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所十三
所 十三(ところ じゅうぞう、1961年8月30日 - )は、日本の漫画家。静岡県掛川市出身。静岡県立掛川西高等学校、駒澤大学卒業。本名:岡田 信幸(おかだ のぶゆき)。 概要. 駒澤大学漫画クラブOBの芳井一味と高橋葉介のアシスタントを務め、在学中に『ピントはずれのかぞく式』で講談社新人漫画賞佳作を受賞(受賞式には学生服姿で臨んでいる)、1984年(昭和59年)『月刊少年マガジン』で読み切り『名門!多古西応援団』にてデビュー。これが好評だったことから連載となる。この他にも『週刊少年マガジン』で連載した『疾風伝説 特攻の拓』などのような、硬派な世界の少年達の漫画を数多く手掛ける。最近では『DINO2』『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』のような、かねてから興味を抱いていた恐竜をテーマにした漫画を中心に発表している。 ペンネームの「所」は大学時代に所ジョージに似ていたことから、漫画クラブの先輩がつけたニックネームに由来し、会員番号が3であることから当時は「所-03」のペンネームを使用していた。なお、「十三」は担当編集者による命名という。 恐竜の化石を所蔵しており、恐竜展で展示されることもある。
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ともち
ともち(6月5日 - )は日本の女性漫画家。神奈川県横浜市出身。身長150cm、血液型はO型。現在は4コマ漫画で活躍中。 同じ「ともち」名義でBLを描いているのは全くの別人。 略歴と概要. 1984年、持ち込み作品であった「海ちゃんはLLサイズ」が認められ少年ジャンプ系列の少年誌で須賀知子名義デビューするも、「そんなに甘くはなかった」と本人談で語られる様にしばらくはボツ地獄と挫折という苦節の日々を経験しつつ腕を磨く。 1988年、講談社『モーニング』の第18回ちばてつや賞一般部門入選。入選作品は『3年目のさよなら』でこの作品からペンネームを使用、すがともこから現在のともちに変更したこともあって再デビューと位置づけられる。ちなみにこの時のヤング部門優秀新人賞は岡田和人である。 講談社の少女誌『mimi』(廃刊)で数本の短編読み切りを発表したのち、1990年代はスコラの『コミックバーガー』(のち『コミックバーズ』と改名)を活動の舞台とし、代表作『だいすき!』、『愛をあげよう』などが生まれた。 順調な活動を続けていたものの『バーガー』誌発行元であるスコラが倒産し、後を受けたソニー・マガジンズも短期間で撤退。幻冬舎による編集方針の大幅変更などに翻弄され活動が中断。2003年より芳文社の4コマ誌に移って執筆活動を再開している。 現在は二児の母であり、単行本や自身のサイトに育児漫画を書き下ろす事が多い。連載中の4コマ漫画『しあわせねっ』においても日々の育児を題材とした内容が中心となっている。 2016年、藤澤ともち名義で応募した児童文学作『とうちゃんと僕、そしてユーレイババちゃん』が第18回ちゅうでん児童文学賞大賞を受賞。翌2017年に『とうちゃんとユーレイババちゃん』と改題の上、講談社から出版された。なお本作では挿画は本人ではなく佐藤真紀子が担当している。 作品リスト. ともち 名義. シリーズ別・掲載順
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永井豪
永井 豪(ながい ごう、本名:永井 潔(ながい きよし)、1945年9月6日 - )は、日本の漫画家。石川県輪島市出身。血液型はO型。 石ノ森章太郎のアシスタントを経て、1967年『目明しポリ吉』でデビュー。代表作に『ハレンチ学園』『あばしり一家』『デビルマン』『マジンガーZ』『キューティーハニー』など。少年漫画の世界に性やバイオレンスの表現を大胆に取り入れ、後続の漫画家に大きな影響を与えた。ナンセンスなギャグマンガからシリアスな劇画までシームレスにこなすという点でも異色の存在である。また1972年の『デビルマン』以降、多数のテレビアニメ作品に共同企画者・原作者として関わっている。1980年、『凄ノ王』により第4回講談社漫画賞を受賞した。 1996年より1999年まで日本SF作家クラブ会長、2005年より大阪芸術大学キャラクター造形学科教授を務める。また、2009年より手塚治虫文化賞選考委員を務める。2023年4月時点で、日本漫画家協会理事。 現存する四大週刊少年誌(週刊少年ジャンプ、週刊少年マガジン、週刊少年サンデー、週刊少年チャンピオン)及び、休刊した週刊少年誌4誌(週刊ぼくらマガジン、週刊少年キング、週刊少年宝島、週刊少年アクション)全てに連載経験を持つ唯一の漫画家でもある。 経歴. デビュー. 石川県輪島市に生まれ、1952年から東京都豊島区に住む。豊島区立大塚台小学校(現 豊島区立朋有小学校)から西巣鴨中学校を経て東京都立板橋高等学校卒業。幼少期に手塚治虫の『ロストワールド』を読んだことをきっかけに漫画家を志すようになる。 高校卒業後、早稲田ゼミ(予備校)に通っていたが、3週間止まらない下痢に悩まされて大腸癌と思い込み、自分がこの世に生きていた証として漫画作品を残そうと決意。のち大腸カタルに過ぎなかったことが判明して難なく完治したが、このときの決意をきっかけとして当初予定していた大学進学を断念した上で3ヶ月の浪人生活に終止符を打つ。その後1年半出版社へ原稿の持ち込みをするが掲載にいたらず、編集者から漫画家の先生に見てもらうよう勧められる。手塚プロダクションに赴くも手塚に会えず落胆していたが、石森章太郎(後に「石ノ森章太郎」)に原稿を見てもらうチャンスに恵まれ、すぐに石森の下で働くことになる。石森が持っていたSFテイストやキャラクターメイキングの方法論は非常に永井に近いものだったようで、石森も自分が世に出た時期が早いだけで「同じ感性の中でものを探している」と彼を評している。この時期の石森アシスタントには野口竜、桜多吾作がいた。 永井自身はストーリー漫画、特にSF志望だったが、石森のアシスタントが多忙を極めストーリー漫画を描いている時間がなく、デビューの早道として比較的ページ数の少ないギャグ作品に挑み、アシスタント業の傍ら持ち込みを続けていた。1967年、テレビアニメ『ちびっこ怪獣ヤダモン』(ピープロ)漫画化企画を担当する事となり、この腕慣らしとしてギャグ短編「目明しポリ吉」を『ぼくら』にてデビュー、続いて『〜ヤダモン』の連載とともにギャグ漫画をコンスタントに描く。 この頃、『週刊少年マガジン』の依頼で執筆した『じん太郎三度笠』が、5週連載となり高い人気を獲得するが、これに赤塚不二夫が反発して編集長に抗議した結果、内定していた正式連載の企画が没となってしまう。さらに赤塚は永井を呼び出し、「ギャグの主人公は凄く健全でなきゃいけないのに、何で人殺すのやるんだ」と言って怒ったという。しかし、この経験から「赤塚先生が描かないようなものを突き詰めて描けばよい」と、永井はスラップスティック、エロ・グロ・ナンセンスを多分に織り込んだギャグ・コメディ作品を描き続けることを決意する。その後、デビュー間もない永井の才能を早くから高く評価していた秋田書店の名物編集者で当時『冒険王』の編集長であった壁村耐三は永井に働きかけ、『まんが王』にて初のオリジナル連載である『馬子っこきん太』を掲載する。この時に壁村がアシスタントとして紹介した青年が後に永井の右腕となる蛭田充であった。 転機. デビューの翌年(1968年)、新創刊された『少年ジャンプ』(後の『週刊少年ジャンプ』)に『ハレンチ学園』を発表。奇妙な扮装に身を包んだ教師たちとイタズラを愛する生徒たちの破天荒な日常を描いたこの作品は、本宮ひろ志作品と両輪で同誌を牽引した。ただしこの作品のヒットによりさらにギャグ漫画のイメージが定着し、仕事の依頼もギャグものが多かったという。 この中で当時の小学生を中心とした流行風俗「スカートめくり」を扱った「モーレツごっこの巻」が、サブカルチャー一般に対し行われていたPTAの抗議活動に取り上げられ、子供に悪影響を及ぼすセクシュアルな作品の代表格として糾弾の対象となる。新聞紙上・テレビのワイドショーなどで名指しつつ、時に永井自身を目の前にして、本人曰く「人格否定まで」されるほどの糾弾活動だったという。ちなみに本人が出演していた番組収録が終わると、批判していたPTAの女性陣が、若くて童顔だった永井を見て印象が変わり、サインを貰いに来たという。 しかしこのバッシングが結果的に、永井が時代を掴むきっかけとなる。『ハレンチ学園』で登場人物全てが戦争で殺し合う描写に始まり、『あばしり一家』(1969年 - 1973年)、『ガクエン退屈男』(1970年)などこの時期の発表作品の中で、その糾弾活動そのものをメタフィクション的にパロディ化、権力が奮う「正義」とは自由に生きる個人を押し潰すものとした上で、権力側も抵抗する個人の側も互いに奮うのは暴力だけという、永井作品の根幹を成す地獄絵図を描き出すことになる。 さらにこの時期、シリアスなストーリー作品も手がけ始め、差別とそれに対する復讐を描く『鬼-2889年の反乱-』(1970年)、アイデンティティ崩壊の危機を描く『くずれる』(1971年)、親と子の絆が崩壊する『ススムちゃん大ショック』(1971年)など、いずれも人間自身の存在意義を問い直すようなSFを発表した。その一方、常識を反転させて笑いに結ぶ永井ギャグ漫画としては最も先鋭化したものの一つ『オモライくん』(1972年)も描いている。それとともにSF作家の間で注目され、1970年のSF大会で筒井康隆を初代会長に永井豪ファンクラブが設立される。 『デビルマン』 - アニメ企画者へ. 永井の更なる飛躍となったのは、東映動画とNET(後のテレビ朝日)にてアニメ化された代表作『デビルマン』(1972年 - )である。前年発表の『魔王ダンテ』を基にした作品との依頼だった。この作品では「神」が必ずしも「絶対善」ではないという着想が描かれていたが、アニメ『デビルマン』は、悪魔と合体しながら苦悩しつつ人間であろうとする斬新な設定の主人公をベースに、ヒーロー作品としてリメイクすることを依頼され、企画したという。ただし、当時『魔王ダンテ』の掲載誌編集長であった内田勝の自著などによると、そもそもヒーローコミックとして位置付けていたという。 アニメと同時に漫画連載(『週刊少年マガジン』)されたこの作品では、悪魔による侵略・種族の存続を賭けたヒーローの戦いを描くゴシックホラー調から、連載中期以降は人間同士の信頼感という常識が崩れていく展開へと移っていく。同じ人間の手によるヒロイン殺害という、『ハレンチ学園』の時すら避けられていた衝撃的な結末をもって、後にSFマンガのスタンダードと数えられる作品となった。 以後、永井を中心としたダイナミックプロの企画陣は、東映動画とのタッグで本格的な操縦者搭乗型ロボット作品のパイオニア『マジンガーZ』(1972年 - )、妖怪モチーフの『ドロロンえん魔くん』(1973年 - )、戦うヒロインの草分け『キューティーハニー』(1973年 - )、初の合体ロボット作品『ゲッターロボ』(1974年 - 、石川賢と共作)などの作品群を生み出し、ヒットキャラクターメーカーとして1970年代を駆け抜ける。 ことに『マジンガーZ』では玩具メーカーバンダイ(ポピー)と出会い、玩具ブランド「超合金」をはじめとした商品展開と、マンガ・アニメ・グラフ記事など連動した講談社『テレビマガジン』の誌上企画として展開され、この分野の推進役としても重要な役割を果たした。ここで毎回の企画記事を構成していたのが、ダイナミックプロとともにアニメ企画・版権管理会社として設立されたダイナミック企画である。無敵の「超合金」や無尽蔵な夢の「光子力エネルギー」などは科学礼賛・成長幻想の産物だが、漫画もアニメも作品自体はそれに冷や水を浴びせるかのような描写がたびたびなされ、その超人的なパワーを敵を倒すために使うか、自分の欲望のために使うかは主人公の自由という、本質的には正義も悪も奮うのは暴力という一貫したテーマが見て取れる。 『バイオレンスジャック』以後. 永井とダイナミックプロのアニメが次々と放送される中、永井自身の漫画作品はむしろ、それとは全く違う展開をしていた。1973年には、後に掲載雑誌を変えながら2005年まで発表され続けている、地震で崩壊した世界が再生の道を探りながら混沌の暴力の渦中にある『バイオレンスジャック』、それとは全く逆に個人の内面が現実世界に影響を与え、鬼の世界を現出させる『手天童子』などの伝奇SFを描く。 その間にギャグ漫画としても、『オモライくん』の学園漫画版として始まりながら、エロチックなギャグと悪乗りで暴走した挙句『デビルマン』のような人類滅亡をまたも起こす『イヤハヤ南友』(1974年 - )や、体罰が日常茶飯事な学園で「顔を隠して体隠さず」とマスクとマフラー以外は全裸という常軌を逸した究極のヒロインが戦う『けっこう仮面』(1974年 - )、男子生徒が女子として学園生活を送って騒ぎを起こす『おいら女蛮』(1974年 - )など、常識をあっけらかんと覆す世界も展開した。 1979年には青年マンガ誌の誕生とともに、得意のエロチックギャグ作品『花平バズーカ』(原作:小池一夫)をいち早く連載する。少年誌では学園漫画という舞台で、初恋の相手がレイプという屈辱を受ける性表現の限界に挑みながら、一個人の内的世界が現実を破壊し尽くしてしまうという超能力漫画『凄ノ王』を発表する。この『凄ノ王』により1980年、講談社漫画賞少年部門を受賞する。しかしこの作品は、主人公の怒りと悲しみが世界を破壊したところで唐突に終了する。永井はそれをあらかじめ決めていた流れと語ったが、読者の間では必ずしもそう受け止めるばかりではなく、賛否両論であった。 このように読者の判断が賛否に分かれる例は、『デビルマン』とつながった『バイオレンスジャック』のラストや、講談社の企画主導で一種のパラレルワールドとして始まりながら、永井の悪魔モチーフ作品を大きく纏め上げた『デビルマンレディー』の展開でも繰り返され、自身の言うように「先を決めずに」連載しながらその後の展開を読者の反応とともに創っていく、永井の作風から生まれる特徴であった。 『プロレスの星 アステカイザー』(1976年)で関わりを持った新日本プロレスとは、1980年代後半にビッグバン・ベイダーのコスチュームデザイン、獣神サンダー・ライガーなどのタイアップを行った。 世紀末から21世紀. 1997年銀座にて「永井豪原画展」、続く1998年「永井豪と世紀末展」という企画展が催され、それまでの漫画家・アニメ企画者としての永井の業績が初めてまとまった形で再評価された。 またそれ以後、その卓抜したキャラクターを他作家の筆により展開させた『ネオデビルマン』(複数作家競作)、『AMON デビルマン黙示録』(衣谷遊)、『キューティーハニー a GO GO!』(伊藤伸平・庵野秀明)、『マジンガーエンジェル』(新名昭彦)などのプロデュース作品も生まれている。特に『ダイナミックヒーローズ』(越智一裕)は1970年代の永井ヒーロー作品があえて東映動画のタッチで描かれるという試みがなされており、往年の作品の影響力を窺わせた。 永井自身は21世紀に入って還暦を迎えても、少年誌から青年誌と広く作品を発表、それまでに描いてきたホラー調作品やギャグ漫画、ロボット作品などの他、『伊達政宗』『北条早雲』『前田利家』といった戦国時代に実在した人物の漫画化に挑むなど、旺盛な漫画家活動を続けている。 2010年5月からは『週刊漫画ゴラク』にて『デビルマン』執筆時のエピソードを多少の脚色を込めて描く『激マン!』の連載を開始、一時の休載をはさみ、2012年に完結した。基本的に永井は自画像をギャグタッチで描いており、自分自身をシリアスタッチの漫画に描く事には抵抗があったが、編集部より「不動明のようなハンサムに描いてくれ」と言われて承諾した。 2009年、故郷の輪島市に「永井豪記念館」が開館。当地に存在する「いしかわ景観総合条例」そのほか関係条例への適合が図られた町屋風の外観となっているが、中へ入ると雰囲気がガラッと変わり永井豪ワールド全開で来場者を迎え、毎年開館記念日には記念イベントを行っている。 2012年3月10日より、のと鉄道のNT211号車に永井キャラクターが描かれたラッピング車両が運行を開始した。3年間の運行予定だったが、それ以降も運行は継続しており、永井豪記念館の宣伝も兼ねている。 2016年、第25回日本映画批評家大賞・アニメ部門ダイヤモンド大賞を受賞する。 2018年、永井執筆の全作品が第47回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞する。 2018年から2019年にかけて「画業50年”突破”記念 永井GO展」が、上野の森美術館、大阪文化館・天保山、石川県立歴史博物館などで開かれた。 作風. 永井は一般に「手塚以後」といわれる戦後期に、新聞漫画、書店・貸本店作品といった様々な形態の漫画作品を読者として経験した上で送り手となった最初の世代の漫画家である。例えば自身も影響を受けたと語るように、手塚的なディズニーの影響下にある文法とともに、白土三平的な筋肉を持ち血の出るリアリティを持った形式も等価に受け取っている。永井のデビュー当時にあった他の漫画文法と比較すると、永井のタッチはリアルとギャグ両方の要素を持った独特のデフォルメである。また貸本・赤本時代の、単行本をまとめて「読ませる」タイプの作家とは異なり、主に週刊連載という形式で「引っ張る」作風をメインとしている。 コマ割りが大きく1ページ内のコマ数が少なく、コマ枠も登場人物も線が太い。時にはセリフや擬音ばかりか、登場人物までもがコマからはみ出す。1コマが見開き2ページにも及ぶこともある。ストーリー展開は速く、セリフも分かりやすく明快、メカや背景もリアルに描かれている。それでいて劇画ではない。こういった生産性を上げつつ画面を格好良く見せる手法は石ノ森のアシスタント時代に培われたとされ、永井が一般的にしたともいえる。このような作風に高橋留美子は大いに影響を受けたと後に述べている。 また、永井はギャグ漫画から始めたせいか、シビアなストーリーの途中に、ユニークなキャラクター性を持った登場人物の行動や発言など、主人公すら巻き込んでしまうギャグのシーンを入れてしまうということを、初めて完成された形で持ち込んだ。また、逆にギャグ漫画を基調としながらもアクション的要素を織り込む初期の永井の作風は70年代の『けっこう仮面』などにも継承される一方、赤塚不二夫顔負けの純粋ギャグ漫画も短編を中心に少なくなく、長尺では『オモライくん』が存在する。このように、ギャグ、シリアスそれぞれを突き詰めつつも、混合化も並行してやってのけた作家は、少なくとも永井以前には存在しなかった。 昭和40年代に漫画の書き方として、「キャラクターを作り上げてそれが動き出してストーリーが本格展開する」という概念で説明し、それで自作の展開を説明した。これは一般ファンに向けて明快に語られたものとしてはおそらく初めてであろう。 多作性. また一時期の永井は非常に多作であり、さすがに5週で挫折し4本に減らしたものの、週刊連載を5本こなしていた時期もあった。これは永井自身、手塚治虫も石ノ森章太郎も成し遂げていない記録かもしれない、としている。『デビルマン』に重きを置き仕事量を減らした時期でも、月産400-500ページをこなしていた。 筆の速さはやはり多作であった石ノ森章太郎のアシスタント時代に養われたものであるようで、限界まで仕事を受けてしまうことについては、やはり石ノ森の「来た仕事を断らないのがプロだ」と言う矜持の影響と、7歳も年上の師匠に負けていられない、と言う思いがあったと言う。 だがこれだけ仕事をこなしても経費がかさみ、永井自身の収入は恐らく同年齢のサラリーマンよりも低かったとしている。一番の問題は人件費で、1972年頃のダイナミックプロには、マネージャー3名、経理2名、アシスタント15名がおり、さらに漫画家デビューしたアシスタントのアシスタントまで出入りしていたという。永井は漫画家で儲けようと思ったら小規模にコツコツこなした方が良いとしている。 70歳を迎えた2015年の時点では連載3本はつらくなり、2本に減らしている。 作品リスト. 漫画作品. これらの他、短編が多数存在する。 アニメ作品. その他. これ以外に1990年代末期に制作された「デビルマンレディー」のテレビ放映を契機として、「ゲッターロボ・シリーズ」や「マジンガー・シリーズ」など漫画のアニメ化や、大人が見ても耐えうるOVA作品の制作も順次行われている。 実写作品. テレビドラマ・実写ビデオ等. 他 アニメ作品の特徴. 1970年代から1980年代にかけての永井豪原作のアニメ作品の多くは、既に発表された漫画作品をアニメ化したものではない。まず、テレビアニメの企画が最初にあって、アニメ制作会社などからの依頼を受けた永井がストーリーや設定を考案し、原作者の役割を果たした。 永井の作品のアニメは、明らかにロボットものを含めSF作品が多い。それらは子供向け作品であってもセクシュアルさや過激なバイオレンスの要素を充分に含んだものであり、若年層の抱く欲求を空想科学作品というオブラート付きで満たすものだった。『マジンガーZ』が当時スペインでの最高視聴率80%を、『UFOロボ グレンダイザー』が、フランスで放送された際には最高視聴率100%を記録した、という逸話もあるほど、当時日本で放映されたテレビアニメ作品ですら、諸外国にとっては新鮮で画期的で、かつセンセーショナルであった。 東映自体の企画なのか、永井やダイナミック・プロ側の発想なのかは不明ではあるが、映画版のみの特別編『マジンガーZ対デビルマン』『グレートマジンガー対ゲッターロボ』などといった一連の諸作品も、当時の子供心をくすぐる企画であった。こういった、異なった番組の主人公が同じドラマのストーリーの中でからむ、という発想は手塚治虫ゆずりであり、それ以上に自作のキャラクターを自在に弄ぶスターシステムは彼の売りとなった。 ダイナミックプロ. 永井の率いる漫画プロダクションが、1968年設立の株式会社ダイナミック・プロダクション(ダイナミックプロ)である。それまで漫画家による製作組織は、個人事業主である漫画家が外注としてのアシスタントを雇う方式や、徒弟制度としての師匠と弟子の関係のものが協力し合って製作する方式が一般的であった。しかし、ダイナミックプロでは一般の会社と同じように弟子の漫画家も社員として対等に扱い、雑誌社とのマネジメントも行って社員に自らの作品を発表するチャンスを与えるという、当時としては画期的なシステムであった。そのため、ダイナミックプロからは数多くの優れた漫画家が輩出される事になった。時期や作品により永井とダイナミックプロとの距離感は様々であるが、初期においては永井自身の志向で、最初の読者であり、作家性に激しく影響を与え合うプロ作家集団であり、アシスタントもするという位置づけだった。また、作品によっては永井名でありつつも、かなりシステマティックに互いの得意領分を担当しあいながら作られたものもある。極端な例では、「幻六郎」というプロ内の特定ユニットとしての集団ペンネームを用いた場合もある。 実際には、漫画家だけでなく文筆家としての作家もダイナミックプロには所属しており、例えば永井の実兄である永井泰宇(高円寺博)や、永井豪ファンクラブからプロとなった団龍彦も漫画原作者・作家としてダイナミックプロの一翼を担ってきた。 永井の多くの作品に「とダイナミックプロ」と付けられているのは、彼らプロ集団が全体として企画を形作り、作品を生み出す作家表現へと収斂してきたことを意味する。ただ、その関わり方としては、着想の1アイデアから場合によっては「原作」やペン入れ、通常のアシスタントなど多岐に渡り、一つのメソッドに基づいたものがあるというわけではない。
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永久保貴一
永久保 貴一(ながくぼ たかかず、1960年6月22日 - )は、日本の漫画家、漫画原作者。神奈川県横浜市出身。 1984年、『宇宙船別冊 大冒険』(朝日ソノラマ)に掲載の「貸出しヒーロー レンタマン」でデビュー。以後、『ハロウィン』(朝日ソノラマ)や『サスペリア』『ミステリーボニータ』(秋田書店)などに作品を発表。代表作は『カルラ舞う!』シリーズ。
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中崎タツヤ
中崎 タツヤ(なかざき タツヤ、1955年8月11日 - )は、日本の漫画家。愛媛県西予市生まれ、愛知県育ち。名古屋市立工芸高等学校卒業。 概要. 1978年、『無題』(『週刊漫画TIMES』)でデビュー。代表作に『身から出た鯖』『じみへん』など。いわゆる不条理漫画ブームの頃に登場したが、逆に条理を徹底的に詰めるスタイルを好み、登場人物が議論したり自問自答したりする描写が多い。代表作の『じみへん』というタイトルはジミ・ヘンドリックスの通称から取ったもの。 作品にスクリーントーンをほとんど使用せず、使用した際にコマ枠に「トーン初使用」と走り書きをしたこともある。 1992年、『問題サラリーMAN』で第38回文藝春秋漫画賞受賞。また、TBS系の単発特別番組枠「THE・プレゼンター」で『中崎タツヤスーパー ギャグシアター』として、作品の一部がオムニバス形式でアニメ化された。その際に、作者本人も後ろ姿だけではあるが登場した。キャストは三宅裕司や小倉久寛、劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)が出演。ビデオ化もされている。 競輪が趣味と公言しており、作中人物の苗字に競輪選手のもの(吉岡、神山など)が使われることがある。スポーツ観戦も趣味で、日本プロサッカーリーグの湘南ベルマーレのファンである。 1995年に夫婦でお遍路を経験。この体験はその後の作品でも時折とりあげられている。 ミニマリストという語が生まれるはるか前から同様の生活スタイルを取っている。不要になるとすぐに物を捨てる性格で、仕事場にも物がほとんどない。そのためすぐに引っ越しができ、頻繁に引っ越すことでも知られる。 2000年より、『ビッグコミックスピリッツ』の公式サイトにて「中崎タツヤ日記」を連載していた。他の作家の日記更新が滞る中で、中崎の日記は更新が頻繁で長期の連載となった。しかし、2009年9月の日記のあとは、2010年に編集担当者が『じみへん』1000回記念プレゼントのお知らせを投稿したのが最後の日記となった。 2015年8月、還暦を機に断筆し、『じみへん』の連載も終了。前述した性格のため、執筆道具も廃棄する予定とのこと。 2016年、『じみへん』が第20回手塚治虫文化賞・短編賞を受賞。 影響. 漫画家の浜岡賢次は中崎のギャグにおける間と作風を理想に挙げている。作品自体は少年漫画ということあり直接似た点は少ないが、単行本のフィルアップ4コマなどでオマージュが捧げられている。
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永田トマト
永田 トマト(ながた トマト、1959年 - )は日本の漫画家。静岡県静岡市出身。 デビュー作は『ガロ』(青林堂)の『街をきれいに』(1978年12月号、永田真人名義)。 その後、『ガロ』や『劇画ジャンプ』(サン出版)などに読切、また月刊グラビア誌であるDon't(サン出版)に解説マンガを掲載していたが、『モーニング』(講談社)にも短編作品が掲載されていた事がある。 代表作である『YOUNG BLOOD』は1987年より『ヤングサンデー』(小学館)にて連載された作品。 現在も『漫画ゴラク』(日本文芸社)などで随時活躍するほか、パチスロマンガ誌などに永田眞人名義で読切を掲載している。
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中津賢也
中津 賢也(なかつ けんじ)は、日本の漫画家。「ふぁいてぃんぐ清掃人」で第11回新人コミック大賞を受賞しデビュー。代表作に『黄門★じごく変』『徳川生徒会』、『桃色サバス』など。 概要. 初期の作品は単行本2巻で連載を終了する事が多く、「2巻漫画家」「2巻作家」とも呼ばれていた。このことは本人や友人の漫画家島本和彦もネタにしている。また、作品の特徴としてモブキャラを非人間的キャラクターとして描くという部分がある。 自らは公言していないが細野不二彦のアシスタント出身。この事は文庫版『桃色サバス』発刊の際、ある巻末に細野不二彦があと書き漫画を書き下ろしで寄稿しており、その記述がある。細野自身は「最低2年ぐらいは頑張ってね」と声を掛けていたがすぐに中津の連載が決定しわずか数ヶ月でアシスタントを辞めている。 妻は漫画家の浜田翔子、上條淳士は高校の先輩。
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ながてゆか
ながて ゆか(7月16日 - )は、日本の漫画家。女性。愛知県出身。茨城大学教育学部美術科卒業。「凶刃」で講談社新人漫画賞に入選し、デビュー。代表作は『週刊少年マガジン』(講談社)に連載された「TENKAFUBU 信長」。劇画調の画風が特徴。 2015年3月連載開始の『ギフト±』よりナガテ ユカのペンネームを使用。以降、作風によってペンネームを使い分けるとしている。 略歴. 大学在学中には約半年間、漫画家のアシスタントを務めていた。大学卒業直後に連載開始した「TENKAFUBU 信長」は、結果的に約2年間の連載となった。次の連載作品「PEAK」は短期で終了。 その後スランプに陥り、機会があって2003年からニューヨークに留学した。現地での漫画家活動のためのビザの取得が困難だったため、2006年に帰国。再び日本での漫画家活動を再開し、『週刊コミックバンチ』にて「北斗の拳」のトキを主人公にしたスピンオフ作品「銀の聖者 北斗の拳 トキ外伝」(原案:武論尊・原哲夫)の連載を始めた。
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中西やすひろ (漫画家)
中西 やすひろ(なかにし やすひろ、1957年4月13日 - )は、日本の漫画家。 脚本家の中西やすひろとは別人。 人物. 福岡県福岡市出身。本名、中西泰博。武蔵野美術大学卒業。 『僕の彼女はスーパービューティー』でデビュー。ハーレムものに近いラブコメディを描くのを得意とする。成年漫画スレスレの性描写を盛り込ませた作品が多いが、2004年の『幸せレストラン』以降、料理をメインテーマに据えた作品を発表している。代表作の『Oh!透明人間』は、2010年と2014年に実写映画(オリジナルビデオ)化された。 高校生の頃「りぼん」に感化され、少女漫画家を志す。恋愛漫画を描くつもりだったが、編集部から「透明人間もの」を提示され、更にお色気路線で行くことになった。 こうして始まった『Oh!透明人間』(1982年 - )は読者アンケートでは常時1位となり、月マガの表紙も度々飾った。月マガ初期の功労者的存在でもあった。『Oh!透明人間』がこの時代の金字塔マンガになった為、お色気ラブコメ漫画の巨匠と称されることがある。掲載誌の月刊少年マガジンは連載開始時の17万部が、5年後に120万部と大幅に部数を伸ばし、編集長は「透明人間の貢献が大」と述べた。しかし、過労で体調を崩し連載は中止となってしまった。 月刊少年マガジン創刊40周年記念特別企画(2017年8月号)として中西の『Oh!透明人間』と上村純子の『いけない!ルナ先生』のコラボ読み切り漫画が掲載され、大きな反響を呼んだ。 作品リスト. 漫画作品. 第1弾 坂本冬美物語 第2弾 水森かおり物語 第3弾 山内惠介物語
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永野あかね
永野 あかね(ながの あかね、1969年2月11日 - )は、日本の漫画家。女性。東京都出身、武蔵野美術短期大学卒業。血液型はA型。 来歴. 1987年、ラポート社のファンロード誌でデビュー。1988年、『サティにぱにっく』が第40回週刊少年マガジン新人漫画賞で佳作、『トラブルTIMEトラベル』が第41回同漫画賞で佳作を受賞。講談社の『少年マガジンスペシャル』で『猫でごめん!』を初連載。 少年向け漫画から、次第に青年漫画に活動の場を移している。
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中原れい
中原 れい(なかはら れい、1964年3月17日 - )は、日本の漫画家、メカニックデザイナー、演出家。東京都出身。 プロデビューは模型雑誌「デュアルマガジン」の漫画「デロイアナナちゃん」から。当時はあむろ・れいというペンネームだった。 稀に絵コンテを書くこともある。
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流水凜子
流水 凜子(ながみ りんこ、1962年4月17日 - )は、日本の漫画家。女性。東京都練馬区出身・在住。血液型O型。身長167cm、靴のサイズ25cm。多摩美術大学美術学部絵画学科日本画専攻卒業。趣味は、宝石研磨・鳥カメ昆虫飼育など。 経歴・人物. 1983年、『魍魎伝説』(廣済堂)で「柳野みずき」名義でデビュー、後に「流水凜子」に改名しホラー漫画を主に活動。代表作に『椰』『インドな日々』『インド夫婦茶碗』など。 バックパッカーとしてインドを旅行していた頃、バラナシの安宿のレストランのマネージャーとして出稼ぎで働いていたクーダトディ・サッシーと出会い、1995年に結婚。長男・長女の2児を儲ける。現在はホラーを描きつつもバックパッカー時代のインドでの経験、また国際結婚や育児を題材としたエッセイ漫画を主として執筆。これらの作品を描く際のペンネームは、ひらがな表記の「流水りんこ」である。 地元は練馬区練馬で豊島園駅がある。姉が1人おり、自伝漫画に母と共によく登場。母は集団疎開経験者で新しモノ好き。「戦争が終わっていい時代になったわね〜」が口癖。父(1993年他界)はサラリーマンで、芸術が趣味。 サッシーは南インド・ケーララ州のアダカプトゥール村で10人兄弟(そのうち4人は夭折)の末子として誕生。その時点で長兄は結婚しており、同い年の甥がいる。流水家に婿入りする形で来日し、日本語を流暢に話すがなぜかオネエ口調。現在は練馬区内で南インド料理店「ケララバワン」を経営しており、漫画を読んで店を訪れるファンも多いという。因みに、店名は「ケララの家」という意味である。 流水家ではパナマボウシインコ(2015年に42歳で他界)、インドホシガメ、ビルマホシガメ2頭、ニホンヤモリを飼育している。 なお、「恐怖体験」以外の過去の「流水凜子」名義作品は現在は絶版。但し、『輪廻男(リンネマン)』と『斬る!!』については「流水りんこ」名義に変更して文庫版が現在刊行されている。 少年画報社『MAYファミリア』が2006年9月号(発売:8月)をラストに休刊、連載「りんこちゃんハーイ!」が中断(単行本未収録)となった。また宙出版でのハーレクイン・コミックス化でも年2回ほど執筆している。 朝日ソノラマ『ほんとにあった笑っちゃう話』が会社再編により2007年10月号(隔月誌・奇数月7日)をもって休刊。連載『働く!!インド人』は、出版権が引き継がれた朝日新聞出版の不定期発行・週刊朝日増刊『ふぁみドラ』『ほんとにあった爆家族の話』に続編が掲載され、2009年3月に単行本としてまとまった。なお、『ほんとにあった爆家族の話』には、引き続き『インドな日々』などのエッセイが掲載されている。 ブリティッシュ・ロックが好きで、特に元ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズについては「殴り倒されたい」と言う程の熱狂的ファン。ライブに足を運んだ様子が漫画として単行本に記載されている。
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西山優里子
西山 優里子(にしやま ゆりこ、1966年9月30日 - )は、日本の漫画家。女性。 作品にストリートバスケを題材にした『Harlem Beat』がある。 来歴. フランス・パリ生まれ。姉と弟がおり、3人姉弟の次女。大使館に勤める父親の仕事の関係で少女時代の大半を日本国外で過ごす。8歳の時はラオス王国のヴィエンチャンに家族と共に住んでいた。当時は冷戦の時代で、サイゴン陥落が起きるなど東南アジアが東西に分かれて揺れていた時期であった。そのような中、1975年に共産勢力であるパテート・ラーオがヴィエンチャンを制圧、同年夏、共産勢力から逃れるために家族ぐるみで日本に帰国する(なお父親は大使館員として在留邦人の保護などの仕事があるためこの時は帰らず、後に帰国している)。 小学生のころ、三原順や和田慎二、柴田昌弘らに憧れ、漠然と漫画家になりたいと思うようになる。中学2年生のときに再びフランスに引っ越して暮らした。桐朋女子高等学校を経て上智大学法学部国際関係法学科入学後、漫研で本格的に漫画を描き始め、その後アメリカにミニ留学をした。(後に日本に帰国して)在学中に『花とゆめ』(白泉社)に4回ほど投稿したがうまくいかなかった。そんな折、知り合いの原作者がついてくれるという話があり、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)にて読み切りでデビュー。 しかし連載には漕ぎ着けられず、大学卒業後は就職しOLになるが、大学時代の漫研の同人誌が『週刊少年マガジン』編集部の目に留まり、OLの仕事の傍ら漫画を執筆。1989年、「YUTA」で第43回週刊少年マガジン新人漫画賞に入選。その後漫画執筆に専念するため会社を退職。1991年、『マガジンSPECIAL』(講談社)にて「ノーハドル」で連載デビュー。以後、『週刊少年マガジン』などを中心に講談社の各漫画雑誌にて活動する。 2013年まで、講談社の女性向け漫画雑誌『Kiss』にて「家電の女」を、青年向け漫画雑誌『イブニング』にて「ジャポニカの歩き方」を連載。
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二ノ宮知子
二ノ宮 知子(にのみや ともこ、1969年5月25日 - )は、日本の漫画家。埼玉県秩父郡皆野町出身、埼玉県在住。女性。血液型はB型。 1989年、『外国ロマンDX』(角川書店)に掲載の「London ダウト・ボーイズ」でデビュー。以後、『ヤングロゼ』(角川書店)、『Kiss』(講談社)などに作品を発表する。作品にテレビドラマ化・アニメ化・映画化された「のだめカンタービレ」があり、2004年の第28回講談社漫画賞少女部門を受賞。 来歴・人物. 板金加工会社経営者の娘として生まれ育つ。 1989年、ASUKA増刊『外国ロマンDX』(角川書店)に掲載された『London ダウト・ボーイズ』でデビュー。20代後半に、インディーズバンド「イエローダック」の元ドラマーの戸田敦夫(通称POM。現在は二ノ宮姓)と結婚する。ポンと同じイカ天へ出場した元マサ子さんのあつ子、かなんと漫画アシスタントを行っていたことを著作内で紹介している。 2001年から連載したクラシック音楽を題材とする『のだめカンタービレ』が大ヒットし、2004年に第28回(平成16年度)講談社漫画賞の少女部門を受賞。2005年、同作がきっかけとなり、東京都交響楽団常任指揮者であるジェームズ・デプリーストと対談した。2006年に月9ドラマとして実写化され、最終的には映画も制作された。 2008年8月、妊娠8ヶ月と自身のブログで告白し、同年10月24日男児を出産した。2011年6月、妊娠5ヶ月と自身のブログで告白し、同年11月24日男児を出産した。 酒豪として知られ、自身の飲酒にまつわる体験(多くは失敗談)を描いた『平成よっぱらい研究所』の中で、自身のことを「まんが家兼よっぱらい研究所・所長」と書いていたことから、二ノ宮のことを「所長」と呼ぶファンもいる。 サッカー日本代表選手・小野伸二の大ファン。Jリーグ・浦和レッズファン。
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能條純一
能條 純一(のうじょう じゅんいち、本名同じ、1951年(昭和26年)1月22日 - )は、日本の漫画家。東京都墨田区出身。男性。血液型はB型。 概要. クールでシャープな描線、タッチが特徴的な絵柄の作家である。見せ所は、主に男の美学。 1971年(昭和46年)、『COM』の読者投稿コーナー「ぐら・こん」に『錯乱』で佳作入賞。漫画家としてのデビュー後、1980年代中期までは『漫画エロトピア』『エロトピアデラックス』(ワニマガジン社)を中心に、成人向けの劇画作品を発表していた。 1985年から『別冊近代麻雀』(竹書房)で連載した『哭きの竜』で注目され、1987年には『コミックモーニング』(講談社)で『翔丸』を連載。『近代麻雀オリジナル』連載の『プロ』で注目され、『コミックモーニング』で『アクター』を連載したかわぐちかいじと同じ経路でメジャー作家となった。 1996年(平成8年)、『月下の棋士』で第42回(平成8年度)小学館漫画賞受賞。 『月下の棋士』は2000年(平成12年)、森田剛主演によりテレビ朝日にてテレビドラマ化された。 『哭きの竜』や『翔丸』に代表される、クールな主人公が登場する乾いた雰囲気の作品から、『プリンス』『ずっこけ侍ミケランジロウ』などの軽妙な人情モノの両極な作風が特徴で、『月下の棋士』や『昭和天皇物語』はその中間の作風と言える。古屋兎丸が作画を担当した短編漫画『何を切る!?』では、『哭きの竜』のパロディーギャグ漫画の原作を担当した。 ネームは描かず、最初から原稿に描くので、ペン入れをした後でボツになることもあったという。
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野口賢
野口 賢(のぐち たかし)は、日本の漫画家。拓殖大学出身。 経歴・人物. 1980年代後半、巻来功士のアシスタントとして『ザ・グリーンアイズ』などを手伝う。 1991年、『週刊少年ジャンプ』増刊に掲載された『リエカ』でデビュー。 『柳生烈風剣連也』『竜童のシグ』『BE TAKUTO!!〜野蛮なれ〜』といった格闘漫画(バトル漫画)を『週刊少年ジャンプ』に連載するが、いずれも短期で打ち切りに遭う。その後、活動場所を青年誌へ移し、『大空港』(原作: 城アラキ)や『傭兵ピエール』(原作: 佐藤賢一)といった原作付きの漫画を執筆するようになる。 劇画に近い独特な絵柄と横からの構図の多用が特徴。
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野崎ふみこ
野崎 ふみこ(のざき ふみこ、1956年12月17日 - )は、漫画家。 代表作に『オリーブと3人ポパイ』など。1977年、「少女コミック」(小学館)でデビュー。
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野中英次
野中 英次(のなか えいじ、1965年2月21日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。男性。 経歴. 1989年に投稿した『SUPER BASEBALL CLUB』が『ヤングマガジン増刊黒ブタルーキー号』に読み切りで掲載されデビュー。翌1990年から1991年まで『ヤングマガジン海賊版』において同作品を連載する。5年のブランクを経て1996年から『ミスターマガジン』において『課長バカ一代』の連載を開始。2000年に同誌が休刊するまで掲載される長期連載となった。同時期に『モーニング』で『ドリーム職人』、『しゃぼてん』を発表している。『課長バカ一代』終了後、『週刊少年マガジン』に異動した担当編集に誘われ『魁!!クロマティ高校』の連載を開始し、同作品で2002年に第26回講談社漫画賞を受賞。アニメ化や実写映画化といった各種メディアミックスが展開されるヒット作となった。その後2006年から2008年にかけて『週刊少年マガジン』で『未来町内会』を連載する。並行して『イブニング』で『ハタキ』、『good!アフタヌーン』で『赤い空 白い海』を発表するが、いずれも途中で長期休載となり未完状態である。2009年から『週刊少年マガジン』で原作のみを担当する形で『だぶるじぇい』の連載を開始(作画は亜桜まる)。2011年には『クロマティ高校』以来のアニメ化を果たすが同年内に連載を終了している。『赤い空 白い海』の長期休載以降は長らく作品を発表していなかったが、2018年に『マガジンポケット』にて『魁!!クロマティ高校』の続編『魁!!クロマティ高校職員室』を原作担当(作画は井野壱番)として7年ぶりの連載を開始した。 特徴. ギャグ. シュールなギャグや「あるある話」を用いることが多い。また、画風を池上遼一の絵柄に似せているのも意図的なものであり、ギャグの1つである。なお池上は野中の絵柄が自分の作品に酷似している事については認識しており容認している。 「やる気のない漫画家」. 野中は自分の漫画に対し極端に無関心で、キャラクターにも愛着などないと言う態度を示している。これは自分自身もギャグの演出としていると見ることもでき、読者を逆に食ったような独特の魅力を放っている。以下に具体例を挙げる。 エピソード. Mr.Childrenのメンバーは『クロマティ高校』を読んでおり『別冊カドカワ』にて彼らが特集されたときに読切作品『果てしない闇の向こうに』が掲載された(ただし、彼らを直接描いたのではなくミスチルと北島三郎を勘違いしていたという内容)。その後、メンバーは感謝の意味を込め、野中にサイン色紙を送っている。 同じ『マガジン』の連載漫画家である塀内夏子は、キャラクターのファン投票の葉書を送った事がある。 高橋留美子の『うる星やつら』完全版の企画で、主人公ラムのイラストを描いた。完全版の帯で野中は「本気度を見てもらうために、あえて資料を見ずに描いた」と述べている。 野中が自身の絵柄をパロディ化していると知人やスタッフから聞かされた池上遼一は、「自分の亜流が出てくるということは、それだけ自分の作品が認知されて有名になったということなので嬉しかった」と雑誌のインタビューで語るなど、池上からは公認されており、池上は『魁!!クロマティ高校』に登場するメカ沢新一と北斗武士を自ら描いたパネルを野中に贈っている。 『課長バカ一代』と『魁クロマティ高校』は連載終了後に小説化されている。
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のなかみのる
のなか みのる(本名:野中実、1957年9月8日 - ) は、日本の漫画家、創造学園大学准教授。岩手県二戸郡一戸町小鳥谷出身。 略歴. テレビアニメや特撮番組のコミック化を多く手がけ、『電脳警察サイバーコップ』ではキャラクターデザイン初期検討案、コミカライズを担当している。
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野部利雄
野部 利雄(のべ としお、1957年1月18日 - )は、日本の漫画家。栃木県宇都宮市出身。和光大学卒。 1979年、第18回手塚賞佳作受賞(『花と嵐がいく』)。同期受賞者に北条司、藤原カムイ。 ラブコメ、ファンタジー、美少女SF、ボクシング漫画等の長編を好んで執筆する。代表作に『わたしの沖田くん』など。
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野間和子
野間 和子(のま かずこ、1941年 - 2018年)は、日本の精神科医。群馬県桐生市出身。 横浜市立大学医学部を卒業後、神奈川県立こども医療センターに勤める。1991年、野間メンタルヘルスクリニックを開業し、その院長となる。
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野間美由紀
野間 美由紀(のま みゆき、1960年12月4日 - 2020年5月2日)は、日本の漫画家。千葉県千葉市出身。 来歴. 千葉県立千葉南高等学校卒業。 1979年、18歳の時、『トライアングル・スクランブル』(『花とゆめ』19号)でデビュー。同年『ひっくりかえって恋をして』で、第4回アテナ大賞2席を受賞。当初は一般的な少女漫画を描いていたが、1983年から連作形式で描き始めた『パズルゲーム☆はいすくーる』ではミステリー漫画に移行し、少女漫画誌におけるミステリー作品のさきがけとなる。 日本推理作家協会、本格ミステリ作家クラブ会員。 2020年5月2日正午頃(JST)、虚血性心疾患のため長野県内の病院で死去。。
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のむらしんぼ
のむら しんぼ(1955年(昭和30年)9月24日 - 、本名:野村 伸(のむら しん))は、日本の漫画家。 北海道茅部郡南茅部町(現・函館市)出身。函館ラ・サール高校卒業。立教大学文学部仏文科中退。血液型はAB型。 略歴. 立教大学時代に初めて触れた青年漫画に衝撃を受けて漫画家を目指し、大学2年の時に漫画研究会に入る。大学3年生の時に似顔絵描きのアルバイトをしていた際に弘兼憲史に声をかけられ、アシスタントとなる。そして大学在学中の1979年(昭和54年)に『ケンカばんばん』(『コロコロコミック』)でデビュー。1980年(昭和55年)からは同誌で『とどろけ!一番』を連載する。なお、立教大学は本格的に漫画の世界に入ったため通わなくなり、5年間在籍した後中退している。コロコロコミックでの初仕事は『ウルトラ兄弟物語』の臨時アシスタントであった。 1985年(昭和60年)より『コロコロコミック』で『つるピカハゲ丸』の連載を開始する。元々同作は当時スランプに陥っていたのむらが、4コマ漫画を描かせたいという編集部の意向を汲み、漫画の基本である4コマからの再出発を試みた作品であった。1987年(昭和62年)には同作で小学館漫画賞児童部門を受賞、テレビアニメ化もされ、累計500万部のヒット作となった。これを機に1988年(昭和63年)に漫画制作会社「しんぼプロ」を設立。しかし同作終了後には、次作品が次々と短命に終わった事に加えて、立て続けに親戚の死が重なった等の不幸も重なり再びスランプに陥り、併せて2004年(平成16年)には離婚。数百万円もあった月収が数万円に転落し、豪遊生活が一転して借金漬けとなった。 家族から「他の漫画家を見習って素晴らしい作品を書く努力をしないのか」と叱咤され、児童漫画を描いていたが、安易に他作品からの演出やストーリー展開等の引用を繰り返した事に呆れられた上、仕事場に籠もる割合が増えて家族と接する時間が大幅に減少した事から、元妻は「マンガと心中したいんでしょう?」「その望み、叶えてあげます」との言葉を残して三人の子供を連れてのむらの下を去り、家族は崩壊したという。このエピソードは後に本人が後述の漫画『コロコロ創刊伝説』の中でも描いており、離婚以来長年家族とは絶縁状態となり音信不通だったが、第6話にて本作を読んだ娘から連絡があったことを明かしている。当時のエピソードが2016年8月29日に放送された『しくじり先生 俺みたいになるな!!3時間スペシャル』(テレビ朝日系)で紹介され、同番組HPにて、のむら本人の筆による描き下ろし4コマ漫画が期間限定で公開されている。 以降も『コロコロコミック』の系列誌を中心として作品を発表している。 2014年(平成26年)発売の『コロコロアニキ』に、『コロコロコミック』創刊の歴史に絡めて自身の漫画家人生を描いた漫画『コロコロ創刊伝説』が掲載されており、その中では近況や現在の凋落ぶりも自虐的に描写している。 人物. かなりのゲーム好きで、『ゲームラボ』のインタビューでは『オランダ妻は電気ウナギの夢を見るか?』など過去のマイナー作品の話をして記者に驚かれた。しかし、ジャレコから発売された『ハゲ丸』のゲーム版に自分が登場している事は知らなかったという。
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萩尾望都
萩尾 望都(はぎお もと、本名同じ、1949年5月12日 - )は、日本の漫画家。女性。女子美術大学客員教授、日本SF作家クラブ名誉会員、日本漫画家協会理事。 福岡県大牟田市生まれ。1969年に「ルルとミミ」でデビューする。1972年から『ポーの一族』を連載、1976年に同作および『11人いる!』により第21回小学館漫画賞を受賞した。同時期に連載された『トーマの心臓』も人気となり、少女漫画に革新をもたらし黄金時代を築いたとして、竹宮惠子や大島弓子、山岸凉子らと共にその生年から「花の24年組」と呼ばれた。 作品のジャンルはSF、ファンタジー、ミステリー、ラブコメディー、バレエもの、サスペンスものなど幅広い分野にわたる。1997年には『残酷な神が支配する』で第1回手塚治虫文化賞マンガ優秀賞、2006年には『バルバラ異界』で第27回日本SF大賞を受賞した。2011年には第40回日本漫画家協会賞・文部科学大臣賞を受賞。2012年春に少女漫画家では初となる紫綬褒章を受章した。2019年秋に女性漫画家では初となる文化功労者に選出された。2022年に日本人で7人目となるアイズナー賞「コミックの殿堂」を受賞、旭日中綬章を受章。 来歴. 出生 - 幼少期. 1949年、福岡県大牟田市白川町に生まれる。4人兄弟の次女(姉・妹・弟)。父は三井鉱山の関連会社の社員。「望都」は本名で、両親がそれぞれの思いを持って名付けられた。名前の由来には諸説ある。4歳の頃に熊本県荒尾市の父親の会社の社宅に引っ越して、小学校2年生の5月まではそちらで暮らしたのち、また大牟田市の社宅に戻る。 2歳頃から絵を描き、4歳で漫画や本を読み始めるが、教育熱心な両親により、漫画を読むことを禁止されていた。幼稚園では時間の許す限り絵を描き、小学校では3年生のころ、彼女の絵の才能を伸ばそうとした両親の勧めで絵の塾に通い油絵を学ぶ。小学校2年のときに学級文庫ができ、『ヘレンケラー物語』や『アルセーヌ・ルパン』、『青い鳥』、『不思議の国のアリス』などを夢中になって何度も読み、また図書館に入り浸りギリシャ神話や世界名作全集、児童向けのSFシリーズなどを読んでいた。さらに、親戚の本屋に遊びに行っては漫画を読み、模写していた。 中学 - 高校時代. 1962年、大牟田市立船津中学校に入学する。中学入学後、漫画を描く友人、原田千代子(後の漫画家・はらだ蘭)と知り合い、漫画を描くための知識や漫画家になるためには作品を投稿する必要があることを知り、2人で貸本雑誌などに投稿した。中学2年生のときに大阪府吹田市に引っ越すが、その後も原田との文通は続く。 高校は大阪府立吹田高等学校に入学する。高校2年生の終わり頃に手塚治虫の『新選組』に強く感銘を受け、本気で漫画家を志し、漫画雑誌への投稿を始める。 高校3年生のときに福岡県大牟田市小浜の社宅に引っ越す。校区があり福岡県立大牟田北高等学校に転校するが、競争が激しくなじめなかったと言う。原田千代子の紹介で漫画同人誌「キーロックス」に同人漫画家として参加する。「キーロックス」は福岡県立大牟田南高等学校の生徒3、4人および卒業生を合わせた8人くらいからなるグループで、肉筆回覧誌を作っていた。 デビュー前後. 高校卒業後、福岡市内の日本デザイナー学院ファッションデザイン科に入学し、服飾デザインを学ぶ。漫画の投稿は全部で10作ほど行い、そのうちの1作『ミニレディが恋をしたら』(ペンネームは「萩尾望東」)で『別冊マーガレット』(集英社)1968年5月号の「少女まんがスクール」にて金賞を受賞するが、入賞作は掲載されなかった。続く『青空と王子さま』は7月号で銀賞に落ちてしまい、萩尾は学校の冬休みに上京して出版社を訪問する計画をたてる。 休暇で上京した際に手塚プロのアシスタントをしていた原田千代子を訪問し、そこで初めて手塚治虫と出会う。また原田と岡田史子を訪ねた。同郷の漫画家、平田真貴子のつてで講談社の『なかよし』編集部に持ち込みをした。そこで「何か短い作品を」と言われ、忘れられないうちにと2週間で20数枚の作品を仕上げ提出。その作品『ルルとミミ』が『なかよし』夏休み増刊号に掲載されてデビューした。 専門学校の卒業を控えた頃、講談社の編集者に頼まれ、東京にいた竹宮惠子のアシスタントに一晩だけ赴き、上京して一緒に住まないかと誘われる。その後『なかよし』編集部からの『ビアンカ』(掲載は別誌)以外のボツが続くが、次の『ケーキ ケーキ ケーキ』で自分のスタンスの描きたいものを描く方針を決める。竹宮惠子より小学館の編集者を紹介すると言われ、ボツになった5、6作の原稿を竹宮に送る。1970年10月頃上京し、練馬区大泉で2年間の共同生活に入る(大泉サロン)。竹宮惠子と共同アパートで生活し、後に24年組と呼ばれることとなる漫画家たちと切磋琢磨(せっさたくま)の日々を送るが、このときに増山法恵から様々な文化的な知識を吸収する。その後、描きたいSFをテーマにした作品が採用されない時期が2年ほど続くが、竹宮に伴われ小学館へネームを持ち込んだ際に『少女コミック』編集者の山本順也に可能性を認められ、「自由にわがままに思い切り描かせたい」という方針のもと、本領を発揮するようになる。 1970年代. 1972年2月、『ポーの一族』シリーズ第1作「すきとおった銀の髪」が『別冊少女コミック』3月号に掲載され、以後5年間断続的に連載される。代表作『ポーの一族』は、「永遠にこどもであるこどもをかきたい」との発想から、石ノ森章太郎の『きりとばらとほしと』の吸血鬼の設定の一部をヒントに構想を思いついたものだが、長編連載をやるには早すぎると編集から「待った」がかかったため、1972年、「すきとおった銀の髪」などの短編を小出しに描き、そんなにやりたいのならとようやく編集から了解が出て、同年8月から翌1973年6月にかけて当初の構想であった3部作(「ポーの一族」、「メリーベルと銀のばら」、「小鳥の巣」)を連載した。 この時期のもうひとつの代表作『トーマの心臓』は、『悲しみの天使』というフランス映画を見に行ったところ、それがバッドエンドであったために萩尾は主人公に同情し、「救いのある話を」と着手したもので、1974年4月から連載を開始したが、初回の読者アンケートが最下位だったため、当時の編集長である飯田から打ち切りを宣告された。しかし、直後に単行本化された『ポーの一族』の初版3万部が3日で完売、『トーマの心臓』の評判も徐々に上がり、「もう少しで終わりになるから」と萩尾がかわしているうちに連載は33回まで続くこととなった。 その後、単行本の人気により編集部の強い要請を受けて1974年12月『ポーの一族』を「エヴァンズの遺書」で再開、1976年5月に「エディス」で完結したが、その間に『トーマの心臓』の暗いイメージを一掃するため長編ラブコメディー『この娘うります!』を連載するとともに、念願であったSF作品『11人いる!』を連載し、その後はレイ・ブラッドベリ原作シリーズ(後に作品集『ウは宇宙船のウ』として単行本化)、『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍原作)、『スター・レッド』と矢継ぎばやにSF作品を連載する。 1976年 『ポーの一族』、『11人いる!』で第21回小学館漫画賞を受賞、人気漫画家としての地位を確立する。 一方、1977年に定年になった父親を代表として会社「望都プロダクション」を設立した。しかし後に両親との不和が高じて大げんかとなり、2年後に会社をつぶす。 1980年代. 親との関係を見つめるため心理学を勉強し始め、内なる親から解き放たれるために、1980年に親殺しをテーマにした『メッシュ』の連載を開始。この時期のSF作品に『銀の三角』、『モザイク・ラセン』、『マージナル』などの長編作品のほか、「A-A'」、「X+Y」などの短編作品がある。 1982年の年末に、モスクワ郊外で乗っていた観光バスとトラックが正面衝突した事故で重傷を負う。 1985年ごろから舞台演劇やバレエへの関心が強まり、『半神』を野田秀樹と共作で脚本を手がけ舞台化した。一方、『フラワー・フェスティバル』、『青い鳥』、『海賊と姫君』などのバレエものを描き発表した。 『スター・レッド』(1980年)、『銀の三角』(1983年)、「X+Y」(1985年)で、それぞれ星雲賞コミック部門を受賞する。 1990年代. 80年代から引き続き『ローマへの道』や『感謝知らずの男』などのバレエものを描くとともに、1992年には厳格だった母親との対立を基にした『イグアナの娘』を発表し、さらに同年、サイコ・サスペンス長編作品『残酷な神が支配する』の連載を開始する。この時期のSF作品には『海のアリア』、『あぶない丘の家』がある。 1997年、『残酷な神が支配する』で第1回手塚治虫文化賞マンガ優秀賞を受賞する。 2000年代. 『残酷な神が支配する』終了後、1年間の休載後、2002年、SF作品『バルバラ異界』の連載を開始する。『バルバラ異界』終了後、『ここではない★どこか』シリーズや『あぶな坂HOTEL』、『レオくん』、田中アコ原作による『菱川さんと猫』(ゲバラシリーズ)などを連載する。 2006年、『バルバラ異界』で第27回日本SF大賞を受賞する。 2010年代. 2011年、引退を考え短編数編でフェイドアウトする予定だったが、東日本大震災で終末を表すものは止められ描けなくなり、原発事故から『なのはな』と放射性物質を擬人化した原発3部作、『福島ドライヴ』を発表するとともに、現代社会を厭い歴史漫画『王妃マルゴ』を開始、引退を延期する。また、小松左京の『お召し』を原案とする『AWAY-アウェイ』を連載する。2016年には「ハギオ モト」名義による『天使かもしれない』で漫画原作を初めて担当する(作画は波多野裕が担当)。また、連載終了から40年ぶりに『ポーの一族』の新作「春の夢」を発表する。 2011年から女子美術大学芸術学部アート・デザイン表現学科メディア表現領域客員教授に就任。 2012年春、少女漫画家としては初の紫綬褒章を受章する。 2013年、単行本『なのはな』および作者の全作品で第12回センス・オブ・ジェンダー賞生涯功労賞を受賞する。 2017年、漫画家としては、手塚治虫、水木しげるに続いて3人目、女性漫画家としては初の朝日賞を受賞する。 2018年、『なのはな』と『なのはな -幻想『銀河鉄道の夜』』により、震災からの復興と岩手県の文化振興に貢献したことが評価され、第3回マンガ郷いわて特別賞を受賞する。 2019年、デビュー50周年を記念して「萩尾望都 ポーの一族展」が松屋銀座、名古屋パルコ、阪急うめだ本店で開催される(2020年には長島美術館、2021年には久留米市美術館でも開催)。 2019年秋、漫画家としては、横山隆一、水木しげる、ちばてつやに続いて4人目、女性漫画家では初となる文化功労者に選出される。 2020年代. 2021年、12万字書き下ろしの出会いと別れの“大泉時代”を、現在の心境もこめて綴った70年代回想録『一度きりの大泉の話』(#エッセイ集を参照)を出版。2019年から断続的に連載されてきた『ポーの一族』シリーズ最長作品「秘密の花園」が完結。 2022年にアイズナー賞で優れた功績を残している漫画家を選出する「コミックの殿堂」に、日本の漫画家では2018年の高橋留美子以来の殿堂入りを果たした。同年秋に旭日中綬章を受章。 2023年4月、筋力がいるペンの使用を止め、デジタル作業でiPadとCLIP STUDIO PAINT(クリップスタジオペイント)で人物などを描き、原稿用紙に印刷してアナログ作業でサインペン、修正液、スクリーントーンで仕上げて漫画原稿にしている。 人物. 埼玉県在住。血液型はO型。 映画監督押井守のファンで、1番好きな作品に『天使のたまご』を挙げている。 一度見た絵を1か月間は細部まで暗記する能力がある。 「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫にあやかり、「少女漫画の神様」とも称えられる。 関連項目. 作家・漫画家. 萩尾から影響を受けたと語る人物を記す。
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萩原玲二
萩原 玲二(はぎわら れいじ)は、日本の漫画家。1986年、『少年サンデー別冊』に掲載された「KIDS ARE ALL RIGHT」(掲載時は麗憂魅名義)でデビュー。代表作に『ALIEN秘宝伝』など。オリジナル作品のほかに、SF・伝奇小説や実話怪談などのコミカライズを数多く手掛けている。
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はざまもり
はざま もり(10月26日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。1980年、『ラブリーフレンド』(講談社)8月号に掲載された『そしてようよう初恋模様』でデビュー。代表作に『霊感占い殺人事件』など。 1980年、講談社新人漫画賞受賞。
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橋本きんいち
橋本 きんいち(はしもと きんいち)は、漫画家。代表作に『宗志郎100万$ハート』など。
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はしもとみつお
はしもと みつお(本名:橋本 光男、1955年11月5日 - )は、日本の漫画家。埼玉県狭山市出身。男性。『ミーニャの願い』で1976年の第11回手塚賞佳作を受賞し、翌年の「少年ジャンプ」増刊号に掲載された『二人はライバル』でデビュー。その後活動の場を小学館の児童・少年誌、次いで小学館の青年誌に移す。 作品に『いつも放課後』『築地魚河岸三代目』などがある。
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服部あゆみ
服部 あゆみ(はっとり あゆみ、7月27日 - )は、日本の漫画家。 埼玉県立川越女子高等学校卒業。在学中は、マンガ研究部の部長(初代)を務めた。 徳間書店「ザ・モーションコミック」に「オレンジトリップ0926」でデビュー。大陸書房「ホラーハウス」等で活躍した後、角川書店、秋田書店などのホラー漫画雑誌で作品を発表している。元・アニメーターで、機動戦士ガンダム、魔法のプリンセスミンキーモモ(キャラクター・デザイン)などの作品に参加している。 また、イラストレーターとして集英社コバルト文庫にて山浦弘靖の星子ひとり旅シリーズ他数点の挿絵を手掛けている。
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浜口乃理子
浜口 乃理子(はまぐち のりこ、2月11日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。女性。 概要. 1994年、講談社『ミスターマガジン』にて「愛溢れる人々」で漫画家デビュー。1995年、同誌にて『酒とたたみいわしの日々』の連載を開始。この作品が本人にとって巻数が最長となる4巻まで連載された。 作風の特徴として、『酒とたたみいわしの日々』などに代表される自分漫画(作者自身を主人公にして、作者の日常を描いた漫画(作者自身が作品中で使用している用語))などエッセイ風のノンフィクション漫画を得意としている。作品よりも作者自身の方が面白いといわれている。西原理恵子の影響の濃い、ラフな画風で作者と作者をめぐる人々をコミカルに脱力気味に描く。友人も頻繁に出演し、お笑いライター「しのピー(別名S崎、これらから「シノ崎」という名前がばらされている)」、芳文社の編集者「ドマリン」等はレギュラーのように登場する。西原理恵子、倉田真由美などが同系統の作風。酒をこよなく愛し、長らく未婚であったが、現在は1女1男の母親。出産時にはさすがに禁酒し、以降も酒が弱くなりあまり量を飲まなくなったと自身の作品などで報告している。 『ミスターマガジン』で数年間同時期に執筆していた倉上淳士と交友がある。また、同じ種類の猫(アメリカンショートヘア)を飼っていたり、同じ年齢の娘を持つなどして共通点のあるおーはしるいなどとも交友が深いようである。 作品リスト. ※独立記事のある作品につきましてはリンク先をご参照ください。
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刃森尊
刃森 尊(はもり たかし)は、日本の漫画家。代表作に『伝説の頭 翔』『霊長類最強伝説 ゴリ夫』など。 略歴・作風等. 主にヤンキー漫画や格闘漫画を手がけている作家であるが、デビュー作である読み切り作品『マジックBOY』だけはマジックを題材としており、全く作風が異なる。その次回作にして連載デビュー作である『破壊王ノリタカ!』以降は、現行とほぼ同じ作風が定着した。2006年に連載された『格闘料理人ムサシ』は一応料理漫画ではあるものの、その根幹にあるのは『伝説の頭 翔』などで培われたヤンキー描写、社会風刺調の作風である。『ノリタカ』以降の作品には必ず、セクシーなヒロインが不自然に物語に絡んできたり、ヤンキーではないエリート的な人物はほぼ必ず悪人だったり、と、共通の描写が頻発する。 作中にて「!?」「“”」「へ‥‥!?」「ば‥‥!?」「な‥‥!?」などを多用するスタイルや、人物がカメラ目線で正面を向いている構図が多いのも特徴の1つ(たいてい見開きページの右上で大ゴマである)。
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速水翼
速水 翼(はやみ よく、11月4日 - 2015年8月19日)は、日本の女性漫画家。代表作に『霊媒師多比野福助』など。 来歴. 山梨県南巨摩郡生まれ。学生時代から同人作家として作画グループ、ティームコスモなど全国規模のマンガ同人誌活動に参加。作画グループの活動に熱心に参加する一方、ゆうきまさみなど江古田界隈に集結した同世代の漫画家やアニメーターたちと交流する。 「エースとシャンティ」(月刊OUT)でデビュー後、SF・ファンタジーを中心にマンガマニアに支持される。一方で、『ひとみ』などの少女漫画誌、少年漫画誌『少年KING』など、メジャーを意識した作品群を精力的に執筆する。かわいらしい少年・少女で人気を得たが、『霊媒師多比野福助』以降シャープな絵柄に変貌を遂げ、ファン層を広げた。 漫画家のしげの秀一と長年にわたり交際、一時結婚していた。しげのの代表作『バリバリ伝説』の主人公の名前は、速水翼の出身地から取られている。 2006年から東京工学院専門学校漫画科にて講師を務めるなどした。 2015年8月19日、脳幹出血のため死去。
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原田久仁信
原田 久仁信(はらだ くにちか、1951年11月3日 - )は、日本の漫画家。福岡県出身。 概要. 高校卒業後に上京、就職するが、1年で退職して漫画家を目指す。『ビッグウェーブ』が第1回小学館新人コミック大賞佳作を受賞し、『増刊少年サンデー』1978年お正月増刊号にてデビューする。1980年、梶原一騎に指名されるかたちで『週刊少年サンデー』に『プロレススーパースター列伝』を連載。当時のプロレスブームに乗りヒットとなる。 『スーパースター列伝』は1983年、梶原一騎の暴力事件に端を発する一連のスキャンダルで連載打ち切りとなる。1985年、梶原の復帰作『男の星座』(漫画ゴラク)の作画を自ら申し出る。漫画原作者として窮地に追い込まれていた梶原は原田の男気に感動し、深い信任を得る。しかし、梶原が連載途中に急逝し、この作品も未完に終わった。 その後は、青年誌を中心に執筆。実録マンガを中心に執筆する。だが、かつてのようなヒットに恵まれず、2000年の中頃から、バス会社で清掃の仕事や冷凍倉庫でのアルバイト、ラーメン屋の仕事などを兼業しながら生計を立てる。 2007年、宝島社より『別冊宝島』プロレス関連ムック本が定期刊行される。連載漫画に原田が起用され、『プロレス地獄変』シリーズを発表。プロレスファンの話題を呼び、読み切り漫画やプロレスイラストの依頼も再び来るようになる。 2013年に増田俊也からのラブコールを受けて、増田の大宅賞受賞作『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の漫画化作品『KIMURA』の連載を『週刊大衆』で開始、漫画家として本格復帰する。原田にとってほぼ30年ぶりとなる週刊誌連載であり、62歳という高齢でありながら「命がけで描いていく」と決意を語っている。
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原哲夫
原 哲夫(はら てつお、1961年9月2日 - )は、日本の漫画家。東京都渋谷区生まれで埼玉県越谷市育ち。代表作に『北斗の拳』など。既婚。 来歴. 子供のころは『天才バカボン』や『タイガーマスク』を見て育ち、絵は『タイガーマスク』の影響を受けたという。小学校4年から越谷市に住み、越谷市立大沢北小学校、越谷市立栄進中学校、私立本郷高校デザイン科卒。トランザクション創業者の石川諭は小学校から高校までの同級生で友人。現代美術家の村上隆も高校の同級生にいた。 日本大学第二高等学校を経て、本郷高校在籍時は漫画劇画部に所属。駒澤大学仏教学部中退。 漫画家を目指して『週刊少年ジャンプ』に持ち込みを始める。高校の先輩である秋本治の仕事場を訪問したこともあったという。卒業後は小池一夫主催の劇画村塾に通いながら、堀江信彦の紹介で高橋よしひろのアシスタントを務める。1982年、『スーパーチャレンジャー』で週刊少年ジャンプのフレッシュジャンプ賞を受賞。同年、堀江の勧めでモトクロスを題材にした漫画『鉄のドンキホーテ』(週刊少年ジャンプ)で連載デビュー。この作品は人気が出なかったこと、堀江の「原はもっと大きな話が書けるからドンキホーテにこだわらず仕切り直ししよう」という判断などから、わずか連載10回で打ち切りとなる。 1983年、代表作となるバイオレンスアクション漫画『北斗の拳』(『週刊少年ジャンプ』)を連載開始。「秘孔」や「世紀末」といった独特の設定で描かれた『北斗の拳』は驚異的な人気を誇り、1980年代の『週刊少年ジャンプ』を支えると同時に、『スーパードクターK』、『魁!!男塾』、『ろくでなしBLUES』など、後のジャンプ漫画の作風に多大な影響を与えた。 1990年から1993年まで、隆慶一郎の小説を原作にした時代劇漫画の『花の慶次 ―雲のかなたに―』(『週刊少年ジャンプ』)を連載。これ以来、時代劇漫画を執筆する機会が多くなる。 2000年には集英社から離れ『週刊コミックバンチ』に移籍、以降、後継誌である『月刊コミックゼノン』に執筆している。移籍に合わせ、雑誌の編集や版権事業を手がける株式会社コアミックスを堀江信彦らと共に設立し、役員に就いている。2005年には子供向けの絵本、森の戦士ボノロンのプロデュースを行っている。
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原秀則
原 秀則(はら ひでのり、1961年6月14日 - )は、日本の漫画家。兵庫県明石市出身。男性。 1980年、『週刊少年サンデー』(小学館)掲載の「春よ恋」でデビュー。同誌で翌年から開始した『さよなら三角』が初連載作品である(デビューから連載までの原の状況は『さよなら三角』の概要を参照)。代表作に『ジャストミート』『冬物語』など。第33回(昭和62年度)小学館漫画賞を受賞(『ジャストミート』『冬物語』)。 富山県氷見市を舞台とした漫画『ほしのふるまち』の好評を受け、2007年に氷見市長の堂故茂から氷見市の観光大使「氷見市きときと魚大使」に任命された。 競馬が趣味であり、自身のブログでレースの予想をしたり、レース後の反省を書くこともある。 猫を3匹飼っており(名前はキー、ベン、ワカ)、ブログ内でも猫の写真が頻繁に登場する。
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ハロルド作石
ハロルド 作石(ハロルド さくいし、1969年3月16日 - )は、日本の漫画家。愛知県出身。血液型AB型。 本名:作石 貴浩(さくいし たかひろ)。愛知県立守山高等学校出身。『ゴリラーマン』の舞台となる白武高校は、この守山高校がモデルである。 人物. 作品の随所にプロ野球、プロレス、三国志、また『BECK』中期からは欧州サッカーに関する小ネタが用意されている。群衆シーンに他の漫画のキャラやプロレスラーを登場させていることも多い。 ペンネームの由来は、力道山をスカウトしたレスラー「ハロルド坂田」からきている。ゴリラーマン連載時に、このペンネームを使用したところ、当時編集長から「ハロルドは言いにくい、作石も言いにくい。」と言われる。またケンドーコバヤシとの対談では、芸名の由来が同じくレスラーであることから感銘を受けている。 初長編『ゴリラーマン』はオフビートなユーモアと、シリアスな展開の混在を特徴とした作品であったが、第2作『サバンナのハイエナ』でアメリカン・カートゥーン系の絵柄に変えて、作風を大幅に変更した。その実験精神はいしかわじゅんにも高評価されたが、『サバンナのハイエナ』は連載途中で中断した。 続く『バカイチ』『ストッパー毒島』では、元の作風に戻る。『BECK』は少年誌連載ということもあり、ユーモアは抑えられてストレートな青春ドラマになっている。 『7人のシェイクスピア』は『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)2010年3・4合併号(2009年12月発売)より連載開始したが、2011年50号で「第一部:完」となった。のち、続編『7人のシェイクスピア NON SANZ DROICT』が『週刊ヤングマガジン』(講談社)2017年2・3合併号(2016年12月発売)より連載されている。 影響を受けた漫画は藤子不二雄Aの自伝的漫画『まんが道』。 お笑いコンビ「新作のハーモニカ」のメンバーの藤田隼人は、従甥に当たる。 特集記事. 『週刊ヤングマガジン』2019年8月12日号に、特集記事「ハロルド作石のまんが道!」が掲載された。自身が、漫画家を志したきっかけから連載に至るまでを語っている。
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幡地英明
幡地 英明(はたじ ひであき、1961年 - )は、日本の漫画家。兵庫県出身。代表作に『あした天兵』など。漫画の他に『ジャンプ ジェイ ブックス』の挿絵などでも活躍している。
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メモリ管理
メモリ管理(メモリかんり)とは、コンピュータのメモリを管理するもの。単純化すれば、プログラム(プロセスなど)の要求に応じてメモリの一部を割り当てる方法と、そのメモリが不要となったときに再利用のために解放する方法を提供する。 今日では、CPU(メモリ管理ユニット)とオペレーティングシステムが協働して仮想記憶やメモリ保護を提供するのが一般的である。 また、各種データ構造を線形空間であるメモリに展開する場合の管理手法(アルゴリズム)についても「メモリ管理」と呼ばれる。 仮想記憶. 現在のオペレーティングシステム(OS)においては、メモリ管理の1つとして仮想記憶が代表的である。 仮想記憶システムはプロセスが使用するメモリ空間 (アドレス空間) を物理アドレスから分離し、プロセス単位の分離を実現すると共に、実質的に使用可能なメモリ量を増大させる。仮想記憶管理の品質はオペレーティングシステム全体の性能に大きな影響がある。また、プロセス間通信の一種である共有メモリは多重仮想空間でのプロセス間のメモリ共有を実現する機能である。 仮想記憶以前. 仮想記憶システムには、単純に言うと、メモリ管理ユニット(MMU)を付加または内蔵したCPUが必要である。一般的なCPUに専用のMMUが内蔵されるまでは、バンク切り換えなどによるメモリ管理(拡張)が行われていた。 MS-DOSではメモリマネージャと呼ばれるプログラムが開発された(バンクメモリ、EMS、XMS等)。これはOSの一部を通常の位置から移動させ、アプリケーションがより多くのメモリを使えるようにするものである。
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仮想記憶
仮想記憶(かそうきおく、、バーチャルメモリ)とは、コンピュータ分野におけるメモリ管理の仮想化技法の一種であり、オペレーティングシステム (OS) などが物理的なメモリを、アプリケーション・ソフトウェア(プロセスなど)に対して、専用の連続した主記憶装置に見えるように提供する。 この技術により、物理的な主記憶装置に加えてハードディスク装置等の補助記憶装置を併用すれば、物理的な主記憶装置よりも大きな仮想メモリを提供する事ができる。またアプリケーション・プログラム側は、物理メモリ上のアドレスを意識しなくて良いため、マルチタスクの実現が容易である。このため現代のオペレーティングシステムの多くが仮想記憶をサポートしている。 仮想的に与えられたアドレスを仮想アドレス (virtual address) または論理アドレス (logical address)、実記憶上で有効なアドレスを物理アドレス (physical address) または実アドレス (real address) という。仮想アドレスの範囲を仮想アドレス空間、物理アドレスの範囲を物理アドレス空間という。 概要. 仮想記憶の実装(仮想記憶方式)には、大きく分けてセグメント方式とページング方式の二種類がある。ちなみに68000システムでは、68451(セグメント方式)と、68851(ページング方式)のメモリ管理ユニット (Memory Management Unit、MMU) が準備されていた。 一般にページング方式の方がよく使われている。これにより、メモリスワッピング(あるいは匿名メモリページング)と仮想記憶が結びつけられる。メモリスワッピングとは、一次記憶装置内のメモリページを二次記憶装置(のスワップファイルあるいはスワップパーティションと呼ばれる場所)に書き出して、より高速な一次記憶装置を他のプロセスが使えるように解放することである。 Windows系OSのうち、#Windows NT系ではページング方式の仮想記憶を採用しており、システムUI上では「仮想メモリ」という名前の設定項目が用意されているが、このシステム設定項目はページングファイル(ストレージへのメモリスワップ)に関するものである。アプリケーションおよび多くのシステムプロセスは常に仮想アドレスを使用してメモリを参照する。OSカーネルのコア部のみがアドレスの仮想化をバイパスすることができ、実アドレスを直接使用できる。たとえ稼働中の全プロセスによって要求されるメモリが、システムにインストールされているRAMの容量を超えていなくても、仮想記憶は常に使われている。 Unix系システムでもスワップファイルやスワップパーティションなしで仮想記憶を使用することが可能である。従って主記憶装置以上の大きな記憶領域を仮想的に使用できるようにすることは仮想記憶の主な目的ではあるが、本質ではないとも言える。本質は、不連続な物理メモリ領域を連続な仮想メモリ領域にマッピングすることであり、複数のプロセスがそれぞれ固有の連続な仮想メモリ領域を割り当てられる点である。これによって他のプロセスのことを気にせずに動作できる環境が提供されている。そういった意味で、仮想機械がゲストOSに対して提供していることと、仮想記憶がユーザープロセスに提供していることは等価である。仮想記憶は物理メモリのフラグメンテーションを隠蔽することでアプリケーションのプログラミングを容易にする。すなわちカーネルに記憶階層の管理を委任することで、プログラムが明示的なオーバーレイの制御を行う必要性を排除している。 技術的には、仮想記憶を使うことにより、ソフトウェアが動作するメモリアドレス空間のサイズとアドレス範囲は当該コンピュータの物理メモリ領域には必ずしも縛られなくなる。仮想記憶を適切に実装するには、CPU(あるいはそれに付随するデバイス)がOSに対して仮想メモリを物理メモリにマップする(対応付ける)手段を提供し、主記憶(物理メモリ)に対応していない仮想アドレスにアクセスしたことを検出する手段を提供して必要なデータをスワップインできるようにしなければならない。CPUの支援なしで仮想記憶を提供することも可能だが、その場合は上述の機能を提供するCPUをエミュレートするだけであって、本質的には同じことである。アドビの一部のアプリケーションのように、アプリケーションプログラムが自前で仮想記憶機構を持つ例もある。 ソフトウェアによって仮想記憶を実現することは、本来ハードウェアで実現できる機能をあえてソフトウェアで行おうとしているので一見非効率に思える場合がある。しかし、この見方は場合によっては誤りである。なぜならページ方式やセグメント方式では仮想アドレス空間に対する広がりを持たせているので、例えば画像などを扱う場合には単にアドレス空間方向への広がり=すなわち水平方向への広がりしか持たない。だが画像に対する操作は、特定の2次元空間=面的な広がりを持っている。ここにソフトウェアで仮想記憶を実施するに当たって、面的な広がりをメモリ参照の局在性としてみなすと、単なる仮想記憶よりも性能の向上が期待できる。 背景. まず、以下の議論の前提とする、簡略化した典型的な記憶装置の階層構造のモデルを述べる。 主記憶装置とキャッシュメモリのどちらを使用するかは、一般にハードウェアに任せられているため、プログラマからはどちらも同じ物理メモリとしてしか見えない(しかし性能への影響は大きいので、高性能計算など、キャッシュヒット率を考慮してコードを書くこともある)。ハードウェアの動作としては、まずキャッシュメモリをアクセスし、さらに必要ならキャッシュメモリと主記憶とのやり取りを行う。 多くのアプリケーションは、情報(実行ファイルの命令列やデータ)がなるべく物理メモリ上に格納された状態でアクセスできることを要求する。これは特に見かけ上並列に複数のプロセス/アプリケーションを同時実行するオペレーティングシステムでは重要となる。全実行中プログラムが必要とする物理メモリ量が実装されている物理メモリ量より大きい場合、当然の結果として情報の一部をディスクに退避し、必要に応じてその内容を物理メモリに戻して使用することになる。しかし、これを実現する手法は様々である。 ひとつの方法として、アプリケーション自身が物理メモリ上に置くべき情報の範囲を決定し、補助記憶装置との情報のやりとりも制御することが考えられる。プログラマはプログラム(およびデータ)のどの部分が現時点で必要か不必要かを判断し、それらの領域の物理メモリへのロード(あるいはアンロード)を必要に応じて行わなければならないだろう。この手法の欠点は、各アプリケーションのプログラマがそのような設計/実装/デバッグに時間を費やす必要がある点であり、アプリケーションそのものに集中できなくなってプログラミング効率が低下する。また、あるプログラマがある時点で物理メモリ上に置くべきデータなどを決定しても、それが例えば、どうしても全物理メモリが必要となった場合など、他のプログラマの決定と衝突してしまう危険がある。仮想記憶が普及する以前のオーバーレイ方式がほぼこれに相当する。 別の方法として、データの参照をポインタではなく何らかのハンドルで行う方式である。OSはそのようなハンドルと対応するデータを物理メモリにロードしたり、逆に補助記憶装置に移したりする。この方式の欠点は、アプリケーションのコードが非常に複雑になる点、アプリケーションがうまく振舞わなければならない点(必要なデータを物理メモリにロックする機能が必要になるだろう)、標準ライブラリが大きなメモリを確保しておいてアプリケーションのメモリ確保要求に応えるという機能を使えなくなる点などが上げられる。この方式の既存の例としてはMicrosoft Windows 3.1が有名である。 現代の解決策は仮想記憶方式の使用である。特別なハードウェアとOSの組合せにより、主記憶容量が大きくなったように見せ、各プログラムが自由気ままに空間を広げて使用することを可能にする。動作中の他のソフトウェアからは、仮想記憶機構の内部の動きは見えない。一般に仮想的な主記憶容量はほとんどどんな大きさにもできる。ただし、アドレスそのもののサイズによる制限がある。32ビットシステムでは、仮想アドレス空間サイズは全体で 232バイト、つまり4ギガバイトである。64ビットの場合、アドレスは64ビットや48ビットといったさらに大きなものになっている。多くのオペレーティングシステムは仮想アドレス空間全体をアプリケーションに使わせることはなく、一部をカーネル空間にすることでカーネルからユーザ空間に容易にアクセスできるようにしている。ただし、これは絶対必要な機能ではなく、OSによっては仮想空間全体をユーザー空間としている。 仮想記憶によってアプリケーションプログラマの仕事はずっと単純になる。アプリケーションが必要とするメモリ容量を気にする必要はなく、必要なサイズの主記憶が使えるように見え、仮想アドレス空間全体の好きな場所にデータを配置することができる。プログラマは主記憶と補助記憶の間でデータをやりとりするのを気にしなくてもよい。もちろん、プログラマが大量のデータを扱う際の性能を考慮しなければならない場合、アクセスするデータがなるべく近いアドレスに配置されるよう注意して、ある時点で必要なメモリ量を減らし不要なスワッピングを回避しなければならない。 仮想記憶はコンピュータ・アーキテクチャの重要な部分であり、その実装にはハードウェア的サポートがほぼ必須である。メモリ管理ユニット (MMU) と呼ばれる部分であり、性能の都合もありCPUに組込まれることも多い。1960年代までのメインフレームの大部分は、基本的には仮想記憶をサポートしていなかった。1960年代のメインフレームで例外といえるものを以下に挙げる。 1980年代のパーソナルコンピュータで仮想記憶をサポートした例として Apple Lisa がある。 歴史. 仮想記憶技術が開発される以前、1940年代から1950年代のプログラマは2レベルの記憶装置(主記憶あるいはRAMと、磁気ディスク装置あるいは磁気ドラムメモリといった二次記憶)を直接管理する必要があり、大規模プログラムではオーバーレイなどの技法が使われていた。従って仮想記憶は、主記憶を拡張するためだけでなく、そのような拡張をプログラマが可能な限り容易に扱えるように導入された。マルチプログラミングやマルチタスクを実装した初期のシステムは、メモリを複数のプログラムに分割するのに仮想記憶を使っていない。例えば初期のPDP-10はレジスタを使ってマルチタスクを実現していた。 ページング方式はマンチェスター大学のAtlas上で開発された。1万6千ワードの磁気コアメモリの一次記憶と9万6千ワードの磁気ドラムメモリによる二次記憶を制御するものである。最初のAtlasは1962年に稼働開始したが、ページングのプロトタイプは1959年に開発されている。なお、ドイツの初期の情報工学者 Fritz-Rudolf Güntsch (後に Telefunken TR 440 というメインフレームを開発)は 1957年の博士論文 "Logischer Entwurf eines digitalen Rechengerätes mit mehreren asynchron laufenden Trommeln und automatischem Schnellspeicherbetrieb"(複数非同期ドラム装置と自動高速メモリモードを持つデジタル計算機の論理概念)で仮想記憶のコンセプトを発明していたと言われている。 1961年、バロースはセグメント方式で仮想記憶をサポートした世界初の商用コンピュータ B5000 をリリースした。 1965年にMITが開発したMultics以降、仮想記憶は本格的に採用され始めた。 コンピュータ史上の多くの技術と同様、仮想記憶にも様々な曲折があった。安定した技術と見なされるまで、仮想記憶の様々な問題点を解決しようとするモデルや理論が開発され実験がなされた。仮想アドレスを物理アドレスに変換するハードウェア機構の開発も必然的だったが、初期の実装ではそれによってメモリアクセスが若干遅くなった。システム全体を対象とするアルゴリズム(仮想記憶)は従来のアプリケーション単位のアルゴリズム(オーバーレイ)よりも非効率ではないかという懸念もあった。1969年、商用コンピュータでの仮想記憶に関する論争は事実上終結した。David Sayre 率いるIBMの研究チームが仮想記憶システムが手動制御システムよりも優位にあることを示したのである。 1970年、IBMはSystem/370シリーズのOSであるDOS/VS、OS/VS1、OS/VS2(後のMVS)で仮想記憶をサポートした。OS/VS1はシングルタスクの仮想記憶で、マルチタスクには従来通りユーザーによるマルチプログラミングが必要であったが、OS/VS2はマルチタスクの仮想記憶(複数の仮想アドレススペース)をオペレーティングシステムの機能としてサポートした。以後の各社メインフレームでは仮想記憶が一般的となる。 ミニコンピュータで初めて仮想記憶を導入したのは、ノルウェーのである(1969年)。1976年、DECのミニコンピュータ VAXシリーズのOSであるVMSで仮想記憶をサポートした。 しかし、1980年代の初期のパーソナルコンピュータでは仮想記憶は採用されていない。これは当時のマイクロプロセッサの性能や機能の問題もあるし、個人用のコンピュータに仮想記憶が必要になると見なされていなかったという面もある。当時の主流はバンク切り換えによるメモリ増設だった。x86アーキテクチャで仮想記憶が導入されたのは、Intel 80286 によるプロテクトモードが最初だが、セグメント単位のスワッピングはセグメントが大きくなると性能が悪くなるという問題があった。Intel 80386 では既存のセグメント方式の下層にページング方式を実装し、ページフォールトによるページングが可能となった。しかしセグメントディスクリプタのロードは時間のかかる処理だったため、OS設計者はセグメントを使わずページングだけを使うようになっていった。仮想記憶が導入されたのは、OS/2(1987年)、Microsoft Windows 3.0 (1990年)、MacintoshのSystem 7(1991年)、Linuxカーネル 0.11+VM(1991年)などが最初である。 ページング方式. 仮想記憶は、必須ではないものの通常ページング方式を使って実装される。ページングでは仮想アドレスを表すビット列の下位ビット列部分はそのまま物理アドレスの下位ビット列部分として使われる。上位ビット列部分はアドレス変換テーブル(群)のキーとして使用され、それによって実際の物理アドレスの上位ビット部分を得る。 このため、サイズが2の冪乗の仮想アドレス空間の連続したアドレス範囲が、対応する連続な物理アドレス範囲に変換される。そのような範囲で参照されるメモリをページと呼ぶ。ページサイズは512バイトから8192バイトが一般的であり、特に4096バイトが最もよく使われるが、特殊用途として4Mバイトやそれ以上のサイズのページも使われることがある。 オペレーティングシステムは、ページテーブルと呼ばれるデータ構造にアドレス変換テーブル、つまり仮想ページ番号と物理ページ番号のマッピング情報を格納する。 あるページが使用不可とされている場合(物理メモリに対応しておらず、スワップ領域に内容がある場合など)、CPUがそのページ内のメモリ位置を参照しようとしたとき、ハードウェアの機構がオペレーティングシステムに、一般にページフォールトと呼ばれる例外を通知する。これにより実行コンテキストはオペレーティングシステム内の例外処理ルーチンにジャンプする。そのページがスワップ領域にあるなら、そのルーチンは「ページスワップ」と呼ばれる処理を実行して必要なページの内容を物理メモリに読み込む。 ページスワップ操作には一連の段階がある。まず、メモリ上のページを選択する。例えば、最近アクセスされておらず、なるべくならスワップ領域を含む何らかのディスクから読み込まれたままで変更されていないページを選択する(詳細はページ置換アルゴリズムを参照)。そのページが変更されている場合、その内容をスワップ領域に書き出す。次に必要とされている、例外発生時に参照しようとしていた仮想アドレスに対応するページの情報を読み込む。ページの読み込みが完了したら、その物理メモリの内容更新に応じて仮想アドレスから物理アドレスへの変換テーブルを更新する。ページスワップが完了すると、例外処理を完了し、元のプログラムの実行が例外発生箇所から再開されて何事もなかったかのように処理が続行される。 仮想ページに何も割り当てられていないために使用不可となっている可能性もある。そのような場合、未使用、あるいはスワップアウトして未使用にした物理ページを割り当て、OSによってはその内容をゼロクリアする。ページテーブルはそれに対応して更新され、上述の場合と同様にプログラムが再開される。 セグメント方式. バロース B5000などのシステムは、ページング方式ではなくセグメント方式を使い、仮想アドレス空間を可変長のセグメントに分割する。その場合、仮想アドレスはセグメント番号とセグメント内オフセットから成る。Intel 80286の保護モードにもそのようなセグメント方式があったが、ほとんど使われなかった。セグメントとページは、セグメントをページに分割するという形で同時に使用できる。そのようなメモリ構成のシステムとして、MulticsやSystem/38がある。その場合の基本はページングであり、セグメントはメモリ保護に使われる。 Intel 80386 とその後のIA-32プロセッサでは、セグメントをページ化された32ビットのリニアなアドレス空間に置く。セグメントによる管理と、ページ単位による管理の、2段階のシステムとなっている。しかし、複数のセグメントを活用しているOSは少なく(ただし、研究レベルまで含めればそんなに少なくない)、単純にベースアドレスを全てゼロとして、範囲のみ指定した最小限必要なだけのセグメントと、ページングのみを使っていることが多い。 単一レベル記憶. これは、mmapやWin32のMapViewOfFileのような機構とは異なる。mmap等ではファイルは任意の位置にマッピングされる可能性があるため、ファイル間のポインタは使えないためである。Multicsでは、ファイル(複セグメントファイルの場合はセグメント)はセグメント機構を通してアドレス空間にマッピングされる。そのためファイルは常にセグメント境界にマッピングされる。ファイルのリンク部分にはポインタが並んでおり、そのポインタをレジスタにロードしたり間接参照したりするとトラップが発生する。未解決のポインタにはセグメント名を示す値とセグメント内オフセットがある。トラップハンドラは対応するセグメントをアドレス空間にマッピングし、ポインタのセグメント識別子部分をセグメント番号に書き換えるので、2度目以降はそのポインタにアクセスしてもトラップが発生しなくなる。この方式ではリンケージエディタが不要であり、同じファイルを複数のプロセスが異なる位置にマッピングしても問題なく機能する。 詳細. 仮想アドレスから物理アドレスへの変換はメモリ管理ユニット (MMU) というハードウェア装置によって実装されている。これはCPUに内蔵されたモジュールの場合もあるし、外付けでCPUに密結合された別のチップの場合もある。これを動的アドレス変換機構 (DAT : Dynamic Address Translation) と呼ぶ。 OSは、プログラムの仮想アドレス空間のどの部分を物理メモリに保持するかを決定する。OSは、MMUが使用する仮想アドレスから物理アドレスへの変換テーブルも管理する。さらに仮想メモリ例外が発生したら、OSはそれを解決するために物理メモリ領域を確保し、必要なら元の内容をディスクに追い出した上で新たに必要とされている情報をディスクから持ってきて、変換テーブルを更新し、例外発生したソフトウェアの実行を再開する。 多くのコンピュータでは、この変換テーブルは物理メモリに格納されている。従って仮想メモリを参照すると、本来の参照以外に変換テーブルの参照が(変換テーブルの構成によっては複数回)発生する。このアドレス変換による性能低下を低減するため、ほとんどのMMUはよく使われる仮想ページに高速にアクセスできるよう、最近使われた仮想アドレスとそれに対応する物理アドレスを保持しておくテーブルを持っている。これをトランスレーション・ルックアサイド・バッファ(TLB)と呼ぶ。参照アドレスがTLB内に格納された変換テーブルでカバーされていれば、余分な変換テーブルの参照をせずに、高速に変換を行うことができる。ただし、TLBは高価な装置のためテーブルの大きさが限られており、目標の仮想アドレスが見当たらない場合は物理メモリ上の変換テーブルを参照してアドレス変換が行われる。 プロセッサによっては、この一連の処理がハードウェア内で行われる。MMUは物理メモリ上の変換テーブルから必要な変換内容を持ってくるので、ソフトウェア側は余分な処理を必要としない。別の種類のプロセッサでは、オペレーティングシステムの介在が必須である。TLBに必要な変換内容がない場合、例外が発生し、オペレーティングシステムがTLB内の1つのエントリを必要な変換テーブルの内容と置き換え、当初のメモリ参照を行った命令から実行が再開され、再度TLBを参照して変換を行う。 仮想記憶をサポートするハードウェアの多くはメモリ保護もサポートしている。MMUはメモリ参照の種類(リード、ライト、実行)やメモリ参照時のCPUモードによって扱いを変える機能を持っていることもある。これによってオペレーティングシステムは自身のコードとデータ(例えばアドレス変換テーブルなど)を問題のあるアプリケーションプログラムの不正なメモリアクセスから保護したり、アプリケーションを相互に保護したり、アプリケーション自身の不正動作(例えば自身のコード部分に書き込もうとするなどの動作)から保護したりする。 仮想アドレス空間管理. 各プロセスの仮想アドレス空間には、そのプロセスが使用するコードやデータが配置される。ページング方式であれ、セグメント方式であれ、仮想アドレス空間内で使用している範囲の管理と制御が仮想記憶機構として必須である。例えば、実行ファイルの内容を仮想メモリ上に配置する領域、スタックを配置する領域などがある。このような領域をセグメントと呼ぶ。セグメント方式のセグメントと似ているが、純粋に仮想的なオブジェクトである。実行ファイルを配置する領域は必ずしも連続ではない。プログラムのコード部分とデータ部分を分離して配置するのが一般的で、前者をテキストセグメントもしくはコードセグメント、後者をデータセグメントと呼ぶ。Unix系システムや Windows では、一般的にデータセグメントの一部としてBSSセクションとヒープ領域を含む。BSSセクションにはプロセス起動時に0に初期化される静的変数を配置する。初期値が0の静的変数を別扱いしているのは、読み書きが発生するまで0で初期化するのを後回しに出来るようにするための高速化のテクニックである。Unix系システムではヒープ領域はデータセグメントの末尾に配置され、codice_1 関数などでデータセグメントのサイズを変えることでヒープ領域のサイズを変えられるようにする。各セグメントはマッピングしているオブジェクトが何であるか、その領域へのアクセス権などを属性情報として保持する。 テキストセグメントはファイルシステム上の実行ファイルの一部と完全に対応しており、書き換えられることもない。従って、マッピングしているオブジェクトは実行ファイルであり、アクセス属性は「リードオンリー」となる。データセグメントやスタックは一時的な存在であるため何かをマッピングしているわけではない。そこでこれらは匿名ファイル(Anonymous File)をマッピングしているものとして管理される。匿名ファイルをマッピングしているセグメントに対応するページを匿名ページと呼び、これがスワッピングの際にスワップ領域に書き出される。データセグメントは当初は実行ファイルの一部と対応しているが、書き込み可能な属性が設定されている。ページング方式の場合、データセグメント内の内容が更新されたページはページ単位で匿名ページへと属性変更される。 codice_2 システムコールなどで新たにプロセスの仮想アドレス空間を設定した当初は、基本的にこのような仮想アドレス空間を管理するデータ構造がカーネル内に作成されるだけで、実際の実行ファイルの内容はロードされない。Unix系システムでは、codice_2 システムコールからユーザ空間に制御が戻された瞬間にページフォールトが発生し、そこで初めてページ単位に実行ファイルの内容がロードされる。ただし、性能向上目的で事前にマッピングを作成する場合もある。 各プロセスの仮想アドレス空間のアドレス範囲は同じでありオーバーラップしているのが一般的である。これを多重仮想記憶と呼ぶ。MMUは現に実行中のプロセスの仮想空間のみを認識する。コンテキストスイッチでプロセスを切り替える際、MMUに対して仮想アドレス空間の切り替えも指示する必要があるが、その方式はアーキテクチャによって様々である。 同じプログラムを実行するプロセスが複数存在する場合、多重仮想記憶ではそれぞれが同じ仮想アドレスに実行ファイルをマッピングしていながら、それぞれ独立した仮想空間を使用する。このため、実行ファイルを配置する仮想アドレスはどのプロセスでも同じにすることができ、実行ファイル自体に配置すべきアドレスを格納しておくようになっているのが一般的である。また、それぞれのプロセスが実行ファイルのテキストセグメントをマッピングするのに使う物理メモリは共有することができる。他にも codice_4 でファイルをマッピングする場合や共有メモリ機能でプロセス間の通信を行う場合、マッピングされる物理メモリが共有される。 なお、アーキテクチャによっては、多重仮想記憶がオーバーラップしていると捉えず、全仮想空間がフラットに並んだ巨大な仮想空間を想定することもある。この場合、仮想空間識別番号が巨大な仮想空間のアドレスの一部と考えられる。もっとも、これは単にモデル化の手法が違うだけで実装に大きな違いがあるわけではない。実際、各ユーザープロセスが自分の仮想空間識別番号以外の仮想空間にアクセスすることはできない。 実装例. Ferranti Atlas. 1962年に世界で初めてページングをサポートしたコンピュータAtlasは、フェランティ、マンチェスター大学、が共同開発した。このマシンには連想メモリがあり、1エントリに512ワード長のページが対応している。スーパーバイザは非同値割り込みを処理し、磁気コアメモリと磁気ドラムメモリ間のページ転送を管理する。特筆すべきは、世界初の仮想記憶システムであるにもかかわらず、難しさなどから後のシステムでも実現例のあまり多くない、プログラムに単一レベル記憶を提供していることである。 Windows 3.x と Windows 9x. Windows では、1990年のWindows 3.0から仮想記憶をサポートしている。マイクロソフトはWindows 1.0とWindows 2.0での失敗を受け、OSへのリソース要求を削減するために仮想記憶を導入した。 全てのプロセスは固定の変更不可能な仮想記憶空間を持っている(32ビットの場合、一般に2GB)。 Windows 3.xには隠しファイルとして386SPART.PARまたはWIN386.SWPがあり、それらがスワップファイルとして使われる。通常、ルートディレクトリにあるが、WINDOWSなど他のディレクトリに置くこともある。そのサイズはコントロールパネルで設定される「仮想メモリ」サイズで決定される。ユーザーがこのファイルを削除したり移動させたりすると、次回Windowsを起動したときにブルースクリーンが表示され、エラーメッセージが表示される(英語では "The permanent swap file is corrupt")。 Windows 95、Windows 98 / 98 SE、Windows Me でも同様の仕組みになっている。スワップファイルの大きさはデフォルトでは物理メモリ量の1.5倍であり、最大で物理メモリの3倍まで拡張できる。 Windows NT系. NT系のWindows(Windows NT、Windows 2000、Windows XP、Windows Vista、Windows 7、Windows 8 / 8.1、Windows 10およびWindows Serverシリーズなど)は、pagefile.sysというファイルを使用する。このファイルのデフォルトの位置はWindowsをインストールしたパーティションのルートディレクトリである。Windowsは任意のドライブの空き領域をページファイルとして使用できる。XPまでのWindowsではシステムクラッシュ時にカーネルまたは全メモリをダンプする設定にしている場合、ブートパーティション(Windowsがインストールされたドライブ)にこのファイルを置く必要があった(ダンプ先として使用するため)。リブートすると、システムがダンプを通常のファイルに移す。 ページングファイルのサイズには初期サイズと最大サイズがあり、ページングファイルが不足するとページングファイルは最大サイズまで拡張される。拡張されたページングファイルは再起動するまで小さくならない。サイズ設定値が小さい場合、動作が不安定になるアプリケーションもある。 ページングファイルがあると、積極的なクリーニングにより物理メモリで足りる場合であってもページファイルへの書き出しが行われる。積極的なクリーニングは仮想記憶を実装するページ置換アルゴリズムの一つで、CPUの余剰時間を使ってページ内容をディスクに書き出しクリーンな状態にしておき、ページが必要になった時に短時間でページを再利用する手法である。勿論クリーンな状態のページ内容そのものが必要になった時には、ページファイル上のページ内容を無視するだけで良いので、オーバーヘッドは発生しない。 Windows XP以降ではページファイルを使用しないオプションが選択できる。もちろんこれは物理メモリの容量が十分に足りている場合(かつ、ページファイル必須アプリケーション運用を必要としない場合)にのみ選択すべきオプションである。ページファイルを使用しない場合、ほとんど使用されない常駐ソフトなどのデータをスワップアウトすることができなくなるので、キャッシュとして使える物理メモリの空き領域が減ってパフォーマンスが低下することがある。いくつかのアプリケーションが動作しなくなったり、システム機能が効率的に動作しなくなったり、といったことも発生しうる。しかし、ファイルを読み書きするI/Oアクセスが起こらないため、パフォーマンスを落とさないというメリットがある。 32ビット版Windowsでは、バージョンおよびエディションにも左右されるが、ページングファイルのサイズは最大36ビットのアドレス空間すなわち64GiBまでサポートされる。 フラグメンテーション. ページングファイルのサイズには初期サイズと最大サイズがあり、ページングファイルが不足するとページングファイルは最大サイズまで拡張される。徐々に拡張された場合、フラグメンテーションが起き、性能に悪影響を与えることがある。これに対する助言としては、ページファイルのサイズを固定することでOSがそのサイズを変更できないようにするという対策がある。ただし、ページファイルが拡張されるのは全部を使い切ったときで、デフォルト設定では物理メモリの150%の量になっている。したがって、ページファイルに対応した仮想記憶の要求が物理メモリの250%を越えないと、ページファイルは拡張されない。 ページファイルの拡張によるフラグメンテーションは一時的なものである。拡張された領域が使われなくなれば(遅くとも次回の再起動時には)、追加で確保されたディスク領域は解放され、ページファイルは本来の状態に戻る。 ページファイルの大きさを固定にすると、物理メモリとページファイルを合わせた以上のメモリを要求するアプリケーションがある場合に問題となる。その場合、メモリ確保要求が失敗し、アプリケーションやシステムプロセスが異常終了する可能性がある。ページファイルを拡張可能にすべきだという根拠として、ページファイルが先頭から順にシーケンシャルにアクセスされることはなく、ページファイルが連続領域になっていること性能上の利点はほとんどないという見方もある。いずれにしても、メモリを大量に使うアプリケーションを使用するならページファイルは大きい方がよく、ページファイルを大きくしてもディスク容量がそれに割かれる以外のペナルティはない。 現代的な仕様のシステムでは余分にディスク領域を使用しても問題はない。例えば、メモリが3GBのシステムで6GBの固定スワップファイルを使用するとしても、HDDが750GBなら問題はないし、メモリが6GB、スワップファイルが16GB、HDDが2TBなら、これも問題はない。どちらの場合もスワップファイルとして使用する領域はHDDの1%に満たない。 ページファイルは任意のドライブに作成する事ができる。これはUNIX同様スワップ専用のパーティション割り当てが行えるのに等しい。またページファイルはストライピングが行われるので複数のハードディスクドライブに小分けにしてページファイルを作成すると、ページング速度が向上する。 物理メモリ以上のメモリを常に使うような使い方をする場合、ページファイルのデフラグメンテーションをすることで性能が改善する可能性もある。しかし、根本的には物理メモリを追加する方が性能改善に役立つ。 Mac OS. Mac OSはSystem 7から「仮想メモリ」として実装される。当時はコントロールパネルでメモリサイズ(メインメモリのサイズを加算した値)を指定し機能を入にすることで使用できるようになる。すると起動ディスクに隠しファイルとしてスワップファイルが作成される。スワップファイルは指定したメモリサイズの大きさとなり、これ以上は増えない。この頃の仮想メモリは使用しているかどうかでプログラムの動作が不安定になることがあった。そのため、プログラムのパッケージや説明書には仮想メモリの設定を確認させる記述が見られる。 UNIXとUnix系システム. UNIXおよびUnix系OSでは、ハードディスクのパーティションを丸ごとスワップに使用することが多く、そのようなパーティションをスワップパーティションと呼ぶ。ドライブを1個丸ごとスワップパーティションとすることもある。そのようなドライブをスワップドライブなどと呼ぶ。スワップパーティションしかサポートしないシステムもあるが、ファイルへのスワッピングもサポートするシステムもある。フラグメンテーション問題を回避して性能を維持するためにもパーティションの使用が推奨されている。また、スワップパーティションを使うと、スワップ領域をディスク内の最も高速アクセス可能な場所に配置できる。最近のハードディスクでは、先頭の方がよいとされている。 Linux. Linuxのユーザプロセスから見れば、大局的にはメモリはCPUキャッシュ (L1, L2, …)、メインメモリ、ファイルの順に階層化されており、上位(CPUにより近い)メモリは下位メモリのキャッシュに過ぎない。実行可能なファイルや共有ライブラリのテキストセグメントやmmapで明示的にマップされる名前付きファイルに対して、スワップエリアはスタックやヒープを保持する名無しファイルである(データセグメントやBSSセグメントは読み出し専用の実行可能ファイルや共有ライブラリファイルからプロセス固有の読み書き可能な無名ファイルに展開・コピーされると考えられる)。もちろん、実際にはカーネルは性能維持のためにスワップエリアの使用とアクセスを最小限にするような最適化の努力を払う(メインメモリに余裕があればスワップエリアには書き出さず「キャッシュ(メインメモリ)」だけにしか情報が保持されない)。 2.6のLinuxカーネルではスワップファイルはスワップパーティションと同程度の性能である。カーネルはスワップファイルの存在するディスク上の位置を把握しており、バッファキャッシュやファイルシステムのオーバヘッドを回避して直接ディスクにアクセスする。レッドハットはスワップパーティションの使用を推奨している。スワップパーティションの場合、ディスク上の位置を決めることができるので、スループットが最も高い場所に置くことができる。一方スワップファイルは管理の柔軟性という点でスワップパーティションに優っている。例えば、スワップファイルは任意のドライブ上に置くことができ、どんな大きさにもでき、必要に応じた追加や変更が容易であるだけでなく、ネットワークを介して外部ホスト上のリモートファイルを使うことも可能である。一方、スワップパーティションは一度位置と大きさを決めたら、ドライブ全体のパーティショニングをやり直さないと変更できない。 Linuxは事実上無制限な個数のスワップデバイスをサポートし、それぞれに優先度を設定できる。オペレーティングシステムが物理メモリをスワップアウトする場合、最高優先度のデバイスの空き領域から使っていく。同じ優先度に複数のデバイスがある場合、それらは RAID 0と同様の使い方をされる。これによって並列的に複数のデバイスにアクセスするので性能が向上する。従って優先度の設定には注意が必要である。例えば、同じドライブ上の複数のスワップ領域を同じ優先度にするのは得策ではない。また、高速なデバイスを高優先度に設定するのが性能的に有利である。 Linuxシステムでスワップを追加するには、その前にスワップ領域を作成しなければならない。パーティションならば一般のパーティション作成ツールが使用できる。通常ファイルの場合、ddコマンドと /dev/zeroを使って内容がゼロのファイルを作ることができる。作成したスワップ領域はmkswap "filename/device"でフォーマットし、swaponおよびswapoffコマンドでON/OFFを制御する。 Windowsとは違い、物理メモリに入りきらない場合のみ、スワップが利用される。これは積極的なクリーニングが実装されていないためで、ページングが開始された時システムは著しい速度低下を起こす(スラッシング)。しかし、これは物理メモリが飽和状態を続けている場合さほど深刻では無い。メモリが飽和すればあまり利用されないページは自ずとハードディスクに追い出され、物理メモリには有用なページが残される様になる。 macOS. macOSではUnix系をベースとしたことで仮想メモリは常に使用するようになっており、複数のスワップファイルを使用できる。デフォルト(かつアップルの推奨)ではルートパーティションに配置されるが、他のパーティションやデバイスに置くこともできる。 コンピュータの起動時から64MBのスワップファイルが1つ作成されている。場所は/private/var/vm/以下で、swapfile"n"という名前がつけられている("n"は0からの数字)。容量が不足するとスワップファイルは自動的に追加される。swapfile1までは64MB、以降のスワップファイルのサイズは128MB、256MB...と8の倍数で増えるのが基本だが、メモリの最大容量・ハードディスクの空き容量の1/4・1GBのいずれか小さい方を選択し容量が決定する。ひとつのスワップファイルが大きくなるのではなく複数のファイルが作成される。すなわちスワップファイルが4つなら64+64+128+256で合計512MBとなる。スワップファイルの場所はコマンドライン操作などで他のデバイスに変更できる。 スワップファイルを削除するアプリケーションも存在し、これを用いなくとも削除できる(ただし、削除後は再起動するのが望ましい)。また、一旦ログアウトしてからログインしなおすと再起動することなく削除できる。 macOSでは多重仮想記憶がサポートされ、仮想空間はプロセス毎に資源が分離されている。この違いが、Classic Mac OSとmacOSでの仮想記憶に対する信頼性の違いとなって現れている。
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共有メモリ
情報処理において共有メモリ(きょうゆうメモリ)とは、複数のプログラムが同時並行的にアクセスするメモリである。 概要. 複数のプログラム間の通信手段として使う場合と、単に複製を用意する冗長さを防ぐ目的の場合などがある。共有メモリはプログラム間でデータをやりとりする効率的手段である。文脈によって、それらプログラムが単一のプロセッサ上で動作する場合と複数の異なるプロセッサ群上で動作する場合がある。単一のプログラムの内部でメモリを使って通信する場合もあり、例えばマルチスレッドが典型的だが、仮想空間をもともと共有している場合は「共有メモリ」とは呼ばない。 ハードウェアによる共有メモリ. コンピュータのハードウェアによる共有メモリは、マルチプロセッサシステムにおける複数のCPUがアクセスできるRAMの(通常)大きなブロックを意味する。 共有メモリシステムでは、全プロセッサがデータを共有しているためプログラミングが比較的容易で、同じメモリ位置へのアクセスによって高速なプロセッサ間通信が可能である。問題は、CPUはなるべく高速なメモリアクセスを必要とするため、それぞれにキャッシュメモリを持っていることが多い点である。そのため、以下の2つの問題が生じる。 ボトルネック問題を和らげる技術として、クロスバースイッチ、、HyperTransport、CPUバスの分離(フロントサイドバスとバックサイドバス、等)などがある。 共有メモリ以外の方式としてや分散共有メモリがあるが、どちらにも似たような問題がある。また、NUMAも参照。 ソフトウェアによる共有メモリ. ソフトウェアにおける共有メモリは、以下のいずれかを意味する。 プロセス群は共有メモリ領域に通常のメモリ領域と同じようにアクセスできるので、他のプロセス間通信(名前付きパイプ、ソケット、CORBAなど)と比較して通信手段としては非常に高速である。しかし、プロセス群が同じマシン上で動作しなければならないという制約があり(他のIPC手段はネットワーク上でも機能する)、プロセスが別々のCPU上で動作する場合はハードウェアによる共有メモリを使っていることになり、キャッシュコヒーレンシなどに注意が必要となる。プロセス間の通信がFIFOなストリーム型の場合は、名前付きパイプも通信手段として検討すべきである。一般に共有メモリ自体は保護機能をもたないので動作は高速である。しかし共有されるメモリは不定のタイミングで複数のプロセスからアクセスされる可能性がある。競合を避ける為にはセマフォやロックなどで競合を回避しなければならない。 共有メモリによるIPCは、例えばUNIX上のXサーバとアプリケーションの間で画像を転送する場合や、WindowsのCOMライブラリで codice_1 関数が返す codice_2 オブジェクトの内部で使われている。一般的に共有メモリが使われるアプリケーションとしてOracleなどのデータベースがある。Unix版OracleではSGAと呼ばれる共有メモリ空間にデータベースバッファキャッシュがおかれて複数のプロセスからアクセスさせて性能の向上を図っている。 動的ライブラリは一度メモリ上に置かれると、それが複数のプロセスにマッピングされ、プロセスごとにカスタマイズされるページ群(シンボル解決に違いが生じる部分)だけが複製され、通常コピーオンライトという機構で、そのページに書き込もうとしたときにコピーが行われる。 UNIXでのサポート. POSIX には共有メモリの標準化APIとして "POSIX Shared Memory" がある。これは、sys/mman.h にある codice_3 という関数を使う。POSIXのプロセス間通信(POSIX:XSI拡張の一部)には共有メモリ関数として codice_4、codice_5、codice_6 が含まれている。 codice_3 で生成された共有メモリは永続的であり、プロセスが明示的に削除しない限りシステム内に存在し続ける。ただしこれには欠点もあり、共有メモリを削除すべきプロセスがその前に異常終了したとき、その共有メモリがシステムのシャットダウンまで残存し続けることになる。そのような問題を避けるには、mmapを使って共有メモリを作成すればよい。2つの通信しあうプロセスが同じ名前の一時ファイルをオープンし、それに対してmmapすることでファイルをメモリにマッピングする。結果として、メモリマップされたファイル(メモリマップトファイル)への変更はもう一方のプロセスからも同時に観測できる。この技法の利点は、両方のプロセスが終了したとき、OSが自動的にファイルをクローズし、共有メモリを削除する点である。 Linuxカーネル 2.6 では、RAMディスク形式の共有メモリとして /dev/shm が導入された。より正確に言えば、誰でも書き込めるメモリ内のディレクトリであり、その容量の上限は /etc/default/tmpfs で指定できる。/dev/shm 機能サポートはカーネルの設定ファイルで指定でき、デフォルトでは無効となっている。なお、RedHat や Debian ベースのディストリビューションではデフォルトで有効になっている。 Androidでのサポート. Android では Linux カーネルを使用しているが、IPC 関係が一部無効になっており、独自に開発した(現在はLinuxカーネルに入っている)ashmem (anonymous shared memory) を使用している。メモリが不足したときにカーネルが解放する仕組みがあり、解放されないようにするには、codice_8 を使い指定する。 Windowsでのサポート. Microsoft Windowsでは、Win32 APIのcodice_9関数を使って共有メモリ(メモリマップトファイル)を作成することができる。クライアント側プロセスはcodice_10関数を使って、ホスト側プロセスにて作成済みの共有メモリのハンドルを取得することができる。共有メモリを各プロセスのアドレス空間にマッピングするにはcodice_11関数を使う。 なおWindows APIには、codice_12 など “-SharedMemory” の名前を持つ関数があるが、これはセキュリティ関連のAPIであり、メモリ共有のためのAPIではない。これをメモリ共有のために使用すれば、リソースを大量に消費しシステムリソースを使い果たす可能性がある。 プログラミング言語ごとのサポート. 一部のC++ライブラリは、共有メモリ機能への移植性の高いオブジェクト指向的なアクセスを提供している。例えば、Boost C++ライブラリには Boost.Interprocess があり、POCO C++ Libraries には Poco::SharedMemory、Qt には QSharedMemory クラスがある。 PHP では POSIX で定義している関数群とよく似た共有メモリ用APIが存在する。 .NET Frameworkはバージョン4でcodice_13クラスを標準化した。.NET CoreあるいはXamarin (Mono) を通じて、Windows以外の他のプラットフォームでも利用できる。
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統計図表
統計図表(とうけいずひょう)は、複数の統計データの整理・視覚化・分析・解析などに用いられるグラフおよび表の総称である。ここで、グラフとは「図形を用いて視覚的に、複数の数量・標本資料の関係などを特徴付けたもの」を指す。この意味においてのグラフはしばしば「統計グラフ」と呼ばれる。 統計図表は、統計データの整理・分析・検定などの過程で用いられる。統計図表を駆使することで を視覚的に理解できる。 概要. 統計図表を適切に活用すれば など、現状把握や客観的判断を行ううえで大きな手助けとなる。統計図表を用いて、統計データの傾向などを把握することを「統計データの解釈」あるいは「資料解釈」という。 どんなときにどんなグラフを用いるのがよいのだろうか?研究やそれに準じる調査活動において統計グラフを作成する必要がある局面は など様々な状況がありえるが、どのような場合においても、 がなければ統計グラフの作成が不可能である。これについては「統計図表を作る前に」で述べる。 統計グラフの作成は方眼紙などを用いるのが基本だが、小中学校の教育の現場を除けば、最近ではExcelなどの表計算ソフト、場合によってはOriginやカレイダグラフなどの統計ソフトを用いるほうが多いと思われる。 統計図表を作る前に. 統計図表の作成は、実験・社会調査・マーケティングなどの調査活動におけるデータの整理・分析の一環として行われる。統計グラフの作成を、調査活動自体から切り離して考えるのは難しい。何を分析するのか、何を訴えるのかによって「適切なグラフは何か」が変わってくる。一般的な見地から「正しい統計グラフを作成するための目安」(一般的な精神のほか、「棒グラフを用いるのが適切な側面」のような事例分析)を示すこと自体は可能だが、馬鹿の一つ覚えは通用しない(データマイニング参照)。それぞれの場合に応じて、工夫をこらすだけの力をもつのが必要で、そのためにはよいといわれる論文などに掲載されている統計図表を、その論旨と照らし合わせながら吟味して、目を肥やす必要がある。 また、統計データそのものがない状態で、あたかもそれがあるように偽ってグラフを作成して発表しまっては、少数の例外を除き捏造である。あくまで統計グラフの作成は、データの加工手段の一つである。「目的や着眼点に沿って散在する情報を収集する」という過程なしには成立し得ない。さらに言えば、グラフ作成の前に、データ自体に何らかの統計処理を加える場合がある。データの取得・処理の妥当性については、グラフの選択やスケールなどの設定以前の問題だが、この段階で問題がある場合には、グラフ自体の価値はなくなる。ただし、データの取得・処理の妥当性についても、統計学特に実験計画法などの体系的な学問が存在するが、安易に可否を決められる問題ではない。 先にも述べたように、グラフを作成する上では、 を明確にしておく必要がある。 たとえば「ここに全国の小学生それぞれの身長・体重・学年・学校を記したデータがあります。さぁ統計グラフを作ってください」といわれたとして、データとしては膨大であるにしても、これだけの“情報”では「どのようなグラフをどのように作成するのが適切か」を決めることはできない。つまり、 などが定まらない(「統計グラフの種類と、グラフ選択の目安」参照)。たとえば のように、同じデータを用いたとしても何を議論するのかによって適切なグラフは異なる。同じ「身長のバラつき」が見たいと言った場合でも のように、スケールの選択や場合によってはグラフの選択さえ変わってくる。無論、複数の種類のグラフを選択し得る場合もある。なお、目的が明確になったとしても、どのような問題を論じるのにはどのようなグラフがよいのかについて知らねば、どうにもならないが、これについては後述する。 グラフ作成の下準備の過程は、概ね下記のとおりである。 より一般に、グラフを作成するという問題は「『主張すべき事柄』を論証するための素材をどのような素材を集め、それをどのように配置するか」という問題の一部である。統計グラフの作成までの具体的な手順は、人それぞれで状況次第ではあるが、どのような場合においても「どのようなデータからどのような知見を得ようとするのか」がある程度定まらなければ作成できない。そのため統計グラフ作成の手順は、研究の手順とほぼ同じで、概ね 「目的や着眼点に沿って散在する情報を集約した後、それを整理・分析し、特徴・傾向を見出す」という過程を経る。当然の話だが、これらの各段階が適切に行われていることが、グラフ自体の適切・不適切を決める。 統計グラフの種類と、グラフ選択の目安. 統計グラフの分類は、人によって様々だが、よく使われるものから順に などがある。これらそれぞれの説明は、それぞれの項目に委ねる。 統計グラフ選択の目安を以下に示す。 実証的な研究分野における統計図表の活用. 自然科学、社会科学、人文科学を問わず、統計を根拠とした実証性が求められる研究分野では、データの整理・分析の一環として、統計図表を作成する局面が多数ある。具体的には、 など様々な状況がありえる。 そして、いずれの分野においても、 といった場面が挙げられる。 変量同士の相関を議論することが主となる場合には、実際に用いられるグラフのほとんどが散布図である。そのほか等高線図や2次元分布図等の広い意味でのカラーグラフ(2D・3D)、棒グラフである。棒グラフはヒストグラムの提示に用いられるのがほとんどである。3Dグラフは、正しく使えば値の3次元的な分布を正確かつ直感的に伝えることができるため、特に最近では、権威ある査読つき論文においてもよく使われている。箇条書きにすると、以下がよく使われる。 統計処理に際し、本来的に「データは連続的な量として取得されているはず」という暗黙の前提があり、物理学・化学・工学・経済学・心理学問わず「変量同士の相関」を見るのが主な目的であるため、理想的には関数グラフのようなものを得たいという考えが暗にある。そのため圧倒的大多数において散布図を用いて という処理が行われる。作成される散布図は、少数のデータから全体像を推測する場合には、「実際のデータの測定値」をそのまま散布図上に書き込むことが多い。データのラベルが離散的で、かつデータの量が充分多数で、そのデータの分布が正規分布に従っている場合には、ラベルごとの平均値のみをプロットし、それに適切なエラーバーをつける方法で作成されることが多い。 コンピュータ技術の進展により、統計グラフと画像(写真)の区別が曖昧になってきているという傾向がある。デジタル化された画像は空間座標・色の2種類の系列からなる情報の相関関係を2次元的あるいは3次元的に示したある種のカラーグラフの一種でしかなく、実際カラーグラフとして作成された等高線図などと解像度や、数字の羅列としてのデータ自体のみからでは区別がつかない。 初等教育の過程で重視される折れ線グラフは、ロードマップなどの未来技術予測などには多用されるものの、 などの理由から、ほとんどの場合は散布図にとってかわられている。 データの存在しない場合. データのないグラフが描かれる場合もある。例えばある考えを主張する場合、それを説明するために、言葉で行うのが普通であるが、おそらくデータがあればこうなる、という形でグラフが活用されることがある。 例えば島嶼生態学における種数平衡説は、海洋島における生物の種数を島へ新たに入植する種数と島で絶滅する種数の間の平衡によって決定されると論ずるが、前者については大陸からの距離が遠くなるほど低くなる、また後者は島が小さいほど高くなるということは容易に想像できる。これをグラフ化すれば、両者の曲線が中程の特定の点で交差し、そこがその島の種数の平衡点にあたることになるだろうことが容易に理解できる。この場合、実際にその曲線がどのような形であるかは実際の調査が必要であろうが、いずれにせよ右上がり、右下がりであれば議論が成立するので、グラフを作成することは虚偽にならない範囲でそれにわかりやすさをもたらす効果がある。 学校教育等における統計図表に関する指導. 最近では統計グラフの作成・解釈はノート作成、プレゼンテーション技術、文章技術などと並び、調査活動を行ううえで必要なアカデミックスキルの一つだと考えられるようになってきた。しかし、統計グラフの作成・解釈に関する系統だった指導は、あまりおこなわれていない。 小学校における算数の時間では棒グラフや折れ線グラフ、ドットプロットの扱いを習い、中学校の数学では、単元「資料の整理」の中でヒストグラムや箱ひげ図について学習する。また、高等学校の数学の教科書には「統計」の項目があり、そこでも簡単に触れられる。また、小中高を通じて、地理の時間には、社会統計や等高線の扱いを白地図などを用いて学ぶ。小中高の理科の時間にも「実験データの整理」などという意味合いで教えられることがある。大学では、学生実験などにおいて実験ノート指導などと平行して指導される。 公務員試験などでは「資料解釈」という科目として出題される。システムアドミニストレータ試験においても「状況に応じた適切なグラフ選択」の問題が出題される。また、品質管理などの現場で教育されることがあり、品質管理関係の教材には、グラフの選択などに対して詳しい検討を行っているものがある。
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木 (数学)
数学、特にグラフ理論の分野における木(き、)とは、連結で閉路を持たない(無向)グラフである。有向グラフについての木(有向木)についても論じられるが、当記事では専ら無向木を扱う(有向木については節にまとめた)。 閉路を持たない(連結であるとは限らない)グラフを森(もり、)という。木は明らかに森である。あるいは、森を一般的な場合とし、連結な森を木という、とすることもある。 特徴づけ. 個の点からなるグラフ について次は同値である。 性質. 木 には、以下のような性質がある。 上の定理から、木には必ず端末点があり、その端末点を除去すると位数の一つ小さい木が得られる。逆に言えば、位数 の木は、位数 の木に一つの新しい点と、これに接続する一本の新しい辺を加えて得られる。 根つき木. あるノードを選んで、それを一番「上」にあると考えると、そのノードを基準として2つのノードに上下の関係を考えることが出来る(すべてのノードの組み合わせについて定義されるとは限らない)。このとき、その一番上のノードを根(ね、)という。根を持つ木を単なる木と区別して根付き木という。 根つき木に関する用語は、それを家系図に見たてたものが多く使われる。 また、根つき木に関する用語として、他に以下のようなものがある。 n分木. を自然数とする。葉ではない各点に対しその点の子の数が常に であるような木を分木(ぶんぎ; n-ary tree)という。特に二分木はいくつかのアルゴリズムと密接に関わるデータ構造である(ただし大抵は次で述べる有向木による二分木)。 有向木. 一般に、無向木は任意の点を根とみなすことができる。それに対し有向木は、根である点をただ1つだけ持つ。辺の向きとして、根から葉に向かっている場合と、葉から根に向かっている場合とがある。混在はできない(混在してしまうと閉路ができてしまう)。 閉路を持たない任意の有向グラフは有向非巡回グラフ(Directed Acyclic Graph、DAG)である。有向木は連結な有向非巡回グラフでもあるが、連結な有向非巡回グラフが必ずしも有向木とは限らない(DAGでは子孫あるいは親の共有がある場合がある。そうするとそれは木ではない)。
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グラフ理論
グラフ理論(グラフりろん、)は、ノード(節点・頂点、点)の集合とエッジ(枝・辺、線)の集合で構成されるグラフに関する数学の理論である。 グラフ(データ構造)などの応用がある。 概要. グラフによって、様々なものの関連を表すことができる。 例えば、鉄道や路線バス等の路線図を考える際には、駅(節点)がどのように路線(辺)で結ばれているかが問題となる一方、線路が具体的にどのような曲線を描いているかは本質的な問題とならないことが多い。 したがって、路線図では駅間の距離や微妙な配置、路線の形状などがしばしば地理上の実際とは異なって描かれている。つまり、路線図の利用者にとっては、駅と駅の「つながり方」が主に重要な情報なのである。 このように、「つながり方」に着目して抽象化された「点とそれらをむすぶ線」の概念がグラフであり、グラフがもつ様々な性質を探求するのがグラフ理論である。 つながり方だけではなく「どちらからどちらにつながっているか」をも問題にする場合、エッジに矢印をつける。このようなグラフを有向グラフ、または、ダイグラフという。矢印のないグラフは、無向グラフという。 グラフを表現するのに、図ではなく、隣接行列を用いることがある。無向グラフの隣接行列は、対称行列になる。例えば、上のグラフは、次の隣接行列で表現できる。 グラフの例. 日常的な問題や工学的問題の多くをグラフとして考えることができる。 起源. グラフ理論は、1736年に「ケーニヒスベルクの問題」と呼ばれるパズルに対してオイラーが解法を示したのが起源のひとつとされる。この問題は、一筆書きと深く関連している。 形式的な定義. 有向グラフ. 集合 "V" , "E" と、"E" の元(げん、要素)に、二つの "V" を元の対で対応させる写像 の三つ組 を有向グラフという。"V" の元を "G" の頂点またはノード、"E" の元を "G" の辺または弧と呼ぶ。"f(e)=(v, v)となるe∈Eはループに対応し、f(a)=f(b)となるa,b∈Eは多重辺に対応する。" 無向グラフ. P("V") を "V" の冪集合とする。"E" の元に "V" の 部分集合を対応させる写像 があって、"E" の任意の元 "e" について、"e" の像 "g(e)" の濃度が1または2であるとき、三つ組 を無向グラフという。"V" の元を "G" の頂点、"E" の元を "G" の辺と呼ぶ。 "g(e)の濃度が1となるe∈Eはループに対応し、g(a)=g(b)となるa,b∈Eは多重辺に対応する。" "単純グラフに限って言えば、E" を最初からある集合の部分集合と考え、写像を用いずにグラフを定義することもできる:有向グラフでは、"E" を "V"×"V" の部分集合、無向グラフでは、"E" を P("V") の部分集合で、2つの元の集合だけからなるものとすればよい。 用語. 以下では単にグラフといった時には無向グラフを指す。 頂点と辺. 頂点の集合はformula_6、辺の集合はformula_7で表す。グラフformula_8が先に与えられている場合には、頂点集合をformula_9、辺集合をformula_10 と表すこともある。 数学以外の分野では、頂点を節点、辺を枝と呼ぶことが多い。辺を弧やリンクと呼ぶこともある。 重み付きグラフ. グラフの辺に重み(コスト)が付いているグラフを、重み付きグラフと呼ぶ。乗換案内図の場合、駅間の所要時間が「重み」にあたる。重み付きグラフはネットワークとも呼ばれる(フローネットワーク, ベイジアンネットワーク, ニューラルネットワークなど)。 接合と隣接. 辺formula_11の両端の点を端点といい、端点は辺formula_11に接合(または接続)しているという。また、辺と辺がある頂点を共有しているとき、その辺どうしは隣接しているという。 距離と直径. 2頂点間(隣接している必要はない)を経由する辺数を長さと呼び、特に最短経路における辺数を距離と呼ぶ。グラフ "G" の最大頂点間距離を直径と呼び、diam("G") と表す。 ループと多重グラフ. ある辺の両端点が等しいとき、ループ(自己ループ)という。また、2頂点間に複数の辺があるとき、多重辺という。ループも多重辺も含まないグラフのことを単純グラフといい、ループや多重辺を含むグラフのことを多重グラフという。 部分グラフと拡大グラフ. 2つのグラフformula_8とformula_14 について、formula_15の頂点集合と辺集合が共にformula_8の頂点集合と辺集合の部分集合になっているとき、formula_14はformula_8の部分グラフである、またはformula_8はformula_14 の拡大グラフであるといい、formula_21と表す。特に、formula_8とformula_14の頂点集合が等しいとき、formula_14はformula_8の全域部分グラフであるという。また、formula_8 の頂点集合 formula_6 の部分集合 formula_28 を取り出して、両端点が formula_28 に属する全ての辺を辺集合とする "G" の部分グラフ formula_30 を、誘導部分グラフという。グラフ formula_8 からある辺 formula_11 を取り除き、その辺の両端点を一つの頂点にまとめることを(辺の)縮約といい、縮約の結果得られるグラフを formula_33 と表す。 なお、誘導部分グラフの「誘導」はinducedの訳語である。induceの訳としてはこの「誘導する」の他に「生成する」がある。このため、誘導部分グラフのことを生成部分グラフということもある。一方、生成部分グラフは全域部分グラフのことを指すこともある。このため、生成部分グラフという語を使う際は、混乱がないか気を付ける必要がある。 次数と正則グラフ. 頂点 formula_34 に接続する枝の数を次数といい、formula_35 で表す。有向グラフにおいては、formula_34 に入ってくる辺数のことを入次数、formula_34 から出て行く辺数のことを出次数という。すべての頂点が同数の隣接点、つまり次数をもつグラフを正則グラフと呼ぶ。任意の頂点 formula_34 について、formula_39 が成り立つとき、"k" -正則という。"k" -正則なグラフのことを"k" -正則グラフという。グラフ formula_8 が持つ頂点の次数の最小値を formula_41、最大値を formula_42 で表す。また、次数 0 の頂点のことを孤立点という。 道と閉路. 隣接している頂点同士をたどった formula_43 の系列を長さ "n" (≥ 0) の歩道(鎖・ウォーク)という。辺の重複を許さない歩道を路(小径・トレイル)という。頂点の重複を許さない場合、つまり、両端の2頂点の次数が1、それ以外のすべての頂点の次数が2であるグラフを、道(パス)、開いた歩道をパスという場合は単純パスという。また、始点と終点が同じ路のことを閉路(回路・循環 ・サーキット、サイクル)、始点と終点が同じ道(つまりformula_44という路でformula_45が相異なるもの)のことを閉道(サイクル)という。 完全グラフとクリーク. 任意の 2 頂点間に枝があるグラフのことを完全グラフ(完備グラフ)という。formula_46 頂点の完全グラフは、formula_47 で表す。formula_48 は三角形と呼ばれる。また、完全グラフになる誘導部分グラフのことをクリークという。大きさ(サイズ) formula_46 のクリークを含むグラフは「"n"-クリークである」という。辺をもつグラフは必ず2頂点の完全グラフを含むので 2-クリークである。また "n"-クリークであって、直径が "n" 未満となるグラフを "n"-クランという。 応用. グラフは物理学的、生物学的、社会的、および情報システムにおける多くの種類の関係と過程をモデル化するために使うことができる。多くの現実的問題はグラフによって表すことができる。現実世界のシステムへの応用を強調する時には、「ネットワーク」という用語がグラフを意味するために定義されることがある。このグラフでは、属性(例えば名前)が頂点および辺と関連付けられる。現実世界のシステムをネットワークとして表現し理解する主題はと呼ばれる。 計算機科学. 計算機科学において、グラフはコミュニケーション、データ編成、計算装置、計算の流れ等のネットワークを表すために使われる。例えば、ウェブサイトのリンク構造は有向グラフとして表すことができる。ここでは、頂点がウェブページを表し、有向辺があるページから別のページへのリンクを表す。同様のアプローチを、ソーシャルメディア、旅行、生物学、コンピュータチップ設計、神経変性疾患の進行のマッピング、そしてその他多くの分野における課題について取ることができる。したがって、グラフを取り扱うためのアルゴリズムの開発が計算機科学における主要な興味である。はグラフ書換え系によってしばしば定式化され、表現される。グラフ変換系と相補的なグラフの規則に基づくメモリー内操作に注目したシステムが、グラフ構造を持つデータのトランザクションセーフで永続的な格納と問い合わせに対応したである。 言語学. 様々な形式のグラフ理論的手法は言語学において特に有用であることが証明されている。これは、自然言語がしばしば離散構造へとよく適しているためである。伝統的に、統語論と合成意味論は木構造に従い、それらの表現力は、階層的グラフによってモデル化されるに密接に関係する。主辞駆動句構造文法といったより現代的な手法は型付き素性構造(これは有向非巡回グラフである)を用いて自然言語の構文をモデル化する。語彙意味論内、特に計算機へ応用としては、単語の意味のモデル化は、与えられた単語が関連する単語の観点から理解される時により容易である。したがって意味ネットワークは計算言語学において重要である。今で、哲学(例えば、を用いる最適性理論)や形態論(例えばを用いる有限状態形態論)におけるその他の手法は、グラフとしての言語の解析において一般的である。実際、この数学の分野の言語学への有用性は、TextGraphs、WordNetやといった様々な "Net" プロジェクトのような組織を生んできた。 物理学および化学. グラフ理論は化学および物理学において分子を研究するためにも使われる。凝縮系物理学では、シミュレーションした複雑な原子構造の3次元構造は、原子のトポロジーに関連したグラフ理論的性質に関する統計量を集めることによって定量的に研究することができる。また、ファインマンの計算のグラフと規則は、理解したい実験的数字と密接に関係した形式で量子場理論を要約する。化学では、グラフは分子についての自然な模型を作り、ここでは頂点が原子、辺が結合を表わす。このアプローチは分子構造の計算処理(分子エディタからデータベース探索まで)において特に使われる。統計物理学では、グラフは系の相互作用している部位間の局所的つながりや、こういった系における物理的過程のダイナミクスを表わすことができる。同様に、計算論的神経科学では、グラフは様々な認知過程を生じさせるために相互作用する脳領域間の機能的結合を表わすために使うことができる。ここでは、頂点が脳の異なる領域を表わし、辺がそれらの領域間の結合を表わす。グラフ理論は電気回路網の電気的モデリングにおいて重要な役割を果たす。ここで、重みはネットワーク構造の電気的性質を得るために有線部分の抵抗と関連付けられる。グラフは多孔質材料のミクロスケールチャネルを表わすらために使うこともできる。ここでは、頂点が孔を表わし、辺が孔間をつなぐより小さなチャネルを表わす。化学グラフ理論は分子をモデル化する手段として分子グラフを使用する。 社会科学. グラフ理論は社会学においても、例えば、特にソフトウェアを使って、うわさの広がりを調査したりする手段として広く使われている。社会ネットワークの傘の下に、多くの異なる種類のグラフがある。知り合い関係グラフと友情関係グラフは人々が知り合いかどうかを記述する。影響グラフは特定の人々が他者の振る舞いに影響するかどうかをモデル化する。最後に、協調グラフは2人の人物が、映画で一緒に演技するといったある特定のやり方で協力するかどうかをモデル化する。 生物学. 同じく、グラフ理論は生物学および保全の取り組みにおいて有用である。ここでは、頂点が特定の種が存在(または生息)する地域を表わすことができ、辺は地域間の移動経路または移動を表わす。この情報は、繁殖パターンを見る時や、病気や寄生虫の広がり、移動が他の種にどのように影響しうるかを追跡するために重要である。 グラフ理論はコネクトミクスでも使われる。神経系はグラフとして見ることができる。ここで、節点はニューロンであり、辺はニューロン間のつながりである。 数学. 数学では、グラフは幾何学ならびに結び目理論といったトポロジーの特定の分野において有用である。代数的グラフ理論は群論と密接なつながりを持つ。代数的グラフ理論は動的系や複雑性を含む多くの分野に応用されている。 その他. グラフ構造は、グラフのそれぞれの辺に重みを割り当てることによって拡張することができる。重み付きグラフは、対ごとのつながりが何らかの数値を持つ構造を表わすために使われる。例えば、グラフが道路網を表わすとすると、重みは各道路の長さを表わすことができるだろう。それぞれの辺に関連した複数の重み(距離、旅行時間、金銭的コストなど)が存在するかもしれない。このような重み付きグラフはGPSおよび飛行時間と費用を比較する旅行計画探索エンジンをプログラムするために一般的に使われる。 備考. 2022年から日本で導入される高等学校新学習指導要領の数学C(公式配布されるのは2024年4月)には「図、表、統計グラフ、離散グラフ及び行列などを用いて、日常の事象や社会の事象などを数学的に表現し、考察すること」とあり、日本では初めてグラフ理論にかかわる分野が高等学校の数学教科書に掲載される予定である。ただし、その分野を入試に出題する大学は殆どない。
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データ構造
データ構造(データこうぞう、)とは、コンピュータプログラミングでの、データの集まりの形式化された構成である。格納された各データの参照や修正といった管理を容易にするための構成である。一定の関係性を持たせたデータ型のコレクションであり、データ値に適用するための関数や手続きも格納されることがある。データの代数的構造とも言われる。 概要. ソフトウェア開発において、データ構造についてどのような設計を行うかは、プログラム(アルゴリズム)の効率に大きく影響する。そのため、さまざまなデータ構造が考え出されている。多くのプログラムの設計において、データ構造の選択は主要な問題である。これは大規模システムの構築において、実装の困難さや質、最終的なパフォーマンスはベストのデータ構造を選択したかどうかに大きく依存してきたという経験の結果である。 多くの場合、データ構造が決まれば、利用するアルゴリズムは比較的自明に決まる。しかし場合によっては、順番が逆になる。つまり、与えられた仕事をこなす最適なアルゴリズムを使うために、そのアルゴリズムが前提としている特定のデータ構造が選択される。いずれにしても適切なデータ構造の選択は極めて重要である。この洞察は、多くの定式化された設計手法やプログラミング言語において、データ構造がアルゴリズムよりもキーとなる構成要素となっていることに現れている。大半の言語は異なるアプリケーションにおいてデータ構造を安全に再利用できるよう、実装の詳細をインターフェースの背後に隠蔽するような、モジュール化のしくみを備えている。C++やJavaといったオブジェクト指向プログラミング言語はクラスをこの目的に用いている。 データ構造は専門的な、あるいは非専門的な(すなわち、あらゆる)プログラミングにとって非常に重要なので、C++におけるSTLや、Java API、および.NET Frameworkのようなプログラミング言語の標準ライブラリや環境において多くのデータ構造がサポートされている。データ構造が実装を表すのかインターフェースを表すのかについてはいくらか議論がある。どのように見えるかは相対的な問題なのかもしれない。データ構造は2つの関数の間にあるインターフェイスとして見ることもできるし、データ型に基づいて構成されたストレージにアクセスする方法を実装したものとして見ることもできる。
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Python
Python(パイソン)はインタープリタ型の高水準汎用プログラミング言語である。 概要. Pythonは1991年にグイド・ヴァン・ロッサムにより開発されたプログラミング言語である。 最初にリリースされたPythonの設計哲学は、ホワイトスペース(オフサイドルール)の顕著な使用によってコードの可読性を重視している。その言語構成とオブジェクト指向のアプローチは、プログラマが小規模なプロジェクトから大規模なプロジェクトまで、明確で論理的なコードを書くのを支援することを目的としている。 Pythonは動的に型付けされていて、ガベージコレクションされている。構造化(特に手続き型)、オブジェクト指向、関数型プログラミングを含む複数のプログラミングパラダイムをサポートしている。Pythonは、その包括的な標準ライブラリのため、しばしば「バッテリーを含む」言語と表現されている。 Pythonのインタプリタは多くのOSに対応している。プログラマーのグローバルコミュニティは、無料のオープンソース リファレンス実装であるCPythonを開発および保守している 。非営利団体であるPythonソフトウェア財団は、PythonとCPythonの開発のためのリソースを管理・指導している。 特徴. Pythonはインタプリタ上で実行することを前提に設計している。以下の特徴をもっている: 言語. Pythonには、読みやすく、それでいて効率もよいコードをなるべく簡単に書けるようにするという思想が浸透しており、Pythonコミュニティでも単純で簡潔なコードをよしとする傾向が強い。 設計思想. Pythonの本体は、ユーザがいつも必要とする最小限の機能のみを提供する。基本機能以外の専門機能や拡張プログラムはインターネット上にライブラリとして提供されており、別途ダウンロードして保存し、必要なツールはこのツールキットからその都度呼び出して使用する。 Pythonでは「あることをなすのに唯一の良いやり方があるはず」という哲学がある(参考: Perl「やり方は一つじゃない」)。 Pythonではプログラムの文書化(ソフトウェアドキュメンテーション)が重視されており、言語の基本機能の一部となっている。 構文. インデントが意味を持つ「オフサイドルール」が特徴的である。 以下に、階乗 (関数名: factorial)を題材にC言語と比較した例を示す。 Pythonのコード: def factorial(x): if x == 0: return 1 else: return x * factorial(x - 1) わかりやすく整形されたC言語のコード: int factorial(int x) { if (x == 0) { return 1; } else { return x * factorial(x - 1); この例では、Pythonと整形されたC言語とでは、プログラムコードの間に違いがほとんど見られない。しかし、C言語のインデントは構文規則上のルールではなく、単なる読みやすさを向上させるコーディングスタイルでしかない。そのためC言語では全く同じプログラムを以下のように書くこともできる。 わかりにくいC: int factorial(int x) { if(x == 0) {return 1;} else Pythonではインデントは構文規則として決められているため、こうした書き方は不可能である。Pythonではこのように強制することによって、ソースコードのスタイルがその書き手にかかわらずほぼ統一したものになり、その結果読みやすくなるという考え方が取り入れられている。これについては賛否両論があり、批判的立場の人々からは、これはプログラマがスタイルを選ぶ自由を制限するものだ、という意見も出されている。 インデントによる整形は、単に「見かけ」だけではなく品質そのものにも関係する。例として次のコードを示す。 間違えたC: if (x > 10) x = 10; y = 0; このコードはC言語の構文規則上は問題無いが、インデントによる見かけのifの範囲と、言語仕様によるifの実際の範囲とが異なっているため、プログラマの意図が曖昧になる。(前者は"y = 0;"がif文に包含され、後者は"{}"がないため"y = 0;"がif文に包含されない)この曖昧さは、検知しにくいバグを生む原因になる。例としてはApple goto failが挙げられる。 ソースコードを読む際、多くの人はインデントのような空白を元に整列されたコードを読み、コンパイラのように構文解析しながらソースを読むものではない。その結果、一見しただけでは原因を見つけられないバグを作成する危険がある。 Pythonではインデントをルールとすることにより、人間が目視するソースコードの理解とコンパイラの構文解析の間の差を少なくすることで、より正確に意図した通りにコーディングすることができると主張されている。 型システム. Pythonは動的型付けシステムをもつ。同時に任意の型ヒントを持っており外部ツールによる静的型チェックを可能にしている。 値自身が型を持っており、変数はすべて値への参照である。 基本的なデータ型として、論理型・整数型・浮動小数点数型・複素数型・文字列型・バイト列型・関数型がある。整数型は(メモリの許す限り)無制限の桁数で整数計算が可能である。浮動小数点数型を整数型にキャストすると、小数点以下が切り捨てられる。 組み込みのコンテナ型として、リスト型、タプル型、辞書型、集合型がある。リスト型および辞書型はミュータブル、タプル型はイミュータブルである。集合型には変更可能なものと変更不能なものの2種類がある。タプル型とリスト型は、多くのプログラミング言語では配列と呼ばれるものに類似している。しかし、Pythonではタプル型は辞書のキーとして使うことができるが、リスト型は内容が変わるため辞書のキーとして使うことはできないという理由から、これら2つの型を区別している。 多くのオブジェクト指向プログラミング言語と同様、Pythonではユーザが新しく自分の型を定義することも可能である。この場合、組み込み型を含む既存の型を継承して新たな型(クラス)を定義する事も、ゼロから全く新しい型を作り出す事も出来る。 Pythonは基本的にメソッドや関数の引数に型を指定する必要がない。そのため、ダック・タイピングという、内部で必要とする演算子やメソッドに対応していれば、関数やオブジェクトの設計時点で意図していなかったオブジェクトを引き渡すことも可能である。 型ヒント. Pythonは型ヒントの構文を用意している。これはプログラマ向けの注釈および外部ツールによる静的型チェックに用いられる。 例として、文字列型の値を受け取って文字列型の値を返す関数は次のようにアノテーションできる。 def greeting(name: str) -> str: return 'Hello ' + name メモリ管理. Pythonはガベージコレクションを内蔵しており、参照されなくなったオブジェクトは自動的にメモリから破棄される。CPythonでは、ガベージコレクションの方式として参照カウント方式とマーク・アンド・スイープ方式を併用している。マーク・アンド・スイープ方式のみに頼っている言語では、オブジェクトがいつ回収されるか保証されないので、ファイルのクローズなどをデストラクタに任せることができない。CPythonは参照カウント方式を併用することで、循環参照が発生しない限り、オブジェクトはスコープアウトした時点で必ずデストラクトされることを保証している。なおJythonおよびIronPythonではマーク・アンド・スイープ方式を採用しているため、スコープアウトした時点で必ずデストラクトされることが前提のコードだとJythonやIronPythonでは正しく動かない。 イテレータ. イテレータを実装するためのジェネレータが言語仕様に組み込まれており、Pythonでは多くの場面でイテレータを使うように設計されている。イテレータの使用はPython全体に普及していて、プログラミングスタイルの統一性をもたらしている。 オブジェクト指向プログラミング. Pythonでは扱えるデータの全てがオブジェクトである。単純な数値といった基本的なデータ型をはじめ、組み込みのコンテナ型、組み込み関数など、これらは全て統一的な継承関係をもつオブジェクトであり「型」をもっている。これらの組み込み型とユーザ定義型は区別されず、組み込み型を継承したクラスを定義できる。上の「データ型」の項で述べたように Pythonは静的な型チェックを持たないため、Javaのようなインターフェイスという言語上の仕組みは必要とされない。 クラスの継承 () メカニズムでは、複数の基底クラスを持つことができ(多重継承)、導出されたクラスでは基底クラスの任意のメソッドをオーバライド(; 上書き)することが可能である。 また、オブジェクトには任意のデータを入れることができる。これらのメソッドやデータは、基本的に、すべてcodice_1であり、codice_2(仮想)である。ただし、先頭にアンダースコアをもつメンバをcodice_3とすることができる。これは単なるマナーであるが、アンダースコアを2つもつ場合は、クラスの外部からメンバの名前を隠された状態(; 難号化)とすることでカプセル化を実現できる。また、利用者定義演算子が機能として用意されておりほとんどの組み込み演算子(算術演算子()や添字表記)はクラスインスタンスで使うために再定義することが可能となっている。 標準ライブラリ. Pythonには「電池付属 ()」という思想があり、プログラマがすぐに使えるようなライブラリや統合環境をあらかじめディストリビューションに含めるようにしている。このため標準ライブラリは非常に充実している。 サードパーティによるライブラリも豊富に存在する(参考: Python#エコシステム)。 組み込み型. Pythonは様々な組み込み型(built-in types)をサポートする。 Mapping型. Mapping型はハッシュ可能な値を任意のオブジェクトへ対応付ける型である。対応する具象クラスは codice_4 である。抽象基底クラスに codice_5 があり、抽象メソッドとして codice_6, codice_7, codice_8 が定義されている。codice_6 をもったcollectionとも言える。 多言語の扱い. 最初のPythonでは1バイト単位での文字列型のみ扱い、ひらがな・(全角) カタカナおよび漢字のようなマルチバイト文字はサポートしていなかったが、その後のPython 2.0からはUnicode文字型が新たに導入された。 Python 3.0では、Python 2.xにおける文字列型がバイト列型に、またUnicode文字列型が文字列型に変更された。これにより、文字列をPython 3.0で扱う際には後述の変換処理を必ず行う必要がある。ファイル入出力などでエンコードを明示しなければ、標準エンコードを用いて暗黙に行われる場合も多い。これにより多言語の扱いを一貫したものにしている。 Pythonでは文字のエンコードとUnicodeの内部表現を明確に区別している。Unicode文字はメモリ中に保持される抽象的なオブジェクトであり、画面表示やファイルへの入出力の際には変換ルーチン(コーデック)を介して特定のエンコーディングのバイト列表現との間で相互に変換する。また、ソースコード中の文字コードを認識する機能があり、これによって異なる文字コードで書かれたプログラムの動きが異なるリスクを解消している。 Pythonでは変換ルーチンをモジュールとして追加することで、さまざまなエンコーディングに対応できるようになっている。日本語の文字コード (EUC-JP, Shift_JIS, MS932, ISO-2022-JP) に対応したコーデックも作成されている。Python 2.4からは、日中韓国語用のコーデックが標準でディストリビューションに含まれるようになったため、現在では日本語の処理に関する問題はほとんどなくなった。ただしGUIライブラリであるTkinterや統合開発環境のIDLEは、プラットフォームにもよるが、まだきちんと日本語に対応していないものもある。 ソースコードの文字コードには、ASCIIと互換性があり、Pythonが対応しているものを使用する。ソースコードのデフォルトエンコーディングは、Python 3.xではUTF-8(ソースコード以外のPython 3のデフォルトエンコーディングは複雑になっている)、Python 2.xではASCIIであるが、デフォルトエンコーディング以外の文字コードを使う場合は、ソースファイルの1行目か2行目に一定の書式でコメントとして記述することになっており、しばしば以下のようにEmacsやVimなどのテキストエディタにも認識可能な書式で記述される(次の例は Emacs が認識できる書式)。 s = '日本語の文字列' 実行環境. Pythonはインタプリタ型言語であり(ほとんどの場合)プログラムの実行に際して実行環境(ランタイム)を必要とする。以下はランタイム(実装)およびそれらが実装されているプラットフォームの一覧である。 動作環境. Pythonの最初のバージョンはAmoeba上で開発された。のちに多くの計算機環境上で動作するようになった。 ランタイム・コンパイラ. Pythonには複数の実装(ランタイム又はコンパイラ)が存在する。 エコシステム. Pythonはパッケージ管理ソフト・ライブラリ・レポジトリなどからなるエコシステムを形成している。 パッケージ管理. Pythonのパッケージ管理はcodice_10・codice_11・codice_12・EasyInstallなどのパッケージ管理システムによっておこなわれる。バイナリパッケージのフォーマットにはwheelがあり、これをインタフェースとしてビルドシステムとパッケージ管理システムの分離が可能になっている。 Python Package Index (PyPI) と呼ぶ公式のパッケージリポジトリが存在する。 パッケージ管理および実行環境管理を含めた統合開発環境としてはAnaconda (Pythonディストリビューション)が存在する。 ライブラリ. Pythonは多様なコミュニティライブラリによって支えられている。 利用. Pythonは全世界で使われているが、欧米の企業でもよく使われている。大企業ではマイクロソフトやAppleなどのパッケージソフトウェア企業をはじめ、Google, Yahoo!, YouTube などの企業も利用している。また携帯電話メーカーのノキアでは、S60シリーズでPythonアプリケーションが動く。研究機関では、NASAや日本の高エネルギー加速器研究機構でPythonが使われている。 適応範囲はデータサイエンス、Webプログラミング、GUIベースのアプリケーション、CAD、3Dモデリング、数式処理など幅広い分野に及ぶ。 データサイエンスおよび数値計算用途. NumPy, SciPyなどの高速な数値計算ライブラリの存在により、データサイエンスや科学技術コンピューティングにもよく用いられる。NumPy, SciPyの内部はC言語で書かれているので、動的スクリプト言語の欠点の一つである動作速度の遅さを補っている。Numba を使うと、Python のコードが LLVM に JITコンパイルして利用可能であり、非常に高速な計算ができる。TensorFlow などのライブラリにより GPU 上で高速に計算するライブラリも充実している。 JetBrains とPythonソフトウェア財団による共同調査によると、2017年10月現在、最も主要な用途は何かというアンケートで、用途の27%がデータサイエンス(そのうち18%がデータ解析、9%が機械学習)である。 Webアプリケーション用途. Django や Flask といったWebアプリケーションフレームワークが充実しているため、Webアプリケーション開発用途にも多く使われている。JetBrains とPythonソフトウェア財団による共同調査によると、2017年10月現在、26%の人が最も主要な用途としてWeb開発を選んだ。 システム管理およびグルー言語用途. スクリプト言語としての特性から、従来Perlやシェルスクリプトが用いられることの多かったシステム管理用のスクリプトとして複数のOSで採用されている。また、異なる言語で書かれた多数のモジュールの機能を貼り合わせるグルー言語(糊の言語)として利用する例も多い。実際、多くの商用アプリケーションで Python は組み込みのスクリプト言語として採用されている。 JetBrains とPythonソフトウェア財団による共同調査によると、2017年10月現在、9%の人が最も主要な用途としてDevOps, システム管理, 自動化スクリプトを上げた。 教育用. Pythonは教育用の目的で設計されたわけではないが、その単純さから子供が最初に学ぶプログラミングにおける教育用の言語としても利用が増えている。グイド・ヴァンロッサムはPython設計以前に教育用言語であるABCの開発にかかわり、教育用としての利用について期待感を示したこともあり、方針として非技術者向けといった利用を視野に入れているとされることもある。 私の大好きなPython利用法は、騒ぎ立てずに、言語教育でプログラミングの原理を教えること。それを考えてくれ――次の世代の話だね。-- スラッシュドット・ジャパン『 Guido van Rossum へのインタビュー』 情報処理推進機構 (IPA) は国家試験の基本情報技術者試験で2020年の春期試験より COBOL を廃止して Python を追加した。 日本の高等学校情報科「情報Ⅰ」の教員向け研修教材の中で、プログラミング用言語としてPythonが使われている。 ただし、Pythonの言語は,言語自身に組み込まれている型とそれに付随するメソッドの多いことなどから,C言語などと較べて遙かに多くの憶えねばならない事柄があることになる。持つ機能の一部に限定して教育に使えば,憶える事柄を減らせるが,言語の機能をすべて知らなければ他人によって書かれたプログラムを正しく理解することが出来ない可能性がある。変数自身には型が無いことからプログラム上で扱われているデータ・オブジェクトの型が何であるかは実行時に決まるので、それを読み解きながらでないとプログラムの動作をうまく理解しにくい場合もある。 また、Pythonは処理の記述が最低一行で済む位文法がシンプルなため、まだプログラミングについてあまり深く知らない子どもにとっても取り組みやすい言語と言える。 print("Hello, World!") // Javaで記述した「Hello, World!」の例 // Javaは文字の表示に最低5行(括弧を除くと3行)コードを記述する必要がある。 public class hoge { public static void main(String...args) { System.out.println("Hello, World!"); Pythonはその文法のシンプルさのおかげで、 誰が書いても似たようなコードになるという性質があるので、学習していけば大人の作成したコードを理解できるようになる。 また、シンプルな文法なのでコードを記述している途中で混乱することがあまりなく、子どもが途中で投げ出しにくいという点も教育用として利用される理由でもある。 スポーツパフォーマンス分析. Pythonはプロスポーツの分析によく使われている。メジャーリーグベースボール(野球)、イングリッシュプレミアリーグ(サッカー)、ナショナルバスケットボールアソシエーション(バスケットボール)、ナショナルホッケーリーグ(アイスホッケー)、インディアンプレミアリーグ(クリケット)の実際のデータセットからのスポーツ分析は、ベストセラーの本と映画であるマネーボールによって示される現実世界の成功によって部分的に推進され、人気が高まっている研究分野として浮上している(セイバーメトリクス)。チームとプレーヤーのパフォーマンスデータの分析は、フィールド、コート、氷上だけでなく、ファンタジースポーツプレーヤーやオンラインスポーツギャンブルのリビングルームでもスポーツ業界に革命をもたらし続けている。実際のスポーツデータを使用した予測スポーツ分析の原則を使用して、プレーヤーとチームのパフォーマンスを予測する。 Pythonを使ってデータをプログラミングする方法を示したり、マネーボールのストーリーの背景にある主張を検証したり、マネーボールの統計の進化を調べたりすることが可能である。公開されているデータセットから野球のパフォーマンス統計を計算するプロセスを案内される。実行期待値マトリックスを使用して導出された、より高度な測定値(Wins Over Replace(WAR)など)に進む。これらの統計を使用して、独自のチームおよびプレーヤーの分析を行うことができるようになる。 Pythonを使用してプロスポーツの試合結果の予測を生成する方法の主な重点は、チームの支出に関するデータを使用して、ゲームの結果をモデル化する方法としてロジスティック回帰の方法を教えることである。過去の結果をモデル化し、そのモデルを使用して、まだプレイされていない結果のゲームを予測するプロセスを実行する。ベッティングオッズのデータを使用してモデルの信頼性を評価する方法をオーナーに示す。分析は最初に英国プレミアリーグに適用され、次にNBAとNHLに適用される。データ分析とギャンブルの関係、その歴史、および個人的なリスクを含むスポーツベッティングに関連して発生する社会的問題の概要も説明する。マネーボールは、データ分析を使用してチームの勝率を高めることができることを示すことにより、プロスポーツのパフォーマンス統計の分析に革命を引き起こした。 Pythonを使用してデータをプログラムし、マネーボールのストーリーの背後にある主張をテストし、マネーボール統計の進化を調べる方法を示し、公開されているデータセットから野球のパフォーマンス統計を計算するプロセスができる。スポーツ分析には、トレーニングと競技の両方の取り組みを定量化するアスリートとチームからの大量のPythonデータセットが含まれるようになった。ウェアラブルテクノロジーデバイスは、アスリートが毎日着用しており、シーズン全体にわたるアスリートのストレスと回復を詳細に調べるためのかなりの機会を提供する。これらの大規模なデータセットのキャプチャは、怪我の予防に関する新しい仮説と戦略、およびトレーニングと回復を最適化するためのアスリートへの詳細なフィードバックにつながった。Pythonでのプログラミングを使用して、トレーニング、回復、パフォーマンスに関連する概念を調査することもできる。 Python Scikit-learn(sklearn)ツールキットと実際の運動データを使用して教師あり機械学習手法を探索し、機械学習アルゴリズムと運動結果の予測方法の両方を理解する。サポートベクターマシン(SVM)、決定木、ランダムフォレスト、線形回帰およびロジスティック回帰、アンサンブルなどの方法を適用して、NHLやMLBなどのプロスポーツリーグからのデータを調べる。また、Apple Watchや慣性測定ユニット(IMU)などのウェアラブルデバイスも含まれる。分類と回帰の手法を使用して、運動活動やイベント全体であるスポーツ分析を可能にする方法を幅広く理解できるようになる。スポーツコンテストのカテゴリ別結果変数(つまり、勝ち、引き分け、負け)を処理する際の回帰モデル、線形確率モデル(LPM)を、その理論的基礎、計算アプリケーション、および経験的制限の観点からモジュールは、カテゴリ従属変数のLPMのより良い代替として、ロジスティック回帰をし、デモンストレーションする。順序付けられたロジットモデルと公開されている情報を使用してEPLサッカーゲームの結果を予測する方法を示す。ベッティングオッズに対してこれらの予測の正確さを評価し、それらが非常に正確であることを示す。北米の3つのチームスポーツリーグ(NHL、NBA、MLB)のコンテキストでモデルを複製することにより、前週に取り上げたEPL予測モデルの有効性を評価する。具体的には、順序付けられたロジットモデルと公開されている情報を使用して、NHL、NBA、MLBのレギュラーシーズンゲームの結果を予測する。 歴史. 元々はAmoebaの使用言語であるABC言語に例外処理やオブジェクト指向を対応させるために作られた言語である。 0.9x. 1991年にヴァンロッサムがPython 0.90のソースコードを公開した。この時点ですでにオブジェクト指向言語の特徴である継承、クラス、例外処理、メソッドやさらに抽象データ型である文字列、リストの概念を利用している。これはModula-3のモジュールを参考にしていた。 1.x. 1994年1月、Python 1.0を公開した。主な特徴として関数型言語の基本であるラムダ計算を実装、map関数・reduce関数などを組み込んだ。 バージョン1.4からはCommon Lispにある機能とよく似たキーワード引数を導入した。また簡易ながら名前修飾を用いたカプセル化も実装した。 2.x. 2000年に公開。ガベージコレクションやUnicode、リストを導入した。一躍メジャーな言語となった。多くの機能はHaskellを参考にして導入している。 バージョン2.4には、子プロセスの起動やコマンドを実行できるsubprocessモジュールが実装された。 2.6以降のバージョンには、2.xから3.xへの移植を助ける「2to3 ツール」と「lib2to3 モジュール」を含んでいる。2.7が2.xの最後のバージョンで、2.7のサポートは2020年1月1日までである。ただし、サポート終了後に 2.7.18 を2020年4月にリリースし、これが最後の 2.7.x になる。これ以上のセキュリティパッチやその他の改善はリリースされない。 3.x. 2008年、長い試験期間を経てPython 3.0が公開された。 開発初期には、西暦3000年に公開予定の理想のPythonとして、Python 3000と呼んでいた。Py3Kと略すこともある。 しかし2.xとの後方互換性が損なわれている。当初は2.xに比べて3.xが利用できるライブラリ等が著しく少ないという問題点があったが、Djangoなど徐々に3.xに対応したフレームワークやライブラリなどが増えていったこともあり、2016年時点においては新規のプロジェクトについて3.xで開発することが多くなっている。JetBrains とPythonソフトウェア財団による共同調査では、Python の 2 と 3 がどっちがメインであるかというアンケートで、Python 3 がメインであると答えた人が、2016年1月は40%だったが、2017年10月は75%になった。 2015年11月にリリースされたFedora 23や2016年4月にリリースされたUbuntu 16.04 LTSでは、デフォルトでインストールされるPythonのバージョンが2.xから3.xに変更されている。Red Hat Enterprise Linuxでは7.5をもってPython 2が廃止予定(deprecated)となった。 3.0 3.1 3.2 ライセンス. Pythonは PSF (Python Software Foundationライセンス) の下、オープンソースで配布されている。このライセンスの内容はGPLに類似したものであるが、変更したバージョンを配布する際に変更をオープンソースにしなくてもよい、という点がGPLとは異なっている。
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カトリシズム
カトリシズム(、)は、本来はカトリック教会における普遍的(コモンセンス[共通-普遍通念-概念])・一般的な理念・信仰・礼拝・実践であるカトリック(公同(こうどう)、、、)を奉じる主義・思想のことである。 概要. 後に「カトリック」という言葉が、ローマ教皇を長とするローマ教会の首位権を認めてこれを正統視する集団が自称するようになると、同教会が掲げる理念・信仰・礼拝・実践に基づいた宗教観・世界観およびそこから派生した思想・芸術その他を指すようになった(カトリック教会)。 その一方で、正教会やプロテスタントはローマ教会が唱える唯一のカトリックとしての性格を認めていない。例えば、東方正教会は自らをもって「聖なる正統教会」であると主張し、プロテスタントは正しい福音と聖礼典が行われる全ての教派を包括すると唱える。 聖公会は自己のカトリック性の正統については論じるものの他派のカトリック性には触れない姿勢を採っている。また、ローマ教会(カトリック教会)も他の教派のカトリック性こそは認めないものの、その信徒に関しては洗礼を受けた全てのキリスト教徒を自己の信徒であるとするのが通説である(宗教改革期には、ローマ教皇を奉じない異端および異教徒には神の恩寵の一滴すら落ちることは無いとする神学者の説もあったが、あくまでも過激な主張の1つでしかない)。 このため、今日のキリスト教社会においては「カトリック」という言葉が次の5つの意味で用いられることが多い。 カトリックの成立. カトリック(公同)という言葉は、元はギリシア語の「普遍的」・「世界的」を意味する“katholikos”に由来するとされ、アンティオキアのイグナティオスが晩年にスミルナの教会宛に書いた書簡の中に登場するのが初出であるとされている。ここでは、イエス・キリストの教えを全ての教会が忠実に守ってその正統な神学を擁護し、異端的な分派を生み出さないことを希求していた。 また、3世紀のカルタゴの司教キプリアヌスは著書『カトリック教会統一論』(251年)において、教会におけるカトリック性の要件として唯一の正典・教理・組織・洗礼の存在を掲げている。これらはあらゆる時代に生きる全人類が人間生活を送る上で必要かつ適切な規範であり、その実践を通じて初めて神からの救済が得られ、あるいは聖化が行われるものと考えられた。 その後、ペトロの教えを継承するローマ教会の権威が高まり、更にローマ帝国がこれまでの迫害政策をやめてキリスト教の公認・国教化へと路線を転換した4世紀にはさまざまな分派的な動きに対抗するためにローマ教会への結集を働きかける動きが強まった。 380年にローマ皇帝テオドシウス1世によって出された『クンクトス・ポプロス』(Cunctos populos)はペテロがローマ人に伝えた信仰がカトリック性を有する信仰であると定義(結果的にペトロが創設したとされるローマ教会がその教えの継承者となる)。続いて、381年のコンスタンティノポリス公会議におけるニカイア・コンスタンティノポリス信条において、ローマを頂点とする教会が聖的・使徒的・普遍的(すなわち「カトリック」)であることが確認されたのである。以後、ローマ教会は自己を「唯一の真なる教会」と位置づけて自らを「カトリック教会」と名乗るようになった。 カトリシズムの確立. ローマ帝国崩壊以後、フランク王国・神聖ローマ帝国などの諸国家の庇護を受けて発展していったローマ教会とローマとの交通が途絶しがちとなり、未だ健在であったビザンツ帝国(東ローマ帝国)の庇護を受けて発展したコンスタンディヌーポリスのコンスタンディヌーポリ総主教庁を中心とする東方の教会との教理的・儀礼的な齟齬が深刻化していった。 やがて1054年にはいわゆる「東西教会の分裂」が発生したとされ、キリスト教教会はローマ教会と東方正教会に分裂した。ただし、この1054年に実際に発生したのは、教皇使節とコンスタンディヌーポリ総主教の相互破門というセンセーショナルではあるが、教会全体から見れば小さな事件であり、実際の分裂はローマ帝国分裂時から醸成され、1204年の第4回十字軍によるコンスタンディヌーポリス占領によって決定的になったとする見方もある。 ともあれ、中世後期には東西教会の分裂は紛れも無い事実として顕れ、東西それぞれの教会が「真にして唯一の教会」であると主張して譲ることがない状況が今日まで継続されることとなる。もっとも、東方正教会ではローマ教会を連想させる「カトリック」という言葉を避けて、替わりに「聖なる正統教会」(Holy Orthodox Church)という語を用いてその普遍性を強調している。 更に、宗教改革によるプロテスタント教会の成立によって教会の分裂は深刻化することになる。プロテスタントは聖書のみを唯一の権威として個々の信仰者の自由と主体性を重んじ、また義認の問題においては信仰義認を唱えた。 こうした状況に対してローマ教会側には自らのアイデンティティに対する真摯な反省と強い危機感が生み出され、同教会が唯一の教会であり、キリストへの信仰を媒介できる唯一の存在であるとする理論付けが行われるようになった。これが「カトリシズム」の形成である。「カトリシズム」という言葉が具体的に定義づけられたのは、ヘーゲルの『美学講義』によるものとされているが、カトリシズム自体は宗教改革期に生み出されて発展してきたものである。 カトリシズムを代表する言葉に「教会外に救い無し」という命題がある。これは、カトリック以外のキリスト教徒および異教徒には救いがないというのではなく、 と、いう論理展開を行い、人間の本性はその堕落を経てもなおも神による普遍的な救済意志の恩恵を受ける資格を有しているとする。その救済を受けるためにはイエス・キリストの体に替わる存在であるローマ教皇を頂点とする教会組織に加入することによって「新しい神の民」となり、その信仰が福音の真理から逸脱しない保証を獲得する必要があるとした。また、カトリシズムは自然と恩恵の相互作用を重視して、奇蹟などの恩恵して、自然現象・科学理論のみを万能とする考えにも、逆に自然的な作用・努力を無視して、人間の本性=堕落として全否定してひたすら神の恩恵・救済のみを待ち続ける考えにも強く反対している。 これに対して反対派からは、 などの反論が行われて、長く論争が行われることとなる(もっとも、最後の2点については中傷あるいは誤解に基づく要素が含まれており、今日のカトリシズム批判者でもこの主張をする者はほとんどいないとされている)。 また、人間に対する楽観主義からカトリシズムは厳格な倫理観の一方で、芸術や音楽に対しては人間の信仰の表出のために行われる営みの一環として捉えられている。これは人間の自由と主体性を重視しながらも聖画像をはじめとする芸術・音楽の類が福音の純粋性を曇らせる危険性を唱えるプロテスタンティズムとは対照的である。 当初、カトリック教会はプロテスタントに対する強硬な敵意からカトリック教会以外の救いを否定するような過激な主張も存在し、教皇を頂点とするヒエラルキア的組織であるローマ教会の組織防衛に重点が置かれるとともに、秘蹟による恩寵手段に主張の重点が置かれた。 現状. 20世紀に入ると、カトリシズムを唱える人々の間にも組織防衛に力を注ぎすぎて、カトリック理念の根幹であるキリスト教の普遍的理念の確立からは却って遠ざかっていることに対する反省が生まれ、フランスのイヴ・コンガールらを中心とした「新神学」運動が発生した。 1962年の第2バチカン公会議においては「カトリシズムとは何か?」という根本的な議論が行われた。その結果、「教会憲章」および「現代世界憲章」が採択され、聖職者は信徒の支配者ではなく公僕であること、それぞれの地域に存在する伝統文化に対する配慮の必要性を認めることなど、より一般の信徒全体を重視する方針を打ち立て、従来のヒエラルキア的組織こそは維持するものの、内外のカトリシズムに対する批判に答える形でカトリック教会内部の改革が推し進められた。 ただし、ローマ教会(教皇庁)が2007年になって、ローマ教皇ベネディクト16世の承認の元に「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」との記述内容を含む文書を公表したために、東方正教会およびプロテスタント教会からの強い反感を買うなど、依然としてローマ教会=カトリックの姿勢の堅持の姿勢を示している点には注目される。
1001
80年代
80年代(はちじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)80年から89年までの10年間を指す十年紀。 脚注. 注釈 出典
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認識論
認識論(にんしきろん、)は、認識、知識や真理の性質・起源・範囲(人が理解できる限界など)について考察する、哲学の一部門である。存在論ないし形而上学と並ぶ哲学の主要な一部門とされ、知識論とも呼ばれる。 日本語の「認識論」はドイツ語からの訳語であり、カント『純粋理性批判』以後のドイツ哲学に由来する。フランス現代思想では「エピステモロジー」という分野があるが、20世紀にフランスで生まれた科学哲学の一つの方法論ないし理論であり、日本語では「科学認識論」と訳される。 哲学はアリストテレス以来大きく認識論と存在論に大別され、現在もこの分類が生きている。認識論ではヒトの外の世界を諸々の感覚や理性等を通じていかに認識していくかが問題とされる。 認識という行為は、人間のあらゆる日常的、あるいは知的活動の根源にあり、認識の成立根拠と普遍妥当性を論ずることが認識論である。しかし、仮説を立て実験によって検証するという科学的方法論は長年取り入れられることはなかった。内観法が哲学者の主たる武器であった。19世紀末ごろ、認識論の一部が哲学の外に出て心理学という学問を成立させるが、初期にはもっぱら内観や内省を方法論とし、思弁哲学と大差はなかった。やがて、思弁を排し客観的、科学的方法論を意図する実験心理学が登場し、認識論の一部は、心理学に分かれていった。錯覚現象などがその研究対象になった。実験心理学では、データの統計的処理では科学的であったが、なぜ錯覚が生まれるかというメカニズムの解明では、仮説を立て実験データとの照合を論じてはいたものの、その仮説自体はやはり思弁に過ぎなかった。それを嫌い人間の主観を離れて、実験動物を用いた観察可能な行動のみを研究対象とする一派も存在したが、人間の認識は研究対象から外された。このため、認識論の問題は比較的最近まで自然科学化されずに哲学の領域にとどまり続けた。 概要. 多義性. 多義的な語なので注意が必要である。日本語の「認識論」は の訳語である。ドイツで初めてこの語を用いたのはドイツの哲学者K・ラインホールトであると言われているが、もちろん認識論的な問題そのものは古代ギリシアから存在した。 英語の "Epistemology" と仏語の "Épistémologie" の語源は、ギリシア語の「知」(、エピステーメー)と、合理的な言説(、ロゴス)を合成したものであり、スコットランドの哲学者J・フェリエが1854年に出版した「形而上学概論」で初めて使用したとされる。 英語の "Epistemology" は "theory of knowledge" と互換的な意味あいがあるが、仏語の "Épistémologie" はそのような意味合いはなく、あくまで科学哲学の一つの方法論ないし理論であり、日本語では「科学認識論」と訳される。フランス語の は とも呼ばれる。 特徴. 認識論で扱われる問いには次のようなものがある。 哲学的認識論と科学的認識論. 認識論は、今日、「哲学的認識論」と、20世紀にフランスで生まれた「科学的認識論」の二つに大別され、哲学的認識論についても古典的認識論と現代的認識論の区別が必要であるとされる。そこで、以下に、まずは歴史の流れに沿って哲学的認識論について解説する。 哲学的認識論の歴史. 前史. 古代. プラトン. 今日でいうところの認識論的な問題の原典は、プラトンの『テアイテトス』にまで遡ることができる。本対話篇では「知識とは何か?」という問いに対し、知識とは常に存在し、疑いなきものであるとの対話者間の共通の前提から、テアイテトスはまず知識とは知覚であると主張する。これに対して、ソクラテスは、知覚は人それぞれによって異なるものであるとした上で、「人間は万物の尺度である」と主張して相対主義を唱えたプロタゴラスを引き合いに出し、彼が自らの思いが真であると固執すれば、自らの思いが偽であると認めざるを得なくなるとしてその主張を論難する。テアイテトスは引き続き知識とは真なる意見であると主張し、更に真なる意見に説明を加えたものであるとも主張するが、いずれもソクラテスによって論難され、結局のところ、本対話篇では、知識とは何かに対する回答は示されず、アポリアに終わる。しかしながら、そこでは、知識とは、正当化された真なる確信であるという定式を既に見出すことができる。 プラトンにとって知識とは常に存在する普遍的なものでなければならないが、それは実体であるイデアの世界にあり、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもない。したがって、知識も決して師や賢者が一方的に教授できるものではなく、弁論術による対話を通じてようやく到達できるものである。プラトンの著作が対話篇という形をとり、その結末がアポリアを呈示する形で終わっているのは、このようなプラトンの思想を反映したものである。プラトンによれば、物の本質は、感覚によって把握することはできず、物のイデアを「心の眼」で直視し、「想起」することによって認識することができる。 アリストテレス. プラトンは、知識とは正当化された真なる確信であるという定式を否定したのだが、その理由は「ある事」を確信しているということは、その正当化の理由となる「ある事」を既に知っているからであるという循環論法を疑ったからである。これに対して、アリストテレスは、知には常に何らかの前提が存在していることを否定せず、ある事を確信している場合、その前提となっている理由はその都度問われても良いと考えた。 また、プラトンは感覚を五感に制限せず、「精神の目」と呼ばれる内的感覚を認めていたが、アリストテレスはこれを否定し、広い意味での経験によって得られるもののみを知と見て、知の諸形式を知覚、記憶、経験、学問に分類した。 さらに、アリストテレスは、その学問体系を、「論理学」をあらゆる学問成果を手に入れるための「道具」()であるとした上で、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分し、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。アリストテレスによれば、形而上学は存在するものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知である。また、彼は、その著書『形而上学』において、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。そこでは、「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。そこでは、存在論が真理論と認識論とに分かちがたく結び付けられている。アリストテレスの学問体系は、その後、トマス・アクィナスらを介して古代・中世の学問体系を規定することとなったが、そこでは、認識論的・真理論的な問題は常に存在論と分かちがたく結び付いていた。そのため、形而上学の中心的な問題は存在論であった。 中世. アウグスティヌス. アウグスティヌスの認識論は、プラトンのイデア思想の流れをくむものであり、存在論と幸福論とが一体となっている。 彼によれば、人間は魂と身体の複合体であり、両者は共に独立した実体であり、魂は「わたし」という意思である。魂は自律するゆえに、探求するが、彼を探求に導くものは愛であり、愛は最後の憩いの場として万有の根源である神を求める。「神は存在である」()、神が自己自身を認識することによって、われわれの認識が始まる。したがって、神は認識の原理であるとともに真理である。人は真理を認識するためには、感覚(外的人間)に頼るのではなく、理性(内的人間)によらなければならない。創世記には、神は人間を神の似姿として創ったとあり、神に似るのは動物にはない人間のみが有する理性部分だからである。理性は外に向かうのではなく、内部に向かい、それを超えた果てに真理を見る。内的人間と真理との一致に霊的な最高の喜びがある。 トマス・アクィナス. トマス・アクィナスの認識論は、アリストテレスの思想の流れをくむ。トマス・アクィナスは、アリストテレスの存在論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えて彼を乗り越えようとした。トマスにとって、神は、万物の根源であるが、アリステレスの説くように純粋形相ではあり得なかった。旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼は、アリストテレスの存在に修正を加え、「存在-本質」() を加えた。彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であり、「本質」はそれだけで現実に存在できないため「可能態」である。「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。神は、自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は「恩寵の光」のみ与えられるので、人には教会による信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られる。トマスは、存在論に基づく神中心主義と、理性と信仰に基づく人間中心主義の統合を図り、後世の存在論に多大な影響を与えることになった。スコラ学は彼によって体系化されたのだが、その世界観はやがて独断的で権威主義的なものへと変質していった。 近代的認識論の成立. 懐疑主義との対決. プラトン・アリストテレス伝統においては観念と対象と一致することが真であると考えられていたが、当時そのような考え方に対する権威が失墜し、人は果たして物事を正しく知ることができるのかという知に対する根本的な疑いが生じるようになっていた。 時代背景としては、コロンブスによる新大陸発見、エラスムスの痴愚礼賛に象徴されるスコラ哲学の権威失墜・人文主義者の台頭、そして何より宗教改革があった。カトリックとプロテスタントはお互いに、いかにして(教義についての宗教的な)正しい認識は可能なのか、信頼に足る真理の基準は何かということを問答し、やがてお互いに向けられた懐疑主義は自らの信頼の基盤をも突き崩していった。そのような中で、モンテーニュの主著エセーにみられるように、およそ人間たるもの物事を正しく知ることはできず、ただ神の啓示を待つほかなく、それまでは判断を留保し、自然と慣習に従って慎ましく生活するという全面的な懐疑主義(新ピュロン主義)が通俗化していった。 デカルト革命. 近代的な意味での認識論を成立させたのは、ルネ・デカルトである。デカルトは、数学・幾何学の研究によって得られた概念は疑い得ない明証的なものと考え、これを基礎付けるための哲学体系を確立しようと欲した。デカルトは、合理的な学問的知識さえを疑う全面的な懐疑主義に対して方法的懐疑論を唱え、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられた後に、どれだけ疑っても疑いえないものとして純化された精神だけが残ると主張した。 そこでは、存在について語る前にどのようにして存在を認識するのかを論じなければならないとされ、形而上学はもはや存在についての第一哲学ではなく、存在の認識についての第一哲学となった。このようなデカルトの革命的な主張は、形而上学の中心的な課題を存在論から認識論へ転回させただけでなく、認識に関する様々な物議を醸すきっかけとなった。既に述べたとおりアリストテレス的学問伝統の下においては、認識論と真理論は存在論と分かちがたく結び付いていたが、認識論を存在論に優位させることにより、問題は大きく三つに分かれることとなった。以下に分説する。 認識の起源. 哲学的認識論の第一の問題は、人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか、人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか、という認識の起源の問題である。おおむね四つの立場がある。 合理主義. デカルト. ルネ・デカルトは認識の起源は理性であるとした。デカルトは、アリストテレスがその著書『霊魂論』において述べた経験主義的原則、すなわち、知覚によって対象から受け取った表象なしに人は思考することはできないという立場に反対し、精神を独立した実体と見て、精神自身の内に生得的な観念があり、理性の力によって精神自身が、観念を演繹して展開していくことが可能であるとした。 このような考え方の背景には、当時の飛躍的な数学、幾何学、自然学の発展があり、当時の人々は、誰がどのように考えても同一の結論に到達するというイデア的な観念の源泉を理性、つまり動物とは区別された人間の本性のうちに見た。このような人間の思考には経験内容から独立した概念が用いられているという考え方を生得説という。 デカルトは、結論としては、精神、物体を有限の実体であるとした上で、無限の実体である神の三つが実体であるとした。精神と物体の二元論において、主観と客観の一致を保証するため、神の存在を必要とした。 デカルトを引き継ぐニコラ・ド・マルブランシュ、バールーフ・デ・スピノザ、ゴットフリート・ライプニッツなどの大陸合理主義者は、生得説を擁護しつつも、様々な点でデカルトと対立し、これを乗り越えようとした。 マルブランシュ. デカルトの革命的な主張は、その直後から様々な立場から厳しい批判を浴びることとなった。特に、デカルトの提出した神の概念は、自然法則を証明するための条件にすぎず、キリスト教的伝統に基づく人格神ではなく、実質は無神論ではないかとの疑惑も根強いものがあった。 このような状況下において、デカルト哲学とアウグスティヌス神学との総合を企図したのがニコラ・ド・マルブランシュである。彼は、認識論的にはアウグスティヌスのイデア説を継承し、神は万象の原因であり、われわれは万物を神のうちに観るとの思想を基本に、デカルト的な心身問題の解決を図ろうとし、精神や身体の変化のみならず、物体相互の接触や運動は神の作用の機会にすぎないという「機会原因論」を主唱し、その上に壮大な形而上学体系を構築した。 スピノザ. スピノザは、デカルトを批判し、神のみが実体であるとし、そこからすべてを理性によって演繹するという方法をとった。スピノザによれば、神が唯一の実体である以上、精神も身体も、その二つの異なる属性に他ならないことになる。 スピノザは、その著書『エチカ』において、表象を「第一種の認識」、理性を「第二種の認識」、直観を「第三種の認識」と三分類した。彼によれば、人間は自然の一部であるから、外部から様々な影響を受けるが、人間の精神はまず自分の身体の変状についての観念を持たざるを得ないが、これが第一種の認識である。この観念は人間の身体と外部の本性を共に部分的に持つものであるがゆえに「認識の欠如」の観念を含む。したがって、第一種の認識に基づくデカルト流の方法的懐疑は認識の欠如を含むゆえ決して明証性・確実性を有するに至ることはない。しかし、人間の身体と外部の本性を共に部分的に持つということは、本性を共通にする部分についての普遍的な認識をすることはでき、これを第二種の認識と呼ぶ。さらに、個物の本性に関する認識を第三種の認識と呼び、真と偽の区別は第二種ないし第三の認識に基づきなされる。 ライプニッツ. ライプニッツの認識論は、多元的で最小の実体であるモナドを基礎にする。モナドは万物の数に応じて多数ある分割不能な実体であるが、モナドは鏡であり、表象能力を有し、自発的に世界全体を自己の内部に映し出し、世界全体を認識する。また、彼は、モナドは窓がなく、独立した別個の実体であるから、相互に影響を与えることはできないので、神の創造による予定調和によって他のモナドと協調して表象を展開することができるとした。このような立場から、決定論、汎神論に陥ったスピノザと異なり、自由意思、人格神を認めることができ、また、いちいち神が機械人形を操るように世界に介在しなければならないとしたマルブランシュの機械原因論を否定した上で、デカルト的な心身問題を解決することができるようになる。いわば対立するすべての合理論を調停した上で、伝統的なキリスト教的神学を擁護しようとしたのがライプニッツ哲学といえる。 合理主義は概念による理性認識に従って普遍必然性を有する知識、最終的には神の存在証明に至ることができると信じたが、ひとたび数学や自然学の問題を離れ、形而上学上の問題を論じるや否や合理主義内部においてさえその対立はとどまるところを知らず、徒らに概念をもてあそび内容空虚な思弁を弄することになり、独断論化していった。 カントが師のクヌッツェンから学んだのは、当時のドイツの講壇哲学において支配的であったライプニッツ=ヴォルフ派の壮大な形而上学で、彼は、自身が批判哲学を確立する前に、自身がかつて所属していた当該学派における状態をその著書『プロレゴメナ』において「独断論のまどろみ」と比喩的に呼んだ。 経験主義. ロック. ジョン・ロックは認識の起源は経験であるとした。 時代背景としては、ピューリタン革命や内乱のため1641年に高等宗務裁判所が廃止されたことがあり、当時、英国国教会とカトリック教徒やクエーカー教徒との対立が激化しただけではなく、民衆にはヘルメス主義などが流行し、自分の目も感覚も明らかな証拠も信用せず、自分の経験すら偽りとしてまで自らの教義に一致しないものを認めようとしない頑固な人びとが多くおり、独断主義との対立が迫られるというような社会情勢にあった。 ロックと彼を引き継ぐジョージ・バークリーやデイヴィッド・ヒュームなどのイギリス経験論者は、経験に先立って何らかの観念が存在することはなく、人間は「白紙状態」(タブラ・ラサ)として生まれてくるものと考えて生得説を批判した。 ロックは、観念は感覚() もしくは反省() から発生すると考えた。彼によれば、観念には単純観念と単純観念が合わさって形成した複合観念があるが、このような観念の結合・一致・不一致・背反の知覚が知識である。したがって、全ての観念と知識は人間が経験を通じて形成するものだということになる。 ロックは、デカルトと同様、精神、物体、神の三つが実体であるとしており、数学に関しても論証的知識に属するとしてその確実性を否定したわけではなかった。ロックは、反省によって生成された観念を理性によって演繹することを認めるので、その限りで、ロックはデカルト主義者であるということもできる。ただし、自然学については、その知識は確実なものではなく、蓋然性を得るにとどまるとした。ロックによれば、物体の性質は、固性・延長性・形状等の外物に由来する客観的な「第一性質」() と、色・味・香り等の主観的な「第二性質」() に分かれるが、我々が知ることのできるのは後者のみで、それすらも経験によって全てを知ることはできず、その蓋然性を得るにすぎない。 バークリ. ジョージ・バークリーは、ロックの経験論を承継しつつ、ロックが物体を実体とした上で、物体の第一性質と第二性質を区別したことを批判した。彼は、両者の区別を否定し、実体とは同時的なる観念の束()に他ならないと考えた。このような考え方から、彼は、物体が実体であることを否定し、知覚する精神と、神のみを実体と認めた。 このことを端的に表す有名な言葉として「存在とは知覚されてあることである」(、) がある。 バークリは、主観的観念論、独我論と批判されることになったが、彼は聖職者であり、神を実体としていたことから、その思想はむしろマルブランシュに近いものであったとされている。ロックの経験論は独我論と懐疑論の中道を目指す経験的実在論を基礎にしていたが、バークリはデカルト主義的なロックの観念論を承継していた。 ヒューム. デビット・ヒュームは、主著『人間本性論』において、あらゆる観念の理性による基礎付けを否定し、当時の自然科学の知見に基づき、観念の形成過程を分析した。ヒュームによれば、人間の「知覚」は印象(impression)と、そこから創出される観念(idea)の二種類に分けられるが、全ての観念は印象から生まれる。印象は人の意識に強く迫ってくるいきいきとしたものであるが、なぜそれが生じるのか説明のつかないものであり、観念は印象の色あせた映像にすぎない。この観念が結合することによって知識が成立するが、知識には数学や論理学のように確実な知識と蓋然的な知識の二種がある。観念の結合について「自然的関係」と「哲学的関係」の2種があり、前者は「類似」()・「時空的近接」()・「因果関係」() があり、後者は量・質・類似・反対および時空・同一性・因果がある。その上で、ヒュームは、因果関係の特徴は必然性にあるとしたが、一般に因果関係といわれるpとqのつながりは、人間が繰り返し経験する中で「習慣」() によって心の中に生じた蓋然性でしかないと論じ、理性による因果関係の認識の限界を示した。 この因果関係に関するヒュームの考えは後にカントに決定的な影響を与えた。カントは、その著書『プロレゴメナ』において、ヒュームが自分を独断論のまどろみから眼覚めさせたと後に明らかにした。認識のための道具は理性であり、もしこの道具に限界があるのであれば、なによりも先に、その可能性と根拠について問われなければならない。カントは後に認識の可能性と根拠を問う哲学を超越論哲学と呼び、これを展開していくことになる。 批判主義. イマヌエル・カントは、このように合理主義と経験主義が激しく対立する時代に、観念の発生が経験と共にあることは明らかであるとして合理主義を批判し、逆に、すべての観念が経験に由来するわけでないとして経験主義を批判し、二派の対立を統合したとする見方が今日広く受け入れられている。カントの立場は、このように経験的実在論から出発し、超越論的観念論に至るというパラドキシカルなものである。 デカルトは、外界にある対象を知覚することによって得る内的な対象を意味する語として の語を充てていたが、このような構造に関しては経験主義に立つロックも同様の見解をとっていた。 カントは、これらの受動的に与えられる内的対象と観念ないし概念を短絡させる見方を批判し、表象()を自己の認識論体系の中心に置いた。カントは、表象それ自体は説明不能な概念であるとした上で、表象一般はその下位カテゴリーに意識を伴う表象があり、その下位には二種の知覚、主観的知覚=感覚と、客観的知覚=認識があるとした。人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリにそなわっているが、これが主観的知覚と客観的知覚にそれぞれ対応する。感覚は直感によりいわば受動的に与えられるものであるが、認識は悟性の作用によって自発的に思考する。意識は感性と悟性の綜合により初めて「ある対象」を表象するが、これが現象を構成する。このような考え方を彼は自ら「コペルニクス的転回」と呼んだ。カントによれば、「時間」と「空間」、「因果関係」など限られた少数の概念は人間の思考にあらかじめ備わったものであり、そうした概念を用いつつ、経験を通じて与えられた認識内容を処理して更に概念や知識を獲得していくのが人間の思考のあり方だということになる。 直観主義. 20世紀初頭、エトムント・フッサールは、西欧諸科学が危機に直面しており、その解決が学問の基礎付けによってもたらされると考え、現象学の確立を試みた。 当時は、アインシュタインの相対性理論を始めに、量子力学を含め理論物理学が飛躍的に発展し、デカルトやカントが前提としていたニュートン力学に対する重大な疑義が出された時代であり、改めて学問の基礎付けが問題となった。 フッサールは、数、自己、時間、世界などの諸事象についての、確実な知見を得るべく、通常採用している物事についての諸前提を一旦保留状態にし、物事が心に立ち現れる様態について慎重に省察することで、イデア的な意味を直観し、明証を得ることで諸学問の基礎付けを行うことができると考えた。 認識の本質. 哲学的認識論の第二の問題は、人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのかという問題である。これは認識主体たる意識と認識客体という対立するいずれの項に基本を置いて認識の本質を規定するのかという問題でもあり、観念論と実在論が対立した。 実在論は、素朴実在論を批判して、物体の第一性質と第二性質を分けるロックの主張があり、科学的実在論と呼ばれる。 観念論は、主観的観念論の立場に立つものとしてバークリが挙げられることが多いが、その主張は複雑である。 カントにおいては、現象は、物自体と対比され、物自体と主観との共同作業によって構成される。別の言い方をすると、現象というのは物自体に主観の構成が加わった結果であるとし、人は現象が構成される以前の物自体を認識することはできない、とした。1781年に出版した『純粋理性批判』の中で、カントは人間の持つ理性がどのようなものであるかを、分析した。そしてその分析を通じて、人間の理性は、どんな問題でも扱える万能の装置ではなく、扱える問題について一定の制約・限界を持ったものであることを論じた。そして人間の理性によって扱えないような問題の例として、カントは純粋理性のアンチノミーという四つの命題の組を例示し、ライプニッツが行ったような形而上学的、神学的な議論は、原理的に答えを出せない問題であり、哲学者が真剣に議論すべきものではない、と斥けた。 カントは純粋理性批判の中で、次の四つのアンチノミーを例示した。 アンチノミー(二律背反)とは、ある命題(テーゼ、定立)と、その否定命題(アンチテーゼ、反定立)が、同時に成立してしまうような場合を言う。つまり「Aである」と「Aでない」が、同時に成り立つような場合を言う。この四つの命題の組は、そのどちらを正しいとしても矛盾が生じるものであり、このどちらかが正しいという事を、理性によって結論付けることは不可能、つまり議論しても仕方のない問題だ、とカントは論じた。それぞれについて簡単に内容を説明しておくと、第一のものは時間に始まりはあるか、空間に果てはあるか、という問題、第二のものは原子や素粒子といったこれ以上分割できない最小の構成要素があるかどうかの問題、第三のものは自由意志と決定論の問題、そして第四のものは世界の第一原因と神の存在の問題である。 カントによる形而上学批判は、以降の西洋の哲学に大きい影響を与えることとなり、神の存在証明や宇宙の始まりなどの形而上学的な問題は、哲学の中心的なテーマとして議論される傾向は抑制されていった。 真理論. 哲学的認識論の第三の問題は、ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか、という真理論の問題である。 古典的な哲学的認識論としての真理の問題に関する見解はおおまかに以下の四つに分類することができる。 古典的認識論から現代的認識論へ. 古典的認識論は、既に述べたとおり認識主体がどのようにして認識客体を認識するのかという二項対立図式において認識をとらえようとしたが、この難問が認識論の危機を招くこととなった。 カントは、二項対立図式を前提としつつ、現象と物自体を厳密に区別したが、ショーペンハウアーは、理性によっては認識できない物自体という概念を維持しつつ、現象とは私の表象であり、物自体とはただ生きんとする盲目的な意思そのものにほかならないとして理性を批判した。このような図式を引き継いだニーチェの思想はやがて生の哲学と呼ばれる潮流を作り、ドイツ・フランスで多くの哲学者に影響を与えたが、やがて実存主義に吸収されていった。 フィヒテに始まり、ヘーゲルによって完成を見たドイツ観念論は、理性によって現象と物自体の区別を乗り越えるような形で発展した。ヘーゲルによれば、カントの認識論は、認識の限界を認識するという循環論法的な議論であって、それはあたかも水に入る前に水泳を習うようなものであって、本来的に不可能である。ヘーゲルの批判は認識論にとって本質的な異議であったが、ヘーゲルの死後、ヘーゲル学派は分裂・対立を繰り返して崩壊し、かえって哲学の危機の時代を招いた。 その後、さまざまなバリエーションがあるものの、二項対立図式そのものが放棄されるべきではないかが議論されるようになった。 まず、当時の自然科学、とりわけ物理学の飛躍的な発展を背景にした二項対立図式の乗り越えがある。エルンスト・マッハは、ニュートン力学の絶対空間の概念に形而上学の残滓が残っていると考え、自然科学は形而上学概念を排した思考以前の純粋要素である感覚からすべて説明されるべきであり、概念や法則は思考を経済化するためのものにすぎないとした。このような感覚を「純粋経験」とよび、主観と客観の対立を原理的に同格とみなした。マッハの哲学は、アメリカのプラグマティズムやウィーン学団の論理実証主義に多大な影響を与えた。ウィーン学団は、マッハの他にも、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考から多大な影響を受けているが、そのメンバーの多くがユダヤ人であったことから、ナチスの弾圧を受け、これから逃れるために参加者の多くはアメリカに亡命し、学団自体は立ち消えになったが、その考えが米英に広まり、英米系の現代的認識論に多大な影響を及ぼすことになった。 次いで、フッサールは、志向性という概念を用いてデカルト的な主観/客観図式を乗り越えようとしたが、生物学や心理学によって学問を基礎付けようとする考え方については逆に心理主義と呼んで厳しく批判した。フッサールは、ノエシス/ノエマ構造を本質とする志向性意識についての認識論的考察と、志向対象としての存在者への考察を現象学的還元を介して批判的に記述することにより、限定的ながらも存在論への道を開いたが、現象学は、ドイツでは、フッサールの意図を超えた展開を見せ、マルティン・ハイデッガー、ニコライ・ハルトマンらによって存在論の復権の方向へと発展していった。他方で、現象学は、その後フランスで受容され、フランスの現代的認識論に多大な影響を与えることになった。 英米の現代的認識論. 英米では、論理実証主義運動を契機に、科学哲学や分析哲学が発展し、古典的経験論の失敗に学び、スコットランド常識学派の成果を吸収した上で、いわば現代的経験論ともいう立場を打ち立てて、フランスやドイツとも異なる独自の発展を見た。英米の現代的認識論では、知識とは何か、とは何か、懐疑主義とどう向き合うかといった問題を軸に活発な議論が行われてきた。 英米の現代認識論で扱われるその他のテーマとしては、知覚の認識論、徳認識論、認識論の社会化、アプリオリな知識の可能性などがある。また、近年では、知識の価値とは何か、知識の実践的、社会的機能とは何か、合理的な不一致はありうるか、などの多様なテーマが論じられるようにもなっている。 知識と正当化の概念分析. 知識の概念分析においては、「知識とは正当化された真なる信念である」というプラトン由来の知識の古典的定義をどう修正していくかということが一つの焦点となってきた。これはゲティア問題のために、古典的定義が文字どおりには正しくないと考えられるようになったためである(ただし、ゲティア問題のこのような含意を否定する論者も存在する)。この文脈では、以下のような立場がさまざまな哲学者によって展開されてきた。 基礎付け主義. 基礎付け主義() とは、認識主体が何かを信じるための正当化を持つかどうかは、その認識主体のなんらかの基礎的な信念、またはそれに類似する心的状態に最終的に依拠するという立場。これらの信念ないし心的状態は、他の信念、心的状態を正当化するものでありながら、それら自体は(他の信念、心的状態によっては)正当化されないため、基礎的と呼ばれる。基礎付け主義は、伝統的にはセンス・データ論の形をとって展開された。 ウィルフリッド・セラーズは、センス・データ論を、所与の神話() の典型的な形態として批判する。センス・データ論では、非言語的な所与としてのセンス・データが、命題内容をもつ信念を最終的に正当化すると考える。しかし、もしセンスデータが非言語的なものであり、正当化がある種の推論関係と捉えられるならば、非言語的であり命題内容を持たないセンス・データが、どうやって命題内容をもつ信念と推論-正当化関係に立つのかが謎になる。 整合説. 整合説() とは、ある認識主体の持つ信念がお互いに調和しあっていることをもって、個々の信念が正当化されるとする考え方。調和、整合ということで、論理的な整合性() 以上のことが意味されるかどうかは、整合説論者でも意見が分かれる。 内在主義と外在主義. 内在主義と外在主義を端的に区別するような基準を特徴づけることは非常に難しい(これは個々の論者が、これらの語で異なることを意味している場合が多いためである)。また、内在主義・外在主義という区分は、知識に対して適用される場合と正当化に対して適用される場合があり、両者を区別する必要がある。 内在主義. 典型的なヴァージョンの内在主義() は、アクセス内在主義と呼ばれるものである。正当化に関するアクセス内在主義とは、認識主体が何かを信じるための正当化を持つかどうかを決定する要素は、全て(あるいは少なくとも、主要なものは)、その認知主体が反省のみによってアクセスすることができるものだけだという考え方。知識に関するアクセス内在主義とは、同様の条件を、認識主体が知識を持つかどうかを決定する要素に対して課す立場である。ゲティア問題を知識に関するアクセス内在主義で切り抜けるのは非常に困難である。 外在主義. 外在主義を内在主義の否定と解するならば、アクセス内在主義の否定としての外在主義() も、「正当化に関する外在主義」と「知識に関する外在主義」に区別される。前者は、認識主体が何かを信じるための正当化を持つ際に、当の認識主体の反省的アクセスの対象ではない要素が介在するという立場である。後者は、同様の条件を、認識主体が知識を持つための条件とする。 ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインによって提案された「自然化された認識論」は外在主義と結びついた形をとることが多い。 信頼性主義. 信頼性主義() と呼ばれる立場で、最も有名なものは、プロセス信頼性主義であり、正当化に関する外在主義の中心的な立場である。プロセス信頼性主義によれば、ある信念が正当化されるためには、その信念が信頼のおける認知プロセスによって形成されることが必要である。類似する立場として、知識に関する信頼性主義があり、)によって提唱された。 知識の因果説. 知識の因果説() とは、ある信念が知識かどうかは、その信念が、因果的に適切な仕方で生じたかどうかによって決まるという立場。アルヴィン・ゴールドマンによって提唱された。 決定的理由分析. 決定的理由() はフレッド・ドレツキの提案した概念で、その信念が間違いであるならば、その理由がえられることはないであろうような理由。ドレツキはある人の信念が知識であるのは、その信念が、その正しさを保証する決定的理由に基づいて信じられているときであるという考え方をとる。これは知識に関する外在主義の一種となる。 懐疑主義との対決. 懐疑主義、特にデカルトの「欺く神」() にどう対処するかということも近現代を通じて認識論の大きな課題である。これについてもいろいろな立場が提案されてきた。 外在主義. すでに見た外在主義は、知識ないし正当化の条件として、認識主体本人が反省的アクセスを持たない要素を認める。従って、われわれがデカルトの欺く神に騙されているのでないということを認識主体が証明できなくとも、現実世界のあり方や、認識主体の認知プロセスが実際に信頼可能であるという事実によって、知ることができるという可能性が開ける。 閉包原理. 閉包原理() とは、(ある仕方で解釈された)デカルトの懐疑論が依存しているとされる原理の一つで、認識主体がAを知っており、かつ、AからBが論理的に導けるということを知っているならば、その認識主体はBを知っている、という原理である。言い換えれば、知識は既知の論理的含意のもとで閉じている。閉包原理を否定するならば、欺く神に騙されているかどうかを知らないことは、様々なことを知っているということと両立可能である。閉包原理と呼ばれるものはこれ以外にも幾つかあり、どの原理が正しいかを巡る議論が行われている。 文脈主義. 認識論における広義の文脈主義() とは、極めて大まかに言えば、何が正当化されているか、何が知識かは文脈によって変化する、という立場。欺く神について考える文脈と、より日常的な問題について考える文脈を区別することで、デカルト的懐疑が日常の思考にも影響することを食い止めることができる。ジョン・L・オースティンが提唱者の一人である。 フランスの現代的認識論. フランスには、デカルトに端を発し、実証主義の祖オーギュスト・コントらが引き継いだ大陸合理主義・啓蒙主義の哲学的伝統がある。これらは、知識、信念、科学とは何か、合理的に知識を得る事とは、という認識論を中心とした問題意識を有するが、イギリス経験論を拒否するとともに、抽象的な定義から始まり、これを演繹するというドイツ哲学のような態度をも拒否し、理性について歴史的に考察する。 ミシェル・フーコーによれば、フランスの哲学的伝統は、ドイツ発祥の現象学をフランスにおいて受容するに際して、ガストン・バシュラール、ジョルジュ・カンギレムらによって代表される「知識、理性、概念の哲学」と、サルトル、メルロ・ポンティらによって代表される「経験、感覚、主体の哲学」の二派に分かれた。フランスの現代思想において、サルトルらの実存主義の流行後、1960年代に入って構造主義が台頭し、更にこれに対する反動としてポスト構造主義が台頭してくる歴史もそのような大きな流れの中で理解されるべきであるとされる。 エピステモロジー. 現代のフランスの科学的認識論は、「エピステモロジー」() とよばれ、科学哲学と分野が一部競合している様相を示している。 エピステモロジーの歴史的に重要な人物としては、上で挙げたバシュラール、カンギレムらがいる。 エピステモロジーは、科学史と哲学の密着な結びつきを重視するが、他方でイギリス経験論を拒否し、コント以来の実証主義的伝統を受け継ぐという特徴を有しているが、科学哲学とはその発展の歴史が異なるだけでなく、科学哲学が有する総括的な意図、論争的な調子とは一線を画しているという特徴も有している。 ポストモダニズム・ポスト構造主義. ポストモダニズム、ポスト構造主義と呼ばれる人文・社会科学上の潮流は構造主義にあり、構造主義的認識論を基礎にしている。 非本質主義、相対主義などと形容されることが多いポストモダニズムの典型的な議論、認識論として、次のような特徴が挙げられる。 こうした認識論上の主張は、フリードリヒ・ニーチェ、ミシェル・フーコー、ジャン=フランソワ・リオタール、リチャード・ローティなどの哲学的な著作に基づいてなされることが多い。 ドイツの現代的認識論. ドイツには、フリードリヒ・シュライアマハーに始まる解釈学の哲学的伝統があり、英米系の言語哲学が歴史を軽視していることが、このような哲学的伝統に反するものと考えられてきた。 第二次世界大戦後しばらくの間はマルティン・ハイデッガーによる認識論批判・存在論の復権の影響が大きく、フランスのエピステモロジーの影響はあったものの哲学的には停滞していた時期が続いた。 1960年ころ、いわゆる「ドイツ社会学の実証主義論争」を経て、英米系の言語哲学、科学哲学の発展の成果を受容する流れが強くなった。このような流れにある人物として、カール=オットー・アーペルらがいる。 もっとも、このような流れの中にあっても、ハンス・ゲオルク・ガダマーのようにあくまでドイツの哲学的伝統に足場を置き研究を続けるものも多数いる。その意味で科学的認識論の重要性は増したものの、現代においても哲学的認識論の問題が古くなってしまったわけではないと考えられている。 認識論の現在と未来. 自然化された認識論. ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインによって提案された「」は、自然科学的な方法論によって認識論を行おうという立場であり、クワイン以降、様々な形で展開されている。 クワインは、まず、古典的な経験主義には二つのドグマがあり、ドクマなき新たな経験主義を確立する必要があると主張する。彼によれば、経験主義には、事実に基づく総合的真理と事実問題と独立な意味に基づく分析的真理の間には根本的な相違があるという信念と、有意味な言明は直接的経験を指示する諸名辞からの論理的構成物と同値であるという信念の二つのドグマがあり、この二つのドグマは同じ根を持つ。経験主義の伝統においては、真理とは、観念と実在の対応であり、その場合の観念とは、一つの名辞を単位に考えられていたが、カルナップらの論理実証主義は、この単位を一つの言明に置き換えた。つまり、ここでは、直接的経験によるセンス・データ(感覚所与)言語に翻訳可能であれば、この言明は有意味であると考えられた。しかしながら、クワインによれば、このように実在と観念の対応を一つの名辞、一つの言明に分解していく還元主義は不可能であり、われわれの認識は一つの言語体系であり、したがって、とある信念を検証するにあたっては、一つの理論の全体との関係で、経験の審判を仰がねばならず、そのコロラリーとして、分析的真理と総合的真理は区別することはできない。 クワインは、これを「全体論」と呼んだが、これによれば、経験による改訂の可能性を原理的に免責されている信念はなく、もし対立する二つの理論があるときは、どのような経験によっても、そのどちらかが完全に否定されることはなく、どのような信念でも保持しつづけることができることになる。 発生的認識論. ジャン・ピアジェは、心理学者として、とりわけ発達心理学で著名であるが、もともとは古典的認識論の諸問題を解決する糸口を生物学・心理学に求め、「」を提唱した。彼は、多数の実験により幼児の認識の発達段階を解明した上で、認識は対象から独立しており、決して対象に到達することはないが、同時に対象によって支えられているという点で構成的なものであるとする。また、発生的認識論は哲学ではなく、科学であり、極めて専門的・集団的なものであるとの考えから、1955年、発生的認識論国際センターをジュネーヴに設立し、世界中のさまざまな分野の研究者たちとの共同研究を晩年まで精力的に行ない、現在も多くの学者が共同で研究を続けている。 進化論的認識論. コンラート・ローレンツは、動物行動学で著名であるが、哲学者のカール・ポパーと共に、人間の認識の起源の問題を個々人ではなく、生物種としての人の認知構造に求め、知識の変化を進化とみて通時的なアプローチを試みる「」を主張した。 自然科学の発展と認識論. 1970年代後半に人間の心の本質について新知見をもたらす学問分野が発展し、その後も進展が続いている。脳科学、心理学、認知科学、神経生物学、人工知能、コンピューターなどに関連する研究である。これらの発展は“見る”事がいかになされているか、いかに心が外界の表象を形作るか、いかに情報が蓄えられ再起されるかなどの理解につながっている。これらの分野の発展が認識論に影響を及ぼす事が示唆されている。 認識論の社会化. 近時は社会科学に属する社会学を認識論に応用することはできないかが議論されている。
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震度
地震における震度(しんど)とは、地震動の強さを表す尺度を言う。工学的震度という場合、主に地震動の加速度を言う。 工学的震度. 地震動の強さを表す尺度として気象庁震度階級は便利なもので一般にも広く普及しているが、当初は個人の主観に頼って階級判断されていたこともあり、客観性のある尺度としては不十分なものであった。そのため、建築物の耐震設計などをするにあたっては科学的に正確な尺度として用いることができず、別途地震動の強さを表す工学的定義が必要となる。現在においては以下の加速度による定義(佐野震度)がよく用いられている。 佐野震度(Sano's seismic coefficient). 1916年(大正5年)に、佐野利器は著書『家屋耐震構造論』の中で、耐震計算をするための尺度として、地震動の強さは地震波の最大加速度 α に比例するものと考えα の重力加速度 g(= 980 Gal)に対する比 K を震度(seismic coefficient)と名付けた(佐野震度)。現在においては工学的震度とも呼ばれる。 地震動による水平加速度 αh、鉛直加速度 αv が問題となるときは、 とし、それぞれ水平震度(horizontal seismic coefficient)および鉛直震度(vertical seismic coefficient)と呼ぶ。なお、耐震設計においては基本的に水平震度が問題となる。 この震度概念の導入は、物体が地震動を受けることによってかかる力(地震力)の算出を簡明にした。 いま、(質量ではなく)重量 W kg重 の物体が α Gal の地震動を受けたとする。このとき、物体の質量を m とすると、ニュートンの運動方程式から地震力 F は となる。ここで、重力加速度は地球上ではほぼ一定の g であることから m = W/g となるので、 が導かれる。 すなわち、重量 W kg重の物体が震度 K の地震動を受けるとき、地震動の方向に を受けることとなる。 他の工学的な震度(速度によるもの). 一般には地震の強さは地震波の加速度に比例すると考えられ、主に工学的震度(佐野震度)K が用いられているが、震害の大きさは一概に工学的震度 K に比例するわけではないこともあり、他にも定義が存在する。 震度階級. 地震動の強弱を表す尺度としては震度階級(seismic intensity scale)または単に震度階と呼ばれるものもある。それぞれ揺れの違いがある10前後のレベルで表現され、世界では地域により定義の異なるいくつかの震度階級が用いられている。現在の日本では気象庁震度階級が使われており、日本では一般的にこれを「震度」と呼ぶ。なお、震度階級と工学的震度(佐野震度)の強さは一概には比例しない。 震度階級の性質. 震度階級は、断層破壊で放出されるエネルギーの大きさを表すマグニチュード(地震のエネルギーの規模)とは異なり、観測する地点によって全く異なる。なお、マグニチュード(規模)が大きな地震ほど、最大震度階級も比例する形で大きくなる関係にある。震源が浅い直下の地震では、マグニチュードの値と気象庁震度階級の値がほぼ同じ数値になることが経験的に知られていて、例えばマグニチュード4程度の地震では最大震度はおおむね4以下(計測震度4.5未満)となることが多い。ただし、地盤の固さや震源の深さなどにより、最大震度は比例関係から外れ大きくなる場合がある。その地震によって各地で観測されたうち、最大の震度階級を最大震度階級(maximum seismic intensity scale)という。 原則として、震度階級は震源(震央)からの距離に逆比例し、震源から遠いほど震度階級は小さくなる。最大震度階級は震源の直上である震央付近となるのが普通で、震度階級の広がりを地図上に表すと同心円に近い分布をとる。 震度階級の種類. 震度の階級表は国際的に統一された標準的な規格はなく、それぞれの国や地域が採用したいくつかの指標がある。主な海外で使用されている震度階級としては以下のようなものがある。なお、それぞれの震度階級の間で、数式などを用いて対応関係を示すことは難しい。また同じ震度階級でも機関によって運用や基準が異なり、単純に同じとはみなせない場合がある。各国の気象機関で公式に使用する震度を定めていないところも多いが、メルカリ震度階級を使用するところが多い。
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マグニチュード
地震のマグニチュード()とは、地震が発するエネルギーの大きさを対数で表した指標値である。揺れの大きさを表す震度とは異なる。日本の地震学者和達清夫の最大震度と震央までの距離を書き込んだ地図に着想を得て、アメリカの地震学者チャールズ・リヒターが考案した。 この最初に考案されたマグニチュードはローカル・マグニチュード ("ML") と呼ばれており、リヒターの名からリヒター・スケール (Richter scale, 〈読:リクター・スケール〉) とも呼称される。マグニチュードは地震のエネルギーを1000の平方根を底とした対数で表した数値で、マグニチュードが 1 増えると地震のエネルギーは約31.6倍になり、マグニチュードが 2 増えると地震のエネルギーは1000倍になる。 地震学ではモーメント・マグニチュード ("Mw") が広く使われている。日本では気象庁マグニチュード ("Mj") が広く使われるが、長周期の波が観測できるような規模の地震("Mj" 5.0以上)ではモーメント・マグニチュードも解析・公表されている。 一般的にマグニチュードは formula_1 の形の式で表される。ここで、"A"はある観測点の振幅、"B"は震央距離Δや震源の深さ"h"による補正項である。 マグニチュードと地震のエネルギー. 地震が発するエネルギーの大きさを (単位:ジュール)、マグニチュードを とすると、次の関係がある。 この式からマグニチュード が 1 大きくなると左辺の が 1.5 増加するからエネルギーは約32倍大きくなる ()。同様にマグニチュードが 2 大きくなるとエネルギーは1000倍になる ()。また、マグニチュードで0.2の差はエネルギーでは約2倍の差になる ()。 マグニチュードの飽和. 一般に使われる他の各種のマグニチュードでは、概ね8(表面波マグニチュードで8.5、実体波マグニチュードでは7程度)を超えると数値が頭打ち傾向になる。これを「マグニチュードの飽和」と呼ぶ。例えばローカル・マグニチュード ("ML") は約6.5あたりから飽和しはじめ、約7が最大値となる。 短周期の地震波ほど減衰しやすく、その影響を受ける地震波の周期はおよそ "L"/"v"("L": 断層の長さ、"v": 断層破壊の伝播速度)程度以下、すなわち断層の破壊に要した時間程度以下の周期である。従って断層破壊に要する時間が長い巨大地震では地震の発生を瞬時の破壊と見なせなくなり、例えば周期20秒の地震波の振幅に着目する表面波マグニチュードは断層破壊に20秒程度かかる約100 kmより長い断層では、地震の規模が大きくなっても地震波の振幅が頭打ちとなる。 マグニチュードを決めるために用いる地震波の周波数とエネルギーのモデルから地震波によるマグニチュードは高周波、かつ規模の小さな地震ほど飽和が起こりにくいことが示される。このモデルでは実体波マグニチュード ("Mb") は約5.5から飽和しはじめ6で飽和となり、表面波マグニチュード ("Ms") では7.25から飽和しはじめ8で飽和となるが、飽和となる数値は観測される地震により異なり、"Mb" ≧ 6 の報告例も多数あるためモデルがあらゆる地震に当てはまるわけではない。 エネルギーが大きく、長周期(低周波)の地震動が卓越した巨大地震においても飽和がなく、より正確に地震の規模を表す指標として、無限大の長周期地震波に基づくと見做されるモーメント・マグニチュードが考案され、地震学では広く使われている。 一般的なマグニチュードの種類. 地震学では各種のマグニチュードを区別するために「"M"」に続けて区別の記号を付ける。地震学ではモーメント・マグニチュード ("M"w) を単に「"M"」と表記することが多い(アメリカ地質調査所 (USGS) など)。日本では気象庁マグニチュード ("Mj") を単に「"M"」と表記することが多い。各種のマグニチュードの値の間では差異を持つので注意が必要である。 以下、振幅という場合は片振幅(中心値からの振幅)を意味する。 ローカルマグニチュード "ML". リヒター・スケールとも。リヒターは、ウッド・アンダーソン型地震計(2800倍)の最大振幅 "A"(単位:μm)を震央からの距離100 kmのところの値に換算したものの常用対数をマグニチュードとした。従って、地震波の振幅が10倍大きくなるごとに、マグニチュードが1ずつあがる。 表面波マグニチュード "Ms". ベノー・グーテンベルグは、表面波マグニチュードを で定義した。ここで、 は表面波水平成分の最大振幅、Δ は震央距離(角度)、"C" は観測点ごとの補正値である。 これとほぼ同じであるが、国際地震学地球内部物理学協会の勧告(1967年)では、 としている。"A" は表面波水平成分の最大振幅 (μm)、"T" は周期(秒)である。周期約20秒の地震動に着目して求められている。 より長周期の例えば周期100秒の表面波に基づいてその振幅からマグニチュードを算出すれば、巨大な地震の規模もある程度適切に表される様になる。例えば周期20秒の表面波マグニチュードではほとんど差が見られない1933年三陸地震、1960年チリ地震、1964年アラスカ地震の周期100秒表面波マグニチュード "M"100 は、それぞれ、8.4、8.8、8.9となる。 実体波マグニチュード "Mb". グーテンベルクおよびリヒターは、実体波マグニチュードを で定義した。"A" は実体波(P波、S波)の最大振幅、"T" はその周期、"B" は震源の深さ "h" と震央距離 Δ の関数である。 経験的に、 が成り立つ。周期約1秒の地震動に着目して求められている。 モーメントマグニチュード Mw. 1979年、当時カリフォルニア工科大学の地震学の教授であった金森博雄と彼の学生であったは、従来のマグニチュードは地震を起こす断層運動の地震モーメント ("M"0) と密接な関係があり、これを使えば大規模な地震でも値が飽和しにくいスケールを定義できるという金森のアイデアをモーメント・マグニチュード ("Mw") と名付け、以下のように計算される量として発表した。 "S" は震源断層面積、"D" は平均変位量、"μ" は剛性率である。 これまでに観測された地震のモーメント・マグニチュードの最大値は、1960年に発生したチリ地震の9.5である。 気象庁マグニチュード Mj. 気象庁マグニチュードは、日本で国としての地震情報として使用されており、2003年の約80年前まで遡って一貫した方法で決定され、モーメント・マグニチュードともよく一致している。略称としてM、或いはMjが使われる。 気象庁マグニチュードは周期5秒までの強い揺れを観測する強震計で記録された地震波形の最大振幅の値を用いて計算する方式で、地震発生から3分程で計算可能という点から速報性に優れている。一方、マグニチュードが8を超える巨大地震の場合はより長い周期の地震波は大きくなるが、周期5秒程度までの地震波の大きさはほとんど変わらないため、マグニチュードの飽和が起き正確な数値を推定できない欠点がある。東北地方太平洋沖地震では気象庁マグニチュードを発生当日に速報値で7.9、暫定値で8.4と発表したが、発生2日後に地震情報として発表されたモーメント・マグニチュードは9.0であった。 2003年9月24日以前. 2003年9月24日までは、下記のように、変位マグニチュードと速度マグニチュードを組み合わせる方法により計算していた。 2003年9月25日以降. 変位マグニチュードは、系統的にモーメント・マグニチュードとずれることがわかってきたため、差異が小さくなるよう、2003年9月25日からは計算方法を改訂し(一部は先行して2001年4月23日に改訂)、あわせて過去の地震についてもマグニチュードの見直しを行った。 ここで、"β""d" は震央距離と震源深度の関数(距離減衰項)であり、"H" が小さい場合には坪井の式に整合する。"Cd" は補正係数。 ここで、"βv" は "Md" と連続しながら、深さ 700 km、震央距離 2000 km までを定義した距離減衰項である。"Cv" は補正係数。 特殊なマグニチュードの種類. マグニチュードを厳密に区別すると、その種類は40種類以上に及ぶが、ここでは特徴的なものを記載する。 地震動継続時間から求めるマグニチュード. 地震記象上で振動が継続する時間 "Td" はマグニチュードとともに長くなる傾向がある。そこで一般に、 の式が成り立つ。, , は定数、 は震央距離である。 は小さいため、第3項を省略することもある。 過去には河角のWiechert式地震計に対しての式 などが提案されている。 地震波記録の回収や解析に多大な労力を要した1970年代頃までは、1つの地震計記録からマグニチュードを概算する方法として、気象台・観測所などで利用された。ただし各定数は地震計の特性に大きく依存するため、短時間で多くの地震波記録を扱うことができる現在ではこの式はほとんど用いられない。 有感半径から求めるマグニチュード. グーテンベルクとリヒターは、南カリフォルニアの地震について、有感半径 "R" を用いて、 の式を得ている。 日本でも市川が日本の浅発地震に対して を与えている。なお、"R" は飛び離れた有感地点を除く最大有感半径 (km) である。 震度4, 5, 6の範囲から求めるマグニチュード. 気象庁の震度で、4以上、5以上、6以上の区域の面積 (km) をそれぞれ 、、 とするとき、勝又護と徳永規一は という実験式を、村松郁栄は という実験式を得ている。 河角廣は震央からの距離 100 km における平均震度を と定義し、リヒタースケールとの間に の関係があるとした。また震央距離と震度、マグニチュードの間には以下の関係があるとした。 これらは地震計による記録がなかった歴史地震のマグニチュードを推定する際に有効である。家屋被害に関する文献記録から各地域の震度を求め、それをもとにマグニチュードを推定する。 微小地震のマグニチュード. 微小地震については上記の "Ms"、"Mb"、"Mj" などでは正確な規模の評価ができない。そこで、たとえば渡辺は上下方向の最大速度振幅 (cm/s) と震源距離 (km) を用いて、 の式を示している。なおこの式は "r" が 200 km 未満のときに限られる。マグニチュードがマイナス値を示す場合にもある程度有効であるため、ごくごく微小な人工地震のマグニチュードを求める際にも利用される。 津波マグニチュード "Mt". 低周波地震では "Ms"、"Mb"、"Mj" を用いると地震の規模が実際よりも小さく評価される。そこで阿部勝征によって、津波を用いたマグニチュード "Mt" が考案された。 ここで "H" は津波の高さ (m)、Δ は伝播距離 (km) (Δ ≧ 100 km)、"D" は "Mt" がモーメントマグニチュード "M"w と近い値を取るように定められた定数である。D は日本において観測されたデータを用いると 5.80 となる。 また、震央より1000 km以上離れた、遠隔地で発生した地震による津波における "Mt" は を "Mt" が "M"w と近い値を取るように定められた定数とすれば、 と表される。 は津波の発生地域及び観測地域によって変化する経験値で、太平洋で発生した津波地震については、−0.6 から +0.5 の値を取る。 津波地震では、津波マグニチュードは表面波マグニチュード・実体波マグニチュードよりも大きくなる。 マグニチュードの目安. 簡易な計算式として、マグニチュードが Δ"M" 増えたときのエネルギーは 倍となる。たとえば、マグニチュードが1増えるとエネルギーは約31.62倍、2増えると1000倍となる(#マグニチュードと地震のエネルギーの節参照)。 また、マグニチュードが1増えると地震の発生頻度はおよそ10分の1になる(#頻度の目安の節参照)。 マグニチュードの大小と被害. 地域や構造物の強度等にもよるが、一般にM6を超える程度の直下型地震が、地下20キロメートル前後の深さで起こると、ほぼ確実に、人数の差こそあれ死傷者を出す“災害”となる。M7クラスの直下型地震では、条件にもよるが大災害になる。兵庫県南部地震は "Mj"7.3 ("Mw"6.9) だった。また、東海地震や南海地震といったプレート型地震はM8前後である。またMが7を大きく超えると、被害を生じさせる津波が発生する場合がある。一般的にマグニチュードが大きくなると、地震断層面も大きくなるため、被害の程度だけでなく被害が生じる範囲も拡大する。 M5未満では被害が生じることは稀で、M2程度の地震では、陸上でも人に感じられないことが多い。M0クラスになると、日本の地震計観測網でも捉えられない場合がある。なお、理論上マグニチュードにはマイナスの値が存在するが、この規模の地震になると精密地震計でも捉えられない場合が多く、また常時微動やノイズとの区別も難しくなってくる。 大きな地震のマグニチュードを求めることは、地震の規模や被害の推定に有用である。一方マグニチュードが小さく被害をもたらさないような地震も、地震や火山・プレートテクトニクスのメカニズムを解明するのに役立つため観測が行われている。 大地震の内、特にM8以上の地震を巨大地震、巨大地震の内、Mw9以上の地震を超巨大地震と区分けすることがある。 マグニチュードの大小の目安. マグニチュード(以下M)のエネルギーの規模の比較と代表的な地震。 頻度の目安. 地震の発生頻度は以下のグーテンベルグ・リヒターの関係式により表される。 この式はマグニチュードが "M" のときの地震の頻度を "n"(回/年)で表す。傾きを表す "b" を「"b" 値」と言い、統計期間や地域により若干異なるものの、0.9 - 1.0 前後となる。この式から、マグニチュードが1大きくなるごとに地震の回数は約10分の1となる。ただ、実際に観測される地震の回数をグラフに表すと、日本付近ではM3 - 8付近では式に沿ったものとなるが、M3以下とM8以上では、正しく表されなくなる。これは、M3以下の地震は、規模が小さすぎるために観測できていないものが多いからであり、この規模の地震の観測数を調べることで地震の観測網の能力を計ることもできるとされている。一方、M8以上の地震は、発生回数自体が少ないために正確に表せていないもので、より長期間調査することで精度が高まるとされている。 日本での頻度の目安は以下の通り。規模の小さなものは、1小さくなる毎に10倍になると考えればよい。 また、M5程度の地震は世界のどこかでほとんど毎日発生しており、M3 - 4程度の地震は日本でもほとんど毎日発生している。 以下は理論値ではなく、ある期間の観測結果からの年間の回数である。
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2月21日
2月21日(にがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から52日目にあたり、年末まであと313日(閏年では314日)ある。
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排他制御
とは、コンピュータ・プログラムの実行において、複数のプロセスが利用出来る共有資源に対し、複数のプロセスからの同時アクセスにより競合が発生する場合に、あるプロセスに資源を独占的に利用させている間は、他のプロセスが利用できないようにする事で整合性を保つ処理の事をいう。相互排除または相互排他()ともいう。最大k個のプロセスが共有資源にアクセスして良い場合を k-相互排除という。 換言すれば1つのクリティカルセクションに複数のプロセス(またはスレッド)が同時に入ることを防ぐことである。クリティカルセクションとは、プロセスが共有メモリなどの共有資源にアクセスしている期間を指す。排他制御の問題は1965年、エドガー・ダイクストラが並行プログラミング制御における問題の解法に付いて扱った論文で扱ったのが最初である。 排他制御の重要性を示す例として、片方向連結リストがある(右図)。このような連結リストからノードを削除するには、1つ前のノードにある、次のノードを指すポインタを、削除したいノードの、次のノードを指すように書き換える(例えば、ノード "i" を削除するには、ノード "i-1" のnextポインタをノード "i+1" を指すよう書き換える)。このとき、その連結リストを複数プロセスが共有しているなら、2つのプロセスがそれぞれ別のノードを削除しようとして次のような問題を生じる可能性がある。 この問題は排他制御を施して複数の状態更新処理が同時に行われないようにすれば解決する。 排他制御の実施. 排他制御を実施する手段はハードウェアによるものとソフトウェアによるものがある。 ハードウェアによる方式. シングルプロセッサシステムでは、あるプロセスがクリティカルセクションにあるとき割り込みを禁止するというのが最も単純な排他制御である。その間、いかなる割り込みハンドラも動作できない(それによって実質的にプリエンプションを防ぐ)。この方式は効果的だが、同時に様々な問題もはらんでいる。クリティカルセクションが長い場合、クロック割り込みが処理されないためにシステム時刻が徐々に遅れていくという事態が発生しうる。また、クリティカルセクション内でプロセスが停止すると、他のプロセスに制御を渡せなくなり、結果としてシステム全体が停止することになる。μITRONなどでは、タスク切り替え(プリエンプションとディスパッチ)を禁止するという操作もある。より上品な方式としてビジーウェイトで相互排他する方式もある。 ビジーウェイトはシングルプロセッサでもマルチプロセッサでも有効である。共有メモリと不可分なテスト・アンド・セット命令を使うことで、排他制御を実現する。プロセスは共有メモリ上の特定位置について値を調べて新たな値をセットするという操作を不可分に実施でき、それによって一度に1つのプロセスだけがフラグをセットできることを保証する。フラグをセットできなかったプロセスは別の処理を行って後で再試行するか、プロセッサを他のプロセスに明け渡して後で再試行するか、フラグをセットできるまでループして再試行を繰り返すといった動作が可能である。プリエンプションは可能なので、この方式ではプロセスがフラグ(ロック)を保持したまま停止してもシステム全体は機能し続ける。 不可分操作命令は他にもいくつかの実装があり、どれもデータ構造の排他制御に使える。よく見られるのはコンペア・アンド・スワップ (CAS) である。CAS命令を使えば wait free と呼ばれる排他制御を任意の共有データに実施できる。そのためには連結リストを作り、各ノードが実行したい操作を表すようにする。CAS命令はその連結リストに新しいノードを挿入する際に使用する。ノードの挿入はCAS命令を使えば一度に1つのプロセスしか成功しない。失敗したプロセスはノード追加処理が成功するまで試行し続ける。各プロセスはこのデータ構造のローカルなコピーを保持でき、連結リストを走査でき、リストのローカルコピー上の各操作を実行できる。 ソフトウェアによる方式. ハードウェアサポートを必要とする方式とは別に、ビジーウェイトを使ってソフトウェアのみで排他制御を実現する方式も存在する。例えば、次のようなものがある。 これらのアルゴリズムはアウト・オブ・オーダー実行が働くプラットフォーム上では動作できない(但し、メモリバリアを実現する機械語命令を持っているCPUプラットフォームの場合は除く)。アルゴリズム実施中、メモリ操作はプログラミングした通りに行われなければならない。 OSのマルチスレッドライブラリが同期機構を提供しているなら、それを使う方が望ましい。ハードウェアによる方式が利用可能ならばそれを使って実装されているだろうし、そうでないならばソフトウェアによる方式を利用しているだろう。たとえばOSのライブラリを使い、スレッドが他者が既に獲得しているロックを獲得しようとしたとき、OSはそのスレッドを中断させてコンテキストスイッチし動作可能な他のスレッドを動作させたり、動作可能な他のスレッドがなければプロセッサを省電力状態にしたりといったことをする可能性がある。したがって、ほとんどの現代の排他制御技法はキューイングとコンテキストスイッチを使いレイテンシとビジーウェイト時間を削減しようとする。しかし、スレッドを中断させて再開させるのにかかる時間がスレッドがロックを獲得できるまでの待ち時間より長い場合に限り、スピンロックの方が適しているといえる。 高度な排他制御. これまでに説明した方式を使い、次のような同期プリミティブが構築できる。 排他制御の多くの形式には副作用がある。例えば、古典的セマフォはデッドロックを引き起こしうる。あるプロセスがあるセマフォを獲得し、別のプロセスが別のセマフォを獲得した状態で、互いに相手の獲得したセマフォが解放されるのを待ち続けることが考えられる。よくある副作用としてリソーススタベーションがあり、その場合プロセスは処理を完遂するのに十分な資源を決して得られない。また、優先順位の逆転は低優先度のスレッドのせいで高優先度のスレッドが待たされる現象であり、レイテンシが長くなり、割り込みへの反応が悪くなる。 排他制御に関する研究の多くはそういった副作用を排除することを目的としており、例えばLock-freeとWait-freeアルゴリズムはブロッキングされずに処理が進行することを保証する。完璧な方法はまだ見つかっていない。 留意すべき現象と性質. デッドロック. 排他制御によりロックされた資源に他のユーザからアクセス要求が出された時、両者は互いに使用中の資源が解放されるのをブロック状態で待つという状況が発生することがある。2つ以上のユーザ間で生じるが、この状態ではどのユーザも資源の解放を待ったまま処理が進まずに停止状態となる。 このような状態をデッドロックという。 ライブロック(). デッドロックと同様、排他制御によりロックされた資源に、複数のユーザからアクセス要求が出されたときに、お互いに資源が解放されるのをビジー状態で待つという状況が発生する。デッドロックでは個々のユーザにおける資源獲得のための処理が進行しないのに対し、ライブロックでは資源獲得の処理が進行しているにも拘らず、どのユーザも資源が獲得できない状況である。 例えば、狭い道を歩いていて対面した歩行者2名が、お互いに相手が避けようとした方向に動いてしまい、避けられないという事が有る。次に、逆の方向に避けようして避けられない。このような状況が続いて、何時まで経ってもすれ違うことができないという状況にあたる。(リソーススタベーション参照) フェアネス(). 「共有資源を利用したいユーザが、いつかは共有資源を利用できる」という、排他制御アルゴリズムが満たすべき性質。 フェアネスが満たされない場合の例であるが、駅の切符売り場に3台の券売機があって、各券売機に行列が出来ているとき、並んだ行列の進みが遅い場合に他の行列の後尾に並びなおす戦略を採用すると、運が悪ければ何時まで経っても券を購入できないということが起こりうる。 k-バイパス(). 共有資源へのアクセス要求を出したユーザが、後から要求を出した最大k個のユーザによって、先に資源を使われてしまう可能性があるということを表す、フェアネスの度合いを計る指標である。
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内戦
内戦(ないせん、)は、国家の領域内で対立した勢力によって起こる、政府と非政府による組織間の武力紛争を指す。1816年以降に発生した内戦を収集したデータベースであるでは、内戦を「一国内で発生し、当該国政府が介入し、政府・反政府両勢力が拮抗した、年間死者が1000人に達する武力紛争」と定義しているが、この定義には異論もある。 用語. 「内戦 (civil war)」と「内乱 (rebellion)」は同義に用いられることも多く、用語の使い分けは慣習的なもので、厳密な区別はない。例えば、スペイン内戦は「スペイン内乱」とも呼ばれる。しかし、一般的には暴動の範囲内である事象を「内乱」と呼び、武力を用いる形態にまで発展した事象を「内戦」と呼んで区別する場合もある。欧米言語では「"civil war"」(英語)や「"bellum civile"」(ラテン語)や「"Bürgerkrieg"」(独語)というように「市民戦争」「市民同士の戦争」という言い方をする。 ただし、近代的な国際関係・国際秩序が形成された1648年のヴェストファーレン条約前の時代では、内戦と対外戦争との区別は明確ではない。また、政府が倒されて政治体制が転換された場合にはフランス革命・共産主義革命・ルーマニア革命 (1989年)のように、内戦や内乱ではなく「革命」という表記を用いる場合も多い。 国際法上の位置づけとしては、従来は中央政府が反乱側を交戦団体として承認しない限り戦時国際法は適用されず、交戦団体承認自体がアメリカ南北戦争を例外としてはほぼ行われなかったため、ほとんどの内戦は戦時国際法の範囲から外れていた。しかし、 1949年のジュネーブ諸条約共通三条において、内戦時の戦闘外人員に対する人道的対応が義務づけられ、1977年のジュネーヴ諸条約第二追加議定書によってさらに保護は強化された。また、同年のジュネーヴ諸条約第一追加議定書により、民族解放戦争に関しては戦時国際法の全面的な適用が可能となった。国家の転覆を意図した者には内乱罪が適用される例が見られるが、内戦の規模が大きくなると、アメリカ南北戦争やレバノン内戦のように政治的理由から内乱罪の適用が避けられることもある。 植民地の独立戦争などにおいて支配側は「内戦」や「反乱」と呼び、植民地側は「独立戦争」と呼ぶことが多く、アルジェリア戦争のようにアルジェリア側は「独立戦争」と呼び、フランス側は「内戦」と呼んだように、戦争の性質によって内戦かどうか意見が分かれることも多い。このような場合には、支配者側が交戦相手を国家とは見なさず、相手を戦時捕虜ではなく犯罪者として扱い、捕虜の権利を認めない、犯罪者として処刑したりする事態が発生することも多い。1989年のルーマニア革命では、国軍と秘密警察という国家機関同士の戦いになり、秘密警察の構成員は全員が非合法組織の犯罪者とされ、死刑、懲役、公職追放などの処罰を受けている。 原因. まず内戦は、全国政府の座を争うためのものと、分離独立や自治権確立といった地方の分離主義によるものの2種類に大きく分けられる。1960年から2006年までのデータでは、発生した内戦のうちおおよそ7割が全国統治を、3割が分離独立を争う内戦だった。前者の例としては、戊辰戦争、国共内戦、シリア内戦、アンゴラ内戦などが挙げられる。 経済的要因. 従来、内戦の原因としては国家内の各集団間の不平等や格差による不満が主因であると考えられてきた。これに対し、1998年にポール・コリアーとが経済的利益のために内戦が起こるという説を提唱し、以後この「」論争は内戦研究の大きな潮流となったが、この枠組みでの分類を不適切であるとする研究者もいる。 1998年のコリアーとヘフラーの研究においては、まず貧困国の方が富裕国よりも内戦の可能性が高いこと、さらにそのなかでも経済成長がマイナスあるいは停滞している国家はさらに内戦の可能性が高まることが示された。これは、貧困国では治安維持予算が不十分なため警察能力や国軍の能力が低く反乱を起こしやすいことや、住民の収入が低い場合反乱に訴えた方がよりよい収入を確保できる可能性が高いことが理由と考えられている。例として、労働力が不足していて失業率が低い場合や、識字率が高くより仕事を求めやすい地域においては反乱の発生率が下がることが判明している。 さらにエドワード・ミゲルらによる2004年の研究では、アフリカにおいて旱魃が起きた年は平年に比べ内戦リスクが非常に高くなることが証明された。これは、旱魃によって収穫が大幅に減少したため地域住民の収入が減少し、反乱へとつながることを示しており、内戦が起きたから貧困になったのではなく、重大な経済的ショックによって貧しくなった人々がその改善を求めて内戦を起こすことを証明する結果である。 コリアーとヘフラーの研究ではまた、当該国が天然資源や一次産品に経済を頼っている場合、内戦の可能性が高まることも示された。経済の一次産品への依存度が26%になる場合が最も内戦の危険が大きく、およそ2割前後の発生危険性があるとされる。これは天然資源は現金化しやすく、反乱軍の資金源になりやすいことや、資源収入は不平等を作り出しやすいこと、資源収入があれば市民からの税収に頼る必要が減少するためガバナンスが劣悪化し市民の不満がたまりやすいこと、資源は地理的に偏在しやすく産出地の不満と野望を生みやすいこと、そして一次産品は価格が変動しやすく不況時に受ける経済的ショックが大きくなりがちであることなどが理由であると考えられている。 ただしその後研究が進み、たとえば石油収入が経済の大部分を占めるようになると、逆に内戦の危険は大幅に低下することが判明している。これは豊富な資金によって治安関係や国民福祉を大幅に増強することができるため、国民の不満が減り統治能力が増強されるためであると考えられている。また内戦リスクは資源の存在場所にも左右され、例えば陸上に油井がある国では内戦リスクが非常に高まるのに対し、海上油田のみの国では非資源国と同程度にまで内戦リスクは低下する。これは反乱する地元住民が存在せず、反乱者からの攻撃も防ぎやすいためであるとされる。同様にダイヤモンドでも、硬い岩盤のなかに埋蔵されている鉱床では内戦リスクの増加は見られないが、河川敷などで容易に採掘できる漂砂鉱床のある国では内戦リスクが増加するとの研究結果が発表されている。 不平等と不満. 一般的なイメージとは違い、民族や宗教などの多様性は必ずしも内戦の可能性を高めるわけではないとの研究結果はフィアロン&レイティン、コリアー&へフラーの研究など複数存在する。一方で、2013年のラース・エリック・シダーマンの研究では、国家体制から政治的・経済的に疎外される民族集団が存在し、民族集団間で不平等が存在する場合は疎外された集団の反乱可能性は非常に高くなるとの結果が得られている。 政治的要因. 中央政府の統治能力の低さは内戦につながりやすいと考えられている。とは2003年の研究で、統治能力の低い国家では治安維持能力の強化や交通網の整備が不十分で、反乱が起こりやすいと指摘した。経済的な不満や地域的な対立などの不安要素が存在する場合においても、政府の統治能力が高い場合は内戦勃発リスクは大幅に減少する。 政府の統治能力の極端に低い、いわゆる失敗国家において、特に失敗の度合いがひどい場合は暴力の独占が崩れ、各地に軍閥が割拠し内戦が勃発する場合がある。内戦が激化した場合、1991年以降のソマリアのように中央政府そのものが事実上崩壊し、無政府状態となる例も存在する。 政体に関しては、閉鎖的な独裁政治と成熟した民主主義体制ではともに内戦リスクが非常に低くなる一方、独裁というほどではないが民主的でもない混合体制の国家において内戦リスクが高くなると考えられている。つまり、独裁度または民主度が高い体制ほど内戦は起きにくく、両方の中間に近くなるほど内戦は起きやすくなる。また、クーデターや革命などの非制度的な理由によって権力を握った指導者の統治下では、国民が政権に政治的正統性を認めないため内戦が勃発しやすくなり、内戦リスクが通常の指導者と同レベルにまで低下するのは約15年が必要となる。 地形に関しては、平地が多く見通しのよい地形の国家よりも、山地が多く地形の複雑な国家の方が反乱軍が発見されにくいために内戦リスクが高まるとの研究結果が存在する。 最近の傾向. 2019年現在、国際連合の加盟国193カ国中50カ国以上が内戦状態にある。冷戦終結以降、国家間の武力衝突は非常に数が少なくなっており、武力紛争のほとんどは内戦となっている。 ウプサラ紛争データプログラムによれば、1940年代には20件/年以下だった内戦は1980年代には40件/年以上になり、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まった1992年には50件/年を超えた。その後、2000年代には30件台/年まで減少したが、アラブの春が始まった2010年代に急増し、2015年以降は毎年50件/年を超えた。またシリア内戦のように周辺国やグローバル大国が内戦に介入する国際化した内戦も2013年以降急増しており、2015年には第二次世界大戦後初めて20件/年を超え、その後も超過が続いている。 内戦の特徴としては、冷戦期には高い軍事力を持つ政府軍に対し反政府軍側がゲリラ戦を行うものが半数以上を占めていたのに対し、冷戦後には政府軍側の軍備も劣悪化し、双方が明確な戦線を形成できずにゲリラ戦を行うタイプの内戦が増加している。双方が十分な軍備を保持し戦線を形成して正面から激突するタイプの内戦は、冷戦の前後を通じてそれほど発生数に変化は見られない。 内戦継続期間に関しては、全国支配権を巡る内戦は短く、分離独立を目指す内戦は長期化する傾向が明確に現れている。2004年のフィアロンの研究では、全国支配型の内戦は平均3年間継続するのに対し、資源の産地で利権を巡って起きた内戦は平均25年、少数派集団が土地の支配を求めて起こした内戦は平均30年と、非常に長く継続する。このため、資源型や分離型の反乱の多いサブサハラアフリカやアジアにおいて、内戦は長期化する傾向にある。 また、反政府勢力が複数存在することは珍しくなく、政府対反政府勢力だけでなく、反政府勢力間での武力衝突も頻繁に起こっている。コンゴ民主共和国内戦やソマリア内戦、ダルフール紛争などではこうした反政府勢力の群雄割拠が起き、和平交渉は困難を極めることとなった。 影響. 内戦は、発生国の経済に大きな打撃を与える。内戦発生国の経済成長率は平均で1年あたり-2.3%になると推定されており、長期化すればこの打撃が累積してさらに経済は縮小する。そのうえ内戦は深刻な難民や国内避難民の問題を生み出す。2015年末時点で世界の難民は1548万人、内戦および暴力による国内避難民は4080万人と推定されている。2015年時点で難民が最も多く発生しているのはシリアで485万人が国外難民となっており、以下アフガニスタン、ソマリア、南スーダン、スーダンと、深刻な内戦に苦しむ国が難民発生数の上位を占めている。また、内戦中の公衆衛生システムの崩壊と難民の大量移動は感染症の流行リスクを増大させる。 内戦は近隣諸国の貿易や投資も減少させる上、当該国家は軍事支出を増大して内戦の波及に備えるため、紛争国隣接地域の経済をも悪化させる。内戦国における権力の空白と治安の崩壊は麻薬など違法物品の生産・流通の拠点を生み出すため、隣接国以外にも悪影響を及ぼす。 さらに、隣接国の内戦が直接波及して内戦が新たに勃発することすら珍しくない。例として、第一次リベリア内戦中の1991年、リベリアの反乱軍のリベリア国民愛国戦線 (NPFL)はシエラレオネの革命統一戦線(RUF)を支援して同国に侵攻させ、シエラレオネ内戦の発端となった。また1994年のルワンダ内戦でコンゴ民主共和国東部に大量に流れ込んだ難民はローラン・カビラのコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) の蜂起を促し、第一次コンゴ戦争へとつながった。 介入. 内戦には、しばしば他国からの介入が行われる。冷戦期には主にソビエト連邦から社会主義を掲げるゲリラに軍事援助が行われ、また欧米諸国からは自国民の保護を表向きの理由として自国利益のために内戦への介入を行うことが珍しくなかったが、冷戦終結後そういった露骨な介入は慎まれる傾向にある。一方、第一次コンゴ戦争・第二次コンゴ戦争においてルワンダやアンゴラといった周辺諸国がコンゴ民主共和国の内戦に介入したように、安全保障や政治的・経済的利益を求めて周辺諸国に直接軍事介入する事態は冷戦後にも存在している。 冷戦後、人道目的や地域安定目的といった、直接自国の利益につながらない目的での内戦介入も目立つようになってきている。各国が直接派兵を行うほか、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)やアフリカ連合、ヨーロッパ連合といった地域協力機構を通じた派兵も行われているが、紛争調停時に最も盛んに派兵されているのは国際連合平和維持活動である。 冷戦時代のPKOは停戦監視と兵力の引きはなしが主要任務であったが、冷戦の終結後、1992年に当時のブトロス・ブトロス=ガーリ国連事務総長は増加する地域紛争を抑制するための予防外交という概念を提唱しPKOを大規模化・強化した。しかしこの試みはマケドニア共和国では成功したものの、ソマリア内戦(UNOSOM II)やボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(UNPROFOR)では紛争の抑止に失敗し、国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)でもルワンダ虐殺を阻止することはできなかった。しかしその後もPKOの拡大強化は進み、内戦後も含めた平和構築にPKOが果たす役割は大きくなってきている。 こうした直接国益に関わらない介入が冷戦後増加したのにはいくつかの理由がある。まず、ルワンダやソマリアなどの内戦による人道危機が大きな波紋を呼び起こしたため、自国の世論への対策としてさらなる悪化を防ぐために大国はある程度の介入を迫られる場合がある。また、こうした内戦は隣接諸国に波及しやすいため、地域の動揺を最低限に抑えるために介入が迫られることもある。そして、国家の破綻はテロリストなどに拠点を与え国家安全保障上の問題を引き起こすため、ある程度の秩序の構築は国際秩序維持上不可欠と考えられるようになったことも理由となっている。 このほか、内戦の資金源を絶つため諸外国が経済制裁や貿易制限を行う場合もある。例えばダイヤモンドでは、1990年代にいくつかの国の反政府勢力が勢力範囲でダイヤモンドの採掘を行い主要な資金源としたため人道危機が発生し、紛争ダイヤモンドと呼ばれる大問題となったため、2003年にはキンバリー・プロセスが発効し、全てのダイヤモンド原石の輸出入に対してキンバリー・プロセス加盟国による適切な扱いの証明書を添付し、非参加国からの輸出入を禁じることで、紛争ダイヤモンドの排除と適切なダイヤモンド流通を行っている。 終結と内戦後. 内戦は、武力によって片方の勢力が打ち倒されるか、あるいは交渉によって参加勢力間に和平協定や停戦合意が成立した場合に終結する。こうした和平交渉のほとんどでは外国や国際機関といった第三者が仲介し、和平のため調停を行う。こうした仲介者の意思は和平後の道筋に大きな影響を与える。また上記のように、内戦終結後もある程度情勢が安定するまでPKOは残留し、新国家の制度整備や選挙支援などの平和構築を行う。内戦中の人権侵害や戦争犯罪については、特に重大な犯罪を犯した個人に対し国際刑事裁判所への起訴と裁判が行われるものの、加盟国の偏りが指摘され、またアフリカを中心に国際刑事裁判そのものへの反発と不満も起きている。 内戦が終結後に再発する可能性は非常に高く、5年以内に約20%が、10年以内には約40%が再発すると推定されている。内戦終結後の政治体制では、閉鎖的な独裁体制の国では内戦再発率が25%にとどまるのに対し、民主的な体制では70%にものぼり、非民主的強権体制の方が内戦再発リスクが低くなるとされる。また内戦終結後に実施される選挙においては、選挙実施前年の内戦リスクが非常に減少するのに対し、選挙実施後から翌年にかけては内戦リスクは大幅に高まった。これは、選挙の敗者が勝者の横暴を予測して敗北を受け入れず、再び内戦へと訴えるためであると考えられている。 内戦一覧. 近代的な国際関係・国際秩序が形成されたおもに17世紀後半以降の内戦のみをあげる。戦争一覧および独立戦争一覧も参照。
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青山剛昌
青山 剛昌(あおやま ごうしょう、1963年〈昭和38年〉6月21日 - )は、日本の漫画家。血液型はB型。鳥取県東伯郡大栄町(現・北栄町)出身。鳥取県立由良育英高等学校、日本大学藝術学部美術学科絵画コース卒。 代表作の『名探偵コナン』と『YAIBA』は、それぞれ小学館漫画賞を受賞し、テレビアニメ化やコンピュータゲーム化がされている。特に『名探偵コナン』は、連載が25年以上続いており、劇場アニメ化、テレビドラマ化もされている(2021年に発行部数が2億5千万冊を突破)。ほかに、『まじっく快斗』『4番サード』などの作品がある。 来歴. 生い立ち. 1963年、鳥取県大栄町(現・北栄町)に4人兄弟の次男として生まれる。子供のころから漫画が好きで描いてはいたが親に叱られるためこっそり描いていた。北栄町立大栄小学校を卒業。小学生の時の卒業文集に「私立探偵専門の漫画家になりたい」と書いており、青山剛昌ふるさと館に展示されているが、本人はそのことを覚えていなかったと発言している。北栄町立大栄中学校時代、民藝運動に関わる染織家で美術教師の吉田たすくから絵を褒められ、「やりたいことがあったらそれをやったらいいよ」と薦められ、美術関係の道を考えるようになった。鳥取県立由良育英高等学校を卒業した後、漠然と美術教師を目指して日本大学芸術学部へ進学する。剣道少年であり、部活動は小中高とずっと剣道部に在籍していたが、アニメーターに憧れて高2から美術部に入った。 大学時代とデビュー. 大学時代は漫画研究部「熱血漫画根性会」に所属。元々はアニメーターを志望していたが、漫研の先輩である矢野博之にアニメーターよりも、漫画家のほうが儲かると言われ、漫画家を目指すことになる。 ちばてつやの大ファンであり、『おれは鉄兵』が好きだったことから『週刊少年マガジン』に持ち込み、佳作をもらい、担当編集者とも上手く行っていたが、ある時、編集長から「青山くんの絵が気に食わない」「このまま『マガジン』でやるなら絵柄を変えたほうがいい」と担当経由で伝えられ、『マガジン』でやっていくことを断念。 その後、講談社を出て、持ち込み先を選ぶために近くの本屋へ雑誌を探しに行き、その場にあった『週刊少年サンデー』を見たことやあだち充のファンで絵が可愛いこともあり、編集部へ連絡し、その足で原稿を持ち込んだ。この時に原稿を見てくれた編集者の世話になり、1986年、『ちょっとまってて』で小学館新人コミック大賞に入選し、同作でデビューした。 それを機に就職活動はせず、生活費は『ひらけ!ポンキッキ』の背景を描くアルバイトをしたり新人賞の賞金を使い、半年間は頻繁にネームを編集者へ持って行った。 デビュー後. 1987年に、『週刊少年サンデー』増刊号で『まじっく快斗』の連載を開始。 1988年には、『週刊少年サンデー』でチャンバラアクション漫画『YAIBA』の連載を開始する。これが人気作となり初の長期連載となって、1993年に『YAIBA』で第38回小学館漫画賞・児童部門を受賞。その後、『剣勇伝説YAIBA』としてテレビアニメ化される。 1994年(平成6年)、『週刊少年サンデー』で『名探偵コナン』の連載を開始する。「『マガジン』で『金田一』がヒットしているので、『サンデー』でも推理マンガをやってくれないか」と編集部に打診されて『名探偵コナン』を描き始めた。当初はあまり乗り気ではなく、ネタ的に続かないため3か月程度で終わるだろうと思っていた。 2000年代以降. 2005年、高山みなみと結婚、2007年に離婚。 2007年3月18日には出身地である鳥取県北栄町の道の駅大栄に青山剛昌ふるさと館が開館した。 2017年12月13日、療養と充電のため、『名探偵コナン』の再開時期未定の長期休載が、『少年サンデー』第3・4合併号で発表された。2018年4月にVTR出演した際には4か月の休養については編集部の意図であり、青山本人は「病床に伏せっていたわけではない」と述べている。 2022年には小学館、集英社という出版社の垣根を越えて週刊少年ジャンプの代表作家である尾田栄一郎とのコラボレーションと対談が実現している。 人物. 2005年5月5日に声優の高山みなみと結婚。青山自身の作品『YAIBA』の主人公・鉄刃(くろがねやいば)役や、『名探偵コナン』の主人公・江戸川コナン役として出演しており、それがきっかけとなった。愛猫は結婚祝いにアシスタント達から贈られたロシアンブルーのカイト。その後、2007年12月10日に離婚したことが報じられた。 2002年に『名探偵コナン』の制作は1つのエピソードが描き終わると仮眠、起きるとその日のうちに編集者と次の話作りに取りかかり結末まで一気に3、4話を打ち合わせ、3日間でネームを仕上げ、再び打ち合わせ、そして4日間でペン入れと仕上げという1週間の流れで原稿を完成させており、睡眠するときくらいしか休みはなく休載時に旅行へ出かけてもコナンのことを考えて完全な休みはないと話している。「結婚するとこの生活が続けられない」と質問されたのに対して結婚するとペースを維持できないと肯定しており、上の人から何を言われても勝手にさせてもらわないとやらないと言ったこともあり、生活も作品も好き勝手にやっているから続けていけるんだろうと語っていた。 4人兄弟の次男で、兄は科学者、1つ下の弟は実家を継いでエンジニア、1番下の弟が米子市の病院に勤務する医師。科学的なことは兄に聞き、アニメにも詳しいことから登場人物の声優は誰がいいか助言を受けたり、死亡推定時刻などは医師である弟に聞き、もう1人の弟から車関係のことを聞いている。また、従兄弟の一人に小学校教員がおり、県警の警視であるアシスタントの義父も合わせて、コナンを描くときのアドバイスを貰っているとのこと。従兄弟の一人にはお笑いコンビ・オキシジェンの田中知史がいる。 作風. 「(主人公やヒロインの精神年齢に対する)肉体の年齢が、ある日突然大きく狂わされる」または「肉体の年齢を飛び越える」というモチーフを多く使用している。例えば、年上の恋人と同い年になるためにタイムスリップを試みる少年を描いたデビュー作『ちょっとまってて』、桜が起こした奇跡で青年の姿に若返った老剣士が、つかの間蘇った青春を楽しむ活劇『プレイ イット アゲイン』、永遠の命をもたらす伝説の宝石を追う組織に父親を殺害された高校生が、組織の野望を砕くために二代目怪盗として活躍する『まじっく快斗』、若い娘の生気を吸い老婆に変える宇宙人の女王によってヒロインが老婆の姿にされる『YAIBA』かぐや編、名探偵として名を馳せた高校生が未完成の毒薬の作用で小学1年生相当の姿に若返り、探偵としての地位や証言能力を失った状態で正体を隠したまま組織を追うため、奇想天外な秘密道具の行使や幼馴染の父を影武者に仕立て上げる事で子供姿のまま探偵稼業を続ける『名探偵コナン』など。 以前は作品が完結しないで連載・執筆を終えることもあった。しかし『名探偵コナン』の最終回のプロットは、作者自身の頭の中ですでに出来上がっていると話していたが、その後2019年4月24日に放送された『1周回って知らない話』にゲスト出演した際には最終回のオチが本格的に決まったことを明かしている。 アニメーター志望であったこともあり、『剣勇伝説YAIBA』の最終回や『名探偵コナン』の劇場版、2019年1月12日放送の新春・連載1000回記念2週連続1時間スペシャル『紅の修学旅行(恋紅編)』では、原画や絵コンテをはじめ、ゲストキャラクターのデザインや脚本の監修など(いずれも一部)、積極的に関わっている。原画は、主にクライマックスなど、キャラクターの見せ場となるシーンを担当している。 絵の特徴の一つである目のハイライトの入れ方のルーツは、大学1年の時にハマっていた『戦闘メカ ザブングル』のキャラの瞳であり、通称「ネジ目」と呼ばれる虹彩のない瞳に1本のハイライトが入ったデザインを変化させ、もっとキラキラさせたのが最初とのこと。また、光の入れ方には「目線の逆方向に入れる」という法則がある。この特徴的な目の描き方について「これは発明した!」と答えている。
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ケン・イシイ
ケン・イシイ("Ken Ishii"、石井健、1970年5月12日 - )は、日本のテクノミュージシャン、DJ。別称は「東洋のテクノ・ゴッド」など。ニックネームはけんちゃん、ケニー。活動初期から、東京の雰囲気を題材としたオリエンタルかつインテリジェントな作風で知られている。 略歴. 北海道札幌市生まれ、東京都育ち。筑波大学附属駒場中学校・高等学校から一橋大学社会学部卒業後、大手広告代理店電通に勤務する。内部メモリ上のデータが壊れ、プリセットが全く使えない状態になってしまったコルグM1(オールインワンシンセ)を、音色をゼロから作り直す等して駆使し、デトロイトテクノの影響下にありつつも、東京をモチーフとした東洋的なセンスの楽曲を製作した。1993年には、学生時代に制作したデモテープがベルギーのテクノレーベル・R&Sレコーズに採用される。 その後リリースされた 1st『Garden On The Palm』 は、イギリスの音楽誌『NME』のテクノチャートでNo.1を獲得。当時、日本では全く無名の存在だった為、当初は英国在住の日系人ではないか等、様々な噂や憶測が飛び交った。その後『電気グルーヴのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)等、いくつかの日本のメディアでも逆輸入のかたちで紹介されることとなる。 1990年代以降、日本人のテクノミュージシャンで海外で本格的に評価された最初の人物であり、その道を切り開いた功績は大きい。続く2nd『Jelly Tones』は、その音の美しさ、繊細さと独特なビートで世界を席巻、瞬く間に頂点に駆け上った。このアルバムでは従来のリスニング路線に加え、ダンスビートをより意識した作風へと徐々に変化を遂げた。 ケン・イシイ名義および別名義「FLR」での活動は日本のサブライムレコーズからのリリースが中心となっている。また、楽曲制作と並行してDJとしての活動も精力的に行っており、2004年の「Ibiza DJ Award」では、Best Techno DJを受賞した。毎年恒例のREEL UPというイベントをサブライムレコーズのDJ YAMAと主催している。 2011年英国アカデミー賞音響賞ノミネート。 R&Sレコーズでデビューする以前に、当時アルファレコードのA&Rで後にソニーテクノを立ち上げる弘石雅和へデモテープを渡している。しかしリリースには至らなかった。 プロレス通であり、インディーズ団体などにも詳しい。
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学研
学研(がっけん)
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データベース
コンピューティングにおいて、データベース()は、電子的に保存され、アクセスできる組織化されたデータの集合である。実メモリに保存されるもの、CSVなどのファイルに保管される物、OSのファイルシステムなどから、後述のデータベース管理システムを使った大規模なものまである。 小規模なデータベースはOSのファイルシステム上にファイルとして保存されるが、大規模なデータベースはOSに依存しない低レベルなフォーマットで外部記憶装置に保存される。またコンピュータ・クラスターまたはで保存される。データベース設計に関わる分野は多岐にわたり、データモデリング、効率的なデータ表現と保存、クエリ言語、機密データのやプライバシー、同時アクセスとフォールトトレランスのサポートを含む分散コンピューティングの課題など、形式技術と実用的な考慮事項に及ぶ。 データベース管理システム(DBMS)は、エンドユーザー、アプリケーション、およびデータベース自体と対話し、データを取得し分析するためのソフトウェアである。さらに、DBMSソフトウェアには、データベースを管理するために提供される関連機能も含まれている。データベース、DBMS、関連アプリケーションの全体を含めてデータベースシステムと呼ぶ。しばしば「データベース」という用語が、DBMS、データベースシステム、またはデータベースに関連するアプリケーションのいずれかを指す場合に漠然と使われている。 コンピュータ科学者は、データベース管理システムを、サポートするデータベースモデルに基づいて分類している。リレーショナルデータベースは、1980年代の主流であった。これらは、データを一連の表の行と列としてモデル化し、大多数はデータの書き込みとクエリ(問い合わせ)にSQLを使用する。2000年代には、異なるクエリ言語を使用する NoSQL と総称される非リレーショナルデータベースが普及した。 用語と概要. 形式的な「"データベース"」は、関連するデータの集合とその編成方法を指す。通常、このデータへのアクセスは、「"データベース管理システム"」("DBMS")によって提供される。DBMSは、ユーザーが1つまたは複数のデータベースと対話し、データベースに含まれるすべてのデータへのアクセスを提供するコンピュータソフトウェアの統合セットで構成されている(ただし、特定のデータへのアクセスを制限する制約が存在することもある)。DBMSは、大量の情報の入力、保存、および検索を可能にするさまざまな機能を提供し、その情報がどのように編成されているかを管理する方法を提供する。 このように、両者は密接な関係にあるため、「データベース」という用語は、データの集まりとしてのデータベースと、それを操作するために用いるDBMSの両方を指す言葉として気軽に使われることが多い。 情報技術の専門家以外の世界では、「データベース」という用語は、関連するデータの集合体(例: スプレッドシートやカードインデックスなど)を指すことが多く、サイズや使用要件の点からデータベース管理システムを用いることが一般的である。 既存のDBMSは、データベースとそのデータを管理するためのさまざまなな機能を提供しており、それらは次の4つの主要な機能群に分類される。 データベースとそのDBMSは共に、特定のデータベースモデルの原則に準拠している。 「データベースシステム」とは、データベースモデル、データベース管理システム、データベースを総称したものである。 物理的には、データベース・サーバーは、実際のデータベースを格納し、DBMSと関連ソフトウェアのみを実行する専用コンピュータである。データベース・サーバーは通常、大容量のメモリと、安定したストレージ(例: RAIDディスクアレイ)を備えたマルチプロセッサ・コンピュータである。大容量のトランザクション処理環境では、複数台のサーバーと高速チャネルを介して接続されたハードウェア・データベース・アクセラレータも使用される。ほとんどのの中心にDBMSがある。DBMSは、ネットワークのサポートを組み込んだカスタムのマルチタスク・カーネルを中心に構築されることもあるが、最近のDBMSは通常、これらの機能を提供するために、標準的なオペレーティングシステムに依存している。 DBMSは重要なを形成しているため、コンピューターやストレージのベンダーは、自社の開発計画にDBMSの要件を考慮に入れていることが多い。 データベースとDBMSは、サポートするデータベースモデル(リレーショナルやXMLなど)、実行するコンピュータの種類(サーバークラスタから携帯電話まで)、データベースへのアクセスに使用するクエリ言語(SQLやXQueryなど)、内部エンジニアリング(性能、スケーラビリティ、障害許容力、およびセキュリティに影響する)によって分類することができる。 歴史. データベースとそれぞれのDBMSの規模、機能、性能は桁違いに大きくなっている。これらの性能向上は、プロセッサ、コンピュータメモリ、コンピュータストレージ、およびコンピュータネットワークの技術進歩により可能となった。データベースの概念は、1960年代半ばに広く普及した磁気ディスクなどの直接アクセス記憶媒体の出現によって可能となった。それ以前のシステムは、磁気テープへのデータの順次保存に依っていた。その後のデータベース技術の発展は、データモデルまたはデータ構造に基づいて、ナビゲーショナル、SQL/リレーショナル、ポストリレーショナルの3つの時代に分けることができる。 初期のナビゲーショナル・データモデルは、階層型モデルとネットワーク型モデル(CODASYLモデル)の2つが主であった。これらは、あるレコードから別のレコードへの関係を追跡するために、ポインタ(多くの場合、物理的なディスクアドレス)を使用することが特徴であった。 1970年にエドガー・F・コッドが提唱したリレーショナルモデルは、この伝統から脱却するもので、アプリケーションがリンクをたどるのではなく、内容からデータを検索すべきであると主張するものであった。リレーショナルモデルは、元帳型の表の集まりを組み合わせたもので、それぞれの表は異なる種類のエンティティ(実体)を格納する。1980年代半ばになって、コンピューティング・ハードウェアは、リレーショナルシステム(DBMSとアプリケーション)を幅広く普及するのに十分な性能を持つようになった。けれども、1990年代初頭には、すべての大規模なデータ処理アプリケーションにおいてリレーショナルシステムが主流となり、2018年現在も主流であり続けている。IBM Db2、Oracle、MySQL、Microsoft SQL Server、PostgreSQLは、最も検索されているDBMSである。リレーショナルモデル用の主要なデータベース言語である標準SQLは、他のデータモデル用のデータベース言語にも影響を与えた。 オブジェクトデータベースは、オブジェクト指向とリレーショナル型とのインピーダンスミスマッチ(相性の欠如)による不便さを解消するために1980年代に開発され、これにより「ポストリレーショナル("post-relational")」という言葉が生まれ、また、ハイブリッド型のオブジェクト・リレーショナルデータベースも開発された。 2000年代後半に登場した、次世代のポスト・リレーショナルデータベースは、高速なキーバリュー型ストアやドキュメント指向データベースを導入し、NoSQLデータベースと呼ばれるようになった。これと競合するNewSQLと呼ばれる次世代データベースは、リレーショナル/SQLモデルを維持しつつ、市販のリレーショナルDBMSと比較してNoSQLの高い性能に見合うような新しい実装を試みている。 1960年代、ナビゲーショナルDBMS. データベースという言葉が登場したのは、1960年代半ば以降に、直接アクセスストレージ(ディスクやドラム)が利用できるようになった時期と重なる。この用語は、過去のテープベースのシステムとは対照的に、日常のバッチ処理ではなく、対話的な共有での利用を可能にすることを意味した。オックスフォード英語辞典では、カリフォルニアのが1962年に発表した報告書を、特定の技術的な意味で「データベース」という用語を初めて使用したものとして引用している。 コンピュータの速度と機能が向上するに伴い、多くの汎用データベースシステムが登場し、1960年代半ばには多くのこうしたシステムが商用化されるようになった。標準化への関心が高まり、そうした製品の一つであるIntegrated Data Store(IDS)の制作者であるチャールズ・バックマンが、COBOLの作成と標準化を担当したグループCODASYL内にデータベース・タスクグループを設立した。1971年、データベース・タスクグループは、一般に「"CODASYLアプローチ"」として知られるようになった彼らの標準を提供し、まもなくこのアプローチに基づいた多くの商用製品が市場に参入した。 CODASYLアプローチ方式は、アプリケーションに対し、大規模ネットワーク内に形成された連結データセットを移動する機能を提供した。アプリケーションは、3つの方法のうちのいずれかによってレコードを見つけることができる。 その後のシステムで、B木("B-tree")が追加され、代替アクセス経路を提供するようになった。また、多くのCODASYLデータベースでは、エンドユーザー向けに(ナビゲーション型APIとは異なる)宣言型クエリ言語も追加された。しかし、CODASYLデータベースは複雑で、有用なアプリケーションを作るには多大な訓練と労力を要した。 また、IBMは、1966年に、Information Management System(IMS)として知られる独自のDBMSを持っていた。IMSは、アポロ計画のために作成されたソフトウェアのSystem/360への発展型であった。IMSは一般にCODASYLと概念が似ているが、そのデータナビゲーションのモデルは厳密な階層を使用し、CODASYLのネットワーク型モデルではなかった。どちらの概念も、データへのアクセス方法の観点から、後にナビゲーショナル・データベースと呼ばれるようになった。この用語は、1973年のバックマンのチューリング賞の講演「"The Programmer as Navigator"」によって広まった。IBMによって、IMSは階層型データベースとして分類されている。IDMSやのは、ネットワーク型データベースに分類される。2014年現在、IMSは使用されている。 1970年代、リレーショナルDBMS. エドガー・F・コッドは、カリフォルニア州サンノゼにあるIBMの研究室の1つで、主にハードディスクシステムの開発に携わっていた。彼は、CODASYLアプローチのナビゲーションモデルにおいて、特に「検索("search")」機能の欠如に不満を抱いていた。1970年、彼はデータベース構築の新しいアプローチを概説する多くの論文を書き、最終的に画期的な論文「大規模共有データバンクのためのデータのリレーショナルモデル("A Relational Model of Data for Large Shared Data Banks")」に結実させた。 この論文で、彼は大規模なデータベースを保存し、操作するための新しいシステムについて説明した。コッドの考えは、CODASYLのように自由形式のレコードをある種の連結リストに格納するのではなく、データをいくつかの「テーブル」("table"、表)として編成し、それぞれのテーブルを異なる種類のエンティティ("entity"、実体)に使用することであった。各テーブルは、エンティティの属性を含む固定数の列を含むことになる。各テーブルの1つ以上の列は、テーブルの行を一意に識別するための主キーとして指定され、テーブル間の相互参照には、ディスクアドレスではなく、常にこの主キーが使用された。クエリにおいては、関係論理の数学的体系に基づく一連の操作を用いて、これらのキー関係に基づいてテーブルを結合する(モデルの名前の由来)。データを正規化された一連のテーブル(または関係("relation")、リレーション)に分割することで、各々の「ファクト("fact"、事実)」を一度だけ保存するようにし、更新操作を簡略化する。ビュー("view")と呼ばれる仮想的なテーブルは、ユーザーごとに異なる方法でデータを表示することができるが、ビューを直接更新することはできなかった。 コッドは、テーブル、行、列ではなく、関係(relation)、組(tuple)、定義域(domain)という数学用語を使ってモデルを定義した。現在よく知られているこれらの用語は、初期の実装に由来するものである。コッドは後に、実際の実装が、モデルの基礎となった数学的な基礎から逸脱する傾向にあることを批判した。 テーブル間の関係を表すために、ディスクアドレスではなく主キー(ユーザー指向の識別子)を使用したのは、主に2つの動機があった。エンジニアリングの観点からは、費用がかかるデータベースの再編成をすることなく、テーブルの再配置やサイズ変更を可能とした。しかし、コッドは、セマンティクス(意味)の違いにより強い興味を持っていた。明示的な識別子を使用することで、純粋な数学的定義で更新操作を定義することが容易になり、一階述語論理という確立した学問分野の観点でクエリ操作を定義できるようになった。これらの操作は純粋な数学的性質があるため、クエリ最適化の基礎をなす証明可能な正しい方法でクエリを書き換えることが可能となる。テーブル間の接続は明示的ではなくなったが、階層型モデルやネットワーク型モデルと比較して表現力が損なわれることはない。 階層型モデルやネットワーク型モデルでは、レコードが複雑な内部構造を持つことが許容された。たとえば、ある従業員の給与履歴は、従業員レコードの中の「繰り返しグループ」として表わされることがある。リレーショナルモデルでは、正規化の過程によって、そのような内部構造は、論理キーのみで結合された複数のテーブルに保持されたデータで置き換えられた。 たとえば、データベースシステムの一般的な使い方として、ユーザーに関する情報、名前、ログイン情報、さまざまな住所や電話番号を突き止めることがあげられる。ナビゲーショナル方式では、これらのデータはすべて1つの可変長レコード内に格納される。リレーショナル方式では、そのデータは(たとえば)ユーザーテーブル、アドレステーブル、電話番号テーブルに「正規化("normalize")」される。これらの任意のテーブル内には、実際に住所や電話番号が提供された場合のみ、レコードが作成される。 コッドは、(ディスクアドレスではなく)論理的な識別子を使用して行/レコードを識別するだけでなく、アプリケーションが複数のレコードからデータを組み立てる方法も変更した。アプリケーションがリンクを移動して1レコードずつデータを収集することを要求するのではなく、アプリケーションは、宣言型のクエリ言語を使用して(どのようにデータを見つけるかというアクセス経路ではなく)どのようなデータが必要なのかを表現する。データへの効率的なアクセス経路を見つけるのは、アプリケーションのプログラマーではなく、データベース管理システムの責任となった。クエリ最適化("query optimization")と呼ばれるこの過程は、クエリが数学的論理の観点で表現されているという事実に基づいている。 コッドの論文は、バークレー校のとマイケル・ストーンブレーカーの二人によって着目された。彼らは、地理データベースプロジェクトにすでに割り当てられていた資金と、コードを作成する学生プログラマーを使って、INGRESと呼ばれるプロジェクトを開始した。INGRESは、1973年の初頭に最初のテスト製品を提供し、1979年には一般に広く使用されるようになった。INGRESは、のためのQUELと呼ばれる「言語("language")」の使用を含め、多くの点でIBM System Rと類似していた。時の経過とともに、INGRESは新しい標準SQLに移行していった。 IBM自身は、リレーショナルモデルのテスト実装であると、製品版であるの開発を一度行ったが、いずれも現在は廃止されている。Honeywellは、Multics用のを開発したが、現在ではとの2つの新しい実装が存在する。「リレーショナル」と呼ばれる他のDBMSの実装のほとんどは、実際にはSQL DBMSである。 1970年、ミシガン大学は、の集合論的データモデルに基づくの開発を開始した。MICROは、非常に大きなデータセットを管理するために、米国労働省、米国環境保護庁、アルバータ大学、ミシガン大学、ウェイン州立大学の研究者によって使用された。これは、を使用するIBMメインフレームコンピューター上で稼働した。このシステムは1998年まで稼動し続けた。 統合型アプローチ. 1970年代から1980年代にかけ、ハードウェアとソフトウェアを統合したデータベースシステムの構築が試みられた。その根底にある理念は、このような統合が、より高い性能をより低い費用で提供できるというものである。その例として、IBM System/38、Teradataの初期の製品、およびのデータベースマシンがあげられる。 また、データベース管理をハードウェアでサポートするアプローチには、のアクセラレータという、プログラム可能な検索機能を持つハードウェアディスクコントローラーがあった。しかし、汎用コンピュータの急速な発展と進歩に、データベース専用機が追いつくことができなかったため、長期的にはこれらの取り組みは概して失敗に終わった。こうしたことから、現今のほとんどのデータベースシステムは、汎用ハードウェア上で動作するソフトウェアシステムであり、汎用のコンピュータとデータストレージを使用している。しかし、この着想は今もなお、やOracle ()など一部の企業によって特定の用途で追求されている。 1970年代後半、SQL DBMS. 1970年代前半、IBMは、"System R"として、コッドの概念に大まかに基づいたプロトタイプシステムの開発を始めた。最初のバージョンは1974年5月に完成し、その後、レコードを構成するすべての要素(一部はオプション)を単一の大きな「チャンク("chunk"、塊)」に格納する必要がないように、データを分割できるマルチテーブルシステムに対応する作業が開始された。その後、1978年と1979年にマルチユーザーバージョンが顧客によってテストされ、その時点では標準化されていたクエリ言語SQLが追加されていた。コッドのアイデアは、実行可能でCODASYLよりも優れたものとして確立され、IBMが"SQL/DS"として知られるSystem Rの真の製品版、そして後に"Database 2"(IBM Db2)を開発することを後押しした。 ラリー・エリソンのOracle Database(以下、Oracle)は、IBMのSystem Rに関する論文を基に、別の系統から出発した。Oracle V1の実装は1978年に完了したが、エリソンが1979年にIBMを打ち負かしたのはOracle Version 2を市場に投入してからであった。 ストーンブレーカーはその後、INGRESからの教訓を応用して、現在はPostgreSQLとして知られている新しいデータベースPostgresを開発した。PostgreSQLは、大域的で基幹的な業務アプリケーションによく使用されている。(.orgや.infoのドメイン名レジストリでは、多くの大企業や金融機関と同様に、これを主要として使用している)。 スウェーデンでもコッドの論文は読まれ、1970年代半ばにウプサラ大学でが開発された。1984年、このプロジェクトは独立した企業に統合された。 1976年に登場した実体関係モデルは、それまでのリレーショナルモデルよりも馴染みのある記述法を重視したもう一つのデータモデルであり、データベース設計で人気を博した。その後、実体-関係構造は、リレーショナルモデルのデータモデリング構造として追加され、両者の違いは無意味なものとなった。 1980年代、デスクトップ. 1980年代は、デスクトップコンピューティングの時代の到来を告げた。新しいコンピュータは、Lotus 1-2-3のような表計算ソフトやdBASEのようなデータベースソフトで、ユーザーに力をもたらした。dBASE製品は軽量で、コンピューターユーザーは誰でも容易に理解できた。dBASEの作者、は次のように述べている。「dBASEは、BASIC、C、FORTRAN、COBOLのようなプログラムとは異なり、多くの汚い仕事はすでに行われている。データ操作はユーザーではなくdBASEが行うので、ユーザーはファイルを開き、読み込み、閉じ、スペース割り当ての管理などの汚い詳細に煩わされることなく、自分のしていることに集中することができる」。dBASEは、1980年代から1990年代初頭にかけて、最も売れたソフトウェアの一つであった。 1990年代、オブジェクト指向. 1990年代は、オブジェクト指向プログラミングの台頭とともに、さまざまなデータベース内のデータの扱い方で発展が見られた。プログラマーと設計者は、データベース内のデータをオブジェクトとして扱うようになった。つまり、ある個人のデータがデータベース内にある場合、その人の住所、電話番号、年齢などの特性は外来のデータではなく、その人に属するものと考えられるようになった。これにより、データ間の関係は、個々のフィールドではなく、オブジェクトとその属性に関連付けられる。プログラムされたオブジェクトとデータベースのテーブルとの間の変換の不都合は、「オブジェクト-リレーショナル・インピーダンスミスマッチ」という言葉で表わされる。オブジェクト・データベースやオブジェクト・リレーショナルデータベースは、この問題を解決するために、プログラマーが純粋なリレーショナルSQLの代わりに使用できるオブジェクト指向言語(SQLの拡張機能という場合もある)を提供しようとするものである。プログラミング側の立場では、オブジェクト・リレーショナル・マッピング(ORM)と呼ばれるライブラリで、同じ問題を解決しようとしている 2000年代、NoSQLとNewSQL. XMLデータベースは、構造化されたドキュメント指向データベースの一種で、XML文書の属性に基づいたクエリが可能である。XMLデータベースは、たとえば科学論文、特許、税務申告、人事記録など、非常に柔軟なものから非常に厳格なものまで、データをさまざまな構造を持つ文書の集合として見るのに便利なアプリケーションで主に使用される。 NoSQLデータベースは、多くの場合、非常に高速で、固定化したテーブルスキーマを必要とせず、したデータを格納することで結合操作を回避し、水平スケーリングするように設計されている。 近年、高い分断耐性を備えた大規模分散データベースが強く求められているが、CAP定理によれば、分散システムで一貫性、可用性、分断耐性を同時に備えることは不可能とされている。分散システムは、これら3つの保証のうち、いずれか2つを同時に満たすことはできても、3つすべてを満たすことはできない。そのため、多くのNoSQLデータベースでは、データ整合性のレベルを下げて可用性と分断耐性の両方を保証する、結果整合性という考え方を採用している。 最新のリレーショナルデータベースの一種であるNewSQLは、SQLを使用し、また従来のデータベースシステムのACID保証を維持しながらも、オンライントランザクション処理のワークロード(読み込みと書き込みの両方を伴う)に対して、NoSQLシステムと同じスケーラブルな性能を提供することを目的としている。 使用例. データベースは、組織の内部業務を支援し、顧客や発注先とのオンラインでのやり取りを支えるために使用される(エンタープライズ・ソフトウェアを参照)。 データベースは、業務における管理情報、エンジニアリングデータや経済モデルなどのより専門的なデータを保持するためにも使用される。たとえば、コンピュータによる図書館システム、航空座席予約システム、コンピュータ化された部品在庫管理システム、およびウェブサイトをウェブページの集合としてデータベースに保存する多くのコンテンツ管理システムなどがあげられる。 分類. データベースを分類する方法として、たとえば、、文書、テキスト、統計、マルチメディアなど、その内容の種類によるものがある。第二の方法は、会計、作曲、映画、銀行、製造、保険など、応用面による分類がある。第三の方法は、データベースの構造やインタフェースの種類など、技術的な側面によるものである。この節では、さまざまな種類のデータベースを特徴付けるために使用される用語をいくつか列挙する。 データベース管理システム. ConnollyとBeggは、データベース管理システム(DBMS)を「ユーザーがデータベースを定義、作成、保守、およびアクセスを制御できるようにするソフトウェアシステム」と定義している。DBMSの例として、MySQL、PostgreSQL、Microsoft SQL Server、Oracle Database、Microsoft Accessがあげられる。 DBMSの頭文字は、基盤となるデータベースモデルを示して拡張されることがあり、リレーショナル型はRDBMS、はOODBMS、オブジェクトリレーショナル型はORDBMSと呼ばれる。また、分散型データベース管理システムを表すDDBMSなど、他の特性を表すように拡張することができる。 DBMSが提供する機能は非常に多様である。中心的な機能は、データの保存、検索、更新である。コッドは、本格的な汎用DBMSが提供すべき機能およびサービスとして、次のようなものを提案した。 また、DBMS は、インポート、エクスポート、監視、デフラグメント、分析ユーティリティなど、データベースを効果的に管理するために必要な一連のユーティリティを提供することも、一般に期待されている。データベースとアプリケーション・インタフェースの間で相互作用するDBMSの中心部分は、データベース・エンジンと呼ばれることもある。 多くのDBMSは、データベースが使用できるサーバ上のメインメモリの最大量など、静的または動的に調整可能な構成パラメータを持っている。手動構成する量を最小限に抑える傾向があり、のような場合は、ゼロ管理を目標とする要求が最も重要である。 大規模なエンタープライズDBMSでは、サイズや機能が増大する傾向があり、その生涯を通じて数千人年の開発努力が費やされることがある。 初期のマルチユーザーDBMSでは、一般的に、アプリケーションを同じコンピュータ上で動作させ、コンピュータ端末または端末エミュレーションソフトウェアを通じてアクセスすることしかできなかった。クライアント・サーバー・アーキテクチャは、アプリケーションはクライアントのデスクトップ上にあり、サーバー上に存在するデータベースが処理を分散できるように開発された。これが進化して、アプリケーションサーバーやウェブサーバーを組み込んだ多層アーキテクチャとなり、エンドユーザーインターフェイスはウェブブラウザーを介してアクセスし、データベースは隣接する層に直接接続されるのみとなった。 汎用DBMSは、公開のアプリケーション・プログラミング・インタフェース(API)と、オプションでSQLなどのデータベース言語用のプロセッサを提供して、データベースと対話し操作するアプリケーションを作成できるようにする。特殊用途のDBMSは、プライベートなAPIを使用し、特別にカスタマイズして単一のアプリケーションにリンクされることがある。たとえば、電子メールシステムは、メッセージの挿入、削除、添付ファイルの処理、ブロックリストの検索、メッセージと電子メールアドレスの関連付けなど、汎用DBMSの機能の多くを実行するが、これらの機能は電子メールの処理に必要なものに限定されている。 アプリケーション. データベースとの外部相互作用は、DBMSと接続するアプリケーション・プログラムを介して行われる。アプリケーションは、ユーザーが文字的または視覚的にSQLクエリを実行できるデータベースツールから、情報を格納し検索するためにデータベースを使用するWebサイトまで、多岐にわたる。 アプリケーション・プログラム・インタフェース. プログラマーは、アプリケーション・プログラミング・インタフェース(API)またはデータベース言語を介して、データベース(と呼ばれることもある)との相互対話をコーディングする。選択された特定のAPIや言語は、DBMSによって直接的にサポートされるか、またはプリプロセッサまたはブリッジングAPIを介して間接的にサポートされる必要がある。APIの中にはデータベースに依存しないことを目的とするものもあり、ODBCはそのよく知られた例である。その他の一般的なAPIには、JDBCやADO.NETがある。 データベース言語. データベース言語は、次のような作業を可能とする特殊用途の言語であり、として区別されることもある。 データベース言語は、特定のデータモデルに特化した言語である。著名な例として次のものがある。 データベース言語には、次のような機能を組み込んでいるものもある。 ストレージ. データベースストレージは、データベースの物理的な実体の格納庫である。これは、データベースアーキテクチャの「"内部(物理)レベル"」を構成する。また、必要に応じて「内部レベル」から「概念レベル」や「外部レベル」を再構築するために必要なすべての情報(たとえばメタデータ、「データに関するデータ」、内部データ構造など)も含んでいる。デジタル・オブジェクトとしてのデータベースには、データ、構造、セマンティクス(意味)の3つの層からなる情報が含まれ、保存する必要がある。長期間に渡ってし、長持ちさせるために、3つの層すべてを適切に保存する必要がある。データを永続的ストレージに保存するのは、一般に、データベースエンジン(別名「ストレージエンジン」)の責任である。DBMSは通常、基盤となるオペレーティングシステムを通じてアクセスするが(多くの場合、オペレーティングシステムのファイルシステムを、ストレージ配置の仲介役として使用する)、ストレージの特性と構成設定はDBMSの効率的な運用に極めて重要であるため、データベース管理者によって密接に管理される。DBMSは、その運用中に、常に数種類のストレージ(メモリや外部ストレージ)にデータベースを常駐させている。データベースのデータと、追加の必要な情報(おそらく非常に大量にある)は、ビット列に符号化される。データは通常、概念レベルや外部レベルでの見え方とは全く異なる構造でストレージ内に存在するが、ユーザーやプログラムが必要とするとき、または必要な情報の追加形式をデータから計算するとき(例: データベースに問い合わせる時)、これらのレベルの再構築を(可能な限り)最適化するような方法で格納される。 DBMSの中には、データの格納に用いる文字エンコーディングを指定できるものがあり、同じデータベースで複数のエンコーディングを使用することができる。 データモデルをシリアル化し、選ばれた媒体に書き込めるようにするために、ストレージエンジンは、さまざまな低レベルのを使用する。性能を向上させるために、インデックス作成などの手法を使用することもある。従来のストレージは行指向であるが、列指向データベースや相関データベースもある。 マテリアライズド・ビュー. 性能を向上させるためにストレージを冗長化することがよくある。一般的な例は、頻繁に必要とされる外部ビュー("external view")や、クエリ結果から構成されるマテリアライズド・ビュー("materialized view")の保存である。このようなビューを保存することで、必要になるたびに計算する費用を節約することができる。マテリアライズド・ビューの欠点は、元の更新されたデータベースデータと同期を維持するためにビューを更新する際に発生するオーバーヘッドと、ストレージの冗長化にかかる費用である。 レプリケーション. データベースは、データの可用性を向上させるために、データベース・オブジェクトの複製(1つ以上のレプリケーション)によるストレージ冗長性を採用することがある。これによって、同じデータベース・オブジェクトに複数のエンドユーザーが同時アクセスした場合の性能を向上させ、また、分散データベースに部分的な障害が発生した場合の回復力を提供する。複製されたオブジェクトの更新には、オブジェクトのコピー間で同期される必要がある。多くの場合、データベース全体が複製される。 セキュリティ. は、データベースの内容、その所有者、およびそのユーザーを保護するためのあらゆる側面を扱う。その範囲は、意図的な不正なデータベースの使用から、権限のないエンティティ(たとえば、人やコンピュータプログラムなど)による意図しないデータベースへのアクセスまで、さまざまな保護に及ぶ。 データベースアクセス制御は、データベース内のどの情報に誰が(人間または特定のコンピュータプログラム)アクセスを許可されるかを制御することを扱う。その情報には、特定のデータベースオブジェクト(例: レコード種類、特定レコード、データ構造)、特定のオブジェクトに対する特定の計算(例: クエリ種類、特定のクエリ)、または前者に対する特定のアクセス経路の使用(例: 情報にアクセスするために特定のインデックスまたは他のデータ構造の使用)が含まれる。データベースのアクセス制御は、データベース所有者から特別に許可された人員によって、保護された専用のセキュリティDBMSインタフェースを用いて設定される。 アクセス制御の管理は、個人別に直接行うことも、個人とをグループに割り当てることも、(最も精巧なモデルでは)個人やグループにロール(役割)を割り当ててからロールに権限を付与することもできる。データセキュリティは、権限のないユーザーによるデータベースの閲覧や更新を阻止する。パスワードを使用すると、ユーザーはデータベース全体、または「サブスキーマ」と呼ばれる一部分へのアクセスを許可される。たとえば、従業員データベースには個々の従業員に関するすべてのデータを含めていても、あるグループのユーザーには給与データのみの閲覧を許可し、別のグループには職歴と医療データのみアクセスを許可することが可能である。DBMSがデータベースの入力、更新、問い合わせを対話的に行う方法を提供している場合、この機能によって個人データベースを管理することができる。 一般には、特定のデータチャンク("data chunk"、塊)を物理的に保護すること(すなわち破損、破壊、削除から。を参照)、または、データチャンクやその一部を意味のある情報に変換すること(例: それらが構成するビット列を見て、特定の有効なクレジットカード番号を決定する。データ暗号化を参照)の両方を扱う。 変更およびアクセスのロギングは、誰がどの属性にアクセスしたか、何が変更されたか、そしていつ変更されたかを記録する。ロギングサービスは、アクセスの発生や変更の記録を保持することで、後でフォレンジックを行うことを可能にする。場合によっては、データベースレベルで記録するのではなく、アプリケーションレベルのコードで変更を記録することもある。セキュリティ違反の検出を試みるために監視を設定することもできる。データベース・セキュリティには多くの利点があるため、組織はこれに真剣に取り組む必要がある。組織は、ファイアウォール内への侵入、ウィルスの蔓延、ランサムウェアなどのセキュリティ違反やハッキング行為から守られる。これは、企業において、いかなる理由があっても部外者と共有することが許されない、重要な情報を保護するために役に立つ。 トランザクションと同時平行. データベース・トランザクションは、クラッシュ(障害)からの復旧後に、ある程度の耐障害性とデータ完全性を導入するために使用することができる。データベーストランザクションは通常、データベースに対する一連の操作(データベースオブジェクトの読み込み、書き込み、の取得や解放など)をカプセル化した作業の単位であり、データベースやその他のシステムでサポートされている抽象概念である。各トランザクションには、どのプログラム/コードの実行がそのトランザクションに含まれるかという点で、明確に定義された境界がある(トランザクションの設計者が、特別なトランザクションコマンドで決定する)。 ACIDという頭字語は、データベーストランザクションの理想的な特性である、原子性("atomicity")、一貫性("consistency")、分離性("isolation")、("durability")を表している。 移行. あるDBMSで構築されたデータベースは、別のDBMSに移植できない(つまり、別のDBMSでは実行できない)。しかし、状況によっては、あるDBMSから別のDBMSにデータベースを移行("database migration")するのが望ましい場合がある。その理由は、主に経済的(DBMS によって総所有コスト(TCO)が異なる)、機能的、および運用的(DBMSによって機能が異なることがある)である。移行には、あるDBMSの種類から別の種類へデータベースを変換することも含まれる。この変換では、(可能であれば)データベース関連のアプリケーション(つまり、関連するすべてのアプリケーションプログラム)をそのまま維持する必要がある。したがって、データベースの概念レベルおよび外部レベルのは、変換時に維持する必要がある。また、アーキテクチャの内部レベルのいくつかの側面も維持されることが望まれる場合もある。複雑または大規模なデータベースの移行は、それ自体が複雑で費用のかかる(1度きりの)プロジェクトになる可能性があるので、移行を決定するときはその点を考慮する必要がある。これは、特定のDBMS間の移行を支援するツールが存在する可能性があるのにも関わらない。一般に、DBMSベンダーは、他の普及しているDBMSからデータベースをインポートするツールを提供している。 構築、保守、およびチューニング. アプリケーションのデータベースを設計したら、次の段階はデータベースの構築である。通常、この用途で用いるために、適切な汎用DBMSを選択することができる。DBMSは、データベース管理者が必要なアプリケーションのデータ構造をDBMSの各データモデルに準じて定義するために必要なユーザーインタフェースを提供する。その他のユーザーインタフェースは、必要なDBMSパラメータ(セキュリティ関連、ストレージ割り当てパラメータなど)を選択するために用いられる。 データベースの準備が整うと(データ構造およびその他の必要なコンポーネントがすべて定義される)、通常は、運用を開始する前にアプリケーションの初期データを入力する(データベースの初期化は、通常は別プロジェクトとされ、多くの場合、一括挿入をサポートする専用のDBMSインタフェースを用いる)。場合によっては、アプリケーションのデータを持たない状態でデータベースが稼働し、その運用を経てデータが蓄積されることもある。 データベースを作成し、初期化し、データを入力した後は、データベースを維持する必要がある。たとえば、より良い性能を得るために、さまざまなデータベース・パラメータを変更し、データベースをする必要があるかもしれない。あるいは、アプリケーションの機能を追加するために、アプリケーションのデータ構造を変更または追加し、新しい関連アプリケーションプログラムを作成するかもしれない。 バックアップと復元. 場合によっては、データベースを以前の状態に戻すことが必要となる(たとえばソフトウェアの誤りが原因でデータベースが破損していることが判明した場合や、誤ったデータで更新された場合など、さまざまな理由が考えられる)。そのために、バックアップ操作が時々または継続的に実施され、それぞれの望ましいデータベースの状態(すなわち、データ値とデータベースのデータ構造への埋め込み)が専用のバックアップファイルに保持される(これを効果的に行うための多くの技術が存在する)。データベース管理者がデータベースをこの状態に戻すと決めたとき(たとえば、データベースがこの状態にあった時、所望の時点を指定する)、これらのファイルをその状態を復元するために使用する。 静的解析. ソフトウェア検証のための静的解析技術は、クエリ言語の領域にも適用することができる。特に、抽象解釈フレームワークは、適切な近似技術をサポートする方法として、リレーショナルデータベースのクエリ言語の分野に拡張されている。クエリ言語のセマンティクスは、データの具体的な領域(ドメイン)を適切に抽象化することによって調整することができる。リレーショナルデータベースシステムの抽象化は、特に、細粒度アクセス制御や、電子透かしなどのセキュリティ分野で、多くの興味深い応用がある。 その他の機能. DBMSのその他の機能として、次のようなものもあげられる。 データベース管理とソース管理のために、ビルド、テスト、デプロイメントフレームワークに、これらの中心機能をすべて組み込んだ単一システムを求める声はますます高まっている。ソフトウェア業界における別の進化を借りて、そうした製品を「データベース用DevOps」として提供する企業もある。 設計とモデリング. データベース設計者の最初の作業は概念データモデルの作成で、データベースに保持する情報の構造を反映する。そのための一般的な方法は、描画ツールを用いて実体関連モデルを作成することが多い。統一モデリング言語(UML)の使用は、もう一つのよく知られた方法である。出来のよいデータモデルは、モデル化される外界の可能な状態を正確に反映する。たとえば、人々が複数の電話番号を持つことができる場合、その情報を取得することが可能となる。優れた概念データモデルを設計するには、アプリケーションの領域を十分に理解する必要がある。それには、一般的に、組織が関心を持っていることについて深い問いを立てる必要がある。たとえば「顧客は発注先にもなり得るのか?」、あるいは「ある製品が2種類の包装形態で販売されている場合、それらは同じ製品か、それとも異なる製品なのか?」、あるいは「飛行機がニューヨークからフランクフルト経由でドバイまで飛ぶ場合、それは1便か2便か(または3便か)?」のような質問をする。これらの質問に対する回答によって、エンティティ(顧客、製品、フライト、フライト区間)に使用される用語の定義、およびそれらの関係や属性を確立する。 概念データモデルを作成する過程で、ビジネスプロセスからの入力や、組織内のワークフロー分析からの入力が必要な場合がある。これによって、データベースにどのような情報が必要で、何を省略できるかを特定することができる。たとえば、データベースに現在のデータだけでなく、過去の履歴データも保持する必要があるかどうかを決定するのに役立つ。 ユーザーが満足できる概念データモデルを作成したら、次の段階では、これをデータベース内の関連データ構造を実装するスキーマに変換する必要がある。この過程は、しばしば論理データベース設計と呼ばれ、スキーマの形で表現された論理データモデルを作成する。概念データモデルがデータベース技術の選択と関係しないのに対し(少なくとも理論的には)、論理データモデルは、選択したDBMSがサポートする特定のデータベースモデルの観点で表現される。(データモデルとデータベースモデルという用語はしばしば同じ意味で用いられるが、この記事では特定のデータベースの設計を「"データモデル"」、その設計を表現するために用いられるモデリング表記を「"データベースモデル"」とそれぞれ呼ぶ。) 汎用データベースで最も普及しているデータベースモデルはリレーショナルモデル、より正確には、SQL言語で表現されるリレーショナルモデルである。このモデルを用いて論理データベースを設計する過程では、正規化と呼ばれる系統的アプローチが用いられる。正規化の目的は、挿入、更新、削除の一貫性を自然に維持することで、おのおのの基本的「事実」を一箇所にのみ記録することでなされる。 データベース設計の最終段階では、特定のDBMSに依存する性能、スケーラビリティ、回復、セキュリティなどに影響する決定をする。これはしばしば「物理データベース設計」と呼ばれ、物理データモデルを作成する。この段階での重要な目標はである。これは、性能を最適化するために行われた決定を、エンドユーザーやアプリケーションから見えないようにすることを意味する。データの独立性には2つのタイプがあり、物理的なデータ独立性と論理的なデータ独立性である。物理設計は主に性能要件によって推進され、予想される作業負荷とアクセスパターンに関する十分な知識と、選択したDBMSが持つ機能についての深い理解を必要とする。 物理データベース設計のもうひとつの側面はセキュリティである。これには、データベースオブジェクトへのアクセス制御を定義することと、データ自体のセキュリティレベルとメソッド(手順)の定義の両方を含んでいる。 モデル. データベースモデルとは、データベースの論理構造を決定するデータモデルの一種で、データをどのように格納、整理、操作するかの根本を規定するものである。データベースモデルの最も一般的な例は、テーブルベースの形式を使用するリレーショナルモデル(またはリレーションを近似したSQL)である。 データベースの一般的な論理データモデルを次にあげる。 オブジェクトリレーショナルデータベースは、この2つの関連する構造を組み合わせたものである。 物理データモデルを次にあげる。 その他、次のようなモデルがある。 特定の種類のデータ用に最適化された特殊モデルがある。 外部、概念、内部ビュー. データベース管理システムは、データベースのデータに対して三層のビューを提供する。 データの概念ビュー(または論理ビュー)および物理ビュー(または内部ビュー)は、通常、1つしかないが、さまざまな外部ビューはいくつでも存在することができる。これにより、ユーザーは、技術的あるいは処理的な視点からではなく、よりビジネスに関連した視点からデータベース情報を見ることができるようになる。たとえば、企業の財務部門は会社の経費の一部として全従業員の支払明細を必要とするが、人事部門の関心事である従業員に関する明細は必要ない。このように、部門によって、企業データベースには異なるビューが必要となる。 三層データベース・アーキテクチャは、リレーショナルモデルの主要な初期推進力の1つであったの概念に関連している。この考え方は、あるレベルで行われた変更は、より高いレベルのビューに影響を与えないというものである。たとえば、内部レベルの変更は、概念レベルのインタフェースを使用して記述されたアプリケーションプログラムには影響しないので、性能を向上させるために物理的変更を加えてもその影響を軽減することができる。 概念ビューは、内部ビューと外部ビューの間に間接的なレベルを提供する。一方では、異なる外部ビュー構造に依存しないデータベースの共通ビューを提供し、また他方では、データがどのように格納され管理されるかという詳細(内部レベル)を抽象化する。原則として、すべてのレベルの、さらにはすべての外部ビューは、異なるデータモデルで表現することができる。実際には通常、特定のDBMSは外部レベルと概念レベルの両方で同じデータモデルを使用する(例: リレーショナルモデル)。内部レベルは特定のDBMSの内側に隠されており、(その実装にも依存するが)異なるレベルの詳細が要求され、独自の種類のデータ構造型が用いられる。 外部、概念、および内部レベルを分離することは、21世紀のデータベースを支配するリレーショナルデータベースモデルの実装における大きな特徴であった。 研究. データベース技術は、1960年代から、学界や企業の研究開発グループ(例: IBM基礎研究所)の両方で活発な研究課題となっている。研究活動には、やプロトタイプの開発が含まれる。注目すべき研究課題には、モデル、アトミックトランザクションの概念、関連する並行性制御技術、クエリ言語とクエリ最適化手法、RAIDがある。 データベース研究分野には、いくつかの専門学術誌や(例: '-TODS、'-DKE)、年次会議(例: ACM SIGMOD、ACM 、、IEEE )がある。 日本の学会としては、日本データベース学会があげられる。
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ゲッコー
ゲッコー (Gecko)
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飲料水
飲料水(いんりょうすい、、、)とは、飲用に適した水を表す。「のみみず」とも。 飲料水. 飲料水は病原微生物や有毒物質を含まず、無味・無臭・透明が求められ、一般に水道水、湧水、流水、井戸水などを用いる。 飲むことができる水を確保しておくことは大切である。人は水を飲まずにいられるのは、一般的にはせいぜい4~5日程度だと言われている。安全な飲み水を確保することは、古の時代から重要な課題であった。病原体で汚染された飲み水を飲むと、それに感染することによってさまざまな病気にかかる。赤痢やコレラの大流行は、しばしば、不適切な水を飲用に用いたことで起きている。有毒物質を含んだ水を飲むことで、さまざまな障害が生じる。 世界の様々な地域の生水は概して飲料水としては使えない。熱帯地方では河川の水が病原微生物を含んでいることは多い。水道で運ばれてきて蛇口から出てくる水でさえそうである。地元の住民ならばかろうじて耐えられる場合でも、旅行者には危険な場合もあり得る。病原微生物を死滅させるためには少なくとも一旦煮沸する必要がある。 海水は塩分などが多過ぎるため、飲料水としては使えない。無寄港で海上を旅する時や、海で遭難した場合には、飲料水の確保が問題となるため、周囲にありあまるほどの海水が見えているにもかかわらず飲める水が無い、という皮肉な状況に追い込まれてしまう。同様に、内陸の塩水湖の湖水も飲料水としては使えない。火山地帯の湧水も特殊な成分を含み、飲用には適さない場合がある。 飲料水を得るひとつの方法として、植物体内の水を用いるという方法がある。植物体内の水であれば、あらかじめ植物の繊維構造でフィルターがかけられていることが多く、植物自体が生きのびるために菌類の繁殖を防ぐようなシステム(抗菌作用)を持っており、ほぼ無菌に近いからである。例えばココヤシの実の中の水を飲む方法がある。アマゾンには水を大量に含んだ樹木がいくつもあり、ジャングル内を旅する時などには、それを見つけて枝をナタで切り落として傾ければ、飲用に適した水が出てくる。水筒を持ち歩かなくても、そこかしこに飲料水があるため、現地人は俗称で「水筒の木」などと呼んでいる。ウツボカズラの捕食袋の水も飲用にされる(ただし、これの場合は袋が開く前に限る)。昔から、瓜(ウリ)、スイカ、メロン類、リンゴなど水分量が多い果物の果汁を飲料水の代用とする地域もある。 世界各地の事情. 世界的に、乾燥した地域も多く、そういった地域では、まず水そのものを得る方法を考案しなければならない。井戸はその代表的な技術である。サウジアラビアでは、電力を使って海水の塩分を分離し、飲用水を作り出している。サウジアラビアやイラク等々では、飲用水はガソリンよりも高価である。 日本の上水道は、水道局の関係者が日々水の質を高く保つために努力を積み重ねており、そのため蛇口をひねって出てきた水がそのまま飲める状態に保たれている。これは世界的に見て例外的なことといわれることもあるが、上質の水源の水を使い、ボトル詰めされたミネラルウォーターを買い飲用とすることも多い。 米国の開拓時代、カウボーイは自分が得た水の水質を信用しきれない場合、それに殺菌防腐効果があるアルコール度の高い酒を加えて飲む、などということも行ったが、殺菌効果が最も高いのはアルコール濃度(重量%)が70から80パーセントの時 で、数パーセントまで希釈されている場合、殺菌効果はあまり期待できない。 供給(販売)者. 供給者は、地域住民の共同体から公的機関、公共企業体、民間事業者まで多種多様。戦争や大規模災害時は、地方自治体、国家や国際的なNGOや国連難民高等弁務官事務所などが直接供給、供給手段を提供することがある。
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田村由美
田村 由美(たむら ゆみ、9月5日 - )は、日本の漫画家。和歌山県出身、東京都在住。女性。O型。1983年(昭和58年)、『別冊少女コミック』(小学館)9月号増刊に掲載の「オレたちの絶対時間」でデビュー。以後、小学館が発行する漫画雑誌で執筆活動を展開する。2013年、和歌山県文化表彰・文化功労賞を受賞。 漫画作品. 既刊. マーガレットコミックス カバーイラスト作品. 前田珠子によるライトノベル「魅魎暗躍譚シリーズ」
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C言語
C言語(シーげんご、)は、1972年にAT&Tベル研究所のデニス・リッチーが主体となって開発した汎用プログラミング言語である。英語圏では「C language」または単に「C」と呼ばれることが多い。日本でも文書や文脈によっては同様に「C」と呼ぶことがある。制御構文などに高水準言語の特徴を持ちながら、ハードウェア寄りの記述も可能な低水準言語の特徴も併せ持つ。基幹系システムや、動作環境の資源制約が厳しい、あるいは実行速度性能が要求されるソフトウェアの開発に用いられることが多い。後発のC++やJava、C#など、「C系」と呼ばれる派生言語の始祖でもある。 ANSI、ISO、またJISにより言語仕様が標準規格化されている。 特徴. 処理系の簡素化. 処理系の簡素化のため、以下のように安全性を犠牲にした仕様が多い。なお、ホスト環境やプログラムの内容によっては、以下に対して脆弱性対策を施したとしても実行速度の低下が無視できる程度であることも多く、言語仕様側の欠点とみなされることも少なくない。 コード例. Hello worldプログラム. C言語のHello worldプログラムは、ホスト環境を前提とするか、フリースタンディング環境を前提とするかで、方向性が異なる。ホスト環境を前提とする場合には、標準入出力の利用により、動作をすぐに確かめることができる。以下では、標準Cライブラリのヘッダcodice_12にて宣言されている、codice_13関数あるいはcodice_14関数を利用したものを例示する。 /* int puts(const char* s) を使う場合。 */ int main(int argc, char* argv[]) puts("Hello, world!"); return 0; /* int printf(const char* format, ...) を使う場合。 */ int main(int argc, char* argv[]) printf("Hello, world!\n"); return 0; 上記サンプルソース中のエスケープシーケンス codice_15は改行(ラインフィード)を表す。 上記のコードでは main 関数を として定義したが、代わりに と書いてもよい。 Pythonのような言語と異なり、実行可能なプログラムを作成するには関数のようなエントリーポイントを定義する必要がある。また("Hello world" プログラムでは利用しないが)変数の値を標準出力へ出力するには 関数より 関数の利用が適しているが、 は書式文字列中に指定できる変換指定子を処理するために などに比べて仕様が複雑なため、取り扱いに注意を要する。 歴史. 誕生. C言語は、AT&Tベル研究所のケン・トンプソンが開発したB言語の改良として誕生した(#外部リンクの「The Development of the C Language」参照)。 1972年、トンプソンとUNIXの開発を行っていたデニス・リッチーはB言語を改良し、実行可能な機械語を直接生成するC言語のコンパイラを開発した。後に、UNIXは大部分をC言語によって書き換えられ、C言語のコンパイラ自体も移植性の高い実装のPortable C Compilerに置き換わったこともあり、UNIX上のプログラムはその後にC言語を広く利用するようになった。 ちなみに、「UNIXを開発するためにC言語が作り出された」と言われることがあるが、「The Development of the C Language」によると、これは正しくなく、経緯は以下の通りである。C言語は、当初はあくまでもOS上で動くユーティリティを作成する目的で作り出されたものであり、OSのカーネルを記述するために使われるようになるのは後の展開である。 UNIX環境とC言語. アセンブラとの親和性が高いために、ハードウェアに密着したコーディングがやりやすかったこと、言語仕様が小さいためコンパイラの開発が楽だったこと、小さな資源で動く実行プログラムを作りやすかったこと、UNIX環境での実績があり、後述のK&Rといった解説文書が存在していたことなど、さまざまな要因からC言語は業務開発や情報処理研究での利用者を増やしていった。特にメーカー間でオペレーティングシステムやCPUなどのアーキテクチャが違うUNIX環境では再移植の必要性がしばしば生じて、プログラムをC言語で書いてソースレベル互換を確保することが標準となった。 C言語誕生時の環境と他言語との比較. C言語の開発当初に使われた入力端末はであったことが知られている。 ASR-37は1967年制定の旧ASCII ISO R646-7bitにもとづいており、「codice_23」および「codice_24」の入力を行うことができたが、当時は一般的に使われていた入力端末ではなかった。 当時PDP-11の入力端末として広く使われていたのはASR-33であるが、これは1963年制定の旧ASCIIであるASA X3.4に準拠しており、「codice_23」や「codice_24」の入力を行うことはできなかった。 このことは、ブロック構造に「codice_23」や「codice_24」を用いるC言語(さらに元をたどればB言語)は、当時の一般的な環境では使用不可能であったことを示している。 これは、C言語はその誕生当初にあっては一般に広く使われることを想定しておらず、ベル研究所内部で使われることを一義的に考えた言語であったという側面の表れである。 これに対し、PascalやBASIC等の当初から広く使われることを想定した言語では、ブロック構造に記号を用いずにcodice_29とcodice_30をトークンとして用いることや、コメント行を表す際に開始トークンとしてcodice_31という文字列を用いることなど、記号入力に制約がある多くの入力端末に対応できるように配慮されていた。この頃の他の言語やOSで大文字と小文字の区別をしないものが多いのも、当時は大文字しか入力できない環境も少なくなかったことの表れである。 このような事情のため、C言語が普及するのは、ASCII対応端末が一般化した1980年代に入ってからである。 現在、ブロック構造の書式等で、codice_32形式のC言語と、codice_33等を使用する他の言語との比較において優劣を論じられることがあるが、開発時の環境等をふまえずに現時点での利便性のみで論じるのは適切ではない場合があることに留意が必要である。 PCとC言語. 1980年代に普及し始めたパーソナルコンピュータ (PC) は当初、8ビットCPUでROM-BASICを搭載していたものも多く、BASICが普及していたが、1980年代後半以降、16ビットCPUを採用しメモリも増えた(ROM-BASIC非搭載の)PCが主流になりだすと、Turbo CやQuick Cといった2万円程度の比較的安価なコンパイラが存在したこともあり、ユーザーが急増した。8ビットや8086系のPCへの移植は、ポインタなどに制限や拡張を加えることで解決していた。 現在のC言語. 1990年代中盤には、最初に学ぶプログラミング言語としても主流となった。また、同時期にはゲーム専用機(ゲームコンソール)の性能向上とプログラムの大規模化、マルチプラットフォーム展開を受け、メインの開発言語がアセンブラからC言語に移行した。 1990年代後半から2000年代以降は、PCのさらなる性能向上と普及、GUI環境やオブジェクト指向の普及、インターネットおよびウェブブラウザの普及、スマートフォンの普及に伴い、より高水準で開発効率の高い言語やフレームワークを求める開発者が増えたことにより、C++、Visual Basic、Java、C#、Objective-C、PHP、JavaScriptなどが台頭してきた。広く利用されるプログラミング言語の数は増加傾向にあり、相対的にC言語が使われる場面は減りつつある。特にアプリケーションソフトウェアなどの上位層の開発には、C言語よりも記述性に優れるC++、Java、C#などC言語派生の後発言語が利用されることが多くなっている。資源制約の厳しかったゲーム開発においても、ハードウェアの性能向上やミドルウェアの普及により、C++やC#などが使われる場面が増えている。速度性能や省メモリが特に重視されるシステムプログラミングに関しても、伝統的にC/C++の独壇場だったが、新規コードではより安全性の高いRustを導入する事例が現れている。 しかし、C言語は比較的移植性に優れた言語であり、個人開発/業務用開発/学術研究開発やプロプライエタリ/オープンソースを問わず、オペレーティングシステムやデバイスドライバーなどの下位層、クロスプラットフォームAPIの外部仕様、C++やJavaなどの高水準言語の処理系および実行環境の実装が困難な小規模の組み込みシステムなどを中心に、2021年現在でも幅広く利用されている。 プログラミング入門者にとっては、Python、JavaScript、Swift、Kotlinなどのように、インタラクティブな対話環境(REPL、インタプリタ)が利用でき、抽象化が進んでおり、煩雑なメモリ管理が不要で、危険な機能を制限した高水準言語のほうが学習・習得しやすいが、コンピュータの動作原理やハードウェア仕様を理解するには、Cのような原始的な言語を用いたほうがかえって分かりやすいケースもある。 規格. K&R. 米国国家規格協会(ANSI)による標準化が行われるまで、1978年出版のデニス・リッチーとブライアン・カーニハンの共著『The C Programming Language』が実質的なC言語の標準として参照されてきた。C言語は発展可能な言語で、K&Rの記述も発展の可能性のある部分は厳密な記述をしておらず、曖昧な部分が存在していた。そのためC言語が普及するとともに、互換性のない処理系が数多く誕生した。 C89/C90. そこで、ISO/IEC JTC1とANSIは協同でC言語の規格の標準化を進め、1989年12月にANSIがANSI X3.159-1989, American National Standard for Information Systems -Programming Language-Cを、1990年12月にISOがINTERNATIONAL STANDARD ISO/IEC 9899 : 1990(E) Programming Languages-Cを発行した。ISO/IEC規格のほうが章立てを追加しており、その後ANSIもISO/IEC規格にならって章立てを追加した。それぞれC89 (ANSI C89) およびISO/IEC C90という通称で呼ぶことがある。 日本では、これを翻訳したものを『JIS X 3010-1993 プログラム言語C』として、1993年10月に制定した。 最大の特徴は、C++と同様の関数プロトタイプを導入して引数の型チェックを強化したことと、codice_34やcodice_35などの新しい型を導入したことである。一方、「処理系に依存するものとする」に留めた部分も幾つかある(codice_6型のビット幅、codice_10型の符号、ビットフィールドのエンディアン、シフト演算の挙動、構造体などへのパディング等)。 規格では以下の3種類の自由を認めている部分がいくつかある。 これにより、プラットフォームやプロセッサアーキテクチャとの相性による有利不利が生じないような仕様になっている。 8ビット/16ビット/32ビットなど、レジスタ幅(ワードサイズ)の異なるプロセッサ (CPU) に対応・最適化できるようにするため、組み込み型の情報量(大きさ)や内部表現にも処理系の自由を認めている。型のバイト数はcodice_38演算子で取得し、各型の最小値・最大値はcodice_39で定義されているマクロ定数で参照することとしている。ただし、1バイトあたりのビット数は規定されていない。codice_40すなわちcodice_10型が1バイトであることは常に保証されるが、8ビット(オクテット)とは限らない。実際のビット数はcodice_42マクロ定数で取得できる。とはいえ、現実の多くの処理系ではcodice_10型は8ビットである。また、その他の整数型については、codice_44、codice_45、codice_46、という大小関係が定められているだけである(符号無し型も同様)。多くの処理系ではcodice_47型のサイズは2バイト(16ビット)であるが、codice_6やcodice_49のサイズはCPUのレジスタ幅などによって決められることが多い。codice_6型、codice_47型、codice_49型で符号を明示しない場合はcodice_53を付けた符号付き型として扱われる。しかしcodice_10型に関しては、codice_53(符号付き)にするか、それともcodice_56(符号無し)にするかは処理系依存である。codice_10型、codice_58型、codice_59型はそれぞれ異なる型として扱われる。 規格上には、BCPLやC++形式の1行コメント(codice_60)は無いが、オプションで対応した処理系も多く、gccやClangはGNU拡張codice_61でサポートしている。 GNU Cコンパイラ や Clang では、codice_62(またはcodice_63もしくはcodice_64)をつけることにより、GNU拡張を使わないC89規格に準拠したコンパイルを行うことができる。加えて、codice_65をつければ診断結果が出る。商用のコンパイラではWatcom Cコンパイラが規格適合の比率が高いと言われていた。現在Open Watcomとして公開している。 C89には、下記の追加の訂正と追加を行った。 C99. 1999年12月1日に、ISO/IEC JTC1 SC22 WG14 で規格の改訂を行い、C++の機能のいくつかを取り込むことを含め機能を拡張し、ISO/IEC 9899:1999(E) Programming Language--C (Second Edition) を制定した。この版のC言語の規格を、通称としてC99と呼ぶ。 日本では、日本産業規格 JIS X 3010:2003「プログラム言語C」がある。 主な追加機能: C99は下記の訂正がある。 C11. 2011年12月8日に"ISO/IEC 9899:2011"(通称 C11)として改訂された。改訂による変更・追加・削除機能の一部を以下に記述する。 C11はUnicode文字列(UTF-32、UTF-16、UTF-8の各符号化方式)に標準で対応している。そのほか、codice_76式、C++と同様の無名構造体・無名共用体、排他的アクセスによるファイルオープン方法、quick_exitなどのいくつかの標準関数などを追加した。 また、codice_77関数指示子を追加した。codice_77は従来処理系ごとに独自に付加していた属性情報(たとえばgccではcodice_79)を標準化したもので、「呼び出し元に戻ることがない」という特殊な関数についてその特性を示すためにある。codice_20文を持たない関数という意味ではなく(規格ではcodice_20文を持たなくとも、関数の最後の文の実行が終われば制御は呼び出し元に戻る)、この指示が意味するものは、当該の関数、ないしその内部から呼び出している関数の実行中に、必ずcodice_82やcodice_83を実行したり、例外などで終了する、あるいは、codice_84による大域ジャンプで抜け出す、継続渡しスタイル変換されたコードである、などのために、絶対に制御が呼び出し元に戻らない、という関数を指示するためにある。そのような関数は、スタックに戻りアドレスを積む通常の呼び出しではなく、スタックを消費しないジャンプによって実行できる。 アラインメント機能、codice_85型やC言語ネイティブの原始的なスレッド機能などを省略可能な機能として規格に組み込んだ。また、C99では規格上必須要件とされていた機能のうち、複素数型と可変長配列を省略可能なものに変更した。これらの省略可能な機能はC11規格合致の必須要件ではないので、仮に完全に規格合致の処理系であっても、対応していないかもしれない。C11規格では、省略可能な機能のうちコンパイラがどれを提供しているかを判別するために利用できる、テスト用のマクロを用意している。 これにより、codice_86関数は廃止されている。 C17. 2018年に"ISO/IEC 9899:2018"(通称C17またはC18)として改訂された。仕様の欠陥修正がメインのマイナーアップデートである。 主なC言語処理系. 大抵の処理系はC言語とC++両方をサポートしている。C言語とC++の共通部分を明確にし、二つの言語の違いに矛盾が生じないようにすることが課題になっている。 関連する主なプログラミング言語. 継承・拡張・サブセット. その他にも、OpenGLシェーダー言語であるGLSL、DirectX(Direct3D)シェーダー言語であるHLSL、OpenCLカーネル記述言語であるOpenCL-Cなど、C言語の文法的特徴を取り入れた派生言語やDSLが多数存在する。 参考文献. 2015年現在、初心者向けのイラスト入り入門書やサブルーチンのサンプル集の他、組み込み機器の制御や科学技術計算など目的を特化した専門書なども多数ある。便利な機能の説明はあっても、学習者の水準や目的にあった本を見つけるのは必ずしも容易でない。オープンソースのCコンパイラ、OSも大規模なものがあり、直接読み始めるのは困難になっている。オープンソースのOSの小規模なものから始めるとよい。
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ドナルド・クヌース
ドナルド・アーヴィン・クヌース("Donald Ervin Knuth" , 1938年1月10日 -)は、数学者・計算機科学者。スタンフォード大学名誉教授。 クヌースによるアルゴリズムに関する著作 "The Art of Computer Programming" のシリーズはプログラミングに携わるものの間では有名である。アルゴリズム解析と呼ばれる分野を開拓し、計算理論の発展に多大な貢献をしている。その過程で漸近記法で計算量を表すことを一般化させた。 計算機科学への貢献とは別に、コンピュータによる組版システム とフォント設計システム METAFONT の開発者でもあり、Computer Modern という書体ファミリも開発した。 作家であり学者であるクヌースは、文芸的プログラミングのコンセプトを生み出し、そのためのプログラミングシステム WEB / を開発。また、MIX / MMIX 命令セットアーキテクチャを設計。 生い立ち. ウィスコンシン州ミルウォーキー生まれ。父は小さな印刷会社を経営し、近くの高校で簿記の講師をしており、父親が教えているその高校にクヌースは進学した。高校2年生のとき、"Ziegler's Giant Bar" という文字列から文字を取り出して組み合わせ、どれだけ意味のある単語を作れるかというコンテストが行われた。審査員が事前に用意した回答例は2500語だったが、クヌースは4500語も見つけ出すという才能を発揮し優勝した。賞品として学校にテレビ受像機(当時は高価であった)が贈られ、クラス全員にキャンディバーが配られた。 大学教育と初期の職歴. 大学進学にあたって、音楽と物理学のどちらを選ぶかで悩んだ末、ケース工科大学(現在はケース・ウェスタン・リザーブ大学)で物理学を学ぶことにした。ケース工科大学で物理学を学んでいた頃、初期のコンピュータの一つである IBM 650 と出会う。そのマニュアルを読んだクヌースは、自分ならもっとうまくできると信じ、アセンブラとコンパイラのコードを書き換えることを決心した。1958年、大学のバスケットボールのチームがリーグ優勝するのを助けるため、クヌースは各選手の能力に基づいたプログラムを構築した。これは当時あまりにも画期的だったため、ニューズウィーク誌に記事が掲載され、CBSイブニングニュースでウォルター・クロンカイトも取り上げた。"Engineering and Science Review" という技術専門誌の立ち上げに編集者として参加しており、同誌は1959年に技術誌の国家的な賞を受賞している。その頃物理学から数学に転向し、1960年には、ずば抜けた成果により学士号と修士号を同時に与えられた。 1963年、カリフォルニア工科大学で数学の博士号を取得し、同大学で准教授として働き始め、そこで "The Art of Computer Programming" の執筆を開始した。実は元々はコンパイラに関する本の執筆を依頼され、当初1冊で内容を完結させる予定だったのだが "The Art of Computer Programming" という大作になってしまった。6部作となってしまい、さらに7部作へと構想が膨らんでいった。第1巻を出版する直前の1968年、プリンストン大学キャンパスにあった Institute for Defense Analyses (IDA) の通信研究部門を通してアメリカ国家安全保障局 (NSA) の仕事を請け負う職に就いた。しかし、その仕事はクヌースの政治信条には合わなかったようで、間もなくスタンフォード大学に移った。 執筆. The Art of Computer Programming. TAoCP あるいは ACP と略されることがある。コンピュータプログラミングの「Art」について集積した大著である。クヌース自身がここで意図している「Art」がどのようなものであるかは、本書の公刊という業績によって第3巻を刊行後の1974年にチューリング賞を受賞した際に、受賞講演の冒頭で詳細に述べている。 本書を企図した当時、計算機科学は第一歩を恐る恐る踏み出したばかりで、クヌースは「それは正体不明の全く新しい領域だった」と述べている。さらに「入手可能な出版物の水準はあまり高いとは言えなかった。次々と書かれる論文の内容がはっきり言えば間違っている、というような状況だった。(中略)だから、ひどい形で語られてしまっていたストーリーを直したいと私は思ったんだ。」と述べている。 その後1976年に、2巻の第2版の準備中にその版面の仕上がりに不満を持ち、 と METAFONT を自ら開発し始めてしまい、4巻への着手は多少後ろ倒しとなった。結果として、コンパイラの技法についても続刊の内容として2020年の時点でも予告には含まれているが、それらの分野については既に多くの書籍がある。一方で既刊部分に含まれる、徹底したサーベイと実践に基づき書かれた内容は、しばしば参照される、貴重な記録と言えるものも多い。 2012年現在、最初の3巻と第4巻の第1部が出版済みである。 他の業績. 他に『超現実数』(Surreal Numbers) という本も執筆している。ジョン・ホートン・コンウェイの集合論に基づいて代替の数体系を構築するという数学的小説である。この本は単に主題をそのまま説明するのではなく、数学の発展過程を示すことに努めている。クヌースはこの本を読んだ学生がオリジナルの創造的研究を行うことを望んでいる。 信仰と宗教的業績. クヌースの他の著作として "3:16 Bible Texts Illuminated" がある。これは聖書に層化抽出法を適用するという試みをしたもので、それぞれの書の3章16節を抜き出して解析している(3章16節を選んだのは「ヨハネによる福音書3章16節」の存在からであるが、他の書の3章16節には基本的に特別な意味は無い)。それぞれの節を美しく効果的に見せるため、ヘルマン・ツァップの指揮でカリグラファー達が協力した。クヌースはルター派である。 Computer Musings. 名誉教授となった今も、年に数回スタンフォード大学で非公式の講義を行っている。彼はこれを Computer Musings と呼ぶ。また、オックスフォード大学コンピュータ研究所の客員教授であり、同大学モードリン・カレッジの名誉フェローでもある。 クヌースのユーモア. クヌースはプログラマとしても有名で、専門的ユーモアでも知られている。 受賞歴と栄誉. クヌースの計算機科学への貢献に敬意を表し、1990年、彼は「プログラミング技法の教授; Professor of the Art of Computer Programming」という唯一の称号を与えられた(現在では「名誉教授」に変更されている)。 1992年、クヌースはフランスの科学アカデミーの準会員となった。同年教授職を引退し、"The Art of Computer Programming" の完成に専念するようになった。2003年、イギリスの王立協会の外国人会員に選ばれた。 2009年、アメリカ応用数理学会 (SIAM) の特別フェローに選ばれた。 の会員でもある。 私生活. 1961年6月24日にナンシー・ジル・カーター(Nancy Jill Carter)と結婚。子をふたり授かる(John Martin KnuthおよびJennifer Sierra Knuth)。 2006年、前立腺癌を患っている。同年12月に手術を受け、放射線療法を受けているが予後はかなり良好だと動画にて報告している。 著作. 主な著作を以下に示す。
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Ruby
Ruby(ルビー)は、まつもとゆきひろ(通称: Matz)により開発されたオブジェクト指向スクリプト言語(スクリプト言語とはプログラミング言語の一分類)。 日本で開発されたプログラミング言語としては初めて国際電気標準会議(IEC)で国際規格に認証された事例となった。 概要. Ruby は1993年2月24日に生まれ、1995年12月にfj上で発表された。名称の Ruby は、プログラミング言語 Perl が6月の誕生石である Pearl(真珠)と同じ発音をし、「Perlに続く」という意味で、6月の次の誕生石(7月)のルビーから名付けられた。競合言語として Perl の他に Python があり、「Matz(まつもと) が Python に満足していれば Ruby は生まれなかったであろう」と公式のリファレンスの用語集で言及されている。 機能として、クラス定義、ガベージコレクション、強力な正規表現処理、マルチスレッド、例外処理、イテレータ、クロージャ、Mixin、利用者定義演算子などがある。Perl を代替可能であることが初期の段階から重視されている。Perlと同様にグルー言語としての使い方が可能で、C言語プログラムやライブラリを呼び出す拡張モジュールを組み込むことができる。 Ruby 処理系は、インタプリタとコンパイラが存在する(詳しくは#実装を参照)。 可読性を重視した構文となっている。Ruby においては整数や文字列なども含めデータ型はすべてがオブジェクトであり、純粋なオブジェクト指向言語といえる。 長らく言語仕様が明文化されず、まつもとによる実装が言語仕様に準ずるものとして扱われて来たが、2010年6月現在、JRuby や Rubinius といった互換実装の作者を中心に機械実行可能な形で明文化する RubySpec という試みが行われている。公的規格としては2011年3月22日にJIS規格(JIS X 3017)が制定され、その後2012年4月1日に日本発のプログラム言語では初めてISO/IEC規格(ISO/IEC 30170)として承認された フリーソフトウェアとしてバージョン1.9.2までは Rubyライセンス(Ruby License や Ruby'sと表記されることもある。GPLかArtisticに似た独自ライセンスを選択するデュアルライセンス)で配布されていたが、バージョン1.9.3以降は2-clause BSDLとのデュアルライセンスで配布されている。 ゆかりのある地域. Rubyは日本の国産言語として知られており、特にRubyとゆかりのある地域はRubyの聖地と呼ばれている。 設計思想. 開発者のまつもとゆきひろは、「Rubyの言語仕様策定において最も重視しているのはストレスなくプログラミングを楽しむことである ("enjoy programming")」と述べている。 ただし、まつもとによる明文化された言語仕様は存在しない。Perlのモットー「やり方はいろいろある ("There's More Than One Way To Do It; TMTOWTDI")」は「多様性は善 ("Diversity is Good")」というスローガンで Ruby に引き継がれてはいるものの最重要なものではないとも述べており、非推奨な手法も可能にするとともに、そのような手法を言語仕様により使いにくくすることによって自粛を促している。 また、まつもとは『まつもとゆきひろ コードの世界 スーパー・プログラマになる14の思考法』でもRubyの開発理由を次のように述べている。 また、英語圏の開発者の間ではMINASWAN (Matz is nice and so we are nice. 和訳: まつもとがナイスだから我々もナイスであろう) の標語が用いられている。 「Python、PHP、Perlでは静的型を導入しているため、Rubyも型を導入するべきでは」と長年言われているが、まつもとは「Rubyに型を取り入れたくない。DRY (Don't repeat yourself)ではないから⁠」⁠「⁠型宣言することはコンピュータに使われているような気になる」と否定的であり、2019年5月現在Rubyに静的型が導入される予定はない。 クラス名はアルファベットの大文字から始めるという制約があり、日本語などの非ASCII文字のみでクラス名を定義する方法がない。この件についてまつもとは以下のように語っており、英語を共通言語として使うべきであるという立場を表明している。 実装. 公式な実装. Rubyの公式な実装には、以下の二種類が存在する。 例. 基本的なコード -199.abs # 199 "ruby is cool".length # 12 "Rick".index("c") # 2 "Nice Day Isn't It?".split(//).uniq.sort.join # " '?DINaceinsty" コレクション. 配列の作成と使用法 a = [1, 'hi', 3.14, 1, 2, [4, 5]] a[2] # 3.14 a.reverse # file.puts 'Wrote some text.' end # file.txtはここで自動的に閉じられる これは次の例と同様の処理を行う(codice_1 については[[#例外処理|例外処理]]の項を参照) begin file = File.open('file.txt', 'w+b') file.puts 'Wrote some text.' ensure file.close end 本処理を後から指定. 実際に行いたい処理をブロックで記述する。前項の後処理の省力化もこれの一例といえる。 def bfs(list) #配列をツリーに見立てた処理 until list.empty? unit = list.shift yield unit #ブロックの内容を実行 unit.each{|v| list.push v} if defined? unit.push end end この例は、ツリーから要素と分枝をつぎつぎと取り出して取り出したものになんらかの処理を行うものである。メソッドの利用者は、なんらかの処理のみを記述すればよく、取り出しのアルゴリズムなど、本質的でない内容に意識を向ける必要がなくなる。 クロージャ. クロージャとなるようなブロックの引数渡し def remember(&p) @block = p end @block.call("John") メソッドからクロージャを返す例 def create_set_and_get(value = 0) end setter, getter = create_set_and_get setter.call(21) getter.call # => 21 クラス. 次のコードはcodice_2という名前のクラスである。その中、まずcodice_3はオブジェクトを初期化するコンストラクタである。ほかに2つのメソッドがあり、1つは比較演算子であるcodice_4をオーバーライドしておりcodice_5によりプロパティcodice_6でソートすることができる。もう1つのオーバーライド箇所のcodice_7メソッドは codice_8 での表示の形式を整える。codice_9は Ruby におけるメタプログラミングの例であり、codice_10 はインスタンス変数の入出力を司る、いわゆる値を取得する codice_11 メソッドや値を設定する codice_12 メソッド(アクセサ)を定義する。codice_9は codice_11 メソッドのみの定義である。なおメソッド中では最後に評価された式が返り値となり、明示的なcodice_15は省略できる。 class Person def initialize(name, age) @name, @age = name, age end def <=>(person) @age <=> person.age end def to_s "#{@name} (#{@age})" end attr_reader :name, :age end group = [ Person.new("John", 20), Person.new("Markus", 63), Person.new("Ash", 16) puts group.sort.reverse 結果は3つの名前が年の大きい順に表示される Markus (63) John (20) Ash (16) 例外処理. 例外はなにか不具合が起こったときcodice_16の呼び出しで発生させることができる。Ruby での例外は codice_17 クラスか、そのサブクラスのインスタンスである。 例外にはメッセージを追加することもできる raise "This is a message" さらに例外のタイプも指定できる raise ArgumentError, "Illegal arguments!" 例外はcodice_18節で処理することができ、次のようにコードにcodice_18を付加するだけである begin # 通常処理 rescue # 例外処理。引数を省略すると、StandardErrorのサブクラスの例外のみ処理する rescue SomeError # 例外処理。SomeErrorの例外のみ処理する。 ensure # 例外の発生に関わらず必ず実行される処理 else # 例外が発生しなかったときに実行される処理 end エピソード. Ruby ではブロック構造を codice_20 で終える構文が採用されているが、開発者のまつもとゆきひろは他の構文が採用される可能性があったことを述べている。当時、Emacs 上で codice_20 で終える構文をオートインデントさせた例はあまりなく、Ruby 言語用の編集モードにオートインデント機能を持たせられるかどうかが問題になっていたためである。実際には数日の試行でオートインデント可能であることがわかり、現在の構文になった。C言語のようなcodice_22を使った構文も検討されていたが、結局これは採用されなかった。 「Rubyは死んだ」. 「Rubyはよく『死んだ』って言われる言語である」とまつもとは認識しておりTwitterがRuby on RailsからJava仮想マシン用言語のScalaに移行した話などを例に出し「Rubyは死んだ」みたいに言われることが増えたとしているほか、オランダのTIOBEという会社が発表しているプログラミング言語の人気ランキングでRubyが上位に入らないことをもってして「Rubyは死んだ」「Rubyは凋落している」と見られることがあるが、「RubyとかRuby on Railsだと、さまざまなジャンルで実際の適用例があるので、なにか困ったとき同じ問題に直面した人を探せたり、あるいはその問題を解決するRubyGemsを見つけられる。そういう点でいうと、トータルの生産性はかなり高いことがある」「実際に仕事として、あるいは自分のプロダクトを作るときに、どんな言語を選択してどういうふうに開発したらいいのかを考えると、Rubyの持っているビジネス上の価値はそんなに下がっていないと思います。たとえ順位が下がって、表面上Rubyの人気が凋落したように見えても、ある意味『まだまだ大丈夫』が1つの見識だと思います」とまつもとは述べている。 Ruby on RailsがPythonで作られなかった理由. デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソンがRuby on Railsを構築するのにPythonを選ばなかった理由として「私の場合は、恋に落ちたのがRubyなのです。私はRubyに恋をしていますし、もう14年間もそうなのです。(中略)『最適なツール』などというものは存在しないのです。あなたの脳をちょうどいい具合に刺激するパズルがあるだけなのです。今日では、ほぼなんでも作ることができます。そして、それを使って、さらに何でも作れてしまうのです。これは素晴らしいことです。表現や言語、そして思考の多様性に乾杯しましょう!」と質問サイトのQuoraで本人が回答している。 まつもとゆきひろが書いたコードの割合. 2020年9月8日現在、RubyのCコード509,802行のうち、まつもとがコミットしたのは36,437行で1割以下になっている。
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TeX
(TeX) は,ドナルド・クヌース (Donald E. Knuth) が開発し,広く有志による拡張などが続けられている組版処理システムである。 概要. TeXの特徴. TeXは以下のようなメリットがある。 TeXの成立. スタンフォード大学のドナルド・クヌース教授(現在は退職)が、1976年に自身の著書 "The Art of Computer Programming" の改訂版の準備中に、鉛版により組版された () 旧版の職人仕事による美しさが、改訂版の当時の写植では再現できていないことに憤慨し、自分自身が心ゆくまで組版を制御するために開発を決意した。 クヌースはまず、伝統的な組版およびその関連技術に対する広範囲にわたる調査を行い、その調査結果を取り入れることで、商業品質の組版ができる、柔軟で強力な組版システムを開発した。それは技術と同時に芸術をも意味するギリシア語の言葉である、τέχνη(テクネ)から採られ“”と名付けられた。 当初の開発は本業である研究や教育の合間仕事であったが、クヌースには1978年に1年間のサバティカルがあったことから、その1年間の全てをこれに集中して完成させるという見込みであった。しかし実際には、同年に初版をリリースしたものの、その後も改訂を続けることとなった。最終的に、後述する「完成版」の系列であるバージョン3の最初のリリースは、実に1989年のことであった。 を他人が改造したり拡張したりした場合について、それを直接配布することをクヌースは許しておらず、change file というメカニズムを利用して差分を添付する、という形で行わなければならない(これは当時まだ diff と patch が一般的に広く使われていなかったことから、これもクヌースが開発したものである)。この制限はいわゆる「バザールモデル」であるとは多少言い難い所があるが、「オープンソースの定義」では(そのような制限との妥協の産物である)第4項により、差分等を添付した再配布を許しているならば、派生物の配布にそのような制限があってもよい、ということになっているため「オープンソースの定義」には合致している。 前述のような開発期間の長さの理由の一つに、クヌースが徹底的にバグを探して潰していたから、ということも挙げられる。どのようなバグを修正したか、ということも記録しており、ある時期までのものについて解説と一覧が『文芸的プログラミング』の第10章と第11章に収録されている。そのため、残っているバグは少ないだろうとして、ジョーク好きのクヌースが、バグ発見者に対しては前回のバグ発見者の2倍の懸賞金を掛けている。この賞金は小切手(クヌース賞金小切手)で払われるが、貰っても記念に取っておくばかりなので、結局クヌースの出費はほとんどないという(とはいえやはりジョークかもしれないが、やめておけば良かった、というように取れることも書いている)。 クヌースは のバージョン 3 を開発した際に、これ以上の機能拡張はしないことを宣言した。その後は不具合の修正のみがなされ、バージョン番号は 3.14, 3.141, 3.1415, … というように付けられている。これは更新の度に値が円周率に近づいていくようになっていて、クヌースの死の時点をもってバージョン として、バージョンアップを打ち切るとのことである。 クヌースは の開発と同時に、 で利用するフォントを作成するためのシステムである METAFONT も開発した。こちらのバージョン番号は 2.71, 2.718, 2.7182, … というように、更新の度に値がネイピア数に近づいていくようになっている。さらにクヌースは METAFONT を使って、欧文フォント Computer Modern も設計(デザイン)した。Computer Modern(cmと略されることもある)にはクヌース自身の欧文フォントに対する美的感覚が反映され、全くのプレーンな ではデフォルトのフォントであるが、現在の多くの利用者は Times など伝統的な定番フォントを使うよう設定していることも多い。 および METAFONT はまた、同様にクヌース自身が提唱する文芸的プログラミング (Literate Programming) の「ドキュメンテーションを主とし、コードはそれに付随する」スタイルによる大規模なプロジェクトの一例でもある。やはりクヌースによる文芸的プログラミングのためのシステム WEB の tangle により、そのようにして書かれている文芸的な「プログラム」の中から Pascal で書かれているコード部分が取り出され、コンパイルできるように編集し直されて何らかの Pascal の実装により処理される(大規模なコードのため、多くの Pascal 実装において1個以上のバグを見つけている、ともいわれる)。同様にして WEB の weave を通して得られるドキュメントを書籍にしたものが book と METAFONTbook である。Pascal が使われているのは開発にとりかかったのが古く、C言語が広く一般的になるより前だったこともあるが、近年ではC言語をターゲットとした WEB である WEB2C が使われることも多い。 (注)LaTeXとの違いはLaTeX参照。LaTeXにはTeXより便利な機能が多いため、TeXを使用しているといってもLaTeXを利用している、という場合がある。ちなみに、後述にも登場するwikipedia上の数式は、Wikipediaサーバ上のLaTeXでSVG画像にしているものである。 名称について. 製作者のドナルド・クヌースにより以下のように要請されている。 表記. は 「技術、芸術」に由来し、ギリシア文字の Τ(タウ)- Ε(イプシロン)- Χ(カイ)である。E を少し下げて、字間を詰めて書く。プレーンテキストなどそれができない場合には “TeX” と表記する(“TEX”や“Tex”と表記するのは誤り)。 読み方. 英語のアルファベット (エックス、)として読むのではなく、ギリシア語風に無声軟口蓋摩擦音 (ドイツ語の ach-laut の )で /tex/ と発音するのが本来である。"book" では、そのように正しく発音するとコンピュータの端末(のCRTディスプレイ)が、呼気でちょっと曇る、と冗談が書かれている(CRTディスプレイが曇るという冗談はともかく、その発音が呼気を伴うものであるのは確か)。英語においては、多くの方言で音素 が存在せず代わりに が使われること、 に由来する が と読むことから と読まれる。ドイツ語では が前舌母音であることから ich-laut の発音になり、 である。日本ではどれもカタカナで表現するのが難しいため「テック」ないし「テフ」と書かれる。ドイツ語の をハ行で表現することもあるので間違いとは言い切れないものの、あえてローマ字で書くなら であり、日本語の「ファ行のフ」である無声両唇摩擦音 (ローマ字で )ではない。"book"の邦訳出版など、日本での普及に大きく関与したアスキーで、編集者だった鈴木嘉平によれば、アスキー社内では「テック」と読んでいたが、先輩編集者によれば(fuで発音する)「テフ」ではないとはっきり書いておかなかったのが原因で、日本には「テフ」が広まってしまった、という。 機能. はマークアップ言語のスタイルをとっている。すなわち、文章そのもの(テキスト)と文章の構造を指定する命令(コントロールシーケンス)が記述されたテキストファイルを読み込み、そこに書かれた命令により文章を組版し、組版結果を DVI 形式のファイルに書き出す。DVI 形式とは、装置に依存しない (device-independent) 中間形式のことである。処理系は多機能で、チューリング完全である。 DVIファイルには紙面のどの位置にどの文字を配置するかといった情報が書き込まれている。実際に紙に印刷したりディスプレイ上に表示したりするためには、DVI ファイルを解釈する別のソフトウェアが用いられる。DVI ファイルを扱うソフトウェアとして、各種のビューワや PostScript など他のページ記述言語へのトランスレータ、プリンタドライバなどが利用されている。 組版処理については、行分割およびページ分割位置の判別、ハイフネーション、リガチャ、およびカーニングなどを自動で処理でき、その自動処理の内容も種々のパラメータを変更することによりカスタマイズできる。数式組版についても、多くの機能が盛り込まれている。 が文字などを配置する分解能は (約 5.363 nm、4,736,286.72 dpi)である。 の扱う命令文の中には、組版に直接係わる命令文の他に、新しい命令文を定義するための命令文もある。こうした命令文はマクロと呼ばれ、 ユーザー独自の改良により、種々のマクロパッケージが配布されている。 比較的よく知られている 上のマクロパッケージには、クヌース自身による plain 、一般的な文書記述に優れた 、数学的文書用の などがある。一般の使用者は、 を直接使うよりも、 に何らかのマクロパッケージを読み込ませたものを使うことの方が多い。 の用途を拡張したマクロパッケージとして、他に次のようなものがある。 とそれに関連するプログラム、および のマクロパッケージなどは CTAN(Comprehensive TeX Archive Network、包括 アーカイブネットワーク)からダウンロードできる。 数式の表示例. たとえば -b\pm \sqrt{b^2 -4ac} \over 2a は以下のように表示される。 また、 f(a,b)=\int_a^b \frac{1+x}{a+x^2 +x^3} \, dx は以下のように表示される。 の日本語化. 日本語組版処理のできる日本語版の および には、アスキーによる および と、NTT の斉藤康己による NTTおよび磯崎秀樹による NTT などがある。 の日本語対応において技術的に最も大きな課題は、マルチバイト文字への対応である。(および前身の日本語 )は、JIS X 0208 を文字集合とした文字コード(ISO-2022-JP、EUC-JP、および Shift_JIS)を直接扱う。DVI フォーマットは元々16ビット以上の文字コードを格納できる仕様が含まれていた。しかしオリジナルの英語版では使われていなかったため、既存プログラムの多くは が出力する DVI ファイルを処理できない。またフォントに関係するファイルフォーマットが拡張されている。これに対して NTT は、複数の1バイト文字セットに分割することで対応している。たとえば、ひらがなとカタカナは内部的には別々の1バイト文字セットとして扱われる。このためにオリジナルの英語版からの変更が小さく、移植も比較的容易である。ファイルフォーマットが同じなので英語版のプログラムで DVI ファイル等を処理することもできる。しかし後述するフォントのマッピングの問題があるため、実際には多くの使用者が NTT 用に拡張されたプログラムを使っている。 使用する日本語用フォントについては が写研フォントの使用を、NTT が大日本印刷フォントの使用を前提としており、それぞれフォントメトリック情報(フォントの文字寸法の情報)をバンドルして配布している。しかし有償であるこれらのフォントのグリフ情報を持っていなくても、画面表示や印刷の際に使用者が利用できる他の日本語用フォントで代用することができる。つまり写研フォントや大日本印刷フォントのフォントメトリック情報を用いて文字の位置を固定し、画面表示や個人ユースの安価なプリンタによるプレビュー印刷には他の日本語用フォントを用い、業者などによる最終的な出力では商用フォントを使用して目的の仕上がりを得る、といったことも可能である。このため日本語化された TeX 関係プログラムのほとんどは、画面表示や印刷で実際に使うフォントを選択できるように、フォントのマッピング(対応付け)を定義する機能を持っている。 歴史的には、アスキーが日本語 の PC-9800 シリーズ対応版を販売したために個人の使用者を中心に普及した。一方、NTT は元の英語版プログラムからの変更が比較的小さいという利点を受けて、Unix系OSを使う大学や研究機関の関係者を中心に普及した。 しかし現在では次に挙げる理由から、日本語対応 として が使われていることが多い。 による組版の作業工程. による組版の作業工程は、通常次のようになる。 この間、作業工程が変わるたびにそれぞれのプログラムを切り替えたり、扱う文書が大きいと章ごとにソースファイルを分割して管理したりと、比較的煩雑な作業を伴う。そのため、この工程に係わる各種のプログラムやソースファイルの管理を一元的に行う 用の統合環境(TeXworks や TeXShop など)がいくつか作成されている。 GUI 環境と. GUI は PC の普及に一役買ったが、それとともに などのコマンドラインインタプリタに不慣れな PC 利用者が増加した。そのために、GUI に特化した 用統合環境が LyX などいくつか作成されている。 コミュニティ. 有名な コミュニティの一つは Users Group (TUG) であり、' や ' (TPJ) を出版している。 はドイツの大きなユーザーグループである。tex.stackexchange.com は ユーザーのための質問・回答サイトである。 ユーザの集いは、日本で2009年以降毎年開かれている の研究集会であり、 や組版・出版など関する知見の共有や、 ユーザーの相互交流を目的としている。ただし2013年は、TUG 2013 が東京で開催され、 ユーザの集いは開催されなかった。
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暗号
暗号(あんごう)とは、セキュア通信の手法の種類で、第三者が通信文を見ても特別な知識なしでは読めないように変換する、というような手法をおおまかには指す。いわゆる「通信」(telecommunications)に限らず、記録媒体への保存などにも適用できる。 概要. 秘匿通信を行う上で最も単純な方法は「木を隠すなら森」という諺のごとく、通信文そのものの所在を隠してしまうことである。歴史上実際に行われたものとしては、通信文を丸めて飲み込んだり、ベルトの内側に書き普通の被服のように身につけたり、新聞の文字に印(文字横に穴を開ける等)をつけて文章を作る、頭を剃りあげて頭皮に通信文を刺青し、再び頭髪が生えそろうことで隠す、などもあったようである。「暗号らしい手法」としては「ステガノグラフィー」といい、「それとはわからないような形で」記録する、というものである。画像などに情報を埋め込む「電子透かし」にも同じ技術を利用するが、電子透かしではその画像の著作権情報などといった関係のある情報を埋め込むのが目的であるのに対し、ステガノグラフィーは全く無関係な情報を秘密のうちに紛れ込ませる、という点が異なる。またいわゆる縦読みなども一見して普通の文章の中に見えるためステガノグラフィーの一種と言えなくもない。 広義では以上のような方法も暗号に含まれるし暗号学が探求する対象であるが、狭義では、その見た目が「なんだかわからない」という、難読であると明確なものを指して特に暗号に分類する(なお、暗号化された通信文(暗号文)については理論上、他からの「それが暗号である」という情報が無ければ、ただのデタラメと全く区別が不可能であるのが理想である)。 狭義の暗号は、古典的には主要な分類に、以下の2つがある。 通信文内の、単語やフレーズといったある程度意味のある塊の単位で、あらかじめ取り決めてある記号と交換する。 通信文に対し、意味とは関係なく、文字毎の(最小の)単位で、あらかじめ取り決めてある置換や転置を掛ける。 「コード」は一般に、軍の運用に必要なものなど、ある程度の(あるいは膨大な)語彙について秘密の記号群を決めておくものであるが、「討ち入り」「開戦」などといった特定の重要な件のみについて、「○◇△といえば、~のこと」等と事前に取り決めておくことで秘匿することも行われた。個人間で行うものから組合やギルド等の特定のグループ内で行うものがある。事前の取り決めではなく、特定の人達だけが知る事項などを元に、意味は同じままで、言い方を変えることで秘匿することもある。秘匿したい特定の単語だけ置き換えることも、コードブックと呼ばれる辞書を作成して全ての単語を置き換えることもあり、歴史的な例としては、前者は「スコットランド女王メアリーの暗号」、後者は「ルイ14世の大暗号」や「ナポレオンの小暗号」などが知られている。 「サイファー」は、機械化以前は一般に作業手数が大きいといった欠点があったが、機械化以後はサイファーが主流の暗号である。機械化に次いで、暗号のコンピュータ化(あるいは、コンピュータの暗号化)の時代となったが、それらの暗号も、だいたいサイファーに分類するのが妥当であろう。 また以上のようなセキュア通信のための狭義の暗号に限らず、相手の身元を確認する認証や改竄の検出、貨幣の偽造防止技術、電子署名、認証、ハッシュ関数、電子マネーその他、情報セキュリティの多くの局面で、暗号はキーテクノロジとなっている。 なお、暗号化の逆の操作を表す語は「復号()」であり、本来符号化に対するそれ()同様「~化」とはしないが、「復号化」という誤用はかなり広く定着している。 種類. まず、古典的な暗号と現代的な暗号を分けるものとして、ケルクホフスの原理がある。現代的な暗号理論よりも前の時代には、暗号の「方式」と「鍵」の識別は明瞭ではなかったし、そのどちらも秘匿されねばならぬものであった。すなわち攻撃側の視点からは、方式がわかってしまえば、それによって、鍵を得ることも容易になってしまうのであった。現代の暗号は、秘密は鍵に集中しており、その方式はむしろ公知のものであったほうが、その強度なども広く研究されているために、むしろ安全である。 鍵を使わない方法は、一度敵に知られた方法は二度と使えない、暗号の信頼性を客観的に評価することができないなどの問題がある。例えば単純なシーザー暗号は、方式自体がバレないようにしなければ安全性が保てないほど脆弱であるし、ある程度の量の暗号文があれば何百年以上も前からある頻度分析という手法によって方式自体もバレてしまう。それに対し鍵を使う方法は、アルゴリズム自体を敵に知られても構わない方式を目標としており、一度考案した方式は鍵を変えることで何度でも使える、アルゴリズムを広く公開することで信頼性を十分に検討できる、などの多くの利点がある。 近代以降になると、このように「鍵さえ秘密にしていれば暗号化・復号の方法を公開しても安全が保てる」ことが暗号にとって望ましい性質であることが明確化された(ケルクホフスの原理)。 古典暗号の時代の「サイファー」の主要な2種類は、以下の二つである(暗号システムとしては、他にも多種多様なものが考案された)。 上の2つの分類は、現代暗号でもなんら変わるものではないが、現代的には次のような暗号の分類がある。このうち前者の共通鍵暗号は、分類としては古典暗号時代からなんら変わらぬ暗号の方式であって、「現代暗号の分類」とするのはむしろおかしいのだが、後者との対比としてしばしば挙げられるものである。後者の公開鍵暗号は、暗号をその時代の最新の数理で検討するようになった現代暗号ならではの暗号と言える。 近代以降、前述のように、秘密は鍵に集中すべきことから、暗号の問題は鍵の配送(共有)にあることが明確になった。暗号系を含む全体を通信システムとして検討したならば、そもそもそのような「鍵」をやりとりできるほどに安全な通信路があるならば、その通信路で本文も通信してしまえば良いからである。この問題には、公開鍵暗号方式の発明によって一応の決着が付いた。すなわち、公開鍵暗号であればその非対称なペアになっている鍵のうちの片方は秘密ではないため、配送の問題が生じないからである。ただし通常は計算量の理由から、公開鍵暗号を本文の暗号通信に直接使うことはせず、公開鍵暗号を利用した安全な鍵交換方式によって共通鍵を安全に交換し、その鍵によって共通鍵暗号通信をおこなう。 コードやサイファーのような記号による暗号ではなく、スクランブル(信号の切り混ぜ)といったアナログ技術による広義の暗号システムとしては、かつてアナログ電話の時代に盛んに研究されたものがある。秘話の記事を参照。 さらに、より「アナログ」な事例としては、少数民族の言語や方言などによる、相手側が仮に傍受しても瞭解が不可能な会話を利用したものがある。太平洋戦争での事例として、アメリカ側はナバホ語による通話を利用し(コードトーカー)、日本側は薩隅方言による通話を利用した。 具体的な暗号方式の一覧は、暗号理論を参照。 実装. 初期の古典暗号は、多くは紙と鉛筆のみで暗号化を行うが、多少の道具を用いるものもあった。暗号解読の進歩により単純な暗号では安全ではなくなると、複雑な処理を自動化するための機械が発明された。 用語. 暗号で用いられる用語。暗号理論も参照。
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坂本龍一
坂本 龍一 (さかもと りゅういち、Ryūichi Sakamoto、1952年〈昭和27年〉1月17日 - 2023年〈令和5年〉3月28日)は、日本の作曲家、編曲家、ピアニスト、俳優、音楽プロデューサー。東京都出身。 音楽性は幅広く、クラシック音楽が根幹にあり、民俗音楽、ポピュラー音楽(特にテクノポップ)にも造詣が深かった。1987年には日本人で唯一アカデミー作曲賞を受賞しており、映画音楽でも世界的に評価されている。愛称は「教授」。晩年は環境や憲法に関する運動にも積極的に参加していた。インターネットなどの新技術にも興味を示し、ライブや作品に取り入れていた。 概要. 幼いころから作曲を学び、未だ田舎だった世田谷区で小中学生時代を過ごし、地元ではある種のステータスであった東京都立新宿高等学校に合格する。高校時代は当時の日本のサブカルチャーの中心地であった新宿で様々な店に出入りして映画と音楽を中心とした文化的素養を身に着け、東京芸術大学在学中にスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始した。1970年代後半よりソロやKYLYNバンドのメンバーとして活動する一方、メンバーとして参加した音楽グループ「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」が国内外で商業的成功を収め、人気ミュージシャンとなった。同時に山下達郎や大貫妙子などの同世代の音楽家とも知り合い、共同作業を行った。 YMO時代にテクノポップやニュー・ウェイヴの分野で活動したことは広く知られているが、その後は一つのところに留まらず、現代音楽の手法を使った作品の発表、ロックとテクノの融合、ワールドミュージック、ヒップホップやR&Bなどのブラックミュージックを織り交ぜたポップス、オペラの作曲およびプロデュース、クラシックやボサノヴァのユニットを結成してのワールドツアー、晩年はアンビエントやエレクトロニカの作品を発表するなど、ジャンルを超越して多彩な作品を発表した。全ての作品に共通して、前衛的な印象を保ちつつ、大衆に受ける範囲からも逸脱しないという特徴があり、前衛と大衆の橋渡し役になっていた。 自身の音楽活動のほか、プロデューサーやアレンジャーとしても活動し、他のアーティストへの楽曲提供も数多く行っている。俳優として出演した大島渚の監督映画『戦場のメリークリスマス』で映画音楽も手掛け、日本人初の英国アカデミー賞 作曲賞を受賞した。1987年公開の『ラストエンペラー』では日本人初のアカデミー作曲賞を受賞し、同曲でゴールデングローブ賞 作曲賞、1989年第31回グラミー賞最優秀オリジナル映画音楽アルバム賞など世界的な音楽賞を総なめした。1990年、映画『シェルタリング・スカイ』のサウンドトラックを担当しロサンゼルス映画批評家協会賞の作曲賞、1991年にゴールデングローブ賞 作曲賞を受賞した。以降、国内外の映画音楽を手掛け、映画音楽家としての地位を築いた。 1990年代前半は打ち込み系ポップスの作品を多数リリースし、1995年11月30日には『三菱電機 スーパーセレクション 坂本龍一 TOUR '95 D&L with Daizaburo Harada』というライブを開催し、日本初のインターネット配信も行った。インターネット配信自体は既に1994年11月にローリング・ストーンズが行っていたが、インターネットの商業利用化が1995年に完了した直後という時代に、世界でも数例しか行われていない中での極めて先進的な試みであった。同時に、原田大三郎によるステージ上での映像のリアルタイムコントロールも、後のVJの先駆けであった。 1990年代後半はアコースティック作品を中心に制作し、その中でも1999年に三共『リゲインEB錠』のCM曲であった『energy flow』が癒し系楽曲として絶大な人気を得て、同曲を収録したウラBTTBがミリオンセラーを達成した。以降のスタジオ作品は2000年代を通して、アコースティック感のある脱構築的な作風に移行して行った(2009年の『Out of Noise』など)。同時に、スタジオ・アルバムのリリースは大きく減少した。 音楽家としての活動のほかに、いくつかの映画や映像作品には俳優としての出演歴がある。テレビCMにも多く出演しており、ときには、ダウンタウンなどとお笑い番組やバラエティ番組に出演することもあった。 近年は各メディアで環境問題や憲法をはじめとした諸問題に関する運動に積極的に参加・言及しており、2000年代半ばに話題になったPSE問題においても、坂本が中心人物として反対運動を行った。「エコ」や「ロハス」といったキーワードを口にすることが多く、マクロビオティックの実践者でもある。2008年6月5日の「世界環境デー」には、CD製造時の二酸化炭素排出への対策としてcommmonsレーベルから新たに発売する全てのCDをカーボンオフセット対応とすることも発表した(最新作まで継続中)。長年喫煙者であったが、針治療を通じて禁煙に成功した。一時期はベジタリアンでもあったが、これは「人としての闘争本能がなくなりそうだから」という理由で後に挫折している。2008年の9月には作家村上龍との対談で、現代の「夢があるということは素晴らしい、だから君も夢を持て」という風潮に疑問を抱いている発言をしている。 無類の猫好きである。一人っ子だった坂本が生まれたときから15歳の時まで一緒に住んでいた猫と兄弟のように生活していたことが影響している。若い頃は自分の見た目に無頓着で、アルバム「千のナイフ」のジャケット写真を見た当時の音楽仲間が「あの汚い坂本が」と驚愕したほどだった。このような坂本がファッションセンスを得るに至ったのは、高橋幸宏の指導によるものである。 坂本は手塚治虫の漫画が好きだと公言しており、特にお気に入りの作品は『火の鳥』と『ブッダ』だという。手塚漫画の女性や動物は滑らかな曲線で描かれており、そこに音楽性と美しさを感じると度々語っている。坂本は手塚るみ子プロデュースの「手塚治虫 その愛した音楽」というCD(内容は手塚が漫画の執筆中に聴いていた音楽を収録したもの)の仕事もしている。手塚プロダクションの「さよならティラノ」というアニメの音楽も担当している。 「教授」「世界のサカモト」とあだ名される。左利き。血液型はB型。 来歴. 生い立ち. 1952年、東京都中野区に生まれた。父は河出書房の編集者で、三島由紀夫や野間宏、中上健次、高橋和巳などを担当した坂本一亀。母・敬子は実業家・下村彌一の娘にあたり、帽子デザイナーで銀座の宝石商に勤務。 通っていた幼稚園が「全員ピアノを習う」所であったため、3歳からピアノを習い始める。自由学園幼児生活団に準じた世田谷幼児生活団において作った「うさぎのうた」が最初の作曲。 6歳ごろまで住んでいた中野の家には、ピアノやレコードプレーヤーがなかった。近所に住む祖父の家には、当時まだ学生だった叔父のピアノがあり、その上にレコードプレイヤーがあった。ピアノによじ上ってレコードを聴いたのが、坂本の最初の音楽の記憶である。 10歳で東京芸術大学教授の松本民之助に師事し作曲を学び始める。なお、作曲を勉強し始めて最初に興味を持った作曲家はストラヴィンスキーであった。この頃は特にピアノが好きではなく、むしろ苦痛だったという。14歳の頃、ドビュッシーの音楽と出会い、そこから多大な影響を受けた。自分はドビュッシーの生まれ変わりに違いないと半分信じて、サインの練習まで始めた。人生で最も影響を受けた音楽家は、ドビュッシーとバッハである。 小学2年の時に、東京都世田谷区給田(千歳烏山)に転居。世田谷区立祖師谷小学校から世田谷区立千歳中学校を経て、1970年に東京都立新宿高等学校を卒業。同級生には塩崎恭久、馬場憲治、那須恵理子、野中直子がいる。千歳中学校ではバスケットボール部に所属した。新宿高校時代には読書が趣味で、常に学校図書館の貸出ランキング10位以内に入っていた。風月堂などにたむろするフーテンたちに影響を受け、ジャズを聞くようになり、自分でも演奏するようになった。ロックも好きであったが、フォークは大嫌いであった。学生運動にものめり込み、塩崎や馬場はこの時の闘争仲間でもある。 1970年東京芸術大学入学。大学在学中、民族音楽学研究の泰斗小泉文夫の講義を受け、その内容の深さに坂本はそれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられるような大きな衝撃を受けたという。さまざまに変遷してきたと見られる坂本の作風であるが、そのベースには、小泉から学び得た民族音楽学の知識や思想が確かにあるようである。ただし小泉自身は作曲をしなかったので、坂本に作曲技法上の影響を与えたというわけではなかった。坂本は、大学在学中、一年ほど作曲家三善晃にも学んでいる(ただし一度直接指導を受けただけ、と坂本は発言している。しかも、三善から「理論的すぎる」の如き指摘を受けたとも)。さらには、渋谷で開かれていた高橋悠治の勉強会にも高校・大学を通して顔を出していた。坂本が電子音楽に出会ったのは大学学部在学中のことである。 学生時代には教職課程も履修しており、母校へ音楽教員になるための教育実習に行ったこともあったが、生来の気質から学校組織の一員として務めることには向いていないと早々に諦めている。 1974年東京芸術大学の音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音楽研究科修士課程に進む。1977年修了。修士論文は「坂本龍一 Year Book 1971-1979」のDISC 2にも収録されている管弦楽作品「反復と旋」。 デビュー. 1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。翌1976年、竹田賢一と「学習団」を組織し、竹田のプロデュースの下、はじめてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』(土取利行とのコラボレーション)を発表。以降、りりィのバックバンド(バイバイセッションバンド)に所属した後、当時のりりィのマネージャー(現:株式会社365代表)が細野晴臣のマネージャーに坂本を紹介、YMO結成の足がかりとなる。初期の山下達郎の楽曲(「2000トンの雨」「パレード」など)、大瀧詠一、山下達郎、伊藤銀次のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』などにキーボードとして参加。大貫妙子のLP『SUNSHOWER』『MIGNONNE』『ROMANTIQUE』などにアレンジャー、プロデューサーとして参加。 1978年2月、細野晴臣のアルバム『はらいそ』に参加。細野の誘いにより、高橋幸宏とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO) を結成、活動を開始する。10月、坂本初のソロアルバム『千のナイフ』をリリースし、ソロ・デビューも果たす。11月、YMO名義の『イエロー・マジック・オーケストラ』を発売、続く『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』で爆発的人気を博す。この年、風の旅団の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加した。翌1979年にはYMOと並行する形で渡辺香津美、矢野顕子、小原礼、村上秀一、本多俊之らとセッションユニットKYLYNや、ほぼ同じメンバーで、各パート二人ずつで演奏技術を競わせるというコンセプトのカクトウギセッションでの活動を行う。一部の楽曲で第二ピアノを演奏した高橋悠治のLP『新ウィーン楽派ピアノ音楽集成』が発表された(後に『新ウィーン楽派ピアノ作品集』としてCD化。参加楽曲シェーンベルク「四手のための六つの小品」は坂本のアルバム『フェイヴァリット・ヴィジョンズ』にも収録されている)。同年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施。 1979年12月、アレンジを手掛けたサーカスのシングル「アメリカン・フィーリング」で、日本レコード大賞編曲賞を受賞する。 YMOのライブを期待していた観客から野次られると「うるさいぞ、この野郎!」と怒鳴り返した等のエピソードもある。この頃、立花ハジメ、沢村満、鈴木さえ子らと「B-2UNITS」という名前のユニットを結成、ライブ活動を散発的に行っている。1982年には、RCサクセションの忌野清志郎と組んでシングル『い・け・な・いルージュマジック』をリリース。資生堂'82春のキャンペーンソングとしてヒットする。TVでは、どぎつい化粧をした男同士でキスをするなど、過激なパフォーマンスを展開した。この年、矢野顕子と結婚。 YMOとしての活動の傍ら、1981年よりNHK-FMにて「サウンドストリート」のパーソナリティを務める。担当していた火曜日ではアマチュアミュージシャンから送られるテープを番組内で放送する「デモテープ特集」が不定期に行われていた。パンクバンドTACO(タコ)のオムニバスにはな・い・し・ょのエンペラーマジックで参加。同曲をサウンドストリートで放送したが、放送禁止用語が含まれていたためにすぐにオンエア中止になった。メジャーシーンの活動と並行して、TACO以外にもアンダーグラウンドロックシーンとは交流があり、自主レーベルである、パス・レコードでフリクション、Phewのプロデュースを行っている。 1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』には、大島渚監督の依頼により、ヨノイ大尉役で出演し、デヴィッド・ボウイ、ビートたけしと共演。出演の条件として音楽を担当した。同作は第36回カンヌ国際映画祭に出品され、結果は無冠だったものの、坂本の音楽は高く評価され、英国アカデミー賞 作曲賞を日本人として初めて受賞した。同作品のサウンドトラックからシングルカットされたデヴィッド・シルヴィアンとのシングル「Forbidden Colours(禁じられた色彩)」は、全英チャート(Music Week)16位を記録した。同年、YMOは「散開」(解散)する。 YMO解散後. 1984年、矢野顕子らと「MIDIレコード」を設立し、同レコード内にレーベル「school」を立ち上げる。1986年には初のソロ・コンサート「メディア・バーン」を全国24カ所(28公演)で行う。ツアー終了後、YMO以来所属していた「ヨロシタ・ミュージック」から独立し個人事務所「トラフィコ」を設立。 翌1987年、映画『ラストエンペラー』公開。坂本は甘粕正彦満映理事長役で俳優として出演し、音楽をデイヴィッド・バーン、蘇聡とともに担当。これによりグラミー賞 映画・テレビサウンドトラック部門、ゴールデングローブ賞 作曲賞、アカデミー作曲賞等を日本人として初めて受賞し、以後、映画音楽作家としての地位を確立する。溥儀役のジョン・ローンとは、敵役同士という間柄の役作りのために、撮影中は一言も口を利かなかったという。 1989年、都民文化栄誉章を受章。海外戦略のためヴァージン・レコードに移籍するが、セールス的な成功を収めることはなかった。後にEMIのヴァージン・レコード買収により契約を主導したヴァージン・アメリカの社長の辞任に伴って契約を解消。 1990年4月からは、音楽の拠点をニューヨークに移す。別の女性と暮らし始め、男児をもうける。これが原因で、矢野顕子と翌年に別居したと報じられた。 1992年にはバルセロナオリンピック開会式のマスゲームの音楽を作曲(坂本のスケッチに基づく管弦楽編曲は作曲家の鈴木行一が担当)、自らも会場でオーケストラを指揮した。この依頼の当初「ナショナリズムを高揚させるスポーツイベントは嫌い」と一度は断ったが、プロデューサーPepo Solなど制作側から熱心なオファーがあり最終的には引き受けることになる。契約金は他の出演者とともに1ドルであった。このときの楽曲は後に「El Mar Mediterrani」として発表された。 1993年、YMO「再生」(再結成)。アルバム『テクノドン』を発表し、6月には東京ドームにて2日間のライブを行う。 1994年には契約地域を分割し、日本ではフォーライフ・レコードに移籍し、レーベル「güt(グート)」を設立。日本国内での活動を活発にした。日本以外の海外地域ではエレクトラと契約。個人レーベル「グート」の第一弾作品・アルバム『スウィート・リヴェンジ』を6月に発売する。 1995年、ダウンタウンの変名音楽ユニット「GEISHA GIRLS」に富家哲、テイ・トウワらと参加。以降、彼らとの親交を深め「ダウンタウンのごっつええ感じ」ではコント「アホアホマン」に出演、大便のシミを付けたパンツで登場するなどアホアホブラザー役でエキセントリックな一面を見せた。 ワーナーへの移籍. 1998年、エレクトラとの契約を解消し海外地域ではSONY CLASSICALと契約、日本ではワーナーミュージック・ジャパンに移籍。 1999年、製薬会社三共(現:第一三共ヘルスケア)リゲインのCMに用いられたピアノソロ曲「エナジー・フロー」を収録したマキシシングル「ウラBTTB」がミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルとしては初のオリコンチャート1位を記録した。自身初となるオペラ『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』(以下、LIFE)を公演。この頃には矢野顕子との夫婦仲は実質的に破綻していたとされ、テレビ番組「おしゃれカンケイ」において愛人(ニューヨークで行動を共にしているマネージャー)とその女性との間にいる子供(次男)の存在を認め、長男(矢野の連れ子)と坂本美雨に「お父さんにはお母さん(矢野顕子)以外に好きな人がいる」と告げたというエピソードも披露している。「子供は4人」と語り、矢野顕子との結婚前に学生結婚していた女性との間にも子供(長女)がいることも明かしている。さらに同番組では、「外国人が持つ日本コンプレックスをくすぐる、嫌いなアーティスト」として喜多郎とCHAGE and ASKAを名前を伏せた形で挙げた。 2001年、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」に出演。同番組の企画において、親交のある国内外のアーティスト達を起用し、地雷除去のためのチャリティーソング「ZERO LANDMINE」を作曲、リリースした。同年にはボサノヴァトリオ「Morelenbaum2/Sakamoto」を結成し、アルバム『Casa』を発表。このトリオとしての活動、および坂本がこれまで自身の音楽にボサノヴァを取り入れてきたことなどが評価され、翌2002年、日本とブラジルの友好に寄与したとして、ブラジル政府より「カヴァレイロ位」を授与される。 2003年には、この年4月にオープンした六本木ヒルズのテーマソング「the land song-music for Artelligent City」を発表。小林武史、桜井和寿らと非営利組織「ap bank」を設立。 2006年11月6日、エイベックスと新レーベル「commmons」を共同設立。この年、矢野顕子と離婚。 2007年3月10日-5月28日、高谷史郎と共に、オペラ「LIFE」をベースにしたインスタレーション作品「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」を山口情報芸術センターにて展示。3月10日にはオープニング・コンサートを行った。9月15日-11月4日、東京のNTTインターコミュニケーション・センターでも展示。9月15日には、浅田彰、中沢新一を交えてのアーティスト・トークに加え、オープニング・コンサートを行った。この年は細野晴臣と高橋幸宏との活動が活発になる。2月にキリンラガービールのCMにYMOとして出演。同時に「RYDEEN 79/07」をリリース。5月19日には「ヒューマン・オーディオ・スポンジ」(HAS)としてチャリティーライブを行う。さらに7月7日には「ライブ・アース」にYMOとして出演。8月22日には「HASYMO(ハシモ)」名義で新曲「RESCUE」をリリース。 2009年7月16日、芸術家として文化の多様性を豊かにしたことなどが評価され、フランス政府から芸術文化勲章「オフィシエ」を授与された。 2010年3月12日、芸術分野での優れた業績を評価され、文化庁より芸術選奨「大衆芸能部門」の文部科学大臣賞を授与された。 2012年、東日本大震災における原発事故の後の脱原発に向けたデモ活動に対してニューヨークから駆け付けて参加する中で、「たかが電気のために命を危険に晒してはいけない」と発言して物議を醸す。その後、自身も呼びかけ人を務める「『さようなら原発』一千万人署名市民の会」から「音楽のイベントができないか」という相談を受けたため、脱原発をテーマにしたロック・フェスティバルである「NO NUKES」を企画してシリーズ化し、2019年までほぼ毎年開催した。 2012年11月23日、アジア太平洋映画賞国際映画製作者連盟賞を受賞。 2013年2月8日、米カリフォルニア大バークレー校日本研究センターから「バークレー日本賞」を授与された。オリエンタリズムを感じさせる作風と初期の作品に見られた現代音楽の手法を用いた斬新さ、独特の風貌と知的な発言が固有の存在感を生み、多くのファンを獲得。これまでに映画やCMにも多数出演している。同年、「第70回ヴェネツィア国際映画祭」のコンペティションの審査員を務める。 2014年、札幌国際芸術祭のゲストディレクターに就任。 闘病. 2014年7月10日、所属事務所エイベックス・ミュージック・クリエイティヴから中咽頭癌であること、療養に専念するためにコンサート活動などを中止する旨が発表された。かつてはインタビューなどで度々自身の健康状態や体力に自信を表しており、コンサート等公演スケジュールを自身の健康に起因する理由でキャンセルしたことがなかった。 2015年8月2日、映画『母と暮せば』(監督・山田洋次、主演・吉永小百合、2015年12月12日公開)の音楽で仕事復帰。本作で第70回毎日映画コンクール・音楽賞を受賞。 2016年、第25回モンブラン国際文化賞を受賞。 2017年11月4日、自身のドキュメンタリー映画、『Ryuichi Sakamoto: CODA』が公開される。スティーブン・ノムラ・シブル監督によるもので、第74回ヴェネツィア国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門正式出品作品になった。 2018年、1月27日自身のライヴの様子を収録した映画「坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK: async」を公開。2月15日開催の「第68回ベルリン国際映画祭」で、コンペティション部門の審査員6名に選ばれる。 2021年1月21日、2020年6月にニューヨークにてがんの診断を受け、直腸がんおよび転移巣の手術を受けたことを公式サイトで発表した。手術は20時間にも及び、発表後も転移した肺の摘出手術など6度に渡る手術が行われた。音楽活動再開に向けて入院治療に専念しつつ、『新潮』2022年7月号より「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の連載を開始した。 2022年3月26日、東京・サントリーホールで行われた東北復興支援プロジェクト『東北ユースオーケストラ演奏会2022』に登場。『東北ユースオーケストラ』は、東日本大震災を体験した小学生から大学生までの若者で構成され2016年から2019年までに公演を定期的に行っていたが、2020年以降はコロナ禍のためコンサートは中止になっていたため、坂本とともに3年ぶりの公演であり、最後の公の場での生演奏であった。坂本は新曲『いま時間が傾いて』を初演。坂本がピアノ演奏を行う中で吉永小百合による詩の朗読も行われた。 2022年6月、がんの「ステージ4」であり、両肺に転移したがん摘出手術を昨年10、12月に受けたことなどを明かした。同年12月11日に配信されたピアノのソロコンサートが、最後の公の場になった。同年9月中旬に事前収録したもので、体力面を考慮し1日数曲ずつ演奏し、数日かけてコンサートに仕立てたものであった。 死去. 2023年3月28日、東京都内の病院で死去した。。訃報は同年4月1日午前、共同通信の配信記事で明らかになった。また、4月2日夜、本人の公式Twitterおよび所属事務所によるリリースで公表された。所属事務所によれば「がんの治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、最期まで音楽と共にある日々でした」としており、既に葬儀は近親者で執り行われている。所属事務所のコメントは、坂本が好んだ一節「Ars longa, vita brevis 芸術は長く、人生は短し」で締められた。公式Instagramアカウントでは、生没年月日と朽ちて壊れたピアノと暗闇が繰り返しフェードインする動画がトップに固定されて投稿された。 苦しい闘病の中でも、亡くなる2日前の3月26日には自身が代表・監督を務める「東北ユースオーケストラ」の演奏会をオンラインで視聴し、終演後に出演者に向けて「Superb! Bravissimo(拍手×5)素晴らしかった!! よかったです。みんなありがとう(拍手×3)お疲れ様でした♪」とのメッセージを送っていた。同年3月29日に配信された共同通信の書面インタビューでは「音楽制作も難しいほど気力・体力ともに減衰しています。残念ながら手紙を送る以上の発信や行動は難しい」と現状を明かしていたが、この記事が配信された時点で既に死去していた。 「世界のサカモト」と呼ばれた坂本の訃報は、イギリス・BBC、アメリカ・CNN、フランス・AFP通信、韓国・聯合ニュース、中国のネットメディアなどで速報で伝えられた。また、世界中の著名人のWebサイトやSNSアカウントで追悼文が公開された。 2023年4月2日、活動限界を迎える直前までコンピューターで制作し続けた「神山まるごと高専」の校歌が、未完成ながらも入学者や出席者に対して披露された。生前、坂本自身も未完成の作品の発表をためらっていたが「新入生を祝福するため」として了承していた。この校歌が生前最後の作曲となった。校歌は、関係者と相談した上で編曲を行い完成させる予定とした。 2023年4月3日1時29分、たった2ヵ月の間にYMOで唯一の存命者となった細野晴臣は、高橋幸宏が亡くなった時に坂本龍一が行った追悼の方法と同じく、SNSで無地の灰色の画像を投稿して追悼した。 2023年4月14日、新宿ミラノ座の跡地に坂本龍一監修の109シネマズプレミアム新宿が開業した。館内BGMは3曲が坂本龍一作曲で、全シアターには坂本が認めた最高の音響設備のみを採用した「SAION -SR EDITION-」が導入され、一部シアターには坂本の希望で稀少な35mmフィルム映写機も導入されている。坂本にとって新宿は思い出深い地であり、1960年代後半の東京都立新宿高等学校在学中に好んで新宿中の映画館で上映作品の傾向を調べて映画を鑑賞するほどの映画マニアで、他にも「事前に調べた新宿のジャズ喫茶約30軒を1ヶ月かけて全部廻る」などして後の活動の基盤となる文化的素養を得ていたが、新宿の文化的発展を願い自身が監修した映画館に行くことは出来なかった。 同年5月17日、音楽(新曲2曲、既成曲5曲)を担当した日本映画『怪物』が第76回カンヌ国際映画祭で上映される。同作品は脚本賞とクィア・パルム賞を受賞した。 人物. 音楽活動. 坂本のピアノ曲集『Avec Piano』に寄せられた解説文の中で音楽評論家の秋山邦晴は「なかなかピアノも巧い」と評している。デビュー作『千のナイフ』では現代音楽家の高橋悠治との連弾を行っている。加藤登紀子が坂本のピアノの演奏技術に感嘆し、それを本人に伝えた際に坂本は「18歳の頃の僕はもっとすごかった」と答えたという。フランツ・リストの難曲ラ・カンパネラを藝大入学以前に、初見で弾きこなしたとも坂本本人は発言している。 音楽を担当した映画『ラストエンペラー』においてアカデミー作曲賞を受賞した際には、写真週刊誌フライデーにおいて「この賞を受賞したことよりもこれから仕事を選べるという点のみで今回の受賞は悦ばしい」と発言。活動の拠点をアメリカに移したのも「日本という小さなマーケットでCDを100万枚売るよりも、世界の10カ国からそれぞれ10万枚ずつCDを売るほうが作品のクオリティーを落とさないで済む」と雑誌『GOETHE』(幻冬舎)で述べている。 現代音楽への進出は、原田力男の推薦にもかかわらず成功しなかった。現代音楽界を狭い世界と捉え、その中で活動することを嫌ったとの本人コメントがある。社会的成功を確実にした後、神奈川県内のクラシック音楽専用のホールで個展を行い、芸大在学中に作曲した曲を中心に数作品が高橋アキ等によって演奏された。YMO散開後の1984年、『題名のない音楽会』(テレビ朝日)においてオーケストラ曲「反復と旋」が一部割愛ながらも世界初演される。この作品は芸大大学院の修士論文として提出された作品で、未発表のまま芸大に保管されていた。 学生時代にヤニス・クセナキスの作曲法を取り入れようとしたが、数学が苦手なために挫折した。太田出版から出された『坂本龍一・音楽史』に、その試行の膨大なメモが掲載されている。 坂本は国内のアンダーグラウンドシーンにも接近した。ニューヨーク帰りの東京のパンクバンドフリクションのファーストアルバムをプロデュース、関西の女性パンクボーカリストPhewのソロデビューシングルでのコラボレーション、山崎春美の音楽プロジェクトTACOへの参加などが挙げられる。しかし、TACOでの過激な楽曲提供はともかく、フリクションのアルバムはメンバー・ファン共に「ライブでの緊張感・硬質感が再現されていない」と不評を買い、Phewも「(坂本は)仕事は速いがセンスは悪い」と評判は芳しくない。 国外ではNO NEW YORKで一際存在感を放っていたアート・リンゼイとの親交が有名である。DNAの頃のアートと初めて出会ったときは一方的に敵意を向けられて満足に言葉を交わすことができなかったが、その後坂本が自身のソロアルバムへの参加をオファーした際に快諾し、以後現在まで坂本の活動に欠かせない人物となった。 J-WAVEで2004年に放送された番組『ゆく都市くる都市・新春放談』では、細野晴臣、高橋幸宏との対談で、リズム隊出身の両者に対し、坂本自身はリズムトラックの構成にコンプレックスがあると告白した。対して細野は「教授の作品を聴いて特にリズムが弱いと思ったことは無かった」と語り、少々意外な発言だったようである。 コンサートではほとんど年齢制限を設けたことがなく「0歳児でも入場可」をポリシーとしている。しかし2007年5月12日「坂本龍一プロデュース公演/ロハスクラシック・コンサート2007」の会場となったbunkamuraオーチャードホールでは、子供の泣き声が数か所から上がり、第二部開演前に坂本から「0歳児でもOKというのをポリシーにしていますが、純粋に音楽を楽しみに来ている方もおられるでしょうから、常識的なところで、例えばロビーへ行ってあやすなど臨機応変に対応をしてください」と照れながらのアナウンスがあった。 過去にアニメ監督の高畑勲監督から音楽を頼まれたことがあったが、作った音楽があまりにも暗すぎ、解雇されてしまった。 歌はうまくないと自認している。『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)に出演した際、「君に、胸キュン。」を歌ったら浜田雅功にツッコまれてしまったほどである。坂本自身がボーカルを執った楽曲は極めて少ないが『左うでの夢』『ビューティ』『SMOOCHY』のように、あえて坂本のボーカルを前面に押し出して製作されたアルバムもある。「歌はうまさじゃなく声色、ヘタでも自己表現としては音楽の中で最高のもの」という自身の発言がある。 幅広い音楽ジャンルを分析し、自身の作品に反映しているが、カントリー・ミュージックとハワイアンだけはなじめないと発言していたが、近年どちらも聴けるようになりハワイアンに関しては「現地に行った際に大好きになった」とのこと。 「今夜はブギー・バック」リリース当時「ハマった」と言ってミュージシャン小沢健二と対談もしている。ZERO-LANDMINE企画時には日本のビジュアル系と称されるアーティストたちとも共演したり、YMOチルドレンのLUNA SEAのSUGIZOのソロ・アルバムにピアノで参加したこともある。クラシックからダウンタウンのプロデュースに至るまで、いずれもジャンルの垣根を越え音楽を聴き、解析し、プロデュースすることのできる自身の才能について「自分は音楽の鉄人だと思う。(発表されている作品には)いろいろなスタイルの音楽がありますが、全部僕のものですから、安心して下さい」と発言している。 若い頃は古典芸能や工芸などの日本の古典的文化を「戦前のナショナリズムの象徴」として否定的に考えていたが、海外移住や年齢を重ねたこともあって、近年はそれらに対しての関心が強くなり、そうした日本の古典的文化を積極的に学ぶようになったという。 思想・社会活動. 政治思想に関しての発言や、社会運動家としての活動も多い。新宿高校時代には学生運動に関わり、塩崎恭久と馬場憲治の3人でバリケード封鎖を決行した。大学時代には武満徹を批判するビラを配ったこともあった。これについて坂本は、当時の自分は生意気で、それに対し武満はエスタブリッシュされた作曲家であり、その日本的な情緒が目障りだったからと、武満の没後に語っている。また、鈴木邦男との対談では、「若い頃は日本の楽器とかが嫌でそれを使っていた武満さんに反抗心を抱いてしまった」とも語っている。批判された武満は、逆に坂本に「このビラ撒いたの君?」と語ったという。このことは、同じく鈴木邦男との対談では、30分くらい話し合ったと語り、のちに坂本が何人かでコンサートをやった後、偶然バーで武満と会った時には武満から「ビラのときの子ね。君、いい耳持ってるね。」と言われ、うれしかったという。武満はそのコンサートの観客の中の1人であり、その後は名前を覚えてもらったという。武満はその後、坂本が作曲した「戦場のメリークリスマス」を、高く評価している。さらに坂本によるとニューヨークでも会ったことがあり喫茶店で「いつか一緒に仕事しましょう」と約束したという。坂本は武満の没後、武満が晩年完成を目指していたオペラからインスパイアされた曲「Opus」を作曲する(アルバム『BTTB』所収)。さらには自作のオペラ『LIFE』を完成させるなど、武満のことを意識している。概して、若い頃は退廃的な考えを持っていたようだが、野口晴哉の著書『風邪の効用』やオペラ『LIFE』の製作のための取材等の影響で、健康的、生命的な考えへと変わっていった。作家や思想家など知識人との交流も深く、作品に影響が及ぶこともしばしばである(#関連項目・人物参照)。 東京藝術大学の1年生の頃の1970年11月25日、三島由紀夫が割腹自殺を遂げたことを知った坂本は、遺体が移された市谷近くの牛込警察署に押し掛けた。坂本によると「作家としての三島をとても尊敬していた。彼は右翼、僕は過激な左翼でしたが、右も左も過激になると似て来るところがあるのでしょうか。」という。 小室哲哉とは「クリエイティブな少数派に向けた作風」を追求する坂本と「メジャーでスターになるための方法論」を追求する小室、インターネットでのファンに対するアプローチの方針の違いからして、小室曰く「お互い中和しない関係」と称しつつも、「何をどうするかが絶対に違うけど、無いものねだりながらもお互いに無いものを求めている」「誤解されるのを承知で言えばホモセクシャルな感覚を持っていて会うと安心できる」と話している。反面小室は「芸術家であり、その方面では未だに何一つ彼との差は縮まっていない」と賛美と嫉妬を込めた発言をしていて、坂本もいち早くダウンタウンを音楽への道に引き入れる小室の発想力とバイタリティに「横取りしやがって…」と反発心を覚えていた。 1997年ごろから日本における音楽著作権の取り扱いについて、JASRACが独占して管理すること、および権利の信託が包括的にしか行えないことに対してこれを改めるようJASRACおよび文化庁に対して働きかけを行った。MAA(メディア・アーティスト・アソシエイション)設立。1999年制作のオペラ『LIFE』あたりから環境・平和問題に言及することも多くなり、地雷除去活動を支援するためのチャリティーソングとしてGLAY、Mr.Children、DREAMS COME TRUE、DJ KRUSHらを迎えて制作した『ZERO LANDMINE』やアメリカ同時多発テロ事件をきっかけとした論考集『非戦』を発表している。 2004年には音楽評論家高橋健太郎やピーター・バラカンらの呼び掛けに応じて共同声明「私たち音楽関係者は、著作権法改定による輸入CD規制に反対します」に名を連ね、国会で審議されていた音楽レコードの還流防止措置(レコード輸入権)に反対を表明した。 2006年2月には、PSE問題に絡み、松武秀樹、椎名和夫とともに2006年4月に本格的に施行される電気用品安全法(PSE法)に反対する署名を募集。経済産業省がマークなしの販売を条件付きながら認めるなど、一定の成果を得た。同年5月にはShing02、クリスチャン・フェネスらとともに青森県六ヶ所村の核再処理施設に反対し、この問題をアート作品の共有と拡散という手法を使って内外に周知するプロジェクトSTOP ROKKASHOをスタートし、河野太郎、保坂展人らの政治家、小室哲哉らのミュージシャンからも賛同を得ている。 2007年7月16日に起きた新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原子力発電所が被害を受けたことに応じて「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」という運動を始めた。東日本大震災後も原発を批判する旨の意見を度々述べている。 2012年1月11日には、自身が代表を務める森林保全団体 more trees による被災地支援プロジェクト「LIFE311」と、サイバーエージェントのソーシャルゲームピグライフと連携する連動企画『LIFE311×ピグライフ』を期間限定(3月31日まで)で立ち上げた。なお、ピグライフに設置された特設エリアには坂本も登場している。 憲法9条の改正に強く反対しており、選択的夫婦別姓制度導入にも賛同する。 数多くのチャリティーコンサートを実施、無償での被災地の幼稚園・小・中・高校に対し、楽器関連の復興支援を行うための『こどもの音楽再生基金』、被災地支援参加型プロジェクト『kizunaworld.org』、先述の被災地支援プロジェクト『LIFE311』など、様々な側面から復興支援に尽力した。2012年5月1日、日本財団により、伊勢谷友介、EXILE、加藤登紀子、小林幸子、コロッケ、サンドウィッチマン、杉良太郎、伍代夏子、中村雅俊、はるな愛らと共に「被災地で活動した芸能人ベストサポート」に選出され、表彰されている。 2015年には、安倍晋三内閣総理大臣の進める集団自衛権や改憲について、デモにも参加するなど批判している。 2016年、沖縄における米軍属に対する「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し海兵隊の撤退を求める県民大会」に向けて「沖縄だけに痛み、苦痛と侮辱を何十年もおしつけておくべきではない。もうたくさんだ。基地、米軍、武力が必要なら日本人の全てが等しく背負うべきだ」とのメッセージを寄せた。 自身の政治的な言動が批判されることについては「音楽家だけど、余計な口を出してしまうから。音楽家は音楽だけやっていろ、とインターネットで言われているらしいということも知っています。これは言わないと、というときだけ選んでいるつもりですけれど、発言するから偉いとも思ってません。でも音楽だけやればいいとも思わない。普通の人が口出すのが民主主義でしょ。職業に関係なく誰もが声を出せる社会じゃないとダメだと思うんです」といった考えを述べている。 2021年、小山田圭吾が公式サイトを通じ、音楽雑誌に掲載されたインタビュー記事の内容や、同記事をめぐる報道に謝罪の文を寄稿。経緯説明の中で『ROCKIN'ON JAPAN』1994年1月号には事実と違う内容が掲載されていることを説明している(詳細は小山田圭吾を参照)。坂本は「読みながら少し泣けてしまった。なかなかこれほど真摯な文章は書けるものじゃない。よほど自分の心の中を曇りなく隅々まで見ないと」と私見を述べ、「今後どんな音楽が生まれてくるのか、気長に待ってます」とつづった。 最晩年となった2023年3月上旬には明治神宮外苑地区の再開発の見直しを求める手紙を、小池百合子東京都知事、永岡桂子文部科学大臣、都倉俊一文化庁長官、吉住健一新宿区長、武井雅昭港区長の5名に送り、「100年かけて守り育ててきた樹々を犠牲にすべきではない」「樹々は差別なく万人に恩恵をもたらすが、開発は一部の既得権者と富裕層だけに恩恵をもたらす」などと訴えたが、認可を出した小池百合子東京都知事から「事業者の明治神宮にも手紙を送られた方がいいじゃないでしょうか」と一蹴されている。 人柄. 若い頃について坂本は「YMOで大ブレイクして、30歳代半ばまではまさに人生の絶頂期で、遅刻やすっぽかしもしょっちゅうだった。運転手が気に入らないとすぐに殴ったり蹴ったりした。今思えばとんでもないことであり、私の理不尽な暴行に耐え切れず辞めていった運転手の人たちには申し訳ないと思っている。子供の頃、体格がよかったこともあって、力ずくで意思を通すことをあまりためらわない性格に育っていた。」などと述べている。 YMO結成当初の紙面上のインタビューで、同時期に活動を開始していたP-MODELに関して坂本が吐いた発言により、当時のP-MODELファンの間で「YMO不買運動」が起こるなどの因縁が生まれた。 糸井重里との対談で坂本は「自分の生活を露出させる人は、他人に対して無遠慮だ」と非難し、「ジャージをはいてる人が嫌い。ジャージはその人の生活を完全に感じさせるものだからそんな格好して、外に出てくるな」、「学生の時に、学生食堂で一人でご飯をきちんと食べてる男の人を見ると、すごく不愉快だった」などと述べている。 親族. 坂本家は福岡県三奈木村の坂の下(現・朝倉市)の出で、江戸時代に足軽として黒田家に仕えた。明治に入ると苦しい生活を強いられたため、坂本龍一の曽祖父・坂本兼吉は明治の中頃に甘木町に移住し、「料理坂本」を始めた。坂本龍一の祖父・坂本昇太郎は坂本兼吉の長男として生まれ、22歳でタカという女性と結婚、長男が坂本龍一の父・一亀である。坂本昇太郎は興行を取り仕切る父の影響もあり、芸事が好きで、芝居小屋「甘木劇場」の経営主をつとめ、後に福岡の生命保険会社に就職した。 母方の祖父下村彌一は長崎県諫早市の小さな農家に生まれ、苦学して第五高等学校と京都帝国大学に学んだ。第五高等学校では後に首相となった池田勇人が同級生におり、ともに京都帝国大学へ進学して、生涯の親友として交流した。大学卒業後は共保生命保険に就職、実業家として共保生命取締役、東亜国内航空会長などを歴任。母方の叔父(母の弟)下村由一(1931 - )は歴史学者で、千葉大学名誉教授。 東京芸術大学2年のときに2歳年上の女性と結婚し、長女を授かったが離婚する。歌手の坂本美雨はシンガーソングライターの矢野顕子との間に生まれた娘で、坂本にとっては次女。 出版活動. 1984年から1989年まで「本本堂」という個人出版社を持ち、自身の著書を中心に、独自の出版活動を行った。1984年に<週刊本>シリーズで刊行された『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)も話題となった。その本で予告されたのは、浅田彰著/井上嗣也装幀『煉獄論あるいはゴダール・スペシャル』、南方熊楠著/井上嗣也装幀『男色と免疫疾患』、赤瀬川原平装幀『糸井重里児童文学全集』、武邑光裕編/細野晴臣装幀『往復書簡 ウィリアム・バロウズ-出口王仁三郎』、中沢新一構成/坂本龍一ピアノ/日比野克彦装幀『グルジェフ体操カセットブック』などの、50冊であった。 本本堂から、実際に刊行された書籍は以下の通り。 ディスコグラフィ. バンド・ユニット・コラボ活動. YMOについてはイエロー・マジック・オーケストラの項を参照。
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ロードレース (自転車競技)
自転車競技におけるロードレース(, , )は、主に舗装された道路を自転車で走り、ゴールの順番や所要時間を争う競技。走る距離は短いものでは数km程度(ステージレースのいわゆる「プロローグラン」)、長いレースでは1日で300km弱(ミラノ〜サンレモなど)にも及ぶ。どのレースでも個々の成績を争うため、基本的には個人競技であるが、上級カテゴリーのレースでは、複数人のメンバーが役割を分担して、チームが定めた目標達成のために走るため、ほとんどの場合、団体競技の様相を呈するのが特徴である。 概要. 個人戦と集団戦. ロードレースの最も単純な形態はワンデイレース(1日で終了するレース)で、「個人」が、「ゴールの順番を競う」というものであり、これはアマチュアレースや小規模なレースでよく見られる形態である。しかし、プロのレースや、アマチュアのレースの中でも大規模なものでは、ワンデーレースだけでなくステージレース(複数日行われるレース)も加わり、「チーム」が「メンバーの誰かを勝たせるために走る」ことが多い。 広告媒体としての走り. ジャージやヘルメットにはユニフォーム広告が入っているため、たとえ勝利につながらなくても、序盤から積極的に先頭を走るなど印象深い走りを見せた選手には「敢闘賞」が与えられる。また、メディアへの露出が多い有名なレースで見せ場を作ることは、チームにとってもスポンサーの宣伝になるため、タイトルに絡まない選手やチームであっても、時に有力な選手やチーム以上の走りを見せる場合がある。 頭脳戦. 大きなレースでは上記に挙げた敢闘賞だけでなく様々な賞が設定されているため全ての選手が優勝目指して走るのではなく、個人やチーム単位でいくつかの戦略目標を設定し、それに向かって各自が最善を尽くすことになる。 結果として、グランツールをはじめとする大きなステージレースでは個々の選手の思惑や意地、チーム単位での戦略が絡み合い、更に刻々と変わる気象条件や落車、選手の微妙なコンディションの差異などの偶発的要素もそれらの戦略目標に大きな影響を与える為、極めて複雑な頭脳戦の様相を呈する。 チームのカテゴリー. ロードレースに参加するチームにはサッカーのクラブチームにおける一部リーグや二部リーグのようなカテゴリーがあり、参加できるレース、出来ないレースがある。詳しくはUCIワールドツアー#チームのカテゴリーを参照のこと。 競技方法. ロードレースの競技規則は国際自転車競技連合(UCI)によって決められている。 マスドスタート(マスドレース). 全選手が一斉にスタートし、ゴールの順番や所要時間を競う。通常行われるレース形式であり、「ロードレース」と言うとこの競技方法を指している場合もある。 チームタイムトライアル(チームTT). TTT(Team Time Trial)。 一定時間毎にチームの全員が出走し、チームごとのゴールタイムを競う。チームのうち規定の順番(1チームの定員によって異なる)でゴールした選手のタイムがそのチームのタイムとなる。 個人タイムトライアル(個人TT). ITT(Individual Time Trial)。 一定時間毎に選手が個別に出走し、ゴールタイムを競う。 レースの種類. レースにおける距離、ステージの構成やポイントの配分などは、レースの主催者が決定している。 ステージレース. 様々なステージ. ステージレースでは、一般的なマスドスタート以外にもタイムトライアルのステージが設定されることがある。上記の競技方法が用いられているが、グランツールにおいては下記の特色がある。 ステージレースの表彰対象. ステージレースでは「時に個人、時にチーム」で、「その日のゴールの着順」「最終的な所要時間など各種の総合成績」などいくつかの目的のために走ることになる。例えば最も有名なステージレースである3つのグランツールでは、勝利を争う主体は「個人」及び「集団(チーム)」であり、争われるのは「ステージごとの着順」と「最終的な走破時間」及び「最終的な獲得ポイント」であり、 といういくつもの賞をめぐる争いが展開される。 シリーズ. ワンデー、ステージ各レースをひとつのシリーズとしているもの。各レース成績優秀者にポイントを付与し、そのシリーズ全レースが終了後に付与されたポイント最上位の選手が優勝となる。 女子レース. 女子については、世界選手権、夏季オリンピック、年間シリーズ戦である、ジロ・ローザなどのステージレースが重要な大会である。 競技の特徴. エースとアシスト. 各チームにはエースとアシストという役割分担が存在する。 先頭交代. ロードレースでは走行中の空気抵抗による体力の消耗が非常に大きい。プロのレースにおける巡航速度は平均で40km/hであるが、これは風速11m/sの向かい風を浴びているに等しく、単独で走りきって勝利するのは困難である。そのため、必然的に集団を形成し、他の選手を風よけにして体力の消耗を減らすなど、選手間で協力することも多い。その際は、数人から十数人の選手が順番に先頭を交代しながら走り、他の選手の体力回復(心拍数やATP-CPエネルギーなど)を助けるという戦術が採られる。(スリップストリームも参照) 先頭交代は必ずしも同じチーム内で行われるとは限らない。例えば、大集団から抜け出した異なるチームの選手たちは逃げ切ってステージ優勝するため、あるいは各種ポイント賞争いを有利に運ぶために、ゴール直前までは交代で先頭を走るのが普通である。しかしこうした逃げ集団の中に個人総合優勝や新人賞に絡みそうな有力選手、またその選手と同じチームの選手が入っている場合、彼らは余計なタイム差がつかないように牽制するのが目的なので、先頭交代には参加せず体力を温存する。 また、逃げている集団を追いかけるために後続集団に残ってしまったチーム同士が協力して先頭交代をし、速度を上げて追い上げることもある。 ステージ優勝争いから総合成績争いまで、様々な思惑や戦略が絡むのが先頭交代である。 選手同士の駆け引き. 先頭交代で述べたように、ライバル同士であっても、当面の目的が一致した場合は「呉越同舟」状態で協力し合うのが、ロードレースの最大の特徴である。しかし、競技の序〜中盤にかけては、一致団結して走っていた選手たちも、終盤にさしかかるにつれ、各チームないし選手ごとの思惑の違いからさまざまな駆け引きが発生してくる(例えば、逃げ切り優勝を狙っている先頭集団なら、どこでアタックをかけて相手を出し抜くかで腹の探りあいが始まり、追撃する集団ではゴール前で競り合いになったときに有利な場所を確保するための位置取り合戦が起こるなど)。 このように、状況の変化に応じて生まれる選手同士の多様な駆け引きが、レースに強い緊張感を生み出し、それが魅力の一つとなっている。 補給. 競技時間が3〜7時間と非常に長時間にわたるため、水分や栄養を補給しないままだと脱水症状やエネルギー切れの状態になって競技が続行できなくなる危険が非常に高い。そのため選手たちはロードバイクのフレームにボトルホルダーを取り付けて水やスポーツドリンクなど各種飲料を入れたボトルを携帯したり、レーシングウェアの背中に付けられたポケットにパン、菓子、ゼリー飲料などの機能性食品、小型缶の炭酸飲料などを入れておいて、走りながら適宜補給する。競技中に固形物を摂取するというのは、トライアスロンのアイアンマンなどごく一部を除くほかの競技には見られない、ロードレースの大きな特徴である。 プロレースでは、こうした補給用の飲料や食料は選手自身が携帯するほかに、レースで併走するサポートカーやあるいは補給エリアにスタンバイしたチームスタッフから「サコッシュ」(sacoche:フランス語で肩掛けの鞄や袋を指す。英語圏では「ミュゼット」と呼ばれる)と呼ばれる肩掛け型の袋に数種類を入れて随時供給され、レース中にはアシストの選手が大量のボトルを背中などに入れてチームメイトに配って回る姿がしばしば見られる。サコッシュを受け取った選手はサコッシュからウェアのポケットなどに補給食を移し、サコッシュは捨ててしまう。 なお、空になったボトルやサコッシュは道端に捨てられることが多いが、これは沿道で応援するファンへのプレゼントにもなっており、チーム側もこれを見越して、チームロゴやマークを入れた物を使用している(袋の作りや材質そのものは頑丈ではなく、縫製も非常にいい加減である)。 ただし周囲にファンのいない場所で捨てられたボトル等は単なるゴミになってしまうため、近年では環境保護の観点からボトル等の無制限な投げ捨てに対する批判も一部で高まりつつあり、フランスの地方レースなどでは空になったボトルや補給食の包装等をレース中に投げ捨てなかった選手に対し「エコロジー賞」を用意するケースが増えている。また近年ではコース中でゴミを捨てて良い区間が一部に限定されている場合もある。 食事以外にも、レースでは機材故障(タイヤのパンク、変速機の不調など)に伴う部品や自転車の交換が必要になる。プロレースでは各チームのサポートカーがそれらを供給するのが普通だが、何らかの事情によりサポートカーがすぐに駆けつけられない場合もあり、そのような状況ではレース主催者側が用意するニュートラルカーが必要な部品等を供給することもある。 レースの展開. ロードレースには何種類かの典型的な展開がある。本節ではステージレースで最も頻繁に見られる展開の各段階を解説する。 暗黙の了解. ロードレースには正々堂々と闘うための紳士協定として、選手間に暗黙の了解事項(不文律)が多数存在している。 ジャージ. ロードレース選手で特定の成績を上げた選手は、レース中それに応じたジャージを着なければならない。また、着用が義務となっている場合が多く、レースで着用をしなかった場合に罰金などのペナルティを課せられることがある。 ロードレースにおいては以下のようなジャージが代表的である。 ステージレースのリーダージャージには胸部にA4サイズの白い枠が設けられている場合がある。これは、ジャージ該当選手のチーム名・チームロゴを入れるためのものである。一つのステージが終了しジャージ該当選手が確定した後、白い枠の部分に昇華インクでチーム名・チームロゴを鏡像印刷したシートを乗せ、プレス機で熱転写を行うことでジャージにチーム名・チームロゴをプリントする(場合によってはステッカーで済ませる場合もある)。 有名な選手. "自転車ロードレース選手一覧"も参照のこと
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コンピュータグラフィックス
コンピュータグラフィックス()は、コンピュータを用いて画像を生成する科学技術、及びその技術によって生成される画像のことである。 表現手段としてのCGは、鮮やかな色彩、編集の容易さ、非現実的な映像などを提供することができる。映画、アニメ、テレビコマーシャル、イラストレーション、漫画などの画像・映像コンテンツ制作や、ゲーム、バーチャル・リアリティなどのインタラクティブコンテンツ制作に用いられる一般的な手段として定着している。実写による映像表現においても、CGを合成することによる効果(VFX)を加えることがある。 また医療、建築、プロダクトデザイン、可視化などの分野でもCGは要素技術として用いられている。 作成プロセスによる分類. CGの作成プロセスは、主に3D CG(3次元コンピュータグラフィックス)と2D CG(2次元コンピュータグラフィックス)に大別される。 3Dにおいては、視点の変更の容易さ、滑らかなアニメーションなどを特徴とする。3DCGの制作プロセスは、形状データを定義・作成するモデリングと、形状データから最終的な画像を出力するレンダリングに大別され、レンダリング技術にはスキャンライン、レイ・トレーシング、ラジオシティなどがある。 英語圏でCGと言えば、3DCGを指し、2Dのイラストはドローイングと呼ばれ区別されている。一方、日本では2DCGも3DCGと同様にCGと呼ばれるため、区別するためにCGイラストなどといった用語が定着している。そのため英語圏において2DCGを指して「CG」「コンピュータグラフィックス」などと言うと訝しがられることもあり注意が必要である。 2D、3Dの区分は方法論としての区分(作成のプロセスによる区別)で、作品としてのCGは2D、3Dのどちらかで創られたと単純に大別はできず、3Dの手法で創られた画像を2Dの手法で加工したり、2Dで描いた絵の上に3Dで作った画像を合成するといったことは頻繁に行われている。 写実性による分類. またCGはフォトリアリスティックとノンフォトリアリスティックに分かれる。前者は限りなく精密で写真と見紛うようなリアルなものを追求し、後者は逆に鉛筆や絵具で描いたような画像を作る。ノンフォトリアリスティックな画像生成は1998年頃からSIGGRAPH(シーグラフ)で流行りだした。一方、従来から研究されているフォトリアリスティックな画像生成では、近年は実写と上手に合成するイメージベースドレンダリング、レイ・トレーシング法を改良したフォトンマッピングなどがさらに研究が進められている。 立体的な表現であっても、ドローイングの編集ソフト(Corel PainterやAdobe Photoshop等)で制作した画像はドローイングとされるが、3DCGとして制作し出力された画像を上記ソフトウェア等で編集することもよく行われる。 CGの種類. ドローイング. ドローイング(drawing)は「単純にコンピュータを使って描く絵」で、主に「ペイント系」、「ドロー系」の二つに分類される。ペイント系ソフトはフリーハンド描画や写真修整に適した画素ベースのラスタ形式とも呼ばれ、ドロー系ソフトはロゴデザインや設計・製図などに適したベクタ形式とも呼ばれる。 アプリケーションの中で二つの表現形式が混在しているケースもあり、さらにペイント系アプリケーションは、伝統的な筆や画材をコンピューター上で再現したように手で描くペイントグラフィックと、従来暗室などで行っていたような写真の修整や合成を主とするフォトレタッチの二つに大別される。ドローイングで扱われる技術は、イラストレータや漫画家の効率化と表現の拡大に貢献している。 3DCG. 3DCGはコンピュータに物体の形状、カメラの向きと画角と位置、光源の強度と位置などの情報を入力して、コンピュータ自身にプログラムで画像を計算・生成させる手法を言う。人間が手で描く必要がなく、カメラの位置を少しずつ変えたり、物体の位置を変えたりするだけで、いったん作った情報から異なる画像を大量に作り出すことが出来るため動画制作に向いており、近年の映画のリアリティ向上に多大な貢献をしている。またゲームなどでは主人公に360度の視界を持たせることができるなど利点が多いため多用されている。3DCGの最終的な出力先であるディスプレイやスクリーンなどは二次元(2D)だが、3DCGは作成時に持っている情報が三次元(3D)である。 CAD. CAD(Computer-aided design)はコンピュータを用いて設計をすること。あるいはコンピュータによる設計支援ツールおよびそれらを統合したシステムのこと。建築物や工業デザインなどの分野でそれぞれに専門化したソフトウェアが使用される。二次元CADと三次元CADに大別されるが、設計図を作成する目的に特化しているので、設計の技術や知識を持っていることが使用の前提となる。レンダリング等のいわゆる3DCGとしての出力には別のソフトの支援を要する場合が多い。 ムービー. ムービー(movie)とは動画のことである。Adobe社のプレミア、Corel社のビデオスタジオなどの動画を扱う専用ソフトで編集する。特殊効果には同じAdobe社のアフターエフェクトなどがよく使用される。 映画とCG. 本格的にCGが映画に採用されたのは、1982年の『トロン』からだと言われているが、技術的・予算的な制約により、実際には大半のシーンではCGに似せた手描きのアニメーションや光学合成を使用していた。日本でも1980年代始めに大阪大学工学部大村皓一助教授(当時)の研究する並列処理コンピュータ「LINKS-1」を使ったメタボールによるモデリングを利用した『ゴルゴ13』などで比較的古くから活用されていた。『オレたちひょうきん族』のオープニングやアニメ・『タイムボカン』のタイムスリップのシーンなども有名である。1985年に開催された科学万博では各パビリオンで多くのCGが使用され、世界初の全天周立体映画『ザ・ユニバース』が上映された。1990年に開催された花の万博では液晶シャッター式のカラーの全天周立体映画『ザ・ユニバース2』が上映され、幕張では2000年代初頭には『エンカウンター』が上映された。 初期には制作コストが高かったために、CG風の斬新なイメージを求めて実写合成などを行ったものも多く存在した。例として1981年の『ニューヨーク1997』では、グライダーが夜間飛行をするシーンのモニタ映像は3DCG風ではあるが、実はリスフィルムによる撮影と光学合成を駆使した実写合成である。この手法はテレビコマーシャルなどでも多用された。黎明期ならではのできごとである。 映画におけるCGは1990年代前半に飛躍的な進歩を遂げた。まず、1991年の『ターミネーター2』におけるVFXで注目を集める。続いて1993年の『ジュラシック・パーク』では、CGが従来のストップモーション・アニメーションに全面的に取って代わった。そして、1995年の『トイ・ストーリー』はフル3DCGで作成された初の劇場用長編と銘打って公開された。2000年代に入ると、多かれ少なかれほとんどの映画で使われるようになる。現在では、時間とお金さえかければ作れないシーンはないとまで言われている。 かつてはSGIなどの高性能ワークステーションや専用のレンダリングサーバ、時としてスーパーコンピュータなどを用いてレンダリング処理を行っており、大変コストがかかるものであった。その後パソコンの高性能化に伴い、安価で高性能なパソコンを使って分散レンダリングを行う方法が主流となってきている。安価なパソコンをレンダリング専用にクラスター化したものをレンダーファームと呼び、大手プロダクションでは数百台規模のパソコンをクラスター化する例が多くなっている。普段はレンダリング以外の業務用に使われるパソコンを就業時間後にレンダーファームに組み込んでレンダリングに転用することで効率化を図っている例も有る(例えば「タイタニック」や「ジュラシック・パーク」など)。 レンダリングによりあらかじめ一枚一枚の画像を作り、それらを繋げて映像化したものをプリレンダリング映像という。現在の映画はすべてこの方法によるものであるが、ゲーム機ではリアルタイムのレンダリングによる映像の提供も進んでいる。 一枚ずつセルに絵具(アニメカラー)で彩色する工程を踏んでいたアニメーション制作にもコンピュータ彩色(閉じたエリアに色を流し込む)を導入することで効率化が図られているが、日本では1983年のNHKアニメーション「子鹿物語」が最初とされる。 特殊効果(VFX)にCGを使用することは一般的に行われており、以前は専用の機材を用いて主にCGは特撮、SF映画で使用されていたが、汎用で安価なPCの発達により、現在では一般の映画(または、映画並みの特殊効果が要求される連続ドラマ)でも多用されており、街全体を仮想的なセットとして作るような目的では、一見しただけではCGであることを意識させない作品も多い。 デザインとCG. 日本でパソコンCGが一般化する契機となったのは、1985年に発売されたNECのPC-9801VM(PC-9800シリーズ)あたりからで、640×400画素ながら4,096色中の16色をインデックスカラーで表示できるというスペックで、特にコンピュータゲームの表現力の向上に貢献した。 日本国内のパソコンはまだグラフィックデザインの分野で実用するには貧弱なものであったが、1987年に最初のカラー仕様のMacintosh II(640×480画素、ソフトウェアによるインデックスカラーでの256色同時表示)が登場してからは、次第にグラフィックデザインの分野でMacintoshが浸透していった。本格的な普及はその数年後、カラーイメージスキャナやカラープリンタなどの周辺機器が充実し始めた頃からである。Macintoshは早い時期からWYSIWYGの考え方を導入していた点も、グラフィックデザインにCGを導入するには重要な点であった。 1980年代は様々な企業がデザインへの応用を目的としたCGシステムを発表している。服飾メーカーのJUNは4D-BOX(512×512画素、16,777,216色中256色同時表示)を開発、今ではパソコン周辺機器メーカーとして知られるアイ・オー・データ機器も、ほぼ同様なスペックの西陣織デザインシステムを開発した。また日本ビクターではCGアニメーション専用システムを発売、ヤマハもYISシリーズがデザイナーから注目を浴びた。 アニメとCG. アニメにおいては、1983年公開の映画『ゴルゴ13』や、1983年NHK総合テレビ放送の『子鹿物語 THE YEARLING』、1984年公開の映画『ドラえもん のび太の魔界大冒険』以降にCGが使用された。その後、1993年からNHK教育テレビの『天才てれびくん』内で放送されたバーチャル3部作において、アニメや実写と共にCGが使われている。アルファブレンディングなどを使った光線や爆発の表現を得意とする一方、手を抜くと容易に質感や量感の乏しいまるでプラモが飛び回っているような絵になってしまう。重厚感を出す部分は、CGを下地にしていても、未だ手作業に頼る部分が多い。 その他、ゲームにおいて、OPやイベント等にCGアニメが使われている。 ゲームとCG. 1973年にワイアーフレーム表示の3D迷路を使ったMaze Warが、その翌年には宇宙を舞台にしたSpasimが登場している。アーケードにおいてExidyが1978年にSTAR FIREを、アタリが1980年にワイアーフレーム表示のバトルゾーン、1983年にI, RobotやSTAR WARS、セガが1982年に擬似3Dシューティングのズーム909や潜水艦ゲームのサブロック3Dを出している。Apple IIにおいて、Sirius Softwareが1981年に擬似3DシューティングのEPOCHやHADRONを出している。PC-6001において、アスキー出版が1982年にOLIONを出している。Atari 8ビット・コンピュータにおいて、1984年にBallblazer、1985年にRescue on Fractalus等の擬似3D処理を使ったソフトが登場している。ファミリーコンピュータにおいて、1987年に3D迷路を使ったデジタル・デビル物語 女神転生が出ている。1988年にはAtari 7800においてF-18 Hornet等のソフトが出ている。スーパーファミコンにおいては、1991年のパイロットウイングス等に使われたDSP-1による擬似3D処理や、1993年のスターフォックス等に使われた3DアクセラレータのスーパーFXチップが存在した。1992年アーケードゲームの基板においてセガが3D描画機能のあるMODEL1を開発、翌1993年に初の3D格闘ゲームバーチャファイターが登場する。その後、1994年にスーパー32X、セガサターン、プレイステーションが出て以降、3Dのゲームが増えることとなった。ファイナルファンタジーにおいては、1997年のFF7以降3Dに、ドラゴンクエストにおいてはDQ7以降3Dになっている。 CGを主軸に置いたゲームとしてはせがれいじり(1999年)や半熟英雄 対 3D(2003年)等が存在する。 水口哲也はクリエイターとしてのキャリア初期である1989年の段階からバーチャルリアリティ推しであったと伝わり、セガの採用面接でも「ゲームではなく未来のエンターテインメントというか、もっとすごいものを作りたい」とこれについて表現したという。 国内CGプロダクション. 黎明期(1980年代)において、CGは主にアニメの一部やCM、ニュースのOP等に使われた。
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統計学
統計学(とうけいがく、)とは、統計に関する研究を行う学問である。経験的に得られたバラツキのあるデータから、応用数学の手法を用いて数値上の性質や規則性あるいは不規則性を見いだす。統計的手法は、実験計画、データの要約や解釈を行う上での根拠を提供するため、幅広い分野で応用されている。 物理学・経済学・社会学・心理学・言語学といった人文科学・社会科学・自然科学(基礎科学)から、工学・医学・薬学といった応用科学まで、実証分析を伴う科学の分野において必須の学問となっている。また、科学哲学における重要なトピックの一つでもある。 語源. 英語で統計または統計学を「」と言うが、語源はラテン語で「状態」を意味する「」であり、この言葉がイタリア語で「国家」を意味するようになり、国家の人力、財力等といった国勢データを比較検討する学問を意味するようになった。 なお、統計学という語は、ドイツの政治学者ゴットフリート・アッヘンヴァルが1749年に『ヨーロッパ諸国国家学綱要』の中で、それまでドイツ語で「Staatenkunde」(「国情論」の意味)と呼ばれていた学問に「」(統計学)の名をつけたことに始まる。 日本語の「統計」という語の起源は明確にはなっていないが、幕末から明治初年にかけての洋学者である柳川春三が初めて現在の意味でこの語を使用したと考えられており、明治2年(1869年)には彼の編纂した冊子においてこの語と用法が使用されたとの記述がある。その後、明治4年(1871年)には大蔵省に「統計司」(後に「統計寮」に改組)が置かれ、次第にこの語が広まっていった。 分類. 記述統計学と推計統計学. 統計学は「記述統計学 (descriptive statistics) 」 と「推計統計学(inferential statistics、推測統計学とも) 」に分類できる。記述統計学はデータの特徴を記述する学問であり、推計統計学は標本から母集団を推計する学問である。 記述統計学は、データ1つがもつ特徴を記述・説明することに着目した分野である。例えば小学生99人の身長データがあったとする。データの値は個別の小学生のものであり、100人全体の特徴は値を個別に見ただけでは分からない。ここでデータの値を身長順に並べ、50番目の値を見れば「この小学生99人の"普通"の身長はだいたい110 cmである」と記述できる。50番目の値は中央値という。このように、データ全体の特徴を要約・記述することが記述統計学の大きな目的・方法論である。 推計統計学は、母集団からの標本化を前提とし、標本から母集団を推測する分野である。例えば世界の小学生の身長特性を知りたいとする。全世界の小学生の身長を計測し記述統計学によって中央値や平均値を記述すれば、目的である世界の小学生の身長特性は解明できる。しかしその計測は著しく困難(事実上不可能)である。そこで推計統計学では、まず小学生100人の身長データ(標本と呼ぶ)を集める。そして標本は全世界の小学生という母集団からランダムに選ばれたものだと考える。ランダムに選ばれた100人の身長中央値(標本の中央値)は必ずしも世界小学生身長中央値(母集団の中央値)と一致しないと考えられるが、"似た"数値にはなると期待される。すなわち標本から母集団の特性を推測することができる。この、標本から母集団を推測する方法論に関する分野が推計統計学である。 このように、記述統計学はデータ(推計統計学でいう標本)の説明・記述を行い、推計統計学は母集団(の記述)の推測をおこなう。両分野の違いは、記述統計学では目の前にあるデータがすべて(母集団という考え方はない)のに対し、推計統計学ではむしろ目の前のデータは(真なる)母集団から今回たまたま選ばれた標本だと考える点にある。一方で、推計統計学では標本の記述統計から母集団の統計量を推測するように、この2分野は非常に密接に絡んでおり全く別の分野と考えることは不適切である。 統計的手法. これらは、意思決定に応用されている。 歴史. 統計学の源流は国家または社会全体における人口あるいは経済に関する調査にある。このことは、東西を問わず古代から行われている。 学問としては、17世紀にはイギリスでウィリアム・ペティの『政治算術』(1790年)などが著述され、その後の社会統計学に繋がる流れが始まった。彼の提唱した政治算術そのものは18世紀に衰退するものの、ペティは統計学の父とも呼ばれる。また同時期、ペティの友人であるが『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』(1662年)を表し、人口統計学の源流となった。この死亡統計の研究はエドモンド・ハレーなども行うようになった。これらの影響の基、18世紀にはドイツのヨハン・ペーター・ジュースミルヒが『神の秩序』(1741年)で人口動態にみられる規則性を明らかにしたが、これには文字通り「神の秩序」を数学的に記述する意図があった。 ドイツでは17世紀からヘルマン・コンリングなどによってヨーロッパ各国の国状の比較研究が盛んになり、1749年にゴットフリート・アッヘンヴァルがこれにドイツ語で「」(「統計学」の意味)の名をつけている。 19世紀初頭になるとこれに関して政治算術的なデータの収集と分析が重視されて、「」の語は特に「統計学」の意味に用いられ、さらにイギリスやフランスなどでも用いられるようになった。この頃には、1748年のスウェーデンを皮切りに国勢調査も行われるようになり、1790年には下院の議員数算定のためにアメリカがこれに続き、イギリス、フランスなど西ヨーロッパ諸国においても1830年頃までには国勢調査が行われるようになった。 一方ブレーズ・パスカル、ピエール・ド・フェルマーに始まった確率論の研究がフランスを中心にして進み、19世紀初頭にはピエール=シモン・ラプラスによって一応の完成を見ていた。また、カール・フリードリヒ・ガウスによる誤差や正規分布についての研究も統計学発展の基礎となった。ラプラスも確率論の社会的な応用を考えたが、この考えを本格的に広めたのが「近代統計学の父」と呼ばれるアドルフ・ケトレーであった。彼は『人間について』(1835年)、『社会物理学』(1869年)などを著し、自由意志によってばらばらに動くように見える人間の行動も社会全体で平均すれば法則に従っている(「平均人」を中心に正規分布に従う)と考えた。ケトレーの仕事を契機として、19世紀半ば以降、社会統計学がドイツを中心に、特に経済学と密接な関係を持って発展する。代表的な人物にはアドルフ・ワグナー、エルンスト・エンゲル(エンゲル係数で有名)、ゲオルク・フォン・マイヤーがいる。またフローレンス・ナイチンゲールも、社会医学に統計学を応用した最初期の人物として知られる。統計学の業績について高く評価され1858年には王立統計学会初の女性会員となった。 同じく19世紀半ばにチャールズ・ダーウィンの進化論が発表され、彼の従弟に当たるフランシス・ゴルトンは数量的側面から生物進化の研究に着手した。これは当時「」(生物測定学)と呼ばれ、多数の生物(ヒトも含めて)を対象として扱う統計学的側面を含んでいる。ゴルトンは回帰の発見で有名であるが、当初生物学的と思われたこの現象は一般の統計学的対象の解析でも重要であることが明らかとなる。ゴルトンの後継者となった数学者カール・ピアソンはこのような生物統計学をさらに数学的に発展させ(数理統計学)、19世紀終わりから20世紀にかけ記述統計学を大成する。 20世紀に入ると、ウィリアム・ゴセット、続いてロナルド・フィッシャーが農学の実験計画法研究をきっかけとして数々の統計学的仮説検定法を編み出し、記述統計学から推計統計学の時代に移る。ここでは母集団から抽出された標本を基に、確率論を利用して逆に母集団を推定するという考え方がとられる。続いてイェジ・ネイマン、エゴン・ピアソンらによって無作為抽出法の採用など現代の数理統計学の理論体系が構築され、これは社会科学、医学、工学、オペレーションズ・リサーチなどの様々な分野へ応用されることとなった。 こうして推計統計学は精緻な数学理論となった反面、応用には必ずしも適していないとの批判が常にあった。 これに呼応して、在来の客観確率を前提に置く統計学に対し、それまでごく少数によって提唱されていたにすぎなかった主観確率を中心に据えたベイズ統計学が1954年にの『統計学の基礎』によって復活した。ベイズの定理に依拠する主観確率の考え方は母集団の前提を必要とせず不完全情報環境下での計算や原因の確率を語るなど、およそ在来統計学とは正反対の立場に立つため、その当時在来統計学派はベイズ統計学派のことを『ベイジアン』と名付けて激しく対立した。しかし主観確率には、新たに取得した情報によって確率を更新する機能が内包され、この点が大きな応用の道を開いた。今や統計学では世界的にベイズ統計学が主流となり、先端的応用分野ではもっぱらベイズ統計学が駆使されている。 計量経済学、統計物理学、バイオテクノロジー、疫学、機械学習、データマイニング、制御理論、インターネットなど、あらゆる分野でベイズ統計学は実学として活用されている。スパムメールフィルタや日本語入力の予測変換など身近な応用も数多い。20世紀末にはマルコフ連鎖モンテカルロ法など理論面で様々な革新的考案もなされ、旧来の統計学では不可能であったような各分野で多くの応用がなされるようになっている。これらベイズ統計学についての展開は、いずれも計算環境の進歩と不可分である。 他分野との関係. 確率論. 確率論は、中等教育で「確率・統計」と一括りに呼ばれていたように、統計学と非常に深いかかわりがある。推計統計学ではデータ(標本)が母集団からランダムに取り出されるという前提に立っている。すなわち母集団を構成する要素はそれぞれ"出やすさ"をもっており、それに従ってランダムに取り出されるという立場である。"出やすさ"はまさしく(古典的な)確率であり、母集団はある確率分布に従っていると数学的に表現できる。標本に基づいた母集団確率分布のパラメータ推定(統計的推論)は推計統計学の花形であり、これらは確率論の用語や理論を用いて表現・研究されている。 formula_1: 標本 x は、パラメータ θ をもつ確率分布 p に従う母集団からサンプリングされる。 機械学習. 機械学習では、機械(数理モデル)がデータを利用してその性能を向上させようとする。数理モデルとして確率分布を含むモデルを考えた場合、このモデルがデータを生成する過程は、まさしく推測統計学における母集団からのサンプリング(確率分布で表現された母集団モデルからデータという標本を取り出す過程)といえる。そしてこのモデルの学習とは、データからの正確な確率モデル推定 = 標本からの母集団パラメータ推定であり、すなわち統計的推論と同義である。このように統計学と機械学習には深い関係がある(詳しくは ) 統計の困難さ. 一度信頼できる統計データが取れさえすれば統計学的分析は数学的に行えるが、信頼できる統計データの収集はとても難しい。統計学の源流は各国が人口その他を把握するために行った国勢調査に求められるが、古代・中世を通じほとんどの国家では中央権力の力が弱く、ローマ帝国で行われたセンサスや中国歴代王朝の人口調査等の例外はあるものの、特に大国においてこうした調査を行うことはほぼ不可能だった。 こうした調査が実行可能となるのは各国の中央政府の行政能力の向上した18世紀から19世紀初頭にかけてであり、この時期に初めて近代的な意味での統計学が成立することとなった。現代においても、たとえば行政能力の脆弱なブラックアフリカ諸国においては統計局の予算・人員の不足が深刻であり、統計データの不正確さが指摘されている。 また、統計を取る人の主義主張によって統計値が大きく異なることも多々あり、レーガン政権は当時アメリカにホームレスが30万人しかいないと主張したが、活動家たちはその10倍の300万人いると主張した。 例えば、質問の仕方一つで結果がガラリと変わってしまう。強姦に関するある調査で、女子大生に「男性からアルコールや薬物を飲まされて、望まない性交をしたことがありますか」と質問することで「女子大生の1/4が強姦されたことがある」という結論を出したが、批判者たちはこの調査で強姦体験者と認定された女子大生たちを集めて再調査したところ、その3/4がその体験を強姦だと考えていないことが分かった。 また、暗数の考慮にも主観がつきまとってしまう。暗数とは「統計に出ない値」のことで、例えば強姦のような犯罪はそれがタブーであるために警察に届けないことも多く、したがって統計に表れない。それには統計を正しく読み解くには暗数を考慮する必要があるが、統計値を多く見積もりたい人は意識的・無意識的に暗数を多く見積もってしまう可能性があり、逆に統計値を少なく見積もりたい人は暗数を少なく見積もってしまう可能性がある。 正しい統計データから正しい統計操作を行ってもなお騙すことが可能である。たとえば、ここ四十数年で少年犯罪は1/4になっているが、最近10年では微増している。この時、微増となっている最近10年分のデータだけを提示して、「近年少年犯罪は増加している」という主張をすれば、これは成立することになる。さらに、グラフの縦軸(=犯罪数の軸)をわざと縦長に描くことで犯罪数が急上昇しているかのように見せかけることも可能である。 教育. 統計学は「実学」に端を発しており、近代社会以降世界に普及した「市場経済社会」を牽引した原動力とも言える学問である。そのため、自然科学・社会科学・人文科学の各分野の垣根を越えて分化かつ拡大を続ける中、基礎において汎用性が高い学問の構造を有している。 社会生活の至る所で統計技術の適用が貢献できる場面がある以上、統計学とその適用方法を学習する上では社会の実態に即して頻繁に技法を適用してみることが重要であり、そのように出来るためには何よりまず統計処理を身近で制限無く実施できるような「統計処理環境」の備えが必要である。 PC・ソフトウェア・インターネット環境などのIT環境が急速に進化低廉化して普及したことで身近に統計処理環境を持ちうるようになり、なおかつ莫大な統計情報がインターネットを通じて公開されているため、研究・調査・学習の処理材料にも不自由しない。 実際21世紀に入って以降は、それまでの確率論と数理統計学を重点に置いたカリキュラムに加え、データを処理して求める答えに近づく「データ解析」のスキルが教育されるようになっている(データサイエンス論)。 元来コンピュータを使った数値計算に際してはまず、IEEE 754規格にあるように丸め誤差が暗黙のうちに生じることや、有効数字の概念の認識が重要で、子供のころ算数で学んだような計算結果にはならないことがあることを知っておかねばならない。さらに、統計計算では殊に重要な乱数についても、コンピュータ上で用いるのは疑似乱数であることや、良質な疑似乱数生成方式「メルセンヌ・ツイスタ」を計算ソフトウェアや開発用言語の全てが必ず備えているわけではないこと、暗号論的乱数はさらにまた別の乱数概念であること、なども実は大切な基礎知識である。 人が得意とするパターン認識の力を積極的に用いるため、統計データの「グラフ化」が古来常套手段として用いられているが、ITの支援を得ることで大量のデータを様々な形に、しかも瞬時にグラフ化(あるいは『可視化』)することが可能となった。そのためのグラフ作成ソフトも多数存在するが、その他の数値解析ソフトウェアや数式処理システム、そして殊に下記のような統計アプリケーションではグラフ化するための機能が充実している。 一方、近年オフィスソフト機能等で極端なグラフ装飾を施すことが横行している。この結果として、例えば3Dグラフなどを安易に用いると遠近感や区間面積などから表示すべき真の数量とは異なった認識を受け手に与える事がある。本来3Dグラフ表示は人の空間認識力を活かし得る優れた表現手法であるが、意味なく勢い付け等で用いるのは本来的な視覚化からは退行するばかりか、意図して受け手の誤認識を誘導する事も可能となる。「グラフは直感的に分かるから全て善である」と一般に認識されていることや、前出「統計の困難さ」にある内容をふまえると、統計の視覚化とその解釈に関するリテラシ教育は初等段階から特に注意を要する。 上記のように、用いる統計処理環境ごとに適用分野・目的・方法論・使用者との相性などは異なる。そういった統計処理環境固有の特性なども含めて、いかなる道具もそうであるように、数多く体験の機会を作るほかに理解の早道は無い。 広く普及した表計算ソフトウェアが統計処理・グラフ表現機能を持っているので、誰でも手軽に統計処理入門体験は出来る。しかしあくまでビジネスソフトであり、科学技術ソフトではないExcelの計算の信頼性については常に批判が絶えない(Excelに限らず普及している表計算ソフトウェアはどれも信頼に足る統計計算はできないとの報告もある)。 近年では研究・教育機関が公開するオープンソースなフリーソフトの中からきわめて優秀な計算ソフトウェアが育っており、プロプライエタリソフトの問題点顕在化により関心の高まった統計技術資産の持続可能性という観点からも、統計教育にあたってはこれらオープンソースソフトウェアの積極的な活用が推奨される。 統計の研究・教育に適した代表的なフリーソフトウェア 統計計算に関連するソフトウェアのカテゴリ 日本. 日本においては統計学がそれぞれの分野へ分化された形で組み込まれているため「統計学科」を置く大学がなかったが、2017年度に滋賀大学が日本で初めて統計学を研究の核とするデータサイエンス学部を新設。一橋大学がソーシャル・データサイエンス研究科・学部を2023年度に新設予定である。 国立の統計学研究・教育機関としては、1944年に設立された統計数理研究所があり、AIC、数量化理論、確率微分方程式などの顕著な成果を生み出し、統計学研究を牽引している。 平成21年(2009年)11月に公示された新学習指導要領において、中学・高校数学における統計単元の拡充がなされた。 中学校では、中学数学においては「統計」を扱う単元が新設された(従来は確率を扱う単元はあったが統計処理を扱う単元はなかった)。 高校では、それまで高校数学Bにおいて選択履修とされていた「統計の基礎的概念」(代表値・相関係数ほか)を扱う単元が数学Iに移され「データの分析」として必修化された。また、それまで数学Cにおいて理系生のみが履修していた「確率分布と統計的な推測」が数学Bに移されて、文系生でも履修可能になった。 これらの変更は2012年(平成24年)度入学生から適用されている。(詳細は、「 数学 (教科) 」を参照) 「データの分析」はデータの散らばりと相関について教え、その目的は「統計の基本的な考えを理解するとともに,それを用いてデータを整理・分析し傾向を把握できるようにする。」ことである。総務省統計局では「学校における統計教育の位置づけ」を解説し、指導者の支援にあたっている。
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岡田あーみん
岡田 あーみん(おかだ あーみん、女性、1965年8月14日 - )は、日本の元漫画家。沖縄県生まれ。 来歴. 高校在学中の1983年に「米須(よねす)あーみん」の名で投稿した『お父さんは心配症』が集英社の第162回りぼんNEW漫画スクールの準りぼん賞を受賞、『りぼん』5月号に掲載されデビュー。後に岡田に改名し、同作で連載を始めた。 『お父さんは心配症』『こいつら100%伝説』『ルナティック雑技団』とデビュー以来連載を続けた。1994年には『お父さんは心配症』がテレビ朝日系列にて朝日放送、国際放映製作でテレビドラマ化された。『ルナティック雑技団』連載終了後はシリーズの短編を発表。1997年以降は活動しておらず、消息についても公表されていない。 オンデマンド出版社「復刊ドットコム」には2000年の開設以来、岡田あーみん未単行本化作品の刊行を求むリクエストが多数寄せられており、2015年5月時点で得票数五千を越えトップになっていたが、集英社を通しても作者本人との面会すらできない状態で、交渉が不可能になっていた。2015年5月1日発売の『りぼん』において、りぼん創刊60周年記念企画の一環で未収録作品を収録した『ルナティック雑技団』の新装版全3巻が集英社より同年7月24日に発売されると発表になった。 作品リスト. お父さんは心配症. 主人公・佐々木光太郎は、高校生の娘を持つ中年のサラリーマン。妻に先立たれ、一人娘の典子が非行に走ってしまわないかと心配するあまり、常軌を逸した行動に出てしまう。典子は父の心配など必要のないよくできた娘。彼氏の北野くんも近年まれにみる好青年であり、清い交際を続けている。ところが父の心配症はますますエスカレートして、友人・知人を巻き込んだ異常な大騒動を繰りひろげる。 現在文庫版(全4巻)が発売されており、巻末に作家本人のコメントが収載されている。 こいつら100%伝説. 時は戦国、策略や謀議に満ちた白鳥城ではスパイが潜入し、世継ぎの姫の命が狙われていた。白鳥姫子とその家臣団は姫が潜伏できる安全な場所を求め城下の忍術道場を訪ねたのだった。アクの強い弟子三人を抱える先生は、「忍者は、歴史の影として上様を守りぬく者だ」と教えるが、姫に一目ぼれした三人は歓心を買おうとしてそれぞれ私利私欲によった行動から大混乱をまねいてしまう。 忍者ものとなったのは担当編集者のアイディアであり、岡田の当初の構想では学園ものだった。 ルナティック雑技団. 孤高の貴公子 天湖森夜は、特異なカリスマ性の持ち主ゆえに、孤独だった。そんな森夜のもとに、彼にあこがれる少女・星野夢実が家庭の事情でホームステイすることになったのだ。 夢実は、森夜に人間の友達が必要であることを感じながら、森夜に独占的な愛をそそぐ心配症の母 ゆり子や、森夜に片思いのお嬢様 成金薫子、森夜をライバル視する愛咲ルイ、そして、謎の男ミスターXとの出会いを経て、精神的に鍛えられていく。 後日談となる短編では、夢実と森夜の文通の顛末(てんまつ)や、薫子の片思いの行方等が描かれている。これらは長らく単行本化されていなかったが、2015年に刊行された新装版に収録された。
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マービン・ミンスキー
マービン・ミンスキー(, 1927年8月9日 - 2016年1月24日)は、アメリカ合衆国のコンピュータ科学者であり、認知科学者。専門は人工知能 (AI) であり、マサチューセッツ工科大学の人工知能研究所の創設者の1人。初期の人工知能研究を行い、AIや哲学に関する著書でも知られ、「人工知能の父」と呼ばれる。現在ダートマス会議として知られる、"The Dartmouth Summer Research Project on Artificial Intelligence (1956)" の発起人の一人。 経歴. マービン・リー・ミンスキーは、ニューヨーク市で父は医者で母はシオニズム運動家というユダヤ人家庭に生まれ、ブロンクス科学高等学校に進学した後、マサチューセッツ州アンドーバーのフィリップス・アカデミーに転校した。そして、1944年から1945年まで、アメリカ海軍で兵役に就いた。ハーバード大学で数学を学び、1950年に卒業した。その後、1954年にはプリンストン大学で数学の博士号を得た。1958年以降、マサチューセッツ工科大学に所属している。1959年、ジョン・マッカーシーと共にMITコンピュータ科学・人工知能研究所の前身となる研究所を創設。現在はMITのメディアアートおよび科学の Toshiba Professor であり、電気工学と計算機科学の教授。 アイザック・アシモフは、ミンスキーのことを「自分が出会った人物のなかで自分より聡明なたった2人のうちの1人」だとしている。ちなみに、もう1人はカール・セーガンだという。 ミンスキーの特筆すべき特許として、世界初のヘッドマウント型グラフィックディスプレイ(1963年)と(1961年、今日よく使われている共焦点レーザー顕微鏡の原点)がある。また、シーモア・パパートと共にLOGO言語を開発した。その他にも、1951年、ミンスキーは世界初のランダム結線型ニューラルネットワーク学習マシン を製作している。 シーモア・パパートとの共著『パーセプトロン』は、ニューラルネットワーク解析の基礎を築いた。人工知能の歴史の中でも大きな議論を呼んだ著書であり、単純パーセプトロンは線形分離不可能なパターンを識別できない事を示し、1960年代の第1次ニューラルネットワークブームを終わらせ、1970年代の「AIの冬」をもたらす原因のひとつにもなった。 彼は他にもいくつかのAIモデルを考案している。著書 "A framework for representing knowledge" ではプログラミングの新パラダイムを生み出した。また、『パーセプトロン』は今では実用書というよりも歴史的な著作だが、は今も広く使われている。ミンスキーは映画『2001年宇宙の旅』にアドバイザーとして参加し、映画にも小説にも名前が出ている。 1970年代初期、MIT人工知能研究所でミンスキーとシーモア・パパートは、「心の社会; 」理論と呼ばれるものを開発し始めた。理論は、どうしていわゆる知能が知的でない部分の相互作用から生まれるかを説明することを試みる。ミンスキーは、おもちゃのブロックを積み上げるロボットアーム、ビデオカメラ、およびコンピュータを使うマシンを作成しようとした彼の作業からこの理論についての着想を得たと言う。1986年、ミンスキーは以前の著作のほとんどと違って、一般大衆向けに書かれたこの理論の包括的な本『心の社会』を出版した。 2006年11月に出版した "" は、人間の心の働きについての様々な理論を批判し、新たな理論を示唆し、しばしば単純なアイデアをより複雑なものに置換している。この本の草稿は彼のウェブページで無料で公開されている。 2016年1月24日、脳出血のため死去。。 受賞歴と加入組織. 受賞歴は次の通り。 ミンスキーはローブナー賞には批判的である。 私生活. ミンスキーはジャーゴンファイルの人工知能に関する公案にも登場する。 私が実際言ったのは、「ランダム結線するなら、それもまた遊び方に先入観を与えることになるだろう。しかし、君はそれらの先入観が何なのかを全くわかっていない」ということだ。--Marvin Minsky ミンスキーは3人の子をもうけた。そのうちマーガレット・ミンスキーはMITの哲学博士で、ハプティクスに関心を寄せている。孫は4人いる。
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ボイジャー計画
ボイジャー計画(ボイジャーけいかく、)は、アメリカ航空宇宙局 (NASA) による太陽系の外惑星および太陽系外の探査計画である。Voyagerは日本語で航海者と訳される。本計画は2機の無人惑星探査機ボイジャー()を用いた探査計画であり、探査機は1977年に打ち上げられた。異星人に向けたメッセージとしてゴールデンレコードを搭載していることで有名である。惑星配置の関係により、木星・土星・天王星・海王星を連続的に探査することが可能であった機会を利用して打ち上げられている。1号・2号とも外惑星の鮮明な映像撮影に成功し、新衛星など多数の発見に貢献した。2機の搭載コンピューターのCPUは8.1 MHz、メモリは69.63 kB、重量721.9kg。動力は長期間の電力使用が可能な出力420Wの原子力電池が使われている。出力はほぼ同じであるが、2号の方がより容量の大きい電源を搭載している。当初の予定では打ち上げられる探査機の名称はマリナー11号・12号だった。 探査. ボイジャー1号は1977年9月5日に打ち上げられ、木星と土星とその衛星を観測した。ボイジャー2号は1977年8月20日に打ち上げられ、1号が訪れた惑星に加えて天王星と海王星とその衛星を観測した。結果、各惑星で新しい衛星を発見したり、木星、天王星及び海王星に環があることが明らかとなった。また、トリトンにおける大気の発見のほか、イオの火山についても明らかとなった。 1号の方が2号よりも後に打ち上げられているが、これは本来同日に打ち上げる予定であった1号がシステム不良のため16日間延期されたためである。また、当初のグランドツアー計画ではボイジャー1号を2号より数年早い時期に打ち上げる構想が存在したという経緯もある。当時は冥王星の公転角が天王星や海王星よりも遅れた後方に位置していたため、木星や土星の公転が天王星や海王星に追い付く前の早い時期に1号を打ち上げることで天王星や海王星を通らずに冥王星へ向かう軌道が構想されていた。しかし最終的に軌道計画が見直されて1号も2号も同時期に打ち上げられることになった。1号は土星接近時に2号よりも減速方向へスイングバイする形になり、そのぶん速い初速度で打ち上げられた。 ボイジャー1号・2号がいずれもこの時期に打ち上げられたのには理由がある。1970年代後半から1980年代にかけて木星、土星、天王星、海王星、冥王星といった外惑星が同じような方向に並ぶため、スイングバイ航法を用いてより遠くまで到達するのに最適な時期だったのである(スイングバイ航法を用いなかった場合、ボイジャーが地球を出発した時の速度では木星あたりまでしか到達出来ない)。ちなみに、この機会を逃した場合、次に並ぶのは175年後まで待たねばならなかった。天王星・海王星へ向かう予定が無かった1号についても2号とは異なる軌道に投入されたことで土星接近後に冥王星に向かう可能性が残された。ただし最終的に冥王星探査はキャンセルされており、代わりにタイタンへの接近探査が行われた。しかしタイタンの大気は予想外に厚く、結果的にボイジャー1号では雲の下までは観測できなかった。タイタンの地表面の本格的な探査は後年のカッシーニ・ホイヘンスまで、冥王星の探査はニュー・ホライズンズまで、どちらもお預けとなった。 レコード. ボイジャーには「地球の音」() というタイトルの金めっきされた銅板製レコードがついており、そこには地球上の様々な音や音楽(日本の音楽からは尺八による「鶴の巣篭もり」(奏者: 山口五郎)を収録)、55種類の言語による挨拶(日本語の「こんにちは。お元気ですか?」など)や様々な科学情報などを紹介する写真、イラストなどが収録されている。中にはザトウクジラの歌も収録されている。これは、ボイジャーが太陽系を離れて他の恒星系へと向かうので、その恒星系の惑星に住むと思われる地球外知的生命体によって発見され、解読されることを期待して、彼らへのメッセージとして積み込まれたものである。レコードに収録されている55種類の言語による挨拶や自然音、効果音、画像の一部が公開されている。 現状. 現在も1号・2号ともに稼働しており、ボイジャー1号は2020年6月現在で太陽から約224億km(約150 天文単位 (au))離れたところを太陽との相対速度・秒速約17.027kmで飛行中であり、地球から最も遠くにある人工物体となっている。 地球との通信のための電波は片道約17時間を要する。2010年12月、太陽風の速度がゼロになる領域に到達。2012年8月25日に太陽系(太陽圏)を出ていたことが1年後に発表された。 一方のボイジャー2号は2020年6月現在で太陽から約186億km(約124 au)離れたところを太陽との相対速度・秒速約15.497kmで飛行中であり、ボイジャー1号とパイオニア10号に次いで地球から遠いところを飛行している。こちらも2018年11月5日に太陽系(太陽圏)を出ていたことが1か月後に発表された。 2004年12月16日、ボイジャー1号は末端衝撃波面に到達した最初の惑星探査機となった。その後のボイジャー2号の観測によって末端衝撃波面が、南北対称ではなく歪んでいることがわかった。 原子力電池の出力低下にともない、少しずつ観測装置の電源を切っており、稼動を完全に停止するのは2025年頃の予定である。 その他. ドイツのアマチュア無線家が、アマチュアとしては初めて2006年3月31日にボイジャー1号の電波受信に成功。NASAに受信周波数などを確認申請したところ「ボイジャー1号の電波で間違いない」と確認された。そのときのボイジャー1号の位置は98.7 auで147.6億kmと推測されている。
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棟方志功
棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は、日本の板画家。従三位。 青森県出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。 来歴. 1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。豪雪地帯出身のため、囲炉裏の煤で眼を病み、以来極度の近視となる。 少年時代にゴッホの絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指した。青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだ。 1924年(大正13年)、東京へ上京する。帝展や白日会展などに油絵を出品するが、落選が続いた。1928年(昭和3年)、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、入選する。1930年(昭和5年)から文化学院で美術教師を務める。1932年(昭和7年)日本版画協会会員となる。 1934年(昭和9年)、佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで感動、制作のきっかけとなる。1936年(昭和11年)、国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民藝運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる。 1945年(昭和20年)、戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。1954年(昭和29年)まで在住した。志功はこの地の自然をこよなく愛し、また多くの作品を残した。1946年(昭和21年)、富山県福光町栄町に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付けた。また住居は谷崎潤一郎の命名によって「愛染苑(あいぜんえん)」と呼んだ。現在は栄町にあった住居を移築保存し、鯉雨画斎として一般公開している。 1956年(昭和31年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。1969年(昭和44年)2月17日、青森市から初代名誉市民賞を授与され、翌年には文化勲章を受章する。 1975年(昭和50年)9月13日、肝臓がんのため東京で死去。。死没日をもって従三位に叙された。青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた「静眠碑」と名付けられた墓がある 作風・人物. 棟方は大変な近視のために眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫った。第二次世界大戦中、富山県に疎開して浄土真宗にふれ、「阿弥陀如来像」「蓮如上人の柵」「御二河白道之柵」「我建超世願」「必至無上道」など仏を題材にした作品が特に有名である。「いままでの自分が持っているル一ツの自力の世界、自分というものは自分の力で仕事をするというようなことからいや、自分というものは小さいことだ。自分というものは、なんという無力なものか。何でもないほどの小さいものだという在り方自分から物が生まれたほど小さいものはない。そういうようなことをこの真宗の教義から教わったような気がします」と言っている。 また大のねぶた好きであり、作品の題材としても描いている。中には歓喜する自身の姿を描き込んだものもある。また生前ねぶた祭りに跳人として参加している映像や写真も現存する。 一般に版画家はまとめて作品を摺り、必要に応じて限定番号を入れるが、棟方はこうしたやり方を嫌い、必要な時に必要な枚数を摺り、その時点で必要であれば擦った日付とサインを入れた。棟方がサインを入れ始めたのは1955年(昭和30年)前後であり、戦前の作品にはサインが無い。作品の題名が変わることも頻繁にあり、注意を要する。 一方、棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。
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仮面ライダー555
『仮面ライダー555』(かめんライダーファイズ、欧文表記:"MASKED RIDER Φ's") は、2003年1月26日から2004年1月18日まで、テレビ朝日系列で毎週日曜8時から8時30分(JST)に全50話が放映された、東映制作の特撮テレビドラマ作品。仮面ライダーシリーズ初の地上デジタル放送でもある。 キャッチコピーは「疾走する本能」。 概要. 平成仮面ライダーシリーズの第4作。前作『仮面ライダー龍騎』とは異なり、劇中で「仮面ライダー」という名称は用いられていない。 従来描かれることの少なかった怪人側のドラマにも本格的にスポットが当てられ、怪人(オルフェノク)へと変わってしまった者たちの苦悩が描かれている点が、本作品の大きな特色である。怪人の人間ドラマを描くことは、「ヒーローが殺人者に見えてしまう」というデメリットから敬遠されていたといい、「仮面ライダーシリーズ」での作劇は初の試みであった。 『仮面ライダー龍騎』同様にライダーに変身する人間が善良とは言えない者だったり、本作品では逆に怪人・オルフェノクにも彼らなりに正しい心を持つ者がいたりと、単純な善悪二元論では割り切れない群像劇が織りなされた。従来のシリーズ同様に幼年層を意識しながらも、登場人物同士の様々な人間関係を前面に押し出した重くシリアスな物語が展開されている。劇中では「人間と怪人の共存」が作中のテーマとして取り上げられ、ライダーに変身する主人公・乾巧も中盤以降、人間に危害を加えない、あるいは改心する見込みのあるオルフェノクに対しては止めを刺さないというスタンスを採っている。様々な立場のオルフェノクと人間、それぞれの思惑が交錯する入り組んだストーリーは、シリーズ中でも特に複雑なものとなっている。また、作中でも登場人物たちが相互に変身している人物が不明確であるがゆえの誤解や、他者の謀略による行き違い、感情のすれ違いなどから衝突や殺し合いに発展するなど、「誰を信じ、誰を信じないか」という極めて難解なテーマも掲げている。 また、体の灰化、新しいベルトの実験でベルトを付けた人間の消滅、といった描写に見られるように、従来よりもホラー色の強い作品にもなっている。パイロット版監督の田﨑竜太は、子供番組として「死」を表現することもテーマとして掲げている。 外付けかつ自由に携帯可能な変身ベルトを用いて変身する設定が本格的に取り入れられた作品であり、その要素は後のシリーズでも受け継がれている。そのため、劇中に登場する各ライダーにも複数の変身者が存在し、時には敵であるオルフェノクがライダーに変身することもある。ただし、変身アイテムの他に契約を必要としていた『龍騎』のように、適合性を備えていない者は繰り返しの変身、あるいは変身自体ができないため、「条件が満たされていないと仮面ライダーの資格がない」という点で従来の要素もまだ活きている。本作品ではアイテムの争奪戦が物語の主軸の一つとなっており、脚本の井上敏樹は本作品を「主人公はベルト」「3本のベルト物語」と評している。また、「変身ベルト」と呼ばれていた従来のイメージを払拭させるため、シリーズでは初めて「ベルト」ではなく「ドライバー」という名称になった。 あらすじ. 西暦2003年。九州で一人旅をしていた青年乾巧は、そこに居合わせた少女園田真理とともに、謎の怪人オルフェノクに襲われる。真理は持っていたベルトを装着して超戦士ファイズに変身しようとするが失敗し、無理やり巧にベルトを着け、彼をファイズに変身させることで窮地を脱した。どうやらオルフェノクたちは、そのベルトを狙って真理を襲ったらしい。その後2人はクリーニング屋の菊池啓太郎と出逢い、事情を知った彼の勧めにより東京にある彼の家で3人の共同生活を始めることになる。 一方、東京で暮らしていた青年木場勇治は、2年前の居眠り運転のトラックによる交通事故によって両親を失い、自らも2年間の昏睡状態を経て死亡したかに見えた。しかし、勇治は病院で謎の蘇生を遂げ、周囲を混乱させる。自らも混乱したまま帰宅する勇治だったが、自宅は既に他人のものとなっていた。叔父一家が自分が眠っている間に財産を根こそぎ利用していた事実を知り、恋人が自分を裏切り従兄弟と交際していることを知った勇治は、異形の怪物に変身し、従兄弟と恋人を手にかけてしまう。 醜悪な肉体変貌と犯した罪に絶望する彼の前にスマートレディという女性が現れ、事の真相を告げる。勇治は一度の死亡により、オルフェノクとして覚醒したのだった。スマートレディが属するオルフェノクの組織スマートブレイン社に囲い込まれた勇治は、同じようにオルフェノクとして覚醒した長田結花と海堂直也の2人と行動を共にするうちに、人類を敵視するスマートブレイン社の姿勢に反発し、人類とオルフェノクの融和を考えるようになる。 巧と勇治。2人の男の物語を中心に、ベルトを、ひいては人類の未来を巡って、オルフェノクと人類の戦いが幕を開けた。 オルフェノク. 本作品における敵。人間が一度死を迎えた後に知的生命体へと再度覚醒した人類の進化型。通常の人間として病死や事故死を経て自ら覚醒する場合と「使徒再生」(後述)により覚醒する場合の2通りの覚醒パターンがあるが、前者のパターンで覚醒したオルフェノクは「オリジナル」と呼ばれ、その数は希少ながら全体的に高い能力を持つ傾向にあり、いずれもオルフェノク因子を持った者のみが覚醒する。なお、オリジナルであることがはっきりわかるのは乾巧、木場勇治、長田結花の3名と、澤田亜希を除くラッキー・クローバーのメンバーのみである。また、実験段階ながら人為的な操作によって作り出されたオルフェノクも存在する。 通常外見は人間だった時と同一で、オルフェノク同士でも人間との区別がつかないが、自らの意志で細胞の配列を組み替えることで地球上の動植物一種の性質や外見と、それに見合った特殊能力を具えた異形な姿へ変化する(複数の形態を併せ持つ者もいる)。それは動植物のほかにその者が潜在的に抱いている「戦う姿」としてスポーツ選手や戦士などを彷彿とさせる意匠が具体化したものである。どの個体も体色は灰色が基調であるが、これは“死”や“滅亡”のイメージ(具体的には“死体”)を表している。変化する場合、瞳が灰色になり、顔にオルフェノクの顔のシルエットが浮かび上がる。オルフェノク状態で人間の言葉を発する際には、足元の影が青白い裸身の人間の上半身になる。力を物にしたオルフェノクは、人間態でもある程度はその力を発揮することが可能であり、並のオルフェノク相手ならば戯れ程度に薙ぎ倒す。また、オルフェノクになったからといって傷病などを負わなくなるわけではなく、風邪をひいたり体調を崩すこともあるなど、通常時においては人間とさほど変化はない。また、普通のオルフェノクは人間態の時は人間並の力しか出せないが、体自体は頑丈になっており、勇治は人間態で超高層ビルからの飛び降り自殺を図った際にも傷一つ負っていない。 全てのオルフェノクには、腹部に共通の紋章である「死と再生」を表すオルフェノクレストがある。これは3方向に伸びた矢印であり、3つの矢印がそれぞれ「命あれ」「形あれ」「姿あれ」と願う“心”を象徴していて、人間がオルフェノクへと進化する段階を表している。 オルフェノクは人間の中から半ば自然的に発生する存在であるため、種全体として組織化されているわけではない。オルフェノクとして覚醒した者が現れると、スマートブレイン社はいち早く接触を図って同種として受け入れ、オルフェノクに関する知識と援助を与える一方で、管理下に置こうとする。しかし、スマートブレイン社の情報収集能力や統制力には限界があり、オルフェノクに覚醒後もスマートブレイン社に従わない者、スマートブレイン社に知られないまま過ごす者も存在する。 オルフェノクの多くはその力に溺れて人間性を喪失し(三原曰く、本当に怖いのはオルフェノクの力じゃなく、力に驕れる人間の弱い心)、人間社会に紛れて生活しながらも密かに人間を襲い(仲間を増やすことにも繋がる)、人間との共存が不可能だと考えて自分たちだけの世界を作ることを目指す。勇治たちのように共存を望む者や、人間として生きようとする者もいるが、人間を殺めるのも由としないオルフェノクはスマートブレイン社から「裏切り者」と称され、刺客による抹殺の標的にされる。ただし、人間を襲う者はブラックリストには載っていないため、海堂を倒すために現れた琢磨は海堂を庇った結花を襲わなかった。 なお、彼らの存在意義は「いずれ地球の代表者として“何者か”と戦うために生まれてきた」「地球意志が、人からさらに次元の進んだ存在を造り、人と競わせることで精神の進化を促しているようでもある」「地球上の生物全てを背負ったオルフェノクという種そのものが、いずれ“ノアの方舟”になるのではないか」とされ、そういう意味では彼らの心自体は人と何ら変わらないという。 オルフェノクは最期の時、青白い炎を噴き出して灰になって死を迎える。強力なフォトンブラッドによる攻撃(ライダーの必殺技)を受けて倒された場合は、青い爆発と共に瞬時に灰と化す。また、寿命が近づくと時々体がわずかに灰化し、死期には一気に灰となって崩れる。 オルフェノクへの進化は極めて急激になされ、その急激な進化に多大な負担を強いられて肉体が急速に滅びて耐えきれないため、長寿の生命が保てず、個体差はあるものの、死に至る病と同様にいずれは肉体が灰となって崩れ去り、滅びの時が訪れる運命にある。オルフェノクの王の力に頼ることで、真の力と永遠の命を得られるが、その場合人間としての部分を消滅しなければならないため、元の人間の姿には戻れない。 使徒再生. オリジナルのオルフェノクが人間の内臓にオルフェノクエネルギーを注入して覚醒を促してオルフェノク化させる行為で、内臓の破壊方法はオルフェノクの特質ごとに差異がある。主に体の一部を使徒再生能力がある触手に変化させ、人間の口や鼻を通して内臓部分に到達させる。使徒再生の触手はガラスなども通り抜ける特殊な触手で、車などのガラス張りの乗り物の中にいる人間を、密閉された状態で殺害することが可能である。使徒再生を受けた人間がオルフェノクとして覚醒することはごく稀であり、多くの場合は一度再生するも肉体がエネルギーに適応できず、灰化して崩れ落ちてしまう。通常の人間にとっては実質、殺人と同義の行為である。 ラッキー・クローバー. オルフェノクのスマートブレイン社社長直轄の非公式集団。村上曰く「オルフェノクの中でも上の上」の特殊能力を持つ上級オルフェノクの精鋭4人で構成され、スマートブレイン社から豪華な邸宅の提供や施設の自由な利用など、様々な特典が用意されている。メンバーの一人である琢磨は、ラッキー・クローバーは協力者であって部下ではないと村上に釘を刺しており、定数は名称通り4名を絶対としているが、村上の意向であっても既存のメンバーが了解しなければ入会することができないという不文律がある。初登場時メンバーは、琢磨逸郎(センチピードオルフェノク)、影山冴子(ロブスターオルフェノク)、ジェイ(クロコダイルオルフェノク)、北崎(ドラゴンオルフェノク)の4人。ジェイの死亡後は1つの空席を巡って複数のオルフェノクが候補となり、一度は澤田亜希(スパイダーオルフェノク)がジェイの後釜となるが、デルタギアを流星塾のメンバーに渡したことが原因で、村上の怒りを買って放逐される。その後、澤田によって殺害された真理の蘇生と引き換えに、オルフェノクの本性を現した乾巧が一時的に加わるが、ファイズギアを託した木場勇治に殺されるのを望んでの行為であり、それに失敗すると逃亡し脱落する。また終盤では冴子が、人知れず殺戮を繰り返していた長田結花を村上が推挙したことでラッキー・クローバー候補に推薦するべく勧誘したが、断られたため彼女を殺害している。 キャスト. 過去の特撮作品のメインキャラクターを演じた原田篤(『救急戦隊ゴーゴーファイブ』)や山崎潤(『仮面ライダーアギト』)がレギュラー出演した他、本作品が俳優デビューとなる綾野剛が物語のキーマンを務めた。また、前作『仮面ライダー龍騎』に出演した栗原瞳は、本作品でも引き続きレギュラー出演している。この他、『仮面ライダーゴースト』に声優としてレギュラー出演した悠木碧も、「八武崎碧」名義で幼少期の真理役を演じた。 スーツアクター. 各話オルフェノクおよびドラゴンオルフェノク担当の渡辺淳は、本作品でスーツアクターとしてデビューした。 スタッフ. 脚本は井上敏樹が全エピソードを担当している。東映特撮で30分番組4クールの作品で全話脚本を行ったのは、上原正三(『宇宙刑事シャイダー』)、浦沢義雄(不思議コメディーシリーズの数作品)、小林靖子(『美少女戦士セーラームーン』)、そして井上の父である伊上勝(『仮面の忍者 赤影』)などがおり、親子2代で同じ記録を残したことになる。 この他、キャラクターデザインには前作より引き続きの参加となる篠原保が、音楽面ではゲームやアニメ作品を中心に劇伴を手がける松尾早人が起用された。松尾は東映作品としては現時点で唯一の登板となる。 またカメラ面では、現在平成仮面ライダーシリーズをメインで担っている倉田幸治は本作品が撮影技師としてのデビュー作となった。 音楽. 仮面ライダーファンを公言しているISSA(DA PUMP)が主題歌の歌唱を担当した。 また、第18話では劇中で倉田恵子が「亜麻色の髪の乙女」を歌唱した。 制作. 企画経緯. 本作品の企画は、シリーズの継続や石森プロが参加するかどうかなどが決まらずにスタートが難航し、例年より遅い2002年8月後半ごろに開始された。仮面ライダーシリーズ以外では『人造人間キカイダー』という案も存在したが、仮面ライダー人気が衰えを見せなかったことからシリーズの継続が決定された。本作品は『仮面ライダークウガ』から4作品目となるため、昭和シリーズ4番目の主人公である『仮面ライダーX』も意識したメカニックライダー路線となった。なお、本作品のタイトルの発想は平山亨による『仮面ライダーX』の番組タイトル案の一つ『仮面ライダーGO5号(ゴーゴーゴー)』から得られている。 仮面ライダーのデザインは、子供に描きやすいよう円など幾何学模様をモチーフとしており、また幾何学模様に類似したギリシア文字も取り入れられている。初期案では、前作の影響もありシャチとサメのダブルライダーという案も存在したが、メカニックライダーであることから生物をモチーフとする案は廃された。 シリーズ構成は、前作『仮面ライダー龍騎』がイベント性の高い作品であったため、その反動から本作品では物語性を重視しようと考えられた。怪人側のドラマを描くという方向性も、前作が13人の仮面ライダーが登場するために怪人の扱いが弱くなっていたことへの反省などから生まれたものである。 プロデューサーの白倉伸一郎は、『仮面ライダーアギト』のころから温めていたロードムービー展開を、序盤のみであるが実現させている。 玩具展開. 携帯電話など電子機器をモチーフにした「ファイズドライバー」を始めとする変身ベルトの玩具は、100万本以上を売り上げる大ヒット商品となった。『仮面ライダーW』のダブルドライバーに抜かれるまで仮面ライダーシリーズの変身ベルトとしては最多売上を誇っていた。 前作『仮面ライダー龍騎』では可動フィギュア「R & M」の売り上げがメインキャラクター以外芳しくなく、ソフトビニール人形「ライダーヒーローシリーズ(RHシリーズ)」の方が好調であったため、本作品ではRHシリーズとサイズを合わせた「S-RHFシリーズ」が展開された。 放送日程. 各回にはタイトルは無く、ここで「放映題」としているものは新聞のテレビ番組欄やテレビ番組情報誌、テレビ朝日公式ページにて表記されたものである。またシナリオタイトルも、先行して特撮専門誌やホビー情報誌に「仮タイトル」として掲載されることが多いため併記した。脚本は全話井上敏樹のため省略。各話終了後には数本のフォトンブラッドが流れ四角形に形成される演出だった。 登場怪人のうち、長期間にわたって登場したオルフェノクやラッキー・クローバーの面々(クロコダイルオルフェノク、センチピードオルフェノク、ロブスターオルフェノク、スパイダーオルフェノク、ドラゴンオルフェノク)は割愛。 他媒体展開. 映像ソフト化. いずれも発売元は東映ビデオ。 仮面ライダー555 Hondaチーム. 本作品にバイクなど車両を提供しているホンダが「仮面ライダー555 Honda」チームを結成し、鈴鹿8時間耐久ロードレースへのエントリーを行った(チーム運営は「桜井ホンダ」が協力)。レースにおいては、他チームのトラブルに巻き込まれたが、結果は70チーム中、総合10位での完走を果たした。このレースには、参加ライダーがファイズとカイザをモデルとしてデザインされたヘルメットとスーツを着て出場していた。また、チーム監督である宮城光とファイズのスーツを着てレースに参戦した山口辰也は、翌年も「仮面ライダー剣 Honda」チームに再招集された。
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レンネット
レンネット (Rennet) とは、母乳の消化のために数種の哺乳動物の胃で作られる酵素の混合物のことで、チーズの製造に用いられる。凝乳酵素とも呼ばれる。主な活性酵素はキモシン(chymosin、) である。 概要. 元来は、偶蹄目(ウシ、ヒツジ、ヤギ)の哺乳期間中の第4胃袋(ギアラとも呼ばれる)に存在する。この中でも、仔牛由来のものはカーフレンネットと呼ばれ、珍重されている。現在、通常はカビからとれるものや、遺伝子組換によって微生物から得られたものを多く利用する。 ウシ、ヤギなどの第4胃袋の消化液の抽出物が、標準レンネットと呼ばれる。若い仔牛の消化液には、キモシン88~94%とペプシン6~12%が含まれているといわれ、乳離れするとキモシン分泌量が急激に減少する。草を食べ始めるころになると、キモシンとペプシンの含有量が逆転し、ほぼペプシンのみとなる。この推移は他の偶蹄目でもみられ、やはり草を食む頃になるとペプシンが多くなってくる。このペプシンはタンパク質分解酵素であるため、成長した家畜の消化液を使っても凝集は起こらず、チーズを作ることは出来ない。 歴史. ヨーロッパでは長い間、チーズ作りの材料に偶蹄目由来のレンネット(ペプシンレンネット)が用いられてきた。消化液は反芻運動(嘔吐)では集められないため、家畜を屠殺して胃を取り出して消化液を集める必要がある。このため、安定供給が受けられず、大量の家畜が必要となるため酪農家の負担も大きかった。やがて、1960年代に原料の元となる家畜不足を原因として、代替物が多く用いられはじめることとなった。この際、ケカビ(; シノニム: )が生成するレンネットが注目されることとなった。微生物レンネットと呼ばれるこれは全世界で用いられているが、伝統の維持などの観点からペプシンレンネットだけしか認めていない場合もある。 古代ギリシアの叙事詩『イーリアス』には植物性のレンネットに関するくだりがある。アリストテレスの『動物誌』にもイチジクの樹液を使った凝乳作用の説明がある。他にも、古代ギリシアやローマ時代の記録に酢、ベニバナの種、カルドン、アーティチョークの花、カワラマツバなどの植物をレンネットとして挙げている。これらの植物性レンネットは、ほとんど廃れてしまったが、今日でもイベリア半島やクレタ島の数種類のチーズに伝統が残っている。 レンネットによる乳凝固の原理. レンネットを加える前段階で、まず乳を乳酸発酵させる。無殺菌の乳では環境微生物中の乳酸菌により乳酸発酵が起こるが、殺菌乳では多くの場合、人為的に乳酸菌を加える。乳酸発酵した乳は酸性になり、カルシウムイオンが増加する。 乳中でカゼインなどの蛋白質 は−の電気を帯びており、互いに反発しあって凝集することはない。特にκカゼインはカルシウムイオンに対して安定で、このためカゼインミセルはこのままでは沈殿しない。 ここでレンネットを加えると、プロテアーゼであるレンニンがκカゼインに作用してその結合を切断する。結果、κカゼインは浮遊力を失って不安定になり、カゼインミセルから分離する。そして−の電気が弱まったカゼインミセル同士がカルシウムイオンを介してくっつき、脂肪球と共に沈殿凝固する。これが乳の凝固の原理である。
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チューリングマシン
チューリングマシン () は、アラン・チューリングが「計算可能性」に関する議論のために提示した抽象機械である。 歴史. チューリングの「計算可能数について──決定問題への応用」(1936年)において提示された。同様なものを同年にエミール・ポスト (Emil Post) も独立に発表している。構想の理由、動機についてはポストの論文が明確だが、機械自体に関する記述はチューリングの論文が詳細である。次いで、同時代に提示された他の計算モデルも計算可能性の理論からは同等であることが確認され、チューリング=チャーチのテーゼはそれらを「計算可能」の定義とすることを提唱した。 概要. ここでは非形式的(直感的)に述べる。理論的には形式的に述べる必要がある。 チューリングマシンには、いわゆるハードウェアに相当するものとして、 がある。 また、ソフトウェアに相当するものとして、以下がある。 この有限オートマトンの状態遷移規則は、その有限オートマトンの「現在の状態」(内部状態)と、ヘッドがテープの「現在の場所」から読み出した記号の組み合わせに応じて、次のような動作を実行する。 さらに、この有限オートマトンには(一般的な有限オートマトンの「受理状態」と同様な)「受理状態」がある。計算可能性理論的には、決定問題の2種類の答えに対応する、2種類の受理状態が必要である。 現実の計算との関係. 実際の計算機の基本的動作も、突き詰めて考えれば、このチューリング機械の原理に従っているといえる。実用上の電子計算機はチューリング機械よりも遥かに複雑であり、また有限の記憶領域しか持たないが、「計算機で原理上解ける問題」は「チューリング機械で解ける問題」と同じであるといわれている。このため計算理論では、アルゴリズムをチューリング機械上の手続きと同一視して議論することができる(チャーチ=チューリングのテーゼ)。 数学の形式体系はすべてこの仮想機械の動作に還元できるといわれている。この機械で決定できない命題も存在する。例えば与えられたチューリング機械が停止するかどうかをチューリング機械で決定することはできない(停止性問題)。これはゲーデルの不完全性定理の別の表現の形とみなすことができる。 形式的な定義. この節では、チューリング機械を形式的(formal)に記述する。 あるチューリング機械は次のformula_1つ組formula_2で定義される。 M の状況とは、formula_3上の(片側)無限列のうち、Q の元がちょうど1度現れ、また b 以外の記号が有限回しか現れないものをいう。遷移函数 δ は、状況から状況への写像を自然に定める。M が文字列formula_4を受理するとは、状況formula_5にこの写像を有限回施すことで状況formula_6が得られることをいう。その最小回数を M の x に対する実行時間とよぶ。その過程における状況中の q の最右位置を、M が x に対して使用する記憶領域量という。 M が言語formula_7を認識するとは、M が L の元のみをみな受理することをいう。そのようなチューリング機械 M が存在するとき、L は帰納可枚挙(recursively enumerable)あるいは計算可枚挙(computably enumerable)であるという。L とformula_8がともに帰納可枚挙であるとき、Lは帰納的(recursive)あるいは決定可能(decidable)であるという。 より精細に、自然数から自然数への写像 t に対し、M が L を時間計算量[ないし空間計算量]t で認識するとは、M が L を認識し、かつ各formula_9に対するformula_10の実行時間[ないし記憶領域量]がformula_11以下であることをいう。ここでformula_12は文字列 x の長さを表す。 変種. 細かい相違. 次の各項目について上記の定義に変更を施しても、帰納可枚挙な言語は変わらず、また時間計算量や空間計算量に対する影響も小さい。このため、チューリング機械の定義の詳細は文献によって異なっている。 空間計算量を細かく調べるときには、書き換えできない入力専用テープを設けて、そこでの使用領域量を無視することがある。すなわち、遷移函数formula_16をformula_17からformula_18への写像とし、状況の定義も適切に変更する。 変換機. 言語を認識するだけでなく、formula_19からformula_19への部分函数formula_21を計算する機械を考えることもできる。すなわち機械formula_10は、各formula_23に対しては文字列formula_24をテープに書いてから初めて受理状態へ移り、formula_25に対しては決して受理状態へ移らない。このようなformula_10が存在するとき、formula_21は部分帰納的あるいは計算可能(computable)であるという。 決定的と非決定的. 遷移関数formula_16において、現在の状態 q と着目位置にある記号 a の、ある組 (q, a) に対し、値(すなわちその時にすべき動作)が、高々一つならば、そのチューリングマシンは「決定的」(deterministic)である。これに対し、動作が複数の場合は「非決定的」(non-deterministic)であり、受理の意味も再定義して、非決定的チューリングマシンや乱択チューリングマシンが定義される。また、未来と過去を逆にしても決定的であるのが可逆チューリングマシンである。 神託つき機械. 質問状態を加える。 万能チューリングマシン. 遷移規則をうまく構成することで、「いかなるチューリングマシンであろうとも、それを模倣することが可能なチューリングマシン(万能チューリングマシン)」が可能である。万能チューリングマシンは、与えられた、別のチューリングマシンを記述した記号列と、そのチューリングマシンへの入力記号列を読みこみ、それに従って動く。(エミュレータの原理) 外部リンク. 解説 その他
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ロック (音楽)
音楽ジャンルとしてのロック、もしくはロック・ミュージック、ロック音楽(ロックおんがく、)は、1950年代にアメリカ合衆国の黒人音楽であるロックンロールやブルース、カントリーミュージックを起源とし、1960年代以降、特にイギリスやアメリカ合衆国で、幅広く多様な様式へと展開した強いビートと電気的に増幅した大音量のサウンドを特色とする。 また、ロックミュージックは英国のモッズや、1960年代後半の米国のヒッピームーブメントやカウンターカルチャーなどの社会運動が高揚した時代と同時期に絶頂期を迎えた。1970年代後半のパンクは、ニューウェイヴへと発展した。 フォークのプロテスト精神を継承し、ロック・ミュージックは政治行動や人種、性別、セックス、ドラッグに対する社会的態度とも結びついており、旧世代による体制や、消費主義に対する若者による反乱でもあった。 概要. ロックンロールは、R&B、ブルースとカントリーなどを融合することで誕生した。その後ビートルズの登場により、ロックンロールは抽象的な要素を含むようになり「ロック」と呼ばれるようになっている。1950年代から1960年代初頭のラブ・ソング主体のポップスやロックンロールとは異なり、「ロック」の歌詞は、体制に対する反乱、政治・社会的問題、芸術、恋愛、セックス、哲学など、幅広いテーマを扱っている。 音楽ジャーナリストのロバート・クリストガウは多くの場合、白人中流階級のミュージシャンが優勢なジャンルであるとも述べているが、実際にはビートルズ、ザ・フー、アニマルズなどイギリスのロッカーには、「労働者階級出身者」が多かった。アメリカのブルース・スプリングスティーンも、労働者の一部のアイコンとなっていった。 社会音楽学者は、ロックは「どこかポップ以上のもの、どこかロックンロール以上のもの」であり、それは「ミュージシャンが、スキルやテクニックに重点をおき、それをロマンチックなアート表現のコンセプトと組み合わせたからだ」とした。またロックは、ブルース・ギタリストやエレクトリック・ギタリストの強い影響を受けて発展してきた。 詳細. ロックのサウンドは、伝統的にエレクトリックギターが中心となるが、現代的な形態のエレクトリックギターは1950年代にロックンロールの人気とともに登場したものであった。ロックにおけるエレクトリックギターのサウンドは、典型的な場合、同時期のジャズにいち早く導入されたエレクトリックベースと、ドラムとシンバルを組み合わせたドラムセットによるパーカッションによって支えられる。この3つの楽器によるトリオに加えて、他の楽器が追加されることも多く、特にピアノ、ハモンドオルガン、シンセサイザーといったキーボード類が加えられることがよくある。ロック音楽を演奏するミュージシャンのグループは、「ロックバンド」「ロックグループ」と呼ばれることが多く、典型的には2人から5人のメンバーから構成される。ロックバンドの古典的な形は、ボーカル、リードギター、リズムギター、ベース、ドラムス、また時にはキーボード、その他の楽器から、ひとつ以上の役割を引き受けるメンバー4人によって編成される。 初期. ロックンロールという言葉は、1951年にDJのアラン・フリードによって、ダンス向きの黒人音楽を指す言葉として名付けられたとされる。1954年にはビル・ヘイリーとヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が発表され、さらに1956年にエルヴィス・プレスリーがロカビリーで成功を収めると、多くのアーティストがロックの演奏をはじめ、ロックは音楽の一大ジャンルとなった。ロックは時を置かずイギリスにも上陸したものの、一方アメリカでは商業化の進展とともに活力が失われていき、1950年代末から1960年代初頭にかけては一時失速した。 ブリティッシュ・インヴェイジョンとフォーク・ロックほか. 1960年代後半の時期は、ロックの「黄金時代 (golden age)」「ルネッサンス」、後にクラシック・ロック(classic rock)」とも呼ばれた。 1964年、ビートルズはロックンロールが誕生した国、アメリカへの上陸を果たし、全米チャートでヒットを連発することになった。ビートルズ以外にも、エリック・バードン率いるアニマルズやローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクス、ゾンビーズ、デイヴ・クラーク5といったイギリスのロック・バンドなどがこの時期にアメリカでヒットを出したことから、これはブリティッシュ・インヴェイジョン ("British Invasion": イギリスの侵略)と呼ばれる。アメリカでもブリティッシュ・インヴェイジョンの影響を受けて、後にガレージロックと呼ばれるグループが次々と登場し、一部のバンドは成功を収めた。その中で特に人気を博したのは、カリフォルニア出身のビーチ・ボーイズであった。ニューヨークで結成されたヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、商業的な成功を収めることはできなかったが、ルー・リードの実験的音楽性や文学的素養からアート・ロックと呼ばれ、ドアーズやザ・ストゥージズ、後のパンク・ロックやニュー・ウェイヴに影響を与えた。 また、時を同じくしてブリティッシュ・インヴェイジョンの影響を受けたフォーク・グループも次々と登場した。これらのグループの多くは元々はフォークを演奏していた若者たちによって結成されたものであり、彼らの音楽性もフォークからの影響を受けたものであったため、この動きはフォーク・ロックと呼ばれた。フォーク・ロックの代表的アーティストには、ボブ・ディラン、バーズ、タートルズ、ママス&パパス、ボー・ブラメルズ、グラスルーツ、バッファロー・スプリングフィールドなどがいた。1960年代末からは、サンタナなどのラテン・ロック、カントリーロックのニール・ヤングやイーグルスも登場した。 このころには、1967年にカリフォルニア州のモントレーでモントレー・ポップ・フェスティバルが開催されたのを皮切りに大規模なロック・フェスティバルが各地で開催されるようになり、なかでも1969年に行われたウッドストック・フェスティバルは40万人もの観客が集結した伝説的なイベントとして語り継がれている。 ハードロックとグラム・ロック. 1960年代末にレッド・ツェッペリン、クリームなどが登場し、ブルースをよりロック的に演奏することに重点を置くようになった。エレクトリックギターのエフェクター類の発展や、大音量の出せるPA等も、これらの新しいサウンドを支えた。そしてビートルズ(曲「ヘルタースケルター」)、ジミ・ヘンドリクス、クリーム、キンクスなどをルーツしたハードロックが登場した。ディープ・パープル、レッド・ツェッペリンは1970年代前半に商業的成功を収めたハード・ロックとなった。グランド・ファンク・レイルロード、フリー、ブラック・サバス、マウンテン、ユーライア・ヒープらが後に続き、1970年代にはその影響を受けたクイーン、キッス、エアロスミスがデビューした。1970年代前半には、派手なメイクのT・レックス、デヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、モット・ザ・フープルやアリス・クーパーらのグラム・ロックも人気を博した。 プログレッシヴ・ロック. 1960年代末には実験的サウンドへの志向が強まり、長尺の曲や、難解な歌詞、楽器の演奏技術を極限まで極める傾向も出てきた。この傾向はヨーロッパ、特にイギリスにおいて強かった。シンセサイザーやメロトロンなど最新の楽器を使用し、クラシックを背景に高度な技術を駆使したロックはプログレッシブ・ロックと呼ばれた。代表的なバンドにはピンク・フロイド、イエス、キング・クリムゾン、エマーソン・レイク・アンド・パーマー、ジェネシス、ムーディー・ブルースなどがいた。 パンク/ニューウェイヴ. 1970年代前半のプログレッシブ・ロックやハードロックが隆盛だったが、75年以降は産業ロックがチャートに目立つようになってきた。それに対して「ロックは死んだ」と宣言しストレートでシンプルなロックに回帰したのが、1970年代後半に生まれたパンク・ロックだった。 1973年デビューのニューヨーク・ドールズや、1970年代半ばに登場したパティ・スミス、ラモーンズ、ディクテイターズなどにより1975年ごろ誕生したといわれるパンク・ロック(いわゆるニューヨーク・パンク)は、ラモーンズのロンドン公演などを機にロンドンでも存在が知られるようになる。 1976年末にはダムドが活動をはじめ、翌年にはセックス・ピストルズが結成され、ジャム、ザ・クラッシュ、ストラングラーズらが続きロンドン・パンクが興隆、社会現象となった。当時のロンドン・パンクは、1960年代のシンプルなロックンロールの原点に戻った。パンクは、テクニックを気にしないアグレッシヴな演奏、右翼からの襲撃対象となる程、権力や体制に反抗的で過激なロックだった。パンクが短期間で終息した後は、スティッフ、2トーンらのインディー・レーベルによるニュー・ウェイヴが登場した。 ニュー・ヴェイヴの代表的ミュージシャン、バンドとして、エルヴィス・コステロ率いるジ・アトラクションズやポリス、トーキング・ヘッズ、ジョイ・ディヴィジョン、ニュー・オーダー、パブリック・イメージ・リミテッドなどがいる。 オルタナティブ・ロックとグランジ. 1980年代以降、メインストリームから外れ、パンク・ロックなどの影響を受けたオルタナティヴ・ロックが台頭した。代表的なバンドとして、ザ・ストーン・ローゼズ、プライマル・スクリーム、ザ・スミス、R.E.M.、ソニック・ユース、ピクシーズ、スマッシング・パンプキンズなどがいる。中でも、パンク・ロックとヘヴィメタルの要素を融合したグランジは、ニルヴァーナ、パール・ジャム、サウンドガーデンなどを生み、ロックの潮流を大きく変えた。 電子音楽やノイズミュージックとハードロックやヘヴィメタルを融合したインダストリアル・ロックも登場した。代表的なバンドとして、ミニストリーやナイン・インチ・ネイルズなどがいる。 また、ヒップホップの台頭を受け、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、コーンなど、ファンクやヘヴィメタルとヒップホップを融合させるバンドも現れた。 ブリットポップ. 1990年代、ロンドンやマンチェスターを中心に、ブリティッシュ・インヴェイジョン、グラム・ロック、パンク・ロックといったイギリスのロック黄金期の影響を受けたブリットポップと呼ばれるバンドが多くデビューした。代表的なバンドとして、ブラー、オアシス、スウェード、パルプ、ザ・ヴァーヴなどがいる。また、フィードバック・ノイズやディストーションなどを複雑に用いたギターによるミニマルなリフの繰り返し、浮遊感のあるサウンドが特徴のシューゲイザーも登場する。代表的なバンドとして、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、ジーザス&メリーチェイン、ライドなどがいる。 ポストロック. 1990年代以降、ギターをリフやパワーコードではなく音色や響きを重視して演奏するなど、ロックの枠組みにとらわれない新しいサウンドを目指すアーティストが出現する。代表的なミュージシャンとして、シカゴ出身のトータスやジム・オルークがいる。 テクノ・ミュージックの隆盛により、ロックとテクノを融合させたアーティストも多く生まれた。代表的なミュージシャンとして、マッシヴ・アタック、プロディジー、ケミカル・ブラザーズなどがいる。また、ブリットポップ出身のレディオヘッドがエレクトロニカの要素を強め、電子音楽とロックの境界はさらに縮まった。 2000年代以降は、音楽性の多様化でロックをカテゴライズするのが難しくなっていく。パンクやニューウェイヴの流れをくむガレージロックでは、ザ・ホワイト・ストライプス、ザ・ストロークス、ザ・リバティーンズ、アークティック・モンキーズなどがいる。ダンス・ミュージックとパンクを融合したダンス・パンクでは、LCDサウンドシステム、フランツ・フェルディナンド、!!!などがいる。プログレッシブ・ロックとヘヴィメタルを融合したプログレッシブ・メタルでは、トゥールやアイシスがいる。インストゥルメンタルを主軸に置くポストロックでは、モグワイやゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーがいる。実験音楽やサイケデリック・ロックなどを融合したドリーム・ポップでは、シガー・ロスやアニマル・コレクティヴがいる。
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やぶうち優
やぶうち 優(やぶうち ゆう、1969年12月1日 - )は、日本の女性漫画家、同人作家。兵庫県西宮市出身。北海道札幌市在住。 代表作に『水色時代』、『少女少年』、『ないしょのつぼみ』、『まほちゅー!』など。 来歴. 1983年、13歳の時、『ちゃお』(小学館)9月号増刊に掲載の『ボインでごめん!』でデビュー。デビュー時のペンネームは薮内 優(やぶうち ゆう)。 1980年代は学生活動をしながら『ちゃお』とその派生誌で読切作品を執筆し、1990年代は『ちゃお』のレギュラー作家として連載作品を発表。特に1990年代前半から中盤にかけては、後輩のあらいきよこ、清水真澄と共に『ちゃお』の看板作家として活躍した。 作風は自身の青春体験からの創作である。『水色時代を過ぎても』『ないしょのつぼみ』は自身の体験を取り入れている。 代表作『水色時代』のテレビアニメ化が切っ掛けで1996年に『小学六年生』にてその派生作品を執筆したことを期に、小学館の学年別学習雑誌に活躍の場を広げることになり、以後、2012年まで『小学六年生』、『小学五年生』、『小学四年生』の各学年誌にて連載作品を執筆する。 2000年代前半は主に小学館の学年誌での連載作品と『ちゃお』の派生誌での読切作品の執筆を行っていた。またこの間、『プチコミック』にも1度だけ読み切りを執筆している。2005年の『ChuChu』創刊後は、小学館の学年誌での連載作品執筆の傍らで『ChuChu』のレギュラー作家として活躍した。 2009年、『ないしょのつぼみ』で第54回(平成20年度)小学館漫画賞児童向け部門を受賞。同年、『ChuChu』休刊を期に『ちゃお』のレギュラー作家として復帰することになり、2021年現在は『ちゃお』とその派生誌で活躍中。 2020年4月30日に発売された『ゲキカワ♥デビル』第9巻にて全作品の単行本部数が累計600万部を突破した。 概要. 思春期の少年少女の心情を、身体と心の成長や社会環境と絡ませながら執筆することを得意とし、10代の少女から20代~30代の男性を初めとする幅広い年代からファンを獲得している。その実績を買われ、小学館の学年誌で性教育を絡ませた漫画を執筆している。また、ファンタジーやSF、ギャグ等も描いており、創作内容は様々なジャンルに及ぶ。やぶうちの作品の一つ『ないしょのつぼみ』の単行本は特に男性層に売れている。初期に執筆した作品には、赤石路代、わかつきめぐみの影響が窺える。 基本的に少女漫画であるにかかわらず、少年漫画的なお色気シーンをよく取り入れている珍しい作風でもあるが、2016年から連載している『ゲキカワ♥デビル』では年齢が低い読者にも理解できるような作風に変えている。 表紙などのカラーイラストの製作は、『新水色時代』の執筆時から、CGを使用している。CGを使用し始めた時は「CGらしく見えないよう、手塗り感覚を大事にする」を念頭に置いて製作を行っていた。2019年現在、漫画製作はフルデジタルに移行している。 好きなものは鉄道と鳥で、後者の方は特に文鳥がお気に入り、とのこと。 現在2児の母。 同人作家としても活動歴があり、雑誌連載と育児の傍らで行っていた同人誌活動は多忙のため一次的に休止していたが、『ドーリィ♪カノン』執筆時から再開し、『ドーリィ♪カノン』の同人誌や片岡嗣実の自主アルバムのジャケットを描いている。同人誌にて執筆した作品のいくつかは単行本に収録されている。 やぶうち優の名前はペンネームで、「やぶうち」は中学校の時の同じ部活に入っていた同学年の人から、「優」は本名の「優子」からそれぞれ取ったという。
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メロトロン
メロトロン(Mellotron)は、1960年代に開発された、アナログ再生式(磁気テープを媒体とする)のサンプル音声再生楽器である。アメリカのハリー・チェンバリンが作成したチェンバリン(Chamberlin)を元に、イギリスのレスリー・フランク・ノーマンのブラッドレィ3兄弟が、設計と作成を行った。 概要. ハリー・チェンバリンが開発した"Chamberlin Rhythmate"という、テープ音源を用いたリズム/伴奏用の機器が先祖である。これを応用したテープ音源のオルガンがメロトロンの前身となった。鍵盤楽器の演奏者により、弦楽器、管楽器などの音を奏でることを可能とした。また、伴奏パターンや効果音が録音されたテープも作られた。チェンバリンの会社では大量生産が難しく、製造を依頼する目的でイギリスに持ち込まれた。これを基に開発を行ったのが再生ヘッドの発注を受けたブラッドマチック社を経営するブラッドレィ兄弟であった。彼らは「ストリートリー・エレクトロニクス」を設立。開発した楽器を「メロトロン」と名付け、当初は家庭用として販売することとなった。 1962年に発売されたメロトロンは若干の改良を経て、ムーディー・ブルース、ビートルズ、キング・クリムゾンらが使用したことで1960年代後半に認知度を高めた。最初のモデル「Mk I/ II」は1本のテープにつき3トラック×6ステーション(頭出しの要領で各ステーションに停止したテープは、そこから音色を再生する)の18音色を収録。左手および右手用として35鍵の鍵盤が2セット並列に設けられ、左手用鍵盤には、伴奏パターンや効果音を収録したテープがセットされている。鍵盤を1セットにまとめた「M300」を経て、よりコンパクトかつシンプルなステージモデル「M400」が1970年に発表された。これに伴い、ロックやジャズの領域拡大も相まってメロトロンを録音やライヴで使用するアーティストは増えていった。 イギリスのミュージシャン・ユニオンは1967年、「メロトロンを使用することでヴァイオリンなどの演奏者を必要としなくなり、仕事を奪うものである」「音作りに協力したミュージシャンは、その音が他人に使われても全く収入にならない」という声明を出した。後者の訴えはBBCでも問題になり、メロトロニクス社は協力したミュージシャンに補償金を支払っている。また、原案者であるハリー・チェンバリンとブラッドレィ兄弟は特許および知的所有権で争っていたが、結果的に1966年、チェンバリンがブラッドレィ兄弟に権利を3万ドルで売り渡した。チェンバリンも自らの会社でテープ再生式の楽器を開発、販売した。普及した「M-1」はメロトロンよりコンパクトなボディと、よりハイファイなサウンドを持つ。 1970年代中盤にはポリフォニックシンセサイザーやストリングアンサンブルが普及したため、それより扱いにくいメロトロンのユーザーは次第に減少。経営が悪化したストリートリー・エレクトロニクスは1977年、メロトロンの商標権を売却。その後、メロトロンの名称が使えなくなったストリートリー・エレクトロニクスは「ノヴァトロン(Novatron)」の名称で楽器の開発・販売を続けるが、1980年代にはフェアライトCMIやシンクラヴィアなどの楽器がサンプリング機能を有し、音楽制作の現場で人気を博す。シェアを奪われたストリートリー・エレクトロニクスは1986年に倒産した。 現在はテープ式のメロトロンの製造・販売が再開している。現在メロトロンの商標を持っているメロトロン・アーカイヴス社は1999年以降モデル400シリーズの新型「MkVI」などを発売している。レスリー・ブラッドレィの息子らによって再建されたストリートリー・エレクトロニクスは2007年、M400と似た筐体の中にMkIIと同様のステーション構造をもつ新型メロトロン「M4000」を発表した。音源テープは、この2つの会社それぞれが新規で録音された物も含めて取り扱っている。 演奏者. ロック界でメロトロンの音が最初に録音されたのは、1965年のグレアム・ボンドのシングル「Lease On Love/ My Heart's In Little Places」であるとされている。1960年代後半のロック黄金時代には、ビートルズ「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」(1967年2月発売)他、ローリング・ストーンズ「2000光年のかなたに」、デヴィッド・ボウイ「スペイス・オディティ」、ムーディー・ブルース「サテンの夜」などでメロトロンが使用された。 1970年代には、コンパクトなM400の発売もあってユーザーは一気に増えた。特にキング・クリムゾン、イエス、ジェネシス、フォーカスといったプログレッシヴ・ロックのアーティストが多いが、ユーライア・ヒープ、10ccなど、使用歴のあるアーティストは実に多い。代表的なものはユーライア・ヒープの「カム・アウェイ・メリンダ」 、フォーカスの「ル・クロシャール」、キング・クリムゾン「クリムゾン・キングの宮殿」などがあげられる。短気なリック・ウェイクマンは言うことを聞かないメロトロンに腹を立て、庭で焼き払った後に後悔したと伝えられた。また、ヤン・ハマー、リターン・トゥ・フォーエヴァーなど、ジャズのクロスオーヴァーの分野でも使用された例がある。 BBCなどの放送局には全ての鍵盤に効果音を仕込んだ「FXコンソール」というものが導入された。生放送や収録などの際、リアルタイムで効果音を出すことができ、ラジオ番組やドクター・フーなどの制作に利用された。 詳細:発音機構. 音源となるテープ(茶色の曲線)は鍵盤(1)と再生ヘッド(5)の間にセットされている。鍵盤にはテープを再生ヘッドに押し付けるプレッシャーパッド(3)と、モーターで駆動されたキャプスタン(6)に押し付けるピンチローラー(4)が取り付けられており、それぞれネジ(2)で高さを調整可能。鍵盤を押し込むと、テープはキャプスタンとピンチローラーに挟まれて前進しつつ再生ヘッドに押し付けられて発音して、ストレージ・ビン(7)に格納される。鍵盤を離すとテープはキャプスタンの回転から開放され、テープ・リターンローラー(8)の端に取り付けられたスプリング(9)によりおよそ0.5秒で巻き戻される。鍵盤を押さえることで抵抗が増えてもモーターの回転数を維持・安定化させるため、モーターコントロールカードという基盤がモーターには接続されている。こうした構造から、以下のような独特の挙動がある。 メロトロン機種リスト. メロトロンの代替機種が使用される場合もある。楽器としてのメロトロンは取り扱いにくい面を持つ為、シンセサイザー・サンプラーなどで代用音源・音色などがシミュレートされてきた。シンセサイザー内蔵音源ではメモリ節約および使い易さを狙ってループ処理されているものが多いが、不安定な音源をループ化するのは困難であった。現在はノンループのサンプルも広く出回っており、メロトロン専用機種を含むハードウェア、ソフトウェア、iOSアプリケーションなど、幅広い選択肢が存在している。
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れいち
れいち(1959年6月9日 - )は、日本の音楽家、スタジオ・ミュージシャン。夫はミュージシャンの清水一登。 本名は清水玲子(しみずれいこ)、旧姓は佐伯(さえき)。 スタジオワーク・ツアーサポートなどで活躍する。主にドラムを演奏するが歌、鍵盤楽器なども演じることがある。2007年現在は夫の清水一登とAREPOSというユニットを結成している。AREPOSではVo(ボーカル)を担当していて、歌と踊りとドラムスも兼務。 参加ユニット・ディスコグラフィ. どくとる梅津DIVA. 梅津和時(Sax.Vo.)、高田みどり(Perc.Vo.)、橋本一子(Key.Vo.)、れいち(Ds.Vo.)から成るバンド。 UMITA-MINIMA(ウニタ・ミニマ). れいちと近藤達郎によるユニット。 Sunset Kids(サンセットキッズ). 伊藤ひとみ(Vo.)、大津真(Gt.Key.)、えとうなおこ(Key.Vo.)、斉藤ネコ(Vl.Key.)、さいのをまさあき(B.Key.)、れいち(Ds.Vo.)から成る。(佐藤靖夫(Gt.)が途中加入) AREPOS(アレポス). れいちと清水一登によるユニット。 Marsh-Mallow(マーシュ・マーロウ). 新居昭乃・上野洋子・藤井珠緒・丸尾めぐみ・れいちから成る。2004年に脱退。 Fishermens Tit Tot. 福原まり(P.Key.Vo.)・矢口博康(Sax.Clarinet)・中原信雄(B.Mandolin)・れいち(Ds.Vo.)・Dennis Gunn(Gt.Banjo.Vo.)・松本治(Tb.Euphaniam)から成る。 その他の活動. ゴンチチ、小泉今日子などのサポートに参加。CMソングや映画音楽などにも携わっている。
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遊佐未森
遊佐 未森(ゆさ みもり、1964年2月20日 - )は、日本の女性シンガーソングライター、作曲家、作詞家。宮城県仙台市出身。 「遊佐」は本名(東北地方南部や宮城県に多い苗字で山形県には遊佐町がある)、「未森」は本人と外間隆史が命名した芸名。 芸能事務所は、デビュー以来ヴァーゴミュージックに所属していたが、神奈川県横須賀市に「株式会社水音社」を設立した。遊佐と元ピチカート・ファイヴの鴨宮諒が所属する。 来歴. 生い立ち. 1964年に仙台市にて生まれる。遊佐の両親の話では、いつも歌っているような子であったという。 6歳のときにNHKの『ちびっこのどじまん』に出場、童謡「たきび」を披露した。7歳頃よりピアノを弾きながら作詞・作曲を始め「自然豊かな場所に住んでいた影響もあり、空や山をテーマにした曲が多かった」と自身で述べている。 子供の頃から音楽好きで、両親の計らいで仙台少年少女合唱隊に所属する。同合唱隊では福井文彦に師事しテレビ出演や演奏会を経験した。中学生で声楽を習い始め、常盤木学園高等学校音楽科へ進学する。同校では東北地方各地の学校を巡る演奏旅行を経験するなど音楽一色の生活であった。声楽家を目指していたが、様々な音楽に触れるうちにシンガーソングライターへの道を志すようになる。 高校卒業後、国立音楽大学音楽学部音楽教育学科へ進学し、リトミックを専攻する。同大学を卒業後、音楽事務所へデモテープを送ったところメジャーデビューが決まった。 1980年代 - 1990年代. 1988年4月、アルバム『瞳水晶』でエピックソニーからメジャー・デビュー。プロデューサーは福岡智彦。作詞家として工藤順子を起用し、以降も遊佐の楽曲を多数手がけることとなった。また『瞳水晶』では成田忍がサウンドプロデュース、レコーディングエンジニアの飯尾芳史がミキシングを担当した。 同1988年10月には2枚目のアルバム『空耳の丘』を発売。このアルバムから外間隆史が中心となってプロデュースを行うようになる。前作同様に当初はあまり話題にならなかったが、アルバム収録曲「地図をください」が日清カップヌードルのCM曲に採用され一躍注目を浴びる。テレビCMは「シュワルツェネッガー、食べる。」としてアーノルド・シュワルツェネッガーが出演し、肩に乗用車を担いで現れ、青空の下でカップヌードルを食べるシュワルツェネッガーの映像と、BGMとして同曲が流された。CMに曲名や歌手名のクレジットはなかったが、話題を呼んで「CM曲を歌っているのは誰か」と問い合わせが相次ぎ、遊佐の知名度を一挙に押し上げた。同曲は1989年2月にシングルカットされ、3枚目のシングルとして発売された。 1990年にシングル『夏草の線路』のカップリング曲「真夜中のキリン」が「第一生命ディズニー」のCMに採用される。「夏草の線路」は4枚目のアルバム『HOPE』に収録されている。 初期には遊佐自身の作詞・作曲による楽曲は少なく、遊佐がメジャーデビュー前から関わりがあった元FILMSの外間隆史が共同作業者として楽曲制作に深く関わり、童話やファンタジーをモチーフとした独特の世界観を創り上げていた。外間のコンセプトにより、ジャケット写真やステージでは森ガール風の衣装や大きな帽子を身にまとい、ライブアクトでは人形のような振り付けを演じ、初期のアルバムには歌詞カードに外間による短編小説が掲載されるなど、サウンドのみならずビジュアル面も含めたトータルプロデュースを行っていた。また福岡智彦は太田裕美の夫であるが、初期のアルバムには太田から楽曲提供された曲もあった。 1991年には「靴跡の花」が田中芳樹原作のアニメ映画『アルスラーン戦記』の主題歌に採用され、オリコンチャート14位にランクインするなど遊佐としては最大のヒット曲となった。また「空」が『横山光輝 三国志』のエンディングテーマとして使われた。「靴跡の花」は5枚目のアルバム『モザイク』に収録されたが、このアルバムでは初のセルフプロデュースとなり、外間隆史がプロデュースから外れた。このアルバムと、1993年発表の6枚目のオリジナルアルバム『momoism』から遊佐自身の作詞・作曲による楽曲が増えていくが、この時点ではまだ外間隆史も楽曲提供を行っている。 1992年にシングル『東京の空の下』 を発表し、オッペン化粧品CM曲に採用される。またカップリング曲「いつも同じ瞳」 が仙台市のクリスロードイメージソングとなった。同年にはセルビデオ映画『東京BOOK』がオリコン第1位となった。 1994年3月発表のミニアルバム『水色』は、アイリッシュミュージックバンドのナイトノイズ (Nightnoise) との共作で、遊佐としては初の海外アーティストとの共演を果たした。このアルバムでは外間隆史が完全に制作から外れた。 また同1994年には、細野晴臣プロデュースのアンビエントユニット「LOVE,PEACE&TRANCE」に甲田益也子、小川美潮と共に参加するなど、それまでとは異なるアーティストとの共同活動の場を広げていった。 「花王メリット」のCM曲として、1995年のシングル「たしかな偶然」、1996年のシングル「生活のプリン」が2年連続で採用される。 1997年発表のエピック時代最後のシングル『ロカ』がスズキ・アルトのCMに採用される。同年に東芝EMIへ移籍し、24枚目のシングル『タペストリー』 を発表、カルビー「ア・ラ・ポテト」のCM曲に採用される。 1998年にデビュー10周年を迎えた。同年に12枚目のアルバム『ECHO』を発表。収録曲「レモンの木」が『ワイドABCDE〜す』(ABCテレビ)の3月エンディングテーマに採用された。 1999年2月発売の27枚目のシングル曲「ポプラ」 が、同年4月から山崎製パンのCMソングに採用される。2000年発表のシングル「空に咲く花」(通算28枚目)がフジテレビ系『世界ゴッタ煮偉人伝』エンディングテーマに採用される。 1999年から体調を崩し、1年間活動休止して海の近くへ引っ越す。活動復帰後の2000年11月8日に13枚目のアルバム『small is beautiful』をリリース。東京から引っ越していく女性の心境を歌った「サヨナラ東京」 が収録されている。 2000年代以降. 2002年、大正から昭和初期の曲をカバーした18枚目のアルバム『檸檬』を発表。遊佐としては初のカバーアルバムとなる。2003年には東京都国立市の依頼により、国立市立国立第八小学校の校歌を制作した。 2005年にヤマハミュージックコミュニケーションズへ移籍、同年12月7日に移籍後初のシングルとなる『クロ』を発売(通算32枚目)。同年12月から翌2006年1月までNHK『みんなのうた』で放送された。アニメーションはおーなり由子が担当。また同年に、さとう宗幸、稲垣潤一、中村雅俊、かの香織、山寺宏一、小川もこら、宮城県出身のアーティストと共に「みやぎびっきの会」を結成し、年1回ほど宮城県で合同コンサートを行っていた。 2008年にデビュー20周年を迎えた。これを記念してカバーアルバム第2弾『スヰート檸檬』を発表。前作『檸檬』と同様に懐メロをカバーした。また同年にはうどんや風一夜薬本舗のイメージモデルとなり、桂米團治襲名披露公演のパンフレットなどに和服姿の写真が掲載された。 2009年6月発売のアルバム『銀河手帖』収録曲「I'm here with you」が、NHK『みんなのうた』(同年6・7月の歌)で放送され、またNHK「地球エコ2009」のキャンペーン「SAVE THE FUTURE」でオンエアされた長編アニメーション『川の光』のメインテーマにもなる。 2012年1月、18枚目のアルバム『淡雪』を発表。同アルバム収録曲「いつでも夢を」には檀れいが参加した。2012年3月、NHKの東日本大震災復興支援ソング「花は咲く」リレー歌唱に参加。また同年、第79回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲「希望のひかり」の作詞を担当。作曲は大熊崇子が担当した。 2018年にデビュー30周年を迎えた。これを記念して同年3月21日、ベストアルバム『PEACHTREE』をリリース。初回限定盤にはピアノ演奏を中心とした未発表音源6曲入り特典CDが付属する。 2021年6月23日に20枚目のアルバム『潮騒』をリリースした。初回盤にはアルバム制作後の映像を収めた遊佐初のBlu-ray Discが付属したものもある。 人物. 歌唱法の特徴とも言えるファルセットにおける独特の緩やかなビブラートと強弱のウェーブは、遊佐自ら「8の字唱法」と解説している。 好きなアーティストとしてケイト・ブッシュ、ジェーン・シベリー()、スプリット・エンズ()などを挙げている。 ライブ活動も積極的に行い、通常のホールコンサートのほか、ひなまつり企画ライブとして2001年からスタートした「cafe mimo〜桃節句茶会〜」は、小編成での自由自在な表現で、毎年ひなまつりの季節に開催している。 通常公演と、1回目から行っている女性専用コンサート「girl's only公演」も続けている。また2003年からは、毎回日替わりで個性的なゲストも出演することになる。過去の主なゲストは、高野寛、西村由紀江、中西俊博、coba、栗原正己(栗コーダーカルテット)、堂島孝平、ゴンザレス三上(GONTITI)、ウェイウェイ・ウー、かの香織、藤原道山、佐藤竹善、山口とも、サキタハヂメ、谷山浩子、土岐麻子、北原雅彦(東京スカパラダイスオーケストラ)、桂米團治、稲垣潤一、チェンミン、鈴木重子、斉藤由貴、檀れい、山寺宏一、小池光子(ビューティフルハミングバード)、鈴木広志、大口俊輔、木村仁哉、近藤研二、新居昭乃、渡辺シュンスケ(Schroeder-Headz)、杉林恭雄(QUJILA)、瀬木貴将、野宮真貴、弓木英梨乃(KIRINJI)、tico moonほか。 さらにピアノソロでの「bombonniere」や、秋冬に開催する「ソング・トラベル」など、音楽施設に場所を限らず美術館などでも弾き語りを披露している。 コンサート. 1987年 - 2005年 メディア出演. テレビ. NHK 日本テレビ テレビ朝日 TBS テレビ東京 フジテレビ テレビ神奈川 千葉テレビ テレビ埼玉 東海テレビ WOWOW パーフェクTV!
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仮面ライダー龍騎
『仮面ライダー龍騎』(かめんライダーりゅうき、欧文表記:"MASKED RIDER RYUKI")は、2002年2月3日から2003年1月19日まで、テレビ朝日系列で毎週日曜8時から8時30分(JST)に全50話が放映された、東映制作の特撮テレビドラマ作品、および作中で主人公が変身するヒーローの名称である。 「平成仮面ライダーシリーズ」第3作である。キャッチコピーは「戦わなければ生き残れない!」。 概要. 本作品は、平成仮面ライダーシリーズとしては作中で初めて「仮面ライダー」の言葉を用いた。設定や世界観に重きを置いた前2作とは趣を変え、「13人の仮面ライダーが自らの望みを叶えるために最後の1人になるまで殺し合い続ける」という人間同士の競争、それに付随する人間関係の描写を重視した作品になっている。 ライダー同士の戦いという破天荒なシチュエーションを採用、さらにはカードゲームの要素を取り入れたバトル方法を取り入れている。放送開始後は、ライダーが自身の欲望のために他のライダーと殺し合うというストーリーや、悪役であっても正式に「仮面ライダー」を名乗るという設定が、「子供番組としては不適切である」という意見も新聞投稿などに見られた。 あらすじ. 西暦2002年。人間が忽然と失踪する事件が連続発生していた。真相を追うネットニュース配信社OREジャーナルに所属する見習い記者の城戸真司は、失踪者の部屋を取材中、奇妙なカードデッキを発見。その力で仮面の戦士に変身した真司は、鏡の中の世界に迷い込み、自分と同じような仮面の戦士がモンスターと戦っている光景を目撃する。 現実世界への帰還を果たした真司は、もう1人の仮面の戦士である秋山蓮や、彼と行動をともにしている神崎優衣から、連続失踪事件はミラーワールドに住むミラーモンスターによる捕食であること、仮面の戦士はミラーモンスターの力を行使できる超人仮面ライダーであることを知らされた。真司は、蓮が変身する仮面ライダーナイトと同じようにミラーモンスターと契約したことで、正式な仮面ライダー龍騎となり、ミラーモンスターから人々を守るために戦っていく。 仮面ライダーは全部で13人いるが、それぞれの目的のために、最後の1人になるまで戦わなければならない宿命にあった。 真司と蓮は、優衣の説得もあって共闘しながら、ミラーモンスターと戦っていく。だが、同時にライダーバトルは混迷を極めていく。 登場人物. 劇場版初出のライダーは劇場版 仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL#本作品オリジナルの登場人物を参照。 設定. ミラーワールド関連. ミラーワールドとは鏡の中に存在し、文字や絵が裏返しされている以外は現実世界とそっくりだが、モンスターやミラーワールドの住人(神崎士郎や鏡像の神崎優衣、鏡像の城戸真司など)以外の人間は存在しない別次元に存在する鏡の世界。その成り立ちには、神崎兄妹が深く関わっている。 現実世界の鏡像であるため、文字や絵などすべて裏返ししているが、仮面ライダーだけは正しい姿となる。 ミラーワールドには生身の人間など現実世界の物質は長時間存在することが出来ず、侵入すると拒否反応を起こし、一定時間を過ぎると水泡のようなものが体から湧き上がり、やがて消滅してしまう。逆にミラーワールドに棲息する者が現実世界に長時間存在することもできない。ミラーワールド内でのライダーの活動限界時間は9分55秒となる。 基本的に鏡から出入りするが、ガラス、水たまり、ヘルメットなど鏡面化しているものなら全て出入口として使うことが可能である()。ミラーワールドに入った人間は二度と出ることはできないが、ライダーに変身することで出ることができる(テレビスペシャルでの真司など)。 アドベントカード. カードデッキには一揃いのアドベントカードが入っている。契約モンスターの力を使うためには、カードデッキからアドベントカードを1枚引き抜き、専用のバイザーにセット(ベントイン)して発動させる必要がある。先述したコントラクトのカードもこの一枚であり、契約によってアドベントのカードに変化している。各々のライダーが持つアドベントカードの種類はあらかじめ決まっており、カードは他のライダーがベントインした場合でも、本来の所有者のライダーに効果が現れる。同じカードを二回以上使うことはできず、原則一回の変身中に一度しか使えない(同種のカードを複数枚所持していればその分だけ使える)。カードで召喚された装備は、そのライダーと契約しているモンスターの体の一部を模しているが、本体とは別の物である(例えば、龍騎がドラグクローを装備中にドラグレッダーの首が無くなるわけではない)。ただし、玩具ではモンスターの部位そのものが装備となっている。また、アドベントカードはカード所有者にとってその状況で使うにふさわしいカードがデッキの一番上に来るようになっている。 効果の強さは「AP」(防具は「GP」)という単位で設定されており、1APが0.05t(トン)に相当するものとして計算される。 キャスト. 『仮面ライダーアギト』の時期より話題だった、イケメンブーム路線を受け継ぐキャスティングがされている。また世間的に認知されている中堅俳優たち(津田寛治・神保悟志)や、ブレイクする直前の森下千里を起用、テレビスペシャルではベテランの黒田アーサーが仮面ライダーベルデ役で出演した。 本作品でライダーを演じる俳優には、過去に特撮番組への出演経験がある萩野崇(『超光戦士シャンゼリオン』)、高野八誠(『ウルトラマンガイア』)、高槻純(『ウルトラマンネオス』)、加藤夏希(『燃えろ!!ロボコン』)、和田圭市(『五星戦隊ダイレンジャー』)も加わっている。 スタッフ. 仮面ライダーと契約するミラーモンスターは一部を除いてPLEXが基本的にデザインを担当し、各話怪人として登場するミラーモンスターや、ゲスト扱いの仮面ライダー、2体の擬似ライダーとその契約モンスターは篠原保が単独で担当している。過去に篠原は、『仮面ライダーBLACK RX』や『ウルトラマンVS仮面ライダー』で仮面ライダーの怪人を担当していたが、テレビシリーズでメインデザイナーを担当するのは本作品が初となる。 音楽. 本作品から作品中で使われる楽曲の発売元が、これまでほとんどの仮面ライダーシリーズに関わってきた日本コロムビアからavex modeに交代したこともあり、主題歌「Alive A life」はテレビシリーズでは初の女性ボーカル・松本梨香を起用し、キャラクター名や作品名をタイトルや歌詞に織り込まない物となった。 音楽ディレクターは、『仮面ライダークウガ』『アギト』を担当した本地大輔がコロムビアから移籍する形で引き続き参加(後の『仮面ライダー響鬼』まで)。BGMは丸山和範と渡部チェルが担当。 劇場版BGMとテレビシリーズの主要BGMを収録したOST『劇場版 仮面ライダー龍騎 エピソードファイナル オリジナル・サウンドトラック+TVメインテーマ』が劇場版公開時期に発売され、それ以外の劇伴は楽曲と劇伴の大半を網羅した『Last Message 仮面ライダー龍騎 コンプリートCD-BOX』に収録の上で、番組終了後に発売された。この販売形式は後の『555』『剣』でも引き継がれ、番組終了後のCD-BOX発売は以降『響鬼』を除き『鎧武』まで恒例となった。 制作. 企画の経緯. 現在でこそ「平成仮面ライダーシリーズ」の第3作に位置づけられているが、当時はまだシリーズという意識はなく、『仮面ライダークウガ』や『仮面ライダーアギト』の2作で終了して仮面ライダー以外の作品を制作予定であった。このころに出された案として『仮面ライダー』の企画原型の一つである『クロスファイヤー』をモチーフとした騎士ヒーローの企画があり、これが本作品の原型となっている。しかし、仮面ライダーが大きな盛り上がりを見せていることを重視し、やはり仮面ライダーを制作しようという方向で話が決まった。 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受けて、テレビ局側は『クウガ』や『アギト』のように複雑ではなく、善悪の別が明瞭なヒーローものを作って子供たちに本当の正義を教えようというコンセプトを企画側に要求した。しかし白倉伸一郎プロデューサーは局の意向を察した上で、意図的に曲解した応えを返した。「子供たちに本当の正義を教えたい」と言うからには、子供たちの信じている正義は偽物で番組制作者は本物を知っていると主張するに等しくなってしまうためである。 白倉は前作『アギト』でも複数の主役を配置することで「それぞれの立場の正義」を描こうとしたが、視聴者がはじめから結論づけている「仮面ライダーは正義」という意識を打ち壊すには至らなかった。そこで、本作品では視聴者が受容できないほど多くの仮面ライダーを投入し、既定の結論を覆そうとしたのである。 メインスポンサーであるバンダイからも『クウガ』や『アギト』とはガラリと変えたいという要望があり、デザインや設定なども従来の仮面ライダーシリーズとは大きく異なる斬新なアイディアが数多く取り入れられていった。 このように、従来の仮面ライダーシリーズにはありえない設定を盛り込んでいるため、外伝という意味を込めて作品名に『龍騎』と漢字が用いられた。 特徴. 本作品では、過去のシリーズとは異なる独自の要素が多く見られる。 設定・造形. 本作品の仮面ライダーのデザインは、従来のイメージからかけ離れたものであったため、発表当初は戸惑いの声をもって迎えられた。こうした反応に対し、白倉は「仮面ライダーの特徴的な外観を突き詰めていっても絶対にオリジナルにはかなわない。結局はセルフパロディになってしまう(要約)」、早瀬は「石ノ森(章太郎)が残したデザイン画の変遷を見ていると割と突飛なデザインも描いていて、そうした冒険心も引き継いでいかなければ」と述べている。 13ライダー共通のモチーフとして、西洋の騎士が基本になっている。マスクは鉄仮面をモチーフとし、スリットの入ったシルバーのバイザーが特徴である。ボディは前作までののっぺりとしたスーツとの差別化のため、スニーカーのデザインを取り込んでいる。一方で、従来のイメージが切り捨てられたわけではなく、仮面ライダー1号の特徴である複眼を龍騎、顎(クラッシャー)をナイト、触角をゾルダ、と主要3ライダーに分割・採用している。 ライダーが乗用するバイク(ライドシューター)はミラーワールドへの移動手段として使われ、一部契約モンスターがバイク形態になるという描写があるのみで、それまでの仮面ライダーシリーズで必須だった「スーパーバイクを乗りこなしてバイクに搭乗しつつバトルする」というシチュエーションは薄まっている。 一部のモンスターなどをCGで表現した点も特徴で、前年の『百獣戦隊ガオレンジャー』でのパワーアニマルの描写との差別化として人間との関係性が意識されている。クオリティはまだ試行錯誤的なものだったが、以後ライダー作品においてもCGでキャラクターを表現する傾向は続けられている。 放送日程. 各回のサブタイトルは作中では表記されず、以下に明記しているものは新聞のテレビ番組欄やテレビ番組情報誌、ならびにテレビ朝日公式ページにて表記されたものである。各話終了時の演出として、画面左側に最後のワンシーンがモノクロで表示され、右側に主に活躍したカードが表示される。 放映ネット局. 平成・令和ライダーシリーズとしては最も放送エリアが広く、佐賀県を除いたほぼ全国をカバーしていた。 評価. 本作品の斬新な設定は中高年の消費者層から強い反発を受けたものの、主要視聴者である男子児童向けの商品展開は成功を収めた。キャラクター商品売り上げは、前作を大きく上回る139億円を記録し、2009年度の『ディケイド』の売上に抜かれるまで、平成ライダーシリーズ史上最も高い実績を残していた。 本作品こそが、平成仮面ライダーシリーズの長期化を決定付けた作品といわれる。 白倉は十数年後のインタビューで「特撮番組自体が龍騎以前・以後に区分していいくらい、龍騎の存在が転機となった」と語っている。 映像ソフト化. 以下、いずれも発売元は東映ビデオ。 他媒体展開. 以下、単独項目のある作品における詳細は当該項目を参照。
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スタック
スタック()は、コンピュータで用いられる基本的なデータ構造の1つで、データを後入れ先出し(LIFO: Last In First Out; FILO: First In Last Out)の構造で保持するものである。抽象データ型としてのそれを指すこともあれば、その具象を指すこともある。 特にその具象としては、割込みやサブルーチンを支援するために極めて有用であることから、1970年代以降に新しく設計された、ある規模以上のコンピュータは、スタックポインタによるコールスタックをメモリ上に持っていることが多い。 抽象データ型. 抽象データ型としてのスタックは、ノード(何らかのデータを持ち、別のノードを指し示すことができる構造)のコンテナ(データを集めて格納する抽象データ型の総称)であり、2つの基本操作プッシュ (push) とポップ (pop) を持つ。Pushは指定されたノードをスタックの先頭(トップ)に追加し、既存のノードはその下にそのまま置いておく。Popはスタックの現在のトップのノードを外してそれを返す。 よく使われる比喩として、食堂にあるバネが仕込まれた台に皿や盆を積み重ねておく様子がある。そのようなスタックでは利用者は一番上(トップ)の皿だけにアクセスすることができ、それ以外の皿は隠されている。新たに皿が追加される(Pushされる)と、その新しい皿がスタックのトップとなり、下にある皿を隠してしまう。皿をスタックから取る(Popする)と、それを使うことができ、二番目の皿がスタックのトップとなる。二つの重要な原則がこの比喩で示されている。第一は後入れ先出し (LIFO: Last In First Out) の原則である。第二はスタックの中身が隠されているという点である。トップの皿だけが見えているため、三番目の皿がどういうものかを見るには一番目と二番目の皿を取り除かなければならない。 他の操作. 多くのスタック実装では「Push」と「Pop」以外の操作をサポートしている。スタックの大きさ(長さ)、「現在のスタックのトップのノードを返すが、それをスタックから取り除かない」Peek操作、トップではなくn番目の参照・操作、入れ替え等も実装されることもある。連結リストではO(n)だが配列による実装ではO(1)、その逆、等色々な場合がある。 実装. "n" 個の要素のスタックが必要とするメモリ容量は"O" ("n" )、つまりスタック長に比例する。個々の操作が一定時間"O" (1) で完了する実装は配列や連結リストを使っても簡単に実現できる。 実装の詳細については別に議論する。 関連するデータ構造. FIFO (First In First Out、先入れ先出し) の原則を持つデータ構造または抽象データ型はキューである。スタックとキューの操作を組み合わせて提供するものは両端キュー (deque) と呼ぶ。例えば、探索アルゴリズムでスタックを使うかキューを使うかによって、深さ優先探索(スタック使用)か幅優先探索(キュー使用)になる。 ハードウェア. ハードウェアによるスタックの実装法には、主に次の2つがある。 前者は、たとえば4004の「3段のスタック」がそのようなものである。後者は多くのコンピュータが持っている。以下これについて述べる。 典型的なスタック. 典型的なスタックはコンピュータのメモリ上に固定の基点と可変のサイズを持つ領域である。初期状態ではスタックのサイズはゼロである。「スタックポインタ」(一般にハードウェアのレジスタが使われる)はスタック内で最も後で参照された位置を指している。スタック長がゼロのとき、スタックポインタはスタックの基点を指す。 あらゆるスタックで実施可能な2つの操作は以下の通りである。 スタック操作の基本原則には様々なバリエーションがある。スタックは初期状態ではメモリ上の固定の位置に配置される。データがスタックに追加されると、スタックポインタはデータ追加に伴うスタックの領域拡張に従って変更される。そのときのスタックの延びていく方向は特に規則は無く、実装によってアドレスの小さくなる方向だったり、大きくなる方向だったりする。 昔のコンピュータで、ヒープ領域をアドレスの小さいほうから大きいほうへ伸ばし、スタックを大きいほうから小さいほうへ伸ばす(そのようにすると、メモリが足りない場合はどちらを伸ばす余裕もなく、完全にメモリを使い切って計算続行不可能となる)という設計にした名残りから、アドレスの大きいほうから小さいほうへ伸びるものが多いが、PA-RISCは逆である。 例えば、あるスタックが1000番地から開始して、アドレスの小さい方向に延びていくとする。その場合、データは1000番地よりも小さい番地に格納され、スタックポインタはそれに伴って小さな番地を格納するようになる。そのスタックからデータをPopすると、スタックポインタに格納されているアドレスは大きくなる。 (初期状態の)スタックポインタはスタックの基点そのものではなく、その少し上か下(スタック成長方向に依存)の限界アドレスを指している場合もある。しかし、スタックポインタは基点を超えていくことはできない。換言すれば、スタックの基点が1000番地でスタックがアドレスの小さい方向(999番地、998番地など)に成長する場合、スタックポインタは決して1000番地を超えてはならない(1001番地や1002番地は不可)。Pop操作によってスタックポインタが基点を超えると「スタック・アンダーフロー」が発生する。逆にPush操作がスタックの最大許容範囲を超えてスタックポインタを操作することになるなら「スタック・オーバーフロー」が発生する。 スタックに強く依存している環境では、追加の操作を備えている場合がある。以下に例をあげる。 スタックは上に成長するようにイメージされることもあるし、左から右に成長するようにイメージされることもあり、トップという言い方ではなく右端と言ったりもする。このようなイメージはメモリ上のスタックの実際の構造とはあまり関係ない。"right rotate"と言ったとき、一番目の要素を三番目の位置に置き、二番目を一番目、三番目を二番目の位置に置く。これを二種類のイメージで表すと次のようになる。 apple banana banana ===right rotate==> cucumber cucumber apple cucumber apple banana ===left rotate==> cucumber apple banana スタックはコンピュータ内では通常、メモリセルのブロックで構成される。そのブロックの「底」は固定の位置にあり、スタックポインタが「トップ」のセルのアドレスを格納している。「底」とか「トップ」という用語はスタックがアドレスの大きくなる方向に成長するか、小さくなる方向に成長するかに関係なく使われる。 スタックへのアイテムの push により、そのアイテムのサイズのぶんだけスタックポインタがずらされ(増減はメモリ空間内のスタックの成長方向に依存する)、次のセルを指すようにして、新たなトップとなるアイテムをスタック領域にコピーする。詳細な実装に依存するが、push 操作を完了したときのスタックポインタの値はスタック上の次の未使用領域を指しているかもしれないし、現在のトップのアイテムを指しているかもしれない。スタックポインタが現在のトップのアイテムを指している場合、次回の push のときには最初にスタックポインタをずらさなければならない。逆にスタックポインタが次の未使用領域を指しているなら、次回の push のときには最後にスタックポインタをずらすことになる。 スタックの pop 操作は push の逆となる。Push とは逆の順番でスタックのトップのアイテムが取り出され、スタックポインタが更新される。 コールスタック. 以上のようなスタックは、特にコールスタックに使われる。 具体例. 多くのプロセッサはスタックポインタとして使用可能なレジスタを持っている。x86のようなプロセッサは専用のスタックポインタレジスタを持っている。他のPDP-11や68000ファミリなどは、アドレッシングモードによって任意のレジスタをソフトウェア的にスタックポインタとして使用できるようになっているが、普通は割込みやJSR命令が操作するR6レジスタやA7レジスタを使う。RISCの多くはそのように特別扱いされるようなレジスタを持たず、どのレジスタをスタックポインタとして使うかは通常ABIで決めており、ソフトウェアでスタック処理をおこなう。Intel 8087シリーズの数値演算コプロセッサはスタックアーキテクチャである。一部のマイクロコントローラ(例えばいくつかのPIC)は固定サイズのスタックを内蔵しており、その任意の位置に直接アクセスすることはできない。 以上のようなスタックポインタによるスタックではなく、直接ハードウェアで実現したスタックを持つコンピュータもある。 なお、以上のようなスタックがあるコンピュータをスタックマシンとするのは間違いである。詳細は後述のスタックマシンについての記述を参照すること。 ソフトウェア. この節では、抽象データ型としてのスタックのソフトウェアによる実装について述べる。 高水準言語では、スタックは配列や線形リストを使って効率的に実装可能である。LISPでは任意のリストに対して push や pop に相当する関数(consがpush、cdrがpopである)を使用可能なので、スタックを実装する必要は無い。 応用例. 式評価と構文解析. 逆ポーランド記法を使用している電卓(Hewlett-Packardの関数電卓など)は、値を保持するためにスタック構造を使う。式は、前置記法、中置記法、後置記法のいずれかで表現される。ある記法から別の記法への変換にはスタックが必要となる。多くのコンパイラは低レベルな言語に翻訳する前の構文解析のためにスタックを使用する。多くのプログラミング言語は文脈自由言語であり、スタックベースの機械で構文解析することができる。ちなみに自然言語は文脈依存言語であり、スタックだけではその意味を解釈することはできない。 例えば、((1 + 2) * 4) + 3 という計算は、交換法則と括弧を優先するという前提で、次のように後置記法(逆ポーランド記法)に変換できる。 1 2 + 4 * 3 + この式はスタックを使って左から右に以下のように評価できる。 具体的には以下のようになる。「スタック」は「操作」した後の状態を示している。 最終的な演算結果は 15 で、終了時にスタックのトップに置かれている。 探索問題の解法. 探索問題を解くとき、総当り的か最適化されているかに関わらず、スタックを多大に必要とすることが多い。総当り探索の例としては、力まかせ探索やバックトラッキングがある。最適探索の例としては、分枝限定法 (branch and bound) やヒューリスティックによる解法がある。いずれのアルゴリズムでも、発見してはいるが探索していない探索ノードを覚えておくのにスタックが必要となる。スタックを使う以外の手法としては再帰を使う方法があるが、これはコンパイラが生成するコードが内部的に使用するスタックで代替しているだけである。スタックを使った探索は幅広く使われており、木構造の単純な幅優先探索や深さ優先探索から、クロスワードパズルを自動的に解くプログラムやコンピュータチェスゲームでも使われている。ある種の問題はキューなどの別のデータ構造を使って解くこともでき、探索順を変えたいときに有効である。 プログラミング言語処理系の実装. ほとんどのコンパイルされたプログラムは実行時(ランタイム)環境においてコールスタックを使用し、プロシージャ/関数呼び出しに関する情報を格納するのに使っている。そして、呼び出し時のコンテキスト切り替えや呼び出し元への復帰の際に使用して、呼び出しの入れ子を可能としている。そのとき、呼び出される側と呼び出し側の間には引数や返り値をスタックにどう格納するかという規則が存在する。スタックは関数呼び出しの入れ子や再帰呼び出しを実現するための重要な要素となっている。この種のスタックはコンパイラが内部的に使用するもので、プログラマがこれを直接操作することはほとんど無い。 コールスタック内に関数の呼び出し毎に作られるフレームをスタックフレームと言い、それをたどって(トレースして)得られる呼び出しの情報をスタックトレースと言う。 プログラミング言語によっては、プロシージャ内のローカルなデータをスタックに格納する。ローカルなデータの(スタック上の)領域はプロシージャに入ってきたときに割り当てられ、出て行くときに解放される。C言語はこのような手法で実装されている典型例である。データとプロシージャ呼び出しに同じスタックを使うことは重大なセキュリティ問題を引き起こす可能性があり、プログラマはそのようなバグを作りこんで深刻なセキュリティ問題を発生させないように気をつける必要がある。 セキュリティ. たいていの場合、プロシージャ内のローカルなデータとプロシージャ呼び出しに関する情報は共通のスタックに格納されている。つまりプログラムは、プロシージャ呼び出しのリターンアドレスという極めて重要な情報を保持しているスタックに対して、データを出したり入れたりしているのである。データをスタック上の間違った領域に書き込んだり、大きすぎるデータをスタックに書き込んだりして、リターンアドレスが壊されると、プログラムが異常動作することになる(バッファオーバーラン攻撃)。 悪意ある者がこの種の実装を逆手にとって、入力データのサイズをチェックしていないプログラムに大きすぎるデータを入力したりする。そのようなプログラムはデータをスタック上に格納しようとしてリターンアドレスを壊してしまう。攻撃者は実験を繰り返し、リターンアドレスがスタック領域内(特に攻撃者の入力データが書き込まれた領域内)を指すようになる入力データのパターンを見つけ出し、許可されていない操作をするような命令列を入力データに含ませることでセキュリティを破る。こうした攻撃に対してプログラマはスタックの扱いに注意する必要がある。 スタック指向プログラミング言語. いくつかのプログラミング言語はスタック指向である。スタック指向言語は、基本操作(二つの数の加算、一文字表示など)でスタックから引数を取ってくるようになっていて、結果をスタックに返すようになっている言語である。 たいていは複数のスタックを使うよう設計されており、典型的なForthは、引数受け渡しのためのスタックとサブルーチンのリターンアドレスのためのスタックを持つ。PostScriptはリターンスタックとオペランドスタックを持ち、グラフィックス状態スタックと辞書スタックも持っている。日本語プログラミング言語のMindもForthベースである。 スタックマシン. 機械語命令の体系がスタック指向プログラミング言語に類似している、すなわち、命令のオペランドがスタックであるマシンをスタックマシンと言う。最も有名なものとしてバロース B5000がある(B5000は、高水準言語(ALGOL)のサポートを目的として、前述のコールスタックもアーキテクチャでサポートしているが、コールスタックをアーキテクチャでサポートしている、という意味では「スタックマシン」の語は使わない)。 またx86等でも、スタックポインタ間接参照によってスタックマシンのように使うことはできるが、普通あまりスタックマシンとはしない。 多くの仮想機械もスタックマシンであり、例えばp-コードマシンやJava仮想マシンなどがある。x87の命令もスタックマシン的である。 これに対し、オペランドがレジスタのマシンをレジスタマシンと言う。多くの実機がレジスタマシンであるため実機に対してこの語が使われることは少ない。仮想機械ではLua 5の仮想機械がレジスタマシンである。 歴史. スタックを使った式評価方法を最初に提案したのはドイツの初期のコンピュータ科学者フリードリッヒ・L・バウアーであり、その業績により1988年、IEEE Computer Societyからコンピュータパイオニア賞を受賞した。
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弘前市
弘前市(ひろさきし)は、青森県西部にある市である。日本で最初に市制を施行した都市の一つ。弘前藩の城下町として発展し、現在も津軽地方の中心都市として、周辺自治体に広がる人口約30万人(2010年)の弘前都市圏を形成している。青森県唯一の国立大学である弘前大学が設置されている。 概要. 人口では青森市、八戸市に次ぐ県内3番目の都市。江戸時代は城下町として栄えた。明治になると陸軍第八師団が駐屯する軍都および旧制弘前高校が所在する学都としての性格を帯びるようになった。第二次世界大戦後、第八師団は解散。陸上自衛隊弘前駐屯地は所在するものの軍都としての機能は大きく減じた。一方、新制大学として弘前大学が開設され、私立大学も複数所在し(弘前学院大学など)、現在も学園都市としての性格を保ち続けている。また、計量特定市に指定されている。 弘前市は、りんごの生産量が全国一で約25%を占め、りんごにこだわる街づくりを目指している。「りんご色のまちHIROSAKI」をキャッチフレーズとしているほか、アップルパイの名物化をめざしてコンテストの開催や名店マップ作成などに取り組んでいる。また、弘前公園で開催される弘前さくらまつりや弘前城も全国的に知られており、「お城とさくらとりんごのまち」のフレーズは古くから使われている(市の木として「りんご」、市の花として「さくら」を選定している)。 8月には、国の重要無形民俗文化財に指定されている「弘前ねぷたまつり」が開催される。例年100万人以上の人出があり、弘前市を代表する夏祭りとなっている。 地理. 気候. 青森県の中では夏の最高気温が高く、時には猛暑日を記録する事もあるが、朝晩は青森市などの沿岸部より涼しく熱帯夜は1999年以来記録していない。 最高気温極値:37.0℃(1978年8月3日) 最低気温極値:-16.2℃ (1978年2月17日) 最深積雪記録:153 cm(2013年2月25日) 日降水量:243mm(1977年8月5日) 猛暑日最多日数:4日(1989年) 真夏日最多日数:41日(1994年) 冬日最多日数:138日(1984年) 歴史. 江戸時代まで. 津軽氏が治める弘前藩の城下町として栄えた。 行政. 市長. 市長選挙. 2018年(平成30年)4月8日 最終投票率:53.40% 2014年(平成26年)4月13日 最終投票率:38.35% 2010年(平成22年)4月11日 最終投票率:58.06% 立法. 弘前市議会. 2012年9月21日、市議会9月定例会の最終日において、定数を34から28とする条例案が可決され、2015年の市議選から適用された。 青森県議会(弘前市選挙区). 2019年5月1日現在。 経済. 商業. ※ マルエス主婦の店は閉店後、弘前市内の一部店舗がユニバース(Uマート)に引き継がれた。 金融機関. 銀行 政策金融機関 協同組織金融機関 証券会社 郵便. 市内では日本郵便が郵便事業を行っている。以下は日本郵便の市内における拠点一覧。 地域. 中心市街地. 弘前市の中心市街地は、藩政時代に築かれた城下町の町割りを原型に発展した。 1894年(明治27年)、奥羽本線の停車駅として弘前駅が開業すると、城下町から弘前駅に向かって市街地が拡大し、1898年(明治31年)の陸軍第八師団の軍施設が設置・整備されたことで、市街地は南へ拡大した。 2015年(平成27年)の時点で、弘前市内は土手町を中心とした半径2.5kmの範囲 にまとまりのある市街地が形成されている。 中でも藩政時代から商業が栄え、明治時代に商店街化した土手町周辺と、官設鉄道の弘前駅が開業したことで開発が始まり、戦後は再開発を繰り返しながら商業地化した弘前駅前地区(表町、駅前町、駅前、大町など)という2つのエリアを中心に、百貨店や駅ビルなどの商業施設や飲食店が集中している。 また、弘前公園周辺(特に上白銀町と下白銀町)は、弘前市役所や青森地方検察庁弘前支部、青森地方裁判所弘前支部などの施設が存在する官公庁街を形成しており、駅前と土手町、官公庁街という3つのエリアを結ぶように100円バス(土手町循環100円バス)が運行されている。 土手町. 土手町とその周辺は、藩政時代から参勤交代時の羽州街道に通じる道として町家が形成され、明治時代になると商店街化された。 藩政時代には、本町が弘前城下の中心街的地位にあったが、1907年(明治40年)頃には陸軍第8師団の設置による人口増加、購買力の変化等の影響で、中心商店街的地位が土手町に移っている。 大正時代には、東北地方初のデパート「かくは宮川」が土手町に開店するなど、近代的な都市文化が花開いた。 1950年代には弘前電気鉄道大鰐線が開業。この路線の始発・終着駅である中央弘前駅が、土手町からほど近い吉野町に開業すると、中央駅周辺の鍛冶町は歓楽街として発展した。 さらに、1960年代以降は「カネ長武田百貨店」、五所川原市から進出した「中三百貨店」などの百貨店が土手町に店を構えるようになり、土手町とその周辺は弘前市内でも有数の商業集積地域となった結果、現在に至るまで弘前市内の中心市街地に位置付けられている。 弘前駅前. JR弘前駅を中心とする弘前駅前は、明治時代に官設鉄道の駅である弘前駅が開業したことで開発が始まった。その後、陸軍第8師団司令部設置による軍施設が整備されたことにより、市街地が南部に拡大した。 戦後は、駅前に小売店舗中心の商店街が形成されたが、1979年(昭和54年)、闇市時代以来の街並みが残る駅前地区に対して市民からの批判が高まった ことで、駅前地区の土地区画整理事業が始まった。事業がきっかけで小売店は姿を消し、代わりに大規模なホテルや、イトーヨーカドー弘前店などの商業施設が建ち並ぶようになった。 1980年代から1990年代にかけて、駅前地区には駅ビルやショッパーズ弘前(現:ヒロロ)などの商業施設が開業し、現在の駅前地区は弘前市内の交通・物販・飲食などの複合的中心地として機能している。 旧岩木町. 2006年(平成18年)2月27日、弘前市と合併した旧岩木町は、青森県道3号弘前岳鰺ケ沢線に沿うように市街地が形成され、賀田地区周辺と、岩木川沿いの東部市街地という2つの市街地を有している。 人口. 平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、3.30%減の177,411人であり、増減率は県下40市町村中5位。 教育. 小学校. ※以下は廃校。 交通. 高速バス. 弘前バスターミナルが中心となる。国土交通省東北運輸局の「東北運輸局管内の高速バス輸送実績」より2005年(平成17年)度の利用客数を付記 路線バス. 市内の路線バスは全て弘南バスが運行。 道路. ほか 観光. ※ 「重要文化財」は文化財保護法の規定に基づき国(日本国文部大臣)が指定した重要文化財を指す。 洋風建築. (年代順)
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Perceptual User Interface
(パーセプチュアル ユーザ インタフェース、PUI)は 、次世代のユーザインタフェースの一つ。 コンピュータディスプレイやポインティングデバイスを使うグラフィカルユーザインタフェースよりも自然なユーザインタフェースとして期待されている。 使用者からの入力には、身振り手振りや音声といった、人間同士のコミュニケーションに用いられる意思伝達手段を用いる。 一方使用者への出力は、映像や音声といった、人間の各種感覚への情報によって行われる。
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羽海野チカ
羽海野 チカ(うみの チカ、8月30日生)は、日本の漫画家、同人作家。東京都足立区出身。東京都立工芸高等学校デザイン科卒業。女性。 略歴. 小学生の頃からキャラクターデザイナーや漫画家になる夢を抱いており、工芸高校在学時、「ぶ〜け」に一度だけ投稿作品が掲載。卒業後に株式会社サンリオへ就職、勤務外に同人誌活動をはじめる。 3年後に同社を退職、フリーで、イラストやグッズのカットを手掛ける。 漫画家への夢をあきらめず、同人誌活動は継続し、コミックマーケット参加時代には同人誌を発行。サークルを1人で回し、見かねた読者が度々手伝うこともあった。 ペンネームは自身の読み切り作品、「海の近くの遊園地」からとったものである。 宝島社『CUTiE Comic』へのカット絵の仕事を依頼された際、ネームを見せたことから『ハチミツとクローバー』でデビュー、初連載となった。しかし『CUTiE Comic』休刊が決定したことで、連載は終了。 それでもこの作品を描き続けたいと、自ら出版社へ持ち込み、『YOUNG YOU』で再連載が決定。(後に『コーラス』へ移籍。) 『ハチミツとクローバー』は2005年にアニメ化、2006年に実写映画化、2008年にはTVドラマ化されてヒットし、自身の代表作となる。同作で2003年に第27回講談社漫画賞少女部門を受賞。 2007年『3月のライオン』を連載開始。2010年、第1回ブクログ大賞マンガ部門、2011年にはマンガ大賞と第35回講談社漫画賞一般部門、2014年に第18回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。2021年に第24回メディア芸術祭賞 マンガ部門大賞を受賞。 2013年に手術・療養のため入院し、一時休載した。 作品リスト. アニメーション. 以下キャラクター原案:羽海野チカ
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明智抄
明智 抄(あけち しょう、1960年2月8日 - 2020年8月4日)は、日本の女性漫画家、小説家。 来歴. 広島県出身。1980年、『花とゆめ』(白泉社)に掲載の「あざやか緑の物語」で漫画家としてデビュー。主に『別冊花とゆめ』(白泉社)『コミックアイズ』(ホーム社、集英社)などで活躍。1998年には、大原まり子らとの共著によるアンソロジー『ハンサムウーマン』(ビレッジセンター出版局)に書き下ろした「松茸狩りでオトナになる」で小説家としてもデビューした。 代表作. 『始末人』シリーズ、『死神の惑星』とそれに繋がる一連の作品群、等。
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チューバ
チューバあるいはテューバは、大型の低音金管楽器である。金管楽器の中では最も大きく、最も低い音域を担う。 構造. 唇の振動によって生じた音を管体で共鳴させ朝顔(ベル)から放出するという基本構造は他の金管楽器と同様であるが、フレンチ・ホルン以上の全長を持つ管は長円状に幾重にも巻かれ、大型の朝顔は上部に開く。金属(主に真鍮)製の管は、迂回管や抜差し部分を除き、朝顔に向かって緩やかに広がる「円錐管」となっており、唄口を接続する「マウスパイプ」と呼ばれる部分は楽器の中程の高さに取り付けられる。 音程を変えるための弁(バルブ)を持つが、これにはピストン式とロータリー式とがあり、その数は3つから7つまでと様々である。 ピストン式の楽器には、楽器を構えた時に、弁が直立した(upright)状態になる「アップライト型」(通称「縦バス」)と、弁が横倒しになり楽器の前面で操作を行う「フロント・アクション」(front-action)とがある。 ロータリー式の弁を備えた楽器は全て前面操作となり、また、基本構造は前面操作のピストン式であっても1つないしは2つの追加のロータリー式の弁を備えるものもある。迂回管部やマウスピース直後の下向きにU字状になった部分には結露水がたまりやすいため、水抜き用のバルブ機構や抜差し管を使い排出を行う。 歴史. チューバ(tuba)の名称は、元々はラテン語で「管」の意味であり(英語のチューブと同源)、ローマ時代に用いられていた楽器の名称である。旧約聖書にも表れるこの呼称はいわゆる「ラッパ」を指すもので、管楽器の名称としてしばしば使われていたため、19世紀に入って登場した低音金管楽器の名称としても使われるようになった。 チューバ以前の低音金管楽器として、古くはセルパンと呼ばれる木製の有孔の楽器が使われており、後にこの流れを汲んだバソン・リュス(ロシアン・バスーン)、セルパンフォルヴィール ()といったバスホルンまたはアップライト・セルパンと呼ばれる木製のキー式の楽器が生み出されている。 18世紀半ばにイギリスから始まった産業革命により、金属の加工技術が飛躍的に進歩すると、軍隊楽器を中心に木製の管楽器を金属で製作する試みがなされ、ビューグルが誕生した。1813年にはドイツでヴァルヴ機構が開発され、ホルンやトランペットなどで音高を変える仕組みとしてヴァルヴが採り入れられ始めた。こうした動きはやがて低音金管楽器にも波及し、1817年にフランスで開発されたキー式の低音金楽器オフィクレイドがドイツに導入されると、すでにヴァルヴ式の楽器に慣れていたドイツの演奏者のためにヴァルヴ機構を備えた低音金管楽器が開発された。その代表的なものが1829年にウィーンの楽器製作者ヨゼフ・リードル(1788年頃 - 1837年)によって発表された「ボンバルドン」である。「ボンバルドン」は両手で操作するオフィクレイドと異なり片手の3本ヴァルヴで操作可能で複雑な運指を必要としなかった。これは管を「C」から「F」に延長することで達成されていたが、使用音域はオフィクレイドと変わらなかった。ボンバルドンはウィーンの軍楽隊とウィーン宮廷劇場の管弦楽団(ウィーンフィルの前身)に採用され、1970年代まで用いられた。 この「ボンバルドン」型の楽器に、右手用の3本のヴァルヴに左手で操作する2つのヴァルヴを追加してF管の最低音を使用できるようにしたのが、ベルリンのプロイセン軍楽隊長ヴィルヘルム・ヴィープレヒト(, 1802年 - 1872年)とベルリンの楽器製造職人ヨハン・ゴットフリート・モーリッツ()によるベルリン式のピストン・ヴァルヴを採用した最初の実用的なチューバである「F管バステューバ」だとされ、この楽器は1835年に特許が取得されている。 モーリッツの開発したチューバは軍楽隊用の楽器であったため、登場してしばらくはプロイセンの国外に普及しなかったが、リヒャルト・ワーグナーがチューバの低音を好んで『ニュルンベルクのマイスタージンガー』などでF管バスチューバを活躍させたことにより、プロイセン国内ではオーケストラに取り入れられるようになった。1871年にプロイセンがドイツ統一を達成すると、1875年にはウィーンの管弦楽団がチューバを正式採用し、翌1876年のバイロイト音楽祭で『マイスタージンガー』が演奏された。イギリスはオフィクレイドを19世紀末まで使用していたが、ワーグナーのオペラの普及とともに徐々に姿を消し、20世紀に入る頃にはほとんど見られなくなった。また、19世紀の半ば頃には、他に「」などと呼ばれる低音金管楽器もまた存在したが、やがてこれらの呼称は廃れ、「チューバ」の呼称が一般的になっていった。。 19世紀中頃には、「f」や「d」字型など、チューバの形状は様々であったが、アドルフ・サックスによって一連のサクソルンがまとめられて以降、この楽器群に見られる長円型へと次第に収束していった。今日では、低音域での豊かな音量を求め、全般的に大型化の傾向が見られる。 チューバの分類. 音域による分類. チューバはその音域によってテナー、バス、コントラバスの3種類に分類される。 さらに、チューバはピストン式やロータリー式にまで分かれる。 テナー・チューバ. テナー・チューバ(tenor tuba)は、比較的小型のチューバであり、しばしばユーフォニアム(euphonium)とも呼ばれ、変ロ調(B♭管)やハ調(C管)の楽器が知られている。稀ではあるが、この呼称はワーグナー・チューバを指すものとして使われることがある。 今日「テナー・チューバ」(あるいは「ユーフォニアム」)と呼ばれている楽器は、吹奏楽やブラス・バンド、独奏などで用いられる他、後期ロマン派以降の比較的大きな編成による交響曲や管弦楽曲でも稀に使用の機会がある。一般に「テナー・チューバ」の呼称は管弦楽で用いられ、「ユーフォニアム」は吹奏楽など管弦楽以外の分野全般で用いられる。日本ではバルブの形態により、ロータリー式の楽器を「テナー・チューバ」、ピストン式の楽器を「ユーフォニアム」として呼び慣わしている(これらの呼称についてはユーフォニアムを参照)。B♭管の場合、オーケストラにおいては、通常トロンボーン奏者が持ち替えて演奏する。 このテナー・チューバに含まれる楽器としては、「フレンチ・チューバ」(あるいは「サクソルン・バス」)と呼ばれるものも存在する。 バス・チューバとコントラバス・チューバ. 一般には単に「チューバ」と呼ばれる楽器は変ロ調、ハ調、変ホ調、ヘ調の調性を持つものが知られている。これらはそれぞれ、しばしば「B♭管(ドイツ式表記ではB管)」「C管」「E♭管(ドイツ式表記ではEs管)」、「F管」の様に表記され、この中でB♭管が最も管が長く、C、E♭、Fの順に短くなる。これらのチューバは管弦楽や吹奏楽における大編成の合奏から独奏に至るまで、幅広い用途に用いられる。吹奏楽やブラス・バンド、特に後者においては、習慣的にチューバを単に「バス」と呼ぶ場合があるが、これはしばしばアップライト型の楽器に限定される。また、「チューバ」と「バス」を明確に区別する者も奏者を中心に存在する。 チューバのうち、変ホ調とヘ調の楽器を「バス・チューバ」、変ロ調とハ調の楽器を「コントラバス・チューバ」として区別する場合がある。作曲家によっては楽譜上で区別し、使用する楽器を指定している。コントラバス・チューバは、同じ調性のテナー・チューバよりも基音が1オクターブ低く、テナー・チューバと区別して「BB♭管」「CC管」とも表記される。 ウィンナ・チューバ. 「ウィンナ・チューバ」と呼ばれる楽器はF管のバス・チューバの一種である。左手で3個、右手で3個、計6個のロータリー・バルブを操作する。管厚が薄く、ウィンナ・ホルン同様に倍音を多く含み、他の金管楽器とよく融け合う響きを出す。特にドイツ式トロンボーンとの親和性が高い。 ウィンナ・チューバは、この楽器の響きに魅せられたワーグナー、ブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウスなどにより後期ロマン派の重要作品に用いられていく。オーケストラのチューバとの意味合いを込めて「コンサート・チューバ」の呼称も得た。オフィクレイドが長く使用されたイギリスにも遅れて普及し、エルガーはバス・チューバとしてこのウィンナ・チューバF管を想定していた(ベッソンなどのコンペンセイティングE♭管は「ミリタリー・チューバ」に分類され、オーケストラの楽器と見なされていなかった)。 ベルリン生まれのシステムであるが、ウィーンで育てられ広く普及し、近年までウィーンで使われ続けたことによってウィンナ・チューバと呼ばれている。新しいウィンナ・チューバをゲルハルト・ゼックマイスター (Gerhard Zechmeister) が、ムジカ (Musica) 社の協力で開発している。ムジカ型はいくつかのバリエーションを持つ(、)。 ゼックマイスター著のウィンナ・チューバ教則本“"Concerttuba"”(ドブリンガー社(Musikhaus Doblinger))には、次のようにウィンナ・チューバの特質が記されている。「その巧妙なフィンガリングとバルブ・システム(6番目のバルブの回転がFチューバをCチューバに変える)を持ったウィンナ・コンサート・チューバは、いわばバス・チューバおよびコントラバス・チューバの組み合わせなのである(響きの統一をもたらしながら!)」。ゼックマイスターは、ウィンナ・チューバと同じロータリー・システムを持つF管コントラバス・トロンボーンも開発している。 ウィンナ・ホルン制作で知られるオーストリアのアンドレアス・ユングヴィルト (AndreasS Jungwirth) は新しいウィンナ・チューバ制作に取り組み、独自のよりダイレクトな響きを復活させることに成功した(、、、)。 フレンチ・チューバ. 一般的に「フレンチ・チューバ」と呼ばれる楽器(フランスでは「C管のチューバ」または「6本ヴァルヴのサクソルン」と呼ばれる)は、ハ調(C管)または変ロ調(B♭管)のテナー・チューバで、1871年の普仏戦争の敗北以降、ワーグナーのオペラの上演が行われるようになったフランスで、1860年代以降オフィクレイドに代わって使われていたサクソルン・バス(サクソルン・コントラバスより小型で1オクターヴ高い)の低音域を拡張すべく開発された。従来の右手用の3本のピストンヴァルヴに加え、左手用の3本のヴァルヴを加えることで、弦楽器でいえばチェロからコントラバスまでの広い音域を出すことが可能になった。フランスでは、1970年頃まで、バス・チューバと共に、あるいは単独で用いられていた。フランスの作曲家、サン・サーンス、ドビュッシー、ラヴェル、プーランクや、フランスで作曲をしていたストラヴィンスキーの作品における「チューバ」は、この楽器を想定していたと考えられる。またフレンチ・チューバの登場時は、単に「サクソルン」と呼ばれていたため、使用楽器の解釈が分かれる原因ともなっている。 マーチング・チューバ. パレードやマーチングといった立奏を前提として考案された大型のビューグルで、通常のチューバを横にした形状をしており、肩の上に乗せベルを前方に向けて演奏する。マウスパイプの交換により通常のチューバとして座っての演奏を可能にしたものもあり、この様式はしばしば「コンバーチブル」(convertible)と呼ばれる。 ヘリコンとスーザフォン. と、それを改良したスーザフォンは、チューバの変種として捉えることもできるが、その用途はいわゆるチューバとは全く異なり、行進やマーチングなど立奏に特化した楽器である(マーチングチューバともいう)。ヘリコンには幾つかの調性の楽器が知られ、また、バルブの形態も様々であるが、スーザフォンは変ロ調でピストン式の3本バルブのほぼ一種だけが知られている。変ロ調のスーザフォンは同じ調性のコントラバス・チューバと同じ管長を持ち、音域もほぼ同じである。今日の管弦楽では、こうしたヘリコンやスーザフォンを使用することは無く、吹奏楽でも稀なこととなったが、20世紀初めから第二次世界大戦の終わり頃までのアメリカではいわゆる(座奏用の)チューバの代わりにスーザフォンが広く用いられた。従来は真鍮製であったが、1960年代以降、より軽い繊維強化プラスチック(FRP)などの材質を用いたスーザフォンが多く使用されるようになった。 記譜. チューバには様々な調性の楽器があるが、ほとんどの場合、特に管弦楽では伝統的に、移調楽器としては扱われず実音で記譜される。しかし、吹奏楽や金管合奏において「バス」などとして使用される際には、移調楽器として扱われる場合もある。
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地震
地震(じしん、)は、以下の2つの意味で用いられる。 地震を専門とした学問を地震学という。地震学は地球物理学の一分野である。 概要. 地下の岩盤には様々な要因により力(ちから)がかかっており、急激な変形によってかかっている力を解消する現象が地震である。地球の内部で起こる地質現象(地質活動)の一種。地震に対して、地殻が非常にゆっくりとずれ動く現象を地殻変動と呼ぶ。 地震によって変形した岩石の断面を断層といい、地下数 kmから数十 kmの深さにあって地表までは達しないことが多いが、大きな地震の時にはその末端が地表にも現れて地表地震断層となる場合がある。一度断層となった面は強度が低下するため繰り返し地震を引き起こすと考えられている。特にカリフォルニアにあるサンアンドレアス断層は1,000 km以上に及ぶ長大なもので繰り返し地震を起こしており、日本の地震学者に地震と断層の結びつきを知らせたことで有名で、日本では兵庫県南部地震の野島断層、濃尾地震の根尾谷断層、北伊豆地震の丹那断層などが有名である。 地震によって生じる振動は高速の地震波となって地中を伝わり、人間が生活している地表でも地震動として感じられる。 地震波は波の一種であり、地中を伝わる波(実体波)と地表を伝わる波(表面波)に大別される。実体波はさらに、速度が速いP波(たて波、疎密波)と、速度が遅いS波(横波、ねじれ波)に分けられる。 地震のはじめに感じられることが多い細かい震動(初期微動)はP波、地震の激しい震動(主要動)は主にS波による。P波とS波は伝わる速度が違うので、P波とS波の到達時間の差である初期微動の時間が震央と観測地点との間の距離に比例する。初期微動が長いほど震源は遠い。初期微動が長くかつ主要動が大きい場合は、震源が遠いにもかかわらず振幅が大きいので、大地震の可能性が考えられる。また、P波はS波よりも速いので、P波を検知したときに警報を出せば被害が軽減できることから、緊急地震速報や緊急停止システムで応用されている。 地下で断層が動いた時、最初に動いた地点を震源と呼び、地上における震源の真上の地点を震央と呼ぶ。テレビや新聞などで一般的に使用される震源は震央の位置を示している。震源が動いた後もまわりに面状にずれが生じ、震源域と呼ばれるずれた部分全体が地震波を発する。 地震波の速度はほぼ一定であり上記のように異種の波がある性質を利用して、地震計で地震波を観測することにより、1地点以上の観測で観測地点から震央までの距離、2地点以上の観測で震央の位置、3地点以上の観測で震源の深さを求めることができる。この算出式は大森房吉が1899年に発表したので、「(震源の)大森公式」と呼ばれている。このほかに地震を含めた地下の諸現象の解明や、核実験の監視などに有用であることから世界的に地震観測網が整備されている。日本は地震災害が多いことから地震計や震度計が数千か所の規模で高密度に設置され、気象庁による迅速な地震情報発表や緊急地震速報などに活用されている。 なお、一つの地震の地震波にはいろいろな周期(周波数)の成分が含まれており、その違いによって被害が異なるほか、近隣の地域でも表層地盤の構造や建物の大きさ・形状によって揺れ方が大きく異なることが知られている(詳細は後述参照)。 また地震は、震源の深さによって、浅発地震、稍(やや)深発地震、深発地震の3つに分類される。前者の境界は60 kmまたは70 kmとされる場合が多く、後者の境界は200 kmまたは300 kmとされる場合が多いが、統一した定義はない。震源が深い地震は同じ規模の浅い地震に比べて地表での揺れは小さい。ただし、地下構造の影響により震央から離れた地点で大きく揺れる異常震域が現れることがある。 このほかに地震を特徴付けるものとして、発震機構とよばれる断層の動き方(後述)や地震の大きさなどがある。 地震の大きさ. 地震の大きさを表現する指標は主に2系統あり、それぞれいくつかの種類がある。Mは指数関数、震度は非線形関数であり、数字の大きさと実際の物理量は比例関係ではない(詳細は後述参照)。 地震活動. 比較的大きな地震は、地震活動に時間的・空間的なまとまりがあり、その中で最も規模が大きな地震を本震と呼ぶ。ただし、本震の区別が容易でない地震もあり、断層のずれの程度や前後に起こる地震の経過、断層の過去の活動などを考慮して判断される。本震に対して、その前に起こるものを前震、その後に起こるものを余震という。 被害をもたらすような大地震ではほぼ例外なく余震が発生し、余震により被害が拡大する例も多い。大きな地震であるほど、本震の後に起こる余震の回数・規模が大きくなるが、「(余震の)改良大森公式」に従って次第に減少する。この公式から余震の発生確率を予測したり、活動度の低下から大きな余震の発生を予測する研究も行われている。余震の発生する範囲は震源域とほぼ重なる。なお、大地震の地殻変動の影響で震源域の外で地震活動が活発になる場合があり、これを誘発地震という。 本震と呼べるようなひとまわり規模の大きな地震がなく、同規模の地震が多発するものを群発地震という。また1990年代以降普及した呼称だが、同じ断層で数十年から数万年以上の間隔で繰り返し発生するものを固有地震(相似地震)といい、大地震と呼ばれるような複数の固有地震が同時または短い間隔で発生(主に隣接するセグメントを破壊)するものを連動型地震という。 また、地震のメカニズム解明の過程でプレートのテクトニクス(動き)との対応関係から地震は4種類に大別されており、それぞれ発生地域、揺れの大きさや被害の傾向が異なる(詳細は後述参照)。 地震による災害. 大きな地震はしばしば建造物を破壊して家財を散乱させ、火災、土砂災害などを引き起こし、人的被害をもたらす、典型的な自然災害の1つである。地震予知の研究も行われているが、天気予報のような科学的な予報・予知が確立されておらず、前触れもなく突然やってくる。そのため、建造物や地盤の強度を調べて補強する、震災時の生活物資を備蓄する、避難計画を立てるなど、災害に備える「防災」や災害を軽減する「減災」の考え方から対策をとり、「いつ来てもいいように」備えるのが一般的である。 また、海域で発生する大規模な地震は津波を発生させ、震源から遠く揺れを感じなかったところにも災害をもたらすことがある。そのため、学術的な研究などの目的に加えて、津波の発生を速報する目的で、各国の行政機関や大学等によって地震の発生状況が日々監視されている。1960年チリ地震以降、初めて太平洋全域の津波警報システムが整備され、2004年のスマトラ島沖地震以降はその態勢も大きく強化され、インド洋でも整備されている。 メカニズム. 地球の表層はプレートと呼ばれる硬い板のような岩盤でできており、そのプレートは移動し、プレート同士で押し合いを続けている。そのため、プレート内部やプレート間の境界部には、力が加わり歪みが蓄積している。これら岩盤内では、岩盤の密度が低くもろい、温度(粘性)が高い、大きな摩擦力が掛かっているなどの理由で歪みが溜まりやすい部分がある。ここで応力(ストレス)が局所的に高まり、岩体(岩盤)の剪断破壊強度を超えて、断層が生じ、あるいは既存の断層が動くことが地震であると考えられている。 断層はいわば過去の地震で生じた古傷であり、地殻に対する応力が集中しやすいことから、断層では繰り返し同じような周期(再来間隔)で地震が発生する。断層の大きさは数百 mから数千 kmまであり、またその断層の再来間隔も数年から数十万年とさまざまである。断層の中でも、数億年から数百万年前まで動いていて現在は動いていないような断層があり、そのようなものは古断層といって地震を起こさない。一方、現在も動いている断層を活断層という。日本だけでも約2,000の活断層がある。ただし、活動の有無を判別するのが難しい断層や大規模探査を行わなければ発見できない断層もあって、古断層といわれていた断層や知られていなかった断層が動いて地震を起こした例もあるため、防災上注意しなければならない。 岩盤内で蓄積される応力は、押し合う力だけではなく、引っ張り合う力や、すれ違う力など様々な向きのものが存在し、それによって断層のずれる方向が変わる。押し合う応力は断層面の上側が盛り上がる逆断層、引っ張り合う応力は断層面の下側が盛り上がる正断層、すれ違う応力はほぼ垂直な断層面の両側が互い違いに動く横ずれ断層を形成する。多くの断層は、正断層型・逆断層型のずれ方と、横ずれ断層型のずれ方のどちらかがメインとなり、もう一方のずれ方も多少合わさった形となる。 よくテレビ番組でプレート境界が瞬間的にずれて跳ね上がり、その動き自体が地震の揺れ(地震動、地震波)と同一であるかのような説明があるが、短周期の揺れは、ずれるときの摩擦の振動であり、断層型地震等の最終的な揺れの主因は、地上での岩石の破壊実験で生じる振動からも、摩擦面で起きる破壊とされている。震源域が広くずれが生じている時間が長ければ、それだけ長く揺れ続ける。津波は、海底のずれの動きそのものが海水に伝わって起きる。 地震の始まりは、岩盤内部の一点から破壊が始まり、急激に岩盤がずれて歪みを解放し始めることである。破壊が始まった一点が震源であり、破壊されてずれた部分が断層となる。このずれた部分は、地震波を解析する段階では便宜的に平面(断層面または破壊面と呼ぶ)と仮定し、断層面の向き(走向)や断層面の鉛直方向に対する角度(傾斜)、震源の位置、地震の規模などを推定する。震源断層が曲がったり複数あったりする場合は、後の解析や余震の解析により推定される。 震源で始まった岩盤の破壊範囲は、多くの場合秒速2 - 3kmで拡大し、破壊された岩盤は、速いときで秒速数 mでずれを拡大させていく。 以下は実際の例である。 このようにして破壊が終結すると、一つの地震が終わることになる。この断層面の広さとずれの大きさは、地震の規模と関連している。多くの場合、断層面が広く、ずれが大きくなれば大地震となり、逆に小さな地震では破壊は小規模である。こうして一つの地震が終結しても、大地震の場合は断層面にはまだ破壊されずに残っていて、歪みをため込んでいる部分がある。それらの岩盤も、余震によって次第に破壊が進む。本震の前に発生することがある前震は、本震を誘発するものだという説、本震に先駆けて起こる小規模な破壊だという説などがあるが、はっきりと解明されていない。 本震の後に余震が多数発生する「本震 - 余震型」や、それに加えて前震も発生する「前震 - 本震 - 余震型」の場合は、応力が一気に増加することで発生すると考えられている。一方で群発地震の場合は、応力が比較的緩やかなスピードで増加することで地震が多数発生すると考えられている。 地震発生のきっかけ. 地震発生までのメカニズムは徐々に明らかになっているが、地盤や岩盤に溜まった応力の解放を促している引き金が何であるかはほとんどが謎のままになっていて、はっきりとした特定はなされておらず、様々な説が展開されている。この引き金に関しては、相関性の比較により統計学的に相関を見出すことは可能であるが、それが因果関係であるかを同定するのは地震学的な研究に頼るもので、分野が少し異なる。 地震の規模と揺れの指標. マグニチュード. 一般的に、地震の規模を表す指標としては、エネルギー量を示すマグニチュードを用い、「M」と表記する。マグニチュードには算定方法によっていくつかの種類があり、地震学では各種のマグニチュードを区別するために「M」に続けて区別の記号を付ける。地震学ではモーメントマグニチュード (Mw) が広く使われる。日本では気象庁マグニチュード (Mj) が広く使われる。 他にもそれぞれの観測機関によって使用されるマグニチュードのタイプが異なる場合もあるが、その値は差異ができるだけ小さくなるように定められている。これらは最初にマグニチュードを定義したチャールズ・リヒターのものの改良版であり、基本的に地震動の最大振幅の常用対数を基礎とする。モーメントマグニチュードを除き、いずれのタイプも8.5程度以上の巨大地震や超巨大地震ではその値が頭打ちになる傾向を持つ。 この弱点を改善するために、地震学では地震モーメントから算出されるモーメントマグニチュード (Mw) が地震の規模を表す指標として用いられることが多く、これを単に「M」と表記することも多い(アメリカ地質調査所 (USGS) など)。 日本では、気象庁が独自の定義による気象庁マグニチュード (Mj) を発表しており、日本ではこれを単に「M」と表記することも多い。これに対し、多くの国では表面波マグニチュード (Ms) や実体波マグニチュード (Mb) のことを、単にマグニチュードと呼ぶことが多い。Mが1大きくなるとエネルギーは約31.6倍、2大きくなるとちょうど1,000倍となる。 人類の観測史上最も大きな地震、つまりマグニチュード (Mw) が最も大きかったのは、1960年のチリ地震(Mw9.5, Ms8.5)である。 ある地震のマグニチュードであっても、機関によって異なったり、複数の値を発表する場合がある。例えば東北地方太平洋沖地震のマグニチュードは9.0とされているが、これはモーメント・マグニチュードであり、従来の気象庁マグニチュードでは8.4である。なお発生直後から数度訂正されていて、気象庁マグニチュードで7.9と速報したが、後に8.4と修正し、さらにモーメントマグニチュードで8.8と発表し、最終的に9.0とした。アメリカ地質調査所 (USGS) は独自にモーメントマグニチュード9.0と発表している。 震度. 地震動の大きさを表す数値として、速度や加速度、変位などがある。建築物や土木構造物の設計の分野では、応答スペクトルやSI値という指標も、地震動の大きさを表す方法として広く用いられている。一般的には、人体感覚、周囲の物体、建造物の被害の大きさなどを考慮して、地震動の大きさを客観的に段階付けた震度という指標が用いられる。 震度については、日本では気象庁震度階級(通称「震度」)、アメリカ合衆国では改正メルカリ震度階級、ヨーロッパではヨーロッパ震度階級 (EMS)、CIS諸国やイスラエル、インドなどではMSK震度階級が現在使用されているほか、ほかにもいくつかの指標がある。 地震の規模が大きいほど震度は大きくなる傾向にあるが、震源域からの距離や断層のずれの方向、断層の破壊伝播速度、地盤の構造や性質、地震波の特性などによって地上の揺れは大きく異なる。水や空気が多く含まれ土壌粒子の固結が弱い柔らかい地層ほど、また新しい地層であるほど揺れが増幅され、一般的には軟弱地盤と呼ばれるような平野部や河川沿いや埋め立て地が揺れやすい傾向にあるが、地盤改良や基礎方式によって揺れを低減することが可能である。 例えば東北地方太平洋沖地震は震度7とされているが、震度7は最大震度であって、公式に観測されたのは宮城県栗原市だけであり、例えば島嶼部を除く東京都では震度5強(千代田区大手町など18地点) - 震度3(奥多摩町など3地点)であった。「各市町村の震度」「各地域の震度」はその市町村・地域内に設置されている複数の観測点のうち最も揺れが大きかった値である。また、震度はその地域を代表する地点に設置された震度計が示す目安値であり、実際の土地に当てはめれば地盤の状態によって近傍の観測点に比べ最大1程度の差が生じるので、必ずしも被害状況と地点震度が一致しない場合がある。 物理量. 地震の揺れの速度を表す単位として、カイン(kine, センチメートル毎秒)がある。 また、地震の揺れによる加速度を表す単位として、ガル(gal, センチメートル毎秒毎秒)がある。1秒間に1カインの加速度が1ガルである。重力加速度を超えることもありどんな重いものでも、固定していなければ床に対して動く。 地震の原因と種類. プレートテクトニクスの観点から地震を分類することができ、大きく分けて2通りの分け方がある。1つは断層で起こるもの(構造地震)とそうでないものに分けるやり方で、もう1つは複数のプレートの間で起こるもの(プレート間地震あるいはプレート境界地震, "Inter"plate earthquake)とプレート内部で起こるもの(プレート内地震, "Intra"plate earthquake)に分けるやり方である。後者はよく使われており、さらに細かい分類もされている。 以下に分類と主な日本語呼称を挙げる。 上の分類とは別に、火山体周辺で起こるもの(火山性地震)を特別に分ける場合がある。マグマや火山ガスの移動が地震を起こすほか、周囲よりも地殻が破砕されて弱いために応力が集中して地震が起こるなど、いくつかのメカニズムが知られている。 また、人工的な発破の振動などにより発生する人工地震も存在する。これに対して、自然に発生する地震を自然地震と呼ぶことがある。なお、ダムなど人工的な要因により引き起こされる自然地震もあり、誘発地震と呼ぶ場合がある(#その他参照)。 防災上の観点では、これらとは別に直下型地震(内陸地震)という分類を用いることがある。居住地域の直下で起こる浅発地震を指し、地域によってはプレート内地震だけではなくプレート間地震も起こる。南関東直下地震などの、都市で発生する直下型地震はリスクが大きいことから重要視されている。 また、地震動が小さい割に大きな津波が起こる地震を津波地震といい、顕著な例として1896年の明治三陸地震がある。。 地震に関連するものとして、振動を起こさないスリップあるいは滑りと呼ばれる現象がある。全く振動を伴わないものもあれば、付随して弱い低周波の振動を伴う低周波地震や、低周波微動などがあることが知られている。 プレート間地震. 2つのプレートが接する場所では、異なる運動をしているプレート同士の境界にひずみが蓄積し、地震が起こる。このようなタイプの地震をプレート間地震、プレート境界地震あるいはプレート境界型地震と呼ぶ。 プレート同士の境界は、収束型(海溝と衝突型境界に細分される)、発散型、すれ違い型(トランスフォーム断層)の3種類に分けられる。発散型やすれ違い型は、地震が起こる範囲がプレート境界の周辺だけに限られ、震源の深さもあまり深くない。一方、収束型のうち海溝はしばしば規模の大きな地震を発生させ、衝突型は地震が起こる範囲が広く震源が深いことも多い。 内陸地殻内地震. 海洋プレートが沈み込んでいる大陸プレートの端の部分では、海溝から数百 km離れた部分まで含む広い範囲に海洋プレートの押す力が及ぶ。その力はプレートの内部や表層部にも現れるため、プレートの表層部ではあちこちでひび割れができる。このひび割れが断層である。 周囲から押されている断層では、押された力を上下に逃がす形で山が高く、谷が深くなるように岩盤が動く(逆断層)。また、大陸プレートの一部分では、火山活動によってマグマがプレート内を上昇し、プレートを押し広げているような部分がある。また、周囲から引っ張られている断層でも、引っ張られた力を上下に逃がす形で山が高く、谷が深くなるように岩盤が動く(正断層)。また、押される断層・引っ張られる断層であっても、場所によっては断層が水平にずれ、岩盤が上下に動かないこともある(横ずれ断層)。 このようなタイプの地震を内陸地殻内地震あるいは大陸プレート内地震と呼ぶ。伊豆半島や伊豆諸島、ニュージーランドなどは海洋プレートの上に位置しているが、これらの場所で起こるプレート内地震もこのタイプの地震として扱われる。このタイプの地震では地表に断層が出現しやすいため、断層型地震、活断層型地震などとも呼ぶが、プレート間・大陸プレート内・海洋プレート内地震は全て断層運動によって発生することに注意する必要がある。内陸の断層は都市の直下や周辺にあることも少なくなく、直下型地震とも呼ぶが、関東地震のように陸地の直下を震源とする海溝型地震もあるため、それと区別する意味で「陸域の浅い場所を震源とする地震」のような言い方もされる。 地震の規模は活断層の大きさによるが、多くの断層はM6 - 7、大きいものではM8に達する。海溝型地震と同じように、長い断層はいくつかの領域に分かれ、別々に活動する。同一の活断層での大きな地震の発生は、数百年から数十万年に1回の頻度とされている。都市の直下で発生すると甚大な被害をもたらすことがあるが、大きな揺れに見舞われる範囲は海溝型地震と比べると狭い領域に限られる。初期微動を検知するという原理上、緊急地震速報が間に合わないこともある。 1976年7月の唐山地震(M7.8、死者24万人・20世紀最大)、1995年1月の兵庫県南部地震(M7.3、最大震度7、死者約6,000人)や2000年10月の鳥取県西部地震(M7.3、最大震度6強)、2004年10月の新潟県中越地震(M6.8、最大震度7)や2007年3月の能登半島地震(M6.9、最大震度6強)、新しいものでは2008年6月14日に発生した岩手・宮城内陸地震(M7.2、最大震度6強)や2010年1月のハイチ地震(Mw7.0、死者32万人)などが該当する。2012年11月に福島県沖で相次いで発生したM5クラスの地震もこれに該当する。 アメリカ西海岸、ニュージーランド、日本、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、アフガニスタン、イラン、トルコ、ギリシャ、イタリア、スイスなどに活断層が密集しており、大きな断層型地震が頻発する。 このタイプの地震はしばしば甚大な被害をもたらすため、将来の地震発生予測を目的に、1980年以後日本全土の活断層が調査され、危険な断層を順次評価している。兵庫県南部地震の前に公表された活断層の地図には他の大断層類と同時に「危ない断層」として有馬・高槻・六甲断層帯が危険と表示されていた。この調査は以後も継続して続けられている。 一方、ヨーロッパ中部・北部、アメリカ中部、オーストラリアなどには、過去の造山運動に伴ってできた断層があるが、その中には現在も動いている活断層がある。このような断層は、時々動いて最大でM4 - 5程度の地震を起こし、稀に被害が出ることもある。また、そのような地域でもニューマドリッド断層帯のように活断層が存在し、頻繁に活動している場合がある。 海洋プレート内地震. 沈み込みの運動をしている海洋プレートでも地震が発生する。このようなタイプの地震を海洋プレート内地震あるいはプレート内地震と呼ぶ。単にプレート内地震と呼ぶときはほとんどの場合このタイプを指し、大陸プレート内地震は含まれない。プレート間地震と合わせて海溝型地震と呼ぶこともある。海洋プレートにおける地震は大きく以下の2種類に分けられる。「沈み込んだ海洋プレート」では震源が深くなる傾向にあり、「これから沈み込む海洋プレート」では浅くなることが多い。 火山性地震. 海溝の周辺の火山弧、ホットスポット、海嶺、ホットプリュームの噴出地域では、マグマの移動や熱せられた水蒸気の圧力、火山活動に伴う地面の隆起や沈降が原因となって地震が発生する。これらの地震を火山性地震という。火山性地震は断層の動きだけでは説明できない部分があるので、上記の3分類とは分けて考えることが多い。地震動も上記の地震とは異なる場合がある。 火山性地震は地震動の性質から2つのタイプに分けられる。P波とS波が明瞭で、一般的な断層破壊による地震と大差がないA型地震、および紡錘型の波形を持つB型地震である。B型地震はさらに周期の違いによってBL型地震とBH型地震に分けられる。広義では火山性微動も地震に含む。また、火道の圧縮やマグマの爆発・爆縮によって、一般的な断層破壊では見られない特殊な発震機構(メカニズム)を持つ地震も起こりうる。 その他. 人為的・外部的要因による誘発地震. 主に人為的な原因や人工物の影響で引き起こされる地震。なお、人為的によらない外部的な要因としては、様々な自然現象などが地震の引き金になっている可能性も指摘されている(詳細は後節の「#地震発生のきっかけ」を参照)。 地震以外の発震現象. 地震とは異なり、断層のずれを伴わずに地表に揺れを引き起こす発震現象。 地震の原因論とメカニズム論の展開. 神話など. 日本(大和民族)では古来より「地中深くに大ナマズが存在し、その大ナマズが暴れることにより大地震が起きる」という俗説が信じられていた。現代においてもよく知られた俗説だが、ナマズが地震を予知できる根拠は見つかっていない。江戸時代には安政の大地震を期に鯰絵と呼ばれる錦絵が流行するなど、日本人にとって地震とナマズが身近な関係にあったことがうかがえる。また、鹿島神宮にはこの大ナマズを抑えるという要石があり、地震の守り神として信仰されている。地震避けの呪歌に、万葉集の歌を使った「ゆるぐともよもや抜けじの要石鹿島の神のあらむ限りは」(要石は動きはしても、まさか抜けることはないだろう、武甕槌神がいる限りは)というものがある。 北海道のアイヌには、「地下には巨大なアメマスが住んでいる。これが暴れて地震が起きる」という、日本(大和民族)とよく似た伝承があった。そこで地震が発生すれば、地震鎮めの呪いとして囲炉裏の灰に小刀や火箸を刺し、アメマスを押さえつけるまねごとをした。鵡川町から平取地方では、地震が発生した際に「イッケアトウエ、エイタカシュ、アエオマ(おとなしくしないと腰を突き刺すぞ)」などの呪文の文言を叫び舞う儀式の記録が保存されている。 台湾では、地中深くに地牛という大きな牛が存在し、その地牛が寝返りをうつと地震を起こすという伝説がある。 中国では古来から、陰陽説の考え方を背景にして、地震とは陰の性質を持った大地から陽の性質を持った大気が出てくるときに起こるものという説明があった。また福建省では、地震を起こすのはネズミであると言う神話上の伝承が存在する。 北欧神話においては地底に幽閉されたロキが、頭上から降り注ぐ蛇の毒液を浴びたときに震えて地震が起きるとされている(詳細はロキを参照のこと)。ギリシア神話ではポセイドンが地震の神とされた。 フィンランドの先住民族は、地震が起こるのは大地の下で、大地を支える死の国の老人の手が震えるからとされている。 北アメリカでは、クジラが地震や津波を起こすとされ、海に棲むウンセギラという巨大な雌水蛇が大津波をおこす。 メキシコ、マヤ民族のツォツィル語系インディオでは、大地の4本または8本の支柱が揺れ動くと地震がおこるとされている。 古代エジプトでは、大地の神ゲブの笑い、またはヌトと離れた悲しみが地震をおこすという。 仏教では、地震は傲慢と不平が原因で起こされる自然災害であり、自然災害が起きるのを防ぐには戒・定・慧を勤修し、三毒を息滅することが必要だと教えている。 科学的探究. 古代ギリシアでは、自然哲学者アナクシメネスが土が大地の窪みにずり落ちることが原因だと考えた。アナクサゴラスは地下で激しく水が流れ落ちることを原因と考えた。その後、アリストテレスは四元素説を基に、地震は地中から蒸気のようなプネウマ(気、空気)が噴出することで起こると説明した。これらを受けて、セネカは地下での蒸気の噴出によって空洞ができ、そこの地面が陥没するときに地震が起こるという説を立てた。時は変わって、アラビアではイブン・スィーナーが、地面が隆起することが原因だとする考えを示した。 18世紀には、リスボン地震をきっかけにジョン・ミッチェルが地震の研究を行い、火山の影響で地中の水蒸気が変化を起こすことが原因という説を発表した。 19世紀末には、お雇い外国人として日本にいたジョン・ミルンやジェームス・アルフレッド・ユーイングが地震を体験したことがきっかけとなり、日本地震学会が設立され、地震計の開発や地震の研究が進み始めた。地震の波形から震源を推定する方法が発見されたり、アンドリア・モホロビチッチがモホロビチッチ不連続面を発見して地球の内部構造の解明の足がかりとなったりした。ミルンは、イギリスで地震の研究を進めて同国に近代地震学が確立された。現在イギリスには世界中の地震の観測情報を集積している国際地震センター (ISC) が設置されている。 また20世紀に入って、リチャード・ディクソン・オールダムが地球の核(コア)を発見、ベノー・グーテンベルグがグーテンベルク不連続面を発見するなどし、地球物理学が次第に進展するとともに、アルフレート・ヴェーゲナーの大陸移動説から発展したマントル対流説や海洋底拡大説がプレートテクトニクスにまとめられ、地震の原因として断層地震説と弾性反発説が定着した。ただ、断層地震説と弾性反発説によって一度否定された岩漿貫入などは、2説を補完する説として考える学者もいる。 地震動・地震波と揺れ. 地表では、P波による揺れが始まってからS波が到達するまでは、初期微動と呼ばれる比較的小さい揺れに見舞われる。その後、S波が到達した後は主要動と呼ばれる比較的大きい揺れとなる。震源から数十 km以上と離れている場合にはこのような揺れの変化が感じられるが、震源が近い場合はP波とS波がほぼ同時に到達するため分からない。また震源から近い場所では、P波が到達する前後にレイリー波も到達し、同じく揺れを引き起こす。S波は液体中を伝播しないため、海上の船などでは、P波のみによって発生する海震と呼ばれる揺れに見舞われる。 被害を引き起こすような揺れのもとは主にS波だが、レイリー波、ラブ波、P波も振幅や周期によっては被害を引き起こすような揺れとなる。 また、揺れの大きさは震源からの距離に比例すると思われがちであるが、厳密には「震源域からの距離」に比例する。一方で、地盤の特性により思わぬところで揺れが大きくなる場合がある。例えば、阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震では、震度7の被害地域が「震災の帯」と呼ばれる帯状に生じた。これは震源域である断層直上であることが原因の1つだったほか、地盤の柔らかい大阪平野が阪神間に帯状に伸びていたこと、六甲山地と大阪平野の境界部で地震波の干渉や増幅が発生したことが原因とされていて、「震災の帯」は震源から約30 km離れた地域まで延びている。 地震波 / 地震動の周期は、被害を受ける構造物と一定の関係性がある。構造物にはそれぞれ、固有振動周期の地震波に共振しやすい、周波数が違うと曲げ・ねじれ・伸縮などの変形の「型」も変わるといった、地震動を受けた際の振動特性があり、地震工学や建築工学においては重要視される。構造計算においては、さまざまな固有振動周期や減衰定数をもつ構造物の応答スペクトルを解析して、地震動に対する構造物の特性をみる。 例えば、日本家屋のような木造住宅は周期1秒前後の短周期地震動が固有振動周期にあたるため、周期1秒前後の地震動によって共振が発生し非常に強く建物が揺さぶられ、壊れやすく被害が拡大しやすい。この周期の地震波はキラーパルスと呼ばれており、兵庫県南部地震の波形がそうであった。一方、高層建築物は周期5秒以上の長周期地震動が固有振動であり、地震波が堆積盆地を伝わる過程で増幅しやすい長周期地震動によって、平野部の高層建築物の高層階では大きな被害が発生する。一般的に規模の大きな地震ほど周期が長い地震動の大きさ(振幅)も増す傾向にあり、周期が長いほど低減衰のため遠くまで到達して被害をもたらす。このほかに、M9を超えるような巨大地震の際に観測される、超長周期地震動または地球の自由振動と呼ばれる周期数百秒以上の地震動がある。この超長周期地震動の中には地球の固有振動周期に当たる地震動もあり、地球全体が非常に長い周期で揺れることもある。 なお、地震波 / 地震動の周期は地震の規模や震源距離に関係が深い。大地震と称されるM7程度までは短周期が卓越し、それ以上になると規模が大きいほど長周期が卓越する傾向にあり、海溝型の巨大地震では長周期地震動が大きくなると考えられている。また、周期が長いほど減衰しにくいため、震源から遠いほどゆっくりとした揺れを感じやすい傾向にある。規模の大きな地震では、短周期の振幅が規模と比例しないため、長周期の波形から(モーメント)マグニチュードを算出する。 地下の構造、特に地面に近い表層地盤の構造(表層地盤増幅率)や地下のプレートの構造によって、地震動全般に対する揺れやすさ、揺れやすい周期、あるいは地震波の伝わり方が異なる。そのため地震の際、震度が震央からの距離に完全に相関して、きれいに同心円状に分布することはほぼない。稀に震央と異なる地域で揺れが最も大きくなることがあり、異常震域と呼ばれる。一般的に、地表の含水率や間隙率が高い泥質地盤が最も揺れやすく、礫が多くなり岩盤に近くなるほど揺れにくくなる。また、完新世(1万年前以降)に堆積した沖積層など新しい層に厚く覆われていると揺れやすく、洪積層(更新世、258万年 - 1万年前)やそれ以前(新第三紀かそれ以前)の層に覆われていると揺れにくい傾向にあるが、一概には言えず、厳密には地盤調査によるN値や基盤岩深度などから推定する。また表層が砂質地盤で地下水位が高い場合は揺れに伴って液状化現象や側方流動が起こる。 また、多くの地震計は周期0.2 - 0.3秒前後の地震動を感知しやすいため、周期0.2 - 0.3秒で大きく周期1秒で小さい地震では震度に比べて被害が軽かったり、逆に、周期0.2 - 0.3秒で小さく周期1秒で大きい地震では震度に比べて被害が甚大だったりといったことが起こる。ただし、これには地震計の設置場所と地下構造の問題もあるとされる。 主な地震帯と地震の頻度. 主な地震の震源を地図にして地球の表面を概観すると、プレートテクトニクス理論における「環太平洋造山帯」や「アルプス・ヒマラヤ造山帯」の周辺は地震が特に多い地域があることが分かる。前述の2つの造山帯も含めた新期造山帯で最も地震が多く世界の地震活動の大部分を占める。このほか、ヨーロッパ西部やアジア北部などの古期造山帯でも比較的多く地震が発生する。 これらの地域は造山帯または地震帯(火山に着目した場合火山帯とも呼ぶ)と呼ばれ、地殻や地面の活動(移動)が活発で、地震も活発である。しかし、この地図はあくまで一定期間に発生した地震を集計したものであり、「地震の起こりやすさ」を表したものだが、この地図で地震が少ない国・地域(カナダ、ロシア、ブラジル、アフリカ大陸など)でも絶対に地震が発生しない、とはいいきれず、どの陸地でも地震は発生しうる。 ただし、地震の多い地域と、地震による被害が大きい地域は異なる。地盤の揺れやすさ、人口密度の大小、建造物の強度、社会情勢などによって被害や救助復旧の様子が異なるためである。一方、同じ地域においても、地震が発生する時間や時期などによっても被害は異なり、例えば調理を行う食事時間前や暖房を多く使う時間帯においては火災の多発、大都市では平日昼間における帰宅困難者の発生などが挙げられる。また、地震の規模が大きくなるほど断層の長さが長くなり、被害地域が広くなる傾向にある。津波が発生した場合は、揺れが小さい沿岸部や揺れが全くなかった遠隔地に津波が押し寄せ被害をもたらす。ハワイ諸島などは太平洋の中心にあって周囲に島が少ないため、環太平洋各地の遠隔地津波を受けやすいことで知られる。 地球上で1年間に現行のネットワークで現行の機器で観測される地震回数は約50万回と推定されており、その内10万回が有感地震である。1年間にM5以上の地震が平均約1,500回、M2以上の地震が平均145万回発生している。数の上では、世界で発生する地震の1割程度が日本付近で発生しているといわれ、また1996年から2005年の期間では世界で発生したM6以上の地震の2割が日本で発生しているとの統計があり、客観的に見ても日本は地震の多い国と考えられる。 地震の発生の頻度が過去と比べて増加したかどうかということは、局地的に見ることはできても、全世界的に見ることは現状では難しい。地震の発生数のデータは、地震計の精度の向上や観測点のネットワークの状況などに左右される。世界的に見ても目が細かい日本の高感度地震観測網でも1990年代後半以降のデータであり、世界を見ても微小地震・極微小地震を捉えられるような観測網は少なく、海底となればその傾向は顕著である。 主な活断層・海溝・海盆. 防災上、地震を引き起こす可能性の高い活断層の存在は注目される。日本では主要な数百の活断層の位置と再来間隔や規模などが調査・発表されている。活断層と同様に活褶曲も地震を発生させうるほか、活断層が無い地域に新たに断層が発生する可能性も否定できない。そのため、活断層の調査を中心とした地震防災に対する批判も存在している。 地球上の活断層(地溝・海溝・海盆などを含む)のうち、主なものを挙げる。これらは周期的に大地震を発生させると考えられている。このほか、地震活動が活発で多くの活断層を擁する歪集中帯と呼ばれる地域がある。 地震の周期性. 地層や地磁気反転等の観測から、数百年を超えるような長期的な視点ではプレートや地表の動きは平均されて一定になるというのが地質学の定説であり、それぞれのプレートの境界や断層で起こる地震は、一定の速度で蓄積される歪みが一定の周期で解放されて起こると説明できる。実際に観測や歴史地震でも、プレート境界型地震である南海地震、東南海地震、東海地震、宮城県沖地震などでは周期性が確認されているほか、内陸プレート内地震である北アナトリア断層の諸地震などでも確認されている。周期性のある地震を地震学では固有地震(相似地震)といい、現在のところマグニチュード4程度以上、再来周期数年以上の地震で発見されている。 M7.0 - 8.0くらいの海溝型地震においては50 - 300年程度、後述の連動型地震においては500年程度。チリ地震やスマトラ島沖地震はこうしたタイプの地震であったと認識されている。、地表付近の断層においては数百年 - 数十万年と、地震の周期はそれぞれ異なる。 1990年代後半日本で整備された高精度の地震観測から、プレート境界や断層の面内で地震の起こりやすさが異なることが発見され、それを説明する説として「アスペリティモデル」が提唱された。プレート境界や断層の面内には形状・硬さ・含水率・温度等の性質の差により、主に以下の3種類が存在するという考え方である。 この3番目の部分をアスペリティといい、プレート境界や断層の面内には大きさやお互いの間隔がさまざまなアスペリティが存在していることが観測により推定されている。アスペリティモデルでは、M7.0 - 8.0くらいの(単独型)海溝型地震は1つの大きなアスペリティまたは小さなものが少数同時に破壊して発生するもの、連動型地震は複数の大きなアスペリティが同時に破壊して発生するものと解釈されている。 1つのアスペリティで地震が起こるとそこの歪みが解放され周囲のアスペリティに負荷がかかることから、1つの固有地震の発生間隔が毎回少しずつずれるのはそうした周囲のアスペリティからの負荷の変化によるものと考えられている。この負荷を定量的に推定する方法としてプレート運動速度の観測と地殻表面の測量により求められるプレート間カップリングがあり、これにより求められた負荷を「本来滑るべきだがまだ滑っていない量」と考え「すべり欠損」という。ただ、負荷の大きさはすべり欠損だけではなく、プレート境界や断層の面内によって値が異なる「破壊強度」を考慮する必要がある。あるアスペリティですべり欠損が破壊強度を超えた時に地震が発生する。 地震発生間隔のずれは、現在の長期的地震予知における大きな課題の1つとなっている。これに対処する方法としてアスペリティの推定や、発生間隔のずれを求めるためのすべり欠損の推定を行う研究者がいるが、精密地震観測が必要で、精度を高めるためには断層近傍で観測を行う必要があり、海溝型地震では海溝軸付近の海底に地震計を設置する必要があることから費用や労力が大きいという問題がある。 一方、一連の周期の中で生じる現象で実際に観測された例がある、本震発生前の前駆的地震活動(前震など)、静穏化(空白域の形成)などから地震予知を行おうとしている研究者もいる。また、海溝型地震の前の歪の蓄積は内陸の地震活動に影響を与えるため西日本(西南日本)が南海地震や東南海地]の前段階の地震活動期に入っているとの学説もあるが、判断するための資料が少ないといった反論もある。 日本では、主な海溝型地震や断層において調査された活動履歴から、主に繰り返し間隔と前回からの経過時間の推定によって、現在の活動確率を論じる「長期的地震予知」が行われている。しかし、このような長期的な予知を目安にした地震研究に対して、被害軽減への効果を疑問視し防災・減災により地震に強い社会を構築することの重要性を説く専門家もいる。 地震による被害と対策. 震災. 大規模な地震が発生した場合、その災害を震災(しんさい)と呼ぶ。特に激甚な震災は大震災と呼んで、地震とは別に固有の名称が付けられることがある。例えば関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災などである。しかし、「関東大震災」の命名者ははっきりしておらず、「阪神・淡路大震災」「東日本大震災」は報道機関が使用し始めたものを元に閣議で決められたもので、「震災名」を付ける制度は作られていない(地震名は気象庁が命名する)。新潟県中越地震では、新潟県が独自に「新潟県中越大震災」という呼称をつけている。 地震による主な被害. 長期的に見て、地震による被害は縮小する傾向にある。これは、耐震基準の改正や、地震に強い社会基盤の形成、さらに地震に関する知識や防災意識の浸透によるものが大きい。日本でも地震の被害は1948年に発生した福井地震の頃まで、人口の増加と産業の発展に比例して増加した部分もあったが、その後は住宅の耐震性・耐火性の向上とともに揺れに起因する被害は減少してきている。世界的にも、地震被害の多い地域では耐震化や防災体制の構築により被害が減少している地域もあるが、途上国を中心にいまだに有効な対策がとられていない地域も多く存在する。 地震は自然現象であり、人類の力では押しとどめることはできないが、事前に耐震基準の厳格化などで備えておけば被害を小さくすることは可能であるため、地震による災害を一種の「人災」とする考え方もある。この「努力と事前対策により、想定される被害を可能な限り減らす」、「減災」の考え方を広めようという運動が2008年頃から行なわれている。 救助と救援・復興. 大規模な地震が発生したときには、自分たちのできる範囲で避難・救助・救援を行うことが救命率向上につながる。その際には、組織化されノウハウを蓄積している消防団や自治会などのコミュニティが大きな担い手となる。これは、公設の機関である消防・警察・軍隊(日本ならば海上保安庁・自衛隊)なども救助・救援を行うがその能力は限られ、一刻を争う避難誘導や救急の人員が不足するためである。地震災害の規模が大きければ大きい程、救助・救援が到達するのが遅くなる傾向にある。また通信が途絶したり夜間であったりといった、救助・救援を必要とする場所の把握が困難になる事態が発生することもあり、捜索に時間がかかる場合もある。 このような大震災が発生した場合は、国内の被災していない地域や国外より救援が来る場合もある。常備軍を有する国家ならそれが投入され、不足があれば予備役が召集動員され、併せて(水上)警察・消防・救急組織なども投入されるがこれ等は軍と異なり余剰能力が限られているのが常である。国連機関であるUNICEFやWFP、国際NGOである国境なき医師団、国家単位では各国の赤十字や日本における国際緊急援助隊などの救助隊・救援隊が、人的・物的・資金面での人道支援を行う。20世紀後半からは先進国を中心に災害ボランティアによる救助・救援活動が目立ってきている。救助活動や安否確認、医療のほか、避難生活の支援、復旧活動などに、物資や金銭を送ったり、実際に出向いたりといった形で支援が行われる。日本では、「ボランティア元年」と呼ばれた阪神・淡路大震災の際に社会的運動として広がりを見せた後、新潟県中越地震、東日本大震災などで活発化した。ボランティアの受け入れ態勢不備やトラブルなどが発生したこともあるが、次第に改善されてきている。ヘリコプターが普及しマスコミが地震取材報道に使用するようになって、インパクトのある中継録画はボランティアの喚起には有用だが、倒壊建物の下敷きになった生存者の救難を求める音を、取材ヘリコプターの騒音で妨害する事が度々指摘されている。 地震災害の際の特徴として、余震により救助・救援が妨げられることが挙げられる。また、建物の中に人が閉じ込められることが多い地震被災地において、災害救助犬も多く活動している。 救助以外の行政の役割として、避難所や仮設住宅の確保、物資の提供や仕分け、情報の提供などが挙げられる。また、復興に際しては住宅再建の補助金提供などの役割を担う。 大震災に伴う地すべりや津波による浸水などによって集落単位で壊滅的な被害が発生した場合、その地域を居住に適さない危険な地域として規制し、残った住民の集団移転を行う場合がある。1970年アンカシュ地震のユンガイ、1896年明治三陸地震・1933年昭和三陸地震の際の岩手・宮城沿岸の一部集落などが例であるが、生活との折り合いや費用の問題等で紛糾する場合がある。また、都市型震災の後に多くみられるが、大震災の原因が住居環境によるものであった場合、区画整理などの大型事業によって地震に強い防災まちづくりを実施することがある。 地震発生後の対策. 被害の拡大を防ぐために、地震や津波の情報を迅速に伝達することも重要とされる。日本では、国内4,000地点以上に網羅された観測網により微小地震や震度を自動収集していて、気象庁が発生後数分以内での速報を行い、NHKと民間放送事業者がテレビ・ラジオで国民に広く伝えている。観測された震度の大きさによって報道体制を変えており、受け取る側でも、警察・消防・内閣などの公的機関が震度の大きさによって対応を決める。なお、NHKを中心とした一部のテレビ・ラジオでは津波警報発表時に受信機を強制起動する緊急警報放送を行っているが、普及率は低い。 それ以外にも、同報系市町村防災行政無線により屋外スピーカーで津波情報や地震に対する警戒を広域に呼びかける手法も、屋外にいる者に発する主要な警告手段として広く用いられる。特に早急な避難が必要な津波の場合には、消防・消防団・警察などが地域を巡回しながら緊急車両のサイレンや拡声器などで避難を呼びかける。また、感震計により強い揺れを観測した際に自動的に警告を発する手法もある。 なお、観測網が整備されている場合に可能な地震の揺れが到達する前の対策(地震警報システム)として、日本では鉄道でのユレダス、テレビ・携帯電話・専用受信機などでの緊急地震速報が運用されている。これと似たシステムが、アメリカ・カリフォルニア州南部やメキシコ・メキシコシティ周辺部でも運用されている。また、常時インターネット環境にある場合に効果が高いP2P地震情報などもある。 大地震直後の電話などの通信の混雑への対策として災害用伝言ダイヤルの設置などが行われている。携帯電話等においても災害用伝言板サービス等の同様のウェブ上サービスがある。自治体や民間が協力して臨時災害放送局を設置し、被災者への情報提供が行われた例もある。また1990年代から普及したメール、掲示板、2010年代に普及したリアルタイム・ウェブ(SNSやブログ・ミニブログなどの、誰もが即時発信即時共有できる情報)は生活情報や被災情報のやり取りに活用されていて、情報伝達の高速化をもたらした。しかし、震災後には情報が錯綜したりデマ・流言が発生しやすく、一定の社会的信頼を有する報道機関に比べると口承・インターネットの信頼性は低いため、災害時においては各人が情報の真偽を見分けるメディア・リテラシーの必要性が高まる。 東日本大震災の教訓から、津波避難の一助としてスマートフォン・カーナビゲーション・デジタルサイネージなどに避難経路を表示し、オフライン利用を目指す取り組みもある。 地震発生前の対策. 地震被害を防ぐ最も重要な対策の1つが、建造物の耐震性を高めることである。各国は建築関連法規により建築物の耐震性を規定しているが、地震経験の多寡によりその厳しさは異なる。日本では建築基準法とその関連法令による耐震基準がこれに該当する。大地震の被害を考慮するなどして強化改定されてきた経緯があり、1981年(昭和56年)6月施行の「新耐震基準」が現行であって、想定される地震動に対し概ね妥当な強度を保持できると考えられている。新築建造物は現行基準を満たして建設しなければならない。ただし既存の建物は、建てた時に適法でも後の法改正により既存不適格となったものがあり、これは一部を除いて耐震補強を行うのは任意である。また、消防法や都市計画法にも地震防災に関係する規定が含まれる。 また、原子力発電所など揺れによる災害の危険性が高い建造物については、建設の前の環境アセスメントの段階で、地盤の強度や周囲の断層の位置・活動度などを調査し、なるべくリスクの低い場所に立地するような対策が取られている。これについては、調査が十分に行われない可能性、未知の断層や新たな断層が発生する可能性があるほか、日本では東日本大震災による福島原発事故後に津波に対する耐性が問題となって休止・再稼働停止する原発が相次いでいる。 企業では、リスクマネジメントや事業継続マネジメント (BCM) などを通じた業務継続のための対策や経済的影響への対策も必要となる。保険業界や企業を中心に、被害リスクを予め算定する地震PMLという手法も普及している。 市民が行う対策としては、防災訓練や防災用品(非常食や非常袋など)の準備などが代表的なものとして挙げられる。また、過去の災害の例を学んだり体験談を聴いたりすることも有用であるとされ、教育や地域において講演会として行われたり、書籍となったり、インターネット上で公開されたりしている。地震への防災や備えの目安として、避難場所や経路を記した防災地図、地盤の揺れやすさや地震動に見舞われる確率の地図なども自治体により作成されており、活用が可能である。地震被害からの復旧のために地震保険も用意されている。 江戸時代には地震の間と呼ばれる耐震構造が施された物もあり、彦根城の楽々園などに現存する。 危険性の高い製品を作っている企業は、製品マニュアルに地震時の対策が記載されているので地震の前に読んでおき、従う必要がある。一例だと星野楽器の製品に添付されている『安全にお使いいただくために』には地震時にはドラムセットから離れることを記載している。 過去に発生した地震. 有史以来、世界各地で無数の地震が発生している。その中で、多くの被害を出した地震も多数発生している。日本では、1960年以降に気象庁が正式に命名した地震が、現在約30個あるほか、それ以前にも多数の被害地震が発生している。また世界では、1980年から1999年までの20年間で、1年当たり平均約7,400人(うち日本は280人)が地震により亡くなっている。 日本およびその周辺の地震、震災など古地震として多く取り上げられる地震として、1923年の関東地震(関東大震災)がある。この地震では、日本の歴史上最多となる10万人以上の死者を出し、首都東京を含む広い範囲に被害を与え、火災の被害も大きかった。 1964年の新潟地震は日本では最大級の石油コンビナート災害をもたらし鎮火に10日以上かかり、水では消火できない危険物火災への消防・防災をより強化することとなり、また地震保険がこの地震を機に2年後誕生した。 1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)は都市部を襲った地震の典型例であり、その後の建築基準法の見直しや防災意識の変化などに大きな影響を与えた。 2004年の新潟県中越地震では震災後の避難生活に関する問題が大きく取り上げられるようになった。 2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)は津波によって東日本の太平洋側の広い範囲に被害を与え、原発事故等の新たな問題も発生した。 また世界的には、津波により多くの死者を出した2004年のスマトラ島沖地震などがある。 人類史上、死者が最も多かった地震は、1556年1月23日に中国 陝西省で発生した華県地震で、約83万人が死亡した。これは2番目に多い唐山地震の公式統計による死者数の3倍以上である。また、人類史上、最も規模が大きかった地震は、1960年5月22日にチリ西岸で発生したチリ地震で、マグニチュードはモーメントマグニチュード (Mw) で9.5だった。 観測. 地震波 / 地震動を観測する地震計には、観測対象とする揺れの周期、感度(振幅)などにあわせてさまざまな種類のものがあり、担当機関でもいくつかの種類の地震計を使い分けている。日本では気象庁や防災科学技術研究所が地震計を多数設置していて観測網を作っている。これらは震度を算出したり、震源の位置や規模を推定することに利用されている。また、2007年10月1日から 一部の離島を除いた国内ほぼ全域すべての住民を対象とした緊急地震速報の運用を開始した。 予測震度5弱以上のときに発表されテレビ放送や携帯端末などで「(震度4以上の)強い揺れとなる地域」を伝える一般向けのものと 、発表基準が低く誤報の可能性が高いものの「各地の震度や揺れの到達時間」などが分かる「高度利用者向け」(地震動予報)の2種類がある。 地震予知. 地震の発生を事前に予知することで、被害を軽減する試みは、古くから行われてきた。数十年から数百年単位での長期的な発生予測は、従来の地震学の知識をもとにして行われている。一方、数ヶ月から数時間単位で地震を予知する短期予測は、一般的に困難とされている。 長期予測. 地震観測網の発達により、地震の発生頻度が統計的に分析できるようになった結果、地震の発生頻度と地震の規模はほとんどの場合、グーテンベルグ・リヒター則に従うことが判明している。そのため、統計データから算出される小規模な地震の発生頻度を基に、より大規模な地震の発生確率を計算することができ、行政による防災計画などに活用されている。しかし、大規模な地震ほど発生確率が低くなるため、長期的な発生確率を示すことしかできず、いつ発生するかを示す(予知する)ことはできない。また、地震がグーテンベルグ・リヒター則に従うということは、地震の規模がランダムに決まることを意味し、そのことは、地震の予知が不可能であることを示唆している。 短期予測(予知). 短期予測に関しては、多種多様な手法が試みられている。有名なものでは、ギリシャのVAN法、前震の検知(中国の海城地震で成功した)などがあるが、常に利用できる手法ではない。また、東海地震発生直前に発生すると予想されているプレスリップ(前兆すべり)を検出する方法もある。一方で、現時点では科学的根拠に乏しい宏観異常現象による地震予知も試みられている。 また、仮に地震予知の手法が確立された場合、それを誰がどのように行い、いつどのように発表するかということも、現状では東海地震における地震防災対策強化地域など限られた地震・地域においてしか定まっておらず、混乱が発生する事態も考えられる。 地球以外での「地震」. 地球以外の天体においても、地球の地震に相当する、地殻の振動現象が発見されている。 月で発生する地震は月震と呼ばれ、1969年から1977年までの通算8年余りの間観測が行われた。 2019年にはアメリカ航空宇宙局 (NASA) の火星探査機・インサイトが、火星で発生する地震(「火震(marsquakes)」)を初めて観測した。 外部リンク. 日本語 英語
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Forth
Forth(フォース)は、スタック指向のプログラミング言語およびそのプログラミング環境である。Forth はしばしば、かつての習慣に従ってすべて大文字で綴られることもあるが、頭字語ではない。 概要. Forth はスタック指向であり、逆ポーランド記法(RPN)と同様の後置記法による記述が一番の特徴である。その他の特徴としては、手続き型・命令型であり、言語としては全ての値は型としての区別なく扱われること(型システムが無いこと)、制御構造などもプログラム可能であること(リフレクション)といったものがある。 典型的な Forth の実装には、LISP におけるRead–eval–print loop(REPL)に対応する、入力されたワードを即座に実行する対話型のインタプリタモードと(これは、正規のオペレーティングシステムがないシステム向けのシェルにも適している)、後の実行のために一連のワードをコンパイルするモードのふたつのモードがある。後者にはコロン(:)というワードにより遷移しセミコロン(;)というワードで脱する。 初期の実装や移植性を目的とした実装にはスレッデッドコードを生成するものもあるが、近年の実装では他の言語のコンパイラのように最適化された目的コードを生成するものもある。 他の言語のシステムほどは人気はないが、商用においても Forth はいくつもの言語のベンダを引き止めるだけの十分なサポートを持っている。Forth は現在 Open Firmware のようなブートローダや宇宙開発、組込みシステム、ロボット制御などに使われている。GNUプロジェクトによる実装であるGforthは活発にメンテナンスされている。 特徴. Forth の環境はコンパイラと対話形式のシェルが一体化している。実行時環境ともなる仮想マシンの中で、ユーザは「ワード」(words) と呼ばれるサブルーチンを対話的に定義し実行する。ソースコードとしてテスト、再定義、デバッグされることができるワードは、プログラム全体を再コンパイルしたり再起動することなく組み込まれる。変数、基本的な演算子など、すべての構文要素はプロシージャのように見える。たとえ特定のワードが最適化されても、サブルーチンの呼び出しを必要とするといけないので、これもまた依然としてサブルーチンとして有効である。言い換えれば、シェルは対話的に入力されたコマンドをそれが実行される前にマシンコードにコンパイルする(この振る舞いは一般的だが、必須ではない)。どのように結果のプログラムが格納されるかはForth 環境によってさまざまだが、理想的には手動でそのコードが再入力されたときとプログラムの実行は同じ影響を持つ。コンパイルされる関数はプログラムオブジェクトの特殊なクラスで対話的コマンドは厳密にインタープレットされる、C言語とUnixシェルの組み合わせとは対照的である。ほとんどのForth のユニークな性質はこの原理の結果である。対話性、スクリプティング、コンパイレーションがあることにより、Forth は BBC Micro や Apple II シリーズのようなリソースが限られたコンピュータでよく使われ、ファームウェアや小さなマイクロコントローラなどのアプリケーションで生き残っている。Cコンパイラがよりコンパクトで効率的なコードを生成しようとしている今まさにそのときでも、Forth の対話性における優位は保たれているのである。 スタック. 再帰的なサブルーチンを持つすべてのプログラミング環境は制御フローのためにスタック (stack) を実装している。この構造は典型的にはローカル変数やサブルーチンの引数も格納する(C言語のようなシステムにおける call-by-value)。Forth にはしばしばローカル変数がないこともあるが、call-by-value でもない。代わりに、中間的な値は第二のスタックにおいて保持される。ワードはスタックの最も上にある値を直接操作する。それゆえ、これは「パラメータ」または「データ」スタックと呼ばれたりもするが、ほとんどの場合は単に「スタック」である。それから、関数呼び出しスタックは「リンケージ」(lincage) もしくは「リターン」(return) スタックと呼ばれ、"rstack" とも略される。カーネルから提供された特殊な rstack 操作関数はそれがワード内で一時的なストレージとして使われることを可能にするが、その一方でこれは引数や操作データを渡すことに使うことはできない。Forthはスタックの概念をうまく利用しており、演算は逆ポーランド記法により記述される。このため構文解析が極めて単純となり、プログラムおよび処理系が小さくて済む。これは、機器組み込み用プログラムでは有利な特徴である。 また、ルーチンは「ワード」単位で記述され、コンパイルされる。これらの「ワード」を集積して「ディクショナリ」を形成する。一般的なFORTH処理系におけるプログラミングは、インタプリタ上でのワード作成の積み重ねであり、対話的に行える。開発中でも部分的な処理を動かしてのテストがやりやすく、それらを適宜組み合わせてのテストも容易である。 ほとんどのワードはスタック上でのその効果の観点から定義される。典型的には、引数はワードが実行される前にスタックの一番上に置かれる。実行後は引数は消去され、何らかの返り値で置き換えられている。数学的な操作をするためには、これを逆ポーランド記法のルールに従う。スタックの使用法を図解した以下の例を参照すること。 保守. Forth は単純だが拡張性のある言語である。そのモジュール性と拡張性はCADシステムのような高度なプログラミングをも可能にする。しかしながら、拡張性は未熟なプログラマがわかりにくいコードを書くのも促すため、このことは Forth に「記述専用言語」との評判ももたらしている。大規模で複雑なプロジェクトでも成功裏に使われてきていて、有能でよく訓練されたプロフェッショナルによって開発されたアプリケーションが、何十年にもわたって発展していくハードウェアプラットフォーム上でも容易に保守されることを証明している。Forth は天文学分野や宇宙開発分野という得意分野も持っている。 その移植性、効率的なメモリ使用、短い開発期間および高速な実行スピードのため、Forth は今日でもいまだ多くの組み込みシステム(小さなコンピュータ化されたデバイス)で使われている。これは近代的なRISCプロセッサ上で効率的に実装されてきており、マシン語としてのForthの利用も生み出されてきている。他の Forth の用途としてはApple、IBM、サン・マイクロシステムズ、OLPC XO-1に使われるOpen Firmware ブートロムが含まれる。また、FreeBSDオペレーティングシステムのFICL-based first stage boot controllerもある。 歴史. Forth はチャールズ・ムーアの1958年から絶え間なく開発されていた個人的なプログラミングシステムから考案された。1968年、家具と絨毯を扱う企業に雇われた際、このソフトウェアをミニコン上でFORTRANを使って書き直したものがForthの原型である、という。Forth が他のプログラマに最初に公開されたのは1970年代で、アメリカ国立電波天文台(NRAO)にいたアメリカの によって始められたものである。1971年にNRAOの制御用ソフト作成において、ムーアはForthを完成させた。このNRAOにいた彼らの仕事のあと、チャールズ・ムーアとElizabeth Ratherは FORTH, Inc. を1973年に設立し、その後の 10 年でさらに磨きをかけるとともにいくつものプラットフォームに Forth システムを移植した。 1968年の"[t]he file holding the interpreter was labeled FOURTH, for 4th (next) generation software — but the IBM 1130 operating system restricted file names to 5 characters."において Forth は命名された。ムーアは compile-link-go 第三世代プログラミング言語の後継、または「第四世代」ハードウェアのためのソフトウェアとして Forth を見ており、用語として使われるようになっていた第四世代プログラミング言語 (4GL) ではなかった。ムーアは、アセンブラ・FORTRAN・BASICに続く4番目の言語という意味で、このソフトウェアに「fourth」と名付けるつもりだったが、このミニコンで取り扱えるファイル名は最大5文字であったため「FORTH」という名になったという。 チャールズ・ムーアはたびたび仕事を渡り歩いていたため、初期の言語開発の困難は異なるコンピュータアーキテクチャへの移植の容易さであった。Forth システムはしばしば新しいハードウェアを育てるために使われていた。たとえば、Forthは1978年の新しい Intel 8086 チップ上の最初の常駐ソフトウェアで、MacFORTHは1984年の最初のAppleMacintoshの最初の常駐開発システムであった。 Forth, Inc の microFORTH は1976年に始まったIntel 8080, Motorola 6800, Zilog Z80 マイクロプロセッサ向けに開発された。MicroFORTH は 後に 1978年の 6502 のような他のアーキテクチャ向けの Forth システムを生成するのにホビーストたちにも使われた。広い普及は最終的に言語の標準化を誘導することとなった。共通の慣習は事実上の標準である FORTH-79 および FORTH-83 にそれぞれ1979年、1983年に成文化された。これらの標準は1994年に ANSIによって統合され、通常これは ANS Forth(ANSI INCITS 215-1994 (R2001)、ISO/IEC 15145:1997(E)のベースとなった)と呼ぶ。 Forth は1980年代にはとてもよく使われるようになったが、これは小さくかつ移植性が高いとして当時の小さなマイクロコンピュータにとてもよく適していたからである。すくなくともひとつのホームコンピュータ、英国のJupiter ACEは そのROM常駐オペレーティングシステムに Forth を持っていた。キヤノン・キャットもまた そのシステムプログラミングのために Forth を使っていた。さらに Rockwell も常駐 Forth カーネルを持つ R65F11 と R65F12 のシングルチップマイクロコンピュータを製造していた。 プログラマの観点. Forthの後置記法は、データスタック(オペランドスタック、以下単にスタックと呼ぶ)を意識的に操作しなければならないというForthの特徴と密接に結びついている。すなわち、オペランドはそのままスタックに積まれ、後から現れる演算子などはスタックからそれを取り出して演算し、結果をスタックに積む、といったように動作する。多くの言語と違い、バッカス・ナウア記法で構文が定義されているわけでもなく、伝統的にはコンパイラは、スレッデッドコードと呼ばれるシンプルな構造の目的コードを直接生成するだけである。また、文法の修正のような、多くの言語では実装の内部に手を入れる変更が必要なことが、Forthではそのようなワードを定義することで可能である(これは、Lispのマクロに少し似ている)。なお、データスタックの他にリターンスタックがあり、そちらはワードの呼出しの後で手続きを再開するアドレス等が積まれるスタックである(CPUのいわゆるスタックに似ている)。 たとえば、codice_1 は、次のように入力して計算する(「⏎」は、改行の入力。「ok」はForth処理系が結果の出力の後に付けるプロンプト)。 25 10 * 50 + . ⏎ 300 ok まず最初に数値 25 と 10 がこの順でスタックに積まれる。 ワード codice_2 がスタックの一番上にあるふたつの数を乗算し、その積に置き換える。 それから数値 50 をスタックに積む。 ワード codice_3 がこれに先ほどの積を加算する。最後に、codice_4 コマンドがスタックのトップを取り出して、それを、ユーザの端末に結果として出力する。 4 5 + . これは、スタックに4を積み、さらに5を積み、スタック上の2つの値を取り出して加算、その結果をスタックに戻し、スタックの値を表示する操作を示している。 上記のように入力してエンター(⏎:リターン)を打鍵すると、画面上には下記のように結果が表示される。 4 5 + . ⏎ 9 ok Forth の構造化機能でさえもスタックベースである。たとえば、 このコードは 次のコマンドを使うことによって codice_5 が呼ばれる新しいワード(繰り返すが、「ワード」という単語はサブルーチンとして使われている)を定義する。codice_6はスタックの数値を複製する。codice_7がスタックの一番上に 6 を配置する。ワード codice_8 はスタックの一番上の二つの数(6 と codice_6 で複製された入力の値)を比較し、真偽値で置き換える。codice_10は真偽値をとり、その直後のコマンドを実行するか、codice_11までスキップするかを選択する。codice_12はスタックの上の値を放棄する。そして、codice_13は条件分岐の終端である。括弧に囲まれたテキストは、このワードが期待するスタックの数と値を返すかどうかを説明するコメントである。ワード codice_5 はC言語で書かれた次の関数に相当する。 この関数はより簡潔につぎのように書かれる。 このワードは次のように実行できる。 1 FLOOR5 . ⏎ 5 ok 8 FLOOR5 . ⏎ 7 ok 最初にインタプリタは数値 1(もしくは 8)をスタックにプッシュし、それからこの数値を再びポップし結果をプッシュする FLOOR5 を呼び出す。最後に、「.」の呼び出しは値をポップし、ユーザの端末にそれを表示する。 機能. Forth の構文解析は明確な文法がないので単純である。インタプリタはユーザ入力デバイスから入力された行を読み、それから区切り文字としての空白を使って単語に構文解析される。他の空白文字を認識するシステムもある。インタプリタがワードを見つけると、ディクショナリ (dictionary) からそのワードの検索を試みる。もしそのワードが見つかれば、インタプリタはワードに関連付けられたコードを実行し、それから入力システムの残りを構文解析するために復帰する。もしワードを発見することができないなら、ワードを数だと仮定して数値への変換を試み、それをスタックにプッシュする。これが成功すれば、インタプリタは入力システムからの構文解析を継続する。辞書の参照と数値への変換の両方が失敗した場合、インタプリタはそのワードが認識できないというエラーメッセージに続けてそのワードを表示し、入力ストリームをフラッシュし、ユーザからの新しい入力を待機する。 新規ワードの定義は、ワードcodice_15(コロン)から始まり、codice_16(セミコロン)で終了する。たとえば、 : X DUP 1+ . . ; のコードはワード codice_17 をコンパイルし、辞書にこの名前が発見できるようにする。コンパイルと言っても、文頭にコロン、その後にワードの名称を置き、そこから一連の式を並べておいて、文末にセミコロンを付加するだけでよい。codice_18 をコンソールに入力して実行すると、codice_19 が表示されるようになるだろう。 例えば、前述の式をfooという語(ワード)としてコンパイルするには、以下の通り記述する。記述法はコロン記号で始まりセミコロン記号で終わるので、「コロン定義」と呼ばれる。 コンパイルすることにより、FORTHの辞書(ディクショナリ)に、この語(ワード)が登録されることになる(この場合はfooが登録される)。 実のところ、FORTHでは「+」や「.」などの演算子や出力機能などの全てがワードである。こういった組み込み済みのワードと、ユーザが後からコロン定義(コンパイラ)で追加したワードと、2つの間に本質的な差異はない。コンパイルしたワードはただちに環境に組み込まれ、インタプリタより単独で実行できるようになる。つまり、そのFORTH処理系を拡張するのである。このような点より、FORTHは自己拡張性が高いと云われる。 プログラムの開発においては、処理毎に区切ってワードとして順次構築していくので、注意深く進めていけば自然ときれいに構造化されることになる。ワードは単独で実行できるため、部分に分けてのデバッグも容易である。また、それらのワードを使ってテスト用の処理(ワード)を気軽に作成して実行・テストできる。 多くの Forth システムは実行可能なワードを生成する特殊化されたアセンブリ言語を含む。このアセンブラはコンパイラの特殊な方言である。Forth アセンブラはしばしば命令の前に引数がくる逆ポーランド記法を使う。Forth アセンブラの普通の設計では命令をスタック上に構築し、それからこれを最後の段階でメモリにコピーする。Forth システムでは、番号(0..n, 実際のオペレーションコードとして使われる)付けされるかその目的に応じて名づけられた、製作者によって使われる名前でレジスタは参照されることもある。たとえば、スタックポインタとして使われるレジスタは「S」など。 オペレーティングシステムとファイル、マルチタスク. 古典的な Forth システムでは伝統的にオペレーティングシステムもファイルシステムも使われない。コードはファイルに格納される代わりに、ソースコードは物理的なディスクアドレスに書かれたディスクブロックに格納される。ワード codice_20 はディスクスペースの1キロバイトサイズのブロックの数値からデータを格納しているバッファのアドレスへの変換に割り当てられ、Forth システムによって自動的に管理される。固定されたディスクブロック範囲にファイルが配置されるときには、システムのディスクアクセスが使われる実装もある。たいていはこれらはディスクブロックごとのレコードの整数をつかって、固定長バイナリレコードして実装される。高速な検索はキーデータ上のハッシュアクセスによって実現される。 ふつうは cooperative なラウンドロビンスケジューリングであるマルチタスクは、通常利用可能である(ただし、マルチタスキング・ワードとサポートは ANSI Forth 規格ではカバーされていない)。ワード codice_21 は、次のタスクの配置や実行コンテキストのリストアための 現在のタスクの実行コンテキストの保存に使われる。どちらのタスクも自分自身のスタックやいくつかのコントロール変数のコピー、スクラッチエリアを持っている。タスクのスワップは単純で、効率的である。その結果、Forth マルチタスクは Intel 8051, Atmel AVR, and TI MSP430のような非常に単純なマイクロコントローラでさえ有効である。 その一方で、Microsoft WindowsやLinux、Unixのようなホストオペレーティングシステムのもとで実行され、ソースやデータのファイルのためにホストオペレーティングシステムのファイルシステムを利用する Forth システムもある。ANSI Forth 規格では I/O のために使われたワードについて書かれている。他の標準的でない機能はホスト OS やウィンドウシステムへのシステムコールを発行するためのメカニズムも含み、多くはオペレーティングシステムから提供されるスケジューリングを採用する拡張を提供する。典型的には、タスク作成、一時停止、解体、および優先順位の変更のために、スタンドアロンのForthの codice_21ワードとは大きくて異なったワードのセットを持っている。 セルフコンパイルとクロスコンパイル. すべてのソースコードとともに十分な機能を有する Forth システムは自身をコンパイルすることができ、Forth プログラマはこのようなテクニックを普通メタ・コンピレーション (meta-compilation) と呼ぶ(ただし、この用語は普通の定義であるメタコンピレーションとは厳密には一致しない)。通常の方法はコンパイルされたビットをメモリに配置する一握りのワードの再定義である。コンパイラのワードはメモリ内のバッファエリアにリダイレクトされることができるフェッチとストアの、特別に命名されたバージョンを使う。このバッファエリアはコードバッファというより異なるアドレスから始まるメモリ領域へのシミュレートやアクセスをする。このコンパイラは対象のコンピュータのメモリとホストの(コンパイルする)コンピュータのメモリの両方にアクセスするワードを定義する。 フェッチやストア操作がコード空間に再定義されたあと、コンパイラやアセンブラなどはフェッチやストアの新たな定義を使って再コンパイルされる。これはコンパイラとインタプリタのすべてのコードの効果的な再利用である。それから、Forth システムのコードはコンパイルされるが、このバージョンはバッファに格納される。このメモリ内のバッファはディスクに書きこまれ、これをテストのために一時的にメモリにロードする方法が提供される。新たなバージョンがきちんと機能するようなら、これは以前のバージョンに上書きされる。 異なる環境のためのバリエーションが多数存在する。組み込みシステム向けには、代わりに他のコンピュータのためにコードが書かれることになるが、このテクニックはクロスコンピレーションとして知られ、シリアルポートや単独の TTL ビット越しでさえ、その上オリジナルのコンパイルするコンピュータのワード名やディクショナリの他の実行されない部分も維持する。このようなForthコンパイラのための最小の定義は バイト単位のフェッチやストアをするワードと、実行される Forth ワード を命令するワードである。しばしばもっとも多くの時間のかかるリモートのポートへの書き込みの部分は、フェッチやストア、実行を実装するための初期化プログラムの構築であるが、多くの現代的なマイクロプロセッサ(Motorola CPU32など)は、このタスクを排除する統合されたデバッグ機能を持っている。 言語の構造. Forthの基本的なデータ構造は、「ワード」を実行可能なコードや名前のつけられたデータ構造を対応させる「ディクショナリ」である。このディクショナリは、門番(通常は NULL ポインタ)が発見されるまで最も新しく定義されたワードから最も古いワードまで進むリンクを用いた連結リストのツリーとして、メモリに展開される。コンテキストスイッチは異なる葉で開始するためにリスト検索を引き起こす。首位のメインの幹への枝のマージは最終的にルートの門番へ戻ってくるので、連結リスト検索は継続する。そこはさまざまなディクショナリになることができる。メタコンピレーションのような稀なケースでは、ディクショナリは隔離されスタンドアロンである。この効果は名前空間のネストのそれに似ていて、コンテキストに依存するキーワードのオーバーロードが可能である。 定義されたワードは一般的にヘッドとボディからなり、ヘッドは名前フィールド (NF) とリンクフィールド (LF) からなり、ボディはコードフィールド (CF) とパラメータフィールド (PF) からなる。 ディクショナリのエントリのヘッドとボディは、隣接していないかもしれないので別々に扱われる。たとえば、Forth プログラムが新しいプラットフォームのために再コンパイルされたとき、ヘッドはコンパイルするコンピュータに残るかもしれないが、ボディは新しいプラットフォームに行ってしまっている。組み込みシステムのようないくつかの環境によっては、ヘッドは不必要にメモリを占有する。しかしながら、もしターゲット自身が対話的なForthをサポートすることを期待されるなら、クロスコンパイラによってはヘッドをターゲット内に配置するかもしれない。 ディクショナリのエントリ. ディクショナリの厳密なフォーマットは規定されず、実装に依存する。しかしながら、いくつかのコンポーネントはほとんどいつも提示しており、しかし、厳密なサイズと順序は変わるかもしれない。記述された構造、ディクショナリエントリはこのように見えるかもしれない。 structure byte: flag 3bit flags + length of word's name char-array: name name's runtime length isn't known at compile time address: previous link field, backward ptr to previous word address: codeword ptr to the code to execute this word any-array: parameterfield unknown length of data, words, or opcodes end-structure forthword この名前フィールドはワードの名前の長さ(典型的には32バイト)を与えるプリフィックスで開始し、何ビットかはフラグ用である。それからワードの名前の文字表現がプリフィックスのあとに続く。特定のForth実装に依存するが、アラインメントのためひとつ以上の NUL ('0') バイトがあるかもしれない。 リンクフィールドは以前に定義されたワードへのポインタを含む。このポインタは次に古い隣接するワードへの、相対的な変位かもしれないし、絶対的なアドレスかもしれない。 このコードフィールドポインタは コードを実行するワードのアドレスか、パラメータフィールド内のデータか、プロセッサ直接実行するであろうマシンコードの開始のいずれかになるだろう。ワードを定義するコロンでは、コードフィールドポインタはリターンスタック上の現在の Forth 命令ポインタ (instruction pointer, IP) を保存し、ワードを実行継続するための新たなアドレスを用いてIP をロードするワードを指し示す。これはプロセッサの call/return 命令が行っているのと同様である。 コンパイラの構造. コンパイラ自身はモノリシックなプログラムではない。これは システムから可視な Forth ワードとプログラマから利用可能なものとからなっている。このことはプログラマが特殊な目的のためにコンパイラのワードを変更することを可能にする。 名前フィールド内の「コンパイル時」フラグは、「コンパイル時」の振る舞いのワードのセットである。ほとんどの単純なワードは、それがコマンドライン上で入力されたかコードに埋め込まれたかにかかわらず、同じコードが実行される。そのようにコンパイルされるとき、コンパイラはコードかワードへのスレッデッドポインタを単に配置する。 コンパイル時ワードの古典的な例は codice_10 and codice_24 といった制御構造である。Forth のすべての制御構造とほとんどすべてのコンパイラはコンパイル時ワードとして実装される。すべての Forth 制御フローワードは、プリミティブなワードcodice_25やcodice_26(もしfalseなら分岐する)の各種の組み合わせをコンパイルするために、コンパイルの間に実行される。コンパイルの間、データスタックは制御構造のバランシング、ネスティング、ブランチアドレスのバックパッチングをサポートするのに使われる。コード断片 ... DUP 6 < IF DROP 5 ELSE 1 - THEN ... は定義の内側では典型的には次のような一連にコンパイルされる。 ... DUP LIT 6 < ?BRANCH 5 DROP LIT 5 BRANCH 3 LIT 1 - ... codice_25のあとの数のは相対的なジャンプアドレスを表している。codice_28は「リテラル」数値をデータスタックにプッシュするためのプリミティブなワードである。 コンパイル時と実行時. ワード codice_15(コロン)は名前を引数として構文解析し、辞書にヘッダを作り(記述法はコロン記号で始まりセミコロン記号で終わるので、コロン定義, colon definition)、コンパイル状態に突入する。コンパイラは後続のワードをコンパイルしていく。このときワードが後述する即時ワードである場合は実行し、そうでない場合は実行時に呼び出されるようにコンパイルする。 ワードcodice_16(セミコロン)は現在の定義を終了し、実行状態へと復帰する。 システムの状態はワード codice_31(左大括弧)及び codice_32(右大括弧)を用いて手動で変更させることができ、それぞれ実行状態とコンパイル状態に突入する。ANS Forthでは、現在のインタプリタの状態はフラグ codice_33から読み取ることができ、コンピレーションステート状態 true、そうでなければ false の値がこいる。をこのインタプリタの現在の状態による振る舞いコンパイル時ステートスマートワード (state-smart words) の実装を可能にする。 イミディエイトワード. ワードcodice_34は、直近のコロン定義を、即時ワードにする。即時ワードは通常はコンパイル後ではなくコンピレーションの間に実行されるが、どちらのステートにおいてもプログラマにオーバーライドされることができる。codice_16 は即時ワードの一例である。ANS Forth では、ワードがイミディエイトとしてマークされていても、ワード codice_36 は名前を引つけられたワードのコンピを強制的にコンパイルする。 無名ワードと実行トークン. ANS Forth では、ワード codice_37 を用いて、次のcodice_16(セミコロン)までの後続のワードをコンパイルし、実行トークン (execution token) をデータスタック上に残す、無名のワードが定義できる。 ワード codice_39 はデータスタックから実行トークンを取り出し、関連づけられたセマンティクスを実行することができる。またワード codice_40(COMPILE コンマ)は、データスタックから実行トークンを取り出し、コンパイルする。 ワード codice_41 (tick) は、ワード名を引数としてとりデータスタック上のワードに関連づけられた実行トークンを返す。 ワードの構文解析とコメント. ワード codice_15 (colon)、codice_36、codice_41 (tick)と codice_37 は、データスタックの代わりにユーザからの入力からそれらの引数をとる構文解析ワード (parsing words) の例である。別の例では、コロン定義において、次の右括弧を含む後続のワードを読み込んで無視し、コメントを配置するのに使われる codice_46(左括弧)がある。同様に、ワード codice_47(バックスラッシュ)は現在の行の終端まで続くコメントのために使われる。 コードの構造. ほとんどの Forth システムにおいて、コード定義のボディはマシン語といくつかの形式のスレッデッドコードからなる。非公式の FIG 規格 (Forth Interest Group) に従っているオリジナルの Forth は、TIL (Threaded Interpretive Language) である。これは 間接スレッディング(indirect-threading)とも呼ばれ、直接スレッディング(direct-threading) と サブルーチン・スレッディング(subroutine-threading) も現在はよく使われるようになってきた。最初期のモダンな Forth はサブルーチン・スレッディングを使っており、マクロとしてシンプルなワードを挿入し、より小さく速いコードを生成するために のぞき穴的最適化 や他の最適化戦略を実行した。 データオブジェクト. ワードが変数や他のデータオブジェクトであるとき、CPはそれを作成した定義ワードに関連付けられたランタイムコードを指している。定義ワードは特徴的な"defining behavior"(ディクショナリエントリの作成に加え、もしかしたらアロケートとデータ領域の初期化をする)を持っており、この定義しているワードによって構築されたワードのクラスのインスタンスの振る舞いの定義もする。たとえは、 Forth は、カスタム定義の振る舞いとインスタンスの振る舞いを指定する、新しいアプリケーション特有の定義ワードをプログラマが定義できる機能もまた提供する。円形バッファ、I/Oポート上で命名されたビット、自動的にインデックス化された配列などの例がある。 これらに定義されたデータオブジェクトと同様のワードはスコープにおいてグローバルである。他の言語でローカル変数から提供された関数は、Forth ではデータスタックから提供される(しかし、Forth も真のローカル変数は持っている)。Forth のプログラミングスタイルは他の言語に比べ、ごく少数の名付けられたデータオブジェクトを使う。典型的にはこのようなデータオブジェクトは、たくさんのワードやタスク(マルチタスクの実装においては)によって使われるデータを格納するのに使われる。 Forth は型システムを持たない。したがって値の操作は全てプログラマの責任で行われる。 プログラミング. Forth で書かれたワードは実行可能な形式にコンパイルされる。古典的実装は、順に実行されるワードのアドレスのリストをコンパイルする。多くの現代的なシステムは実際のマシンコードを生成する(いくつかの外部ワードの呼び出しと、適当な場所に展開された他者のためのコードを含む)。最適化コンパイラをもつシステムもある。一般的な場合、Forth プログラムは実行可能形式としてロードされたとき実行されるコマンド (e.g., RUN) を含めた、Forthプログラムのコンパイル済みコードのメモリイメージとして保存されている。 開発中、プログラマは小さなコード片を開発したときに実行およびテストするためにインタプリタを使う。そのため、ほとんどの Forth プログラマは緩やかなトップダウン設計と、単体テストと統合の繰り返しによるボトムアップ開発を支持している。 トップダウン設計では、普通まずプログラムを「語彙」へのプログラムを分割し、それらを最終的に必要なプログラムを書くための、高レベルなツールセットとして利用する。よく設計された Forth プログラムは自然言語のように読むことができ、単一の目的を達成するために用いられるだけでなく、関連する問題を解くプログラムを書くのに利用することができる。 コード例. Hello world. "For an explanation of the tradition of programming "Hello World", see Hello world." 実装の一つとしては、 : HELLO ( -- ) CR ." Hello, world!" ; HELLO <cr> HELLO ワード codice_53 (Carriage Return) は後続の出力を新しい行の上に表示するようにする。構文解析ワード codice_54 (dot-quote) はダブルクオートで区切られた文字列を読み、構文解析された文字列が実行時に表示されるように現在の定義にコードを追加する。文字列 codice_55 からこの空白文字で区切っているワード codice_54 は、文字列には含まれていない。これは構文解析器が codice_54 を Forth ワードとして認識するために必要である。 標準的な Forth システムはインタプリタでもあり、同じ出力は次のコード片を Forth コンソールに入力することで得ることができる。 CR .( Hello, world!) codice_58 (dot-paren) は括弧で囲まれた文字列を構文解析し、これを表示するイミディエイトワードである。codice_54と同様に、codice_55 から空白文字で区切られたcodice_58 は文字列の一部ではない。 ワード codice_53 は表示する文字列の前にくる。慣例的に、Forth インタプリタは新規行に出力を開始しない。また、慣例により、インタプリタは直前の行の終端、codice_63プロンプトの後で入力を待つ。他のプログラミング言語で時々そうであるような、Forth の codice_53 にはバッファをフラッシュする暗黙の動作はない。 コンピレーションステートとインタープリテーションステートの混用. ここに 実行されると単一の文字 codice_65 を発行するワード codice_66 の定義がある。 : EMIT-Q 81 (the ASCII value for the character 'Q') EMIT ; この定義は codice_65 のASCII値 (81) を直接を使うことで書かれている。括弧の間の文字列はコメントで、コンパイラに無視される。ワード codice_68 はデータスタックから値をとり、対応する文字を表示する。 次の codice_66 の再定義は、ワードcodice_31(左大括弧)、codice_32(右大括弧), codice_72、codice_73 をインタプリタステートを一時的に切り替えるために使っており、文字 codice_65 のAscii値を計算し、コンピレーションステートを返し、計算した値を現在のコロン定義に追加する。 : EMIT-Q [ CHAR Q ] LITERAL EMIT ; 構文解析ワード codice_72 は空白で区切られたワードをパラメータとしてとり、データスタック上のその最初の文字の値を置く。ワード codice_76 は codice_72 のイミディエイトバージョンである。codice_76を使って、codice_66 の定義例は次のように書くことができる。 : EMIT-Q [CHAR] Q EMIT ; Emit the single character 'Q' この定義はコメントを書くために codice_47(バックスラッシュ)を使っている。 codice_72 と codice_76の両方は ANS Forth では事前に定義される。codice_34 と codice_36 と使って、codice_76 はこのように定義することができる。 : [CHAR] CHAR POSTPONE LITERAL ; IMMEDIATE 完全な RC4 暗号プログラム. 1987年、Ron Rivest は RC4 暗号システムを RSA Data Security, Inc. のために開発した。このコードは非常に単純で、説明を読めば大抵のプログラマは書くことができる。 それぞれすべて値の異なった 256 バイトの配列がある(訳注:これが暗号ストリームの状態であり、鍵で適当に初期化する)。 この配列が使われるときはいつも、2つのバイトが交換されることによって変更される。 この交換はカウンタ "i" および "j" によって制御され、どちらも最初は 0 である。 新しい "i" を取得するには 1 を加算する。 新しい "j" を取得するには、新しい "i" の位置にある配列のバイトを加算する。 "i" と "j" の位置にある配列の値を交換する。 このコード(訳注:後のXORに使う値)は "i" と "j" の位置にある配列のバイトの和の位置にある配列のバイトである。 平文を暗号化したり暗号文を復号するためには、このバイトを XOR される。 配列は最初の設定によって 0 から 255 にかけて初期化される(訳注:手順の途中に書いてあるが、これは最初に行う)。 それから "i" と "j" を使う、"i" の位置にある配列のバイトを "j" に加算による新しい "j" とキーのバイトの取得、"i" と "j" のバイトの交換と手順は進んでいく。 最後に、"i" と "j" は 0 にセットされる。 すべての加算は 256 を法とするモジュラ演算である。 以下の標準の Forth バージョンはコアのワードのみを使っている。 0 VALUE ii 0 VALUE jj CREATE S[] 256 CHARS ALLOT : ARCFOUR (c -- x) ii 1+ DUP TO ii 255 AND ( -- i) S[] + DUP C@ ( -- 'S[i] S[i]) DUP jj + 255 AND DUP TO jj ( -- 'S[i] S[i] j) S[] + DUP C@ >R ( -- 'S[i] S[i] 'S[j]) OVER SWAP C! ( -- 'S[i] S[i]) R@ ROT C! ( -- S[i]) R> + ( -- S[i]+S[j]) 255 AND S[] + C@ ( -- c x) XOR ; : ARCFOUR-INIT (key len -- ) 256 MIN LOCALS| len key | 256 0 DO I S[] I + C! LOOP 0 TO jj 256 0 DO (key len -- ) key I len MOD + C@ S[] I + C@ + jj + 255 AND TO jj S[] I + DUP C@ SWAP (c1 addr1) S[] jj + DUP C@ (c1 addr1 addr2 c2) ROT C! C! LOOP 0 TO ii 0 TO jj ; これはこのコードを検証する多くのテストのひとつである。 CREATE KEY: 64 CHARS ALLOT : !KEY (c1 c2 ... cn n—store the specified key of length n) DUP 63 U> ABORT" key too long (<64)" DUP KEY: C! KEY: + KEY: 1+ SWAP ?DO I C! -1 +LOOP ; HEX 61 8A 63 D2 FB 5 !KEY KEY: COUNT ARCFOUR-INIT CR DC ARCFOUR 2 .R SPACE EE ARCFOUR 2 .R SPACE 4C ARCFOUR 2 .R SPACE F9 ARCFOUR 2 .R SPACE 2C ARCFOUR 2 .R CR .(Should be: F1 38 29 C9 DE) 実装. Forth 仮想マシンは実装が単純で規格のリファレンス実装を持たないため、大量の言語実装が存在する。標準的な各種デスクトップコンピュータシステム (POSIX, Microsoft Windows, macOS) をサポートしていることに加え、これらの多くの Forth システムは各種の組み込みシステムもまた対象としている。1994年の ANS Forth 規格に準拠するさらに有名ないくつかのシステムが列挙する。
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スーザフォン
スーザフォン()は、アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザによって考案された、大型のバルブ式低音金管楽器である。スーザホン、スーザホーン、スーザフォーンとも。 歴史. アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザが、1893年にジェームズ・ウェールズ・ペッパーにリクエストして造られた。 特徴. 立奏を前提として設計されており、演奏者を中心として管は大きく円形に巻かれ、大きく開いた朝顔(ベル)は演奏者の後方から立ち上がりほぼ前方または上方を向く。袈裟懸け状に一方の肩に乗せて、チューバ奏者によって演奏される。 殆どのスーザフォンは、変ロ()調でピストン式の3本のバルブを備えるが、ごく稀には変ホ()調やハ()調のもの、そして、4バルブのスーザフォンも見られる。 と呼ばれる、米海兵隊バンドなどで使われていたチューバ/低音サクソルンから改良されたもので、ヘリコンの朝顔が小さく上向きで固定されているのに対して、スーザフォンでは大きく前方ないしは上方に開き、向きを変える事ができる。この朝顔部は収納及び運搬の便宜のために取り外すことも可能な構造となっている。また、ヘリコンにはロータリー・バルブのものも存在していたが、スーザフォンでこれを採用する事はまず無い。 演奏者の体力負担を軽減するため、1960年代以降、重量のかさむ真鍮に代えてより安価かつ軽量な繊維強化プラスチック(FRP)で楽器本体を製作する事が多くなった。また朝顔部にはABS樹脂を用いる事も多い。樹脂製の管体は真鍮製のものに比べ音色で劣るが、スーザフォンが求められる状況においては受容可能な範囲内にある。 演奏. スーザフォンはパレードやマーチングといった行進のほか、デキシーランド・ジャズなどで好んで用いられる。動きのある野外演奏を大前提として考案された楽器なので、立奏用のチューバと比べ楽器の保持が容易で長時間の演奏に適し、トランペットやクラリネットなどの小型の楽器とともに俊敏な動作もできる。 スーザフォンの大きく前を向いて開いた朝顔に、団体の名称や絵などを描き入れた薄い布を強く張って使うこともよくある。隊列の後方から放たれる重低音とともに、巨大な姿による圧倒的な存在感を観衆に示す。
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アーバンネットワーク
アーバンネットワーク()は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が1989年3月11日より使用を開始した、大阪駅を中心とした京阪神都市近郊区間(関西エリア)を指す愛称であった。「アーバンネットワーク」の定義と、旅客営業規則に規定される大都市近郊区間としての「大阪近郊区間」(新幹線を除く)や、JRが便宜的に呼称する「近畿エリア」とは完全には一致していなかった。 2006年10月21日のダイヤ改正以降、車内および駅の路線図と車内停車駅案内図が「アーバンネットワーク」の表記から「路線図」に変更されるなど、2000年代後半以降はアーバンネットワークという名称を使わず、「近畿圏」や「京阪神エリア」と表現されることが多い。また、JR西日本が発行する冊子からも2013年度以降アーバンネットワークの名称は使われていない。比較的、後年まで使用されていた月例社長会見における営業・輸送概況についても、2020年4月から「アーバンネットワーク」を「近畿圏」に改めている。ただし2021年現在も、鉄道趣味雑誌などでは使用されていることがある。 JR西日本では公式に「アーバンネットワーク」の名称を使用しなくなったものの、本記事では過去に使用されていた範囲について、使用終了後の動きも含めて記述する。また路線名は、特に正式名称で記述する必要がある場合を除いて、路線愛称名がある場合はそれを使用する。 概要. JR西日本は関東地方に広大な通勤路線を持つ東日本旅客鉄道(JR東日本)や、東海道新幹線を持つ東海旅客鉄道(JR東海)には及ばないものの、安定した収益力を持つ。日本国有鉄道(国鉄)からの経営移管時には、山陽新幹線および大阪近郊の沿線の発展が著しい路線に経営資源を集中し、経営基盤を強化する方針が立てられた。また、「私鉄王国」と称される関西圏において、利用距離が長くなるほどJR利用の可能性が高くなるその特性や、東海道・山陽新幹線のフィーダーとしての役割とアドバンテージを一層強化するため、直通運転の拡大や、新快速を中心とした新型車両の導入・速度向上による所要時間の短縮を積極的に進めていくこととなった。 1988年3月13日のダイヤ改正を機に、分かりやすさと親しみを感じてもらえるよう、8線区9区間に地域ごとの利用実態に合わせた愛称を制定した。1989年3月11日には京阪神都市近郊区間に「アーバンネットワーク」の愛称が与えられた。当初は、姫路駅以西や草津線・湖西線・和歌山線など一部線区は含まれていなかった。1990年3月10日には、不慣れな利用者にも分かりやすくするため、10線区に線区別(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線は同色)のラインカラーを導入した。大阪駅を中心点に他線区への直通列車が多く、2015年3月14日から路線記号の導入にあわせた、ラインカラーの拡充・変更(例:加古川線・姫新線のカラーを正式採用、山陰本線のラインカラー導入区間を城崎温泉駅まで延長、学研都市線のラインカラーを黄緑からJR東西線と同じ桜桃色に変更など)も行われている。 路線. 各種路線図や駅の案内、アーバンネットワーク内の駅名標や、JR化後に登場した電車の種別幕には基本的にラインカラーと路線記号が使われている。国鉄型車両については一時期ラインカラーに準じた塗装変更も検討されたが見送られている。 主な報道機関(マスコミ)においては、朝日新聞および神戸新聞で路線愛称名が使用されている。朝日新聞は、愛称名の定着を踏まえ、2003年2月1日付けの紙面から愛称表記を原則としている。2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故の際も多くの報道機関が「福知山線」を用いた中、この2社は「JR宝塚線」を用いた。 サービス. 車両. 1989年3月より営業運転を開始した221系は、大きな窓や明るい車内、快適な座席(3ドア転換クロスシート)などが利用者から好評で、後継の223系とともにアーバンネットワークの象徴的な車両となった。また、4扉通勤型電車の207系をJR東西線開業準備用として学研都市線に投入し、その後JR京都・神戸線やJR宝塚線にも運転範囲を拡大、後継車である321系も同様に投入されている。さらに223系の後継として、安全性・利便性をより重視した225系が製造され、2010年12月1日より営業運転を開始した。近年、アーバンネットワーク向け車両の発注は地元の川崎重工業と近畿車輛に集中しており、日立製作所への発注は減少している。 2012年からはJR発足前後の車両のリニューアル工事が始まり、205系、221系、207系、223系の更新車両においてはバリアフリー対応の工事が施されている。また前述の通勤型4扉車にも大型のつり革が導入された。 一方国鉄時代に天王寺鉄道管理局管内だった路線(その大部分が私鉄買収路線)を中心に当時から使われている車両も比較的多く、現在も国鉄型車両は大和路線・奈良線では201系・205系が使用されている。これらには接客設備を中心にリニューアルされた車両も含まれているが、車齢も高く騒音が大きい機器類や、乗り心地の比較的劣る台車を引き続き使用している。2016年に入ってから阪和線に103系・205系の置き換え用として225系5100番台が、大阪環状線に103系・201系の置き換え用として323系が新製配置された。2019年から万葉まほろば線・和歌山線(と直通運転を行うきのくに線の一部)に105系・113系・117系の置き換え用として227系1000番台が新製配置された。2020〜2023年度にかけて、225系の追加投入による221系の転用により、201系の運用を終了する予定である。 運転系統の充実と直通運転の拡大. 大阪環状線 - 関西本線間の快速電車や、新快速の湖西線乗り入れ等、国鉄時代から実施されていた直通運転を、JR化後はそのネットワークを活用して一層拡大することとなり、特急列車の直通運転が開始された。1988年のなら・シルクロード博覧会を機に梅田貨物線の旅客使用を開始し、翌1989年7月22日の関西本線と阪和線を結ぶ連絡線の開通に伴って、紀勢本線の特急「くろしお」や一部の阪和線(きのくに線)快速が新大阪駅まで乗り入れを開始した。1994年6月には関西空港線の開業に合わせて京都駅 - 関西空港駅間に関空特急「はるか」の運転を開始した。 1980年代からの沿線の開発に伴う人口増加や郊外化、「のぞみ」の充実など新幹線の輸送改善を追い風に、アーバンネットワーク区間の利用客は年々増加し、ダイヤ改正のたびに利便性向上の施策がとられるようになった。1991年9月には北陸本線の田村駅 - 長浜駅間が直流化されて新快速が長浜駅まで運転されるようになった。1995年の阪神・淡路大震災では、いち早くJR神戸線が全線復旧し、利用客の増加に拍車をかけた。また、各線で新駅の設置や複線化等の輸送力増強工事が進められた。 運転系統の充実・既存線相互の直通運転に加え、1997年3月8日にはJR東西線が開業、2008年3月15日にはおおさか東線の南部分が開業し、大和路線からの直通列車も登場した。このおおさか東線は北部区間が2019年3月16日に開業、さらに北梅田駅(仮称)への乗り入れを目指し建設中であり、上記私鉄各線と相互に利用が可能なエリアの拡大を含めた利便性の向上とネットワークの拡大は今後も続く予定である。 所要時間短縮を意識しすぎた余裕の少ない運行ダイヤは、わずかの事象で大きなダイヤの乱れにつながることとなった。また、直通運転の拡大はダイヤの乱れの影響を広範囲に及ぼすこととなった。2002年11月6日、塚本駅 - 尼崎駅間で鉄道人身障害事故(消防隊員の死傷事故)が発生した際、安全の確認より列車運行を優先させたとして批判があった。さらに2005年4月25日の福知山線列車脱線事故では、余裕のないダイヤが乗務員に過度のプレッシャーをかけているのではないかと大きく批判を浴びることになったため、その後のダイヤ改正で余裕時間や駅停車時間が見直され、所要時間が増加している。特に翌2006年3月18日のダイヤ改正では新快速の所要時間が運転開始以来初めて延びることとなった。 天王寺駅構内の阪和短絡線の複線化(2008年3月15日完成)などダイヤの安定性を高める施策や、保安装置の拡充などが今後も引き続いて進められることになっている。 旅客案内. 列車指令所による列車制御の一元化に合わせて、旅客案内の拡充なども進めている。 アーバンネットワーク内の各路線では、1997年3月8日のダイヤ改正以降、駅の発車標・列車の行先表示や放送などで方面と行先を併記した「○○方面△△」(「姫路方面網干」「宝塚方面新三田」など)と案内される。これは新幹線からの乗り継ぎ客など、地名に馴染みのない利用客に配慮したもので、JR東海との共同使用駅となっている米原駅でも、同社の東海道本線(米原駅以東)で運転される列車のうち名古屋駅以東へ運転される列車に対して「名古屋方面○○」と案内している。また、京都駅以東の敦賀方面や東西線を介する直通運転など経路が複数存在する場合は、経由路線を明記した「XX線経由◇◇」(「湖西線経由敦賀」「東西線経由宝塚」など)といった表記も用いられている(JR東西線関連以外の本格実施は1999年5月10日以降)。また、各駅から京都・大阪・神戸など主要駅への先着列車の表示や放送を行っている。 2015年3月のダイヤ改正から路線記号を導入。吹田総合車両所(日根野支所・奈良支所)の所属車両を皮切りに、2017年までに路線記号対応の種別幕に交換され、他路線へ直通運転する列車の場合、直通運転先の路線記号およびラインカラーを掲出するようになった。 発車標. 発車標は発光ダイオード(LED)式を標準とし、一部プラズマディスプレイ式が採用され、ほとんどの駅に設置されている。 発車標には一部の駅と特急・急行列車を除き、乗車位置が表示される。ホームには目安となる印(△、↑、○、◇など)と数字が書かれている(例:「△ 1 △」)。扉数や編成数などで乗車位置が変わるので、乗客はこれに表示された位置に並ぶ方式となっている(表示形式の例:「△1〜12」「白○1〜7」)。列車が接近すると、到着・通過を知らせる接近表示が点滅するものもある。なお、運行管理システム導入線区や自動進路制御装置 (SRC) 区間など一部の駅では、列車に遅延が発生した場合には遅延時間(「遅れ約○分」「Delay ○ minutes behind」、2時間以上の遅れの場合は「遅れ120分以上」「Delay 120 minutes over」)が表示される。大幅なダイヤ乱れ時には次の列車が到着するまでの時間が表示(「到着まで約○分」「○ min. until arrival」)されることもある。 阪和線(羽衣線区間を除く)/琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線・赤穂線(相生駅 - 播州赤穂駅間)/大阪環状線・JRゆめ咲線・大和路線・おおさか東線/学研都市線・JR東西線・JR宝塚線(尼崎駅 - 新三田駅間)/湖西線(山科駅‐近江今津駅間)ではアーバンネットワーク運行管理システムと連動した表示となっている。また、次に到着する列車の現在位置表示も行われている。 異常時情報提供ディスプレイ. 2003年から一部の駅の改札口・コンコース付近にプラズマディスプレイを設置していたが、2008年4月1日から「異常時情報提供システム」に移行している。普段は自社の宣伝や運行情報などを表示しているが、異常時には近畿総合指令所が運転見合わせ区間や振替輸送区間などの情報を一括入力して路線図形式による案内を行っている。情報を提供する区間はアーバンネットワークの路線区と東海道・山陽新幹線・九州新幹線である 。2016年9月8日からは、表示路線が拡大され、路線記号・ラインカラーに対応したものに更新されている。 車内案内表示装置. 221系・207系・223系および205系体質改善車にはLED式の旅客案内装置を、321系・225系には19インチの液晶ディスプレイ (LCD) タイプの案内装置を、323系には17インチのワイドLCDを、223系1000・2000番台改造車には20.7インチのワイドLCDをそれぞれ設置しており、号車表示(207系未更新車を除く)・行先・停車駅・次駅案内や自社PRなどを行っている。また、321系・225系・323系および223系1000・2000番台改造車ではLCDで広告・生活情報・ニュース・天気予報(WESTビジョン)と文字による運行情報を表示している。ダイヤ乱れによる運用変更や表示不具合などの場合は種別・行先のみを表示するか、JR西日本のロゴが表示される。 なお、JR京都・神戸線で運用される223系330両について、2021年度までにLCD式案内装置への交換が進められた。 自動改札機・Jスルーカード・ICOCAの導入. 駅の利便性向上にも重点が置かれており、1997年のJR東西線開業を機に京阪神エリア全駅で自動改札機および磁気券の本格導入を開始した。1999年にはJスルーカード(ストアードフェアシステム)を導入、2003年からはICカード「ICOCA」を導入している。さらに2006年から「PiTaPa」との相互利用を開始するなど他社ICカードとの相互利用も行い、利便性向上を進めている。なおICOCAの普及に伴い、Jスルーカードは2009年3月1日をもって自動改札機および自動精算機での利用を終了し、自動券売機での支払いにのみ使用可能となった。アーバンネットワークとICOCAの利用可能駅は完全に一致しておらず、一部の駅(関西本線柘植駅 - 加茂駅、和歌山線五条駅 - 和歌山駅、紀勢本線海南駅以南の特急停車駅を除く全駅、山陽本線相生駅 - 上郡駅など)では利用できない。また、大阪近郊区間とも完全に一致していない。2018年10月からは、「昼間特割きっぷ」に代わるサービスとして、利用回数や時間帯に応じて運賃割引が受けられる「ICOCAポイントサービス」が開始された。 なお、ICOCAについてはアーバンネットワーク外・近畿エリア外でも順次導入されている。 女性専用車の導入. 主に痴漢などの車内での迷惑行為を防止するために、2002年から関西で初めて女性専用車を導入している。指定の車両および乗車位置に黄緑色を用いた案内ステッカーが、ドア窓に小型の鏡ステッカー(ガラス貼付面は青色)が貼付されていたが、2011年春から案内ステッカーが大型化され、ピンク色が用いられるようになった。当初は4扉車のみに導入されていたが、2016年以降は3扉車にも女性専用車が設定されるようになった。なお、ダイヤ乱れ等の理由で、女性専用車の設定が解除される場合がある。 2002年7月1日より、大阪環状線の平日の始発から9時までの周回列車および、学研都市線の平日の始発から9時までに京橋駅に到着する下り列車の最後部車両を女性専用車として試験的に導入し、同年10月1日から本格的に導入した。その後、同年12月2日からはJR京都線・JR神戸線・JR宝塚線などにも拡大して、平日の17時から21時までの時間帯についても女性専用車の設定を行い、2004年10月18日からは大和路線・和歌山線・阪和線にも導入した。さらに2011年4月18日からは、JRゆめ咲線にも女性専用車を導入するとともに、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。 安全対策. ホーム柵の設置. 旅客の転落防止のため、一部の駅にホーム柵として通過線ホーム柵・可動式ホーム柵・昇降式ホーム柵が設置されている。 通過線ホーム柵は、JR京都線・JR神戸線・阪和線の一部の駅ホームにおいて、通常は列車が停車しないのりばに設置されている。異常時など臨時停車を行う際には、駅係員の操作により手動でホーム柵を開閉できる。 可動式ホーム柵は、全列車4扉車で運転されるJR東西線の北新地駅・大阪天満宮駅での設置を皮切りに、JR京都線や大阪環状線など停車する車両の扉数が統一されているホームへの設置が進められている。また、扉の数や位置の異なる様々な車両に対応できるホーム柵として、2013年12月5日から2014年3月まで桜島駅において昇降式ホーム柵が試行された。これは、ロープが支柱に固定されて支柱そのものが昇降する仕組みで、2014年12月13日から六甲道駅で試験が行われた。このホーム柵は高槻駅の新設ホームに設置され、2016年3月26日のダイヤ改正から使用を開始した。 夜間視認性向上装置の設置. 夜間での客扱い中に、最後尾の車掌から最前部付近の乗降が確認しづらい状況を解消するため、一部の駅において、夜間視認性向上装置 (TC-PAC) が設置されている。乗降客が装置からの光源を遮ることにより、車掌に旅客の存在が分かる仕組みとなっている。 ATS-Pの整備. アーバンネットワークの高密度線区を対象に、従来より高度な信号保安方式であるATS-P型の整備を進めている。なお、導入はすべての信号機にATS-P形の地上子を設ける全線P方式と、場内信号機・出発信号機および一部の閉塞信号機のみATS-P形の地上子を設けることで簡素化した拠点P方式の2つがある。アーバンネットワークでは、和歌山線・万葉まほろば線・赤穂線・北陸本線・和田岬線・関西本線・紀勢本線以外の線区にATS-P型が整備されている。 プロジェクト. 新駅の設置. 利便性の向上および複数路線を利用可能とすることによる鉄道の利用機会創出のため、新駅の設置を進めている。以下、2004年以降のアーバンネットワークでの新駅開業状況を記す。 JR東西線の開業. 学研都市線京橋駅からJR宝塚線尼崎駅までの12.5kmを結ぶJR東西線が1997年3月8日に開通し、同線を介して関西文化学術研究都市のある京阪奈丘陵と三ノ宮・神戸方面や神戸三田国際公園都市がある北摂・北神地域の直通運転が開始された。 主要ターミナル駅の改良と駅周辺の再開発. 梅田貨物駅周辺の大阪駅北地区は「都心に残された最後の一等地」として大規模な再開発が進んでおり、これに合わせて大阪駅の改良工事が進められた。工事は、橋上駅舎とホームを覆うドームの新設、コンコースとホームの改良などによるバリアフリー施設の整備、新北ビル(メインテナントは三越伊勢丹)の建設、アクティ大阪の増床などで、2011年5月4日に「大阪ステーションシティ」としてグランドオープンした(大阪2011年問題も参照)。また2012年10月には桜橋口の駅ナカ施設のリニューアル(エキマルシェ大阪)が完成している。 新大阪駅ではおおさか東線整備事業に伴って改良工事が行われており、在来線改札口・コンコースの改良などが行われている。2014年3月にはコンコース内に大規模な駅ナカ施設(エキマルシェ新大阪)が一部完成した。 天王寺駅では関西国際空港開港前後を境に改良工事が進み、阪和短絡線の新設(後述)と大和路線ホームの拡張、天王寺ミオの建設やステーションプラザてんのうじ(現在の天王寺ミオプラザ館)の改装・増床、駅ナカの充実などの工事が行われた。2010年以降も、あべのハルカスなど駅周辺の再開発事業と連携する形で中央口を中心に改良工事を行い、2012年11月にはコンコース内にコンビニとスイーツ販売との複合店舗(アントレマルシェ天王寺)が開業。天王寺ミオプラザ館の再改装工事も2013年3月に終了し、同月リニューアルオープンした。2017年以降は東口の橋上通路の耐震リニューアル工事も行われている。 京都駅でも駅ビルの完成に合わせて1997年までに大規模な改良工事を行い、嵯峨野線・関空特急「はるか」、奈良線用のホーム増設、近鉄京都駅との改札分離、駅舎橋上化に伴う自由通路の新設などを行った。1997年以降もさらなる改良工事が行われ、2007年には駅西側にビックカメラ京都店を開業させている。また2008年2月には自由通路の西側に「スバコ・ジェイアール京都伊勢丹」が開業し、大規模な駅ナカが完成した。 そのほかの駅でも、駅ナカの充実など駅自体の集客能力の向上を進めている。 輸送改善. 桜島線(JRゆめ咲線). ユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) を核とした土地区画整理事業により安治川口駅 - 桜島駅間の線路移設工事を2001年3月に完了し、同時にユニバーサルシティ駅を開業させるとともに、公募により「JRゆめ咲線」の愛称が付けられた。また、USJにちなんだ4種類のラッピング列車の運行を開始し、一部を除き線内折り返しのみの運転から大阪環状線への直通運転を大幅に増発するなどUSJアクセスとしての輸送改善を行った。 奈良線. 沿線人口の増加や、JR東海の「そうだ 京都、行こう。」キャンペーン、1997年の4代目京都駅ビル開業の効果による利用増加が著しく、大規模な輸送改善が行われた。2001年3月に京都駅 - JR藤森駅間、宇治駅 - 新田駅の複線化およびJR小倉駅の開業、駅・分岐器・信号設備改良などの工事が完成、列車の速達化や増発、ラッシュ時の快速設定が実現した。これらの一連の輸送改善の資金は京都府の負担のウェイトが高い。 なお、残る単線区間のうち、JR藤森駅 - 宇治駅間 (9.9km)、新田駅 - 城陽駅間 (2.1km)、山城多賀駅 - 玉水駅間 (2.0km) の3区間、合計約14kmが2023年春に複線化される予定で、複線化率は23.6%から64.0%に向上する。 一方環境省が2015年(平成27年)に国土交通大臣に提出した、奈良線の複線化事業に係る環境影響評価における、沿線環境対策についての指摘項目では、「適切な環境保全措置を講じ、転動音、車両機器音及び構造物音の低減を図ること」として、ロングレール化や鉄橋におけるコンクリート床版化の極力導入と並び、「103系からの代替による低騒音型機器搭載車両の導入推進」が求められており、阪和線で運用を終えた205系が転属し、2018年3月17日のダイヤ改正から営業運転を開始した。 片町線(学研都市線). 関西文化学術研究都市へのアクセス改善のため高速化と各種改良工事が行われた。松井山手駅 - 京田辺駅間の高速化工事では、大住駅・京田辺駅の構内改良、JR三山木駅付近の線路移設および高架化が行われ、列車の増発と京田辺駅までの7両編成での運行が可能になった。 さらに京田辺駅 - 木津駅間の輸送改善工事で、同志社前駅 - 木津駅間でホーム延伸工事が行われ、2010年3月13日以降、全線で7両編成での運行となり、京田辺駅での増解結作業を解消している。 山陰本線(嵯峨野線). 奈良線同様に利用が急増し、1996年に二条駅 - 花園駅間の高架化、2000年に二条駅 - 花園駅間を複線化するなど、線路移設や部分的な複線化によって輸送改善を行ってきたが、2003年からはさらなる輸送力増強のため、京都駅 - 園部駅間の全線複線化工事および嵯峨嵐山駅・亀岡駅の改良工事と、周辺道路の混雑解消と安全確保のため花園駅 - 嵯峨嵐山駅間の高架化工事が行われた。 2008年12月14日のダイヤ改正をもって馬堀駅 - 亀岡駅間が複線化されて以来、工事の進捗に合わせて部分的に複線化されていたが、2010年3月13日のダイヤ改正時点をもって、京都駅構内の一部を除く全線が複線化された。また、国鉄型の113系・115系が運用を離脱し、JR発足後に製造された221系・223系に置き換えられた。 おおさか東線整備事業. おおさか東線は、大阪外環状鉄道を事業主体とし、JR京都線新大阪駅 - 大和路線久宝寺駅間約20.3kmを、城東貨物線を活用して旅客化する事業で、2008年3月15日に大和路線久宝寺駅 - 学研都市線放出駅間 (9.2km) が部分開業し、途中に5駅が新設された。これにより、奈良駅 - 尼崎駅間におおさか東線・JR東西線経由の直通快速の運転を開始した。その後、JR長瀬駅 - 新加美駅間に新駅を設置することが決定し、衣摺加美北駅として2018年3月17日に開業した。 当初新大阪駅 - 放出駅間(11.0km)は2012年春開業の予定であったが、新大阪駅から梅田貨物線を経由し、再開発が進められている梅田北ヤード地区に設けられる地下新駅(仮称は北梅田駅だった)に乗り入れる計画に変更された影響で開業時期に遅れが生じた。同区間は2019年3月16日に開業し、途中に4駅が新設され、先述の直通快速は新大阪駅発着となった。新大阪駅 - 大阪駅間は2023年3月18日に開業し、開業にあわせて大阪駅改札内に地下連絡通路を整備し、北梅田駅を大阪駅として扱うことになった。 天王寺駅阪和短絡線複線化. 天王寺駅構内の関西本線と阪和線を結ぶ短絡線は1989年7月の完成以来、単線運転を行っていたが、関西本線との平面交差の解消と大阪環状線 - 阪和線間の直通列車増発を目的に複線化工事が行われ、2008年3月15日のダイヤ改正より使用を開始した。阪和線・関西空港線・きのくに線方面への直通列車は天王寺駅16番のりばから15番のりば発着に変更、あわせて新今宮駅でも配線の変更が行われ、大阪環状線方面への直通列車を一部4番のりば発着としている。 立体交差事業. 踏切の廃止による交通渋滞の解消や、鉄道線路による市街地分断の弊害をなくすため、連続立体交差事業および限度額立体交差事業が沿線自治体とともに進められている。以下にその供用開始時期を記す。 その他. 「JR」を冠した駅. 1994年9月4日に湊町駅から改称したJR難波駅を皮切りに、新駅開業・駅名変更の際に、他社線の同名の駅との混同を避ける場合に正式駅名に「JR」を冠した駅が登場するようになった。それまでは、同名駅が存在しても「JR」を付けていなかった。2022年現在、「JR」を冠する駅は11駅存在し、そのうちの5駅がおおさか東線に集中している。なお、JRグループ全体において、JR西日本のアーバンネットワーク外に「JR」を冠した駅は一切存在しない。 運行管理システムの導入. 運転本数の高密度化により、各駅で行っていた進路制御を大阪総合指令所にて一元管理し、列車の進路を自動制御する運行管理機能と、旅客に対して運転状況を自動的に案内する機能をもつ。関西空港線開業を控えた阪和線が1993年7月1日に導入したのを皮切りに、アーバンネットワークの一部線区で導入している。導入線区は以下の通り。 列車運行情報. 2008年2月からJR東日本との提携で相互に遅延などの運行情報の共有を開始するとともに、JR東日本管内で実施されている「運行情報メールサービス」の利用が可能になった。なおJR西日本の公式サイト「JRおでかけネット」ではより詳細な情報のほか、振替輸送の情報もあわせて掲載される。 2013年3月1日より運行情報のエリアが細分化され、京阪神・和歌山(和歌山支社管内)・北近畿(福知山支社管内)・特急列車の別に掲載されている。
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東北地方
東北地方(とうほくちほう)は、日本の地域のひとつであり、本州東北部に位置する。「奥羽地方(おううちほう)」ともいう。最大都市は仙台市である。 その範囲に現行法上の明確な定義はないものの、一般には青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県の6県を指す。これら6県は、本州の約3割の面積を占める。東北地方は東日本に位置するが、気象や歴史地理学などでは北海道と一緒に北日本とされる。 地理. 地形. プレート理論では、東北地方は北海道とともに北アメリカプレート上に存在し、東側から太平洋プレートが日本海溝で潜り込んでいる。そのため、海溝型を中心に地震が多く、ときには東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)のようにマグニチュード9を超える大規模な地震が起こることもある。東北地方の中央には、日本海溝と平行に南北に那須火山帯が走っている。この火山帯の上には、下北半島の恐山山地、および、南北に長く奥羽山脈が連なっており、北から恐山、八甲田山・八幡平・岩手山・栗駒山・蔵王連峰・吾妻連峰・安達太良山・那須岳などの火山が多くある。那須火山帯(奥羽山脈)の上には十和田湖・田沢湖・鬼首カルデラ・蔵王の御釜周辺などのカルデラ地形が見られ、火山の恩恵である温泉も多い。なお、猪苗代湖は断層湖である。 日本海側には、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界が南北に走っているため、那須火山帯と平行に鳥海火山帯が南北に走っている。この火山帯の上には、白神山地・出羽山地(太平山地・朝日山地・飯豊山地)・越後山脈が連なっており、岩木山・鳥海山・月山などの美しい稜線を持った火山が見られる。山地が海に接する部分では、海岸沿いに温泉が湧いており、海を眺めながら入浴することができる。 太平洋側には北上山地と阿武隈高地がある。これらは、隆起地形が侵食され、現在は老年期地形となった、なだらかで低い山地である。残丘として標高1917mの早池峰山があるが、基本的になだらかな山地で、奥羽山脈より日本海側と比べると積雪も少ないためスキー場が少なく、火山帯ではないため温泉も少ない。ただし昔、海底にあって隆起した証拠である鍾乳洞などの石灰岩地形が多く見られる。北上山地が海にせり出しているリアス式海岸の三陸海岸では、石灰岩が波に洗われてつくりだされた複雑な海岸線や真っ白な砂浜が見られ、親潮のコバルトブルーの海とコントラストを作り出している。阿武隈高地と太平洋の間は離水海岸となっており、リアス式海岸の間の海が埋め立てられたような小規模な沖積平野が小高い山地と交互に存在しながら延々と続く。 これら3連の南北に連なる山脈・山地の間には、北上川、阿武隈川、雄物川、最上川などの河川が流れ、多くの盆地や平野を作り出している。 気候. 気候は、小地形による修飾があるが、大きく日本海沿岸、那須火山帯山麓と西側(盆地)、那須火山帯山麓を除く東側(盆地)、太平洋沿岸 の4つのグループに分かれており、それぞれ異なった傾向を持っている。また、それぞれのグループごとに、北と南で微妙な違いもある。宮城県・福島県の太平洋沿岸を除いて全域が豪雪地帯で、一部特別豪雪地帯もある。 日本海沿岸と那須火山帯山麓と西側(盆地)の「日本海側グループ」は、日本海側気候となっており、夏季はフェーン現象により、晴天が多く、非常な高温になることがある(山形市で40.8度を記録)。しかし、昼間の高温の割りに夜間は気温が下がって過ごし易い。冬季は、日照時間が少なく、豪雪地帯となっているところが多いが、特に奥羽山脈西側の盆地の降雪量が多い。 太平洋側の那須火山帯山麓を除く東側(盆地)は、太平洋側気候と内陸性気候を併せ持つ。夏季は、フェーン現象により高温となる日と、太平洋沿岸地域のような曇天で気温が低い日との両方がある。冬季も、寒気団や北風・西風などの諸要因が強いと日本海側のように雪が降る場合がある一方、太平洋沿岸地域のように、晴天になる日も多い。 太平洋沿岸は、太平洋側気候と海洋性気候を併せ持つ。夏季は、北部・中部は通常曇天で気温が上がらず、数年毎にやませの流入により、低温で悪天候の冷夏となる年がある。南部(福島県浜通り)の夏季は、太平洋高気圧の影響下に入り易く、高温で晴天の日が多い。中部・南部は、冬季の積雪量は少なく、晴れて空気は乾燥する。 主な都市の冬 (平年値) "日本海沿岸"、"那須火山帯山麓と西側"、"那須火山帯山麓を除く東側"、"太平洋沿岸" の4グループに色分けしてある。 主な都市の夏 ("8月" の平年値) "日本海沿岸"、"那須火山帯山麓と西側"、"那須火山帯山麓を除く東側"、"太平洋沿岸" の4グループに色分けしてある。 地域. 東北地方内の区分. 古代の東北地方において、(1)多賀城が設置されて早くから畿内に本拠地を置く政権の勢力が及んだ南東北、畿内政権の影響力が弱く、俘囚や奥州藤原氏の本拠となっていた北東北、といった古代からの南北区分と;(2)陸奥国の「内陸国」「政治勢力の地盤」、出羽国の「沿岸国」「経済勢力の地盤」の境界であった奥羽山脈による東西区分が、意味を変えながらも現代の東北地方内の区分と似た状況になっている。 ただし、文化的には戦国時代の大名の支配圏や、江戸時代の藩による区分の方が影響を残しており、また、新幹線・高速道路・空港から遠い三陸沿岸や下北半島も、少なくとも意識の上では他の都市圏から独立した独自の地域圏を形成している。 太平洋側と日本海側. 東北地方は「太平洋側」と「日本海側」の2つに区分されることがある。両者の境界は、那須火山帯上にある恐山〜奥羽山脈の線、または中央分水嶺による竜飛岬(津軽半島)〜奥羽山脈とする線などがある。 この分類は、"気候" による区分でよく用いられ、日本海側は脊梁山脈である奥羽山脈の西側にあるため、特に日本海側盆地(国道121号・国道13号・国道105号沿線)は冬の降雪量が多く、日本海沿岸(国道7号沿線)は風が強い地域である。一方、太平洋側は奥羽山脈の東側にあり、太平洋側盆地(国道4号沿線)は内陸性気候であるが降雪量は奥羽山脈西側ほど多くなく、太平洋沿岸(国道6号・国道45号沿線)は冬でも晴れが多くて雪がめったに降らない。夏の気候では、日本海沿岸はフェーン現象のために晴天で気温が上昇し易いが、太平洋沿岸はやませの影響で気温が低い年がある。 また、海流の面で、太平洋側は親潮と黒潮、日本海側は対馬海流(とリマン海流)の影響を受けるため、"海運" の面でも「太平洋側」と「日本海側」に区分する。前近代においては、太平洋岸は波が荒く、航海が危険であるため、日本海側と比較して海運は活発ではなかった。現在は、動力を積んだ大型船の時代であり、また、太平洋ベルトに近い利点から、太平洋側の海運が活発である。 陸奥国と出羽国. 陸奥国の国府が仙台平野の多賀城に置かれ、出羽国の国府が庄内平野の酒田に置かれた事で解るように、陸奥は「内陸国」の、出羽は「沿岸国」の傾向が見られる。 陸奥国(盆地、太平洋沿岸)は、沿岸平野がいわき市周辺(特徴的海岸:四倉)、相馬市周辺(特徴的海岸:松川浦)、仙台平野(特徴的海岸:松島)、八戸市周辺(特徴的海岸:蕪島)と乏しく、波も荒く海流も強いため、陸上交通による関東地方との関わりが深い「内陸国」であった(→みちのく)。 一方、出羽国(日本海沿岸)は、沿岸に庄内平野、秋田平野、能代平野、津軽平野と、内陸部につながる沿岸平野がほぼ均等な間隔で存在し、北前船に代表されるように、古代から明治時代まで、海運による近畿地方との関わりが深い「沿岸国」であった(→越後国の先にある地域)。 江戸時代には、おおむね日本海沿岸の地域は銀遣い、太平洋沿岸の地域は金遣いであり、その境界線はおおよそ下北半島の東岸であった。 戊辰戦争終結の直後、明治元年旧暦12月7日(1869年1月19日)に、陸奥国は分割され、陸奥国 (1869-)・陸中国・陸前国・岩代国・磐城国が設置され、同じく出羽国も羽前国・羽後国に分割された。羽前と羽後の総称として「両羽」、陸奥・陸中・陸前の総称として「三陸」という地域名が使われることもある。 北東北と南東北. 東北地方は、主要都市の間に東北新幹線・山形新幹線・秋田新幹線が通っている。また、東北地方内陸を南北に貫く東北自動車道の他、太平洋側と日本海側を結ぶ高速道路がいくつも整備され、運行本数が少なく割高な在来線よりも、安価で速く便利に移動できる高速バスが、各都市間で運行されるようになった。すると、それまで空路で東京とつながってバラバラだった主要都市間の関係が、新幹線によるつながりや高速道路(高速バス)によるつながりによって再編成されることになった。 北東北三県は、各県知事の政治主導で「三県連合」の枠組みがつくられたが、元々各県都間の地理的距離があり、うち青森市や秋田市の場合、陸路では東京からの所要時間が長いため、新幹線が開通しても空路から陸路への旅客シフトが劇的には起きなかった。その結果、新幹線の結節点である盛岡市を中心とした相互交流や、高速バスの低廉化・高頻度化などはあまり発生しなかった。 一方、南東北三県においては、各県の県庁所在地や中心都市が元々近接していたこともあり、仙台市との経済的結び付きが強い地域が「仙台経済圏」を形成している。南東北三県都(仙台市・山形市・福島市)がある中枢部は、南東北中枢広域都市圏という名称の協議会を結成して、人口334万人を抱える大都市圏行政を行っている他、「三県都連合」が経済後追いの形で形成されている。 周辺地方との関係. 青森や下北半島などの地方では、青函トンネルや津軽海峡フェリー、青函フェリーを通じて函館など北海道道南地方との繋がりが深い。青森と函館との間では「青函都市圏」構想が練られている。 福島県中通りは、栃木県と隣接しており、自家用車による交流は盛んだが、鉄道を介した繋がりは浅い(→東北新幹線#概要、山形新幹線#需要、秋田新幹線#需要)。ただし、那須温泉郷や日光などの観光地への観光需要は大きく、東北地方と栃木県のタウン情報誌TJN加盟全9誌では、毎号見開き2頁の共通誌面を作っている。 定義域と名称. この地方の名称は、歴史的に変遷している。まず、古代には、畿内から始まる海道(後の東海道)と山道(後の東山道)の各々の道の奥にあることから「みちのおく」「みちのく」とされ、当地方南部(南東北)に「道奥国」(みちのおくのくに)が設置された。後に陸奥国と出羽国が設置されると、両者から1字ずつ取った「奥羽」「奥羽両国」「奥羽州」と呼ばれた。また、両者を一括して実効支配を敷いた奥州藤原氏や奥州探題などの例から、単に 「奥州」ともといわれた。 「東北」と称する文献例は、主に江戸時代・天保期以降の幕末になってから散見されるようになり、この場合、「東北国」と称する例もある。地方名としての「東北」の称が公的な史料で初見されるのは、慶応4年(1868年)に佐竹義堯(秋田藩主)に下賜された内勅とされる。ただし、この場合の「東北」は五畿七道の内の「東北3道」(東海道・東山道・北陸道)、すなわち、天皇の在所である畿内からみて東あるいは北東側にある全ての地域を指しており、西南4道(山陰道・山陽道・南海道・西海道)と対比される。または、東国と北陸の合成語とも考えられる。なお、奥羽および現在の東北地方は「東山道の北部」に位置している。 明治元年12月7日(西暦1869年1月19日)、奥羽越列藩同盟諸藩に対する戊辰戦争の戦後処理の一環として、陸奥国が5分割(磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥)、出羽国が2分割(羽前・羽後)されると、「陸羽」または「三陸両羽」との呼称が生まれた。この場合、現在の福島県全域と宮城県南端に相当する磐城・岩代の2国を除いた、残りの「陸」と「羽」が付く5国の地域を指し、「奥羽」とは指し示す領域が異なっているが、分割前の「陸奥国」と「出羽国」と見ることもできるため、混同されて使用される例も見られる。明治前半に奥羽両国は、明治元年成立の旧国の数から「奥羽7州」「東北7州」、あるいは、新設の県の数から「東北6県」とも言われるようになる。 廃藩置県が実施されて全国が政府直轄となると、当地方から北海道が切り離され、仙台県宮城郡仙台(後の宮城県仙台市)に国家の出先機関などが置かれていった。これらの管轄範囲が公的には「奥羽」と呼ばれる一方、在野の民権派は「奥羽」「奥羽越」あるいは「奥羽および北海道」の範囲を指す美称として「東北」を(「西南」と対比して)用いるようになった。明治の後半になると民間でも「奥羽」の範囲を「東北」と呼ぶのが通例となり、公的にも「東北」が用いられるようになった。 結果、「東北」は日本の地域の中で唯一、民間由来の地方名として定着し、明治以降135年以上に渡って、東北地方の主要企業・国家の出先機関・大学などの名称に多く用いられてきた。そのため、現在は雅称の「奥羽」よりも美称の「東北」の方が当地方の呼称として一般的である。 東北電力と「東北7県」. かつては東北6県よりも多くの地域が含まれていたこともあり、1888年に行われた「東北」対象の自由民権運動集会には新潟県、長野県、富山県、石川県、福井県が参加していた。現在でも、電力やそれに関連する経済政策等の分野では新潟県を東北6県と一体的に扱う場合がある。それは、明治時代から始まった水力発電との関係が強い。新潟県の面積は広大で既に水力発電所が複数あり、当時の国鉄にも電力供給を行っていたくらい発電があったとされる。このことからも上越・中越地域と下越地域で電力供給の思惑がことなり、上越・中越地方では自力で賄える範囲であったが、当時から電力の消費地として既に下越地域の新潟市では電力供給が乏しくなることとなった。また上越・中越地方からの送電網構築により下越地方から山形県庄内地方までも電力のカバーができることも大きく影響しているとされる。 当地での電源開発の最重要地域の1つに阿賀野川(只見川)があるが、これは新潟県下越地方と福島県会津地方(両地域とも分水嶺である奥羽山脈の西側)を流域としており、電力において下越地方と会津地方は不可分であった。このため、新潟県を加えた7県を供給範囲とする電力会社として、戦中の1942年(昭和17年)には配電統制令により東北配電株式会社が設立された。 1950年(昭和25年)には電気事業再編成令により東北電力が設立された。1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効後になると、7県を対象範囲とする地域開発の法律がつくられた。 昭和30年代後半から始まる全国総合開発計画と国土形成計画でも、これらの法律に則って「東北7県」の範囲を「東北」の対象としている(2007年4月1日から施行された国土形成計画法施行令以降は「東北圏」と称す)。また、北海道と「東北7県」で、北海道東北地方知事会議が開催されている。 経済においては、これら法律の「東北7県」の枠組みにしたがって東北経済連合会が構成され、関連する産・学・官連携シンクタンク(現在の名称は「東北開発研究センター」)、研究開発機構(東北インテリジェント・コスモス構想など)、地域ベンチャーキャピタルや地域投資ファンド、観光事業などでも新潟県が含まれている。 東北経済連合会は、東京都より北に本社を置く企業で最大である東北電力が事実上主導権をとる団体となっている。その経済力を背景に、同社提供のブロックネットのローカル番組が複数制作されて「東北7県」(番組内では「東北6県と新潟県」という)に放送されたり、同社が関係して「東北7県」の地方紙で連携企画が掲載されたりしている(→河北新報#紙面参照)。 以上のように、東北電力関連の面においては、「東北7県」を一括りとする例が見られるが、電力関連以外では東北6県の方が一般的であり仙台に立地する機関が新潟県を管轄して「東北7県」とする例は限定的である。東北史研究者の河西英通はその理由として、東北地方が凶作に見舞われたのとは対照的に、新潟は大陸航路の拠点として開発が進んだことが原因と見ている。新潟県は、明治初期において日本で最も人口の多い道府県であり(→都道府県の人口一覧)、1940年の統計で新潟県1県の工業生産額が南東北3県合計とほぼ同じであるなど経済背景も異なる。そのため、新潟県を東北の対象に含める場合は、「東北地方」との呼称を用いずに、「東北7県」「東北6県と新潟県」「東北地方と新潟県」「東北圏」などと言って区別する例が多い(→新潟県#地理)。 新潟県の県庁所在地である新潟市と東北諸地域を結ぶ陸上交通網では、1914年に磐越西線、1924年に羽越本線、1997年に磐越自動車道が全通したが、関東方面や長野・北陸方面へ向かう交通網と比べると高速化が進んでいないうえ、新潟空港から東北地方への定期航空路線も存在しない(仙台空港-新潟空港間の定期航空便は長らく休止路線となっている)。特に岩手県へのアクセスは高速道路を除くと、ほぼ皆無である。 歴史. 畿内政権の律令制・中央集権体制下では、出羽国は越国(北陸道)の先にある沿岸国(船で到達できて畿内に近い)、陸奥国は東山道を徒歩で行くために、「道奥=みちのおく("みちのく")」すなわち内陸国と見なされていた。そのため、現在のような測量された地図がなかった時代には、出羽は日本海沿岸の政治勢力の版図、陸奥は本州奥地の政治勢力の版図とされ、その境界は在地の政治勢力の盛衰にしたがって変化し、必ずしも奥羽山脈できれいに東西に分かれていたわけではない。蝦夷(俘囚)勢力が後退した鎌倉時代以降は、政権のある鎌倉からは陸奥国の方が近くなり、また、鎌倉と出羽国とは船での繋がりをもてなかったために出羽の沿岸国としての意味合いが薄れ、奥羽両国を一括して「奥州」とするようになった。 奥州(東北地方)は、近畿地方の諸政権(平氏政権、室町幕府、豊臣政権)が支配した時代には、政権所在地からは遠いため、半独立的な政治勢力が生まれていた。しかし、関東地方の諸政権(鎌倉幕府、江戸幕府、明治政府)には近いため、政権への従属的傾向が強くなる。明治以降は、北海道や東京への移住で知識層である武士階級を大量に失い、野蒜築港が台風のために2年で閉港となったため、開港場が近くにない唯一の地方となって資本主義経済に乗り遅れた。また、地租改正が行われた明治初期までは、他の地方に比べて貨幣経済の浸透が遅れており、国内市場としての重要度も低かった。 現在は人口も増え、高速道路の整備も進んだため、東北地方内における陸上交通の再編と経済圏の形成が進んでいる。一方で、人口の仙台都市圏への集中、その他の地域の過疎化も進んでいる。 先史. 旧石器時代. 旧石器時代は氷期の影響を受け、現在よりも寒冷であった。そのため、当時の海岸線は現在よりも沖合いにあり、現在は海底に沈んでいるため、海岸線での生活についてはほとんどわかっていない。内陸の生活については、東北地方でも富沢遺跡や金取遺跡などでわかるが、他のいくつかの前期旧石器時代の遺跡が旧石器捏造事件によって研究が振り出しに戻ってしまったため、現在検証作業中である。 縄文時代. 縄文時代には気候が温暖化して、東北地方も縄文中期には現在より暖かかったと考えられている。当時の採集・狩猟・漁労を中心とした生活では、西日本よりも東日本の方が生活に適しており、東北地方は関東地方や中央高地とともに縄文時代の遺跡が高密度に分布する地域として知られる。最も人口密度が低かった近畿地方・中国地方・四国地方と比べて、人口密度が最も高かった関東は30倍以上、東北も5倍〜10倍程度の人が住んでいたと見られている。そのため、1440年も続いた巨大集落である三内丸山遺跡などが存在し、栗栽培など原始的な縄文農耕も始まり、関東や中央高地などと共に縄文文化の中心を担った。 縄文文化は縄文後期の寒冷化により衰退し、縄文末期には大陸から水田稲作が伝来し、北部九州や畿内など西日本を中心に弥生文化が発達する。東北においても比較的早い時期に弥生文化が伝播しており、水田稲作は弥生前期に伝来したと考えられているが、一般的には紀元前後と見られる弥生中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北部においては続縄文文化であったとする見方もある。また、南部においても稲作の放棄と続縄文文化の南下が見られる。 古墳時代. 古墳時代には畿内から古墳文化が到達し、東北地方でも古墳が造られた。古墳が集中している地域は仙台平野や会津地方・山形県内陸部などの東北地方南部となっている。また、奈良盆地に起源があるとみられる前方後円墳も造られ、ヤマト王権との交流がすでに始まっていたと考えられている。東北地方最大の前方後円墳は、宮城県名取市にある雷神山古墳である。宮城県北部・秋田県以北(山形県庄内地方が含まれるとする説もある)では末期古墳が分布する。なお、東北北部の青森県域では続縄文文化が持続し、古墳は小規模な終末期古墳に限られている。 古代. 大和時代. 古代に入ると、ヤマト王権と奥羽越地域(東北地方と新潟県)の諸勢力との関係は、古墳時代までの緩い地域連合のレベルから、徐々に中央集権的な都と地方という関係に移行していく。 畿内政権側から見た古代の東北地方と、現新潟県の米山峠以東(中越地方・下越地方・佐渡島)は「未征服地」であり、畿内政権に服従しない異民族「蝦夷(えみし)」が住んでいるとされた(蝦夷の住んでいた範囲には諸説ある)。以降、古代から中世にかけて、畿内政権側の征服戦争と、東北地方(特に奥六郡)の独立や半独立の動きの中で、征夷軍と蝦夷軍が衝突し、東北地方の歴史は作られていった。 飛鳥時代. 7世紀中期〜後期に、天皇を中心とした強力な官僚制が志向されるようになると、それまでの地方豪族が国造として独自に支配していた地方分権体制から、中央集権体制へと国家体制が大きく変化した。 この流れの中で、7世紀半ばに、太平洋側の現在の福島県から宮城県中部辺りまでと、山形県の南部(置賜郡)と中部(最上郡)が畿内政権側に服従し、常陸国から分離される形で道奥国(みちのく。後に陸奥国)が設置された。 この地域は、古墳時代に前方後円墳が幾つも造られた地域である(7世紀の内に、宮城県内は平定された)。 日本海側では、すでに新潟県上越地方(頸城郡)まで征服したヤマト王権と越国(こしのくに)の連合軍が、「柵(き)」と呼ばれる前線基地を築きながら北進する。 まず、大化3年(647年)に渟足柵(現在の新潟市中心部)、 さらに大化4年(648年)に磐舟柵(現在の岩船郡、村上辺り)を設置し、日本海沿岸を次々と越国に組み入れていった。 斉明天皇4年(658年)になると、越国守であった阿倍比羅夫が、180艘の軍船を率いてさらに日本海沿岸を北上し、「鰐田(あぎた)の浦」(現在の秋田市周辺?)から津軽地方へと到った(日本書紀)。これが蝦夷征討なのか武装交易船団なのかは定説がない。少なくともこの阿倍水軍は斉明天皇4年(658年) - 斉明天皇6年(660年)の間に3度来航し、交易をして帰っている。 その後、畿内政権と同盟関係にあった百済が新羅の侵攻を受けたため、阿倍水軍もその戦列に加わり東北日本海側への遠征は中断された。 律令制整備が進み、中央集権国家として確立してくると、さらに地方の支配体制の整備も進んだ。朝廷軍は、北進して庄内地方に達し、現在の酒田の最上川河口部辺りに出羽柵を設置。 越国(こしのくに)が越前国・越中国・越後国の3ヶ国に分割されると、和銅元年9月28日(708年11月14日)、庄内地方に出羽郡が設置され、越後国に組み入れられた。この出羽郡は、和銅5年9月23日(712年10月27日)に越後国から分立して出羽国になり、後に陸奥国から置賜郡と最上郡を譲られて、沿岸国だった出羽国は内陸部を得る(国府は現在の酒田市の北東部にある城輪柵遺跡に設置されたと考えられている)。 奈良時代. 養老4年(720年)に発生した蝦夷の反乱(征夷将軍・多治比縣守により鎮圧)後、養老8年/神亀元年(724年)東北太平洋側に多賀城が築かれ、南東北は朝廷側の支配体制に完全に組み込まれた。 さらに北進した朝廷軍は、天平5年(733年)に出羽柵を秋田高清水岡(現在の秋田城跡)に移した。ただし、現在の秋田県の領域では、沿岸部のみが支配下に入っただけで、内陸部はやや緩い支配だった。 737年(天平9年)大野東人により多賀城から出羽柵への連絡通路が開削された。 北東北では、北上山地で太平洋と隔絶され、多賀城からも離れている現在の岩手県内の北上川流域(=奥六郡、日高見国)、および、秋田県の横手盆地などが蝦夷の勢力域として残り、その後の朝廷(多賀城)との抗争に続いていく。 宝亀11年(780年)の光仁天皇の時に伊治呰麻呂が反乱を起こし、多賀城を奪った。 平安時代. 平安時代の桓武天皇は、3回に渡る蝦夷平定を行い、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって、蝦夷軍のアテルイと戦って勝利し、奥六郡に胆沢城を築いた。敗れた蝦夷軍は朝廷への服従を誓って俘囚となり、一部は日本各地に集団で強制移住させられた。 朝廷の支配が確立すると、関東地方や北陸地方から多数の入植者(柵戸)が入り、東北地方の内地化が進んだ。俘囚の中から安倍氏が勢力を伸ばして、奥六郡を本拠地に糠部(現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる広大な地域に影響力を持ったが、源頼義と対立し滅ぼされた(前九年の役)。その後清原氏が勢力を張ったがこれも源義家に滅ぼされた(後三年の役)。この両役を通じて、それまで陸奥国(東の奥)と出羽国(北の端)と認識されていた両地域を一まとめする認識が生じたとする見解がある。日本六十余州と呼ばれたうち、東北の広大な領域に僅か2カ国しか設置されていないという不均衡な状態は実に明治維新期までの長きに及ぶが、これは政権が武家に移行して分国制度が完全に形骸化したためでもあり、東北の人口密度や生産力がずっと低かったわけではない。太閤検地では既に陸奥国は他国平均の6倍以上、出羽国も2倍程度の石高となっている。 中世. 平安時代末期. 平安時代末期から中世初期には、北上川流域(奥六郡)を中心として奥州藤原氏が栄え、平泉が平安京に次ぐ日本第二の都市になるまで発展する。奥州藤原氏は陸奥・出羽両国の院領や摂関家荘園の租税を徴することで財力を蓄えたとみられる。しかし、源義経を匿ったかどで鎌倉政権側より軍事攻撃を受け、源頼朝によって滅ぼされた。 鎌倉時代. その後坂東出身を中心とする武士団が多く配置されるとともに、北条氏の所領が広く設定されたが、一部には津軽地方の安東氏のように在地領主と見られる豪族も勢力を維持した。安東氏は北条得宗家から蝦夷代官に任命され、北東北から北海道を支配したといわれている。安東氏の本拠地十三湊は交易で栄え、日本有数の都市となった。しかし、室町時代には安東氏は南部氏との抗争により津軽を追われ秋田地方に移り、十三湊の繁栄は失われてしまう。さらに、鎌倉時代の末頃からエゾの蜂起や安東氏内部での抗争が激化するなど、東北地方では不安定な情勢が続いた(安藤氏の乱)。 室町時代. 鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇の建武の新政では、奥州平定のために北畠顕家が多賀城へと派遣され、陸奥将軍府が置かれた。南北朝時代に入ると南朝の北畠顕家・北畠顕信と北朝の石塔氏・吉良氏・畠山氏・斯波氏が激しく争い、最終的に北朝の斯波家兼が奥州管領として勝利した。 その後斯波氏が奥羽両国に勢力を扶植するが次第に衰退したため、関東を統治した鎌倉府に統合された。 鎌倉府は統治能力の強化のため奥州南部に篠川公方・稲村公方を配置するが、室町幕府と鎌倉府の対立の中で、斯波氏(大崎氏・最上氏)は室町幕府から奥州探題や羽州探題に補任される。さらに有力国人は鎌倉府と対立するため、室町幕府直属の京都扶持衆となる例も多く見られた。 戦国時代. 戦国時代には、山形の最上氏・伊達の伊達氏・秋田の秋田氏・三戸の南部氏・会津若松の蘆名氏などが割拠した。 近世. 安土桃山時代. 関ヶ原の戦いの後、常陸国水戸の佐竹氏が安東氏の後裔の秋田氏と入れ替わりに秋田に転封された。 特に伊達政宗は戦国末期に急速に勢力を拡大し、奥羽六十余郡の半分を影響下に置いた。 なお、出羽国の内陸部(奥羽山脈の西側に連なるいくつもの盆地群)は盆地を中心とする領域支配を確立し、東北地方の戦国時代の主役を担った。それは、職業歩兵(軍人)である足軽が兵農分離されていなかった戦国初期においては、組織できる兵力に限界があり、盆地程度の広さが領国支配に適していたためで、出羽国内陸部の盆地の諸勢力は、陸奥国領域にも積極的に攻勢に出た。 江戸時代. 近世、江戸時代の有力な大名としては、上越市から会津若松、さらに米沢に移った上杉氏、保科正之を家祖とする会津松平氏、米沢から仙台へ移った伊達氏、水戸から秋田へ移った佐竹氏、盛岡の南部氏などがある(山形の最上氏はお家騒動で後に改易され、近江で五千石の旗本となる)。 江戸時代後期には地球的な気象変動などにより飢饉が頻発するようになり、天明の大飢饉に至っては10万人以上の餓死者、疫病者が出るだけでなく、住民の多くが無宿者となり江戸へ流入する事態となった。そのような中、藩財政の再建を行って飢饉に抗した米沢藩主上杉鷹山などの例は有ったものの、気象予報の難しさなどに阻まれて全体に状況は好転せず。天保の大飢饉でも東北地方は多くの死者を出した。 江戸幕府が大政奉還を行って後、幕末の慶応4年/明治元年(1868年)には北陸地方東部の北越戦争から続く会津戦争など戊辰戦争の舞台となり、東北や北陸東部の諸藩は奥羽越列藩同盟と呼ばれる軍事同盟を結んで新政府軍より身を守ろうとした。しかし戦いに敗れてしまったため、同盟参加の藩はいずれも所領を大幅に減らされる処罰を受け、経済は壊滅同然にまで追い詰められた。そうした状況の中、俸禄の支払いが困難となった家臣団(武士階級、知識階級)などを北海道へ移住させ、札幌などの諸都市を開拓して北海道の歴史に名を遺す例が相次いだ。新政府側につき、奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩・弘前藩などもまた、戊辰戦争で多くの犠牲を払い莫大な出費をしたため困窮は避けられず、同様に北海道に多くの移住者を出した。一方で庄内藩は最後まで幕府側として戦ったものの、西郷隆盛の意向もあり比較的軽い処分で済んでおり、米沢藩もまた維新後に積極的に新政府に協力することで軽い処分となった。 近代. 明治時代. 明治元年12月7日(1869年1月19日)、戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われた。同日、陸奥国は、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥国に、出羽国は、羽前国・羽後国に分割された(この分割によりできた「陸前・陸中・陸奥」は「三陸」とも呼ばれ、リアス式海岸の「三陸海岸」や、世界三大漁場のひとつ「三陸沖」などの語に用いられている)。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県などを経て、現在の東北6県が作られた。 この時期、戊辰戦争の勝利によって明治政府はその権力基盤を確立し、幕藩体制に則った伝統的な社会秩序はその権威を完全に失った。また西南諸藩に比べもともと経済基盤が弱かったこともあり、秩禄処分によって経済的な困窮へと追い込まれた各地の領主と家臣の間で、窮余の策として「北海道移住」と「帰農」が広く行われた。また東北地方では専売制度により収入増を図る藩が多かったため、土地の産物がそのまま税として支払いを求められる例が多く、農民などの庶民が産物を現金化できるシステムとしての市場は存在しないに等しかった。しかし明治維新の後は、市場の存在する他の地方と同様に税を現金で払うよう政府から命ぜられたため、産物の現金化に不慣れな人々が相次いで破産するなど、地域全体が大規模な経済的混乱に陥った。 明治時代に入り、富国強兵・殖産興業が日本各地で本格化した時代を迎えても、郡山盆地における安積疏水、宮城県の野蒜築港、東北帝国大学設置、岩手県の釜石製鉄所などの例外を除き、東北地方では政府による大規模な投資や開発は見られなかった。 野蒜築港が台風によって破壊された後も修復や代わりの港の建設はされず、鉄道のうち最初に敷設された東北本線は官営による国家計画としては行われなかった。 大蔵卿・松方正義による松方デフレは、農産物の価格下落をもたらし、全国的に小作農の比率を上昇(小作農率の全国平均38%→47%)させた。その影響によって、全国的には富裕層による地主所有の寡占化が進み、また産業化(生糸産業・造船業など)が進んでいた関東の都市部などは経済が好調となった一方、常磐炭田周辺などを除き工業化の遅れていた東北地方は更なる経済的ダメージを蒙ることとなった。 そのため多くの者が女工や各種労働者として都市部などへと働きに出ざるを得なかった。 さらに、日清・日露戦争後に顕著となった日本の対外進出指向は、日本内地の開発の軽視につながり、地方の近代化を遅らせる結果を招いた。 特に1910年(明治43年)の韓国併合後は、朝鮮半島から廉価な米が流入したために米価の低下を招き、東北地方にとっては大きな痛手となった。 昭和時代. 昭和になってからは、農家の次男・三男などを中心に旧満州国などへの移民が活発化した。 1930年(昭和5年)には昭和東北大凶作が発生し、身売りや欠食児童が続出、二・二六事件を起こす要因の一つとなった。 現代. 戦後. 第二次世界大戦後は農地改革により、従来の封建的な地主小作関係は過去のものとなった。工業化も進み始め、品種改良により寒冷地に強い農作物も開発され、その生活水準は顕著な向上を見せたが、一方では再投資の進む太平洋ベルト地域の著しい発展に取り残され、経済力の弱さがより目立つ形ともなった。高度経済成長時代に入ってもそれは変わることなく、インフラ整備の遅れ、東京方面への出稼ぎや集団就職などによる人材流出、それに伴う深刻な過疎化、東北内でも仙台一極集中といった新たな問題が認識されるようになった。 2011年には東日本大震災が発生し、岩手、宮城、福島を中心に甚大な被害を受けた。 方言. 東北地方の方言、いわゆる東北弁は、方言学では東日本方言に区分されている。太平洋側では関東方言(特に東関東方言)との共通点が多くみられるほか、日本海側では近世の北前船の交易による関西方言の影響もみられる。アクセントは、太平洋側南部(宮城県南部・山形県内陸と福島県)の無アクセント、南部日本海側から北部の大半にかけて分布する北奥羽式アクセント(外輪東京式アクセントの亜種)、三陸海岸北部の外輪東京式アクセントに大きく分かれる。 かつては聞き取りにくい・理解しにくい方言の代表として鹿児島弁とともに挙げられることが多く、他の地方と比べて開発が遅れていたこともあり暗いイメージや否定的な印象を持たれることもあったが、現代においては、温かい人情や素朴さの象徴とする肯定的な見方も生まれた。しかし、方言話者自身にとっては「勝手なイメージ付け」に過ぎない点で従来の否定的な評価と何ら変わらず、必ずしも好意的に受け取られるとは限らない。現代では東北地方でも若い世代では共通語化が進んでいる一方、従来の古いイメージに最初から囚われない人も増えてきている。 なお、「一般的に東北弁と思われている特徴」としては、 などがある。しかし、これらの特徴が当てはまる方言と当てはまらない方言がそれぞれ存在する。 東北地方以外で東北方言を聞ける場所の代表として、かつては上野駅(厳密にはJR東日本=旧国鉄の上野駅。特に長距離列車が多く発着した地上ホーム)がよくいわれた。実際に石川啄木の短歌や、高度成長期の望郷ものの流行歌にも登場していたが、東北新幹線の東京駅への乗り入れ(1991年)などによって上野駅と東北地方との結びつきは劇的に弱まり、すでに過去のイメージとなりつつある。 人口. 東北地方全体としての人口動向を見てみると、戦後は自然増(第一次ベビーブーム)を中心に人口増の時代となり、1960年には東北地方全体で約970万人に達した。1960年代の高度経済成長時代には、「金の卵」の名の下に、主に京浜方面に集団就職したり出稼ぎに出たりするようになり、民族移動にも似た人口減(社会減)の時代に入る。この流れは1970年初頭まで続き、第二次ベビーブームによる大幅な自然増があったにも関わらず、1970年には924万人にまで人口が減った。その後、ニクソンショックとオイルショックによって低成長時代に入った東京への流出が減少し、東北地方は再び人口増の時代に入る。ベビーブーム終了後は、900万人を越える市場性と第三次産業への産業転換により地方中核都市の社会増が起き、日本全体の長寿化(死亡率低下)も手伝って堅調に人口は増え続けた。バブル景気期には、一時、東京圏から転入超過ともなり、20世紀末に約985万人に達した。21世紀に入り、東北地方全体の景気低迷と、高度情報化や金融の東京一極集中のために、人口は再び社会減による減少に転じている。今後は、長寿化の限界と団塊の世代の高齢化による死亡率の増加、及び少子化の影響で自然減になり、人口は引き続き減少していくと見られている。 県別人口. ※2010年国勢調査確定値 主要都市. 明治時代(19世紀末)の東北地方の人口 (順位は全国順位) ※1888年(明治21年) ※1889年(明治22年)市制施行年 『明治大正国勢総覧』※「」:元城下町。色なし:港町 19世紀末は、産業の中心が農業であったため、稲作に適した南東北の方の人口が多く、また、同緯度では、夏季の高温(フェーン現象)で収量が安定している日本海側(山形県、秋田県)が、やませの影響で収量が不安定な太平洋側(宮城県、岩手県)よりも県別人口で上回っている。この時期はまだ都市化が進展していなかったため、江戸時代の経済の名残りで、城下町と港町が都市としての地位にあった。 現在は、都市化が進んでおり(東北地方全体の都市部の人口75%)、県別の人口順位もDID面積順位(→東北地方#地理)とほぼ一致する。 なお東日本大震災以降、福島第一原子力発電所事故の影響で一時的に郡山市やいわき市の人口が1000人規模で減少した一方、内陸部の被害がほとんど無かった仙台市や被害が皆無だった盛岡市では津波被災地域からの転入で人口が1000人規模で増加していた。 交通. 東北地方は、白河の関から本州最北端の大間崎まで道なりに630km以上あり、東京から姫路間の道のりより距離がある。そのため、東北地方の陸上交通路は、東京までの到達時間短縮が第一に重視され、街道、鉄道、道路の整備は、まず南北を結ぶ交通路が整備された。また、太平洋側の交通の整備が先に進み、日本海側については概してその後に整備された(以下は主要駅間の路線距離の5km毎概数。東北地方の諸都市の間隔に近い太平洋ベルトの都市を示す)。 現在、南北陸上交通においては、主に東北新幹線・東北自動車道により関東地方と連結され、旅客では新幹線が優位に立っている。東京への到達時間短縮のために高速交通機関が発達したが、一方で東北地方内の旅客移動も活性化させ、特に太平洋側は、距離に関わらず南北間の都市間交流が盛んとなっている。また、本州・北のターミナルである青森県は、津軽海峡を挟んだ北海道との間に青函トンネルが開通し、諸都市間の関係が深まっている。以前は青森・函館間に青函連絡船が運航されていたが、トンネル開通でフェリー航路が設定され、東北道・八戸道と連動したトラック流通に対応している。なお、近年、南東北と東京との間に都市間ツアーバスが格安で参入し、高速バスと熾烈な旅客獲得競争を繰り広げている。 他方、東西の交通については、山脈・山地などに阻まれながらも明治時代から鉄道や国道が整備されてきたが、高速交通への対応は遅れた。東西高速交通は、「幹」である東北新幹線や東北自動車道と接続する「枝」のように整備され、20世紀末に秋田新幹線や連絡線の高速道路が整備された。この結果、郡山と会津若松、仙台と山形、盛岡と秋田となどとの間で、自然障壁を越えた地域圏や経済圏の形成が進んでいる。 東西交通の高速化により、現在の東北地方は、交通インフラの利便性の違いにより2つの地域に分類される。東京との交通上の関係で見ると、太平洋側から奥羽山脈西側に隣接する盆地群までがいわば「新幹線派地域」、それ以外の日本海沿岸地域が「航空機派地域」に分けることができる。両者の東西の境界はほぼ出羽山地である。 「新幹線派地域」にある仙台空港(仙台都市圏内の名取市・岩沼市)は、多数の国内線や国際線が就航していて、国際線に至っては利用者の半分以上が宮城県居住者以外となっており、「新幹線派地域」の拠点空港となっている。日本海沿岸地域(津軽平野・秋田平野・庄内平野)は、東北新幹線に接続するまでに時間がかかるため、東京とは空路需要が多く、「航空機派地域」となっている。 空港. 現在、東北地方の各空港同士を結ぶ路線は存在しないが、かつて仙台空港からは直線距離が300km程度まででも東北地方内を含めて4路線が定期路線として就航していた。 1982年の東北新幹線開通(大宮駅〜盛岡駅)によって羽田便が同1982年に廃止され、三沢便も廃止に至った。新潟便は、磐越自動車道が次々整備される中、1992年に廃止された。青森便は、新幹線の利便性が得られない地域であったために設定されたが、JRとの運賃値下げ競争に負けて廃止された。 その他にも新幹線の開通で空港の旅客数が顕著に減少する例が多い。参考として、空港に近い主要都市からの平成28年3月26日ダイヤ改正時点での最速所要時間を併記する。 港湾. 江戸時代には、北前船によって日本海側の港町が、東回り航路によって太平洋側の港町が栄えた。また、大小さまざまな漁港があり、遠洋漁業が盛んだった時代には大いに賑わった。現在は、地場の魚(沿岸漁業・沖合漁業)の特産化や高級化で活気がある漁港が数多く存在する。工業港・貿易港としては、仙台・小名浜・石巻・八戸・秋田が、旅客港として青森・八戸・仙台が重要な港湾となっている。 鉄道. 東京へは主に東北新幹線が主力となって輸送している。1887年に東北本線黒磯 - 郡山 - 仙台間が開業、その後1890年に仙台 - 一ノ関 - 盛岡間、1891年には盛岡 - 青森間が開業し「幹」である東北本線が開通した。1982年に東北新幹線大宮 - 盛岡が開業し、また1997年には盛岡 - 秋田を新幹線直通列車が結ぶ秋田新幹線、1992年には福島 - 山形を新幹線直通列車が結ぶ山形新幹線が開業(山形新幹線は1999年に新庄まで延伸)し、県庁所在地対東京は1本の新幹線によって結ばれた。 その一方、酒田・鶴岡対東京は上越新幹線と特急いなほが優位(他にも新庄経由ルートも存在する)、いわき対東京は特急ひたちなど、「幹」である東北新幹線を利用しない最短ルートも存在する。これらの地域は「枝」である東西連絡路線が後発であったことが影響している。なお2002年12月1日に東北新幹線の盛岡 - 八戸間開業以降東北地方のすべての県に新幹線の列車が乗り入れるようになった。 道路. 東北地方は、医師の数が人口比で全国水準より低い上、無医地区も広いため、高速道路や国道体系と医療体制との関係が深い。高速道路・国道は、都市部にある高度医療を行う病院や救急救命センターへの搬送路として機能し、救急車緊急退出路も整備されている。また、都市部に偏る常勤医を郡部へ非常勤医として送る供給路としても利用されている。
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コントラバス
コントラバス (英語: contrabass/double bass [ダブルべース]) は、オーケストラなどで最低声部を受け持つ弦楽器。クラシック音楽では主に弓を使って演奏するが、ポピュラー音楽では一般的に指を使って演奏する(ピッツィカート奏法)。 略号は「Cb」。4本または5本の弦を持つ大型の弦楽器である。短縮して単にバス、もしくはベース (Bass) と呼ぶこともある。コントラバス、ダブルベース、アップライトベース、アコースティックベース、ウッドベース、弦バス(和製英語)などの呼び方が存在する。ウッドベースは、音楽用語としての使用頻度が高い。また、フォーク・ミュージックやブルーグラス、カントリーなどではベース・フィドル、ベース・バイオリンなどの呼び方をされる場合もあった。 関連用語. コントラバスとは別に、電気楽器としてエレクトリックベース、電子楽器としてシンセベース(キーボードベース)も存在する。また、エレクトリック・アップライト・ベースもある。ダブル・ベース・ドラムという楽器の用語があるが、こちらは通常のベースドラム(バスドラム)を2台使っているという意味でダブルであり、本項の意味とは異なる。 歴史. 類似する低音弦楽器であるチェロがヴァイオリン属の楽器であるのに対して、コントラバスに見られる、なで肩の形状、平らな裏板、4度調弦、弓の持ち方(ジャーマン式)といった特徴はヴィオラ・ダ・ガンバ属に由来する。現代のコントラバスはヴァイオリン属とヴィオラ・ダ・ガンバ属の中間に位置する楽器となっており、どちらに分類するかは分類者の考え方によって異なる(ヴィオローネを参照)。 構造. 楽器. 共鳴胴は瓢箪型で棹が付いている。形によって「ガンバ型」「バイオリン型」「ブゼット型」などのバリエーションがある。中央のくびれは古い擦弦楽器において弓を使うのに邪魔にならないような形状にした名残で、ヴァイオリン属にもヴィオラ・ダ・ガンバ属にも共通するものである。 ヴァイオリン同様表板と裏板は独立しており、表板は湾曲している。ただし、湾曲した裏板を持つラウンドバック、平面の裏板を持つフラットバックと呼ばれる2つの構造が存在する。フラットバック裏板内側面には、ラウンドバックには無い力木(ブレイス)が接着されている。ヴァイオリンやヴィオラ、チェロと違いなで肩であるが、これはヴィオラ・ダ・ガンバ属のなごりであり、これによってハイポジションでの演奏が容易になっている。駒は弓で特定の弦をこするのに適すよう、弦の当たる位置が湾曲しているが、形の比率は他のヴァイオリン属に比べて背が高い。尾部にはエンドピンを備えており、これを床に刺して演奏する。 ヴァイオリンの構造と同じく、駒の高音弦側の脚が接触している位置で、表板の裏側に接して魂柱(こんちゅう)と呼ばれる柱が立っており、表板と裏板に接している。駒の低音弦側の脚が接触している位置で、表板の裏側に接してバス・バーと呼ばれる力木(ブレイス)が接着されている。弦の振動は魂柱を支点とし、てこの原理により振動が増幅され、主にバス・バーによって表板全体を振動させる。またその一部の振動は魂柱を通して裏板に伝わり、共鳴胴全体が振動するのである。棹から駒を経て楽器の尾部の緒留めまで弦が張られ、弦を押さえるための指板が張られている。 全長は約170 - 200cm程度、弦の実効長も約95 - 120cm程度と、それぞれ全体の約2割ものばらつきがあり、この割合は他の純粋なヴァイオリン属の楽器より遥かに大きい。また、共鳴胴の容積により、3/4、1/2などの小さいサイズの楽器が、体の小さい女性や子供たち用に生産されている。また国によっても基準の大きさが異なり、ヨーロッパにおける3/4サイズが、日本における4/4(フルサイズ)に該当する。 弓. ヴァイオリンの弓と同様、逆に湾曲し馬の尾の毛が張られる。毛留め(フロッグ)の箱の大きさと棹の長さによって、ジャーマン・ボウ(同系統のヴィオラ・ダ・ガンバ属での使用弓)フレンチ・ボウ(ヴァイオリン属での使用弓)との2種に大別される。毛には松脂を塗り、これで摩擦係数を高めて弦をこする。使われる松脂は他の弦楽器のものに比べて粘性の高いものを用いる奏者が多いが、音質や演奏性の好みで他の弦楽器のものを使う奏者もいる。 また、その他の弦楽器にはほとんど用いられない黒い毛が使われることもある。 コントラバスの音. コントラバスは、その太く低い音が特徴的である。 現在の一般的な調弦は、4弦の場合、高い方から中央ハの1オクターブと完全4度下のト(G、ソ)、以下完全4度ごとにニ(D、レ)、イ(A、ラ)、ホ(E、ミ)であり、それぞれ、第1弦=G線、第2弦=D線、第3弦=A線、第4弦=E線と呼ばれる。5弦の場合はさらに低い弦として第5弦を備えており、レスピーギなどの場合はロ(H、シ)またはベートーヴェンの場合はハ(C、ド)に調弦する。楽器の構造が完成するのが比較的遅かったこともあり、19世紀初期までは3弦(高い方からG、D、Aの四度調弦やA、D、Gの五度調弦もあった)の楽器など、弦の数や調弦がさまざまな楽器が混在していたが、現在では上記の調弦による4弦または5弦の楽器にほぼ統一されている。 なお、独奏の場合には、これよりも長2度高く調弦することがある。コントラバスのパガニーニとも呼ばれているイタリアのバス奏者、ボッテジーニが考案したこの調弦法を「ソロチューニング」と呼び、輝かしく、よく通る独奏向きな音質に変わる。やや細く作られた弦(通称「ソロ弦」)を使用することも多い。 一般に調弦はD線もしくはA線から初め、フラジオレット(ハーモニクス)を用いて、隣同士の弦を合わせる。 4弦のコントラバスには一番低い弦の音をEから下にCまでの各音に切り替えられるようにする装置(C装置)を取り付けたものもある。その場合、チェロの最低音より1オクターブ低い音まで出すことができる。 記譜. チェロと同様、主としてヘ音記号を使って書かれるが、書かれた音より1オクターブ低い音が出る(1オクターブ高く書かれる)。これにより、チェロと同じ楽譜を使えば合奏時に低音に1オクターブの重なりを得ることができる。通常の4弦コントラバスの最低音はホ(E、ミ)であるが、これにC装置を取り付けたり5弦コントラバスを用いたりしてより低い音を出せるようにするのは、チェロの最低音の1オクターブ下の音を得るために他ならない。 独奏曲の楽譜には実音で表記されているものもある。また、ソロチューニングの時は同じ記譜で同じ演奏法となるように、短7度低い音の出る移調楽器として書かれる。高音部はテノール記号またはヴァイオリン記号を用いる。コントラバスの独奏曲の作品には、このソロチューニングで書かれているものが多い。 なお、フラジオレットに関しては過去よりさまざまな記譜法があるので注意を要する。 例: など。 演奏方法. 楽器の構え方. 立奏. 立って演奏する場合、立てた楽器の横に左半身を添わせて左足や腰の左側で楽器を支えることが多い。各弦の低音の演奏には、左手の指をポジション(後述)に置き、親指を中指にほぼ対向させて、棹を挟む。高音部では親指も弦を押さえるのに使うため弦の上に置き、左半身で楽器を抱え込むようにする。 座奏. 交響曲など、長い曲を弾く時には椅子を使うことも多い。椅子は座っても立ったときと姿勢があまり変わらないような高いもの(専用として設計されているものが市販されている)を使い、立って演奏するときより楽器をいくぶん寝かせて構える奏者も多い。 奏法. 右手. 弦を弓で奏する「アルコ奏法」、指で弾く「ピッツィカート奏法」の2種類が一般的な奏法として用いられている。 アルコ奏法(arco). 右手で弓を使って演奏する。コントラバスの歴史的背景により、弓は「ジャーマン・ボウ」と「フレンチ・ボウ」の2種類が存在する。 ジャーマン・ボウは、同属であるヴィオラ・ダ・ガンバ属で使われる弓(現在でもバロック・ボウとして購入出来る)の形を残している弓である。弓の持ち方はヴィオラ・ダ・ガンバ属特有であり、毛箱を下から包み込むようにして持つ。 フレンチ・ボウは、現代のヴァイオリンやヴィオラ、チェロの弓と同じ構造の弓である。弓の持ち方はチェロの場合と似ている。ジョバンニ・ボッテジーニが考案したとされる。 従来、日本国内ではジャーマン・ボウでの教育が一般的であった。この原因として、鎖国中のオランダとの関係や戦時中のドイツとの同盟など、音楽を含めた西洋文化との関係性においてゲルマン系の影響が強かったことが考えられる。しかし、1990年代以降はフランス式の有用性を選択する人間も増え、現在では演奏者および指導者を探す点でも差異は殆ど存在しない。また、根本的に別種の歴史と有用性を持つ奏法のため、どちらもアップライト構造の楽器だがコントラバスではジャーマン、チェロではフレンチと使い分ける奏者も多く存在する。 運弓. 弓の使い方を運弓という。 弓は右手で持ち、弦を弦の張ってある方向に対して垂直方向にこするのが基本である。楽器を構えたとき、弦はほぼ鉛直方向に張ってあるので弓は水平方向に、すなわち奏者から見て左右に動かすことになるが、他のヴァイオリン属楽器と同様、右に引くのを下げ弓(ダウン・ボウ:記号)、左に押すのを上げ弓(アップ・ボウ:記号)と呼ぶ。てこの原理により、弓の元(手に近い方)で弾く方が力をかけやすいため、ダウン・ボウの方が大きな音が出しやすく、強拍に向いている。また、アップ・ボウは弱拍やクレッシェンドに向いている。 弓を当てる位置は、基本的には指板の下端と駒の間である。指板寄りでは柔らかい音が、駒寄りでは固くて大きい音が出るので場合によって使い分ける。 ピッツィカート奏法(pizzicato, pizz.). 弦を指ではじく奏法(ピッツィカート)である。ポピュラー音楽ではこちらが一般的である。また、ジャズ、ロカビリー、カントリー、ブルーグラス、ジャグバンドミュージックではスラップ奏法(クラシックにおけるバルトーク・ピッツィカートに近い)と呼ばれる特殊なピッツィカートも使われる。 左手. 運指. 左手の指の使い方を運指という。 弦は弓で弾くだけでは調弦したときの音(開放弦)しか出ない。左手の指で弦を指板に押しつけることによって弦長を短くし、より高い音を出すことができる。 指は、人差し指を1、中指を2、薬指を3、小指を4という。親指は高音部にのみ使われる。記号はである。 ヴァイオリンでは1と4の間隔は7 - 8半音に達するが、コントラバスでは2半音にしかならない。開放弦の半音上に1を置くと、2がその半音上、4がさらに半音上(1の2半音上)にあたる。このような手の位置をポジションという。 各弦の音とポジションの関係は次の通りである。0は開放弦である。 主なコントラバス奏者. 五十音順に並んでいる。
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ロックンロール
ロックンロール(, )は、1950年代半ばに現れたアメリカの大衆音楽スタイルの呼称である。語源については、古くからアメリカ英語の黒人スラングで「性交」及び「交合」の意味もあり、1950年代はじめには「バカ騒ぎ」や「ダンス」という意味もあった。これを一般的に広め定着させたのは、DJのアラン・フリードであった。 1960年代半ば以降には「ロック」という呼び方が一般化し、「ロックンロール」と呼ぶことは少なくなった。一方で、「ロックンロール」と「ロック」は別の物として使われることがある。1960年代半ばには、ロックンロールが進化して抽象的、芸術的なものも生まれ、新たなサウンドが登場し、それらの総称として「ロック」という言葉が使われるようになった。 概要. ロックンロールは、アメリカの白人のカントリー・ミュージックと黒人のブルース、黒人霊歌を結合したものとも、リズム・アンド・ブルースを白人化したものとも言われている。ロックンロール第1号がどの曲かということは、しばしば議論の対象となってきた。一般的にはビル・ヘイリーとヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」(1954年)やエルヴィス・プレスリーの「ザッツ・オールライト」などが有力候補だが、ジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・キャッツの「ロケット88」(1951年)が最初の曲だとする意見も存在する。 ロックンロールの楽器編成は、エレクトリックギター、サックス、エレクトリックベース、ドラムスという構成が代表的である。ジェリー・リー・ルイスらのようにピアノを主体にする例、プレスリーやエディ・コクランがときおり見せたようなエレクトリックギターの代わりにアコースティック・ギターを使う例、ロカビリーの一部のように、エレクトリックベースの代わりにアコースティック・ベース(ウッド・ベース、アップライト・ベース)を使う例など多彩である。 尚、主に白人ミュージシャンによるロックンロールの中で、特にカントリー・アンド・ウェスタンの要素が強くビートを強調したものをロカビリーと呼ぶ。 詳細・起源. ロックンロールは、元々はリトル・リチャード、チャック・ベリー、ファッツ・ドミノらと、エルヴィス・プレスリー、ビル・ヘイリーらのロカビリーなどの音楽を指した。ロックンロールがいつ頃から始まったかについては諸説がある。一説として「ロックンロール」という語は1951年前後にディスクジョッキーのアラン・フリードが「マイ・ベイビー・ロックス・ミー・ウィズ・ワン・ステディ・ロール」(トリクシー・スミス)という曲の歌詞から思いつき、「ムーンドッグロックンロール・パーティ」というラジオ番組をはじめた、というものもある。 エルヴィス・プレスリーなど、カントリーをルーツに持つ南部・中西部の白人が中心だったロカビリーは白人労働者のファンが多く、チャック・ベリーに代表されるロックンロールのファンにはティーンエイジャーが多かった。 その後、白人であるビル・ヘイリー、エルヴィス・プレスリー、ジェリー・リー・ルイスらの成功によってロックンロールは「白人の音楽」と見られるようになった。腰を振り、挑発的にパフォーマンスするエルヴィスの登場は保守的な50年代には衝撃的であり、ジョン・レノンは「エルヴィス以前には何もなかった」と証言している。 初期のロックンロールの楽曲はオーティス・ブラックウェルらのプロの作曲家か、ブルース、カントリー、R&Bのカヴァー、シンガー自身による自作自演などだった。 音楽出版社の多くは、ブロードウェイのブリル・ビルディングという建物に入居していた為、その“ブリル・ビルディング・サウンド”と呼ばれることもあった。ブリル・ビルディング・サウンドはポップスの歌手・作曲家分業システムであり、ロックンロールの歴史で重要なチームは、「ハウンドドッグ」「カンサスシティ」「ヤケティ・ヤック」「ラヴ・ポーションNO.9」を作曲したジェリー・リーバーとマイク・ストーラーぐらいだった。 一般的には、1950年代半ばに発表された、ビル・ヘイリーの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』、エルヴィス・プレスリーの『ハートブレイク・ホテル』などが、ロックンロールの初期の例として挙げられることが多い。 通常、白人のロカビリーに、黒人のロックンロールを加えたジャンル全体をロックンロールとしており、チャック・ベリーの『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』や『ジョニー・B.グッド』などが含まれる。 ロックンロールからロックへ. 1950年代末から早くも、黒人音楽をルーツに持つロックンロールがラジオ、テレビで演奏される事を嫌悪した白人の日曜説教師や保守派政治家の講演会、新興宗教的キリスト教のビル・グレアムによるロックンロール批判が巻き起こった。同時にエルヴィス・プレスリーとトム・パーカー大佐の関係に見られるような「ロックンロールの商業化」とあわせ、主要ミュージシャンが徴兵・事故死・服役などで次々とシーンを去ったことから、ロックンロールは次第にその勢いを失っていった。以下はこの時期に起きた出来事である。 ペイオラ・スキャンダルで大物DJが大量にマイクの前から消える中、駆出しのDJとして関与していたディック・クラークらは当局やレコード会社との取引によって追放を免れ、これを機に大人からも容認される比較的健全な曲を掛ける方向に転向した。日本でロックンロールと勘違いされることが多いポール・アンカ、ニール・セダカ、デル・シャノンや、ジーン・ピットニー、ボビー・ヴィーらも含め、毒気の少ない歌手の音楽、白人・黒人のガール・グループ等、毒気が抜かれた音楽が紹介され、ブリティッシュ・インヴェイジョンまで、一時的な停滞があったとする見方もある。 一方イギリスでは、これらのロックンロールやブルース、R&Bに影響を受けたミュージシャンが登場し始め、ロックンロール/ロックの主要な舞台はイギリスに移り、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクス、アニマルズなどに受け継がれていくこととなる。
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あさりよしとお
あさり よしとお(本名:浅利 義遠、1962年11月20日 - )は、日本の漫画家。北海道空知郡上砂川町出身。代表作に『宇宙家族カールビンソン』、『ワッハマン』、『まんがサイエンス』など。 柔らかく太い温かみのある描線で、毒のある笑いとSFを基本とした世界を描く。美少女や、シンプルだが味わい深いメカを描くことを得意とする。おたくブーム時期にデビューし、人気を集めた。その後作風の幅を広げていく。現在は青い鳥文庫fシリーズの挿し絵も手掛けている。 アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の制作には、第三使徒サキエル等のデザインで参加しており、漫画以外の分野でも高いデザインセンスを発揮している。 プロフィール. 北海道空知郡上砂川町生まれ。少年時代の多くを美唄市で過ごし、小学四年生までは円形校舎で有名な美唄市立沼東小学校に通っていた。本格的に漫画を描き始めたのは高校入学後。北海道滝川高等学校卒業後、東京国税局大蔵事務官を経て漫画家となる。 1981年、浅利義遠名義の「木星ピケットライン」(『週刊少年サンデー』)でデビュー。その後『レモンピープル』(あまとりあ社)、『宇宙船』(ホビージャパン)等の各誌に数篇の短編を発表したのち、1984年『プチアップルパイ』(徳間書店)で「元祖宇宙家族カールビンソン」、翌年に『月刊少年キャプテン』(徳間書店)で「宇宙家族カールビンソン」の連載を開始した。 スキンヘッドに髭という風貌をしている。 宇宙作家クラブの会員で、無類のロケット好き。作家の笹本祐一らと共に『宇宙へのパスポート ロケット打ち上げ取材日記1999-2001』に参加している。ロフトプラスワンのイベント「ロケットまつり」にも出演。 自作「なつのロケット」を元にした名前「なつのロケット団」で、超小型衛星打ち上げ用の小型液体燃料ロケットを開発(のちに「SNS株式会社」に)。『宇宙へ行きたくて液体燃料ロケットをDIYしてみた~実録なつのロケット団』で、第45回星雲賞(ノンフィクション部門)、2014年度科学ジャーナリスト賞を受賞した。 映画やアニメ、ファミコンソフトの評論家としても活躍。小説の挿絵に藤井青銅の『死人にシナチク』や、富永浩史『俺の足には鰓がある』がある。 『新世紀エヴァンゲリオン』では制作側として関わるほか、SF雑誌編集者にしてトレッキーでもある岸川靖と組んで「EVANGELION補完委員会」なるものを立ち上げ、パロディー4コマ漫画集を上梓するといった1ファン的な付き合いもしていた。ただし、本人はエヴァンゲリオンのラストに対し、「作品ではない」と批判的な意見を述べている。 1988年2月号から『アニメージュ』(徳間書店)誌上のOVAクロスレビューの審査に参加、1950 - 1960年代の映画黄金期の名作を基準とし、辛口なコメントを披露している。 作品リスト. 短編. 短編集は5冊が刊行されている。『中空知防衛軍』にも短編3作品があるので、併せて記載する。
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Perl
Perl(パール)とは、ラリー・ウォールによって開発されたプログラミング言語である。実用性と多様性を重視しており、C言語やsed、awk、シェルスクリプトなど他のプログラミング言語の優れた機能を取り入れている。ウェブ・アプリケーション、システム管理、テキスト処理など、さまざまなプログラムの開発に広く利用されている。 言語処理系としてのperlはフリーソフトウェアである。Artistic LicenseおよびGPLのもとで配布されており、誰でもどちらかのライセンスを選択して利用することができる。UNIX、Windows、macOSやLinuxのようなUNIX互換OSなど多くのプラットフォーム上で動作する。 Hello world. say 'Hello, world!' ; モジュール. Perlプログラムには、モジュールによって機能を付加することができる。たとえば、他のプログラムやネットワークとの通信、各種ファイル形式の取り扱い、数学的な計算など、数多くのモジュールが存在する。PerlにはCPANというモジュールを体系的に管理するインターネット上のシステムがある。インターネットに接続していれば、CPANにアクセスして、モジュールをインストールすることが可能である。 標準モジュール. Perlには標準で利用できるモジュールが数多く存在する。一部を以下に挙げる。 エピソード. ラリー・ウォールは敬虔なクリスチャンであったため、Perlは当初、新約聖書のの「高価な真珠」にちなんで、真珠を意味する「pearl」と名付けられた。ラリーは肯定的な意味を持つ短い名前を選びたいと考えていて、彼によれば3文字および4文字の単語を辞書から探したが良いのが見つからなかったということである。また、彼は妻のグロリアにちなんで名前を付けることも考えたが、家族の会話でまぎらわしいために却下となった。 Perlの正式なリリースの前に、ラリーはすでに「」という名前のプログラミング言語が存在することに気づき、綴りを変更して「Perl」とした。このようにPerlという名前は何らかの略語ではないが、あとからいくつかのバクロニムが考えられている。開発者ラリー自身によると、「」(実用的なデータ取得レポート作成言語)という意味を持ち、同時に 「」(病的折衷主義のガラクタ出力装置)という少し皮肉な意味も込められている。 処理系. Perlという名称の記述においては、若干の注意が必要である。プログラミング言語としてのPerlを示すときは「Perl」というように、頭文字を大文字にして固有名詞であることをはっきりさせる。この「Perl」という表記では処理系のことは含まれない。Perl 5の現在開発されている唯一の処理系は「perl」という、すべて小文字で記述される名前の処理系である。一般に「perlだけがPerlを解釈することができる」という表現がなされる。「PERL」のようにすべてを大文字にするのは誤りである。 このようにPerl 5現在において、Perlとは言語の名前であると同時に唯一の処理系の名前でもある。この処理系はC言語で書かれている。スクリプトは実行前に仮想機械向けにコンパイルされ、コンパイルされたバイトコードが実行される(ランタイムコンパイル)。そのため、厳密にはインタプリタとは異なる。 Pythonのように一旦生成したバイトコードを保存して再利用することは少ないが、これは現在のPerlのランタイムコンパイルが高速で、バイトコードから実行するメリットがあまりないことが理由の一つである。コンパイル済みコードの再利用としてはむしろmod_perlのような形式が好まれている。 PAR (Perl Archive Toolkit) というPerlスクリプトを実行環境ごとアーカイブし、単一のファイルにまとめるためのツールキットも存在する。JARのPerl版と考えてよい。実行可能ファイルを作ることもできるため、アプリケーションの配布に適する。しかしその場合はPerl実行環境をまるごと含むため、ファイルサイズが大きくなる傾向にある。 Perlの姉妹言語としてRaku (旧 Perl 6) が存在する。RakuはParrotというバーチャルマシンの上で動作する。現在、ParrotCodeへのコンパイルを行うRakudo Starという処理系やHaskellで書かれたPugsという処理系などの複数の実装が公開されている。なおRakuはPerlと互換性を持たない。 Perlが利用されているアプリケーション. Perlが利用されている代表的なWeb アプリケーションや管理ツール。
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日本のプロ野球
日本のプロ野球(にほんのプロやきゅう)では、日本で行われるプロ野球全般について述べる。 歴史. 以下のうち、1949年の日本野球機構(NPB)発足以降で特記のないものはNPBの事象を指す。 日本野球機構(NPB). 日本野球機構(NPB)では1軍公式戦としてセントラル・リーグとパシフィック・リーグ、ファーム公式戦としてイースタン・リーグとウエスタン・リーグが開催されているほか、オールスターゲーム、日本選手権シリーズなどを主催している。日本で単に「プロ野球」と言えば通常これらを指す。 NPBのリーグ・球団. 日本野球機構(NPB)傘下にはセントラル・リーグ(セ・リーグ)とパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の2リーグがある。 現在は両リーグがそれぞれ6球団を擁し、これらを指して一般に「12球団」と呼ばれる。かつては両リーグとも最大で8球団が在籍したが、黎明期に弱小球団が淘汰された結果、1950年代には現在の数となっている。 ホームゲーム開催地. ホームゲーム開催地 観客数. 以下に、2005年以降のペナントレース(リーグ戦+セ・パ交流戦)における、主催試合(ホームゲーム)での、1試合あたり平均観客数(人/試合)の変遷を示す。同年以降に記載を限ったのは、2004年シーズン中に発生したプロ野球再編問題の結果、翌2005年シーズンより、観客数の発表が実数に切り替わったこと、かつ、セ・パ交流戦が開始されたことによる。 2005年シーズンよりパ・リーグでは、従前のオリックス・ブルーウェーブ(兵庫県神戸市)と大阪近鉄バファローズ(大阪府大阪市)が合併し、オリックス・バファローズ(移行措置としてダブル・フランチャイズ期間あり)という1つの球団になって参戦している。また同シーズンより、東北楽天ゴールデンイーグルス(宮城県仙台市)が新規参入で加わった。この結果、パ・リーグは従前同様、6球団で維持されている。 なおNPB12球団は、8球団が三大都市圏に所在し、4球団が札仙広福(地方中枢都市)の各都市(★)にある。 球団の運営母体の業種. 1950年のセ・パ分立時には、鉄道系7球団(セの阪神・国鉄、パの西鉄・阪急・近鉄・南海・東急)、新聞系4球団(セの読売・中日・西日本、パの毎日)、映画系2球団(セの松竹、パの大映)、食品系1球団(セの大洋)、独立系1球団(セの広島)であった。 撤退した業種は、上述の映画系のほか、放送系(横浜:TBSHD)、流通系(ダイエー:ダイエー)、衣料品系(太陽:田村駒)、不動産業系(日拓:日拓グループ)等が挙げられる。 球団の変遷. 2008年までの日本野球連盟・日本野球機構所属球団の変遷(シーズン中の変更のみ日付を記す)。 2012年からは横浜ベイスターズが横浜DeNAベイスターズとなっている。 スケジュール. 年間カレンダー. ※あくまでもおおよその目安であって、この通りとは限らない。 独立リーグ. 概要. 2004年に起こったプロ野球再編問題と四国アイランドリーグ(現・四国アイランドリーグplus)誕生の影響もあって、当時は全国各地に独立リーグ構想が持ち上がった。ルートインBCリーグのように実現した独立リーグもあるが、資金面などの問題もあって実現までに至っていないものも複数存在する。 社会人野球を統括する日本野球連盟は、リーグ所属選手について2005年から2008年までは社会人などアマチュアと同等に扱っていた。しかし、2009年に日本野球連盟は「国内の独立リーグに関する取扱要領」を制定し、NPB同様プロ選手として扱われる(退団者の社会人野球選手登録は1チーム3人以内)ことになった。2010年からは、独立リーグ退団者は退団翌年度に社会人野球選手登録ができない制限も追加された。その後、2014年11月に、すべての独立リーグ退団者に対して登録者数制限が適用外となり、日本独立リーグ野球機構所属リーグ(四国アイランドリーグplusとベースボール・チャレンジ・リーグ)並びに賛助会員チームの退団者に対しては登録期間制限も適用外となった。この決定以降に機構に加盟した九州アジアリーグや北海道フロンティアリーグの選手に関しても同様に適用される。 一方、日本野球機構(NPB)は、外国人(日本の学校卒業者を除く)およびNPB在籍経験のある独立リーグ選手に対しては「移籍」の形でNPB球団と契約することを認めているが、それらに該当しない選手についてはプロ野球ドラフト会議での指名を受けなければ契約できない。この点について、独立リーグ(アイランドリーグとBCリーグ)側は、選手の経歴によらず移籍可能にしたいという意向を持っていると報じられている。 独立リーグの選手もNPB同様にプロ契約を交わして球団から報酬を受け取っているものの、その額はNPBと比べ極めて少ない。解散時点のKANDOKは完全無給制で、同リーグを脱退した球団によって設立されたBASEBALL FIRST LEAGUE→さわかみ関西独立リーグも同様である。そのため、オフシーズンに副業を認めるリーグも存在する。また、2020年より開幕した北海道ベースボールリーグは、シーズン中も球団地元の企業や農家で選手が就労する形態を採用する。 四国アイランドリーグplus. 四国アイランドリーグplusは、下記の4球団によって構成される。 2004年の創設当初の名称は「四国アイランドリーグ」で、四国4県の各1球団が加入して2005年シーズンを行った。2007年12月、福岡・長崎の九州2球団が新規加入したのに伴い、「四国・九州アイランドリーグ」に改称。2008年シーズンから6球団で公式戦を行っていた。福岡(福岡レッドワーブラーズ)は経営難に伴い、2009年でいったんリーグ戦への参加を休止し、2010年は5球団で開催された。福岡は事務所は存続し、「準加盟球団」として新たなスポンサーを探して2011年の復帰を目指すとしていたが、2011年の復帰は見送られた。また、長崎セインツは2010年シーズン限りで撤退・解散した。一方、休止が決まったジャパン・フューチャーベースボールリーグから三重スリーアローズが加盟して2011年度より参加したことに伴い、「四国アイランドリーグplus」に改称。しかし、三重は2011年度限りでリーグを脱退し、解散。2012年度以降は四国4チームで公式戦を開催しており、福岡の復帰は実現していない。資金は4億円程である。 ベースボール・チャレンジ・リーグ. ベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)は、下記の8球団によって構成される。 2006年の創設当初の名称は北信越ベースボール・チャレンジ・リーグで、新潟・信濃・富山・石川の4球団が加入して2007年シーズンを行った。2007年11月、群馬・福井の2球団が新規加入したのに伴い、現名称に改称。2008年シーズンからは6球団(2地区制)で公式戦をおこなった。2015年シーズンから福島・武蔵の2球団が加入して8球団(2地区制)となり、さらに2017年度から栃木および滋賀の2球団が加入、10球団(2地区制)となった。2019年に茨城が加入し、11球団(2地区制)となる。2020年シーズンからは、神奈川がリーグ戦に参加し、12球団となった。2020年は2地区制で開催予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、3地区制に変更された。2021年も3地区制で開催された。2021年9月1日、西地区の4チーム(富山・石川・福井・滋賀)は2022年シーズンよりリーグに参加せず、新リーグを結成することが発表され、9月16日にはリーグの名称が日本海オセアンリーグとなることが明らかにされた。これに伴い、2022年は2地区制となる。 また、静岡県浜松市に事務所を置く「静岡県民球団」(正式名称未定)が、将来の加盟を前提にした球団設立活動をおこなう「準加盟球団」の承認を受けている。 関西独立リーグ(初代). 関西独立リーグは2009年シーズンより開始。「KANDOK」の略称を使用していた。大阪エキスポセブンティーズや三重スリーアローズが加入する予定があったが、いずれも独自にリーグを結成する方針に変更した(大阪エキスポセブンティーズはリーグ発足に至らず)。また、初年度参加の大阪ゴールドビリケーンズは2009年のシーズン終了後に脱退し、2010年シーズンから韓国人選手主体のソウル・ヘチ(旧コリア・ヘチ→韓国ヘチ)が加盟した。2011年からは大阪ホークスドリームのほか、2010年限りで休止した神戸9クルーズの選手を引き継いだ兵庫ブルーサンダーズ、チームの権利を引き継いだフォレストホームの設立による神戸サンズが参加した。一方、明石レッドソルジャーズは代表者の死去などに伴い、2011年から活動を休止した。2012年度は06BULLSと大和侍レッズの2球団が加入する一方、大阪ホークスドリームやソウル・ヘチはリーグ戦への参加を休止した。2012年度終了後、大阪ホークスドリームはリーグを脱退してクラブチームに変更、神戸サンズと大和侍レッズは活動を休止した。このため、リーグ発足当時から残っている球団は紀州レンジャーズのみとなっていた。2013年度は紀州・兵庫・06BULLSの3球団であった。シーズン終了後、紀州と他の2球団が運営方針をめぐって対立し、全球団が脱退したためリーグは事実上活動を停止した。兵庫と06BULLSは、新たにBASEBALL FIRST LEAGUE(ベースボール・ファースト・リーグ、現・さわかみ関西独立リーグ)を設立した。 ジャパン・フューチャーベースボールリーグ. ジャパン・フューチャーベースボールリーグは、下記の2球団によって構成されていた。 2010年シーズンより開始。三重スリーアローズは当初関西独立リーグに加盟する予定だったが、関西独立リーグの既存球団との間に選手の給与水準やリーグ運営方針に関して意見や理念の相違があったとされ、その為に2009年10月に関西独立リーグからの脱退を決定し、独自の独立リーグを結成する運びとなった。10月13日に新リーグの名称を「ジャパン・フューチャーリーグ」と発表。同年12月1日に「ジャパン・フューチャーベースボールリーグ」に改称した。また関西独立リーグの初代王者である大阪ゴールドビリケーンズも、三重スリーアローズと同様に、2009年10月に関西独立リーグからの脱退を決め、ジャパン・フューチャーベースボールリーグへの参加を表明した。2010年は四国・九州アイランドリーグとの交流戦も加えてリーグ戦を実施した。しかし、大阪球団の選手の不祥事によりスポンサーが撤退するなど経営問題が浮上し、2010年9月に2011年度のリーグ休止を決定した。上記の通り、三重は2011年度は四国アイランドリーグplusに参加した。 関西独立リーグ(2代). 関西独立リーグ(さわかみ関西独立リーグ)は、下記の5球団によって構成される。発足から2018年12月3日までのリーグ名は「BASEBALL FIRST LEAGUE」だった。2018年12月4日より「関西独立リーグ」にリーグ名を変更した。2020年のシーズン開始後に同年シーズン(12月末日まで)は命名権売却による「さわかみ関西独立リーグ」の名称を使用すると発表された。発表のないまま2021年1月以降もリーグウェブサイト等では「さわかみ関西独立リーグ」の名称が使用されていたが、同年4月になって命名権契約を更新したことが発表された。2022年時点では、旧リーグと同じ「KANDOK」の略称をリーグウェブサイトにて使用している。 2013年12月にリーグの運営方針をめぐって紀州と対立した兵庫ブルーサンダーズと06BULLSによって設立が表明され、2014年になって設立された姫路GoToWORLDを加えて、2014年4月に開幕した。基本的に選手が無給という点は、解散時の初代関西独立リーグと同じである。 2016年度限りで姫路が活動を休止し、一方2017年度より和歌山ファイティングバーズ(現・和歌山ウェイブス)が加入したため、2018年度まで3球団で運営された。2019年度より堺市をフランチャイズとする堺シュライクスが加入し、4球団での運営となる。からは淡路島に本拠を置く新球団淡路島ウォリアーズが加入し、5球団でリーグ戦を実施している。さらに2024年度からは姫路 Egretters(イーグレッターズ)が参加する予定である(かつての姫路GoToWorldとは別球団)。 北海道ベースボールリーグ. 北海道ベースボールリーグは、2023年は下記の3チームにより運営される。2020年よりリーグ戦を実施し、初年度は富良野と美唄の2チームで公式戦を実施した。2021年シーズンより士別・石狩の2チームが加わっている。選手はシーズン中も球団の地元で就労しながら練習・試合をおこない、当初はチームに監督を置かないなど、過去の独立リーグとは異なる方針を採用している。 2021年シーズン終了後の同年10月6日に、美唄・士別・石狩の3球団が9月30日をもってリーグを脱退し、新リーグを結成することが明らかにされた。北海道ベースボールリーグは、残る富良野に加え、すながわリバーズ、滝川市の新球団で2022年の運営をおこなうとした。滝川市の新球団は後日「滝川プレインウィンズ」に名称決定したが、本拠地を滝川市から奈井江町などに変更したことに伴い「奈井江・空知ストレーツ」に再度変更された。2022年シーズンからは監督を置いている。 離脱した3球団側は11月5日にリーグ設立記者会見を開き、リーグ名を北海道フロンティアリーグと発表した。 2023年シーズンより「旭川ビースターズ」がリーグ戦に参加している。一方、前年加入した奈井江・空知はシーズン開幕前の3月31日に、前年シーズンでのリーグ脱退と解散を発表した。 九州アジアリーグ. 九州アジアリーグはよりリーグ戦を実施し、2023年は下記の4チームにより運営される。初年度は火の国と大分の2チームであった。2021年9月より命名権による「ヤマエ久野 九州アジアリーグ」の通称を使用し、ヤマエ久野の持株会社化に伴って2022年11月に「ヤマエグループ 九州アジアリーグ」に通称を変更した。2022年に北九州(同年の正式名称は「福岡北九州フェニックス」)、2023年に宮崎がそれぞれ加入している。 北海道フロンティアリーグ. 北海道フロンティアリーグは2021年に設立され、2022年は下記の3チームにより公式戦を開催。 ベイサイドリーグ. ベイサイドリーグは、「日本海オセアンリーグ」の名称で2021年に設立され、2022年より公式戦を開催している。発足当初はベースボール・チャレンジ・リーグの西地区から離脱した4球団で構成されていた。しかし、福井ネクサスエレファンツは2022年限りで活動を休止する一方、2023年からリーグ戦に参加する前提で千葉県に新球団を設立することが2022年10月に発表された。さらに神奈川県を本拠とする「YKSホワイトキングス」の加入と滋賀GOブラックスの1年間の活動休止を発表した後、2023年は千葉・YKSによる「ベイサイドリーグ」に再編することとなった。残る富山と石川はリーグを離脱して、次節の日本海リーグを結成した。2023年は下記の2チームで公式戦を開催している。 なお日本海オセアンリーグ時代に1年間の活動休止が発表された滋賀の2024年以降の処遇については公表されていない。 日本海リーグ. 日本海リーグは、2023年に設立され、下記の2球団で公式戦を開催している。 独立リーグ非加盟チーム. 2020年度より始動する琉球ブルーオーシャンズは上記の独立リーグには加盟せず、NPBが参入枠を拡大した場合に加盟することを目標とする。試合はNPBのファームや上記の独立リーグのチームのほか、アジアのプロ野球リーグのチームとの交流戦を実施する意向を持っていた。しかし、2022年11月に、今後の活動を一時休止すると発表した。 なお、リーグには非加盟のまま、琉球は日本独立リーグ野球機構に賛助会員として加盟していたが、2022年2月に除名された。 プロ野球マスターズリーグ. NPBで現役を終えた引退選手によるリーグであるプロ野球マスターズリーグは、下記の5球団によって構成される。 2001年(2001-2002年シーズン)よりNPBで現役を終えた選手によって、主にプロ野球のオフシーズンである冬季にリーグ戦を開催していたが、2008-2009年シーズンをもってリーグ戦は休止(以後、オールスター戦のみ開催)。その後はリーグ戦再開を目指しているが、2019年現在再開には至っていない。 女子プロ野球. 女性によるプロ野球リーグとして、1950 - 1951年にかけて日本女子野球連盟が存在した。 2010年より日本女子プロ野球機構によるリーグが開始され、59年ぶりに女子プロ野球リーグが復活した。2020年までリーグ戦が開催されていたが、2021年7月21日に所属選手が0人となったため、以後は事実上の消滅状態となっている。 一方、2009年に発足した関西独立リーグにおいて、吉田えりが神戸9クルーズに入団し、男子リーグでプレーする初の女子プロ野球選手となった(同年限りで退団)。吉田は2013年に石川ミリオンスターズに移籍した。2010年に、増田里絵が明石レッドソルジャーズに入団し、2人目となった。NPB及び四国アイランドリーグplusでも女子選手のプレーが認められているが、2021年現在まで所属した女子選手は現れていない(NPBでは過去にオリックスや近鉄で女性が入団テストを受験した事例がある)。 その他. ドーピング対策. ドーピングに対しては平成19年(2007年)から機構独自の検査を行い、罰則を設けている。日本アンチ・ドーピング機構(JADA)には加盟していない。2017年度シーズンからは血液検査も実施される。 暴力団排除活動. 2003年に「暴力団等排除宣言」。12球団や球場等で「プロ野球暴力団等排除対策協議会」を結成。2016年、前年に野球賭博問題があり、改めて反社会的勢力の遮断の必要性があるとのことから、各球団に身元確認などを強化するよう要請。野球協約の改定も検討課題と報じられた。 公式戦海外遠征. 古くは日本運動協会と天勝野球団が、1923年にソウルでプロ球団同士の海外試合を行っている。 プロ野球リーグ戦開始後、初の公式戦海外遠征開催は、1940年に行われた満州リーグ戦である。満州(現在の中華人民共和国・東北部)に参加全9チームが総遠征し、7-8月にかけての夏季リーグ戦(事前の練習試合・オープン戦含む)を開催した。翌1941年も開催する予定だったが日中戦争の戦局悪化の影響で取りやめとなった。 戦後は1961年5月20日に当時アメリカ占領下の沖縄・奥武山野球場で西鉄ライオンズ対東映フライヤーズ戦で戦後初の海外遠征が開催された(1962年6月13、14日にも阪急ブレーブス対大毎オリオンズ戦が同じく沖縄遠征を実施)。 2002年5月14、15日には台湾(中華民国)の台北市・天母棒球場で福岡ダイエーホークス対オリックス・ブルーウェーブ戦が開催された。 2005年にも韓国のソウルの蚕室(チャムシル)球場と釜山の社稷(サジク)球場で千葉ロッテマリーンズ対福岡ソフトバンクホークス戦が6月28、29日に予定されていたが、韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズが蚕室球場を本拠地として使っているため、空き日がなく試合が不可能となり、代わりに仁川の文鶴(ムナク)球場で試合することに決めたが、採算が取れないと判断し、同年3月9日に開催取りやめを発表した(実際はロッテの本拠地・千葉マリンスタジアムで開催)。 このほか、2014年の開幕戦「巨人対阪神」を日本プロ野球創立80年記念としてアメリカ合衆国で開催する計画もあったが、予算その他の理由により同年度の開催を見送っている。なおアメリカ開催に際しては外務省出身だった当時のNPBコミッショナー・加藤良三が強く熱望していたといわれている。 中継番組. NPBによるプロ野球中継は対巨人戦ナイターをメインとして、黎明期からラジオやテレビ(NHK・各民放)の地上波で全国放送されてきたものの、2000年代になると視聴率低迷とBSデジタル放送・CS放送の普及により地上波放送は激減した。衛星放送の多チャンネル化で民放系BS放送局やJ SPORTS、トゥエルビなどで、特にパ・リーグ主催試合を中心に放送が増えた。2010年代後半からはDAZN、パ・リーグTVなどインターネットで配信する事例も多くなった。 報道量上位競技では地上波でもプロ野球の比率が非常に高く、視聴率の低さに対して報道量は多い。特に2007年から2009年にかけては、2位3位に対して約2倍の報道量である。近年の全国放送は開幕戦や週末デーゲーム、日本シリーズなど少数だが、関東地方以外の本拠地を持つ球団では地元局でのローカル中継は随時放送されており、視聴率も各地で高視聴率を獲得している。 ラジオでは、2007年にはラジオ大阪が国内中波ラジオ局としては初めてプロ野球中継から撤退している。また、2012年には、地上波の視聴率が低いことから、読売ジャイアンツが日本シリーズに進出したにもかかわらず、日本テレビ系列のラジオ日本が日本シリーズの放送を行わなかった。さらに、2017年にはTBSラジオが関東キー局では初となるプロ野球中継から全面撤退している。1980年代まではラジオNIKKEI(当時はラジオたんぱ)もプロ野球中継を編成していた。衛星放送局の日本BS放送(BS11)では、四国・九州アイランドリーグとベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)による一部の公式戦も中継していた(現在はNPBを含め、BS11でのプロ野球・セミプロ野球の放送はしていない)。NPBでは基本的にオープン戦、公式戦およびクライマックスシリーズの放映権は主催各球団が管理している。日本シリーズ、オールスターゲームの放映権は日本野球機構が管理する。
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アメリカ航空宇宙局
アメリカ航空宇宙局(アメリカこうくううちゅうきょく、)、或いは米国国家航空宇宙局(べいこくこっかこうくううちゅうきょく)は、アメリカ合衆国政府内における宇宙開発に関わる計画を担当する連邦機関である。1958年7月29日、国家航空宇宙法(National Aeronautics and Space Act)に基づき、先行の国家航空宇宙諮問委員会(National Advisory Committee for Aeronautics、NACA)を発展的に解消する形で設立された。正式に活動を始めたのは1958年10月1日のことであった。 NASAはアメリカの宇宙開発における国家的努力をそれ以前よりもさらに充実させ、アポロ計画における人類初の月面着陸、スカイラブ計画における長期宇宙滞在、さらに宇宙往還機スペースシャトルなどを実現させた。現在は国際宇宙ステーション(International Space Station、ISS)の運用支援、オリオン宇宙船、スペース・ローンチ・システム、商業乗員輸送などの開発と監督を行なっている。 宇宙開発に加えてNASAが帯びている重要な任務は、宇宙空間の平和目的あるいは軍事目的における長期間の探査である。人工衛星を使用した地球自体への探査、無人探査機を使用した太陽系の探査、進行中の冥王星探査機ニュー・ホライズンズ(New Horizons)のような太陽系外縁部の探査、さらにはハッブル宇宙望遠鏡などを使用した、ビッグ・バンを初めとする宇宙全体への探査などが主な役割となっている。2006年2月に発表されたNASAの到達目標は、「宇宙空間の開拓、科学的発見、そして最新鋭機の開発において、常に先駆者たれ」であった。 歴史. 宇宙開発競争. 1957年10月4日、ソビエト連邦が人類史上初の人工衛星スプートニク1号を成功させたことにより、アメリカ国民は「自国の宇宙開発技術が、いかに貧弱であるか」という事実を思い知らされた(スプートニク・ショック)。議会はアメリカの安全保障および技術の先駆性が脅威に晒されていることを警告し、連邦政府は直ちに何らかの行動をとるよう促した。 これを受け、アイゼンハワー大統領およびその側近は対応策を慎重に検討し、数ヶ月にわたって討議を重ねた結果、「非軍事目的の宇宙活動を実施するためには、陸海空軍などが独自に宇宙開発を進める状態を改め、指揮系統を一元化するべきだ」との結論に達し、国防高等研究計画局(Advanced Research Projects Agency、ARPA)も同時に、創設されることとなった。 NACA時代. 1957年末から1958年初頭にかけ、NACA(国家航空宇宙諮問委員会)はそれまで同委員会が果たしてきたような役割を非軍事の新設の機関に委譲する方法についての検討を始め、またその概念を精査するためにいくつかの委員会を立ち上げた。1958年1月12日、NACAはガイフォード・スティーヴァー(Guyford Stever)を議長とする「宇宙技術特別委員会」を設立した。スティーヴァーの委員会は、第二次世界大戦後にアメリカの市民権を獲得したヴェルナー・フォン・ブラウンをリーダーとするアメリカ陸軍弾道ミサイル局の「宇宙ロケット開発グループ」から提案された、巨大ロケット開発計画を諮問する任務も帯びていた。1958年1月14日、NACA長官ヒュー・ドライデンは「宇宙技術のための国家的調査計画」を発表し、以下のように述べた。 1958年1月31日午後10時48分(アメリカ東部標準時)、エクスプローラー1号(国際衛星識別符号 "1958α" を与えられている)が発射され、アメリカ初の人工衛星となった。3月5日、大統領科学技術諮問委員会委員長ジェームズ・キリアン(James Killian)は、アイゼンハワー大統領に「民間宇宙計画のための組織」と題する書簡を送り、日程の遅れを最小限に抑えて調査計画を拡張すべく、NACAを強化し再編した組織による文民統制型の宇宙計画を創設することを促した。同年3月末にNACAは、当時企画中だった水素とフッ素を推進剤とする100万ポンド(453トン、445万ニュートン)の推力を持つ3段式のロケットの開発計画を含む、「宇宙開発に関する提言」と題する報告書を発表した。 同年4月アイゼンハワーは議会で演説し、民間主導の宇宙開発機関を新設する意向と、アメリカ航空宇宙局設立のための予算案を述べた。NACAのそれまでの役割は、たとえば調査活動ひとつを取ってみても、その規模や進展、管理、運営などの点において変革がなされるべきであった。7月16日、議会は予算案を承認し、同時にNASA設立のための具体的な根拠となった「国家航空宇宙決議」についても若干の言及をした。そのわずか2日後、フォン・ブラウン率いる作業グループは予備報告書を提出し、その中で現状のアメリカの宇宙開発には様々な機関が割り当てられ、相互の連携が欠落し国家的労力が重複していることを痛烈に批判した。スティーヴァーの宇宙開発委員会はブラウンらのグループの批判に同意し、10月には最終的な草案が提出された。 NASAの発足. 1958年7月29日、アイゼンハワー大統領は国家航空宇宙決議に署名し、ここにアメリカ航空宇宙局(NASA)が正式に発足した。同年10月1日に実務がスタートすると、NASAは直ちに46年の歴史を持つNACAの組織(8千人の従業員、1億ドルの年間予算、三つの主要な研究施設(ラングレー航空研究所、エイムズ航空研究所、ルイス飛行推進研究所)や二つの小さな実験施設など)をそのまま吸収した。 フォン・ブラウン博士が所属していた陸軍弾道ミサイル局と、海軍調査研究所もまたNASAに併合された。NASAがソ連との宇宙開発競争に参入するにあたって重要な貢献をなしたのは、かつて第二次大戦下のドイツにおいて、フォン・ブラウンに率いられたロケット計画で開発された技術であった。そこにはロバート・ゴダード博士の初期の研究の成果も取り入れられている。空軍および国防高等研究計画局が行っていた初期段階の研究も、NASAに引き継がれた。1958年12月には、カリフォルニア工科大学が運営するジェット推進研究所もNASAの指揮下に入った。 マーキュリー計画. NASAが最初に行ったのは、冷戦下におけるソ連との熾烈な宇宙開発競争の中で実施された有人宇宙飛行計画であった。1958年に開始されたマーキュリー計画はまだほとんど手探りの状態で、そもそも人間は宇宙空間で生存できるのかという初歩的なことを調べることから開始された。また陸・海・空軍からも代表者が送り込まれ、NASAを支援した。飛行士の選抜は、すでにいる選び抜かれた軍のテスト・パイロットの中から候補を絞り込めばよいだけなので、比較的容易であった。 1961年5月5日、第一次選抜飛行士「マーキュリー・セブン」の一人であるアラン・シェパード(Alan Shepard)飛行士がマーキュリー宇宙船「フリーダム7」で15分間の弾道飛行に成功し、アメリカ初の宇宙飛行士となった。その後1962年2月20日にはジョン・グレン(John Glenn)飛行士が「フレンドシップ7」で2時間半の飛行を行い、初の地球周回飛行を成功させた。 ジェミニ計画. マーキュリー計画の終了後、月飛行に必要な種々の問題を解決し実験を行うためのジェミニ計画が始まった。飛行士を搭乗させての初飛行は1965年3月23日のジェミニ3号で、ガス・グリソムとジョン・ヤングが地球を3周した。続く9回の有人飛行で、長期間の宇宙滞在や、他の衛星とのランデブーやドッキングが可能なことが証明され、無重力が人体に及ぼす医学的データが集められた。またこれと平行して、NASAは太陽系探査のための様々な宇宙機を打ち上げた。史上初の有人飛行(ボストーク1号)と同様、月の裏側の写真を初めて撮影したのはソ連の探査機だったが、地球以外の惑星(金星)を初めて探査したのはNASAのマリナー2号だった。 アポロ計画. アポロ計画は、人間を月面に着陸させかつ安全に地球に帰還させることを目的に構想された。しかしながらアポロ1号では、地上での訓練中に火災事故が発生し、飛行士3名が犠牲になった。これにより、アポロ宇宙船は人間を搭乗させる前に数回の無人試験飛行を行うことを余儀なくされた。8号と10号は月を周回し、多数の写真を持ち帰った。1969年7月20日、アポロ11号が月面に着陸し、ニール・アームストロングとバズ・オルドリン両飛行士が人類として(また地球上に誕生した生物として)初めて、地球以外の天体の上に降り立った。13号では月に向かう途中で宇宙船の酸素タンクが爆発する事故が発生したが、3名の飛行士は無事地球に帰還することに成功した。アポロでは計6回の月面着陸が行われ、貴重な科学的データと400kg近い岩石のサンプルを持ち帰った。また土質力学、流星物質、地震学、伝熱、レーザー光線を使用した地球と月の間の正確な距離の測定、磁場、太陽風など、多数の科学的実験が行われた。 スカイラブ計画. スカイラブはアメリカが地球周回軌道上に打ち上げた初の宇宙ステーションである。100トン近く(正確には91トン)もある機体は1973年から1979年まで地球を周回し続け、1973年と1974年に3回にわたって飛行士が搭乗した。スカイラブでは当初は太陽系の他の惑星が及ぼす重力の変位の調査が行われる予定だったが、国民が宇宙開発に関心を失い予算が削減されたことにより任務が縮小された。実験の中には、微少重力が及ぼす影響を調べることや、搭載された望遠鏡で太陽の活動を観測することも含まれていた。当初はスペース・シャトルとドッキングさせ、より高い安全な軌道に移行させることが計画されていたが、シャトルが初飛行に成功する前の1979年に大気圏に再突入して消滅した。3回目の搭乗員(SL-4)が1974年2月に下船した後、太陽の活動が活発になり、その結果地球の大気が暖められて大気圏が膨張し、機体にかかる空気抵抗が増大したため再突入の時期が早まったのである。スカイラブは1979年7月11日16:37(UTC)ごろに再突入し、オーストラリア西部からインド洋にかけて破片が散らばったが、いくつかの残骸が回収された。 アポロ・ソユーズテスト計画. アポロ・ソユーズテスト計画は、1975年7月にアメリカとソビエト連邦の間で初めて行われた共同飛行計画である。アメリカにとってはこれがアポロ宇宙船の最後の飛行であり、また1981年4月にスペース・シャトルが打ち上げられるまで、有人宇宙飛行は中断された。 スペースシャトルの時代. 1970年代から80年代におけるNASAの最大の眼目は、スペースシャトルであった。シャトルは1985年までに再使用可能な4機の機体が製造され、その初号機であるコロンビア号は1981年4月12日に初めて打ち上げられた。 シャトルのニュースは、NASAにとって必ずしも明るいものばかりではなかった。打ち上げにかかるコストは当初に予想していたものよりもはるかに高くつき、発射が日常化されるにつれ国民は宇宙開発に対する関心を失っていった。そんな中で1986年に起こったチャレンジャー号爆発事故は、宇宙飛行にともなう危険性を再認識させることとなった。 そんな中で、後に国際宇宙ステーション(International Space Station、ISS)へと発展するフリーダム宇宙ステーション計画が、有人宇宙飛行の焦点として開始されたが、このような計画はボイジャー計画のような無人惑星探査に比べ、費用がかかりすぎるのではないかという議論がNASA内部にさえもあった。 その一方で、シャトルはハッブル宇宙望遠鏡(Hubble Space Telescope、HST)のような画期的な計画も成功させた。HSTはNASAとヨーロッパ宇宙機関(European Space Agency、ESA)の共同開発によって行われたもので、この成功によって他国の宇宙機関との協力という新たな道が開かれた。HSTに費やした予算は20億ドル以下で、1990年に稼働して以来、数多くの鮮明な天体写真を送り続けている。その中でも、草分けとなった「ハッブル・ディープ・フィールド(Hubble Deep Field)」は特に有名である。 1995年、シャトル・ミール計画によってロシアとの共同計画も再開された。ミールとシャトルがドッキングすれば、これはもはや完全な宇宙ステーションであると言えた。このアメリカとロシアという宇宙開発における二大巨頭の協力関係は、ISS(国際宇宙ステーション)の建設作業において21世紀まで継続されている。2003年、コロンビア号空中分解事故によりシャトルの飛行が2年間中断された間、NASAはISSの保守作業をロシアの宇宙船に頼ったことから見ても、両者の信頼関係の強さは明白である。 ISSは、主な機材の運搬はすべてシャトルに頼っている。1986年のチャレンジャー号と2003年のコロンビア号の事故で、シャトルは2機の機体と14名の飛行士を失った。1986年の事故では新たにエンデバー号が製造され喪失した機体の埋め合わせがなされたが、2003年の事故ではそのような補強はされず、新型宇宙船オリオンへの移行が決定された。 ESAや日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)など、ステーション建設に投資した他の国々はISSの完成に懸念を表明したが、これに対し宇宙運用局長のウィリアム・H・ガーステンマイヤー(William H. Gerstenmaier)は、計画には柔軟性がありシャトルは2007年には6ヶ月で3回の飛行を成功させていること、NASAは危機的な日程にも対応できる能力があることなどを説明した。 90年代を通して、NASAは議会の財政削減にともなう予算の縮小に直面してきた。第9代長官で、「より早く、より良く、より安く」の標語の生みの親であるダニエル・ゴールディン(Daniel Goldin)は、進行中の多彩な惑星探査計画(ディスカバリー計画)は、経費を削減することで継続が可能であると提案した。1999年にマーズ・クライメイト・オービター(Mars Climate Orbiter)とマーズ・ポーラー・ランダー(Mars Polar Lander)の2機が失敗したのはこの経費削減が原因であると批判を浴びたが、一方でスペース・シャトルは2006年12月までに116回の飛行に成功していた。 NASAの宇宙飛行計画. NASAは21世紀初頭までに150の有人宇宙飛行を含む多数の宇宙計画を成功させてきた。中でも著名なのは、11号による史上初の月面着陸を含む、一連のアポロ計画である。スペース・シャトルはチャレンジャー号とコロンビア号の事故により、14名の搭乗員全員の命が失われるという大きな障害に見舞われた。シャトルはロシアの宇宙ステーションミールとのドッキングを果たし、現在はロシア・日本・カナダ・欧州宇宙機関など世界の多数の国々が共同参加している国際宇宙ステーションへのドッキングが可能である。 無人飛行計画もまた多数行われており、太陽系の7つの惑星(水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星)はいずれも少なくとも一度は探査機が訪れ、1997年に打ち上げられたカッシーニ(Cassini)探査機は2004年の半ばに土星の周回軌道に乗り、土星表面やその衛星を探査している。カッシーニはNASAのジェット推進研究所と欧州宇宙機関による、20年以上におよぶ国際協力のたまものであった。またパイオニア10・11号およびボイジャー1・2号の4機は太陽系を離れた。NASAは現在の所、小惑星帯を越えて太陽系の外側へ探査機を送り込んだ唯一の宇宙機関である。いくつかの小惑星や彗星にも探査機が接近し、NEARシューメーカーは史上初の小惑星への着陸を行った。 火星探査. 火星に対しては、水や生命の存在や地質や気候についてを観察をする目的で多数の探査計画が行われてきた。火星探査機はすべてカリフォルニア州パサデナのジェット推進研究所で作成されている。 マリナー計画やバイキング計画に続き、1996年に打ち上げられた「マーズ・パスファインダー(Mars Pathfinder)」は翌年に火星に20年ぶりに着陸し、同時期に打ち上げられた「マーズ・グローバル・サーベイヤー(Mars Global Surveyor)」は上空から火星を観測した。 2001年に打ち上げられた「2001マーズ・オデッセイ(Mars Odyssey)」は2011年初頭時点でも火星上空から観測を続けていて、2003年に打ち上げられた「マーズ・エクスプロレーション・ローバー(Mars Exploration Rover、MER)」 のローバー「スピリット(Spirit)」と「オポチュニティ(Opportunity)」は、2004年の初頭以来グセフ(Gusev)クレーターやメリディアニ平原(Meridiani Planum)で当初予定していたより17倍もの長期間に渡って運用され続けている。2005年には「マーズ・リコネッサンス・オービター(Mars Reconnaissance Orbiter)」が打ち上げられ、2011年初頭時点でも火星上空から観測が続けられている。2007年には「フェニックス(Phoenix Mars Lander)」が打ち上げられ、2008年5月25日に火星の北極付近に着陸し、同年6月のロボットアームによる土壌掘削調査により土壌中から氷らしきものを発見した。 2008年5月25日、「豪腕」「改革屋」の異名を持つ科学ミッション部門の副長官アラン・ステム(Alan Stem)が辞任した。伝聞によると在任中の4月11日、アランは「2001マーズ・オデッセイ(Mars Odyssey)」 および「マーズ・エクスプロレーション・ローバー(Mars Exploration Rover、MER)」 の予算のカットを指示したが、グリフィン長官に覆されたとのことである。この削減案は、マーズ・サイエンス・ラボラトリーにかかる経費の超過を相殺するためのものであった。アランは「自分が辞任する理由はMERに関わるものではない」とし、「MERの予算をカットしようとした人間は自分ではない」とも述べた。彼は1年ほどの勤務の間に、「NASAの重要な科学実験計画を再建し、大きな変革をもたらした」と評価されたが、辞めた理由は「健全な計画や、政治的に微妙な問題を含むような基礎研究が中止されることを避けるためだった」と語っている。グリフィン長官は基礎研究のような地味な部分の予算を削りたがる傾向を持っており、それを拒否したことがアランを辞任に導いたのではないかと言われている。 NASAの科学研究. オゾン層破壊. 20世紀の中盤からNASAは地球観測のための計画を増加させ、環境調査を行ってきた。その成果の一つが1980年代に打ち上げられた「地球観測システム(Earth Observing System、EOS)」で、オゾン層の破壊のような地球的規模の環境問題を監視することが可能となった。 また初の世界的規模の測量は、1978年にゴダード宇宙研究所の科学者たちにより、ニンバス(Nimbus)7号を使用して行われた。 塩湖の蒸発およびエネルギー管理. 国家的規模の自然復旧計画の中の一つとして、NASAは南サンフランシスコ湾の61平方キロメートルにおよぶ政府による塩湖の干拓事業が、周辺の環境にどのような影響を及ぼしているのかを衛星を使用して観察している。 またNASAは、環境破壊の予防とエネルギーの削減および水資源の確保に直結する計画に、全機関をあげて取り組んでいる。これらの事実により、アメリカ政府の環境問題に関わる専門機関はNASAであることは明らかである。 地球科学事業. 地球科学事業(Earth Science Enterprise)の主目的は、自然に対する理解を深め人間が地球環境に与えた変化を知ることである。そのためNASAは、その目的を達成するために関係諸機関と長年にわたり協力してきた。2000年代末までに同事業が行ってきた計画は、以下のとおりである。 NASAは国立再生可能エネルギー研究所(National Renewable Energy Laboratory)と協力して、世界的規模の太陽資源地図を作成している。またDNAPL重非水液による水質汚染を除去するための、革新的な技術を評価する取り組みも続けている。1999年4月6日、NASAはアメリカ合衆国環境保護庁、アメリカ合衆国エネルギー省および空軍との間で、自然酸化膜除去および重非水液の酸化還元反応を矯正する二つの革新的な技術についての合意書を取り交わし、ケネディ宇宙センターにおいてその実験に協力することを約束した。国立宇宙局は軍およびアメリカ国防契約管理局と協力して「汚染予防のための共同グループ(Joint Group on Pollution Prevention)」を結成し、汚染物質を除去するための取り組みを続けている。 2003年5月8日、環境保護庁はアメリカ政府の施設として初めて、ゴダード宇宙飛行センターでごみ再処理ガスを動力源として使用することを許可した。 NASAの将来. 現在の「宇宙開発における合衆国の指針(Space policy of the United States)」の中で、NASAは「宇宙の探査および開発・獲得に、有人あるいは無人機を使用した継続的で実行可能な計画を実施し、地球・太陽系・宇宙に関する根本的な科学的知識をより広げるために民間の宇宙機を使用する」と述べている。現在は火星、土星といった深宇宙への探査計画、および地球や太陽に関する研究計画が進行中である。また水星や冥王星へと向かう探査機もすでに打ち上げられている。計画中の木星への探査計画が実現されれば、太陽系の半分以上の惑星を網羅することになる。 より発展した大型の移動探査機「マーズ・サイエンス・ラボラトリー(Mars Science Laboratory)」は現在進行中で、当初は2009年10月に発射の予定だったが、技術的な問題により若干の遅れが生じ、2011年11月に打ち上げられた。 冥王星探査機「ニュー・ホライズンズ(New Horizons)」は2006年に打ち上げられ、2015年に冥王星を観測した。水星探査機「メッセンジャー(MESSENGER)」は水星への接近を繰り返しながら減速し、2011年3月に水星の周回軌道に乗った。その他、小惑星帯の探査を目的とする「ドーン(Dawn)」や、複数の彗星探査機が飛行中である。現在準備中の計画には、火星の大気を研究するための「マーズ・スカウト計画(Mars Scout Program)」の一環としての「メイヴン(Mars Atmosphere and Volatile EvolutioN、MAVEN)」がある。 将来に向けた声明. 2002年以来、NASAは予算案や計画文書の中に以下のような声明を記している。 「我々が住むこの惑星を理解し、保護すること。宇宙を探査し、生命の起源を探ること。次の世代の探求心を鼓舞すること……それができるのはNASAだけである。」 2006年2月の初め、この声明は一部が変更され、「我々が住むこの惑星を理解し、保護すること」の部分が削除された。ある者はこの変更はNASAの文治主義を保護するためのものだと考えたが、他の者の中には、これは科学者ジェームズ・ハンセン(James Hansen)による、アメリカ政府の温暖化対策への姿勢に対する批判ではないかと疑う者もいた。NASAは公式にはそのような事は一切関係ないと否定し、宇宙探査のための新しい方針を示している。NASAのモットーは、「すべての者のための利益」である。 上院の「国土安全保障・政府問題委員会(Committee on Homeland Security and Governmental Affairs)」幹部は2006年7月31日にグリフィン長官を招致し、この変更に対する懸念を表明した。NASAはこの年、いくつかの地球探査計画を中止していた。 コンステレーション計画. 2004年1月14日、探査機スピリットが火星に着陸してから10日後、G・W・ブッシュ大統領は「宇宙開発の展望」と題する新宇宙政策「コンステレーション計画」を発表した。この計画は、現行のシャトルを2010年に退役させ、2014年までにオリオン宇宙船による有人宇宙飛行を実現させ、2020年までに月を有人探査し将来の有人火星探査に繋げるというものだった。この新宇宙政策について議会は当初は懐疑的だったが、2004年の暮れには初年度の予算を承認した。 この計画を奨励するために、NASAは2004年に「100年間の挑戦(Centennial Challenges)」と称する、非政府組織による科学賞を設立した。この中では、たとえば船外活動の時により効率よく作業できる宇宙服の手袋など、「宇宙開発の展望」計画のために有益な発明が表彰されている。 2006年12月4日、NASAは月面基地建設計画を発表した。当時の副長官スコット・ホロウィッツは2020年に建設を開始し、2024年までには飛行士が交代で滞在して、すべての資源を現地で調達できるような機能を持った基地を完成させる予定であることを表明した。この計画では、世界の様々な国の協力を求めていた。 2007年9月28日、NASA長官(当時)マイケル・グリフィン(Michael Griffin)は2037年までに人間を火星に到達させる目標を発表した。 しかし、この計画は2010年にバラク・オバマ大統領により中止された。 長官. NASA長官は同機関における最高責任者であり、また大統領の宇宙科学に関する最高顧問でもある。 施設. NASAの本部はワシントンD.C.にあり、ここからすべての支局に指示を出している。ミシシッピー州セントルイス近郊のジョン・C・ステニス宇宙センターの敷地内には、共同サービスセンターがある。共同センターの建設は2006年に起工し、2008年に竣工した。またケネディ宇宙センターではロケットの部品を輸送するための鉄道も運営されていた。各分野ごとの研究施設の一覧は、下記のとおりである。これらのうちのいくつかは、歴史的あるいは管理上の理由から複数の設備を持っている。施設に付いている人名は宇宙飛行士や宇宙開発に功績のあった関係者を記念したもの。 航空機. NASAでは科学調査や宇宙飛行士の訓練などに使用する航空機を多数運用しており、これらの機材を運用する人員も多数雇用している。機体はアメリカ軍の払い下げなどを民間機として再登録したものが多いが、新規取得やXプレーンなどの実験機の新規開発、改造も行っている。施設の多くは飛行場に隣接しているため、貨物や研究者の移送も自前で行っている。 パイロット出身の宇宙飛行士は引退後、NASAのパイロットとして雇用される者もいる。 表彰および勲章. NASAは現在、数多くのメダルや勲章を飛行士や功績のあった職員に授与している。そのうちのいくつかは、現役の軍の制服組を表彰するものである。中でも最も権威が高いのは「宇宙名誉勲章(Congressional Space Medal of Honor)」で、2009年までに28人が叙勲され(うち17人は追贈)、「自身の義務を遂行した宇宙飛行士の中で、国家と人類の福祉に対する非凡で賞賛に値する努力と貢献が特に傑出していた」と認められている。 次に権威が高いのは「NASA殊勲賞(NASA Distinguished Service Medal)」で、軍人パイロットから文官の職員にいたるまで、すべての政府関係者が受賞する資格を持っている。例年の表彰は、フロリダ州オーランド(Orlando)の国立航空宇宙協会の施設で行われている。