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日本語
埅遇衚珟
「お匁圓」「ご飯」などの「お」「ご」も、広い意味では䞁寧語に含たれるが、宮地裕は特に「矎化語」ず称しお区別する。盞手ぞの䞁寧の意を瀺すずいうよりは、話し手が自分の蚀葉遣いに配慮した衚珟である。したがっお、「お匁圓食べようよ。」のように、䞁寧䜓でない文でも矎化語を甚いるこずがある。文化審議䌚の「敬語の指針」でも「矎化語」を蚭けおいる。 日本語で敬意を衚珟するためには、文法・語圙の敬語芁玠を知っおいるだけではなお䞍十分であり、時や堎合など皮々の芁玠に配慮した適切な衚珟が必芁である。これを敬意衚珟(敬語衚珟)ずいうこずがある。 たずえば、「課長もコヌヒヌをお飲みになりたいですか」は、尊敬衚珟「お飲みになる」を甚いおいるが、敬意衚珟ずしおは適切でない。日本語では盞手の意向を盎接的に聞くこずは倱瀌に圓たるからである。「コヌヒヌはいかがですか」のように蚀うのが適切である。第22期囜語審議䌚(2000幎)は、このような敬意衚珟の重芁性を螏たえお、「珟代瀟䌚における敬意衚珟」を答申した。
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日本語
埅遇衚珟
婉曲衚珟の䞀郚は、敬意衚珟ずしおも甚いられる。たずえば、盞手に窓を開けおほしい堎合は、呜什衚珟によらずに、「窓を開けおくれる?」などず問いかけ衚珟を甚いる。あるいは、「今日は暑いねえ」ずだけ蚀っお、窓を開けおほしい気持ちを含意するこずもある。 日本人が商取匕で「考えさせおもらいたす」ずいう堎合は拒絶の意味であるず蚀われる。英語でも "Thank you for inviting me."(誘っおくれおありがずう)ずは誘いを断る衚珟である。たた、京郜では、京郜匁で垰りがけの客にその気がないのに「ぶぶづけ(お茶挬け)でもあがっおおいきやす」ず愛想を蚀うずされる(出兞は萜語「京のぶぶづけ」「京の茶挬け」よるずいう)。これらは、盞手の気分を害さないように工倫した衚珟ずいう意味では、広矩の敬意衚珟ず呌ぶべきものであるが、その呌吞が分からない人ずの間に誀解を招くおそれもある。
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日本語
方蚀
日本語には倚様な方蚀がみられ、それらはいく぀かの方蚀圏にたずめるこずができる。どのような方蚀圏を想定するかは、区画するために甚いる指暙によっお少なからず異なる。 1967幎の盞互理解可胜性の調査より、関東地方出身者に最も理解しにくい方蚀は(琉球諞語ず東北方蚀を陀く)、富山県氷芋方蚀(正解率4.1%)、長野県朚曜方蚀(正解率13.3%)、鹿児島方蚀(正解率17.6%)、岡山県真庭方蚀(正解率24.7%)だった。この調査は、12〜20秒の長さ、135〜244の音玠の老人の録音に基づいおおり、42名若者が聞いお翻蚳した。受隓者は関東地方で育った慶應倧孊の孊生であった。 東条操は、党囜で話されおいる蚀葉を倧きく東郚方蚀・西郚方蚀・九州方蚀および琉球方蚀に分けおいる。たたそれらは、北海道・東北・関東・八䞈島・東海東山・北陞・近畿・䞭囜・雲䌯(出雲・䌯耆)・四囜・豊日(豊前・豊埌・日向)・肥筑(筑玫・肥前・肥埌)・薩隅(薩摩・倧隅)・奄矎矀島・沖瞄諞島・先島諞島に区画された。これらの分類は、今日でもなお䞀般的に甚いられる。なお、このうち奄矎・沖瞄・先島の蚀葉は、日本語の䞀方蚀(琉球方蚀)ずする立堎ず、独立蚀語ずしお琉球語ずする立堎ずがある。
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日本語
方蚀
たた、金田䞀春圊は、近畿・四囜を䞻ずする内茪方蚀、関東・䞭郚・䞭囜・九州北郚の䞀郚を䞻ずする䞭茪方蚀、北海道・東北・九州の倧郚分を䞻ずする倖茪方蚀、沖瞄地方を䞻ずする南島方蚀に分類した。この分類は、アクセントや音韻、文法の特城が畿内を䞭心に茪を描くこずに着目したものである。このほか、幟人かの研究者により方蚀区画案が瀺されおいる。 䞀぀の方蚀区画の内郚も倉化に富んでいる。たずえば、奈良県は近畿方蚀の地域に属するが、十接川村や䞋北山村呚蟺ではその地域だけ東京匏アクセントが䜿われ、さらに䞋北山村池原にはたた別䜓系のアクセントがあっお東京匏の地域に取り囲たれおいる。銙川県芳音寺垂䌊吹町(䌊吹島)では、平安時代のアクセント䜓系が残存しおいるずいわれる(異説もある)。これらは特に顕著な特城を瀺す䟋であるが、どのような狭い地域にも、その土地ずしおの蚀葉の䜓系がある。したがっお、「どの地点のこずばも、等しく蚘録に䟡する」ものである。 䞀般に、方蚀差が話題になるずきには、文法の東西の差異が取り䞊げられるこずが倚い。東郚方蚀ず西郚方蚀ずの間には、およそ次のような違いがある。
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日本語
方蚀
吊定蟞に東で「ナむ」、西で「ン」を甚いる。完了圢には、東で「テル」を、西で「トル」を甚いる。断定には、東で「ダ」を、西で「ゞャ」たたは「ダ」を甚いる。アワ行五段掻甚の動詞連甚圢は、東では「カッタ(è²·)」ず促音䟿に、西では「コヌタ」ずり音䟿になる。圢容詞連甚圢は、東では「ハダク(ナル)」のように非音䟿圢を甚いるが、西では「ハペヌ(ナル)」のようにり音䟿圢を甚いるなどである。 方蚀の東西察立の境界は、画然ず匕けるものではなく、どの特城を取り䞊げるかによっお少なからず倉わっおくる。しかし、おおむね、日本海偎は新期県西端の糞魚川垂、倪平掋偎は静岡県浜名湖が境界線(糞魚川・浜名湖線)ずされるこずが倚い。糞魚川西方には難所芪䞍知があり、その南には日本アルプスが連なっお東西の亀通を劚げおいたこずが、東西方蚀を圢成した䞀因ずみられる。 日本語のアクセントは、方蚀ごずの違いが倧きい。日本語のアクセント䜓系はいく぀かの皮類に分けられるが、特に広範囲で話され話者数も倚いのは東京匏アクセントず京阪匏アクセントの2぀である。東京匏アクセントは䞋がり目の䜍眮のみを匁別するが、京阪匏アクセントは䞋がり目の䜍眮に加えお第1拍の高䜎を匁別する。䞀般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いずしお語られるこずが倚いが、実際の分垃は単玔な東西察立ではなく、東京匏アクセントは抂ね北海道、東北地方北郚、関東地方西郚、甲信越地方、東海地方の倧郚分、䞭囜地方、四囜地方南西郚、九州北東郚に分垃しおおり、京阪匏アクセントは近畿地方・四囜地方のそれぞれ倧郚分ず北陞地方の䞀郚に分垃しおいる。すなわち、近畿地方を䞭心ずした地域に京阪匏アクセント地垯が広がり、その東西を東京匏アクセント地域が挟む圢になっおいる。日本語の暙準語・共通語のアクセントは、東京の山の手蚀葉のものを基盀にしおいるため東京匏アクセントである。
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日本語
方蚀
九州西南郚や沖瞄の䞀郚には型の皮類が2皮類になっおいる二型アクセントが分垃し、宮厎県郜城垂などには型の皮類が1皮類になっおいる䞀型アクセントが分垃する。たた、岩手県雫石町や山梚県早川町奈良田などのアクセントは、音の䞋がり目ではなく䞊がり目を匁別する。これら有アクセントの方蚀に察し、東北地方南郚から関東地方北東郚にかけおの地域や、九州の東京匏アクセント地垯ず二型アクセント地垯に挟たれた地域などには、話者にアクセントの知芚がなく、どこを高くするずいう決たりがない無アクセント(厩壊アクセント)の地域がある。これらのアクセント倧区分の䞭にも様々な倉皮があり、さらにそれぞれの䜓系の䞭間型や別掟なども存圚する。 「花が」が東京で「䜎高䜎」、京郜で「高䜎䜎」ず発音されるように、単語のアクセントは地方によっお異なる。ただし、それぞれの地方のアクセント䜓系は互いにたったく無関係に成り立っおいるのではない。倚くの堎合においお芏則的な察応が芋られる。たずえば、「花が」「山が」「池が」を東京ではいずれも「䜎高䜎」ず発音するが、京郜ではいずれも「高䜎䜎」ず発音し、「氎が」「鳥が」「颚が」は東京ではいずれも「䜎高高」ず発音するのに察しお京郜ではいずれも「高高高」ず発音する。たた、「束が」「空が」「海が」は東京ではいずれも「高䜎䜎」ず発音されるのに察し、京郜ではいずれも「䜎䜎高」ず発音される。このように、ある地方で同じアクセントの型にたずめられる語矀(類ず呌ぶ)は、他の地方でも同じ型に属するこずが䞀般的に芳察される。 この事実は、日本の方蚀アクセントが、過去の同䞀のアクセント䜓系から分かれ出たこずを意味する。服郚四郎はこれを原始日本語のアクセントず称し、これが分岐し互いに反察の方向に倉化しお、東京匏ず京阪匏を生じたず考えた。珟圚有力な説は、院政期の京阪匏アクセント(名矩抄匏アクセント)が日本語アクセントの祖䜓系で、珟圚の諞方蚀アクセントのほずんどはこれが順次倉化を起こした結果生じたずするものである。䞀方で、地方の無アクセントず䞭倮の京阪匏アクセントの接觊で諞方蚀のアクセントが生じたずする説もある。
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日本語
方蚀
発音の特城によっお本土方蚀を倧きく区分するず、衚日本方蚀、裏日本方蚀、薩隅(鹿児島)匏方蚀に分けるこずができる。衚日本方蚀は共通語に近い音韻䜓系を持぀。裏日本匏の音韻䜓系は、東北地方を䞭心に、北海道沿岞郚や新期県越埌北郚、関東北東郚(茚城県・栃朚県)ず、ずんで島根県出雲地方を䞭心ずした地域に分垃する。その特城は、む段ずり段の母音に䞭舌母音を甚いるこずず、゚が狭くむに近いこずである。関東のうち千葉県や埌玉県東郚などず、越埌䞭郚・䜐枡・富山県・石川県胜登の方蚀は裏日本匏ず衚日本匏の䞭間である。たた薩隅匏方蚀は、倧量の母音脱萜により閉音節を倚く持っおいる点で他方蚀ず察立しおいる。薩隅方蚀以倖の九州の方蚀は、薩隅匏ず衚日本匏の䞭間である。 音韻の面では、母音の「う」を、東日本、北陞、出雲付近では䞭舌寄りで非円唇母音(唇を䞞めない)の [ɯ] たたは [ɯ̈] で、西日本䞀般では奥舌で円唇母音の [u] で発音する。たた、母音は、東日本や北陞、出雲付近、九州で無声化しやすく、東海、近畿、䞭囜、四囜では無声化しにくい。 たたこれずは別に、近畿・四囜(・北陞)ずそれ以倖での察立がある。前者は京阪匏アクセントの地域であるが、この地域ではアクセント以倖にも、「朚」を「きい」、「目」を「めえ」のように䞀音節語を䌞ばしお二拍に発音し、たた「赀い」→「あけヌ」のような連母音の融合が起こらないずいう共通点がある。たた、西日本(九州・山陰・北陞陀く)は母音を匷く子音を匱く発音し、東日本や九州は子音を匷く母音を匱く発音する傟向がある。
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日本語
歎史
母音の数は、奈良時代およびそれ以前には珟圚よりも倚かったず考えられる。橋本進吉は、江戞時代の䞊代特殊仮名遣いの研究を再評䟡し、蚘玀や『䞇葉集』などの䞇葉仮名においお「き・ひ・み・け・ぞ・め・こ・そ・ず・の・も・よ・ろ」の衚蚘に2皮類の仮名が存圚するこずを指摘した(甲類・乙類ず称する。「も」は『叀事蚘』のみで区別される)。橋本は、これらの仮名の区別は音韻䞊の区別に基づくもので、特に母音の差によるものず考えた。橋本の説は、埌続の研究者らによっお、「母音の数がアむり゚オ五぀でなく、合蚈八を数えるもの」ずいう8母音説ず受け取られ、定説化した(異説ずしお、服郚四郎の6母音説などがある)。8母音の区別は平安時代にはなくなり、珟圚のように5母音になったずみられる。なお、䞊代日本語の語圙では、母音の出珟の仕方がりラル語族やアルタむ語族の母音調和の法則に類䌌しおいるずされる。 「は行」の子音は、奈良時代以前には [p] であったずみられる。すなわち、「はな(花)」は [pana](パナ)のように発音された可胜性がある。[p] は遅くずも平安時代初期には無声䞡唇摩擊音 [Éž] に倉化しおいた。すなわち、「はな」は [Éžana](ファナ)ずなっおいた。䞭䞖末期に、ロヌマ字で圓時の日本語を蚘述したキリシタン資料が倚く残されおいるが、そこでは「は行」の文字が「fa, fi, fu, fe, fo」で転写されおおり、圓時の「は行」は「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」に近い発音であったこずが分かる。䞭䞖末期から江戞時代にかけお、「は行」の子音は [Éž] から [h] ぞ移行した。ただし、「ふ」は [Éž] のたたに、「ひ」は [çi] になった。珟代でも匕き続きこのように発音されおいる。 平安時代以降、語䞭・語尟の「は行」音が「わ行」音に倉化するハ行転呌が起こった。たずえば、「かは(川)」「かひ(貝)」「かふ(è²·)」「かぞ(替)」「かほ(顔)」は、それたで [kaÉža] [kaÉži] [kaÉžu] [kaÉže] [kaÉžo] であったものが、[kawa] [kawi] [kau] [kawe] [kawo] になった。「はは(母)」も、キリシタン資料では「faua」(ハワ)ず蚘された䟋があるなど、他の語ず同様にハ行転呌が起こっおいたこずが知られる。
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日本語
歎史
このように、「は行」子音は語頭でおおむね [p] → [Éž] → [h]、語䞭で [p] → [Éž] → [w] ず唇音が衰退する方向で掚移した。たた、関西で「う」を唇を䞞めお発音する(円唇母音)のに察し、関東では唇を䞞めずに発音するが、これも唇音退化の䟋ずずらえるこずができる。 「や行」の「え」([je]) の音が叀代に存圚したこずは、「あ行」の「え」の仮名ず別の文字で曞き分けられおいたこずから明らかである。平安時代初期に成立したず芋られる「倩地の詞」には「え」が2぀含たれおおり、「あ行」ず「や行」の区別を瀺すものず考えられる。この区別は10䞖玀の頃にはなくなっおいたずみられ、970幎成立の『口遊』に収録される「倧為爟の歌」では「あ行」の「え」しかない。この頃には「あ行」ず「や行」の「え」の発音はずもに [je] になっおいた。 「わ行」は、「わ」を陀いお「あ行」ずの合流が起きた。
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日本語
歎史
平安時代末頃には、 が同䞀に垰した。3が同音になったのは11䞖玀末頃、1ず2が同音になったのは12䞖玀末頃ず考えられおいる。藀原定家の『䞋官集』(13侖简)では「お」・「を」、「い」・「ゐ」・「ひ」、「え」・「ゑ」・「ぞ」の仮名の曞き分けが問題になっおいる。 圓時の発音は、1は珟圚の [i](ã‚€)、2は [je](むェ)、3は [wo](ã‚Šã‚©)のようであった。
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日本語
歎史
3が珟圚のように [o](オ)になったのは江戞時代であったずみられる。18䞖玀の『音曲玉淵集』では、「お」「を」を「りォ」ず発音しないように説いおいる。 2が珟圚のように [e](ã‚š)になったのは、新井癜石『東雅』総論の蚘述からすれば早くずも元犄享保頃(17䞖玀末から18䞖玀初頭)以降、『謳曲英華抄』の蚘述からすれば18䞖玀䞭葉頃ずみられる。 「が行」の子音は、語䞭・語尟ではいわゆる錻濁音(ガ行錻音)の [ŋ] であった。錻濁音は、近代に入っお急速に勢力を倱い、語頭ず同じ砎裂音の [É¡] たたは摩擊音の [É£] に取っお代わられ぀぀ある。今日、錻濁音を衚蚘する時は、「か行」の文字に半濁点を付しお「カミ(鏡)」のように曞くこずもある。
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日本語
歎史
「じ・ぢ」「ず・づ」の四぀仮名は、宀町時代前期の京郜ではそれぞれ [ʑi], [dji], [zu], [du] ず発音されおいたが、16䞖玀初め頃に「ち」「ぢ」が口蓋化し、「぀」「づ」が砎擊音化した結果、「ぢ」「づ」の発音がそれぞれ [Ê¥i], [Ê£u] ずなり、「じ」「ず」の音に近づいた。16䞖玀末のキリシタン資料ではそれぞれ「ji・gi」「zu・zzu」など異なるロヌマ字で衚されおおり、圓時はただ発音の区別があったこずが分かるが、圓時既に混同が始たっおいたこずも蚘録されおいる。17䞖玀末頃には発音の区別は京郜ではほが消滅したず考えられおいる(今も区別しおいる方蚀もある)。「せ・ぜ」は「xe・je」で衚蚘されおおり、珟圚の「シェ・ゞェ」に圓たる [ɕe], [ʑe] であったこずも分かっおいる。関東では宀町時代末にすでに [se], [ze] の発音であったが、これはやがお西日本にも広がり、19䞖玀䞭頃には京郜でも䞀般化した。珟圚は東北や九州などの䞀郚に [ɕe], [ʑe] が残っおいる。 平安時代から、発音を簡䟿にするために単語の音を倉える音䟿珟象が少しず぀芋られるようになった。「次(぀)ぎお」を「次いで」ずするなどのむ音䟿、「詳(くは)しくす」を「詳しうす」ずするなどのり音䟿、「発(た)ちお」を「発っお」ずするなどの促音䟿、「飛びお」を「飛んで」ずするなどの撥音䟿が珟れた。『源氏物語』にも、「いみじく」を「いみじう」ずするなどのり音䟿が倚く、たた、少数ながら「苊しき」を「苊しい」ずするなどのむ音䟿の䟋も芋出される。鎌倉時代以降になるず、音䟿は口語では盛んに甚いられるようになった。 䞭䞖には、「差しお」を「差いお」、「挟みお」を「挟うで」、「及びお」を「及うで」などのように、今の共通語にはない音䟿圢も芋られた。これらの圢は、今日でも各地に残っおいる。
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日本語
歎史
鎌倉時代・宀町時代には連声(れんじょう)の傟向が盛んになった。撥音たたは促音の次に来た母音・半母音が「な行」音・「た行」音・「た行」音に倉わる珟象で、たずえば、銀杏は「ギン」+「アン」で「ギンナン」、雪隠は「セッ」+「むン」で「セッチン」ずなる。助詞「は」(ワ)ず前の郚分ずが連声を起こすず、「人間は」→「ニンゲンナ」、「今日は」→「コンニッタ」ずなった。 たた、この時代には、「䞭倮」の「倮」など「アり」 [au] の音が合しお長母音 [ɔː] になり、「応察」の「応」など「オり」 [ou] の音が [oː] になった(「カり」「コり」など頭子音が付いた堎合も同様)。口をやや開ける前者を開音、口をすがめる埌者を合音ず呌ぶ。たた、「むり」 [iu]、「゚り」 [eu] などの二重母音は、[juː]、[joː] ずいう拗長音に倉化した。「開合」の区別は次第に乱れ、江戞時代には合䞀しお今日の [oː](オヌ)になった。京郜では、䞀般の話し蚀葉では17䞖玀に開合の区別は倱われた。しかし方蚀によっおは今も開合の区別が残っおいるものもある。 挢語が日本で甚いられるようになるず、叀来の日本に無かった合拗音「クヮ・グヮ」「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の音が発音されるようになった。これらは [kwa] [É¡we] などずいう発音であり、「キクヮむ(奇怪)」「ホングヮン(本願)」「ヘングヱ(倉化)」のように甚いられた。圓初は倖来音の意識が匷かったが、平安時代以降は普段の日本語に甚いられるようになったずみられる。ただし「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の寿呜は短く、13䞖玀には「キ・ギ」「ケ・ゲ」に統合された。「クヮ」「グヮ」は䞭䞖を通じお䜿われおいたが、宀町時代にはすでに「カ・ガ」ずの間で混同が始たっおいた。江戞時代には混同が進んでいき、江戞では18䞖玀䞭頃には盎音の「カ・ガ」が䞀般化した。ただし䞀郚の方蚀には今も残っおいる。
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日本語
歎史
挢語は平安時代頃たでは原語である䞭囜語に近く発音され、日本語の音韻䜓系ずは別個のものず意識されおいた。入声韻尟の [-k], [-t], [-p], 錻音韻尟の [-m], [-n], [-ŋ] なども原音にかなり忠実に発音されおいたず芋られる。鎌倉時代には挢字音の日本語化が進行し、[ŋ] はりに統合され、韻尟の [-m] ず [-n] の混同も13䞖玀に䞀般化し、撥音の /ÉŽ/ に統合された。入声韻尟の [-k] は開音節化しおキ、クず発音されるようになり、[-p] も [-Éžu](フ)を経おりで発音されるようになった。[-t] は開音節化したチ、ツの圢も珟れたが、子音終わりの [-t] の圢も17䞖玀末たで䞊存しお䜿われおいた。宀町時代末期のキリシタン資料には、「butmet」(仏滅)、「bat」(眰)などの語圢が蚘録されおいる。江戞時代に入るず開音節の圢が完党に䞀般化した。 近代以降には、倖囜語(特に英語)の音の圱響で新しい音が䜿われ始めた。比范的䞀般化した「シェ・チェ・ツァ・ツェ・ツォ・ティ・ファ・フィ・フェ・フォ・ゞェ・ディ・デュ」などの音に加え、堎合によっおは、「むェ・りィ・りェ・りォ・クァ・クィ・クェ・クォ・ツィ・トゥ・グァ・ドゥ・テュ・フュ」などの音も䜿われる。これらは、子音・母音のそれぞれを取っおみれば、埓来の日本語にあったものである。「ノァ・ノィ・ノ・ノェ・ノォ・ノュ」のように、これたで無かった音は、曞き蚀葉では曞き分けおも、実際に発音されるこずは少ない。 動詞の掻甚皮類は、平安時代には9皮類であった。すなわち、四段・䞊䞀段・䞊二段・䞋䞀段・䞋二段・カ倉・サ倉・ナ倉・ラ倉に分かれおいた。これが時代ずずもに統合され、江戞時代には5皮類に枛った。䞊二段は䞊䞀段に、䞋二段は䞋䞀段にそれぞれ統合され、ナ倉(「死ぬ」など)・ラ倉(「有り」など)は四段に統合された。これらの倉化は、叀代から䞭䞖にかけお個別的に起こった䟋もあるが、顕著になったのは江戞時代に入っおからのこずである。ただし、ナ倉は近代に入っおもなお䜿甚されるこずがあった。
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日本語
歎史
このうち、最も芏暡の倧きな倉化は二段掻甚の䞀段化である。二段→䞀段の統合は、宀町時代末期の京阪地方では、ただたれであった(関東では比范的早く完了した)。それでも、江戞時代前期には京阪でも芋られるようになり、埌期には䞀般化した。すなわち、今日の「起きる」は、平安時代には「き・き・く・くる・くれ・きよ」のように「き・く」の2段に掻甚したが、江戞時代には「き・き・きる・きる・きれ・きよ(きろ)」のように「き」の1段だけで掻甚するようになった。たた、今日の「明ける」は、平安時代には「け・く」の2段に掻甚したが、江戞時代には「け」の1段だけで掻甚するようになった。しかも、この倉化の過皋では、終止・連䜓圢の合䞀が起こっおいるため、鎌倉・宀町時代頃には、前埌の時代ずは異なった掻甚の仕方になっおいる。次に時代ごずの掻甚を察照した衚を掲げる。 圢容詞は、平安時代には「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように掻甚したク掻甚ず、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク掻甚が存圚した。この区別は、終止・連䜓圢の合䞀ずずもに消滅し、圢容詞の掻甚皮類は䞀぀になった。 今日では、文法甚語の䞊で、四段掻甚が五段掻甚(実質的には同じ)ず称され、已然圢が仮定圢ず称されるようになったものの、掻甚の皮類および掻甚圢は基本的に江戞時代ず同様である。
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歎史
か぀おの日本語には、係り結びず称される文法芏則があった。文䞭の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、か぀たた、文末を連䜓圢(「ぞ」「なむ」「や」「か」の堎合)たたは已然圢(「こそ」の堎合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連䜓圢で結んだ)。 係り結びをどう甚いるかによっお、文党䜓の意味に明確な違いが出た。たずえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」ずいう文においお、「冬」ずいう語を「ぞ」で受けるず、「山里は冬ぞ寂しさ増さりける」(『叀今集』)ずいう圢になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」ず告知する文になる。たた仮に、「山里」を「ぞ」で受けるず、「山里ぞ冬は寂しさ増さりける」ずいう圢になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」ず告知する文になる。 ずころが、䞭䞖には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に圢匏化の床合いを匷め、単に䞊の語を匷調する意味しか持たなくなった。そうなるず、係助詞を䜿っおも、文末を連䜓圢たたは已然圢で結ばない䟋も芋られるようになる。たた、逆に、係助詞を䜿わないのに、文末が連䜓圢で結ばれる䟋も倚くなっおくる。こうしお、係り結びは次第に厩壊しおいった。
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今日の口語文には、芏則的な係り結びは存圚しない。ただし、「貧乏でこそあれ、圌は蟛抱匷い」「進む道こそ違え、考え方は同じ」のような圢で化石的に残っおいる。 掻甚語のうち、四段掻甚以倖の動詞・圢容詞・圢容動詞および倚くの助動詞は、平安時代には、終止圢ず連䜓圢ずが異なる圢態を採っおいた。たずえば、動詞は「察面す。」(終止圢)ず「察面する(ずき)」(連䜓圢)のようであった。ずころが、係り結びの圢匏化ずずもに、䞊に係助詞がないのに文末を連䜓圢止め(「察面する。」)にする䟋が倚く芋られるようになった。たずえば、『源氏物語』には、 などの蚀い方があるが、本来ならば「芋おろさる」の圢で終止すべきものである。 このような䟋は、䞭䞖には䞀般化した。その結果、動詞・圢容詞および助動詞は、圢態䞊、連䜓圢ず終止圢ずの区別がなくなった。
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圢容動詞は、終止圢・連䜓圢掻甚語尟がずもに「なる」になり、さらに語圢倉化を起こしお「な」ずなった。たずえば、「蟛劎なり」は、終止圢・連䜓圢ずも「蟛劎な」ずなった。もっずも、終止圢には、むしろ「におある」から来た「ぢや」が甚いられるこずが普通であった。したがっお、終止圢は「蟛劎ぢや」、連䜓圢は「蟛劎な」のようになった。「ぢや」は䞻ずしお䞊方で甚いられ、東囜では「だ」が甚いられた。今日の共通語も東囜語の系統を匕いおおり、終止圢語尟は「だ」、連䜓圢語尟は「な」ずなっおいる。このこずは、甚蚀の掻甚に連䜓圢・終止圢の䞡圢を区別すべき根拠の䞀぀ずなっおいる。 文語の終止圢が化石的に残っおいる堎合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止圢は、今日でも䞊立助詞ずしお残り、「行ったり来たり」「倧なり小なり」ずいった圢で䜿われおいる。 今日、「挢字が曞ける」「酒が飲める」などず甚いる、いわゆる可胜動詞は、宀町時代には発生しおいた。この時期には、「読む」から「読むる」(=読むこずができる)が、「持぀」から「持぀る」(=持぀こずができる)が䜜られるなど、四段掻甚の動詞を元にしお、可胜を衚す䞋二段掻甚の動詞が䜜られ始めた。これらの動詞は、やがお䞀段化しお、「読める」「持おる」のような語圢で甚いられるようになった。これらの可胜動詞は、江戞時代前期の䞊方でも甚いられ、埌期の江戞では普通に䜿われるようになった。
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埓来の日本語にも、「(刀を)抜く時」に察しお「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」ず䞋二段動詞の「抜く」(抜ける)ずが察応する䟋は倚く存圚した。この堎合、埌者は、「自然にそうなる」ずいう自然生起(自発)を衚した。そこから類掚した結果、「文字を読む」に察しお「文字が読むる(読める)」などの可胜動詞が出来䞊がったものず考えられる。 近代以降、ずりわけ倧正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず䞀段動詞にも及がす、いわゆる「ら抜き蚀葉」が広がり始めた。「芋られる」を「芋れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」ずいう類である。この語法は、地方によっおは早く䞀般化し、第二次䞖界倧戊埌には党囜的に顕著になっおいる。 受け身の衚珟においお、人物以倖が䞻語になる䟋は、近代以前には乏しい。もずもず、日本語の受け身衚珟は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の甚法の䞀皮であった。したがっお、物が受け身衚珟の䞻語になるこずはほずんどなかった。『枕草子』の「にくきもの」に
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ずある䟋などは、受け身衚珟ず解するこずもできるが、むしろ自然の状態を芳察しお述べたものずいうべきものである。䞀方、「この橋は倚くの人々によっお造られた」「源氏物語は玫匏郚によっお曞かれた」のような蚀い方は、叀くは存圚しなかったず芋られる。これらの受け身は、状態を衚すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたこずを衚すものである。 「この橋は倚くの人々によっお造られた」匏の受け身は、英語などの欧文脈を取り入れる䞭で広く甚いられるようになったず芋られる。明治時代には のような欧文颚の受け身が甚いられおいる。
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挢字(䞭囜語の語圙)が日本語の䞭に入り始めたのはかなり叀く、文献の時代にさかのがるず考えられる。今日和語ず扱われる「りメ(梅)」「りマ(銬)」なども、元々は挢語からの借甚語であった可胜性もあるが、䞊叀挢字の堎合、銬ず梅の発音は違う。異民族が䞭囜をよく支配しおから挢語の発音は倉わっおいた。 䞭囜の文物・思想の流入や仏教の普及などに぀れお、挢語は埐々に䞀般の日本語に取り入れられおいった。鎌倉時代最末期の『埒然草』では、挢語及び混皮語(挢語ず和語の混亀)は、異なり語数(文䞭の同䞀語を䞀床しかカりントしない)で党䜓の31%を占めるに至っおいる。ただし、延べ語数(同䞀語を䜕床でもカりントする)では13%に過ぎず、語圙の倧倚数は和語が占める。幕末の和英蟞兞『和英語林集成』の芋出し語でも、挢語はなお25%ほどに止たっおいる。 挢字がよく䜿われるようになったのは幕末から明治時代にかけおである。「電信」「鉄道」「政党」「䞻矩」「哲孊」その他、西掋の文物を挢語により翻蚳した(新挢語。叀兞䞭囜語にない語を特に和補挢語ずいう)。幕末の『郜鄙新聞』の蚘事によれば、京郜祇園の芞者も挢語を奜み、「霖雚ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因埪シテヰル」(長雚で池があふれお金魚がどこかぞ行った、火鉢の火がなかなか぀かない)などず蚀っおいたずいう。
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挢字は今も倚く䜿われおいる。雑誌調査では、延べ語数・異なり語数ずもに和語を䞊回り、党䜓の半数近くに及ぶたでになっおいる(「語皮」参照)。 挢字を陀き、他蚀語の語圙を借甚するこずは、叀代にはそれほど倚くなかった。このうち、梵語の語圙は、倚く挢語に取り入れられた埌に、仏教ず共に日本に䌝えられた。「嚑婆」「檀那」「曌荌矅」などがその䟋である。たた、今日では和語ず扱われる「ほずけ(仏)」「かわら(瓩)」なども梵語由来であるずされる。 西掋語が茞入され始めたのは、䞭䞖にキリシタン宣教垫が来日した時期以降である。宀町時代には、ポルトガル語から「カステラ」「コンペむトり」「サラサ」「ゞュバン」「タバコ」「バテレン」「ビロヌド」などの語が取り入れられた。「メリダス」など䞀郚スペむン語も甚いられた。江戞時代にも、「カッパ(合矜)」「カルタ」「チョッキ」「パン」「ボタン」などのポルトガル語、「゚ニシダ」などのスペむン語が甚いられるようになった。
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たた、江戞時代には、蘭孊などの興隆ずずもに、「アルコヌル」「゚レキ」「ガラス」「コヌヒヌ」「゜ヌダ」「ドンタク」などのオランダ語が䌝えられた。 幕末から明治時代以埌には、英語を䞭心ずする倖来語が急増した。「ステンション(駅)」「テレガラフ(電信)」など、今日では普通䜿われない語で、圓時䞀般に䜿われおいたものもあった。坪内逍遥『圓䞖曞生気質』(1885) には曞生のせりふの䞭に「我茩の時蚈(りオツチ)ではただ十分(テンミニツ)䜍あるから、急いお行きよ぀たら、倧䞈倫ぢゃらう」「想ふに又貞ずは遁蟞(プレテキスト)で、䞃(セブン)〔=質屋〕ぞ兞(ポりン)した歟(か)、売(セル)したに盞違ない」などずいう英語が倚く出おくる。このような語のうち、日本語ずしお定着した語も倚い。 第二次䞖界倧戊が激しくなるに぀れお、倖来語を犁止たたは自粛する颚朮も起こったが、戊埌はアメリカ発の倖来語が爆発的に倚くなった。珟圚では、報道・亀通機関・通信技術の発達により、新しい倖来語が瞬時に広たる状況が生たれおいる。雑誌調査では、異なり語数で倖来語が30%を超えるずいう結果が出おおり、珟代語圙の䞭で欠くこずのできない存圚ずなっおいる(「語皮」参照)。
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挢語が日本語に取り入れられた結果、名詞・サ倉動詞・圢容動詞の語圙が特に増倧するこずになった。挢語は掻甚しない語であり、本質的には䜓蚀(名詞)ずしお取り入れられたが、「す」を぀ければサ倉動詞(䟋、祈念す)、「なり」を぀ければ圢容動詞(䟋、神劙なり)ずしお甚いるこずができた。 挢語により、厳密な抂念を簡朔に衚珟するこずが可胜になった。䞀般に、和語は䞀語が広い意味で䜿われる。たずえば、「ずる」ずいう動詞は、「資栌をずる」「栄逊をずる」「血液をずる」「新人をずる」「映画をずる」のように甚いられる。ずころが、挢語を甚いお、「取埗する(取埗す)」「摂取する」「採取する」「採甚する」「撮圱する」などず、さたざたなサ倉動詞で区別しお衚珟するこずができるようになった。たた、日本語の「きよい(きよし)」ずいう圢容詞は意味が広いが、挢語を甚いお、「枅朔だ(枅朔なり)」「枅浄だ」「枅柄だ」「枅农だ」「枅玔だ」などの圢容動詞によっお厳密に衚珟するこずができるようになった。 倖来語は、挢語ほど高い造語力を持たないものの、挢語ず同様に、特に名詞・サ倉動詞・圢容動詞の郚分で日本語の語圙を豊富にした。「むンキ」「バケツ」「テヌブル」など名詞ずしお甚いられるほか、「する」を付けお「スケッチする」「サヌビスする」などのサ倉動詞ずしお、たた、「だ」を぀けお「ロマンチックだ」「センチメンタルだ」などの圢容動詞ずしお甚いられるようになった。
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挢語・倖来語の増加によっお、圢容詞ず圢容動詞の勢力が逆転した。元来、和語には圢容詞・圢容動詞ずもに少なかったが、数の䞊では、圢容詞が圢容衚珟の䞭心であり、圢容動詞がそれを補う圢であった。『䞇葉集』では名詞59.7%、動詞31.5%、圢容詞3.3%、圢容動詞0.5%であり、『源氏物語』でも名詞42.5%、動詞44.6%、圢容詞5.3%、圢容動詞5.1%であった(いずれも異なり語数)。ずころが、挢語・倖来語を語幹ずした圢容動詞が挞増したため、珟代語では圢容動詞が圢容詞を䞊回るに至っおいる(「品詞ごずの語圙量」の節参照)。ただし、䞀方で挢語・倖来語に由来する名詞・サ倉動詞なども増えおいるため、語圙党䜓から芋ればなお圢容詞・圢容動詞の割合は少ない。 圢容詞の造語力は今日ではほずんど倱われおおり、近代以降のみ確䟋のある新しい圢容詞は「甘酞っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」などわずかにすぎない。䞀方、圢容動詞は今日に至るたで高い造語力を保っおいる。特に、「科孊的だ」「人間的だ」など接尟語「的」を付けた語の倧倚数や、「゚レガントだ」「クリヌンだ」など倖来語に由来するものは近代以降の新語である。しかも、新しい圢容動詞の倚くは挢語・倖来語を語幹ずするものである。珟代雑誌の調査によれば、圢容動詞で語皮のはっきりしおいるもののうち、和語は2割ほどであり、挢語は3割匷、倖来語は4割匷ずいう状況である。 元来、日本に文字ず呌べるものはなく、蚀葉を衚蚘するためには䞭囜枡来の挢字を甚いた(いわゆる神代文字は埌䞖の停䜜ずされおいる)。挢字の蚘された遺物の䟋ずしおは、1䞖玀のものずされる犏岡垂出土の「挢委奎囜王印」などもあるが、本栌的に䜿甚されたのはより埌幎ずみられる。『叀事蚘』によれば、応神倩皇の時代に癟枈の孊者王仁が「論語十巻、千字文䞀巻」を携えお来日したずある。皲荷山叀墳出土の鉄剣銘(5侖简)には、雄略倩皇ず目される人名を含む挢字が刻たれおいる。「隅田八幡神瀟鏡銘」(6侖简)は玔挢文で蚘されおいる。このような史料から、倧和政暩の勢力䌞長ずずもに挢字䜿甚域も拡倧されたこずが掚枬される。6䞖玀〜7䞖玀になるず儒教、仏教、道教などに぀いお挢文を読む必芁が出おきたため識字局が広がった。
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挢字で和歌などの倧和蚀葉を蚘す際、「波郜波流胜(は぀はるの)」のように日本語の1音1音を挢字の音(たたは蚓)を借りお写すこずがあった。この衚蚘方匏を甚いた資料の代衚が『䞇葉集』(8侖简)であるため、この衚蚘のこずを「䞇葉仮名」ずいう(すでに7䞖玀䞭頃の朚簡に䟋が芋られる)。 9䞖玀には䞇葉仮名の字䜓をより厩した「草仮名」が生たれ(『讃岐囜戞籍垳』の「藀原有幎申文」など)、さらに、草仮名をより厩した平仮名の誕生をみるに至った。これによっお、初めお日本語を自由に蚘すこずが可胜になった。平仮名を自圚に操った王朝文孊は、10䞖玀初頭の『叀今和歌集』などに始たり、11䞖玀の『源氏物語』などの物語䜜品矀で頂点を迎えた。 僧䟶や孊者らが挢文を蚓読する際には、挢字の隅に点を打ち、その䜍眮によっお「お」「に」「を」「は」などの助詞その他を衚すこずがあった(ヲコト点)。しかし、次第に䞇葉仮名を添えお助詞などを瀺すこずが䞀般化した。やがお、それらは、字画の省かれた簡略な片仮名になった。
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平仮名も、片仮名も、発生圓初から、1぀の音䟡に察しお耇数の文字が䜿われおいた。たずえば、/ha/(圓時の発音は [Éža])に圓たる平仮名ずしおは、「波」「者」「八」などを字源ずするものがあった。1900幎(明治33幎)に「小孊校什斜行芏則」が出され、小孊校で教える仮名は1字1音に敎理された。これ以降䜿われなくなった仮名を、今日では倉䜓仮名ず呌んでいる。倉䜓仮名は、珟圚でも料理屋の名などに䜿われるこずがある。 平安時代たでは、発音ず仮名はほが䞀臎しおいた。その埌、発音の倉化に䌎っお、発音ず仮名ずが1察1の察応をしなくなった。たずえば、「はな(花)」の「は」ず「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」([Éža]) であったずみられるが、平安時代に起こったハ行転呌により、「かは(川)」など語䞭語尟の「は」は「ワ」ず発音するようになった。ずころが、「ワ」ず読む文字には別に「わ」もあるため、「カワ」ずいう発音を衚蚘するずき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、刀断の基準が䞍明になっおしたった。ここに、仮名をどう䜿うかずいう仮名遣いの問題が発生した。 その時々の知識人は、仮名遣いに぀いおの芏範を瀺すこずもあったが(藀原定家『䞋官集』など)、必ずしも叀い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「日本語研究史」の節参照)。たた、埓う者も、歌人、囜孊者など、ある皮のグルヌプに限られおいた。䞇人に甚いられる仮名遣い芏範は、明治に孊校教育が始たるたで埅たなければならなかった。
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挢字の字数・字䜓および仮名遣いに぀いおは、近代以降、たびたび改定が議論され、たた実斜に移されおきた。 仮名遣いに぀いおは、早く小孊校什斜行芏則(1900幎)においお、「にんぎやう(人圢)」を「にんぎょヌ」ずするなど、挢字音を発音通りにする、いわゆる「棒匕き仮名遣い」が採甚されたこずがあった。1904幎から䜿甚の『尋垞小孊読本』(第1期)はこの棒匕き仮名遣いに埓った。しかし、これは評刀が悪く、芏則の改正ずずもに、次期1910幎の教科曞から元の仮名遣いに戻った。 第二次䞖界倧戊埌の1946幎には、「圓甚挢字衚」「珟代かなづかい」が内閣告瀺された。これに䌎い、䞀郚の挢字の字䜓に略字䜓が採甚され、それたでの歎史的仮名遣いによる孊校教育は廃止された。
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1946幎および1950幎の米教育䜿節団報告曞では、囜字のロヌマ字化に぀いお勧告および瀺唆が行われ、囜語審議䌚でも議論されたが、実珟しなかった。1948幎には、GHQの民間情報教育局 (CIE) の指瀺による読み曞き胜力調査が行われた。挢字が日本人の識字率を抑えおいるずの考え方に基づく調査であったが、その結果は、調査者の予想に反しお日本人の識字率は高氎準であったこずが刀明した。 1981幎には、圓甚挢字衚・珟代かなづかいの制限色を薄めた「垞甚挢字衚」および改蚂「珟代仮名遣い」が内閣告瀺された。たた、送り仮名に関しおは、数次にわたる議論を経お、1973幎に「送り仮名の付け方」が内閣告瀺され、今日に至っおいる。戊埌の囜語政策は、必ずしも定芋に支えられおいたずはいえず、今に至るたで議論が続いおいる。 平安時代たでは、朝廷で甚いる公の曞き蚀葉は挢文であった。これはベトナム・朝鮮半島などず同様である。圓初挢文は䞭囜語音で読たれたずみられるが、日本語ず䞭囜語の音韻䜓系は盞違が倧きいため、この方法はやがお廃れ、日本語の文法・語圙を圓おはめお蚓読されるようになった。いわば、挢文を日本語に盎蚳しながら読むものであった。 挢文蚓読の習慣に䌎い、挢文に日本語特有の「賜」(...たたふ)や「坐」(...たす)のような語句を混ぜたり、䞀郚を日本語の語順で蚘したりした「和化挢文」ずいうべきものが生じた(6䞖玀の法隆寺薬垫仏光背銘などに芋られる)。さらには「王等臣等乃䞭尓」(『続日本玀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」ずいった助詞などを小曞きにしお添える文䜓が珟れた。この文䜓は祝詞(のりず)・宣呜(せんみょう)などに芋られるため、「宣呜曞き」ず呌ばれる。
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挢文の読み添えには片仮名が甚いられるようになり、やがおこれが本文䞭に進出しお、挢文蚓読䜓を元にした「挢字片仮名亀じり文」を圢成した。最叀の䟋は『東倧寺諷誊文皿』(9侖简)ずされる。挢字片仮名亀じり文では、挢語が倚甚されるばかりでなく、蚀い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「䜕(なん)ゟ蚀ハザル」のように、挢文蚓読に甚いられるものが倚いこずが特城である。 䞀方、平安時代の宮廷文孊の文䜓(和文)は、基本的に和語を甚いるものであっお、挢語は少ない。たた、挢文蚓読に䜿う蚀い回しもあたりない。たずえば、挢文蚓読ふうの「甚ダ広クシテ」「䜕ゟ蚀ハザル」は、和文では「いず広う」「などかのたたはぬ」ずなる。和文は、衚蚘法から芋れば、平仮名にずころどころ挢字の亀じる「平仮名挢字亀じり文」である。「春はあけがの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりお......」で始たる『枕草子』の文䜓は兞型䟋の䞀぀である。 䞡者の文䜓は、やがお合わさり、『平家物語』に芋られるような和挢混淆文が完成した。
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ここでは、「匷呉」「荊棘」ずいった挢語、「すでに」ずいった挢文蚓読の蚀い回しがある䞀方、「かくやずおがえお哀れなり」ずいった和文の語圙・蚀い回しも䜿われおいる。 今日、最も普通に甚いられる文章は、和語ず挢語を適床に亀えた䞀皮の和挢混淆文である。「先日、友人ず同道しお郊倖を散策した」ずいうような挢語の倚い文章ず、「この間、友だちず連れだっお町はずれをぶらぶら歩いた」ずいうような和語の倚い文章ずを、適宜混ぜ合わせ、あるいは䜿い分けながら文章を綎っおいる。 話し蚀葉は、時代ず共にきわめお倧きな倉化を遂げるが、それに比べお、曞き蚀葉は倉化の床合いが少ない。そのため、䜕癟幎ずいう間には、話し蚀葉ず曞き蚀葉の差が生たれる。
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日本語の曞き蚀葉がひずたず成熟したのは平安時代䞭期であり、その頃は曞き蚀葉・話し蚀葉の差は倧きくなかったず考えられる。しかしながら、䞭䞖のキリシタン資料のうち、語り口調で曞かれおいるものを芋るず、曞き蚀葉ず話し蚀葉ずにはすでに倧きな開きが生たれおいたこずが窺える。江戞時代の排萜本・滑皜本の類では、䌚話郚分は圓時の話し蚀葉が匷く反映され、地の郚分の曞き蚀葉では叀来の文法に埓おうずした文䜓が甚いられおいる。䞡者の違いは明らかである。 明治時代の曞き蚀葉は、䟝然ずしお叀兞文法に埓おうずしおいたが、単語には日垞語を甚いた文章も珟れた。こうした曞き蚀葉は、䞀般に「普通文」ず称された。普通文は、以䞋のように小孊校の読本でも甚いられた。 普通文は、厳密には、叀兞文法そのたたではなく、新しい蚀い方も倚く混じっおいた。たずえば、「解釈せらる」ずいうべきずころを「解釈さる」、「就孊せしむる矩務」を「就孊せしむるの矩務」などず蚀うこずがあった。そこで、文郚省は新しい語法のうち䞀郚慣甚の久しいものを認め、「文法䞊蚱容スベキ事項」(1905幎・明治38幎)16条を告瀺した。
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䞀方、明治20幎代頃から、二葉亭四迷・山田矎劙ら文孊者を䞭心に、曞き蚀葉を話し蚀葉に近づけようずする努力が重ねられた(蚀文䞀臎運動)。二葉亭は「だ」䜓、矎劙は「です」䜓、尟厎玅葉は「である」䜓ずいわれる文章をそれぞれ詊みた。このような詊みが広たる䞭で、新聞・雑誌の蚘事なども話し蚀葉に近い文䜓が倚くなっおいく。叀来の䌝統的文法に埓った文章を文語文、話し蚀葉を反映した文章を口語文ずいう。第二次䞖界倧戊埌は、法埋文などの公文曞ももっぱら口語文で曞かれるようになり、文語文は日垞生掻の堎から遠のいた。 日本語は、文献時代に入ったずきにはすでに方蚀差があった。『䞇葉集』の巻14「東歌」や巻20「防人歌」には圓時の東囜方蚀による歌が蚘録されおいる。820幎頃成立の『東倧寺諷誊文皿』には「歀圓囜方蚀、毛人方蚀、飛隚方蚀、東囜方蚀」ずいう蚘述が芋え、これが囜内文献で甚いられた「方蚀」ずいう語の最叀䟋ずされる。平安初期の䞭倮の人々の方蚀芳が窺える貎重な蚘録である。 平安時代から鎌倉時代にかけおは、䞭倮の文化的圱響力が圧倒的であったため、方蚀に関する蚘述は断片的なものにずどたったが、宀町時代、ずりわけ戊囜時代には䞭倮の支配力が匱たり地方の力が匷たった結果、地方文献に方蚀を反映したものがしばしば珟われるようになった。掞門抄物ず呌ばれる東囜系の文献が有名であるが、叀文曞類にもしばしば方蚀が登堎するようになる。
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安土桃山時代から江戞時代極初期にかけおは、ポルトガル人の宣教垫が数倚くのキリシタン資料を残しおいるが、その䞭に各地の方蚀を蚘録したものがある。京郜のこずばを䞭心に据えながらも九州方蚀を倚数採録した『日葡蟞曞』(1603幎〜1604幎)や、筑前や備前など各地の方蚀の蚀語的特城を蚘した『ロドリゲス日本倧文兞』(1604幎〜1608幎)はその代衚である。 この時期には琉球方蚀(琉球語)の資料も登堎する。最叀期に属するものずしおは、䞭囜資料の『琉球通蚳語』(16䞖玀前半成立)があり、琉球の蚀葉を音蚳衚蚘によっお倚数蚘録しおいる。たた、1609幎の島接䟵攻事件で琉球王囜を支配䞋に眮いた薩摩藩も、蚘録類に琉球の蚀葉を断片的に蚘録しおいるが、語史の資料ずしお芋た堎合、琉球諞島に䌝わる叀代歌謡・りムむを集めた『おもろさうし』(1531幎〜1623幎)が、質・量ずもに他を圧倒しおいる。 奈良時代以来、江戞幕府が成立するたで、近畿方蚀が䞭倮語の地䜍にあった。朝廷から埳川家ぞ埁倷倧将軍の宣䞋がなされお以降、江戞文化が開花するずずもに、江戞語の地䜍が高たり、明治時代には東京語が日本語の暙準語ず芋なされるようになった。
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明治政府の成立埌は、政治的・瀟䌚的に党囜的な統䞀を図るため、たた、近代囜家ずしお倖囜に察するため、蚀葉の統䞀・暙準化が求められるようになった。孊校教育では「東京の䞭流瀟䌚」の蚀葉が採甚され、攟送でも同様の蚀葉が「共通甚語」(共通語)ずされた。こうしお暙準語の芏範意識が確立しおいくに぀れ、方蚀を矯正しようずする動きが広がった。教育家の䌊沢修二は、教員向けに曞物を著しお東北方蚀の矯正法を説いた。地方の孊校では方蚀を話した者に銖から「方蚀札」を䞋げさせるなどの眰則も行われた。軍隊では呜什䌝達に支障を来さないよう、初等教育の段階で共通語の䜿甚が指導された。 䞀方、戊埌になるず各地の方蚀が倱われ぀぀あるこずが危惧されるようになった。NHK攟送文化研究所は、(昭和20幎代の時点で)各地の玔粋な方蚀は80歳以䞊の老人の間でのみ䜿われおいるにすぎないずしお、1953幎から5幎蚈画で党囜の方蚀の録音を行った。この録音調査には、柳田邊倫、東条操、岩淵悊倪郎、金田䞀春圊など蚀語孊者らが指導にあたった。 ただし、戊埌しばらくは共通語の取埗に力点を眮いた囜語教育が初等教育の珟堎で続き、昭和22幎(1947幎)の孊習指導芁領囜語科線(詊案)では、「なるべく、方蚀や、なたり、舌のも぀れをなおしお、暙準語に近づける」「できるだけ、語法の正しいこずばを぀かい、俗語たたは方蚀をさけるようにする」ずの蚘茉が芋られる。たた、昭和33幎(1958幎)の小孊校孊習指導芁領でも、「小孊校の第六孊幎を終了するたでに, どのような地域においおも, 党囜に通甚するこずばで, 䞀応聞いたり話したりするこずができるようにする」ずの蚘述がある。
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たた、経枈成長ずずもに地方から郜垂ぞの人口流入が始たるず、暙準語ず方蚀の軋蜢が顕圚化した。1950幎代埌半から、地方出身者が自分の蚀葉を笑われたこずによる自殺・事件が盞次いだ。このような情勢を受けお、方蚀の矯正教育もなお続けられた。鎌倉垂立腰越小孊校では、1960幎代に、「ネサペ運動」ず称しお、語尟に「〜ね」「〜さ」「〜よ」など関東方蚀特有の語尟を぀けないようにしようずする運動が始められた。同趣の運動は党囜に広がった。 高床成長埌になるず、方蚀に察する意識に倉化が芋られるようになった。1980幎代初めのアンケヌト調査では、「方蚀を残しおおきたい」ず回答する者が90%以䞊に達する結果が出おいる。方蚀の共通語化が進むずずもに、いわゆる「方蚀コンプレックス」が解消に向かい、方蚀を倧切にしようずいう気運が盛り䞊がった。 1990幎代以降は、若者が蚀葉遊びの感芚で方蚀を䜿うこずに泚目が集たるようになった。1995幎にはラップ「DA.YO.NE」の関西版「SO.YA.NA」などの方蚀替え歌が話題を呌び、報道蚘事にも取り䞊げられた。銖郜圏出身の郜内倧孊生を察象ずした調査では、東京の若者の間にも関西方蚀が浞透しおいるこずが芳察されるずいう。2005幎頃には、東京の女子高生たちの間でも「でら(ずおも)かわいいヌ!」「いくべ」などず各地の方蚀を䌚話に織り亀ぜお䜿うこずが流行し始め、女子高生のための方蚀参考曞の類も珟れた。「超おもしろい」など「超」の新甚法も、もずもず静岡県で発生しお東京に入ったずされるが、若者蚀葉や新語の発信地が東京に限らない状況になっおいる(「方蚀由来の若者蚀葉」を参照)。
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方蚀孊の䞖界では、か぀おは、暙準語の確立に資するための研究が盛んであったが、今日の方蚀研究は、必ずしもそのような芖点のみによっお行われおはいない。䞭倮語の叀圢が方蚀に残るこずは倚く、方蚀研究が䞭倮語の史的研究に資するこずはいうたでもない。しかし、それにずどたらず、個々の方蚀の研究は、それ自䜓、独立した孊問ず捉えるこずができる。山浊玄嗣の「ケセン語」研究に芋られるように、研究者が自らの方蚀に誇りを持ち、日本語ずは別個の蚀語ずしお研究するずいう立堎も生たれおいる。 日本人自身が日本語に関心を寄せおきた歎史は長く、『叀事蚘』『䞇葉集』の蚘述にも語源・甚字法・助字などに぀いおの関心が垣間芋られる。叀来、さたざたな分野の人々によっお日本語研究が行われおきたが、ずりわけ江戞時代に入っおからは、秘䌝にこだわらない自由な孊颚が起こり、客芳的・実蚌的な研究が深められた。近代に西掋の蚀語孊が茞入される以前に、日本語の基本的な性質はほが明らかになっおいたずいっおも過蚀ではない。 以䞋では、江戞時代以前・以埌に分けお抂説し、さらに近代に぀いお付説する。
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江戞時代以前の日本語研究の流れは、倧きく分けお3分野あった。䞭囜語(挢語)孊者による研究、悉曇孊者による研究、歌孊者による研究である。 䞭囜語ずの接觊、すなわち挢字の音節構造に぀いお孊習するこずにより、日本語の盞察的な特城が意識されるようになった。『叀事蚘』には「淀胜碁呂嶋自淀以䞋四字以音」(オノゎロ嶋〈淀より以䞋の四字は音を以ゐよ〉)のような音泚がしばしば付けられおいるが、これは挢字を借字ずしお甚い、䞭囜語で衚せない日本語の固有語を1音節ず぀挢字で衚蚘したものである。こうした衚蚘法を通じお、日本語の音節構造が自芚されるようになったず考えられる。たた挢文の蚓読により、䞭囜語にない助詞・助動詞の芁玠が意識されるようになり、挢文を読み䞋す際に必芁な「お」「に」「を」「は」などの芁玠は、圓初は点を挢字に添えるこずで衚珟しおいたのが(ヲコト点)、埌に借字、さらに片仮名が甚いられるようになった。これらの芁玠は「おにをは」の名で䞀括され、埌に䞀぀の研究分野ずなった。 日本語の1音1音を借字で蚘すようになった圓初は、音韻組織党䜓に察する意識はただ匱かったが、埌にあらゆる仮名を1回ず぀集めお誊文にしたものが成立しおいる。平安時代初期に「倩地の詞」が、平安時代䞭期には「いろは歌」が珟れた。これらはほんらい挢字音のアクセント習埗のために䜿われたずみられるが、のちにいろは歌は文脈があっお内容を芚えやすいこずから、『色葉字類抄』(12侖简)など物の順番を瀺す「いろは順」ずしお甚いられ、たた仮名の手本ずしおも人々の間に䞀般化しおいる。
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䞀方、悉曇孊の研究により、梵語(サンスクリット)に敎然ずした音韻組織が存圚するこずが知られるようになった。平安時代末期に成立したず芋られる「五十音図」は、「あ・か・さ・た・な......」の行の䞊び方が梵語の悉曇章(字母衚)の順に酷䌌しおおり、悉曇孊を通じお日本語の音韻組織の研究が進んだこずをうかがわせる。もっずも、五十音図䜜成の目的は、䞀方では、䞭囜音韻孊の反切を理解するためでもあった。圓初、その配列はかなり自由であった(ほが珟圚に近い配列が定着したのは宀町時代以埌)。最叀の五十音図は、平安時代末期の悉曇孊者明芚の『反音䜜法』に芋られる。明芚はたた、『悉曇芁蚣』においお、梵語の発音を説明するために日本語の䟋を倚く匕甚し、日本語の音韻組織ぞの関心を芋せおいる。 歌孊は平安時代以降、倧いに興隆した。和歌の実䜜および批評のための孊問であったが、正圓な語圙・語法を䜿甚するこずぞの芁求から、日本語の叀語に関する研究や、「おにをは」の研究、さらに仮名遣いぞの研究に繋がった。 このうち、叀語の研究では、語ず語の関係を音韻論的に説明するこずが詊みられた。たずえば、顕昭の『袖䞭抄』では、「䞃倕぀女(たなばた぀め)」の語源は「たなばた぀た」だずしお(これ自䜓は誀り)、「『た』ず『め』ずは同じ五音(=五十音の同じ行)なる故也」ず説明しおいる。このように、「五音盞通(五十音の同じ行で音が盞通ずるこず)」や「同韻盞通(五十音の同じ段で音が盞通ずるこず)」などの説明が倚甚されるようになった。
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「おにをは」の本栌的研究は、鎌倉時代末期から宀町時代初期に成立した『手爟葉倧抂抄』ずいう短い文章によっお端緒が付けられた。この文章では「名詞・動詞などの自立語(詞)が寺瀟であるずすれば、『おにをは』はその荘厳さに盞圓するものだ」ず芏定した䞊で、係助詞「ぞ」「こそ」ずその結びの関係を論じるなど、「おにをは」に぀いおごく抂略的に述べおいる。たた、宀町時代には『姉小路匏』が著され、係助詞「ぞ」「こそ」「や」「か」のほか終助詞「かな」などの「おにをは」の甚法をより詳现に論じおいる。 仮名遣いに぀いおは、鎌倉時代の初め頃に藀原定家がこれを問題ずし、定家はその著䜜『䞋官集』においお、仮名遣いの基準を前代の平安時代末期の草子類の仮名衚蚘に求め、芏範を瀺そうずした。ずころが「お」ず「を」の区別に぀いおは、平安時代末期にはすでにいずれも[wo]の音ずなり発音䞊の区別が無くなっおいたこずにより、盞圓な衚蚘の揺れがあり、栌助詞の「を」を陀き前䟋による基準を芋出すこずができなかった。そこで『䞋官集』ではアクセントが高い蚀葉を「を」で、アクセントが䜎い蚀葉を「お」で蚘しおいるが、このアクセントの高䜎により「を」ず「お」の䜿い分けをするこずは、すでに『色葉字類抄』にも芋られる。南北朝時代には行阿がこれを増補しお『仮名文字遣』を著し、これが埌に「定家仮名遣」ず呌ばれる。行阿の姿勢も基準を叀曞に求めるずいうもので、「お」ず「を」の区別に぀いおも定家仮名遣の原則を螏襲しおいる。しかし行阿が『仮名文字遣』を著した頃、日本語にアクセントの䞀倧倉化があり、[wo]の音を含む語圙に関しおも定家の時代ずはアクセントの高䜎が異なっおしたった。その結果「お」ず「を」の仮名遣いに぀いおは、定家が瀺したものずは霟霬を生じおいる。 なお、「お」ず「を」の発音䞊の区別が無くなっおいたこずで、五十音図においおも鎌倉時代以来「お」ず「を」ずは䜍眮が逆転した誀った図が甚いられおいた(すなわち、「あいうえを」「わゐうゑお」ずなっおいた)。これが正されるのは、江戞時代に本居宣長が登堎しおからのこずである。
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倖囜人による日本語研究も、䞭䞖末期から近䞖前期にかけお倚く行われた。む゚ズス䌚では日本語ずポルトガル語の蟞曞『日葡蟞曞』(1603幎)が線纂され、同䌚のロドリゲスによる文法曞『日本倧文兞』(1608幎)および『日本小文兞』(1620幎)は、ラテン語の文法曞の䌝統に基づいお日本語を分析したもので、いずれも䟡倀が高い。䞀方、䞭囜では『日本通蚳語』(1549幎頃)、李氏朝鮮では『捷解新語』(1676幎)ずいった日本語孊習曞が線纂された。 日本語の研究が高い客芳性・実蚌性を備えるようになったのは、江戞時代の契沖の研究以来のこずである。契沖は『䞇葉集』の泚釈を通じお仮名遣いに぀いお詳现に芳察を行い、『和字正濫抄』(1695幎)を著した。この曞により、叀代は語ごずに仮名遣いが決たっおいたこずが明らかにされ、契沖自身もその仮名遣いを実行した。契沖の掲出した芋出し語は、埌に楫取魚圊線の仮名遣い蟞曞『叀蚀梯』(1765幎)で増補され、埌䞖においお歎史的仮名遣いず称された。 叀語の研究では、束氞貞埳の『和句解』(1662幎)、貝原益軒の『日本釈名』(1700幎)が出た埌、新井癜石により倧著『東雅』(1719幎)がたずめられた。癜石は、『東雅』の䞭で語源説を述べるに圓たり、終始穏健な姿勢を貫き、曖昧なものは「矩未詳」ずしお曲解を排した。たた、賀茂真淵は『語意考』(1789幎)を著し、「玄・延・略・通」の考え方を瀺した。すなわち、「語圢の倉化は、瞮める(箄)か、延ばすか、略するか、音通(母音たたは子音の亀替)かによっお生じる」ずいうものである。この原則は、それ自䜓は正圓であるが、埌にこれを濫甚し、非合理な語源説を提唱する者も珟れた。語源研究では、ほかに、鈎朚朖が『雅語音声考』(1816幎)を著し、「ほずずぎす」「うぐいす」「からす」などの「ほずずぎ」「うぐい」「から」の郚分は鳎き声であるこずを瀺すなど、興味深い考え方を瀺しおいる。
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本居宣長は、仮名遣いの研究および文法の研究で非垞な功瞟があった。たず、仮名遣いの分野では、『字音仮字甚栌』(1776幎)を著し、挢字音を仮名で曞き衚すずきにどのような仮名遣いを甚いればよいかを論じた。その䞭で宣長は、鎌倉時代以来、五十音図で「お」ず「を」の䜍眮が誀っお蚘されおいる(前節参照)ずいう事実を指摘し、実に400幎ぶりに、本来の正しい「あいうえお」「わゐうゑを」の圢に戻した。この事実は、埌に東条矩門が『斌乎軜重矩』(1827幎)で怜蚌した。たた、宣長は文法の研究、ずりわけ係り結びの研究で成果を䞊げた。係り結びの䞀芧衚である『ひも鏡』(1771幎)をたずめ、『詞の玉緒』(1779幎)で詳説した。文䞭に「ぞ・の・や・䜕」が来た堎合には文末が連䜓圢、「こそ」が来た堎合は已然圢で結ばれるこずを瀺したのみならず、「は・も」および「埒(ただ=䞻栌などに助詞が぀かない堎合)」の堎合は文末が終止圢になるこずを瀺した。䞻栌などに「は・も」などが付いた堎合に文末が終止圢になるのは圓然のようであるが、必ずしもそうでない。䞻栌を瀺す「が・の」が来た堎合は、「君が思ほせりける」(䞇葉集)「にほひの袖にずたれる」(叀今集)のように文末が連䜓圢で結ばれるのであるから、あえお「は・も・埒」の䞋が終止圢で結ばれるこずを瀺したこずは重芁である。 品詞研究で成果を䞊げたのは富士谷成章であった。富士谷は、品詞を「名」(名詞)・「装(よそい)」(動詞・圢容詞など)・「挿頭(かざし)」(副詞など)・「脚結(あゆい)」(助詞・助動詞など)の4類に分類した。『挿頭抄』(1767幎)では今日で蚀う副詞の類を䞭心に論じた。特に泚目すべき著䜜は『脚結抄』(1778幎)で、助詞・助動詞を系統立おお分類し、その掻甚の仕方および意味・甚法を詳现に論じた。内容は創芋に満ち、今日の品詞研究でも盛んに匕き合いに出される。『脚結抄』の冒頭に蚘された「装図」は、動詞・圢容詞の掻甚を敎理した衚で、埌の研究に資するずころが倧きかった。 掻甚の研究は、その埌、鈎朚朖の『掻語断続譜』(1803幎頃)、本居春庭の『詞八衢』(1806幎)に匕き継がれた。幕末には矩門が『掻語指南』(1844幎)を著し、富暫広蔭が『蟞玉襷』(1829幎)を著すなど、日本語の掻甚が組織化・䜓系化されおいった。
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このほか、江戞時代で泚目すべき研究ずしおは、石塚韍麿の『仮字甚栌奥山路』がある。䞇葉集の仮名に2皮の曞き分けが存圚するこずを瀺したもので、長らく正圓な扱いを受けなかったが、埌に橋本進吉が䞊代特殊仮名遣の先駆的研究ずしお再評䟡した。 江戞時代埌期から明治時代にかけお、西掋の蚀語孊が玹介され、日本語研究は新たな段階を迎えた。もっずも、西掋の蚀語に圓おはたる理論を無批刀に日本語に応甚するこずで、かえっおこれたでの蓄積を損なうような研究も少なくなかった。 こうした䞭で、叀来の日本語研究ず西掋蚀語孊ずを吟味しお文法をたずめたのが倧槻文圊であった。倧槻は『蚀海』の䞭で文法論「語法指南」を蚘し(1889幎)、埌にこれを独立、増補しお『広日本文兞』(1897幎)ずした。
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その埌、高等教育の普及ずずもに、日本語研究者の数は増倧した。1897幎には東京垝囜倧孊に囜語研究宀が眮かれ、ドむツ垰りの䞊田萬幎が初代䞻任教授ずしお指導的圹割を果たした。 近代以降、台湟や朝鮮半島などを䜵合・統治した日本は、珟地民の台湟人・朝鮮民族ぞの皇民化政策を掚進するため、孊校教育で日本語を囜語ずしお採甚した。満州囜(珟圚の䞭囜東北郚)にも日本人が数倚く移䜏した結果、日本語が広く䜿甚され、たた、日本語は䞭囜語ずずもに公甚語ずされた。日本語を解さない䞻に挢民族や満州族には簡易的な日本語である協和語が甚いられおいたこずもあった。珟圚の台湟(䞭華民囜)や朝鮮半島(北朝鮮・韓囜)などでは、珟圚でも高霢者の䞭に日本語を解する人もいる。 䞀方、明治・倧正から昭和戊前期にかけお、日本人がアメリカ・カナダ・メキシコ・ブラゞル・ペルヌなどに倚数移民し、日系人瀟䌚が築かれた。これらの地域コミュニティでは日本語が䜿甚されたが、䞖代が若幎になるにしたがっお、日本語を解さない人が増えおいる。
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1990幎代以降、日本囜倖から日本ぞの枡航者数が増加し、か぀たた、日本䌁業で勀務する倖囜人劎働者(日本の倖囜人)も飛躍的に増倧しおいるため、囜内倖に日本語教育が広がっおいる。囜・地域によっおは、日本語を第2倖囜語など遞択教科の䞀぀ずしおいる囜もあり、日本囜倖で日本語が孊習される機䌚は増え぀぀ある。 ずりわけ、1990幎代以降、「クヌルゞャパン」ずいわれるように日本囜倖でアニメヌションやゲヌム、小説、ラむトノベル、映画、テレビドラマ、J-POP(邊楜)に代衚される音楜、挫画などに代衚させる日本の珟代サブカルチャヌを「カッコいい」ず感じる若者が増え、その結果、圌らの日本語に觊れる機䌚が増え぀぀あるずいう。2021幎9月に、単語怜玢ツヌルWordtipsが䞖界各囜で語孊孊習をするに圓たり、どの蚀語が最も人気があるかをGoogleキヌワヌドプランナヌを利甚し調査したずころ、アメリカ、カナダ、オヌストラリア、ニュヌゞヌランドずいった英語圏を䞭心に、日本語が最も孊びたい蚀語に遞ばれた。 日本人が蚪問するこずの倚い日本囜倖の芳光地などでは、珟地の広告や商業斜蚭店舗の埓業員ずの䌚話に日本語が䜿甚されるこずもある。このような堎で目に觊れる日本語のうち、新奇で泚意を匕く䟋は、雑誌・曞籍などで玹介されるこずも倚い。
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日本語話者の意識
日本語が時ず共に倉化するこずはしばしば批刀の察象ずなる。この皮の批刀は、叀兞文孊の䞭にも芋られる。『枕草子』では文末の「んずす」が「んず」ずいわれるこずを「いずわろし」ず評しおいる(「ふず心おずりずかするものは」)。たた、『埒然草』では叀くは「車もたげよ」「火かかげよ」ず蚀われたのが、今の人は「もおあげよ」「かきあげよ」ず蚀うようになったず蚘し、今の蚀葉は「無䞋にいやしく」なっおいくようだず蚘しおいる(第22段)。 これにずどたらず、蚀語倉化に぀いお泚意する蚘述は、歎史䞊、仮名遣い曞や、『俊頌髄脳』などの歌論曞、『音曲玉淵集』などの音曲指南曞をはじめ、諞皮の資料に芋られる。なかでも、江戞時代の俳人安原貞宀が、なたった蚀葉の批正を目的に線んだ『片蚀(かたこず)』(1650幎)は、800にわたる項目を取り䞊げおおり、圓時の蚀語実態を瀺す資料ずしお䟡倀が高い。 近代以降も、芥川韍之介が「柄江堂雑蚘」で、「ずおも」は埓来吊定を䌎っおいたずしお、「ずおも安い」など肯定圢になるこずに疑問を呈するなど、蚀語倉化に぀いおの指摘が散芋する。研究者の立堎から同時代の気になる蚀葉を収集した䟋ずしおは、浅野信『巷間の蚀語省察』(1933幎)などがある。
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日本語話者の意識
第二次䞖界倧戊埌は、1951幎に雑誌『蚀語生掻』(圓初は囜立囜語研究所が監修)が創刊されるなど、日本語ぞの関心が高たった。そのような颚朮の䞭で、あらゆる立堎の人々により、蚀語倉化に察する批刀やその擁護論が掻発に亀わされるようになった。兞型的な議論の䟋ずしおは、金田䞀春圊「日本語は乱れおいない」および宇野矩方の反論が挙げられる。 いわゆる「日本語の乱れ」論議においお、毎床のように話題にされる蚀葉も倚い。1955幎の囜立囜語研究所の有識者調査の項目には「ニッポン・ニホン(日本)」「ゞッセン・ゞュッセン(十銭)」「芋られなかった・芋れなかった」「埡研究されたした・埡研究になりたした」など、今日でもしばしば取り䞊げられる語圢・語法が倚く含たれおいる。ずりわけ「芋られる」を「芋れる」ずする語法は、1979幎のNHK攟送文化研究所「珟代人の蚀語環境調査」で可吊の意芋が二分するなど、人々の蚀語習慣の違いを劂実に瀺す兞型䟋ずなっおいる。この語法は1980幎代には「ら抜き蚀葉」ず称され、盛んに取り䞊げられるようになった。 「蚀葉の乱れ」を指摘する声は、新聞・雑誌の投曞にも倚い。文化庁の「囜語に関する䞖論調査」では、「蚀葉遣いが乱れおいる」ず考える人が1977幎に7割近くになり、2002幎11月から12月の調査では8割ずなっおいる。人々のこのような認識は、いわゆる日本語ブヌムを支える芁玠の䞀぀ずなっおいる。
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日本語話者の意識
若者特有の甚法は批刀の的になっおきた。近代以降の若者蚀葉批刀の䟋ずしお、小説家・尟厎玅葉が1888幎に女性埒の間で流行しおいた「およだわ䜓」を批刀するなど、1900幎前埌に「およだわ䜓」は批刀の的ずなった。1980幎代ごろから単なる蚀葉の乱れずしおではなく、研究者の蚘述の察象ずしおも扱われるようにもなった。 いわゆる「若者蚀葉」は皮々の意味で甚いられ、必ずしも定矩は䞀定しおいない。井䞊史雄の分類に即しお述べるず、若者蚀葉ず称されるものは以䞋のように分類される。 䞊蚘は、いずれも批刀にさらされうるずいう点では同様であるが、1 - 4の順で、次第に蚀葉の定着率は高くなるため、それだけ「蚀葉の乱れ」の䟋ずしお意識されやすくなる。
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䞊蚘の分類のうち「䞀時的流行語」ないし「若者䞖代語」に盞圓する蚀葉の発生芁因に関し、米川明圊は心理・瀟䌚・歎史の面に分けお指摘しおいる。その指摘は、およそ以䞋のように総合できる。すなわち、成長期にある若者は、自己や他者ぞの興味が匷たるだけでなく、埓来の蚀葉の芏範からの自由を求める。日本経枈の成熟ずずもに「たじめ」ずいう䟡倀芳が厩壊し、若者が「ノリ」によっお䌚話するようになった。ずりわけ、1990幎代以降は「ノリ」を楜しむ䞖代が䜎幎霢化し、消費・嚯楜瀟䌚の産物ずしお若者蚀葉が生産されおいるずいうものである。たた、2007幎頃からマスメディアが「堎の空気」の文化を取り䞊げるようになっおきおから、蚀葉で䌝えるより、察し合っお心を通わせるこずを重んじる者が増えた。これに察し、文化庁は、空気読めない (KY) ず蚀われるこずを恐れ、堎の空気に合わせようずする颚朮の珟れではないかず指摘しおいる。 若者の日本語は、衚蚘の面でも独自性を持぀。幎代によりさたざたな日本語の衚蚘が行われおいる。 1970幎代から1980幎代にかけお、少女の間で、䞞みを垯びた曞き文字が「かわいい」ず意識されお流行し、「䞞文字」「たんが文字」「倉䜓少女文字(=曞䜓の倉わった少女文字の意)」などず呌ばれた。山根䞀眞の調査によれば、この文字は1974幎たでには誕生し、1978幎に急激に普及を開始したずいう。
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1990幎頃から、䞞文字に代わり、少女の間で、金釘流に䌌た瞊長の曞き文字が流行し始めた。平仮名の「に」を「レこ」のように曞いたり、長音笊の「ヌ」を「→」ず曞いたりする特城があった。䞀芋䞋手に芋えるため、「長䜓ヘタりマ文字」などずも呌ばれた。マスコミでは「チョベリバ䞖代が楜しむヘタりマ文字」「女高生に広たる倉なずんがり文字」などず玹介されたが、必ずしも倧人䞖代の話題にはならないたた、確実に広たった。この文字を緎習するための本も出版された。 携垯メヌルやむンタヌネットの普及に䌎い、ギャルず呌ばれる少女たちを䞭心に、デゞタル文字の衚蚘に独特の文字や蚘号を甚いるようになった。「さようなら」を「±∋ぅTょら」ず曞く類で、「ギャル文字」ずしおマスコミにも取り䞊げられた。このギャル文字を緎習するための本も珟れた。 コンピュヌタの普及ず、コンピュヌタを䜿甚したパ゜コン通信などの始たりにより、日本語の玄物に䌌た扱いずしお顔文字が甚いられるようになった。これは、コンピュヌタの文字ずしおコミュニケヌションを行うずきに、文章の埌や単独で蚘号などを組み合わせた「(^_^)」のような顔文字を入れるこずにより感情などを衚珟する手法である。1980幎代埌半に䜿甚が開始された顔文字は、若者ぞのコンピュヌタの普及により広く䜿甚されるようになった。
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携垯電話に絵文字が実装されたこずにより、絵文字文化ず呌ばれるさたざたな絵文字を利甚したコミュニケヌションが行われるようになった。挢字や仮名ず同じように日本語の文字ずしお扱われ、玄物のような利甚方法にずどたらず、単語や文章の眮き換えずしおも甚いられるようになった。 すでに普及した顔文字や絵文字に加え、2006幎頃には「小文字」ず称される独特の衚蚘法が登堎した。「ゎたしゎ、きょぅゎ郚掻がなぃの」のように特定文字を小字で衚蚘するもので、マスコミでも玹介されるようになった。 人々の日本語に寄せる関心は、第二次䞖界倧戊埌に特に顕著になったずいえる。1947幎10月からNHKラゞオで「こずばの研究宀」が始たり、1951幎には雑誌『蚀語生掻』が創刊された。
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日本語関係曞籍の出版点数も増倧した。敬語をテヌマずした本の堎合、1960幎代以前は解説曞5点、実甚曞2点であったものが、1970幎代から1994幎の25幎間に解説曞玄10点、実甚曞玄40点が出たずいう。 戊埌、最初の日本語ブヌムが起こったのは1957幎のこずで、金田䞀春圊『日本語』(岩波新曞、旧版)が77䞇郚、倧野晋『日本語の起源』(岩波新曞、旧版)が36䞇郚出版された。1974幎には䞞谷才䞀『日本語のために』(新朮瀟)が50䞇郚、倧野晋『日本語をさかのがる』(岩波新曞)が50䞇郚出版された。 その埌、1999幎の倧野晋『日本語緎習垳』(岩波新曞)は190䞇郚を超えるベストセラヌずなった(2008幎時点)。さらに、2001幎に霋藀孝『声に出しお読みたい日本語』(草思瀟)が140䞇郚出版された頃から、出版界では空前の日本語ブヌムずいう状況になり、おびただしい皮類ず数の䞀般向けの日本語関係曞籍が出た。
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2004幎には北原保雄線『問題な日本語』(倧修通曞店)が、圓時よく問題にされた語圙・語法を䞀般向けに説明した。翌2005幎から2006幎にかけおは、テレビでも日本語をテヌマずした番組が倚く攟送され、倧半の番組で日本語孊者がコメンテヌタヌや監修に迎えられた。「タモリのゞャポニカロゎス」(フゞテレビ 2005〜2008)、「クむズ!日本語王」(TBS 2005〜2006)、「䞉宅匏こくごドリル」(テレビ東京 2005〜2006)、「Matthew's Best Hit TV+・なたり亭」(テレビ朝日2005〜2006。方蚀を扱う)、「合栌!日本語ボヌダヌラむン」(テレビ朝日 2005)、「こずばおじさんのナットク日本語塟」(NHK 2006〜2010)など皮々の番組があった。 「耇雑な衚蚘䜓系」「SOV構造」「音節文字」「敬語」「男蚀葉ず女蚀葉」「擬態語が豊富」「曖昧衚珟が倚い」「母音の数が少ない」などを根拠に日本語特殊論がずなえられるこずがある。 もっずも、日本語が印欧語ずの盞違点を倚く持぀こずは事実である。そのため、察照蚀語孊の䞊では、印欧語ずのよい比范察象ずなる。たた、日本語成立由来ずいう芳点からの研究も存圚する(『日本語の起源』を参照)。
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日本語特殊論は、近代以降しばしば提起されおいる。極端な䟋ではあるが、戊埌、志賀盎哉が「日本の囜語皋、䞍完党で䞍䟿なものはないず思ふ」ずしお、フランス語を囜語に採甚するこずを䞻匵した(囜語倖囜語化論)。たた、1988幎には、囜立囜語研究所所長・野元菊雄が、倖囜人ぞの日本語教育のため、文法を単玔化した「簡玄日本語」の必芁性を説き、論議を呌んだ。 動詞が最埌に来るこずを理由に日本語を曖昧、䞍合理ず断ずる議論もある。䟋えばか぀おゞャヌナリスト森恭䞉は、日本語の語順では「思想を衚珟するのに䞀番倧切な動詞は、文章の最埌にくる」ため、文末の動詞の郚分に行くたでに疲れお、「もはや動詞〔郚分で〕の議論などはできない」ず蚘しおいる。 耇雑な文字䜓系を理由に、日本語を特殊ずする議論もある。蚈算機科孊者の村島定行は、叀くから日本人が文字文化に芪しみ、庶民階玚の識字率も比范的高氎準であったのは、日本語は衚意文字(挢字)ず衚音文字(仮名)の2぀の文字䜓系を䜿甚しおいたからだず䞻匵する。ただし、衚意・衚音文字の二重䜿甚は、他に挢字文化圏では韓文挢字や女真文字など、挢字文化圏以倖でもマダ文字やピログリフなどの䟋がある。䞀方で、カナモゞカむのように、数皮類の文字䜓系を䜿い分けるこずの䞍䟿さを䞻匵する意芋も存圚する。
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日本語における語順や音韻論、もしくは衚蚘䜓系などを取り䞊げお、それらを日本人の文化や思想的背景ず関連付け、日本語の特殊性を論じる䟋は倚い。しかし、倧䜓においおそれらの説は、手近な英語や䞭囜語などの蚀語ずの差異を牧歌的に列挙するにずどたり、蚀語孊的根拠に乏しいものが倚い(サピア=りォヌフの仮説も参照)。䞀方、近幎では日本文化の特殊性を論する文脈であっおも、出来るだけ倚くの文化圏を俯瞰し、総合的な芖点に立った䞻匵が倚く芋られるずいう。 日本語を劣等もしくは難解、非合理的ずする考え方の背景ずしお、近代化の過皋で広たった欧米䞭心䞻矩があるず指摘される。戊埌は、消極的な芋方ばかりでなく、「日本語は個性的である」ず積極的に評䟡する芋方も倚くなった。その倉化の時期はおよそ1980幎代であるずいう。いずれにしおも、日本語は特殊であるずの前提に立っおいる点で䞡者の芋方は共通する。 日本語特殊論は日本囜倖でも論じられる。E. ラむシャワヌによれば、日本語の知識が乏しいたた、日本語は明晰でも論理的でもないず䞍満を挏らす倖囜人は倚いずいう。ラむシャワヌ自身はこれに反論し、あらゆる蚀語には曖昧・䞍明晰になる䜙地があり、日本語も同様だが、簡朔・明晰・論理的に述べるこずを阻む芁玠は日本語にないずいう。共通点の少なさゆえに印欧系蚀語話者には習埗が難しいずされ、孊習に関わる様々なゞョヌクが存圚するバスク語に぀いお、フランスのバむペンヌにあるバスク博物通では、「か぀お悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやっおきたのである」ず挿絵入りの歎史が描かれおいるものが食られおいる。これは同じく印欧系蚀語話者からみお習埗の難しいバスク語ず日本語を重ね合わせおいるずされる。
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日本語話者の意識
今日の蚀語孊においお、日本語が特殊であるずいう芋方自䜓が吊定的である。䟋えば、日本語に5母音しかないこずが特殊だず蚀われるこずがあるが、クラザヌズの研究によれば、209の蚀語のうち、日本語のように5母音を持぀蚀語は55あり、類型ずしお最も倚いずいう。たた語順に関しおは、日本語のように SOV構造を採る蚀語が玄45%であっお最も倚いのに察しお、英語のようにSVO構造を採る蚀語は30%匷である(りルタン、スティヌル、グリヌンバヌグらの調査結果より)。この点から、日本語はごく普通の蚀語であるずいう結論が導かれるずされる。たた蚀語孊者の角田倪䜜は語順を含め19の特城に぀いお130の蚀語を比范し、「日本語は特殊な蚀語ではない。しかし、英語は特殊な蚀語だ」ず結論しおいる。 村山䞃郎は、「倖囜語を知るこずが少ないほど日本語の特色が倚くなる」ずいう「反比䟋法則」を䞻匵したずいう。日本人自らが日本語を特殊ず考える原因ずしおは、身近な他蚀語(英語など)が少ないこずも挙げられる。
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蟞曞
日本では叀く挢籍を読むための蟞曞が倚く線纂された。囜内における蟞曞線纂の蚘録ずしおは、倩歊11幎(682幎)の『新字』44巻が最叀であるが(『日本曞玀』)、䌝本はおろか逞文すらも存圚しないため、曞名から挢字字曞の類であろうず掚枬される以倖は、いかなる内容の蟞曞であったかも䞍明である。 奈良時代には、『楊氏挢語抄』や『匁色立成』ずいう和蚓を有する挢和蟞曞が線纂されたらしいが、それぞれ逞文ずしお残るのみで、詳现は䞍明のたたである。珟存する最叀の蟞曞は、空海線ず䌝えられる『篆隷䞇象名矩』(9侖简)であるが、䞭囜の『玉篇』を暡した郚銖配列の挢字字曞であり、和蚓は䞀切ない。10䞖玀初頭に線纂された『新撰字鏡』は䌝本が存する最叀の挢和蟞曞であり、挢字を郚銖配列した䞊で、和蚓を䞇葉仮名で蚘しおいる。平安時代䞭期に線纂された『和名類聚抄』は、意味で分類した挢語におおむね和蚳を䞇葉仮名で付したもので、挢和蟞曞ではあるが癟科蟞曞的色圩が匷い。院政期には過去の挢和蟞曞の集倧成ずも蚀える『類聚名矩抄』が線纂され、同曞の和蚓に付された豊富な声点により院政期のアクセント䜓系はほが解明されおいる。 鎌倉時代には癟科蟞曞『二䞭歎』や詩䜜のための実甚的韻曞『平他字類抄』ほか、語源蟞曞ずもいうべき『塵袋』や『名語蚘』なども線たれるようになった。たた宀町時代には、読み曞きが広い階局ぞ普及し始めたこずを背景に、挢詩を䜜るための韻曞『聚分韻略』、挢和蟞曞『倭玉篇』、和蚳に通俗語も含めた囜語蟞曞『䞋孊集』、日垞語の単語をいろは順に䞊べた通俗的癟科蟞曞『節甚集』などの蟞曞が線たれた。さらに安土桃山時代の最末期には、む゚ズス䌚のキリスト教宣教垫によっお、日本語ずポルトガル語の蟞曞『日葡蟞曞』が䜜成された。
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蟞曞
江戞時代には、宀町期の『節甚集』を元にしお倚数の蟞曞が線集・刊行された。易林本『節甚集』『曞蚀字考節甚集』などが䞻なものである。そのほか、俳諧甚語蟞曞を含む『䞖話尜』、語源蟞曞『日本釈名』、俗語蟞曞『志垃可起』、枕詞蟞曞『冠蟞考』なども線纂された。ずりわけ谷川士枅『倭蚓栞』、倪田党斎『俚蚀集芧』、石川雅望『雅蚀集芧』は、それぞれがきわめお倧郚なもので、「近䞖期の䞉倧蟞曞」ずいわれる。 明治時代に入り、1889幎から倧槻文圊線の小型蟞曞『蚀海』が刊行された。これは、叀兞語・日垞語を網矅し、五十音順に芋出しを䞊べお、品詞・挢字衚蚘・語釈を付した初の近代的な日本語蟞曞であった。『蚀海』は、埌の蟞曞の暡範的存圚ずなり、埌に増補版の『倧蚀海』も刊行された。 その埌、広く䜿われた小型の日本語蟞曞ずしおは、金沢庄䞉郎線『蟞林』のほか、新村出線『蟞苑』などがある。第二次䞖界倧戊䞭から戊埌にかけおは金田䞀京助線『明解囜語蟞兞』がよく甚いられ、今日の『䞉省堂囜語蟞兞』『新明解囜語蟞兞』に匕き継がれおいる。
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蟞曞
䞭型蟞曞ずしおは、第二次䞖界倧戊前は『倧蚀海』のほか、束井簡治・䞊田䞇幎線『倧日本囜語蟞兞』などが刊行された。戊埌は新村出線『広蟞苑』などが広く受け入れられおいる。珟圚では束村明線『倧蟞林』をはじめ、数皮の䞭型蟞曞が加わっおいるほか、唯䞀にしお最倧の倧型蟞曞『日本囜語倧蟞兞』(箄50䞇語)がある。
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地理孊
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地理孊(ちりがく、英: geography、仏: géographie、䌊: geografia、独: Geographie (-fie) たたは Erdkunde)は、地球衚面の自然・人文事象の状態ず、それらの盞互関係を研究する孊問。地域や空間、堎所、自然環境ずいう物理的存圚を察象の䞭に含むこずから、人文科孊、瀟䌚科孊、自然科孊のいずれの性栌も有する。広範な領域を網矅する。たた「地理孊ず哲孊は諞科孊の母」ず称される。 元来は蟲耕や戊争、統治のため、各地の情報を調査したずめるための研究領域ずしお成立した。
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地理孊
名称
地理孊の「地理」は、叀代䞭囜で蚘された『易経』の「呚易」本文に察する孔子の泚釈、「十翌」䞭の䞀篇「繋蟭䞊傳」に由来する。ただし、易経における「地理」に぀いお、蟻田右巊男は「ただちに今日的意味で理解するのはやや早蚈」ずしおおり、海野䞀隆は埌䞖における䜿甚䟋から、客芳的な地誌的蚘述ず卜占的な颚氎的蚘述をあわせ持った曖昧な抂念であるず指摘する。実際に、圓時の「地理」の語矩は「呚易」に斜された無数の泚釈においお様々に論じられおおり、挢字文化圏においお geographyが「颚土蚘」ではなく「地理孊」ず蚳された芁因もこうした泚釈曞に求められる。 蟻田によれば、珟代の「地理孊」の語源である「地理」抂念を分析するのであれば、その孊史的な淵源に遡る必芁があり、その淵源は少なくずも合理的な朱子孊的教逊を備えた江戞時代の儒孊者に求められるずいう。これを受け、益田理広は、朱子孊における「地理」の語矩の把握に努めた。益田によるず、『易経』の泚釈においお定矩されなかった唐以前、「地理」は挠然ず地圢や怍生を衚す語に過ぎなかった。しかし唐代に入るず、「地理」は1地圢や怍生間の芏則的な構造(孔穎達による)、2知芚可胜な物質珟象たる「気」の䞋降運動(李錎祚による)ずする二説により明確に定矩される。続く宋代には「地理」の語矩も耇雑に掗緎され、「地理」を1䜍眮や珟象の構造ずする説、2認識䞊の区分に還元する説、3圢而䞊の原理の珟象ぞの衚出ずする説、4有限の絶察空間ずする説などが盞次いで生たれた。たた、唐代においおは颚氎思想を扱うものも「地理曞」の呌称を埗おおり、宋代には地誌に圓たらない「地理曞」の存圚も䞀般化しおいる。このように、唐以降の䞭囜では「地理」抂念を巡っお倚様な議論が展開された。 「地理」抂念ず同様に、「地理孊」に察する解釈も倚様である。地理孊は時代によっお、抂念や扱う領域が倧きく倉わっおきたこずで、珟圚でも䞀定の定矩を䞎えるこずは困難である。実際、地理孊は「人類の生態孊」、「分垃の科孊」、「土地ず人間の関係孊」であるず䞻匵する者もいる。オックスフォヌド地理孊蟞兞によれば、地理孊が蟿った玆䜙曲折を統括できる定矩を芋出すのは無謀ずするものの、ラルフ・リントンが唱えた「地理孊は『景芳の研究』である」ずいう芋解が地理孊者の関心を最も統合できるず述べおいる。他方で地理孊蟞兞では、倚くの地理孊者は「地球衚面を、その地域的差異ずいう芳点から研究するのが地理孊」ずいう思想に䞀臎するずいう。たた、最新地理孊甚語蟞兞では地理孊を「地衚の自然・人文にわたる諞珟象を、環境・地域・空間などの抂念に基づいお解明しようずする孊問」ずする。
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地理孊
名称
このような地衚の諞珟象を究明しようずする系統地理孊の方向性に察しお、「自然・人文にわたる諞珟象の盞互関係を総合的に研究しお、地域的性栌を究明する地誌孊が真の地理孊である」ず䞻匵する者もいる。同様に、20䞖玀以降のフランス地理孊掟やバヌクレヌ孊掟も地理孊を「地域の研究である」ずみなし、垞に人間ず物理的環境ずの盞互䜜甚に重点を眮いおいた。この系統地理孊ず地誌孊の定矩を統合しお、䟋えば広蟞苑では地理孊を「地球の衚面ず䜏民の状態ならびにその盞互䜜甚を研究する孊問」ずしおいる。
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地理孊
歎史
地理孊誕生の地は、叀代ギリシアである。孊問ずしおは、博物孊の郚門に属した。その源流は、各地の様子を蚘茉する地誌孊的なものず、気候や海掋に぀いお研究する地球科孊的なものずに芋るこずができる。䞭䞖では停滞しおいたものの、ルネサンス期における地誌の拡倧や、18䞖玀以降、産業革呜埌の自然科孊の発達ず芳枬機噚の発達は近代地理孊の成立ぞず導いた。 珟圚芋るこずのできる科孊的な地理孊の源流は19䞖玀初頭のドむツでおこり、アレクサンダヌ・フォン・フンボルトずカヌル・リッタヌにより成立した。圌らは「近代地理孊の父」ずされおおり、なかでもフンボルトが自然地理孊の始祖ずされるのに察し、リッタヌは人文地理孊の創始者ずされおいる。圌らは地誌的な蚘述ばかりではなく、様々な地理的な珟象に内的連関を認め、地理孊においおその解明の重芁性を説いた。 19䞖玀埌半には、フリヌドリヒ・ラッツェルが自然地理の条件に人類は匷く圱響を受けるず唱え、のちにこれは環境決定論ず呌ばれるようになる。䞀方、ポヌル・ノィダル・ドゥ・ラ・ブラヌシュは自然は人類の掻動に可胜性を䞎えおいるものず定矩し、これは環境可胜論ず呌ばれるようになるなど、系統地理孊が敎備された。アルフレヌト・ヘットナヌやリチャヌド・ハヌツホヌンは地域の解明を重芖し、地誌孊に倧きな足跡を残した。たたこの時期、日本など䞖界各囜に地理孊が移入された。
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地理孊
歎史
この時期たでの地理孊の䞭心は地誌孊であったが、1950幎以降、アメリカ合衆囜が䞭心になっおコンピュヌタや統蚈デヌタなどを甚いお、蚈量的な地理孊が䞖界䞭に急速に普及した。この蚈量革呜によっお、それたでの地誌孊は個性蚘述的・非科孊的であるずしお衰退しおいった。1970幎代埌半以降、蚈量的な地理孊は土朚工孊や経枈孊ずの競争に敗れ、北米を䞭心に䞀旊は衰退したが、地理情報システム(GIS)や地球環境に関連した応甚的な研究が盛んになった。たた1960幎代から1970幎代にかけお蚈量地理孊ぞの反動から、ラディカル地理孊や人文䞻矩地理孊が成立した。
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地理孊
䞋䜍分野
地理孊は、倧きく系統地理孊ず地誌孊に分類され、系統地理孊はさらに自然地理孊ず人文地理孊に分けられ、それぞれがたた现かく分類される。ただし、自然地理孊の諞分野は地球科孊の圱響を受け、その䞭でも時に生態孊や気象孊、地質孊などず連携されるこずが倚い。人文地理孊は歎史孊・瀟䌚孊・経枈孊などの近隣分野の圱響を受け、それらの知識ならびに隣接分野の理論の十分な理解が芁求される孊問である。たた、自然地理孊・人文地理孊ずもに珟地調査(フィヌルドワヌク)や゚クスカヌション(巡怜ずも呌ぶ)を実斜し、実地調査に基づく芳察を重芖する傟向があるのが特城である。 自然地理孊に該圓するもの。気圏を扱う気候孊、氎圏を扱う氎文孊、地衚圏を扱う地圢孊、生物圏を扱う生物地理孊、土壌圏を扱う土壌地理孊、そしお雪氷圏を扱う雪氷地理孊ずいった専門分野に分かれおおり、たた第四玀孊のように孊際的な研究分野も倚く存圚する。いずれの堎合も、孊問䞊で厳栌な線匕きは存圚せず、䟋えば気候地圢孊のような自然地理孊の䞭でも分野のたたがった研究も埀々にされおいる。ほずんどの堎合、これらの孊問成果をあげるには、珟地調査(フィヌルドワヌク)が芁求される。 人文地理孊に該圓するもの。これらもほずんどの堎合、孊問成果をあげるには、珟地調査(フィヌルドワヌク)が芁求される。いずれの堎合も、孊問䞊で完党に独立しおいるわけではなく、䟋えば郜垂地理孊ず経枈地理孊の耇合分野を研究察象にするずいうこずも可胜である。
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地理孊
䞋䜍分野
他分野においおも、生物孊の生物地理孊など地理孊ずいう名をも぀孊問がある。 地誌孊(地域地理孊)は、ある特定された地域内における地理孊的事象を自然地理・人文地理䞡方の芋地から研究する孊問である。自然地理・人文地理にかかわらず、実際に研究する際は、具䜓的な地域を遞定しなくおはならないため、ひず぀の専門分野ずいうよりは地理孊の共通基瀎郚分ず認識されおいる。文孊や囜際関係孊方面の地域研究(å­Š)ずの共通点もある。
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地理孊
研究方法
地理孊では地域差があるものを取り扱うため、地図が必須であるずずもに、地図を甚いお事象の分析や原因の考察を行うこずができる。事物の分垃を考察するにあたっお、分垃図の䜜成が挙げられる。分垃図では、事物の䜍眮や倚寡、偏りの皋床が衚珟されるため、分垃に぀いお深く考察するうえで有効であり、このこずによっお地理的事象の地域性や䞀般性の解明に぀ながる。分垃の性質を分析しおきた研究の代衚䟋ずしお、高橋䌞倫は『地理孊ぞの招埅』におチュヌネンの孀立囜ずクリスタラヌの䞭心地理論を提瀺しおいる。
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地理孊
日本の地理教育・研究
日本では䞻に文孊郚で地理孊が教育・研究されおいる。東日本の囜公立倧孊では理孊郚で教育・研究を行う倧孊もある。たた、教逊孊郚(文理孊郚)や教育孊郚にも蚭眮されおいる。 ただし、文孊郚蚭眮の倧孊でも自然地理孊の研究も行われおいるうえ、理孊郚蚭眮の倧孊でも研究や教育が自然地理孊に限定されおいるわけでもない。たた、この他の孊郚でも地理孊に関するコヌスが存圚する倧孊もある。 地理孊がカバヌする範囲は極めお広く、倧孊においお「地理孊科」や「地孊科」ずいう名称でなくおも改称したり分野別に再線したりしお実質的に地理孊教育を行っおいる孊科・専攻は少なくない。
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地理孊
日本の地理教育・研究
地理孊の孊際性から、倧孊院生や倧孊教員レベルになるず耇数の孊䌚に所属しおいる者が倚い。近幎は地理情報システム(GIS)を甚いた解析や䞀郚モデリングが盛んに行われおいるほか、瀟䌚的課題が耇雑化する䞭においお地域を倚角的・総合的に理解する孊問分野ずしお泚目されおいる。 日本における地理孊系孊䌚ずしおは、1925幎に日本地理孊䌚が蚭立されたのを皮切りに、1948幎に人文地理孊䌚、1954幎に経枈地理孊䌚が蚭立されるなど、倚くの孊䌚が存圚する。これらの孊䌚は、日本地理孊䌚の「地理孊評論」や人文地理孊䌚の「人文地理」ずいった孊術誌を定期的に発行しおいる。 明治維新埌、近代孊制が敎備される䞭で、地誌を䞭心ずする地理孊は囜民意識を圢成するために重芖され、初等・䞭等教育の科目の1぀ずされた。これは第二次䞖界倧戊埌も倉わらず、地理は小孊校および䞭孊校では瀟䌚科のうちの1぀に䜍眮づけられ、高等孊校でも科目名に倉遷はあれど1぀の科目ずしお地理は存圚し続けおいる。
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地理孊
日本の地理教育・研究
高等孊校においおは長らく「地理」は必修であったが、1970幎告瀺の孊習指導芁領以降遞択科目の1぀ずなり、さらに1989幎告瀺の孊習指導芁領においお「䞖界史」が必修になるずその圱響で「地理」を遞択する生埒が枛少し、地理孊ぞ興味・関心を持぀機䌚が枛少しおいた。しかし、2018幎告瀺の孊習指導芁領においお、2022幎4月より再び「地理」が必修化された。
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パリ
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パリ垂(パリし、仏: Ville de Paris)、通称パリ(仏: Paris、巎里)は、フランスの銖郜。むル=ド=フランス地域圏の銖府。フランス最倧の郜垂であり、同囜の政治、経枈、文化などの䞭心地。ロンドンず共に欧州を代衚する䞖界郜垂。 ルヌノル矎術通を含む1区を䞭心ずしお時蚈回りに20の行政区が䞊び、゚スカルゎず圢容される。
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パリ
抂芁
垂域はティ゚ヌルの城壁跡に造られた環状高速道路の内偎の垂街地(面積は86.99km。参考:東京郜・山手線の内偎は63km、ニュヌペヌク垂・マンハッタンは59km)、および、その倖偎西郚のブロヌニュの森ず倖偎東郚のノァンセンヌの森を䜵せた圢ずなっおおり、面積は105.40km。ケスタ地圢を呈するパリ盆地のほが䞭倮に䜍眮し、垂内をセヌヌ川が貫く。この川の䞭州であるシテ島を䞭心に発達した。垂内の地圢は比范的平坊であるが、暙高は最䜎でセヌヌ川沿いの35メヌトル、最高でモンマルトルの䞘の130メヌトルである。北緯49床ずやや高緯床に䜍眮するが、枩かい北倧西掋海流ず偏西颚によっお1幎を通しお比范的枩暖ずなっおおり、西岞海掋性気候の代衚的な郜垂である。 EUを代衚する倧郜垂ずしお君臚し、アメリカのシンクタンクが2020幎に発衚した総合的な䞖界郜垂ランキングにおいお、ロンドン、ニュヌペヌクに次ぐ䞖界3䜍の郜垂ず評䟡された。日本の民間シンクタンクによる2017幎発衚の「䞖界の郜垂総合力ランキング」では、ロンドン、ニュヌペヌク、東京に次ぐ䞖界4䜍の郜垂ず評䟡された。䞖界500倧䌁業の本瀟数では、ニュヌペヌクやロンドンを凌ぎ、西掋の郜垂では最倚である。2021幎のむギリスのシンクタンクの調査によるず、䞖界10䜍の金融センタヌず評䟡されおおり、EU圏内では銖䜍である。 パリは䞖界屈指の芳光郜垂である。歎史的な建物を芳るこずができ、ルヌノル矎術通、ポンピドゥヌセンタヌなどをはじめずした䞀流の矎術通で膚倧な数の䞀流の矎術品を芳賞できる。たた䞖界最叀のバレ゚団や、䞖界でもっずも叀くから存圚しおいる劇団などの公挔を楜しむこずもできる。
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パリ
抂芁
パリ出身者・居䜏者は男性がパリゞャン(仏: Parisien、フランス語発音: [parizjɛ̃] パリズィダン)、女性がパリゞェンヌ(仏: Parisienne、フランス語発音: [parizjɛn] パリズィ゚ンヌ)ず呌ばれる。1960幎代以降、旧怍民地であったアフリカ北郚・䞭西郚やむンドシナ半島、さらに近幎は䞭近東や東欧、䞭囜などからの移民も増え、パリゞャン・パリゞェンヌも倚民族・倚人皮化しおいる。 垂域人口は1950幎代の玄290䞇人を絶頂に枛少し続けたが、ここ数幎は埮増傟向に転じおおり、2011幎珟圚で玄225䞇人である(INSEEによる)。2011幎の近郊を含む郜垂的地域の人口では1,200䞇人を超えおおり、EU最倧の郜垂郚を圢成しおいる。 パリ垂の暙語は「たゆたえども沈たず(ラテン語: Fluctuat nec mergitur, フランス語: il est battu par les flots mais ne sombre pas)であり、これはパリの王章の䞋郚に曞かれおいる。もずもず氎運の䞭心地だったパリで、氎䞊商人組合の船乗りの蚀葉だったが、やがお戊乱、革呜など歎史の荒波を生き抜いおきたパリ垂民の象城ずなっおいった。この暙語は特に2015幎のパリ同時倚発テロ事件の盎埌、パリの街角に倚数掲げられた。
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パリ
抂芁
語源はParisii(パリシむ、パリヌスィむずも。耇数圢。単数圢はParisius「田舎者、乱暎者」)で、ロヌマ人が入っおくる以前からの先䜏民であるケルト系郚族の、ロヌマ偎からの呌称である。 欧州の蚀語の䞭で叀い時代の痕跡をずどめおいるギリシャ語ではΠαρίσι(パリヌズィ)、むタリア語で Parigi(パリヌゞ)ず発音される。フィンランド語で Pariisi(パリヌスィ)ず発音されるのはこれに由来しおいるずいう説がある。ルヌテティア(・パリヌスィオヌルム)Lutetia(Parisiorum)、 「パリシむ族の、氎の䞭の居䜏地」(シテ島のこず)ずも呌ばれおいた。
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パリ
地理
西岞海掋性気候に属し、暖流である北倧西掋海流の圱響で高緯床の割には枩暖である。倏(6月 - 8月)は気枩が15床から25床たでの範囲で、冷涌で也燥しおおり過ごしやすいが、幎間数日皋床は32床を超える暑さずなる。しかし、2003幎倏には30床以䞊の気枩が数週間も続き、40床近い気枩が芳枬され1䞇人以䞊の死者を出した。春(3月 - 5月)ず秋(9月 - 10月)は倩候は䞍安定で、暖かい時期ず寒い時期が同居し、10月でも真冬䞊みの寒さずなるこずもある。冬(11 - 2月)は、もずもず高緯床で昌間の時間が短いうえ、曇りや雚の日が倚いため日照時間が少ないが、降雪・積雪はあたり芋られない。幎間数日皋床は気枩が氷点䞋5床以䞋たで䞋がる。しかしながら近幎の冬は寒さが厳しく、2009幎 - 2010幎の冬にはパリ郊倖では気枩が-10床から-20床前埌たで䞋がっおいるなど、寒気の圱響を受けやすくなっおいる。幎間降氎量は555.7mmであり、それほど倚くはない。 パリの気象芳枬は䞭心郚から離れた14区にあるモンスヌリ公園で行われおいる。 パリの郊倖にはノェルサむナなど有名な芳光地がいく぀かあり、そのほずんどはパリから日垰りで埀埩できる。
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パリ
地理
16区 - 17区に぀ながるセヌヌ川䞋流の西郚方面には閑静な高玚䜏宅地が広がっおいる。逆に18区 - 20区から぀ながる北東方面は䜎所埗局の集たる地䟡の安い郊倖ずなっおおり、近幎は犯眪増加などの問題を抱えおいる。フランスで単に「郊倖(バンリュヌ)」ずいう堎合、こうした地域を婉曲的に指すこずが倚い。その他の方面の郊倖は䞀般的な䜏宅衛星郜垂ずなっおいる。 パリより電車で各30分ほど離れた郊倖にはいく぀かの衛星郜垂があり、近代建築によっお町の機胜が敎えられおいる。䞭でもラ・デファンス地区には「新凱旋門グランダルシュ」をはじめ高局ビル矀が集䞭しおおり、倚数の䌁業の支店を抱える新郜心ずなっおいる。 公園はパルク(Parc)、庭園はゞャルダン(Jardin)ず呌ばれ区別されおいる。
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パリ
地理
パリには東西2぀の倧きな森があり、パリ垂民の憩いの地ずなっおいる。珟圚はこの森もパリ垂の敷地に含たれる。 パリは東西南北に4぀の䞻芁な墓地があり、倚くの著名人が眠っおいる。 この他、パリ䞭心郚に䜍眮するパンテオンにもル゜ヌやノォルテヌル、ノィクトル・ナヌゎヌ、デカルトずいった偉人たちが埋葬されおいる。
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パリ
地理
パリ垂の人口は2011幎珟圚、玄225䞇人で、近幎は埮増傟向にある。特に、再開発が進む南郚や移民流入の著しい東郚での人口増加が目立っおいる。 この間、郊倖(垂域倖)の人口は増加しおいる。20䞖玀以降、か぀お城壁に囲たれおいた垂域倖にも垂街地が倧きく拡倧し続け、珟圚、むル=ド=フランス地域圏(パリ地域圏)党䜓の人口は1,198䞇人にのがる。パリ垂域内もおおむね商業・業務・䜏宅地ずしおの掻気ず嚁信を維持しおおり、アメリカの倧郜垂などで芋られる郜心郚の荒廃や郊倖ぞの人口流出(むンナヌシティ問題)はさほど芋られない。むしろ、移民の倚い䞀郚の郊倖での治安の悪化が顕著である(バンリュヌ参照)。 パリはほかの倧郜垂同様、孊生、若者、老人が倚い䞀方、子䟛を有するカップルの割合は䜎い。1999幎、パリ垂の䞖垯数の22パヌセント、人口数の40.7パヌセントは1人以䞊の子䟛を有するカップルであったが、単身䞖垯数の割合は27パヌセント、カップルのみの䞖垯数の割合は19パヌセントであった。パリ垂では47パヌセント(フランス党䜓の平均は35パヌセント)の人々が独身で、37パヌセント(同50パヌセント以䞊)が結婚しおいる。たた片芪䞖垯の割合が26パヌセント(同17パヌセント)ず高い。離婚率ももっずも高く、婚姻100件のうち55件は離婚に至っおおり、パリ垂民の7.7パヌセントを占めおいる。
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パリ
地理
出生率は1,000人䞭14.8人であり、囜平均の13.2パヌセントより高い。䞀方、子䟛の数は䞖垯あたり1.75人で、囜平均の1.86人より少ない。半分の䞖垯においお子䟛は1人である。パリ垂では䜏居が狭く高額であるこずが、その䞻因である。 高所埗者局はおもに西郚に、䜎所埗者局や移民はおもに北東郚に居䜏しおいる。 パリ垂の平均䞖垯所埗はフランス党䜓の平均より高く、隣接する郊倖のオヌ=ド=セヌヌ県、むノリヌヌ県、゚゜ンヌ県、ノァル=ド=マルヌ県の4地域の平均所埗も囜内で最高氎準であり、むル・ド・フランス地域圏に高所埗者局が集䞭しおいる。
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パリ
地理
しかしパリ垂内の瀟䌚的栌差の状況は、さらに耇雑である。䌝統的には豊かなパリ垂西郚ず、貧しいパリ垂東郚ずいう構図がみられる。実際、7区の平均䞖垯所埗(2001幎)は3侇1,521ナヌロにのがり、19区の1侇3,759ナヌロの2倍以䞊ずなっおいる。むル・ド・フランス地域圏においお、パリ6区、7区、8区、16区はもっずも高所埗の地域、10区、18区、19区、20区はもっずも䜎所埗の地域に分類される。さらに、垂内の19区の状況はそのたた所埗が䜎い北東郚郊倖のセヌヌ=サン=ドニ県に連なる䞀方、16区の倖瞁は西郚の豊かな郊倖に続く。 18区、19区、20区にはパリの貧困局の4割が集䞭し、孊校の䞭退、倱業、健康問題などが集䞭しおいる。EU域倖からの移民は、フランス囜内の出身者に比べお、貧困な状況に眮かれおいるこずが倚い。 18区はマグリブや、最近はサブサハラ地域のアフリカからの移民が倚い。フランスの囜勢調査では法埋䞊、民族や宗教の属性を問うこずができないが、出身地の情報は埗るこずができる。1999幎の囜勢調査によるず、パリ郜垂圏はペヌロッパでもっずも倚民族化が進んでいる地域のひず぀であり、人口の19.4パヌセントがフランス本囜倖の出身である。たた、パリ郜垂圏の人口の4.2パヌセントは1990幎から1999幎の間にフランスにやっおきた新しい移民であり、その倧半は䞭囜たたはアフリカ出身である。さらにパリ郜垂圏の人口の15パヌセントはむスラム教埒である。
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パリ
地理
パリぞの倧量の移民の第䞀波は1820幎代、ドむツの蟲民が、蟲業危機ずナポレオン・ボナパルトの䟵攻にずもなっお移䜏しおきたこずによる。その埌、今日に至るたで、䜕床か移民の波が続いおいる。19䞖玀はむタリア人ず䞭倮ペヌロッパのナダダ人、1917幎のロシア革呜埌はロシア人、第1次䞖界倧戊䞭は怍民地の囜々から、倧戊間期はポヌランド人、1950幎代から70幎代はスペむン人、むタリア人、ポルトガル人、北アメリカ人、たたアフリカ・アゞア地域の独立埌はナダダ人が移民しおきた。移民の居䜏区域は、それぞれ出身地ごずに異なっおいる。
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パリ
歎史
パリ盆地を流れるセヌヌ川の䞭掲シテ島は叀くから同川の枡河点であり、玀元前3䞖玀ごろからパリシむ族の集萜ルテティアがあった。玀元前1䞖玀、ガリア戊争の結果ルテティアはロヌマ支配䞋に入った。ロヌマ時代のルテティアはシテ島からセヌヌ巊岞にかけお広がっおおり、円圢劇堎(闘技堎)や公衆济堎などが築かれた。珟圚でも5区に円圢劇堎・闘技堎の遺跡(アレヌヌ・ド・リュテス)や济堎跡が残っおいる。しかし、ロヌマが衰退するず巊岞の垂街地は攟棄され、シテ島のみを範囲ずする城塞郜垂になった。このころからルテティアに代わり「パリ」ず呌ばれるようになった。 5䞖玀末にフランク族の王クロヌノィス1䞖はパリを埁服し、508幎にはパリをメロノィング朝フランク王囜の銖郜ずした。しかしクロノィス1䞖の死埌王囜はいく぀かに分裂したため、パリは珟圚のフランスよりも狭い範囲の郜でしかなかった。シャルルマヌニュ(カヌル倧垝)以降のカロリング朝フランク王囜の䞭心はラむン川流域にあり、パリは䞀地方郜垂でしかなかった。 885幎から886幎にかけおパリはノァむキングの襲撃を受けた。このずき、フランク王シャルル3侖(カヌル3侖)は金銭を支払っお講和を結んだため信望を倱い、代わっおパリ䌯の暩嚁が䞊昇するこずになった。このころからセヌヌ右岞偎にも垂街地が拡倧した。
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パリ
歎史
西フランク王囜が断絶するず、987幎にパリ䌯ナヌグ・カペヌがフランス王に掚挙されたこずから、パリはフランス王囜の銖郜ずなった。王暩の匷化にしたがっお銖郜も発達し、王宮ずしおシテ宮が建築された。フィリップ2䞖の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オヌギュストの城壁)も築かれ、その西に芁塞(のちにルヌノル宮殿に発展する)が蚭けられた。このころのパリは初期スコラ孊の䞭心のひず぀でもあり、11䞖玀ごろからパリ倧叞教座聖堂付の孊校が発達し、1200幎には王にも承認され、のちのパリ倧孊に぀ながっおいった。パリ倧孊は特に神孊の研究で著名であった。右岞に䞭倮垂堎「レ・アル(Les Halles)」が䜜られたもこのころである。こうしお、巊岞は倧孊の街、右岞は商人の街ずいう珟圚たで続く町の原型が定たった。 12䞖玀にはパリ氎運商人組合が結成され、のちにパリ商人頭は事実䞊の垂長ずしお垂政を叞るようになる。 13䞖玀になるず、ルむ9䞖によっおサント・シャペルが建築されたほか、ノヌトルダム倧聖堂も䞀応の完成を芋る。パリは成長を続け、セヌヌ巊岞も再び人口を増やしおいた。王たちは次第にノァンセンヌ城を居城ずするようになったが、行政機構はシテ宮に残った。
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パリ
歎史
14䞖玀初頭のパリの人口は玄20䞇人ず掚定され、ペヌロッパ随䞀の郜垂であった。 1328幎にカペヌ朝が断絶したこずなどを契機ずする癟幎戊争の最䞭、パリ商人頭ずなった゚ティ゚ンヌ・マルセルは王に匹敵する暩力を持ち、王ず察立した。シャルル5䞖は、1356幎から1383幎にかけお新たな城壁(シャルル5䞖の城壁)を築いお垂域を拡倧させ、1370幎にサン=タントワヌヌ芁塞(のちのバスティヌナ牢獄)を築いた。たた、ルヌノル宮殿を王宮ずした。 15䞖玀初めにおいおも、パリの支配暩ず王および王族の確保をめぐっお、オルレアン掟(のちにアルマニャック䌯を頌っお同盟した埌アルマニャック掟)ずブルゎヌニュ掟ずの察立である癟幎戊争が、むングランドをも巻き蟌んで続いおいた。ゞャンヌ・ダルクの掻躍などもあり、1435幎のアラスの和玄でブルゎヌニュ掟ず和解しお勢力を䌞ばしたシャルル7䞖率いるフランス軍は1436幎にパリを奪還し、翌1437幎に改めおパリが銖郜ず定められた。その埌、1453幎にフランスにおけるむングランド領の倧半が陥萜したこずにより、癟幎戊争は終結した。癟幎戊争埌のパリの人口は10䞇人皋床にたで枛少しおいた。
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パリ
歎史
この埌もフランス王はパリには䜏たず、ブロワ城やアンボワヌズ城などのロワヌル枓谷の城を奜んだ。特にフラン゜ワ1䞖は、ロワヌルにシャンボヌル城を築いたほか、パリ近郊にフォンテヌヌブロヌ宮殿を発展させた。もっずもフラン゜ワ1䞖は、公匏的には1528幎にパリを居城ず定めた。パリでは孊術が発展し、コレヌゞュ・ド・フランスにおいお、倧孊教育課皋(理論ずリベラルアヌツ)が近代教育課皋に加えられ、王が望んだ人文䞻矩や正確な科孊が研究されるようになった。 16䞖玀埌半、ナグノヌ戊争の時代にはパリはカトリック掟の拠点であり、1572幎にはサン・バルテルミの虐殺が起こっおプロテスタントが殺害されるなどした。シャルル9䞖を継いだアンリ3䞖は平和的な解決を暡玢したが、民衆は反乱し、バリケヌドの日ず呌ばれる1588幎5月12日にアンリ3䞖を匷制远攟した。このずきからパリは、16区総代䌚(Seize)ずいう組織によっお統治されるようになった。 その埌、カトリック掟からの反発を招いたアンリ3䞖が暗殺され、ノァロワ朝は断絶した。
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パリ
歎史
1594幎、アンリ4䞖の即䜍によりパリは名実ずもにフランスの銖郜の座を回埩した。ノァロワ朝埌期の王ず異なり、アンリ4䞖はパリをおもな居䜏堎所ずし、郜垂での倚くの公共事業を行った。ルヌブル宮殿の拡匵、ポンヌフ、ノォヌゞュ広堎、ドフィヌヌ広堎、サン・ルむ病院の建蚭がなされた。フォンテヌヌブロヌ宮殿もよく甚いられ、次のルむ13䞖はこの宮殿で生たれおいる。ほかにもサン=ゞェルマン=アン=レヌにも居城があった。 ルむ13䞖の治䞖䞋にパリは倧きく倉化した。その母のマリヌ・ド・メディシスによるテュむルリヌ宮殿やリュクサンブヌル宮殿、リシュリュヌによるパレ・ロワむダルが建蚭され、゜ルボンヌ倧孊の改築も行われた。 倪陜王ルむ14䞖の即䜍埌たもなくフロンドの乱が起こり、反動的に貎族勢力が打倒された結果、絶察王政の確立が促された。ルむ14䞖は、1677幎に居城をノェルサむナに移した。財務総監のゞャン=バティスト・コルベヌルはパリでの豪華な建蚭事業を行い、倪陜王にふさわしい「新たなロヌマ」を䜜り䞊げようずした。廃兵院などはこのころの建築である。しかし王自身はパリを奜たず、パリ郊倖の広倧なノェルサむナ宮殿にお執政を行うこずを奜んだ。このずきたでにパリは䞭䞖の垂域を倧きく越えお成長し、17䞖玀半ばには人口玄50䞇人、建物玄2侇5,000棟に達しおいた。以降、政治の䞭心地は、ルむ16䞖の治䞖末期たでノェルサむナに移るこずずなる。
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ルむ15䞖は1715幎に居城をいったんパリに戻したが、1722幎にはノェルサむナに居城を再床移しおしたう。1752幎にぱコヌル・ミリテヌルが創蚭され、1754幎にはサント・ゞュヌノィ゚ヌノの䞘に教䌚(珟圚のパンテオン)が建蚭された。 ルむ16䞖治䞖䞋の1784幎から1790幎にかけお、新たな城壁であるフェルミ゚ヌ・ゞェネロヌの城壁が建蚭される。 18䞖玀は、やはり経枈的成長の䞖玀で、人口が増倧した。フランス革呜盎前のパリの人口は64䞇人を数えた。啓蒙䞻矩、啓蒙思想が発展し、ノォルテヌル、ゞャン=ゞャック・ル゜ヌ、『癟科党曞』のドゥニ・ディドロ、シャルル・ド・モンテスキュヌらが掻躍した。宮廷がノェルサむナに眮かれたのに察抗し、王族のオルレアン公がパレ・ロワむダルを増築改修するず、この地はパリ随䞀の繁華街を圢成し、啓蒙思想家のみならずあらゆる階局の人々を匕き぀け、ずりわけ急進的な革呜家の根拠地ずもなった。
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1789幎7月14日、パリ垂内で発生したバスティヌナ襲撃によっおフランス革呜が勃発した。ノェルサむナ行進でルむ16䞖が匷制的にパリのテュむルリヌ宮殿に戻されおからは、革呜の重芁な事件の倚くがパリで発生した。 1790幎にパリ県が成立し、1795幎にセヌヌ県ぞず改称される。パリ垂は県庁所圚地ずされおいた。 混乱を経た1800幎圓時の人口は、54侇7,756人であった。ナポレオン1䞖は、パリを新しいロヌマずすべく、垝郜ず定め、カルヌれル凱旋門や゚トワヌル凱旋門を建お、りルク運河(en)を開削するなどした。
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第䞀垝政埌の19䞖玀のパリは、埩叀王政期および1848幎革呜(二月革呜)を経お、第二共和政、第二垝政さらに第䞉共和政ぞず、王政ないし垝政ず共和政が亀錯し、政治的には安定しなかったものの、産業革呜の到来により経枈的・文化的には繁栄した。 文化面では、ノィクトル・ナヌゎヌ、オノレ・ド・バルザック、゚ミヌル・ゟラ、スタンダヌルずいった文豪に加え、19䞖玀埌半にぱドゥアヌル・マネやモネ、ドガ、ルノワヌル、セザンヌ、ピサロ、モリゟ、ギペマン、シスレヌずいった印象掟の画家が掻躍し始めた。スヌラ、ゎッホ、ポヌル・ゎヌギャンなどのポスト印象掟、新印象掟ぞず続くものずなった。 1837幎にはパリ・サン=ゞェルマン鉄道のサン・ラザヌル駅、1840幎にノェルサむナ・巊岞鉄道のモンパルナス駅、1840幎にパリ・オルレアン鉄道のオステルリッツ駅、1846幎に北郚鉄道 (フランス)のパリ北駅、1846幎に゜ヌ鉄道のアンフェヌル城門駅(ダンフェヌル=ロシュロヌ駅)、1849幎にパリ・リペン鉄道のリペン駅およびパリ・ストラスブヌル鉄道のストラスブヌル駅(パリ東駅)がそれぞれ建蚭された。他方、1841幎から1844幎にかけおティ゚ヌルの城壁が築かれ、こららの攟射状路線を぀なぎ、城壁内の補絊路を確保するために、プティト・サンチュヌルが1852幎から建蚭され始めた。
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第二垝政䞋ではセヌヌ県知事ゞョルゞュ・オスマンによっおパリ改造が行われた。䞭䞖以来の狭い路地を壊しお道路網を䞀新したほか、䞊䞋氎道の蚭眮など郜心郚の再開発や瀟䌚基盀の敎備が行われた。氎道の氎はゞェネラル・デゟヌが䟛絊するようになった。これらによりパリは近代郜垂ずしお生たれ倉わった。珟圚のパリ垂䞭心郚の姿はほがこのずきの状態をずどめおいる。1860幎、ティ゚ヌルの城壁内のコミュヌンがパリに䜵合された。䜵合埌である1861幎圓時の人口は169侇6,141人だった。 普仏戊争でナポレオン3䞖の䞻力軍が敗北するず、パリは1870幎9月からプロむセン軍に包囲された。翌1871幎1月に第䞉共和政の政府は降䌏したが、パリの劎働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史䞊初の劎働者階玚の政暩パリ・コミュヌンが発足したが、ノェルサむナ政府軍の攻撃によりわずか2か月で厩壊した。コミュヌンの最埌はパリ垂内での垂街戊ずなり、倧きな被害を出した。 クレディ・リペネのパリ支店支配人Mazeratがリペン本店支配人Letourneurに曞き送ったずころによるず、普仏戊争以埌に䌁おられた党事業でロスチャむルドずその庇護䞋のオヌトバンクが独占的圹割を果たした。パリ垂はロスチャむルドらより2億フランを借り受け、ドむツぞ占領皎を支払った。20億フランのパリ垂公債もロスチャむルドらが匕き受けた。
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歎史
19䞖玀末から20䞖玀初めにかけお、パリでは数回の䞇囜博芧䌚が開かれた。1889幎の䞇博でぱッフェル塔が建おられ、1900幎にはメトロが開業した。この時代をベル・゚ポック(よき時代)ず呌ぶ。パリは「光の郜」ず呌ばれ、ロンドンに匹敵する経枈郜垂に成長した。 20䞖玀にはさらに工業が進展し、このころただたずたった敷地が残っおいたパリ郊倖にルノヌやシトロ゚ンの工堎ができた。パリで働くための移民が集たり、赀いバンリュヌの起源ずなった。1904幎6月、1,000䞇フランのロスチャむルド財団が䞀族6人ず北郚鉄道 (フランス)の圹員3人を発起人ずしお蚭立された。この財団は建築家を盎接雇甚しお財団所有の事務所に集め、䜎廉䜏宅の建築様匏を共同䜜成させた。優秀䜜の意匠暩は賞金ず匕き換えに財団が所有した。1912幎12月23日のボンヌノェ法は党䌚䞀臎で可決され、パリ垂が䜎廉䜏宅を建蚭するために芁請しおいた2億フランの借欟を認めた。 第䞀次䞖界倧戊の緒戊ではドむツ軍がパリの目前にたで迫り、政府が䞀時ボルドヌに避難するほどであったが、マルヌ䌚戊の勝利により蟛くも陥萜を免れた。倧戊埌半にはパリ砲による砲撃を受けた。戊間期にはパリは芞術の郜ずしおの地䜍を回埩し、アメリカやペヌロッパなどから倚くのボヘミアンたちを惹き぀けた。
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しかし第二次䞖界倧戊が勃発するず、ナチス・ドむツのフランス䟵攻開始から1か月で政府はパリを攟棄せざるを埗なくなり、1940幎6月11日に銖郜機胜をトゥヌルに移転。パリは6月13日に非歊装郜垂宣蚀を行ったこずで垂街戊は回避され、翌6月14日にはドむツ軍が進駐し、パリを無血で占領した。パリが倖囜軍の手に萜ちるのは4床目(過去3回は癟幎戊争、ナポレオン戊争による敗北、普仏戊争)であった。 6月23日にはアドルフ・ヒトラヌがパリに入った。占領䞋のパリではレゞスタンス運動に身を投じる者がいる䞀方で、積極的にドむツ軍に協力する垂民もいた。埌者はのちに察独協力者(コラボラトゥヌル)ずしお糟匟されるこずになる。 ノルマンディヌ䞊陞䜜戊から2か月半埌の1944幎8月24日、アメリカ軍がパリ郊倖に達しドむツ軍ず亀戊。翌25日にはアメリカ軍ず自由フランス軍が垂内䞭心郚に達し、連合囜による解攟が実珟した。このずきドむツ軍のパリ駐留郚隊を指揮しおいたディヌトリヒ・フォン・コルティッツ将軍は、ヒトラヌからパリを砎壊するよう呜什されおいたが、これを拒んで郚隊を無抵抗で退华させ、自身は降䌏した。この英断によりフォン・コルティッツは戊埌、フランスから名誉パリ垂民号を莈られおいる。 20䞖玀のパリは文化的にも成熟し、アルベヌル・カミュやゞャン=ポヌル・サルトルらが実存䞻矩を生み出し、マルセル・プルヌストやアンドレ・ゞッドなどの小説家が茩出された。1960幎に創刊された前衛雑誌『テル・ケル』にはロラン・バルト、ゞョルゞュ・バタむナ、ミシェル・フヌコヌ、ゞャック・デリダ、ゞュリア・クリステノァらが名を連ね、構造䞻矩ずポスト構造䞻矩は䞖界的な圱響力を持ち、フランス珟代思想が隆盛を極めた。映画界では、1950幎代末から1960幎代䞭盀にかけお、ゞャン=リュック・ゎダヌルやフラン゜ワ・トリュフォヌらヌヌノェルノァヌグが台頭した。
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歎史
人民戊線の頃以降のフランス共産党の党勢拡倧などを背景ずしお、1968幎1月1日、セヌヌ県が廃止され、パリは特別垂ずなった。このような政治的や文化的状況䞋で、五月革呜が起こった。 1950幎代以降のパリでは、おもに郊倖(バンリュヌ)で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめずする高速道路網や、郊倖ず郜心を盎結する鉄道RERなどが敎備され、ラ・デファンス地区がオフィス街ずしお開発された。 䞀方で豊かな郜心ず貧しい郊倖ずいう構図が生たれ、倱業や治安の悪化が瀟䌚問題ずなった。2005幎にはパリ郊倖暎動事件が発生した。2015幎11月にはパリ同時倚発テロ事件が発生した。
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政治
フランス革呜埌の地方自治制床では、パリ垂はセヌヌ県(圓初の名称はパリ県)に属する䞀コミュヌンであり、同県の県庁所圚地であった。圓時の垂域は珟圚より狭く、フェルミ゚ヌ・ゞェネロヌの城壁(珟圚は、ほがその跡に沿っおメトロ2号線・6号線が走っおいる)の内偎のみであった。圓初は、48の地区に现分化されおいたが、各地区を統合する圢で12の行政区が蚭けられるに至った。 1860幎に垂域が拡匵されおほが珟圚の範囲ずなり、同時に新たな20の行政区が蚭けられた。これらの行政区は、1795幎10月11日以降存圚しおいた12の旧行政区から眮き換えられたものである。 1968幎1月1日に完党斜行された「パリ地域の再線に関する1964幎7月10日法」による再線以降、セヌヌ県が廃止され、パリは県ずコミュヌンの地䜍を䜵せ持぀こずずなる。パリは、1860幎のパリ拡匵の際に創蚭された20の行政区ず18の遞挙区に分けられおいる。
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パリ
政治
1976幎にむル=ド=フランス地域圏が発足するず、パリはその銖府ずなった。 「パリの地䜍ず郜垂蚈画に関する2017幎2月28日法」では、コミュヌンず県を統合する特別自治䜓を2019幎1月1日に創蚭するこずが芏定され、同日、パリは「パリ垂」ずいう特別自治䜓に移行した。 垂内20の区(arrondissement)は、パリ垂街地の1区から、右回りの枊巻状に番号が぀けられおいる。1 - 4、8 - 12、16 - 20区は右岞に、5 - 7、13 - 15区は巊岞に䜍眮する。
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政治
この街の行政的地䜍は䜕床も倉曎されおいる。1871幎3月26日から5月22日たで、パリには、蜂起勢力である代衚制普通遞挙による議䌚をずもなうパリ・コミュヌンによる政府が眮かれた。1870幎に成立した第䞉共和政は、この出来事ぞの恐怖心を持぀保守䞻矩者たちによっお運営されおいた。圌らは、パリの行政暩をセヌヌ県知事(préfet de la Seine)に、パリの譊察暩を譊芖総監(préfet de police)にそれぞれ䞎えるこずを内容ずする1884幎4月5日法を制定した。他方、垂町村遞挙で議員が遞出されるパリの議䌚は、毎幎、䞻ずしお代衚者ずしおの機胜を有する「議長」を遞出しおいた。すなわち、パリには垂長がいなかった。たた街の予算は、囜の同意を埗る必芁があった。 1975幎12月31日法(1977幎の垂町村遞挙の際に斜行された)は、109人の議員で構成される垂議䌚か぀県議䌚であるパリの議䌚を創蚭し、議員によっおパリ垂長を遞出するこずにした。区の委員䌚は、諮問ず掚進の圹割を有しおいた。委員䌚の構成員は、遞挙人・パリ垂長・パリの議䌚によっお遞出された。譊芖総監は囜家により任呜され、譊察暩を行䜿する。 パリ・リペン・マルセむナおよびコミュヌン間の協力による公共機関に関する1982幎12月31日法が、パリには1983幎の垂町村遞挙の際に斜行され、163人の議員を遞出するこずになったほか、特に予算に関する議䌚の暩限が拡倧し、委員䌚を廃しお区議䌚が創蚭された。
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政治
2002幎5月2日の2002-810号デクレ以降、行政譊察暩がパリ垂長ず譊芖総監に共有されるこずずなり、その実珟のために、䞡者は互いの掻動方法を盞互に承認するこずずなった。承認手続に関しおは、パリ議䌚が審議したうえ、毎幎その予算および決算を承認する必芁がある (この予算は囜家によっお決められたものである)。パリ垂長はこれ以降、生掻安党分野に関する限り、たずえ譊芖総監の手䞭にある暩限に関するものであっおも関䞎するこずになった。 パリの議䌚の掻動は、パリ垂が資本を保有する䌚瀟の仲介人やパリの混合経枈䌚瀟(SEM)によっおも実珟される。 ほかの䞻芁郜垂ずは異なり、パリずその郊倖のコミュヌンずの間、« 倧パリ » 内には、固有の予算をずもなうコミュヌン間の連携が存圚しない。もっずも、パリずその郊倖の県ずの間では、䞋氎道組合(SIAAP, Syndicat interdépartemental pour l’assainissement de l’agglomération parisienne)の再線を行った。たた、むル=ド=フランス亀通組合(STIF)は、むル=ド=フランス地域圏の公共機関であり、パリずその郊倖の総合的な亀通網敎備を行う組織である。
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政治
ほかの囜際的な倧郜垂ず異なり、おおよそ環状のペリフェリックで区切られる䞭心垂街のみを範囲ずするパリの街に぀いおは、その実際的な範囲を明確にする必芁がある。䞊述各城壁の倉遷で芋るように歎史的か぀政治的な配慮が障害ずなっお、« 倧パリ » を管理する行政機関が存圚しないこずは、パリ郜垂圏の珟圚の䞻芁な問題のひず぀である。 珟圚のパリの領域は、䞊述抂芁の項で指摘されおいるように日本の山手線内よりやや広い皋床である。その垂域の境界線は歎史的で時代錯誀な経緯の産物、あるいは珟圚はパリ郜垂圏に取り蟌たれ、消えおしたった地圢に適合しおいたにすぎないものであるにもかかわらず、垂域の内倖を問わず、パリ郜垂圏の人々には共通の行政的需芁ならびに経枈的・瀟䌚的関心がある。ずころが、各コミュヌンは行政的・皎制的に独立しおおり、コミュヌンや県の枠を超えお存圚する集団的需芁(亀通や䜏宅など)に関する組織に぀いおは、郜垂圏芏暡のたずめ圹ずなる機構が存圚しない。むル=ド=フランス地域圏ずなるず、地域の玄80パヌセントに蟲村郚が残っおおり、パリ郜垂圏のための枠ずしおは倧き過ぎ、« 倧パリ » たるパリ郜垂圏内の適切な連携に適っおいない珟状がある。 初代垂長はゞャン=シルノァン・バむむ(圚任:1789幎7月15日 - 1791幎11月18日)。
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1795幎 - 1848幎の2月革呜たで、12の区に分割され各区にConseil municipal(議䌚)が眮かれ自治が行われたため、パリ垂長は眮かれなくなった。1795幎 - 1977幎の間、わずかな䟋倖(2月革呜埌の4人の垂長)を陀いお垂長は眮かれず、各区のConseil municipalの議長が実質䞊は垂長のような務めを果たした。1977幎以降は「パリ垂長」がパリ県知事(Préfet)ずコミュヌンの銖長の性栌を䜵せ持っおいた。2019幎に県ずコミュヌンを統合した特別自治䜓「パリ垂」が誕生したため、パリ垂長はその銖長ずなった。 2011幎の圓初予算(街および県ずしおのもの)は玄85億8,200䞇ナヌロで、うち69億600䞇ナヌロが行政掻動に、16億7,600䞇ナヌロが投資に充おられおいる。債務残高は玄26億9,600䞇ナヌロである。2008幎の県債は266億ナヌロにのがる。 パリ倧審裁刀所がシテ島のパレ・ド・ゞュスティス (パリ)に眮かれおいる。この裁刀所は、フランスの倧郚分の蚎蚟事件を取り扱う巚倧叞法機関である。各区には小審裁刀所が眮かれおいる。
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パリ商事裁刀所は、やはりシテ島(コルス河岞)に眮かれおいる。パリ違譊眪裁刀所は19区(rue de Cambrai)、パリ劎働審刀所は10区(rue Louis-Blanc)にそれぞれ眮かれおいる。 パリのみを管蜄する裁刀所以倖に、耇数の県を管蜄するパリ控蚎院もパレ・ド・ゞュスティスに眮かれおいる。その管蜄は、セヌヌ=ã‚š=マルヌ県、゚゜ンヌ県、セヌヌ=サン=ドニ県、ノァル=ド=マルヌ県、ペンヌ県である。パリ控蚎院の管蜄区域には、フランス党人口の12.6パヌセントが暮らしおいる。なお、ほかのむル=ド=フランス地域圏内の各県およびりヌル=ã‚š=ロワヌル県は、ノェルサむナ控蚎院の管蜄ずなる。 パリは、4区所圚のパリ地方行政裁刀所の管蜄に属する。控蚎は、パリ行政控蚎院に察しお行うこずになる(ほかに、マタ・りトゥ、ムラン、ヌヌノェル・カレドニヌ、フランス領ポリネシアの各地方行政裁刀所からの控蚎を受ける)。