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1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
400
雪の中教会裏の森で遭難しかけたところを助けてくれて以来、毎年冬が来るとよく遊んでいた信乃の友人。美しい歌声を持っていたが、道節を助けるためにその声を失った。道節に惚れているため、大変嫉妬深い。 犬村 大角(いぬむら だいかく) 声 - 津田健次郎、幼少:徳井青空 旧姓・赤岩。 無口で無表情な青年。5〜6歳の頃に人形師・犬村儀清に養子として迎えられる。自身も人形師となり、衣装や小物人形、御伽草子の動物人形などを得意としている。親子で帝都に来る時は古那屋を定宿にしていた。妹思い。信乃達と出会った後、額に野驢の目のような邪眼ができ、妖などを見抜くことができる。現在は昏睡状態となった雛衣を連れて帝都の犬飼家の屋敷に来ており、雛衣のため離れの和館を作業場代わりに仕事を始めている。 中に「礼」の文字が見える玉の持ち主。右足に牡丹の痣を持つ。 野驢(のろ) 声 - 潘めぐみ 猫の妖。
3,656
4,046
中に「忠」の文字が見える玉の持ち主。左肩に牡丹の痣を持つ。 雪姫(ゆきひめ) 声 - 能登麻美子、黒石ひとみ(歌唱シーン) 道節に憑いている雪の妖の姫。信乃が村はずれの教会に暮らしていた頃、
3,561
3,656
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
401
大角が子供の頃に縁の下で見つけてから犬村家の飼い猫となった、いつも大角の傍にいたがある日死期を悟ってか姿を消す、だが大角が実父(声 - 梅津秀行)に刺し殺された時に戻り桜で結界を作り守っていた。半年後に信乃達が大角のもとに来た際、人間の子供の姿になり大角が子供の頃に作った鞠をつきながら手鞠唄(四方の景色)を歌っていた。後に結界が壊れ、思念の塊となった儀清が大角を取り込もうとしたため噛み付き共に消滅したが、大角の傍にいたいと願い大角は邪眼を授かった。 犬江 仁(いぬえ しのぶ) 声 - 代永翼、幼少:新谷良子 22歳。 信乃が一時期通った飯倉尋常小学校のクラスの学級委員。6歳の時、山の中で母親に刺し殺されたが神隠しに遭い、天狗に10年間育てられた。聖地にいた10年は身体の成長が止まっていたため、見かけは12歳である。華月によって身体の中に「仁」と書かれた玉が隠されていた。信乃達と出会った後、
4,046
4,446
雛衣のため離れの和館を作業場代わりに仕事を始めている。 中に「礼」の文字が見える玉の持ち主。右足に牡丹の痣を持つ。 野驢(のろ) 声 - 潘めぐみ 猫の妖。
3,968
4,046
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
402
棗目と共に葉月を探しに旅に出ていたが、その後葉月がいたと聞き帝都に来ており、葉月を探しながら泊まっている古那屋でお手伝いをしている。 中に「仁」の文字が見える玉の持ち主。左腕に牡丹の痣を持つ。 華月(かげつ) 声 - 石田彰 仁を拾い10年間育てた、彼の父親。天狗であり、葉月とは異母兄弟で瓜二つ。 一度死んだ息子を生かすため、自分の命と寿命の半分を仁に渡した。その為、仁を連れ戻しに来たゝ大法師の攻撃を受け、残っていた半分の命と寿命を使い果たして亡くなる。 葉月(はづき) 声 - 森田成一 仁を10年間育てた、実質の育ての親。天狗の父親と人間の母親のハーフであり、華月とは異母兄弟で瓜二つ。 人里に連れ戻された仁を6年間探しており、ゝ大法師が里中に張った結界が村雨の力によって壊され、蒼が山の結界を破ったことで仁を見つけ、山に連れ戻す。仁が華月から渡された命と寿命の半分を華月に返すために自身で命を絶とうとして重傷を負ったため、
4,446
4,862
天狗に10年間育てられた。聖地にいた10年は身体の成長が止まっていたため、見かけは12歳である。華月によって身体の中に「仁」と書かれた玉が隠されていた。信乃達と出会った後、
4,360
4,446
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
403
華月と同じように自身の命と寿命の半分を仁に渡した。その後、蒼によって山が焼かれ仁を逃がした後、蒼に斬られて命を落とす。しかし、その器を蒼が持ち帰り、違う妖怪がその器を使っている。 仁に対してそっけない態度をとることが多かったが、実際は仁のことを大切に思っている。 里見家・尾崎家・緋ノ塚家・観月家。四家は古から獣憑きの家系であり、獣神の加護を受け、その力を司る。何代かおきに獣神に選ばれた子供が生まれてくる。現在は、四家に獣憑きの子供が生まれ、嘗てないほど年が近い、その子供達に帝国教会本部が目をつけ引き取り、帝都の古城区域に建っているもともとは観月家の持ち物である屋敷に子供達は住んでいる。 里見 莉芳(さとみ りおう) 声 - 成田剣 / 神谷浩史、幼少:進藤尚美 / 演 - 三上俊 1月19日生まれ。 里見家の犬神憑きの青年。 人間離れした美人。教会特区で特別主席司祭も務めている。信乃・荘介・浜路の後見人を務め、
4,862
5,273
蒼が山の結界を破ったことで仁を見つけ、山に連れ戻す。仁が華月から渡された命と寿命の半分を華月に返すために自身で命を絶とうとして重傷を負ったため、
4,790
4,862
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
404
信乃に八つの玉探しを命じる。5年前、大塚村で信乃に村雨を授け、信乃・荘介・浜路の三人を助けた人物。 八房(やつふさ) 里見家の巨大な犬神。里見家伝説の巫女姫である伏姫の飼い犬だった八房が、後に妖神となり里見家の守り神となった。本来なら女性の伏姫にしか憑かない。人にあまり懐かないが荘介には懐いている。 尾崎 要(おさき かなめ) 声 - 宮野真守 / 浪川大輔 / 演 - 石渡真修 6月30日生まれ。19歳。 尾崎家の狐憑きの青年。 母親は、尾崎家の妾。信乃と荘介を教会本部に召喚するため、五狐を使って浜路を攫った人物。ひょうひょうとした性格。浜路が大のお気に入り。浜路が作る健康的だけどとても強烈な料理を、何度も調子を悪くしながらも受け入れている。子供の頃に莉芳と二人で八房と五狐なしでさせられた山籠もりがトラウマとなり、フェネガンのことが苦手である。実は泳げないカナヅチ(五狐談)。本妻の子で異母兄である笙月院の僧、
5,273
5,684
成田剣 / 神谷浩史、幼少:進藤尚美 / 演 - 三上俊 1月19日生まれ。 里見家の犬神憑きの青年。 人間離れした美人。教会特区で特別主席司祭も務めている。信乃・荘介・浜路の後見人を務め、
5,178
5,273
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
405
青蘭(せいらん)(声 - 竹本英史 / 杉山紀彰 / 演 - 西山丈也)が使役する妖で、浜路が傷つけられた際には激怒し青蘭と対立した以来、青蘭は行方不明。 五狐(ごこ) 金狐(きんこ) 声 - 桑原敬一 / 原嶋あかり / 演 - 村上健斗 / 坂本康太 銀狐(ぎんこ) 声 - 江口拓也 / 勝井美優 / 演 - 下山真佑郎 / 石賀和輝 白狐(びゃっこ) 声 - 澤田将考 / 徳井青空 / 演 - 村上健斗 黒狐(こくこ) 声 - 千々和竜策 / 中嶋ヒロ / 演 - 下山真佑郎 天狐(てんこ) 声 - 岡本信彦 / 西口杏里沙 / 演 - 水澤賢人 尾崎家の狐である五匹の妖神。要に付き従い、普段は着物姿で二足歩行をする狐の姿をしている、人間の子供などに化けることができる。見た目は愛らしいが、主人に危害を加えられると豹変する、本妻が要を殺そうとした時には家は傾き死人も出た、その後本妻は青蘭と共に尾崎家を追い出された。
5,684
6,100
子供の頃に莉芳と二人で八房と五狐なしでさせられた山籠もりがトラウマとなり、フェネガンのことが苦手である。実は泳げないカナヅチ(五狐談)。本妻の子で異母兄である笙月院の僧、
5,599
5,684
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
406
緋ノ塚 那智(ひのづか なち) 声 - 藤原啓治 11月16日生まれ。 緋ノ塚家の猫憑きの青年。 信乃達が下野に来る半年前、フェネガンからどうしても犬村の人形を受け取りに行ってほしいと頼まれ、下野に住んでいる犬村儀清のもとへと行ったが儀清は既に亡くなっており、楓が反抗期で帰りたがらず、人形を完成させるため半年間儀清の身代わりをし、離れで隠居生活を過ごしていた。寒さに弱い。 楓(かえで) 声 - 小野坂昌也 緋ノ塚家の猫神。大きな猫の姿をしており尻尾が二本ある。女言葉で喋るが、性別は不明。普通の猫のサイズや巨大な張子にもなれる。元は邑織に憑いていた。 観月 あやね(みづき あやね) 声 - 明坂聡美 3月3日生まれ。15歳。 観月家の巳憑きの少女。 生まれた時から白い髪と赤い瞳を持ち、身体が非常に弱く、他人の気にとても敏感。屋敷の和館に住んでいる。人とほとんど交わらず、ちかげの加護を受けて育った。浜路とは仲が良く、
6,100
6,512
人間の子供などに化けることができる。見た目は愛らしいが、主人に危害を加えられると豹変する、本妻が要を殺そうとした時には家は傾き死人も出た、その後本妻は青蘭と共に尾崎家を追い出された。
6,008
6,100
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
407
学校の話を聞くのが好きであり、屋敷の庭でお茶会をしたり、浜路特製の料理を習った。 ちかげ / 響(ひびき) 声 - 荒川美穂 観月家の巳神である、大地を治めるほどの大きさを誇るおろち。冬眠の時期以外では人間の子供の姿でいることが多い。あやねを大切に思っている。四獣神家の面々が恐る程、嫉妬深くて執念深い。普段の名は霊影を意味し、後者が真名。自身が心を許した相手にしか真名を明かしてない。信乃に真名を告げ、自身の鱗を与えた。 帝都の旧市街にある旅館で、旧市街で一、二を争う旅館。 犬田 文吾兵衛(いぬた ぶんごべえ) 声 - 星野充昭 / 魚建 / 演 - 梶雅人 小文吾の父親。旅館「古那屋」を経営している亭主。子供の頃から沼藺と小文吾と仲が良く、沼藺の婚約者である現八を実の息子のように思っている。 犬田 小夜子(いぬた さよこ) 声 - 菊池いづみ / 根谷美智子 小文吾の母親。旅館「古那屋」の女将で、信乃に甘い。
6,512
6,922
生まれた時から白い髪と赤い瞳を持ち、身体が非常に弱く、他人の気にとても敏感。屋敷の和館に住んでいる。人とほとんど交わらず、ちかげの加護を受けて育った。浜路とは仲が良く、
6,427
6,512
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
408
現八が子供の頃から母親は病気がちだったため現八の乳母となり、いろいろ面倒をみていた。 犬田 沼藺(いぬた ぬい) 演 - 荻野恵理 現八と同い年の婚約者であり、子ができなかった犬田夫妻が引き取った養女で、小文吾とは血が繋がっていない姉弟。故人。 現八と小文吾が北部戦線に出兵する前に現八は生きて必ず戻ると約束したが死亡したと聞き、孤独に耐えられず複数の男と関係を持ち父親が判らない子を宿したが、現八と小文吾が生きていて戻ってくることを知り、罪悪感を感じて川に身投げした。銘仙の着物を好んでいた。大角に作ってもらった内裏雛を現八や親兄弟に見せないほどお気に入りだった。 貴敦(たかのぶ) 声 - 髙坂篤志 武蔵のある村の社で弥奈姫の守人をしていたが、現在は帝都で早紀と弥奈と兄妹として暮らし、女学校に通う弥奈のため、古那屋で働いており帳簿を任されている。 妹の弥奈のことをとても大事に思っている。 早紀(さき) 声 - 真堂圭
6,922
7,335
沼藺の婚約者である現八を実の息子のように思っている。 犬田 小夜子(いぬた さよこ) 声 - 菊池いづみ / 根谷美智子 小文吾の母親。旅館「古那屋」の女将で、信乃に甘い。
6,836
6,922
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
409
武蔵のある村の社で弥奈姫の守人をしていたが、現在は帝都で貴敦と弥奈と兄妹として暮らし、女学校に通う弥奈のため、古那屋で働いている。 妹の弥奈のことをとても大事に思っている。 浜路(はまじ) / 犬山 むつき(いぬやま むつき) 声 - 小林沙苗 / 高垣彩陽 / 演 - 田上真里奈 1月1日生まれ。15歳→16歳。煉馬村出身。 5年前の大塚村の生き残りである美少女、村長の養女。健康オタクで、漢方などを大量に入れるため料理の腕前は時に殺人的。勝気な性格だが、実は誰よりも信乃と荘介の身を案じている。要に攫われても、全く動じない。昔から信乃一筋だったが、要とは気の合う友人となり、あやねとも仲が良い。現在は医師を目指すため、帝都の全寮制の女学校に通っている。弥奈と同室である。 実は道節の生き別れの妹で、後者が本名。10年前に両親が他界した際、兄と別の家に引き取られる。その際、道節と約束を交わしたが全く信じておらず、
7,335
7,744
現在は帝都で早紀と弥奈と兄妹として暮らし、女学校に通う弥奈のため、古那屋で働いており帳簿を任されている。 妹の弥奈のことをとても大事に思っている。 早紀(さき) 声 - 真堂圭
7,246
7,335
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
410
捨てられたと勘違いし名前も変えていた。 萩原 健太(はぎわら けんた) 声 - 安井絵里 / 三瓶由布子 12歳。 信乃・荘介・浜路が村はずれの教会に暮らしていた頃に村の人々から疎まれていたが萩原家とは交流があり、その萩原家の長男で下に二人の兄弟がいる。5年前から家に時々お手伝いに来ている荘介を慕っている、けれども交流があることで学校でいじめに遭っているが、両親には秘密にしている。信乃のことを女の子だと思っている。 蜑崎神父(あまさきしんぷ) 声 - 丸山詠二 / 同左 信乃・荘介・浜路が暮らしていた村はずれの教会の老神父。浜路が作ったお茶を気に入っている。 征・R・フェネガン(まさき・アール・フェネガン) 声 - 佐藤晴男 / うえだゆうじ 信乃・荘介・浜路が暮らしていた村はずれの教会の神父。フェネガン枢機卿とリリス嬢の兄。名前が以前は「柾」、角川版12巻以降は「征」に変わった。 サムエル・J・フェネガン 声 -
7,744
8,158
弥奈と同室である。 実は道節の生き別れの妹で、後者が本名。10年前に両親が他界した際、兄と別の家に引き取られる。その際、道節と約束を交わしたが全く信じておらず、
7,664
7,744
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
411
大塚芳忠 通称・フェネガン。教会の本国から帝都の教会本部に来ている高位の聖職者。終始笑顔でマイペース。莉芳・要・那智・あやねの後見人。莉芳が一番のお気に入り。人形を愛でている。征神父の弟でリリス嬢の兄でもある。 リリス 声 - 本名陽子 帝都の教会本部を守護しており、教会の守護天使と呼ばれている。美人で法力も強いが、侵入者には容赦しない。征神父とフェネガン枢機卿の妹。兄のフェネガン枢機卿を溺愛しており、征神父によるとブラコンとのこと。 緋ノ塚 邑織(ひのづか ゆうり) 那智の兄。故人。 生まれた時から憑いていた楓の姿が視えていなく、自身が獣憑きという自覚はなかったため、帝国教会本部に引き取られた際、どうして緋ノ塚家を出されたのか判らずにいた。四家の獣憑きの子供の中で一番年上で優しく綺麗な人で、要によると今の那智より莉芳の方が似ているかもとのこと。自ら命を絶つ、理由は誰も知らない。 斎姫(さいひめ) 皇族の一人で末の皇女。
8,158
8,574
うえだゆうじ 信乃・荘介・浜路が暮らしていた村はずれの教会の神父。フェネガン枢機卿とリリス嬢の兄。名前が以前は「柾」、角川版12巻以降は「征」に変わった。 サムエル・J・フェネガン 声 -
8,063
8,158
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
412
3年前、療養のため北部の村へ訪れていた際に立て籠もり事件に遭い囚われの身となったが、莉芳に救出された。人質事件以来、斎姫は人気になり、旧市街では名物として斎姫が描かれた絵葉書のお土産が売られている。 莉芳がお気に入りである。 伏姫(ふせひめ) 遥か昔、怨霊となった玉梓姫の前に八人の若者を伴って現れ、玉梓姫の魂をその身に封じた姫。里見家伝説の巫女姫で、莉芳の先祖、里見家の犬神憑きの女性のことを総じて「伏姫」と呼ぶ。 犬村 雛衣(いぬむら ひなぎぬ) 声 - 中島愛 犬村儀清の娘であり、大角の従妹で妹である。喘息を持つ。浜路が通う帝都の女学校に入学を予定していたが突然、昏睡状態に陥る。 犬村 儀清(いぬむら のりきよ) 声 - 松本保典 大角の母方の伯父である養父。故人。 下野の人形師で小さな置人形から等身大の舞台人形まで繊細な人形を作っていた。
8,574
8,951
四家の獣憑きの子供の中で一番年上で優しく綺麗な人で、要によると今の那智より莉芳の方が似ているかもとのこと。自ら命を絶つ、理由は誰も知らない。 斎姫(さいひめ) 皇族の一人で末の皇女。
8,483
8,574
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
413
喘息持ちの雛衣のために環境を変えようと人里離れた山奥に引っ越し雛衣が健康を取り戻す、一方で妻が謎の病に倒れて亡くなり、後に取り憑かれたように一体の美しい伏姫の人形を完成させる。 妙(たえ) 声 - 片貝薫 仁の母方の祖母。飯倉の宿の女将。昔、帝都の古那屋で仲居をしていた。 棗目(なつめ) 声 - 佐々木望 華月と葉月に仕える妖怪。二人と同じように仁が大好きで、とても大切にしている。コタツが大のお気に入り。 メグ 黒い房房の毛が生えた球体の姿の一つ目の妖。大きな目の反対側に大きな口があり、手や尻尾を自在に出す。普段は手のひらサイズだが、水に浸かると巨大化する。信乃が村はずれの教会に暮らしていた頃、教会裏の森で村雨に見つかり食べられそうになっていた時に信乃に救われ、すぐに投げ飛ばされたが追いかけて教会までやって来た。信乃のことがお気に入りらしい。その後は信乃達と行動を共にし、現在は古那屋に住みついており、
8,951
9,357
昏睡状態に陥る。 犬村 儀清(いぬむら のりきよ) 声 - 松本保典 大角の母方の伯父である養父。故人。 下野の人形師で小さな置人形から等身大の舞台人形まで繊細な人形を作っていた。
8,861
8,951
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
414
手のひらサイズではないほど大きくなっている。ナルシスト気味なところがある。名を付けたのは現八で、由来は「目玉のちょっとグロいやつ」から。 うさくま 声 - 三宅麻理恵、黒石ひとみ(歌唱シーン) 浜路の通う帝都の新市街にある女学校の不思議な番人。鈴を付け、夜になると見回っている。ウサギのようなクマのようなヌイグルミの姿で、形を与えたのは浜路を想う信乃の強い願い、見た目は可愛いのに中身は凶暴という、信乃の中の浜路のイメージを具現化したものだった。電撃を放つ。また浜路と同室だった熊谷鈴(くまがい すず)(声 - 三宅麻理恵)の正体も番人であった、そのため鈴の性格は信乃に似ていた。 弥奈(やな) 声 - 小清水亜美 14歳。 武蔵のある村で、双頭の龍・命命(やな)(声 - 廣田行生)の片割れの宿主として生まれ、親兄弟から離されて社で生き神の弥奈姫として育った少女。 現在は宿主ではなくなり、
9,357
9,753
すぐに投げ飛ばされたが追いかけて教会までやって来た。信乃のことがお気に入りらしい。その後は信乃達と行動を共にし、現在は古那屋に住みついており、
9,286
9,357
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
415
守人をしていた貴敦と早紀と兄妹として帝都で暮らしており、女学校に通い浜路と同室である。 小早川 るり(こばやかわ るり) 声 - 石毛佐和 財閥である小早川家の令嬢であり、浜路が通う帝都の女学校の監督生。教会の孤児だったが要と仲がよかったため、要の口添えで小早川家の養女となった。 シスターズ 声 - 谷育子 教会本部を除いた帝都内にある十二の教会支部の一つで、旧市街の外れにある古びた教会の二人のシスター。気味の悪い容貌をしている。教会が花街に近いため、たまに花街の子供達を昼間に預かり面倒をみている。子供の頃の莉芳の面倒をみていたこともあり、莉芳が敵わない相手。 落合 つぐみ(おちあい つぐみ) 帝都の新市街にある教会から、臨時のお手伝いで旧市街の外れにある古びた教会に来たシスター。るりと接点がある。 斎木 茜(さいき あかね) 声 - 雪野五月 3年程前からほまちの村唯一の医者兼シスター。
9,753
10,153
小清水亜美 14歳。 武蔵のある村で、双頭の龍・命命(やな)(声 - 廣田行生)の片割れの宿主として生まれ、親兄弟から離されて社で生き神の弥奈姫として育った少女。 現在は宿主ではなくなり、
9,658
9,753
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
416
15歳の時に親を事故で亡くしている。斎木家はほまちの村の出で、遥か昔から代々有名な金細工職人だった。 桜庭 丈治(さくらば じょうじ) 声 - 檜山修之 帝都の医者で監察医。3年前の北部戦線当時、医務官見習いで後方任務に就いていた元軍医で、当時についたあだ名は「後方のラブテロリスト」。茜とは親戚で姉妹のように育った。 玉梓(たまずさ) 声 - 勝生真沙子 「伏姫」を取り込もうと暗躍している女性。大塚村や犬村儀清などに「水」を与えた人物。遥か昔に亡くした二人の息子を探している。 蒼(あお) 声 - 日野聡 / 演 - 松村龍之介 12月1日生まれ。19歳→20歳。 荘介の欠けた魂で荘介の「影」の青年。荘介が失くした幼少期の記憶を持っている。信乃が自身を荘介と呼べないため、「蒼」という呼び名を告げる。 2年前に犬阪夫妻を殺害し、日本刀「落葉(おちば)」と毛野から心臓を奪い取っていった男、その際、
10,153
10,554
臨時のお手伝いで旧市街の外れにある古びた教会に来たシスター。るりと接点がある。 斎木 茜(さいき あかね) 声 - 雪野五月 3年程前からほまちの村唯一の医者兼シスター。
10,068
10,153
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
417
毛野の反撃により顔を斬られ左目を失明するが、後に「一週間の命」と引き換えに琥珀(こはく)(声 - 皆川純子 / 演 - 岡村さやか )から金色の左目を譲り受けた。その身に力を得るため各地で土地神を殺し歩いているが、彼の行動の全ては信乃に起因。彼も信乃には甘く、武蔵で力が弱り行き場を失くした土地神の双頭の龍・命命を信乃に頼まれて、身の内に宿す。 紺(こん) 声 - 檜山修之 生き別れた兄弟達を探す「かまいたち」。蒼に命を助けられて以来懐つき、行動を共にしている。料理上手で蒼に料理をこしらえている。 佳穂(かほ) 声 - 折笠富美子 7歳。 花街に住む少女。生まれたばかりの頃に、花街の見世の前に捨てられており、その後は花街が育てている。生まれつき目が見えない。人見知りだが、花街近くの教会に先生として来た信乃には懐いている。感覚が鋭い。童話「青い鳥」がお気に入り。 牧田(まきた) 犬飼家に半世紀仕えている執事。
10,554
10,962
信乃が自身を荘介と呼べないため、「蒼」という呼び名を告げる。 2年前に犬阪夫妻を殺害し、日本刀「落葉(おちば)」と毛野から心臓を奪い取っていった男、その際、
10,476
10,554
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
418
主の現八が長らく帰ってこない間、屋敷と庭の管理を一人でしていた。信乃に甘く、いつも手料理を振る舞っている。息子が一人いて、遠方に住んでいる。 犬塚 番作(いぬづか ばんさく) 声 - 丹沢晃之 大塚村の村長で信乃の父親。故人。 信乃が物心のついた頃より自身の部屋に妖刀・村雨を置いており、刀の正体を知っていた。5年前に村で起きた事件の際に亡くなった。 犬塚 手束(いぬづか たつか) 信乃の母親。向日葵の花を好んでいる。 犬川 碧衣(いぬかわ あおい) 荘介の母親で、元は莉芳の乳母だった。故人。冬に子供の荘介を連れ古い知り合いのいる村を目指していたが道中で行き倒れ、その後亡くなる。 ゝ大(ちゅだい) 声 - 佐藤美一 / 高岡瓶々 法師。巷で噂になっている妖怪退治を生業とする破戒僧。大きな数珠を首に掛けており、数珠の中に捕えた妖を封じ込めている。莉芳のことを幼少の頃から知っており、愛慕している。 あべ美幸
10,962
11,369
生まれつき目が見えない。人見知りだが、花街近くの教会に先生として来た信乃には懐いている。感覚が鋭い。童話「青い鳥」がお気に入り。 牧田(まきた) 犬飼家に半世紀仕えている執事。
10,874
10,962
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
419
『八犬伝―東方八犬異聞―』 冬水社〈いち*ラキ コミックス〉 全13巻(絶版) 2005年10月20日発売、ISBN 4-88-741680-6 2006年3月20日発売、ISBN 4-88-741709-8 2006年7月20日発売、ISBN 4-88-741724-1 2006年11月20日発売、ISBN 4-88-741741-1 2007年3月20日発売、ISBN 978-4-88-741755-7 2007年6月20日発売、ISBN 978-4-88-741767-0 2007年11月20日発売、ISBN 978-4-88-741809-7 2008年3月20日発売、ISBN 978-4-88-741845-5 2008年8月20日発売、ISBN 978-4-88-741866-0 2008年12月20日発売、ISBN 978-4-88-741886-8 2009年4月20日発売、ISBN 978-4-88-
11,369
11,784
高岡瓶々 法師。巷で噂になっている妖怪退治を生業とする破戒僧。大きな数珠を首に掛けており、数珠の中に捕えた妖を封じ込めている。莉芳のことを幼少の頃から知っており、愛慕している。 あべ美幸
11,275
11,369
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
420
741911-7 2009年7月20日発売、ISBN 978-4-88-741931-5 2009年12月20日発売、ISBN 978-4-88-741965-0 あべ美幸 『八犬伝―東方八犬異聞―』 角川書店〈あすかコミックス〉 既刊22巻(2022年12月28日現在) 2011年6月1日発売、ISBN 978-4-04-854638-6 2011年6月1日発売、ISBN 978-4-04-854639-3 2011年7月1日発売、ISBN 978-4-04-854645-4 2011年8月1日発売、ISBN 978-4-04-854662-1 2011年8月1日発売、ISBN 978-4-04-854663-8 2011年9月1日発売、ISBN 978-4-04-854678-2 2011年9月1日発売、ISBN 978-4-04-854679-9 2011年10月1日発売、ISBN 978-4-04-854693-
11,784
12,200
ISBN 978-4-88-741866-0 2008年12月20日発売、ISBN 978-4-88-741886-8 2009年4月20日発売、ISBN 978-4-88-
11,697
11,784
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
421
5 2011年10月1日発売、ISBN 978-4-04-854694-2 2011年11月1日発売、ISBN 978-4-04-854705-5 2012年6月29日発売、ISBN 978-4-04-120307-1 2013年1月1日発売、ISBN 978-4-04-120547-1 2013年6月28日発売、ISBN 978-4-04-120755-0 2014年11月28日発売、ISBN 978-4-04-102220-7 2015年8月1日発売、ISBN 978-4-04-103319-7 2017年5月1日発売、ISBN 978-4-04-105297-6 2018年6月1日発売、ISBN 978-4-04-106924-0 2018年12月28日発売、ISBN 978-4-04-107623-1 2019年12月27日発売、ISBN 978-4-04-108866-1 2020年12月28日発売、
12,200
12,611
ISBN 978-4-04-854678-2 2011年9月1日発売、ISBN 978-4-04-854679-9 2011年10月1日発売、ISBN 978-4-04-854693-
12,108
12,200
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
422
ISBN 978-4-04-110914-4 2021年12月28日発売、ISBN 978-4-04-112080-4 2022年12月28日発売、ISBN 978-4-04-113140-4 八犬伝―東方八犬異聞― 第壱巻 2007年9月21日発売(マリン・エンタテインメント) 八犬伝―東方八犬異聞― 第弐巻 2008年7月25日発売(マリン・エンタテインメント) 2013年1月から3月まで毎日放送、TOKYO MX、テレビ愛知、BS11にて第1期が放送、同年7月から9月まで、第2期が放送された。 総監督には『薄桜鬼』シリーズでも監督を務めた演出家のヤマサキオサムが、第1期オープニングアニメーション演出には彼の旧友にして同作品でもオープニングアニメーション演出を務めたアニメーターの大張正己が起用されている。 原作 - あべ美幸(角川書店/ASUKA COMICS CL-DX刊/「CIEL」連載) 総監督 -
12,611
13,022
0 2018年12月28日発売、ISBN 978-4-04-107623-1 2019年12月27日発売、ISBN 978-4-04-108866-1 2020年12月28日発売、
12,521
12,611
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
423
ヤマサキオサム 監督 - 山崎みつえ シリーズ構成 - ヤマサキオサム、山崎みつえ キャラクターデザイン - 加藤裕美 ビジュアルコーディネート - 辻田邦夫 デザインワークス - 森木靖泰、承山菜美、岩畑剛一、萩原弘光、安田京弘、荒木弥緒・亀谷響子(第2期) プロップ作画監督 - 岡戸智凱、日向正樹(第15話) 美術監督 - 松本浩樹・鈴木隆文・岡崎えりか(第1期)、杉浦美穂(第1期・第2期) 美術設定 - 藤井一志 撮影監督 - 近藤慎与 3D監督 - 今垣佳奈 編集 - 松村正宏 音響監督 - 郷田ほづみ 音楽 - 黒石ひとみ 音楽プロデューサー - 伊藤善之、斎藤滋 プロデューサー - 桑園裕子、岩下由希恵、松田桂一、金庭こず恵、大室正勝、植竹なつき、岩崎卓 アニメーションプロデューサー - 浦崎宣光、和田薫 アニメーション制作 - スタジオディーン 製作 - 八犬伝プロジェクト(バンダイビジュアル、ランティス、
13,022
13,438
原作 - あべ美幸(角川書店/ASUKA COMICS CL-DX刊/「CIEL」連載) 総監督 -
12,970
13,022
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
424
スタジオディーン、ムービック、ダックスプロダクション、ソニーPCL、フロンティアワークス) 第1期 オープニングテーマ「God FATE」 作詞・歌 - 飛蘭 / 作曲・編曲 - 河田貴央 エンディングテーマ「String of pain」 作詞 - こだまさおり / 作曲・編曲 - R・O・N / 歌 - 柿原徹也 第1話、第13話では未使用。 第2期 オープニングテーマ「wonder fang」 作詞・歌 - 飛蘭 / 作曲・編曲 - 小山寿 エンディングテーマ「奏愛カレンデュラ」 作詞・歌 - Ceui / 作曲 - 小高光太郎、Ceui / 編曲 - 小高光太郎 第26話では未使用。 『ラジオ世界ふしぎ八犬伝!』のタイトルで、アニメ八犬伝公式サイト内にて2013年2月8日から同年10月11日まで全16回、隔週金曜日に配信されていたラジオ番組。
13,438
13,818
大室正勝、植竹なつき、岩崎卓 アニメーションプロデューサー - 浦崎宣光、和田薫 アニメーション制作 - スタジオディーン 製作 - 八犬伝プロジェクト(バンダイビジュアル、ランティス、
13,345
13,438
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
425
アニメイトTVでは2013年2月15日から同年10月18日まで配信されていた。パーソナリティはアニメのキャスト陣が月替わりで担当、リニューアルにより第8回からメインパーソナリティを柿原徹也(犬塚信乃 役)が担当していた。 柿原徹也(犬塚信乃 役) - パーソナリティ:第0回、第0.5回、第8回、第9回、第10回、第11回、第12回、第13回、第14回 岡本信彦(村雨 役) - パーソナリティ:第6回 / ゲスト:第0回、第0.5回、第8回、第9回、第14回 日野聡(犬川荘介 役) - パーソナリティ:第0回、第0.5回 / ゲスト:第14回 前野智昭(犬飼現八 役) - パーソナリティ:第1回、第2回、第3回、第4回 / ゲスト:第0回、第0.5回 寺島拓篤(犬田小文吾 役) - パーソナリティ:第1回、第2回、第6回 / ゲスト:第0回、第0.5回 三宅淳一(犬阪毛野 役) - パーソナリティ:第3回、第4回 /
13,818
14,232
第26話では未使用。 『ラジオ世界ふしぎ八犬伝!』のタイトルで、アニメ八犬伝公式サイト内にて2013年2月8日から同年10月11日まで全16回、隔週金曜日に配信されていたラジオ番組。
13,727
13,818
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
426
ゲスト:第10回、第11回 津田健次郎(犬村大角 役) - パーソナリティ:第7回 代永翼(犬江仁 役) - パーソナリティ:第7回 神谷浩史(里見莉芳 役) - パーソナリティ:第5回 浪川大輔(尾崎要 役) - パーソナリティ:第5回 高垣彩陽(浜路 役) - ゲスト:第12回、第13回 通称『ミュ八犬伝』 『ミュージカル八犬伝―東方八犬異聞―』のタイトルで、2015年8月14日から同年8月23日まで全15公演、シアターサンモールにて上演。演出・音楽は浅井さやか(One on One)、脚本はほさかよう(空想組曲)、企画・制作はCIEL、製作は古那屋一座。 犬塚信乃 - 坂口湧久 犬川荘介 - 北村諒 犬飼現八 - 前内孝文 犬田小文吾 - 畠山遼 浜路 - 田上真里奈 尾崎要 - 石渡真修 青蘭 - 西山丈也 犬田文吾兵衛 - 梶雅人 犬田沼藺 - 荻野恵理 里見莉芳 - 三上俊 −Phantoms− 村雨 -
14,232
14,647
第0.5回 寺島拓篤(犬田小文吾 役) - パーソナリティ:第1回、第2回、第6回 / ゲスト:第0回、第0.5回 三宅淳一(犬阪毛野 役) - パーソナリティ:第3回、第4回 /
14,141
14,232
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
427
天羽尚吾 四白 - 美木マサオ 五狐 - 村上健斗、下山真佑郎、水澤賢人 Performer - 正井雪香、千田阿紗子 原作 - あべ美幸「八犬伝ー東方八犬異聞ー」(株式会社KADOKAWA発行/ASUKA COMICS CL - DX刊) 演出・音楽・歌唱指導 - 浅井さやか(One on One) 脚本 - ほさかよう(空想組曲) 振付 - 美木マサオ 舞台監督 - 井上卓(DDR) 美術 - 須田桃李(DDR) 音響 - 田上篤志(atSound) 照明 - 大波多秀起(デイライト) 衣裳 - 小野涼子 ヘアメイク - 前田亜耶 演出助手 - 千田阿紗子(One on One) 音響オペレーター - 志水れいこ、内野智子、田島誠治、水木さやか 照明オペレーター - 福島稔(スペクトル)、菊池庸子、高良康成 ヘアメイク進行 - 黒田はるな、平田恵里子 小道具協力 - 高津装飾美術 現場制作 -
14,647
15,052
- 畠山遼 浜路 - 田上真里奈 尾崎要 - 石渡真修 青蘭 - 西山丈也 犬田文吾兵衛 - 梶雅人 犬田沼藺 - 荻野恵理 里見莉芳 - 三上俊 −Phantoms− 村雨 -
14,557
14,647
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
428
佐野みづき(アンデム) 制作協力 - アンデム(佐藤希、金内萌)、川嶋紗也子、冨岡法子、吉野美紀 宣伝 - 正田綾香(CLIE) カメラマン - 宅間國博 カメラマンアシスタント - 刈谷恵利加 Phantomsカメラマン - 立川賢一 ロゴデザイン - 須貝美華 グッズディレクション - サカキハジメ(MAG.net) グッズデザイン - Mujina:art(羽尾万里子、天野果菜) 宣伝デザイン - 渡邉菜織 HPデザイン - 栗原亜莉沙 協力 - アイズ、オウサム、カオス・パフォーマーズオフィス、砂岡事務所、スペースクラフト・エンタテインメント、タイムリーオフィス、トップコート、ドルチェスター、bamboo、ヒラタオフィス、プロダクション・タンク、マサオプション(50音順) 企画協力 - 株式会社KADOKAWA コミック&キャラクター局 第7編集部 エメラルド編集部 プロダクションスタッフ - 小川文乃、
15,052
15,464
内野智子、田島誠治、水木さやか 照明オペレーター - 福島稔(スペクトル)、菊池庸子、高良康成 ヘアメイク進行 - 黒田はるな、平田恵里子 小道具協力 - 高津装飾美術 現場制作 -
14,960
15,052
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
429
安井友規 プロデューサー - 渡辺詩織、吉井敏久 企画・制作 - CLIE 製作委員会 - 古那屋一座(CLIE、東映ビデオ株式会社) 『ミュージカル八犬伝―東方八犬異聞― 二章』のタイトルで、2016年11月23日から同年11月27日まで全8公演、全労済ホール スペース・ゼロにて上演。演出・音楽は浅井さやか(One on One)、脚本はほさかよう(空想組曲)、企画・製作は古那屋一座。 犬塚信乃 - 坂口湧久 犬川荘介 / 蒼 - 松村龍之介 犬飼現八 - 前内孝文 犬田小文吾 - 畠山遼 犬阪毛野 - 安里勇哉 犬山道節 - 山本一慶 浜路 - 田上真里奈 九重 - 帆風成海 琥珀 - 岡村さやか 里見莉芳 - 三上俊 −Phantoms− 村雨 - 天羽尚吾 四白 - 美木マサオ 五狐 - 坂本康太、石賀和輝 Performer - 梶雅人、荻野恵理、正井雪香、千田阿紗子、梅津瑞樹 原作 -
15,464
15,869
プロダクション・タンク、マサオプション(50音順) 企画協力 - 株式会社KADOKAWA コミック&キャラクター局 第7編集部 エメラルド編集部 プロダクションスタッフ - 小川文乃、
15,371
15,464
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
430
あべ美幸「八犬伝―東方八犬異聞―」(株式会社KADOKAWA発行/ASUKA COMICS CL - DX刊) 演出・音楽・歌唱指導 - 浅井さやか(One on One) 脚本 - ほさかよう(空想組曲) 振付 - 美木マサオ 舞台監督 - 久保健一郎(DDR) 美術 - 岡田志乃 音響 - 田上篤志(atSound) 照明 - 大波多秀起(デイライト) 衣裳 - 小野涼子、竹内さや香 ヘアメイク - 前田亜耶 演出助手 - 千田阿紗子(One on One) 演出部 - 平田寛顕、本多桜 音響オペレーター - 志水れいこ、上妻圭志(S.S.E.D.)、小林希、水木さやか 照明オペレーター - 松本伸一郎、田原聖子、菊池庸子 ヘアメイク進行 - 黒田はるな、平田恵里子、藤原萌 小道具協力 - 藤浪小道具 現場制作 - 冨岡法子(アンデム) 制作協力 - アンデム 宣伝 - 谷中理音、荒井沙樹(CLIE) カメラマン -
15,869
16,285
- 三上俊 −Phantoms− 村雨 - 天羽尚吾 四白 - 美木マサオ 五狐 - 坂本康太、石賀和輝 Performer - 梶雅人、荻野恵理、正井雪香、千田阿紗子、梅津瑞樹 原作 -
15,774
15,869
1000183
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000183
八犬伝—東方八犬異聞—
74
431
立川賢一(studio cyan) ロゴデザイン - 須貝美華 グッズ・宣伝デザイン - ハコファクトリィ チラシデザイン - 渡邊菜織 HPデザイン - 田加井愛穂(CLIE) 協力 - アイズ、アーティストジャパン、アミューズ、カオス・パフォーマーズオフィス、スタイルオフィス、砂岡事務所、トップコート、ドルチェスター、ヒラタオフィス、プロダクション・タンク、マサオプション、ルビーパレード(50音順) 企画協力 - 株式会社KADOKAWA コミック&キャラクター局 第7編集部エメラルド編集部 アシスタントプロデューサー - 安井友規、小川文乃 プロデューサー - 渡辺詩織 エグゼクティブプロデューサー - 吉井敏久 企画・制作 - CLIE 製作委員会 - 古那屋一座
16,285
16,626
- 黒田はるな、平田恵里子、藤原萌 小道具協力 - 藤浪小道具 現場制作 - 冨岡法子(アンデム) 制作協力 - アンデム 宣伝 - 谷中理音、荒井沙樹(CLIE) カメラマン -
16,195
16,285
1000186
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000186
北浜alley
75
432
北浜alley(きたはまアリー)は香川県高松市北浜町にある古い倉庫を活用した複合商業施設。2000年にオープンした高松港ウォーターフロントのトレンドスポット。ギャラリー、ブティック、カフェレストラン、美容院、雑貨店などが入居し、広場ではフリーマーケットやコンサートなどが開催される。 高松港を経由する貨物の一時保管場所として昭和初期に建設され、本四架橋の開通によりその役割を終えた古い倉庫群が「倉庫の現姿を残す」、「商業施設として再生する」、「文化的貢献を果たす」を基本理念として、一級建築士の井上雅子と地権者である農業協同組合・JA香川県により開発された施設。 対象となった倉庫は、宇高国道フェリーの向かいの道路に直角に並ぶ4棟。 内側の1棟は軸組のみを残して撤去してレンガ敷きの広場にし、他の3棟の倉庫は外観を変更せず、内装も可能な限り原型を留めるという方針の下で改装された。 前時代の港の雰囲気を残した北浜で、
0
408
0
0
1000186
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000186
北浜alley
75
433
週末は多くの若者が集う場所になっており、またテナント料は高松市中心部の約5分の1の水準におさえられていることもあって入居希望者は多く、 それらに対応するため近隣の倉庫3棟を新たに改装するという計画が浮上している。 所有者 - JA香川県 デザイン - 井上雅子 運営 - 井上雅子 延床面積 - 1,099.56m2 レンガ広場面積 - 187.74m2 所在地 - 〒760-0031 香川県高松市北浜町4番14号 JR 高松駅 徒歩10分 ことでん 高松築港駅 徒歩8分 水城通り 宇高国道フェリー乗り場 四国フェリー乗り場 香川県立歴史博物館 高松城 サンポート高松 ウィキメディア・コモンズには、北浜alleyに関連するメディアがあります。 北浜alley 北浜アリー(Kitahama Alley) 座標: 北緯34度21分3.7秒 東経134度3分23.5秒 / 北緯34.351028度 東経134.056528度 / 34.351028; 134.056528 表示 編集
408
855
内側の1棟は軸組のみを残して撤去してレンガ敷きの広場にし、他の3棟の倉庫は外観を変更せず、内装も可能な限り原型を留めるという方針の下で改装された。 前時代の港の雰囲気を残した北浜で、
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1000187
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000187
イリューシン
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434
イリューシンは、スラヴ系の姓である。しかし、日本語への転写法の問題から、以下のようないくつかの姓を指す可能性がある。 ロシア語の姓「イリユーシン」(Ильюшин イリユーシン) - しばしば、「イリューシン」と書かれる。 セルゲイ・イリユーシン - ソ連の航空機設計者。イリューシン設計局(現S・V・イリユーシン記念航空複合体)の創設者。 ウラジーミル・イリユーシン - ソ連のテスト飛行パイロット。セルゲイ・イリユーシンの息子。 ロシア語の姓「イリューシン」(Илюшин イリューシン) - 上記1.とは別の姓。 ウクライナ語の姓「イリューシン」(Илюшин イリューシン) - ロシア語では、2.ではなく1.に相当する姓。 S・V・イリユーシン記念航空複合体 - ロシア連邦の航空機メーカー このページは人名(人物)の曖昧さ回避のためのページです。同名の人物に関する複数の記事の水先案内のために、同じ人名を持つ人物を一覧にしてあります。お探しの人物の記事を選んでください。このページへリンクしているページを見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えてください。
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484
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100019
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=100019
高井田駅 (大阪府柏原市)
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435
高井田駅(たかいだえき)は、大阪府柏原市大字高井田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線の駅である。駅番号はJR-Q28。「大和路線」の愛称区間に含まれている。 1985年(昭和60年)8月29日:日本国有鉄道の駅(旅客駅)として、関西本線の河内堅上駅 - 柏原駅間に新設開業。駅周辺の開発業者が全額負担して建設された。 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる。 1988年(昭和63年)3月13日:路線愛称の制定により、「大和路線」の愛称を使用開始。 2003年(平成15年)11月1日:ICカード「ICOCA」の利用が可能となる。 2009年(平成21年)10月4日:大阪環状・大和路線運行管理システム導入。 2011年(平成23年)3月26日:バリアフリー化工事が完成し、エレベーターの使用を開始。 2014年(平成26年)
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https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=100019
高井田駅 (大阪府柏原市)
77
436
2月20日:この日をもってみどりの窓口が廃止。 2月21日:みどりの券売機プラス営業開始。 2018年(平成30年)3月17日:駅ナンバリングが導入され、使用を開始。 2022年(令和4年)8月29日:みどりの券売機プラス撤去。 相対式ホーム2面2線を有する地上駅で、橋上駅舎を持つ。ホーム有効長は6両編成分(130m)。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。 八尾駅が管理し、JR西日本交通サービスが駅業務を受託する業務委託駅である。ICカード乗車券「ICOCA」が利用することができる(相互利用可能ICカードはICOCAの項を参照)。 上表の路線名は旅客案内上の名称(愛称)で表記している。 「大阪府統計年鑑」によると、近年の1日平均乗車人員は以下の通りである。 南側 白坂神社 大和川 国豊橋 近鉄大阪線 河内国分駅 北側 柏原市立堅下南小学校高井田分校 史跡高井田横穴公園・歴史資料館 サンヒル柏原 東側
397
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2011年(平成23年)3月26日:バリアフリー化工事が完成し、エレベーターの使用を開始。 2014年(平成26年)
337
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100019
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=100019
高井田駅 (大阪府柏原市)
77
437
大阪府立修徳学院 大阪府立柏原東高等学校 西側 高井田公園 天湯川田神社 柏原市の無料循環バス(きらめき号)が平日に運行されている。2006年(平成18年)7月からは近鉄バス堅上線の運行を代替し、青谷や雁多尾畑(かりんどおばた)集落へ乗り入れるようになった。 大阪府内には、地下鉄中央線にも同名の高井田駅がある。この駅は、JR城東貨物線がおおさか東線として旅客化された際に同線との乗換駅となり、当初はおおさか東線の新駅の仮称も「高井田駅」とされていた。結局おおさか東線の駅は「高井田中央駅」となったが、その理由の一つとして「大和路線高井田駅と区別する必要がある」ことが挙げられている。なお、大和路線とおおさか東線を走る直通快速は、当駅は通過し高井田中央駅には停車する。 高井田駅の改札外には、南口駅前広場に当駅開業時より公衆トイレが設置されている。当公衆トイレの老朽化及び治安・管理面の事情から、2016年に一旦閉鎖されたが、
812
1,225
近年の1日平均乗車人員は以下の通りである。 南側 白坂神社 大和川 国豊橋 近鉄大阪線 河内国分駅 北側 柏原市立堅下南小学校高井田分校 史跡高井田横穴公園・歴史資料館 サンヒル柏原 東側
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https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=100019
高井田駅 (大阪府柏原市)
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改修工事により便器の洋式化と下水道接続が行われて2018年4月に再び利用可能となった。 西日本旅客鉄道(JR西日本) Q 大和路線(関西本線) ■大和路快速・■直通快速・■快速・■区間快速 通過 ■普通 河内堅上駅 (JR-Q29) - 高井田駅 (JR-Q28) - 柏原駅 (JR-Q27)
1,225
1,373
高井田駅の改札外には、南口駅前広場に当駅開業時より公衆トイレが設置されている。当公衆トイレの老朽化及び治安・管理面の事情から、2016年に一旦閉鎖されたが、
1,146
1,225
1000191
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000191
高砂北口駅
78
439
高砂北口駅(たかさごきたぐちえき)は、かつて兵庫県高砂市高砂町朝日町にあった日本国有鉄道(国鉄)高砂線の駅である。 1930年(昭和5年)7月10日:播丹鉄道の高砂北口停留場として開業。 1943年(昭和18年)6月1日:播丹鉄道線が国有化、鉄道省高砂線の高砂北口駅となる。 1970年(昭和45年)10月1日:荷物の取扱いを廃止。無人化。 1984年(昭和59年)12月1日:廃止。 単式ホーム1面1線を有していた地上駅。1970年(昭和45年)ごろに無人駅化され、それまであった木造駅舎は取り壊された。 駅の北側正面に山陽電気鉄道電鉄高砂駅があった。山陽電鉄と加古川方面との乗り継ぎ駅的な役割があったため、高砂線内の駅としては利用客が多い方であった。 山陽電気鉄道高砂駅 三菱製紙高砂工場 加古川 兵庫県立高砂高等学校 跡地は現在、駐輪場となっている。 日本国有鉄道 高砂線 尾上駅 - 高砂北口駅 - 高砂駅
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408
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1000193
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000193
ジョージ・フィールズ
79
440
ジョージ・フィールズ(George Fields、日本名・宮田譲治/みやた じょうじ、1928年 - 2008年10月2日)は、日本東京府生まれのオーストラリアの事業家、国際ビジネスコンサルタント。フィールズ・アソシエイト代表。産能大学客員教授。 1928年に、東京で生まれる。父親が日本人で母親がオーストラリア人のハーフ。初等教育、中等教育は日本で受ける。都立八中卒業。東京が空襲を受けた後、父の勧めでオーストラリアへ移住し大学へ進むことになった。パスポートを取得するまでの1年間は父親の知人の紹介で撮影所で働く。1954年、シドニー大学経済学部卒業。英国ユニリーバ勤務を経て、1964年ASIマーケットリサーチ日本支社赴任とともに来日、以後日本に居住。2008年10月2日、悪性軟部腫瘍により死去。80歳没。 1997年夏から、
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366
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1000193
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000193
ジョージ・フィールズ
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嶌信彦の後を受けてTBS系の報道・情報番組「ブロードキャスター」にてレギュラーコメンテーターを2004年秋まで務めた。流暢な日本語で経済や政治を話すことで有名になる。テレビ朝日系「徹子の部屋」に出演したときには、オーストラリアでは田山花袋などを古い小説を読んでいたことや、黒澤明の映画を見たとき英語の字幕を追っていたことに日本語の能力の衰えを感じたと語る。また母親は終生、関東大震災の恐怖を覚えており、再来日の時も大いに心配したとも語る。終戦直後、呉市広にオーストラリア軍が駐留していたため、最初の出国時には広からオーストラリア行きの船に乗った。この直前、呉市中央の焦土を目にし、東京オリンピック前年(1963年)に日本に戻るまで彼の中の日本のイメージは焦土であった。オーストラリア政府が同化政策をすすめた際、当局と相談し、日本名に近い意味の単語を選び現在の姓名を名乗ることになった。
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英国ユニリーバ勤務を経て、1964年ASIマーケットリサーチ日本支社赴任とともに来日、以後日本に居住。2008年10月2日、悪性軟部腫瘍により死去。80歳没。 1997年夏から、
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366
1000194
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000194
吉水秀徳
80
442
吉水 秀徳 (よしみず ひでのり、1961年8月7日-)は、日本のマンドリン音楽の作曲家・指揮者・指導者。大阪府在住。大阪府立四條畷高等学校、大阪市立大学にてマンドリン部に所属。 学生時代に処女作「2つの動機」(1982年)を発表。 さらにその後作曲した「プレリュード2」(1989年)がいわゆる出世作となり、現在日本マンドリン音楽界では、その作曲作品が多数再演されている。 また、「序曲」(1991年)が日本マンドリン連盟主催第5回マンドリン合奏曲作曲コンクールで第3位に入賞。梅花女子大学 技術顧問。 マンドリン音楽全般について、木下正紀に師事。 2つの動機(モチーフ) (1982年) プレリュード2 (1989年) 序曲 (1991年) 3 Dimensions (1996年) プレリュード3 (1999年) EX-trance (2000年) With You (2001年) 夢のつばさ (2003年) メロディ
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1000194
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000194
吉水秀徳
80
443
(2004年) 交響的前奏曲 (2007年) 無言歌 (2008年) マンドリンオーケストラのための"Access" (2009年) プレリュード4 (2009年) 変奏曲 (2010年) 3つのうた (2010年) Casual Life (2010年) 海の抒情詩 (2011年) 未来の子供達の為に (2012年) 夜想曲(ノクターン) (2013年) Imagine 〜空の向こうのあなたへ〜 (2014年) 山中の瀬音に身をゆだね (2014年) 時の旅人 (2014年) Fantasia (2015年) 祝典序曲(2019年) ギター合奏のための"Access" (2009年) New Life (1996年) Campus Life (2003年) Flexible (2005年) Prelude2 for Duo (2008年) ハウルの動く城 (木村弓・久石譲 作曲) The Wind of Life
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3 Dimensions (1996年) プレリュード3 (1999年) EX-trance (2000年) With You (2001年) 夢のつばさ (2003年) メロディ
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1000194
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000194
吉水秀徳
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(久石譲 作曲) 日本の四季に想いをはせて (荒木とよひさ他 作曲) 時代劇の世界をあなたに (菊池俊輔他 作曲) 古畑任三郎が帰ってきた! (本間勇輔 作曲) 別れの曲 (F.ショパン 作曲) だから私はアニメっ子! (馬飼野康二他 作曲) おくりびと (久石譲 作曲) Dear WOMAN (平田祥一郎 作曲、赤星まりしぇとの共同編曲) 崖の上のポニョ (久石譲 作曲、赤星まりしぇとの共同編曲) 道〜Gelsomina (Nino Rota 作曲) Beyond the Sunset (葉加瀬太郎・石坂 慶彦 作曲) エトピリカ (葉加瀬太郎 作曲) だからアニメはやめられない! (菅野よう子他 作曲) ジャニーズに首ったけ! (馬飼野康二他 作曲) 弦楽四重奏曲 第1楽章 (Claude A. Debussy 作曲) 「モンスターハンター」より「英雄の証」 (甲田雅人 作曲) レコード大賞メドレー (小林亜星他
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1,243
Life (2003年) Flexible (2005年) Prelude2 for Duo (2008年) ハウルの動く城 (木村弓・久石譲 作曲) The Wind of Life
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828
1000194
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000194
吉水秀徳
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作曲) 丘を越えて (古賀政男 作曲) タマシイレボリューション (越智志帆 作曲) 愛をこめて花束を (多保孝一 作曲) 宙船(中島みゆき 作曲) 熱血の時代劇メドレー(平尾昌晃他 作曲) レコード大賞メドレー2(筒美京平他 作曲) アララの呪文(岡本真夜 作曲) 雫(大橋卓弥・常田真太郎 作曲) テレビ!夢中!大好き!(宮川泰他 作曲) ぼくらのヒットソングメドレー(槇原敬之他 作曲) ロマンスの神様(広瀬香美 作曲) 公式ツイッター 公式ホームページ 表示 編集   
1,243
1,482
(馬飼野康二他 作曲) 弦楽四重奏曲 第1楽章 (Claude A. Debussy 作曲) 「モンスターハンター」より「英雄の証」 (甲田雅人 作曲) レコード大賞メドレー (小林亜星他
1,148
1,243
1000195
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000195
夏の終わりの花火
81
446
「夏の終わりの花火」(なつのおわりのはなび)は、米倉千尋の18枚目のシングルである。初回盤は「Bridge」「tapestory」との連動特典用応募券を封入している。 神奈川県横浜市のみなとみらいが舞台になっている。 夏の終わりの花火 作詞・作曲:米倉千尋、編曲:aqua.t テレビ朝日系「ビートたけしのTVタックル」エンディングテーマ曲。 be with you 作詞・作曲:米倉千尋、編曲:aqua.t Xboxゲーム「eX-Chaser」主題歌。 In My Life 作詞・作曲:John Lennon・Paul McCartney、編曲:aqua.t ビートルズのカバー曲。 夏の終わりの花火(instrumental) SPRING〜start on a journey〜(#1) BEST OF CHIHIROX(#2) 表示 編集
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1000199
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000199
徳田尚美
82
447
徳田 尚美(とくだ なおみ、1957年5月1日 - )は、福岡県出身の女優。身長は161cm、バスト80cm、ウェスト63cm、ヒップ84cm、靴のサイズは23.5cm、血液型はO型である。特技は書道、趣味はカラオケ。兵庫県立尼崎北高等学校卒業。大阪市浪速区の劇団伽羅倶梨代表。ライターズカンパニー田畑冨久子事務所所属。 女優業だけでなく、劇団伽羅倶梨の舞台の脚本・演出を担当。様々な人達の日常にスポットを当てどこか懐かしい心温まるハートフルコメディーを創作し続けている。また、演劇大好き人間との出会いをもめ、「ナオミのドラマティックワークショップ(演劇教室)」にも力を注いでいる。 連続テレビ小説 風見鶏(1977) わたしは海(1978) 鮎のうた(1979) よーいドン(1982) ぴあの(1994) 芋たこなんきん(2006)- 渡辺加代子 役 べっぴんさん(2016)- シスター 役 わろてんか(2017)- サエ
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1000199
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000199
徳田尚美
82
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役 銀河テレビ小説 極楽日記- かおり 役 欲しがりません勝つまでは 新・なにわの源蔵事件帳 第6話「絵図面盗難事件」 楽しい教室 - なおみお姉さん 土曜ドラマ「新・王将」 金曜時代劇 はんなり菊太郎2 生存・愛する娘のために ちりとてちん外伝「まいご3兄弟」 火曜サスペンス劇場警視庁鑑識班13(2002年1月8日)- 野崎観音の売り子役 終戦60年特別ドラマ二十四の瞳(2005年8月2日) ドラマ30 いのちの現場から1-6 - 大久保早苗 役 花街の母 結婚の資格 命みじかく メモリー・オブ・ラブ 月曜ゴールデン遺品整理人 谷崎藍子第1作(2010年)「死者が遺したメッセージ」 谷崎純一郎 その愛を - 松子 役 木曜ミステリー 新科捜研の女5,第10話 土曜ナイトドラマ 学問ノススメ - 津吹恵子 役 サントリーミステリー大賞スペシャル 時の渚〜衝撃の運命 必殺仕置屋稼業
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鮎のうた(1979) よーいドン(1982) ぴあの(1994) 芋たこなんきん(2006)- 渡辺加代子 役 べっぴんさん(2016)- シスター 役 わろてんか(2017)- サエ
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415
1000199
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000199
徳田尚美
82
449
第24話「一筆啓上血縁が見えた」(1975年、ABC / 松竹) - 女郎 サクラとさつき - 春野園子 役 土曜ワイド劇場夏樹静子作家生活40周年記念作品・天使が消えてゆく(2010年10月30日) ABC朝日放送ローカル 部長刑事 新・部長刑事 アーバンポリス24 警部補マリコ 難波金融伝 ミナミの帝王 劇場版PART9 - 植木の妻 役 阪急電車 片道15分の奇跡 ラブラブROUTE21 難波金融伝 ミナミの帝王 システム金融 記憶の花 南号作戦最後の輸送船東城丸 さよならパーティー アラビアンナイト殺人事件 -東條リン子 役 ぶす - 鳴り物/珍念 役 のらくらとらやん -なおみお姉さん 役 セレマ 大阪ガス タワラ印のお米 2002年 この話、したっけ? 2005年 チェンジ! チャンス☆ 2006年 LaLaフレンズ Oh!my soul!~早代ちゃんの不思ギ~ 2007年 サクラパレード この話、したっけ?
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1,227
その愛を - 松子 役 木曜ミステリー 新科捜研の女5,第10話 土曜ナイトドラマ 学問ノススメ - 津吹恵子 役 サントリーミステリー大賞スペシャル 時の渚〜衝撃の運命 必殺仕置屋稼業
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1000199
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1000199
徳田尚美
82
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2007年版 「ブラボー!」 2008年 「本日快晴なり。」 福岡県出身の人物一覧 プロフィール - ウェイバックマシン - ライターズカンパニー プロフィール - 劇団伽羅倶梨 徳田尚美のドラマティック日誌 - Ameba Blog 所属事務所プロフィール [1] (2009年時) 表示 編集
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2002年 この話、したっけ? 2005年 チェンジ! チャンス☆ 2006年 LaLaフレンズ Oh!my soul!~早代ちゃんの不思ギ~ 2007年 サクラパレード この話、したっけ?
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1,227
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
451
足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の日本の武将。室町幕府初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。鎌倉幕府の御家人。足利貞氏の次男。足利将軍家の祖。姓名は源 尊氏(みなもと の たかうじ)。 河内源氏義国流足利氏本宗家の8代目棟梁。足利貞氏の次男として生まれる。歴代当主の慣例に従い、初めは得宗・北条高時の偏諱を受け高氏「たかうじ」(源高氏)と名乗っていた。佐々木道誉も同時期に同様にして名乗った佐々木高氏(源高氏)と本姓(源氏)名前ともに同姓同名。共に鎌倉幕府を打倒した新田義貞は同族である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆国船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改める。
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409
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10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
452
鎌倉時代の足利宗家当主の通字は「氏」であったため、室町幕府の将軍15人の中で唯一「義」の字が諱に使われていない。 後醍醐天皇の新体制である建武の新政下で、持明院統に近く冷遇されていた貴族西園寺公宗と北条高時の弟泰家の反乱計画発覚など政情不安が続く中、鎌倉方の残党北条時行が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり、恩賞を独自に配布した。これを独自の武家政権を樹立する構えと解釈した天皇との関係が悪化、建武の乱が勃発した。箱根・竹下の戦いでは大勝するが、第一次京都合戦および打出・豊島河原の戦いで敗北し、一時は九州に都落ちしたものの、光厳上皇が尊氏に対し新田義貞追討の院宣を発給し、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧。光明天皇践祚を支援し、光明天皇より征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。一度は京に降った後醍醐天皇は、すぐ後、
409
813
丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改める。
325
409
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
453
吉野に脱出し南朝を創始することになった。 幕府を開いてのち、尊氏は是円・真恵兄弟らへの諮問のもと、その基本方針となる『建武式目』を発布。 征夷大将軍として幕府の軍事を取り仕切り守護を纏めた。これを支えた保守派の直義に対して、尊氏の執事高師直は執事施行状など尊氏の意を受け先進的な体制を取りいれていた。 後醍醐天皇の崩御後は、その菩提を弔うため天竜寺を建立し、全国の戦没者を弔うため66の安国寺利生塔を設立させた。その後、師直派と直義派との間で観応の擾乱が起こった。師直・直義の死により乱は終息したが、その後も南朝や実子の足利直冬など反対勢力の打倒に奔走し、晩年には政治にも手腕を発揮して統治の安定に努めた。 勅撰歌人である武家歌人としても知られ、『新千載和歌集』は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の『新続古今和歌集』まですべて将軍の執奏によることとなった。 尊氏は嘉元3年
813
1,228
再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧。光明天皇践祚を支援し、光明天皇より征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。一度は京に降った後醍醐天皇は、すぐ後、
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813
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
454
(旧暦)(1305年)、足利氏当主の貞氏の次男として生まれた。確実な生誕地は不明で、足利氏の本貫(名字の根拠の地)である下野国足利荘(栃木県足利市)・上杉氏の本貫である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(京都府綾部市上杉)・鎌倉幕府の本拠地である相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)などの説がある。京都の綾部安国寺には、足利尊氏が浸かったといわれる生湯の井戸や母・清子が男子出生を祈願した地蔵菩薩が残されており、尊氏の産着や毛髪なども保存されている。日本史研究者の清水克行によれば、当時の足利氏は幕府の実質的支配者である北条得宗家と友好関係を保つため鎌倉に活動拠点を移していたため、2013年時点では鎌倉誕生説が最も有力な見解とされてきたが、鎌倉での記録もないため、京都綾部誕生説か鎌倉誕生説かは未だ決着がつかないままとなっている。。 母は貞氏側室・上杉清子(兄に貞氏正室・北条顕時の娘が産んだ足利高義がいる)。
1,228
1,625
『新千載和歌集』は尊氏の執奏により後光厳天皇が撰進を命じたものであり、以後の勅撰和歌集は、二十一代集の最後の『新続古今和歌集』まですべて将軍の執奏によることとなった。 尊氏は嘉元3年
1,136
1,228
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
455
後世に編纂された『難太平記』では尊氏が出生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は尊氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説を伝えている。元応元年(1319年)10月10日、15歳にして従五位下に叙し治部大輔に任ぜられる。また、同日に元服をし、得宗・北条高時の偏諱を賜り高氏(通称は又太郎)と名乗ったとされる。足利氏の嫡男は「三郎」を名乗る決まりになっていたが、兄であり貞氏嫡男の高義の死後であるにもかかわらず「又太郎」と名付けられたのは、貞氏が北条氏との姻戚関係を重視し高義の遺児が家督を継承することを重視してのことと考えられる。。15歳での叙爵は北条氏であれば得宗家・赤橋家に次ぎ、大仏家・金沢家と同格の待遇であり、北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた。そして北条氏一族の有力者であった赤橋流北条氏の赤橋(北条)守時の妹・赤橋登子を正室に迎える。その後、守時は鎌倉幕府の執権となる。
1,625
2,033
鎌倉での記録もないため、京都綾部誕生説か鎌倉誕生説かは未だ決着がつかないままとなっている。。 母は貞氏側室・上杉清子(兄に貞氏正室・北条顕時の娘が産んだ足利高義がいる)。
1,540
1,625
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
456
元弘元年/元徳3年(1331年)、父・貞氏が死去すると、足利氏の家督は嫡流である兄・高義が父より先(高氏の元服以前)に亡くなっていたため、高氏が継ぐことになった。 元弘元年/元徳3年(1331年)、後醍醐天皇が2度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の乱)。鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加した。このとき、父・貞氏の喪中であることを理由に出兵動員を辞退したが許されなかった。『太平記』は、このことから高氏が幕府に反感を持つようになったとされる。また、足利氏は承久の乱で足利義氏が大将の1人として北条泰時を助けて勝利を導いて以来、対外的な戦いでは足利氏が大将を務めるのが嘉例とされ、幕府及び北条氏はその嘉例の再来を高氏に期待したもので、裏を返せば北条氏が足利氏に圧力を加えても決して滅ぼそうとはしなかった理由でもあった。勝利に貢献した高氏の名声は高まったが、
2,033
2,438
北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた。そして北条氏一族の有力者であった赤橋流北条氏の赤橋(北条)守時の妹・赤橋登子を正室に迎える。その後、守時は鎌倉幕府の執権となる。
1,943
2,033
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
457
不本意な出陣だったためか、同年11月他の大将を置いて朝廷に挨拶もせず、さっさと鎌倉へ戻っており、花園上皇を呆れさせている(『花園天皇宸記』)。 元弘の乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。後醍醐天皇も廃位され、代わって持明院統の光厳天皇が践祚した。元弘2年/正慶元年(1332年)3月には後醍醐天皇は隠岐島に配流された。幕府は高氏の働きに、従五位上の位階を与えることで報いた(『花園天皇宸記』裏書)。 正慶2年(元弘3年/西暦1333年)後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城した。高氏は当時病中だったが再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに司令官として上洛した。このとき、高氏は妻・登子、嫡男・千寿王(後の義詮)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。 高氏は京都への上洛途中、三河国八つ橋まで来たところで、
2,438
2,852
幕府及び北条氏はその嘉例の再来を高氏に期待したもので、裏を返せば北条氏が足利氏に圧力を加えても決して滅ぼそうとはしなかった理由でもあった。勝利に貢献した高氏の名声は高まったが、
2,350
2,438
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
458
幕府に謀反を起こすことを吉良貞義を含めた腹心に打ち明け、同意を得た。三河国で謀反の志を打ち明けた理由は、三河国が足利氏一族や被官が濃密に分布していたからであると考えられる。その後、海老名季行を密かに船上山へ参候させ、後醍醐により討幕の密勅を受け取った。 高氏らは上洛し、名越高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、4月29日、船上山と京都を繋ぐ山陰道の要衝であり、また千種忠顕軍が展開していた丹波国の篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。諸国に多数の軍勢催促状を発し、播磨国の赤松円心、近江国の佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、5月7日に六波羅探題を滅亡させた。この際、高氏は九州の薩摩国にまで催促状を出しているが、これは距離的に六波羅攻略のためでないのは明らかで、将来高氏自身が独立して政治を行う時のために九州の豪族を味方につけるのが目的だったと考えられる。関東では、
2,852
3,243
このとき、高氏は妻・登子、嫡男・千寿王(後の義詮)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。 高氏は京都への上洛途中、三河国八つ橋まで来たところで、
2,765
2,852
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
459
同時期に上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も尊氏の名代として参加している。一方、高氏の庶長子・竹若丸は伯父であり、走湯山密巌院別当だった覚遍に伴われて山伏姿で密かに上洛しようとしたが、途中で北条の手の者に捕られ、殺害されている。静岡市駿河区には竹若丸と従者を供養したと伝わる将軍塚が残り、付近の円福寺の将軍堂には竹若丸の騎馬像を胎内に納めた足利尊氏坐像が安置されている。 高氏が倒幕を決意した原因は、『太平記』や『梅松論』に見えるように、亡父の法要を満足にできぬまま出兵させられたことが1番に挙げられる。また足利氏は、建長2年(1250年)の閑院内裏造営や、建治元年(1275年)の六条八幡宮造営などで、多額の費用を負担させられており、北条氏による足利氏への経済的要求は他の御家人と比較して突出していた。加えて『吾妻鏡』には、
3,243
3,657
これは距離的に六波羅攻略のためでないのは明らかで、将来高氏自身が独立して政治を行う時のために九州の豪族を味方につけるのが目的だったと考えられる。関東では、
3,166
3,243
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
460
足利義氏と結城朝光が書状の書式をめぐって争った際、義氏が足利氏を源氏一門として別格であると主張したのに対し、朝光は御家人としての立場は変わらないと主張し、その論争に仲裁に入った幕府は朝光の主張を正当なものとした、という記述がある。この裁定は、御家人の中に特別な存在を認めることは幕府(=北条氏)にとって得策ではなかったからである。しかし、逆にこの出来事を『吾妻鏡』に記したことは、『吾妻鏡』が「北条氏得宗政権を正当化する弁解状だった」ように、こうした話を挿入すること自体に、北条氏が足利氏を特別視し、その立場に対する警戒心(足利氏を抑え込もうという意識)が現れているとも考えられる。 鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐天皇から勲功第一とされ、従四位下に叙され、鎮守府将軍・左兵衛督に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日には従三位に昇叙、武蔵守を兼ねるとともに、
3,657
4,058
建治元年(1275年)の六条八幡宮造営などで、多額の費用を負担させられており、北条氏による足利氏への経済的要求は他の御家人と比較して突出していた。加えて『吾妻鏡』には、
3,573
3,657
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
461
天皇の諱「尊治」から偏諱を受け尊氏と改名した。尊氏は建武政権において参議という中枢機関の要職に就き、足利家の執事である高師直、その弟・高師泰をはじめとする家臣も多数起用されたことから、後醍醐天皇からはかなり厚遇されていたようである。新政府の各種機関に名を連ねていないことで世間から「尊氏なし」と揶揄されたが、実際は奉行所をいち早く立ち上げ、後醍醐天皇の綸旨を受け通達する文書を多数出しており、更には後醍醐天皇の命により北条高時を供養するため宝戒寺の建立にも携わっていたことから、尊氏は建武政権時から既に武士を束ねるべく頭角を表していたと言える。 正慶2年(元弘3年/1333年)、義良親王(のちの後村上天皇)が陸奥太守に、北畠顕家が鎮守府大将軍に任じられて陸奥国に駐屯することになると、尊氏も、成良親王を上野太守に擁立して直義とともに鎌倉に駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった護良親王は、
4,058
4,474
従四位下に叙され、鎮守府将軍・左兵衛督に任ぜられ、また30箇所の所領を与えられた。元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日には従三位に昇叙、武蔵守を兼ねるとともに、
3,976
4,058
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
462
尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、建武元年(1334年)には父・後醍醐天皇の命で逮捕され、鎌倉の直義に預けられて幽閉の身となった。最期は中先代の乱で直義によって殺害された。 建武2年(1335年)信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、時行の軍勢は鎌倉を一時占拠する。直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良を殺害している。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、8月2日、天皇の許可を得ないまま4万の軍勢を率いて鎌倉に向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は直義の軍勢と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。 尊氏は、中先代の乱の戦後処理のため、また関東の防御を固めるため京都には戻らず鎌倉に留まった。上洛の命にも応じなかったため11月、後醍醐天皇は義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。
4,474
4,874
尊氏も、成良親王を上野太守に擁立して直義とともに鎌倉に駐屯させている。また、鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった護良親王は、
4,401
4,474
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
463
さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めていた。尊氏は赦免を求めて寺に蟄居し出家すべく断髪(一束切)するが、直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出陣する。『太平記』ではこの時、異形の尊氏が敵に狙われぬよう鎌倉中の武士が皆一切切になったという逸話が残っている。12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。建武3年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、
4,874
5,246
尊氏は、中先代の乱の戦後処理のため、また関東の防御を固めるため京都には戻らず鎌倉に留まった。上洛の命にも応じなかったため11月、後醍醐天皇は義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。
4,780
4,874
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
464
九州の大友近江次郎に出兵と上洛を命じた尊氏の花押入りの2月4日付軍勢催促状(「筑後大友文書」)から推測できる。だが、2月11日に摂津国豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津国兵庫から播磨国室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。 九州への西下途上、長門国赤間関(山口県下関市)で少弐頼尚に迎えられ、筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受ける。建武3年(延元元年/1336年)宗像大社参拝後の3月初旬、筑前国多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、大友貞順(近江次郎)ら天皇方勢力を圧倒して勢力を立て直した尊氏は、京に向かう途中の鞆で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。 尊氏は洛中をほぼ制圧したが、
5,246
5,636
1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。この時の尊氏が京都周辺に止まって反撃の機会を狙っていたことは、
5,182
5,246
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
465
このころ再び遁世願望が頭を擡げ8月17日に「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている。足利の勢力は、比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。和議に応じた後醍醐天皇は11月2日に光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲った。 1336年11月7日、尊氏は、明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟らへ諮問して『建武式目』十七条を定め、政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。内容が厳格なため直義の意向が強く働いたのではないかとする説があるが根拠はない。むしろ『建武以来追加』で尊氏は下知に従わない守護に対し将軍自ら裁定を下すことを沙汰しており、その厳格さがうかがえる。 実質的には、この『建武式目』をもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。一方、
5,636
6,050
西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。 尊氏は洛中をほぼ制圧したが、
5,552
5,636
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
466
後醍醐天皇は12月に京を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ、光明に譲った三種の神器は偽物であり自らが帯同したものが本物であると称して(北朝と南朝とのどちらが本物の三種の神器を保有していたかは不明)独自の朝廷(南朝)を樹立した。 新政権において、尊氏は軍事指揮権と恩賞権、そして守護の補任と、武士の棟梁として君臨し、その他の業務を直義と師直に任せた。 佐藤進一はこの状態を、主従制的支配権を握る尊氏と統治権的支配権を所管する直義との両頭政治であり、鎌倉幕府以来、将軍が有していた権力の二元性が具現したものと評価した(「室町幕府論」『岩波講座日本歴史7』岩波書店、1963年)。 しかし、室町幕府創設時は尊氏の発給文書は直義の3倍にも上り、『建武以来追加』には上記のとおり尊氏による御沙汰が多く反映されている。尊氏は建武の新政においても奉行所を設置し後醍醐天皇の勅命を受けその手腕を発揮しており、
6,050
6,449
その厳格さがうかがえる。 実質的には、この『建武式目』をもって室町幕府の発足とする。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。一方、
5,973
6,050
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
467
幕府の根幹となる事案は将軍である尊氏が担い、雑訴などの日常的な実務を直義が担っていたとする見解も出てきている。 幕府体制が落ち着くと次第に直義の発給数は増えてゆくが、その数は尊氏が最も多く出した発給数と比較しても6分の1と少なく、尊氏とほぼ同じか多くても2倍にも満たない。 また、直義が出した軍勢催促も尊氏が口頭で指示を出した旨が島津家文書に残されており、将軍という立場ゆえの上位下達の存在を無視するわけにはいかない。 暦応元年(1338年)、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は夢窓疎石に勧められ、「報恩謝徳」「怨霊納受」のため、光厳上皇の院宣で天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、元へ天龍寺船が派遣されている。さらに、光厳上皇の院宣をもとに、諸国に安国寺と利生塔の建立をさせた。南朝との戦いは基本的に足利方が優位に戦いを進め、北畠顕家、
6,449
6,861
『建武以来追加』には上記のとおり尊氏による御沙汰が多く反映されている。尊氏は建武の新政においても奉行所を設置し後醍醐天皇の勅命を受けその手腕を発揮しており、
6,371
6,449
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
468
新田義貞、楠木正成の遺児正行などが次々に戦死し、小田治久、結城親朝は南朝を離反して幕府に従ったほか、貞和4年(1348年)には高師直が吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの戦果をあげている。 対して直義も貞和元年あたりから直冬を養子に迎えたり神護寺に自身と尊氏の肖像画を奉納するなど自己顕示が活発化、師直との対立が目立つようになる。 この頃直義は異様に大きな花押を書いているが、これを直義の自信からくる権威の現れと見るか、認めてもらいたいとするフラストレーションと見るか意見が分かれている。 高師直が数々の功績をあげ、尊氏に最も近い存在へと登り詰めるなか上杉重能などがこれに反発。直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当然、幕府として内紛を抑えるべく中立的立場を取っていた。貞和5年(1349年)、
6,861
7,237
造営費を支弁するため、元へ天龍寺船が派遣されている。さらに、光厳上皇の院宣をもとに、諸国に安国寺と利生塔の建立をさせた。南朝との戦いは基本的に足利方が優位に戦いを進め、北畠顕家、
6,772
6,861
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
469
直義が師直を襲撃しようとするも師直側の反撃を受けた直義が逃げ込んだ尊氏邸を師直の兵が包囲し、直義の引退を求める事件が発生した(御所巻)。直義は出家し政務を退くこととなった。直義の排除には師直・尊氏の間で了解があったとか、直義の師直襲撃にも尊氏が言質を与えていたとする説もあるが共に根拠はなく、むしろ尊氏は「世間の噂、人々の舌端は畏るべし」と周囲に惑わされる直義を諭し仲裁に勤めていた。 師直は直義に代わって政務を担当させるため尊氏の嫡男・義詮を鎌倉から呼び戻し、尊氏は代わりに次男・基氏を下して鎌倉公方とし、東国統治のための鎌倉府を設置した。 直義の引退後、尊氏庶子で直義猶子の直冬が九州で直義派として勢力を拡大していたため、尊氏は師直や守護に命じて直冬に出家し上洛するよう勧めたが直冬はこれに応じなかった。 観応元年(1350年)、直冬討伐のため尊氏は自ら中国地方へ遠征した。 すると直義は京都を脱出して南朝に降伏し、桃井直常、
7,237
7,652
直義派の対立として現れていく。この対立はついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。尊氏は当然、幕府として内紛を抑えるべく中立的立場を取っていた。貞和5年(1349年)、
7,151
7,237
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
470
畠山国清ら直義派の武将たちもこれに従った。直義の勢力が強大になると、義詮は劣勢となって京を脱出し、京に戻ろうとした尊氏も光明寺合戦や打出浜の戦いで敗れた。尊氏は高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件に直義と和睦し、観応2年(正平6年/1351年)に和議が成立した。尊氏は直義と師直の争いを利用して巧みに両者を排除したのではないかとする説があるが、観応2年3月6日に直義の錦小路邸を訪れた際、宴席で「師直の死を惜しみ誅死に立腹の言動あるも大事に至らず」と園太暦にその一連の様子が残されており、観応の擾乱における尊氏の立ち位置はあくまで幕府として内乱を抑えたに過ぎないと考えるべきであろう。 直義は義詮の補佐として政務に復帰した。この一連の戦の勝者は直義、敗者は尊氏であるとする見方もあるが、勅命も将軍の許しもない直義派の戦は単なる幕府に対する謀叛である。当然尊氏は幕府として将軍の裁定を下すべく、
7,652
8,047
観応元年(1350年)、直冬討伐のため尊氏は自ら中国地方へ遠征した。 すると直義は京都を脱出して南朝に降伏し、桃井直常、
7,591
7,652
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
471
論功行賞では尊氏派の武将の優先を直義に約束させ、高兄弟を滅ぼした上杉能憲の死罪を主張し、直義との交渉の末これを流罪にした。また謁見に現れた直義派の細川顕氏を降参人とみなし太刀を抜いて激怒するなど、勝ち戦で上機嫌だった顕氏は尊氏の迫力に気圧され一転して恐怖に震えたという。 尊氏の恩情で復帰した直義も、その保守的で頑な性格と、一連の騒動、また尊氏や義詮を支える幕府や守護が既に脇を固めていたこともあり、次第に孤立し出奔した。この頃の無気力な直義は、生真面目が故の燃え尽き症候群に陥っていたのではないかとする見解もある。 尊氏は佐々木道誉の謀反を名目に近江へ、義詮は赤松則祐の謀反を名目として播磨へ、京の東西へ出陣する形となったが、佐々木や赤松の謀反の真相は不明で(後に彼らは尊氏に帰順)、尊氏は南朝と和睦交渉を行い停戦に持ち込んでいる。この動きに対して直義は京を放棄して北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。
8,047
8,446
この一連の戦の勝者は直義、敗者は尊氏であるとする見方もあるが、勅命も将軍の許しもない直義派の戦は単なる幕府に対する謀叛である。当然尊氏は幕府として将軍の裁定を下すべく、
7,963
8,047
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
472
尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立し、この和睦によって尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得たが、尊氏自身がかつて擁立した北朝の崇光天皇は廃されることになった(正平一統)。そして尊氏は直義を追って東海道を進み、薩埵峠の戦い (南北朝時代)(静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)の戦いなどで撃ち破り、交渉の末直義と共に鎌倉に帰還した。直義は、観応3年(正平7年1352年)2月26日、高師直の一周忌に急死したとされているが、『鎌倉九代後記』では2月25日の基氏元服前とも記録されており、翌日の幕府の通達によって2月26日と記録されたとの見解もある。 『太平記』では毒殺の疑いを匂わせるように描かれたが、この「毒殺の噂」に言及しているのは『太平記』だけであり真相は不明である。 清水克行は尊氏の毒殺説を支持しているが、度重なる和睦交渉の末共に鎌倉へ帰還している尊氏がわざわざ師直の命日に暗殺を企てるとは無理があり、
8,446
8,857
佐々木や赤松の謀反の真相は不明で(後に彼らは尊氏に帰順)、尊氏は南朝と和睦交渉を行い停戦に持ち込んでいる。この動きに対して直義は京を放棄して北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。
8,361
8,446
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
473
また執着心からは程遠い尊氏の性格からしてあり得ない。万が一毒殺とするなら師直派の残党による遺恨を疑うべきであろう。 なお、観応の擾乱前夜の貞和5年(1349年)後半ごろから、薨去数年前の文和4年(1355年)後半ごろまで、尊氏は将軍自ら政務を行い、嫡子の義詮と共同統治を行った。日本史研究者の森茂暁と亀田俊和はこの時期の尊氏・義詮の政治的手腕を高く評価している。しかし、室町幕府創設時には尊氏の発給文書は直義の3倍にも上り、建武以来追加には尊氏による御沙汰が多く反映されている。建武の新政においても奉行所を開設し後醍醐天皇の勅命を受ける立場にあり、観応の擾乱から突然政治的手腕を発揮したというのは無理があると言えよう。近年、佐藤進一氏が提言した二頭政治への矛盾が指摘されており、尊氏が直義や師直亡き後、統治を滞りなく進められたのも、幕府の根幹となる事案は将軍である尊氏が担い、
8,857
9,245
清水克行は尊氏の毒殺説を支持しているが、度重なる和睦交渉の末共に鎌倉へ帰還している尊氏がわざわざ師直の命日に暗殺を企てるとは無理があり、
8,788
8,857
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
474
雑訴を含む日常的実務を直義が担っていたと考えた方が自然である。 尊氏が京を不在にしている間に南朝方との和睦は破られた。宗良親王・新田義興・義宗・北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を破って鎌倉を奪還した(武蔵野合戦)。 一方、畿内でも南朝勢力が義詮を破って京を占拠、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致し、更に尊氏は唯一無二の天皇となった後村上天皇により将軍を解任されたため、足利政権の正当性は失なわれるという危機が発生する。しかし近江へ逃れた義詮はすぐに京を奪還し(八幡の戦い)、9月には佐々木道誉が後光厳天皇擁立に成功した為北朝が復活、尊氏が将軍に返り咲いたことにより、足利政権も正当性を取り戻した。しかし今度は、佐々木道誉と対立して南朝に下った山名時氏と楠木正儀が京を襲撃して、義詮を破り京を占拠した。
9,245
9,634
近年、佐藤進一氏が提言した二頭政治への矛盾が指摘されており、尊氏が直義や師直亡き後、統治を滞りなく進められたのも、幕府の根幹となる事案は将軍である尊氏が担い、
9,166
9,245
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
475
尊氏は義詮の救援要請をうけ後光厳天皇のいる仮御所(垂井頓宮)を参内、義詮と合流してともに京を奪還した。 文和3年(1354年)には直冬を奉じた旧直義派による京への大攻勢を受けるが、これを撃退して京を奪還した。この一連の合戦では神南での山名氏勢力との決戦から洛中の戦に到るまで道誉と則祐の補佐をうけた義詮の活躍が非常に大きかったが、最終的には東寺の直冬の本陣に尊氏の軍が自ら突撃して直冬を敗走させた。尊氏はこの際自ら直冬の首実検をしているが結局討ち漏らしている。 尊氏は島津師久の要請に応じて自ら直冬や畠山直顕、懐良親王の征西府の討伐を行なうために九州下向を企てるが、義詮に制止され果せなかった。延文3年(1358年)4月30日、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)で薨去した。死因は背中の腫れ物である。 『後深心院関白記』によると延文3年(1358年)5月2日庚子の条に、尊氏の葬儀が真如寺 (京都市) で行われたとあり、
9,634
10,047
尊氏が将軍に返り咲いたことにより、足利政権も正当性を取り戻した。しかし今度は、佐々木道誉と対立して南朝に下った山名時氏と楠木正儀が京を襲撃して、義詮を破り京を占拠した。
9,549
9,634
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
476
5月6日甲辰の条の初七日からの中陰法要は、等持院において行われたことがわかる。 墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。これを反映して死後の尊氏は、京都では「等持院」、関東では「長寿院」と呼び表されている。 そして、尊氏の死から丁度百日後に、孫の義満が生まれている。 尊氏の人間的な魅力を、個人的に親交のあった夢窓疎石が次の3点から説明している(『梅松論』)。 1つ、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。 2つ、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。 3つ、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。 1つ目の戦場での勇猛さだが、
10,047
10,443
死因は背中の腫れ物である。 『後深心院関白記』によると延文3年(1358年)5月2日庚子の条に、尊氏の葬儀が真如寺 (京都市) で行われたとあり、
9,974
10,047
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
477
ある戦場で矢が雨のように尊氏の頭上に降り注ぎ、近臣が危ないからと自重を促すと、「やはり」尊氏は笑って取り合わなかったという。『源威集』でも、文和4年(1355年)の東寺合戦で危機的状況に陥った際、尊氏は「例の笑み」を浮かべ、「合戦で負ければそれでお終いなのだから、敵が近づいてきたら自害する時機だけを教えてくれればよい」と答え全く動揺することがなかった、という。『源威集』の著者は「たとえ鬼神が近づいてきたとしても、全く動揺する気配がない」と尊氏の胆力を褒めちぎっている。 2つ目の敵への寛容さも、畠山国清や斯波高経など一度敵方に走ったものでも、尊氏は降参すればこれを許容し、幕閣に迎えている。 3つ目の部下への気前の良さは、『梅松論』にある八朔の逸話によって窺い知ることができる。当時、旧暦の8月1日に贈答しあう風習が流行し、尊氏のもとには山のように贈り物が届けられた。しかし、尊氏は届いたそばから次々と人にあげてしまうので、
10,443
10,857
金銀すらまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。 1つ目の戦場での勇猛さだが、
10,354
10,443
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
478
結局その日の夕方には尊氏のもとに贈り物は何一つ残らなかったという。 こうした姿勢は戦場でも同様で、尊氏は戦場で功績を上げた者を見ると、即座に恩賞を約束する感状を多く発給し家臣を安心させている。中には軍忠状が提出された即日に発給された感状もあり、この即時性がもたらす効果は幕府の求心力にも繋がった。また、佩用していた腰刀を直接家臣二人に与えたり、自らの母衣を引きちぎりカタバミの紋を与えたり、自身が所用する軍 を与えるなど、武家の棟梁らしいカリスマ的な行動が多く伝えられている。。一方、七条合戦で瀕死の重傷を負った那須資藤が尊氏の前に運ばれてきたとき、尊氏は目に涙を浮かべひたすら資藤の忠義に感謝したという(『源威集』)。また、尊氏は鎧が目立つため家臣から陣の後方に下がるよう勧められても、敵が迫るなか退避のために乗馬するよう献言されても一向に引かず、自ら最前線に立ち、命をかけて戦う武士たちを鼓舞し続けたという。
10,857
11,264
当時、旧暦の8月1日に贈答しあう風習が流行し、尊氏のもとには山のように贈り物が届けられた。しかし、尊氏は届いたそばから次々と人にあげてしまうので、
10,784
10,857
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
479
こうした無欲で家臣想いな尊氏に家臣たちは、みな「命を忘れて死を争い、勇み戦うことを思わない者はいなかった」といい(『梅松論』)、これが尊氏最大の人間的魅力だった。 一方、朝敵となることを避けるため出家をしたり(『太平記』)、直義や南朝との停戦を試みるなど(観応の擾乱)、恭順や交渉で戦を回避する、政治家としての側面も待ち合わせている。 武力で権威を保持してきた鎌倉幕府や建武政権とは異なり、尊氏の慎重で温厚な人柄こそが室町幕府の存続に不可欠だったとも言える。 『等持院殿御遺書』には、『一老子ノ敎ヲ學デ、一切ノ上ニ得失ヲ沙汰スベシ、取事アレバ捨事アリ、得者ハ必失ト云リ、爰ヲ以見ヨ、賦歛ヲ重ジ臨時ノ課役ヲ掛民ヲ貪、其得則バ大ヒニ失アラン、亦諸國公納取事多バ、必大利ヲ捨事アラン』 “老子の教えを学び、一切の得失を沙汰せよ。得るところあれば、捨つるところあり。何かを得れば必ず何かが失われる。これを忘れるな。臨時の税を民に掛ければ、
11,264
11,679
尊氏は鎧が目立つため家臣から陣の後方に下がるよう勧められても、敵が迫るなか退避のために乗馬するよう献言されても一向に引かず、自ら最前線に立ち、命をかけて戦う武士たちを鼓舞し続けたという。
11,170
11,264
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
480
大いなる失が起こる。諸国の税を重くすれば、大利を捨てるとこころえよ” 天下人でありながら欲から一線を引いた尊氏の生涯の行動は、老子の風を思わせるものが多い。 尊氏は正月の書き初めでも、毎年「天下の政道、私あるべからず。生死の根源、早く切断すべし」と書いたと伝えられる。 以下に尊氏の性格を評した一文を掲載する。 彼は人生の存在を、根柢的に悲劇と見、避けがたい惡の宿命として觀念しながら大乘的の止揚によつて、また一切の存在を必然として肯定した。それ故に彼の場合は、敵も味方も悲劇であり、戰爭そのものが痛ましい宿命だつた。世に憎むべき人間は一人もなく、「敵」といふ言葉すらが、尊氏にとつては不可解だつた。  さうした尊氏の外貌は、彼を理解しない武人等の眼に、おそらく馬鹿な「好人物」として見えたであらう。そして人々は彼を利用し、自己の野心の傀儡にした。既にして利用を終れば、忽ちまたこれを棄て、今日の味方は明日の敵となつて叛逆した。
11,679
12,093
必大利ヲ捨事アラン』 “老子の教えを学び、一切の得失を沙汰せよ。得るところあれば、捨つるところあり。何かを得れば必ず何かが失われる。これを忘れるな。臨時の税を民に掛ければ、
11,593
11,679
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足利尊氏
83
481
實に尊氏の一生は、忘恩者と裏切者との不斷の接戰に一貫して居る。  彼はその最後まで、自己の欲しない戰を戰ひながら、宿命の悲劇を嘆き續けて生きたのである。 正室であった赤橋登子所生(義詮・基氏・鶴王)以外の子に対して冷淡であったかのような見方がされているが、谷口研吾は、これは正室である登子の意向によるものであり、その背景として実家(赤橋流北条氏)という後ろ盾を失った彼女が自身とその子供たちを守るために他の女性の子供を排除せざるを得なかったからとする。 しかし登子が政治の表舞台に登場する記録は一切なく、足利氏は鎌倉時代から嫡流以外を仏門や他家に輩出することで勢力を拡大しており、直冬だけが冷遇されてきた訳ではない。 また還俗前の直冬は北条家ゆかりの東勝寺の喝食として格別の待遇を受けていた。鎌倉幕府の滅亡がなければ仏門で将来を約束されていたはずである。 尊氏が義詮を嫡子として家督相続の混乱を回避していたにもかかわらず、
12,093
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おそらく馬鹿な「好人物」として見えたであらう。そして人々は彼を利用し、自己の野心の傀儡にした。既にして利用を終れば、忽ちまたこれを棄て、今日の味方は明日の敵となつて叛逆した。
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足利尊氏
83
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直義が尊氏の意向に背き直冬を養子に迎え観応の擾乱をより複雑にさせたことが問題であるといえる。 1960年代、歴史研究者の佐藤進一は尊氏を双極性障害(1960年代当時の呼称は躁鬱病)ではないかと推測していた。 佐藤は、尊氏が中先代の乱の鎮圧に後醍醐天皇の許可なしに向かう途上で、既に後醍醐への反乱を計画していたと想定した。そして、その後それにもかかわらず尊氏は素直に後醍醐の召還命令に応じようとしたり、いざ後醍醐との戦いである建武の乱が発生すると鎌倉の浄光明寺に引きこもってしまったことなどを挙げ、その行動の矛盾点を指摘した。佐藤は尊氏の行動を歯切れが悪いと批判し、その行動矛盾の理由について、天皇に反乱してはならないという日本古来の「番犬思想」とこの時代に舶来した儒学的易姓革命思想の板挟みになったことや、後醍醐との個人的親近感に基づく解釈などを取り上げている。 さらに、佐藤は、尊氏の父の貞氏の発狂歴や、
12,504
12,907
鎌倉幕府の滅亡がなければ仏門で将来を約束されていたはずである。 尊氏が義詮を嫡子として家督相続の混乱を回避していたにもかかわらず、
12,439
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足利尊氏
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483
祖父の家時の自殺伝説(いわゆる置文伝説)、そして曾孫の義教の性格などを挙げ、足利将軍家の血筋を「異常な血統」と評している。そして、尊氏の行動の複雑さは、双極性障害が遺伝的に受け継がれたものであると主張した。 その後2010年代に、歴史研究者の呉座勇一は佐藤の説を強く否定し、当時の史料に基づく限り、尊氏の行動は後醍醐への忠誠心と直義への兄弟愛で終始一貫しており、異常であるのはむしろ佐藤の不自然な想定の方であるとした。 呉座はまず第一に、精神医学の専門家ではない者が十分な証拠もなしに「双極性障害は遺伝的なものである」「患者の行動は常人には理解できないほど異常である」と決めつけることは、現実の患者への差別・偏見を招く恐れがあり、慎重になるべきであるとする。 第二に、佐藤が尊氏の行動に「番犬思想」として歯切れの悪さを感じるのは、佐藤ら戦後すぐの歴史研究者たちに政治的偏向による先入観がかかっていたからであると主張する。実際には、
12,907
13,322
後醍醐との個人的親近感に基づく解釈などを取り上げている。 さらに、佐藤は、尊氏の父の貞氏の発狂歴や、
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12,907
10002
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足利尊氏
83
484
史料的に尊氏が後醍醐への反乱を意図していたと確証するものはない。むしろ、『梅松論』(14世紀半ば)は、中先代の乱参戦を「天下のため」「弟の直義を救うため」とし、建武の乱で引きこもりをやめて後醍醐に対峙したのも弟を救うためにやむを得ずとしており、呉座も『梅松論』説を支持する。呉座の推測によれば、尊氏は天下や後醍醐のために良かれと思って独断で行動していたが、厳密な許可を得ずとも後醍醐は自分の行動を追認してくれるだろうと楽観視しており、そこに尊氏と後醍醐の行き違いがあったのだという。つまり、佐藤の側に尊氏は当初から後醍醐への反乱を計画していたという先入観があるために、その行動が佐藤視点ではどっちつかずとして複雑に見えたのではないか、と主張した。 観応の擾乱前の室町幕府の政治体制については、幕府の九州探題(九州方面軍総指揮官)を務めた今川了俊の『難太平記』に、世人は尊氏を「弓矢の将軍」と称し、
13,322
13,720
第二に、佐藤が尊氏の行動に「番犬思想」として歯切れの悪さを感じるのは、佐藤ら戦後すぐの歴史研究者たちに政治的偏向による先入観がかかっていたからであると主張する。実際には、
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直義は「政道」を任されたとあることから、一般に、擾乱前は、軍事を担当とする足利尊氏と政治を担当する足利直義の二頭政治が取られていたという理解が定説となっている。第二次世界大戦後、佐藤進一はこの説をさらに深化させ、尊氏は主従制的支配権(人を支配する権限)を、直義は統治的支配権(領域を支配する権限)を持っており、質的差異があったのではないか、と指摘した。 これに対し、呉座勇一は、「二頭政治」という呼び方では、両者の権限が拮抗していたかのような誤解を与えるのではないか、『難太平記』のも両者の関係にほころびが生じてからの描写であり、平時のものとは言い難い、と指摘した 。 亀田俊和も呉座に同意し、(足利義満の「室町殿」体制になぞらえて)下京三条坊門高倉に住む直義を中心とする「三条殿」体制と言って良いのではないか、とした。また、亀田は室町幕府初期の政治体制は建武政権末期の政治体制(後醍醐天皇が恩賞を与え、
13,720
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と主張した。 観応の擾乱前の室町幕府の政治体制については、幕府の九州探題(九州方面軍総指揮官)を務めた今川了俊の『難太平記』に、世人は尊氏を「弓矢の将軍」と称し、
13,639
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訴訟は雑訴決断所が行う)と似通っていることを指摘し、尊氏は後醍醐天皇の施策を意識的に継承し、尊氏が後醍醐天皇の権限(恩賞給付能力、政体の新たな力を創造する能力)を、直義が雑訴決断所の権限を担当することになったのではないか、とした(ただし、尊氏が理想としたのは建武政権ではなく、建武式目に見えるように「北条義時・北条泰時の執権政治」であり、実際は頼朝の幕府体制に遡っている)。 しかし、尊氏は元弘以来、建武の新政、室町幕府創立期と多くの発給文書を出しており、高師直が担当した膨大な執事施行状には全て尊氏の意志が反映されている。室町幕府発足時には建武式目の制定や守護や地頭の補任など幕府の根幹となる政策を自ら行なっている。建武5年に通達された『建武以来追加』の冒頭で尊氏は守護の在り方について厳しい見解を述べ(御沙汰)、更に暦応3年の御沙汰では施行不能に陥った場合将軍自ら裁決することとし、
14,122
14,515
とした。また、亀田は室町幕府初期の政治体制は建武政権末期の政治体制(後醍醐天皇が恩賞を与え、
14,076
14,122
10002
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足利尊氏
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康永3年の足利尊氏自筆消息(島津家文書)には直義に命令を下した旨が書かれており、国家的事案における尊氏の最高権力者としての権限が示唆されている。 尊氏が将軍として評定や内談方を凌ぐ最高の権限を有していたことは幕府として当然のことであり、また直義が雑訴など日常的な執務を担うことで将軍である尊氏を支える立場にあったーこれは源頼朝が武士の棟梁として幕政を行っていた鎌倉幕府初期の体制を尊氏が意識していたことからも明らかであり、事実室町幕府は将軍と守護の関係がより強固となってゆく。 佐藤進一による二頭政治も呉座勇一説や亀田俊和説も、直義の雑訴業務を幕府の最高指導者とするには確証がなく、観応の擾乱における尊氏の権力保持を裏付けるには矛盾が生じる。 尊氏は、武将、政治家としてだけでなく、芸術家としても足跡を残している人物で、取り分け室町時代を代表する武家歌人として名高い[要出典]。
14,515
14,905
建武5年に通達された『建武以来追加』の冒頭で尊氏は守護の在り方について厳しい見解を述べ(御沙汰)、更に暦応3年の御沙汰では施行不能に陥った場合将軍自ら裁決することとし、
14,431
14,515
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足利尊氏
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連歌については『菟玖波集』に68句が入集しており武家では道誉に次ぎ二番目に多く入集している。 専ら連歌に専念した道誉と異なり和歌についても足跡が多く、『続後拾遺和歌集』(正中3年(1326年))から『新続古今和歌集』(永享11年(1439年))まで、6種の勅撰集に計86首の和歌が入撰している。幕府成立初期、観応の擾乱前の心境を詠んだものとして、『風雅和歌集』(貞和2年(1346年))では、「いそぢまで まよひきにける はかなさよ ただかりそめの 草のいほりに〈前大納言尊氏〉」とあって、50歳になっても(実際は『風雅和歌集』完成時まだ数え47歳)まだ自身に迷いのあることを嘆き遁世を願っており、尊氏の性格や当時の政局を窺える歌となっている。 また、『新千載集』を企画し、勅撰集の武家による執奏という先例を打ち立てた[要出典]。 源頼義父子が名人として知られていた笙を豊原龍秋から学び、
14,905
15,299
尊氏は、武将、政治家としてだけでなく、芸術家としても足跡を残している人物で、取り分け室町時代を代表する武家歌人として名高い[要出典]。
14,836
14,905
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足利尊氏
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後醍醐天皇の前でも笙を披露している(『続史愚抄』建武2年5月25日条)。後に後光厳天皇も尊氏に倣って龍秋から笙を学んだ(『園太暦』延文3年8月6・8・14日条)。 地蔵菩薩や達磨大師を描いた水墨画も伝わっており、画才にも優れた人物だった。この他にも扇流しの元祖であるというエピソードもある。 真言宗においては第65代醍醐寺座主の三宝院賢俊を崇敬し、武家護持僧(祈祷の霊力で将軍を守護する僧)とした。賢俊は公卿日野俊光の子だったため、これが後の足利将軍家と日野家の縁戚関係の端緒となった。賢俊入滅にあたっては、その四十九日供養に、尊氏自ら筆を取って『理趣経』を写したが、この写本(醍醐寺蔵)は重要文化財に指定されている。 天台宗においては、後醍醐天皇の側近の一人だった恵鎮房円観に帰依した。尊氏は、北条高時を鎮魂する寺社を作るようにという後醍醐の勅命を受け継いで鎌倉に宝戒寺を建立し、円観をその名目上の開山としている。円観はまた、
15,299
15,713
尊氏の性格や当時の政局を窺える歌となっている。 また、『新千載集』を企画し、勅撰集の武家による執奏という先例を打ち立てた[要出典]。 源頼義父子が名人として知られていた笙を豊原龍秋から学び、
15,204
15,299
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
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史上最大の軍記物語『太平記』の原型である『原太平記』(散逸)の編纂を指揮した人物とみられている。 臨済宗においては、後醍醐天皇が抜擢した夢窓疎石に深く帰依し、後醍醐崩御後はその鎮魂のために天龍寺を建立させた。夢窓はまた世界的作庭家としても著名である。 真言律宗においては、後醍醐天皇の庇護を受けた浄土寺(広島県尾道市)を尊氏もまた庇護した。 また、京都の鞍馬山、奈良の信貴山と並ぶ、 日本三大毘沙門天のひとつである足利市の大岩毘沙門天を信仰していた。 尊氏は、足利氏重代の薙刀である骨食(ほねかみ)を愛刀としていた。この武具は本阿弥家の鑑定では、鎌倉時代の藤四郎吉光の作とされる。 『梅松論』下に、延元元年/建武3年3月2日(1336年4月13日)の多々良浜の戦いに臨む尊氏の武具について、「将軍其日は筑後入道妙恵が、頼尚を以進上申たりし赤地の錦の御直垂に、唐綾威の御鎧に、御剣二あり。一は御重代の骨食也。重藤の御弓に上矢をさゝる。
15,713
16,129
後醍醐天皇の側近の一人だった恵鎮房円観に帰依した。尊氏は、北条高時を鎮魂する寺社を作るようにという後醍醐の勅命を受け継いで鎌倉に宝戒寺を建立し、円観をその名目上の開山としている。円観はまた、
15,618
15,713
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https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
83
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御馬は黒粕毛、是は宗像の大宮司が昨日進上申たりしなり」とあるのが、足利氏の骨食(骨喰)についての古い記述である。 また、同時代史料である『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』(鎌田妙長、長享元年)に、長享元年(1487年)9月12日、第9代将軍足利義尚が六角高頼征伐のため近江国坂本に出陣した際、小者に「御長刀ほねかみと申す御重代をかつ」がせていたとあることから、骨食が薙刀であったこと、尊氏以降は足利将軍家重代の武器として伝えられていたこと、「ほねかみ」と訓まれていたことなどがわかる。 のち大脇差に磨り上げられ、骨喰(ほねばみ)として知られるようになり、大友家・豊臣家・徳川家・大日本帝国政府などの手を経て、大正末期に豊国神社の所有となり、旧国宝(現在の重要文化財)に指定されている。 建武3年(1336)立花家の先祖が足利尊氏に従い武勲をたてた際、尊氏から拝領したと伝わる短刀。国宝。 前記の『梅松論』より時代が下るものの、
16,129
16,544
「将軍其日は筑後入道妙恵が、頼尚を以進上申たりし赤地の錦の御直垂に、唐綾威の御鎧に、御剣二あり。一は御重代の骨食也。重藤の御弓に上矢をさゝる。
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10002
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足利尊氏
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492
第8代将軍足利義政の同朋衆だった能阿弥の『能阿弥本銘尽』(現存最古の写本は文明15年(1483年)成立)によれば、尊氏は京都へ上洛する途上、長船派の刀工の兼光を取り立て、屋敷を与えたという 。備前長船兼光の作品は、後世には最上大業物の一つに数えられるほど斬れ味の良い刀である。 なお、世間的に流布している説では、建武の乱で九州落ちする尊氏を支援するため兼光が名刀を献上したとか、兼光が尊氏に献上した刀は甲冑をも両断する名刀「兜割り」であったとか伝えられるが、前者は『備陽国志』・後者は『備前軍記』など近世以降の文献に現れる物語である。 白糸褄取威大鎧(兜・袖欠)および黒韋腰白威筋兜は、足利尊氏が篠村八幡宮に奉納したとの伝承を持つ鎧だが、明治末期、京都からアメリカに流出した。メトロポリタン美術館所蔵。 萩原朔太郎 『萩原朔太郎全集 第九卷』で、萩原は尊氏を、 彼は人生の存在を、根柢的に悲劇と見、
16,544
16,943
旧国宝(現在の重要文化財)に指定されている。 建武3年(1336)立花家の先祖が足利尊氏に従い武勲をたてた際、尊氏から拝領したと伝わる短刀。国宝。 前記の『梅松論』より時代が下るものの、
16,451
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避けがたい惡の宿命として觀念しながら大乘的の止揚によつて、また一切の存在を必然として肯定した。それ故に彼の場合は、敵も味方も悲劇であり、戰爭そのものが痛ましい宿命だつた。世に憎むべき人間は一人もなく、「敵」といふ言葉すらが、尊氏にとつては不可解だつた。  さうした尊氏の外貌は、彼を理解しない武人等の眼に、おそらく馬鹿な「好人物」として見えたであらう。そして人々は彼を利用し、自己の野心の傀儡にした。既にして利用を終れば、忽ちまたこれを棄て、今日の味方は明日の敵となつて叛逆した。實に尊氏の一生は、忘恩者と裏切者との不斷の接戰に一貫して居る。  彼はその最後まで、自己の欲しない戰を戰ひながら、宿命の悲劇を嘆き續けて生きたのである。 底本:「萩原朔太郎全集 第九卷」筑摩書房    1976(昭和51)年5月25日初版発行 尊氏を逆賊とする評価は、江戸時代に徳川光圀が創始した水戸学に始まる。
16,943
17,339
明治末期、京都からアメリカに流出した。メトロポリタン美術館所蔵。 萩原朔太郎 『萩原朔太郎全集 第九卷』で、萩原は尊氏を、 彼は人生の存在を、根柢的に悲劇と見、
16,863
16,943
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https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
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水戸学は朱子学名分論の影響を強く受けており、皇統の正統性を重視していた。そのため、正統な天皇(後醍醐天皇)を放逐した尊氏は逆賊として否定的に描かれることとなった。水戸学に発する尊氏観はその後も継承され、尊王思想が高まった幕末期には尊皇攘夷論者によって等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件も発生している(足利三代木像梟首事件)。 1934年(昭和9年)、斎藤実内閣の商工大臣で男爵だった中島久万吉は、足利尊氏を再評価すべきという過去の文章を発掘されて野党からの政権批判の材料とされ、大臣職を辞任した(「中島久万吉」項目参照)。 森茂暁は、一次史料による実証的分析を通して、尊氏が数多くの発給文書を残していることを指摘し、尊氏が鎌倉将軍とは違って最高指導者としての親裁権を活用し、動乱の苦難と産みの苦しみを乗り越えて室町幕府のおおよその骨格を形作った人物であると述べた。そして、
17,339
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底本:「萩原朔太郎全集 第九卷」筑摩書房    1976(昭和51)年5月25日初版発行 尊氏を逆賊とする評価は、江戸時代に徳川光圀が創始した水戸学に始まる。
17,259
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足利尊氏
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南北朝の動乱の群像でも最も中心的な役割を果たした存在とし、南北朝時代は現代に繋がる日本文化の原型とされるのであるから、その時代の骨格を作った尊氏は「日本文化の実質的な開創者の一人といっても過言ではない」と評した。 亀田俊和は、『源威集』で、観応の擾乱後の尊氏が「征夷大将軍の名に恥じない立派な大将」として書かれているとし、武家故実に詳しい武田信武の8年前の兵装を記憶していてそれを評価した描写を取り上げ、尊氏のカリスマが高かったのは、単に経済的利益給与に気前が良かっただけではなく、こうした部下への細やかな観察と適切な評価にも優れていたことも特長なのでないか、とした。そして、室町幕府がまがりなりにも200年以上続く長期政権となったのは、尊氏が「諸政策の恩賞化」によって、「努力が報われる政治」を行ったことが主な理由なのではないか、とした。亀田はこのような尊氏の能力を観応の擾乱で必要に迫られ覚醒したと述べているが、
17,733
18,141
尊氏が鎌倉将軍とは違って最高指導者としての親裁権を活用し、動乱の苦難と産みの苦しみを乗り越えて室町幕府のおおよその骨格を形作った人物であると述べた。そして、
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17,733
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https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
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建武政権や室町幕府発足における尊氏の発給文書の数は直義や師直の数とは比べものにならないほど多く、元々備わっていた能力とすべきである。足利氏の棟梁であり参議もこなしていた尊氏が、将軍職に就くことで、その一部の政務を直義と師直に分配したに過ぎない。 今東光は『毒舌日本史』[要ページ番号]で、子孫が困るほど気前が良い人物であるとし、戦国時代に生まれていれば上杉謙信や武田信玄よりも器量は上で織田信長と対抗できるとも評している。また、尊氏の天下を認めようとしなかった後醍醐天皇を暗に批判している。 歴史小説家の海音寺潮五郎は「武将列伝」で、井沢元彦は「逆説の日本史」で、後醍醐天皇にとどめを刺さなかった点や内部抗争の処理に失敗した点を突き、「人柄が良くカリスマは高いが、組織の運営能力の点では源頼朝や徳川家康に劣っている」「戦争には強いが政治的センスはまるでない」と評価している。
18,141
18,529
尊氏が「諸政策の恩賞化」によって、「努力が報われる政治」を行ったことが主な理由なのではないか、とした。亀田はこのような尊氏の能力を観応の擾乱で必要に迫られ覚醒したと述べているが、
18,052
18,141
10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
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今川貞世(了俊)の『難太平記』(応永9年(1402年))によれば、足利氏の先祖である源義家は、置文(一種の遺書)に、自分は七代の孫に生まれ変わり、天下を取るだろうと予言したという。ところが、その七代目にあたる足利家時(尊氏と同じく足利頼氏側室の上杉氏の子)は、自分の世には天下を取ることが出来ないことを悟り、自分の寿命を縮めることと引き替えに、子孫3代のうちに足利家が天下を取ることを祈願して自刃し、その孫がまさに尊氏であるとされる。貞世自身の証言によれば、貞世は尊氏と直義の前でこの置文を拝見した経験があり、尊氏兄弟は「今天下を取る事ただこの発願(ほつがん)なりけり」と言ったという。 足利氏の有力武将の証言というだけあって、かつては信頼の置ける話とされ、足利氏には代々天下を取る野望が有り、その使命感に駆られて、尊氏は北条高時や後醍醐天皇への離反を繰り返し、ついに天下を牛耳ったのだと説明されることがあった。
18,529
18,936
「人柄が良くカリスマは高いが、組織の運営能力の点では源頼朝や徳川家康に劣っている」「戦争には強いが政治的センスはまるでない」と評価している。
18,458
18,529
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足利尊氏
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この説に疑問を提起したのは、大正・昭和期の研究者である中村直勝である。観応元年(1350年)もしくはその翌年に書かれたと思われる直義の書状に、「故報国寺殿」(家時)が「心仏」(高師氏)に与えたという遺書を閲覧し感激したとある。直義の書簡の宛先は高師秋(師直の従兄弟)であるから、家時の書状は代々高一族が保管していたと見られ、しかも直義がその存在を知ったのは後醍醐との対決から15年も後のことである。したがって、家時の書状の存在自体は確実であるが、これを足利氏の天下取りの動機に求めることはできない、という。 佐藤進一は、さらに、建武の乱が発生した時の貞世は11歳に過ぎないことを指摘し、仮にもし貞世が尊氏・直義の眼前で家時置文なるものを見たという証言が本当であるとしても、それは幕府が成立した後のことであろうから、やはり天下取りの動機の史料的根拠としては弱いとしている。 20世紀末からは、動機の根拠どころか、
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かつては信頼の置ける話とされ、足利氏には代々天下を取る野望が有り、その使命感に駆られて、尊氏は北条高時や後醍醐天皇への離反を繰り返し、ついに天下を牛耳ったのだと説明されることがあった。
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10002
https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=10002
足利尊氏
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家時の書状の内容自体が、はたして『難太平記』の言うように天下取りを指示したものかどうか、疑問視されるようになった。川合康によれば、足利氏が源氏嫡流と見なされるようになったのは、幕府が成立した後の工作の結果であり、貞世が語る義家・家時の伝説もその「源氏嫡流工作」の一環であるという。細川重男によれば、これは2016年時点での有力説である。 【騎馬武者像(伝足利尊氏像)】 京都国立博物館所蔵の「騎馬武者像(重要文化財)」は、京都守屋家の旧蔵だったことから、現在でも他の尊氏像と区別する必要もあって「守屋家本」とも呼ばれる。本像は、1749年に西川祐信の「絵本武者備考」で騎馬武者像と足利尊氏の詞書として紹介され、1800年江戸時代に松平定信編纂の『集古十種』で、尊氏の肖像として紹介された。その後1920年(大正9年)に歴史学者の黒板勝美が論文の中で改めて尊氏像という説を発表したことで定着した。しかし、
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それは幕府が成立した後のことであろうから、やはり天下取りの動機の史料的根拠としては弱いとしている。 20世紀末からは、動機の根拠どころか、
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