・デ・ジュリオが高校の試合でラッセルを目撃するまで、ラッセルは全くの無名選手であり、彼のもとには一つの勧誘の話もこなかった。ラッセルはジュリオの目にでさえ、得点能力に乏しく、根本的に酷い、と映ったが、ジュリオはラッセルが特にクラッチタイムにおいては素晴らしい才能を発揮することを発見し、彼に奨学金の提供を申し入れた。ジュリオによるラッセル発掘は、ラッセルの人生の分水嶺となった。
USFのバスケットコーチ、フィル・ウールパートはラッセルを先発センターに抜擢。ウールパートが標榜するディフェンスに主眼を置いたハーフコートバスケットはラッセルの燻っていた才能を大いに引き出すことになる。またウールパートは皮膚の色に頓着しないコーチで、USFの先発にはラッセル、そしてラッセルの生涯の盟友となるK.C.ジョーンズ、ハル・ペリーの3人の黒人選手がいた。
ウールパート指導のもと、ラッセルが確立したプレイスタイルは当時は非常に珍しいものだった。ラッセルは本来守るべき敵チームのセンターを常にはマークせず、積極的に前へ出てヘルプディフェンスに回った。センターが主な得点源だった当時のバスケットにおいてセンターをフリーにすることは自殺行為に等しかったが、センターとしての長身にガード並みの脚力を備えるラッセルは、この戦術により彼の生涯最大の武器となるブロックショットを身に付け、敵チームの大きな脅威となり、ラッセルは瞬く間にカレッジバスケ界の新星となった。ある試合でラッセルがホリー・クロス大学のスター選手で、後にボストン・セルティックスでチームメイトとなるトム・ヘインソーンを無得点に抑えた時は、メジャースポーツ誌、『スポーツ・イラストレイテッド』は「もしラッセルがシュートを打つことを覚えたならば、ルールを書き換えなければならなくなる」とラッセルの能力を絶賛した。
バスケットの才能を一気に開花させたラッセルだったが、大学生活においても人種差別の問題に直面した。黒人選手を多く擁するUSFは彼らがただ黒人という理由だけで常に嘲笑の対象だった。一つの顕著な例として1954年のNCAAトーナメントで、訪れた町のホテルではUSFの選手のうち黒人選手だけ宿泊を拒否されたため、白人選手も含めた全員が宿泊を取りやめ、閉校された大学の寄宿舎に泊まった。辛い出来事ではあったが、この事件がかえってUSFの結束を強め、USF男子バスケットボールチームの黄金期を築くことになる。
インサイドにラッセル、ペリメーターにやはり優秀なディフェンダーだったガードのK.C.ジョーンズを擁するUSFは無敵を誇り、1955年から1956年にかけて55連勝を飾り、NCAAトーナメントも連覇した。特にゴール下に陣取るラッセルのディフェンス技術は全米のカレッジバスケ界に轟き、伝説的なコーチ、ジョン・ウッデンは「私が出会った中で最も偉大なディフェンシブマン」と評した。ラッセルのUSFでの3年間の成績(当時は1年生は公式試合には出場できないので、2年生から4年生までの成績が公式記録となる)は、平均20.7得点20.3リバウンドだった。
大学時代はその身体能力を活かして陸上選手としても活躍した。440ヤード(402m)走では49.6秒を記録。走高跳では『トラック&フィールド・ニュース』誌において1956年の世界ランキング7位にランクされ、同年にはアマチュア・アスレチック・ユニオンの複数の大会で優勝し、うち一つの西海岸競技大会では彼の自己ベストとなる206cmを記録している。
大学を卒業する頃にはハーレム・グローブトロッターズからの勧誘を受けたが、ラッセルはNBAドラフトへのエントリーを決意した。
ラッセルの指名を巡って
1950年代前半のボストン・セルティックスはレッド・アワーバック指揮のもと、毎年アシスト王になっていたボブ・クージー、フリースローの名手だったビル・シャーマンと、リーグを代表する選手2人をバックコートに、インサイドにはやはりリーグを代表するセンターだったエド・マコーレーを擁し、プレーオフ常連のチームではあったが、優勝には程遠く、中堅チームとして長らく燻っていた。優勝するために最後のピースを探していたアワーバックにとって、カリフォルニア大学のビル・ラッセルは究極のチームプレイヤーのように見えた。ラッセルのタフネスとリバウンド力はセルティックスに欠けていたものだったのである。このアワーバックの考えは、当時のバスケ界では異端とされていた。当時のセンターはあくまでチームの主要な得点源であって、ディフェンスなどは二の次であった。
ぜひともラッセルを欲したアワーバックだったが、セルティックスがラッセルを指名できる確率は低いように思えた。彼らがラッセルがエントリーした1956年のNBAドラフトで持っていた指名権はとても低いもので、彼らの順に回ってくるまでにラッセルが指名されずに残っている可能性はほぼ無かった。さらにアワーバックはセルティックスが持つ1巡目指名権を放棄し、地域指名でトム・ヘインソーンを指名する予定だったため、彼らがただ座して待っているだけでは、ラッセルを指名できるのは不可能だった。そこでアワーバックでは、ある取り引きを行うことでラッセルをまんまと手中に収める事に成功する。この取り引きは毎年指名権を巡って熾烈な駆け引きが行われるNBAドラフトの歴史において、最も巧妙な取り引きの一つとなり、またセルティックス史上、さらに史上類を見ない王朝チームを築き上げたという点においてはNBA史上最も重要な取り引きの一つとなる。
まず、アワーバックはこの年の全体1位指名権を持つロチェスター・ロイヤルズはラッセルを指名しないと踏んだ。何故ならロイヤルズにはすでにモーリス・ストークスという屈強なビッグマンがいるためラッセルを指名する必要はなく、また彼らは優秀なシューティングガードを探しており、さらにラッセルの要求する25,000ドルの契約を払う気がなかったからである。そしてアワーバックが目を付けたのが2位指名権を持つセントルイス・ホークスだった。ホークスはラッセルを指名する予定だったが、彼らにはドラフト候補生以外でもう一人欲しい人材が居た。セルティックスのセンター、エド・マコーレーである。マコーレーはセントルイス生まれのセントルイス育ち、セントルイス大学の出身で、ホークスにとってはこの地元出身のスター選手を是非とも招き入れたかった。またマコーレー自身も病気がちの息子のためにセントルイスに帰りたいという希望を持っていた。相思相愛となったセルティックスとホークスは、ホークスにラッセルを指名してもらい、後にマコーレーとのトレードでラッセルがセルティックスに入団するという手はずを整えた。その後ホークスはセルティックスの足許を見てマコーレーに、クリフ・ヘイガン(セルティックスに指名された後2年間の兵役に就いていた為、NBAではまだプレイしていない)も加えるよう要求し、セルティックスはこの要求を渋々呑んで、ビル・ラッセルに対し、エド・マコーレーとクリフ・ヘイガンというトレードが仮成立した。
そしてドラフト当日。1位指名権を持つロイヤルズは、アワーバックの目論見どおり、ラッセルではなくドゥケイン大学のシー・グリーンを指名。そしてホークスは約束通り、2位指名権を使ってラッセルを指名した。そして直後にセルティックスとのトレードが交わされ、ラッセルはめでたく、セルティックスに入団したのである。さらにセルティックスは当初の予定通りに1巡目指名権を放棄して地域指名によってトム・ヘインソーンを指名。さらに2巡目指名権を使ってラッセルと同じUSF出身であるK.C.ジョーンズを指名。アワーバックはたった1度のドラフトで、後に殿堂入りする選手3人を手に入れてしまったのである。
アワーバックはラッセルを入団させるために多大な労力を払ったが、彼の選択はセルティックスにとっては最高の選択となり、そして他チームにとっては悪魔の選択となる。ラッセルのセルティックス入団により、ここにボストンに数々の栄光を、他の地にはそれと同数の挫折をもたらす王朝チームが完成したのである。なお、互いに満足のいく取り引きを行ったセルティックスとホークスだが、新シーズンを迎えると一転して激しいライバル関係を演じることになる。
メルボルンオリンピック
セルティックスにとっては待ち望んだラッセルの入団だが、彼らは暫くお預けを食らうことになる。ラッセルがアメリカ代表チームのキャプテンとして、1956年メルボルンオリンピックに出場したからである。オリンピックが開催される11月の時にはすでにセルティックスと契約を結んでいるため、国際オリンピック委員会からはもはやアマチュアではないラッセルの出場を問題視する意見もあったが、彼の出場は無事認められ、またラッセルにもセルティックスに新シーズン開幕から参加する選択もあったが、オリンピック出場を選んだ。なお、ラッセルはもし代表チームで冷遇されるようなことがあれば、走高跳での出場も考えていたという。ジェラルド・タッカーコーチのもと、ラッセルに彼の同窓生K.C.ジョーンズも加わった代表チームは平均53.5点差をつけて他国を圧倒、決勝での対ソ連戦では89-55で完勝し、見事に金メダルを獲得した。ラッセルはチームのリーディングスコアラーとして活躍し、平均14.1得点を記録、K.C.ジョーンズも10.9得点をあげて金メダル獲得に貢献した。
ボストン・セルティックス
金メダルを手土産にボストンにやってきたラッセルは、1956-57シーズンの途中から試合に参加し、1956年12月22日にNBA公式戦デビューを迎えた。対戦相手は皮肉にもラッセルをセルティックスに入団させたセントルイス・ホークスだった。アワーバックHCはラッセルに対し、当時リーグ最高峰のスコアラーだったホークスのエース、ボブ・ペティットをマークするよう命じた。そしてルーキーはこの日のプレイで彼のマン・ツー・マン・ディフェンスとブロックショットのレベルの高さを、ボストン市民に認識させた。
Hey, Bill!
ラッセルが加入した当時のセルティックスはリーグ1位の得点力を持つ代わりに、ディフェンスは失点でリーグワースト1位と、オフェンスのみに重点を置いた極端な戦力バランスとなっていた。セルティックスが優勝するにはこの戦力の不均衡を是正する必要があったが、そんな時に現れたラッセルは正にチームに劇的な変革をもたらす改革者だった。
アワーバックはチームの戦術に変更を加え、チームに攻撃的なディフェンスを仕掛けさせ、相手チームにターンオーバーを強いることで、セルティックスが最も得意としたオフェンスパターンである速攻を、より容易に出させようとした。攻撃的なディフェンスはかえってディフェンスに隙を生じさせ、相手のドライブを容易にしてしまう可能性があるが、アワーバックとセルティックスの選手たちはペリメーターのディフェンスラインを突破されようとも、慌てる必要はなかった。何故なら彼らが突破した先には、ビル・ラッセルが待ち構えているからである。ラッセルは言わばヘルプ・ディフェンスのエリートだった。その長身には似つかわしくない俊敏性を誇るラッセルは、チームのディフェンスに隙間が生じればすぐさまカバーに行き、味方が不利と悟れば援助に走ってダブルチームに付き、たとえディフェンスラインを突破されても、ラッセルの最大の武器であるブロックショットで敵のシュートを次々と叩き落した。ラッセルが後ろに控えているという事は、チームメイトのディフェンスをよりアグレッシブにさせた。たとえ抜かれても、ラッセルが止めてくれるという信頼があったからである。そしてよりアグレッシブになればよりターンオーバーを引き出すことができ、より簡単に速攻を出すことができる。もしシュートを打たれても、外れたらそのリバウンドは必ずラッセルが拾う。彼が拾えば、即ちそれは速攻のチャンスとなる。後に無敵を誇ることになるセルティックスの攻防一体の戦術は、全てがラッセルを基盤としていた。このセルティックスの戦術は、『Hey, Bill!』と呼ばれた。ディフェンスにおいてチームメイトがラッセルの助けを必要とした時、ラッセルをこう呼ぶことから名づけられた。またラッセルのブロックショットはスポーツブランドのウィルソンが「敵シューターの顔面に押し込むようだ」と評したことから、『ウィルソンバーガー』と呼ばれた。
1年目からセルティックスの大黒柱となったラッセルは1956-57シーズンを14.7得点19.6リバウンドの成績を残し、平均リバウンドはリーグトップだったが、当時のリバウンド王は平均ではなく通算で決められており、オリンピック出場のために24試合を欠場したラッセルは1年目でのリバウンド王の栄誉は逃した。
ニューヨーク・ニックス戦では問題行動を起こした。この試合でニックスのレイ・フェリックスから絶えず挑発行為を受けたラッセルは、アワーバックに相談したところ、「自分で対処するように」と言われたため、再びフェリックスから挑発を受けたとき、殴ってフェリックスを黙らせた。当然悪質な行為として25ドルの罰金を課せられた。また同じルーキーのチームメイト、トム・ヘインソーンとはやや険悪な関係となった。このシーズンの新人王を獲得したのはラッセルではなく、チームメイトのヘインソーンだった(評価はラッセルの方が上だったが、シーズン前半の欠場が響いた)。納得いかないラッセルは、ある時ヘインソーンがいとこのためにサインを書いて欲しいと頼まれても断り、またある時はヘインソーンが新人王の賞金として貰った300ドルの半分を自分が得られる権利があると主張した。2人のルーキーは暫く打ち解けることはなかったが、ボブ・クージーとは人種の壁があったにもかかわらず、良好な関係を築くことができた。
最初の優勝
個人としてはやや不満の残る1年目のシーズンとなったが、チームはラッセル効果により歴代2位の勝率となる44勝28敗の好成績を残し、レギュラーシーズンの勝率ではリーグトップとなった。
第1シードで臨んだプレーオフデビジョン決勝(当時の第1シードはデビジョン決勝から参加)ではドルフ・シェイズ率いるシラキュース・ナショナルズと対決。ルーキーのラッセルはプレーオフデビュー戦でいきなりリーグを代表するビッグマンとのマッチアップを任せられたが、16得点31リバウンド7ブロック(当時はブロックを計測していなかったため、公式記録ではない)という堂々たる数字を残し、セルティックスを108-89の完勝に導いた。勢いに乗ったセルティックスは3戦全勝でナショナルズを破り、念願のNBAファイナルに進出する。
ファイナルでは因縁のセントルイス・ホークスと対決。実力伯仲の両者は最初の6試合をそれぞれ3勝分け合い(第3戦ではアワーバックが緊張のあまり同僚のベン・ケルナーを殴り、300ドルの罰金を課せられるというハプニングが起きた)、シリーズは第7戦に突入。この大一番でラッセルはホークスのエース、ボブ・ペティットを懸命に抑え込んでいたが、試合の主役はこの日37得点をあげたトム・ヘインソーンだった。ラッセルが後に『コールマン・プレイ』と呼ばれるブロックショットを繰り出すまでは。100-101とセルティックスの1点ビハインドで迎えた第4Q、残り40秒。ミッドラインからのスローインを受け取ったホークスのジャック・コールマンのシュートを、ベースラインに立っていたはずのラッセルが何処からともなく飛んできて、見事にブロック。さらにラッセルは自ら速攻に走って、土壇場でチームを逆転に導くシュートを決めた。その後ペティットの執念でホークスに追いつかれたため、試合はオーバータイムに突入。さらに2つ目のオーバータイムを重ねたが、セルティックスはホークスの懸命の追撃を振り切って、125-123で勝利。この試合で19得点32リバウンドに加え、第4Qでチームを救う名ブロックショットを叩き出したラッセルは、NBA1年目にしてチームを初優勝に導いた。しかしこの優勝は後に続く栄光の時代の、ほんの序章に過ぎなかった。なお、この年のセルティックスには大黒柱のラッセル、プレイメーカーのボブ・クージー、名シューターのビル・シャーマン、得点力に長けたフォワード、トム・ヘインソーン、名シックスマンのフランク・ラムジー、優れたディフェンダーのジム・ロスカトフと、後にセルティックスのアリーナの天井を永久欠番のバナーで飾る選手が6人も居た(K.C.ジョーンズは兵役に就いていたため、このシーズンは参加せず)。
翌1957-58シーズン、開幕からフル参戦したラッセルは16.6得点22.7リバウンドをあげて初のリバウンド王に輝き(平均20リバウンド突破は史上初の快挙)、オールスターにも初選出され(ラッセルは引退する年まで12年連続でオールスターに出場する)、チームも前年に引き続き49勝23敗と好調を維持した。奇妙なことはレギュラーシーズン終了後、各賞の発表で起こった。2年連続でチームを勝率リーグトップに導き、自身も会心の成績を残したラッセルは、NBA2年目で早くも<b data-parsoid='{"dsr":[11031,11067,3,3]}'>一つ目のシーズンMVPを獲得</b>するが、オールNBAチームでは2ndチームの選出だった。選考員はMVPを受賞したラッセルよりも、まだ優秀なセンターが居ると判断したのである(1stチームのセンターはドルフ・シェイズだった)。この現象は後も繰り返し起こる事になる。
とは言えたとえラッセルより優秀なセンターが他に居ようとも、ラッセルがセルティックスに居ることが肝心だった。勝率リーグトップの成績を残したセルティックスはデビジョン決勝でフィラデルフィア・ウォリアーズを破ると、NBAファイナルでは2年連続で宿敵セントルイス・ホークスと対決。セルティックスにはミネアポリス・レイカーズ以来となる連覇の期待が掛かったシリーズとなったが、1勝1敗で迎えた第3戦で不幸が襲った。ラッセルがリバウンドの着地でペティットの足を踏んでしまい、足首を捻挫してしまい、そのままコートを去ってしまったのである。ラッセルの不在をセルティックスは辛うじて1勝2敗で切り抜け、第6戦にはラッセルが足を引き摺りながらも戻ってきたが、ペティットの一世一代のプレイ、50得点でセルティックスは破れ、連覇の夢は叶わなかった。
八連覇の時代
1958-59シーズン
ファイナルという最も大事な場面でチームを援護できなかったラッセルは、新シーズンで名誉を取り戻すために復活。自身は16.7得点23.0リバウンドを記録し、チームも当時のNBA歴代最高勝利数となる52勝20敗をあげた。ラッセルは2年連続のMVPこそならなかったが、オールNBAチームではめでたく初の1stチーム入りを果たしている。
プレーオフではデビジョン決勝でシラキュース・ナショナルズに思わぬ苦戦を強いられたが、4勝3敗で退け、3年連続でファイナルに進出。ファイナルではお馴染みのライバルだった、この年セルティックスに次ぐ49勝をあげたセントルイス・ホークスが待っているはずだったが、彼らはデビジョン決勝で不覚を取った。ホークスを破ってファイナルに勝ち上がったのはミネアポリス・レイカーズ(後のロサンゼルス・レイカーズ)。後に時代を跨いでセルティックスの最大のライバルとなるレイカーズとの、初の頂上決戦が実現した。記念すべき最初の対決は、しかし両者のチームとしての完成度は天と地ほどの開きがあり、エルジン・ベイラーのワンマンチームであったレイカーズを、セルティックスは4戦全勝で一蹴。あっさりと王座に返り咲いた。完敗したレイカーズのヘッドコーチ、ジョン・クンドラは「我々はビルの居ないセルティックスを恐れない。彼をどこかへやってくれ。そうすれば我々は彼らを倒すことが出来る。彼は精神的にも我々を鞭打ってくれた」とラッセルのプレイに舌を巻いた。
1シーズンを置いて再び王座に返り咲いたセルティックスは、今後7シーズン続けてこの椅子に座り続けることになる。アメリカプロスポーツ史上最長となる八連覇の時代は、こうして幕を開けた。
1959-60シーズン、Battle Of Titans
セルティックスは前年をさらに上回る59勝16敗(当時のNBA最長記録となる17連勝も記録した)、ラッセルは18.2得点24.0リバウンドを記録。2度目の優勝を経て自身もチームも絶頂期を迎えつつあるこのシーズン、NBAはかつてない新人を迎える。216cmの長身を誇るウィルト・チェンバレンである。チェンバレンはルーキーイヤーから37.6得点27.0リバウンドという先例のない数字を残し、新人王のみならずシーズンMVPを受賞。得点王に加え、リバウンド王の座もラッセルから奪った。
ラッセルとチェンバレン、両者は選手のタイプとしては対極に立つ2人だった。ラッセルはリーグ随一のディフェンダーであり、そしてチェンバレンはオフェンスに特化した最強のスコアリングマシーンだった。その2人のビッグマンが同じ時代に同じリーグに並び立つ。そこにライバル関係が成立しないはずはなく、チェンバレンの登場はラッセルにとって2人と居ない好敵手の登場を意味した。1959年11月7日、ラッセルのセルティックスとチェンバレンのフィラデルフィア・ウォリアーズが対戦、両者は初めて相見え、ラッセルの22得点に対し、チェンバレンは30得点をあげ、試合は115-106でセルティックスの勝利という形で、後にNBA史上最大のライバル関係の一つとされる2人の最初のThe Big Collisionは幕を閉じた。ラッセルとチェンバレンの対決は『The Big Collision(大激突)』、あるいは『Battle Of Titans(巨人たちの戦い)』と呼ばれ、当時のNBAの最大の呼び物として人気を集めることになる。
プレーオフ・デビジョン決勝では再びウォリアーズとの対戦が実現したが、ラッセル率いるセルティックスは4勝2敗でウォリアーズを退けた。以後、ラッセルとチェンバレンのライバル関係は、個人成績ではチェンバレンが上回りながらも、チームとしての対決ではラッセルのセルティックスが尽くチェンバレンのチームを駆逐するという関係が続く。
ファイナルではお馴染みのホークスが待っていた。当時最大のライバルチームだった両者3度目の対決は第7戦までもつれた末に、セルティックスが4勝3敗でホークスを降し、ミネアポリス・レイカーズが1954年に達成して以来となる連覇を成し遂げた。このシリーズでラッセルは第2戦では<b data-parsoid='{"dsr":[13412,13437,3,3]}'>ファイナル史上最多となる40リバウンド、第7戦では22得点35リバウンドと大活躍だった。
1960-61シーズン、三連覇の達成
連覇を成し遂げてもなおラッセルのモチベーションは落ちず、1960-61シーズンも16.9得点23.9リバウンドと安定した成績を残し、2度目のシーズンMVPを受賞。チームも57勝22敗と5年連続でリーグトップの勝率を記録した。プレーオフ・デビジョン決勝でシラキュース・ナショナルズを破ったセルティックスは、ファイナルではホークスと5度目にして最後の対決を4勝1敗で制して4回目の優勝を果たし、NBA史上2度目となる三連覇を達成した。
1961-62シーズン、最大の危機
この5年間で三連覇を含む計4回の優勝を成し遂げたセルティックスだが、王朝の基盤をより磐石なものにするためにも、チーム内の世代交代を進めなければならなかった。そして新シーズン開幕前に、セルティックスの主要得点源だったビル・シャーマンが引退。彼にかわってサム・ジョーンズがチーム内で台頭した。このようにセルティックスは連覇記録を伸ばすために絶えず選手の入れ替えを行っていくが、王朝終焉を迎えるその時まで、ラッセルの大黒柱としての存在は不動のものだった。
1961-62シーズンはウィルト・チェンバレンが平均50.4得点、1試合100得点を達成した伝説的なシーズンとして記憶されるが、このシーズンのMVPを獲得したの2年連続の受賞となるラッセルだった。ラッセルは18.9得点23.6リバウンドと例年通りの数字を残した上で、チームを史上初の60勝越えとなる60勝20敗の成績に導いていた。プレーオフ・デビジョン決勝では伝説のシーズンを過ごしたチェンバレンのウォリアーズと2度目の対決となったが、チェンバレンが毎夜50得点あげようとも、最後に笑うのはセルティックスだった。ラッセル率いるセルティックスは第7戦までもつれたこのシリーズを、サム・ジョーンズのクラッチシュートという形で締めくくり、4勝3敗で制して6年連続のファイナル進出を決めた。
ファイナルでは3年ぶり2度目となるレイカーズとの対決が待っていた。前回のレイカーズはエルジン・ベイラーのほぼワンマンチームだったが、今回はジェリー・ウェストという強力な仲間を得てセルティックスとのリベンジマッチに備えていた。このファイナルで両者は初めてライバルらしい激戦を演じ、2勝2敗のタイで迎えた第5戦ではベイラーのファイナル記録となる61得点にやられ、2勝3敗とシリーズをリードされた。第6戦ではセルティックスが勝利し、優勝の行方は第7戦に委ねられる。そして勝った方が優勝という緊張感みなぎるこの試合で、セルティックスを八連覇時代最大の危機が襲った。
100-100の同点で迎え第4Q終盤。レイカーズのオフェンスにセルティックスは当然得点源のベイラーとウェストにディフェンスを集中させたが、ボールはオープンのフランク・セルヴィに渡り、セルヴィは7フィートの位置からシュートを打った。残り時間は5秒を切り、これが決まればレイカーズの勝利と優勝がほぼ決定付けられたが、セルヴィのシュートは幸運にも外れ、試合はオーバータイムに突入した。命拾いしたセルティックスだったが、彼らは追い込まれていた。ベイラーらへの懸命なディフェンスが仇となり、オーバータイムに入った時点でトム・ヘインソーン、ジム・ロスカトフ、サッチ・サンダースらセルティックスの主力フォワード3人がファウルアウトに追いやられていたのだ。そしてオーバータイムではさらにフランク・ラムジーもファウルアウトとなり、セルティックスの陣容は壊滅的な状況となった。しかしこのチームの危機にラッセルの真価が発揮され、ラッセルはコート上に残された4選手を見事に統率。ベイラーにマッチアップする普段殆ど出番の無いジーン・グアリアにも巧みにヘルプディフェンスに走ってベイラーを抑え込むと、自身は30得点と自身が持つファイナル最多記録タイとなる40リバウンドを記録し、110-107でセルティックスを勝利に導いた。ついに前人未到の四連覇を達成したセルティックスは(この時代のセルティックスを除き、2009年現在に至るまで四連覇以上を達成したチームは一つも存在しない)、今後もさらに連覇記録を伸ばすことになるが、このシーズンのプレーオフは2つのシリーズいずれもが第7戦までもつれる接戦となり、八連覇時代のセルティックスが優勝する上で最も苦労したシーズンとなった。
1962-63シーズン
シーズン前のドラフトでは王朝後期にエースとして活躍するジョン・ハブリチェックが指名され、また新しい血を注ぐのみでなくウィリー・ナオルス、クライド・ラブレットというベテラン獲得もそつ無くこなし、1962-63シーズンも7年連続リーグトップとなる58勝22敗を記録。ラッセルは変わらず16.8得点23.6リバウンドと大黒柱としての役割を完遂して3年連続4度目のシーズンMVPを獲得し、19得点24リバウンドをあげたオールスターでは初のMVPに輝いた。プレーオフ・デビジョン決勝ではオスカー・ロバートソン率いるシンシナティ・ロイヤルズに苦戦を強いられ、7戦中2試合がオーバータイムにもつれる接戦だったが、4勝3敗で辛うじて退けると、ファイナルでは2年連続となるレイカーズとの対戦を4勝2敗で制し、五連覇を達成した。
1963-64シーズン
長年セルティックスの司令塔を務めたボブ・クージーが引退し、彼のかわりにラッセルの学生時代からの戦友だったK.C.ジョーンズが先発ガードに昇格。円熟期を迎えたラッセルは15.0得点24.7リバウンドをあげてウィルト・チェンバレンから5年ぶりにリバウンド王の座を奪回、セルティックスはクージーを失ってもなお8年連続リーグトップとなる59勝21敗の成績を残した。ファイナルではチェンバレン率いるウォリアーズ(フィラデルフィアからサンフランシスコに本拠地を移し、ウェスタン・デビジョン王者としてファイナルに進出した)と対決。Battle Of Titans第3幕となったこのシリーズ、ラッセルは第1戦でウォリアーズの誇る2人のビッグマン、チェンバレンとネイト・サーモンドのシュートを立て続けにブロックするという離れ業をやってのけ、チームを波に乗せると、セルティックスは4勝1敗でウォリアーズを粉砕し、当時、アメリカのどのプロスポーツチームも成し遂げたことのない六連覇を達成した。
1964-65シーズン
セルティックスは自らが保持する記録を再び更新する62勝18敗をあげ、14.1得点24.1リバウンド5.3アシストを記録し、2年連続のリバウンド王に輝いたラッセルは、30歳の節目の年に自身5度目のシーズンMVPを獲得。5回のシーズンMVP獲得はカリーム・アブドゥル=ジャバーに破られるまでの歴代最多受賞だった。プレーオフ・デビジョン決勝ではフィラデルフィア・76ersと対戦。シーズン中に76ersに移籍してきたチェンバレンとの2年連続の対決が実現した。プレーオフ4度目の大激突は激戦となり、第3戦ではラッセルがチェンバレンを第3Qまでフィールドゴールをわずか2本に抑えると、第5戦28リバウンド7アシスト10ブロック6スティールを記録。第7戦ではチェンバレンが30得点32リバウンドをあげると、ラッセルも16得点27リバウンド8アシストを記録した。ここまでこのシリーズはラッセル、チェンバレンのNBAが誇る2人の巨人のための舞台となっていたが、第7戦、シリーズの行方を決する最後の場面で輝いたのはラッセルでもチェンバレンでもなかった。110-109のわずか1点リードで迎えた試合終盤、この大事な場面でラッセルはスローインをミスしてしまい、ボールの保持権を76ersに与えてしまう。逆転を狙う76ersはハル・グリアがスローインを入れたが、そのボールをジョン・ハブリチェックが見事にスティールし、チームを勝利とファイナルに導いた。ハブリチェックのスティールは実況のジョニー・モストが叫んだ「ハブリチェックがボールを奪った!試合終了!ジョン・ハブリチェックがボールをスティールしました!(Havlicek stole the ball! It's all over! Johnny Havlicek stole the ball!)」という言葉と共に八連覇時代の伝説の一つとなった。
ファイナルではベイラー、ウェストのレイカーズと4度目の対決となったが、4勝1敗で危なげなくシリーズを制し、ファイナル七連覇を達成した。
1965-66シーズン、八連覇達成
どの王朝にも終焉の時はやってくるが、1960年代に我が世の春を謳歌していたボストン王朝もその例外ではなく、王朝チームの衰退期は着々と訪れているように思えた。七連覇を達成した後のオフ、ラッセルとは同期のトム・ヘインソーンと、名ディフェンダーだったジム・ロスカトフが引退。これでセルティックスの全ての優勝を知るのはラッセルのみとなった。サム・ジョーンズはまだまだチームのリーディングスコアラーとして活躍し、先発に定着したハブリチェックは益々存在感を高めてはいたが、このシーズン54勝26敗だったセルティックスは、10年ぶりに勝率首位の座を他チームに明け渡した。そしてセルティックスのかわりにリーグ首位の座に座ったのが、チェンバレンのフィラデルフィア・76ersだった。
毎年第1シードの特権としてプレーオフ1回戦(デビジョン準決勝)を免除されてきたセルティックスだが、この年は10年ぶりに1回戦からの参加となった。初戦の相手、シンシナティ・ロイヤルズはオスカー・ロバートソンにジェリー・ルーカス擁する強敵で、セルティックスは3戦先勝制の1回戦で1勝2敗と先に王手を掛けられ、いきなりピンチに陥った。しかしその後2連勝を飾ったセルティックスが、辛うじてデビジョン決勝に進出、76ersとの対決を迎えた。Battle Of Titansは今度こそチェンバレンの勝利かに見えたが、しかしロイヤルズに対する2連勝で波に乗ったセルティックスは、76ersに苦戦するどころか4勝1敗で降し、10年連続のファイナル進出を果たした。
ファイナルは2年連続5回目となるレイカーズと対戦。第1戦にセルティックスはオーバータイムの末に敗れるが、敗戦のショックも覚めやらぬ試合終了後、コーチ・アワーバックから衝撃的なコメントが発表された。アワーバックはこのシーズン限りをもってヘッドコーチの座から退くことを宣言し、さらに後任にビル・ラッセルを指名したのである。ラッセルは未だ現役の選手であり、この発表はラッセルが選手兼任のままヘッドコーチの重責を担うこと、さらにはアメリカプロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチ誕生を意味した。名コーチ、アワーバックの引退、ラッセルのコーチ就任、初の黒人ヘッドコーチの誕生と驚き尽くめの発表は、セルティックスの選手に敗戦のショックを忘れさせ、続く第2戦以降を3連勝させた。悲願の優勝に向けて粘るレイカーズもその後2連勝し、シリーズは第7戦に突入。最後はこの日足に骨折を抱えたままでプレイを続けたラッセルの32リバウンドの活躍でセルティックスが勝利。早まったファンがコートにオレンジジュースをぶちまけ、サッチ・サンダースが興奮したファンたちにユニフォームを奪われるなか、セルティックスが空前絶後の八連覇を達成した。八連覇はNBAはもちろんのこと、アメリカプロスポーツ史上どのチームも成し遂げていない金字塔である。
初の黒人ヘッドコーチとして
セルティックスを伝説的な八連覇、9度の優勝に導いたレッド・アワーバックは、1965-66シーズンの優勝を最後に兼任していたゼネラルマネージャーに専念するため、ヘッドコーチから勇退した。アワーバックは後任としてまず考えたのがフランク・ラムジーだったが、彼は経営する3つの福祉施設経営に忙しかったため、これを辞退した。アワーバックは次にボブ・クージーにヘッドコーチ就任を打診したが、クージーも元チームメイトたちを指導したくないことを理由に断り、そして3人目の候補者、トム・ヘインソーンはラッセルの扱い難さを理由にやはりヘッドコーチ就任を断った。しかしヘインソーンはアワーバックに対してある貴重な助言を与えた。それは、ラッセル自身をそのままヘッドコーチにしてみてはどうか、という提案だった。そのことをアワーバックはラッセルに伝えてみたところ、ラッセルの答えは「Yes」だった。こうして<b data-parsoid='{"dsr":[18866,18899,3,3]}'>アメリカプロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチが誕生した</b>のである。未だ人種差別が当たり前のように横行する時代、当然のように周囲は黒人のラッセルにヘッドコーチが務まるか疑問視したが、ラッセルは周囲の疑問に「私は黒人だからという理由でこの職を与えられたのではない。レッドが私が出来ると計算したから、この職を与えたのだ」と答えた。
周囲の不安は杞憂に過ぎなかった。ラッセル体制となった1年目の1966-67シーズン、セルティックスは八連覇時代と何ら変わらぬ成績の60勝21敗をあげた。ゼネラルマネージャーのアワーバックもベイリー・ハウエルを新戦力としてセルティックスの戦列に並べ、ラッセルの援護をし、選手としてのラッセルはハウエル加入によりオフェンス面での負担が軽減されたため、得点アベレージはキャリア最低となる13.3得点となったが、リバウンドでは平均21.0本を記録し、大黒柱としての役割を果たした。
好調なシーズンを送ったセルティックスだが、セルティックス以上に絶好調のシーズンを送ったのが、ラッセルのライバル、ウィルト・チェンバレンが所属するフィラデルフィア・76ersである。76ersは新たにアレックス・ハナムをヘッドコーチに招聘、チーム改革に成功し、当時の歴代最高勝率となる68勝をあげていた。セルティックスはプレーオフ・デビジョン準決勝でウィリス・リード、ウォルト・ベラミー擁するニューヨーク・ニックスを3勝1敗で破ると、デビジョン決勝で76ersと対決。過去の対決では尽く勝利をあげてきたセルティックスも、この年の76ersには叶わず、1勝4敗で破れ、ついに8年間続いた連覇が途絶えた。セルティックスが王座を明け渡すのは9年ぶりのことであり、さらにファイナル進出を逃したのは実に11年ぶりのことだった。またラッセルにとってもNBA入り以来ファイナル進出を逃したのは初めての経験だった。敗戦の将となったラッセルは、第5戦の試合後76ersのロッカールームを訪れ、彼の終生のライバルであり、そして親友でもあったチェンバレンの手を取り、「Great!」と、ただそれのみを祝福の言葉として奉げた。
選手兼コーチとしては悔しいシーズンの幕切れとなったが、試合終了後にはささやかで、かつ重要な幸福の場面が待っていた。第5戦を終えたセルティックスのロッカールームに、この日観戦に来ていたラッセルの祖父が訪れた。その祖父の目に、信じられない光景が飛び込んだ。白人のジョン・ハブリチェックと、黒人のサム・ジョーンズが、隣同士でシャワーを浴びながら、今日の試合について活発かつ対等に議論していたのである。祖父はまるで取り乱したようにその場で泣き崩れた。そして「何か悪いことでもあったのか?」と尋ねる孫に、お前が黒人と白人が調和する組織のコーチであることをどれほど誇りに思うか、と答えた。
王座復権
連覇が途切れたことは、ボストン王朝崩壊を意味したかと言えば、そうではなかった。1966-67シーズンも優勝を逃したものの勝ち星は60勝と優勝を狙うには十分な力を有していることを証明しており、未だ他チームには危険な存在だった。
チームの大黒柱とヘッドコーチという重責を担うラッセルは、1967-68シーズンを12.5得点18.6リバウンドの成績で過ごし、リバウンドが平均20本を下回ったのはルーキーイヤー以来となり、平均出場時間もNBAキャリア2年目の1957-58シーズン以来となる平均40分割れとなるなど、33歳を迎えていたラッセルはシーズンを通してプレーをセーブした。チームは前年を下回る54勝28敗の成績に終わったが、76ersに次ぐデビジョン2位の座を堅守した。
プレーオフではデビジョン準決勝でデイブ・ビン、デイブ・ディバッシャー擁するデトロイト・ピストンズを破り、デビジョン決勝で宿敵の76ersと対決した。ここで両雄の対決は思わぬ所から横槍を受ける。1968年の4月4日、公民権運動指導者のキング牧師が暗殺されたのである。この悲劇を受けて、セルティックスと76ersの先発選手10人のうち8人が喪に服するため試合をキャンセルしたいという申し出があり、結局試合は予定通りに行われたが、「感情を欠いたような」試合と評されたシリーズ第1戦は、127-118でセルティックスが勝利した。しかし第2戦以降は76ersが3連勝を飾った。過去に1勝3敗からシリーズを覆したチームはおらず、セルティックスの2年連続デビジョン決勝敗退が濃厚となったが、ここからセルティックスの新エース、ジョン・ハブリチェックが驚異的な巻き返しを演じ、セルティックスが2連勝を飾ってシリーズは第7戦へと持ち込まれた。第3戦、第4戦はチェンバレンのマッチアップをウェイン・エンブリーに任せており、記者団からはあるいはラッセルは疲労しているのではと言われていたが、第7戦ではそのラッセルが大活躍を見せる。ラッセルはこの大一番でチェンバレンを後半フィールドゴールわずかに2本のみに抑えると、試合終盤ではクラッチプレイを連発。試合残り34秒でセルティックスのリードを98-96に広げるフリースローを決めると、続く76ersにオフェンス、チェット・ウォーカーのシュートを見事にブロックし、今度はルーズボールを拾ってそのままシュートを打ったハル・グリアのミスショットをしっかりとリバウンド。敵ゴールに目掛けて走るサム・ジョーンズにパスを送り、セルティックスの真骨頂とも言える速攻で勝利を決定付ける得点を演出した。セルティックスはこの試合を100-96、シリーズを4勝2敗で76ersに勝利し、2年ぶりのファイナル進出を果たした。
セルティックスと76ersの死闘をテレビ観戦していた西の王者、レイカーズは、セルティックスの勝利を願っていた。彼らにはセルティックスの方が制し易い相手と踏んでいたのだ。しかし彼らは過去、5回にわたってセルティックスに苦杯を舐めさせられたことを忘れていた。セルティックスは油断した旧来のライバル、レイカーズを4勝2敗で破り、1年前に明け渡した王座を見事に奪回した。ラッセルはキャリア12年で記念すべき10回目の優勝を果たし、両手の指全てに嵌められるほどのチャンピオンリングを手に入れたの同時に、黒人としては初の優勝チームのヘッドコーチ</b>になる栄誉も手に入れた。ラッセルの名声も頂点を極め、この年のスポーツ・イラストレイテッドのスポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。レイカーズのジェリー・ウェストは「もし私がリーグのバスケットボール選手から一人を選ぶなら、私の一番の選択はビル・ラッセルでなければならない。ビル・ラッセルは我々を驚嘆させることを決して止めようとしない」とラッセルを絶賛した。
ラストシーズン
10回の優勝に5回のMVP受賞と常に第一線で戦い続けてきたラッセルも、長年蓄積された疲労を隠せなくなっていた。1968-69シーズンを迎え、34歳となっていたラッセルはコンディションの維持も難しくなり、このシーズンは通常よりも15ポンド(約6.8kg)多い状態だった。またシーズン前の6月6日に発生したロバート・ケネディの暗殺、ベトナム戦争の激化など、世情不安に襲われていたこの時代のアメリカにラッセルは大いに幻滅しており、さらに私生活では妻のローズとの関係が崩れかけていた(後に離婚)。
心身共に疲労の極みに達していたラッセルは、レギュラーシーズン中のニューヨーク・ニックス戦の後、激しい痛みを訴え、急性疲労と診断された。痛みと疲労に耐えながらこのシーズンを戦い通したラッセルは、初の平均10得点割れとなる9.9得点19.3リバウンドの成績だった。前年見事に王座に返り咲いたセルティックスも、ラッセルは34歳、サム・ジョーンズは35歳、ベイリー・ハウエルは32歳と決して若いチームではなかった。加えて大黒柱の不調も重なり、このシーズンのセルティックスはラッセル加入以来最低勝率となる48勝34敗に終わり、1970年代を間近に控えて急速に台頭を見せてきたボルティモア・ブレッツやニックス、ライバルチームの76ersに大きく水を開けられた。
第4シードと王朝チームとしては屈辱の位置から始まったプレーオフだったが、彼らは戦い慣れたこの舞台で本来の姿を取り戻し、デビジョン準決勝でチェンバレンの居ない76ersを4勝1敗で降すと、デビジョン決勝ではニックスを4勝2敗で破って、終わってみれば2年連続、この13年間で12回目のファイナル進出を果たしていた。
76ersに居なかったチェンバレンが何処に居たかと言えば、セルティックス永遠のライバルチーム、レイカーズだった。ジェリー・ウェストにエルジン・ベイラー、そしてウィルト・チェンバレンが加わって強力なビッグスリーが形勢されたレイカーズは55勝をあげ、初めてホームコートアドバンテージを獲得した上でセルティックスの頂上決戦を迎えた。このシリーズはこの時代のセルティックス、レイカーズのファイナル最後の対決であり、またラッセルとチェンバレンの最後の直接対決となった。
コーチも兼任するラッセルは最初、ジェリー・ウェストにダブルチームしないよう指示したが、これが裏目に出てウェストに第1戦で53得点、第2戦で41得点と立て続けに大量得点を許し、セルティックスは2連敗を喫した。第3戦からはようやくウェストに対するダブルチームを命じ、セルティックスは第3戦を勝利した。第4戦終盤、セルティックスは追い込まれていた。試合残り7秒で1点ビハインドを抱え、さらにボールはレイカーズが保持と、セルティックスには極めて分が悪いように見えた。しかし幸運にもレイカーズはベイラーがボールを外に出してしまい、保持権はセルティックスに移る。ラッセルがコーディネートしたオフェンスはハウエル、ラリー・ジークフリード、ハブリチェックによる三重のスクリーンであり、ボールを託されたサム・ジョーンズのシュートがブザービーターとなって、セルティックスの劇的な逆転勝利となった。
その後両チームとも1勝ずつして迎えた、ロサンゼルスでの第7戦。レイカーズはあるミスを犯した。まるですでにレイカーズの優勝が決まっているかのように、レイカーズのホーム・アリーナ、ザ・フォーラムを何千もの風船で飾り立てたのである。これがセルティックスの逆鱗に触れた。セルティックスは第7戦を優位に進め、第4Qに入った時点で91-79の大差をつけた。その後レイカーズはウェストが懸命な巻き返しをみせたが、チェンバレンを第4Qに殆ど起用しないというレイカーズ側の不可解な采配もあり、セルティックスが108-106で逃げ切り、シリーズを4勝3敗で制した。
この日21リバウンドの活躍でセルティックスの勝利に貢献したラッセルは、キャリア13年目にして11回目の優勝を果たした。試合終了後、ラッセルは数居るライバルの一人でこのシリーズ中も大活躍だったウェストの側へ行き、彼の手を握って健闘を讃えつつ、酷く気落ちし、取り乱していたウェストを宥めた。
引退とその影響
見事にチャンピオントロフィーを持ち帰ってきた我らのチームを迎えるべく、セルティックスの凱旋を3万人のボストン市民が迎えた。しかしそこに、この場に居るセルティックスのどの選手よりも、多くのチャンピオンリングを持つラッセルの姿はなかった。
ラッセルの引退はあまりにも突然だった。そしてそれは誰もが羨むような優勝しての引退という形だったが、しかし記録の上では華やかであっても、実際のところラッセルの引退は華やかでも、穏便でもなかった。ラッセルは一方的に引退を宣言すると、ボストン市民には何の恩もないと凱旋パレードにも参加せず、そしてセルティックスとの関係を一切断ち、ボストンには困惑のみが残された。その後ファンに対し何のコメントないままだったラッセルが、スポーツ・イラストレイテッドに1万ドルと引き換えにインタビューに応じたことに、ボストンのファンと記者たちは裏切られたと感じた。
苦楽を共にしてきたアワーバックですらも、ラッセルから引退を知らされていなかった。それはアワーバックのチーム経営史において最大の誤算の一つとなり、アワーバックはこの年のドラフトでジョ・ジョ・ホワイトを指名するという過ちを犯してしまう。ホワイトはその後セルティックスの第二期黄金期とも言える時代の中心選手となるので、アワーバックの指名は決して失敗であったわけではないが、ラッセルが引退するのであればまずは何よりも彼に代わるセンターを手に入れなければならなかった。結果的にラッセルが引退するのと同時に、13年の間に11回の優勝と栄華を極めたボストン王朝は一瞬で瓦解する。ラッセルが引退した翌シーズンのセルティックスは34勝48敗に沈み、優勝を争うどころかプレーオフ進出すら逃したのである。
またNBAに13年に渡って続いたボストン王朝時代に幕を降ろしたラッセルの引退は、NBAに新たな時代の到来を告げ、後のリーグの流れを形作った。すなわち、群雄割拠の戦国時代である。この年のセルティックスの連覇を最後に、NBAに再び連覇を果たすチームが現れるのは1980年代後半であり、チャンピオンチームは毎年のように入れ替わっていく。
なお、セルティックスには引退を一切告げていなかったラッセルだったが、サム・ジョーンズはチームメイトは皆彼の引退をそれとなく察しており、そのことがチームを団結させ、この年の優勝に繋がったと語っている。
コーチキャリア
セルティックスの最後の3シーズンをヘッドコーチとしても指揮したラッセルは、チームを2度の優勝に導く実績を残したものの、その後指揮したシアトル・スーパーソニックス、サクラメント・キングスではいずれも大きな成功は掴めなかった。1973年から1977年までをの4シーズンを指揮したスーパーソニックスでは、2年目の1974-75シーズンにフランチャイズ史上初のプレーオフに導いたが、その後のチーム成績は横ばい状態が続き、4年目の1976-77シーズンにプレーオフを逃したの契機にコーチの任を解かれた。彼の後任となったレニー・ウィルケンズは就任1年目でチームをファイナルに導き、さらに翌シーズンには優勝を果たしている。スーパーソニックスでの成績は162勝166敗だった。
キングスでは1977-78シーズンの1シーズンのみを指揮し、17勝41敗の成績と振るわなかった。
セルティックス時代も含めたラッセルのコーチキャリアの通算成績は8シーズン631試合で341勝290敗、プレーオフ出場5回、優勝2回だった。
引退後
ラッセルの背番号『6』は1972年にセルティックスの永久欠番となり、1975年には殿堂入りとなったが、地元メディアとの関係が悪化していたラッセルは、いずれの式典にも姿を現さなかった。
コーチキャリアを終えたラッセルは財政的な困難に直面した。リベリアのゴムプランテーションに25万ドルを投資し、この利益で余生を過ごそうとしていたが、これが失敗し、ラッセルは破産した。その後スポーツ解説者として働いたが、ラッセルは視聴者に好まれるタイプの解説者にはなれなかった。ま たテレビドラマのマイアミ・バイスに出演したこともある。
その後数年間、シアトル近郊のマーサー・アイランドで隠遁者として暮らした。彼が再び表舞台に現れたのは、時代は21世紀となった2006年1月のことで、ラッセルがその時代のスーパースター、シャキール・オニールに、彼の元チームメイトで険悪な関係にあったコービー・ブライアントと和解するよう助言したことが広く報じられた。このことが契機となってか、ラッセルの姿が次第にメディアで見られるようになり、NBAファイナルではラッセルからファイナルMVPのトロフィーが授与される場面も見られた。2006年11月には創設が決まった全米大学バスケットボール殿堂の初代殿堂入りメンバーの一人(他はジョン・ウッデン、オスカー・ロバートソン、ディーン・スミス、ジェームズ・ネイスミス)に選ばれた。翌2007年5月20日にはサフォーク大学から名誉博士号を、同年6月7日にはハーバード大学から名誉学位を与えられた。
2009年のNBAオールスターでは、ラッセルにとって喜ばしい発表があった。NBAはラッセルの11回の優勝などの功績を讃え、ラッセルが一度も獲得することのなかったファイナルMVPを、「ビル ・ラッセル・NBAファイナルMVP賞(Bill Russell NBA Finals Most Valuable Player Award)」に改名すると発表した。またオールスターゲームではラッセルの75回目の誕生日を祝い、セルティックスの現役スター選手、ポール・ピアス、レイ・アレン、ケビン・ガーネットから特大のバースデー・ケーキをプレゼントされた。その年のファイナルでは、自身の名前が冠されたファイナルMVPトロフィーを、コービー・ブライアントに授与した。
業績
ビル・ラッセルはボストン・セルティックス王朝の礎だった. — より
ラッセルは北米スポーツ史上最も成功したスポーツ選手の一人である。彼はボストン・セルティックスの選手として、選手兼ヘッドコーチとしてプレイした2シーズンを含む計11回の優勝を達成し、またバスケットボールという競技、特にディフェンスの分野において革新的な影響をもたらした。NCAAトーナメント連覇を果たしたカリフォルニア大学での1956年の優勝に、1956年のNBAファイナル制覇と、ラッセルは史上4人しか居ないNCAA優勝の翌年にNBA優勝を果たした最初の一人となった(他はヘンリー・ビビー、マジック・ジョンソン、ビリー・トンプソン)。ラッセルはさらにその間にオリンピックの金メダルを獲得している。レッド・アワーバックの跡を継ぎ、アメリカプロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチとなったことも、NBAの歴史上重要な役割を果たしている。
ラッセルは比類なきディフェンス力、高いバスケットボールIQ、勝利に対する強い意志を兼ね備えた、史上最高級のセンターであり、完璧な守備的センターと考えられた。ラッセルは、当時はオフェンスばかりが強調されていたセンターのポジションでも、強力なディフェンスができることを証明した。ディフェンスにおけるラッセルの功績の一つは、非常にレベルの高いブロックをバスケットボールにもたらしたことだった。ラッセルのブロックは単にシュートを阻止するのみならず、同時に味方に対するパスになっていることがよくあった。したがって、ラッセルのブロックから始まる速攻もセルティックスの得点源になった。「ラッセルはブロックを芸術の域まで高めた」と評価する専門家もいる。ブロックやスティールが公式に計測されていなかった時代、ラッセルのディフェンス力を数字で測る上で参考になるのがリバウンド数だが、ラッセルは歴代でも最高レベルのリバウンダーであり、同時代のウィルト・チェンバレンと幾度となくリバウンド王の座を争い、計4回のリバウンド王に輝いた。キャリア通算、平均リバウンドはいずれもチェンバレンに次ぐ歴代2位、プレーオフ通算、平均はいずれも歴代1位であり、プレーオフでは全てのシーズンで平均20リバウンド以上を達成している。誰よりも多く立ったファイナルの舞台では、リバウンドに関する様々なNBA記録を保持しており、また1試合51リバウンド、49リバウンド、12シーズン連続のシーズン通算1,000リバウンド以上も達成している。ラッセルのリバウンドからボブ・クージーへのアウトレットパスは、速攻に繋がる重要なラインだった。
またラッセルは最も偉大なクラッチプレイヤーの一人としても知られた。ラッセルが在籍した時代のセルティックスは、プレーオフ、4戦先勝制での第7戦、3戦先勝制での第5戦を11回経験したが、セルティックスは11戦全勝という圧倒的な強さを発揮している。これらの試合において、ラッセルは平均18.0得点29.45リバウンドと、普段を上回るパフォーマンスを発揮しており、プレーオフ全体をみても、ラッセルはレギュラーシーズンより上回る成績を残しており、ラッセルがより重要な試合で如何に頼りになる存在だったかを物語っている。
同じ時代に活躍したチェンバレンなどと比べると、ラッセルは得点に関しては平凡に見えるが、ラッセルはオフェンスでも平均以上のセンターであり、大学時代には平均20得点以上を達成している。パスセンスも悪くなく(キャリア平均4.3アシストはセンターとしては高水準である)、スクリーンのセッターとしても優秀で、得点に関しては左手でのフックシュートやアリウープを得意とした。しかしチームメイトには多くの得点力のある選手が居たため、ラッセルは自分の役割であるディフェンスにより専念していたと言える。ラッセルのキャリア通算での1試合平均フィールドゴール試投数は13.4本(トップスコアラーの多くは平均20本以上を放っている)と、決して多くなかった。また、フリースローはキャリア通算で成功率56.1%と苦手としていたようである。
受賞歴・主な記録
主な受賞
NCAA AP通信選出オールアメリカ1stチーム 2回 (1955年, 1956年)
NCAAトーナメント ファイナル4 Most Outstanding Player (1955年)
メルボルンオリンピック 金メダリスト (1956年)
オールNBA1stチーム 3回 (1959年, 1963年, 1965年)
オールNBA2ndチーム 8回 (1957年, 1960~62年, 1964年, 1966~68年)
オールディフェンシブ1stチーム 1回 (1969年)
NBAオールスターゲーム選出 12回 (1958~69年)
オールスターMVP 1回 (1963年)
シーズンMVP 5回 (1958年, 1961~63年, 1965年 5回の選出はカリーム・アブドゥル=ジャバーに次ぐ歴代2位)
NBAファイナル制覇 11回 (1957年, 1959~66年, 1968~69年 11回の優勝は歴代最多)
1968年、スポーツ・イラストレイテッド選出の『スポーツマン・オブ・ザ・イヤー』受賞。
1970年にThe Sporting Newsから1960年代で最も優秀なスポーツ選手(Athlete of the Decade)と評される。
1972年にボストン・セルティックスはラッセルの背番号『6』を永久欠番に指定。
1975年にバスケットボール殿堂入り。
1980年、プロバスケットボール記者協会からNBA史上最も偉大な選手に選ばれる。
NBA25周年、35周年、50周年記念オールタイムチーム選出。
1999年にESPNから発表された20世紀の偉大なアスリートTop50で18位。
2003年にスラム誌により、マイケル・ジョーダン、ウィルト・チェンバレン、オスカー・ロバートソンと共に、オールタイム#4の一人に選ばれた。
2006年に全米大学バスケットボール殿堂入り。
キャリア通算
出場試合数 963試合
通算得点 14,522得点
通算リバウンド 21,620リバウンド (ウィルト・チェンバレンに次ぐ歴代2位)
通算アシスト 4,100アシスト
キャリア平均
平均得点 15.1得点
平均リバウンド 22.5リバウンド (チェンバレンに次ぐ歴代2位)
平均アシスト 4.3アシスト
平均出場時間 42.3分 (チェンバレンに次ぐ歴代2位)
フィールドゴール成功率 44.0%
フリースロー成功率 56.1%
プレーオフ・キャリア通算
出場試合数 165試合
通算得点 2,673得点
通算リバウンド 4,104リバウンド (歴代1位)
通算アシスト 770アシスト
プレーオフ・キャリア平均
平均得点 16.2得点
平均リバウンド 24.9リバウンド (歴代1位)
平均アシスト 4.7アシスト
平均出場時間 45.4分 (チェンバレンに次ぐ歴代2位)
スタッツリーダー
リバウンド王 4回 (1958年, 1959年, 1964年, 1965年)
平均出場時間リーグ1位 (1959年)
主なNBA記録
史上初のシーズン平均20リバウンド以上達成 (1957-58シーズン)
史上2位となる1試合51リバウンド ※1位はウィルト・チェンバレンの55リバウンド
1957年11月16日、フィラデルフィア・ウォリアーズ戦で記録した前半だけで32リバウンドは史上1位
ファイナルで2度記録した1試合40リバウンドはファイナル歴代最多記録
1959年のファイナルで記録したシリーズ平均29.5リバウンドはファイナル歴代最高記録
私生活
家族
ラッセルは2009年現在まで3度の結婚を経験。最初の相手は大学生時代に出会ったローズ・スウィッシャーで1956年に結婚したが、1973年に離婚。彼女のとの間には3人の子供を授かり、うち一人はテレビ評論家で弁護士のカレン・ラッセルである。1977年には1968年のミスUSAであるドロシー・アンステットと再婚したが、1980年に離婚した。1996年には2009年に死別するまでの3人目の妻、マリリン・ナウルツと再婚している。ラッセルの実兄は著名な脚本家のチャーリー.L.ラッセルである。
人物
クラッチプレイヤーとして知られるラッセルだが、プレッシャーとは無縁ではなく、試合前にはしばしばロッカールームで吐いていたほどである。これが頻繁に起こるため、チームメイトはラッセルが吐かないと、かえって心配するほどだった。
ラッセルは権力を巧みに操った。1967年にヘッドコーチに就任した際、チームメイトに対して個人的な付き合いを一切断つと言い放ち、彼らの同輩から上司へと立場の移動をスムーズに行った。
ラッセルはチームメイトや友人に対しては開放的で社交的だったが、それ以外に対しては極度に閉鎖的だった。記者たちはしばしば不機嫌なラッセルを「長い沈黙を伴う冷淡で軽蔑的な目つき」と評した。またファンからのサインの求めにも応じないことでも有名で、ある専門家は「最も利己的で無愛想で非協力的なスポーツ選手」と評している。
収入
ラッセルは現役当時、NBAで最も稼ぐ選手の一人で、彼のルーキー契約は当時リーグ1の高給取りだったボブ・クージーの25,000ドルをわずかに下回る24,000ドルだった。当時のNBAはプロリーグと言えど多くの選手が高収入を望めない時代であり、チャンピオンチームのボストン・セルティックスでさえ主力選手の多くが副業を営み、オフシーズンにはトム・ヘインソーンは保険業者として、ジーン・グアリアはプロのギターリストとして、ボブ・クージーはバスケットボールキャンプのコーチとして働き、レッド・アワーバックはプラスチック産業と中国のレストランに投資していたが、ラッセルは副業に手を出すことなくプロ選手としての収入だけで生活することができた。ウィルト・チェンバレンが1965年にNBA初の10万ドル契約選手となった時、ラッセルはすぐにアワーバックに10万1ドルの契約を要求し、アワーバックはすぐにそれに応じている。
チェンバレン
ウィルト・チェンバレンとはNBA史上最も有名なライバル関係として知られるが、私生活では親友としての関係を築いており、感謝祭にはラッセルがチェンバレンのもとに食事に訪れるのが恒例となっていた。ラッセルは2人がライバルであると言われるのを嫌っており、2人で居る時はバスケットの話は殆どせず、主にラッセルが所有する電車について語りあっていたという。しかし2人の関係は1969年のNBAファイナル第7戦(ラッセルの引退試合であり、2人が直接対決した最後の試合である)で激しい嫌悪を伴うものへと変化してしまった。接戦となったこの試合でチェンバレンは残り6分でベンチに下がると、以後コートに戻ることは無かった。チェンバレンがベンチに下がった理由は膝の怪我によるものだとされているが(実際、チェンバレンは翌シーズン膝の故障で長期欠場している)、ラッセルは仮病だと思い、「彼は逃げ出した」と発言。これに激怒したチェンバレンはラッセルを影で中傷するような人間だと見なした。この事件がきっかけとなって2人の関係は極端に悪化し、以後、ラッセルが公式に謝罪するまでの20年以上の間、2人が直接会話することは無かった。チェンバレンの甥によれば、1999年にチェンバレンが急逝した時、ラッセルは彼の死を告げられた2番目の人物だったという。
人種差別、論争と和解
ラッセルのキャリアは人種差別に対する困難な闘いの連続でもあった。幼い頃はしばしば両親への差別的な虐待を目撃した。ある時、ラッセルの父がガソリンを求めてスタンドに並んでいたところ、従業員は白人の客全員が給油し終わるまでラッセルの父を待たせようとしたため、彼は別のスタンドに行こうとしたが、その従業員は散弾銃を彼の頭に突きつけた。またある時はラッセルの母が仮装服を着て歩いていたところ、警官に呼び止められ、「それは白人女性が着る服だ」と家に帰って服を脱ぐよう命じた。カリフォルニア大学でカレッジバスケのスター選手となった時も、彼と彼のアフリカ系アメリカ人のチームメイトたちは、常に白人学生たちの嘲笑の的だった。そしてそれは、ラッセルがプロ選手として成功し、NBAで最も優秀な選手の一人となってからも変わらなかった。1958年のオフシーズン、ラッセルがチームメイトたちと国内旅行をし、ノースカロライナのあるホテルに泊まろうとした際、白人のホテル経営者から黒人であることを理由に宿泊を拒否された。1961-62シーズンにはケンタッキー州で彼と彼のチームメイトが、やはり黒人であることを理由に入店を拒否された際には、同州レキシントンでのエキシビションゲームへの参加を拒否した。
これらの経験が重なったため、ラッセルは人種差別に対して非常に敏感となり、たとえそれが侮辱する意味を含まなくても、彼はしばしば人々の行動を差別的と捉えた。ラッセルは次第にブラックパワー・サリュートへの傾倒を強めていき、1967年のモハメド・アリの徴兵拒否を支持、黒人奴隷により建国されたアフリカのリベリアに土地を購入するなどの運動を展開し、周囲からは"フェルトンX"と呼ばれるようになった。1963年のスポーツ・イラストレイテッド誌でのインタビューは、多くの誤解を生んだ。ラッセルはインタビューの中で「I dislike most white people because they are people... I like most blacks because I am black.(直訳すれば「私は彼らが大衆なので、たいていの白人を嫌う…。私は黒人なので、たいていの黒人が好きだ」)」と答えた。このことについて白人のチームメイト、フランク・ラムジーが、では自分は嫌いかどうかと尋ねてきたため、ラッセルはあれは誤って引用されたものだと答えたが、彼の釈明を信じる者は少なかった。
高校時代にラッセルに助言を与えたジョージ・パウルス、大学時代にラッセルを大きく成長させたフィル・ウールパート、NBAで初めて黒人選手を積極的に起用したレッド・アワーバック、ラッセルに高給を支払ったセルティックスのオーナー、ウォルター・ブラウンと、ラッセルの周囲には白人の反人種差別主義者も多かったが、繰り返される差別に彼の態度は懐疑的となり、周囲の好意的な反応にも偽善的と捉えるようになってしまい、ファンや隣人からの賞賛を友好的には受け取れなくなった。
ラッセルは世界は自分に何も与えてくれなかったので、自分も世界には何も与えないと決めた。
この態度はラッセルと、ファンや記者との間に決定的な亀裂を生じさせた。ラッセルは「ボストンに借りがあるというがそれは違う。私は子供たちに微笑むことも親切にすることも拒否する」と発言。怒ったボストンのファンや記者の大部分はラッセルを利己的で誇大妄想的で偽善的だと非難した。当時のFBIのラッセルのファイルにも「白人の子供のためにサインをしない、尊大な黒人」と書かれていた。ボストン市民との敵対関係は数人を凶行に走らせ、彼らはラッセルの家に侵入し、壁に差別的な落書きをし、数々のトロフィーを破壊し、ベッドの上に排泄して去っていった。それに対しラッセルはボストンを「人種差別のフリーマーケット」と呼び、対立をより一層深めた。ラッセルのボストンに対する攻撃は引退後も止まず、ボストンの記者たちを反黒人主義者、人種差別主義者と呼び、これに対しボストンのスポーツ記者、ラリー・クラフリンはラッセルこそが差別主義者だと反論した。
1972年にラッセルの背番号『6』が永久欠番となった時も、1975年に殿堂入りした時も、ラッセルはボストンで開かれた式典には出席しなかった。引退後の暫くは、ラッセルはボストンには近づこうともしなかった。
しかし時が経ち、セルティックスが13年の間に11度の優勝を果たしたことも伝説と化した1990年代に入り、両者は和解の方向へと向かい、ラッセルも何度かボストンに訪れるようになった。そして1999年にラッセルの時代から長年セルティックスのホームアリーナだったボストン・ガーデンが閉鎖され、本拠地をTDガーデンに移す際、ラッセルの背番号『6』を再び永久欠番にしようとする動きが起こった。ラッセルも長年ボストンを避けてきたことへの埋め合わせをしたいという気持ちもあり、これを受けることにした。
そして1999年5月6日、ラッセルは久しぶりに満員の観衆の前で、セルティックスのホームコートに立った。やはりセルティックスの伝説ラリー・バードや、NBAの偉人カリーム・アブドゥル=ジャバー、そして長年の確執から和解を果たした永遠のライバル、ウィルト・チェンバレンらが見守る中、自身の背番号『6』が綴られたバーナーを新アリーナの天井に掲げた。観衆からは長時間に渡ってスタンディングオベーションが送られ、ラッセルの目からも涙がこぼれた。
2008年12月2日にはボストン市から『We Are Boston Leadership Awards』が贈られた。長年隠遁生活を送っていたラッセルの生活は俄かに忙しくなり、娘と共に年中行事に度々顔を出すようになった。
参考・関連書籍
ビル・ラッセル、タイラー・ブランチ著 『Second Wind. Ballantine Books.』(1979)
ビル・ラッセル、デイビッド・フォークナー著 『Russell Rules. New American Library.』(2001)
ビル・ラッセル、アラン・スタインバーグ著 『 Red and Me: My Coach, My Lifelong Friend. Harper.』(2009)
脚注
外部リンク
at The National Visionary Leadership Project (in English)
(in English)
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(in English)
(in English)
(in English)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB |
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21430, 21947, 22434, 22544, 22793, 22894, 23036, 23160, 23345,
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28554, 28741, 28964, 29066, 29142, 29404, 29483], dtype=int32)} | トンネル効果は人工的に発生させることができるか | トンネル効果 | japanese | {'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)} |
トンネル効果 (トンネルこうか ) 、量子トンネル(りょうしトンネル Quantum tunnelling)、または単に<b data-parsoid='{"dsr":[244,256,3,3]}'>トンネリング</b>とは、古典力学的には乗り越えられないはずのを粒子があたかも障壁にあいたトンネルを抜けたかのように通過する量子力学的現象である。太陽のような主系列星で起こっている核融合など、いくつかの物理的現象において欠かせない役割を果たしている[1]。トンネルダイオード[2]、量子コンピュータ、走査型トンネル顕微鏡などの装置において応用されているという意味でも重要である。この効果は20世紀初頭に予言され、20世紀半ばには一般的な物理現象として受け入れられた[3]。
トンネリングはハイゼンベルクの不確定性原理と物質における粒子と波動の二重性を用いて説明されることが多い。この現象の中心は純粋に量子力学的な概念であり、量子トンネルは量子力学によって得られた新たな知見である。
歴史
量子トンネルは1896年にアンリ・ベクレルが発見した[4]、放射性崩壊の研究から発展した[3]。放射性崩壊は、1903年にノーベル物理学賞を獲得したマリ・キュリーとピエール・キュリーにより検証が進められた[4]。アーネスト・ラザフォードとによりその性質が調べられた後、フリードリッヒ・コールラウシュにより経験的に検証された。半減期という考え方および、崩壊の予測ができないという考えは彼らの業績により創造されたものである[3]。
1901年、ロバート・フランシス・イアハートはマイケルソン干渉計を用いて間隔を測った、非常に近接した電極間の気体の電気伝導性を調査中、予期されていなかった伝導形式を発見した。J. J. トムソンはこの発見についてコメントし、さらなる調査を保証した。1911年とその後の1914年、当時大学院生であったフランツ・ロターはイアハートの方法を流用して、感度の高い検流計を用いて定常電界放出電流を直接計測して電極間距離を測る方法を発案した。1926年、ロターはさらに新しく 26pA の感度をもつ検流計を用いて近接した電極間を高真空にして電界放出電流を計測した[5]。
フリードリッヒ・フントは1927年、の基底状態の計算中に初めてトンネリングについて述べている[4]。 1928年、ジョージ・ガモフと、彼とは独立にとによりアルファ崩壊の説明に初めて応用された[6][7][8][9]。彼らは同時に核ポテンシャルをモデル化したシュレーディンガー方程式を解き、粒子の半減期と放出されるエネルギーとの関係式がトンネリングの起こる確率に数学的に直接依存していることを導いた。
ガモフによるセミナーに参加後、マックス・ボルンはトンネリングの一般性を認識した。彼はこの現象が原子核物理学のみならず様々な系にあてはまる量子力学からの帰結であることに気付いた[3]。その直ぐ後、両方のグループは粒子が核にトンネル抜けして入り込む場合について考察した。1957年までに、半導体の研究とトランジスタやダイオードの開発を通じて、電子のトンネリングは受け入れられた。江崎玲於奈、アイヴァー・ジェーバー、ブライアン・ジョゼフソンは超伝導性のトンネリングを予言し、1973年のノーベル物理学賞を受賞した[3]。2016年、が発見された[10]。
入門
右|サムネイル|トンネル効果とそのSTMへの応用を図示したアニメーション
量子トンネリングは、で何が起こるかを取り扱う学問である、量子力学により取り扱う必要がある。この過程は直接知覚することはできないが、古典力学が十分な説明を行えない極微の世界ではよく理解されている。この現象を理解するため、を通り抜ける粒子を丘を転がり上がるボールに喩えよう。このシナリオの取り扱いは量子力学と古典力学とで大きく異る。古典力学は粒子が障壁を乗り越えるだけのエネルギーを持っていなければ障壁の向う側には到達できないことを予測する。つまり、丘を乗り越えるだけのエネルギーを持たないボールは途中で止まり丘を転がり落ち戻っていく。別の喩えを用いれば、壁を貫通するだけのエネルギーを持たない銃弾は跳ね返る(反射)か壁の中で止まる(吸収)かする。量子力学においては、確率は小さいものの粒子は障壁を「トンネル抜け」して逆側に抜けることがある。この場合、「ボール」は環境からエネルギーを「借りて」丘を乗り越え、反射電子のエネルギーを高くすることによってそれを返済する[11]。
このような違いが生じる理由は、量子力学における粒子と波動の二重性に起因する。一つの解釈として、この二重性により引き起こされるハイゼンベルグの不確定性原理により同時に知ることのできる粒子の位置と運動量の精度に限度が生じる[4]。このことは確率が厳密に0(もしくは1)になるような解はありえないことを意味している。したがって、ある粒子が障壁を挟んで向こう側に存在する確率は0ではなく、この確率に比例する頻度で粒子が「逆」側に観測される。
トンネリング問題
粒子の波動関数は物理系について知ることのできる全ての情報を包含している[12]。したがって、量子力学における問題の中心はある系における波動関数を解析することにある。シュレーディンガー方程式をはじめとする量子力学の公式により、波動関数を導くことができる。これはある粒子がある場所に見出される確率を表わす、粒子の位置の確率密度に密接に関連している。障壁を高くもしくは広くする極限をとれば、トンネル抜けする確率は下がる。
矩形ポテンシャル障壁のような単純な障壁トンネル模型においては解析解が存在するが、多くの実際的な問題では解析解は存在しないので、近似解を得るためWKB近似のような「半古典的」もしくは「準古典的」手法が開発されている。ファインマンの経路積分法により計算資源が許す限りの精度を得ることができるが、そんなに高い精度は工学的実践において求められることは稀である。
関連する現象
量子トンネルと同じ振舞いをしめし、量子トンネルにより正確に説明できる現象がいくつか存在する。例として、古典的な波動・粒子関連性[13]やエバネッセント波カップリング(光へのマクスウェル方程式の適用)、音響学における弦に発生する波への非拡散波動方程式の適用などがある。エバネッセント波カップリングは近年にいたるまで、量子力学では単に「トンネリング」と呼ばれていたが、別の文脈でこう呼ばれるようになった。
これらの効果はの場合と同じようにモデル化することができる。このような場合、が一様もしくはほぼ一様な媒質と、それとは伝播が異なるもうひとつの媒質が登場し、媒質B領域が一つ、媒質A領域が二つあるような形で説明できる。シュレーディンガー方程式を用いた矩形ポテンシャル障壁の解析は、媒質Aでは進行波解が得られ、媒質Bでは実指数関数解が得られるような別の効果に対しても有効である。
光学では、媒質Aは真空で媒質Bはガラスである。音響学では、たとえば媒質Aは流体、媒質Bは固体とおける。この両方で、媒質A領域では粒子の総エネルギーがポテンシャルエネルギーよりも大きく、媒質Bがポテンシャル障壁となっている。この場合、入射波と反射波、透過波が得られる。さらに多くの媒質および障壁を設けることもあり、障壁が非連続ではない場合もある。このような場合は近似が便利である。
スピン偏極共鳴トンネル効果
スピン偏極共鳴トンネル効果とはトンネル効果の一種で2002年に産業技術総合研究所エレクトロニクス研究部門と科学技術振興事業団の研究チームによって単結晶ナノ構造電極を持つ新型TMR素子の開発過程において室温でTMR素子の電極内部に量子井戸準位を生成すると磁気抵抗が巨大な振動を起こす現象であるスピン偏極共鳴トンネル効果が発見された[14][15][16][17]。室温で作動するスピントランジスタの実現が期待される。
応用
量子トンネリングは障壁の厚さがおよそ 1–3nm 以下の場合に起こる[18]が、これはいくつかの重要な巨視的な物理現象の原因となっている。たとえば、VLSIにおいて電力損失および発熱の原因となり、ひいてはコンピュータチップのサイズダウン限界を定めている漏れ電流の原因は量子トンネリングである[19]。
恒星内での核融合
恒星内での核融合にとっても量子トンネルは重要である。恒星の核における温度と圧力ではを乗り越えて熱核融合を引き起こすためには十分でない。しかし、量子トンネルのおかげでクーロン障壁を通り抜ける確率が存在する。この確率は非常に低いが、恒星に存在する原子核の数は莫大であり、数十億年にもわたって定常的に核融合が続くこととなる。ひいては、生物が限られたハビタブルゾーンの中で進化できるための前提条件となっている[20]。
放射性崩壊
放射性崩壊とは不安定原子核が粒子とエネルギーを放出して安定な原子核へと変化する過程である。この過程は粒子が原子核内から外へトンネリングすることにより生じている(電子捕獲の場合は電子は外から内へトンネリングしている)。量子トンネルが初めて適用された例であり、初めての近似でもある。放射性崩壊は宇宙生物学上も重要である。ハビタブルゾーン外で日光の十分に届かない領域(たとえば深海底)で生物が長期間に渡って生存できる環境が放射性崩壊、ひいては量子トンネリングによって実現される可能性が指摘されている[20]。
星間雲における宇宙化学
量子トンネル効果を考慮することにより、分子状水素や水(氷)、および生命の起源として重要なホルムアルデヒドなどの様々な分子が星間雲において宇宙化学的に合成されている理由を説明できる[20]。
量子生物学
量子生物学において、無視できない量子効果の筆頭として量子トンネル効果が挙げられる。ここでは、電子トンネリングとプロトントンネリングの二つが重要となる。電子トンネリングは多くの生化学的酸化還元反応(光合成、細胞呼吸)および酵素反応のキーファクターであり、またプロトントンネリングはDNA自発変異におけるキーファクターである[20]。
DNA自発変異は通常のDNA複製時において、特に重要なプロトンが確率の低い量子トンネリングを起こすことによって生じ、これを量子生物学では「プロトントンネリング」と呼ぶ[21]。通常のDNA塩基対は水素結合で会合している。水素結合に沿って見ると、二重井戸ポテンシャル構造が生じており、片方がより深くもう片方が浅い非対称となっていると考えられている。このため、プロトンは通常深い方の井戸に収まっていると考えられる。変異が起こるためにはプロトンは浅い方の井戸にトンネル抜けする必要がある。このようなプロトンの通常位置からの移動は互変異性遷移と呼ばれる。このような状態でDNAの複製が始まった場合、DNA塩基対の会合則が乱され、変異が起こりうる[22]。が初めて二重螺旋中における自発変異を取り扱うこの理論を構築した。その他の量子トンネル由来の変異が老化や癌化の原因であると考えられている[23]。
電界放出
電子の電界放出は半導体物理学や超伝導体物理学に関連する。これは電子がランダムに金属表面から飛び出すという点で熱電子放出と似ている。熱電子放出では互いに衝突しあう粒子がエネルギー障壁を越えるエネルギーを獲得して放出されるが、電界放出では強い電界をかけることによってエネルギー障壁が薄くなり、電子が原子状態からトンネル抜けすることによって電子の放出が起こる。したがって、電流は電界におおよそ指数関数的に依存する[24]。フラッシュメモリーや真空管、電子顕微鏡などにおいて重要である。
トンネル接合
非常に薄い不導体を二つの導体で挟み込むことによって単純な障壁を作ることができる。これをトンネル接合とよび、量子トンネルの研究に用いられる[25]。ジョセフソン接合は超伝導と量子トンネルを利用するジョセフソン効果を起こすための構造である。これは電圧と磁場の精密計測[24]、およびに応用できる。
トンネルダイオード
ダイオードとは、電流を一方向にしか流さない半導体素子である。この素子はn型とp型の半導体の接合面に生じる空乏層に依存して動作している。半導体のドープ率を極めて高くすると、空乏層が量子トンネリングが生じるほど薄くなる。すると、順バイアスが小さい場合にはトンネリングによる電流が支配的となる。この電流はがp型およびn型の伝導帯エネルギー準位が一致するような値のとき最大となる。バイアス電圧をさらに増していくと、伝導体がもはや一致しなくなり通常のダイオードと同様の動作を示すようになる[26]。
トンネル電流は急速に低下するため、電圧が増すと電流が減るような電圧領域を持つトンネルダイオードを作成することが可能である。このような特異的特性は、電圧の変化の速さに量子トンネル確率の変化が追従できるような高速素子などにおいて応用されている[26]。
は同じような結果を達成するが、量子トンネリングを全く異る方法で応用している。このダイオードは伝導体のエネルギー準位が高い薄膜を複数近接して配置することにより、特定の電圧で大きな電流が流れる共鳴電圧を持つ。このような配置により最低エネルギー準位が不連続に変化する量子ポテンシャル井戸が形成される。このエネルギー準位が電子のエネルギー準位よりも高い場合はトンネリングは起こらず、逆バイアスのかかったダイオードのように動作する。二つのエネルギー準位が一致したとき、電子は導線で繋がれたかのように流れる。電圧をさらに高くするとトンネリングが起こらなくなり、あるエネルギー準位からはまた通常のダイオードのように動作しはじめる[27]。
トンネル電界効果トランジスタ
ヨーロッパの研究プロジェクトにより、ゲート(チャネル)を熱注入ではなく量子トンネリングで制御することにより、ゲート電圧を ~1 ボルトから 0.2 ボルトに低減し、電力消費量を 100分の1以下に抑えた電界効果トランジスタが実証された。このトランジスタをにまでスケールアップすることができれば、集積回路の電力性能効率を大きく向上させることができる[28]。
量子伝導
電気伝導におけるドルーデモデルは金属中の電子の伝導について優れた予言を行うが、電子の衝突時の性質について量子トンネルを考慮して改良することができる[24]。自由電子波束が等間隔に並んだ長い障壁の列に遭遇すると、反射された波束と透過する波束が均一に干渉して透過率が100%となる場合がある。この理論によれば、正に帯電した原子核が完全な長方形格子を構成する場合、電子は金属中を自由電子のようにトンネリングし、極めて高い伝導度を示すこと、および金属中の不純物によりこれが大きく阻害されることが予言される[24]。
走査型トンネル顕微鏡
ゲルト・ビーニッヒとハインリッヒ・ローラーにより発明された走査型トンネル顕微鏡 (STM) は、金属表面の個々の原子を判別できる画像を撮像できる[24]。これは量子トンネル確率が位置に依存する性質を利用したものである。バイアス電圧を書けたSTM針の針先が伝導体表面に近付くと、針から表面へと電子がトンネリングし、これを電流として計測することができる。この電流により、針と表面の距離を計測できる。圧電素子に印加する電圧を制御して、針が表面と一定距離を保つように伸び縮みさせることができる。圧電素子に印加した電圧の時間変化を記録すれば、表面の像を得ることができる[24]。STMの精度は 0.001nm、すなわち原子直径の 1% に及ぶ[27]。
超光速
スピンゼロ粒子がトンネリングするとき、光速を超えて移動することがある[3]。これは一見相対論的因果律に反しているように見えるが、波束の伝播を詳しく解析すると、相対性理論に反していないことがわかる。1998年、はゼロ時間トンネリングについてのレビューを執筆した[29]。フォノン、光子、電子のトンネル時間についてのより新しい実験データはにより発表されている[30]。
量子トンネルの数学的表現
以下の節では量子トンネルの数学的公式化について論じる。
シュレーディンガー方程式
一粒子・一次元の時間非依存シュレーディンガー方程式は以下のように書ける。
−
ℏ
2
2
m
d
2
d
x
2
Ψ
(
x
)
+
V
(
x
)
Ψ
(
x
)
=
E
Ψ
(
x
)
{\displaystyle -{\frac {\hbar ^{2}}{2m}}{\frac {\mathrm {d} ^{2}}{\mathrm {d} x^{2}}}\Psi (x)+V(x)\Psi (x)=E\Psi (x)}
d
2
d
x
2
Ψ
(
x
)
=
2
m
ℏ
2
(
V
(
x
)
−
E
)
Ψ
(
x
)
≡
2
m
ℏ
2
M
(
x
)
Ψ
(
x
)
,
{\displaystyle {\frac {d^{2}}{dx^{2}}}\Psi (x)={\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(V(x)-E\right)\Psi (x)\equiv {\frac {2m}{\hbar ^{2}}}M(x)\Psi (x),}
ここで
ℏ
{\displaystyle \hbar }
はディラック定数、m は粒子質量、x は粒子の動く方向に沿って測った位置、Ψ はシュレーディンガーの波動関数、V は粒子はポテンシャルエネルギー、E は x 方向に運動する粒子のエネルギー、M(x) は広く受け入れられている物理学的な名前はないが V(x) − E により定義される量である。
このシュレーディンガー方程式の解は M(x) が正か負かによって異る形式をとる。M(x) が定数で負のとき、シュレーディンガー方程式は次のように書ける。
d
2
d
x
2
Ψ
(
x
)
=
2
m
ℏ
2
M
(
x
)
Ψ
(
x
)
=
−
k
2
Ψ
(
x
)
,
w
h
e
r
e
k
2
=
−
2
m
ℏ
2
M
.
{\displaystyle {\frac {\mathrm {d} ^{2}}{\mathrm {d} x^{2}}}\Psi (x)={\frac {2m}{\hbar ^{2}}}M(x)\Psi (x)=-k^{2}\Psi (x),\;\;\;\;\;\;\mathrm {where} \;\;\;k^{2}=-{\frac {2m}{\hbar ^{2}}}M.}
この方程式の解は位相定数が +k または -k の進行波を表わす。一方、M(x) が定数で正のとき、シュレーディンガー方程式は次のように書ける。
d
2
d
x
2
Ψ
(
x
)
=
2
m
ℏ
2
M
(
x
)
Ψ
(
x
)
=
κ
2
Ψ
(
x
)
,
w
h
e
r
e
κ
2
=
2
m
ℏ
2
M
.
{\displaystyle {\frac {\mathrm {d} ^{2}}{\mathrm {d} x^{2}}}\Psi (x)={\frac {2m}{\hbar ^{2}}}M(x)\Psi (x)={\kappa }^{2}\Psi (x),\;\;\;\;\;\;\mathrm {where} \;\;\;{\kappa }^{2}={\frac {2m}{\hbar ^{2}}}M.}
この方程式の解はエバネッセント波を表わす。M(x) が位置によって変化する場合も、M(x) が負か正かによって同じ挙動の違いが生じる。したがって、M(x) の符号が媒質の性質を表わしている。M(x) が負ならば上で説明した媒質Aに相当し、正ならば媒質Bに相当する。したがって、M(x) が正の領域が M(x) が負の領域に挟まれている場合に障壁が形成され、エバネッセント波結合が生じうる。
M(x) が x によって変化する場合は数学的取扱が困難であるが、通常は実際の物理系に対応しない例外的な特殊例もいくつかある。教科書に載っているような半古典近似法に関連した議論は次節で述べる。完全で複雑な数学的取扱に関しては、Fröman & Fröman 1965を参照されたい。彼らの手法は教科書には載っていないが、定量的には小さな影響しかない補正である。
WKB近似
波動関数を以下のようにある関数の指数関数を取って表わすものとする。
Ψ
(
x
)
=
e
Φ
(
x
)
{\displaystyle \Psi (x)=e^{\Phi (x)}}
Φ
″
(
x
)
+
Φ
′
(
x
)
2
=
2
m
ℏ
2
(
V
(
x
)
−
E
)
.
{\displaystyle \Phi ''(x)+\Phi '(x)^{2}={\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(V(x)-E\right).}
Φ
′
(
x
)
{\displaystyle \Phi '(x)}
は実部と虚部に分けることができる。
Φ
′
(
x
)
=
A
(
x
)
+
i
B
(
x
)
{\displaystyle \Phi '(x)=A(x)+iB(x)}
ここで、A(x) および B(x) は実値関数とする。
上の第二式にこれを代入し、左辺の虚部が零となる必要があることを用いると、次を得る。
A
′
(
x
)
+
A
(
x
)
2
−
B
(
x
)
2
=
2
m
ℏ
2
(
V
(
x
)
−
E
)
{\displaystyle A'(x)+A(x)^{2}-B(x)^{2}={\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(V(x)-E\right)}
.
この方程式を半古典近似を用いて解くには、各関数を
ℏ
{\displaystyle \hbar }
の羃級数に展開する。この方程式の実部を満たすためには、羃級数が少なくとも
ℏ
−
1
{\displaystyle \hbar ^{-1}}
から始まる必要があることがわかる。古典極限の振舞いを良くするためにはプランク定数の次数はなるべく高い方がよいので、 次のように置くこととする。
A
(
x
)
=
1
ℏ
∑
k
=
0
∞
ℏ
k
A
k
(
x
)
{\displaystyle A(x)={\frac {1}{\hbar }}\sum _{k=0}^{\infty }\hbar ^{k}A_{k}(x)}
B
(
x
)
=
1
ℏ
∑
k
=
0
∞
ℏ
k
B
k
(
x
)
{\displaystyle B(x)={\frac {1}{\hbar }}\sum _{k=0}^{\infty }\hbar ^{k}B_{k}(x)}
また、最低次の項については次のような拘束が課せられる。
A
0
(
x
)
2
−
B
0
(
x
)
2
=
2
m
(
V
(
x
)
−
E
)
{\displaystyle A_{0}(x)^{2}-B_{0}(x)^{2}=2m\left(V(x)-E\right)}
A
0
(
x
)
B
0
(
x
)
=
0
{\displaystyle A_{0}(x)B_{0}(x)=0}
ここで、二つの極端な場合について考察する。
Case 1
振幅の変化が位相に比べて遅い場合、
A
0
(
x
)
=
0
{\displaystyle A_{0}(x)=0}
および
B
0
(
x
)
=
±
2
m
(
E
−
V
(
x
)
)
{\displaystyle B_{0}(x)=\pm {\sqrt {2m\left(E-V(x)\right)}}}
は古典的運動に相当する。次の次数までの項を解くと、次を得る。
Ψ
(
x
)
≈
C
e
i
∫
d
x
2
m
ℏ
2
(
E
−
V
(
x
)
)
+
θ
2
m
ℏ
2
(
E
−
V
(
x
)
)
4
{\displaystyle \Psi (x)\approx C{\frac {e^{i\int dx{\sqrt {{\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(E-V(x)\right)}}+\theta }}{\sqrt[{4}]{{\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(E-V(x)\right)}}}}
Case 2
位相の変化が振幅に比べて遅い場合、
B
0
(
x
)
=
0
{\displaystyle B_{0}(x)=0}
および
A
0
(
x
)
=
±
2
m
(
V
(
x
)
−
E
)
{\displaystyle A_{0}(x)=\pm {\sqrt {2m\left(V(x)-E\right)}}}
はトンネリングに相当する。次の次数までの項を解くと、次を得る。
Ψ
(
x
)
≈
C
+
e
+
∫
d
x
2
m
ℏ
2
(
V
(
x
)
−
E
)
+
C
−
e
−
∫
d
x
2
m
ℏ
2
(
V
(
x
)
−
E
)
2
m
ℏ
2
(
V
(
x
)
−
E
)
4
{\displaystyle \Psi (x)\approx {\frac {C_{+}e^{+\int dx{\sqrt {{\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(V(x)-E\right)}}}+C_{-}e^{-\int dx{\sqrt {{\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(V(x)-E\right)}}}}{\sqrt[{4}]{{\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(V(x)-E\right)}}}}
どちらの場合でも、近似解の分子を見れば古典的折り返し点
E
=
V
(
x
)
{\displaystyle E=V(x)}
付近で破綻することが瞭然だろう。このポテンシャルの丘から遠いところでは、粒子は自由に振動する波と類似の振る舞いを示す。ポテンシャルの丘のふもとでは、粒子の振幅は指数関数的に変化する。これらの極限における振る舞いと折り返し点を考慮すると、大域解を得ることができる。
はじめに、古典的折り返し点を x1 とし、
2
m
ℏ
2
(
V
(
x
)
−
E
)
{\displaystyle {\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(V(x)-E\right)}
を x1 周りの羃級数で展開する。
2
m
ℏ
2
(
V
(
x
)
−
E
)
=
v
1
(
x
−
x
1
)
+
v
2
(
x
−
x
1
)
2
+
⋯
{\displaystyle {\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(V(x)-E\right)=v_{1}(x-x_{1})+v_{2}(x-x_{1})^{2}+\cdots }
この初項のみを採れば線形性が保証される。
2
m
ℏ
2
(
V
(
x
)
−
E
)
=
v
1
(
x
−
x
1
)
{\displaystyle {\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left(V(x)-E\right)=v_{1}(x-x_{1})}
この近似を用いると、x1 近傍について次の微分方程式を得る。
d
2
d
x
2
Ψ
(
x
)
=
v
1
(
x
−
x
1
)
Ψ
(
x
)
{\displaystyle {\frac {\mathrm {d} ^{2}}{\mathrm {d} x^{2}}}\Psi (x)=v_{1}(x-x_{1})\Psi (x)}
これはエアリー関数を用いて解くことができる。
Ψ
(
x
)
=
C
A
A
i
(
v
1
3
(
x
−
x
1
)
)
+
C
B
B
i
(
v
1
3
(
x
−
x
1
)
)
{\displaystyle \Psi (x)=C_{A}Ai\left({\sqrt[{3}]{v_{1}}}(x-x_{1})\right)+C_{B}Bi\left({\sqrt[{3}]{v_{1}}}(x-x_{1})\right)}
この解を全ての古典的折り返し点について用いることで、上の極端な場合の解を繋ぐ大域解を得ることができる。古典的折り返し点の片側で2つの係数が与えられれば、逆側の2つの係数はこの局所解を用いてそれらを繋ぐことで決定することができる。
したがって、エアリー関数解は適切な極限の元で sin, cos 関数と指数関数に漸近する。
C
,
θ
{\displaystyle C,\theta }
,
C
+
,
C
−
{\displaystyle C_{+},C_{-}}
の関係式は次のように得られる。
C
+
=
1
2
C
cos
(
θ
−
π
4
)
{\displaystyle C_{+}={\frac {1}{2}}C\cos {\left(\theta -{\frac {\pi }{4}}\right)}}
C
−
=
−
C
sin
(
θ
−
π
4
)
{\displaystyle C_{-}=-C\sin {\left(\theta -{\frac {\pi }{4}}\right)}}
これらの係数が決まれば、大域解が得られる。したがって、一つのポテンシャル障壁をトンネリングする粒子のは以下のように得られる。
T
(
E
)
=
e
−
2
∫
x
1
x
2
d
x
2
m
ℏ
2
[
V
(
x
)
−
E
]
{\displaystyle T(E)=e^{-2\int _{x_{1}}^{x_{2}}\mathrm {d} x{\sqrt {{\frac {2m}{\hbar ^{2}}}\left[V(x)-E\right]}}}}
ここで、 x1, x2 はポテンシャル障壁にある二つの古典的折り返し点である。
矩形障壁の場合は、この式は次のように簡単化できる。
T
(
E
)
=
e
−
2
2
m
ℏ
2
(
V
0
−
E
)
(
x
2
−
x
1
)
=
V
~
0
−
(
x
2
−
x
1
)
{\displaystyle T(E)=e^{-2{\sqrt {{\frac {2m}{\hbar ^{2}}}(V_{0}-E)}}(x_{2}-x_{1})}={\tilde {V}}_{0}^{-(x_{2}-x_{1})}}
関連項目
出典
関連文献
外部リンク
(Université Paris Sud)
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E5%8A%B9%E6%9E%9C |
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ベルリン市街戦(ベルリンしがいせん、)は、ベルリンの戦いにおける一方面の戦いである。ベルリンの戦いは第二次世界大戦における終末期のドイツ国と連合国との間における支配地をめぐる戦いで、本市街戦はその局地戦のひとつであった。ソビエト赤軍3方面軍によるベルリン占領まで続いた。
ドイツ軍にとっては戦いの初期段階ですでに絶望的な状況であったが、にもかかわらずソビエト軍が市の中央部に進撃するためには通りごとに多大な犠牲を払わなければならなかった。
1945年4月23日、ソビエト軍は初めてベルリン市の郊外に進入、 4月27日までには、ベルリン市は完全に包囲された。5月2日、ベルリン防衛軍司令官(ヘルムート・ヴァイトリング)は、ソビエト軍(司令官ゲオルギー・ジューコフ)配下の(ワシーリー・チュイコフ)に降伏した。
前哨戦
オーデル・ナイセ線での戦いの主戦地はベルリン郊外東方面での最終防衛線、ゼーロウ高地で4月16日から19日までの4日間にわたって激戦が行われた。戦いの最終日の19日、第1白ロシア方面軍はゼーロウ高地のドイツ軍最終防衛線を突破、その結果、ソビエト赤軍とベルリンの間には撃破され疲弊し切ったドイツ軍しか存在しなかった。その前日、フォルストを包囲していた第1ウクライナ方面軍(司令官イワン・コーネフ元帥)は、扇形に広がって進撃し、一部の部隊が、ベルリン西側のエルベ川に進出していたアメリカ軍と合流すべく南西へ向かい、主力部隊はベルリン包囲のために北東へ進出した。
4月19日の遅く、ゼーロウ高地南部、フロスト南部、フランクフルト・アン・デア・オーダー北部のドイツ軍東部戦線は消失し、これを突破した2個ソビエト赤軍方面軍がフランクフルト・アン・デア・オーダー東部でドイツ第9軍を包囲した。包囲網を西へ突破しようとする第9軍の戦いは後にハルベの戦い[1][2]と呼ばれる。ソビエト赤軍の損害は4月1日〜19日の間が激しく、ゼーロウ高地で破壊された727両を含めて、総勢2,807両以上の戦車が破壊された[3]。
ベルリン包囲
ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの誕生日である4月20日、第1白ロシア方面軍の砲兵部隊はベルリン市中央部に砲撃を開始したが、これはベルリン市が降伏するまで続いた(戦後、ソビエトはその砲撃は西側連合国軍による空襲よりも量が多く、効果が高かったとしている)。その砲撃の最中、第1白ロシア方面軍は、ベルリン市の東方面から北東部を包囲し始めた。
一方、第1ウクライナ方面軍はドイツ中央軍集団(司令官フェルディナント・シェルナー元帥)の北側防衛線を突破、北方へ進撃、その途中、エルベ川沿いのマクデブルクへ進撃していたアメリカ軍と邂逅した。
また、第2白ロシア方面軍(司令官コンスタンチン・ロコソフスキー元帥)は、シュテッティン- 間北方で、ヴァイクセル軍集団(司令官ゴットハルト・ハインリツィ上級大将)配下の第3装甲軍(司令官ハッソ・フォン・マントイフェル大将)の防衛線の北側中央部を攻撃した[2]。その結果、4月24日までには、第1白ロシア方面軍と第1ウクライナ方面軍の主力は、ベルリン市の包囲を完了[4]、その翌日の25日、第2白ロシア方面軍がシュテッティンに築いた橋頭堡を足がかりに第3装甲軍の防衛線を南へ突破、湿地を横断したが、それはバルト海に面したシュトラールズントの港へ進出していたイギリス軍第21軍集団のところまで障害無しに北進することが可能になったことを意味した。
第5親衛軍配下のソビエト第58親衛師団は、エルベ川沿いの近くで、アメリカ第1軍配下の第69歩兵師団と邂逅した[5]。ベルリンを包囲したソビエト赤軍はSバーンを環状に形成したドイツ軍防衛線へ徹底的に浸透し、しらみつぶしに撃破していた。4月25日遅く、戦いの最終局面は、すでにベルリン市内に移り、ベルリン市におけるドイツ防衛部隊の戦いがソビエト赤軍による占領を遅らせるとは思われなかった[6]。
決戦前夜
ベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリング大将が使用できる戦力は損耗し切った国防軍、武装SSで45,000ほどであり、さらに警察官、ヒトラー・ユーゲント、国民突撃兵らが加わった[注 1]。国民突撃兵は40,000人ほどいたが、その中には第一次世界大戦を戦った人々や青年が所属していた。ヒトラーによりベルリン中心部防衛にはヴィルヘルム・モーンケSS少将が任命され、2,000の兵がその指揮下に配属された[注 2]。ヴァイトリングは市内を「A」〜「H」の8区画に分けて、それぞれ防衛部隊を配置したが、部隊のほとんどは戦闘経験がなかった[9]。ベルリン西方を第20装甲擲弾兵師団、北方に第9降下猟兵師団、北東に、南東方向とテンペルホーフ飛行場に第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」、予備として第18装甲擲弾兵師団が中央部とそれぞれ配置された[12][7]。
作戦
ソビエト赤軍は砲兵による濃厚な支援射撃の元、6〜8人の兵で小規模な戦闘グループを作り、それをさらに80人ほどにまとめ、武器を混成させた部隊を構成させた。これらはソビエト赤軍が独ソ戦で攻勢を始めてから各々のFestungsstadt(要塞都市)を巡る戦いで、家ひとつひとつを奪い合う激戦に有効な戦術として発案されたものだった[13]。
ベルリン市防衛ドイツ軍には3つの問題が生じていた。第1にドイツ軍がこの5年間に負った損害、第2にベルリン市の地形的特徴、第3にソビエト赤軍の戦術であった。特にベルリン市中央部の大部分はいくつかの水路、公園、及び広大な鉄道関連施設や広く直線でできた道路から形成されており、なおかつ、一部に(海抜66メートル)が存在する程度の平地であり、侵攻を妨げる要害が存在しなかった。また、標準的な住宅のほとんどは煉瓦で造られた19世紀に建設されたもので、通りから石炭を運ぶ馬車やトラックが中庭に入れるように通路がついていた。さらにはその中庭を中心に建物が並んでおり、どこからでも進入できる作りになっていた。武装SSは戦いの間、通りに面した建物を遠距離砲撃で崩して陣地を形成したので街角の急造バリケードを使わなかった[注 3]。そして、ソビエト赤軍戦車の機銃が高い位置の目標を撃つことができなかったので、建物ごとに狙撃兵や機関銃を配置し、さらには窓のある地下室や通りに空いた穴にパンツァーファウストを配置した。これらの戦術はヒトラー・ユーゲントや国民突撃兵らも行った[16][17]。
ソビエト赤軍はそれに対抗するためにタンクデサントを配置、軽機関銃などを装備させたが、これは戦車の射撃範囲を狭めることとなった。そのため、もうひとつの解決策として実行したのは、ドイツ軍狙撃手に対して対空砲を使い、建物には重砲撃(主に152mmと203mm)を浴びせ、通りに面した建物をひとつひとつ掃討していくことだった。戦闘は屋根伝いや屋根裏で行われたり、隣接した建物の穴を抜け、時折壁をぶち抜き(これにはドイツ軍が遺棄したパンツァーファウストが非常に有効であった)、地下室や部屋伝いに行われ、この浸透戦術は戦車を待ち伏せしていたドイツ兵を狩り出した。手榴弾と火炎放射器はこの戦いで非常に効果があったが、ベルリン市民が避難していなかったため、多くの犠牲者を出すこととなった[16][14]。
ベルリン市街戦
郊外
郊外での戦闘が絶望的になったことでベルリンの運命は事実上、決していたが、ベルリン市内での戦闘は継続していた[6]。4月23日までには、第1親衛戦車軍(司令官)とその他の部隊がの南でシュプレー川、に至り、4月24日までに、へ進撃した[18]。また、早朝には第5突撃軍(司令官ニコライ・ベルザーリン)がシュプレー川を横断、にいたった。24日未明に第LVI装甲軍団の反撃を受けたが、これを撃退、さらに進撃したため[19]、ソビエト赤軍の大きな楔が打ち込まれ、第1親衛戦車軍は越しに攻撃を行った[18]。6時20分、3,000の砲による砲撃と重爆撃機による爆撃(1キロあたり650門)を開始、架橋が終了した直後の7時に最初の部隊が運河を渡り、12時には戦車が支援に加わった。ソビエト赤軍は夜にはトレプトウ公園を占領、Sバーンに達した[18]。
戦闘はベルリン市の東南で激化し、第33SS武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」(フランス第1)(司令官)のフランスSS突撃大隊に所属する約300名のフランス人義勇兵が第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」と合流した。その日、ベルリンに到着した増援はこのフランス人突撃大隊だけだった。彼らは、ハーフェル川とシュプレー川の向かい側の無人のバリケード以外の防御が手薄な西郊外を通り、の近くの親衛隊施設からベルリンの中央部へ移動した[20][6]。
4月25日、第11SS装甲擲弾兵師団「ノルトラント」司令官が解任され、後任司令官となったクルッケンベルクが「C」区画の防衛を任されることになり、フランス人義勇兵たちは「ノルゲ」連隊および「ダンマルク」連隊が壊滅した「ノルトラント」師団と共に防衛線を補強することになった[21]。正午、彼は「C」区画に到着したが、テルトウ運河南方のドイツ軍橋頭堡はすでに放棄されており、夜には「C」区画を放棄して市中央部「Z」区画()へ退却しなければならないと陸軍総司令部(OKH)ハンス・クレープス大将に予告された[22][23]。
第8親衛軍と第1親衛戦車軍の部隊はノイケルンの南方を通ってSバーン防衛線に存在したテンペルホーフ飛行場方面へ進撃した。「D」区画の防衛はミュンヘベルク装甲師団が担当しており、12両の戦車と30台の装甲兵員輸送車が補充される約束であったが、現実には敗残兵と国民突撃兵が補充されるにとどまった。ソビエト赤軍はドイツ軍を撃破するのに火炎放射器を使用し、用心深く進撃した。夕暮れまでには、何台かのT-34が飛行場(総統地下壕南方6キロ地点)に至ったが、そこでドイツ軍の激しい抵抗に出くわした。ミュンヘベルク装甲師団は翌日までなんとか戦線を維持していたが、これがソビエト赤軍を大規模に足止めした最後の抵抗であった[24][25]。26日、ソビエト赤軍はノイケルンへ進撃、クルッケンベルクは「C」区画防衛のためにUバーンの周辺に防衛線を築き、司令部をオペラハウスに置いた。その時、兵力を減じたドイツ軍の2個師団がソビエト赤軍5個軍と戦っており、戦況は絶望的だった。第5突撃軍は東方から西方へ向かいトレプトウ公園方面へ進撃しており、ノイケルン北方から第8親衛軍、第1親衛戦車軍が進んだが、テンペルホーフ飛行場で足止めされた。一方、第1ウクライナ方面軍配下の第3親衛戦車軍はから進撃していた。「ノルトラント」がへ後退したため、フランス人義勇兵と100人ほどのヒトラー・ユーゲントがパンツァーファウストでソビエト赤軍戦車14両を破壊し、橋付近に設置された機関銃座で48時間ソビエト赤軍を足止めした。一方、で第LVI装甲軍団の2個師団がソビエト赤軍の攻勢を失速させることはできたが、止めることはできなかったため、「ノルトラント」が(当時、8両のティーガーI重戦車と数両の突撃砲を所持していた)ティーアガルテンを保持するよう命令された[26]。
ヒトラーは、ヘルマン・ゲーリングからドイツ空軍司令官を引き継がせるためにミュンヘンにいたローベルト・フォン・グライムを呼び寄せた。グライムはハンナ・ライチュ(グライムの愛人であり、テストパイロットでもあった)にFi 156シュトルヒを操縦させてベルリンへ向かい、途中、対空砲の攻撃を受けて負傷したが、ブランデンブルク門の近くのティーアガルテンへの着陸に成功した[27][28][29][30]。4月26日、ライチュとグライムがベルリンに到着した同日、第LVI装甲軍団司令官ヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将がベルリン防衛軍の司令官に任命された[27]。ヴァイトリングは20日に第LVI装甲軍団司令官に任命されたが、その2日後にはヒトラーに銃殺を命令されていた。これはヒトラーの死守命令にヴァイトリングが背いたと誤解されたためであった。ヴァイトリングはの後任のベルリン防衛軍司令官に任命されたが、その前日、ケーターはヘルムート・ライマン中将(彼は1ヶ月ほどその地位を保持していた)と交代したばかりであった。
ジューコフは、ソビエト赤軍が制圧した地域でドイツ軍政を組織化するための職務にベルザーリンを任命した[31]。市長などのスタッフ(ベルリン市職員など)は、ベルザーリンの元に向かうよう要求された。その翌日(27日)、ソビエト空軍が使用できるようにするため2,000人のドイツ人女性がテンペルホーフ空港の障害物除去を命令された[32][33]。
第1白ロシア方面軍と第1ウクライナ方面軍がベルリンの中心部に集中して進撃したが、このことが弾着観測機や他の方面軍に正確に伝わらず、しばしば友軍の支援砲火を浴びることになった。しかし、これは各ソビエト赤軍部隊のドイツ総統官邸を巡る競争がもたらしたものだった。このことを第1ウクライナ方面軍のある軍団長は「俺たちはドイツ軍は怖くないが、お隣さんが怖いのさ…ベルリンまで来てお隣さんの手柄を聞かされるんじゃ、たまらねえからな」と軽口でジョークにしていた[34]。
歴史家アントニー・ビーヴァーによれば、事実はこの冗談を上回っており、チュイコフは自らが率いる第8親衛軍に帝国議会議事堂(ライヒスターク)への直通路を塞いでいる第3親衛戦車軍の前を横切らせ、左側面から進撃するように故意に命じたと指摘している。チュイコフはこの行動を第3親衛戦車軍に伝えなかったため、誤射で多くの兵士が犠牲となった[35][36]。
南西方面では、第3親衛戦車軍が第28軍の支援の元、郊外の森林公園で第18装甲擲弾兵師団の残存兵を東方向から撃破、へ突入した。南方では、第8親衛軍と第1親衛戦車軍が、4月27日に運河のドイツ軍陣地を撃破、総統官邸とそれに隣接する総統地下壕まで2キロ未満まで迫った。南東方面では第5突撃軍がの高射砲塔を迂回、とシュプレー川の堤防の間で第IX軍団と交戦していた[12][37]。4月27日までにソビエト赤軍は、全方位からSバーンの防御線を突破し、ドイツ軍はティーアガルテン地区を中心とした旧市街地に東西に25キロ、南北に3キロほどの場所に閉じ込められた。
北西方面では第47軍がに到達しようとしていたが、それは国民突撃兵と空軍士官候補生らの部隊(88ミリ対空砲装備)とのをめぐる戦闘に影響した。北方では第2戦車軍がで足止めされていた。一方、第3突撃軍はドイツ残存部隊を追跡しての高射砲塔を迂回、ティーアガルテンとプレンツラウアー・ベルクの北側に進撃した[12][37][38][39]。
4月27日、ソビエト空軍はベルリンへ重爆撃機による空襲を行った。第8親衛軍と第1親衛戦車軍は、ワーテルローの戦い(の別名)にちなんで名付けられたを皮肉にも防衛している「ノルトラント」師団のフランス人義勇兵を攻撃するよう命令された。その夜、ヴァイトリングは戦況をヒトラーに報告し、可動戦車40台(これが全てであった)を使用した綿密な脱出計画を提案した。しかし、ヒトラーは総統地下壕にとどまると宣言、ヴァイトリングの計画を拒否した[40][41]。その頃、中央部を防御する「Z」区画防衛司令部はUバーン、の車両の中だった。「ノルトラント」の装甲車両は捕獲した4台のソビエト赤軍装甲兵員輸送車、2台の半装軌車のみで、なおかつ武器はパンツァーファウストが主力となっていたが、それだけでソビエト赤軍装甲車両やひとつひとつの建物を巡る近接戦闘を繰り広げなければならなかった[42][43]。
4月28日夜明けに、第20軍団所属の、シャルンホスト装甲師団と国家労働奉仕団テオドール・ケルナー師団がベルリンの南西方面からベルリンに向けて攻撃を開始した。それらは第12軍(司令官ヴァルター・ヴェンク)の所属部隊で、士官学校生などで構成されており、当時ドイツ軍の中でも戦力を保持している部隊であった。その攻勢は24キロにわたってベルリンに向かったが、ポツダム近郊の(ベルリン南方32キロ地点)で力尽きた[44]。
4月28日遅く、ヒトラーは親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがスウェーデン赤十字社副総裁フォルケ・ベルナドッテ伯に和平交渉のためにリューベックで接触したことを知った。ヒムラーはベルナドッテ伯に西側連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワーと和平交渉をしたいので間を取り持つよう要請していた。ヒトラーはヒムラーの背信行為に激怒し、グライムとライチェにカール・デーニッツの元へ向かうよう命令し、さらにグライムへ「裏切り者」ヒムラーを逮捕するよう厳命した[27]。その日、ミュンヘベルク装甲師団は撃破され、総統地下壕の南、約1キロにあるへ退却した。
伝えられている話では、進撃するソビエト赤軍を足止めするためにヒトラーはを破壊、そのため、市民が避難していたSバーンのアンハルト駅でパニックを引き起こし、何千人かが溺死したとされている。しかし、その水位は1mほどゆっくり上昇したにすぎず、1945年10月、トンネルから水が排出されるとそれらの人々は溺死ではなく戦闘によるか、負傷によって死亡したことが判明している[注 4]。
ベルリン市中央地区
4月27日〜28日、第1ウクライナ方面軍の大部分がベルリンからプラハへ転進するよう命令された。これは第1白ロシア方面軍のジューコフ元帥にベルリン占領の栄光を与えるためであり、第1ウクライナ方面軍の諸員は憤った[50]。
4月28日、ドイツ軍は東のアレクサンダー広場からシャルロッテンブルク、西はオリンピック・スタジアムまでの幅5キロ、長さ15キロ未満の地域を保持しているにすぎなかった。通常、ソビエト赤軍はトンネルや退避壕(ベルリン地区に約1,000ほど存在した)での戦いを避け、彼らを閉じ込める作戦を取った[51]。ただ、帝国議会議事堂北方1kmにあった刑務所では第3突撃軍が進撃のために重砲で穴を開けたため、混乱が生じた。そのため、部隊が駐屯した。その後、第3突撃軍は、ティーアガルテンの戦勝記念塔を視野に捕らえ、正午の間にはシュプレー川の(そこは帝国議会議事堂やゲシュタポ本部からほんの600mほどである)に進撃した[52][53]。ドイツ軍はモルトケ橋を爆破したが、歩兵ならば渡れる状況であったため、夕方にソビエト赤軍が重砲兵の支援のもと、モルトケ橋を渡った。真夜中までにはソビエト赤軍は第150及び、第171狙撃師団を増援、ドイツ軍の反撃を食い止め、橋頭堡を確保した[54]。
同日、ハンス・クレープス参謀長は、総統地下壕からに滞在しているヴィルヘルム・カイテル国防軍最高司令部 (OKW) 総長へ最後の電話をした。クレープスは、救援が48時間以内に到着しないならば、すべてが灰塵に化すだろうとカイテルに話した。カイテルは、第12軍司令官ヴァルター・ヴェンクと第9軍司令官テオドール・ブッセへ強く働きかけると約束した。一方、ナチ党官房長マルティン・ボルマンはデーニッツに「総統官邸は瓦礫の山となった。」と打電した。さらにボルマンは諸外国の報道機関がヒムラーの背信を報道しており、「総統はシェルナー、ヴェンク、他の忠誠を期待し、彼らがベルリンを救うことを期待している。」と言った[44][55]。
夕方、グライムとライチュは、アラドAr 96高等練習機でベルリンから飛び立つこととなった。グライムはドイツ空軍に命令して、ポツダム広場に進撃したソビエト赤軍を空撃することと、ヒムラーが逮捕されたか確認することを命令されていた[注 5]。ソビエト赤軍はヒトラーが空路、逃走することを恐れていたため、第3突撃軍(北方からティーアガルテンを通過して進撃していた。)がグライムの乗った飛行機を攻撃したが、失敗、グライムは飛び立った[56][45]。
28日夜、ヴェンクは、カイテルに、第12軍が全ての箇所でソビエト赤軍に押し戻されたと報告した。第12軍配下の第XX軍団に精一杯できることは、ポツダム守備隊と一時的な接触を確立することであり、第9軍の支援が期待できない以上、ベルリン救援は事実上不可能であった。そして、カイテルはヴェンクにベルリン救援を行わなくても良いと許可した[57][44]。
4月29日午前4時、総統地下壕においてヒトラーはエヴァ・ブラウンと結婚、その直後、秘書トラウデル・ユンゲに遺書を口述筆記させ、ブルクドルフ、ゲッベルス、クレープス、ボルマンらが遺書に署名した[注 6][60]。
第2白ロシア方面軍がヴァイクセル軍集団を撃破、ヴァイクセル軍集団司令官ゴットハルト・ハインリツィはヒトラーの死守命令に従わず、第3装甲軍司令官ハッソ・フォン・マントイフェルに撤退するよう命じた。4月29日、ヴァイクセル軍集団司令部は第9軍と連絡を取れなくなっており、軍集団司令部要員はもはやなにもできない状況であった。ハインリツィはヒトラーの死守命令に背いたため、軍集団司令官を解任された。しかし、後任を引き継ぐようにとカイテルに命令されたマントイフェルは着任を拒否した。そしてハインリツィはOKW本部に呼び出されたが、ぐずぐずして引き伸ばし、結局、向かうことはなかった[61][62]。後にカイテルは第21軍司令官クルト・フォン・ティッペルスキルヒが後を継いだと回顧している。他の情報ではティッペルスキルヒがクルト・シュトゥデントが着任するまでの一時的な着任であった[63][64]とされているが、シュトゥデントはイギリス軍の捕虜になったため、着任していない[27]。しかし、ティッペルスキルヒやクルト・シュトゥデントのどちらが司令官であったかはこの際、問題ではなく、この数日間で急速に悪化している状況の方がもっと深刻な問題であった。
4月29日早朝、第150及び第171狙撃兵師団は、モルトケ橋を渡り、周辺の通りと建物に扇状に進撃を始めたが、架橋作業などを行う時間がなかったため、重装備を運ぶことはできなかった。そのため、攻撃部隊が使用できた重装備は鉄道線路に布陣したカチューシャのみであった。第150狙撃兵師団はゲシュタポの強化された陣地に出くわし、困難な闘いを強いられ、手榴弾と軽機関銃で戦わざるを得なかった[65]。同時刻、南東方向から第301狙撃兵師団が攻撃を開始、のゲシュタポ本部は激しい戦闘の上、一旦は占領されたが、武装SSの激しい反撃のため、放棄せざるを得なかった。ゲシュタポ内には4月23日に殺害されずに済んだ7人の逮捕者がいた[66][67][68]。
南西方面では第8親衛軍がティーアガルテン付近で運河を渡り、北へ進撃を開始した。「ノルトラント」はその時、モーンケ指揮下にあった。全兵士が休みのない戦闘で疲弊し切っていたが、「ノルトラント」のフランス人義勇兵は戦車撃破を得意にしており、中央地区で撃破されたソビエト赤軍戦車108両の内、半分が彼らの手によるものであると言われている。
その日の午後、ベルリン市街戦で合計8両の戦車を単独で撃破したフランスSS突撃大隊のフランス人義勇兵ウジェーヌ・ヴァンロー武装伍長と、第503SS重装甲大隊長SS少佐の二人が第三帝国最後の騎士鉄十字章を与えられ、他にも5台の戦車を撃破して勲章を与えられた者がいた[67][68]。
4月29日の夕方、最前線までほんの数mとなったのベルリン防衛軍司令部で、ヴァイトリングは配下の部隊長と会議を行い、ポツダム近郊のシュヴィーロウ湖そばにある村まで進出していた第12軍と接触が可能か議論し、脱出はその日の22時に開始とした[69][70]。その頃、クレープスはヨードルに「即座に報告せよ。第一に、第12軍の所在位置。第二に攻撃開始時間。第三に第9軍の所在位置。第四に、第9軍が突破する正確な場所。第五にルードルフ・ホルステ軍の所在位置[57]。」と無線連絡を入れた。30日、ヨードルは答えた、「第一に、ヴェンク軍はシュヴィーロウ湖の南で進撃停止。第二に、ベルリンへの進撃を続行できない。第三に、第9軍はほとんどが包囲されている。第四に、ホルステ軍は守備で手一杯である。よって、当方からのベルリン救援はあらゆる場所において不可能である。」と[注 7]。
帝国議会議事堂での戦い
4月30日、ソビエト赤軍攻撃部隊にポーランド軍(主にポーランド第1タデウシュ・コシチュシュコ歩兵師団など)が加わった。午前6時、第150狙撃兵師団はゲシュタポ本部のあったビルの上階をまだ占領していなかったが、そこでの戦闘を継続しつつ、を400mほど横切って帝国議会議事堂への攻撃を開始した。ソビエト赤軍が早急に攻撃を開始したのは、帝国議会議事堂(皮肉なことに帝国議会議事堂放火事件より後、ナチス体制では議会は有名無実となり議事堂も復旧されていなかったが)が第三帝国の象徴であり、ソビエト赤軍はそれを誇るためにモスクワでのメーデーパレード前に占領したかったのである[73]。ドイツ軍はケーニヒ広場に塹壕やトンネルを掘り、さらに崩れたトンネルにシュプレー川の水が入り込んでいたため、前進は容易ではなかった。最初の歩兵による攻撃は、ケーニヒ広場西のと帝国議会議事堂から行われる十字砲火を受け、多くが死傷した。
その頃、シュプレー川に仮設橋が架橋され、戦車や重砲が川を渡り始め、それらはクロル歌劇場の北西から帝国議会議事堂攻撃の支援射撃を行った。10時までに、第150狙撃兵師団は塹壕を占拠したが、そこから2kmほど離れた場所にあるベルリン動物園の高射砲塔からの88ミリ砲による正確な射撃が昼の間、ソビエト赤軍の進撃を妨げた。占領までの数日間、90もの砲門(その中には203ミリ榴弾砲やカチューシャを大勢含んでいた)が塹壕や帝国議会議事堂を砲撃し、第171狙撃兵師団が正面、その左側面を第150狙撃兵師団と布陣し、ケーニヒ広場の北方の建物を占領するための攻撃を続けた[74][75]。そのため、周囲の建物から退去したドイツ兵らは帝国議会議事堂に逃げ込んだ。その頃、ベルリン中央部には約10,000名のドイツ兵がおり、いろいろな場所で攻撃を受けていた。
ソビエト赤軍砲撃の集中箇所のひとつはの航空省ビル(鉄筋コンクリートでできていた)であった[76]。ヘルマン・フォン・ザルツァ重戦車大隊の残存ティーガーはティーアガルテンを南へ抜けて中央部へ進撃していたソビエト赤軍第3突撃軍と第8突撃軍へティーアガルテン東側から攻撃を開始したが、これらのソビエト赤軍の行動はドイツ軍の西方への脱出を困難にしていた[77]。
翌日の早朝、モーンケはヒトラーにベルリン中央部はあと2日しか持たないと伝えた。また、ヴァイトリングはその日の内には弾薬を使い果たすことになるとヒトラーに伝え、再度、ベルリン脱出の許可を要請した。13時、ヴァイトリングはヒトラーより脱出の許可を与えられた[78][79]。その後、ヒトラーとエヴァは自殺、その遺体は焼却された。ヒトラーの遺書により、ヨーゼフ・ゲッベルス(国民啓蒙・宣伝大臣)が次期ドイツ首相になった。15時15分、ゲッベルスとボルマンは、デーニッツにアドルフ・ヒトラーの死と次期大統領になるよう指名された旨を無線連絡した。
ベルリン市は戦闘による煙のため夕暮れが早まったかのように見えた。18時、ヴァイトリングがベンドラーブロックでベルリン脱出計画を練っている間、ソビエト赤軍第150狙撃兵師団は重砲の集中砲火の元、3個連隊で帝国議会議事堂への攻撃を開始した。全ての窓が煉瓦で塞がれていたが、なんとか正面ホールへの突入に成功した。内部にいたドイツ軍は約1,000人ほどで-水兵やヒトラー・ユーゲント、武装SSなどが混成していた。-上の階から攻撃を行い、まるで中世の戦いのような戦闘が続いた。ソビエト赤軍は多大な犠牲を払ってメインホールを占拠したが、上の階を占領するには、さらに苦労を重ねることになった。火災と砲撃によって帝国議会議事堂内はガレキの迷路と化しており、さらには部屋をひとつひとつを攻略していかなければならず、時折、すさまじい抵抗に出くわした。メーデーの日に近づいた日、ソビエト赤軍は戦闘を継続しつつも帝国議会議事堂の屋根に至った。
ソビエト赤軍は22時50分、帝国議会議事堂に赤軍旗を立てたと主張しているが、アントニー・ビーヴァーは「ソビエト赤軍は5月1日までに帝国議会議事堂を占拠することに拘りすぎていた」として、これが誇張であると指摘している。真実がどうであれ、帝国議会議事堂にいたドイツ軍300人は降伏した日の午後まで一日中戦い続けていた。ドイツ軍の他の将兵らは200人が戦死、残りの500人は最終攻防戦までに負傷し、地下に横たわっていた[80][81]。
5月1日、クレープスは降伏交渉をソビエト赤軍第8親衛軍司令官チュイコフと行ったが[注 8]、無条件降伏を受け入れることを首相ゲッベルスが拒否したため、クレープスは空しく帰った。ソビエト赤軍はドイツ軍が無条件降伏しなかったため、10時45分、ドイツ軍が押し込まれている地帯に「火の嵐」のような攻撃を開始した[57][83][84]。その日の午後、ゲッベルスは子供に毒を飲ませ、20時頃、妻のマクダとともにシアン化合物の入ったカプセルを噛み砕き、同時に拳銃で自殺した。彼らの遺体は焼却処分するよう命じられていた[85]。
ゲッベルスの死後、新たなドイツ大統領に指名されていたデーニッツ提督は、後任首相にルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクを任命した。デーニッツ政府の本部はデンマーク国境に近いフレンスブルクにあり、デーニッツ政権はフレンスブルク政府とも呼ばれる。
ベルリンの二つの高射砲塔も降伏に同意したため、ソビエト赤軍は攻撃を中止した。ベルリン動物園の高射砲塔(それは203ミリ榴弾砲の直撃にもびくともしなかった)は4月30日にソビエト赤軍より降伏するよう通達されていたが、5月1日、降伏文書は30日の23時に受領、今日の夜中に降伏すると回答した。これは高射砲塔の守備隊員が夕方に脱出するための時間稼ぎであった[86]。もう一方、は1630年にハーフェル川とシュプレー川の合流地点の中州に建てられたものであったが、4月30日、ソビエト赤軍第47軍は降伏勧告を行った。その日の15時、要塞は降伏した[87]。その後判明したが、実はこの要塞はドイツの化学兵器関連施設であった[88]。
脱出
5月1日、ヴァイトリングは生存者たちに21時に北西方面へ脱出するよう命令した。しかし脱出計画は遅れを見せ、23時に始まった。最初に脱出したのはモーンケ率いる総統官邸の人々であったが、を避けてシャリテー病院に向かったことは幸いであった。しかし、その後、散り散りになり、モーンケは捕虜となった。次のグループはティーガー戦車を先頭にしていたが、ヴァイデンダム橋ですぐに撃破された[89]。その次のグループにはマルティン・ボルマンがおり、深夜1時頃、シュプレー川を渡ることに成功した。しかし、ボルマンはそこでソビエト赤軍との戦闘で死んだ唯一のナチス政府要員となった(ボルマンは国民突撃隊の政治指導者であるが軍人ではない)[注 9][92]。ボルマンの遺体は30年後、発見されることになる。
クルッケンベルクと「ノルトラント」の生き残りは夜明け前にシュプレー川を渡ったが、ソビエト赤軍を突破することができず、中央地区で戦うことを余儀なくされた。そこで彼らは解散してそれぞれ脱出することにし、中には軍服を脱ぎ捨て避難民になりすまそうとした者もいたが、ほとんどが戦死するかクルッケンベルクのように捕虜となった。ソビエト赤軍は彼らが脱出しようとしているのに気付いており、急遽、非常線を張り脱出に備えていた、そのため中央地区東側のを北へ抜ける脱出は失敗に終わった。ミュンヘベルク師団(5両の戦車、4つの突撃砲、少数の兵員)、第18装甲擲弾兵師団、第9降下猟兵師団の残存兵はティーアガルテンを通って、西へ脱出した。また、それらには他の落伍兵、避難民も続いた。
シュパンダウはヒトラー・ユーゲントの分遣隊が支配していたので、 を渡ってハーフェル川の向こうへ脱出が試みられた[93]。ソビエト赤軍の猛烈な砲撃の元、何千人かが脱出に成功した、また、脱出に成功した装甲車両はへ向かった。その他、少数の人々が西側への脱出に成功し、西側連合軍に降伏したが、大多数はソビエト赤軍との戦闘で死亡するか、捕虜となった。脱出で死亡したドイツ兵や避難民の数は不明である[94]。白旗を振り投降しようとも、戦時国際法の基礎的な教育すら受けていない農民主体の無教養なソ連軍の砲撃が止む事はなかった。
降伏
5月2日、ソビエト赤軍は総統官邸への攻撃を開始した。ソビエト赤軍の公式発表によると、戦闘は帝国議会議事堂で行われたものに酷似しており、で戦闘が行われ、ソビエト赤軍の榴弾砲が打ち込まれる中、玄関や屋内でさらに激しい戦闘が行われた。第5突撃軍配下の第9狙撃兵軍団司令官アンナ・ニクリナは総統官邸の屋根に赤軍旗を掲げるよう命令した。しかしアントニー・ビーヴァーは前日の晩、ドイツ軍のほとんどが脱出しており、帝国議会議事堂で行われたほどの過酷な戦闘が行われることはなかっただろう、と指摘しており、ソビエト赤軍の発表は誇張であるとしている[95]。
午前1時、ソビエト赤軍はドイツ第LVI装甲軍団が停戦を望んでおり、に白旗を掲げた特使を送ると無線で流しているのをキャッチした。その結果、午前6時、ヴァイトリングらは降伏、8時23分、チュイコフとの面会のために移送された。チュイコフ(スターリングラード防衛に成功した経験があった)はヴァイトリングに面会すると、ベルリン防衛軍の司令官はヴァイトリング本人であることの確認とクレープスの所在とを訊ねた。ヴァイトリングは自分が司令官であり、クレープスは昨晩、総統官邸で見たが、多分自殺しただろうと答えた。その後の話し合いで、ヴァイトリングはベルリンが無条件降伏することと、まだ戦っているドイツ兵にソビエト赤軍へ投降するよう命じることに同意し、チュイコフと第1ウクライナ方面軍参謀長ワシーリー・ソコロフスキーの命令で、ヴァトリングは降伏文書に署名した[57][57][96][97]。
その頃、ベルリン動物園の高射砲塔守備隊350人が脱出した。ベルリン市内では降伏を拒否した武装SSが立てこもる建物で散発的な戦闘が続いていたが、ソビエト赤軍は立てこもりを続ける建物を爆破して対応した。市内でソビエト赤軍による炊き出しが始まると、ドイツ兵、避難民らが一斉に行列を作った。そんな中、武装SSがドイツ軍兵士や避難民を殺害しているという報告が入っていた。ソビエト赤軍は家から家を回って、鉄道員、消防員、その他の制服を着た者(約18,000人)を拘束、戦争捕虜として連行した[98][99]。
その後
ソビエト赤軍はベルリン市民に食料を供給することに努力した[100]。しかし、これと同時に多数の地域では独ソ戦で受けた損害に対する復讐として、ソビエト赤軍兵(主に後方部隊に多かった)が婦女暴行(約100,000人が犠牲となった)、略奪、殺害などを数週間行ったが[101]、軍司令部はそれをそのまま放置した。なおこれについては対日戦末期の婦女暴行や略奪、殺害と同じく戦後全く罪に問われることも謝罪することもなかった。
さらにソビエト赤軍兵は、ロシア語ができる大使館員らの制止を無視して、日ソ中立条約により中立関係にある日本国大使館に押し入り、大使館員の時計や食料などを強奪するに至った。これに対して残留していた大使館員が司令部に抗議をしたため、後に警備兵が立つことになった。さらにその後も、司令部に訪れた日本大使館員を数日間監禁し、リッベントロップ外相の行方などについて尋問するという国際法を違反する行為を行った。
さらに数日後、日本と交戦しているイギリス軍やアメリカ軍がベルリンに入城してくることが決まったため、数時間の猶予を与えた上に、全ての残留大使館関係者をモスクワ経由で日本に帰還させた。
記念
対独戦勝記念日のために使われる戦勝旗は、2007年5月7日、ロシア連邦法によって制定された[102]。
参考文献
英語版で使用されたもの
Antill, P. and Citing Le Tissier, T. The Battle of Berlin 1945, Jonathan Cape, London, 1988.
Antony Beevor. Berlin: The Downfall 1945, Penguin Books, 2002, ISBN 0-670-88695-5
Dollinger, Hans. The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan, Library of Congress Catalogue Card Number 67-27047
Hamilton, Stephan: Bloody Streets: The Soviet Assault on Berlin, April 1945, Helion & CO, 2008
Krivosheev, G. F. Soviet Casualties and Combat Losses in the Twentieth Century, Greenhill Books, 1997, ISBN 1-85367-280-7
Naimark, Norman M. The Russians in Germany: A History of the Soviet Zone of Occupation, 1945-1949, Cambridge: Belknap, 1995, ISBN 0-674-78405-7
Ziemke, Earl F. Battle For Berlin: End Of The Third Reich, NY:Ballantine Books, London:Macdomald & Co, 1969.
日本語版で使用したもの
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注釈
脚注
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歴史
初期の写真撮影においては感光材料の感度が低く、1分以上の長時間露出は当り前であったため、シャッターは無く(あるいは単にレンズキャップにシャッターの役割をさせており)、レンズキャップを手で脱着することで露光時間を決めていた[1]。
1845年にフランスで木板がレンズの前に落下し露光を終わらせる、最初のシャッターができたと言われている[1]。確実なのは1856年[1]のダンサー・ビノキュラー・ステレオカメラ[1]で、レンズ前面にシーソー様の金属板シャッターが付いていた。これらはレンズ露光時間を自動で終わらせ楽をするためのもの[1]に過ぎなかったが、技術の発展によって感度が上がってくると瞬間的かつ正確な時間の露光が必要になってきたため、ガバナによる計時機構が組込まれた各種のシャッターが開発された。
シャッターという語の「shutする(閉じる)もの」という原義には、厳密にはそれを「開く」という意味は含まれない。専門用語としては、機械式シャッターを作動させるバネを押し縮めるなどエネルギーを貯める動作(一般に、フィルム巻上げに連動されていることが多い)などの準備段階を「チャージ」、撮影ボタンを押すなどしてそれを解放し、シャッターを開放する動作を「レリーズ」(一般にカタカナ語では「リリース」とすることが多い、release のこと)と言い、その後組込まれた計時機構によって、一定時間が過ぎた後に文字通りの「shutする」動作によって一連の動作が終わる。
しかし、以上で説明したようなメカニズムは、リモートレリーズが単に「レリーズ」と呼ばれ、レリーズボタンがシャッターボタン、さらに、一般ユーザーにはボタンを指して単に「シャッター」と呼ばれたりもするように、ほとんど全く意識されていない。
写真乾板時代の初期にはギロチン型のドロップシャッターが多かった[1]。縦長の箱型で、中に間隙のある短い木の板が内蔵されており、レンズに被せて使用した[1]。中板はストッパーで止めてあり、レンズはその下端で隠されている[1]。ストッパーを外すと中板が落下し、間隙を通った光で露光される[1]。間隙の幅が広い板を使用すれば低速シャッターとなり、間隙の幅が狭い板を使用すれば高速シャッターとなる[1]。この原理はこの後一般的になったローラーブラインドシャッター、そして現在一般的なフォーカルプレーンシャッターと同じである[1]。
位置による分類
カメラの光学系全体から見た位置関係から、焦点面(フォーカルプレーン)の直前に位置するフォーカルプレーンシャッターと、レンズ系の直前か直後ないし途中に位置するレンズシャッターの2種類に大別できる(非常に大雑把な分類であり、厳密な分類法は無い(どちらとも言えないような類型もある))。その他、もっと被写体側に設置するローラーブラインドシャッターや、レフレックスカメラ(に類似した構造のカメラ)のレフレックスミラーにシャッターの役割を兼用させる#レフレックスミラーシャッター、等々、他にも多種多様なタイプがある。
フォーカルプレーンシャッター
フォーカルプレーンシャッター</b>は焦点面のすぐ近くに位置するシャッターである。大判カメラでは現実的ではなく、ライカ以降の小型でレンズ交換式のカメラに多い。ライカではその横長のスタイリングと合わせ横走りであったが、長方形の判型の短い側に動かしたほうが有利な点もあり、ライカと同時代ではコンタックスや、1970年代以降の一眼レフカメラなどでは縦走りである。また、近年のディジタルカメラでこの形式のシャッターを持つものは、ほぼ全てが縦走りである。
レンズシャッター
レンズシャッター</b>はレンズ付近に位置するシャッターである。1枚ないし複数枚のシャッター羽根(セクター)を円形に組み合わせて光路を開閉するものが多い。羽根の形状にも色々あるが、葉のようなものが多くリーフシャッターとも呼ばれる。主に大判カメラや中判カメラ、コンパクトカメラで採用されている。
レンズの外側に位置するものをフロントシャッター、レンズのフィルム側に位置するものをビハインド(後部)シャッターなどと細分類することもある。フロントシャッターは110フィルム使用のポケットカメラやミノックスなどで見られるが比較的少なく、多くはビハインドシャッターか、後述する絞り兼用型(多くはレンズの途中にあるビトウィーン(中間)シャッターだが、ビハインド型もある)である。
判型とほぼ1対1に対応するフォーカルプレーンシャッターと違い、レンズシャッターはサイズに多くのバリエーションがある。標準規格のようなものは無いが、デファクトスタンダードとして、デッケルのコンパーの1番(最大口径φ27mm)・2番(最大口径φ35mm)・3番(最大口径φ40mm)・4番(最大口径φ52mm)・5番に合わせ、各社とも似たようなバリエーションを揃えた。これはカメラの小型化の進展により、デッケル自身が0番(最大口径φ22mm(後に変更))を追加し、他社によりさらに小型の00番、000番も追加され、デッケルは後に0番をφ24mmに拡大した。また、セイコー0番はφ25mm・コパル3番はφ45mmである。やがて2番と4番は1番か3番に吸収されて使用されなくなり、5番はよほど大型のレンズでしか使用しない特殊製品となっている。
スリット状の高速モードがあるフォーカルプレーンシャッターと違い、往復動作で必ず一瞬は全開となるリーフシャッターの高速化は容易ではない(全開させない改良型もあるが、それについては後述する)。一般的によく用いられる00番や0番の機械式シャッターの最高速度は1/500秒であり、それ以上の高速のものは往復ではなく一方向動作としたものなど一般に特殊構造である。さらに大きな口径のシャッターは、羽根の移動距離が大きいためより高速化が困難で、大判カメラに使われる5番シャッターとなると最高速が1/50秒程度の場合もある。
レンズシャッターの基本速は、一般にそのシャッターの最高速であり、それ以外の速度はすべて閉動作を遅延することで得ている。しかし、後述するプログラムシャッターや半開高速シャッターは全開する最高の速度が基本速である。また、かつては最高速をバネ圧強化で得ているもの[2]も存在していたが、これも通常のバネ圧での最高速度が基本速となる。
シャッターをレンズマウントの後方深くに配置してレンズ交換式とした例も無くはないが[3]、一般にレンズ側に一体化したモジュール構造とするため、レンズ交換式カメラにはほとんど無い。特に一眼レフカメラでは、ファインダーに像を投影しなければならないため通常は開放にしておき、露光前に一度シャッターを閉め、ミラーをアップ・シャッター開閉・ミラーをリターン、そしてまたシャッターを開く、といった非常に複雑な動作になってしまう[4](メカ仕掛けでは面倒だが、近年のレフレスディジタルカメラや、一眼レフディジタルカメラのライブビューモードの動作はこのようなものである)。さらに、レンズ口径を制約する。しかし、全動作に要求されるエネルギーはフォーカルプレーンシャッターよりかなり小さく、小さくて軽い羽根が短距離移動するだけなので振動が少なくブレにくい、といった利点がある。全開していない状態でも画面内に等しく露光されるため、フォーカルプレーンシャッターのようなストロボシンクロ速度の制限がなく、画面の両端で露出時刻が異なるという欠点もない。また、セルフタイマーのメカも古くから内蔵されていた。
羽根の枚数は1枚から5枚のものがある。2枚、5枚のものが多いが、かつては3枚のものも多く存在した。1枚のものは特に簡易なカメラに使われることが多く、レンズ付きフィルムでも1枚羽根である。羽根の枚数が多いほうが羽根が小さくなり、羽根が小さければ羽根1枚あたりの移動距離は短くて済むので、高速に開閉が可能になる。通常は薄い金属板が羽根の材料として使われるが、簡易なシャッターではプラスチック製の羽根が使われることもある。
具体的な構造は、羽根の枚数によって異なる。典型的な3枚羽根・5枚羽根シャッターの場合、シャッターの羽根に固定ピンと移動ピンを設け、固定ピンをシャッター筐体に、可動ピンを可動リング(セクターリング)にはめ込んである。レリーズボタンを押すと、バネ仕掛けや電磁駆動によってセクターリングがわずかに回転し、羽根は固定ピンとの差動によって開く。指定した秒時が経過してリングが元に戻ると、羽根は閉じる。
2枚羽根の場合はリング構造にせず、2枚の羽根を2本の固定ピンと1本の可動ピンで動作させることが多い。
古典的レンズシャッターは、原理は基本的にはどれも似たようなものだが、コンパー型・プロンター型・バリオ型に分類され、国産メーカー等の製品も古典的な構造のものは、これらのいずれかの類型である。かつてはコンパーが5枚羽根、プロンターが3枚羽根、バリオが2枚羽根だったが、5枚羽根タイプのプロンターがあらわれたこともあり、チャージングや調速機構の違いを指す分類となった。
他に、エバーセット型・平面展開型という分類がある。エバーセット型は事前のチャージを必要とせず、レリーズボタンを押す力でチャージ・そのまま露光するもので、原理上、簡易なシャッターにしか採用できない。平面展開型は、従来のレンズシャッターがレンズと一体化していて制限が多くサイズ上も不利だったものを、レンズから分離した1枚の板に開閉機構や調速機構を組み込んだ別モジュールとしたもので、ローライ35の画期的な小型化に寄与したそれなどが知られている。その後カメラの電子制御化等が進むに従い、連動が必要なレンズと一緒に高度なモジュール化がされるようになった。
20世紀後半のいわゆる「コンパクトカメラ」の発展により、さらに別方式のレンズシャッターが考案された。絞りに近い位置にあるレンズシャッターの場合、絞りより大きく開いても意味がないわけであり、特に高速シャッターが欲しい場合は絞りを絞ってもまだ光量過多という場合が多い(コンパクトカメラでは開放でボケを狙うというような撮り方はあまりしない)。そこで、AEのいわゆるプログラムオート的な動作に合わせ、シャッターと絞りを兼用とし、明るい場所ではシャッターを途中までしか開けず、小絞りで高速シャッターになり、暗い場所では全開するので低速シャッターで絞り開放での撮影とする、という手法が生まれた。同様の手法で、シャッター羽根を途中までしか開けず絞り込んだ時のみ1/2000秒シャッターが使えるミノルタV2や、1/1200秒が使えるコンタックスT3などもある。
全開しないレンズシャッターで、もっとも速い速度が出せるシャッターはミノルタV3に採用されたシチズン製「オプチパーHS 000番」の1/3000秒、全開するものに限定した場合はシチズン製「オプチパーMLT 000番」、コパル製「コパルSV 000番」、セイコー製「セイコーシャSLS 000番」などの1/1000秒である。
ローラーブラインドシャッター
レンズ鏡胴に被せるようにして使用するシャッターである。ソロントン・ピッカードの製品が著名になったので「ソロントンシャッター」と呼ばれることがある[1]。
レフレックスミラーシャッター
光路の途中に反射鏡を組み込んで回転、あるいは往復運動することで開閉するシャッターである。1937年エーリッヒ・ケストナー(Erich Kästner(en) 、作家のエーリッヒ・ケストナーとは別人)が発明した世界初のレフレックスミラーシャッターをアリフレックス35カメラに導入した。この技術は、一眼レフカメラ同様に、回転する鏡により静止画像用のフィルムに送られるのと同じレンズを通した画像を、ファインダーでも確認することができるので構図やピント合わせに有利であり、この技術は今日<!-- See [[WP:DATED]] -->でも多くの映画用カメラに使用されている。またスチルカメラでも、いくつかの使用例がある。[5]
また、多くの一眼レフカメラは、ミラーがかなりの程度、暗箱を作るものとしてのシャッターの役割も果たすという前提で設計されており、近年の「一眼レフカメラ専用」として設計されているシャッターモジュールは、レンジファインダーカメラ用ほどの遮光性能を持たないことがある。[6]
制御方式による分類
シャッター速度を制御する方式によって、大きく<b data-parsoid='{"dsr":[6924,6935,3,3]}'>機械制御式</b>と<b data-parsoid='{"dsr":[6936,6947,3,3]}'>電子制御式</b>に分けられる。併用されている<b data-parsoid='{"dsr":[6961,6978,3,3]}'>ハイブリッドシャッター</b>もある。
その他にディジタルカメラでは、機械的構造を持たない、いわゆる<b data-parsoid='{"dsr":[7014,7027,3,3]}'>電子シャッター</b>とすることもある。
機械制御式
シャッター速度の制御を、ガバナーやスプリングなどによって機械的に行うものである。かつてはシリンダーを取り付け、空気圧を利用して秒時制御をするものもあった。精度は電子式(電子シャッター)に比べて劣るが、電源が不要であることと、極寒地などでも確実に動作する利点がある(これらは旧ソ連・ロシア地域などで求められる機能でもある)。135フィルム使用カメラでは、この方式は少なくなっている。
電子制御式
シャッターそれ自体が機械であることに変わりはないが、いわゆる「メカトロ」による電子制御とソレノイドなどによる電気機械的な駆動で動作を行うものである。コンピューターや水晶振動子(クオーツ)などを利用しており、自動露出機構との連動も可能である。精度の高いシャッター速度の制御が可能であるが、電源が必要であり、極寒地などでは動作の信頼性が低下する場合もある。絞り優先AEなど、シャッター速度を自動的に制御するためには、事実上電子式シャッターが不可欠である。機構としては、シャッター羽根を電磁石で直接駆動するものと、駆動そのものは機械式でシャッター羽根閉じ動作の遅延のみ電磁石で制御する方式があり、電子制御プログラムシャッターなどの多くは前者、絞り優先方式レンズシャッター(コパルの「コパルエレク」など)および電子制御フォーカルプレーンシャッターは後者の方式を用いている。
ハイブリッド式
電子式と機械式の機構を組み合わせたもの。広義には上記の「電子シャッターのうちシャッター羽根閉じ動作のみ電磁石で制御するもの」を指すこともあるが、通常は特に複数のシャッター速度を、機械制御と電子制御・いずれの方法でも作り出すことができる機構を持つシャッター全般を指す。たとえば、高速シャッターは機械制御式で・機械式では得ることが困難な低速シャッターは電子制御式のもの、自動露出モードのときは電子制御・手動露出のときは機械制御となるもの、基本的には電子制御による自動露出・電池消耗時用には補助的に手動露出の高速シャッターのみ備えるもの、などがある。
デジタルカメラ
デジタルカメラでは、機械的な機構は一切持たない、固体撮像素子とエレクトロニクスのみによるいわゆる「電子シャッター」もある。以前は、ローリングシャッターによって順次露光するために高速に移動する被写体の像が歪むなどの欠点のために、安価な製品や、携帯電話・スマートフォンなどの電子機器に内蔵されるカメラに採用は限られていた。しかし、一度に取り込むグローバルシャッターの開発が進んでおり欠点が解消されつつあることや、シャッターの耐久性などといったこともあり、単体のデジタルカメラ製品でも電子シャッターモードを持つものがあらわれてきている。
シャッター速度
ごく簡易なものを除いて、現在<!-- See [[WP:DATED]] -->のカメラでは露光時間(シャッター速度)は撮影者やカメラに内蔵された露光計・コンピュータなどが適切な秒時に調節できる。
シャッター機構には基本速というものがあり、その基本速を何らかの手段で遅らせたり・あるいは実効速度を速くしたりすることで、撮影に必要な速度を得ている。
選択できるシャッター速度の調整幅は、シャッターによって異なるが速度の“系列”が大体決まっており、露光時間が約2倍ずつになっていく<b data-parsoid='{"dsr":[8630,8640,3,3]}'>倍数系列</b>が現在<!-- See [[WP:DATED]] -->の主流である。露光の計算上では、露光時間を2倍にすることとレンズの絞りを1絞り開けることとは同じ意味になるために倍数系列が一般的になったが、かつてはきりの良い数字を用いた<b data-parsoid='{"dsr":[8794,8804,3,3]}'>大陸系列</b>が多く使われていた。また、このどちらにも属さない系列も存在する。
撮影者が手動で露光開始・終了の制御をする(露光時間を、レリーズボタンを押下したままにしておく時間の長さで制御する)ことを、特に<b data-parsoid='{"dsr":[9107,9118,3,3]}'>バルブ撮影</b>などと呼ぶ。この「バルブ」は、元々はフラッシュバルブを指しており、かつてシャッターの開閉に連動してフラッシュを光らせるフラッシュシンクロ機構がなかった時代には、シャッターを開けたままフラッシュバルブを焚いて撮影する目的で使われた[7]。バルブと似た動作をするものに「タイム」というものもあり、こちらは「レリーズボタンから手を離してもシャッターは開いたままになり、シャッターを閉じるには別に操作をする」というものである。フラッシュシンクロが当たり前に搭載されるようになった現在<!-- See [[WP:DATED]] -->でも、バルブシャッターは長時間露光(天体撮影や夜景撮影)に使う目的で多くのカメラに搭載されているが、タイムに関してはリモートレリーズとバルブで代用ができるため、ほとんど姿を消した。
露光秒時は、通常分母のみを表示する。たとえば125分の1秒なら「125」、2分の1秒なら「2」というように表示される。しかし、1秒を超える長時間露出とまぎらわしくなってしまうため、そのようなシャッター速度がある場合は、たとえば2秒を「2"」・「2s」と表示したり、数字の色を変えたりして、区別していることが多い。
先述のバルブは「B」と表示されることが多いが、古いドイツ製のカメラやシャッターでは「Z」[8]と表示されていることもある。タイム露出は「T」と書かれることが多い。
また、フォーカルプレーンシャッターにのみ存在する「X」は、フラッシュ撮影の際に重要になってくる、X接点シンクロの最速同調速度をあらわしている。
脚注
関連項目
デッケル(コンパーの製造元)
プロンター
日本電産コパル
セイコープレシジョン
シチズン時計
絞り (光学)
ライトバリュー
1997年3月9日の日食 - 寒冷地で起こった日食のため、機械式シャッターのカメラの使用者が多くなった
注釈
出典
参考文献
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%20%28%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%29 |
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PASMO(パスモ)は、株式会社パスモが発行する公共交通機関共通乗車カード・電子マネー。サイバネ規格に基づく非接触型ICカード方式で、FeliCaを採用している。登録商標である[1]。
2007年3月18日サービス開始。交通乗車カードとしては日本の首都圏を中心とする関東地方と周辺地域の鉄道・路線バスなどに導入された。
パスネット・バス共通カードの後継として、関東大手私鉄を中心に、JR東日本以外の民営および公営の鉄道・バス事業者が参加している。またサービス開始当初から首都圏ICカード相互利用サービスによりSuicaと相互利用が可能になっている。
2013年3月23日より交通系ICカード全国相互利用サービスが開始され、Kitaca・TOICA・manaca・ICOCA・PiTaPa・SUGOCA・nimoca・はやかけんと相互利用が可能になった(一部除外事業者あり)。
概要
PASMOは、関東地方を中心とする鉄道・路線バス事業者延べ101事業者が加盟する共通乗車カードである。2007年(平成19年)3月18日サービス開始。ただし、鉄道26事業者とバス75事業者のうち一部事業者(主にパスネット・バス共通カードを発売していなかった事業者)では順次導入された。
サービス開始当初よりJR東日本のSuicaと相互利用が可能になっており、Suicaグリーン券や、鉄道博物館入館システムにも対応している。
事前にチャージ(入金)処理した金額分が使えるプリペイド(前払い)方式を採用し、商店等における代金支払いで使用できる電子マネー機能を有している。また、クレジットカードに紐付けるオートチャージ(自動入金)機能付きPASMOのほか、クレジットカード一体型PASMOも発行されている。
カード
カード裏面の右下に記載の番号のはじめの文字は、PBであり、このPBは、株式会社パスモの前身である「パスネット・バスICカード株式会社」の頭文字のP</b>ASSNET(パスネット) B</b>US(バス)をとったものである。
「PASMO」の名称の由来は、「パスネット」 (PAS</b>SNET) の「PAS」(パス)と「もっと」の意味を表す英語「MO</b>RE」(モ</b>ア)の頭文字「MO」から名付けられた。「モ」は日本語の係助詞でもあり、「電車もバスもPASMO」のキャッチフレーズのとおり、鉄道だけでなく複数の交通機関に対応できることを表している[2]。
カードデザインは、電通のクリエイティブディレクター小塚重信によるデザイン。ロゴ色は「PASMOピンク」と呼ばれる特色(PANTONE 177C、もしくはDIC17版 586)が使用され、特色が使用できない場合はCMYKでM 70%が使用される。
ロゴタイプは、Avenir・Bauhaus・Plateletを基に作成された。
PASMOのキャラクターはロボットである。Suicaのキャラクターであるペンギンと同様に名前が付けられていないが、他のロボットと区別するためPASMOのロボット</b>と表記されることが多い。基本色としてはピンクだが、一部鉄道事業者のウェブサイトやパンフレットでは青や赤のロボットも見ることができる。PASMOを取り出すためにお腹の辺りに蓋があるほか、急いでいる時は電車やバスに変身するという設定である。キャラクターデザインは安達翼である[3]。
Suica(モバイルSuica)と異なり、モバイル対応の計画はない。
2013年(平成25年)9月末時点の発行枚数は、約2,364万枚[4] である。
カードの効力一時停止
記名式PASMOは、一定期間利用またはチャージしない場合、ロックが掛かり、残額があったとしてもそのままでは自動改札を通過できず、または電子マネーが利用できなくなる[5]。 「一定期間」については公表されていない。このカード一時停止は、次項のカード有効期限とは異なる。
解除方法は、次のいずれか
PASMOチャージが可能な自動券売機で更に追加チャージし、または自動券売機でカード利用により切符を購入する
駅の有人窓口でロック解除を申し出る(※簡易ICカード改札機では入場は可能、出場不可)
クレジットカード紐付けのPASMOの場合、クレジットカードからチャージ
カードの有効期限
最後に機器などでカードを利用した日から10年間利用がない場合、失効となりカードそのものが無効となる。PASMOでは全権利の失効扱いとなり、再発行はなされない(消滅時効の扱いに準じる)。
PASMOの種類
PASMOには以下の種類が存在している。
無記名PASMO
券売機等で発売される持参人式タイプのもの。紛失時の再発行ができない。あとから記名PASMOや小児用PASMOへ変更することができる。
記名PASMO
券売機等で発売される記名人式タイプのもので、紛失しても再発行ができる。氏名(カタカナ)・性別・生年月日・電話番号を登録する必要がある。定期券情報を追加してPASMO定期券にすることもできる。
小児用PASMO
記名PASMOのうち小児用の運賃を引き去るように設定したものである。購入時に記名人の年齢が確認できる公的証明書等の呈示が必要となるため、窓口でのみの発行となる。有効期限は小児用運賃適用期間(満12歳の3月31日まで)。定期券情報の追加でPASMO定期券にすることもできる。Suicaも含めて1人1枚しか発行できない。
PASMO定期券
記名PASMOに定期券情報を追加したもので、チャージすると定期券区間外を利用した分の運賃も自動改札機で自動的に精算する。Suicaとの連絡定期券も発行される。
オートチャージ機能付きPASMO
オートチャージ機能が付与された記名PASMO。Pastownカードまたは鉄道事業者が発行する対応クレジットカードに紐付けて発行する。クレジットカード一体型PASMO(後述)とは異なり、クレジットカード自体にPASMOが付加されるものではない。
2008年(平成20年)3月14日まではチャージ額が3,000円に固定されていたが、以後は1,000円 - 10,000円の範囲内で1,000円単位での変更ができるようになった。
クレジットカード一体型PASMO
Pastownカードまたは鉄道事業者が発行する対応クレジットカードとPASMOが1枚になったもので、2008年(平成20年)3月15日から発売を開始した。現在、パスモ(Pastownカード)および東急・東武・京急・東京地下鉄の4社が発行しており、このうち京急は新規入会受付を終了している。クレジットカードの表面にPASMOのロゴが記載されているのが特徴。上記4社と自社で一体型を発行していない相鉄の計5社が対応している。また、京王が 2017年(平成29年)3月18日より定期券情報を記録することができるタイプを発行すると発表している[6]。
歴史
沿革
2007年(平成19年)3月18日 - PASMOサービス開始。同時にSuicaとの相互利用開始。ただし、仙台・新潟地区での利用は電子マネーのみであった。
2008年(平成20年)3月15日 - 連絡定期券の発売範囲を一部で拡大。磁気定期券では設定されなかった新たな連絡駅も設定される。既に持っている記名PASMOへのオートチャージサービスの後付けが可能になる(従来は後付けはできなかった)。
2008年(平成20年)3月29日 - 仙台・新潟のSuicaエリアでの乗車での使用が可能となる。
2009年(平成21年)3月14日 - 関東鉄道・千葉都市モノレール・舞浜リゾートラインが鉄道加盟事業者となり、PASMOが利用可能になる。
2010年(平成22年)3月14日 - 小湊鐵道のバス事業で導入。
2013年(平成25年)3月23日 - 交通系ICカード全国相互利用サービス開始。kitaca・TOICA・manaca・ICOCA・PiTaPa・SUGOCA・nimoca・はやかけんとの相互利用が可能になる。
2014年(平成26年)1月21日 - 東京空港交通の一部路線で導入。
2014年(平成26年)4月1日 - 消費税率の5%から8%への引き上げに伴い、Suica・PASMOエリア管内で1円単位のIC運賃を導入。
2018年(平成30年)4月1日-湘南モノレールで導入。
その他
サービス開始に備えて2006年から、導入鉄道事業者の各駅では自動改札機や自動精算機などのICカード対応準備が行われ、サービス開始前日までICアンテナ部に蓋がされており、一部の事業者でPASMO導入告知ステッカーや広告を貼付していたほか、投入口の上に貼付しているパスネットの2枚投入ステッカーが従来より小さなものに更新された。
2007年(平成19年)上半期に首都圏在住の20 - 34歳の男女の間で流行・話題になったものを表彰する「2007年上半期M1F1グランプリ(M1F1総研/電通・Media Shakers)ではPASMOが男女ともにグランプリを受賞した。受賞の要因には、利便性のみならず、キャラクターや色遣いなどのデザイン面も挙げられた[7]。また、同年末に日経MJが発表した2007年(平成19年)ヒット商品番付で「西の横綱」に選ばれている。
2008年(平成20年)3月には、発売1周年のポスターが加盟鉄道事業者の駅に掲出され、「PASMO おかげさまで800万枚」のメッセージが表記された。
2010年(平成22年)11月1日から、東京都内在住でかつ精神障害者保健福祉手帳や療育手帳、身体障害者手帳を所持している者を対象に、PASMOによる都営交通無料乗車証の発行が可能になった。ただし、PASMO定期券と1枚にまとめることはできない。
販売制限
2007年3月18日のサービス開始から1か月足らずで300万枚を売り上げ、在庫が僅少となったため、2007年(平成19年)4月12日から9月9日までPASMO定期券を除き一時発売を停止していた。また、クレジットカードによるオートチャージPASMOも同年4月13日から9月28日まで一時申し込み受付を停止していた。
当初、株式会社パスモではサービス開始から1年で500万枚の発行を見込んで、サービス開始日の2007年(平成19年)3月18日の段階で400万枚のカードを用意していた。しかし、当初の見込みを大幅に上回るペースでの売れ行きを見せ、23日目の同年4月9日には早々に300万枚を突破した。発行枚数のうち定期券160万枚はほぼ予想通りだったが、非定期券140万枚は想定を100万枚程上回ったという[8]。
そのため、同社は新たなカードを300万枚追加発注したものの、納品が8月以降となるため、在庫が底を突きかねない事態となった。これを受けて同社は同年4月12日の発売分より新たなカードが納品される見込みの同年8月頃までPASMO定期券以外の新規発行を中止することとなった。ただし、バス事業者のうち定期券発行を行わない事業者は現在庫が切れるまで販売を続けていた。販売制限開始後も定期券が1か月間で新規50万枚以上が発行され、累計発行枚数も380万枚を突破していた[8]。また、オートチャージ対応カードの新規受付も4月13日の受付分をもって一時的に中止されたが、対応クレジットカード自体の受付はその後も継続されていた。
この件を受けて、PASMOの代わりとしてSuicaがにわか需要が生じることが予想されていたが、Suica陣営では「在庫を3か月分は確保しており、多少需要が増えたとしても同様の事態に陥ることはない」とした。また、パスネットも当時継続発売していたため、パスネットを購入する人もいたという。
パスモが今回の販売制限を受けて実施した利用者アンケートによれば、75%がSuicaも所持しており、その半数が使い分けのため、残り半分が同カードとの相互利用を知らなかったため、と回答している。この結果、相互利用についての周知不足や併用者・完全移行者のニーズを見誤っていた実態が明らかとなった。また、前記の「2007年上半期M1F1グランプリ」では、単純に機能だけを求める購入層ばかりではなかったことも示された。
2007年(平成19年)8月7日には制限解除についてのプレスリリースが出され、以下の発表がなされた。
定期券の発売場所などを縮小している事業者で2007年8月下旬より拡大を行う。
定期券以外の記名PASMOと無記名PASMOについては、同年9月10日より再開する。
オートチャージ機能付きPASMOについては、同年9月29日より申し込み受付を再開する。
これらと並行して、新たに200万枚のPASMOカードを用意したほか、その後も毎月100万枚ずつ追加することになった。またこれらと並行して、Suicaと相互利用できることの周知徹底を目的としたポスター「じつは、1枚でいける。」の掲示や、リーフレットの配布なども行われた。その後も両者が相互利用できることを告知する共同ポスターの製作や掲示が時折行われている。また、JR東日本の東京都内や周辺駅の自動券売機や自動精算機などにSuicaとPASMOのロゴが併記されるようになった[9]。ただし、現在でも、首都圏以外の地域での利用範囲(この点については今後変わる見込みである。前述の「ICカード乗車券10種類 相互利用開始へ」を参照)や定期券にできる区間・定期券を購入できる駅、紛失時の再発行場所などの違いはある。
販売再開後は再び順調に発行枚数を伸ばしており、9月23日には初年度の達成目標だった500万枚に、約半年、実質的な販売期間は5週間程度で早々に到達した。しかしこの時点では、記名PASMOと無記名PASMOの発売箇所が縮小されていたため、実際の各駅での発売再開日は、事業者により異なることになった。
導入事業者一覧
交通カードとして導入している事業者のみを記す。記載以外は交通代金の支払いであっても電子マネー扱いとなる。
特記無いものは当該事業者の全路線での導入を意味する。
鉄道・軌道
パスネット加盟社局でも導入未定の事業者があり、また導入されていない路線もある。◇印はSuicaおよびパスネットが導入されていなかった事業者。五十音順に掲載。
2007年(平成19年)3月18日より
伊豆箱根鉄道(大雄山線のみ)◇
江ノ島電鉄◇
小田急電鉄
京王電鉄
京成電鉄
京浜急行電鉄
埼玉高速鉄道
相模鉄道
首都圏新都市鉄道
新京成電鉄
西武鉄道
多摩都市モノレール
東京急行電鉄
東京地下鉄
東京都交通局(都営地下鉄・日暮里・舎人ライナー) - 上野懸垂線を除く
東武鉄道
東葉高速鉄道
箱根登山鉄道
北総鉄道
ゆりかもめ
横浜高速鉄道
横浜市交通局(横浜市営地下鉄)
横浜シーサイドライン◇
2009年(平成21年)3月14日より
関東鉄道(バスについても導入済み)◇[10]
千葉都市モノレール◇[10]
舞浜リゾートライン
2018年(平成30年)4月1日より
湘南モノレール ◇[11]。
バス・路面電車
2007年(平成19年)3月18日時点ではバス事業者の※印のみ導入。
※印の営業所は当初から導入
★印の営業所・バス事業者は2007年(平成19年)3月19日 - 12月31日に導入
☆印の営業所・バス事業者は2008年(平成20年)に導入
▲印の営業所・バス事業者は2009年(平成21年)に導入
それ以外の営業所・バス事業者については同年以降順次導入予定
◎印は2007年(平成19年)12月21日付けのリリースにて新たに公表され、導入時期が未定ながらPASMOの導入を準備することとなったバス事業者。
◆印はPASMO側のリリースにて公表されていないものの、導入時期が未定ながらPASMOの導入を準備することとなったバス事業者。
◇は東京圏のバス共通カードが導入されていなかった事業者。
全営業所への導入完了済みの事業者には、事業者名の頭に『★』印を記す。
幹事事業者については五十音順に掲載
伊豆箱根バス◇ ★小田原営業所 ▲熱海営業所
江ノ島電鉄(導入当初)→★江ノ電バス横浜 ※横浜営業所 ☆鎌倉営業所
江ノ電バス(発表当初)→★江ノ電バス藤沢☆手広営業所、藤沢営業所
★小田急バス ※若林営業所 ★狛江営業所、登戸営業所、町田営業所 ☆武蔵境営業所、吉祥寺営業所
★小田急シティバス ※
★神奈川中央交通
★神奈川中央交通東
★神奈川中央交通西
★川崎市交通局(川崎市バス) ※
★川崎鶴見臨港バス(臨港バス) ※神明町営業所、塩浜営業所 ★鶴見営業所、浜川崎営業所
★関東鉄道◇[12][13]
関鉄観光バス(本社営業センター=土浦地区) -
★関鉄グリーンバス
★関鉄パープルバス
★関東バス ※武蔵野営業所、青梅街道営業所、五日市街道営業所、阿佐谷営業所 ★丸山営業所
★京浜急行バス ※京浜島営業所、羽田営業所、大森営業所 ★逗子営業所、☆衣笠営業所、三崎営業所、久里浜営業所
★羽田京急バス ※東京営業所
★横浜京急バス ※杉田営業所、能見台営業所 ☆追浜営業所
★湘南京急バス ☆鎌倉営業所、堀内営業所
★京王電鉄バス ★府中営業所、桜ヶ丘営業所、多摩営業所、八王子営業所
★京王バス東 ※中野営業所、永福町営業所 ★調布営業所 ☆中央高速バス富士五湖線、甲府線
★京王バス南 ★
★京王バス中央 ★
★京王バス小金井 ★
★京成バス 金町営業所、江戸川営業所、市川営業所、松戸営業所、新都心営業所、習志野出張所、長沼営業所、千葉営業所
★千葉中央バス▲
★千葉海浜交通▲
★千葉内陸バス▲
★東京ベイシティ交通 ☆
★ちばフラワーバス
★ちばレインボーバス
★ちばシティバス▲
★ちばグリーンバス ☆
★京成タウンバス ※(金町三郷線、戸ヶ崎循環線のみ使用不可)
★京成トランジットバス▲
★京成バスシステム ▲
★国際興業(国際興業バス) ※西浦和営業所、練馬営業所 ★さいたま東営業所、赤羽営業所、志村営業所、池袋営業所、川口営業所 ☆鳩ヶ谷営業所、戸田営業所、飯能営業所
小湊鐵道(バス事業のみ)◇塩田営業所、姉崎車庫、木更津車庫[14]
★相鉄バス ※旭営業所、☆横浜営業所、綾瀬営業所
★西武バス ※練馬営業所、高野台営業所、上石神井営業所、新座営業所 ★滝山営業所 ☆小平営業所、立川営業所、所沢営業所、大宮営業所、川越営業所、狭山営業所、飯能営業所
★西武観光バス ☆
★立川バス ☆上水営業所、拝島営業所、瑞穂営業所、曙営業所
★シティバス立川 ☆
千葉交通 ◇銚子営業所(利根ライナー号、犬吠号のみ)、成田営業所
★東急バス ※淡島営業所、弦巻営業所、下馬営業所、高津営業所 ★瀬田営業所、目黒営業所、池上営業所、荏原営業所、虹が丘営業所 ☆青葉台営業所、川崎営業所、東山田営業所、新羽営業所
★東急トランセ ◇★(代官山循環線)
※すでに独自のICカード(トランセカード)を発行していたが、これを移行する形でPASMOに対応した。
★東京急行電鉄(世田谷線)◇
※独自のICカード(せたまる)を発行し、PASMO導入後も併用していたが、2012年にサービス廃止。
東京空港交通 ◇(一部の路線を除く)
★東京都交通局(都電荒川線・都営バス)※
東武バス
★東武バスセントラル ※西新井営業所 ★足立営業事務所、葛飾営業所、花畑営業所 ☆三郷営業所、草加営業所、八潮営業所、吉川営業所
★東武バスウエスト ※川越営業事務所 ★上尾営業所、坂戸営業所 ☆大宮営業事務所、新座営業所、天沼営業所、岩槻営業所
★東武バスイースト ☆西柏営業事務所、沼南営業所
★東武バス日光 日光営業所◇
★朝日自動車 ☆越谷営業所、杉戸営業所、久喜営業所、菖蒲営業所、加須営業所、境営業所 ▲本庄営業所、太田営業所
茨城急行自動車 ☆松伏営業所、野田営業所(導入計画は終了。残りの古河営業所はバス共通カード非導入であった)
国際十王交通 ▲熊谷営業所(導入計画は終了。残りの伊勢崎営業所はバス共通カード非導入であった)
★川越観光自動車 ☆森林公園営業所
★阪東自動車 我孫子営業所◇▲
日東交通 ◇木更津運輸営業所(君津 - 新宿線を除く)、◇君津運輸営業所、◇富津運輸営業所(上総湊出張所を除く)、◇鴨川運輸営業所(高速バス)、◇館山運輸営業所(高速バス(房総なのはな号・新宿なのはな号を除く))
鴨川日東バス ◇(高速バス・路線バス(一部の路線を除く))
館山日東バス ◇(高速バスのみ)
★西東京バス ★楢原営業所、五日市営業所(八王子方面)、恩方営業所 ▲五日市営業所(福生・檜原方面)、青梅営業所、氷川車庫
★箱根登山バス ※湯河原営業所、関本営業所、宮城野営業所 ★小田原営業所
★小田急箱根高速バス ◇※★経堂営業所、御殿場営業所
★日立自動車交通 ◇※(めぐりんを除く)
★船橋新京成バス ☆鎌ヶ谷営業所、☆習志野営業所
★松戸新京成バス ☆
★富士急行 ◇☆御殿場営業所
★富士急湘南バス ☆
★フジエクスプレス◇ 本社営業所(※ちぃばす、☆ハチ公バス神宮前・千駄ヶ谷ルート)、★横浜営業所(134系統「横浜タウンバス」)
★富士急山梨バス ◇☆
★富士急シティバス ◇☆
★富士急静岡バス ◇☆
★平和交通 ◇※
★あすか交通(旧:団地交通)◇☆
★西岬観光 ◇
★山梨交通 ◇☆(一般路線バス、中央高速バス甲府線)
★山交タウンコーチ ◇
★横浜市交通局(横浜市営バス)☆
★横浜交通開発 ◎☆
注:上記導入の事業者でも、一部の高速バス、空港連絡バス、各自治体から運行委託されているコミュニティバス(一部を除く)などの系統については利用できない。また、バス定期券については導入していない事業者もある[15]。
相互利用
各カード加盟事業者・エリアについては各カードの項目を参照。
相互利用可能なカード
2013年(平成25年)3月23日より、PASMOと以下の9種の交通系ICカードとの間で相互利用が開始された(一部例外がある)。
Suica(首都圏ICカード相互利用サービス)
モバイルSuicaもサービス開始と同時に相互利用開始。ただし、一部のサービスに制限がある[16]。
Kitaca
TOICA
manaca
ICOCA
PiTaPa(電子マネーを除く。一部全国相互利用サービス不参加の事業者あり)
SUGOCA
nimoca
はやかけん
片利用可能なカード
以下に示すカードは片利用で、そのカードのエリアでPASMOを利用できるが、そのカードをPASMOエリアで利用することはできない。
SAPICA
icsca
odeca
りゅーと
PASPY
IruCa
熊本地域振興ICカード
相互利用非対応の事業者・路線
以下のPASMO参加事業者は個別に全国相互利用サービスに参加していないため、特定のICカードだけ利用できると言う例外的扱いとなる。
PASMO(PASMO・Suicaのみ利用可)
関東鉄道(鉄道のみ)
千葉都市モノレール
かつては多摩都市モノレール、横浜シーサイドライン(PASMO)も上記に含まれたが2017年4月1日以降、全国相互利用サービスにも対応した。
相互利用の経緯
2007年(平成19年)3月18日のサービス開始と同時に、JR東日本の発行するSuicaとの相互利用が行われ、東京モノレール・東京臨海高速鉄道・埼玉新都市交通など、Suica加盟事業者の利用エリアのうち、首都圏エリアの鉄道やバスでPASMOが利用できるようになった。
2008年(平成20年)3月29日からは、仙台・新潟都市圏の各Suicaエリア内の鉄道線でも利用可能となり、Suica全エリア鉄道線における相互利用が開始された。なお仙台空港鉄道各駅では、当初は自動改札機がPASMOに対応していなかったため、2009年(平成21年)3月13日まで改札窓口で入出場処理を行っていた。
逆にPASMO加盟事業者ではSuicaの利用ができるため、関東地方のほとんどの鉄道と大都市圏を中心とした路線バスが、PASMO・Suicaにより1枚のカードで利用できることとなった。なおサービス開始当初より、電子マネー機能についてはSuica全エリアでの相互利用が可能である(詳細は#電子マネーの項を参照)。
サービス開始以降、多くの加盟鉄道事業者の駅でPASMO・Suica対応の自動券売機および自動精算機、ICカード読み取り機を設置した自動改札機および簡易入金機が設置され、両カードが利用可能となっている。各機器には「PASMO・Suica」が併記してある場合が多い。駅や機器によっては「Suica」の記載がない場合があるが、Suicaでの乗車や入金も問題なくできる(例外的に不可能な場合もある)。
また加盟バス事業者が運行する路線バスでも、運賃箱の上にICアンテナを取り付けてPASMO・Suica の利用が可能になっている。ただしバスではサービス開始後に順次導入されたため、当初は利用できない路線・車両があった(詳細はバス・路面電車での利用の項を参照)。
2001年のSuicaの利用開始を皮切りに、大都市圏のJRや私鉄グループがそれぞれに交通系ICカードを導入し、利便性の観点から相互利用も進んでいたが、おおむね同一エリアのJRと私鉄グループ間か、他エリアのJR相互間に留まっていた。
交通系ICカードの全国相互利用について、加盟各社による協議会では2009年(平成21年)2月当時は「検討中」としていた。経営体力のある大手事業者を中心に相互利用拡大を求める意見が台頭した一方、小規模経営のバス会社からは維持費の負担が増加することや費用対効果の面から反対意見があり、結論は未定であった[17]。
その後、PASMO協議会 (PASMO) と北海道旅客鉄道(JR北海道、Kitaca)、東日本旅客鉄道(JR東日本、Suica)、東海旅客鉄道(JR東海、TOICA)、西日本旅客鉄道(JR西日本、ICOCA)、九州旅客鉄道(JR九州、SUGOCA)、名古屋市交通局・名古屋鉄道(manaca/2011年(平成23年)2月11日導入)、スルッとKANSAI協議会(PiTaPa)、福岡市交通局(はやかけん)、西日本鉄道 (nimoca) が、それぞれが発行するICカード乗車券の相互利用開始の検討を始め、2010年(平成22年)に検討会を立ち上げた[18]。
その結果、2013年(平成25年)3月23日より、上記の交通事業者との相互利用実施が決定した。全国でのIC乗車券相互利用開始にあたり、全国相互利用サービスのシンボルマークが併せて制定され、「IC」を図案化したマークが制定された[19][20][21]。
これらのICカード乗車券は基本的な技術仕様が共通で、発行する会社や団体が合意すれば相互利用が可能となる。参加する鉄道・バス会社ごとにシステムの改修費が必要となるため、一部の小規模経営のバス会社などが相互利用の拡大に消極的であったと報道されている。なお電子マネーについては、PiTaPaを除く9種類のIC乗車カードで相互利用可能となった。
また上記の相互利用と同日から、PASMOを含むSuicaと相互利用可能な各カードの片利用を開始する事業者も登場し、りゅーとエリア内(新潟交通)[22] 、LuLuCaエリア内(静岡鉄道・しずてつジャストライン)[23] で利用可能となった。なお両社は自社システムにSuica・PiTaPaのシステムを併用してサービスを実施している。
これ以後、同様の形態の片利用が拡大し、2013年6月22日よりSAPICA(札幌市交通局)エリア内で(電子マネーは対象外)[24]、2015年(平成27年)3月14日からはodecaエリア内(大船渡線および気仙沼線BRT区間)で、2016年(平成28年)3月23日からは熊本地域振興ICカードエリア内(熊本県内私鉄・バス各社)で、同月26日からはicscaエリア内(仙台市交通局・宮城交通)で、同年4月1日からはemicaエリア内(三重交通)でそれぞれ利用可能となった。
2013年(平成25年)3月23日からの10種の交通系ICカード全国相互利用開始の際、記念PASMOカードは発売されなかった。他社から発売され全国相互利用記念カード(計8種類)には、PASMOのロボットのイラストが描かれている。
またこの際に都内の地下鉄駅などに掲出された「日本を1枚で」と題したPASMO協議会による告知ポスターに、「一部事業者では使用できない場合があります」との記載があり、PASMO加盟事業者の鉄道においては、関東鉄道(鉄道)・千葉都市モノレールの2社が参加していない[25]。ただし、これらの事業者が発行するPASMOは他のICカード同様に利用できる。
利用できない関東地方の主な事業者
「首都圏を中心に全国の鉄道・バスでご利用いただけます」[26]と説明されることが多いPASMOであるが、関東地方にもPASMOが利用できない事業者が存在する。
また、利用できる事業者の中でも一部利用できないケースもある。
鉄道
関東地方でPASMOの利用ができない<b data-parsoid='{"dsr":[23580,23588,3,3]}'>鉄道</b>事業者は、秩父鉄道・芝山鉄道・銚子電気鉄道・流鉄・山万・小湊鐵道[27]・いすみ鉄道・上信電鉄・上毛電気鉄道・わたらせ渓谷鐵道・真岡鐵道・野岩鉄道・ひたちなか海浜鉄道[28]・鹿島臨海鉄道[29]など。
バス
関東地方でPASMOが利用できない主な<b data-parsoid='{"dsr":[23915,23923,3,3]}'>バス</b>事業者は、ジャパンタローズ・ケイエム観光バス[30]・銀河鉄道・大島旅客自動車・三宅村営バス・八丈町営バス・イーグルバス・マイスカイ交通・東洋バス・千葉シーサイドバス・関東自動車 (栃木県)・東野交通・群馬バス・関越交通・日本中央バス・大利根交通・茨城交通[31]・池田交通・日立電鉄交通サービス[32]・椎名観光バス・大新東などである。
利用方法
PASMOは、基本的に自動改札機の読み取り部(一部鉄道事業者では専用改札機も設置)やバス運賃箱のIC読み取り装置などに1秒程度タッチするだけで通過することができるが、タッチが不完全であったり、2枚以上のICカードを重ねてタッチするとエラーを起こすこともある。開発当初はIC読み取り装置を浮かせたまま通り過ぎるのが前提だったため、IC読み取り装置から約半径10cm程度であればタッチしなくても反応する。
なお、Suicaとの相互利用に関する特殊な取扱の詳細は首都圏ICカード相互利用サービスも参照のこと。
購入方法
PASMOは、加盟事業者のうち鉄道駅にある自動券売機・窓口・定期券売り場やバスの営業所・案内所などで購入できる。鉄道事業者によっては対応路線の全駅で購入可能だったり、バス事業者によっては車内販売(主に1,000円で販売)も行っている。事業者によって購入場所や購入方法が異なる。
PASMO定期券を除く記名PASMOと無記名PASMOの発売額は1,000円、2,000円、3,000円、4,000円、5,000円、10,000円の6種類である(一部事業者では1,000円から20,000円までの1,000円単位)。発売額にはデポジット500円が含まれており、利用可能額は発売額からそれを減算した額となる。デポジットは運賃や電子マネーの金額に充当することができないが、PASMOが不要になった時に返却される。
なお記名PASMOの場合、鉄道事業者発売のものには名前が記載されるが、バス事業者発売のものには購入後裏面に名前を記入するスペースがあるので、そこに記載しなければならない。ただしカード自体には名前などのデータが記録されている。
上記の方法で購入した記名PASMOは、2008年(平成20年)3月15日からオートチャージ機能を後から付加することが可能になった。なお、同年3月14日以前は後からオートチャージ機能を付加することができなかった。
オートチャージ機能付きのPASMOを購入するには、オートチャージサービスに対応したクレジットカード会社への申し込みが必要である(クレジットカード一体型PASMOも同様)。ただし、すでに対応クレジットカードを所持している場合はこの限りではない(PASMOのみの申し込み)。その上でクレジットカード発行会社にPASMOオートチャージの申し込みを行う。審査後(PASMOのみの申し込みの場合を除く)、通常約1か月程度でPASMOが郵送され、この時のデポジットが後日申し込んだクレジットカード発行会社より請求される。なお、郵送された時点でのPASMOのチャージ残額は0円である。また、すでに対応クレジットカードと記名PASMOを所持している人が記名PASMOにオートチャージ機能を付加する場合は、前述と同様に対応クレジットカード会社にPASMOオートチャージ機能付加の申し込みを行い、約1か月程度で送付される案内はがきを駅に持参して設定を済ませた上で利用できるようになる。
なお、2007年(平成19年)2月3日の受付開始後に申し込みが殺到したため、1か月では発行ができず、「発行までに6週間から8週間ほど(約1か月半から2か月)期間を要する」との発表があった。
チャージ
PASMOへのチャージ(入金)の方法は、鉄道の場合は、加盟事業者および相互利用事業者の駅にあるICカード対応の自動券売機・自動精算機・簡易入金機(一部事業者のみ)・駅窓口、事務室(同)で1,000円、2,000円、3,000円、4,000円、5,000円、10,000円の6種類の金額を選んでチャージすることができる。ただし、上限金額は20,000円である。なお、一部事業者では10円単位でチャージすることもできる。
バスの場合は1,000円単位でチャージすることができる。この場合は乗務員に申し出てからPASMOを読み取り部に置き、その次に紙幣を運賃箱の挿入口に入れる。ただし、残額が10,000円を超えている場合はチャージできない。入金できる紙幣にも制限があり、多くの事業者では千円札のみとなっている。また、二千円札以上の紙幣でのチャージが可能な運賃箱を設置している事業者は少なく、箱根登山バス・伊豆箱根バス・神奈川中央交通グループ・西東京バスなど少数である。いずれもつり銭は出て来ない。また、硬貨やバス共通カードなどのカード回数券でのチャージはできない。なお、営業所やバスターミナルの窓口では高額紙幣でチャージできる場合がある。
他、JR東日本の駅構内にあるNewDays(ICOCAなどを含め、一部の店舗では対応が可能になった)や、コンビニエンスストアのファミリーマート(旧am/pm店舗を含む)・ローソン・セブン-イレブン・ミニストップ、および全国のイオンやマックスバリュなどイオングループ店舗での店頭チャージが可能である。なお、PASMOが導入されている旧am/pmの店舗でもSuicaのチャージは可能である[33]。
2018年10月15日からは、セブン銀行のATMでもチャージが可能となる予定。
オートチャージ
チャージ残高が一定額未満となった場合に、登録したクレジットカードを経由して自動的に一定金額をチャージするサービスである。サービス開始時点では残額が2,000円以下の場合、自動的に3,000円分チャージされるようになっている。
利用できるクレジットカードは、JCB・三井住友カード・三菱UFJニコスの3社が発行する「Pastown(パスタウン)カード」とPASMOに参加する交通事業者系のクレジットカード、全日本空輸のANAカードのうち、東京地下鉄・JCBと提携して発行するANA To Me CARD PASMO JCBのみで、これら以外のクレジットカードは利用できない。PASMO加盟事業者の中には、サービス開始に併せてクレジットカード事業に新規参入したケースもある。
オートチャージできる場所はPASMO・Suica対応駅の自動改札機であり、入場時にチャージされ、出場時にはチャージされない。ただし1ラッチ改札口(乗換専用改札)、バス車載機、電子マネー端末、新幹線改札機、簡易改札機ではオートチャージは行なわれない。なお、仙台・新潟エリアの各駅でも、オートチャージが可能になった。一部の事業者にはオートチャージが可能な簡易改札機があり、カードをタッチするモジュールの部分が通常の改札機と同じ青色に点灯しているのが特徴である。
また、本サービスを受けるためのオートチャージ機能付きPASMOはカード会社への申し込み後に送付される専用のカードのみであり、2008年(平成20年)3月14日までは駅発売のものやすでに所持しているPASMOにオートチャージ機能を追加で設定することができなかったが、翌15日から記名PASMOに限りオートチャージを追加できるようになった。
オートチャージ機能付きPASMOを入手する場合は、対応クレジットカード会社に対してPASMOとクレジットカードの両方を申し込み、郵送にて受け取る。ただし、すでに対応クレジットカードを所持している場合はPASMOのみを申し込めばよい。2007年(平成19年)2月3日から申し込み受付を行っている。なお、受け取ったオートチャージ機能付きPASMOは駅窓口などでの手続きにより定期券情報を追加することも可能である。しかし、定期区間内でも設定金額を下回ると、自動チャージされるため注意が必要。また、対応クレジットカードを所持している人で記名PASMOにオートチャージ機能を付加する場合は、対応クレジットカード会社に対してPASMOオートチャージ機能付加の申し込みを行うだけでよい。この場合、約1か月程度で送付される案内はがきを駅窓口に持参して利用開始の手続きを行わなければならない。どちらの方法も、駅窓口などで申し込み用紙を入手し、各クレジットカード会社へ請求する。
加盟事業者のうち、対応クレジットカードを発行しているのは以下の通りである。
小田急電鉄:「小田急OPクレジットカード」
京王電鉄:「京王パスポートカード」他
京成電鉄:「京成カード」(導入時に新規参入)
京浜急行電鉄: 他
相模鉄道:「相鉄カード」(導入時に新規参入)
西武鉄道:「プリンスカード」他(導入に先駆けて参入)
東京急行電鉄:「TOP&カード」他
東京地下鉄:「Tokyo Metro To Me CARD」(導入時に新規参入)
東武鉄道:「東武カード」
横浜市交通局:「横浜交通hama-eco card」
PASMO加盟事業者以外との提携のある対応クレジットカードを発行しているのは以下の通りである。
全日本空輸・東京地下鉄:「ANA To Me CARD PASMO JCB」
全日本空輸・東京急行電鉄:「ANA TOP&ClubQ PASMO マスターカード」
なお、2006年(平成18年)10月1日から先行的に展開しているVIEW Suicaカードでは、サービス対象はVIEW Suicaのみ(クレジットカード自体がSuicaの機能を有するカード)だが、それ単体でサービスを受けられる。また2010年(平成22年)3月13日からは、同カードで利用登録しているモバイルSuicaでも、オートチャージが可能になった。
さらに、Pastownと加盟事業者のうち東急・東武・京急・東京地下鉄の4社では「クレジットカード一体型PASMO」の発行を2008年(平成20年)3月15日から開始している。そのため、オートチャージ機能付きPASMOカードを発行予告していた際の募集で入会した新規会員のクレジットカードは、有効期限が2008年(平成20年)3月までとなっていた。Pastownカードを除き、カードの裏面左中央に定期券情報を記録することができる。ただし、PASMO定期券を所持している人がクレジットカード一体型PASMOを申し込み、かつ定期券情報を記録する場合は、いったんPASMO定期券の払い戻し手続きを行ってから申し込みを行い、改めて定期券情報を記録しなければならない。また、申し込みから送付までに約1か月間かかるため、その間は別のPASMO定期券か磁気定期券の1か月ものを購入・利用しなければならない。
2012年(平成24年)3月1日からは、全日本空輸・東京地下鉄・JCBの3社が提携したANA To Me CARD PASMO JCB(ソラチカカード)の発行を開始している。このカードはANAカード・Tokyo Metro To Me CARDのサービスが同時に受けることが可能となっている。また、SFポイント乗車サービスやメトロポイントをANAのマイルに交換する条件が、通常のTokyo Metro To Me CARDよりも優遇されている。
すでにオートチャージ機能付きPASMOを所持している場合、それと紐付けられたクレジットカードで新たにオートチャージ機能付きPASMOを申し込むことはできない。また、一部のクレジットカード発行事業者では現金専用のポイントカードも発行しているが、このカードでオートチャージ機能付きPASMOを入手することはできない。
オートチャージ機能付きPASMOは、通常の記名PASMOと同様にPASMOのみの払い戻しや対応クレジットカードの解約ができる。対応クレジットカードを解約した場合はPASMOが記名PASMOとして引き続き利用できる。また、支払いカードがPastownカードの場合は払い戻しをもってクレジットカードも自動的に解約となる。また、クレジットカード一体型PASMOでもオートチャージ機能付きPASMOと同様の払い戻しや解約ができるが、クレジットカード機能を解約する場合はクレジットカード会社をその旨を申請後一体型PASMOと公的証明書を駅窓口などへ持参してPASMO機能の移し替え手続きを行わなければならない。この場合、通常のPASMOに交換されるが、デポジットは現金で支払わなければならない。
なお、前述の通りPASMOカードが品薄となったことから、2007年(平成19年)4月13日から9月28日まで一時新規受付を中止していた(Pastownカードおよび新銀行東京を除きクレジットカード自体の申し込みは可能)が、同年9月29日に受付を再開した。
導入当初は東京都交通局が対応したカードとして「新銀行東京カード」(JCB・ニコスVISAのみ)もオートチャージ対応カードに指定されていたが、同行が2008年(平成20年)2月8日をもって提携キャッシュカードの申し込み受付を終了したため、現在は該当のカードでオートチャージの申し込みを行うことができない。東京都交通局は現在「ToKoPo」でポイントサービスを行っているが、ToKoPoはクレジットカードを介したサービスではないため、オートチャージはできない。
パスネット残額の引き継ぎ
PASMOの普及により、2008年(平成22年)1月10日でパスネットの発売が終了し、同年3月14日でパスネットの自動改札機での利用が終了した。このため、翌15日以降残額があるパスネット所持者のためにPASMOへの残額引き継ぎサービスを行っている。実施事業者は22事業者のうち東武鉄道・西武鉄道[34]・京王電鉄・東京急行電鉄・京浜急行電鉄・新京成電鉄・横浜高速鉄道・首都圏新都市鉄道・東京地下鉄・東京都交通局の10事業者である。このうち、京王電鉄と東京急行電鉄は同月1日から、西武鉄道は5日から先行してサービスを行っている。Suicaへの残額の引き継ぎはできない。
引き継ぎサービスは2015年(平成27年)3月31日をもって終了した。[35]。
鉄道での利用
鉄道の場合は出場時に乗車区間の運賃分を一括して引き去る。ただし、従来のパスネットと同様に各鉄道事業者線の初乗り運賃以上の残額がないと入場できない。そのため、自動改札機のディスプレイには入場時に引き去り前の残額とSF(定期)利用が、出場時に引去額(定期利用の時は表示されない)と引き去り後の残額がそれぞれ表示される。また、従来のパスネット適用を含む他の鉄道事業者線との連絡割引についてもPASMOで自動的に適用される。ただし、重複する場合は値引き額が大きい方のみの適用となる。なお、一度に精算できるのは4事業者分までであり、途中一度も改札を通らない場合は圏内で最大6事業者までの連続乗車が可能となるが、運賃計算上5事業者以上になる場合は窓口での精算となる。
例:1.横浜高速鉄道線→〈直通〉→2.東急線→〈直通〉→3.都営地下鉄線→〈直通〉→4.京成線→〈直通〉→5.北総線
SuicaについてもPASMOサービス開始時から前述の方法が適用される。自動改札機が設置されていない駅については簡易ICカード改札機を設置して対応している。Suica事業者であるJR東日本線との連絡改札機が簡易ICカード改札機になっている場合の対Suica事業者間の乗り換えは改札機にタッチする(簡易改札機のためタッチしないでも通り抜けることができる場合があるが、実際の乗車経路と異なる運賃分が減額されることになる)。
連絡定期券の発売範囲は従来の磁気定期券の発売範囲に加えて多摩都市モノレール・ゆりかもめ・横浜シーサイドラインにも拡大されている。途中改札を通らない経路で定期券が2枚以上になる場合はIC定期券を含んだ組み合わせでは利用できず、従来通り磁気定期券2枚を使用することになる。この場合、IC定期券とパスネットなど他の乗車券類との同時使用での改札機の通過も不可能である。ただし、JR東日本の自動券売機と自動精算機ではイオカードまたはオレンジカードにPASMOを併用しての乗車券の購入または乗り越し精算が一部の駅で可能である。定期券のうちPASMOで発行可能になるのはPASMO加盟事業者間のみのものとPASMO加盟事業者とSuica加盟事業者に跨る連絡定期券に限られている。Suica・PASMOの両事業者間に跨る連絡定期券は基本的にどちらにも発行できるが、種類によっては発売事業者が限られる場合もある。また、発着駅ともSuica加盟事業者社のみとなる定期券をPASMO定期券として発行することはできず、逆も同様である。2008年(平成20年)3月15日から発売範囲が拡大された。
サービス開始当初は、SuicaとPASMOの双方に対応している駅でも、町田駅(JR・小田急)、JR稲田堤駅 - 京王稲田堤駅、新秋津駅(JR) - 秋津駅(西武)、新八柱駅(JR) - 八柱駅(新京成)などで、JR東日本との間で連絡運輸の協定が締結されていなかったため、連絡定期券の乗り継ぎ駅の対象とされていない駅も存在していた。2008年(平成20年)3月15日に連絡定期券の発売範囲が拡大されたことで多くは解消された。
鉄道での輸送障害が起きた場合の振替輸送については、Suicaと同様に基本的には対象外だが、PASMO定期券の有効期間内で券面表示区間内での乗車に限り受けることができる。切符を買った乗車券では振替輸送が受けられるが、ICカードでのSF乗車の場合についてはパスネットと異なり対象外となる。各鉄道事業者でもその旨、ポスターやリーフレットなどで告知している。
なお、鉄道(路面電車は除く)の利用の場合、クレジットカードつきのものを除いて、これまでは利用によるポイントの類はつかなかった(これはSuicaも同じである)。そのため、回数券などを利用した方が割安になる場合もある。一方で、2011年8月に東京都交通局が「ToKoPo[36]」サービスを、2018年3月には東京地下鉄が「メトポ[37]」サービスを開始するなど、一部では変化も見られる。ただし、還元率は回数券に比べると大幅に低い。
二区間定期券
Suicaで可能な「二区間定期券」のような発行方法は、下に記載する一部を除き、現時点で対応していない。
西武鉄道
西武池袋線練馬駅以西・西武秩父線各駅・西武狭山線各駅・西武新宿線小平駅以西・西武西武園線各駅・西武国分寺線各駅 - 西武池袋線池袋駅 / 西武有楽町線練馬駅 - 東京メトロ有楽町線・副都心線小竹向原駅 - 東京メトロ各駅 (和光市駅 - 要町駅間を除く)・東急電鉄各駅(一部の駅を除く)[38]
西武線各駅 - 西武新宿線西武新宿駅 / JR山手線高田馬場駅 - JR新宿駅以遠[38]
東武鉄道
東武東上線和光市駅以西 - 東武東上線池袋駅 / 東京メトロ有楽町線・副都心線和光市駅 - 東京メトロ各駅 (和光市駅 - 要町駅間を除く) [39]
小田急電鉄
小田急小田原線東北沢駅以西 - 小田急小田原線新宿駅 / 東京メトロ千代田線代々木上原駅 - 東京メトロ各駅[40]
PASMO企画乗車券
一日乗車券として「東京メトロPASMO1日乗車券」、「東京メトロ・都営地下鉄共通1日乗車券(PASMO)」などをPASMOに搭載して利用できる。なおこれらの一日乗車券は、クレジットカード一体型PASMOや、PASMO以外のSuicaなど(交通系ICカード全国相互利用サービス対象カード含む)には搭載できない。また、PASMO定期券を搭載中のPASMOには追加搭載できない。[41][42]。
東京メトロPASMO1日乗車券:600円(小児300円)
東京メトロ・都営地下鉄共通1日乗車券(PASMO):900円(小児450円)
東京メトロPASMO1日乗車券
都営地下鉄「秋」のワンデーパス PASMO
西武鉄道 西武東京メトロパス PASMO
バス・路面電車での利用
バスにおけるPASMO(Suicaを含む;以下同様)の使用方法は、バス共通カードのものを概ね踏襲している。
PASMO対応車両には、運賃箱にPASMO読取機(PASMOリーダー)が設置されており、これにタッチすることにより運賃分が引かれる。運賃後払方式の車両ではこのほかに、整理券発行機の横にもPASMO読取機が設置されている。始発停留所と同一運賃の区間での乗車時にも読取機にタッチをする必要のある場合がある。
運賃支払い時、運賃箱のディスプレイには、支払額と残額が表示される。バス利用特典サービス(後述)の利用時には、その利用額も表示される。
バスでのPASMOサービスは、鉄道のように2007年(平成19年)3月18日より一斉に開始されたのではなく、対応準備が順次進められている状態で、2008年(平成20年)11月現在、対応済車両と未対応車両が混在している。
なお、一部のバス事業者で行っている短区間100円運賃制度は、現金のみ</b>の扱いとなっている路線も、その場合、PASMOなどのICカード利用の場合は通常の運賃が適用される(西鉄バスの都心100円はICカードでも適用される)。なお、この100円運賃制度は、同じ区間を走る深夜バス便では適用対象外となる事がで、その場合は支払い方法に関係なくの扱いとなる。
バス利用特典サービス
バス共通カードなどのバスカードでは、回数券として購入額に特典額を加えた金額分の利用ができるが、PASMOではこれに相当するサービスを利用額に応じたポイント還元式の「バス利用特典サービス」(通称:「バス特」)が採用されている(参照:PASMO概要 - パスモプレスリリース)。なお、PASMO加盟事業者が導入したサービスであるが、Suicaで利用した場合もポイントがたまる[43]。
バス共通カードでは購入した時点で特典額が付与されるのに対し、PASMOではSFによって支払われた運賃に応じてバスポイントを加算させていき、1,000ポイントごとに「特典バスチケット」が付与され、次回のバス乗車時にそのチケットがSFに優先して差し引かれる仕組みとなっている。
バスIC定期券
定期券(IC定期券)は、2015年(平成27年)12月現在<b data-parsoid='{"dsr":[37861,37873,3,3]}'>一部の事業者</b>で実施されている。東京都交通局(都営バス・都電荒川線)では2007年(平成19年)3月18日のサービス開始時より、川崎市交通局では同年11月26日より、関東バスとケイビーバスでは12月16日より、横浜市交通局と横浜交通開発では2008年(平成20年)7月1日より、東急バスでは2009年(平成21年)8月1日より、川崎鶴見臨港バスでは2010年(平成22年)4月1日より、京王電鉄バスグループでは2011年(平成23年)2月1日(多区間では初のIC定期券導入)、東急世田谷線では2012年(平成24年)3月17日より、小田急バスグループでは2012年(平成24年)5月10日より、西東京バスでは2013年(平成25年)4月1日より、京成バス(東京都内路線)・西武バスでは2015年(平成27年)3月1日より(当初は通勤定期のみ。現在では通学定期も対応)、立川バスでは2015年(平成27年)6月1日より、山梨交通では2015年(平成25年)12月7日より導入している。なお、朝日自動車グループ傘下のバス会社についてはIC定期券への対応まではなされておらず、東武沿線駅および東武トラベル営業所が発行する従来通りの紙券定期券を提示する形となる。
バスIC一日乗車券
PASMOとSuicaが採用しているFelicaはICチップを採用しており、大量の情報記憶が可能である。これを利用して、一部のバス事業者では一日に何度でもバスを利用できる一日乗車券をPASMOとSuicaに付与して発売している。
2018年(平成30年)5月現在、以下の事業者のPASMOとSuicaが利用可能なバス車内、または都電車内で発売している。
東京都交通局(・)
川崎市交通局()
関東バス()
小田急バス・小田急シティバス()
東急バス()2009年8月1日より導入
京成バス・京成タウンバス()2010年(平成22年)4月1日より導入
西武バス()2011年(平成23年)4月1日より導入
神奈川中央交通グループ()2011年(平成23年)12月19日より導入
立川バス ()2015年(平成27年)6月1日より導入
関東鉄道 () 2018(平成30年)4月28日より導入 ※土日祝のみ
履歴表示
PASMOとSuicaのSF残額履歴を印字および表示することができる。
PASMO加盟事業者の駅の自動券売機やバス営業所などでは、Suicaも含めて直近20件までの履歴を表示・印字でき、カードに履歴が残っている間は何度でも印字できる。逆にSuica加盟事業者の駅でも直近20件までの履歴を表示できるが、履歴を印字する場合、Suicaでは直近50件まで印字できる(一度印字すると再印字はできない)が、PASMOでは直近20件まで印字でき、再印字も可能である。なお、PASMOエリアで印字する場合はSuicaも含めてカード番号がすべて表示され、Suicaエリアで印字する場合はカード番号の下4桁しか表示されない(チャージや定期券購入などの領収書も同様)が、近年では一部のPASMOエリアでもカード番号の下4桁しか表示されない事業者もある。印字時の事業者名・駅名の表示については、首都圏ICカード相互利用サービスを参照のこと。
なお、2010年(平成22年)2月以降、東京急行電鉄や東京地下鉄では、PASMOに限り100件の履歴を印字することが可能になった(東京地下鉄の一部の駅では表示も可能)。
また、2012年(平成24年)2月まで、PASMO定期券を含む記名PASMOの場合はインターネットを通じて3か月前までの履歴と定期券情報・バスポイントを照会できた。これはPASMO利用者向けの会員登録制サービスであり、Suicaの履歴照会はできない。しかし、他人が閲覧可能であり、浮気調査に利用可能との情報がネット上で流れるなどしたため、PASMO協議会は、個人情報漏洩につながる恐れがあるとして、ネット上での履歴紹介サービスを終了することになった[44][45][46]。なお、バスポイントについてはバス利用特典サービス取扱事業者の営業所に持ち込んでの確認以外の参照方法がなくなった。
電子マネー
PASMOは、当初からSuica電子マネーとの共用がなされ、基本的にはSuicaが使える店舗(Suica電子マネー店舗)でも利用可能。利用開始日はPASMOサービス開始日と同じ2007年(平成19年)3月18日(→Suica電子マネーも参照)。そのためか、電子マネーの利用件数も「PASMO単独」ではなく「Suicaとの合計」で発表している[47]。
利用できる店舗などには全国相互利用のステッカーが貼付されており、サービス自体はSuica電子マネーなどとほぼ同様である。ただし、PASMOではJREポイント(2017年11月27日まで<!-- 登録受付終了日 -->は、Suicaポイントクラブ)に登録できない[48]。また、Suica・PASMOは2013年(平成25年)3月現在、ICOCA・kitaca・manaca・TOICA・SUGOCA・nimoca・はやかけんの電子マネー相互利用を行っている。また、当地の鉄道事業者が電子マネーを導入するより以前にSuica電子マネーに対応した事例もあり、これらの店舗ではPASMOが使用できた。福岡地区のビックカメラ天神1号館・2号館、名古屋地区のイオン・マックスバリュ(マックスバリュ中京、マックスバリュ東海運営の店舗よりマックスバリュ中部運営店舗は利用開始が遅れたが全店舗利用可能でありピーコックストアも現在は使える)・ミニストップなど、イオングループが該当する。
PASMO加盟鉄道事業者では、サービス開始時点では小田急電鉄・京浜急行電鉄・西武鉄道・東京急行電鉄・東京地下鉄・東京都交通局・東武鉄道の7事業者が、2008年(平成20年)3月15日からは京王電鉄・京成電鉄・相模鉄道・首都圏新都市鉄道の4社を加えた11事業者が電子マネー加盟店の募集および管理業務を行っている(この開拓・管理事業者を「アクワイアラ」という)。現在、駅構内や周辺の売店や飲料水の自動販売機、コインロッカーなどへ展開している。このほか、一部事業者については系列のスーパーマーケットなどの街中の店舗でも使えるケースもある。ただし、逆に駅構内の店舗でありながら、楽天Edyなどの他の電子マネーが使えるのにPASMOが使えないといったケースもある(東武線沿線のトウブドラッグなど)。
関係企業以外の参入状況
上記事業者やその関連企業、駅構内・周辺店舗以外の参入企業(予定を含む)は以下の通りである。記載は「企業名(業種など):開拓・管理事業者」の順。
am/pm(コンビニエンスストア:現在はファミリーマートに統合・転換):東京急行電鉄
2008年(平成20年)1月から順次本サービスを開始、同年8月11日までに首都圏の全店舗に導入を完了した。レジでのチャージも、PASMO・Suicaを問わず可能。また、同日よりTOP&カードで設定したオートチャージサービス機能付きPASMOの電子マネーを利用するとTOKYUポイントが加算される、「PASMO電子マネーTOKYUポイント」のサービスを開始した。なお、同社は東武鉄道・京成電鉄・相模鉄道・首都圏新都市鉄道の4社の一部駅にも店舗を出店しており、東武の一部店舗では2008年(平成20年)1月以前より、PASMO電子マネーが利用可能であった。なお現在は、旧am/pmの各店はファミリーマートに統合・転換されているが、当初はPASMO端末を転用し設置、その後Suica端末に交換され、引き続きPASMO・Suicaの利用が可能である。
パーク24(コインパーキング「タイムズ」):東武鉄道・京王電鉄・京浜急行電鉄・小田急電鉄・首都圏新都市鉄道
東武沿線の「タイムズ」での料金支払いにも本サービスを導入する。第1弾として2007年(平成19年)8月23日より東上線志木駅近くの「タイムズ新座志木」でサービスを開始しており、以降順次拡大予定である。
京王・京急・小田急沿線では、特定の駐車場の最寄り駅を利用した際に、利用額を値引くサービスも実施している(割引適用には、当該駅利用履歴のあるSuica・PASMOが必要)。
沿線ごとに異なる事業者がアクワイアラとなっている。なお、他社や他地区沿線の同社のコインパーキングではSuica電子マネーを始め他の電子マネーサービスを導入しているところもある。
名鉄イン(ビジネスホテル):京浜急行電鉄
2008年(平成20年)4月、名古屋地区におけるPASMO加盟店第一号となり、この地区のホテルで初めてPASMO・Suicaが利用可能となった。対象店舗は全店舗(名古屋駅前・名古屋金山・名古屋錦・刈谷)であった。首都圏から名古屋へ出張するビジネスマン層の利用を見込んでいた。その後manaca端末に統一されている。
埼玉県道路公社(有料道路):首都圏新都市鉄道
2009年(平成21年)3月24日から、新見沼大橋有料道路の通行料金をPASMO・Suicaで支払えるようになった。同道路公社が管理する有料道路はETCに対応していないため、料金所で一旦停止する必要があるものの、現金等を用意する手間が省け、利便性の向上が期待できる。
セブン-イレブン・ジャパン(コンビニエンスストア):京浜急行電鉄
2011年(平成23年)春より、交通系IC乗車券の電子マネーを全国規模で一斉導入する。主として導入する電子マネーは各地域で展開するものであり、それと相互利用可能な電子マネーのみが使用可能となる。PASMOを主として導入するのは京急線沿線に当たる東京都・神奈川県内の一部店舗(約300店舗)および、関東の他地域ではSuicaと相互利用が可能なすべての交通系IC電子マネーが使用できる。
ポプラグループ(コンビニエンスストア):京浜急行電鉄
2012年(平成24年)秋より、WAON・iDとともに交通系IC乗車券の電子マネーを、「ポプラ」およびグループ内の「生活彩家」「くらしハウス」「スリーエイト」各店に順次導入する。関東地区では、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の計179店舗でPASMO・Suicaが利用できるようになる。また、近畿・北陸・中国地方ではICOCA(近畿地方の一部店舗ではPiTaPaも導入)、九州地区ではSUGOCAを導入し、それらと相互利用を行う電子マネーも使用できるようになる。
任天堂
2014年(平成26年)7月22日より Wii Uの支払い決済に、PASMOなど交通系電子マネーが利用可能になる。[49][50][51][52][53][54]。
その他の事例
一部事業者の駅構内などに設置されているコインロッカーではPASMO・Suicaで料金を精算するとその精算したPASMO・Suicaがロッカーの鍵となるシステムを採用している。
東武鉄道が建設した東京都足立区西新井のマンションでは、PASMOカードを各戸の鍵として採用している。
商店街やショッピングモールのポイントカードとして、PASMO等のIC乗車カードがそのまま使用できるポイントサービスのシステムが開発導入されている。詳細はポイントサービス#商店街・ショッピングモール、ICカード#商店街での導入を参照。
付記
2007年(平成19年)3月18日のサービス開始日から5月31日まで、「PASMO GO! GO! キャンペーン」を実施し、購入者の中から抽選で550名に5,500円分チャージされたPASMOが当たった。
サンケイリビング新聞社では、PASMOの沿線情報などを紹介する月刊紙(フリーペーパー)「PASMO いいかも」を発行している。
西武鉄道では、キャンペーンやイベント時にプレゼント用として西武鉄道の各駅(小竹向原・元加治を除く)でチャージできるPASMOチャージ券1000円分が存在する。なおこのチャージ券は「PASMO・Suicaポイント券」という名前で、1ポイント=1円単位の計算でチャージとなり、有効期限も設定されている。
ICカード運転免許証とPASMO(SuicaやICOCA等を含むフェリカタイプCの非接触式ICカード)を同じ財布等に入れると、誘導電流の奪い合いとなり、読み取りエラーが起きる。
脚注
参考文献
サービス開始に関する発表
(2005年12月24日時点のアーカイブ)
電子マネーに関するリリース
オートチャージ・対応クレジットカード発行に関するリリース
供用開始日の正式発表および概要
(2007年1月3日時点のアーカイブ)
(2007年1月3日時点のアーカイブ) - 同局でのサービス概要
(2009年10月10日時点のアーカイブ) - 同社でのサービス概要
- 同社でのサービス概要
その他
(2009年8月20日時点のアーカイブ)
Suica加盟事業者のプレスリリース
(2007年10月30日時点のアーカイブ)
関連項目
乗車カード
ICカード
FeliCa
サイバネ規格
首都圏相互利用
首都圏ICカード相互利用サービス
Suica
モバイルSuica
全国相互利用
交通系ICカード全国相互利用サービス対応カード(2013年3月23日より:一部対象外の事業者あり)
Kitaca
TOICA
manaca(割引用manacaは相互利用対象外)
ICOCA
PiTaPa(電子マネーを除く)
SUGOCA
nimoca(障がい者用nimocaは相互利用対象外)
はやかけん(割引用はやかけんは相互利用対象外)
前身となった乗車カード
パスネット
バス共通カード
廃止された各事業者の乗車カード
イオカード(JR東日本)
せたまる(東急世田谷線)
トランセカード(東急トランセ:代官山循環線)
外部リンク
- 公式ホームページ
| https://ja.wikipedia.org/wiki/PASMO |
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張 飛(ちょう ひ、、生年不詳 - 章武元年(221年)6月[1])は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍、政治家。字は<b data-parsoid='{"dsr":[803,811,3,3]}'>益徳。幽州涿郡(現在の河北省涿州市)の人。『三国志』蜀志[2]に伝がある。封号は新亭侯、のち西郷侯。諡は桓侯。子は張苞・張紹・敬哀皇后張氏・張皇后。孫は張遵。
後漢末の群雄の1人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは下述の通り中原に轟いた。その武勇は後世にも称えられ、小説『三国志演義』を始めとした創作作品でも多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を大いに親しまれている。
生涯
劉備に従う
同郡に住む劉備が黄巾の乱に臨んで義勇兵を集めようとした時、他所から流れてきた関羽と共にその徒党に加わり、その身辺警護を務める事となった[3]。以後は関羽と共に劉備から兄弟の様な親愛の情を受けることとなり、大勢の前では劉備を主君として立て、命がけで護衛の任務を務めたという[4]。また、関羽の方が数年年長であったため、関羽を兄のように敬愛して仕えていた。やがて劉備が公孫瓚に採り立てられて平原郡の相となると、関羽と共に別部司馬に任じられ、それぞれが一軍を率いる将となった[5]。
興平元年(194年)、劉備は身を寄せていた徐州で、徐州牧の陶謙に位を譲られて徐州牧となった[6]。建安元年(196年)、劉備が徐州に侵攻した袁術と戦っている最中、張飛は本拠地である下邳の留守を任されていたが、そこで下邳の相曹豹と対立した[7]。劉備に身を寄せていた呂布が、劉備と袁術が1ヶ月睨みあっている隙に下邳を攻撃すると、曹豹が寝返り呂布に呼応したため、張飛は敗北し、劉備の妻子を捕虜にされてしまった。劉備と呂布は一旦は和睦した。しかし再び仲違いを起こし、劉備は曹操の元に身を寄せた。張飛は曹操の呂布討伐に劉備と共に従軍し、その戦いでの功績を認められ、許に戻ったときに曹操から中郎将に任命された。
その後、劉備が曹操に背き、袁紹・劉表に相次いで身を寄せると、それにも付き従って、各地で転戦した。
建安5年(200年)、曹操の臣下である夏侯覇の13-14歳の従妹を、張飛は捕えて妻とした[8]。
長坂橋大喝
建安13年(208年)、荊州牧の劉表が死去し、曹操が荊州へ進軍すると劉備は江南へと逃げた。曹操は昼夜をかけてこれを追い、当陽県の長坂まで到着した。劉備は曹操がやってきたと聞くと妻子を棄てて逃走し、張飛は二十騎ほどを従えて殿軍をつとめた。張飛は川に拠って橋を落とし、目を怒らせ矛を横たえて「俺が張飛だ、死にたい奴からかかって来い!」と曹操軍に向け呼ばわったところ、誰もあえて近づこうとしなかった。これによってついに劉備は落ち延びることができた(長坂の戦い)。
劉備が赤壁の戦いの後、荊州南部を攻略すると、張飛は宜都太守・征虜将軍に任命され新亭侯に封じられた。しばらくして張飛は南郡に転任することになった。
劉備軍の主将
建安16年(211年)、劉備が劉璋に招かれて益州入りした(劉備の入蜀)。建安17年(212年)、劉備が法正らと謀って益州攻略を企てると、張飛は諸葛亮・趙雲・劉封らと共に援軍として益州に攻め込み、手分けして郡県を平定した[9]。
江州では巴郡太守の厳顔を生け捕りにした。このとき、張飛は自身が大軍を率いてやってきたのに、厳顔が少数で抗い、降伏しなかったことに腹を立て、厳顔を詰問した。厳顔は「お前達は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には首をはねられる忠臣は居ても、降伏する将軍はおらぬ」と張飛を面罵した。腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「首を刎ねるならすぐにやるが良い。何故腹を立てることがあるのか」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い彼を釈放し、以後は賓客として扱った。
張飛は劉璋軍との全ての戦いで勝利し[10]、成都で劉備と落ち合った。劉備は益州奪取における張飛の功績を評価し、諸葛亮・法正・関羽[11]と同等に金五百斤・銀千斤・五千万両・綿千匹の褒賞を与えた。張飛は巴西太守に任じられた。
建安20年(215年)、曹操は漢中の張魯と戦って降伏させると、配下の夏侯淵と張郃に漢中を守備させた。張郃は巴東、巴西に攻め込みその住民を漢中に移住させた。その後さらに渠宕・蒙頭・蕩石に軍を進めたところ張飛に拒まれ、張飛は、張郃の軍と50日あまり対峙した後、精鋭の一万人ほどを率いて山道の隘路を利用し、迎え撃つ作戦を立てた。張郃は狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破され、たった数十人の部下と共に脱出する羽目になった。張飛は張郃の軍を撃退することに成功し、これにより巴の地は安寧を取り戻した。
建安22年(217年)、張飛は劉備の漢中攻略戦に従軍し、下弁方面での作戦に馬超・呉蘭らと共に参加したが、曹洪・曹休らに阻まれ、目立った戦果を挙げることなく撤退した(『三国志』魏志「武帝紀」及び「諸夏侯曹伝」)
建安24年(219年)春、劉備が漢中を攻略すると、成都に政庁を置くことにしたため、前線の漢中の守備を誰に任すべきかということになった。周囲は張飛が任されるものと思い、張飛自身もそう考えていた。しかし劉備は魏延を抜擢した[12]。盧弼によれば、張飛はその暴虐な性格によって兵卒から嫌われていたので、漢中の守備から外されたのだという[13]。
同年秋、張飛は他の群臣達と共に劉備を漢中王に推挙した[14]。劉備が漢中王になると、張飛は右将軍・仮節に任命された。
最期
章武元年(221年)、劉備が即位し蜀(蜀漢)を建国すると、張飛は車騎将軍兼司隷校尉に任命され、西郷侯に昇進した。同年、劉備が呉に対して侵攻することになると、張飛は1万の兵士を率いて閬中を出発し、江州で劉備と合流することになった。その準備をしている最中である同年6月[15]、恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。劉備はかねてより張飛が死刑を頻繁に行ない、鞭打ちした部下を自分の近侍として仕えさせていることを戒めていたといい、この時張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。
長男の張苞は若死していたため、次男の張紹が跡を継いだ。
景耀3年(260年)秋、劉禅によって桓侯と諡された[16]。
人物
武勇
劉備が皇帝に即位した直後の詔勅では、張飛のことを古代の召虎に称えて、その武勇を賞讃している。また、曹操の参謀であった程昱らから「張飛の勇猛さは関羽に次ぐ」さらに「1人で1万の兵に匹敵する」と、また劉曄にも「関羽と張飛の武勇は三軍の筆頭である」と評されており[17]、孫権軍の重鎮である周瑜からも「張飛と関羽を従えれば大事業も成せる」と評されるなど[18]、その武勇は天下に広く評価されていた。
ただ、張飛は士大夫と呼ばれる知識人層には敬意をもって応対したものの、身分の低い者、兵卒などには暴虐であった。多すぎる死刑の数と、いつも兵士を鞭打ってその当人を側に仕えさせていることを、劉備からは常々注意されていた。しかし張飛は改める事ができず、ついに死に直結する事態を招くこととなった。
三国志を著した陳寿は、蜀志「関張馬黄趙伝」の張飛伝の最後に張飛と関羽の人物評を併せて載せ、このように括っている。
関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は顔良を切ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。しかし、関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、敢え無く最期を遂げる事となった。理数とは、こういうものなのだろう(「關羽 張飛皆稱萬人之敵 為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顔 並有國士之風 然羽剛而自矜 飛暴而無恩 以短敢敗 理數之常也」『蜀志巻六・関張馬黄趙伝[19]』)。
陳舜臣はこれを、関羽も張飛も、共に低い身分から士大夫に出世したが、関羽の場合は今や同じ身分となった士大夫に対しての傲慢な振る舞いとなり、張飛の場合は士大夫に出世した事を喜んで同じ身分の者には敬意を払ったが、下の者に対して傲慢になるという正反対の行動になったと解釈している。
唐の史館が選んだ中国史上六十四名将に関羽と共に選ばれている(武廟六十四将)。
エピソード
『三国志』蜀志「劉巴伝」が注に引く『零陵先賢伝』によると、庶民(当時の用語では庶人)上がりの張飛が士大夫の劉巴の下に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがにその態度に腹を立て、諸葛亮もまた劉巴と張飛の間を取りなそうとしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)たる者がこの世に生を受けたからには、当然、天下の英傑とこそ交友を結ぶべきです。どうして一兵卒(張飛のこと)と語り合う必要がありましょうか」と言い捨て、ついに張飛とは親交を結ぶことが無かった。士大夫と庶民との間に、厳然たる身分差と、それによる差別があったことが窺える。
説話における張飛
明代に成立した『笑府』にも周倉同様に登場するなど、他の三国時代の人物に対し、より庶民に愛される存在として伝承されてきた。張飛が督郵を鞭打つ場面と長坂橋で曹操軍の前に仁王立ちする場面は、京劇などで特に人気が高く、大向こう受けするという。以降『演義』を下敷きにした各種創作では、こうしたコミカルさも取り入れた好漢として活躍している。
三国志平話
『三国志平話上巻』(『第至治新刊全相平話三國志 巻之上』)に「姓張名飛、字翼德 乃燕邦涿郡范陽人也 生得豹頭環眼 燕頷虎鬚 身長九尺餘 聲若巨鐘 家豪大富[20]」と描写される。
三国志演義
小説『三国志演義』では、黄正甫本『三国志伝』・毛本『三国演義』で字は<b data-parsoid='{"dsr":[6429,6437,3,3]}'>翼徳(よくとく)、嘉靖本『三国志通俗演義』で字は<b data-parsoid='{"dsr":[6459,6467,3,3]}'>益徳。
身長八尺(約184cm)、豹のようなゴツゴツした頭にグリグリの目玉、エラが張った顎には虎髭、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のよう(「身長八尺 豹頭環眼 燕頷虎鬚 聲若巨雷 勢如奔馬」)[21]と表される容貌に、一丈八尺の鋼矛「蛇矛(だぼう)」を自在に振るって戦場を縦横無尽に駆ける武勇を誇る武将として描かれている。
張飛は一騎討ちの名手であり、呂布とも三たび渡り合い、関羽と一騎討ちで互角に戦った紀霊を討ち取り、曹操軍屈指の武勇を持つ猛将である許褚に一騎討ちで勝利している。関羽は曹操に「弟の張飛の武勇は自分以上である」と語っており、呂布は泥酔した張飛にさえ、むやみに近付こうとしないほど剛勇さを警戒していた。
吉川英治の小説『三国志』では、黄巾賊に追われる劉備と初対面し黄巾賊から劉備を救った。
『演義』における張飛は、劉備を高潔な君子としてアピールするために、粗暴な役回りを押しつけられている部分が多い。例えば、黄巾の乱の後、劉備が査察にきた郡の督郵(監察官の職)に面会を断られ鞭打ったことがあるが、『演義』では、聖人君子である劉備像を壊さない為に、劉備に賄賂を要求した督郵に腹を立てた張飛が暴行を加えたことにされている。
若い頃は、戦場では蛮勇を振るうものの戦の後の宴席では酒に任せて暴力を振るう為に、部下達に信頼されていない情景が描かれている。極めつきは、劉備が朝廷の命に従って袁術へ軍勢を出した時、その留守役として下邳を守っていた際に起こった事件で、泥酔した隙をつかれ、呂布とその軍師の陳宮の計略に引っ掛かり、部下に反乱され、主君である劉備の妻子を城諸共に奪われ、曹操の下に身一つで転がり込む原因を作っている。
呂布滅亡後、劉備が曹操と不仲になると、徐州に攻め入ってきた曹操部下の劉岱と合戦をする前に、張飛軍は兵の士気を上げるために酒盛りをするが、途中で張飛が暴れ部下に暴行するという策を実行している。このことで部下が劉岱の下へ走って逃げ、張飛軍の内情を暴露させることになる。その情報を信用し攻めてきた劉岱軍を攻撃し、劉岱を捕らえている。
官渡の戦いの前には、山賊にまで成り下がり、劉備の下に戻ろうと合流を望む関羽を、裏切り者呼ばわりして襲いかかるなど、血の気が多く、短慮な所も見せている。
劉備が諸葛亮を迎えた時には、劉備が自分と彼を「水と魚のようなもの」(水魚の交わり)と例えた事に嫉妬を覚え、後に諸葛亮が采配を振ることになった時には、関羽と共に反発している。しかし、博望坡の戦いで諸葛亮の采配が見事に的中すると関張らはその鬼謀に心服し、以降信頼を寄せている。龐統が県令の職を怠けたときも、これに激怒して殺害しようとするが、見事な仕事ぶりを見せると感心している。
益州入りの後には張郃を相手に智謀を巡らして、勝利を得る張飛の成長した姿が描かれている。
しかし最後には、義兄弟である関羽を失った事で部下に対して当たり散らすことが多くなりその結果破滅するという悲劇的な末路を描いた所で、『演義』は「張飛」という人物を締めくくっている。このとき五十五歳と記され、167年の生まれと設定されている事がわかる。
花関索伝
『新編全相説唱足花関索出身伝 前集』(花関索伝)に、青口桃源洞の子牙廟で桃園の誓いの際、関羽と張飛は後のために互いの家族を殺そうということになるが、張飛は関平を供とし、胡金定(関羽の夫人 関索の母)を殺さず逃がしている。[22]
柴堆三国
『歸田瑣記』(梁章鉅 清)「關西故事」に肉屋であった張飛が肉を冷やすための重しの石を関羽が持ち上げたエピソードがある「張飛井戸[23]」などの桃園の誓い伝説が記述されている。[24]
笑府
明末期の笑話集『笑府』に、楊貴妃と張飛の登場する笑話がある。
ある男が、野ざらしになっていた骸骨を見つけ、気の毒に思って供養をしてやった。その晩、男の家の戸を叩く者があり、「誰だ」と聞くと「妃(フェイ)です」と答える。さらに訊ねたところ、「私は楊貴妃です。馬嵬で殺されてから葬られる事もなく野ざらしになっていたのを、あなたが供養して下さいました。お礼に夜伽をさせて下さい」と答え、その晩、男と夜を共にした。これを聞いて羨んだ隣の男が、野原を探し回ってやはり野ざらしになった骸骨を見つけ、供養したところその晩やはり戸を叩く者があった。「誰だ」と聞くと「飛(フェイ)だ」と答える。「楊貴妃かい」と訊くと「俺は張飛だ」という答え。仰天して「張将軍が我が家に何ゆえのお越しで」と訪ねると、張飛曰く「俺は閬中で殺されてから、葬られる事もなく野ざらしになっておったのをお前に供養してもらった。その礼に夜を共にさせてくれい」。これが日本で翻案されたのが、落語『野ざらし』となった。
脚注
参考資料
『三国志』
『三国志演義』
関連項目
五虎大将軍
三国志演義の人物の一覧
三国志演義の成立史
外部リンク
| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E9%A3%9B |