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[ [ "あッちへ廻って下さいな", "へ、お勝手口へ?", "そこに潜り戸があるだろう" ], [ "たいそうお寒うございますな", "縁側のほうへお廻りよ、少しばかり古反古を払いますから" ], [ "時に御新造様……、この駿河台にある甲賀組というのは、たしか、この前の囲いの中にある、真っ黒なお屋敷のことじゃございませんでしたか", "そうだよ、墨屋敷といってね、二十七家の隠密役の方ばかりが、この一つ所にお住まいになっている" ], [ "申しちゃ失礼でございますが、隠密役なんていう方は、平常は何の御用もねえでしょうに、これだけの家筋をそれぞれ立てておく将軍様の世帯も、大きなもんじゃありませんか", "だからだんだんとその家筋を、お上でも減らすようにしているという話だね", "そうでしょう。権現様の時代には、戦もあれば敵も多い、そこで自然と甲賀組だの伊賀者だのも、大勢お召し抱えになる必要がありましたろうが、今じゃ天下泰平だ。なんとか口実をつけて減らす算段もするでしょうさ", "現にツイ先頃も、また一軒のお古い屋敷が絶家になって潰れたという話だよ", "そうそう、それは甲賀世阿弥様という、二十七軒の中でも、宗家といわれた家筋でございましょう", "オヤ、お前よく知っておいでじゃないか" ], [ "もし、御新造様。そうお驚きなすッちゃ困ります", "困るのは私のほう、そんな仮面をかぶって世渡りするような者なら、迷惑ですから、サッサと帰って下さいまし", "決して、盗ッ人や騙りじゃございませぬ。どうかご安心なすって、その甲賀家のことについてご存じだけ、お聞かせなすって下さいませんか", "いいえ、素姓の知れない者などと、めったな話はできません" ], [ "では何でございますか、そのお千絵様の居所さえ、お分りになればよろしいので", "ええ、それさえ知れれば、こんな寒空に鉄砲笊を担いで、毎日歩き廻ることもねえんです。で御新造様、一体お千絵様は、どこへ立ち退いてしまったものでしょうね?", "さあ、そこには深い事情があるようでして……", "な、なるほど。わっしもちっとばかり小耳に挟んでおりましたが、同じ甲賀組の中の者で、あのお方の縹緻と、世阿弥の残した財宝に目をつけて、つきまとっている奴もあるそうですな", "それなんですよ。あのお千絵様のお苦しみはね", "して、そいつの名は?", "旅川周馬というお人……。ア、うっかりよそで、私がしゃべったなどというて下さいますなえ", "ええ、おっしゃるまでもございません", "その周馬が、あの滅亡したお屋敷を、お代地としてお上からいただいたのをよいことにして、世間へはお千絵様が他へ立ち退いたように言いふらし、その実、門も戸も釘付けにしたまま、あの屋敷の奥に押しこめてあるのでございます。ええ、それは組仲間の者でもうすうす知っている人もあるでしょうが、なにしろ悪智にたけた周馬に仇をされるのが恐ろしさに、誰も、知らぬ顔をよそおっているのでございます", "へえ? じゃお千絵様は、やっぱりあの屋敷にいるんですか。ナーンだ、それじゃいくら屑籠を背負って、世間を嗅ぎ歩いても知れねえ訳だ。……イヤ、大きにどうもありがとう存じました、それだけ教えていただけば、後は商売商売というやつで、どんなことをしてもきっとお目にかかります" ], [ "じゃ、お前は、この屋敷の者じゃねえんだね", "誰がこんな、草茫々とした化け物屋敷に住んでいるものかね。万吉さん", "えっ……?", "ぜひ、頼みますから私の宅へ来て下さいな。そっちは捕縄を持つ渡世、私は裏の闇に棲む人間だけれど、思案に余っていることがあるんだから、渡世を捨てて会ってくれる訳には行きませんか。そういうこの私の家は本郷妻恋一丁目――", "あっ、お綱⁉", "――分ったでしょう" ], [ "とんだ人の声色を使って、定めし胆を潰したでしょうね", "さすがの俺もびっくりしたよ。おまけに人の腕首をねじつけて、ひでえ真似をするじゃねえか", "堪忍しておくんなさい。半分は私のいたずら、半分はお前さんを逃がすまいと思ってね……", "だが、どうしてこんな所にいたのだ", "貸したお金の催促に来ておりますのさ。ところがこの通りな荒屋敷、いつ来てみても釘付けなので、業腹だから今日は向うをコジ開けて、この部屋へ上がり込んで周馬の戻りを待っていたところが、たいそう草双紙が積んであるから、肘枕をして読んでいると、窓の外からお前さんの見当違い……まったく妙な所で会いましたねえ", "じゃ、ここの旅川周馬という者とお前とは、ずっと以前から懇意なのか", "いいえ、時々賭場で落ちあうので、懇意というのでもないけれど、二、三百両ほどの立て替えがあるんですよ……あ、こんな話は目明しさんには禁句だっけ、ご免なさいよ、ホ、ホ、ホ、ホ", "なに、目明しは目明しでも、この万吉はほかに大きな望みを賭けている体だ。ケチな十手をピカつかせることはしねえつもりだから、お上の者とひがまねえで、何なりと明けすけに話してくれ", "じゃ、女掏摸でも捕まえませんか", "さア、そいつは、どうともいえねえが、見返りお綱という人には、住吉村で助けられた恩義がある。そいつを忘れちゃすまねえからな……", "恩も糸瓜もありませんが、どうか、さっきもいった通り、一度妻恋の私の家へ来て下さいな", "そして何だか相談があるといったが", "エエ、法月さんのその後の様子を、よくご存じのようですから、それやこれやも聞きたいし……また私の思い余っていることも……" ], [ "ではお千絵様、エエ違った! お綱さん。どういう話か知らないが、お前のほうの相談はいずれ場所を改めて、ゆっくり聞くとしようじゃないか", "そう、では妻恋の私の家へ", "日を改めて訪ねましょう", "必ずね。固く約束しましたよ", "万吉、義理は固いつもりです", "ああ、それは私も見込んでいる……掏摸と目明し、オランダ骨牌で結べましたね", "一つ仲好くやりましょうぜ" ], [ "こう、お綱さん、自分の用だけはすんだからといって、俺の頼みをきいてくれねえのは酷過ぎるだろう", "オヤ、何か私にも頼みがあるの?", "あるからこそ、かりそめにも、目明したる者の万吉が、チボのお前と手を握ろうというんじゃねえか", "ほんに、これはわたしが現金過ぎたね。なるほど誰かがいったっけ……。恋飛脚の梅川にしろ、河庄の小春にしろ、月夜の風邪をひいた女は、他人の都合はお構いなしで、みんな自分だけの世間のように、勝手な気持ちになるものだって", "冗談じゃねえ、そんな手前勝手な奴らには、この万吉はつきあえねえ", "私だって、今にどうなるか知れないよ。自分で自分の心が少し変に思えてきたからね", "そこで、チボの足でも洗いなせえ", "とんだ所でご意見でした。そのうち、ゆっくり考えましょう" ], [ "この屋敷の奥かどこかに、まだ誰か人がいやしねえか", "イイエ誰もいないようだね……どこの部屋も真っ暗だし、第一鼠がいないのは、食い物なしの証拠だから、時々、旅川周馬が帰ってくるくらいなものに違いない", "おかしいなア……? たしかに、お千絵様という、前の世阿弥様の御息女が、ここに押し込められているという話なんだが", "アアその御息女と私を間違えて呼んだのだね。お綱もはすっぱな姿を見せないと、これでも武家のお娘様に買いかぶられるのかしら", "どうだろう、お綱さん", "なに?", "お前の相談はまだ聞いていねえが、この万吉が、命にかけてもきっとひきうけるから、現在俺の弱っている一つの大事へ、ウンと片肌をぬいでくれないか", "ほんとにかい" ], [ "ほかじゃねえが、お前が懇意なのは何より倖せ。旅川周馬のやつを欺して、お千絵様をこの屋敷から誘い出してくれねえか", "いいとも" ], [ "それは大きにもっともだね", "ですから、こういっておくんなさい。――近いうちに法月様が江戸へきて、ぜひいろいろなご相談がある、それには旅川周馬なンて、亀の子だか泥亀だか分らねえ奴の屋敷では工合が悪い――と、ようがすか", "オオ、それじゃ何かい、弦之丞様もお近いうちに", "へえ、わっしの後から来る筈なんで", "まア……" ], [ "いいよ、いいよ。お千絵様とかいうお女、きっと、私が周馬をうまく欺して、誘いだして上げるから", "じゃ、吉報は妻恋へ", "アア、四、五日うちに聞きにおいで", "ありがとう!" ], [ "実は手前の女房が、お屋敷のうちにおりますので、それを訪ねてまいりました", "ほほう……これは異なことを" ], [ "そこもとの女房といわっしゃるのは?", "貴殿は前からご承知のある筈。見返りお綱と申す女で……。いや、まことにお恥かしいわがまま者。無断で国表を出奔して、この江戸表に遊び暮らしているというのを聞き、はるばる尋ねてまいりましたような訳……。ところが、今日、何かそこもとに用事があって、昼からお屋敷内で待っているとか承ります。はなはだ恐れ入りますが、ここへ呼び出していただきたいものでござるが", "やあ、ではお綱が来ておりますか", "たしかに、中にいる様子", "これは困った" ], [ "あのお綱には、少し借財がござってな。それを取りに来ているのでござろう", "いや、借貸などのことはどうでも。とにかくちょっと、お綱を呼んで下さらぬか", "承知いたした。して貴公のお名前は?" ], [ "てめえが江戸へ来れば江戸表へ、北へ逃げれば北の果てまで、我を折って俺の心に従うまで、付きまとってやるということは、オオ、いつか関の明神でも、たしかに言い渡してある筈だ", "ご苦労さまだねエ" ], [ "道理でこの間うちから、妻恋坂の私の家やこの辺を、きざな雪踏がチャラついていると思ったら……", "じゃうすうすは、おれの真意を感づいていたろうに、ずいぶんてめえも薄情けな、血の冷てえ女だの" ], [ "うす情けだなんていう言葉は、お十夜さん、お前の柄にはまらない文句だよ。私の血の冷たいのは生れつき――そう育ってきたのだからしかたがないやね。嫌いな者には氷のよう、その代りにまた、好きな人へは火よりも熱い心になるのさ", "そんな熱に浮かされている年頃には、どこの女も、みんなてめえと似たようなたわごとをいってるものなのさ。それがだんだん、世の中を知り、苦労の味を噛みしめてくると、実意のある男を嫌ったことが後じゃもったいなくなるものだ", "ご親切さま。はるばる上方くんだりから、そんな月並をいいに来るのは、まったく、お前さんでもなければできない芸だよ", "おれもいつまで血なまぐさい、辻斬り稼ぎをしているのは嫌だし、お前も、いつまで指先の危ねえ世渡りでもなかろうが。のうお綱、ここらで一つ気を締めて、二人で大きな仕事を最後に、堅気な世帯でも持とうじゃねえか", "ほんとに、私もいつもそう思いますよ……。だがね、お十夜さん、お前とだけは嫌ですとさ", "なぜ⁉", "だって、それは気持だもの", "じゃ、誰かほかに思う男が", "お綱にもあるんですよ", "ウム、誰だ、そいつは", "聞きたいの……" ], [ "それは……いっておいたほうがいいかも知れない。そうすれば、お前さんも、自分のしていることが、どんな無駄だか、はっきり分ってくるだろうから", "そんなことはどうでもいい! その男の名を聞こう。それをいえ", "私の胸に誓っている人は、天涯無住の御浪人でね……" ], [ "……法月弦之丞というお方。お十夜さん、私に指でもさす気なら、すみませんが、その人に断ってきて下さいよ", "よし! おれもお十夜孫兵衛だ", "どうするの" ], [ "お綱ッ、情の強いのも程にしろよ", "わたしには、弦之丞様という、心に誓った人があるというのに、まだそんなくどいことを", "おう、恋仇があるときけば、なおさら俺の根性として、てめえを弦之丞のものにさせねえのだ" ], [ "いかにも、お綱を申しうけて帰りたいが、まさか、鏡の裏から屋敷の外へなど、抜け道があるのではあるまいな", "お案じなさるまい。只今も申したような奈落の闇、逃げてくれればまだよいが、悪くすると、あのまま、息が絶えたかもしれぬ", "えっ!" ], [ "したが、まアお待ちなされ、生死のところは、いずれこの周馬が後に見届けてまいるであろう。その前に、そこもとのご希望を一つ……いやなに、それは伺うまでもなかった。つまり、お綱を手に入れたいご一念、問うだけ野暮でござりますな。いや万々承知いたしてござる。じゃあ、こんどは一つ、拙者側の注文を申し出よう、それをきいて貰わにゃならぬ", "うむ、お綱を身どもに渡すかわりに……?", "さよう、貴殿にお頼みがござるので", "話によっては引きうけよう", "お嫌ならば、なアに別に、無理とは申さぬ。ただ、お綱があのまま、ふたたび息を吹っかえさぬだけのことに終るので", "ま、とにかく、そちらの希望を、承ろう" ], [ "ほかでもないが、そこもとの得意なものを、お借り申せばよろしいので", "身どもの得意なものを?" ], [ "そこもとのお得意といえば、裏書していうまでもなく、そこにお持ちの助広で", "うむ?", "人を殺していただきたいのじゃ" ], [ "どうでござる。ウンと一つ呑みこんでは", "まず、ゆるりと、考えてみた上にいたそう", "いかにも、安受け合いは頼もしくない、どうぞごゆるりと、算盤をとってごらんなさるがよい", "なかなか念入りなお頼みだ" ], [ "だいぶご熟考でござりますな。ご決断はまだでござるか。はははは……造作もないではござらぬか、辻斬り屋の孫兵衛殿が、一晩暇をつぶせば、それですむので", "まあ、もう少々考えさせて貰いたい" ], [ "――さ、お綱をつれて帰るんだから、鏡の裏の穴蔵へ案内しろ! イヤの応のといやあ真ッ二つだからそう思え", "冗談いっちゃいけない" ], [ "まず、その刀を退いてはどうだ、分の悪い相談ならともかく、この周馬が、貴様に殺してくれと頼むのは、そッちに取っても、遅かれ早かれ、生かしておけぬ奴なのだ……。してみれば、まんざら他人のためばかりじゃない、その上に、ウンといって手を貸してくれれば、お綱を渡そうという条件ではないか。こんな割のいい仕事を振られて、野暮な刀をふり廻すなどとは、さてさて頭の悪い悪党だ", "ふウム、じゃ何か……そっちで殺してくれという奴は、俺にとっても仇のある人間なのか", "さよう。二人にとって、生かしておけぬ男なのだ", "というのは……どうも俺には見当がつかねえ。一体誰だ?", "実を申すと、この周馬の恋仇でな", "けッ、ばかにするなッ", "怒るまい――。拙者にとっても恋仇だが、そっちの身にも恋仇にあたるやつ。それは法月弦之丞! いくら頭のわるいそこもとでも、この名を忘れてはおるまいが", "ヤ、弦之丞を?", "どうかして殺したい! 手を砕いても、きゃつを亡きものにせねばならぬ", "ウーム、そうか! 相手が法月弦之丞なら、この孫兵衛も手を貸してやろう", "そうだろう、イヤ、そう来なければならぬ筈だ。あいつに息がある間は、一生涯、脅かされていなければならぬ、この周馬と同様に、貴様にとってもお綱の恋仇、頼まれないでも、急に殺したくなってきたに違いない", "そうならそうと、最初から相手の名をいえば、おれだって、こんな刀は抜きゃあしねえ" ], [ "だが、お前の恋仇とは初耳だ。一体、そっちの恨みという事情は……?", "それは一朝一夕に話せぬが、つまるところ、お千絵という世阿弥の娘も、弦之丞に思いをよせて、あいつに逢うのを一念で待っているのだ", "そのお千絵に、お前が嫌われているという筋か", "ちょうど、お身がお綱に嫌われているごとく", "エエ、口が減らねえ。だが、弦之丞という奴は、どこまで女に果報のある奴だろう", "だから殺してしまうがいい", "して、今の居所は?", "あしたは江戸へ着くという所を、たしかに、拙者がつきとめている" ], [ "なんで⁉", "下手をやると失敗する。なにせよ法月弦之丞は、夕雲流の使い手で、江戸の剣客のうちでも鳴らした腕前、さよう……貴公と拙者と二人がかりで、やッとどうかと思われるくらいだ" ], [ "どこかへまいって一杯酌ろう。細かい話や、あしたの手筈は、そこで飲みながらのことと致して", "だが、待ってくれ" ], [ "お綱は一体どうなったんだ?", "死にはしまい……、ただし、気絶ぐらいはしているかもしれないが", "じゃ、なんとか手当をしておかなくっちゃ……", "ご無用ご無用、今にひとりでに気がつくであろう。また気がついたところで、逃げられる気づかいのない穴蔵だ" ], [ "はい", "しんしんと寒くなりましたことねえ……", "師走といえば、夜霜の立つ頃でございますから", "さだめし外の世間には、寒風が吹いておりましょうね", "ここへは、凩の声もきこえてまいりませぬ", "ああ凩は嫌……浮世の寒風は嫌……。千絵はこのまま、この地底の部屋に埋もれてしまいたい", "たみもご一緒に埋もれまする。……けれどお嬢様。朽ちた落葉の下からも、いつか春が芽ぐむではございませぬか。ヒョッとして、たみの兄が帰ってくるか、また、弦之丞様でも江戸へおいでになれば", "阿波へ様子を見に行ってくれたお前の兄の銀五郎が、帰ることはあろうけれど……", "いいえ、弦之丞様にしましても、いつか一度は" ], [ "お嬢様、お嬢様。あなたに泣かれてこの乳母がどうしましょう。もっと……お強くなって下さいませ。いいえ、今が、アア今が、大事な時でござります。あなたはもっとお強くならなければなりませぬ", "お前までが、そんな無理を", "もうわずかな御辛抱……ジッとこらえて下さいませ。お嬢様のお手紙を持って、阿波へ行った兄の銀五郎が、今に、きっといい報らせを持って戻りましょう程に……" ], [ "もし", "たれじゃ、そなたは", "あ――、私は、お綱と申すものでございますが、あなた様は、甲賀家の御息女、お千絵様ではありませぬか", "や? ……どうしてそれを知っていやる", "お千絵様! ああ、やっぱりそうでございましたか。では、お言伝申します、目明し万吉という者が、はるばる遠い上方から、あなた様に会いたいために、この江戸表へまいっております。ところが、このお屋敷ときた日には、いつも釘付けになっていて、おまけに、旅川周馬の眼があるので、その万吉が、大事なお話をすることができません", "待って下さい" ], [ "上方から来た目明しの万吉とやら、いっこうおぼえのない人ですけれど、それは一体、お嬢様に何の用があって来た者でござりますか", "さあ……実は私も、そこのところは、深く聞いていないんですけれど、仔細があって、あなた方を、この屋敷から救いだしてくれ――、こう頼まれているうちに、嫌な奴に見つけられ、思わぬ所へ落ち込んだのが、かえってお目にかかる倖せとなったんでございます。詳しい話は、その万吉からお聞きなすッて下さいまし" ], [ "それで、何でございます……万吉という者を、さだめし御不審にお思いなさりましょうが、決して悪い者ではなく、法月様から、大事な御用をいいつかって、一足先に、ここへまいったのだということでございます", "えっ。あの法月様から?", "はい、弦之丞様も近々のうちに、この江戸表へお越しなさいますそうな" ], [ "お綱さんとやら、それは真実でございますか", "なんで、こんな憂き目にあってまで、お二人様へわざわざ嘘を言いにきましょう。さ、周馬の眼にかからぬうちに、ここから逃げるご思案をして下さいまし。本郷妻恋の、私の家までご案内して、どうなと後はおかくまい申します", "お嬢様。いよいよ時節がまいりました" ], [ "どう考えてみても、弦之丞様が、江戸へお戻りなされる筈がない。これは何かの間違いでありましょうが", "たとえ、間違いであったにしろ、せっかく、お綱とやらがああ申します程に、ここを遁れ出ようではございませぬか。どうなろうと、この上運の悪いほうへ、転ぶ気づかいはありませぬ", "といって、たみや、お前にこの厳重な所から、逃げ出られる工夫がありますか", "さあ?" ], [ "――逃げられます! そこの境さえ切り破れれば、あの鏡の裏の出口から", "お千絵様" ], [ "こんな穴蔵の地獄に、なんの御未練でございます。御先祖様からの財宝を、残してゆくのが惜しいとでも……", "いいえ、たみや、そんなものに未練はない……私はただ" ], [ "家に伝わる甲賀流のあまたの秘書を、そッくり、あの人非人の旅川周馬へ、残してゆくのが、お父上様にすまぬと思うて……", "いえ。今の場合は、お嬢様という大事なお体にはかえられませぬ。家名は潰れても、あなた様さえお恙なければ、甲賀家のお血筋だけは残ります。あ! よいことがございます" ], [ "あの悪人の手へ、すべての物を残してゆくよりは、お嬢様、いッそのこと、ここへ火を放けてまいりましょう", "火を⁉" ], [ "たみや", "お分りなさいましたかえ", "わかりました、だけれど……" ], [ "ありましたよ! 縄梯子が", "では、ようござんすね――" ], [ "あっ――", "しまった!" ], [ "ま、まだですか! ……早く、ああ、あ熱……早く逃げて下さいまし", "アア、たみや、駄目ですよ――" ], [ "小父さん――御飯をちょうだい", "あいよ" ], [ "たいそう今日は遅かったな。今すぐに、暖かいのを拵らえてやるから、そのお客さんの火鉢へ、少しあたらして貰っていねえ。オイオイ三輪ちゃん、紙をやるから、乙坊の洟をカンでやんな。水ッ洟をチュチュさせて、お客様のそばへ寄るとな、それ……お客様の鮟鱇鍋がまずくならあ", "なに、かまやしねえ" ], [ "偉えなあ、おめえたちは", "おじさん", "なんだい", "どうして偉いの? あたいたちが", "それを知らないところがなお偉い。よく働くなあ、小さいのに。人間、なんでも、働かなくちゃいけねえや。それを偉いといったのさ" ], [ "乙吉っていうの。姉ちゃんは、お三輪ちゃん", "フム。お三輪に乙吉か。いい名だ……そして、どこだい、お前たちの家は?", "吉原だよ", "へえ、豪気に粋な所へ住んでいるじゃねえか", "おじさんも行くかい", "どこへ", "吉原さ" ], [ "おじさんは野暮天だから、まだ吉原を見たこともねえのさ。だが、まさかお前たちだって、あの廓の中じゃないだろう", "ああ、五十間の裏だよ。孔雀長屋という所にいるの", "そんな所があるのかい", "見返り柳のすぐ下でね、オハグロ溝が側にあるよ、いつ帰っても、賑やかだから怖かない", "おっ母さんはいるのかい", "おっ母アは、死んじゃった", "おやじさんは", "生きてるよ", "じゃアまあ結構だ。なあ、片親だけでもいりゃ、これに越したことはねえ。で、姉弟は二人ッきりかい", "ううん……大きな姉ちゃんが二人いる", "それでいて、お前たちまで、角兵衛獅子をして稼ぐのは、ああ、親父さんでも体が悪くって、永患いをしているとみえるな" ], [ "じゃ、どうなんだい、一体?", "父ッちゃんは、ピンピンしているけれど、お酒呑みなんだもの", "フーム、で姉さんは何しているな?", "小ッちゃいほうの姉ちゃんはね、吉原の花魁に売られてしまったの", "だ、誰によ?" ], [ "もう一人の姉っていうのは、家にいるのか", "大きいほうの姉ちゃんはネ……" ], [ "あたいたちが、小ッちゃい時――、おっ母アが死んじまってから後に、どっかへ、行ってしまったの", "オヤオヤ……親爺さんが呑んだくれで、一人の姉は吉原へ売りとばされ、その上、一番年上の姉までが家出をしてしまったのか" ], [ "フーム、そうか。それで小せえお前たちが、毎日、外へ角兵衛獅子に出ているのか……。気の毒だなあ。この空ッ風の吹く町へ出て、テンツクテンツク、氷のような地べたへ逆さにオッ立って、お前たちが稼いだ銭も、おおかた、おやじの寝酒になってしまうんだろう。よく世間にあるやつだ。殊に色街の掃溜には、怠け者の地廻りとかなんとかいって、そういう野郎がいかねない。……だがまア、よくお前たちは辛抱してるなあ、今におやじも眼をさますだろう。また、大きい姉ちゃんが帰ってきたら、きッと、両手をついてあやまるだろうぜ", "あたいたち、その姉ちゃんに逢いたくてしようがない。おじさん、いたら、教えておくんなね", "ウン、そうだろう、そうだろう", "毎日、お獅子に出ていても、そればっかり見てるんだけれど", "じゃ、うすうすおぼえているとみえる。そしてその姉さんは、幾つぐらいでどんな女よ", "ちゃんがいったよ。まだ若いし、いい女だから、あいつがおれば、千両に売れるッて", "いい女で、若くって、ふーん……そして名前は?", "お綱ッていうの", "え、お綱ッ?", "おじさん! 知ってるね", "ま、まってくんねえ", "おじさん――" ], [ "知ってるなら、教えてくんな、よウ小父さん", "ま、まちねえッてことよ。今おじさんが考えている所だわなあ。……フーム、すると何だね、お前たちの姉というのは、見返り柳の下にいた、お綱ッていういい女かい?", "アア" ], [ "火事だ!", "火事、火事、火事" ], [ "どこだ、火事は?", "今、二階の物干しから、たしかに見えていたんだ", "だってちッとも赤くねえじゃねえか", "火の手は上がっていなかったが、お茶の水の森あたりで、ボウ――と、白い煙がのぼった", "よせやい。夜靄か、湯屋の煙を見まちがいしやがッて" ], [ "すぐそこだって⁉", "お茶の水、お茶の水――", "おお、じゃ風上だ", "おまけにかなり風が強い――" ], [ "どこだ、どこだ", "火元はどこだ、火元は⁉" ], [ "お綱……お綱……お綱だよう!", "おお、やっぱりそうだッたか、おれは万吉だ、万吉だぞッ" ], [ "お綱ッ、しっかりしろよ! 今すぐに助けてやるから、眠ってしまっちゃいけねえぞ。地面へ口をつけて辛抱していろ", "ま、万吉ッつぁん――、縄を!", "待て待て、待ってくれよ! 今すぐだ" ], [ "早くしてーッ。万吉ッつぁん――わ、わたしよりもお千絵様が!", "げッ、お千絵様が? や、やや! お千絵様もそこにいたのか。チェーッ、一大事!" ], [ "た、たみやア……", "――お嬢様ア! ――" ], [ "イヤに落ちつき払ったな。ま、とにかく、外へ出て様子を聞いた上にいたそう", "じゃ、あのほうは止めにする気か?", "止めるものか! ばかなことを", "そうだろう、初めからその手筈を相談するために、わざわざここへ落ち着いたのだ。まア火事なんざあどうでもいい、いよいよあすは江戸へ入るという、法月弦之丞から先に片づけてしまうことのほうが、今夜の火事より急だろうぜ" ], [ "大事をもくろむ矢先に立って、気を散らすのは禁物だ。そんな量見方なら、この俺は俺で、勝手な道をとるとして、お前と組むのはお断りだから、そう思って貰いたい", "お十夜、そう腹を立てては困る", "だが、考えてみるがいい。なるほど、弦之丞はおれの恋仇、生かしておいては都合の悪いやつだ。しかし、お前のほうは、女のほかにあの屋敷の、すばらしい財宝まで、鷲づかみにしようとする、分の勝っている所がある。いわば、この仕事はそっちが七分で、おれが三分、その三分がとこで、丹石流の腕前を貸してやるようなものだ。少しは恩に思って貰いてえな" ], [ "旦那様", "なんだ", "使屋の半次が戻ってまいりました", "たいそう早いな、連れてきてくれ" ], [ "お手紙を持って行った賭場先には、どこにも、誰もおりませんです", "フーム……どうして?", "なにしろ、旦那、とても、神田一帯は火の海になりそうな騒ぎです。大概のお屋敷は、見舞を出すやら、火事頭巾でくりだすやらで、いくらのんきな部屋でも、今夜ばかりは、人の影もございませんよ" ], [ "火事はそんなにひどくなってきたか", "ひどいのなんのって、高台から焼け拡がったので、八方移りに燃えそうです。こっち側は昌平橋御門から佐柄木町すじ、連雀町から風呂屋町の辺りまで、すっかり火の粉をかぶっています" ], [ "火元はどこじゃ、火元は?", "なんでも、怪し火だという噂ですがね", "怪し火? フーム……して駿河台の、甲賀組の墨屋敷などは、かけ離れてもいるから、さしたることはあるまいな", "どう致しまして、旦那、その怪し火てえのが、そもそも墨屋敷の、何とかいう古い家から出たんです" ], [ "使屋、今の話に間違いはあるまいな", "ええ、嘘なんざア申しませんが、このお手紙はどうしましょう" ], [ "駄目だろうか", "あれだもの! ……" ], [ "逃げ道なぞがあるものか。ないからこそ安心して、お綱を置いてきたのではないか", "えッ、じゃ今頃は", "灰になってしまったろう。あアあ……そっちは女だけのことだが、この周馬の身になってみろ、多年心を砕いて、手に入れようと計っていた財宝と恋人、二ツとも一緒に失くしてしまった……" ], [ "なんだ。おれはもう、返辞をするのもいやになった", "そうしょげるのはまだ早い。さッきの使屋の話では、火元は、墨屋敷から出た怪し火だといった", "ウム、怪し火だといった", "その怪し火に、何か曰くがありそうじゃねえか。とにかく、ここでベソを掻いていたところで始まらねえわけだ、もう一息駈けだして、現場の様子を見た上の思案としよう", "なるほど、それももっともだ" ], [ "すまねえが、御手洗の水を掬ってきて、お千絵様を介抱して上げてくれ。おれはその間に渡し船を探してくる。とても、この火事騒ぎじゃ、橋を越しちゃ行かれねえから", "あい、よござんす――" ], [ "ふム……弦之丞の差金か", "その弦之丞様が江戸へ帰ると、うぬの首も危なくなるぞ。悪いことはいわねえから、お千絵様を俺に渡して、今のうちに、どこかへ姿を隠す算段でもしやがれ", "よけいなことを申すな" ], [ "野郎ッ、どうでも渡さねえといや、十手にかけても受けとるからそう思え!", "だまれッ、察するところ、墨屋敷へ火を放ったのも汝であろう", "悪因悪果、天罰の火よ! 呪いの火よ! こうなるなア当り前だッ", "よし! そう聞く上はなおのこと、お千絵を渡すことはならねえ。弦之丞に逢ったら、いってくれよ、世阿弥の娘のお千絵様は、旅川周馬が可愛がってやりますとな", "エエ、しぶといことを吐かすな!", "待てッ、万吉" ], [ "それはよかった。だが、万吉とかいう奴は? ……大丈夫だろうな", "なアに、この寒さだ。川の水を食らって、たいがい凍え死んでしまうにきまっている。――ところで周馬、お前はその女を引っ抱えて、これからどこへ落ちつく気だ", "なにしろ、かんじんな巣から焼け出されてしまったので、それにはこのほうも当惑いたした", "まさか、お千絵様とかいう別嬪を抱いて、そこらへ野宿もできねえしなあ", "しかたがないから、一時、喜撰風呂の奥でも借りて、そこへ隠しておくとしようか", "永えことはおられねえが、それも一時の妙案だろう。女をきれいに洗い上げて、ゆっくり楽しむには誂え向きだ……。ウム。おれもお綱を連れて、一緒にそこへ落ちつくとしよう", "だが、どうする、途中を?" ], [ "どこかで駕屋を呼んでまいろう", "待ちねえ。駕といやあ、さっきそこの鳥居側に、提灯が二つ見えていた筈だが……", "えっ、駕が置いてあるッて", "悪運の強い時には、何もかもトントン拍子というやつよ。ここは太田媛神社の境内だ、神様は粋をきかして、呼んでおいてくれたのだろう", "なにしろ、時にとってありがたい。どこだ、その駕は?" ], [ "意趣か遺恨か、何でおれの足をすくった!", "だまれ", "何をッ", "なんで足をすくったと問われる前に、なんでこのほうの駕へ無断で手をかけたか、それをこのほうから訊ねたい" ], [ "まったく、この年の暮へきて、えらいこッてございましたなあ", "えらいにもなにも、お話にゃなりませんて", "いッたい、どこが火元だったのでしょう?", "さア、そいつはよく分りませんがね、なんでも怪し火だということで", "怪し火……ふウン、まア魔火でございますな", "そうでもなければ、あんな宵に、駿河台から外神田まで焼けッちまうなんて、ばかなことはありますまい。おまけに、小川町にはお火消屋敷があるんですからな" ], [ "なんですか、どこかに火事でもあったんで?", "知らないのかい、お前さんは", "ちッとも。――いったい全体、その火事ってえのは、どこでいつの話なんです", "ゆうべさ", "へえ、ゆうべ?", "しかも大火だ、おまけに目ぬきな神田から駿河台、あの辺のお屋敷町まで、この暮へきて焼け野が原だ", "とすると――佐久間町あたりは、どんなものでござンしょう", "まず、たいがい焼けたでしょうよ", "ば、ばかにしてやがら", "怒ったってしようがねえやな。お前さん、やっぱり神田かい?", "その佐久間町の四ツ角でさ。願掛けがあって、大山の石尊様へお詣りに行ってきたんですからね、冗談じゃありませんや、神詣りに行った留守にまる焼けになっちまうなんて、そんな箆棒なチョボイチがあるもんじゃねえ。もし帰ってみてまる焼けになっていたら、この正月を控えてどうするンだと、女房子をつれて石尊様へ掛合いに行かなくッちゃならねえ。ねえ虚無僧さん――そんなものじゃありませんか" ], [ "はい、なんでございますな", "昨夜御府内に、大火がありましたとやらでござるが……", "さよう。ございました", "駿河台の辺はどうでございましょう", "焼けました", "お茶の水の上にある組屋敷は?", "組屋敷……というと?", "大府の隠密方、甲賀組の家ばかりがあります所で", "おお、あれも皆焼けたそうです", "えっ、焼けましたか", "そんなふうで" ], [ "まことに失礼なことを伺いまするが、やはり貴公方は、甲賀組のお武家でござりますか", "なに?", "焼けた組屋敷のお人でござるか", "そうだ", "おお、それならば、或いはご承知ではござりますまいか? ……", "何をじゃ", "組屋敷のうちでは第一の旧家――世阿弥殿の娘お千絵と申す者の行方を?", "や、お千絵を!", "はい", "貴様、たずねているのか", "いかにも" ], [ "おお!", "あっ!" ], [ "アアいい気持だ、どうも、こたえられねえ", "朝風呂はオツでげす", "この雪を見ちゃ、また今日も帰られませんて", "おぬしの買った女はなんという湯女だっけ", "エヘヘヘヘヘ", "いやに納まってるじゃねえか。浅黄はおよしよ", "どうも、すみません。なんしろここに来ると、めっきり痩せてしまうんで、やりきれませんて" ], [ "どうしたの、奥は?", "まだ寝ているんだよ", "今日もいるつもりかしら?", "なんだか知らないけれど、二人とも、神田で焼け出されて宿なしになったんだから、ここで正月をするっていっていたよ", "ああ、そういえば旅川さん、あの人は駿河台とかいっていたから、ほんとに焼けだされてしまったのかもしれない", "だけれど、もう一人のお十夜さんとかっていうお浪人、何だろうあの人は、気味の悪いお侍だね", "額風呂へきて泊りながら、ちっとも風呂へ入らないじゃないか", "なに、入ることは入るんだよ。だがね……それもいつでも仕舞風呂さ、そして流しの戸口を閉めきって、誰もいない時にだけ入るんだから、まったく妙ちくりんじゃあないの", "だれ? あの人へ出ているのは", "いやだね、まア", "あら、お前さん", "ああ", "よかったね", "おからかいでないよ、ひとを!", "だって、まんざらな男振りじゃないじゃあないか", "だれかに代って貰いたいよ", "どうしてさ", "怖くって……なんとなく怖くって", "人みしりをする柄でもない癖に", "だけれど、恐ろしい声をだして寝言をいうんだよ。女の名を呼んでね、そうかと思うと、人でも斬りそうな呻き声を出すし……。まだそればかりじゃない、あのお十夜頭巾を、寝てまでとったためしがないんだもの……" ], [ "どうだい、お十夜", "なにが", "考えついたかってことよ" ], [ "ウン", "誰だ。なにせよ、よほどな腕達者だ", "ありゃ、常木鴻山という、元天満与力をしていた奴にちげえねえ", "ふウん。そいつが、何で江戸表へ来ているのだ", "おれにも合点がゆかねえが、たったいっぺん……そうだ、住吉村のぬきやの巣にいた時、あいつに踏み込まれたことがある", "とすると、何かを探しに来ているのかな", "まさか、俺をつけているのでもあるめえ", "しかし、お千絵とお綱の二人は、いったいどうしてしまったろうな。そのほうが眼目だ", "あの後で、太田媛神社の境内へ行ってみたが、駕もなければ二人の姿もみえず、まったく、何が何やら判断がつかなくなった", "その鴻山とかいうやつが、どこかへ連れて行ったのではないか", "まずそう考えるより思案がない", "弱ったなあ", "当分はお綱の行方を探し廻らなけりゃならねえ", "身どもはお千絵をつきとめる", "わかるかい", "広いようでも江戸の中なら、きっと知れるにきまっている" ], [ "どうした?", "凶兆歴々。どうも吾々の前途は暗いな", "ばかいやがれ" ], [ "イヤしかし、ゆうべも焼け跡で、現に、法月弦之丞の姿を見かけたではないか", "あんなに肝を消して、逃げる奴があるものか。そっちが泡を食って駈けだしたので、おれまで釣り込まれてしまったが、今度いい折があった時は、叩ッ斬ってしまうことだぜ。いいか周馬、また逃げ腰にならねえようにな" ], [ "あら、いいこと", "もう、ふるいつきたいねエ", "成田屋の暫――", "あたい、浜村屋が好きさ、菊之丞の女鳴神――当たったねえ、あの狂言は", "佐野川万菊、悪くないね", "あれは?", "宗十郎じゃないか、梅の由兵衛だよ。あの由兵衛のかぶっている頭巾から、宗十郎頭巾というのが、今年の冬たいへんな流行になったンだとさ", "オヤ、お十夜さんみたいだね" ], [ "あれか、ありゃ大阪の姉川新四郎よ", "自来也ですね", "新四郎の自来也ときては、もう古いものだ。今頃江戸の市へ出るなんて……", "へえ、そんなに当たり役?", "あの押絵の自来也がさしている朱塗の荒きざみの鞘は、新四郎の自来也が舞台でさして流行らせたものだ。で、阿波の侍でもさしている者がある", "おや、じゃあお十夜さんの故郷は、阿波なんですね" ], [ "なんだ、くだらない", "だって、そっくりじゃありませんか、あの前へスタスタ行くお侍の姿が。笠といい、袴といい、そして何より差している刀が、押絵にあった自来也鞘と同じ物ですよ", "そういわれてみると、江戸には見かけぬ珍しい朱鞘を差している", "押絵が、抜けだして、市の景気に浮かれているんじゃないかしら……" ], [ "奇遇だなあ", "変ったなあ" ], [ "珍しい……何年ぶりになるであろう", "もう、ざっと一昔だろう。なにしろ、おれが阿波を飛びだしてから、ぶらついているのも七、八年だ", "では、いまだに御浪人か", "不思議に食えてゆけるものだから、ツイ、この着流しがやめられねえのよ", "縮緬ぞっきに雪駄ばきかなんぞで、たいそうりゅうとしているではないか", "どうして、ふところ手をしている代りにゃ、暮がきても米一粒の的はねえ身だ。なかなか苦労があるンだよ。は、は、は、は……。そりゃそうと、九鬼弥助、森啓之助、あの連中はどうしているな?", "弥助はこの秋、禅定寺峠という所で、間違いがあって落命いたした。だが、森啓之助の方は、只今お国詰めで相かわらずにやっている", "そうか――そして貴公は", "どうして分った?", "あまり江戸で見かけない、自来也鞘をさしているので、ちょっと、ハテなと目をつけたのよ", "ウム、なるほど、これは自分でも気がつかずにいたが、そういわれてみれば悪く目立つの", "目立ったほうがいいじゃねえか。この江戸表という所は、剣術使いは使い手らしく、いい女はいいらしく、何でも人に目立たせなけりゃ損な所だ", "それでは少し都合が悪い。実は、少しつけ狙っている者があるのだから", "ふウむ……だいぶ話が面白そうだ。じゃあ一角、貴公は仇討にでも出ているのか?", "なにさ、そんな読本物の筋ではない", "じゃあ、どうなんだ", "ちと、手軽には、話しかねる", "水くせえことはよそうじゃねえか。おれも昔の関屋じゃねえ、お十夜孫兵衛とかっていう、妙な通り名をつけられて、少し垢抜けをしかけている人間だ。やくざ者はやくざなりに、打ち明けてくれりゃ、力にもなろうし、儲かることなら乗ってもいいし、また縁のない話なら、口外ご無用、それでアバヨとしようじゃねえか", "それは、話さぬと申す訳ではないが、殿様より直命をうけてまいった大事……路傍ではちと畏れ多い気も致してな", "と、いわれると、なお聞きたい", "実は、お家にとって、生かしておけぬ一人の男をつけてきたのじゃ", "男だけでは分らねえが……それは?", "――法月弦之丞というやつ", "おい!" ], [ "なんだ", "法月弦之丞?", "いかにも", "ちょッとこっちへ寄ろうじゃねえか。ここは土手へ出る馬道の本通りだ、吉原へゆく四ツ手や人通りが多くって、おちおち話もしていられない" ], [ "今話したこと――なにせよ、阿波の大秘事でござる。必ずとも、他言してくれては困る", "浪人はしても、おれも元は阿波の原士だ。なんで国元の秘密をペラペラしゃべるものか" ], [ "うむ、一角", "なんだ", "その話なら安心しろ" ], [ "三人組だ。おめえと俺と旅川周馬と", "周馬? それは一体何者なのだ", "まあいいから、俺と一緒に桜新道の喜撰風呂まで来るさ。そこでその男にもひきあわせるし、うまい相談もしようじゃねえか", "いや、拙者は一刻も早く、見失った弦之丞の宿だけでも突きとめねばならぬせわしい体、これでご免をこうむるといたそう", "野暮をいうなよ、湯女遊びをすすめるのじゃねえ、底を割って話すと、この孫兵衛も、そこにいる周馬という男も、少し仔細があって、弦之丞めをつけ狙っていたところなのだ", "えっ、きゃつを?" ], [ "――二アつ切った――", "三ツ切った!", "――こんどは四ツ" ], [ "こわいおじさん", "泥棒ずきん", "ずきん流行はロクでもない", "ないしょ話はみな聞いた", "いいこと聞いた、二度聞いた", "三度目にゃア忘アすれた", "四たび目にゃ言いつけた――" ], [ "お綱、よろこんでくれ、やっと一方の目星がついた", "そうですか、じゃああの晩、お千絵様を連れて行った者が誰だか、その見当がついたのですね?", "なにさ、そのほうは残念ながら、まだ手懸りはねえんだが、いい按配に、弦之丞様の居所がやっと分った", "あら法月さんの? ……" ], [ "まあ、それが本当なら、これで一つの苦労はとけたというもの……、早く弦之丞様にお目にかかって、何かの相談をしようじゃありませんか", "――で、すぐにこれから、一月寺の支配所へ、訪ねて行こうと思うんだが……" ], [ "うむ……法月弦之丞……寄竹派の者でござるが、都合によってお泊め申してある。どういう御用向きでござりますな", "じゃあ、たしかにおいででございますか――" ], [ "――では、まことに恐れいりますが、万吉という者がお目にかかりにまいったとお取次ぎ願います。へい、万吉とさえおっしゃって下さりゃ、ご存じの筈でございますから", "ああさようでござるか。では、六刻過ぎに出なおしてお訪ね下さい。その御人は、今朝から市中へ合力に出ておられます", "へえ、では今はお留守でございますか", "夕景には戻られるであろう。戻った節にはお言伝いたしておく" ], [ "じゃあ、私の行きつけた家があるから、池の端まであるいてくれないか", "江戸のことは他人任せがいい、どこへでもお供をしますよ", "お供なんていわれちゃ気恥かしいけれど、やはり食べ物はあの辺がいいから……。それに、弦之丞様に会う前に、改めて私から、お前さんに頼んでおきたいこともあるし" ], [ "勘定を払って、そろそろ出ようじゃないか", "だって、今から行ったところで" ], [ "ごらんな、陽があたっているじゃないか", "待つという時刻は永えものだ", "それよりは万吉さん、これから、私が一つたずねたいことがあるんだから、まあ、もう少し腰を落ちつけておくれなね" ], [ "分っている? まあ、八卦屋さんみたいだこと", "そりゃあ、ヘボにしろ目明しの万吉だ。お前がおれにはッきりと話しておきてえことというのは、いつか墨屋敷の窓の下で、お千絵様さえ見つけてくれたら俺も何なりと相談相手になるといった、あの約束をふんで、弦之丞様へ、お前の恋を取次いでくれというのだろう。どうだお綱……" ], [ "だが……そのことは、もう少し時機を待っていねえ。な、いつかもお前に話したように、弦之丞様は本来なら法月一学という大番組頭の御子息だ。恋に身分の分けへだてはねえにせよ、一方には、おめえも知っている通り、これから俺たちと手筈をあわして、阿波の本国へ忍び込んで、蜂須賀家の内部をすっかり探りきわめてしまおうという大望のある人だ", "ええ、そりゃあもう、深い事情を伺っておりますから、今が今とはいいませんけれど……。どうか、その末になった後にでようござんすから、私という気のねじけた女、日蔭の女を救うと思って……", "そりゃ、いつか一度は話してみるがね……", "浮いた話じゃございません、真から思っているのでござんす。心の底から、今の私を打ちなおしたい、見返りお綱の根性を、真人間に近づけたいと――がらにもなく苦しんでいるのでございますから" ], [ "ふうむ……、するとなにか、お前は今の自分というものを、本当に、ねじけた女だ、浅ましい境界だ――イヤ、もっとはッきりいえば、外道の渡世をしている女スリだということを、自分で恥じる気になってきているのか", "天王寺で掏った紙入れ一つが、あんなにまで、多くの人へ迷惑をかけた因果を聞かないうちは、まだそんなにまでは思いませんでしたが、江戸へ帰った後にお前さんから、いろいろな話を打ち明けられてみて、初めてスリという渡世が、自分ながら怖ろしくなったんです。万吉さん、私ゃあ、今度かぎり、きッと悪事の足は洗うつもり――そしてその罪滅ぼしに、及ばずながら弦之丞様が望みを遂げなさるまで、この身を粉にしてもいいとまで、ひとりで覚悟をしております" ], [ "なんだなんだ、喧嘩か", "喧嘩じゃねえ、いつも来る角兵衛獅子だ" ], [ "今日だけのことならとにかく、いつぞやも山の宿の河岸ッぷちで、おれと天堂一角との話を立ち聞きして、なにやら悪たいをついて逃げやがったのだ。これッ、あの時の角兵衛獅子も、たしかにてめえたちに違いなかろう", "あッ――小父さん! かんにんして", "ごめんなさい! ……あれーッ" ], [ "あっ、誰か口をきいてやれよ", "どうするんだ、お獅子が可哀そうじゃねえか。誰か助けてやらねえか、あれッ、連れて行かれてしまうぞ" ], [ "ど、どこへ行くんだ!", "知れているじゃないか――。あれ、可哀そうに", "まあ、待ちねえ。待ちねえッてことよ!", "ええ畜生。ま、万吉さん――そんな悠長なことをしちゃいられない――今向うへ引きずられて行く姉弟は、ありゃ実の私の小さい妹弟なんだよ……", "うむ、お三輪と乙吉――それがお前の親身だというこたあ、おれもうすうす知っているが、なにしろ対手がお十夜にまだ二人の連れがある。でなくてせえあいつらは、お前の姿を探し廻っているところだ", "かまわない! かまわないから離しておくれ" ], [ "あまりといえば不愍でござる。このいじらしい角兵衛獅子の姉弟――なんと、放しておやりなすッてはどうじゃ", "やっ、てめえは⁉" ], [ "――おのれは法月弦之丞だな", "なにッ、弦之丞だ?" ], [ "まだご承知ないか、墨屋敷を初め、甲賀組一帯が焼けたことを", "おお、その話は聞いているが、いずれお上から相応なお代屋敷を賜わるであろう", "さあ、それは平常、まじめにお役目を勤めている連中のこと。拙者はもう隠密組などという、泰平の世に無用なお役儀には飽き果てましたよ。で、こん度をいい機に浪人いたして、これからはちと自由なほうへ生き道を伸ばす考え", "結構でござります", "無論、そう行かねば生き甲斐がござらん。ところで、弦之丞殿、お身も大番頭の子息の身で、自由な恋をし、拘束のない境地へ去られたのは賢明でござるよ。その段、周馬も敬服いたしている。イヤ実際、五百や六百石のこぼれ米を貰って朝夕糊付けの裃で、寒中に足袋一つはくのにも、奉書のお届を出さなければ足袋がはけないなんていうような幕府勤めはまッぴらでござるよ。アハハハハハ。おう、それはさておき、法月氏、江戸へお帰りになったからには、さだめし、お千絵殿とお逢いであろう。ただ今あの方は、どこにおられますな?" ], [ "一月寺関東の支配所", "アア下谷の虚無僧寺でござるか。そのうちに、是非とも一度おたずねいたす" ], [ "どうしたのじゃ? 江戸表へまいって以来、どれほどそちの姿を探していたかしれぬぞ", "イヤどうも、お話にならねえ手違いだらけで、私もあなたの居所を知るまでどんなに、気をもんだかしれません", "ではこのほうが、先日焼け跡へ印してきた文字を読んだか", "あれを見なかった日にゃ、それこそ、まだお目にかかることはできなかったでしょう。で、実は早速、一月寺の方へ伺いましたところ、今日は合力に出ていてお留守だという話。もう夕方までは間もねえからと、今しがたまで池の端の茶屋に休んでおりますと、あなたをつけ狙っている三人組の奴らが、角兵衛獅子の子をいじめているので、思わずあの弥次馬の中にまじっていたのでございます", "おお、そうか" ], [ "大津の打出ヶ浜と申すと? ……ウム、あの嵐のあとの月夜に、瓦小屋で会うた女子か", "はい……お久しゅうござりました" ], [ "この路傍では、何かの話もなりかねる。一月寺の宿院はすぐこの先じゃ、そこへ落ちついてきこうから、私の後についてまいるがいい", "へい、それじゃそこへまいりましてから" ], [ "姉ちゃん! ……姉ちゃん!", "姉ちゃん、待ッて――" ], [ "三輪ちゃんご免よ――、乙吉もかんにんしておくれよね。今に私が家へ帰ったら、角兵衛獅子なンかさせておきゃあしないから。――いい着物も買ってあげる……おいしい物も食べさせてあげる……そして寺小屋へも勉強に通わせてあげるから……ねえ", "うん、姉ちゃん、ほんとにネ", "ああ、嘘なんかいうものじゃない。――だから……いい子だから、暫く我慢して働いていておくれ、私が家へ帰るまで……", "…………", "分ったかい! 姉さんはこれから、ほれ、向うにいるお二人の方と一緒に、大事な用があって行く途中なのだから、日が暮れないうちに、早く家へお帰りなさい", "いや!" ], [ "お綱とやら――不愍ではないか", "は、はい……", "およその事情は万吉から聞いたが、そちを慕うて離れぬのは無理ではない。拙者も万吉も、どの道しばらくは一月寺の宿院に滞在することになろうから、とにかく妹弟どもを送り届けて、明日なり、また四、五日おいてなり後に、改めて一月寺へ尋ねてまいるがよい" ], [ "姉ちゃん", "あいよ", "姉ちゃん", "なんだい", "なんでもないの" ], [ "姉ちゃん", "ええ", "なぜ姉ちゃんは家にいないの" ], [ "あの、私はね、よそのお屋敷へご奉公に出ているからさ……。それで、お前たちのことを思い出しても、めったに家へ帰れないのだよ", "そう? ……じゃ姉ちゃんは、立派なお屋敷に出ているんだね。それを、角の荒物屋の小母さんてば、お前たちの姉さんは、見返りお綱っていう金箔付きだッていったよ。姉ちゃん――金箔付きって何のこと?", "そら、立派な、お屋敷のことさ", "それで姉ちゃんは、家みたいな、きたない所へ寝るのがいやなの?", "そんなことがあるものかね。たとえ、お施米小屋のような中へ、藁をかぶって寝ればとて、みんなで一緒に暮らしているほど、倖せなことはないんだよ" ], [ "さっきも話した通り、お屋敷奉公をしている身だから、この姉ちゃんは、家へ泊ってゆかれない体なんだよ。ネ、いい子だから聞きわけて、今日はここで別れておくれ", "え……", "分ったかい。そのうちに、きっとお前たちを幸福にして上げるからね。廓へ売られた姉ちゃんも、今に私が身うけをして、家へ戻れるようにする。だから、そんなに泣かないで……" ], [ "御用だッ!", "御用ッ、御用ッ!" ], [ "どこへ曲った", "たしかにこの路次", "抜けられるな――しまッた――早く先へ廻れ、番屋の前をみたらお手を拝借とどなれ、おお、みんなそっちへ行っちゃいけねえ、半分はここから後を追いつめろ" ], [ "お子さんがあると、お風呂もたいていじゃありませんね", "まったくですよ。それに冬は、風邪をひかしてはと思うもんですから、自分の体も洗えやしません", "少し、抱っこしていてあげましょうか", "いいえ、いいんですよ" ], [ "入ったろう、そんなふうな女が……", "さア、なにしろこの通り混んでおりますから", "不注意な奴だ", "申し訳がございません……ですが、どうぞ流し場でおあらためだけは一つご勘弁を。へい、男湯の方なら、ちッともかまやしませんが、その……ほかのお客様がお気の毒でございます。なんなら、その脱いである着物をごらんくださいまして", "夜分なので、衣服にはよく覚えがないのだ。では、必ず裏口などから突っ走らぬように気をつけてくれ", "へい、その辺はよろしゅうございます", "きッとだぞ" ], [ "すみませんです、ほんとにご親切様な", "どういたしまして、お互い様ですもの", "おかげ様で今夜ばかりは", "おう、外へ出るといい気もち――赤児もスヤスヤ寝ていますよ", "まア、のんきなものでございます。どうもありがとうぞんじました", "せっかく、いい気持そうにしているのに、目をさますといけませんから……" ], [ "す、す、掏摸にやられたッ", "えっ、掏摸?", "今、瀬戸物町で、四十両の勘定をとってきたばかりなンだ。それがねえ! 財布ぐるみだ! 財布ぐるみ掏られてしまった" ], [ "揃いましてござります。この中の、南蛮薬草などは、手前どもの店以外にはございません物で、はい、ありがとうぞんじました", "今日はこの処方を揃えるために、かなり尋ね歩いたわい。して、代は何程になるの" ], [ "いえ、そのうちに、お屋敷の方へ、ちょうだいに伺わせますから、どうぞお持ち帰りを", "いやいや、わしは浪人者じゃ。取りに来るというても、定まる屋敷などはない" ], [ "おお", "あぶない" ], [ "掏摸だな汝は? 虫も殺さぬような顔をして、武士の懐中物をかすめるとは大胆な女じゃ", "ア痛ッ、ア痛……旦那、今わたしの掏った紙入れは返しますから、どうか、このところは、見遁してやっておくンなさいまし……、どうしても、せっぱに詰まることがあって、魔がさしたのでございます" ], [ "当分の間は、なるべく、外出無用であるぞ", "心得ております。しかし、今日はちと是非ないことで、自身買物に出かけました", "買物にじゃ? はて、なぜ家来どもにいいつけぬか", "それが、ちとむずかしい蘭薬の調じ合せをいたしますため、薬名や何かも、自分でなければなりませぬので", "ほほう、さては、あの病人にのます薬かの", "御意にございます。所詮、ああまでの状態になりましては、漢薬の利き目おぼつかなく存じますので、実は、今日ふと思いつきました蘭薬の処方を持ち、本町薬種屋町の問屋を一軒ごとに歩きまして、ようよう望みどおりの薬種を揃えてまいりました", "ふーむ、そちも、かなり博識と聞いたが、医学にまで精通しているとは、今日初めて知った。近頃はだいぶ蘭薬流行であるようじゃな", "いえ、なかなかもって、この処方は、手前の究学ではござりませぬ。大阪表におりました頃、しばらく一緒におりました、鳩渓平賀源内と申す男の秘とする処方で", "ああ、源内であるか。なるほど、あれなら蘭学の方も詳しい筈じゃ。して、その源内は、ただ今どこにおろうな", "いつか、殿にもお話しいたした通り、住吉村で別れまして以来、トンと音沙汰もござりませぬ" ], [ "御前、これにおります者は、見返りお綱と申す、名うてな、女掏摸でござります", "なに、掏摸じゃと申すか。女だてらに――", "これでどうやら、尋ねる者の手がかりがあろうかと存じます。で、おそれ多うござりますが、じきじきに一つお調べを願いとう存じます", "では、この女が、たしかに弦之丞の居所を存じていると申すのじゃな" ], [ "そちは拙者を知っているであろうな", "ハイ、存じております", "ウム、たしか二度ほど見かけている。一度は大阪表にいた当時、住吉村でそちを見た。また、一度はツイ先日じゃ――おお、駿河台大火の節、太田媛神社の境内で……" ], [ "あの墨屋敷が焼けた晩に?", "そうじゃ、しかし、そちは知るまい。気を失っていた筈だからの。ちょうどあの夜、この鴻山は所用あって、飯田町から戻る途中であった。火に行く先をふさがれて、ぜひなく駕を休めていると、そこへそちと、もう一人、由ありげな女子とが、気を失って引きずられてきた" ], [ "いや、罪科を糺すのではない。もとより初めに、このほうをつけてきた時から、そちが掏摸だということは見抜いていた。しかし、前にも話したとおり、こちらにも聞きたいことがあったゆえ、わざとここまで釣り込んでまいった次第――、罪の半分はこの鴻山にもある訳じゃ", "恐れ入りました。そうおっしゃられると見返りお綱も、穴があったら入りたいほどでございます", "ウム、それほどまでに、しかとした性根をもちながら、なんで、あのようなあぶない芸をいたすのじゃ", "一時のがれの、嘘いつわりは申しませぬ。実は自分の心でも、真から悪いと悟って、もう金輪際掏摸は働かぬと誓っていたのでございますが、どうしても、救ってやりたい不愍な目下がございますため、この一仕事で、足を洗おうと思ったのが、私の誤りでございました……。どうぞこの上は、お腹のいえるように、御成敗なすって下さいまし", "その言葉に偽りはなさそうじゃ。最前、そちの手にかかったこの紙入れ、過分にはないが納めておくがよい、そして、これを最後に、きッと邪心を起こさぬことだぞ", "あ、ありがとう存じます……、これさえあれば、心がかりな妹弟たちを救ってやれます上に、お綱も生れ代りまする", "わずかのことで、そちまで生れ代った女になれるとは何よりうれしい。してお綱、弦之丞殿と万吉は、ただ今どこにいるであろうか、一日も早く逢いたいのだが……", "御恩返しという程でもございませんが、いつでも、すぐに御案内申しましょう、下谷根岸の一月寺においでなさいます", "おお、では虚無僧の宿院にいるのか" ], [ "お聞きの通りでござりますが、こちらから出向いたものでございましょうか、それとも、書面でもつかわして、密かにここへ招じ寄せましょうか", "そうじゃの? ……" ], [ "当家へ、あまり出入りの多いは人目につくかも知れぬ。その女を案内に、ともかく、そちが訪ねてまいったらどうじゃ", "手前も、それがよいように考えておりまする。ではお綱、これからすぐに案内を頼むぞ", "乗物は?" ], [ "町へ出てから求めます", "ウム、それもよかろう。いずれ今宵のうちに、吉左右が知れるであろうから、心待ちに帰邸を待っておるぞ", "はっ、では……" ], [ "客僧どの", "はい", "まだお寝みではございませんでしたか" ], [ "起きておいでのご様子、ちと急用でございます。この障子を開けますが……", "おお、差支えはござらぬ、どうぞ" ], [ "なに、このほうへの書状?", "はい、すぐご返事がほしいそうで、使いの者が待っております。どうぞ、ご一見下さいまし" ], [ "はい、それだけでよろしゅうございますか", "後よりすぐにまいりますゆえ", "では、そう申して、使いを帰せばよろしいので", "ご苦労ながら" ], [ "万吉、拙者はちょっと行ってみるから、先に寝んでいてくれい", "えっ、これからお出かけなさいますッて?", "ウム、その手紙を見るがいい……。少し腑に落ちぬことではあるが、何ぞの手がかりがあるかもしれぬ" ], [ "わっしもお供いたしましょう。なアに、炉の火はスッカリ埋けてまいりますよ", "これこれ万吉、つまらぬ情を張って、拙者の足手まといになってくれるな。いよいよ阿波へ入り込む時やまた、向うへ着いて働く場合には、随分そちの腕も借ろうが、今はまだ目的の本道に入っていない" ], [ "前途の多難は今宵ばかりでない。どこまでも大事を取って進まねばならぬ。騎虎の勇にはやって、二つとない身を傷つけたら何といたす", "さ、それだから俺もまた、いっそうあなたのお体を、お案じ申すのでございます", "ウム、その心は過分である。いずれ周馬の手紙には、深い魂胆があり、企らみがあるものとは拙者も察しているが、この弦之丞の眼からみれば、およそは多寡の知れたあの三人……あはははは、久しく試みぬ夕雲流、場合によっては――" ], [ "そりゃ、弦之丞様には、腕に覚えもございましょうが、足場の悪い根岸の闇、欺し討ちや、飛び道具という策もございますから、必ず、ご油断をなさいますな", "そこまで物を案じては、いわゆる取越し苦労というもの。大望をもつ身でなくとも、こんな例は、道場通いの修業中にもママあることじゃ。申せば武士の日常茶飯事……" ], [ "古梅庵の若い者で、旅川様からお手紙をいいつかってきた男でございます", "そうか。では何分とも案内を頼む", "エエよろしゅうございますとも、なにしろ、御行の松から御隠殿――あの水鶏橋の辺は、昼でも薄気味のわるい所でございますからな……。夜のお使いは、あんまりゾッとしませんや。それに来る時は一人ぽッちなんで、びくびくものでございましたが、おかげ様で、まず帰りは気強いというものでございます", "所々に見える灯は、どこかの寮か隠居所だの", "へえ、お旗本の別荘とか、上野の宮様の別院とか、吉原に大店を持っている人の寮だとか……そんなものばかりでございますから、淋しいわけでございまさ。……ア、旦那、そこに小さな流れがございますぜ" ], [ "へへへへへ。旦那、ご心配なさいますな、私はこれでも根岸にゃ四年も住んでおりますから、決して道に迷うなんていうことはございませんよ", "しかし、鶯谷へ出るには、ちと、方角違いな気がするが" ], [ "ウム、御隠殿下であろう", "あすこに見えるのが水鶏橋で……、あれを渡って向う岸を入りますと、古梅庵はもうじきでございます。さだめし、旅川様もお待ちかねでございましょう", "だいぶ遅いが、周馬は宵のうちからまいっているのか", "へえ、私がお使いに出る二刻ほど前から、奥の座敷でチビチビ飲んでおいででした", "その周馬だけではなかろうが" ], [ "半次か", "周馬様で?", "ウム", "手ごたえは? ……" ], [ "どこだ、彼奴の仆れた所は? ……", "あ、その辺……。いえ、もう少し向うへ寄った笹の中で", "はてな" ], [ "違う……", "道しるべの石だ", "と、すると、もう少し向うだったかしら", "油断を致されるな!" ], [ "や? ……", "なんといたした", "妙だ、いない。イヤ、何者も仆れておらんぞ", "ばかな、そんな筈が……" ], [ "誰だ……誰だ、今斬られたのは?", "一角だ、一角が深傷を負ってしまった" ], [ "なんで、俺が抜いた時に、すぐに対手を押ッ包んでしまわなかったのだ。見ろッ、弦之丞の奴はとうの昔に逃げ出してしまった。やい、半次はどうした、半次は?", "へえ、ここにおりますが", "なぜ、てめえは、みんなに合図をしなかったのだ。ざまを見やがれ! 対手は夕雲流の使い手だ、てめえがまごまごしている間に、この辺にはまだミッシリと人数が伏せてあると気取ったから、素早く影を隠してしまった", "おい、孫兵衛、孫兵衛" ], [ "今さらそんなことをいって、ぷんぷん当り散らしていたところで始まるまい。早くこの怪我人を、どこかへ落ちつかせて手当てをしなけりゃあ……", "深傷か?", "深傷だ。――だが、急所じゃない", "助かるものなら背負って帰ろう。何をするにも、この暗闇じゃ、しようがねえ", "ウム、さし当って、血止めはギリギリと巻いておいた。だが、おれの手は血糊でヌラヌラしてきたから、貴公、少しの間代ってくれ", "いや、そう皆で血みどろになっては、町へ出てから人目につく。おい半次、半次、てめえ、どこか町医者の所まで、天堂一角を肩にかけて行け。そしてな、役にも立たねえ、あとの有象無象は、もう用はねえからと追い返してしまうがいい", "ええ、返します。ですが、旦那", "なんだ", "あいつらが、酒代を貰ってくれというんですが……", "ふざけたことを申すなッ", "それや、きッかけが悪くって、お役には立ちませんでしたが、賭場のゴロや駕かきなんぞを、呼び集めてきたんですから、手ぶらじゃ帰りません" ], [ "只今、予が申したような順序をふめば、いずれお上より、何らかのお沙汰があるに違いない。天下の大事、よも、お捨ておきになる筈はない", "はっ" ], [ "さすれば、その儀について、この輝高がお召をうけるは必定である。その時、お上のお訊ねに対して、そちたちの願望、足かけ十年の苦衷、つぶさに申し上げる所存。また、この輝高の意見としても、阿波探索の必要をおすすめ申し上ぐるであろう", "ひとえに、御助力のほど願わしゅう存じます", "いや、そち達に頼まれいでも、大公儀にとって由々しい問題じゃ。必ずこの上ともに、輝高をうしろ楯と思うがよい。しかし、京の公卿たちと気脈を結んで、幕府を倒そうとする阿波そのものの陰謀、たとえ歴然たるにいたせ、確たる証拠をつかまぬうちは、どこまでも、この儀世間に洩らしてはならぬぞ", "は、それは法月殿も、とくと心得ておりますし、拙者も、大事に大事をとって秘密を守っておりまする", "そういう点からも、これを、密々お上のお耳にだけいれて、弦之丞が大公儀の隠密役となり、阿波へ探索に入りこむということは、何より、よい策のように考える。ただ弦之丞は大番頭法月一学の伜、公儀の隠密役としての御印可あるや否や、その点だけがちと心配であるが……" ], [ "何を思いだしたか、今朝は朝飯も食べずに、妻恋の家を畳んでくるのだといって出て行きましたが", "どうも解せぬ女ではある", "わっしには、少しばかり、お綱の心が分っております。だが、それをこうとは、あなたへいえない話なんで……。まあ当分のうち、あの女のすることを、見ていてやって下さいまし", "それは困る。今の場合、お綱がこの宿院におることすら、密かに迷惑と存じている", "けれど、あの女のことですから、一念思いこんでいることは、きっとやり通すだろうと思うんで", "不審なことを申す。なぜじゃ", "ゆうべ、弦之丞様が代々木からお帰りなすって、いよいよ阿波へ立つ日も近づいたぞ――と俺へおっしゃった一言を聞いてすら、今日はもう、早速、妻恋坂の家を片づけ、いつでも一緒に旅立つ覚悟をしているくらいですから", "すると、拙者について、あれも阿波までまいるつもりでいるのか", "それをお綱は、四天王寺で犯した、自分の罪の償いだと信じているのですから、止めるわけにも行きません" ], [ "承知しました。して行く先は?", "辰の口の評定所――あの右側の御門にある目安箱へ、この上書をソッと投げ込んで来てくれまいか――つまりこの一書は、弦之丞がいよいよ阿波へ発足する口火となるもの。早速、行ってきて貰いたい" ], [ "では、これを評定所の目安箱へ、ほうりこんでこいとおっしゃいますか", "そうじゃ。ちょうどきょうは七の日にあたる。月に三度の御開錠日。目安箱が柳営へあがる日である、午の刻を過ぎぬうちに、急いでそれを入れてきてくれい", "かしこまりました" ], [ "喧嘩だッ", "喧嘩だ、喧嘩だ" ], [ "斬られた!", "誰だ誰だ、斬られたのは", "対手は逃げてしまった――早く、早くしろいッ", "オオ、こいつア助からねえ、肋にかけて斬られている", "助からねえッて、見ている奴があるものか", "オイ弥次馬、ばかな面をして見物していねえで、手を貸せよ、手を!" ], [ "や、こりゃ孔雀長屋の者じゃねえか", "紋日の虎だ。紋日の虎五郎だ" ], [ "オオここだぜ、虎の家は", "誰かいるのか", "ガラ空きだ――誰もいやしねえ", "隣で聞いてみねえ、隣でよ" ], [ "稼ぎに出る子供がいますよ、三輪ちゃんに乙坊というのがネ――。それが今朝、ひもじそうにふるえているので、よけいなおせッかいだが、お隣の飯櫃をのぞいてみると、御飯なんざ一粒だってありゃアしねえ。空ッぽだア。で――今私のところで、お茶漬を食べさせてやっているところなンだが、何か御用ですかい", "子供じゃ、しようがねえなア", "じゃ、親父さんを探したらいいでしょう。またお決まりの茶飯屋へでも行って、勝手な大たくらを吹いているに違いない", "ところがよ、その紋日の虎が、どこかの侍に斬られたンだ", "えッ、き、きられたンですか、虎さんが", "戸板にのせて持ってきてやったのだが、それじゃ、手当てをする者もねえだろう。もっとも、どうせお陀仏になることは、相場がきまっている怪我人だがネ", "そ、そいつア大事だ!" ], [ "しかたがありませんから、町年寄へ泣きついて、いくらかお慈悲を仰ごうじゃありませんか", "駄目駄目。およしなさいよ", "虎さんじゃネ――なにしろ、可哀そうだと、いってくれる者はありますまい", "ひどい悪者で通っているから――こんな時には", "じゃ、長屋の衆に、もう少しずつ泣いて貰って、棺桶と線香代……", "お寺は?", "箕輪の浄閑寺、あすこの、投込みへ、無料で頼むよりしようがないでしょう", "浄閑寺の投込みは、廓の女郎衆で、引取り人のない者だけを埋葬する所。地廻りの無縁仏まで、ひきうけてくれるでしょうか", "困ったなア。といって、ほかに方法はないから、そこを一ツ、泣きついてみましょうよ" ], [ "ウム、お金だ。だがネ、お三輪坊。おめえなんか子供だから、なにも、そんなことを心配するにゃ当らないよ", "でも小父さん、お金なら、まだちゃんのふところに、小判がたくさん残っている", "えッ、小判が?" ], [ "いッたい、どうして、こんな大金を虎さんが持っているのか、お前、なんだか知っていそうだね……", "ええ。知っている" ], [ "な、なぜ、こうならこうと、明らさまにいっておくれでない。私も江戸の女、事情を明しておくれなら、どうでも自分の情を張ろうとは言いはしない……", "だから、その訳を話して、得心して貰いてえと思って、急ぐところを引ッ返してきたのじゃねえか。まア、落ちついて、おれの話を聞いてくれ", "いいえ、聞かないでも、およそのことは分っています。だけれど、それじゃお前……", "おッと、その後をいってくれるな。墨屋敷の窓の下で、約束したことは、必ず忘れていやしねえ。またお前が命がけで、お千絵様を探りだしてくれたことも、弦之丞様としてみれば、心じゃ礼をいっているくらいだ。だが、ままにならねえのは今度の旅立ち……、弦之丞様は、この万吉にさえ一言も洩らさずに、もう半月も前に、中仙道から上方へ、お立ちになってしまったのだ", "えッ……。では法月さんは、もうこの江戸にいないのだね……", "そうよ。俺もずいぶん半間だったが、弦之丞様も弦之丞様だ。松平様のお屋敷に呼ばれて、常木様と三人で、コッソリ相談をきめるとすぐに、代々木荘から夜にまぎれて、甲州街道をお急ぎなすってしまったという話――", "じゃ、万吉さんまでを置き残して? ……" ], [ "目安箱の御上書やら、左京之介様のお計らいで、弦之丞様へ、ごく密々なお墨付が下ったのだ、早くいえば将軍家のお声がかり――、阿波の間者牢にいる世阿弥に会い、蜂須賀家の陰謀をあばく一ツの証拠を聞き取ってまいれ――という御内命であったそうな", "では、とうとうそのことが、将軍様のお指図とまでなって?", "公儀で表沙汰となさるには、まだ拠り所が充分でない。といって、これから大がかりに、所司代やお目付が手を廻せば、向うで気取ってしまうから、この探索は弦之丞様一人がいいという御方針になったらしい。そこで弦之丞様が、首尾よく甲賀世阿弥に会って、何ぞ、蜂須賀家の急所を押すような証拠をつかんでおいでになれば、即座に、阿波二十五万石はお取潰しとくる段取になっている。無論そうなれば、あのお方一代の誉れ、甲賀の家にもふたたび花が咲こうし、十年以上も暗闇の手探りをしていた天満組の俺たちも、さすがに目が利いていたといわれるだろう――。けれど俺は不服だった" ], [ "けれど、ねえ、万吉さん、今の私の心にもなってみておくれ。どうしても、私は、あの弦之丞様にすがっていなくっては、生きておられない身なんだよ……", "そりゃ俺も充分に承知している。承知しながら何もかも、諦めてくれと頼むのは、ちょうど、お前に尼になれという難題を吹ッかけるようなものだが", "いいえ、尼になれる私なら、いッそ、そうなったほうがましだけれど、とても私の性質では、尼寺へなぞは住めないし、といって、弦之丞様やお前さんの側を離れて、このまま江戸に揉まれていれば、いつかまたよりが戻って、癖の悪い指技の出来心が起こらないとも限らない……。私はね、万吉さん、それが一番怖ろしいと思っている", "じゃ、お綱、これほど俺が頼んでも、得心してくれねえのか", "決して、分らない我を張るのではないけれど、万吉さん、私のほうからもこの通り、一生涯のお願いだから……", "ええ、お前にそう手をつかれちゃ、いよいよ俺の立つ瀬がねえ", "私という女一人を、助けると思って、もし――お願いだから、お願いだから", "幾ら何といわれても、俺をさえ、置き残して行った弦之丞様のお覚悟を思うと、ウンと承知ができねえじゃねえか", "ああ……それじゃどうしても――", "オ、オ、オ、おい! お綱ッ", "見遁しておくれ", "な、なにをするんだッ" ], [ "御本院で伺いましたが、こちらに、お綱さんがおいでになるそうですが", "あ、誰だい、お前は?" ], [ "どうしたのでしょう?", "もう来そうなものだが……", "会わせてやりたいものだ、間に合ってくれればいい。私たちはちっとも知らなかったが、お綱さんは虎さんの血を分けた娘じゃないのだそうだ……それだけにねえ" ], [ "お父っさん!", "おやじさん!", "もし、もし……", "気をしっかりしておくれよ。せっかく、お綱さんが来て間に合ったものを", "アア、もう難かしそうだ。お綱さん、せめて、お前、抱いてあげなさいよ", "私も一言お詫をします――お父っさん! お綱はほんとに親不孝でございました" ], [ "おお、あれを調べてみなくっちゃいけない。虎さんの遺言した物を……何やら押入れの奥に、お綱さんへ渡したい物があるといった……", "刀――と一語いったようだが", "それだけが気がかりで、ああして一目会いたいといっていたのだろうから、忘れては大変だ" ], [ "万吉さん", "ウム?", "ちょっと、待ってくれないか", "いいとも、ゆっくり休むがいい。俺も旅支度までしているくらいだから、実をいうと、肚の中じゃ先をあせっているんだが、こう夜が更けちゃしようがねえ。明日の朝の早立ちとしよう", "私も、別に休みたい訳じゃないけれど、お父っさんが臨終にまで、アア言い遺して行ったこの紙包みに、何か、深い仔細があるような気がするので、早く開けてみたいと思ってね……", "ウム。詳しいことは知らないが、俺もそう考えていた。じゃお綱、向うの廻廊がいいだろう。御灯が下がっている" ], [ "俺もさっきは、土間の隅で待ちながら、思わず、貰い泣きをしていたが、なんだか、其品は刀だという話じゃないか", "それが、どうも私にゃ腑に落ちない一ツなのさ……。私の家は小さい時から、今も同じな長屋暮らし、こんな刀がある筈はないのだもの", "フーム、するとそりゃなんだろう、お前が小さい時に死んだという、お袋さんに由緒のある刀じゃねえかな", "私も……もしや、そうじゃアないかと思っているんだがね……何か、私とお母さんの……" ], [ "なんだか私は、これを開いてみるのが、少し怖いような気がしてきたよ", "何か思い当ったかい?", "こんなシーンとした晩に、この観音様のお堂に立ったせいか、初めてフイと思いうかんだことがある……。それはもう、十何年か前のことだけれど", "と、すると、お前が八ツか九ツごろ?", "なんでも、うすら覚えに考えると、あの弁天山や仁王門の桜が、チラチラと、散りぬいている晩でしたっけ。――その小さな時分の私が、お母さんの手に引かれて、この観音堂へ来たのですよ、それもたしかに夜半のよう……" ], [ "――そして、この観音堂に、お母さんと私を待っていた妙な侍は、ややしばらく、怖がる私の手をとって、ジッと涙ぐんでいましたが、そのうちに、今度は、お母さんに、シンミリと別れの言葉をいいのこして――そうでした――旅へでも立つように、名残を惜しんで、幾度も幾度も振り返りながら、花吹雪の闇の中へ、姿が消えてしまったのです……影絵みたいなそのお侍の姿が行ってしまったのでした", "ふウむ、そして?", "それから先は、小さい私は無我夢中、おはぐろ溝の裏店で、お転婆娘に育ってきましたが、お母さんと死に別れた頃から、時々、その影絵のお侍が、妙に思いだされてくるんですよ――、そしてね万吉さん、どうして私のお母さんが、そのお侍と別れる時に、あんなに泣いていたのだろうか? ……とそれが解けない謎でした", "ウム、そう話されて、俺にはうッすら分ってきた", "私も年頃になってから、それを覚ってきたのです", "花の散る晩に、ここへ別れにきた侍は、お前の――", "私の、ほんとの、父親でしょう? ……", "そうよ、それに違えねえ", "養い親の人情で、虎五郎は私にそれを秘し隠しにしていましたが、息をひきとる時になって、初めて、それを明かそうとしたのじゃないかと思うのです", "なるほど……、そうすると、お前に渡した刀と一緒に、何か由緒が書いてあるかもしれねえ", "このお堂の御廂を仰いで、ふいと思い浮かんだのも、何か深い因縁ずく……と、急に開けてみたくなったもんだから……", "まア、とにかくそれじゃ、早く中をあらためてみるがいい" ], [ "お、おい! 今読んだのを聞いていたか", "聞いていました……そ、それから", "だんだんに読んでいったら、すッかり仔細も分るだろうが、お綱さん! お前はまさしくこの人の娘だ! ア――甲賀世阿弥の血をうけているお嬢様だ" ], [ "世阿弥様のお嬢様には、あの、墨屋敷においでになった、美しいお千絵という方が? ……", "さ、だからなおのこと、お前が世阿弥様の娘だということが分る。というなア、最前きいた話にも、また、この手紙の様子をみても、お前の死んだお母さんは、仲之町の江戸芸妓だろう……。いいかい、そこで何かの機縁から、甲賀様と馴染みになって、いつか、日蔭の腹違いに、生れたものがお前なのだ……イヤ、お綱さんだったのに違いない。まア待ちねえ。もッと先を読んでみるから……" ], [ "お目にかかることができる! 血を分けた父親に会われる! オオ私はどうしても、剣山の間者牢へ行かなければならない", "よし!" ], [ "えッ、じゃあ、承知してくれますかえ?", "こう分ってみる上は、俺が止めだてをするいわれがねえ。夜明けを待ってすぐに立とう! 弦之丞様のあとを慕って、木曾街道から上方路へ――", "なんだか、私の目の前が、急にほんのりと明るくなったような気がする……。そうなれば、弦之丞様へお尽しもできるし、真の父親にも会われるというもの。これも、死んだお母さんのおひきあわせであるかも知れない……" ], [ "うぬ!", "逃すな。お綱を!" ], [ "おお、お綱殿にも堅固にして、どうぞ、無事に、お父上に会われてまいるよう、鴻山も、蔭ながら祈りますぞ", "何から何までのお心尽し、たとえ、途中で阿波の土となりましょうとも、決して忘れは致しません", "なアに鴻山様、たとえ体が舎利になっても、きっと、剣山まで行きついて、望みを達してまいりますから、どうか、御安心なすって下さいまし", "遍路切手がある以上は、関所や便船になやむことはあるまいが、飽くまでもと、そちや弦之丞殿をつけ狙っている者もあることゆえ、ひとたび江戸を踏みだした後は、いっそう油断をしてはならぬぞ", "よく承知いたしております。では鴻山様、めでたく大事を成し遂げて立ち帰りました後に、また改めてお目にかかります" ], [ "何も知らずにおりますから、このまま言葉をかけないでまいります", "ウム。せっかく罪もなく、寝入っているものを起こして、また辛い涙をしぼらせるのも、心ない業かもしれぬ。では、後々のことは案ぜられるな。殿も御承知の上、代々木荘で養育して取らせい、とおっしゃられたことでもあるから", "ハイ、もうこれで、塵ほども心残りはございません。ただ慾には、お千絵様に一目会ってまいりたいとは思いましたが……", "そのお千絵殿も、今の容体では、まだ何を話してもお分りあるまい、いずれ病気が癒えた後に、晴れて名乗りあう時節もござろう" ], [ "どうした、先の様子は?", "佐竹ッ原までつけて行って、すッかり様子を見届けて来ました。案の定、邪魔をして行った奴らは、常木鴻山の廻し者でさ。まアそれはいいが、愚図愚図していられなくなったのは、お綱と万吉の方で、あの二人はとうとう今夜かぎりで江戸表にはいないことになりましたぜ", "えッ、江戸におらぬと⁉", "鴻山の手から、阿波へ渡る遍路切手をうけとって、中仙道から、木曾路の垂井へ急いで行きました。そこにゃ、先に姿を消してしまった法月弦之丞もいて、この春の道者船にのる支度をしているとかということです" ] ]
底本:「鳴門秘帖(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年9月11日第1刷発行    2004(平成16)年1月9日第20刷発行    「鳴門秘帖(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年9月11日第1刷発行    2008(平成20)年12月24日第22刷発行 ※副題は底本では、「江戸《えど》の巻」となっています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2013年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052404", "作品名": "鳴門秘帖", "作品名読み": "なるとひちょう", "ソート用読み": "なるとひちよう", "副題": "02 江戸の巻", "副題読み": "02 えどのまき", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-04-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52404.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11 00:00:00", "没年月日": "1962-09-07 00:00:00", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鳴門秘帖(一)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫2、講談社", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年9月11日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年1月9日第20刷", "校正に使用した版1": "2008(平成20)年7月1日第23刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "鳴門秘帖(二)", "底本出版社名2": "吉川英治歴史時代文庫3、講談社", "底本初版発行年2": "1989(平成元)年9月11日", "入力に使用した版2": "2008(平成20)年12月24日第22刷", "校正に使用した版2": "2011(平成23)年4月1日第23刷", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "トレンドイースト", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52404_ruby_50140.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52404_50141.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "もう江戸から四十里余り、三晩も泊りを重ねているのに、行っても行っても、万吉とお綱の姿が先に見当らねえじゃアねえか", "そのことなら心配は無用だ。まさかに使屋の半次が、口から出放題なことを言いはしまい", "それなら、もうたいがいに追いついている筈だが", "イヤ大丈夫。実は小諸の立場で念入りに聞いておいたことがある。ちょうど、きのうの朝立ちで、それらしい二人づれが、間違いなくこの街道へ折れたという問屋場の話であった", "ふウむ……そうか。すると今のところで、日数にしてたッた一日、道のりにして小十里しか離れていない勘定になる。それじゃ、もう一息で追いつけるだろう" ], [ "まだまだ先は永いから、そうあせるには及ぶまい。おい、旅川氏", "なんだ", "少し休息してまいろう", "さようか", "貴公、あまり旅を好まぬとみえる", "旅は好きだが、どうも、こんどの旅ははなはだ面白くない。人間の感情は正直だ、アテのない道かと思うと一日に十里の旅は楽でない", "これは頼もしくない言葉。なぜ、今度の旅にアテがないと申されるか", "孫兵衛や貴殿はいい。しかし、この周馬にとってみれば、こうまでしても、万吉や弦之丞を殺さねばならぬという必要がない", "ばかなことを。墨屋敷を焼いたのはお綱の為業でござるぞ。また、お千絵をああして奪ったのは万吉でござるぞ、よいか! そしてそれを傀儡したやつは法月弦之丞ではないか。それでも貴公は、きゃつらに何の怨みもないか! いやさ、吾々と力を協せて、その怨みを思い知らせてやるという気が起こらぬのか", "どうも大して起こらぬなあ", "ちイッ。ぶ、武士らしくもないッ", "お千絵といい、墨屋敷の財宝も、今ではみんな幻滅となってしまった。その揚句に命がけで、万吉や弦之丞を狙ったところで、何の埋合せにもなりはしない。拙者はもうここでお別れいたすよ。江戸へ帰って寝ていた方がはるかましだ", "その無念を晴らすがいいではないか。その怨みを!", "でも――親の仇ではないからなあ" ], [ "では、なぜ、江戸を立つ前にそういわぬか。ここまで来た旅先で、面白くもないケチをつける奴だ", "ケチはつけんよ、ただ旅川周馬一個人の立場について言明しているのだ", "臆病風にさそわれてきたのだろう。江戸表にいるうちは、貴様も吾々と合体して、どこまでも、法月弦之丞を討つと誓い、また、万吉も生かしてはおけぬと罵っていたではないか", "それは、そう思ったこともある。しかし、遺恨の怨みのというやつは、カッとなったときこそ真剣にもなれるが、明けても暮れても、いつまで火の玉みたいになってはおられない。ことにサ、旅になんぞ出てみると、よけいに冷静になるからなア", "じゃアどうでも、吾々と目的を一ツにして行く気はないというのだな", "オイ天堂氏。よく貴公は目的目的というけれど、これからお綱や万吉に追いついて、なお、弦之丞を討ったにしても、いったいその暁に、この周馬は何をつかむ勘定になるんだな? それが拙者には茫漠なのだ", "勘定? ……フーム、すると貴様はなんだな、すべて最初から、打算一方でかかっているのか。武士の意気地もなく、また、復讐の念慮もなく", "だれが意気地ばかりで命がけになれるものか。早い話がお手前にしろ、お十夜にしろ、みな胸に一物ある仕事ではないか。――周馬にはその報酬がない", "呆れてものがいえぬわい。まるで腐った町人根性、もうそんな似而非侍とつきあう要はない、いやならここから帰れ帰れ!", "なんだ、帰れとは!" ], [ "万吉やお綱はとにかく、弦之丞を討つには、お十夜の腕でもまだ心細いから、ぜひ助太刀を頼むと、いんぎんに、汝が両手をついて頼んだからこそ同道してやったのだ。それを、帰れとはなんだ! 帰れとはッ", "やかましいわッ。貴様も多少は頼み甲斐になる奴かと見そこなって、蜂須賀家の御事情まで洩らしたが、その性根を聞いていやになった。もう頼まん! 身どもと孫兵衛とできっと弦之丞を討ってみせる", "オオ、そんなことは勝手にせい", "いらざることを! トットと江戸表へ引っ返せ" ], [ "あまりといえば口の過ぎた天堂の言い分、叩ッ斬ってくれねば虫が納まらん", "片腹痛いことを、なんで貴様のようなヘロヘロ武士に" ], [ "旅先で兄弟喧嘩はよそうじゃねえか。え、一角。オイ周馬", "ム、しかし、周馬を無事に江戸へ帰すと、阿波の内密を吹聴いたさぬ限りもない。拙者は主君のお家のためにも、この二股武士を生かしてはおけぬ", "まさか、いくら周馬でも、そこまで悪気がある訳ではあるまい。まア、このお十夜に任しておいてくれ、周馬の気持はよく分っている" ], [ "啓之助、啓之助", "はッ", "どうした? 意気地のない奴じゃ", "イヤ、意気地のないわけではございませんが、さすがに、倶利伽羅坂十八町を、ひと息に上ってまいったので、やや疲労をおぼえました", "まだ、この上には一ノ森、二ノ森の嶮路がある。そんなことでは心細いぞ", "いや、とんでもないことを", "なにがとんでもないことじゃ", "春とは申せ、まだ渓谷には雪があり、藤の森あたりはすこぶる危険でございます", "ばかを申せ。きょうは是が非でも二ノ森を踏破して、お花畑の天ッ辺から三十五社、蟻の細道、または人跡未踏という、剣の刃渡り、百足虫腹までも、越えてみなければ気がすまぬ", "なんと仰せあろうとも、まだ五月にならぬうちは、これより上のお供はできませぬ", "ではこのほう一人で登りつめる", "また有村様の横紙破りな。万一お怪我のある時には、この啓之助の落度として、殿より御叱責をうけねばなりませぬ。どうぞ、今日はこの辺で、ひとつ日置流のお手際を拝見いたしたいもので" ], [ "諦めてやろう。それほどまでに頼むなら――", "お、では、つるぎ山踏破のこと、お見合せ下さいますか" ], [ "イヤ、今の最後の声に鬼気があった。誰か人が斬り殺されたぞ", "それは気のせいでござりましょう", "啓之助、お前は兵学に通じておらぬから、話せない。人が殺される間際の五音ほど明らかなものはないのじゃ。たしかに誰か殺されている。イヤ、誰かではない。今叫んだ声の主が斬られた……" ], [ "おッ、お目付", "ウム、いかが致した?" ], [ "また、あの乱暴者が狂乱して、牢番の佐平の脇差を奪って斬り殺しました", "えっ、斬った?" ], [ "で、どうした、彼奴は?", "佐平の声に驚いて、吾々が駈けつけてみた時は、もう柵を破っている切迫で", "ヤ、脱牢したか!", "すわとばかり、組みつきましたなれど、なにせい、血刀を持っている上に、いつものような死物狂い、とても、二人の敵ではなく、みるまにあの柵際から西谷へ向って、身を躍らせてしまいました" ], [ "破牢して西谷へ飛び下りたのを見届けながら、空しく逃げ降りてくる奴があるか。合図鳴子は何のために備えてあると思うのじゃ。うろたえ者め! 早く鳴子を引いて麓へ合図をしろ! 早く引けッ、鳴子をッ", "おッ" ], [ "見えるだろう、鞘橋の木戸が", "うかがえます――、只今の鳴子合図に、手配の人数が動きだしました", "ム、鬼淵の間道のほうは?" ], [ "鷭の平には?", "見張が立った様子です" ], [ "脱走を企てたのは何者か", "御存じの、俵一八郎でござります", "ウム、あれか" ], [ "あなた様もご承知でございましょう。鳩使いの天満浪人、俵同心と申した奴で", "知っている。安治川のお屋敷へ妹を棲みこませていた者じゃ", "その妹の鈴も、この剣山に同獄しておりましたが、極寒のうちに、凍死してしまいました。それ以来、一八郎め、ほとんど、野獣のように荒れ狂って無謀な脱走をくわだてますので、特に、山番二人と牢番一名をつけておきましたが、またもやこんな騒ぎをしでかしました", "自暴自棄になっているのだ", "この分では、ただの山牢では不安心ゆえ、改めて、前神の森の石子牢へぶちこんでくれましょう", "それほど手数のかかる奴なら、なぜひと思いに、首を打ってしまわぬじゃろう", "隠密は斬るな、終身山牢へ入れて鳴門の向うへは返すな、間者を斬ると徳島城へ祟りをする――というのは、義伝様以来、破れぬお家の掟でござります", "そうそう、大阪表におった頃、そういう話を阿波殿の口からも聞いたことがある。そのために、十一年余りも、この上の洞窟に封じ込まれている甲賀世阿弥、あれはまだ存生でいるのか", "生きているというのも名ばかり、まるで、うつせみかまゆを脱けた蛾のように老いさらぼうておりまする" ], [ "おお、あんな所に", "何をお見つけなさりました", "わしが昨日射た流れ矢の先がチラと見える" ], [ "俵一八郎殿……。わしは甲賀世阿弥と申すものでござる。阿波の者ではござらぬ。十一年以前からこの山牢に封じこまれている世阿弥と申す幕府の隠密でござる", "やッ、世阿弥殿?", "ご承知か" ], [ "ウーム、なるほど。いかにも世阿弥殿であった。たしかにそこもとがこのつるぎ山にいるとは存じていたが、どうしても会うことができない。それゆえ、わざと、柵を破って山を騒がせ、そこもとの気がつくように致していたが……ああ、とうとうお気づき召されたか", "や、では脱走する目的ではなくて?", "なんで。――この山峡を脱走したとて、四面は山と海との二十七関、とても逃げおおせぬことは某も心得ている", "うむ、仰せの通りじゃ。土佐境も讃岐越も逃げ道はない", "しかし、お目にかかればもう本望でござる。世阿弥殿、一言お告げいたしたいことがある" ], [ "わしも、お身に会ったなら、何ぞ消息が聞かれようかと、それ一念で、山牢の柵を破ってまいったのじゃ。して、わしに告げたいこととは", "江戸表におらるるそこもとの御息女お千絵殿という方から便りをもって、唐草銀五郎というものが、阿波へ入りこむべく大阪表までまいりました", "オオ、さては、唐草が娘の消息をもって阿波へまいりますとな?", "さ、ところがその銀五郎は、目的の途中で、あえない最期をとげたのでござる。場所は、大津の禅定寺峠。――某もまたその時に、阿波の侍のために捕われて、とうとうここへ送られてまいった。しかし、御落胆なさるな、まだ安治川屋敷に押しこまれている当時、手前の妹の鈴が探ったところによると、われらと同腹の者で天満組の目明しをしている万吉と申す者が、法月弦之丞という人の力を借りて、再度、阿波へまいる支度のために、お千絵殿を尋ねて行ったということでござります……", "はて? ……法月弦之丞と申せば、わしが江戸表にいた当時は、まだ十四、五の美少年で、夕雲流の塾へ通っていた大番組の子息――。どうしてそれが、娘の千絵を存じているのであろう", "二人は恋の仲だそうでござる" ], [ "なるほど、もうそんなこともありそうな年頃。では、ついでをもって伺うが、その千絵女のほかに、お綱と申すものの消息をお知りなさるまいか", "お綱? ……それはまた何者でござりますな", "実を申すと、母違いの娘でござるが", "ひと頃、大阪表を立ち廻っていた、女スリの見返りお綱という者はござったが? ……", "いや、それは全く別人じゃ", "無論、そのお綱ではござりますまい。だが、ほかにはお綱というような名は、誰の口からも聞いたことがなかった……", "ないのが当然でござろう、親子の情、お笑い下さい", "しかし世阿弥殿。ただ今お告げした通り、弦之丞殿が江戸へついた暁には、さだめし、それらの消息や、また公儀の旨をふくんで、いつかは一度、この山牢へも訪れるものと察しられる。必ずともそれを信じて、気を落さぬように", "十一年ぶりで、初めてその吉報を聞きますわい。そうあればお手前もなおのこと、御短気をなされずに、阿波の密謀が公となって、幕府よりお救いのある日をお待ちなさるがよい" ], [ "ここから、もう何里ぐらい歩いたらいいの", "さア、私もこんな奥へ来たのは初めてで、よく見当はつきませんが、川島郷から湯立船戸、ザッと四、五里も歩いたら、穴吹口へ着きましょうか", "そこが、あの山の麓かね? ……。まだずいぶんあるらしいが、どこかに駕屋でもないかしら", "へへへへ、お米様。いつまで大阪表にいる気じゃ困りますぜ。ここは阿波の国も吉野川のグンと奥、そんな物があって堪るものじゃございません" ], [ "立派な乗物はないだろうが、山駕とかいうものぐらいはあるだろうに", "そりゃ、ない訳はございますまい。第一、馬ならたしかにお間に合せ致します", "人をばかにおしでない" ], [ "在所のお嫁さんじゃあるまいし、誰が、馬へのるなんていったえ", "お怒りなすっちゃいけません。だから、乗物はないと、まっすぐに申しあげているんで", "お前は私をなぶるから嫌いさ", "エエ、どうせ嫌いは分っております。なにしろ大阪表にいた頃から、この宅助は、仇役にばかり廻っておりましたからね", "ずいぶん私をひどい目に会わせました", "またお怨みでござンすかい", "一生忘れやしませんとも", "じょ、じょウだんじゃねえ!" ], [ "そのお怨みはお門違いでござンしょう。ねえ、主人持ちのかなしさに、わっしはただ、いいつけられたことを真ッ正直に承るだけのこッてすぜ。命がけで安治川の渡船場から、お前様を引ッさらってきたり、長持の底へ入れて綱倉の番人をしたり、ずいぶんロクでもねえことはやりましたが、その揚句に、思いを遂げて、うまい花の汁を吸ったのは、すなわち、手前のご主人様――怨むなら、その森啓之助様をお怨みなさいまし", "知らないよ……", "そう、早くお歩きなさいますと、またすぐに息が喘れますぜ", "――お前も怨むし、啓之助様も私は怨む……。ああ、こんな国のこんな山郷を歩こうとは思わなかった", "いけねえいけねえ。そういう溜息がでた後は、いつでもきまってお体が悪くなる。気をかえて、雲雀の声でもお聞きなせえ", "思い出すと腹が立つもの……", "まアよろしいじゃござンせんか。これが、大江山へでもさらわれて、酒顛童子のようなやつを亭主にしたというのなら、そりゃ諦めもつきますまいが、城下端れの小粋な寮へ納まって、お化粧料もタップリなら、遊山やぜいたくもしたい三昧、森啓之助様の思われもので、お米の方様というお身分は、決して悪い仕合せじゃございませんぜ" ], [ "私をご存じのようだけれど……お前さんは?", "お忘れでございますか", "さア……どうも", "去年の夏の初め頃は、立慶河岸へ屋根舟をつけて、よくお前さんの家の、川魚料理を食べに行ったものですぜ", "ああ、それじゃ店のお馴染みでございましたか", "なアに、馴染みというほどでもねえが、お十夜孫兵衛という男と、飲み仲間でよく一座したことがある", "それを聞いて思い出しました。ではあなたは住吉村にいた……", "そうよ、あの頃ぬきや屋敷に住んでいた甲比丹の三次という者だ", "まア、人というものは思いがけない所で逢うものでございますね", "冗談をいいなさんな、読本の筋じゃあるめえし、こんな四国の山奥で、バッタリ行き逢ったり何かして堪るものか。実はお前の尋ねてゆく人に俺も少し用があって、この通りの汗だくで追いついてきたのよ", "私の尋ねてゆく人って? ……", "トボけちゃいけませんや、お前さんの旦那様だ" ], [ "どこへ行くんだ、てめえは一体", "今もいったとおり、森様へ用向きがあるんだ。城下のお屋敷をたずねたところが留守、じゃテッキリと思って、お米さんの妾宅へ行ったところが、そこも留守だ。で、だんだん探ったところが、吉野川を舟でお前たちが上ったということが知れたから、やッとこうして道づれになれたてえものよ", "だが、ちょッと待ちねえ。うちの旦那は、お前のような者たあ知合いがねえ筈だぜ", "向うで知らなくっても、こちらさまはよくご存じの者だからしかたがねえ", "しかたがねえという法があるものか。どこの馬の骨だか牛の骨だか分らぬ者に、なんで旦那が逢うものか、はるばる行ってみるだけ無駄骨だ", "ご親切はありがてえが、よけいなことはいって貰うめえ", "なにを" ], [ "御城下からお出張になっている、森啓之助様へお目にかかりたい者でござります。どうぞお取次を願います", "その森啓之助様なら、只今、同役が知らせに行ったよ。しばらく待っておいでなさい" ], [ "ええ、啓之助様、その甲比丹の三次はここにおります。どうもまことにお久しぶりで", "はて、そちは? ……いっこう覚えがないように思うが", "こんな山の中だから、思いだせないのでございましょう。あなたもお船手組の森様、わっしも密貿易船の三次です。お互に水の上で顔を合せりゃ、ああ、あの時のあの野郎かと……", "うむ、わかった、あの三次か", "折り入って、お願いがあってまいりやした。誰か、お美しいお客様もあるところ、長いお邪魔はいたしませんが、ちょっと、しばらくお顔を貸していただきてえと存じますが" ], [ "そうか、では目付屋敷の、執務所の縁がわへ行って控えているがいい。何の用事かしらぬが、後からまいってきいてやる", "ありがとう存じます。やれやれ、これでわっしもホッと致しやした。何だッて、この山奥まで尋ねてきて、面会は相ならんなどと、木戸を突かれた日にゃ御難ですからネ" ], [ "そんなことはどうでもいいが、三次とやら", "やらはござんすまい……ご存じの仲で", "揚げ足をとるな。多用な役宅のことじゃによって、用向きの次第、簡単に承ろう", "簡単にね、結構でございます。じゃ手ッ取り早く申しますが、森様、まことにご迷惑じゃございましょうが、ひとつ、わっしをお船手か何かでお使いなすって下さいませんか", "では、何か、貴様は雇われ口を求めにまいったのか", "至る所を食い詰めましてね、もうこの阿波よりほかにゃ、のんきに暮らせそうな所はねえんで", "それは断る。殊に、お船手の水夫も、今では他国者をお召抱えにはなるまい", "じゃ、それはよろしゅうございます。断られて引っ込むことに致しやす――。その代りにですね、森様、たんとじゃございません、千両といいてえが、その半分ほど、ご拝借願いたいと思いますが、どんなものでございましょう", "な、なにをいうのだ", "お金を貸してくれという話なので", "そちは正気でないと見えるな。暴言を吐くにも程があるぞ", "程があると思うから、千両欲しいところを、こっちから五百両と負けて出ているんじゃございませんか。安いもんでございます、何とか算段をしておくんなさい。それもサ、何もお前さんの自腹を切って出せという話じゃねえ、蜂須賀家のお金蔵から、威張って引きだせる筋のものです", "だまれ! 蜂須賀家の公金を、たとえ一文でも、貴様のような奴に下さる筋があろうか", "出ねえものを取ろうとして、無駄骨を折るような三次じゃございません。じゃ、そのところを、チョッピリ耳こすり致しますが、蜂須賀様じゃ、また近頃、だいぶ精を出して、火薬を買い込むって話じゃございませんか――あの天下御法度の戦薬をね。そりゃ、何かに要るからでござンしょうが、廈門船や西班牙船から長崎沖で密買した火薬を、この阿波の由岐港に荷揚げをしてコッソリと、渭の津の山へ運びこむってえ噂が、もっぱら評判でございますよ、といっても、色をかえて、びっくりすることはございません。その評判は海の上のことで、まだ怖い江戸城の親玉へまでは知れていねえ話ですから" ], [ "もうよけいなおしゃべりは止めましょう。わっしも、楽に食えている身分なら、御無心なぞにゃまいりませんが、去年、住吉村の巣を荒されちまった後、どうも運の悪いことばかりで、食うや食わずの手下が五、六人も、口を開いて待っているんです。どうぞ何とかお助けの方法を講じてやっておくんなさい、でないと、わっしは我慢いたしますが、空ッ腹まぎれに乾分の奴が、御当家のことを、どんなふうに世間へ吹聴するかもしれませんので", "これこれ三次、貴様は何か思い違いをしているらしい、そりゃ何かの誤聞であろう" ], [ "お米……", "旦那様ですか", "ウム、どこにいるのじゃ", "こちらの部屋でございます", "あ、そこは、納屋番が夜寝る所じゃ、その廊下の奥がよい", "どこも同じじゃございませんか。ほんとにひどい旅籠だこと……。ああ、この天井板のない屋根裏を見ていると、大阪表から来た時の、怖かッた船底が思いだされます", "ばかな" ], [ "なんでもない", "どうなすったのでございます", "甲比丹の三次の血だよ、わしの身から流れた血ではない", "え? ……あの三次を、殺したのでございますか" ], [ "陰気だな、この中は", "早くお話をして、私は、今日のうちに御城下へ帰ります。こんな所に、一晩夜を明かしてはいられません", "ばかを申せ、今頃から帰れるものか", "でも、いたたまれやしませんもの", "一体、何用があってまいったのだ。こういう山家ということを存じながら、来たほうが悪いではないか", "実は、急に、お願いがありまして……" ], [ "何度いおうと、いけないといった以上、ゆるすことはできないのじゃ。もう四、五年もたったらやってくれる、それまでは大阪へ帰ることはならぬ", "帰るとおっしゃいますけれど、決して、もう、大阪へ行って、戻らないというのではございません、すぐにまた阿波へ", "いけないといったら!", "だって、そ、そんな……", "くどいッ", "そんなこと、む、無理でございます", "ちイッ、くどいというに!" ], [ "何をメソメソ泣くのだ! ものの分らぬにも程がある", "わ、わからないのは、あなたのほうじゃございませんか", "やかましい、ここをどこだと思うのだ、男の役目先へまで来て吠え面をかく奴があるか", "どこであろうと、私は言いたいことを申します。エエ、弱くしていれば、私なんか、今にあなたのために殺されてしまうかもしれない", "ウム! どうしようと、この啓之助の一存だ", "私だって、なにもこの国へ、島流しにされた科人ではなし、身を売ってきた女でもございませんからね" ], [ "どこへ?", "大阪の家へ", "虫のいいことを――だれが!", "か、かえして、くれないとおっしゃるんですか", "知れたこッた", "よ、ようございます――、あなたがお暇をくれないなら、私は私の勝手に大阪へ行きますから。立慶河岸のお母さんが、危篤だという早打がきているのに、帰らずにはおられませんからね……", "嘘をいえ、そんな、見え透いた偽りをいっても、この啓之助が手放すものか", "嘘ではございません、宅助に聞いてごらんなさいまし、たしかに、家から手紙が来ているのですから", "くどい! 何といおうが、わしが大阪へ行くときには連れても行くが、そち一人でまいることはならぬ" ], [ "あなたは鬼だ! 悪魔のようなお人です!", "オオ、おれは鬼だ。お前がわしをそうさせたのじゃ", "みんなに聞いて貰います、世間の人に何もかも話してやります。お関船の底へ無体に私をほうりこんで、その上にまだ……", "大きな声をするなッ", "しますッ。どっちが無理か世間にきいて貰います", "ばか、ここは剣山の麓だぞ" ], [ "そんなことが御家中へ洩れたら、わしばかりではない、二人の身の破滅ではないか", "い、いいえ、いいえ!" ], [ "いってやります――御家中方の耳へ", "お米! あまり男を見くびるなよ。そちは命が惜しくないのかッ", "殺すのですか、殺すというのですか", "ウーム、どこまで口の減らぬ女め、啓之助にも、いよいよとなれば、それ相応な覚悟がある", "殺してください、死んでも私は", "ええ、どうして貴様は、そうわしを……" ], [ "そんなにも大阪が恋しいか", "そりゃあ……" ], [ "行ってもよろしゅうございますか", "うむ", "では、これから帰って、すぐに支度や何かをして" ], [ "行ってこい! だが、なんだぞ、もし大阪へ行ったきり戻らぬ時には、きッと命を貰いにまいるぞ、いいか、それだけを忘れるなよ", "まあ、邪推ぶかい", "それでなくとも、貴様は剣山の隠密みたいに、隙さえあれば逃げたがっているんだ", "そんなことがあるもんですか、きっと、一日でも早く、阿波へ帰ってまいります", "宅助を付けてやる、あれを連れてゆけ", "エエ、その方が、私も気強うございます", "で、近いうちには、お関船の便がないから、上方へ荷をだす四国屋のあきない船へのせて貰うがいい。そして、帰りには、月の下旬に阿波へ戻る同じ船で、きっと帰ってこないと承知せぬぞ" ], [ "あ、誰かきました", "お米" ], [ "啓之助はここにいるが、なんじゃ", "あ、おいでなさいましたか" ], [ "石牢にいる俵一八郎が死んでおります", "えっ、一八郎が絶命した?", "はい、何者かに、射殺されたので", "それを見せい" ], [ "お米、わしもにわかに、御城下へ帰る都合になったから、すぐに支度をせい", "え、これからすぐに", "ウム、空も少し曇り模様、明日とのばして雨にでもなると困る。疲れたであろうがすぐに立とう", "いいえ、まだ歩けないほどではございません" ], [ "かしわ屋でございます、かしわ屋はこちらでございます", "桔梗屋は手前どもで、昨年もごひいきになりました", "ハイ、越後屋でございます", "お馴染の鍵屋はこちらでございます" ], [ "ホイ", "ここだな", "会田屋さん、お客様だぜ" ], [ "ご苦労様", "駕屋さん、こちらへ掛けて一服お吸い", "ようお着きなさいました", "お洗足水を", "いえ、お荷物はこちらへ" ], [ "善七さんでしたか、いつもお達者らしくて、ほんに、けっこうでございます", "はい、おかげさまで、ありがたいことでござります。したがお内儀様、こんどもやはり善光寺へお詣りのお帰りでいらっしゃいますか", "ええ、それが実は、小諸のほうの取引先に、ちと藍草の掛けがたまりましたので、信心やら商用やら", "おお、それじゃたいそうな廻り道で……きょうはあの和田峠をお越えなさりましたな。さぞお疲れなことでございましょう", "疲れもどこかへ消えてしまいました。その和田峠から、とんだ目にあいましてね", "ま、そこではなんでございますから、さ、どうぞこっちへ" ], [ "四国屋様", "はい", "なにか外で、怖ろしいことにでもお逢いなされましたか", "エエ、和田峠から、私たちを、つけ廻してくる侍がありましてね", "へえ、あなた方を? ……", "お宅へ着いて、ホッとひと安心いたしましたが、まだこのように胸が波を打っておりまする。誰か、お冷水を一杯下さいませんか" ], [ "ほ、三人づれの侍が?", "ふりかえってみますと、上から早足に追ってまいります。それは、かなり間がありましたゆえ、わたしどもは怖い一心で、麓へつくとすぐに駕へ乗ってまいりましたが、気味の悪い侍たちは、それから先まで執念ぶかく駈けてきたそうでございます", "ま、なんという図々しい奴", "藍草の掛けを取ってまいりましたので、その金に目をつけられたかと存じます", "そうかも知れませぬ。ですが、もうご安心なさいまし、ここへ来たとて、決して泊めは致しませぬ", "もしまた、姿でも見つけると、これから先、上方までの道中が、ほんとに思いやられます", "そういう訳なら、早く、奥の部屋へ隠れておしまいなさいませ。おいよ、四国屋のお内儀様を……そうだな、どこがよかろうか" ], [ "今し方のこと、当家へわらじをぬいだ男女がある筈、それをここへ呼びだして貰いたい", "おまちがいではございませんか……私どもには、いっこうそんなお客様は", "隠すな! たしかに見届けてまいったのだ", "いえ、決して、隠しなどを", "では出せ、その者をこれへ出せ!" ], [ "なかなかいい温泉だ、お十夜も一風呂ザッと浴びてこないか", "おれは後で行くよ、寝しなに" ], [ "意外なやつに出会ったぞ。まアいいから、とにかく起き上がってくれ", "起きろというのか" ], [ "ところで、何だ、お十夜", "周馬", "ウム", "一角", "オオ", "法月弦之丞がツイ鼻の先に来ているぞ", "えっ……弦之丞が" ], [ "――今おれが何の気もなく上ノ湯へ行ったところが、そこに一人の虚無僧がいる。湯気にさえぎられて先ではこっちの姿を見なかったらしいが、おれの眼にはしかと分った、まちがいなく法月弦之丞、ちょうど温泉につかっている頃だから、そこを襲ってやろうと思うがどうだ", "よしッ。いい所を見つけてきた" ], [ "江戸表で探った所から推すと、その弦之丞は、もうとくに、垂井の国分寺に着いて、道者船の出る日を待ちあわせている筈だ。それが、いまだにこの辺にいるというのは腑に落ちないように思うが……", "腑に落ちても落ちないでも、この孫兵衛が見届けてきた事実をどうする", "しかし、疑心暗鬼ということもあるから", "疑心暗鬼?", "常に弦之丞のことを念頭にえがいているため、その錯覚で、縁なき虚無僧までが、それらしく見える場合もない限りではない", "ちぇッ、また周馬が小理窟をならべだした。時刻を移して、かれに先手を打たれては大変だ。お十夜! こんにゃく問答をしている場合ではあるまい、すぐに行こう!" ], [ "黒貂の蹯があるかい", "蹯? ……蹯て何でございましょうか", "てのひらだよ、黒い貂の" ], [ "どうもおあいにく様で。それにいくら木曾の山中でも黒毛の貂などはめったに捕れません", "じゃ、こんど出た時に送って貰おう", "おうけあいはできませんが、お所だけ伺っておいてみましょう", "ム、わしは、大阪の九条村、平賀源内というものだよ", "あ、平賀先生で、お名まえは伺っておりました。どちらへお越しでございますか" ], [ "ま、お内儀様、そう取りつめて、お考えなさるからいけません。阿波へお帰りなさらぬの、死んでしまうなどと、そんなにまで……", "お前は奉公人だから、そうまでは思うまいが、私にしてみれば、面目なくて、このまま旦那様へは顔が合されません", "いえ、私もお内儀様についてきながら、こういう大事をひき起こしたのですから、その罪は同じでござります。けれど、お金のことですから、死んでお詫びをしたところで、それが戻るという訳じゃなし", "でもお前、こんどの掛けは少ないけれど、藍年貢の足しにするお金で、私の戻りを待っている場合じゃないか、それをお前……それをあんな者にゆすり盗られて" ], [ "あ、じゃ向う側に添ってゆく、あの青髯のこい大男ですね", "そうです、赤銅作りの脇差をさしている。あ、こっちを睨みやがった、気がついているのかしら?" ], [ "ウーム、こういう沙汰が阿波から出たとすると、いつのまにか蜂須賀家では、もう用意を固めているものとみえる", "じゃ、この春は、遍路の者の船まで止めてしまったのかしら", "そういうふうに書いてあるが", "とすると……弦之丞様は?", "さあ、どうしたか、この模様変りとすれば、国分寺に足をとめている筈はありますまい" ], [ "な、何をなさいますんで――ちっともわけが分りません、私どもは商用がてら御岳詣りをしてきた帰りの者で、お言葉のような者ではございません。お人違いじゃございませぬか", "その白をきる面が、なんで今向うの高札の前にあんな様子をして立ちすくんでいたか。貴様たちをはじめ法月弦之丞が、この木曾街道へかかることを承知して、罠を掛けて待っていたのだ。その逃げ口上は通用せぬ" ], [ "これだけの助太刀に、俺たち三人が足場を撰って待ちかまえているんだ。諏訪じゃあこっちで斬りかけるとたんに、宿屋の奴や湯番の者が拍子木なんぞ叩き廻って、弥次馬を呼んでしまったから取り逃がしてしまったが、人の絶えたもちの木坂、新手をかえてこれだけの者が一太刀ずつかすッても、たいがい息のねは止まってしまうだろうと思う", "ただ髀肉の嘆にたえないのは、この場合にきて拙者の左腕だ", "まだ思うように伸びないかな?", "繃帯は取ったが、柄を自由に扱うことはむずかしい。戸田流の一本使いというような型はとるが、いざとなるとどこか気力の入らぬものでな", "ま、おれが先手に斬って仆すから、しばらく形勢を眺めていてくれ" ], [ "それッ", "相手はひとりだ!", "鬼神ではあるまい! ひるむなッ" ], [ "むむッ", "おおッ" ], [ "押しきれ!", "退くなッ" ] ]
底本:「鳴門秘帖(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年9月11日第1刷発行    2008(平成20)年12月24日第22刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2013年2月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052405", "作品名": "鳴門秘帖", "作品名読み": "なるとひちょう", "ソート用読み": "なるとひちよう", "副題": "03 木曾の巻", "副題読み": "03 きそのまき", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-04-12T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52405.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11 00:00:00", "没年月日": "1962-09-07 00:00:00", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鳴門秘帖(二)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫3、講談社", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年9月11日", "入力に使用した版1": "2008(平成20)年12月24日第22刷", "校正に使用した版1": "2011(平成23)年4月1日第23刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "トレンドイースト", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52405_ruby_50159.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-02-04T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52405_50160.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-02-04T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "鳴門舞――しばらく殿の朗々たる謡声も聞きませぬ。詩吟、舞踊なども、たまには浩濶な気を養ってよろしいものと存じます", "さよう", "願わくば、わが盟主、もっと元気にみちていて下さい。大事をあぐる秋は、刻々と迫ってきております", "うム……", "御当家の城普請や造船や、また火薬兵器の御用意などが、着々とすすむにつれて、筑後柳川の諸藩をはじめ、京都の中心はもとよりのこと、江戸表の大弐などもしきりに、ひそかな兵備をいたしておるとか", "うむ" ], [ "何より、士気に関するのは、阿波殿のお体で――よかれ悪しかれ味方の旗色にすぐ響いてまいりますからな", "う……む", "海のごとく寛く、空のごとく明るく", "心を持てとか?", "その通りです", "分っている。しかし有村殿、家中の者一統の生殺をあずかる阿波守じゃ。要意に要意をいたさねばならぬ。で、自然に、そこもとなどにはお分りのない心遣いがある", "そう申せばお顔の色がひどく青い――、海の反映か、樹木のせいかと思っておりましたが", "あなたはまことに羨ましい", "皮肉な仰せ――居候はひがみます", "いや、それではない。すべて公卿殿の立場は気が軽いと申すのじゃ。事未然に発覚しても、およそ堂上の方々は、謹慎ぐらいなところですむ。で、おのずから討幕などということも、蹴鞠を試みる程度の気もちでやれますが、さて、大名の立場となると、そうはまいらぬ", "いや、有村じゃとて、敗れた後は、決して生きてはおらぬ覚悟", "そこがまことに羨ましいと思う――この阿波守などは、そうできぬ。なぜかといえば", "しばらくお待ち下さい" ], [ "では、阿波殿には、討幕の壮図、やぶれるものとみておられますか", "勝ちを信じる前に、そこに思いをいたすことは、もとより武門の慣いである", "なんの! 今の幕府が――指で突いても仆れるほど、腐敗しきっておりますのに", "いや、それよりは、こっちの足もとを気をつけておらぬと、事を挙げぬうちに逆捻を食うであろう。有村殿にも、その辺のお心配りを第一に願いたい", "それは、ご安堵下さいまし、先頃から、天堂一角の知らせに応じて、それぞれ船関、山関の手配りなども一段ときびしく固めさせてあります", "しかし、昨年大阪表で取り逃がした、法月弦之丞という江戸方の者、容易ならぬ決心をもって、この阿波へ入り込もうとしているというが", "何をしているのか天堂一角、刺客となってかれをつけて行きながら、いまだに刺止めることができぬらしい。――それをみても、弦之丞と申すやつは、一癖あると見えまする" ], [ "どうであった? 剣山の方は", "は、昨夜御城下へ戻りましたが、夜中のことゆえ、御復命さしひかえておりました", "月々の目付役、大儀である" ], [ "そちも聞き及んでいる通り、江戸方の者がしきりに当国をうかがっている場合じゃ、剣山の麓や山関の役人どもにも一倍用意させておかねばならぬぞ", "山番の末にいたるまで、近頃はみな緊張しきっておりまする", "ム。では、別に異常もなく警固しておるな", "ところが、天満同心の俵一八郎が、とつぜん、死亡いたしました", "や、遂に、病死いたしたか", "ならば別段でもござりませぬが、何者かの悪戯――おそらく悪戯と察せられます――で、殺害されたものでござる", "間者牢の者を殺害した? 誰が? 誰がそんな意志をもって悪戯をいたしたか", "剣山の御制度をわらい、間者を殺せば祟りがあるという御当家のきびしい掟を、迷信なりといって故意に矢を射て殺したものでござる。しかもその下手人は――", "あいや!" ], [ "なんでさようなことをなさる! 当家中興の祖義伝公以来、たとえいかなることがあっても、領土へ入りこんだ隠密は殺さぬ掟――間者を殺せば怪異を生むという徳島城の凶事を、そこもとは好んで招き召されたな", "イヤ凶事を招く意志ではありませぬ。むしろこれを吉兆の血祭りとして、御当家の古き迷信をやぶり新時代の風雪に陣をくりだすの意気を示しましたつもり。また、そのような旧き思想にとらわれている家中の者の蒙をさますためにもと、あえて、かれを殺しました", "おだまりなさい!" ], [ "所詮、天堂などの敵でないとみえる。頼み甲斐のない一角の報らせがまいるたびに、阿波殿の御気分がいらいらとしよう。よし、ひとつこの有村から、わざと罵詈を加えた返書をやって、かれを鞭撻してくれねばならぬ", "や、三位卿", "なんじゃ", "およしなされ、また要らざる僭上沙汰と、後になって殿のお叱りをうけまするぞ", "よいわ、よいわ。どうせ天下に、主人の気にいる居候はない。叱られついでに、一角が腹を立てて、弦之丞を討つか、舌を噛んで自殺いたすかという気になる程な、手紙を叩きつけてやる" ], [ "あ、有村様でございましたか", "向うでする呻き声、どうやら殿の寝室らしいが、阿波殿にはどうしておられるな!", "先ほど、お櫓からお下り遊ばすと、すぐに気分がお悪いと仰せられて、典医のさしあげた薬湯も召しあがらずに、お臥りになった筈でござりますが", "それでは今のは囈言か……一八郎の死をひどく気にされていたところへ、妙にきょうは悪い偶然が重なったので、まだ昼の地震にゆられておいでになるとみえる", "あ、何やらまた、激しいお声を出されておられます。オ……いつにない鋭いお声で", "だいぶ神経を起こしておられる。伊織、ちょっと御寝所へ行って揺り起こしてあげい", "はい", "お燭台がまだまいっておらぬようじゃ", "ただ今、手燭をもちましてお移し申してまいります" ], [ "それじゃせっかくお暇が出ても、のびのびすることができないから、さだめし、この宅助を、ダニのようにうるさく思っていましょうね。だが、こいつも主人持ちの悲しさというやつなんで……、へへへへ、役目の手前と思っておくんなさい。お米の方の目付役も、どうしてなかなか楽じゃねえ", "分っているよ、おしゃべりだね" ], [ "ホイ、またお叱りでござんすか", "考えておくれよ、大阪へ来たんだからネ", "そりゃ分っておりますとも", "分っているなら、なぜ、ツベコベとよけいな、おしゃべりをするのさ。人中で、お米の方なんてふざけるともう阿波へ帰ってやらないからいい", "帰ってやらないは手きびしい。思えば、あなたも変りましたネ、そんな啖呵をきる度胸になったんだから……", "そうさ、お前みたいな狼や貉と、さんざん闘ってきたんだもの", "こいつアいけねえ、どうも大阪へ入ってから、次第次第に気が強くなってきやがる……イヤ、なっておいでなさいますね", "今までの仇討ちに、たくさん威張ってあげるのだよ", "謝った! 宅助お役目が大事でござんす、あなたに大阪でジブクラれると、まことに手数がかかっていけねえ。どうかすなおに陸へ上がって、すなおに遊んで、すなおに阿波へお帰り下さいまし。おっと、冗談はともかくとして、この舟を、いったいどこへ着けさせますか?", "そうだねエ", "そうだねエじゃ船頭が可哀そうだ。なんならすぐに川つづきを、このまま立慶河岸へやって、川長のお店の前へつけさせましょうか", "やめておくれ、ばかなことを" ], [ "たいそう尋常なお話で。嫌いぬいたわっしに、今度はご相談といらっしゃいましたか", "茶化さないで聞いておくれよ" ], [ "決して、茶化してなんぞいるものですか。これが宅助の大まじめなところで", "なにしろ、いくらあつかましくっても、このまま、ハイ只今と、家へいきなり帰るわけには行かないから、当座の間、どこかへ二、三日落ちついて、大津の叔父さんに来て貰おうと思うのさ", "あの絵師の半斎さんにね。そりゃけっこうでござンしょう", "そして、叔父さんに、啓之助様のお世話になっていることを話して、家へも程よく話して貰った上、こんどは晴れて阿波へ行くということにしたら……", "だが、ちょっとお待ちなさい。なんだか、旦那に暇を貰ってくる時には、あなたのお袋様が、危篤とか大病とかで、急に来てくれという訳じゃありませんでしたか", "そんなことは、元から嘘の作りごとだということを、お前だって、うすうす知っていたじゃないか。私は、ただ、この大阪が見たくって", "驚き入った腕前です。それで、あんな涙がよく出ましたね", "おや、いつ私が、泣きなんぞしたえ?", "したじゃございませんか――ほれ、剣山の麓口の――あのむし暑い納屋倉の中で、納豆みたいになりながら、いつまで、シクシクシクシクと", "いやな、宅助!" ], [ "いい加減なことをおいいでない! 船頭さんが笑うじゃないか", "もっともわっしは、程よく酩酊した時だったんで、残念ながら、それ以上知らないことにしておきましょう。ところでそういうお話なら、とにかく、この辺で艀を上がるとしましょうか。どうせこちとらはあなた任せ――", "そうだねえ?" ], [ "あの女は、ずっと前に、家で仲居をしていたことがあるので、私のおさな顔を知っていたのだろうよ。だけれど、今の身の上を聞かれたり聞いたりするのもうるさいから……", "川長のお宅へはすぐに帰らないというし、知り人に会えば姿を隠す――そんな窮屈な大阪へ、一体なんのためにはるばると帰ってきたんだか、ばかばかしくって、この宅助にゃ、あなたの気心が知れませんぜ", "ご苦労様でもばかばかしくても、私にとれば、この大阪が、無性に恋しくって恋しくって、夢にみる程なんだから、しかたがないじゃないか", "へえ、生れた土地というものは、そんなにいいもんでございますかね。わっしは能登の小出ヶ崎で生れて十の時に、越後の三条にある包丁鍛冶へ、ふいご吹きの小僧にやられ、十四でそこを飛びだしてから、碓氷峠の荷物かつぎやら、宿屋の風呂焚き、いかさま博奕の立番までやって、トドのつまりが阿波くんだりまで食いつめて、真鍮鐺に梵天帯が、性に合っているとみえて、今じゃすっかりおとなしくなっているつもりですが、それでもまだ生れた土地へ帰ってみてえなんてことは、夢にも思ったこたあありませんがね", "そりゃ、お前が情なしか、それとも、お前をつなぐ人情というものが、その土地にないからさ", "おや、その論法でゆきますと、それほどこの大阪にゃ、あなたを迷わす人情があるという理窟になりますぜ", "あるだろうじゃないか、お母さんやら、叔父さんやら", "冗談は置いておくんなさい。皺のよったお袋や叔父さんに、そこまでの情愛があるもんですか。血の気の多い年頃にゃ、それを捨てても男のほうへ突ッ走るじゃござんせんか。ははあ……読めましたぜ、お米の御方", "勝手に邪推をお廻しよ", "エエ、すっかり神易を占てました。筮竹はないが宅助の眼易というやつで。――この眼易の眼力で、グイと卦面をにらんでみると、あなたが大阪へ来たがった原因は、死ぬほど会いたいと思っている人間がどこかにいるに違えねえ。え、どうでしょう、この判断は?", "そりゃ、いないとも限るまいさ", "ふふん。しゃあしゃあと仰せられましたね。いよいよ不貞くされの捨て鉢の、さらにヤケのやん八というやつで、この宅助を怒らせようとなさいますか。そして、阿波へ帰るのはイヤじゃイヤじゃと駄々をこねようとなさいますか。――どッこい宅助は怒りませんテ。はい、頭を打ちたければ頭、足をなめろとおっしゃれば足もなめます。なあに、わずか少しの辛抱で、無事に、もう一度連れ戻りさえすれば、旦那様から存分な褒美をねだる権利があるんで――一生扶持ばなれをしねえ仕事、それくらいな我慢がなくっちゃ、猫と女の番人はできねえ" ], [ "口でいうお惚気ぐらいは、わっしも寛大に扱いましょうよ。が――だ、ただしだ、そんな方へ体ぐるみ、籠抜けにすっぽ抜けようなんてもくろみは、ムダですからおよしなせえ、エエ、悪いこたあ言いません。世の中に骨折損というくれえ、呆痴な苦労はないからなあ", "野暮に目柱をお立てでない" ], [ "口でそうはいうものの、私の恋しい思い人は……", "ほーれ、やっぱり眼易があたっていやがる", "真顔になって、何も心配することはないよ。この大阪にはもとよりいず……ああ今頃は、どこを流して流れているかも分らない……" ], [ "きのう私がいっていた通りさ", "はてね。忘れてしまったが", "とにかく、叔父さんに相談があるから、茗荷屋まで、来て貰いたいという意味をね", "なるほど、そこで叔父貴に事情を話して、川長の店へとりなして貰おうというんですか。だが、その相談の時にゃ、宅助も立会いますぜ", "いいどころじゃない。どうせ、家の方へ得心して貰ったら、私の手道具や着物まで、スッカリ荷物にして阿波へ送ろうという話なのだから", "ぜひとも、そうありてえもンです。昨夜みたいなことが、この先チョイチョイとないように" ], [ "あぶねえって、だ、誰が? ……", "そう、川べりを歩いちゃ、足もとが危ないというのさ。落ちたら私が困るじゃないか", "ご親切様で……へ、へ、へ。だがネ、お米の御方、き、気の毒だが、宅助、ちッとも酔っちゃいねえ。だ、だめだよ! ……ず、ずらかろうなんて気で、どう神妙な様子をしたって、微塵も油断はありゃあしねえ!" ], [ "この間も、キッパリ止めを刺しておいたじゃねえか。ウ、ウーイ……おれの目玉は浄玻璃の鏡だと", "まったくお前の眼力は鋭いね", "所詮だめだよ、諦めがつきやしたかい!", "ところがなかなかつかないのさ。そういうお前に、もう野暮な隠し立てはしますまい。私はね、もう二度と阿波へは帰らないつもりだよ" ], [ "――たいそう威張っていたようだけれど、脆いねエ……もう薬が廻ったのかい", "な……なんだと" ], [ "付人のお前が、そんな意気地なしじゃお困りだね。ずいぶんお前も執念強く、私を逃がすまいとしていたようだけれど、今日のお酒はちっとばかり、悪い薬がまじったとは、さすがにその浄玻璃の目玉でも見えなかったとみえる", "うッ……うぬ、ど、毒を?", "なあに、そう心配おしでない、持ちあわせの鼠薬、それもホンの小指の先で、お銚子の口へつけたくらいだから、まさか、そのずう体の命を奪るほど廻りはしまい。……だが、思えば私という女も、すごい腕になりました。これもみんな、お前や、啓之助が私に度胸をつけてくれたお仕込みだよ。阿波へ帰ったら、あの男に、くれぐれよろしくいっておくれネ", "ウーム……ちッ畜生", "口惜しそうだね、ホ、ホ、ホ。苦しいかエ。私が長持へ押しこめられて、阿波へやられた時も、ちょうどそんな苦しみさ。毒でも飲んで、いっそ死のうとしたことが、幾度だったかしれやあしない。――だけれど、死んで花が咲かないよりは、恋しい、恋しい、あるお方に、会われないのが心残りで、ツイのまずにいた毒薬を、フイと昨夜思いだして、少しばかりお前に試してみたわけさ。――どうだエ、宅助、それでもこのお米様を、阿波まで連れて帰れるかい" ], [ "かかりましたか、水が", "見ろ、これを" ], [ "……どうも、つい", "たわけめ、気をつけい!" ], [ "なんて怖い眼をするんだろう、水ぐらいかかっても、ハラハラする程なお召物じゃあるまいし", "だって、お前さんが悪いんじゃないか", "色町の軒下に立って、不景気な顔をしているほうがよッぽど間抜けさ", "おや、相手が行ってしまってから、とんでもない鼻ッ張だ", "なに、まだ向うの川縁に立っているんだよ、土左衛門でも待っているように", "どれ" ], [ "や、お品か", "ずいぶん永いこと姿を見せないで、その上に、涼しい顔で素通りをするつもり?", "連れが待っているのだ。また会おう", "いいじゃありませんか、連れがいたって", "そうは行かねえ。ことに近頃は遊びどころの沙汰じゃなくて、ある人物を探すために、毎日血眼で歩き廻っているのだ。ウム、お前もうすうすは知っている筈だが", "誰? 探しているのは", "法月弦之丞という者だが、その名前では覚えがなかろう。そうだ、ちょうど去年の夏ごろ、この立慶河岸をよく流していた、一節切の巧みな虚無僧といえば思いだす筈……", "あ、川長のお米さんが、たいそう血道をあげたッてね。その虚無僧が、いったいどうしたというんだえ", "まだほかに二人の奴を、木曾街道で取り逃がしたため、ずいぶん行方をたずねたが、どうしても見つからねえのだ。しかしいろいろな事情から推して、この大阪にまぎれこんだには違いないのだから、ひょっとしてこの辺へでも姿を見せた時には、すぐにこの孫兵衛の所へ知らしてきてくれ。いいか、もし突き止めたら、礼は幾らでもするからな", "だって私は、お前さんの宿というものを、聞かして貰ったことがないのに", "俺か。おれは二、三日前から、安治川岸の阿州屋敷に住んでいる", "阿州屋敷というと?", "勘の鈍い女だな、阿州屋敷というのは蜂須賀家の下屋敷、そこのお長屋にいるというのよ" ], [ "誰といったっけなあ、今、川長へ入って行ったやつは?", "あれは、元あそこの店に、仲居をしていたお吉さんという女", "仲居がどうしたと?" ], [ "あの人とは、もう古い顔馴染み、誰が見そこないなんぞするものかね", "そうか、じゃ、あれが目明し万吉の女房だったか――", "おい、お十夜" ], [ "はい……", "お前はその万吉の女房だな", "さようでございます", "万吉は帰ってきたか、江戸表から" ], [ "何か便りがあったろう", "少しも沙汰なしで、只今どこにいることやら、それすら存じておりませぬ", "嘘をつけ! 女房であって、亭主の居所を知らぬという筈はなし、また主であって、家へ居所を知らせてこないという筈はない。たしかにその万吉は、四、五日前に、いちど此家へ姿を見せたろう、イヤ、たしかにこの大阪へ帰っている訳だ。有態にいえッ", "でも、只今申し上げたことには、少しも偽りがございませぬもの。それにもう家の良人は、出たが最後、居所などを知らせてきた試しのない人でございますから", "こいつめ、あくまで吾々を愚にしているな" ], [ "おい、周馬も、一角も、いい加減にしようじゃねえか。万吉も戻っていず、手がかりもねえとしてみれば、いつまでもここに邪々張っているのも無駄骨だろう。それよりゃ、またちょいちょいとこの辺を見廻ることにするさ", "ウム、引き揚げよう", "お吉" ], [ "――年増だが、万吉の女房にしちゃ、もったいないような女じゃねえか。一角に撲られて、キッと、溜め涙でこらえていた姿が、なんとも俺にゃ色っぽく目に映った", "いやな奴だ!" ], [ "また出なおすぞ", "きっと命をとりに来るぞ" ], [ "お嬢さん、ほうっておいて下さいまし。後で私が始末いたしますから", "いいよ。私も手伝ってあげるから、お前もその釵なんか拾って――気を持ちなおしたがいい。こんな物が散らばっていると、いつまでも腹が立っていてしようがありやしない", "ああ、男がいないというものは", "ほんとに、さびしい、辛いものだね。さだめし口惜しかったろうと思って、私も二階で、しみじみと察していたよ。だけど、ひょいと覗いてみると、あの三人の中には、私の知っている天堂一角という者や、お十夜孫兵衛という浪人がいたので、出るには出られず、どうなることかと、息を殺しているばかりだった", "じゃ、あの侍たちを、お嬢様も知っておいでなさいましたか", "森啓之助などと一緒に、よく川長へ来たことがあるのでね", "見つからないで倖せでした", "けれどお前……いったい万吉さんはどうしているの?", "ああして阿波の侍が、居所を探し廻っている様子をみれば、どこかに、命だけは無事でいるのでござんしょう", "けれど、一人じゃないのだろう?", "え……何が", "法月弦之丞様と一緒に歩いているような口ぶりだったじゃないか。――おばさん、私も今では弦之丞様の素姓や、お前のご亭主の万吉さんが、何をもくろんでいるのかぐらいは、うすうす知っているのだから、その法月さんの居所を、私だけに、そっと教えておくれでないか――ね、後生だから" ], [ "存じませぬ。――なんでお嬢さんにまで、そんなことを隠しだてするものですか", "だって、さっき、家探しをして行った侍たちが、万吉も弦之丞も、たしかに、この大阪へ来ているはずだといったじゃないか", "それはそう申しましたが、自分の亭主の居所さえ知らない私が", "いいえ、そんなことはあるものじゃない。この大阪へ帰ったなら、たとえ人目を忍んでも一度はこの家へ来たに違いがない……。いいよ、お前は私までを、阿波の廻し者だと、疑っているのだから", "そんな訳ではございませぬ。まったく、お吉の知らないことでございますから", "いいよ、いいよ……" ], [ "いいよ、もうお前に、私の身のことは、相談もしなければ、頼みもしないから……", "まあ、何をおっしゃるやら、お吉には、よくわけが分りませぬ", "分っていても、教えてはくれないじゃないか", "じゃ、その弦之丞様とやらに、いったいお嬢さんは、どういう用があるんですえ", "用ということもないけれど、私はどうしても、あのお方に、もう一度お目にかからなければならないんだよ。――それで、その一心で阿波から逃げてきたのじゃあないか", "じゃ、お嬢さんは、その人に? ……" ], [ "――遅くなってすみませんでした。御飯をお上がりなさいましな。お好きな物がございますよ", "…………", "機嫌をなおして、降りていらっしゃい。え、お米さん", "…………", "お嫌?", "ア、私かい、私なら今夜は食べたくないから" ], [ "どうしたの、お吉", "お嬢さん……", "よしておくれよ、お嬢さんなんて、私はもう、生娘じゃない、男のために、さんざんになった女だよ。おまけに、癆咳もちで、長生きのできない、女なんだよ。――だから、いっそもう、したいことを、どんどんして行かなけりゃ損だと、考えなおしたのさ。いいやね、お前、毒婦になったって。――薊の花だって、捨てたもんじゃないからね、黙って、泣いて、踏みにじられたまま、終ってしまう野菊より、棘をもっても、口紅をつけてパッと強く生きている薊のほうが", "まあ、お米さんとしたことが" ], [ "いいよ、ほうっといておくれ。私は私で、弦之丞様をたずね当てるんだから", "そのことじゃありませんが、あなたはまあ、体のお弱いくせに、なんだって、飲めもしないお酒をそんなに上がったのですえ?", "いいじゃないか、私の体だもの", "せっかく、ご丈夫になりかけているのに", "よけいなことをいっておくれでない。私が、頼むことも教えてくれないくせにして", "だって、知らないことを", "知っていたら、後で怨むよ。いいかえ、わたしは明日から、きっと、その人を探しにかかるつもりなのだから、ね" ], [ "どうにもこうにも、まったく弱ったことができましてね", "その話は、今向うの茶店で聞きましたが、森啓之助様の匿し女、お米という人がいなくなったとか", "この大阪で、姿を消してしまやがったんで、それを見つけださねえうちは、国元へも帰れません。あ、そして、お店の船は、もう近いうちに阿波へ出ることになりやしょうか", "荷の都合で少し遅れたから、多分、この月の内には出ないだろうよ", "とすると――五月の中旬になりますな。じゃ、まだだいぶ間があるから、それまでに、お米の奴を捕まえて、一緒に乗せていただきます。四国屋の船に便乗して帰れというなあ、初めから、旦那様のおいいつけだったので", "ほかならぬ御家中のお方、船はどうにもご都合をつけますが、そのお米様とやらが、見つからぬうちはお困りですなあ", "いまいましい畜生でさ。だが、宅助の一念でも、きっとそれまでには、お米の奴を取っ捕まえます。ああ、それと新吉さん……まことに面目ねえ頼みだが、少しばかり、当座の小遣銭を合力しておくんなさいな……、恥を話すようだけれど、路銀はみんなお米のやつが持っていたので、今朝からまだ一粒の御飯も腹に入っていねえありさまなんだ", "ええ、ようござんすとも" ], [ "もしや、あの……失礼でございますが", "はい、私?", "さようでございます、お見忘れかも存じませぬが", "ああ、あなたはいつか木曾街道で", "よい所でお目にかかりました。その節は、私たちが途方に暮れていたところを、ご親切に救っていただきまして、ろくにお礼も申さずお別れ致しましたが、いつもこの新吉と、よそながらお噂ばかりしておりまする", "なんの、親切だのお礼だのと、そうおっしゃられては困ります。ただほんの旅先での面白半分……", "いいえ、ぜひ一度はお目にかかって、しみじみと、お礼を申し上げたいと思っておりましたところ――少し船が遅れましたので、今日は、高津のお詣りから黒門の牡丹園へ廻ってまいりました。これも高津のお宮のおひきあわせでございましょう", "では、まだ、阿波へは?", "はい、船の都合で、少し帰りが遅れておりまする", "とおっしゃると、なんぞ次によい便船でもお待ちなさるのでございますか", "いいえ、手前どもの持ち船で、御城下へゆく積み荷の整い次第に、港を立つ都合になりますので" ], [ "あれは森啓之助の仲間、拙者の顔を見知っているゆえ、当身をくれておいたのだが、しかし、四国屋のお内儀、さだめし驚いたことであろう。そなたからわけを話して、その後に、例の……船の便乗、頼んでみられてはどうか", "私も、そう思っておりました", "是非に、承諾して貰うように", "はい、ひとつ、話してみることに致しましょう", "うむ" ], [ "なんぞ、改めて御用でも", "折入ってあなた様に、お願いをしてみたいと向うにいる連れの者が申しまする。なんと、お聞きなされて下さいましょうか" ], [ "御恩のあるあなた様のこと――自分たちに出来ますことなら、何なりと……", "わずかな御縁につけ入って、あつかましいお願いをするやつと、こうお思いなさるかもしれませんが", "どう致しまして、それどころか、私どもこそ、お住居を尋ねても、いちどはお礼に出たいと存じておりましたくらい。そして、お頼みということは?", "お宅様の持ち船が、阿波の国へ帰る時に、乗せていただきたいのでございます", "えっ、阿波へ?", "連れは三人、ぜひともあちらへ渡りたい用が", "ま、お待ちなさいまし" ], [ "阿波へお渡りなさろうとは、何ぞよほどな御事情でござりますか。ご存じの通り、御領地堺は、関のお検めがきびしい国で、めったな者は、みんな船から突っ返されます", "さ、その禁制を知っておりますゆえ、四国屋様のお情けで、積荷の中へでも、隠していただきたい、と思いまして", "では、お役人の目をぬすんで", "ごく内密に、渡りたいのでございます", "さあ? ……" ], [ "どうでございましょう。四国屋様", "…………" ], [ "それ故、いらざる邪推も廻るというもの", "ご無理のないお話でござります。けれども、町人ではござりますが、私とて、四国屋のお久良、御恩人の、あなた方をおびき寄せて、蜂須賀様へ密告しようなどと、そんな、卑怯な、恩知らずではござりませぬ", "うう、きっとな", "固く、お誓い致します", "その一言を信じるぞ", "はい" ], [ "どうぞ、お出まし下さいませ。場所は、農人橋の東詰、そこは四国屋の出店でござりますが、東堀の浄国寺に添った所が、大阪へ来た時の住居になっておりまする", "そして、また会う日と時刻は", "そちら様のご都合のよい時……、したが、昼は人目もありますから、なるべくは夜分のほうが", "いかにも、では、明後日", "きっと、お待ち申し上げます", "ことによると拙者はまいらずに、このお綱と、万吉と申す者が、お邪魔に伺うかもしれぬ" ], [ "わっしが帰るまで、どうぞ、ここを動かないように", "今夜はここで舟泊りじゃ。ゆるゆる用をすましてくるがよい", "へえ。なにしろ大阪へ来てからも、まだろくろく顔を見せていねえ女房、ことによると今夜あたりは、向うへ、泊りたくなるかもしれません", "うむ、そうしてまいるがよいではないか", "ありがとうぞんじます" ], [ "だが、もう晩春、苫を垂れこめては、むし暑かろう", "そうですねえ" ], [ "あ、今のは", "何かの?", "時鳥ではありませんでしたか", "あれは五位鷺", "まあ", "えらい違いじゃ。は、は、は、は" ], [ "つい忘れておりました。では、ちょっと梳きなおして差上げましょう", "どうか、願いたい", "おやすいことでございます" ], [ "あいにくと、鬢盥がございませんが", "なに、これでよかろう" ], [ "それに鏡も", "いや、鏡は要るまい", "何もかも、ないものだらけでござります。ちょうど、あの……新世帯みたいに" ], [ "月代は、このままにしておきますか", "浪々して以来の置物、同じ剃るなら、大望を遂げての後、サッパリと落したい", "では、たぶさだけを", "何かに結びなおしてくれ", "はい" ], [ "よかろう。いや、ご苦労であった", "お気に召さないかもしれませんが" ], [ "――恥かしいのを抑えて、こうお願いするのでござんす。あなたはお武家、大番組の御子息様、私の前身は、あられもない女掏摸。それだけでも、きっと、お嫌なのは分っております。けれど、お綱は、あなたがなくては、生きておられぬ女なのでございます", "――その心もちは――" ], [ "お分りなされて下さいましたか", "――分ってはいるが……ああ" ], [ "ほんとのことを! 弦之丞様", "…………", "ほんとのことを、聞かせて下さい。お嫌ならば、お嫌と" ], [ "真実、わしはそなたを、憎めない", "う、うれしゅうございます……" ], [ "しかし、お綱、わたしの言葉もきいてくれ", "はい……" ], [ "それをおっしゃって下さいますな……そ、その人の名を聞かされれば、私はすぐにも、あなたの側を去らなければなりませぬ", "では、そなたそれを、知っているか" ], [ "お改めだ", "神妙にしろ!" ], [ "きくまでもないこと。これが見えぬか!", "しかし、それにしては腑に落ちぬ御作法、上役人ともある方々が、なんで、吾らの繋り舟へ、会釈もなく踏みこみ召された" ], [ "知れたこッた、東奉行所までまいれというのだ", "不思議なことを申される。なんで拙者が、東奉行所へ行かねばならぬか", "四の五の申すな、立て立て", "イヤ、立たぬ", "なにッ" ], [ "すなおにせぬと、貴様の不為になるばかりだぞ。現場を見られた以上は、言いのがれはなるまい。また、いうことがあるなら、奉行所へ来てほざけ", "いよいよ心得ぬことを。現場とは何を指していうのか、とんとこのほうには思い寄りがない", "エエ、太々しく白を切る浪人だ。女はあのように怖れ入っているのに、思い寄りがないとは、人をばかにした奴" ], [ "なんじゃ", "奉行所へまいれとあらば、決して拒みはいたさぬが、われら、夜盗にもあらず、また兇状持ちでもござらぬ。どういう理由でお引き立てなさるか、その儀だけを承知いたしたい", "売女の狩立てじゃ", "えっ、売女の?", "みれば、貴公も武家ではないか。それくらいなことは、自分でも分っているであろう。身分を隠してくれとか、見遁してくれとか、神妙に詫びるならとにかく、手先の者を投げこんだり、吾々の改めに楯つく口ぶり" ], [ "これはいよいよ解せぬお言葉。売女とは、何の意味――イヤ誰をさして仰せられるか", "いわずと知れている、その女じゃ" ], [ "近頃、岡場所のお取締りがきびしいため、大阪の川筋に苫舟をうかべ、江戸の船饅頭やお千代舟などにならった密売女が、おびただしい殖え方をいたしおる。それゆえに手を分けて、毎夜、川すじの怪しい舟をあらためているのじゃが、只今、この土橋のほとりへまいったところ、下の小舟の苫のうちで、甘やかな、女の密め語が洩れる……", "あ、なるほど" ], [ "それで、一途に、舟売女と思われましたか", "場所がらといい、舟のうち。そう思うのが当然でござる" ], [ "明らさまにこう申す態度こそ、何よりの証拠でござる", "それだけでは困る……ウム、して、あの過書舟は、どこで手に入れてまいったな", "連れの万吉という者が、京橋南詰の鯉屋と申す船宿から借りうけましたもの", "では、そこへ一緒に行って貰いたい", "拙者ひとりでよろしかろうな", "いや、そのお女中も" ], [ "いるな", "いる", "では……" ], [ "しばらくは帰らねえ", "ずいぶん、体だけは、達者にして下さいね", "心配するなってことよ。それよりゃ、てめえの頭痛もちでも癒すがいい、灸でもすえてな", "はい", "じゃ、頼むぜ、留守を", "あ……あなた", "忘れ物か", "…………", "ばかッ", "…………", "泣くねい! 縁起でもねえ", "わ、悪うございました。ツイ", "笑ってくれ、頼むからよ。笑っておれを出してくんな。お――、弦之丞様が待っておいでなさるだろう" ], [ "あの小舟を追え、あの小舟を! あれにはたしかに弦之丞が隠れている", "ウウ、なるほど" ], [ "おお、弦之丞だ、弦之丞だ。お十夜、早くせい", "あれが? よしッ" ], [ "あれだ、あれへゆく船だぞ", "逃がすなよ", "見のがすな! 今夜こそは" ], [ "こりゃ", "へい", "貴様は、お国元にいる、森啓之助の仲間ではないか", "あ。よくご存じで……", "宅助だな" ], [ "やあ、天堂様でございましたか", "どうした態だ。また悪いことでもしおって、啓之助の屋敷から追ン出されでもしたのか", "情けないことをおっしゃいます。世の中に宅助ほど、御主人へ忠義な者はないつもりで……。ハイ、まったく私は御奉公のためにこうなりました。忠義というのもやり過ぎるのは善し悪しで――どうか、助けてやっておくんなさい" ], [ "嘘ではございません、天堂様", "嘘とは思わんが、どういう事情じゃ", "ひと口に申しますと、実はその、ただし、これは内緒でございますが", "かまわん、啓之助のことなら、秘密を守ってやるから、話してみろ", "昨年、殿様がお帰りの時に、啓之助様がソッと、ある女を、脇船の底へ隠して、お国表へ、持って帰りました。イエ、連れて帰りましたんで", "ふん……そして?", "ところが、そのお妾が、旦那の甘いのにツケ上がって、すッかりやんちゃになりやした。今考えると、半分はふてくされていやがったんで、なんでも、一度は大阪へ帰してくれ、とこういってききません", "ははあ。すると、その女と申すのは、川長の娘ではないか", "旦那も、ご承知でいらっしゃいますか", "大阪詰でいた頃には、足繁く、啓之助が通ったものだ", "それじゃスッカリ申し上げます。お察しの通り、女はそのお米なんで", "で、大阪へやってきたのか", "わっしはお妾の鬼目付で、一緒についてまいりました。ところが旦那、太え女もあるもんで、この人のいい宅助に鼠薬を舐めさせやがって、プイと、途中で姿を隠してしまいました", "それは、無理もない話だ", "ですが、それじゃ宅助が、旦那へ顔向けがなりません。それに、毒を呑ませやがったのも業腹なんで、実は、お恥かしい話ですが、小遣銭も空ッぽのため、この二日ほどは食わず飲まずで、お米のやつを、探し歩いておりました。――すると、悪い時にゃ悪いことが重なるもんで、今日はやっとこの近くで、四国屋の御寮人様に逢い、いくらか、当座のお小遣いにありついたと思うと、そこへ、ぶらりと来た奴が、……エエト……そうだ、法月弦之丞という、いつか大津の時雨堂に潜っていた虚無僧なんで", "なに、弦之丞に逢った?" ], [ "どこで逢った?", "連れはいたか", "どんな姿で――どう向ってまいった?" ], [ "たしかに、弦之丞でございました", "して、それから、いかがいたした", "さあ、その後に、また大変なことがあるんでございますが……アアいけねえ、なにしろ旦那、腹が空きぬいているもんですから、胃袋がクウクウ泣いて、もう、これ以上は、お話ができません", "意気地のないことをいうな……どうした、それから", "駄目です、ああ、もう一口ものをいっても目が廻りそうだ" ], [ "お医者さんですからな、役得というものがありましょうさ。若い美人が診て貰いに来たら、そこで、ほら、あとは源内流に、いわずもがなのことになるんで……", "は、は、は。なおいけない" ], [ "どちらへ", "三人別々だよ" ], [ "なんだ?", "時鳥が啼きやしたぜ", "うむ……" ], [ "なんだい、後棒", "いけねえ、変なやつが飛んできやがる" ], [ "旦那、どうしましょう", "ちょっと、駕を降ろしてごらん", "だって", "なに、聞き覚えのある声なのだから" ], [ "わしを呼び回しに来る前に、お前さんが血止めをしておいたかね", "なんしろ、ここまで来ると、この人が仆れていたんで、どうしていいか分りませんでしたが、袖や帯を引っ裂いて、血の出る所だけはギリギリ縛っておきましたので", "そうか。どれ" ], [ "これは、わしの知っている者で、天満の万吉という男", "えッ、ご存じの方ですって", "先頃、木曾の旅先で、会ったばかりだが……どうしたということだ。ア……やっぱり阿波の" ], [ "まだ、息が、ございますか", "ない!", "じゃあ、もう駄目なんで?", "そうともいえない", "水を掬ってきて、呑ませましょうか", "とんでもないこッた", "腰ですか、斬られているのは", "一番の深傷はここだ。けれど、この深傷は大したことにはなるまい" ], [ "先生、お留守でしたが、どうせ朝のことですから、じきにお帰りであろうと思って", "はあ" ], [ "――待っておいでたのか", "ええ、きのうもムダ足をいたしましたから", "そうそう、昨日はとんだ失礼を", "こんな早くから、どちらへおいででございました。先生も、なかなか隅へおけませんのね", "朝帰りではございません、妙に気を廻されては困る", "でも、ずいぶん眠そうな顔じゃございませんか。ホ、ホ、ホ、ホ" ], [ "血がついておりますよ、先生", "どこに?" ], [ "どうなすったのでございます", "なアに。実はゆうべ、運座の帰りに手当てをしてやった男の血だよ、どうして斬られたのか、下手人も分らないが、万吉といって、少し知った男だから、捨ててもおけず、とうとう徹夜でさ、朝帰りという次第。もっとも、血は赤いから、色っぽくないことはないが、どうも、今朝ははなはだ眠い" ], [ "先生、その万吉というのは、もしやあの天満にいた、目明しじゃありませんか", "よくご存じだね", "あ、じゃ、やっぱりその人なんですか――その万吉さんが斬り殺されたんですか", "なに、命はわしがうけあってきたよ。しかし、かすり傷じゃないから、ちょっとやそっとでは癒らない" ], [ "そして、その弦之丞様は、今、どこにいるのでございましょう", "エ? 弦之丞様って、そりゃ何だい" ], [ "いる所を?", "はい。教えて下さいませ", "知らない" ], [ "今歩いて来た猫間川の方は、あれに見える流れだろうか", "いや、もっと東のほうになるだろう", "ずいぶん、歩いたな。御両所、腹は減らないか", "うむ。だがこの辺には、何もあるまい" ], [ "田楽か", "いいえ、湯どうふ屋というんで、高津の名物。たいがいなものはそこで休みます", "葉桜頃になって、湯豆腐は少し感服しないな、何かほかに茶屋はないか", "看板は湯どうふでも、木の芽料理、焼蛤、ちょっと飲めるようになっております", "まあよいわ、朝からぜいたく好みでもあるまい。どこだそこは?", "舞台のそばでございます" ], [ "万吉をぶっ倒したぐらいで、いい気持になっちゃいられない。肝腎なやつは弦之丞とお綱だ。仕事はこれから骨が折れるよ", "さあ、その弦之丞とお綱を見つけるのが、これからの問題だが……今思うと、昨夜、万吉の死骸を捨て帰ったのは、かえすがえすも吾々のぬかりだった" ], [ "なぜ?", "あの死骸を囮にして、弦之丞を待ち伏せしていれば、必ず引ッかかってきたに違いない。その証拠には、今朝あの土橋へ行ってみれば、もう彼の死骸が片づけられていたではないか", "下司の智慧は後からで、それならなぜ、人も乗っていない空舟をお手前、あわてて、追い駈けて行ったんだ", "あれは一角が真っ先に調子づけたのだ。一角が悪いよ", "あげ足をとるな。たまには犀眼にも見間違えがある", "まあいい、またこんな所で、泥のなすりあいから仲間割れをしてくれるな。宅助の話によれば、なんでも、猫間堤で四国屋の内儀と弦之丞とお綱とが行き逢った時、非常に親しい様子だったというから、こんどは手をかえて、その四国屋のお久良とかいう者を詮議してみりゃ分るだろう", "ウム、拙者もそう考えているが……その時に弦之丞が、宅助へ当身をくれたということが、どうもよく呑みこめない", "それは、お久良と密談をする必要があったからであろう", "しかし、お久良は阿波の者だし、四国屋もまた蜂須賀家の御用商人――どうして彼らと懇意なのか、それが不審だ" ], [ "じゃ、四国屋の店は、この大阪にもあるんだな", "農人橋の東詰じゃ。そこにはたしか、住居もあったように思う", "すると、お久良という内儀を訪ねようとするには、そこへまいれば会われるな", "店の船が出るまでは、多分住居に泊っているだろう", "ふ、そうか。じゃひとつ三人連れで、その四国屋へ出かけてみようじゃねえか。この雁首をそろえて行けば、たいがい泥を吐いてしまうだろう。それに向うは御用商人、こっちは蜂須賀家のお名前をかざして、あくまで脅しの詮議と出る。証人には宅助という者があるから、弦之丞とお綱の居所を、知らないとはいわせない" ], [ "なんだ、宅助", "申しかねますが、こいつが空になっちまったんで……、汲んでのむほどの粉煙草もございません", "煙草銭がほしいのか", "へ、へい", "しばらく我慢していろ" ], [ "旦那、旦那", "うるさい奴じゃな", "あいにくと、草履も切れてしまっていますから、それも一つ買っていただきませんと、もうお供ができません", "いろいろなことを申しおる奴、休んでいる間に、緒をすげておいたらよいではないか" ], [ "まあ幾らか遣るがいいじゃねえか", "仲間という奴は使い方があるのじゃ、金をやりつけると癖になっていかん", "人の仲間をこき使っておいて、そんな一酷をいったってしようがねえ。オイ宅助", "ヘイ、ありがとう存じます" ], [ "あら、道頓堀の伯母さんの家が見える", "どれ、こっちへ、貸してごらんよ", "もう少し……", "そんなにいつまで、独りで見ているって法はないよ。さ、お貸し、お貸し", "いやだ、この人は。今、野中の観音様を探していたのに", "ほんとだ……まあずいぶん遠くまでよく見えること。梅ヶ辻のほうだの……それから桃谷の大師巡りの人が、ぞろぞろと歩いてゆく", "どれ、母ちゃん", "どれ、どれ。わたしによ" ], [ "思いがけねえ獲物です。ぐずぐずしちゃおられませんから、わっしゃ、ここでお暇をちょうだいいたします", "これ、待て待て" ], [ "そちにはまだ用事がある。勝手に吾々の側を離れては相ならん", "相ならんとおっしゃったって、宅助の目の前には、今、一大事が降って湧いているんで――ヘイ、今を遁しちゃ大変です", "でも、このほうに用事がある。四国屋へそちを証人として連れてゆくまで、けっして暇はつかわさんぞ", "困りますね、天堂様、宅助には森啓之助様が御主人なんで、あなた様にゃ御奉公いたしておりませんから", "だまれ。何でもよい", "やりきれねえなあ。どうか、わっしの立場も、少し察してやっておくんなさい。今、この遠眼鏡からえらい手がかりを得たばかりなんで……まごついていると、取返しがつきあしません", "遠眼鏡から、何を見たと?", "わっしに毒をくらわせて、天満河岸からドロンをきめたお米のやつが、日傘をさして、すぐ向うの梅ヶ辻を", "そんな女はどうでもいい。捨てておけ、捨てておけ。貴様もまたばか正直に、啓之助を嫌って逃げた囲い女を、なんでそう一心に捕まえたがっているのじゃ。吾々が眼色を変えているのとは違って、蜂須賀家になんらのかかわりもない雌鳥などを、血眼で、追い廻しているたわけ者があるものか、行ってはならん!" ], [ "おれが引きうけてやるから、行ってこい。その代りに、お米を捕まえたら、安治川屋敷へ帰ってこなくちゃいけねえぞ", "ありがとうございます。――じゃ", "おっと、待ちねえ", "早くしませんと、また姿を見失います", "どこにいるんだ、そのお米ってえ女は", "ちょっと、眼鏡へ目を当ててごらんなさい。梅ヶ辻から野中の観音のほうへうねっている一筋道を、桃色の日傘でゆく痩せ形の女がありまさ。娘のような派手な衣裳で、鹿の子の帯揚、帯の色、たしかに、そいつがお米なんで" ], [ "あまり貴公の人使いが荒すぎるもの", "帰らなくては、四国屋をただす時に都合が悪い。ええ、押ッ放してやるのではなかったのに", "では、追いかけて、貴公も一緒に、お米とやらいう女を、捕まえてやるがよかろう。さすれば義理にも宅助が帰って来る", "ばかなことを言いたまえッ、女情におぼれている啓之助の妾などを、誰が仲間と一緒になって、この昼日中、両刀を差すものが追い廻していられるものか", "あははははは。面白い、また一角が怒った" ], [ "ふーん……さすが口のうめえお米さんも、今日ばかりはグウの音も出ないとみえる。そうだろうよ、森啓之助様をだまくらかして、お付人を迷子にさせて、影のような男の後を探し廻っているんだからな", "…………", "あ、もひとつ、お礼を忘れていた。よくもこの宅助に、鼠薬を食らわせたな! なアに、ああいう酒の味も、めッたにご馳走になれねえものだから、あだやおろそかにゃ思いませんよ。だから、このご恩は一生の間に、チビリ、チビリと、阿波へ帰った上でするぜ", "知らないよ" ], [ "どこへ行こうッてんだ!", "わたしの勝手だよッ" ], [ "お十夜? ……どうしたのか、かれの姿は見当らない。どうせ、例の癖で、ふところ手のぶらぶら歩きで行ったのだろう。ア、ア、ア……そのうちには、どっちかかたがついてしまいそうだ。女も死にものぐるいになると、あなどれぬ力がある。お千絵様でもそうだった。ましてや宅助、ヘタをやると始末に困るぞ", "どれ、貸したまえ", "見たまえ、あれだ", "ウ、なるほど、お米に違いない、しかし、川長にいた頃は、あんなすごい女ではなかったが" ], [ "ああ、いけない、どっちであったかの", "なんだ、なにを見たんだ", "イヤ、まだしかと分らなかったのだ。それで覗いてみると、もう以前の所が見えない", "見えないはずだ、貴公、そんなほうへ向けておるのだもの。貸したまえ、こっちへ", "早くせぬと、あるいは一大事になるかもしれぬ", "なんだ、宅助か", "いや", "お米か", "いや。まあ、そっちを早くなおしてくれ", "そう、側で急いては困るな" ], [ "おお、今のお女中か……", "ありがとうぞんじました。もう少しで私は、どんな目に遭わされるか分らないところでござりました", "まいりあわせてよかったの", "はい、なんとお礼を申しあげてよいか、もう、こんなうれしいことは", "無用じゃ。礼などと改まるには及ばぬこと、それよりはまた、やがて黄昏にならぬうちに、早く家へ帰られい", "法月さま", "や?", "お見忘れでございますか", "どうして、そなた、拙者の名を知っておるか", "弦之丞様、わたしの名を、思いだして下さいませ" ], [ "お、川長のお米であったな。久しく見ぬせいか、見違えるほどな変りよう、うかと、思わぬ失礼をいたした", "あなた様も、その頃の、宗長流の一節切を吹く虚無僧とは、すっかりお姿がお違い遊ばして……", "ウム。ちと仔細がありましての――がしかし、そなたの家や叔父の半斎殿には、あの節、唐草銀五郎や多市などが、ひとかたならぬ世話になった。その無沙汰も心苦しく思うておるが、時雨堂の騒ぎの後、半斎殿にもさだめし迷惑がかかったことであろう。あの人は、その後もつつがなくお暮らしであるか。また立慶河岸のお家もご無事でいられるか?", "はい、おかげ様で、大津の叔父も、大阪の家も、みんな変りなくやっておりますが、ただ、変り果てておりますのは、この私だけでござります" ], [ "その後そなたは、阿波へまいっていたそうだが、して、いつこの大阪へ戻ってこられたか", "森啓之助という蜂須賀家の御家中に、無理に、かどわかされて行ったのでございますから、戻ってきたというよりは、逃げてきたも同様なのでございます", "ほう、それであの仲間が、無態にそちを捕えようと致していたのか", "私はもう阿波へ帰るのは嫌なのでございますけれど、執念ぶかい宅助が、あの通りつけ廻しているので、川長の家へもウッカリ帰れませぬし、もうどうしていいか、路頭に迷っているところなのでございます" ], [ "弦之丞様、今申した私の願いは、おききなさって下さるのですか、それともお嫌とおっしゃるのでございますか。これ程までせつない苦労をしても、それがあなたのお心に通じないものなら、いッそもう私は……", "何をなさる" ], [ "何で嘘や偽りにこんなことがいえましょう。まだそれ程にお疑いなら、見ている前で、私は死んで見せます、ええ、今すぐにでも", "では、真実、それほどまでにこの弦之丞を" ], [ "何を隠そう、そうした心は拙者とても同じであった。川長の離れ座敷で、銀五郎や多市などとともに、そちに匿われていた頃から", "ええっ、もし、それはほんとでございますか", "きょうまで忘れたことがない" ], [ "では、私の恋を、あのお願いを", "おお、かなえてはやろうが、しかし、そちの本心" ], [ "でその上に、是非ともきいて貰わねばならぬ頼みがある", "頼まれるのはうれしいことです。弦之丞様、水臭いご心配はなく、何でも打ち明けてみて下さいまし", "ウム、では、必ず承知してくれるか" ], [ "何でございますか? そのお頼みとは", "ほかではないが、もいちど阿波に帰ってほしい", "えっ、私に?", "嫌ではあろうが、森啓之助の所へ帰って、しばらくすなおを装っていて貰いたい。いずれ近々には、拙者も阿波へ渡るつもりだが", "それではいよいよ徳島城や剣山の奥へ、隠密にいらっしゃるお覚悟ですか", "これッ" ], [ "さっきお出かけになるとその後へ、新吉という人が見えました。あの、船宿の鯉屋に、私たちがいるのを知って", "新吉と申すと? オ、四国屋の手代じゃな", "急に積荷がまとまって、船の出る日取りがきまったからと、わざわざしらせに来てくれました", "使いがなくとも明日の夜は、こちらから四国屋の寮へ行く約束になっているのに", "どういう早耳か、阿州屋敷の者がうすうす感づいているらしいから、その前に来るのは見あわせてくれという話", "して、船の出る日は?", "十九日の晩の五ツ刻に、木津の河岸から安治川へ。その夕方に、四国屋の裏まで、身装を変えて来てくれたら、あとはお久良様がよいように手筈をしようとおっしゃいます" ], [ "いいえ、お前さんじゃないんですの", "おや、たいそうなご挨拶だよ。弦之丞様、いったいこの女はどこのお方?", "ハイ、私でござんすか" ], [ "川長のお米というあばずれ女、エエ、法月さんとは、ずっと前からのお知り合いでネ", "あら、お米さんといえば?", "そのお米がどうかしましたかえ" ], [ "私が叔父の家をぬけだして、関の森で死のうとしていたところを、抱きとめてくれたあの時の人は?", "たしか、見返りお綱とかいう、おせっかいな江戸の女だったと思いますがね", "まあ" ], [ "お蔭様で、生きのびましたと、お礼をいいたいところですけれど", "どういたしまして。恩着せがましくいったなどと、悪く気を廻されちゃ困っちまう", "助けられて不足をいうんじゃあないけれど、あの時死んでしまわなかったお蔭に、まだ罪業がつきないで、こんな姿をうろつかせておりますよ", "といったところで、私のせいじゃないからね", "誰がお前さんのせいだと言いましたえ。私はただ、自分の輪廻を怨むんですよ", "それ程この世がお嫌なら、どこかそこらでご思案なさいな、こんどは私が手伝ってあげるから", "おそろしいご親切、ありがたすぎて身ぶるいが出る。けれど私にも今日からは、弦之丞様というお方があるんですから、そんなお心遣いはご無用に願いましょう" ], [ "もう飲まないのか", "ああ、目にもたくさんになった", "飲みちらした残肴というやつは、まったく嫌なものだ。見ていると浅ましくなる、早く片づけてしまおうじゃないか" ], [ "お綱でもか? あの女を手に入れても", "さあ、そいつあどうだか分らないが、今まで手にかけた女はみんなそうだった" ], [ "片づけるなら、宅助を呼んだがいい", "あいつ、そこらにいるかしら", "最前、お長屋で門番と将棋をさしていたようだ。その窓から大きな声をして呼んだら聞こえるだろう" ], [ "こりゃいかん。早くそこらの皿小鉢を片づけよう、おいお十夜、掃除だ、掃除だ、その酒の徳利を隠しておけ", "なんだ、たいそうあわてるじゃねえか", "殿様の見目嗅鼻がやってきた", "お目付か", "なに、居候だ", "居候?", "ウム、いつか話したことのある、阿波の国の居候、竹屋三位卿だ" ], [ "もうひとりのほうは?", "あれが森啓之助、宅助の主人だ。きゃつめ、お米をうまくやっておきながら、いやにきまじめな顔をして宅助を痛めておるわい", "門番も叱られているな", "今に、ここへもやってくるかも知れない。居候だが名門なので、殿様へ向って何でもしゃべるから始末が悪いのだ", "ふたりが揃ってやってきたのは、何か国元に急変でも起こったのじゃないか", "なに、暇に任せて、ちょっと様子を見に来たのだろう。先日も竹屋卿からの手紙を何げなく見ると、封には天堂一角先生などと書いて、中には、まだ弦之丞が討てぬのかなどと、極端に拙者を辱めてあった", "皮肉なやつだな。しかし、公卿にしちゃあ話せるほうだ", "話せないのは森啓之助だ。あいつ何しに来おったのだろう? ははあ、お米のことが気になって、うまく竹屋卿の腰に取っついてきたな、いずれ、何か吾々の仕事にかこつけてまいったのだろう" ], [ "どうした", "まさか、やってこようたア思わなかった", "真ッ先に、お米のことを問い詰められたろう", "いいえ、そいつア側に竹屋様がおいでになっていたので、口にゃ出しませんでしたが、イヤに言葉の端でこずりながら、グッと睨みつけられました。睨まれるのは怖くはねえが、ほれ、あとのご褒美てやつにかかわってきますからね", "は、は、は。だがお米の居所も、およそ弦之丞の周囲と見当がついているのだから、もう心配はあるまい", "けれど、その弦之丞を、早くあなたがたの手で、眠らしてしまって下さらねえうちは、どうにもはなはだ困るんで。エエ、いずれ今に、人のいない所へ呼ばれて、旦那からお米はどうした、お米お米と、お米の化け物みてえに責められるに違いねえ。ああ困ったな。どうしましょう、天堂様", "啓之助の囲い女などを、拙者たちが知ったことか", "おっしゃるとおりでございます、他人の楽しむお妾なんぞは、なるだけ逃げてしまったほうが気味がようございますからね。ですが、わっしは追目の賽で、この目がポンと出てくれないと、虻蜂とらずの骨折り損、ない身代をつぶしますよ。ひとつ、宅助を哀れと思って、なんとか助けておくんなさいまし。その代りに働きますぜ、エエどうでも、皆さんの顎次第にクルクル飛んで歩きます。先一昨日だってそうでしょう。高津の宮へかかった時、わっしがお米を見つけたからこそ、だんだん糸に糸を引いて、弦之丞の居所やお綱の様子も分ったというもんで……。いずれ皆さんが、それを知りつつ、手を下さずに、シインと鳴りをしずめているのは、さだめしもう彼奴を、殺してしまう寸法がついたんでしょうが、そのきッかけを見つけた手柄者の宅助は、まだいっこう目鼻がつきません。その手がかりをつけた功に愛でて、ねエ天堂様、ついでにお米も", "おい、虫のいいことをいうな" ], [ "その手柄者は貴様ではない、高津の宮の遠眼鏡だ", "あ、なるほどネ" ], [ "お願いしますよ、この通り、旅川様、お十夜様", "うるさい奴だ" ], [ "どうだ、おめえも", "燗ざましじゃ、承知ができない", "冗談いうねい、あの将棋はこわしじゃねえか", "それじゃないよ。オイ宅さん、お前もなかなか隅へおけないね", "な、なぜよ", "ちょっとおいで、いいものを握らせるから", "いやだぜ、小気味が悪い", "これでもかい" ], [ "どっちへ行ったろう?", "そいつは気がつかなかったが、いずれ、この屋敷を出て行くからには、春日道か新堀の渡舟へ出るにきまっている" ], [ "あの、お目にかかるのが嫌だって、どうしても出ておいでになりません", "おれに会うのが嫌だって", "あ、違いました。その、面目ないというふうにいいましたので", "そうか。駄賃は貰ったかい", "エエ、ちょうだいいたしました", "じゃ、いいよ、ご苦労様" ], [ "お米さん。じゃお前は、ほんとに眼がさめたというのけえ。まさか、いつもの手管じゃないでしょうね", "もうそんな、痛い傷にふれておくれでない。わたしは、お前へやった手紙にも懺悔したとおり、すっかり覚悟をしたのだから", "ふウん……まったく、眼がさめた、悪かったとおっしゃるんで", "つくづく自分の浅慮さが分ってきたよ、こうしてお前にみじめな泣き顔を見られるのさえ、わたしは死ぬよりなお辛い", "死のうなんて、悪い覚悟でさ。わっしも一時は赫として、見つけ次第にと恨んでいたが、そう優しくいう者を、なぶり殺しにするようなことはしますめえ。自分が悪いと気がついたなら何よりの話、わっしの役目もすむわけですから、一緒に阿波へお帰んなさいな", "いくら私があつかましくても、あんなわがままな真似をしておいて、今さらお前に……", "なに、わっしはかまやしません。別だん、旦那の見ていたことじゃなし、どうにでも、この宅助が内密にしておきますから" ], [ "……宅助、ありがとうよ。怒りもせずに、お前が優しくいってくれればくれる程、わたしゃ、あの時のことがキリキリと胸を刺して", "もうお互いに、そんなことは言いッこなしさね。お米さん、仲なおりに一杯やって、ひとつさばさばしようじゃございませんか" ], [ "よそうよ", "そんなことをおっしゃらずにさ。これにゃ、鼠薬は入っていやしませんぜ", "お前は、まだそれを遺恨に思っているのだろう", "こいつは、悪いことをいいました。自分から水に流そうと誓っておきながら……。もう決して申しませぬ、さあ酌ぎますぜ。くよくよは虫のお毒、すなおに阿波へさえ帰ってくれれば、もう何の文句もありません。さ、お持ちなさいよ、盃を", "じゃ、ほんのポッチリ……" ], [ "ああ、いいあんべいに酔いがさめてきた。じゃお米さん、俺は屋敷へ帰るからね", "じゃ、私はこれから四国屋へ行って", "うむ、船のほうの一件を、よく頼んでおおきなせえ。そして、明日の晩こそ、時刻をたがえず、船の出る所へ来ていなくっちゃいけませんぜ。わっしもそこへきっと行くから", "大丈夫だよ。けれどねえ、お前……" ], [ "啓之助様が来ているっていうことだけれど、話しちゃ嫌だよ", "なにをです?", "あそこでのことさ", "とんでもねえ、誰がそんなことを、自分からしゃべるやつがあるものか。御主人様の思い女と、ちょッと、変になって、何したなンておくびにも口を辷らせようものなら、それこそ笠の台が飛びまさあ", "じゃ、阿波へ帰るまで、何にも知らない顔をしてネ", "万事は、わっしが心得ています。だがねお米さん、向うへ帰ると、もう小ぎたねえ仲間なんかは、ごめんだよッていう顔をするんでしょう", "宅助、そりゃあ、お前のことじゃないか", "おっ、いてえ", "行き過ぎやしないかえ、渡舟の前を", "そうだ。じゃ明日の晩にまた――" ], [ "とにかく、まことにいい潮時に出向いてきたというもの、明日の夜、四国屋の商船へその弦之丞めが何も知らずに乗りこむとあれば、魚みずから網へ入ってくるようなものじゃ", "討つ機会はたびたびであったが、必殺のところを狙って、こんどこそは遁すまいと、わざと鳴りをしずめていた吾々の苦心は、それこそ、門外漢にはうかがい知れぬものでござった" ], [ "せっかく、魚みずから網に入ってくるものを、騒ぎ立っては沖へ逸してしまうだろう。この上とも、せいぜい明日の船出までは、鳴りをひそめていることじゃ。ところで――手分けの部署は今いったとおり、一角は孫兵衛と周馬をつれて、お船蔵の川番所に、きょうから出てゆく船を油断なく見張っているように", "承知しました。そのほうはお心おきなく", "夜半、明け方などは、ことに注意いたしていてくれ。もっとも、わしはこれから啓之助を連れて、一応、四国屋の奥に身をひそめている。都合によっては、そのまま向うに止まって、船の出る明夜まで屋敷のほうへは帰らぬかもしれぬ", "で、万一お帰りのない時は?", "わしと啓之助とは、向うから四国屋の船に乗りこんだものと思っておれば間違いない。そして、船が当家の川番所の前へかかった時に、そち達がいっせいに、船検めと称して、中に乗りこんでいる者をはじめ、積荷から船底までくまなくただすことになる。その前に、十分わしも怪しい奴を睨んでおくから、万が一にも取逃がすことはなかろう" ], [ "やっ、しまった、旦那様でしたか", "拙者の目から放たれているのをよいことにして、また酒ばかり食らっているの", "どう致しまして、なかなかそんなところじゃございません。あのお米に、いえお米様にゃ、どれほどてこずったか知れやしません", "そのために付けてやったそちではないか。だのに、何でこんな所にウロついているのじゃ", "高津の宮で、天堂様にお目にかかりましたところが、やあ宅助か、ぜひ一日、安治川のほうへも遊びにこいとおっしゃったもんですから", "たわけめ、あの一角などがそちにろくな智慧をつけおりはしまい。それよりお米はいかがいたした? お米の身は" ], [ "そうか、それならよいが、しかし、ここにちょっと困ったことが持ち上がっているのじゃ。宅助、何かうまい才覚はないか", "お話しなすッてみて下さい、啓之助様のふところ刀、智者の宅助が頭をしぼってみようじゃございませんか", "ほかではないが明日の晩", "へい、明日の晩?", "十九日だな", "今日は十八日ですから、多分あしたは十九日でござんしょう", "四国屋の商船に法月弦之丞が乗りこむことを知っておるか。かれのほかにもう一人、お綱とやらいう女も一緒に、それへ便乗しようとしている彼らの企みを、存じてはおるまい" ], [ "それを最初に嗅ぎつけたのは、この宅助でございます。へい、わっしが探って天堂様へ教えてやったことなんで", "そうか、きゃつめ、いかにも己れの手柄らしく話しておった。でそのことだが、明夜そちやお米もともにあの船へ乗るとなると、三位卿や拙者と同船いたすことになるのだ", "へえ、それじゃ、旦那や有村様も、あしたの晩阿波へお帰りになりますので?", "いや、帰るが目的ではないが、弦之丞を取押えるために、今夜から四国屋へ潜んでいて、そういう手段をとるかもしれぬという相談になっておる。で万が一にも、三位卿と一緒になった場合は、なんとかしてお米をそれと知られぬように工夫をつけておかねば困る", "なるほど、お米様やわっしが、三位卿様に見つかっては、その場合よろしくないとおっしゃいますので、ごもっともです、あのお公卿様からまた殿様へでもしゃべられた日には大事ですからね", "そうじゃ、そこを抜け目なく心得ておいてくれい", "そもそもお米様のことについちゃ、ずいぶん初まりから心得通しでございますぜ。お国元へ帰ったら、たッぷり……レコは……旦那のほうでもお心得でございましょうね" ], [ "そりゃ恩はありますが、お家様のように、そう義理固くお考えなさらずに、店の船へ抜け乗りをさせることだけは、態よくお断りなすってはどうかと存じますが", "私の気性として、そんな恩知らずのまねはできませぬ", "じゃ、どうしても、明日の船へ", "ああ、何とかいい工夫をして、阿波まで乗せて行ってあげておくれ。それだけのことさえして上げれば、後はとにかく、私の心だけはすむのだから" ], [ "よろしゅうございます。それ程までにおっしゃるなら、なんとか思案をいたしまする", "どうか、いいように、計らっておくれ", "その代りに、お家様、あなたは大阪に止まって、今度の船でお帰りになるのはお見あわせなすって下さい。さすれば、すべてこの新吉が一存でしたこととして、万一の時にも、お店にはかかわりないように言い抜けまする", "万事お前に任せておきましょう", "ありがとう存じます。そうお任せ下されば、私の方寸次第ですから、よほど気軽にやり抜けられる気がいたします", "ただ案じられるのは、安治川を出るまでの間。えびす島には御番所があるし、蜂須賀様のお船蔵の前でも、いずれ厳しいお検めがあるに違いない" ], [ "もしも大阪を離れないうちに、露顕するようなことにでもなると、わざわざ恩を仇で返したような形になりますからね", "荷物と違って人間ですから、よほどうまくやりませんと", "何か、いい思案がうかばないものかしら" ], [ "あなたのおいいつけを守って、私もいよいよ明日は阿波へ帰ります", "…………" ], [ "――明日は大阪を立つつもりじゃ", "すると、やはり一緒の船でございますね" ], [ "船はご一緒でも、私には宅助といううるさい者が付いていますし、阿波へ行っても、また落ちあえるまでは、しばらくお別れでございます", "それは、ぜひもない辛抱ではないか", "ですから……あの今夜だけ、ここへ泊めて下さいませ", "明日の支度もあり、何かと忙しい場合、悠々と話などしている間はない", "でも、もう遅くなってしまったのですもの", "いや、そちの乗って来た駕屋の声が、まだ表のほうでしている様子。早くそれで帰ったがよい" ], [ "何か明夜のことで? ……", "さようでございます。いよいよ雲行きがあぶなくなりましたので、それでお家様のご注意から、ちょっとあなた様のお耳へ" ], [ "ではまた何か、明日の都合でも変ったと申すか", "いえ、そういうわけじゃございませんが" ], [ "実は今夜突然、竹屋三位様が寮へお越しになりました。で明晩のことについて、お家様も蔭ながらひどくご心配いたしております", "や、あの若公卿が見えたと?", "だいぶお疑いをもってるらしいお口ぶりなので", "さては早くも下検分にまいったの", "そうとも明らかにおっしゃりませんが、困ったことには、その三位卿と森啓之助様が、やはり店の船へ便乗させて貰いたいとおっしゃるのでございます。これはどうも断るわけにはまいりませんので、胸ではギクリとしながらお引請けしてしまいました。そこで明晩の手筈ですが、なにしろそんな按配で、ただお身装を変えたくらいでは、とても露顕せずにはおりませぬ", "ううむ……いよいよ難儀が重なってきたな", "そこで、少々お苦しいかもしれませんが、ふた夜ばかりの御辛抱、こうなすッたらいかがであろうかと思いついた一策を、御相談にまいりました", "その策とは?", "京の梅渓家から徳島へ依託されました三ツの葛籠がございます。それも明日の便船へ積みこむことになっておりますので、ひとつ、そいつをからくりして", "しッ……" ], [ "はい", "支度は", "すっかりしておきました", "では……万吉には告げずに", "お吉さんへ、ちょっと挨拶をしてまいります", "これを渡してやってくれ" ], [ "ううむ……また痛みはじめてきた。お十夜のやつに斬られた傷が……お吉、ほかの医者にみせてくれ、この傷が……この傷さえどうにかなれば、立てねえという筈はねえ。阿波へくらい、行けねえということはない", "あ、お前さん、そんなに無理に動くと、よけいに後が悩むじゃありませんか", "だって、じれッてえからな。あ……お吉", "水ですか……水ですか", "ううん、水じゃあねえ。……弦之丞様はどうしたろうな", "ひとりでご苦心していらっしゃいますよ", "四国屋のほうはダメになったのか" ], [ "はい、お連れ申してまいりました", "来たのかえ? 金五郎さんが", "あまりご無沙汰しすぎているので、どうもしきいが高いとおっしゃってばかりいるので" ], [ "まあ、とにかく、奥へね", "そちらのお方も" ], [ "決して、眠いなどと、そんな場合ではござりませぬ", "お手前はちと物を食りすぎる、食べるから眠くもなる", "はい、つい無聊のままに", "無聊を感じられるほどお楽にいては困る。昨夜からとくと見るに、お久良の気ぶりにも多少腑に落ちぬ所もあり、かたがた油断はならない", "拙者もそう感じましたが、証拠のないことにはと控えています", "うむ", "ことに、お久良のもてなしぶりが、あまりよすぎるのも疑わしゅうござる", "なかなかご敏感じゃの", "嫌な顔もみせず、この通りな善美な膳", "それでツイ、箸がすぎ盃がすぎて、居眠りをし召されたか" ], [ "……鈴が鳴ったようだが", "庭の客門には銅鈴がついておりました", "誰かそこから前栽の内へ入ってきたのではなかろうか", "探ってみましょう", "ウム" ], [ "お内儀か、船の時刻は、まだなのであろうか", "刻限がまいりましたら、お座敷へお迎えにまいりますはずなので", "さようであったな" ], [ "お伺いしたいことがございますが", "拙者に", "はい" ], [ "今夜の船で、あなた様のご懇意なお方も、阿波までお送りいたすことになっております", "ああ、そうであったな" ], [ "つい、礼を申すのも忘れていたが", "いえ、滅相もござりませぬ", "船に馴れぬ女のこと、何分、途中気をつけてやってくれい", "たいそうお美しくっていらっしゃいます", "いや、なに" ], [ "なぜご一緒になって、途中見てあげないのでございますか。殿方の薄情を、さだめしお米様もお恨みでございましょうに", "そう申されると困るが……", "でも、せっかく、ひとつの船でお帰りなのではございませぬか", "実はの" ], [ "竹屋卿には話されぬ女なのだ", "ホ、ホ、ホ。それは悪いご都合でございますこと", "で何分、内密に計らっておいてくれるように", "よろしゅうございます。そういう訳とは存じませんので、只今、船のお席もご一緒にしたほうがよくはないかと、あちらへお伺いに出るところでございました", "いや、とんでもないこと!" ], [ "船の出る潮時までは後一刻(今の二時間)ほどしかない。その間にとくと見定めておきたいが、どこじゃ、その男女が隠れた部屋は?", "それと見た時に母屋の下も探りましたなれど、何せい、床下からはその見当がつきませぬ", "念を入れて身を潜めば、気配ぐらいは分る筈、もう一度忍んでみい", "はっ", "その男女から寸間も目を離してはならぬ", "心得ました、では" ], [ "はっ", "しばらくそこを動いてはならぬ", "あまり軽率なことを召されては", "いや、大事ない" ], [ "何でございますか", "後ろを閉めてくれい、その、釣戸棚の袋戸を", "暗うなりますが", "かまわぬ", "は" ], [ "お、御退屈をまぎらわしに、今し方、庭下駄をはいて前栽のほうへ出られたが", "そろそろお時刻が近づきました", "ム、もう一刻ばかりじゃの", "あまり間際に迫りませぬうち、天神の船待場の方へ、私が御案内申しまする", "そうか……それは大儀……ム、では三位卿が見えられたら、すぐに支度をするであろう" ], [ "新吉や", "ああ、お家様ですか", "だいぶ探りが入っている様子、どうやら今夜の船は危ないようだよ", "じゃあ所詮無事には出られますまいか", "何しろ、奥に張り込んでいる竹屋卿という方がなかなか鋭いお人らしい" ], [ "そいつあどうも弱りましたな", "私のほうはかまいませんけれど、弦之丞様、どうなさいますか", "どうするかとは?" ], [ "その床下に忍んだような侍がまだ一人や二人ではございませぬ。それでも今夜の船へお乗りなさいますか", "もとより危険は覚悟、ただ当家へ累を及ぼそうかと、それがいささかの心がかり", "乗りかかった船、その御懸念はいりませぬ", "では、強っても", "そのお覚悟ならば", "浮くか沈むか弦之丞が運の岐れ目", "ほんとに、危なッかしいとは思いますけれど……", "申さば鳴門の狂瀾へ吾から運命を投げこんで、大望なるかならざるか、いちかばちかの瀬戸ぎわへまいったのじゃ。すべては天意――このつづらに任せるのほかはない" ], [ "じゃ新吉、お前もヌカリはあるまいけれど、早く天神の船待場へ", "お家様は?" ], [ "私は数寄屋の客を案内して、わざと道を違えて行くから", "承知しました。では何かのことは向うでまた……", "しッ!……" ], [ "啓之助か――", "有村様", "何をうろたえておるのじゃ", "ただいま原士の者が", "原士がどうした?", "一散にここを離れて、船待場のほうへ急ぎました", "分った、今のつづらじゃ", "え、つづら?", "そちも支度をせい、すぐにまいろう" ], [ "いくらだい?", "十二文です" ], [ "ありがとうぞんじます", "父さん、ちょっと聞きてえんだが", "へい", "お前は、夕方からここにいたのかい", "船が出るのを当てこみに、明るいうちから屋台を曳いてまいりましたんで", "売れたろうな、さだめし" ], [ "なかなか美味えもの", "はい、お蔭様で、八軒家やこの辺では、かなりよく売れますんで", "そうだろう、もう一ツくんな", "ありがとうございます" ], [ "ところで俺の来る前に、ここへ二十四、五になる女が見えなかったろうか", "お女中様でございますか", "そうだ、俺の風態を見て、ザラにあるお女中と間違えちゃいけねえぜ、スラリとした柳腰よ、ふるえつくようないい女なんだ", "さあ? ……商売に気をとられて、ツイどうもうッかりしておりましたが", "見かけなかったかえ?", "お見かけ申しませんでしたね", "じゃ、やっぱり来ねえのかしら", "この船へ乗って立つお方でも、見送りにおいでなさるんですか", "そうじゃねえ、俺がお供をして阿波へ帰ろうという人なんだ。やがて時刻も迫ってくるのに、だから、こっちも気が気じゃあねえところさ" ], [ "あ、恐れ入りますが、細かいのを持ちあわせはござんすまいか", "つりは要らん……ところで……しばらくの間邪魔ではあろうが、この二人の子供をここに預かっておいてくれぬか、だいぶ疲れておるのでな", "じきにお戻りなさいましょうか", "うむ、船の出るまで!" ], [ "イヤうどんは要らない、今ここへ高貴なお方が見えるのだから、屋台をあっちへ引っ張って行っておくれ、目障りだ", "へい", "咎められないうちに、早くあっちへ行きなさい、あっちへ", "へい", "船が纜を解く間際には、よけいに混雑するから、屋台を引っくりかえされたって知らないよ" ], [ "冗談じゃありませんぜ。いくら探し廻っていたかしれやしねえ。エエ心配しちまった!", "そうかい……ホ、ホ、ホ", "そうかいもねえもンです、あれほど、船待の小屋と念を押したじゃありませんか。それをこんな所で、夜鷹みてえにしゃがみこんでいるンだもの、分りッこありゃしねえ", "まあそれでも落ちあえたからいいじゃないか", "またうめえことをいッといて、一杯食わすんじゃないかと、少しお冠が曲りかけていたところなンで", "そうしたらどうおしだえ?", "こんどこそはただ置きゃアしませんさ――まああしたの読売にゃ、お米殺しと出るでしょうよ", "おお怖い……" ], [ "とにかく、も少しあっちへ行っていようじゃありませんか", "あっちッていうと?", "船待の小屋にいるのが一番です。あすこにいりゃ、出る間際にだって船頭が知らせてくれます", "じゃ、そっちへ行ってみようかね", "お米さん", "エ……", "誰か探しているンですか", "なぜ", "イヤに後先を見廻しているじゃありませんか", "そうかい", "そうかいッて、自分のしていることを", "淋しいからだよ……妙に広くってさ、イヤなものだね、船旅に立つ夜というものは" ], [ "奇怪な編笠、何者だろうか", "無論、幕府方の奴に違いない。今夜の騒ぎにまぎれて、やはり御本国へでも入り込もうとして来たのだろう", "この斬り口を見ろ! すごいやつだ。とても唯の曲者ではない", "ことによるとそいつの正体が、法月弦之丞なのではないか", "う……うム? ……それも大きに" ], [ "松島の水茶屋サ、あそこの奥の四畳半サ。忘れちまうなア薄情だな", "忘れやしないけれど、まじめくさって不意にそんなことをいうからさ", "だが約束を違えずに今夜ここへ来た心意気は買っとくぜ", "私の気性は一本気なンだよ", "どう一本気なのか、聞きてエものだが", "こうと思う男にぶつかるとネ……その気性がよくないと知りながら", "ヘ、ヘ、ヘ。ほンとけえ?", "さあ、お前にはどうだか", "あれ", "憎いねエ、知りぬいているくせに", "あ痛……", "来たよ、お離し", "え" ], [ "そこにいるのはお米ではないか。久しぶりだな", "ハイ、永らく気ままに遊ばせていただきました", "ウム、いよいよ帰るか", "お蔭様で大阪にも、ゆっくり滞留いたしました", "それですッかり気がすんだであろう" ], [ "いろいろと話もいたしたいが、なにしろ三位卿が御一緒でな", "宅助から聞きましたが、そんな御都合だそうで……", "いずれ帰国した上で、ゆるゆるいたすが、船の中では一切素知らぬふうを粧っているようにな。よいか", "旦那。ご安心なせえまし、宅助が呑みこんでおります", "ではあろうが、乗る間際にも、充分に気をつけてくれ、なにせい連れが、お公卿にしては血の巡りのよすぎるお人だ", "で、その三位卿様は?", "いま彼方で、原士の者に何かいい含めておいでになる。その隙をみて、大急ぎでここへ探しに来た訳だ。ウ、なに、弦之丞のことか? いずれこの船が安治川口を出るまでには、何とかして捕まるだろう。とにかく、船の上へ追い込んでからの方策だといっておられたから。お、船といえば、乗ってからも、決して言葉をかけてはならぬぞ。ではお米、くれぐれもそのつもりで、さびしかろうが徳島まで一日ひと晩の辛抱じゃ……" ], [ "小屋の中が暗かったからいいようなものの、不意に、コレ宅助と来やがったんで、すっかり面食らってしまった", "でも気がつかなかったから倖せさ", "付かれて堪ったもンじゃねえ", "やっぱり悪いことはできないものかね", "河豚の味と間男の味、その怖いのがよろしいので……" ], [ "なぜエ", "まだ動悸が鳴っていて息苦しいンだから……後生……手を離しておくれ、この手を" ], [ "およしといったら……もう船の時刻も来ているのじゃないか", "まだ大丈夫だッていうことよ", "ま、くどい!" ], [ "お米……", "…………", "お米" ], [ "なんで止めるか", "は、実は" ], [ "手前が用事をいいつけて、先に大阪表へよこしておきました仲間にござります", "ふム、お手前の仲間であるとか" ], [ "して、一方は", "は……?", "アノ女は。一方の艶めいた女は、アリャ何者か!" ], [ "どうも恐れ入りました", "なにも恐れいることはない、身寄りとあらば格別の間がら。これから船へ乗るのであろう、親切に面倒をみておやンなさい", "いや、仲間がおりますから", "遠慮するな!" ], [ "今? ふム……", "たッた今――小父さんたちがここへ来てから", "そうではあるまい、見なかった", "嘘じゃアない、本当だよ。その後ろの戸を開けてそッと裏のほうへ持ちだして行ったンだ" ], [ "ウム、何かと世話をやかせたの", "まことに行届かぬことばかりでした。それに御覧の通りな商船。お席もむさ苦しゅうございますが、どうぞお忍び下さいませ。また何かの御用は松兵衛に仰せつけ下さいますように。では森様もごきげんよう……新吉も頼みますよ" ], [ "どこから来たの、お前方は", "江戸から……", "えっ、江戸からだって、まあ。そして何でこんな所に泣いているのだえ? 連れの人にでもはぐれたのかえ? エ、そうなの" ], [ "エッ、そうおっしゃいますと、あなた様は?", "見忘れておるのももっとも、もう十年も以前に、そちや多くの召使に暇をつかわした頃から浪人いたしておる元天満与力の常木鴻山じゃ" ], [ "よい凪だの、風も頃合、海へ出たら定めし爽やかであろう", "さようでござります。この分では揺れることもござりますまい", "昨年、殿と同船して帰国した時は、厳めしいお関船で、船中も住居とかわらぬ綺羅づくしであったが、旅はむしろこうした商船で、穀俵や雑人たちと乗合のほうが興味深いものだ", "仰せのとおり、手前なども", "啓之助!", "は", "見えてまいったな、安治川屋敷のかすかな灯が" ], [ "追っかけて来ますぜ、阿州屋敷の役人が", "かまわねエから撓わせろ!", "合点!" ], [ "松兵衛、大変だッ", "ヤ、新吉さん、何だって、つづらの側を離れて来たンだ", "三位卿がお前を連れてこいというんだ、何か御立腹で、タダごととは見えない", "かまうものか、ほうッておけ", "だって" ], [ "あっ、何をしやがるンだ", "何をしようと三位卿の前へ出れば分る、じたばたするとそのほうたちの不為だぞ" ], [ "連れてまいりました。水夫頭の松兵衛を!", "ウム、そこへすえろ" ], [ "へい", "なぜ船を止めないか、咎めがなければさしつかえないが、最前から安治川屋敷の水見張が、アアして呼び止めているのになぜ止めない", "ヘエ、お呼び止めがございましたか", "だまれーッ。この有村を盲目と思うか", "けれど番所のお検めは、えびす島ですんでおりますので", "ひかえろ。ありゃ御番城のきまったことだ。そのほう達には公儀だけあって、領主蜂須賀侯の御支配は無視いたしてもかまわぬという所存であるか" ], [ "ともあれ有村が盲目でないことだけは心得ておけい! そこで一応問い糺すが、この三個の荷つづらの送り状は、いずれ水夫頭のそのほうが預かっているであろう。中の品物は何か、読み聞かせろ", "それはご免こうむりまする", "なぜか", "梅渓家からお預かりしました貴重なお品、それに、二十四組の廻船問屋には、送り状の内容は決して人様に洩らさぬという組掟がございますんで", "いうなッ、あくまで吾らの眼をくらまそうとて、その言い訳にうなずく有村ではない。強って組掟を楯にとるならこのほうは領主重喜公の御名をもってこの荷つづらの錠をぶち破るがどうじゃ!" ], [ "いわぬな!", "…………", "どうしても実を吐かぬなッ" ], [ "し、知らねエッ……", "ちイッ、よウし!" ], [ "天堂、天堂", "はっ" ], [ "その一方を槍で探ってみい! この中にたしかにいる! 阿波へ抜乗りをせんとする生きものが", "承りました" ], [ "松兵衛!", "…………", "新吉!", "…………" ], [ "あ、三位卿!", "なんじゃ", "お綱の方は、もう息が絶えておりまする" ], [ "一角ッ、大急ぎでお船蔵から船を出せ。まだ先の船も、さして沖を遠くへは離れていまい", "あっ、追手を?", "無論。早くだ!", "あるか、脚の早い船が?" ], [ "お手入れ中の納戸船、あれなら軽い、たいして人数は乗れませぬが", "それでいい、それでいいッ" ], [ "なんだッ蛆虫", "め、めんぼく次第もございませぬ", "それがどうしたというのかッ" ], [ "不始末のほど、慚愧にたえませぬ。本来、御一同の前で、切腹すべきでございますが……", "そうだ! 当り前だ!", "殿の御意もうけず、身勝手に死ぬこともなりませず", "よかろう!", "ではございますが", "かまわん、わしが、殿のお耳へ入れておく。殿もよい家来を失ったとは惜しむまい", "は……しかし、武士の意気地", "人が笑うぞ! 貴様がそんな言葉をつかうと", "はい" ], [ "有村様ッ、こ、このとおりでございます", "何をするんだ、ばかなッ、わしは笏を持っている木像じゃない", "終生のお願い――どうぞこの不始末を、殿様へおとりなしのほどを。啓之助、過去を悔悟して、御奉公をしなおしまする。そして、武士の意地にも、追手の船へのりまして、弦之丞めを", "世迷言を申すな", "でなければ", "うるさいッ、お前はお前のすることをしておれ。そのな、啓之助" ], [ "一言知らせておきたいが", "そうですね……さだめし気を腐らしておりましょう", "事情を知ったらびっくりするぞ", "幽霊かと思うかもしれませんね", "なにしろ、無駄な心配をさせておくのは気の毒、それに……" ], [ "誰か起きている者があります。向うに人影が", "では、後にしようか" ], [ "おい、どうだ", "ウウム……" ], [ "エ、すこウし……", "しっかりいたせ、夜明けになれば凪ぎるであろう", "はい……お案じ下さいますな", "よいか", "大丈夫でございます", "前の所へ戻って、少し落ちつくがよい", "そういたします", "わしの帯につかまって……よいか……足をすくわれるな、足を" ], [ "あっ、ひどい音が?", "暴雨だッ" ], [ "うぬッ", "おのれッ" ], [ "おッ、いたぞ", "弦之丞だ!", "それッ" ] ]
底本:「鳴門秘帖(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年9月11日第1刷発行    2008(平成20)年12月24日第22刷発行    「鳴門秘帖(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年10月11日第1刷発行    2009(平成21)年2月2日第21刷発行 ※副題は底本では、「船路《ふなじ》の巻」となっています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2013年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052406", "作品名": "鳴門秘帖", "作品名読み": "なるとひちょう", "ソート用読み": "なるとひちよう", "副題": "04 船路の巻", "副題読み": "04 ふなじのまき", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-04-15T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52406.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11 00:00:00", "没年月日": "1962-09-07 00:00:00", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鳴門秘帖(三)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫4、講談社", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年9月11日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月2日第21刷", "校正に使用した版1": "2011(平成23)年6月1日第22刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "鳴門秘帖(二)", "底本出版社名2": "吉川英治歴史時代文庫3、講談社", "底本初版発行年2": "1989(平成元)年9月11日", "入力に使用した版2": "2008(平成20)年12月24日第22刷", "校正に使用した版2": "2011(平成23)年4月1日第23刷", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "トレンドイースト", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52406_ruby_50142.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52406_50143.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ウム、何か?", "愉快でござりますな", "心地よいの", "若侍たちの水馬も、日に日に上達してまいります", "蜂須賀武士じゃ!", "南蛮鉄のような皮膚――", "あれへ具足を着込ませたら、よもや江戸の青ひょろけた侍どもにひけはとるまい" ], [ "ひとりは旅川周馬という浪人、一角にも劣らず、弦之丞を討つについて骨を折りました", "ウム" ], [ "水馬で疲れたとみえる", "そうでもない", "今、阿波守に拝謁してきた", "ふーん……", "貴公の推挙もあり、三位卿の口添えも利いて、すっかり面目をほどこしたというわけさ", "そうか", "よろこんでくれ", "うム", "おれも川島へ帰って、元の原士千石の身分になれる。周馬だって、いずれ、近習とまではゆかなくっても、馬廻りやお納戸ぐらいには役づくことになるだろう", "早いな、話は", "とにかく、吉運到来だよ", "そうかしら", "オイ、一角", "え", "そうかしらって、お前だって、噂にきけば、たいそういい運が向いてきたというじゃねエか", "ウム、加増のお墨付をいただいた", "不足なのか", "過分さ", "じゃあ" ], [ "お互いに立身出世の緒口がついたのを、誰が気にいらない奴がある", "それならよろこんでしかるべきじゃないか", "だからよろこんでおるではないか", "ちッ、まずい面をしているくせに", "ほかに屈託があるからだ", "なんだ?", "おれは少し気になってきた" ], [ "どうしたっていうんだ。天堂一角にも似合わん憂鬱じゃないか。今、蜂須賀家もおれたちも、吉兆と吉運にめぐまれているのに", "だからよ、その夢が凶く、裏切られてきやしないかと心配しているのだ", "妙なことをいう……" ], [ "なぜ?", "どうも、弦之丞とお綱は、まだ死んではおるまいと思われる。もし、ふたたびかれが姿をあらわすことでもあった日には、殿を欺したことになる" ], [ "運が向くと人間は臆病になる。金持になると病気ばかり怖くなる、この夢がさめるな、この夢がさめるなってやつよ。それと同じだ。ばかばかしい。夢といってしまえば、棺桶の底へあぐらを組むまでは、みんな夢じゃないか", "くだらんことをしゃべってくれるな、拙者は心の底から心配しているのだ。恩賞の帰参のと、吉運に酔っている貴公たちを見るといっそう後が思いやられる。決して、根柢もなく取越し苦労をしているのではない", "どうして急にそんなことを考えだしたのか。おれたちにはおかしくってしようがない", "実をいうと、拙者も、今しがたまでは得意だった。で、今日この浜で出会った叔父貴にも自慢をしたくらいなのだが", "ウム", "叔父というのは水泳指南番で、赤組頭、生島流の達人で、平常は船預かりという役名で四百石いただいている、海には苦労をしている人間だ", "成瀬銀左衛門のことではないか", "そうだ", "その成瀬に自慢をしたというのは、法月弦之丞のことをだな", "刃で止めを刺したのではないが、とにかく、海の藻くずになったことは分りきっておる。かたがたお墨付をいただいたから、それを話したのだ。さだめし、叔父にしても家中へ鼻が高かろうと思って", "なるほど、そしたら?", "おめでたい奴じゃ! 頭からそうどなられたものではないか", "ふウむ、変り者だな", "どうして、常識過ぎるくらいな常識家だ。その叔父が苦りきって、罵倒するのだから、拙者もちょッと面食らった。――で理由を糺すと、法月弦之丞は決して死んではおるまい。必ずどこからか陸地へ上がっている! 祝杯に酔ッぱらうなよ、阿波守様はいい時にはいい殿だが、悪い時にはその逆がひどく出るお方だぞ! こう叱るのだ、拙者をな。で、だんだん叔父貴の説に耳をかしてみると、どうも彼はまだ生きているという結論になってくる" ], [ "深いことはいわないが、叔父は水泳と船術の経験から、近海の潮流に詳しい。また、みずから海へ飛びこんだ程の弦之丞だから、必ず自信があったろう。相当にいける者なら、あの晩の波ぐらいは大したものではない。ことに隠密というものは、捕われるまでも決して自殺をしないものだ、拷問にたえ、恥をしのび、首を斬られる最後の一瞬まで、生きて命をまっとうしようともがく粘り気のあるところに、隠密の本分と、かれらの誇りがある。その辺はなみの武士のいわゆる最期の美とはよほど違う。だから、弦之丞も、お綱を引っ抱えて海へ入ったのは、おそらく、逃げるだけの自信があってしたことに違いないし、船も阿波の沖へ近づいていたといえば、かたがた油断はなるまいというのだ", "けれど、もう五十日あまり過ぎた今日になっても、かれがどこに潜伏していたという知らせも、ないではないか", "その代りに、かれの死骸がどこへ流れ着いたということも聞かない" ], [ "ウム、ちょっと", "相変らず隼だな、いずれ大物だろう", "そうでもないが", "町同心の田宮様ならば、もうあちらに詰めておいでになる、取次いでやろうか", "田宮さんじゃ、少し相談相手にならねエことなんだが、お奉行はまだ――", "まだお住居のほうだろうよ", "折り入って眼八が申し上げたいことがあって起き抜けにまいりましたと、ひとつ、取次いでみてくれないか" ], [ "あいつにこまごまと積もって、十両ばかりの貸しがあるンだが", "借金で首が廻らないところから、出先で随徳寺をきめてしまったンじゃあないか", "だが、主人の啓之助も、まだ御城下には帰っていないらしい", "噂によると、何かマズいことがあって、大阪表でお扶持放れとなったそうだ", "ヘエ、森啓之助が?", "なんでも浪人したという話だ" ], [ "眼八、やはりお役宅のほうで待っていろとおっしゃったよ、すぐにお越しになるだろう", "ありがとうぞんじました" ], [ "で、お前がいた時に、大黒宗理の所へ来あわせた男というのは、いったい、何者なのだ? まさか弦之丞自身ではあるまい", "そうです、無論弦之丞じゃありません、どこかこの辺の浜へ稼ぎに来ていた船大工の手間取。そいつが研師の宗理の手から、研ぎ上がった二本の刀を受け取って帰って行きました", "船大工が?", "ヘエ、しかし、ひとつは、無銘の長い刀、ひとつは新藤五という小脇差で、すばらしい名作、鑿や手斧なら知らないこと、船大工風情の手にある代物でないことは分っています。で、頼み主はと台帳を見て貰うと、海部の日和佐の宿、大勘という棟梁の名になっています", "ふム、そして?", "頼み人の名に偽りのないことは、品物が大事な金目のものだけに、まあ、嘘はないと見ておきました。それに日和佐の宿あたりには、それ程の刀を研ぐ腕の研師はありますまいから、わざわざ徳島の城下まで持ってきたに違いありません。ことに、その刀もただの研ではなく、潮水浸しになったのを、鞘、柄糸、拭上げまですっかり手入れをしなおしたもので、宗理の手もとでも五十日ほどかかったという話。――指を繰ってみると、ちょうど沼島沖で四国屋の船が暴風をくった日から四、五日後に持ちこんだ勘定になるンです", "なるほど" ], [ "だが、それだけの事実を押して、双腰の刀を、弦之丞の持物であると断じるのは早計ではないか", "そこにゃ、動かない証拠があるンです。というなあ、無銘の方の小柄には、弦之丞の印と聞いた三日月紋の切銘があり、もう一腰の新藤五の古い鞘には、甲賀世阿弥という細字が沈金彫に埋めこんでありました。で、もうこれ以上の詮索は無用でしょう。すぐに使いの男をつけて、その場から日和佐へ突ッ走ってもいいところですが、大事を取って一応ご相談に上がったわけです", "ウーム、そうか" ], [ "日和佐の宿に潜伏して、刀の手入れのできるのを待っているものとみえる", "それと、これにゃ弦之丞をかくまっている奴が、ありそうですから、ただいきなり捕手をくりだしても、風を食らってしまうでしょう", "とにかく、何より先に、このことを、有村卿のお耳に入れて、お指図をうけた後の手配とするが順序であろう", "あれが仕上がって届いたとすると、弦之丞はすぐにも日和佐にいないかもしれません。どうか、ご相談に暇どって、大事な機をはずさないようにお願いいたします" ], [ "旅人でございます。親方のお名前を承知しまして、お頼り申してまいりました", "同職か", "ヘエ", "上がンねエ", "ありがとうぞんじます", "裏へ廻ると井戸がある。その側に小屋があるから、そこでゆっくり泊ってゆくがいい。朝立つ時にゃちょっと俺たちの部屋へ声をかけて行きな、わらじ銭と午飯だけは餞別してやることになっているんだから", "ご厄介になります" ], [ "蒲団と行燈は、その板戸をあけると中にあるから勝手に出してくんな。油があったかしら、油壺を見てくンないか、客人", "ございます、どうもご馳走様で", "そうか、じゃお寝み", "もし、もし。ちょっとお待ちなすって", "何か用かね", "親方にご挨拶をしたいと存じますから、ひとつお取次ぎを願います", "親方はいないよ、この間うちから留守なんだ", "じゃお内儀さんか誰か、お身内の方に、ちょっと会わせて貰えませんでしょうか", "お内儀さんは近所の衆と、遍路に出て今は留守だし、ほかにゃ弟子か部屋の者ばかりだが、何か用かい、客人", "ナニ、別段なことじゃございませんけれど……じゃ、お前さんに伺ってみますが、誰か、ここの家に商売違いなお客が二人ほど、お世話になっちゃあいませんかね?", "商売ちがいな?", "若い男と女です", "いねエなあ、そんな者は" ], [ "へ、へ、へ、へ。まことに、妙なことをきくようですが、私の身寄りの者で、今は、大勘さんの家にお世話になっているというような噂を、ちょっとよそで聞いたもんですからね……それで、何ですが……じゃ、そんな方はおりませんか?", "いつ頃のことだい、それやあ", "さようで……" ], [ "兄哥、これやホンの少しだけれど", "いらねエや、お前は旅人じゃないか。旅人からそんな物を貰うと、部屋の者に叱られら", "なアに、誰がそんなことをしゃべるもんですか、まア取っといておくんなさい、私だってこうしてお世話になれば、旅籠賃というものが助かっているんですから……。エーところで、その若い男と女の客が、多分、こちらへ来たろうと思うのが、そうですネ、今から五十日前の前後か、それから後のことなんですが、よく考えてみておくんなさい、きっと、お心当たりがあるでしょう", "ああ、そうか……", "知っているね!" ], [ "似た話があるぜ", "ある? ふム", "もう一月あまりも前なんで、すっかり忘れていたけれど、ちょうど、客人のいった頃にあたるよ。小雨がソボソボ降っていた、暴風あがりからズッと降り通しで、部屋の者も仕事がなしで、早く床についた晩なのさ" ], [ "……とネ、宵の五刻ごろ、トントンと表をたたく人があるんだ。おらあ親方の瘤みたいな肩を揉ませられていたので、イイ機だと思ったから、親方、誰か表に客人でございますヨ、そういって顔を覗くと、ふム、分っているとうなずいて、部屋の奴アみんな寝たか、とこう聞くんでございます", "なるほど", "ヘエというと、親方は、いずれ今頃ウロついてくる客は、旅人だろうから、あっちの小屋へ行燈を入れておけ、そして、後はおれが見てやるから、てめえは床に着くがイイ。そんな優しい親方でもないのに、妙だナと思いながら、いわれた通り――今お前さんのいるこの部屋へ灯を入れていると、そこへ親方が、ふたりの客を外からここへ案内してきました", "ふたり?", "エエ、ふたりです。しかも、頭から酒菰をかぶって、まるで乞食のような風態をしているのに、親方はばかに親切に世話をしていました。すると、てめえはあっちへ行って寝ろといわれたので、そのまま、母屋のほうへ戻りながら、井戸端で足を洗っているお菰を見ると、とても、白い足をしているんで、オヤ、とその時気がつきました。ひとりのほうは、ゾッとするようないい女、ひとりは五分月代の若い浪人者です" ], [ "エ、なかなかよく使いこんである鑿です", "売るつもりなら部屋の者に見せてあげるぜ", "なに、これは、手放すわけにはゆかない品なんで" ], [ "源? ……じゃア源次のことかもしれない", "じかにお渡しいたしたいと思いますが、ちょっと、耳へ入れて上げてくれませんか", "いいとも、じゃア今ここへ連れてくるから" ], [ "聞いてみたら、やっぱり鑿を失くしたのは部屋の源次という人だった", "ア、それやどうも、お世話様で", "先でも、使い馴れていた稼業道具を失くして、困っていたところなんで、話してやったら大よろこびさ。で、今ここへ連れてきたからね", "そうですか" ], [ "夏知らずというところさ、あっしゃあ、昨日もここでウットリとしてしまった", "昨日?" ], [ "きのうは浜へ仕事に行ったと言いなすったが", "なに、ちょっとこの辺へ使いがあってね", "一昨日はたしか徳島にいなすった" ], [ "御輿をすえると、眠くなるからなあ", "眠くならねエようにしてやるから、とにかく、そこへ落ちつきねえ", "いやだぜ、悪い喉なんかを聞かせちゃ", "いいやな、お前、ここは四国二十三番の札所だ、御詠歌ぐらいはおつとめしなくっちゃ、霊地へ対して申しわけがない。そこでぼつぼつ始めるが……オイ、源次ッ" ], [ "お前は何か、先刻おれが返してやった平鑿を、徳島のどこでなくしたか気がついているか?", "冗談いうない、落した所を知っているくらいなら、何も、わざわざ他人に拾われやしねえ", "そうだろう。じゃ教えてやるが、実は、あれや御城下の刀研ぎ、大黒宗理の店先で、お前が頼み刀をうけ取っている間に、道具箱からぬけだしていたんだ。なにも、平鑿に足が生えたわけじゃねえから、無論、おれの指先が、黙ってお預かりと出かけたんだが……" ], [ "オイオイ、駄目だ駄目だ、逃げようたって逃がしゃあしねえ。徳島奉行の御配下で、釘抜きの眼八といわれている鬼手先だ。その釘抜きが噛みついてしまった以上は、めったにここをズラからすものか", "野郎!" ], [ "じゃてめえは、旅人といっていたが、徳島から潜りこんできやがった岡ッ引だな!", "神妙にしろッ", "やかましいやいッ" ], [ "ちイッ……この野郎", "御用だ……御ッ……御用" ], [ "――一昨日の晩、てめえが大黒宗理の所から持って帰った刀、一本は無銘の長い刀、一本は新藤五国光だ。宗理の店の研物台帳から、ちゃんと洗いあげてあるンだから、いい遁れはかなわねえ。あの双腰を、てめえいったいどこへ届けてやったのか、まず、それからひとつ訊こうじゃねえか", "……おれに訊いたって無駄だからよしてくれ、源次は口が固いと見込まれて、親方から固く頼まれてしたこと、代官所へショッ曳かれたって、算盤ゴザへ坐らせられたって、決して口を開きゃしねエから", "ふん……面白い" ], [ "さッ、申し上げちまえッ。あの双腰を誰に届けてやった! いや、その届け主は読めている、場所をいえ、隠れ場所を!", "そんなことまでおれは知らねえ", "ナニ、知らねえ!", "知らねえ! おらあ、そんな深いことまで知っちゃいねえ" ], [ "ア痛ッ……", "いてえか!", "し、知らねえものを", "野郎" ], [ "――今から一月半ばかり前に、法月弦之丞とお綱という奴が、酒菰に身をつつんで、小雨のふる闇にまぎれて、大勘の家へ来たという図星まで、スッカリお調べが上がっているのだ。いくらてめえが親方に義理だてをしたところが、やがてすぐに判ることじゃあねえか、つまらぬ強情を突っ張っていねえで、潮びたしをなおしにやったあの刀を、どこへ届けた。その匿れ家を白状してしまえ。すなおに泥を吐いてしまえば、眼八のとりなしで、お上のお咎めはいいようにしてやるぜ。どうだ源次、オイ源次、よく胸に手をあてて考えなおせよ", "徳島へ出かけたついでに、刀を受け取ってきたのはたしかだが、それを途中で棟梁の手へ渡したきり、後のことは何にも知らねえ", "しぶてえ奴だ、じゃ、どうあっても実を吐かねえな、よし" ], [ "まだ甘えか、これでもか!", "くッ……く、くるしい", "そりゃア苦しいにきまっていらあ、まだまだ釘抜きの眼八が本気になって責めにかかると、こんなどころじゃございませんよ" ], [ "せっかくここで、おっ放してやろうと思っていたが、そう情を突っぱるならゼヒがねえ、代官所の砂利を咬ませて、ゆっくり、荒療治で聞くとしよう。ばかな奴だ、ここで白状してしまえば、眼八の胸ひとつ、お咎めなしに見のがしてやるものを、向うへ行きゃあ公然になる、泣いてもわめいても間に合わねえぞ", "…………", "棟梁の大勘が、どれほど口止めしたかは知らねえが、こんなことで臭い飯をくうなんて、気の利かねえ話があるものか。御牢舎ぐらいですみゃいいが、隠密を匿いだてした連累となると、とても、そんなことじゃすむまいぜ……エエ源次", "…………", "船大工の部屋にゴロついているお前にしろ、どこかの在所にゃ、肉親もいるだろうに、助任川の曝し場へてめえの首が乗ってみろ、親兄弟にまで、泣きを見せなくちゃなるまい。アア、口が酸ッぱくなった、俺にもこれ以上の親切気は持ちきれねえ、さ、立ちなよ、そろそろ行く所へ行くとしよう", "……ま、待って下さい", "腰が立たねえのか", "いってしまいます、隠していたなあ、あっしが悪うございました", "白状するっていうのか" ], [ "じゃ、弦之丞とお綱の奴は、いったい、どこに匿われているのだ", "それだけは、まったく源次も知らないことなんです……ただ、あっしの知ってるだけを白状します", "嘘はあるめえな", "ヘエ、嘘と真を七分三分にまぜたところで、なんの役にも立ちゃしません。ほかのことは、洗いざらい申し上げます", "ウム", "あっしは、あの侍と若い女が、法月というのかお綱という女か、国者かどこの者か、皆目、そんなことだって知りゃしません。ただ棟梁の大勘が、お家様の義理合いでやむなく一時の匿れ家を、どこかへ探してやったことから、細かい用事をあっしにいいつけたんでございます", "そのお家様というのは", "徳島の御城下と大阪表に出店のある、四国屋のお久良様、たしか、そういったと思います", "ふウム" ], [ "その四国屋のお久良に、大勘のやつは、どういう義理合いをうけているんだ", "あすこの持船以外の仕事は、雑魚舟ひとつつくろわないというほどな大顧客でございます", "ウ、なるほど", "ことに、お家様には可愛がられている大勘なので、こんどのことも、嫌とはいえずに頼まれたことだろうと思います", "そういう仲じゃ無理はねえ、そして、お久良は今大阪にいるはずだが、どうしてそんな打合せができたのか", "ちょうど、先々月の月半ばでした", "ウム" ], [ "お久良様からきた飛脚をうけて、棟梁が何か心配そうに考えていました。と、それから三、四日――そうだ十九日の晩", "えっ、十九日の晩?" ], [ "じゃあ船図面を取りに来たわけじゃないンですか、ときくと、棟梁は、ウム、と少し怖い顔をして、小松島の磯をブラブラあるいていましたが、そのうちに、どこからか、船頭三人、ギーと棟梁の前へ漕いできて、どっちも黙ンまりで乗りました", "それが、十九日の夕方だな", "そうです。宵はよかったが夜半です、イヤな雲になってきました" ], [ "――船が島の蔭へよったので、ここは? と訊いてみると淡路のそばの沼島だっていうンで、わっしもあっけにとられました。――とそのうちに風がだんだん強くなる、浪は荒れる、大雨はやってくる。で、みんなヘトヘトに疲れた頃、真っ黒な沖合に、ポチと、赤い灯が一ツ、浪にもまれて見えました", "……オオ、……ウム……", "あれだ! というと棟梁が、三人の船頭に、十両ずつの酒代を投げだして、腕ッ限り漕がせました。何がなんだか分りゃあしません、途方もねえ大暴風雨です。だが、ヒョイと目を開いた時には、向うの船の赤い灯が、前よりよッぽど大きく見えて、なんだか、わーッという声が聞こえやした。近寄ったナ、と思う途端に、その灯も消えれば向うの船も、グルグル廻っているようでした。なおワッワッという人間の声です。まもなく白々と夜が明けて、少し凪いだ時には、こっちの船は、昨日の小松島を素通りにして、日和佐手前の由岐の浜へ、ギッギッと帰っていたんです。……ヘイ、これだけいえば、もうお分りでございましょう、その船の中へ、何をすくい込んで来たか、これ以上、棟梁のしたことをはッきりいうのは、なんぼなんでも、舌がしびれていえません。どうか、お察しなすって下さいまし" ], [ "その晩傭われた船頭、誰と誰だか、覚えているだろうな", "存じません。へい", "徳島訛りか、それとも日和佐の船頭か", "この辺の者ではなく、おそらく、抜荷屋渡世の仲間だろうと思うんで" ], [ "あっしはすぐに、潮水浸しになったお両人の刀を、大黒宗理の所へ頼んでくれと渡されて、棟梁と別れました", "そこは?", "八幡様の森でした", "弦之丞と口をきいたか", "あっしがいる間は、棟梁もその人も、黙りあっておりました。もっとも、女のほうが、だいぶ水を呑んでいたので、その手当てにも追われていたんで" ], [ "そうか、それですっかり事情が分った。まア、今のところじゃこの辺でよかろう、オイ源次、立ってくれ", "ヘイ、ありがとうございます", "なにがありがてえんだ", "知ってる限りのことは白状しました。約束どおり、放しておくんなさるんでしょう", "けッ、虫のいいことをいうなッ" ], [ "暗いな", "こう廻るのが近道なのだ" ], [ "なんだ、遍路人ではないか", "そうらしい", "さっきから間の抜けた鈴を振って、しきりと医王山の境内をウロついていた奴だろう。それがどうしたンだ?", "あの通り、道を阻めて、テコでも動く気色がない", "太エ奴だ" ], [ "お前たちに用はない、上役がおるであろう、同心の者をこれへ出せ", "な、なにッ?", "話がある! 同心衆" ], [ "何者だッ、汝はッ", "何用あってそこに立つのか", "名乗れ!", "姓名を申せ" ], [ "――遁れぬところと覚って自首して出たか", "そうならば定めしご都合もよかろうが……" ], [ "少しご無心を申すのじゃ", "無心ッ?", "今、この境内で召捕られた、ふたりの縄付を、拙者の手へ渡してもらいたい" ], [ "お渡しはあるまいな、それが世上へ聞こえては貴公たちの扶持ばなれじゃ。しかし、拙者一身のため、縛をうけた大勘と源次を見捨ててもおかれぬ。どうでもこのほうへ申しうけるぞ", "だ、だまれッ", "アイや", "文句をいわさずに、弦之丞を召捕ってしまえ", "騒ぐなッ、ここは医王山の霊域、汝ら、不浄な血と死骸を積んで、寺社奉行への申しわけ何とするか。それはともあれ、仏地への畏れ、また第一足場が悪い。まず騒がずにおいでなさい。山を下るまでご同道申しあげよう" ], [ "――弦之丞様と御一緒に、どこにおいででございました", "ここで待ちあわすという約束なので、宵から上の森の中に、お前さんの跫音を待っていました", "あ、そのうちにこんな手違い?", "源次が捕まったのも知ってはいたが、お前さんが来てからの思案と、森の蔭で心配しながら、息を殺しておりましたのさ" ], [ "ここにいては海部の捕手が、また押し返してくるにきまっているから、お綱さんは、源次に道案内をさせて、ここの裏山を抜けて、赤河内へお逃げなさい。あっしは、捕手に追われて行った弦之丞様の安否を見届けて行きます", "ご親切だけれど、それに及ばない。弦之丞様は、わざと捕手を釣りこんで、麓のほうへ駆けだすから、後で三人はここから先に、土佐街道の寒葉へ出て、そこで待ちあわしていてくれろとおっしゃったのだから" ], [ "剣山は?", "まだです" ], [ "えっ、剣山?", "あれが剣山です。次郎笈と矢神丸の間から、肩を張りだしている山がそうです" ], [ "弦之丞様、まだ夜明けには間がありましょうか", "そちは少しも寝ないようだが", "なんとなく気が冴えて", "それはいけない", "でも、ゆうべあの森で、だいぶよく眠りましたから" ], [ "むごい殺し方をするよりは、ただひと矢にと思ったのだが、一の矢、襟元をかすめて合歓の木の幹へ刺さってしまった", "では、世阿弥のやつ、覚りましたな", "ふいと姿を隠しおった。しかし、逃げられる場所ではないから安心じゃ", "殺害しに来たのを知ったとなると、かなわぬまでも、さだめしジタバタするでしょう", "なぶり殺しもぜひがない", "衰えきった老いぼれ、大したことはあるまい。じゃ一刻も早く殺してやるほうが、せめて殺生の罪も軽かろう。おい、天堂" ], [ "どこから柵を超えるんだ?", "もっと上だ、この辺は一帯に柵と激流が一緒になっているから、とても乗り超えてはゆかれない。もう少し上へ登ると、山の腹へかけて流れに添っていない所がある" ], [ "そちらにいるのは、御城内のお公卿様、わっしは、徳島御奉行の下廻り、釘抜きの眼八という者でございます", "オ、手先の眼八か" ], [ "ナニ、おらんと?", "ウーム、見えない", "さてはほかへ隠れおったな", "隠れたって、間者牢の柵、あれより外へは出られねえものを", "こんな中に生きていても、やはり生命は惜しいものとみえる。出よう、外へ" ], [ "どこぞ横穴へでもへばりついているようなことはあるまいな", "いや、そんな隠れ場所はねえようだが……" ], [ "世阿弥! てめえはどうしておれの氏素姓を知っているのか", "知っておるとも、知っているわけがあるのだ! 孫兵衛、お前もよく思いだしてみるがいい", "思いだせ……ウーム、不思議だなあ……何しろそちの面がまるで見えない", "もう一昔も以前のことだから、こっちの顔が見えたにしろ、或いは思いだされまい。わしも、わしを殺しに来た人間の前で、そんなことを思い浮かぶ筈はなかったが、フトお前の頭巾を見て思いだされた、その、じゅうや頭巾を見て", "な……なンだって……" ], [ "お前がおれを殺しに来る……まさか川島にいたあの孫兵衛が、わしを殺しに来ようとは……、ウウム面白い、冷やかに生死を超えて人の世の流転を観じれば、おれがお前に殺されるのも面白い", "とすると、てめえはこの山牢へ捕まってくる前に、川島の村にも忍んでいたことがあるんだな", "川島の郷はおろか、阿波の要所、探り廻らぬところはない。まだ誰に話したこともないが、徳島城の殿中にまで、わしの足跡が印してある。そして、一番永く身を隠していた家が、孫兵衛、お前とお前の母親とがふたり暮らしで棲んでいた川島の丘のお前の屋敷だ", "えっ! お、おれの元の屋敷にいたッて?", "しかし、そうはいっても、隠密の甲賀世阿弥を、みつめていたでは、いつまで、考えだされる筈がない。十一年前、わしは阿波へ入り込むと同時に、すぐに畳屋に化けていたよ、紺の股引にお城半纏を着て、畳針のおかげで御普請を幸いに、本丸にまで入り込んだものじゃ。そして、いたる所を畳屋の職人で歩いた末に、川島の郷で、元のお前の屋敷の畳代えにも雇われて行った" ], [ "そして、玄関、女中部屋、仏間だな。話はその仏間から起こってくる。そこの古いお厨子は青漆塗りで玉虫貝の研ぎ出しであったかと思う、その厨子の前へ、朝に夕に眉目のいやしくない老婆が、合掌する、不思議はない、御先祖を拝むのだ。ところがそこから不思議が生れた、わしが、畳代えの手をかけた日に、敷きつめの工合をなおす響きから、お厨子のそばの柱がポンと口を開いた。ちょうど、平掌が楽に入るくらい、切り嵌めになっている埋木がとれて落ちたのだ", "ウーム、分った", "分ったろう", "じゃてめえは、それが縁になって、半年ほど下男になっていたあの六蔵か", "そうだ、お前の母親は、それからぜひ屋敷にいてくれという、わしも都合のいいことだ、隠密甲賀世阿弥は当分下男ということに早変りした。するとまもなくお前の母者人が重病にかかった。うすうす事情を眺めていると、その当時、関屋孫兵衛というひとり息子、博奕は打つ、女色にはふける、手のつけられない放埒に、それが病のもとらしかった" ], [ "そうか、さてはそこだな", "オイ、待て、入ってくるな", "なぜ", "怖ろしく狭そうだ。それより、ここはおれ一人でいいから、ほかを探してくれ、いなかったらすぐに出てゆく", "ウム、じゃ入念に頼むぞ", "ぬかるものか! 周馬と三位卿は?", "血眼でそこらをかき分けている" ], [ "世間の者は、不審とも気づかなかったろうが、わしには読めた。なみの下男なら知らぬこと、かりにも大内府直遣の隠密、しかも棲み込んでいる家の中の出来事だ。その夜以来、孫兵衛、いつのまにかお前のその十夜頭巾が脱れないものになっていたな", "おう、ではあの時、使いに出て行った後のことを?", "いかにも、残らず見届けていた。お前の母が危篤というと、すぐに七人の肉親ばかりが集まった。そこは例の厨子のある仏間、出入りに錠をおろしあたりを見張り、そして、静かにお前の母の枕元をとり巻いた。……と、あの柱だな。切り嵌めにして妙なものを埋め込んであるあの柱だ。それより前に、わしが畳を敷き代えた日に、埋木の口が落ちた途端には、何か、燦然としたものを見たが、お前の母親が茶の間から飛んできて、妙にあわてて隠したものだ。その柱へ、臨終にのぞんでいるお前の病母は、枕へ頭をのせたまま、弱い眸を向けたようだ。そうして、あれを……という意味を見せると、寂としていた七人の中から、ひとりが立ってうやうやしく埋木をはずし……", "ウーム……" ], [ "この春、俵一八郎が殺られているから、わしにもやがてやってくるだろうと思っていたところ、観念はしている。だがの、孫兵衛、もう少し話してもいいじゃないか", "つまらねえ", "いや、愉悦だ、わしは話したい", "おれはてめえを殺そうとしているのだ。殺されるこの孫兵衛と話をするのが、愉悦だというばかはあるめえ" ], [ "――臨終の間際に、あれをと、お前の母親が、柱の隠し穴から取りださせたものを、細い蝋細工みたいな手にふるえながら持った。白蛇の喉をおさえるようにつかんでいた。そうして、しばらく口のうちで、経文のようなことを唱えていた", "で、世阿弥、それをてめえは、いったいどこで見ていたのだ", "――使いに出ると見せかけて、わしは天井裏に潜んでいた、甲賀流の忍法、塵も落しはしない筈だ。そこで息を殺していると、病人の指の間に小蛇の首みたいな形のものが、弱い灯明にもさんらんとしている。と七人の肉親の者たち、みんなシーンと後ずさりをし、顔を上げる者はなかった。ああいう時には原士という者も、みな怖ろしく森厳だ、儀礼みだれず古武士のよう、ことにその晩の七人は、川島郷の原士の中でも、また特別な密盟組らしい、切ッても切れない因縁の仲間だ", "やめろ、どこまで聞いてもくだらねえ、もうそんな思い出話なんざア聞きたくもない", "わしにも、少し謎が残っている、まあ今しばらく聞くがいい", "止めろというのに、くどい奴だ! サ、殺しにかかるぞ", "耳に飽きたらその時に、黙って、突くとも斬るともするがよい。世阿弥はここにかがまったきり、とても、逃げる体力はないのだから。――でお前の母親だ、その時、絶え絶えな息づかいで、お前に涙ぐましい意見をいったな、後生だと、わが子に手を合せて、改心を迫ったな。だのに孫兵衛、そちは邪悪の権化のように、一生悪事はやめられぬと答えた", "当りめえだ、死んでゆくお袋に嘘がいえるか", "それはいい、悪党の率直もいいが" ], [ "ええ、果てしがねえ! ぐずぐずしちゃいられねえんだ、片づけるから覚悟をしろ", "待て、もう一言", "ちッ、未練を吐かすな", "隠密根性といおうか、ここで、最期に一目見せて貰いたいものがある。わしも甲賀世阿弥だ、なんでこの期に見苦しい死にざまを望むものか。実をいうと、わしはその晩の有様を覗いた後から、お前のかぶり初めた十夜頭巾の下に、おそろしい興味と執着を持った、隠密の執着だ。得心のゆくまで見届けなければ気がすまぬ。しかも、頭巾にくるまれたお前の秘密は、やはり一つの阿波の秘密だ。江戸城へはいい土産、それをつかんだなら阿波から足を抜こうと、一念に、お前の頭巾の中を狙っていた。と、お前は放埒に荒んだ揚句、阿波を出奔して行方をくらまし、わしは、原士の長に見破られて、とうとう、この剣山へ捕われの身となってしまった。よくよくの因縁だ。そのお前が今日はわしの痩せ首を斬りにきた。で、古いことを思いだしたのじゃ……。しかし今、死の間際に、頼んであの時の秘密を見せて貰ったところで、何の役にも立ちはしないが、わしが捕われの原因となった物だけに、山牢へきた後も、自分の眼が誤っていたか正しかったか、始終気になっていたところ、人にはわからぬ隠密煩悩、死際の欲望に、ありありと、手にのせて見て死にたい。孫兵衛、わしのいおうとする中心はここだ、ひと目でいい、見せてくれ", "な、何をだ?", "その頭巾の下に隠されているものを", "ばかなことを吐かせッ", "嫌か", "当たりめえだ!", "じゃあ、話はそれまでのこと。殺るか、いよいよ", "おウ、催促がなくっても殺してやる" ], [ "お十夜ッ、早く手を貸せ、一大事だ! 三位卿があぶない、周馬もッ", "やッ、ど、どうしたって⁉", "助剣しろ、早く! 法月弦之丞とお綱が来たッ――、法月ッ――うう……ム" ], [ "じたばたするなッ", "むむむッ、一刻ちがいッ……" ], [ "お綱ッ", "あい" ], [ "ここはかまわぬ、山牢の安否を!", "あい", "早くゆけ! 世阿弥殿と名乗りをしてこい" ], [ "孫兵衛だね!", "急いだところでムダだろう、甲賀世阿弥はたった今おれが殺してきたばかりだ。サ、次にはてめえの番", "えーッ……じゃあ……" ], [ "お……", "分りますか! 分りますか", "…………", "お父さんッ", "…………" ], [ "あなたの子のお綱です、江戸表から……あ、逢いにきました", "ウ……ム", "お千絵さんも、私のように、無事に向うで成人しております。お分りになりますか、わ、わたしの顔が……わたしの……" ], [ "え", "江戸へ", "ア……御遺書?", "弦之丞の手へな", "わかりました", "と……", "ハイ" ], [ "折があったら……関屋孫兵衛の", "オ、下手人、きっと、仇を討たずにはおきません", "いや……" ], [ "あっ、お父さん", "…………" ], [ "つまずくなよ、またここにも一人斬られている", "は。明りを" ], [ "どうも十手を持った者で、終りのよかったのはすくないようだな", "ああ、また斬られています" ], [ "だいぶ来たな、ウム", "倶利伽羅坂でございます", "ちょっとくたびれたよ。やはり、年は年だな", "吾々でさえ、この通りな汗ですから", "おいよ", "はい", "ご苦労だが後ろへ廻ってくれ", "はっ", "松明はわしが持ってやる。腰を押せ、腰を" ], [ "おう、この上だな、間者牢は", "さようで" ], [ "ここはちょうど、あの山の背にあたっています", "どこかで水音が高くするな", "しばらくゆくと流れがあり、それに沿って十町あまり登りつめます。するとやがて間者牢の柵が見えるはずで" ], [ "――ご苦労だった、これから先はひとりでよろしい、お前たちは帰ってくれ", "しかし、もう少々先まで", "懸念には及ばんよ", "危ぶむわけではございませんが、お差しつかえなければ、せめて、弦之丞の姿を見つけるまでも", "いや、かえって邪魔だよ" ], [ "なあお十夜", "ウム?", "深夜しかもこの深岳だ、弦之丞のやつは山にこもって、血に狂したやぶれかぶれ、人と見たら盲目に斬りつけるだろう。とても、吾々にもあんな勇気はないよ", "そうさ、困った老人だて……" ], [ "なにをしているんだ、そんな所で、先のやつは下ってしまったぜ", "また、ここにも一ツ、死骸を見つけたのだ", "ほうッておきねえ、どうせあした、麓のやつが片づけるだろう", "だが……待てよ、少し……" ], [ "……あっ、天堂だ、やっぱり天堂一角だぞ、この死骸は", "そんな所で絶息していたか", "オオ、来てみたまえ" ], [ "この断崖から落ちたのだな……", "高いな" ], [ "じゃ、合図があった時、傷手ながら飛びおりて、麓へ下ろうと思ったのだろう", "いや、自分で、こんな所から跳ぶはずはねえ。間者牢の山つづきだから、日が暮れて、うっかり辷り落ちたにちがいない。……重いだろう、周馬", "足がつかえて困る" ], [ "そこもとはいずれの人か", "川島村、ほか七郷の原士の長、高木龍耳軒と申すものじゃ", "原士の長? ……ウム、して、拙者に話があると申したが、何の用でここへまいった", "問うまでもない!" ], [ "老人、拙者に話といったのは、その儀か", "いや、以上は要旨だ、今申したのは宣言だ。その前に、一言いって聞かすことがある", "オオ、聞こう", "ここまで登ってくる途中でも、犠牲になった幾人もの斬口をみたが、汝、あたら天禀の才腕をもって、時勢の反抗児となり、幕府の走狗になって、無為に終るのはつまらんではないか", "武士の心事、山家のものにはわかるまい", "ふウム……小賢しい。――王道を暗うし、民人に苛政をしき、徳川門葉のおごりのほか何ものも知らぬ幕府の隠密となって、その小さなほこりをば、おぬし、俯仰天地にはじぬ心事とするか", "だまれ" ], [ "そちなどに、答える限りでない", "逃げを張るな、弦之丞!", "なにッ?", "なんじ、燈火の恩を知って、太陽の恩を知らぬはずはあるまい", "尊王の美しき仮面をかぶるな。禁門の御衰微を売りものにして、身を肥やそうとする曲者の口癖", "たとえ、仮面でもいい、偽善でもいい", "恥じろ、その醜陋な自分の本心を", "皮と肉とをはいでは生きられない人間だ。どこまでこね返しても、表裏のない人間と世の中はつくれない。要は、今の混沌たる暗闇政道をただして、まことの天日を仰ぎたい。それは、万人の要望で、正しい声だ", "いや、乱をのぞむ、戦賊の鳴り物、山家そだちが、都へのし出ようとする方便に過ぎない", "あれは木曾義仲、時代がちがう。ばかげているぞ、よく胸に手を当てて考えてみろ、幕府が何ものだ! あれは王廷の番頭で、番頭でありながら、主家をないがしろにし、民税をくすね、巧妙な組織のもとに、十余代二百幾年、ていよく栄華をぬすんできた悪の府ではないか。――その妖雲にわずらわされて、月顔はれたまわぬは主上である", "では訊ねるが、その徳川が仆れたなら何が代る?", "王政がかわる", "権をとって廟に立つものが、第二の幕府をつくりはせぬか" ], [ "いや、いったん王道の赫たる御政道がたてば、そういう虫ケラどもが業をする日蔭はない", "迂遠でござる、お考えがちがう", "ともあれ" ], [ "――法月弦之丞は学徒ではござらぬ。また憂国の士でもござらん。弱い人間の微情にひかされ、武士という形づけられた意気地に押されて、ここに立った一個の放浪者――、世潮を口にする資格はない", "では、その情といい、意地というのは?", "恋もある、泣かぬ涙もある。凡人弦之丞、愚痴はてんめんでござる。話すのも聞くのはわずらわしかろう。――意地といえば、二百年来、江戸の禄を食んだ家に生まれた江戸の武士、このきずなをどうしよう! いや、それはもう、清濁の時流を超え、世潮の向背をも超えてどうにもならない性格にまでなっている", "ウーム……では、戦国に戻って天下は割れる、紛乱する", "割れるでしょう、禁門方、徳川方", "いったん、泥と血とがこね返って、新しい世が立てなおる、王政は古にかえる", "しかし、易々とは渡しもせず、うけ取れもせまい", "なんの、大したことがあるものか", "その偉業が成る前には、蜂須賀家ぐらいの大名、三家や四家は、狼火がわりにケシ飛ぶであろう" ], [ "……あれは?", "これに持参いたしました" ], [ "間道からお帰りになりますか", "いや、いや、昨夜の道から", "では、こちらのほうを下ります", "おい、次郎よ", "はい", "お前だけは、間道から帰らなければいかん", "あ、そうでした、では……" ] ]
底本:「鳴門秘帖(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年10月11日第1刷発行    2009(平成21)年2月2日第21刷発行 ※副題は底本では、「剣山《つるぎさん》の巻」となっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2013年2月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052407", "作品名": "鳴門秘帖", "作品名読み": "なるとひちょう", "ソート用読み": "なるとひちよう", "副題": "05 剣山の巻", "副題読み": "05 つるぎさんのまき", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-04-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52407.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11 00:00:00", "没年月日": "1962-09-07 00:00:00", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鳴門秘帖(三)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫4、講談社", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年9月11日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月2日第21刷", "校正に使用した版1": "2011(平成23)年6月1日第22刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "トレンドイースト", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52407_ruby_50144.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-02-04T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52407_50145.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-02-04T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "そんな気もちになっていられませぬ", "なぜでございますか。殿様の仰せつけ、お気がねはいりませぬのに", "でも、誰ひとりとして、私のたずねることに、はっきり返辞をしてくれたことがない", "それは、お千絵様、あなたのお体を思うからでございます", "……じゃあ私は……といっても、また教えてくれないかも知れぬが、どうして、この京都へくるようになったのでしょう?", "別に深い意味でございませぬ。あなた様のお体を預かっている松平左京之介様が、京都の所司代にお更役になったので、それにつれて私たちまで、江戸のお下邸からこちらへ移ってまいりました", "そして、よく私を慰めて下さった、常木鴻山様は?", "御用があって、大阪表へお越しになったとやら? ……それもよくは存じませぬが", "じゃ、そなた、万吉という人を知りませぬか", "存じませぬ", "お綱という人の噂は?", "聞いたこともございませぬ", "では……法月弦之丞という方の御様子を、どこかで耳にしたことはないかえ?" ], [ "あの横顔……な、どうだ", "ウウム、なるほど", "左京之介様には御息女がなかった。御寵愛の女なら、まさかここへはおくまい。誰だろう、あの女性は?", "たいそう沈んでいる、憂わしげな姿だ。しかし、いわれてみると、姿まであの書付と同じようではないか" ], [ "ウーム、似ている", "生うつしだ!" ], [ "南町奉行付の与力、中西弥惣兵衛でございます", "私めは、評定所与力、熊谷六次郎と申すものにござります" ], [ "なにが、見当たらぬのじゃ", "はい、只今お帰りになった、江戸表のお役人ふたりが、振分を持ってお帰りでございましたが、その下へ、取り急いで四ツに折った紙片を忘れて行ったと、また戻ってみえたのでござります", "ふム? ……しかし紙片とは何なのか。あまり漠然ではないか", "よくお話になりませぬが、なんでも、これから京都町奉行所の方とお打合せをするための人相書だそうでございます" ], [ "もし、お千絵殿。弦之丞殿から、頼まれてまいったものだが……", "えっ、弦之丞様に?" ], [ "お千絵どの", "はい" ], [ "黙ってサッサと歩きねえよ。そしたら、やがてお前の好きなお方と逢わせてやる", "露にしめって、草履の緒が、少しほぐれかけてまいりましたので……", "じゃ、裸足になりねえな", "山科の僧院とやらまでは、これからまだ、たんと道のりがございましょうか", "そうさな" ], [ "あの山の向う側だと思えばいい", "そこの普化宗の僧院にまいれば、あの……弦之丞様が私を待っておいで遊ばすのでございますね?", "弦之丞?" ], [ "ナニ、僧院へ行けば弦之丞がいるかって? 誰がそんなことをいったい? 弦之丞なんてやつが今頃そこらにいてたまるものか", "ええッ" ], [ "さっき、弦之丞様に頼まれて来たといやったのは、この身を、誘いだす虚言であったのか", "知れている!", "ア、あれッ――", "おッと、お姫様、手を折りますぜ、今になって逃げようたッて、遅蒔だ", "おのれ、無体なことをしやると……ちッ……離して! 離してッ", "何も無体はしやしねえ。弦之丞には逢わせかねるが、江戸表以来何人よりは一番そなたに執心だった、人情深い男に逢わせてやろうと思って、この間から、しきりに心を砕いていたんだ", "……シ、知らぬッ、離せ" ], [ "この先はもう岡崎の田圃だ。人通りといえば南禅寺の坊さんか、家といえばかまぼこ小屋があるばかり。救いを呼んだところでムダだからよしたがいい。それよりは、何のために、俺がお前を手招きしたか、そのほうがもっと知りたくはないか。エ、お千絵殿", "……頼みじゃ、後生じゃ、どうぞ、私をここで帰して下さいませ", "勝手なことをいうもんじゃない。自分からついてきたんじゃねえか。まあ俺の話を聞け、その上、逃げようとも人を呼ぶとも勝手の思案にしろ" ], [ "これ、駕屋", "へい", "ちょッと待て、駕をおろせ" ], [ "――何か今、息杖の先で、刀の鞘のようなものを蹴りはせぬか", "さあ? ……", "でなければ、短刀、そんな物を", "何しろ、千本屋敷まで急げとおっしゃったんで、夢中で駆けておりましたので", "ウム、気がつかなかったか。では、その提灯を揚げてみろ。イヤ、この辺へ……", "へい" ], [ "龍耳軒様", "ウム", "どうも私には分りませぬ", "なにが?", "剣山のことでございます", "あの時のわしの処置を知っているのはお前だけだ。面白かろう、徳島の城下へ行って評判するか", "ど、どういたしまして、決して、おくびにも洩らしは致しません", "そう秘密にせんでもよろしい。いずれ、今にばれてくる。殺さぬものを殺したといったところで、その人間がいつまで世間を歩かずにはいないからな", "で、なおのこと、次郎めには、あなた様の心のうちが解せませんので", "よいではないか、分らなければ分らぬなりで", "ところが、分らぬこと程、よけいに聞いてみたいので困ります", "貴様、やはり秘密をしゃべる性だな", "しゃべらぬつもりでございますが、やはりそんな性に見えましょうか", "冗談じゃ。お前は口が固い", "では、お話し下さいませ", "またか", "うるさい奴でございます", "考えてみろよ。分るじゃないか", "ずいぶん考えておりますが", "法月弦之丞という男、どうも、わしの気に入ったのさ。好きな人間は殺せまいが、おぬしにしたところでな", "ははあ、それだけでございますか", "理由をつければ幾らもある。第一、弦之丞やお綱を殺さぬことは、蜂須賀家のおんため、後にいたっていいことなのだ", "なぜでございましょう", "幕府の怒りを少なくする", "でも公然と、討幕の兵をさえ挙げますのに", "ところが、それはものにならない。いざとなる間際の日に、必ず、堂上二十七家のうちから、グラつきだす者が出て、禁門お味方と称する西国大名も、素早く旗色を引っこめる。まずそこいらがオチで、後はまた、幾十年かの歳月を待たなければ、ほんとの尊王攘幕の声はあがるまい", "とすると、お家はどうなりましょう", "一番損な立場になる。阿波守様のあの御気質がそれを招いた。上手にという技巧をなさらないお方だからな", "ではなおさら、弦之丞を無事に江戸へ帰すのは、お家の不利でございませぬか", "あれは江戸の武士であっても徳川家の味方ではない。大義の正しいことを心得ておる人物だ。むずかしくいえば、思想的には尊王家で、身は江戸方に籍を置く人間なのだ。したがって、かれの肉親や周囲のきずなは、みな幕府の人につながっている。かれの沈鬱はそこにある。また、わしの見解があやまったにしろ、ひとりや二人の人物を助けたとて、大勢の上にどれほどな違いを来たすものじゃない。ことに、弦之丞が詳密な報告を江戸にせぬまでも、もう御当家や堂上のもくろみは、うすうす徳川家の気どるところとなっておる。その証拠には京都の所司代が役替えになった。辣腕のきこえある松平左京之介が、二条城へ入れ代ったのは、ひッ腰の弱い公卿たちにとって、おそろしい脅威であろう。まだいけない、機はほんとうに熟してはこない。所詮、阿波守様のお考えはものにはなるまい。そうしてみれば、弦之丞を助けてやったことは、個人として武士道的、また蜂須賀家のおためとしても、決して悪い結果にはならん" ], [ "踊りたいな。踊りたいよ、拙者も", "踊ったらいいじゃねえか、遠慮はいらない", "だが、踊れない……", "でたらめでいいのさ、あの中へ飛びこめば、ひとりでに踊れてくる", "手振のことじゃない。あの気持になりきれないというのだ。お十夜、お前、踊ってみる気になれるか" ], [ "踊れまい", "ばかばかしいのが先に立って", "実はそこに、自分を裸体にさせない気持が潜んでいるからさ。見たまえ、夢中になって踊っている人間は皆ムキ出しの人間だ――" ], [ "遠い昔は、踊りたいと思えば、いつでも踊るのが人間の当り前な動作で、それを、賢そうな顔をして、冷視している人間なぞはいなかったろうと思うよ", "そうかな?", "そうとも、本能だもの", "くだらねえ講釈、よそうぜ。――踊る阿呆に踊らぬ阿呆、どうせ阿呆なら踊らにゃ損じゃ――って歌っていやがる。なんだか、あてこすられているようだ", "真理だ、皮肉だ", "そんなに感服するなら踊れよ、周馬", "貴公もおれも踊れない人間だ。ああして、何もかも忘れ果てて踊るべく、あまりに屈託があり過ぎる", "おれや今のところ、屈託も何もねえつもりだが", "嘘をつけ、お十夜。周馬をそんなに甘くみるな", "いやにからんだ言い方をする!", "そうさ、そっちで水臭い真似をするから、拙者にしたって面白くない", "何をひがんでいるんだ。踊りを見に来て、そんなまずい面をして歩く奴があるもんか。オイ周馬、今夜はおれが奢ろうぜ。松源か、万辰か、淀屋か", "どこへでも案内してくれ、少し、飲みながら談判がある", "おそろしい権柄だな、怒るなよ、周馬。死んだ天堂が、草葉の蔭で笑っているぜ――。またあいつが持前を出してジブクッているって――、だが、おれは気の練れた悪玉だ、いくらお前が、駄々をこねたって、天堂みたいに煙管のガン首をほうりもしねえし、その代りにまた、お前のいうことをすなおにきく人間でもねえんだ。まア、つまらねえ不平を持たずに、おれの奢る酒でも飲んで、気のくさくさを取って話すなら話してやろう" ], [ "どうも拙者には一ツよくない性格がある。物を明らさまにいえないことだ", "いったいお前は陰険だ。同じ悪党なら悪党らしく、おれのように図太くなれ", "まったく拙者は陰険だ。計画的な悪事はやりとげてみせるが、貴公のように、線の太い押しのある真似はできない", "ばかに今夜は下手に出るぜ", "いや、これからは、永く貴公の下風に立つよ。どうか弟だと思って、足らないところは遠慮なく叱ってくれ。けれど、お十夜……" ], [ "――貴公を兄と慕っているだけに、あれを秘密にしているのは、どう考えても水臭くっていけない。ふたりの友情にヒビの入る原因というものだ", "何を?", "剣山でよ" ], [ "天堂一角の亡骸を見つけた時、かれの死首がくわえていた一ツの秘冊を、貴公、すばやく懐中へ隠したじゃあないか。その後、どうして拙者に実を明さない", "何も、秘し隠しにしやしねえ", "じゃ、見せてくれてもいいではないか", "それ程、大したものじゃねえというのに、お前もばかにアレを気にしているな" ], [ "――見たところ、血で書いたような文字が、小法帖の鳴門水図のあきへべた一面に書いてあったが、てんで、読みようのない文言、何が何の意味やら分らねえんだ", "なるほど、それはそうあるはず。隠密組には、甲賀派、伊賀派、おのおの別な暗語、隠語ができている。世阿弥のものも、おそらくその隠文で綴ってあるに違いない", "そうか、そりゃ俺も初めて知った", "だから物は何事も打明けてみるものだよ。して、その一帖は、今も貴公がそこに持っているのか", "なアに。三位卿をへて太守のお手元へ差し出してしまった" ], [ "そんなにじらさずに、拙者に見せてくれてもいいじゃあないか", "いや、めったにお前には見せられない。なぜといえば、周馬! おめえはまだ江戸と気脈を通じている! ……" ], [ "……てめえは口先じゃ、御当家へ推挙してくれの、俺を兄と思っているのと、うめえことをいっているが、ど、どうして! まだなかなか毛色の分らねえ獣だ", "……それで?", "と――おれは睨んでいるのさ!", "ふウン……", "この間から、俺が黙って様子を見ていれば、京都の山科在へ、二、三度、妙な手紙を出したらしい", "出している", "内通していやがるんだろう! 所司代へ出した密書だろうッ" ], [ "し、白をきるなッ……周馬", "酌ごうか、もうひとつ", "くッ、く……", "どうしたえ? おい、お十夜孫兵衛殿", "ううウ……", "しっかりしたまえ" ], [ "お退りなさい", "お退りなさい!" ], [ "殿様は、ただならぬお怒りですぞ", "お目どおりはならんという御諚!", "お沙汰をお待ちなさい!" ], [ "わしは原士の長、郷高取謁見格、お前たちが退れの、下におれのというのは僭越じゃ。殿様にもう一言いわねばならぬことがある、離せ", "いや、上意です", "かまわん! 御立腹をおそれて諫言はできぬ、御当家のために、わしはあえて非礼をするのだ、殿様がまた、病床に臥すまでやッつけてやる", "なんとおっしゃろうが、お目通りはかないませぬ。老人! あなたも少々気がたかぶっておいでられる", "ばかな", "とにかく、お表の間へ退って、ご休息をなさるがよろしい" ], [ "どこへゆく? 孫兵衛", "あ、三位卿。あなたはどこへ?", "孫兵衛! 実にしまったことが起こった" ], [ "えっ、何か?", "されば! 味方の内に思わぬ異端者があって、大事はついにくつがえされたぞ", "周馬でござろう! 裏切者は", "イや、原士の長だ", "えッ、龍耳老人?", "法月弦之丞を討ったといつわり実は剣山から逃がしおった! あの、お綱という女までも" ], [ "そして、どういうことになったんで", "なんといっても、きゃつは原士を自由に動かす権力家、殿のお怒りもなみではないが、目下の場合に内部から騒乱が起こってはならぬと、ひとまず川島へ蟄居を命じ、それより先に、弦之丞めをという手配になった。そこで、わしはこれから岡崎の船関へいそごうと思う", "ウウム、なんてえ凶い晩だろう。おまけに、まだこっちにも大変なことが起こっていますぜ", "なに、この上にも、一大事があるッ?", "周馬のやつが寝返りをうって、この孫兵衛の手もとから、世阿弥が、書き残した秘帖をさらって逃げたんで", "秘帖? ……", "法帖形の半面に、鳴門水陣の図がひいてあって、そこへ", "あ! それは剣山で、わしがいつか落したものだ", "その余白へいちめんの細字、血汐で書いた隠密の暗号文字。そいつをさらって周馬のやつ、たッた今、風を食らって逃げだしやがった", "オオ、それも江戸へやっては大変だ" ], [ "お綱ッ、拙者につかまれ!", "はい", "手を、手を" ], [ "――三位卿と孫兵衛であるか!", "いい所であった" ], [ "巻かれこんだぞ! 悪い渦に!", "鈎をッ", "アっ、岩だ、底を噛まれた", "なに、大丈夫だ、鈎を早くッ", "おっと!" ], [ "おう", "この上へあがると、たしか、阿波守の潮観のお茶屋があるはずだ", "ウム", "事件は今夜だという気がするが、もし夜が明けたら、おれはそこへ潜っているから、帰らなくっても、心配してくれるな", "承知した、安心して探ってきねえ" ], [ "おれも若布採りに化けすまして、幾日でも鳴門の辺をウロついている", "ウム、若布採りは思いつきだ", "変ったことがあったら合図だぜ", "合点だ、忘れやしねえ" ], [ "早く来い", "おウ、今ゆく" ], [ "おお……", "そちか! ……", "や? ……お綱さんッ……" ], [ "――考えてみるがいい、お前は親も屋敷も身寄りもねえひとりぼっち、孤児だろう、宿なしだろう。――それを旅川が不憫がって、自分の妻に立て、駿河台の元の屋敷に住むように――いや、それよりもっと栄耀をさせてやろうというんじゃねえか。何をメソメソ泣くことがあるんだ", "嫌です……" ], [ "嫌だ?", "…………", "罰があたるぞ、冥利を知らねえと", "いやです……", "生意気な" ], [ "やっ、周馬め、秘帖をつかんで江戸へ", "ウム、そうなっては、弦之丞の立場があるまい", "ござりませぬとも!" ], [ "すぐに、早飛脚を立てて、この手紙のままを、万吉の家へ廻して急を知らせてやりとう存じます", "よかろう、さっそく、取り計らっておくように", "承知いたしました。では、一刻も早く" ], [ "は", "お千絵のほうは?", "――なんとも心がかり、拙者自身で、山科の伊太夫とかいう浪人の家へ出向いて見ることにいたします。いずれ、安否はまた途中から使いを立てまする" ], [ "――物乞いじゃないか、てめえは、ふざけた奴だ、顔を貸せの、喜平だのと", "すまなかった、実は……", "なにが実はだ、この野郎、少し抜作とみえるわえ、さあさあ向う河岸へ渡んな、向う河岸へ" ], [ "どうなさいましたえ? ……森様", "面目ない。実に、きまりが悪い", "お屋敷を出た後に、たいそうひどいご病気で難渋していらっしゃるというお噂は聞きましたが", "しかし、今夜は、きまりが悪いも面目ないもいっていられない急用で、山科から急いできたのだ。三位卿はいるか?", "先頃からお越しでございます", "……どう考えても、あの人には会えない", "なんぞ火急な御用でも?", "お家の興亡にかかわるほどの大事をお告げしに来たのだ、あの、天堂は", "剣山で御最期です", "えっ、一角が死んだ? フーム、そうか。孫兵衛はどうしているな?", "いらっしゃいまする", "じゃ、気の毒だが、ちょッとここまで顔を貸すように伝えてくれないか" ], [ "待たねえか、そこへゆく物乞い", "ヘエ、私のことですか" ], [ "そうよ、合力してやろうと思って、せっかく人が呼んでいるのに、なんですぐに待たねえんだ", "ありがとうぞんじます……ですが", "ですが、なんだ", "少し、先を急いでいますので" ], [ "よしねえ、今日は、急いだところでムダだろう", "? ……", "それよりは、怪我のねえところで、成行きを見ていねえ、悪いことはいわねえから" ], [ "おや、飴売り", "人形使いの飴屋さん" ], [ "やあ、旅川。ばかにちょうどよく出会ったな", "少しもちょうどいいことはない。最前から生あくびをかんで待ちくたびれているんだ", "実は、山科のほうは、昨日のうちに引き払って出たんだが、途中からつけてくる、うさんくせえ奴をまくために、思いのほか暇どってしまった", "そうか……がまず、何より心配なのはお千絵だが?", "お察し申すよ", "笑ってくれるな、真剣だ", "あの駕の中にいるから、ひと目覗いてきたらどうだ", "そういわれると、少しテレるな。しかし、あらかた得心している様子かな?", "どうして、これからウンといわせるには、まだなかなか骨が折れるふうだぜ", "江戸へ着くまでの間には、なんとか始末がつくだろう。オ……駕が来れば、もうこんな物をつけている必要はなかった" ], [ "気の狂った男! お前はなにをいっているんです", "狂ってはいない、真剣だ", "千絵には、何の意味やらいうことが分りませぬ", "おぬしは拙者の妻だぞということをいい聞かせているのじゃないか。もしお千絵殿、そなたがよく性分をご存じの旅川ですぞ、ムダな足掻きや愚痴はおよしなさい", "おだまり、千絵はまだ、そなたのような人非人を、良人とゆるした覚えはない", "ちッ、また優しさに狎れやがると、駿河台の穴蔵部屋で、ヒイヒイ叫んだような痛い目に会わしてくれるぞ。こういうふうにッ" ], [ "やりますぜ――峠の上りへ", "オオ、やってくれ" ], [ "お綱ッ。そちはお千絵どのを助けて、禅定寺の峠へしばらく姿を隠しておれ。早く行け、お千絵どのをつれてこの場を退け!", "お、それがいい" ], [ "後生です、ま、待って下さい! ……", "なに?" ], [ "支度をする間か", "いえ……ここしばらくの間……幾日かたてば、きっと、奉行所へ私から名乗って出ます", "だまれ、法は峻厳、枉ぐべからざるもの、さような自由は相成らん。縛につかぬとあらば、押しくるんで召し捕る分じゃ", "ああ! わたしは、もう心から生れ代ったお綱だと思っていたが……", "御法のさばきをうけぬうちは、汝の罪は滅していない、どこまでも兇状が追って廻るのじゃ", "でも今は、たとえ何とおっしゃっても、また、この上罪が重なろうとも、お縄をうける訳にはゆきません", "ぜひがない!" ], [ "お見のがし下さいまし、お慈悲! お願いでございます", "手抗いするかッ", "どうしても、あることの終りを見届けないうちには――" ], [ "私は天満の目明し万吉と申すものでござります――。しばらく、御猶予を願いとう存じます", "だまれ、そちは天満組の名をかざしてこの捕り物に故障をいおうとするか", "いえ、決してそういうわけではございませぬが、今ここでお綱がお手あてになりましては、ある一つの事件と、さる方々の上に、実に当惑する難儀がひそんでおるのでございます。で、どうか、今この場だけを御寛大に", "いや、うすうすそんな様子も察しているが、わしの役儀は町方与力だ。たとえ、事情や場合はどうあろうと、あくまで、法縄は公明に十手は正大にうごかなければならん" ], [ "では、天満組の目明し", "へい", "誓って、そちの手でお綱に縄をかけて、このほうへ渡すというか!" ], [ "そちが秘帖を持って駆けだした後を、湧井道太郎が追いかけて行ったが、別条はなかったか", "へい、道太郎にも逢いませぬし、秘帖もここに持っております", "それが案じられて拙者も近道を廻ってきたのじゃ。しかし、まだ油断はならぬぞ。わしの後からは原士をつれた孫兵衛と有村、また道太郎めもやがて追いついてくるに相違ない" ], [ "やっ?", "――道太郎じゃ! いつの間に", "卑怯なやつ" ], [ "やっ?", "あ、有村様ッ", "おおっ、三位卿が自刃された" ], [ "龍耳老人、あの方なら拙者も存じておる。してそちが今、吾々に願いがあるといったのは、どういうことであるな?", "ほかでもございませんが", "うむ、申してみい", "関屋孫兵衛の首をお貰い申したいのでございます。かれの首を持って、阿波へ立ち帰りたいと存じますので", "孫兵衛の首をくれろというのか", "役目を終りました証として、頭巾ぐるみ、川島郷へ持って帰りたいのでございます", "しかし、待て、一応は、かれの頭巾を検めてみねば" ], [ "もう徳島城の御陰謀も、幕府のほうへ知られました今日、ほかの、小さな秘密を固持する必要はございますまい。――といったところで、それはこのたびの事件とは、まったく縁のない、別のものでございますが", "おお、ではそちの手であれを解くか", "明らさまに申し上げましょう、しばらく、そこにお待ちを願います" ], [ "これは?", "これは龍耳老人へおくる弦之丞の寸志じゃ。帰国の上は、何もいわずに、孫兵衛の首級にそえて、お渡しいたしてくれい" ], [ "御厚意のほどはありがたく思いまするが、実は、自分の一個の存念で、このまま、江戸へは帰らぬ覚悟でござります", "えっ" ], [ "不平などはみじんござりませぬ。そう誤解して下されては困る。そのことは、とうから心にもっていた拙者の宿望です。――幸いにして、なかるべき筈の一命をたもち、父祖食禄をうけてきた幕府へも、いささか報恩の労をつくし得たことは、法月家の不肖児弦之丞としてできすぎた僥倖。なんで、それが誇り、なんで、望外な出世をのぞみましょうや。ただ、慾には、この微功をもって、お千絵殿の家名が立ち、また、ほかの方々にも何らかのお沙汰がありとすれば、拙者の本分、これ以上はないのでござる", "いや、それでは、お千絵殿をはじめ、他の者も、第一この鴻山にしても、自身の本望はとげたにしても寝ざめのよくない心地がする。ぜひ、貴殿もいちどは江戸へ御帰府あるようにおすすめいたす。いや、お願いする!" ], [ "弦之丞様、もうなんにも申しますまい。江戸へ帰ってくれともお頼みいたしません。ですけれど、たとえ旅から旅でお暮らしなさるにしても、お千絵様の身だけは永く見てあげて下さいね……ご、後生でございます。お綱があなたに最後のお願いは、たった、それひとつでございます。それさえかなえて下されば、わ、わたしは、自分があなたと暮らす身になったのと同じように、うれしいと思います! ……本望です! ……江戸の女の負け惜しみではございませぬ、心の底から、蔭にいても、おふたりのお幸せを祈っています", "…………", "返辞はどうなさいました。おっしゃって下さい、弦之丞様、承知したというひと言! それを聞いて、わたしはもう……行かなければならない所があるのです。そこへ、迎えが来ている体でございますから" ], [ "暗くっても怖くはない。お綱姉さんに会えるんだもの。ねエ、おばさん", "ほんとに、お綱姉さんはこの上にいるの?" ], [ "昨夜わざわざ万吉さんが、禅定寺で落ちあうからと、寮へ知らせてきたことだから、決して、嘘じゃないだろう、お綱さんは、きっとお前たちを待っていますよ", "うれしい!", "あたいの姉ちゃん! お綱姉ちゃん!" ], [ "いやだ、おさえちゃいやだッ", "助けてよう! 姉ちゃんがつれられてゆく", "お綱姉ちゃアん! ……", "離してッ、おさえちゃいやだ。おじさん、ばか! ばか! ばか!" ] ]
底本:「鳴門秘帖(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年10月11日第1刷発行    2009(平成21)年2月2日第21刷発行 ※副題は底本では、「鳴門《なると》の巻」となっています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2013年2月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052408", "作品名": "鳴門秘帖", "作品名読み": "なるとひちょう", "ソート用読み": "なるとひちよう", "副題": "06 鳴門の巻", "副題読み": "06 なるとのまき", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-04-22T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52408.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11 00:00:00", "没年月日": "1962-09-07 00:00:00", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鳴門秘帖(三)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫4、講談社", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年9月11日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月2日第21刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年2月2日第21刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "トレンドイースト", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52408_ruby_50380.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-02-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52408_50381.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-02-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "於丹、母上はどちらか", "いま、お昼寝を遊ばしていらっしゃいます", "そうか。……小袖、割羽織、脚絆など、旅用のもの、そこへ揃えてくれい", "お旅立ちでございますか", "ウむむ。……急にの、お国許まで", "幸右衛門をお連れ遊ばしますか。それとも、お供はやはり若党の佐平を" ], [ "――おらるるかの、於丹どのには", "おお、十兵衛様でございましたか。さ、どうぞ", "花も散ったが、お門辺は箒目立って、いつもおきれい。部屋も縁も、艶々と明るう、御主人が留守とも見えぬ。……いや、陰膳まで" ] ]
底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社    1977(昭和52)年4月1日第1刷発行 初出:「主婦之友」    1942(昭和17)年1月号 入力:川山隆 校正:雪森 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "通せ、景季を。――会ってやろう", "えっ……。では、お心を取直して", "そなたにも、また家臣たちにも、そう心配かけてはすむまい。……今は何事も忍の一字が護符よ。この九郎さえ忍びきればお許らの心も休まろう。――通せ、ここでよい。義経が仮病でないことも、景季の眼に見せてくりょう" ], [ "そうそう、先頃から、何度訪ね申しても、御病中とのみで、追い返されたが――時に、御容態はいかがでござりますな", "景季。おん身は、義経が会わぬのは、仮病ならんと、家人へ云われたそうなが、篤と、この灸の痕を見られよ" ], [ "早速ですが、かねて頼朝公から、貴方へ御内命のあった一儀、何故の御延引かと、お怒りでござる。一体、いつお討果しになるお心か、確と、その儀を伺いに参った。御返答を賜りたい", "新宮十郎行家どのを、討てとの、仰せつけのことであるか", "そうです", "行家どのは、兄頼朝にとっても、この義経にも、叔父御にあたるお人であろうが", "おことばまでもありません", "しかも、平家追討の折には、河内より兵を引っ提げられ、摂津では、軍船や粮米を奉行せられ、勲功もあるお人", "しかし、鎌倉殿には、忠誠でありません。頼朝公を甥と侮られ、根が、木曾殿の幕下にあったお方だけに", "理窟は待て。兄上には、すでに、佐々木定綱に命じて、行家どのを討てとおいいつけなされたそうだが、義経は、情において、叔父御を討つに忍びない。――そういう兵馬は義経の旗下にはない", "噂には、あなたが、行家殿を匿っておられるとも聞きますが", "知らぬ。あのお方とて、犬死はしとうあるまい。隠れるのは当り前じゃ", "では、鎌倉殿の仇を庇われて、御命に叛かるるお考えか", "たれが", "あなた様が", "ばかっ。――疾く、帰れっ" ], [ "天下の兵を敵とするも、怖ろしくはないが、肉親の兄へ引く弓はない。およそこの身ほど、骨肉に薄命な者があろうか。襁褓の中より父兄弟にわかれ、七ツの頃、母の手からもぎ去られ、ようやく、兄君とも会って、平家を討ったと思うも束の間、兄たる御方から兵をさし向けらるるとは", "そのお心が、どうして、鎌倉へは通じないものでしょうか。わたくしが兄君様から、弟の妻と、許されているものならば、身を捨てても、鎌倉へ下って、あなた様のお胸のほどを、お訴えいたしましょうものを……" ], [ "最期の日が近づいた。――静、そなただけは、確と、わしの心を見ておろうな", "仰せまでもございません" ], [ "九郎判官が、これに潜んでおろう", "存ぜぬ" ], [ "やっ……。女と老母のみではないか", "これは、判官どのの愛妾静どのと、その母御の禅師です" ], [ "静っ。――こらっ静っ。……義経はどこへ落ちた。申さぬと、先ず見せしめに、その老いぼれの首から斬り離すぞ", "知りません。……良人の行先は、何も聞いておりません", "うぬっ" ], [ "病気ではない。この容体は陣痛じゃ", "えっ。陣痛?", "ひどく冷えこんだため、早めた容子はあるが、はや八月は越えている", "さては、妊娠していたのか" ], [ "静というか", "……はい", "幾歳になった", "二十歳になりました", "二十歳……ほう" ], [ "わたくしの、好きな歌舞でよろしゅうございますか", "何なりと" ], [ "八幡の御宝前、しかも頼朝が前なるも憚らず、叛逆人の義経を、明らさまに、恋い慕って舞い歌うとは。――ゆるせぬ女、余を、余を、小馬鹿にした舞ではある!", "あなたの御不興は、お身勝手というものです" ], [ "何が身勝手か", "流人として、伊豆の配所においで遊ばした頃のことを考えてごらんなされませ。私は、静の歌を聞いて、女子はやはり女子よと、思わず眼がうるんで来ました。……私が、配所にあるあなた様をお慕いして、闇の夜、雨風の夜も、通うた頃の心を思い較べると、かの女子の今はさこそと察しやられます。このようなことに、席を蹴って、御不興のままお帰りなどなされたら、坂東武者に、あなたの鼎の軽重を問われましょうが" ], [ "和子は、どうなさいましたか。――お母様、わたしの和子は", "…………" ], [ "――げっ。では……では和子さまを", "武者たちが、海のほうへ、引っ攫うて行った。――鎌倉殿のおいいつけじゃと" ] ]
底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社    1977(昭和52)年4月1日第1刷発行 初出:「主婦之友」    1940(昭和15)年5月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:雪森 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056492", "作品名": "日本名婦伝", "作品名読み": "にほんめいふでん", "ソート用読み": "にほんめいふてん", "副題": "静御前", "副題読み": "しずかごぜん", "原題": "", "初出": "「主婦之友」昭和15年5月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2014-09-12T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card56492.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11 00:00:00", "没年月日": "1962-09-07 00:00:00", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "剣の四君子・日本名婦伝", "底本出版社名1": "吉川英治文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1977(昭和52)年4月1日", "入力に使用した版1": "1977(昭和52)年4月1日第1刷", "校正に使用した版1": "1977(昭和52)年4月1日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "雪森", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56492_ruby_54166.zip", "テキストファイル最終更新日": "2014-08-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56492_54205.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2014-08-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ええ", "それが、どうして遽に、わしと生涯を暮す気になったのか", "それはこうです。いつかあなた様が、中村のお母様のところへ上げるお手紙を、何かの品と一緒に、お忘れになって行ったでしょう。実は、妹がわたくしにそれを見せたので、あの中の御孝心なお文に心をうごかされたのです。……そればかりではありませんが、それから他ながら、あなたのお勤めぶりや、おはなしの端々にも、心をひかれるようになったのでございました" ], [ "寧子、そなたは、女子にめずらしい者じゃ、偉いものと、秀吉も今にして思う", "お戯れ遊ばしませ", "いや、真だ。足軽に毛のはえたくらいな身分であったあの頃のわしを――良人に選んだ眼は、処女頃の女子として、偉いといわねばなるまいな。――そのむかし、わしがまだ十八歳の頃、針売りなどして諸国をさまよい歩いていた艱苦の頃だ。庄内川の河原で、信長公の御馬前へ駈け伏したところ、そのまま召しつれて、草履取りにお使いくだされた御主君のお眼もだが――そなたは、御主君に次いで、この秀吉の人間を、見とおした偉い女子じゃ、賞めてつかわす", "そうお賞めいただくと、寧子は汗がながれます", "なぜか", "こんなにまで、あなたが御立身なさろうとは、寧子も思っておりませんでしたから", "あははは、それはそうかも知れぬ。この秀吉も、思っておらなかったからな", "では、あなたは、御自身どれくらいまで、御出世遊ばそうと、考えておいでになりましたか", "いや、わしはな、そう上を望んだことはない。草履取りをしておる時には、御主君のお草履をつかむ仕事を精いっぱいに勤め、士分になれば士分の仕事を精いっぱいに、一城の主となれば、一城の主を精いっぱいやりおるだけじゃ。――だから今も今を精いっぱいにやっておるに止る" ] ]
底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社    1977(昭和52)年4月1日第1刷発行 初出:「主婦之友」    1940(昭和15)年3月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:雪森 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056497", "作品名": "日本名婦伝", "作品名読み": "にほんめいふでん", "ソート用読み": "にほんめいふてん", "副題": "太閤夫人", "副題読み": "たいこうふじん", "原題": "", "初出": "「主婦之友」昭和15年3月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2014-09-15T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card56497.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11 00:00:00", "没年月日": "1962-09-07 00:00:00", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "剣の四君子・日本名婦伝", "底本出版社名1": "吉川英治文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1977(昭和52)年4月1日", "入力に使用した版1": "1977(昭和52)年4月1日第1刷", "校正に使用した版1": "1977(昭和52)年4月1日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "雪森", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56497_ruby_54171.zip", "テキストファイル最終更新日": "2014-08-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56497_54210.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2014-08-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "お宅様も、お片づきですか", "はい。まるで旅立ちのように" ], [ "これからは、お城中が一家族ですね", "たいへんな大世帯ですこと。どうぞよろしゅうお指図くださいませ" ], [ "承知しました", "妊娠中であるとか、乳のみ児を抱えているとか、また、老年の婦人には、特に注意してやってくれい", "はっ。……自分も充分注意しますが、婦人たちの統率はやはり婦人がよいかと思われます。閣下の奥様ともよく打合せてやることにいたしましょう" ], [ "――だが、児玉少佐、閣下の奥様はどこへ来ておられるのか。お姿が見えんじゃないか", "えっ、この中に、お在でがないって?", "ウむ。先刻からそれとなく見ておるんじゃが、何処にもおられん" ], [ "烏丸はどうしたか", "賊兵に発見されて、追い廻されましたが、貴様だけ逃げろ逃げろと、彼が叫ぶので、報告も大事と、先へ走って来ました", "では、捕虜になったか", "いえ、敏捷な烏丸のことですから、逃げきったろうとは思いますが、もう到る所に、賊軍の偵察隊や哨兵が出ていますから、どうかと、途中が案じられます" ], [ "奥さんの身も、一同が心配しています。誰か数名、城外へ見せにやりましょう", "要らんことだよ" ], [ "誰だ。――弁蔵か", "はい。小使でございます" ], [ "弁蔵、用事があったら呼ぶから、小使室へ退がっておれ", "……はい。はい" ], [ "今の小銃はどこで撃ったのだ。賊兵か、鎮台の者か", "わたくしが撃ちました" ], [ "何じゃね、大変な事が持上がったとは", "与倉中佐の奥さんが、病院でお産したのです。男の子が生れました", "ほう! 今朝の大砲の音で産気づいたな。……めでたい。早く与倉君に知らせてやりたまえ", "先程から兵卒をやって、すぐ嬰ン坊の顔を見に来いと云ってやったんですが、段山の陣地で軍務についておる身だから、そんなものは見に行かれんという返事です。……見たくてしようがないくせに負惜しみしとるんですな。はははは", "ありがとう" ], [ "すみません、戦の中で、こんなお手数を皆さまにおかけして", "何を仰っしゃいます。それは平常のお気がねです。この鎮台にたてこもって一体となった城中の者には、もう自分一個というものはないはずです。あなたは、陛下の赤子をお生み遊ばしたのではございませんか", "はい。……ありがとうございます。戦のもようは、どんなでございましょうか", "御安心なさいませ。段山、藤崎台、法華坂などに迫った敵も、もう撃退されました。お宅さまの御主人与倉中佐どのは、午前九時ごろから薩軍の別府大隊の猛攻に当って、片山邸の丘を死守しておいでになります。……あの弾音がそれでございましょう", "主人は、わたくしの安産したことを、知っておりましょうか", "樺山中佐どのが、すぐ陣地へ行って、お知らせ申しあげたそうです。……やがて、あの方面の賊軍が退却すれば、きっとすぐに、嬰児のお顔を見に飛んでいらっしゃるに違いありません", "奥さま。わたくし……それを待っているのではございません。却って、そんな私事が、良人の耳にはいっては、すこしでも、賊軍に当る勇気を怯ませはしないかとぞんじまして", "そんな思い過しを遊ばしていらっしゃいましたか。ホホホ、ではほんとうのことを申しあげますと、樺山参謀どのが、お宅さまの御主人へ、陣地の防戦は、一刻交代していてやるから、生れた嬰児の顔を、ちょっと一目、見て来ないかと、おすすめになられたところが、ばかを云い給えと、反対にひどく叱られたと、仰っしゃっておいでになりました。それほどな御主人さまの御意気ですのに、何で" ], [ "お、奥さま。弁蔵でございます。ちょっと、ちょっと、ここへお顔を……", "えっ、爺やですって?" ], [ "行って……行って見てあげて下さい。おはやく、間に合わないといけません", "どこへ。何ですか。いったい", "わたくしのいる病棟のいちばん奥の病室へ、た、たった今、与倉中佐どのが、担架で運ばれて来ました。重……重傷だそうです", "えっ、与倉さまの御主人が", "御産婦に知れても、いけないだろうし、御重態の中佐に、嬰児さまの泣声が聞えてもいけまいと、わざと、わたし達の病棟へ持って来たらしゅうございます。樺山参謀も、どこか負傷なされたとみえ、軍服を真赤に染めておいでですが、中佐の枕元で、与倉っ、しっかりしろと、励ましていらっしゃるようで" ], [ "いや。どうも、むずかしいそうです", "いかんか……" ], [ "玖満子。おまえはどう思うね。もう与倉君も覚悟のていだが", "嬰児さまのことでございますか", "そうだ。今しかない。与倉君父子が、ひと目会うのも、別れるのも", "あとに遺るお子が御成人の後のためにも、やはりここへお抱き申しあげて来たほうがよろしいかとぞんじますが", "ただ、案じられるのは、お産婦の奥さんだ。……どうじゃろう?" ], [ "いえ、隠しても、すぐお覚りになりましょう。それよりは、奥さんにも御名誉を分けてあげて下さい。最大なお悲しみには違いありませんが、女だからとて、すぐ血があがるように御心配あそばすのは、如何かとぞんじます。籠城の者は、総力一体とちかいながら、それでは女子だけが、まだ数のうちに入らないことにもなりましょう", "むむ、やはりお告げすべきだろう。武人与倉知実中佐の妻を辱めるべきでない。――玖満子、おまえ行け。三浦軍医正といっしょに" ], [ "奥さま。……与倉知実中佐の奥さま。中佐はいま、庭向うの病棟に運ばれていらっしゃいました。御戦死です。……が、かすかにまだ御意識はあります。嬰児さんを見にここまでお立寄りになったのでございましょう。あなたは動いてはいけません。そのままで中佐の名誉な御最期へお胸のうちで万歳をおとなえ下さい。嬰児さんを、あなたの代りに抱いて行かせましょう。そっと軍医正におあずけください", "…………" ], [ "主人の御病室は? ……", "中庭の向う側の病棟です。燈が見えませんか", "……見えません。おそれ入りますが、そこの見える窓をお開けしてくださいませ" ], [ "将軍のお顔もですな", "髯か。いやこうなると、自分に顔というものがあることすら忘れとる", "私は、胃袋のあるのも忘れとります", "ははは、近頃はほとんど、金の粥(粟粥のこと)も、銀の粥(米の粥)も入らんからのう。病院の傷病兵へはどうしておるか", "病人負傷者だけには、極めて少量ですが、日に一度は金の粥を給与しております。御安心下さい。――が、三千の人間で喰べるというのは怖ろしいものですな。この山には青い木の芽もありません。死馬の肉も尽きました。今に畳も壁も喰わねばなりますまい", "谷村はどうしたろうか。途中、薩軍に発見されて捕われておるんじゃあるまいか", "さあ、谷村伍長の結果だけが、今はこの孤城と、南下の途にある総督軍とをつなぐ一縷の希望ですが……その谷村計介が変装して鎮台を脱出してからも早一月の余にもなるが、杳として消息はなし、総督軍とも依然、何らの聯絡もとれません", "ああ……味方の援軍がここに到る時は、遂に、三千の城兵は餓死した後か", "もう着く頃でしょう。どこかに上陸中かも知れません", "恃むまい。天ばかり見て待ちこがれても始まらん。兵隊が可憐しいが、餓死するまで戦おう。君も孤塁の鬼となってくれ", "いうまでもありません。ただ如何せん、防禦に当っている兵も、供与してやる食糧がないので、きのうあたりから、生色なしです。弾音もまばらで力がない", "……ぶつッ" ], [ "あっ。いかん", "どうなさいましたか、将軍", "望遠鏡に弾の破片があたった。レンズが割れたらしい", "天祐ですなあ。お取換しましょう、私のと", "いや、それには及ばんが君……。西出丸の何もない焼け野原や射撃場の辺に、女どもが出ておるが何をしておるのか、見てくれんか", "え、あんな方にですか。……あっ、成程。……将軍、御夫人です、御夫人です", "玖満子か。ほかのは", "嬰児を背に負っているのは与倉未亡人らしいです、お妹さんの幹どのもおられる。そのほか、共に籠城中の将校や下士や巡査の奥さん達から家族たちまで交じっておるようです", "何しとるのかね、いったい", "御夫人以下、みな手籠や笊を持って、草を摘んでおるらしいです。摘草ですな", "なに、摘草?", "あっ、文庫址へ、砲弾が落ちた。……おお、小銃弾も、ぶすぶすと、近くの土を刎いている。これは見ておれん" ], [ "高井軍曹っ、おるかっ、高井軍曹", "はーっ。参謀、お呼びですか", "西出丸の先の空地に、婦人たちが出て摘草しとるが、旺にその附近にも弾が飛んでる様子だから、建物の内へかくれるよう云うて来てくれんか。――将軍の命令だと云えっ、早く行け", "いや、児玉少佐、抛っといてくれ", "なぜですか、将軍", "女子たちも、歓んでしておることじゃろ――歓びをもって", "はっ、私も、そうとは思いますが。……でも、強いて危険に身を曝さなくても", "弾丸に身を曝すも、飢餓にただようも、同じじゃ。ただ、与倉未亡人までが、乳呑児を負うて出ているのは、余りにもいたいたしい。それではわれわれ男児が、かえって断腸の思いにたえん。愧死せねばならなくなる。――と、わしが云うとると伝えて、未亡人だけは安全な場所へ連れて行ってくれい。済まんが、君、行ってくれんか", "承知しました" ], [ "もう、来なくてもいい。おれは、煙の出る飯を一杯喰いたい。それを喰ったら死んでもいい。仏壇に上げる飯を、何とか今のうちくれないかなあ", "ばかっ、日が暮れたぞ。また、今夜も敵の夜襲だ。しっかりせい", "今夜あたりは、意地でもうごけまい。腹がすいて、胃ぶくろの暴れぬくうちは、まだ体をうごかすとそれを忘れて戦えたが――" ], [ "皆さん! 兵隊さんたち! お味噌汁ですよ。腹いっぱい召しあがって下さい", "えっ、味噌汁?" ], [ "何だ、何だ、この汁の実は", "青い菜でございます。皆さまが、さだめし青い物に渇いていらっしゃるであろうと、谷司令官の奥様が、わたくし達を励まして、きょうの激戦の中を、西出丸の空地まで出て、懸命に摘みあつめて来たのです。――芹・嫁菜・野みつばなどを", "えっ、司令官の奥さまが", "御戦死なすった与倉中佐の奥さままで、まだ五十日に満たない嬰児さんを背に負って、弾の来るなかを、芹を摘み、菜を摘んで、あなた方にあげたいと", "…………" ], [ "来たっ。来るぞッ、ここへも", "畜生っ、御座んなれだっ", "ゆうべとは違うぞ" ], [ "爺や……爺や", "おお、奥さまか", "ご苦労ですね、おまえの丹精で、きっと、焼け焦げたこの銀杏も、新しい芽をふきましょう。おまえの愛だけでもね", "奥さま。おらは恥かしくってなりませぬだ。兵隊さんから女衆まで、喰う物も喰わず戦をしていなさるに、この爺は、いつかの雪の晩、鉄砲弾をくらってから、満足に歩くこともできず……というて、ただ死んだら片輪になって弁蔵は気が変になっただなんて云われてもつまんねえ……。そこで思いついた水撒きだあね。この大銀杏は、誰も知ってるとおり熊本城の名物じゃで、ひとが皆、惜しがっているにちがいない。戦はいつか熄むものだしなあ、こんな名物根杏は、何百年もかからなけれやあ、こうは伸びるもんじゃない。……せめて、こいつでも、おらの丹精で、甦えらせてみよう。そう考えたまででございますよ" ], [ "あっ、あっ……あそこの枝に、青い芽らしいものが、出て来ているんじゃねえかの。奥さんっ、おらは眼がわるいだに、見てくだせえ。奥さんの眼で", "爺や、やはり青い芽がちらと出かけているようですよ", "そうかあ……。おらも、与倉の奥さまのように、子を産んだようなもんじゃねえかよ。奥さん、おらも子を産んだ", "ご褒美をあげよう。爺や、わたしの製ったお萩餅をおあがり……爺や", "勿体ねえ。おらには、そんなもの喰う資格はねえ。兵隊さんにあげてくらっしゃれ。……いや、それよりも、奥さまはきっと、櫓の上にはまだ持って行かっしゃるまい。あの旦那さまだ。この奥様だ。そうだ、きっとそうにちげえねえだ。……叱られてもかまわねえだ、旦那様のとこへ、ひと口、持って行かっしゃりませ" ] ]
底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社    1977(昭和52)年4月1日第1刷発行 初出:「主婦之友」    1941(昭和16)年1月号~2月号 入力:川山隆 校正:雪森 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "…………", "…………" ], [ "これより吉野の御所に伺候して、よそながら今生のおん暇を申しあげ、直ちに、賊軍のうちへ駈け入ります。弟正時は召しつれますが、正儀は御所より戻します。留守後々の事、正儀によう申してありますれば、お心づよく思し召されませ", "そなたも、心おきのう" ], [ "……そして、正行は", "余りの畏れ多さに、兄は、何のお答えもよう申し得ませぬようでした。やや後ろに離れて、わたくしどもまで、涙にむせびつつ、俯目に兄者人のほうを見てありましたところ、母うえが着せてあげた赤地錦の小袖、萠黄縅の鎧、太刀のこじり、いつまでも、石のように、ひれ伏してありましたが、微かに顫いていたように見られました", "欣しさに。……さこそ、さこそ" ], [ "一天の大君さまの御口ずから、臣下の正行へ、汝を股肱とたのむぞと御諚あそばされたことは、まこと正行のほまれ、亡き父君にも、御満足に在すらめとはふと思うたが、深く思えば、この御国に、こうした畏れ多いことのあってよいものか。――お汝もはや二十歳ぞや。父君の御遺訓、よも忘れはあるまいの。朝廷への御奉公にかけて、兄たちに劣るまいぞ。留守は、お汝が総大将、母は、どこまで家の母じゃ。士たちの指揮、心がまえ、忠義一すじの鍛え、皆お汝が軍配と徳にあること。きょうよりはなおなお、心して賜も。その身を、父君や兄達の亡き後の三世の忠義に備えておかれよ", "わかりました。よくわかっておりまする" ], [ "父上も、どうか、落着いて、お坐りください", "こうか。――さッ申せ、聞こうっ" ], [ "あれは、去年の十月中旬でした。浪華の御合戦の際、暗夜とはいえ、不覚にも、私は楠木勢のために、擒人となりました。けれど、恥とは一時の思いでした。今では、よくぞ擒人になって、真の人の道と、武士の道を、踏み迷わずにすんだと、天恩に謝しておりまする", "な、なんだと", "しまいまでお聞き下さい。あの折の合戦は、足利方の惨敗でした。四天王寺のあたりから駈け崩され、ふかい暗夜を、押しもまれて、退く途すがらも、しばしばふいの伏勢に襲われ、渡辺橋の断崖から、淀川の早瀬へ、墜ちた者が無数でした。私もその中の一人で、深い淵へ墜ちこみ、寒さは寒し、重い具足や身拵え、すんでに凍え溺れるかと思ったところを、繩梯子にすがれと、断崖の上へ、助け上げられたのであります。――味方ではありません、楠木方のほうにです", "そして", "見ると、河に墜入って、救われた足利方の兵、百二、三十名もおりましたろうか。一団になって、陣所へ曳かれ、さては首切られるかと、覚悟定めていましたところ、いとうら若い大将、楠木河内守正行殿でした。下知なされて、幾ヵ所にも、焚火を焚かせ、さて、怪訝る敵のわれわれへ云われるには――(あわれや兵ばら、武士は相見互いと云い習わすぞ。勝つも敗けるも時の運なれ。賊軍とはいえ、主のために働いてのこと、妻もあらむ、子もあらむ、はやはや都に帰れ、縁あらばまた、戦場にてまみえんものを)と、こう仰せられまして、火にあたれ、肌着を乾せ、薬はいかに、粥を喰べよと、傷負には馬まで下されて、放たれたのでござります", "ふーむ……", "泣きました。命知らずの強者輩も、さすがは正成公の御嫡子よと、泣かぬ擒人とてはなかったのです。そして半分は、京都へさして帰りましたが、残る半数は、その場で降伏を誓い、正行様の旗本で働きたいと云い出しました。私も、その一名でした", "なに、降伏したのか。降伏を", "はい", "恥を知れ。この父や一族どもの、御主人を裏切って、おのれ、二君にまみえる気でか", "いえ、父上" ], [ "お兄様たちが、お帰りになったのじゃ。大人しゅうそなたも来やれ", "どこへ。どこへですか。母さま", "お父君が、いつもお在で遊ばすお部屋に。――そして、湊川でおかくれ遊ばした叔父様も、みな揃うて、天子様のほうに向い、なお、残る子らには、正儀がおりまする。正秀もひかえておりまする。また、正平や朝成も成人して、御所のお護りに参りますると、おこたえ申しあげるのじゃ。そなたも席に欠けてよいものか。母に従うて来やい", "あい" ], [ "この眼に、この眼に、わしは初めて、ほんとうの人を見た。いや神を見た、日本という国を見た。――小四郎、さッ急ごう、京都へだ", "いやです。私は帰りません。正儀様の御旗の下に踏みとどまります", "なにまたすぐに帰って来るのだ。妻、おまえの兄弟たち、縁者の輩、ひとりとして賊名の中に見捨ててよいものか。漆間蔵六とて、語らいあえば四、五十名の士は連れて来られよう。そのまに正儀様の御旗も、他へお移しになろうが、何処までも馳せ参ずる所存だ", "では、父上も", "礼をいう、小四郎、よう導いてくれた。そうだ、そちを連れては、京都の世間がうるさい。わしひとりで行って来る。子に手を引かれるのは恥かしいが、お味方に参じた節は、お取做しを頼むぞよ" ] ]
底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社    1977(昭和52)年4月1日第1刷発行 初出:「主婦之友」    1940(昭和15)年1月号 入力:川山隆 校正:雪森 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "迦羅奢! ……。迦羅奢っ", "……はい" ], [ "そなたに罪があるではないが、今日かぎり側には置かれぬ。おそらく、世の憎しみは、そなたにも降りかかろう。大逆人の血すじよ、光秀の娘よと、あらゆる辱めと、怒りにまかす仕返しの手がつき纒うであろう。――別離は、慈悲と思え。迦羅奢、山へ逃げろ、三戸野の山奥へでも落ちて行け", "…………" ], [ "逆臣の娘に、忠興が嫡子を、何で渡されようか。ならぬことだ! ……、そなたは身一つだ。己れの生命をこそ、愛しめ!", "……なりませぬか" ], [ "では……では。……死ぬしかございませぬ。和子さまが、わたくしの生命ですから", "だまれッ!" ], [ "山へは行きません", "行けっ", "いやです" ], [ "叛逆人の娘じゃ", "死にもせで、生きのびていることよ" ], [ "光秀の娘じゃ", "逆賊の娘が、あのように美しい" ], [ "あのような声が洩れぬように、また、長屋などもお眼にふれぬよう、庭師を入れて、樹々の蔭につつませるようと、奥方さまも仰せられていらっしゃいましたが、御帰還の間にあいませいで、お目に障り、申しわけがございませぬ", "樹でつつむ。誰がそう叱っている。わしが訊くのは、あれは何だということだ。――何だあれは!", "はい", "云い難いことか", "左様なものではございませぬ。奥方さまのお慈愛から、市中の捨児や親のない孤児を拾うて、養ってやるお長屋でござります", "何。……捨児や孤児をひろい寄せておると", "合戦のあるたびに、どれほどな捨児や親のない子が、町にふえるかわかりませぬ", "限りのないことを! ……。彼女の物ずきにも困ったものだ。夫人を呼べ" ], [ "道楽もほどにいたすがよい。鼓を習うとか、香技を楽しむとか、小舞をするとかいうならべつなこと、物ずきも程がある", "何で物ずきでございましょう。世にあわれな子たちを養ってとらせることが", "その数が、天下にどれほどあると思う。どうなるか。あれしきの長屋建に容れたところで", "でも、せめて縁ある子だけでも", "小愛というものだ。眼に見える範囲しか愛せない。それも、愛の遊び事という程度の――", "でも、小舞や鼓を弄ぶよりは", "いや、ちがう! そのほうが良人がうれしいのだ。考えてみい、血なまぐさい戦場に、一年、半年と長陣して、やれ邸へ帰って寛ごうと思えば、捨児の啼き声など聞かされて堪ろうか。――眼に和やかな舞でも見たい。美しい妻が見たい。理窟など聞きたくないのだっ" ], [ "もはや、敵も間近う踏み入って候ぞ", "御最期のおしたくを成さられ候え" ] ]
底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社    1977(昭和52)年4月1日第1刷発行 初出:「主婦之友」    1940(昭和15)年7月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:雪森 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "すこし、休ませて……。この児にも、乳をやらなければ", "陽の暮までに、青梅までつきたいが", "もうここまで来れば……" ], [ "こんな調子じゃ、いつ江戸表へ着くことやら", "人のせいみたい" ], [ "これは、誰の子ですえ?", "知れたことをいうな", "自分が、無理にいうことをきかせた女房――自分が、勝手に生ませた子を邪魔にばかりしてさ――", "まったく、邪魔だ。おれはなぜ、こんな者を、持って歩かなければならないのかと思う", "今さら後悔したところで、二人とも、どうにもならない話でしょう。――子が生きたから、捨てようとしても、こん度は、こっちで捨てられやしないからね。一生涯、離れやしないから……", "どうでもなれ" ], [ "飽いたんでしょう、もう私に。――でも私は、死ぬまで離れやしないからね", "うるせえ" ], [ "鬱々だ、執ッこい", "江戸へ行っても、他人の家へ、私だけ預けて――なんて嫌なこった。だから、断っておくんですよ" ], [ "やめないの", "…………", "やめなければ――" ], [ "何をするんだ", "やめないからさ", "つらいのか", "私は、この笛の音をきくとぞっとする", "そうだろう。てめえの前の情夫――村上賛之丞も、この音をきくと、身ぶるいをしたものだ。てめえが、嫌うのもむりはねえ", "あなたは、鬼みたいな人だ、鬼、鬼……", "そうだ、鬼よりも血が冷たかろう。孤独な人間は、こうなるのが当りまえ。――それも、原因はといえば、賛之丞のためだった。美貌で陰険な、あの賛之丞のやつが、おれの妹を惑わして、おれの屋敷をみだしさえしなければ――" ], [ "妹も死なぬ。父も死にはせなかった。従って、この安成三五兵衛も、当りまえな扶持取ぐらしに当りまえな人間の月日を国元で安穏にすごしていたにちげえねえ。――それを、旅から旅へ、垢の落ちねえ浪人ごろ、好きな笛を糧にして、きょうは秩父、あすは御嶽と、宮祭の笛吹きにまで身を落してこう妙に拗てしまったのも、持って生れた根性ばかりではない。あいつのためだ。賛之丞がまいた種だ", "じゃなぜ、お前さんは、鮎川部屋であの人に会った時、敵なら、敵といって、討ってしまわなかったんですか" ], [ "――何ですえ、このざまは! 敵の女を、無理に、自分のものにして、それが何で面白い? ……。犬畜生も同じことだ、武士らしくもない", "なんとでも、わめけ" ], [ "おれは、あいつを――あの弱い、男っぷりのいい、賛之丞という敵を、めったに、殺すようなことはしない。生かしておいて、おれのうけた苦痛だけを、生涯に返してやるのだ。それが、笛吹三五兵衛の敵討だ。――敵討以上の仕返しなのだ", "アア、帰りたい。この子さえなければ。この子さえ" ], [ "どうしているだろう。あの人は", "いつでも、暇をやるから、帰るがいい。てめえとの仲を裂いて、賛之丞を苦しませてやることは、もう十分にすんでいる。かえって、今じゃこっちの足手まとい、帰ってくれれば有難いのだ", "誰がッ――" ], [ "帰るもんか、死ぬまでも。こんどは、こっちでお前さんを、苦しめてやる番なのだ。おぼえておいでよ", "――だが、かあいそうなのは生れたその子", "鬼みたいな父親をもって", "それだって、誰の子かわかるものか。だんだん、賛之丞に似てくるようじゃねえか", "寝ても、起きても、乳をのませる間も、わたしが賛之丞さんの事を、忘れないで、いるせいでしょうよ", "いったな", "いいましたとも", "どれ……" ], [ "若いの。たいそう馬が集まっているな", "へい、あしたは、八王子に馬市が立ちますんで、甲州の博労が、たくさん上って来ております", "馬市か、道理で", "旦那あ、大菩薩から山越えでございましたか、やっぱり、馬市をご見物で?" ], [ "でも、年に一度の大市、折角ですから一晩のばして、見ておいでなさいまし、江戸の者なら、なおのこと、いい土産話になりますぜ", "たいそう勧めるな。そちも、その馬市へゆく博労か", "いえ、あっしゃ、鍛冶屋の百というもんで", "鍛冶屋がなんで馬の番をしておる" ], [ "――博労衆が前景気に、賭場をひらいておりますので、もし八州の手先でも来てはと、こうして張番をたのまれているんです", "ほ、手なぐさみを、やっているのか", "ふだん、馬具の金輪や馬蹄の仕事をもらっている、おとくい様なので、嫌たあ言えません。――聞えるでしょう、つぼの音が", "む、なかなか、さかんなものらしい", "市を目あてに諸国から入りこんでいる長脇差も、交じっているので、荒っぽくなります。それに、野天ばくちでもあしたの的があるので、胴元がいくらでも駒をまわしますからね" ], [ "なに、少しは、やくざな飯も食ったから、賭場の様子は分っている。それよりは、後からおれの連れが来るんだが……", "へ。どんなお方で", "嬰児を負ぶった足弱な女だ。ここを通ったら呼びとめて、しばらく、その辺で、休んでいろといってくれ" ], [ "笑ってるぜ", "ほんに、嬰児でも、子の好きなお方は、よく知っているとみえて", "だが、こんなのを背なかに負ぶって、おめえは、よく裏街道を越えて来なすったね", "ひどい山で、難儀をいたしました" ], [ "――男でも、小丹波や大菩薩を越えてくる者はめったにない。何だってまた、こんな道を……", "甲州路は、すこし障りがあるものですから" ], [ "おや、他人の手は知っている。あんばいがちがうとみえて、ベソを掻きだしたよ", "ありがとう、さ、もうこっちへ……" ], [ "二本差と思って油断していたら、ひどい食わせ者だ", "ちょんのまに、いかさまで、四十両ほどせしめやがった", "うまく、捕まえて来りゃいいが", "なぶり殺しに、のめしてくれなくっちゃ、元も子も奪られちまった俺なんざ、一番に腹の虫が、おさまらねえ" ], [ "垢抜けてるぜ", "ム。この辺の女じゃねえな" ], [ "おめえの亭主か、何か知らねえが、あのいかさま浪人めに、俺ッちは、四十両も捲きあげられたんだ。あいつが、捕まって来れや、呑んだ駒を吐き出させるが、さもねえ時にゃ、おめえは人質だ、そこをうごくこたあならねえぞ", "そうだ、この容貌なら、四十両にゃ、売れるだろう", "あしたの市でか", "まさか" ], [ "コブ付じゃ", "なに、そんな物は、少しばかり金をつけてやれば、どこへでも、片がつく" ], [ "どうしました、相手の奴あ", "面目ねえが、逃げられちまった。その上に、福生の若えやつが一人、うしろから、浪人の腰帯にしがみついたところを、抜き浴びせに、腕の付け根から、こう食らって――", "えっ、斬られたんですか", "もろに、右の片腕を落されてしまったんで、今、みんなして、福生の部屋まで担いで行った", "いかさまは食うし、渡世人は一人、片輪にやられるし、何てえざまだ", "きっと、この仕返しはしてやる", "親分、それにゃ、ここにうめえ人質がある。そいつを囮に、あしたの市へ、あの浪人を誘き寄せちゃどうだろう。――もし野郎がその策にのらなかったら、女を、売りとばして、いかさまでふん奪られた分け前と、福生の若え者の治療代に当ててしまえばいいでしょう", "なるほど、踏めるな" ], [ "野郎を釣る囮にするとは、どうするんだ", "女を、あした馬市で、入札にして、売りとばすということを、いいふらすんで", "面白かろう、じゃ羽村の、後で相談にゆくが、おめえ預かっておくか", "こぶつきじゃ、有難くねえが、つれて行こう" ], [ "百かよ? ……", "おう、おらだい", "おそかったのう", "おっ母は、鳥眼だから、はやく、けえろうと思ってたが、なじみの博労衆に、たのまれごとをされて、つい、いやといえず……", "なんじゃ", "市の景気で、野ばくちが押っ開かれたんじゃ。それで張番をたのまれちまって", "ばか者が! これから先、そんなことを頼まれるでねえぞよ", "おらは、ばくちが嫌いだが、つい、地鉄を仕入れる金がすこしばかり欲しかったものだから", "銭なんかもらって、もし、八州のお旦那にでも捕まったら、ぬしゃあ、どうする" ], [ "もうやめた。きょう限り、頼まれても、そんなことはやらねえにきめたから、安心さつしゃい", "だが、くたびれたろう。湯にはいれ", "眼のわるいくせにして、おっ母はまた、自分で薪を割って焚いたのか", "だって、われは帰らず、われが帰ってから、風呂よ、飯よでは、焦れったかろうが" ], [ "わ……いい湯だ", "ぬるくはねえかよ", "ちょうどいい……ああいい気もちだ。すまねえなあ、おふくろ", "なにを、こくだ、改まって", "いや、ほんとに、すまねえよ。おらあ、いつも肚ン中じゃ手をあわせていたんだが、折角、年期をこめた師匠に破門をくって、馬の金沓だの、百姓の鋤鍬ばかり、テンカン、テンカンたたいていちゃいつまで楽はさせられねえ", "だから、ぬしも、ばくち打の張番などに頼まれて、日を暮していねえで、一生懸命に、腕をみがくこっちゃぞ", "そうだ、そうしなければ、武蔵住安重、田無の刀屋敷といわれたこの家に住んでご先祖様に申しわけがねえ", "そうとも……" ], [ "あ、飯は", "食べんのか", "ちょっと、これからまた、用達に出かけなけれや……" ], [ "それから、もう一つ、頼みがあるが、きいてくれるかい", "母子の仲に改まることはねえだにこの子は、妙に今夜は、変なことばかりいうの", "ほかじゃねえが、眼もわるい、身体もわるい、おっ母に、いつまで、台所を這いずらしておくなあ、見るたびに、おらあ辛くってしようがねえ", "だから、この間から話のある、井草村の娘ッ子を、嫁にもらってくれればいいに", "あの井草のお清は、おら、どうあっても、嫌えだもの", "こんな、野鍛冶の貧乏屋へ、ぬしが、容貌ごのみなぞしたら、誰が来べえ", "ところが、来る者があるだよ" ], [ "百。ぬしゃあ、女をこしらえたで、それを家へ、入れてくれというのじゃろう", "そ、そんなんじゃねえよ、おっ母" ], [ "えっ、百だって", "あの鍛冶屋の百か? ……。何かの、間違いだろう、まさか" ], [ "ここじゃ、ここじゃ。どうした?", "――落ちた。さ、貸してくれ百両", "貸してくれって、ただは貸せねえよ。ゆうべも、話したとおり", "だから、おめえの書いた証文へ、判を捺すよ。判も、ここに持って来ている", "じゃ、家だけでなく、抵当物は、地面、造作、家財、仕事場道具一切", "くどいなあ、分ってるよ", "それから、山も", "山か……" ], [ "実をいうと、あの狭山は、うちの持山にはちげえねえが、頑固な叔父貴が住んでいて、先祖からの掟をたてに、どんなに困ろうと、売ろうとはしねえから……", "こっちも、買うという話じゃない。抵当になら、あの山の茶畑に見込があるから、預かってもいいということなのだ。だが、そう後腐れがあるようじゃ困るから、百さん、気のどくだが、この話はまず、破談だな" ], [ "ようがす、山も。――この腕で、一生懸命に、稼いで返しゃいいわけだから", "そうだとも、何も、手離すわけじゃない", "じゃ、判を捺すから、証文を" ], [ "では連れて帰っても……", "金は" ], [ "どうした、その後は", "なに", "知りたかろう、お稲の様子が――", "ば、ばかをいえ、あんな不貞なやつ", "不貞? ――そうかな。お稲はもと、甲府のやなぎ町へ、江戸から流れて来た旅芸者、それを鮎川の親分仁介が、根びきをした持ち妾だと――おれは聞いたが", "…………", "その仁介の眼をしのんで、村上賛之丞と密通したのは不貞でなく、ほかの男と、逃げたのは、不貞というのは少し変だぞ", "おぼえておれ、その口を", "怒るな賛之丞、そのうちに、いや、近いうちに、お稲はその方に、返してくれよう", "だ、だれが!", "負け惜しみはよせ。未練のあるくせに。こん夜の入札に、二番札で、惜しいことをしたものだ", "おれは、あの女を、未練でさがしているのじゃない", "嫉妬でか", "成敗してやるのだ!", "わははは、その腕で、その刀で、惚れた女が斬れるつもりか。――よせよせ、そんな強がりは", "強がりか、どうか見ているがよい", "ム、見ていてもいいが――賛之丞、お稲は、初産をしてから、よけいに美しくなって、それに、生んだ嬰児は、てめえの面に、そっくりだ。――たしかに斬れるか", "斬る、斬る", "じゃ今日は別れよう。――それとも、一曲聞かせようか" ], [ "お稲さんは、ご亭主があるのかえ、ないのかえ", "ないんだとよ、おっ母。初めて山で会った時も、ちらと事情を聞いたし、ここへ来てからも、いろいろ聞いたが、なんでも元は江戸の糸問屋の娘だって", "あの嬰児は", "初めは、おらも、ばくち場でみた気味のわるい浪人の子かと思っていたら、甲州でちょっとべい世話になった、身分のあるお武家の落し胤だそうだ", "道理で" ], [ "どうじゃろうの、おぬしの気性と……", "おっ母、おら、お稲さんとなら、きっと合性がいいと思うぜ", "でも、先がよ……", "お稲さんだって、おらの恩は、忘れねえといってくれた。おっ母、ひとつ、話してみてくんねえよ……よう、よう", "この子は" ], [ "――どうかしている", "あ、おらあ、正直にいうよ。おっ母のまえだが、おらお稲さんに、惚れてるんだ" ], [ "なんだか、こう二人きりになると、夫婦みてえで、間がわるいな", "いいじゃないの、どっち途……。百さん、飲む?" ], [ "飲んだことないのかえ", "あるにゃ、あるけれど、おっ母が、酒だけは、ひどく嫌がるんだ。だから家では……", "きょうは、お留守だから" ], [ "こんな所に、好きな人と、暮していたら", "お稲さん、おめえ、いつまでも、いてくれるだろうな", "嫌じゃないこと。私みたいな女" ], [ "おめえこそ、嫌なんじゃねえか、こんな貧乏鍛冶屋", "でも、元は、刀鍛冶でしょう", "おれだって、一生涯、馬の足の裏ばかり焼いちゃいねえよ", "すぐ、何かというと、貧乏貧乏っていうけれど、こういう黒い家に、かえって、お金ってものは、あるもんですとさ", "いや、金はない。金はねえ……", "あんなに、かくしてばかりいて、ホ、ホ、ホ、ホ……。そのお金のない人が、よく大楽寺の入札にぽんと百両も" ], [ "ど、どうするんだい、おらを", "じっとしていらっしゃい。お坊っちゃん", "よせやい、おらあ鍛冶屋だ。そんなことをいわれると、くすぐってえ", "あたしは、好きさ", "なにが" ], [ "もうよしましょうよ、二人の仲で。――金の話なんか水くさい", "そ、そうだとも", "でもね、たった一つ、もう一つ、私……頼みが", "どんなこと", "もう百両ほど、江戸の家へ送ってやれば、それで私は、死ぬまで、ここにいられるのだけれど、何とか、できる?", "さ……", "出来ない?", "できなければ", "私しゃ、死ぬかも……", "えっ、ほ、ほんとかい", "あら、かんにんして。――うそ、うそ、今のはうそ。そんなに心配しないで" ], [ "――ただあの女子の気性一つが、心配ものじゃ。それさえよければ、なんの、わしが添う嫁じゃねえだし、どんな、辛抱もするべえにと、ゆうべも遅くまで、叔父御と、おぬしの話で、泣いてしもうたが……百よ、いったい、おぬしゃあ、どう考えているだね", "おっ母、これだ……" ], [ "おらのやった、悪いこたあ、きっと仕事でとり返すから", "そんなにまで", "面目ねえが、おら、どうしても" ], [ "馬鹿よ、なんで泣いたり、こッぱずかしい事がある。ぬしが好きという嫁に、わしが苦情をいうわけもねえだに。――ただ、この貧乏へもって来て、百両という大借金ができちまっては、今すぐに、嫁娶るさわぎも", "いってくれんな、おっ母、そのことはのみ込んでるんだ。きっと、おらが、稼ぎ出してみせる。――この槌が焼けるほど、働いてみせる", "それさえ聞けば……", "おらだって、もう嫁娶る年だもの、おっ母に、心配顔をされると、野鍛冶の槌が、よけいに鈍る" ], [ "おっ母、ちょっくら、江戸まで行ってくるぜ", "何しに?" ], [ "なに、心配はねえ。仕事のはけ口を見つけに行くのよ。帰って来たら、借金も返すし、おっ母にも安心させるぜ", "じゃ、そんな泥くせえ身装をしてゆかねえで、こっちの、袷をきいてゆくがいい", "おや、仕立おろし。おっ母、いつのまにこんな着物を" ], [ "はやく、帰って下さいね", "あ。七日ばかり、留守をたのむぜ。おっ母をな", "ええ、案じないで", "おっ母は、鳥目だから、夕方はよけいに気をつけてやってくれ。こちょこちょと、台所へ、出ねえように" ], [ "昨日、お目にとまりましたあれを", "持参したか、どれ、見せい" ], [ "いくらじゃ", "二十金でございます", "安いのう" ], [ "山浦清麿といえば、新刀でも、近世の上手。たとえ小柄にしても安すぎる。――だが、確かか", "え", "いやさ、この清麿の銘は、相違ないかというのだ", "へ、へい、間違いはございませぬ", "変だな。出物だと申したが、地金が匂う。まだ金いろも生新しいのみか、鍛は上手だが、片切のまずさ" ], [ "…………", "不埒者め。これや清麿の偽物じゃ", "どういたしまして、決して、そんな", "おのれ、まだいうか" ], [ "この野郎か、師匠の名を、騙った奴は", "庭へ、しょッ曳いて、鋳物土のかますで、押っ伏せちまえ" ], [ "なぐれ!", "見せしめだ" ], [ "わっ……お、お嬢さん", "しっ、静かにだよ" ], [ "面目ねえ、お嬢さま、殺して下さい、ぶち殺して下さい", "およしよ、そんなに喚くのは。百や、ずいぶんおまえ、大人になったね", "お嬢様も……大きくなりましたね", "あ、見ちがえるだろう。だって、私ももう二十二だもの。お前より二つ下だね", "まだ、お聟さまは", "それどころじゃない、あれから後――そうね、お前が、家を出されてから後は、山浦家に、魔がさして、それはもう不幸ばかりが", "して、お師匠様は", "ずっと、ご病気つづきで、もう幾年も槌をとらずに、あの部屋に" ], [ "お病臥りになったきりなんだよ", "では、すぐそこに。ああ、おなつかしい! こんな破滅でねえならば、たった一目でも", "お父様は、おまえの捕まって来たことを、さっき、延作から聞いていらした", "穴でもあったら、はいりてえ、お師匠様は、おらのことを、さだめし犬か、畜生のように", "いいえ、そうは" ], [ "さ、おまえ逃げるんだよ", "えっ、ど、どうして", "お父様が、内密に、逃がせと仰っしゃったのだよ。――おまえの気もちは誰よりも、私が知っているものね", "それでは、お嬢様が、おらの命乞いを", "いいえ、今ではお父様も、おまえを破門したことを、心で後悔していらっしゃる。――何もかも、時の裁き――時がくれば分るのね", "…………" ], [ "おまえを破門したのは、本阿弥様の会の帰りに、お父様が悪酔して、お金を失くしたあの疑いからだったが……", "そうだ。それを、この百が盗ったように思われて", "実は、それを見たといって、お父様に告げ口をした悪い女があったのよ", "えっ、じゃ誰かが、おらに罪をなすりつけたのか。畜生め", "桜間さんの家で、親切らしく、その晩お父様を介抱していた妓があったろう", "そうらしいが……美しい妓たちがみえたんで、おら、べつな部屋におりやした", "その中に、柳ばしの小稲という、悪い妓があったのだよ。盗んだのは、その小稲で、おまけに、おまえが破門された後、それを縁に、屋敷へも出入りして、名人といわれたお父様が、まあ口惜しいじゃないか、そんな妓の手にのって", "では、お妾に", "家は建ててやる、お金はみつぐ、それはまだよいにしても、名人の槌が錆びたのね。魔がさしたのかも知れないわ。しまいには、入りびたり。――そして女は、二年ばかり、ぜいたく三昧をしつくしてから、ほかの男と、逃げてしまうし、お父様は、世間ていを恥じて、床についておしまいになるし……", "ひどい阿女もあるものだ。そして、その女は今でも、江戸に", "なんでも、その男とも、上方で別れてから甲府で二度の褄をとって何とかいう土地のばくち打に、根びきされたという話を、家へくる地金の仲買が、弟予たちと、うわさしていたことがある" ], [ "年は幾歳ぐらい?", "もう二十六、七だろうね", "はてな、小稲", "何か、心あたりがあるの", "小稲小稲……" ], [ "じゃ、この右の眼じりにも、大きな黒子がありゃしませんか", "おまえ、よく知ってるね", "げッ。じゃ確かに、小稲のここには、黒子があるんで", "それが、淫婦の相だと、誰かがいったことがある", "ちッ、畜生ッ!" ], [ "――お嬢さん、お師匠様によろしく", "あっ、おまえ、そんな怖い顔をして、急にどこへ", "お情けに甘えて、百は、逃げますぜ。――もうお目にゃかかりません" ], [ "ご機嫌よう……。お嬢様、どうか、はやくよいお聟さまを", "もう会えないね。幼い時の、話をしあう人もない。百や……これを貰って行ってくれない" ], [ "百かよう", "おらだい。今、帰って来た", "オオ、オオ" ], [ "あぶねえな、おっ母、眼のわるいくせにして気をつけろよ。――お稲はいねえのか", "裏があいてるだあ、百、裏口から廻って来う", "なんだ、開いてるのか" ], [ "この、あわて者が、なんぼ早くお稲の顔が見てえからといって、土足で家の中へ上がる馬鹿があるかよ", "脱いでる間もねえ" ], [ "先祖からのこの家に、おっ母をおくのも今夜かぎりになった。やくざに出来たこの百は、後で、どんなにでも、折檻してくんな。今は、何もかも話してる間がねえんだ。――さ、すぐに支度をして", "支度って、おまえ……" ], [ "旅に出よう、なあ、おっ母", "じゃおぬしのあては……。いやいや、いうまい。老いては子にしたがえじゃ。百よ、どこへでも連れて行っておくれ" ], [ "おっ母は、怒らねえのか。この馬鹿な百を、叱りもしねえのかい", "なんでわしが叱るものかよ。若いうちは――人間の一生には、いろんなことがあるのが当りめえだによ" ], [ "これから先は、もうこんな苦労は", "ぬしゃあ、気がついたの", "眼がさめた! おらあ、はっきり眼がさめた", "よく気がついたのう、賢い奴じゃ、わしゃそれさえ、ぬしが分ってくれれば", "もう、その事は、いってくれんなよおっ母。百も、男だ", "そうともよ。わしの子じゃ、刀鍛冶の子じゃ。家はねえでも、わしにゃ、子があるぞよ" ], [ "百、この子を、わしが背に、おぶせてくれい", "お稲の畜生は?", "…………", "逃げたのか、おっ母", "ほんとのこと話しても、ぬしゃ、どうもしねえかよ", "だ、だれが、あんな阿女に、未練があるものか", "じゃ、ぶちまける……おぬしが留守になってから、毎晩のようにこの裏へ、よび出しにくるお侍があるのじゃ。そして、明け方に帰ってくる", "ウウム、何でもねえや、そんなこと。あの売女にゃ、ありそうなこった", "そればかりじゃない、足しげく、金の催促にくる七兵衛さんとも、どうやら、このごろは、変な話しぶりがあるで、耳うるそうてならなんだ", "人間じゃねえな。――そんな女の餓鬼をおっ母、よせやい" ], [ "いいあんばいに、月夜だから", "すこしゃ、道が、見えるかい", "まるで、この世でない所を、歩いているように見えるだよ。でも、田無の村の衆はこれから淋しがるだろうね", "どうして", "おまえの槌の音がしなくなるもの", "なに、うるさくなくって、せいせいしたというだろうぜ" ], [ "あら、お前さん、いつ江戸から", "たった今、帰ったばかりだ。さだめし、おれの帰りを待っていたろう", "七日といったのに、どうしたのだろうと、毎日おっ母さんと、噂ばかりしてね", "ふん……もうその口にゃのらねえぞ。おれを待っているはずはねえ。待っていたのは金だろう", "ほんとに、むりな工面をたのんで、わたしゃ後で済まないと思っていたんだよ", "そのうめえ口が、刀鍛冶の焼金まで熔かしたか。よくもうぬあ、師匠の山浦清麿をだましたな。やいッ、そして数年前に、てめえの、ちょろまかした師匠の金を、おれが盗んだと告げ口をしやがったな", "百さん……私にはさっぱりわけが分らないが", "おらあ元、四谷の山浦清麿の弟子、てめえに罪をなすられて、破門された百之介だ、うぬあ、その時の、柳ばしの小稲だろう", "あッ……", "ざまをみやがれ、売女!" ], [ "ひッ――人殺しっ", "やかましい" ], [ "おっ母、どこだい", "ここじゃ。――百よ、ここにいるがな" ], [ "さ、行こうぜ", "もう何にも、用事はねえかよ", "ああ、すっぱりと、用事はすんじまった。大川で尻を洗ったような気もちッてなあおっ母、こん夜のことだろうな", "わしゃ、なんだか、少しべえ名残が惜しいが", "よしねえ、ぐちは", "ああよすべえ、よすべえ", "武蔵野ばかりにゃ月は照らねえ。どこの野末で、馬沓を鍛っても、おら、おめえの一人ぐらい、これから先はきっと安気に送らせるからな", "そして、おぬしもこん度こそ、よい嫁をさがしての", "やめたア、おらあ。当分、嫁は見あわせだ。おらあ、おっ母を、愛婦だと思って暮すからいい", "馬鹿べえいって、おふくろを、愛婦と思えるかいの", "思えるとも、おっ母にゃ、嘘がねえもの" ], [ "露が寒い、歩こうぜ。オヤ、嬰ン坊は、寝ちまったのか", "罪がねえの……ごらんよ、この顔" ] ]
底本:「治郎吉格子 名作短編集(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年9月11日第1刷発行    2003(平成15)年4月25日第8刷発行 初出:「週刊朝日 夏季特別号」    1932(昭和7)年 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "林助、悦之進", "はいっ", "あさっては、月並の汁講の日になるの", "左様でございます", "今月はわしが宅をする当番であったな。みな集まって参ろうな", "みな楽しみにしております", "皿、杯などの数が足るまい", "どういうご趣向にあそばしますか、お小納戸の剣持与平なども、お支度に気をもんでおりましたが", "趣向など無用。へだてなく語りおうて、ただ一夜をたのしむのが汁講の交わりじゃ。汁には到来の猪があり、菜根にはわしが手づくりの大根、ごぼうもある。……だが、菓子は城下の浙江饅頭を用いたいな。舜水先生のお好きなものであった。先生の故国、明の浙江のそれと風味が似ておるとか。先生逝いてもう十年、お偲びする話題ともなろう", "ではさっそくお城下の葛屋から取りよせておかせましょう", "いやいや、自身で求めに出向こう。ここ久しく、城下にも出ぬ。ほかに用事もあるし、そちたちも供するがよい" ], [ "いつのまに、畑からおもどりでしたか。少しもぞんじませんでした。……ちょうどご城下よりご家中の牧野惣左衛門どのが見えられて、つい話しこんでおりましたために", "惣左が来ていたか", "なにかお願いの儀がありますようで", "古いあのことであろう。毎度申しおるゆえ", "そうらしゅうございます。――ずっと以前、老公より惣左へ、お口約束をされた由ですから", "約束を。はて?", "いまは会うこと成らぬが、儂が隠居でもした後には、ゆるゆる会ってつかわそう――と、かように惣左衛門どのへ仰っしゃったことがおありだそうで", "おお、なるほど、出府のみぎり、途上の旅舎で、思い出ばなしから、ふとそんなことを申した覚えがある。――それもはや十年も前なのに、よう忘れずにおるものじゃ", "惣左どのは忘れても、その日を待って待って待ちぬいておられるお方のほうでは、死ぬるまで、忘れる気づかいはない――と、惣左どのも、肩の重荷にしておられます", "は、は、は、は。あれもさだめし、生涯の迷惑じゃったろうに。よいよい、こんどは約束を果してつかわそうから、そう伝えて帰せ", "お目通りをねがいたい容子で最前からひかえておりますが", "わしもこれから城下まで出かけるところじゃ。供をして来いといえ。途々話そう", "え、ご城下へ" ], [ "はい、どうもすこし。……尾籠をお目にかけました", "若いくせに、畑へ出てすぐ風邪をひくようでは、いかんのう", "そんな些細でひいた風邪ではございません", "ホ、憤然と、大言したな。なんでひいたか", "寒のうちから、悦之進どのと根競べを約束して、毎あさ暁起して、てまえは素槍千振り、悦之進どのは、居合を三百回抜くという行をやっておりまする", "ははあ、毎朝暗いうちから、山荘の裏のほうで、犢牛がうなるような声がしていると思うたら、おまえたちか", "お眠りの邪げになりましたか。恐れいります。あしたからはもっと遠方でいたしまする", "たわけを申せ。あの頃は、わしはもう風呂所で五体を拭いて読書しておる", "その風呂所で、実は風邪をひいたのでございます。千回も素槍をしごくと、満身、りんりと汗にまみれて来ますので、毎朝、われわれの下風呂のほうで、水をかぶって、それから着衣いたします。――ところが今朝、例のごとく、ざんざと水をかぶって上がって来ましたところ、大事なものが、紛失いたして見えません", "大小か", "いいえ、武士のたましいには違いございませんが、それをつつむものです", "つつむもの?", "はい", "なんじゃ", "申しあげかねます。……ちと尾籠ですから", "ははは。和語で申そうとするからいえんのじゃろ。漢音で答えれば何気なく聞えるに。わしが代っていってやろうか", "お察しがつきましたか", "犢鼻褌じゃろ", "そうです" ], [ "――そこで、はたと当惑いたし、はて、何者がかくしたかと、探し求めていますと、お手飼の鹿めが、それがしのその物をくわえて、遊んでおりました", "さりとは、粋狂な鹿よの", "おのれと、裸のまま、追いかけました。ところが容易に捕まりません。迅足の者を、鹿のようなとはよくいったもので、さんざんにもてあそばれ、あげくに風邪までひいてしまいました", "秀逸秀逸。近ごろ大出来な鹿ではある。悦之進、鹿のみやげに、いつもの糠煎餅、忘れるな", "承知いたしました。が、ただいま林助の申しあげた話だけでは、まだ沈着なところがありますが、てまえの実見では、その時、裸のままで鹿を追いかけ廻して持て余していた彼の図は、実におかしいやら、気のどくやらで、何ともいえませんでした。老公へもご覧にいれたいくらいなもので", "そうであろうそうであろう" ], [ "なんじゃ、問うてみい", "ほかでもありませんが、ただ今も、西山荘をお出ましの折、老公には、召される馬にむかって――ひとつご苦労を頼もうかなどと、挨拶をして、鞍へお手をかけられました", "ウム。そのことか", "ひとの背なかへ乗るなら知らぬこと、馬へご挨拶をなさるには及ぶまいと存じられますが", "そうかな", "違いましょうか。わたくしの抱く不審は", "ちがうと思う" ], [ "わからんか。なんのために日ごろわしと共に百姓しておるか。――わしははや官職を退いて、公には何の益もなさぬ閑人にすぎぬ。その閑人が、わずか五里の城下へまいるに、馬の労を費やしては、勿体ないではないか。馬も日に何升かの馬糧は食うが、これを田に使えば、人以上に耕し、これに担わせれば、汗して荷駄の役をつとめる。……その貴重なるものへ、山荘の一閑人が、鞍をかけて、悠々、労さず道をあるくとはまことに、申しわけないことだ。……馬もし霊智あれば、田畑に働く領民を見よといって、わしのごとき無用人は、背からふり落してしまうであろうに", "恐れ入りました。そういう思し召でございましたか", "振落されるのは嫌じゃから、あらかじめ、馬のごきげんを取って乗る。しかし、傍人に怪訝られるほど、それが目立つとすればわしにも到らぬ点がある。以後は気をつけよう", "ついでに、もう一つ、伺いますが。……きょう畑で麦踏みをなされながら大声で……麦踏め麦踏め芽を踏め芽を踏めと仰っしゃっていたようですが、あれはいかなる御意でしょうか", "それもすこしそちの勘ちがいであろう。そう申した覚えはない。……ただ、ようやく雪をしのいで青々と伸びかけた麦の芽を、むざと踏む業の傷ましく思われたので、この芽を踏むのも、やがて根に力を蓄えさすためであり、麦の結実を豊かにするためであるぞと、心に弁えを正してやっていたゆえ、つい、芽は踏め芽は踏め、根は張れ根は張れと、声になって口から出てしまったものじゃろう", "――芽は踏め。根は張れ。そう仰っしゃっておられたのでございましたか", "麦の芽は、領民の芽、わしが在職中は、また退隠の後も、ここの領土は、領主に芽ばかり踏まれている。――不愍と思う。……その心も手伝うていたな" ], [ "惣左、惣左。鞍わきへ参れ。――わしからの返辞は、聞いたか", "ありがたい思し召。剣持与平どのからうけたまわりました。御意のほど、伝えてあげたら、あのお方も、どんなにお歓びかとぞんじます", "彼女は……もう幾歳になったかのう", "五十六、七かと思いますが", "よい婆だの。子は大勢か", "お子にはご運がなく、二十歳ばかりのお娘御と、まだ前髪の少年と、おふたりしかございません", "彼女が、わしの側へ仕えておったのは、わしが二十四、五の頃じゃった。もう四十年近いむかしとなる。……さすがの美人もさだめし変ったことであろう", "ところで。――ようやくこんどはおゆるしを賜わりましたが、いつごろ雪乃さまとお会いくださいましょうか", "――左様" ], [ "早いがよかろうな", "もとよりお早いに越したことはございません。何せい、雪乃さまのほうでは、二十年やら三十年やら、実に長いあいだを、じっと、おゆるしのあるまでお待ちになっていたことでございますから", "あさってはどうじゃ、早すぎるか", "結構でございましょう", "黄昏から伴れ参るがよい。ちょうどその夜は、例の汁講で、西山の隠宅に、講中の侍どもが打集うことになっておる", "それはお賑やかなことで、よい機に相違ございませんが、お年は老っても女は女、それに……それにまた……お目通りする事がらが事がらでもございますゆえ、いかがなものかと存じますが", "なんのなんの、世間へ憚ることも、羞恥むことも少しもない。光圀もことし六十五、雪乃も六十路にちかい年。よも、今さら仇し浮名は立つまい", "では、お旨のまま、雪乃さまへ申しあげておきまする" ], [ "わしが在城中と、綱条の代になってからと、城下の繁昌は、どう見えるな、さびれたか、盛んになって来たか……?", "おそれながら、較べものになりません、何といっても領民は、大柱とたのむお方のご退隠に、気力を落しておるように見られます", "では、さびれた方か", "陰気になりました。以前と変りなく町々はうごいて見えますが、庶民のすがたに何か元気がないようで", "なぜじゃろう", "むずかしい儀で、われわれ若輩などには、お答えする知識をもちませぬ", "ウム、む" ], [ "申しわけございません", "それは娘にいうてやれ。わしに詫びることはない", "路傍ではあり、お供の折、遠慮いたしておりましたが……父と父とが、極く親しくしていたので、それで", "いずれ、家中の者の娘であろうが、その父親というのは", "もう世におりませんが、白石助左衛門どののご息女です", "なに、助左衛門の" ], [ "では。……雪乃の娘か", "さようでございます", "そちも独身。許嫁のあいだとでもいう仲か", "いえいえ。そんな次第ではございません", "それに似たような程度か", "……どうも寔に" ], [ "ははは、悦之進、ひどく閉口いたしたな。こんな折には、禅もだめじゃろ。そちの日頃よくいう禅の肚でも――", "だめですな" ], [ "ご老公にはかないません。ご自身のお若いころに、人すぐれてご修行がありましたから", "いいおるぞよ" ], [ "おまえさんかえ。いま呶鳴んなすったのは", "おれだよ" ], [ "なんだと", "売らないってことさ", "ここは商家じゃないのか。客にむかって、そのあいさつは何だ。菓子舗とかんばんをあげておいて、菓子を売らねえという法があるか", "ある", "おれをお菰と見くびっていやがるな。金がねえんじゃねえぞ。客に分けへだてをつけるのか、てめえは", "つける", "もう承知はできねえ" ], [ "見損なっちゃあいけねえぜ、おい。此店のまんじゅうみてえに、白ぶくれに膨れていやがって。那珂川原の勘太郎を知らねえのか、てめえは", "知っていますよ、だからなおさらおまえに菓子は売れない。しかもわしの家で製る上菓子などは、おまえの口にするものじゃない", "な、な、なんだと。……白まんじゅうめ、もう一ぺんいってみな", "金はあるぞ、上菓子をくれ。――それが乞食のおまえさんのいえることばか。菓子などというものは、三食のほかのものだ。三度のご飯をたべる人なみ以上にも働いているおひとに一番たべていただきたいと思っている。菓子舗でも働きがいは欲しいからね", "なま意気をいうな。商人なら金にさえなれば文句はあるまい。おれも意地だ、何倍にでも買ってやるからこの店で一番の上菓子をつつめ", "千人の商人のうちには、ひとりぐらいはそんなのもあるだろうが、人間の本性は、そんな呆っ気ないものじゃない。おまえにもその性根はあるだろう。人なみに上菓子が喰べたければ、人なみに働くがいい。人の作った米をむだにたべて、そのお百姓でも口にしない上菓子を喰おうなんて、虫がよ過ぎる、世のなかを小馬鹿にしすぎる。――見りゃあまだおまえさんも三十そこそこの若さじゃないか。その満足な手足を親からもらって、親御にもすまないと思わないのか。出直しておいで、出直して" ], [ "悪くとってくれちゃあいけないよ。何もおまえを辱かしめるつもりでいったのじゃないからな。さ、理がわかれば、わしもそれで満足だ。……多寡が菓子のこと、持っておいで、なあにお代なんぞいらないよ", "ありがとう" ], [ "……これは、どなた様かとぞんじましたら、西山荘の老公さまでいらっしゃいましたか", "あるじ", "はい、はい", "さように人をみて、客にわけへだてしてはなるまい。いまのお菰がもういちど怒りにくるぞ", "おそれいりまする", "だが、そちのいったことはおもしろい。さむらいに武士道、百姓に百姓道、商人にも町人道はあるな。そちの製るまんじゅうはうまいと、朱舜水先生がいわれたのも、そこにおまえの風味もあるからじゃろう", "何せい、ここはあまり端ぢかでございますから、どうぞ、どうぞ", "いやいや、すぐもどる。おまえこそ上にいなさい。ここは店、ほかの客も見えように。わしの用向きも、そのまんじゅうだが、いまでも舜水先生がおこのみのように製っておるのか", "ご註文がございますれば", "あすの夕刻までに、西山荘へ何ほどか届けてくれい。宵をこえては味が変ろう", "かしこまりました。……けれどつい今しがたも、あすの夕までに西山荘へそれをお届けするようにと、よそ様から同じご註文がございましたが、どうやら重なりますようで", "なに、よそからも?", "はい、白石様の後家で、あのきれいなお嬢さまのいらっしゃるおやしきからで", "そうか。では、ゆうべのうちに惣左がもうわしの返辞を告げたとみえる。――わしの好物と知ってあす来る折の手みやげに、誂えたものと思われる", "むだになっても勿体のうございますから、白石様のおみやげだけで、およろしいのではございませんか", "それで足る。それで足る。わしの用は無用になった。無用人がたまに出てまいればこんなものか、はははは" ], [ "なんでも、ひと様の申しますには、あのおきりょうだし、また女子のたしなみはもとより、薙刀小太刀まで修めているという才媛だから、縁談などは数々あっていいわけだが、それをああしているには、ご孝養のためばかりでなく、ほかに事情があるからだと――こういう人もございまする", "あろうな。……あってよいわけじゃろ。むなしく佳人に孤愁を抱かせておくはずもない。家中の若いものどもがな" ], [ "それなら分っておりますが、事情というのは、そんな浮いたはなしではございません。どうやら、心にもなく、さるお方の義理にひかれて、江戸へ行くことになるだろうとかいうおうわさで", "嫁にか", "さ。それがどうも、そうでもないらしいので", "わけの分らぬはなしだの", "まったく、解しかねることでござりますが、どうしても、あるお大名の奥仕えにあがらなければならないような破目だとか――実は、白石さまの召使の者からじかに伺いましたが", "はてのう。世話人はだれじゃな。その口ききは", "ちと……申しあげかねますが……やはりご家中の、しかも傍からは、指をさせないようなお方の", "うむ。そうか", "つまらぬことをお耳に入れましたが、どうぞお聞きながしに", "いや、何を聞こうと、隠居の身、大事はない", "粗茶でも一ぷく、奥でさしあげとう存じますが", "いやいや、人見又左が浪宅で、何がな支度しておるはず" ], [ "まだ早かろう。中食には", "もう午刻で", "さようか。さてさて達者なようでも、やはり年よりの足かの", "粗末な湯漬を支度しておきましたが", "馳走になろう。……が、むだなものは並べるなよ", "はい" ], [ "いそぐには及ばぬ。まず茶をいただこうで、しばらくそれにおれ", "はい", "又四郎も当年、もう三十に近いはずじゃの", "悦之進どのと同年です。恥ずかしい至りです", "なにが恥ずかしい。そちたちの世ではないか", "にもかかわらず、かくの如くに、亡父の遺物の書斎に、なすこともなくくすぶっておるので", "潜心、自分を培って、他日を期しているならよい", "だめです。鈍才だから", "鈍才も尊い。黙って、地下百尺にうずもれたまま、事成る日まで圭角を見せぬものは、名利の中に仰がれる才物より、どれほど、たのもしいか分らない", "そんなのではございません" ], [ "又四郎。退役後は、何して暮らしておるか", "何もしておりません", "飽かぬか", "左様にも思いませぬ", "勉学は", "学問はちと飽々です。ほどほどにしようと思いますが、何でも、ほどよくは参らぬもので、抛っております", "なぜ、学問にあいそがつきたか", "頭でっかちになり過ぎると、五体のつりあいがとれませんから", "そこまで、そちは学問をやったか", "ならないうちに、心がけておりますので", "卜幽の子にも似あわんの", "つとめて、おやじには似たくないものと、亡父を鑑にしております", "どういうわけじゃ", "儒者などというものは、くだらぬものと心得ますゆえ", "なぜ、くだらぬ?", "智ばかりに耽って、行が足りません。事、実行にかかると、だらしがないようです。たとえば、江戸表の彰考館――小石川のおやしきの史館などには、大日本史編纂のお係りとして、当代の学者はほとんど網羅されておるでしょうが、まあ、あの仲間をごらんなさい。のべつ末梢的な議論にばかり暮れていて", "又四郎", "はい", "人見のせがれは怪しからぬ、卜幽の子は不肖だと、よう陰口を耳にするが、故ある哉、そちの言は、どうもいちいち僭越すぎるようだの。幼少からわしの側に侍していた其方のことゆえ、わしの前では、甘えていうものとしてゆるすが、人なかではいうな。めったに、そのような雑言は", "は。いいません。けれど……老公の御まえでは、おゆるし下さい。お気にさわったら切腹を仰せつけられてもかまいませぬ", "まだ何か、いいたいか", "いいたいことで、おなかが膨れております", "いうてみい", "お家は亡びます。……いまのままでは" ], [ "ひどい兵法じゃな。飯櫃をかくしておいて要求をつき出しおる。いったいそちは、何をわしに望むのか", "奸賊どもをご一掃ください。さもないと、お家は危ういと思います", "だまれ" ], [ "奸賊とは誰をいうか。御民みな大君のおおみたから、わけても予が膝下よりそだてて労苦をともにし、いま綱条に仕えおる水戸の臣に、奸賊などと名づくるものはおらぬ", "おります", "おらぬ", "ご家老の藤井紋太夫、藤田将監などの一類が、何をもくろみ、何をしているか、老公のお眼には", "これ" ], [ "はっ、なんぞ?", "うるそうてかなわぬ。この棒をわしの眼のまえから片づけてくれい", "棒とは", "ここにおる棒のような男", "はい" ], [ "醜態をお眼にかけたから、自分で謹慎すると申して、一室のなかに入ったまま出てまいりませぬ", "泣いたので、間がわるくなったのであろう", "正言を吐いたのだから、ほかにご無礼はしていないが、つい涙をこぼしたのは、不覚だと嘆いておりました", "呼んでこい、まいちど", "参りますまい", "わしの命じゃと申せ。あしたは西山荘に汁講がある。これより予の供をして来ぬかというてみい", "はい" ], [ "謹慎中だから参られぬといいおります", "強情なやつ。わしから謹慎を命じたおぼえはないが、ゆるすと申せ。予に、機嫌をとらせおる" ], [ "もし、ご老公", "なんじゃ", "人ごみを追うなら、どう申しても、道をひらきましょうに、何故、特に大高新右衛門の名を呶鳴れと、おいいつけなされましたか", "その儀か" ], [ "浪人ていの者か", "いや、旅商人といった", "ことばは?", "江戸者", "ひとりか", "ひとり", "何していたのだ", "脚をいためたので、休んでいるというた", "変だな。……そしてそのまま戻って来たのか", "何を問うても、すらすらと答えるし、不審もないので", "念が足らん。おれが行って、もういちど捕えてみよう" ], [ "やめい、やめい。つまらぬ詮議だては", "でも。……さきほども仰せられたように、威なければで", "曲解すな。百姓隠居の往来に、なんの物騒があろう。さなきだに、旅はさびしいもの、故なく旅人をとがめるな" ], [ "お帰りあそばせ", "おつかれでございましょう" ], [ "猪? ……。ああ、郡代の鷲尾覚之丞どのから、献上なされたあれか", "それでございましょう", "それなら、お台所へまわって、庖丁人の平九郎にでも訊いたらよかろう", "どなたもおりません", "いないことはない", "おりませぬ。お下婢にうかがってみたら、こん夜のお客衆にあげる惣菜を、畑へ採りに行っているとかで", "うるさいな" ], [ "猪をどうするのだ", "やはりこん夜のお客衆に出すのではございませんか。遠くの流れへでもかついで行って、解けと仰せつかりましたので", "あ。料理するのか。なぜ庖丁人がしないのか", "老公はお鼻がきくので、もしほかの器に血ぐさいにおいが移ってはいけないからということでして", "それであんな遠くのほうに置いてあるのか、途方もなく遠くにあるぞ、こっちへ尾いて来い" ], [ "なるほど大きい。これはわしでもひとりではちと無理だ。江橋さん、坂の下の小川まで、片棒かついでくれませんか", "きょうはだめだ。きょうみたいなご用の多い日に、薬研のまえに坐っているのでも分るだろう", "? ……。そういえば、さっきからすこし跛行をひいていなさるようで", "これでも、よほど我慢しているのだ", "どうなすったので", "だれにもいうな" ], [ "刀傷のようじゃございませんか。だれと斬り合いをなすったのですか", "ゆうべだよ。老公のお供をして、白坂の下まで来ると、変なのが、土橋の下にかがんでおる。怪しいと見たから、おれひとり、老公のお馬が坂をのぼりきるまで、土橋をふんで見張っていたところ、そいつも、これはいけないと思ったかとび出した", "ヘエ……そんな者が、うろついておりますか。もっともこの辺は、水戸様の前は佐竹領で、いまだに佐竹家からたしかに陰扶持をもらっているらしい地侍が多うございますからな。……そしてどうなさいました", "つい、血気にまかせ、追いかけて捕まえようとしたものだから、相手のやつに、脇差で一薙ぎ、ここを斬られてしもうたわけさ", "腕のつよい男とみえますな", "貴さまも敵を賞めるか。いやみんなにも、間がわるいから、外科の柳清友どののほかには、たれにもまだ隠しておるのだ……。知れたら、彦兵衛がしゃべッたと思うぞ", "いけませんよ。跛行をひいていれば、すぐ知れてしまうことを", "みんなに知れるのは仕方がないが、老公にわかると、お叱りをいただくからな。お叱りはありがたいとしても、ご心配をおかけするからな", "てまえも先日、お叱言をいただきましたよ", "貴さまは、碁が上手いので、よく老公のお相手に召されるが……碁のうえなどでも、お叱言の出ることがあるか", "てまえのような百姓おやじを、親しくお召しくださるのも、碁ができるためですから、ここは碁盤の上だけと、行儀を守っていればよいのに、つい出すぎたお願いをしたものですからね" ], [ "……又四郎か", "江橋、坐れよ", "こんなところで、何しているのだ", "陽なたぼッこ", "のん気だな", "することがないじゃないか。われわれ若い者の為すことがあるかい", "あるさ、こん夜は汁講だ", "箒をかついだり、芋の皮を剥いたり、ばかな", "めずらしく、書を読んでいるな、唐詩選か", "どうでもいい、そんなものは。それよりは貴さま、なぜ、ゆうべの相手を逃がしたのだ", "ゆうべの相手とは", "彦兵衛にはかくしても、おれにはかくせるものか", "そのことか", "不覚だぞ、林助。貴さまも軽く考えているか知らんが、ひっ捕えてみたら、きっとそいつの背後にある大きなものが分ったかもしれないのだ", "逃がしたのは、不覚だったにちがいないが、何もそう大げさなものでは", "ちがうちがう。老公のご身辺におるものが、そんなあき盲でどうする。いったい老公が、なんのゆえに、副将軍なる位置を退いて、急にご隠居なされたか、そこを弁えておるか", "綱吉将軍は、老公がけむたいし、老公は事々に、いまの紊れきった幕政に、眉をひそめていらっしゃる。その衝突を、ご自身からきれいにお躱しになったのであろう", "その程度ならたれも知っていることだ。お身近にいるわれわれでなくても", "もっと微細にわたれば、綱吉将軍のお世つぎに、老公は甲府どのをおすすめになり、将軍家のご意中では、紀伊どのを望んでおられた。それへまた幕府の嬖臣柳沢吉保が、老公をのぞくために、大奥と将軍家の陰に立ちはたらき、老公をして、身を退くのほかない窮地にまで追いつめたものと――みな観ておるが", "そんなことも、一徳川家のくだらない家庭問題、老公のあの豪気が、それしきの煩わしさに敗れてお退きになるはずはない", "では、なんだ?", "老公はな……" ], [ "老公のご本心としてはな……林助。徳川家などはいつ亡んでもかまわんという強いお考えを抱いていらっしゃるのだ。正しく家康公のお孫にあたり、またご三家の一として、身は幕府の柱石と生れづいておいでになるが", "……いいのか、又四郎", "なにが", "そんなことを、めッたに口にして", "貴さまが、幕府のまわし者や、柳沢の刺客でなくば、いってもかまうまい。――それとも、貴さまもまた、わが水藩の毒むし、家老の藤井紋太夫にこびて、柳沢にとり入り、ケチな出世の割前にありつきたいか", "な、なに。この麺棒め", "麺棒とはなんだ", "もういちど、いってみろ。拙者を、武士でないというのか" ], [ "どうじゃ林助。おれといっしょにやらんか。貴さまの心根を、しかと、この眼が見とどけて、相談するのだ", "……やらぬかって? なにを", "老公のおん為に、いのちをさし上げちまうのだ。亡父の卜幽がいただいたご恩返しは、それしかない", "……?", "いやか", "わからない、わしには。老公へいのちを上げるなどということは、日頃のことで、ちっとも、改まったはなしじゃない", "む、む" ], [ "いまのままで抛っておけば、きっと水藩は滅亡に瀕する。老公のご安全すらおれは疑っているのだ。のみならず、老公がご一代をかけ、また藩の財力をかたむけたご事業は――あの大日本史の完璧は、まず難しい。幕府の手で、いままでのものは湮滅され、これからの仕事は、弾圧されるにきまっている", "そうかしら", "なぜといえばだ。大日本史を大成しようと思し立たれた老公のご主旨はどこにあるか。真の国体のすがたと、君臣のべつを明らかになさろうとしたものだろう。――それと反対ないまの世上と、国土の将来を憂えられて、一藩一身の利害などは考えられずに、あれへ生涯をおかけになったとおれは観る", "そうだ", "そうだろう。……とすれば、これは幕府にとって、この上もない反逆だ、家康公のお孫と生まれた老公が、宗家徳川には由々しい異端者といえるのだ。またその幕府の機構によって、子々孫々まで、うごかない官職や領土の所有を約束されている閣僚や大名などにしても、決して歓んでいる者ばかりではない", "そういわれてみると、老公のきょうまでのご生涯には、われわれ臣下が、ことばにもいえないご苦衷があったようだ", "それは、なおご余生のこの先までもだ。――しかもご退隠以後、眼に見えない圧力が、水戸を、老公を、押しつめている。このあやうい今を、おれは坐視していられない。いのちをさし上げよう、そう決心したのは、きょうやきのうの覚悟ではないのだ", "それでおぬしは、無口の不あいそ者になったのだな", "そうだろう、何しても、怏々と楽しめない。たえず曇天にあたまを押しかぶせられているようなここちから自分を救い出せんのだ。――イヤ、余事にばかり亙ったが、そこでおれの決心はただ一つしかない。江戸へ出て、柳沢吉保に近づき正理を説いて、かれの自決をせまる。もちろん肯くまい……。だからあらかじめ、老公へおいのちをさしあげる覚悟が要る", "…………", "江橋、嫌なら嫌といってくれ。同じ心のわれわれ仲間には、よくお家の奸臣紋太夫を斬れなどと、時々、激昂するものがあるが、それはだめさ。紋太夫ごときは、末の末だ。禍いの根本は、もっと大きなところにあるのだから" ], [ "では", "では" ], [ "きょうこれへ参る途中、人見又四郎を誘いに寄りましたところ、きのうのうち、西山荘へお供して来ているとのことでしたが……あの棒殿はどうしましたか", "そうじゃ、そういえば、棒も見えぬ。林助も見えぬ。悦之進、見てこい" ], [ "夕方までは、たしかに二人とも見えたと申しますが、どこを捜してもおりませぬ。新しい草鞋をつけて、ご門そとへ大股に出て行くのを見かけたと、お台所でいう者もおりまする。いずれにせよ、無断で、こよいの事を前に立ち去るはいぶかしい限りと、拙者もご門から十町ばかり出てみましたが、とんと知れないので、空しく帰って来ると、ご門の畔りに、異なものを見かけました", "異なもの?", "はい" ], [ "どこじゃ、その梅の木は", "は。こちらです" ], [ "なるほど、駕の灯が三つ。……だいぶこれへ急いでくる", "誰だろうか", "まだ誰か、不参のものがあったろうか" ], [ "あ、そちらで", "わしのお客は、見えたか", "ただいま、お控えまで", "雪乃と、惣左か", "さようでございまする", "まひとりは、誰か", "ご息女の蕗どのを、お伴れなされましたので", "ホ……あの娘か" ], [ "さあ、飲まんか", "飲んでおります" ], [ "与平与平、酒部屋からもっと運べ。なに、まだ初めのが半分もあるというか。はて、一向にすすまんなあ。与平、これへ来て、そちも交じれ", "はい。仰せを、待ちかねておりました" ], [ "もう一名おるのは誰か", "きょうの猪を庖丁いたした彦兵衛にございます", "碁敵の彦兵衛か。彦兵衛もこれへ来い。なぜ、壁の隅などへ、そう恐れ入っておるか", "いつぞや、帯刀おゆるしの件で、失敗をやりましてから、お咳の声を聞いても、あのように恐れ入ってばかりおるので", "はははは。困ったわからずやだの。叱られたと思うておるのか", "ちとお薬がききすぎた嫌いでございます", "叱言の加減も難しいのう。これ彦兵衛、来ぬか、ここへ来い", "へい。へい……", "なぜ閾の外などにおる", "でも。……はい", "わしと碁を打つ腹がまえで、もそっと入れ。それ、杯じゃ", "おそれいりまする", "あははは。ふるえおる。なぜそう卑下するか。そちのみが、刀をさしておらぬからとて、卑下する理由はすこしもない。武士、百姓、何のちがいがある、ただおのずから職分の礼儀だにあればよいのだ", "はい、はい。ありがとう存じますことで", "その卑屈癖がいかんのう。よせ、よせ、米つき螽のような癖は。第一、そういじけては、碁がおもしろうなくなる", "いえ、碁ばかりは、老公さまであろうと、負けられませぬ", "その気概で、酒ものめ、交わりもせよ。みなにも、昵懇を乞うがよい" ], [ "なんじゃ、おれが飲むのか。……待て待て、そう酌いでは", "もう弱音でござるか", "いや、弱音じゃない" ], [ "おそれながら", "ほ。わしにか" ], [ "ありがとう。戴こう", "いえいえ。おあとの、おながれを頂戴いたしたいので", "後と前、どちらでも、同じことじゃろ" ], [ "時に、ご老公", "なにか", "……あ、あなた様は", "どうした?", "わかりません。ご……ご老公のお心が" ], [ "……なんじゃ、泣きおるのか。はてさて、水戸の若侍には、泣き虫が多いの。又四郎ひとりかと思うていたら", "いけませんか! 老公" ], [ "ほ、ほう。……親の死んだ時と、国を思う時だけは泣くか。さてさて不忠不孝なもの", "これは、異な仰せを" ], [ "なぜ、不忠不孝でござるか", "おまえの泣くという意味は、涙をこぼすということか、痛心するということか", "もとより、女みたいに、ぺそぺそすることではありません", "では、大村五郎八は、親にたいしては、親が死なねば痛心せず、国にたいしては、泣く時しか、心をいためぬということになるの" ], [ "拙者は、小西景助で", "景助か。どうじゃ、まだ酔うには早かろう", "まだまだ、酔うまでには、至っておりません。おながれを", "そちも泣き上戸ではあるまいな。……おやおや、五郎八がまだそこに手をついて泣いておる。なにが悲しいのか聞いてやれ", "てまえが、代りに申しあげましょう", "ほ。泣き上戸の気もちが、代弁できるほど分っておるのか", "この一堂におる者の精神は、みな一つです。――老公、あなた様は、なんで副将軍のお職をお退きになりましたか。なぜ、あくまで闘って下さらなかったんですか" ], [ "あるまい!", "…………", "ないからこそ、あなた様は、淡々と、官位栄職を、邪魔みたいにぬぎ捨てて、さッさと、こんなところへ……隠居などしてしまわれたのだ。怪しからん", "怪しからぬか?" ], [ "わしは、怪しからん隠居だそうだ。怒るなと、そちから一杯、ついでつかわせ", "いや、いらん" ], [ "さあ、仰っしゃい!", "なにをじゃ", "なんで、お退きになったか。隠居などなされたか", "年を老れば、順にひっこむ。若いものに、あとを譲る。当然じゃろ", "いや、それは、世のつねのこと。源光圀公ご一人にかぎっては当然とは申されぬ。……な、なぜとあればだ。あなた様というものは、いまの日本に、ただおひとりしかないお方だ。ほかにも、偉そうなのは、たんといよう。柳沢吉保とか、松平なにがしとか、幕閣の諸役人が。……けれど、日本の役人、天下の臣たる人は、あなた様しかおりませんぞ。……", "過言じゃ、そんなことはない。そんなことはない", "いいや、そうだ、極々、少数かもしれないが、われわれとか、世の心ある一部では、そういっている。しかるにだ。その唯おひとりまで、身を退いてしまったら、これからさきの世のなかは一体どうなるのだ。……歓んでいるのは、柳沢吉保の一門だけだろう。目のうえの瘤がとれて、もうなんでもできる。……ごらんなさい、とうとう世上の華奢、淫蕩、贈賄、涜職の風。役人は役人で、下は下で、この国をここ十年か二十年で蝕い腐らしてしまいそうなほど、浅ましい世の有様を", "…………" ], [ "……や、たれが", "これは、優雅な" ], [ "みな様のご酒興を、少しはお添えできるかとぞんじまして……。おゆるしを待たずにむすめの蕗に申しつけました。おゆるしくださいませ", "ほ……弾いたのは、蕗か", "はい。歌は、年がいものう、ばばが自ら歌いました", "雪乃。いつも健勝でよいの。むかしながら気のつくことではある。よういたした" ], [ "惣左は、別間か。彼女を伴うて来た牧野惣左は", "あちらに控えておりますが" ], [ "こよい来いとの仰せは、おそらくその辺の思し召もあろうと、雪乃どのにも、篤とお察しのようでございました。ただ今もむなしくお次にひかえているより、何がなお手伝いでもしようかと、私へお諮りなさいましたから、では、お琴でも蔭から聞え上げてはと、私よりおすすめ申しあげたのでございました", "そうか。……ムム" ], [ "あの頃の三、四年は、あとで覚えもないほど、わしの血気は、無我無性じゃった", "ほんとに、お元気でいらっしゃいました", "いやいや、元気というよりは、手におえぬ暴君、よくいう不良というほうじゃろう。わしの青年期のひと頃を思えば、これにおる少将どのの家中などは、若いに皆おとなしくて善良なもの", "そう仰せられますと、いろいろな事どもが、思い出されて参ります。……お父君の大殿さまにおかれても、お姉君の糸姫さまにも、ずいぶんご苦労をおかけあそばしました", "いや、わしほど親不孝なものは少ない。父頼房の側室久子を母として生れたが、生れ出る時から、父の家庭に、ひと方ならぬ煩いを起したらしい。……それがため父は、悩みに悩んだあげく、妊娠っているわしの母へ。……産むなよ、ひそかに水にして、流産してくれよ……と、泣いていいふくめ、江戸のやしきより水戸の三木仁兵衛が家に身を預けられたものじゃ", "お産まれあそばす時から、ふしぎなご運命でございましたの", "まこと、この光圀は、ひとの象をそなえぬうちに、闇から闇へ、ながれ去る身であった。――それがいま六十五齢、実にふしぎな生涯ではあった", "神の思し召でございましょう", "仁兵衛夫婦が、あえて主命もものとせずに、わしの母を力づけ、ひそかにわしを産み落させてくれたのじゃが……ひとの心は、たまたま、神業をするものかもしれぬ", "表向き、三木家のお子と育てられても、お四歳、お五ツと大きゅうおなり遊ばすうち、どこかご気性もお容貌も、臣下の和子たちと異なるので、三木どのの千代松さまは恐ろしい和子かな――と、街でのおうわさも高かったものと、後々、よう皆さまから伺いまする", "三歳の神童、二十歳だいの駄々馬。少年ごろまでの千代松は――自分の口から申すも異なものだが、まあ、神童のひらめきがあった。坊主の嘘物語などは、すぐ看破していい伏せたものじゃ。……いまでも覚えておるが、五歳、はじめて水戸城に入り、七歳、冠をうけて、将軍家に謁し、晴れて世子となってからは、幼心にも得意であったが、この頃、わしの乳母として、小督という女がいつも側に仕えておった", "小督さまとは、よいお名まえ。どんなおやさしい乳母様でございましたろう" ], [ "雪乃どのには、ちょっとでも、ご隠居さまとおふたりきりで、おはなし願いたいご容子に見えましたが", "惣左も、そういうたか", "はい。……何事かいま、ご息女のお蕗どのの身について、ひと方ならぬ心配事が起っておられるそうで……。そのことにつき、何かご隠居さまのお智慧なりお力でも拝借したい考えでいたのではないかと察しられますが", "む。おととい、城下へ出た折、そのようなうわさを、わしもちらりと小耳にはさんだが、べつに急いだことでもなかろうと考えて帰したがの……", "それが実はひどくさし迫っている事らしゅうございます", "聞いてやればよかったの", "いずれまた、日をあらためてお願いに参りましょう" ], [ "ご門を出てから十町ばかり参ったところ――あの増井川の桃源橋へかかるてまえであったそうです。くせ者どもは、附近の松ばやしや藪の陰に潜んでいたらしく、駕の灯を見ると、何かあいずをして一度に襲いかかり、まず惣左どの一名を目がけて斬りつけ、仆れたと見てから、蕗どのの駕へ集まっていたそうです。……駕の者や百姓たちも、それしか見届けぬうち、お知らせに駈けて来たと申しまする", "あいては何名ほどか", "五、六人という者もあり、もっといたという者もあり、一致いたしませぬ", "身なりは", "それも、すこぶるあいまいで、浪人じゃと、ひとりがいえば、いや博徒らしかったという者もありで……", "与平。そちは悦之進を伴って、提灯をたずさえ、篤と、附近の検分をいたして来い", "悦之進どのには、聞くやいなや押っとり刀で駈けつけまして、これにはおりませぬが", "不届きなやつ。いかような変が起ろうとて主人のゆるしも待たず駈けゆくなど、事にあたって進退のわきまえせぬ軽忽者。……よしよし、あとで叱りおこう。文八をつれてゆくがよい", "承知いたしました" ], [ "ここへ詫言などとは、なにを血迷うているか。そちは藩公の役人ではないか。わしは藩主でも何でもない。まだ事件の目鼻もつかぬまに。……去れ、去れ。はやく行ってさしずをせい", "はっ。……さし当っての処置はすべていたして参りました。惣左どのの遺骸は、検視のうえ、瑞龍山の本堂へ運びおき、下手人の捜査には、大高新右衛門が主となって急速に手わけをいたしました", "下手人どもは捕まりそうか", "さ、それが……おそらく至難ではないかと思われまする" ], [ "口にこそ出しませぬが、平常に。……十分、警めておりましたが、こよいは大勢のお集まり、それに、よもやこんなことに及ぼうとは、ゆめ、思いも依らずおりましたため", "不慮のこととは、これをいうのであろう。この隠居すら考えられぬことじゃった。ぜひもない", "……ただ、ご隠居さまのお身になんの事もなかっただけが", "わしの身辺へは、あまりに近づき難いため、わしへかかるべき災厄が、思わぬものへ罹ったような気がする。……禍いというものはいつでも弱いもの虐めではある", "無念にぞんじまする。これが、表だってもさしつかえない儀ならば、かならず下手人どもは、あす一日をまたずに引っ縛ってまいりましょうに", "やめい。やめい" ], [ "覚之丞", "はっ……", "もし、夜の明けるまでに、手際よく、下手人のかたのつかなんだときは、詮議の手は退いたがよい。そしてすべての者へ口どめせよ。藩への報告も内申ですませておくがよかろう。――いずれにせよ、死した者は回らず、攫われた二人も当分はもどるまい", "すべては、わたくしの落度で", "いやいや、不慮の変じゃ、神かくしじゃ。むりに追い求めれば、死なずともよい両女をかえって死なすかもしれん。その生命を断って山中に捨て、身をもって国外に逃げるなどという窮策に出るおそれは多分にある。……むしろこうなる上は、かれらがそもなんのためにかかる業をなして、清隠の閑居に祟りをなすか、しずかにそれをながめていようぞ" ], [ "ありがとう存じまする。……なにか、ご用を仰せつけください。悦之進どのも、まだもどりませぬから", "そこの瓶掛に、湯がわいておるか", "沸りかけております", "茶を入れい", "はい" ], [ "その通りじゃ。……山に対してふと思いおこしたのじゃ。わしの詩ではないが……誰でもよい。よい詩であろ", "はい" ], [ "おう……", "おうっ……" ], [ "いや、あれから、すこしばかりお寝みになった。そしてもう常のごとく、お学問所に坐しておられるが", "……そうか" ], [ "今朝ばかりはついお側のご用を欠いてしもうたが、ご隠居さまのごきげんは悪くはないか", "いや、べつに……。何ごとも平素とすこしもお変りは見えぬ。……だが、貴公のすがたを見ると、あいての者と、行き会ったかのように察しられるが、追いついたのか、下手人をひとりでも、捕えたのか", "……いや。……いや" ], [ "すまないが、老公へそっと、お取次ぎしてくれないか。……朝夕、お側に仕えているおれが、ひとに取次ぎをたのむなどというのはおかしいが……今朝はなんだかお叱りがあるような気がする。ゆうべ、おいいつけも仰がずに、無断で駈け出したことも、あとで不覚をしたと悔いられているし、なお、毎朝のご用を欠いて、今頃、もどって来たことも、重々、お詫びをせねばならぬ", "そんなお心のせまいご隠居さまではあらせられぬ。……ひとりで行き難ければ、いっしょに参ろう、お縁先から" ], [ "おまえ達は職人だから休めといわれたんじゃ、よけいに休むことはできませんや。旦那の一所懸命は、お役人の一時仕事ってやつで、こちとらの眼から見ると、いちばんよくねえ遣り口ですぜ", "なんだ、役人の一時仕事とは", "こちとらの仕事を見ていて、時々、これ見よがしに、手出しをして見せる。……止めたい時には止められるんだから、いくらだって、力を出せますよ。そしていいかげんな頃になると、すずしい顔をして行ってしまう", "こいつめ、佐々さんにかこつけて、おれのことをいってやがる" ], [ "もう、工事は、いまが半ばというところだな", "さようで" ], [ "いや権三、春以来、この事では、ずいぶんそちにも無理をいったが、ご費用には限りもあるのに、仕事には、やかましいことばかり申して", "どういたしまして。そう仰っしゃられると、てまえが面目ありません", "なぜか", "始めのことを思い出します。……初めて旦那が、図面をお持ちになって、いくらでひきうけるかと、おはなしにお越しなすったときは、水戸さまと聞いて、あいては大名、これは取り放題のうまい仕事がころげこんで来たと――このご建碑で、正直、てまえ根性では、ひと儲けするつもりでございました", "気のどくしたな。とんだあてがちがって", "いえいえ、あてがちがってくれたからこそ、てまえは今日でも、いえ一生涯、いい心もちを持っていられると、真実、ありがたく思っております。……もしそれが思いどおりに行って、この碑で、悪儲けでもしてごらんなさい。生涯、どんなに寝ざめがよくないかしれません。いや、死んだのちまで、この碑にたいして、後悔がのこりましょう。石は腐りませんからね", "そちの義心や、職人どもがみな献身的にやってくれていることは、先ごろ書状のうちにもしたためて、水戸の西山荘においであそばすお方へも達しておいたぞ", "旦那のおかげです……。まったく、旦那が、毎日のように、この碑に彰わされる正成公というお方のはなしを、てまえのような無智無学なものにもわかるように、根よく語り聞かせてくださらなかったら、きっと、旦那の眼をかすめて、手をぬくことしか、この仕事にも考えなかったかもしれません。……それが、旦那のおはなしを伺って、楠木正成公というお方、またその御夫人や、お子たちや、ご一族などの――なんといったらいいか、ご忠義のほどを知ってみると、その日からですよ。鑿にはいる力までちがって来たんでさ。ごま化して、儲けようなんて、考えても、身ぶるいが出るようになってしまいました。てまえばかりじゃございません、ここへ来て働く下職まで、みんな人間が変ってしまうから怖ろしいものですよ。……身は石屋だし、手には鑿を持っているが、おなじ御旗の下にいる兵士のような気になりましてね。……だから正成公はまだ、どうしても、この国に生きているっていう気がしてなりませんが、旦那、どんなものでしょう" ], [ "正成公ばかりではない。――古人はすべて死んでいない", "……へえ、そうでしょうか" ], [ "たとえばだよ、おまえの宗旨は法華だそうだが、おまえが艱難に克とうとするときは、日蓮のつよい意志を思い出して、自分の意志を励まそうとするだろう", "……ええ、日蓮さまも、ずいぶんご苦労なさいましたからね", "秀吉は、もう白骨のひとだが、逆境の若い者が、秀吉の幼少や少年のときを胸に呼び起せば、逆境何ものだという気をふるい出されよう。……どんな貧家に生れたものでも、自分をだめだと思い捨てるまえに、秀吉ほどではなくても、将来の夢を持とうという気になるだろう", "てまえも小さいとき、うちは貧乏だし、体はよわいし、死のうと思ったことなんかありましたが……そんなときには、誰か、自分を力づけてくれるものをさがしますね、いまの人よりも古い人のなかに", "生きているひとなら力になりそうなものだが世事雑多だ。生きている同士はかえって、ほんの心の友にも力にもなれない。――そこへゆくと、古人にそれを求めれば古人はいつでもわが師となってくれる、わが友ともなってくれる", "だから、古人は、生きているといえるわけで", "いやいやまだ理由がある。――国に国難がおこれば、元寇の折の時宗が世人の胸によみがえって来よう。また、浮華軽佻な時代のあとには、人はおのずから静思を求めて、遠い弘法をしたい、親鸞をおもい、道元のあとをさがすのだ――飢饉となれば、無名な篤農家の業績をあらためて見直したり、国がみだれれば忠臣の生涯をおのれにかえりみ、ひとに呼びかけあう――といったふうに", "なるほど", "だから、この国の土中にかくれた、過去の偉大な白骨は、この国の非常なときに応じて、いつでも、その時にふさわしい古人が、現在の生きているものから呼び迎えられる。そして文学やら絵やら口伝やら、あらゆる象をとおして、ひとの知性や血液にまではいってゆく", "ははあ、そうですか", "そうだろう。……知らぬまにその人のなかには、古人の意志が住んでいることになる。たとえば、おまえが半年のあいだ、正成公の碑にむかって、カチカチカチカチ鑿をもって仕事しているうちには、いつか、正成公のこころが、一滴の血ぐらいでも、おまえの意志のなかにはいって来たにちがいない。そう考えてみたら分ろう", "なんだか、わかり出しました", "だから、古人は白骨であるが死んではいない。つねに今の生けるひとのたましいをかりて、次の時代までの働きをしている", "おもしろいものですね", "いや、こわいな、ひとの生命の長さを考えると。五十年はめしを喰っているうちだけのことだ。生命の波及することは限りも知れない。次から次、次から次、国土とひとのあるかぎり、自分の生命は結果のない結果を及ぼしてゆく", "ちと、むずかしい", "はやいはなしが、この碑を建つという仕事にせよ、及ぼすところは、無限だろう", "だが旦那、いったい黄門さまは、何を思い出しなすって、ふいに、楠木正成さまの碑なんぞお建てになる気になったんですか", "いまの世のなかへ、地下の正成公を、およびする必要をお感じになったからだ。――ただ草蓬々の塚をあらためてご供養するだけなら、これはご隠居さまのお名をもってなされなくても、どこかの坊さんに頼めばいいわけだからな" ], [ "為吉さんか。どこへ行きなすった", "広厳寺へ、渋茶をもらいによ。――きょうは和尚がいたからそいってやった", "なんて?", "碑ができるために、黄門様から白米やら白銀やら、何かとご寄進もあるんだろうから、たまにはおれたちにも、供養をしてもよかろうぜって", "あははは。なんていったね", "蕎麦でも打たせて置こうから、晩にみなで来るがよい。貰うた新酒もあるほどに――と、お世辞をいった", "お世辞じゃ何もなるまい", "なに、かたい約束をしてきたのさ。親方も、佐々さんも、飲ける口だからね、よろこぶだろうぜ" ], [ "水が来た", "茶が来た" ], [ "なんでしょう。あんな畠のなかへ", "何か、碑が建つらしゅうございますね", "だれの碑で", "さあ、たれの碑やら?" ], [ "碑さ", "碑はわかっているが、たれの碑で", "うるせえなあ。ここを通るやつは、きっと訊きゃあがる。分らなければ分らねえでいいじゃねえか。建ったら、お詣りにおいで", "でも、畠のなかへ、いきなり出来るものにしちゃあ、おそろしく、立派じゃございませんか。たれか、金持の地主でも、あそこに守護神を祀ろうとでもいうんで?", "なにを、この野郎", "……おや", "なにが、おやだ", "怒らなくってもいいじゃありませんか", "怒らずにいられるか。いうにことをかいて、金持の守護神の碑かとはなんだ。やいっ", "褒めたんだからいいじゃありませんか。すばらしい碑が建ちそうだから、それで", "よしてくれ。こうみえても、おれたちのしている仕事は、そんなものたあものが違うんだ", "へえ……。では、誰ので", "謹んで聞けよ。楠木正成公の碑だ。見ろ、あの小屋にさえ、注連縄を張って、おれたちは、精進潔斎してやっているんだ", "楠木? ……なんていうひとですって", "正成公。正成公を、知らないのか", "聞いたことがありません", "あいそが尽きるなあ", "どこのお方で", "ばか野郎、この湊川で討死をなすった正成公を知らねえようなやつと、口をきくのも勿体ねえや" ], [ "ねえ、ご浪人、おまえさん侍だから、よくご存知だろう。このあんぽんたんに、はなしてやっておくんなさい", "なにをじゃ", "正成公のことを", "知らんて、……身ども、いっこうに、左様な人物のことは弁えん。幼少の折かなんぞに、寺の和尚が物語るのを聞いたことはあるが" ], [ "ア痛っ。――おのれ、なにをいたした", "撲られているくせに、何をされたか、わからねえのか", "よ、よくも" ], [ "素ッ首を", "なにを" ], [ "勘太。おめえは、途方もなく強いんだな", "よせやい。あいてが弱すぎるんだよ。おれの故郷には、船頭や物売りの中にだって、あんなのは歯も立たない腕っぷしのが、幾らだっているさ", "そういえば、いったいおめえの故郷は、どこなのか", "東のほうだよ", "東の方だって、広いじゃねえか", "箱根のむこうさ", "へんにかくすなあ", "おう、もう来たぜ、門前町へ。こん夜は広厳寺で、おれたちを振舞ってくれるってな" ], [ "旦那だって、吹きたいんでしょう。こんなに、大勢から、やんやと持てては", "ばかをいえ。おまえたちに聞かせるほどなら、野中でただ独り吹いていたほうが、よほどよく吹ける", "そら、始まったぞ。旦那の勿体ぶりが", "でも。ほんとだ", "そんなに、わしらの耳はふし穴ですかね", "まあ……な", "ひどい、ひどい" ], [ "もや助か。生意気なことをいうなあ。どこで覚えた、そんな文句を", "あそこに書いてあります", "どこに", "床の間に" ], [ "もや助。おまえにはこれが読めるのか", "……どうにか", "えらいな", "でも、これくらいは、わしの国では、駕かきでも、船頭でもみな読みます", "ふム……どこだ、故郷は", "えっ", "生れはどこか。そちの郷里は", "さ……その、東国のほうで" ], [ "みんな、寝ころんで聞いていいぞ。おれは、虚空が聞き手で、おまえたちが聞き人とは、思っていないんだから。――おまえたちは草の根にいる虫だと思っている", "へえ……じゃあわし達は、耳はふし穴で、身はおけらですか", "あははは。そんなに卑下せんでもいい。おれが吹きはじめようとすると、おまえたちが共に、硬くなって、息ぐるしそうに、突っぱっておるから、気楽にさせてやろうと思って申したことだ。……竹の音と一しょに、たましいを宇宙に遊ばせるつもりで聞け。よいか、気楽に" ], [ "仕事を休む。そいつはいかん。……まあ、怺えて、仕事にかかってくれ", "どうしてですえ", "つまらんではないか。泥棒に追い銭のようなものだ", "できませんよ、このむらむらする虫を抑えて、仕事をしろなんていっても", "仕事をしているうちに、自然と仕事にむらむらも忘れてしまう。さあかかろう", "いやだ。やるやつはやれ。三度のお飯をいただいている仕事道具をこんなにされ、親方が精進潔斎して彫った碑銘まで、あんなに土足で踏みにじられているのに……べら棒め、だまっていられるかってんだ。おれひとりでも、野郎をとっ捕まえに行くぜ。みんなは仕事していねえ" ], [ "為。――意気はいいが、また浪人者に追いまわされて、悲鳴をあげては何もなるまい。それに、ここらの形跡を見ると、ひとりでやった狼藉ではない。三人ぐらいな仲間はあるらしい。……だいじょうぶか貴様、ひとりで参っても", "……へい", "よせよせ。介三郎にまかせておけ。さあ権三、親方のそちから仕事にかからんではだめではないか。晩にまた、わしが尺八でも聴かせるから、きげんを直してかかってくれ。さあ、かかってくれい。……頼むから" ], [ "……あれだよ", "あれか。……ふうむ", "なんだい、侍のくせに、鍬をもってるなあ", "水戸の百姓侍だそうだ", "水戸か。なるほど" ], [ "野郎、こっちを向いて、尿をしていやがる。――佐々の旦那、もうなんぼ何でも、堪忍はできますまい。注連を張って、おれたちは仕事をしているってえのに、犬のような", "為っ、うるさい、黙って仕事せい!" ], [ "かならず、やり上げます", "たのむぞ、明春には、老公へもよいお報らせして、およろこびを得たいからな", "うけあいました" ], [ "おいおい、たれか、はなしの分るのはいないのか", "…………" ], [ "やあ、いつかの大将だな、そういつまで眼にかど立てているな。よく水汲みしておる、勘太というか、あいつもあれ以来は、すっかり俺におとなしくなってしまった。武士にたてを突くなど、損得を知らぬ骨頂というものだぞ", "ここは仕事場だ、あっちへ行ってくれ", "わかったか。ははは", "あっちへ行ってくれ", "いや、きょうは俺のほうから用事があるのだ。そこの小屋が空いたようだから、三日ばかり貸してもらいたい。ついでに、貴さまたちも、三日ばかり仕事を休め", "じょうだんいっちゃ困る。年内にやりあげるので、あとの日数も足らないところだ", "だれが、じょうだんを申したか、まッこのとおり、俺はほん気でいってるのだ。俺のほうでも年の暮どうしてもここが要用なのだ", "要用だって、ひとの仕事場へ来て、仕事を休めの、小屋を空けろのと、そんなばかなはなしがあるもんか", "こら、こら、その方などでは、はなしが分らん。分る者をひっぱって来い。この辺の顔役、花隈の熊と、生田の万という親分が、この街道すじの客をあいてに、毎年の例で、野天で餅つきの盆ござ興行をいたすのだ。それには、ここが恰好な場所ゆえ、三日のあいだ、立退けとはいわん、貸せと申すのだ。わかる者をつれて来い" ], [ "親方か、その方は", "そうです", "いま、聞いての通り、土地の顔役が、餅つき興行に、ここを借りたいと仰っしゃるのだ。いくらかの酒代はもらってやるから、三日のあいだ、あの小屋と、この辺に、ずっと縄を張って、借りうけるぞ。苦情はあるまいな" ], [ "申しおくれた、この方は柴田一角という", "それがしは牟礼大八", "やつがれは、浮田甚兵衛。……こう顔をそろえて来たわけは、われわれの世話になっている土地の顔役が", "あいや、それは承ったが、餅つき興行とやら、盆ござとやら何をいたすことですか", "いうまでもなく、野天ばくち。毎年の例で、この辺の港場の船持、漁夫、町の金持、街道すじの旅の者などみな集まる。――以前は寺を借りうけたものだが、人寄せには寄りが悪いし、町中では、年じゅう同じ場所というので、集まる顔が変らない。そこで野天が吉例となっておるが、――就いてはだな", "あ。しばらく", "なんだ。嫌というのか", "すると……ばくちですな", "いかにも", "賭博は国法で天下に禁じてあるはずですが", "知れきったことを", "それを白日の下で、しかも往還に近い街道すじでやれるのでござるか", "やれるから、やるのだ", "役人が参りませぬかな", "役人。……役人などはおれたちの飲み友達だ。それに今年が初めてじゃなし、ちゃんと、渡りがついておる", "……ふふむ" ], [ "では。おやりなさい", "いいな。むむ" ], [ "あの空小屋も借りるぞ。また蓆掛けを足すから、この辺にも、ずっと、露店の物売りが並ぶだろう。まあ三日間は、仕事のほうは、休んでくれい", "工事は休めぬ。職人どもの仕事はこれにて続けておるから、そちらは、こっちにかけかまいなく", "でも、雑沓するぞ", "まさか、墳墓の地域にまで、混雑はして来ますまい", "小屋のまわりと、通り道だけだが", "しからば、ご随意に", "はなしは、まとまった。……おういっ、親分" ], [ "どうしたい、懸合いは", "つきましたさ", "ついたか", "さっそく、蓆掛けですが", "小屋はできているんだから造作あねえ", "でもいろいろと、持込ませなくっちゃなりますまい", "あさってからのことだ。あしたでいい。そうきまったら、そこらへ飲みに行こう", "また、ですか", "何をいう。悪くもねえくせに。はははは" ], [ "やろうっ", "やっちまえ、やっちまえ", "こうなれやあ、血の雨でも、槍の雨でも持って来いだ", "佐々の旦那あ、見ていておくんなさい。しっ腰のない主持ちのおさむらいなんぞにゃあ、どうせ喧嘩はできまい" ], [ "待ってくれっ。みなさん、待っておくんなさい", "あ、勘太じゃあねえか", "へい、勘太です", "ばか野郎、なんで止めるんだ。いわばてめえの復讐のようなものだ。その天秤を持って、おれたちのあとについて来い", "いけません、いけません。仕事と喧嘩と、どっちが大事か考えておくんなさい。後生ですから、もうひとつ虫を抑えて" ], [ "お腹のたつのはもっともですが、佐々の旦那にしろ、何もあんな虫ケラどもが恐ろしくて、あいつらの難題をご承知なすったわけでもございますまい。――わしなんざ、現にあの中の浪人のひとりに、闇討ちをくらって、そのときの刀痕は、まだ朝夕の寒さにはうずいてなりません。でも、堪忍というのはここだ、大義と小義というのはこんな事にもいえるんだと、そう……いやそのたびに、楠木正成公のご一族がお忍びなすった無念さなどを思い合せましてね……へへへ、みんな佐々の旦那からの聞きかじりですが、何につけても、楠公のことを考えるんでさ。すると、なんともありませんや。……あはははは、こんな吝ッたれた喧嘩なんざあ、おかしくって、売る気にも買う気にもなれやしません", "…………" ], [ "いや旦那、大きにてまえの浅慮でした。もう何もいいますまい。……それにしても勘太、おめえからお講義を喰おうたあ思わなかった。おめえもまたいつのまにか、佐々の旦那にそっくりな口吻になったなあ", "どうも面目ございません", "なんの面目ねえことがあるものか。おれだって欣しい", "ここのお墓の土をふみ、湊川の水を毎日汲んでいて、身に沁みなかったら、人間じゃございません、一日ましにそう思って来たせいか、もうここの仕事も、年内でおしまいになるのかと思うと、なんだかさびしい気がします", "てめえにそういわれると、あなにでも入りたくなった。佐々の旦那、つまらねえことに暇をつぶしました。精出して取り返しますから、旦那も気を直しておくんなさい" ], [ "――な、なにしやがるっ", "野郎っ" ], [ "わかった。この喧嘩は、おととい連れ立って来た、生田の万と、花隈の熊と、あのふたりの喧嘩だぞ", "そうかな", "そうだとも、両方でわめき合っているいい分で知れるじゃあねえか。初めはふたりの顔役が合同でやるはなしだったのを、あれから何かもつれ合って、花隈の熊のほうが、一手でやり出したものだから、生田の万の子分が荒らしにやって来たんだ", "……ふふむ、そうかな", "そうかなあって、てめえだって以前はああいう仲間とつきあったこともあるんだろう", "あるから、浅ましさに、身ぶるいをしてるんだよ" ], [ "だれかと思えば、てめえはここの墓番だな。邪魔すると、ついでに、ぶった斬るぞ", "降りろっ。足が曲がるぞよ", "な、なんだと", "汝らの足に踏ませていい霊地ではない。降りねば、投げとばすぞ", "こいつが、大口を" ], [ "かッ……こ、この", "ちく、ちくしょうっ" ], [ "墓守の佐々とかいう田舎ざむらいからさきに片づけろ", "あいつをのめせ、あいつから先にたたんじまえ", "こっちの勝負はそのうえで来い" ], [ "見やがれ、うじ虫", "ござんなれだ", "ふみ潰せ" ], [ "権三。おるか", "へい", "勘太、どうした", "どうもしません", "みんな来い" ], [ "怪我人や、気を失っているものを、ひとまず小屋へみな運びこめ", "へい", "むしろや、ふとんや、何でもあつめて、寒くないようにしてやれ。――それから勘太、おまえが怪我をした時かかった医者を急いで呼んで来い", "へい", "それから為", "へい", "おまえは寺へ行って、ぼろきれや焼酎など、応急の手当てをする物やら、もっと寝具など、たくさん借りて来い。ひとりでは持ちきれまい三、四人つれて" ], [ "どうなさるおつもりです、佐々さん", "いま、土地の役所へ、使いをやりましたから、検視が来るでしょう", "きついご迷惑がかかるかも知れませんな、死人もございましょう", "四人ばかりは助かりそうもない" ], [ "――が、ご心配には及びません。いい開きはそれがしが十分いたしますゆえ", "黒白は分りきっていますが、何分にも、土地の役人のうちには、顔役などと、かなり親しいものもいないではありませんから" ], [ "……み、みやがれ", "忌々しいなあ" ], [ "佐々の旦那。寺からいろんな物は借りて来たが、いっそのこと、寺の衆に頼んじまったらどうです。こんなうじ虫", "わし達の手にかけた者だ、癒すのも、わし達の手でやろう", "えっ、そんな面倒まで、見てやるつもりですか。寺に頼めねえなら、村の百姓家へでも運びこんでは", "いやいや、百姓たちの迷惑になろう。こんな血なまぐさいものを、村へ持ちこむだけでもおもしろくない", "では、どうするんで", "この小屋が手頃。こん夜からわしもここに泊るから、おまえ達も気のどくだが、二、三人ずつ交る交る看護にここへ泊ってくれい", "へえ……この寒いのに、ここへ寝泊りするんですか", "ぜひもない", "懲らしたやつらを、またそんなに甘やかすくらいなら、やはり喧嘩しねえほうがようございましたね", "……まあ、そんなものかな" ], [ "おてまえは?", "もと水戸家の臣、佐々介三郎でござる。よんどころなく" ], [ "ともかく、参るがいい", "どこへ", "代官所へ", "行く要はない。……それよりも、はやく死人、怪我人などの検視をすませてもらいたい。さもないと、手おくれになる重体もおる", "なにをいう、その方が手をかけておきながら" ], [ "逃げかくれするこの方ではござらぬ。お答えはあとでいたそう", "いや、逃げるおそれがある。縄をうけろ", "ばかなっ", "なにが、ばかだ。十手が見えんか", "この碑のできあがるまでは、死すともここを去る介三郎ではない", "水戸家のご隠居が寄進とかお物好きとか聞いておるが、この碑はいったい何じゃ。かような場所へ、かような物を建てたりするゆえ、ところの者と、不測の争いを起したりいたすのじゃ。いずれにせよ、代官所まで参ってものを申せ", "お役人", "なにか", "おてまえは、ほんとにこの碑が何人の碑たるをご存知ないのでござるか", "知らん……こんな畑のなかの古塚などの由来は", "ああ" ], [ "仰せの儀、かしこまってござるが、ひとつ、伺っておきたいことがある。――ご当所におかれては、賭博はお構いないものでござろうか。ご法令はないのでござるか", "ば、ばかな。天下いずこに、そんな所が", "しからばなぜ、白昼、しかも街道からさえ見えるところで、小屋がけで、かかる悪戯をしている遊徒を、お取締りにならぬのですか", "その小屋は、そのほうどもの小屋だろうが", "露店が出、喰い物屋がならび、きのうきょう、このような雑沓を", "畑の中まで、見廻ってはおられん", "左様か。……したが、あの小屋のなかに唸いておる遊徒のなかに、日ごろお親しい者はおりますまいな", "だまれ。役人を何だと心得おるか。かならず広厳寺宛に、召状をさし向けるゆえ、相違なくその節は出頭いたせよ" ], [ "もう年内の日も幾日もありませんぜ。このぶんじゃあ、とてもお石碑のまわりまできれいに仕事は終りませんが", "どうも……ぜひもない", "正月を越したくねえもんです。何とかして", "不測の天災と思うてあきらめるのだな", "旦那がそうお覚悟ならばようございますが……だが、あんな犬畜生みてえなのを、いくら親切にしてやったところで、癒ればまた、世間へ出てろくなことはしませんぜ。へたアすれやあ、癒してもらった手で、また旦那へ闇討ちでもするぐらいが関のやまだろう", "まあ、そう悪くいうな。……かあいそうに、枕をならべて聞いている", "自業自得というもんでさ" ], [ "ご浪人。ご両所", "はっ……", "雑炊が煮えたらしい。さきにあなた方から箸をつけておやんなさい。拙者もいただこう。さ、茶碗をお出しなさい", "いや、自分で盛ります。どうもおそれ入ります。これは恐縮千万で" ], [ "旦那、わしらの飲みのこした酒が小屋にありますが、おあがりになりませんか", "おう、花隈の熊か。酒があると……それは好物、もらおうか", "持って参りましょう" ], [ "なんと、そうではあるまいか", "それに違いありません。……いやなんとも、きのうまでの自分は面目ない限りでござる。何事もどうかおゆるしを", "いやいやおたがいがその人間でござる。一日のうちでも、朝には善性をあきらかにして、善人となりながら、午には紛れて悪事に眼を血ばしらせ、夕べにはまた煩悩を追いなど――一日のまにさえ一瞬一瞬、何十ぺんも、善となり悪となり、神となり魔となり、帰するところなく漂う心を身にかくしておるのがおたがい人間でござるよ。――さように卑下めさるな、卑下めさるな", "ありがとう存じまする。貴殿すらそうかと思うと、何やら、ほっと助かったようなここちがしまする", "なんの、それがしなど、まだ未熟未熟。ずいぶん心がけながら、一日のうちにはまだ幾度か、ふと心が萎え、あらぬ悪心を萌してみたり、煩悩に晦まされたり、そんな弱点の隙間を心にくりかえしておる。……ただ、悪心はきざしても、それが行動までに現れぬうち、心のそこで抑えつけ抑えつけいたしておるので――何やら善い人間のように観られておるが、どうしてこれでなかなか物騒な人間なのです", "…………" ], [ "失礼ですが、それまでに、貴公はどこでどういうご修行をつまれたので……?", "修行などというほどなことはしておりませんが、養家の貧したため十五歳で京都の妙心寺に小僧にやられ、名を十竹ともらい、笈を負うて、若いあいだ、南都、高野、諸山を遍参して、すこしばかり仏法をかじったり、一切経を読んでみたり、また論語にしがみついたりしましたが――ふと、国学にはいって、この皇国の真髄を明示されてから、断然、髪をたくわえて、江戸にのぼりました。――三十歳ごろですそれが。……いや壮気満々の時代で、一剣天下を治めんというような気概でしたな。はははは" ], [ "して、武芸はどこでご修行になられましたか", "ほんの、たしなみ程度、何流というような、履歴は持ちません。それがしのいささか上手は、尺八だけでござるよ" ], [ "身の恥はもうつつめど及ばずですから、あからさまに恥ずかしいお訊ねをいたすが、それほどな貴方、また水戸の老公ほどなお方が、碑をたて、世に顕そうとまで、崇拝しておられる楠木正成とは、いったい、どれほど偉かった人物でしょうか。――この後はわれわれも心して、せめてその人の伝記なりと知ろうとぞんずるが……", "いや、そこへ気づかれたら、ぜひ深くお学びあるがよい。何をつつもう。先頃、各〻の狼藉にたいして、自分は一たんは、憤怒に燃え、みなごろしにもせんとまで思いましたが、いや待て、ばくちに日を暮すあぶれ者とても、そのあぶれ者に飼われている浪人とても、まことに畏れ多けれど、わが大君の民くさでない者はない。なんでみなごろしに出来よう。国賊と呼ばねばならぬ不心得者でもあるなれば知らぬこと――と、そう自分を寛く大きく考え直させてくれたものも、実は、楠公のご精神が、ふと、咄嗟に胸にひらめいたからであった。楠公の嫡子正行公のなされた事だが……", "それは、どういうご事績ですか。……もし、あの時、あなたがわれわれを、みなごろしにしようとしたら、みなごろしの目に遭ったでしょう。……数百年まえの楠公父子が、われわれ如き末世のやくざを、救うてくれたかと考えると不思議なここちに打たれます", "では、おはなし申そうか。……たれか、焚火へ薪をもすこし差しくべないか", "へい" ], [ "――暗さは暗し、うしろに敵は迫る。度をうしなった足利勢は、ただ一すじの退路渡辺橋へ、われがちにどっと乗しかかったが、馬は狂い、人と人はもつれあい、かき落されて淀川の激流へ転け落ちたものが何百人かしれなかった", "…………", "正行はそれを見るや、追撃の兵をとめて、あれ救え、凍え死のうにと、五百余人の敵兵をひきあげて捕虜とした", "…………", "夜明けの河水にひたされて、鎧の下着も凍えつらん、者ども、諸所に火を焚け、大焚火をあげよ。――小楠公はそう下知された。救いあげた捕虜たちを、まず温もらせてやったのだ。そしてなお、傷ついた者には薬をあたえ、武器や馬を失くした者には武器や馬をあたえ、大釜に粥を煮て、飢えをもなぐさめ、さてその上で、一同にこういった――", "…………", "あわれや兵、おたがいが武士である。勝つも負くるも時の運、敗れて辱ということはない。……だが、不愍なのはおまえたちの立場である。人の子と生れ、同じ弓矢を手にしながら、なんで賊軍の汚名の下に可惜血をながしているか。――おまえ方も生れながらの賊ではない、みな天子の赤子であるはずだ。ただ主人足利尊氏の不心得からやむなくそうなったものだろうが、主に仕えては死を惜しまぬは、また武門の臣節でもある。かえすがえすも尊氏の行いは憎まれるが、思うに、そちたちはただ不愍というほかない。憎んで斬るにも足らないものだ。――ただその忠義が、小節に止まって、大義でないことが惜しまれるものの、これもぜひなき時勢の濁りだろう。早々、京都に帰って、元の主人に忠勤するがいい。また、この中には、年老いた母や父をもつ者もいるであろう。妻もあらん、子たちも持っておりつろう。……縁あらばまたふたたび戦場で会うやもしれぬが、今日のところは放してつかわす。いざ、帰れ、いざ行けよ。――と正行がいいわたした。ところが、五百の捕虜のうち、立ち去るものは幾人もなく、あらかたの兵が、おいおい声をあげて泣き、どうぞ今日からは、菊水の御旗の下で、働かせていただきたい、大義の兵となって、あなたの馬前で死にたいと――ほとんどすべての捕虜が、誓って、小楠公の手についてしまったということだ。……なんと、これが二十歳を一つすぎたばかりの若いひとに出来ることだろうか", "…………", "わしは、このはなしを思い出すたび小楠公その人はもとよりだが正成公の偉さを思う。また、母なるお方の訓育に頭がさがる……", "…………" ], [ "おわらい下さい。こん夜かぎり、浮田甚兵衛、牟礼大八のふたりは相果て、明朝から生れかわるつもりでござる", "なに、生れかわる?", "さればで" ], [ "さては、おまえは水戸の者だったか", "ご領民でございます。水戸のお名を汚すような", "いやいや、前身は知らぬが、わしが知ってからのおまえは、見上げたものだ。何ぞ、身の上に仔細のある者とは疑っていたが", "菓子屋の軒から。――ようし、いまにきっと、ここの店へ、上菓子を買いに来て、亭主に手をつかせてみせるぞ――と、そう心に誓った日から、そのままご城下を去って、あちこち、地道な働き口をさがしておりました。が、いい奉公口も見あたらず、箱根に来て、駕かきの仲間にはいっているところを……実あ旦那にお目にかかって、おすがりしたわけでございました", "そうか。道理で……おまえのあの時の顔つきは怖ろしく真剣だった。いや、その後、ここへ来て石工手伝いしているあいだも、その心が底にあるせいだろう、どこか違っているところがあった", "旦那っ……伺います、正直に。……こうやって働いていたら、てまえは人間になれましょうか", "なれる!", "菓子屋へ行って、上菓子をくれといっても、辱しめられない男になれましょうか", "なれるとも", "いや、ここへ来てから、もうそんなけちな意地は突っ張っておりません。……正成公と同じ皇国の土に埋まる人間です。てまえのようなものでも、皇国の民のひとりだといっていいでしょうか。そう思っていいでしょうか", "ばかっ" ], [ "正成公の命日は、五月二十五日だが、忌日にこだわる必要はあるまい。正月の五日、小やかな祭でも執り行って、関係者一同に集まってもらおうと考えておるが……", "では、その日にまた、ここでお目にかかるといたそう。みんなも、その日には、来るだろうな" ], [ "やって来ます", "参りますとも" ], [ "そうでしょう、庶民のうちにはいると、神も仏も、本来のものは稀薄になって、形のうえのことが、重大に支配して来ますから", "拙僧はこう解しています。仏法渡来までの日本には、仏教はなかったのでありますし、神は日本とともに、その発祥建国から御柱としてあるものでありますから、どこまでも、神祭は国教であり、仏祠は民教であるというふうに", "これはまた、寺院におられながら、思いきったご解釈ですな。仏徒の方々のうちには、そうはっきり考えているひとが、ほかにも多くありません", "まず、少ないでしょう。むしろ神事の祭と対立しているように、堂塔の大を誇ったり、権門の帰依を恃んでいるほうが、まず偽らない現実です", "対立などは困る", "ですからはっきり拙僧の申したように、庶民も分っていなければいけません。妙な迷信や混信の弊もそこに生じましょう。拙僧の解釈はきっと仏徒には不平でしょうが、そもそも、はっきりした国体のうえへ、中古に請来された仏教です。人間の煩悩五欲生死解脱などのうえに、非常に大きな光明をもたらして、日常生活に直接むすびつきましたから、上下を通じて、僧門の勢力は、神社のまつりなどの比ではありませんが、これをもって、神祭のすたりが来たすようでは、国体の弱まりではありませぬか", "同感ですな。貴僧から神祭の大事をうけたまわろうとは思わなかった", "いやどうも、佐々さんに神祭の大事を説くなんて、これなん、釈迦に説法というものでしょう。――が、その釈尊にしたところで、彼は異国の聖者ですが、法縁によって、――大和島根にまで遥々その仏典や根本教義など、すべてを舶載して来て、この国の土に新しい文化を築き、この国の民の体血をとおして、世々の歴史にまで教義の力をあらわして来たからには、すでに釈尊そのものも、異国の聖者ではありません。日本の釈尊といってよろしいでしょう。宗教に国境なしとはいいますが、国家には千古うごかし難い国体というものがありますからな。愚僧は愚僧のような考え方しかできません", "いや、うれしい。神をもって人にふれるときは、神でない人は世界にないようなここちがする。これがこの国の国風というものでしょうか", "とはいえ、実は楠公碑の建立で、あなたがこの寺へ泊って下されたために、朝夕、いろいろなおはなしに接し、だいぶ愚僧も、あなたから学んで来たのです", "それはご謙遜にすぎる。……が、借問しますが、貴僧のお説によると、伽藍のうちにも、神祭があってよいわけですが、このお寺には神棚などありますか", "神棚。……いやそれは、ありませんな", "どうしてないので?", "どうしてということもござらぬが、代々の住持も、ついそれは持たなかったものとみえまする。……いやいかん、矛盾しますな、自分の言と。……さっそく設けましょう、本院のうちにも神棚を奉じ、それから、愚僧の説を、ひとにも説くことにしましょう。はははは。いや何事も、人間はこの通り、矛盾だらけとみえますな" ], [ "もうお別れでございますか", "まことに、お名残り惜しいことで" ], [ "やあ、ありがとう。では、わしも撒いて行こうか", "みなさんも手伝っておくんなさい", "よろしい", "心得た" ], [ "まつりじゃ、まつりじゃ。よろこべ、ことほげ", "碑のまつり、人のまつり、世間のまつり、天地のまつり" ], [ "なに、ここで別れる? ……。これからどこへ参るつもりか", "あてなどはございません。河岸へ行って軽子をしようと、鉄砲笊をかついで紙屑買いをやろうと、無二無三にやって行けば、働いているうちに思案はひとりでにつくと思っているだけで", "じゃあ、もう一晩一しょに送ろう。どこか、旅籠をとって", "でも旦那は、これから真っすぐに、水戸様の小石川のおやしきへおいでになるんじゃございませんか", "もう日も暮れたから、参邸は明朝にする。どこかその辺へ一泊して。――勘太、宿をさがせ", "この辺には、商人宿や博労宿ばかりのようですが", "あれでよかろう。木賃らしいが、土間に腰かけておる老爺の老爺ぶりがよい" ], [ "なに、風呂がない。野天風呂もないのか", "風呂桶を繕しにやったで", "それは" ], [ "勘太、行ってみようか", "どこへですか", "ちょうちん風呂とかへ", "湯女のいるとこですか。真っ平です", "おまえはまだ、そういう所へ足ぶみするのは、恐いとみえるな", "何しろ、性根を入れ替えてから一年にもならないので、どうも自分でもまだ自分に保証がつきません。絃の音を聞き、白粉を嗅いで、ふらふらと、元の勘太に返っちまったりしたら――ああ思い出してもぞっとする", "ははは。弱いやつ", "旦那、おひとりで、見ておいでなさい", "然らば、わしはひとりで行って来る。そちはただの銭湯に行くか" ], [ "おらあ今日、仕事先で聞いて来たのだ", "この頃は、どこだえ", "仕事場かい。神田橋内さ", "じゃあまだ柳沢さまのおやしきへ行っているのか", "お邸内のお成御殿は、おととしから去年にかけて竣工がっているが、またことしの春も、お成があるというので、庭のお手入れだ。大したものだぜ", "へえ、また柳沢家へ、将軍さまのお成があるのかえ", "いうなよ、あまり" ], [ "えらいお方だと聞いているけれど、黄門卿ともあろう人がよ、どうして気狂いになぞなったんだろう", "将軍家の御意にかなわないために、おととし急にご隠居なすって、水戸の片田舎に、世盛りの中納言さまとは、まるでちがった暮しをしているんで、いろいろ思いつめたのじゃあなかろうかなんて――柳沢さまの家来ははなしていたが", "なにか、乱暴でもするのかな", "いろいろやるらしいよ。だが、なんたって、前中納言、ご三家のうちだ。めったなことは洩れないように、極々、内密にしているらしいなあ" ], [ "ごじょうだんでしょう。追剥ぎなぞじゃございません。ちょっと、伺いたいことがあって", "おめえはいま、銭湯のなかにいた男だろう", "そうでございます。おはなしを聞いていましたところ、水戸様のご隠居が", "おいおいそんな事あ、往来でいうこっちゃあねえ。何をいやがるんで", "往来でいえないことを、銭湯で仰っしゃるのは、おかしいじゃございませんか", "喧嘩を売るのか" ], [ "は、は、は", "あははは" ], [ "老公がいつも口ぐせのように仰せられるのは、死後の花見ということだ。生きている短いあいだにしたことを、生きているまに、その効果をご覧なされようとはお考えになっていない", "百年の後を待つということか。なるほどそれは、老公のご人格らしいし、またゆかしいお心がけにはちがいない。けれど、いちど根まで枯れ果てた木から花は見られまい。世の中の廃頽も、余りに度をこえて腐りきると、救い難いものとなるし、それを革めるには、乱世の惨事と地を蔽うほど血を見ねばやれなくなる", "心配するな、又四郎、まだそこまでは元禄の世も腐ってはいない", "いや、貴公はあまり知らないからであろう。西山荘にいなければ、古書や遺蹟をさぐって歩き、また楠公碑を建つことにも、一年あまりか没頭して、京、大坂や江戸の世相を――いやその裏面をふかく観られる機会も少ないため、いわば世俗のことにはうとくおられる", "どれほど、世相が廃れておろうと――又四郎、おたがい、さむらいだけは、まだあるものを持っておろう。さむらいと百姓だけが、しっかと、この国の根になっておりさえすれば、何の木にも花の開落、折々の狂い咲きはある。案じるな。――だいじょうぶだいじょうぶ" ], [ "眠くなったか", "ばかをいえ", "……では一体、さいごのところ、おぬしは現状の世にたいして、どう生きて行こうというのか。まさか、湯女をあいてに、酒ばかりのんで、いたずらに大義を楯に俗衆を罵るのみを能としてみずから慰めていられるほど、おぬしの性格は、都合よく出来てもいないしな……", "どう生きて行くと? ……おろかなことを、おれは、どう死のうかという死に方しか考えていない", "同じことではないか" ], [ "老公のお怒りも覚悟のうえで、西山荘を出奔したからには、いずれは――生きようなどという道を選んで出たのでないことは分るが――それにせよ何をそう思いつめたのか。又四郎。おぬしはちと行き過ぎておりはせぬか", "自分ひとりなら知らぬこと。江橋林助まで説いて共に出郷したのだ。なんでうかつに行動しよう。いまにわかる、見ていてくれ。おれもあだには死なぬし、江橋林助にも犬死はさせん", "江橋はいま、どこにおるか", "やはり江戸表に来ておるが、近頃、あるところへ住みこんでおる、訊いてくれるな", "訊くまい。それは。……しかしおれが貴公の胸を叩くぶんには、いくら問いつめてもかまわぬと思う。君とおれとの交友だ。ゆるすだろうな", "む、む。何を……", "およそ察してはいるが、おぬしの抱いている真底の目的を。意図を。――打ち明けられぬか", "他言してくれるな", "もとよりのこと", "また、止めてくれるな", "それほどの決心なら、止めても止まるまい。とにかく聞こう", "老公が職におられた時から、暗に老公のご献策をさまたげて、ご退職後は、わが世の春と、いよいよ思うままに綱吉将軍の歓心を捉え、政ごとを私せんとしている人間がある。かれは幕府の廟にいながら、大奥にも威力をもって両棲の佞官だ。そして天下の弊風と百害はかれの施政から招かれているといっていい", "その柳沢吉保を、おぬしはどうするというつもりか", "万民のため、かれを刺す。つづいてかれと結んで、水戸家のうちに、自己の野望をもくろんでおる不敵な賊臣――藤井紋太夫をお家のためにころす。こうふたつの目的を果したらおれは死んでいいと思っている", "……そうか。……よかろうといいたいが、世の中というものは、また、時流の赴くところというものは、おぬしが考えているほど、簡単なものではない、吉保を除いたらいまの悪弊が世上から一掃されるか。断じて、おれは否という。もっと悪くなるかもしれぬ。――また、藤井紋太夫を除いたら、水藩のうちにわだかまっているある分子が活動をやめるかといえば、これも疑わしい。かえって不測な禍いが老公やご当主のお身にふりかからぬともかぎらぬ", "その禍いのないようにおれはすでに水戸の臣籍から浪人している" ], [ "ともあれ、血気はよせ、力でへし曲げようとするような覇気はつつしむことだ。老公のお考えは、もっと遠大なところにある", "間にあえばいいが、間にあうまい。やがて吉保は宰相にものぼり天下を私するにちがいない", "そうしたら、そうさせておけ。歴史をみろ、長くつづくわけはない", "そんな世に一日たりと生きていたくはない。黙視しておれるものか", "とにかく、いちど帰参したらどうだ。おれが帰るとき一しょに、……西山荘へ", "ば、ばかな" ], [ "……迷惑をかけたなあ。隙を見て、外へひっぱり出すから、貴公は、そのまま坐っていてくれ。貴公を縄にかけようとはしまい", "迷惑などかまわぬが、何だ……いったい?", "町奉行の手先だろう", "捕手か", "捕手に追われる覚えはないが、罪のあるなしなど問題ではないのだ。いまの幕吏の半分は、吉保の私兵といってもいいものばかりだからな", "もう、先にも、覚られているのか……", "水戸浪人と聞くだけでも、吉保はおぞ気をふるう。おれのあとには、絶えず何者か眼を光らしたのがつき纏っている。――が、案じてくれるな。そんなものに、手ごめになる又四郎ではない" ], [ "……おかしいぜ?", "神田河岸で、植木職の安をころして逃げたさっきの暴れ者たあ、まるでちがう", "あの田舎者も、たしかにさっき表から、この旅籠へ這入ったが", "じゃあ、ほかの部屋だろう。宿のおやじを起してみろ" ], [ "すぐ、お別れ申しますから、ここでお詫びだけして参ります", "なに、別れに来たと。あしたの朝でもよかろう", "それでは、気がすみませんから、夜の明けないうち、自分から自首してまいります", "自首して出ると? ……何をしたのだ、いったい", "ひとをひとり打殺しました。些細なことから、銭湯の帰り途に", "えっ、おまえがか?" ], [ "湊川でも、あれほどな我慢のできたそちが、なんでそんな乱暴したか。勘太、わけがあろう。何かわけがあろう", "あとで、考えてみれば、大してわけもありません。ただ、銭湯の中で、水戸のご隠居さまが近ごろ気が狂ったと、うわさしている男がいまして、そいつが、柳沢家に出入りしている植木職の頭と聞きむかむかと、しきりに胸がわるくなっていました。……まったく、そのむかっ腹がした出来心でございます", "なに、お国表の老公が、ご発狂なされたと、町はうわさしていたか", "嘘か、ほんとか、何しても、聞き捨てにならないことと、その男が、銭湯を出たあとをつけて、呼びとめたのが、まちがいの因でした。つい、堪忍をやぶっちまって。……ああ、まだいけねえ。だめです。これから自首して、もし遠島か牢舎ぐらいで、生命がありましたら、もう一ぺん生れ直します。どうかごきげんよう" ], [ "さすがのてまえも、今日の善尽し美尽したご馳走には、もう……また口ぐせ……いや十分にいただいて、これ以上は入りません。そろそろ、おいとまを", "待て、酒はすすめぬ。湯漬なとどうじゃ", "ありがとう存じますが、明るいうちから、まだ別間に、たれかご来客のようですから", "……む、む、数寄屋の客か。……あれはまだ待たせておいても大事ない", "どなた様ですか", "水戸の……ほれ、あれじゃ", "藤井紋太夫とやらで", "されば", "非常な才人だそうでございますな。よくうわさを聞きますが", "さようか", "失礼でございますが、水戸家における柳沢侯じゃという評をなす者などございます。おそらくあなた様につぐ才人であろうと……" ], [ "その後、西山のほうは、変りはないか。隠居の動静は、近ごろどうじゃな", "まったく、百姓めかして、他念なげにはお見うけされまするが、本来、豪毅なお気性、あのままとは存じられませぬ", "もとよりのこと、ゆめ、あの隠居には、油断はならぬ。天下に怖いものはないが、この吉保にも、あの老人だけは苦手である。思えばそちはよくもよくも、ああいう主君の下に三十年も無事に仕えて来たものじゃ。それも、ただ凡々ではなく、無二の者と、重用されて来たところは、そちも隠居以上、油断のならぬ男とみえる", "おからかい遊ばしては困ります。そういう論法でいえば、あなた様が将軍家や大奥をうごかされる才腕など、何とお称えしてよいか、適当なことばもちょっと見当りません", "ははは。さほどでもない", "ご謙遜です", "いうな。口舌では、所詮かなわん", "――が、てまえの望みは小さく、あなた様のお希望は、いわゆる大望です。当然、格のちがいは是非もありません", "何しても、助力してくれい。わしの望みの成るは、そちの望みが成るも同じと思うて――", "さればこそ、水戸家だけでも菲才には重荷にすぎる身を、こうして、ご当家のお為には、粉骨砕身を誓っておりますが、なお、ご不満でございましょうか", "いや、いや。不満どころではない。水戸殿をして、隠居のほかなき窮地へまで追い陥したのも、内部にあって、そちがよく吉保と呼吸を合せてくれたからだ。――また、その前後から揉めておる将軍家のお世嗣についてもな", "水戸のご隠居には、ご在職中から、甲府綱豊さまを擁し、あなたのご意中は、紀伊綱教さまにありました", "そうだ、今とても。……将軍家のお心もまた", "……ですが、ほんとのところは" ], [ "……打割ったお胸のなかを、敢て、臆測しますならば、あなた様が、将軍家のお世嗣として立てたいお方は――甲府どのでも、紀伊どのでもございますまい", "では誰じゃというか", "まだお八歳にしかおなりなさいませぬが、ご当家において、ご養育あそばされている、吉里君ではないかと", "なに。なに" ], [ "――すでにてまえは、水戸家の重職にありながら、先主光圀公を、将軍家の君側からも、大奥からも、ご政治向きはもちろん、あらゆる所から排斥なされようとしたあなた様の画策に与した者ではございませんか", "たれが、そうでないと、そちを疎外したか", "ご銘記ください……" ], [ "――てまえにしてみれば、その事は、実に、職を賭し、一命を賭したうえでいたしたことです。ご当家の老職、藪田五郎左衛門のむすめは、てまえの妻であり、舅の仕えるご主君なればまったくの他家とは思われぬ情もございましたが……さりとて、軽々には、荷担申し上げられぬ大事でございました", "さればこそ、儂とても、そちを他人あつかいはしておらぬ", "なぜ、もう一歩、吉保のために、あらゆる智もかせ腕もかせと、てまえをお用い遊ばしてくださらないか。ひがみでもございましょうか、紋太夫はそうおうらみに存ずるのです。――あなた様のお望みが、老中の職や、諸侯並ぐらいなもので、ご満足あろうとは、てまえには信じられません", "…………" ], [ "……惜しい男だ。紋太夫、そちが水戸家の老臣でなかったら、いまでも、もっと要職へ登用してやれたろうに", "おことばですが、てまえにも望みがあります。あなた様のお望みを小さくしたようなものが。……それを知るものは、あなた様よりないはずです。また、あなた様の遠大なお胸の底もおそらく、紋太夫しかまだ知りますまい", "油断のならぬやつ。もういうな", "いいますまい。――が一言、お諫めしておきたいのは、大事をお急ぎあってはいけません。まず紀伊どのを、お世嗣に立てられ、その次代の将軍家に、吉里君をお立てあそばすぐらいなお気長さで徐々、お計りなさいませ", "……。シイ" ], [ "杉山検校でございますな", "そうじゃ、時折、眠りにつくまえ療治してもろうておるが、老人気短か者で、よう渋面を作る", "諸家から招きが多いようですから、むりもございますまい。長座いたしましたが、てまえも程なくいとまいたします", "そちの長座ではない。吉保の身勝手じゃ。まあ話せ" ], [ "西山の隠居には、昨年から、兵庫の湊川とやらに、楠公の碑を建てにかかっておるとか聞いたが、もう出来たのかな", "係りの佐々介三郎なる者が、先頃、西山への帰途、小石川のお館にも立ち寄って、委細報告して帰りましたが、それによると、はや竣工した由にございまする", "どういう本心かの", "本心とは", "隠居の考えのあるところは。――水戸の田舎にひき籠って、鍬など持っているかと聞けば、古文書や史籍を借ると称して、堂上や諸侯へ使臣を通わせ、また、碑を建つなど。……湊川へはそのあいだ自身で出向いてはおらぬのか", "一切、お微行はございません。もっとも、お若い頃には、よく諸国を飛び歩かれたものですが", "いつか柳営で、その旅のはなしが出た折、将軍家の問いにたいし黄門光圀が答えられたことばには、自分ほど世間を歩いていないものはない、東北では、将軍家のお供をして、日光の御廟へ詣ったのが、ただ一つの思い出であり、東海道筋では、幼年のとき鎌倉の菩提寺へ参詣したことがある限りじゃ。――この老齢にいたるまで、旅といえば、そのふたつが、最も遠方に行った旅でしかない――などと喞っていたが", "それは公儀へも、ちゃんとお届けした上の公然なる旅だけを仰っしゃったのでしょう。どうして" ], [ "なかなかそんなものではありません。三十四歳で当主につかれるまでのあいだは、何分、ご自由でしたから、お部屋附の若ざむらい五、六名を、お頭巾組と称して、みな、つねに黒い頭巾をよく被られて、時にはその影武者をお部屋の主に見せておき、ご自分は一、二名のものを連れたきりで、ぷいと出たまま、ふた月も三月もお館へ帰られないことなど、屡〻であったように覚えておりまする", "どこへ行ったのか", "天海を翔けあるいて来たなどとよく冗談をいっておられましたが――恐らくあのお方は、日本じゅうご存知ないところはございますまい", "ふム……。その頃、そちは?", "まだ、お小姓の端、ちょこなんと、加えられたばかりの幼年でございました" ], [ "その影武者めいた幾人もの家臣は、いまでも、西山荘の隠居の身近におるのであろうか", "いや、お若い頃のことです。その後はもう……", "とにかく、正面を見ただけでは、解り難い人だ。柔和かと思えば剛毅、無策かと思えば遠謀家。あの隠居だけは、端倪できぬ", "あなた様とは、よい太刀打かな――といわれた大名があるそうですな", "そうか", "いまのところでは、たしかにあなた様のご勝利といえましょう" ], [ "――そうして、水戸どのが若い頃には、頭巾組などという影武者をおいて、諸国を微行の旅していたとあるが、一体、何を目的に歩いていたものであろう。まさかただの遊びや見物の廻国ではあるまい", "もとよりです。ちと口外を憚りますが……", "かまわぬ。邸内の深殿、ここには、ひともおらぬし", "極秘ですが、備前の池田新太郎少将などと、密かに、お会いなされたこともあります。そのほか、有力な西藩の諸侯や、公卿堂上中のさる方々とも", "何のために?", "ご烱眼も届きませぬか。青年からご壮年になるまで、或いはいまも――光圀公のお胸にひそんでいることは――幕府の権、政一切をあげて、天朝へお還しさせ申さんという恐ろしいお望みにあるのです。これを知るものは、同藩の一部のほか、外部へおもらしいたすのは、いまが初めてでござりますが", "でも、水戸は三家の一、また黄門光圀は、権現さまのお孫でないか。何不自由ない身分にありながら", "いや、あの方には、そういうご思慮はとんとありません。何を仰っしゃるにも、大義と国体です。権現さまの幾多のお子お孫たちのうちにも、たったひと方、とんでもない変り種をおのこしになった――と申すしかございません", "何しても物騒な人物。この上とも要心に如くはない" ], [ "いい忘れていたが、昨年、そちの手から贈ってくれた献上の名花は、においといい、色といい、稀な名花には違いないが、ただひとつ、困った癖がある。あれには、ほとほと困じておるが", "名花? ……。あ、あの、てまえよりさしあげた女子、お蕗のことを仰せられますので", "そうじゃ。当館へ将軍家のお成りを仰ぐたび、歌舞にお給仕に、何かのお目なぐさみにもと、年来、眉目麗わしいものは召抱えて来たが、さてさて天下にすくないのは美人であった。わけて将軍家には、大奥の花にも見飽いてもおられようし、その眼にかなう程なとなると、容易ではない。――いや世間に絶無かもしれぬと、わしが嘆じた。それを、そちがふと耳にして、いやひとりある。かならず自分の手よりさし出すとて、やがてお蕗を見せてくれたが、なるほど、絶世の美といえる。けれど如何にせん、実は、もて余しておる", "お困りとは、どういう点で", "あれが当家に来てから、はや一年近いし、そのあいだ、将軍家のお成りも、一、二度ならずあったが、如何なる貴人のまえに出ても、平常もそうだが、口をきいたことがない。――彼女は唖かと、将軍家もいぶかられて、そっとお訊きになったことすらある" ], [ "ははあ。すがたに似あわぬ強情者と見えますな", "何せい、いくら美しくても、唖では困る……", "すこしご折檻を試みては如何でしょう", "そうもなるまい", "てまえが責めましょう、折を見て。……いや、いまでも、これへお呼び下されば", "実は、お蕗の身は、惜しいものだが、そちの手へ戻すしかないかと、あぐねていたところじゃ", "もう一応、説きもし、責めもして、その上におきめください。てまえの手に帰って来れば、不愍ながら生かしてはおけません", "生かしてはおけぬ?", "何せい、彼女なれば、あなた様の御意にも召し、将軍家のお眼にもとまろうかと――実は少々無理をいたして、国許から連れ参ったもので、いまとなって、世間へ出すわけにはゆかぬ事情にありますので", "無残、無残。ころしては可哀そうだ。……" ], [ "では、呼んでみるか。……これへ", "そう願えれば", "しかし、わしは検校を待たせてあるが。――こういたそうかの。お蕗を隣室へ呼んで話せ。わしはここに寝ころんで、検校に療治してもらう", "検校は盲目ですが、耳は聞えましょう。大事ございませぬか", "盲人には、隠してもむだじゃ。わけて勘のよい杉山検校、諸家の内事は、みな知っておる。しかし、わしへ叛くようなことはない。紀の国屋文左を、当家へ伴れて来たのも彼。案じるに及ぶまい" ], [ "検校", "はい", "凝っておろうが", "はい", "そのへんを、ちと強く", "ここで……", "むむ。待たせたの、こよいは", "困りました。他家へまわるお約束がありましたので", "他家とは、どこか", "ご老中の……" ], [ "蕗どの。体でもすぐれぬか。ちと顔いろがわるいが", "…………", "折入って、ちとはなしたい儀がある。もそっと寄らぬか。――何を遠慮。そなたの亡父、白石助左衛門とわしとは、生前、水魚の交わりをしていたもの。いうては、恩きせがましいが、どれほど紋太夫が、役向きにも、君前へも、陰となり陽なたとなって……。いや、やめよう。そういうことを語ろうというのではなかった。実は" ], [ "蕗どの", "…………", "こよい、所用あって、吉保様にお目にかかって、何かのおはなしの末、聞けば、そなたはここへ来てから、とんと物をいうたことがないそうではないか", "…………", "将軍家のお成りにも", "…………", "将軍様が、怪しまれて、彼女は唖かと、吉保様へおききになった程だという", "…………", "それは、まったくか", "…………", "蕗どの", "…………", "これ", "…………" ], [ "――蕗。そなたは、この紋太夫にも、唖のまねを守ろうとするか。藤井紋太夫を、あまい人間に見ておるのか。かりそめにも、そなたの亡父助左衛門の恩人、ひいてはいま、そなたの母、雪乃の身まで引取って、わしの手許に養育させてあるものを……その恩人に、そちはそのような態度をとって、すむと思うのか", "…………", "返辞をせい。蕗", "…………", "口を開かぬかっ", "…………", "いわぬ? ――何としても口をあかぬな。……そうか、もう強いまい、きっと、唖を守ってみるがよい。紋太夫にも、考えがある。……不愍なのは、そちの母ということになるだろう", "…………", "ぜひもない。この上はせっかく其女をおおすめしたご当家に対しても、紋太夫の立場がない。立ち帰って、そなたの母を責め、母の口から、ものをいわすぞよ。老いたる母に、憂き目を見せても、そちはそちの強情が通ればよいとするか", "…………" ], [ "何者だっ", "何事?" ], [ "……何があったのでござりますか。お庭先で、曲者でも捕まったような?", "検校、曲者は、そちのいつも連れておる者だという。物騒な人間をそちは供に連れあるくな", "えっ? ……わたくしの" ], [ "よく寝たなあ", "寝られるはずさ、蝙蝠なんだもの", "晩になると出かけるか――。あははは", "笑い事じゃないよ、おまえさんは", "うるさいな、おふくろみたいに", "まだ、お赤飯は喰べていないだろ。飲んでばかりいて", "おりません", "おや、いやだね、この人は、急にお辞儀などをして", "おふくろみたいにといったが、思えば、おふくろも及ばぬご親切。申しわけない", "まだ酔ってるのかい", "ははは。だから早く水をください、それから、赤飯にとりかかる", "いま喰べるなら、お湯を沸かして、お茶でも入れてあげよう", "葉茶がありますか", "ないだろうね。……ええ面倒だから、もう一走り行って、お湯もお茶も、家から持って来させよう", "では、その間に、顔を洗おう", "そうおし、そうおし" ], [ "又さん、顔をお洗いかい", "台所の桶も煎餅みたいに乾いてしまった。タガの外れた桶では水も汲まれない", "何から何まで、独り者って、しようのない者だね" ], [ "なにがさ", "渡る世間というものが", "時々おまえさんは、しおらしそうなことをいうね", "時々か。ははは", "酔っぱらって、憎ていなことをいったり、あんまりわがままをいうと、もう関ってやるもんかと思うんだけれど", "そんなはなしをすると、また飲みたくなってくる", "晩におしよ", "あ。……神輿が通るのかな。往来はたいへんな騒ぎらしい", "路地の口で、いつまでお神輿が揉んでいると、お次が困っているだろう。お茶を持って来るようにいいつけて来たけれど、若い女と見ると、おもしろ半分に、通すまいと、からかうからね", "お次さんも、祭でお暇をもらって来たとみえるな。しばらく、お次さんの顔も見なかった", "実はね、又さん" ], [ "うちのひとが事情のよく分るまで、おまえさんの耳に入れるなというものだから、きょうまで内緒にしておいたけれど、お次は、もうとうに、杉山検校さまのおやしきから、お暇を出されて、家へ帰っていたんだよ", "えっ。お暇になったって", "世間に見ッともないから、しばらくは親類の家へ置いといたけれど、きょうはお祭なので、そっと遊びに来たのだよ", "お次さんが奉公している縁故から、弟の林助も、検校のおやしきへ、住み込むようにしてもらったわけだが……実はその林助からは、ここ二月余りも便りがない。どうしたのかと、案じぬいていたところだが……おかみさん、何か、林助が不始末でもしたのではないか", "いい難いけれど、娘が出された理も、何だか、林助さんの事になるらしい。けれど、おやしきでも、一切、事情を仰っしゃって下さらないし……", "はてな" ], [ "お次さん、聞きたいことがある。もすこし、寄ってくれい。壁にも耳という。ちと憚ることだから", "はい。……何かわたくしに", "林助のことだが、実は、この日頃、案じているせいか、夢見が悪い。それにぷつりと便りも断えている。それについて、お次さんは何か聞いていないだろうか", "…………" ], [ "――何か、小耳に挟むとか、こんな事があったとか、お次さんが、検校のやしきから出されるまでに、変った事はなかったろうか? ……訊きたいというのはそこだ。思い出してくれ。何か、あったろう。第一お次さんが、長年、何の落度もなく奉公しておりながら、理由もいわずに、暇を出されたというのがいぶかしかろう", "…………", "宿元へさがっても、決して、ひとにはいうなと、何か検校から口止めされた事でもないか", "……又四郎さま" ], [ "そう仰っしゃるのは、あなたにも何か、思い当りがおありなんでしょう", "ないこともない。そなたが打明けてくれるなら、わしも秘し立てはせぬ", "申します。いいえ、一度はお話してしまわなければ、身が疼いてなりませぬが、今日までこうしてお会いする折もなかったので", "たのむ。……して、仔細は", "わたくしがお邸を出される前の日と思います。いつものように、林助さんは、検校様のお供をして、柳沢様のお館へ伺ったはずですのに、検校様だけは夜おそく帰られたのに、林助さんはその晩限りすがたが見えませんでした。――朋輩の召使たちも不審がって、その晩、一緒に行った駕の衆などといろいろうわさしておりましたが、そのうちにわたくしは、検校様に呼びつけられ、宿元へ帰れとお暇をいい渡されたのでございました", "そのとき検校は、何か、特にいったか", "あなたのお察しどおり、決して世間に口外はならぬぞ、もしひょんな事が、そなたの口から出たと知れたら、怖ろしい禍いが身にふりかかろう。そなたばかりか両親の身にも……と、きつくいわれました", "口外するなとは?", "林助さんが帰らないことです", "その林助は……柳沢家へ供をして行ったまま、どうして検校のやしきへもどらないのであろう", "お館の奥へしのびこんで、柳沢様のご家来に見つけられ、縛られたというひともあり、殺されたという者もありまする", "なに、殺されたと" ], [ "今しがた、ふたりで、他人みたいな顔して、出かけて行ったよ。他人みたいな顔してさ。ホホホ", "まあ、そうですか" ], [ "お次さんか。……まだいたのか、そんな所に", "だって、あなたが、帰れともいわないのに", "来いとも、いわなかった", "又四郎さんは、おひとが悪い。だまって、家を出ておしまいになって、私ひとりが、ひと様のうちに、残っていられやしないじゃありませんか", "は、は、は" ], [ "ひとが来ます。……みっともない", "来てもいい。ふたりはきれいだ、何でもない", "……けれど、わたしの心は", "人目を咎める?", "ええ……何ですか、あの", "お次さんは、わしが好きか、ほんとに好きか" ], [ "……いけませんでしょうか", "ばかっ。泣くな" ], [ "泣くのはよせ。しかし、ほんとうの話をしよう。こういう夜は二度ないだろう――。え、お次さん", "…………", "わしがどこのさむらいで、どなたにお仕え申して、また、なんの為に江戸へ来たか、何も知るまい。……が、それは順にはなそう", "いいえ、知っています", "知っている", "林助さんでも、ただの小者や中間ではありませんでした。あなただって", "女の眼は怖い。そこまで読めていたか。ではいう、わしは水戸のものだよ", "黄門さまのご家来でいらっしゃいましょう", "そうだ。――わしのことを、ひとは皆、棒だという。棒の又四郎と綽名している。無口、鈍重、たれもそれが性根と思っているらしい。ところが、何ぞ知らん、わしはわし自身の激し易さ、泣き虫、多血な性分をもてあましている。……どうかして何事にも、胸をなでていよう、眼を閉じていよう、逸るまいと、自戒に自戒して、棒の如く、身の癖をつけているのだったが……ついに駄目だった。おれは江戸へ来た", "…………", "分るまい、こんなはなし", "いいえ、分ります", "分ればそなたは、おれが観ぬいていたとおりの女子だ。更にもう少し深く分って欲しい。江戸に来てからのわしは、わしの信念を強めるばかりとなった。悪政の下の奢侈遊惰、無自覚、いったいこれは何たる世間だ。――いや難しかろう、女子にはむりなはなし。ただこういおう、林助とわしとは、ともに血をすすって、この世を浄めようという大願をもっている者だと。――浄めるとは、どうするか、それは" ], [ "わしだ。……人見", "お、お", "蕗どの。出られないのか。どこか、破っても", "出してください" ], [ "江橋っ", "……?", "林助え、林助か?", "……だ、だれだ", "わしだ。人見又四郎だ", "えっ……?", "そこは、空井戸か", "そうだ", "ずっと、そこにいたのか", "夜も昼も", "待て、いま、釣瓶を降ろしてやる。上がって来い" ], [ "弥作さんというのは、おまえかい?", "はい。わしが弥作でございますだが", "いくつだね、おふくろどのは", "もう七十二になりますだ。あの通り背もまるまッて、まるで子どものようで", "これで、酒なと買ってやるがよい" ], [ "不覚不覚。何のための武芸の鍛練か", "武士のたましいを!", "自分らの士道は廃った" ], [ "申しあげます", "なにか", "ただ今、西山から剣持与平どのが、早馬で参られました", "与平が。……早馬とは", "すぐお目通りいたして、何か火急にお耳に達したいと申されておりますが", "呼ぶがよい", "はい", "あ。これこれ", "はっ", "そちではない" ], [ "そちたちもしばらく遠慮しておれ。わしの呼ぶまで", "はっ" ], [ "何事だ、与平", "実は……江戸表から今日", "待て待て", "……はっ", "ゆるりと聞こう。そちも、白湯なと一ぷくのんでから話せ" ], [ "お帰りっ", "お帰りですぞっ" ], [ "――ま。ともあれ、これからお寝みなされますよう、おすすめ申し上げまする", "ウむ。一睡しよう" ], [ "文八どのか。何だ", "……あなたに、お会いしたいと申して、ご門の外に、待っておるお人がいる。ちょっと、お顔をかしてあげて下さい" ], [ "わしに会いたい者が? ……。はて、お玄関へ訪れぬのか", "そこは、ちと……参りにくい事情があるのでしょう", "だれだ、いったい", "…………" ], [ "はなしたい事があって、実は、江戸表から急いで来た。どこぞ、人目にかからぬところへでも", "なに。貴様も江戸から?" ], [ "佐々氏、お久しゅうござった", "変ったお身なりで……以来どうしておられたか", "ひたすらご勘気のゆるされる日を待つのみでした。その間に、藤井紋太夫一味のしていることも、およそ調べあげました", "いうてはいいか悪いか知らぬが、お身とは親もゆるしているとか聞く蕗どのも、きのうにわかに西山荘をたずねて来ておるが、ご承知か", "存じておる" ], [ "両女が江戸からこれへ参るまで、何事もなかれと、実は、見えかくれに守って来ました。……そしてすぐ自分は、ご城下に立ち入り、江戸の藤井と呼応して、怪しからぬ企みをなしている藩中の賊臣二、三の行動をたしかめていたわけです", "ではお身も……人見又四郎と共に?", "いえいえ、又四郎とは会いません。人見の犠牲的な挺身も悲壮ではありますが、拙者はあくまで、老公のご意志を尊重してまいりたいのです。すなわち老公の思し召としては、どこまでも覇力を用いず血で血を洗うようなことは避け得られる限り避けねばならぬと――あのご老躯に、あの豪毅なご気質をもじっと抑えて、あらゆるものに耐えておいで遊ばすものと恐察しておりますれば……同じ憂いと同じ目的は抱いても、人見と行動をともにすることは、拙者の節義がゆるしません", "蕗どのの危うい境遇を知りながら、なぜ、お身が救うてあげなかったか。ことばの一つもかけてやらなんだのか", "頑なとお笑いになるかもしらぬが、ふたりはまだ公にゆるされている間ではありません。殊に拙者はご勘気をうけておる身……。そのご勘気をこうむったのも、汁講の夜、あの騒動につい蕗どのの安否に心をひかれたため――忘れたわけでもありませんが、老公のおさしずもまたず、勝手に夜明け方まで、血まなこになって、時ならぬ時刻、茫然、山荘へ立ち帰って来たことがご機嫌を損じたによるものです。……ですから、いささかご奉公の真を尽し、お側へ帰参をゆるされるまでは、たとえ顔と顔を合せても、蕗どのとことばは交わさじ――と、ひそかに自分へ誓っておりまする", "では蕗どのが何を告げるため江戸からこれへ参ったかそれも?", "ことばこそ交えませんが、蕗どのの生命は、先にも申したとおりよそながら守っていたつもりです。苦しくはあろうが、柳沢家にあるうちは、まず一命にかかわらぬものと、遠眼に見まもっていたわけでした。――ところが例の又四郎が、一途に目的をとげよう為、邸内に入って、かえって相手方の陥穽に落ち、いたく吉保や紋太夫を仰天させたことは当然です。――かくては、慄然、日ごろの不安を、いやが上にも募らせた吉保は、奸佞の本質をあらわして、紋太夫と謀り、にわかに老公へ対して、ある決意をかためたらしく存ぜられます", "――ある決意とは?", "それこそ、吉保が年来胸底に秘めている最後の匕首です。切札です。……前中納言光圀卿こそは、西国の某大藩の主とかたらい機を計って幕府を仆し、政治を朝廷に回し奉らんとする大それた陰謀の首魁であったと綱吉将軍の前へ、生き証人を拉して、いわせることです", "ううむ、怖ろしい相手ではある。……しかし、そんな生き証人になる者がいるだろうか", "おりますとも", "それは、どこの何者", "あまりに近いので、よもやと誰も思うでしょうが、藤井紋太夫、かれこそその切札となる漢です", "まさか、ご主君を", "かれに君臣の道が明らかに見えているくらいなら、今日の禍いは起りません。かれはもう道義の盲、人倫の外道と化しておる者です。人として考えるわけにはゆきません" ], [ "この際、にわかに、老公には、江戸へご出府あると聞いて、愕然、近側の其許まで、自分の考えをお告げに来たのだが?", "えっ。……老公のご出府を、もうお身まで知っているのか", "かねてから、江戸表のほうにも、しきりと風聞されていた。――たびたび、将軍家より老公へいちど出府あるようにと、慫慂されておらるる由を", "そのお沙汰は、とくからあるにはあったが……いま、にわかに出府あるとは、まだどこへも触れていないはずだが?", "昨日、那珂湊の夤賓閣で、ご決心をつけられ、即刻、早馬でお帰りになるやいなや、老臣から各〻を集められ、固いご意中を告げられたであろうが", "それとて、つい昨夜から明け方までのあいだ、殊には、極秘の事、外部にもれるわけもないのに", "いやいや、悪徒の奸智とは、そんな手薄なものではありません。かれらの内輪にはいって、深くその組織を知ると、真に驚くべきものです。絶対に密偵などはおらぬはずの所にも、藤井紋太夫の息のかかった者がきっといると思わなければなりません。どんなに安全な地、安全な食物にも、刃があり毒があるものと、一応は疑ってみらるるのが、ご側近のお努めかと存じます", "……ではもう昨夜のことまでも", "もとよりご城内の、かれらの一組には知れています。そして直ちにそのことは江戸表の紋太夫の耳にも居ながらに分っておるわけで", "それをまた、貴公がどうして逸早く、ご承知なのか", "獣の生活を知るには獣の窟に入らねばならぬ。おはずかしいが……" ], [ "……実は、老公からご勘気をうけて、ここを追放されたことは、かくれもなく知れているので、それを幸いに、わざと、老公をお恨みするかのごとくいい構え、藤井紋太夫のところへ、暮夜ひそかに訪れ、かれらのふところへ入って、それがしも悪徒の誓約に連判いたした。……嗤ってくれ、蔑んでくれ。介三郎どの、拙者はいま、大不忠、大不義の臣となって、反老公の陣営に、辛い飯を喰って生きています", "う、うむ……。そうだったのか", "――だから、ここにも長居はできん。ひと言、これだけを貴公に告げてゆくから信じてくれい。きっと、拙者のことばを、疑ってくれ給うな", "なんで疑おう", "この際、老公が江戸表へのご出府は、断じてお見合せねがいたい――ということだ。仔細は、強いて、ご出府あるにおいては、紋太夫一味の者が、ために、老公のお口よりいかなる問題が、柳営に於いていい出されるやも知れず、また、自分等のたくみも、いまや老公のご存知あるは必然と見、かならずこのたびのご出府を機として、果断なご処決を執られ、ひいては藤井一味の陣営は掃滅さるるものと――極度の恐怖をいだいておりまする", "もとより老公におかれても、このたびこそは、それくらいなご決意にはちがいないが", "――ですから、お止めしたいのです。悪徒も、悲壮な決意をただよわせています。万一、老公がご出府ある場合は、その途中を擁して、お乗物を襲い、おいのちを縮め参らすか、あるいは、途中手をまわして、毒をさしあげ、世間へ狂死といい触らさんかなと――いまやかれらも、惨憺たる苦心の下に、悪計をめぐらしておりますゆえ……" ], [ "虚無僧……虚無僧。なぜ返辞をせぬ", "……はいっ", "久しぶりであったな", "おこたえを致しまするにも、畏れ多うござります。以来、拙者めは、かりそめとは申しながら、藤井紋太夫の徒に", "いうな" ], [ "申しつけておいた支度は調うておるだろうな。出府の駕や供の用意は", "はっ。――悉皆、相済ましてはおきましたが、ただいま、これにおる悦之進がことばには", "これこれ、悦之進とは、だれをいう。渡辺悦之進なれば、とくに勘当申しつけてある者。これに来るわけはない。――それにおるは、そちが虚無僧寺にいた頃の旧友、格外という者と思うが、ちごうたかの", "あっ……そうです、仰せの通り、てまえが佐々十竹の頃の友、渡辺格外に相違ございません", "そうだろう。――格外", "はい" ], [ "ふたりで、供をせい。格外もわしに従いて来るがよい", "えっ、従いて来いとの仰せは?", "もとより江戸表へ", "……お! お待ちください。――その儀については、いささか、ご注意申しあげたいことがござりますれば", "途中のことか", "万一にも", "道中の不安ならば案じぬがよい。――いや、このたびこそは、たとえ西山から江戸までの途すがら、いかなる障壁、いかなる危害が、待ちもうけておろうとも、光圀はかならず参る。参らんと我れ思い立ったからには、我れを阻める百難もあろうや。光圀は行くぞ", "――とは申せ。大切なおん身にござりまする。何とぞ、ここは", "しかし光圀とて、暴虎馮河の愚は振舞わん。格外も供せよというからには、いささか存ずる旨もあればこそじゃ。――介三郎、そちはな、すぐ光圀が旅立ちを玄関の者へ申し触れよ。供ぞろいせよといいつけい", "はっ。……して、ご隠居さまには", "しばし、この梅ばやしの奥で、梅の花でも観ていよう", "お支度などもございましょうに", "供人を連れ、医師をつれ、出府の道中して参る光圀は、もう支度もすまして、はや乗物の内におろう", "えっ……? では", "ひそかに行け" ], [ "ご隠居さまが、江戸へお上がりじゃそうな", "いつ、お帰りやら?" ], [ "格外。……何しておる?", "いや、ちょっと" ], [ "おそれ入りますが、お屈みください。あの裏道の方から、おすがたを見られぬように……", "なんじゃ、屈めと?" ], [ "おお……日ごろ台所におる庖丁人のひとり。格外、なんでむごい手を下したのじゃ", "見過ごせば、たちまちすべてを、ご城下のさる場所まで、密告しに走りましょう。この庖丁人も、紋太夫の息のかかった一名です。幸いに、その後の渡辺悦之進は、ひとつ穴のむじなと化してこやつの顔を見知っておりましたから、未然に防ぎが出来ましたものの、ご身辺諸事、およそかくの如きものと思し召し、ゆくゆくご油断あそばさぬように" ], [ "それでおよろしゅうございましょうか……まだ何ぞ", "これでいい" ], [ "介三郎", "はっ", "もういちど、留守の者へ、いい残してまいれ。これに仆れておる台所庖丁人、不愍なればよく手当をしてつかわせと", "承知しました。――では、そのうちにお支度を", "よし、よし" ], [ "ご隠居さまのお着きですっ", "ご老公がおわたりになられましたっ" ], [ "あっ、ここにおいででしたか。――先ほどからご隠居さまが、しきりと、お呼びでございます", "……そうか" ], [ "ただ今、お伺いいたしますと、御前へ申しあげてくれ。……ちと風邪心地のため、わざと、ご遠慮していたが、すぐ参りますと", "かしこまりました" ], [ "紋太夫にございまする。お召しの由、参りおくれましたが、何ぞ、ご用でございましょうか", "紋太夫か。はいれ" ], [ "あとを、閉めたがよい", "はい" ], [ "紋太夫、もすこし寄れ", "……はい", "いかがいたした?", "は", "顔いろが悪いのではないか", "実は、両三日前からちと、風邪をこじらしました気味で", "それは生憎な……。さだめし体も気懶かろう。では、手短に申すとして" ], [ "世捨て人にもひとしい隠居ながら、さて、後々の愚痴は捨て難きもの。それにつけ、何かとそちの事は思い出しておるぞ。主従は三世というが、さて、わしと、そちとも、久しいのう", "……はい。夢のまに", "三十年。いや、もっとになろうわえ。そちは、幾歳になった。光圀もはや……" ], [ "ひとは誰でも、順調に狎れると、むかしを忘れ、いまに思い上がるもの。そちばかりではない、有能の士、才腕の士、みな過るところは、ひとつ石に躓くのじゃ。いまは藩内政外務ともに、このうるさい隠居のさし出口もないことゆえ、ほとんど衆みなその方の威権に慴伏し、あえてその非を鳴らす者もなかろうが、かかる時こそ、そち自身は、一そう慎まねばなるまいぞ", "……はい", "媚びる者に惑わさるるなよ。駁す者を敵視するなよ。おそらくそちの意志ではなく、無根の風説とわしは信じておるが、柳沢吉保に頤使されて、諸方に奔走するなどといううわさも聞く。また、そちの仕えまいらす当主の世子吉孚を、病弱にて、世嗣はなり難しなどと、吉保をもって柳営にいわしめ、他より養子を迎えておのれの功となし、水戸一藩を気ままにせん下心なりなどと――もっぱら真しやかに憂うる人々もないではない", "…………", "紋太夫", "……はっ", "わしを信じろ。わしはまた、飽くまでそちを信じよう", "…………" ], [ "……のう。主と家臣とは朝に更り夕べに変ずるような、そんな軽薄なものではあるまい。隠居はしても、光圀のそちに対する愛、また信、すこしも変らぬつもりである。たのむぞ、この上とも、当主の輔佐や、吉孚の将来を", "…………", "武骨者の短所といおうか。光圀かつて、大藩の主にありながら、しきりと思いを国のゆくすえにのみ患い、財を散じ、臣を労し、なおその業は中道にある。ために家士一統には破衣粗食を給しながら、見れど見ぬが如くし、また、家老たるその方などにも、財務内政の経営に長年の辛苦をかけ、これも知りつつ知らぬがような体をして過ぎ、ひたぶるに唯、わが願いたるところへ微力をつくして参った。――いや、そうして来られたのは、すべてとはいわぬが、その方の働きによるところ寔に多かった。そちに財賦の才なく、経営の巧みなければ、おそらく藩政の破綻、百姓への苛税など、まぬかれぬところであったにちがいない" ], [ "――腹を切れと、おいいつけならぜひもないが、私の自害は、犬死でしょう。紋太夫どの、あなたの悔いは、それでは意味がありますまい", "や。……お身は、悦之進だな", "そうです", "…………" ], [ "きょう直々、こういう仰せ付けをうけたが、これは勘気をゆるすという御意だろうか。無言のおゆるしと解していいだろうか", "もちろん、お咎めのある者へ、そんなご用を仰せ出されるわけはない。……だが、悦之進にはまだ何のお沙汰もないな。悦之進は、ここへ帰ってからも、毎日、薬研部屋にはいったまま、あの通り謹慎しているのに", "いや、今しがた、お召しをうけて、お部屋へ伺っていた。恐らく同様なおことばを賜わっているだろう" ], [ "ご酒ばかりは戴くわけにはまいりません。実は、湊川のお石碑へ約束してしまいました。あそこの土担ぎをさせていただく前に。――一生涯のうちには、きっともう一度、お詣りにまいります。自分にも人にも恥じない人間になったらばと。へい。……で、その時まではご酒は飲まないと、正成公へ誓っておりますんで", "ははは。そうか" ], [ "偉いお方と約束したの。しかしおまえも神と語れる人間になったわけじゃ。めでたい。めでたい", "ご褒美をください。……ご隠居さま、勘太に、おねがいがございます", "褒美をくれと", "はい。……まだ人間の端くれでございましょうが、この頃はもう怠けてはおりません。へい。遊び暮してはおりません。また、悪い事はしていません。湊川の土かつぎを、いつもしている気で、働いていることは慥でございます。佐々の旦那も、それだけは証人になって下さるだろうと思います", "だから? ……。何を望むのであるか", "その、おまんじゅうを一つ、ご隠居さまのお手から、拝領させてくださいませ", "……あ。これか" ], [ "介三郎", "はっ……", "勘太へ、まんじゅうを取ってつかわせ", "ありがとう存じまする" ], [ "いいとも。――が、ご隠居さまへは?", "いま、お願いして来た。十年一日のように、あの茶頭巾を召され、冬日の障子のうちに、じっと、端座しておられるおすがたを拝すと、やはりお年齢が思われる", "むむ。……わけてこの、一、二年のお悩みは、さすがにお体にこたえたらしゅう拝される", "憎いの" ], [ "それもこれも、みな藤井紋太夫と一味の悪徒がなす業だ。彼奴らの跳梁が、ついにご隠居さまのお生命取りとなりおったか", "いまとなっては、老公もすでに余りに老境。当主綱条様には、そのお力はなし、世子吉孚さまは、なおお若くてあらせられるし――藩中に多くの徒党を擁している紋太夫の勢力を圧え得るものはたれもない。――やんぬるかな、水戸の内政は、正邪相搏って、瓦崩玉砕するか。眼をねむって、彼奴らの手に委するしかない有様とはなった", "なぜ、この春、ご出府のとき、ひと思いに、悪徒を裁き、紋太夫に腹を切らせなかったか……。ああ、老公のご仁慈も、かかる結果を見ては、お恨めしい。もどかしい。――考えると夜も眠られん", "佐々どのに於いてすら、そのように思われるのだから、正義に拠る一部の若ざむらいどもが、牙を噛んで、無念がるのもむりはない。――また、棒の又四郎が、ここのところ、影も見せぬし、ひそという気配も見せぬゆえ、そういう血気な若者と血をすすり合って、何か、一挙に事を決せんと、鳴りをひそめているのではあるまいか。――それもご隠居さまの憂いのおひとつだが", "ひとり又四郎に限らず、いつ何が起るか、予測はできぬ。悪徒の一味はまた恐らくそれを待っていよう。――うかつに起てば、暴徒、逆徒などと、あらぬ汚名をきせられるのは当然だ。如何せん、彼奴の背後には、柳沢吉保というものがある。大奥も将軍家もうごかし得る立場にある", "やめよう。……ああ煙たい" ], [ "いかになりゆくやら。――要するに水戸も腐えた時代の外ではあり得ないというに尽きる。世は元禄――ここも元禄の世間のうちだ", "悦之進。では、行って来る", "帰りは、夜か", "さあ、分らぬが", "夜にかかったら、途中、油断を召さるな", "ははは。それだけは、だいじょうぶ。……きれいに染まったなあ、漆の葉が" ], [ "鳴子が鳴っている。柴門の鳴子ががたがた鳴っている。たれか来たのだろう。開けてやれ", "はい" ], [ "又四郎。何しておる?", "おう、佐々か", "寒いのに。……禅か", "禅?" ], [ "なあに、女房どのが、夕餉のしたくに遅々としておるので、腹がすいたゆえ、呆うけていたのだ。……焼き魚のけむりもようやく逃げた。まあ上がれ", "では、玄関へまわろう", "迎えに立つのが億劫だ。ここから上がってくれ。お次、また犬がくわえて逃げぬよう、すぐお客の履物を、玄関へ入れておけよ。……おおそれから、燈火と、敷物と。そのあとで、酒をな" ], [ "……では、おぬしが、かつての情熱は、うそだったのか。お家を泰山の安きにおき、老公の意を安んじ奉るには、身をすてて、奸を討つしかないと、眦をあげていったことばは……", "佐々。……嘘とはなんだ", "わるいか。こういったのが", "嘘も、ただの嘘はまだ流しも出来ようが、情熱を虚偽した者といわれては黙しておれぬ。――では訊くが、江戸で会った折、そういったおれを止めたのは誰だ。諫めたのは何者だ。――貴公自身ではないか。わすれたか", "…………" ], [ "帰るのか", "友ならぬ異心の友と、酒を飲んだところで酔いもせぬ。おそらく今生の事はこれ限りだろう", "そうか", "――が、もう一言又四郎へ贈ろう。棒はついに棒でしかなかったな", "なに", "貴公はしきりと、いちど失敗した轍を二度は踏まんといったが、その失敗は、棒自身が、棒であることを知らず、剣のごとき気をもって、浅薄な計画で敵へ近づいたからだ。――その折、貴公をいさめたのは、貴公のそうした浅見を誡めたのだ。……今日、それを口実に、最後の一挙から逃げるとは余りに性根のない心底が見えすぎて、むしろ愍然を感じる。せっかく美しい女房を可愛がってやるがいい。……ははは、これが訣別の辞だ。又四郎、悪く思うな" ], [ "佐々。待て", "……お。又四郎か", "はなしがある、いいのこしたことをいいに来たのだ。そこの木の根へでも腰かけてくれ", "もうはなしはないはずだが", "――と、おれも思ったが、つらつら考えてみると、同じお方を主君と仰ぐ同僚の縁は浅くない。行きずりの友などとはわけがちがう", "その友を裏切っても、おぬしは独り無事でいたいといったではないか。にわかに恥じて、追いかけて来たか", "いや、その考えに、変化はない。……が、以前、貴公に諫められた誼みがある。もう一ぺん、誠意をこめて、おれは貴公を思い止まらせに追って来たのだ", "無益だ。拙者のかたい……", "ほかならぬ佐々介三郎の思い極めたこと、おれの諫めなどは、むだとは思うが、可惜、犬死する愚を、見ているに忍びぬ。――しかも貴公だけならよいが、老公の側近から家中の正義の士がことごとく全滅の憂目を見るに知れきっているものを――晏如として、見ているのは信義ではない", "おぬしにも信義はあるのか", "何とでもいまはいえ。いわばおれは敗軍の将、甘んじて唾を浴びよう。――けれど敗軍の将でなければわからない心境もあるぞ。いかに貴公が、日頃の温厚と隠忍をやぶり、いまはと、火の玉になって打つかっても、勝てないものには勝てない。やはり敗れるのみだ。――敗れた結果はどうなるか。――それを思えばこそ、おれは空井戸の闇から生き恥を世にさらしながらも、唖の如く、木偶の如く、腹も切らず、ただ生きている。……この辛さ。わからぬか。貴公がおれの友だというならば", "その態度は、きのうまで、われわれがじっと取って来たものだ。貴様がいまになって、そんな事をいい出すのは、口実としかうけ取れん", "まだ早い。そう思うのだ。ほんとに堪忍をやぶるのは、老公をお見送りしてから後でもよいことだ", "お見送りして? ……", "はや、ご老齢。お待ちするわけではないが、天寿にはかぎりがある", "気のながい", "いや、短い人命なればこそ、長い先を考えるのだ。老公を見たまえ、百年はおろか、千載の先を考えておられる。……眼前のうらみはすべて涙と共に嚥んでいようじゃないか", "しかし、お家の危機をどうするか", "それだけを、何とか、必死に支えよう。おたがいが力を協せて", "その方法があるくらいなら、なんで佐々介三郎がさきに立って、おぬしに大事を諮るものか", "ないか", "ない。断じてない。……おぬしはその後の江戸の事情を知るまいが、この春、藤井紋太夫が改悛を誓ったのは、やはり彼の本心ではなく、一時のがれに、老公をあざむき奉ったものでしかない。藩中の一味は、かれの勢力と徒党をたのんでいよいよ藩務を紊し、紋太夫はますます権門柳沢に接近し、大奥の縁故を通じて、その陰謀をあらわにし、まずご当主を退けてから、世子吉孚君には、病弱の名を負わせ、自身のえらぶ世子を他家から迎えて権をほしいままにしようとしている。――しかも急速にその実現をはかり、猛烈な暗躍を行っている形跡があるのだ。――それにたいして、いったい、われわれご隠居附の閑役に置かれている微臣が、何で対抗する力があるか。なにを頼んで、お家の危機を支えられようか" ], [ "かような事は、老公のお耳に入れてすべきことではない。たださえ憂いのお深いところへ", "お耳に入れても、入れないでも、結果は同じだろう。ご心配をかける点も同じだ。凡庸なご隠居さまなら知らぬこと、老公ほどなお方、べつに仰天はなさるまい。――やるがよいと思し召せば、眼をおとじ遊ばしても、やれと仰っしゃるに相違ない。また、拙者の考えと同じなら、よせと御意なさるかもしれぬ", "……むむ。そのことばには一理がある。事ここに至っては、老公におかれても、はや是非なしと仰せられよう。又四郎、来いっ" ], [ "やっ? ……。彼方から来るお駕籠の列は", "老公のお出ましらしいぞ", "はてな。乗換馬まで曳かせて", "もしや、ふたたび" ], [ "介三郎でないか", "はっ……", "又四郎もいたか", "……はい" ], [ "すこしも知らなかった、ご出府とは。……お支度にあたって、ご隠居さまには、拙者の帰りの遅いのを、お怒りではなかったか", "そんなご容子はいささかも窺われなかった。渡辺悦之進どのからも、おとりなし申しておったし", "悦之進といえば……悦之進だけが、お供のうちに見えぬが?", "ゆうべ、先に、早馬で立った。――小石川へお先ぶれに", "そうか……" ], [ "すこしお風邪気味のように窺われるが、どうして、かくは急に", "侍医の井上玄桐どのも、そう案じて、ご延期をおすすめしたが、何か、ゆうべは固くご決心のご容子で、押してご出発を仰せ出された", "――おそらくこれが、出府の終りであろうなどと仰せられたが" ], [ "今朝がたは、どんなご容体でございますな。夜前はちと、ごきげんにまかせて、お相手とはいえ、長居を仕りましたから、どうかと、あとでお案じして退がりましたが", "いやいやご隠居さまには、今朝ほどはもうお床を払っておいでなさる。まだ、お咳は多少あそばすが、何せい、平常からお横になっているのは、大嫌いなご性分じゃし……", "やはり軽いお風邪の程度とみえる。壮者もしのぐお元気、ご心配はないでしょう", "が、何といっても、お年齢ばかりは……な", "多少は、お弱りが、窺われますかの", "おととしよりは去年、去年よりはことし、あれほどお好きな謡曲にしても、近ごろは、お謡いも極く稀じゃし、興にのって、仕舞をあそばすようなことも、とんとないのを見ても", "このたびのご出府には、何ぞにわかに思い立ち遊ばしたことでもおありなのであろうか", "いや何、別して、ご用のあるわけはない。――やはり仰せられている通りでおざろう", "どういうことを仰せられているので", "申すもちと辛いが……ご自身でも、はやご老齢を観念あそばされたか、このたびが、江戸表の出納めよと、西山をお出ましの節も、道中でも、仰せられた", "では、こんどを、最後のご出府として?", "お胸のうち、ひそかに、このお館にも、ご家中へも、お名残りを惜しんでおいで遊ばすような", "…………" ], [ "どういたしまして、可愛いさかりなどは、とうのむかしでござりまする。ふたりとも、きょうばかりは、夜前、父上から懇々いわれましたので、至極、とりすましておりますが、もう仕方のない悪戯やら、憎ていばかり申して母を困らせておりまする", "ご老母は、おいくつか", "六十になりまする", "紋太夫どのの……?", "いえ、わたしの", "ご家老には、こう打揃ってご家庭でもめぐまれておられますな", "いえいえ、年じゅう忙しい身なので、わたくし達と、夕餉をともにすることも、家に落着いていることもご病気でもないときのほかには……" ], [ "やあ、ご苦労でした", "お待たせ申した" ], [ "ともあれ、これにお乗り下されば、委細はあとで分ります。――老公のご命令であります", "……はい" ], [ "どうしたのだ? ……だいぶ泣き声がするが", "いや何。奥の一室まで来たら、覚ったとみえて、急に紋太夫の妻女が取乱し始めたし、子どもらがさわぎ出した。自殺をする惧れがあるから、縄目をかけると、なお泣き咽んで、ちともて余したが", "そうか。するとやはりきょうのことは、虫も知らせていなかったとみえるな", "知ろうはずはない。……けれど老母はさすがに、立派なものだな。――こういう日が来るのはむしろ遅すぎるくらいだとつぶやいていた", "むむ。そういっていたか", "もし、何の事もなく、きょうのご隠居さまのお能を拝見していたら、そのほうがかえって、心のうちは苦しかったろうに……。そういって、泣き狂う紋太夫の妻をなだめておった" ], [ "これから、どこへ?", "そうだ、時をたがえてはなるまい。すぐ藤井紋太夫の邸へまわる手筈になっておる。――ご免" ], [ "そうか。ではそちは、ここに立って、見張をしておれといいつかったのだな", "へい。たれか、不審な者でなくとも、この邸へ来る客とか、また、柳沢家の家来らしい者でも来たら、すぐ門外から礫を投げて中にいるわれわれに合図をしろ――と、そう申しつけられておりましたので", "大事な役目だ。ぬかりなく頼むぞ", "承知しました。……では、旦那がたも", "ムム、暫時" ], [ "いやいや、刀槍を押っ取って、出て来た者は片づけ易かったが、悲鳴をあげて逃げまわる召使の女たちや老婆には困じ果てた。そのほうがよほど始末に弱った", "して、ほかのご両所は", "江橋林助はいま、その女たちを、奥の一室へ閉じこめて、立ち躁ぐな、そち達の身には、危険もないことと、よくいい諭して、抑えておるし――佐々介三郎は早、主、紋太夫の居間や、奥の室を、懸命にさがしておる", "まだ、見つからぬか", "柳沢との往復の文書が、その交い棚のうえの手筥から、二、三通出て来たほかは――", "まだ、お国許におる一味の者とやり取りした手紙が、たくさんになければならぬはずだが", "用心ぶかい紋太夫のこと、そういう後日の証拠となるようなものは、ことごとく焼きすてておるのではあるまいか", "土蔵を見たか", "まだ見ない", "よし、われわれは、土蔵へはいってみよう", "だめだ。鍵のありかが知れない", "用人が心得ているだろう", "その用人が、頑強にてむかいして来るので、介三郎が、斬ってしまった", "……ちと、早まったな" ], [ "おお、それがみな、一味の往復したものか", "急場だ。つぶさに、選り分けてもおられぬが、だいぶそれらしい者の名が見あたる……", "およそに、持って参ろう。仰せつけには、多分なものは要らぬ。ただ、かならず見つけて参れとご注意のあったのは、ただ一点", "おお、連判か", "それはないか", "ない。……どこを捜しても", "あとの反古はもうよい。それを捜せ。それひとつが欠けては" ], [ "どこに?", "連判があったのか" ], [ "……?", "なんだろう", "何をやろうとしているのか" ], [ "……ああ、彼も", "あの者も" ], [ "まだ、老公のお手もとにも出さぬうちに、つぶさに披見するも如何。また、その必要もない。――ただこれが連判状なることゆえ、確かめて参ればよいのではあるまいか", "もっともだ" ], [ "何をしているのやら?", "日頃も、こんな時も、変りのないのろまさだからなあ", "あれでは、単身、柳沢家へはいっても、空井戸へとびこんでしまうわけだ……" ], [ "はいっ、ちと、遅う相なりましたが、諸事つつがなく", "つつがなく運んだか", "まずは", "やれ……" ], [ "この一巻と、三、四通の文章とを、帛紗につつみ、しかと、そちが肌身につけて持っておれ。――そして予が、羽衣を舞うて、舞い終る頃、午の中食の休みとなろう。それまで、楽屋の鏡の間の袖部屋か――うしろの用部屋において、ひかえておれ。どこへも、決して、起たぬように", "心得ましてございまする", "では、供をせい。……ぼつぼつ彼方へ参ろう" ], [ "何というお健やかな", "お年齢とも思われませぬ", "芸のお力……", "いえいえ、天性のご気品", "いずれにしても、いまのお舞振には、拝見のものが皆、めでたさに、瞼を熱うしたでございましょうな" ], [ "はっ。……紋太夫にござりますが", "寄れ", "はい", "もすこし寄れ", "……はっ" ], [ "……何ぞ。……なにか、ご用にございましょうか", "紋太夫。いま申すことが、光圀さいごのことばであるぞ。胸を落着けて聴けよ。――この春のころ、あれほどにまで、予が、自身のいかりを宥めて、心の底より諭しおいたるに――汝、なお迷妄を醒まさず、前非を悔いず、前にも増して悪行を謀みおるな。天を惧れぬしれ者めが", "……あっ。な、なにを御意あそばすかと思えば", "いうな", "おまちがいですっ。……何者かの、讒に相違ございませぬ" ], [ "何とて、ご隠居さまをば、凡眼などと見奉り横着を仕りましょうや。幼年よりお側に仕えたれよりは", "多言は無用" ], [ "とまれその方が、わが寛仁に甘え、すこしも改悛の色なく、将軍の寵に驕るさる人物とこころを協せ、二奸一体となって、不逞な謀みをつづけ参ったことはいいのがれあるまいが", "な、なにを、証拠" ], [ "一見にも及ぶまい。その方としては内容の、一行一行、諳んじているほどの物。――そちがやしきの炉の上に懸けつるしあった物。……紋太夫、そちの弁舌も、はや無用と、覚ったであろう", "……いえ! いえっ" ], [ "ぞんじませぬ! お、おそれながら、御意、またこのような品、いっこう何のことやら覚えも……", "ないかっ", "ああ、余りと申せば", "余りとは", "ご、ご無体な!" ], [ "さいごのお慈悲を仰ぎまする。ねがわくは、紋太夫にお手討を賜わりますよう……", "本心か", "紋太夫が生涯の言はみな嘘であろうとも、この一言に偽りはございません" ], [ "――われながら、私は、私という人間を持て余しました。幼少、ご恩顧をこうむってからのご奉公も勉学も、決して、君を騙かんなどと思ってして来たわけでは毛頭ありません。けれどいつか、才走るの余り、奉公人たる身分を逸脱して、外には権門とむすび、藩中にまた自己中心の一藩をつくり、いつか際限なき欲望をいだいて不逞な謀みをいたすようになりました", "…………" ], [ "八幡ご照覧あれ、この春、ご隠居さまの御前で、誓ったことばも、決して、虚偽ではなかったのです。かく申せば、なお太々しき虚構をと、お憎しみもございましょうが、あのときは、本心、あの通りな善心でありました。まったく悔い悩んでいったことに相違ございません。……にもかかわらず、日の経つほど、もとの紋太夫に返ってしまうのを如何ともすることが出来ません。……と共に、さる権門のお方との、悪因縁も断ちきれませぬ。また、ひとたび血判連名までさせた一味徒党をも、にわかに振り捨てることもでき難く、とやかく悶々たるうちに、いつか前にも増して、大胆なる悪謀の遂行へ踏みすすんで行く紋太夫でござりました", "…………", "ご隠居さまのご仁慈をもっても、ご意見をうかがっても、なおかつ、自身のそれほどな反省を以てしても、この性根と悪縁は生れかわらぬ限り癒らぬものと思われます。――あわれ、この上の大慈悲には、お手を以て、この紋太夫の一命をお断ちください。はや、逃げもかくれも仕りませぬ", "よくぞ申した" ], [ "――時刻か", "はっ。おしたくは?" ], [ "中啓を", "はっ" ] ]
底本:「梅里先生行状記」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年10月11日第1刷発行 初出:「朝日新聞」    1941(昭和16)年2月18日~8月24日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※誤植を疑った箇所を、「吉川英治選集 第17巻」講談社、1971(昭和46)年5月10日発行の表記にそって、あらためました。 入力:川山隆 校正:トレンドイースト 2019年7月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056074", "作品名": "梅里先生行状記", "作品名読み": "ばいりせんせいぎょうじょうき", "ソート用読み": "はいりせんせいきようしようき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「朝日新聞」1941(昭和16)年2月18日~8月24日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2019-08-11T00:00:00", "最終更新日": "2019-07-30T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card56074.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "梅里先生行状記", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年10月11日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年10月11日第1刷", "校正に使用した版1": "2017(平成29)年6月9日第9刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "トレンドイースト", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56074_ruby_68705.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-07-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56074_68754.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-07-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "――船止めだとようっ", "六刻かぎりで、川筋も陸も往来止めだぞうっ" ], [ "そうよ、これからだ。嬶あに死なれてからというもの、お松の奴アまだからっきし子供だしよ、美味え飯なんぞ喰ったこたあねえ", "そういっちゃあ、お松ッ子が可哀そうだぜ、十五にしちゃよく働く方だ。なア、お松ちゃん" ], [ "なあ、お松ッ子。帰りにゃ簪を買って来てやらあ。いい子だから、お飯が炊けたら、一人で喰べて、先に寝ていな、いいだろ", "ああいいよ" ], [ "よせよ", "いいったら", "おめえはいいだろうが、おらあお松坊が、淋しがっているから", "何いッてやんで。女房に死にわかれて、てめえだって、満更、淋しくねえこともあるめえが", "だって", "まア、来いったら" ], [ "吾々を、眼も耳もない木偶と思いおるのか。――今、たしかにこの二階で、大声で唄を吐ざいていた奴がいる", "客ではあろうが!" ], [ "それやあどっち途、銚子へ帰る空船だから、乗せて上げまいものでもないが――だが、この関宿には、河筋にも関所の柵があるんですぜ。一体お前さんは、その河番所を通る手形を持っているんですか", "この通り、手形は所持いたしておるが、あったにしても、これは人に示すわけにはゆかぬし", "へ。どういうわけで", "実は今朝、江戸表の桜田門で、大老掃部頭の首級を挙げた浪士十七名の中に、自分も加盟して働いた一人なのだ", "げっ、じゃあ……あなたは水戸の", "拙者は海後磋磯之介という者。首尾よく大老を討ち止めた上、その場から各〻ちりぢりに落ちのびたが、早くも、幕吏の手は行く先々に伸び、ここまでは、ようやく逃げて来たが……もはや進退も谷まった。この上はわしを突き出すとも、否とも、その方の一存次第――" ], [ "お侍さん、この傷薬をつけてあげよう。耳のうしろにも、手にも血がながれているでよ", "ありがとう" ], [ "喧ましいっ", "鎮まれっ", "いくら急いても、お検察めのすまぬうちは、通すこと成らんのだ。順番を待ちおろう" ], [ "醤油船だな", "へえ……左様で", "苫を除れ" ], [ "――退けっ", "この樽かね", "空樽か", "味噌が入ってら", "味噌樽。――其方どもは父子二人暮らしではないか。どうしてこんな大きな樽に入れるほど味噌が要るのか", "ホホホホ。これはおらたちのたべる味噌じゃあねえにさ。江戸のお客様に、正月頃、味噌漬を頼まれていたので、今度積んで行ったところがなよ、そのお客様の家が、神田とやらへ越しちまったというで、仕方なしに持って帰えって来たのだによ", "ふム、味噌漬か" ], [ "金子は持ち合せていないし、何も礼につかわす物がないが……これはわしの刀に付けておる目貫で、鉄地に花菖蒲の象嵌彫、作銘もないが、持ち馴れた品じゃ、かたみに上げるから納めておいてくれ", "と、とんでもない" ], [ "おば様、わたし、どうしたらいいでしょうね", "どうしたらとは?", "縁談があるんですの", "結構じゃありませんか。――たとえ生きてお還りになるようなことがあっても、磋磯之介は、公儀のお尋ね人ですからね", "けれど、どうしても、嫌なんですもの", "誰方ですか。縁談の先は", "繭仲買の専右衛門ですって", "ま。――あの人?" ], [ "おかや、おかや", "――はい" ], [ "お那珂さん、また主人が、あなたの声を聞いて、少し機嫌をわるくしているんですが", "すみません。もう帰ります", "気を悪くしないで下さい。良人でも、貴女の将来を思っているんですから", "おばさま、分っておりますわ", "今ちょっと、専右衛門さんとの縁談のことを耳に入れたら、あの男なら生涯を託しても慥かだろうといっていました。烏山の町では、堅いというので、いちばん信用のある人だし、商才もあるから、いい縁談だ。おまえからもすすめて上げろといわれましたけれど、こればかりはね", "……もう当分伺いません。おばさま、さようなら", "お提燈を持っていらっしゃいな", "馴れている道ですから" ], [ "今晩は――", "こんばんは" ], [ "ありがとう。今夜は星も見えないんだね", "そろそろ五月闇ですから", "社家様のお宅では、以前からおまえの家でお米を取っているんですか" ], [ "誰かこのごろ、あのお宅には、お客様でも滞在しておいでですか", "どうして", "少し……その、このごろ、お米のお入用が違うんですが", "そういえば、何だか、以前よりもよけいに、あのお家でおまえにも会うね", "そうなんです。――ここ四、五年もずっと、幾日目には一斗と、ちゃんとお入用が極っていたのに、近ごろはそれが早く失くなって、まだあるはずだと思っていると、いつも御催促をうけますんでね", "……?" ], [ "その御返事なら、もう、お那珂さんからきつい肘鉄砲をいただいて、私も、諦めてしまっているところだが……", "堪忍して下さい" ], [ "あたしの、考えちがいでした。浅慮なのが分りましたから、父に話したら、親の口からはもういえぬ。お詫びするなら、自分でいえといわれたので", "ふウむ……じゃあ考え直したというんだね", "左様でございます", "――じゃあ俺も、考え直してみよう。だけれと、お尋ねの人の神主の弟などを胸の中にいつまでも慕っていられちゃあ、お聟さんがかなわないが", "わたくし……そんな気もちを持たないという証拠をあなたにお見せします", "証拠を。おもしろい、どう見せてくれる", "あなたが、縁談の縒をもどして――そして、虫のいいお願いですけれど、最初の約束のように、父の苦境を救って下さると仰っしゃれば", "よし" ], [ "どうしたんですか、私には少しもわけが分らないが", "実は、この間の晩、綿屋のお嬢さんと、帰り途でいっしょになった時、手前がついつまらないことを、口に辷らせたので", "何を……", "その……何とも……申し難いことですが、このごろ、社家様のお宅では、滞留客でもいらっしゃるのか、お米の御用が、前よりもよけいになったと" ], [ "ああ、この間うちは、主人の詩歌のお友達が、行脚の途中、しばらく泊っていたからですよ", "手前も、多分、そんなことだろうと存じて、何気なくしゃべったんですが、それをお那珂様が、どうおとりなすったのか、代官所へ密告なすッたんで", "げッ……? ……ほんとですか", "ちらと、耳にしたんで、手前も仰天してしまい、せめてものお詫びにと、お知らせに飛んで来ました", "そうですか。役人衆がお調べに来て下されば、世間の疑いが晴れて、かえって、宅の方では結構です。けれど、御親切のほどは、よく主人にも伝えておきますよ" ], [ "戸外を見張っておれ", "は、はい" ], [ "ばかをいえ。おまえは、国士をもって任じている人間じゃないか。まだ、お国のためにすることはたくさんある。生きるだけ生きて、尽せるだけお国のために尽して死ね", "――でも、他の同志は皆、自刃したり自首したようです。拙者一人が、生き伸びているのも心苦しく思われてなりません", "そんなことはない。あの人達を、裏切って生きているならべつなこと、おまえもともに、なすことをなし、もう盟約は終ったのだ。これからは、おまえ個人が、生きがいのある道を見出し、なお、国事のためにすこしでも多く尽して行けば、立派に士道は立つというものだ。……今、親切に教えてくれた者があって、すぐにも、捕手が来るかも知れぬのだ。とにかく、一時、この神社の裏山へ登って、谷間へでも何処へでも隠れておれ。そのうちに、余燼が冷めるのを待って、遠国へ奔るがよい" ], [ "山の神主さんはこのごろ、少し気が狂れているそうだの", "どうして", "時々、裏山へひょこひょこ登って行っちゃあ、大谷原や蛇ヶ池の辺で、たんだ独りぼっちで、大え声出して喚いているってえこったもの", "何を喚いているのか", "詩吟ていうのか、唐人の難しい詩を歌ったり、そうかと思うと、子守歌を謡って歩いていたりすることがあるというぜ。――そんなところを、山の木挽が、二、三度見かけたという話だ", "かあいそうにな", "いつぞや、代官所の衆が、捕手を連れて、ひどい家探しをやったそうでな。何でもその時、役人を相手に、えらい争いをやったというから、そんなことで、逆上したんじゃあるめえか" ], [ "いつぞや運んでいただいた食物が、まだ残っておりましたのに", "いや、今日は、瓢に酒を持って来た", "酒まで運んでいただいてはすみません", "別れに飲もうと思ってな" ], [ "町も街道も、だいぶ詮議は下火になったらしく見える。もうこの辺が、他国へ身を抜く時機だと思う。路銀も少しばかり持って来た。肌着と脚絆なども包んで来た。今夜あたり、山を降りて街道を奔れ", "じゃあもう会えませんね", "世の中でも変ればまた", "その世の中も、吾々が考えていたようには変りもせず進みもしないようですが", "自分の力を過信するなよ。これからは、身を大事にしてくれ……。さ、何処で飲もうか", "同じ酒を酌むなら、どこか、広濶な天地へ出て酌みましょう。湿々した谷間にかくれていたので、暗い所は閉口ですから", "よかろう" ], [ "いいなあ、やっぱり生きているというのはいいなあ。……死んだものはつまらない。死んだ者にもう世の中を動かす力はない。だが、生きているおれにはまだある", "弟。……これから先は、くれぐれも、身を守って、迂濶なことをしてくれるなよ。――おまえの今の呟きの通りだ。これから先の何十年は、余生だと思って楽しんでくれ", "愛護いたします" ], [ "あれ、何でしょう、兄上", "烏山の町の灯だよ", "それは分っていますが、何処の辻の辺になるか、ひどく、提燈の灯らしい光が、かたまって動いていますが……", "うム……成程", "捕手だっ" ], [ "ちがう……。ま、坐れ", "自分の身を怖れて起つのではありません、もしやお留守を襲われて、お姉上や子達が代官所の者に手荒な目にでも遭っては", "ちがうから心配はない。あの物々しい提燈の列は、婚礼だよ", "ア……何だ、町の婚礼ですか", "どうせ、今宵かぎり、この国の人とも山河とも訣別てゆくおまえだから、知らないものならいうまいと思ったが、気づいたからは審に話そう。あの灯はた、お那珂さんが、糸仲買の専右衛門に、嫁に娶われてゆく仰山な明りだよ", "…………" ], [ "おい、旗岡巡査", "はあ", "はあじゃないぞ貴公。人民の保護にあたる重務にある警察屯所の巡査が、日向で犬の蚤なんぞ取っとるやつがあるか。――一等巡査殿が、あちらで探しとるじゃないか", "はあ、そうですか" ], [ "左様であります", "東京におったんなら、横浜の地理も少しは知っとろうが", "横浜には、勤務したことはありませぬが、度々、出張はいたしました", "そうか。――実は所内には、東京も横浜も知らん者ばかりじゃで、貴公に、横浜へ出張してもらいたい用件があるんじゃがね。すぐ出発できるか", "はあ、妻子も何もない身体でありますから、御命令とあれば、これからでも出立いたしますが", "それでは、この男と一緒に行ってくれい。旅費はもう会計から出ておるし、事件の内容なども、この男から詳細に聞き取って――" ], [ "そうです。あんたも水戸の御出身で", "いや、違います。拙者は、東京府士族の――" ], [ "旦那あ、もしや水戸の海後様の御次男じゃございませんか", "……あに! あんだと?", "そうだ! そうに違いない。――旦那、お見忘れでございますか。てまえは小石川の水戸様のお屋敷の近くに住んでいた蕎麦屋の亭主でございますよ", "……何よういっとるか、おまえは", "お屋敷の旦那方にゃあ、始終、御贔屓にあずかっていたんで、未だに誰方のことも時々思い出しているんで。――へい、旦那もたしか――そのころはまだお若かったが、蓮田様や関様などと、四、五度もおいで下すったはずでございます。……ところが、それから間もなく、桜田の騒動じゃございませんか、瓦版を買ってみると、よく冗戯ばかりいっていらした佐野竹之介様だとか、お気さくな黒沢忠三郎様だとか、お馴じみのお方の名が何人も見えるんで、瓦版を仏壇に上げて拝んだものでございます。……その中に、忘れもしねえ、海後磋磯之介と、旦那の名も、十七名のうちに、立派に載っていたと思ったが、どうして今日まで御無事に……", "これっ、おい、何をいっちょるか、何を……" ], [ "わしには、何のことか、わけが分らんが……", "……へえ? そうでしょうか", "人違いじゃろ", "でも……? ……おかしいなあ。見れば見るほど似ていらっしゃるが", "大福餅一つくれんか、そんなことより", "へい。こちらへお掛けなすって" ], [ "旦那、あっしも江戸の人間ですぜ。――いって悪いことなら死んだって、口を割りゃあしません。……ほんとに海後磋磯之介様じゃねえですか", "ちがう、ちがう" ], [ "どうかしたんかね?", "だ、だん那様が、殺されました。わたくしの主人に、短銃で……短銃で……", "人殺しがあったんか", "――ですから、大急ぎで来て下さい。早く来ないと、犯人も、逃げるか、死ぬかしてしまいますから", "困ったなあ。……わしはここを動けない事になっとるんだが", "何ですって。人殺しがあったと訴えているのに、巡査さんが、来られないんですか", "わたしは他県から来とるんだしなあ。それに、任務があるし", "そんな事いったって、困りますよっ。来て下さいっ、来て下さいっ" ], [ "おまえの主人が犯人なんじゃね", "ええ……ええ……そうです", "外国人じゃないのじゃろ", "日本人です", "何商か?", "御婦人ですから、職業はありません", "でも、その良人は", "良人もございません。お妾さんですから、――殺されたのは旦那さまです", "ははあ、妾宅か", "旦那さんは、弁天通りにお住居のある生糸の仲買さんです。御本宅へは、爺やを知らせにやりましたから、爺やと一緒に、奥さんが来るかも知れません", "何でそんな惨事を起したのか、おまえ知らんのか", "旦那さんが、手を切るといったからです", "手を切るといったぐらいで、そんなことにもなるまいが", "深いことは知りませんけれど、こちらのおくさんの方は元、神風楼で花魁をしていたのを、旦那様が身うけして、ここへ囲ったのだと伺いました。――それだけならいいんですけれど、旦那さんは取引先の異人を連れて来ては、自分の姪だといって、ここのおくさんに、お女郎屋にいた時と同じことをしろといって強いるのです。――そして随分、異人からお金を取ったんだそうです。その揚句、下駄でもはき捨てるように、切るの、出て行けのといったからでしょう", "その犯人は。――名は何ていうのかね", "そこに標札が出ております", "うむ、成程。……木島松子というのだな" ], [ "警察の方はまだ? ……", "いえ、来ていらっしゃいます" ], [ "気をつけい、犯人はピストルを所持しとるというから", "誰か、三階へ、もう上がって行ったのか", "旗岡巡査が先に来ておったから、旗岡が上がって行ったろう", "しばらく、様子を見ておれ", "――裏口は、裏口は" ], [ "――いるのか、犯人は", "おるらしいです", "一人でよろしいか", "梯子段が狭いから、大勢上がって来ても仕方がないようであります。もし、暴れて手に余るようだったら合図をしますから" ], [ "どうしたんだろう", "呼んでみろ" ], [ "や。……そこか、部屋がちがうぞ", "内部から鍵を固くかけているので、今、あけるのに苦心をしておるのでして", "じゃ、大勢して、ぶち壊して、押込もうか" ], [ "…………", "…………" ], [ "まだかまわんです。ゆっくりお吸いなさい", "縄をかけられればもう好きな煙草も吸えませんからね……。でも、慾をいえば限りがない" ], [ "わたし程、不倖せな者はないと今日まで思っていたけれど、今夜の――たった今、わたしにも一つの倖せはあったような気がして来た。……海後さんに会えようなどとは、夢にも思っていなかったのに、その海後さんの手で縛られるなんて――やっぱり私のような女でも、何か、前世で一つぐらいは善い事をした功徳があるのかも知れない", "…………", "あんまり吃驚しちまって、何だか、夢みたいな気がして仕様がない。あたしを縛りに来たお巡査さんが、海後さんだったなんて、――ああ、これで死んでもいい!" ], [ "――でも、海後さんは、ここへ這入って来る前から、私だっていうことを、知っていたんですか", "標札を見てすぐ思いだしたわけです" ], [ "あの時のこと、生涯、忘れてよいものではありません。――お松ちゃんという名。それから船鑑札に書いてあった木島村という地名。――木島村、お松ちゃん。――こう二つならべて心に銘記していたものです。……もっと忘れ難いのは、潮来の真菰の中に船を繋いで暮したあの時の四日ばかりのこと、お松ちゃんは、わしの袴の血を洗って、綻びを縫ってくれた", "…………" ], [ "海後さん、下で呶鳴っていますよ。もう駄目。……階段を駈け上がって来る足音がしてるじゃありませんか", "だいじょぶです。扉は、鍵をかけてあるから", "つまらない義理立てはよして下さいよ。そんなことを欣しがる程、今のわたしはもう素直な女じゃありません" ] ]
底本:「柳生月影抄 名作短編集(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年9月11日第1刷発行    2007(平成19)年4月20日第12刷発行 初出:「週刊朝日 初夏特別号」    1937(昭和12)年 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "まあ、そんなもんじゃな。だが、一噌でなし千野流でなし……どなたに師事れたの", "我流でございます、ただすきなために", "ふん、自然にな。それでいいのだ、折にふれての心を吹く。魂を遊ばせる。それでいいのでございますわい。……だが笛のせいもあるじゃろうが、おそろしく寒い音色、察するにお手前は、孤独でござるの", "御明察のとおりでございます", "お年にしては寥落なお姿、その音が笛にあらわれる。笛ほど嘘をつかぬものはないでな", "心に邪気があって、吹けないことが屡〻ございます", "そうとも。殺気をふくめば殺気ばみ、情気があれば情韻をもつ。とても、おそろしいやつはこの笛でござる。殊にお手前の音いろを聞き澄ますに、非常な執着と怨みをおもちなされている。――ウム、最前旅先といわれた。それに孤独、仇を探しておあるきの身でおざろう", "や……" ], [ "――三五兵衛殿のさがしている仇の名、たしか、村上賛之丞とか言ったな。そして、年ごろはお手前より若く、顔つきも、失礼じゃが、そこもとよりはぐッと男ぶりが好いという話で……", "いかにも、美男子でございますが", "そいつがな、その賛之丞が、どうやら鮎川の身内の世話になっているらしいという噂なのじゃ。早速、出向いてみたらどうでござるの" ], [ "ええ、もう二十町とはございません。お侍様は、これから鮎川親分の部屋をおたずねなさいますので", "ウム、そのつもりだが、桂川のふちで、空ッ風に吹かれて来たので、火を見ると、もう歩くのが嫌になってな", "何しろ、ここは街道から二、三里横にはいりますから", "だが、甲州路を通る浪人などは、鳥沢の宿に泊まらずに、たいがい鮎川の部屋へ行くそうだが", "そりゃ、春か夏場のことで、こう寒ッくっちゃ、めったに道を廻って来るお方もございませんよ", "ふーむ、そうか。実はその鮎川にいる知り人を訪ねて来たのだが、すると、もうその者もおらぬかも知れんな", "なんと仰っしゃるお方でございますか", "村上賛之丞という若い浪人だ", "あ。男ぶりのいい、村上様という若い御浪人ならば……" ], [ "あの、御案内申しましょう。この森の出端れから細い道へはいると、二町ぐらいは近うございます", "では、そなたは最前、あの店に居合した女ではないか", "はい、鳥沢の宿まで、父と一緒に参りまして、私だけ先へ帰って来ましたので、ちょっとあそこへ寄って、用を頼んでおりました", "父と仰っしゃると?", "鮎川の仁介でございます", "おお、じゃあ留守だったのか", "いいえ、明日にでもなれば、すぐに戻って来る筈でございますから、どうぞ、御遠慮はございませぬ、三日でも、四日でも" ], [ "失礼だが、そなたは、仁介殿の娘御か", "はい、わがまま者で、稲と申します", "主が不在でも、もうこの時刻、ここからは戻れぬから、言葉に甘えて厄介になるといたそう", "ええ、どうぞもうお気兼ねなく。宅はがさつ者ばかりでござんすから、おもてなしのない代りに、どんなにでもお寛ぎ遊ばして", "旅は、そうしたところが、欣しいものでな", "この冬空、五街道のうちでも、甲州路は一番難儀だという話、さだめしお辛うございましょう", "辛いという事もないが、また、面白いということもない", "永い旅でいらっしゃいますか", "左様さ……かれこれ四、五年", "おことばの御様子では、上の方……紀州あたりにお見うけいたしますが", "ウム、よく分るの", "宅へは、諸国の方が、よくお見えになりますので", "紀州の者では、誰が来たか" ], [ "あの、お侍様ではございません", "渡り者か" ], [ "誰に頼まれた", "へ、へい……", "ぬかさぬか", "申し訳がございません。実は、少し外で食らい酔って来ましたが、夕方から大びらで寝るわけにも行かないので、この押入れへ潜り込んだまま、つい、グッスリとしてしまったので", "…………", "そ、それに相違ございません、このとおり、食らい酔っているのが、証拠で、へい、どうか御勘弁のほどを" ], [ "待て、誰が行けと言った", "……ご、ごめんなすッて" ], [ "おのれの面と声がらに覚えがある、伊勢の松坂で拙者の枕元を探った、胡麻の蠅の仙吉だな", "えっ。……だ、旦那は", "静かにいたせ。……だが、今夜は枕さがしではあるまい。何しにそこへ隠れていた?", "……お。やっと、思い出しました。じゃ旦那は松坂の宿で、あっしがどじを踏んでひでえ目にあわされた、あのお侍さんでございましたか。……も、もすこし手を緩めておくんなさい。あの時懲らされた目は今でも忘れちゃおりません。旦那の腕には、充分と、懲りております", "左様なことはどうでもいい。早く申せ、この事情を", "こうと知りゃ、頼まれてもするんじゃありませんが、実あ私は、今では胡麻の足を洗って、この鮎川部屋の厄介になっておりますんで", "うむ、仁介の杯を貰っているのか", "という程でもございませんが、この仲間で、客分というような形なんで。すると今夜、お稲さんと賛之丞さんに呼ばれて、奥に泊まった浪人の寝込んだところを見届けて、その大小を取り上げて、合図をしてくれと頼まれました", "何。では賛之丞のやつ、拙者を三五兵衛と知らないのではなかったのか", "あっしも、その昔、伊勢の松坂でこッぴどく懲らされた旦那だとは夢にも知りませんから、お安い御用とひきうけた訳なので", "ウム、するとあの、お稲という女も、無論賛之丞とは同腹だな", "そりゃあ、元より極まったお話です。あのお稲は、江戸から流れて来た旅芸者で郡内の甲斐絹屋へかたづいたのを、淫奔な性ですぐ帰され、その後鮎川の親分の世話になっている女で、それが賛之丞が小篠へ来るとすぐに出来て、今じゃ、親分の前でも公びらに、甘いところをやっている仲ですがね" ], [ "で、胡麻仙、貴様はいつからそこに潜っていたのだ", "ちょうど旦那が、炬燵の上で草双紙をひろげていた時分です", "はてな、あの時刻に?" ], [ "寒くってしようがねえんで、ここへ、酒を持ち込んで、旦那の寝つくのを待っていた訳ですが、こう兜をぬいで、種も仕掛もぶちまけた上は、あっしは一刻もこの鮎川部屋にまごついちゃいられません。旦那、どうかお慈悲に、こッそり逃がしてやっておくんなさい", "ウム。許してやろう", "有難う存じます。じゃ旦那も、充分気をつけないと", "が……待て", "へい", "どう逃げる", "猿橋から生神場を通って、下鳥沢へ下ろうかと思います。で、ひとまず江戸の方へでも", "道案内をたのむ。――拙者今夜ここを立つ", "え、旦那も", "生神場の辻堂で待ち合していてくれ。それに就いては、持物も貴様に預けておくから、落さぬように頼んでおく" ], [ "ウム、金は、二百両を少しくずしてある。笛は大切、くれぐれ落さぬように頼む。どっちも少し邪魔になるから、貴様の肌に抱きしめてな", "ようがす。じゃ、いずれまた生神場で", "なんなら、それを持ったまま、方角をちがえてさしつかえはない", "ぞッとします、旦那の金じゃ", "寝込むなよ、辻堂で", "大丈夫、あれから鏡坂へ見えてくるお姿を、目を瞠って、お待ちしております", "そうしてくれ。……だがな、ことによると、そこへ行く時には、二人づれになっているかもわからない……" ], [ "酒じゃあないの。え……笛? あ、今奥で吹いていたあの浪人の笛が", "ううむ、もう寒気がとれた。お稲、その杯に熱い酒をいっぱい" ], [ "さ。熱い酒をグッとほして、度胸をおつけなさいよ、度胸をね。――お前さんのような退け目を取っていたひには、一生涯、あんな蟷螂みたいな細ッこい浪人に、びくびくしていなけりゃならないじゃありませんか", "もう大丈夫だよ。酌いでくれ、おれは飲む、飲んで勇気づける", "そうですともさ、何も、一人でする仕事じゃなし、部屋の乾分で寝込みを取りまいてしまえば、お前さんが手を下すことはありゃしないのに", "いや、おれだって、和歌山にいた頃は、藩の指南へ通って相当に竹刀ダコをこしらえたものだが、ただ、あいつは苦手だよ", "苦手と考えるからいけないのさ。私なども、長脇差の斬り込みを幾度も見ているけれど、みんな、腕におぼえがあるんじゃなし、度胸一つの仕事じゃないの" ], [ "後で、落着いて考えると、自分でもふしぎでしようがないが、あいつのよく吹く、陰気な笛を聞くと、おれはどう怺えても、ガタガタぶるいが止められないのだ。……お稲、おまえも愛想がつきやしないか", "仰っしゃいよ、この人は!" ], [ "お前さん、そんな私だと、思っているの", "だが、おれのような敵持ち、そして、弱気な人間はさ……", "私は、それを好いているんだよ。気の強い男ならば、いくらも部屋にいるじゃないか", "もし、おれが三五兵衛に討たれたら、お前は、どうするね", "また、そんなことを。私がそばにいる以上は", "いやさ、もしかという場合に", "後を追って死んで行くわ。ねえ、賛之丞さん、二人は、死んでもだよッ……死んでもだよ……" ], [ "だが、どうしたろうネ、仙吉のやつは", "うまくやるに違いない。あの抜け目のない男のことだから", "そうとは思うけれど、遅いじゃないか。ほかの乾分はさっきから、鳴りをしずめて待っているのに" ], [ "先生、先生……", "おウ、部屋のものか", "どうしたって言うんでしょう", "何が?", "さっぱり合図がねえじゃありませんか。凍えてしまいそうですぜ、外にいる奴は", "騒ぐな。もう少しの辛抱だ" ], [ "――一刻ばかりが大事なところだ、おれも今すぐに出向くから、持場を離れずに撓めていてくれ。日ごろの稽古を試すのは今宵だぞ", "やるからには大丈夫です。だが、仙吉のやつは、まだ何とも言って来ませんか", "三五兵衛のやつが、まだ充分に寝つかないのだろう。その方は今お稲さんが見に行っているから、皆は、鯉口を切ってじっと鳴りをしずめていることだ。卑怯なまねをしたやつは、あとで承知しねえから言い渡しておくがいいぞ", "じゃ、戻っておりやす。して先生は", "う。……おれか、おれも" ], [ "裏庭の木戸が手薄ですから、先生は、あそこを見てやっておくんなさい。伊之、勘八、半次、源三なんかがそこにいる筈ですから", "左様か――心得た" ], [ "不思議だなあ、物音一つして来ない", "もう、お稲さんが見に行ってからだって大分になりますぜ" ], [ "見て来い、勘八と二、三人で", "大丈夫ですか", "だから、あの抜け口を通って、三五兵衛に勘づかれねえように行って来いと申すのだ" ], [ "――表に影が見える。表へ出たぞ", "逃がすなッ" ], [ "おお、先生がやって来た", "早くおいでなせえ、早くだ、先生", "村上先生" ], [ "ど、どうしたと申すのだ。何がどうしたと? ……", "あれを御覧なさい。お稲さんだ", "えっ。おお……安成三五兵衛!" ], [ "まるで、道行だ!", "お稲さんの量見がわからねえ", "古い、色男かな", "そうじゃあない!", "嫌往生……?", "それにしたって、合点がゆかねえや", "どうするんだ、見ているのか", "見ているよりほかにしかたがねえや、助けに行けば三五兵衛っていう奴の刀が、お稲さんを刺す気でいるのだ――親分でもいなければ手がつけられねえ" ], [ "そうだそうだ、よく分別してくれた。助けるつもりで彼奴にかかって、もしお稲さんが刺し殺されたら、留守の親分に対して申しわけがない、親分に対して第一にこの賛之丞が……", "何を言やがるんでいッ" ] ]
底本:「治郎吉格子 名作短編集(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年9月11日第1刷発行    2003(平成15)年4月25日第8刷発行 初出:「講談倶楽部」    1929(昭和4)年1月号 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052439", "作品名": "八寒道中", "作品名読み": "はっかんどうちゅう", "ソート用読み": "はつかんとうちゆう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「講談倶楽部」1929(昭和4)年1月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-03-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52439.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "治郎吉格子 名作短編集(一)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年9月11日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年4月25日第8刷", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年9月11日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52439_ruby_50004.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-14T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52439_50005.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-14T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "だって、御寮人様、何ぼなんでも、この唐桟を、十七両だなんて", "高価すぎるかえ", "ご冗戯でしょう。新渡じゃあござんせんぜ。これくらいな古渡りは、長崎だって滅多にもうある品じゃないんで" ], [ "へえ、ひどい事を!", "あたりまえさ。良人にわたしが見立てて着せようというのに、穢い値切り方をしたの、買い惜しみをしたのと聞いたら、着るにも気色が悪いと云って、良人だって着やしないし、わたしの意気だって届かないじゃないか", "これはどうも、手放しなところを", "お惚気賃は、前払いで云っている筈なんだよ" ], [ "何さ、秀八さんともあろう妓が、そんなさもしい愚痴を云って", "ほんとに、わたしも少し薹が立って来たらしい", "お座敷かえ", "え、めずらしく。……この頃あ昼間のお客でもなければ、招ばれもしなくなったとみえてね", "また、自暴にお飲みでないよ" ], [ "どうして、この辰巳でも、あんなに売れた妓はなかった程だけれど、ちょっと、おかしな事が、ぱっと聞えたものだからさ", "ヘエ、どうした理なんで?", "何がさ", "そんなに流行っていた妓なのに、急に客が落ちたというのは", "よけいな詮索をおしでないよ。おまえさんは、長崎骨董でも弄っていればいいのだろ" ], [ "どちらとは、こちから聞くところだよ。おまえさん、先月の初旬には、もう長崎へ帰る帰ると云っていたのに、今頃まで、まだ深川にいたのかえ", "ええ……実は少し、掛金の寄らない先様があるもんですから", "嘘をお云い。何でも近頃は、せっせと金子屋へ通って、秀八と会っているということじゃないか", "誰がそんな事を云いましたか", "云わなくたって、あたしにはちゃんと判っている。秀八が挿している翡翠珠は、おまえがいつか、わたしの釵か良人の根付にどうですと云ってすすめた珠じゃないか。どう? 恐れ入ったろう", "……これは手酷しい", "会いたいなら、わたしの家だってお茶屋だし、わたしが会わして上げるものを、隠れ遊びなんざよくないね", "相済みません。……どうもつい、お花客先のお宅じゃあ", "肩の凝りがほぐれないかえ。その解れないところにうま味があるんだけれど", "そのうちに伺います", "もう手遅れだあね。……出来ちまったものは仕方がないから、たった一言云っておくが、いつかもちょっと云ったように、あの妓の体には今、うるさい噂が立っているところだからね。おまえさんは旅の者で何も知るまいが、怪我をしないようにおしよ" ], [ "じゃあ何も使い途を聞かずに……", "元より、初めからの約束だ。おまえがそれを、情夫に貢ごうが、どんな借金に費おうが、何も訊こうとは云わないから、安心して取っておくがいい" ], [ "なあに、寝ちゃあいないよ。いい気持であの水調子を聞き惚れていたのさ。……今何刻だえ", "もう八刻ごろでしょうか", "よその爪弾きなんぞ聞いていると、何だか、故郷心がついて、気がめいっていけねえや。誰か、つき交ぜた顔で、三人ばかり招ばないか、飲み直して、からっと笑って帰ろう", "……でも、今、お迎えに見えていますよ", "え。……誰が", "通船楼のお使いが" ], [ "さ、何も伺っておりませんが、ただ、おかみさんは先へ行って、土橋の梅掌軒の床几で待っているから、あなたを呼んで来てくれと仰っしゃっただけなんで。――何ですかいつぞやお求めになった、唐桟を包んで持っておいでになりましたから、あの反物の事じゃございませんか", "はてな。あれやあほんとの古渡りで、新渡の贋物を売ったわけでもないが。……その梅掌軒ていうなあ汁粉屋か何かですか", "いいえ土橋に出ている売卜者ですよ", "へえ、あんな侠な気質のおかみさんでも、卜などを観てもらいに行きますかね" ], [ "清さん……おまえ今夜、秀八に金をやったろう", "えっ……?", "今、あの妓は、家へ来ているんだよ", "へえ、おかみさんに、話しに行ったんですか", "わたしじゃないのさ。……会っているのは、与力衆と、伝馬牢の同心だよ", "牢役人に……。はてな? ……それやあどういう理でございましょう", "だからわたしが断っておいたじゃないか。――あの妓の情夫は、澪の伝兵衛という大泥棒なのだよ", "げっ、そんな紐があったんですか", "白魚の黒いのがあったって、紐のない芸妓なんかいるわけはない。おまえも存外、色里を知らない人だねえ", "そして、与力衆や伝馬役人と、どういうわけでお宅で会っているんですか", "その澪の伝兵衛が、ついこの春先、お縄になったのさ。ぱっと噂になって、あの妓が売れなくなったというのは、大泥棒の澪が紐だという事がお白洲で知れたからで、伝兵衛のお仕置は、獄門と極ったらしいが、どうしても、あの妓はそれを助けたいというので、お上の沙汰も金次第だから、その筋へそっと贈す賄賂の金を工面していたらしい。……そこへおまえさんという鴨がかかったから、早速、馴じみの与力衆から手を廻して、今、わたしの出て来る前に、離室でその取引さ", "ヘエ、じゃああの金で、澪の伝兵衛とかいう泥棒の男の生命が助かるんですか", "まさか、お追放とはゆかないけれど、獄門のところを遠島ぐらいにはなるのは御定法とされている。――つまらない眼に遭ったのはおまえさんさ。もう金のほうは諦めものだが、この上にまだ、曰くつきの妓にかかっていると、どんな目にあうかも知れないから、親しい誼みに、一言教えておくよ。わたしの家でちらと見かけたのが、おまえさんの落目の機ッかけになったなんて、生涯云われるのは寝ざめがわるいからね", "御親切に、有難うございます", "こんな事になるなら、早く打明けておけばよかったけれど、まさか、おまえさんがそんな甘納豆みたいな人とも思わなかったから……", "あはははは、これあ御挨拶でございますね。清吉も、女にゃ甘いに違いございませんが、これでも色街の事には、年期を入れておりますから、満更、溝へ金を捨てるようなヘマはしていないつもりでございます", "オヤ、そうなのかえ。わたしゃあまた、半年も一年も、旅の空で稼ぎ溜めたお金をと思って、余計な心配をしたわけだが……", "いいえ、この清吉だって、初手からそれくらいな事は、感づいていないわけじゃなかったんで", "へ。知っていたのかえ", "あの女の心意気に――ええ、百五十両くれてやりました", "心意気に?" ], [ "来ていたのか", "だって、約束した筈じゃありませんか", "いや……俺の方が、つい遅くなったからさ", "おまえさん、支度は", "途中ですらあな。……何も大した身支度は要りゃあしない。それより、おめえはもうそれでいいのか", "ちょうど、深川の水に六年住んで、今夜が見納めかと思うと、何だか、名残惜しいけれど……", "見納めだなんて、縁起でもない事を云わぬがいい。また、いつだって江戸へ来られるじゃないか", "でも、長崎くんだりまで行って、お前さんに捨てられたら、わたしゃそれこそ迷ってしまう", "今は、何も云うめえ。どこか旅宿へでも落着いてから云うが、おれはおめえの心意気が欣しいんだ。捨てるくらいなら初めから、費い途も聞かずにあんな金を出しはしない" ], [ "なんだい?", "……ちょっと、もいちどわたし、家へ寄って、忘れ物を取って来たいんですけど。ここで待ってくれますか", "近いのか", "ええ、そんなにはない所だから、ちょっと走って行けば", "そうか、じゃあ行って来な", "すみませんが――" ] ]
底本:「柳生月影抄 名作短編集(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年9月11日第1刷発行    2007(平成19)年4月20日第12刷発行 初出:「オール読物 臨時増刊号」    1937(昭和12)年4月 ※初出時の表題は「春燈辰巳読本」です。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052450", "作品名": "春の雁", "作品名読み": "はるのかり", "ソート用読み": "はるのかり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「オール読物 臨時増刊号」1937(昭和12)年4月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-03-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52450.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "柳生月影抄 名作短編集(二)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年9月11日", "入力に使用した版1": "2007(平成19)年4月20日第12刷", "校正に使用した版1": "1992(平成4)年8月24日第3刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52450_ruby_50006.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-23T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52450_50007.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-23T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "――雪で思いだしたが、もう十年も前、お国元の馬場で、雪というと、よく暴れたのう", "うむ" ], [ "この中でも、いちばん年下じゃが、そのころお小姓組のうちでも、やはり、貴様がいちばん小さかった。そして、泣き虫は十郎左と決まっていたので、貴様の顔ばかり狙って、雪つぶてが飛んで来たものだった", "泣き虫なら、もっと、涙もろい先輩がおるよ", "誰" ], [ "料紙硯だけはゆるしたが、風呂の事、櫛道具の事、医薬その他、箇条にいたして公儀へ、お伺い中じゃ。必ずと、勝手な処置、相ならぬぞ", "心得ぬことを……" ], [ "なにが心得ぬ", "御家老には、あの衆は、ただの囚人とでも思し召してか", "お預けの罪人、囚人に相違なかろう", "罪人" ], [ "武士は勿論、お台所の御用にまいる町人や、お坊主の端くれまで、義士よ武士道の華よと、世間を挙げて、賞めおりますあの衆に対して", "だまんなさい。罪は罪", "御家老は", "だまらぬかっ。私情をもって、御法を紊しなどしては、天下の御政治は元より、一藩のしめしがつかぬ", "武士の情けを知らぬおことば、伝右衛門は、服しかねまする", "服さぬ", "はいっ", "服さぬといったな", "申しました。申さずにはおられませぬ", "これは、伝右、伝右。……貴公よいお年をしながら、巷の人気などにぽっぽっとしてはいかぬぞ", "そんな、軽薄な存念とお考えあることが心外じゃ。今の世相をご覧あれ、武士道がどこに、君臣の義がどこに。武士の賢い道は、禄から禄の多きへつき、金を蓄え、妾をかぞえ、遊芸三昧、人あたりよく、綺羅の小袖で送るのが一番じゃという風ではござらぬか。――そのよい手本が吉良殿と内匠頭殿のいきさつじゃ。赤穂の浪士たちがした事は、御主君の仇をうったのみか、腐れきったこの世相と人心の眼を醒まさせたものと伝右衛門は考えまする。それを、ただのお預け人と、同視なさる心底が、歎かれますわい" ], [ "いや、かまわぬ。もしお咎めをうけた時は、伝右衛門が腹切っておわびするまで。通れっ", "ならぬっ", "御家老も接伴役のおひとりではないか", "さればこそ、落度のないように計るのじゃ。伝右ひとりの腹切ってすむことならよいが、お家にもかかわる", "あの衆の心事に、武士が、涙をそそがいでは、いよいよ武士道は地に廃る。伝右は、生命をかけて接伴を勤めまする。――御家老とはいえ、無慈悲なお扱いには服せませぬ", "これや、伝右が、どうかいたしたわい。火鉢は、納戸へ返せっ", "かまわぬ運べっ", "だまれ。上役の命を" ], [ "お気持は、頂戴いたした。しかし、公儀の御断罪を待つ私ども。……身に余りまする。お火鉢は、何とぞお退げおきを", "ははは。聞えましたな", "助右衛門が、いらざる無駄ばなし、寒さなど、とやこう申す境遇ではござらぬ", "御心配くださるな。唯今、上役と口争いはいたしたが、ちょうどそこへ、越中守様から、明日は御一同へも、精進をさし上げたいというお沙汰が下った。殿様御自身、明日は、愛宕神社へ、御祈願に参られますそうな。……お分りであろう。……火鉢などは、問題でない。藤兵衛もそれを聞いて、二言とない顔。もう一切、お気づかい無用じゃ。さ、いささかながら、細川家の心づくし、あたって下さい、くつろいで、あたって下さい" ], [ "見て参りました", "なんとあった", "――細川や水野ながれは清けれど……", "ふむ", "――ただ大甲斐の隠岐ぞにごれる", "ははあ、町人どもの勘は、怖いものじゃ。義士のお預けをうけた四家のうちでも、細川家と水野家は、情ある取扱いをしているが、毛利と松平の二家は、冷遇じゃという噂がある。さてこそ、その諷刺であろう。ははははは、やりおるの" ], [ "書物を買いにといって出ましたが……", "書物を。――書物など、読んだこともないに。――また、堺町の芝居町でもうろついているのじゃろう", "いえ、このごろは、よく御教訓を守って、道場の方も、励んでおりまする", "なんの、道場通いが、あてになろう。お前など、そんな浅はかゆえ、若い者の行状が分らんのだ。道場の門弟仲間と、悪所へ行くらしいという噂を聞いたぞ", "まだ、江戸が珍しいのでございます。友達に強いられて、見物ぐらいには参ったかも知れませぬ", "そう庇うからいかん" ], [ "お父様、ご酒は", "たくさんじゃ", "ご飯になさいますか", "む……む……貰おう" ], [ "お父様", "なんじゃ" ], [ "そうか", "その時、刀屋も不審がっておりましたが、どうして、あんなに沢山の刀を、一時に研がせるのでございますか", "今にわかる", "でも合戦もないのに", "武士にとっては、常の日も戦の日も、けじめはない", "そして、あの刀屋は、面白いことを申しました", "なんというて", "御主人様には、この度は、赤穂浪士の接伴役とかにおなり遊ばして、まことに、お羨ましゅうございますと……", "ふむ" ], [ "ははは。わしの役目を、羨ましいとか", "刀屋ばかりではございません。呉服屋の番頭も、花道の師匠様も、出入りの八百屋までが、義士たちのためになら、どんなことでも尽したい。身代りになっても上げたい。――それの出来る御主人様は、お羨ましいと申すのでございます", "至誠は人をうつ。……そんなかのう", "その代り、うるさいことも訊かれて困ります。大石内蔵助様は、どんな顔だの、堀部様はどうだの", "ははは。見たいのじゃな", "いちばん困るのは、お処刑は、どう決まるであろうと、私に訊いたら分るかとでも思うて、探るのでございます", "何事も、知らぬというておけ", "でも世間の衆は、よると触ると、どう裁くか、わが身のことのように案じているので、時には、側で聞いていても、涙がこぼれることもございます。……ほんとにお父様、どう決罪るのでしょう", "わからぬ", "遠島ぐらいでございましょうか", "さあ", "やはり、死罪でしょうか", "何とも、まだ", "死罪でも、打首か、切腹か、磔刑か", "いうな" ], [ "おう、お賑やかなことでござるの", "や、伝右殿か", "伝右殿、ここへござれ" ], [ "いつも、お元気じゃの。――何か面白い話でもござったか", "あるわ、まあ、お坐りなされ" ], [ "――今の、近松勘六めが、惚気をいうた", "それは近頃、珍しいことじゃの。して、どんな惚気?", "江戸詰の頃、他藩のお留守居とともに吉原とやら参って、ひどう、妓にもてなされ、帰されないで、弱ったことがあるといいおる", "はははは。この勘六殿がのう" ], [ "嘘、嘘", "二言をいうぞ、伝右殿が来たと思うて" ], [ "稀に、かような茶うけも、よかろうかと存じて", "ほう、田作じゃ", "なに、田作" ], [ "よかろうどころか、これは珍品", "お一つ、おつまみなされ" ], [ "美味い、香ばしゅうて", "源蔵に涙をこぼさすなどは、おつな田作じゃ" ], [ "伝右殿。其許は、若い者がお好きで困る。ちと、老人組の方へも、お話しにおいで下され", "いや、これは失礼" ], [ "耳よりなお肴、こちらへも、ちと、頂戴しておきたいものじゃ", "ささ、どうぞ", "わしも、酒の折に" ], [ "まことに、吾儘らしい申し出でござるが――", "はい", "われら、永年の浪人暮し、粗衣粗食に馴れて参ったせいか、御当家より朝夕頂戴いたしおります二汁五菜のお料理は、結構すぎて、ちと重うございます。匹夫が贅に飽いたかの如き、勿体ない申し分でござるが、以後は、一汁一菜か、二菜、それも、ちさ汁、糠味噌漬などの類にて、仰せつけ下さるよう、お膳番へ、お頼み申しあげまする" ], [ "そうじゃ、そう願いたいよ", "実を申すと、毎日の御馳走には、少々、参った形でござる" ], [ "それでは、贔屓のひき倒しというやつでござるの", "そうそう、それに、書見のほか、ほとんど身動きもせぬ体じゃ", "ところが、二汁五菜は、太守のお声がかりでござれば、これや、一存で減らすわけにはゆかず……。それに加えて、御台所はいうに及ばず、料理人どもは、何でもかでも、各〻方に欣んでいただきたいと、腕によりをかけ、必死に、美味い物を、美味い物をと作りますので――", "いやあ、愈〻、弱る", "ちと、お体を動かすことが出来ればよろしいが、それだけは、公儀のてまえ。……定めし、外気にも、飢えましょうの" ], [ "毎晩、足の土踏まずが、かさかさして閉口でござる。われら、今は何の慾もない。裸足で土がふみとうござる", "ご尤もじゃ。御当家はお庭も広し、品川の海も一望。近火のせつは、各〻を庭へ集める御規則ゆえ、火事でもあれば、庭を、御案内いたそうものを……" ], [ "備えおくわけには参りませぬが、ご所望の時には、いつでも、さし出しまする。さ、十分におすい下さい", "は……" ], [ "小瘡ができましてな。痒うてたまらぬ", "それやお辛うござろう。なぜはやく仰っしゃらぬ。典医に申して、塗り薬をとって来て進ぜよう" ], [ "御病気か", "いいえ、少々ばかり" ], [ "尾籠でござるが、十郎左は、下痢気味なのでござる。両三日、我慢いたしておりますが、お手当を", "なぜ、我慢などなさる。左様に、お親しみ下さらぬと、伝右めは、殿のお心持を、十分にお取次ができませぬ。役目の落度と申すもの。どうか、もっとお心易く、用事を仰せつけ下さらぬと困る", "これから、気をつけまする" ], [ "ウーム、気狂いじゃろう", "この辺でも、そう申しておりまする", "若いのう", "怖い程、美い女で", "不愍な……。ちょうど、お麗と、同じ年ぐらいではないか", "お嬢様と申せば、お嬢様も近頃は、どこか御気分がすぐれぬように存じますが", "そちの眼にも、痩せたとみえるか", "ちと、御血色が", "うむ……" ], [ "あっ、おゆるしを", "修蔵だの。……こらッ", "…………", "卑怯者、顔を上げい。……何じゃ、何じゃ、その懐中から落して隠した物は。見せろ", "あっ、こればかりは" ], [ "おのれ、浅ましい奴。娘の部屋から、遊びの代に、これを、盗みおったな。盗賊の所業じゃ。この、盗賊めがっ", "お父様っ……" ], [ "私が、上げたのでございます。修蔵様に", "な、なんじゃと、……貴様が、修蔵にやった?", "はい、どうしても、お要用だというお話なので", "たわけ者っ!" ], [ "母をよべっ。――お磯っ", "はい……" ], [ "お前も、お前だぞっ。よう聞けっ、この馬鹿娘が、この遊蕩児に、遊びの代を、貢いでおるのじゃっ。――貴様っ、母として、なぜそんなことに気づかん。不行届き千万なっ", "お詫びいたしまする。まったく、私の……", "生ぬるいっ。そんな詫言で済もうか。そちと、お麗の糺明は、後でする。――まず修蔵だ" ], [ "修蔵、出て行けっ", "…………" ], [ "見るも、けがれだっ。おのれのような柔弱武士に、赤穂の衆の爪の垢でも煎じてのませたら、少しは、人間らしい魂にもなろうか。ちっとは、世間で、あの衆の噂もその耳に聞くであろうに、呆れかえった大馬鹿。――いやいや、もう何もいうまい、即刻熊本へ帰れ", "申しわけがございませぬ。まったく、同門のお友達と、近頃、酒をのみ覚えまして", "いい訳がましいことを申すな。行けといったら、行けっ。――これお磯、笠と草鞋、それに路銀をつかわせ", "あなた……", "早くいたせっ", "でも、あまりといえば", "今宵ばかりは、庇いだて、一切ならぬ。わしは、苦々しい我慢をきょうまでしていたのだ。そちが出さねば、わし自身、笠、草鞋を背負わせて抓み出すぞッ" ], [ "修蔵めは、出て失せたか", "はい……。不愍ではございますが、仰せのよう……" ], [ "されば。――十郎左、その杯を、伝右殿に", "はい" ], [ "もう、参りました", "磯貝、卑怯" ], [ "これはいかな事。酌した杯、取らぬ法やある", "でも、今宵は、飲べ酔うてござります。伝右殿、ゆるしませい" ], [ "いやいや、十郎左は、あのような優男でござるが、酒は、したたかに飲りまするぞ。伝右殿、お逃がしあるな", "返せ、敦盛" ], [ "もう一献", "おいじめなさるな。もう……もう……敦盛は、この通り、首さしのべた", "そんな弱い、十郎左ではない。よし、よし、飲まねば、あのこと話すぞ" ], [ "そうそう、のまねば、あのことを、伝右どののお耳に入れよう", "何じゃ、それや聞きたい", "十郎左が手功ばなし、吉良殿の寝間を探った一件じゃ", "それや、聞いた", "いや、それに絡んでの話じゃ。堀部殿は、まだ、みんなは話しておられぬのじゃ。伝右殿、聞きとうないか、十郎左は、色男でござる", "いけないっ。謝る" ], [ "それだけは、勘弁せい。飲む……飲む……。その代りに、伝右殿、あしたはまた、御典医を、おねがい――", "いや、飲んで貰うより、その話、聞きとうなった。何でござる、十郎左殿の手功ばなしに絡む事とは", "知らん、知らん、真言秘密と申すなり", "ははは。見ろ、十郎左が、あの困ったらしい顔を" ], [ "オオ、それにおいでたは伝右殿とお見うけ申す。お入りあれ", "もうはや、お寝みでござろうに", "いや、ちとお目にかけたいものがござる。――ほかでもないが、吾々どもも、やがて程なく、この世の埒も明こうと存ずる。お礼と申すも、今更らしい。お暇乞いに、ここで芸づくしを御覧に入れよう" ], [ "畏まってござる。したが、十郎左殿、その許のお腹のぐあいは", "上天気", "ははは、上天気", "あすの日和も――", "つづきましょう、よい春じゃ。いや、お寝みなされ", "お寝み……", "伝右殿、お寝み", "お寝み……" ], [ "何するッ", "わしじゃっ" ], [ "伝右殿、すぐ引っ返せっ", "やっ、御上使か", "とうとう来たっ", "あっ……今日……今日" ], [ "伝右殿、今日は、別して、御馳走になりましたが、まだ、煙草が出ませぬな", "おう、唯今" ], [ "旦那、あの女は、一体、なんでございます", "侍女じゃろう", "へえ。何処の?", "吉良殿の――" ] ]
底本:「柳生月影抄 名作短編集(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年9月11日第1刷発行    2007(平成19)年4月20日第12刷発行 初出:「週刊朝日 新春特別号」    1934(昭和9)年 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052447", "作品名": "べんがら炬燵", "作品名読み": "べんがらこたつ", "ソート用読み": "へんからこたつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「週刊朝日 新春特別号」1934(昭和9)年", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-03-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52447.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "柳生月影抄 名作短編集(二)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年9月11日", "入力に使用した版1": "2007(平成19)年4月20日第12刷", "校正に使用した版1": "1992(平成4)年8月24日第3刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52447_ruby_50008.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-23T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52447_50009.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-23T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "こんどの冬の陣には、誰が、初伝を取るか", "夏の陣には、俺が日記方(目録取り)に昇格ってみせる" ], [ "あいつ、やっと、こんどは、皆伝をとるらしい", "十四歳から道場へ来ておるのだから十三年目の免許皆伝だ。十三年もやれば、傴僂だって、皆伝になる", "すると、奴、二十七歳か", "そうだ", "二十七歳で、遊蕩を知らんぞ、彼", "こんど、おびき出すのだな。あいつの、酔ったところを、ぜひ見ておこう。それには、例の日がいいぞ" ], [ "おめでとう", "やあ" ], [ "欣しかろうな", "それは……", "どこへ行っても、もう一流の剣客でとおるぞ", "まだ、まだ", "いや、貴公のその頑丈な体と、皆伝の腕なら、千葉や、九段の斎藤へ行っても、退けはとるまい。めでたい。――しかし土肥、奢らにゃいかんぜ" ], [ "おごれ、おい、奢れよ", "飲もう", "祝杯だ" ], [ "待ってくれ", "いいじゃないか", "俺は、酒は、飲まんでな", "飲むのは、吾々がひきうける。どこへ行こう" ], [ "吉原", "吉原はいかん" ], [ "今日は、勘弁してくれたまえ", "今日はって、ほかに、何日、交際ったことがあるか。今日は来い", "そのうちに、改めて、屋敷へ、お招き申すから", "馬鹿をいえ" ], [ "近習番頭取の土肥半蔵ときたひには、他人の伜の品行まで頭痛にやむニガ虫屋の堅蔵だ。――その親父のまえで、吝たれた酒など飲むのは、招ばれても、こっちで、ごめん蒙りたい。とにかく、同門の祝杯を、拒むという法はない", "でも", "何が、でもだ", "弟の八十三郎もいないしするから", "八十三郎がいないから、なお、いいじゃないか。兄貴の君とはちがって、あれは、通人だぞ。なかなか、蔭にまわって、遊っとるらしい", "そんなことはない。弟は、堅い", "弟は堅いから、兄貴も、堅くしなければならんという理屈はない。それに、吉原や辰巳へでも、交際えというならとにかく、酒ぐらい飲んで、何がなんだ", "実は、金がない", "嘘をつけ。土肥の吝ん坊が、藩では、いちばんの金持ちだといわれておる。吾々の親父も、みんな、貴公の親父から、利息金を借りているんだ。その長男たる貴様が小遣いがないなんて云ったって、誰が、ほんとにするものか。なくても、貴様の顔さえ借りれば、どこでも、酒ぐらいは出す" ], [ "あ、渋沢氏", "だいぶ、お困りらしいの", "弱った。とめてくれ", "とまるものですか、酒飲みが、飲もうと思い立った時は、剣法の打ちこみと、同じですよ。それに、古参の方が多勢では――", "父がやかまし屋で", "藩邸へ、見えられたとき、私から謝ってあげます。お持ち合せがないようだが、これに少しばかりありますから、まあ、今日は、交際ってあげなさい。お父上も、同門の交際いまで、いかんとはおっしゃりますまい" ], [ "渋沢という奴、若いが、なるほど、ちょっと話せるな", "俺は、虫がすかん", "百姓だ。田舎で、藍玉売りをやっていたそうな、武士のくせに、腰が低うて", "土肥、さっきの財布、見せろ。いくらある。どうせ、天保銭か、台場銭の端ただろうが、飲むに都合がある" ], [ "――渋沢の奴、何でも、田舎でがらにもない皇学を囓ったり、また、それを、流行ものの、勤王運動とやらの実行に移そうとして、八州に嗅ぎつけられ、それで、ご当家の、平岡円四郎殿へ、縁故をもって縋って、隠れているのだという風評がある、――これあ、如才なく、吾々に、渡りをつけて来たのだろう", "すると、匿い料か", "ま、そうと、俺は見る", "じゃ、ありったけ、飲んでもいいな", "飲みきれるものか", "何、これだけの頭数で、費いきれんでどうする、辰巳へゆこう" ], [ "あ、それやいかん", "明日でも、明後日でも、取りに参ればよいさ。――こらっ、その竹刀と包み、預けておくぞ" ], [ "なんだ", "なあに、土肥のかついでいる竹刀が、眼ざわりだから、ここの荻江お里という稽古所へ、抛りこんで、預けたまでよ", "それはいい、土肥ッ、何を、まごまごしとるか。――さあ、これからだぞ" ], [ "やったな", "やった", "一ツ橋と知ってやったな", "無論", "こいつッ!" ], [ "人斬り健吉ですぜ、あの侍にかかって、斬られちゃつまりません。およしなさい", "健吉、何者だ。主家の名を、辱められて、捨ておけるか" ], [ "なるほど、一ツ橋にも、武士がいるな。さ、持ちなおして、もいちど来い。榊原健吉が、すじを、目鑑してやろう", "…………", "どうした。それ" ], [ "重助", "はい", "八十三郎、今朝は、どんな容体じゃ。熱は下がらんか", "ゆうべの蕎麦屋薬で、汗が出てから、今朝はだいぶ、およろしいご容子で", "そうか。――まだ起きてはいかんな。軽はずみせぬよう、わしが留守の間も、たのむ", "お若いし、お兄上様よりは、強いご気質なので、重助も、お傅に、手を焼きまする", "わしが、申し置いたといえ。――ところで、庄次郎は、どうした。今朝はまだ、顔を見せんではないか", "頭が痛いとおっしゃって、今日は、蚊帳を取るなと――", "あれも、風邪か", "では、ないようで", "八十三郎と違い、あの方は、ぐんと、頑丈な質だ。それに、昨日の容子も、まだわしに聞かせん。起こして来い" ], [ "ご日課か", "ははは。下手弓をな", "鳶の子に、鷹は生まれんというが、生まれることもあるの", "どうして", "下手弓の子が、きのう、藩の入江道場では、模範と称えられ、年齢としては早くもないが、免許皆伝をうけ、めでとう、卒業したというではないか", "ほ。そうか" ], [ "そうか――と云って、其許は知らんのか", "まだ、聞かせてもくれぬ", "そこが、床しい。鈍じゃ、鈍じゃ、と其許はよく、庄次郎を叱りおったが、やはり、見どころがあった。ああいう質が、晩成するものじゃて" ], [ "旦那様、庄次郎様は、やはり、頭が痛い、うるさいと、おっしゃって出ておいでになりませぬが", "寝ておるか", "夜具はたたみ、蚊帳だけ吊って、中に坐っていらっしゃるようで", "変な奴じゃな" ], [ "どうだ、起きてしまえば、気分が快かろう", "はい", "今、二人して、相談していたところだが、何しろ、めでたい。祖父新十郎の才分が、そちの血に伝わったのじゃ。今日にも、藩邸へ出仕いたしたならば、君侯よりも、ご嘉賞のおことばが下がろう。追ッつけ、其方にも、お役付き仰せつけられるに相違ない。――土肥家の大祝事じゃ、よう、いたした" ], [ "それでな、庄次郎", "はい" ], [ "これやあ一つ、無沙汰の親類どもや、同僚どもを、一夕招んで、祝いをせにゃなるまいとわしは思う。なあ、半蔵殿", "む。……よかろう" ], [ "え、祝宴を。……それは……それはまだ", "謙遜いたすな。――それとも、物費りと思うて、親父への、気がねか" ], [ "ばかを云わッしゃい。わしの平常の倹約は、こういう場合に費うためじゃ。奢らいでか。ぜひ、縁者どもをよんで、庄次郎が免許皆伝の披露をしよう。日は、いつにするの", "はやいがよい", "では、明日にも" ], [ "忘れていたわい、庄次郎、そちも何としたことだ", "は?", "は、じゃない、昨日、入江先生より頂戴して参った免許の目録やら皆伝の巻があろう。なぜ、叔父御に、お見せ申さぬ。父にも見せい", "は", "どこへ置いた。――重助、重助っ", "あ、ちょっと、お待ちください。重助には、わかりません", "では、持ってこい", "は", "何を猶予いたしておる", "ええと? ……" ], [ "ははは、左様かな", "晩成ものじゃ、大器という人物は、ああでなくては", "いったいに、幼少から、八十三郎めの病弱で気の強いのとは反対に、喜怒哀楽をあらわさぬ奴での。変わっておったよ" ], [ "父上。――ありません", "皆伝の目録や巻がない?", "ハ……。たしかに、小風呂敷に包んで、机の上に、おいたはずですが", "では、あろうが", "それが、いくら見ても――", "どうした理じゃ", "猫が引いて行ったのかも知れません" ], [ "よく考えろ。忘れたのではないか、どこぞへ", "さあ?" ], [ "忘れたのであろうが", "……はあ", "はあ、じゃない、大事な品、いかがいたした", "やっぱり、忘れたのだ", "どこへ", "じつは……昨日……" ], [ "祝いに、飲み歩いたというではないか。その際、友達の手へ、預けでもしたか", "あ、そうだ。左様でございました。道場から帰り際に、渋沢栄一殿が、落とすといかぬと注意してくれましたので――", "では、今日にも、頂戴して参れ", "はい" ], [ "若旦那、味噌汁が冷めましたが", "飯はいらん" ], [ "どうもせぬ", "お暑いでしょう、蚊帳を吊ったまま――", "やぶ蚊めが、うるさいのだ", "昨日は、風邪で、道場へ参れず、残念でした。しかし、おめでとう存じます。先刻、叔父御の声を洩れ聞きますと、明晩は、ご披露のお祝いとやら、拙者も、病床を上げてしまいました" ], [ "おい、弟。――おまえの部屋に、新刷の武鑑があるか", "誰方を、お調べなさるので", "榊原", "榊原家は、何軒もございますが", "健吉と云った。榊原健吉、御家人か、藩士か、何役だ", "あの人なら、武鑑を見るまでもございませぬ。人斬り健吉で通るくらい", "そんな有名な奴か", "念のため、見ましょうか" ], [ "榊原健吉、講武所教授方出役、百俵十人扶持、下谷三枚橋常楽院裏――と。かようです", "ふウむ……" ], [ "往って来るよ", "どこへです?", "預け物を、取りにゆく。――もう、行きたくなくなったが、父上と叔父御には、見せねばならぬし" ], [ "お稽古でございますか", "いや" ], [ "――荻江さと殿とは、ご当家ですな", "お稽古日なので、お師匠さんは、二階にいらっしゃいますが、ま……お上がりくださいませ、どうぞ" ], [ "ご遠慮はいりませんから――こちらへ", "実は、ちと" ], [ "さと殿に、会いたいが", "お稽古中は、降りて参りませんから、少し、お涼みくださいませ" ], [ "お楽に――", "はっ", "おくずし下さいませ", "は" ], [ "お煙草は、召がりません?", "は", "粗葉でございますが", "おかまい下さるな" ], [ "ご無礼じゃないの、お客様に", "だって……" ], [ "中の姉さんに、吩咐てあげるからいい。お侍様が、怒っても、知りませんよ", "だって、おかしいものは、しかたがないじゃないか。――それも、悪い気で笑ったわけじゃなし……", "でも、悪くおとりになれば……", "なったら――なお可愛いじゃないか。……ねえ、喜代ちゃん、ここへ来る人で、近頃に、あんな初心なお侍って、少ないよ。惚れてみたくなった", "また! 姉さんは!" ], [ "お喜代、草履をだしてくれい", "お帰りでございますか", "ム。平清に、寄りあいがあるでのう。――どうじゃ、わしの喉は、近頃は、ずんと、しぶかろう", "大きい姉さんと、階下で、聞き恍れておりました", "大きい姉さん? ……。ムム、お蔦のことか、何せい、この家は、上の姉、中の姉、それから、下のと――三人も美人の姉妹がおるので眼うつりがする" ], [ "おや、もうお帰り?", "いたのか", "いたのかは、ござんすまい", "でも、昼寝していたじゃないか", "お声に、聞き惚れてうとうとと", "うそを申せ", "ほんと。めッきり、三味線もお巧者になるし……。そのうちに、水神あたりで、しんみり伺わせてもらいましょうかね", "だが、そちは、嫁に参ったはずではないか。いつまで、ここにもおるまい", "出戻りに、そう、恥をかかせるものじゃございませんよ", "恥――。馬鹿をいえ。ここへ稽古に来ていた小普請組の息子とかに、熱くなって、さんざ、吾々に惚気ていたこともあるぞ", "もう、お侍は、こりごり", "離縁されたか", "こっちから、してやったんですよ。当節のお武家方は、お口はうまいし、服装は華奢だし、女を買いかぶらせることには、役者衆の上手だから、もう、二本差した男には、金輪際、惚れないことにきめたんですとさ", "ははは、よくよく、懲りたな。だから、云わんことじゃない。惚れるなら、吾々のような、野暮な用人とか、年老ったお留守居役に、惚れるものだと", "その、お留守居役様は、また、どこへいらっしても、箒だし", "こいつめ。ハハハ" ], [ "何かご用でも", "実は" ], [ "昨夜、酩酊した友達どもが、悪戯半分に、当家の窓口から、抛り込んだ品があるはず、じつは、拙者の品でござる。それを、頂戴に参ったのだが", "アア、あの水引の掛けてあった竹刀でございましょう。――それと、お風呂敷", "左様" ], [ "その品ならば、お気の毒ですが、もう私どもの家には、ございませんよ", "えっ" ], [ "ほんとに、あの人ったら、しようがないね。――なぜ、喜代ちゃんは、止めなかったのだえ", "お兄さんに、もし取りに来る人があると困るからって、何度も、そう云ったんですけれど" ], [ "恐れいりますが、その方のお屋敷へ、取りに行っていただけましょうか", "行くよりほかはない。住居は、どこでござるか", "分りにくい所ですから、自宅の者に、ご案内させましょう。ほんとに、お気の毒様な" ], [ "いいよ、お喜代をやるから", "だって、喜代ちゃんは、夕方の支度があるし、どうせ私は、出戻りの厄介女――それぐらいな用はしなければ……", "してくれるはいいが、またあとで、姉さんに、当たられたら、恐いからね", "働けば、ああいうし、何もしなければ、しないというし……", "じゃ、お願い" ], [ "どこじゃ、その人の、住居というのは", "川向うですよ" ], [ "あ。……そうか", "下谷の三枚橋。俗に、どんどん橋とも云いますね" ], [ "もう、すぐそこ――常楽院裏でございますよ", "あの門か", "ええ", "武家だな、――何という者の屋敷か", "榊原健吉様", "げッ" ], [ "さ、榊原……だって?", "講武所の――ご存じでしょう、人斬り健吉ですよ", "そ、そいつは、いかん" ], [ "なぜ、帰ってしまうんですか。せっかく、ひとが案内して来たのに、榊原健吉の家と聞いたら、急に、顔いろを変えて――人斬り健吉に、借金でもあるのですか", "む……いや……" ], [ "帰るわけじゃないが……その、少々……", "どうなさいましたの", "ちと……落し物を、した", "まあ、何を", "大した物じゃないが、探して来る……", "じゃ、私も" ], [ "おやすいことですけれど……", "たのむ!", "じゃ、落し物を、見つけたら、貴方は、門の外で、待っていて下さいますか。帰っちゃ、いやですよ", "帰るものか。たのむ!" ], [ "オオ、返してくれたか", "駄目" ], [ "えっ、よこさない?", "つむじ曲がりですからね", "不都合じゃないか、人の物を、持ち去っておきながら", "本人が来たら渡してやると云うんです。だから、お入りなさいよ。がさつな屋敷だから、誰に、遠慮もいらないし", "遠慮などはせぬが", "億劫がることもありませんよ", "億劫でもないが" ], [ "さ、いらっしゃいよ", "む?" ], [ "用人も、誰もいないんですから、どうぞ、ずっと", "ではご免――" ], [ "肌でも脱がんか", "はっ", "この暑いのに、そう、堅くなっておられちゃ、こっちも暑い。膝をらくにしたまえ", "はっ" ], [ "君は、入江達三郎の弟子だそうだな", "はい", "入江と、拙者とは、若いころ、戸ヶ崎十松の門で一緒に修業していたことがある。むろん、拙者の方が、はるかに末輩だが", "左様ですか", "下手だな、あの大将、いつまでも", "ははあ", "あれでよく一ツ橋家の師範など勤めておる。その又弟子だから、君ら、剣術を知らんのは、無理もない", "…………" ], [ "あ、竹刀と、皆伝の目録か、確かに拙者が、お里の家から持ち帰っている。――まあ、一献", "酒は……", "飲まんのか", "不調法者でござる", "こいつ! 案外、話せん男だ、俺はちと買いかぶったかな。――じゃすすめない、酌をしてくれ。君はその唐茄子でも、食っておれ" ], [ "土肥さんは、召飲れないのでしょう", "どうも、一向", "お気の毒ですよ、兄さん、はやく、あの品物を、返して上げてください" ], [ "――渡してやれ", "有難うぞんじます" ], [ "おい、唐茄子氏", "はっ" ], [ "待ちたまえ。――貴公は、一体、何しに来たのか", "明夜、親戚どもが寄って、手前の免許皆伝を取った祝宴をしてくれますので、ぜひ、この品が入用のために", "それだけか", "それだけでござる", "はははは。――何のこッた、拙者はまた、昨夜のご無念もあるはずと、首を洗って待っていたのだ", "ど、どうつかまつりまして――", "昨夜の連中で、たれ一人、拙者を追って来る者のない中に、貴公一人は、俺の背なかから斬りつけた。まるで、成っていない刀の味だったが、気概は偉い、意気は愛すべしだ――と思って、今日は、貴公の訪問を、実は、目釘をしめして待ちかまえていたのに。――勝負もせず、帰るのか", "帰らしていただきます", "はてな?" ], [ "どうなすったの", "どうもしない", "お宅は、どちらです", "小石川……武島町", "じゃあ、まるで、方角ちがい、近いなら送って行こうと思ったけれど", "なんの" ], [ "ウム", "きっと", "うむ……", "妹に、気がねなんか、いりやしない。お里だって……ほんとのこというと、榊原健吉の、お妾みたいなものになってるんですからね", "あ……そうか", "一番下のお喜代にだって、いま、旦那の話が持ちあがっているし……淋しいのは、私だけ、私だけが、ひとりぽっち" ], [ "じゃ、また、そのうちにね", "あ……" ], [ "庄さんも、偉うならしゃれたのう", "いい跡継じゃ、半蔵殿も、お倖せなこッちゃで" ], [ "わしの子にしては、庄も、まず上出来の方じゃ。免許皆伝という腕のもち主となると一ツ橋家にも、何人もおらんでのう。やがて、お召出しになろうし、わしも、藩邸で肩身がひろいぞよ、のう、鉄之丞", "そうとも、そうとも" ], [ "そうじゃ、こう、内輪の者が集まることも、滅多にないで、今夜は、わしから半蔵に、云わにゃならぬことがある", "なんじゃ", "庄次郎、何歳になるの", "当年二十七歳じゃが", "なぜ、はよう嫁をもたせんのか、ちと、半蔵殿、量見がわるかろうぞ。二十七にもなって、遊びもせぬ、女房も娶らぬ、それじゃ、まるで片輪者じゃわ", "ばか云わっしゃい。役付きもせぬうちから、子でも生まれたら、どう養うか", "それ、それがわるい。吝嗇というものじゃ。他人に貸す小金ぐらいはある土肥家の跡取り息子、女房子ぐらい、何じゃ。わしから、一同へ頼んでおくが、よい嫁はないか、あったら早速、娶たせにゃいかんで", "あるがの……よい娘が" ], [ "誰?", "石川主殿様の娘――お照さんというたかの――書家の萩原秋巌様の所で見かけたが、よい娘じゃ、学問がようできる", "なるほど、石川の娘なら、くれるかも知れぬぞ、半蔵殿と同藩じゃあるしの" ], [ "二十七にもなって、女が、欲しゅうないなどと云っても、わしは、うなずかん。持て、持て、八十三郎も後口にひかえているに、貴様が、いつまで、部屋住では困る", "よく考えまして", "馬鹿じゃの、妻をもち、一家をなし、子孫の計をする、人倫の大道じゃないか。考えることがいるか。痩せ我慢するな", "我慢では、ございませんが", "いつまで、独身でいると、そういう風に、卑屈になる。女が欲しいと、なぜ云わん。ま、わしにまかせろ" ], [ "娶うか。よしよし。善は、いそげだ、早速がいいぞ。先方は、いつでも、見合いをすると云うが、何日がいいかの", "見合いには、及びません。叔父上のお目鑑で", "そうはいかん。見て、損はないぞ", "娶うと、決めた以上は", "後になって、不服は云わぬか", "申しませぬ", "ならば……よかろう。いや、貴様も、存外、偉いところがある。女房など、見て、わかるものじゃなし、娶ったが勝負、籤をひくも同じこった。じゃ、わしが何もかも一任されよう" ], [ "だれが", "新調のご紋服や、裃が縫えて参りました。一度、お召しになってみるようにと、叔父御や、親類の女どもが申しまする", "寸法に合わせて仕立てたものなら、着てみないでも、いいではないか", "そうですか", "そうだとも", "諸方様から、お祝いの品々が参っています。いちど、ご覧なされては", "いいよ、うるさい", "どうかなさいましたか", "どうもせん", "明日が、楽しみやら、待ちどおしいやらで、もう、うつつなので――" ], [ "なるほど、あれでは、暇どるはずじゃ", "だが、紋は", "鷹の羽、丸に鷹の羽" ], [ "お席へ、お着きくだされい", "まず、其許から", "いや、お先へ", "どうぞ、お年役に", "まあ、まあ" ], [ "なんじゃ", "どうしたのだ" ], [ "出迎えの間違いじゃ。門違いじゃった", "え? ……え? ……" ], [ "――あれは、上水組同心の鈴木とやらへ嫁ぐのだそうな", "道理で、すこし、挨拶が、変だとは思ったが……", "一夜に、二組も、嫁の輿が門をくぐった。間違いとはいえ、めでたい" ], [ "おや、あの衝立の蔭で、ひとりで飲っているのは、土肥じゃないか", "土肥とは", "お情け免許の庄次郎", "まさか" ], [ "あいつは、酒ぎらいの、堅人じゃないか。お情け免許をもらった晩でも、いつのまにか、逃げ帰っていたくらいな男――", "でも、土肥らしいぞ", "賭をしよう", "よろしい" ], [ "た、たれかと、思えば、これは過日の、先輩諸君で……。はははッ、奇遇でござるな。場所も、しがらき。ここは馬鹿どもの集るしがらみと、みえる", "何を云ってるかっ。こらッ。土肥っ、横着者の猫かぶりめ", "猫じゃ、猫じゃと、おっしゃいますか", "撲るぞ。長年のあいだ酒は一滴もやれないの、やれ、門限があるのと、朋友の誼みを欠いて、俺たちを、馬鹿正直に、買いかぶらせていやがって。――怪しからんやつだ", "はい", "ハイじゃないっ。もう、貴様の尻っ尾は、つかんだ。今夜こそ、帰さないぞ", "のぞむところ", "なに", "行こう。ど、どこへでも行くぞ……。猪ッ、猪牙舟か、駕か", "オヤ、こいつ、どうかしているぞ。誰か、馬を雇ってこい。縛りつけて家へ帰した方がいい" ], [ "勘定とは、金のことか", "あたりまえ" ], [ "とんでもない奴だ", "喰わせ者め" ], [ "近頃、石川主殿の娘を娶って、どんなに、納まっているのかと、今日も、道場で土肥のうわさをしていたのに", "あんなのは、女房を娶ってから、得て、タガのゆるむものだ", "すると、吾々は、たしかな方だな", "オイ" ], [ "この夏、渋沢から借りた空財布、誰が持ってるか", "俺が、持っている", "出してみろ", "あれには、渋沢の印形と、書附が入っているので、中実は、空っぽだが、捨てずにいるのだ", "それそれ。そいつを、この際、庄次郎の負債へ一任してしまうがいい。貸してくれ" ], [ "上手い", "叱ッ" ], [ "さ、帰りましょう", "か、か、勘定を", "払いましたよ、ここのお勘定は", "そうか" ], [ "ホ、ホ、ホ。何を考えているのですえ?", "相済まん、この通り", "およしなさい、帳場だの、お客たちが、笑っているじゃありませんか。とにかく此店を出ましょうよ", "うむ", "行きますよ", "しばらく", "どうなさいましたえ", "た、た、立てそうも……ない" ], [ "お蔦姐さん", "あい", "駕じゃあどうです。駕ん中にどし込んで、縄括げにでもしては", "ついそこだもの、我慢おし", "どこだ", "肴店の毛抜き鮨", "この蛸侍を鮨だねに、卸売しゃアちょうどいい", "馬鹿におしでない" ], [ "――私のいい人をさ", "オヤ、そんな、おやすくねえ人ですか", "嘘だよ。だけど、自家へは、黙っていておくれ。お里にも、お喜代にも。――いいかえ" ], [ "早いのよ、まだ", "でも、でも俺は", "怒ったの", "…………" ], [ "刀は、刀はどこへ置いた", "まあ、火事みたいに", "俺は、帰る", "そんなに、あわてなくても、帰さないとは、云いませんよ" ], [ "ちょっと、手を貸してよ", "なんだ", "帯の端を、ぎゅっと、締めてくれない?" ], [ "こうかっ", "あ、痛。そんなに強く締めたら、お腹がちぎれてしまう", "先に、帰るぞ。俺は", "ホホホ、ほんとに、怒ったのですか。ごめんなさい、堪忍してね。……それから、私を、捨てないでね" ], [ "旦那、しがらき茶屋へ、お忘れ物をしたでしょう", "いや、べつに", "でも、これが、届いております" ], [ "唄わないの", "唄なんか、出るかよ" ], [ "金がほしいなあ", "愚痴っぽいよ", "また、今日あたり、渋沢が屋敷へ催促に来ているだろうし……" ], [ "わたしの、お仕込みがいいから――", "ふん、悪い指南番だ", "ほかのことは", "初めから、剣術などをやらねえで、荻江節でも習っていたら……", "二人で、ご神燈でもかけるのに。……だけど、これからだって", "ああ" ], [ "確かにいることを、見届けてきたのだ。――荻江の三味線が、洩れていたのが証拠、それに下駄もあるっ。かくすと、承知せんぞッ", "あっ、兄さんが" ], [ "健吉", "そうですよ、健吉が妹へ買ってやった着物だの、髪の物だのを、私が、みんな七ツ屋へ運んでしまったから、怒って来たのかも知れない", "そ、それは", "あわてたって、しようがない。庄さん、度胸を、おつけなさいよ", "つけて、どうする", "勝手におしと、二人で、首を並べちまうのさ", "いけねえ、榊原健吉とくると、俺は、苦手だ" ], [ "人斬り健吉だ", "泥棒か、喧嘩か、捕まったのは", "何だか知らねえが、また、斬るぜ。――あれっ、弱い奴だ、ずるずる引っ張られて行く" ], [ "見っともない。帰れ", "帰らない" ], [ "家へ、お帰んなさいよ。往来じゃありませんか。姉さんっ、姉さんっ――", "お離しっ", "帰って下さい。見ッともないから。他人様が笑いますから", "笑う奴は、笑え。……私は" ], [ "もう、やめい。折檻は、それくらいにして", "いや、こんなことでは、腹が癒えぬ" ], [ "面目ない? ……こらっ庄次郎、面目などと人なみな量見が、貴様にもあるのか。あるなら、父親の苦慮、新妻の嘆き、わしの立場――ひいては藩侯のお名をも汚しおる昨年来のふしだらを、少しは、弁えおろう", "は、はい。重々", "腹を切れ", "…………", "貴様が切らなければ、わしが切るぞ。嫁の里方たる石川主殿へ、何と、顔向けができると思う", "…………", "これを見ろっ" ], [ "ど、どういたしましたか、お照は? ……", "読めばわかる。井戸へ、身を投げたのだ", "げっ。……そ、そして一命は", "八十三郎が、気づいて、すぐ救いあげたが、助かるまい。里方へ、黙ってもおけぬ。石川主殿は、娘を殺したのは、庄次郎じゃと、半蔵殿とこのほうへ、膝づめの懸合い", "ああッ……" ], [ "どうする気か", "貴様が、腹を切るのが嫌なら、わしが切るぞ。二つに一つ、ほかに謝罪の道はない" ], [ "庄次郎、詫状を書け", "何と……書きますか", "一つ――" ], [ "何だ? 弟", "実に、癇にさわる。近頃は、毎日ですからな", "何が", "あの軍鶏の声です", "軍鶏か、あの声は", "まるで、喉を締めるような。……あれが聞こえ出すと、勉強ができない", "どこの家で、あんなものを、飼っているのか", "飼っているならいいが、そうじゃない。この上の藪の中に、無頼漢と、闘鶏師が集まって、博奕をしているのです", "ふふむ、蹴合いか", "賄賂を取っているとみえ、町方の役人も、耳のない顔をしている。上も下も、怪しからん世の中だ" ], [ "兄上、渋沢栄一殿が、訪ねて来ました", "何日?", "只今、お玄関に", "えっ、来たのか。いると云ったのか", "べつに、はっきりは、申しませんが", "いないと云ってくれ", "なぜです。なかなかいい人物じゃありませんか。ご不在中、幾度も来て、拙者と、話して行ったこともあるが、しっかりしている", "今日は、ぐあいが悪い。近日こちらから伺うと……" ], [ "では、お待ちすると云って、帰りました", "そうか" ], [ "何か、文句を云わなかったか", "べつに" ], [ "橋場", "おい", "目黒、どうだ、出てみるか" ], [ "強請に来たかっ", "何だと" ], [ "強請たあなんだ。うぬの屋敷こそ、一ツ橋家の近習番とか、なんとか、世間ていはいいが、大騙りの盗ッ人武士だっ", "な、なにをもって、左様な無礼を云うか。ただは、おかんぞっ", "面白れえ" ], [ "証拠でもあって申すか", "おおっ、これを見ろ" ], [ "土肥と彫ってある十手が証拠だ。こいつを持って、御用呼ばわりした野郎は、たしかに、庄次郎というここの長男。あいつを出せっ", "兄は、四、五日前から家に戻らん", "ぐるになっていやがる。じゃあ、その時の賭場銭をそろえて、土肥半蔵が、手をついて謝れ", "左様なことはできん", "できねえと。オイ、青蕪。じゃあ、これを証拠に、一ツ橋へ行くぞ", "勝手にいたせ", "いよいよ、父子共謀だ。よしっ、もう銭は要らねえ、みんな! 腹癒せをしろ" ], [ "人殺しだあっ――", "人殺しいっ" ], [ "あなた、少し、お稽古をしなくちゃ駄目ですよ", "さらってもらおうか" ], [ "庄次さん、浅草へ行かないか", "何しに", "遊びにさ", "嫌だ", "じゃあ、あたし、一人で行く。お小遣い、まだある?", "あるよ" ], [ "もう一つの財布にあるお金は", "あれは、渋沢栄一へ返す金。お前、出かけるならついでに、届けてくれ。気がかりで、たまらない", "そんなもの、返すこと、ありゃしない", "いや、あの吝ン坊が、意気で貸してくれた金だ。人間、意気には感じる。手紙を書こうか" ], [ "知らん。何か……人違いだろう", "ふざけるなッ!" ], [ "誰だい", "使い屋でございます。ちょっと、お開けなすって", "使い屋? ……お蔦からの使いか", "へい" ], [ "火を放けるぞっ", "男らしく、素ッ首を出すか、立ち腹を切るか" ], [ "汝ッ方のような、青侍に、カスを喰って泣き寝入りをするような闘鶏師たあ、闘鶏師がちがう", "江戸にだけでも二、三百、駿府、甲府、上州と、仲間の眼だけが集まりゃ、旗本の一軒や二軒、屋台骨を揺り潰すぐれいなことは朝飯前だ", "うぬを片づけてから、武島町の古屋敷も、たたき潰してやらなけれやあ、闘鶏師の面がたたねえ", "舌でも噛め、後は、火葬にして、こんがり、焼いてやらあ" ], [ "先へ廻れッ", "石をぶつけろっ" ], [ "誰だっ?", "は", "盗ッ人にしちゃあ、不器用な奴だ。勢吉ッ、灯を貸せっ" ], [ "思いがけないお世話に相成りまして", "ははは。料理屋の帳場に、お前さんの言葉じゃイタに付かねえ。そんな固い辞儀は、よしッこさ", "恐れ入ります", "人助けは、あっしの道楽だ。恩のヘチマのと、義理枷があっちゃ、面白くねえ。お前さんの身の振り方がつくなら、いつだって、黙って、出て行っておくんなさい。また、いてくれるなら、十年はおろか、一生いたって、小倉庵の屋台ぼねだ、食いつぶされる心配はありませんぜ", "はい", "それから、小梅村に借りていたおめえの世帯だが、若い奴を、見せにやったところが、闘鶏師の仲間が来て、竈の灰まで、きれいに、攫って行ったそうだぜ。三味線一挺ありゃあしねえって、若い奴が、帰って来た", "なるほど……それは当然さもあるべきで、異存は云えぬ", "たいそう、諦めがいいな", "元々、拙者が悪いので", "そう考えりゃあ、何事も、腹は立たねえ。じゃあ、ついでに、もう一つも、諦めてしまうこったなあ", "もう一つとおっしゃるのは", "女。――お蔦の方だ。おめえの事情を聞いて、俺も、気になるものだから、それとなく、髪結やら、河岸の者に、噂を探らせてみると、呆れた淫婦だ、沢村田之助に入れあげて、猿若町がハネると、代地の八重桐へ引き入れて、いい気になっているという話だが", "ほんとであろうか", "誰が……" ], [ "どうする? ……諦めるなら綺麗がいいし、四ツに斬る気なら、つい川下流だ、舟でも、駕でも、出してやるが", "…………" ], [ "そんな女じゃないが", "ははは。甘いね、土肥さん", "考えておきます", "考えてみなせえ。女旱天の世間じゃあるめえし……。この、帳場から眺めていると、沢山来る婀娜っぽい花の中から、今に、いいのが見つかるよ" ], [ "お喜代じゃないか", "どうなすったの……土肥さん", "おまえ、芸妓になったのか", "え。川向うの堀から出ています。これもみんな、お蔦姉さんのためですわ。姉さんのこしらえた不義理な借金の穴埋めに", "面目ない。その罪は、俺にもある……", "あなた、どうしてまた、お侍のくせに、料理屋のお帳場さんになったんですか", "これも……" ], [ "詳しいことは、いずれ、話そう。そのうちにどこか静かな家で……。よんだら、来てくれるか", "え。参りますとも" ], [ "よウ、よウ", "ご両人様" ], [ "お帳場さん、お天気だね", "ウム、いいあんばいだ", "あれさ、お前さんの、ご機嫌のことだよ", "ご機嫌か", "いやにニコついているじゃないか。何か、奢んなさいよ", "はははは", "あれ、また笑うよ、薄気味が悪いね" ], [ "お帳場さん、桐壺のお客が、ちょっと、お前さんに顔を貸してもらいたいって。――ほかのお客はもうお帰りだから、すぐ行っておくれ", "お客が? ……はてな、どんな人だ", "若いお武家", "武家は苦手だ。断わってくれ", "駄目だよ、先で、姿を見ているんだもの、留守とも云えないだろう。きっと、ご祝儀でもくれるのかも知れない", "嫌だなあ" ], [ "君っ、なぜ逃げるのか", "面目ないっ", "どうめされたのじゃ、その姿は", "今日のところは、お慈悲だ。――知らぬ他人と思って", "水くさい。まあ、話そう", "いや、そのうちに……そのうちに、きっと、借用の金子も、ご返済いたすによって", "金子じゃと……。なんじゃ、あれは、その節、お祝いの寸志として、貴公へ進呈したものじゃないか", "えっ?" ], [ "今も申した通り、金子は、差し上げたつもり、ご返却などしていただこうとは思ってもおらぬが、後で気づくと、あの金入れの中には、他人に見られてはちと都合の悪い書付二、三通と、自分の印形も入っている。それだけを、実は、お返し願いたいものと思い、しばしばお住居にまでお訪ねした次第ですが", "いや、何とも、はや" ], [ "ここで、お目にかかったのは何よりだ。あの書付と印形だけを、お戻し下さらんか", "もとより、お返し申さねばならないが……実は、その……", "どうなされたか", "ただ今、ここには、持っておりませんので" ], [ "四、五日うちに、必ず、私の方からお届けしますが", "そう願えれば、結構", "今、お住居は", "やはり、平岡円四郎殿の邸内に、匿われておる", "ははあ" ], [ "では、いずれまた", "自分も帰る" ], [ "諄いようだが、あの書付が、幕吏の手にわたると、迷惑いたす者が幾人も出る。どうか、相違なく、お届けねがいたい", "承知しました" ], [ "土肥さん", "はい", "桐壺から今帰った客は、渋沢栄一という田舎侍じゃねえか", "そうです", "おめえも、同類じゃねえか", "えっ。どうして", "渋沢という男は、勤王浪人の尾高東寧や、その他の百姓侍と計って、高崎の城に、夜討をかけ、軍資金を集めて、討幕の旗挙げをしようとしたことがバレて江戸へ逃亡した野郎だ。武州の榛沢村から、俺の手へも、廻状が来ている" ], [ "読めたろう、それで", "なるほど" ], [ "すぐ、ふん縛ろうかと思ったが、おめえも懇意らしいし、商売冥利、今日のところだけは見遁してやったが、小倉庵が、承知で、彼奴に大手を振って歩かせていると云われちゃあ、世間に済まねえ、近いうちに野郎を召捕るぜ", "そうですか", "同類でないならば、おめえも、一肌ぬいで、手伝ってくれるはずだ。一ツ橋家の藩邸へ、十手を持って踏み込むわけにはゆかねえ。奴を、外へ誘い出してくれれば大手功だが、土肥さん、やってくれるか", "やりましょう" ], [ "よろしいか", "その木戸を押したまえ" ], [ "約束をたがえず、わざわざ、お届けを願って恐縮じゃな", "ところが……実は……その書付はまだ持参して来なかった", "えっ? まだ?" ], [ "ははは、紛失してしまった物ならしかたのない話、なぜ先日、そう云わなかったのだ", "どうも、面目なくて", "ただ、それが、幕吏の手へ渡ると、他人に迷惑をかけねばならんので、それだけが、気懸りであったが……", "それだ" ], [ "小倉庵の長次が、捕手をつれて、藩邸の外まで来ている。今のうちに、裏門からお逃げなさい。――これだけが、お礼の寸志。――それを、報らせるため、手引をすると偽って、これへ来たのだ", "ほ……" ], [ "どの面下げて、かような所へ、出て失せたか。この上にも、父の顔に、泥をぬる気か。不孝者ッ、不忠者ッ", "痛いッ、ご免ください" ], [ "兄上、お逃げなさらなければ、この手を離して上げますが、逃げますか、逃げませんか", "離してくれ、逃げはしない", "きッと!", "うむ、きッとだ", "じゃあ……" ], [ "おい、小倉庵じゃないか。どこへ行く?", "おうっ、旦那ですか" ], [ "土肥のことなら、あの弟にも、ちと臭いねたが上がっている。焦心るこたあない。きっと、取ッちめてやる", "臭い? ……はてな" ], [ "臭いとは?", "弟の、土肥八十三郎は、近頃、しきりと、ご禁制の蘭書を、耽読している。のみならず、上方あたりから、しばしば、飛脚がくる。その一通を、破って見たところ、案のとおり……流行ものの、勤王とか、攘夷病とかいう奴に、取ッ憑かれているのだ", "ほ、弟が?", "だからじゃ" ], [ "叔父上っ。いいところへお出で下さいましたっ。お詫びのお口添えを願いまする。父へ、お詫びを――", "ええっ、馬鹿、離せっ" ], [ "土肥八十三郎は、其許だな", "そうです", "一緒に、行こうじゃないか" ], [ "琵琶橋までの坂道が暗うござる。ただ今、提灯をとぼしますゆえ、暫時――", "それには及ばん" ], [ "これが……これが世の中としたら……何のために人間は、子を育てるのじゃ。……わしだけじゃよ、こんな不運は", "いや、そうでない。世間は、こうしたものじゃよ。もっとも、世の中にも、いろいろな推移はある。徳川様ご入府時代の世の中、寛永尚武の世の中、元禄の淫逸、田沼の作った悪政と賄賂の世の中、また、文化文政の全盛も世の中なら、天保の飢饉も、ある間の世の中じゃった", "そして――今か", "そうじゃ、今は、いまの江戸をよく見ればわかる。怖いものは、世の中の変遷じゃ。わしや、おぬしは、もう古い", "でも、若いやつらは、自分を、生み育ててくれた親を、何と思っておるのじゃろう。……八十三郎だけはと頼みにしていたのに", "思ったところで、やむにやまれぬ――それが若さじゃよ。諦めさっしゃい。庄次郎の行った道も、やむにやまれぬものなら、八十三郎の行った道も、やむにやまれぬものじゃろう。こうなることを知って立った、巣立ちの鳥、老いの愚痴が、耳に入るものではない。わしらは、ちょうど、鈴虫の親じゃ、生んだあとは殻だけのもの――", "老腹でも断ち割ってみせたら、八十三郎も、庄次郎も、よもや、こうもならなかったであろう" ], [ "何の、親の力で、子が抑えきれるものなら、将軍家の力で、時勢も喰い止まらねばならぬはず。……それが、近頃はどうじゃ", "弱ったっ……" ], [ "そう、嘆くな。嘆いたとて、どうなるものぞい。おぬし、金は蓄めたじゃないか。金が、老いの杖。これからは隠居して、花鳥風月を友として喃……。それも、いいぞよ", "金。金などが――" ], [ "お師匠さん、いますか", "お喜代さんか。お師匠さんは恐れ入るな。荻江露八と名乗ったものの、お前さんの受け売りだからな、呼び方が、逆さまだ", "私よりは、姉さんの方でしょう。あなたの先生は", "もう、お蔦のことは、云ってくれるな", "そんなに、嫌いになったのですか", "好きで好きでたまらない、嫌いで嫌いでたまらない。変な女があるものだ", "私は、どっち?", "おまえか", "…………" ], [ "え。どっちなの", "片っ方だよ", "嫌いな方?", "ううん" ], [ "もう、駄目だ。旦那ができてしまったからなあ", "出来ないうちなら?", "生命もやったろうよ" ], [ "――お稽古しましょう", "願おうか" ], [ "明日、旦那が、私と浜中屋のお菊ちゃんを、神明の生姜祭につれて行って下さるというのだけれど、露八さんも、行かない?", "さあ、それは、堪忍してもらいたいなあ", "なぜ", "旦那と、お喜代さんと、行ったらいいさ", "でも、隣家の露八さんも誘って来いと云うんですもの", "向うはいいかも知れないが、こっちが、やりきれない", "そんな人じゃない、それは、さっぱりした人です。それに、私がこうして、露八さんを世話しているのに、一度も、ひき会わせないのも変だし……。ね、行って下さいよ", "そんなに云うなら、行ってもいいが、どうも、この頭がまだ、気がさして、世間を歩く気がしないのだ", "いつまで、鬱ぎこんでいないで、大手を振って、歩けばいいじゃありませんか。何も、世間に坊主がいないわけじゃなし……" ], [ "二人とも、船へ来て、待っていなさい。坊主は、まだ、支度しているのかい", "そうでしょう。後から、すぐ来るといいましたから" ], [ "露八さん、鬘をしていては、暑いでしょう。鬘の間から汗が滲み出している", "そんなでもない" ], [ "川のなかは往来じゃないし、誰も見ていやしませんよ。脱ったらどうですか", "それもそうだな", "脱りなさい。遠慮なく" ], [ "今日の酒は、ちと違うの。灘ではあるまい", "船宿のですから、宮戸川かも知れません", "お菊の家へ寄って、剣菱を頒けてもらおう。船頭、浜中屋の裏へちょっと着けておくれ" ], [ "生姜市へ行くなら、私も連れて行って", "わたしも", "私も", "私も" ], [ "沈んだって、かまわない", "お前たちは、借金のある体だからかまうまいが、わしは、かなわん", "どうせ死ぬなら、旦那に掴まっていよう" ], [ "なむあみだぶつ", "船頭さん、橋杭に打つけちゃいやだよ", "沈んだら、綺麗だろうな", "とんだ、壇之浦だよ" ], [ "うむ、これなら飲める。露八さん、杯が遠いな。もっと、真ん中へ出ないか", "はっ" ], [ "旦那もひとつ", "さ、何をやろうね" ], [ "そうだ、会津の松平容保様が、京都の守護職になって、今日か明日、ご上洛という噂がある", "その兵だろう。自分たちは、国事のため、これから生きるか死ぬかの仕事に就こうというのに――江戸の人間が――と腹が立って悪戯半分に撃ったのだ。先の方が、無理がない" ], [ "やあ", "やあ", "ようっ、別嬪" ], [ "酒は、どうしたのじゃ", "まだ、こんなにも、ございますよ", "飲まないか、お喜代", "はい", "芸妓たちは、何しに従いて来た。酒も飲まないで、面白くないぞ", "はいはい、御意とあれば", "なんで否やの――", "候うべき――" ], [ "あたし、生姜はいらないから、太好庵の伽羅油がお土産に欲しい", "伽羅油でも、白檀油でも、買ってやるから、これを持て" ], [ "どの提灯", "あの神馬小屋の軒にぶらさがっている、め組の赤い提灯さ", "造作ない" ], [ "露八先生、どうだね", "五両くれますか", "やるとも" ], [ "おい露八、向うへ行く十八、九の結綿に結った娘の髷に射あてたら、今の十倍――五十両遣るが、あたるまいな", "ほんとに、五十両出しますか", "その代り、あたらなかったら、今の五両、返すのだよ", "よろしい" ], [ "貴様は、医者でも茶坊主でもない様子だが、一体、何者だ", "姓名の儀は、平に、ご用捨を――" ], [ "云わんとあれば、なお疑わしい。桂、面倒だから、叩ッ斬ってしまおうじゃないか", "斬るのは止せ", "なぜ", "増上寺の山内だ", "かまわん", "寺院の中で、殺生をせんでも", "ここは、徳川代々の廟所じゃないか。この奢り誇った霊廟の金碧を見ろ。畏れ多いご比較ではあるが、吉野の御陵には、雑草が離々と茂いて、ここの何分の一の御築石もない――穢れもくそもあるものか、俺は、斬る", "そう云うなら勝手にしたまえ", "見ておれ" ], [ "桂さんも、桂さんじゃありませんか。黙って見ているなんて――", "でも、半平太が、ああ云い出したら、肯きやせん", "肯けないなら、私が、お対手になりましょう。露八さんを、斬りなどしたら、私が、承知しないからいい", "これは、驚いた。お菊、その男は、おまえの知人か", "ええ、私の恋人", "正気か", "半平太さんや、小五郎さんのように、お酒の上で云うのではありませんよ" ], [ "お菊、おまえの愛人だというその坊主をひとつ、紹介せんではいかん", "はい" ], [ "露八さんです", "鬘など被っていたが、一体、その化物は、何を職業にしているのか", "幇間です", "幇間か" ], [ "あなた方、どちらも、土佐の武市だとか、長州の桂だとか、志士の、熊のと、威張ったことをおっしゃって、幇間を斬るなんて、おかしいじゃありませんか。江戸には、そんな侍はおりませんよ", "志士の、熊の、は酷すぎるぞ" ], [ "江戸の男は、怖くないが、江戸女には、降参じゃ。……坊主、一献、親懇に参ろう", "露八さん、お飲み" ], [ "何日、江戸へ来たんですか", "二月ほど前", "そんなに前から? ……", "お養母さんは、達者か", "達者で困るくらい", "お前は、痩せたなあ", "そう、癆咳だから……" ], [ "誰のお供?", "知らんのか。江戸の女は、啖呵は切るが、時勢には暗いな", "ええ、どうせ左様でございますよ", "京都の女なら、芸妓、仲居までが、攘夷とは、どんなものか。京洛には、今誰が来ているか、政変や、大官の往来などにも、関心を持って、多少社会の推移ぐらいは、分からぬながらも考えているが、江戸の人間と来てはいやはや……" ], [ "関東の棚下ろしはもう沢山", "ははは、負けん気ばかりは持っている", "憎らしい人たち。――露八さん、何とか云っておやんなさいよ" ], [ "云い分はありません。まったくです。江戸の女も、江戸の男も、いけないなあ", "あれ、お前さんまで、そんなことを云ったひには、江戸方は、立つ瀬がないじゃないか。口惜しいね。……桂さんだって、武市さんだって、書生ッぽ時代には、さんざん、江戸のご厄介になって、私の家にだって、まだ、借金の帳尻が残っているんですよ。昔の恩は忘れて、そんなこと云うなら、すぐ払っていただきましょう" ], [ "昔の借金など、もう棒消し棒消し", "嫌ですよ。利子が殖えていますからね、そのおつもりで", "俺たちが、天下を取ったら、お墨付で払ってやる", "桂さんと来たら、相変らず、大きなことばかり云っている。……あ、話が反れちまった。一体、お供をしてとは、誰のお供をして来たんですか", "ご勅使、大原卿の、供の内に加わって、後月から参っているが、ご逗留が永いので、吾々は毎日欠伸だ", "嘘ばかり云っている" ], [ "――あんた方が、何で、おとなしく、お公卿様のお供になど従いていられるものですか", "いや、桂はちがうが、拙者だけは、ほんとだ" ], [ "さあ、おっしゃい", "何を", "白ばっくれないで", "――弱ったなあ", "江戸の女は、みんな、間諜者と思ってるんでしょう", "そんなことはない。……じゃあ話すが、その代りにお前の家へ、少しばかり、迷惑を頼むぞ、いいか", "どんなことですか", "それを先に承知しなければ話せん", "狡いからね、桂さんと来たひには――", "いや、冗戯でなく" ], [ "え。よござんす", "じゃ打ち明けるが……" ], [ "その盟友を、見殺しにしては、義に欠ける。で――実は助けに来たのだが、ちょうど、大原勅使の供のうちには、この武市をはじめ、西藩の脱藩者だの、同志だのが、多勢扈従して来ているからその者たちの手をかりれば、無造作に、伝馬牢から救い出すことができると思う。……だがここに困るのは、一時の匿れ家と、江戸の府外へ、首尾よく当人を落としてしまう工夫だが", "吾家へいらっしゃいまし" ], [ "だが、お前のお養母さんの浜中屋の女将ときては、公方の肩持ちで、ちゃきちゃきな江戸ッ児だからな。万一、密告されると……", "いいえ、私が計らいます", "どう計らうか" ], [ "今日は面白かったね", "私は、ちっとも、面白くなかった。命拾いをしたようなもんだ", "来月の十日ごろ、また、斧四郎旦那やお喜代ちゃんを誘って、江戸川尻へ、千鳥を聴きに行こうじゃないか", "もう真っ平だ", "そんなことをいわないで、交際っておくれ。……露八さん" ], [ "うまく行った。――たのむぞ、十日の手筈を", "のみこんでいます", "あの男が、いつか話した土肥八十三郎だ" ], [ "え? ……", "ちょっと" ], [ "旦那、お養母さんの親しいお武家様が、ご一緒に行きたいというのですが、どうでしょうか", "どこのお方だ", "ご勅使の大原三位様のお供に従いていらっした桂さんという人です。とても、気軽で、吾家へは、書生時分から来ているので、まるで内輪の人なんですよ", "そういう方なら" ], [ "啼くの、啼かないのと云うようでは、風流は、わからぬ", "啼かぬ千鳥を聴くんですか、なんだか禅みたいですね", "ぶ風流な奴は困る" ], [ "そちらのお武家様、お一杯、頂戴いたしましょうか", "お蔭で、久しぶりに、腸心を洗って飲むような気がする" ], [ "心配はありませんよ", "でも……" ], [ "どこの船じゃ", "川崎の森田家でございます" ], [ "ちがう! 柳橋の浜中屋ではないか", "はい" ], [ "一昨日から、お客様方が、私どもへお遊びに来ていらっしゃいますから、船は、あちら様のでございます", "ふーむ……。この騒がしいご時勢に" ], [ "其許は?", "拙者か", "左様", "江戸表にご逗留中の大原勅使の従臣、三沢蔵人でござるが", "あ" ], [ "江戸川尻へ、千鳥聴きに", "千鳥を", "されば", "千鳥を聴くとはどうすることか" ], [ "何だか、狐に憑まれているようだ。はてな? ……", "海に狐はいないでしょう", "一体、この船は、どこへ向かって行くのだい", "帰るのですよ", "柳橋へか", "黙っていらっしゃい" ], [ "それよりは、癆咳を癒さねばいかんぞ。今度会うまでに、もっと、肥っておれよ", "ホホホ。露八さんみたいに", "ウム。――坊主殿も、おさらば" ], [ "温めてよ", "冷たい手だなあ" ], [ "――誰にだって秘密はあるものだし、あってもいいものじゃないの。え……露八さん", "…………", "私など、他人から見れば、倖せだと云うけれど、お養母さんが違うし、自分はいつ死ぬかわからない病身だし、笛なんぞを友達にしているのをみても、つまらない人間だということがわかるでしょう。……だから私にだって、秘密の一つぐらいはあってもいいと思っているのよ", "…………", "ね、露八さん", "うむ", "笛なぞ吹いていられないような女に私をしてくれない? ……", "…………" ], [ "誰だ? ……。今、船底から出て行った侍は", "そんなこと、いいじゃありませんか", "隠すのか", "気を悪くしたの。……じゃあ、もう話してしまう" ], [ "ほんとのことを云うと、ゆうべは、斧四郎旦那とお喜代さんをだしに使ったわけ。……だけど、貴方はべつですよ。貴方には、私がほかに用事があるから誘ったんです……。だから、怒らないで下さいね", "そんなことはいいが、俺には、お菊ちゃんのしていることが、どうも腑に落ちない。俺には仔細を云えないのか", "桂さんから、口止めされているのだけれど貴方にだけは、話してしまう。――実は、桂さんと武市さんが、お牢屋を破って、勤王方のお武士を一人、家へ預けに来たんです。お養母さんの留守の間なので、私の部屋の押入れに、幾日も匿しておいて上げたが、江戸の周りは、このごろの物騒で、木戸は殖えるし、各藩の警備隊が屯しているので、尋常な手段では脱け出せないというんです。そこで家の子飼からの船頭に、お金をたくさんやって、そのお侍を船底に隠し、斧四郎旦那とお喜代さんを、千鳥聴きに誘い出したという理ですよ" ], [ "病身だと、いつでも死ぬ覚悟をしているから……。それより私の智恵はどう! ……。女楠木と云ってもいいでしょう", "女は、大胆だ", "怖い?", "怖くもないが", "臆病な人。あなたは武家くずれだというけれど、志士にはなれない", "とても、駄目だ", "自分を知っているのは偉い", "して。……その牢を破って逃げて行った侍というのは、一体、若いのか、老人か", "まだ、若い人", "藩は", "一ツ橋家のご家来ですって", "えっ、名は", "土肥八十三郎" ], [ "おや、どうなすって", "土肥八十三郎と云ったな", "ええ", "間違いないか", "ありません", "わ……" ], [ "面目ない、面目ない", "どうしたんです", "弟だ。八十三郎は俺の弟だ", "ほんとですか" ], [ "誰が、こんな嘘を云う。……ああ知らなかった", "私も知らなかった", "弟は、国事のために、牢にも入り、板子の下にまでかくれていた。……兄は、この兄貴は……。酒を飲んでいた", "…………", "酒に飲らい酔って、弟の頭の上で、歌をうたった。踊りを踊っていたじゃないかっ。……馬鹿っ、この馬鹿" ], [ "追いかけて行ってもしようがないじゃありませんか。知ってのことなら悪いけれど", "いや、済まない、どう考えても、気が済まない。弟は、俺の声だもの、俺と知っていたに違いない。笑っていたろう。嘆いていたろう。……でも俺は、どうにもならないんだ。間違って、侍の家に生まれてしまったんだ", "だから、いいじゃありませんか。どう歩くのも、その人の一生でしょう", "俺だって、そんなことぐらいは知っている。俺には、佐幕の勤王のという資格がない。生まれついての鈍物なのだ。鈍物なりに世間の邪魔にならないように、そして、自分のがらに合った世渡りを隅田川の蜆みたいに送りゃあいいと思っている。永い時世を経て来た江戸には、俺と同じ蜆が沢山わいているから、弟や、勤王派の者が、考えていることは本当だ、弟の行った道に、間違いはない", "……二人で暮らしましょう。露八さん、私は浜中屋を出てもいい。だから貴方も絆や世間態に鬱々しないで、短い世を、お互いに楽しもうじゃありませんか", "俺の生まれ性では、そうするよりほかはない。……だが、このままでは、俺は辛い。一目、弟に会ってから", "じゃあ私は、穴守の磯茶屋で待っていますよ。きっと、帰って来るでしょうね", "帰るとも" ], [ "や。渋沢氏か", "誰を探しておらるるのじゃ", "弟を", "えッ、八十三郎殿を" ], [ "あなたは、どちらへ", "しばらく友人の家に潜伏していたが、今度御用人の平岡円四郎殿がご上洛を幸いにお供のうちに従いて、やっと、危ない江戸表から足を抜いて来たところ……。過ぐるころは貴公のお蔭で、大難を遁れたが、その後、承れば、ご舎弟の入牢やら、お父上の不慮のご最期やら、何と申し上げようもないご災難つづき。其許も、世を儚んでご法体になられたと見える", "ちょっ……ちょっと待って下さい" ], [ "父の最期とおっしゃったが、それは、誰のことで", "まだご存じないのか", "知りません", "ふーむ。つい四、五日前のことですぞ。土肥半蔵殿は八十三郎殿破牢の一件やら、例の闘鶏師どもの執念ぶかい脅喝やらに、ひどい気鬱に罹られたらしく、公儀の呼び出し状をうけた当日、武島町の一室で、自刃めされたという話、平岡様から確と聞いたが", "げッ。……ち……父が" ], [ "父を殺したようなものだ。ああ、面目ない", "悔やんだところで、お父上が、生き回るわけもなし。この上は、精神を入れ換えて、武士を磨き直すことが、貴公のただひとつの道ではあるまいか", "武士を磨く。……こう錆びた体になってしまっては、それもいまさらむずかしい", "何の!" ], [ "君と僕とは、入江道場で、二人の模範生といわれた同士ではないか。君には、腕があるのだ。ただ君の短所は、時勢に眼の開かないことだ。風雲に昂奮しないことだ。あまりに野心のなさすぎることだ", "あるにはあるさ、俺だって", "舎弟と、つき混ぜるとちょうどいい。あの男は、何もいわんが、野望があり、怖ろしいことも考えている。君は、人間がよすぎるからいかん", "俺は、江戸っ子だ。どうもそうらしい。人間がいいんじゃなくて、思慮遠謀のできない質。悪いと知っても引き摺られるし、いいと知っても、つむじを曲げる", "情に脆いからだ。それと、機縁が君を引き摺ったのだ。女の髪の毛が", "お喜代――お照――お蔦――お菊ちゃん――。なるほど、俺には、女難があるかも知れない", "重ねて忠告するが、二人は入江道場の模範生だ。轡を並べて、このご一新の時代に出ようじゃないか。次の機縁は、僕が手を引っぱって君を時勢の渦中へ引きずり込んでゆくぞ――さ、これから僕とともに京都へ行こう", "いけない" ], [ "なぜ?", "弟に会えなければ、俺は、帰るよ。実は、浜中屋のお菊ちゃんと、穴守の磯茶屋で会う約束がしてあるから", "女など……" ], [ "さ、行こう", "…………", "僕に従いて来たまえ。京都は今、旋風の中心だ、江戸のような惰気や、自暴はない。もりあがる力が大地にも感じるぞ。君の考え方もきっと変わる", "…………" ], [ "第一、江戸へ帰れば、早晩貴公も、八十三郎の連累として、召捕られる。また、どの顔さげて、江戸の街を、その頭で歩けるか――", "それは、歩けない……", "そういう良心もあるくせに。――舎弟に恥じたまえ。入江道場の模範生じゃないか。……そうだ。舎弟といえば、榊原健吉を君は知っているか", "知ってる……", "怒っているそうだ", "誰に", "君にも、舎弟にも", "お蔦と手を断る際に立ち会って、その後また、男女がああなったから、俺に怒る筋はあるが、八十三郎へは何でだろう?", "公憤だ。あれは、頑固な佐幕方で、勤王派の者といえば、往来でも鐺を上げて挑んでくる。懇意な小林鉄之丞から頼まれたのか、自発的に申し出たのか知らぬが、逃亡した八十三郎の討手を引き請けて、何でも、近いうちに旅立つという噂もある……" ], [ "いずれ伺います。――平岡様のいない折にでも", "いてもよかろう。酸いも辛いもご存じの御用人だ", "でも……" ], [ "土肥氏、すくないが、早速にお困りは金だろう。費ってくれ", "え" ], [ "あなたにはまだ、古い借金も済していない。こんな物を貰っては", "遠慮するな" ], [ "ここから上がって下さいな", "へ。何ですか", "二階のお客様が呼んでくれとおっしゃるから", "座敷へ上がり込んじゃ興が醒める。弾く方も、聴く方も、外でこそ流しの味、金襖では野暮になる。そうおっしゃっておくんなさい", "いいえ、荻江を弾けというのではなく、お客様が何かお前さんに、訊きたいことがあるんですって", "へ、私に" ], [ "ま、お炬燵へおよんなさい", "有難う。まさか、あんたに此地で会おうとは思わなかった", "姉さんは、どうしています", "お蔦ですか", "え", "江戸で別れたきりだが……どうしているか", "貴方も、罪な人ですね", "どうして", "どうしてと、私に訊くまでもないじゃありませんか。……姉さんときたひには、とても男には気のいいもんだからねえ" ], [ "武士は、こちとらの柄にゃ向かない。頭と一緒に、さっぱり縁をちょん切りましたよ。これからは荻江露八でつき合っておくんなさい", "露八と改名か。……フフム……" ], [ "お蔦姉さんにつけてもらったんですとさ。おやすくないじゃありませんか", "それも、よいわさ", "揚句に、女は捨てられて――" ], [ "頼みがあるのだ、聞いてくれんか", "どういうことですか", "八十三郎は、桂の手引で、長州屋敷に潜伏している。俺の顔を知っているのがだいぶおるし、あそこは、勤王浪士の巣窟だ。近づくにも策がない。……で頼みというのは、八十三郎を、其方の手で、連れ出してもらいたいことだが", "へエ", "承知してくれんか", "嫌だ", "嫌だろう", "そんなこと、できるものか。……武士は廃めても、あいつは、たった一人の弟だ", "知っている", "あっしが、殺されても、そんな手引はできません", "そこが、頼みではないか", "ご免だ", "嫌か――。嫌ならしかたがない。だが、俺が斬ると云った人間で外した者は一人もない。遅いか、早いかの違いじゃないか。また、俺が手に斬けなければ、壬生の近藤や土方の方で必ず殺る。もっと運が悪ければ、十手にかかって獄死か磔刑か、どうせ、遁がれぬ八十三郎の運命なのだ", "…………", "兄の貴様からよく因果をふくめて、この榊原の手にかかった方がどれほどいいか。……考えてみたら俺の頼みが無理でないことがわかるはずだ", "…………", "こう打ち明けた以上、嫌と、貴様がいうならば、気の毒だが貴様も生かしておくわけに行かん、奥の土蔵部屋までちょっと来てもらうまでだ。――そして俺はあいつを必ず斬る。破牢一件が江戸表で騒がれているから、功名がおに首を持って帰るためなどでは決してない、徳川武士の道徳は、腐ってもまだこれくらいはあるということを、己ればかり大義人道の武士顔している勤王派の百姓侍にも見せておく必要があるというものだ" ], [ "どうしても嫌か", "人間の皮をかぶっちゃできません。武士は廃めても、人間と名のついている以上は", "先祖以来、ご恩顧のある徳川様へ、それくらいな奉公は、貴様にもできるだろう", "できません。武士道よりゃあ、人間道だ", "立てっ", "へい" ], [ "ここなら、汚してもかまわぬ。自分で腹を切るか、斬ってやろうか", "斬……斬って……" ], [ "遺言があるなら聞いてやるが……", "あ……ありません……" ], [ "やむを得ん", "…………", "もっと、首をぐっと伸ばすのだ。それじゃあ、頭の後ろ骨に入るから痛いぞ" ], [ "おやっ?", "…………", "オヤオヤ" ], [ "面会人は、どこにいます", "土肥氏か。中へは、入らんで外に立っとる", "ちょっと、外出します" ], [ "弟っ", "おお" ], [ "おいっ", "兄上" ], [ "おまえに、謝ることがある", "何ですか", "浜中屋の船でおまえが江戸を脱した晩、おれは、同じ船にいた。酒をのんだので、馬鹿ふざけをして", "そんなこと!" ], [ "それよりは、父上の死をご存じですか", "聞いた", "父を殺したのは拙者です。拙者こそ、兄上に、蹴られても打たれても、お詫びの償いのない不孝者です", "ばか云え。父の死は、俺の身を持ちくずした道楽が因だ", "いや、拙者の罪です。そのかわりに、八十三郎の身命は、国事にささげる覚悟です", "気をつけろ。弟。――俺は、それについて、おまえに知らせに来たんだ。叔父の友人、人斬り健吉が、京都へ来ている", "ほ", "逃げろっ。ここにいては、あぶない", "はははは" ], [ "大丈夫ですよ。兄上", "ばかをいえ。あれの無鉄砲と、腕前を、おまえはまだ、知らないのだ", "直心影流の達人です。けれど、そんなものをいちいち恐れていては、吾々は、何もできぬ。またこの京都にも一日だっていられはしません" ], [ "じつは、お頼みがあって、来たのですが", "まあ、向うの部屋へ行こう" ], [ "その後、君は、何をやっているのかね?", "流しをやっています", "三味線弾き?", "へい", "ふふむ……。町人になりきったね", "なりきれないんで、困っていますよ" ], [ "じつは、今日ちと、忙しいのだ。……ところで、君の用向きは", "弟のことですが", "八十三郎君は、長州屋敷にいるそうだが", "へい", "さかんに暗躍しているらしいな。正月下旬、千種有文の家来賀川肇を襲撃した中にもいたというし、つい先頃の足利尊氏の木像梟首事件にも、関わっていたという風説がある。学問好きで、そんな実行家じゃないと思ったが", "…………" ], [ "忙しいんでしょう", "弱っているのさ", "じゃ、また来ましょう" ], [ "いいじゃないか、君", "でも", "せっかく、訪ねてくれたのに。……忙しそうにして、追い立てたようだが、気にしてくれるな", "なあに、そんなことはない。こっちは、閑人だ", "じつは、恩人の平岡円四郎殿が、志士たちの誤解をうけて、暗殺されたり、そのため、後の事務の処理を、藩から頼まれたりしているものだから", "へエ。平岡さんも、殺されましたか", "どうも、ちと、勤王派もやりすぎる。……俺も一ツ橋家の手伝いなどしているから、狙われているかも知れん。……しかし、慶喜公の知遇や、恩人の死や、いろいろ義理ずくめの事情で、近いうちに、正式に、藩へお召抱えになることに決まった。幕臣になったから皇室へご奉公ができんという理屈はないから、おひきうけ申したよ。……君も、藩へ帰ってはどうだな", "ありがと", "また、来てくれ。八十三郎君のことなら、どんな骨でも折る" ], [ "何、クヮイズ藩、そんな藩が、わが国にあったか", "ここにある。――クヮイズ藩御役方御宿所、とあるではないか", "会津だろう", "会津藩か、はははは。しからば、今度京都守護職とかいって、公方方の尻押しに、上洛った者の家臣が泊まっているとみえるな。壬生浪のごとき、無教養ではあるまい。一議論、試みようではないか", "よせよせ、今は、議論の時代じゃない。何もかも、力行実践の時だ", "しかし、クヮイズ侍が、どれほど陳腐な頭なりや、西瓜ではないが、叩いて中実を試みるのも一興だぞ", "何の、東北の熊襲に、味噌も見識もあるものか。彼らも、力行実践でやって来たのだろう、そのときに、吾々も、一剣をもって酬えば足る" ], [ "だけど、あなただって、よくないことがあるんだもの。妹のお喜代に、惚れてたでしょう。わたしゃあ、前から、ちゃんと知ってはいたけれど、じっと、胸で抑えていたんですよ。……だが、やっぱり女だから", "ば、ばかを云え", "だめ、わたしの眼は、そんな凡くらじゃありませんよ。だけど、よそう、私だって、あんなことしたのは、重々悪い。しみじみと、別れてから、分かった。……やっぱりあなたのことを忘れられないのだもの", "よしてくれっ、うるせえ" ], [ "へい、昨晩は、どうも……", "奢んなさい。おやすくないぜ", "へへへへ。奢りましょうよ、ああ、つつぬけに聞こえちゃあ、しようがねえ", "江戸から来なすったらしいが", "そうでさ。……弱ッちゃいやすよ", "でも、ありますまい", "もう、いじめないで、おくんなさい", "したが、よく分かったね", "なあにね、木屋町に、妹と妹の旦那ってえのが、昨年から泊まってるんで、それが、手紙でもやったか、訪ねて行ったかしたらしいんでさ。実あ、あっしもつい先ごろ、妹の旦那たあ知らずに呼びこまれてね、ひどく間のわるい思いをしましたのさ", "ははあ、それでお前さん、ここしばらく、稼業に出ないんだね", "出られねえ事情なんでさ。――で、昨夜も彼女と相談したんですが", "へ……、もう相談ですか、いいなあ、男と女ってえものは", "老婆が、笑ってら。もうそう揶揄うのは勘弁してくれ。……ところで永い間、お世話になりやしたが、今日は、お暇をしますぜ。借金を払いますから、勘定書をこさえておいておくんなさい", "どうしてね……せっかく、住みついたものを。……流しができないなら、この辺に小さな借家でも見つけちゃどうですか", "ありがと。――だがどっちみち、この土地ゃあ、あっしの肌にあわねえ気がする。なにも、京都がじゃあねえが、今、この御所のお膝下を、わがもの顔して、志士でなきゃあ人間でねえような面をして歩いている奴が、どうにも、虫に触りましてね、ハハハ……いけませんやどうも……。がらにもねえ、へんてこな血の気が沸きやしてね" ], [ "これくらいで、いいでしょう", "いいとも。……櫛を持ってるかい", "あるけれど", "貸してくれ", "あたしが、掻いてあげるから、坐んなさい。……まあ、はやく伸びないと、これじゃあ、おかしい", "なあに、道中は、手拭いでチャンチキ冠りさ" ], [ "……捨てないでね", "てめえこそ" ], [ "おい、宮川町は、通るまいぜ", "なぜ", "榊原の泊まっている木屋町から、向う河岸じゃねえか。見つかッたら、こんどこそ、首がとぶ", "大丈夫" ], [ "――この間は、茶屋の土蔵とかで、おまえさん、うまく命拾いをしたってね", "誰が云った", "榊原さんがさ", "健吉が? ……ふうむ、そんなことを云ってたか", "憎めない人間だって", "じゃあ、俺の偽せ気狂いを、知ってたのかしら", "そりゃあ、知ってたに、決まってまさね。あれほどな男だもの。そして、妹はあなたのことを、くそ味噌に悪くいうけれど、榊原はどうせ腐れ縁だ、なるものなら夫婦になれって、しみじみと、云ってくれたし", "やっぱり、江戸者だ。……江戸にも、あのくらいな侍が、うんといてくれりゃあ……" ], [ "露八さん、そこで、方角はどっちへ行くの", "そうだ、行く先の相談はまだしていなかったっけ。――どこでもいいや、人間の行く先に飯粒はくッ付いて来ら。……だが、斬ったの、斬られたの、攘夷の倒幕のと、かんぬき差しが、威張りちらしていねえところへ行こうじゃねえか。……江戸っ子が、そう肩身の狭くねえところへよ", "じゃあ、思いきって、遠くへ――", "よかろう", "長崎でも" ], [ "もう、九刻かい", "過ぎましたよ", "お蔦は、どうしたか。まだ帰らない", "また、山じゃございませんか、春帆楼や、月波楼へゆくと、芸妓衆も、おそくなりますから", "さ、お由坊を、返すぜ。そっと、すぐ寝かしてやんな。無邪気だなあ、このごろあ、俺をほんとの父親とでも思うのか、よく眠ることさ", "毎晩、すみませんね", "なあに、どうせ、退屈している俺だもの、俺の方が、紛らわしてもらって、有難えくれえなもんだ。……よしかね、そうら" ], [ "どうかしました", "お尿ッこを、しちまいやがった", "あれ、まあ、どうしましょう" ], [ "旦那、お礼心に、すこし揉ませておくんなさいませ", "え、揉んでくれる?", "けんびきが、よう、凝るではございませんか", "それやあ、有難いが、おめえも、疲れているだろうに、はやく子供に添え乳してやるがいい", "乳はやって来ましたから、お蔦さんの帰るまで", "そうか……" ], [ "ききますか", "あ、いい気もちだよ。女にしちゃあ、お吉ッつぁん、指に力があるな", "いやですよ。おだてては", "今夜は、稼ぎがあったかね", "三福亭で、お侍様を三人揉みました", "それやあ、よかった", "……旦那" ], [ "なんだい", "三福亭のお客様が云ってましたが、土佐の坂本龍馬様が、この十五日に、京都で、殺されましたってね", "ふむ……", "ほかに、若いお侍がもう一人", "それも、斬られたのか" ], [ "駄賃は、一緒にやるよ", "とんでもない" ], [ "箱丁じゃねえぞっ", "…………" ], [ "ホッ、ホッ、ホホホ。怒ったよ。まあ、甚助を起こしてさ", "あたりめえだ", "そうですかよ" ], [ "ば、ばかに、すんな! あんまり、男を踏みつけに、するなよっ", "…………" ], [ "お前さんも、男なみの、啖呵だけは切るんだね", "なんだと" ], [ "どうしたのさ、お前さん、だから私ゃあ、露八ってえ男に、つくづく、生欠伸が出てしまうだろうじゃないか。――それにひきかえて、このごろの座敷の客のおもしろさ、みんな、生きてる人間だよ、ぴちぴちしたお侍だよ、江戸生まれの私も、宗旨変えして、勤王方の肩持ちになりたくなる。日本を背負って立とうという意気と、女に稼がせて、台所を這いずっている男と、どっちに惚れるといやあ、お前さんだって、私の心変りを、無理たあ思やしますまい", "じゃあ……汝は、心がわりをしたと、自分から、云うのだな", "わからないの? ……この間からの私の素ぶりでも", "分かっちゃいたが、まさか、まさか、今度は……と思ったのが俺の間違いだった。よし、俺も男だ、相手を云え", "云わない方が、お前さんの気がかるいでしょう", "吐かせッ", "どうする気", "どうしてもいいから云えっ", "奇兵隊の河合さんさ", "今、送ってきた奴か" ], [ "畜生、生かしちゃおけねえ", "…………" ], [ "見つかったか", "いい加減におしッ", "何を", "人を、おひゃらかしているね、おまえさん――" ], [ "ま、ま、まだ怒ってんのか、てめえは", "あたりまえだよ", "四日目だぜ", "もう、この腹は、一生涯立ったきりだよ。あいそも、こそも、尽き果てたのさ", "今に、その悪い血の道が、冷めるだろうと、俺あ、壁隣りから、おめえの顔も見ずに、怺えているんじゃないか。よそうよ、なあ、夫婦喧嘩は、犬も喰わねえ", "よしとくれっ、触ると、承知しないからっ――", "あれ? ……", "女房に、これほど、云われたら、去り状以上だよ。馬鹿におしでないよ、独り者の女の家へ潜り込んで、父無し子をあやしていれやあ世話はないや", "やいっ、何を、勘ちがいして――", "妬いてると思うのかい。あんまり、お背負いでないよ。……ふふん……女按摩ぐらいが、おまえにゃあ、ちょうどいいんだろう。もう、私の家の雑巾なんぞは、持たないでおくれ" ], [ "ない", "ない――" ], [ "藩船のお旗箱を、仕舞い忘れるやつがあるかっ。責任者は誰だっ", "当然、船の者です", "船の者は分かッとる! じゃが、その藩船から、当隊に預けたというではないかっ。預かった者は、誰かっ", "わかりません", "わからん? ――こらっ――" ], [ "貴様ら、あの日、おらんのじゃったか", "いました", "おったら、わいらも、責任があるではないかっ。馬鹿者、腹を切れっ", "…………", "切れっ。――お旗箱のわかるまで、そこを、出ること相ならん!" ], [ "兵隊さん", "?" ], [ "おい、兵隊さん、そう悄気たって、しようがあるめえぜ。腹を切れったら、切るまでさ、首を斬るったら、斬られるまでさ。こういう暴れンぼの勝つ時世にゃ、腕と才覚のねえ奴は、斬られるまでが、寿命と思うのさ。はははは", "…………", "自分だけと思や、腹が立つだろうが、なあに、こういう俺も、お仲間だ", "誰だ……お前は", "稲荷町の露八って男です", "何しに来たんだ、こんな所へ", "だれが、好きこのんで、こんなところへ、来るものか。しょッ曳かれて、抛り込まれたんでさ", "何をやって?", "わからないんだ。……どうですえ、兵隊さん、おめえっちは、まだ、お旗箱とかを、仕舞い失くしたという罪が分かって死ぬんだから、よっぽど、俺から見れやあ倖せだぜ。俺なんざあ、何で捕まったのか、何が悪くて、殺されるのか、わからねえんだ", "ふーむ", "だが、俺あ、考えたね。一刻でも、半日でも、鬱々しちゃあ損だ。おたがい様に、死ぬなら笑って死のうじゃありませんか。花見に行って、蹴つまずいて死ぬ奴すらある。河豚を食って中ったと思や、諦められねえことはねえさ", "なるほど", "ちょうど、今夜は雪だ……" ], [ "池田っ", "はっ" ], [ "今、わしの膝へ、小蒲団を着せた女の", "はい", "あれや、江戸のことばだった", "そうです", "何という芸妓か", "お蔦――とか聞きました", "蔦。……わしの席へ来たことがあるか", "あるはずです", "覚えんのう。色っぽい年増じゃ", "色っぽいはずです。その方では、強か者の河合氏すら、もう、参っているくらいで", "ふウむ、伍長の河合忠太郎がか。……いつも、はやい奴じゃな" ], [ "こらっ、誰か来い", "はっ" ], [ "何じゃ、最前から、あっちの部屋で、がやがやと、協議しとるのは", "藩船のお旗箱が、見えんというて、今夜、春日丸を、長門沖までお見送りするに、差しつかえているのでございます", "誰だ、威猛高に、喚いておるのは", "小隊長の宍戸殿で", "呼べ" ], [ "何――大事な兵を、七名も、そのために、腹切らせる? 馬鹿も、ほどにさッしゃい。第一、今夜十二字半の出帆に、間にあうか。七名が、腹を切ったら、お旗箱が出るかっ", "は", "どこだ、その七名を、糺明してある倉は", "波止場倉です", "むしろ、死んだ気で、探させるがいい。いや、なかったら、俺が出してやる" ], [ "宍戸っ、どうしたのか", "はっ……" ], [ "とにかく、開けんか", "は" ], [ "宍戸、あれや、何だ", "存じません", "隊士ではないじゃないか", "拙者の糺明させたのは、七名です。一イ、二ウ、三イ、四ウ……" ], [ "うん、そうかも、ねえもんだ。お前さんとは、吹矢の一件以来、馴染だが、これだから、長州ッぽだの、薩摩ッぽは、気にくわねえんだ。罪科もねえ人間を、寝床から縄にかけて、調べもせず、叩っ込んでおくのが、下々のためのご改革けいっ。こんな悪政が、ご一新なら、俺たちは、真ッ平ご免だ", "露八、露八" ], [ "これ、やめんか", "やめねえ" ], [ "まあ、俺にまかせろ", "まかせたら、どうしてくれる。断わっておくが、俺は、もう首ッ玉なんぞ、とうに、ないつもりなんだ", "わかったよ" ], [ "宍戸", "はっ", "伍長の河合忠太郎を呼んで来いっ" ], [ "君か、この男を、一昨夜ぶちこんだのは", "左様でございます", "罪状は", "密偵と睨みました", "だれが", "その露八と申す奴", "ふーむ……。誰が、訴人した?", "そやつは、一ツ橋家の旧臣なので", "それだけか", "まだ、動かない実証もつかんでおりまする。この通りに" ], [ "よく分かった。しかし、誰が、この露八の手紙を、君に、渡したのか", "踏みこんで、家探しの上、没収して参りました", "炯眼だな。……だが、その炯眼にしては、まるで無用な、時候見舞だの、移転の報らせだの、質屋のものだの、つまらん物まで、ごったに交じっているじゃないか", "一応はと、存じて", "嘘をいえっ!", "…………", "河合、これを、貴様の手に預けたのは、お蔦だろう", "えっ" ], [ "帰りません", "よろしい", "だが、桂さん、そうなるとさし当たって、行く所がねえんです", "お蔦の稼いでいる馬関にはいたくあるまい", "へい" ], [ "露八、これを持って、今夜航る春日丸に便乗させてもらえ。大坂までは、これで行ける。……だが、大坂にも永くいるなよ。仔細は云えんが、当分、もっと無事な所へ行け。いいか", "有難うぞんじます", "金があるまい", "ございません", "やろうか", "欲しい――喉から手が出るように。――だが、癪なんだ。桂さんたあ、何でもねえ気がするが、土州とか、勤王党とか、考えると、もらうのは嫌だ。どうかなりやしょう", "はははは、そんなことをいわずに、持ってゆけ。その小さな江戸ッ子の尻めどが開いて、いまに、俺たちを、拝む日があるから見ておれ", "そうかなあ。だが、そうなっても、あっしゃあ一生、路地の日陰で暮らすつもりだ。拝まないかも知れないぜ", "オイ、オイ。……待たんか露八", "金は、いらない", "金ではない、ついでに、同じ埠頭にいる長州藩の藩船へ、お旗箱をとどけてくれ。隊の者を案内につけてやるから", "あ……。忘れていたが、そいつも、見つかりましたか", "なに、俺が、書いてやるのだ。白木綿を裂いて来い。――それから、大きな筆と、墨汁も、たっぷりと" ], [ "ちょいと", "小折詰さん", "赤飯さん", "それを、置いて行きなんし", "あたいに、おくんなまし", "こっちへさア", "吝んぼ" ], [ "あんたさ、隊へ、帰るのじゃないのけ、五卿様のお行列さ、もう、よんべ、伏見街道さ発って、京都へ行かしゃったという噂だによ", "おれに、隊なんぞ、あるもんか。千年万年帰らなくっても、文句を云ってくる奴はねえ", "あれ、ま、この兵隊さ、嫌んだ人だ", "正月まで、おめえの側にいてやろうじゃねえか", "嫌だよう、こんな兵隊って、あるかまあ", "うれしくねえのか", "うれしくなんかねえさ。兵隊のくせして、うだうだ、おらの膝ッこばか寝ている男なんか、おら、嫌んだ気がするにな", "じゃ、惚れた男でも", "惚れた男なら、こんなこと、させてなど、なんでおくものずら、紅い襷させて、戦に出してやるによ", "じゃ、俺には、惚れていないわけだな", "あたりまえ" ], [ "あんたさ、兵隊の服着ているだが、あんな、金づかいすッとこみると、兵隊じゃ、あんめえ", "じゃあ、何だい", "泥棒とはちがうのけ?", "馬鹿っ、丹波栗の、おたんちん。――あっちへ行けっ" ], [ "間諜だな、この野郎", "縛れっ", "縛には及ばん。すぐ首だ首だ。空地まで引っ立てろ" ], [ "――鶯", "鶯" ], [ "公方が、逃げたそうな", "天保山から、慶喜公は軍艦で、関東へ落ちたのだ" ], [ "今時にも、熊坂長範みたいなものがいるとみえ、あの大坂城へ、大八車を曳きこんで、お金蔵だのお手道具だのを、空巣稼ぎした奴があるそうじゃ", "ほう、ひどいやっちゃな" ], [ "云わんかッ", "斥候じゃろう、わいは", "こやつ", "なぜ、もの吐かさん" ], [ "わいら、江戸っ子の、関東武士のと、ふだん大口たたきおるくせに、その態、なんじゃ", "この、生まれ損ない", "死に損ないめが" ], [ "こやつ、どうするんかっ", "ど、どうにでも、しやがれっ", "こうかっ" ], [ "馬鹿野郎っ、それが、官軍のざまか、王師の兵かっ。錦旗泥棒め!", "なんだと" ], [ "あっ、官軍の旦那様で", "これ、慌てんでもよい。博奕場などを捕えに来たのではない。駕を一挺、大急ぎで仕立てい", "へ、へい。どなた様がお召しになるので", "この男を――" ], [ "どちらまでやりますか", "東海道まで", "東海道とおっしゃっても、京都から江戸までございますが", "どこでもいい。しかしなるべく遠方へ持って行って打っ捨ってくれい", "じゃ、それは、死んでるお人ですかえ", "ま……死んでるようなものだ。しかし、粗略にいたすと承知せんぞ。賃銀も十分に払う。それ抱いて、駕へ下ろせ", "重い人だな" ], [ "三両分だけ走るのは、大変だなあ相棒", "美濃あたりまで送れやあいいだろう" ], [ "しっかりしろっ", "くそっ、大丈夫", "大丈夫か" ], [ "師匠、ここかえ?", "なんでも、町端れで、桃の樹があるっていいましたぜ", "じゃあ、ここでしょう、白桃と、緋桃が、家の横に、咲いてるもの。……ちょっと、聞いてごらん", "畏まってそうろう", "ふざけないでさ", "あい、あい" ], [ "ごめん", "誰だい" ], [ "お宅で、灸を下ろしますか", "あ、お上がりよ", "てめえじゃございませんが、何でも、癆咳にはひどく利くという噂なんで、ごひいき先のお嬢様が、病気にかえられないから、すえてほしいというんですが……。たしかに、灸で、癒りましょうか", "癒してやるよ", "そうですか" ], [ "お嬢さん、やっぱり、そこが灸点師です", "どんな人?", "渋染の頭巾をこう被りましてね、袖無しを着て、何のことはない、柿右衛門が線香を持ったような……だが肥っちょな醜男でさ", "男ぶりなんか訊いているんじゃありませんよ。お灸が上手そうだか、下手だかを、訊くんです", "自分では、うまそうに云っていますがね", "よそうかしら? ……肌にきずをつけて利かなかったら、熱い思いをするだけ損をしちまうものね", "そんなら、こんな田舎まで、何もてまえに、道案内をさせるこたあねえでしょうに", "だって、散歩だと思えば、いいだろう" ], [ "露八さんじゃないか?", "あっ……お菊ちゃん", "まあ……あきれた……" ], [ "おまえは、ほんとにひどい人ですね。穴守の茶屋へ私を待ち呆けさせたまま、聞けばあの時あの脚で、上方へのぼってしまったのだということじゃありませんか", "そうそう、そんなことがあったなあ", "あったなアもないもんです。……だけど、いつから静岡へ来ていたの", "もう、四、五年", "あら、私も四、五年になるんだけれど、どうして今日まで会わなかったんでしょう", "お菊ちゃんも、いい奥様ぶりになったな。江戸の美い女が、みんな、薩摩ッぽや、長州弁の官員様の女房に取られちまうのを見ているのはさびしい。勝てば官軍か", "よしてください。私は相かわらず病身だから、今でもきれいに独り身なんだよ。私が連れ添っているものは、昔と変わらないこれだけです" ], [ "ま。お上がんなさい", "上がってもいいの。お蔦さんとやらがいるんじゃないかえ", "へへへ。そんなのがいるくらいなら、床の間に今戸焼の鍋釜を乗っけちゃあおきませんやね" ], [ "師匠――。お茶でもご馳走にならないか。露八さんを、知っている?", "ぞんじません", "じゃ、初対面だね。露八さん、この人は、吉原の金瓶大黒の身寄りで、桜川三孝という道楽者ですよ。上野の戦争の後、浜中屋のおっ母さんだの、芙雀だの、団十郎だのと、一緒くたに逃げて来て、ずるずるべったりに静岡で暮らしているんです" ], [ "ずいぶん話し込みましたね", "まあいいでしょう" ], [ "お嬢さん、お灸は", "お灸", "それが目的で来たんじゃありませんか" ], [ "断わるよ", "あら、なぜ", "実は、灸のつぼも知らないし、病のやの字も知らないが、線香一本あれやあ、資本いらずでできる商売と考えておっ始めた俄灸点師だもの、懇意な人や、きれいな女にゃ、すえられない", "おやおや、あぶない灸点屋さんだね。だが、それにしては評判がいいのはおかしい", "世の中あ、そんなものさ。ご一新という大した浮世の機構を勉強して来たから、露八もこれからは、きっと、食うにゃ困らねえでしょうよ", "人が悪くなっちゃ交際いにくいね", "そう行けるくらいなら、大丞参議にゃなれないまでも、太政官のお髯のちり取りぐらいにゃ出世していまさあね", "冗戯をいってるまに、昏くなってしまう。じゃあ、ほんとに露八さんも、東京へ帰る気ね", "静岡も、なんだかかたじけないし、飽きてきた。ここも新政府の下ならば、いっそ、東京で暮らしたって同じことだ", "私たちは、お節句がすんだら、すぐ引き払うつもりなんだよ", "こっちは、身軽。いつでもかまわない", "じゃ、前の日に、師匠でも使いによこして、誘うからね" ], [ "金持ちのやる仕事だから、金儲けにゃ極まっているが、一体、どんなことをやるのが銀行てえもんでしょうか", "……書いてあるじゃねえか、ちゃんと、ここに", "でも、分からないんで", "よく読んでみねえ" ], [ "旦那さん、お客さんだよ", "誰だい", "知らない人" ], [ "奥さんて、誰のことだ", "先生の奥さんじゃないか", "あれは、妾だ", "何でもいいから行ってくれ", "用があるなら、こっちへ来いと云いねえ。芸人交際いを知らねえやつだ", "そんなこといわんで、吾輩の顔を立てて行ってくれたまえ、頼む" ], [ "お坐りなさいな", "立っていたっていいだろう" ], [ "露八さん、この間の総見札の二百枚、あれは、どうしたの", "鳶の者へ、配ったのさ", "ろ組の頭からは、お前さんの方へ、もうお金は渡してあると聞いたがね", "俺に、用があると呼んだのは、そのことか", "帳面のくくりがつかないもの", "ふん……", "なにが、ふんですか", "この小屋を建てた金はどこから出ていると思う。木賃宿にいたおめえさんたちが、とにかく、てん屋ものの一つも食って、先生奥さんといわれるようになったなあ、誰のためだ", "そんなことは、べつな話でしょう。帳面は帳面ですっ", "なに……" ], [ "この色情坊主", "罰杯うけんちゅうなら、吾輩の股をくぐれ", "杯洗でじゃ、杯洗でじゃ" ], [ "ご親切、ありがとう存じます。ですが、明日は、兵部省との打ち合わせがありますし、明後日は、早朝に横浜から出帆する船へ乗り込まねばなりません。酔いのさめるまで、待っておりましょう", "そうかの、じゃあ、わしは一足先に帰る", "どうぞ", "――帰るが、酔いがさめたら、露八によろしく云ってくれ、どうにでも、身の立つことなら相談にも乗って上げるから、邸へ遊びに来いとな", "はっ、いろいろと……" ], [ "ううム……水……水をくれ", "水ですか" ], [ "水を注ぎました", "…………" ], [ "――八十三郎です。兄上っ、弟の八十三郎でございます", "…………", "しばらくでした" ], [ "――実は、もう疾くに、お噂も承っておりましたゆえ、お訪ね申さなければならんのでしたが、戊辰の役に、上野から東北へと転戦して後、すぐ新政府に召し出されて、兵部省の書記を仰せつけられ、すぐにまた、廃藩置県の調べで、ご議事の間の出張員を拝命したので、地方を巡視いたし、席のあたたまる間もない忙しさのため、思わず今日までご無沙汰をしました", "…………", "ところがこんど再び、兵部省付きの権少輔に栄転し、海外派遣を仰せつけられたのです。そこへ、渋沢様がみえて、ちょうど今日は、君の兄も宴席へ来るわけだから、出発する前に会って行ったらよかろうというご好意で、実は、出向いて参りました。……どうか欣んでください、私は、だんだんと、新政府にも重用され、国家のため身を殉じるつもりでおります。微力ですが、兄上とても、いつまでかような職業をさせてはおかんつもりです。渋沢様にも、懇々、お願いしてありますから、私の帰朝をまたず、そのうちによいご運がひらかれましょう。自暴自棄をつつしんで下さい" ], [ "うるさいっ", "はっ", "――弟っ", "どうなさいましたか", "どうするかっ。誰が、そんなことをてめえに頼んだかっ", "はい", "笑わすな。……ふふん、笑わすなってんだ。馬鹿め", "兄上、な、なんでそんなに", "手を出すなっ。――おらあ、そんな冷やっこい手に握られたくねえ、な、なぜ、ご一新となったならば、飛んで来て、手を握ってくれなかった。そんなに、出世したいかっ", "でも", "だまれ、俺から訪ねてゆくのは知っている。だが、おらあ彰義隊くずれの逆臣だ。また賤しい幇間だ。弟のつらよごしをしてはいけねえと、じっと会いてえのを抑えていたんだ。――いや、俺から足を運ばなくっても、来るだろうと待っていたんだ。俺は、兄だっ、兄だぞっ", "すみません。ご気色をなおして下さい。改めて、明日、お詫びに出ます", "来なくってもいい。俺の家は吉原という白粉の街だ。てめえのような聖人君子は、足ぶみするな……もし過って、てめえが、俺のような蹴躓きをしてみやがれ、気の毒だが幇間もできやしねえ!" ], [ "おや、また三谷の船だよ", "今朝から、これで何十艘、引っ越し荷物を積んで下ったか分からない", "だが、あのご大家も、地所金蔵、みんな三井に奪られて、とうとう没落たんだってね", "太政官の官員様は、たいがい三井の肩持ちだから", "斧四郎旦那は、気が変になったといううわさもあるけれど……。ああ嫌だね、秋は" ] ]
底本:「松のや露八」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年7月11日第1刷発行    2004(平成16)年12月3日第8刷発行 初出:「サンデー毎日」    1934(昭和9)年6月3日~10月28日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:川山隆 校正:トレンドイースト 2017年3月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "033227", "作品名": "松のや露八", "作品名読み": "まつのやろはち", "ソート用読み": "まつのやろはち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「サンデー毎日」1934(昭和9)年6月3日~10月28日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-04-02T00:00:00", "最終更新日": "2017-03-22T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card33227.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "松のや露八", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年7月11日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年12月3日第8刷", "校正に使用した版1": "2011(平成23)年5月6日第10刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "トレンドイースト", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/33227_ruby_61173.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-03-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/33227_61216.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-03-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "佐どの", "佐どのうっ", "おおういっ" ], [ "見えぬ", "お見えなさらぬ", "つい黄昏時、篠原堤へかかる頃まではたしかに、われらの中にお在したものを" ], [ "佐殿ようっ", "佐殿はおわさずや" ], [ "兵衛どの", "おうっ。何か", "残念ながら佐殿のほうは、あなたへお探しを任せますぞ。ここは森山宿の追分、てまえは京へさして急ぎますれば" ], [ "金王。金王", "はい", "しばし待て。あの山陰に、小屋らしき物がある。猟師どもの獣小屋かも知れぬ。あれまで――" ], [ "金王。おぬしは、京へ戻るというが、都の内には、平家に降を乞うて、生き長らえておるような腰ぬけはいざ知らず、源氏と名のつく者は、一人だに、陽の映す下は歩けぬ世となり終ったが……そうした危うさを合点で行くのか", "元よりです。乱後まだ一日か二日、洛内の余燼もいぶっておりましょう。勝ち誇った平家の武者ばらの気も立っておりましょう。けれど十分、心して、敵の目をぬけて紛れ入るつもりであります", "そして?", "その先の事ですか", "されば……おぬしの仰せつかった使命の的は、およそ察しはついておるが", "いや、そのお使いは頭殿から仰せ出した儀ではありません。お口にだに洩らさぬだけに、お胸のうちを察して、この金王から途々何度も申しあげ、ようやく、ではとお許しが出たので参るのです", "よくぞ気づかれた。われら源氏という者の一門は今日亡び去っても、明日へながれる血は亡びぬ。その一脈のお血につながる可憐しきお人や幼い方々が、まだ都には残されておざったな" ], [ "では、金王", "兵衛どの" ], [ "行く先のご無事を祈り申しておるぞ。常磐さま始め、おちいさい公達たちのご先途、くれぐれも頼み参らすぞ", "心得て候" ], [ "この辺りとて、油断はなりません。お身様にも、心なさりませ。――少しも早く、佐殿とお出会いなされて、先なる頭殿を追い、つつがなく美濃路へお遁れあるように", "おお。ではまた、いつの日か、東国で会おうぞ", "はっ。おさらば", "さらば" ], [ "どうだ", "なにが", "いい首でも拾わなかったか", "まだ、まだ", "はて。……雁ばかり飛んでいやがる" ], [ "……やっ?", "叱" ], [ "何だろう、あいつ?", "おや。居眠っていやがる" ], [ "待てっ、公達", "…………" ], [ "御曹司、耳はないのか", "…………", "いずれから来て、いずれへ渡らせられる。無用な事。この先とも、遁れる道などはない。――粥なと食わそう、馬を降り召され", "…………" ], [ "どうしよう", "訴えて出なされ", "かあいそうじゃ", "そんな事を云うたとて、きのうも何度、平家のお侍衆が、触れて来たことか。匿うたなどと疑われてみさっしゃれ、それこそ……", "いや、不愍じゃ。わし達の仲にもあの年頃の子があるに" ], [ "どこへ行きなさる", "青墓へ", "山越えで" ], [ "和子。どこへ行くのか", "青墓へ" ], [ "青墓に知辺でもあるのかね", "うむ", "何というお方か", "行けば分るけど", "そうか" ], [ "樗の木を見に行ったか", "樗の木とは", "五条の獄舎の門前にある巨きな木だ。義朝の首がさらしてある。後からまた、子の義平の首も並んで梟けられた" ], [ "いや、おとといからもうないぞ。いつのまにか、葬ったものとみえる", "盗んだのじゃろ", "誰が?" ], [ "云うまでもない。源氏の残党がじゃ。朝夕、六条の館に伺候し、頭殿と仰いでいた一族だったら、見ていらるる事か", "そうよな" ], [ "――何でと問うも愚かだ。三年前の保元の乱の折に、義朝は自分の父為義を見殺しにしたじゃないか", "あれは義朝が殺したというよりも、清盛その他の平家が殺させたのだ。朝議ですでに斬罪と決められた人だから、たとえ義朝が庇っても助かりはせぬ。強いて弓矢にかけてもとなれば、朝議へ弓引く事になる。涙をのんでむしろ子の手で処置するしかなかったのだ", "いや、何といおうが、最初に上皇へ献策し奉って、合戦の口火を切ったのは、義朝ではないか。敗れて、上皇には讃岐へ流され、父為義も、朝議で死罪を宣告されるような失敗をしながら、何で今日まで――", "待ち給え" ], [ "君の云うのは、人道論だ。もっと大処から視てやらねば", "何をいう、人倫の道を外して、人間のどこに誇るものがある", "そういえば、義朝は非人道の人間に聞えるが、生涯に瑕瑾もないという事は、今みたいな治乱興亡の劇しい中にある武将には、求めても求められない無理なはなしだ。然らば……大きな声では云えないが、六波羅殿はどうだ", "君はまた、平家方を誹すのか", "感情でいうわけではない", "そう聞える" ], [ "おまえ、見届けに行くのか", "はい", "何だって、急にそわそわして、見に行くのだ", "でも、気になりますから", "さては、子連れの女を、寺内に匿っているのは、お前だな", "…………" ], [ "わははは", "あははは" ], [ "眠ろう", "どれ、寝るか" ], [ "常磐さま、追い立てるようですが、もはやこの御堂も安全ではなくなりました。和子様の泣き声が、夜更けると、遠く本堂のほうまで聞えるのです", "無理はありません。あのように泣き出すと、火のつくような声ですから", "学寮の若い人達が、今夜も怪しみ合って、危うく詮議されるところでした。――半月ほどは裏山の花頂堂にお匿い申しあげ、そこには食物のお運びも出来ないため、おとといの夜からは、ここへお移し申しあげましたが、人目や耳が近いだけ、裏山よりもなおここは物騒でした", "ご心配をかけました。ぜひもない事です。ほかへ立ち去ることにいたします", "寔に……申し難いのでございますが", "いえいえ、大晦日の夜からきょうまでも、母子四人、六波羅の眼をのがれ、生きながらえて来られたのは、あなた様のお慈悲でござりました", "なんの" ], [ "法衣は着ていますが、亡き父も叔父も、源氏の端くれでした。わけて、従兄弟にあたる金王丸は、童の頃から六条のお館に仕え、義朝様が御前様の許へお通いなさる折は、いつもお供について行きなどいたしたものです", "…………" ], [ "――ですから、年暮の二十六日の朝から、ご合戦となって、洛内の町中に、あの凄まじい焔と黒煙が立ち昇り出してからは、お館の安否と共に、御前様はどう遊ばしたか、幼い和子様たちはどう召されたやらと、夜も睡らず、昼は間がな隙がな、ここから一目に見える町の煙ばかり眺めやっておりました。……するとです、ちょうど大晦日の真夜中、従兄弟の金王丸が、和子たちを背負い、あなた様を励まして、これへ上って見えました。……そして、父祖以来の恩返しは今する時だ。光厳頼んだぞ。自分はなお、近江路から美濃へ落ち行かれたお館やご一門の先途を見届けねばならぬ身ゆえ――と、いわれた時は、人に信じられたという欣しさと同時に、途方にも暮れましたが、僧門にいる身の悲しさ、やはり私にはこれだけの力しかございません。これ以上、自分にない義心を持って見ても、それは遂に、御前様の身や和子様たちを、六波羅の捕吏の手柄に供えてしまうだけのものです。明日を待つのも危ないのが眼に見えておりまする", "わかりました。夜の明けぬうちに、そっとここを立退きまする", "……ざ、ざん念です" ], [ "いけないっ", "いやあん", "母さま! 乙若が", "うそだあい", "お出し", "うそ。うそっ" ], [ "乙若がね、お母あ様、あそこの百姓の家に干してあったこれを……", "どうしやったのかや", "黙って、取って来たんですもの。人の家の物、黙って取って来れば、盗人でしょ。――お母あ様" ], [ "いらない……", "わしは源義朝の公達じゃ、盗んだ柿など誰が喰らおう。……ねえ、お母あ様" ], [ "今若様よ、今若様よ", "あい", "そんな所へ寝てしまうでないと、弟御様を起してよ。――そしての、お許もお睡かろうが、怺えてたも。――今に伯母御さまが家へ上げて下さろうに", "睡かない。お母あ様、ここは誰のお家", "母がお親しい身寄りのお方じゃ。よも、素気のうは遊ばすまい。まいちど、門の戸をたたいて訪れて見やい" ], [ "こんな所で、吠えたり泣かれたりしておられては迷惑じゃ。さあ、とっとと立ちなされ。――去んで下され。去なねば、沙汰人へ告げて、引っ立ててもらうぞ", "…………" ], [ "六条の姪が訪ねて見えたぞよ", "えっ、常磐が" ], [ "いつ? ……。いつだ", "ゆうべ晩くであったがの", "で。そ、そして――何処にいるのか", "家の内へ入れなどしてなろうか。固く戸を閉てて追い払うた", "追い払ったと", "縁のつながりだけに、なおさら怖ろしい。留守というて、召使に追わせたのじゃ", "ばかっ", "……?", "たわけ", "何でいのう", "ええい、智慧のねえ奴だ。せっかく黄金の蔓をひいて来た福運を、初春早々、追い払う阿呆があるか。飛んでもねえ馬鹿者ぞろいだ" ], [ "墨染の伯父さまでございましたか。わたくしはまた、六波羅の手先か、この辺の野武士でも来て、やにわに和子さまを奪り上げたかと、気も萎えてしもうたのでございました", "そうか。――いや無理もない、その子連れで、これまで落ちて来るには、さだめし容易な事ではなかったろう。何とまあ、傷ましい……" ], [ "さてさて、嘆かわしいとも無念とも云いようはない。世も末とはこの事か。ご一門の後を追って、俺も追腹を切ろうかと一度は思ったが、何としても、何としても其女や幼い和子さま方のお身が気がかりでな……", "では、伯父様には、わたくし達を、探し歩いて――", "探したの何のと云って、洛内洛外はおろかな事、いやもうひどい憂き苦労をしたぞ。そのうちにも、お館の義朝様には、お首となって、東獄の門前へ曝し物にはなるし", "…………", "知っているか、常磐", "はい。伝え聞いております", "義平様、朝長様、その他のご一門も、毎日のように、六条河原で首斬られた", "…………", "聞いているか", "おりまする", "……常磐", "はい", "汝れは、泣いてもおらぬが――悲しゅうないのか", "悲しいなどという事は、もっと世にありふれた場合の事でございましょう。涙も忘れました。ただ今の私には、この三人の和子さま方の母だという事しか考えられませぬ", "さ。そこでだ" ], [ "それなら、おまえの母親は、どうしているか、知っているか", "存じませぬ", "六波羅に捕まっているぞ", "……?", "夜ごと日ごと、問罪所の白洲で、拷問にかけられておるそうな。――常磐を匿したに違いあるまい。義朝と生した子供等の行方を云えと", "……ほ、ほんとですか", "嘘な筈があるか。都では隠れもない取沙汰だ。かあいそうに、あの年よりが、一枚一枚、手足の生爪を剥がされて、常磐の行方を云え、行方を吐ざけと――", "…………", "不愍や、あわれや、他人でも人事とは思えぬに、常磐の前は一体どこにいるのか、生きてはおらぬのか、生きているなら母御を見殺しにもすまいに――などと、都の噂は寄れば触ればじゃ", "…………", "え。どうする考えだな", "…………", "常磐", "…………", "常。……あっ、常磐っ。おいっ、おいっ、どうした" ], [ "おお、嬰児の泣き声がする", "あれが、義朝殿とのあいだに生した子か" ], [ "お母あ様。どこへ行くの", "六条のお家?" ], [ "まあ、あの和子さまたちの、可憐しい", "何も知らず、母御前と同じように化粧して", "欣しそうにしているだけ、母御前の胸のうちは、どんなであろ", "かあいそうに", "見るだに胸が傷む……" ], [ "あれよ、常磐御前が六波羅へひかれて行く", "六条殿のお子もか" ], [ "おさがりです", "ご帰館" ], [ "いや、体の忙しさは、病身な父などとちがい、清盛は頑健ですから、何ともいたしませんが、どうも分らずやの公卿を相手に、半日、朝に上っておりますと、頭が悪くなりそうで", "癇のお強い参議殿ではあると、いつぞやも誰かいうておりました", "宮中で呶鳴りましたからね", "せぬがよい事でしょう", "自分でも戒めていますが、時々は" ], [ "時に、何かご用ですか", "折入っての", "……はて。母御前から折入ってと申しますと", "義朝の子のことじゃが", "義朝の", "先つ頃、尾張の頼盛が家人の弥兵衛宗清という侍が、美濃路で捕えてきた可憐しい和子がありましたの", "ムム。義朝の三男、右兵衛佐頼朝のことですか", "そうじゃ", "それを……?", "斬れとの仰せなそうじゃが、慈悲じゃ、助けてあげて下さるまいか" ], [ "いけませんか", "成りません", "どうしても", "母御前などが、お口をさし出す事ではありませぬ", "…………", "…………" ], [ "また、おひがみですか。父の忠盛が生きていたとて同じです。いや清盛としては、父君がすでにご他界だけに、なおさら、あなたのお頼みとあれば、たとえ逆さま事でも、肯いて上げたいつもりでいますが、義朝の子の処分などは、由々しい問題です。伏見中納言とか越後中将とか、あんな連中なら何十人助けてくれたからとて大事はありません。――が、総じて、弓取の子というものは、性根の恐いものです", "和殿も、弓取の子ではなかったか。きょうの人の身、あすのわが身", "だからです。豹の子には、日が来れば、きっと牙が生えるんです。元来、われわれ武門の血は、ついきのうまで、野放しに育って来た人間ですからな。こうして繧繝縁のうえに坐っていても、野に帰れば、たちまち牙を研ぎ爪をみがく性質の甦えってくる者なのです。――その点、平安朝や天平の文化に育てられて来た公卿たちとは、同じ国土の人間でも、血の鍛錬がちがいます", "そのような事を、尼は嘆くのではありません", "では、なんですか", "後世の怖ろしさが思われるのじゃ", "また。仏法の因果ばなしですか", "和殿にもはや、沢山なお子があろうに", "武門の子等ですから、武門のならわしに育てます", "とはいえ、もし和殿のお子が、今の義朝の子のように成り召されたら、親として、どのように思わるるか", "あはははは", "笑い事ではおざるまいが。昨日ともいえぬ、世の移りを眺めたら", "母御前よ", "なんじゃ", "あちらの女どもの屋へ渡らせて、双六か扇投げでもなされては如何。盛姫に催馬楽を見しょうとて、町より白拍子を呼び集め、賑やかに遊んでおるらしいが", "お暇しましょう", "そうですか" ], [ "やあ", "おう……" ], [ "はい", "きょうはまた、わけても多く、ご一門や公卿方が通るの", "きょうには限りませぬ。いやもう世の中は、正直すぎるものです。源氏滅亡と見えたとたんから、六波羅御門は、牛車、お馬、輿など、千客万来を呈しております。――この大和大路の往来が、そのため以前とはがらりとちがって来たほどで", "横へ曲がれ", "裏通を参りますか", "閑寂でよい", "遠方此方、だいぶ梅も咲き出しました" ], [ "お帰りなされませ", "むむ" ], [ "なにをしていらっしゃいましたか。今日は――", "お借りした唐の白居易の詩書だの、司馬遷の史記だのを読んでいました", "史記と、詩書と、どちらが面白うございますか、どちらがお好きですか", "詩文はつまりません", "では、李白や白居易の詩を読むよりも、支那の治乱興亡の書いてある史記などのほうがお心にかないますか", "え……" ], [ "好きといっても、そんなにも好きではありませんが", "じゃあ、何がいちばん、読んでお心をうごかされますか", "…………" ], [ "仮名がきのお経文がありましたら、こんどお貸しくださいまし", "はて、稚いのに、どうしてお経文などをお好み遊ばすか", "亡き母者人に連れられて、嵯峨の清涼寺へよう詣りました。中河の上人とも、お心やすうござります。先頃、黒谷へ行って、法然房源空という若い坊さまのはなしも聴いたりしました", "それで……", "え、それで、いつのまにか、お経文を解いたおはなしを聴くのが、いちばん好きになりました" ], [ "もう、咲いているんですね。外には", "あれに、銅器の瓶があります。水を汲み入れてさしあげましょう", "自分でやります" ], [ "弥兵衛", "はい", "もひとつ、お願い事があるのじゃが", "何ですか", "きき入れてくれるか", "仰っしゃってご覧じませ", "小刀と木切れを賜わるまいか", "小刀を", "さればよ、明日は、父義朝の五七日の忌にあたる。小さい卒塔婆なと削ってご供養のしるしとしたいが", "……ああ。はや左様な日数になりますかな" ], [ "清盛様が、無情なお人だなどとは、世評のことで、実は、涙もろくて情には極くお弱い方にちがいございませぬ。――が、それではご一門をひいて、なお、大きくは天下の政治をなされては行けませんから、ご自身で、ご自身の弱いところを知って、強いて無情に構えていらっしゃるのだと、私などは存じあげておりまする", "……じゃが、今度ばかりは、尼がどう掻き口説いても、うんとは仰せられぬ", "ひと筆、御書をおしるし賜わりますまいか", "文か", "はい。小松殿へ" ], [ "そなたも、そう思うか。尼もこの上は、小松殿のお力をかりるしかないと考えていたが", "宗清が、ひと走り、お使いに立ちまする" ], [ "夜の具は、お寒うないようにしてあるか", "はい。寒からぬ程に", "食膳は", "魚類は、あがりませぬゆえ、その他は、世の常並に", "あの瓶の挿梅は、そちが致したか。ゆかしい心入れに思う", "恐れ入りまする", "義朝どのの御曹子" ], [ "おん身、幼いに似ず、よく供養なさるのう。亡き父殿が恋しいか", "恋しゅうござります", "死んだら会える。そう思うておられるか。死んで父殿に会いたいと念じられるか", "そう思いませぬ", "どう思う?", "死ぬのは怖うござります。死ぬほど、恐ろしい事はありませぬ", "でも、おん身は合戦に出たであろが", "戦の時は、ただ夢中でしたから……", "生きたら、どうありたいと思うか", "清涼寺へお弟子入りしたいとぞんじます。お坊さまになれば……" ], [ "重盛。おまえは子だぞ。わしの子だぞ。いくら賢ぶっても", "はい。弁えています", "今のことばは何だ。親を無慈悲無情の羅刹とはなんだ。慈悲がなくて、子が育つか", "羅刹などと父君を誹った覚えはございません", "耳ががんとしておった。言葉じりなどとるな。わしはかっとする性だから。――がしかし、云わんばかりに罵った", "罵りません", "面倒だ。枝葉はよせ。口では、そちに敵わん。――だが重ねて申すぞ。たとえ母御前の尼が、どう仰せあろうと、ならぬ事はならぬ。もってのほかだ。――頼朝の生命を助けてとらすなどという事は", "…………", "和郎にわからんか。つもっても見い。――あれは義朝の三男じゃぞ。上には次男に朝長あり、長男義平があるに、その兄弟頭をさしおいて、父の義朝がわざと三男へ伝家の『髯切』の一刀に、源太ヶ産衣をくれておるところを見ても、頼朝という童の非凡は知れておるではないか。――子を観ること父にしかずだ", "が……父君", "だまれ。待て" ], [ "子を観ること父にしかずだっ――。重盛、そちもすぐわかってくる", "さればこそ、そこを憐れと、禅尼様にも", "何もかも、尼御前のせいにして云うが、由来、若いくせに仏いじりのみして、仏家の真似の好きなのは、そう云う和郎自身だ。――輪廻とやら因果とやら、やれ菩提の仏心のと、生かじりの智慧と小慈悲を、生きた世間へ、そのまま用いてみたいのが、和郎の本心とわしは観る。――過るなよ。世の中はうごいているぞ、人間は生き物だぞ。戦や政治のあいまには、せいぜい仏者遊びもよい。だが伽藍の中か小松谷の館の中でやれ。――清盛のまえへなど持ち出して参るな" ], [ "そうです。父君のお察しのとおり、禅尼様ばかりでなく、それは私も望んでいる事にちがいありません。一門の将来と、父君の人望を考えるからです。前に保元の乱の後、敗れた敵方の者を、日頃の悩みにまかせ、老も若きも、敵に有縁の者とみれば、仮借もあわれもなく斬殺した信西どのの終りはどうでしたか。武門に生れ武門に死ぬるさだめの私たちには、きょうの敵の身の上も、他人の運命ではありませぬ", "何をいう。和郎等を、そうさせたくないばかりに、この父は", "子への慈悲なら鳥獣にもある天性でしょう。何もお父君のみが", "談義! やかましい" ], [ "わしの母親も、貧乏の頃は、乳が出ぬので、悩んでおった。女親とは、愚かなもので、ない食べ物も、あるように見せて、良人へ喰わせ、這う子に与え、自分は喰べぬうえに、乳呑児に乳をせびられる。堪ったものではない", "…………", "さすがに義朝を、うつつにさせた其女の容色も、あわれや、見るかげもなく窶れたなあ" ], [ "常磐", "……はい", "顫いておるらしいが、何も恐がるに及ばぬ。そなたに罪はない。合戦は、清盛と義朝のいたした事だ", "…………", "女どもが知った事ではないが、そもそもは、義朝の愚が清盛を幸いさせてくれたようなものだった。彼は、一個の武弁に過ぎない男で、清盛ほどの政略もないのに、公卿の政争に組したのが禍いの因といおうか。――何にしても、武門のならいとはいえ、気の毒なのは、一族門葉、それに何も知らないお前どもだ。――がしかし、清盛は、そなたのような者まで斬る気はない。安心するがいい", "……も。……もしっ" ], [ "図にのるなッっ。女ろう!", "…………", "あわれをかければ、すぐつけ上がる。女どもの憎い癖だ。そちは元より氏素姓もない九条院の雑仕女、義朝の寵をうけたといっても門外の花だ。しかし抱えておる子たちは正しく源氏の血流、ましてみな男の子。助けておくことは罷りならん" ], [ "どうかなされましたか", "むむ……すこし頭が重い", "おつかれが溜ったのでしょう。朝へ上ると、いろいろ煩わしい事が多いらしいと、禅尼にも、お案じなされておりました", "尼どのに、会ったのか", "はい。いつぞやの儀で――", "尼どのには、まだあの儀を、歎いておられるか", "お諦めになりません。亡くなられたご実子の思い出やら、頼朝の事やら、話されたり訊かれたり、よくよくとみえて掻き口説いておられました", "清盛を、無情者よと、恨んでおいでられたろうな", "お口には出されませぬが", "――重盛", "は", "前の合戦――保元の乱の後では、信西入道には、ずいぶん思いきって、日頃の政敵や残党どもを狩って、斬り尽したな。……だが、ゆうべも寝ずに考えた事だが――結果はかえって悪かったようだな", "無用にまで人を斬って、人望のよいはずはありません。信西入道からいつとなく人心が離れたのは余りに果断剛毅にすぎて、そこに涙というものが少しもなかったからでしょう", "うむむ", "今度の合戦では、信西入道こそと、憎しみの的にされ、西洞院のやしきも真っ先に火を放けられて、逃ぐるを追われ、源光泰のために、田原の野辺で非業な最期をとげてしまいました。苛烈な人斬りをした酬いよと、弔う人もありません。輪廻とや申しましょうか。業の廻りといいましょうか", "いや、仏者ばなしは止せ。そんな茶のみばなしではない。深く、ゆうべわしは考えてみたのだ。その信西入道の仕方と、世上の反響やその結果をな。……と、良くないわい。下策だ。人心をつかむ所以でない。これを義朝一族の後始末に照らしてみるとだ", "ホ……" ], [ "そうか。和郎にもそう考えるか。大を為さんとすれば、よろしく仁を施さねばならぬ。――幼い頼朝ごとき者、打首にしても、世上に眉をひそめさせるだけだ。一命は助けてとらそう。流罪申しつけろ", "……えっ。では" ], [ "大慈悲心を起されました。禅尼にもそれを聞かれたら、どんなにお欣び遊ばすかしれません。……ではさっそくにも、泉殿へ", "ひとつ孝行したの", "ああ、寔によい朝でございました" ], [ "さあという時、恥のないように、いつでも死ねる心を、お胸にすえておくのが肝腎です。あなたが世の笑いものとなる事は、源氏の恥のみではありません。侍というもの全体の笑いぐさですからね", "たいがい、大丈夫に、死ねると思っております。――こうして掌さえ合せれば" ], [ "どこへ、身は流される事か、分りませぬが、禅尼さまへ、何とぞよろしく、おつたえ置き下さいまし", "いや、その前に、一度お目もじ申しあげて、お礼をのべられるよう、重盛が計ろうてとらせよう" ], [ "配流とある", "流罪か", "伊豆の国へ", "伊豆へ? ……。ほう" ], [ "義朝、義平、そのほかを皆斬っていながら、なぜあの童一人を助けたか", "平常、何事にも、徹しておやりなさるご気性にも似あわぬことだ", "池の禅尼や小松殿のお口添えによるというが、他からの進言などに、御意をうごかすような殿でもないのに" ], [ "ここのお掃除などは、私たちがいたしまする。それより身支度を遊ばして、禅尼様のお部屋へおいでなされませ", "禅尼様には、もうお目ざめですか", "ええ、ゆうべは遅くまで、あなた様とお物語りでしたが、あれからも、ほんの一刻ほど、お眠り遊ばしたきりでございまする" ], [ "お早いお目ざめでしたな。ゆうべは、更けるまで、禅尼様とおはなしで、眠る間はなかったでしょう", "いや、たくさん寝たよ", "そうですか。きょうから長いお旅路です。――また、馬の上で居睡りなど遊ばして、連れにお逸れ遊ばさないように", "はははは。だいじょうぶだよ、今日は" ], [ "よう仰っしゃった。寔に、そもじのお命は、御仏のお護り、人業ではない。――それにつけ、尼がゆうべも申したよう、仏果をおそれ、菩提に心を染め、行末とも、亡き母者や父御の回向に一生をささげなされよ", "……はい", "ゆめ、弓箭の太刀のと、血臭い業は思い絶ち、たとえすすめる者があろうと、耳には入れ給うなよ", "はい", "人の口はうるさいもの。二度と憂き縄目などにかかるまいぞ。――伊豆へ下られたら、すぐにもよき導師をたずね、お髪を剃して、この尼が志を無になさらぬようにの……", "はい" ], [ "まだ少しは、時刻の猶予があろうか", "されば、長くは如何かと存じますが、荷駄へ旅行李など積むほどの間は――" ], [ "和子さま。和子様。――八幡大菩薩のお計らいで、ふしぎに助からせ給うたお生命ですぞ。いかなる者に強いられようと、そのお髪を剃してはなりませぬ。一心、お髪をお惜しみなされませよ", "……うん" ], [ "――叱いッ", "前の者、進め", "しィッ、叱っ……" ], [ "吉次が通る――", "金売吉次が都へ上る" ], [ "馬の仔を、ご覧になったことがございますか。産れるとすぐ、歩き出しますんで。――どうして、可愛い奴ですよ", "何をいうかと思えば、馬の仔のはなしか。やくたいもない" ], [ "長談義、ちと飽いた。――用がなくば、また来い。まだ当分は、都に逗留であろう", "はい、こんども、夏ぐち頃までは……", "商いか", "左様で。……時に、過日おねがいのご用命は、いかがでございましょう", "ああ、六波羅殿のご普請のことか", "それもございますし、小松殿におかれましても、伽藍のご建立があるそうで。――何かと、金沙、金泥、金箔など、たくさんにお要用でございましょうが", "あるにはあろう", "お口添えで、この吉次に、ご用命がねがえれば、こちらのお館へも莫大なお礼物をお頒けすることができますがな" ], [ "さ。……御所のご用品なれば儂たちの係りだから、どうなとなるが、六波羅殿には、何のご縁もなし、わけて黄金商人の執りもちなどしたら、他の商人から怨まれもするし、世間の口もうるさかろう", "いやいや。――他様なら知らぬことですが、こちらのお館と、六波羅様との間がらなら", "なんでそのように親密じゃというのか", "へへへへ。……存じ上げておりますよ。吉次は、以前からずっと、九条院にも伺って、何かとお出入りを仰せつかっとりましたからね", "九条の女院", "へい", "なんの謎じゃろ?", "おとぼけ遊ばす事がお上手でいらっしゃいますな。……こちらの奥方様のはなしですよ。世間はもうけろりと忘れておりますが、吉次はお目にかかるたび思い出すんでございます。――九条院にお仕えになっていた頃のお姿を", "奥のゆかりのことか", "ゆかり様。――それはご当家に再縁あそばしてからの更名でございましょう。以前はたしか常磐様", "…………", "――で、ございましたろ" ], [ "相国はおいで遊ばされるか", "おります", "あまりごぶさたしたので", "いや、折角ですが、お訪ね下すってもむだでしょう。何せい父は忙しくて、きょうも御所のお使いを迎え、一族も大勢集まって、何やら評議のようですから", "……ははあ" ], [ "……では。よんどころありませんが、貴方にまで、そっとお願いいたしますが", "この宗盛でよければ、折を見て父に取次いでおきましょう" ], [ "ほかでもないが、それは貴方の奥方の以前の子――つまり義朝の遺子のひとりで、鞍馬へ上せてある末子があったでござろう。そうそう山では遮那王とか名づけられているそうだが……あの牛若という童じゃ", "それが、どうかいたしたか", "鞍馬寺の僧からも、山役人の方からも、たびたび、よからぬ状書が届いている", "……どんな?", "僧をきらって、武道にばかり熱中し、ややともすれば、師僧にまで逆らうという", "その儀は、かねがね妻も案じておる事で、たびたび意見の手紙をつかわしておりますが", "意見ならよいが、よも煽動などではあるまいの。何か、源家の系図書のような物を、お内方から山へひそかに送ったお覚えはないか。……何せい父の相国にも激怒しておらるる折だ。そこへ貴所の顔など見たら、油へ火がつくに極っておる。――まあ当分は、不沙汰にかくれ、それよりも鞍馬の童を一日もはやく剃髪させておしまいなさい。髪を下ろしてしまうにかぎる" ], [ "……もう燈りが来たか", "暗いではございません", "あ、あアっ" ], [ "燈りとなったら、また飲んで遊ぼう。翠蛾にも来いといえ。ほかにいる妓たちもみんな呼び集めろ", "お姉さまは、今夜から明日もあさっても、六波羅様へ召され切りです", "三日も", "ええ", "ばかだなあ。何でそんなに身を縛られに。――生きているかいがあるのか、それで", "でも、他ならぬお館ですもの。行かなければ、生きてゆかれません", "じゃあ、おまえと、いるだけの妓たちだけでいい。酒や楽器を取りそろえろ", "わたしもこれからやがて、化粧を急いで、小松谷の重盛様のお客招きへ伺わなければ……", "なに。おまえも出かけるって。よせっ、止めちまえ", "そんな事したら……", "病気といえ。いくら都の白拍子は、みんな平家の息子や、一族たちの為にあるようなものだとはいえ、まさか招きを断ったからといって、白拍子を死罪にはすまい", "されるかも知れません", "ばかを云え。なんだ平家が。なんだ侍が。世の中は弓矢ばかりで廻っちゃいないぞ。黄金の力はだれが廻しているんだと思う。――行くなっ、ここの一軒ぐらい。――いや京都中の妓ぐらい、おれが子指の端でもみんな養ってみせてやる" ], [ "行きません", "行けと云うに", "知らない……", "そんなら俺から先に出かけてやるっ" ], [ "……何か、きょうも常磐様からお託しがあったか", "はい、お手紙を、いつものように、お預かりして参りました" ], [ "これだけか", "ええ、きょうはこれだけでした。――が、お言葉の上で、こう仰っしゃってでございました", "牛若様へ、お言伝てか", "いや、牛若様には聞かして賜もるな。ただ貴方や他の方々の心得までに――とのお断りで、鞍馬へ折々にする便りも、これが終りと思うてくれ――との仰せでした", "……ウム。近頃の風説で、一条殿の身辺へも、六波羅の眼が注意を向けだしたようだとは、わしも聞いている", "そうです。良人のため、良人の一族のためじゃ。悪しゅう思うてくれるな。牛若様をはじめ亡き義朝様の遺子三人の者には、再生のご恩のある今の良人に、禍いをかけては済まぬ。また再嫁する折に交わした、良人との約束もやぶる事になる。そう私の前もなく掻口説いてのお嘆きでした。ほんとに前に坐しているに耐えないようなご苦悶に見えました。よくよくなお覚悟と思われまする", "ご無理もない……" ], [ "光厳、よく分った。もうわしも鞍馬からお便りをいただきには降りて来ぬ。――が、牛若様のお身については、われわれ旧臣もおる事、必ずともお案じ遊ばさぬようにと――今度お目にかかった折、そっと申し上げておいてくれ", "はい。……けれど、私にも、余り館へ足ぶみしてくれぬようと、きょうはご念を押されましたから、やがて秋にでもなって、知恩院の説教の莚へでもお見え遊ばした折にそっとお耳打をいたしておきまする", "いつでもよい。……が光厳、おまえも気をつけろよ", "え、注意しています。……でもよく常磐様には、十年前、六波羅へお引かれ遊ばしたあの時、わたくしに匿われた事などを、役人に責められても、お口に出されなかったものと、今でも時々、あのお方の意志のきつい事には驚かれまする", "あ。……長話しをしていて人目につくといけない。では光厳", "山へお戻りになりますか", "ムム夜のうちに", "では、いずれまた" ], [ "――光厳さん", "え。……どなたです", "名を云っても、あなたはご存知ないでしょう。奥州上りの金売商人ですが", "何ぞ用ですか", "そこの観音堂の濡れ縁にでも腰かけましょう。……先程はついどうも、失礼をいたしまして", "先程とは", "つい今し方。加茂河原で", "えッ、河原で", "みんな伺ってしまいましたのさ。悪い気じゃありませんが、風下にいたせいか、あなたと鞍馬の使者が、小声で云っているのも、聞くまいとしても聞えて来て――", "ああ兄上との話を?", "へい、残らずみんな", "聞いたと", "聞きました" ], [ "まあ、おかけなさい。奥州かよいの生命知らずが、がらにもないとお笑いでしょうが、てまえにも人間なみの悩みはあるんで。――ひとつ善智識のお悟しをうけたら胸のもやもやが、いっぺんに解決してしまいはせぬかと、実あ、河原から後を慕って来たわけです。われわれ凡夫の煩悩を救ってくれるのは、あなた方のお勤めと思いますが", "……?", "聞いてくれますか", "云ってごらんなさい" ], [ "――辺りに人もいないお山ですから、開けッ放しに申します。実は、てまえの迷っている悩みというのは、どうしたら今よりもっと大きく儲かるかっていう事なんで。――お蔑みなすっちゃ困りますよ。断っておきますが、てまえは武士じゃございません。根こそぎからの商人です", "…………", "坊さんが法の道に。武士が弓矢に。それぞれ徹してゆくように、てまえも徹してみたいと考えると、そこに苦しみが起りました。――今のままじゃあ大した儲けにはならない。世の中を自分の富で動かすっていうようなわけには参りませんからなあ", "…………", "じゃあ、どうしたら、てまえなどのような商人が羽ぶりがよくなれるかといえば、こう世間がおッとり静かでは困るんで。もっと騒いで物がどしどし動いてくれなくちゃいけませんや。……戦争ですな。それも保元、平治のような都の内の乱ではおもしろくない。天下が二つにも三つにも分れて戦ってくれると、この吉次には、やりたい大仕事が山ほども出て来るんでさ。武門同士が、血と血を賭けて戦い尽した頃、土は百姓侍で持つがよい。てまえは天下の財宝を持ちますから", "……何をいうかと思えば、おまえは気でも狂っているのじゃないか", "なぜですか", "わしは僧侶です。かねの事とか、財物の儲け事とか、戦があるのないの――そんな俗事は聞いてもわからぬ", "わからないって? ……。ヘエー。……知らないと仰っしゃるのかな……。ふウむ……。ふふふふ" ], [ "光厳さん。――何も、そう恐い顔したり、秘し隠しにゃ及びませんぜ。この吉次だって、商法の上では平家様々だが、血を洗えば、源氏の氏子の端くれですよ。今夜あ一つ、ほんとの事を相談しようじゃありませんか", "何をいう!" ], [ "さっきから黙って聞いておれば、悩みを解く説法を乞いたいの、金儲けの相談をしようのと……。僧のわしへ向って、おまえは揶揄うのか、肚でもさぐる気か", "いいじゃありませんか、金儲けは商人の吉次がするんです。あなたは貴方の望みを遂げればよろしいでしょう", "わしの望みは、仏弟子になりきる事だ。おまえなどとは、行く道があべこべだ", "いいや、同じでしょ。……あなたも、平家の世を覆したいんでございましょ", "な、なんだと", "それでなくて、何でお前さん、常磐御前から頼まれたり、鞍馬の天狗と密会したり、知れたらすぐ首の飛ぶような危ない事を、僧侶の身でなさるんですかねえ。……いけませんよ、吉次だったからよかったが、あんな謀叛を、河原で話し込んでいちゃあ", "…………", "それに、近頃のうわさがまた、どうも変だと思いましたよ。奥州だって見た事もねえ天狗様が都のほとりの鞍馬にはたびたび出るっていう評判だ。奥州者といえば、熊襲だのえびすだのと、仰っしゃる都会人が、天狗を真にうけているんだから恐れ入っちまう", "…………", "奥州の土産ばなしに、天狗にお目にかかりてえもんだ――と、こないだうちから念願にかけていたら、ほんとに巡り会っちまった。しかも天狗が二人して密々ばなしだ。やがて、ひとりの天狗が鞍馬へ帰り、ひとりの天狗は今、吉次の眼の前で、しまッたと云わんばかりな顔をしていらっしゃる。……ね、光厳さん、お前さんも、天狗の仲間の一人でしょ" ], [ "お心はよく分る。あなたの身一つだけではないからな。ばれたらこいつは一大事だ。六条河原にまたも首塚が出来上がろう。――だから貴方としたら死んでもここは口を開けないところに違いない。ましてや何処の馬の骨か知れない奥州者の吉次に、おいそれと打明けられないのはごもっともだが――なぜその前に、常磐様から鞍馬へ文の通う事だの、一条朝成なんてお人好しな者までが謀叛の火だねみたいに物騒がられて、いちいち六波羅へ聞えるのか、それを疑ってみないんですか", "…………", "光厳さん。注意ぶかいようだが、お前さんもまだ若いな。法衣にかくれ、法話に行くと称えて、一条朝成の奥向に出入りしたところは上出来だが、その常磐様には、切っても切れない伏見の鳥羽蔵という伯父がいることをご存じあるまい。自分も一、二度見かけた事があるが、見るからに眼つきのするどい卑しげな男さ。以前、常磐の前を詮議中、伯父のくせに、しかも源家の恩顧を蒙っているくせに、六波羅へ密訴したかどで、その後は取立てられて、四、五十名の侍を飼い、肩で風を切って歩き、いよいよ平家の問罪所へ、忠義立てているという風上にも置けない代物だ。――こいつが肉親の伯父面して、今も、一条朝成の館へ、時折、酒くさい息をして出入りしているだろうが", "……あ。……ではあれが、常磐様を以前密訴した伯父でしょうか。よく遊びに見えていられる――金田鳥羽蔵正武という五十がらみの武者がありますが", "元は、姓も名乗りもない牛飼だったが、主君の子と、肉親の姪とを束にして敵へ売りこみ、その功で厳めしげに、そんな名乗りを取っつけている奴なのさ。こいつが臭い。――前からわしはそう見ていたが、ひとつ、天狗の仲間入りする引出物に――また、てまえが二心ない源氏の氏子だという証拠をお見せする為に――その鳥羽蔵をかたづけてお見せしましょう", "かたづけてとは?", "ま。見ていて下さい。光厳さん、その後でまた、会いましょう。――と云っても、商用の都合でことしはもう来ないかも知れませんがね。……そしたら、来年また" ], [ "何処へも行きはしませんよ。ここにいるじゃありませんか", "嘘をいえ。いなかった", "いました", "こいつ" ], [ "げんに今、貴さまは裏山の谷から上って来たじゃないか。朝から中堂にも姿を見せず、それでもいたと云うか", "云う……", "なに", "山にはいたんだもの" ], [ "遮那。縛られたの", "どうしたの", "今夜もここにいるの", "なぜ謝らないの" ], [ "遅うなりました", "根井、荻野など両三名、後より参る由でござります" ], [ "遅いのう", "何日になく" ], [ "さればじゃ。若君には、日頃から憎まれている法師等のため折檻をうけられて、今日は懲らしめの為とか申し、鐘楼の柱に縛りつけられておいでになった。――それ故に、遅くなりました", "なに、鐘楼に縛られて" ], [ "それがしがお縄を解いて、ともかくこれへお供いたそうとすると、若君の仰せには、こよいは谷へ行かぬがよい。なぜならば、夜半にも刻を計って、自らを縛めた法師どもが、鐘楼を見まわりに来るにちがいない。その時、自分の姿が見えねば、六波羅の預かり人が、山落ちして行方を晦ましたるぞとばかり、一山の騒ぎとなり、ひいては谷間に集まる日頃の味方にまで、詮議が及ぼうも計りしれぬ。……わが身だに、一夜の辛抱をしていれば、明日は縄目も解かれよう、生命にかかわるほどの事はない。案じぬように、一同へそう申し伝えてよ。……とのお言葉なのでございます", "おお、ではご一身の苦痛よりも、一党の発覚こそ、大事なるぞと、仰っしゃってか" ], [ "ぜひもない儀。では、またの機を待つとして、若君のお身に、万一のないように、誰ぞ二、三", "お気づかいに及びませぬ。われわれが、夜もすがらでも、陰身に添うて、お守りしておりますれば" ], [ "やっ。誰だッ。――誰かいたっ", "何っ" ], [ "六波羅者ではないとな。然らば汝は、どこより来た", "奥州の……奥州の商人衆に抱えられて来た、荷駄の男でございます", "それが何としてかかる御山へは", "貴船神社へ、ご寄進の事がござりまして、主人の供をして参りましたが、その主人に逸れまして", "主人をさがし求めるとて、方角ちがいへ迷うたのか", "はい……。へい" ], [ "取るに足らぬ男とは見えたり。この谷間を犯した罪はゆるし難いが、生命だけは助けて、世間へ抛り返してやれ", "どう抛り返しますか", "よいように", "心得申した", "いや待った。その前に、裸にして、持物などもよう検めた上で", "そうだ!" ], [ "遮那よ、お許も、はや十六とはなったぞよ。ことしは髪を剃さねばなるまい。出家は嫌いと云いおるそうじゃが、生れてより持って出た宿命、生い立ち、今の時勢など、もう弁えがついたであろう。観念して仏門に入り、弥陀のお弟子となって、荒びた心を捨てい。よいか", "はい……", "何を泣くか。十六ともなりながら", "お……お師匠さま", "どうした", "わかりました。けれど、悲しゅうございます" ], [ "――出家すると、この黒髪にも、こんな美しい袂の着物とも、別れなければなりませんか", "分りきったことを。いつまでお許は稚子でいる気か", "おねがいです。鞍馬の山祭りまで待ってください。五月が過ぎたら出家いたします", "なぜ、その前は、嫌というか", "祭りの日には、たくさんな参詣人が、お山へ登って参ります。その時、人に見られるのが辛くてなりません。毎年のように、稚子輪髷に結うて、もう一度、綺麗な着物を着て見とうございます。……今年っ限りでかまいません。お名残りにです……お師匠さま。その日の過ぎるまでお待ちくださいまし" ], [ "おう、奥州のお商人か", "ごぶさたいたしました。今年もまた、上洛って参りましたので", "ようお越された。さあ、おあがり", "ごめんなさいまし" ], [ "これはどうも。昨年もおととしも、莫大なご寄進をいただいておるに", "どういたしまして、自分に取って、このお社は、生命の守りの神。――思い出してもぞっとしますが、おととし天狗に会いました時は、すんでに一命もなかったところを、お助けにあずかりましたので、こんな寄進ぐらいは、ご恩の万分の一にも足りはいたしません", "まったく、あの時は、えらい目にお遭いじゃったな", "半夜ぢかくも、二丈もある樹の空に吊るされていたなんて、まったく生れて初めてでございましたよ", "誰だって、あのような覚えはあるものじゃない。……だがの、あの後ですぐ、六波羅衆が天狗狩をやって、麓の河原に、たくさんな打首を梟けて、幾日も曝してあったが、その中には相貌も変って、慥とも知れぬほどにはなっていたが、この辺の山に住む炭焼の男や、猟師などの、見たような顔もあった。誰ともなく、あれは天狗ではない、源家の義朝様の旧臣どもじゃなどと沙汰する者もあったがの……。某許が僧正ヶ谷で出会ったというのは、いったい天狗か、残党か、何であったのじゃろな", "どうしてどうして、人間ではございませんよ" ], [ "第一、思うてもご覧じませ、源家の残党なら、何でてまえ如き取るにも足らぬ人間をつかまえて、こちらの鳥居わきの大木へなど引っ吊るしましょう。……ああいう魔性な事をして欣ぶのは、天狗たちのよくやる事でございますよ", "わしも、里の人々も、天狗の業と、信じてはいるが", "六波羅衆としますれば、真の天狗は打ち取れなかったとありましては、時めく太政入道殿のご威勢にかかわりますから、山樵や猟師などの、山男にひとしい土民の首を梟けて天狗じゃと触れたものでございましょう", "なるほどな。お許は、奥州人というが、案外な智者ではある。そのとおりにちがいあるまいて", "時に……神主さま", "なんじゃな", "このたびは少々、お願いの儀がござりますが、おきき下さいましょうか", "ほ。……わしへ頼みとは", "京へ参る道中で大勢の仲間の者が、ちと面倒な争い事を起しましてな、うるさくてかないません。半月ほど、ここに避けて、旁〻、ちと養生していたいと存じますが、どこか空いている一間をお貸しくださいますか" ], [ "お察しの通り、そろそろ退屈いたしました。けれど、人間稀には、退屈という事をしてみるのも、悪くありませんな。お山へ泊っていて、考えてみますと、常日頃、てまえどものような商人は、余りに退屈を忘れすぎておりましたよ。寝ても醒めても、賭け事ばかり考えましてな", "はははは。ここへ来ては、金があっても仕方がありませんからな", "怖くなりました。ぼつぼつ山からお暇を申さなければ", "怖いとは、何を思い出されたか", "今仰っしゃったように、余りに金の事や、俗気から離れますと、菩提心とやらに襲われまして、せっかく持前のあく気が、なくなり過ぎますんで。――それがなくなると、商人魂が弱まりますよ", "まあ、ごゆるりなさい。そのうちに、鞍馬の祭りもありますから", "そうそう、あれは幾日でしたっけな", "この月の二十日ですが", "ではもう明後日で", "一年に一度の人出で、近郷の衆はおろか、都からも、参詣人が夥しゅう見える", "では、それを見物して、お暇するといたしましょう" ], [ "何ですかじゃあないっ。おまえ達は、阿闍梨さまのお次に大人しく控えていて、ご用を承らなければいけないじゃないか", "阿闍梨さまのお部屋へ今、都のお客さまがお見えになって、わたし達がお次にいたら、うるさいからしばらく遠くへ行っておれと仰っしゃいました。それで、みんなして遊んでたんです", "遮那。貴さまはもう十六ではないか、稚子の中の年がしらなのに、何だそのだらしのない恰好は。襟元を直さんか", "はい", "阿闍梨さまに、ご内談があって退っておれと云われたら、お次から遠く隔てた廊へでも出て、控えておればよいのだ。遮那など年上のくせに、心得ぬはずはない。――お山の祭りはおまえ達のためにあるのではないぞ", "わかりました" ], [ "ア……?", "……おや?" ], [ "やっ?", "なんだっ" ], [ "小父さん", "おうい。――こっちへおいでなさい。この拝殿の階で、一休みしましょう", "吉次……。はやくお目にかかりたい。ほんとに、お母様に会わせてくれるだろうね", "きっと、吉次が、お会わせいたします", "それから奥州へ行こう。――おまえのいう通り、藤原秀衡とやらを頼って", "都を脱けて、武蔵国あたりまで行けば、もう安心ですが、そこまでがひと骨です。慌てちゃいけません。吉次は大人ですからね、任してお置きなさい", "……うん", "あ。素足でしたっけね。血が……。牛若さま、お痛くはありませんか", "痛くなどない。はやく行こう都まで", "お待ちなさいよ" ], [ "吉次", "はい", "いつ母上と会うのだい", "お待ちください。今その工夫をしているところですから", "はやくお目にかかりたい", "お察ししております", "それから、一日も早く、奥州へ下って行こう。こんな所にいても、むだな日を過すようなものだろ", "いえ" ], [ "決してむだな日は費やしておりません。まだまだ数日は、六波羅の詮索が厳しいことでしょう。躍起となって、あなた様を探している最中と思われます", "そうかい", "そうかいって――他人事みたいに仰っしゃって、吉次の耳や眼は、この壁の中にいても、ちゃんと、それが聞えます。眼に見える程、分っています。……ですから、もう少しご辛抱なすって下さい。ご窮屈でしょうが", "うん" ], [ "ほんとはね吉次、母上のおいでになるお館は、堀川のあたりと聞いていたから、そっと行ってみた", "えっ……一条様のお館をさがして", "人に訊いたらすぐ知れた。――けれど訪ねて行きはしない。遠くから……堀川の柳の木越しに、築土だの、屋根だのを見て帰っただけだよ", "……ふうむ", "この牛若が、お訪ねして行ったら、母上のお身がお困りになることは、わしだってよく知っているから", "……そうですか。……いや、それならまアよかったけれど" ], [ "牛若さま。ではもうそれで、母御様とお会いなされたような気がしたでしょう。もうお気持はすんだでしょ", "なぜ", "でもお住居を見れば", "すむものか!" ], [ "わしはあきらめて来たよ。おまえを苦しませても悪い。おまえはわしを山から誘い出すために、つい嘘を云ってしまったのだろう――どう考えても、今の場合では、わしと母上とはお目にかかれるわけもない。……また、それが母上のご不幸になることは知れきっている", "そ、それまで、牛若さまには、お考えになっておられましたか", "あたりまえだ" ], [ "自分の事より、この先の事より、いちばん考えるのは母上が、どうしたらお倖せになって行かれるかという事じゃないか。子として当りまえな考えじゃないか。……お会いしたい事も無性にお会いしたいけれど", "恐れ入りました" ], [ "分ったか、潮音", "ええ", "他言するなよ", "はい", "もし牛若さまを此家へお匿いしたと知れたら、おまえたち姉妹も同罪だからな", "誰にも、告げはしません", "姉にもよう云うておけ", "すぐ話して来ましょうか", "待て" ], [ "おれは今夜立つとする", "え。今夜のうちに", "町の気はいも観てきたが、だいぶ余燼は冷めたらしい。六波羅の侍自身が、牛若の失踪は、神隠しだと云っているそうだ。どこまでも天狗が、頭から脱けないらしい", "わたし達もよく耳にしました", "どこで", "諸処のお館で", "牛若さまのうわさをか", "ええ。あれが世にいう神隠しというものじゃろうと、平家の大将方も、お公卿方も", "わずか十六歳の牛若さま一人を、六波羅の威勢をもっても捕まらないとなると、これは估券にかかわるからな。――それに鞍馬の僧院でも、当面の役人たちでも、神隠しという事にしてしまえば、誰にも責任は来ないわけだし、すべてに、その方が無難でもあるからな", "あなたは、とんだ悪戯な神さまですね", "おれかい。――いやおれはお使い役の木っ葉天狗さ。ご本尊は奥州の平泉にいらっしゃる" ], [ "さっそくだが、おまえの衣裳を一揃え貸してくれ", "何になさるんですか", "牛若さまにお着せするのだ。――誰が見ても、女にしか見えないように、翠蛾とふたりして、牛若さまを化粧してうまく装ってくれないか。そのまえにおれはおれの身支度に取りかかるから", "今、姉さんを呼んで来ます" ], [ "吉次吉次", "なんですか" ], [ "暑いっ。――こんな着物はもう嫌だ。塗笠もうるさい。……ねえ吉次、脱いでもいいだろう", "脱いで何をお召になりますか", "そこらの宿場で、何なと、裾の短いすずしげな肌着一重調えてたも。それでいい。百姓の子の着るのでもいい", "そいつあいけません", "なぜさ!", "女が……", "わしは男だ", "あっ、彼方から旅人が来ましたぞ。変に思われると、すぐ密告されまする", "かまわない", "かまわない事はありません", "関わないッたら! そちはわしの云う事をきかないのかっ" ], [ "吉次。わしの脱いだ女の着ものは、持ってゆくのか。捨ててゆくのか", "そんな物は……" ], [ "吉次、吉次", "なんですか", "不用ならば、その衣服は、この御堂の床下の奥へ、まろめて突っこんでおくがよい", "へい" ], [ "ああ、やっと少し汗がおさまった。牛若さま、ひどい目に会わせましたな", "はははは", "笑い事じゃありませんぜ。恩人の吉次をそんなに困らせると、行末のご武運にも障りますよ", "怒ったのかい、吉次", "誰だって怒りますとも", "わしはね、そんな悪い気持でしたのじゃない。ちょっと、神隠しの真似してみたんだよ", "…………" ], [ "異母兄頼朝の母君は、名古屋のほとりとかいう、熱田の宮の大宮司、藤原季範が女にお在したとか聞いておる。――さすれば亡父義朝とも、源家の一族とも、ご縁は浅からぬお宮ではないか", "誰に聞きましたか。そんな事まで", "僧正ヶ谷の天狗どもに習うた", "ヘエ。天狗は何でも教えたんですなあ" ], [ "まだ見ぬ異母兄じゃが、そこの旗屋町とかには、異母兄頼朝が産湯の井もあるとのこと。異母兄は熱田で生れたとみゆる。――わしも由縁の深いそこへ行って、男になろうと思うのじゃ。吉次、これより熱田路へ参ろうよ", "え。男になろうとは", "元服するのじゃ。――十六、あやうく髪を剃ろされるところであったが、その髪を男立ちに揚げ、初冠ないただこうと思う", "いや。それは" ], [ "もすこし、時を待って遊ばしませ。これよりあなた様が頼って行く先のお方は、富強ご威勢、平相国にも劣らぬといってもよい奥州平泉の藤原秀衡様です。――その秀衡様を、烏帽子親と頼み参らせて、元服なされたがようござりましょう", "…………", "お嫌ですか", "…………", "元服の事ばかりでなく、何もかも、秀衡様へ縋るのが一番です。秀衡様のご庇護に依らねば、生きても行かれません。杖とも柱ともお縋りいたしまする。――という風に、あわれを見せかけると、人間というものは、ついほだされるものですからね", "いやだ" ], [ "秀衡を、烏帽子親にして、人となったら、後にわしが源家の一族の上に立っても、秀衡には頭が上がらないだろ。わしにつれて異母兄頼朝も迷惑なさろうし、源氏の侍たちの弱みにもなる。――だから嫌だ", "そんな事はありません", "あるよ" ], [ "吉次", "はい", "社家はどこであろ?", "さあ、どこでしょう", "元服いたすには、禰宜どのに頼まねばならぬが、社家へ申し入れて来い", "へ。――何とですか", "名もなき東国の地侍が小せがれでございますが、神前において、加冠お式をしてたもれと", "変に思いましょうが", "なぜ", "旅の者が、親どもも付き添わず、元服してくれなどと申し入れたら", "かまわぬ。孤児といえばよい。――それはまた、ほんとの事だから", "では、てまえが叔父という事にして、頼んでみましょう", "そのような云い構えは要らぬことだ。家来といえばよい" ], [ "父は東国の武士、わけがあって、名は申せません。孤児にひとしい者ゆえ、神垣にて元服する分には、仔細あるまじと思い寄って参りました。――なおこの熱田の宮の神さまは、日本武尊をお祀りしたものとも聞いていますので、日頃より崇い尊ぶ御神の御前にて、初冠ないたすこと、男冥加ぞとも思ったりして参りました", "では、しばらく" ], [ "い、いいえ", "……あるか。何ぞわしについて聞き覚えでも", "よそながら存じあげております。あなたと私とは、あかの他人ではございません", "む、む……" ], [ "弁えておいでたか", "知らないでどうしましょう。あなた様は、わたくしの亡父にはお舅御に当られるお方でしょう。異母兄頼朝の母御には、父にあたるお人でしょう", "おお――遮那どの。おん身が鞍馬から姿を晦ましたと聞いて以来、よそながら案じておったぞ", "どうしてお分りになりました", "社家へ見えた供の男の口うらが不審しいので、そっと物陰からお汝の容子を見たところ、似ておいでるのに驚かされた", "似ているとは、誰にですか", "頭殿に――お身の父義朝どのにな", "あっ……。そ、そうですか" ], [ "無念か", "いいえ。もう、もうこの頃では……それよりか、父に似た子と云われたのが、何だか、欣しくて", "これより何処へ身を寄せられるお考えじゃな", "奥州の藤原秀衡どのを頼って下る途中でござります", "そこまで行き着けば、後日の策も立とう。しかし途中は心に心をつけて", "はい。……ではこの賜物、戴いて参ります", "召してゆくがよい。そう人目立つほどの衣裳ではない" ], [ "む。よい若者振り。亡き頭殿にも見せたいのう。――が、加冠はしたが、名は何と称ばるるか", "そう。元服すれば、名も改めるのが慣いでした。――源氏の遠い先祖は、六孫王経基と聞いております。――それから義家、為義、義朝と、いう風に、よく源氏の代々のお方には、義の字が用いられていますから、わたくしは、義――経。――義経と名乗ろうと思います", "して呼び名は", "義朝の八男ですから、八郎と称ぶところですが、叔父に鎮西八郎為朝があります。その武名を紛らわしては済まない気がしますから――九郎、義経と", "九郎義経か", "はい", "よいお名じゃ。吉い日でもおざった。では、この辺りは平家の衆も多い事、東国までは、すこしも早く急がるるがよい", "ありがとうございました。――では" ], [ "九郎様。あなたは存外、何でもお心得ですから、おおかたご存知の事でしょうが、北は碓氷を境に、南は足柄山を境として、これから東が、坂東と申します。いわゆる、東八箇国に入ります", "ウム。ウム" ], [ "ど、どう致しまして。そう仰っしゃられては、こっちの不行届きは、どうお詫びしていいか分りません", "いや、礼は礼としていう、恩は恩として長く忘れまい。――けれど吉次", "はい", "そちは二度ばかり、人手をかりて、この源九郎を懲らそうとしたな。わしが余りそちの自由にならないし、そちも腹が立ってならないが、自分の手でするわけにゆかないので、宿場の賊の熊坂とかいう男をたのみ、わしの寝ごみを襲わせたり、また、山賊などを唆せて、わしを脅してみたりした", "あっ、もし……九郎様。もう仰っしゃって下さいますな。吉次は、慚愧いたしております。……熊坂長範などをけしかけたのはまったくてまえの悪戯でございますが、もう、あなた様には、どう頤で使われても、吉次は腹も立たなくなりました", "立てたら骨折り損になるからなあ", "お言葉どおりです", "が、吉次。平泉へ行き着いても、秀衡には、何もいわないでくれ。わしは早く、もう五、六年ほど一ぺんに大人になりたい。その間、ぽかんとしているつもりだから", "心得ました。秀衡様へも、館のご一族へも、吉次がよいように申し告げまする", "そのかわり、わしが大きくなったらば、わしの名を用いて、そちも大きな利得をするがいい。小慾はかかぬがよい", "吉次はずいぶん大慾のつもりでおりましたし、肯かない男を以て自分でも任じておりましたが、あなた様には、どうやら骨抜きにされたようです", "あ。相模の海が見える。……伊豆の島々も" ], [ "盛綱様へ、お告げしておこう。盛綱様はどこにおいでかしら", "また、河原へ降りて、鮠を釣っていらっしゃるかもしれない", "あ。そうだ。きっと" ], [ "ほんとか", "ほんとですもの" ], [ "何をなさる", "何をって。おまえのか", "きょうの市で、大金を出して求めた馬じゃ", "それは気の毒なことをした。これはわしのご主人の持馬だ", "何だと", "そちは誰から買った", "誰やら知らぬが、売りに来た若者が、市へ出したので買うたまでじゃ", "その若者は鬼藤次といいはせぬか", "名など知らぬが、あれ、あの彼方に見える筵掛の小屋の中で、市の商人や馬買いたちの仲間に交じって、博奕しておるわ", "さては" ], [ "おゆるし下さいっ。――もしっ。謝ります。盛綱様っ", "やかましい", "面目もございません。……つい、つい、出来心から", "やかましい" ], [ "お馬と代えたかねをこれへ残らず出せ", "かねはございません", "どうした", "みな、博奕して、負けてしまいました", "おのれっ" ], [ "よくも、洒あ洒あと。あるだけでも出せ", "もう、まったく、僅かもございません。何とか、取返しますから、どうかしばらくのご猶予を" ], [ "調馬は未だしもよ、朝夙く法華経二部を、腹のそこから声を出して誦んでみい。五臓六腑、一物もなくなってしまう", "いや、配所へご給仕に参りましてから、私ども兄弟も、はや十年の余、よい修行に相成りました", "十年の余にもなるかのう", "なります。父のいいつけで、初めて上がった頃は、私はまだ洟たれの童、兄の定綱さえ、まだ小冠者でござりました" ], [ "や。流人の主従が", "あれへ来た", "戻って来おった" ], [ "馬盗人よ", "主従、肚を合せて、馬の代を騙り取ったぞよ", "流人根性!", "配所の穀つぶし", "馬を返やせ", "その馬を渡せ" ], [ "盛綱、どうしたものだ", "はっ", "何か、間違い事ではないか", "はい", "なぜ、黙っておるか、そちは", "彼等の勘ちがいもありますなれど、すべてが間違いでもございませんので", "覚えがあるのか", "少々あります。実は、市の伯楽に払う馬代を、忘れ果てておりましたため、ああ申すのでござりましょう", "馬の代と?", "はい", "どの馬の代?", "面目もございません。恐れ入りまする" ], [ "騒ぐな、馬の代を払うてつかわせばよかろう", "払うてさえくれれば文句はない", "それに待っておれ", "おお、待っていよう" ], [ "しばらくの間、里方へ帰らせていただきまする", "……帰る?" ], [ "――誰方かと思いましたら、殿でございましたか。びっくり致しました", "書いておるね" ], [ "暑いからなあ。歩くにはたいへんだろう。年内にできればよい", "年内にはできます。雪が降ると、箱根その他の山々は、道も探れませんから、山のほうを今、先に書いております", "うむ……" ], [ "邦通。使いしてくれまいか", "何処へ参りますか", "亀の前が、里親の許へ帰りたいという。彼女を連れて、良橋太郎入道のやしきまで", "え。お帰りになりますと?", "ひとり帰すも酷い。送り届けてやってくれぬか", "それはようござりますが、何かと、お身まわりにも、ご不自由ではございませんか", "大した事はない", "なんぞ、争いでも遊ばしましたか。――所詮、女子は女子です。ご気色を直して、晩にまた、一酌なされませ。邦通がまた、猿楽でもお目にかけましょう", "猿楽は、今いたして来た。われながら愚かしき猿楽を" ], [ "兄者人。帰ろう", "まだ陽が高いのに", "でも、飽いた" ], [ "何という日だ。せめて猪の子でも出て来ねば", "まだ季節が早い" ], [ "弟", "ウム?", "きのうもそちは、殿のお文を持って、北条殿の奥向へ、お使いに行ったの", "行った", "よく参るのう、しげしげと", "おいいつけだ" ], [ "そちは、そのように、暢気者だから、文使いなどには、ちょうどよいのだ。この定綱へ、行けと仰っしゃった事はない", "兄者人。ひがんでいるのか", "ばかを申せ", "わしは暢気者かなあ", "憂いがないゆえ", "憂いたって仕方がない。――あれでいいのかしら? とはわしも時々考えるが", "そちでさえ、そう思うのか", "思わぬ事はない", "父上は、わしら兄弟を、とんだお方へご奉公につけてくれたものだ。畏れ多いが、時々、嘆息が出る", "源家に運がなく、平家の運がいいのだ。ぜひもない", "盛綱、わしらふたりの配所奉公も、はや十年の余だぞ。諦めきれるか。わしは諦めきれない。……一度、兄弟して、ご意見してみようではないか。あのお方の、本心をたたいてみようではないか", "意見って。何を", "前には、伊東祐親入道のむすめとあのような事件を起し、それには、さしもお懲り遊ばしたろうと思っていると、亀の前をいつか配所へお入れあった。――それもいい。ところがまたもやだ。何の科もない亀の前を、ちょっとのお怒りで、里方へ帰しておしまいになった上、この夏頃から、しばらく絶えていた北条殿の息女へ、しきりと文使いの取り遣り。……いったい何たるお行状だ", "それを申し上げるのか", "云うのが臣の道だろう", "わしはいやだ", "なぜ", "女のことなど、云えぬ。……誰しものことだもの", "愚かなやつ。本末を聞き誤るな。何もそうしたお行蹟の端のみお責めするのではない。たとえ、いかに女人には甘かろうと、ご腹中の大事さえお忘れなければよいが、それが、わしの観るところでは", "覚束ないというのか", "案じられるのじゃ", "そうでもあるまい" ], [ "怠惰なご性質かと思えば、朝夕のご規律、武道文学などには、人いちばいご精進もなさる。涙もない冷やかなお生れ性かと見れば、時には優しい、むしろ情痴なほど、溺れ遊ばす質かとも疑われる。――伊東入道の女八重姫に恋なされたかと思えば、亀の前に移り、北条殿の深窓へも文を通わされる。……何たる痴者。……傍目にすら、舌打ちが出る。……けれどまた、そうした毎日にも、普門品の読誦は欠かし給わず、日に百遍の念仏は怠らず、月々三島明神の参拝もお忘れなどあられた例はない", "兄者人、行こうか" ], [ "弟、何を射る?", "…………" ], [ "墻の内へ無断で這入りこんでおきながら、何だという挨拶があるかっ", "此屋には、墻があったのか。裏山から降りて来たので知らなんだ", "なお、許せぬ。小冠者、ひとの庭へ矢を射込んで、詫びもせいで、立去る気か", "悪かった", "――では済まん", "然らば、どうせいと云うのか", "両手をついて謝れ" ], [ "もしやご僧は、文覚殿ではありませんか", "文覚はわしだが", "おお、ではやはり", "お汝等はどこの者か", "失礼しました。――盛綱、お詫びせい。高尾の上人でいらせられる" ], [ "さては、お汝等は、蛭ヶ小島にいるとかいう、頼朝の召使だの", "お察しの通りの者です。佐々木源三が子、太郎定綱、こちらは三郎盛綱というがさつ者でござる", "端近だ、お上がりあれ" ], [ "されば、配所のお住居も、いつか十七年とおなり遊ばし、至ってお健やかに、為人もまた尋常でいらっしゃいます", "お幾歳になったか", "二十九歳におなりです", "もう、三十か" ], [ "早いものだのう。然るにても、平家の衆は、その間の順調と、繁栄に狎れて、義朝の子の年を、数えてもおるまい。一人として、伊豆に佐殿のあることすら、今は杞憂に抱く者がなかろう。源家の輩にとっては、寔に、勿怪の幸いともいうべきだ", "…………", "そうではないか", "はい", "お汝等、よい若人どもも、まさか草深い配所に、芋粟を喰ろうて、生涯流人の給仕をするために、佐殿に付いておるわけでもあるまいが", "…………" ], [ "――いや、日常の行いなどは、いずれでもいいが、佐殿も、この片田舎に、十七年となっては、眼界までが、伊豆半国にとどまり世を大処から広く見る眼を、お忘れありはしまいかな。憂えられる。嘆かれる。――まずよくよく通じておかねばならぬのは都の事情、ひいて諸国の人心だが、それらの事は誰より聞き、いかなる心懸けで備えておらるるか", "種々と、有難うございます。立帰りましたれば、よく申し伝えまする。……日も暮れましたゆえ、ではこれにてお暇を" ], [ "――しかし、殿へのおみやげばなしはあるな。殿にも、一度、文覚を訪ねてみようかなどと仰っしゃっておられたから", "兄者人は、また参るというような事を、帰りがけに云われて来たが、殿をご案内するつもりか", "お会わせしてもよい上人とわしは思う。近頃での傑僧ではあるまいか", "盛綱は、感服せぬ", "そちは初めから感情であの上人を視ておるからだ", "それもある" ], [ "けれど、その嫌いを除いても、やはり嫌いだ。あれがわれわれ同様に、太刀を佩いて、武人なら武人と、身を明らかにしているならよいが、僧侶のくせに、僧らしくもない", "そこがいいのだ。僧らしくしている今の僧に、よい上人があるかしら", "ある" ], [ "都の黒谷には、法然上人などがいます。近頃、法然房の念仏の声は、しんしんと田舎にまで聞えてきた", "念仏、易行道、他力本願、そんな説法にそちは感心しておるのか。そちらしくもない", "いや、わし達の行く道とは、まるで西と東ほどちがうが、広い衆生にとって、世の一方に、ああいう人が出てくれるのは、何か、他人事ながら有難い。――文覚のごときは、なくもがなだ。われわれ武士でさえ、好んで修羅を求めているのじゃない。血なまぐさい世は、避けられるだけ避けたい。そこを超えなければ、次の世に出られない時だけ乗り超えるのが武士の修羅道だ。それを、あの僧の如きは、持って生れた痼疾のように、時を選ばず、所をきらわず、猛々しいことのみ吠えておる。――覇気がありすぎて好きになれぬ", "――が、きょうの言葉は、源氏びいきの余りに、ああ気を吐かれたものだろう", "わし達、武人にとっては、あんな贔屓は、かえって有難迷惑、また、足手纏いというものだ。殿をお会わせするなどという事は、盛綱は、止めたがよいと存ずる。――口に出して、平家を罵るような狂僧の所へ、佐殿がひそかに行ったなどと聞えては、殿のお為にもよろしくない" ], [ "目代の山木様なら、よろしいご縁組とぞんじますが、もうそんなにまで、お進みになっているお縁談なのでございますか", "京都から帰る途中、山木殿と一夜、旅舎で落合った折、何かのはなしから、政子のうわさが出て、山木判官には、前々から密かに政子を妻にと望んでいたという述懐だ。――然らば、妻につかわしてもよいと、即座に、取極めたはなしなのだ", "……まあ。でははっきりと、お約束なされましたので", "なにをいう。帰るとすぐ、そちの耳へも入れてある筈", "けれどもそんな急のおはなしとは、思いも寄りませんでしたから", "では、どんな事と、思うていたのか", "折を見て、そっと、政子の胸を聞いておけというような……仰せつけかと存じておりました", "好きか、嫌いかなどと、彼女の胸を、いちいち訊いていたひには、そのまに、妙齢も過ぎてしまおう。そちは義理の仲とて無理もないが、わしが少し甘えさせ過ぎた嫌いがある。こんどは訊くにも及ばん。父の眼で取極めた聟だと、云い渡せ", "でも、女子の一生は", "だから急ぐのだ", "でも……。人なみ優れて、先の先まで、考えている娘でございますから、無下に好まぬ先へ嫁がせても", "嫁けば、後から好きになるものだ。――どこへ輿入れしようと、親の許にいるようなわけにはゆかぬ", "あなた様から、仰っしゃっていただきとうぞんじます。わたくしから申し告げても、もしこんどの縁談も気がすすまず、種々と、泣いてなど、処女心を申されると、女は女の気もちに組して強いて嫁けとも云われなくなります", "なんだ……?" ], [ "そういうお前からして、この縁組には気のすすまぬ容子ではないか", "そんな事はございません", "はての? ……。何か、わしの留守中に、政子の行状に、変ったふしでもあるのではないか", "いいえ", "では、なぜ不服か", "決して、不服などと", "真っ先に、そちなどが、歓んでよいはずなのに……その当惑そうな顔いろは何事だ。……いや、何か、わしに秘している事があるな", "滅相もない", "いいや、そう見える。義理の子ゆえと庇いだてなどする事は、かえって彼女の為にもよくないぞ。良人のわしへも、それが貞節などと考えたら大間違いだ。……よしよし、お前にはもう訊ねん。政子の兄を呼べ。宗時をこれへ呼べ" ], [ "そちに訊くが――", "はい", "わしの留守中に、政子に何ぞ変ったことはなかったか", "変った事と云いますと……?", "たとえばだな" ], [ "――妙齢だからな、もはや彼女も", "あ。妹の行状などで", "そうだ", "――義母上、その事に就いて、何かあなた様からも、おはなし申し上げたのですか" ], [ "実はな……", "は", "今も牧と相談していたところだが、山木判官兼隆から、このたびの下向中、政子を妻にと望まれてな――約束を交わしたわけだが", "そんなおはなしですな", "聞いたか", "義母上からちょっと", "それ、その通り、十分に弁えおりながら、よくも聞かぬなどと、曖昧な答えのみしておる", "ご無理はありません。義母上にも、政子へは、人知れぬお気遣いがございますから", "そちなら、何なりと、答えられよう。――どうだな、わしの取極めた縁組は", "ちと、早まりましたな", "早まったとは", "妹は、嫌だと申すにちがいありません。――父上のお眼には、どう見えるか知れませんが、そういう点は、政子はふつうの女子と変っているほうです。はっきり云います。私達へは", "ふウむ", "山木の目代兼隆などは、妹の気に添わぬ男と極まっておりましょう。酒くせの悪いのは通り者です。中央へは受けがよいそうですが、目代を鼻にかけて、偉ぶる構え方は、われわれでも、鼻もちがなりません。郷民の評判とても、勿論よくないし", "そう人間の瑕ばかり数え立てたら、誰にせよ、限りがない", "父上とは、ご気性が合いましょう。才人には才人ですから", "では、そちもこの縁組には、同意でないのか", "私より父上よりも、肝腎な当人が、嫁ぐ心になりますまい", "どうして政子の胸を、そちはそのように云い断れるのか", "では――義母上からも云い難いでしょうし、政子に云わせるのも酷い気がしますから、私から、何もかも申し上げて、同時に、私の意見も聞いていただきましょう。――実はその" ], [ "宗時。……口を噤んだまま、何を、気に入らぬ顔しておるか", "でも、今のおことばは、もはや私が、何を申す余地もありませんから", "然らば、わしが取結んだ縁談を、そちまでも、不承知というか", "私が嫁ぐわけではありませんから、私に異存はあろう筈もございません。けれど、政子は、おうけ致しますまい", "どうして?", "政子には、政子が秘かに想うている人がありますゆえ――" ], [ "――それは、今でこそ、佗しく暮しておられますが、さすがに私たちが見ても、どこか違っている源家の嫡流の佐殿です。――あの頼朝殿へ、妹は、嫁ぎたがっております", "…………" ], [ "……お姉君だけ?", "そう。……そう聞えたが", "お叱りではないかしら", "どうであろう" ], [ "父上も、お山か", "ええ、長いこと、庭の彼方、此方を、おひとりで歩いていらっしゃいましたが、そのうちに、お山の大日堂の縁に、お休みになっているふうでした", "そうか。わしが行ってみる。義母上も、其女たちも案じないがよい" ], [ "政子か。ここへかけるがよい。……何、べつにこれまで呼ぶ程の用でもないが、誰もおらぬ所のほうが、其女もよかろうと思うてな", "何か、わたくしへ、お訊ね事でも……?", "嫁入りのことだが", "……はい" ], [ "山木兼隆を知っておろうが。目代の山木判官を", "ぞんじ上げておりまする", "ひとかどの男だ。六波羅のお覚えも至極よい。従って将来にも富む人物と見こんで、其女をつかわす事にした。異存はなかろうな", "…………", "なかろうな" ], [ "返辞は……どうじゃな……。父の眼をもって選ぶむすめの良人、末悪しかれと祈るわけはない。……嫌ではあるまいな", "…………", "異存があるか", "……ありません" ], [ "それで、わしも、ほっといたした。嫁いでくれるか", "仰せつけならば", "よう、得心してくれた。そなたも妙齢。いや後の二妹を嫁入らせるにも、先ず、そなたから先に定まらねばなるまいし", "その事も、悩んでおりました。……ついては、おねがいがございます", "むむ。何か" ], [ "お後から参りまする", "風邪ひくな。陽が陰ると、寒うなるぞ", "はい", "来ぬか", "お詣りしてもどります" ], [ "お許は、お許は一体どうするつもりだ。山木判官へ嫁ぐ気か。ええ、政子っ、おいっ……", "お静かになさいませ" ], [ "ふうム、ではお許は、佐殿を欺いたのだな。遊女のように恋を弄んで来たのか。それで心が傷まぬのか", "ちと、お口が過ぎましょう。いかにお兄上なればとて", "なにっ", "政子をそんな女子と思し召してか。……口惜しゅうございます", "口惜しいのは、この兄だ。お許は、父の立場と云ったが、宗時の立場は何となるか。――いや、自分の妹だ、わしなど愚痴すら云えまい。だが、そなたと佐殿との仲を庇って、行末の大事まで、秘かに語らい合うて来た仲間の殿輩はどうなるか", "政子も考えておりまする", "どう? ……どう考えてか", "落着いてください", "ばか、落着いている", "そんな癇ばしったお声に、わたくしの考えている事は申されません", "当りまえ。これが癇ばしらずにいられるか。自分の妹とはいえ、次第に依っては、お許を首にしても、誓いを交わした殿輩に対して、詫びをする覚悟でおるのだ。すこしは、声も尖ろう、眼いろも猛々しゅうなるは、むしろ兄の愛情というものだ", "……ホ、ホ、ホ" ], [ "お兄様。あなた方の遊ばしているお企てを見ていると、お心だけは雄々しくても、為さる事は、稚い者の火悪戯のようです。すぐにそう事を壊すことばかり勇ましがっていらっしゃる", "賢げなこと申すな", "いいえ、貴方ばかりではありません。ご一味の殿輩は、みな若人なので、若気は常といいながら、それにしても余りに", "おのれ、ではこの兄や、友達の殿輩は、みな乳くさいと云うのか", "そう思います", "云ったな!", "その通り、ご短気ではありませんか。それでは、政子がおはなししても、むだ事でしょう。――もう一夜、わたくしを、佐殿に会わせて下さい。あのお方に、何もかも、お告げしておきます。お兄上様始め、他のご一味は、佐殿のお口からお聞き下さいませ。それまでは、たとえご兄妹でも、私の心の底は、誰にも云いません。誰にも明かされません" ], [ "はてな、何処へ?", "旅へ立つらしい扮装だが" ], [ "起つさ、起たないでどうするか。自然の循環は廻って来ておる。自分等の細腕をながめたらやれまいが、天の運行を熟視すれば、時は近いということがわかる筈だ。天文を説く予言者の言と同一に思ってはいけない。わしは地上の事を指しているのだ。都の有様を見ておるか。地方の豪族、庶民の声なき声を、よく耳をすまして聞いておるか。やるがいい、各〻は若い", "…………" ], [ "こんど父の義明に従いて上洛した折、ちょうど大庭景親も、上洛中で、あちらで幾度か会い申した――その景親が、そっと父へ告げた事であるが、ある折、景親が東国の侍奉行上総介忠清のところへ参ると、忠清の手許へ、駿河の長田入道から書状が上っていた由です。その書面には、近年、北条時政や、比企掃部介などの党が、ようやく成人した頼朝を立てて、謀叛の気運を醸成しているやに見うけられる、六波羅におかれても、ご油断はあるべからず――といったような長文の進言であったそうな", "ほ。……長田が" ], [ "よい雨、おめでたい", "輿入れの雨は吉と申す" ], [ "お召ですか", "むむ" ], [ "韮山の西之窪へ百、山之木郷の南の丘の林へ八十、北の木無山の裏あたりへも五十ほど、日が暮れたら、早速に兵をかくして置け。――それも、ぽつぽつと、人目立たぬように", "……?", "分らぬのか", "……分りましたが", "武器は、一纏めに、荷駄として、蔽を着せ、要所へ先へ送っておく。そして人間のみを後から配置すればよかろう", "では、伏勢として", "武門の嫁入りだ。どんな変がないとも限らぬ。あっては聟殿に申しわけあるまいが。……父親の心添えだ。総領のそちは、婚儀の席に連なるより、陰にあって、不慮の出来事に備えておれ" ], [ "女子は、嫁してゆく良人に拠って、初めて氏も族もさだまるものぞ。良人が、藤原氏なれば、そちは藤原家の夫人たれよ。良人が菅家なれば、そなたは菅家の内室であるぞ", "……はい" ], [ "例を申したのじゃ。何も難しい意味ではない。そなたが嫁ぐ山木判官兼隆は、幸いにも、平氏の同族。――末長う、貞節に侍けよ", "…………" ], [ "――通る、通る", "あの松明の列", "ご息女の御輿だ……" ], [ "どちらにおいでなされますか", "ここだ、ここだ。杉の木の下におる", "オ……。ただ今、政子様のお輿と、供の列が、山之木郷へ着きました", "着いたか", "すぐ目代邸へお入り遊ばしたように見られます", "よし。――おまえ達は、以前の所へ戻って、なおもじっと、物見をしておれ。そして山木の邸のほうに、何か変った様子が見えたら知らせて来い", "はっ" ], [ "待てっ", "だっ、だれだッ" ], [ "そうです", "これへご案内しろ" ], [ "宗時殿か", "おう、揃われたな", "こちらはかねての手筈どおり、かく打揃うたが、宗時殿には、婚儀の席を外して、物々しい人数まで率き連れ、何でかような所へ伏せておらるるのか。……先刻、使いをうけて驚いたが、訊き合せている遑もないし、やむなく道を迂回って会いに来た" ], [ "なにッ", "失火だと" ], [ "火は、大勢して、消しとめています。大事には立至りません。不審なご様子、邸外にお出し申すわけには参りませぬ", "慮外であろう", "何であろうと", "お離し……", "いや。お戻りください" ], [ "北条家で隠したに違いない", "時政の奸計だ", "いや、父子狎れ合いの仕事と見ゆる" ], [ "政子どのの首は、いつご持参あるのか", "親として知らぬはずはあるまいが", "それで、北条家の御館といわれるのか、武門の親としてすむのか", "大たわけ殿。まだ、老いぼれる年でもあるまいが" ], [ "邦通、絵図はまだ出来上がらないのか。――雲雀にばかりかまっておるな", "そんな事はありませんが" ], [ "あの通り、やってはおりまする", "すこし急げ", "はい。……急にご入用で", "急ではないが", "まだ一、両年はよいでしょう", "いつ要るとも限らぬ", "去年の暮――例の政子様の事件から、山木家のまわりには、常に神経の尖った眼が見張り歩いているので、肝腎なあの附近が、今なお手がついておりません", "もうよかろう……。だいぶ、余燼も冷めたらしい", "――とは思いますが", "いちど探って来い", "いや、止しましょう。この際、山木家の附近の絵図など写し取りに行って捕まったら、せっかく下火になったものを、再燃させるようなものです", "それもそうだな", "ご退屈でしょう" ], [ "盛長や定綱や、家人どもへ、無断で出ることもなるまい。と云うて告げれば、彼等がまた面倒に申すであろうし……", "お召使の家人たちへ、何のご遠慮がいりましょう。方々の難しゅう申すのは、途中の変を案じるからの事で、その儀なれば、心配はありません" ], [ "姫さま", "はい", "余り先の先までは、考え詰めぬがおよろしゅうござりますぞ", "何も考えておりません", "おつつみなされても、この頃のお窶れよう、尼も胸が傷うなりまする" ], [ "――お師さま。わたくしの身の事は、どうか、ご心配しないで下さいまし。自分にも、固く思うところがあってした事ですから", "きついご気性のう" ], [ "女子ほど、弱いものはありませぬ。弓矢を取る男子ですら、今の世に生きて、敵の中に立ってゆくのは、生やさしいものではないに、女子の身に、怖ろしい敵を作られ、身を隠さねば、お生命も危ぶまれるような事になって――どうして、案じもせず貴女を見ておられましょうぞ", "だいじょうぶです", "どうして大丈夫ですか", "兄の宗時が、よそながら護っていてくれます。兄の友達どもも、今ですから申しますが、私を庇うてくれて、この後とも、兄と力を協せてくれる約束ですから", "相手は誰と思いますか" ], [ "六波羅の目代でござりますぞ。それに弓をひいたら、天下を敵としなければなりません", "そうです", "……そうですとな?" ], [ "登れますか、姫さま", "ええ。これくらいな道" ], [ "お支度はできましたか。毎日そればかりを待ち暮しておりまする。いつ二人の婚儀を挙げて下さいますのか", "……もう少し先に", "いつのお言葉も" ], [ "もうあれ以来、半年もこえているのに、まだいろいろなご準備ができないのですか", "婚儀には何の支度もいらぬが、それを挙げるには、同時に、大きな覚悟が要る", "分りきっている事です。それはこれから先に持つ覚悟ではなく、始めからの事ではありませんでしたか。……わたくしと、貴方とが、結ばれる始めからの", "元よりわしとても、その肚はすえている", "それを、今となってまで、これ以上、何を惧れ憚っていらっしゃいますか。あれもこれもと、気ばかり遣うていたら、起つ日は参りますまい。――一念はきっと通るという事を、わたくしは去年の暮、山之木郷から逃げのびた時、身をもって悟りました。そしてここまで事は進んで来ました。後は、貴方のご決心ひとつです。――それとも、何かまだお迷いになっていらっしゃるのでございますか", "迷いはないが、機を計らねばならぬ。生涯のわかれ目――二人の恋とだけは考えおらぬ。――それは天下の大事、男の胸にあることだ", "でも……機はもう熟しているではございませぬか。父の時政も、初めは、わたくし達の大望には、所詮、与してくれない人と諦めて父へも叛く気でおりましたが、今日となってみれば、その父こそ、誰よりも二人を理解してくれた大きな力でありました。――父は世間へ怒って見せながら、裏では、わたくしの身を、庇ってくれておりまする。山木家へ輿入れの夜から今日まで、こういうふうに、事の運んで来たのも、よく考えると、わたくしの勇気というより、何だか、父の目企んでいた通りの道を、父に庇われながら歩いて来たような心地のするくらいです。……ですから、貴方のお心さえ定まれば、父もお味方として、いつでも起つにちがいありませぬ", "それは、宗時からも聞いた。……しかし、わしは伊豆一国だけを見ておるのではない", "…………", "女子には見えない。時政にも見え限れまい。この広い天下のうごきを見極めずして頼朝は起てぬ。……お汝たちは、何というても伊豆そだちよ、まだ眼が狭いというものじゃ" ], [ "こちらの家人でおわすか", "そうです。――合力なれば厨のほうへおまわりなさい", "いや、合力ではない", "然らば、何者か" ], [ "用向きも知れぬ者を、お取次するわけにはゆかぬ。ご姓名を承ろう", "怪しい者ではない。ともあれ佐殿にお目にかかった上で", "馴々しげに云わるるが、近国の衆とも見えず、まして山伏すがたなどして、これへ来らるる以上、われら家人として、一応疑いを抱くのは当り前でござる。何とお強いあろうとも、生国姓名を明かさねば、お取次は相成らん", "お汝は誰か", "佐々木源三が子、三郎盛綱でござる", "そうか。源三秀義が子か。かねて聞き及んではいたが、佐殿の身内には、なかなかよい若者がおるとは嘘ではなかった。――然らば、申してもさしつかえはない。儂は、新宮十郎行家といい、佐殿には、叔父にあたる者だ。都から訪ねて来たと通じてくれい" ], [ "そうだ。新宮十郎行家とは、近ごろ改めた名、以前の陸奥十郎義盛でなくてはわからぬ筈だった。その叔父の十郎じゃよ", "おお、あなたが", "火急、お目にかかりたい儀があって、遥々、かような姿で下って参った。上がってもよいか" ], [ "極く内密におはなししたいが、お召使の出入りなきよう、しばらく人を遠ざけていただけまいか", "お易いことです" ], [ "宮のお使いとは、何事かわかりませんが、ご赦免と共にあれば、凡事ではありますまい。時節到来と覚えます。何で小さな感情などに囚われている事があるものですか", "では頼朝が、突然、北条どのを館に訪ねて行っても、不快はあるまいか", "何の" ], [ "私が先に戻って、父時政へ、この由をはなしておきます。宮のご密使を阻む理由は父にもありますまい", "しかし、もしご令旨を拝しても、時政の考えに、異存ある時は、六波羅に通じられる惧れはないかな。叔父の行家が、山伏に身を変じて、密かというて下って来たことから考えても、ご令旨の洩れてならぬものである事は、ほぼ察しられるが", "…………" ], [ "大義親を滅すです。わたくし達の為そうとする挙は、上は皇室の御ために、下は万民のためにと――誓って大義を的にしておることではありませんか", "元よりだ", "……ならば、ご安心ください。宗時には決する覚悟が持てます。私におまかせおき下さい" ], [ "まず澄憲ほどな名僧は近代にあるまい", "遉ではある" ], [ "なんだ? 慌ただしゅう", "父上。……ここにおる資盛が、当然うけ継ぐはずの越前の所領が、兄重盛が死んで間もないのに、何のお沙汰もなく、没収と、仰せ出されました。お聞き及びでございますか", "何、重盛の所領を", "嘘かと思ったくらいですが、糺してみたところ、誤りのない事なのです", "……そうか" ], [ "お出ましであるぞ", "お車の用意" ], [ "新宮の山伏が、祈祷に参じたと仰っしゃってくれれば分るが", "ここは、入口ではありません。ご当家にだって、表門はちゃんとある。あちらへ行って、訪うたがよい", "いや、厩門を入って、南の空地に向いている小門を叩けと仰っしゃった。その門はここであろう", "誰が仰っしゃった?", "仲綱殿が、お手紙の中に仰っしゃった", "あ。では新宮から、わざわざお招きした山伏どのか。……では大殿のご病気のお加持にでも", "左様でござる" ], [ "西国は歩きませんが、都から東北はみちのくの近くに至るまで、ほとんど隈なく遍歴しました。伊豆をこえて、亡き頭殿の遺子――この行家には甥にあたる頼朝が成人ぶりも見届けました。宮のご密旨もそっと伝え、同所の北条時政とも語らいました。ほぼ彼の地方の下固めはできておるものと見てよかろうと存ずる。――その他、坂東、木曾、北陸の諸国にも、事あらばと待つ者が、どれほど、唖を装っているか知れません。……ただその連絡がないだけです。また、頼朝をのぞいては、敢然とひとり真っ先に起って、旗を挙げるほどの勇気と力には欠けているだけのものです", "その人々は", "申しきれないほどの数です。後で自分の書いた物でお示し申そう。なお、歩き洩れた地方もあるなれど、昨年来、浄海入道の暴状は日に募り、いよいよ地方の武家どもに、平氏討伐の念を固めさせて来たので、機は今ぞと、立ち帰って来た次第です。頼政殿、もうこれ以上待つものは何もありません。後は、もういちどそれがしが伊豆へ打合せに下ると同時に、あなたが起つまでの事です。――時にあなたのお心構えももうできておりましょうな" ], [ "――急ではあるが、今日立って、お許はまた、伊豆山の走り湯権現に、しばらくの間、身を潜めていやれ。住居は、法音比丘尼の室がよかろうが、身の警護は、きのう使いに書面をもたせ、すべて阿闍梨覚淵どのに、おたのみ申してある。……よいか", "はい" ], [ "女子は足手まとい、いずれはそうと、先頃、新宮十郎行家様がお立ち寄りの時から、おはなしを洩れ伺って、あらかじめ身仕舞はいたしておりました。わたくしの事は、お案じくだされますな", "いや、そうか" ], [ "お許が、あちらへ参ったら、覚淵御房にお会いして、伊豆、箱根、三島の三社へ、頼朝の代りに、素懐の大願成就の願文を捧げていただくように、お願いしておいて欲しい。――なおまた、八の吉字に因んで、米八石、絹八匹、檀紙八束、薬八袋、白布八反、漆八桶、綿八梱、砂金八両。――そう八種の物を、それぞれへ頼朝の名を以て寄進の事を、お計らいを仰いでおくように", "かしこまりました", "頼んだぞ", "はい" ], [ "そちは、縫物までするか。はてさて、器用な男ではある", "針を持つ業も、武者の心得のひとつでございます。陣中に洗濯物をしたり針を持つ女の群れをつれている場合はようございましょうが、それもいない時は、鎧の袖の綻びや、何かの不自由をどう致しましょう", "なるほど。さては其方の舞や音曲のたしなみも、陣中の備えか", "役に立たない物といっては、どんな時でも何一つないかと存じます。ですから、わたくしの如き無能でも、当所にお養い下さるものと存じております", "いかにも。……時にもう数年前からの絵図面は、出来上がっているだろうな", "とうに出来ておりまする。――が、まだあれを持てと、お声のないうちは、あれの要る時節が参らぬものと、てまえの筐底にふかくしまい込んでおきました", "見せてくれい" ], [ "至急、もう一面、図を写してもらいたいが", "これと同じものを", "いや、これにないものだ。それは山木判官兼隆の邸の内部。明細にとは望まぬが", "畏まりました。――しかし、ずいぶん難しいことでございますな", "生命がけの仕事であるの", "元よりです。けれど幸い、山木家の郎党にも、兼隆の一族にも、てまえは少しも顔を知られておりません。他国者で、身分のないのが僥倖です。さっそく、取りかかりましょう" ], [ "この月、十七日こそ、何のお障りなき吉日と考えられまする", "十七日" ], [ "郷の家に用事ができた", "叔父貴から手紙が来た", "三島まで買いものに行く" ], [ "そういえば、どうしたものであろう", "見えぬのか。佐々木兄弟は", "来ておらぬが……", "はや時刻。朝討ちの機は束の間、やがて陽も高くなろうに" ], [ "ままよ", "睡くなった", "その間に、寝ろと御意か" ], [ "あれへ集まっただけの人数を以て、ともかく、決然とやりますかな。到着の人員は八十五騎という。……たんだ八十五騎じゃが", "元より最初から烏合の数は望まぬところ。一人だに、一念神仏に通じれば、世をも動かそう。鉄石の心をもつ、武士の八十余騎もおれば、何事か貫けぬことやあろう", "それと、朝がけを取止めたからには、当然、夜討となるが、こよいは三島明神の祭、明十八日は、観世音の潔斎日で、あなたに取って、殺生は好まれますまい。……とすると、十九日にもなるが、そう延引しては、ついに事の洩れる心配もあるが" ], [ "狼藉者が", "夜討っ、夜討っ" ], [ "討った。討った", "信遠を討ち取ったっ" ], [ "新平太", "はい", "まだ火の手は見えぬか", "見えません", "よく見い、月光で分らぬのではないか", "いいえ、何の気も" ], [ "まだ火の手の見えぬは、味方の苦戦とみえる。時移しては、大事は去る。ここはよい、わしの身などに護りはいらぬ。そちたちも駈けつけて加勢せよ。――この長刀に、山木兼隆の血を塗って来い", "はっ" ], [ "水が溜って参りました。お坐りになっている楯が、舟のように浸っております。もっと奥へお潜みなされませ", "高綱か……", "はい", "まだ眠らずにいたのか", "水に浸されて眼がさめました", "ほかの者どもは", "ずっと奥に、臥しまろんで、前後も知らずよく眠っているようです", "――ならば、ここにいよう。わしが参って、眼ざめるといけない。みな疲れたろう。わしはゆうべ快く眠った。こん夜はそう眠とうない。ここでよい。ここでよい" ], [ "霽れたぞ", "起きろ" ], [ "兵糧を解け", "馬にも草を飼え" ], [ "あれに、敵が見える", "叛軍が、山へ攀じおる" ], [ "いや、大庭どのばかりか、そういう苦衷は、渋谷庄司重国どの辺りでも、同じ思いを抱いておられよう。敵方にいる佐々木兄弟四人の親、佐々木源三秀義と、重国どのとは、年来の親密、今では、親戚のあいだがら。しかも身は平家の重恩をうけているので、雄々しくも、私情をすてて、老躯をここへ運んで来ておられる", "それが、当りまえであるに、敵の北条時政のごときは、祖先も平家から出て、代々平家のご恩にあずかりながら、年がいもなく、血気な若者の火いたずらに乗せられたか、それとも、彼が唆したか知らぬが、叛軍の指揮に当っているそうだが、気の知れない馬鹿者ではある", "七日ばかり存分に暴れまわったから、もう彼等の鬱憤もはれたろう。きょう明日のうちには、この辺の谷間を墓場として、時政も頼朝も、またそれに躍らせられた不運な輩も、みな土中の白骨と、急いで変ってゆくことだろう。――何しても、人騒がせな事をやり出したものよ" ], [ "伊東の入道が着いた", "備えは成った", "いで、一揉みに" ], [ "やっ。あの火の手は?", "大庭どのの館の辺りではないか", "そうだ。大庭どののやしきが焼けている" ], [ "来たっ", "襲せおったぞっ" ], [ "ちいッ", "射止めたっ", "矢をっ。矢を運べ" ], [ "面倒。従いて来い", "あっ、しばし" ], [ "乱軍です。暗さも暗し", "眺めておる場合か", "でも、大事のお身に", "十四の年も死ななかった。二十年来死ななかった。死なば天命、ここにいても死のう。――聞け、あの谺を。味方の一兵は敵の十人にも当っているのだ。――行こうっ。南無八幡大菩薩、頼朝に事を成し遂げさせ給うか、また、ここに生命を召し給うか。今、この谷間へ抛つ身を以て、いずれとも、天意をお示しあれ" ], [ "誰だっ?", "後で。後でいいます", "敵か", "敵ではありません", "味方か", "お味方でもありません", "では。……何者だ", "迷っている人間です。――たった今までは、大庭三郎景親様の家人でしたが", "あっ、飯田五郎か", "そうです", "五郎か", "……そうです" ], [ "登れ", "登れっ" ], [ "うぬっ", "おおうっ", "かッ" ], [ "逃がすな", "あれこそ頼朝" ], [ "さて、この大勢では、どこへ隠れ忍ぶにも、すぐ敵の目に見出される惧れがある。これまで、お側を離れずに、尾き従うて参られた各〻のご忠節は、涙ぐましゅう存ずるが、これでお別れしたほうが、かえって殿の御為であるまいか", "…………" ], [ "あの峰だ", "いや、渓間へ駈けた" ], [ "政子さま。それにおいでなされましたか", "誰じゃ", "牧場の於萱でございます", "萱か。……待っていました。何ぞ変った事でも聞きましたか", "はい。ようやくのことで、ご先途がわかりました" ], [ "父は? ……どうしておりましょうか", "時政殿には、首尾よう舟を手に入れられて、海路を安房へと、お渡りになりました", "安房へ" ], [ "――また、佐殿におかせられましては、明二十八日の未明を期し、一舟後から同じ安房の平北の磯をさして、ご渡海あるはずでござりまする。……が、これは極秘、ゆめ、人にお気どられ遊ばしますなよ", "……そうか" ], [ "萱。……ここは何処", "湯河原の北山でございまする。この下が、吉浜、鍛冶屋郷", "では、もう少し" ], [ "政子様。もう行けませぬ。……この先は断り立てたような崖ですから", "そこの磯は", "真鶴です。土肥郷の真鶴でございます", "…………" ], [ "見えぬか。……見えぬか。……殿のお舟が、今朝のお舟立ちが", "見えませぬ。何も", "……あれは?", "磯辺の巌です" ], [ "はてな、怪しい旅商人だ。これで三度ここを通るが?", "引ッ捕えてみろ" ], [ "それがしです。お忘れか", "……それがし?" ], [ "いやいや落度はそれがしにある。取次を願っても、われらの今の境遇では、尋常にお通しあるまいと、あなた様か、胤正様のお出ましを待とうと、うろついていたため、疑われたのでござる", "何にしても、ここでは、お話しもならぬ。館まで、お越し下さい" ], [ "ご無事か。佐殿には", "は。天佑といいましょうか、おつつがもなく", "して、今は何処?" ], [ "安房におられまする", "安房とは、およそ世間も観ているが……安房のどこに", "安西三郎景益どのの計らいで、そこの邸に近い寺院を隠れ家に", "ウム。北条どのは", "ご一緒です", "そうか、それ伺って安心いたしました", "実は、この度も殿のご密書を帯びて使いに来たわけでござるが", "それは" ], [ "後で悠々伺おう。――何よりもお詫びせねばならぬ事は、去年、ことしの春と、二度までも、令旨のお沙汰と共に、佐殿の召状にも接しながら、何のご返事も回さなかったわれらの無礼のかどです。……お察しください", "いや、その辺のご事情は、よく分っておりまする。……千葉ご一族にとっても重大な分れ目でござる。ましてや、あなた様や胤正様の上にも、お父上常胤様という者がおありなのですから、左様に、手軽く向背を決めるわけに参らぬのも、決してご無理とは存じません" ], [ "時政", "はっ", "こちらから上総へ出向こうではないか。こんな僻地にいては、馳せ参ずる者どもも不便だ", "――が、もうしばらく、お待ちなされませ。当所の安西殿が今は旅先にあって留守でもござれば", "安西三郎の庇護の下に、こうして半月の余を過しながら、無断で去っては悪いが、一日遅ければ一日だけ、味方に利という事はない", "それにしても、まだ下総へ参った藤九郎盛長も帰らず、その他、諸豪の動向もよう分らぬうちは", "お許、何を云う" ], [ "義澄っ、はやく乗れ、捜していたのだ", "あっ、殿ですか。――そのまま殿こそ早く岸を", "乗れと申すに", "いや、殿軍します。対岸の部落でお待ちください。それがしは陸路をまわります" ], [ "千葉介が返答はどうであったか。――応か、否か", "ご書の趣、承知とのお答えでした。最初は、難しいお気色に窺われましたが、ご子息方が、挙ってお味方あるようと、此方をご支持くださいましたため、さしも常胤殿にも、ついに、ご加担申そうと、お約し下されました", "そうか" ], [ "――また、常胤殿が仰せには、安房、上総、何地にしても、佐殿がおらるるご宿所として要害とは申されぬ。すこしも早く、旗をすすめて、相模の鎌倉にお拠りあるが上策かと考えらるる……との事でござりました", "鎌倉へ" ], [ "平治の合戦に、父義朝は敗れて、都を落ちたが、その折、叡山の北の龍華越えのあたりで、追い来る敵へ駈け戻し、亡父義朝に代って戦死したは――お汝の亡父、六郎義隆殿でおわした。……その年、ひとりの遺子は、生れてまだ五十余日と聞いていたが、さては、その折の嬰児が、お汝であったか", "永暦元年の二月、私が二歳の春、この下総国へ流されて来ましたが……常胤様のお情けによって、密かに、きょうまで養われて参りました。――そして今日、源氏の御旗の下に、こうして、あなた様のお姿を拝し……欣しくて……何か夢のようで" ], [ "ちッ、父上っ", "大殿っ", "広常殿っ。かッ、帰ろうっ" ], [ "佐殿が何じゃッ。今の大声を聞けば、思い上がった阿呆に近い。あんな大将に、何で大事がなろう。こんな陣門へ礼を執って来ただに口惜しい限りじゃわッ。――さっ、引っ返そう! お祖父様", "父上っ" ], [ "けさの早打ちによれば、この月の九日に、帯刀先生義賢様のご次男、木曾義仲どのにも、旗挙げして、等しく、以仁王の令旨をかざし、山道の地方から、都へ都へと、所の平家を打破って、攻め上っておるということだぞ", "ほ! それは初耳だ。――だが、こちらにも吉報がある", "何か", "伊豆では、平家方に立って、三浦殿を悩ました秩父の畠山重忠が、一族の衆、数人を使いとして、何やら殿の御前で諜し合せして帰った。――お味方に参会せんとの前触れとおれは見たが", "武田太郎信義どの以下、甲斐の源氏も、どこかで合流するという。江戸、河越も、きょう明日には向背を決めてくるだろう" ], [ "何。広常か", "はい", "まだおったのか", "お怒りの解けぬうちはと――", "ああ、それほどまでに" ], [ "ばかな", "あわて過ぎておる", "理に合わぬ事ではないか" ], [ "また、うわさか、よくいろいろなうわさが飛び出す。頼政にかつがれて、宇治でご最期遂げられた以仁王が、まだ生きていらっしゃるという巷説ではないか", "そうじゃ。御身もはや耳にされたか。――生きておられるくらいはまだよろしいが、それが、頼朝の陣中にあって、指揮に当っておられるというのじゃ。そのため、何十万の源氏が立ちどころに寄ったというのじゃ。……さも、真しやかによ。アハハハ", "はははは" ], [ "そうそう、あの折、六条の頭殿の遺子という幼な子が、粟田口から押立の役人衆にかこまれて、伊豆の国とやらへ流されて行った――", "その下の乳呑みは、鞍馬へ追いあげられ、稚子となっていたそうじゃが、いつの間にやら、それも巣立ちして、陸奥へ逃げ走ってしもうたとか", "鷹の子は、鷹の子よの", "何しても、早いもの。もう二十年経ったか" ], [ "遠くではござりませぬ。ならばご案内いたしましょうか", "そうだ……ともあれその、亀ヶ谷まで参りたい。先に立て" ], [ "お狭いとは……。ご陣地のことで?", "いや何。わしはこの亀ヶ谷へ、わしの居館を建てようかと、道々も、その殿楼や門造りなど、頭に図を描いて来たのじゃ。……が、来てみれば、案外の狭さに、失望したのだ", "お住いの地相をお選びなれば、この広い鎌倉中、御意のままでございましょうに", "いやいや。亀ヶ谷には、亡父義朝が在世の頃、しばし住んでいたと聞いておる。それ故に、住まばここと思うたまでよ……。何ぞ、その頃の遺物らしき土台石でも残っていないか", "あれに、古い堂宇が見えまするが", "さてこそ。父の歿後、岡崎義実が建てた一梵宇とはこれであろう" ], [ "鶴ヶ岡か", "さようでござります" ], [ "景義。あとはもはや石を礎え、屋を建てるばかりだの", "されば、門石垣の粧いなどいたせば限りもござりませぬが", "まだ庭を見、出入りの門を飾る遑はない。住むに足ればよいのだ。――左様に急を申したところ、当所の知事兼道の邸を、そのまま山内から移して組めば早かろうと皆が云う。兼道も、あの家は正暦年間より一度も火災に遭うたこともないめでたい家、住み古したれど、当座のご用に献じたいと申し立ておるとか。……そう致したら工事は幾日で出来あがるな", "七日は要しましょう", "七日" ], [ "何じゃ。何者じゃ", "どこの女性か" ], [ "無礼すな。これに在わすは、御台所の政子の方様である。伊豆の秋戸の里よりお渡りあって、今この鎌倉へお着きなされたところだ", "……あっ、御台所で" ], [ "さすがに、派手やか", "うわさに聞く、福原の船遊びと、間違えているのではないか", "一矢、挨拶いたそうか", "待て待て。まだ射よと命令の出ぬうちに、徒らな、弓自慢は、蔑まれようぞ" ], [ "おい。……風のあいまに、笛の音がしてくるぞ", "どこから", "対岸から", "嘘をいえ、この合戦に", "いや、鼓の音らしいものも聞えてくる", "気のせいだ", "そうかな?" ], [ "お味方のうちには、われこそと、腕をさすって、あすの一番乗りを期している面々が余りに多すぎますゆえ、尋常一様なことでは衆に優れた功名を揚げることはできますまい", "いや、どうしても、あすの名誉は、甲斐源氏のわれわれが克ち取らねばならぬ。――伊豆、下総、上総、相模、武蔵の味方たちは、年来お側にご奉公を遂げた者や、各地で戦って来た人々だが、われらにとっては、あすこそ初の戦場だ。……こんな時こそ、生涯人の下風につくか上に立つかの、分れ目というものだ", "では、こうしては如何です。……こよいのうちに、そっと、陣所を払って", "抜け駈けか", "ずっと上流へ行けば、浅瀬があります。迂回して、平家方の後ろにひそみ、お味方が一斉に、河を渡りかかるや否、同時に、平家の陣中へ突き入るのです。――さすれば、何人よりも負れる気づかいはありません", "よく気づいた。よしっ――すぐに立とう" ], [ "――一筋の防ぎ矢だに来ない", "彼方の岸辺にも、敵の影が見えぬのは何故か", "張合いもない事だ" ], [ "なんだ、敵ではないのか", "この近くの宿駅から狩りあつめて来た傾城どもだ。……いや、民家の娘らしい女子もみえる", "あきれたものだ。――陣中へ", "ここばかりでない。どこの陣所にも残っているのは女ばかり。――都そだちの平家人は、女子にまで、かくも無情よ。日頃の軽薄は、あたりまえであった", "あはははは", "わははは" ], [ "止まるなっ。旅人", "――通れっ。ご門前で、駒を止めてはならぬ。馬の腹帯など、彼方へ行って直せ" ], [ "――お取次ぎを賜われ。遥々、奥州より駈け下って参った弟の九郎です。兄頼朝へ、九郎が参ったと、お伝え下されませ", "……なに?" ], [ "これは、其方どもの主人か。はや召連れて、ご門前を退け。ぐずぐずいたしおると、用捨せぬぞ", "あいや!" ], [ "お会い申すのは、今初めてでござりますが、物心つき初めてから、人と成るまで、一日だに、世に、一人の兄上ありと、伊豆の空を憶わぬ日とてはありませんでした。――兄上にも、お心の隅に、奥州に九郎という一人の弟ありと、他ながらでもお覚えでござりましょう。その弟義経にござりまする。源九郎義経にござりまする! ……", "覚えている" ], [ "夢にまで。――夢にまで。……幾たび兄君のことを夢みたか知れませぬ。……会いとうござりました", "わしとても" ], [ "風のたよりに、遠いうわさに、そちの消息を聞く折々、いつ会う日があろうか、どんな健気に成人しているやらと――", "同じように、私も、年十六の頃、鞍馬をのがれ、奥州へ落ちて行く途中……ついそこの足柄山を越えながら……すぐ眼のさきに見える伊豆の海を、配所のあたりを、どんなに、恋しく思いながら、振り向き振り向きして通った事か知れませんでした" ], [ "こよいは、悠りと、語り明かしてもよいが、何せい陣中、いずれ鎌倉へ帰ってから、落着いて話すとしよう。――そちも定めし疲れておろう。こよいは旅の垢でもそそいで寝んだがよかろう", "はい" ], [ "弟を、どこぞ一室へ案内してつかわせ。――そして、何かと鎌倉までは、面倒を見てやってくれい", "畏まりました" ], [ "滝口の老母へすでにお目通りの儀を、おゆるしなされましたか。……唯今、訪れて見えましたが", "お。囚人経俊の母か。……会うてやると云って、庭へ通せ" ], [ "見よ", "…………", "手にとって見よ" ], [ "――鏃だけは取りのけて置いたなれど、箭の口巻を検めて見るがよい。何としるしてある。滝口三郎藤原経俊と――明らかに読まれるであろうが", "…………" ], [ "これからさ!", "世の中はこれからだよ!" ], [ "やあ、そねむな老人。どれほどな手柄があって", "なんじゃ、手柄くらべなら、和殿ごときに、おくれはとらぬ" ], [ "失礼ですが、もしやあなた方は、九郎義経様について、奥州より下られた方達ではございませぬか", "なに。……どうして、左様な事がわかるか", "てまえも奥州ですから。……おはなしの様子で", "そういえば、そちも奥州ことば。――奥州はどこだ", "栗原郷でござりまする。多くは平泉の国府に住んでおりますが", "ふうむ。……この鎌倉へ商いにでも参っておるか", "お察しのとおりです", "名は?", "ちと、ここでは憚ります。お供をいたしてもさしつかえございますまいか", "どこまで" ], [ "いえ、そこらの、人なき所までで", "駈けるぞ", "結構です", "行こう、兄者人" ], [ "して、その吉次が、われらに何の用があって、呼びとめたのか", "御曹子の九郎様に、ぜひお目にかかりたい事があるので……実は、お手引をお願い申したいのです", "然るべきご用があるなら、大倉郷のお館へ、願い出たらよろしかろう", "公でなく、そっとお目にかかった方が、九郎様のお為にも、てまえの為にも、双方によろしいので……。てまえの名を称って、公然と、会って会えないはずはございませんが、そこをわざとさし控えて、きょうまで、よい折を待っていた次第です", "御意を伺った上でなければ、応とも否ともいえないことだ。――がしかし、同国の誼み、和殿のことばだけはお伝えしよう", "明日も、由比ヶ浜へ泳ぎにおいでになりますか", "分らぬが、暇があれば行くかもしれぬ", "浜で、ご返辞を、お待ちしておりまする。……ついでの事に、ご姓名をお聞かせ下さいませんか", "それがしは、佐藤継信。これにおるは弟の忠信だ" ], [ "その事は北条殿からも伺いました。せっかくだから、ぜひ当日のご盛儀を、よそながら拝観してゆけ。国への土産ばなしにせよと、時政様からもおすすめ下さいましたが", "そうか。では、北条殿におねがいすれば当日、どこぞお目障りにならぬ場所で、ご式の模様が拝めようか", "いとお易いことで。拝殿のお間近は如何か存じませぬが、鳥居内の広場でなら、さしつかえあるまいとのおことばでしたから", "では、その日にはぜひ、わしも伴れて行ってもらおう。吉次と告げずに、船の者ということで" ], [ "…………", "嫌か" ], [ "あぶないっ", "端へ寄れっ" ], [ "やっ、和殿はいつぞやの男よな", "吉次ではないか、何をするか" ], [ "おゆるし下さい。おなつかしさの余りです。御曹子様、わたしめでござります", "オオ、吉次か" ], [ "ここは、寿福寺の森かな?", "さようでございます", "ここなら誰も来まい。――吉次、そこらの石へでも腰かけるがよい。そう礼儀を執らいでもよい" ], [ "奥州におる間も、めったに会う折もなかったが、いつも達者でよいな", "あなた様にも" ], [ "わしなどはまだ乳くさい子どもだからな。育つばかりだよ。どうだ、大きくなったろう", "お見ちがえ申す程でござります。しかしお恨みにぞんじます", "何をの……", "平泉のお館を脱けて、一図にお急ぎ遊ばしたお心はよくわかっておりますが、なぜ一言、吉次にお洩らし下さいませんでしたか。吉次如きは、鞍馬の後は、もはやお役に立たぬ人間と、お見限りをうけたのかと、後では、ひがんでおりました", "はははは。そうか" ], [ "泣かずにおられましょうか。――あなた様とて、あなた様とて、きょうの事は、さぞご無念でございましたろうに", "兄のことばだ。いや鎌倉殿のおいいつけだ。心外なことはない", "嘘を仰っしゃいませ", "なに", "あなた様が、そんな柔弱なご気質か否か、誰よりも、吉次はよく知っています。それだけに、吉次でさえも、身がふるえました。かりそめにも、源九郎御曹子には、亡き義朝様の血をうけつがれたお一方ではありませんか", "鎌倉殿は嫡流でおわす", "とはいえ、いかに何でも、平侍のするような卑しい役目を、しかも御家人たちの打揃っている晴の中で、わざわざ骨肉のあなた様へお命じなさらなくても", "もう、その事は、云うてくれるな", "申しますまい。けれどこれだけはお分りになっておいて下さい。――鎌倉殿のなされた事ははっきりと、故意でございますぞ。……これ見よ家人ども、わしは自分の弟に対してすら、かようにする。骨肉の情愛などにはひかれておらぬぞと、そう故意に、あなたの面目を犠牲にして、大勢へしてお見せになったのです", "…………", "一面にまた、あなたへも、兄弟とはいえ、わが命令には、平御家人同様、絶対に服従するのだぞ――と、暗に大勢のなかで誓わせたことにもなりましょう。まったく政治のために、あなた様という者を", "云うなと申すに", "……で、でも", "政治には、私心を交じえず、人事には、一点の私情もゆるさぬというお示し。……いいことではないか。有難いお心だ", "ではなぜ、あなた様は、あの時平御家人のように、歓び勇んで、大工棟梁へ馬が引けませんでしたのか。――二頭まで、馬を引きに、お起ちなされましたが、誰が目にも、あなたのお顔は蒼かった。惨として、泣かぬばかりなご様子であった", "それはな吉次……" ], [ "吉次", "へい", "おまえは、他人の眼で、また他人の感情で、ひとり無念がっているが、鎌倉殿と義経のあいだは、切れない血と愛情でつながっている兄弟だぞ", "それ故に、なお", "だまれ。――兄の鎌倉殿は、愛すればこそ、この義経を、公然とお叱りになったのだ。愚かなわしは、その大愛が、すぐ胸に溶けなかったために、酷いお仕打! 衆人の中で、恥辱をお与えなさるかと、咄嗟には、むっといたしたが……よう考えてみれば、罪はわしにある", "な、なんの科が", "誰にも云わなかったが、おまえはわしの巣立ちの親だ。おまえにだけは云う。……聞いてくれ", "はいっ", "わしは常々兄の鎌倉殿へ、よい顔を見せたことがない。――黄瀬川の宿で、初めてお会いして、手を取り合って泣いた時以来は", "どういうわけで", "まあ聞け。……兄はすでに群臣の上にある顕然たる時の盟主。兄の一指一眄は、世をうごかすものだ。たとえ兄弟なればとて、ゆめ狎れてはならぬ。私の情愛をもって、兄の大志を紊してはならない。……と、戒めながらも、人間は愚か、つい、骨肉のお方と思う。日常の礼儀、形は慎んでも、心のどこかでは、つい、甘えたり、不平を思いやすいのだ。――臣下の如くにはなりきれぬために", "ぜひない事でございましょう。――が、ご不平とは、いったいどういうご不平ですか", "なぜ一日も早く、平家を掃滅し給わぬか。平家をうち亡ぼして、父義朝をはじめ亡き源家の人々のうらみを雪いで下さらぬか。また、一鎌倉の繁栄や祭り事などさし措いて、旗挙げの初めにひろく云い触らされたように、この国土全体の為に、旗を中原にすすめ、民みなが望んでいる新しい世態をお築きにならないのか。……それを思い、それを憂いたりなどしながら、兄や嫂の近頃のお生活方だの、御家人どもが争って、宏壮な居館を建てたり、飲んだり遊び明したり、私闘に日を暮したりしている有様をながめると、わしの心は楽しまぬ。怏々と胸が鬱いでくる。――為に、つい兄へも嫂へも、ここ半年余り、嫌な顔しかお見せしないようであった", "仰っしゃった事がございますか。鎌倉殿へ直々に", "そういうお話をする折はない。昼は昼で、公務にお忙しいし、夜は夜で", "御台所の政子様におひかれでございましょうな" ], [ "あっ。もうしばし……", "きょうは忙しい。折も折、わしの姿が見えぬなどと、義経の心を知らぬ人々は、立ち騒いでおろうも知れぬ", "では、たった一言" ], [ "あなた様は、いつまでも、鎌倉殿の下について、そうしておいで遊ばすおつもりですか", "……そうしてとは?", "でも、ご不平でしょう。この鎌倉の現状には", "わしの不平は、世のうごきに対する大きな不平なのだ。……兄鎌倉殿への不平ではない、そちは混同している", "いません!", "うるさい。そちは義経に、なにを云おうとするのだ", "あなた様は、世間をごぞんじない。人間の複雑な心を見るにお目が若い", "――だから?", "失礼ながら、鎌倉殿に利用されるだけでしょう。きょうの棟上げの式でのように", "歓んで利用していただこう。それが、世のためになる事なら", "鎌倉殿が栄華をなさるお為でしかないとしたら、如何なされます", "兄が、平家の二の舞をするというのか", "なさらぬお方と、誰が保証できましょう", "吉次!", "……お気に触りましたか", "そちは義経に、謀叛をすすめるのか。せっかく兄が建てられた新しい陣営に、もう仲間割れが起るようにと希っているのか", "希わなくとも、そういう事実はもう起っていますから避けられません。――木曾殿と鎌倉殿との不和はかくれもない事です。おふたりの生い立ちを洗えば、そこに深い旧怨もあります。また、平家という当面の敵をひかえながらも、木曾殿は鎌倉の勢力が伸びてゆくのをよろこばず、鎌倉殿も木曾殿が旭日昇天のような勢いで京都へ迫ってゆくのをながめて、内心お快く思っていないことは争えません", "…………", "旗あげの初めに、以仁王の令旨をいただき、伊豆の配所をはじめ、諸国を駈けずりまわっていた叔父君の新宮十郎行家様とも、鎌倉殿には、近ごろ何か仲たがいを生じているとか聞きました。論功行賞の折、行家様へは領地をやらなかったとかで、鎌倉殿を見かぎって、木曾殿のほうへ奔ってしまったとやら", "……何でもない! そんな小さい私事はみな塵芥だ。世を建直す大きな波へ浮び沈む塵芥よ。……目をくれている要もない", "まだ仰っしゃるか、九郎様。――あなたも今に、その塵芥のひとつと見なされますぞよ", "…………", "悪いことは申しません。臍を固めてお置きなさい。元々、諸国の源氏は、鎌倉殿を中心に、一体として起ったかというに、決してそうではありません。――ただ春が来たので大地が芽を出しただけです。源三位頼政殿も、十郎行家殿も、木曾殿も、鎌倉殿とは根はべつに生えたもので、何の一致もありますまい", "離せっ" ], [ "――途方もない敗け軍だよ。今朝から逃げて来るのはみな平家の兵ばかりじゃ。今もな、新中納言知盛様、それと重衡様なんどが、みじめな姿で、八条のほうへ逃げて行ったぞよ", "総大将のおふたりを見たのかよ", "なんの、どれが知盛様やら、重衡様やら、分るものではない。四、五百ほどの人数が、ごっちゃになって、馬も徒士も、押しあい、揉みあい、われ勝ちにな――", "三位中将資盛さまも、宇治のほうが支えきれず、午ごろであったか、夥しゅう逃げ帰って来たままじゃ", "もう防げまい。叡山の衆も、木曾殿と合体して、谷々から、太刀弓矢をとり出し、はや加茂川の上に、喊の声をあげているとやら", "……どうなるのじゃ" ], [ "ホ、翠蛾さんの?", "翠蛾さんではなかろ、妹の潮音さんの旦那であろ", "どちらにしても、あの白拍子の家に五、六年前までは、時折見えたことのある奥州の大商人とやらにちがいない" ], [ "お前がたのうちで、誰か、知っている者はないか。この表の通りに住んでいた白拍子の翠蛾と潮音の姉妹は、どこへ逃げて行ったろうか", "…………", "実はここ六、七年も、あの姉妹の家を訪ねていないので、近頃の様子は知らぬが、姉も妹ももうかなりな年配。しかるべき男でも迎えて、身をかためていれば結構だが、この騒ぎに、どうしているかと、実は案じて立ち寄ったわけだが、住居は空家、猫の子もいない", "…………" ], [ "たいへんだぞ。七条、八条、池殿、小松殿、泉殿、東は二条三条のここかしこからも、いちどに黒煙が揚がりはじめた", "えっ、煙が?" ], [ "死ぬぞっ", "焼け死ぬぞ" ], [ "これが、きのうまで、わが世の春を誇っていた貴顕か", "これが、きのうまでの都か" ], [ "――お館さま?", "中将様っ", "どこにお在しますか。いかがなされましたか", "時移している間に、退き口もみな、焔につつまれますぞ", "先なるご一門が、お姿が見えぬとて、いたくお案じです。――いずれにお渡りあそばしますにや" ], [ "いずれへお旅立ちですか", "東国へ", "東国は?", "鎌倉のあたりまで" ], [ "ご参詣は", "ただ今、参拝をすまして、これに休息しておるところですが", "では、そこまで、お顔をかして給わらぬか" ], [ "御曹子、近日のうちに、きっと、あなたのお身の上にも、大きな使命が下りますぞ。……こう申せば、もうお分りでしょう", "……では、鎌倉へのご用は", "私事の用向きではありません。……院のお使いとして、それも極く密かに" ], [ "人になおもらしあるな。実は鎌倉殿へ、御院宣をお伝え申すために下る途中なのです。義仲の暴状は、もはや一日も捨ておかれないまでになっている", "そうですか" ], [ "貢ぎのお使いにお上りですか", "そうです", "ご入洛は待たれたがよい。危険です。――それに、それがしが鎌倉殿へ着く日もまもない", "…………" ], [ "いっそ、それがしと共に、一応鎌倉へお引返しあっては如何ですな", "そうはなりませぬ", "――さもなくば、早々、海道の源氏に、用意を命じ、お手勢とあわせて、京へ迫るお支度をひそかに進めておかれるもよい", "いえ、何事も、兄のいいつけが下らぬうちは出来ません。……やはり貢ぎの荷駄を曳いて、京都へ参るといたしましょう" ], [ "兄の円済には、無事でおられましょうか", "オオ、八条宮の坊官円済どのか。お変りもなくお過しのように聞いておるが" ], [ "御曹子……。あなたが、お訊きになりたいのは、円済どののお便りもさる事ながら、もっと他のお方のことではありませんか。あなたの生みの母御前常磐どののその後のご消息を知りたいのでしょう", "…………" ], [ "……そ、そうです。お察しのとおりです。何ぞ、母の身についてご存知なればお聞かせ下さい。兄円済へもよそながら、書状にて、問い合せてはみましたが――出家の身、世事何事も弁えぬ。とのみ、素気ないご返事を一度下されただけでした", "素気ないのではございますまい。宮のおそば近う仕える身、ご無理はありません。――それにまた事実、常磐どののお身の上とて、京都の大きな変りようと共に、何もかも押流されて、今では平家方について行かれた多くの公卿衆のうちに在るやら、誰ぞの領所を頼って田舎へお引籠りやら、恐らく知る人はありますまい", "この世に生きておいであることは、慥かでしょうか", "さあ、それとても、如何なものでしょうか。お互いにいつ知れぬ身ですから", "嘆きはしません。もし、ご病気か何ぞで、もはや世に亡いものなれば、世を果てたと、お教えください", "そういう事がないにしても、なお世にあるお方と、あなたがそう恋い慕われるのは、お察しはできるが、おまちがいでしょう", "……まちがい?", "牛若どの、乙若どの、今若どの――そう三人の和子が生命を守り終って、母としてなされる苦患も務めをも成し果たされた日から――常磐どのは恐らくご自身でも、すでに世にない身ぞと思い極めておいでではなかったでしょうか", "…………", "世間はみなそうお察しして、陰ながらわれわれまでも、美しき前世のお方よ、と密かに称えているのです。――その後、誰の妻になったであろうとか、幾人の子を生したであろうとか、そんな噂はあっても、別人の事としか聞かれませぬ。他人ですらそう思っておりますのに。……御曹子、それでもなお、あなたは強って、もう一度、生ける人にひき戻して、敢ないお苦しみをそのお方にかけたいと思いますか" ], [ "心して参れよ。陣中は、何よりも軍律を厳に。賞罰をあきらかに", "はい", "このたびの一戦こそ、大事なうちでも大事な戦ぞ。ひとり源家の興亡だけにとどまらない。天下はここで分れてゆく", "よう心得ております", "その心得顔が、まちがいの因だ。常々のごとき心構えではならぬ", "はい", "義仲もさる者ぞ。侮るな。――木曾、北陸の猛者が相手であるぞ", "張合いがあります。死にばえがございます。決してお名はけがしません" ], [ "――戦の駈引は、そちより、遥かに、義経の機略がたち優っておる。京に攻入る二つの攻め口では、瀬田より、宇治川のほうが難しい。それ故に、義経をさし向けたのである。不覚をとるなとは、その上にも、名折れをすなと申したのだ", "はい。……分りました" ], [ "八ヵ国の大小名みな眼をつけおるが、あれのみは許さぬ。蒲冠者にすら与えずにあるのだ", "さればこそ、たって景季が望みでござる", "いや、頼朝みずから出陣の日までは、厩におく", "可惜!" ], [ "合戦中は、夜ごと、名馬が厩で悲しみましょう。この千載一遇の秋につながれて置かれては", "云うわ、憎態を" ], [ "つかわそう", "えっ、賜わりますか", "――が、生唼ではないぞ。生唼にまさるとも劣らぬ磨墨のほうを遣わそう", "ありがとう存じます" ], [ "やはり生唼であろうが", "左様でした", "して、誰の部下だ、あの者たちは", "佐々木家の御家人と承りました", "佐々木……佐々木の誰", "高綱どので", "馬も高綱のものか", "鎌倉殿から拝領なされたとかで、この毛艶はどうじゃ、馬品の美しさよ、などと舎人どもまで誇らしげに自慢しておりました", "高綱はまだ通らぬな", "やがて後より見えられましょう", "……よし" ], [ "やあ、其許にも、このたびは源九郎様の手について、宇治川へ懸られるそうな。ひとつご陣じゃ、よろしく頼む", "むむむ" ], [ "おたがいだ。ところで、佐々木殿、先にここを曳かせて通ったのは、生唼と見たが、お上から拝領なされたのか", "あ。あれか" ], [ "見つかっては是非もない。実を吐くが、他言して給わるな", "戴いたのではないのか", "どうして、あれを下さろうぞ。――出陣の真際、恥ずかしいが、良い馬に事を欠き、思案にくれたあげく、お厩の御料一匹おねだり申そうかと考えたが、もし、下された馬がさほどの逸物でなかったら、合戦に臨まぬうちから、我のみ負れをとる。……ままよ、後でご勘当うけたら、功名と差引。討死いたしたら、香華の代りと、おあきらめ下さろう。……そう考えてな、盗み出して来たのだ。暗夜、ひそかにお厩の内から", "えっ、盗んで来たと", "所詮、われわれ風情では、正直では名馬は得られぬからな。あははは", "盗みおったとは。――いや、押太さにも、上には上のあるものよ、アハハハ" ], [ "やめないか", "…………" ], [ "おいっ、枕を取って来い", "…………", "関白の女だから侍女のするような業はせぬというのか" ], [ "どうだった、平家方の意向は――。和議は調ったか", "調えて参りました" ], [ "おうっ", "おお!" ], [ "上流へ寄れ", "もそっと寄れ" ], [ "やあ、梶原どのか", "オオ、佐々木どのよな" ], [ "景季もやりおる", "高綱もぬからぬ男" ], [ "おおうい", "えええい", "おうい" ], [ "景季もおるか", "おりまする", "四、五名供をして来い", "どちらへ", "蒲殿の陣所まで" ], [ "うわさの実否を確かめんものと、洛外遠くまで出向いて参りましたが、平軍入洛の事は、虚報にござりまする。明日とも知れませぬが、こよいはまだ……", "そうか" ], [ "うわさは、虚報だそうです。しかし、それで安心はなりません", "備えはできている", "守備は不利です。ましてこの洛中にあって、この小勢では", "九郎殿にはまた、ここを出て、攻勢に向えと、短気をすすめに見えられたか", "これで三度、くどいとお思いになりましょうが" ], [ "ここ数日が、大事な山、何かとご苦衷のほど、陰ながらお察しいたしておりまする", "そちは、以来、京都にいたのか", "いえ、ずっと、奥州へ帰っておりましたが、去年、木曾殿の攻め入った頃、ちょうど都へ上る用があって、あの兵燹にめぐり会い、思わず足をとめているうち、軍勢をひきいて、あなた様にも、鎌倉をお発向と聞き、再度のお目どおりを楽しみに、お待ち申していたわけで" ], [ "鎌倉ではそうも参りませんが、この洛中の事ならどんな事でも、吉次の耳にはいらない事はありません。公卿堂上方のうごきでも、町々の出来事でも、誰かが吉次に聞かせてくれますから。……けれどゆうべは、そういう手づるもなかったので、実は今朝お目にかかって、お顔いろを拝してから、さてはまたも蒲殿とのご意見が合わずにお帰りだな――と、かようにてまえの胸のうちで、お察し申しあげた次第です", "でも、わしの胸に今、そうした苦しみのある事は、どうして読めたか", "お公卿方の一部で、お噂しているのを聞きました", "はて、誰が、義経の胸を左様に申していたか", "九条兼実卿。また、院のご近侍たる朝方卿や親信卿なども……" ], [ "総がかりを三日と云いふらしたは、敵に攻勢を取らせぬ為の策。四日は、亡き清盛入道の忌日とて、武士のなさけに、わざと過した。五日は暦のうえの悪日、これも避けたがよいと思うて", "ば、ばかな!" ], [ "敵が仏事をいとなむ日まで遠慮していたら、攻め入る日などありはしまい。まして、清盛入道など、源氏にとっては、その墳墓をあばいても飽きたらぬ仇敵だ", "仇敵ながら、あの入道にも、人なみの涙はあったればこそ、幼時この義経も、ふしぎに生命を助けられた。――また鎌倉殿とても、同じように、すでになきはずの一命を、救われたのではあるまいか", "むむ。なるほど" ], [ "あすの夜明けまでには", "え。あすの夜明け", "蒲殿と一ノ谷で会おう。見事それまでに、東の城戸を打破って、お入りあるよう伝えてくれい" ], [ "夜討", "無論、夜討" ], [ "討ちもらすな", "ひとりも城戸の内へ生かして帰すな" ], [ "実平", "はっ", "ここよりは、全軍をお身の手にあずけるぞ。心して、西の城戸へ駈け向え", "はっ。……して", "わしは、なお、山路を深くはいって、鵯越えから敵を真下にのぞみ――" ], [ "方角が違う気がするが", "そうだ、いくら行っても、山深くなるばかり" ], [ "菅六とやら、この方角に間違いないか", "はい。たぶん、間違いは、ないつもりでございますが" ], [ "一ノ谷", "一ノ谷だ" ], [ "この山を鹿は通わぬか", "鹿? ……。ああ鹿ですか。冬近くなると丹波の鹿が、よく一ノ谷へ越えます。春暖かになるとまた、一ノ谷から丹波へ帰って行くので", "そうか。鹿の攀じ登れる所なら、馬とて駈け落せぬことはあるまい", "いえ、鹿なればこそで、馬や人では" ], [ "……へい。もうここで、帰らせていただきまする。商人の中では、随一の大胆者といわれた私ですが、なるほど、戦の場所とは、こうしたものか、すさまじさに胆もちぢみました。……てまえにはもう残念ながら、これから先のお供はできかねまする", "帰るがいい。気をつけて。……そうだ鷲尾の若者と一しょに戻れ", "ありがとう存じます。……が、後へもどるてまえの身よりも、あなた様こそ、どうか、どうか、ご武運よく、戦いぬいて、またお目にかかれますよう、吉次は祈っておりまする", "何をいう" ], [ "吉次、あてにもならぬ事、祈らぬがましぞ。祈れば後がくやまれる", "くやまれましょう。もしもの事があった場合は。……もうそうなったら、吉次は望みもございません。僧門にでもはいります", "鞍馬以来、そちにはずいぶん世話をやかせたな。わがままをしたな。礼をいおう。吉次、そちにも一つの恩はある", "もったいない" ], [ "あ、吉次。まだいたか", "はいっ", "よかった。そちには、そちならでは出来ぬ大役の頼みがあった", "な、なんでございますか", "――それも、この断崖の下へ行きつくまで、義経のいのちが無事であったらば――だが", "ともあれ、仰せ下さい。伺っておきましょう" ], [ "難波あたりに、そちの手持の船は今、どれほどあるか", "奥州船は、いかほども参っておりませぬが", "ともあれ、難波へ急ぎ、そちの力で集められるだけの船を、淀の口、渡辺あたりへ寄せおいてくれ。――船底には悉皆、兵糧をつみ入れ、世上には、四国へ渡る商い船といいふらして", "船数は", "多いほどよい。いかに多くても余るほどは寄るまい。源氏の兵馬がみな乗るには", "わかりました" ], [ "たのむぞ。はやく行け", "では――" ], [ "落せとは", "追い落すのだ", "はっ" ], [ "おうっ", "――おうっッ", "それっ" ], [ "おつくろい遊ばしますな。おそらく、われら以上、殿のお胸には、ご無念が抑えられておありでしょう", "はての……。なぜ?", "くちおしゅうございます" ], [ "わからぬ。何の事やら", "……鎌倉殿のお仕打です。疾くに、鎌倉殿のご推挙によって、あの無能な蒲殿さえ、参河守に任官され従五位下に叙せられておるではございませんか", "よいではないか。――それが何で心外か", "――にも関わらず殿へ対しては、その後も何のお沙汰もないそうです。露骨なご偏頗――無慈悲なお仕打", "何をいう。義経は、恩賞をのぞんで戦ったものと、そち達まで思うか", "いや。……決して左様な心根とはぞんじません。しかし事実上、京都ご守護のお役を奉じながら、何の官職もなくては、朝廷のご用が勤まりません。無位無官では、いかに忠勤をおはげみ遊ばそうとしても", "そんな事はない。鎌倉殿の代官とし、京都にある身ゆえ、この三月には、高野の僧衆と寂楽寺との紛争を裁き、また五月には、祇園神社の訴訟を聴き、そのほか都下の秩序も、禁門のお護りも、まず落度なく勤めておる", "それは人々が殿へ帰服を示しているからで、その実績に対しても、鎌倉殿から何らかのおことばがあって然るべきでしょう。ましてや宇治川以来、一ノ谷のあのように迅く陥ちた功績は、いったい誰にあると思し召しておらるるのか。おこころの程が解せませぬ" ], [ "ここだな、弟", "むむ。この寺" ], [ "いや吉次。実は、こう両名とも、ご主君からご勘当をうけてしまったのだ", "ほ。お暇を出されましたか", "奥州へ帰るがよいと、きついご不興をうけ、お詫びいたしたが、お聞入れもない。……で、悄々、そちに相談に来たわけだが", "いけません" ], [ "この吉次も、一ノ谷でお別れしたきり、ずっと、お目にかからずにいるところです。難波の淀の口に、たくさんの船を借りあつめ、今か今かと、ご出軍を待っていたが、とうとうお沙汰なしで、えらい手違いをやってしもうた。……しかし、その私が、お目にかかりに参上したら、お辛いに相違ない。……手前もまた、あの君の、ご無念なお顔を見てもしかたがない。そのうちには、風のふき廻しも変るだろう――そう気永に考えて、きょうも半日、蟻の争いを眺めていたところです。――せっかくですが、お取りなしの事なら、どなたか、余人にお頼みください。手前はまだ当分、源九郎様へお目通りしたくございません", "そう出ばなを取られては" ], [ "でもまあ、はなしだけでも聞いてくれい", "おはなしだけなら伺ってみましょう。……が、たいがい分っています。きっとあなた方お兄弟も、むきになって、何か、お諫め言を仰っしゃったのじゃございませんか", "そうだ。――だが、申し上げたが無理だろうか。わし達は、残念でたまらぬのだ。吉次、そちはどう思う。鎌倉殿のお仕打を" ], [ "なぜ鎌倉殿が、あのように、源九郎様に無情いか。原因をよく考えてごらんなさい。――手前の観るところ、お二人のご性質は水と火です。元々合わないものでした。鎌倉殿は単に九郎様を打ッてつけな使い途に利用しているに過ぎません", "それでいいものか。上に立つお方が、そのような、利己主義の範を示して", "覇業のためにはぜひもないと――鎌倉殿ご自身に心のうちで冷やかにいいわけしていらっしゃいましょう", "わし達の心情では、ゆるせない冷酷だ。世人一般に、骨肉の愛というものを疑わせよう。血と血とのつながりに醸される美わしい愛情を、人の上に立たれる御方からして認めぬようなご行為をなされたら、世上人心に、どういう影響を及ぼすか、恐ろしいことだ", "いや、鎌倉殿とて、まるで血の気のないわけでもございますまい。人しれず、そこは悩んでおられましょう。……が、そうした心の機微へつけ入って、ある事、ない事、努めてご兄弟が離反してゆくように、耳こすりする讒者もあるから薪に油です", "讒者。……ムム、梶原景時の類か。とはいえ、あれほどご聡明な鎌倉殿が、小人輩の讒言などに動かされてとは考えられぬ", "聡明なお方に似あわず、猜疑はおふかいと聞いています。偉きな人物にも、小さい愚は誰も持っているものだ", "――とあればなおさら、死を賭しても、わし達は、鎌倉殿へ直接お訴えしてみるのが、残されたただ一つの道ではあるまいか", "それも、讒者に悪用されるだけでしょう。鎌倉殿のお憎しみは、九郎様へ深まるとも、薄らぐはずはありません。――それ程、あなた方が、ご主君を思うならば" ], [ "どうです、いっその事、源九郎様を立てて鎌倉殿の手から離れるように謀っては。――次の時代に鎌倉殿をいただくがよいか、義経様をいただく方が世の為によいか。……そこですよ、手前はひとり考えているので", "では、鎌倉殿へ弓をひけとそちは、云うのか", "ま。そういうわけです" ], [ "判官どのが出られる", "大夫判官様が、初のご参内じゃそうな" ], [ "――忠信", "はい", "わしたち兄弟は、そうあるまいぞ。たとえ行末、どんな事があろうとも", "あたりまえです!" ] ]
底本:「源頼朝(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年2月11日第1刷発行    2012(平成24)年3月5日第20刷発行    「源頼朝(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年2月11日第1刷発行    2012(平成24)年3月5日第19刷発行 初出:「朝日新聞」    1940(昭和15)年1月~10月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2016年9月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "生きてるとも、死んでたまるか。又やんも、死ぬなよ、犬死するなっ", "くそ、死ぬものか" ], [ "それは、俺の方でいうことだ。浮田中納言様や石田三成様が、軍を起すと聞いた時、おれは最初しめたと思った。――おれの親達が以前仕えていた新免伊賀守様は、浮田家の家人だから、その御縁を恃んで、たとえ郷士の伜でも、槍一筋ひっさげて駈けつけて行けば、きっと親達同様に、士分にして軍に加えて下さると、こう考えたからだった。この軍で、大将首でも取って、おれを、村の厄介者にしている故郷の奴らを、見返してやろう、死んだ親父の無二斎をも、地下で、驚かしてやろう、そんな夢を抱いたんだ", "俺だって! ……俺だッて" ], [ "で――俺は、日頃仲のよいおぬしにも、どうだ、ゆかぬかと、すすめに行ったわけだが、おぬしの母親は、とんでもないことだと俺を叱りとばしたし、また、おぬしとは許婚の七宝寺のお通さんも、俺の姉までも、みんなして、郷士の子は郷士でおれと、泣いて止めたものだ。……無理もない、おぬしも俺も、かけがえのない、跡とり息子だ", "うむ……", "女や老人に、相談無用と、二人は無断で飛び出した。それまでは、よかったが、新免家の陣場へ行ってみると、いくら昔の主人でも、おいそれと、士分にはしてくれない。足軽でもと、押売り同様に陣借りして、いざ戦場へと出てみると、いつも姦見物の役や、道ごさえの組にばかり働かせられ、槍を持つより、鎌を持って、草を刈った方が多かった。大将首はおろか、士分の首を獲る機もありはしない。そのあげくがこの姿だ、しかし、ここでおぬしを犬死させたら、お通さんや、おぬしの母親に何と、おれは謝ったらいいか", "そんなこと、誰が武やんのせいにするものか。敗け軍だ、こうなる運だ、何もかも滅茶くそだ、しいて、人のせいにするなら、裏切者の金吾中納言秀秋が、おれは憎い" ], [ "すると、この辺は一昨日、浮田方と東軍の福島と、小早川の軍と敵の井伊や本多勢と、乱軍になって戦った跡だ", "そうだったかなあ。……俺もこの辺を、駈け廻ったはずだが、何の記憶えもない", "見ろ、そこらを" ], [ "武やん、俺が死んだら、七宝寺のお通を、おぬしが、生涯持ってやってくれるか", "ばかな。……何を思い出して、急にそんなことを", "俺は、死ぬかもわからない", 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"十五? 小さいな", "大きなお世話", "お父さんは", "いないの", "稼業は", "うちの職業のこと?", "ウム", "もぐさ屋", "なるほど、灸の艾は、この土地の名産だっけな", "伊吹の蓬を、春に刈って、夏に干して、秋から冬にもぐさにして、それから垂井の宿場で、土産物にして売るのです", "そうか……艾作りなら、女でも出来るわけだな", "それだけ? 用事は", "いや、まだ。……朱実さん", "なアに", "この間の晩――俺たちがここの家へ初めて訪ねて来た晩さ――。まだ死骸がたくさん転がっている戦の跡を歩いて、朱実ちゃんはいったい何していたのだい。それが聞きたいのさ", "知らないッ" ], [ "俺も、そう思うが、まだ伊勢路も、上方の往来も、木戸が厳しいから、せめて、雪のふる頃まで隠れていたがよいと、後家もいうし、あの娘もいうものだから――", "おぬしのように、炉ばたで、酒をのんでいたら、ちっとも、隠れていることにはなるまいが", "なあに、この間も、浮田中納言様だけが捕まらないので、徳川方の侍らしいのが、躍起になって、ここへも詮議に来たが、その折、あいさつに出て、追い返してくれたのは俺だった。薪小屋の隅で、跫音の聞えるたび、びくびくしているよりは、いっそ、こうしている方が安全だぞ", "なるほど、それもかえって妙だな" ], [ "さあ、どっちが多いでしょ", "俺のほうが多いぞ" ], [ "日が暮れる――帰ろうか", "負けたもんだから" ], [ "おふくろは、家にいるか", "ええ", "帰ったらよくいっておけよ。俺の眼をぬすんでは、こそこそ稼いでいるそうだが、そのうちに、年貢を取りにゆくぞと", "…………", "知るまいと思っているだろうが、稼いだ品を売かした先から、すぐ俺の耳へ入ってくるのだ。てめえも毎晩、関ヶ原へ行ったろう", "いいえ", "おふくろに、そういえ。ふざけた真似しやがると、この土地に置かねえぞと。――いいか" ], [ "野武士だね", "ええ", "何を怒られたのだい?", "…………", "他言はしない。――それとも、俺にもいえないことか" ], [ "他人には、黙っていてください", "うむ", "いつかの晩、関ヶ原で、私が何をしていたか、まだ兄さんには分りません?", "……分らない", 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"アアよく寝た", "陽が高いな", "もう日暮れじゃないか", "まさか" ], [ "おばさん、いやに鬱いでいるじゃないか", "そうかえ", "どうしたんだい、おばさんの良人を打ったという辻風典馬は、打ち殺してくれたし、その乾児も、懲らしてやったのに、鬱いでいることはなかろうに" ], [ "――だって、又さん、辻風典馬にはまだ何百という乾児があるんだよ", "あ、わかった。――じゃあ奴らの仕返しを、恐がっているんだな、そんな者がなんだ、俺と武蔵がおれば――", "だめ" ], [ "だめなことはない、あんな虫けら、幾人でも来い、それとも、おばさんは、俺たちが弱いと思っているのか", "まだ、まだ、お前さん達は、わたしの眼から見ても、嬰ン坊だもの。典馬には、辻風黄平という弟があって、この黄平がひとり来れば、お前さん達は、束になっても敵わない" ], [ "じゃあ、俺たちは、やっぱり故郷へ帰ると決めるか", "帰ろうぜ。――いつまで、あの母娘と一しょに暮しているわけにもゆくまい", "ウム", "女はきらいだ" ], [ "又八、馳競ッこ", "くそ、負けるか" ], [ "ま……沢庵さん、あなた、裸になってしまって着物の乾くあいだ、どうする気です?", "寝てるさ", "あきれたお人", "そうだ、明日ならよかった、四月八日の灌仏会だから、甘茶を浴びて、こうしている――" ], [ "ホホホ、ホホホ。よく似あいますこと。沢庵さん", "そっくりだろう、それもそのはず。わしこそは悉達多太子の生れかわりだ", "お待ちなさい、今、頭から甘茶をかけてあげますから", "いけない。それは謝る" ], [ "お通さん、どこへ行くのかね", "あしたは、四月八日でしょう、和尚さんから、いいつけられていたのを、すっかり忘れていた。毎年するように、花御堂の花を摘んできて、灌仏会のお支度をしなければならないし、晩には、甘茶も煮ておかなければいけないでしょう", "――花を摘みにゆくのか。どこへ行けば、花がある", "下の庄の河原", "いっしょに行こうか", "たくさん", "花御堂にかざる花を、一人で摘むのはたいへんだ、わしも手伝おうよ", "そんな、裸のままで、見ッともない", "人間は元来、裸のものさ、かまわん", "いやですよ、尾いて来ては!" ], [ "ま……", "これならいいだろう", "村の人が笑いますよ", "なんと笑う?", "離れて歩いてください", "うそをいえ、男と並んで歩くのは好きなくせに", "知らない!" ], [ "ばか、蜂の話じゃないぞ、ひとりの女人の運命について、わしは釈尊のおつたえをいっているのだ", "お世話やきね", "そうそう、よく喝破した。坊主という職業は、まったく、おせッかいな商売にちがいない。だが、米屋、呉服屋、大工、武士――と同じように、これもこの世に不用な仕事でないから有ることも不思議でない。――そもそもまた、その坊主と、女人とは、三千年の昔から仲がわるい。女人は、夜叉、魔王、地獄使などと仏法からいわれているからな。お通さんとわしと仲のわるいのも、遠い宿縁だろうな", "なぜ、女は夜叉?", "男をだますから", "男だって、女をだますでしょ", "――待てよ、その返辞は、ちょっと困ったな。……そうそうわかった", "さ、答えてごらんなさい", "お釈迦さまは男だった……", "勝手なことばかしいって!", "だが、女人よ", "オオ、うるさい", "女人よ、ひがみ給うな、釈尊もお若いころは、菩提樹下で、欲染、能悦、可愛、などという魔女たちに憑きなやまされて、ひどく女性を悪観したものだが、晩年になると、女のお弟子も持たれている。龍樹菩薩は、釈尊にまけない女ぎらい……じゃアない……女を恐がったお方だが、随順姉妹となり、愛楽友となり、安慰母となり、随意婢使となり……これ四賢良妻なり、などと仰っしゃっている、よろしく男はこういう女人を選べといって、女性の美徳を讃えている", "やっぱり、男のつごうのいいことばかりいってるんじゃありませんか", "それは、古代の天竺国が、日本よりは、もっともっと男尊女卑の国だったからしかたがない。――それから、龍樹菩薩は、女人にむかって、こういうことばを与えている", "どういうこと?", "女人よ、おん身は、男性に嫁ぐなかれ", "ヘンな言葉", "おしまいまで聞かないでひやかしてはいけない。その後にこういう言葉がつく。――女人、おん身は、真理に嫁せ", "…………", "わかるか。――真理に嫁せ。――早くいえば、男にほれるな、真理に惚れろということだ", "真理って何?", "訊かれると、わしにもまだ分っていないらしい", "ホホホ", "いっそ、俗にいおう、真実に嫁ぐのだな。だから都の軽薄なあこがれの子など孕まずに、生れた郷土で、よい子を生むことだな", "また……" ], [ "沢庵さん、あなたは、花を刈る手伝いに来たんでしょう", "そうらしい", "じゃあ、喋舌ってばかりいないで、すこし、この鎌を持って下さい", "おやすいこと", "その間に、私は、お吟様の家へ行って、あした締める帯がもう縫えているかも知れないから、いただいて来ます", "お吟様。アア、いつかお寺へ見えた婦人の邸か、おれも行くよ", "そんな恰好で――", "のどが渇いたのだ。お茶をもらおう" ], [ "誰かと思ったら……お通さんでしたか。今、あなたの帯を縫っているところですが、あしたの灌仏会に締めるのでしょう", "ええ、いそがしいところを、すみませんでした。自分で縫えばいいんですけれど、お寺のほうも、用が多くって", "いいえ、どうせ、私こそ、ひまで困っているくらいですもの。……何かしていないと、つい、考えだしていけません" ], [ "お吟様、おふたりとも、死んだという報らせが来たのでございますか", "いいえ、でも……死んだとしか思えないではございませんか、私は、もうあきらめてしまいました。関ヶ原の戦のあった九月十五日を命日と思っています", "縁起でもない" ], [ "あの二人が、死ぬものですか、今にきっと、帰って来ますよ", "あなたは、又八さんの夢を見る? ……", "え、なんども", "じゃあ、やっぱり死んでいるのだ、私も弟の夢ばかり見るから", "嫌ですよ、そんなことをいっては。こんなもの、不吉だから、剥がしてしまう" ], [ "お寺に泊っている若い雲水さんです。ほら、いつか、あなたが来た時に、本堂の陽あたりで、頬づえをして寝そべっていたでしょう。その時、わたしが、何をしているんですかと訊ねると、半風子に角力をとらせているんだと答えた汚い坊さんがあったじゃありませんか", "あ……あの人", "え、宗彭沢庵さん", "変り者ですね", "大変り", "法衣でもなし、袈裟でもなし、何を着ているんです、いったい", "風呂敷", "ま……。まだ若いのでしょう", "三十一ですって。――けれど、和尚さまに訊くと、あれでも、とても偉い人なんですとさ", "あれでもなんていうものではありません、人はどこが偉いか、見ただけでは分りませんからね", "但馬の出石村の生れで十歳で沙弥になり、十四歳で臨済の勝福寺に入って、希先和尚に帰戒をさずけられ、山城の大徳寺からきた碩学について、京都や奈良に遊び、妙心寺の愚堂和尚とか泉南の一凍禅師とかに教えをうけて、ずいぶん勉強したんですって", "そうでしょうね、どこか、違ったところが見えますもの", "――それから、和泉の南宗寺の住持にあげられたり、また、勅命をうけて、大徳寺の座主におされたこともあるんだそうですが、大徳寺は、たった三日いたきりで飛びだしてしまい、その後、豊臣秀頼さまだの、浅野幸長さまだの、細川忠興さまだの、なお公卿方では烏丸光広さまなどが、しきりと惜しがって、一寺を建立するから来いとか、寺禄を寄進するからとどまれとかいわれるのだそうですが、本人は、どういう気持か分りませんが、ああやって、半風子とばかり仲よくして、乞食みたいに、諸国をふらふらしているんですって。すこし、気が狂しいんじゃないんでしょうか", "けれど、向うから見れば、私たちのほうが気が変だというかも知れません", "ほんとに、そういいますよ。私が、又八さんのことを思い出して、独りで泣いていたりしていると……", "でも、面白い人ですね", "すこし、面白すぎますよ", "いつ頃までいるんです?", "そんなこと、わかるもんですか、いつも、ふらりと来て、ふらりと消えてしまう。まるで、どこの家でも、自分の住居と心得ている人ですもの" ], [ "聞えるぞ、聞えるぞ", "悪口をいっていたのじゃありませんよ", "いってもよいが、なにか、あまいものでも出ないのか", "あれですもの、沢庵さんと来たひには", "なにが、あれだ、お通阿女、お前のほうが、虫も殺さない顔して、その実、よほど性が悪いぞ", "なぜですか", "人にカラ茶をのませておいて、のろけをいったり泣いたりしている奴があるかっ" ], [ "いる、いる", "きょうは、よけいに綺麗にして" ], [ "なんじゃい", "あまり、人様に、おさい銭の催促をするのはよして下さい", "金持にいっているんだよ、金持の金をかるくしてやるのは、善の善なるものだ", "そんなことをいって、もし今夜、村のお金持の家へ泥棒でも入ったらどうしますか", "……そらそら、すこしすいたと思ったらまた参詣人が混んで来たよ。押さないで、押さないで――おい若いの――順番におしよ", "もし、坊さん", "わしかい?", "順番といいながら、おめえは、女にばかり先へ汲んでやるじゃないか", "わしも女子は好きだから", "この坊主、極道者だ", "えらそうにいうな、お前たちだって、甘茶や虫除けが貰いたくて来るんじゃあるまい、わしには、分っている、お釈迦さまへ掌をあわせに来るのが半分で、お通さんの顔を拝みにくる奴が半分。お前らも、その組だろう。――こらこらおさい銭をなぜおいてゆかん、そんな量見では、女にもてないぞ" ], [ "行ったよっ", "お通さん、いたか", "いた、きょうはな、おばば、お通姉さんは美麗な帯をして、花祭りしていた", "甘茶と、虫除けの歌を、もろうて来たか", "ううん", "なぜもろうて来ぬのだ", "お通姉さんが、そんな物はいいから、はやくおばばに知らせに、家へ帰れというたんや", "何を知らせに?", "河向いの武蔵がなよ、今日の花祭りに歩いていたのを、お通姉さんが見たのだとよ", "ほんとけ?", "ほんとだ", "…………" ], [ "丙太、汝れ、おばばに代って、ここで桑摘んどれ", "おばば、どこへゆくだ", "邸へ、帰ってみる、新免家の武蔵がもどっているなら、又八も、邸へ帰っているにちがいなかろう", "おらも行く", "阿呆、来んでもええ" ], [ "……お通かよ?", "おばば様" ], [ "お通。――おぬし、武蔵のすがたを見たそうだが、ほんとけ?", "え。たしかに武蔵さんなんです、七宝寺の花祭りに見えました", "又八は、見えなんだかよ", "それを訊こうと思って、急いで呼ぶと、なぜか、隠れてしまったんです。もとから武蔵さんていう人は、変っている人ですが、なんで、私が呼ぶのに逃げてしまったのかわかりません", "逃げた? ……" ], [ "あの、悪蔵め……、ことによると、又八だけを死なして、おのれは、臆病かぜに吹かれて、ただ一人のめのめと帰って来たのかも知れぬ", "まさか、そんなことはないでしょう。そうならばそうといって、何か遺物でも持って来てくださるでしょうに", "なんのいの" ], [ "彼奴が、そんなしおらしい男かよ。又八は、悪い友達を持ちおったわ", "ばば様", "なんじゃ?", "私の考えでは、きっと、お吟様の邸へゆけば、今夜はそこに武蔵さんもいるだろうと思いますが", "姉弟じゃもの、それやいるだろう", "これから、ばば様と二人して、訪ねて行ってみましょうか", "あの姉も姉、自分の弟が、わしがとこの息子を戦に連れ出して行ったのを承知しながら、その後、見舞にも来ねば、武蔵がもどったと知らせても来おらぬ。何も、わしの方から出向くすじはないわ。新免から来るのが当りまえじゃ", "でも、こんな場合ですし、一刻もはやく武蔵さんに会って、細かい様子も聞きとうございます。あちらへ参った上の挨拶はわたしがいたしますから、おばば様もご一緒に来てくださいませ" ], [ "ホ、ホ、ホ。これは口が辷った。村の衆がそういうので、婆もつい染まったとみゆる。悪蔵とは、武蔵のこと、戦から帰って、ここに隠れておろうがの", "いいえ……" ], [ "なんじゃ、今のいい草は。そのうちに参りましょうで、よう済ましていられたもの。そもそも、わしがとこの息子を唆して、戦へつれ出したのは、ここの悪蔵じゃないか。又八はな、本位田の家にとっては、大事な大事な、後継じゃぞ。それを――わしの眼をぬすんで誘き出したばかりか、おのれ一人、無事にもどって来て済むものか。……それもよい、なぜ、挨拶に来さっしゃらぬ、自体この新免家の姉弟は、小癪にさわる、この婆を何と思うていなさるのじゃ。さっ……おのれが家の武蔵が帰って来たからには、又八も、ここへ帰してくだされ、それが出来ねば、悪蔵めをここへすえて、又八の安否と落着きをこの婆に得心がなるように聞かしてもらいましょう", "でも、その武蔵がおりませぬことには", "白々しい。おぬしが、知らぬはずはない", "ご難題でございます" ], [ "そちは、今、新免家から出て来たな", "はい、左様でござりますが", "新免家の者か", "とんでもない" ], [ "わしは、河向いの郷士の隠居", "では、新免武蔵と共に、関ヶ原へ戦に出た本位田又八の母か", "されば。……それも伜が好んで行ったのではなく、あの悪蔵めに騙されたのでおざりまする", "悪蔵とは", "武蔵のやつで", "さほどに、村でもよくいわぬ男か", "もうあなた様、手のつけられぬ乱暴者でござりましての、伜があんな人間とつき合うたため、わたしどもまで、どれほど泣きを見たことやら", "そちの息子は、関ヶ原で死んだらしいな。しかし、悔やむな、敵はとってやる", "あなた様は?", "それがしは、戦の後、姫路城の抑えに参った徳川方の者だが、主命をおびて、播州境に木戸を設け往来人を検めていたところ、此邸の――" ], [ "武蔵と申す奴が、木戸を破って逃げおった。その前から、新免伊賀守の手について、浮田方へ加担した者とわかっているゆえ、この宮本村まで追いつめて来たところじゃ。――したがあの男、おそろしく強い、数日来、追い歩いて、疲れるのを待っているが、容易には捕まらん", "ア……それで" ], [ "旦那様……なんぼ、武蔵が強うても、捕まえるのは、易いことでございませぬか", "何せい人数が少ないのだ。今も今とて、彼奴のために、一人、打ち殺されたし……", "婆に、よい智慧がありますのじゃ、そっと、耳をお貸しなされ……" ], [ "大変? ……世の中に大変なんていうことがそうあるだろうか。まあ、落着いて、理を聞かせなさい", "新免家のお吟さんが捕まって行きました。……又八さんは帰って来ないし、あの親切なお吟様は捕まってゆくし。……わ、わたし、これから先……ど、どうしたらいいんでしょう" ], [ "やいっ、なぜ逃げる? 俺はな、忘れたか、宮本村の新免武蔵だぞ、何も、捕って食おうといいはしない。挨拶もせず、人の顔見て、いきなり逃げいでもよかろう", "へ、へい", "坐れ" ], [ "これ、俺が訊くことに、返辞をせい、よいか", "なんでも、申しますだが、生命だけは", "誰が生命をとるといったか。麓には、討手がいるだろうな", "へい", "七宝寺にも、張りこんでいるか", "おりますだ", "村の奴ら、きょうも、俺を捕まえようとして、山狩に出ているか", "…………", "汝れも、その一人だな" ], [ "うんにゃ、うんにゃ", "待て待て" ], [ "姉上は、どうしているか", "どッちゃの?", "俺の姉上――新免家のお吟姉だ、村の奴ら、姫路の役人に狩りたてられて、俺を追うのはぜひもないが、よもや姉上のお身を、責めはしまいな", "知らん、おら、何も知らんで", "こいつ" ], [ "怪しい物のいい振りをする。何かあったな、ぬかさぬと、頭の鉢を、これが打ち砕くぞ", "あっ、待ってくれ。いうがな、いうがな" ], [ "わしら、何も知らん、わしらはただ、御領主が怖ろしいで", "何処だ、姉上の捕まって行った先は。――その牢屋は", "日名倉の木戸だと、村の衆はうわさしていただが", "日名倉――" ], [ "どうじゃ、いっしょに入浴らないか", "あれっ……" ], [ "あっ、おぬしは! ……", "おばば、一言、告げに来た。……又八は戦で死んだのじゃない、生きている、或る女と、他国で暮している。……それだけだ、お通さんにも、おばばから伝えておいてくれや" ], [ "汝れ、これから、何処へゆく気じゃ?", "おれか" ], [ "おれは、これから、日名倉の木戸をぶち破って、姉上を奪りかえすのだ。そのまま、他国へ走るから、おばばとも、もう会えん。……ただ、ここの息子を、戦で死なして、おれ一人、帰って来たのではないということを、この家の者と、お通さんに告げたかったのだ。もう、村には、未練はない", "そうか……" ], [ "おぬしは、腹がすいてはおらぬのか", "飯など、幾日も、食べたことはない", "不愍な……。ちょうど、温かいものが煮えている。何ぞ、餞別もしてやりたい。ばばが支度するあいだ、湯でも浴みていやい", "…………", "のう、武蔵、おぬしの家と、わしが家とは、赤松以来の共に旧家じゃ、わかれが惜しい、そうして行かっしゃれ", "…………" ], [ "いい湯だよ。……ああ生き甦ったような気がする", "ゆるりと、温まっていたがよいぞ、まだ、飯が炊けておらんようじゃ", "ありがとう。こんなことなら、早く来ればよかったのだ。俺はまた、おばばが、きっと俺を怨んでいるだろうと思ってな……" ], [ "わあ、また、ぶち殺されている", "誰じゃ、こんどは", "お武士じゃがな" ], [ "お通さん、飛脚が届いているよ", "え……わたしに", "留守だったから、預かって置いた" ], [ "顔いろが悪いが、どうかしたのか", "道ばたで、死人を見ましたら、急にいやな気持になって――", "そんなもの見なければいいに。……だが、眼をふさぎ道をよけても、今の世の中では、到るところに、死人が転がっているのだから困るな。この村だけは、浄土だと思っていたが", "武蔵さんは、なぜあんなに、人を殺すんでしょう", "先を殺さなければ、自分が殺される。――殺される理もないのに、無駄に死ぬこともない", "怖い! ……" ], [ "お通さん、これは昼間来た飛脚文じゃないか、しまっておいたらどうだ", "…………" ], [ "みんなが、捜しているのだ。さ……気がすすまないだろうが、方丈へお酌に行っておやり、住持が弱っているらしい", "……頭が痛いんです。……沢庵さん……今夜だけは行かなくてもよいでしょう", "わしは、いつだって、酒の酌などに、其女が出るのをよいことだとは思うていない。しかし、ここの住持は世間人だ、見識をもって、領主に対し、寺の尊厳を維持してゆく力などはない人だからな。――ご馳走もせねばならんじゃろうし、どじょう髯の機嫌もとらずばなるまいて" ], [ "其女も、幼少から、此寺の和尚には、育てられて来た人。こういう時には、住持の手伝いになってやれ。……よいか。ちょっと、顔を出せばよいのだ", "え……", "さ、行こう" ], [ "沢庵さん……じゃあ参りますから、すみませんが、あなたも一緒に方丈にいてくれませんか", "それやあ関わないが、あのどじょう髯の武士は、わしが嫌いらしいし、わしも、あの髯を見ると、何か、揶揄いたくなっていかんのじゃ。大人気ないが、そういう人間がままあるもんでな", "でも、私、一人では", "住持がいるからよいではないか", "和尚様は、私がゆくと、いつも席を外しておしまいなさるのです", "それは不安だ。……よしよし、一緒に行ってやろう。案じないではやく、お化粧をしておいで" ], [ "コラ納所。その方には用事もない。退がっておれ", "イエ、結構でございます", "酒のそばで、書物など読んでいられては、酒が不味くていかん。立てっ", "書物はもう伏せました", "眼ざわりじゃ!", "では、お通さん、書物を部屋の外へ出しておくれ", "書物がではない、その方という者が、酒の座に、不景色でいかんというのだ", "困りましたな。悟空尊者のように、煙になったり、虫に化けて、膳のすみに止まっているわけにもゆかず……", "退がらんかっ! ぶ、ぶ礼な奴だ" ], [ "お客様は、独りが好きだと仰せられる。孤独を愛す、それ君子の心境だ。……さ、お邪魔しては悪い、あちらへ退がろう", "こッ、こらっ", "何ですか", "だれが、お通まで、連れて退がれと申したか。自体、その方は平常から傲慢で憎い奴だ", "坊主と武士、可愛らしい奴というようなのは、まあ尠のうございますなあ。――例えば、あなたの髯の如きも", "直れっ! それへ" ], [ "直れとは、どういう形になるのですか", "いよいよ、怪しからぬ納所め。成敗いたしてくれる", "では、拙僧の首をですか。……あはははは、およしなさい、つまらない", "何じゃと", "坊主の首を斬るほど張合いのないものはない、胴を離れた首が、ニコと笑っていたりしていたら、斬り損でしょう", "オオ、胴を離れた首で、そう吐かしてみいッ", "しかし――" ], [ "これ、お通さん何をいう。わしは戯れ口をいっているのではない。真実をいっているのだ。能なしだから能なし武士といった。それが悪いか", "まだ申すな", "いくらでも申す。先ごろから騒いでいる武蔵の山狩など、お武士には、幾日かかろうと関うまいが、農家はよい迷惑、畑仕事をすてて、毎日、賃銀なしのただ仕事に狩り出されては、小作など、顎が乾あがる", "ヤイ納所、おのれ坊主の分際をもって、御政道を誹謗したな", "御政道をではない――領主と民の間に介在して、禄盗みも同様な奉公ぶりをしている役人根性へわしはいうのだ。――例えばじゃ、おぬしは今宵、何の安んずるところがあって、この方丈に便々と長袖を着、湯あがりの一杯などと、美女に寝酒の酌をさせているか。どこに、誰に、その特権をゆるされてござるのか", "…………", "領主に仕えて忠、民に接して仁、それが吏の本分ではないか。しかるに、農事の邪げを無視し、部下の辛苦も思いやらず、われのみ、公務の出先、閑をぬすみ、酒肉を漁り、君威をかさに着て民力を枯らすなどとは悪吏の典型的なるものじゃ", "…………", "わしの首を斬って、おまえの主人、姫路の城主池田輝政殿の前へ持って行ってごらんじゃい、輝政大人は、オヤ沢庵、今日は首だけでお越しかと驚くじゃろう。輝政殿とわしとは、妙心寺の茶会からの懇意、大坂表でも、大徳寺でも、度々お目にかかっているんだよ" ], [ "うそと思うなら、これから、蕎麦粉でも土産に持って、姫路城の輝政殿を、ぶらりと、訪ねて行ってもよろしい。――だがわしは、大名の門をたたくのが、何より嫌い。……それに、宮本村でこうこうとお前の噂でも茶ばなしに出たら、早速、切腹ものじゃないかな、だから、最初から、およしというたのに、武士は、後先の考えがないからいかん。武士の短所は、実にそこにある", "…………", "刀を、床の間へお返し。それから、もう一つ文句がある。孫子を読んだことがあるかい? 兵法の書だ、武士たる者、孫子呉子を知らん筈はあるまい。――それについてな、宮本村の武蔵を、どうしたら、兵を損ぜずに、縛め捕れるか、その講義をこれからわしがしようというのじゃ。これや、貴公の天職に関するな、慎んで聞かずばなるまいて。……まあ、お坐り、お通さん、一杯酌ぎ直してやんなさい" ], [ "まアまア、そんなことは、どうでもよろしいとしよう。要は、武蔵をいかにして召捕るか。つまるところ、尊公の使命も、武士たる面目も、そこにかかっておるのじゃないか", "左様で……", "其許は、武蔵の捕われが、遅れれば遅れるほど、安閑と、寺に泊って、据膳さげ膳で、お通さんを追い廻していられるから関うまいが……", "いや、その儀はもう……何分とも、主人輝政へも", "内分にでござろう、心得ておるよ。――しかし、山狩山狩と、掛け声ばかりで、こう延び延びになっていては、農家の困窮は固より、人心恟々、良民は安んじて業に励しむことはでけん", "されば、それがしも、心の裡では、日夜焦慮いたしていないこともないので", "――策がないだけじゃろ。つまり豎子、兵法を知らんのじゃ", "面目ない次第で", "まったく、面目ないことだ。無能、徒食の奸吏と、わしにいわれてもしかたがない。……だが、そう凹ましただけでは気の毒だから武蔵はわしが三日の間に捕まえてやるよ", "えっ? ……", "うそと思うのか", "しかし……", "しかし、なんだい", "姫路から数十名の加勢まで迎え、百姓足軽を加えれば、総勢二百人からの者が、毎日ああやって山入りをしておるので", "ご苦労様な", "また、ちょうど今は、春なので山には幾らも食物があるため、武蔵めには都合がよく、吾々には、まずい時期でもある", "じゃあ、雪の降るまで、待ってはどうだ", "左様なわけにも", "――参るまいナ。だからわしが縛め捕ってやろうというのだ。人数は要らん、一人でもよいが、そうさな、お通さんを加勢に頼もうか、二人で十分にことは足りる", "また、お戯れを", "馬鹿いわッしゃい。宗彭沢庵、いつでも冗談で日を暮らしていると思うか", "はっ", "豎子兵法を知らずといったのはそこだ。わしは坊主だが、孫呉の神髄が何だかぐらいは、噛じっておる。ただし、わしが引き受けるには条件がある、それを承知せねば、わしは、雪の降るまで、見物側に廻っている考えだが", "条件とは", "武蔵を縛め捕った上の処分は、この沢庵にまかすことだ", "さあ、その儀は?" ], [ "よろしい。貴僧が捕まえたら武蔵の処置は、貴僧に一任するといたそう。――その代り万一、三日のあいだに、縄にしてお出しなさらぬ時は?", "庭の木で、こうする" ], [ "およしよ、お通さん", "かくれておしまい" ], [ "お通さん、そろそろ出かけるが支度をしてくれんか", "草鞋と、杖と、脚絆と、それから薬だの桐油紙だの、山支度はすっかりしておきました", "ほかに、持って行きたい物があるんじゃ", "槍ですか。刀ですか", "なんの。……ご馳走だよ", "お弁当?", "鍋、米、塩、味噌。……酒もすこしありたいな、何でもよい、厨にある食い物を一括げにして持って来ておくれ。杖に差して、二人で担いで行こう" ], [ "ちっとも、暢気なものですか。一体、どこまで行くおつもり?", "そうさな……" ], [ "ま、も少し歩こう", "歩くのはかまわないけど", "くたびれたか", "いいえ" ], [ "誰にも会いませんね", "きょうは、どじょう髯の大将、一日寺にいなかったから、山狩の者を、残らず里へ引き揚げて、約束の三日を、見物している肚だろうよ", "いったい、沢庵さんは、あんなことをいっちまって、どうして武蔵さんを捕まえますか", "出て来るよ、そのうちに", "出て来たって、あの人は、平常でもとても強い男です。それに、山狩の者に囲まれて、もう死にもの狂いでいるでしょう。悪鬼というのは、今の武蔵さんのことだと思います。考えても、わたしは脚がふるえてくる", "ホラ……その脚もと", "嫌ッ。――ああ、びっくりしたじゃありませんか", "武蔵が出たんじゃないよ、道端に、藤づるを張ったり、茨の垣を結ったりしてあるから、気をつけてあげたのだ", "山狩の者が、武蔵さんを追い詰めるつもりで拵えたんですね", "気をつけないと、わしらが、墜し穽に落ちてしまうよ", "そんなこと聞くと、竦んで、一足も歩けなくなってしまう", "落ちれば、わしから先だ。しかしつまらん骨折りをやったものさ。……おおだいぶ渓が狭くなったな", "讃甘の裏は、先刻、越えました。もうこの辺は辻ノ原あたり", "夜どおし歩いてばかりいても為方があるまいな", "私に相談しても、知りませんよ", "ちょっと、荷物をおろそう", "どうするんです" ], [ "ついでに、易を占ててきた。さあ、見当がついたからもう占めたものだ", "易を", "易といっても、わしのは心易、いや霊易といおう。地相、水相、また、天象など考えあわせ、じっと、目をつむったら、あの山に行けと卦が出た", "高照ですか", "何山というか知らんが、中腹に、樹のない高原が見えるじゃろうが", "いたどりの牧です", "いたどり……去た者捕るとは、さい先がよいぞ" ], [ "――ここで何をするんです", "坐っているのさ", "坐っていて、武蔵さんが捕まりますか", "網をかければ、空とぶ鳥さえかかる。造作もないことだ", "沢庵さんは、狐にでも憑ままれているんじゃありませんか", "火を焚こう、落ちるかも知れない" ], [ "火って、賑やかなものですね", "心ぼそかったのか", "それは……誰だって、こんな山の中で夜を明かすのは、いいものじゃないでしょう。……それに、雨が降って来たらどうする気です?", "登ってくる途中、この下の道に横穴を見ておいた。降ったらあそこへ逃げ込もう", "武蔵さんも、晩や、雨の日は、そんな所に隠れているんでしょうね。……一体、村の人は、何だって、あんなにまで武蔵さんを目のかたきにするのかしら", "ただ権力がそうさせるのだな、純朴な民ほど官権を怖がるから、官権を怖るる余り、自分たちの土……兄弟を、郷土から追い出そうとする", "つまり、自分達だけの身を庇うんでしょう", "無力の民には、そこは恕すべきところもあるが", "気が知れないのは、姫路のお武士たちです、たった一人の武蔵さんを、あんなにまで、大騒ぎしなくっても", "いや、それも治安のためにはやむを得まい。そもそも武蔵が関ヶ原から絶えず敵に追われているような気持に駆られていたので、村へ帰るのに、国境の木戸を破って入って来たのがよろしくないことだ。山の木戸を守っていた藩士を打ち殺し、そのため次から次へと、人間を殺めなければ、自分の生命が保てなくなったのは、誰が招いた禍いでもない、武蔵自身の世間知らずから起ったことだ", "あなたも、武蔵さんを憎みますか", "憎むとも。わしが領主であっても、断乎として、彼を厳科に処し、四民の見せしめに、八ツ裂きにせずにはおかない。彼に、地を潜る術があれば、草の根を掻きわけても、引ッ捕えて磔刑にかける。多寡の知れた一人の武蔵をなどと、寛大にしておいたら、領下の紀綱がゆるむというものだ。まして、今のような乱世には", "沢庵さんは、私にはやさしいけれど、案外、肚の中はきついんですね", "きついとも、わしはその公明正大な厳罰と明賞を行おうとする者だ。その権力をあずかって、ここへ来ている", "……オヤ!" ], [ "お通さん、何を考えているのかね", "わたし? ……" ], [ "――私は今、この世の中というものが、何という不思議なものだろうと、それを考えていました。じっと、こうしていると、無数の星が、寂寞とした深夜の中に――いいえいい違いました――深夜も万象を抱いたままです――大きくそろそろと動いているのがわかるではありませんか。どうしても、この世界というものは、動いているものです。それを感じます。同時に、私という小ッぽけな一つのものも、何か、こう……眼に見えないものに支配されて、こうしている間にも、運命が刻々に、変っているんじゃないか……などと止め途ないことを考えておりました", "嘘だろう。……そんなことも頭にうかんだかも知れぬが、其女には、もっと必死に考えつめていることがあるはずだ", "…………", "悪かったら謝るがの、実はお通さん、そなたの所へきた飛脚文を、わしは読んでおる", "あれを?", "機舎の中で、折角、拾ってやったのに、手にも触れんで、泣いてばかりおるから、自分の袂に入れておいたのじゃ。……そして尾籠な話じゃが、雪隠の中で、退屈しのぎに、細々と読んでしもうた", "まあ、ひどい", "一切の理由が、そこで、分ったよ。……お通さん、あのことは、むしろ其女にとっては倖せじゃないか", "どうしてです?", "又八のようなむら気な男じゃもの、女房になってから、あんな去り状を投げつけられたらどうするぞ。まだお互いに、そうならないうちだから、わしは却って、欣びたい", "女には、そのような考え方はできないのです", "じゃあ、どう考えているのか", "口惜しくッて! ……" ], [ "――お通さんだけは、世間の悪も人間の表裏も知らずに、娘となり、おかみさんとなり、やがては婆さんとなって、無憂華の潔い生涯を結ぶ人かと思ったら、やはり其女にも、そろそろ運命のあらい風が吹いて来たらしい", "沢庵さん! ……。わ、わたし、どうしましょう! ……口惜しい……口惜しい" ], [ "沢庵さん、もう今夜きりですよ約束の日は", "そうだな", "どうするつもりですか", "なにを", "何をって、あなたは、大変な約束をしてここへ登って来たのじゃありませんか", "ウム", "もし今夜のうちに武蔵さんを捕まえなければ" ], [ "わかっている。まちがえばこの首を、千年杉の梢で縊るだけのことだ。……だが心配は無用、わしだって、まだ死にとうない", "ではすこし、捜しに歩いたらどうですか", "捜しに出たって、会うものか。――この山中で", "まったく、あなたは、気が知れない人ですね。私までが、こうしていると、何だか、なるようになれと、度胸がすわってしまいます", "そのことだ、度胸だよ", "じゃあ沢庵さんは、度胸だけでこんなことをひきうけたんですか", "まあ、そうだな", "アア心ぼそい" ], [ "はてな? ……", "何を、考えているのです", "もう、そろそろ、出て来なくちゃならんが", "武蔵さんがですか", "そうさ", "たれが、自分から捕まえられに来るものですか", "いや、そうでないぞ。人間の心なんて、実は弱いものだ。決して孤独が本然なものでない。まして周囲のあらゆる人間たちから邪視され、追いまわされ、そして冷たい世間と刃の中に囲まれている者が。……はてな? ……この温かい火の色を見て訪ねて来ないわけがないが", "それは、沢庵さんの独り合点というものではありませんか", "そうでない" ], [ "――思うに、新免武蔵は、もうついそこらまで来ておるのじゃろう。しかしまだ、わしが、敵か味方か、わからないのだ。不愍や自らの疑心暗鬼に惑うて、言葉もよう懸け得ずに、物蔭に、卑屈な眼をかがやかせているものとみえる。……そうだ、お通さん、そなたが、帯に差している物――それを、わしにちょっと貸してくれい", "この横笛ですか", "ウム、その笛を", "いやです、こればかりは、誰にも貸せません" ], [ "貸してもよかろう。笛は、吹けば吹くほど、良くこそなるが減りはしまい", "でも……" ], [ "粗相には扱わないから、とにかく、ちょっとお見せ", "嫌", "どうしても", "え。……どうしても", "強情だのう", "え。強情です", "じゃあ……" ], [ "お通さんが、自分で吹いてくれてもよい。何か、一曲", "嫌です", "それもいやか", "ええ", "どういう理で", "涙がこぼれて吹けませんもの", "ウム……" ], [ "……また、火が乏しくなったな。お通さん、そこの枯れ木をくべておくれ。……おや。……どうしたのじゃ", "…………", "泣いているのか", "…………", "つまらぬことを思い出させて、心ないわざをしたの", "……いいえ。沢庵さん……わたしこそ、強情を張って悪うございました。どうぞ、おつかい下さいまし" ], [ "ほ。……よいのか", "かまいません", "じゃあ、ついでのことに、お通さんが吹いてはどうじゃな。わしは、聴いていてもよいのだ。……こうして聴いているから" ], [ "沢庵さんは、笛がお上手なんでしょう", "下手でもないそうだね", "じゃあ、あなたから先に吹いてみせて下さい", "そう、謙遜するほどではないよ。お通さんだって、相当に習ったという話ではないか", "え。清原流の先生が、お寺に四年も懸人になっていたことがありましたから", "では大したものだ、獅々とか、吉簡とかいう秘曲もふけるのじゃろ", "とんでもない――", "まあ、何でも好きなもの……いや自分の胸に鬱しているものを、その七つの孔から、吹き散じてしまうつもりで吹いてごらん", "ええ。私もそんな気がするんです、胸のうちの悲しみや恨みやため息や、そんなもの思うさま吹き散らしてしもうたら、さぞ爽々するでしょうと思って", "それよ、気を散じるということは大切だ。笛の一尺四寸は、そのままが一個の人間であり、宇宙の万象だという。……干、五、上、ク、六、下、口の七ツの孔は、人間の五情の言葉と両性の呼吸ともいえよう。懐竹抄を読んだことがあるだろう", "覚えておりませんが", "あの初めに――笛は五声八音の器、四徳二調の和なりとある", "笛の先生みたいですね", "わしは、極道坊主のお手本のようなものじゃ。どれ、ついでに、笛を鑑てあげよう", "鑑てください" ], [ "ウーム、これは名器だ。この笛を捨子に添えてあったといえば、そなたの父も母者人も、およそ人がらがわかる気がする", "笛の先生も賞めていましたが、そんなにこれはよい品ですか", "笛にも、姿がある、心格がある。手に触れて、すぐ感じるのだ。むかしは、鳥羽院の蝉折とか、小松殿の高野丸とか、清原助種が名をたかくした蛇逃がしの笛とか、ずいぶんの名器もあったらしいが、近ごろの殺伐な世間で、こんな笛を見たことは、沢庵も初めてと申してもさしつかえない、吹かぬうちから身ぶるいが出る", "そんなことを仰っしゃると、下手な私にはよけいに吹けなくなってしまう", "銘があるの。……はて、星明りでは、読めないわえ", "小さく、吟龍と書いてあります", "吟龍。……なるほど" ], [ "不束なすさびですが", "…………" ], [ "沢庵さん、何を、独り言をいっているのですか", "――知らぬのか、お通さん、先刻から、ソレそこに、武蔵が来て、そなたの笛を聴いているじゃないか" ], [ "ここへ来ぬか。――来て、一緒に遊ばぬか", "? ……", "酒もあるぞ、食べ物もあるぞ、わしらはおぬしの敵でも仇でもない。火をかこんで、話そうじゃないか", "…………", "武蔵。……おぬしはきつい勘違いをしておりはせぬか。火もあり、酒もあり、食べ物もあり、また温かい情けも酌めばある世の中だよ。おぬしは、好んで自身を地獄へ駈り立て、この世を歪んで視ておるのじゃろ。……理窟はよそう。おぬしの身となれば、理窟など耳には入るまい。さあ、この焚火のそばへ来てあたれ。……お通さん、先刻煮た芋の中へ、冷飯をいれて、芋雑炊でもつくろうじゃないか。わしも腹がへったよ" ], [ "ホ。やわらかに煮えたわい。どうじゃ、おぬしも食べるか", "…………" ], [ "お蔭様で、暖かになりました", "もうよいのか", "十分に――" ], [ "どうじゃな武蔵、同じ捕まるものならばわしの法縄に縛られぬか、国主の掟も法だし、仏の誡めも法だが、同じ法は法でも、わしの縛る法の縄目のほうがまだまだ人間らしい扱いをするぞよ", "嫌だ、おれは" ], [ "まあ聞くがよい。舎利になっても反抗してやろうという、おぬしの気持はわかる。だが、勝てるか", "勝てるかとは", "憎いと思う人間どもに――領主の法規に――また自分自身に、勝ちきれるか", "敗けだ! おれは……" ], [ "最後になったら、斬り死にするばかりだ。本位田の婆や、姫路の武士どもや、憎い奴らを、斬ッて斬ッて、斬り捲くッて", "姉は、どうする", "え?", "日名倉の山牢にとらわれているおぬしの姉――お吟どのはどうする気かな?", "…………", "あの気だてのよい、弟思いなお吟どのを……。いや、そればかりか、播磨の名族赤松家の支流平田将監以来の新免無二斎の家名をおのれは、どうする気か" ], [ "不所存者めッ、不孝者め。おのれの父、母、また先祖たちに代って、この沢庵が折檻してやる。もう一つこの拳を食らえ! 痛いか、痛くないか", "ウーム痛い……", "痛ければまだすこし人間の脈があるのじゃろう。――お通さん、そこの縄をおよこし。――何を憚っているか? 武蔵はもうわしに縛られると観念しているのだ。それは、権力の縄ではない。わしの縛るのは、慈悲の縄だ。――何を怖れたり不愍がッたりすることがあろうぞ! 早くよこしなさい" ], [ "捕まった! 武蔵が、捕まッて来た", "おウ、ほんまに", "誰が、手捕にしたのじゃ", "沢庵様がよ!" ], [ "村の衆、よう聞け、武蔵が捕まったのは、わしが偉いためじゃない。自然の理だよ。世の掟にそむいて勝てる人間はひとりもありはしない、偉いのは、掟じゃよ", "ご謙遜なさる、なお偉いわ", "そんなに押し売りするなら、かりにわしが偉いにしておいてもよいが。――時に、皆の衆に、相談があるがの", "ほ、なんぞ?", "ほかではないが、この武蔵の処分だ。わしが三日のうちに捕えて来なかったら、わしが首を縊り、もし捕えて来たら武蔵の身はわしの処分にまかせると、池田侯の御家来と約束した", "それは聞いておりましただ", "だが、さて……どうしたものじゃろうな。本人はこの通り、ここへ召捕って来たが、殺したものか、それとも、生かして放してやったものか?", "滅相な――" ], [ "殺してしまうに限る。こんな恐ろしい人間、生かしておいたとて、何になろうぞ、村の祟りになるだけじゃ", "ふム……" ], [ "なんじゃ、おばば", "わしの伜、又八はこやつのために生涯を過り、本位田家は大事な跡とりを失うたのじゃ", "ふム又八か、あの伜は、あまり出来がようないから、かえって、養子をもろうたほうが、おぬしのためじゃないかの", "何をいわっしゃる。よかれ悪しかれ、わしの子でござる。武蔵は、この身にとって子の仇、こやつの身の処置は、この婆に、まかせて下されい" ], [ "いや、村の衆、去るには及ばんよ、武蔵の処分をどうするか、相談のため、わしが呼んだのだ、いておくれ", "だまれっ" ], [ "武蔵めは、国法を犯した大罪人、しかも、関ヶ原の残党、断じてその方どもの手で処置することは相成らん。成敗は、お上においてなされる", "いけないよ" ], [ "ぶッ、ぶ礼な。何がおかしい", "どちらが無礼か。これ、お髯どの。おぬしはこの沢庵との約束を反古にする気か。よろしい、反古にしてみい、その代り、沢庵の捕えたこの武蔵は、今すぐ、縄目を解いて、押っ放すぞ" ], [ "よいか!", "…………", "縄を解いておぬしへケシかけよう。おぬしはここで武蔵と一騎打ちして、勝手に召捕るがいい", "あっ、待て待て", "なんじゃ", "折角、召捕ったもの、縄目を解いて、また騒動を起すにもおよぶまい。……では、武蔵を斬ることはまかせるが、首は、此方へ渡すであろうな", "首を? ……冗戯ではない、葬式は坊主のつとめ。おぬしに、死骸をまかせては、寺の商売が立ちゆかぬ" ], [ "一同へ、ご意見を求めても、遽かに評議は決まりそうもない。殺すにしても、ばっさり斬ってしまッては、腹が癒えんという婆もいるからの。――そうだ、四、五日のあいだ、武蔵の身は、あの千年杉の梢に上げて、手足を幹に縛りつけ、雨ざらし風ざらし、鴉に眼だまをほじらせてくれたらどうじゃろ?", "…………" ], [ "武蔵めのいうたことゆえ、うかとは信じられぬが、又八は、他国で生きているそうじゃよ", "左様でございますか" ], [ "いや、たとい、死んでおればとてじゃ、そなたという者は、又八の嫁として、この寺の和尚どのを親元に、確と、本位田家にもらいうけた嫁御、この後どんな事情になろうと、それに、二心はあるまいの", "ええ……", "あるまいの", "は……い……", "それでまず、一つは安心しました。ついては、とかく、世間がうるさいし、わしも、又八がまだ当分もどらぬとすれば、身のまわりも不自由、分家の嫁ばかり、そうそうこき使うてもおられぬゆえ、この折に、そなたは寺を出て、本位田家のほうへ身を移してもらいたいが", "あの……私が……", "ほかに誰が、本位田家へ嫁として来るものがあろうぞいの", "でも……", "わしと暮すのは嫌とでもおいいか", "そ……そんな理ではございませぬが", "荷物を纏めて置きやい", "あの……又八さんが、帰ってからでは", "なりません" ], [ "せがれが戻るまでの間に、そなたの身に虫がついてはならぬ。嫁の素行を見まもるのは、わしの役目、この婆の側にいて、伜がもどるまでに、畑仕事、飼蚕のしよう、お針、行儀作法、何かと教えましょう。よいか", "は……はい……" ], [ "武蔵のことじゃが、あの沢庵坊主の肚は、ばばには、どうも解せぬ。そなたは、幸いに此寺にいる身でもあることゆえ、武蔵めの生命が終るまで、怠らずに、ここで見張っていやい――真夜半など、気をつけておらぬと、あの沢庵が、何を気ままにしてのけぬものでもない", "では……私が此寺を出るのは、今すぐでなくともよいのでございますか", "いちどに、両方はできますまい。そなたが、荷物と一緒に本位田家へ移って来る日は、武蔵の首が胴を離れた日じゃよ。わかりましたか", "畏まりました", "きっと吩咐けましたぞよ" ], [ "そちにも、いろいろ世話になったが、藩からお召状が来て、急に姫路へもどらねばならぬことになった", "ま、それは……" ], [ "こん夜は食べたくないんです。すこし頭が痛くて――", "何じゃ! 持っておるのは", "てがみ", "誰の", "見ますか", "さしつかえないならば", "ちッとも" ], [ "苦しまぎれに、お通さんを色と慾とで買収と出おったな。あのお髯どのの名が青木丹左衛門とはこの手紙で初めて知った。世の中には、奇特なさむらいもある。いや、おめでたいことだ", "それはいいですけど、お金がつつんであったのです。どうしましょう、これを?", "ホ、大金だのう", "困ってしまう……", "何の、金の始末なら" ], [ "いや、そなたが持っておるさ。邪魔にもなるまい", "でも、後で何か、いいがかりをつけられると嫌ですから", "もうこの金は、お髯どのの金ではない、如来様へ賽銭にさしあげて、如来様から改めていただいたお金じゃよ。お守りのかわりに持っておいで" ], [ "しばらく降りませんでしたから……", "春も終りだから、散った花屑やら人間の惰気を、ひと雨ドッと、洗いながすもよかろう", "そんな大雨が来たら、武蔵さんは一体どうなるでしょう", "うム、あの人か……" ], [ "死を怖れるほどならば、なんで神妙に貴さまの縛をうけるかっ", "縛をうけたのは、わしが強くて、おまえが弱いからだ", "坊主っ、何をいうか!", "大きく出たな。今のいい方がわるければ、わしが悧巧で、おまえが阿呆――といい直そうか", "うぬ、いわしておけば", "これこれ、樹の上のお猿さん、もがいた所でこの大木へ、がんじ絡みになっているおまえが、どうもなるまい、見ぐるしいぞ", "聞けッ、沢庵", "おお、なんじゃ", "あのとき、この武蔵が争う気ならば、貴様のようなヘボ胡瓜、踏み殺すのに造作はなかったのだぞ", "だめだよ、もう間に合わん", "そ! ……それを! ……自分から手をまわしたのは、貴様の高僧めかしたことばに巧々と騙かられたのだ。たとい縄目にはかけても、このような生き恥をかかせはしまいと信じたからだ", "それから――" ], [ "だのに、なぜ! なんで! ……この武蔵の首を早く打たないかっ……同じ死所を選ぶなら、村の奴らや、敵の手にかかるより、僧でもあるし、武士の情けもわきまえていそうな貴様に――と思って体を授けたのがおのれの誤りだった", "誤りは、それだけか。おまえのしてきたことは誤りだらけだと思わないか。そうしている間に、すこし過去を考えろ", "やかましい。おれは、天に恥じない。又八のおばばは、おれを仇の何のと罵ったが、おれは、又八の消息をあのおふくろへ告げることが、自分の責任だ、友達の信義だ、そう思ったからこそ、山木戸をむりに越え、村へ帰って来たのだ。――それが武士の道にそむいているか", "そんな枝葉の問題じゃない、大体、おまえの肚――性根――根本の考えかたが間違っているから、一つ二つさむらいらしい真似をしても、何もならんのみか、却って正義だなどと、力めば力むほど、身をやぶり、人に迷惑をかけ、その通り自縄自縛というものに落ちるのだよ。……どうだ武蔵、見晴らしがよかろう", "坊主、覚えておれ", "乾物になるまで、そこから少し十方世界のひろさを見ろ、人間界を高処からながめて考え直せ。あの世へ行ってご先祖さまにお目にかかり、死に際に、沢庵という男がこう申しましたと告げてみい。ご先祖さまは、よい引導をうけて来たと欣ぶに違いない" ], [ "あんまりです! 沢庵さん! いくら何でも、先刻から聞いていれば、抵抗のできない者へ酷すぎます。……あ、あなたは僧侶じゃありませんか。しかも武蔵さんのいう通り、武蔵さんはあなたを信じて、争わずに、縛めをうけたのではありませんか", "これはしたり、同士打ちか", "無慈悲ですっ。……わたしは、今のようなことをあなたがいうと、あなたが嫌になってしまいます。殺すものなら、武蔵さんも覚悟のこと、いさぎよく殺してあげてはどうですか" ], [ "わたしにも、このことについては、口を出す権利があります。いたどりの牧へ行って、私も、三日三晩、努めたのですから", "いかん! 武蔵の処分は、誰がなんといおうと、この沢庵がする", "ですから、斬るものなら、斬ったがよいではありませんか。何も、半殺しにして、他人の酷い目を、たのしむような非道をしなくても", "これが、わしの病だ", "ええ、情けない", "退いていなさい", "退きません", "また、強情が始まったな。この女め!" ], [ "おい、お通さん", "…………", "泣き虫のお通さん、そなたが泣くので、天までベソを掻いて来たじゃないか。風があるし、これや大降りになろう、濡れぬうちに、退散退散。死んでゆく奴にかまっていないで、はやくお出で" ], [ "誰だい?", "わたしです、お通です", "あっ、まだ外にいたのか" ], [ "ひどい! ひどい! 雨がふき込む、早くお入り", "いいえ、お願いがあって来たのです。後生ですから、沢庵さん、あの人を、樹から下ろしてあげて下さい", "誰を", "武蔵さんを", "とんでもないこと", "恩に着ます" ], [ "はやく寝なさい。丈夫な体でもないのに、雨水は毒じゃということを知らんのか", "もしっ……" ], [ "ゆうべの雨はひどかったのう", "よい気味な嵐でおざった", "だが、いくら豪雨に叩かれたとて、一夜や二夜で、人間は死ぬまいて", "あれでも生きているのじゃろうか? ……" ], [ "雑巾のように貼りついたまま、身うごきもしていぬが", "鴉が、あの顔へたからぬところを見れば、武蔵は、まだ生きているに違いなかろうで", "大きに――" ], [ "嫁が見えぬが、呼んでおくれぬか", "嫁とは", "うちのお通じゃ", "あれはまだ本位田家の嫁ではあるまいが", "近いうち、嫁にする", "聟のいない家へ、嫁をむかえて誰が添うのか", "おぬし、風来坊のくせに、よけいな心配はせぬものよ。お通は、どこにいますかいの", "たぶん、寝ておるじゃろう", "アアそうか……" ], [ "声は出るな。そのあんばいではまだ五、六日は持つだろう。時に……腹ぐあいはどうだ", "雑言は無用、坊主、はやく俺の首を刎ねろ", "いやいや、うかつに首は斬られない。貴さまのような我武者は、首だけになっても、飛びついて来るおそれがあるからな。……まあ、月でも見ようか" ], [ "そうだ、そうだ。それくらい怒ってみなければ、ほんとの生命力も、人間の味も、出ては来ぬ。近頃の人間は、怒らぬことをもって知識人であるとしたり、人格の奥行きと見せかけたりしているが、そんな老成ぶった振舞を、若い奴らが真似るに至っては言語道断じゃ、若い者は、怒らにゃいかん。もッと怒れ、もッと怒れ", "オオ! 今に、この縄を摺り切って、大地へ落ちて貴様を蹴殺してやるから、待っておれ", "頼もしい。それまで待っていてやろう。――しかし、つづくか。縄の切れないうちに、おぬしの生命が断れてしまいはせぬか", "何をっ", "おう、えらい力、木がうごく。しかし、大地はびくともせぬじゃないか。そもそも、おぬしの怒りは、私憤だから弱い。男児の怒りは、公憤でなければいかん。われのみの小さな感情で怒るのは、女性の怒りというものだ", "何とでも、存分に吐ざいておれ。――今にみよ", "駄目さ。――もうよせ武蔵、疲れるだけじゃぞ。――いくらもがいたところで、天地はおろか、この喬木の枝一つ裂くことはなるまい", "うーむ……残念だ", "それだけの力を、国家のためとまではいわん、せめて、他人のためにそそいでみい、天地はおろか、神もうごく。――いわんや人をや" ], [ "惜しむべし、惜しむべし。おぬし、折角人と生れながら、猪、狼にひとしい野性のまま、一歩も、人間らしゅう至らぬ間に、紅顔、可惜ここに終ろうとする", "やかましいッ" ], [ "聞けよ! 武蔵。――おぬしは、自分の腕力に思い上がっていたろうが。世の中に、俺ほど強い人間はないと慢じていたろうが。……それがどうじゃ、その態は", "おれは恥じない。腕で貴さまに負けたのではない", "策で負けようが、口先で負けようが、要するに、負けは負けだ。その証拠には、いかに口惜しがっても、わしは勝者となって石の床几に腰かけ、おぬしは敗者のみじめな姿を、樹の上に曝されているではないか。――これは一体、何の差か、わかるか", "…………", "腕ずくでは、なるほど、おぬしが強いに極まっている。虎と人間では、角力にならん。だが、虎はやはり、人間以下のものでしかないのだぞ", "…………", "たとえば、おぬしの勇気もそうだ、今日までの振舞は、無智から来ている生命知らずの蛮勇だ、人間の勇気ではない、武士の強さとはそんなものじゃないのだ。怖いものの怖さをよく知っているのが人間の勇気であり、生命は、惜しみいたわって珠とも抱き、そして、真の死所を得ることが、真の人間というものじゃ。……惜しいと、わしがいうたのはそこのことだ。おぬしには生れながらの腕力と剛気はあるが、学問がない、武道の悪いところだけを学んで、智徳を磨こうとしなかった。文武二道というが、二道とは、ふた道と読むのではない。ふたつを備えて、一つ道だよ。――わかるか、武蔵" ], [ "もいちど、樹の下へもどってくれ", "ふム。……こうか" ], [ "――俺は、今から生れ直したい。……人間と生れたのは大きな使命をもって出て来たのだということがわかった。……そ、その生甲斐がわかったと思ったら、途端に、俺は、この樹の上にしばられている生命じゃないか。……アア! 取り返しのつかないことをした", "よく気がついた。それでおぬしの生命は、初めて人間なみになったといえる", "――ああ死にたくない。もう一ぺん生きてみたい。生きて、出直してみたいんだ。……沢庵坊、後生だ、助けてくれ", "いかん!" ], [ "……オ?", "わたしです", "……お通さん? ……", "逃げましょう。……あなたは、生命が惜しいと先刻いいましたね", "逃げる?", "え……。わたしも、もうこの村にはいられないんです。……いれば……ああ堪えられない。……武蔵さん、わたしは、あなたを救いますよ。あなたは、私の救いを受けてくれますか", "おうっ、切ってくれ! 切ってくれ! この縄目を", "お待ちなさい" ], [ "お通さん、お通さん!", "……痛い……痛い", "どこを打った?", "どこを打ったか分りません。……だけど、歩けます、大丈夫です", "途中の枝で、何度もぶつかっているから、大した怪我はしていないはずだ", "私より、あなたは", "俺は……" ], [ "――俺は生きている!", "生きていますとも", "それだけしか分らないんだ", "逃げましょう! 一刻も早く。……もし人に見つかったら、私もあなたも、今度こそは、生命がありません" ], [ "ご覧なさい、播磨灘の方が、ほんのり夜が白みかけました", "ここは何処", "中山峠。……もう頂上です", "そんなに歩いて来たかなあ", "一心は怖いものですね。そうそう、あなたは、まる二日二晩、何も食べていないでしょう" ], [ "そうだ、おれはこれから日名倉の木戸へ行く", "え? ……日名倉へですって", "あそこの山牢には、姉上が捕まっている。姉上を助け出して行くから、お通さんとは、ここで別れよう", "…………" ], [ "あなたは、そんな気なんですか。ここでもう別れてしまうくらいなら、私は、宮本村を出ては参りません", "だって、為方がない", "武蔵さん" ], [ "わたしの気持、今に、ゆっくり話しますけれど、ここでお別れするのは嫌です。どこへでも、連れて行って下さい", "……でも", "後生です" ], [ "――あなたが嫌だといっても、私は離れません。もし、お吟さまを救い出すのに、私がいて足手まといなら、私は、姫路の御城下まで先に行って待っていますから", "じゃあ……" ], [ "きっとですね", "あ", "城下端れの花田橋で待っていますよ。来ないうちは、百日でも千日でも立っていますからね" ], [ "なんじゃ、仰山な", "村の者が、あんなに騒いでいるに、おばば、飯など炊いているんか。――武蔵めが、逃げたのを、知らんのやろ", "えっ。――逃げた?", "今朝ンなったら、武蔵めが、千年杉のうえに見えんのや", "ほんまか", "お寺ではお寺で、お通姉も見えんいうてでかい騒ぎだぞい" ], [ "丙太よ", "あい", "汝れ、突ッ走って、分家の兄んちゃまを呼んで来う。河原の権叔父にも、すぐ来てくれというて来るのじゃ" ], [ "お通阿女が逃がしたのやろ", "沢庵坊主も、姿が見えぬ", "ふたりの仕業じゃ", "どうしてくれよう" ], [ "このばばと、権叔父の二人なら通るも帰るも、さしつかえはおざるまいの", "五名までなら、勝手じゃ" ], [ "この婆はの、もう、家伝来の一腰刀を帯びて出る前に、ちゃんとご先祖様のお位牌へ、おわかれを告げ、二つのお誓いをして参った――それは、家名に泥を塗った不埒な嫁を成敗すること。も一つは、せがれ又八の生死をたしかめ、いきてこの世にいるものなら、首に縄をつけても連れ帰って、本位田家の家名をつがせ、他から、お通に何倍も勝るとて劣らぬほどなよい嫁をむかえ、村の者へも晴れがましゅう、きょうの名折れを雪がにゃならぬ", "……さすがは" ], [ "病んだら、すぐに、村へ使いを立てなされよっ――", "はよう、元気でもどらっしゃれ――" ], [ "おばば", "なんじゃい", "おぬしは、覚悟して、旅支度もして来たろうが、わしはふだんのままじゃ。どこかで足拵えをせにゃならんが――", "三日月山を下ると、茶屋があるわいの", "そうそう、三日月茶屋までゆけば、わらじもあろう、笠もあろう" ], [ "おばば。ちょっと、待たれい", "何じゃ", "竹筒へ、裏の清水を入れて来るで――" ], [ "ころぶなよ、おばば", "何をいやる、まだ、こんな道に、宥わられる程、ばばは、耄碌しておらぬわいの" ], [ "おう、今ほどは、お世話になった。――何処へお出でか", "龍野まで", "これから? ……", "龍野まで行かねば医者はございませぬでの。これから、馬で迎えて来ても、帰りは夜中になりますわい", "病人は、御家内か", "いえいえ" ], [ "嬶や、自分の子なら、為方もないが、ほんの床几に休んだ旅の者でな、災難でござりますわ", "先刻……実は裏口からちょっと見かけたが……旅の者か", "若い女子でな。店さきに休んでいる間に、悪寒がするというので、捨ててもおけず、奥の寝小屋を貸しておいたところ、だんだん熱がひどうなって、どうやらむつかしい様子なのじゃ" ], [ "もしやその女子は、十七ぐらいの――そして、背の細ッそりした娘じゃないか", "左様。……宮本村の者だとは申しましたが", "権叔父" ], [ "しもうたことした", "どうなされた", "数珠をな、茶屋の床几へ、置き忘れたらしい", "それはそれは。てまえが、取って参りましょう" ], [ "暗いのう、権叔父", "待たっしゃれ" ], [ "あっ……おらぬぞ。ばば", "えっ?" ], [ "権叔父よっ、何しているのじゃ", "逃げたか!", "逃げたかもないものよ、こなたが間抜けゆえ、覚られてしもうたのじゃわ。――あれっ、はよう、どうかせぬかいの", "あれか" ], [ "どうしたぞ", "この竹谷へじゃ――", "躍りこんだか", "谷は、浅いが、暗いのが閉口じゃわ。茶屋へもどって、松明など持って来ねば" ], [ "何でもよいということがあるか。われわれは、この日名倉の木戸に何のために立っているのか。但馬、因州、作州、播磨四ヵ国にわたる往来と国境とを、こうして、厳として守っているのは、ただ禄を頂戴して、陽なたぼッこをしていよというためではあるまいが", "わかったよわかったよ", "もしあれが、兎でも石でもなく、人間だったらどうする?", "失言失言。もういいじゃないか" ], [ "そうだ、人間かも知れないぞ", "まさか", "何ともわからない、試しに、遠矢で射てみろ" ], [ "こいつは、滅多に放せん", "なぜですか", "あれは、人間だ。――人間とすれば、仙人か、他国の隠密か、谷へとび込んで死のうと考えている奴か。とにかく、捕まえて来い", "それみろ" ], [ "はやく来い", "オイ待て。捕まえるはいいが、何処からあの峰へ渡るか", "谷づたいでは", "絶望だ", "為方がない、中山のほうから廻れ" ], [ "姉上は、どこにいるか。その牢屋を教えろ。いわねば、蹴殺すぞ", "こ、ここには、おりませぬ。――一昨日、藩のいいつけで、姫路のほうへ、移されました", "なに、姫路へ", "へ……へい……", "ほんとか", "ほんとで" ], [ "武蔵", "あっ" ], [ "は", "――だが、気をつけないといかぬぞよ、これは牙の抜いてない獅子の児だからな。まだ多分に野性なのだ。いじり方が悪いとすぐに噛みつくぞ" ], [ "沢庵坊。あれかよ", "あれでござる" ], [ "なるほど、よい面だましい。お汝よく助けてとらせた", "いや、ご助命をいただいたのはあなた様からで", "そうではない、役人どものうちにお汝のようなのがいれば、ずいぶん助けておいて世のためになる人間もあろうが、縛るのを、吏務だと考えているやつばかりだから困る" ], [ "新免家は元、赤松一族の支流、その赤松政則が、昔はこの白鷺城の主であったのだ。そちが、ここへひかれて来たのも、何かの縁だな", "…………" ], [ "その方の所業、不埒であるぞっ", "はい", "厳科を申しつける", "…………" ], [ "沢庵坊。身の家臣、青木丹左衛門が、わしの指図も仰がず、お汝に対して、この武蔵を捕えたら、その処分は、おてまえに任せるといったという話は――あれは真かの", "丹左を、お調べ下されば、真偽は明白でおざるが", "いや、調べてはある", "しからば、何をか、沢庵に嘘偽りがおざろう", "よろしい、それで、両者のいうことは一致しておる。丹左は、身の家来、その家来が誓ったことは、わしの誓いも同様である。領主ではあるが、輝政には、武蔵を処分する権能はすでにないのだ。……ただこのまま放免は相成るまい。……しかしこの先の処分は、お汝まかせじゃ", "愚僧も、そのつもりでおざる", "で、いかがいたそうか", "武蔵に、窮命をさせる", "窮命の法は", "この白鷺城のお天守に、変化が出るという噂のある開かずの間があるはずで", "ある", "今もって、開かずの間でおざろうか", "むりに開けてみることもなし、家臣どもも嫌がっておるので、そのままらしい", "徳川随一の剛の者、勝入斎輝政どののお住居に、明りの入らぬ間が一つでもあることは、威信にかかわると思われぬか", "そんなことは考えてみたことがない", "いや、領下の民は、そういうところにも、領主の威信を考えます。それへ明りを入れましょう", "ふむ", "お天守のその一間を拝借し、愚僧が勘弁のなるまで、武蔵に幽閉を申しつけるのでおざる。――武蔵左様心得ろ" ], [ "後で、茶室へ来ぬか", "また、下手茶でござるか", "ばかを申せ、近頃はずっと上達。輝政が武骨ばかりでないところを今日は見せよう。待っておるぞ" ], [ "今、旅から帰って来たのだよ。ちょうど三年目じゃ。もうおぬしも、母の胎内で、だいぶ骨ぐみが出来たじゃろうと思ってな", "ご高恩のほど……何とお礼をのべましょうやら", "礼? ……。ははは、だいぶ人間らしい言葉づかいを覚えたな。さあ、今日は出よう、光明を抱いて、世間へ、人間のなかへ" ], [ "もし私が、この城に御奉公するならば、天守閣の開かずの間に、夜な夜な噂のような変化の物があらわれるかも知れませぬ", "なぜ?", "あの大天守の内を、燈心の明りでよく見ますと、梁や板戸に、斑々と、うるしのような黒い物がこびりついています。よく見るとそれはすべて人間の血です。この城を亡った赤松一族のあえなき最期の血液かも知れません", "ウム、そうもあろう", "私の毛穴は、そそけ立ち、私の血は、何ともいえぬ憤りを起しました。この中国に覇を唱えた祖先赤松一族の行方はどこにありましょう。茫として、去年の秋風を追うような儚い滅亡を遂げたままです。しかし、その血は、姿こそ変れ、子孫の体に、今もなお生きつつあります。不肖、新免武蔵もその一人です。故に、当城に私が住めば、開かずの間に、亡霊どもがふるい立ち、乱をなさないとも限りませぬ。――乱をとげて、赤松の子孫が、この城を取り戻せば、また一つ亡霊の間がふえるだけです。殺戮の輪廻をくり返すだけでしょう。平和をたのしんでいる領民にすみません", "なるほど" ], [ "流浪の望みでござります", "そうか" ], [ "彼に、時服と路銀をやれ", "ご高恩、沢庵からも、有難くお礼を申します", "お汝から、改まって礼をいわれたのは、初めてだな", "ははは、そうかも知れませぬ", "若いうちは、流浪もよかろう。しかし、何処へ行っても、身の生い立ちと、郷土とは忘れぬように、以後は、姓も宮本と名乗るがよかろう、宮本とよべ、宮本と", "はっ" ], [ "名も、武蔵よりは、武蔵と訓まれたほうがよい。暗黒蔵の胎内から、きょうこそ、光明の世へ生れかわった誕生の第一日。すべて新たになるのがよろしかろう", "うむ、うむ!" ], [ "武蔵、おぬしには、まだもう一人会いたい人があるはずではないか", "? ……、誰ですか", "お吟どの", "えっ、姉は、まだ生きておりましょうか" ], [ "お吟どのも、会いたがっておる。したが、わしはこういって待たせて来たのじゃ。――弟は、死んだと思え、いや、死んでおるはずじゃ。三年経ったら、以前の武蔵とはちがった弟を伴れて来てやるとな……", "では、私のみでなく、姉上の身まで、お救い下さいましたのか。大慈悲、ただかようでござりまする" ], [ "いや、もう会ったも同じでござります。会いますまい", "なぜじゃ?", "せっかく、大死一番して、かように生れ甦って、修業の第一歩に向おうと、心を固めております門出", "ああ、わかった", "多くを申し上げないでも、ご推量くださいませ", "よく、そこまでの心になってくれた。――じゃあ、気まかせに", "おわかれ申します。……生あれば、またいつかは", "む。こちらも、ゆく雲、流るる水。……会えたら会おう" ], [ "そうじゃ、ちょっと、気をつけておくがの、本位田家の婆と、権叔父とが、お通と、おぬしを討ち果すまでは、故郷の土を踏まぬというて旅へ出ておるぞよ。うるさいことがあろうも知れぬが、関わぬがよい、――またどじょう髯の青木丹左、あの大将も、わしが喋舌ったせいではないが、不首尾だらけで、永のお暇、これも旅をうろついておろう。――何かにつけ、人間の道中も、難所折所、ずいぶん気をつけて、歩きなさい", "はい", "それだけのことだ。じゃあ、おさらば" ], [ "武蔵さん、あなたは、この橋の名を、よもやお忘れではありますまいね。あなたの来ぬうちは、百日でも千日でもここに待っているといったお通のことはお忘れになっても――", "じゃあ、そなたは、三年前からここに待っていたのか", "待っていました。……本位田家の婆様に狙われて、一度は、殺されそうになりましたが、辛くも、命びろいをして、ちょうど、あなたと中山峠でお別れしてから二十日ほど後から今日まで――" ], [ "あなたの行く所へ", "わしのゆく先は、艱苦の道だ、遊びに遍路するのではない", "わかっております、あなたのご修業はお妨げしません、どんな苦しみでもします", "女づれの武者修業があろうか。わらいぐさだ、袖をお離し", "いいえ" ], [ "それでは、あなたは、私を騙したのですか", "いつ、そなたを騙したか", "中山越えの峠のうえで、約束したではありませんか", "む……。あの時は、うつつだった。自分からいったのではなく、そなたの言葉に、気が急くまま、うんと、答えただけであった", "いいえ! いいえ! そうはいわせません" ], [ "千年杉の上で、私があなたの縄目を切る時にもいいました。――一緒に逃げてくれますかと", "離せ、おい、人が見る", "見たって、かまいません。――その時、私の救いをうけてくれますかといったら、あなたは歓喜の声をあげ、オオ、断ってくれこの縄目を断ってくれ! 二度までも、そう叫んだではありませんか" ], [ "……お離し……昼間だ、往来の人が振り向いてゆくじゃないか", "…………" ], [ "……すみません、つい、はしたないことをいいました。恩着せがましい今のことば、忘れてください", "お通どの" ], [ "実は、わしは今日まで、九百幾十日の間――そなたがここでわしを待っていた間――あの白鷺城の天守閣のうえに、陽の目も見ずに籠っていたのだ", "伺っておりました", "え、知っていた?", "はい、沢庵さんから聞いていましたから", "じゃあ、あの御坊、お通どのへは、何もかも話していたのか", "三日月茶屋の下の竹谷で、私が気を失っていたところを、救ってくれたのも、沢庵さんでした。そこの土産物屋へ奉公口を見つけてくれたのも沢庵さんです。――そして、男と女のことだ。これから先は知らないヨ、と謎みたいなことをいって、昨日も店でお茶を飲んでゆきました", "アア。そうか……" ], [ "いつでも、お店では、暇を下さる約束になっているんですから、すぐわけを話して、支度をして来ます。待っていて下さいましね", "頼む!" ], [ "――思い直してくれ", "どういう風に", "最前もいったとおり、わしは、闇の中に三年、書を読み、悶えに悶え、やっと人間のゆく道がわかって、ここへ生れかわって出て来たばかりなのだ。これからが宮本武蔵の――いや名も武蔵と改めたこの身の大事な一日一日、修業のほかに、なんの心もない。そういう人間と、一緒に永い苦艱の道を歩いても、そなたは決して、倖せではあるまいが", "そう聞けば聞くほど、私の心はあなたにひきつけられます。私はこの世の中で、たった一人のほんとの男性を見つけたと思っております", "何といおうが、連れてはゆかれぬ", "では、私は、どこまでも、お慕い申します。ご修業の邪魔さえしなければよいのでしょう。……ね、そうでしょう", "…………", "きっと、邪魔にならないようにしますから", "…………", "ようございますか、黙って行ってしまうと、私は怒りますよ。ここで待っていてくださいね。……すぐ来ますから" ] ]
底本:「宮本武蔵(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年11月11日第1刷発行    2010(平成22)年5月6日第41刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年12月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052396", "作品名": "宮本武蔵", "作品名読み": "みやもとむさし", "ソート用読み": "みやもとむさし", "副題": "02 地の巻", "副題読み": "02 ちのまき", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-02-13T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52396.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "宮本武蔵(一)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年11月11日", "入力に使用した版1": "2010(平成22)年5月6日第41刷", "校正に使用した版1": "2010(平成22)年5月6日第41刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52396_ruby_49780.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52396_49781.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "いずれ、また、戦さ", "時の問題だ", "戦から、戦までの間の灯だぞ、この街の明りだぞ、人間五十年どころか、あしたが闇", "飲まねば損か、何をくよくよ", "そうだ、唄って暮せ――" ], [ "ゆうべの家は、ごめん蒙りたいものだ。なあ、諸公", "いかんわい。あの家の妓どもは若先生ひとりに媚びて、俺たちは眼の隅にもおいてない", "きょうは、若先生の何者であるかも、俺たちの顔も、まったく知らない家へ行こうじゃないか" ], [ "笠。――編笠で?", "そうじゃ", "笠など、おかぶりにならないでもよいではござりませぬか" ], [ "そこへ行く、美い男さま", "おすましの編笠さん", "ちょっとお寄りなさいませ", "笠のうち、一目、見せて" ], [ "諸公、怪しからぬ事なござるぞよ", "なんじゃ、何事ぞや" ], [ "では、なぜ、笠で顔をかくしているあなたを、四条の若先生と、あの妓がいいあてたか、不審では、ござりませぬか。――諸公、これが不審でないと思われるか", "怪しいものでござりますぞ" ], [ "もし、お弟子さん方、それくらいなことがわからないでは客商売はできませんよ", "ほ。えらく、広言を吐くの――。ではどこで、それがわかったか", "黒茶のお羽織は、四条の道場にかようお武家衆好み。この遊里まで、吉岡染というて、流行っているではございませんか", "でも、吉岡染は、誰も着る、若先生だけとは限らぬ", "けれど、ご紋が三つおだまき", "あ、これはいかん" ], [ "若先生、こうなっては、ぜひないこと、上がっておやりなさるほか、策はありますまい", "どうなとせい。それより、はやくわしのこの袂をはなさせてくれ" ], [ "妓、上がってやると仰っしゃるから、はなせ", "ほんとに" ], [ "あははは", "わははは", "妓を持てはよかった。植田老が御意召さるぞ、はよう妓を持て!" ], [ "なるほど、それがしは、吉岡門では、古参に相違ないが、まだ鬢辺の糸は、このとおり黒い", "斎藤実盛にならって、染めてござるらしい", "何奴じゃ、場所がらをわきまえんで。――これへ出よ、罰杯をくれる", "ゆくのは面倒、投げてくれい", "参るぞ" ], [ "植田、お若いところで", "心得てそうろう、若いといわれては、舞わずにおれん" ], [ "やよ、各〻、飛ン騨踊りじゃ。――藤次どの、唄たのむ", "よしよし、皆も唄え" ], [ "飲めんのか、こればしの酒が", "あやまる", "武士たるものが", "何を。じゃあ、俺が飲んだら、貴様も飲むか", "見事によこせ" ], [ "若先生がいると思って、見えすいたおべッかをいう奴だ。天下に剣道は、京八流だけではないぞ。また、吉岡一門ばかりが、随一でもあるまい。たとえば、この京都だけにも、黒谷には、越前浄教寺村から出た富田勢源の一門があるし、北野には小笠原源信斎、白河には、弟子はもたぬが、伊藤弥五郎一刀斎が住んでおる", "それがどうした", "だから、一人よがりは、通用せぬというのだ", "こいつ! ……" ], [ "やい、前へ出ろ", "こうか", "貴様は、吉岡先生の門下でありながら、吉岡拳法流をくさすのか", "くさしはせぬが、今は、室町御師範とか、兵法所出仕といえば、天下一に聞え、人もそう考えていた先師の時代とちがって、この道に志す輩は雲のごとく起り、京はおろか、江戸、常陸、越前、近畿、中国、九州の果てにまで、名人上手の少なくない時勢となっている。それを、吉岡拳法先生が有名だったから、今の若先生やその弟子も、天下一だと己惚れていたら間違いだと俺はいったんだ。いけないか", "いかん、兵法者のくせに、他を怖れる、卑屈な奴だ", "おそれるのではないが、いい気になっていてはならんと、俺は誡めたいのだ", "誡める? ……貴さまに他人を誡める力がどこにあるか" ], [ "やったな", "やったとも" ], [ "まアいい、まアいい", "わかったよ、貴さまの気持はわかっておる" ], [ "これで、彼奴らは、愉快なのであろうか", "これが、面白いのでしょうな", "あきれた酒だ", "てまえが、お供をいたしますから、若先生には、どこか他の静かな家へ、おかわりになっては如何で" ], [ "わしは、昨夜の家へ、参りたいが", "蓬の寮ですか", "うむ", "あそこは、ずんと茶屋の格がようございますからな。――初めから、若先生も、蓬の寮へお気が向いていることは分っていたのでござるが、何せい、この有象無象がくッついて来たのでは滅茶ですから、わざと、この安茶屋へ寄ったので", "藤次、そっと、抜けてゆこう。あとは植田にまかせて", "厠へ立つふりをして、あとから参ります", "では、戸外で待っているぞ" ], [ "あら、若先生", "待て" ], [ "これでいいのか", "どうもおそれ入ります" ], [ "ずんと、静かだ", "開けましょうか" ], [ "よう、朱実か", "お茶がこぼれますよ", "茶などどうだっていい。おまえの好きな清十郎様が来ていらっしゃるのだ。なぜ早く来ないか", "あら、こぼしてしまった。雑巾を持っていらっしゃい、あなたのせいですから", "お甲は", "お化粧", "なんだ、これからか", "でも今日は、昼間がとても忙しかったのですもの", "昼間。――昼間、誰が来たのか", "誰だっていいじゃありませんか、退いて下さいよ" ], [ "あの、先生は、莨をおすいになりますか", "莨は、近ごろ、御禁制じゃないか", "でも、皆さんが隠れておすいになりますもの", "じゃあ、吸ってみようか", "おつけしましょうね" ], [ "辛いものだのう", "ホホホ", "藤次は、どこへ行った?", "また、お母さんの部屋でしょう", "あれは、お甲が好きらしいな。どうも、そうらしい。藤次め、時々わしを措いて、一人で通っているにちがいない" ], [ "――な、そうだろう", "いやなお人。――ホ、ホ、ホ", "何がおかしい。そなたの母も、うすうす藤次に思いを寄せているのだろうが", "知りません、そんなこと", "そうだぞ、きっと。……ちょうどよいではないか、恋の一対、藤次とお甲、わしとそなた" ], [ "どこへ行くか", "いや、いや。……離して", "まあ、居やれ", "お酒を。……お酒を取って来るんですから", "酒などは", "お母あさんに叱られます", "お甲は、あちらで、藤次と仲よく話しおるわ" ], [ "清さまへお酌をなさい", "はい" ], [ "これですもの、清さま、どうしてこの娘は、いつまで、こう子どもなんでしょう", "そこがいいのさ、初桜は" ], [ "だって、もう二十一にもなっているのに", "二十一か、二十一とは見えんな、ばかに小粒だ――やっと十六か、七" ], [ "ほんと? 藤次さん。――うれしい! 私、いつまでも、十六でいたい、十六の時に、いいことがあったから", "どんなこと", "誰にもいえないこと。……十六の時に" ], [ "藤次さん、わかる?", "ウム、もう一曲", "ひと晩じゅうでも、弾いていたい――" ], [ "も一杯", "ありがと" ], [ "どうなすったので。――若先生今夜は、ちと飲け過ぎまする", "かまわぬ" ], [ "わるくない話じゃないか、兵法家だが、今の吉岡家には、金はうんとある。先代の拳法先生が、何といっても、永年、室町将軍の御師範だった関係で、弟子の数も、まず天下第一だろう。しかも清十郎様はまだ無妻だし、どう転んだって、行く末わるい話ではないぞ", "私は、いいと思いますが", "おまえさえよければ、それで文句のありようはない。じゃあ今夜は、二人で泊るがいいか" ], [ "うむ、参ろう。酒や折詰のしたくをしておけ", "じゃあ、お風呂もわかさなければ", "うれしい" ], [ "女を連れてまいるもよいが、出際になって、髪がどうの、帯がなんの、あれが、実に男にとっては、小焦れッたいものでござる", "やめたくなった……" ], [ "藤次、帰ろうか", "今になって、左様なことを仰っしゃっては", "でも……", "お甲と朱実をあんなに欣しがらせておいて、怒りますぞ。早くせいと、急がせて参りましょう" ], [ "――後を閉めてゆけ", "ほ" ], [ "又八さんも行かない?", "どこへ", "阿国歌舞伎へ", "べッ" ], [ "私と藤次様と、どこが、おかしいんですか", "おかしいと、誰がいった", "今、いったじゃありませんか", "…………", "男のくせに――" ], [ "気ちがいとは、何だっ。――良人をつかまえて、気ちがいとは", "なにさ" ], [ "亭主なら、亭主らしくしてごらん。誰に食わせてもらっていると思うのさ", "な……なに……", "江州を出て来てから、百文の金だって、おまえが稼いだことがあるかえ。私と、朱実の腕で暮して来たんじゃないか。――酒をのんで、毎日ぶらぶらしていて、どう文句をいう筋があるえ", "だ……だから俺は、石かつぎしても、働くといっているんだ。それをてめえが、やれ、まずい物は食えないの、貧乏長屋はいやだのと、自分の好きで、俺にも働かせず、こんな泥水稼業をしているんじゃねえか。――やめてしまえッ", "何を", "こんな商売", "やめたら、あしたから食べるのをどうするのさ", "お城の石かつぎしても、俺が食わしてみせる。なんだ、二人や三人の暮しぐらい", "それ程、石かつぎや、材木曳きがしたいなら、自分だけここを出て、独り暮しで土方でも何でもしたらいいじゃないか。おまえさんは、根が作州の田舎者、そのほうが生れ性に合っているのでしょ。何も無理にこの家にいてくれと拝みはしませんからね、どうか、いやなら何時でもご遠慮なく――" ], [ "ほう、戸外は春だの", "すぐ、三月ですもの", "三月には、江戸の徳川将軍家が、御上洛という噂。おまえ達はまた稼げるな", "だめ、だめ", "関東侍は遊ばぬか", "荒っぽくて", "……お母さん、あれ、阿国歌舞伎の囃子でしょう。……鐘の音が聞えてくる、笛の音も", "ま――。この娘は、そんなことばかりいって、魂はもう芝居へ飛んでいるのだよ", "だって", "それより、清十郎様のお笠を持っておあげ", "はははは、若先生、おそろいでよう似合いますぞ", "嫌っ。……藤次さんは" ], [ "ごめん。――四条の吉岡家の使いでござるが、若先生と、藤次殿が参っておりませぬか", "知らぬっ", "いや、参っているはずでござる。隠れ遊びの先へ、心ない業とは承知しておりますが、道場の一大事――吉岡家の名にもかかわること――", "やかましい", "いや、お取次でもよろしい。……但馬の士宮本武蔵という武者修行の者、道場へ立ち寄り、門弟たちに立ち対える者一人もなく、若先生のお帰りを待とうと、頑として、動かずにおりますゆえ、すぐお帰りねがいたいと", "な、なにッ、宮本?" ], [ "お帰りか", "若先生か" ], [ "どうしたのだ? いったい", "きょうに限って", "まだ若先生の居所はわからんのか", "いや、手分けして方々へ捜しに走らせているから、もう追ッつけ、お帰りになるだろう", "ちいッ" ], [ "何をしていたとはあなたがたのことだ。若先生を誘惑いあるいて、馬鹿も程にしたがよいッ", "何だと", "拳法先生のご在世中には、一日たりとも、こんな日はなかったんだぞ!", "たまたまのお気ばらしに、歌舞伎へお出でになったくらいのことが、なんで悪いか。若先生をここにおいて、なんだその口は。出過ぎ者め", "女歌舞伎は、前の晩から泊らなければ行けないのか。拳法先生のお位牌が、奥の仏間で、泣いてござるわっ", "こいつ、いわしておけば" ], [ "――騙し討ちに?", "…………" ], [ "……そんな卑怯なことをしては、清十郎の名が立たぬ。たかの知れた田舎武芸者に、怖れをなして、多勢で打ったと世間にいわれては", "ま……" ], [ "吾々にまかせて下さい。吾々の手に", "そち達は、この清十郎が、奥にいる武蔵とやらいう人間に、敗けるものと思うているのか", "そういう理ではありませぬが、勝って、名誉な敵ではなし、若先生が手を下すには、勿体ない、と一同が申すのでござる。――何も外聞にかかわるほどなことでもありますまい。……とにかく生かして返しては、それこそ、御当家の恥を、世間に撒きちらされるようなものですからな" ], [ "やっ?", "いないぞっ", "いないじゃないか" ], [ "燈火がついてからといえば、まだそう遠くへは走っていないぞ", "追え、追打ちに" ], [ "卑怯者", "恥知らずが", "よくも、よくも、最前は", "さあ、もどれ" ], [ "あっ", "こいつがッ" ], [ "待った、待った!", "人違いだ" ], [ "やっ、なるほど", "武蔵じゃない" ], [ "捕まえたか", "捕まえることは捕まえたが……", "オヤ、その男は", "ご存知か", "よもぎの寮という茶屋の奥で――。しかも今日、会ったばかり", "ほ? ……" ], [ "茶屋の亭主?", "いや亭主ではないと、あそこの内儀がいった、懸人だろう", "うさんな奴だ。何だって、御門前にたたずんで、覗き込んでなどおったのか" ], [ "そんな者にかまっていては、相手の武蔵を逸してしまう。早く手分けをして、せめて、彼の泊っている宿先でも", "そうだ、宿を突きとめろ" ], [ "きょう道場へ来た武蔵とかいう者は、幾歳くらいの男でした", "年などはしらん", "てまえと、同年くらいじゃございませんか", "ま、そんなものだ", "作州の宮本村と申しましたか、生国は", "左様", "武蔵とは、武蔵と書くのでございましょうな", "そんなことを訊いてどうするのだ。そちの知人か", "いえ、べつに", "用もない所をうろついていると、また、今のような災難にあうぞ" ], [ "旦那は、宮本様で", "うむ", "武蔵とおっしゃるんで", "む", "ありがとう" ], [ "おや、睨めつけやがった", "歩きだしたぞ" ], [ "あ。――お出でなすった", "ご隠居様がお見えだ" ], [ "わッしゃ", "おっさ", "わっしゃ", "おッさ" ], [ "何処にじゃ", "相手は" ], [ "ご隠居、相手はこちらでござります", "お急ぎなさいますなよ", "なかなか、敵は、しぶとい面をしておりますぜ", "十分、お支度なすッて" ], [ "あのお婆さんが、あの若い男へ、果し合いをしようというんでしょうか", "そうらしいが……", "助太刀も、よぼよぼしている。何か理があるんでしょうな", "あるんでしょうよ", "あれ、何か、連れの者へ怒ッていますぜ。きかない気の老婆もあるものだ" ], [ "俺たちだって、何もご隠居から毎日、酒代をいただいているからの、ごひいきになっているからのと、そんなケチな量見で加勢するわけじゃねえ。――あの年で、若い牢人を相手に、勝負しようっていう心根が、堪らねえんだ。――弱いほうにつくのは人情、当りめえだろう。もし、ご隠居のほうが負けたら、おれたち総がかりであの牢人へ向うよ、なあみんな", "そうだとも", "老婆を討たせて堪るものか" ], [ "ざまをみろ", "竦んでしまやがった", "男らしく、ご隠居に、討たれちまえ" ], [ "おぬしこそ、中風を病んだ揚句じゃによって、足もとを気をつけなされ", "なんの、われらには、清水寺の諸菩薩が、お護りあるわ", "そうじゃ権叔父、本位田家のご先祖さまも、うしろに助太刀していなさろう。怯むまいぞ", "――武蔵っ、いざッ", "いざッ" ], [ "ど、どこへ行きやる、武蔵ッ――", "ないっ", "待ていっ、汝れ、待たぬかよ!", "ない" ], [ "……あれ?", "おや?" ], [ "あ、おらだ", "きょうはの、まだ、お客様が帰えらねえだから、酒はいらぬよ", "でも、帰えれば要るんだろう。いつもだけ持ッて来とこうや", "お客様が飲がるといったら、わしが取りにゆくからいい", "……爺さん、そこで、何しているんだい", "あした鞍馬へのぼる荷駄へ、手紙を頼もうと思って、書き始めたが、一字一字、文字が思い出せねえで肩を凝らしているところじゃ、うるさいから、口をきいてくれるな", "ちぇッ、腰が曲りかけているくせに、まだ字を覚えねえのか", "このチビが、また小賢しいこといいさらして、薪でも食らうな", "おらが、書いてやるよ", "ばか吐かせ", "ほんとだッてば! アハハハハそんな芋という字があるものか、それじゃ竿だよ", "やかましいッ", "やかましくッても、見ちゃいられねえもの。爺さん、鞍馬の知人へ、竿を届けるのかい", "芋を届けるのだ", "じゃ、強情を張らないで、芋と書いたらいいじゃないか", "知っているくらいなら、初めからそう書くわ", "あれ……だめだぜ、爺さん……この手紙は、爺さんのほかには誰にも読めないぜ", "じゃあ、汝、書いてみろ" ], [ "馬鹿よ", "なんだい、無筆のくせに、人を馬鹿とは", "紙へ、鼻汁が垂れたわ", "ア、そうか。これは駄賃――" ], [ "章魚で酒のめ。――小父さん、章魚で酒飲め。持って来ようか", "なにを", "お酒を", "ははは、こいつは、うまく引っかかったの。また、小僧に酒を売りつけられたぞ", "五合", "そんなにいらん", "三合", "そんなに飲めん", "じゃあ……いくらさ、ケチだなあ、宮本さんは", "貴様に会ってはかなわんな、実をいえば小費が乏しいからだよ、貧乏武芸者だ。そう悪く申すな", "じゃあ、おらが桝を量って、安くまけて持って来ようね。――そのかわりに、小父さん、またおもしろい話を聞かせておくれね" ], [ "老爺、これは今の少年が書いたのか", "左様で。――呆れたものでございますよ、あいつの賢いのには", "ふーむ……" ], [ "おやじ、何か着がえがないか、なければ、寝衣でもよいが、貸してくれい", "濡れてお戻りと存じまして、ここへ出しておきました" ], [ "小僧め、何をしているのか、遅うござりまする", "幾歳だろう、あの少年は", "十一だそうで", "早熟ているな、年のわりには", "何せい、七歳ぐらいからあの居酒屋へ奉公しておりますので、馬方やら、この辺の紙漉きやら、旅の衆に、人中で揉まれておりますでな", "しかし――どうして左様な稼業のうちに、見事な文字を書くようになったろうか", "そんなに上手いので?", "元より子どもらしい稚拙はあるが、稚拙のうちに、天真といおうか何というか……左様……剣でいうならば、おそろしく気に暢びのある筆だ。あれは、ものになるかもしれぬ", "ものになるとは、何になるので", "人間にだ", "へ?" ], [ "爺さんッ、持って来たよ", "何をしているのだ、旦那様が待っているのに", "だってネ、おらが、酒を取りにゆくと、店にもお客があったんだもの。――その酔っぱらいがね、また、おらをつかまえて、執こくいろんなことを訊くんだ", "どんなことを", "宮本さんのことだよ", "また、くだらぬお喋舌りをしたのだろう", "おらが喋舌らなくても、この界隈でおとといの清水寺のことを知らない者はないぜ。――隣のおかみさんも前の漆屋の娘も、あの日お詣りに行ってたから、小父さんが、大勢の駕かきに囲まれて難儀をしたのを、みんな見ていたんだよ" ], [ "うム。家はよいのか", "あ、店はいいの", "じゃあ、おじさんと一緒に、御飯でもお喰べ", "そのかわり、おらが、お酒の燗をしよう。お酒の燗は、馴れているから" ], [ "おじさん、もういいよ", "なるほど", "おじさん、酒好きかい", "好きだ", "だけど、貧乏じゃ、飲めないね……", "ふム", "兵法家っていうのは、みんな大名のお抱えになって、知行がたくさん取れるんだろう。おら、店のお客に聞いたんだけど、むかし塚原卜伝なんかは、道中する時にはお供に乗換馬を曳かせ、近習には鷹を拳にすえさせて、七、八十人も家来をつれて歩いたんだってね", "うむ、その通り", "徳川様へ抱えられた柳生様は江戸で、一万一千五百石だって。ほんと?", "ほんとだ", "だのに、おじさんはなぜそんなに、貧乏なんだろ", "まだ勉強中だから", "じゃあ、幾歳になったら、上泉伊勢守や、塚原卜伝のように、沢山お供をつれて歩くの", "さあ、おれには、そういう偉い殿様にはなれそうもないな", "弱いのかい、おじさんは", "清水で見た人々が噂しておるだろうが、なにしろおれは、逃げて来たのだからな", "だから近所の者が、あの木賃に泊っている若い武者修行は、弱い弱いって、この界隈じゃ評判なんだよ。――おら、癪にさわって堪らねえや", "ははは、おまえがいわれておるのではないからよかろう", "でも。――後生だからさ、おじさん。あそこの塗師屋の裏で、紙漉きだの桶屋の若い衆たちが集まって、剣術をやっているから、そこへ試合に行って、一度、勝っておくれよ", "よしよし" ], [ "その話、もうよそう、――ところでこんどはおまえに訊くが、おまえ、故郷はどこだ", "姫路", "なに、播州", "おじさんは作州だね、言葉が", "そうだ、近いな。――して姫路では何屋をしていたのか、お父さんは", "侍だよ、侍!", "ほ……" ], [ "おやじ、永いこと世話になったが、奈良へ立とうと思う。弁当の支度をしてくれ", "え、お立ちで" ], [ "あの小僧めが、飛んでもないことをおせがみしたので、急にまあ……", "いやいや、小僧のせいではない。かねてからの宿望、大和にあって有名な宝蔵院の槍を見にまいる。――後で、小僧が参って、そちを困らすだろうが、何分たのむ", "なに、子どものこと、一時はわめいても、すぐケロリとしてしまうに違いございませぬ", "それに、居酒屋の主人も、承知はいたすまいし" ], [ "――大人のくせに、子供を騙していいのかい! ゆんべ、弟子にしてやるといったくせに、おらを置いてきぼりにして、そんな……大人があっていいのかい", "悪かった" ], [ "もう黙れ。……騙す気ではなかったが、貴様には、父があり主人がある。その人達の承知がなくては連れて行かれぬから、相談して来いと申したのだ", "そんなら、おらが返事にゆくまで、待っていればいいじゃないか", "だから、謝っておる。――主人には、話したか", "うん……" ], [ "で、主人は何と申したか", "行けって", "ふム", "てめえみたいな小僧は、とても当り前な武芸者や道場では、弟子にしてくれる筈がねえ。あの木賃宿にいる人なら、弱いので評判だ。てめえには、ちょうどいい師匠だから、荷持ちに使って貰えッて……。餞別にこの木剣をくれたよ", "ハハハハ。おもしろい主人だの", "それから、木賃の爺さんの所へ寄ったら、爺さんは留守だったから、あそこの軒に掛かっていたこの笠を貰って来た", "それは、旅籠の看板ではないか。きちんと書いてあるぞ", "書いてあってもかまわないよ。雨がふると、すぐ困るだろ" ], [ "なんだ、それは", "ゆんべ、おじさんの所へ、おらが酒を持って行く時に、店で飲んでいた牢人があって、おじさんのことを、いやに執こく訊いていたといったろう", "ム、そんな話であったな", "その牢人が、おらが、あれから帰ってみると、まだベロベロに酔っぱらっていて、また、おじさんの様子を訊くんだ。途方もない大酒飲みさ、二升も飲んだぜ。――そのあげく、この手紙を書いて、おじさんに渡してくれと、置いて行ったんだよ", "? ……" ], [ "城太郎。おまえは、この人の住所を聞いたか", "聞かなかった", "居酒屋でも、知らぬか", "知らないだろ", "何度も来た客か", "ううん、初めて" ], [ "なに? おじさん", "使いに行ってほしいが", "どこまで", "京都", "じゃあ、折角、ここまで来たのに、また戻るの", "四条の吉岡道場まで、おじさんの手紙を届けに行ってもらいたい", "…………" ], [ "いや、武士は決して、嘘はいわないものだ。きのうのことは、ゆるせ", "じゃあ、行くよ" ], [ "じゃあこれを、四条の道場へ抛りこんで来ればいいんだね", "いや、ちゃんと、玄関から訪れて、取次に慥と渡して来なければいけない", "あ。わかってるよ", "それから、も一つ頼みがある。……だが、これはちとおまえには難しかろうな", "何、何", "わしに、手紙をよこした昨夜の酔っぱらい、あれは、本位田又八というて、昔の友達なのだ。あの人に会ってもらいたいのだが", "そんなこと、造作もねえや", "どうして捜すか", "酒屋を聞いて歩くよ", "ははは。それもよい考えだが、書面の様子で見ると、又八は、吉岡家のうちの誰かに知り人があるらしい。だから吉岡家の者に、訊いてみるに限る", "分ったら?", "その本位田又八におまえが会って、わしがこういったと伝えてくれ。来年一月の一日から七日まで、毎朝五条の大橋へ行って拙者が待っているから、その間に、五条まで一朝出向いてくれいと", "それだけでいいんだね", "む。――ぜひ会いたい。武蔵がそういっていたと伝えるのだぞ", "わかった。――だけど、おじさんは、おらが帰って来る間、何処に待ってるの", "こういたそう。わしは奈良へ先に行っている。居所は、槍の宝蔵院で聞けばわかるようにいたしておく", "きっと", "はははは、まだ疑っているのか、こんど約束を違えたら、わしの首を打て" ], [ "おまえ何処の子、人のことをおばさんだなンて、私は娘ですよ", "じゃあ――娘さん", "知らないよ。まだ年もゆかないチビ助のくせにして、今から女なんか揶揄うものじゃないよ、洟でもおかみ", "だって、訊きたいことがあるからさ", "アラアラ、おまえと喋舌っていたおかげで洗濯物を流してしまったじゃないか", "取ッて来てやろう" ], [ "ありがと。――訊きたいッて、どんなこと", "この辺に、よもぎの寮というお茶屋がある?", "よもぎの寮なら、そこにある私の家だけれど", "そうか。――ずいぶん捜しちゃった", "おまえ、何処から来たの", "あっちから", "あっちじゃ分らない", "おらにも、何処からだか、よく分らないんだ", "変な子だね", "誰が" ], [ "本位田又八という人が、おめえんちにいるだろう。あすこへ行けば分るって、四条の吉岡道場の人に聞いて来たんだ", "いないよ", "嘘だい", "ほんとにいないよ。――前には家にいた人だけれど", "じゃあ、今どこ?", "知らない", "ほかの人に訊いてくれやい", "おっ母さんだって知らないもの。――家出したんだから", "困ったなあ", "誰の使いで来たの", "お師匠様の", "お師匠様って?", "宮本武蔵", "手紙か何か持って来たの", "ううん" ], [ "――来た所も分らないし、手紙も持たないなんて、ずいぶん妙な使いね", "言伝てがあるんだ", "どういう言伝て。もしかして――もう帰って来ないかも知れないけど、帰って来たら、又八さんへ、私からいっといて上げてもいいが", "そうしようか", "私に相談したって困る、自分で決めなければ", "じゃあ、そうするよ。……あのね、又八って人に、ぜひとも、会いたいんだって", "誰が", "宮本さんがさ。――だから、来年一月の一日から七日までの間、毎朝、五条大橋の上で待っているから、その七日のうちに、一朝そこへ来てもらいたいというのさ", "ホホホ、ホホホホ……。まあ! 気の長い言伝てだこと。おまえのお師匠さんていう人も、おまえに負けない変り者なんだね。……アアお腹が痛くなっちゃった!" ], [ "――あら、怒ったの", "当り前だい、人が、叮嚀にものを頼んでいるのに", "ごめん、ごめん。もう笑わないから――そして今の言伝ては、又八さんが、もし帰って来たら、屹度しておくからね", "ほんとか", "え" ], [ "だけど……何といったっけ……その言伝てを頼んだ人", "忘れっぽいな。宮本武蔵というんだよ", "どう書くの、武蔵って", "武は――武士の武……" ], [ "あ……それじゃあ、武蔵というんじゃないの", "武蔵だよ", "だって武蔵とも訓める", "強情だな!" ], [ "……もしや、この武蔵というお方は、美作の吉野郷の人ではないかえ", "そうだよ、おらは播州、お師匠さんは宮本村、隣り国なんだ", "――そして、背の高い、男らしい、そうそう髪はいつも月代を剃らないでしょう", "よく知ッてるなあ", "子どものとき、頭に、疔という腫物をわずらったことがあって、月代を剃ると、その痕が醜いから、髪を生やしておくのだと、いつか私に話したことを思い出したの", "いつかって、何日?", "もう、五年も前。――関ヶ原の戦があったあの年の秋", "そんな前から、おめえは、おらのお師匠様を知ってんのか", "…………" ], [ "じゃあ、城太郎さん、あんたは何日も武蔵さんと一緒にいるのね", "武蔵様だろう", "あ……そうそう武蔵様の", "うん", "わたし、あのお方に、ぜひ会いたいのだけれど、どこにお住まいなの", "家かい、家なンかねえや", "あら、どうして", "武者修行してるんだもの", "仮のお旅宿は", "奈良の宝蔵院に行って訊けばわかるんだよ", "ま……。京都にいらっしゃると思ったら", "来年くるよ。一月まで" ], [ "朱実っ、お入りっ", "……でも、河原にまだ洗い物が残っていますから", "後は、下婢におさせ。おまえはお風呂に入って、お化粧をしていなければいけないでしょ。また不意に、清十郎様でも来て、そんな姿を見たら、愛想をつかされてしまう", "ちッ……あんな人。愛想をつかしてくれれば、オオ嬉しい! だ" ], [ "なんだッて、もういちどいってごらん!", "あっ、聞えやがった" ], [ "この野郎", "ア痛っ", "なんだって車の尻になど乗ってけつかるか", "いけないの", "当りめえだ", "おじさんがひっぱるわけじゃないからいいじゃないか", "ふざけるなっ" ], [ "お金?", "う、う、ん" ], [ "――じゃあ、紐のついている一尺ぐらいな竹の筒ではありませんか", "あっ、それだ", "それなら、先刻そなたが、万福寺の下で、馬子衆の繋いでおいた馬に悪戯をして呶鳴られたでしょう", "ああ……", "びっくりして逃げ出した時に、紐が切れて往来へ落ちたのを、その時、馬子衆と立話しをしていたお侍が拾っていたようですから、戻って訊いてごらん", "ほんと", "え。ほんと", "ありがと" ], [ "はい", "お前だろう、万福寺の下で、この状入れを落したのは", "ああ、あったあった", "あったもないものじゃ、礼をいわんか", "すみません", "大事な返書ではないか。かような書面を持つ使いが、馬に悪戯したり、牛車の尻に乗ったり、道草をしていては主人に相済むまいが", "お武家さん、中を見たね", "拾い物は、一応中を検めて渡すのが正しいのだ。しかし、書面の封は切らん。おまえも中を検めて受け取れ" ], [ "お女中、この小僧は、あなたのお連れか", "いいえ、まるで知らない子でございますけれど", "ははは、どうも釣り合いが取れぬと思った。おかしな小僧だの、笠のきちんが振っておる", "無邪気なものでございますね、何処まで行くのでございましょう" ], [ "おや、お女中さん、おまえも状筒を持っているんだね、落さないようにした方がいいよ", "状筒を", "帯に差しているそれさ", "ホホホホ。これは、手紙を入れる竹筒ではありません。横笛です", "笛――" ], [ "このチビめ、隅には置けんわい。――人の名を問う時は、自分の名から申すのが礼儀じゃ", "おらは城太郎", "ホホホ", "狡いな、俺にだけ名のらせておいて。――そうだ、お武家さんがいわないからだ", "わしか" ], [ "庄田さんか。――下の名は", "名は勘弁せい", "こんどは、お女中さんの番だ、男が二人まで名をいったのに、いわなければ、礼儀に欠けるぜ", "わたくしは、お通と申します", "お通様か" ], [ "なんだって、笛なんか帯に差して歩いているんだね", "これは私の糊口すぎをする大事な品ですもの", "じゃあ、お通様の職業は、笛吹きか", "え……笛吹きという職業があるかどうかわかりませんが、笛のおかげで、こうして長い旅にも困らず過ごしておりますから、やはり、笛吹きでしょうね", "祇園や、加茂宮でする、神楽の笛?", "いいえ", "じゃあ、舞の笛", "いいえ", "じゃあ何ンだい一体", "ただの横笛" ], [ "城太郎、おまえの腰にさしているのは何だな", "侍が木剣を知らないのかい", "なんのために差しているのかと訊くのじゃ", "剣術を覚えるためにさ", "師匠があるのか", "あるとも", "ははあ、その状筒の内にある手紙の名宛の人か", "そうだ", "おまえの師匠のことだからさだめし達人だろうな", "そうでもないよ", "弱いのか", "あ。世間の評判では、まだ弱いらしいよ", "師匠が弱くては困るだろ", "おらも下手だからかまわない", "少しは習ったか", "まだ、なンにも習ってない", "あはははは、おまえと歩いていると、道が飽きなくてよいな。……してお女中は、どこまで参られるのか", "わたくしには、何処という的もございませぬが、奈良にはこの頃多くの牢人衆が集まっていると聞き、実は、どうあっても巡り会いたいお人を多年捜しておりますので、そんな儚い噂をたよりに、参る途中でございまする" ], [ "おお、これは小柳生の御家中様一服おあがり下さいませ", "やすませて貰おうか――その小僧に、何ぞ、菓子をやってくれい" ], [ "奈良へはまだ遠うございますか", "左様、足のお早いお方でも、木津では日が暮れましょう。女子衆では、多賀か井手でお泊りにならねば" ], [ "いいえ、願うてもないことでございますが、拙い笛、さような御身分のあるお方の前では", "いやいや、ただの大名衆のように思うては、柳生家では、大きにちがう。殊に石舟斎様と仰せられて、今では、簡素な余生を楽しんでいられる茶人のようなお方だ、むしろ、そういう気がねはお嫌いなさる" ], [ "そう決まれば、女子の足では夜にかけても、小柳生まではちと無理、お通どの、馬に乗れるか", "はい、厭いませぬ" ], [ "もう行くのかあいっ", "おお出かけるぞ", "お待ちようっ" ], [ "うむ……牢人どもが博奕をしているか", "博奕などはまだいい方なんで――押し借りはする、女はかどわかす、それで、強いと来ているから手がつけられませんや", "領主は、黙っているのか", "御領主だって、ちょっとやそっとの牢人なら召捕るでしょうが――河内、大和、紀州の牢人が合体になったら、御領主よりゃあ強いでしょう", "甲賀にもいるそうだの", "筒井牢人が、うんと逃げこんでいるんで、どうしても、もう一度戦をやらなけれやあ、あの衆は、骨になりきれねえとみえる" ], [ "牢人牢人っていうけれど、牢人のうちでも、いい牢人だってあるんだろ", "それは、あるとも", "おらのお師匠さんだって牢人だからな", "ははは、それで不平だったのか、なかなか師匠思いだの。――ところでおまえは宝蔵院へ行くといったが、そちの師匠は宝蔵院にいるのか", "そこへ行けば分ることになっているんだ", "何流をつかうのか", "知らない", "弟子のくせに、師匠の流儀を知らんのか" ], [ "旦那、この節あ、剣術流行りで猫も杓子も、武者修行だ。この街道を歩く武者修行だけでも一日に五人や十人はきっと見かけますぜ", "ほう、左様かなあ", "これも、牢人が殖えたせいじゃございませんか", "それもあろうな", "剣術がうめえッてえと、方々の大名から、五百石、千石で、引っ張りだこになるってんで、みんな始めるらしいんだね", "ふん、出世の早道か", "そこにいるおチビまでが木剣など差して、撲り合いさえ覚えれば、人間になれると思っているんだから空怖しい。こんなのが沢山できたら、行く末なんで飯を喰うつもりか思いやられますぜ" ], [ "馬子っ、なんだと、もう一ぺんいってみろ", "あれだ――蚤が楊子を差したような恰好をしやがって、口だけは一人前の武者修行のつもりでいやがる", "ははは、城太郎、怒るな怒るな。また、頸にかけている大事な物を落すぞ", "もう、大丈夫だい", "おお、木津川の渡舟へ来たからおまえとはお別れだ。――もう陽も暮れかかるゆえ、道くさをせず、急いで行けよ", "お通様は", "わたしは、庄田様のお供をして小柳生のお城へ行くことになりました。――気をつけておいでなさいね", "なんだ、おら、独りぽッちになるのか", "でもまた、縁があれば、どこかで会う日があるかも知れません――城太郎さんも旅が家、わたしも尋ねるお人に巡り会うまでは旅が住居", "いったい、誰をさがしているの、どんな人?", "…………" ], [ "お訊ねいたしますが", "はあ、なんじゃね", "当寺は、奥蔵院と申しますか", "はあ、そこに書いてある通り", "宝蔵院は、やはりこの油坂と聞きましたが他にございましょうか", "宝蔵院は、この寺と、背中あわせじゃ。宝蔵院へ、試合に行かれるのか", "はい", "それなら、よしたらどうじゃの", "は? ……", "折角、親から満足にもろうた手脚を、片輪を癒しに来るなら分っているが、何も遠くから、片輪になりに来るにも及ぶまいに" ], [ "――しかし、その後には、権律師胤舜どのが、宝蔵院流の秘奥をうけ、二代目の後嗣として、今もさかんに槍術を研鑽して、多くの門下を養い、また訪う者は拒まずご教導も下さるとか伺いましたが", "あ、その胤舜どのは、うちのお住持の弟子みたいなものでね、初代覚禅房胤栄どのが、耄碌されてしまったので、折角、槍の宝蔵院と天下にひびいた名物を、つぶしてしまうのも惜しいと仰っしゃって、胤栄から教わった秘伝を、うちのお住持がまた、胤舜に伝え、そして宝蔵院の二代目にすえたのだ" ], [ "でも、行って見るかね?", "せっかく参りましたものゆえ", "それもそうだ……", "当寺と、背中あわせと申すと、この山門の外の道を、右へ曲りますか、左へ参りますか", "いや、行くなら、当寺の境内を通って、裏を抜けて行きなさい、ずッと近い" ], [ "武芸者か", "はい", "何しに?", "ご教授を仰ぎたいと存じて", "上がんなさい" ], [ "兵法は誰について習ったのか", "我流でございます。――師と申せば、幼少の折、父から十手術の教導をうけましたが、それもよう勉強はせず、後に志を抱きましてからは、天地の万物を以て、また天下の先輩を以て、みなわが師と心得て勉強中の者でござります", "ふム……。そこで承知でもあろうが、当流は御先代以来、天下に鳴りわたっている宝蔵院一流の槍じゃ。荒い、激しい、仮借のない槍術じゃ。一応、その授業芳名録のいちばんはじめに認めてある文を読んでからにいたしてはどうだな" ], [ "いや……いずれまた", "そちらの人は", "ちと、きょうは気が冴えんので――" ], [ "どうぞとは?", "お願い申す" ], [ "方丈があいさつに出るところじゃが、つい昨日摂津の御影まで参ってな、まだ両三日せねば帰らぬそうじゃ。――で、わしが代ってごあいさつ申す仕儀でござる", "ごていねいに" ], [ "きょうは計らずも、よいご授業をうけましたが、ご門下の阿巌どのに対しては、なんともお気の毒な結果となり、申し上げようがござりませぬ", "なんの" ], [ "兵法の立合いには、ありがちなこと。床に立つまえから、覚悟のうえの勝敗じゃ。お気にかけられな", "して、お怪我のご様子は?", "即死" ], [ "お客", "はい", "宮本武蔵と申されたの", "左様でござります", "兵法は、誰に学ばれたか", "師はありませぬ。幼少から父無二斎について十手術を、後には、諸国の先輩をみな師として訪ね、天下の山川もみな師と存じて遍歴しておりまする", "よいお心がけじゃ。――しかし、おん身は強すぎる、余りに強い" ], [ "どういたしまして、まだわれながら未熟の見えるふつつか者で", "いや、それじゃによって、その強さをもすこし撓めぬといかんのう、もっと弱くならにゃいかん", "ははあ?", "わしが最前、菜畑で菜を耕っておると、その側をおてまえが通られたじゃろう", "はい", "あの折、おてまえはわしの側を九尺も跳んで通った", "は", "なぜ、あんな振舞をする", "あなたの鍬が、私の両脚へ向って、いつ横ざまに薙ぎつけて来るかわからないように覚えたからです。また下を向いて、畑の土を掘っていながら、あなたの眼気というものは、私の全身を観、私の隙をおそろしい殺気でさがしておられたからです", "はははは、あべこべじゃよ" ], [ "ご教訓のほど、有難く承りました。して、失礼ですが、貴僧はこの宝蔵院で、何と仰っしゃるお方ですか", "いやわしは、宝蔵院の者ではない。この寺の背中あわせの奥蔵院の住持日観というものじゃが", "あ、裏の御住職で", "されば、この宝蔵院の先代の胤栄とは、古い友達での、胤栄が槍をつかいおるので、わしもともに習うたものだが、ちと考えがあって、今では一切、手に取らんことにしておる", "では、当院の二代目胤舜どのは、あなたの槍術を学んだお弟子でございますな", "そういうことになるかの。沙門に槍など要らぬ沙汰じゃが、宝蔵院という名が、変な名前を世間へ売ってしもうたので、当院の槍法が絶えるのは惜しいと人がいうので胤舜にだけ伝えたのじゃ", "その胤舜どのがお帰りの日まで院の片隅へでも、泊めておいて貰えますまいか", "試合うてみる気か", "せっかく、宝蔵院を訪れたからには、院主の槍法を、一手なりと、拝見したいと思いますので", "よしなさい" ], [ "なぜですか", "宝蔵院の槍とは、どんなものか、今日の阿巌の技で、お身はたいがい見たはずじゃ。あれ以上の何を見る必要があるか。――さらに、もっと知りたくば、わしを見ろ、わしのこの目を見ろ" ], [ "茶漬けを進ぜる。お身ばかりでなく、一般の修行者にこれは出すことになっておる。当院の常例じゃ。その香の物の瓜は、宝蔵院漬というて、瓜の中に、紫蘇と唐辛子を漬けこんであって、ちょびと美味い。試みなされ", "では" ], [ "どうじゃの、お代りは", "十分、いただきました", "ところで宝蔵院漬の味は、いかがでござった?", "結構でした" ], [ "ただ今の、宮本でござるが", "ほう" ], [ "なんぞお忘れ物か", "明日か明後日あたり、私をたずねて、当院へ聞きに参る者があるはずですが、もしその者が見えたときは、宮本は当所の猿沢の池のあたりにわらじを解いているゆえ、あの辺の旅籠の軒を見て歩け、とお伝えを願いたいのです", "ああ、左様か" ], [ "ははあ、それで拙者のような旅人を、魔除けにお泊めなさるわけだな", "男気がないものですから" ], [ "そんなわけですから、どうぞ幾日でも", "心得た、拙者のいるうちは、安心なさるがよい。しかし連れの者が、追ッつけここへ捜して来ることになっている。門口へ、何か目印を出してもらいたいが", "よろしゅうございます" ], [ "おそらく、宝蔵院を訪れた者で、あそこの七足と呼ぶ高弟を一撃で仆したなどという記録は、今までにないことでござろう。殊に、あの傲岸な阿巌が、うんと呻ったきり、血涎れを出して参ってしまうなどは、近ごろ愉快きわまることだ", "吾々のうちでも、えらい評にのぼっておる。一体、宮本武蔵とは何者であろうなど、当地の牢人仲間では、寄るとさわると、貴公のうわさであるし、同時に、宝蔵院もすっかり看板へ味噌をつけてしまったというておる", "まず、尊公のごときは、天下無双といってもさしつかえあるまい", "年ばえもまだお若いしな", "伸びる将来性は、多分に持っておられるし", "失礼ながら、それほどな実力を持ちながら、牢人しておらるるなどとは、勿体ない" ], [ "そうそう、これは失礼をしておった。それがしは、もと蒲生殿の家人で、山添団八", "此方は大友伴立と申し、卜伝流を究め、いささか大志を抱いて、時勢にのぞまんとする野望もある者でござる", "また、てまえは、野洲川安兵衛といい織田殿以来、牢人の子の牢人者で。……ははははは" ], [ "拙者は、ばくち打ちではない。また、飯は箸で食う男で、木剣では食わん男だ", "なに、なんだと", "わからんか、宮本は痩せても枯れても、剣人をもって任じておるのだ、馬鹿、帰れっ" ], [ "ああくたびれた", "探したか", "探したとも。とッても、探しちまッたい", "宝蔵院で訊ねたであろうが", "ところが、あそこの坊さんに訊いても知らないというんだもの。おじさん、忘れていたのだろう", "いや、くれぐれも、頼んでおいたのだが。――まあよいわ、ご苦労だった", "これは吉岡道場の返辞" ], [ "――それから、もう一つのほうの使い、本位田又八という人には、会えなかったから、そこの家の者に、おじさんの言伝てだけをよく頼んで帰って来たよ", "大儀大儀。――さあ風呂へでも入れ、そして階下で御飯を食べてこい", "ここは宿屋?", "む。宿屋のようなものだ" ], [ "失礼でございますが、これは私が、お餞別のつもりで一昨日から縫いあげた小袖と羽織、お気に入りますまいが、お召しになってくださいませ", "え、これを" ], [ "おばさん、おらには、何をくれるの", "ホホホ。だって、あなたはお供でしょう、お供はそれでいいじゃありませんか", "着物なんか欲しくねえさ", "何か望みがあるんですか", "これをくれないか" ], [ "まだお返しせぬか。左様なもの、欲しがってはならん", "だって、いいといったんだよ、もう、くれたんだよ", "よいとはいわぬ。階下のお方へおもどしして来い", "ううん、階下で返すといったら、こんどは、あのおばさんの方から、そんなに欲しければ上げる、その代りに大事に持ってくれますかというから、きっと大事に持っていると約束して、ほんとに貰ったんだ", "困った奴" ], [ "何ですか、大変とは", "あなたが、今朝ここを立つのを知って、宝蔵院のお坊さま達が、槍を持って、十人余も連れ立ち、般若坂のほうへ行きました", "ほ", "その中には、院主の宝蔵院の二代様も見え、町の衆の眼をそばだたせました。何か、よほどな事が起ったのであろうと、宅の主が、その中の懇意なお坊さまをとらえて訊いてみると、おまえの親戚の者の家に四、五日前から泊っている宮本という男が、きょう奈良を離れるらしいから、途中で待ちうけるのだと申すではございませんか" ], [ "般若坂で、拙者を待ちうけるのだろうと、いっていましたか", "場所はよう分りませぬが、その方角へ行きました。宅の主もびっくりして、町の衆がいううわさを問い糺してみると、宝蔵院のお坊さまばかりでなく、所々の辻口に、奈良の牢人衆がかたまって、きょうは宮本という男を捕まえて、宝蔵院へ渡すのだといっているそうです。――何かあなたは、宝蔵院の悪口をいって歩きましたか", "そんな覚えはない", "でも、宝蔵院のほうでは、あなたが人をつかって、奈良の辻々に落首を書いて貼らせたと、ひどく怒っているそうです", "知らんな、人違いだろう", "ですから、そんなことで、お命を落しては、つまらないではございませんか", "…………" ], [ "夜を待っていれば、必ずお宅に禍いがかかります。ご親切をうけたり、迷惑をかけたりしては申しわけがない", "かまいません、私のほうは", "いや、立ちましょう。――城太郎、お礼をいわんか", "おばさん" ], [ "いいなあ、これからの山旅は、まるで鶯の声を踏んで歩いて行くようじゃないか", "え? なんですか", "鶯がさ", "あ。そうですね" ], [ "般若野がもう近いな", "え、奈良坂も過ぎましたよ", "ところで", "…………" ], [ "もうそろそろだ、わしとここでわかれるのだぞ", "…………", "わしから離れろ。――でないと側杖を食う、お前が怪我をする理由はちっともない" ], [ "おじさん、逃げよう", "逃げられないのが侍というものだ。おまえは、その侍になるのじゃないか", "恐い。死ぬのが恐い" ], [ "おらが可哀そうだと思って、逃げてよう、逃げてよう", "ああ、それをいわれるとおれも逃げたい。おれも幼少から骨肉に恵まれなかったが、おまえもおれに劣らない親の縁にうすい奴だ。逃げてやりたいが――", "さ、さ、今のうちに", "おれは侍、おまえも侍の子じゃないか" ], [ "おう、先日は", "いや過日は失礼を" ], [ "武蔵どの。これから、旅はどちらの方面へ", "伊賀を越え、伊勢路へ参ろうと思う。――貴公は", "それがしは、ちと用事があって、月ヶ瀬まで", "柳生谷は、あの近傍ではありませんか", "これから四里ほどして大柳生、また一里ほど行くと小柳生", "有名な柳生殿の城は", "笠置寺から遠くないところじゃ。あれへもぜひ立ち寄って行かれたがよいな。もっとも今、大祖宗厳公は、もう茶人同様に別荘のほうへ引き籠られ、御子息の但馬守宗矩どのは、徳川家に召されて、江戸に行っているが", "われらのような一介の遍歴の者にでも、授業して下さろうか", "たれかの紹介状でもあればなおよろしいが。――そうそう月ヶ瀬に此方の懇意にしている鎧師で柳生家へも出入りしている老人がある、なんなら頼んであげてもよいが" ], [ "はてな?", "何が", "あの煙", "それがどうしたのでござる" ], [ "どうもあの煙には妖気があるように思う。貴公の眼には、どう見えるな", "妖気というと?", "たとえば" ], [ "汝のひとみに漂っているようなものをいう!", "えっ", "見せてやるっ、このことだっ!" ], [ "聞くところによれば、汝、いささかの腕を誇って、この胤舜が留守中に、門下の阿巌を仆し、またそれに増長して、宝蔵院のことを、悪しざまに世間へいいふらしたのみか、辻々へ、落首など貼らせて、吾々を嘲笑したと申すことであるが、確とそうか", "ちがう!" ], [ "よく物事は、眼で見、耳できくばかりでなく、肚で観ろ、坊主ともある者が", "なにッ" ], [ "そうだっ", "むだ口を叩かすなっ" ], [ "お見知りおき下さい。わたくしが宝蔵院の胤舜です", "む。あなたが", "過日は、せっかくお訪ね下された由ですが、不在の折で、残念なことをしました。――なお、そのせつは門下の阿巌が、醜しい態をお目にかけ、彼の師として胤舜も恥じ入っております", "…………" ], [ "もう鴉のやつが、血を嗅ぎつけて、この野にあるたくさんの死骸に喉を鳴らしてやって来た", "――降りて来ないな", "おれたちが去れば、争って死骸へたかる" ], [ "いや貴公にお味方した覚えはない。ただすこし手荒ではござったが、奈良の大掃除をしただけのことです", "大掃除とは" ], [ "――老師、迅いの", "そちらが遅いのじゃ", "馬より迅い", "あたりまえ" ], [ "いつぞやは失礼", "あっ、その折は……" ], [ "お手をお上げ。野原の中で、そう慇懃なのもおかしい", "はい", "どうじゃな、今はすこし、勉強になったか", "仔細、お聞かせ下さいませ。どうして、こういうお計らいを?", "もっともだ。実はの" ], [ "今帰った役人たちは、奈良奉行大久保長安の与力衆でな、まだ奉行も新任、あの衆も土地に馴れん。そこをつけ込んで、悪い牢人どもが、押し借り、強盗賭試合、ゆすり、女隠し、後家見舞、ろくなことはせん。奉行も手をやいていたものだ。――山添団八、野洲川安兵衛など、あの連中十四、五がそのグレ牢人の中心と目されていた", "ははあ……", "その山添、野洲川などが、おぬしに怒りを抱いたことがあろう。だが、おぬしの実力を知っているので、その復讐を、宝蔵院の手でさせてやろう、こう、うまいことを彼奴らは考えた。そこで仲間を語らい、宝蔵院の悪口をいいふらし、落首など貼りちらして、それを皆、宮本の所為だと、いちいち、こっちへ告げ口に来たものだ。――わしを盲目と思うてな" ], [ "そんな気狂いじみた真似をしておらんで石を拾え、ここへ石を拾って来い", "こんな石でいいんですか", "もっと沢山――", "はい、はい" ], [ "忘れ物とは?", "会い難いこの世の御縁に、せっかくこうしてお目にかかったのです。どうか一手の御指南を" ], [ "――まだ分らんのか。お前さんに教えることといえば、強過ぎるということしかないよ。だが、その強さを自負してゆくと、お前さんは三十歳までは生きられまい。すでに、今日生命がなかったところだ。そんなことで、自分という人間を、どう持ってゆくんじゃ", "…………", "きょうの働きなども、まるでなっておらぬ。若いからまアまアせんないが、強いが兵法などと考えたら大間違い。わしなど、そういう点で、まだ兵法を談じる資格はないのじゃよ。――左様、わしの先輩柳生石舟斎様、そのまた先輩の上泉伊勢守殿――そういう人たちの歩いた通りを、これから、お身もちと、歩いてみるとわかる", "…………" ], [ "中国を出て、摂津、河内、和泉と諸国を見て来たが、おれはまだこんな国のあることを知らなかった。――そこで不思議といったのだよ", "おじさん、どこがそんなに違っているの", "山に樹が多い" ], [ "樹なんか、どこにだって沢山生えているぜ", "その樹が違う。この柳生谷四箇の庄の山は、みな樹齢が経っている。これはこの国が、兵火にかかっていない証拠だ。敵の濫伐をうけていない証だ。また、領主や民が、飢えたことのない歴史をも物語っている", "それから", "畑が青い。麦の根がよく踏んである。戸ごとには、糸をつむぐ音がするし、百姓は、道をゆく他国の者の贅沢な身装を見ても、さもしい眼をして、仕事の手を休めたりしない", "それだけ?", "まだある。ほかの国とちがって、畑に若い娘が多く見える。――畑に紅い帯が多く見えるのはこの国の若い女が、他国へ流れ出ていない証拠だろう。だからこの国は、経済にも豊かで、子供はすこやかに育てられ、老人は尊敬され、若い男女は、どんなことがあっても他国へ走って、浮いた生活をしようとは思わない。従って、ここの領主の内福なことも分るし、武器の庫には、槍鉄砲がいつでも研きぬいてあるだろうという想像もつく", "なんだ、なにを感心しているのかと思ったら、そんなつまらないことか", "おまえには面白くあるまいな", "だって、おじさんは、柳生家の者と試合をするために、この柳生谷へ来たんじゃないか", "武者修行というものは、何も試合をして歩くだけが能じゃない。一宿一飯にありつきながら、木刀をかついで、叩き合いばかりして歩いているのは、あれは武者修行でなくて、渡り者という輩、ほんとの武者修行と申すのは、そういう武技よりは心の修行をすることだ。また、諸国の地理水利を測り、土民の人情や気風をおぼえ、領主と民のあいだがどう行っているか、城下から城内の奥まで見きわめる用意をもって、海内隈なく脚で踏んで心で観て歩くのが、武者修行というものだよ" ], [ "城太郎、今、馬の上からお前を見て笑ったお人、あれは誰だ", "庄田さんて――柳生様の家来だって", "どうして知っているのか", "いつか、奈良へ来る途中、いろいろ親切にしてくれたから", "ふム", "ほかに、何とかいう女の人とも道連れになって、木津川渡舟までおらと三人、一しょに歩いて来たのさ" ], [ "おめえ、何てえ名だい", "知らんが", "阿呆、自分の名を", "小茶ってんだよ", "変な名", "大きにお世話" ], [ "なんといったかな、先ほど参った柳生家の用人は", "庄田喜左衛門だろう", "そうか。――柳生も用人を使いに立てて試合を断るようでは、名ほどのこともないと見えるぞ", "誰に対しても、近頃は、あの用人がいったように、石舟斎は隠居、但馬守儀は、江戸表へ出府中につき――という口上で、試合を謝絶しているのだろうか", "いや、そうじゃあるまい。こちらが、吉岡家の次男と聞いて、大事を取り、敬遠したに相違ないさ", "御旅中のお慰みにと菓子などを持たせて寄こしたところは、柳生もなかなか如才ないではないか" ], [ "ああいい気持", "旅ごこちは、湯上がりの、この一刻にあるな", "女の酌で、晩に飲むのは", "なおいい" ], [ "おや、どうした?", "旦那はん、あの子が、あたいをこんなに撲ったの", "嘘だい!" ], [ "だって、そのおたんこ茄子が、おじさんのことを、弱いっていったからさ", "嘘、嘘", "いったじゃないか", "旦那はんのことを弱いって、誰もいいはしないよ。おまえが、おらのお師匠様は日本一の兵法家で般若野で何十人も牢人を斬ったなんて、あんまり自慢して威張るから、日本一の剣術の先生は、ここの御領主様のほかにないよといったら、何をって、あたいの頬を撲ったんじゃないか" ], [ "おい", "はい", "湯に入ってこい", "お湯はきらいだ", "おれと似ているな。だが、汗くさくていかん", "明日、河へ行って泳ぐ" ], [ "大殿さまは、よほど茶道もお花もお習いになったのでしょう", "うそを申せ、わしは公卿じゃなし、挿花や香道の師についたことはない", "でも、そう見えますもの", "なんの、挿花を生けるのも、わしは剣道で生けるのじゃ", "ま" ], [ "剣道で挿花が生けられましょうか", "生かるとも。花を生けるにも、気で生ける。指の先で曲げたり、花の首を縊めたりはせんのじゃ。野に咲くすがたを持って来て、こう気をもって水へ投げ入れる。――だからまずこの通り、花は死んでいない" ], [ "お通どの", "はい" ], [ "まあ、これは。……さあどうぞ", "大殿は", "御書見でいらっしゃいます", "ちょっと、お取次ぎ下さい。――喜左衛門、ただ今、お使いから戻りましたと" ], [ "ホホホ。庄田様、それはあべこべでございます", "なぜ", "わたくしは、外から呼ばれて参っている笛吹きの女、あなたは柳生家の御用人さま", "なるほど" ], [ "しかしここは、大殿だけのお住居、そなたはべつなお扱いじゃ――とにかくお取次を", "はい" ], [ "行って来たか", "仰せのように致して参りました。ていねいに、お言葉を伝え、お表からとして、菓子を持参いたしました", "もう立ったか", "ところが、てまえがお城へ戻るとまた、すぐ追いかけて、旅籠の綿屋から書面を持たせてよこし、折角の途上、曲げても、小柳生城の道場を拝見して参りたいから、明日はぜひとも、城内へお訪ねする。また、石舟斎様にも親しくお目にかかって、ごあいさつしたいというのでござります", "小せがれめ" ], [ "宗矩は江戸、利厳は熊本、そのほか皆不在と、よくいったのか", "申しましたのです", "こちらから、鄭重に断りの使者までつかわしたに、押しつけがましゅう、強って訪ねてくるとは、嫌な奴だ", "なんとも……", "うわさの通り吉岡の伜どもは、あまり出来がよくないとみえる", "綿屋で会いました。あそこに、伊勢詣りの戻りとかで滞在中の伝七郎という人、やはり人品がおもしろうございませぬ", "そうじゃろう、吉岡も先代の拳法という人間は相当なものだった。伊勢殿とともに、入洛の折は、二、三度会うて、酒など酌み交わしたこともある。――が、近ごろはとんと零落の様子、その息子とあるがゆえに、見くびって、門前ばらいも済まぬ、というて、気負うている若い小せがれに、試合を挑まれて、柳生家が叩いて帰しても始まらぬ", "伝七郎とかいう者、なかなか自信があるらしゅうございます。強って、来るというのですから、私でも、あしらってつかわしましょうか", "いや、止せ止せ。名家の子というものは、自尊心がつよくて、ひがみやすい。打ち叩いて帰したら、ろくなことをいい触らしはせん。わしなどは、超然じゃが、宗矩や利厳のためにならぬ", "では如何いたしましょうか", "やはり、ものやわらかに、名家の子らしゅう扱って、あやして帰すに如くはない。……そうじゃ、男どもの使者ではかどが立つ" ], [ "使いには、そなたがよいな、女がよい", "はい、行って参りましょう", "いや、すぐには及ぶまい。……明朝でいい" ], [ "おや、お通さん。――どちらまで?", "お城下の綿屋という旅籠まで、大殿のお使者に参ります", "では、お供いたしましょう", "それには及びませぬ", "だいじょうぶで?", "馬は好きです。田舎にいた頃から、野馬に馴れておりますから" ], [ "お通様がとおる", "あの人がお通様か" ], [ "もし、わざわざ来て下さらなくても、およそ口で仰っしゃって下さればようございますのに", "なに、すぐそこだがな" ], [ "此家だがな、綿屋さんは", "ありがとう" ], [ "何家の?", "誰のお客" ], [ "おひらき下さいませ", "ほ。……このお文" ], [ "これだけでござるか", "それから――かように大殿のおことばでございました。せめて、粗茶の一ぷくなりとさし上げたいのですが、家中武骨者ぞろいで、心ききたる者はいず、折わるく子息宗矩も、江戸表へ出府の折、粗略あっては、都の方々へ、かえってお笑いのたね、また失礼。いずれまたのおついでの節にはと――", "ははあ" ], [ "仰せによると、石舟斎どのは、何か、吾々が茶事のお手前でも所望したように受り取っておられるらしいが、それがしどもは、武門の子、茶事などは解さんのでござる。お望み申したのは、石舟斎どののご健存を見、ついでに御指南を願ったつもりであるが", "よう、ご承知でいらっしゃいます。したが、近頃は、風月を友にして、余生をお送りあそばしているお体、何かにつけ、茶事に託してものを仰っしゃるのが癖なのでございまする", "ぜひがない" ], [ "あの、これは、道中のお慰みに、お駕なれば駕の端へ、馬なれば鞍のどこぞへでも挿して、お持ち帰り下さるようにと、大殿のおことばでございましたが", "なに、これを土産にだと" ], [ "え。御用がすみましたから", "早いんですね" ], [ "この芍薬、白い花が咲くんですか", "そうです、お城の白芍薬ですの、ほしいならば上げましょうか", "下さい" ], [ "旦那はん、花お好き", "花" ], [ "……ほ、よい花だな", "好き", "好きだ", "芍薬ですって。――白い芍薬", "ちょうどよい。そこの壺に挿しておくれ", "あたいには挿せない。旦那はん挿して", "いや、おまえがいいのだ。無心が却っていい", "じゃあ、水を入れてくる" ], [ "この花は、誰が切って来たのか知らないか", "もらったの", "誰に", "お城の人に", "小柳生城の家中か", "いいえ女の人", "ふウム。……では城内に咲いていた花だの", "そうだろ", "悪かった、後でおじさんが菓子を買おう、今度はちょうどよい筈だから、壺へ挿してごらん", "こう?", "そうそう、それでよい" ], [ "誰かと思ったら、おまえはいつか、大和街道でベソを掻いていた城太郎という子でしたね", "ベソ掻いて? ――嘘ばっかりいってら、おら、あの時だって、泣いてなんかいやしねえぜ", "それはとにかく、いつここへ来たの", "この間うち", "誰と", "お師匠様とさ", "そうそう、おまえは、剣術つかいのお弟子さんでしたね。――それが今日はどうしたの、裸になって", "この下の渓流で、泳いで来たんだ", "ま。……まだ水が冷たいだろうに、泳ぐなんて、人が見ると笑いますよ", "行水だよ。お師匠様が、汗くさいっていうから、お風呂のかわりに入って来たのさ", "ホホホ。宿は", "綿屋", "綿屋なら、たった今、私も行って来た家ですね", "そうかい。じゃあ、おらの部屋へ来て、遊んでゆけばよかったな、もどらないか", "お使いに来たのですから", "じゃあ、あばよ" ], [ "城太郎さん、お城へ遊びにおいで――", "行ってもいいかい" ], [ "いいけど、そんなかっこうじゃ駄目ですよ", "じゃ嫌だよ。そんな窮屈なところへなんか、行ってやるもんか" ], [ "だが、吉岡のせがれ伝七郎とかいう者、あの芍薬を、手には取って見たろうな", "はい、お文を解く時", "そして", "そのまま突き戻しました", "枝の切り口は見なかったか", "べつに……", "何も、そこに眼をとめて、いわなかったか", "申しませんでした" ], [ "おじさん、今日は――", "こら、なんで貴さま、お城へなど入って来たか", "門にいた人に連れて来てもらったんだ" ], [ "なんだ、この小僧は", "あなた様にお目にかかりたいと申すので", "こんな小僧のことばを取り上げて、御城内へ連れて来てはいかん。――小僧", "はい", "ここはお前たちの遊びに来る場所ではない。帰れ", "遊びに来たんじゃない。お師匠様の手紙をもって、使いに来たんだ", "お師匠様の……。ははあ、そうか。おまえの主人は、武者修行だったな", "見てください、この手紙", "読まんでもいい", "おじさん、字が読めないのかい?", "なに" ], [ "ばかをいえ", "じゃあ、読んだらいいじゃないか", "こいつ、喰えん小僧だ。読まんでもいいというのは、たいがい、読まなくとも分っているという意味だ", "わかっているにしても、一応は読むのが礼儀じゃないか", "孑孑や蛆ほど多い武者修行に、いちいち礼儀を執っていられないことは許してくれ。この柳生家で、それをやっていたら吾々は毎日、武者修行のために奉公していなければならないことになる。――そういっては、せっかく使いに来たおまえに可哀そうだが、この手紙も、ぜひ一度、鳳城の道場を拝見させていただきたい、そして、天下様御師範のお太刀の影なりともよろしいから、同じ道に志す後輩のために、一手の御授業を賜わりたい……。まあ、そんなところだろうなあ" ], [ "おじさん、まるで中を読んでるようなことをいうね", "だから見たも同じだといっておるじゃないか。ただし、柳生家においても、何もそう訪ねてくる者を、素ッ気なく追い返すというわけではない" ], [ "おい、おじさん", "なんじゃ", "人を見てものをいいなよ。おれは、乞食の弟子じゃないぜ", "ふム。貴さま……、ちょっと口がきけるの", "もし、手紙を開けて見て、おじさんがいったことと、書いてある用向きと、まるで、違っていたらどうする?", "むむ……", "首をくれるかい", "待て待て" ], [ "首はやれん", "じゃあ、手紙を見ておくれよ", "小僧", "なんだい", "貴さまが、師の使命を恥かしめぬ心にめでて、見てつかわす", "あたりまえだろ。おじさんは柳生家の用人じゃないか", "舌は、絶倫だな。剣もそんなになればすばらしいが……" ], [ "城太郎。――この手紙のほかに、何か持って来たか", "あ、忘れていた、これを" ], [ "これは一昨日、大殿が手ずからお切りになったものだ。――庄田殿は、その折おそばにいたはずではないか", "いや、花をお挿けになっているのは見たが", "その時の一枝だ。――それをお通が、殿のいいつけで、吉岡伝七郎の許へ、お文を結びつけて携えて行ったもの", "オ。あれかな?" ], [ "文字にも、気稟がみえる", "人物らしいな" ], [ "もし、この手紙にある通り、ほんとに、芍薬の枝の切り口を一見して、非凡と感じたのなら、これはおれたちより少し出来る。――大殿が手ずから切ったものだから、或は、まったく鑑る者が鑑れば違っているのかも知れないからな", "むム……" ], [ "使いに来た小僧が、待っておるのだ。――呼んでみるかの", "どうじゃ" ], [ "ハイ。それだけです、もうよございますか", "ご苦労だった" ], [ "どうしたの、城太郎さん", "犬にやられたんだ", "ま、どこの犬", "お城の――", "アア、あの黒い紀州犬。あの犬じゃ、いくら城太郎さんでもかなうまいよ。いつかも、お城の中へ忍び込もうとした他国の隠密の者が噛み殺されたというくらいな犬だもの" ], [ "城太郎さん、そんなに、男のくせに、安ッぽく頭を下げるものじゃないわ", "だって", "喧嘩しても、あたし、ほんとは城太郎さんが好きなんだもの", "おらだって", "ほんまに" ], [ "でも、城太郎さんの先生は、もうすぐここを立つんだろ", "まだいるらしいよ", "一年も二年も泊っているとうれしいんだけど……" ], [ "ア痛っ", "痛かった。ごめん", "ううん、いいの、もっと噛んで", "いいかい", "アア、もっと噛んで、もっと強く噛んで――" ], [ "旦那はん、もう、今夜は、此宿へ帰って寝ないの", "ウム。長い間、小茶ちゃんにもお世話になったな" ], [ "……左様なら", "……あばよ" ], [ "まだか?", "何処", "小柳生城の大手門は", "お城へ行くの", "うむ", "今夜はお城で泊るのかい", "どうなるか、わからんが", "もうそこだよ、大手門は", "ここか" ], [ "今宵は、ようこそお越し下さいました。木村様、出淵様、村田様みなお待ちかねでございましたが、ただ庄田様のみが、生憎と突然な公用で、ちと遅なわりまするが、やがてすぐ参られますゆえ、暫時お待ちのほどを", "閑談の客でござる、お気づかいなく" ], [ "それがしは、馬廻り役木村助九郎", "拙者は、納戸方村田与三", "出淵孫兵衛でござる" ], [ "お客殿、こんな山家のことゆえ、何もないのです。ただ、寛いでどうぞ", "ささ、遠慮なく", "お膝を" ], [ "貴君から先日お訊ねのあった芍薬の枝ですな。あれは実は、当家の大殿がお手ずから切ったものだそうです", "道理で、お見事なわけ" ], [ "どうして、あんな柔軟な細枝の切り口を見て、非凡な切り手ということが貴君には分りましたか。そのほうが、吾々には、むしろ怪訝しいのですが", "…………" ], [ "恐縮です", "いや、ご謙遜なさらずに", "謙遜ではござらぬ。有り態に申して、ただ、そう感じたというだけに過ぎませぬ", "その感じとは?" ], [ "ひとつ、貴君のいうところの感じとは、どういうものか、お話し下さらんか。この新陰堂は、上泉伊勢守先生が、当城に御滞在中、先生のため御別室として建てたもので、剣法に由縁のふかいものなのです。こよい武蔵どのの御講話を拝聴するにも、最もふさわしい席と思うが", "困りましたな" ], [ "ちと心懸りな儀がござる。犬の斃れておる場所へ参りたいと思いますが、ご案内下さるまいか", "おやすいこと" ], [ "なぜ撃ち殺した?", "殺すわけがあるから殺した", "わけとは", "かたきをとったんだ", "なに" ], [ "たれのかたきを?", "おれのかたきをおれが取ったんだ。おととい使いに来た時、この犬めが、おれの顔をこの通りに引っ掻いたから、今夜こそ撃ち殺してやろうと思って、捜していると、あそこの床下に寝ていたから、尋常に勝負をしろと、名乗って戦ったんだ。そしておれが勝ったんだ" ], [ "何するんだ!", "お犬を撃ち殺したからには、お犬のとおりに打ち殺してくれる", "おれは、このあいだの、返報をしたんだ。返報のまた返報をしてもいいのか。大人のくせにそれくらいな理窟がわからないのか" ], [ "いうまでもなく、双方に糺すのじゃ", "よろしい。然らば、主従二人して、お相手いたそう。それっ、お渡しするぞ" ], [ "や、やったなっ", "どこの素浪人" ], [ "不逞な奴っ", "どこぞの諜者だろう、縛ってしまえ", "いや、斬ッちまえ" ], [ "あぶないっ", "手を出すな" ], [ "ここは、吾々にまかせろ", "各〻は、各〻のお役室へもどっておれ" ], [ "何処へ?", "牢内へ" ], [ "牢は、こちらでない。後へもどれ", "もどらん" ], [ "もどれ", "もどらぬ" ], [ "どうしても戻らぬな", "む! 一歩も", "うぬっ" ], [ "もどらぬなら戻らぬでよろしい。しかし、汝は、何処へ行こうとするか", "当城の主、石舟斎へ会いにまいる", "なに?" ], [ "大殿へ会って、何とする気じゃ", "それがしは、兵法修行中の若輩者、生涯の心得に、柳生流の大祖より一手の教えを乞わんためでござる", "しからばなぜ、順序をふんで、我々にそう申し出ないか", "大祖は、一切人と会わず、また修行者へは、授業をせぬと承った", "勿論", "さすれば、試合を挑むよりほか道はあるまい、試合を挑んでも、容易に余生の安廬より起って出ぬに相違ない。――それゆえ拙者は、この一城を相手にとって、まず、合戦を申しこむ", "なに、合戦を?" ], [ "――汚し", "――武蔵っ", "恥を知れっ" ], [ "なアんだ、こんなところにいたのか", "だから、私の後に尾いておいでなさいといったでしょう", "雉子がいたから、追いつめてやったんだ", "雉子などを捕まえているよりも、夜が明けたら、大事な人を捜さなければいけないじゃありませんか", "だけど、心配することはないぜ。おれのお師匠様に限っては滅多に討たれる気づかいはないから", "でも、ゆうべお前は、何といって、私のところへ駈けつけて来たの? ……今、お師匠様の生命が危ないから、大殿様にそういって、斬り合いをやめさせてくれと呶鳴って来たじゃありませんか。あの時の城太さんの顔つきは、今にも泣き出してしまいそうでしたよ", "それや、驚いたからさ", "驚いたのは、おまえよりも、私のほうでした。――おまえのお師匠様が、宮本武蔵というのだと聞いた時――私は余りのことに口がきけなかった", "お通さんは、どうしておらのお師匠様を前から知っていたんだい", "同じ故郷の人ですもの", "それだけ", "ええ", "おかしいなあ。故郷が同じというだけくらいなら、何もゆうべ、あんなに泣いてうろうろすることはないじゃないか", "そんなに私、泣いたかしら", "人のことは覚えていても、自分のことは忘れちまうんだな。……おらが、これは大変だ。相手が四人だ、ただの四人ならよいが、みんな達人だと聞いていたから、これは捨てておくと、お師匠様も、今夜は斬られるかも知れない……。そう思ッちまって、お師匠様に加勢する気で、砂をつかんで、四人の奴らへ投げつけていると、あの時、お通さんが、どこかで笛を吹いていたろう", "ええ、石舟斎様の御前で", "おれは、笛を聞いて、ア、そうだ、お通さんにいって、殿様に謝ろうと胸の中で考えたのさ", "それでは、あの時、私のふいていた笛は武蔵様にも聞えていたのですね。たましいが通ったのでしょう、なぜなら私は、武蔵様のことを思いながら、石舟斎様の前であれを吹いていたのですから", "そんなことは、どッちだっていいけれど、おらは、あの笛が聞えたんで、お通さんのいる方角が分ったんだ。夢中になって、笛の聞えるところまで駈けてッた。そして、いきなり何といっておらは呶鳴ったんだっけ", "合戦だっ、合戦だっ。――と呶鳴ったんでしょう。石舟斎様も、おどろいたご様子でしたね", "だが、あのお爺さんは、いい人だな。おらが、犬の太郎を殺したことを話しても、家来のように怒らなかったじゃないか" ], [ "城太さん、何を拾っているの。早くお出でなさいよ", "待ちなよ、お通さん", "ま、そんな汚い手拭なんか拾って、どうするつもり?" ], [ "そうだそうだ、奈良の後家様のうちでもらったんだ。紅葉が染めてある。そして、宗因饅頭の『林』という字も染めてあら", "じゃあ、この辺に?" ], [ "――お通さん、お通さん、何処へ行くのさ!", "武蔵様が駈けてゆく", "え、え、どっちへ", "彼方へ", "見えないよ", "――あの、林の中を" ], [ "お師匠様なら、おらたちの姿を見て、逃げてゆくわけはない、人違いだろ", "でも、御覧", "だから何処にさ", "あれ――" ], [ "そうか、なるほど、女というものは、男にはできない生涯を選ぶものだ。――そこで、お通さんの今考えていることは、これからどっちを歩こうという岐れ道の相談じゃろ", "いいえ……", "じゃあ……?", "今さら、そんなことに、迷ってはおりません" ], [ "あきらめようか、どうしようか、そんな迷いをしているくらいなら、私は七宝寺から出てなど参りません。……これからも行こうとする途は決まっているのです。ただそれが、武蔵さまの不為であったら――私が生きていてはあの方の幸福にならないのなら――私は自分を、どうかするほかないのです", "どうかするとは", "今いえません", "お通さん、気をつけな", "何をですか", "おまえの黒髪をひっぱっているよ。この明るい陽の下で死神が", "私には何ともありません", "そうだろう、死神が加勢しているんじゃもの。――だが、死ぬほどうつけはないよ。それも片恋ではな。ハハハハハ" ], [ "お通さん、おまえはなぜ男に生れなかったのだい。それほど強い意思の男ならば、尠くも一かど国のために役立つ者になれたろうに", "こういう女があってはいけないんですか。武蔵さまの不為なのですか", "ひがみなさんな。そういったわけではない。――だが武蔵は、おまえがいくら愛慕を示しても、そこから逃げてしまうんじゃないか。――そうとしたら、追ってもつかまるまい", "おもしろいので、こんな苦しみをしているのではありません", "少し会わないうちに、お前も世間なみの女の理窟をいうようになったの", "だって。……いえ、もうよしましょう、沢庵さんのような名僧智識に、女の気持がわかるはずはありませんから", "わしも、女の子は、苦手だよ、返辞にこまる" ], [ "お通さん、ではもう石舟斎様にお別れもせずに、自分の行きたい途へ行くつもりか", "ええお別れは、心のうちでここからいたします。もともと、あの御草庵にも、こんな長くお世話になるつもりもなかったのですから", "思い直す気はないか", "どういうふうに", "七宝寺のある美作の山奥もよかったが、この柳生の庄もわるくないの。平和で醇朴で、お通さんのような佳人は、世俗の血みどろな巷へ出さずに、生涯そっと、こういう山河に住まわせて置きたいものじゃ。たとえばそこらに啼いている鶯のようにな", "ホ、ホ、ホ。ありがとうございます。沢庵さん", "だめだ――" ], [ "だが、お通さん。――そっちへ行くのは、無明の道だぞ", "無明", "おまえも寺で育った処女じゃから、無明煩悩のさまよいが、どんなに果てなきものか、悲しいものか、救われ難いものかぐらいは知っておろうが", "でも、私には、生れながら有明の道はなかったんです", "いや、ある!" ], [ "わしから石舟斎様へよう頼んであげよう。身の振り方を、生涯の落着きを。――この小柳生城にいて、よい良人をえらび、よい子を生み、女のなすことをなしていてくれたら、それだけここの郷土は強くなるし、そなたもどんなに幸福か知れぬが", "沢庵さんのご親切はわかりますけど……", "そうせい" ], [ "おら嫌だ。お師匠さまの後を追いかけて行くんだから", "行くにしても、一度、山荘へもどれ、そして石舟斎さまにごあいさつ申しての", "そうだ、おら、御城内へ大事な仮面を置いて来た。あれを取りにゆこう" ], [ "やんぬる哉。――釈尊も女人は救い難しといったが", "左様なら。石舟斎様へは、ここから拝んで参りますが、沢庵さんからも……どうぞ", "ああ、われながら坊主が馬鹿に見えて来る。行く先々で、地獄ゆきの落人ばかりに行き会う。……お通さん、六道三途で溺れかけたら、いつでもわしの名をお呼び。いいか、沢庵の名を思い出して呼ぶのだぞ。――じゃあ行けるところまで行ってみるさ" ] ]
底本:「宮本武蔵(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年11月11日第1刷発行    2010(平成22)年5月6日第41刷発行    「宮本武蔵(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年11月11日第1刷発行    2003(平成15)年1月30日第40刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年12月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052397", "作品名": "宮本武蔵", "作品名読み": "みやもとむさし", "ソート用読み": "みやもとむさし", "副題": "03 水の巻", "副題読み": "03 みずのまき", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-02-16T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52397.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "宮本武蔵(一)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年11月11日", "入力に使用した版1": "2010(平成22)年5月6日第41刷", "校正に使用した版1": "2010(平成22)年5月6日第41刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "宮本武蔵(二)", "底本出版社名2": "吉川英治歴史時代文庫15、講談社", "底本初版発行年2": "1989(平成元)年11月11日", "入力に使用した版2": "2003(平成15)年1月30日第40刷", "校正に使用した版2": "2003(平成15)年1月30日第40刷", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52397_ruby_49782.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52397_49783.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "どうって、何が?", "世の中がよ", "変るだろう。こいつあ、はっきりしたことだ。変らない世の中なんて、そもそも、藤原道長以来、一日だってあった例はねえ。――源家平家の弓取が、政権を執るようになってからは猶さらそいつが早くなった", "つまり、また戦か", "こうなっちまったものを、今さら、戦のない方へ、世の中を向け直そうとしても、力に及ぶまい", "大坂でも、諸国の牢人衆へ、手をまわしているらしいな", "……だろうな、大きな声ではいえねえが、徳川様だって、南蛮船から銃や弾薬をしこたま買いこんでいるというし", "それでいて――大御所様のお孫の千姫を、秀頼公の嫁君にやっているのはどういうものだろ?", "天下様のなさることは、みな聖賢の道だろうから、下人にはわからねえさ" ], [ "戦争になるか", "なれば何日頃?" ], [ "べら棒め、銭がねえや", "ただなら食ってやる" ], [ "な、なあに、大したことはないが、少し暑さ中りしたらしいんだ。……すまないが、午から一刻ほど、休ましてくれ", "意気地のねえ野郎だな" ], [ "なんだい、その西瓜は。喰えもしねえのに買ったのか", "仲間にすまないから、みんなに喰べてもらおうと思って", "そいつあ如才のねえこった。おい、又八の奢りだとよ、食ってやれ" ], [ "どういたした?", "へい……暑さ中りで", "苦しいのか", "少し落ちつきましたが……まだこう吐きそうなんで", "薬をやろう" ], [ "すぐ癒る", "ありがとう存じます", "にがいか", "そんなでもございません", "まだ、貴様はそこで、仕事を休んでおるのか", "へ……", "誰か参ったら、ちょっとおれの方へ声をかけてくれ、小石で合図をしてくれてもいい、頼むぞ" ], [ "見せろ", "無礼なッ", "役目だ", "なんであろうが", "見ては悪いものか", "悪いっ。貴様などが見たってわかるもんじゃない", "とにかく預る", "いかん!" ], [ "曳ッ立てるぞ、素直にせぬと", "どこへ", "奉行所へ", "貴様、役人か", "然り", "何番の。誰の", "左様なこと、汝らが、訊かんでもいい。此方は、工事場見廻りの役、怪しいと認めたによって、取調べるのじゃ――誰様のおゆるしをうけて、お城の地勢や、御普請などを写し取ったか", "おれは武者修行だ、後学のため諸国の地理や築城を見学しておる、なんでわるいか", "さような口実でうろついておる敵の間者は、蠅や蟻ほど多いのじゃ。……とにかくこれは返せん、其方も一応取りただすによって、あっちまで来い", "あっちとは", "工事奉行のお白洲", "おれを罪人扱いするのか", "だまって参るのだ", "役人、こらっ。――貴様あ、そんな権柄顔さえすれば愚民が驚くと思っておる癖がついてるな", "歩かんか", "歩かせてみろ" ], [ "なんだ?", "何だ", "また、喧嘩か" ], [ "間者だな! 大坂の", "性懲りもなく", "ぶっ殺せ" ], [ "殺っちまえ", "たたっ殺してしまえっ" ], [ "殺っちまえ", "のしちまえ" ], [ "暗かろ、又八さん", "なに、べつに", "今すぐ灯りをつけるで", "それには及ばないよ、出かけるから", "行水は", "いらん", "体でも拭いて行ったら", "いらん" ], [ "おれを、足蹴にしたな、おれを", "したくらいでは、腹が癒えんわい。おのれ、誰に断って、ここにある雑炊飯のあまりと酒を食らったか", "おぬしのか", "わしのじゃ!", "それやあ済まなかった", "済まなかったで済もうか", "謝る", "謝るとだけでことは納まらん", "じゃあ、どうしたらいいんだ", "かやせ", "返せたって、もう腹の中に入って、おれの今日の生命のつなぎになっているものをどうしようもねえ", "わしとて、生きて行かねばならん者だ。一日尺八をふいて、人の門辺に立っても、ようよう貰うところは、一炊ぎの米と濁酒の一合の代が関の山じゃ。……そ、それを無断であかの他人のおのれらに食われて堪ろうか。かやせ! かやせ!" ], [ "ばかをいえ、残り飯でも、この身にとれば一日の糧だ、一日の生命だ。かやせっ、かやさなければ――", "どうするって", "うぬっ" ], [ "ただはおかぬっ", "ふざけるなっ" ], [ "ま、ま、止したらどうだ、そんな無茶な真似", "措いて下され", "どうしたんだい", "どうもせぬ", "病気か", "病気じゃござらぬ", "じゃあなんだ", "この身が忌々しいだけじゃ。かような肉体は、自分で打ち殺して、鴉に喰わせてやったほうがましじゃが、この愚鈍のままで殺すのも忌々しい。せめて人なみに性を得てから、野末に捨ててやろうと思うが、自分で自分がどうにもならぬので焦れるのじゃ。……病気といわれれば病気かのう" ], [ "変な人だな、おめえは", "さほどでもござらぬ", "いや、どうしても、少しおかしいところがあるぜ", "どうなとしておかれい", "虚無僧、おぬしには、時々、中国訛りが交じるな", "姫路じゃもの", "ほ……。おれは美作だが" ], [ "してまた、作州はどこか", "吉野郷", "えっ。……吉野郷とはなつかしいぞ。わしは、日名倉の番所に、目付役をして詰めていたことがあるで、あの辺のことは相当に知っておるが", "じゃあ、おぬしは、元姫路藩のお侍か", "そうじゃ、これでも以前は、武家の端くれ、青木……" ], [ "おやじ、よく人が出るな", "師走なので、人は出ても、人足は止まりませぬでなあ", "天気がつづくからいい" ], [ "燗のつく間、どうですか一献。飲みかけで失礼だが", "これは――" ], [ "越前宇坂之庄浄教寺村の、富田流の開祖、富田入道勢源先生をごぞんじか", "名だけは聞いておる", "その道統をうけ、中条流の一流をひらかれた無慾無私の大隠、鐘巻自斎といわるる人は、私の恩師でござる" ], [ "じゃあ、貴公は、剣術を", "左様" ], [ "――多分、実はさっきから、そうじゃないかと、拙者も見ておったので。やはり鍛えた体はちがうとみえ、どこか出来ているな、……して、鐘巻自斎の御門下で、何と仰せられるか。さしつかえなくば、ご姓名を", "佐々木小次郎という者で、伊藤弥五郎一刀斎は、私の兄弟子です", "えっ" ], [ "いや、お手を上げて下さい。そう改まられては、私こそ、ご挨拶のしようがない", "いや、先ほどから、広言のみ吐いてさぞお聞き苦しかったことで", "なに、私こそ、まだ仕官もせず、世間も知らぬ若輩者で", "でも、剣においては。――いやよくお名まえは彼方此方で聞きますぞ。……そうだ、やはり佐々木小次郎" ], [ "その上で、まだご仕官もなさらぬのか、惜しいものだ", "ただ剣一方に、すべてを打ち込んで来たので、世間にはとんと何の知己もないために", "や、なるほど。――ではまんざら仕官のお望みがないわけでもないので", "もとより。いずれは、主人を持たねばならぬと考えていますが", "ならば、造作もないこと。――実力があるのだからたしかなものだ。もっとも実力があっても、黙っていては容易に見出されるはずはない。こうお目にかかっても、それがしですら、尊名を聞いて初めて驚いたようなもので" ], [ "ぜひ、ご尽力をねがいたいが、この路傍では、十分な話もできぬ。どこか座敷のあるところへでも行って", "ああそうか" ], [ "晩までつきあったらどうするんだ", "今夜、薄田兼相のやしきへ行って兼相と会う約束がしてあるんだ。今から出ても時刻が半端だし……。それに、そうだ、貴公の望みももっとよく聞いて置かなければ、先へ行って話もできない", "禄など、初めからそう望んでも無理だろう", "いかん、自分からそんな安目を売ってはいかん。とにかく中条流の印可を持って、佐々木小次郎ともいわれる侍が、禄はいくらでもいいから、ただ仕官がしたいなどといったら、かえって先から蔑まれるぞ。――五百石もくれといっておこうか、自信のある侍ほど手当や待遇なども大きく出るのが通例だからな、やせ我慢などせぬがいいのだ" ], [ "あの腕木門か", "いや、その隣の角屋敷", "ふム……宏壮なものだな", "出世したものさ。三十歳前後の頃には、まだ、薄田兼相などといっても、世間で知っている奴はなかった、それがいつのまにか……" ], [ "ざっと、これだけあるが、これくらいなおくりものでいいのか", "いいとも、十分だ", "何かに包んでゆかなければいけまいが", "なあに、仕官の取做しを頼む時の、御推挙料だの、御献金だのというやつは、薄田ばかりじゃない、公然と誰でも取っていることだから、何も憚って差し出す必要はすこしもないのだ。――じゃあ預かっておくぜ" ], [ "うまく頼むぞ", "大丈夫だ。先で、渋った顔をしていたら、金をやらずに持って帰るだけのことじゃないか。何も、兼相だけが、大坂方の勢力家じゃなし、大野でも後藤でも、頼みこむ思案はいくらもある", "返辞は、いつ分るか", "そうだな、ここで、待っていてくれてもいいが、濠ばたの吹きさらしに、立っているわけにもゆくまいし、また、怪しまれるから、明日会おう", "明日――どこで", "人寄せの懸っているれいの空地へ行ってくれ", "承知した", "貴公と初めて会った、あの酒売りのおやじの床几で、待っていてくれれば間違いない" ], [ "では、仕官の口を周旋してやるからといって、あいつ奴に、金を取られたので", "取られたわけではない。わしから依頼して、薄田殿へわたす口入れ金を預けておいたのだが、その返辞がはやく知りたいので、毎日待っているわけだが", "おやおや、おまえ様は" ], [ "百年待っていても、あの男が来るはずはありませぬ", "げっ。――ど、どうして", "彼奴は、名うてな悪で、この空地には、ああいうガチャ蠅がたくさんおりましてな、少し甘い顔と見れば、すぐたかって来るのでございます。よほど、気をつけてあげようかと思ったが、あとの祟りが恐いし、おまえ様も、あの風態を見れば、気がつくだろうと思っていたのに、金を抜かれてしまうなんて……。これやお話にならんわい" ], [ "むだとは思うが、念のため幻術の囲いへ行って訊いてみなさるがよい。あそこではよく、ガチャ蠅が集まって、銭の賭事をしておりますで、そういう金をつかめば、ことによると、賭場へ顔を出しているかもわかりませぬ", "そ、そうか" ], [ "赤馬か。そういえば赤馬の奴、ちっとも出て来ねえが、どうしたんだろう", "ここへ来ましょうか", "そんなこと、わかるもんか。まあ、入りねえ", "いや、おれは博戯事に来たんじゃない。その男を捜しに来たのだ", "おい、ふざけるなよ、博戯もせずに、賭場へ何しに来やがったんだ", "すみません", "向う脛を掻っ払うぞ", "すみません" ], [ "野郎待て。ここは、すみませんで済む場所たあ違う。ふてえ奴だ。博戯をしなけれやあ、場代をおいてゆけ", "金などない", "金もねえくせに、賭場のぞきをしやがって、さては、隙があったら、銭を攫って行こうという量見だったにちげえねえ、この盗っ人め", "なんだと" ], [ "べら棒め、そんな脅しに、いちいちびくついていちゃ、この大坂表で、生きちゃあいられねえんだ。さ、斬るなら斬ってみろ", "き! 斬るぞ", "斬れっ、何も、断るにゃ及ばねえや", "おれを知らんか", "知ってるもんか", "越前宇坂之庄、浄教寺村の流祖、富田五郎左衛門が歿後の門人佐々木小次郎とはわしのことだ" ], [ "これが虎かいな", "大きなものやなあ" ], [ "元より、皮じゃもの、死んでおるわさ", "木戸で呼ばわっている男は、さも生きているようにいうたがの", "これも、幻術の一つじゃろて" ], [ "やくたいもない、幻術なら幻術と看板にあげておいたがよい。死んだ虎を見るくらいなら絵を見るわさ。木戸へ去んで、銭をかやせというて来う", "婆、婆。人が笑うぞよ、そんなこと、喚かんでもええ", "なんの、見栄がいろう、おぬしいうが嫌ならわしがいう" ], [ "な、なんじゃ、権叔父", "見えなんだかよ、婆のすぐうしろに、又八めが立っておったぞ", "げっ、ほんまか", "逃げたっ", "どっちゃへ?" ], [ "捕まえた", "ふてえ奴だ", "どやせ", "たたっ殺してやれ" ], [ "婆どの。こいつは、泥棒だよ", "泥棒ではない、わしが子じゃわ", "え、おまえの子か", "おおさ、ようも足蹴にしやったな。町人の分際で、侍の子を足蹴にしやったな。婆が相手にしてくりょう、もいちど、今の無礼をしてみやい", "冗戯じゃない。じゃあ先刻泥棒泥棒と呶鳴ったのは誰だ", "呶鳴ったのは、この婆じゃが、おぬしら風情に足蹴にしてくれと頼みはせぬ。泥棒とよんだら伜めが、足を止めようかと思うていうた親心じゃわ。それも知らいで、撲ったり蹴ったりは何事じゃ、このあわて者めが!" ], [ "よもやもう、この世に生きておろうとも思わなんだに、のめのめこの大坂に生きていくさるとは憎い憎い、ええもう憎い奴よの。なんで故郷へもどって来て、ご先祖様のまつりをせぬか、この母にちょっとでも、顔見せぬか。親類縁者どもが、あれよこれよと案じているのも、われには弁えがつかぬかよっ", "――お、おふくろ。かんべんしてくれ、かんべんしてくれ" ], [ "もうよかろう、婆、そう打擲しては、かえって又八を拗け者にするぞよ", "また差し出口かよ、おぬしは男のくせに甘うていかぬ。又八には父親がないゆえ、この婆は母であるとともに、厳しい父親でもなければならぬのじゃ。それゆえわしは折檻をしまする。……まだまだこんなことで足ろうかいの。又八ッそれへ直りゃい" ], [ "つつみ隠しをするときかぬぞよ。関ヶ原の戦へ出て、おぬし、あれ以来、何していやった。婆の得心がまいるまで、つぶさに話しゃれ", "……話します" ], [ "そして今では、何していやるか。身装は、どうやら飾ってござるが、仕官して、禄の少々も、取っていやるか", "はい" ], [ "いや、仕官はいたしませぬが", "では、何で喰べている", "剣――剣術などを、教えまして", "ほう" ], [ "それやあ、ご先祖の血は、どこかにあろうわさ。一時の極道はしようとも、そのたましいだに失わずば", "して又八", "はい", "この上方では、誰について、腕を磨きやった", "鐘巻自斎先生に", "ふウむ……あの鐘巻先生にの" ], [ "安心してござれ、おふくろ", "なるほど" ], [ "これ待て、ここに佐々木小次郎とあるのはなんじゃ", "あ……これですか……これは仮名です", "仮名? 何で仮名などつかいなさる、本位田又八と、立派な名のあるものを", "でも省みて、自分に恥のある生活をしていたので、先祖の名を汚すまいと", "オオそうか。その性根たのもしい。――おぬしは何も知るまいがこれから故郷元のことども聞かせて進ぜるほどに、よう聞きなされ" ], [ "嘘と思うなら、叔父御にもただしてみやれ、お通阿女はおぬしを見かぎって、武蔵の後を追って去んだわさ。――いやの、もっと悪う考えれば、武蔵はおぬしが、当分は村へ帰らぬものと知ってじゃほどに、お通をだまして、奪って逃げたともいえる。のう権叔父", "そうじゃ、七宝寺の千年杉へ、沢庵坊主のため、縛りつけられたのを、あのお通の手をかりて逃げ失せた男女のことゆえ、どうせ碌な仲じゃあるまいての" ], [ "わかったかよ又八。この婆や権叔父が、故郷を出て、こうして諸国をあるいている意気地が。――息子の嫁を奪って逃げた武蔵、本位田家に後足で砂をかけて失せたお通。――こう二つの首を打たいでは、婆は、ご先祖のお位牌と、故郷の衆にむかって、会わせる顔がないじゃろが", "わかりました。……よく", "おぬしにも、それではのめのめと、故郷の土は踏めまいが", "帰りません、もう、帰りません", "討ってたも、怨敵を", "ええ", "気のない返辞をするものかな、おぬしには武蔵を討つ力がないと思うてか", "そんなことはありません" ], [ "案じるな又八、わしもついているのじゃが", "この婆とても", "お通と武蔵、二つの首を、晴れて故郷への土産に引っさげて戻ろうぞ。のう又八、そうしておぬしにはよい嫁女をさがし、あっぱれ本位田家の跡目をついで貰わにゃならん。そうした上は、武士の面目も立つ、近郷への評判もようなる、まず、吉野郷で負け目をとる家統は他にはあるまいてな", "さあ、その気になってたも。なるかよ又八", "はい", "よい子じゃ、叔父御、賞めておくりゃれ。きっと武蔵とお通を討つと誓うた。……" ], [ "ア……痛々々", "婆、どうしやった", "冷えてかいの、腰が急に吊ってこう下腹へさしこんで来ましたわい", "これやいかぬ、また持病を起してか" ], [ "おふくろ、すがりなされ", "何、わしを負うてくれる。……負うてくれるか" ], [ "叔父御、旅籠はどこか", "これから探すのじゃ、どこでもいい、歩いてくりゃれ", "合点だ――" ], [ "どうです、儲かるでしょう", "儲かりませんよ、堺はひどく景気がいいというが", "鉄砲鍛冶など、職人が足らなくて弱っているそうですな" ], [ "てまえは、その戦道具の、旗差物とか、具足など納めていますが、昔ほど儲かりませんて", "そうかなあ", "お侍方がそろばんに明るくなって", "ハハア", "むかしは、野武士がかついで来る掠め物を、すぐ染めかえ、塗りかえして、御陣場へ納める。するとまた、次の戦があって、野武士がそいつを集めてくる。また新物にするといったふうに、盥廻しがきいたり、金銀のお支払いなどもおよそ目分量みたいなものでしたがね" ], [ "それでも、何のかのといっても、わしら町人は、侍から見れば遥かに割がよく生きていますよ。いったい侍衆なんて、食い物の味ひとつ分るじゃなし、大名の贅沢といったところが、町人から見ればお甘いもので、いざといえば、鉄と革を鎧って、死にに行かなければならないし、ふだんは面目とか武士道とかにしばられて、好きな真似はできないし、気の毒みたいなものでございますよ", "すると、景気がわるいの何のといっても、やはり町人にかぎりますかな", "かぎりますとも、気ままでね", "頭さえ下げていればすみますからな。――その鬱憤はいくらでもまた、金のほうで埋め合せがつくし", "ぞんぶんこの世を楽しむにかぎりまさあね", "何のために生れて来たんだ――といってあげたいのがいますからね" ], [ "ちと、飽きましたな", "退屈しのぎに、始めましょうか", "やりましょう。そこの幕をひとつ懸け廻して" ], [ "よく馴れてござるの", "は", "永くお飼いになっているのであろうな", "いえ、ついこのごろ、土佐から阿波へ越えてくる山の中で", "捕まえられたのか", "その代り、親猿の群れに追いかけられて、ひどい目にあいました" ], [ "はあ、大坂へ行きます", "ご家族は大坂にお住まいかの", "いえ、べつに", "では阿波のご住人か", "そうでもありません" ], [ "これは陣太刀に出来ていますから、大坂の良い刀師へあずけ、差し料に拵えを直そうと思っているのです", "差し料には、ちと長すぎるようだが", "されば、三尺です", "長剣だな", "これくらいなものが差せなければ――" ], [ "富田流なら、小太刀のはずだが", "小太刀です。――けれども何、富田流を学んだから小太刀をつかわなければならないという法はありません。私は、人真似がきらいです。そこで、師の逆を行って、大太刀を工夫したところ、師に怒られて破門されました", "若いうちは、えて、そういう叛骨を誇りたがるものだ。そして", "それから、越前の浄教寺村をとび出し、やはり富田流から出て、中条流を創てた鐘巻自斎という先生を訪ねてゆきますと、それは気の毒だと、入門をゆるされ、四年ほど修行するうち、もうよかろうと師にもいわれるまでになりました", "田舎師匠というものは、すぐ目録や免許を出すからの", "ところが、自斎先生は容易にゆるしを出しません。先生が印可をゆるしたのは、私の兄弟子である伊藤弥五郎一刀斎ひとりだという話でした。――で私も、何とかして、印可をうけたいものと、臥薪嘗胆の苦行をしのんでいるうち、故郷もとの母が死去したので、功を半ばに帰国しました", "お国は", "周防岩国の産です。――で私は、帰国した後も、毎日、練磨を怠らずに、錦帯橋の畔へ出て、燕を斬り、柳を斬り、独りで工夫をやっていました。――母が亡くなります際に、伝来の家の刀ぞ、大事に持てといわれてくれましたこの長光の刀をもって", "ほ、長光か", "銘はありませんが、そういい伝えています。国許では、知られている刀で、物干竿という名があるくらいです" ], [ "あなたは、大坂ですか", "いや京都" ], [ "――されば、四条の吉岡道場も、相かわらず盛大にやっておるらしいが、其許は、あの道場を訪れてみたことがあるか", "京都へのぼったら、ぜひ一度はどの程度か、吉岡清十郎と立合ってみたいと存じていますが、まだ訪ねてみたことはありません", "ふッ……" ], [ "あそこへ行って、片輪にならずに、門を戻って来る自信が、あるかな?", "なんの!" ], [ "大きな門戸を構えているので、世間が買いかぶっているので、初代の拳法は達人だったでしょうが、当主の清十郎も、その弟の伝七郎とやらも、たいした者じゃないらしい", "だが、当ってみなければ、分るまいが", "もっぱら諸国の武芸者のうわさです。うわさですから、皆が皆、ほんとでもありますまいが、まず京流吉岡も、あれでおしまいだろうとは、よく聞くことですね" ], [ "なるほど、このごろは、諸国にも天狗が多いそうだから、そういう評判もあろうな。ところで、おん身は先ほど、師を離れて、郷里にあるうちは、毎日のように、錦帯橋の畔へ出て、飛燕を斬って大太刀のつかいようを工夫されたと仰っしゃったな", "いいました", "じゃあ、この船で、時々、ああして飛び来っては掠めてゆく海鳥を、その大太刀で、斬り落すことも容易であろうな", "…………" ], [ "出来たって、そんな莫迦な芸を私はやる気になれぬ。――あなたは、それを私にやらせようという肚だろうが", "でも、京流吉岡を、眼下に見るほどな自信のある腕なら", "吉岡をくさしたことが、あなたの気に入らなかったとみえる。あなたは、古岡の門人か、縁者か", "何でもないが、京都の人間だから、京都の吉岡を悪くいわれれば、やはりおもしろくはない", "ははは、うわさですよ、私がいったわけじゃない", "若衆", "なんです", "生兵法という諺を知っているか。将来のため忠言しておくが、世間をそう甘く見すぎると、出世はせんぜ。やれ、中条流の印可目録を取っているの、飛燕を斬って、大太刀の工夫をしたのと、人をみな盲とするような法螺はよせ。よいか、法螺をふくのも相手を見てふくのだぜ" ], [ "おまえの将来のためにいってやったのだ。若い者の衒いも、少しは愛嬌だが、あまり過ぎると見ぐるしい", "…………", "最前から何事もふむふむと聞いているので、人を舐めてつい駄ぼらが出たのだろうが、実は此方こそ、吉岡清十郎の高弟、祇園藤次という者だ。以後、京流吉岡の悪評をいいふらすと、ただはおかんぞ" ], [ "あなたは、人中において、私を法螺ふきと申されたが、それでは私も面目が立たないから、最前、やって見ろとおおせられた芸を、やむなくここで演じてみようと存じます。立ち会ってください", "わしが、何を求めたか", "お忘れのはずはない。あなたは、私が周防の錦帯橋の畔で、飛燕を斬って大太刀の修練をしたといったら、それを笑って、然らば、この船を頻りと掠め飛んでいる海鳥を斬ってみせろといわれたではないか", "それはいった", "海鳥を斬ってお目にかけたら、その一事だけでも、私がまるで嘘ばかりいっている人間でないことがおわかりになろう", "それは――なる!", "ですから、斬ります", "ふむ" ], [ "やせ我慢して、もの笑いになってもつまらんぜ", "いや、やります", "止めはしないが", "しからば、立ち会いますかな", "よし、見届けよう" ], [ "逃げ口上をいう奴だ。出来ませんなら出来ませんと、素直に謝れ", "いや、謝るほどなら、こんな身構えは仕りません。海鳥のかわりに、べつな物を斬ってお目にかける", "何を?", "藤次先生、もう五歩こちらへ出て来ませんか", "なんだ", "あなたのお首を拝借したい。私が法螺ふきか否かを試せといったそのお首だ。罪もない海鳥を斬るよりは、そのお首のほうが恰好ですから", "ばッ、ばかいえっ" ], [ "札が足らない", "どこへ飛んだのじゃ?", "そっちを見ろ", "いや、こっちにもない" ], [ "やあ、何か咥えている", "骨牌のふだですよ", "ハハア、あそこで、金持ち連がやっていた骨牌を攫って行ったんですか", "ごらんなさい、小猿のやつも、帆ばしらの上で骨牌をめくる真似をしている" ], [ "誰か、猿のやつから、札を奪り返して来いやい。博戯が出来ぬ", "どうして、登れるものか、あんな高いところへ", "船頭なら", "それや登るだろう", "金をやって、船頭に取って来てもらおうじゃないか" ], [ "海のうえにも、猿が住むとみえて、飼い主のねえ猿が舞いこんだ。飼い主のねえ畜生なら、どうして始末してもかまうめい。――皆の衆、これほど船頭は断っているのに飼い主が名乗って出ねえだ。後で、耳が遠いの、聞かなかったのと、苦情のねえように、証人になってくらっせえ", "いいとも、わしらが証人に立ってやる" ], [ "おまえこそ、何するのだ、飛び道具で、無心の小猿を撃ち落そうとしたろう", "そうだ", "不届きではないか", "なぜッ。――断ってあるぞ、おらの方では", "どう断った?", "おめえは、眼がねえのか、耳がねえのか", "だまれ、こう見えても、わしは客だ、わしは武士だ。船頭風情の身をもって、客よりも高い場所に突っ立ち、頭の上からあのように喚いたとて、侍が、答えられるか", "いい抜けを吐ざくな。そのためにおらは何度も断ってある。その断りかたが気にくわねえにせよ、なぜ、おらが立つ前に、あちらの客衆が迷惑したのを、黙りこくって、知らぬふりしていさらしたのじゃ", "あちらの客衆とは――おおあの幕の中で先刻から博戯をしておった町人どもか", "大口をたたくな、あの客衆は、並の客衆よりは、三倍も高い船賃を出してござらっしゃる", "いよいよ不埒な町人どもだ、衆人の中で、大びらに金を賭け、酒の座を気ままに占め、わが物顔して、この船中に振舞っている様子、面白くない人間どもかなと眺めていたのじゃ。小猿が骨牌のふだを取って逃げたからとて、この身がいいつけたわけではなし、あの連中のする悪戯を、猿が真似したまでのこと、わしから迷惑を詫び出るすじはない" ], [ "かしわ屋でございますが", "住吉の社家の息子さまは、この船にござらっしゃらぬか", "飛脚屋さんはいるかね", "旦那様あ" ], [ "もしもし、猿のお泊り賃は、無料にいたしておきますが、私どもへお越しくださいませぬか", "てまえどもは住吉の門前で、ご参詣にもよし、座敷の見晴らしも至極よいお部屋がございますが" ], [ "何んていう生意気なやつだろう。すこしばかり兵法が出来ると思って", "まったく、あの若造のために、船の中は半日、みんな面白くなく暮してしまった", "こっちが町人でなければ、あのままただでこの船を降ろすのじゃないが", "まあまあ、侍には、たんと威張らせておいてやるがいいさ。肩で風を切っていれば、それで気が済むんだから他愛はない。わしら町人は、花は人にくれても、実を喰おうという流儀だから、今日ぐらいな忌々しさは、仕方があるまいて" ], [ "お、お甲か。……来ていたのか", "来ていたのかって、ここへ迎えに来ているようにと、私へ手紙をよこしたくせに", "だが、間にあうかどうか、と実は思っていたものだから", "どうしたんですえ、ぼんやりして――", "イヤ、すこし、船に暈ったとみえる……。とにかく、住吉へでも行って、よい宿を見つけよう", "え、あちらに、駕も連れて来ましたから", "そいつは有難う、じゃあ宿も先に取っておいてくれたか", "みな様も、待ちかねているでしょう", "え?" ], [ "およしなさい、見ッともない", "離せっ", "一人で泊ったら、あっちが変なものになりますよ", "どうにでもなれっ", "そんなこといわないで" ], [ "……ネ、頼みますから", "がっかりした", "そうでしょう、だけど、二人にはまたいい機があるでしょう", "おれは、せめて大坂で二、三日は二人ぎりと、楽しみにして着いたのだ", "分ってますよ", "わかっているなら、なぜ他の者を引ッ張って来たのだ。俺が思っているほど、おまえは俺を思っていないからだろう" ], [ "……じゃあ仕方がない、住吉へ行くから駕を連れて来い", "乗ってくれますか" ], [ "この住吉には、唄い女はいないのか", "きれいなのを三、四人呼ぼうじゃないか。どうだ諸卿" ], [ "ばかっ、金を費って喧嘩する奴があるか。おまえたちを呼ぶからには、大いに飲んで遊ぶのだ", "じゃあ、まちっと、静かにあがりやはったらどうかいな" ], [ "なんだ、何が来たと", "藤次といった", "冬至冬至、魚の目か" ], [ "おい、下婢", "はい", "若先生は、どこにいらっしゃるか、若先生のいる部屋へ行こう" ], [ "頭をどうかなされたので?", "ホホウ、奇妙なお髪", "どうしたわけでござる" ], [ "旅土産は、腫物でござったか", "できものに閉じ蓋", "頭かくして尻かくさず", "論より証拠", "犬も歩けば――" ], [ "――だが慥かか、その話は", "この耳で、おれが聞いたのだ、おれが嘘をいうと思うのか", "まあ、そう怒るな、怒ってみたところで仕方がない", "仕方がないで黙過することはできん。いやしくも天下の兵法所をもって任じる吉岡道場の名折れだ、断じて、これを捨ておくことはできないぞ", "しからば、どうするのだ", "これからでも遅くあるまい。その小猿を連れて歩いている前髪の武者修行を捜し出す! どんなことをしても捜し出す! そして、彼奴の髷をちょん切って、祇園藤次ずれの恥辱じゃない、吉岡道場の存在を厳かにする。――異議があるか" ], [ "――異議があるか", "勿論、ない", "しからば――" ], [ "おまえも一緒になって捜さんか。ほかの者もみな手分けして、捜しに行ったんだ", "何を捜しに行ったんです", "小猿を携えている前髪の若い侍さ", "その人がどうかしたのですか", "抛っておいては、清十郎先生のお名まえにもかかわるのだ" ], [ "何も喧嘩を好むわけじゃないが、そんな青二才を、黙って捨てておいては天下の兵法所たる京流吉岡の名折れになるじゃないか", "なったっていいじゃありませんか", "ばかいえ", "男って、ずいぶんつまらないことばかり捜して、日を暮しているんですね", "じゃあ、おまえは、さっきからそんなところで何を捜しているんだ", "わたし――" ], [ "わたしは、貝殻を見つけているの", "貝殻? ……それみろ、女の日の暮し方のほうが、なおくだらないじゃないか。貝殻など何も捜さなくっても、天の星ほど、こんなに落ちている", "わたしの捜しているのは、そんなくだらない貝殻じゃありません。わすれ貝です", "わすれ貝、そんな貝があるものか", "ほかの浜にはないが、この住吉の浦にだけはあるんですって", "ないよ" ], [ "どうです、これでもないといえますか", "伝説だよ、取るにも足らん歌よみの嘘だ", "住吉にはまだ、わすれ水、わすれ草などという物もあるんです", "じゃ、あるとしておくさ。――だが、それが一体何のお禁厭になるのかい", "わすれ貝を帯かたもとの中へ秘しておくと、物事が何でも忘れっぽくなるんですとさ", "その上、もっと忘れっぽくなりたいのかい", "ええ、何もかも忘れてしまいたい、忘れられないために、わたしは今、夜も寝られないし、昼間もくるしいんです。……だから捜しているの。あんたも一緒になって捜してくださいよ", "それどころじゃない" ], [ "どこへ行っていたのだ、この寒いのに", "オオ嫌だ、ちっとも寒くなんかありやしない。浜はいっぱいに陽があたっていますもの", "何していた", "貝をひろっていたの", "子どもみたいだな", "子どもですもの", "正月が来たら幾歳になると思う", "幾歳になっても子どもでいたい……いいでしょう", "よかあない。すこしは、おふくろの案じているのも考えてやれよ", "おっ母さんなんか、何も私のことなんか考えているものですか。自分がまだ若い気ですもの", "ま、炬燵へお入り", "炬燵なんか、逆上るから大っ嫌い。……私はまだ年寄りじゃありませんからね" ], [ "逃げやしません", "きょうは皆、留守なのだ、こういう折はまたとない。そうだろう朱実", "なにがです", "そう棘々しくいうな。もうおまえと馴染んでから小一年、おれの気持もわかったはず、お甲はとうに承知なのだ。おまえがおれに従わないのは、おれに腕がないからだとあの養母はいっている。……だから今日は" ], [ "――離してください、この手をこの手を", "どうしても", "嫌、嫌、嫌ですっ" ], [ "――朱実、おれをこうまで意地にさせて、おまえはまだ、おれに恥をかかすのか", "知らないっ" ], [ "あたし、大きな声を出しますよ。離さないと、みんなを呼ぶからいい", "呼んでみい! ……。この棟は母屋から離れているし、誰も来るなと断ってあるのだ", "わたし帰ります", "帰さん!", "あなたの体じゃありません", "ば、ばかっ。……おまえの養母に聞け、おまえの体には、おれの手から身代金ほどの金が、お甲へやってあるのだ", "おっかさんが私を売り物にしても、私は売った覚えはない。死んだって、嫌な男なぞに", "なにっ" ], [ "これよ、権叔父", "おい、なんじゃあ", "おぬし、くたびれぬかよ", "いささか気懶うなっておる", "そうじゃろが、この婆もちと、きょうは歩行い飽いた。したが、さすがに住吉の社、見事な結構ではある。……ホホ、これが若宮八幡の秘木とかいう橘の樹かいの", "そうとみえる", "神功皇后さまが、三韓へご渡海なされた折に、八十艘の貢ぎ物のうちの第一のみつぎ物がこれじゃといういい伝えじゃが", "婆よ、あの神馬小屋にいる馬は、よい馬ぞよ。加茂の競べ馬に出したら、あれこそ第一でがなあろうに", "ムム、月毛じゃの", "何やら立て札があるわ", "この飼料のおん豆を煎じて飲ますれば、夜泣き、歯ぎしりが止むとある。権叔父、おぬし飲むがええ", "ばかをいわしゃれ" ], [ "おや、又八は", "ほんに、又八はどこへ行ったぞいな", "ヤア、ヤア、あれなる神楽の殿の下に足をやすめているわ", "又よう。又ようっ――" ], [ "人を待たせる時は、いくらでも待たせておいて", "何をいうぞ、この息子は。神さまの霊域へ来たら、神さまをおがむのは人間のあたりまえなことじゃ。おぬし、神にも仏にも手を合せたのを見たことがないが、そういう量見では、行く末が思いやらるる" ], [ "じゃあ、この俺という人間を、おふくろは結局、意気地なしの腰ぬけの、親不孝者と折紙つけているのだな", "そうじゃろが、今日まで、汝れのして来た行状のどこに意気地のあるところがあるかよ", "俺だって、そう見くびった者じゃない。おふくろなどに分るものか", "わからいでか、子を見ること親に如かずじゃ。汝れのような子を持ったが、本位田家の不作というもの", "だまって見ていろ、まだおれは若いのだ。婆あめ、悪たれいうて、草葉の蔭から後悔するな", "オオ、その後悔ならしてみたい。だが恐らくは、百年待っても覚つかないことじゃろう。思えば、嘆かわしい", "嘆かわしい子なら持っていても仕方があるまい。おれから去ってやる" ], [ "心中か", "まさか……" ], [ "オオ、この女は見たことがあるぜ", "さっき浜べで、貝殻をひろっていた女じゃないか", "そうだ、あの宿屋に泊っている女だ" ], [ "お侍、おめえの連れか", "そ、そうだ", "はやく、水を吐かしてやんなせえ", "た、たすかるか", "そんなことをいってる間に" ], [ "なんだ、このくそ婆", "死んだ者と、気絶した者とはちがうのだ、活かせるものなら活かしてみろ" ], [ "……きょうは何日?", "え?", "後……幾日で……お正月", "もう七日ばかりじゃないか。正月までには癒るよ、元日までに、京都へ帰ろう" ], [ "ばかっ、獣っ", "…………", "獣だ、おまえなんか", "…………", "見るのも嫌", "朱実、かんにんしてくれ", "うるさいっ、うるさいっ、うるさいっ" ], [ "……きょうは幾日?", "…………", "お正月はまだ?", "…………", "元日の朝から七種の日まで、毎朝、五条の橋へ行っていると――武蔵様からの言伝があったのよ。待ち遠しいお正月……ああ早く京都へ帰りたい。五条の橋へゆけば、武蔵様が立っている", "……え、武蔵?", "……", "武蔵とは、あの宮本武蔵のことか" ], [ "何だ。何かわしの留守中に起ったのか", "すぐ若先生にも、お立ち帰り願わなければなりませぬゆえ、このままで申しあげます", "ム……", "はてな" ], [ "あっ……何です、あれは", "いや……朱実が……ここへ来てからちと体をわるくし、熱のせいか、時折、うわ言をいうのだ", "朱実ですか", "それよりは急用のほう、心がかりじゃ早く聞こう", "これです" ], [ "そうです!", "開封したか", "急展とありますので、留守居の者が計りあって、一読いたしました", "な、なんと申して参ったのか" ], [ "みろ、青二才", "もう首根ッこを押えたのも同じこと。急ぐにも及ばん" ], [ "もう船着茶屋が床几を重ねておる。川にも船が見えぬ", "出てしまったか" ], [ "船だっ", "追いついたぞ" ], [ "まあ、どっちにせよ、先は多寡の知れた一人。呶鳴ったからには、明らさまに名乗りかけて、川の中へ逃げ込まない用心をしろ", "そうだ、そのことだ" ], [ "船頭、返事をするな", "なにをいうても黙っておれ", "守口までは着けぬがよい、守口へ行けば川番所のお役人がいるで" ], [ "おうっ", "いたな", "小僧め" ], [ "身のほど知らずが、今に吠え面掻いて、謝るなよ", "われわれをなんだと思う。今の口は、吉岡清十郎門下のわれわれと知ってか、知らずにか", "ちょうどよい、手をのばして、その細首を洗っておけ" ], [ "こらッ、なぜ着けぬ", "明日も明後日も着けずにいられるか。後で後悔するな", "その船を寄せぬと、乗りおうている奴ばら、一人あまさず打ち斬るぞ", "小舟で行って、斬り込むがよいかっ" ], [ "――来るぞ", "命知らずめが" ], [ "吉岡の門人どもだといったな。望むところだ。先には、髷だけで許してくれたが、思うに、それでは物足らないのであろう、わしもすこし物足らぬ", "ほ、ほざいたなっ", "どうせ手入れにやるこの物干竿、手荒につかうぞっ" ], [ "退くな", "退くなよ" ], [ "あっ", "御免っ" ], [ "たわけめ、どこに終日うろついていたのだっ", "ア、若先生ですか" ], [ "――お目にかかるのは、もとより初めてだが、おうわさは常々詳しく聞いていた", "誰に?" ], [ "其許の兄弟子、伊藤弥五郎どのから", "お、一刀斎どのとご懇意か", "ついこの秋頃まで、一刀斎どのは、白河の神楽ヶ岡の辺に一庵をむすんでおいであった。屡〻、こちらよりも訪れ、先生も時折、四条の拙宅へ立ち寄って下されたりなどして", "ホウ! ……" ], [ "では満ざら、貴公ともただの初対面ではない", "一刀斎どのは何かというと、よく其許の噂をなされていた。――岩国に、岸柳佐々木と称する者がある。自分と同様に、富田五郎左衛門のながれを汲み、鐘巻自斎先生に師事した者で、同門の中では一番の年下ではあるが、行く末天下に自分と名を争う者は彼より他にはあるまいと――", "だがそれだけで、この咄嗟にわしを佐々木小次郎とは、どうしてお分りあったか", "まだ年ばえもお若いことや、人柄はこうこうなどと一刀斎どのから伺っていたし、また其許が、岸柳と号されている謂れも詳しく承知しているので、その長剣を自由になさるさまを見た時すぐ、もしやと胸に泛かんだので、当て推量にいってみたのが測らずもほんとをいいあててしまったわけ", "奇だ! これは奇遇" ], [ "いやいや、わしもこのような性質の者でございますゆえ、ずいぶん大言を吐くし、喧嘩なら退かぬ構えで誰へでも応対するから、あながち門人衆ばかりが悪いわけではありません。――むしろ吉岡流の名と師の体面を思ってやった今夜の者たちは、生憎腕のほうはどれもこれも貧弱ですが、その心根に至っては、むしろ不憫なものがある", "拙者が悪い" ], [ "旦那", "む? ……", "四日市で早めの午、亀山で夕方、あれから雲林院村へ行くと、もうとっぷり夜になりますだが", "ムム", "ようがすかね", "ウム" ], [ "旦那、安濃郷の雲林院村というと、鈴鹿山の尾根の二里も奥だが、そんな辺鄙なところへ、何しに行かっしゃるのじゃ", "人を訪ねに", "あの村には、木樵か百姓しかいねえはずだに", "くさり鎌の上手がいると桑名で聞いたが", "ははあ、宍戸様のことかね", "うむ、宍戸何とかいったな", "宍戸梅軒", "そう、そう", "あれは鎌鍛冶じゃ、そして鎖鎌をつかうそうじゃ。すると旦那は武者修行だの", "うむ", "それなら鎌鍛冶の梅軒を訪ねて行かっしゃるより、松坂へ行けばこの伊勢で聞え渡っている上手がおりますがな", "誰か", "神子上典膳というお人で", "ははあ、神子上か" ], [ "では拙者のさがす家をおまえも一緒に尋ねてくれるか", "宍戸梅軒様のお家で", "そうだ", "さがしましょう" ], [ "訪れてくれ", "へい" ], [ "どこの衆だえ、おめえは", "へい、今話しますよ。……実はお内儀、おめえ様のうちの旦那を遠方から尋ねて来たお客を乗せて今着いたのじゃ。わしは桑名の馬子だがね", "ヘエ? ……" ], [ "お留守か、それは残念な。旅へと仰っしゃったが、旅はどこまで?", "荒木田様へ", "荒木田様とは", "伊勢へ来て荒木田様を知らねえでか。ホ、ホ、ホ、ホ" ], [ "馬子、ことのついでに、山田までのせてゆくか", "山田へ" ], [ "寄って行かっしゃれ", "茶など、あがりゃんせ", "そこな若衆", "旅の衆" ], [ "あれ、武者修行さん", "足をどうなされた", "癒してあげよ", "さすってあげよ" ], [ "誰のやろ?", "知らんがな", "お侍さまの物や", "それは分っているが、どこのお侍様やら?", "きっと、泥棒が忘れて行ったのじゃろが", "ま! さわらぬがよい" ], [ "あそこへ、盗人が、刀と風呂敷を置いてゆきました", "荒木田様へお届けしておいたらよいでしょう", "だけど、みんな触るのを、怖がっているから、持って行かれません", "まア、たいした騒ぎようですね。じゃあ後から私がお届けしに行きますから、皆さんは、そんなことに道草をしないで、はやく学問所へお出でなさい" ], [ "まア、お掃除をしているのかと思ったら、その恰好は何ですか。――白丁を着ているくせに、木剣など持って", "稽古をしていたんだよ。立木を相手に、剣術の独稽古を", "お稽古は結構ですけれど、このお苑を、何と心得ているんですか。清浄と平和をあらわすためのわたくしたち日本の人々のこころのお苑ですよ。民くさの母とおまつり申しあげてある女神さまの神域です。――ですから、また、ごらんなさい。神苑のうちの樹木折るべからず、鳥獣殺生禁断のことという禁札が立ててあるではありませんか。その中で、お掃除役を奉仕する者が、木剣で木など折ってはいけないでしょう", "知ってらい" ], [ "知っているなら、なぜそんな物で、樹を折るんですか。荒木田様に見つかると、叱られますよ", "だって、枯れている樹を打つならいいだろう。枯れ樹でもいけないかい?", "いけません", "何いってやがるんだい。――じゃあおれは、お通さんに聞きたいことがあるよ", "なあに", "そんなに、大切な苑ならば、なぜもっと、今の人たちが、みなして大事にしないのだい", "恥ですね、ちょうど、それは自分たちのこころに、雑草を生やして置くのも同じですから", "雑草ぐらいならよいが、雷で裂けた樹は裂かれたまま朽ちているし、暴風雨でふき仆された大木は、根を出したまま方々で枯れている。彼方此方のお社は、鳥が来て、屋根を突ッつくものだから、雨が漏っているようだし、廂の壊れているところだの、曲っている燈籠だの――どうしてこれがそんなに大切な所と見えるかい? え、お通さん、おれは聞きたいね――大坂城は摂津の海から見ても燦爛と光っているじゃないか。徳川家康は今、伏見城を始め諸国に十幾つも巨きな城を築かせているというじゃないか。京都、大坂、どこの大名や金持の邸をのぞいても、住居はぴかぴかしているし、庭は利休だの遠州だのって、塵一つさえ茶の味に触るなんていっているのに――ここがこんなでいいものかね。この広い神領に箒を持っているのは、おれと、白丁を着たつんぼの爺さまと、三、四人しかいないんだぜ" ], [ "城太郎さん、それはお前、いつか荒木田様が仰っしゃった講義の時のおはなしと、そっくりじゃないの", "あ、お通さんもあの時、聞いてた?", "聞いていましたとも", "じゃ駄目だ", "そんな請売りは、通用しませんよ。――だけれど、荒木田様がそういって嘆くのはほんとだと思います。城太郎さんの請売りには感心しないけれど", "まったくだ。……荒木田様にいわれてみると信長も、秀吉も、家康も、みんな偉くない気がしちまう。偉いには違いないんだろうけれどさ、天下を取っても、その天下で、自分だけが偉い頂上だと考えていることが、偉くないや", "でも、まだまだ信長や秀吉は、ましな方なんです。世間と自分への言い訳だけにでも、京都の御所をしつらえたり、人民をよろこばしたりもしていますからね。――ところが足利氏の幕府だった永享から文明年間なんて、たいしたものでした", "へ? どういう風に", "その間には応仁の乱なんていう年があったでしょう", "ウム", "室町幕府が無能だったので、内乱ばかり起って、力のある者と力のある者とが、自分たちの権力ばかり通そうとし、人民たちは一日とて、安き日もなかったほどですから、国のことなんか、まじめに考えてみる人もありません", "山名、細川なんかの喧嘩だろう", "そうそう、戦を、自我のためにばかりしていました、手のつけられない私闘時代。――その頃、荒木田様の遠い先は、荒木田氏経といって、やはり代々、この伊勢の神主さまを勤めていたんですが、世の中の我利我利武者が、わたくしの喧嘩ばかりしているために、応仁の乱の頃からは、たれもこんな所をかえりみる者がなく、古式も御神事もすっかり廃れてしまったのです。それを前後二十七度も、政府に嘆願して、ここの荒廃をおこそうとしたのですが、朝廷には費用がなく、幕府には誠意がなく、我利我利武者は、自分たちの地盤争いに血まなこで、捨てて省みる者もなかったということです。――氏経様は、その中を、時の権力や貧苦とたたかい、諸人を説きあるいて、やっと明応の六年ころ、仮宮の御遷宮をすることができたというのです。――ずいぶん呆れるじゃありませんか。――だけど、考えてみると、私たちも、大きくなると、この体の中に、母の乳がながれて赤くなっていることは忘れてしまっていますからね" ], [ "アハハハ。あははの、あははだ。おれが黙って聞いていれば知らないと思って、お通さんのもみんな、請売りじゃないか", "あら、知ってたの、――人が悪い!" ], [ "お通さん、その刀誰のだい? ……", "いけませんよ、手を出しても、これは他人の物ですから", "奪りやしないから、見せてごらんよ。――重そうだね。大きな刀だね", "それごらん、すぐほしそうな眼をするくせに" ], [ "――城太さん、どうしたんです。何をきょろきょろ見まわしているの", "……なんでもない" ], [ "今、あっちへ行った娘が、いきなりお師匠様と呼んだろう。……だから、おいらは、自分のお師匠さまかと思ってさ――。どきっとしたんだよ", "武蔵さまのこと?", "あ、あ" ], [ "怒ったの? 怒ったの?", "……いいえ、なにも", "ごめん。――お通さん、ごめんね", "城太郎さんのせいじゃありませんよ、またわたしの泣きたい虫が起ったんでしょう。わたしは、荒木田様の御用を伺って来ますから、おまえは、あちらへ戻って、一生懸命にお掃除をなさいね" ], [ "参拝人のものでもないのう", "ただの参拝人が、あんなところへ入って来るわけはありません。それに、ゆうべは見えなかったのに、今朝がた稚児たちが見つけたのですから、塀の内へ入って来たのも夜半か夜明けらしいのです", "ふウむ……" ], [ "ことによるとわしへ思い当るように、神領郷士の者が、嫌がらせにした悪戯かも知れぬな", "そんな悪戯をしそうな者のお心当りがあるのですか", "ある! ……実はお汝に来てもろうたのもその相談じゃが", "では何か、私に関りのあることで", "気持を悪くなさるまいぞ――こういうわけじゃ。お汝の身を、あの子等之館へ置いておくのがよろしくないというて、わしの身を思うてくれるあまり、わしに喰ってかかる神領郷士の者がある", "ま、私のために", "なんの、お汝がそう済まん顔をする理由はちっともない。しかし、世間眼というもので見ると――怒りなさるなよ……お汝はもう男を知らぬ清女ではない――清女でもない女を子等之館へ置くのは神地を穢すものだと――まアこういうのじゃな" ], [ "いやその代りに、お通さんがこれから先、京都の方へ立ち廻られた時、ついでに頼み申したい用事もあるのじゃから、それも承知してもらったり、これも納めて置いてもらわねばならん", "お頼みのことは、何でもいたしますが、これはお志だけでたくさんです" ], [ "オオこれ。それでは、これはお前にあげるから、道中、何ぞ買物でもするがいい", "ありがとうございます" ], [ "ああ、この火はいいな。この火は、ほんとに燃え上がっているようだ……", "手でさわらずに見ておいで" ], [ "ほんと?", "ほんと?" ], [ "城太さあん", "城太さあん" ], [ "きっと焦れったがって、神橋のほうへ、独りで先に行ってしまったんでしょう", "意地悪ッ子ね" ], [ "何ですって、あの城太さんが私の子かというんですか。私はまだ、初春を迎えて、やっと二十歳を一つ越すんです。そんなに年を老って見えますか", "でも、誰かがいいましたよ" ], [ "だっていないんだもの", "いなかったら、捜してくれる親切ぐらいあってもいいだろう。おれは、鳥羽街道のほうへ、武蔵様に似た人が行ったので、オヤッと思って、見に行ったんだ", "えっ、武蔵様に似た人?", "ところが、人違いさ、――並木まで出て、後ろ姿を見ると、遠方からでも分るほどな跛行と来ていやがる。……がっかりしちまッた" ], [ "それは、ご苦労様でしたね。旅の首途から機嫌わるくすると、しまいまで不機嫌がつづくというから、仲をよくして出かけましょう", "この娘たちは?" ], [ "――何だって、一緒に来るんだろう", "そんなことをいうものじゃありません、名残を惜しんで、五十鈴川の宇治橋まで、見送って下さるんです", "それは、ご苦労でしたね" ], [ "お通さま、お師匠さま、そっちへ曲がっては道がちがいますよ", "いいえ" ], [ "城太さんは、なぜ拝んで来ないの", "いやだ、おれは", "いやだなんて勿体ない、口が曲がりますよ", "きまりが悪いや", "神様を拝むのがなぜきまりが悪いんですか。町中にあるあだし神や流行り神とはちがって、自分たちの遠いお母さんも同じ神さまとおもえば何でもないではありませんか", "分ってるよ、そんなこと", "じゃあ、拝んでらっしゃい", "いやだよ", "強情ね", "お茶ッぴい! お杓子! 黙ってろい", "まあ!" ], [ "まあ――", "まあ――", "ずいぶん怖い子ね" ], [ "城太さんが、私たちをお杓子ですって。――そして、神様なんて拝むのは嫌なこッたっていうんですよ", "いけませんね、城太さん", "なにさ", "いつかお前の話には、大和の般若野で、武蔵様が宝蔵院衆と戦いになろうとした時は、思わず、神様と大声をあげて空へ掌を合わせたというじゃありませんか。あそこへ行って拝んでいらっしゃい", "だって……。みんなが見てるんだもの", "じゃ皆さん、後ろを向いていてお上げなさい、私も、後ろを向いているから――" ], [ "旦那はん、お土産に、貝を持って行かしゃれ", "貝を買うておくれなされ", "…………" ], [ "そうだ。大湊へ渡れば、あれから津へ行く便船が出るはずだな", "はあ、四日市へでも、桑名へでも", "おやじ、今日はいったい、年暮の幾日であったかなあ", "はははは、よいご身分でござらっしゃるの、年暮の日をお忘れか、きょうはもう師走の二十四日でござりますわい", "まだそんなものか", "お若い方はうらやましいことを仰っしゃる" ], [ "待ッとくんなさい、親方", "はやく来い", "船へ、鉄槌を忘れちまったんで", "商売道具を忘れたのか", "かついで来ましたよ", "あたり前だ、もし忘れなんぞしたら、頭の鉢を割ってやる", "親方", "うるせえな", "今夜は、津へ泊るんじゃねえんですか", "まだ、たっぷり陽があるから、泊らずに歩いちまおう", "泊りてえな、旅仕事に出た時ぐらいは、楽をしたいな", "ふざけるなよ" ], [ "岩公", "ヘイ", "これを待って行け", "風車ですね", "手に持っていると、人にぶつかって壊されるから、襟くびに挿して歩け", "おみやげですか", "ム……" ], [ "あ。梅畑へ帰るが", "ではもしや、宍戸梅軒殿ではないか", "ふうむ……よく知っているのう。おれは梅軒だが、おめえは?" ], [ "よほど、ご縁があるとみえる。実は、過日お留守に、雲林院村の尊宅へうかがって御内儀とお会い申した――宮本武蔵という修行中の者ですが", "ああそうか" ], [ "山田の旅籠に泊って、おれと試合をしたいといっていた者か", "お聞きですか", "荒木田様の処へ、おれが行っているかと問い合せを出したろう", "出しました", "おれは、荒木田様の仕事で行ったには違いないが、荒木田様の家になどいるわけはない。神社町の仲間の仕事場を借りて、おれでなければ出来ない仕事を片づけていたのだ", "あ……それで", "山田の旅籠に泊っている武者修行が、おれをさがしているとは聞いたが、面倒くさいので抛っておいた――それはおめえだったのか", "そうです。鎖鎌の達人とか、噂を聞いて", "はははは、女房と会ったかい", "御内儀が、ちょっと、八重垣流の仕型をお見せくだされたが", "じゃあ、それでいいじゃないか。なにも、おれの後を追っかけて、試合してみるにも及ぶまい。おれがしてみせても、あの通りだ。――それ以上を見せてもいいが、見た途端に、おめえは冥途に行っていなければならねえしな" ], [ "仰っしゃる通り、御内儀から拝見しただけで、十分、勉強にはなりましたなれど、なお、ここでお目にかかったご縁をもって、鎖鎌についてのご意見でも伺えれば、有難いとぞんじまするが", "話か。――話だけならしてやってもいい。今夜は、関の宿へ泊るのか", "そう思いましたが、おさしつかえなければ、ついでのことに、尊宅へ、もう一宿、お許しくださるまいか", "旅籠じゃねえから、夜具はないぜ。そこの岩公と寝る気なら、泊ってゆくさ" ], [ "あの衆は、この間も留守に来て、泊って行ったのだに", "岩公と一緒に寝かせてやれ", "いつぞやは、鞴のそばに、筵を敷いて寝てもろたのじゃ、今夜もそうしてもろたがいい", "おい、若いの" ], [ "酒をのむか", "嫌いではありません", "一杯のめ", "はい" ], [ "ご返杯を", "まあ、それは持っていねえ、おれはこっちの杯で飲むから――時に武者修行", "はっ", "幾歳だい、若いようだが", "明けて、二十二歳を迎えます", "故郷は", "美作です" ], [ "……さっき、なんとかいったな……名だ……名だ……おめえの名だ", "宮本武蔵", "武蔵とは", "たけぞうと書きまする" ], [ "じゃあおめえは、たけぞうが幼名だったのか", "そうです", "十七歳頃にも、そう呼んでいたか", "はい", "十七の時に、おめえ、又八という男と、関ヶ原の戦へ出やしなかったか?" ], [ "すると、御主人には、やはり浮田家の陣所に", "おれはその頃、江州野洲川にいて、野洲川郷士の一まきと、御陣借をして合戦の先手になっていたのさ", "そうですか、じゃあ、顔ぐらいは合せていたでしょう", "おめえの連れの又八はどうしたい?", "その後、会いません", "その後とは、どこからのその後? ……", "合戦の後、しばらく伊吹のある家に匿まわれて、傷の療治をしていましたが、その家で別れて以来のことです", "……おい" ], [ "酒がなくなった", "もう、おしまいでしょう", "ほしい、もう今ほど", "今夜にかぎって、どうしてそんなに", "話が、だいぶおもしろくなって来たのだ", "もうありません", "岩公" ], [ "せっかく、酒を取りにやったものを――", "拙者のためなら、どうぞお止しください。これ以上は、飲めません", "まあいいわさ" ], [ "お客は、岩公と一緒に、道具小屋へ寝てもらうことになっているがな", "ばか" ], [ "それは、客にもよりけりだ。黙って、奥へ支度して来い", "…………" ], [ "…………", "…………", "…………" ], [ "野郎、ここからだ", "戸外の者は、何していたのか――戸外の者は" ], [ "何をいッてやがるんだ、てめえ達は、なんのために、そこで眼を光らせていたんだ。野郎はもう、風を食らって、ここから外へ突っ走ッてしまった", "えっ、逃げたって? ……いつの間に", "人に訊く奴があるか", "はてな", "どじめッ" ], [ "鈴鹿越えか、津の街道へ戻るか、道は二筋しかねえ、まだそう遠くへも行くめえ、追ッてみろ", "どっちへ", "鈴鹿のほうへは、おれが行ってみる、てめえたちは、下道へ急げ" ], [ "だめだ、親方", "惜しいことをした" ], [ "何も、あんな青二才一匹、皆の手を借りて大げさな構え立てをしなくても、おれ一人でやればよかったかも知れねえのだ。……だが、今から四年前、あいつが十七歳の時に、おれの兄貴の辻風典馬でさえ、打ち殺された相手だと考えると――下手に手出しは出来ねえと考えたものだから", "だが親方、ほんとに今夜泊ったあの武者修行が、四年前に、伊吹のもぐさ屋のお甲の家に匿まわれていた小僧でしょうか", "死んだ兄貴の典馬のひき合わせだろうよ――おれも初手はそんな気はみじんも抱いていなかったのだ。一、二杯酒をのんでいるうちになにかの話から、野郎はまさか、おれが辻風典馬の弟で、野洲川野武士の辻風黄平だとは知らねえもんだから、関ヶ原の役へ出たことから、そのころはたけぞうと呼んでいたが今では宮本武蔵と名乗っているなどと、問わず語りにしゃべってしまった。……年頃も、面だましいも、兄貴を木剣で打ち殺した、あの時のたけぞうに相違ねえ", "返す返す、惜しいことをしたなあ", "この頃は、世間が穏やかになり過ぎたんで、たとえ兄貴の典馬が生きていても、おれ同様、住居や飯にも困って、百姓鍛冶に化けるか山賊にでもなるよりほか途はなかったろうが――名もねえ関ヶ原くずれの足軽小僧に、木剣でたたき殺された兄貴の死にざまは、思い出すたびに、こう胸の元でむらむらとするのだ", "あの時、たけぞうといった今夜の青二才のほかに、もう一人、若えのがいましたね", "又八", "そうそう、その又八ってえ方の野郎は、もぐさ屋のお甲と朱実を連れて、すぐあの晩、夜逃げしてしまった。……今頃、どうしていやがるか", "兄貴の典馬は、お甲に迷わされていたので、一つは、あんな不覚の因になったのだ。これから先も、またいつどこで今夜のようにお甲を見かける折がないともいえねえから、てめえ達も、気をつけていてくれ" ], [ "親方、横におなんなせえ", "親方、寝たほうがいい" ], [ "帰ろうぜ", "寝ようぜ" ], [ "まだ誰も登って来ないぜ、お通さん。今朝は、この街道では、おれたち二人が、一番先に通るんだ", "おかしな自慢をするんですね。道なんか、先に通ったって、後から通ったって、同じことじゃありませんか", "ちがうさ", "じゃあ、早く通れば、十里の道が七里になる", "そんな違いじゃないよ、歩く道でも、一番は気持がいいだろ。――馬のお尻や、雲助の後から行くよりも", "それはそうだけれど、城太さんみたいに、威張って、自慢するのは変ですよ", "でも、誰も通っていない街道を歩いていると、自分の領分を歩いているような気がするんだよ", "じゃあ私が、お馬の先を、露ばらいしてあげるから、今のうちに、たくさん威張って歩くといい" ], [ "殿様を置いて逃げちゃいけないよ、お手討だぞ", "もうふざけては、嫌", "自分がひとりでふざけているくせに", "おまえにつり込まれてしまうんじゃありませんか。あら、四軒茶屋の人が、まだこっちを見ている。きっと気狂いだと思ったかもしれませんよ", "あそこへ戻ろう", "何しに", "お腹が減ッちゃった", "まあ、もう?", "お昼のお握飯を、ここで半分喰べておこう", "いいかげんにおしなさい。まだ二里とは歩いていないんですよ。城太さんと来たら黙っていると、日に五度ぐらい喰べるんですもの", "そのかわりおらは、お通さんみたいに、山駕籠に乗ったり、駄ちん馬に乗ったりしないからね", "きのうは、関へ泊ろうと思って、無理に暮れ方をいそいだからですよ。そんなこというなら、きょうはもう乗らない", "きょうはおらが乗る番だ", "子どものくせに、なアに", "馬に乗ってみたいんだよ、ねえお通さんいいだろ", "きょう限りですよ", "四軒茶屋に、駄ちん馬がつないであったから、あれを借りて来よう", "いけません、いけませんよ、まだ", "嘘いったのかい", "だって、くたびれもしないうちに馬に乗るなんて、贅沢すぎます", "そんなこといったら、おらなんか、百日千里歩いても、くたびれることなんてないんだから、乗る時はありやしないぜ。……人がたくさん歩き出すとあぶないから、今のうちに乗せておくれよ" ], [ "なんじゃあ、でかい声を出しくさって", "馬だよ。はやく馬を出しておくれよ。水口までいくらだい。安ければ、草津まで乗ってやってもいいぞ", "汝れ、どこの子だ", "人間の子だ", "かみなりの子かと思うた", "かみなりは、おじさんのことだろう", "よく口をたたく子だの", "馬出しとくれよ", "あの馬を、駄ちん馬と見たのけ。あれは駄ちん馬ではねえだによって、おん貸し申すことはできねえ", "おん借り申すことはできないのけ?", "こんつら小僧め" ], [ "おじさん、貸しとくれよ", "いかねえってに", "いいじゃないか", "馬子がいねえだよ" ], [ "ばかにしてやがら、お通さんが、きれいなもんだから", "城太さん、おじいさんの悪口いうと、この馬が聞いているから、怒って、途中で振り落すかもしれませんよ", "こんな耄碌馬に振り落されてたまるもんか", "乗れますか", "乗れるさ。……ただ、背がとどかねえや", "そんなふうに、馬のお尻をかかえてもだめですよ", "抱いて、乗せとくれよ", "やっかい坊ね" ], [ "お通さん、歩いておくれよ", "あぶない腰つき", "だいじょうぶだよ", "じゃあ、出かけますよ" ], [ "誰だろ", "私たちのことかしら" ], [ "な、なにさ! 無茶なことすんないっ、……この馬、おらが借りてる馬だぞ", "やかましい" ], [ "これ女", "はい", "おれは、関の宿からちょっと引っ込んだところの雲林院村にいる宍戸梅軒という者だが、すこしわけがあって、この街道を、今朝暗いうちに逃げていった宮本武蔵という者を追いかけて来たのだ。もう相手はとうに水口の宿場も越えているだろう、どうしても、江州口の野洲川あたりで彼奴を捕まえなければならねえ。……その馬を、おれに譲れ" ], [ "嫌だっ!", "イヤだと", "おれの馬だ、この馬で、先へ行った人へ追いつこうたってそうはゆかない", "女子供と思って理由をわけていうのに、童め、つけ上がって何をいうか", "なあ、お通さん" ], [ "そうです、そちらもお急ぎか知りませんが、私たちも先を急ぐ体です。もう少し経てば、峠がよいの馬も駕籠もいくらもありましょう。人の乗っているものを奪ってお出でになろうとしても、今もそこの子がいうとおり、理不尽です、そうはなりません", "おれも、降りない。死んだって、この馬を離すものか" ], [ "じゃあどうしても、この馬はおれに譲らねえというのか", "知れたことだ!" ], [ "なにをしてるんで。――はやく先へ急いでおくんなさい、今、四軒茶屋のおやじに訊くと、夜明け前の暗いうちに、そこで弁当をこさえさせて、甲賀谷のほうへ走って行った侍があったてえことですぜ", "甲賀谷の方へ?", "そうです、だが、甲賀谷へ抜けようが、土山を越えて水口へ出ようが、石部の宿場まで行きゃあ道はみな一つになるから、早く野洲川で手配しておけば、野郎はきっと捕まるはずだ" ], [ "おウいっ、てめえ達も、ちょっとここへ降りて来い", "降りて行くんですか", "はやく来い", "でも、愚図愚図しているうちに、武蔵のやつが、野洲川を通ってしまうと", "いいから、降りて来い", "へい" ], [ "おじさん、彼方から来たんだろ?", "いかにも", "二十歳ぐらいなきれいな女の人を見なかったかい", "ウム見かけた", "え、どこで", "この先の夏身の立場で若い女を縄つきにして歩いていた野武士がある。おれも不審に思ったが、糺す理由はないから黙って見過ごして来たが、おおかた鈴鹿谷へ部落を移した辻風黄平の仲間だろうと思うが", "そ、それだ", "待て" ], [ "あれは、おまえの連れの者か", "お通さんという人だ", "下手なまねをすると、おまえの命がないぞ。それよりも、やがてあの連中がここを通るのは分りきっているのだから、おれに仔細を話してみないか。いい智恵をかしてやらないでもないぞ" ], [ "なるほど、よく分った。だが、あの宍戸梅軒と変名している辻風黄平の仲間をあいてにして、女子供のおまえ達が、いくら歯がみをしたところでとても無益だ。よし、おれがお通さんとやらをあの仲間からもらってやろう", "くれる?", "ただではくれないかも知れぬ。その時にはまた、考えがあるから、おまえは声を出さずに、そこらの藪の中へ沈んでおれ" ], [ "何をキョロキョロしているのだ、はやく歩け", "歩かねえかっ" ], [ "わたしの連れをさがしているんです。あの子は、どうしたろ。城太さアン", "やかましい" ], [ "この柑子坂の下で宮本武蔵という男が今物々しい身支度をして、太刀のさやを払い、往来に突っ立って、通行の者をいちいちすごい眼で調べている", "えっ、武蔵が", "おれが通るとおれの前へずかずか来て、名を訊くから、おれは伊賀者の渡辺半蔵の甥で、柘植三之丞という者だと答えると、急に詫びて、イヤ失礼いたした、鈴鹿谷の辻風黄平の手下でなければお通りくださいと落ちついていうのだ", "ほ……", "何かあるので? ――と、おれから今度は質問すると、されば、野洲川野武士の果てで、宍戸梅軒と化名している辻風黄平とその手下の者が、この道すじで、自分を殺害しようと企んでいることを往来の風聞によって知ったゆえ、その分なれば、むざむざ彼らの陥穽に落ちるよりも、この附近に足場をとり最期まで闘って、斬り死にする覚悟だといい放っていた", "ほんとか、三之丞", "誰が嘘をいおう、さもなくて、宮本武蔵などという旅の者をおれが知ろうはずはない" ], [ "なんだ", "弱ったなあ、あれは途方もなく強い奴だと、親方すらいっていた", "かなり出来ている男にはちがいない。坂の下で、こう抜刀を提げて、ぐっと前へ寄って来られた時は、おれですら嫌な気持がしたからな", "なんとしたものだろう? ……実は親方のいいつけで、野洲川までこの女をしょッ曳いてゆく途中だが", "おれの知ったことか", "そういわないで、手を貸してくれ", "真っ平だ、お前たちの仕事に、腕を貸してやったなどと知れたら、伯父の半蔵から大叱言が出るにちがいない。――だが、智恵だけなら貸してやらないものでもない", "聞かせてくれ、それだけでも有難い", "縄付にして連れているその女を、どこかこの近くの藪の中に――そうだ木の根へでも一時縛りつけておいて――身軽になっておくことが先だ", "ウム、そして", "この坂は通れない。すこし廻りになるが、谷道をわたって、はやく野洲川へこのことを告げ、なるべく遠巻きにしておいてから手を下すのだな", "なるほど", "よほど、大事をとらないと、相手は死にもの狂いだ、ずいぶん死出の道づれが出来るだろう。そうしたくないものだな" ], [ "これでよかろう", "よしっ" ], [ "逃げよう", "城太郎さん……どうしておまえは、そんなところに", "どうだっていいじゃないか。今のうちだ、はやく行こう", "ま、待って" ], [ "お洒落なんかしている時じゃないぜ、髪なんか後におしよ", "……でも、この坂の下へ行けば武蔵様がいると、今ここを通った人がいったでしょう", "だから、お洒落をするの", "いいえ、いいえ" ], [ "武蔵様にお会いできさえすれば、もう怖いものはないからですよ。私達の難儀もすでに去ったものと、安心して来たものだから……私は落着いているんです", "だけど、この坂の下で、武蔵様に会ったというのは、ほんとのことかしら?", "そういって、あの三人と、ここで話していたお方は、どこへ行ってしまったのでしょう", "いないや" ], [ "さ、行きましょう", "お洒落はもういいの", "そんなことをいうものではありませんよ、城太さん", "だって、うれしそうだもの", "自分だって", "それは、欣しいさ、欣しいからおれは、お通さんみたいに隠したりなんかしないさ。――大きな声でいってみようか、おらア欣しいっ!" ], [ "どうしたんだろ?", "え……" ], [ "そんなこと、ないでしょう", "だって、どこにも、いないもの。――立場茶屋の人に聞いても、そんなお侍は見かけないというし……きっとなにかの間違いだよ" ], [ "もっと彼方へ行ってみましたか", "見たよ", "そこの庚申塚の裏は", "いない", "立場茶屋の裏は", "いないッてば" ], [ "お通さん、泣いているね", "……知らない", "ずいぶん理のわからない人だなあ、お通さんはもっと賢い人かと思ったら、まるで嬰ンぼみたいなところもあるぜ。最初から、嘘だかほんとだか、的にはならないことだったんだろ。それを、独りで決めこんで、武蔵様がいないからって、ベソを掻いているなんて、どうかしてらあ" ], [ "おじさん、嘘いったね", "なぜ", "武蔵様がこの坂下で、刀をさげて待っているなんていって、どこに武蔵様がいるかい、嘘じゃないか", "ばか" ], [ "その嘘のために、おまえの連れのお通さんは、あの三名から遁れたのではないか。理窟をこねる奴がどこにある、またおれに対しても、一言、礼ぐらいは申すのがほんとうではないか", "じゃあ、あれは、おじさんがあの三人を計略に乗せるためにいったでたらめかい", "知れたこと", "なアんだ、だからおらもいわないことじゃないのに――" ], [ "野洲川の野武士といえば、あれでもこの頃は、ずいぶんおとなしくなった方だ。あれに狙われては、この山街道から無難に出ることは恐らくできまい。――だが、最前この小僧から話をきけば、おまえたちの案じている宮本武蔵という者、心得のある者らしいから、むざむざその網にかかるようなドジも踏むまい", "この街道のほかに、まだ江州路へ出る道が、幾すじもありましょうか", "あるとも" ], [ "伊賀谷へ出れば、伊賀の上野から来る道へ。――また安濃谷へ行けば、桑名や四日市から来る道へ。――杣道や間道が、三つぐらいあるだろう。わしの考えでいえば、その宮本武蔵とかいう男は、逸はやく、道をかえて危難を脱していると思うが", "それならば、安心でございますが", "むしろ、あぶないのは、おまえ達二人のほうだ。折角、山犬の群れから救ってやったのに、この街道を、ぶらぶら歩いていれば、いやでも野洲川ですぐまた捕まってしまう。――すこし道は嶮しいがおれについて来るがいい、誰も知らぬ抜け道を案内してやろう" ], [ "ここまで来る間に、今に訊いてくれるか、今に訊いてくれるかと思っていたが、とうとう、訊いてくれないな", "なにをですか", "おれの姓名を", "でも、柑子坂で聞いておりましたもの", "おぼえているか", "渡辺半蔵様の甥、柘植三之丞さま", "ありがたい。恩着せがましくいうのじゃないが、いつまでも、覚えていてくれるだろうな", "ええ、ご恩は", "そんなことじゃない、おれがまだ独り者だということをさ。……伯父の半蔵がやかまし屋でなければ、邸へ連れて行きたいところだが……まあいい、小さな旅籠がある、そこの主人も、おれのことはよく知っているから、おれの名を告げて泊るといい。……じゃあ、おさらば" ], [ "いったいなんの意味なんでしょう、おれはまだ独り者だということを覚えていてくれなんて……", "きっと、お通さんを今に、お嫁にもらいに行くよという謎なんだろ", "オオいやだ" ], [ "もう泊るの?", "いえ、まだ", "こんなに明るいうちから旅宿屋へついてもつまらないから、もっと歩こうよ。あっちへ行くと、市が立っているらしいよ", "市よりも、大事な御用が先じゃありませんか", "御用って、何の御用", "城太さんは、伊勢から自分の背中につけて来たものを忘れたんですか", "あ、これか", "とにかく、烏丸光広様のお館へうかがって荒木田様からおあずかりの品をお届けしてしまわないうちは、身軽にはなれません", "じゃあ今夜は、そこの家で泊ってもいいね", "とんでもない――" ], [ "娘やは、都ものらしいが、家出でもしたのか? それとも、主人の家でも飛び出して来たのか", "…………", "気をつけなよ。おめえみたいな容貌よしが、そんな……誰が見たって、事情のありそうな、ぼんやり顔でうろうろ歩いていてみな、今の都には、羅生門や大江山はないが、そのかわり、女とみたらすぐ喉を鳴らす野武士がいる、浮浪人がいる、人買がいるぜ……", "…………" ], [ "この頃、江戸の方へ盛んに京女がいい値で売られてゆくそうだ。むかし奥州の平泉に藤原三代の都が開かれた頃には、やはり京女がたくさんに奥州へ売られて行ったものだが、今ではそのはけ口が江戸表になっている。徳川の二代将軍秀忠が、江戸の開府に、今一生懸命のところだからな。――だから京女がぞくぞく江戸へ売られて、角町だの、伏見町だの、境町だの、住吉町だのと、こっちの色街の出店が二百里も先にできてしまった", "…………", "娘さんなぞは、誰にでもすぐ目につくから、そんなほうへ売り飛ばされないように、また変な野武士などに引ッかからねえようにずいぶん気をつけないと物騒だぜ", "……叱っ!" ], [ "おや、こいつあ、ほんとのキ印だな", "うるさい", "……そうでもねえのか", "お馬鹿", "なんだと", "おまえこそ気狂いだ", "ハハハハ、これやあいよいよ間違いなしのキ印だ。かあいそうに", "大きなお世話だよ" ], [ "石をぶっつけるよ", "おいおい" ], [ "娘や、待ちな", "知らない、犬っ、犬っ" ], [ "おとなしくしな", "…………", "なにも、恐いことはないさ", "…………", "おれの女房にしてやろう。――いやじゃあるまい", "……死にたいッ!" ], [ "待ってくれって? ……よしよし、待ってやるとも。……だが、逃げるとこんどは手荒になるぜ", "――ちいッ" ], [ "――何するんですっ", "わかってるじゃねえか", "女と思って、ばかにすると、わたしにだって、女のたましいというものがあるんだから……" ], [ "ほ……おつなことをいうな。こいつはまんざらキ印でもねえとみえる", "あたりまえさ!" ], [ "どこじゃの、おぬし", "家ですか。……家はあの……家はあの……" ], [ "この中は、思いのほか暖かいのだ。藁ござだが、敷物もあるしな……。それとも、このわしまで、さっきの悪者のように、恐い人間と、疑っているのか", "…………" ], [ "じゃあ、お先に", "さあ、さあ、なにも心配しないがいいぞよ", "……すみません" ], [ "あれっ、そこに", "どこに" ], [ "朱実、なにも怖いことはない。――おやすみ", "だいじょうぶでしょうか", "山猿ではない、どこかの飼猿が逃げて来たのじゃろ、なに心配があるものか。――夜具はそれで寒くはないか", "……いいえ", "寝たがよい、寝たがよい、風邪は静かに寝ていさえすれば、なおる" ], [ "おじさん、わたしいま、寝ているうちに何かいいましたか", "びっくりしたわさ" ], [ "熱のあるせいじゃろう、ひどい汗だ……", "何を……いったでしょう", "いろいろ", "いろいろって?" ], [ "……朱実、おまえは、心で呪っている男があるのじゃな", "そんなこと、いいまして", "ウム。……どうしたのだ、男に捨てられたのか", "いいえ", "だまされたのか", "いいえ", "わかった" ], [ "きのうの夕方、わしの小猿めが、その猟犬と争って、尻尾を咬みつかれ、それに懲りたか、この辺で隠れこんだまま、とうとう姿を見せなかったが……どこかそこらの木の上にでもいはせまいか", "いるものか、猿にも脚がある" ], [ "なにも連れて歩くわけではないが、あの小猿めが尾いて来るので仕方がない。けれど、なんとなく可愛い奴で、そばにいないと肌さびしいのです", "猫だの狆だのという動物を愛撫するのは、女子か閑人だけだと思うていたら、おん身のような武者修行が、小猿を愛しているところを見ると、一概にいえないものだな" ], [ "折角、鷹をすえて来たのに、まだ山鳩一羽に、つぐみ二、三羽しか獲っていない。もすこし、山へ登ってみようじゃないか", "よそう、気のすすまぬ時には、鷹も思うように飛ばぬものだ。……それよりは、道場へもどって、稽古だ、稽古だ" ], [ "清十郎どの、むりにおすすめして、悪かったな", "なにを", "きのうも、きょうも、鷹狩をすすめてあなたを連れ出したのは、この小次郎ですから", "いや……ご好意は、よく分っている。……だが年暮ではあるし、貴公にも話した如く、宮本武蔵というものとの大事な試合も、目睫のまに近づいている場合ゆえ", "わたくしは、それゆえに、あなたへ、鷹でも放って、悠々と、気を養うことをおすすめ申したわけだが、あなたのご気質では、それができないとみえる", "だんだん噂をきくと、武蔵というものは、そう見くびれない敵らしいのじゃ", "しからば、なおさらこちらは、迫らず、慌てず、心を練っておかねばなりますまい", "なにも慌てているわけではないが、敵を侮るということは、兵法のもっとも誡めるところだ。試合までに十分、練磨をしておくのは当然じゃと拙者は思う。その上で、万一にも、敗れを取るようなことがあったとすれば、これは、最善を尽しての負けだ、実力の差だ、どうも致し方はないが……" ], [ "捨ててゆこう、捨ててゆけば、後から追いかけて来るだろうから", "でも……" ], [ "えっ、気狂いに。……いっそのこともう、気狂いになりたい、気狂いに", "ば、ばかな" ], [ "お……おまえは知っているじゃろう。わしがゆうべ、ここへ連れて来ておいた女子は、どこへ行った?", "あんな玉を、逃すなんて法があるものか。今朝、おめえが出てゆくと、大きな刀を背に負った前髪の若衆が小猿といっしょに、女子まで肩にかけて、連れて行ったわ", "え、あの前髪が?", "悪くない男ぶりだもの。……おめえや、おれよりは" ], [ "ご一緒に行った小次郎殿は?", "後から帰るだろう", "野駈けのうちに、迷れておしまいになったので", "ひとを待たせておいて、いつまでも戻って来ぬゆえ、わし一人で、先へ帰って来たまでのことだ" ], [ "用人が留守だ、主人が留守だといえば、それで済むと思うてござるのか", "何十遍、足を通わせるつもりなのだ", "この半期の勘定だけなら、先代のごひいきもあったお屋敷ゆえ、黙っても退きさがろうが、この盆の勘定も、前の年の分も、この通りじゃわ" ], [ "旦那、それじゃ余りひどいじゃありませんか", "なにがひどい", "なにがって、そんな無茶な", "だれが無茶をいった", "つまみ出せとはなんぼなんでも", "しからば、なぜ神妙に帰らんか、きょうは大晦日だぞ", "ですから、手前どもだって、年の瀬が越えられるかどうかっていうところで、一生懸命にお願い申しているんで", "ご当家もいそがしい", "そんな断り方があるものか", "貴様、不服か", "勘定をお下げくださりさえすれば、なにも文句はありません", "ちょっと来い", "ど、どこで", "不埒なやつだ", "そ、そんな馬鹿な", "馬鹿といったな", "旦那へいったわけじゃありません、無法だといったんで", "だまれっ" ], [ "今に――この門へ、売家の札が貼られたら、手をたたいて、嘲ってくれようぞ", "遠くないうちだろうて", "わしらの思いだけでも" ], [ "いよいよ、日が迫ったの", "迫りました。その儀につき、一同して参りましたが、武蔵へいい渡す試合の場所、日時、あれは、どういうことに決めますかな", "さよう? ……" ], [ "いいでしょう。して、日どりと時刻は", "松の内か、松の内を過ぎてとするか……だが", "はやいがよいと思います。武蔵めが、卑怯な策をめぐらさぬ間に", "では、八日は", "八日ですか。八日はよいでしょう。先師の御命日ですから", "あ、父の命日になるか、それは止そう。……九日の朝――卯の下刻、そうきめる、そういたそう", "では、その通りに、高札に認め、こよい除夜のうちに、五条大橋のたもとへ打ち立てますか", "うむ……", "お覚悟は、よろしゅうございましょうな", "もとよりのこと" ], [ "べつに、なんの用事があってという次第ではございませぬが、京都へ参りましたことゆえ、ふとおなつかしゅう存じまして", "うちを訪ねて来やったのか", "はい、突然ながら" ], [ "おまえ、なにしに来た", "ついでがありましたゆえ、ご機嫌をうかがいに出ました", "うそをいいなさい", "え?", "うそをいっても、こちらには、分っている。おまえは、郷里を荒らし抜いて、多くの人に恨みをうけ、家名にも、泥をぬって、逐電している身じゃろうが", "…………", "どの面下げて、親類などへ、のめのめと", "恐れ入りました、今に、祖先へも郷土へも、詫びをするつもりではおりますなれど", "……なれど、今さら、国許へも帰れぬのであろうが、悪因悪果というもの、無二斎どのも、地下で泣いておろうわい", "……長座いたしました。叔母御、お暇いたします", "待たぬか、これ" ], [ "この辺をうろうろしていると、おまえは飛んでもない目に遭うぞ。なぜなれば、あの本位田家の隠居――お杉とやらいう肯かぬ気の婆どのが――半年ほど前に一度見え、また、先頃からも度々やって来て、わしら夫婦へ、武蔵の居どころを教えろの、武蔵が訪ねて来たろうのと、恐ろしい権まくで坐りこむのじゃ", "あっ、あの婆が、ここへも参りましたか", "わしは、あの隠居から、すべてを聞いておる。血縁の者でなければ、ひッ縛って、婆の手へわたしてくれるのじゃが、それもなるまい。……わしら夫婦にまで、迷惑をかけぬよう、すこし足でも休めたら、こよいのうちに、立ったがよい" ], [ "虫の知らせじゃ、なんとのう、そなたを止めておくのは気がかりと思うていたら、案のじょう、時も時、今、本位田家のお杉隠居が門をたたき、玄関に脱いであるそなたの草鞋を見つけて、武蔵が訪うて来たであろう、武蔵をこれへ出しやれといい猛って……オオここへも聞えてくるわ、あの通りな厳談じゃ。――武蔵、なんとしやるぞ", "……え、お杉婆が" ], [ "おお、本位田のおばば殿か、めずらしいところで", "ても、厚顔ましい。めずらしやとは、わしの方でいうことば。清水の三年坂では、まんまと、討ち洩らしたが、きょうこそ、その素首は、この婆がもろうたぞ" ], [ "わかる、わかる、おばばの気持はよくわかる。さすがは、新免宗貫の家中で重きをなした本位田家の後家殿だけのものはある", "ひかえなされ、小伜。孫のようなおぬしなどからおだてられて、欣ぶ婆ではないわいの", "そうひがむのが老婆の瑕、武蔵のことばもすこし聞いてほしい", "遺言か", "いや、いい訳じゃ", "未練なっ" ], [ "聞かぬ聞かぬ、この期になって、いい訳など聞く耳は持たぬ", "では、しばしの間、その刃を、武蔵にあずけておきなさい。さすれば、やがて五条大橋の袂へ、又八が来合わそうほどに、すべてのことも自らわかってまいろう", "又八が? ……", "されば、去年の春ごろから、又八へ言伝てがしてあるのです", "何と? ――", "今朝、ここで会おうと", "嘘をいやいっ" ], [ "おばば、ここで辛抱しておるがよい。――やがてそのうちに、又八がやって来るだろうから", "な、なにするのじゃ" ], [ "又八など、ここへ来るはずはない。オオ、察するところ、われはこの婆を、ただ返り討ちにしただけでは腹がいえず、五条の人通りへ曝し物にし、わしへ生き恥掻かせてから殺す気じゃの", "まあ、なんとでも、思うているがよい。そのうちにわかる", "討てっ", "ははははは", "何がおかしいぞよ。この婆の細首一つ、ばさりと落すことが出来ぬのか", "出来ない", "なんじゃと" ], [ "――武蔵ッ、武蔵ッ、汝れは武士の道を知らぬのかッ、知らずば、教えてやろう。まいちど、ここへ寄って来うッ", "――後で" ], [ "お忘れですの?", "…………", "わたしを", "…………", "わたしを" ], [ "又八は来ないのか。……一体どういうわけだ。わけをいえ、ただ泣いているだけでは分らないではないか", "……来ません。……又八さんは、あの言伝てを聞いていないから、ここへは来ません" ], [ "けれど――いいえ――私はちっとも変っていない。あなたを思っているこの気持は、みじんも変って来てはおりません。そういいきれます。わかってくれる? ……武蔵様、その気持を……武蔵様", "ムム", "わかって下さいね。……恥もしのんで私はいいました。朱実は、あなたと初めて伊吹の下で会った時のように、もう穢れのない野の花ではありません。人間に涜されて凡の女になってしまったつまらない女です。……けれど貞操というものは体のものでしょうか。心のものでしょうか。体の上だけは清女でも、心がみだらな女だったら、それはもうきれいな処女とはいえないのではありませんか。……私は、私はもう名は……名はいえませんが或る者のために処女ではなくなりました。けれど、心は涜されてないつもりです。ちっとも穢されない心を今も持っているんですの……", "ウム、ウム", "かあいそうだと思ってくれます? ……。真実をささげている人へ、秘し事を抱いているのは辛いことです。……あなたに会ったらなんといおう。いうまいか、いおうか、同じことを幾晩も幾晩も考えぬきました。その上で、私が決心したことは、やはり貴方には、偽りを持たないということでしたの。……わかって下さる。むりもないと思って下さいますか、それとも厭わしいやつだと思いますか", "ムム、ああ", "ね……どっちです。考えると、わ、わたしは、く、くやしい" ], [ "誰だ? おまえの知人だろう。あれにいる若衆すがたの武者修行は。……え、誰だ、いったい?", "…………" ], [ "ア……あの人が", "あれは誰だ", "あの……あの……" ], [ "見事な大太刀を背に負って、これ見よがしの伊達な装い、よほど兵法自慢の者らしいが……一体朱実さんとあの男とは、どういう仲の知りあいなのか", "べつに……なにも深い知りあいじゃないんですけれど", "知っていることはいる人なのだな", "ええ" ], [ "いつぞや、小松谷の阿弥陀堂で、どこかの猟犬に腕を咬まれた時、あまり血が出て止まらないので、あの方の泊っている宿へ行って医者を呼び、それからつい三、四日、お世話になっているんですの", "では、ひとつ家に住んでいる者だったか", "住んでいるといっても……べつに、なんでもないんですけど" ], [ "――なるほど、では詳しいことは知るまいが、あの者の姓名ぐらいは聞いておろうが", "ええ……岸柳とも呼び、本名は佐々木小次郎とかいいました", "岸柳" ], [ "では朱実さん、おまえはあの人と、ひとまず宿へ帰ったがよかろう。そのうちに会おう、……な、そのうちにまた", "きっと来て下さいます?", "あ、行くよ", "宿を覚えていてください。六条御坊前の数珠屋の座敷にいますから", "ウむ。……ウむ" ], [ "――何してんのさ、何してんのさ、おいら、ずいぶん待ってしまったぜ。はやくおいでよ", "…………" ], [ "……オヤ、……オヤ、お通さん。なにしていたのかと思ったら泣いていたのかい", "城太さん", "なにさ", "武蔵様のほうから見えないように、お前も、蔭にかくれていてくださいよ。……ネ、ネ", "なぜさ", "なぜでも……", "ちぇッ!" ], [ "城太さん、城太さん……そういわないでください。……たのむから、そんなにお前までわたしを虐めないで", "どこへ、おいらが、お通さんを虐めてるかい", "黙っていてね……じっと私と一緒に屈んでいてください", "いやだい、牛の糞がそこにあるじゃないか。元日から泣いてなどいると、鴉が笑わあ", "……なんでもいいの。もう……もうわたしは", "笑ってやろう。先刻、彼方へ行った若衆のように、おいらも、初笑いに手をたたいて笑ってやるぜ。……いいかいお通さん", "おわらい、たくさん", "笑えねえや……" ], [ "アア、わかった。お通さんは、あそこで武蔵様がよその女と、先刻からあんなことして話しているんで、嫉妬をやいているんだね", "……そ、そうじゃない、そんなことじゃないけれど", "そうだよ、そうだよ。……だからおいらも癪にさわってるんじゃないか、だからよけいに、お通さんが出て行かなければ駄目じゃないか。わからずやだなあ" ], [ "痛い。……城太さん、後生だからそんな酷いことをしないでよ。……私をわからずやだとおいいだけれど、城太さんこそ、私の気持なんかわからないのです", "わかってるよ、嫉妬をやいてるんじゃないか", "そんな……そんなことだけではありません……私の今の気持というものは", "いいからお出でッてば" ], [ "アッ、もういないよ、朱実はもう去ってしまった", "朱実。――朱実って、誰のこと?", "今、あそこで、武蔵様とならんでいた女さ。……あっ、武蔵様も歩き出した、早く来ないと、行ってしまう" ], [ "早くしなよ、お通さん。――武蔵様は河原へ降りて行ったようだぜ、お洒落なんかしなくてもいいじゃないか", "河原へ", "あ、河原へ。――なにしに降りて行ったのだろう" ], [ "餓鬼のくせに、邪魔だてするとこうだぞよ、こうだぞよ", "カ、カ、カ……" ], [ "ほんとかい、ほんとかい、おばば", "オオ、あの娘は、この婆の心を、思い違えているらしい。……ただ怖い人間のように", "じゃあ、おいらが、お通さんを呼んで来るから、この手を、離してくれ", "おっと、そんなこというて手を離したら、この婆へ木剣をくれて、逃げる気であろうが", "そんな卑怯なまね、するもんか。お互いに、思い違いで喧嘩しちゃ、つまらないからさ", "では、お通阿女のそばへ行ってこういうて来う――本位田の隠居はの、旅先で、河原の権叔父とも死に分れ、白骨を腰に負うて、老い先ない身をこうして旅にまかせているが、今では、むかしと違うて、気も萎えた。一時は、お通の心も恨みと思うたが、今ではさらさらそんな気もない。……武蔵には知らぬこと、お通阿女は今も嫁のように思うているのじゃ。元の縁へ返ってくれとはいわぬが、せめては、このばばの過ぎ越し方の愚痴や、この先の相談事でも聞いておくれる気はないか。このばばを、あわれな者とは思っておくれぬかと……", "おばば、そんなに文句が長いと、覚えきれないよ", "それだけでよい", "じゃ、離しておくれ", "よう、いうのじゃぞ", "わかった" ], [ "お通", "……おばば様" ], [ "ゆるして下さい……ゆるして下さい……もう今となっては、なにも、いい訳はいたしませぬ", "なんのいのう" ], [ "元々、又八めが悪いのじゃ。いつまでもそなたの心変りを恨んでいようぞ。このばばも、一時は、憎い嫁とも思うたが、もう、心では水にながしている", "では、かんにんして下さいますか。わたしのわがままを", "……じゃが" ], [ "そのことは、母のわしから答えてもよいがの。ともあれ、又八という者と、いったんは許嫁であったそなた、いちど、伜に会うておくれぬか。元より、伜の好きで、おぬしをほかの女子に見替えたことじゃ。今さら、よりをもどせともいうまいし、いうたとて、このばばが、そのような得手勝手、承知することじゃないほどに", "……え、え", "どうじゃ、お通、会っておくれるか。そなたと、又八と並べておいて、このばばから、きっぱりと伜にいい渡そうではないか。――さすれば、意見の一つもいうて、このばばの、母としての役目もすむ。立場も立つ", "はい……" ], [ "……でも、ばば様、今となってはかえって、又八さんに会わないほうが", "わしが側について会うのじゃ。会うて、きっぱりしておいた方が、そなたの後々のためにもよかろうが", "……ですけれど", "そうしやい。わしは、そなたの後のためも思うてすすめまする", "それにしても、又八さんは、今どこにいるのか、分らないではございませぬか。おばば様は、居所をごぞんじなのでございますか", "すぐ……わかる……わかるつもりじゃ。なぜならば、つい先頃、大坂表で会うているのじゃ。また、いつもの気ままが出て、わしを振捨てて住吉から去んでしもうたが、あの子も、後では悔いて、きっとこの京都あたりに、ばばの後を追うていると思いまする" ], [ "ほんにかいの?", "ええ。……ええ", "では、ともあれ、わしの旅舎まで来ておくりゃれ。……ア、ア" ], [ "お通さん――", "なあに", "お通さんは、おばばの旅舎へ一緒に行くの?" ], [ "そうじゃ、わしの旅舎はすぐそこの三年坂の下、いつも京都に来ればそこに定めてある。汝には、用もないから、何処へなと、帰るなら帰るがええ", "アア、おいらは、烏丸のおやしきへ先へ帰っているぜ。お通さんも、用がすんだらはやく帰っておいで" ], [ "ネ、城太さん、こんなわけになって、私はあのおばば様と、旅舎へ行きますけれど、暇を見て、ちょいちょい烏丸様の方へも帰りますから、お館の人たちにそういって、お前は当分、あそこのご厄介になって、私の用事の片づくのを待っていて下さい", "アア、いつまでも、待っているよ", "そして……その間に、私も心がけるけれど、武蔵様のいらっしゃる所をさがしてくれません? ……お願いだから", "いやだぜ、さがし当てるとまた、牛車の蔭へかくれて出て来ないんじゃないか。……だから先刻、いわないこッちゃないんだ", "わたしはお馬鹿ね" ], [ "武蔵、はてな", "――武蔵などという兵法者がいるかしらて", "聞いたこともないが", "だが、吉岡を相手に、この通り、晴がましい試合をする程だから、相当な兵法者には違いない" ] ]
底本:「宮本武蔵(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年11月11日第1刷発行    2003(平成15)年1月30日第40刷発行    「宮本武蔵(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年11月11日第1刷発行    2003(平成15)年1月5日第44刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年1月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052398", "作品名": "宮本武蔵", "作品名読み": "みやもとむさし", "ソート用読み": "みやもとむさし", "副題": "04 火の巻", "副題読み": "04 ひのまき", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-02-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52398.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "宮本武蔵(三)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫16、講談社", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年11月11日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年1月5日第44刷", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年1月5日第44刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "宮本武蔵(二)", "底本出版社名2": "吉川英治歴史時代文庫15、講談社", "底本初版発行年2": "1989(平成元)年11月11日", "入力に使用した版2": "2003(平成15)年1月30日第40刷", "校正に使用した版2": "2003(平成15)年1月30日第40刷", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52398_ruby_49784.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52398_49785.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "よく燃えるな", "火が飛ぶぞ、気をつけぬと、野火になる", "案じ給うな。いくら燃え拡がっても、京都中は焼けッこない" ], [ "卯の下刻。――もはやその時刻だが", "どうしたろう、若先生は", "もう来る", "そうさ、来る頃だ" ], [ "――もう武蔵は、蓮台寺野のほうへ来ていやしないか", "来てるかもしれん", "誰か、ちょっと、見て来ないか。――蓮台寺野とこことは、五町ほどの距離しかあるまい", "武蔵の様子をか", "そうだ", "…………" ], [ "――でも、若先生は、蓮台寺野へ出向かれる前に、ここでお支度をして行くという手筈になっているのだからな。もう少し、待ってみようじゃないか", "それは、間違いのない手筈なのか", "植田殿が、ゆうべ若先生から、確といい渡されたことだ。よも間違いはあるまい" ], [ "どうしたのだ、試合はいったい", "吉岡清十郎は、どこに来ている?", "まだ見えんが", "武蔵とやらは", "それもまだ来ていないらしい", "あの侍衆は、何か", "あれは、どっちかの、助太刀だろう", "なんのこった、助太刀だけが来て、かんじんな、武蔵も清十郎も来ないとは" ], [ "まだか", "まだか", "どれが武蔵?", "どれが清十郎で" ], [ "いつぞや、五条で会ったことがあるな", "おじさんも、覚えていたかい", "おまえは、女の人と一緒だったね", "アアお通さんと", "お通さんというのか、あの女は――。武蔵と、なにか縁故のある者か", "あるんだろ", "従兄妹か", "ううん", "妹か", "ううん", "じゃあ、なんだ", "すきなんだよ", "誰が", "お通さんが、おいらの、お師匠様を", "恋人か", "……だろう?", "すると、武蔵はおまえの先生というわけか", "うん" ], [ "ははあ、それで今日も、ここへ来たのだな。――しかし、清十郎のほうも、武蔵のほうも、まだ姿が見えぬというて、見物が気をもんでいるが、おまえは知っているだろう、武蔵はもう、旅宿から出かけたろうな", "知らないよ、おいらも、捜しているんだもの" ], [ "や、それにおられるのは、佐々木殿ではないか", "オ、植田良平", "どうしたんです" ], [ "年暮から、ふっと、道場へお帰りがないので、若先生も、どうしたのかと口癖に申していました", "ほかの日には帰らなくても、今日さえ、ここへ来れば、それでよいのだろうが", "ま、とにかく、あちらまでお越しを" ], [ "武蔵、武蔵", "武蔵が来た" ], [ "ホ、あれか", "あれだ――宮本武蔵は", "ふうむ……たいそう伊達者だな、だが、弱くはなさそうだ" ], [ "お気にさわったか", "あたりまえだ", "それは失礼" ], [ "では、助太刀はしないことにしよう。気ままになされというほかはない", "た、たれが、汝ごときに、助太刀を頼もうや", "そうでもありますまい。毛馬堤からわしを四条の道場へ迎えてゆき、あんなに、わしの機嫌をとったではないか。其許たちも、清十郎どのも", "それは、ただ客として、礼を与えたまでのこと。……思い上がったやつだ", "ハハハハ、よそう、ここでまた、其許たちと、試合の飛び火をこしらえても始まるまい。だが、わしの予言を、後になって、涙で悔いの種になすまいぞ。――わしが眼をもって見くらべたところでは、清十郎殿には九分九厘まで勝目がない。この正月の一日の朝、五条大橋の欄に武蔵という男を見かけ、その途端にこれはいけないと思ったのだ。……あの橋のたもとへ貴公たちの手で掲げた試合の高札が吉岡家の衰亡を自分で書いている忌中札のようにわたしには見えたのだ。……だが、人間の衰凋は、その人間にはわからないのが世の常かもしれん", "だ、だまれッ、貴様は、きょうの試合に対して、吉岡家へ、ケチをつけに来たのだな", "人の好意すら、素直に受け取れなくなるということが、そもそも、衰運の人間のもつ根性だ。なんとでも思うがよい。明日とはいわない。もうやがて一刻の後には、その眼がいやでも醒めずにいまい", "いったな!" ], [ "小次郎様、小次郎様ッ。……どこですか、武蔵様のいるところは。……武蔵様はいませんか", "……あ?" ], [ "朱実、なんでお前はここへ来たのか。――来てはならんといっておいたはずだ", "わたしの体です。来ては悪いのですか", "いけないッ" ], [ "それを、なんですか、あなたは私を数珠屋の二階に縛りつけたりなどしてッ。――わたしが、武蔵様のことを心配すると、あなたは、わたしを憎いように苛めて来たではありませんか。……その上……その上……きょうの試合には、きっと、武蔵は討たれるだろう、わしも、吉岡清十郎には義理があるから、よしや清十郎が及ばなくても、助太刀して、武蔵を討ってしまわなければならぬ。……そういって、ゆうべから泣き明していた私を、数珠屋の二階に縛りつけて、あなたは今朝、出て行ったのではありませんか", "……気が狂ったか、朱実、大勢の人中だぞ、青空の下だぞ、なにをいうのか", "いいます。気も狂いましょう、武蔵様は、わたしの心の中の人です。……その人が、なぶり殺しになるかと思えば、じっとしてはいられません。数珠屋の二階から、大きな声を出して、近所の人に来てもらい、わたしの体の縛めを解いてもらって駈けつけて来たのです。わたしは、武蔵様に会わなければならない。……武蔵様を出してください。武蔵様はどこにいますか", "…………" ], [ "若先生が――武蔵に?", "ど、どこで", "いつのまに", "ほんとか、民八" ], [ "……やっ?", "お、お", "若先生だ" ], [ "――若先生", "清十郎様っ", "しっかりして下さいっ", "われわれです", "門下達でござる" ], [ "……息は、息は、あるのか", "かすかに", "おいっ、た、たれかはやく若先生のからだを", "担うのか", "そうだ" ], [ "あのように苦しがって、腕を斬れと仰っしゃるんですから、いっそのこと、斬って上げたほうがお楽になるんじゃありませんか", "ばかをいえ" ], [ "各〻、先へ行って、あいつらを追っ払ってくれ。若先生のこのすがたを、弥次馬どもの見世物に曝して歩けるか", "よしっ" ], [ "貴様は、四条の道場を出る時から、若先生のお供をして出たのか", "はい、さ、さようでございます", "若先生は、どこで身支度をなさったのだ", "この、蓮台寺野へ、来てからでございました", "我々が乳牛院の原で、お待ちうけしていることを、若先生には、ご存じないはずはないのに、どうして、いきなりここへ真直に来てしまったのか", "手前には、なぜだか、一向にわかりません", "武蔵は――先へここへ来ていたのか、若先生より、後から来たのか", "先へ来て、あそこの、塚の前に立っていました", "一人だな、先も", "へい、一人でした", "どう試合ったのだ? 貴様は、ただ見ていたのか", "若先生が、手前に向って、万一、武蔵に敗けた時は、わしの骨はおまえが拾って行け。乳牛院の原には、明け方から門下たちが出張って騒いでいるが、武蔵との試合が決するまでは、あの者達へ、報らせに行ってはならんぞ――兵法者が、敗れをとるのは、時にとってぜひもないことだ。卑怯な振舞いして勝つほどの不名誉者にはなりたくない。――断じて、横から手出しはならんぞ――と、こう仰っしゃって、武蔵の前へすすんで行かれました", "ふ……ウム、そして", "武蔵の少し笑っている顔が、若先生の背を越して、私の方に見えました。なにか静かに、二人は挨拶を交わしているなと思ううちに、するどい声が野に響きわたって、ハッと思う眼に、若先生の木剣が空へ飛びあがったように見えますと、途端にもう、この広い野に突っ立っているのは、柿いろの鉢巻に、鬢の毛をそそけ立てている武蔵の姿がひとつしか見えなかったのでございます――" ], [ "御池、御池", "は……", "斬れ", "な、なにをですか", "ばか、さっきからいっているではないか、わしの右手をだ", "……でも", "ええ、意気地のない……。植田っ、おまえやれ、はやくせい", "ハ。……ハ" ], [ "私でよければ", "オ、たのむ" ], [ "……先生", "……若先生" ], [ "おまえがいつも、口ぐせのように、寝てもさめても呪っていた清十郎だ。さだめし、胸がすっと透いたろう。……え、朱実、おまえの奪われた処女のみさおは、あれで、見事に報復されたというものじゃないか", "…………" ], [ "あなたがご子息でござるか", "はい", "おわびは、拙者からせなければならぬ。なんで、お驚きなされたか、自分にはとんと分らぬが、此方のすがたを見ると、ご老母が、この小笊を捨ててお逃げなされた。……見ればお年寄が、せっかく摘まれた若菜や芹などの種々が後に散っているではないか。この枯野からこれだけの青い物をお採りなされたご老母の丹精を思うと、自分がご老母を驚かした理由はわからぬが、済まないと存じたのです。……で、菜を小笊へ拾いあつめて、これまで持って来ただけのことです、どうかお手をあげてください", "ああ、そうですか" ], [ "光悦や、それでは、その御牢人様は、なにもわし達に危害を加えようとするお人ではありませぬか", "害意どころか、あなた様が小笊の若菜を捨てておいでなさったので、この枯野からそれだけの青い物をさがして摘んだ年寄の丹精がいとしいと仰っしゃって、これへ持って来てくだされたほど、若い武人にしては心のやさしいお方でございます", "それはまあ、済まぬことを……" ], [ "今、わたくしの手すさびといいましたが、その構図に配してある和歌文字は、近衛三藐院様のお作で、またお書きになったのもあのお方です。ですから、ありようは二人の合作と申さなければなりません", "近衛三藐院というと、あの関白家の", "そうです、龍山公のお子様の信尹公のことです", "私の叔母の良人にあたる者が、近衛家に長年勤めておりますが", "なんと仰っしゃる御人?", "松尾要人と申します", "ほう、要人殿ならば、よう知っています。毎度近衛家にあがるので、お世話にあずかったり、また要人殿もよく、宅へ訪ねてくださるし", "ア、そうでしたか", "母者人" ], [ "茶に知るの、知らぬのという、智恵がましい賢らごとはないものぞよ。武骨者なら武骨者らしゅう飲んだがよいに", "そうですか", "作法が茶事ではない、作法は心がまえ。――あなたのなさる剣もそうではありませぬか", "そうです", "心がまえに、肩を凝らしては、せっかくの茶味が損じまする。剣ならば、体ばかり固うなって、心と刀の円通というものを失うでござりましょうが", "はい" ], [ "もう一ぷく、いかがでございますか", "たくさんです" ], [ "光悦どの、私には、今もいったとおり、陶器のことなど、皆目わからないのですが、この茶碗は、よほど名工の作ったものでしょうな", "どうして?" ], [ "――どうしてといわれると困るのですが、ふと、そんな気がするのです", "どこか、何かを、お感じになったのでしょう、それを仰っしゃって下さい" ], [ "――では、いい尽くせませんが、いいましょう。この箆ですぱっと切ってある土の痕ですが……", "ふむ!" ], [ "――箆の痕を、武蔵どのは、どう思いますか", "するどい!", "それだけですか", "いや、もっと複雑だ。非常に太っ腹ですな、この作者は", "それから", "刀でいえば、相州物のように、斬ればどこまでも切れる。けれど麗しいにおいでつつんでおくことを忘れない。また、この茶碗の全体のすがたからいえば、非常に素朴には見えるが、気位といいましょうか、どこかに王侯のような尊大な風があって、人を人とも思わないところもある", "ウウム……なるほど", "ですから、この作者は、人間としても、ちょっと底がわからないような人物だと私は思う。しかし、いずれ名のある名匠には違いありますまい。……ぶしつけですが、伺います、いったいなんという陶工ですか、この茶碗を焼いた人は" ], [ "いや、拙者は、皆目そのほうのことはわかりませぬ、あて推量です。失礼なことを申して、おゆるし下さい", "それはそうでしょう、いい茶碗一つ焼くにも、一生かかる道ですから。けれど貴方には、芸術を理解する感受性がある、かなり鋭い――やはり剣をおつかいになるので自然に養われた眼でしょうな" ], [ "武蔵どの、折を改めて、宅のほうへ、お越し下さい。――ゆるりとまた、話しましょう", "参ります" ], [ "思い出しても、癪にさわってならねえ。おととしからの炭薪や魚の代だ。あの道場で費うのだからちッとやそっとの物じゃあない。大晦日こそ、と出かけて行ったところが、門弟どもが、勝手なごたくを並べたあげく、掛取のおれたちを、外へ抓み出しゃあがったじゃねえか", "まあ、そう怒んなさんな、蓮台寺野の一件で、おれたちの鬱憤も因果はてきめん、あいつらへ返っていらあな", "だからよ、今頃まで、怒っているわけじゃねえ、欣しくってたまらねえのだ", "だが、吉岡清十郎も、話に聞けば、あんまり脆い負け方をしたものじゃねえか", "清十郎が弱いのじゃない、武蔵という男が、途方もなく強いらしいんだ", "なにしろ、たんだ一撃ちで、清十郎は左の手だか右の手だか、どっちか一本失くしちまった。それが木剣だというからすごい", "行ってみたのか、おめえは", "おれは見ねえが、行ってみた連中の話を聞くと、そんなことだったらしい。清十郎は戸板にのせられて帰って来たが、生命だけはまあ取り止めるらしいが、生涯、片輪者ということになってしまった", "後は、どうなるんだろう", "門弟たちは、どうあっても武蔵をぶち殺してしまわなければ道場に吉岡流の名はあげて置かれねえというんで、頻りにいきり立っているが、清十郎さえ刃が立たない相手とすると、武蔵に対って勝負のできそうな者は、弟の伝七郎よりほかにないというので、今――その伝七郎を探し廻っているといううわさだが", "伝七郎というのは、清十郎の弟か", "こいつは、兄よりはずんと、腕のほうは出来るらしいが、手に負えない次男坊で、小遣いのあるうちは、道場へも寄りつかないで、親父の拳法の縁故や名まえをだしにつかって、諸所方々、食いつめ者のように、遊び歩いているという厄介者だ", "そろいもそろった兄弟だな。あの拳法先生みたいな偉いお人の血すじに、どうしてそんな人間ばかり出来たんだろう", "だから、血すじだけじゃ、いい人間は出来ねえという証拠だな" ], [ "おやじ、もう一杯酌んでくれ。――なに、冷酒でいい、そこの大きな桝で", "お客様、だいじょうぶでございますか、お顔いろがすこし", "ばかをいえ、顔の青くなるのはおれの持ちまえだ" ], [ "なに? ……", "旦那、うっかり、お忘れなすったんでございましょう", "わすれ物はねえが", "御酒の……へへへへ……御酒のお払いを、まだいただいてございませんが", "アア勘定か", "おそれ入りますが", "金はねえや", "えっ", "……困ったなあ、金はねえ。ついこの間まではあったんだが", "じゃあ、てめえは、初手から文なしで飲みやがったんだな", "……だ、だまれ" ], [ "なんだ? おれを撲る? 面白い、撲ってみろ。――貴様達は、おれを誰だと思っているか", "乞食よりも意気地がなくて、盗っ人よりも太え芥溜牢人と思っているが、それがどうした", "いったな" ], [ "おれの名を聞いて驚くな", "誰が驚くものか", "佐々木小次郎とはおれのことだぞ。伊藤一刀斎のおとうと弟子、鐘巻流のつかい手、小次郎を知らねえか", "笑わかしやあがる。きいた風な文句はいいから、金を出せ、飲んだ金を" ], [ "おれは、小次郎だが、……その小次郎だったら、なんとする?", "訊きたいことがござります", "な……なにをだ", "この印籠はどこからお手に入れましたな", "印籠?" ], [ "誰でもいいではないか。それよりも、印籠の出所を仰っしゃい", "元からおれの持ち物なのだ、出所もあるものか", "嘘をいうな!" ], [ "ほんとのことをおいいなさい。場合によっては、飛んだ間違いごとになりますぞ", "これ以上、ほんとはない", "じゃあどうしても、おてまえは泥を吐かないな", "泥とは何事だ" ], [ "誰? ……誰? ……", "又八だ、わからないか", "えっ、又八さんですって", "なにしているんだ、そんな所で。――犬なぞ怖がるおまえでもないくせに", "犬が恐いのでかくれているわけじゃありません", "降りて来たらどうだ、とにかく", "でも……" ], [ "――又八さん、そこを退いていて下さい。あの人が、捜しに来たようですから", "あの人? 誰だ、そいつは", "そんなこと、いま話してはいられません。とても恐ろしい人です。わたしは去年の暮から、その男を、親切な人だと最初は思って、世話になっているうちに、だんだん私に酷い真似をするんです。……それで今夜、隙を見て、六条の数珠屋の二階から逃げ出して来たところ、すぐ感づいて、後から追って来たらしいんです", "お甲のことじゃないのか", "お養母さんなどじゃありません", "祇園藤次でもないのか", "あんな人なら、なにも恐いことはありやしない。……あッ、来たらしい。又八さん、そこに立っていると、わたしも見つかるし、おまえも酷い目に遭うから隠れて下さいよ!", "――なに、そいつが来たと?" ], [ "そちとわしとの争いは後で決めよう。わしは、この樹の上にかくれている女を降ろし、この先の数珠屋の宿まで連れ戻るから、それまで待っておれ", "ばかをいえ、そうはさせねえ", "なんじゃと", "この娘は、おれが以前女房にしていた女の娘。今でこそ縁はうすいが、難儀を見すてては通れない。おれをさし措いて、指でもさしてみろ、たたっ斬るぞ" ], [ "広言はよせ、考え直すなら今のうちだぞ、足もとの明るいうちに失せてしまえ、生命だけは助けてやる", "その言葉は、そのまま、そちへ返上しよう。――ところで、そこな人間殿、先程黙って聞いておれば、わしなどへ名乗って聞かすような名でないと、だいぶ勿体ぶってござったが、そのご尊名をひとつ伺っておこうではないか。それが勝負の作法でもあるし", "おお、聞かせてもいいが、聞いて驚くな", "驚かないように、胆をすえておたずねしよう。――してまず、剣のお流儀は" ], [ "富田入道勢源のわかれを汲んで、中条流の印可をうけている", "え、中条流を?" ], [ "鐘巻自斎先生", "ホ? ……" ], [ "すると、伊藤一刀斎は、ご存じか", "知っているとも" ], [ "あの伊藤弥五郎一刀斎なら、なにをかくそう、おれには兄弟子にあたる人だ。つまり、自斎先生のところで同門の間がらだが、それが、どうしたっていうんだ", "――では、重ねて伺いたいが、そういうあなたは", "佐々木小次郎", "え?", "佐々木小次郎という者だ" ], [ "なんだっておれの面をそう見るのだ。おれの名を承って恐れ入ったか", "イヤ、恐れ入った", "帰れ!" ], [ "世間を歩くと、ずいぶん様々な人物にも出会うが、まだかつて、こんなに恐れ入った例はない。――なんと佐々木小次郎どの、あなたに訊いてみるが、しからば、拙者は何者であろうか", "なに?", "わしは一体、何者かと、あなたに訊いてみるのだが", "知ったことか", "いやいやそうでない、よくご存知の筈である。執こいようだが念のため、もういちど承りたい。あなたのご姓名は、何といいましたかな", "わからぬか、おれは佐々木小次郎という者だ", "すると、わしは?", "人間だろう", "いかにも、それに違いない。しかし、わしという人間の名は", "こいつが、おれを弄る気か", "なんの、大真面目。これ以上の真面目はない。――小次郎先生、わしは誰だ?", "うるせえ、てめえの胸に訊くがいい", "しからば、自分に問うて、おこがましいが、わしも名乗ろう", "オオいえ", "だが、驚くな", "ばかな!", "わしは、岸柳佐々木小次郎だが", "えッ……?", "祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、また剣名を岸柳ともよぶ人間はかくいう私であるが――はて、いつのまに、佐々木小次郎が世間に二つできたのだろうか", "……や? ……じゃあ? ……", "世間を歩くうちには、ずいぶん様々な人物にも巡り会うが、まだかつて、佐々木小次郎という人間に出会ったのは、この佐々木小次郎、生れて初めてだ", "…………", "実に、ふしぎなご縁、初めてお目にかかったが、さては、貴殿が佐々木小次郎どのか", "…………", "どうなすった、急に、ふるえておいでなさるようだが", "…………", "仲良くしよう" ], [ "あの印籠は、どこから手に入れたものか、それを申せ、こら、申さぬか", "…………", "いわぬな" ], [ "き、きるのか、おれを", "ウム、生命をもらう", "おれは、一切を正直にいったじゃないか。印籠は返したし、印可の巻物も返す。それから、金も今は払えないが、後日、きっと返すといってるのに、なにもおれを、殺さなくてもいいだろう", "おぬしの正直はよく分っている。だが、仔細をいえば、わしは上州下仁田の者で、伏見城の工事場で大勢の者に殺された草薙天鬼様の奉公人なのだ。――つまりあの武者修行に出ておられた草薙家の若党で、一ノ宮源八というのだが" ], [ "――謝る、おれが悪かったのだ、おれはなにも、悪い量見で、あの死骸から物を盗んだわけじゃない。死人がいまわの際に、たのむ……といったので、初めはその遺言どおりに、死人の身寄りの者へ届けてやるつもりでいたのだが、金につまって、つい預かっていた金へ手をつけたのが悪かったのだ。いくらでも謝るから、勘弁してくれ、どんなようにでも謝るから――", "いいや、謝られては困る" ], [ "その折の詳しい事情は、伏見の町で調べてあるし、おぬしが正直者だということも見ておるのだから。――だが、わしは国もとにいる天鬼様の遺族に対して、なにか、慰めるものを提げて行かなければ帰れない事情にあるのだ。そこには、いろいろな理があるが、主なる理由は、天鬼様を殺めた下手人がないことだ。これにはわしも弱ってしもうた", "おれが……おれが殺したのじゃないぞ。……おいっ、おいっ、間違えてくれては困る", "わかってる、わかってる。――そこは十分承知しているが、遠い上州にある草薙家のご遺族たちは、天鬼様が、城ぶしんの作事場で、土工や石工などになぶり殺しになったのだとはご存じないし、また、左様なことは、外聞がわるくて、身寄りの者や世間へも披露いたし難い。そこで、おぬしには気の毒な頼みだが、どうかおぬしが天鬼様を殺した下手人となり、この源八に、主の敵となって、討たれてもらいたいのだが、なんと聞き入れてはくれまいか" ], [ "ば、ばかなことをっ……嫌だっ、嫌だっ、おれはまだ死にたくない体だ", "ごもっともな仰せではあるが、さっき九条の居酒屋で飲んだ払いもできぬほど、その身一つさえ生きてゆくに持てあましておられるご様子ではないか。飢えてこのせち辛い世の中にうろついて、恥をかいておられるより、いっそ、さっぱりと頓証なされてはどうでございまするな。――さてまた、お金のことならば、自分が所持のうち何分だけでも、おぬしの香奠として進ぜますゆえ、これをお心残りの年寄りがあるならその年寄りへ、また回向として、先祖の寺へ納めてくれというならばそのお寺へ、必ずお届け申しておくが", "滅相もねえ……おらお金なんぞはいらねえ、生命が惜しい! ……嫌だっ、助けてくれっ", "折角なれど、こう仔細を割っておたのみ申した上は、どうあってもおぬしに、主人の敵となってもらわねば仕方がない。その首をいただいて、上州へ立帰り、天鬼様のご遺族や世間に対して、事情を繕う心底でござる。――又八どのとやら、これも宿世の約束ごととあきらめて下さい" ], [ "つまらない殺生をするなよ、源八っ――", "あっ、誰だ?", "小次郎だ", "なに" ], [ "ただ小次郎とだけでは分らぬ。どこの何の小次郎か", "岸柳――佐々木小次郎さ", "ばかなっ" ], [ "その偽物はもう流行らぬぞ。今もここで一人、憂き目を見ているのが分らぬか。……ははあ、さては読めた、おのれもここにいる又八とやらの同類か", "わしは真物だ。――源八、わしはそこへ跳び降りようと思うのだが、おまえは、降りて来たらわしを真二つに斬ろうとしているな", "ウム、小次郎の化け物、幾人でも降りて来い。成敗してみせる", "斬れたら、偽小次郎だろう、だが真物の小次郎は、斬れッこない。――降りるぞ、源八", "…………", "いいか、おまえの頭の上へ跳ぶぞ、見事に、斬れよ。――だが、わしを宙斬りにし損ねると、わしの背にある物干竿が、おまえの直身を、竹のように割ってしまうかも知れないぞ", "アッしばらく――。小次郎様、しばらくお待ちください。……そのお声、思い出しました。また、物干竿の銘刀をご所持のうえは、真の佐々木小次郎様に違いありません", "信じたか", "けれど――どうして左様なところへは?", "後で話そう" ], [ "そう仰っしゃって下さるからには、私にはなにも異存はございません", "――では、わしはこれで別れるぞ、おまえも国へ帰れ", "え、このまま", "されば、実はこれから、朱実という女子の逃げた先をさがしに行く。――ちと気が急くから", "ア、お待ちください。まだ、大事なものをお忘れでございましょう", "なにを", "先師の鐘巻自斎様から、甥の天鬼様へ託して、あなたへお譲りなされた中条流の印可の巻", "ウム、あれか", "死んだ天鬼様の懐中から抜き取って、この偽小次郎の又八と申す者が、今も肌身につけて所持しておるといいました。――それは当然、自斎先生から、あなたへ授けられたもの。……思えばこうしてお会い申したのも、自斎先生の霊や、天鬼様のおひきあわせであったかも知れません。どうかそれをこの場において、お受取りくださいまし" ], [ "え? ……どうして", "要らん", "なぜですか", "なぜでも、わしにはもうそんな物は、不要だと思うから", "勿体ないことを仰っしゃる。自斎先生は、多くのお弟子のうちから、中条流の印可を授ける者は、あなたか、伊藤一刀斎か、こう二人よりないと見て、生前から心で許しておいでになったのですぞ。――やがて、いまわの際に、この一巻を、甥の天鬼様にあずけて、あなたへ渡せと仰っしゃったのは、伊藤一刀斎は、すでに独自の一派を立てて、一刀流を称しておりますゆえ、おとうと弟子ではあるが、あなたに印可目録をお許しになったものだろうと考えられます。……師恩の有難さ、おわかりになりませんか", "師恩は師恩、しかし、わしにはわしの抱負があるのだ", "なんですッて", "誤解するな、源八", "余りといえば、師に対して、無礼でございましょう", "そんなことはない。ありようにいえば、わしは師の自斎先生よりも、もっと秀でた天稟を持って生れていると思っている。だから、先生よりも偉くなるつもりなのだ。あんな片田舎で晩年を埋もれてしまうような剣士で終りたくないのだ", "本性で仰っしゃるのか", "――勿論" ], [ "偽者", "…………", "これっ偽者、返辞をせぬか", "はい", "おぬし、名は何という", "本位田又八", "牢人か", "はあ……", "意気地のない奴だ、師匠からくれた印可さえ返してやったわしを見習え。それくらいな気概がなくては、一流一派の祖にはなれんと思うからだ。……それをなんだ、他人の名をかたり、他人の印可を盗んで、世間を渡りあるくとは、さもしいにも程がある。虎の皮をかぶっても猫は猫でしかないぞ。あげくの果ては、こういう目に遇うのがオチだ。すこしは身にしみたか", "以後気をつけます", "いのちだけは助けてやる。しかし向後のこともあるから、その縄目は、ひとりでに解ける時までそうしておく" ], [ "エ、ホ", "ヤ、ホッ" ], [ "ヤ、サ", "エ、サ", "あ、ふ……", "も少し", "六条だぞ" ], [ "六条か、ここは", "六条の松原", "もう一息" ], [ "まだ夜が明けないのか。……おそろしく早かったな", "お兄上の身になれば、まだかまだかと、一刻も千秋の思いで、お待ちかねでございましょう", "おれの帰るまで、兄貴の生命が保っていてくれればいいが……", "医者は保つといっておりますが、何分ひどく昂ぶっていらっしゃるので、時折傷口から出血するのがよくないそうで", "……むむ、ご無念だろうな" ], [ "――なんだろう?", "ただの犬の声じゃないが" ], [ "――やっ?", "――や?", "――や? 奇態な奴" ], [ "おや、こいつは、よもぎの寮で見たことがある", "お甲の亭主だ", "亭主。――亭主はなかったはずだが", "それは祇園藤次の手前だけで、ほんとはこの男がお甲に養われていたのだ" ], [ "えっ、御舎弟が", "今、お着きか" ], [ "おいおい、茶はいい。茶はいいから、酒を支度してくれ", "はい" ], [ "御舎弟さま", "なんだ", "お酒の支度ができました", "持って来い", "あちらへ用意してございますゆえ、おふろにでもお入りになって", "湯になんか入りたくもない。酒はここでのむから、ここへ持って来い", "え、お枕元で", "いいさ、兄貴とは久しぶりで話すのだ。永い間、仲も悪かったが、こういう時には、やはり兄弟に如くものはないよ。ここで飲もう" ], [ "弟", "ウム", "枕元で、酒はよしてくれ", "なぜ", "いろいろ嫌なことが思い出されて、おれは不愉快だから", "嫌なこととは", "亡き父上が、さだめし、兄弟の酒には、眉をひそめておいでになろう。――おまえも酒の上から、おれも酒の上から、一つもいいことはしていない", "じゃあ、悪いことをして来たというのか", "……おまえにはまだ胆にこたえまい。しかし、わしは今、心魂に徹して、半生の苦杯をなめ味わっているのだ……この病褥の中で", "ハハハハハ、つまらんことをいっている。そもそも兄者人は線がほそくて、神経質で、いわゆる剣人らしい線の太さがない。ほんとをいえば、武蔵などとも、試合をするというのが間違っている。相手がどうあろうと、そんなことはあなたのがらにないことなのだ。もうこれに懲りて、あなたは太刀を持たないがいい、そしてただ吉岡二代目様で納まっているんだな。――どうしても試合を挑む猛者があって退っ引きならなくなった場合は、伝七郎が出て立合ってあげる。道場もこの先は、伝七郎におまかせなさい、きっと、おやじの時代よりは、数倍も繁昌させてみせる。――おれの道場を乗っ取る野心だなどと、あなたさえ疑わなければ、拙者は、きっとやってみせるが" ], [ "なんです、改まって", "――弟、おまえに望み通りこの道場を譲ろう。だが、道場を継ぐことは、同時に家名を継ぐことであるぞ", "よろしい、ひき受けましょう", "そう無造作にいってくれるな――おれの轍をふんで、ふたたび亡父の名を汚すようでは、今つぶした方がいい", "馬鹿なことを仰っしゃい。伝七郎はあなたとは違う", "心を入れかえてやってくれるか", "待ってくれ、酒はやめませんぞ、酒だけは", "よかろう、酒も程には。……わしが過ったのは、酒のせいではない", "女でしょう。――女ずきはあなたのいけないところだ。こんど体が癒ったら、もう決まった妻をお持ちなさい", "いや、この機会にわしはすっぱりと剣を捨てた、妻など持とうという気持もない。――ただ一人救ってやらなければならない人間がある。その者の幸福になるのを見届けたら、もう望みはない。野末に茅の屋根を結んで果てるつもりじゃ……", "はて? 救ってやらなければならない人間とは", "まあいい。――おまえには後を頼むぞ。こういう廃人の兄の胸にもまだ、幾分かの意地とか面目とかいうものは、武士であるからには、未練だが、燃えいぶっている……それを忍んで、おまえにこう手をついていう。……いいか、おれの踏んだ轍をまた踏んでくれるなよ", "よしっ……きっとあなたの汚名は遠からず雪いでみせる。だが、相手の武蔵は今、何処にいるのか、その居処はおわかりですか", "……武蔵?" ], [ "伝七郎、おまえは、おれが誡めているそばから、あの武蔵と立合うつもりか", "なにを仰っしゃるのだ、今さら、いうまでもありますまい。この伝七郎を迎えによこしたのは、そのおつもりではありませんか。また、拙者も門人も、武蔵が他国へ足をふみ出さないうちにと思えばこそ即座に、取る物も取りあえず、駈けつけて来たのではございませんか", "思い違いも甚だしい!" ], [ "武蔵に!", "たれが", "知れているではないか。おまえがだ。おまえの腕ではだ――", "ば、ばかなことを" ], [ "呼べ。……呼んで来い。伝七郎にもいちどいうことがある。伝七郎をここへ連れて来い", "ハ、ハイ" ], [ "お兄上とは、もうお会いになりましたか", "ム。今会ってきた", "お欣びだったでしょう", "そう欣しそうでもなかった。部屋へはいるまでは、俺も胸がいっぱいだったが、兄貴の顔を見ると、兄貴もむッつりしているし、俺もいいたいことをいったりして、またすぐにいつもの口喧嘩だ", "え、口喧嘩を。……それは御舎弟がよくない。お兄上はきのう辺りから小康を得て、すこし容態を持ち直して来たばかりのお体。そういう病人をつかまえて", "だが……待てよ、オイ" ], [ "――兄貴はおれにこういうのだぞ。――おまえは、おれの敗北をすすぐために、武蔵と立合うつもりだろうが、所詮、おまえは武蔵に勝てん。おまえが斃れたらもうこの道場までが亡ぶ、家名が絶える。恥はわし一身のことにして、わしは今度のこと限り、生涯剣を手に把らないという声明をして身を退くから、おまえはわしに代ってこの道場を支え、一時の汚名を、将来の精進で挽回してくれい……と、こういうのだ", "なるほど", "なにがなるほど!", "…………" ], [ "――酒はどうした", "あちらに運んでおきました", "ここへ持って来い、皆で飲みながら話そう", "若先生が", "うるさい。……兄貴はすこし恐怖症にとッ憑かれているらしい。酒をこっちへ持って来い" ], [ "おれは、断言するぞ、武蔵を打つと! ……。兄がなんといおうと、おれはやる。武蔵をこのまま抛っておいて、家名大事に、道場の維持を考えて行けなどという兄貴のことばは、いったい武士の吐くことばか。そんな考えだから、武蔵に敗れるのは当然だ。――貴様たちも、その兄貴とおれとを、一緒に視るなよ", "それはもう……" ], [ "御舎弟のお力は、我々も信じておりますが……だが", "だが……なんだ?", "お兄上のお考えにしてみると、相手の武蔵は一介の武者修行、こちらは室町家以来の御名家、秤にかけてみても、これは損な試合で、勝っても敗けてもつまらない博奕だと、こう賢明に悟られたのではございますまいか", "――博奕だと" ], [ "……出て行け! 臆病者", "失言でした、御舎弟……", "だまれっ、貴様のような卑劣者は、おれと同席する資格がない。――去れッ" ], [ "わかりました", "どこにいたか、武蔵は", "実相院町の東の辻――俗にあの辺で本阿弥の辻とも呼んでおりますが、そこの本阿弥光悦の家の奥に、たしかに武蔵が逗留しておる様子なので", "本阿弥の家に。――はてな? 武蔵のような田舎出の修行者ずれと、あの光悦が、どうして知り合いなのだろうか", "縁故のほどはよく分りませぬが、とにかく、泊っていることは慥です", "よしっ、すぐ出向こう" ], [ "ふいに出向いて行って討つなどということは、喧嘩の意趣めいて、勝っても、世間がよくいいますまい", "稽古には礼儀作法もあろうが、いざという実地の兵法に、作法はない、勝ったほうが勝ちだ", "ですが、お兄上の場合がそうではなかったのですから。――やはり、前もって書状をつかわし、場所、日、時刻を約しておいて、堂々とお試合になったほうが立派かと存じますが", "そうだ、そうしよう、お前たちのいう通りにするが、まさかその間に、また兄貴の言にうごかされて、門人までが止めだてはすまいな", "異論を抱く者や、また吉岡道場を見限った恩知らずは、この十日ほどの間に、すべてここの門から出てゆきました", "それでかえって、この道場は強固になった。祇園藤次のような不届き者、南保余一兵衛のような臆病者、すべて恥を知らぬ腰抜けは自分から出て行ったがよい", "武蔵へ書面をつかわす前に、一応はお兄上の耳へも", "そのことなら、お前たちではだめだ、おれが行って話を決める" ], [ "ご隠居さあは、きょうは帰りがおそうなるといって出やはりましたがの。おおかた晩方までのおつもりで出やはったのでございましょうが", "じゃあ私も、あまりお腹がすいておりませんから、おひるはやめておきましょう", "あんた、ちっとも物を召上がらんで、ようそうしておいでなはるなあ" ], [ "ええ、どこなの?", "ついそこの入口でございますよ、ヘイ、路地の右側の角で", "まあ、じゃあ往来に向っているんですね", "往来でも、お静かでございますが" ], [ "ここは、お宅の離屋じゃないの", "はい、手前どもの別棟でございますが", "ここならばいいのね……。静かそうで……どこからも、見えない", "あちらの母屋にも、よいお部屋がございますが", "番頭さん、ちょうどここにいらっしゃるのは、女のお方のようだし……私もここに泊らせてもらえませんか", "ところが、もうおひと方、ちと気ごころのむつかしいご隠居がいらっしゃいますのでな……", "かまいません。私はいいけれど……", "後ほど、お帰りになりましたらば、合宿をご承知くださるかどうか、伺ってみますが", "じゃあその間、彼方の部屋でやすんでいましょうか", "どうぞ。……あちらの部屋だって、きっとお気に召すと存じますが" ], [ "お婆様、おつかれでございましょう。きょうはまたどちらまで……", "問うまでもあるまいに" ], [ "せがれの又八を尋ね、武蔵のありかを捜し歩いているのじゃ", "すこし脚でもお揉みいたしましょうか", "脚はさほどでもないが、陽気のせいか、この四、五日は肩が凝る。――揉んでやろうという気があるなら揉んで賜もい" ], [ "ほんに、お肩が固うございますこと。これでは、呼吸がお苦しゅうございましょう", "歩いていても、ふと胸がつまるように思うことがある。やはり年じゃ、いつなん時、卒中で倒れるかも知れぬ", "まだ、まだ、若い者も及ばないお元気で、そんなことがあってよいものではございませぬ", "でものう、あの陽気な権叔父ですら、夢のように死んで逝った。人間はわからぬよ。……ただわしが元気になる時は、武蔵を思う時だけじゃ。おのれと、武蔵へ初一念を燃やす時は、誰にも負けぬ気が立って来る", "お婆様……。武蔵様は、そんな悪い人では決してありませぬ。……お婆様のお考え違いでございます", "……ふ……ふ" ], [ "そうじゃったの、そなたにとれば、又八を見かえて惚れた男じゃもの。――悪ういうて済まなかった", "ま! ……そんな理では", "ないとおいいやるか。又八よりは、武蔵が可愛ゆうてなるまいがの。そう明らさまにいうたほうが、物事すべて、正直というものじゃぞ", "…………", "やがて、又八に出会うたら、この婆が仲に立って、そなたの望み通り、きっぱり話はつけてやるが、そうなればそなたと婆とは、あかの他人、そなたはすぐ武蔵のところへ走って行って、さぞかしわしら母子の悪口をいうことであろうわいの", "なんでそんなことを……。お婆様、お通はそんな女子ではございませぬ。元の御恩は御恩として、いつまでも覚えておりまする", "この頃の若い女子は、口がうまい。ようそのように優しくいえたものじゃ。この婆は正直者ゆえ、そのように言葉はかざれぬ。――そなたが武蔵の妻となれば、そなたも後にはわしが仇じゃ。……ホホホホホ、仇の肩を揉むのも辛かろうのう", "…………", "それも、武蔵と添いたいための苦労であろが。そう思えば、堪忍のならぬこともない", "…………", "なにを泣いておいやる?", "泣いてはおりませぬ", "では、わしの襟もとへ、こぼれたのはなんじゃ", "……すみませぬ、つい", "ええもう、むずむずと、虫が這うているようで気持がわるい、もっと力を入れておくれぬか。……めそめそと、武蔵のことばかり考えておいやらずに" ], [ "何やらぞんじませぬが、黄昏れ頃、寒々とした風態のお若い牢人が堂の内をのぞいて――この頃は作州のお婆は参籠に見えぬかと問われますゆえ、いや折々お見えでござる――と答えますと、筆を貸せといい、婆が見えたらこれを渡してくれといって立ち去りました。――ちょうど五条まで用達に出かけましたので、早速、お届けにあがったような次第で", "それは、それは、ご苦労さまな" ], [ "お通っ……", "はい" ], [ "もう茶など注いでも無駄なことじゃ。子安堂の堂衆は帰ってしもうたがな", "もうお帰りになってしまいましたか。それでは、お婆様に一ぷく", "人に出しそびれたのでわしへ振向けておくれるのか。わしの腹は茶こぼしではないぞえ、そのような茶、飲みとうもない。それよりすぐ支度しやい", "……え、どこぞへ、お供するのでございますか", "そちの待っている話を今夜つけてやろうほどに", "あ……では今のお手紙は、又八様からでございますか", "なんなとよいがな、そなたは黙ってついて来ればよいのじゃ", "それでは旅宿の厨へ、早くお膳部を持ってくるようにいうて参りましょう", "そなた、まだか", "お婆様のお帰りを待っておりましたので", "よけいな気づかいばかりしていやる。わしが出たのは午前、今まで食べずにおられようか。午と夜食をかねて外で奈良茶のめしを済ましてきました。わが身まだなら急いで茶漬なと食べなされ", "はい", "音羽山の夜はまだ肌寒かろう、胴着は縫えているか", "お小袖はもう少しでございますが……", "小袖を訊いているのじゃない、胴着を出してたも。それから足袋も洗うてあるか、草履の緒もゆるい。旅宿へ告げて、わら草履の新しいのをもろうて来ておくりゃれ" ], [ "提燈を持ったか", "いえ……", "うつけた女子よの、音羽山の奥まで行くのに灯りなしでこの婆を歩ます気か、旅宿の提燈を借りて来なされ", "気がつきませんでした――今すぐ" ], [ "お通、提燈を消すなよ", "はい……", "いない、いない" ], [ "手紙には、地主権現まで来てくれとあったが", "今夜と書いてございましたか", "きょうとも明日ともしてないのじゃ、幾歳になってもあの子ときては子供じゃでのう。……それより自分で旅宿へ来ればよいに、住吉のこともあるので、間がわるいのじゃろ" ], [ "お婆様、又八さんではありませんか。――誰か下から登って来るようです", "エ、いたか" ], [ "女子、そこのおばば。お前たちは今ここへ登って来たのか", "…………" ], [ "ちょうど、これくらいな年ごろの女だ。名は朱実といって、もちっと丸顔、がらはこの女子より小つぶだが、茶屋そだちの都会娘、どこかもそっと大人びている風がある……。見かけないか、この辺りで", "…………" ], [ "又八ではないか", "おばばっ" ], [ "……でもなおばば、今も、たった今もここを通ったろうが", "誰がじゃ?", "太刀を背中に負った、眼のするどい若衆だ", "知っていやるのか", "知らいでか、あいつが佐々木小次郎といって、つい先頃、六条の松原で、小っぴどい目にあわされた", "――なに、佐々木小次郎? ……佐々木小次郎というのは、わがみのことではないのか", "ど、どうして", "いつであったか、大坂表でわがみが、わしに見せてくれた中条流の許し書の巻物に、そう書いてあったじゃろうが。その時、わがみは佐々木小次郎というのは自分の別名じゃというたではないか", "嘘だ、あれは嘘なんだ。――その悪戯がバレてしまい、本物の佐々木小次郎奴にひどい懲らしめに遭わされたのだぞ。――実は、おばばのところへ手紙をたのんでから、約束の場所へ出向こうとすると、またもここで彼奴のすがたを見かけたので、眼にとまっては大変と、あっちこっちに隠れ廻って、様子をながめていたというわけ。――もう大丈夫かしら、またやって来ると面倒だが", "…………" ], [ "それよりは又八、おぬしは、権叔父の死んだことを知っていやるか", "えっ、叔父御が? ……ほんとですか", "たれがそのような嘘をいおうぞ。住吉の浜で、おぬしと別れるとすぐあの浜で亡くなったのじゃ", "知らなかった……", "叔父御の敢ない死も、この婆がこの年して、こうした憂い旅にさまようているのも、いったいなんのためか、おぬしは分っていやろうがの", "いつか、大坂で会った折、凍てた大地にひきすえられ、おばばに存分叱られたことは、胆に銘じて忘れてはいない", "そうか……あの言葉を覚えているか。では、おぬしに欣んでもらうことがあるぞよ", "なんだ、おばば", "お通のことよ", "……あっ! じゃあ、おばばの側に添って、今彼方へ行った女子は", "これっ――" ], [ "汝が身は、どこへおじゃるつもりじゃ", "お通ならば……おばば……会わしてくれ、会わしてくれ" ], [ "会わしてやろうと思えばこそ連れて来たのじゃ。――したが又八、おぬし、お通に会ってどういう気か", "悪かった――済まなかった――ゆるしてくれといって、おれは謝るつもりだ", "……そして", "……そしてなあ、おばば……おばばからも、おれの一時の心得ちがいを宥めてくれ", "……そして", "元のように", "なんじゃあ? ……", "――元のように仲をもどして、お通と夫婦になりたいんだ。おばば、お通はおれを今でも思っていてくれてるだろうか" ], [ "たった今、おぬしはなんというたぞ。わしがいつかいうて聞かせた言葉は、胆に銘じているというたであろう", "…………", "いつ、このおばばが、お通のような不埒な女子へ、汝が身が手をついて謝れと教えたか。――本位田家の名に泥を塗って、あまっさえ、七生までの仇ぞと思うている武蔵と逃げた女子じゃぞよ", "…………", "許嫁であった汝が身を捨てて、汝が身とは、家名の仇の武蔵へ身をも心をもまかせている犬畜生のようなあのお通に、汝れは、手をついて謝る所存か。……謝る所存かよ! これっ――" ], [ "のう、これ。お通ばかりが女子ではなし、あのような者に未練をのこしゃるな。もしこの先、おぬしが、ほしいと望む女子があれば、この婆がその女子の家へお百度踏んで通うても――いやわしが生命を結納に進上しても、きっと貰うてやりまするがの", "…………", "――だがの、お通だけは、金輪際、本位田家の面目として、持たすことは相成らぬ。おぬしが、なんといおうが、まかりならぬ", "…………", "もし、飽くまでおぬしがお通と添う気なら、この婆が首打ってそれからどうなとしやるがよい。わしの生きているうちは――", "おばば!" ], [ "なんじゃ、そのいいざまは", "じゃあ訊くが……いったいおれの女房にする女は、おばばが持つのか、おれが持つのか", "知れたことをいやる、わが身のもつ妻でのうてなんとする", "……な、ならば、お、おれが選ぶのが、あたりまえじゃないか。それを", "まだそのように聞きわけのないことばかり……。汝が身はいったい幾歳になるのか", "だって……い、いくら親だってあんまりだっ、勝手すぎる" ], [ "勝手とはなんじゃ、汝が身はそもそも、たれの子か、たれの腹から、この世には生れて来たか", "そんなこといったってむりだ。おばば……おれはどうしても、お通と添いたい。――お通が好きなんだっ" ], [ "あッ、おばばなにするっ――", "ええもう、止めだてしやるな。それよりはなぜ、介錯するといわぬか", "ば、ばかなことを。……おばばが死ぬのを、おれが……子が見ていられるか", "では、お通をあきらめて、性根を持ち直してたもるか", "じゃあ、おばばは一体、なんのために、お通をこんなところへ連れて来たのだ。おれにお通のすがたを見せびらかすのだ。――おれには、おばばのその肚がわからぬ", "わしの手で殺すは易いことじゃが、元々、汝が身を裏切った不貞な女、汝が身の手で成敗させてやりたいと思う親ごころのそれも一つ、有難いとはなぜ思わぬか" ], [ "それじゃあ、おばばは、おれの手でお通を斬れというのか", "……嫌か!" ], [ "嫌なら嫌といえ。猶予はならぬことじゃ", "だ……だって、おばば", "まだ未練をいいおるか。エエ、もうおのれのような奴、子でない、母でない! ……。女の首は斬れまいが、母の首なら斬れるであろう。介錯しやい" ], [ "おばば! ……そ、そんな短気なことをしなくっても。……いいよ、わかった、おれは諦める", "それだけか", "成敗してみせる。おれの手で……おれの手でお通を", "殺るかよ?", "ム。殺ってみせる" ], [ "よういやった、それでこそ本位田家の世継ぎ息子、あっぱれ者と御先祖さまも仰っしゃろう", "……そうかなあ?", "討って来い。お通は、すぐこの下の塵間塚の前に待たせてある", "ウム……今行くよ", "お通を首にして、添状付けて、先に七宝寺へ送りとどけてやろうぞ。村の者のうわさだけでも、わしらの面目が半分は立つ。――さて次には武蔵めじゃが、これも、お通を討たれたと聞けば、意地でもわしら母子の前へ出て来るじゃろう。……又八、はよう行って来い", "おばばは、ここで待っているか", "いや、わしも尾いて行くが、わしが姿を見せると、それでは話がちがうのなんのと、お通めがわめいてうるさかろう。わしは少し離れた物蔭から見ております", "……女ひとりだ" ], [ "おばば、きっとお通は首にして来るから、ここで待っていたらいいじゃないか。……女ひとりだ、大丈夫、逃がしゃあしない", "でも、油断をしやるなよ、あれでも刃物を見れば、相当に手抗いはするぞ", "いいよ……なにくそ" ], [ "よいか、油断するなよ", "なんだおばば、尾いて来るのか。待っていろ", "よいわ、塵間塚は、まだその下――", "いいといったら!" ], [ "二人でゆくくらいなら、おばば一人で行って来い。おれはここで待っている", "なにを渋っていやるのじゃ、おぬしはまだ本心からお通を斬る気になっておらぬの", "……あれだって人間だ、猫の子を斬るような気持じゃ斬れない", "無理もない……たといどのように不貞の女でも、元はおぬしの許嫁であったげな。……よいわ、ばばはここにいましょう、おぬし一人で行って見事にして来やれ" ], [ "……え。どなたです", "おれだよ", "おれとは", "本位田又八だ", "えっ?" ], [ "又八さんですって", "もう声まで忘れたかい", "ほんに……ほんに又八さんの声ですね。婆様に会いましたか", "お婆は、彼方に待たせておいた。……お通、おまえは変らないなあ。七宝寺にいた時分と――ちっとも変っていない", "又八さん、あなたはどこにいるんですか。暗くてあなたの姿はわかりません", "そばへ行ってもいいかい。……おれは面目ない気がして、先刻からここへ来ていたが、しばらく後ろの闇にかくれて、おまえの姿を見ていたんだ。……おまえはそこで今、なにを考えていたのか", "べつに……なにも", "おれのことを考えていてくれたのじゃないのか。おれは一日だって、おまえのことを思い出さない日はなかったぜ" ], [ "又八さん、お婆様から、なにか話を聞きましたか", "ア、今この上で", "じゃあ、私のことを", "うむ" ], [ "又八さん、二人の心と心のあいだには、もう通うもののない深い谷間ができました", "その谷間に、五年の年月が流れて行ったのだ", "そうです、年月が返らぬように、私たちのむかしの心も、もう呼びもどすことは出来ません", "で、できないことはないよ! お通、お通っ", "いいえ。――できません" ], [ "……ね、お通。――返らない年月を呼んでみたって始まらないじゃないか。これから二人して、やり直そう", "又八さん、あなたはどこまで考え違いをしているのですか。私のいっているのは、年月のことではありません、心のことです", "だからさ、その心を、おれはこれから持ち直すよ。自分でいいわけしても変だけれど、おれがやった過ちぐらいは、若いうちは誰にだってあり勝ちな話じゃないか", "どう仰っしゃっても、私の心はもうあなたの言葉を本気で聞こうといたしません", "……わるかッたよ! こんなに男が謝っているのじゃないか……え、お通", "およしなさい、又八さん、貴方もこれから男のなかへ生きてゆく男でしょう。こんなことに……", "でも、おれには、生涯の重大事だ。手をつけというなら手をつく。おまえが、誓いを立てろというなら、どんな誓いでもきっと立てる", "知りません!", "そう……怒らないでさあ……ね、お通、ここじゃあ、しんみり話ができないから、どこか、ほかへ行こう", "嫌です", "おばばが来るとまずい。……早く行こう。おれには、とてもおまえを殺せない。どうして、おまえを殺せるものか" ], [ "嫌だと?", "ええ", "どうしても", "ええ", "お通、それではおまえは、今まで武蔵を思っていたのだな", "お慕いしています――二世まで誓うお人はあのお方と心に決めて", "ウウム……" ], [ "いったな、お通", "そのことは、婆様の耳へも入れてあります。そして、婆様からあなたに告げ、この際、はっきりと話をつけた方がよいと仰っしゃるので、こういう折を今日まで待っていたのです", "わかった……おれに会ってそういえと――それも武蔵の指図だろう。いいやそうに違いねえ", "いいえ、いいえ。自分の生涯を決めること、武蔵様のお指図はうけません", "おれも意地だ。――お通、男には意地があるぞ。てめえがそういう量見ならば……", "なにするんですッ", "おれも男だっ。おれの生涯を賭けても、武蔵と添わせてたまるものか。――許さぬっ! たれが許す!", "許すの、許さぬのと、それは誰に向ってなんのことを仰っしゃるのですか", "てめえにだ! また武蔵にだ! お通、貴様は武蔵と許嫁ではなかったはずだぞ", "そうです……、けれども、あなたがそう仰っしゃる筋はございますまい", "いや、ある! お通というものは、もともと本位田又八の許嫁だ。又八がうんといわねえうちは、誰の妻になることも出来ないはずだ。ましてや……武……武蔵ずれに!", "卑怯です、未練です、今さらそんなことがよういえたもの。私はあなたとお甲という人との二人名前で、ずっと前に、縁切状をいただいてありました", "知らないっ、そんな物をおれは出した覚えがない。お甲が勝手に出したのだろう", "いいえ、その状には貴方が立派にない縁とあきらめて、他家へ嫁いてくれと書いてありました", "み、見せろ、それを", "沢庵さんが見て、笑いながら鼻をかんで捨ててしまいました", "証拠のないことをいっても世間へは通るまい。おれとお通とが許嫁だということは、故郷へ行けば知らない者はない。こっちには幾らでも証人が立てられるが、そっちには証拠のない話だ。……なあお通、世間を狭くしてまで、無理に武蔵と添ってみたって、倖せに暮せるはずはないぜ。おまえは、お甲のことをまだ疑っているかも知れねえが、あんな女とは、もうきれいに手を切っているのだ", "伺ってもむだなこと、そんな話、お通の存じたことではありません", "……じゃあこれ程に、おれが頭を下げても", "又八さん、あなたは今、おれも男だと仰っしゃったではありませんか。恥を知らない男などへ、どうして女の心がうごきましょう。女の求めている男は、女々しくない男です", "なんだと", "お離しなさい、袂が切れますから", "ち、ちくしょうっ", "どうするんですっ――なにをなさるのです", "もう……これまでいっても分らねえなら、破れかぶれだ", "えっ……", "生命が惜しいと思ったら、武蔵のことなど思いませんと、ここで誓え、さあ誓え" ], [ "斬ったかよ", "逃がした", "阿呆っ", "――下だ。あれがそうだ" ], [ "又八、汝が身は、気でもちごうたのか。老母に向って――なんたることをしやる", "おふくろ!", "……なんじゃア?", "…………" ], [ "……おら……おらあ……お通を斬った! お通を斬った", "賞めてやっているではないかよ。――それをなんで汝が身は哭くか", "哭かずにいられるかっ。……馬鹿、馬鹿っ、馬鹿婆アめ!", "かなしいのか", "あたりまえだ! おばばのようなくたばり損いが生きていなければ、おれは、どんなことをしても、もいちど、お通の気持を取りもどして見せたんだ。くそっ、家名がなんだ、故郷の奴らへの面目がなんだ。……だが、もう駄目だ……", "知れた愚痴をいやる。それほど未練があるのなら、なぜ婆の首を打って、お通を助けなかったのじゃ", "それが出来るくらいなら、おれは哭いたり愚痴をいったりしやしねえ。世の中に、分らずやの老よりを持ったくらい、不倖せなことはねえ", "よしたがよい、なんのざまじゃ、それは……。折角、出来しおったと賞めているのに", "勝手にしろ。……おれはもう一生涯、やりたい放題のことをやって、出たら目に送ってやるぞ", "それが汝が身の悪い気質じゃ。たんと駄々をいうて、この年老った母を困らせるがよいわ", "困らしてやるとも、くそったれ婆め、鬼婆め!", "オオ、オオ。なんとでもいうがよいわい。さあさあ、そこを退きなされ。今、お通の首を掻き切って、それからとっくりと話して進ぜる", "た、たれが、薄情婆の談義などを聞くかっ", "そうでない、胴を離れたお通の首を見てからじっと考えてみるがよいわさ。美貌がなんじゃあ……美しい女子も死ねば白骨……色即是空を目に見せて進ぜよう", "うるせえッ、うるせえッ" ], [ "……アーア。考えてみると、おれの望みはやっぱりお通だった。時々、これじゃいけないと思って、なにか立身の途を捜そう、なにか一つ励みを出そうと、真面目な奮発が起るのも、その時には、お通と添うことを考えているからだった。――家名でもねえし、こんなくそ婆アのためでもねえ。――お通が望みにあったればこそ", "よしないことをいつまで嘆いておじゃるぞ。その口で念仏でもいうてやったがまだましじゃぞ。……なむあみだぶつ" ], [ "変だね", "おかしゅうございますな", "おまえの聞き違いじゃないのか", "いいえ、確かに、夕方清水堂のお使いが見えてから、急に、地主権現まで行ってくると仰っしゃって、手前どもの提燈をお持ちになったのですから――", "その地主権現というのが、おかしいじゃないか。この夜中に、なにしに行ったのだい", "どなたか其処で待ち合っていらっしゃるようなお話でしたが", "ならばまだいそうなものだが……", "誰もいませんな", "さあて?" ], [ "子安堂のそばの燈明番に聞いたら、あのご隠居と若い女子が、提燈を持って、登って行くすがたは見たといいましたね。……それから三年坂のほうへ降りたという者も誰もいないし", "だから、心配になるんだよ。ひょっとすると、もっと山の奥か、もっと道のないような場所かも知れぬ", "なぜでございます", "どうやら、お通さんは、おばばのうまい口に乗せられて、いよいよ、あの世の門口まで、攫われて行ったらしい……アア、こうしている間も心配になる", "あのご隠居は、そんな恐ろしいお方ですか", "なあに、いい人間だよ", "でも、あなたのお話を伺うと……思い当ることがございますんで", "どんなこと", "きょうも、お通さんと仰っしゃる女子が、泣いておりました", "あれはまた、泣虫でな、泣虫のお通さんというくらいなんだよ。……だが、この正月の一日から側に引き寄せられていたといえば、だいぶチクチク虐められたろうな。かあいそうに", "息子の嫁じゃ嫁じゃと仰っしゃっておいででしたから、お姑なれば、仕方がないと思っていましたが、……じゃあなにか恨み事があって、一寸だめし五分試しに虐めていたわけでございますね", "さだめしお婆はたんのうしたろうが、夜陰、山の中へ連れ込んだところを見ると、最後の思いをはらそうというつもりだろう。恐いのう女は", "あの隠居様などは、女の部類へははいりませんよ。ほかの女子たちが大迷惑をしまさあ", "そうではないな、どんな女たちにも、ちょっぴりずつはあるものらしい。お婆のは、それがつよいだけだ", "お坊さんだから、やはり女子はきらいとみえますな、そのくせ先刻は、あの隠居様のことを、いい人間だといったりしたが", "いい人間であることにまちがいはないのだよ。あのおばばでも、清水堂へ日参するというじゃあないか。観音さまへ数珠をさげている間は、観音さまに近いおばばになっているわけだからの", "よくお念仏もいっておりますぜ", "そうだろう、そういう信仰家という者は世間にたくさんあるものだよ。外では悪いことをしてきながら、家へはいるとすぐお念仏。眼では悪魔のすることを捜しながら、お寺へ来ればすぐお念仏。人を撲っても、後でお念仏さえいえば、罪障消滅、極楽往生、うたがいなしと信じている信心家だ。こまるね、ああいうのは" ], [ "お通の名を呼んだようだぞ。オオ、また呼んでいる", "いぶかしいことよの。――ここへお通をさがしに来る者があるとすれば、城太郎小僧よりほかにないが", "大人の声だ……", "どこかで聞いたような", "あっ、いけねえ! ……おばば、もう首など斬って持ってゆくのは止せ。提燈を持って、誰かこっちへ降りてくる", "なに、降りてくると", "二人づれだ。見つかるといけない、おばば、おばば!" ], [ "ここまでして、かんじんな首級を取らずに行ってよいものか。なにを証拠に、故郷の衆へ、お通を成敗したと証拠だてることができよう。……待て、今わしが", "あ" ], [ "これを見い", "え", "お通ではないわ! この死骸は乞食か、病人か、男であろが", "あっ、牢人者だ" ], [ "変だな、この人間をおれは知っているが", "なんじゃ、知人じゃと", "赤壁八十馬といって、おれはこいつに騙されて、持金を巻き上げられたことがある。生き馬の眼を抜くようなあの八十馬が、どうしてこんなところにへたばっていたのだろうか" ], [ "わからぬか、おばば。やはりおぬしもどこか耄碌したのう", "オーッ、沢庵坊主じゃの", "おどろいたか", "なんの!" ], [ "どこ暗くのう世間をうろついている物乞い坊主、今はこの京都に流れておじゃったか", "そうそう" ], [ "ばばのいう通り、さきごろまでは柳生谷や泉州の辺りをうろついていたが、ついゆうべ、ぶらりと都へやって来てな、さるお方のお館で、ちらと腑に落ちぬ沙汰を耳にしたので、これはいかん――捨ておけぬ大事と思い、黄昏からおぬし達を捜しあるいていたのじゃよ", "何の用で?", "お通にも会おうと思って", "ふーム", "おばば", "なにかや", "お通はどこへ行った", "知らん", "知らんことはあるまい", "このおばばは、お通に紐をつけて歩いてはおりませぬぞよ" ], [ "なんじゃと、わしが家名に泥のうわ塗りをし、又八をよけいに不幸にするとおいいやるか", "そうだ", "阿呆な" ], [ "布施飯くうて他人の寺に宿借して、野に糞してばかり歩く人間に、家名じゃとか、子の愛じゃとかいう、世間のほんとの苦しみがわかって堪るものかいの。人なみな口をたたくなら、人なみに働いて食う米を食わッしゃれ", "痛いことをいう。そういってやりたい坊主も世間にはあるから、わしにも少し痛い。七宝寺にいた頃から、口ではおばばに敵わないと思っていたが、相変らずその口が達者だのう", "オオさ、まだまだこの婆にはこの世に大望がある、達者は口ばかりと思うてか", "まあいい。――済んだことは仕方がないとして話そうじゃないか", "なにを", "おばば、おぬしはここで、又八にお通を斬らしたな。母子でお通を殺めたであろうが" ], [ "そう考えているなら、そうしておくもよい。――だがおばば、おぬしの信心ぶかいことをわしは知っているが、この死骸をすててゆく法はあるまい", "死に損のうていた行き仆れ、斬ったは又八じゃが、又八のせいじゃない。抛っておいても死ぬ人間であったじゃろ" ], [ "これは、死んでない", "死んでいるものか", "気を失っているだけだ" ], [ "――かまいません、お気に召されたら、外してお持ちくださるがよい。総じて、絵画などというものは、真にその作品を愛して、作中の真味を汲んでくれる人に持たれれば、その絵は倖せであり、地下の作者も満足だろうと思われます。ですから、どうぞ", "そう伺っては、なおのこと、私にはこの絵を頂戴する資格がございませぬ。――こうして拝見していると、頻りと、所有欲のようなものが動いて、自分も一つ、こんな名幅を持ってみたいという気持はして来ますが――持ったところで、家もなし、席も定まらぬ流寓の武者修行", "なるほど、旅ばかりしているお体では、かえってお邪魔ですな。お若いから、まだそんなこころもちにおなりになるまいが、人間、どんなに小さくともよいが、わが家というものを持たない人は、いかに寂しかろうぞと、私は思いやられるのじゃが。――どうです、ひとつこの京都の隅あたりへ、ざっとした丸木で一庵をお拵えになっておいては", "まだ家がほしいと思ったことはありません。それよりも、九州の果て、長崎の文明、また新しい都府と聞く東の江戸、陸奥の大山大川など――遠い方にばかり遊心が動いています。生れながら私には、放浪癖があるのかもわかりません", "いや、あなたばかりでなく、誰でもでしょう、四畳半の茶室より、蒼空を好むのが若い人の当り前です。同時に、自分の希望の達成が、自分の身近にはない気がして、常に遠くにばかり道があると思ってしまう弊もある。大事な若い日の空費はたいがい、その遠くにあこがれて居所に希望を誓わない――つまり境遇への不平に暮れてしまうのじゃないでしょうかな" ], [ "ハハハハ、私のような閑人が、若いお人へ、教訓めいて、こんなことをいうのはおかしい。……そうそう、ここへ来たのはそんなことではなく、あなたを今夜連れ出そうと思って来たのですが、どうですか武蔵殿、あなたは遊廓を見たことがありますか", "遊廓というと……遊女のいる廓のことですか", "そうです。私の友達に、灰屋紹由というて、気心のおけない人がいる。その紹由から、今誘い文が来たのですが、六条の遊び町を見にゆく気はありませんか" ], [ "では、お言葉に甘えて、光悦どのに連れて行ってもらいます", "オオ、そうなされ。――さ、衣裳もかえて", "いや、拙者には、美服はかえって似合いませぬ。野に伏しても、どこへまいっても、この袷一枚が、やはり自分らしくて気ままですから", "それはいけません" ], [ "貴方はそれでよいじゃろが、汚い身装をしていては、綺羅やかな遊廓の席に、雑巾が置いてあるように見ゆるではないかの。世事の憂いこと醜いこと、すべてを忘れて、一刻でも半夜でも、綺麗事につつまれて、さらりと屈託を捨てて来るのがあの遊廓でござりまするがの。――そう思うてみれば、わが身の化粧や伊達も、廓景色の一つ、わが身だけの見得と思うが間違いであろが。……ホ、ホ、ホ、ホ、そういうたとて、名古屋山三や政宗どの程な晴れ着でもない、ただ垢がついていぬというだけの衣、さあ世話をやかせずに袖を通してみなされ", "は、……それでは" ], [ "お案じなされますな、拙者へ危害を加えても、光悦どのへ害意のある者ではないと存じます", "おとといも、そんなことがあったと誰かいうたの。おとといの侍は、一人であったらしいが、するどい眼ざしして、門内まで案内ものうはいり込み、茶室の路地にかがみ込んで、武蔵どののいる奥の部屋を頻りとのぞいて立ち去ったそうな", "吉岡の者でしょう" ], [ "はい……今し方、お職人衆もみなお帰りになりましたので、ここの門を閉めようといたしますると、どこにいたのか、三人連れのお侍方が、いきなり手前を囲んで、中の一人が、懐中から書状のような物を取出し――これを当家の客へ渡せ――と恐ろしい顔して申しまする", "うむ……客といって、武蔵どのとはいわなかったのか", "いいや、その後で申しました――宮本武蔵と申す者が、数日前から泊っているはずだと――", "そしてお前はなんといった", "わしは、かねて旦那様から口止めされてありましたで――どこまでも、そのようなお客様はおらぬと首を振りますと、いちどは怒って、偽りを申すな――と高声を張りかけましたが少し年老った侍がそのお人を宥めて、皮肉な笑い方をしながら、それではよい、べつな仕方で、当人に会って渡すから――と、そういって彼方の辻へ行ってしまいましたが" ], [ "光悦どの、それではこうして戴きましょう。万一のことでもあって、あなたへお怪我でもさせたり、累を及ぼしては、申し訳がありませぬゆえ、一足先におひとりで", "いや、何" ], [ "母御様、母御様", "忘れ物か", "いいえ、今のことですが、もしあなた様が気がかりに思し召すなら、灰屋どのへ使いをやって、今夜のお誘いは断りまするが、……", "なんの、わしが案じたのは、そなたの身より、武蔵どのに万一のことでもないかと懸念したのじゃ。――その武蔵どのがもう先へ出て待っているものを、止めてもかいはあるまいし、折角、灰屋様のお誘いでもある。機嫌よう、遊んで来なされ" ], [ "聞いているでしょうとも、連歌のほうでは紹巴の門で、もう一家を成している人ですから", "ハハア、連歌師ですか", "いえ、紹巴や貞徳のように、連歌で生活を立てている人ではありません。――また私と同じような家がらで、この京都の古い町人です", "灰屋という姓は", "屋号ですよ", "何を売る店なので", "灰を売るのです", "灰を? ――何の灰をですか", "紺屋が紺染めに使う灰なので、紺灰といっております。諸国の染座へ卸すので、なかなか大きな商売です", "アアなるほど、あの灰汁水を作る原料ですな", "それは莫大な金額にのぼる取引なので、室町の世の初期ごろには、御所の直轄で、紺灰座奉行をやっておりましたが、中期頃から民営になりまして、紺灰座問屋というのが、この京都に三軒とか許されていたものだそうです。その一軒が、灰屋紹由の先祖でした。――けれど今の紹由殿の代になってからは、もうその家業はやめて、この堀川で余生を穏やかに送っているわけですが" ], [ "見えましょう、此処から。あの見るからに閑雅な門のある一構えが、灰屋どののお住居です", "…………" ], [ "御舎弟伝七郎どのから其許への手翰、たしかに渡し申すぞ。――ここで一読いたして、すぐ返辞を承りたい", "ははあ……" ], [ "異約あるにおいては、天下へ向って、嘲笑い申すぞ", "…………" ], [ "武蔵、それまでは、この灰屋にいるのだな", "いや、宵には、六条の遊廓を案内して下さるそうな。いずれかにいる", "六条? よし。――六条かこの家かどっちかにいるのだな。刻限が遅れたら迎えをよこすぞ。よもや卑怯な振舞はなかろうが" ], [ "叡山のうえが、曇って来ましたな。あの上にかかる雲は、北国から来る北雲です。――お寒くはありませんか", "いやべつに" ], [ "ウウ、寒", "風が撲ぐって来よった", "鼻が挘げそうだの", "なにか降るぞ、今夜は", "――春だというのに" ], [ "あそこです。あれが六条の柳町で――この頃町家が殖えてから、三筋町とも称んでいますが", "アア、あれですか", "町中を出離れてから、またこんな広い馬場だの空地だのを通って、その彼方に忽然と、あんな灯の聚落が現れるのもおもしろいでしょう", "意外でした", "遊廓も以前には、二条にあったものですが、大内裏に近うて、夜半などには、民歌や俗曲が、御苑のほとりに立つとかすかに耳にさわるというので、所司代の板倉勝重どのが、急にここへ移転させたものです。――それからまだやっと三年しか経ちませんのに、どうです。もうあの通りな町になって、なお拡がって行こうとしている", "では、三年前には、まだこの辺は", "ええ、もう夜などは、どっちを見ても真っ暗で、つくづく戦国の火の禍いが嘆じられるばかりであったものです。――けれど今では、新しい流行は皆、あの灯の中から出ているし、大げさにいえば、一つの文化をさえ生むところとなっているので……" ], [ "かすかに聞えて来たでしょう……遊廓の絃歌が", "なるほど、聞えます", "あの音曲などにしても、新しく琉球から渡来ってきた三味線を工夫したり、またその三味線を基礎にして今様の歌謡ができて来たり、その派生から隆達ぶしだの上方唄だのが作られたり、そういったものは、すべてあそこが母胎といってよい。あそこで興ったものを後から一般の民衆が受けとるのですから、そういう文化のほうでは、一般の町と遊廓とも、ふかい因果関係があるわけですな。だから、遊廓だから、町の隔離してあるところだからといって、あそこがどんなに穢ならしくてもよいということはいえません" ], [ "船ばし様", "水落様も" ], [ "――これ、なあに?", "――禽", "じゃあ、これは", "うさぎ", "――こんどは?", "……笠の人" ], [ "酒がわるいものなら、神様はお嫌いなはずだが、酒は悪魔よりも神様のほうがお好きじゃった。だから、酒ほど清浄なものはない。神代には、酒を造る時、純清の処女子たちの白珠のような歯で米を噛ませて酒を醸したという。それほど清らかなものだった", "ホホホ、まあ、きたない" ], [ "なにが、きたないか", "お米を歯で噛んだりして造ったお酒が、なんできれいなことがあるものですか", "ばかをいえ。おまえ達の歯で噛みつぶしたら、それや汚いどころじゃない、誰も飲み人はありはせぬが、まだ、春も芽ばえのなんの穢れにもそまぬ、処女が噛むのじゃ。花が蜜を吐くように噛んでは壺に溜めて醸す酒。……ああわしはそのような酒に酔ってみたいがのう" ], [ "小菩薩太夫、その息子に一つ飲ませてやってくれ。これ飲まぬか息子", "いただいています" ], [ "すこしも杯があかないではないか。はてはて意気地のない", "弱いのです", "弱いのは、剣術じゃろう" ], [ "そうかもしれません", "酒をのむと、修行の妨げになる。酒をのむと、常の修養が乱れる。酒をのむと、意思が弱くなる。酒をのむと、立身がおぼつかない。――などと考えてござるなら、お前さんは、大したものになれない", "そんなことは考えておりませぬが、ただ一つ、困ることがあるのです", "なんじゃな、それは", "眠くなってしまうことです", "眠くなったら、ここでも、どこへでも、寝てしもうたがよいではないか。そんな義理を立てるすじは毛頭いらん沙汰じゃ" ], [ "この息子、飲むと眠くなるのが怖いというておる。それでもわしは飲ませてしまうから、眠くなったら、寝かせてやってくだされよ", "はい" ], [ "寝かせてやってくれるか", "ようござります", "ところで、介抱役はこの中の誰だな。のう光悦どの、誰がよいか、武蔵どのに、気に入りそうなのは", "さあ?", "墨菊太夫は、わが家の女房――小菩薩太夫は、光悦どのが苦々しかろう。唐琴太夫も……いけないな、ちと、さしあいが悪い", "船ばし様、今に、吉野太夫がおみえなさりましょうが", "それよ" ], [ "わたくし達とちがって、あの太夫様は、それはもう、引く手数多なお方、はやくと仰っしゃってもそうまいりませぬ", "いいや、いいや、わしが来ていると告げれば、どんなお客も袖にして来るはずじゃ。誰か使い、使い" ], [ "りん弥がおるの", "おりまする", "りん弥、ちょっとおいで、そなたは、吉野太夫つきの禿であろうが、なぜ太夫をつれて来ぬのじゃ。船ばし様が、待ちわびているというて、吉野をこれへ連れて来ておくりゃれ。――つれてきたら褒美をやるぞよ" ], [ "あら、あら", "あら!", "まあ!" ], [ "つもるかしら?", "つもるでしょう", "あしたの朝は、どんなかしら?", "ひがし山が、真っ白になって――", "東寺は", "東寺の塔だって", "金閣寺は", "金閣寺も", "鴉は", "鴉も――", "嘘ばかり!" ], [ "もういい、もういい", "上がれ上がれ" ], [ "はい、吉野太夫様の", "ああそうか、来るか", "お越しになることは、どんなことをしてもお越しになると仰っしゃいましたが……", "……ましたが……。なんじゃ", "どうしても、今すぐとは、ただ今お見え遊ばしているお客様がご承知してくださいませぬ", "――不見識な" ], [ "ほかの太夫ならば、そういう挨拶も通るが、扇屋の吉野太夫ともある傾城が、買手どものわがままにまかせて、振り切って来られぬというのはどうしたものじゃ、吉野もいよいよ金で買われるようになったかな", "いえ、そうではござりませぬが、こよいのお客様は、わけても、片意地で、太夫様が去ぬと仰っしゃれば、よけいに離してくれないのでござります", "すべて、買手どもの心理は、みなそうしたものじゃろが。――いったいその意地のわるいお客とは誰じゃ", "寒巌さまでございまする", "寒巌さま?" ], [ "かんがん様は、おひとりでお見えか", "いいえ、あの", "いつものお連れと? ……", "ええ" ], [ "何を書きますか", "歌でもよいし……文でもよいが……歌がよいな、先がなんせい当代の歌人じゃから", "こまりましたな。……つまり吉野太夫をこちらへくれという歌でしょう", "そうじゃ。その通り", "名歌でなければ先の意をうごかすことはできません。名歌などがそう即吟でできるものではございません。あなた様が一つ、連歌を遊ばして", "逃げたの。……よろしい面倒じゃから、こう書いてやろう" ], [ "墨菊太夫", "はい", "これはなんじゃ", "なんですかわたくしには分かりませぬ。ただ、返辞を持ってゆけと仰っしゃって、これを、かんがん様から渡されたので持って来ただけでござりまする", "ひとを、小馬鹿に召されたな。……それともこちらの名歌に、すぐ筆をとってよこすほどの返歌もうかばで、あやまったという降参状かな" ], [ "のう、いったい、その返しは、どういう量見じゃろう", "やはりなにか、読めという意でございましょうな", "何も書いてない白紙を、どう読みようもなかろうではないか", "いえ、読めば読めないことはありません", "では光悦どのは、これをどう読む?", "――雪。……いちめんの白雪とは読めましょう", "ム、ウム、雪か。いやなるほど", "吉野の花をこちらへ移してほしいという手紙の返しですから、これは、眺めて酒を酌むならば、花ならずとも――という意味でしょう。つまり折からこよいは雪のながめにも恵まれているのだからそんなに多情を起さずに、障子でも開け放して、雪だけでまあ飲んでいるがよろしい――と、こういう返辞と私は思いますが" ], [ "お、そなたは、さっき縁がわから雪の中へ転げた、りん弥という子だな", "え、そうです。お客さまは、お後架へ行こうと思って迷子になったんでしょう。わたしが連れて行ってあげましょう" ], [ "いやいや、わしは酔っているのじゃない。すまないが、そこらの開いている座敷で、茶漬を一わん喰べさせてくれないか", "御飯?" ], [ "御飯なら、お座敷へ持って行ってあげますのに", "でも、せっかく皆が、ああやって愉快に酒を飲んでいるところだから――" ], [ "それもそうですね。では、ここへ持って来てあげましょう。ご馳走は、何がいいんです", "なにもいらない、握り飯を二つほど――", "おにぎりでいいんですか" ], [ "お客さま、どこへ行くのですか", "すぐ戻って来る", "すぐ戻って来るといっても、そんなところから……", "表口から出るのも億劫。それに、光悦どのや紹由どのが気づくと、また、なにかとあの人たちの遊興を妨げるし、うるさくもあるからな", "じゃあ、そこの木戸を開けてあげますから、すぐ帰っていらっしゃいね。もし帰って来ないと、わたしが叱られるかもしれません", "よしよし、すぐ戻って来るよ。……もし光悦どのが訊ねたら、蓮華王院の近所まで、知人に会うために中座しましたが、間もなく帰ってくるつもりですといって出たと伝えてくれ", "つもりではいけません、きっと帰って来てください。あなたのおあいての太夫様は、わたしの付いている吉野太夫様ですからね" ], [ "おそれいるがこの羽織を預かっておいてくれまいか。――もし拙者が、亥の下刻(十一時)までにここへ帰らなかったら、この羽織と添えてある一通とを、扇屋におられる光悦どのまで、お届けしてもらいたいが", "はいはい、おやすいことでございます。たしかにお預かりしておきまする", "時に、時刻は今、酉の下刻(七時)か、戌の刻(八時)ごろか", "まだ、そうなりますまい。きょうは雪もようで、暗くなるのが早うござりましたからの", "今、扇屋を出てくる前に、あそこの土圭が鳴っていたが", "ならば、それがおおかた、今、柝を打って廻っていた酉の下刻でござりましょう", "まだ、そんなものかのう", "暮れたばかりでござりますもの。――往来の人通りを見ても知れまする" ], [ "御舎弟さま。わらじの緒はだいじょうぶでござるか。こう寒い――凍るような晩には、きつい緒も、ぷつりと切れ易うござりますぞ", "心配するな" ], [ "御池十郎左と、植田良平でしょう", "なに、御池や植田良平まで来ているのか" ], [ "武蔵ひとりを討つのに、仰山すぎる。たとえ、仕果しても、あれは大勢で討ったのだといわれてはおれの沽券にもかかわるからな", "いや、時刻が来たら、われわれは立ち退きますから" ], [ "いま来た途中に、腰かけ茶屋があったなあ", "この雪で、もう戸を閉めておりましたが", "たたき起せば起きるだろう。――誰かそこへ行って、酒を提げて来ないか", "え、酒をですか", "そうだ、酒がなくっちゃあ……とても寒いわ" ], [ "伝七郎、おぬしほんとに、やるのじゃなあ。……いや、おぬしのその姿を見て、ほっと安堵いたした", "叔父上にも、一応ご相談にあがろうと思っていましたが", "相談、なんの、相談などに及ぼうか。吉岡の名に、泥をぬられ、兄を片輪にされて、黙っているようだったら、わしが其方を責めに出向こうと思っていたくらいじゃ", "ご安心ください。柔弱な兄とはちがうつもりですから", "そこはわしも信頼しておる。そちが負けようとは思わんが、一言、励ましてくれようと思って、壬生から駈けつけて来たのじゃ。――だが伝七郎、あまり敵を軽視して臨むなよ、武蔵という者も、うわさを聞けば、なかなかな男らしい", "心得ています", "勝とう勝とうと焦心らぬがよいぞ。天命にまかせろ。万一のことがあったら、骨は源左衛門がひろってやる", "ハハハハ" ], [ "――六条柳町の編笠茶屋を出てから、雪がふるのに、武蔵め、牛のようにのそのそ歩いておりましたが、たった今、祇園神社の石垣をのぼって境内へはいりました。――拙者は、廻り道してここへ来ましたが、あののろい足つきでも、もう姿を見せるはずです、御用意を!", "よしッ。……兵助", "は", "彼方へ行っておれ", "皆は", "知らん。その辺にいては、眼ざわりだ、立ち去れ", "はッ……" ], [ "いや、せっかくお休みのところを、お邪魔いたして申しわけありません。……あの彼方の樹の下に、二人ほど佇んでおるようですから、あの者が、蓮華王院で待つといってよこした当人かも知れません", "では、たずねて御覧なさい", "ご案内は、もうここまでで結構です、どうぞお引取りくださるように", "なにか、雪見でもなさろうという御会合で?", "まあ、そんなものです" ], [ "いわでもがなのことではありますが、もしこの廂のお近くで、さっきのように火でもお焚きになる場合は、どうぞ、後の残り火だけはご注意くださいますように", "わかりました", "では御免を" ], [ "誰? 兵助", "庫裡の方から出てきたようですが?", "寺の者ではないらしいぞ", "はてな" ], [ "――よいかとは、何がよいかというぞ。武蔵! 戌の下刻は、もう過ぎておる", "下刻の鐘と、きっちり、同時にとは約束していない", "詭弁を吐くなっ。こっちはとうに来て、この通り身支度して待ちぬいていた。――さっ、降りろ" ], [ "なんの、吉岡伝七郎の如き、すでに去年の春、拙者が真二つに斬っている! きょう再び斬れば、おん身を斬ることこれで二度目だ!", "なにっ! いつ、どこで", "大和の国柳生の庄", "大和の", "綿屋という旅籠の風呂の中で", "や、あの時?", "どっちも、身に寸鉄も帯びていない風呂の中であったが、眼をもって、この男、斬れるかどうかを自分は心のうちで計っていた。そして、眼で斬った、見事に斬れたと思った。しかし、そちらの体には何の形も現さないから、気づきもせずにおったろうが、おん身が、剣で世に立つ者と傲語するならば、余人のまえでいうなら知らぬこと、この武蔵のまえでいうのは笑止だ", "なにをいうかと思えば、愚にもつかぬ吐ざき言。だが、少しおもしろい、その独りよがりを醒ましてやろう。来いっ。彼方へ立とう", "して伝七郎、道具は、木太刀か、真剣か", "木太刀も持たずに参って何をいう。真剣は覚悟のうえで来たのと違うか", "相手が木太刀を望みとあれば、相手の木太刀を奪って打つ", "広言、やめろッ", "では", "おっ" ], [ "…………", "…………" ], [ "…………", "…………" ], [ "…………", "…………" ], [ "…………", "…………" ], [ "おうっ", "御舎弟の方だ", "た、たいへんだ", "みんな来いっ" ], [ "ヤ! 太田黒まで", "御舎弟っ", "伝七郎様っ" ], [ "――いない", "――おりません" ], [ "武蔵", "オオあれか", "うーむ……" ], [ "達者か", "達者じゃ", "会いたかった", "うれしい坊主め" ], [ "船ばしの翁、いつも元気でよいのう", "かんがん様のお連れが、お館とは露だに知らず……" ], [ "なあ坊主、おぬしなどは狡い奴じゃぞ。――今の世の中で狡い人間は坊主、賢い者は町人、強い者は武家、おろかしき者は堂上方。……アハハハ、そじゃないか", "そじゃ、そじゃ", "好きなこともよう出来ず、さりとて政事からは戸閉めを喰い、せめて歌でも詠むか、書でも書くか。そこより他に力の出し場がないなどということが……アハハハハ、のう坊主、あろかいな" ], [ "太夫。……太夫はなんと思さるるな。たとえば、堂上方に惚れ召さるか、それとも町人に惚れ召さるか", "ホ、ホ、ホ。まあ船ばし様が……", "笑い事でない、真面目に女子の胸をたたいてみるのじゃ。ウウムそうか、いや読めた、やはり太夫も町人がよいというか。――さらばわしの部屋へ来い、さあ太夫は紹由が貰うて行く" ], [ "ではいずれが、花の吉野へわけいるか。この女の眼の前で、酒戦ないたそう", "酒戦とな。ことも可笑し" ], [ "実盛どの、白髪を染めてござったか", "なんのさ、骨細な公卿どのを相手にするに。――いざまいろう。勝負勝負", "なんでまいるか。ただ交〻飲むだけでは、興もない", "睨めッこ", "やくたいもない", "では貝合せ", "あれは、汚い爺を相手にする遊戯びではない", "憎いことを。しからば、じゃんけん!", "よろしかろう。さあ", "沢庵坊、行司行司", "心得た" ], [ "今戻って来ました", "さっきの裏口から?", "うむ", "どこへ行って来たんですか", "廓外まで", "いい人と、約束があったんでしょう、太夫様へいいつけて上げよう――" ], [ "皆様のすがたが見えぬが、皆様はどうなされたか", "あちらで、かんがん様やお坊様と一緒になって、遊んでいらっしゃいます", "光悦どのは", "知りません", "お帰りだろうか。光悦どのが帰られたら、拙者も帰りたいと思うが", "いけません。ここへ来たら太夫様のおゆるしのないうちは帰られないんですよ。黙って帰ると、あなたも笑われますし、私も後で叱られます" ], [ "ここは遊びの里だ、あいさつはざっとにしよう。……光悦どのも共に来ているという話だが、光悦どのは見えないじゃないか", "どこへ参られたやら?", "捜して、一緒になろう。おぬしにはいろいろ話したいこともあるが、それは後にして" ], [ "戻ろうではないか", "帰りましょう" ], [ "参ってみようか", "せっかく、太夫がそういうものを" ], [ "桑畑であろうと、牡丹畑であろうと、こう雪が降り積って、蕭条ととした有様では同じことじゃ。吉野は麿たちに風邪を引かせる趣向か", "おそれ入りました。その吉野様は先程から、そこでお待ちうけでございます。どうぞ、あれまでお徒歩いを" ], [ "ほう、これは", "また、艶やかな" ], [ "…………", "…………" ], [ "もし、武蔵さま", "なんですか", "あなたはそうやって、誰に備えているのですか", "誰にではない、自身の油断を誡めている", "敵には", "元よりのこと", "それでは、もしここへ、吉岡様の門人衆が、大勢して、どっと襲せて来た時には、あなたは立ちどころに、斬られてしまうに違いない。わたくしにはそう思えてなりませぬ。なんというお気の毒なお方であろ", "……?", "武蔵さま。女のわたくしには、兵法などという道は分りませぬが、宵の頃から、あなたの所作や眼ざしを窺っていると、今にも斬られて死ぬ人のように見えてならないのです。いわば、あなたの面には死相が満ちているといってよいかも知れません。いったい、武者修行とか、兵法者とかいって世に立ってゆくお方が、大勢の刃を前に控えながら、そんなことでよいものでございましょうか。そんなことでも人に勝てるものでございまするか" ], [ "吉野どの、この武蔵を未熟者だと笑うたな", "お怒りなされましたか", "いうた者が女だ。怒りもせぬが、拙者の所作が、今にも斬られる人間に見えてならぬとはどういう理か" ], [ "かりそめにも、兵法者の武蔵さまへ、今のような言葉、なんで戯れ言に申しましょうか", "では、聴かせい。どうして拙者の身が、そなたの眼には、すぐ敵に斬られそうなと、そんな脆い未熟な体に見えるのか。――その理を", "それほどお訊ねならば、申してみましょう。武蔵さま、あなたは先刻、吉野が皆様へのお慰みに弾いた琵琶の音を聴いておいで遊ばしましたか?", "琵琶を。あれと拙者の身と、なんの関わりがある", "お訊ねしたのが愚かでした。終始何ものかへ、張り緊めていたあなたのお耳には、あの一曲のうちに奏でられた複雑かな音の種々も、恐らくお聴き分けはなかったかも知れませぬ", "いや、聴いていた。それほど、うつつにはおらぬ", "では、あの――大絃、中絃、清絃、遊絃のわずか四つしかない絃から、どうしてあのように強い調子や、緩やかな調子や、種々な音色が、自由自在に鳴り出るのでしょうか。そこまでお聴き分けなさいましたか", "要らぬことであろう。拙者はただ、そなたの語る平曲の熊野を聴いていただけのこと、それ以上なにを聴こう", "仰せの通りです。それでよいのでございますが、わたくしは今ここで琵琶を一箇の人間として喩えてみたいのでございます。――で、ざっとお考えなされても、わずか四つの絃と板の胴とから、あのように数多い音が鳴り出るというのは、不思議なことでございませぬか。その千変万化の音階を、譜の名で申し上げるよりも、あなたもご存じでございましょう、白楽天の『琵琶行』という詩のうちに、琵琶の音いろがよく形容されてありました。――それは" ], [ "この通り、琵琶の中は、空虚も同じでございましょうが。では、あの種々な音の変化はどこから起るのかと思いますと、この胴の中に架してある横木ひとつでございまする。この横木こそ、琵琶の体を持ち支えている骨であり、臓でもあり、心でもありまする。――なれど、この横木とても、ただ頑丈に真っ直に、胴を張り緊めているだけでは、なんの曲もございませぬ。その変化を生むために横木には、このようにわざと抑揚の波を削りつけてあるのでございまする。――ところが、それでもまだ真の音色というものは出てまいりません。真の音色はどこからといえば――この横木の両端の力を、程よく削ぎ取ってある弛みから生れてくるのでございまする。――わたくしが、粗末ながらこの一面の琵琶を砕いて、あなたに分っていただきたいと思う点は――つまりわたくし達人間の生きてゆく心構えも、この琵琶と似たものではなかろうかと思うことでござりまする", "…………" ], [ "わしは、泉州の南宗寺の者だが、このお館へ来ている宗彭沢庵どのへ、急な御書面をお届けするために出て来たのだ。おまえは、お台所へ出入りの小僧か", "おいらか、ここに泊っている者だよ。沢庵様と同じお客様なんだ", "ほうそうか、然らば沢庵どのへ告げてくれぬか。――お国元の但馬から寺中へ宛てて、なにか、火急なお手紙がまいりましたゆえ、南宗寺の者が持って伺いましたと", "じゃあ待ッといで。今、沢庵さんを、呼んで来てやるから" ], [ "いるかと思ったら、きょうは、朝から大徳寺へ行ったんだとさ", "お帰りは分りませぬか", "もう帰って来るだろ", "では、待たせて置いてもらいます。どこかお邪魔にならないお部屋はありませんか", "あるよ" ], [ "また、泣虫が始まったね。歓ぶかと思って蜜柑を買って来たら、泣いちまうんだもの――つまらねえなあ", "ごめんよ。城太さん", "喰べないの", "……ええ後で", "剥いたのだけ喰べてみなよ。ね……喰べてみれば、きっと、美味しいよ", "美味しいでしょう、城太さんの気持だけでも。……だけど喰べ物を見ると、もう唇へ入れる気にならないんです。……勿体ないけれど", "泣くからさ。なにがそんなに悲しいの", "城太さんが、あんまり親切にしてくれるから、欣しくって", "泣いちゃ厭だなあ、おいらも泣きたくなっちまわあ", "もう泣かない……もう泣かない……かんにんしてね", "じゃ、それ喰べてくれる。なにか喰べないと、死んじまうぜ", "わたし、後でいただきます。城太さんお喰べ", "おいらは、喰べない" ], [ "いつも、城太さん、蜜柑は好きじゃないの?", "好きだけれど", "どうして、きょうは、喰べないの", "どうしてでも", "わたしが喰べないから?", "え。……ああ", "じゃあ、わたしも喰べるから……城太さんも、おあがり" ], [ "ほんとはね、お通さん、おいら、途中でもう、たくさん喰べて来たんだよ", "……そう" ], [ "沢庵さんは?", "きょうは、大徳寺へ行ったんだって", "おととい、沢庵さんは、よその家で、武蔵様に会ったんですってね", "アア。聞いた?", "え。……その時、沢庵さんは、わたしがここにいることを、武蔵様へ話したかしら", "話したろ、きっと", "そのうちに、武蔵様をここへ呼んでやると、沢庵さんは、わたしにおっしゃったけれど、城太さんには、なんにもいっていなかった?", "おいらには、なんにもそんなことはいわないよ", "……忘れているのかしら", "帰って来たら、そういってみようか", "ええ" ], [ "……だけど、訊くならわたしがいないところでね", "お通さんの前で訊いちゃいけないの", "きまりが悪いから", "そんなことないさ", "でも、沢庵さんは、わたしの病気を、武蔵病だなんていうんだもの", "アラ、いつの間にか、喰べちゃったぞ", "なに、蜜柑", "も一つ喰べない", "もう、たくさん、美味しかったわ", "きっと、これから、なんでも食べられるよ。こんな時に、武蔵様が来れば、きっと、すぐ起きられてしまえるんだがな", "城太さんまで、そんなことをいって" ], [ "おや、沢庵さん、帰って来たのかしら", "行ってごらんなさい", "お通さん、さびしくない", "いいえ", "じゃあ、用がすんだら、すぐ来るからね" ], [ "城太さん……あのこと、忘れずに、訊いてね", "あのことって?", "もう忘れたの", "あ、武蔵様が、いつここへ来るのかって、それを催促することだね" ], [ "あのね、沢庵さんとこへ、泉州の南宗寺から、沢庵さんみたいな坊さんが、急用の使いに来て待ってるよ。呼んで来てあげようか", "いや、そのことなら、今聞いた", "もう会ったの", "ひどい小僧だと、あの使いがこぼしていたぞ", "どうして", "はるばる来た者を、牛小屋へ案内して、ここで待っておれといったまま、捨てておいたというじゃないか", "でもあの人が、自分から、どこか邪魔にならないところへ置いてくれといったからさ" ], [ "沢庵さん、旅へ立つの", "急に国元へ行かねばならぬことになってな", "なんの用?", "故郷にいる老母が寝ついて、今度はだいぶ重態いという気がかりな報らせだから", "沢庵さんにも、おっ母さんがあったの", "わしだって、木の股から生れた子ではないよ", "今度はいつ帰って来るつもり", "母の容子次第で", "すると……困ったなあ……沢庵さんがいなくなっちゃうと" ], [ "じゃもう、沢庵さんとは会えなくなるの?", "そんなことはない。またきっと会える。おまえ達二人のことは、お館へもようお頼みしてあるから、お通さんも、くよくよせずに、早く体を丈夫にするよう、おまえも勇気をつけてやってくれ。あの病人は薬よりも、心の力がほしいのだ", "それが、おいらの力では駄目なんだよ。武蔵様が来てくれないと癒らないぜ", "困った病人だのう。おまえも飛んでもない者と、この世の道連れになったものだ", "おとといの晩、沢庵さんは、どこかで武蔵様に会ったんだろ", "ウム……" ], [ "あれもやはり、平凡な、つまらん人間でしかないとみえる。とかく若いうち天才らしく見える者ほど、行く末当てにならないものだ", "したが、吉野も変りものじゃなあ。――どこがようて、あんな穢い武骨者に", "吉野にせよ、お通にせよ、女の気心のみは沢庵にも解しかねる。わしの眼からは皆ひとしい病人としか思えぬが、武蔵にもそろそろ人間の春が訪れて来たのでござろう……これからがほんとの修行、危ないのは剣よりは女子の手だが、他人の力でどうなるものではなし、抛っておくしかあるまいて" ], [ "後生だから沢庵さん、もいちど帰って、お通さんになんとかいっておくれよ。お通さんがまた泣き出しちまって、おいらには、どうしていいか分らないんだもの", "おまえ、話したのか。――武蔵のことを", "だって、訊くから", "そしたら、お通さんが、泣きだしたというのか", "ことによると、お通さんは、死んでしまうかも知れないぜ", "どうして", "死にたそうな顔しているもの。――こんなこといったよ。――もいちど会って死にたい、もいちど会ってから死にたいッて", "じゃあ、死ぬ気づかいない。抛っとけ、抛っとけ", "沢庵さん、吉野太夫って、どこにいる人", "そんなこと訊いて、どうするつもりじゃ", "お師匠さまは、そこにいるんじゃないか。さっき、お館さまと沢庵さんが、話していたろ", "おまえは、そんなことまで、お通さんに喋ったのか", "ああ", "それではあの泣虫さんが、死にそうなことを口走るわけじゃ。わしが戻ってみたところで、遽にお通さんの病気を癒してやる思案もないから、わしがこういったと、告げなさい", "なんというの", "御飯をお喰べって", "なんだ、そんなことなら、おいらが一日に百遍もいってら", "そうか。それはお前のいう言葉が、そのまま、お通さんにとっては無二の名言なのだが、それさえ耳に通らない病人ならば、仕方がないから、なにもかも正直にいって聞かせるのだな", "どういう風に", "武蔵は、吉野という傾城にうつつをぬかし、きょうで三日も扇屋から帰って来ぬという。それを見ても、武蔵がお通さんを少しも想っていないことがわかろう。そんな男を慕うて、どうする気じゃと、よく、泣虫のお馬鹿さんにいうてやるがよい" ], [ "叱られたな。ハハハ、怒ったのか、城太郎", "おいらのお師匠さまのこと悪くいうからさ。お通さんのことを馬鹿だなんていうからさ", "おまえ可愛い奴だ" ], [ "もういいよ。沢庵坊主なんか、なにも頼まないから。おいら一人で武蔵様を捜して来て、お通さんに会わせてやるからいい", "知ってるか", "なにをよ", "武蔵のいる処を", "知らなくたって、捜せば知れらい。よけいな心配するな", "小癪なことをいっても、おまえには、吉野太夫の家はなかなか分らぬぞ。教えてやろうか", "頼まない、頼まない", "そうぽんぽん当るな城太郎。わしじゃとて、お通さんの仇じゃない、武蔵を憎む理由もない。それどころか、どうかして、あのふたりが二人とも、よい生涯を完うしてくれるように蔭で祈っている者だ", "じゃあどうして意地悪をするんだい", "おまえには、意地悪と見えるのか。そうかも知れんな。だが、武蔵もお通さんも、今のところ、どっちもまあ病人のようなものだ。体の病を癒すのが医者で、心の病を治すのが坊主ということになっているが、その心の病のうちでもお通さんのは重態だ、武蔵のほうは、抛っておけばどうにかなろうが、お通さんの方はわしにも今のところではどうにもならん。だから匙を投げていうのだよ――武蔵のような男に、片想いしてどうするんだ、さらりと思い切って、御飯をたんと喰べ直せとな。――そういうよりほかないじゃないか", "だからいいよ、くそ坊主の汝なんかに、なにも頼むといやしねえや", "わしの言葉が、嘘だと思ったら、六条柳町の扇屋へゆき、そこで武蔵が、どうしているか、見届けて来い。そして見たままの事実を、お通さんに話してやれ。いちどは歎きかなしむだろうが、それで眼が醒めれば結構じゃ" ], [ "うるさい、うるさい、どん栗坊主", "なんじゃ、わしの後を追いかけて来たくせに", "坊主坊主、お布施はないぞ、お布施ほしけれや、唄うたえ" ], [ "遊廓でしょう", "遊廓って何?", "まあ", "何するとこ", "嫌な子だね!" ], [ "なにするんだ、おいらは、お師匠様に会いに来たんだぞ", "ばか野郎、汝の師匠だかなんだか知らねえが、その武蔵という人間のために、おとといから大迷惑をしているところだ。今朝も、今し方も、吉岡道場の使いが来て、それにもいってやった通り、もう武蔵はここにはとっくにいねえのだ", "いないなら、大人しく、いないといえば分るじゃないか。なんだって、おいらの襟くびをつかむんだ", "暖簾へ首を突っ込んで、気持のわるい眼で中を覗いていやがるから、おれはまた、吉岡道場の廻し者が来たかと思って、ひやりとしたじゃねえか。忌々しい小僧ッ子奴が", "びっくりしたのは、そっちの勝手じゃないか、武蔵様は、何時頃、そしてどこへ帰ったのか、教えてくれ", "こいつ、さんざん人に悪たいをついていながら、今度は教えてくれなんて、虫のいいことを吐かしやがる。そんな番をしているか", "知らなきゃいいから、おいらの襟首を離せ", "ただは離さねえ、こうして離してやる" ], [ "人殺し――", "人が殺された" ], [ "どこへ逃げた?", "どんな小僧か" ], [ "おまえかい、夕方、扇屋の入口へ来て、武蔵様に会わせてくれといっていたという子は", "あ、そうだ", "城太郎というんでしょう", "うん", "じゃあ、そっと、武蔵様に会わせてあげるからこちらへおいで", "ど、どこへ" ], [ "もう、心配おしでない。吉野様がお声をかけて下さりさえすれば、この廓で通らぬことはないのだから", "おばさん、おいらのお師匠様はほんとにいるんだろうね", "いないものを、なんでおまえを捜して、こんなところへ連れて来ましょう", "いったいこんなところでなにしてるんだろ?", "なにしていらっしゃるか。……それはもう、そこに見える田舎家の内においでになるから、戸の隙間からのぞいてごらん。……では、わたしは彼方のお座敷がいそがしいから" ], [ "お師匠さま!", "おう……来たか" ], [ "きれいに落ちましたな", "人間の血というものは、洗っても洗っても、なかなか落ちないものでございますね", "これでよい。……時に吉野どのは", "こよいも、お客方の席が、あちらにもこちらにもという有様で、わずかなお隙もございませぬ", "思いがけないお世話になったが、こうしていると、ひとり吉野どのへ気づかいを煩わすばかりでなく、扇屋の内緒へも、迷惑のかさむばかり。……こよいの夜更けを待って、そっとここを立ち去りますゆえどうぞ、そう伝えておいて下さい。くれぐれも、よろしゅうお礼を" ], [ "城太郎、おまえは、裏木戸からはいって来たのか", "え。裏だか表だか知らないけれど、さっきの女のひとと一緒に、そこの門から", "では、先へ出て、待っていてくれ", "お師匠さまは", "ちょっと、吉野どのに挨拶を申して、すぐ行くから", "じゃあ、外へ出て、待っているよ" ], [ "お師匠さま、それ、誰から来たてがみ", "誰からでもない", "女の人", "知らん", "なんと書いてあるの", "そんなこと、訊かなくてもよい" ], [ "お師匠さま、そっちへ行くと、総門の方へ出ちまいますよ。総門の外には、吉岡の者が見張っているから危ないって扇屋の人もいっていた", "うむ", "だから、他から出ましょう", "夜は、総門以外の口は、みな閉まっているそうではないか", "柵を越えて逃げれば――", "逃げたといわれては武蔵の名折れになる。恥も外聞もなく、逃げさえすればよいと思うくらいなら、なんのこんな所から出てしまうのは易いが、それがわしには出来ないことだから、静かに折を待っていたのだ。――やはり総門から手を振って出て行こう", "そうですか" ], [ "――だが、城太郎", "え、なんです", "おまえは子供だから、なにもわしの通りに行動する必要はない。わしは総門から出て行くが、おまえは先に遊廓の外へ出て、どこかに身を避けて、わしを待っているがいい", "お師匠様が総門から手を振って出て行くのに、おいら一人、どこから外へ出て行くの", "そこの柵を越えるのだ", "おいらだけ?", "そうじゃ", "いやだ", "なぜ", "なぜって、たった今、お師匠さまがいったくせに。――卑怯者といわれるだろう", "おまえには、誰も、そんなことをいいはせぬ。吉岡方で相手としているのは、この武蔵一名で、そちなどは、数のうちにはいっていない", "じゃあ、どこで待ってたらいいの", "柳の馬場の辺りで", "きっと来る?", "うん、必ず行く", "また、おいらに黙って、どこかへ行ってしまうんじゃない?" ], [ "…………", "お師匠様、誰か柵の外にいるんですか", "この辺、柵の外は、蘆がいちめんに生えている。蘆の原だから水たまりがあるかも知れぬ、気をつけて跳び降りろよ", "水なんかいいけれど、高くって、上まで手が届かない", "総門のみでなく、柵の外部にも、要所要所には、吉岡の見張がいるものと思わなければならぬ。外が暗いから、それに用意をして跳び下りぬと、不意に、どんな者が、闇から刀を薙ぎつけて来るかも知れないのだ。――だから、わしが背丈を貸して上げてやるから、柵の上で一応体を止めて、よく下を見定めてから跳ぶのだぞ", "はい", "わしが下から、炭俵を外へ抛ってやるから、その炭俵を見て、なにも変ったことがなかったら跳ぶがよい" ], [ "届くか、城太郎", "まだ、まだ", "では、わしの両方の肩に足をのせて、立ってみろ", "でも、草履だから", "かまわぬ、土足のままでよい" ], [ "こんどは、届いたであろう", "まだです", "やッかいな奴だの。身を弾ませて、柵の横木まで跳びつけぬか", "できないや", "仕方がない、それでは、わしの両掌に足をのせろ", "だいじょうぶ?", "五人や十人乗っても大事はない。さ、よいか" ], [ "なんだ、水たまりも、なにもありやしない。お師匠様、ここは、ただの原ッぱだぜ", "気をつけて行け", "じゃあ、柳の馬場で" ], [ "やるなっ", "やるな!" ], [ "われわれだ。ここにいる一同が呼びとめたのだ", "では、吉岡の御門下か", "いうまでもなかろう", "御用事とは", "それも、改めて、ここでいう必要もないと思う。――武蔵、支度はいいか" ], [ "武士の支度は、寝る間にも出来ておること、いつでも参られい。理も非もない喧嘩仕かけに、人間らしい口数や、武士らしい刀作法は、事おかしい。――だが、待て、一言聞いておきたい。各〻はこの武蔵を、暗殺したいか、正当に討ちたいか", "…………", "意趣遺恨で来たか、試合の仕返しで来たか。それを訊こう", "…………" ], [ "師の清十郎敗れ、つづいて御舎弟の伝七郎様を討たれ、なんのかんばせあって、われわれ吉岡門の遺弟が、汝を無事に生かしておけるかっ。――不幸、汝のために、吉岡門の名は泥地にまみれたれど、恩顧の遺弟数百、誓って師の御無念をはらさいではおかぬ。意趣遺恨のという狼藉ではない、師の冤をそそぎ奉る遺弟の弔い合戦だわ。武蔵っ、不愍だが、汝の首はわれわれが申しうけたぞ", "おお、武士らしい挨拶を承った。そういう趣意とあれば、武蔵の一命、或はさし上げぬ限りもない。しかし、師弟の情誼を口にし、武道の冤を雪ごうという考えなれば、なぜ、伝七郎殿の如く、また清十郎殿の如く、堂々と、この武蔵へすじみち立てて正当な試合に及ばれぬか", "だまれっ! 汝こそ、今日まで居所をくらまして、われわれの眼がなくば、他国へ逃げのびようといたしながら", "卑劣者は、人の心事も卑劣に邪推する、武蔵は、かくの通り、逃げもかくれもしておらぬ", "見つかッたればこそであろうが", "なんの、姿を晦ます心なら、これしきの場所、どこからでも", "然らば、吉岡門の者が、あのまま、汝を無事に通すと心得ていたか", "いずれ、各〻から挨拶はあるものと存じていた。しかし、かような繁華の町中で、人を騒がせ、野獣か、無頼者のような、理不尽な争いを演じては、われら、一個の名ばかりか、武士という者すべての恥さらし。各〻の申さるる師弟の名分も、却って、世の笑いぐさではあるまいか、師へ対しても恥のうわ塗りではござるまいか。――さもあらばあれ、師家は絶滅、吉岡道場は離散、この上、恥も外聞もあろうかと、武門を捨てた気とあらばなにをかいおう、武蔵五体と両刀のつづく限りは、相手になる、死人の山を築いてみせる", "なにをッ" ], [ "や?", "お身は" ], [ "いかにも、道理はその通りに違いない。――だが小次郎、必ずその他日まで、武蔵が逃げ失せぬという保証を貴公はするか", "してもよいが", "あいまいでは承諾できぬ", "だが、武蔵も生き物だし", "逃がす気だな", "ばかをいえっ" ], [ "左様な片手落ちをなせば、貴公らの遺恨はわしへかかるではないか。その程まで、この男を庇ってやらなければならない友誼も理由もわしにはない。……だが武蔵とても、この期になってまさか逃げもすまい。もし、京都から姿を晦ましたら、京都中に高札を建てて汚名を曝してやればよかろう", "いや、それだけでは、承知できぬ。――必ず、他日の果し合いまでおん身が武蔵の身を預かると保証するなら、一応、今夜のところは別れてもよいが", "――待て、武蔵の腹を糺してみるから" ], [ "…………", "…………" ], [ "武蔵、どうだ", "どうだとは", "今、吉岡側のほうへ、わしが談合したような条件で", "承知した", "いいな", "ただし、其許の条件には、異存がある", "この小次郎に、身を預けるということの不満か", "清十郎どの、ならびに伝七郎どのと、二度の試合にも、武蔵は、みじんも卑怯は致しておらぬ。なんで残余の遺弟たちに、かく名乗りかけられて、卑怯な背を見せようか", "ウム、堂々たるものだ。その広言を、きっと聞き取っておこう。――然らば武蔵、望みの日取は", "日も場所も、相手方の希望にまかせておく", "それも潔い。――して、今日以後、おぬしはどこに居所を決めておるか", "さだまる住居はない", "住居がわからなくては、果し合いの牒状が遣せぬ", "ここで、お決め下さらば、違約なくその時刻に、お出会い申す", "ウム" ], [ "相手方は、明後日の朝――寅の下刻というが", "心得申した", "場所は、叡山道、一乗寺山のふもと、藪之郷下り松。――あの下り松を出会いの場所とする", "一乗寺村の下り松とな、よろしい、わかった", "吉岡方、名目人は、清十郎、伝七郎の二人の叔父にあたる壬生源左衛門の一子、源次郎を立てる。源次郎は吉岡家の跡目相続人でもあれば、その者を立てるが、まだ年端もゆかぬ少年ゆえ、門弟何名かが、介添として立合いにつくということ……それも念のため申しておくぞ" ], [ "これ、どこへゆく", "あ、お師匠さま、あまり遅いから見に行こうと思ったんです", "そうか。あぶなく行き違うところだったな", "総門の外に、吉岡の者が、沢山いたろ", "いたよ", "なにかしなかったか?", "ああ何もしなかった", "お師匠様を捕まえようとしなかったの", "ウム、しなかった", "そうかなあ" ], [ "じゃあ、なんでもなかったんだね", "ウム", "お師匠様、そっちじゃないよ。烏丸様へ行く道は、こっちへ曲るんだよ", "あ、そうか", "お師匠様も、早くお通さんに会いたいでしょう", "会いたいなあ", "お通さんも、きっと、びっくりするぜ", "城太郎", "なに", "おまえとわしと、初めて会った木賃宿なあ。あれは、何町であったかのう?", "北野のかい", "そうそう、北野の裏町だったな", "烏丸様のお館は立派だぜ。あんな木賃宿みたいじゃないよ", "ハハハハ、木賃宿とは、較べものにはなるまい", "もう表門は閉まっているけれども、裏の下部門をたたけば開けてくれるからね。お師匠様を連れて来たっていうと、きっと、光広様も出て来るかも知れないよ。それからねお師匠様、あの沢庵坊主ね、あいつ、とても意地わるだぜ。おいら癪にさわっちまった。お師匠様のことを、あんな者は抛ッとけばいいんだっていうのさ。そして、お師匠様のいるところをちゃんと知っているくせに、なかなか教えてくれなかったんだぜ" ], [ "あの塀の上に、ぽっと明りが映してるだろ。あそこが北の屋で、ちょうど、お通さんが寝ている部屋があの辺なんだぜ。……あの灯りは、お通さんが起きて待っている灯りかも知れないね", "…………", "さ、お師匠様、はやくはいろう、今おいらが、門を叩いて門番さんを起すからね" ], [ "まだ早い", "どうしてさ、お師匠様", "わしは、お館へははいらぬ。お通さんへは、おまえからようく言伝をしてもらいたい", "え、なんだって。……じゃあお師匠様は、なにしにここまで来たのさ", "おまえを送って来たまでだ" ], [ "まあ、よう聞け。わしのいうことを", "聞かない聞かない! お師匠様はさっき、おいらと一緒に行くといったじゃないか", "だから、ここまで、おまえと共に来たではないか", "門の前までといやしないじゃないか。おいらはお通さんに会うことをいってたんだ。お師匠様が弟子に嘘を教えていいのかい", "城太郎、そう猛らずに、まあわしの言葉を落ちついて聞けよ。この武蔵にはまた、近いうちに、生死の知れぬ日が迫っておるのだ", "侍はいつも、朝に生れて夕べに死ぬる覚悟を勉強しているのだって、お師匠様は口癖にいってるじゃないか。それなら、そんなこと、今始まったことでもないだろ", "そうだ、自分で常にいい馴れている言葉も、そうしてお前の口からいわれると、かえって教えられる気持がする。――今度という今度こそは、武蔵も覚悟のとおり、九死のうち一生も覚束なかろう。それゆえ、なおさらお通さんには会わぬ方がよいのだ", "なぜ。なぜ! お師匠様", "それはお前に話してもわからぬ。お前も今に大きくなってみると分る", "ほんとに……ほんとにお師匠様は、近いうちに、死ぬようなことがあるの", "お通さんへはいうなよ。……病気なそうじゃが、体を堅固にして、ゆく末よい道を選んでたもれと……なあ城太郎……そうわしがいって行ったと申して、今のようなことは、聞かさぬがよいぞ", "嫌だ。嫌だ。おいらはいうよ! そんなこと、お通さんに黙っていられるもんか。――なんでもいいからお師匠様、来ておくれよ", "わからぬ奴!" ], [ "でも! ……でも! ……それじゃあ、お通さんが、あんまり可哀そうだ……。お通さんに……今日のこと話したら、お通さんは、よけいに病気がわるくなっちまうにきまってら", "――だからこういってくれ。所詮兵法修行のうちは、会うたとて、お互いの不為。多艱に克ち、忍苦を求め、自分を百難の谷そこへ捨ててみねば、その修行に光はついて来ないのだ。……なあ城太郎、お前もまた、その道を今に踏んで行かねば一人前の兵法者にはなれまいぞ", "…………" ], [ "――修行がすんだら、その時は、お通さんとも仲よく会うの。え、え。お師匠様の修行が、もうこれでいいと、いう時が来たら", "それはもう、そうなればなあ……", "それは何日?", "何日ともいえぬ", "二年?", "…………", "三年?", "修行の道には果てがない", "じゃあ、一生涯もお通さんと会わないつもり", "わしに天稟があれば、道に達する日もあろうが、わしに素質がなければ、生涯かかってもまだこのままの鈍物でいるかも知れん。――それになによりは、目前に死を期していることがある。――死んで行く人間がなんで、これから花も咲こう実も成ろうとする若い女子と、ゆくすえの約束などを誓えよう" ], [ "あっ、お通さん?", "まあ、なにを泣いているんです――そんなところで", "お通さんこそ、病人のくせに、どうして外へなんか", "どうしてって、おまえくらい人を心配させる者はない。わたしにも、お館の人へも、なにもいわずに、いったい、今までどこを歩いていたんです……。灯りが点いても帰って来ないし、御門が閉まっても姿が見えないし、どんなに心配したか知れません", "じゃあ、おいらを捜しに出ていたの", "もしやなにか、間違いでもあったのではないかと、寝ているにも寝ていられなくなって", "ばかだなあ、病人のくせに。またこの後、熱が出たらどうするんだい。さあ、はやく寝床へ引っ込みなよ", "それよりなんでお前は泣いていたの", "後でいうよ", "いいえ、凡事ではないらしい。さ、事情をお話し", "寝てから話すからさ、お通さんこそ、はやく寝てくれよ。明日また、うんうん唸っても、おいら知らないぜ", "じゃあ、部屋へはいって寝ますから、ちょいとだけ話しておくれ。……おまえ沢庵様の後を追いかけて行ったのでしょう", "ああ……", "その沢庵様から、武蔵様のいらっしゃる所をきいておいた?", "あんな情け知らずの坊さんは、おいら嫌いだ", "じゃあ、武蔵様の居所は、とうとう分らずじまいですか", "ううん", "分ったの", "そんなこといいから、寝ようよ、寝ようよ。――後で話すからさ!", "なぜ、わたしに隠すんですか。そんな意地悪をするなら、わたしは寝ずにここにいるからいい", "……ちぇッ" ], [ "おや、知ってたのか", "親をつかまえて、なにをいうぞ。こうして、寝て置くのがわしの養生じゃ", "養生はいいが、おれが少し落着いていると、若いくせに元気がないの、やれその暇に手懸りを探って来いのと、びしびし叱りつけながら、自分だけ昼寝しているのはなんぼ親でも勝手すぎようぜ", "まあゆるせ、ずいぶん気だけは達者なつもりでも、体は年に勝てぬとみえる。――それにいつぞやの夜、おぬしと二人して、お通を討ち損ねてから、ひどう落胆してのう、あの晩、沢庵坊めにおさえられたこの腕の根が、いまだに痛んでならぬのじゃ", "おれが元気になるかと思えば、おふくろが弱音を吐くし、おふくろが強くなるかと思えば、おれの根気がはぐれてしまうし、これじゃあ、いたちごッこだ", "なんの、今日はわしも骨休めに一日寝ていたが、まだおぬしに弱音を聞かせるほど、年は老らぬ。――して又八、なんぞ世間で、お通の行き先とか、武蔵の様子とか、耳よりな話は聞かなんだか", "いやもう、聞くまいとしても、えらい噂だぞ。知らないのは、昼寝しているおふくろぐらいなものだろう", "やっ、えらい噂とは" ], [ "なんじゃ? 又八", "武蔵がまた、吉岡方と、三度目の試合をするというのだ", "ほ、どこで何日", "遊廓の総門前にその高札が建ててあったが、場所はただ一乗寺村とだけで、詳しくは書いてない。――日は明日の夜明け方となっていた", "……又八", "なんだい", "汝れは、その高札を、遊廓の総門のわきで見たのか", "ウム、大変な人だかりさ", "さては昼間から、そのような場所で、のめのめと遊んでいたのじゃろうが", "と、とんでもねえ" ], [ "又八、機嫌なおせ、今のは、ばばの冗談じゃ。汝れの心が定まって、元のような極道もせぬことは、ようこの老母も見ているわいの。――したがさて、武蔵と吉岡の衆との果し合いが明日の夜明けとは急なことじゃな", "寅の下刻というから、夜明けもまだ薄暗いうちだなあ", "おぬし、吉岡の門人衆のうちに、知っている者があるといったの", "ないこともないが……そうかといって、あまりいいことで知られているわけでもねえからなあ、なにか、用かい", "わしを伴れて、その吉岡の四条道場とやらへ案内してほしい。――直ぐにじゃ、汝れも支度したがよい" ], [ "なんだい慌てて、軒に火でもついたように、――第一、吉岡道場へ行って、いったいどうするつもりなのだ、おふくろの量見は", "知れたこと、母子して、お願いしてみるのじゃわ", "なにを……", "明日の夜明け、吉岡の門弟衆が武蔵を討つというたであろが、その果し合いの人数のうちへ、わしら母子も加えていただき、及ばずながら力を協せて、武蔵めに、一太刀なりと、恨まにゃならぬ", "アハハハ、アハハハ、……冗談じゃねえぞ、おふくろ", "なにを笑うぞ", "あまり暢気なことをいってるからよ", "それは、汝れのことじゃ", "おれが暢気か、おふくろが暢気か、まア街へ出て、世間の噂をちっと聞いて来るがいい。――吉岡方は、先に清十郎を敗られ、伝七郎を討たれ、今度という今度こそは、最後の弔い合戦だ。破れかぶれも手伝って、血の逆った連中ばかりが、もう滅亡したも同様な四条道場に首をあつめ、この上は、多少の外聞にかかわろうとも、なんでも武蔵を打ち殺してしまえ、師匠の讐を弟子が打つ分には、敢て、尋常な手段や作法にこだわっている必要はない――と公然、今度こそは大勢しても武蔵を討つと、言明しているのだ", "ホウ……そうか" ], [ "それでは、いかな武蔵めも、こんどはなぶり斬りに遭うじゃろう", "いや、そこはどうなるか分らない。多分、武蔵の方でも、助太刀を狩りあつめ、古岡方が大勢ならば、彼も多勢で迎えるだろうし、さてそうなれば喧嘩は本物、戦のような騒ぎになるのじゃないかときょうの京都は、その噂で持ちきりなのだ。――そんな騒動の中へ、ヨボヨボなおふくろが助太刀にまいりましたなどと行って見たところで、誰も相手にするものか", "ウーム……それやそうじゃろが、じゃといって、わしら母子が、これまで尾け狙うてきた武蔵が、他人の手で討たれるのを、黙って見ていてよいものか", "だから、俺はこう思うんだ。あしたの夜明けごろまでに一乗寺村まで行っていれば、果し合いのある場所も、その様子もきっと分る。――そこで、武蔵が吉岡の者に討たれたら、その場へ行って、母子して両手をつき、武蔵とおれ達のいきさつを詳しく述べて、死骸に一太刀恨ませてもらう。その上、武蔵の髪の毛なり、片袖なりを貰って、かくの通り、武蔵を討ち取ったと故郷の衆に話せば、それでおれ達の顔は立つじゃねえか", "なるほど……。汝れの考えも智慧らしいが、そうするより他はあるまいの" ], [ "さあ、そうきめたら、今夜の丑満ごろまでは、ゆっくり骨を休めておかなけれやならねえ。……おふくろ、少し早いが、晩飯の一本を、今から酌けて貰おうか", "酒か。……ム、帳場へいうて来やい。前祝いに、わしも少し飲もう程に", "どれ……" ], [ "どうしたのだ、こんなところへ、どうして不意に来たのか", "……でも、わたしここの旅籠に、もうずっと前から泊っていたんですもの", "ふウム……、そいつあちっとも知らなかった。じゃあ、お甲と一緒にか", "いいえ", "一人で?", "ええ", "お甲とはもう一緒にいないのか", "祇園藤次を知っているでしょう", "ウム", "藤次とふたりで、去年の暮、世帯をたたんで他国へ逐電してしまったんです。わたしはその前からお養母さんとは別れて……" ], [ "おふくろにも、いつか話したことがあるだろう。あの……お甲の養女さ", "その養女が、なんでわしらの話を窓の外で立ち聞きなどしていたのじゃ", "なにもそう悪く取らなくてもいいやな。この旅籠に泊り合せていたのだから、何気なく立ち寄ってみたまでのことだろう。……なあ朱実", "え、そうなんです。まさか、ここに又八さんがいようなんて、夢にもあたし知らなかった。……ただ、いつぞや、ここへ迷れて来た時に、お通という人は見かけたけれど", "お通はもういない。おめえ、お通となにか話したのか", "なにも深い話はしなかったけれど、後で思い出しました。――あの人が、又八さんをお故郷で待っていた許嫁のお通さんなのでしょう", "……ム、まあ、以前は、そんなわけでもあったんだが", "又八さんもお養母さんのために……", "おめえはその後、まだ、独り身かい。だいぶ様子が変ったが", "わたしも、あのお養母さんのためには、ずいぶん辛い思いを忍んで来ました。それでも育ててもらった恩義があるので、じっと辛抱して来たんですけれど、去年の暮、我慢のならないことがあって、住吉へ遊びに行った出先から、独りで逃げてしまったんですの", "あのお甲には、おれもおめえも、これからという若い出ばなを滅茶滅茶にされたようなものだ……。畜生め、その代りにゃあ今に、碌な死にざまはしやしねえから見ているがいい", "……でも、これから先、あたしどうしたらいいのかしら?", "おれだって、これから先の道は真っ暗だ……。あいつにいった意地もあるから、どうかして、見返してやりてえと思っているが……。あアあ……思うばかりで" ], [ "いよいよ今夜のお立ちだそうでございますなあ。長いご逗留にも、なんのおかまいも申しあげませんで。……どうぞこれにお懲りなく、また京都へお越しの折にはぜひとも", "はい、はい。またお世話になろうも知れませぬ。年暮から初春を越して、思わず三月越しになりましたのう", "なんだかこう、お名残り惜しゅうございますな", "ご亭主、お別れじゃ、一盞あげましょう", "おそれいりまする。……ところでご隠居様、これからお故郷元へお帰りで?", "いえいえ、まだ故郷へは何日帰れることやら", "夜中に、お立ちだと伺いましたが、どうしてまたそんな時刻に", "急にちと大事が起りましてのう。……そうじゃ、お宅に、一乗寺村の割絵図があるまいか", "一乗寺村といえば、白河からまだずんと端れで、もう叡山に近い淋しい山里。あんな所へ、夜明け前にお出でなされても……" ], [ "なんでもよいから、その一乗寺村へ行く道筋を、巻紙の端にでも書いておいておくれ", "承知いたしました。ちょうど一乗寺村から来ている雇人がおりますゆえ、それに聞いて分りよく絵図にして参りましょう。したが、一乗寺村というても広うござりまするが" ], [ "行く先のことなんざ心配しなくともいい。道順だけ訊いているのだ", "おそれ入りました。――では、悠々、お支度を遊ばして" ], [ "旦那、この辺へ逃げて来ませんでしたか", "なんじゃ。……なにが?", "あの――この間から奥に一人で泊っていた娘っ子で", "えっ、逃げたって", "夕方までは、たしかに、姿が見えたんですが……どうも部屋の様子が", "いないのか", "へい", "阿呆どもが" ], [ "逃げられてから騒いだとて、後の祭りじゃ。――あの娘の様子といい、初手から事情のあるのは知れきっている。――それを七日も八日も泊めてから、お前らは初めて一文なしと気がついたのであろが。――そんなことで、宿屋商売が立ってゆかれるか", "相済みません。つい、処女な娘と思って――まったく一杯食ってしまったんで", "帳場の立て替えや、旅籠代の倒れは仕方がないが、なにか、相宿のお客様の物でも紛失していないか、それを先に調べて来なさい。エエ忌々しいやつめ" ], [ "又八、おぬしも、もう酒はよくはないか", "これだけ" ], [ "飯はたくさんだ", "湯漬けでも食べておかぬと、体にわるいぞよ" ], [ "関り合いになってはつまらぬゆえ、亭主の前では黙っていたが、旅籠代を払わずに逃げた娘というのは、昼間、汝れと窓口で話していたあの朱実じゃないのか", "そうかもしれねえ", "お甲に育てられた養女では、碌な者であろうはずはないが、あのようなものと出会うても、この後は口など交わしなさるなよ", "……だがあの女も、考えれば、可哀そうなものさ", "他人に不愍をかけるもよいが、旅籠代の尻ぬぐいなどさせられては堪らぬ。ここを発つまで、知らぬ顔していやい", "…………" ], [ "なにをいうぞ。お甲などという女を討ったところで、故郷の衆が、誉めもせぬし、家名の面目も立ちはせぬがな", "……ああ、世の中が面倒くさくなった" ], [ "ご隠居さま。ちょうど丑の刻が鳴りましたが", "どれ……発ちましょうか", "もう出かけるのか" ], [ "亭主、さっきの食い逃げ娘は、捕まったかい", "いや、あれ限りでございますよ。縹緻が踏めるので、万一、旅籠代や立て替えが取れなくても、住み込ませる口はあると安心していたところ、先手を打たれてしまいましたわい" ], [ "オイ、おふくろ、なにをしているんだい? ……。おれを急きたてておいては何日も自分がまごまごしていやがる", "まあ待たぬかい、気忙しない。……のう又八、あれは汝が身に預けたであろうか", "なにを", "この旅包みの側へおいたわしの巾着じゃ。――宿の払いは、胴巻のお金で払い、当座の路銀をその巾着に入れておいたのじゃが", "そんな物、おれは知らねえよ", "ヤ、又八、来てみやい。この旅包みに、又八様として、なにやら紙きれが結いつけてあるぞ。……なんじゃと? ……まアいけ図々しやな、元の御縁に免じて、拝借してゆく罪をゆるしてくれと書いてあるわ", "ふウん……じゃあ朱実が攫って行ったのだろう", "盗んで、罪をゆるしてくれもないものじゃ。……これ御亭主、客の盗難は、宿主も責めを負わずばなりますまい。なんとして下さるのじゃ", "へえ……それではご隠居様には、あの食い逃げ娘を、前からご存じでございましたので。――ならば、手前どもで踏み倒された勘定や立て替えのほうを先に、なんとかしていただきたいものでございますが" ], [ "案外だなあ", "ウム、だいぶ見えない顔がある。百四、五十人は集まると思っていたが", "この分では、半分かな", "やがて後から見える壬生源左衛門殿や、御子息や、あの親類がたを入れて、まあ六、七十人だろうな", "吉岡家も廃ったなあ。やはり清十郎様、伝七郎様の二つの柱がもう抜けてしまったのだ。大廈の覆るとはこのことか" ], [ "来ない奴は来ないにしておけばいいじゃないか。道場を閉じたからには、めいめい自活の道を考える奴もあろう。将来の損得を思慮する人間もあるだろう。当り前なことだ。――その中で、あくまで、意地と義気に生きようとする遺弟だけがここにおのずと集まるのだ", "百の二百のという人数はかえって邪魔になる。討つべき相手はたった一人ではないか", "アハハハ。誰かまた、強がっているわい。蓮華王院の時はどうした。そこにいる連中、あの折、居合せながら、みすみす武蔵の姿を見送っていたのじゃないか" ], [ "源次郎様だ", "駕でござったな", "なんといっても、まだお年若だからな" ], [ "――では早速、備え立てして敵を待とう。しかし、この人数をどう分けるというのか", "この下り松を中心とし、三方の街道へ、各〻約二十間ばかりの距離をおいて、道の両側に潜んでいることとする", "して、ここには", "源次郎様のそばには、拙者、また御老台、その他十名ほどの者がいて、護るばかりでなく、三道のどこからか、武蔵が来たとの合図が起ったら、すぐそれへ合体して一挙に彼を葬ってしまう", "待たっしゃい" ], [ "――幾ヵ所にも分割してしまうことになるなら、武蔵が、どの道から来るかわからぬが、真っ先に彼へぶつかる人数は、およそ二十名ぐらいにしか当るまい", "それだけが、一斉に取り巻いているうちには", "いや、そうでないぞ。武蔵にも、何名かの加勢がついて来るにきまっている。それのみでなく、いつぞやの雪の夜、伝七郎との勝負の果てに、あの蓮華王院での退きようを見ても、武蔵という奴、剣も鋭いかしらんが、退きも上手じゃ。いわゆる逃げ上手という兵法を知った奴じゃ。だから、手薄なところで、素ばやく三、四名に傷を負わせ、さっと引き揚げて――後に一乗寺址においては、吉岡の遺弟七十余名を相手に、われ一人にて勝ったりと、世間へいい触らすかもわからぬて", "いや、そうはいわさぬ", "――というたところで後となれば水掛論。武蔵の方に、何名助太刀がついて来ても、世間は彼の名の一つしかいわぬ。その一人の名と大勢の名とでは、世間は相違なく、大勢らしい方を憎む", "わかり申した。つまり今度という今度こそは、断じて、武蔵を生かして逃がすようなことがあってはならぬということでしょう", "そうじゃ", "仰っしゃるまでもなく、万が一にも、ふたたび武蔵を逃がすような失策を生じたら、後でどう弁解しても、われわれの汚名はもう拭われますまい。ですから今暁は、ただ一つに彼奴を討ち殺すのを目的とし、そのためには、手段も選ばない所存でござる。死人に口なし、殺してさえしまえば、世間はわれわれの宣ぶる言を信じて聞くしかないのですから" ], [ "御老台、実は、こういう用意までいたしているのでござる。もう御懸念は去りましたろう", "ヤ、飛び道具", "どこか、小高い場所か、樹の上に伏せておいて", "醜い仕方と、世間の評がうるさくはないか", "世評よりは武蔵を斃すことが第一だ。勝ちさえすれば世評も作れる。敗れたら真実をいっても、世間は泣き言としか聞いてくれまい", "よし、そこまで、腹をすえてやる儀なら、異存はない。たとえ武蔵に、五人や六人の加勢がついて来ても、飛び道具があればよも討ち洩らしもいたすまい。……では評議に手間取っているうちに、不意を衝かれてもなるまいぞ。采配はまかせる。すぐ配備配備" ], [ "なんじゃ、顫えているのか。臆病者めが", "背中へ松葉がはいったんです。なんにも怖くなどありません", "それならよいが、おぬしにもよい経験というものだ。やがて斬合が始まるから、よく見ておくのだぞ" ], [ "ハハハハ、これはひどいご立腹だな。しかし、今暁の試合に、貴公を立会人として、誰が頼んだか。――当吉岡一門の者としては依頼した覚えがないが、それとも武蔵からお頼みをうけて来られたか", "だまんなさい。いつぞや六条の往来に、高札を立てた折、確と、わしから双方へいいおいた", "なるほど、あの時貴公はいった。――自分が立会人に立つとか立たぬとか。――だがその折、武蔵も貴公に頼むとはいわなかったし、当方でもお願い申すといったつもりはない。要するに、貴公一人が事好みに、出る幕でもない幕へ、独りで役を買って出たのでござろう。そういうおせッ介者は世間によくあるものだて", "いうたな" ], [ "わしに、用はあるまい。いまの一言、後で眼にもの見せてくれるから待っておれ", "まあ、そういわないで、しばらく、しばらく" ], [ "此方は、清十郎の叔父にあたる者でござる。おてまえ様の儀は、かねて、清十郎からも、頼母しき御仁なりと承っておりました。どういう行き違いか、門弟どもの卒爾は、この老人に免じて勘弁して下さるよう", "そうご挨拶をされると恐縮します。四条道場には、以前、清十郎殿との好誼もあるので、助太刀とまでは行かずとも、十分好意をもっているつもりなのに……余りといえば、雑言を吐くので", "ご尤もじゃ、ご立腹は尤もじゃ。したが、唯今のことは、まあお聞き流しの上、どうぞ、清十郎、伝七郎ふたりのために、何分、ご加担をおねがい申す" ], [ "いやそうでないぞ御老人、武蔵がのめのめと、ここまで正直にやって参れば、それは各〻の術中にかかったも同様、もはや遁れる術はなかろうが、万一、ここにかような備えがあることを未然に知って、道を交わしてしまったらそれまでではありませぬか", "そしたら、笑うてくれるまでのこと――。京の辻々へ、武蔵逃亡と、高札に掲げて、天下へ笑い者にしてやるわさ", "貴所方の名分は、なるほど、それでも半分は立つだろうが、武蔵もまた、世間へ出て、各〻の卑劣を誇張して訴えましょう。さすれば、それで師の怨恨をそそいだことにはならぬ。――断じて、武蔵をここで刺殺してしまわねば意味がない。その武蔵を、きっと殺してしまうためには、この必殺の地へどうしても彼奴が来るように、誘いの策が要るとわしは思うが", "はて、そんな策が、あろうかな?", "ある" ], [ "お武家さま。お武家さま", "……わしか" ], [ "なんだな?", "ひょんなお訊ねをいたしますが、この道筋に、明々と点して起きていたおやしきはございませぬかな", "さ。気がつかずにまいったが、なかったように思う", "はて、それでは、この道筋でもないかしらて?", "なにをさがしておるのか", "人の死んだ家でございます", "それならあった", "お、お見かけなさいましたか", "この深夜だが、笙やひちりきの音がもれていた。そこではないか、半町ほど先だった", "違いございません。先に神官方が、お通夜に行っておりますはずで", "通夜にまいるのか", "てまえは鳥部山の柩造りでございまするが、うかつにも、吉田山の松尾様と合点して、吉田山へお訪ねいたしましたところ、もう二月も前にお移りになったのだそうで……いやもう、夜は更けて問う家とてはございませぬし、この辺りも知れ難いところでございますなあ", "吉田山の松尾? ――元吉田山にいてこの辺りへひき移って来た家と申すか", "そうと知らなかったので、とんだ無駄足をいたしましてな。いや、ありがとう存じました", "待て待て" ], [ "近衛家の用人を勤めていた松尾要人の家へゆくのか", "その松尾様が、たった十日ほどわずろうて、お亡くなりなされました", "主人が", "へい", "…………" ], [ "いつぞやの夜は失礼いたした。不行届な扱いを受けて下すって、有難くぞんじています", "いやその折はどうも", "さて、――これから約束の場所へ赴かれるのか", "はい", "お一人で?" ], [ "ふふむ……そうですか。しかし武蔵どの、貴所はこの間、この小次郎が誌して六条へ建てたあの公約の高札表を、なにか、読みちがえてはおられぬか", "いいやべつに", "でもあの高札文には、この前の清十郎とそこ許との試合のように一名と一名に限るとは書いてないのでござるぞ", "わかっております", "――吉岡方の名目人は幼少のただ名だけのもの。あとは一門遺弟となっている。遺弟といえば、十人も遺弟、百人も遺弟、千人も……であるが、その点抜かられたな", "なぜですか", "吉岡の遺弟のうちでも、弱腰なものは逃げたり、不参らしく見ゆるが、骨のある門人は、こぞって、藪之郷いったいに備え、下り松を中心に、貴所の来るのを待ちかまえている態に見ゆる", "小次郎殿には、すでにそこをお見届けでござりますか", "念のために。――そして今、こは相手方の武蔵どのにとって一大事なりと思慮いたしたので、一乗寺址から急いで引っ返してまいり、およそこの舟橋が貴所の通路ではないかと計って、お待ち申していたのでありまする。――高札表を認めた立会人の務めでもござれば", "ご苦労に思います", "右様なわけでござるが、それでも貴所は、一人で行くおつもりか。――それとも、他の助人たちは、べつな道をとって行かれたか", "自分一名のほか、もう一名、自分とともに歩いてまいりました", "え。どこへ" ], [ "拙者も、冗談はいいませぬ", "でも、影法師と二人づれなどとは、人を小馬鹿にしたおことばではないか", "しからば――" ], [ "親鸞聖人の申されたことばとやらに――念仏行者は常に二人づれなり、弥陀と二人づれなり。とあったように覚えておるが、あれも冗談ごとでしょうか", "…………", "何様、ただ、形のうえより観ずれば、吉岡衆はさだめし大勢でござろうし、この武蔵は、見らるる如くただの一名。勝負にはならぬと小次郎殿も、拙者を案じて賜わるのであろうが、乞う、お案じくださるな" ], [ "彼が十人の多勢を擁するゆえ、われも十人の勢をもって当ろうとすれば、彼は二十人の備えを立てて打ってくるに違いない。彼二十人なれば、われも二十人の勢をもって当らんとすれば、彼はまた三十名、四十名を呼号して集まるでしょう。さすれば、世間を騒がすことも甚だしく、多くの負傷なども出して、治世の掟を紊すばかりか、それが剣の道に益するところはいずれもない。百害あって一益なしです", "なるほど、だが武蔵どの、みすみす負けと分っている戦をするのは、兵法にないと思うが", "ある場合もありましょう", "ない! それでは兵法ではない、無法というものだ、滅茶だ", "では、兵法にはないが、拙者の場合だけには、あるとしておこう", "外れている", "……ハハハハ" ], [ "そんな兵法に外れている戦の仕方をなぜなさるのじゃ。なぜもっと、活路をお取りなさらぬのだ", "活路は、今歩いている、この道こそ、拙者にとっては活路です", "冥途の道でなくば、倖いだが――", "或はもう、今越えたのが三途の川、今踏んでゆく道が一里塚、行くての丘は針の山かもしれません。――しかし、自分を生かす活路はこの一筋よりほかにあろうとも思われぬ", "死神にとりつかれたようなことを仰っしゃる", "なんであろうとよい。生きて死ぬる者もある。死んで生きる者もある", "不愍な……" ], [ "小次郎どの――この街道は真っ直何処へ通じますな", "花ノ木村から一乗寺藪之郷――すなわち、貴所の死場所の下り松を経て――これから叡山の雲母坂へ通っております。それゆえ、雲母坂道ともいう裏街道", "下り松まで、道程は", "ここからは、はや半里余り、ゆるゆる歩いて行かれても、時刻の余裕はまだ十分", "では、後刻また" ], [ "誰だ? おん身は", "はい", "何者だ?", "はい……烏丸家のものにござりますが", "なに、烏丸家の……。わしは武蔵だが、烏丸家の御家来が、今頃、こんな山路へなにしに?", "ア。……ではやはり宮本殿でござりますな" ], [ "城太郎かあ――", "そうだアい", "はやく来ウいっ――" ], [ "はやく来ないと、武蔵殿がもう遠くへ去ってしまうぞっ。――早く来いっ、たった今そこで、武蔵殿をわしが見つけた!", "…………" ], [ "ほ、ほんとですか。……今仰っしゃったのは", "ほんとだとも、たった今だ" ], [ "お通さん、この道だ、この道から横へ横へと、山の腹を縫ってゆけば、自然に叡山の方へ出てしまう。……もう登りはないから楽だよ、どこか、少しそこらで休んだらどう?", "…………" ], [ "苦しいの", "…………", "そうだ、水かい、お通さん、水が欲しかないかね", "…………" ], [ "あぶない、あぶない。すこし待て、城太郎", "いやだっ、もう離さない", "安心せい、おまえの声が遥かに聞えたから、待っていたのだ。わしよりも、早くお通さんに水を持って行ってやれ", "ア、濁ってしまった", "向うにもよい水が流れている。それ、これを持って行け" ], [ "お通さん、これでいいだろ。もう、これで気がすんだろう。……お師匠様、お通さんね、あれから、どうしても、もいちど武蔵様に会うんだといって、病人のくせに、いうこと肯かないんだよ。こんなこと度々やると死んじまうにきまっているから、お師匠様からよくそういっておくれよ、おいらのいうことなんか肯かないんだもの", "そうか" ], [ "みんなわしが悪いのだ。わしの悪いところも詫び、またお通さんの悪いところもよくいって、体を丈夫にするように今話すから……城太郎", "なに?", "おまえは、ちょっと……しばらくの間、どこかへ離れていてくれぬか" ], [ "お通さん。そなたは今、体が悪いということだが、体はどうだね?", "なんでもありません", "もう快い方なのか", "それよりも、あなたは、これから、一乗寺の址とやらで、死ぬお覚悟でございましょう", "……う、む", "あなたが、斬り死にあそばしたら、わたくしも生きていないつもりです。そのせいか、体の悪いことなど、忘れたように、なんともございません", "…………" ], [ "鳥将に死なんとするやだ。将に死なんとしているこの武蔵だ。お通さん、わしの今いう言葉には微塵、嘘も衒いもないことを信じてくれ。――羞恥も見得もなくわしはいう。今日まで、お通さんのことを思うと、昼もうつつな日があった。夜も寝ぐるしくて熱い熱い夢ばかりに悩まされ、気の狂いそうな晩もあった。お寺に寝ても野に伏しても、お通さんの夢はつき纒い、しまいには薄い藁ぶとんをお通さんのつもりで抱きしめて歯がみをして夜を明かした晩すらある。それほどわしはお通さんに囚われていた。無性にお通さんには恋していた。――けれど。――けれどそんな時でも人知れず剣を抜いて見ていると、狂おしい血も水のように澄んでしまい、お通さんの影も、霧のようにわしの脳裡から薄れてしまう……", "…………" ], [ "……知ってます! そ、そんなことぐらい……そういう貴方であるぐらいなこと……し、しらないで……知らないで恋をしてはまいりませぬ", "さすれば、わしがいうまでもなく、この武蔵と共に死のうなどという考えはつまらぬことと分っておろうが。わしという人間は、こうしているわずかな一瞬こそ、なにも思わず、そなたに心も身も与えているが――一歩別れて、そなたの側を離れれば、そなたのことなど、おくれ毛一筋ほどにも心に懸けていない人間。――そういう男に縋って男の死を追って、鈴虫のように死んではつまらぬことではないか。女には女の生きる道がある。女の生きがいはほかにもある。――お通さん、これがお別れのわしのことばだ。……では、もう時刻もないから――" ], [ "なんだか、おいらも知らないけど、お通さんにも聞えたろ。キャーッっていった女の声がさ", "城太さんは、それをかぶって、どこにいたの", "この崖をずっと登って行ったら、そこにもこのくらいな道があってね、その道のもっと上の方に、ちょうど坐りいい巨きな岩があったから、そこに腰かけて、ぽかんと、お月様の落ちて行くのを見ていたのさ", "それをかぶって?", "うん、……なぜっていえば、そこいらでやたらに、狐が啼いたり、狸だか狢だか知れない奴がゴソゴソするから、仮面をかぶって威張っていたら寄りつけまいと思ったからさ。――するとね、どこかでふいにキャーッという声がしたんだ。なんだろうあの声は。まるで針の山からきた木魂みたいな声だったぜ" ], [ "これ待たぬか。少し休んで行こうぞよ", "よく休むなあ、夜が明けてしまうぜ", "なんの、まだ朝までにはだいぶある。常ならば、これしきの山道、苦にもせぬが、この二、三日は風邪気味か体が気懈うて歩くと息が喘れてならぬ。悪い折にぶつかったものよ", "まだ負け惜しみをいってるぜ。だから途中で、居酒屋をたたき起して、人が折角親切に休ませてやろうとすれば、そんな時には、自分が飲みたくねえものだから、やれ時刻が遅れるの、さア出かけようのと、おれがおちおちと酒も飲まねえうちに立ってしまうしよ。いくら親でも、おふくろぐれえ交際い難い人間はねえぜ", "ははあ、ではあの居酒屋で、汝が身に酒を飲ませなかったというて、それを、まだ怒っていやるのか", "いいよ、もう", "わがままも程にしたがよい、大事をひかえて行く途中だぞよ", "といったところでなにもおれたち母子が刃の中へ飛びこむわけじゃなし、勝負のついた後で吉岡方のものに頼み、武蔵の死骸へ一太刀恨んで、手出しのできない死骸から、髪の毛でも貰って故郷の土産にしようというだけのものじゃねえか、大事も大変もあるものか", "ままよいわ、ここで汝が身と、母子喧嘩をしてみても始まるまいでの" ], [ "おふくろ、ちょっと、そこに待っていてくれ。――見て来るから", "阿呆" ], [ "なにを捜しに行くのじゃ、なにを? ……", "なにをッて、今、聞えたじゃねえか、女の悲鳴が", "そんなもの尋ねてどうする気かよ。――あれっ、阿呆、止めいというに、止めいというに" ], [ "朱実じゃねえか", "……あ、あ" ], [ "おめえも、旅支度だな、旅へ立つにしても、こんな所を今頃――なにしに歩いているのだ", "又八さん。あなたのおっ母さんは?", "おふくろか、おふくろは、この谷間の上に待たせてある", "怒っていたでしょう", "あ、路銀のことか", "わたしは急に、旅立ちしなければならなくなったのです。けれど、旅籠の借銭も払えないし、路用のお金もないので、悪いことと知りながら、おばばさんの荷物と一緒にあった紙入れを、つい出来心で、黙って、持って来てしまった。……又八さん、堪忍してください。そして、わたしを見逃して下さい。きっと後で返しますから" ], [ "おい、おい。なにをそう謝るのだ。……アア分った。俺とおふくろが二人して、おめえを捕まえるために、ここへ追いかけて来たと勘違いしているんじゃねえか", "でも、わたしは、出来心にしろ他人様のお金を盗って逃げたんですから、捕まれば、泥棒といわれても仕方がありませんもの", "それやあ、俺のおふくろの云い草だ。俺にとれば、あれぐらいな金、おめえが真実困っているならこっちからやりたいくらいだ。なんとも思っちゃいねえから、そんな心配はしないがいい。――それよりはなんのために、急に旅支度して、こんな所を今頃歩いているのか", "旅籠の離れで、あなたがおっ母さんに話していたことを、ふと、蔭で聞いていたものですから", "フーム、すると、武蔵と吉岡勢との、きょうの果し合いの一件だな", "……ええ", "それで急に、一乗寺村へ行くつもりでやって来たのか", "…………" ], [ "伊吹山のふもとで育ったおめえが、恐いなんていうと、化け物のほうで顔負けするだろう。燐の燃えている戦場を歩いて、死骸の太刀や鎧を剥いだことさえあるじゃねえか", "でも、あの頃は、恐いこともなにも知らなかった子供ですもの", "まんざら子供でもなかったらしいぜ。その頃のことを、いまだに胸に想って、忘れ切れずにいるのを見ても", "それやあ、初めて知った恋ですもの。……だけどもう、私はあの人を、諦めてはいるんですよ", "じゃあなぜ、一乗寺村へなど出かけて行くのか", "そこの気持が自分にも分らないんです。ただ、ひょっとしたら武蔵様に会えやしないかと思って", "無駄なこった" ], [ "面白く暮すんだ、したいことをして送るんだ。それでなけれや生れた甲斐はない。もっと俺たちは図太い肚を持とうじゃねえか。線の太い世渡りをしなけりゃあ嘘だ。生半可、正直に、善良にと、量見を良くしようとするほど、却って運命ッて奴は、人を弄ったり皮肉ったり、ベソを掻くようなことばかり仕向けて来やがって、碌な道は拓けて来やしねえ。……え、朱実、おめえだってそうじゃねえか。お甲っていう女にしろ、清十郎という男にしろ、そんな者の餌になって、食われているから悪いのだ。食う人間にならなけれやあ、この世は強く生きちゃ行かれねえぜ", "…………" ], [ "嫌か", "…………" ], [ "じゃあ、行こう。嫌でなければ――", "だけど、又八さん、おっ母さんは、どうするつもり?", "ア。おふくろか" ], [ "なぜ", "でも、その道を登って行くとまた、あの山の肩に", "アハハハ。口が耳まで裂けている侏儒が出るというのか。俺がついているから大丈夫だ。……アッいけねえ。お婆の奴が彼方で呼んでやがる。侏儒の妖怪よりゃあ、おふくろの方がよっぽど怖いぞ。朱実、見つかると大変だ、早く来いっ" ], [ "落着き澄ました彼の容子、また、わしにいった言葉のふしや、その他を考え合せてみるに、姿は消したが、どうも、あのまま逃げ去ったものとも考えられぬ。――思うに、この小次郎に知られては具合のわるい奇策を用いるため、わしを撒いたものと思われる。油断は決してなりませぬぞ", "奇策。――奇策とは?" ], [ "おおかた武蔵の助太刀のものたちが、どこかに屯していて、彼を待ち合せ、それと合してここへ襲せて来るつもりではないかと思う", "ウウウム。……それはありそうなことじゃ" ], [ "戻れ戻れ。備えを崩しているところへ、武蔵方が不意に虚を衝いて来ようものなら、出鼻に不覚を取ってしまう。どれほどの助太刀を率き具して参るかはしらぬが、いずれ多寡の知れたもの。手筈を過たず討ち取ってしまえ", "そうだ" ], [ "待ちくたびれて、心に弛みの起る時が油断だ", "部署につけ", "おう、抜かるな" ], [ "なにッ――?", "どこへっ" ], [ "――オおっ", "武蔵っ", "武蔵だっ" ], [ "こ、小橋っ", "御池っ" ], [ "な、な、なにをッ", "く、くッ! ……" ], [ "遅いぞッ、武蔵っ", "怯れたかっ" ], [ "出会えッ", "此処だっ" ], [ "ヤ、ヤ?", "既にっ", "追分、追分", "出し抜かれているぞッ" ], [ "武蔵ッ", "醜いぞッ", "卑怯ッ", "勝負はまだだぞ" ], [ "行ったぞッ", "逃がすなッ" ], [ "や。むむ武蔵はッ", "来ないッ", "いや、そんなはずはないが", "でも――" ], [ "うぬっ", "おれが仕止めるっ" ], [ "待てッ。武蔵", "醜し!", "背を見せる法やあるっ" ], [ "斬合だっ", "どこで", "どこで" ], [ "――かっッ", "今になって!" ], [ "返せッ", "待てッ" ], [ "里の方だ", "街道の方へ逃げた" ], [ "すぐ召しあがりますか", "はい、戴きます", "じゃあ、お給仕申しましょう", "憚りさまですな" ], [ "お客様、なにを彫っておいでになるんですか", "仏様です", "阿弥陀様?", "いいえ、観音様を彫ろうとしているのです。けれど、鑿の心得がないので、なかなかうまく彫れない。この通り指ばかり彫ってしまう" ], [ "脚や腕のお怪我は、どんなでございますか", "……ア。その方も、お蔭でだいぶよくなりました。御住持にも、どうかお礼をいっておいてください", "観音様をお彫りになるなら、中堂へ参りますと、誰とかいう名人の彫ったという作のよい観音様がありますよ。御飯がすんだら、それを見に行きませんか", "それはぜひ見ておきたいが、中堂まで、道はどれほどあろうかな" ], [ "ハイ。ここから中堂までの道は、わずか十町ほどしかございません", "そんなに近いのか" ], [ "あなた様は、兵法の修行者でいらっしゃいましょう", "そうだ", "なんで観音様なんか彫っているんですか", "…………", "お仏像を彫ることを習うよりも、その暇に、なぜ、剣の勉強をなさらないのです?" ], [ "じゃあ、源信僧都の作だとか、弘法大師の彫りだとか、このお山にも聖の彫った仏像がたくさんあるが、あれはどういうものだろう", "そうですね" ], [ "だから、剣者が彫刻をするのは、剣のこころを琢くためだし、仏者が刀を持って彫るのは、やはり無我の境地から、弥陀の心に近づこうとするためにほかならない。――絵を描くのも然り、書を習うんでも然り、各〻、仰ぐ月は一つだが、高嶺にのぼる道をいろいろに踏み迷ったり、ほかの道から行ってみたり、いずれも皆、具相円満の自分を仕上げようとする手段のひとつにすることだよ", "…………" ], [ "オイ清然、おまえは一体、お客様をご案内して、どこへ行くつもりじゃ", "中堂まで行こうと思って", "なにしに", "お客様が、毎日観音様を彫っているでしょう。ところが、巧くほれないと仰っしゃるもんだから、それなら中堂に、むかしの名匠が作ったという観音様があるから、それを見にゆきませんかといって――", "では、きょうでなくても、いいわけだの", "さ、それは知らないが" ], [ "御用もあろうに、無断でお小僧を伴れまいって悪いことを致したな。元より、きょうとは限らぬこと、どうぞお連れかえりください", "いいえ、呼びにまいりましたのはこの稚児僧ではなく、あなた様におさしつかえなければ、戻っていただきたいと思いまして", "なに、拙者に?", "はい、折角、お出ましになった途中を、なんとも恐れ入りますが", "誰か、拙者を訪ねて来た者でもあるのでござるか", "――一応は、留守と申しましたが、いや今ついそこで見かけた、どうでも会わねばならぬから、呼び戻して来いというて、頑として動かないのでございます" ], [ "……来た", "あれか" ], [ "――叡山は浄地たり、霊域たり、怨恨を負うて逃避するものの潜伏をゆるさず。いわんや、不逞闘争の輩をや――じゃ。ただ今、無動寺へも申しおいたが、即刻、当山より退去あるべし。違背あるにおいては、山門の厳則に照らして断乎処罰申そうぞ、左様心得られい", "……?" ], [ "おう、そう訊くならばいってつかわそう。役寮においては最初、下り松にて吉岡方の大勢をただ一名で相手にしたさむらいと、おてまえに、満腔の好意をもっていたのであるが、その後、いろいろと悪評が伝わり、お山に匿まい置くべからず――という衆議になったからじゃ", "……悪評" ], [ "見よ! 外道", "羅刹め", "馬鹿ッ" ], [ "役寮の命とあるゆえ、神妙に仰せごとを受け申しておるに、口ぎたない罵詈は心得申さぬ。わざとそれがしに喧嘩でも売ろうと召さるか", "み仏に仕えるわれわれ、喧嘩など売る気はみじんもないが、おのずから喉を破って、今のような言葉が出てしもうたのだから仕方がない" ], [ "天の声だ", "人をもっていわしめたのだ" ], [ "人をしていわしめるといわれたな。天の声といわれたな", "そうだ" ], [ "それは、なんの意味か", "わからんのか。山門の衆判をいい渡されても、まだ気がつかんのか", "……分らぬ", "そうか。いや汝の神経ではそうもあろうて。愍れむべき男は汝だ。――だが、輪廻はやがて思い知るであろう", "…………", "武蔵。……そこ許の世評はひどく悪いぞ。下山しても気をつけろよ", "世評など、なにものでもござらぬ――いわしておけばいいのだ", "ふふん、なにやら、自分が正しそうなことを", "正しい! おれは寸毫も、あの試合において、卑劣はしていない。……俯仰して恥じるところはない", "待て。そうはいわさん", "どこに武蔵の卑屈があったか。卑怯未練をしたというか。剣に誓う、おれの戦いには、微塵も邪はない!", "天晴れ顔して、大きくいいおるわ", "ほかのことなら、聞き流しもするが、拙者の剣にかかわって、あらぬ誹謗をいいたてると、許さぬぞっ", "然らば、いおうか。この問いに対して明答できるものなら答えてみい。――なるほど、吉岡方は目にも余る大勢であった。敢然、一人であたって戦いぬいたそこ許の元気というか、暴勇というか、生命知らずなところだけは大いに買おう。えらいと称えておいてもいい。――しかし、なにがゆえに、まだ十三、四歳の子供まで斬ったか。あの源次郎とよぶ幼少を、無残にも斬り伏せたか――", "…………" ], [ "ああ、これで解けた。中堂へ訴え出て、わしの素姓や、わしのことを、悪しざまに告げた者は、おばばであったのだな。健気な老婆のことばと聞き、堂衆たちは一も二もなく信じたに違いない。また、同情もしたであろう……。その結果わしを山から追うことに決め、夜陰に乗じて、おばばを先達にここへ加勢にきたものとみえる……", "……ウウム、くるしい、武蔵、もうこうなる上は、ぜひもない。本位田家の武運がないのじゃ。ばばの首を討て" ], [ "苦しければ少し休もうか。――おたがいに急ぐ旅ではないからな", "…………" ], [ "ゆうべから、水一滴口に入れず、薬をやりたいとは思うが人家もなし……疲れてしまうばかりじゃないか。……おばば、せめて、わしの弁当を半分ほどでも食べてくれぬか", "けがらわしい", "なに。穢らわしいと", "たとえ、野末に行き倒れて、烏や獣の餌食になろうとも、仇と狙うおぬし如き者から、飯などもろうて口に入れようか。馬鹿な――うるさいッ" ], [ "でも、おばば、このまま死んでしまっては、つまらないじゃないか。又八の出世も見なければ……", "な、なにをいう!" ], [ "そ、そのようなこと、おぬしの世話にならいでも、又八は又八でいまに一人前になって行くわ", "……それはなって行くだろうと俺も思う。だから、おばばも元気を出して、ともどもに、あの息子を励ましてやらねばなるまい", "武蔵! ……汝れは、似非善人じゃの。そのような甘い言葉に騙かされて、怨みを解くようなわしではないぞ。……無駄なこと、耳うるさいわい" ], [ "……ああ、なにやら不気味な味よの。したが、これでわしも、達者になれるかも知れぬ", "おばあさんも、どこか体がお悪いのかえ", "なあに、大したことはない。風邪熱のあったところを少し手ひどく転んでの" ], [ "この山道を、真っすぐに行ったら、どこへ出るのじゃ", "三井寺の上に出るがな", "三井寺といえば、大津じゃの……。そこより他に、裏道はないか", "ないこともないが、おばあさんは一体、どこへ行きなさるのじゃ", "どこへでもかまわぬ。わしはただ、わしを捕まえて離さぬ悪者の手から逃げたいのじゃよ", "四、五町ほど先へ行ったら、北へ降りる小道があるで、そこをかまわず降りて行けば、大津と坂本の間へ出るがな", "そうか……" ], [ "おかみさん、おまえの家は、この辺のお百姓か、それとも木樵か", "わしの家かえ? わしの家は、この先の峠にある茶店だが", "峠茶屋か", "ヘエ", "ならば、なおのこと、都合がよい。おまえに駄賃をやるが、洛内まで一走り、使いに行ってくれないか", "行ってもよいが、家に病人のお客人がいるでの", "その乳は、わしが届けてやった上、おまえの家で、返事を待っているとしよう。ここからすぐ行ってくれれば、陽のあるうちに帰って来られよう", "それやあ造作もねえこったが……", "案じるな。わしは、悪者でもなんでもない、今の婆どのも、あの元気で走れるようなら心配ないから抛っておくのだ。……今ここで手紙を書く。これを持って、洛内の烏丸家まで行って来てくれ。返事はおまえの茶店で待っている" ], [ "ああ! 何年ぶりだろう", "関ヶ原の戦――あれからだ! あれから会っていないのだ!", "……すると?", "五年ぶりだ。――おれは今年二十二になったから", "わしだって、二十二だ", "そうだ、同い年だったなあ" ], [ "偉くなったなあ、武やん。――いや今では、そう呼ばれても自分みたいな気がすまいな。おれも武蔵と呼ぼう。いつぞやの下り松の働き、その前のことども、噂は始終耳にしていた", "いや、恥かしい。まだまだおれは未熟者だ。世間の奴が、余りにも不出来すぎるのだ。――だが又八、この茶店に泊っているという客は、おぬしのことか", "ウム……実は江戸表へ行こうと思って都を立ったが、少し、都合があって十日ばかり", "じゃあ、病人というのは? ……", "病人" ], [ "あ――病人というのは、連れの者だ", "そうか。……なにしろ無事な顔を見てうれしい。いつか、大和路から奈良へゆく途中で、城太郎からおぬしの手紙を受け取ったが", "…………" ], [ "又八、連れというのは、誰なのだ", "いや……べつに、誰というほどの者でもないが、少しその……", "じゃあ、ちょっと、外へ出ぬか。ここで余り饒舌るのも悪かろうゆえ", "ウム、行こう" ], [ "又八、おぬしは今、なにをやって衣食しているのか", "職業か", "ウム", "仕官の口には外れるし、まだこれぞといえる仕事もしていないが", "では今日まで、遊んで暮してきたのか", "そういわれると思い出す……。俺はまったく、あのお甲のやつのために、大事な一歩を過ったものだ" ], [ "お甲のためだというが――又八、そういう考え方は男の卑劣だぞ。自分の生涯を創ってゆくものは自分以外の誰でもない", "それやあもとより、俺も悪い。……だがどういうのかなあ。俺は自分へ向って来る運命を、かわせないのだ。つい引き摺られてしまうのだ", "そんなことで今の時代をどうして乗り切るか。たとえ江戸へ出てみても、江戸は今、諸国から腹の空いている人間が、眼を研いで集まっている新開地だ。とても人並なことでは立身も覚束なかろう", "俺もはやく剣術でも修行すればよかったが", "なにをいう。まだ二十二じゃないか。なんだってこれからだ。……だが又八、おぬしには剣の修行は人がらでない。学問をせい、そしてよい主君を求めて奉公の途につけ、それが一ばんいいと思うな", "やるよ……俺も" ], [ "いいじゃないか、五年道草をくったら、五年遅く生れて来たと思うのだ。だが、考えようによっては、その五年の道草も、実は尊い修行であったかもわかるまいが", "面目ない", "……オオ、話に夢中になって忘れていたが、又八、たった今おれは、おぬしの母親とそこで別れたのだぞ", "えっ、おふくろと、あったのか", "なぜ、おぬしは、あの母親の強気と我慢を、も少し血の中に貰って生れて来なかったのだ" ], [ "今日を心の誕生日として、おれも生れ直す。とてもおれは、剣で身を立てる素質はなさそうだから、江戸表へ行くなり、諸国を遍歴するなりして、そのうちに良師に出会ったら、就いて学問を励むことにする", "おれも、ともに心がけて、良い師と良い主人を見つけてやろう。なにも学問は閑でやるのじゃないから、主人に仕えながらでも修められることだし", "なんだか、広い道へ出た気がする。――だが、困ったことが一つある……", "なんだ。どんなことでも話してくれ、将来ともに、この武蔵にできることで、そして、おぬしの身のためになることなら、どんなことでもきっとする。――それがせめて、おぬしのおふくろを怒らせた、わしの罪の償いだから", "いい難いなあ", "些細な秘しごとが、つい大きな暗い陰を作る。話してしまえ……間のわるいのは一瞬だし、友達の間に、なんの羞恥むことがあるものではない", "……じゃあいってしまうが", "ウム", "茶店の奥に寝ているのは、女の連れなんだ", "女連れか", "それも、実は……。アア、やっぱりいい難いなあ", "男らしくない奴だ", "武蔵、気を悪くしないでくれ。おめえも知っている女だから", "はてな? ……誰だ一体", "朱実だよ", "…………" ], [ "寝床にいねえがな", "いない", "今し方までいただが" ], [ "帯もない、履物もない。――やッおれの路銀も", "化粧道具は", "櫛も、釵も。どこへ突っ奔って行きやがったのだろう。おれを置き去りにしやがって" ], [ "…………", "又八", "…………", "おい", "ウム?", "なにをぼんやりしているのだ。去った朱実が行く先、せめて少しでもよい身の落着きを得るように、二人して祈ってやろう", "ああ" ], [ "さっき、おれを欣ばしてくれた言葉。あれは、おぬしのほんとの決心だろうな", "ほんとだ、ほんとでなくて、どうするものか" ], [ "なにしろ、だらしがねえや", "吉岡方か", "あたりめえよ", "ひどく沽券をおとしたものだなあ。あんなに弟子がいて、一人も刃の立つ野郎はいなかったのかしら", "拳法先生が偉かったので、余り世間が買いかぶっていたのさ。なんでも偉いやつは初代に限るな。二代となるともうそろそろ生温くなり、三代でたいがい没落、四代目になっても、てめえと墓石のつり合っている奴アめったにねえ", "おれなんざ、こう見えても、つり合ってるぜ", "親代々、石切だからよ。おれがいってるのは、吉岡家の話だ。嘘だと思うなら、太閤様の後をみねえ" ], [ "そのほかの者も、ずっとこっちへ寄れ。……なにも恐がらんでもよい", "へ、へい", "今、聞いておると、其方どもは、口を極めて、宮本武蔵を讃えておるが、左様な出たらめを申し触らすと、以後承知せぬぞ", "……は。……へい?", "なんで武蔵が偉いか。其方どものうちにも、過日の件を目撃した者があるとのことだが、この佐々木小次郎もまた、当日の立会人として、親しくあの試合には双方の実情を審に検分いたしておる。――実はその後、叡山に上り、根本中堂の講堂にては、一山の学生を集めて、その見聞と感想を演舌し、また、諸院の碩学たちの招請に応じても、自分の意見を忌憚なく述べてまいったのだ", "…………", "然るに――其方たちが、剣の何物なるかも知らず、ただ形だけの勝敗を見、衆愚のうわさに惑わされて、武蔵如き者を稀世の人物だの、無双の達人だのと申すが、それでは、この小次郎が、叡山の大講堂で演舌した意見が、皆、嘘のように相成ってしまう。――無智な凡下どもの沙汰すること、取るにも足らんが、ここに居合わす中堂の方々にも一応聞いていただく必要があるし、また、汝らのいう誤った見方は、世上を害するものだ。――事の真相と、武蔵の人物をよう聞かせてやるから、耳の穴を掘って聞け", "……へ。……はい", "そもそも――武蔵とはどんな肚の男か。あの試合を仕かけた彼の目的からそれを洞察すると、あれは武蔵の売名にやった仕事だ。自分の名を売るために洛内第一の吉岡家へ向って、うまく喧嘩を売ったもので、吉岡はその図に乗せられて彼の踏み台になったものとわしは観る", "……?", "なぜならば、初代拳法時代のおもかげもなく、京流吉岡が衰えていることは、誰にだってもう分っていたことなのだ。樹なら朽木、人間なら瀕死の病人にひとしい。抛っておいても自滅するものを、押し倒したのが武蔵なのだ。――そんな者を倒す力は誰にでもあるが、それを敢てやらないのは、もう今日の兵法者の仲間では、吉岡の力など眼中にもない情勢にあったからと、もう一つは拳法先生の遺徳を思い、さむらいの情けで、あの門戸ぐらいは見遁しておいてやろうという気持もあったに相違ない。それを武蔵は、わざと声を大にし、事件を拡大し、都の大路に高札を立て、巷の噂を高め、思うつぼに芝居を打って当てたのだ", "……?", "その心情のいやしいこと、駆引の卑屈なこと、挙げていえば限りもないが、清十郎と立会う時でも、伝七郎の時でも、一度として彼奴は約束の時刻を守った例がない。また、下り松の折なども、正面から堂々と闘わずに、奇道奇策を弄している", "…………", "なるほど、数の上で見れば、一方は大勢、彼は一人に違いなかった。しかし、そこに彼の狡智と、売名上手が潜んでおる。世の同情は彼の期したとおり、彼の一身に集まった。――けれどあの勝負などは、わしの眼からみればまるで児戯にひとしい。武蔵は飽くまで小賢しく狡く行動して、いい汐時にさっと逃げてしまった。――しかし、或る程度までは、かなり野蛮で強いことは強い。だが、達人だなどいう評判はあたらぬも甚だしい。――強いて達人というならば、武蔵は『逃げの達人』だ。逃げ足の迅いことだけは、確かに名人といってもよい" ], [ "では、ご機嫌よう", "また、ご上洛の折には" ], [ "……や。武蔵どの。……これにいたのか", "いつぞやは" ], [ "その節は、立会人として、なにかとご配慮を。かつまた、ただ今は、いろいろ拙者に対して苦言を聞かしていただき、あれにて他ながら、有難いと思って聞いていました。――自分から考える世間と、世間が観ている自分の真価とは大きな違いがあるが、滅多にほんとの世間の声は聞かれない。それを其許が、昼寝の夢に聞かせてくれたと思うと、忝い心地がする。――忘れずに憶えておりますぞ", "…………" ], [ "……ウム、よろしい。憶えているといった其許の一言、小次郎も慥に覚えておこう。きっと忘れるなよ、武蔵", "…………" ], [ "わたしは朝からただ、こうして坐っていた限り", "よく飽きないなあ", "体は動かさないでも、心はさまざまに、遊ばせていますから。――それより城太さんこそ、朝早くから、どこへ行ったんですか。そこのお重筥の中に、きのう戴いたちまきが入っているからお食べなさい", "ちまきは後にしよう。お通さんに先に欣ばしてやることがあるから", "なあに?", "武蔵様ネ", "ええ", "叡山にいるとさ", "ア……叡山へ", "きのうも、おとといも、その前も、毎日のように、おいら方々聞いて歩いていたんだよ。――するとね、きょう聞いたのさ。武蔵様は、東塔の無動寺に泊っているって", "……そう。……ではほんとに御無事でいらっしゃるのだわ", "そう分ったら、一刻も早くがいい、またどこかへ行っちまうといけないからね。おいらも今、ちまきを食べたら支度するから、お通さんもすぐ支度をおしよ。――直ぐ行こう、これから訪ねて行こう、無動寺へ" ], [ "城太さん、無動寺へ行くのは、止しましょう", "ヘエ?" ], [ "なぜさ", "なぜでも", "ちぇッ、女って、これだから嫌になっちまう。飛んでも行きたいくせにして、さあ、その人のいる所が分ったとなると、今度はヘンてこに澄まして、止そうのなんのとしぶくるんだもの", "城太さんのいう通り、飛んでも行きたいほどですけれど", "だから、飛んで行こうというのに", "けれど。……けれどね、城太さん。わたしはいつぞや瓜生山で、武蔵様とお目にかかった時、これが今生の最後だと思って、ありッたけな心の裡を話してしまいました。武蔵様も、生きては再び会わないと仰っしゃいました", "だけど、生きているんだから、会いに行ってもいいじゃないか", "いいえ", "いけないの?", "下り松の勝負はついても、まだ武蔵様の心としては、ほんとに勝ったと思っているか、どんな用心をして叡山に身を退いていらっしゃるのかそのお気持は分りません。――それに、私へ仰っしゃったお言葉もあるし、私も、必死で掴んでいたあのお方の袂を離して、もう、今生の恩愛を断ったと覚悟したのですから、たとえ、武蔵様の居所が分っていても、武蔵様のおゆるしがなければ……", "じゃあ、このまま十年も二十年もお師匠様からなにもいって来なかったらどうする?", "こうしています", "坐ったきり、空を眺めて暮しているの", "ええ", "変な人だなあ、お通さんという人も", "わからないでしょ。……だけどわたしには分っているの", "なにが", "武蔵様のお心がです。――瓜生山で最後のお別れをする前よりも、あの後になってからの方が、わたしには武蔵様のお心が、ずっと深く分って来たからです。それは、信じるということなのです。以前は、武蔵様を慕ってはいました。生命がけで思っていました。城太さんの前だけれど、ほんとに苦しい恋をつづけて来ました。けれど、武蔵様をほんとに信じていたかといえば、どうだか分りませんでした。……今はもうそうではない。たとえ生きても死んでも、離れていても、お互いの心は、比翼の鳥のように、連理の枝のように、固くむすばれているものと信じていますから、ちっとも淋しくなんかない。……ただ武蔵様が、武蔵様のお心のままに、修行の道へすすんでお出で遊ばすように、祈っているばかりなんです" ], [ "城太さん。今、お館の人が持って来たのは、武蔵様からの手紙ではありませんか", "そうだよ" ], [ "でも、お通さんには、用はないだろ", "おみせ", "いやだい", "意地のわるい――そんなことをいわないで" ], [ "城太さん、おまえはもう、先刻お支度をしていたからそれでいいんでしょ。……さ、早く出ておいで。後を閉めて行かなければならないから", "知らない、おいらは。――どこへ行くのさ" ], [ "城太さん、怒ったの", "怒ったさ! 当り前だい", "どうして", "勝手だから、お通さんは。――おいらが折角捜し当てて来て、行こうという時には、行かないといっておきながら", "でも、その理由は、よく話したでしょう。ところが今、武蔵様の方からお便りがあったんですもの", "その手紙だって、自分だけで見て、おいらには、読ませてくれないじゃないか", "アアほんとに、それは悪かった。御免よ、城太さん", "もういいよ、もう見たくなんかない", "そう、ぷんぷん怒らないで、この手紙を見ておくれ。ね、なんという珍しいことでしょう。あの武蔵様が、わたしに手紙を下すったことなんか、これが初めてです。また待っているから来いなんて、優しいことを仰っしゃってくれたのも、これが初めてです。――それからこんな歓ばしいことは、私にとっても、生れて初めてではありませんか。……だから城太さん、機嫌を直して、私を瀬田まで連れて行ってください。……ね、後生だから、そんなに膨れていないで", "…………", "それとも、城太さんは、武蔵様にもうお目にかかりたくないの", "…………" ], [ "行くなら行くで、早くお出でよっ! 愚図愚図してると、戸外から閉めてしまうぜ", "まあ、怖い人" ], [ "城太さん、わたし、いい物持っていたのに、忘れていたのよ。あげましょうか", "……なにさ", "笹飴", "……ふん", "おととい、烏丸様から、いろいろお菓子を持たせてよこして下すったでしょう。それがまだ残っているのだけれど", "…………" ], [ "草臥れたろ、お通さん", "ええ、登りばかりだったから", "もうこれからは、下り道だから、楽なものだよ。……ああ、湖水が見える", "あれが鳰の湖ね。……瀬田はどの辺?", "あっち" ], [ "待っているといっても、お師匠様は、こんなに早く行っているかしら", "でも、まだ瀬田まで行くには、半日以上もかかるでしょう", "そうだ、ここから見ると、すぐそこのようだけれど", "少し休まない?", "休もうか" ], [ "わたしや武蔵様が、まだ幼い時分によく遊んだことのある、七宝寺というお寺の庭にも、この樹がありましたっけ。六月ごろになると、糸のような淡紅色の花が咲いてね、夕月が出るころになると、あの葉がみんな重なり合って眠ってしまう", "だから、ねむの木というのかしら", "でも、文字で書くと、眠という字は書きません、合い歓ぶと書いて、合歓と訓むんですの", "どうしてだろ?", "どうしてでしょうね。きっと誰かが拵えた当字でしょう。……だけど、この二本の樹の姿を見ると、そんな名がなくても、いかにも歓び合っているといったような姿じゃありませんか", "樹なんか、歓ぶも悲しむも、あるもんか", "いいえ城太さん、樹にも心があるんです。よく御覧、この山の樹々のうちにも、よく見ると、独り楽しんでいる樹もあるし、独り傷ましそうに嘆いている樹もある。また城太さんのように、歌を謡っているのもあれば、大勢して、世を怒っている樹の群れもあるでしょう。石でさえ、聞く人が聞けば物をいっているというくらいですもの、なんで樹にもこの世の生活がないといえましょう", "そういわれてみると、そんな風にも見えてくるなあ。――するとこの合歓の木なんか、どう思っているんだろう", "わたしから見ると羨ましい樹に見えます", "どうして", "長恨歌を知ってるでしょう。白楽天という人の作った詩", "ああ", "あの長恨歌の終りのほうに――天に在っては願わくは比翼の鳥と作らん、地に在っては願わくは連理の枝と為らん――という句があるでしょ。あの連理の枝というのは、こんな樹のことをいうのじゃないかしらと、さっきから思っているんですの", "連理って? ……何", "枝と枝、幹と幹、根と根、二つの物でありながら、一つの樹のように仲よく立って、天地の中に、春や秋を楽しんでいる樹のこと", "なんだあ……自分と武蔵様のことをいってるんじゃないか", "いけない、城太さん", "勝手におしよ", "――夜が明けてきた。なんという美しい今朝の雲だろう", "鳥がお喋舌をし始めたね。ここを下りたら、おいら達も、朝飯を食べようぜ", "城太さんも歌わない", "なんの歌", "白楽天といったので思い出したんです。いつか、城太さんが、烏丸様の御家来に教わっていた詩があったわね。覚えている? ……", "長干行か", "ええ、あれ。あの詩を、聞かせて下さいな。書を読むような節で結構ですから" ], [ "この詩かい", "そう。もっと続けて" ], [ "ほ、よう知っているなあ", "この斑牛は、いつぞや荷を乗せて、山の無動寺へ行った商人に、牛方なしで貸した牛だ。おさむれえさん、いくらか牛賃をおくんなせえ", "なるほど、おまえが飼主か", "おれの持牛じゃねえが、問屋場の牛小屋にいる牛だあな。無賃じゃいかねえぜ", "よしよし、飼料をつかわそう。――だが、その賃さえ払えば、この牝牛は、どこまで曳いて参ってもよろしいのか", "金さえ払えば、どこまで乗って行こうと、かまわねえさ。三百里先へ行こうと、道中の宿場問屋に渡しておいてさえくれれば、下りのお客が荷物を積んで、いつか大津の問屋小屋へ帰えって来ることになっているんだから", "では、江戸表まで、いかほど払ったらよいのか", "じゃあ、通り道だ、問屋場へ寄って、お名前を書いて行っておくんなさい" ], [ "お師匠さまあっ", "武蔵さま" ], [ "お師匠さま、もう傷は癒ったの。おいら、お師匠様が牛に乗って来たから、あの時の傷がまだ痛んで歩けないので乗って来たのかと思ったよ。……え? どうしてこんなに早く来ていたかって。……そりゃあ、お通さんに聞いたほうが早いや。お通さんと来たらお師匠様、ほんとに勝手なんだからね。お師匠さまから手紙が来たら、この通り一遍に元気になってしまうんだもの", "ふム、そうか、ふム……" ], [ "や? ……おぬしは", "お忘れか、佐々木小次郎を", "犬神先生といわれたのは?", "貴公のことさ", "おれは本位田又八だが", "そんなことは心得ているが、かつて六条松原の闇で、群犬に取り巻かれ、野良犬どもの中に坐って、百面相をしてござったのを思い出したから、お犬の神様と尊称申し上げ、犬神先生と呼んだのでござる", "よしてくれ、冗談じゃあねえ。あの時は、ひどい目に遭わせやがったぜ", "その代りに、きょうはよい目に遭わせてやろうと思い、迎えにやったわけだが、よく来てくれた。まあ、坐るがいい。――おい女輩、この人に杯を酌せ、杯を", "瀬田で、待っている者があるから、すぐお暇する。……おっと、おい、そう酌してもだめだぜ、きょうは飲めない", "瀬田で、誰が待っているのか", "宮本という、おれの幼少からの友達で――" ], [ "なに、武蔵が。……ウウムそうか。峠の茶屋で約束したのか", "よく知っているな", "貴公の生い立ち、武蔵の経歴、みな詳細に聞いている。其許の母親――お杉どのといわれたな――。叡山の中堂でお目にかかったぞ。そしてつぶさにあの老母から、今日までの苦心を聞かされた", "え。おふくろと会ったって? ……実あ、きのうから俺も捜し歩いているのだが", "えらい老母だ、見上げたもの。中堂の僧も皆、同情していた。わしも屹度、助太刀しようと、力づけて別れた" ], [ "又八、なぜ飲まぬ", "もうお暇だ" ], [ "いかん!", "でも、武蔵と", "ばかをいえ。貴様一人で、武蔵と名乗り合ったら、立ちどころに返り討ちだぞ", "そんな争いはもうお互いに捨てたんだ。俺は、あの親友に縋って、これから江戸へ行って真面目に身を立てるつもりだ", "なに、武蔵に縋ってだと? ――", "世間は武蔵を悪くいうが、それは俺のおふくろが悪くいい触らすからだ。おふくろは武蔵を思い違いしている。つくづく今度はそれが分った。同時に俺自身も悟った。おれはあの善友に習んで、遅れ走せだがこれから志を立てる所存だ", "アハッハハハ。わははは" ], [ "お人好し! おいっ、おふくろ殿もいっていたが、なるほど、貴様は世にも稀なお人好しだ。武蔵に悉く騙されたな", "いや、武蔵は", "まあ、黙れ、いうな。第一おふくろを裏切って仇に加担する不孝者がどこにあろう。他人の佐々木小次郎でさえ、あの老母の言葉には義憤を感じ、将来助太刀をしようとまで誓っているのに", "なんといわれても、おれは瀬田へ行く。放してくれ。――おい女ッ、着物が乾いたろう、おれの着物を出してくれ", "出すなっ" ], [ "出すときかないぞ。――これ又八、貴様武蔵とそうなるならば、一応、おふくろに会って、よく得心させてゆけ。おそらくあの老母は、そんな屈辱に、合点はすまい", "そのおふくろを捜しても見当らないので、一先ず俺は武蔵と一緒に、江戸表へ下ろうと思う。おれが一かどの人間になりさえすれば、すべての宿怨はひとりでに解けてしまう", "その口吻は、武蔵のいった口吻に違いない。あしたになったら、わしも共に捜して遣わすから、とにかく、おふくろの意見を訊いた上でゆくがよい。そうして今夜は飲もう、嫌でもあろうが、小次郎に交際え" ], [ "暑い暑い。こんなに汗をしぼる山道って初めてだ。ここはどこ? お師匠様", "木曾で一番の難所、馬籠峠へかかり出したのだ", "きのうも二つ峠を越したっけねえ", "御坂と十曲と", "おらあ、峠に飽々しちゃった。はやく江戸の賑やかな所へ出たいなあ。ねえお通さん" ], [ "いいえ城太さん、わたしは何日までも、こんな人のいない所を歩くのが好き", "ちぇっ、自分は、歩かないもんだからね。――お師匠様、あそこに滝が見えるよ、滝が", "オオ、少し休もうか。城太郎、そこらへ牛を繋いで置け" ], [ "どこまで行ってしまったんでしょう", "城太郎か", "ええ。ほんとに、しようのない子", "そうでもないぞ、おれの子供時分にくらべると、まだまだ", "あなたは、べつ者でしたもの", "反対に又八はおとなしかったなあ。……又八といえば、とうとう彼奴、来なかったが、あいつこそ、どうしたのか", "でも、わたしは、ほっとしました。もし又八さんが来たら、隠れてしまおうと思っていました", "隠れる必要はない。話してわからない人間はないはずだ", "本位田家の母子は、すこしご気性がちがいます", "お通さん……。おまえ、もいちど考えなおさないか", "どういうふうに", "思い直して、本位田家の人になる気はないかと訊くのさ" ], [ "どうしたんですか。武蔵様……武蔵様っ……。なにか、お気に障ったのなら、堪忍してください、堪忍して", "…………", "武蔵様っ、もしッ……" ], [ "あッ、お師匠様っ、お師匠様アっ", "武蔵さまっ――" ] ]
底本:「宮本武蔵(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年11月11日第1刷発行    2010(平成22)年1月5日第44刷発行    「宮本武蔵(四)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年12月11日第1刷発行    2003(平成15)年1月30日第39刷発行    「宮本武蔵(五)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年12月11日第1刷発行    2002(平成14)年10月8日第36刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年12月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "わたしは喰べませんよ", "どうしてさ", "そんなに喰べてばかりいると、人間が莫迦になりますから", "じゃあ、お通さんのと、二盆喰べてしまうぜ", "――まあ、呆れた子" ], [ "はやく喰べてしまいませんか。よそ見などしていないで", "……おや?" ], [ "待ちなよ", "まだなにかねだるつもり?", "今、彼方へ、又八が行ったからさ", "嘘" ], [ "――こんな所を、あの人が通るわけがないではありませんか", "ないかあるか知らないけれども、たった今、彼方へ行ったもの。編笠をかぶっていたぜ。そして、お通さんは気がつかなかったかい。おいらとお通さんをじっと見てたよ", "……ほんとに", "嘘なら呼んで来ようか" ], [ "今ネ。あそこの茶屋に休んでいた坊さんだの旅の者が、お通さんを指して、そういったんだよ。――牛に乗ったふげんみたいじゃのう……ってね", "普賢菩薩のことでしょう", "普賢菩薩のことか。じゃあおいらは、文殊様だ。普賢菩薩と文殊菩薩は、どこでも並んでいるからね", "食いしん坊の文殊様ですか", "泣き虫の普賢様となら、ちょうど似合うだろう", "また!" ], [ "なんでございますか。わたくしには降りる用はございませんが", "なに" ], [ "なんだか、見たような鼻くそだと思ったら、てめえは北野の酒屋にいた小僧ッ子だな", "大きなお世話だ。自分こそあの頃は、よもぎの寮のお甲っていうおかみさんに、いつも叱られて、小っちゃくなっていたくせに" ], [ "さあ、もう一遍いってみろ", "いうともッ" ], [ "いや、半刻ほど前に、ここを通った女子と少年を探しておるのだが", "ああ、牛に乗った普賢様のようなお女中でございましたな", "それだ。その二人を、牢人体の男が、無体に連れ去ったというが、その行く先を知るまいか", "見ていたわけではございませぬが、往来の噂では、この店の首塚のある所から横道へ曲って、野婦之池の方へ、どんどん駈けて行ったと申しますが" ], [ "その辺で、今咳声が聞えたがの", "耳のせいじゃないか。おっ母はこの頃、眼も悪くなったし、耳もとんと遠くなったからなあ", "そうでない。誰か、窓から家の内を覗き見していたに違いない。煙に咽せた声じゃった", "ふうん……?" ], [ "この馬糞め! おれを誘拐しだと?", "おう、連れもない、女童と見くびって、これへ誘拐して来たに違いあるまい。――出せっ、隠した者を", "な、なんだとッ" ], [ "これ権之助", "おい", "坐らぬうち、そのお侍をご案内して、念のために、この家の内を隈なくお見せ申したがよい。――今外で、お訊ねをうけた女子や童が隠してないことを、よう見届けて戴くために", "そうだ、おれが街道から、女など誘拐して来たかと、疑われているのも残念。――お武家、おれに尾いて、この家のどこでも改めてもらおう" ], [ "気の毒だが、どうしても知れねえのう。これから野婦之池までゆく途中、もう一軒、あの丘の雑木林のうしろに、猟をしたり、百姓したりしている家があるが、そこで訊いても知れなければ、もう探しようがねえというもんだが", "ご親切に、辱い。これまで十数軒を訊き歩いても、なんの手懸りもなければ、これは拙者が方角ちがいへ来ているのであろう", "そうかも知れねえ。女を誘拐す悪党などというものは、悪智恵に長けているから、滅多に追いつかれるような方角へ逃げる筈はねえ" ], [ "とんだ迷惑をおかけ申したのう。そのもう一軒を尋ねてみて、それでも知れぬとあれば、ぜひがない、諦めて戻るといたそう", "歩くぐれいなこと、夜どおし歩いた所で、何のこともねえが、いったいその女子と童というのは、お武家の召使か、それとも姉弟たちかね", "されば――" ], [ "こういってやると、その木刀を差した小僧は、泣きやんでまた、後も見ずに駈けて行ったということなんだが――もしや連れの城太郎とかいう子供が、それじゃあるめえか", "オオ、それです" ], [ "――すると、拙者が探しに来たこの方角と、まるで違った方へ行ったわけですな", "それやあ、此処は駒の麓だし、奈良井へ行く道からは、ずっと横へ入っている", "何かと、お世話でござった。それでは早速、拙者もその奈良井の大蔵とかを、尋ねて参ろう。――お蔭で微かながら、緒口の解れて来た心地がする", "どうせ途中になるから、おれの家へ寄って、一寝みした上で、朝飯でも喰って立つといい", "そう願おうか", "そこの野婦之池を渡って、池尻へ出ると、半分道で帰えれる。今、断っておいたから、舟を借りてゆくとしよう" ], [ "お通", "…………", "やいっ。……さっきの返辞をしろ、返辞を", "…………", "泣いていちゃ分らねえ" ], [ "おらあ今、肚を決めた。てめえと武蔵とが、俺の生涯を誤らせたのだから、おれも生涯、てめえと武蔵とに、復讐してやるのだ", "うそをおいいなさい。あなたの生涯を間違えたのは、あなた自身です。それから、お甲という女のひとではありませんか", "何をいやがる", "あなたといい、お杉ばば様といい、どうして、あなたの家のお血すじは、そう他人を逆恨みするのでしょう", "よけいな口をたたくな。返辞をしろといったのは、おれの家内になるか嫌か、それを一言聞けばよいのだ", "その返辞ならば、何度でもいたしまする", "おう吐かせ", "生きているあいだはおろかなこと、未来まで、わたくしの心に結んだお人の名は宮本武蔵様。そのほかに、心を寄せるお人があってよいものでしょうか。……まして貴方のような女々しい男、お通は、嫌いも嫌い、身慄いの出るほど嫌いでございます" ], [ "それ程、おれが嫌いか。――はっきりしていていいや。――だがお通、おれもはっきりいっておくぜ。それは、てめえが嫌おうが好こうが、俺はてめえの体を、今夜から先は、自分のものにしてしまうということだ", "……?", "なにを顫えるんだ? ……ええおい、てめえも今の言葉は、相当な覚悟をもっていったのだろうが", "そうです、私はお寺で育ちました。生みの親の顔すら知らない孤児です、死ぬことなど、いつでも、そう怖いとは思っておりません", "冗談いうな" ], [ "血は止まっても、歯型の痣は何年も消えることじゃねえ。おれの、その歯の痕を、人が見たら何と思う? ……。武蔵が知ったら何と考えるか。……まあ当分の間、いずれ俺の物となるてめえの体に、それを手付の証印として預けておくぜ。逃げるなら逃げてもいい。おれは天下に、おれの歯型のある女に触れた奴は、おれの女讐だといって歩くから", "…………" ], [ "こら土民", "へい", "街道すじへ出てはならねえぞ", "では、どこへお越しなさるのでございますか", "なるべく、人の通らない所を通って、江戸まで行くのだ", "そんなことを仰っしゃっても無理でございまする", "何が無理だ。裏街道を行けばいいのだ。さしずめ、中山道を避けて、伊那から甲州へ出るように歩け", "それやあ、えらい山路で、姥神から権兵衛峠を越えねばなりませぬで", "越えればいいじゃねえか。骨惜しみすると、これだぞ" ], [ "それ程、無念と思うなら、この後は心を戒めて、一心に道を究めて行くことじゃ。……涙などこぼして、見苦しい。その顔を拭きなされ", "はい。……もう泣きませぬ。昨日のような不覚なざまをお目にかけました罪は、どうかお宥し下さいまし", "――とは叱りましたが、深く思うてみれば、下手と上手の差。また、無事がつづくほど、人間は鈍るという。そなたが負けたのは、当り前なことかも知れぬ", "そうおっかあにいわれるのが、なによりおらあ辛い。平常も朝夕に、お叱りをうけながら、昨夜のような未熟な負け方。あんなざまでは、武道で立つなどという大それた志も、われながら恥ずかしい。この上は、生涯、百姓で終るつもりで、武技を磨くよりは鍬を持ち、おっかあにも、もっと楽をさせまする" ], [ "おっかあ、それが出来るほどならば、おらが何で弱音を吐くものか", "常の其方にも似あわぬこと。どうしてそのように意気地のうなりやったか", "ゆうべも、半夜のあいだ、あの牢人を連れ歩くうち、絶えず、一撃ちくれてやろうと、狙い続けていたが、どうしても、打ち撲ることができなかった", "そなたが、怯みを抱いているからじゃ", "いいや、そうでねえ。おらの体にも木曾侍の血は流れている。御岳の神前に二十一日の祈願をかけ、夢想の中に、杖の使い方を悟ったこの権之助だ、なんで名もない牢人ずれに――と、幾度も自分では思ってみるが、あの牢人の姿を見ると、どうしても、手が出ねえだ。手を出す先に、駄目だと思ってしまうのだ", "杖をもって、必ず一流を立てますると、御岳の神に誓ったそなたが――", "でも、よくよく考えてみると、今日までのことは皆、おらの独りよがりだった。あんな未熟で、どうして、一流を興すことなどできるものか。そのために貧乏して、おっかあに飢じい思いをかけるより、きょう限り、杖を折って、一枚の田でもよけいに耕したほうがいいとおらあ考えただが", "今まで、多くの人々と手合せしても、一度として、負けたということのないそなたが、きのうに限って敗れたのも、思いように依っては、そなたの慢心を、御岳の神がお叱りなされて下されたのかも知れぬが、そなたが杖を折って、わしに不自由なくしてくれても、わしが心は、美衣美食で楽しみはせぬ" ], [ "はあ、何でござりますか", "奈良井の大蔵殿というお人の店はどこであろうか", "ああ、大蔵殿のお店ならば、これからもう一つ先の辻で――" ], [ "ご覧の通り、手前どもの店は、表を張っておりませぬし、薬草は山で製り、売子は春秋の二回に、仕入れた荷を背負って、諸国へ行商に出てしまいまする。それゆえ、主人は閑の多い体で、間があれば神社仏閣に詣でたり、湯治に日を暮したり、名所を見たりするのが道楽なのでござりましてな――今度も、多分、善光寺から、越後路を見物して、江戸へはいるのではないかとは思いますが", "では、お分りにならぬのか", "とんともう、はっきりと、行く先をいって出た例のないお方で" ], [ "はいはい、道中でお会いなされましても、てまえどもの御主人なら、一目でお分りになるに違いございません。お年は五十二におなりでございますが、どうして、まだ屈強な骨ぐみで、お顔は、どちらかといえば角で赭ら顔のほうで、それに痘瘡の痕がいっぱいござりましてな、右の小鬢に、少々ばかり薄禿が見えまするで", "背丈は", "並の方とでも申しましょうか", "衣服は、どんな物を", "これは、今度のお旅には、堺でお求めなされたとかいう唐木綿の縞を着て行かれました。これは珍しいもので、まだ世間一般には着ているお方も稀でございますから、主人を追っておいで遊ばすには、何よりもよい目印になろうかと存じまする" ], [ "なアるほど! よく見えらあ", "お富士様が、このように拝める日は、すくのうござりますよ" ], [ "御修行者、お断りまでもないことを仰せられる。杖を習び出してからもう十年。それでもなお、年下のあなたに負けるような伜であったら、武道に思いを断つがよい。――その武道に望みを断っては、生きるかいもないといいやる。さすれば、打たれて死んだとて当人も本望である。この母も、恨みにはぞんじませぬ", "それまでにいうならば" ], [ "得物を把れ、何でも好む物を", "持っておる", "無手か", "いいや……" ], [ "なに! 真剣で", "…………" ], [ "真剣じゃそうな", "いかにも。――木剣でいたしても、真剣でいたしても、拙者の試合は同じことですから", "それを止めるのではないぞえ", "お分りならばよいが、剣は絶対だ……手にかける以上、五分までの、七分までの、そんな仮借があるものではない。――さもなくば、逃げるかがあるばかり", "元よりのこと。――わしが止めたは、それではない。これほどな試合に、後で名乗り合わなんだことを悔やんではと――ふと思い寄ったからじゃ", "うむ、いかにも", "怨みではなし、しかし、どちらから見ても、会い難きよい相手、この世の縁。――権よ、そなたから名乗ったがよい", "はい" ], [ "…………", "…………" ], [ "はやく、水をおやりなさい。御子息には、何処も怪我はない筈だ", "……えっ?" ], [ "わしは要らぬ。都合によっては、ここへ泊るか泊らぬか、まだ分らぬのだから――", "おや、左様でございますか" ], [ "――実は、一乗寺下り松のお働きを伝え聞いて、失礼ながら、今日まで、見ぬ恋にあこがれておったのじゃ", "ではその頃、京都に御逗留でございましたか", "一月より上洛して、三条の伊達屋敷におりましたのじゃ。あの一乗寺の斬合いがあった翌日、何気なくいつも参る烏丸光広卿をお館にたずねてゆくと、そこで種々な尊公の噂。お館は一度、尊公とも会ったことがあると仰せられ、お年ばえや、閲歴なども承って、愈〻思慕のおもいに駆られ、どうかして一度、会いたいものと念じていた願いかなって――今度の下向に、計らずも尊公が、この道を下っているということを――あの塩尻峠に書いておかれた立札で承知したのでござる", "立札で?", "――されば、奈良井の大蔵とかをお待ちになる由を、札に書いて、道ばたの崖へ立てて置かれたであろう", "ああ、あれを御覧になられたのですか" ], [ "――外記殿は最前、烏丸のお館へはよく参ると仰せられたが、光広卿とご懇意でございますか", "ご懇意という程でもないが――主人の使いなどで、しげしげ参るうちに、あのように御気さくなので、いつのまにか、馴々しゅう伺っておるので", "本阿弥光悦どののお紹介わせで、私もいちど、柳町の扇屋でお目にかかりましたが、公卿にも似あわぬ、快活な御気性と見うけました", "快活? ……それだけでござったかの……" ], [ "もっと長く話してみたら、必ずあの卿が抱いている情熱と智性でもお感じになったであろうに", "何分、場所が、遊里でござりましたゆえ", "なるほど、それではあの卿が、世間を化かしている姿しかお見せなさるまい", "では、あの方の、ほんとの相はどこにあるのですか" ], [ "…………", "それも自分のためか。まさか尊公ほどな精進を持つ者が、小さな自己の栄達だけでは、ご満足がなるまいが……" ], [ "折角よい道連れと存じたが、それではぜひもござらぬ。――したが、昨夜も諄々お話ししたが、ぜひ一度、仙台の方へお越しください", "忝う存じます。――折もあらばまた", "伊達の士風を見ていただきたいのじゃ。さもなくば、さんさ時雨を聞くつもりでおざれ。歌もいやならば、松島の風光を愛でに渡らせられい。お待ち申すぞ" ], [ "駄賃なんざあ、いくらくれとは申しません", "一体お探しになっているのは、お女中でござんすか、ご老人ですかえ" ], [ "誰もまだ、そんなお人は、見かけねえようですが、なあに旦那、こちとらが手分けをして、諏訪塩尻の三道にかけて、探すとなれやあ造作アありませんぜ。誘拐された女子だって、道のねえ所を越えてゆく筈はなし、そこは蛇の道はヘビってもんで、訊き廻るにも、土地に明るいこちとらでなけれやあ分らねえ穴がございますからね", "なるほど" ], [ "ええ、旦那え。エヘヘヘ、寔に申しかねますが、なにしろ裸商売、こちとらあまだ、朝飯も喰べておりません。夕方までにゃあ、きっと、お尋ねのお人を突き止めますから、半日の日雇い賃と、わらじ銭とを、ちっとばかりやっておくんなさいませんか", "おう、元よりのこと" ], [ "一方が分ったとは、城太郎という少年の方か、お通の方が知れたのか", "その城太郎っていう子を連れている、奈良井の大蔵さんの足どりが分ったのでございます", "そうか" ], [ "夜どおしで、峠をお越えなされますか", "ウム、夜旅じゃ" ], [ "きょうの昼間、奈良井の大蔵という者が、一名の童を連れて、峠を越えて行かなかったであろうか", "さあ、存じませんなあ。――藤次どのや、他の衆のうちで、そんな旅の者を見かけた者はございませんか" ], [ "ええ、よろしゅうござりますとも。――したが、そのお品とは、なんでございますな", "観音像じゃ", "え、そんな物を", "いや、某の作というような品ではない。拙者が旅のつれづれに、梅の古木へ小刀彫りで彫った小さい坐像の観世音。一飯の価には足らぬかもしれぬが……。まあ、見てくれい" ], [ "剰銭はいらぬ、茶代に取っておくがいい", "それは、どうも" ], [ "わしも、今は山に籠ってこんな業をしておるが、以前は侍でな", "ははあ", "さっき居合せた者も皆そうじゃ。蛟龍も時を得ざれば空しく淵に潜むでな、みな木樵をしたり、この山で、薬草採りなどして生計をたてているが、時到れば、鉢の木の佐野源左衛門じゃないが、この山刀一腰に、ぼろ鎧を纏っても、名ある大名の陣場を借りて、日頃の腕を振うつもりじゃが", "大坂方ですか、関東方でございますか", "どっちでもいい。まずやはり旗色を見て加わらぬと、一生を棒にふるからなあ", "はははは、大きに" ], [ "どうじゃな修行者。もし嫌でなかったら、おれたちの住居へ来て、今夜は泊ってゆかないか。……この和田峠の先には、大門峠がある。夜明けまでに越えるというても、道馴れない者にはどうして大変だ。これから先は、道も嶮しくなるばかりだし", "ありがとう存じます。おことばに甘えて、泊めて戴きましょうかな", "そうするがいい、そうするがいい。――だが何も、もてなしはないぜ", "元より、体さえ横たえれば、それでいいのでございます。して、お住居は", "この谷道から、左の方へ五、六町ほど登った所さ", "えらい山中にお住いですな", "さっきもいった通り、時節の来るまで、世から隠れて、薬草採りをしたり、猟師の業をまねたりして、あの者たちと三人して暮しているのじゃ", "そういえば、後のお二人は、どうなされましたか", "まだ立場で飲んでいるじゃろう。いつも彼家で飲むと酔いつぶれて、小屋まで担いで行く役がおれときまっているが、今夜は、面倒なので置いて来た。……おッと、修行者、そこの崖を降りるとすぐ谿川の河原だ、あぶないから気をつけろよ", "彼方へ、渡るのですか", "ム……その流れの狭い所の丸木橋を渡って、谿川づたいに、左へ登ってゆく……" ], [ "どうして、こんな所にいるのですか", "……それを訊かれると恥ずかしいが", "では、そこに仆れているのは……あなたの良人か", "おまえも知っておいでだろう。元、吉岡の道場にいた、祇園藤次の成れの果てですよ", "あっ、では吉岡門の祇園藤次が……" ], [ "おばさん、早く介抱してやるがよい。あなたの亭主と知ったなら、そんな目に遭わせるのではなかったが", "穴でもあったらはいりたい気がする" ], [ "もう、山の立場で、腹はできておる。かもうてくれるな", "――でも、久しぶりに、山の夜語り、わたしの心づくしを喰べてくださいませ" ], [ "もう、いうて下さいますな。……それよりも、朱実はその後、どうしたでしょうか。何か噂を聞きませんか", "叡山から大津へ出る途中の山茶屋で、数日、わずらっていたそうですが、連れの又八の持物を奪って、逃げてしまったとその折ちょっと耳にしたが……", "では、あの子も" ], [ "今、武蔵さんから聞けば、朱実も江戸へ行ったらしい。わたし達も、何とか、人中へ出る算段をして、もう少し人間らしい暮しをしようじゃありませんか。あの娘でも捕まえれば、また何とか商売の思案もあろうというものだし……", "うむ、うむ" ], [ "いいえ、風がつよいから、木の葉や、木の小枝が、折れては降って来るんですよ、山の中というものは、夜になると、何か降らない晩はない。――月は出ても、星は見えても、木の葉が降ったり、山土がぶつけて来たり、霧が降ったり、滝の水がしぶいて来たり", "おい" ], [ "――もうじきに夜が白んで来る頃だ。おつかれだろうから、あちらへ寝道具をのべて、おやすみになるようにしたらどうだ", "そうしましょうかね。武蔵さん、暗いから気をつけて来てください", "では、朝までお借りしようか" ], [ "呼んで来い", "やるかえ", "あたりめえだ。慾ばかりじゃねえ、彼奴を殺ってしまえば、吉岡一門の仇を取ったということにもなる", "じゃあ、行って来るよ" ], [ "ひとりか?", "武士か", "金は持ってるのか" ], [ "何が", "死骸がよ", "ばかあいえ" ], [ "――あっ?", "――おやっ?" ], [ "あら、いい恰好だ", "ちょっとしてる" ], [ "どの人さ", "どの人さ?" ], [ "大きな刀を背中へ懸けて、威張って歩いて来る若衆だよ", "アアあの前髪の武者修行", "そうそう", "呼んでごらん、名前はなんていうの" ], [ "佐々木様ではございませんか。どちらへお越しなさいますか", "やあ、角屋の親方どのか。わしは江戸へ下向するが、問いたいのは、おぬしたちの行く先、大層な引っ越しじゃないか", "てまえどもは、伏見を引払って、江戸の方へ移りますので", "なぜあんな古い廓を捨て、まだどうなるかも知れない江戸表へなど移るのだ", "あまり澱んでいる水には、腐えた物ばかり湧いて、水草は咲きません", "御新開の江戸へ行ったところで、城普請だの弓鉄砲の仕事はあろうが、まだ遊女屋などの、悠長な商売は成り立つまい", "ところが、そうじゃございません。灘波の葦を拓り開いたのも、太閤様より妓の方が先でございますからね", "何よりも、住む家があるまいが", "今、どしどし家を建てている町中の、葭原という沼地を、何十町歩と、私たちのために、お上から下さいました。――でもう他の同業者が、先へ行って地埋めをしたり、普請をいたしておりますから、路頭に迷うような心配はございません", "なに、徳川家では、おぬしのような者にまで、何十町歩という土地をくれているのか。――それは無料か", "たれが、葭の生えている沼地など、金を出して買うものがございましょう。そればかりでなく、普請の石材木なども、多分にお下げくださるので", "ははあ……なるほど、それでは上方から、世帯を担いで、皆下るはずだ", "あなた様も、何か、御仕官の口でもあって", "いいや、わしは何も仕官は望んでいないが、新将軍の膝下となり、新しく天下へ政道を布く中心地ともなることだから、見学をしておかねばならない。もっとも、将軍家の指南役になら、なってもよいと思っているが……" ], [ "つい、その辺まで、私たちの中に、姿が見えていたのに", "どうしたのであろ?", "ひょっと、逃げたのではあるまいか" ], [ "朱実という女でございますよ。……ほれ、親方様が、木曾路で見かけて、女郎にならぬかといって、お抱えになった、旅の娘っ子で", "見えないのか――その朱実が", "逃げたのじゃないかと、今、若い者が麓まで見つけに行きましたが", "あの娘なら、何も証文を取って、身代金を貸したわけじゃなし、女郎になってもよいから、江戸まで連れて行ってくれろというし、容貌も踏める玉だから抱えようと約束したまでのこと。ここまでの旅籠代が少しばかり損は損だが、まあ仕方がない。そんな者は抛っておいて、出かけようぜ" ], [ "おい、娘っ子", "わたしですか", "ああ、朱実といったっけな。覚えにくい名前だな。ほんとに女郎衆になる気なら、もっと、呼びいい名にしなくちゃ困るが、おめえほんとに遊女になる覚悟か", "遊女になるのに、覚悟なんているでしょうか", "ひと月勤めてみて、いやになったら、やめるというような理にはゆかないからなあ。何しろ遊女になったら、客の求めることは嫌応はいえないのだ。それだけの決心がなくちゃ困る", "どうせ、わたしなんか、女の大事な生命ともいうものを、男の奴に、滅茶苦茶にされたんですから――", "だからといって、もっと滅茶苦茶にしていいという法はない。江戸へ着くまでのあいだに、よく考えておくがいいよ。……なあに、途中の小遣いや旅籠銭ぐらいは、何も返してくれとは、いいはしないから" ], [ "今夜は、府中でお泊りなされますか", "いや、八王子でと思うているが", "それならお楽に参れまする", "八王子は今、誰方の所領でござりますな?", "ついこの頃から大久保長安様の御支配になりました", "ああ、奈良奉行から移った――", "佐渡のお金山奉行も、御支配だそうで", "えらい才人だからの" ], [ "何って……あの、階下の奥へ泊った、沢山な女の人を見ているんだろ", "それだけか", "それだけだよ", "何がそんなものおもしろい", "わからない" ], [ "わしは少し、町を歩いて来るからな、なるべく、部屋にいなくてはいけないよ", "町へ行くなら、おいらも連れて行っておくれよ", "いや、晩はいけない", "なぜ", "いつもいっている通り、わしの夜歩きは、遊びではない", "じゃあ、何さ?", "信心だ", "信心は昼間しているからたくさんじゃないか。神様だって、お寺だって、晩は寝てるだろ", "社寺をお参りすることばかりが信心ではない。ほかに祈願もあることでな" ], [ "その挟み筥から、わしの頭陀袋を出したいが、開くか", "開かない", "助市が鍵を持っているはずじゃ、助市はどこへ行ったな", "階下へ行ったぜ、さっき", "まだ風呂場か", "階下で、女郎衆の部屋をのぞいてたよ", "あいつもか" ], [ "あしたはもう江戸とやらへ、着くのかえ", "どうだかね。ここで訊けば、まだ十三里もあるってえもの", "勿体ないね、夜の灯りを見ると、こうしているのは", "おや、たいそう、親方思いだね", "だって……。ああじれったい、髪の根がかゆくなった。釵をおかし" ], [ "いい加減におしよ", "ア痛" ], [ "なんだ、この城太郎め", "助さん、呼んでるぞ", "誰が", "お前の主人がさ", "うそいえ", "うそじゃないよ。また、歩きに出かけるんだとさ。あの小父さん、年がら年中、歩いてばかりいるんだな", "あ、そうか" ], [ "ずいぶん久し振りじゃないの。どうして、お前、こんな所へ来ているの", "自分こそ、どうしたのさ", "あたしはネ……知ってるだろ。よもぎの寮の養母さんとも別れちまって、それからいろんな目に会ってね", "あの……大勢の女郎衆と、一緒なのかい", "でも、まだ、考えてるの", "何をさ", "傾城になろうか、やめようかと思って" ], [ "知らないよ、おいらは", "なぜ、あんたが知らないのさ", "お通さんとも、お師匠様とも、途中でみんな、迷れてしまったんだもの", "お通さんて――誰?" ], [ "城太さん、ここじゃ、他の人の目がうるさいから、戸外へ行かない?", "町へかい" ], [ "そう、そんないいひと", "ああ、そして、何でもよくできるよ、歌もよむし、字もうまいし、笛も上手だしね", "女が、笛なんか上手だって、なんにもなりやしないじゃないの", "けれど、大和の柳生の大殿様でも、誰でも、お通さんのことは賞めるぜ。……ただおいらにいわせれば、いけないことがひとつあるけれど", "女には、誰にだって、いけない性分が沢山あるものよ。ただそれを、あたしみたいに、正直にうわべに出しているか、おしとやか振って、うまく包んでいるかの違いしかありやしないものよ", "そんなことないよ。お通さんのいけないのはたった一つしかないよ", "どんな性分があるの", "すぐ泣くんだよ。泣虫なのさ", "泣くの。……まあ、どうしてそう泣くんでしょう", "武蔵様のことを思い出しちゃあ泣くんだろ。一緒にいると、それだけが、陰気になって、おいら嫌いさ" ], [ "同じぐらいだろ", "わたしと?", "だけど、お通さんの方が、もっと、綺麗で若いよ" ], [ "ア、居酒屋じゃないか、そこは", "そうさ", "女のくせにおよしよ", "何だか、急に飲みたくなったのよ。ひとりじゃ間がわるいから――", "おいらだって、間がわるいや――", "城太さんは、何でも喰べたいものを喰べればいいじゃないか" ], [ "いいよ、お前はどうせ、お通さんが好きなんでしょ。……あたしはね、泣いて男の同情を買うような、そんな女、大っ嫌いさ", "おいら、女のくせに、酒なんか飲むやつ、大っ嫌いだ", "わるかったね。……お酒でも飲まなけれやいられないあたしの胸は……おまえみたいなチンチクリンには分りません――だよ", "はやく勘定をお払いよ", "おかねなんて、あるかとさ", "ないのかえ", "そこの旅籠に泊っている、京の角屋の親方さんから貰っておくれ。どうせもう売った体……", "アラ、泣いてら", "わるいかえ", "だって、お通さんの泣虫を、さんざん悪くいった癖に、自分で泣くやつがあるもんか", "あたしの涙は、あのひとの涙とは、涙がちがいますよ。――アア面倒くさい、死んでやろうか" ], [ "だって、おまえだって、武蔵様だって、みんなあたしを、悪者のように思ってるじゃないか。あたしは、死んでこの胸に、武蔵様を抱いてゆく。……そして添わせるものか、あんな女に", "どうしたのさ。何が、どうしたのさ", "さあ、その濠の中へ、あたしを突きとばしておくれ。……よ、よ、城太さん" ], [ "ああ、会いたい。城太さん――探して来ておくれ。武蔵様を", "だめだよ、そんな方へ歩いてゆくと", "――武蔵様", "あぶないッたら" ], [ "みろ、この女は、やっと虫が納まって、いい気持そうに、おれの腕の中に締められて寝てしまった。おれが連れて帰ってやる", "だめだよ、おじさん", "帰れっ", "……?", "帰らないな" ], [ "な、なにをするのさ", "この餓鬼め、溝の水を喰らって帰りたいか", "なにをっ" ], [ "おーい、子どもう", "お客さん", "子ども……ウ" ], [ "知らない。おいらは、何も知らない", "何も? ……ばかをいえ、何も知らぬことがあるものか", "何処か、彼方のほうへ、抱えて行ったよ。それきりしか、知らない" ], [ "どっちだ。その侍の逃げた方は", "あっちだ" ], [ "酔っているらしいね", "何でまた、戸外で酒など?" ], [ "こんな遅くまで、御主人様へも無断で、わりゃあ何処へ行っていたのだ", "何いってんだい" ], [ "おいらはもう、とっくの昔に帰っていたじゃないか。寝ぼけて、知りもしないくせに", "嘘をつけ。わりゃあ、角屋の妓を引っぱり出して、外へ行ったというじゃねえか。――今から、そんなまねしやがって、末恐ろしいやつだ" ], [ "どうした、きょうは", "へ? ……", "どうかしたのか", "どうもしません", "ひどく、きょうに限って、むっつりしているじゃないか", "はい……、大蔵様。実は、こうしていてはお師匠様にいつ行き会えるか分らないから、おいら、おじさんと別れて捜そうと思うんだけれど……いけないかな" ], [ "おじさん、おいら、どうしても、お師匠様をはやく捜したいもの。だから一人で、歩いたほうがいいと思って――", "いけないというのに" ], [ "いやなこった。おじさんの子になんかなるのは嫌だ", "どうして", "おじさんは、町人だろ。おいらは武士になりたいんだもの", "奈良井の大蔵も、根を洗えば、町人ではない。きっと、偉い武士にさせてやるから、わしの養子になれ" ], [ "見たな! 小僧", "……え?", "見たろう!", "……な、なにをさ", "ゆうべ、おれがしたことを", "…………", "なぜ見た!", "…………", "なぜひとの秘密を見る!", "……ごめんよ、おじさん、ごめんよ。誰にもいわないから", "大きな声を出すな。もう見てしまったことだから、叱言はいわぬ。その代りに、わしの子になれ。それが嫌なら、可愛い奴だが、殺してしまわなければならぬのだ。――どうだ、どっちがいい?" ], [ "どっちだ。どっちがいい?", "…………", "おれの子になるか、殺されたほうがいいか", "…………", "これ、はやくいえ", "…………" ], [ "なにを泣くか。おれの子になれば、倖せじゃあないか。武士になりたければ、なおさらのことだ。きっといい武士に仕立ててやる", "だって……", "だってなんだ", "…………", "はっきりいえ", "おじさんは……", "うむ", "でも", "焦れったい奴。男というものは、もっと何でもはっきり物をいうものだ", "……だってね……おじさんの商売は、泥棒だろ" ], [ "だから、おれの子になるのは、嫌だっていうのか", "……う、うん" ], [ "おれは、天下を盗む者かもしれないが、けちな追剥や空巣ねらいたあ違う。家康も秀吉も信長も、みな天下を奪った人間じゃないか。――おれに従いて長い目で見ていると、今にわかって来る", "じゃあおじさんは、泥棒でもないの", "そんな割の合わない商売はしない。――おれはもっと太い人間さ" ], [ "今、笑うたのは、いったい誰じゃ", "みんなだよ", "なんじゃと" ], [ "幾坪あるのだい、この地所は――安けれやあ相談に乗ろうじゃないか", "総坪で、八百坪からござんすよ。値だんは、申し上げたより負かりません", "高いなあ。すこし、べら棒じゃないか", "どういたしまして、土盛りの人足賃だって、安かあございません。――それにサ、もうこの界隈には地所はありませんぜ", "なあに、まだ、あの通り埋立てているじゃないか", "ところが、葭の生えているうちから、みんなあばき合いで、買手を待っている地所なんざ、十坪だってありませんや。――もっとも、ずっと隅田川の河原寄りなら幾らかありやすがね", "ほんとに、八百坪あるのかい、この地面は", "だから念のために、縄を引いてごらんなすって" ], [ "――やっ? そいつあこの間まで、部屋にごろついていた甲州者じゃねえか", "そうのようです。財布を握っていますぜ", "泥棒という声が聞えたが、部屋を出ても、まだ手癖がやまねえな。……おお彼方に老婆が仆れている。甲州者はおれが捕まえているから、あの老婆を労って来い" ], [ "親分、そいつが、婆さんの財布を持っている筈ですが", "財布はおれが奪り返して預かっている。としよりはどうした", "たいして怪我もございません。気を失っていましたが、気がつくとすぐあの通り財布財布と喚いております", "坐っているじゃねえか。起てねえのか", "そいつに、脾腹を蹴とばされたんで", "よくねえ奴だ" ], [ "半瓦の親分、これでようがすか", "よしよし。野郎をそこへふん縛って、頭の上のあたりへ、板を一枚打ってくれ", "なにか、お書きになるので", "そうだ" ], [ "かあいそうに、この年して、ひとり旅の様子じゃねえか。……着物はどうしたんだ", "風呂小屋の横に、洗濯して、乾してありますが", "じゃあ着物を持って、としよりを負ぶって来い", "家へ連れて帰るんで?", "そうよ、盗っ人だけ懲らしたってこのとしよりを捨てておいたら、またどいつかが悪い量見を起さねえとも限るまい" ], [ "おう、観世音は、わしも信仰じゃ。ぜひ伴れて行ってたも", "では――" ], [ "さ、少しは飲けるでしょう。水の上だが、わしらがついているから、安心して酔うておくんなさい", "御命日なのに、酒をのんでも、悪いことはござりませぬか", "六方者は、嘘や飾りの儀式が大嫌い。それに此方人は、門徒だから、物知らずでいいのです", "久しゅう、酒も飲まなんだ。――酒はたべても、このように、暢々とはのう" ], [ "オオ、鶯が啼きぬいて", "梅雨頃には、昼間も、昼ほととぎすが啼きぬくが……まだ時鳥は", "ご返杯じゃ。……親分様、きょうは婆もよい供養のおこぼれにあずかりましたわえ", "そう、欣んでくれると、わしも有難い。さあ、もっと重ねぬか" ], [ "親分、こっちへも、少し廻してもらいてえもので", "てめえは、櫓がうまいから連れて来たのだ。行きに飲ますとあぶねえから、帰りにはふんだんに飲め", "我慢は辛いものだ。大川の水がみんな酒に見える", "お稚児、あそこで網を打っている船へ寄せて、肴を少し買い込め" ], [ "おじさん、買っとくれ", "ばばさん、買っとくれよ" ], [ "なんだ、鏃か", "ああ、鏃だよ", "浅草寺のそばの藪に、人間や馬を埋めた塚があるよ。お詣りする人は、そこへこの鏃を上げて拝むよ。おじさんも上げてくれよ", "鏃は要らない。だが、銭をやるからいいだろう" ], [ "この辺から、あのように鏃がたんと出るところを見ると、この河原にも、合戦があったのじゃろうのう", "よくは知らぬが、荏土の庄といわれていた頃、戦がたびたびあったらしいな。遠くは、治承の昔、源頼朝が、伊豆から渡って、関東の兵をあつめたのもこの河原。――また、南朝の御世の頃、新田武蔵守が小手指ヶ原の合戦から駈け渡って、足利方の矢かぜを浴びたのもこの辺りだし――近くは、天正の頃、太田道灌の一族だの、千葉氏の一党が、幾たびも興り、幾度も亡んだ跡が――この先の石浜の河原だそうな" ], [ "ご苦労様。きょうは、屋根でござりますかな", "はあ、この辺の木には、巨きな鳥が棲んでおりますでな、繕っても繕っても、茅をついばんでは、巣へ持って行ってしまうので、雨漏りがして弱りますわい。……今降りますゆえ、しばらく、おやすみ下さいませ" ], [ "お坊さん", "はい", "さもしいことをいうようだが、黄金十枚といっちゃ当節大金だ。いったい奈良井の大蔵というのは、そんな金持かな", "よう存じませんが、昨年、年の暮に、ぶらりとご参詣なさいまして、関東一の名刹が、このお相はいたましい、ご普請の折には、お材木代の端に加えてくれといって、置いて行かれましたので", "気持のいい人間もあるものだな", "ところが、だんだん聞きますと、その大蔵様は、湯島の天神へも、金三枚ご寄進なさいました。神田の明神へは、あれは平の将門公を祠ったもので、将門公が謀叛人などと伝えられているのは、甚だしいまちがいだ。関東が開けたのは、将門公のお力もあるのに――といって黄金二十枚も献納したということでございますが、世には、ふしぎな奇特人もあるもので……" ], [ "たいへんだよ、お坊さん", "何処かのお侍さんと、何処かのお侍さん達が、河原で喧嘩してるよ", "一人と四人で", "刀を抜いて", "はやく行ってごらんよ" ], [ "あたりめえだ。これは、俺たちの持舟だ", "そうか。……駄賃をやったらよろしかろう", "ふざけるな、俺たちは、船頭じゃあねえ" ], [ "いたのか。こんな所に。――いや、その後は、どうしたかと思うていたが", "身を寄せている半瓦の主や若い者と、観世音へ参詣にの", "いつであったか、そうそう、叡山でお目にかかった折、江戸へと聞いていたので、会いそうなものと思うていたが、こんな所でとは" ], [ "では、あれが婆殿の連れの者か", "そうじゃ。親分というお人は出来ている人間じゃが、若い者たちは、ひどくがさつ揃いでの" ], [ "知らんのか。甲州武田家の御人小幡入道日浄の末で――勘兵衛景憲。――大御所に拾い出され、今では秀忠公の軍学の師として、門戸を張っておる", "アアあの小幡様で" ], [ "ここなら、往来の者が、立ちもすまいし、道場などは要るまい。野天でいい", "でも、雨降りの日が", "そう、毎日は、わしが来られないから、当分、野天稽古としよう。……ただし、わしの稽古は、柳生や町の師匠などより、うんと手荒いぞ。――下手をすれば、片輪もできる。死人もできる。それをよく承知しておいてもらわんと困るが……", "元より、合点でございます" ], [ "だめだ!", "死んだのか", "もう呼吸はねえ" ], [ "なあ兄弟、こういう御用なら、毎日仰せつかってもいいなあ", "先生、これから時々、葭原が見てえと、仰っしゃっておくんなさい" ], [ "ひどい道だ。提燈を持って来ればよかったな", "廓へ提燈なんぞ持ってゆくと笑われますぜ。先生、そっちは堀の土を盛りあげてある土手だ。下をお歩きなさい", "でも、水溜りが多いではないか。――今も葭の中へ辷って、草履を濡らした" ], [ "先生、あそこです", "ほう……" ], [ "おやじ橋っていうんでさ", "それはここに書いてあるが、どういうわけで", "庄司甚内ってえおやじがこの町を開いたからでしょう。廓で流行っている小唄に、こんなのがありますぜ" ], [ "先生にも、貸しましょうか", "何を", "こいつで、こう顔を隠してあるきます" ], [ "伊達だな", "よう似合う" ], [ "先生、隠したってもうだめですぜ", "なぜ", "初めて来たと仰っしゃいましたが、今、はいった楼の遊女の中で、先生の姿を見ると、声を出して屏風の陰へ、顔をかくした女があった。もう泥を吐いておしまいなせえ" ], [ "はてな。どんな女が……?", "空恍ぼけたって、もういけません。登楼りましょう、今の楼へ", "まったく、初めてだが", "登楼ってみれば分るこってさ" ], [ "いないんでございますよ。あなたが呼べと仰っしゃった遊女が", "おかしいじゃねえか、どうしていなくなったんだ", "今も、親方の甚内様と、どうもふしぎだと、話しているのでございます。以前も、小仏の途中で、お連れのお武家様と甚内様が話していると、その間に、あの娘の姿が見えなくなってしまったことがあるんでございますからね" ], [ "冷酒でひと口くれないか", "……え。お酒を", "ああ" ], [ "……ア、何処へ。花桐さん、何処へ", "うるさいね、足を洗ってあがるんだよ" ], [ "肩……肩だおい……", "ど、どうするんで? 先生", "両方から肩を貸せというのだ――もう、あるけない" ], [ "だから、泊ろうと、おすすめしたのに", "あんな楼に、泊れるか。……おい、もういちど、角屋へ行ってみよう", "およしなさい", "な、なぜ", "だって、逃げ隠れするような女を、むりに、つかまえて、遊んだって……", "……む。そうか", "惚れているんですか、先生はその女に", "ふ、ふ、ふ、ふ", "何を思い出しているんで", "おれは、女になど、惚れたことはないな。……そういう性格らしい。もっと、大きな野望を抱いているから", "先生の望みってえのは?", "いわずとも知れている。剣を持って立つ以上、剣の第一人者にならずにはおかない。――それには将軍家の指南になるのが上策だが", "生憎と……もう柳生家があるし……小野治郎右衛門という人も近頃、御推挙されましたぜ", "治郎右衛門……あんな者が。……柳生とて惧るるには足らん。……見ていろ、わしは今に、彼奴らを蹴落してみせる", "……あぶねえ。先生、自分の足元の方を、気をつけておくんなさいよ" ], [ "お案じくださいますな。新蔵は、昼寝しておりますから", "いや、わしの代講ができる者は、そちのほかにはない。昼間も、なかなか眠る間もあるまい……", "眠らないのも、修行と存じますれば" ], [ "そちには聞えないか……水の音だ……石井戸の辺りに", "オオ……人の気配が", "今頃、何者か。……また、弟子部屋の者どもが、夜遊びに出おったのかもしれぬ", "おおかた、そんなことかと存じますが、一応見て参りまする", "よく、窘めておけ", "いずれにせよ、お疲れでございましょう。先生は、おやすみなされませ" ], [ "――貴公たちに討てる相手ではないから止せと、再三再四、わしが止めたのになぜ出かけたか", "でも……でも……。ここへ来ては、病床の師を辱しめ、隅田河原では、同門の者を四名も討った――あの佐々木小次郎ずれを、何でそのままに置けるものでしょうか。……無理ですっ、意地も抑え、手も抑えて、黙って怺えていろと仰っしゃる新蔵殿の方が、ご無理というものです", "何が無理だ" ], [ "貴公たちが出向いていい程なら、この新蔵が真っ先に行く。――先頃からたびたび道場へ訪れて来て、病床の師に、無礼な広言を吐きちらしたり、われわれに対しても、傍若無人な小次郎という男を、わしは怖れて捨てておいたのではないぞ", "けれど、世間はそうは受けとりません。――それに、小次郎は、師のことや、また兵学上のことまでも、悪しざまに、各所でいいふらしているのです", "いわせておけばいいではないか。老師の真価を知っている者は、まさか、あんな青二才と論議して、負けたと誰が思うものか", "いや、あなたはどうか知りませんが、われわれ門人は、黙っていられません", "では、どうする気だ", "彼奴を、斬り捨てて、思い知らせるばかりです", "わしが止めるのもきかずに、隅田河原では、四人も返り討ちにあい、また今夜も、かえって彼のために敗れて帰って来たではないか。――恥の上塗りというものだ。老師の顔に泥をぬるのは、小次郎ではなくて、門下の各〻たちだという結果になるではないか", "あ、あまりなお言葉。どうして吾々が、老師の名を", "では、小次郎を討ったか", "…………", "今夜も、討たれたのは、恐らく味方ばかりだろう。……各〻にはあの男の力がわからないのだ。なるほど、小次郎という者は、年も若い、人物も大きくはない、粗野で高慢な風もある。――けれど彼が持っている天性の力――何で鍛え得たか――あの物干竿とよぶ大剣をつかう腕は、否定できない彼の実力だ。見縊ったら大間違いだぞ" ], [ "水を……水をくれい", "お……もう" ], [ "残念だが、何分、彼奴が物干竿と称んでいるあの大業刀には、どうしても、刃が立たんのだ", "村田、綾部など、ふだん剣法にも、熱心な男なのに", "かえって、その二人などが、真っ先に、割りつけられ、後もみな深傷薄傷。与惣兵衛など、ここまで気丈に帰って来たが、ひと口、水をのむと、井戸端でこときれてしまった……。かえすがえす無念でならぬ。……御一同、察してくれ" ], [ "おれの従弟が、柳生家に奉公している。柳生家へご相談して、お力を借りてはどうだろう", "ばかな" ], [ "そんな外聞にかかわることができるか。それこそ、師の顔に泥を塗るようなものだ", "じゃあ……じゃあどうするか?", "ここにいる人数だけで、もう一度佐々木小次郎へ、出会い状をつけようではないか。暗闇で待ち伏せるなどということはもうしない方がよい。いよいよ、小幡軍学所の名折れを増すばかりだ", "では、再度の果し状か", "たとい、何度敗れても、このまま退くわけにはゆくまい", "もとよりだ。……だが、北条新蔵に聞こえるとまたうるさいが", "勿論、病床の師にも、あの秘蔵弟子にも、聞かしてはならない。――では、社家へ参って、筆墨を借り、すぐ書面を認めて、誰か一名、小次郎の手許へ使いに立つとしよう" ], [ "それとも小幡の門人らは、果し合いをするにも、大安とか仏滅とか、暦と相談でなければ出来ないのか。昨夜のように、相手が酩酊して帰る途中を待ち伏せして、暗討ちをしかけなければ刃物はぬけないと申すのか", "…………", "なぜ黙っている。生きている人間は一匹もおらぬのか。一人一人来るもよし、束になってかかるもよし、佐々木小次郎は、汝らごときが、たとい鉄甲に身を固め、鼓を鳴らして襲せて来たとて、背後を見せるような武芸者ではないぞ", "…………", "どうしたっ", "…………", "果し合いは、見合せか", "…………", "骨のある奴はいないのか", "…………", "聞け。よく耳に留めておけ、刀法は富田五郎左衛門が歿後の弟子、抜刀の技は、片山伯耆守久安の秘奥をきわめて、自ら巌流とよぶ一流を工夫した小次郎であるぞ。――書物の講義ばかり齧って、六韜がどうの孫子が何といったのと、架空な修行しておる者とは、この腕が違う、胆が違う", "…………", "貴様たちは、平常、小幡勘兵衛から何を学んでいるか知らぬが、兵学とは何ぞや? わしは今、その実際を汝らに、身をもって教訓してつかわしたのだ。――なんとなれば、広言ではないが、ゆうべのような暗討ちに出会えば、たとい勝っても、大概な者なら逸早く安全な場所へ引揚げて、今朝あたりは、思い出してホッとしておる所だ。――それを、斬って斬って斬り捲り、なお、生きのびて逃げるを追い、突然、敵の本拠に現れ、足下らが善後策を講じる間もなく不意を衝いて、敵の荒胆を挫ぐという――この行き方が、つまり軍学の極意と申すもの", "…………", "佐々木は、剣術家ではあるが軍学家ではない。それなのに軍学の道場へ来てまで、小癪をいうなどと、誰やら何日か此方を罵倒した者もいたが、これで佐々木小次郎が、天下の剣豪であるばかりでなく、軍学にも達していることが、よく分ったろう。……あはははは。これはとんだ軍学の代講をしてしまった。この上、商売ちがいの蘊蓄を傾けては病人の小幡勘兵衛が扶持ばなれになろうも知れん。……ああ喉が渇いた。おい小六、十郎、気のきかぬ奴だ。水でも一杯持って来い" ], [ "訊いてみろ。あのぼやっとした顔に", "あははは。なんてえ面だ" ], [ "たくさん捕れたか", "もう秋だから、そういないけど", "拙者に少し分けてくれぬか", "泥鰌をかい?", "この手拭にひとつかみほど包んでおくれ。銭はやる", "折角だけど、きょうの泥鰌は、お父さんに上げるんだから遣れないよ" ], [ "……何を見ているのさ", "幾歳になるの", "え" ], [ "おらの年かい?", "うむ", "十二だ", "…………" ], [ "粟飯も少しあるよ。泥鰌も、もうお父さんに上げたから、喰べるなら、下げて来てやるよ", "すまないなあ", "お湯ものむのだろ", "湯も欲しい", "待っといで" ], [ "うまかったかい?", "礼をのべたいが、この家の主はもうお寝みかの", "起きてるじゃないか", "どこに", "ここに" ], [ "これでね、おじさん。人間の胴中が、二つに斬れる?", "……さ。腕に依るが", "腕なら、おらにだっておぼえがある", "一体、誰を斬るのか", "おらのお父さんを", "何……?" ], [ "童。戯れにいったか", "だれが、冗談など、いうものか", "父を斬る? ……それが本気ならおまえは人間の子ではない。こんな曠野の一ツ家に、野鼠か土蜂のように育った子にせよ、親とは何かぐらいなことは、自然分っていなければならない。……獣にすら親子の本能はあるに、おまえは親を斬るために、その刀を研いでいた", "ああ……。だけど、斬らなければ、持って行けないもの", "どこへ", "山のお墓へ", "……え?" ], [ "いつ死んだのだ? ……おまえの父は", "今朝", "お墓は遠いのか", "半里ばかし先の山", "人を頼んで、寺へ持って行けばよいではないか", "おかねがないもの", "わしが、布施をしよう" ], [ "墓石もそう古くないが、おまえの祖父の代から、この辺に土着したとみえるな", "ああそうだって", "その以前は", "最上家の侍だったけど、戦に負けて落ちのびる時、系図も何もみんな焼いちまって、何もないんだって", "それほどな家柄なら墓石にせめて、祖父の名ぐらい刻んでおきそうなものだが、紋印も年号もないが", "祖父が、墓へは、何も書いてはいけないといって死んだんだって。蒲生家からも、伊達家からも、抱えに来たけれど、侍奉公は、二人の主人にするものじゃない。それから、自分の名など、石に彫っておくと、先の御主人の恥になるし、百姓になったんだから、紋も何も彫るなっていって、死んだんだって", "その祖父の、名は聞いていたか", "三沢伊織というんだけれど、お父さんは、百姓だから、ただ三右衛門といっていた", "おまえは", "三之助", "身寄りはあるのか", "姉さんがあるけれど、遠い国へ行っている", "それきりか", "うん", "明日からどうして生きてゆくつもりか", "やっぱり馬子をして" ], [ "おじさん。――おじさんは武者修行だから、年中旅をして歩くんだろ。おらを連れて、何処までもおらの馬に乗ってくれないか", "…………" ], [ "三之助、おまえは、一生涯、馬子になっていたいか、侍になりたいか", "それやあ、侍になりたいさ", "わしの弟子になって、わしと一緒に、どんな苦しいことでもできるか" ], [ "師弟になるかならぬか、まだ返辞はできぬ。その棒を持って、わしへ打ち込んで来い。――おまえの手すじを見てから、侍になれるかなれないか決めてやる", "……じゃあ、おじさんを打てば、侍にしてくれる?", "……打てるかな?" ], [ "参らない", "あの石へ、叩きつければ、おまえは死ぬぞ。それでも参らないか", "参らない", "強情な奴だ。もう、貴様の敗けではないか。参ったといえ", "……でも、おらは、生きてさえいれば、おじさんに、きっと勝つものだから、生きているうちは参らない", "どうして、わしに勝つか", "――修行して", "おまえが十年修行すれば、わしも十年修行して行く", "でも、おじさんは、おいらよりも、年がよけいだから、おらよりも、先へ死ぬだろう", "……む。……ウム", "そしたら、おじさんが、棺桶へはいった時に、撲ってやる。――だから、生きてさえいれば、おらが勝つ", "……あッ、こいつめ" ], [ "――伊織、伊織。はやく来い。持って行くような物は何もあるまい。あっても、未練を残すな", "はい。今参ります" ], [ "馬を遠くの樹へ持って行って繋いでおけ", "先生、乗って下さい", "いや、まあいいから、彼方へ繋いで帰って来い", "はい" ], [ "おまえは、この藁屋の下で生れた。おまえの肯かない気性、屈しない魂は、この藁屋が育ててくれたものだ", "ええ" ], [ "おまえの祖父は、二君に仕えぬ節操をもって、この野小屋にかくれ、おまえの父は、その人の晩節を全うさせるために、百姓に甘んじて、若い時代を、孝養に送り、そして、おまえを残して死んだ。――けれどおまえはもう、その親も送って、きょうからは一本立ちだ", "はい", "偉くなれよ", "……え、え" ], [ "このままにして立ち去れば、後には野盗や追剥が住むにきまっている。それではせっかく忠節な人の跡が、社会を毒する者の便宜になるから焼いたのだ。……分ったか", "ありがとうございます" ], [ "え? どうしてだろ。……たった今、小屋を焼いちまったのに", "あれは、きのうまでのおまえの御先祖の小屋。きょうから建てるのは、われわれ二人の明日から住む小屋だ", "じゃあ、またここへ住むんですか", "そうだ", "修行には出ないんですか", "もう出ているではないか。わしも、おまえに教えるばかりではなく、わし自身が、もっともっと修行しなければならないのだ", "なんの修行?", "知れたこと、剣の修行、武士の修行――それはまた、心の修行だ。伊織、あの斧をかついで来い" ], [ "ちっとも、おもしろいことなんかないや。百姓するなら、先生の弟子にならなくたって、できるんだもの", "今におもしろくなる" ], [ "小屋あ、ほっ建てて、あんな所に、住む気でいるのか", "ひとりは、死んだ三右衛門とこの餓鬼でねえけ" ], [ "藪や河原に、喰える物ンの芽がでるくらいならよ、おらたちゃあ、太陽さまに腹あ干して、笛ふいて暮らすがよ", "飢饉年は、ねえわい", "止めさらせ、そんなとこ、掘りちらすなあ", "むだ骨折る奴あ、くそ袋もおんなじだよ" ], [ "先生、あんなこと、大勢していってるよ", "ほっとけ、ほっとけ", "だって" ], [ "親の遺物など、滅多に、人に渡すものではない。いずれわしが、徳願寺へ行って、貰い返してやるが、以後は、手離すではないぞ", "はい", "ゆうべは、その寺に、泊めてもらったのか", "和尚さんが、夜が明けてから帰れといいましたから", "朝飯は", "おらもまだ。先生も、まだだろう", "ウム。薪はあるか", "薪なら、くれてやる程あるよ。――この縁の下は、みんな薪だよ" ], [ "学問をしたいのか", "ええ", "今までに、少し書を読んだことがあるか", "すこし……", "誰に教わった", "お亡父さんから", "何を", "小学", "すきか", "すきです" ], [ "書はもういい", "なぜ", "あれをみろ" ], [ "河の中の魚になると、河が見えない。余り書物に囚われて書物の虫になってしまうと、生きた文字も見えなくなり、社会にもかえって暗い人間になる。――だから今日は、暢気に遊べ、おれも遊ぼう", "だって、きょうはまだ、外へも出られないぜ", "――こうして" ], [ "おまえも、寝ころべ", "おらも、寝るのか", "起きているとも、足を投げ出すとも、好きにして", "そして何するんだい", "話をしてやろう", "欣しいなあ" ], [ "何の話?", "そうだな……" ], [ "先生、天狗ってほんとにいるの", "いるかも知れぬ。……いやいるな、世の中には。――だが、牛若に剣法を授けたというのは、天狗ではないな", "じゃあ何?", "源家の残党だ。彼らは、平家の社会に、公然とは歩けなかったから、皆、山や野にかくれて、時節を待っていたものだ", "おらの、祖父みたいに?", "そうそう、おまえの祖父は、生涯、時を得ず終ってしまったが、源家の残党は、義経というものを育てて、時を得たのだ", "おらだって――先生、祖父のかわりに、今、時を得たんだろ。……ねえそうだろう", "うむ、うむ!" ], [ "いやこの水を、他へ引けば、ここは立派な畑になる。初めから地理を按じて、ここと決めてかかったからには――", "でもまた、大雨が降ったら", "こんどは、それが来ないように、この石で、あの丘から堤をつなぐ", "たいへんだなあ", "元よりここは道場だ。ここに麦の穂を見ぬうちは、尺地も退かぬぞ" ], [ "寺僧", "はい", "あまりかもうてくれるな。心づくしは欣ばしいが、寺で贅沢をしようとは思わぬでの", "恐れいります", "それよりは、わがままに、くつろがせて貰いたい", "どうぞお気ままに", "無礼を許されよ" ], [ "捨てておけ。戦場で鍛えた体、夜露でくさめをするような気遣いはない。この暗い風の中には、菜の花のにおいが芬々とする――其方たちにも香うか", "とんと、分りませぬ", "鼻のきかぬ男ばかりじゃの。……ははははは" ], [ "何じゃ", "何事じゃ?" ], [ "お詫びいたしまする、何せい土民の親なし子、お見のがし下さいませ", "覗き見でもしておったのか", "そうでござります。ここから一里ほど先の法典ヶ原に住んでいた馬子のせがれでございますが、祖父が以前、侍であったとかで、自分も大きくなるまでに、侍になるのだと口癖に申しております。――で、貴方がたのようなお武家様を見かけると、指を咥えて、覗き見をするので困りまする" ], [ "そこの御房", "はい。……アアこれは長岡様で、お目ざめに", "いやいや咎め立てではない。――その童とやら、おもしろそうな奴。徒然の話し相手には、ちょうどよい。菓子でも遣らせよう。これへ、呼んでおくれぬか" ], [ "お住持が、かあいそうじゃから遣れと仰っしゃるので、くれて遣るのじゃぞ。なんだ、大きな面して", "おらの顔、大きいかい", "物貰いは、あわれな声を出して来るものだ", "おらは、物乞いじゃない。和尚さんに、遺物の巾着を預けてあるんだもの。――あの中にゃあ、おかねもはいっているんだぞ", "野中の一軒家の、馬子のおやじが、どれ程なおかねを餓鬼に遺すものか", "くれないのかい、粟を", "だいいちおまえは阿呆だぞ", "なぜさ", "どこの馬の骨かわからない狂人牢人にこき使われて、あげくに、喰い物までおまえが漁って歩くなどとは", "大きなお世話だい", "田にも畑にもなりッこないあんな土地を掘くり返して、村の衆は皆わらってござるぞ", "いいよウだ", "おまえも少し、狂人にかぶれてきたな。あの牢人者はお伽草子の黄金の塚でもほん気にして、野たれ死にするまで、掘りちらしているだろうが、おまえはまだ鼻たれンぼのくせに、今から自分の墓穴を掘るのは早いじゃないか", "うるさいな、粟を出しておくれよ、はやく、粟をおくれよ", "アワといわないで、アカといってみろ", "アカ", "んべ! ……だ" ], [ "先生が、待ってるから", "ホ……先生とは?" ], [ "小僧、どうしたか", "今、粟を背負って、帰ってゆきましたが" ], [ "どこへ行く", "なんだ、てめえは" ], [ "こいつ、おれたちを見かけて、何処かへ、知らせに行くつもりか何かだぞ", "そこらの田に叩ッこんでしまえ", "いや、こうして置こう" ], [ "畜生ッ", "なにを", "おらの嬶を返せ", "生命しらずめ" ], [ "先生――っ", "おお、伊織", "すぐ行ってください", "どこへ", "村へ", "あの火の手は?", "山の者が襲せて来たんですよ。先おととしも襲た奴が", "山の者? 山賊か", "四、五十人も", "あの鐘の音はそれを告げておるのか", "はやく行って、たくさんな人を、助けてやって下さい", "よしっ" ], [ "おまえは、小屋で待っておれ", "え、どうして", "あぶない", "あぶなかないよ", "足手纒いじゃ", "だって、村へゆく近道を、先生は知るまい", "あの火が、よい道案内。よいか――小屋の中でおとなしく待っているのだぞ", "はい" ], [ "やかましいっ", "歩かねえか" ], [ "こいつら、諦めのわるいやつらだ、稗粥をすすって、痩せ土を耕しながら、骨と皮ばかりになっているより、おれ達と暮してみろ、世の中が面白くて堪らなくなるから", "面倒だ、その綱を、馬に繋いでしょッ引かせろ" ], [ "だ、だれだッ", "…………", "だれだッ、そこにいるなあ", "…………" ], [ "おれは、良民の土を護る、鎮守の神のおつかいだ!", "ふざけるな" ], [ "村には、まだおまえたちの親や子や良人が残っているのだろう", "ええ" ], [ "それも救わなければなるまい。おまえ達だけが助かって、老いた者や、子たちが助からなかったら、おまえ達はやはり不幸だろう", "はい", "おまえ達は、自分を護り、人を救い合う力を持っている筈なのだ。その力をお前たちは、結びあうことも、出すことも知らないので、賊にいたされるのだ。わしが手伝ってやるから、おまえ達も剣を持て" ], [ "おう", "われか", "いたのか" ], [ "村を荒している賊は、すべてで何十人ぐらいいるか", "五十名ばかしで" ], [ "いたか", "あれがそうじゃねえか" ], [ "あっ、野郎", "逃げやがったッ", "逃がすな" ], [ "――来たっ", "来たぞ" ], [ "こなくそ", "けだものめが" ], [ "野郎", "野郎" ], [ "また、来たぞ", "ひとりだ", "やってしまえ" ], [ "賊は、逃げたか。村の者の被害は、どんなふうだ", "われわれが、駈けつける遑なく、土民たちが、自分の手で、賊の半ばを打ち殺し、後は追いちらしましたようにござります", "はてな?" ], [ "宮本武蔵という者だそうでござります", "なに、武蔵" ], [ "では、あの童が、先生と呼んでいたものだの", "平常、あの子供を相手に、法典ヶ原の荒地を開墾し、百姓のまね事などをしておる、風の変った牢人にござります", "見たいな、その男を" ], [ "武蔵さまでござりまする", "おまえ達に、分るのかこれが……", "今朝、村の衆が、みな集まっている中で、このわけを、よく説いて下さいましたで、どうやら分りまする", "――寺僧" ], [ "お的場でござります", "ああお弓か" ], [ "御前へ", "若殿は今、お弓のお稽古中でござるが", "些事ゆえ、お弓場でも" ], [ "佐渡どの、お急ぎなくば、ちとご相談申したいことがあるが", "なんじゃの", "立話でも――" ], [ "ほかではないが、若殿との間に、何かのお話が出た折に、ひとり御推挙していただきたい人物があるのじゃが", "御当家へ奉公したいという人間かの", "いろいろな伝手を求めて、同じような望みを申し入れて来る者が、佐渡どのの所へなども沢山あろうが、今、てまえの邸に置いてある人物はちと少ない人物かと思うので", "ほ。……人材は御当家でも求めておるのじゃが、ただ、職にありつきたい人間ばかりでなあ", "その手輩とは、ちと質からして違う男でござる。実はそれがしの家内とは縁故もあって、周防の岩国から来てもう二年もわしの邸にごろごろしているのじゃが、何としても、御当家に欲しい人物でしてな", "岩国とあれば、吉川家の牢人かの", "いや、岩国川の郷士の子息で、佐々木小次郎といい、まだ若年でござるが、富田流の刀法を鐘巻自斎にうけ、居合を吉川家の食客片山伯耆守久安から皆伝され、それにも甘んじないで自ら巌流という一流を立てたほどの者で" ], [ "何をいう。いつまでわし達を角髻の子供と見おって", "されば、てまえの弓勢は、山崎の御合戦の折にも、韮山城の城詰の折にも、しばしば大殿の御感にあずかった、極めつきの弓でござる。的場のお子供衆の中ではお慰みになりませぬ", "はははは、始まったぞ、佐渡どののご自慢が" ], [ "そうそう。佐々木小次郎とかいう者を、頻りと、推挙しておったが、まだ見ておらん", "御引見なされてはいかがでござりますな。有能の人物は、諸家でも、争って高禄をもって誘いますゆえ", "それほどな者かどうか?", "ともかく、一度、お召寄せのうえで", "……佐渡", "は", "角兵衛に、口添えを頼まれたかの" ], [ "若殿には、まだご記憶でございましたか", "わしは覚えておるが、そちは忘れておったのではないか", "いや、その後はついぞ徳願寺へも、詣でる折がございませぬために", "一箇の人材を求めるためには、忙しい用を省いても苦しゅうあるまい。他用の序でになどとは、爺にも似あわぬ横着な――", "怖れいりました。したが、諸方より御奉公申したいと、御推挙も多い所、それに若殿にも、お聞き流しのようでござりましたゆえ、ついお耳に入れたまま、怠っておりましたが", "いやいや、余人の眼鏡なら知らぬこと、爺の眼で、よかろうというその人物。わしも心待ちにしていたのじゃ" ], [ "おお、御主人様", "なんじゃ", "あれに沢山、農夫がかたまっておりますが", "……ム? ……なるほど", "訊ねてみましょうか", "待て。何をしているのか、代る代るに地へ額ずいて、拝んでおる様子ではないか", "ともあれ、参ってみましょう" ], [ "これはこれは、誰方かと存じましたら、お檀家の長岡佐渡様ではございませぬか", "おう、おぬしは、昨年の春、村に騒ぎのあった折、身の案内に立たれた徳願寺の僧侶じゃの", "さようでござります。今日もご参詣でございましたか", "いやいや、ちと思い立って急に出向いて来たまま、真っ直にこれまで参ったのじゃ。――早速に訊ねたいが、その折、当所で開墾していた牢人の武蔵と申す者と――伊織という童は――今でも健在かの?", "その武蔵様は、もうここにはいらっしゃいませぬ", "なに、いない?", "はい、つい半月ほど前に、ふと何処かへ、立ち去っておしまいになりました", "何ぞ、事情でもあって、立ち退いたのか", "いえ。……ただその日だけは皆の衆も仕事を休んで、このように水ばかり出ていた荒地が、青々と、新田に変りましたので、青田祭りの欣びをいたしました。すると、その翌朝はもう、武蔵様もあの伊織も、この小屋に姿が見えなかったのでござりまする" ], [ "武蔵さまがいない!", "どこぞへ、消えてしまいなすった――" ], [ "待て", "よろしい" ], [ "何処とて、的もなく歩く修行者でござる", "的もなく?" ], [ "修行するという的があるではないか", "…………" ], [ "美作吉野郷宮本村", "主人は", "持ちませぬ", "然らば、路用その他の出費は、誰から受けておらるるか", "行く所でいささか余技の彫刻をなし、画などを書き、また寺院に泊り、乞う者があれば太刀技もおしえ、人々の合力に依って旅しておりますが……それもない時には、石にも臥し、草の根や木の実を喰ろうておりまする", "ふーム……。で、いずれからお越しなされた", "陸奥に半年あまり、下総の法典ヶ原に、百姓の真似事して、二年ほどを過ごし、いつまで、土いじりもと存じて、これまで、参ってござります", "連れの童は", "同所で拾い上げた孤児――伊織と申し、十四歳に相成ります", "江戸で泊る先はあるのか。無宿の者、縁故のない者は、一切入れぬが" ], [ "あります", "何処の、誰か?", "柳生但馬守宗矩どの" ], [ "先生、なぜ侍だけ、あんなにやかましいんだろ", "敵方の間者に備えてであろうな", "だって、間者なら、牢人のふうなんかして、通るもんか。お役人って、頭がわるいね", "聞えるぞ", "たった今、渡船が出ちまったよ", "待つ間に富士でも眺めておれというのだろう。――伊織、富士が見えるぞ", "富士なんて、めずらしくないや。法典ヶ原からだって、いつも見えるじゃないか", "きょうの富士はちがう", "どうして", "富士は、一日でも、同じ姿であったことがない", "同じだよ", "時と、天候と、見る場所と、春や秋と。――それと観る者のその折々の心次第で", "…………" ], [ "先生、これから、柳生様のお屋敷へ行くんですか", "さあ、どうするか", "だって、あそこで、そういったじゃないか", "一度は、行くつもりだが……先様は、大名だからの", "将軍家の御指南役って、偉いんだろうね", "うむ", "おらも大きくなったら、柳生様のようになろう", "そんな小さい望みを持つんじゃない", "え。……なぜ?", "富士山をごらん", "富士山にゃなれないよ", "あれになろう、これに成ろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。世間へ媚びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる", "渡船が来たよ" ], [ "その証拠には、ここの渡船の木戸調べでもそうだ。こう往来検めが厳しくなったのは、つい近頃のこったが、それというのも、上方からどしどし隠密が入り込んでいるからだという噂だぜ", "そういえば、この頃、大名屋敷へよくはいる盗賊があるそうだ。――外聞に洩れては、見っともないので、はいられた大名は皆、口を拭いているらしいが", "それも、隠密だろうぜ、いくら金の欲しい奴でも、大名屋敷などは、生命を捨ててかからなければはいれねえ所だ。ただの泥棒である筈はねえ" ], [ "汝の名を申せ", "おれの名", "ひとの名を聞いたまま、会釈もなく立ち去る法があろうか", "おらあ、半瓦の身内のもんで、菰の十郎ってんだ", "よし、行け" ], [ "伊織", "はい", "今までのように、野原に住んで、栗鼠や狐が隣近所のうちはよいが、このように多くの人の住んでいる町なかへ来たら、礼儀作法を持たねばならぬぞ", "はい", "人と人とが円満に住んでゆければ地上は極楽だが、人間は生れながら神の性と、悪魔の性と、誰でも二つ持っている。それが、ひとつ間違うと、この世を地獄にもする。そこで、悪い性質は働かせないように、人なかほど、礼儀を重んじ、体面を尊び、また、お上は法を設けて、そこに秩序というものが立ってくる。――おまえが先刻したような不作法は小さいことだが、そういう秩序の中では人を怒らせるのだ", "はい", "これから、何処へどう旅して行くか知れぬが、行く先々の掟には素直に、人には礼儀をもって対うのだぞ" ], [ "これはお前が父から遺物にもろうた品ではないのか", "ええそうです。徳願寺へ預けておいたら、今年になって、お住持さんが、黙って返してくれた。おかねも元のままはいっているよ。なにか要る時には、そのおかね、先生が費ってもかまわないよ" ], [ "いや、たった今、下総領から来たばかりです。大和の大先生にも、その後、お健やかでおられますか", "ご無事でござる。したが、もう何分、ご高齢でな" ], [ "先生、あそこに、御たましい研所と書いてあるけれど、何の商売でしょう?", "本阿弥門流とあるから、刀の研師であろう。――刀は武士のたましいというから" ], [ "蠅がうるさいから、二階へ越して来たら、またみんなが騒いでいて喧しくってしようがないや", "てめえがいうのか、てめえの主人でも、そういって来いといったのか", "先生がさ", "いいつけたんだな", "誰だって、うるさいよ", "ようし、てめえっちのような、兎の糞みてえなチビに、挨拶しても仕方がねえ、後から、秩父の熊五郎が返答にゆくから引っ込んでろ" ], [ "ええこう、どこの牢人か知らねえが、江戸の真ン中へ風に吹かれて来やがって、しかも博労宿にのさばりながら、うるせえもねえもンじゃねえか。うるせえなあ、おれっちの持ち前だ", "つまみ出しちまえ", "わざと、ふてぶてしそうに、寝ていやがるぜ", "侍なんぞに、驚くような骨の細い博労は、関東にゃいねえってことを、誰か、よく聞かして来いよ", "いっただけじゃだめだ、裏へ抓み出して、馬の小便で顔を洗わせちまえ" ], [ "まあ、待て。ひとりや二人の乾飯ざむらい、騒ぐにゃ当らねえ。おれが懸合いに行って、謝り証文を取って来るか、馬の小便で顔を洗わせるか、かたをつけてやるから汝たちは静かに呑みながら見物していろやい", "おもしれえ" ], [ "そちは、誰だ?", "知らねえのか。博労町へ来ておれの名を知らねえ奴あ、もぐりか、つんぼぐれえなものだぞ", "拙者もすこし耳が遠いほうだから、大きな声でいえ。どこのなにがしだ", "関東の博労なかまで、秩父の熊五郎といやあ、泣く子もだまる暴れ者だが", "……ははあ。馬仲買か", "侍あいての商売で、生き馬を扱ってる人間だから、そのつもりで挨拶しろい", "なんの挨拶?", "たった今、その豆蔵をよこしやがって、うるせえとか、喧しいとか、きいたふうな御託を並べやがったが、うるせえな博労の地がねだ。ここは殿様旅籠じゃねえぞ、博労の多い博労宿だ", "心得ておる", "心得ていながら、おれっちが遊び事をしている場所へ、何でケチをつけやがるんだ。みんな腐って、あの通り、壺を蹴とばして、てめえの挨拶を待っているんだ", "――挨拶とは?", "どうもこうもねえ、博労の熊五郎様、他一統様へ宛て、詫証文を書くか、さもなけれや、てめえを裏口へしょッぴいて、馬の小便で面を洗わしてくれるんだ", "おもしろいな", "な、なにを", "いや、おまえ達の仲間でいうことは、なかなかおもしろいと申すのだ", "たわ言を聞きに来たんじゃねえ。どっちとも、はやく返答しろい" ], [ "お内儀、そこの筆をかしてくれぬか", "こんなので、よろしゅうございましょうか", "うむ……" ], [ "伊織", "はい", "使いに行ってくれ", "どこへですか", "柳生但馬守さまのお邸へ", "はい", "所はどこか、知っておるまい", "聞きながら参ります", "む、賢い" ], [ "迷わずに行って来いよ", "はい" ], [ "どう研げとは?", "斬れるように研げと仰っしゃるのか、斬れぬ程でもよいと仰っしゃるのか", "元より、斬れるに越したことはない" ], [ "――なぜこの刀は、研げないのでござろうか。研いでも効いのない鈍刀というわけであろうか", "うんにゃ" ], [ "刀は、持主のそこもと様が、誰よりようご存じじゃろが、肥前物のよい刀でおざる。――ですがの、実をいえば、斬れるようにというお望みが気にくわんでな", "ほ。……なぜで", "誰も彼も、およそ刀を持って来る者が、一様にまずいう注文が――斬れるように――じゃ。斬れさえすればいいものと思うておる。それが気に喰わぬ", "でも、刀を研ぎによこすからには" ], [ "まあ、待たっしゃい。そこのところを説くと話は長くなる。わしの家を出て、門の看板を読み直してもらいたい", "御たましい研所――としてござった。他にまだ読みようがござりますか", "さ。そこでござる。わしは刀を研ぐとは看板に出しておらぬ。お侍方のたましいを研ぐものなりと――人は知らず――わしの習うた刀研の宗家では教えられたのじゃ", "なるほど", "その教えを奉じますゆえ、ただ斬れろ斬れろと、人間を斬りさえすれば偉いように思うているお侍の刀などは――この耕介には研げんというのじゃ", "ウム、一理あることと聞え申した。――してそういう風に子弟に教えた宗家とは、何処の誰でござるか", "それも、看板に誌してあるが――京都の本阿弥光悦さまは、わしの師匠でございます" ], [ "よもや武蔵様とは知らず、先ほどから釈迦に説法も同様な過言――どうぞ真っ平おゆるしのほどを", "いやいや、御亭主のお話には、拙者も教えられるふしが多い。光悦どのが、弟子に諭されたという言葉にも、光悦どのらしい味がある", "ご承知の通り、宗家は室町将軍の中世から、刀のぬぐいや研をいたして、禁裡の御剣まで承っておりまするが――常々師の光悦が申すことには――由来、日本の刀は、人を斬り、人を害すために鍛えられてあるのではない。御代を鎮め、世を護りたまわんがために、悪を掃い、魔を追うところの降魔の剣であり――また、人の道を研き、人の上に立つ者が自ら誡め、自ら持するために、腰に帯びる侍のたましいであるから――それを研ぐ者もその心をもって研がねはならぬぞ――と何日も聞かされておりました", "む。いかにもな", "それゆえ、師の光悦は、よい刀を見ると、この国の泰平に治まる光を見るようだと申し――悪剣を手にすると、鞘を払うまでもなく、身がよだつと、嫌いました", "ははあ" ], [ "では、拙者の腰の刀には、そんな悪気が御亭主に感じられたのではありませんか", "いや、そうした理でもございませんが、てまえが、この江戸へ下って、多くの侍衆から、お刀を預かってみますと、誰あって、刀のそういう大義を分ってくれるお人がないのでござります。ただ、四つ胴を払ったとか、この刀は、兜金から脳天まで切ったとか、斬れることだけが、刀だとしているような風でござります。で――、てまえはほとほと、この商売が厭になりかけましたが、いやいやそうでないと思い直し、数日前から、わざと看板を書きかえて、御たましい研所と認めましたが、それでもなお、頼みに来る客は、斬れるようにとばかりいって見えますので、気を腐らしていた所なので……", "そこへ、拙者までが、又候同様なことをいって来たので、それでお断りなされたのか", "あなた様の場合は、また違いまして――実は先ほど、お腰の物を見たせつなに、余りにひどい刃こぼれと、むらむらと、拭いきれない無数の精霊の血脂に――失礼ながら、益なき殺生をただ誇る素牢人が――といやな気持に打たれたのです" ], [ "耕介どの、これを拙者に、お譲りくださるわけにはゆかないでしょうか", "差上げましょう", "お代は", "てまえが求めた元値でよろしゅうございます", "すると何程", "金二十枚でございます", "…………" ], [ "お買いにならずとも、いつまでも、お貸し申しておきますから、どうかお使いなさいまして", "いや、借りておるのは、なおさら心もとない。一目見ただけでも、持ちたいという慾望にくるしむのに、持てぬ刀と分りながら、しばしの間身に帯びて、またそちらへ返すのは辛うござる", "それほど、お気に召しましたかな……" ], [ "ごらんなさい、惜しい錆が三、四ヵ所もある。しかし、そのままだいぶ使ってもいる", "なるほど", "幸い、この刀は、鎌倉以前の稀れな名工の鍛刀ですから、骨は折れますが、錆の曇りも脱れましょう。古刀の錆はサビても薄い膜にしかなっておりませんから。――ところが近世の新刀となると、これほど錆させたらもうだめですわい。新刀の錆は、まるで質のわるい腫物のように地鉄の芯へ腐りこんでいる。そんなことでも、古刀の鍛冶と、新刀の鍛冶とは、較べ物になりはしません", "お納めを" ], [ "失礼ですが、この刀の依頼主は、この家へ、自身で見えましたか", "いえ、細川家の御用で伺いました時、御家中の岩間角兵衛様から、戻りに邸へ寄れと申され、そこで頼まれて参りましたので。――何か、お客の品だとかいいましたよ", "拵えもよい" ], [ "知らないよ、おらは。――おらはこの辺の者じゃないもの", "…………" ], [ "なんだい。何の用だえ", "あのね", "かあいい子だね、おまえ", "おら、使いに来たんだけど、お邸が分らないで困っているんだよ。おばさん、知らないか", "どこのお邸へゆくのさ", "柳生但馬守様", "何だって" ], [ "――おまえなんぞが行ったって、御門を開けてくれるもんかね。将軍様の御指南番じゃないか。中のお長屋に、誰か知ってる人でもあるのかえ", "手紙を持って行くんだよ", "誰に", "木村助九郎という人に", "じゃあ、御家来かい。そんなら話は分ってるけれど、おまえのいってるのは、柳生様を懇意みたいにいうからさ", "どこだい、そんなことはいいから、お邸を教えておくれよ", "堀の向う側さ。――あの橋を渡ると、紀伊様のおくら屋敷、そのお隣が、京極主膳様、その次が加藤喜介様、それから松平周防守様――" ], [ "じゃあ、向う側も、木挽町っていうのかい", "そうさ", "なあんだ……", "人に教えてもらって、なあんだとは何さ。だけど、おまえは可愛い子だね。あたしが、柳生様の前まで、連れて行って上げるからおいで" ], [ "はなせよ", "いやだよ", "かねがないよ", "なくてもいいよ" ], [ "なんじゃ……? ……おいおい子ども、これは、御家中の木村助九郎様へ持って来た手紙じゃないか", "はいそうです", "木村様はここにはおらんよ", "では、どこですか", "日ヶ窪だよ", "へ。……みんな木挽町だって、教えてくれましたが", "よく世間でそういうが、こちらにあるお邸は、お住居ではない。お蔵やしきと、御普請お手伝いのためにある材木の御用所だけだ", "じゃあ、殿様も御家来方も日ヶ窪とやらにいるんですか", "うむ", "日ヶ窪って、遠いんですか", "だいぶあるぞ", "どこです", "もう御府外に近い山だ", "山って?", "麻布村だよ", "わからない" ], [ "門番さん、その日ヶ窪とやらの道を、絵図に書いてくれないか", "ばかをいえ。今から、麻布村まで行ったら、夜が明けてしまうぞ", "かまわないよ", "よせよせ、麻布ほど、狐のよく出る所はない。狐にでも化かされたらどうするか。――木村様を知ってるのかおまえは", "わたしの先生が、よく知っているんです", "どうせ、こう遅くなったんだから、米倉へでも行って、朝まで、寝てから行ったらどうだ" ], [ "子ども。今起きたのかい", "おじさん、日ヶ窪へ行く道の絵図を書いておくれよ", "寝坊して、慌てたな。お腹はどうだ?", "ペコペコで、眼がまわりそうだよ", "ははは。ここに一つ、弁当が残っているから喰べてゆくがいい" ], [ "――参詣にしては、余り遅いし、日も暮れかかるので、叔父上は案じておられる。――で、迎えに来たわけだが、何処ぞへ、廻り道でもして来たのか", "ええ" ], [ "でも、あなた様に口輪を把らせて、女子のわたくしが……", "相変らず遠慮ぶかいなあ。さりとて、女子に口輪をつかませて、わしが乗って帰るのもおかしい", "ですから、二人して、口輪を把って参りましょう" ], [ "かまいませぬか", "用事か", "べつに用でもございませぬが……ただお話に伺いましたが", "はいるがよい", "では" ], [ "いつもの、氷川の社へ参詣に行って、その帰り道、彼方此方、駒にまかせて歩いて来たので、遅くなったのだと申しておりました", "そちが迎えに行ったのか", "そうです", "…………" ], [ "若い女子を、いつまで邸に止めおくのも、何かにつけ、気がかりなものだ。助九郎にもいっているが、よい折に、暇を取って、どこぞへ身を移すようにすすめたがよいな", "……ですが" ], [ "身寄りもなにもない、不愍な身の上と聞きました。ここを出ては、他に行く所もないのではございますまいか", "そう思い遣りを懸けたひには限りがない", "心だての好いものと――祖父様も仰せられていたそうで", "気だてが悪いとは申さぬが――何せい若い男ばかりが多いこの邸に、美しい女がひとり立ち交じると、出入りの者の口もうるさいし、侍どもの気もみだれる", "…………" ], [ "兵庫", "はあ", "わしに代って、すぐに其方は発足してくれぬか", "承知いたしました", "江戸表の方――すべて何事もご安心なさるように――", "お伝えいたします", "ご看護もたのむ", "はい", "早打の様子では、よほどおわるいらしい。神仏の御加護をたのみ参らすばかり……急いでくれよ。お枕べに、間にあうように", "――では", "もう行くか", "身軽な拙者。せめて、こんな時のお役にでも立たねば" ], [ "ここは、よく山賊の出たところだ", "山賊が" ], [ "昔のことだ。和田義盛の一族の道玄太郎とかいう者が、山賊になって、この近くの洞穴に住んでいたとかいう", "そんな怖い話はよしましょう", "さびしくないというから", "ま、お意地のわるい", "はははは" ], [ "……何かいます", "どこに", "おや、子供のようです。そこの道傍に坐って。……何でしょう、気味のわるい、何か、独り言をいって、喚いているではございませんか", "……?" ], [ "かあいそうに、この童は、狐に憑かれているらしい", "……ま、そういえば、あの恐い眼は", "さながら狐だ", "助けてやれないものでしょうか", "狂人と馬鹿は癒らないが、こんなものはすぐ癒る" ], [ "あっちって、どっち", "江戸", "江戸の?", "ばくろ町", "まあ、そんな遠方から、どうしてこんな所へ来たの", "使いに来て、迷子になっちまったんだ", "じゃあ、昼間から歩いているんですね", "ううん" ], [ "昨日からだい", "まあ。……二日も迷っていたのかえ" ], [ "ではまるで、方角ちがいを彷徨っていたな。――だが子供、もう近いぞ。この川の流れに沿ってしばらく行くと、左の方へ登りになる。そこの三叉道から、巨きな女男松のある方を望んでゆけ", "また、狐に憑かれないように" ], [ "鋭いな、あの童は", "賢いところがありますね" ], [ "もういい年よりのくせに、今から手習いなんぞして、どうするつもりだ。あの世で手習い師匠でもする気かえ", "やかましい。写経は、無我になってせねばならぬ。去んでくだされ", "今日は外で、ちと耳よりな拾い物をしたので、はやく聞かしてやろうと思って帰って来たのに", "後で聞きましょう", "いつ終るのか", "一字一字、菩提の心になって、ていねいに書くので、一部書くにも三日はかかる", "気の永げえこったな", "三日はおろか、この夏中には、何十部も認めましょう。そして生命のあるうちには、千部も写経して世の中の親不孝者に、遺して死にたいと思っているのじゃ", "ヘエ、千部も", "わしの悲願じゃ", "その写した経文を、親不孝者へ遺すというのは、いったいどういう理由か、聞かしてもらいてえもんだな。自慢じゃねえが、こう見えても、親不孝の方じゃあ、おれも負けねえ組だが", "おぬしも、不孝者か", "ここの部屋にごろついている極道者は、みんな親不孝峠を越えて来た崩れにきまってらアな。――孝行なのは、親分くれえのもんだろう", "嘆かわしい世の中よの", "あはははは。ばあさん、ひどくおめえ悄気てるが、おめえの子も、極道者とみえるな", "あいつこそ、親泣かせの骨頂。世に、又八のような不孝者もおろうかと、この父母恩重経の写経を思い立ち、世の中の不孝者に読ませてやろうと悲願を立てたが――親泣かせは、そんなにも、多いものかのう", "じゃあ、その父母恩重経とやらを、生涯に千部写して、千人に頒けてやる気か", "一人に菩提の胚子をおろせば、百人の衆を化し、百人に菩提の苗を生ずれば、千万人を化すともいう。わしの悲願は、そんな小さいものじゃない" ], [ "――おばば、てめえの信心が届いたか、今日、外出の先で、おれはえらい奴に出ッ会わしたぜ", "何。えらい者に会ったとは", "おばばが、仇とねらって探している、宮本武蔵という野郎よ。――隅田川の渡船から降りた所で見かけたんだ" ], [ "して、どこへ行きましたぞえ。その行く先を、突き止めてくれたかよ", "そこは、お菰の十郎だ、抜け目はねえ。野郎と別れるふりをして、横丁にかくれ、後を尾行てゆくと、ばくろ町の旅籠でわらじを脱いだ", "ウウム、ではこの大工町とは、まるで目と鼻の先ではないか", "そう近くもねえが", "いや近い近い。きょうまでは、諸国をたずね、幾山河を隔てている心地がしていたのが、同じ土地にいるのじゃもののう", "そういやあ、ばくろ町も日本橋のうち、大工町も日本橋の内、十万億土ほど遠くはねえ" ], [ "お菰どの、案内してたも", "どこへ", "知れたことじゃ", "おそろしく気が永げえかと思うとまた、怖ろしく気が短けえなあ。今からばくろ町へ出向く気か", "おいの。覚悟はいつもしていることじゃ。骨になったら、美作の吉野郷、本位田家へ骨は送ってくだされ", "まあ、待ちねえ。そんなことになったひにゃあ、折角、耳よりな手懸りを見つけて来ながら、おれが親分に叱られてしまう", "ええ、そのような、気遣いしておられようか。いつ武蔵が、旅籠を立ってしまわぬとも限らぬ", "そこは、大丈夫、すぐ部屋にごろついているのを一匹、張番にやってある", "では、逃がさぬことを、おぬしがきっと保証しやるか", "なんでえまるで……それじゃあこっちが恩を着るようなものじゃねえか。――だがまあ仕方がねえ、年よりのことだ、保証した保証した" ], [ "こんな時こそ、落着いて、もちッとその写経とやらをやっていなすっちゃどうだ", "弥次兵衛どのは、きょうもお留守か", "親分は、講中のつきあいで、秩父の三峰へ行ったから、いつ帰るか分らねえ", "それを待って、相談をしてはおられまいが", "だから一つ、佐々木様に来てもらって、ご相談をしてみなすっちゃどうですえ" ], [ "もう、出かけましたぜ。佐々木先生の住所を教えろというから教えてやると、早のみこみに、たった今", "しようのねえ婆さんだな。――おいおい小六兄哥" ], [ "なんだ兄弟", "なんだじゃねえ、おめえが呑み込んだまま、ゆうべ佐々木先生の所へ行かなかったものだから、ばあさんが、癇癪を起して、一人で出かけちまッたじゃねえか", "自分で行ったら、行ったでいいだろう", "そうもゆくめえ。親分が帰えって来てから、告げ口するにちげえねえ", "口は達者だからな", "そのくせ、体はもう、蟷螂みてえに、折ればポキリと折れそうに痩せこけてやがる。気ばかり強いが、馬にでも踏まれたら、それっ限りだぞ", "ちぇっ、世話がやけるな", "すまねえが、今出かけて行ったばかりだから、ちょっくら、追いかけて行って、小次郎先生の住居まで、連れて行ってやってくれよ", "てめえの親の面倒さえ見たことがねえのに", "だから、罪亡ぼしにならアなあ" ], [ "やい、胡魔化すな", "だれが", "てめえがよ", "ふざけるな、いつおれが", "まあ、まあ" ], [ "ム……それか。そいつあ、本位田のばあさんが、悲願を立てて、生涯に千部写すとかいってる写経だよ", "どれ" ], [ "なるほど、ばあさんの手蹟だ。児童にも読めるように、仮名まで振ってあら", "じゃあ、汝にも、読めるか", "読めなくってよ、こんな物", "ひとつ、節をつけて、美い声で誦んで聞かせてくれ", "じょうだんいうな。小唄じゃあるめえし", "なあにおめえ、遠い昔にゃあ、お経文をそのまま、歌謡にうたったものだあな。――和讃だってその一つだろうじゃねえか", "この文句は、和讃の節じゃあやれねえよ", "何の節でもいいから聞かせろッていうに。聞かせねえと、取っちめるぞ", "やれやれ", "――じゃあ" ], [ "なんのこッたい", "比丘尼ってえな、近頃、鼠色におしろいを塗って、傾城町より安く遊ばせるという、あれとは違うのか", "しっ、黙ってろい" ], [ "なんだ。おやじと、おふくろのことか。お釈迦なんぞも、知れ切った御託しか並べやしねえ", "叱……。うるせえぞ武", "みろ、誦み手が、黙っちまったあ。聞きながらトロトロいい気持で聞いていたのに", "よし、もう黙ってるから、先を謡えよ。もっと、節をつけて――" ], [ "オイ聞いているのか", "聞いてるよ" ], [ "くたびれた、もういいだろ", "聞いてるのに、なぜやめるんだよ。もっと謡えよ" ], [ "…………", "どうしたんだい、おい", "今、誦むよ", "オヤ、泣いてるのか。ベソを掻きながら誦んでやがら", "ふざけんない" ], [ "やい。……またベソを掻いてんのか", "何だか、思い出しちまった", "よせやい、てめえがベソを掻き掻き誦むもんだから、おれっちまで、変てこに、涙が出て来やがるじゃねえか" ], [ "まだ、その先が、あるのか", "あるよ", "もちっと、聴かしてくれ", "待てよ" ], [ "泣いておるのか", "いえ、なあに、べつに", "おかしな奴だの。――稚児の小六は", "おばばに尾いて、今し方、先生のお住居へ出かけましたが", "わしの住居へ", "へい", "はて、本位田のばばが、わしの住居へ、何用があって出かけたのか" ], [ "ううむ、然らば武蔵は今、ばくろ町に逗留しておるのか", "いえ、旅籠は引払って、そこのすぐ前にある刀研の耕介の家へ移ったそうで", "ほ。それはふしぎな", "何がふしぎで", "その耕介の手許には、わしの愛刀物干竿が研に遣ってある", "ヘエ、先生のあの長い刀が。――なるほどそいつあ奇縁ですね", "実はきょうも、もうその研ができていてもよい頃と、取りに出かけて来たのだが", "えっ、じゃあ耕介の店へ寄ってお在でなすったんで?", "いや、ここへ立ち寄ってから参るつもりで", "ああ、それでよかった。うッかり先生が知らずに行ったりなどしたら、武蔵が気取って、どんな先手を打つかもしれねえ", "なんの、武蔵如きを、そう恐れるには当らん。――だが、それにしても、ばばがおらねば何の相談もならぬが", "まだ伊皿子までは行きますまい。すぐ、足の迅い野郎をやって、呼び戻して参りましょう" ], [ "おばば、まだか", "支度かの", "もう、よさそうな時刻だから――小次郎様も待っている", "いつでもよいがの", "いいのか。じゃあ、こっちの部屋へ来てくれ" ], [ "なんだ、小六", "変な奴が、さっきから、後を尾行て来るようなんで", "ははあ、部屋の若い奴だな。なんでもかんでも、助太刀に一緒に連れて行けと強請んで肯かない奴が、一、二名いたではないか" ], [ "しようのねえ奴だな。斬合が飯より好きだという野郎ですからね。――どうしましょう", "抛っておけ。来るなと叱られても、尾いて来るような人間なら頼もしいところがある" ], [ "先生は、今夜、初めて来たんですか", "刀の研を頼む折は、岩間角兵衛どのの手から頼んだからな", "で。どうしますか", "先程、打合わせておいた通り、おばばも、其方たちも、そこらの物陰に潜んでおれ", "だが、悪くすると、裏口から逃げやしませんか、武蔵のやつ", "大丈夫、武蔵とわしとの間には、意地でも背後を見せられぬものがある。万一、逃げたりなどしたら、武蔵は剣士としての生命を失うことになろう。だがあれは、それでも逃げるほど反省力のない男ではない", "じゃあ両側の軒下に、わかれていますか――", "家の中から、わしが武蔵を連れ出して、肩を並べながら往来を歩いて来る。足数にして、十歩ほども、歩いた頃に、わしが一太刀、抜き打ちに浴びせておくから――そこを、おばばに斬ってかからせるがよい" ], [ "細川家の岩間角兵衛どのの手から、研を頼んである者じゃ", "あ、あの長剣ですかな", "ともあれ、開けてくれい", "はい" ], [ "いつ研げる?", "さあ" ], [ "あまり日数がかかりすぎるではないか", "ですから、岩間様にも、お断りしておいたわけで。日限のところは、おまかせ下さいと", "そう長びいては困る", "困るなら、お持ち帰りねがいたいもので", "なに" ], [ "時に、話はちがうが、其方の家に、作州の宮本武蔵どのが泊っているということではないか", "ほ……。どこでお聞きなさいましたな" ], [ "久しく会わぬが、武蔵どのとは、京都以来存じておる。ちょっと、呼んでくれまいか", "あなた様のお名前は", "佐々木小次郎――そういえばすぐわかる", "何と仰っしゃいますか、とにかく申しあげてみましょう", "あ、ちょっと待て", "なんぞまだ", "余り唐突だから、武蔵どのが疑うといけないが、実は、細川家の家中で、武蔵どのとよく似た者が、耕介の店におると話していたので、訪ねて来たわけだ。よそで一献上げたいと思うから、お支度して来られるように、ついでに申してくれ", "へい" ], [ "やっ、小六?", "……斬られた! ……や、斬られました……", "十郎は、どうした。……お菰は", "お菰も", "なにっ" ], [ "武蔵は――武蔵はどこへ行ったか。武蔵は?", "ち、ちがう" ], [ "武蔵じゃねえ", "何", "……む、武蔵が、相手じゃねえのです", "な、なんだと?", "…………", "小六っ、もういちどいえ。武蔵が相手ではないというのか", "…………" ], [ "ばば! その男とはそも、何者なのだ", "わしには理が分らぬ――ただ先ほども、途中で誰か気づいたが、わし達の後を尾行て来たあの人影に違いない", "いきなり、菰とお稚児へ、斬りつけて来たのか", "そうじゃ、まるで疾風のようにな、何かいう間もない、陰から不意に出て来て、菰どのを先に仆し、稚児の小六が、驚いて抜き合わす弾みに、もう何処か斬られていたような", "して、どっちへ逃げたか", "わしも、傍杖くって、こんな汚い所へ墜ちてしまったので、見もせなんだが、跫音はたしかに、あっちへ遠のいて行った", "河の方へだな" ], [ "オオ、駕屋", "へい", "この横丁の往来に、連れの者がふたり斬られて仆れている。それに下水溜りへ墜ちた老婆とがいるから、駕にのせて、大工町の半瓦の家まで送り届けておいてくれい", "えっ、辻斬ですか", "辻斬が出るのか", "いやもう、物騒で、こちとらも、迂濶にゃ歩けやしません", "下手人はたった今、そこの横丁から逃げ走って来たはずだが、其方たちは、見かけなかったか", "……さあ、今ですか", "そうだ", "嫌だなあ" ], [ "旦那、駄賃はどちらで戴くんですえ?", "半瓦の家でもらえ" ], [ "だまれ。人違いなどいたそうか。平河天神境内に住む小幡勘兵衛景憲が一弟子、北条新蔵とはわしがこと。こういったら、もう腹にこたえたであろうが", "あっ、小幡の弟子か", "ようもわが師を恥かしめ、また重ねて同門の友を、さんざんに討ったな", "武士の慣い、討たれて口惜しければ、いつでも来い。そういえば、佐々木小次郎、逃げかくれする侍ではない", "おおっ、討たいでおくか", "討てるか", "討たいでか" ], [ "知らずにお救けしたのでございますが、ここへ連れて来てみると、わたくしのお出入り先で、わたくしの最も尊敬している甲州流の軍学者、小幡先生の御門人ではございませんか", "ホ。この人が", "はい。北条新蔵と仰有いまして、北条安房守の御子息――兵学を御修行なさるために、小幡先生のお手許に、長年お仕えをしているお方でございます", "ふーム" ], [ "事情は、分っておるのか", "いえ、何もまだ", "そうであろう。――しかし、下手人は分った。いずれ、負傷が本復したうえで聞いてみるがよい。相手は佐々木小次郎と見えた" ], [ "……あっ、だめですか", "ウム、だめだ", "天平の古材は", "みんな削ってしまった。――削っても削っても、木の中から、とうとう菩薩のおすがたが出て来なかったよ!" ], [ "どこへ行きなさるのかね", "おらか?", "ああさ", "おらの先生が二階に泊ってるから、二階へ行くのに、ふしぎはあるまい" ], [ "一体、おまえさんは、何日ここを出かけたんだえ", "そうだなあ?" ], [ "おとといの前の日だろ", "じゃ、先おとといじゃないか", "そうそう", "柳生様とかへ、お使いに行くといっていたが、今帰って来たのかえ", "あ。そうだよ", "そうだよもないものだ、柳生さまのお邸は江戸の内だよ", "おばさんが、木挽町だなんて教えたから、とんだ廻り道をしちまったじゃないか。あそこは蔵屋敷で、住居は麻布村の日ヶ窪だぜ", "どっちにしたって、三日もかかる所じゃないじゃないか。狐にでも化かされていたんだろ", "よく知ってるなあ。おばさん、狐の親類かい" ], [ "もう、おまえの先生は、此宿には泊っていないよ", "嘘だい" ], [ "おばさん、先生は、他の部屋へ代ったんだろ", "もうお立ちになったというのに疑ぐりぶかい子だね", "えっ、ほんとかいっ", "嘘だと思うなら、帳面をごらんよ、この通り、お勘定だって済んでいる", "ど、どうしてだろう、どうして、おらの帰らないうちに、立っちまったんだろ", "あんまり、お使いが遅いからさ", "だって……" ], [ "おばさん、先生は、どッちへ立って行ったか、知らないか、何か、いい置いて行ったろ", "何も聞いてないね。きっと、おまえみたいな子は、お供に連れて歩いても、役に立たないから、捨てられたんだよ" ], [ "伊織", "はい", "使いの返事は、どうであったな" ], [ "道を間違えたにせよ、きょうは三日目、あまり遅過ぎるではないか。どうしてこんなに遅く帰って来たか", "麻布の山で、狐に化かされてしまったんです", "狐に", "はい", "野原の一軒家に育って来たおまえが、どうして狐になど化かされたのか", "わかりません。……けれど半日と一晩中、狐に化かされて、後で考えても、何処を歩いたのか、思い出せないんです", "ふーム……。おかしいな", "まったく、おかしゅうございます。今まで狐なんか、何でもないと思っていましたが、田舎より江戸の狐のほうが、人間を化かしますね", "そうだ" ], [ "そちは、何か悪戯したろう", "ええ、狐が尾行て来ましたから、化かされないうちにと要心して、脚だか尻尾だか斬りました。その狐が、仇をしたんです", "そうじゃない", "そうじゃありませんか", "うム、あだをしたのは、眼に見えた狐でなくて、眼に見えない自分の心だ。……ようく落着いて考えておけ。わしが帰って来るまでに、その理を解いて、答えるのだぞ", "はい。……けれど先生は、これから何処かへ行くんですか", "麹町の平河天神の近所まで行ってくる", "今夜のうちに、帰って来るんでしょうね", "はははは、わしも狐に化かされたら、三日もかかるかも知れぬぞ" ], [ "小幡勘兵衛どのの小幡兵学所はこちらでございますな", "そうです" ], [ "失礼いたしました、わたくしは勘兵衛景憲の一子、小幡余五郎にございます。わざわざのお報らせ有難う存じまする。まず、端近ですが御休息でも", "いやいや、一言、お伝えすればよいこと、すぐお暇をいたす", "して、新蔵の生命は", "今朝になって、いくらか持直したようです。お迎えに参られても、今のところでは、まだ動かされますまいから、当分は耕介の家に置かれたがよいでしょう", "何分、耕介へも、頼み入るとお言伝ねがいたい", "伝えておきましょう", "実は当方も、父勘兵衛がまだ病床から起ち得ぬところへ、父の代師範をつとめていた北条新蔵が昨年の秋から姿を見せませぬため、このように講堂を閉じたまま、人手のない始末、悪からずお推察を", "佐々木小次郎とは、何かよほどな御宿怨でもござるのか", "私の留守中ゆえ、詳しくは存じませぬが、病中の父を、佐々木が恥かしめたとかで、門人たちの間に遺恨を醸し、幾たびも彼を討とうとしては、かえって彼のために、返り討ちになる始末に、遂に、北条新蔵も意を決して、ここを去って以来、小次郎をつけ狙っていたものとみえまする", "なるほど。それでいきさつが相分った。――しかし、これだけは御忠告しておく。佐々木小次郎を相手にとって争うことはおやめなされ。彼は、尋常に刃向っても勝てぬ相手、策をもってもなお勝てぬ相手。――所詮剣でも、口先でも、策略でも、およそ一かどぐらいな器量の者では、太刀打ちにならぬ人物です" ], [ "余五郎", "はい。ここにおります", "今――門の外へ行った武士があったな。――この窓から、後ろ姿だけを見たのだが" ], [ "は……。では……ただ今見えた使いの者でございましょう", "使いとは、どこから", "北条新蔵の身に、ちと変事がござりまして、それを知らせに来てくれた――宮本武蔵とか申すお人です", "ふム? ……宮本武蔵。……はてな、江戸の者ではあるまいが", "作州の牢人とか申しておりましたが――お父上には只今の人間に、何ぞお心当りでもあるのでござりまするか", "いや――" ], [ "しかしお父上、今のさむらいの何処がそんなにお気に召しましたか。この御病間の窓から、後ろ姿をご覧になっただけでしょうに", "おまえには分るまい。――それが分る頃になると人間も、もはやこの通り寒巌枯木に近くなる", "でも、何か理由が", "ないこともない", "お聞かせ下さいませ。余五郎などには後学にも相成りましょう", "わしへ――この病人にさえ――今の侍は油断をせずに行った。それが偉いと思う", "父上が、こんな窓の中に、お在でになることを、知る筈はありませぬが", "いや、知っていた", "どうしてでしょう", "門をはいって来る時、そこで一足止めて、この家の構えと、明いている窓や明いていない窓や、庭の抜け道、その他、隈なく一目に彼は見てしまった。――それは少しも不自然なていではなく、むしろ慇懃にさえ見える身ごなしではいって来たが、わしは遥かにながめて、これは何者がやって来たかと驚いておったのじゃ", "では、今の侍は、そんな嗜みのふかい武士でしたか", "話したら、さだめし尽きぬ話ができよう。すぐ追いかけて、お呼びして来い", "でも、お体に障りはいたしませんか", "わしは、年来、そういう知己を待っていたのだ。わしの兵学は、子に伝えるため積んで来たのではない", "いつも、お父上の仰っしゃっておらるることです", "甲州流とはいうが、勘兵衛景憲の兵学は、ただ甲州武士の方程式陣法を弘めてきたのではない。信玄公、謙信公、信長公などが、覇を争っていた頃とは、第一時世がちがう。学問の使命も違う。――わしの兵学は、あくまで小幡勘兵衛流の――これから先、真の平和を築いてゆく兵学なのだ。――ああ、それを誰に伝えるか", "…………", "余五郎", "……はい", "そちに伝えたいのは山々だ。だけど、そちは今の武士と、面と対ってさえ、まだ相手の器量がわからぬほど未熟者じゃ", "面目のう存じます", "親のひいき目に見てすらその程度では――わしの兵学を伝えるよしもない。――むしろ他人の然るべき者に伝えて、そちの後事を託しておこう――と、わしはひそかにその人物を待っていたのじゃ。花が散ろうとする時は、必然に、花粉を風に託して、大地へこぼして散るようにな……", "……ち、父上、散らないでください。散らないように、御養生遊ばして", "ばかをいえ、ばかを申せ" ], [ "はやく行け", "はい", "失礼のないように、よくわしの旨を申しあげて、これへ、お連れ申して来るのじゃぞ", "はっ" ], [ "大先生の御病気はその後いかがでございますな。公務に追われて、ごぶさたを致しておりますが", "相変らずでございます", "なにせい、御老齢のことでもあるしの。……オオ時に、教頭の北条新蔵どのが、またしても、返り討ちにされたという噂ではござらぬか", "もうご承知ですか", "つい今朝方、藩邸で聞きましたが", "ゆうべのそれを――もう今朝細川家で", "佐々木小次郎は、藩の重臣、岩間角兵衛殿の邸に食客しておるので、その角兵衛どのが、早速、吹聴したものでござろう。若殿の忠利公すら、すでにご存知のようでござった" ], [ "おばさん、どうして、梅の実を漬けないのさ", "小人数だもの。あれだけ漬けるには、塩だって沢山いるだろ", "塩は腐らないけれど、梅の実は漬けとかないと腐っちまうじゃないか。小人数だって、戦争の時だの、洪水の時には、ふだんに要心しておかないと困るぜ。――おばさんは病人の世話で忙しいから、おらが漬け込んでやるよ", "まあ、この子は、大洪水の時のことまで考えているのかえ。子供みたいじゃないね" ], [ "どんな奴だった?", "無法者だよ", "半瓦の乾児か", "こないだの晩も、店へ押し襲けて来たろ。あんな風態さ", "猫みたいな奴らだ", "何を狙いに来るんだろ", "奥の怪我人へ、仕返しにやって来るのだ", "あ。北条さんか" ], [ "耕介どの。思わぬお世話に相成った", "どういたしまして。仕事があるのでつい行き届きませんで", "何かとお世話ばかりでなく、拙者を狙う半瓦の部屋の者が、絶えずこそこそ立ち廻るらしいな。長居するほど迷惑はかさむし、万一当家へあだをするようでは、この上にも申し訳がない", "そんなご斟酌は……", "いやそれに、この通り、体も恢復いたしたから、今日はもうお暇をしようと思う", "え、お帰りですって", "お礼には、後日改めてお伺いする", "ま……お待ち下さい。ちょうど今日は、武蔵様も外へ出ていらっしゃいますから、帰った上で", "武蔵どのにも、種々と手厚いお世話になったが、戻ったらよろしくいってくれい。――この通り歩行などにはもう少しも不自由はない程に", "でも、半瓦の家にいる無法者たちは、いつぞやの晩、菰の十郎と、お稚児の小六という者を、あなたのために斬り殺されたため、それを恨んで、あなたが一歩でも此家の軒下を出たら喧嘩をしかけようと、待ち構えておりまする。それで毎日毎夜、あの通りちょいちょい様子を覗きに来ておりますのに、それを承知で、お一人でここから帰すことはできませぬ", "何の、菰やお稚児を斬ったのは、こちらには、堂々と理由のあること。彼らのうらみは逆恨みじゃ。それを、事を構えて仕懸けて参れば――", "と、いっても、まだその体では心もとのうござりまする", "ご心配は忝いが大事はござらぬ。御家内はどこにおられるか。御家内へも礼を申して……" ], [ "久しく歩かれなかったから、ご大儀ではないか", "何か、こう、地面が高く見えるようで、足を踏み出すのに、蹌きまする", "無理もない。平河天神まではだいぶある。町駕が来たら、あなただけお乗りなさい" ], [ "申し遅れましたが、小幡兵学所へは帰りませぬ", "では、何処まで", "……面目ない気もいたしますが" ], [ "あ。駕へ乗せやがった", "こっちを見たぞ", "騒ぐな、まだ早い" ], [ "やいっ、待て", "野郎、待て", "待て", "待て" ], [ "部屋の兄弟分を二人まで叩っ斬られて、黙っていちゃあ、無法者の顔にさわる", "だが、北条どのにいわせれば、その前に、菰の十郎と稚児の小六とやらは、佐々木小次郎に手伝うて、小幡家の門人衆を、幾名も、闇打ちにしているというではないか", "それはそれ、これはこれ、おれたちの兄弟分がやられた時は、おれたちの手で仕返しせねば、無法者の飯を喰って、男でござると歩いていられねえのだ", "なるほど" ], [ "それは、おまえ達の住む世界ではそうだろう。だが、侍の世界は違う。――侍の中では、いわれのない意趣は立たぬ。逆恨みや亦恨みは、許されぬ。――侍は義を尊び、名分のために、復讐はゆるされているが、遺恨のための遺恨ばらしは、女々しい振舞いと笑うのだ。――たとえば、其方たちのような", "何、おれたちの振舞いが、女々しいと?", "佐々木小次郎を先に立て、侍として、名乗り来るなら分っておるが、手伝い人の騒ぎ立てを、相手に取るわけにはゆかぬ", "侍は侍のごたく。何とでもぬかせ。おれたちは無法者だ。無法者の顔を立てにゃあならぬ", "一ツの世間に、侍の仕方、無法者の仕方、二ツが立とうとすれば、ここばかりではない、街のいたる所に、血まみれが生じる。――これを裁くものは奉行所しかない。念仏とやら", "なんだ", "奉行所へ参ろう。そして是非を裁いて戴こう", "くそでもくらえ。奉行所へ行くくれえなら、初手からこんな手間ひまはかけねえ", "おぬし、年齢は幾歳だ", "何", "よい年齢して、若い者の先に立ち、好んで無益な人死にを見ようとするか", "つべこべと、理窟はおけ。こう見えても、太左衛門、喧嘩に年齢は取っていねえぞ" ], [ "やッちまえ", "老爺を打たすな" ], [ "弱虫", "口ほどもねえぞ", "恥を知れ", "それでも侍か", "よくも、部屋がしらの太左衛門を、お濠へ叩っこんだな。返せ、野郎", "もう武蔵も、相手だ", "ふたりとも、待てっ", "卑怯者め", "恥知らずめ", "駄ざむらいめ", "待たねえか" ], [ "お疲れだな", "い……いえ……さほどでもありませぬが", "彼らの罵詈に甘んじて、残念だと仰っしゃるのか", "…………", "はははは。落着いてから分って来ます。逃げるのも、時には、心地よいものだということが。……そこに流れがある。水で口でもお嗽ぎなさい。そしてお宿までお送りしよう" ] ]
底本:「宮本武蔵(五)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年12月11日第1刷発行    2002(平成14)年10月8日第36刷発行    「宮本武蔵(六)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年1月11日第1刷発行    2002(平成14)年12月5日第37刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年12月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "岡谷", "はあ", "そちの槍は、だいぶ上達ったそうだな", "上がりました", "自分で申すやつがあるか", "人がみな申すのに、自分だけ謙遜しているのは、かえって嘘をつくことになりますから", "ははは。しぶとい自慢よの。――どれほどな腕なみになったか、いずれみてやるぞ", "――で、はやく、御合戦の日が来ればよいと、祈っておりますが、なかなか参りませぬ", "参らずに、仕合せであろう", "若殿にはまだ、近頃のはやり歌を、ご存じありませぬな", "なんという歌か", "――鑓仕鑓仕は多けれど、岡谷五郎次は一の鑓", "うそを申せ" ], [ "あれは――名古谷山三は一の鑓――という歌であろうが", "ヤ。ご存じで", "それくらい" ], [ "その立て札の文言を、他人が写してゆくので、拙者も、おもしろいことと思うて、懐紙に写して参りました。――若殿、読みあげてみましょうか", "ウム、読んでみい", "これで――" ], [ "それきりか", "いや" ], [ "誰かと思うたら、ばば殿であったか。暑い日中を、よう見えたの", "ご挨拶は後。――洗足水をいただいて、足を浄めたいが", "そこに石井戸があるが、ここは高台なので、怖ろしく深いぞ。――漢。ばば殿が、墜ちると事だ。介添してやれ" ], [ "そうだ。辻々へ手分けして、建てておいたか", "二日がかりで、目抜きな場所へは、たいがい建てておきましたが、先生はごらんになりませんので", "わしは、見る要もない" ], [ "きょうもの、ここまで来る途中、その立札を見かけたが、札の建っている所には、街の衆がとり巻いて、くさぐさの噂ばなし。――よそ耳に聞いていても、胸がすいて、おもしろうござったわ", "あの立札を見ても、名乗って出ぬとすれば、武蔵の侍はもう廃れたも同じこと。天下の笑いぐさじゃ。ばば殿も、それでもう恨みは済んだとしてもよかろう", "なんの。いくら人が嗤おうと、恥を知らぬ面の皮には、痛くも痒くもあるまいに。――あのくらいなことでは、このばばの胸も晴れねば、一分も立ちませぬわえ", "ふふム……" ], [ "はははは。あれは、単なる噂にすぎない。寺の裏山などへもぐる盗賊なら、多寡の知れた小盗人か辻斬かせぎの牢人者であろう", "――でも、ここらは、東海道の街道口に当りますので、他国へ逃げ出す奴が、よく行きがけの駄賃という荒仕事をやりますので、夕方など、風態のわるい人間を見ると、その晩は、嫌な気もちがいたしまして", "変事があったら、すぐ駈けて来て、門をたたけ。うちの懸り人どのは、そういう折を待ってござるが、出会わないので、毎日、髀肉の嘆をもらしているくらいだ", "あ。佐々木様でございますか。あんな優姿でも、お腕はたいそうなものだと、この界隈の衆も、評判でござりまする" ], [ "きょうは、吉い事があるので、それをお聞かせしたいと存じてな", "ほ。……吉い事とは", "かねて、其許の身を、御推挙しておいたところ、だんだん殿にも其許の噂を耳にされ、近日、連れてこいということになったのじゃ。――いやもう、ここまで運ぶには、容易ではない。何しろ、家中の誰や彼から、推挙しておる人間もずいぶん多いからの" ], [ "いや何、其許のような器量人をお家に薦めるのも、御奉公の一ツじゃ", "そう過大にお買いくだされては困る。元より、禄は望まず、ただ細川家は、幽斎公、三斎公、そして御当主忠利公と、三代もつづく名主のお家。そうした藩に奉公してこそ、武士の働き場所と思うてお願いしてみたことでもあれば", "いやいや、身共は少しも、其許の吹聴はしないつもりだが、誰いうとなく、佐々木小次郎という名は、もう江戸表では隠れのないものになっておる", "こうして、毎日、懶惰にぶらぶらしている身が、どうして、そう有名になったものか" ], [ "べつに拙者が、出色しているわけではない。世間に似而非者が多いのでしょう", "忠利公には、いつでも召し連れいと仰せられたが……して、何日、藩邸までお出向き下さるの", "此方も、何日なと", "では、明日でも", "よろしかろう" ], [ "わしでは分らん。名をいえ。――寝こみを襲うなどとは、武士らしくもない卑怯者め", "小幡景憲の一子、余五郎景政じゃ", "余五郎!", "おお……よ、ようも", "ようも? 如何いたしたと申すのか", "父が病床にあるのを、よい事にして、世間に小幡の悪口をいいふらし", "待て。いいふらしたのは、わしではない。世間が世間へいいふらしたのだ", "門人どもへ、果し合いの誘いをかけ、返り討ちにしおったのは", "それは小次郎に違いない。――腕の差だ、実力の差だ。兵法の上では、こればかりは致し方ない", "いう、いうなっ。半瓦とか申す無法者に手伝わせ……", "それは二度目のこと", "何であろうと", "ええ、面倒な!" ], [ "恨むなら、いくらでも恨め、兵法の勝負に、意趣をふくむは、卑怯の上の卑怯者と、よけい、もの笑いを重ねるのみか――またしてもそちの一命まで、申しうけるが、それでも覚悟か", "…………", "覚悟で来たかっ" ], [ "仕官をするなれば、一応お目見得をすることは、どこにでもある例じゃから、何も、其許の恥辱にはなるまいが", "だが、御主人", "ふム", "もし、気に入らぬ、断るといわれたら、この小次郎は、もう古物になるではないか。小次郎はまだ、自分を商品のように売り歩くほど落ちぶれてはおり申さん", "わしのいい方が悪かったのだ。殿の仰せは、そういう意味あいではなかったが", "然らば、忠利公へ、どうお答えなさったの", "――いやまだ、べつにどうとお答えはしておらぬ。それで、殿には殿で、心待ちにしておられるらしい", "はははは。恩人のあなたを、そう困らせては相済まぬな", "こよいも、宿直の日じゃ。また、殿から何か訊かれるかも知れぬ。そうわしを困らせずに、ともあれ一度、藩邸へお顔を出してもらいたいが", "よろしい" ], [ "では、今日にも?", "左様、今日参ろうか", "そうして欲しい", "時刻は", "いつでもという仰せでござったが、午すこし過ぎならお弓場へ出ておられるから、窮屈でもなし、気も軽く、拝謁できるが", "承知した", "相違なく" ], [ "おぬしの小屋に、岩間殿の白馬が預けてあるそうだが、出してくれい", "お、これは" ], [ "良い馬じゃな", "はい。よいお馬でございまする", "行って来るぞ" ], [ "おやじ、これで、線香と花でも供げておいてくれ", "……へ? 誰方へ", "今の死人へ" ], [ "なんじゃ", "あれに、佐々木小次郎が参って御拝謁を待っております。おことばを戴きとうぞんじまする", "佐々木? ああそうか" ], [ "仔細、角兵衛から聞いておるが、生国は岩国と申すか", "御意にござります", "岩国の吉川広家公は英邁の聞えが高い。そちの父祖も、吉川家に随身の者か", "遠くは近江の佐々木が一族と聞いておりますなれど、室町殿滅亡後、母方の里へひそみました由で、吉川家の禄は喰んでおりませぬ" ], [ "侍奉公は、初めてか", "まだ主取は存じませぬ", "当家に望みがあるやに、角兵衛から聞いておるが、当家のどこがようて、望んだか", "死に場所として、死に心地の好さそうなお家と存じまして", "む、む" ], [ "武道は", "巌流と称します", "巌流?", "自身発明の兵法にござりまする", "でも、淵源があろうが", "富田五郎右衛門の富田流を習いました。また、郷里岩国の隠士で片山伯耆守久安なる老人から、片山の居合を授けられ、かたがた、岩国川の畔に出ては、燕を斬って、自得するところがございました", "ははあ、巌流とは――岩国川のその由縁から名づけたか", "御賢察のとおりです", "一見したいな" ], [ "はっ", "いつぞや、槍が太刀に勝る論議の出た折に、誰よりも、槍の説を取って退かなかったのは、そちであったな", "は", "よい折だ、かかってみい" ], [ "お望みにまかせる。しかし、それがしが真槍を把る以上、貴方も真剣を持っていただきたい", "いや、これでいい", "いや、ならぬ", "いや" ], [ "藩外の人間が、いやしくも他家の君前で、真剣を把るなどという無遠慮は、慎まねばなりますまいが", "でも" ], [ "ちと、やり過ぎましたかな? ――今日の御前では", "いや上乗でござったよ", "忠利公には、わしの帰った後で、何というておられたかな", "べつに", "何か、いわれたろうが", "何とも、仰せられずに、黙って、お座の間へお出でられた", "ふむ……" ], [ "おやじ、何ができるのか", "めし屋でござります。酒もございまするが", "どんじき――と看板に書いてあるが、あれは何の意味だな", "皆さまがお訊きになりますが、てまえにも分らないので", "おぬしが書いたのではないのか", "はい、ここでお休みなされた旅の御隠居らしいお人が、書いてやるといって、書いて下さいましたので", "そういえば、なるほど、達筆だな", "諸国を、御信心に歩いているお方だそうで、木曾でも、よほど豪家な金持の御主人とみえましてな、平河天神だの、氷川神社、また神田明神などへも、それぞれ莫大な御寄進をして、それが、無二の楽しみだと仰っしゃっている御奇特人でございまする", "ふム、何という者か、その人の名は", "奈良井の大蔵と仰っしゃいます", "聞いたようだな", "どんじき、などと、お書きくださって、なんの意味か、通じはしませぬが、そういう有徳なお方の看板でも出しておいたら、少しは貧乏神の魔除けになるかと思いましてな" ], [ "いえ。吐かせ", "そちの住居はどこだ" ], [ "こいつ、満ざら、ただの西瓜売りでもないぞ。浜田、油断するな", "何、多寡の知れた――" ], [ "何もそう面目ながらないでもいいじゃないか。――おいっ、又八", "はあ", "はあ、じゃあない、顔を上げろ。さてもその後は久しぶりだな", "あなたも、ご無事でしたか", "あたり前だ。――しかし、貴様は妙な商売をしておるじゃないか", "お恥かしゅうございます", "とにかく、西瓜を拾い集め――そうだ、あの、どんじき屋へでも、預けたらどうだ" ], [ "おやじ、ああしておいたから、其方に迷惑はかかるまい", "ありがとう存じまする", "あまり、有難くもないだろうが、死者の由縁の者が来たら、言伝てくれ。――逃げ隠れはせぬ、いつでも、御挨拶はうけるとな" ], [ "いけないのか", "……何しろ、ご案内申すような、家ではないので", "なあに、かまわぬ", "でも……" ], [ "この次にして下さい", "なぜじゃ", "すこし今日は、その" ], [ "ああそうか。然らば、折を見て、そちの方からわしの住居へ訪ねて来い。伊皿子坂の途中、岩間角兵衛どのの門内におる", "伺います。ぜひ近日", "あ……それはよいが、先頃、各所の辻に立ててあった高札を見たか。武蔵へ告げる半瓦の者どもが打った立札を", "見ました", "本位田のおばばも尋ねておるぞと、書いてあったろうが", "は。ありました", "なぜすぐに、老母をたずねて参らぬのじゃ", "この姿では", "ばかな。自分の母親に何の見得がある。何日、武蔵と出会わんとも限らぬではないか。その時、一子として、居合わせなかったら、一生の不覚だぞ。生涯の悔いをのこすことになるぞ" ], [ "どうだい、わしはもう上がるところだが、一浴びやっては", "有難うございますが、宅でもきょうは、朱実が沸かしたそうですから", "仲がいい", "そんなでもございません", "兄妹か、夫婦か、長屋の者もまだよく知らないが、一体どっちなんだね", "ヘヘヘヘ" ], [ "又八さん、加減を見てよ", "すこし、熱いな" ], [ "そうだろうな、西瓜なんぞ売るよりはまだ、井戸掘り人足になって日傭稼ぎしたほうが、楽だと思うが", "いつも、親方が、おすすめしてくれますが、井戸掘りになると、お城のなかへはいるんですから、滅多に、家へ帰れないでしょう", "そうさ。御作事方のお許しが出なくっちゃ、帰るわけにゆかねえな", "それじゃあ、朱実がいうには、淋しいから、やめてくれといいますんでね", "おい、のろけかい", "決して、あたし達は、そんな仲じゃございません", "そうめんでも奢りなよ", "――ア痛っ", "どうしたい", "頭の上から、青い柿が落ちて来やがったんで", "ははは。のろけるからよ" ], [ "道があるんだけれど、分らなくなっちまう", "さすがに、十郡にわたるという武蔵野の原は広いな", "どこまで行くんです", "どこか、住み心地のよさそうな所まで", "住むんですか、ここへ", "いいだろう", "…………" ], [ "さあ? どうだか", "秋になってみろ、これだけの空が澄み、これだけの野に露を持つ。……思うだに気が澄むではないか", "先生は、やっぱり、町の中はきらいなんだな", "いや、人中もおもしろいが、あのように、悪口の高札を辻々に立てられては、なんぼ武蔵が厚かましゅうても、町には居づらいではないか", "……だから、逃げて来たの", "ウむ", "くやしいな", "何をいうか、あれしきのこと", "だって、どこへ行っても、先生のことを誰もよくいわないんだもの。おいらは、くやしいや", "仕方がない", "仕方がなくないよ。悪口をいうやつを、みんな打ち懲らして、こっちから、文句のあるやつ出て来いと、札を立ててやりたいや", "いや、そんな、敵わぬ喧嘩はするものじゃない", "だって、先生なら、無法者が出て来たって、どんな奴が対って来たって、負けやしないよ", "負けるな", "どうして", "衆には負ける。十人の相手を打ち負かせば、百人の敵が殖え、百人の敵を追ううちには、千人の敵がかかってくる。どうして、敵うものか", "じゃあ、一生、人に嗤われているんですか", "わしにも、名には、潔癖がある。御先祖にもすまない。どうかして、嗤われる人間にはなりとうない。……だから、武蔵野の露にそれを捜しに来たのだ。どうしたら、もっと嗤われない人間になれるかと", "いくら歩いても、こんな所に、家はないでしょう。あれば、お百姓が住んでるし……また、お寺へでも行って、泊めてもらわなければ", "それもいいが、樹のある所へ行って、樹を伐り、竹を畳み、茅を葺いて、住むのもよいぞ", "また、法典ヶ原にいた時のように?", "いや、こんどは、百姓はせぬ。毎日、坐禅でもするかな。――伊織、おまえは書を読め、そしてみっしり太刀の稽古をつけてやろう" ], [ "伊織", "はいっ" ], [ "先生。なにか御用でございますか", "野末に大きな陽が落ちかけた。いつものように、木剣を把れ、稽古をつけてつかわそう", "はいっ" ], [ "…………", "…………" ], [ "…………", "…………" ], [ "眼を見ろ。……わしの眼をくわっと見るのだ", "…………" ], [ "…………", "眼。眼" ], [ "…………", "…………" ], [ "…………", "よし、これまで" ], [ "誰か来たな", "また、泊めてくれと、旅の人が迷って来たんでしょ", "行ってみろ", "はい" ], [ "先生", "旅人か", "違いました。お客様です", "……客?", "北条新蔵様が", "お。北条どのか", "野道から来ればよいのに、杉林の中に迷いこんで、やっと分ったんですって。馬を向うに繋いで、裏に待っておりますが", "この家には、裏も表もないが――此方がよかろう、お連れ申してこい", "はい" ], [ "ま。お掛け下さい", "いただきます", "よく分りましたな", "ここのお住居で", "されば。誰にも告げてないはずだが", "厨子野耕介から聞いて承知いたしました。過日、耕介とお約束の観音様がお出来とかで、伊織どのが、届けられたそうで……", "ははあ、ではその折、伊織がここの住所を喋舌ったとみえる。……いやべつに、武蔵もまだ、人を避けて閑居するなどという年齢ではありませぬが、七十五日も身を潜めていたら、うるさい噂も冷めようし、従ってまた、耕介などに禍いのかかる惧れもなくなろうかと思ったまでのことでござる", "お詫び申さねばなりませぬ" ], [ "みな、てまえのことからご迷惑を", "いや、お身のことは、枝葉に過ぎない。原因はもっと遠いところにあるのです。小次郎とこの武蔵との間に", "その佐々木小次郎のために、またしても、小幡老先生の御子息、余五郎どのが、殺害されました", "えっ、あの子息が", "返り討ちです。わたくしが仆れたと聞かれたので、一途に、彼奴を狙って、かえって落命なされたのでした", "……止めたのに" ], [ "しかし――御子息のお気もちも分るのです。門下はみな去り、かくいうてまえも仆れ、老先生も先頃病死なされました。――今は、というお気もちを抱いて、小次郎の家へ襲ってゆかれたものと察しられます", "うむ。……まだわしの止め方が足らなかった。……いや止めたのが、かえって、余五郎どのの壮気をあべこべに駆りたてたかも知れぬ。かえすがえすも惜しいことを", "――で、実はわたくしが、小幡家の跡を継がねばならぬことになりました。余五郎どののほかに老先生のお血筋もないので、すでに絶家となるところ、父安房守から柳生宗矩様へ実情を申しあげ、お骨折りで、師の家名だけは、養子の手続きを取って、残ることに相成りました。――しかし、未熟者のわたくしでは、かえって甲州流軍学の名家の名を、汚すようなものではないかと、それのみを惧れておりまする" ], [ "北条安房守どのと申せば、甲州流の小幡家と並んで、北条流の軍学の宗家ではありませぬか", "そうです、祖先は遠州に興りました。祖父は小田原の北条氏綱、氏康の二代に仕え、父は、大御所家康公に見出され、ちょうど三代、軍学をもって、続いて来ております", "その、軍学の家に生れた其許がどうして、小幡家の内弟子などになられていたのか", "父の安房守にも、門人はあり、将軍家へも、軍学を御進講しておりますが、子には、何も教えませぬ。他家へ行って、師事してこい、世間から苦労を先に習んで来い――と申すような風の父でありますゆえ" ], [ "珍しいお客が、其許のおやしきで拙者を待ちうけているから来い――という仰せかな?", "そうです。恐縮ながら、てまえがご案内いたしますほどに", "これから直ぐに?", "はい", "いったい、その客とは、誰方でござるか。武蔵にはとんと江戸には知己がないはずでござるが", "御幼少からよくご存知のお方でござります", "何、幼少から?" ], [ "お待ちうけでござります。どうぞそのまま", "――御免" ], [ "よう其許を知っている人だ。――偶然にも、二人が二人とも、よく知っておる", "では、客どのは、お二人とみえますな", "どちらも、わしとは親しい友達、実はきょう御城内で出会ったのじゃ、そしてここへ立寄られて、よも山の話のうちに、新蔵が挨拶に出たことから、其許のうわさが始まった。――すると、客のひとりの方が、遽かに、久し振りで会いたいという。また一方も、会わせて欲しいという" ], [ "よう、お察しじゃ。いかにも、きょう御城内で出会うたのは、その沢庵坊。おなつかしかろう", "その後は、実に久しく、お目にかかりませぬ" ], [ "母の喪に服すこと一年、まもなく旅へ出て、泉州の南宗寺へ身を寄せ、後には大徳寺へも参じ、また、光広卿などと共に、世の流転をよそに、歌行脚よし、茶三昧よし、思わず数年を暮して来たが近頃、岸和田の城主、小出右京進が下向に同道して、ぶらと、江戸の開けようを、ありのままいえば、見物に来たのじゃが……", "ほ、では、近頃のお下向でござりましたか", "右大臣家(秀忠)とは、大徳寺でも、二度ほど会うているし、大御所には、しばしば謁しておるが、つい江戸には、こん度が初めて。――して、お許には", "私もつい、この夏の初め頃から――", "だが、だいぶもう、関東でも、おぬしの名は、有名なものじゃの" ], [ "いや、安房どの。そこが軍学者のお許と、剣の武蔵どのとの差じゃな", "はて、その差とは", "いわば、智を基礎とする兵理の学問と、心を神髄とする剣法の道との、勘の相違でござりましょう。――理からいえば、こう誘う者は、こう来なくてはならぬはずという軍学――。それを、肉眼にも、肌にも触れぬうちに、察知して、未然に、危地から身を避ける剣の心機――", "心機とは", "禅機", "……では、沢庵どのでも、そうしたことがおわかりになるかの", "さあ、どうだか", "何にしても、恐れ入りました。わけて、世の常の者ならば、何か、殺気を感じたにしても、度を失うか、または、覚えのある腕のほどを、そこで見しょうという気になろうに――後へもどって、庭口から木履をはいてこれへお見えになった時は、実はこの安房も、胸がどきっと致しました", "…………" ], [ "初めて御意を得ます。作州の牢人、宮本武蔵と申す者、何分、この後は御指導を", "先頃、家臣木村助九郎から、お言伝ても承ったが、折わるく、国許の父が大患での", "石舟斎様には、その後の御容態、いかがにございまするか", "年齢が年齢でござれば、いつとも……" ], [ "どうしておりますやら、その後はとんと……", "とんと、知らんのか", "はい", "それは不憫。あれも、いつまで知らぬままにはしておけまい。其許としても" ], [ "ア。炭屋のおかみさんですか、どこで見かけましたか", "いつもと違って、美麗におめかししているので、何処へといったら、品川の親類までといっていたが", "え。品川へ", "あっちに、身寄りがあるのかえ" ], [ "あ。表の質屋の旦那でしたか", "朝はいいね、清々しくて", "ええ", "毎日、朝めし前には、こうして海辺をお徒歩いかね。養生にはいちばんいいからな", "どういたしまして、旦那のような御身分なら、歩くのも養生かもしれませんが……", "顔いろがよくないな", "へえ", "どうかしたのかい", "…………" ], [ "そうだ。いつか折があったらと思い思い、いい機もなく過ぎていたが、又さん、おまえ今日は、商いに行くのかい", "なんですか。行ったって行かなくたって、西瓜や梨を売っていたんじゃ、どうせ埒はあきやしません", "鱚を釣りに行かないか", "旦那――" ], [ "あっしゃあ、釣はきらいですが", "何さ、嫌いなら、釣らなくてもいい。――そこにあるのは家の持舟だが、ただ沖まで出てみるだけでも、気が晴れるぜ。棹ぐらいは突けるだろう", "へい", "まあおいでよ。おまえに、小千両も儲けさせてやろうという相談だ――。嫌かい" ], [ "旦那、あっしに、金を儲けさせてやるってえのは、一体どんなお話ですか", "まあ、悠りと……" ], [ "又さん、そこの釣竿を舷から出しておくといいな", "どう出しておくんで?", "釣をしていると見えるようにさ。――海の上だって、あの通り人目があらあな。用もない舟で、二人が首を突き合せていたら、疑われるだろうじゃないか", "こうですか", "む、む、それでいい……" ], [ "わしの肚をはなす前に、又八さんに訊くが、おまえの住んでいる長屋の衆などは、この奈良井屋をどう噂しているね?", "お宅のことですか", "そう", "質屋といえば、因業ときまっているが、奈良井屋さんは、よく貸してくれる。旦那の大蔵様は、苦労人でいらっしゃると……", "いや、そんな質屋稼業のことでなく、この奈良井屋の大蔵を", "よいお人だ、お慈悲ぶかい旦那だと、まったく、お世辞ではなく皆申しておりますが", "わしが、信心家だということは誰もいわないか", "さ、それだから、貧乏人を庇って下さるのだろうと、そのことは、ご奇特なことだと、いわない人はございません", "奉行所の町方などが、なにかわしについて、聞き歩いたようなこともないかね", "そんなことは……どういたしまして、あるわけがない", "はははは、つまらないことを訊くと思うだろうな。だが、実をいえば、この大蔵は、質業じゃない", "へ……?", "又八", "へえ", "金も小千両と纏まった大金となると、おまえの生涯にも、二度と、そんな運にぶつかるかどうかしれないぜ", "……多分、それやあ、そうでございましょうね", "つかまないか、ひとつ", "何をで?", "その大金の蔓を――だ", "ど、どうするんです", "おれに約束すればよい", "へ……へい", "するか", "します", "途中でことばを違えると首がないぞ。金は欲しかろうが、よく考えて返辞をしたがよい", "何を――いったい――やるんですか?", "井戸掘りだ。仕事は、造作もないこった", "じゃあ、江戸城の中の" ], [ "その通り――ちょうどおめえの隣家には、井戸掘り親方の運平が住んでいるし、その運平から、いつも井戸掘り人足になれとすすめられてもいるだろう。渡りに舟というものじゃねえか", "それだけでげすか。……井戸掘りに行きさえすれば、何かあっしに、大金の授かることがあるんでしょうか", "ま。……あわてるな、相談というなあ、それからだよ" ], [ "お……旦那で", "又八さんか。よく来てくんなすった。倉へ行こう" ], [ "隣の運平親方のところへ行ってみたかね", "へい", "で――どうしたい?", "承知してくれました", "いつ、お城へ入れてくれるというのか", "あさって、新規の人足が、十人ばかりまたはいるそうで、その時に、連れて行ってやろうといってくれました", "じゃあ、その方は、きまったんだな", "町名主と、町内の五人組の衆が、請判を捺してくれさえすればいいことになっております", "そうか。はははは。おれもこの春から、町名主のすすめで、強ってといわれて、その五人組のひとりになっているんだ。……そのほうは心配なし通るぜ", "へ。旦那も", "何を驚いた顔しているんだ", "べつに、驚いたわけじゃございませんが", "はははは、そうか、おれみたいな物騒な人間が町名主の下役をする、五人組衆にはいっているので呆れたというわけか。――金さえあれば、世間はおれみたいな人間でも、やれ奇特人の、慈悲ぶかいのと、こっちで嫌だといっても、そんな役付まで持ちこんで来るんだよ。――又さん、おめえも、金をつかむこったぜ", "へ、へい" ], [ "や、やります! だ、だから手付の金をおくんなさい", "お待ち" ], [ "入物を持っているか", "ございません", "これにでも巻いて、胴巻へしっかり抱いてゆくがいい" ], [ "何か、受取でも、書いて参りましょうか", "受取?" ], [ "可愛らしい正直者だのう、おめえは。受取はいい。間違ったら、そこに持っている首を抵当にもらいに行くばかりだ", "じゃあ、旦那、これでお暇を……", "待て待て。手付金だけ受取ったからいいやで、忘れるなよ、きのう海の上で、いいつけたことを", "覚えております", "御城内の西の丸裏御門の内――そこにある巨きな槐の樹の下だぞ", "鉄砲のことで?", "そうだ。近いうちに、埋けにやるからな", "え。誰が埋けにゆくんで" ], [ "まだ、ひき受けたものの、おめえも恟々しているだろうが、御城内へはいってから、半月も働いているまには、自然、肚もすわってくる", "自分も、それを頼りに思っていますが", "その肚が、ぐっと出来てから、うまく機会をつかむのだな", "へい", "それと、抜かりはあるめえが、今渡した金だ。仕遂げてしまう後までは、どこか人目にかからぬ所へ隠しておいて、手をつけちゃあならねえぞ。……とかく未然に事の破れるのはいつも金からだからの", "それも考えておりますから、ご心配には及びません。……ですが旦那、首尾よく仕遂げた後で、後金はやれねえなんて苦情は出やしますまいね", "ふ、ふ。……又さん、口幅ったいようだが、この奈良井屋の蔵には、金なんざ、千両箱であの通り重ねてある。眼の楽しみに眺めてゆくがいい" ], [ "いるのか", "誰じゃ", "半瓦の部屋のもんだよ。葛飾から野菜物がたくさん届いたから、ばば殿のところへも頒けてやれと親方が仰っしゃるんで、一背負い持って来た", "いつも、お心深いことのう、弥次兵衛どのによろしゅういって下されよ", "どこへ置こうか", "水口の流し元へ置いといて下され。後で仕舞うほどに" ], [ "あ。ばば殿", "なんじゃ", "夕方、若い男が、訪ねて来なかったかい", "灸点のお客か", "うんにゃ、そうでもねえ様子だったぜ、なんだか用ありげに、大工町の部屋へ来て、おばばの引っ越し先を教えてくれといって来たが", "幾歳ぐらいな男かの", "そうさ、二十七、八かな", "面ざしは", "どっちかといえば丸っこい――そう背は高くなかったな", "ふム……", "来なかったかい、そんな人は", "来ぬがの……", "ばば殿のことばと、訛もよく似ていたから、国者じゃねえかと思ったが。……じゃあ、お寝み" ], [ "たしかに、彼奴とみえたが", "いや船頭だった", "船頭か", "追いかけて来たところ、あの船へはいってしもうた", "でも、何ともしれぬぞ", "いや調べてみた。まったく別人なのだ", "はてな?" ], [ "夕方、大工町でちらと見かけて、確かに、この辺までは追いこんだものを。――逃足の早い奴", "どこへ失せたか" ], [ "や。又八と呼んでおるぞ", "老婆の声だが", "又八といえば、彼奴のことではないか", "そうだ" ], [ "おぬしらこそ、何者じゃ", "われわれか、われわれは小野家の門人。これにおるのは、浜田寅之助だ", "小野とは何じゃ", "将軍秀忠公の御師範、小野派一刀流の小野治郎右衛門様をしらぬのか", "しらぬ", "こいつ", "待て待て、それよりは、このばばと、又八の縁故を先に聞け", "わしは、又八の母じゃが、それがどうぞしたか", "では、おのれは、西瓜売りの又八の母か", "何をほざく。他国者と侮って、西瓜売りとはようもいやったの。美作国吉野郷竹山城のあるじ新免宗貫に仕えて郷地百貫、歴乎とした本位田家の子、わしはその母じゃぞ" ], [ "おい、面倒だ", "どうする?", "引っ舁げ", "人質か", "おふくろとあれば、取りに来ずにはいられまい" ], [ "居合のお稽古でございますか", "ばかをいえ" ], [ "こいつが、灯へ飛びついて来てうるさいから、手討にしたのだ", "ア、虫を" ], [ "寝床を敷きに来たのか", "いえ……つい申しおくれました。左様ではございません", "なんだ", "大工町の使いの者が、手紙をおいて帰って行きました", "手紙……どれ" ], [ "何処だ", "やっぱり、今、登って来た坂の途中ですぜ", "そんな屋敷があったかな", "将軍家の御指南と聞いていたんで、あっしゃあ、柳生様のような屋敷かとばかり思っていたら、さっき右側に見えた汚い古屋敷の土塀がそうなんでさ。――あそこは以前、何とかいう馬奉行がいた屋敷だと思ってたが", "そうだろう。柳生は一万一千五百石。小野家はただの三百石だからの", "そんなに違うんで", "腕はちがわないが、家柄がちがう。――柳生などはその点では、先祖が七分禄を取っているようなものだ", "ここです……" ], [ "晩までに、お杉ばばの身を受取って帰らなかったら、小次郎も骨になったと思え――と、弥次兵衛へ伝えておけ", "へい" ], [ "沼田。来たとは、佐々木小次郎がか?", "そうだ。今、門をはいって来た……。すぐ見えるぞここへ", "思いのほか、早くやって来たな。やはり、人質が利いたとみえる", "だが、どうする", "何が", "誰が出て、どう挨拶してやるかだ。充分、備えておらぬと、一人でここへやって来るほど剛胆な奴――不意に何をやり出すかもしれぬ", "道場の真ん中へ通して坐らせるがいい。挨拶はおれがする。各〻は周りにいて黙って控えておれ", "ウム。これだけいれば……" ], [ "……おい、荷十郎", "うむ?", "門をはいって来るところを確かに見たのか", "見た", "じゃあもう、これへ見えそうなものじゃないか", "来んなあ", "……遅すぎる", "はて", "人違いじゃなかったのか", "そんなことはない" ], [ "おう、何だ", "待っていても、佐々木小次郎は、こっちへは見えぬぞ", "おかしいな。でも、荷十郎がたった今、門内へ通って来たのを見たといっておるに", "ところが、彼は、お住居の方へ行ってしまって、どう奥へ刺を通じたものか、お座敷で、大先生と話しこんでいるのだ", "えっ。大先生と" ], [ "おい、ほんとか", "誰が、嘘をいう。――嘘だと思ったら、裏山の方へ廻って、庭ごしに、大先生のお書斎の次の客間をのぞいてみたまえ", "弱ったなあ" ], [ "ヤ、閉まっている", "何、開かない?" ], [ "うぬ", "お助太刀" ], [ "うっ――", "うごくな" ], [ "あちらにいるお若い客へ、おすすぎを上げて、元の座敷へ、お上げ申しておけ", "はい" ], [ "過去、自分の来た道を顧みてみると、師の弥五郎一刀斎様に仕えて、善鬼を仆した頃が、自分の剣が最高な冴えを示した時であり、この江戸表に、門戸をもって、将軍家の御師範の端に列し、世間から無敵一刀流とか、皀莢坂の小野衆とか、いわれ始めた頃はすでに、わし自身の剣としては、降りへ来ている頃だった", "…………" ], [ "――これは誰にもある人間の通有性だ。安息に伴うてくる初老の兆しだ。この間に、時代は移ってゆく。後輩は先輩を乗りこえてゆく。若い、次の者が新しい道を拓り開いてゆく。――それでいいのだ。世の中は転変の間に進んでいるから。――だが、剣法では、それを許さぬ。老いのない道が剣の道でなければならぬ", "…………", "たとえば、伊藤弥五郎先生。今はもう、生きて在すや否や、その御消息だにないが、小金ヶ原でわしが善鬼を斬った折、即座に、一刀流の印授をこの身にゆるし給い、入道して、そのまま山へはいられてしまわれた。そしてなお、剣、禅、生、死、の道を探って、大悟の峰に、分け登ろうと遊ばすお口吻が見えた。――それにひきかえて、この治郎右衛門忠明は、早くも、老いの兆しを現し、きょうのような敗れをとったこと、師弥五郎先生に対しても、なんの顔があろうか。……きょうまでのわしが生活などは、思わざるも甚だしいものであった" ], [ "敗れたと仰っしゃいますが、あのような若年者に、敗れる先生ではないことを、われわれは日頃から信じております。今日のことは、なにか、ご事情でもあったのではござりませぬか", "事情? ……" ], [ "かりそめにも、真剣と真剣との立合、その間に、なんで、微塵の情実など許そう。――若年者といわれたが、その若年者なるがために、わしは彼に負けたとは思わない、移っている時代に負けたと思うのだ", "と、とは申せ", "まあ待て" ], [ "わしは、若輩の佐々木殿に負けたということを、そう恨みには思わぬ。しかし、彼の如き新進が他から出ているのに、まだ小野の道場から一名の駿足も出ておらぬということは、ふかく恥じる。――これというのも、わが門下には、御譜代の幕士が多く、ややもすると、御威勢について思い上がり、いささかの修行をもって、すぐ無敵一刀流などと誇称して、よい気になっているせいと思う", "あいや、先生。お言葉中にはござりますが、決して、われわれとても、そのような驕慢怠惰にのみ日を暮しているわけでは――" ], [ "立て!", "はい", "立て", "は……", "寅之助、立たんかっ" ], [ "寅之助、おぬしを、今日限り、破門する。――将来、心を改め、修行を励み、兵法の旨にかなう人間となった時は、また、師弟として会う日もあろう。――去れっ", "せ、先生っ。理由を仰っしゃってください。拙者には、破門される覚えはございませぬが", "兵法の道を穿きちがえているゆえに、覚えがないと思うのであろう。――他日よく、胸に手を当てて考えてみれば分ってくる", "仰っしゃって下さい! 仰っしゃって下さい! 仰せなくば、寅之助、この席を去るわけには参りません" ], [ "卑怯――は武士の最も蔑む行為である。また、兵法の上でも固く誡めておる。卑怯の振舞ある時は破門に処す、というのはこの道場の鉄則であった。――然るに、浜田寅之助は、兄を討たれながらいたずらに日を過ごし、しかも当の佐々木小次郎には、雪辱をなそうともせず、又八とやらいう西瓜売り風情の男を仇とつけ廻し、その者の老母を人質に取って来て、この邸内に押しこめておくなどとは――いやしくも武士のすることといえようか", "いや、それも、小次郎をこれへ誘き寄せる手段でいたしたのです" ], [ "さ。それが卑怯と申すものじゃ。小次郎を討たんとするなら、なぜ自身、小次郎の住居へゆくなり、果し状をつけて、堂々と、名乗りかけんか", "……そ、それも、考えぬではござりませんでしたが", "考える? 何をその期に、猶予などを! ――衆を恃んで、佐々木どのをこれへ誘き寄せ、打たんとした卑劣は、お身の今いったことばで自白しておるではないか。――それにひきかえ、佐々木小次郎なる者の態度、見上げたものだと、わしは思う", "…………", "――単身わしの前へ来て、卑劣な弟子など、相手に取るに足らぬ。弟子の非行は師の非行、立ち合えとばかり、挑みかかった" ], [ "しかも、ああして、真剣と真剣とで、立ち向ってみた結果は、この治郎右衛門自身の中にも明らかに、恥ずべき非が見出された。わしはその非に対して慎んで降ったといった", "…………", "寅之助、これでもそちは、自身を省みて、恥なき兵法者と思うか", "……恐れ入りました", "去れ――", "去ります" ], [ "先生にも、御健勝に", "うむ……", "御一同にも" ], [ "先生", "……ウむ?", "遠くの方で、神楽囃子が聞えませんか――遠くの方で", "聞えるようでもあり、聞えないようでもあるが", "変だな。こんな大暴風雨の後に、神楽の音が聞えるなんて?", "…………" ], [ "先生。秩父の三峰神社って、そう遠くないんだってね", "ここからでは、幾らもあるまいな", "連れて行っておくんなさい。――お詣りに" ], [ "先生、どうするんです", "人の踏まない所へ埋けてあげるのだ", "だって、一つや二つじゃありませんよ", "橋の修繕いが出来る間の仕事にはちょうどよい。あるだけ拾い集めて――" ], [ "あの龍胆の花のあたりへ埋けておきなさい", "鍬がないのに", "その折れ刀で掘れ", "はい" ], [ "これでようございますか", "ム。石をのせておけ。それでよい。――よい供養になった", "先生、この辺に合戦のあったのは、何日頃のことなんでしょ", "忘れたか。おまえは書で読んでいるはずだがな", "忘れました", "太平記の中にある、元弘三年と正平七年の両度の合戦――新田義貞、義宗、義興などの一族と、足利尊氏の大軍とが、しのぎを削り合うた小手指ヶ原というのは、この辺りだ", "あ、小手指ヶ原の合戦のあった所か、そんなら何度も、先生の話を聞いているから知っています", "では" ], [ "その折、宗良親王が。――東の方に久しく侍りて、ひたすら武士の道にたずさわりつつ、征東将軍の宣旨など下されしも、思いのほかなるように覚えて詠み侍りし――と仰せられて、お詠みになった歌、伊織は憶えておるかな", "います" ], [ "そうだ、では。――同じ頃、武蔵の国に打ち越えて、小手指ヶ原という所に――という詞書の条にある、同じ親王のお歌は?", "……?", "忘れたな" ], [ "……でしょう。先生", "意味は", "わかってます", "どう? わかってるか", "いわなくたって、このお歌がわからなかったら、武士でも日本人でもないでしょ", "ウム。……だが伊織。それならお前はなぜ、白骨を持ったその手を、さも汚いように、先刻から忌っているのか", "だって白骨は、先生だっていい気持じゃないでしょ", "この古戦場の白骨は皆、宗良親王のお歌に泣いて、親王のお歌どおりに奮戦して死んだ人々だった。――そうした武士たちの――土中の白骨が、眼には見えぬが、今もなお、礎となっていればこそ、この国はこんなにも平和に、何千年の豊秋が護られているのではないか", "ア、そうですね", "たまたまの戦乱があっても、それはおとといの暴風雨のようなもので、国土そのものにはびくとも変化がない。それには、今生きている人々の力も大いにあるが、土中の白骨たちの恩も忘れては済むまいぞ" ], [ "何も、お辞儀はせんでもよい。心のうちに、今申したことさえ刻んでおれば", "……だけど" ], [ "十悪五逆の徒にも、仏の道では救いがある。即心即菩提――菩提に眼をひらけば、悪逆の徒も仏もこれを許し給うとある。――まして白骨となってしまえばもう", "じゃあ、忠臣も逆賊も、死ねば同じものになるんですか", "ちがう" ], [ "そう早合点してはならぬ。武士は名を尊ぶ。名を汚した武士には、末世末代、救いはない", "そんならなぜ仏様は、悪人も忠臣も、同じみたいなことをいうんですか", "人間の本性そのものは皆、もともと、同じ物なのだ。けれど、名利や慾望に眼がくらんで、逆徒となり、乱賊となるもある。――それも憎まず、仏が即心即仏をすすめ、菩提の眼をひらけよかしと、千万の経をもって説かれているが、それもこれも、生きているうちのこと。――死んでは救いの手にすがれぬ。死してはすべて空しかない", "ああそうか" ], [ "――だけど、武士は、そうじゃないでしょ。死んでも、空ではないでしょう", "どうして", "名が残るもの", "うむ!", "悪い名を残せば悪い名が、――いい名を残せばいい名が", "むむ", "白骨になってもね", "……けれど" ], [ "神楽か", "見に行きましょう", "ゆうべ見たから、わしはもういい。一人で行って来い", "だって、ゆうべは、二座しかやらなかったでしょ", "まあ、急がんでもいい。今夜は夜徹しあるというから" ], [ "今夜も、星が出てますよ", "そうか", "このお山の上に、何千人という人がきのうから登ってるから、雨が降っちゃあ可哀そうだ" ], [ "じゃ、行って見るかな", "ええ、行きましょう" ], [ "先生、何を見てるんです", "べつに、さしたることではないが――伊織、おまえは一人で神楽を見ておれ、ちと、用事を思い出したゆえ、わしは後から行く" ], [ "それならそれと、玄関ではっきりいわっしゃればよいに。――見れば、御牢人らしいが、素姓もよう知れぬ者に、寄進者のお身元など、滅多にいうて、ご迷惑がかかっては困る", "決して、左様なことは", "まあ、役僧がどういうか、聞いてみなされ" ], [ "お甲。……よく見つけたな", "やはり、あいつでしょう", "うむ。武蔵だ", "…………", "…………" ], [ "どうします", "どうかせねば", "折角、山へ上って来たのに", "そうだ、無事に帰しては、勿体ない" ], [ "藤次はいるか", "え。祭の酒に酔って、宵から店で寝ておりますが", "じゃあ、起しておけ", "あなたは", "何せい、おれは勤務のある体だ。――御宝蔵の見廻りや用事を済まして、後から行くとしよう", "じゃあ、宅の方へ", "む。おぬしの店へ" ], [ "おまえじゃないよ。うちの人のことを訊くのだよ", "あ。お旦那なら、眠ってござらっしゃります", "それ、ごらんな" ], [ "いくら祭だって、お酒も程々にしたがいい。――生命が危ないのも知らず、よく外で、刃物につまずかなかったね", "何", "油断をおしでないということさ", "何かあったのか", "武蔵が、この祭に来ているのを、おまえ、知っておいでかえ", "え。武蔵が", "ああ", "武蔵とは、あの宮本武蔵か", "そうさ。きのうから、別当の観音院へ来て泊っているんだよ", "ほ、ほんとか?" ], [ "そいつあ大変だ。お甲、てめえも店へ出ていないがいいぞ。野郎が、山を下りるまでは", "じゃあおまえは、武蔵と聞いて、隠れている気かえ", "また、和田峠の二の舞を、やるまでもねえだろう", "卑怯だね" ], [ "和田峠でもそうだが、武蔵とおまえは、京都で、吉岡とのいきさつ以来、恨みのかさなっている相手じゃないか。女のわたしでさえ、あいつのために、後ろ手に縛られて、住み馴れた小屋を焼き払われた時の口惜しさは、忘れてはいないよ", "だが……あの時は、手下も大勢いたが" ], [ "――おまえ一人では無理だろうが、この山には、武蔵にふかい遺恨のある人が、もう一人いるだろうじゃないか", "……?" ], [ "……そうか。じゃあ、梅軒さまの耳へもそのことは入れてあるのだな", "後で、御用がすんだら、ここへ来るといっていましたが", "諜し合せにか", "元よりでしょうね", "だが、相手が武蔵だ。こんどこそ、よほど巧くやらねえと……" ], [ "……誰だ?", "お客だとさ" ], [ "お、お越しで", "どうぞ、奥へ" ], [ "これだけか", "そうです", "何名?" ], [ "先生、どうしてだろ?", "何が", "明るくなったのに、お日様が見えないもの", "おまえの見ている方角は、西ではないか", "あ、そうか" ], [ "伊織", "はい", "この山には、おまえの親友がたくさんいるな", "どこにですか", "それ。あそこにも――" ], [ "いたろう。はははは", "何だあ……。だけど先生……猿は羨ましいなあ", "なぜ", "親がいるもの", "…………" ], [ "あの、いつか、先生に預けといた、革の巾着――お父っさんのお遺物の――あれを先生はまだ持っていてくれますか", "落しはせぬ", "中を、見て下さいましたか", "見ない", "あの中に、お神札の他に、書いた物もはいっているんですから、こん度、見てください", "ウむ", "あれを持っていた時分は、私にはまだ、難しい字は読めなかったけれど、今ならもう読めるかもしれません", "何かの時、おまえ自身で、開けてみるとよい" ], [ "ね、先生。そうでしょう", "そうだ" ], [ "――踏まれても、立つではないぞ", "…………" ], [ "かかれッ", "何してる!" ], [ "――忘れたか、おれを", "おおっ?" ], [ "――鈴鹿山の梅軒だな", "辻風典馬の弟よ", "あ。さては", "知らずに登ったのがてめえの運のつきだ。針の山、地獄の谷、亡兄の典馬が呼んでるから早く行け" ], [ "からたけ割り。――初めて見ました", "……?" ], [ "やっ……?", "わたくしです。――しばらくでござりました", "木曾の、夢想権之助どのではないか", "意外でございましょう", "意外だ", "三峰権現のおひきあわせだと私は思います。また、わたくしに導母の杖を授けてくれた亡き母の導きもあるでしょう", "……では、母御は", "亡くなりました" ], [ "女が逃げてったよ。――女が", "降りて来い、伊織", "杉林の向うを、まだもう一人、傷負の坊主が逃げて行く。追いかけないでもいいんですか", "もうよい" ], [ "――では、最初に物陰から鉄砲を撃った者を、打ち殺したのも、其許でござったか", "いや、私ではありません。――この杖です" ], [ "はやく来い", "嫌だ。嫌だ。――先生を、呼んで来てくれなければいやだ", "武蔵どのは、すぐお帰りになるにきまっている。――来なければ、置いて行ってしまうぞ" ], [ "おじさん。――さっき山にいた女のひとが、この家にいたぜ", "いる筈だ" ], [ "大きなお世話というものだよ。――それよりも、おい、若蔵", "ホ。何だ", "よくも今朝は、わたし達の裏を掻いて、武蔵へよけいな助太刀をおしだね。そして、わたしの亭主の藤次を打ち殺したね", "自業自得。しかたがないというものだろう", "覚えておいで", "どうする" ], [ "わたしが悪者なら、おまえたちは、平等坊の宝蔵破りをした大盗ッ人じゃないか。いえ、その大盗ッ人の手下じゃないか", "何" ], [ "盗賊だと", "白々しい", "もう一度、申してみろ", "わかるよ、今に", "いえっ" ], [ "ここだ。この中だ", "宝蔵破りの徒党が逃げこんでいる" ], [ "おじさん、武蔵野が遠くに見えて来たよ。だけど、先生はどうしたろうな。まだ役人に捕まっているかしら?", "ウむ……。秩父の獄舎に送られて、今頃はさぞ難儀な目に遭っておいでだろう", "権之助さん。先生を助けてあげることはできないの", "できるとも。むじつの罪だ", "どうか、先生を助けてあげてください。この通りおねがいします", "この権之助にとっても、武蔵様は、師と同様なお方。頼まれなくても、きっとお助けする考えでいるが――伊織さん", "え", "小さいおまえがいては足手まといだ、もうここまで来れば、武蔵野の草庵とやらへ、一人でも帰れるだろう", "あ。帰れることは帰れるけれど……", "じゃあ。一人で先に戻っておれ", "権之助さんは?", "おれは秩父の町へもどって、武蔵様のご様子をさぐり、もし、役人どもが理不尽にいつまでも先生を獄につないだまま、むじつの罪に墜し入れようとするならば、獄を破っても、お救いして来なければならない" ], [ "いや、貴さまもだいぶ、巧者になったな。さすがの大蔵も、漆桶までは気がつかなかった", "だんだんのお仕込みでございますから", "こいつ、皮肉なことをいう。もう四、五年も経ったら、今にこの大蔵のほうが、お前に顎で使われるようになるかもしれぬ", "それは当然そうなりましょうな。若い者は抑えても伸び、老いゆく者は、焦心っても焦心っても老いてゆくばかりで", "焦心っているとみえるかの。貴さまの眼から見ても", "お気のどくですが、老先を知って、やろうとなさっているお気もちが、傷ましく見えまする", "わしの心を観抜抜くほど、貴さまもいつの間にか、いい若い者になったものよな", "どれ、参りましょうか", "そうだ、足もとの暮れぬうちに", "縁起でもない。足もとはまだ十分に明るうございます", "はははは、貴さまは血気に似あわず、よく御幣をかつぐの", "そこはまだ、この道に日が浅いので、十分、舞台度胸がついていないせいでしょう。風の音にも、何となく、そわそわされてなりません", "自分の行為を、ただの盗賊と同じように考えるからだ。天下のためと思えば、怯む気などは起らぬものじゃ", "いつもいわれるお言葉なので、そう思ってみますものの、やはり盗みは盗みに相違ございません。どこやら後ろめたいものに襲われまする", "何の、意気地のない" ], [ "城太", "はい", "木曾の方へ、前ぶれの飛脚は出しておいたろうな", "手筈しておきました", "では、首塚の松へ、木曾の衆が来て、こよい待ち合せているわけだの", "そうです", "時刻は", "夜半といっておきましたから、これから参れば、ちょうどよい頃になりましょう" ], [ "おいおい、何処まで行くんだ。おいチビ、待たないか", "何か用?", "用は、そっちにあるんじゃないか。かくしてもだめだ。川越からおれを尾行て来たのだろう", "ううん" ], [ "おら、十二社の中野村まで帰るんだよ", "いいや、そうじゃない。たしかにおれを尾行て来たに違いない。いったい、誰に頼まれたかいえ", "知らないよ" ], [ "いわないか", "だって……だっておら……何も知らないんだもの", "こいつめ" ], [ "おのれは、役所の手先か誰かに頼まれたに違いあるまい、密偵だろう、いや密偵の子だろう", "じゃあ……おらが密偵の子に見えるなら……おまえは盗ッ人かい?", "何" ], [ "小僧っ", "…………", "翼がなければもう逃げられぬぞ。生命を助けてくれといえ。そしたら、助けてやらぬこともない", "…………" ], [ "見かけによらない強情なところは、感心なものだといっておこう。誰にたのまれて、おれの後を尾行たのか、それさえ白状したら生命は助けてやるがどうだ", "あかといえ", "何", "こう見えても、宮本武蔵の一の弟子、三沢伊織とはおいらの名だ。泥棒に生命乞いなどしたら、先生の名をよごすじゃないか。あかといえ。ばか" ], [ "よく聞け、宮本武蔵の一の弟子三沢伊織といったのだ。おどろいたか", "おどろいた" ], [ "おいっ、お師匠さまは、ご丈夫か。そして今は、どこにいらっしゃるのだ", "なんだと" ], [ "――お師匠さまだと。武蔵さまは、泥棒の弟子など持っていやしないぞ", "泥棒とは人聞きが悪い。この城太郎は、そんな悪心は持っていない", "エ。城太郎", "ほんとに、おまえが武蔵様の弟子なら、何かの折、噂に出たこともあるだろう。おれがまだ、おまえみたいに小さい頃、何年もおれは武蔵さまの側に侍いていたのだ", "嘘っ、嘘をいえ", "いや、ほんとだ", "そんなてにのるものか", "ほんとだというのに" ], [ "あ。……青木丹左衛門どのじゃないか", "おう、ではやはり、沢庵どのでございましたか。おお穴でもあればはいりたや。変り果てたこの身のすがた。宗彭どの、むかしの青木丹左と思って見てくださるな", "意外や、ここでお目にかかろうとは。――もう十年の前になるのう、あの七宝寺の頃からは", "それをいわれると、氷雨を浴びるように辛うござる。もう野末の白骨にひとしい丹左なれど、ただ子を思う闇にさまようて、生きながらえておりまする", "子ゆえにと? その子とは、そも何処にいて、どう暮しておるのか", "うわさに聞けば、そのむかしこの青木丹左が、讃甘の山に狩り立てた上、千年杉の梢に縛し上げて苦しめた――当時のたけぞう――その後宮本武蔵とよぶ人の弟子となって、この関東へ来ておるということなので", "なに、武蔵の弟子", "されば――そう聞いた時の慚愧――面目なさ――。どの面さげてその人の前にと、一時はもう子も忘れ、武蔵にもこの姿を見せまいと、深く怖じ恐れておりましたが、やはり会いとうて会いとうて……もう指折りかぞえれば城太郎もことし十八。その成人ぶりさえ一目見れば、死んでも心残りはないと、恥も意地も打ち捨てて、先頃からこの東路をさがし歩いているわけでございまする" ], [ "では、宝蔵破りの仕事は、おまえと大蔵の仕業には相違ないのじゃな", "はい" ], [ "じゃあ、やはり泥棒じゃないか", "いえ。……いえ、決して、ただの盗賊ではありません", "泥棒にふたいろも三いろもあるかの", "でも、われわれは、私慾を持ちませぬ。公民のために、ただ公財を動かすだけです", "わからんな" ], [ "然らば、おまえのやっている盗みの種類は、義賊というようなものなのか。支那の小説などによくあるな。剣侠とか、侠盗とかいう怪物が。つまりあれの亜流だろう", "その弁解をいたしますと、自然大蔵どのの秘密を喋舌ってしまうことになりますから、何といわれても、今は隠忍しておりまする", "はははは。かまにはかからんというわけだな", "ともあれ、お師匠さまを救うために、私は自首いたします。どうぞ、後で武蔵様へも、御坊からよろしくお取做しをねがいまする", "そんな取做しは沢庵にはできぬ。武蔵どのの身は元より冤罪の禍い、おぬしが行かいでも、解かれるにきまっておる。――それよりも、おぬしはもっと仏陀に直参して、倖い、この沢庵をお取次に、真心の底を御仏に自首してみる心にはなれぬか", "仏に?" ], [ "おぬしの口吻を聞いておれば、世のためとか、人のためとか、偉そうじゃが、さし当って、他人事よりはわが事じゃろ、おぬしの周りに、誰も不倖せな者は残っておらぬかの", "自己の一身など考えていては天下の大事はできませぬ", "青二才" ], [ "自己が基礎ではないか。いかなる業も自己の発顕じゃ。自己すら考えぬなどという人間が、他のために何ができる", "いや、わたくしは、自己の慾望などは考えないといったのです", "だまれ、おまえはおまえ自身が、人間としてまだ酢っぱい未熟者だということを弁えんか。世の中の端ものぞかぬやつが、世の中を分った顔して大それた大望などにうつつを抜かしているほど怖ろしいものはない。城太郎、おまえや大蔵のやっている仕事はたいがい読めた。もう訊かいでもいい――。阿呆な餓鬼じゃ、なりばかり大きくなっても心の育ちはさらに見えん。何を泣く、何がくやしい、洟でもちんとかむがよい" ], [ "どうしても、自首して出る気かの", "…………" ], [ "そんなに、犬死がしたいか。浅慮なやつだ", "犬死", "そうだ、おまえは、自分という下手人さえ名乗って出たら、武蔵どのを免してもらえると考えているじゃろうが、世の中はそんなに甘くはない。おまえがわしにいわなかったことも、役所へ出れば残らず泥を吐かねば役人は納得せぬ。武蔵は武蔵として、獄舎に置いたまま、おまえの身は一年でも二年でも、生かしておいて拷問にかける。――きまっていることだ!", "…………", "それでも、犬死でないと思うか。真に、師の冤罪を雪ごうと思うならば、まずおまえ自身から身を雪いで見せねばなるまい。――それを役所で拷問にかけられてしたがよいか、それとも、この沢庵に向ってしたがよいか", "…………", "沢庵は仏陀の一弟子、わしが訊いたとて、わしが裁くわけでも何でもない。弥陀のお胸に問うてみる、取次ぎをして進ぜるのみだ", "…………", "それも嫌ならもう一つ方法がある。計らずもわしはゆうべ、おまえの父、青木丹左衛門にここで出会うたのじゃ。いかなる仏縁やら、すぐその後で子のおぬしにまた会おうとは。……丹左の行く先はわしが知辺の江戸の寺、どうせ死ぬならその父に一目会ってから行くがよかろう。そしてわしの言葉の是か非かも、父に訊ねてみたがよい", "…………", "城太郎。おまえの前に、三つの道がある。わしが今いうた三つの方法じゃ。そのどれなと選ぶがよい" ], [ "はい、これ限りです", "よし" ], [ "一刻もはやくせぬと、そちの身ばかりか、親にも師にも、災難をかけることに相成ろうぞ。遠国へ奔れ、思いきって遠国へ。――それも甲州路から木曾路は避けて行くことじゃ。なぜならば、きょうの午下がりから先は、もうどの関所も厳しゅうなる", "お師匠様のお身はどうなりましょうか。わたくしのためにああなったと思うと、このまま他国へも", "その段は、沢庵がひきうけておく。二年なり三年なり余燼のさめた頃に、改めて、武蔵どのを訪ね、お詫びいたしたがよかろう。沢庵もその時にはとりなして進ぜる", "……では", "待て", "はい", "立ちがけに江戸に廻れ。麻布村の正受庵という禅刹に行けば、そちの父青木丹左が、ゆうべ先に行き着いておる", "はい", "これに大徳寺衆の印可がある。正受庵で笠や袈裟をもらいうけ、一時、そちも丹左も、僧体になって共に道中をいそぐがよい", "どうして、僧体にならなければいけませんか", "あきれたやつ。自身犯している罪をすら知らぬのか。徳川家の新将軍を狙撃し、その噪ぎに乗じて、大御所の在わす駿府にも火を放ち、一挙にこの関東を混乱に墜し入れて、事を為そうという浅慮者のお前は手先のひとりではないか。大きくいえば治安を乱す謀叛人のひとり。捕まれば縛り首は当りまえじゃろが", "…………", "行け、陽の高くならないうちに", "沢庵さま。もう一言うかがいます。徳川家を仆そうとする者はどうして謀叛人でしょうか。豊臣家を仆して天下を横奪する者は、なぜ謀叛人ではないでしょうか", "……知らん" ], [ "そう、江戸の奉行職は、何といわれたの", "町のですか", "されば、町奉行という職制が、新たに設けられておるが", "堀式部少輔様でした" ], [ "お気に障ったか。安房どのを父といわれたところを見れば、おぬしが当家の御子息じゃろが、先頃からこのばばが、いったい何度この門をくぐっておるかご存じかの。――五度や六度ではおざらぬぞよ。そのたびごとに留守じゃ。居留守と思うもむりではあるまいが", "何度、訪ねたかしらぬが、父はひとに会うのを好まぬほうだ。会わぬというのに、無理に来るほうがわるい", "ひとに会うのは好まぬと。片腹いたい仰せ言じゃの。ではなぜ、おぬしの父は人中に住んでおざるのじゃ" ], [ "これ、お息子よ。――今のように、物柔らかにいわれると、このばばも、つい大声したことが、面目のうなるが、それでは用向きを話すほどに、安房どのがお帰りなされたら、よう伝えてたもれよ", "承知した。して、父の耳へ入れたいとか、注意したいとかいうた用件とは", "ほかでもない。作州牢人の宮本武蔵がことじゃ", "ム。武蔵がどうしたか", "あれは十七歳の折、関ヶ原の戦に出て、徳川家に弓を引いた人間じゃ。しかも郷里には、数々の悪業をのこし、村では一人として、武蔵をよういう者はない。それに幾多の人を殺して、このばばにも仇と狙われて、諸国を逃げ廻っている悪い素姓の浮浪人", "ま、待て、婆", "いいえいの、まあ、聞いて賜も。そればかりではない。わしが伜の許嫁のお通、それをまあ手なずけたりしての、友だちの女房ともきまった女子をば誘拐して……", "ちょっと、ちょっと" ], [ "いったい、ばばの目的は何じゃ。武蔵の悪口をそうしていい歩くことか", "あほらしい。天下のお為を思うてじゃ", "武蔵を讒訴することが、なんで天下のお為になるか", "ならいでか" ], [ "――聞けば、当家の北条安房どのと、沢庵坊の推挙で、どうあの口巧い武蔵が取入ったやら、近いうちに、将軍家の御指南役のひとりに加えられるという噂じゃが", "誰に聞いたか、まだ御内定のことを", "小野の道場へ行った者から、確かに洩れ聞いておる", "だから、どうだと申すのか", "――武蔵という人間は、今もいうた通りな札つき者、そのような侍を、将軍家のお側へ出すさえ忌わしいのに、御指南役などとは、もってのほかとこの婆は申すのじゃ。将軍家の師範といえば、天下の師。おおまあ、武蔵などとは思うてもけがらわしい。身ぶるいが出ますわいの。……この身は、それを安房どのへ、お諫めに来たわけじゃ。分ったかの、お息子どの" ], [ "話の趣、よく分った。父へもその由、伝えておくであろう", "くれぐれもの" ], [ "おい、夕方の赤い富士山が見えるから来てみい", "あ。富士山" ], [ "野郎っ", "野郎っ", "野郎っ、待てっ" ], [ "こいつめ", "胸くそのわるい", "叩きのめせ" ], [ "曲尺を踏みつけやがったんです。曲尺はわっしどものたましいだ。お侍の腰の刀と同じでさ。そいつをこの野郎が", "ま。しずかに申せ", "これが、静かにできるものか。お武家が刀を土足でふまれたら、何となさいますえ", "わかった。――じゃが、将軍様には今し方作事場を一巡遊ばして、あれなるお休み所の丘に、只今床几をおすえ遊ばしておられるところだ。お目障りだ、ひかえろ", "……へい" ], [ "じゃあ、この野郎を、彼方へしょッ引いて行こう。こいつに水垢離とらせて、踏まれた曲尺に手をつかせて謝らせなくっちゃならねえ", "成敗は、此方らがする。おまえ達は、持場へ行って仕事にかかれ", "ひとの曲尺を踏みつけておきながら、気をつけろといえば、謝りもせず、口答えをしやがったんです。このままじゃ、仕事にかかれません", "分った、分った。きっと処分いたしてくれる" ], [ "顔をあげい", "……はい", "や。そちは、井戸掘りの者じゃないか", "……へ。そうです", "紅葉山下の作事場では、お書物蔵の工事と、西裏御門の壁塗りとで、左官、植木職、土工、大工などははいっておるが、井戸掘りは一名もいないはずだぞ", "そうでさ" ], [ "この井戸掘りめ、他人の仕事場へ、きのうも今日もうろつきに来やがって、あげくの果て、大事な曲尺を泥足で踏ンづけたりなどしやがったから、いきなり頬げたを一つくらわしてやったんです。すると、小生意気な口答えをしやがったので、仲間の者が、叩きのめせと、騒ぎ出したんで", "そんなことはどうでもよいが。……これ、井戸掘り、何の用があって、そちは用もない西丸裏御門のお作事場などをうろついておったのか" ], [ "来ないか", "…………", "お出でというに?" ], [ "へい、何か", "何かじゃないよ", "へ……?", "味噌小屋か漬物小屋かしらないが、そこをお開け", "その小屋には今、御不審の井戸掘りを押込めてございますが、何ぞお出しになる物でも", "寝ぼけていてはいけない。その押し込め人は、窓を破って脱出しているではないか。わしが捕まえて来てあげたのだ。虫籠へきりぎりすを入れるような訳には参らぬから、戸をお開けというのだよ", "あ。そいつが" ], [ "又八", "…………", "槐の下を掘ったら何が出たか?", "…………", "わしなら掘り出してみせる所じゃがのう。だが鉄砲ではないぞ。無から有をだ。空なる夢土から世の中の実相をだ", "……はい", "はい、というたところで、おぬしにはその実相も何も分っておるまいが。――まだ夢ごこちに違いない。どうせおぬしは嬰児のようなお人よし。噛んでふくめるように教えてやるほかはあるまいなあ。……これ、おぬしは今年幾歳になる", "二十八になりました", "武蔵と同年じゃなあ" ], [ "怖ろしいとは思わぬか。槐の木はおろか者の墓標になるところじゃった。おぬしは自分で自分の墓穴を掘っていた。もう首まで突っ込んでいたのだぞよ", "――たっ、たすけて下さい。沢庵さまっ" ], [ "眼、眼が……やっと醒めました。わたしは、奈良井の大蔵に騙されたんです", "いや、まだほんとに、眼がさめてはおるまい。奈良井の大蔵は、おぬしを騙したわけではない。慾張りで、お人よしで、気が小さくて、そのくせ並の者ではできぬ大胆なこともしかねない、天下一の愚か者を見つけたので、上手にそれを使おうとしたのだ", "わ、わかりました。自分の馬鹿が", "いったいおぬしは、あの奈良井の大蔵を、何者と思うて頼まれたか", "分りません。それは今になっても、分らない謎です", "あれも関ヶ原の敗北者の一人、石田治部とは刎頸の友だった大谷刑部の家中で、溝口信濃という人間じゃ", "げっ、では、お尋ね者の残党でしたか", "さもなくて、秀忠将軍の御寿命を窺うわけはあるまいが。今さら、驚くおぬしの頭脳がわしには分らんのう", "いえ、わたしにいったのは、ただ徳川家に怨みがある。徳川家の世になるより、豊臣の世になったほうが、万民のためになる。だから自分の怨みばかりでなく、世上のためだというような話で……", "そういう折、なぜおぬしは、その人間の底の底まで、じっと考えてみないのか。漠と聞いて、漠とのみこんでしまう。そして自分の墓穴でも掘る勇気をふるい出す。怖いのう。おぬしの勇気は", "ああ、どうしよう", "どうしようとは", "沢庵さま", "離せ。――いくらわしにしがみついてももう間にあわぬ", "で、でも、まだ将軍様へ、鉄砲を向けたわけではありませんからどうか、助けてください。生れ変って、きっと、きっと……", "いいや、鉄砲を埋けに来る者に途中で故障が起ったため、間に合わなかったというまでのことだ。大蔵の手にまるめられ、彼奴の怖ろしい策をうけて、あの城太郎が、秩父から無事に江戸へもどっていたら、その夜のうちにも槐の木の下に、鉄砲が埋け込まれてあったかも知れぬのだ", "え? 城太郎というのは。……もしや", "いいや、そんなことは、どうでもよい。ともあれおぬしが抱いた大逆の罪科は、法は勿論、神仏もゆるし給わぬところだ。助かろうなどとは考えるなよ", "では、では、どうしても", "あたりまえだ", "お慈悲ですッ" ], [ "このたびは、但馬どのも、おわかれぞと、覚悟のていに伺いました", "では、むずかしいのか" ], [ "かねて閣老衆にも計り、おゆるしも得ている儀にござりますが、安房どのからも野僧からも、御推挙申し上げておきました宮本武蔵、御師範へお取立てのことも伏してお願い申しておきまする", "うむ。そのことも聴きおいてある。かねて、細川家でも嘱目いたしていた人物とやら、柳生、小野もあるが、もう一家ぐらいは取立ておいてもよかろう" ], [ "歩けるか", "…………" ], [ "はい", "逃げてもだめだぞ", "…………" ], [ "なんでしょう", "お処刑さ", "ア。百叩きですか", "痛いだろうな", "痛いでしょうね", "まだ百には、半分もあるよ", "勘定していたんですか", "……ア。もう悲鳴も揚げなくなってしまった" ], [ "ご苦労でござった", "御大儀で" ], [ "…………", "…………" ], [ "…………", "…………" ], [ "又八さん……おまえ坊さんになったのかえ", "……いいのかしら?", "何が", "お処刑はこれでいいんだろうか。わたしたちはまだ斬られていない", "首なんか斬られてたまるものかね。床几に掛けたお役人が、ふたりへ言い渡したじゃないか", "何といって?", "江戸表から追放を申しつけると。冥途へ追放でなくってよかったね", "あっ。……じゃあ生命は" ], [ "父上もまだお退城りにならぬから、ずっと、御城内にお泊りとみえる。――そのうちにお帰りはきまっておるから、また、厩の馬とでも遊んでいるがよい", "じゃあ、あの馬、借りてもいい?", "いいとも" ], [ "何さ。何も、降りなくたっていいだろう。――後へ戻るとこだもの", "何でもいいから降りろ。つべこべいわずと", "嫌だっ", "いやだと" ], [ "童よ。おぬし、伊織とかいうたの。――いつぞやはこの婆に、ようも酷しいまねをしやったな", "…………", "これ" ], [ "武蔵は、よい弟子ばかり持つことわいな。おぬしも、その一人かよ。ホホホホホ", "な、なんだと……", "よいわ。武蔵のことは、このあいだ北条どのの息子にも、口の酢くなるほどいうたあげくじゃ", "お、おいらは、おまえなんかに用はないや。帰るんだ。帰るんだっ", "いいや、まだ用はすまぬ。――いったい今日は、誰の言附でわし達の後を尾行て来やったか", "だれが、てめえなどの、後に尾いてくるものか", "口ぎたない餓鬼よ、汝れの師匠は、そういう行儀を教えてか", "よけいなお世話だい", "その口から、泣きほざかぬがよいぞ、さあ来やい", "ど、どこへさ", "どこへでもよい", "帰るんだ、おらあ、帰るっ", "誰が――" ], [ "――今、ばば殿が、ああいうたが、その通りか。それに違いないか", "ううん、ち、ちがう", "どう違う?", "おらはただ、馬に乗って、野駆けに来たんだ。――後なんか尾けに来たんじゃないや", "そうだろう" ], [ "おいの。なんじゃ", "矢立をお持ちか", "矢立はあるが、墨つぼが乾いておる。なんぞ筆が要用かの", "武蔵へ、手紙を認めようと思って", "武蔵へと", "されば。辻々へ札を立てても、いっかと姿を見せぬし、また、住居もとんと知れぬ武蔵へ――折からこの伊織は、打ってつけな使いではあるまいか。江戸を去るにあたって、一書、彼の手に届けておくのだ", "何と書きなさる?", "文飾などはいらぬ。また、わしが豊前へ下ることも、人伝てに聞きおろう。要は、腕をみがいて汝も豊前へ下れというまでのことだ。生涯でもこちらは待つ。自信を得た日に来れ、というだけで意志は届こう", "そのような……" ], [ "――気の永いことは困る。作州の家へ帰っても、わしはまたすぐ旅に出るつもりじゃ。そしてこの両三年がうちには、きっと武蔵を討たねばならぬ", "わしにまかせておけ。おばばの望みも、わしと武蔵との事の序に仕果して進ぜるからそれでよかろう", "じゃが、なんせい、老る年齢じゃ。生きているうちに、間に合わねば……", "養生をなされ。長生きをして、わしが畢生の剣を持って、武蔵に誅を加える日を見るように" ], [ "小僧", "…………", "恐がらないでもよい。これを持って帰れ。そして中には大事な用向きが書いてあるから、きっと、師の武蔵へ手渡すのだぞ", "……?" ], [ "こん中に、何と書いてあるんだい、おじさん", "今、おばばへ話したような意味だ", "見てもいいかい", "封を切ってはならん", "でも、もしか先生に無礼なことでも書いてある手紙なら、おいらは、持って行かないぜ", "安心せい。無礼なことばなどは書いてない。かつての約束は忘れておるまいなということと、たとえ豊前に下るとも、必ず再会の日を期しておるということが書いてあるだけだ", "再会というのは、おじさんと先生と、会うことかい", "そうだ、生死の境に" ], [ "なんだ小僧。――ばかといったようだが、それきりか", "そ、それきりだいッ", "あはははは。おかしな奴だ。はやく行け", "大きなお世話だよ。見ていろ、きっと、この手紙は、先生に渡してやるから", "おお届けるのだ", "後で後悔するんだろ。おまえたちが、歯ぎしりしたって、先生が、負けるものか", "武蔵に似て、負けない口をきく小僧弟子だ。だが、涙をためて、師の肩持ちをするところは可憐しい。武蔵が死んだら、わしを頼って来い、庭掃きにつかってやる" ], [ "伊織。伊織ではないか", "おお、伊織だ" ], [ "おまえのか", "ああ", "誰のか知らぬが、入間川の近くに、うろついていたので、お体のつかれている武蔵様へ、天の与えと、拾っておすすめ申したのだ", "アア、野の神さまが、先生の迎えに、わざとそっちへ逃がしたんだね", "だが、おまえの馬というのもおかしいではないか。この鞍は、千石以上の侍のものだが", "北条様の厩の馬だもの" ], [ "伊織、ではそちは今日まで、安房どののおやしきにお世話になっていたのか", "はい。沢庵さまに連れられて――沢庵さまがいろといったんです", "草庵はどうなっている", "村の人たちがすっかり繕してくれました", "では、これから戻っても、雨露だけはしのげるな", "……先生", "うむ。なんじゃな", "瘠せた……どうしてそんなに瘠せたんですか", "牢舎の中で、坐禅をしていたからの", "その牢舎を、どうして出て来たんですか", "後で、権之助から、ゆるゆる聞くがよい。ひと口にいえば、天の御加護があったか、遽かにきのう無罪をいい渡されて、秩父の獄舎から放されたのじゃ" ], [ "伊織、もう心配すな。きのう川越の酒井家から、急使が来て、平あやまりに謝り、むじつのお疑いが晴れたわけだ", "じゃあきっと、沢庵さまが、将軍様に頼んだのかも知れないよ。沢庵さまはお城へ上がったきり、まだ北条様のおやしきへ帰らないから" ], [ "――あの、恐いおばばも、一緒にいましたよ", "おばばとは、本位田家のあの年よりか", "豊前へ行くんだって", "ほ……?", "細川家のお侍たちと一緒でね……詳しいことはその中に書いてあるでしょう。――先生も、油断しちゃだめですよ。しっかりして下さい" ], [ "馬にも、何かやったか", "ええ、飼糧をやりました", "あの駒を、明日は北条どののお邸へ、かえして来なければいけないぞ", "はい。夜が明けたら、行って参ります" ], [ "先生、先生。早く起きてごらんなさい。いつかみたいな――秩父の峰から拝んだ時みたいな――それはそれは大きなお陽さまが、きょうは、草の中から、地面を転がって来るように昇っていますよ。権之助さんも、起きて来て拝んだがいいよ", "おう" ], [ "仲間", "へい", "栗毛はゆうべ帰らなかったな", "馬よりは、あの子はいったい、何処へ行っちまったんでしょう", "伊織か", "いくら子供は風の子だって、まさか夜どおし、駆け歩いているわけでもないでしょうに", "心配はない。あれは、風の子というよりは、野の子だからな。ときどき、野原へ出てみたくなるに違いない" ], [ "若旦那さま。お友達の方が大勢して、あれへお越しなさいましたが", "友達が" ], [ "しばらく", "お揃いで", "ご健勝か", "この通りだ", "お怪我をなされたとうわさに聞いていたが", "何。さしたるほどではない。――早朝から諸兄おそろいで、何事か御用でも", "む、ちと" ], [ "相手はやはり、佐々木小次郎と聞きましたが", "そうだ" ], [ "きょうご相談に参ったのは、その佐々木小次郎についてでござるが……。亡師勘兵衛先生の御子息、余五郎どのを討ったのも、小次郎の仕業と、やっと昨日、知れましたぞ", "多分……とは思っていたが、何か、証拠があがりましたか", "余五郎どのの死骸が発見されたのは、例の芝伊皿子の寺の裏山でした。あれから吾々が、手を分けて詮議してみると、伊皿子坂の上には、細川家の重臣で岩間角兵衛という者が住まっており、その角兵衛の宅の離室に、佐々木小次郎が起居していたことが知れたのです", "……ム。では余五郎どのは、単身でその小次郎の所へ", "返り討ちにおなりなされたのです。死骸として、裏山の崖から発見された前日の夕方、花屋のおやじが、それらしいお姿を、附近で見かけたということで……かたがた、小次郎が手にかけて、崖へ死骸を蹴込んでおいたことは、もはや疑う余地もございません", "…………" ], [ "お聞き及びかも知れぬが、佐々木小次郎は、折も折、細川忠利公に抱えられ、すでに藩地へ向け旅立ったということだ。――遂に、吾々の師は憤死せられ、御子息は返り討ちにあい、しかも同門の多数も彼に蹂躙されたまま、彼が栄達の晴れの退府を、空しく見ていなければならないのか……", "新蔵どの、残念ではないか。小幡門下として、このままでは" ], [ "何せい拙者は、小次郎から受けた刀の傷痕が、この寒さに、まだしんしんと痛んでおる身。いわば恥多き敗者の一名だ。……さし当って、策もないが、各〻としては一体、どうなさろうというお考えか", "細川家へ談じ込もうと思うのです", "何と", "逐一、経緯を述べて、小次郎の身がらを吾々の手に渡してもらいたいと", "受け取って、どう召さる", "亡師と御子息の墓前に、彼奴の首を手向けます", "縄付で下さればよいが、細川家でもそうはいたすまい。われわれの手で討てる相手なら、今日までにも疾うに討てている。――また、細川家としても、武芸に長けたところを買って召抱えた佐々木小次郎。各〻から渡せといっても、かえって小次郎の武技に箔を付けるようなもので、そういう勇者なればなおさら、渡せぬと出るに違いない。いちど家臣とした以上、たとえ新規召抱えであろうと、おいそれと渡すような大名は、細川家ならずとも、何処の藩でもないと思うが", "さすれば、やむを得ぬ。最後の手段をとるばかりだ", "まだほかに手段があるのですか", "岩間角兵衛や小次郎の一行が立ったのはつい昨日のこと。追いかければ道中で行き着く。貴公を先頭にして、ここにいる六名、そのほか小幡門下の義心ある者を糾合して……", "旅先で討つといわれるのか", "そうです。新蔵どの、あなたも起ってください", "わしは嫌だ", "嫌だと", "嫌だ", "な、なぜです。聞けば貴公は、小幡家の名跡をついで、亡師の家名を再興すると、伝えられておる身なのに", "自分の敵とする人間のことは、誰しも、自分より優れていると思いたくないものだが、公平に、われと彼とを較べれば、剣に依っては、所詮われわれの手に仆せる敵ではない。たとえ同門を糾合して、何十人で襲おうとも、いよいよ恥の上塗りをするばかり", "では、指を咥えて", "いやこの新蔵にせよ、無念は一つだ。ただわしは、時期を待とうと思う", "気の永い" ], [ "おお帰ったか", "何を考えているの。え、喧嘩したのかい、おじさん", "なぜ", "だって今、おいらが帰って来ると、若い侍たちが、ぷんぷん怒って出て行ったもの。見損なったの、腰抜けだのって、門を振り顧って、悪口を叩いて行ったよ", "はははは。そのことか" ], [ "それよりは、まあ焚火にでもあたれ", "焚火なんかにあたれるものか。武蔵野から一息に飛ばして来たので、おいらの体は、この通り湯気が立っているよ", "元気だな。ゆうべは何処に寝たか", "ア。新蔵おじさん。――武蔵さまが戻って来たよ", "そうだそうだな", "なんだ。知ってるの", "沢庵どのがいわれた。多分もう秩父から放されて、戻っている頃だろうと", "沢庵さんは?", "奥に" ], [ "伊織", "え", "聞いたか", "なにを", "おまえの先生が出世なさる吉事だ。途方もない歓び事だ。まだ知るまいが", "何。何。教えてよ。先生が出世するって、どんなことさ", "将軍家御師範役の列に加わって一方の剣宗と仰がれる日が来たのだ", "えっ、ほんと", "欣しいか", "うれしいとも。じゃあもう一ぺん、馬を貸してくれないか", "どうするのだ", "先生の所へ報らせに行って来る", "それには及ばぬ。今日のうち正式に、閣老から武蔵先生へお召状がさがるはず。それを持って明日は、辰の口のお控え所まで参り、登城のおゆるしが出れば、即日、将軍家に拝謁することになろう。――だから、老中のお使いが見え次第に、わしがお迎えに行かねばならぬ", "じゃあ、先生が、こっちへ来るの", "うむ" ], [ "朝飯は食べたか", "ううん", "まだか。はやく食べて来い!" ], [ "余事であるが、聞けば、其許には武辺に似あわぬ風雅のたしなみもあるそうな。何ぞ、将軍家へお目にかけたいと思う。……俗人どもの中傷や陰口には、答える要もないが、かかる折、毀誉褒貶を超えて、たしなむ芸術に、己れの心操を無言に残しておくことは、少しも差しつかえなかろうし、高士の答えとわしは思うが", "…………" ], [ "いや、沙汰止みになった", "えっ……?", "よろこべ、権之助。今日になって、遽かにお取消しという沙汰", "はて。腑に落ちぬことで。一体どういうわけでございましょう", "問うに及ばん。理由など糺して何になろう。むしろ天意に謝していい", "でも", "其方まで、わしの栄達が、江戸城の門にばかりあると思うか", "…………", "――とはいえ、自分も一時は野心を抱いた。しかしわしの野望は、地位や禄ではない。烏滸がましいが、剣の心をもって、政道はならぬものか、剣の悟りを以て、安民の策は立たぬものか。――剣と人倫、剣と仏道、剣と芸術――あらゆるものを、一道と観じ来れば――剣の真髄は、政治の精神にも合致する。……それを信じた。それをやってみたかったゆえに、幕士となってやろうと思った", "何者かの、讒訴があったのか、残念でござりまする", "まだいうか。穿きちがえてくれるな。一時は、そんな考えも抱いたことは確かだが、その後になって――殊に今日は、豁然と、教えられた。わしの考えは、夢に近い", "いえ、そんなことはござりませぬ。よい政治は、高い剣の道と、その精神は一つとてまえも考えまする", "それは誤りはないが、それは理論で、実際でない。学者の部屋の真理は、世俗の中の真理とは必ずしも同一でない", "では、われわれが究めて行こうとする真理は、実際の世のためには役立ちませんか", "ばかな" ], [ "この国のあらん限り、世の相はどう変ろうと、剣の道――ますらおの精神の道が――無用な技事になり終ろうか", "……は", "だが深く思うと、政治の道は武のみが本ではない。文武二道の大円明の境こそ、無欠の政治があり、世を活かす大道の剣の極致があった。――だから、まだ乳くさいわしなどの夢は夢に過ぎず、もっと自身を、文武二天へ謙譲に仕えて研きをかけねばならぬ。――世を政治する前に、もっともっと、世から教えられて来ねば……" ], [ "権之助。大儀ながら、使いに行ってもらいたいが", "牛込の北条どののお邸へでございますか", "そうだ。委細、武蔵のこころは書中にある。沢庵どの、安房どのへ、そちからも宜しゅうお伝え申しあげてくれい" ], [ "いかなる理でございますか。改まって、伊織からお預かりの品までを、遽かにお返しあるとは", "誰とも離れて、武蔵はまた、しばらく山へ分け入りたい", "山ならば山へ、町ならば町の中へ、何処までも、弟子として、伊織も手前もお供いたす所存にござりますが", "永くとはいわぬ、両三年が間、伊織の身は、そちの手に頼む", "えっ。……ではまったく、隠遁の御意思で", "まさか――" ], [ "ともあれ、夜にかかりますゆえ急いで参ります", "ウム。拝借の駒、お厩へお返し申しておいてくれい。衣服は、武蔵が垢をつけたものゆえ、このまま頂戴いたしおくとな", "はい", "本来、辰の口より今日すぐに、安房どののお邸の方へ戻るべきなれど、この度のこと、お取止めの御諚あるからには、武蔵の身に、将軍家御不審あればこそである。将軍家に直仕召さるる安房どのへ、これ以上の御昵懇は、おためにもならぬことと思うて――わざと草庵へ帰って来た。……この儀は、書中には認めてないから、其方の口上にて、悪しからず伝えておいてくれるよう", "承知いたしました。……とにかく手前も、今宵のうちに、直ぐ戻って参りますから" ], [ "伊織。その姉なら、父三右衛門の筆らしいこの書付に書いてあるが", "書いてあっても、何のことか、おらにも、徳願寺のお住持でも分らないんです", "よく分っておる。この沢庵には……" ] ]
底本:「宮本武蔵(六)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年1月11日第1刷発行    2002(平成14)年12月5日第37刷発行    「宮本武蔵(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年1月11日第1刷発行    2002(平成14)年12月5日第37刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年12月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052401", "作品名": "宮本武蔵", "作品名読み": "みやもとむさし", "ソート用読み": "みやもとむさし", "副題": "07 二天の巻", "副題読み": "07 にてんのまき", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-02-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52401.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "宮本武蔵(七)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫20、講談社", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年1月11日", "入力に使用した版1": "2002(平成14)年12月5日第37刷", "校正に使用した版1": "2002(平成14)年12月5日第37刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "宮本武蔵(六)", "底本出版社名2": "吉川英治歴史時代文庫19、講談社", "底本初版発行年2": "1990(平成2)年1月11日", "入力に使用した版2": "2002(平成14)年12月5日第37刷", "校正に使用した版2": "2002(平成14)年12月5日第37刷", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52401_ruby_49790.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52401_49791.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "持仏堂でございます", "お。またそれへ", "御用ですか", "兵庫さまが、ちょっと、来て欲しいと申されまする", "はい" ], [ "オオ。お通どの、来てくれたか、わしの代りになって、ちょっと挨拶に出てもらいたいが", "どなたか……お客間に?", "先刻から通って、木村助九郎が挨拶に出ておるが、あの長談義には閉口なのだ。殊に、坊主と兵法の議論などは参るからな", "ではいつもの、宝蔵院様でいらっしゃいますか" ], [ "は、どうも……", "平常、お弱くおられるか", "御頑健な質でおられますが、久しく江戸表にござって、山国の冬を越されたのは、近年ないことなので、馴れぬ寒さがこたえたのかも知れませぬ", "頑健といえば、兵庫どのが、肥後の加藤清正公に見こまれて、高禄にて聘せられた折――お孫のために故人の石舟斎様が、おもしろい条件をつけられたそうですな", "はて。聞き及んでおりませぬが", "拙僧も、先師胤栄から聞いたのですが、肥後殿へここの大祖がいわるるには、孫奴は、殊のほか短慮者ゆえ、御奉公を過っても、三度まで死罪のお宥しをお含みおき下さるなら、差出しましょうといわれたそうな。……はははは、そのように、兵庫どのは、御短慮と見えるが、大祖にはよほどお可愛かったものとみえますな" ], [ "それは残念な。――実はお目にかかってお告げ申したい大事があるのだが", "何ぞ、てまえで足りる儀なればお伝え申しておきますが" ], [ "蕗の薹か", "そんなもんじゃねえよ。生き物だ", "生き物", "おらが、月ヶ瀬を通るたんびに美い声して啼く鶯がいるんで、眼をつけといて捕まえたんさ。お通さんにやろうと思って――", "そうだ。そちはいつも、荒木村からこれへ来るには、月ヶ瀬を越えて参るわけだな", "ああ、月ヶ瀬よか他に道はねえもの", "では訊くが……。あの辺に近ごろ、侍が沢山入り込んでおるか", "そんなでもねえが、いるこたあいるよ", "何をしているか", "小屋あ建って、住んで、寝てるよ", "柵のような物を築いておりはせぬか", "そんな事あねえな", "梅の樹など伐り仆したり、往来の者を調べたりしておるか", "樹を伐ったのは、小屋あ建てたり、雪解で流された橋を渡したり、薪にしたりしたんだろ。往来調べなんか、おらあ見たことねえが", "ふうむ……?" ], [ "その侍たちは藤堂藩の人数と聞いたが、然らば何のために、あんな所へ出張って屯しておるのか。荒木村などでの噂はどうだ?", "おじさん、そりゃあ違うよ", "どうちがう", "月ヶ瀬にいる侍たちは、奈良から追われた牢人ばっかしだよ。宇治からも奈良からも、お奉行に趁われて、住むとこがなくなったから、山ン中へ入って来たんさ", "牢人か", "そうだよ" ], [ "おじさん。お通さんはどこにいるね。お通さんに、鶯を上げたいんだけど", "奥だろう。――だが、こら丑之助。御城内を勝手に飛びあるいてはいかんぞ。貴様、百姓の子に似あわず、武芸好きだから、御道場を外から見ることだけは、特別にゆるしておくが", "じゃあ、呼んで来てくれないかなあ", "オ……。ちょうどよい。お庭口から彼方へ行くのは、それらしいぞ", "あっ。お通さんだ" ], [ "じゃあ、放しちまおうか", "ありがとう", "放したほうが、お通さんは、欣しいんだろ", "ええ。おまえが持って来てくれた気持は受けておきますから", "じゃあ、逃がしちまえ" ], [ "ごらん。――あんなに欣んで行ったでしょ", "鶯のことを、春告鳥ともいうんだってね", "おや。誰に教えてもらいました?", "そんなことぐらい、おらだって知ってらい", "オヤ。ごめん", "だからきっと、お通さんとこへ、何かいい便りがあるよ", "まあ! わたしにも春を告げて来るような、よい便りがあるというの。……ほんとに心待ちに待っていることがあるのだけれど" ], [ "お通さん、何処へ、何しに行くつもりだったんだい? もうここはお城の山だぜ", "余りお部屋にばかりおりますから、気を晴らしに、そこらの梅花を見に出たのです", "そんなら、月ヶ瀬へ行けばいいじゃないか。――お城の梅花なんか、つまらないや", "遠いでしょ", "すぐさ。一里だもの", "行ってみたい気もするけれど……", "行こう。――おらが薪を積んで来た牛が、この下に繋いであるから", "牛の背へ", "うん。おらが曳いて行くで" ], [ "黙って出て来てしまったけれど、陽の明るいうちには帰れますね", "帰れるとも。おらがまた、送って来るから", "だって、おまえは、荒木村へ戻るのでしょ", "一里ぐらい、何度往き来したって……" ], [ "丑之助さん。おまえ村から里へ来る時は、いつもここを通って来るの", "ああ", "荒木村からは、柳生へ出るよりも、上野の御城下へ出たほうが、何をするにも、近いんでしょ", "けれど、上野には、柳生様みたいな剣法のお屋敷がないものなあ", "剣法が好きかえ", "うん", "お百姓には、剣法はいらないじゃないか", "今は百姓だけど、以前は百姓じゃねえもの", "お侍", "そうだよ", "おまえも、お侍になる気?", "アア" ], [ "あんな者恐いのか", "恐かないけれど……", "奈良から追われた牢人だよ。この先へ行くと、山住居してたくさんいるぜ", "大勢?" ], [ "おれはこの女を、どこかで見た覚えがあるぜ。多分、京都だと思うが", "京都にはちがいあるまい。見るからに山里の女とはちがう", "町でちらと見ただけか、吉岡先生の道場で見たのか、覚えはないが、慥かに見たことはある女だ", "おぬし、吉岡道場などに、いたことがあるのか", "いたとも、関ヶ原の乱後、三年ほどはあそこの飯を喰っていたものだ" ], [ "われやあ、荒木村から出て来る、炭焼山の小僧じゃねえか", "そんなことが、用なのかい", "だまれ。用事は、汝れにあるわけじゃない。汝れは、さっさと帰る方へ帰れ", "いわれなくても、帰るさ。退いてくんな" ], [ "どうするのさ", "用のある人を借りて行くのだ", "どこへ", "何処だろうが、黙って、手綱をよこせ", "いけねえ!", "いけないと", "そうさ", "こいつ、恐いということを知らねえのか。何か、つべこべいうぞ" ], [ "何だと", "どうしたと" ], [ "うぬ", "餓鬼っ" ], [ "――待てっ", "待てえっ" ], [ "おお、誰か", "牛が狂うて行く", "助けてやれ。女子が可哀そうな" ], [ "ア。牛の角に突かれた", "あほう!" ], [ "ご苦労。書面の趣は、当方でも取調べたところ誤聞と相分って安心しておる程に、お案じないように――と、告げてくれい", "では、道ばたで失礼でございましたが、てまえはこれで" ], [ "おぬし、いつ頃から、宝蔵院の下郎に住みこんだか", "つい近頃の、新参でございます", "名は", "寅蔵といいまする", "はてな?" ], [ "将軍家御師範の小野治郎右衛門先生の高弟、浜田寅之助どのとはちがうかの?", "えっ", "それがしは、初めての御見だが、お城のうちに、薄々お顔を知った者があって、胤舜御坊の草履取は、小野治郎右衛門が高弟の浜田寅之助じゃが? ――どうもそうらしいが? ――と噂をしていたのをちらと承ったが", "……は", "お人ちがいか", "……実は" ], [ "ちと……念願の筋がござりまして、宝蔵院の下郎に住み込みましたなれど、師家の面目、また、自分の恥。……どうか御内分に", "いや何、さらさら御事情を伺おうなどとは存じも依らぬこと。……ただ日頃、もしやと思っていたので", "疾くお聞き及びと存じまするが、仔細あって、師の治郎右衛門は道場を捨てて山へ隠れました。その原因は、この寅之助の不つつかにあったことゆえ、自分も身を落し、薪を割り水を担うても、宝蔵院でひと修行せんものと、身許をかくして住み込んだわけ。――お恥かしゅう存じます", "佐々木小次郎とやらのために、小野先生が敗れたということは、その小次郎が吹聴しつつ、豊前へ下って参ったので、隠れもない天下の噂となっておるが、さては……師家の汚名を雪がんための御決心とみえる", "いずれ。……いずれまた" ], [ "助九郎は", "御城下へ出ております", "探しにか", "はい。般若野から、奈良まで見て来るといって出られましたが", "どうしたろう?" ], [ "丑之助は、見当りません。小者に訊くと、ゆうべのうち、あの闇夜を、月ヶ瀬を越えて荒木村へ帰ったということでございます", "……えっ。ゆうべのうち帰ってしまったと" ], [ "――兵庫様", "オ……。童か", "はい", "ゆうべ、帰ったのか", "おっ母が、案じますで", "月ヶ瀬を通って?", "はあ。あそこを越えずにゃ村へ行かれねえで", "恐くなかったか", "なんにも……", "今朝は", "けさも", "牢人どもに見つからずに来たか", "おかしいのだよ、兵庫様。山住居していた牢人どもは、きのう悪戯をした女子が、後で柳生様のお城にいるお女中と分って、きっとこの後では、柳生衆が押しかけて来ると騒いで、夜のうちに、みんな山越えして何処へか行ってしまったとさ", "ははは、そうか。……して、童。おまえは今朝、何しに来たな?", "おらかい" ], [ "ではきょうは、美味いとろろ汁が喰えるというものだな", "兵庫様も好きなら、またいくらでも掘って来るが", "はははは。そう気遣うには及ばん", "きょうは、お通様は", "今し方、江戸へ立った", "え。江戸へ。……じゃあ、きのう頼んでおいたこと、兵庫様にも木村様にも、話しておいてくれなかったかなあ", "何を頼んだのか", "お城の仲間に使ってもらいたいことを", "仲間奉公をするには、まだ小さい。大きくなったら召使ってやる。どうして奉公したいのか", "剣道が習いたいんだ", "ふム……", "教えて下さい。教えて下さい。おっ母が生きているうちに、上手になって見せなければ……", "習いたいというが、そちはもう誰かに習んでおるだろう", "木を相手にしたり、獣を撲ってみたり、独りで木刀を揮って見たりしているだけだ", "それでいい", "でも", "そのうちに、尋ねて来い。わしのいる所へ", "いる所って何処", "多分、名古屋に住むことになるだろう", "名古屋。尾張の名古屋か。おっ母が生きているうちは、そんな遠くへは行けない" ], [ "来い", "……?", "道場へ通れ。兵法家として一人前になれる質か、なれない質か、見てつかわす", "えっ?" ], [ "足を洗え", "はい" ], [ "童っ", "はいっ", "不埒な奴だ。この兵庫の肩を躍り越えたな", "? ……", "土民の分際で、狎れるにまかせて、不届きな仕方。――直れ。それへ坐れ" ], [ "手討ちにする。噪ぐと、これを浴びせるぞ", "あっ。おらを", "首を伸べろ", "……?", "兵法者が、第一に重んじるのは礼儀作法である。土百姓の童とはいえ、今の仕方は堪忍ならぬ", "……じゃあ、おらを、無礼討ちにし召さるというのけい", "そうだ" ], [ "今のはわしの戯れだ。なんでそちのような童を手討ちになどするものか", "え。今のは、冗戯なのけ", "もう、安心するがいい", "礼儀を重んじなければいけないといったくせに、その兵法者が、今みたいな冗戯をしてもいいのけい", "怒るな。おまえが、剣で立つほどな人間になれるかなれないか、試すためにいたしたのだから", "だって、おら、ほんとだと思った" ], [ "そちは先刻、誰にも剣術は習わぬといったが、嘘であろう。――最初、わしがわざと羽目板の際までおまえを追いつめたが、たいがいの大人でも、あのまま、板壁を背負って、参ったという所なのに、そちはバッとわしの肩を越えて跳ぼうとした。――あれは三年や四年木剣を持った者でも、できる技ではない", "でも……おいらは誰にも習ったことはないもの", "嘘だ" ], [ "アア。あるある。そういわれれば、おらにも、教えてくれたものがあったっけ", "誰だ", "人間じゃないんだ", "人でなければ、天狗か", "麻の実だよ", "何", "麻の実さ。あの鳥の餌にもやるだろ。あの麻の胚子さ", "ふしぎなことを申す奴。麻の実がどうしてそちの師か", "おらの村にゃいねえが、少し奥へ行くと、伊賀衆だの、甲賀衆だのっていう、忍者のやしきが幾らもあるで――その伊賀衆たちが、修行するのを見て、おらも真似して、修行したんだ", "ふウむ? ……麻の胚子でか", "あ、春先、麻の胚子を蒔くんだよ。すると、土から青い芽がそろって出て来るがな", "それをどうするのか", "跳ぶのさ――毎日毎日、麻の芽を跳ぶのが修行だよ。あたたかくなって、伸び出すと、麻ほど伸びの早いものはないだろ。それを朝に跳び、晩に跳びしてると――麻も一尺、二尺、三尺、四尺とぐんぐん伸びて行くから、怠けていたら、人間の勉強の方が負けて、しまいには跳び越えられないほど高くなってしまう……", "ほ! 貴様は、それをやったのか", "アア。おらあ、春から秋まで、去年もやったし、おととしも……", "道理で" ], [ "助九郎", "はっ", "まだお通は、いくらも道は捗どっておるまいな" ], [ "さ……。駒に乗っても、徒士供の付き添い、まだ二里とも参っておりますまい", "では、すぐ追い着こう。ちょっと行って参る", "あ。……何ぞにわかな御用でも", "されば、この書面に依れば、将軍家でお召抱えの件は、何か、武蔵どのの身状に御不審とやらで取止めになったとある", "え。お取止めに", "――とも知らずに、江戸の空へ、あのように欣んで立って行ったお通へ、聞かしとうもないが、聞かせずにも措かれまい", "では、手前が追いかけて参りましょう。その御書面を拝借して", "いや、わしが行く、……丑之助、急に用事ができたから、また参れよ", "はい", "時が来るまで、志を磨いておれ。よく母親に孝養をつくして" ], [ "だいぶ、人出だな", "されば、今日あたりは、奈良にも稀れな日和ですから", "遊山半分か", "ま。左様なもので" ], [ "もう済んだのかな?", "いや、食休みでございましょう", "なるほど、法師輩も、弁当をつこうておる。――法師も飯を喰うものとみえる" ], [ "助九郎", "は", "わしらも、何処かへ坐って、弁当でも解こうか。……だいぶ間がありそうだ", "お待ちください" ], [ "へい", "兵庫様に、白湯を一椀上げたいな", "じゃ、貰って来て上げようか。あそこの法師衆がいる溜りへ行って", "ム。もらって来い……だが、宝蔵院衆へ、柳生家の者が来ているということは、黙っておれよ" ], [ "うるさいからなあ。挨拶にでもやって来られると", "はい" ], [ "何奴だろ。誰かがきっと、持って行ったにちがいないよ", "まあいいよ。たかが莚一枚", "莚一枚でも、だまって持って行った心根が憎いもの", "…………" ], [ "そういったのが悪いか。汝から呼んだから、何だと訊いたんだ", "ひとの物を、黙って持って行けば、盗人だぞ", "盗人。――こいつめ、おらを盗人だといったな", "そうさ。おらの連れの人が、あそこへ置いた莚を黙って持って行ったじゃないか", "あの莚か。あの莚は、そこに落ちていたから持って来たんだ。なんだ莚の一枚ぐらい――", "一枚の莚でも、旅人の身にとれば、雨をしのいだり、夜の衾になる大事な物だ。返せ", "返してもいいが、いい方が癪に触るから返さねえ。盗人といった言葉を謝れば返してくれてやろ", "自分の物を取返すのに、謝るばかがあるものか。返さなければ腕にかけても取るぞ", "取ってみろ。荒木村の丑之助だぞ。汝ッちに、負けて堪るか", "生意気いうな――" ], [ "こう見えても、わしだって兵法者の弟子だぞ", "よし、後で彼方へ来い。周りに人がいると思って大口を叩いても、人中を離れたら立対えまい", "何を。その口を忘れるな", "きっと来るか", "何処へさ", "興福寺の塔の下まで来い。助太刀など連れずに来い", "いいとも", "おれが手を挙げたら、来るんだぞ。いいか覚えてろ" ], [ "胤舜の門下、陀雲", "お", "お相手に", "ござれ!" ], [ "山伏が出て来たようで", "されば。もう勝敗は見えたも同じだの", "南光坊が優っておりましょうか", "いや、多分、南光坊は試合うまいよ。試合えば、彼も至らぬ奴じゃ", "はて? ……左様でございましょうか" ], [ "人は人、拙僧は拙僧。――拙僧が槍は、いたずらに、諸人に勝たんためではおざらぬ。槍の中に法身を鍛錬しているこれは一つの仏行でござる。余人との試合は、好むところでおざらん", "……ははあ?" ], [ "どうだ、助九郎", "御明察の通りでしたな", "その筈だ" ], [ "何だ、助九郎", "丑之助の姿が見当りませんので――" ], [ "やい", "なんだ" ], [ "丑之助ではないか", "……あっ?", "どうした" ], [ "旅の者。――仔細は知らぬが、何でこのような童を、大人げもなく打ちのめそうといたすか", "異なお訊ね。その前にあれなる――塔の下に仆れている連れの者を御覧じ。その童のために、強かに打たれ、気も失うて苦しんでおる", "あの少年は、そちの連れの者か", "されば――" ], [ "その小童は、おてまえの召使でござるか", "召使ではないが、拙者の主人が目をかけておる丑之助という者。……これ丑之助。何であの旅の人の連れ衆を打ちすえたか" ], [ "いや、失礼いたした", "お互いです。手前こそご無礼を", "では、主人も彼処で待っておるゆえ、ここで御免――", "おさらば" ], [ "柳生の何処へ行かれるか", "柳生城をおたずね仕ります", "えっ、お城へ?" ], [ "泣くもんか。そら、泣いてなんかいないよ", "オヤ。山芋の蔓があるぜ。山芋掘る術知ってるか", "知ってらい。おらの故郷にだって、芋はあら", "掘り競しようか" ], [ "見るな、見るな。――知らん顔をしておれ", "だって、変だよ", "なぜ", "きのう柳生兵庫様達と、興福寺の前で別れた時から、間もなく、後になったり先になったり……", "いいじゃないか。人間みな、思い思いに歩いているのだから", "そんなら、宿屋なんか、べつな家へ泊ればいいのに、宿屋まで一つ所へ泊って", "いくら尾行られても、盗まれるほどな金も持っていないし、心配はない", "でも、命という物を持ってるから、空身とはいえないよ", "ははは。命の戸締りはわしもしている。伊織は確かかな", "おらだって" ], [ "おらは一度、江戸の柳生様のお邸へ使いに行って、夜半に途に迷ってた時、そのお通様っていう人に会ってるもの。――あの時姉さんだと分っていたら、もっとよく見ておくんだったけれど、今じゃ思い出せなくなっちまった。……そう思ってたら、今、僧正さんがお経を上げているうち、掌を合してると、大日様が姉さんの顔になったんだよ。ほんとに、何かおらへいったような顔をしたよ", "……ふうむ" ], [ "わしは家にいても、働きつけておるせいか、つかれもせぬが、そなたこそ肥えてはいやるし、このようなことはしつけぬゆえ、土に手が荒れたであろう", "はい。仰っしゃる通り、一日箒を持っていたので、掌にまめができました", "ホ、ホ、ホ、ホ。……よい土産のう", "けれどお蔭で、きょう一日は、何ともいえぬ清々しい心で送りました。私たち母子の貧しい御奉仕も、天地の御心にかなったしるしでございましょう", "いずれ、こよいももう一夜、御本房に泊めていただくのじゃから、後はあしたにして、そろそろ戻りましょうかの", "暗くなりかけました。足もとをお気をつけなさいまし……" ], [ "はい。母の供養にと詣でましたが、あまり静かな夕暮なので、何か、空虚になっておりました", "それはそれは御孝心な" ], [ "おことばの様子では、御兄弟でもないようじゃの。関東のお方らしいが、旅の道を、どこまでお越しなされるのか", "果てない道を、果てなく旅しておりまする。お察しの通り、ふたりは肉親ではござりませぬが、剣の道においては、年はちがいまするが兄弟弟子の仲でござります", "剣をお習いなされますか", "はい", "それは一方ならぬ御修行。師のお方は、どなたかの", "宮本武蔵と仰っしゃいます", "え。……武蔵どの?", "ご存じですか" ], [ "いや、ここの御山が、そういう尊い戦の址とは、はじめて承知しました。知らぬことといいながら、先ほどは、卒爾なおたずねを致しおゆるし下さい", "いいや、もう……" ], [ "実をいえば、手前こそ人恋しくいたところで、きょうもきのうも胸に鬱していたものを、誰かに語りたくてならなかった折なのです", "また、つまらぬお訊ねをして、お笑いを受けるかも知れませぬが、光悦どのには、もうこの寺に永くご逗留でございますか", "されば、今度は、七日ばかりになりまする", "やはり御信仰で", "いえ、母がこのあたりの旅が好きなのと、自分もこの寺に参ると、奈良、鎌倉以後の、画やら仏像やら漆器やら、いろいろ名匠の作品を見せていただけるので……" ], [ "――ですが明日の朝はもう立とうと存じます。武蔵どのにお会いになったら、どうぞまいちど、京の本阿弥の辻へ立ち寄ってくださるようお伝えおきを", "承知いたしました。では、ごきげんよう", "オ。おやすみ……" ], [ "だれだっ。卑怯だっ。名を申せ。さもなくば、この夢想権之助へ、何の意趣で打ってかかるか、理由をいえ", "…………" ], [ "おぬし、何屋じゃな", "てまえは、打紐の売子でございます。この荷の中に――" ], [ "組紐の見本を持ちまして、近国遠国を注文を取って歩いておりますもので", "ははあ、紐屋か", "藤六どんの手づるで、金剛寺のお檀家なども、たくさんお世話していただきましてな。きのうも実は、例に依って、藤六どんの家へ泊めて貰うつもりでお寄りしました所が――こん夜はよんどころないお客が二人あるから、御近所の家で厄介になってくれと申され、同じ杜氏長屋の一軒で寝かして貰いましたわけで。……いえいえべつに貴方方のせいじゃございませんが、藤六どんとこへ泊ると、いつもよい酒をのませて貰えるので、寝るより実は、それが楽しみなんで……。はははは" ], [ "――今朝立つ時誘ってくれるというで、天野村の口で待っていたに、何で黙って行っちまうだ", "アア源助か。……いや、すまないすまない。藤六どんとこのお客と連れになったもんで、うっかり声をかけるの忘れちもうた。ははは" ], [ "旦那、ちょっとお待ちなさいまし。ここの丸木橋が壊れていて、ぐらつきますで", "崖崩れか", "それ程でもありませんが、雪解に石ころが落ち込んだまま、直してもないのでさ。往来人のため、ちょっと、動かないようにしますから、少し休んでいてください" ], [ "あッ?", "きゃっ!" ], [ "程の知れた汝らの路銀などに目をくるる徒輩と思うか。さような浅い眼では、敵地へ隠密に来る資格はないぞ", "なにっ、隠密だと", "関東者っ" ], [ "谷へ、その棒を捨てろ。次に腰の大小を捨てろ。そして両手を後ろへまわし、おとなしく縄目にかかってわれわれの住居までついて来い", "――ああ" ], [ "待て、待てっ。今の一言で初めて解けた。――何かの間違い事だろう。わしは関東から来た者に相違ないが、決して、隠密などではない。夢想流の一杖を一道として、諸国を修行しあるく夢想権之助という者", "いうな、くどくどとそんないい抜け。どこに、自分は隠密なりと名のって歩く隠密があろうか", "いや、まったく", "耳は仮さん。この期になって", "では、あくまでも", "ひッ縛った上で、訊くことは訊く", "益もない殺生したくない。もう一言申せ。何でわしが隠密か、その理由を", "怪しげなる男、童子一名つれて、江戸城の軍学家北条安房の密命をうけて上方へ潜行す――と、関東の味方の者から疾く通牒のあったことだ。しかもここへ来る前、柳生兵庫や家臣の者とも、忍びやかに諜し合せて来たことまで見届けてある", "すべて、根から間違いだ", "有無はいわさん。行く先へ行ってから、いくらでも申せ", "打く先とは?", "行けばわかる", "わしの意志だ。行かなかったら……?" ], [ "それがいい", "この先の天見村まで行けば" ], [ "縫殿介", "はあ", "……無常だなあ" ], [ "――見たか。織田信長公のお墓、明智光秀どののお墓、また石田三成どのや、金吾中納言様や、苔むした古い石には、源家の人々から平家の輩まで。……ああ数知れぬ苔の人間が", "ここでは、敵も味方もございませぬな", "一様に皆、寂たる一つの石でしかない。さしもの上杉、武田の名も夢のような", "変な気がいたしまする", "どういう心地がするの?", "何だか、世間のことがすべて、ありえない嘘のような", "ここが嘘か。世間が嘘か", "わかりません", "誰がつけたか、奥の院と外院との、ここの境を、迷悟の橋とは", "うまくつけましたな", "迷いも実。悟りも真。わしはそう思う。嘘と観たら、この世はないからな。――いや御主君に一命をさし上げている侍奉公の身には、かりそめにも虚無観があってはなるまい。わしの禅は、ゆえに、活禅だ。娑婆禅だ、地獄禅だ。無常におののき、世を厭う心があって、侍の奉公が成ろうか" ], [ "もし、間違いましたら、おゆるし下さいまし。道の辺で失礼にございますが、尊台はもしや、豊前小倉よりお越しの、細川忠利公の老臣長岡佐渡様ではござりますまいか", "え。わしを佐渡と――" ], [ "かような所で、ご存じの其許は、いったい誰じゃ。――わしはその長岡佐渡にちがいないが", "ではやはり、佐渡様でございましたか。申しおくれましたが、わたくしは、この麓の九度山に住居しておる隠士月叟の一子、大助めにござります", "月叟。……はて?" ], [ "もはや父が、疾くに捨て去りました名にござりますが、関ヶ原の戦いまでは、真田左衛門佐と名乗りおりました者で", "やあ?" ], [ "では真田殿――あの幸村殿のことか", "はい", "其許は御子息か", "はい……" ], [ "けさほど、父の住居へ、ふと立寄りました青巌寺の坊さまのおうわさに、ご登山のよしを知り、ご微行とは伺いましたなれど、他ならぬお方のたまたまなご通過――それに道とてもこの麓のお通りがかり、何も、おもてなしはござりませぬが柴の門べで、粗茶一ぷく、さし上げたいと父が申しまする。そのためお迎えに参じましたので――", "ほ。それはそれは" ], [ "では、ご厄介に相なろう。泊めていただくか否かは、その時として。――のう縫、ともあれ、お茶をひとつ", "はい。お供いたしましょう" ], [ "御主人、忠利公には、おつつがもなく、先頃は江戸表より御帰国とのこと。よそながら祝着のいたりと存じおりました", "されば、今年はちょうど、忠利様の祖父の君にあたる幽斎公さまが、三条車町の御別邸でおかくれ遊ばしてより三年の忌のお迎えと相成るので", "もうそうなりまするか", "かたがた御帰国。この佐渡も、幽斎公、三斎公、ただ今の忠利公と――三代の君にお仕えもうす骨董物となりおってござる" ], [ "あの頃はよく、暴れ者が、角を撓めるために、愚堂和尚の室にあつまりましたなあ。和尚もまた、諸侯と牢人、長者と若輩のさべつなく、相手になってくだされた", "わけて世の牢人と、若い者を愛された。――和尚がよくいったことでおざった。――浮浪の徒は、あれは浪人じゃ。真の牢人とは、心に牢愁のなやみを抱き、意志の牢固な節操をもった者じゃ。……真の牢人は名利を求めず、権に媚びず、世に臨んでは、政治を私に曲げず、義にのぞんでは私心なく、白雲のごとく身は縹渺、雨のごとく行動は急、そして貧に自楽することを知って、的を得ざるも不平を病まずなどと……", "よう御記憶ですな", "だが、そうした真の牢人は、蒼海の珠のように少ないともよく嘆かれておった。しかしまた、かつての史を閲すれば、国難の大事に当って、私心なく、身を救国の捨て草にした無名の牢人は、どれほどあるか知れぬ。じゃに依って、この国の土中には、無数の名なき牢人の白骨が、国柱となっておるが……さて、今の牢人は如何に、などとも仰っしゃった" ], [ "武蔵のことじゃないかな", "そうそう。宮本武蔵。――武蔵と申しました", "それがどうしたので", "当時まだ二十歳に満たない年少でしたがどこか重厚な風があり、いつも垢汚れた服装して愚堂和尚の禅室の端に来ておりましたが", "ほ。あの武蔵がの", "では、お覚えでございましたかな", "いや、いや" ], [ "てまえが心に止めたのは、つい近年で――それも江戸在府中のこと", "江戸におりますか今は", "実は、御主命もあって、それとなく尋ねてはおるが、どうも居所が知れぬのでおざる", "あれは見所がある。あれの禅は物になろうと、愚堂和尚が申されたことがあるので、それとなく、私も見ておりましたが、そのうち忽然と去ってから幾年もなく――一乗寺下り松の試合に、彼の名を、うわさに伝え聞き、やはり和尚のお眼はたしかなものと、思い合せていましたが", "てまえはまた、そういう武名とは異なって、江戸在府のころ、下総の法典ヶ原と申す土地で、土民を育成し、荒蕪の地を開墾しておるめずらしい心がけの牢人があると耳にして、会ってみたいと、探してみたところ、もう土地におらぬ。――それが後で聞けば、宮本武蔵という者と聞き、いまだに心に留めているのでおざる", "何せい、私の知るうちでは、あの漢などが、和尚の申す、真の牢人。いわゆる蒼海の珠だったかもしれませぬ", "主殿も、そう思われるか", "愚堂和尚のお噂に、ふと思い起したのですが、どこか心の隅に残るだけのものはある漢でしょう", "実はその後、手前から主君忠利公に御推挙はしてあるのじゃが、蒼海の珠はなかなか会い難うて", "武蔵なら、私も、御推挙申してもよいと思いまする", "――とはいえ、そういう人物となると、仕官の先にも、ただ禄ばかりでなく、自身の目ざす働きばえに、望みを抱いているにちがいない。――案外、細川家よりの迎えよりも、九度山からのお迎えを、待っておろうも知れませぬぞ", "え?", "ははは" ], [ "――遷りゆく世はぜひもござらぬ。大坂の御運がどうなるか。関東の勢威がどこまでゆくか。賢者でのうても、今は誰の目にも見えて来た時勢。――というて、にわかに節を曲げて、二君に仕えもならず――というのが幸村のあわれな末路。おわらい下されい", "いや、御自身でそういわれても、世間は承知いたしますまい。あけすけに申そうなら、淀殿や秀頼君より、年々莫大なお手当もひそかに貢がれ、この九度山を中心に、其許が手ひとつ挙げれば、五千六千の牢人は物の具とってすぐ馳せあつまるだけの手飼の衆もあるとやら――", "ははは、根もないことを……。佐渡どの、人間、自分以上に、自分を買われている程、辛いものはございませぬ", "じゃが、世間のそう思う方がむりもない。お若い頃から、太閣さまにも、側近くおかれて、人一倍お目をかけられた其許。その御恩顧やらまた、真田昌幸が次男幸村こそは当代の楠か孔明かと、嘱目されておられるだけに", "おやめ下さい。そう聞くほど身が縮みまする", "では、誤聞かな?", "願わくは法の御山のふもとに余生の骨を埋め、風流は身にないことながら、せめては田でも殖やし、子の孫を見、秋は新蕎麦、春は若菜のひたし物を膳にのせ、血ぐさい修羅ばなしや戦のことは松吹く風と聞いて長命をしとう存じまする", "はて。御本心で", "近ごろ、老荘の書物など、暇にあかして読みかじるにつけても、この世は、楽しんでこそ人生。楽しまずして何の人生ぞや、などと悟りめかしておりまする。……お蔑みではあろうなれど", "……ほほう" ], [ "父上。どうぞお越しを", "できたのか", "はい", "座敷も", "あちらへ設えておきました", "そうか。では……" ], [ "これこれ、林鐘御坊、何をいうのか。わしにはいっこう分らぬが", "ご覧じませ。馬の背を。――その馬の背に引ッ縛ってある奴こそ、関東者の隠密で", "ええ。ばかな" ], [ "往来ばたで――しかも、わしのお供いたしておるお客を誰ぞと思う。――豊前小倉の細川家の御老臣、長岡佐渡様。滅多なことを……いや戯れも、ほどにいたしたがよい", "えっ?" ], [ "場所がら、人がら、よう眼をあいて、物はいうものぞ。お父上のお耳へでもはいったら、ただ事には措かれまいぞ", "はっ。……よもやと存じて" ], [ "まあ、可哀そうな子。おっ母さん、堺まで連れて行ってやりましょうよ。もしかしたら、ちょうど年頃だし、お店で使ってやってもいいじゃありませんか", "それはいいけれど、この子が来るかしらね", "来るだろ。……ねえ?" ], [ "じゃあお出で。その代りこのお荷物を持ってくれるかえ", "……うん" ], [ "おばさん、おばさん家は何処だえ", "堺だよ", "堺って、この辺", "いいえ、大坂の近く", "大坂はどの辺", "岸和田から、船に乗って帰るんですよ", "え。船に?" ], [ "おばさん、おばさんって、呼ぶのは、おかしいから、お母さんのことは、御寮人さまとお呼び。わたしのことは、お嬢さんと呼ぶんですよ。――今から癖をつけておかないといけないからね", "うん" ], [ "うん……もおかしいよ。うんなんていう返辞はありませんよ。はいと仰っしゃい。これからは", "はい", "そうそう、お前なかなか良い子だね。お店で辛抱してよく働けば、手代に取立てて上げますよ", "おばさん家は……あ、そうじゃない、御寮人さまの家は、いったい何屋なの", "堺の廻船問屋さ", "廻船問屋って", "おまえには、分るまいが、船をたくさん持って、中国、四国、九州のお大名方の御用をしたり、荷物を積んで、港々に寄ったりする……商人なのさ", "なアんだ。――商人か" ], [ "怒りはしないけれども、おまえみたいな井の中の蛙の子が、あまり小癪な口を、きくからですよ", "すみません", "お店には、手代だの若い者だの、それから船がつくと、水夫や軽子がたくさんに出入りするから、生意気なことをいうと、懲らしめられますよ", "はい", "ホホホホ。生意気かと思うと、素直なところもあるね、おまえは" ], [ "お帰りなさいまし", "お待ちしておりました" ], [ "お帰りなさいませ", "ようお早く", "きょうはまた、お日和もよくて" ], [ "そこへ立っている子だが", "へいへい。お連れになった汚い童でございますか", "岸和田へ出る途中で拾って来た子なんだけれど、気転がききそうだからお店で使ってみてごらん", "道理で、変な者が、くッついて来たと思いましたら、道で拾っておいでになったんで?", "しらみでもたかっているといけないから、誰かの、着物をやって、一度、井戸端で水をかぶせてから寝かしてやっておくれ" ], [ "は。おらか", "おらという奴があるかっ。わたくしといえ", "はあ", "はあじゃない。へいというのだ。腰をひくく", "へーい", "おまえ、耳がないのか", "耳はある", "なぜ、返辞しない", "だって、伊お伊おと呼ぶから、自分のことじゃないと思ったんだ。おらは――わたくしは、伊織という名ですから", "伊織なんて、丁稚の名らしくないから、伊おでいい", "そうですか", "こないだも、あれほどわしが禁じておいたのに、また、変な物を持ちだして、腰に差しているな。……その薪ざッぽうのような刀を", "へい", "そんな物、差してはいけないぞ。商家の小僧が、刀など差すなんて。――ばかっ", "…………", "こっちへ出せ", "…………", "何をふくれている", "これは、お父っさんの遺物だから、離せません", "こいつめ。よこせというのに", "わたしは、商人なんかに、成れなくてもいいから", "商人なんか――だと。これ、商人がなかったら、世の中は立ちはしないぞ。信長公がお偉いの、太閤様がどうだのといっても、もし商人がなかったら、聚楽も桃山も、築けはしない。異国からいろんな物もはいりはしない。わけても堺商人はな、南蛮、呂宋、福州、厦門。大きな肚で商いをしているのだ", "わかってます", "どう分ってる", "――町を見ますと綾町、絹町、錦町などには、大きな織屋がありますし、高台には、呂宋屋のお城みたいな別室があるし、浜には、納屋衆というお大尽のやしきや蔵がならんでいます。――それを思うと、奥の御寮人さまやお鶴様が、自慢たらたらのここのお店も、物の数でもありません", "この野郎" ], [ "船が出るまで、ここに待っておるのでは、暑うてかなわぬが――便船はまだ着いていないのか", "いえ、いえ" ], [ "お召しになる巽丸は、あれに着いておりますが、積荷よりは、お客様方のお越しのほうが、滅相おはやく見えられましたので、船方衆にいいつけて、ただ今あわててお坐り場所を先に整えさせておりますので", "同じ待つにも、水の上はいくらか涼しかろう。はやく船へ行って休息したいものだが", "はいはい。もういちど手前が行って急がせて参りましょう。しばらく、御辛抱を" ], [ "では、お先に", "巌流先生。お先へ" ], [ "佐渡どのが、まだお見えなさらぬの", "もう追ッつけ、着かれようが" ], [ "はいはい。熱い湯では、なおなおお暑うございましょう。唯今、冷たい井水を汲ませまする", "いや、道中、水は一切飲まぬことにしておる。湯が結構だ", "これよ――" ], [ "ちイッ", "この童めが" ], [ "とんでもない御無礼を", "何とお詫び致しましょうやら", "何とぞ、御寛大に……" ], [ "離しても、よろしゅうございましょうか", "だが" ], [ "どんなことを致しても、詫びれば免されるものと考えさせては、却って、この少年の将来のためにならぬ", "へい", "元より、取るに足らぬ童のしたこと。巌流は手を下さぬが、そち達がこのままにもいたし難いと思うなら糾明として、そこの湯柄杓で釜の煮え湯をいっぱい頭からかぶせてやれ。――命にはかかわるまい", "……ア。その湯柄杓で", "それとも、このまま、放してよいと、其方どもが思うなら、それでもよし……", "…………" ], [ "覚悟してしたことだから逃げないといってるじゃないか。おらはその侍に、湯をかけてやる理があるからかけてやったんだ。その返報に、おらにも煮え湯をかぶせるなら、かぶせてごらん。町人なら謝るだろうが、おらは謝る筋もないぞ。侍の子が、そればかしのことに、泣きなんかするものか", "いったな!" ], [ "伊織。覚えていたか", "アア! ……忘れるもんか。徳願寺で、おらにお菓子を下さった", "今日は、お前の先生の武蔵とやらはどうしたな。……この頃は、あの先生の側にはいないのか" ], [ "船出は、黄昏だの", "へい。左様で" ], [ "ではまだ――休息して参っても、間に合おうな", "間に合いまするとも。どうぞお茶など一ぷく", "湯柄杓でか", "ど、どういたしまして" ], [ "では、ことばに甘えよう。わしに会いたいとは、この家の御寮人か", "お礼を申したいとかで", "何の礼じゃ", "多分……" ], [ "伊織のことを、無事にお扱い下さいましたので、主人に代ってそのご挨拶を申すんでございましょう", "オ。伊織といえば、あれにも話がある。こっちへ呼んでくれい", "かしこまりました" ], [ "お隣のお師匠さん", "はい" ], [ "――隣のおばさんか。暑いのう、今日も。お上がりなされ", "いえいえ。上がってはいられないが……何じゃろ? 今大きな音がしたようだが", "ははは。私の悪戯ですよ", "子ども衆をあずかる先生、悪戯しては困ったものじゃ", "ほんにな……", "何をなされたのじゃ", "竹を伐ってみたのでござる", "そんならよいがわたしはまた――何かあったのじゃないかと、胸がどきっとした。うちの良人がいうことだから、そうあてにはならないけれど、どうもこの辺をよく牢人衆がうろついているのは、お前さんの生命でも狙っているらしい……などと聞かされているものだからね", "だいじょうぶです。私の首など三文の値もしませんから", "そんな暢気をいってても、自分に覚えのない恨みで殺される人だってあるからね。……気をつけるがいいよ。わたしはいいけれど、近所の娘さん達が、泣くからね" ], [ "あら。先生が行く", "無可先生", "すまして行くこと" ], [ "何度も、逃げ出そうと思ったり、こんなにも、辛い思いをしなければ、人間になれないなら、いっそ首でも縊ろうかとさえ考える時もある", "まだまだおぬしは、禅師へおすがりして、入門の許しを得た弟子ではないから、そこらはほんの修行の初歩だ", "しかし――お蔭でこの頃は、弱い気持が出ると、これではならぬと、自分で自分を、鞭打つことができるようになった", "それだけでも、修行のかいが目に見えて来たわけだな", "苦しい時には、いつもおぬしを思い出すのだ。おぬしでさえ、やり越えて来たこと、おれに出来ぬわけはないと", "そうだ。わしがしたこと。おぬしに出来ぬことはない", "それと、一度死ぬところを――沢庵坊に救われた生命と思い、また、江戸町奉行所で、百叩きにされた――あの時の苦しみを思い出しては――何を、何をと、今の修行の辛さと朝夕闘っている", "艱苦に克ったすぐ後には、艱苦以上の快味がある。苦と快と、生きてゆく人間には、朝に夕に刻々に、たえず二つの波が相搏っている。その一方に狡く拠って、ただ安閑だけを偸もうとすれば、人生はない、生きてゆく快も味もない", "……少し分りかけて来た", "欠伸一つしてもだ――苦の中に潜心した人間のあくびと、懶惰な人間のそれとはまったく違う。数ある人間のうちには、この世に生を得ながら、ほんとの欠伸の味すら知らずに、虫のように、死んで行くのがたくさんいる", "寺にいると、周りの人たちからも、いろいろな話を聞く。それが楽しみだ", "はやく、禅師に会って、おぬしの身も頼みたいし、わしも何かと、道について、禅師に糺したいこともあるのだが……", "一体、いつお帰りなのだろう? 一年も便りがないといっているが", "一年はおろか、二年も三年も、飄々と、白雲のように、居所も知れぬ例は、禅家には珍しくないことだ。――折角、この土地に足を留めたのだから四年でも五年でもお帰りを待つ覚悟でいてくれい", "その間、おぬしも、岡崎にいてくれるか", "いるとも。裏町に住んで、世間の底の、雑多な生活に触れてみるのも、ひとつの修行。――空しく禅師のお帰りのみを待っているわけではない。わしも修行と思って、町住居しているのだから" ], [ "なあ、武蔵どの。いつかいおう、いつか頼もうと思っていたが、つい、いい出しかねていたが、おぬしにぜひ承知してもらいたいことがあるのだ。肯いてくれるか", "わしに? ……はて。何をだ? ……。いってみい", "お通のことだが", "え", "お通をっ……" ], [ "おれとおぬしとは、心も溶け合うて、こうして一つ夜を語り合ったりしているが、あのお通は、どうしてるだろう。――いやどうなって行くだろう。この頃、ときどき思い出しては、済まないと心で詫びているのだ", "…………", "よくもおれは、長年の間、お通を苦しめたものだった。一頃は、鬼のように追い廻し、江戸では一つ家においたこともあるが、決しておれに心はゆるさない。……考えてみれば、関ヶ原の戦へ出た後から、お通は、おれという枝から離れて地へ落ちた花だ。今のお通は、べつな土から、べつな枝に咲いている花だ", "…………", "おい武蔵っ。いや武蔵どの。……頼むから、お通を娶ってやってくれ。お通を救ってやるものはおぬししかないぞ。……それも、以前の又八だったら、金輪際こんなことはいいもしないが、おれはこれから今までの取返しを、沙門の弟子になってやろうと思い定めた所だ。もうきれいに諦めた。……だがまた、気がかりにもなるのだ。……頼むから、お通をさがし出して、お通の望みをかなえてやってくれい" ], [ "はてな", "見えんなあ", "も少し、橋寄りの方ではなかったろうか" ], [ "や。や", "う。うぬ" ], [ "無可は、私ですが", "尊公が、無可と仮名しおる、宮本武蔵どのか", "え", "お隠しあるな", "いかにも武蔵に相違ござらぬが、お使いの趣は", "藩の侍頭、亘志摩どのをご存じあろうが", "はて。存じ寄らぬお人でござるが", "先様では、よう知っておいでられる。其許には二、三度ほど、当岡崎で俳諧の席へ顔を出されたであろうが", "人に誘われて、俳諧の寄合へ参りました。無可は、仮名に非ず、俳諧の席でふと思い寄ってつけた俳号でござる", "あ。俳名か。――それはまあ何でもよろしいが、亘殿も、俳諧を好まれ、家中の吟友も多い。一夜、静かにおはなし申したいと仰せでござるが、お越し賜わろうか", "俳諧のお招きなれば、他にふさわしい風流者がござろう。気まぐれに、当地の俳莚へ、誘われたことはあるものの、生来、雅事を解さぬ野人でござれば", "あいや。何も、俳莚を開いて句をひねろうというのではない。亘殿には、仔細あって、其許を知っておられる。――で会いたいというのが趣旨。また、武辺ばなしなど、聞きもし、話もしたし――というのであろうと存ぜられる" ], [ "よろしゅうござる。お招きに甘えて参堂いたそう。して、日は", "おさしつかえなくば、今夕にでも", "亘殿のおやしきは、どの辺?", "いや、お越し下さるとあれば、その時刻に、駕を向けて、お迎えに参ろう", "然らば、お待ちする" ], [ "先生はえらいんだぞ", "あんなお駕は、えらい人でなければ、乗れないよ", "どこへ行くんだろ", "もう帰らないのかしら" ], [ "又八とやら。おい又八坊", "はい、はい" ], [ "分らないのかい", "ただ今、さがしております", "おまえ、一度も、来たことはないのか", "はい。いつも、山へ足を運んでくれますのでつい", "訊いてみなさい。その辺で", "は。そう致しましょう" ], [ "愚堂さま。愚堂さま", "おい", "分りました", "分ったか", "ついそこの、眼の前の露地口に、看板の板が打ってございました。――童蒙道場、てならいしなん、無可と", "ウむ。そこか", "おとずれてみましょう。愚堂さまには、ここでお待ち下さいますか", "何。わしも参ろうよ" ], [ "――で、何が故に、貴公を闇討ちにしようと計ったか、厳重に、調査いたしてみた所、御当家のお客分に、東軍流の兵法家で三宅軍兵衛といわるる仁があるが、その門人と、藩の者四、五名が、謀ってやったことが相分った", "……ははあ?" ], [ "――で、その不心得と、恥ずべき卑劣は、きょう御城内で、その者どもへ、きつく叱りおいた。ところが、お客分の三宅軍兵衛殿には、自身の門人も交じっていたことゆえ、いたく恐縮されて、ぜひ其許へ会って、一言、お詫びしたいとある。……どうじゃな、ご迷惑でなくば、これへ呼んで、お紹介せいたすが", "軍兵衛殿には、ご存じない儀とあれば、それには及びませぬ。兵法者の身に取れば、前夜の事ども路傍ままあること", "いや、それにせよ", "謝罪の何のというのでなく、ただ道を語る人としてなら、かねてお名まえを聞いておる三宅殿、お目にかかることに異存もござりませぬが", "実は、軍兵衛殿も、それを望んでおるのじゃ、――さらば、早速にも" ], [ "妙心寺の床に参禅して、初めてお目にかかりました頃から、はや十年に近くなりました", "そうなるかのう", "月日は十年を歩みましたが、自分は何尺の地を這ったか。顧みて、自分でも疑われて参りました", "相変らず、乳くさいことをいう。知れたことじゃ", "残念でござります", "何が", "いつまで修行の至らぬことが", "修行、修行と、口にしているうちはまだ駄目じゃろうて", "といって、離れたら?", "すぐ縒が戻ろう。そして、初めから物を弁えぬ無知の者より、もっと始末のわるい、人間の屑ができる", "離せば、辷り落ち、登ろうとすれど攀じ切れぬ、絶壁の中途に、私は今、あがいております。――剣についても。また、一身についても", "そこだな", "和上っ。――お目にかかる今日の日を、どれ程、お待ちしていたか知れませぬ。どうしたらいいでしょう。如何にせば、今の迷いと無為から脱し切れましょうか", "そんなこと、わしは知らぬ。自力しかあるまい", "もいちど、私を、又八と共に、御膝下へおいて、お叱り下さい。さもなくば、一喝、虚無の醒めるような痛棒をお与え下さい。……和上っ。お願いでござります" ], [ "お通さん、いるかの", "はい。――おりますが、どなた様ですか", "万兵衛じゃが" ], [ "オ。麻屋の旦那さまでいらっしゃいますか", "いつも、ようお働きだのう。――せっかく、働いているところを、邪魔してはわるいが、ちょっと話があるで……", "どうぞ、おはいり下さいませ。そこの木戸を押して" ], [ "お通さんの郷里は、作州の吉野郷じゃそうな", "はい", "わしは長年、竹山城の御城下宮本村から、下ノ庄の辺りへは、よう麻の買い出しに行くが、近頃、さる所でふと、噂を聞いてな", "うわさ。それは、誰の? ……", "おまえのさ", "ま。……", "それから" ], [ "宮本村の武蔵という者のはなしも出たりして", "え。武蔵さまの", "顔いろを変えたな。はははは" ], [ "お吟さまとは、あの……武蔵様のお姉上にあたる?", "そうじゃ" ], [ "そのお吟どのに佐用の三日月村で会うた所、お前の話が出てな、びっくりしてござったわい", "わたくしがこの家にいると、お告げなされたのでございますか", "そうじゃが、何も悪いことはあるまいて。いつだったか、此家の染屋の小母御からも頼まれた――もし、宮本村辺へ行って、武蔵どのの噂でも聞いたら、何なりと耳に入れて欲しいと。……で、よいお方に会うたわいと道ばたであったが、こちらから話しかけたのじゃ", "お吟さまには、今、どこにお在でなされますか", "平田某とやら、名はわすれたが、三日月村の郷士の家にいるそうな", "ご縁家でございまするか", "たぶん……そんなことじゃろう。それはともかく、お吟どのがいわっしゃるには、何かと、種々のはなしも積っている。秘かに告げたいこともある。いや何よりは、恋しい、会いたいと、道ばたもわすれて、泣かぬばかり……" ], [ "――が生憎、往来中でな、手紙も書けぬが、ぜひ近いうち、三日月村の平田と尋ねて訪れてくれまいか。此方から行きたいのは山々だがそうもならぬ事情があるので――といわっしゃるのだが", "では、私に?", "おう、詳しゅうはいわぬが、武蔵どのからは、時折、便りも来ているそうな" ], [ "お通さん", "はい", "脚は達者のようだな", "ええ。旅には、わりあいに馴れておりますから", "江戸表まで行きなすったそうだの。よくもまあ、女ひとりで、思い切って", "そんなことまで、染屋の小母が話しましたか", "何もかも、聞いているわさ。宮本村でも、うわさしているし", "お恥かしゅうございます", "恥かしいことがあるものか。好きな人を、そうやって、慕っていなさる心根は不愍とも優しいともいいようがねえ。だがお通さん、お前のまえだが武蔵殿も少し薄情だのう", "そんなことはございませぬ", "恨みとも思わないのかえ。やれやれ、よけいに可憐しい", "あのお方はただもう御修行の道にひたむきなのでございます。……それを想い切れない私の方が", "悪いというのかい", "すまないと思っております", "ふうむ……。家の嬶にも、聞かしてやりたいのう。女は、そうありたいもの", "お吟さまは、まだ他家へ、お嫁きにならないで、御親類にいらっしゃるのでございますか", "さ。……どうだろう" ], [ "いやに、素ッ気ねえがと思ったら、ばかに綺麗な女子ときょうは道づれだ", "野郎、お嬶にいいつけるぞよ", "ははは。返辞もしねえわい" ], [ "宮本村も、七宝寺も、あの山のすぐ彼方じゃ。懐かしかろうが", "…………" ], [ "どういたしまして。貴方さまこそ", "何さ、わしは始終、商用で通っている道", "お吟様のいらっしゃる、郷士のお宅とかは?", "あれに" ], [ "万兵衛さま。道をお間違えなされはしませぬか。この辺りには、家も見当りませぬが", "いや、お吟様へ告げて来るあいだ、寂しかろうが、御堂の縁で、休んでいて貰いたいのだ", "呼んで来ると仰っしゃるのは……?", "いい忘れていたが、お吟様がいうには、訪ねて来る時は、家に都合のわるい客でも来合せているといけないから……ということだった。お住居は、この林を抜けた彼方の畑地。すぐご案内して来るから、しばらく待っているがいい" ], [ "――近道を", "それっ" ], [ "なあに、わしの手功じゃございません。御老婆様のはかりごとが、巧く図にあたったのでございますよ。……それと、貴女様が、御郷里に帰っているとは、お通めも、夢にも知らずにいたもんですから……", "小気味のよかったことわいな。見たか、今のお通の愕き様を", "余りのことに、逃げることもできず、竦んじまった様子でしたな。はははは……だが、考えると、罪ッぽいことをした", "なんの。何が罪ッぽいことがあろうぞ。わしに取れば", "いやもう、そのお恨みばなしは先日も", "そうじゃ。わしも、こうしてはおられぬ……いずれまた、程経て、下ノ庄の屋敷へ遊びに来やい", "では、御老婆様。そこからの間道は、道が悪うございます。お気をつけて", "そなたも、人中へ出たら、口に気をつけやい", "はいはい。口は至って堅い万兵衛、その辺はどうぞご安心を……" ], [ "……た、たれじゃ?", "…………", "誰じゃ。……名を、名を吐かしおろう" ], [ "わしだよ。……おばば", "え", "わからないか", "分らぬ。聞いたこともない声。物盗りであろが", "ふ、ふ、ふ。物盗りなら、おぬしのような、貧乏婆に眼はつけぬ", "なんじゃと。……では、わしに眼をつけて来たとか", "そうだ", "――わしに?", "くどい。万兵衛ごときを斬るために、わざわざこの三日月まで追っては来ぬ。おぬしに思い知らせるためだ" ], [ "人違いじゃろが。おぬしは誰じゃ。わしは、本位田家の後家、お杉という者", "おう、そう聞くだに、なつかしや俺の恨み、今はらしてやろうぞ。おばば! おれを誰と思う。この城太郎を見わすれたか", "……げっ? ……城……城太郎じゃと", "三年たてば、嬰児も三つになる。おぬしは老木、おれは若木。気のどくだが、もうおばばに、濞たらし扱いにはなっておらぬぞ", "……おう、おう。ほんにお汝は、城太郎よのう", "よくも、長の年月、お師匠さまを苦しめたの。師の武蔵さまは、おぬしを年寄と思えばこそ、相手にならず、逃げまわっていた。――それをよいことにして、諸国、江戸表にまで出て、悪ざまに世へいい触らし、仇呼ばわりをするのみか、御出世の道を邪げおったな", "…………", "まだある。――その執念で、お通さままでを、折あるごとに、追い苦しめた。もうよい程に、非を覚って、故郷へ引籠ったかと思うていたら――なおも、麻屋の万兵衛を手先に、あのお方を、どうかしようと企んでおる", "…………", "憎んでも飽きたらぬばばめ。一太刀に斬るのは易いが、この城太郎も、今では浪々の青木丹左が子ではない。父の丹左も、ようやく元の姫路城へ、帰参かなって、この春からは、以前のとおり池田家の藩士。……またぞろ、父の名に、累を及ぼしてはならぬゆえ、生命だけは助けておくが" ], [ "どうしたか、後から直ぐ行くといったおばばが、まだやって来ぬ", "ウム、そういえば、もう追いついて来そうなものだが", "きかぬ気でも、ばばの脚では、間道の上りが、ちと骨なのだろう。手間取っているに違いない", "ここらで一休みしていようか。――それとも佐用まで行って、二軒茶屋でも叩いて待つとするか", "どうせ待つなら、二軒茶屋で一杯やっていようじゃないか。……こういうお荷物を曳っぱっていることだし" ], [ "おばばかな?", "……いや、違う", "誰だろう", "男の声だ", "でも、おれ達を呼んだのじゃあるまいが", "そうだ。おれ達を呼ぶ者はない筈だ。おばばが、あんな声を出す筈もなし" ], [ "や。何やつだ。汝は", "何者でもよい。お通さんを、何処へ連れてゆくか", "さては、お通を取り返しに来たな", "いかにも", "つまらぬ所へでしゃばると、命がないぞ", "おぬしらは、お杉ばばの一族の者であろう。おばばの吩咐だ。お通さんをわしの手に渡せ", "何。おばばの吩咐だと", "おお", "嘘をいえ" ], [ "見たら分るであろう。文字が読めぬのか", "だまれ。この中にある、城太郎とは、汝とみえるな", "そうだ。拙者は、青木城太郎" ], [ "ふざけたことを申すな。どこの青二才か知らぬが、おれたちを、何だと思う。下ノ庄の本位田といえば、姫路の藩士なら一応は知っている筈", "面倒。否か応か、それだけ聞こう。否というなら、おばばの身は、抛っておくまでのこと。山で飢え死させるがよい", "こいつ" ], [ "たわごと申すと、首の根をたたき落すぞ。おばばの身を、どこへ隠した?", "お通さんを渡すか", "渡さんっ", "では、拙者もいわん", "どうしても", "だから、お通さんを、返せ。そうすれば、双方怪我なく事はすむ", "ちッ。この青二才" ], [ "斬るな", "手捕にしろ" ], [ "この生ぞうめ", "小癪な", "これでもかっ" ], [ "駈けられるかい。お通さん", "ええ。だいじょうぶ!" ], [ "――が、お通さん、そう嘆くことはないよ。風の便りだけれど、近頃、姫路にこんな噂がある", "え。……どんな?" ], [ "武蔵様が、近いうちに、姫路へ来るかも知れないのだ", "姫路へ……。それは、ほんとでしょうか", "噂だから、どの程度まで、信じていいか分らないが、藩ではもっぱら本当らしくいわれている。――細川家の師範佐々木小次郎と試合する約束を果すために、近く、小倉へ下るだろうと", "そんな噂は、私もちらと聞いたことがありますが、誰が一体いい出したことやら、糺してみれば、武蔵様の消息を――いる所すら、知っている人はありません", "いや。藩で流布されているはなしには、もう少し、真実らしい根拠がある。……というのは、細川家とも縁故のふかい、京の花園妙心寺から、武蔵様の所在が知れて、細川家の家老、長岡佐渡どのの取次で小次郎からの試合状が武蔵様の手に届いているというのだが", "では、その日は、もう近々でございまするか", "さ。その辺のことになると、何日のことやら、何処でやるのか。とんと分ってはいない。――しかし、京都の近くにいるものなら、豊前の小倉へ下るには、きっと姫路の城下はお通りになる筈だ", "でも、船路もありますもの", "いや、恐らくは" ], [ "――では城太さん。京都の花園妙心寺へゆけば、確かなことが、知れましょうね", "それは、知れるかもしれないが、うわさだからなあ", "まるで、根なし草でもないでしょうから", "もう、行く気?", "ええ。そう聞いたら、あしたにでも、立ちとうございます", "いや、待てよ" ], [ "お通さんが、武蔵様と行き会えないのは、そういう風に、何かちらと、噂でも、影でもさすと、直ぐ一途に、それを的に行くからじゃないかな。時鳥の姿を見ようなら、声のした先へ眼をやらなければ見えないのに、お通さんのは、後へ後へと行っては、行き迷れているように思えるが……", "それは、そうかも知れませんが、理窟のように、心のもてないのが恋でしょう" ], [ "そうなさい。そしてとにかく一度、姫路へ帰って", "ええ", "ぜひ、屋敷へは来てください。父と拙者のいる屋敷へ", "…………", "父の丹左も、話してみると、お通さんのことは、七宝寺にいた頃のことまで、よく知っていました。……何か知らないが、いちど会いたい、話もしたい、などと申していますから" ], [ "……ア。雨が", "雨ですって。――あしたは姫路まで歩くのに", "いいえ、蓑笠さえあれば、秋の雨ぐらいは", "たんと来なければいいが", "……オオ、風が", "閉めましょう" ], [ "おお、ばば様か。――お通でございます。まだ、そのお声では、お元気のような", "何?" ], [ "お通じゃと", "はい", "…………" ], [ "お通じゃと?", "はい……お通でございまする" ], [ "ど、どうして、汝が此処へは来たぞよ。……ああ、さては城太郎めが、後を追って", "今、お助けいたします。ばば様、城太さんのことは、宥しておあげなされませ", "わしを、救いに来た……?", "はい", "汝が……わしを", "ばば様。何もかも、来し方のことは、どうぞ水に流して、おわすれ下さいませ。わたくしも、幼い頃に、お世話になったことこそ覚えておりますが、その後の、お憎しみやご折檻は、決して、お怨みには思っておりませぬ。――元々、わたくしのわがままもあったことと", "では、眼がさめて、前非を悔い元のように、本位田家の嫁として戻りたいというか", "いえ、いえ", "では、何しにここへ", "ただ、ばば様が、お可哀そうでなりませぬゆえ", "それを恩に着せて、以前のことは水に流せといやるか", "…………", "頼むまい。誰がそなたに助けてくれと頼んだか。――もし、このばばに、恩でも着せたら、怨みを解くか、などと考えたのなら、大間違いじゃぞ。たとえ、憂き目の底におろうとも、ばばは、生命欲しさに意気地は曲げぬ", "でもばば様。どうしてお年をとったあなた様が、こんな目に遭うているのを見ておられましょう", "上手をいうて、汝も城太めと、同腹ではないか。ばばを謀って、こうしやったのは、汝と城太めじゃ。もし、この窟から出たら、きっときっと、この仕返しは直ぐしてみせるぞよ", "今に――今に――わたくしの気持が、きっとばば様に、分っていただける日もございましょう。ともあれ、そんな所にいては、またお体を病みましょう", "よけいな戯れ口。うぬ。城太といい合せて、わしを揶揄いに来おったの", "いえ、いえ、見ていてください。わたくしの一心でも、きっとお怒りを解いてみせまする" ], [ "あれッ――ばば様っ", "やかましい", "な、なんで", "知れたこと" ], [ "ばば様、ばば様、堪忍なさいませ。お腹の癒えるまで、御折檻はうけまするが、この雨に打たれては、ばば様のお体も、後で御持病の因になりまする", "なんじゃと。いけ図々しい。こうされても、まだ、ひとを泣き落しにする気かいな", "逃げませぬ。どこへでも参りますから、お手を……ああ……苦しい", "あたりまえじゃ", "は、離して。くく……" ], [ "おお、ばば殿", "ご無事じゃったか" ], [ "あれは、吉野やないか", "柳町の?", "そうじゃ、扇屋の吉野太夫" ], [ "――おさらば", "おさらば" ], [ "お。あなたは", "いつか河内の金剛寺でお目にかかった……", "そう。忘れてはいませぬ。本阿弥光悦どの", "ご無事でお在でられたとは、さてさてめでたい。実は、仄かに、おうわさを聞き、生死のほども案じておりましたが", "誰に聞きましたか", "武蔵どのから", "え。先生のお口から? ……はて、どうしてであろう", "あなたが、九度山衆に捕まって、どうやら隠密の疑いで、害されたかも知れぬという消息は、小倉の方から聞えて来たのです。――細川家の御家老、長岡佐渡様のお手紙などから", "それにしても、先生がご存じの仔細は", "今朝お立ちになる昨日まで、武蔵殿は、てまえの門内の長屋にお住居でした。その居所が小倉へ聞えたので、小倉からも度々、書面の通ううち、お連れの伊織殿も今では長岡家にいるとやらで", "えっ。……では伊織は、無事におりまするか" ], [ "それに、今度の御発足は、怖らく先生にとっても、生涯の御浮沈かと思われます。平常、御修行にひたむきな武蔵様の事ゆえ、万が一つにも、巌流に敗れをとるような儀はあるまいとは思われますが――勝敗はわかりません。あながち、修行を積んだ者が勝ち、驕者は負けるとも限りません。――そこに人間力を超えたものも加わるのが、勝負の運、また、兵家の常ですから", "けれど、あの沈着ぶりなら、自信がありそうです。お案じには及びますまい", "と、思いはしますが、聞くところに依ると、佐々木巌流というものは、遉に稀れな天才らしゅうございます。殊に、細川家に召抱えられてからは、朝暮の自戒鍛錬は一通りでないとも聞き及びました", "驕慢な天才と、凡質を孜々と研いた人と、いずれが勝つかの試合ですな", "武蔵様も、凡質とは思われませんが", "いや決して、天稟の才質ではありますまい。その才分を自ら恃んでいる風がない。あの人は、自分の凡質を知っているから、絶えまなく、研こうとしている。人に見えない苦しみをしている。それが、何かの時、鏘然と光って出ると、人はすぐ天稟の才能だという。――勉めない人が自ら懶惰をなぐさめてそういうのですよ", "……いや、おおきに" ], [ "いずれ、大坂まで", "そうです。間に合えば、夜船ででも、淀川から帰りたいと思いますが", "――では、大坂まで、ご一緒に参りましょう" ], [ "――すこしその、理がありまして、急に私は、還俗しようと思い立ちました。もっとも、まだ、和上から、ほんとの得度もうけていない身ですから、還俗するといっても、いわなくても、元々、ありのままなんですが", "え……還俗する?" ], [ "それはまた、どういう仔細かな。どうもご容子がちと変だが", "詳しいことは、いえませんし、いっても、他人には馬鹿げていますが、以前、一緒に暮していた女にそこで会いました", "ははあ。昔なじんだ女子に" ], [ "そうです。その女子が、嬰児を負ぶっているので――。年月を繰ってみると、どうも自分の生ませた子に違いありません", "ほんとですか", "ほんとに子を負ぶって、河原を物売りして歩いていたんで", "いやいや、落着いて、よく考えてごらんなさい。いつ別れた女子か知らぬが、ほんとに、自分の子かどうか", "疑ってみるまでもありません。いつの間にか、てまえは父になっていたのです。……知らなかった。済まなかった。……急に今、胸を責めつけられました。てまえはあの女に、あんな惨めな物売りはさせては置かれません。また、子に対しても、父らしい務めをしなければなりません", "…………" ], [ "まことに、憚りですが、これを妙心寺の愚堂様に、ご返上申してください。そして恐れ入りますが、今のように仰っしゃって、又八は大坂でひとまず父になって、働くと伝えて下さいませぬか", "いいのかな。そんなことで、これをお返し申して", "和上様は、常々てまえにいっていました。町へ帰りたかったらいつでも去れよと", "ふうむ……", "また。修行は寺でもできぬことはないが、世間の修行が難事。汚いもの、穢れたものを忌み厭うて、寺にはいって浄いとする者より、嘘、穢れ、惑い、争い、あらゆる醜悪のなかに住んでも、穢れぬ修行こそ、真の行であるともいわれました", "むむ、いかさまの", "で、もう一年の余も、お側におりますが、てまえにもまだ、法名も下さいません。きょうまで、又八、又八で済ましていました。――後でまた、いつでも、自分でわからないことができたら、和上様の御門へ駈けこみます。どうぞ、そうお伝え置きくださいまし" ], [ "そなたこそ、そのようにいちいち気がねしてたもるな。……のうお通よ。やがて待つ人の船も見えようほどに、粥なと食べ、力をつけて、待ったがよい", "ありがとう存じまする" ], [ "船の出る前、堺の小林へ使いをやり、朔日立ちと、確かめても来たのだから", "風もないきょうの凪、そう遅れるわけはないからやがて見えよう", "その風がないから、帆走りはよほどちがう。遅れたのは、そのせいじゃよ" ], [ "ア! 見えた", "見えたか", "――あの帆影らしい", "おお。なるほど" ], [ "あれだ……あれだ", "城太どの" ], [ "済まぬが、急いで、この小舟の櫓を把って、あの便船の下へ漕ぎ寄せてたもらぬか。――少しも早う、会わせたい。ものいわせたい。お通を連れて武蔵どのへ", "いや、ばば殿。そう急いたところで、致し方はない。今、藩の方々が、彼方の浜に立ち並んで待ちうけておられるし、早速に、船手の者が一名、早舟を漕ぎ出して、武蔵様を迎えに行った", "ではなおさらのこと。そう人目をはばかってばかりいては、お通を会わせる遑もあるまいに。――わしがどうなと、人前はいい繕おう。家中の衆に囲まれて、お客として持って行かれぬまに、一目でも先に会わせてやりたい", "困りましたなあ", "だから、染屋の家に、待っていた方が好かったに、おぬしが、藩の衆の人目ばかり恐れるので、このような小舟に潜み、かえってどうもならぬではないか", "いやいや、そんなことはありませぬ。世上の口はうるさいもの、大事な場所へ赴かれる矢先に、あらぬ噂でも流れてはと、父の丹左衛門が案じるので、取計らったまででござる。……ですから、父とも計らい、後刻、隙を見て、武蔵様をここへお連れ申して参りますゆえ、それまで、窮屈でもここに待っていて下さい", "ではきっと、これへ武蔵どのを、案内して来て下さるかの", "迎えの小舟から、武蔵様が上がりましたら、ひとまず、染屋の縁を借りて、家中どももご一緒に休息となりましょう。……その間に、ちょっとお連れ申します", "待っていますぞよ。固くたのんだぞ", "そうして下さい。……お通どのも、その間、そっと寝んでおられたがよい" ], [ "待ちかねていた。城太どのよ。――して、武蔵どのには、直ぐこれへ見えますかの", "ばば殿。残念だ", "え。残念とは", "聞いてくれ。仔細はこうだ", "仔細などは、後でよい。いったい武蔵どのには、これへ来るのか、来ないのか", "来ぬ", "なに、来ぬと" ], [ "なんじゃ、ではもう、太郎左衛門船は、この浦を出て、室の津へ向うたというか", "そうだ。……あれ、ばば殿には見えぬか。今、洲の先の松原を交わして、西へ行く船が、太郎左衛門船。……あの艫には武蔵様が立っているかも知れぬ", "おう……あの船影か", "……残念ながら", "これ城太どの。自体、そなたが落度であろうが。なぜ、迎えの軽舸へ自分も乗って", "いまさら何を申しても", "ええまあ、みすみす船の影をそこに見ながら、口惜しいことわいな。……お通に、何というて聞かそうぞ。城太どの、わしにはいえぬ。……そなたから仔細を告げてたも。……したが、よう落着かせてから話さぬと、一層、病気を悪うするかもしれぬぞよ" ], [ "聞きました。船のご都合で、武蔵様がお見えにならないことは、今、お二人のおはなしで……", "聞かれたか", "はい。嘆いても及びませぬ。また、いたずらに悲しんでいる時でもございません。この上は、いっそのこと、小倉表まで参りとう存じます。そして、試合のご様子を見届けたいと思います。――もしものことが全くないとは、どうしていい切れましょう。その時にはお骨を拾うて戻る覚悟でございまする", "――でも、その病体では", "病……" ], [ "さすがは、巌流先生", "おえらいもの", "奥ゆかしい", "底の知れぬお方じゃ" ], [ "初めは、聞長浜にしようか、紫川の河原にしようか、などと所々、御評議にのぼったが、とても左様な手狭な場所では、たとい矢来を結い繞らそうとも、おびただしい見物の混雑はふせぎきれまいとのことでな……", "なるほど" ], [ "掌の上の餌だけ、喰べさせてしまいますから", "御拝領の鷹じゃの", "されば、去年の秋、お鷹野のみぎりに、お手ずから戴きました天弓と名づくる鷹で、馴れるにつれ、可愛いものでなあ" ], [ "馴れれば鷹も愛らしいものだが、性は猛鳥だ。……天弓よりはお光のほうが傍に置くにはよかろう。彼女の身についても、いちど其許の胸を篤と聞いておきたいこともあるが", "岩間どののお屋敷へ、いつかそっと、お光めがうかがったことがありはしませぬか", "内密に――というていたが何も隠しておる要もあるまい。実はわしへ相談に見えたことがあるが", "女め。――それがしに口を拭いて今日まで何も申しおりません" ], [ "――女の身としては、むしろ案じるのが当然じゃろ。其許の心を疑うのではないが、このままで、どうなるのかと、行く末の身を、考えるのは、誰でものこと", "ではお光から、すべてのこと、お聞き取りでござろうが……。いや、面目もない事情で", "なんの――" ], [ "男女の間、ありがちなことじゃ。いずれ其許も、然るべく妻帯もし、家庭らしゅう、一戸の体も立てねばならぬ。大きな屋敷に住み、多くの門人召使も持ったからには", "しかし、いちど小間使として、屋敷においただけに、世間のてまえも", "というて、今さら、お光を捨去るわけにもなるまい。それも妻として不足な女ならまた、考えようじゃが、血すじも正しい。しかも聞けば江戸表の小野治郎右衛門忠明の姪じゃということではないか", "そうです", "お身が、その治郎右衛門忠明の道場へ、単身、試合に出向いて、忠明をして、小野派一刀流の衰退を、覚醒せしめたとかいう事件のあった折――ふと、親しくなったとのことだが", "相違ございませぬ。お恥かしい儀でござるが、恩人たる貴方へ、隠しだてしては心苦しい。いつかは自分からお打明けしようと思っていましたこと。……仰っしゃる通り、小野忠明殿と試合して、その帰るさ、もう宵となりましたので、あの小娘が――その頃はまだ叔父の治郎右衛門忠明の傍に仕えておりました今のお光が――小提燈をもって、皀莢坂の暗い道を、町まで送ってくれました", "ウム。……そんな話だな", "何げなく、まったく、何のふかい量見もなく、その途中、戯れに申した言葉を真実に取って、その後、治郎右衛門忠明が、出奔の後、自分を訪ねて参りましたので", "いや、もうよい。……事情はそのくらいでな。ははは" ], [ "先ほどいった、御評議の上で決した試合の場所じゃが、それは、前にもいった通り、御城下の地では、所詮、混雑はまぬかれまいとの見越から、いっそ海上がよかろう、島がよいとなって、赤間ヶ関と門司ヶ関との間の小島――穴門ヶ島とも、またの名を船島ともいう所ですることと決定いたした", "ははあ、船島で", "そうじゃ。――で、武蔵が着かぬうちに一度、よくそこの地の利を踏んでおく方が、何分でも、勝目を取るというものではあるまいか" ], [ "十三日といえば、もう明後日じゃな", "遠国から、わざわざ来る衆も多いそうな。逗留してみやげばなしに、見て行こうか", "ばかな、一里も沖の船島の試合、見ゆるわけはない", "いや、風師山へ登れば船島の磯の松すら見える。確とは分らいでも、その日のお船手の固めや、豊前、長門の両岸の、物々しい有様を見るだけでも", "晴ならよいが", "いや、このあんばいでは、雨にはなるまいて" ], [ "その時、貴公は、小次郎殿の名を騙り、偽小次郎となって、所々、徘徊しておられたのを、拙者は真の佐々木小次郎殿と信じ……", "ああ、あの時の!" ], [ "そうじゃ。その時の六部でござる", "それは、どうも" ], [ "時に、当御城下にお住居の、佐々木殿のおやしきは、どの辺か、ご存じないか", "さあ、分りませんね。てまえも実は、今ここへ着いたばかりで", "ではやはり、武蔵との試合を見届けに?", "いえ。……べつにその" ], [ "巌流様のおやしきなら、紫川のすぐ側で、わしらの御主人のお屋敷と同じ小路でさ。そこへ行くなら、案内してあげましょうぜ", "やあ、かたじけない、……では又八氏、おさらば" ], [ "すみません。――負ぶいますから、背にのせて下さいませ", "もう、乳はいいのか", "眠たいのでしょう。背なかにのせれば、寝そうですから", "そうか。……よいしょ" ], [ "何しろ、欣ぶべきことだ", "巌流先生の名声も、これで否やなく、一決する", "めでたいといってもよかろう", "そうだとも。曠世の御名誉にもなることだ", "しかし、敵も武蔵。そこは十分、御自重していただかぬと" ], [ "てまえは、上州下仁田の、草薙家の家来でござる。草薙家の亡主天鬼様は、鐘巻自斎先生の甥御でござった。――で、小次郎どのとは、御幼少から存じておるので", "あ。巌流先生には、少年の頃、中条流の鐘巻自斎の許におられたそうだが", "伊藤弥五郎一刀斎。あのお方とは、同門でございました。その弥五郎どのより、小次郎どのの太刀のほうが、烈しい烈しいと、手前などもよく聞いていたもので" ], [ "先生", "――誰だ", "玄関の者でございます。ただいまお表へ、岩国から御老母様が、はるばる、訪ねておいでなされました。小次郎に会えばわかる者――とおっしゃるのみで", "老母が。……はてのう? わしの母はもうこの世にいない人だ。母の妹にあたる叔母御であろう", "どこへお通しいたしましょうか", "会いたくないなあ。……かような時には、人には誰とも会いとうない。……だがまあ、叔母御とあれば、ぜひもなかろう。わしの居間へご案内いたしておけ" ], [ "きょうは十一日。いよいよ、明後日のことになったな", "近づきましてございます", "明日は、久しぶりに登城、殿様にごあいさつ申しあげ、心静かに、一夜を待ちたいものだ", "それにしては、あまりにご来客が混みあいまする。明日は、一切、お客とお会いを避けて、静かに、時刻も早目に、お寝みなされますように", "そうしたいものだ", "広間のお客衆は、ひいきの引倒しというものでございます", "そういうな、かの衆も、巌流の肩持ちする気で、近郷や遠国から来ておる人々だ。……がしかし、勝敗は時の運。――運ばかりではないが、兵家の興亡も同じこと。もし巌流亡き後は、わしが手文庫のうちの遺書二通。一通は岩間殿へ、一通はお光へ、そちの手から渡してくれ", "御遺書などとは……", "武士のたしなみ。あたりまえなことだ。また、当日の朝は、介添一名の同行はゆるされておるから、船島まで、供をして、そちも行け。――よいか", "冥加なお供、ありがとう存じまする", "天弓も" ], [ "そちの拳にすえて、島まで、連れて参ろうな。――海の上一里もある船の中、慰みにもなるで", "心得ました", "では、岩国の叔母御に、あいさつして来ようか" ], [ "十年の久しいあいだ、お便りもせず無音の罪、おゆるし下さい。人目には、出世と見ゆるか存ぜぬが、まだまだ、小次郎の志望は、これしきのことに、満足するものではごさいませぬ。――それゆえに、つい故郷へも", "いや何。お許の消息は、風の便りにもよう聞えて来るほどに、便りはのうても、息災は知れてある", "それほど、岩国でも、何かと風評にのぼっておりますか", "おるどころではない。この度の試合も夙く知れ渡り、武蔵に敗れては、岩国の恥辱ぞ、佐々木を名乗る一族の名折れぞと、たいそうな肩持ちじゃ。わけて、吉川藩お客分片山伯耆守久安様など、御門下衆を大勢連れ、小倉表まで立たれるそうな", "ほ。試合を見に", "したが、高札に依れば、明後日は一切、船出しはならぬ、というお布令。さだめし落胆している衆も多かろうの。……おお余事ばかりいうて忘れていたが、小次郎どの、お許に上げたい土産ひとつ、貰うてくだされ" ], [ "きょう、武蔵が着いたそうだ", "門司ヶ関で、船より上がり、御城下へ姿を見せたというが", "では多分、長岡佐渡のやしきへ落ち着いたことだろう。誰か後で、佐渡のやしきの様子を、ちょっと探って来てはどうか" ], [ "まことに、行届いたご挨拶。主人はまだお城よりお退りはございませぬが、はや、間もなくと存じます。――どうぞお上がりくだされて、ご休息でも", "忝うござるが、ただ今のご伝言さえ願えれば、それにて、他にべつだんの用もござらねば", "でも、せっかくのお越しを。……後にて主人がいかばかり残り惜しゅう思われるかもしれませぬ" ], [ "オオ、伊織か", "先生……", "勉強しているか", "ええ", "大きくなったなあ", "先生", "なんだ", "先生は、わたくしが、ここにいることを知っていたのですか", "長岡様の手紙で知った。そしてまた、廻船問屋の小林太郎左衛門の宅でも聞いた", "だから、驚かなかったんですね", "むむ。……当家のお世話になっておれば、そちのためには、この上もなく安心だからの", "…………", "何を悲しむ" ], [ "ひとたびお世話になったからには、佐渡様のご恩を忘るるでないぞ", "はい", "武道のみでなく、学問もせねばならぬぞ。平常は何事も、朋輩衆よりも控え目に、ことある時は、人の避けることも進んでするようにな", "……はい", "そちにも、母がない、父もない。肉親のない身は世の中をつめたく見、ひがみ易い。……そうなってはならぬぞ。あたたかい心で人のなかに住め。人のあたたかさは、自分の心があたたかでいなければ分る筈もない", "……え、え", "そちはまた、利発のくせに、くわっとすると野育ちの荒気が出る。慎まねばならぬ。まだ若木のそちには、長い生涯があるが、それにせよ、生命を惜しめよ。――事ある時、国のため、武士道のため、捨てるために、生命は惜しむのだ。――愛しんで、きれいに持って。いさぎよく――" ], [ "先生……", "人がわらうぞ。何を泣く", "でも、先生は、明後日になれば、船島へ行くのでしょう", "参らねばなるまい", "勝ってください。これっきり会えなくては嫌です", "はははは。伊織、そちは明後日のことを考えて泣いているのか", "でも、多くの人が、巌流殿には敵うまい。武蔵も、よしない約束をしたものだと、皆いいます", "そうであろう", "きっと、勝てましょうか。先生、勝てるでしょうか", "案じるな、伊織", "では。大丈夫ですね", "敗れても、きれいに敗れたいと念じるのみだ", "勝てないと思ったら、先生、今のうちなら、遠い国へ行ってしまえば", "世間の声には、真実がある。まこと、そちのいう通り、よしない約束事ではある。――だが、事ここになってしまうと、逃げては、武士道が廃る。武士道の廃りを示しては、わし独りの恥ではない。世人の心を堕落させる", "でも先生、生命を愛しめと、わたくしへ教えたでしょう", "そうだったな。――しかし、そちに武蔵が教えたことは、皆、わしの短所ばかり。自分の悪い所、出来ない所。至らないで悔いていることばかりを――そちには、そうあって貰いたくないために教えておるのだ。武蔵が船島の土になったら、なおさらわしをよい手本に、よしないことに生命は捨てるなよ" ], [ "宮本先生でござりますか。てまえは、当家の若党、縫殿介と申しまするが、伊織どのが、お別れを惜しむ様子。無理ならぬ気がいたしまする。――他へお急ぎの儀もござりましょうが、せめて一夜お泊り下さいますわけには行きますまいか", "これは――" ], [ "ありがたいお言葉ですが、船島の土になるやも知れぬ身に、一夜二夜の宿縁を、ここかしこに残しては、去る身も、後の人々も、かえって煩わしいと思われますれば", "ご斟酌が過ぎまする。お帰し申しては、手前どもが、主人より叱言をうけるやも知れませぬ", "委細、また、書中にいたして、佐渡様まで改めて、申し上げます。――きょうは到着の御挨拶までにうかがったこと。よろしゅうお伝えを" ], [ "武蔵どの", "宮本氏ではないか" ], [ "自分は、香山半太夫", "わしは井戸亀右衛門丞", "船曳杢右衛門丞", "木南加賀四郎" ], [ "いずれも、御身とは同郷の者ども、そしてまた、この中の内海孫兵衛丞と、香山半太夫の二老人は、其許の父上、新免無二斎どのとは、至って親しい友達でもござった", "……おお、では" ], [ "申しおくれました。おたずねの通り、拙者は宮本村の無二斎の伜、幼名武蔵と申した者にござりますが。……どうしてまた、郷里の方々が、かくお揃いで此処にはおいでなされましたか", "関ヶ原の御合戦の後、知っての通り、主家新免家は滅亡。われらも牢人して、九州落ち。……この豊前へ来て、一時は、馬の草鞋など作って、露命をつないでいたものじゃが、その後、倖せあって、当細川家の先殿様、三斎公のお見出しに預り、今では当藩にみな御奉公いたしておる身じゃ", "さてさて、左様でござりましたか。思わぬ所で、亡父の御友人達にこうしてお目にかかろうとは", "こちらも意外。お互いに懐かしいことよ。……それにつけ、その姿を、一目なと、亡き無二斎どのに見せたかったなあ" ], [ "なぜじゃ。折角、われら同郷の者が、御身を迎えて、大事の門口を、祝おうというのに", "佐渡様の思し召もそうじゃ。佐渡様にも悪しかろうに", "それとも、何ぞご不服か" ], [ "――巷のうわさ、取るに足らぬことですが、この度の試合をもって、細川家の二家老、長岡佐渡様と岩間角兵衛様とを対立して見、そうふたつの勢力に拠って、一藩の御家中も対峙しておる。そして一方は巌流を擁して、いよいよ君寵のお覚えを恃み、長岡様にもまた彼を排し、御自身の派閥を重からしめんとしておるなどと、あらぬことを、道中などにても聞き及びました", "ほほウ……", "おそらくは、巷の風説。俗衆の臆測でございましょう。――しかし、衆口は怖ろしい。一介の牢人の身には、障る所もござりませぬが、藩政に御関与なさるる長岡様、岩間様には、寸毫でも、左様な疑いを領民に抱かせてはなりませぬ", "いやあ、なるほどの!" ], [ "それで、御身には、御家老のお邸へ、わらじを解くことを、憚って参られたのか", "いや、それは理窟で" ], [ "実のところは、生来の野人、気ままにおりたいのでござる", "お心もち、よく相分った。深く思えば、満ざら、火のない煙ではないかも知れぬ。われらには覚えなくとも" ], [ "――われらにとって忘れ難い慶長五年、その関ヶ原の役より、はや十三年になり申す。お互に思わざる生命を長らえ、今日、かくある身は、偏に、藩主細川公御庇護に依るところ。御恩のほど、子孫まで忘れては成り申さぬ", "はい……" ], [ "――とはいえ、今は亡びたりといえ、旧主新免家の代々の御恩も、忘却してはならぬ。――なおなお、われらこの地に流浪の日には、落魄れ果てていたことをも、喉元すぎて、忘れては身に済まぬ。……そう三つの事を、忘れぬための、例年の会。まず今年も、息災に打揃うて、お互に祝着に存ずる", "されば、孫兵衛丞どの、御挨拶のとおり、藩公の御慈愛、旧主の御恩、零落のむかしに変る今日の天地の恩。――われら日常も忘れは措きませぬ" ], [ "では、御礼を", "はっ" ], [ "かたじけのうござる。高楼の美酒にもまさるお杯。お心ばえにあやかりますように", "滅相もない。われらごときにあやかったら、馬の沓を作らねばならぬぞ" ], [ "巌流の門人らしい。こんな所へ武蔵どのを招いて、われらが首を集めているので、助太刀の策でも密議していると、変に取ったのじゃあるまいか。あわてて、駈け去って行き申したが", "あははは。その疑い、先方にしてみれば無理もない" ], [ "臆して、逃げたのだろう", "逃亡したに違いない", "どう探しても、皆目、姿が見つからないそうだ" ], [ "どうだった?", "分りませぬ。皆目、それらしい者も、御城下の旅籠には", "寺院など、訊いてみたか", "府中の寺院、町道場など、武芸者の立ち寄りそうな箇所へは、安積様、内海様などが、手分けして調べて参るといっておりましたが、まだあの六名がたは", "戻らぬが……" ], [ "わからぬ", "どこにも見えぬ", "こんなことなら、一昨夜別れる時に、確と行く先を聞いておくであったに" ], [ "縫。不覚じゃったな。慌てぬようでも、慌てておるわい。――すぐ其方参ってお迎えして来い", "はっ、承知いたしました。伊織どの、よう気がついたな", "わたしも行く", "旦那さま。伊織どのも、一緒にと申しますが", "ウム。行って来い。――待て待て。武蔵どのへ一筆書くから" ], [ "武蔵様には当家に御逗留でございましょうか", "はい、お在でになります", "それを聞いて、安心いたしました。昨夜来、御家老にも、どれほど、御心配なされていたか分りませぬ。早速、お取次を願いとうござるが" ], [ "武蔵様は、まだお部屋で、お寝みになっておりますが……", "えっ?" ], [ "起して下さい。それどころではござらぬ。いつもこう、朝は遅いお方でござるか", "いえ。昨夜は、てまえとさし対いで、深更まで、世間ばなしに興じておりましたので" ], [ "縫殿介", "はっ", "武蔵どのの、この御書面を携えてすぐ、内海孫兵衛丞どのや、その他の衆に、廻状いたして来い", "承知いたしました" ], [ "心得ておる。じゃが、まだ時刻には早かろう", "お早くはござりまするが、同じく今日のお立会役、岩間角兵衛様にはもはやお船を仕立てられ、今し方、浜をお離れなされましたが", "人は人。あわてずともよい。――伊織、ちょっとこれへ来い", "はい……御用ですか", "そちは、男だの", "え、え", "いかなることがあっても、泣かぬという自信があるか。どうじゃ", "泣きませぬ", "然らば、わしの供をして、船島へ行け。――じゃが、次第に依っては、武蔵どのの骨を拾うて帰るかも知れぬのだぞ。……行くか。……泣かずにいられるか", "行きます。……きっと、泣かないで" ], [ "何じゃ。お女中", "ぶしつけではございまするが、かような身なりの者、お玄関へ立つことも憚られまして", "では、御門前で待っていたのか", "はい……今日に迫った船島の試合に、きのうから、武蔵様が逃げたとやら……町の噂に聞きましたが、それは本当でございましょうか", "ば、ばかなこと!" ], [ "左様な武蔵どのか、武蔵どのでないか、辰の刻になれば分る。――たった今、わしは武蔵どのにお会いして、御返書までいただいて来たところだ", "えっ……。お会いなされましたか。して、何処に?", "其方は? ……何じゃ", "はい" ], [ "武蔵様とは、知る辺の者でござりますが", "ふム。……ではやはり根もない噂に案じていたのか。では、これから急ぐ出先だが、武蔵どのの御返書を、ちょっと見せて上げる。心配なさるな、これこの通りに――" ], [ "誰だ? ……おぬしは", "はい。その女房の、連れの者でございます", "なんだ。御亭主か", "有難うございました。武蔵どのの、懐かしい文字を見て、何だか、会ったもおなじ気がしました。……なあ女房", "ほんに、これで安心いたしました。――欲には、遠くからでも、試合の場所を、拝んでいとうございます。たとえ、海を隔てても、私たちの心がそこに働きますよう", "オオ、それなら、あの海沿いの丘へ上がって、遥かに、島の影なと見ていなされ。――いやいや、きょうは、ばかに晴れているから、船島の渚あたりは、かすかに見えるかも知れぬぞ", "お急ぎのところ、足をお止めして、済みませんでした。――では、御免なされませ" ], [ "武蔵どのと同じ作州の生れ――又八と申します", "朱実といいまする" ], [ "おお、お出でになった", "見えられた" ], [ "辰之助", "はっ", "天弓を、これへ" ], [ "誰か、店のほうへ、武蔵様を訪ねて見えた者があるかね", "へ。ああ、奥のお客様のことで。――いや今朝がたも、訪ねて見えたお人がございましたが", "長岡様のお使いだろう", "左様で", "その他には", "さあ? ……" ], [ "てまえが会ったのではございませんが、昨晩、大戸を卸してから、穢い身なりをした眼のするどい旅の男が、樫の杖をついて、のっそりはいって来て――武蔵先生にお目にかかりたい。先生には下船以来、当家に御逗留と承るが――といって、しばらく帰らなかったそうでございますよ", "誰がしゃべったのだ。あれほど、武蔵様の身については口止めしておいたのに", "何しろ、若い衆たちは、きょうのことがございますので、ああいうお方が、御当家に泊っているということは、何か自分たちの自慢のように、つい口へ出てしまうらしいので――てまえも厳しく申し聞かせてはございまするが", "そして、ゆうべの、樫の杖をついた旅の人とかはどうしたのか", "総兵衛どのが、言い訳に出まして、何かのお聞き違いでございましょうと――どこまでも武蔵様はいないことに押し通して、やっと、帰したそうでございます。――誰かその時、大戸の外にはまだ二、三人も――女子の影も交じって佇んでいたとやらいうておりましたが" ], [ "佐助でございます。大旦那、何か御用でございますか", "おお佐助か。べつに、他の用じゃないが、お前には今日、大役を頼んである。念を押すまでもないが合点だろうな", "へい。ようく心得ておりまする。こんな御用は船師一代のうちにもないことだと思いまして、今朝はもう暗いうちから起きて、水垢離をかぶり、新しい晒布で下っ腹を巻いて待っておりますんで", "じゃあ、ゆうべも吩咐けておいたが、舟の支度も、いいだろうな", "べつに、支度といって、何もございませんが、たくさんな軽舸の中から、脚の迅い、そして穢れのないのを選って、すっかり塩を撒いて、船板まで洗って置きました。――いつでも、武蔵様のほうさえ、お支度がよければ、お供をするようになっております" ], [ "そこでは、お立ちの際、人目につく。――どこまでも、人目だたぬようにというのが武蔵様のお望み、どこぞ、他の場所へ廻しておいてもらいたいのう", "かしこまりました。では、どこへ着けておきましょうか", "住居の裏より、二町ほど東の浜辺――あの平家松のある辺りの岸なら、往来も稀だし、人目にもそうかかるまい" ], [ "はよう、来やい", "泣くと、捨てて行くぞよ" ], [ "お帰りなさいませ", "お。お鶴か", "どちらへお出でになったのかと彼方此方、さがしていましたのに", "お店の方にいたのだよ" ], [ "お鶴……", "はい……", "武蔵様は、どこにお在でか。朝の御飯は、さし上げたか", "もう、お済みでございます。そして、あちらのお部屋を閉めて", "そろそろ、お支度中か", "いいえ、まだ……", "何をしていらっしゃるのだ", "画を描いていらっしゃるようです", "画を……?", "はい", "……ああ、そうか。心ないおねだりをした。いつぞや、画のはなしが出た折、なんぞ一筆でも、後の思い出にも――と、わしが御無心しておいたので", "きょう船島まで、お供をしてゆく佐助にも、一筆遺物に描いてつかわすと、仰っしゃっておいでになりましたから……", "佐助にまで" ], [ "――もう、こうしている間にも、時刻は迫るし、見えもせぬ船島の試合を、見ようと騒いでゆくたくさんの人たちも、ああして往来を押し流して行くのに", "武蔵様は、まるで、忘れたようなお顔をしていらっしゃいます", "画などの沙汰ではない。……お鶴、お前が行って、どうぞもう、そのようなことは、お捨て措き下さいと、ちょっと申し上げて来い", "……でも、わたしには", "いえないのか" ], [ "おう、亭主どのか。……さ、はいられい、そのように閾際で、なにをご遠慮", "いえ、今朝はもう、そうしてもおられますまい。……やがて、お時刻が迫りまするが", "承知しています", "お肌着や、懐紙、手拭など、お支度の物を取揃えて、次の部屋に置きましたゆえ、どうぞいつなりとも", "かたじけのうござる", "……そしてまた、てまえどもへくださるための画でございましたなら、どうぞもうお捨て置きくださいまして。……また、首尾よう船島からお帰りの後にはゆるゆると", "お気づかいなさるな。どうやら今朝は、すがすがしゅうござるゆえ、かような時に", "でも、時刻が", "存じています", "……では、お支度にかかる時には、お呼びくださいまし、あちらで控えておりますから", "恐れ入るのう", "どういたしまして" ], [ "お父さま", "お鶴か。……何をしているのじゃ", "もうお出ましも間もないかと、武蔵様のお草鞋を、庭口のほうへ廻して参りました", "まだだよ", "どうなされましたか", "まだ、画を描いていらっしゃるのだ。……よいのかなあ、あんなにご悠りしていて", "でも、お父さまは、お止めしに行ったのじゃないのですか", "――行ったのだが、あの部屋へ行くと、妙に、止めるのもお悪い気がしてなあ" ], [ "では、少しも早く、ご用意をととのえて、お出向き下さるよう、お伝え下さい。――すでに相手方の佐々木巌流どのにも、藩公のお舟にて、島へ向われたし、主人長岡佐渡様にも、今し方、小倉を離れましたれば", "かしこまりました", "くれぐれも、卑怯の名をおとりなさらぬよう、老婆心までに一言を――" ], [ "――その一図は、御主人に上げてください。また、もう一図は、きょう供をしてくれる船頭の佐助に後でお遣わし下さい", "ありがとう存じます", "意外なお世話に相成ったが、なんのお礼とてもできぬ。画は遺物がわりに", "どうぞ、きょうの夜にはまた、ゆうべのように、お父さまと共に、同じ燈火の下でお話ができますように" ], [ "……お鶴っ。何をしておる。お立ちになるぞ。はや、お立ちになるぞ", "はいっ" ], [ "おおう! ……先生ッ", "武蔵どの" ], [ "お見送りにのう。……そしてまた、わしは其方にきょうまでの詫言をしに来ました", "はて。ばば殿が、この武蔵に詫言とは", "ゆるしてたも! ……武蔵どの。長い間の、ばばが心得ちがいを", "……えっ?" ], [ "ばば殿、それはまた、どういう気持でわしへ仰っしゃるのか", "何もいわぬ" ], [ "――過ぎ来し方の事々。一つ一ついうたら、懺悔申すにも懺悔しきれぬ程あるが、すべてを水と流してたも。武蔵どの、ゆるしてたも。皆……子ゆえに迷うたわしの過ちであった", "…………" ], [ "ああ、武蔵に取って、今日はなんたる吉日でしょうか。それ聞いて、今死ぬも、惑いなき心地がしまする。はっきりと、何か真実のものが観て取れた欣び――ばば殿のおことばを信じまする。そして今日の試合には、一層、すがすがしい心で臨めると存じまする", "では、ゆるして下さるか", "なんの、左様に仰せられましては、武蔵こそ、遠い以前にさかのぼって、ばば殿の前に幾重にも詫びせねばなりませぬ", "……欣しや。ああこれで、わが身は心まで軽うなった。じゃが、武蔵どの、もうひとり世にも不愍な者、ぜひにも、其方に救うてもらわねばなりませぬぞい" ], [ "かりそめの風邪か。それとも、もう永い煩いか。どこが悪い? ……そして近頃は何処に、どこに身を寄せておるのか", "七宝寺に、戻っております。……去年、秋の頃から", "なに、故郷に", "……ええ" ], [ "故郷……。孤児のわたくしには、人のいう故郷はありません。あるのは、心の故郷だけです", "でも、ばば殿も、今では其女にやさしゅうしてくれる様子。何よりも、武蔵は欣しい。静かに病を養って、其女も幸せになってくれよ", "今は、幸せでございます", "そうか。それを聞いて、わしも少しは安んじて行かれる。……お通" ], [ "……ゆるせ。ゆるしてくれい。無情い者が、必ずしも、無情い者ではないぞ、其女ばかりが", "わ、わかっております", "わかっているか", "けれど、ただ一言、仰っしゃって下さいませ。……つ、妻じゃと一言", "分っておるという口の下に。――いうては、かえって味ないもの", "でも……でも……" ], [ "お。……武蔵様。もうよろしいのでございますか", "よし。舟を、もう少し寄せてくれい", "ただ今" ], [ "あっ……どこへ", "短慮な" ], [ "どう……どうしやるつもりか……?", "坐らせて下さいませ" ], [ "なあに、この風と、この潮なら、そう手間はとりません", "そうか", "ですが――だいぶ時刻が遅れたようでございますが", "うむ", "辰の刻は、とうに過ぎました", "左様――。すると船島へ着くのは", "巳の刻になりましょう。いや巳の刻過ぎでございましょうよ", "ちょうどよかろう" ], [ "佐助", "へい", "これを貰ってよいか", "何です", "舟底にあった櫂の割れ", "そんな物――要りはしませんが、どうなさいますんで", "手頃なのだ" ], [ "――なんぞ、着る物はあるまいか、蓑でもよいが", "お寒いのでございますか", "いや舷からしぶきがかかる。背中へかけたいのだ", "てまえの踏んでいる艫板の下に、綿入れが一枚、突っこんでありますが", "そうか。借りるぞ" ], [ "いえ。あれやあ母島の彦島でございます。船島は、もう少し行かないと、よくお分りになりますまい。彦島の北東に、五、六町ほど離れて、洲のように平たく在るのがそれで――", "そうか。この辺りに、幾つも島が見えるので、どれかと思うたが", "六連、藍島、白島など――その中でも船島は、小さい島でございます。伊崎、彦島の間が、よくいう音渡の迫門で", "西は、豊前の大里の浦か", "左様でございます", "思い出した――この辺りの浦々や島は、元暦の昔、九郎判官殿や、平の知盛卿などの戦の跡だの" ], [ "――見えた", "おお――ようやく、今頃" ], [ "――武蔵か", "武蔵だ" ], [ "船往来は、今朝から止まっている。武蔵の舟にちがいない", "一人か", "一人のようだ", "つくねんと、何か羽織って坐っておるぞ", "下へ、小具足でも着けて来たものだろう", "何せい、手配をしておけ", "山へ、行ったか。見張に――", "登っている。大丈夫", "では、われわれは、舟のうちへ" ], [ "よう、見ておれよ。うつろになって、見のがすまいぞ。――武蔵どのが、一命を曝して、そちへ伝授して下さるものと思うて今日は見ておるのだよ", "…………" ], [ "佐助", "へい", "浅いなあ、この辺は", "遠浅です", "むりに漕ぎ入れるには及ばぬぞ。岩に舟底を噛まれるといけない。――潮は、やがてそろそろ退潮ともなるし", "……?" ], [ "――武蔵っ", "…………", "武蔵っ!" ], [ "怯れたか。策か。いずれにしても卑怯と見たぞ。――約束の刻限は疾く過ぎて、もう一刻の余も経つ。巌流は約を違えず、最前からこれにて待ちかねていた", "…………", "一乗寺下り松の時といい、三十三間堂の折といい、常に、故意に約束の刻をたがえて、敵の虚を突くことは、そもそも、汝のよく用いる兵法の手癖だ。――しかし、きょうはその手にのる巌流でもない。末代もの嗤いのたねとならぬよう潔く終るものと心支度して来い。――いざ来いっ、武蔵!" ], [ "小次郎っ。負けたり!", "なにっ", "きょうの試合は、すでに勝負があった。汝の負けと見えたぞ", "だまれっ。なにをもって", "勝つ身であれば、なんで鞘を投げ捨てむ。――鞘は、汝の天命を投げ捨てた", "うぬ。たわ言を", "惜しや、小次郎、散るか。はや散るをいそぐかっ", "こ、来いッ", "――おおっ" ], [ "…………", "…………" ], [ "…………", "…………" ], [ "――――", "――――" ], [ "…………", "…………" ], [ "――ア。アッ", "巌流どのが" ] ]
底本:「宮本武蔵(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年1月11日第1刷発行    2002(平成14)年12月5日第37刷発行    「宮本武蔵(八)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年1月11日第1刷発行    2003(平成15)年1月30日第37刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※副題は底本では、「円明《えんみょう》の巻」となっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年12月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052402", "作品名": "宮本武蔵", "作品名読み": "みやもとむさし", "ソート用読み": "みやもとむさし", "副題": "08 円明の巻", "副題読み": "08 えんみょうのまき", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-03-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card52402.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "宮本武蔵(七)", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫20、講談社", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年1月11日", "入力に使用した版1": "2002(平成14)年12月5日第37刷", "校正に使用した版1": "2002(平成14)年12月5日第37刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "宮本武蔵(八)", "底本出版社名2": "吉川英治歴史時代文庫21、講談社", "底本初版発行年2": "1990(平成2)年1月11日", "入力に使用した版2": "2003(平成15)年1月30日第37刷", "校正に使用した版2": "2003(平成15)年1月30日第37刷", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52402_ruby_49792.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52402_49793.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "お履物を――", "殿様、おあぶない、肩にお手を" ], [ "――船は、どこじゃ。船は", "庭に、船は上がりませぬ。お履物をはいて、河岸の桟橋まで、おひろいを" ], [ "たった今、この庭へ、二十七、八の浪人が、女の生首をかかえ、血刀を引ッさげたまま、逃げこんで参ったのを、御承知はあるまいか", "存ぜぬ" ], [ "いや、狂人ならとにかく、正気を持ちながら、毎日、廓や盛り場で、喧嘩をしては、狂人ほど人間を斬る奴。町方も、ちと持てあましておる男で", "ふむ……それが、女の生首を抱えてとは" ], [ "――江戸唄の師匠をしておる、里次という女があります。今申した浪人者はそれと、だいぶ深間で、何でも、二、三百石の知行を、その女一人のため棒に振ってまで、国元を、出奔してきた程な仲だったらしいので。――だが女は男の不身持と、斬ったの、殺したのと、血なまぐさい行状ばかり見ているので、愛想もつき、恐くもなって、近頃は、町道場の林崎という男をひき入れておった訳です", "む……", "だが、一方の浪人と、どうして手を絶ったものかと、今夜も、林崎や悪友のならず者が、里次の家へ寄って、飲みながら話しておると、伊勢詣りに行くといって、五日ほど前に、家を出た浪人が、台所から、ふいに、今帰って来た――というが早いか、一瞬の間に、居合した七人ばかりの――それも江戸ではかなり有名な林崎や、ごろ剣客を、ばたばたっと一人も余さず、たたっ斬って、最後に、女の生首を片手に", "わかった" ], [ "それから先は、お察しできる、町方は、飛んだお怪我、はやく、手当をせぬと、この冬風に", "かたじけない。御免を" ], [ "お前は、そこにいたのか。――羽織を脱いで、貸してくれい", "羽織は、着ておりませぬ", "いかさま……では、いや、あれにある、伊達羽織を" ], [ "どなたか存ぜぬが、忘れはいたさん", "――無事な所まで、此方の船で", "それは、あまり" ], [ "内儀", "はい。今――お提灯を", "足もとは、水明り、それには及ばん。やがて、万字屋から、家来どもが、引揚げてくるであろうが、此方は、船で先に下屋敷へ――と、よいか、最前の、言伝てを", "覚えておりまする", "そして……" ], [ "何、ここで……。すぐ其処の百本杭あたりで、降ろして貰おう", "まあ、そう申すな、炬燵の火も、ちょうどよい加減、酒も温まっておる。はいって、一献やってはどうじゃ――河千鳥の声をさかなに" ], [ "風邪をひくぞよ、一角", "えッ?" ], [ "俺を、一角と知っているおめえは?", "うとい奴じゃの。たとえ、わずかな間でも、禄を食んだ旧主の声を、忘れる奴があろうか" ], [ "何で逃げる。――たとえ路傍の人間であろうと、危急を救われた礼も述べずに、姿を消すが、作法か、武士か", "――面目次第もございませぬ" ], [ "清水一角と申したの", "はっ、御、御意にござります", "たしか、村上寛之助の推挙で、上杉藩の剣道方に、一年か、二年……。あれは、何日頃であったかの", "もはや、四、五年前、流浪中の事にござります", "只今も、流浪中ではないのか", "はっ" ], [ "そちの仕官中に、国許で、一、二度見かけた事がある。腕のたつ武士と、噂をきいていたが、いつの間にか、此方の在府中に出奔したという事じゃった", "この姿で、お目にかかったのが、残念にござります。どうぞ、御慈悲をもって、このまま、お見遁しを", "見遁せとは", "何事も、お訊ねなく。――犬でも助けたと思し召て", "卑下いたすな。若い時代の過ちは、生涯の評価にはならぬ。その慚愧をなぜ有為な身に、すぐれた腕に、鞭とせぬか", "立ち直って、身を固めたいと念じながら、持ったが病、自暴から自暴へ、持ちくずした身の傷は、癒るどころか、殖えるばかりで、今後のことも今となって、その冷っこい川風の中で考えてみると……", "それや、無理もない。惰性というもの、そこに、転機が来なければの" ], [ "ひとつ、飲まんか", "恐れいります。御大身のお酌では" ], [ "さすがに、町方というものは、鼻がきくの。あれを見い、根気よく、河岸づたいに、この船を尾けてくる", "あ……" ], [ "――風の便りに、江戸にいるとは聞いていたが", "いや、面目ねえ、相変らずといいてえが、尾羽打ち枯らしてこの姿だ", "勿体ないものだね、貴様ほどの腕をもって", "そいつがかえって、世の中を、真っ直ぐに歩くにゃ邪魔らしい", "どうだ、吾々も尽力をするが、もう一度、御奉公しては", "今さら――" ], [ "実あ、こんな体でも、売れ口はついているのだ。それも、俺にゃ相当な条件で", "そいつは、目出度い話だ、どこへ", "相手の名をいう前におめえ達にも、相談があるが……。どうだ、乗るか", "吾々は、藩に籍のある体、そうままには", "そこは、万々、心得ての上だ。――五年約束で、前金を一人あてに、二百両渡す、ある時期がすんだら、ちゃんと、藩籍へもどして、今の禄より、加増もしようという、うめえ話だ。悪かあねえだろう", "誰だ、相手というのは。――どこの藩だかそれを先に" ], [ "あまり話がうま過ぎる。一角、久しぶりに来て、人を担ぐのも、程にしろよ", "なに、嘘だものか" ], [ "見てくれ、手金さえ、持って来ている", "ふふむ……", "いくら、腕はできても、こう泰平つづきでは、軽輩のうだつが上がる時はねえ。――それを、どうだ、近頃にしちゃ、耳よりだろうが", "――つまり、俺たちを、召抱えたいというのか", "まあ、そんなものだ。肉縁の者を捨てて、脱藩してくれというのだから", "それで、五年後には帰参させて、禄も増すというのは、どういうわけだ。合点がゆかぬが", "そこが、相談。うん、といえ", "だが先に――", "いや、先にゃ、話せねえ。――何しろ、洩れたら", "では、誓う", "脱藩をか", "いや、他言を――", "友達を、疑いたかあねえが、これだけは。――何しろ肉縁を捨てるほどな、覚悟のいることだしまた、家中へも、秘密だ。ぜひとも、うん、といって貰わないうちは", "じゃ、俺は……" ], [ "待て待て。――返辞はいつまでか", "早いに、越した事はねえ。明日のうちにでも", "じゃ、明夕までに、熟考して", "花沢屋に泊っているから、そこへ、返辞をしてくれ、待っているぜ" ], [ "おふたり連れで……。湧井様、青砥様と仰っしゃるお方が", "お、来たか" ], [ "実は、貴公たちをお抱えになるのは、当地でも、噂になっているだろう、赤穂の浪士に狙われている吉良殿だ", "げっ、あの吉良か", "表立って、上杉藩から、剣士を引き抜いて、吉良の首の番に、付けるわけにも行かねえ。――で、妙な縁で、俺が、国家老の千坂兵部様から頼まれて、この米沢表から、湧井半太夫、青砥弥助、木村丈八郎――と、こう三人を、引ッこ抜くことを頼まれたというわけだ", "なるほど、じゃ、千坂様の才覚なのか。――それで、謎は解けたが、あの吉良の首の番は、少し、世間へ", "それは、誰も考えるが、やはり一つの上杉家の奉公――五年という年を限っての話だし", "もうひきうけた事だ。嫌とはいわん。――けれど、もう一名の木村丈八郎へは、話がついたのか", "いや、まだ丈八郎へは", "あれ程、急いでおるのに" ], [ "丈八郎へは、貴公たちから、懸合ってくれまいか", "む……話してもよいが" ], [ "実あ、あの男だけが、ちと、俺にゃ苦手なのだ", "何か、弱味でも、あるのか", "丈八郎は、おそらく、知るまいと思うが、あれの姉のお里", "ム。米沢きっての美人だった。――不思議と、あの家すじには、美人ばかり生れる", "今さらいうのも、懺悔めくが、同藩の市岡へ、嫁ぐ約束になって、結納まですんでいたあの女を、婚礼の間際に隠したのは、俺だ、この一角なのだ", "えっ? ……。じゃあ、嫁ぐのを嫌って、川へ、身を沈めたというのは嘘か", "川縁の下駄も、遺書も、俺のさせた狂言で、うまく国許をずらかってから、彼女は、江戸で女師匠、俺は、持ったが病の博奕、酒。……四年のあいだ苦労をさせたが、つい先頃、風邪が原因で、死なしてしまった", "ふーむ、そうか。じゃあお里は、江戸で貴公と暮していたのか", "そんな、こんなで、今さらあれの弟の丈八郎へ、いくら兵部様の名指しといっても、俺からは、ちと", "なるほど、尤もだ。――そして御家老の兵部様が、木村丈八郎へお眼をつけなすッたのも、遉がに、鋭い。年は若いが、あれなら、吉良殿の付人として申し分はない。腕では、赤穂の浪士のうちでも、丈八郎ほどなのは少ないだろう", "だが、今の話は、貴公たちだけに、打ち明けたのだ。――行っても、丈八郎には、どこまで、俺とお里の事は内密に", "いいとも、もう先でも、諦めていること、何も好んで……。それよりは、吉良殿の方の一件を", "すぐ、行ってくれるか", "吉報を、待っていろ" ], [ "じゃ、兵部様の腹中を、洩らしたのだな", "少しは、格好を話さなければ、所詮、耳をかす男ではないもの", "しかたがねえ。話が、不調とあれば、首にして、江戸へ連れて帰るだけの事。――貴公たちは、先へ、発足してくれ。そして、兵部様へ、丈八郎の方は、百に一つ、見込みが難しいとお告げしておいて貰いたいが", "承知した" ], [ "――姉の名を、お呼びになって、貴方様は", "や、人違い。――余りよく似ているので", "どこかで、お見かけしたような?", "四年ほど前に、浪人した清水一角", "あ、よく姉がお噂をしていた……", "そのお里どのが慕わしく、旅のついでに、そっと、当地へ立ち寄ったが、今ではどこに", "姉はもう果てました。ちょうど、あなたが御浪人なさった頃に", "えっ、死んだ……。それは、ちっとも知らなかったが", "私たち姉妹ほど、薄命なものは、ございませぬ。姉のお里も、嫁ぐ先が心に染まないで、身を投げたのでございますし、私も、嫁ぐとすぐに良人に死なれて" ], [ "いち度、お訪ねして、いろいろと、伺いたい事もあるし……", "ええ、どうぞ", "また、何かと、話したいこともあるが、実は、この間うち、脱藩した青砥弥助の口から、弟御へ、ちと、内密を洩らしてあるので、一角が、訪ねては", "丈八郎ならば、この頃は、相役が病気なので、たいがいな夜はおりませぬ。……お信はいても" ], [ "旦那様", "また、手紙か" ], [ "あんなに、お手紙をあげたのに、たった一度の御返辞も下さらないで", "いつか、遅く帰った時から、風邪心地で寝ていたのだ", "でも、返辞を書くぐらいな事……。それ程なお心も、私には、ないのでございましょう" ], [ "帰って来ました。兄様が", "えっ、丈八郎が" ], [ "――おのれっ、一角だな", "おっ、木村丈八郎か", "人の噂は、嘘でなかった。近頃、城下をうろついている犬みたいな浪人が、わしの留守へも、忍んでくると言っていたが、おのれ、何しにここへ――" ], [ "いつぞや、青砥弥助と湧井半太夫の両名から、貴様に伝えたことがあろう", "だまれ、この場合に。――それを問うのではない、何で! 何の用があって! 女ばかりの留守を狙って", "それは、てめえの姉に訊け。おれは、お八重の媚に釣られて来たまでの戯れ男", "な、なにっ", "しかも、こっちは旅の人間、不義をあらだてては女の損――まあ、それは後の裁きにまかせる。――俺は、さし当って、会ったが幸い、てめえに糺す一言がある", "恥知らずめ" ], [ "てめえは、まだ、女を知らぬな。そう野暮に、棘立つものじゃない。俺の聞きたいという一言は、いつぞやの返答。――どうしても、嫌か。――千坂兵部殿の苦衷を買って、吉良家へ行ってやる気はないか", "賢明人の御家老様が、何で、おのれ如き素浪人に、そんな大事なお打明けなさるものか。よしまた、真であるにもせよ。丈八郎には上杉家の藩君がある。――ばかなッ。脱藩して吉良殿の付人に、身売りなどとは、思いよらぬ沙汰だ", "では、どうあっても、嫌か", "とっとと、この米沢から退去すればよし、いつまでも、うろついていると、命はないぞ", "待てっ。――俺のいう事を先にいうな。命がないぞとは、こッちの切り札。千坂殿の密策を聞かしたからには" ], [ "あっッ……兄様っ", "お信、あぶない", "やめて! やめて!", "ええ、邪魔" ], [ "さあ、来い一角", "おう、退くな", "何を" ], [ "――斬られたと? だ、だれが", "盗賊ではないのか", "灯りを。――どなたか、灯りを先に点けてください" ], [ "た、助かるでしょうか", "切ッ尖だからの。もう二寸、肩へはいったら。――焼酎を早く、焼酎を", "お信っ。お信っ……" ], [ "ふいに、兄様が帰るとか、人が訪ねてくるといけないから、外を見ていよといわれて、いつも、垣根の所に、立っていただけです", "そうではあるまい、何か、他に仔細があろう。言え。兄は、どんな事があっても、お前には、怒りはしない" ], [ "何もかも、話しますけれど、兄様、怒ってはいやですよ", "む……", "一番上の――お里姉様を殺した人は、あの一角じゃないでしょうか", "えっ。どうして", "でも、私は知らなかったけれど、お八重姉さんが、そう言いました。だから、私も今に、きっと、あの一角に殺されるのかも知れないって。――それでも――殺されても関わないから、私は、あの人を忘れることはできないと、私にだけ、口ぐせに、言っていました" ], [ "不審だな。一番上の姉のお里は、同藩の市岡氏へ、嫁ぐ約束になった時、それを嫌って入水したのだから", "いいえ、嘘です。――それもこれも、一角のつけ智恵で、ほんとは、江戸へ行って一緒に暮しているうち、一角に、殺されたのです", "どうしてお前は、それを、はっきり言える", "お八重姉さんが、この間、拾って来た物があるんです。うちのお墓のそばに、差し込んであった銀の釵、不思議に思って、寺男に聞くと、三十近い浪人が姉さんのお詣りをする前に、埋けて行ったというではありませんか。それが、一角なのです", "お八重は、自分の姉と、そうした悪縁のある一角と知りながら、なぜまた、あんな男に引きずられて……", "だから、私にも、お八重姉さんの気持はわからない。なん度、泣いて、意見をしたか知れませんが", "血だなあ" ], [ "――争えないものは、血すじだ、親から生みづけられている人間の血の運命だ。――お信、その釵はここにあるか", "いいえ、お八重姉さんは、お墓から、それを見つけて来た日から、肌身に離したことはありません", "そうか。……いやそうだろう。あの銀の釵なら、二女の母親が、若い頃に挿していた品、その釵が、淫奔な血とつき纏って、お里に愛され、お八重にまで持たれて行った――怖ろしい気がする", "兄様。いま仰っしゃった二女の母とは――それは、私たちのおっ母さんとはちがうのですか", "亡父の過失。わしも、深くは知りとうないし、きょうまで、姉妹の気持にけじめは持たなかったが、異母胎じゃという事は、さる人から、聞いていた。――その母という人は、美人ではあったが、癆咳で、若死にをしたという話も……" ], [ "何事ですか、この、丈八郎の冤罪とは", "貴公、清水一角から、金を取っておるか" ], [ "なんで、彼奴のごとき、人非人から。――恨みこそあれ、金子などを", "ところが、世間は、そう視ておらん。――例の、湧井と青砥の二人が、脱藩した事から、貴公にも、疑いがかかっておる。一角とぐるになって、米沢藩の腕利きを、他藩へ引きぬいたのだと申しおる。――でなければ、お八重どのが" ], [ "――一角について、逃げるわけもないし、それを、兄たる丈八郎が、黙って見ておる理もないと。――ま、一理あるな。そう申しおる", "ウウム……左様でござりますか", "処分せいとか、斬れとかいう声が高い。もし、重役が、家中の声に動かされると、切腹とくる。絶家、物笑い。――わしは近所に住んで、御気性も知っておるで、犬死にはさせとうない。逃げたらどうだ、今のうちに", "あなたまでが、拙者を、左様な、卑怯者と……", "いや、逃げるといったのは、わしが悪い。冤を雪ぐのだ、潔白を立てるのだ。――それには", "は" ], [ "一角の首を、米沢へ、引ッさげて帰藩する。それより潔いことは、あるまいが", "有難う存じます。よくこそ、御注意を" ], [ "駕屋、一汗拭け", "ありがとう存じます。――旦那あ、短気だから堪らねえ、この炎天に、こんなに飛ばしたこたアありませんぜ", "心太でもすするがいい、ああ、ここは涼しそうだ。老爺、床几を借りるぜ" ], [ "おっと、と、と。旦那あ、其処は", "なんだ", "よけいなお世話のようですが、さっき掛けた女衆が、嬰児に粗相をさせたんでまだ、尿で濡れている筈で、――お値だんは同じ事、こちらへ、お腰かけなさいまし", "そうか、女衆の粗相ならよいが、嬰児のでは、あやまるとしよう", "はははは。飯坂では、だいぶお賑やかなことで", "二、三度、温泉壺の中で、ぶつかったな", "旦那も、覚えておいでになりますか" ], [ "足かけ二月、永い御湯治で。――てまえが、仙台から、会津福島の花客を、ぐるりっと、一廻りして来ても、まだ御滞在と聞いたには驚きましたな", "何屋だい――老人は", "どう見えますかの。町人には、相違ございませぬが", "そうだな……。黒焼屋か", "さすがに、女向きな所を仰っしゃる。だが、違います", "薬屋でもなし、呉服屋でも", "だんだんお近くなりますな。実は、その辺――繭仲買の銀六と申して、こ覧の通り、秤一本、腰にさしたのが飯の種です。出店は、諸国の桑ある所、住居は、繭の中とでもいいましょうか、いやもう、のん気な風来商売で、歩いてばかりおりまする", "繭買か。なるほど", "いやですぜ、顔を見て。――顔がさなぎに似ているなんぞは", "人間のさなぎは、老人ばかりじゃねえ。俺なんぞも、若いさなぎの方だろうよ" ], [ "どうして、飯坂あたりの夜ごと日ごと、酒よし、女よしの、あのぶん流し振り、いやもう、恐れ入ったものでした", "ひどく、感心するな", "いたしますとも、真昼、北上川の温泉壺の中に、白い首と、旦那の首と、二つならべて、河鹿を聞いているなんざあ、言語道断", "よくねえ老人だ。いつのまにか、俺の悪い所ばかりを、覗いていやがる", "は、は、は、は。それからまだ――福島から来ていた後家殿を何して", "もう沢山" ], [ "今夜は、白河で", "いや、陽いッぱいに、大田原までは、のせるだろう", "ついでの事に、夜旅をかけてもいい。今市とまで、突っ走りとうございますね", "行くか、交際え" ], [ "陽明門の御修築で、諸国から、職人たちが集まっているせいだろう。あれはすばらしい。日光の賭場を知らずに、博奕は語るな。旦那あ、どうですな", "行こう" ], [ "ふふむ、あの浪人者か。山の大賭場へ割りこんで、素ッ裸に、取られたっていうなあ", "素人のくせにしやがって、諸国の親分が出張っている盆へ行って、商売人の金を取ろうっていう量見が、第一、押しがふてえ", "だが、毎日、そっちこっちの工事場で、寝てばかりいやがって、邪魔になってしようがねえな", "先へ行く路銀も失くなったんだろう。賭場をのぞいちゃ、金をゆすッて、ああして、酒ばかり食らってやがる。――まさか、左官や塗師の手伝いもできず、侍もああなっちゃお仕舞だな", "叱ッ……。やたらに、大けえ声を出すな。眼をさますぞ" ], [ "伺いたいのは、実はこの日光の御普請場に、賭場があるそうで", "おい。邪魔だな、あぶねえぜ", "はいはい、相済みません。――その賭場に、十日ほど前から、清水一角という浪人が、遊びに来ているという事を、ちらと他から耳にしたのでございますが、どなたか、御存じでございましょうか", "知らねえよ、一角なんていうな", "でも、慥な所から……おかしい。間違いはないような話なのですが", "幾歳ぐらいな浪人だい", "やがて三十近い――どこか凄味のある痩せた男でございます", "じゃ、あれじゃねえか。縮布屋さん、あの板屋の横に、昼寝をしていたが", "えっ" ], [ "――何処に?", "おや、いつのまにか、見えねえようだ。何処へ行っちまったのか" ], [ "あの浪人者なら、たった今、町から帰ってくる途中で打つかったが、何か、一本槍に、宇都宮街道の方へ、急いで行ったぜ", "え、宇都宮の方へ。――そうですか、いや大きに" ], [ "相手は、分った。やっぱり、ゆうべそっと報らせてくれた人の告げは、嘘ではなかった。……しかし、あれは誰だったろう", "ほんとに、不思議な。――今朝旅籠を立ってから、ふと見ると、兄様の菅笠の裏に、そんなお告げが書いてあったなんて。……まるで神様が" ], [ "あなたは、米沢の裏町にいた――", "まあ、そんな事は、どうでもよい。実は、貴公たちが、発足して後、わしも江戸の親戚に急用が出来てな", "もしや、ゆうべのお報らせは", "実は、おせっかいだが、わしの教えた事だ。今市へ泊った晩に、相宿の者からひょいと聞き込んだので", "存ぜぬために、お礼も申さず", "いやいや、こッちに都合のわるい連れがいたので、わざと、お会いしなかったのじゃ。――だが、今聞けば、一足ちがいで、ここを立ったという事。はやく行かっしゃい、時遅れては", "では、お信は、まだあの傷手の病み上がり、どうぞ", "ああ、心配しなさるな。どうかけ違っても、わしが、ひきうける", "安心しました、それでは", "一角も、剣を把ると、名だたる腕利き。ぬかりはあるまいが、油断はせまいぞ", "その儀は" ], [ "みろ、言わねえ事じゃねえ。ぽつぽつ、降ッて来たじゃねえか", "でも、相傘なら、いいじゃありませんか" ], [ "何をしやがる", "かッ!" ], [ "じゃ、支度をして来なかったのか", "ええ。……だって、とても乾分たちの眼があって" ], [ "ああ、酒がさめた。酒が恋しい", "そんなに、この頃は、飲むのですか", "半日も、一刻も、酒がなしじゃいられねえ", "私が、側にいるようになったら、そんな毒なものは、もう飲げない。そして可愛がってばかりあげる" ], [ "あら、何処へ", "居酒屋だ" ], [ "濡れますよ。傘の中に、はいっていないと", "ええ、小うるせえ" ], [ "――てめえは一体、どこへ行く気だ?", "あんな事をいって。江戸へでしょう。そして、私には、お里姉さんのように、江戸唄のお師匠様にはなれないけれど、針仕事ぐらいはできるから", "だれが、そんな夢を見ろと言った。一角は、天下の無宿、おめえなどと、巣を持つ土地さえありゃしねえ。――ばかばかしい、金でも持って来るかと思やあ……", "清水さん。おまえ、それは本気で", "本気も嘘もあるものか。元々、一角は、浮気者だ。浮気者なればこそ、禄にありついたと思うと、そいつに身を破る。こっちの身を破らせておいて、女は、後じゃ恨みつらみ……。それを思うと、酒は可愛い。おれはこれから宗旨をかえて、生涯酒を無宿の女房ときめる。……へッ、へッ、へ、へ。よくもここまで俺も……は、は、は", "何が……何がおかしいのですえ。……じゃ清水さんは、初めから私を", "あたりめえだろう。てめえも、武家の出戻りでありながら、ただ、行きずりの一角に、すぐ手を出せば乗るなんざ、女庭訓を外れている。身から出た錆", "な、なんですッ", "おっ――あ、あぶねえ、食いつくのか", "口惜しいっ……。く、口惜しいっ……", "泣け泣け。肩なら、いつまででも貸してやる。……おお、何か落ちた、髪の物が" ], [ "あ……姉さんの罰", "姉さん?", "――堪忍して、堪忍して" ], [ "何だ? ……それは", "釵", "畜生ッ" ], [ "飛びこんだ、飛びこんだ", "あの辺に――", "水がうごいている" ], [ "だ、誰だ", "酔をさませ。木村丈八郎だ", "来たかっ、丈八", "米沢への江戸土産に、その首を貰った", "ばッ、ばかなッ。……わ、笑わすなよ、丈八。俺こそ、貴様の首がぜひとも入用だ。江戸への、米沢土産に、てめえの首をぶら下げてゆけば、ちと、閾はたかいが、一時の身の置き場はある", "だまれ、姉の怨みも", "それで来るなら、それもよし、返り討ちだぞ", "何の", "くそうッ" ], [ "や、青砥弥助", "おう、湧井半太夫じゃねえか" ], [ "起きているか", "お……。いぶかしいぞ", "来たっ。は、は、は、は。丈八郎、俺は、なんだか、嬉しくってたまらない。とうとう来た――俺の、俺の待ちかねた日だ。ぬかるなッ" ], [ "繭買の銀六、お覚えか", "さては、老人、赤穂の廻し者であったな", "むろん、米沢あたりにも、一人や二人の間諜は。――これも、尽きぬ御縁", "おっ、よい敵だ" ], [ "さ。……どこか。……何処でもいい、人眼にかからない、所で、俺の首を……斬れ……。斬ってくれ", "しっかりしろ! 一角、まだ、まだ", "いや、御奉公はした。千坂殿への奉公はした。……貴様だって……立派だ……立派に頼まれただけの事はやった。上野介の首なんか、千坂殿だって、いつかはと、覚悟はしている。ただ……上杉家の立場が……ただそれだけだ。討て、はやく、人の来ないうちに", "もう、そんな私怨は、千坂殿のまえで忘れた約束だ。俺は、斬らん。――二人で、もう一度、赤穂の浪人の中へはいって、斬り死にをしよう。なあ、一角", "いけねえ。……それでは、俺の気がすまない。この雪の夜を、こんな、誂え向きな晩を、さばさば……と" ], [ "――赤穂の敵は、立派だなあ。戦いながら、惚々した。武士はやっぱり武士に、成り切らなくっちゃ、嘘なんだ。丈八……貴様あ、立派な武士になれ", "ばかなっ、俺も、今夜は死ぬ身――", "よせ。吉良の庭に、犬死するな。庭ざかいの塀を越えて、上杉家へ、駈け込め。――千坂殿が、きっと来ている。千坂殿は、きっと、貴様の生きて帰ってきたのを欣ぶ!" ] ]
底本:「治郎吉格子 名作短編集(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年9月11日第1刷発行    2003(平成15)年4月25日第8刷発行 初出:「中央公論 夏季増刊号」    1932(昭和7)年 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "無礼な。どこへ行く", "おのれ。どうしても、成敗を受けたいのか" ], [ "は。――わたくしです", "わたくしとは?", "又十郎です", "又十郎ならよい" ], [ "今帰ったのか", "え……え、え", "門前で、何か喧ましい声がするではないか。何ぞ見かけなかったか" ], [ "なあに、お気に止めるには当りません。毎度見える、貧相な武芸者です。柳生を打込めば一躍、柳生に代って、天下無双と法螺でもふこうという野心家の手輩でしょう", "それにしても、騒ぎが長いじゃないか", "頑然と、帰らないので、家来どもも持て余しているのです", "ふむ。……又十郎", "は", "おまえ行って、始末してやれ。ちょうどお父上は御登城中だ。父上がいてはできないが、おれがゆるす。それ程、強情に申す者なら望みにまかせて道場へ入れ、一撃に撲りつけてやれ", "はあ", "はやく行け。……自信がないのか", "な、なに。多寡の知れた……", "幾つぐらいな男?", "もう四十を五つ六つ越えておりましょう", "なんだそんな老武者か。はやくして来い。手に余ったら、わしが行ってやる" ], [ "…………", "…………" ], [ "――止めようか", "なに", "せっかく、ここに立っては見たが、もうやるまでもない", "だまれ。どこに勝敗がついた。まだ、まだ", "ああ。それすら分らない坊ンち。打つも張合はないが、但馬どのが帰られるまでの暇つなぎに――お見せしようか。勝負を" ], [ "――当家の長男十兵衛三厳でござる。舎弟ではちと、お手甘い御様子。というて、父但馬守は、いかなる道理をつけて参られようと、断じて、お手合せはいたさぬ。……で、それがしが代ろうと思う。御不服はないか", "む。三厳どのか", "……いざ", "いや!" ], [ "其許とは試合わん", "なぜ", "元々、御子息たちを、相手に望んで来たのではない", "柳生流は、治国の剣、見国の兵法を本義といたす。ゆえにお止流でもある。何度いっても同じ事", "ではなぜ、諸国に流派をゆるし、諸藩に同流の弟子を", "うるさい", "なに", "そのような世話、汝らにはうけん。帰れっ", "喧嘩を売るか", "汝れこそ", "どこに", "その眼だ。人の生命を狙っているその眼。察するところ、汝は刺客だ。父上のお命を窺いに来たな", "――げっ" ], [ "何をしておられた", "お見遁し下さいませ", "捕えようなどとする者ではない。わしは柳生家の四男右門だ", "存じあげておりまする", "知っている?", "はい。いつも、泉下の仏にお優しい御回向を、陰ながら有難いと伏し拝んでおりました", "あっ。では其女は……ここの土中に葬られている大機という者と……何か有縁のあいだがらだの", "え。……あの、由縁のある者ではございますが", "大機は、酒が好きだったのか", "ほかに楽しみのない人でございました。ちょうど今日が、家を出た命日。そっと生前好きな酒を手向けておりましたところ、あなた様のお越しにうろたえて、こんな所へ身を隠したのでございました", "さて、よほど親しい間だの。其女の父か", "いいえ……滅相もない", "では叔父か", "そればかりは、どうぞ何もお訊きくださいますな" ], [ "はい。右門はこれにおりますが", "廊下か。来るには及ばん。裏の原へ出て、月見をせぬか、月見を", "よろしゅうございますな", "昼間、仲間どもが、網を打って、鶉を十羽も捕ったという。芋田楽に、鶉でも焼かせて、一献酌もうではないか" ], [ "昼間捕った鶉があるか。あったら、裏の原へ、莚を敷いて、田楽焜炉に炭火をつぎ、芋や串肉を焼くようにしておけ", "誰が召上がるんで", "兄上だ", "十兵衛様ですか。かなわねえな" ], [ "どうだ。おまえも一杯", "私は……", "不自由な奴。相変らず飲めんのか", "すぐ咽せてしまうのです", "又十郎と半々になるとちょうどよいに。……又十郎といえば、あいつは二刀流だな。わしは眼も一つ、好きも一つだが", "お戯れを", "お前と飲んでいると、他人と飲んでいるようだ。酒は魂と魂の接触、お互いの血が交流するところに味のあるものだが……" ], [ "はははは。右門、おまえは酒呑みじゃなかったな。おれの言葉は無理だったかも知れん。――だが、もう少し日常快活に暮せよ。野望を持てよ。剣道が嫌いなら嫌いでいい。何か、政治に心を燃やしてみるとか、禅をやるとか、軍学を究めてみるとか", "禅門に入ってみたいと思っております", "よかろう。だが、禅とは、大悟のことだ。おまえみたいな小胆者では、大悟はおろか、迷って見ることもできはせぬ。――まあ、養子の口だな。お父上も心がけておるらしい。いい養子先があったら行く事だ" ], [ "ああ、酔うたなあ。右門……鼓を取って来ぬか。おぬし、猿楽を舞え。……何、舞えん。然らば、鼓を打て、わしが舞うてみせる", "兄上。こんな所へ、横におなり遊ばしては、体に毒でござります。莚も夜露に、じっとり湿っておりまする", "樹下石上は、乞食と武芸者、どちらも馴れておらねばならぬ。……ああ、月天心。この月を見ていると、天下は泰平、風を孕む不平の輩もないようだが……" ], [ "――坐れ。右門", "はい", "おれは知っている。あの大機の墓石へ、足しげく回向に来る女と、おまえは親しくしているな" ], [ "親しく、親しくなどした覚えはありません", "きっとか", "ええ。誓って――", "ならばよいが" ], [ "女はいずれ、大機の身寄りの者だろう。――ま、それはよいがだ。あの綾部大機とは何者か、そちは心得ておるか", "詳しいことは存じません", "佐竹の家中に縁者があるの、北陸の者だのといって来たが、真っ赤な嘘だ、肥後訛りがあるなと、わしは睨んでいた。案の定、死骸を検めてみると、懐中には祖先の系図や、遺書など所持していた", "遺書を……ですか", "さればよ、死ぬ気で、柳生家の門へやって来たのだ。お父上の但馬守を主家の仇と呪い、是が非でも、父上に近づいて、刺し交える覚悟で来た漢よ", "解せぬ事ではございませぬか……。お父上に対して、肥後浪人が主家の仇などとは", "所謂ない事ではない。父但馬守は、過ぐる寛永七年この方、新たに設けられた幕府の職制、大目付という要職に就かれて、剣道師範役を兼ねてお勤めになっておられる", "存じております。家光公の御信任あつく、お父上も御辞退しかねて、当時よほどな御決心でおうけなされたとかで……", "嫌な役だ。誰でも逃げたい憎まれ役なのだ。……なぜといえば、大坂落城以来、徳川家に随身してきた大名のうちには、肚からの随身でないものが幾らもある。また御政治の方針からいっても、大藩の封地は、できる限り、削り取るか、取潰すか、せねばならぬ。その大きな後始末が残っている", "――で、大目付の役が、新たに設けられたわけですか", "外様、譜代を問わず、諸侯の内秘や藩政の非点をつかんで、これを糺問に附し、移封、減地、或いは断絶などの――荒療治をやらねばならない当面の悪役が大目付じゃ。お父上でなければできぬ。御上命のあった際、父上は恐らく死を決しておひきうけ召されたに相違ない。――以来芸州の福島正則、肥後の加藤忠広を始め、駿河大納言家にいたるまで、仮借なく剔抉し、藩地を召上げ、正則も配流、忠広も流罪、大納言家も、今、御幽閉させて、上意を待たるるお身の上だ。……そのほか大小名、減地移封の目に遭った者は皆、将軍家を怨むよりは、大目付の辛辣をうらんでおるに相違ない。――綾部大機もその一名なのじゃ", "……あ。それで", "わかったか", "怖ろしいことでございます", "恐れるには足らん。しかし、もし大機が父上に近づいていたら父上とて、どうなったか分らん。いかに達人でいらっしゃっても、死を極めた奴にはかなわぬからな", "そうとは知らず、あわれを思うて、死骸を葬ってやったりなどしましたが", "そこはおまえのいいところだ。白骨になれば、われらみな同魂同性。……だが、あの墓石に近づく身寄りの者とあれば、いわゆる怨みも重んで二重の遺恨をふくむ者と視ねばならぬ", "…………", "右門。気をつけろよ", "……はい" ], [ "家はどこか", "薬研堀でございます。あの薬師様の裏通りで、糸問屋の持長屋に住んでおりまする", "お屋敷の往き帰りに――というたが、武家奉公か", "榊原様のお奥へ、お針子に通っておりますので", "親は、浪人者か", "父親はもう……", "うむ、病んだといったな", "はい。死ぬ時、なぜか、侍の妻にはなるなと、遺言にいいましたが、わたくしは町人ぎらいで、やはりどうかして、武家の家内になりたいと、叔父、叔母にかくれて、お針部屋に御用のない時は、町の道場へ通うております", "なぜ其女の父は、侍の妻になるなといって死んだのか", "御主君の末路やら、自分の末路やら見て、そう考えたのでございましょう", "さてはやはり、没収大名の家来だったか", "わたくしは幼くて、よう存じませぬが、福島様の家中の端で、百石とか取っていた侍と聞いておりまする", "今、身を寄せておる家は", "叔母の家におります。けれど叔母は、世馴れた人で、これからの世間は、何んでも金を持たねばならぬ。……などといって、わたくしに、三味線を習えの、金持の人に近づけのと。……死ぬほどそれが辛うてなりません。大機さまが生きているうちは、大機さまの家へ逃げこんで、叔母に意見をしてもらいましたが、もうそのお人もないし……" ], [ "お帰りなさいませ", "お帰り遊ばしませ" ], [ "誰じゃ、其女は", "はい。由利と申しまする", "新参か", "去年の十月末、御奉公に上がり、二月の下勤めをいたしまして、このお正月から、奥の御用をさせて戴いております", "幾歳だな", "十九になりました" ], [ "御休養の暇もなく、父上にも、御疲労にございましょう", "天下のお為と思えば、この老骨の死花。疲れは厭わぬ", "ですが、大目付などと申すお役目は、自体、お父上の人柄にはないものでしょう。それに柳生家は、剣の家です。醜い葛藤や術策や政争の中に、可惜、老後の晩節を台なしに遊ばしてしまわぬよう――十兵衛はそれを祈りまする", "分っておる。だが、一身を顧みておられぬ場合だ", "お父上が当らなければ、誰かが出て、難局に当りましょう。優れた剣人は、一世にそう何人も出るものではないが、なあに、大目付ぐらいやる政道家は、箕で掃くほど代りがあります。よい加減に、御退役なされてはどうですか", "それができるくらいなら", "なぜできませぬか。お父上こそは、祖父石舟斎宗厳から、新陰の極秘と柳生の正統を、並び授けられて大成なされた――唯一無二の現今の剣宗ではござりませぬか。将軍家に仕える道も、それを以てなされば、それ以上の御奉公はない筈と存じますが", "いや、そちのいうのは、小乗の剣だ。柳生流はそうでない。わしが十三歳の頃、父の石舟斎宗厳に手を曳かれ、初めて陣中で家康公に拝謁した時、父の石舟斎は家康公の問に答え――柳生流は大乗の剣をもって本旨とするとお答えなされた", "大乗小乗も臨機でございましょう。諸流百派、剣は皆一道と心得ますが", "が、柳生流の極意は、無刀だということを、そちももう悟っておろうが。――無刀とは、泰平の体。泰平の策は、治国にある。されば、わが家の兵法は見国の機を悟り、治国の太刀たるところにある。将軍家へもそう御指南申しあげて来た。家康公が、秀忠公の師にと、わが家をお取立てになられたわけも、柳生流のそこに御信任をかけられたからだ。――今、三代家光公の治世となり、天下再び大乱の兆しある時、平常、治国の平常を説き、お上の師範たるわしが、この難局を、よそ事に見ておられようか。――もしわしに今のお役目が勤まらぬ程なら、柳生流の極意は死物となるのだ" ], [ "又十郎がおらぬが、又十郎は其方から後で伝えてくれい。最前からも申した通り、わが家の流は治国安民を道とする兵法じゃ。この父に協力して、そち達にも、御奉公を手伝うてもらいたいのじゃ", "手伝えと仰っしゃいますと", "又十郎も其方も、わしの手足となって、わしが行けという地方へ数年武者修行に出て欲しいのだ", "つまり……隠密的な命を帯びてですな", "まあ、そうじゃ", "行く先は", "九州一円――わけても肥前、大村、天草、島原の辺り", "火の手の揚がりようによっては薩摩も危ないものでございますな", "其方も感じておったか。諸州の浪人や豊臣の残党どもなどが、邪宗門に口を藉りて、土豪土民をあつめておる様子。――長崎奉行あたりの報告では、些細に申しおるが、宗門と武力が結びつくとなれば、これは捨ておけぬ大事となる。どうだ、行ってくれるか", "十兵衛には、異存ございませぬが、又十郎は、何と申しますやら", "否とは云わさぬ。そちからも屹度申せ。又十郎の身状、平常黙っておるが、知らぬ父ではないのだぞ", "母上が御在世ならばと思うのでござります", "ばかな。又十郎とて、子供ではなし", "いやかえって、他国へ修行に出れば、彼にはよい転機と相成りましょう。……しかし、参るとなれば、五年七年の遊歴は覚悟いたさねばなりませぬが、その間、お父上の身辺には", "右門がおる。右門を残しておこう。病弱でもあるし……" ], [ "あれ……そんな事を遊ばしてはいけません。……滾れます、お茶が", "なぜ逃げる", "逃げはいたしませんけれど", "ならば、おとなしく、もっと寄って坐れ。話があるのだ", "……でも。……でも", "誰に知れても関わぬ。わしは、恋はするが、不義はせぬ。何も人目を憚ることはない。十兵衛はそちが好きだ", "ま。……そんな", "顫えておるな。わしがこんな片目の醜男ゆえ、恐いのか", "いいえ。……そんなわけではございませぬが", "然らば、返辞を聞かせい。いつぞや、十兵衛が遣わした恋歌、解けたか", "…………", "そちは、この十兵衛が、好きか嫌いか。好きならば好き――嫌いならば嫌いと申せ", "……おゆるし下さいませ。手が痺れて痛うござります", "離してやる。……だが、正直な返答をせぬうちは、ここは出さぬぞ。まだ、急な事ではないが、十兵衛はやがて諸国遍歴に出て、短くとも、ここ五、六年は帰らぬ身じゃ。そちさえ嫌でなければ、百年の誓いをして立ちたい。また、厭なものならば――ぜひもないが" ], [ "きょうは、御内意によって、他へお使いのついでに寄ったのじゃ。来月、浜書院で上様のお船遊びが催される。その折、兄弟どもも皆、誘えという御詫じゃ。――但馬守に伝えても遠慮するであろうゆえ、そちから申せと、わけても有難い仰せなのだ。――又十郎はおるか", "おります", "兄上十兵衛どのは", "おられます", "右の由を伝える程に、これへ呼んで貰いたいな" ], [ "お召です", "十兵衛どの、お召でござるぞ" ], [ "……お掃除をしておりましたの", "掃除を", "はい。殿様から、今朝お立ちがけに、お机のまわりを、きれいにしておけと、吩咐けられておりましたので……お硯を洗ったり、お机の塵を払ったりして", "ああそうか。誰も手をつけさせない御書斎だが、そなただけは、格別、お父上も信用していらっしゃるものとみえる。……もう済んだのか", "ええ、もうすぐに片づきまする", "何じゃ、白い粉が、畳にも、そちの膝にもこぼれているが", "殿様のお咳の薬を、御書を取りのける弾みに、つい滾してしもうて", "あ、持薬のおくすりか。……由利、ちと話があるが、ここで聞いてくれるか", "いけません。朋輩たちが、この頃は、とかくわたしを、嫉みの目で視ております。晩に……", "晩に……", "え。そっと、空地の塚の所で", "あの石のところでか。……じゃあ、八刻が鳴ったら行っているぞ" ], [ "はい", "この薬、いずれから持って来た", "いつもの、お手筥の薬嚢から一錠取って参りました", "書斎の本箱の上のか", "左様でござりまする", "手燭をつけてくれい" ], [ "殿。――何事が起りましたのでございましょうか", "大した事ではない。はやくそちにいうておけばよかったが、公務のみ一念に、家の些事はと、顧みもせず、打捨てておいたのがわしの落度。――由利という新参の小間使、もうおるまいが", "いえ。おると思いますが", "いや、おるまい。――じゃが念の為、何か他に異変はないか。邸の内、一応、静かに検めてみい" ], [ "由利、どこで……どこで死ぬのか", "おやしきの追手が、気がかりでございます。もし捕まったら、あなた様もわたくしも……", "恥だ。生きているよりも――", "大川までは、逃げきれませぬ。いっそここで", "深いだろうか" ], [ "あっ、待て", "右門ではないかっ" ], [ "どうじゃ。わしの意見は、嘘ではなかったろう。お駒はこれの姉なのだ", "分りました。迷夢がさめてみれば、お駒の日頃にも、思い当るふしばかりでございます" ], [ "五年で帰るか、十年で戻るか、行く手も知れぬ世の中の峰をさして、わしらは修行に赴く。父上への孝道は、これ一筋と、思い極めて赴くのだ。頼むぞ、後は", "はい……。おさらばです" ] ]
底本:「柳生月影抄 名作短編集(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年9月11日第1刷発行    2007(平成19)年4月20日第12刷発行 初出:「週刊朝日 新春特別号」    1939(昭和14)年 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "おう! これや初客じゃ! 富武五百之進殿が、初客にござったとはかたじけない。――なに、花世さんもご一緒か、これはいよいようれしい", "これ花世、何が恥しい、こちらへ参って、ご挨拶を申さぬか。――どうも、いつまでも、子供で困る", "なに、子供どころか、貴公よりは、背丈が高い。それに、しばらく見うけぬうちに、たいそう美人になったのう、あはははは。……何せい、よく訪ねてくれた。――ま、早速だが、見てくれい、わしの建てたこの家を" ], [ "ウーム、おびただしい数だな", "三十年のお役目は、ふり顧れば、一瞬の間、自分でも、こんなに多かろうとは思わなかった", "……怖ろしい! 拙者はこれを見ていると、世の中が、怖くなる" ], [ "――老先生、長崎から、お手紙でござります", "さあ、郁次郎から参ったか" ], [ "ちょうどよい折。五百之進殿、郁次郎からの便りでござる", "どれ、どれ" ], [ "いつ着くな、郁次郎殿は", "この手紙では、九月の末――十月には相違なく帰るじゃろう。帰府の上は、早速にも、婚儀を挙げたいと思うているが、そちらのご都合は", "師走ではいかがかと考えておる。――十二月、そして、新春を迎える", "なるほど。郁次郎めも、こう早く帰府いたすというのは、一日千秋の思いで、一刻もはやく、花世さんの顔が見たいのじゃろう" ], [ "はははは。恥しいことはない。郁次郎が帰れば、あの屋敷は、二人のもの。わしはこの草堂の主になって、仲のよい若夫婦を眺めて暮す。……それが唯一の希望じゃ。オオ、そういえば五百之進殿、お願いしておいた公辺へのお届けは", "そのことなら心配はない。御老中方も、趣旨を聞かれて、さすがは塙老人、殊勝であると、すぐにご聴許になった", "それで安心いたした。公儀のお許しがすめば、もう世間へ知れてもよい", "では、いずれ近日に、改めて、結納を持って出直して参る", "左様か、では、婚儀の日どりは、その時のご相談としようか" ], [ "――十手捕縄をもつ人間は、鬼のごとく無慈悲なものと思われているが、人間皆悪、人間皆善、情涙には誰も変りはない", "成程、そういうものでしょうか", "で――わしは、ひとりの罪人を獄門へ送ると、必ず、一つの木像を彫って、朝と夕に、供養しておった。――それが三十年のあいだなので、いつのまにやら、あんな数になったんじゃ" ], [ "なんじゃ、捕縄供養とは?", "前例のないことですが、老先生のようなお方も、前後に珍しいことですから", "で、どんな事をするというのか", "こちらの愛縄堂を拝借して、名月の夜は、心ある者が集り、あの老先生の手彫りの悪霊どもを供養しまして、序ながら、ご隠退を惜しみたいと存じますので", "でも、わしはもう、とうにお役退きをしておるンじゃ", "けれど、世間では、こんどのご普請で、初めて老先生のお覚悟をはっきりと知ったのですから、古いお馴染がいに、一夕ぐらい、ゆるゆると、お膝を合わせて語りたいと熱望しております", "そうか。……じゃ皆のよいように、やって貰おう" ], [ "いい十五夜だなあ、昼のようだ", "オイオイ波越", "なんだ、加山", "月にばかり見惚れていないで、少し急ごうじゃないか。公用で少し遅刻したが、吾々は、今夜の世話人の中にはいっているんだ", "そうだ、こん夜の捕縄供養は、老先生が生涯に一度の思い出だ。おれも貴様も、老先生には、訓育のご恩をうけている師弟のあいだ。それが遅く参っては、参会者も不都合な奴と怒っておるかも知れん。早く参ろう" ], [ "待てよ、ちょッと", "どうした?", "あれに、妙な奴が佇んでいる。……今、ホウ、ホウ、と口笛を吹いた", "いや、そう聞えたのは、梟だろう", "そうか、しかし、怪しい風態じゃないか。……オヤこっちへ来た" ], [ "や、あいつ、御霊廟のうしろから出て来たぞ", "あの裏は、往来でない筈だが", "鎧櫃を背負っているじゃないか", "ウム……おやっ? ……こいつあ、臭い" ], [ "待てッ", "何処へ参る!" ], [ "どうじゃ、両名、苦しいのか", "いえ、なんの、面目ない儀です、不覚を仕りました", "不覚どころではない、これや、案外な大罪人かも知れぬぞ。暫時傷手をこらえて、召捕った時の模様を、話して聞かせい" ], [ "死骸だ!", "――女じゃないか" ], [ "十九か、二十歳ぐらいに見えますが", "ウム、おれもその辺に見当をつけているが、身分は、何者だろう", "さあ、髪はこわしてあるし、帯はないし、当りがつきませぬが、ただどこか上品な面影があるように見うけますが", "いかにも、公卿の娘といっても、恥しくない", "ことによると、どこかご大身の方の寵妾ではないでしょうか", "鎧櫃に入れてかつぎ出された点からみても、武家屋敷だという推量はつく", "しかし、どうして、女の死顔が笑っているのでしょう", "眠っているところを、一突きに、刺し殺されたものと思う。――情痴の遺恨だな、これは", "お説に同感です。けれど、ここに不審があります", "何か", "死骸の左の手を検めてみると、人差指が一本切り取ッてあります", "情痴の下手人が、持ち去ったものだろう", "それならば、髪の毛とか、小指とかを、切りそうなものですが", "いや、争う場合に、切り落されるという例もままあるから、その指は、あまり証にはならぬ。もっと重要なことは、女の髪油の匂いだ。――江戸の女は、上つ方で、伽羅油、町方では井筒か松金油と限っている", "なるほど、少し、薫りが違いますな", "その匂いは、長崎土産の薔薇香という舶載油にちがいない。まだある、その長襦袢の模様は、唐人船ではないか。してみると、この女の情人か、主かは、長崎の方に知行所を持つ武家か、縁のある男と見て、大体、間違いはあるまい", "それだけ伺えば、だいぶ目星がつけ易くなりました。両名して、きっと女の素性を洗って参ります", "いや、その手傷じゃ、二、三日は無理だろう。充分に加療して、それから働いてもらいたい" ], [ "呆れた奴です、寝ております", "なに、寝ている", "正体なく、鼾をかいておるので", "よし!" ], [ "これ、町人。貴様は手足の皮があつい所を見ると、田舎者に相違ないが、どこの国の者だ。黒焼売りか、百姓か", "…………" ], [ "おい大将、唖聾のまねなんざあもう古手だぞ。この石倉の中の道具は何に使用するものか知ってるだろう。そんな無駄な世話を焼かすもんじゃない。奉行所で貴様を下手人と睨めば、なにも、こんな生ぬるい吟味をしてはいない。下手人のホシは他についているのだが、しかし漫然と放免は出来ぬから、役目の手前として、一通りだけのことを訊ねるのだ。はやく済まして、貴様も今夜は、女房のそばへ帰って、晩酌でもやった方がいいじゃないか", "…………", "どうしても、口を開かんな! いつまで猫をかぶっていると、為にならんぞ!", "…………" ], [ "それやあ、惜しいことをした。実に、惜しい", "えっ、何か、ぬかりがあったでしょうか", "だが、貴公の落度ではない。最初に、唖聾を捕えた時の二人の手ぬかりじゃ。まだ若いからしかたがないようなものの、残念なことじゃった", "ははあ? ……とは何故で", "唖聾は、何者かにあやつられている手先とわしは観る。張本人は、その折、先へ行った黒衣の侍だった", "あっ、なるほど", "いちど懲らした魚は、なかなか二度針を食わぬ。これや、難事件になるな", "殺害された女が、万一、ご大身の部屋方であっては、後日に、大失態と、お奉行も心痛はしておりますが、皆目五里霧中の状態なので、ほとんど、困惑しております", "いまだに、何処からも、届けも出ねば、騒ぎ出しても来ぬ点をみると、よほど身分のある婦人か、でなければ、巧みに現場を伏せてあるものとみえる", "何しろ、捕えた男が、稀代な変物で、それに根気を摺り減らしました。一体、彼奴は、ほんとの唖聾でございましょうか、それとも偽者でございましょうか", "それや、立派な、ほんものじゃよ", "では、女の素性に就いては", "まだ、どうとも、断言ができんが、下手人には充分に余裕があった。死骸から端緒を求めようとするのは徒労じゃな", "髪油の薔薇香は", "ちょっと、面白いな。だが舶載の化粧油が江戸にないとは言いきれん", "短刀は", "それも、下手人の周密な用意、出来心でない証拠だ、痴情の殺人と申すのは違っとる", "左様でしょうか", "下手人は両刀を帯びた侍、なんで、そんな短刀を選ぶ必要があろう。後日の鑑定を紛わすからくりさ", "そのために、故意に、突き刺したまま、抜かずにおいたものでござりましょうか", "いや、突かれた時は、声をあげぬが、抜く時には、悲鳴を発しるものだ", "怖しいほど細心な曲者とみえまする", "なにせい、殺した現場をつきとめる事に急ぎなさい。悪くすると、この下手人の大胆さでは、後の証拠まで、きれいに掃除してしまうじゃろう", "さ。そこでござります、神の如きご眼力で、何とかこの迷霧のうちから一活路を見出すご思案を仰げないものでござりましょうか", "そこじゃて……" ], [ "老先生――", "なんじゃ", "妙なことを伺いまするが……" ], [ "今、あちらへ参った美しい処女は、ご当家の召使いにございましょうか", "いや" ], [ "違う。わしの手元に、女子はおらん", "では、出入りの町人の娘か何かで?", "いや", "どちらのお女中でございますな", "あれや、実を申すと、長崎表に遊学中の伜郁次郎の許嫁、花世さんじゃ", "えっ、では、ではあの……", "まだ内聞じゃから、そのおつもりでな", "はい、ご吹聴はいたしませぬ。左様でございましたか……あのお方が、御書院番、富武五百之進殿のお嬢様でございまするか、ウーム……", "どうした、たいそう考えこんでしまったが", "イヤ、何、余りお美しくいられるので……" ], [ "近頃はまた、めッきり艶やかになって、水が滴るようになった。みなが言うよ、花世どのは美しい、富武氏の娘御は気質がよいとな。……む! そこで、前の話に戻って、名案という一件だが", "は。……はっ" ], [ "えっ、ありますか", "ある!" ], [ "して、その鍵とは?", "やはりあの唖男だな", "老先生のお考えもそこにござりましたか。して、その唖男を、何といたしますか", "獄から出してやる", "出して?", "む", "出して、それから?" ], [ "逃がしてやるんじゃ", "げッ!" ], [ "東儀", "は……", "何をわしの顔を見ておるのか", "でも、奉行所としては、唯一の手懸りとしている唖男を放免せよとは、老先生にも似あわぬお考えかと……", "ハハハハ、早合点をいたしておるな。放免せよといっても、それは一つの策、その前に、加山と波越に旨をふくませておいて、唖めが、牢を放されたら何処へ帰ってゆくか? ――その先をつきとめる。つまり唖は、傀儡じゃ", "あ。――なるほど!" ], [ "恐れ入ったご深慮、凡智の及ぶところではございません", "しかし、放してやっても、唖めが、尾行られていることを覚ればもう効力はないから、すぐにその場から縛りあげて、牢へ戻せ", "早速、立ち帰って、そういたしましょう。――ついては老先生", "何かまだ話があるのか", "これは、お奉行からの伝言ですが、この度の難事件は、死骸の女の身元次第では、容易ならぬことになるやも分りませぬ。従って、ご迷惑ながらこの後も何かと手懸りのあり次第に、ご意見伺いに出ますゆえ、よろしくお指図を願いまする", "わしは町奉行じゃないから、越権なことは言えんよ。ま、困ったらおいで", "は。そのお町奉行が、只今、ご承知のとおり、御評定所の月番にあたっており、また柳営お目付も兼役しておりますので、ほとんど、町方の事件はてまえが任されております", "だから、しっかりやンなさい、出世のしどころじゃ", "老先生のお力にすがるほかはございません", "できるだけの相談相手にはなって上げたいが、わしも、知っての通り隠退をするような老年、近いうちに、伜郁次郎が長崎から帰り次第に、花世と婚礼もさせねばならぬ、また蘭医養生所の方もひらかねばならぬ。そうなると、いくら隠遁の身でもなかなか忙しいから、これはひとつ、八丁堀にいる捕物の上手、岡倉鳥斎を抱きこんで、あれに頼んだらどうだ", "その岡倉殿は、数ヵ月まえに、幕府のおいいつけに依って、蝦夷松前の漁場公事のお調べに出張中でございます", "ハハア、そうかそうか、そんな噂だったな。では? ……" ], [ "だが東儀、それは江戸詰の人間ではないぞ", "や、それでは困りますな", "なに困りゃせん。折よくも彼は、永らく公暇をいただいて、目下東都へ遊歴に来ておるんじゃ", "いったいそれは、どこの何人でござりますか", "名をいえば、お前も知っていよう、大坂町方役では錚々の聞えある若与力、羅門塔十郎だよ", "えっ、羅門塔十郎が、いま江戸表へ来ておりますか", "あれや、大塩の洗心洞出身で、いわば、藍より出でて藍よりも濃い男、その上にまだ勉強する気で、こっそりと東都に居をかまえ、お膝下の奉行所の組織、番屋川筋見張等の配置から、江戸流捕物術と上方流との比較など、なかなか研究しているらしい上に、余暇には聞えのある学者を訪ね、谷文晁の画塾へ通ったりして、絵などもやっているという話、わしの所へも一、二度やって来たが、どうも若いに似あわん落着きのある人間だよ。ああいうのが鬼才というのだろう", "ちっとも存じませんでした", "礼をつくして、いちど相談してみるがよい", "そういたしましょう", "じゃ、わしはあちらに、伜の許嫁花世さんが、何か用事があって来ているらしいから、これでご免をこうむるよ" ], [ "おい、牢番", "は", "唖聾のやつは、どうしておるか", "さっき晩の獄飯を与えました", "ウム", "それをガツガツと食べ終りますと、手真似をして、もっとくれいと強請みましたから、いかん、と首を振ってみせたら、さまざまなあだをいたして、いやはや手古摺りました", "吟味にかかると、まるで腑抜けのように、目鼻もうごかさんくせに、そんな振舞をいたすのか", "只今のぞいてみると、またぐうぐう鼾をかいて寝ております", "なぜ獄則どおりにせんか。割竹をもって牢鞘をぶッ叩け", "つんぼですから、びくともいたしません", "あ。そうか" ], [ "あっ……貴方は、東儀様ではございませぬか。何をなされます、こんな場所で", "えッ……拙者を東儀と? やや、貴女は", "ごぞんじの筈ではございませぬか、富武五百之進の娘、花世でござります。……何かお人ちがいでも", "こ、これは、飛んでもない失礼を仕りました。……ウウム、やはり貴女は花世殿だ、花世殿にちがいない" ], [ "東儀様、ご得心が参りましたか", "は、は、よく相分りました、まったくの人違いで", "他人のそら似ということもままございますから……", "面目ない失礼でござった。どうか、お父上にはご内聞に", "はい、私も女子のくせに、夜の外出は父に知れれば叱られますから", "しかし、供もお連れ遊ばさずに、おひとりでどちらへ" ], [ "貴方様も、老先生から、ほぼお聞き及びではございませぬか。……あの、塙様のご子息郁次郎様が、もう近いうちに、長崎からお帰りでございまする", "む、それならば承りました、こちらへご帰府になるとすぐに、貴女とご婚儀をおあげになるそうで", "で……お恥しいことでござりますが、道中おつつがのないようにと、毎晩、白魚橋の水天宮まで、そっとお詣りをいたしております", "が、今何か、その辺でお買い物をなされておられたようですが", "はい" ], [ "娶ぐにつけて、永らく世話をしてくれました乳母と召使いに、心ばかりの品をやりたいと存じまして", "成程。いや、なかなかお手廻しのよいことですな" ], [ "お送りいたそう、お屋敷の前まで", "いえ、もうどうぞ" ], [ "今もお話しいたしましたように、父には内緒でございますから", "言いようのないご無礼をして、このままでは心苦しい、お詫びのつもりで" ], [ "あ、東儀様でございますか、今し方まで、加山殿と波越殿が、非常にさがしておいでになりましたが", "えっ、では一度ここへ立ち帰ったのか", "はい、戻るとすぐに、身なりもあのままで、よほどなご急用とみえて、ご両所とも町駕を飛ばしてどこへかお急ぎになりました", "はてな? ……そして唖男の行く先は首尾よく突き止めたようか", "まるで目的が外れました", "やつ、逃げ失せたか", "いえ、その唖奴は、ご両所の帰るより前に、ひとりでのこのこと伝馬牢に舞い戻って来て、あげくの果てに、ひとりで牢へはいって澄ましこんでおるのです。――何でも波越殿にお話を承ると、唖めは、おふたりが尾行ていたことは全く知らない様子で、ここを出ると、しばらくうろうろ歩いていたそうですが、やがて、一軒のけんどん屋で、饂飩をしこたま食べこみ、また町の辻々をうろついて、今度は饅頭を買ってそれをふところに入れたと思うと、前と同じ道を真っ正直に戻って、再び伝馬牢の中へのこのこと帰って来てしまったというわけでござります" ], [ "あっ、ここにおいででしたか", "今、話を聞いていたところだが、唖への計略は、すっかり目的が外れたそうだな", "お聞きになりましたか。吾々も随分いろいろな罪人を手がけましたが、あんな奇怪な男には初めてぶつかりました", "して、すぐ町駕で飛ばしたそうだが、どこへ行って来たのか", "一応ご相談の上と思いましたが、結果が余り意表外なので、鶉坂の老先生をお起ししてご意見を伺ッて参ったので", "ム。よく気がつかれた。して老先生は何と言われたか", "それは手順が足りない。今夜のうちにやり直したがよかろうと仰っしゃるので", "どの手順が抜けているのだろう", "奉行所で吟味をした上、外の見えない盲目駕で伝馬牢へ差送りましたが、それが第一いけない、唖は全くの愚鈍で、その上、江戸の地理にうといと見えるから、元の奉行所へいちど戻し、また、初め召捕った増上寺の境内へ連れて行って、そこで放せと仰せられます。で、帰りがけに奉行所の方へ寄って、すべての打合せを済まして参りました", "してみると鶉坂の老先生は、飽くまで唖を、大愚者と見ておられるのだな", "何しろ世話の焼ける奴です", "ともかく、その手順どおりに踏んでみよう" ], [ "おや、あそこは通り道ではないのに", "鎧櫃を背負ってきた晩も、あの御霊廟の裏から出てきたのですから", "ははあ……では今度こそ、その晩、出て来た所へ戻るつもりだろう。では、両人、ひと足先へ" ], [ "静かにしてくれ、吾々は、奉行所の者だから", "えっ、あのお奉行の……" ], [ "いや心配することはない。ただ用意として聞いておきたいが、そちの家は、何商売だな", "駿河町の三井に通っております", "通い番頭か", "は、はい", "平常隣家と懇意にいたしておるか", "口をきいたこともございません", "主は女で、笛の指南だな", "そうらしゅうございます。ほかに、小間使い風の玉枝さんという女もいたようでございますが、十日ほど前から、ちっとも見えません", "門が閉まっているな", "はい、その頃から、上方へでも行ったような様子で、女主人のお雪様も見えませぬし、笛の音もしたことがございません" ], [ "どうでしょう与力、この態は", "案外だな。……しかしなかなかいい暮しをしていたとみえる、すべてが大名道具だ", "だが下手人の思慮にも似あわしくなく、どうして今日まで、このもう一つの死骸や、兇行のあと始末をつけないのでしょう", "あの晩、鎧櫃に入れて、二度にして運んで隠すつもりだったろうが、その最初に、唖が捕まったので、余燼をさましているのだろう。今に必ず、気がかりになって、ほんとの下手人が覗きに来るにちがいない。ウム……こうしよう" ], [ "どうなされたじゃない、今、出て行った曲者をなぜ捕えぬのだ。居眠っていたのであろう、たわけ者め", "曲者? 与力こそ何をとぼけているのですか、そんな者は、出て来ませんが", "幽鬼ではあるまいし、姿を見せずに出てゆけるか。たしかに表から出て行った。――それもたッた今ではないか", "なるほど、今、一人の武士が出て行きましたが、あれは与力がお呼びになった奉行所の使いでございましょう", "ええ、何をたわごとを言う。拙者が曲者を呼ぶ理由があるか", "でも、その武士を糺すと、そう言うのです", "貴公、同心のお役をご辞退したらどうだな。曲者の言い訳を、そのまま信じるようじゃ勤まらん", "でもその武士は、袂の中から、南町奉行の烙印のある与力鑑札を立派に示したのです", "作り物だ、それは", "いや、奉行所鑑札が作り物かどうかぐらいはてまえにも分ります。決して、偽鑑札ではありませぬ" ], [ "やっ、貴方は", "拙者は、お奉行榊原主計殿のご懇望もだしがたく、若輩の烏滸がましいとは存じながら、ご助勢に参った、羅門塔十郎と申しますもの", "オオ、では貴殿が、有名な羅門氏でござったか", "拙者がおひきうけをして、浅学ながら口出しをする以上は、一命を賭しても、必ず処理してごらんにいれるが、そもそも、江戸流の捕物術と上方流の捕物法とは、根本から手ぐちの違うところがござるが、その辺もご異存なくご服従くださるであろうか", "それはもう、ご方針のままに。――吾々にもよい後学に相成りますから", "では、ご免――" ], [ "左様。ただ死骸だけを庭へ移しましたが", "死骸? 誰の?", "素姓不明の町人でござるが、この屋内に絶息しておりました者で", "そういう大事な被害者の位置を移してしまっては詮議の上に非常な不便を来すが……", "いや、正確な図取を写しておきましたゆえ、そのご懸念には及びませぬ", "あ、そうか。……どれ、その図面をこれへ" ], [ "留守かも知れぬが、いたらば、主人でも女房の方でもよろしいが、すぐにこれへ呼んで戴きたい", "承知いたしました" ], [ "はい、お蔦と申しまする", "主人は不在かの", "毎日、駿河町の三井様へ、通い番頭をつとめておりますので、夜分でなければ宅にいたことはございませぬ", "そうか" ], [ "ではお前でもよいが――いやお前の方がむしろくわしく承知しておるであろうが、この家の女主人――殺害された鷺江ゆき女という者は、いつ頃から当家へ移って参ったのか、それからの事情を細かに話してもらいたいものだが、どうじゃ", "存じているだけの事は、何なりと申し上げまする", "む" ], [ "たしかこの夏の初め頃かと存じます。はい、こちら様が移って来ましたのは。――そのうちに大蔵流京笛御指南という看板をかけたので、ははあ、女の笛師かと知ったようなわけで、隣り交際もいたしませんから、間に、女主人のお雪様と、口を交わしたこともございません。それでも、塀隣りのことなので、ちょいちょいとご様子を見たり聞いたりしておりましたが、暮しは至って裕福らしく、男気はなく、玉枝さんという若い小間使と二人きりで、お弟子衆の来るたびに、よく笛の音が洩れて参りました", "玉枝?" ], [ "では玉枝と申すのは、雪女の小間使をしていた女だの", "はい、なかなか別嬪さんでございました" ], [ "して、その小間使は、いつ頃から見えぬのか", "ちょうど十五日の夕方、その玉枝さんが、風呂敷づつみを抱えて宅の前を通りましたので、オヤどちらへ? と声をかけますと、急に田舎の身寄りに不幸ができて、一月ほど宿下がりをして帰るところと、挨拶をして行きました" ], [ "主の勤め先と、ちょうど近い所に店がございますので。それに、この佐渡屋の旦那様が、どのお弟子さんよりも、いちばん足繁く此家へ通っておりましたから、自然顔を見かけることも多うございました", "では、この佐渡平も、雪女の所へ笛を習いに来ていた弟子の一名なのだな", "左様でございます。佐渡平さんが来ると、いつも夜遅くまで笛の音がして、時には、笛と三味線を合奏せて、睦まじくお酒でも飲んでいるかと思われることも度々ございました", "む" ], [ "事件は簡単です。殺害の原因はありふれた男女の痴情にすぎぬ。つまり佐渡屋和平と女笛師のお雪とは、よほど前からの仲で、何かの事情から此家へ妾宅を移して来たものであろう。ところが、女にはほかに男がある", "なるほど", "それが覆面の侍です", "あっ……そうですか", "その男女が密会している所を、佐渡平に見つけられたので、覆面の男が、柔術の手で打ち殺したものと思う", "しかし、その覆面の男が、何で好きなお雪を、ああまで酷く斬り殺して、その上、鎧櫃に入れて唖男に運び出させたのであろうか", "男の無残な行為を見て、女が嫌気をさして逃げることに同意をしなかったか、或いは、殺された夜に佐渡平が巨額な金子を持っていたので、女よりは金と、急に男の気が変って、飽くまで秘密をまもり遂げるために、お雪までを、斬り殺したものかも知れぬ", "ところが、そのお雪の人差指が斬り取られてあるが、それはまたどういう意味でしょうか", "狡智な下手人は、よくそんな用もないことをして、わざと詮議者の眼を惑わそうとたくむものだ。何の意味もないことでしょう" ], [ "あ、これは、殺された佐渡平の持ち笛ですな", "そうです。あれにある笛は、みなお雪の所へ習いに来た弟子たちの笛でしょう。が、それはとにかく、この方を早く一見して下さい" ], [ "これは一体、何者ですか", "すなわち、佐渡平を殺し、お雪を殺害した下手人、かの覆面の男の名です", "えっ、どうしてそれが分りますか", "吹いてごらんなさい、その笛を", "鳴りません", "鳴らぬはずです。叩いてみれば分りましょう" ], [ "どうです", "ウーム成程", "しかも男からその手紙を出した日は、お雪の殺害された十五夜と同日です。女は、男が何か最後の相談に来るというので、男の大事にしている『時雨』というその笛の中へ、手紙を巻きこんでおいたに違いない。たえず旦那という者の眼を怖れる囲い女には、ありがちな行いです", "ご炯眼のほど驚き入りました。下手人はこの笛の持主、郁次郎という者に相違ござるまい", "姿や顔容は、拙者よりはかえってそちらの方がおくわしいはずじゃ。では、今日はほかに急ぎの私用もござれば、これにて失礼いたします" ], [ "――しばらく", "何ですか", "いろいろご明断を授けられて、暗夜に曙光を見たように存じます", "いやいや、まだこんな事では、ご参考にもなるまいが、いずれ拙者も心がけて、吉左右をつかみ次第に、ご通知いたしましょう", "ところで、このままお別れいたしては、何となく心残り、ご迷惑でなければ、奉行所までご同道下すって、お雪の死骸についておった証拠品やら書類などをご一見下さるまいか", "さあ……実はこれから、少し私用を帯びて、八官町まで立ち寄った上でなければ体が空きませぬが", "八官町ならば、どうせ自分にも戻り道、おさしつかえなくば、同行してもよろしいけれど", "では、ご一緒に参りましょう", "そう願えれば、何よりの好都合で" ], [ "お立寄りになる先は、八官町といわれたが、誰か、ご友人のお住居でもござりますかな", "いや、ちと、調べたいことがあって、初めて参る屋敷です", "ではやはり、何かのご詮議なので", "と申しても、公のことではなく、もう七、八年来取りかかっておる個人的な探索なのです。大坂奉行所に勤めて、公禄を頂戴いたしている間は、そういう、私人的な依頼に応じて、自分の猟奇心を満たすような仕事にはあまり没頭されませんでしたが、今では禄を辞して、こういう自由な身になっておる某、これからは、大いにやろうと考えておる", "それは結構なことじゃ。まったく捕物の探究ということも、ほんとは、お上の禄に縛られていては思うように働けませぬ。して、其許が七、八年の間もかかっておるその面白そうな探索とは、一体、どんな仕事でござりますな", "丹波亀山の龍山公をご存じかの?", "亀山の龍山公? ……お、あの、松平周防守殿のご隠居ではござらぬか", "そうです", "その龍山公がどうしたのですな", "実は、拙者が一代の事業としている探索というのは、その亀山のご隠居龍山公から密かにご依頼をうけていることなのです", "ほ。それでは、大名から秘密に頼まれている仕事なのですな", "ま、そういったわけです", "どんな内容か、お差支えなければ、話して下さらぬか。また場合に依っては、吾々のようなものでも、一臂のお力になる折がないとは限りませぬ" ], [ "いや、差支えがあるどころか、それはぜひ聞いておいて戴きたいと思う。そして、何かの時には、貴公たちのお力添えも仰ぎたいし……", "どうか、ご遠慮なくおっしゃって戴きたい。こんどの難事件で、其許のご出馬を願ったからには、いわば、相身互いと申すもの……", "では、その辺で一服いたそうか" ], [ "そのご依頼をうけてから、もう八、九年にもなるのでござるか", "大坂奉行所の方で、なかなかお暇をくれぬので、思わず年月を過しましたが、もう猶予もあと一年ばかり、これからは、励みをいれてかかる覚悟です", "して、きょうこれからお訪ねになる八官町というのは", "さ、それです" ], [ "さるところから聞きこんだのですが、小普請の石川某から貰われた娘が、そこに住んでおるということなので、ちょっと、小あたりに訪ねてみようという所存なのです", "ほ、すると、龍山公のお孫でござるな", "まだ、真実か、嘘かは、充分に探ってみた上でなければわからぬが……", "しかし耳よりなことじゃ。そして、その娘と申すのは、今、八官町のどこにおるのでござるか", "あの辺は、多く、旗本町ですな", "左様。大して、家格の大きなお旗本はおらぬが、だいたい御直参の多く住んでいるところなので", "そのうちの一軒です", "するとやはり、武家屋敷なので?", "いかにも", "何という者の屋敷でござりますな", "江戸城の書院番頭富武五百之進という人物です", "えッ、あの、富武五百之進", "そこに、花世という一人娘はおりませんか", "お、おりまする。……が、あの花世が……ふウむ……これはどうも、ふしぎ千万だ", "ご承知ですか、その花世を", "知っているどころではござらぬ" ], [ "お、ここの角屋敷でござる。……いつのまにかもう八官町で", "成程、この家ですな", "左様。――てまえは、ご用事のすむまで、外にお待ち申しておりましょう", "いやいや、貴公と花世とはご面識があるとのことですから、かえって、ご一緒にはいって貰った方が好都合です", "では" ], [ "あの、どちらさまでござりましょうか", "花世どのは、ご在宅かの" ], [ "お嬢様はただ今、よそにお出ましで、お留守でござりますが", "ははあ、それではまた、白魚橋の水天宮へご日参ではござらぬか", "ま。よくごぞんじで……", "いつぞやも、その途中でお目にかかりました。では、ご主人の五百之進殿は", "その旦那様は、ちと前から、お知行所の下総の方へお旅立ちで、まだお帰りがござりませぬ", "やれやれ" ], [ "ではお留守中をぶしつけながら、花世殿のお帰りまで、玄関脇のお部屋でも拝借して、お待ちうけしたいと思うが、どうであろう", "さ、私には計らいかねますが……", "用人はおらぬのか", "至って、無人なおやしきでございますから", "案じることはない。お目にかかればすぐわかることじゃ" ], [ "東儀殿、どうなすった", "ウーム、意外だ。いよいよ分らない", "一体、今そこへ顔を出した若い武士は、あれは何者ですか", "羅門氏にはまだご承知あるまいが、拙者は、しばらく見なくとも忘れはせぬ。あの若者こそ、先刻お話しいたした、塙江漢先生のご子息じゃ", "えっ、では今のが、塙郁次郎ですか", "たしかに郁次郎だ。――だが解せぬのは、その郁次郎は、長崎遊学から帰府の途中にあるはずで、まだ父の江漢先生の許にも帰ったという話も聞かぬ。然るに、いつのまにかこの屋敷の奥に隠れこんでおるというのは、どういうわけであろうか", "今の一瞬、彼がさッといろを変えた眼ざしといい、あの妙な挙動、自分にも何とも不審に映ったが……" ], [ "これは東儀様でござりましたか、いつぞやは飛んだお間違いをかけた上に、わざわざ送って戴いたりなどして、まだお礼も申しあげず……", "いやいや、その折は、拙者こそ大きに失礼いたした。時にこれにおるは、其許もご存知であろう、噂のたかい、上方の羅門塔十郎殿で", "ま。……ではこのお方が、あの有名な", "お初にお目にかかります" ], [ "いいえ、ちっとも……", "ではお父上の五百之進殿から、何かその龍山公について、話されたことでも", "それもございませぬ", "ははあ。では……不躾なことばかり伺いますが、貴女の母上は、ご生存ですか", "母は幼い時に亡くなって、父の手一つで育てられたと聞いておりまする", "して、五百之進殿は、ご実父ですか、ご養父でございますか" ], [ "父娘仲のよいことは世間の定評じゃが、しかし、その奥の奥、裏の裏には、何か? ……あると思われるが", "それは、疑ってみれば多分に疑える点はある。第一、まだ長崎表から帰府していないはずの塙郁次郎を屋敷の奥に匿っているなどという事実は、たしかに、あの父娘の秘密を証拠だてておるものだ", "ひとつ!" ], [ "五百之進の不在こそかえって倖せ、今夜にでも、ふいに捕手を向けて、奥に潜りこんでいる郁次郎を、召捕ってみるといたそうか", "いや、それは早い", "しかし、時雨笛から出た立派な証拠もあるではござらぬか", "他人の偽筆といわれればそれまででしょう。もう少し証拠がためをする必要がある。――殊にほかならぬ塙江漢先生のご子息、もし間違いだった場合には、拙者は元より、幾十年来功労のあるお方に対して、奉行所としても申し開きが立ちますまい", "なるほど……" ], [ "今、貴公に手を引かれては当惑至極じゃ。そんな事を仰せられずに、何とか一つ、打開策はござるまいか", "拙者に一つの案がないではないが……", "それは?", "さ、それも上方流の詮議法ですからな。世上にはすぐに、羅門がやったな、という事が知れる", "知れてはお差支えになるのでござるか", "大先輩たる江漢先生のお耳にはいれば、決して、お快くは思われますまい", "何、そんなご斟酌がいりましょうや。ま、そのご名案をお聞かせ下さい", "では、申してみるが、鷺江ゆき女の死体はまだ奉行所に保存してありましょうな", "十五夜の晩以来、だいぶ日数は経っておりますが、証拠がためのつくまではと、工夫を凝らして、死体蔵にとってあります", "日本橋の薬研堀に、平賀鳩渓が長崎から招いた岡本亀八と申す人形師の住んでおるのをご存じか", "あ。あの蝋細工の亀八で", "そうです。その亀八に雪女の死体を見せて、同一の死人形を亀八独特の蝋細工にて作らせ、折からちょうど平賀鳩渓が神田のお火除地に於いて博物会をひらく催しがありますから、その会場の一隅に出陳して、これを広く世間の人々に見せるのです", "ははあ。では奉行所内の極秘な物を、世上へ公開いたすことになるが", "さ。そこが江戸流と上方流の相違なのです。拙者の流儀で行くならばむしろそれが世間の評判になるのを欲する。そして、博物会の会場に目明しを紛れ込ませ、当日蝋人形の前に立ち寄る見物の噂や囁きに注意させるのです", "成程", "評判が高くなれば、鷺江お雪の門人たちも、それとなく見に来るであろうし、第一彼女を殺害した下手人が気にかかって、見にこないではおられぬと思う。これは、上方では幾度か試みているが、いつも奇功を奏している事です" ], [ "やあ、あれか、評判の美女の蝋人形は", "凄いな、生きているようだ", "ばかをいえ、鷺江お雪の死体を写すと書いてあるじゃねえか。死人形が生きているようじゃ、下手いことにならあ", "だが、あの血の色の生々しさッたらねえな。触ると、指につきそうだ", "オヤ、指といえば、左の手の人差指が一本切り取られてあるぜ", "ほんとだ。殺した上に、指を一本切ったんだ。ひどい真似をしやがる。奉行所ものろまじゃねえか、なぜ早く下手人を捕えて、逆磔にしてしまわねえんだろう", "叱ッ、叱ッ……。そこらに、八丁堀の手先がいるぜ" ], [ "おっ波越、上役が招いているぜ", "そうか" ], [ "どこに?", "例の蝋人形の飾ってある場所の横に", "お、手を上げているな。さては何かあの前に、変った事があると見える" ], [ "顔は見えぬが、肩とか、身丈とか、どこかに記憶があるだろう。毎日こうして張込んでいても、一目でピンと勘に来ないようでは、まだ貴公たちもお若いぞ", "畏れいりました。……成程、そういわれてみるとどうやら", "思い出したか。いつぞやの晩、麻布のお雪の空家へ吾々が張込んでいた時に、玉枝玉枝と、二度ほど呼びながら這入って来たあの覆面だ。また貴公たちは、十五夜の晩、増上寺の境内でも見かけておるはずだのに……", "ウム、似ています!", "最前から四半刻も、あれに立って慄然としたまま、動き得ないように竦んでいる様子からして何とも不審な挙動だ", "いかにも、ただの見物人ではありませぬな", "万が一にも、大丈夫とは思うが、万一、腰の刀でも引き抜くと、この混雑の中で多数な怪我人を出すから、充分に、気をつけい", "承知しました" ], [ "なぜ早く側へ行って、彼奴の右手を捕らんのだ", "…………" ], [ "歩け", "真っ昼間です。旦那あ、あっしも神妙にしたんですから、なるべく、人通りのねえ所を歩いておくんなせえ。――こんな姿は、可愛い女にゃ、見せたくねえ" ], [ "加山か。……残念だ!", "逃がしたのか", "これを見てくれ" ], [ "ここまで追い詰めたから、しめたッと思って、分銅を投げつけると、編笠の首に絡みついた。で、もうこッちのものだと、力まかせに絞り込むと、そのとたんに、これだ! 見てくれ! いきなり脇差を抜いて捕縄を切ッたんだ。あっ、と今度は、十手で打つかってゆくとどうだろう、川の中に待っていた小舟へ飛び降りて、矢のように、大川へ出てしまったじゃないか", "残念なことをした", "一度ならず、二度三度だ。おれはもう同心が嫌になった。おれには、捕縄を持つような業は適さないとみえる", "まあ、そう落胆するな。……また上役の東儀氏が、ぶつぶつ苦いことをいうかも知れないが、その代りには、おれがもう一人の怪しい町人を捕まえたから、いささか埋め合せがつくというものだ", "オオ、彼奴を召捕てくれたか。何か、大事らしい品を、編笠の侍から受け取ったから、それは、時にとっていい獲物だ。それなのにこの俺は、何というへまをしたんだろう", "おい僻むな。俺の功は、貴様の功だ。お互いにこの事件には、発端から偶然にも二人がいっしょにぶツかって、しかも、九死一生の目にまで共に遭っているのだ。これからも、そんな隔てを捨てて、お互に、励まし合おうじゃないか", "加山、よく言ってくれた。おれはともすると、意志の脆い性質の弱点が出ていけない。これからも、鞭を打ってくれい", "おれこそ、欠点の多い人間だ。頼む" ], [ "さ、すぐに彼奴を調べてみよう", "無論だ" ], [ "おい! 顔を上げろ", "ヘイ……" ], [ "貴様は連れのあの侍と、どういう縁故のある人間だな。まず、それから申せ", "連れ?" ], [ "旦那、あっしに、連れなんざありませんぜ", "偽りを申すな。あの博物会の中から一緒に出た侍は、貴様の連れに相違あるまい", "うふッ" ], [ "冗談じゃございません、あれや、あっしが朝から目につけて来た鴨なんで。……へへへへへ、旦那方だって、よくご存じのくせに、お人が悪うございますぜ", "鴨? ……して一体貴様何者なのか?", "こうなっちゃ、何もかも、神妙に申し上げます。あっしゃ、何を隠しましょう、中国筋からこの江戸表まで、あの侍の懐を狙って付いて来た、道中稼ぎの掏児で、別府の新七というもんです", "じゃ掏児か", "へい、これでも、中国筋では、少しは知られているチボでございます。花の江戸へ出て、お縄を戴いたなあ、かえって、本望でございます" ], [ "東儀氏、ごらんなさい、失策どころか、これこそ二人の苦節を哀れんだ、神の賜うた天祐です。――この紙入れは塙郁次郎の所持品だ", "えっ、ど、どうしてそれが分りますな", "ここに一札がはいっておる。これは、郁次郎が長崎表から江戸へ送り金をした為替札です。即ち本石町の両替屋佐渡平の扱いで、この金札持参の者へ、五十両相渡すべきものなりと書いてあります", "ウーム成程", "まだある" ], [ "これは手紙ですが、見らるるとおり女文字、しかも、宛名は郁様へ、雪女よりとしてあるのを何と見らるるか", "オオ!" ], [ "内儀はおるか", "どなた様でござりましょうか" ], [ "八丁堀の者じゃ。東儀三郎兵衛", "あ、お見それいたしました。……まず、どうぞこちらへ" ], [ "内儀に会って、ちと、密談したいことがあって罷り越したのじゃ。取次いでくれい", "それはどうも、わざわざ、恐れ入りまするが、実はお内儀様は、昨日、ご親類の老人を連れて、相州の塔の沢へ、入湯にお出ましになりまして……しばらくはその" ], [ "何か、ご用の筋がございますならば、奥に番頭もおりますゆえ、すぐにこれへ", "待て待て", "へい", "公用じゃ、殊に、密談を要すること、番頭などに洩らすわけにはならん。内儀に飛脚を打って、立ち帰り次第に、奉行所に出頭させい。世間憚らぬ不貞な行状、きびしく叱りおくぞ" ], [ "しばらく、お待ち下さいませ", "誰だ……其方は", "当家の主、佐渡屋和平でござります", "な、なんだと!" ], [ "佐渡平? ……あの、そちが、死んだ佐渡平だと申すのか", "鷺江お雪の家で殺されていた町人は、あれは、私の弟、忠三郎でござります", "それをば何で、先頃、部下の者が当家へ調べに参った時には、そちの内儀を初め家族一同が、悲嘆の涙にくれ、なお、其方が死んだものと申し立てたか", "まったくの思い違いでござりました。その間違いの原因は、実に十五夜の当日、高輪の月見茶屋から友達と外れて、そのまま、大山へ詣り、箱根熱海と遊び廻って立ち帰りますと、死んだ主人が戻ったというわけで、私の方こそ、呆っ気に取られましたような次第で。……だんだん様子を訊ねてみますと、土蔵二階に居候をしている弟の忠三郎めが、その前から戻りませぬ", "ふム、成程", "この男は、以前は、肥前の唐津、堺、長崎などにも出店を持ち、相応にやっていた木綿問屋でござりますが、どうした心の狂いか、酒を飲みはじめて、店もたたみ、妻子もすてて、江戸表へ来るなり、私共の土蔵の二階に、為すこともなく遊び暮しておりました", "では、お雪の家に取り捨てられてあった死骸は、その忠三郎の方じゃな", "兄弟のことゆえ、人様がよく間違えるほど似ておりますので、こんな事になったのではないかと存じまする", "それならそうと、なぜすぐに、届け出んのじゃ", "私が帰ったのも、つい昨日で、帰ってみれば、今申し上げたような大騒動、女房は急に病の枕を上げる、親類は来る、こんどは忠三郎が見えないといったような取込みようで、つい、お届けを怠りましたが、明日は、自身で出頭いたすつもりで、今も今とて、お越しとは存じながら、奥に、謹慎しておりましたのでござります" ], [ "私の目に、はっきり残っていることがございます", "ウム、申してみい", "雪のように、白い、襟あしの奥に、お金をかぞえる時、ちらと、かなり大きな黒子があったように覚えております", "襟あしの奥に", "へい、俯向かなければ見えません", "ほかには" ], [ "なあ、波越。なんだってこんな真夜半、蝋人形の張番をさせるのだろう。羅門塔十郎も時々、奇功に逸って、分らない指図をするぜ", "いや、あの頭脳のいい先輩のことだから、何か、狙いどころがあるんだろう", "しかし、窮命されているようだな。……オヤオヤ、夜番に貰った火種も消えてしまった", "寒いなあ、そこに蓆があるから、それでもかぶっていよう。やがて、夜が明けるだろう" ], [ "だがなあ加山、おれはまた、しみじみと奉行勤めがいやになって来だした", "また、そんな弱音を吐くのか", "と、言われちゃ、少し心外だが、考えてもみろ、若年からいろいろお世話になっている恩師の江漢先生のご子息が、いくら大悪党だって、貴様、イザとなって、縛れるか", "それは俺も、自分が錆槍で抉られるよりも辛く考えているのだが、捕縄十手は飽くまで正大公明でなければならぬ。いわば、神の裁罰に代って人間がお預りしているものだ。私情に囚われてはなるまいと覚悟をしている", "そんな講釈は、おれだって知っているが、いくら法縄をつかむ職業でも、やはり人間は人間だ、泣くなといわれても、泣かずにいられるか、貴様あ", "おられまい、恐らくおれまい! 殊に、老先生の胸中を思うと", "それ見ろ、貴様だって、血はあるだろうが", "しかし、やはり、裁きは裁きだ。おれたちは、天に代る、征悪の使徒だ。貴様も、小さな私情に負けてはならんぜ", "おれは苦しい。何という、いやな職業を択んだのだろう", "そう考えるから辛いのだ、弱いのだ、天の使徒! 征悪の使徒! そう思うんだな" ], [ "やっ、蝋人形の囲い場だ", "竹の柵を破ッた音だぞ" ], [ "波越ッ、に、にがしたな貴様はッ", "ウーム、逃がした", "故意だ! たしかに故意だ" ], [ "な、なんで、逃がしたかッ……。こらっ、波越! き、きさまは", "ま、待て", "ええ、癪にさわる、腹が立つ。待てもくそもあるものかッ。残念だ、残念だ", "俺を……俺を打ってくれ", "貴様を打って何になるんだ! ……ええ、ものの道理の分らんやつじゃ! 弱い男め! 意気地なしめ!" ], [ "波越。――暇を遣わすぞ。お役儀を剥いで遣わす。どこへでも去れ! さだめし、満足だろう", "えっ、波越に、お暇を" ], [ "何か、裏の方で、人の跫音がしたようではございませぬか", "気のせいでしょう" ], [ "お父上からは、まだ、飛脚が参りませぬかの", "オオ、夕方の用にまぎれて忘れておりました。あなたのご依頼の用もすみ、ほかの公用も片づいたから、もはや、間もなく帰る、郁次郎どのに、何事も、心配せぬように、とくれぐれも書いてござりました", "お礼の申しようもござりませぬ", "そんな、他人行儀なことを……" ], [ "どんな苦しみをしても忌いませぬ。ただ、末かけて、お忘れくださいますな", "お父上にも、そなたにも、婚儀の前に、こんなご苦労をかけながら、何で、薄情でおられましょうか。ただ、郁次郎がきょうまでの行状を、貴女が疑ってさえ下さらねば……", "私は、信じておりまする。この信念をうごかしたら、私は、女ではございませぬ", "そういう心を娶って、自分のものにする郁次郎は恵まれた人間です", "お見捨てくださいますな。ほんとの、父ひとり、娘ひとりの、私です……" ], [ "誰ですッ?", "誰でもありませぬ" ], [ "な、なんとなさる?", "多言は要しますまい。手前の態度をもって、武士らしく、お覚悟あっては如何ですな", "無断で室へ踏みこむのみか、いきなり縄をかけて、武士らしくとは、何たる暴言。この郁次郎には解せませぬ、理由を仰っしゃい", "ともあれ、南町奉行所までご同道願おうではござらぬか。こう穏当に申すのも、江漢老先生のご子息と思えばこそじゃ。見苦しく振舞われては、父上のお顔に、泥の上塗りでござろうぞ", "父の顔に泥を塗る! これや、いよいよ聞き捨てにならん" ], [ "逃げも、隠れもいたさん、どういうわけで、拙者をお召捕りに相成るか、それを承ろう! またそれが、武士に縄をかける作法ではないか", "ウム、それまでにいうならば、花世どのをここにおいて申すが、差支えないか", "無論!" ], [ "では訊ねるが、貴公、鷺江お雪という女笛師と、よほど深い間がらでござろうな", "知らぬ! 存じませぬ!" ], [ "まだ疲れる程は、歩いておらぬが", "いや……少々、お話があるのです", "話なら奉行所で承ろう", "いや、秘密に", "何じゃ", "……後生です、情けです、恩に着ます、逃がして下さい拙者を" ], [ "や、これは、金ではござらぬか", "そうです、それを寸志の礼としてさし上げますゆえ、拙者を", "だまンなさい!" ], [ "オオ、しかもこの金には、佐渡平の刻印が打ってある。あの両替屋から、為替として受け取った金であろうが", "そうです", "悪党にも似合わぬ見下げ果てた未練者だ。東儀三郎兵衛は不肖ながら、罪人のけがれた金を受けて富もうとは思わぬ。但し、これもよい証拠にはなるから奉行所まで預っておく" ], [ "うろたえ者め、ここに用はない。郁次郎を追えッ、郁次郎を", "えっ" ], [ "――彼奴! 逃げたのか", "たった今だ、ふいを狙って、此方を河へ突き落すと、白魚橋を越えて、北河岸へ疾走した。すぐに行け" ], [ "与力。お着更えを持参いたしました", "加山じゃないか", "は", "何をしておったのだ、何を" ], [ "――貴公、わしが河へ突き落されたのを知っていたなら、なぜ、衣類を取りに行くよりも、郁次郎めを先に追いかけなかったのだ", "はっ……" ], [ "郁次郎めが老先生の子息であるという点から、さては、十手が鈍ったのであろう", "……決して、そんなわけではございませぬ。拙者は富武家の裏門を見張っておれと申し付かっておりましたので、忠実にそこを固めているうちに、組下の者から様子を聞いて、驚いて駈けつけて来ましたが、もうその時は遅かったのです", "いかん! どうもいかん" ], [ "いつぞや退役させた波越といい、また貴公といい、みな江漢老先生とは師弟の誼みがあるから、いざとなると、公私の境に惑乱して、十手の公明正大を誤っていかん", "いや、それは無理もないことです" ], [ "加山ッ", "は", "は、じゃあない。何をぼんやりとしているのだ。もう組下の者さえ先に手配に廻っておるではないか。早く善後策を講じて、郁次郎めを引っ捕えて来い", "はっ", "郁次郎を召捕らぬうちは、断じて、奉行所に帰って来るな", "……ご免" ], [ "おや、これは下総から、ぶっ通しで来た駕らしいが", "主人の五百之進が帰ったものと見える", "じゃ、花世もまだ奥にいるだろう。――羅門氏、こんどこそは、逃がさぬように、ご助力をたのむ", "心得た" ], [ "これ! 花世", "あっ……" ], [ "何としたのだこの有様は。郁次郎殿は、いかがいたした?", "お……お父様……", "泣いていては分らぬ。郁次郎殿は?", "たった今、南町奉行所の東儀様や、大勢の捕手が雪崩れこんで、無態にひ、ひッ立てて", "なに" ], [ "では、当家に隠れていることが、早くも、奉行所の知るところとなって、引っ立てられて行ったと申すか", "は……はい。なんとお縋りしても、東儀様には、役目とあって、仮借をしては下さいませぬ", "ウーム、しまった。一足遅かった。せめてわしがいたならば、むざむざと、郁次郎殿を渡すではなかったのに。……娘! この上はぜひもない、そちも早く、屋敷を遁れて、何処へでも行って、郁次郎殿と添い遂げい!", "でも、お父様を独り残しては……", "な、なにを、猶予しておるか、そんな場合ではない。飽くまで、良人に侍くのが女の道じゃ。郁次郎どのを助け出して、時節の来るまで、どこにでも、身を隠せ。……ただ、ああ、ただ……老先生に対しては何と申し上げてよいやらお詫びのことばもない", "私も、それを思うと、この胸が、張り裂けるようでござります", "よいわ! 今日まで、老先生を偽っていた罪は、五百之進が改めてお詫びの道をとるであろう。……この上に、そちの身までが捕われてはならん、早く行け。はやくこの屋敷を出て、郁次郎殿を救い出す工夫をするがよい", "は……はい……", "そして、時節を待て。よいか! 強くなれよ! 添い遂げろよ! それが、この父へ対しても、老先生へ対しても、ただ一つのそちの婦道であるぞ" ], [ "おうご主人には、いつの間にお帰りか。ご息女の一身について、少々不審のかどがあるに依って、奉行所までお供を仕る", "いや、お待ち下さい", "待てというのは", "何の理由をもって、花世を、お召捕なさるのか、それを、承りたい", "その儀ならば、追ッつけ、貴殿も奉行所までご足労を願う場合があろうから、その時に、お糺し下さい。きょうは町奉行の権限をもって、ご息女をお連れ申すだけのことだ", "それだけの理由では、娘を渡すことは相ならん", "公命に楯を突き召さるか", "拙者も、柳営の御書院番、富武五百之進です! 武士でござる! 娘が不浄役人に縄打たれて、屋敷から拉致されたとあっては、どの顔を下げて、公儀のご奉公がなりましょうや", "その辺もお察しはするが、何もかも、不運とおあきらめなさるよりしかたがあるまい。郁次郎の身にも、花世どのにも、怪しからぬ証拠は山のごとくある。――よほど手加減いたしていたが、もはや、きょうとなっては、退ッ引きならぬところです" ], [ "ヤ、ヤッ、これは!", "ご、ご両所。……" ], [ "お、おねがいでござる", "自害とは、短気な。五百之進殿! しっかりなさい!", "……おねがいでござる、ご両所。……む、娘を", "えっ", "見のがしてやって下さい。これには、深い仔細があること。そ、その……仔細を言えぬあの娘じゃ、弱い、この父親じゃ。時節が来れば何事もわかる。羅門氏、東儀殿、武士の情けです。見のがしてやって下さい", "ウーム" ], [ "で、では、これほど、お縋り申しても", "くどい" ], [ "罪がなければ、ご息女の身も、無事に帰されるであろうし、犯した科があれば、いかに、非常なご手段をもって哀願されても、むだな事だ。それが、法の公明正大と申すものじゃ", "ちぇッ。……情けを知らぬ武士め!", "なんだ!" ], [ "法の前には、何ものもないわ!", "ええ、しまった。――娘ッ" ], [ "――娘ッ。――花世", "おおっ……" ], [ "あら、ちょっと、美い姿だこと", "お武家さま――", "編笠のご浪人さん", "泊っていらっしゃいな" ], [ "放さんか、放せ", "でも、どうせお泊りでございましょう", "いや拙者は、この戸塚の宿に知り人の家がある。それを尋ねているのだ", "うまいことを", "通せ", "いいえ" ], [ "あれ、若様ではございませぬか", "おう、乳母やか", "まあ、どうして! ……" ], [ "さ、郁次郎様、貧しい家でございますが、どうぞお寄り下さいまし", "乳母や、あまり人の前で、郁次郎郁次郎と、わしの本名を言ってくれるな", "おや、なぜでござりまする?", "すこし仔細があって、身を隠している体だから", "長崎へご勉強においでになったというお話ですが", "その長崎の修業中に……" ], [ "居候って、誰のことを言うんだえ", "あの、郁次郎っていう、色の生っ白いやつよ", "勿体ないことをお言いでない。あの方は、私にとっては、昔のご主人様だよ", "何でもいいが、おれに黙って、何処へ行ったのだ", "急用がおできになって、江戸表へ、お帰りになったのさ", "嘘をつけ" ], [ "てめえ、あの若蔵の嘘っぱちを真にうけて、何か、小細工をしていやがるな", "何で私が、お前に隠して、そんなことを", "やかましい! おれの耳は、地獄耳だぞ。この間、野郎の泊った時、夜の更けるまで、おれが酔いつぶれていると思やがって、ひそひそしゃべっていたなあ何の話だ。よし、夫婦の仲で、そんな水くせえ真似をするなら、おれにも、量見がある" ], [ "こう、この中に、安はいねえか、安は", "安は、ここにいら。よく眼をあいて見ろ", "うむ、なるほど", "何が成程だ。相かわらず、いつも、呑ンだくれていやがるな", "よけいなお世話だ、やい、安", "なんだ", "てめえ、うちのやつに頼まれて、今朝、何処へ駕をやったんだ。あの、色の生ッ白い武士を乗せてよ", "知らねえ", "ふざけるな、相棒の兼に、聞いて来たんだ", "あいつ、もう、しゃべったのか", "ふてえ奴だ。ぬかさなけれや、てめえと、一騎打だ。さ、首を洗って、外へ出ろ", "いいじゃねえか、何も、兼に話を聞いているなら", "いや、てめえの方が、詳しい話を知っているはずだ。去年の十月頃に、問屋のお役人から、宿触れの出ているお尋ね者を知っているか", "塙郁次郎とかいう、江戸で、女笛師を殺した下手人だろう", "そうよ", "それがどうしたんだ", "けッ、頓馬なやつッていうものは、しかたのねえもんだ。てめえの肩に乗せて、五里も十里も、歩いていながら、気がつかねえのか" ], [ "やい、ぬかせ", "知らねえッていうのに、くどい奴だ", "どうしても、言わねえな", "あ、おら、義理がてえから", "何を言やがる" ], [ "やったな", "やったとも" ], [ "さ、出てこい", "おッ、へどをつくな" ], [ "どうしよう兄弟", "成敗するって言ったぜ" ], [ "お尋ね者の郁次郎が、この辺に、徘徊しておったということだが、人違いではあるまいな", "へい、たしかに、宿触れの人相書ともぴったりでございます" ], [ "こりゃ、お上で下さる密訴の褒美よりは少し多いが、取っておくがいい。――で、安とやら、その駕は、何処へやったか", "江の島の、江之島神社でございます" ], [ "羅門先生", "や?", "私です" ], [ "おう、加山か", "羅門先生には、きのう、江戸表の方へ街道をお急ぎとお見うけいたしましたが、どうして、お戻りなされたので", "貴公こそ、どうしてここへ来ているのだ", "はい、拙者は、あれ以来、奉行所へ戻らずに、遂に、郁次郎の足跡を見つけて以来、彼の影を離れたことはありません", "では、郁次郎がこの島へ来ていることを、貴公はもう知っているのか", "そのために、早速、こんな姿に化けているわけです", "ご熱心だな" ], [ "この島へはいったのは、郁次郎も、自分で自分の墓穴を掘ったようなものだ。江戸表へは、早飛脚を打って、すべての手配をたのんでおいたから、三日のうちには、東儀殿も人数を連れて乗りこんで来るでしょう", "あ、もうそんなに", "羅門の手を下す以上には、電瞬の間です。ご安心なさい" ], [ "だが、その手配の来るまで、何より不安なのは、この渡し口です。貴公は、その身なりがちょうどよいから、昼夜、ここの海辺を離れず、見張っていてもらいたい", "承知いたしました" ], [ "あ……", "ホ、ホ、ホ" ], [ "……何を驚いたのでございますか", "べつに" ], [ "ご退屈でございましょう", "なに、書物に親しんでおりますから", "お江戸だそうでございますね", "江戸です", "私も……" ], [ "七歳の時に、覚えたきりです", "そんな幼少からこの江の島に?", "え、巫女に貰われてまいりました", "孤児かの", "舞を舞っている間にも、それを思うと……" ], [ "お客様、晩に、江戸のお話をうかがいに行ってもようござりますか", "え。おいでなさい", "じゃ、きっと、参りまする" ], [ "おお……花世と、同じ爪だ", "おはぐろ爪" ], [ "ご不幸な殿様だ", "お世継がひとりもないので、自分もこの世に何の希望もなくなっておしまいなすッたんだろう", "それにしても、九年もあの上に住んでおいでになるとは、根気のいいことだ", "何しろ、よほど変り者の殿様とみえる" ], [ "いらっしゃいまし。叡山へご参詣でございますか", "叡山へ? あ、成程、ここは叡山の登り口だね", "はい、中堂からお薬師様の道順を書いてあるお山案内もございまする。横川巡りをなさいますならば、白木の杖や草鞋、お弁当のお支度もいたしまする", "なに、あっしは叡山へ参詣に来た者じゃないのさ。この通り、忙しなく諸国を駈け歩いている木綿屋の註文取りで、名所を踏みながら名所知らずで、ちッとも閑のねえ旅商人だよ", "おや、お急ぎでございますか", "これから北国へ廻らなけれやならないが、せめて、掛金でもよく集るように、麓から拝んでおこう", "ホホホホ。それはどうも", "姐さん、もう一つ", "お茶でございますか", "菊ヶ浜から休みなしに急いで来たので、すっかり喉が渇いちまった。……したが旅もだいぶ楽になったね", "ほんとに、春めいて参りました", "ところで姐さん、矢走の渡船場から四明ヶ岳の方にはいるには、この街道一筋だろうね", "はい裏道はございません。大津を越えて、京都へはいればべつでございますが", "それじゃ途方もねえ遠廻りだ。……妙に、いろんな事を訊くようだが、今朝から今までの間に、年のころ二十歳ぐらいな、背のすらりとした美い女が、やっぱり旅支度で、ここを通ったのを見かけなかったかい", "ひとり旅のお若い方でございますか", "色が白くって、柳腰。無造作に手拭で髪を包んでいるが、都者というのは一目でわかる", "さあ? そんなお方は、お見かけしないと思いましたが", "はアてね" ], [ "――おい姐さん、少ないが、ここへ置いたぜ", "オヤ、もうお立ちでございますか" ], [ "おそろしく気前のいい女だな。だまって、二朱金と来た。近頃の客にゃ、珍しい", "ふふん……" ], [ "あんなのなら、ただで乗せてやってもいいと思ったのによ", "さ、戻ろうぜ、金が木の葉に化けるといけねえや", "こう山ン中で見直すと、何だかよけいに美しいな", "これ! 駕屋", "ヘイ" ], [ "――な、なんでえ、てめえはさッき坂本で休んでいた旅商人じゃねえか。侍みてえな声を出しゃあがって、恟ッとするじゃねえか", "ははは、どうも相済みません" ], [ "おそれいりますが、お火を一つ", "おまけにご拝借ときやがったぜ。図々しいやつだ" ], [ "今のお女中は、含月荘へ行ったんでございましょう", "よく知っているな", "へい、てまえも、御番士方にお出入りをしておりますんで。――だが駕屋さん、あれや山のお屋敷じゃ見たことのない女ですぜ", "江戸表の上屋敷から使いに来たという話だから、多分、あっちの者だろう", "それにしても、女一人の使者というのはおかしいじゃございませんか。どういう用事で来たんでしょう", "なあ、相棒、なんだか小さな筥を持っていたようじゃねえか", "む、香筥のような……。そいつばかりを、ひどく大事そうに抱えていたよ" ], [ "はい、江戸表から参った玉枝でござりまする。お国家老大村郷左衛門様か、ご子息の主水様にお取次をねがいまする", "おう、その玉枝殿ならご家老から伺っておる" ], [ "さ、おはいんなさい。只今この下で、短銃の音がしたが、あれは其女ではないか", "江戸を立つ時、よほど巧みに来たつもりでございましたが、品川口から一人の男に尾けられて、ほんとに、難渋いたしました", "多分、そんなこともあろうかと、ご家老のお計らいで、途中に侍たちを置かれたが", "それで助かったのでござります。して、大村様は", "お待ちかねだ。こっちへ" ], [ "では早速だが、持参の品を一見いたそうか", "はい、これをお渡しせぬうちは、肩の重荷が下りませぬから" ], [ "お宥し下さい。でもただ今、楼上の大殿から父上を呼べというお伝えがございましたので", "殿がお召しになっておるのか" ], [ "――じゃあしかたがあるまい。あの四層楼の梯子を上がり降りいたすのはやりきれぬが、ちょっと先に行って参ろう。これこれ、主水", "はい", "その間に、玉枝を寛がしてつかわせ" ], [ "変りはないか", "は。べつに" ], [ "――大殿、大殿。お召しの郷左衛門めにござりまするが、お襖を開けても苦しゅうござりませぬか", "郷左か" ], [ "いつもながら、麗わしいご機嫌を拝しまして、郷左、何よりもうれしく存じ上げまする", "人間も、天空におると、健やかになるの" ], [ "時に、郷左", "はっ", "今年もはや二月になるのう", "御意にござりまする", "数えておるか", "胸にこたえておりまする", "幕府のご猶予は秋までだぞよ。この秋までに、世継を届け出ねば、わしの家名は、幕府へご返上せねばならん。永劫に、わしの血統というものは、この地上に絶えるのだ", "郷左も、その儀ばかりを、実に心痛いたしておりまする。ひとたび、思いをそこにいたす時は、夜の眼もろくに眠られませぬ", "まったくか!", "何で、私が", "いつもいつも、汝は左様申してはおるが" ], [ "待てど暮せど、いまだに、身の落胤の行方について、さらに手懸りがつかぬのはどうしたものじゃ", "いや" ], [ "大殿が左様にお思い遊ばすのは、ご無理ではございませぬが、それに係っておる者は、誰も彼も、寝食を忘れ、身を粉にくだいてご落胤のお四名様を、探し歩いておりまする。決して、一日たりと、それを忘れている臣下はございませぬ", "わしの血をうけている四人の孫、それは正しい側室の血統でないために、いずれも民間に流離しておるであろうが、一国の主の力をもって、数年間も探し求めて、いやいまだに一人もわからぬという法はない", "おことば、重々ご尤もでござりますが、ほかならぬお世襲の問題、幕府や他藩へ対しても、公にはできませぬ", "あたりまえじゃ", "が故に、ずいぶん手配は尽しておりまするが、ご勢力をもって、大がかりにお探しはできぬのであります。何とぞ、この郷左をお信じあって、もうしばらくの間、おまかせ下さいませ。はい! お四名様のうち、きっとお一人やお二人は、郷左が命にかけてもご期限までに探し出して、お心を安め奉ります" ], [ "たわけた事を申せ。おまえなどは、父が誰のためにこういう苦心をしておるか、知らんのじゃろう", "それは不肖ですが、分っております", "分っておったら、冗談にも、左様なことは申さぬものだぞ", "けれど、私が立身すれば、父上も同時にもっとお好きな事ができるわけですから", "老後には、それくらいな埋め合せがなくてはやりきれん。……お、忘れていたが、玉枝、そちをこの山まで尾けて来た男は、あれから侍たちが捕まえたか、それとも、斬って捨てたかどうか。復命はなかったかどうじゃ", "最前その事を、表の侍から、申して参りました", "お、そうか", "けれど惜しいことに、逃がしてしまったそうでござります" ], [ "わざわざ江戸表から害虫を連れて来て、山へ、追っ放したようなものだ", "いいえ、たいした者ではございません。まだ青くさい同心の端くれでございます", "同心ならばなおいけまい", "いくら江戸の同心であろうと、十手を持って、お大名の奥へ立ち入ることはできませぬから", "む。大きに" ], [ "ところで、最前の品は", "側に持っておりまする", "酒の肴に、検めようかの", "よろしゅうございましょう", "主水、おまえは、退がれ", "なぜですか、父上" ], [ "見てもつまらぬ物じゃ。あっちへ行けと申すに", "よいじゃございませぬか。つまらぬ物ならば、見ても差支えないわけでしょう", "そちが見ても、益にはならぬから立てと言うんじゃ。わからん奴め", "まあ、それまでに仰っしゃるならば、お見せした方がよいではございませぬか。他人とは違いますからね" ], [ "当ててごらん遊ばせ", "香筥", "いいえ", "琴の爪入れ", "あれはもっと小さな物でございますよ", "では、笄筥じゃ", "あたりました", "何だ、つまらぬ", "中は?", "中身は違うのか", "まさか江戸表から、櫛や笄などを入れた物を、護っては参りませぬ", "わからぬ。開けてみい" ], [ "父上", "む" ], [ "こ、これやあ、父上、女の人さし指じゃございませんか", "そうだ", "斬ると、こんなに、爪の色が、鉄漿を塗ったように、真ッ黒になるものですか", "そりゃ、日数が経ち、血の色が失せれば黒くもなろう", "だって、こんなに黒いのは", "何でもいい、そちの関わることではないから、気が済んだら次へ立て", "でも、不思議だなあ", "何が不思議?", "父上は近頃、妙な物を蒐めることを道楽になさいますな", "蒐める?", "昨日も、相州の江の島から、江之島神社のお神札箱にはいった物が飛脚で着いたのでございましょう。するとすぐに父上は、その日のうちに、京都の為替問屋から、千両という大金を、何処かへお送りなすった様子。これや怪しからん、神社のお札一枚に、千両も払うわけはないがと、そっと、お留守に開けてみると、中は人を馬鹿にした木屑がいッぱい、なお変になってよく見ると、ちょうどこの小筥と同じくらいな密封した箱の中に、やはりこれと同じ女の指が入れてあるではありませんか", "…………" ], [ "だが、これと違って、昨日の指は、斬ッたばかりのように生々しかった。それに、これは人さし指だが、あの方は、たしか中指で", "主水", "だめですよ父上、そんな難しい顔をしたって", "貴様は、見たのか", "はい、ちょっと、失礼いたしました", "どうもしかたのない奴だ。しかし、見た者がおまえだからよかった" ], [ "えっ、また後の指が着いたんですって。――このあんばいでは思いのほか、早くすべてが片づくかも知れませぬ", "どうか一日もはやく、そうしたいものだ", "私も江戸表の方が気がかりですから、一刻もはやく、帰るといたします。では、私の持って来た分の金子は、どうぞ後から為替でおねがいいたします", "よろしい、金子の方は、相違なく送るであろう" ], [ "ウーム、もう二本。……はやく並べて見ぬうちは、心が安まらん", "揃いましたら、お約束のように", "ム。四本目の最後の指には、倍額の二千両与えよう" ], [ "江戸表までは長い道だ。――では玉枝、ずいぶん気をつけて行くがよいぞ", "玉枝どの、お名残惜しいが、それではここで……" ], [ "お別れいたしまする。それでは、郷左衛門様にも、主水様にも、ご機嫌よう……", "ム。次の吉報を待っておるぞ", "はい、きっとまたすぐに、指を入れた小筥をお送りすることになるでしょう" ], [ "猫が鼠を捕ったように、余り騒ぐのは大人気ないでござんしょう。ご自分様の足ですからね、気が向けば、歩けと言われなくったって、歩くのさ", "減らず口をたたくな。もう貴様の悪運も尽きたのだぞ", "ヘン……よくお分りでございますこと", "大津口まで出れば、問屋場からすぐに軍鶏籠に乗せてやる。さ、歩け歩け", "山の中だからちょうどよかったよ。町中でこうされちゃ堪らない。……ねえ八弥さん", "何だ", "私もずいぶん多くの手先や同心にも尾けられたけれど、お前みたいな、執ッこい、根気のいい人間は、見たことがないねえ。恐れ入ったよ", "さすがの妖婦も、天命を知ったと見えるな。いつの世にでも、悪運の永く続いた例はないのだ。獄門になったら、次の世には、善人に生れ代って来い", "ご親切さま……" ], [ "けれど、私は死んだって、悪事は止められない性分なのさ。悪事を働くくらい、面白いことはないからネ", "毒婦だな、貴様は。――その美しい容貌を持って生れながら何という情けない心だろう。薊の花だ。茨の花だ", "何とでも仰っしゃいましとサ" ], [ "玉枝", "…………", "オイ玉枝", "うるさい人だね。私に何か訊くことがあるならば、その辺で、水でも飲ませて、少し休ませてくれなければ駄目だよ。息が喘れて、返辞なんか、できやしない", "そうか、じゃ少し休ませてやる。そこへ腰をかけろ。――その代りに拙者の問に答えるのだ", "オヤ、もうお白洲かい", "貴様は、江戸表から小筥を持って来たな。そしてそれを、含月荘の大村郷左衛門の手へ届けたな", "そんな事は、お前さんの方が、とうにご存じじゃないか", "あの中には、人間の指がはいっていた", "それも昨夜、私達が密談をしているところを、お前さんが忍び込んで、次の間からすッかり聞いて逃げたじゃないか", "あの人間の指は、誰の指だな?", "…………" ], [ "おいッ", "なんですか", "誰の指だと訊いているんだ。言え", "もう見当がついてるじゃありませんか", "よし。それではべつな事を訊くが、あの亀山公の国家老大村父子と其方とは、いったい、どういう縁故があるのか", "…………", "また、あの奇怪な家老は、なんの為に、莫大な金を費って、其方たちを手先に、女の指を蒐めているのか", "…………", "これッ、なぜ言わんか", "…………", "言わぬな。よしッ" ], [ "何だ、もう済んだのか", "少し呆ッ気ないぞ" ], [ "先に、主水様とご一緒に、如意ヶ岳の作兵衛の小屋へ行って、お待ちうけになっているはずだ", "そうか。じゃすぐに其奴を引ッ担いで行け", "心得た" ], [ "もし、私を忘れちゃ酷いでしょう", "あ、玉枝どのを", "そうだ、縄を解いてやれ" ], [ "上手くいったね。――同心なんていう者は、悧巧そうで、案外馬鹿なものさ。ゆうべ、こっちの密談を偸み聞きして、とうとう捕まえ損ねたから、きょうは、わざと私が囮になって、この叡山道の奥まで釣りこんだとは知らないで、人のことを、悪運が尽きたの、何だのと、いい気になって講釈を言うから、肚の虫が可笑しがって困りましたよ", "でも、少しは酷い眼に会ったでしょうが", "何、これで胸が清々しました。――けれど、どうしてこの同心を、すぐこの場で殺さずに、作兵衛小屋とかへ持って行くのですか", "そこが、ご家老一流の、細心なところなので", "じゃ、死骸の始末をするためにですか", "左様。死骸をこの辺に埋めておいて、万一、強雨の後などに、土中から洗い出されると、ここは叡山道で人通りもあることゆえ、世上へ洩れる惧れがある", "なるほどネ", "江戸の上役人が、含月荘の領内で、殺されていたと分ったひには、こいつ、大破綻になりますからな。――そこで、如意ヶ岳の作兵衛小屋へ持って行って、炭焼竈の中で焼いてしまおうというお考えなので", "それなら、衣類も大小も、みんな灰になってしまうから、世間に分るはずはない" ], [ "あっ、これやぶったまげた、ご家老様まで一緒にござったね。こんな山小屋へ、何しに来たんだね", "作兵衛、お前に少し頼みたいことがあって、それでわざわざ父上までご一緒にお越しなされたのだ。これは少ないが、手土産の代りだ、取っておけ", "ほ。……おらに、この金をくれるのかね", "見たことがあるか、それは、小判というものだ" ], [ "こんな物は要らねえだよ", "なぜ", "おらには、もっと欲しいものがあるだがなあ……", "何なりと望んでみるがいい", "去年の夏ごろだ、おらの伜の唖野郎が、大津まで買物に行ったきり山へ帰って来ねえでがす。何しろ、あの伜めは、唖で聾で、ぼんやり者。もしや、河にでも墜ったのじゃねえか、人に斬られたのじゃあるまいかと、そればかりが苦に病まれて、この頃は、仕事にも張合いが出ない。――何もいらねえでがすから、どうか、伜の唖野郎が、一日も早く山へ帰って来るように、探しておくんなさい" ], [ "よしよし、案じることはない、唖の岩松は、今にきっとお前の手に返してやる", "えっ、返してやる? じゃおめえ様方が、隠したのじゃねえのかい", "ば、ばかなことを申せ。あんな、薄野呂な唖聾を隠したって何になるか" ], [ "ところで、おめえ方の頼みというのは、何だね", "きょうは竈に火を入れる日か", "あ。今、三番竈に火を入れる支度をしているところだ", "それや好都合だった。ほかじゃないが、そちの炭焼竈で、人間の体を一箇、こんがりと焼いて貰いたいのだが……" ], [ "嫌と申すか", "い、いえ、嫌とは、言わねえでがすよ", "そうだろう、常々のご恩顧を忘れて、嫌だなどと言えばただはおかん" ], [ "主水主水、やって来たぞ", "おお成程、引っ担いで参りましたな", "作兵衛、火入れを用意しておけ" ], [ "すぐに、裏の竈場へ運んで行け", "はっ" ], [ "きょう火入れをするのは、三番竈だよ", "こっちの端か", "へい", "どれ……" ], [ "ム、いかにも、楢の炭材がいっぱい詰め込んであるわ", "それでは、すぐに抛り込め", "よいしょ!" ], [ "まだちッとべい、早うがすよ", "火入れにも時刻があるのか", "へい。未の刻に火入れをして、暁方の六刻に、竈開けをすることに、何十年もの間極っているんでがす。小屋のめえに砂時計があるだから、それを見ていておくんなさい", "未の刻か。では、もう半刻ほどだな", "その間に、茶でも入れますべえ" ], [ "まあもう少し休んで参ってはどうだ。ついでのことに、竈へ火がはいるのを見届けてから出立するがいい", "そうですね、人間の蒸焼きを見るのは初めてですから、それじゃ、見物してから立ちましょうか", "そうせい。……これこれ、誰かその砂時計を睨んでおれ。――まだか", "もう暫時でございます" ], [ "作兵衛はいかがいたした", "竈の前につぐなんでおります", "そうか" ], [ "目塗りは最前に充分いたした筈ではないか", "中のやつが暴れくさッたで、この通り、破れが来てしまったのじゃ", "げッ、それでは、息を吹ッ甦したのか", "そうらしいぞ。竈の肌へ、耳をつけて見さッしゃい、中で、呻いているだから", "ウーム……何かそんな物音がするようだ", "どれ、どれ" ], [ "老爺! 早くせい! 火を入れろッ", "合点でがす" ], [ "わあ、堪らん", "臭い! 人間臭い" ], [ "ム。ずいぶん強情な奴だが、とうとう笛師のお雪を殺害したのも、巫女殺しも、みな自分の所業だからはやく死罪にしてくれと泥を吐きおった", "それは貴公の大手柄だった。――して、何の恨みでそんなに人命を害めたのか", "何しろ、怖ろしく疲労しておるので、一遍に細かいことまでは訊きとれないが、他人の頼みをうけて殺したと申しておる", "金のためかな?", "そうらしい。何でも、江戸表の方の調べと綜合してみると、花世の父、富武五百之進には非常な借財があるらしい", "ほう、それは初耳ですな", "彼は御書院番頭を勤めておったが、その部下のうちで、ある者が、公金を費い込んだことがあった。その時に、部下の者を助命したいために、非常な工面をしてその公金を償ったのが、いまだに残っていると申すことじゃ", "ははあ、それで婚儀の費用にも窮し、また、養生所の創業にも金が要るので、江漢老人だけには内密で、富武五百之進、花世、郁次郎の三人で、悪意を起したものとみえますな。なにしろ、一日ごとに事件の迷霧が晴れて、こんな欣ばしいことはない", "昨日、お奉行の榊原主計頭様からもご来状があって、このたびのご尽力には、心から感謝している文面でござった。もう何事も尊公におまかせすると、信じきっておられるようじゃ", "いや、かほどの功を、左様に誇称されては面目がありません。郁次郎から自白の口書をとった上は、すぐに、江戸表へさし立てましょう", "やっかいな下吟味がすんで、なんだか、肩の重荷が半分以上も下りた気がいたす。それではすぐに、用意を申しつけましょう" ], [ "指切りの郁次郎だ", "江の島の巫女殺しだ" ], [ "――頼みます! 見遁して", "その声は、花世どのだな", "情けじゃ" ], [ "――火を貸してくれぬか", "おやすいことで" ], [ "あっ", "どこへ参るのだ", "これは、羅門氏でしたか" ], [ "ただ今、この道筋を、若い女が、馬に乗って逃げたはずですが", "ウ、見かけたが、それがどうしたのですか", "怪しい女です。花世かも知れません。五、六名ほど手をお貸し下さるなら、すぐに追いついて、引っ捕えて参ります", "待て待て" ], [ "貴公は、何か手功焦りをしているな", "ど、どうしてですか", "上ずッておる。まあ落着き給え。――拙者もたしかに今の女を見かけたが、花世とまるで別人だ。なあ、東儀殿", "まるで違ッておる" ], [ "おやっ、おい……お前は加山耀蔵じゃないか", "老、老先生ッ……。お久しゅうござりました", "なんじゃ、泣いとるのか貴様は。……ああ止してくれ、それでのうても、わしは泣きたくってならないところだ", "ご胸中のほど、深く、ご推察いたしまする。波越もてまえも、事件と同時に、一刻もはやく、お慰めに推参いたさねばならなかったのでござりますが、いかに、師弟のあいだなればとて、老先生のご子息を、縄目にかける役目に立って、おめおめと、お顔を拝すことも心苦しく……", "これ。これ。……な、なんだって、ちょっと待て", "今日までご不音の罪、どうぞ、おゆるし下さいまし、この、この通りでござりまする。どうぞ、憎い奴と、お叱り下さいましょう", "おい待てというのに。……何じゃと、今聞けば、わしの伜をどうしたと?", "郁次郎様のあのお始末、こうして、老先生のお顔を見ると、涙ばかりが……涙ばかりが先に立って、この胸が、張り裂けるようにござります", "はて、分らんぞ。伜の始末とは", "あ、あの……", "何のこッた。はっきり申せ", "指切りの郁次郎と、世上の評判も、もうお耳には入っていることと存じますが", "こ、これッ加山、指切りの郁次郎とは、それや一体、なんのこッちゃ", "ではまだ、何事も、老先生にはご存じないので", "この鶉坂から一歩も出ぬわしじゃ。なにか、郁次郎の身に変事があったのか", "あったのかどころではござりませぬ。女笛師のお雪を殺したのも、江の島の巫女殺しも、みな、郁次郎殿の所業と睨まれ、ご本人もまた、それに相違ないと自白をなされて、昨日、江戸表へ差し立てと同時に、南町奉行所の仮牢へ入牢なされました", "げッ" ], [ "老先生、お危のうござります。どうぞ、お気をたしかにして下さい。お気を、お気を", "ウウム、だ、だい丈夫だ加山", "先生ッ" ], [ "加山、加山", "は、はい", "今のことばは、真実か" ], [ "なんで偽りを申しましょう。思えば、今日まで拙者を初めすべての人々は、ただ、老先生のこのお悲しみが見たくないために、似而非同情の心で、お訪ねもせず、お耳にも入れずに、過ぎて来たのでござります", "では、伜は、もうとうに、江戸表へ帰っていたのか", "はい、昨年の名月の晩――あの女笛師の死骸が見出されたその晩には、もうこの江戸表に潜伏しておられたのでござります", "待て待てッ" ], [ "そちまでが、伜の郁次郎を下手人というのか", "四面の事情、すべての証拠、一として、郁次郎殿を明るくするものはござりませぬ", "ええ、馬鹿を言えッ、馬鹿を言えッ。わしの子だぞ! 塙江漢の生んだ子だぞ", "ご尤もです! 誰あろう当代の名与力、塙老先生のご子息とは、私ごとき者まで、胆にこたえて、悶えてはおりましたが、すべての推移は、郁次郎殿を極悪人に決めてしまいました。……で、そのご最期まで見るには忍びないので、とうとう、無断就役中から脱走して、すべてのご報告だけに参りました", "遅いッ、遅いッ、その真心があるならば、なぜもう少し早く聞かせてくれなかったのだ。して富武五百之進殿は、この大変事をご存知なのか", "ことの発覚と同時に、自刃して、割腹なされました", "えっ、割腹した", "のみならず、ご息女の花世どのも、今では、きびしい追捕に追われて、お屋敷にもおりませぬ", "ああ知らなかった!" ], [ "それでは、いくら待てど暮せど、来ないはずだ、音沙汰のないはずだ。――ええこうしてはおられぬ。加山! 案内をせい", "ど、どちらへですか", "わしの伜のいる所じゃ! 南町奉行所の仮牢じゃ。わしが参って、奉行の主計頭、与力の東儀三郎兵衛、それに羅門塔十郎の三名をならべて説破いたすから、其方も立ち合え", "手前は、無断脱走いたしたので、奉行所には参れません", "かまわんッ" ], [ "かまわん! 罪もない人の子を、極悪人と誤るような上役に従いておることはない。わしの蔭に添って付いて来い", "しかし、或いはもう今頃は、郁次郎殿をひき出して、刑刀の錆としてしまったかも分りませぬ", "そんなはずはない! そんな理屈はない", "でも、吟味はすべて、江の島の方で済まし、自白の口書まで取った上に護送したのでございますから", "その遣り口からして言語道断。たとえ、伜の自白があろうとも、あれは、わしが血をわけた子だ! あれの五体に盛ってある血は、父たるこの江漢が誰よりもよく知っているのだ! さ、一刻も、こうしてはおられん、加山、町へ出て、馬をさがせ" ], [ "塙江漢じゃ。はやくたのむ", "えっ、鶉坂の先生ですか", "そうだ、早くせい、一刻を争うのじゃ", "しばらく" ], [ "お奉行、会わせては事面倒ですぞ。ていよく、追い払った方が、上策ではござるまいか", "いや" ], [ "江漢先生といえば、ほかならぬ人物です。隠退はしても、この南町奉行所にとっては、過去の功労者、そうはなりますまい。武士の情けとしても、この際は、是非、会わせてやるのが当然でしょう", "いかにも、言われるとおりだ。番士、老人を表書院へ通しておけ" ], [ "ほ、談じたいこととは", "伜郁次郎の儀について", "では、この度のことはもうお聞き及びであるな", "承った" ], [ "あいや、奉行のおことばではあるが、伜郁次郎は、決して、左様な極悪人ではない。子を見ること、親に如かずじゃ。この親たる江漢が断じて言う、断じて言う! 郁次郎を罪人というお眼識は違っている", "親子の情愛、そう思われるのは無理もないが、すでに、動かし難い幾多の証拠が蒐まっている", "証拠? その、証拠とは?", "いちいち、ここで述べ立てるよりは、これを一見した方が早かろう" ], [ "どうじゃ、老人", "ウウム……", "それで、確と、得心がついたであろうが", "いや!" ], [ "まだ分らん! まだ分らん!", "なぜ?" ], [ "この調書のうちに、しばしば認めてある、覆面の浪人とは、何者のことか", "それが即ち、おてまえの息子、郁次郎のことじゃ", "事実、その覆面を剥いで見られた場合がござるか" ], [ "女笛師の死骸、江の島の巫女の死体、そのいずれも、左の手の指が切り取られてあるようじゃが、この下手人が、何のために、死骸の指を切りとるのか、そこの調べが一向についておらん。奉行はそのことについて、何ぞ、明白に吟味をお遂げなされたか", "さ……それは", "まだある!" ], [ "この事件の発した当夜、即ち、十五夜の晩以来、各〻方が、いわゆる郁次郎の化身と目されておる覆面の男と、例の唖男とは、明らかに、連絡のあることに相成っておるが、その唖男と、郁次郎とを、対決させておられたかどうじゃ", "あ……" ], [ "さ……実は、その点もまだ……", "はて、怪しからん! 左様な点も充分に確かめずに、ただ、罪悪を作るため、ただ、下手人を作るための調書が、何の役に相立とうか。かようなものは、反古同然" ], [ "なんじゃ!", "では、お上の調書はすべて信じられぬ、作り物であると、仰せられますか", "おまえ何じゃ?", "はっ" ], [ "お忘れでござりますか、以前、どこかで、お目にかかっておりますが", "ウム" ], [ "上方の羅門――殿だったな", "そうです", "これや、しばらくじゃった", "いつも、お健やかで" ], [ "――今、わしが言ったことばに、何ぞ、異論があるようじゃが……", "いかにも、大いにござります", "何、大いにあると", "さればです!" ], [ "調書について、三つのご反説、いちいちご尤もにはござりますが、まず第一に、覆面の男が郁次郎なりや否やのお疑いは、ご無用にござります。何となれば、それは、自分をはじめ、同心の加山、波越らも、しばしば目撃しておるところで", "待たれい。――覆面なれば、顔容もよく分らぬはず。殊に、それはすべて夜陰ではないか", "のみならずです!", "ウム" ], [ "先頃、平賀源内の博物会があった折、老先生のお知慧を拝借して、女笛師お雪の蝋人形を出陳いたしましたところが、その前に佇んで、人知れず涙を拭いていた浪人がございました", "それが、郁次郎であったと申すか", "いかにも", "それがどうして、覆面の男であるという証拠になるか", "一時の痴情で、お雪を、殺害したものの、後になって、悔いの涙を流したものと推察いたします。唖男の申し立てもその通りです", "さて、浅慮千万な。いかに、彼がうつけ者でも、自分で殺害した女の死人形を見て、何で、涙を流そうか。犯罪人の心理とは、決して、そうしたものではない", "然るに、天運の尽くるところか、その折、郁次郎の懐中物を狙っていた掏児があったのです。捕えてみると、別府の新七という道中稼ぎ、掏った紙入れには、郁次郎が長崎表から江戸へ送金した為替札と、また、女笛師のお雪と、取り交わした恋文などが、中に秘されてあったではござりませぬか", "えっ、あの、殺された女笛師と、郁次郎との恋文があったと", "何か、よほど、複雑な仲だったとみえまする", "ウーム……そうか" ], [ "して、掏児の新七は", "入牢させてあります", "この儀は、江漢が、後になって、闡明いたそう。しばらく、宿題としておいてもらいたい", "次に、第二のご質疑――。なぜ、下手人が死者の指を切取るか、その目的が、吟味の上に明白でないという仰せですが、これは、犯人が捜査の目を晦ます奸手段にすぎません。――と、お奉行も認められて、深く糺さぬまでのことです", "見解の相違じゃ、くどく申せば水掛論、ぜひもない", "第三のおことば、唖男と郁次郎を、なぜ対決させぬかという点は、近頃、ちとご難題かと存じます。何となれば、一方は、唖で聾、文字も読めぬまったくの明盲、何をもって、白洲の対決がなりましょうか、よろしく、ご賢察をねがいます" ], [ "なるほど、唖で聾、しかも無筆では、どうにも吟味のいたしようがあるまい。これはわしも失念であった。――だが、最前おてまえは、郁次郎が覆面の男と同一人であるということは、自身の推量のみならず、唖男の申し立てもそうであったと言われたな", "あ……" ], [ "貴公、どうして、その唖男にものを言わせたのか", "い、いや、あれは失言です。――失言でした", "お間違いか", "ことばの弾み、お聞き流しをねがいたい", "してみると、どッちにしても、ちょいちょい吟味の手落ちがある。今宵、江漢が押して推参いたしたのは、敢えて、わが子可愛いのみではない。私情のみではござらん" ], [ "司法の明鏡に、曇りがあっては、ご聖代の汚辱じゃ。万一、わが子が真の罪人ならば、六十年の生涯を、司法の庁に生きてきたこの江漢は、わが子と共に、舌を噛んで、同じ獄土に死ぬべしじゃ。頭を、わが子の獄門台にぶち割って、不徳の罪を、天下の親に、謝さねばならんのじゃ。お奉行! お奉行! 一目、郁次郎に会わせてくれんか。父たるこの江漢が、自ら、彼を打って、最後の吟味をいたしてみたい……", "おお、それはよかろう" ], [ "――郁次郎はどこにおる", "えっ" ], [ "これ! 伜!", "あっ?", "伜", "…………", "伜……" ], [ "わしじゃ! 父じゃ", "おう……おう……", "来たぞ、おまえの父は来たぞ" ], [ "もういい、もういい! おまえの冤罪は、きっと、この父が雪いでやる。気をしッかりせい、心をつよく持て", "ち、父上……" ], [ "これ、郁次郎。そちはなぜ、長崎表から帰って来たら、すぐに、この父の許へ来なかったのじゃ。それが第一に、こんどの災禍を招く因になったのだ……", "お年を召されている父上に、大きなお嘆きをかけました。ふ、不孝の罪! ……どうか許して下さいまし", "何ごとも災難だ。わしは、おまえ一人の愛によって生きている。長崎へ勉強にやったのもその為だ。養生所を建てたのもそのためだ。そして、おまえの花嫁になる人と、首をのばして、待っていたのだよ!", "あ、ありがとうございます。父上、郁次郎の不孝の罪、重ね重ねおゆるし下さいませ。その酬いは、やがて、獄門の上に乗って、世の不孝者の見せしめとなりまする", "な、なにをいうか。おまえを見殺しにするくらいなら、父は、こんな苦労はせぬ。わしはおまえの潔白を知っている。おまえは決して、大それた、悪事などは働きはしまい", "ああ、もう、もう、取り返しがつきませぬ……", "それを、おまえはまた、なんで心にもない自白をしたのだ。女笛師や巫女を殺したのは、自分の所為に相違ないなどと、なぜ、そんな飛んでもない偽自白を申し立てたのじゃ。……あれは皆、おまえのしたことではあるまい。な! 郁次郎", "父上ッ……", "む。……言え。明らかに、その冤罪なることをここで言ってくれ", "駄目です! やっぱり、私が殺したに相違ないんです", "な、なんだと!" ], [ "これッ、そちは、狂気いたしたか。長崎で立派に医術の修業を習得して、江戸には、新築の養生所や、やさしい花嫁や、この父や、人間のあらゆる幸福が待っておるのに、それを捨てて、益もない、悪事に走るはずはない。何かの誤解だろう、さ、この誤解を解け、ほんとのことを言ってくれ", "父上、もう、おたずね下さいまするな。不孝の子を、獄門へ、送って下さい", "馬鹿ッ、馬鹿。貴様はどうしてそんなばか者になったのだ。今、ほんとの事を言わなければ、後になって、いくら父の名を呼んでも及ばないぞ", "もう……覚悟をいたしております", "ええ、親の心子知らず、わしは気が狂いそうだ。まったく、自分の所為だと申すのか", "すべて、羅門殿と東儀殿へ、申し上げたとおりでございます", "あ、あ……" ], [ "取りみだして、面目ない。……がこの上には、親として、もう一つ、最後の手段を講じてみたい。それは例の唖男と、郁次郎の紙入れを掏った別府の新七という掏児をここへ呼んで、対決させてみたいと思うのじゃ。何と、ゆるして下さらんか", "でも、唖男は、あの不具者でござるが", "江漢が多年の経験による一つの吟味法をもって、きっと、唖にも口を開かせてみせる", "では、あれは、偽唖なので", "いや、偽唖ではあるまいが、その本体を、調べ上げて見せるというのじゃ。両名をすぐにここへお曳き下さい" ], [ "何事じゃ。奇怪なとは", "破牢いたしました", "だ、だれが?", "唖も、掏児も", "や!" ], [ "して、いつの間に", "たった今らしい。――拙者がゆくまで、見廻りの六尺さえ、まだ気づかずにおったくらいだ", "ちぇッ、ぬかった" ], [ "――今、駈け出しても、及びますまい。二人の破牢には、外部から、誰か、手を貸したものがある", "どうして、そのご推察がつきますか", "掏児と唖とが、同じ時刻に、牢を破ったというのが何よりの証拠、外部の者でなくて、誰が、その連絡をとろうか", "ウム、成程", "のみならず、ここにわしは、新しい大疑問を見出した。信念をつかんだ。下手人は飽くまで郁次郎でないことを信じる。八幡照覧、下手人はほかにある!", "老先生、この期になって、まだそんなおことばは、ちと、ご過信がすぎましょう", "過信とはなんだ。――よく思念を澄ましてみるがいい。郁次郎が真の悪人どもの謀主ならば、唖や掏児などという小さな手先を破牢させるまえに、まっ先に、謀主たる彼をここから救い出す工夫をするのがあたりまえではないか。それをせぬのは、悪人どもと郁次郎とは、まったく、深い縁のない証拠だ", "証拠証拠と仰せられるが、すでに、あの通り、当人が自白しているのが、何よりの証拠ではありますまいか", "では、羅門――" ], [ "其許も、やはり、東儀と同じく、あくまで伜郁次郎を、罪人と断定なさるおひとりじゃな", "いかにも!" ], [ "情に於いては忍びぬものがありますが、是非もないことです。明らかに申します。笛師殺し、巫女殺しの謀主は、塙郁次郎に相違ないと断言する", "ウーム、面白い" ], [ "折角ですが、老先生。もはや事件はあまりに片づいております。もう、そんな時刻はありません", "なに、時刻がないとは", "されば、今夜ももうだいぶ更けました。実をいうと、郁次郎の生命も、この、星の光が滅するまでです。――夜明けと共に、この藪牢の前で、断罪になることになっています。すでに、御老中のご印可が、きょうの午すぎには下りていたのですが、武士の情けに、一晩だけ延ばしてあるわけなので……", "えっ! じゃあ何というか、あの、もう御老中たちの、印可まで、下りているのか", "ごらんなさい" ], [ "――あの樹蔭には、あしたの朝の荒むしろ、水桶、柄杓、血穴を掘る鍬の道具まで、運んで来てあるのです", "罪だ! 罪だ! 何のうらみがあって、それを、一晩、牢内から見せておくのだ", "先生――老先生――お気をたしかにしてください。気を、落着けてください", "離せッ、わしは、こうしてはおられない" ], [ "おうっ、加山か", "如何なさいました、奉行所でのお話の結果は。――もしや、ご気分でもどうかなされたのではありませぬか", "わしの、顔色は、そんなにも悪いか", "真っ蒼です。恐い、仮面のようです", "ああ……ああ……" ], [ "どうなすったんです! 郁次郎殿は、どういうことになりましたか", "郁次郎?", "私とても、案じられて堪りません。老先生の申し分が届いて、ご子息の黒白が立てばよいがと、祈っておりましたが、はっきりと、談判のご様子を承らぬうちは、胸さわぎがしずまりませぬ", "ウーム、そ、それだよ" ], [ "わしは、敗北したよ。見事に、羅門塔十郎のために、言い負かされてしまったんじゃ", "えっ、では、老先生の明智と熱とをもって、ご子息の冤罪を主張なされても、やはり、郁次郎殿は、罪人ときまったのでございますか", "形のうえでは、わしが言い敗れた。真の罪人の出ぬうちは、伜の罪は拭われぬ。たれが仕組んだ仕事か、悪人ながら、よくもああまで巧みに、人に罪を着せたものじゃ", "して、老先生には、獄中の郁次郎殿と、ご対面はなさらなかったのでございますか", "会った……" ], [ "会って来たよ。――見違えるばかりに窶れた伜の姿を、あの藪牢の中で見たとたんに、わしはいっぺんに、十年も年を老った気がした", "その節、ご子息には、何と仰せられましたか", "伜も伜だ、逆上しておる、あいつは、幼少の時から、気が小さい、それに、柔順だ。――だから、もう運命に負けきって、笛師殺しも、巫女殺しも、みな自分が犯したことに相違ないと、言うておる", "えっ、それでは何ですか、あの、お父上たるあなたに向って、郁次郎殿は、そう言っておりますか", "いくら、わしが励ましても、彼はもう、死ばかりを望んでいる。……親の心子知らずにもほどがある。父は子の冤罪を救おうとしているのに、子は、根もない自白をして、死にたがっているんじゃ。ば、ばかなやつじゃ……ばかなやつじゃ……" ], [ "――夜が白むと同時に、郁次郎は、藪牢のまえで刑刀の錆になるんじゃ。朝までだ、朝までだ", "ああ、それまでの、お命でござりますか", "死なしてたまるか。わしは、殺さん", "――と、仰っしゃっても", "まだ時刻はある。夜明けまでは、間がある", "でも、今鳴ったのは、もう石町の九ツ(十二時)です。老先生、ちょうど、きょうとあしたの境、今が、真夜なかでございます", "……ああ、そうか" ], [ "いくら、わしが、捕物の名人でも、半夜のうちに、この難事件は片づかん。……だが、加山", "は……", "およそ……" ], [ "は。聞いております", "いつも、鶉坂の講義の席で、いうたとおりじゃ。いかなる難事件にぶつかろうが、捕吏たるものは、事件に呑まれて、自分を失ってはならん。自ら、だめと、匙をなげたら、おしまいだ。最後の一瞬まで、斃れる土俵ぎわまで、全能全力で、活路をさがす。――それが同心の精神だ。与力の魂だ。いわんや、江漢は、その子たるものの命を、救うか否かのどたん場じゃ。わしはやる! 最後までやる!" ], [ "……死んでくれるか", "お供をいたしまする……", "おう" ], [ "ごいっしょに", "む" ], [ "――かあいそうに、この老いぼれさんは、若い同心を道づれにして、とうとう、死んじまったんだよ。……だが、こっちにとれば、これで、大安心というものさ。ねえ、唖", "…………" ], [ "はやく、片づけろ、そいつを", "河へでも、蹴込んでおきゃあいいでしょう", "奉行所の近くだ。すこし、まずいな……", "では、どうしますか", "そこらの、小舟を攫って、運んじまえ", "え、どこへ?", "品川沖へでも持って行って、沈みをかけてしまえば一番いい。……それに、てめえたちだって、破獄したばかりの体だから、しばらくの間、海風にでも吹かれて、ほとぼりを、さましていろ", "なるほど、一挙両得というわけで", "おい" ], [ "何か、物を落してゆくなよ。血は、こぼれていやしめえな。……おう、いけねえ、こんな所に、十手が落ちていやがる。こんな物も、後のあしにならねえように、気をくばって、一緒に、沈めてしまえよ", "じゃ、お首頭、そのうちに", "む" ], [ "忘れていた。――おうい", "なんですか" ], [ "どうもこうもあるもんか、寝耳に水だ。誰だか知らねえが、おそろしい勢いで、戸を叩くもんだから、びっくりして、戸をあけると、そのとたんに、人間の死骸を、人の足もとへ抛りつけて、逃げてしまやあがった。――縁起でもねえ、いまいましい畜生だ", "おや、老人じゃありませんか", "これが、美い女ならば、まだ、我慢のしようもあるけれどよ", "いくら美い女だって、死人じゃ話にならねえ。しかも、お武家のようですぜ", "どこのご隠居だろう。知らねえか", "見たような人ですね……" ], [ "あっ、これや大変だ。親方", "どうした", "その人は、今じゃお役退きをしたそうですが、元は、捕物の神様だといわれたくらいな名与力ですぜ。あの、あの……ええと……何と言ったッけなあ、ちょっと、思い出せねえが", "えっ、じゃ、鶉坂の先生か", "あっ、そうだ、その塙江漢様なんで。――いつか、八丁堀の旦那方と一座して、中川尻へ、投網のお供をして行ったことがあるから、たしかに、覚えています", "そいつあ、大事だ。ど、どうしよう", "どうしようたって、死んでいちゃ、まあお上がンなさいと言うわけにもいかねえや", "やい、やい、下らねえ軽口をたたいているない。はやくしろ、はやく", "何をはやくするんで", "何とかしろってンだ", "困ったなあ、そういう親方からして、まごまごしているんだもの。自身番へ持って行くんですか", "そうじゃねえ、脈を見ろっていうんだ。そして、助かるものなら、はやく、お手当をして上げなけれや", "脈はありませんぜ", "ばか、そんな所に、脈があるか。はやく槙町の外科の先生を呼んで来い" ], [ "殿。なにか、訴文のようにござりますが", "ははあ、さては、寛永寺の訴訟に関係のあるものが、何か、言い分を、矢文に托してこの屋敷に射込んだものとみえる。――然るべき手続きもふまずに、左様なものを取り上げては、この後の悪例となる。よし、よし。そのまま、射返してやるから、矢を、これへ持て" ], [ "はてな? ……それらしい人間も見あたらぬが、采女、そちの眼では、どうじゃ", "わかりました。……あれにおります", "どこに", "川向うの民家の屋根に、ひとりの老人が立って、じっと、こっちを見ております", "見えん。どこに?", "もすこし、私の方に寄ってごらんなされませ。あの河岸添いの釣舟屋の屋根に、ひとりの老人が立っておるではございませぬか", "あっ。これは妙だ!" ], [ "あれは、江戸の大捕手といわれた名与力、今では、鶉坂に隠退したはずの塙江漢にちがいない", "や、や、殿。ごらんなさい。お屋敷の方へ向いて、拝んでおります", "ふしぎなこともあるものだ。よもや、江漢老人、気が狂ったわけでもあるまいに、当屋敷へ矢文を射込んで、拝んでいるとは心得ぬことだ。……オオ何はともあれ" ], [ "采女、馬を曳け", "はっ" ], [ "おうっ、塙ではないか", "へへへ" ], [ "老人、久しぶりじゃのう。――そちが在役中には、何かと、寺社奉行の方にも助力を得たが、隠退したと聞いて、左近将監もかげながら惜しんでおったぞ。その後、健在か", "無為に、余生を過しておりまする", "最前の矢文の願意は、左近将監、たしかに承知いたした。安心せい" ], [ "事情は、書状に依って、篤と承知いたしたが、郁次郎の冤罪なることは、たしかであろうな", "もし、それに相違ある時は、郁次郎のみか、父たるこの江漢も、老腹を掻きさばいて、天下に罪を謝す覚悟。――ただ、その冤罪を訴え出る道と、時刻の猶予もなきために、お役違いとは存じながら、直訴の矢文、その大罪は、何とぞおゆるしのほどを願わしゅう存じまする", "よし、よし" ], [ "したが、老人、ひどく窶れたのう", "一夜のうちに、白骨になるほど心労いたしました", "そうあろう。誰しも、わが子の愛に変りはない。いわんや、一代の名与力、塙江漢の一子が、極悪人として断罪にされては、末代までの恥辱、いや、天下の人心に及ぼすところも尠なくはない。――おお、こうしている間に、郁次郎が刑に処されては相成るまい。老人、これを携えて、はやく、町奉行の榊原主計殿に、願いの旨を、申し入れるがいい" ], [ "御老中太田備中守様のお書付。時刻がないゆえ、何かの手続きは後にゆずるとして、とりあえず、郁次郎の処刑に対して、百日のご猶予をおゆるしあったのじゃ", "えっ! あ、あの、百日" ], [ "太刀取り!", "はっ", "すぐに斬れ" ], [ "――狂気したかとは何たる放言だ。老いたりといえど塙江漢、まだ、気狂うほどの耄碌はせぬ", "ではなんで、郁次郎の愛に溺れて、刑の執行を邪げなすか", "いや、邪げるのではない。止めるのだ", "止める?" ], [ "見られたか、ご両所。郁次郎の刑を、百日のあいだ延期いたすということは、この江漢のことばではない。老中のご命令でござるぞ", "あっ?" ], [ "これは、不審だ。すでに、老中ご一統の裁可に依って、郁次郎の断罪をお認めあったものを、ふたたび、延期せよとは心得ぬお沙汰じゃ", "――ではこのお書付を偽筆といわるるか", "よしや、直筆なるにもせよ、一老中のご意見で、法をうごかすなどという例はない。もってのほかな僭上というものであろう" ], [ "――かく御老中から急なお沙汰が出たのは、必定、塙老人の熱心な策動によるところと心得ます。しかし、それは少しも、郁次郎が冤罪という反証にはなりません。吾々は初信どおり、飽くまで、彼を真の下手人として、これから百日間に、東儀殿と力をあわせて、いっそう、証拠固めに全力をあげるつもりですぞ", "もとより、そうなくては、羅門塔十郎ともある名捕手の一分が相立つまい。また、老先生の立場としても、お上より、かくご猶予のある以上は、ただ、言い分や議論に止まらず、ぜひとも何人が、女笛師お雪を殺したか、巫女殺しの下手人なるか、その真犯人をつきとめて、百日の日限までに奉行所へお示しをねがいたい。――かりに一日遅れても、万一、その期日までに、真犯人の出ぬ時は、奉行所は、奉行所が今日までの推定によって、郁次郎を処刑いたすことに、何らの仮借を持つものではないから、その場合には、お恨みなきように断っておく", "よろしい――" ], [ "これで、わしはわしの信念に向ってすすむこと以外に、なんにも言うことはない。郁次郎は、それまで、獄舎に預けておく", "はははは" ], [ "しかたがねえから、グッと沖へ出て、沈め込むとしましょう。だが、船番所の見廻り舟にでもぶつかると面倒ですから、気をくばっていておくんなさい", "大丈夫だよ。わたしが、こんな顔をしていれば、舟遊山としか見えやしまい", "女の乗っているところが安心だが、その唖聾が、キョロついているのが困りものだ", "なあに、これだって、人が見れば、山出しの下男だろうと思うから心配はない。それよりも、うでに縒をかけて、沖へ漕いでおくれ", "おッと、そのことだ" ], [ "こんな所で、人間の血脂をながしたら、すぐにあしがついてしまう。そのまま、錘りをかけて、沖の深くへ抛り込んでしまうのがいちばんだ", "なるほどネ" ], [ "ざまをみやがれ", "いくら逃げ足の迅いてめえ達でも、水のうえじゃ、どうしようもあるめえ" ], [ "親方、面倒だ", "殺っちまおうか" ], [ "痛いッ、手をゆるめておくれよ", "何を言やがる、痛えのは、あたりめえだ。……おい、はやく来い", "親方、どうします、こいつの死骸は", "魚の餌にしてしまえ", "合点。――水葬式" ], [ "舟は?", "舟もそのまま突っ放してしまえ", "もう一匹、ヘンな男が、まっ先に海のなかへ逃げこんだが、どうしやがったか、浮いて来ねえ", "ム、下男みてえな男か。雑魚だろう", "じゃ、ぶんながしますぜ、この舟は" ], [ "あ。千吉だ", "待てやアい" ], [ "はやく綱を抛れ、綱を。いやに、落着いていやがる", "船頭のくせに、弱音をふくな。こっちだって、大仕事があったんだ", "いくら、稼業が稼業でも、そう永く、水の底にゃつづかねえ。それに、生き物をかかえているんだ", "おう、どうしたものは", "ものは、首尾よく、このとおり……", "ご苦労、ご苦労" ], [ "オヤ、おまえさんの?", "勝手にしやがれ", "しみったれたことをお言いでないよ、莨の一ぷくや二ふく、いいじゃないか", "あれだ……" ], [ "親方、世の中にゃ、こんな不敵な女もあるもんでしょうか", "どうせ、ひとすじ縄で行く女じゃあるめえ。逃げられねえように、要心していろ", "はばかり様。おまえ達みたいな、町人根性ならしらぬこと、こうと度胸をすえた以上は、見ぎたなく、じたばたするような玉枝さんとは違うんだからね、安心おしよ", "……親方、似ていますね、まったく", "誰に", "八官町の富武様のお嬢様と", "ム、鶉坂の老先生も似ているとおっしゃったが、まったく、瓜ふたつだ。……だが、形は似ていても、心ときたひにゃ、雪と炭だ" ], [ "じゃ、おまえたちは、鶉坂の老いぼれに頼まれて、私たちの仕事の邪魔をしたんだね", "それがどうした", "おぼえておいでということさ!", "けッ。この期になっても、まだあんな憎まれ口をたたいていやがる。――親方、また海へでも飛びこむと、探すだけでも手数ですから、ふン縛ってしまいましょう" ], [ "なんだ? 千吉", "親方、ふしぎなこともあるもんですね", "どうして", "この女、左の手を見ておくんなさい。――烏爪だ、あっしの妹のお半と同じだ。お半の小指の爪も、お鉄漿を染めたようにまっ黒なんで、奇妙な生れつきだと思っていたら、この女にも、同じ爪がある", "ウム……なるほど", "妹も、こんな毒婦にならなけりゃいいが", "あの娘はやさしいから、なれと言っても、こんな不敵者になるはずはねえ。今は、家かい", "いえ、……お恥しいわけですが、ちょっと、事情があって、この春から柳ばしのお紺姐さんの家に、仕込みに預けてありますんで", "ヘエ、じゃ、雛妓にしたのかい。……それやかえっていいだろう、今のうちから、柳ばしの水で洗い上げれば、さだめし、江戸前の芸者衆になるだろうよ" ], [ "あ、鶉坂の", "シッ" ], [ "首尾は", "ただ今参ります" ], [ "老先生、ごらんのとおりでございます。四、五日、静かに、養生をしていたら癒りましょうから、ご安心なさいまし", "大儀、大儀" ], [ "して、悪人どもは", "ひとりは、海へ逃げこまれてしまいました", "小人数だ、やむを得まい。それは誰だ", "下男みたいな野郎", "ははあ、唖聾だな。――して、もうひとりの、掏摸の新七は", "あいつはうまく行きました", "召捕ったか", "いえ、殺してしまったんで", "なに、殺した", "死骸はそのまま突き流してしまいました。今ごろは、鱶の腹ン中で、あぐらをくんでいるかもしれません", "それは惜しいことをしたなあ。……アア残念なことをした", "どうしてですか", "生かして引ッ吊して来れば、泥を吐かせる手段もある。後日になっても、唯一の生き証拠となったものを", "あ、成程。……ですが、その生き証拠には、女の方を、ふん縛って、連れて参りましたから、これでどうか、埋めあわせをつけて下さいまし", "えっ" ], [ "ゆうべ、わしが捕り逃がしたあの妖婦を、おまえ達の手で、捕えて来たと申すか", "どうです、老先生、こいつあ、褒めていただく値打があるでございましょう", "ある! ある! イヤでかしたぞ舟辰。事件の解決いたしたうえは、きっと、充分に褒美をとらせる", "なに、あっしは、そんなものを目あてに、した仕事ではありません", "失言じゃ、ゆるせ。おまえの侠気はよくわかっておる。――して、女は、どこへ連れて来た", "近所の眼がうるそうございますから、舟底に縛りつけて、帆をかぶせておきました", "ヤ、ヤ! それやいかん! それやいかん" ], [ "なぜいけねえんですか", "あの女には、たえず、覆面の首領の眼がついているはずだ。一刻たりと、見張を抜いたのは大きな手ぬかり。或いはもう遅いかも知れんぞ" ], [ "ど、どうしたんだろう", "すこしも、不思議はない" ], [ "……惜しいことをした", "なんとも、相済みません", "あやまることはない。わしがはやく、気をつければよかったんじゃ", "オイ、そこにいる若えの" ], [ "――今、この船の中から、若い女を連れ出した奴があるんだが、誰か、そいつを、見かけた者はねえかい", "女?" ], [ "――知らねえなあ。ただ、いつも見かけねえウロ舟(物売り舟)がそこへ寄って、何か、していたように思ったが、そのうちに、いなくなってしまったなあ", "それだ" ], [ "――もう追うのは愚だ。それよりは、何か手懸りになるような物でも落ちていないか", "おや? ……老先生" ], [ "え、お出かけですか", "む。日和もよいしな……", "どちらへ", "あてもないが、戸外でも歩いたら、またよい智慧も出ようというものだ" ], [ "あ。老先生、今、お茶を入れて参りましたが", "出先じゃ。帰ってから馳走になろう", "では、手前がお供をいたしましょう", "きょうは、よい", "よかアありません", "よいと申すに", "いいえ、独りじゃ物騒です。あっしでいけねえなら、加山さんを連れておいでなさい", "耀蔵はまだ、体の回復が充分でない。きょうは、独りで行くよ。心配せんでもいい", "そんなことを言ったって、心配しずにゃいられません。老先生は平気のようだが、家の女房や若い者まで、どんなに、案じているかわかりません。――恐ろしい悪党の仲間が、夜となく昼となく老先生のお命を狙っているんだ。この頃は、野良犬みたいに、家の裏口から覗いたり、夜半に、真っ黒な人間が、物干しに屈みこんでいることも、幾度だか知れませんぜ", "それやあしかたがないよ。わしの方から、挑戦したんじゃ。昔の塙隼人に返って十手をつかみ、あくまで闘うという宣言をしたからには、悪党どもも自衛上、わしを殺そうとするのは当りまえじゃ。そんな脅しに慄えあがっておっては、一日も、征悪の戦には立てん。……そんなどころの沙汰か。今に、もっと! もっと! 恐ろしい暴風が朝にも夜にも、わしの体にぶつかってくるじゃろうよ。だが、江漢は仆れはせん。決して仆れはせん。悪人ばらを勦滅して、人間の生きる地上に、明るい裁きの陽を見るまでは、わしは、血を吐いても、屈しはせん。――まあ見ておれ、百日のうちじゃ。いや、もうあと八十日か。日の経つのは早いなあ。何しろ、今日はちょっと思い立ったことがあるから行って来る" ], [ "五百之進どのの引合せか。どうしてこんな所におったぞ。これ花世! 花世!", "おお、お舅父様", "なに、お舅父様と? ……ああお前はもう、わしをお舅父様と呼ぶほど親身な気でいてくれるのか。それでは今、ここで五百之進どのに誓ったわしのことばも、そなたは、残らず聞いていたな", "……思わず泣いてしまいました。ご恩は死んでも忘れません", "何を言うのだ。親子の間で。……それよりも、そなたは、どうして、ここへ来たのか。まさか、亡き五百之進殿の墓守をしていたわけではあるまいが", "はい、実は、この紫陽花寺は、富武家も、檀家の一家でござります", "ム。この縁故は分っておる", "で。方丈様へお縋りして、ずっと、あれ以来、身を匿っていただいておりましたのです", "アア。それではいくら尋ねても、行方が知れんわけだ。何の罪も、後ろ暗いところもないのに、御身はなんで、身を隠してなどおるのか。なぜ早く、鶉坂のわしの所へは、尋ねて来てくれんのじゃ", "参りたいのは山々でしたが、その前に、郁次郎様から、これだけは、父にいうてくれるなと、固く、口止めをなされていたこともありますし……", "前代未聞の曲者だ。そもそも、こんどの間違いは、郁次郎がわしに包んでいるその秘密一つから起っておるに相違ない", "それに、私の身には、絶えず怖ろしい人間がつき纏っておりますので、昼間も、油断をして歩けませぬ", "そうか、悪魔は、そなたまでを、狙けているか", "今も、方丈様が、尺八を聞かせて欲しいと仰っしゃるので、うつつに、吹いておりますと、覆面をした妙な男が、庫裡の横をうろついていたというので、そっと、墓地の中へ、抜け出してきたのでございます", "覆面の男?", "寺男のいうには、若い、浪人ふうの男だそうです", "それが、悪魔の首領だ", "えっ、悪人のかしらですか", "しかし、案じることはない。おそらく、彼は、この江漢のあとを尾けて来たに違いない" ], [ "……どうしましょう。寺には、年老った方丈様と、小坊主ばかりで、力の強い寺男は、風邪をひいて、臥せっているし……", "案じるな。老いたりといえど、塙江漢、対手が、あらわに姿を見せて参れば、方円流二丈の捕縄は、この袂から走って飛ぶ――。まさか、悪魔の首領も、そんな愚か者ではあるまい。ただ、油断をして、彼に乗じられぬよう、隙を見せぬことが第一じゃ", "はい……私も、お舅父様のおそばにこうしていれば、何となく、気が強うござります", "ム。大船に乗った気で、安心しているがよい" ], [ "時に、花世", "はい", "そなたは、わしに、渡さなければならん物を持っている。ここで会ったのはいい折だ。わしにくれい", "ええ、何でしょう?" ], [ "鍵じゃよ", "え、鍵。……どこの鍵でございますか", "鍵といっても、ことばの鍵だ。たった、一言か、二言で済むことだ。おまえはわしに、それを渡す義務があろう", "はい", "では、訊くが……", "何なりと、お訊き下さいませ", "郁次郎は、長崎表に遊学中、何か、若気の過ちで、わしに言えぬ秘密を抱いて江戸へ帰って来たのではないか。……それを、五百之進殿とそなただけには、打ち明けたものと考えるが、どうだな" ], [ "い、いいえ……", "それ、それ、それがいけない。郁次郎を、未来の良人と思って、庇ってくれるのは、うれしい人情だが、早い話が、わしに苦労をかけまいとして、すべてを、秘密にしていたために、こんな大事が湧き上がったのじゃ。間違いはそこからだ。禍根は、毛ほどな食い違いから起る。こうなった以上、何事も、包み隠しは、厳禁じゃ。話してくれい。渡してくれい。――鍵を。ことばを" ], [ "す! すみません! ……お舅父様! もう何もかも申しあげてしまいます。ですけれど、今は、心が取りみだれて、何からお話してよいやら分りませぬ。あとで、心静かに、書き認めてお手元までさし出しまする", "ム。それでよい。それで結構だよ。……ところで、ついでのことじゃ。もう一つ、わしの問いに答えてくれるか", "はい、どんなことでも、もう決して包み隠しはいたしません", "おう、よい嫁じゃ" ], [ "ほかではないが、そなたのこの爪だ。薬指の真っ黒なこの爪の色だ……。これはいったい、生れつきか、それとも、幼い時に怪我でもしてこうなったのか。婦女子の爪紅をさしたのはいくらも見かけるが、こんな烏の嘴みたいな黒い爪は見たことがない。何ぞ仔細があるのであろう、それを、話してもらいたい", "…………" ], [ "……どうじゃな、花世", "…………", "もし、これも、口で言いにくければ、前の問題といっしょに、書いて見せてくれてもよいが", "こればかりは、死んだ実父の五百之進も、胸を痛めていたことでござりますが、遅からず、一度はお打ち明けせねばならぬこと。あとで、詳しく書いておきまする", "これで、だんだんに、夜明けが近づいてくるような気がする", "私の、こんな、恥しい爪の事などが、何か、事件のお役に立つのでございますか", "立つどころか、秘密を開く鍵になる。その代りに、気をつけぬと、その爪のために、一命を縮めることもあろう", "まあ? ……" ], [ "はい、私を入れて、四人はいるはずでございます", "ウム、とにかく早速、今訊ねた二つの問の答えを、書いてくれんか", "では、ちょっと、お待ち下さいませ" ], [ "やッ、親方。人が死んでる!", "また死人か", "女乞食だ", "おや、たった今、殺されたばかりのようじゃねえか", "山門をはいってくる時に、ギャッと、いやな声が聞えたと思ったら……これだ", "でも、老先生でなくってよかった" ], [ "どこへ", "深川まで", "深川へ。……まあ落着いて話せ。どうしたんじゃ", "ゆうべ、この千吉の妹のやつが、殺されたんです。いつぞやお話し申し上げた、柳橋から雛妓に出ていたお半という美い娘です", "なに、お半が殺された!" ], [ "あれほどわしが、固く、注意しておいたのに", "……へい、どうも、何とも面目のねえことで" ], [ "妹のやつが可哀そうで……。あっしゃ、死骸を一目見たとたんに、意地にも我慢にも、泣かずにゃいられませんでした。元はといえば、老先生のご注意を、うわの空で聞いていた罰ですが、もうこの上は、しかたがありません。どうか、お力をもって、妹の敵をとってやって下さいまし", "よし、すぐに、行ってやろう" ], [ "実は、老先生の出先も心配になるので、店の者を、後から尾けさしておいたので、此寺と分りましたから、すぐに、駕を持って参りました", "あ、そうか、深川の何処だな。その、兇行のあった場所は", "櫓下の河岸ッぷちです。――ゆうべ柳橋の五明庵というお茶屋から、妹を招んだ侍があったそうです", "む", "上品な、どこかの、若殿様でもあるような美い男で、お忍び遊びという寸法らしく、黒縮緬の頭巾をかぶったまま、酒をのんでいたというんです", "……ははあ……" ], [ "で? ……それから", "あっさりと、遊んでから、屋根船を雇って、妹を連れて行きましたが、五明庵でも、抱え主のお紺さんも、安心して手放したほど、その客は、金ぎれもよし、人品もよかったんだそうで", "そいつが食わせものだ" ], [ "――分った。あとは現場に当ってみよう", "では、すぐにお供を", "イヤ、ちっと待っておくれ" ], [ "また一事件もちあがった。わしはすぐに、行かねばならん。最前、頼んだものは、まだ書けぬか", "書いておきました", "オオ、これか" ], [ "舟辰", "へい", "千吉にも、申しつけることがある。今日より、向う八十日間のあいだ、この花世どのの一身を、おまえ達ふたりに預けるぞ。命がけで、間違いのないように、守ってくれい", "…………" ], [ "どうじゃ", "…………", "嫌か", "……不思議だあ" ], [ "なにが、そんなに、不審なのか", "でも、そのお嬢様は、いつぞや品川沖でふん捕まえて、また、悪党どもに奪り返された、あの玉枝っていう、凄い女と、瓜二つじゃございませんか", "似ているというのか", "誰が見たって、別人とは思いませんぜ", "いや、あれはまったく、べつな女だ。そのからくりも、化けの皮も、やがて近いうちに、江漢が曝いてみせる。――とにかくこの婦人の一命は、何ものより大切なのだ。どこか、無事な所へ移して、おまえ達で保護をしてくれい。そこに、心配があっては、この江漢も、思うさまに、働き難い", "よろしゅうございます" ], [ "きっと、あっしが、お嬢様をお守り申しておりますから、老先生には、そんなご心配なく、どうか存分に、腕をふるっておくんなさいまし", "よし、それでわしも、晴々と、征悪の戦に立てる。今日から百日の期限の日まで、そちの家へ、顔を見せぬかも知れぬ。だが、江漢は仆れても仆れても、必ず起つ! 必ずどこかに生きている! では、花世の身を頼んだぞ、くれぐれも" ], [ "同じ策とは", "ごらん下さい" ], [ "また……小指が斬り取られています", "なるほど" ], [ "これで三人めじゃ", "そうです。……例に依って、犯蹟には、何の証拠も残っておりません", "殺る方も、だんだん熟練して来るとみえる", "大きに" ], [ "手口は、まったく、同じです", "むろん、巫女殺し、笛師殺しと、同一人であろう。――しかし、これを見ても分るのは、前の犯罪は、郁次郎の所為でないということだ。現在、奉行所の獄中に囚われている郁次郎が、雛妓のお半を、何しに、殺害するいわれがあろう", "まあ、表面は、そうも見えます……" ], [ "ちょっと、素人考えで申すと、いかにも、獄中にいる郁次郎が、世間へ出て、人を殺すはずはないと思われるが、事実は、たいへんに違います。……あの奉行所の牢獄などは、やり方一つで、いくらも、外部との連絡がとれる。また、金次第では、身分の軽い獄吏などを買収する方法もある。その辺も今調べ中です。ことに、老先生に対して、百日のご猶予をいたした後は、郁次郎の身も、非常に、寛大にしてありますから、手段に依っては、一夜ぐらい、外部へも出られないことはないのです", "相変らず、貴公も、自信がつよいな", "いや、自信のつよ過ぎるのは、老先生でしょう", "いまだに、郁次郎を犯人と見ているなど、奇抜じゃ", "不肖ですが、羅門塔十郎は、まだこうと睨んだ事件を、一度も、外したことはありません", "まあ、やってくれ", "やります! どこまでも、上方流で。――老先生の江戸流のお手なみも、よそながら、拝見いたしています", "は、は、は。あぶない" ], [ "や。加山か。お前も来ておったのか", "弥次馬のなかに隠れていましたが、奉行所の旧友たちが多勢来ておるので、つい、顔を出さずに、見ておりました", "よい所で会った。おまえは、これからすぐに、本石町の為替屋、佐渡屋和平の店へ飛んで行ってくれんか", "承知しました。そして?", "そして、こう……" ], [ "よいか", "分りました", "こんどが、恐らく、事件の峠だろう。ひとつ、働いてくれい", "死身になって、やってみます", "すべて、わしの言った手順どおりにな", "心得ました" ], [ "誰も、店の衆は、いないのですか", "へい、おります" ], [ "ただ今、承りますと、何ぞ、お荷物をお送りになるとか、為替のご用だとか、伺いましたが", "はい、いつもの所へ" ], [ "……送って戴きたいんですが", "へい、畏りました。ええと、いつもの所と申しますと?", "毎度、あちらから、金子を為替で送ってもらう……", "あ、そうそう、つい、お見それいたしまして、只今、台帳を調べまするが、先様のご姓名は、なんと仰っしゃいましたでしょうか", "山城国、四明ヶ岳", "あ、山城で。……では台帳がちがいました" ], [ "では、私の見ている前で、二重箱にして、荷造りして貰いましょうか", "お易いことでございます。――これよ、誰かここへ来て、荷箱を造っておくれ" ], [ "これで宜しゅうございましょうか。これよりはもう厳重にいたしようがありませんが", "結構です" ], [ "これだ! 佐渡平", "ほう、その小箱で", "うまく奪ってやった。もうしめたものだ。この中には、櫓下で殺された柳橋のお半の小指がはいっているのだ", "どうしてそれが、前から、お分りでしたか", "老先生のご明察、おれにも分らぬ。あの玉枝が、小指のはいった小箱を持って、この店へ、荷為替を頼みに来るということを、ちゃんと、見抜いて俺を差向けられたんだから、まるで、神のようだ", "あなた様の仰っしゃる老先生というのは、鶉坂の塙様のことで? ――あの白い髯を胸に垂れた品格のよいご老人のことで", "そうだ", "そのお方ならば、数日前に、店へお越しになって、殺された手前の弟忠三郎と、女笛師のお雪との関係や、また、金為替や荷為替などの台帳を、事細かに取調べて、お帰りになったことがございます", "ほう、それでは老先生には、いつのまにか、玉枝がこの店から金や荷の送り受けをしていたことを調べ上げていたのか。――オオ、ついしゃべりこんでしまったが、俺は、こうしてはおられない。佐渡平、ではやがて近いうちに、貴様の弟忠三郎の仇もとってやるぞ" ], [ "やっ? 加山さんじゃありませんか。野郎ども、慌てるな。これや耀蔵様だ", "えっ" ], [ "オオ、お前は舟辰じゃないか。どうしたんだ、こんな所へ", "あっしは、老先生に、花世様の守護をいいつけられて、此寺に見張をしているんですが、旦那こそ、どうしたんです", "俺は今、怪美人の玉枝を此寺まで追いつめて参ったんだ", "だって、誰も、この寺へはいって来た者はありませんぜ", "イヤ、たしかに今、駕から降りて、この寺内へ駈け込んだ筈だ", "筈だと言っても、ねえものはしかたがない……", "そこの窓に、ちらと見えた女の影は?" ], [ "加山。もう駄目じゃよ", "あっ、老先生、いつの間に", "玉枝は、山門の側の、楠の木蔭に隠れていて、お前がまっしぐらに境内に駈けこむと、風のように、自分のほんとの塒へ、飛んで帰ってしまったんじゃ", "や、や。そんな次第でございましたか", "だが、慌てるには及ばん。どうしたかと、只今、佐渡平の店へ寄ってみたところ、云々と聞いて、まずよしと、その足でこの寺におる花世の安否を見舞に来たのじゃ。花世も、今宵かぎり、ほかへ移すことになっておるのでな", "残念です。どうも、不覚をいたしました", "なに、よいわ" ], [ "それよりは、例の小箱は", "首尾よく、奪り上げました", "うム、上出来上出来" ], [ "これと、同じような荷を、すぐに、もう一つ作ってくれ", "へい" ], [ "老先生、何がはいっているんですか", "殺されたお前の妹――お半の指がはいっておる", "えっ、妹の指が", "だが、今開けてはならん", "へ、へい……" ], [ "では、かねてお前に詳しく言いふくめてある通り、これを持って、山城国の含月荘へ", "はっ", "急いで行ってくれ", "心得ましてござります", "そちの吉報が、一期の浮沈だ。――まことに、今日はもう六月二日。百日の期間までには、後七十三日と相成った。一日とてゆるがせにはならん、道中も、急いで頼むぞ", "必ず、一刻もはやく、吉報をつかんで立ち帰りまする", "オオ、早く発て", "ではご一同、ご免を", "あっ、待て加山", "はっ", "その仲間態ではいかん。早飛脚の支度を", "それは、途中で、脱ぎ代えます", "ウム、そうか。まだある、路銀が不足じゃろう、それから、わしのこの印籠には、種々と薬がはいっておる。体を大事に" ], [ "へい、荷為替です", "書状ではないのか", "送り状に、ご直手とございます。宛名のお方に、じかにお渡し致して、ご印判を頂戴いたします", "誰だ。宛名人は", "大村郷左衛門様とござります", "ご家老か。――品物は", "三寸角ばかりの小箱で", "問屋は", "為替元は江戸本石町佐渡屋和平", "待っておれ" ], [ "これ、早速あれを受け取って、直手とある送り状へ、わしの印章を捺してつかわせ", "父上、また小箱が来たんですか", "よけいなことを申さずともよい。はやく捺してやらんか", "飛脚屋、ここへ持って来い", "へい" ], [ "あっ! ……な、なんとなされます", "黙れッ" ], [ "其方は塙江漢とやらいう老いぼれの無役者に加担いたして、畏れ多くも、前黄門龍山公のご隠居所を窺いに来た犬であろう", "やっ? ……" ], [ "ばか!", "たわけ!", "間抜けめ" ], [ "なに、この厳重な鉄の柵が破れるものか。――それに、見張は、如意ヶ岳の山の主が、ちょうど、真向うから見張っているんだ", "ウム、炭焼の作兵衛か。なるほど、あの炭焼小屋からは真正面だ", "しかし、幾日で死ぬだろう", "まあ、十日も保つか", "水があるから、案外長く生きてるぞ", "それにしても、二十日か、二十四、五日もたてば、この湿気だけでも、余病を起してくたばるに違いない", "では、三十日目に来てみるか", "その頃には、白骨になっているかも知れん" ], [ "やっ、まだ生きてるぞッ", "えっ、生きてる?", "ほれ、ごらんなさい。主水様", "なアるほど、眼ばかりぴかぴかさせておるな", "強情な奴ではある", "飢え死になどは面倒くさい。父上に言って、翌日は、長槍を持って来て、外から突き殺してしまったがいい", "槍では、奥へ逃げると、届きません", "では鉄砲がよかろう", "そんなに、楽に殺しては、この後の見せしめになりません", "なに、もうたいがい、見せしめにはなっている。翌日は、わしが撃ち殺してやる" ], [ "なるほど、生きてるぞ", "執念ぶかい奴だ。――では殺ってしまおうか", "鉄砲は", "三挺持ってきた", "ここへ並んで、筒口を揃えろ" ], [ "見ろ、何か、喚いているぞ", "発狂したんだろう", "撃てッ" ], [ "わっ、誰だッ", "何者だッ", "一同。――気をッ、気をつけろ" ], [ "あっ、山火事", "なに、渓川があるから、ひとりでに消える。あれで含月荘の侍たちが消しにくる頃には、死骸はみんな灰になる" ], [ "おや、えらい元気じゃな", "誰だ! 誰だ! 俺を救ってくれたのは、俺は、それが知りたい。俺を背負っているのは誰だ", "加山!" ], [ "加山! 俺だ! 波越八弥だ", "げッ" ], [ "波越ッ", "加山ッ", "ど、どうして貴様は", "奇遇だ! どうしたって、悪人ばらの往生を見ぬうちに、死んでたまるか", "そうだ! 死んでたまるものか。――だが貴様が生きているとは思わなかった。イヤ、俺さえ助かったのが夢みたいだ", "何を隠そう、今だから言うが、実は拙者は、この春、単身この含月荘へ乗りこんで、見事に大村父子や玉枝の秘密をつかんだのだ", "ウム、ではここの先陣は、貴様だったのか", "ところが、かえって、悪人ばらの陥穽に墜ちて、この炭焼小屋の竈の中に抛り込まれて、彼奴等の眼前で、蒸焼きにされてしまうところだった。――それをここにいる作兵衛が、際どい瞬間に、拙者の体を、竈から出して、人間の身代りに、この小屋に飼われていた猿を抛りこんで火を放けたのだ。猿が、中で暴れるのを、俺が苦悶するものと思って、彼奴等は、凱歌をあげて引き揚げた。それから後、おれはこの小屋に、樵夫となって同居しながら、含月荘の探索をつづけていた……", "だが、どうして、老先生の百日の期限のことまで、分ったのか", "江戸の事情は、また審さに、問い糺す人間が、この小屋へ戻って来たのだ。今、それにも引き会わせるから、こっちへ来い" ], [ "やっ、この男は、江戸にうろついていたあの唖聾じゃないか", "そうだ。吾々は、名も分らないので、唖聾と呼びつけていたが、今日では、彼の名は、岩松ということが分った", "岩松?", "そうだ。そしてこの岩松こそ、実に、そこにいる作兵衛爺の伜であった。――生れつき愚鈍のために、何者かに強迫されて、江戸くんだりまで、連れて行かれ、つい五、六日前、神隠しに遭ったように、ボンヤリと、この小屋へ戻って来たのだ", "じゃ、矢張り、悪人たちの手で、傀儡に使われたのだろう。しかし、そのわが子を、作兵衛は何でこんなに窮命するのか", "作兵衛は、この山の主といわれる正直者だ。不正なことは大嫌いな頑固者。だから、わが子の岩松が、悪人どもと何かしたのではないかと見て、三日三晩、この薪小屋に縛りつけて、何もかも白状するまでは許さない。で、とうとう、唖の岩松も、知ってる限りのことを、爺の前で懺悔してしまった", "待ってくれ、岩松は唖で聾。どうしてそんな白状をしたり、訊ねたりすることができるのか", "それは、作兵衛爺だけには出来る。なぜと訊くのも野暮ではないか。作兵衛爺は、岩松の親だ。乳呑児の時から男の手一つで育てて来た親だ。眼のいろ、唇のうごき、手真似、身振だけでも、話は立派に通じるんだ", "なるほど", "その結果。貴公がこっちへ来たらしいということ、また、老先生が百日の期間のうちに、事件の解決を約して、それが果せない時は、郁次郎殿も処刑をうけ、ご自分も、腹を切って死ぬお覚悟だということも分った。――しかもそれが、一昨日の雷雨の晩のことだ。夜明けと共に八方、貴公の行方を尋ねたところが、つい谷向うの、岩窟牢に抛り込まれているじゃないか", "ああ、有難い! 神はまだおれ達を見捨てない", "そうだ。正義はきっと勝つよ", "すぐに、江戸へ行こう", "ばかを言え、その体で", "なにくそ! 行ける! 歩ける!", "いかんいかん。そう気ばかり立っても、肉体が承知しない。まあ、二、三日、静かに寝て、体をこしらえろ", "愚図愚図していると、もう日がない", "何、まだ一月はある" ], [ "どうやら、含月荘の高楼にいる黄門様が、翌日は、江戸表へご発足になるらしい", "えっ、あの、九年間も高い櫓の上に住んで下界へ降りたことのない龍山公が、江戸表へご出府になるって", "そうじゃ。偉いこッちゃ。亀山六万石のお家も、とうとう、お世継なしで、この秋は、絶えるかも知れんでのう", "それは一体、どういうわけで", "いつかも、八弥様には、話したことじゃが、黄門様のお側女の血すじの者が、この世の何処かに、四人はたしかにいるはずだが、もう幾年となく尋ねても、それが分らぬ。――とこうする間に、この秋ではや十年。その十年のご猶予が切れれば、六万石にのしを添えて、幕府へ、家名をご返上せねばならんのじゃ。――で、いよいよ、お血統探しは諦めて、幕府へ家名のご返上に出府することになったんじゃろう。何としても、お傷ましい", "ははあ……" ], [ "波越", "なんだ", "まことに済まないが、貴公、これから俺を背なかにかけて、発足してくれ", "どこへ", "無論、江戸表だ" ], [ "よし! 命がけで出かけよう", "爺、水みたいな粥を煮て、竹筒へ入れてくれ。それを吸いながら、俺は江戸表へ行く! 這っても行く!", "まあ待て。もう半日寝て", "半日は重大な時刻だ。寝てなどいられるものか", "いやその間に、粥が煮える。また、拙者もその半日を、無駄には費さん。少し考えがあるのだから" ], [ "波越、遅かったじゃないか", "一刻でも、貴公が体をやすめるように、わざと日暮れまでぶらついていたのだ。しかし欣んでくれ、矢文の願意は、お聞き届けになった", "そうか。ここまで事を運んで帰れば、老先生もさだめしお欣びだろう。夜にまぎれて、早速立つとしよう" ], [ "開けていたひにゃ、限りがありませんぜ", "そうだなあ。七刻仕舞いが規則だが……。きょうはだいぶ見料が上がった。早仕舞いとして、一杯飲もうか", "たまには、そんなことがあって、ようがすよ。先生のように、金を儲けちゃ、仕舞い殺しにするばかりが能じゃありませんぜ", "あははは。では、ぼつぼつ片づけるか" ], [ "もう今日は、仕舞いました。また明日じゃねえ、次の、五の日にでもおいでなせえ", "あ……これこれ" ], [ "まだ七刻前じゃ、観て進ぜる", "あれだ……女というと" ], [ "観てもらいたいというのは、男女のことでござるな。恋でござろう。そうらしい", "ま……それもございますが" ], [ "ほかにも、もう一つ、大きな願い事が", "ウーム、その願望ならば、かないましょう。いやきっとかなう。ご安堵なされい", "ほんとに、かないましょうか", "今に、西の方から、福音が訪れましょう", "西の方から。――していつ頃", "遠くはござらぬ。ここ一月ばかり以内", "少々、思いあたることがございます。ですが、その願望が成就した後、私はある男から、去られることはないでしょうか", "今の良人……とは言えぬ、まあ、約束をしたお相手じゃな", "はい", "手をお見せなさい。――イヤ、左の手" ], [ "おや、貴女には、妙な爪がある。この黒いのは", "あ……そ、それですか。それはあの……何でもございません。鉄漿を解く時に、指を入れて、汚したまま、つい拭きもせずに置きましたので", "あ、そうか" ], [ "いや、それはいけない。――あの女の住居の近くに、こんな売卜をはじめたのも、玉枝を誘きよせる手段には違いないが、今ここで女に縄を打てば、すぐ一方の敏感な悪魔の首領を逃がしてしまう。玉枝の烏爪は見届けた。まずそれだけで結構としておこう", "ですが、老先生、もう今日は八月の三日ですぜ", "そうだ、百日の期限も、あと十二日になった", "一体どうなさるおつもりなんで……", "天なり命なり、今に、加山から何とか吉報があろう。それの便りが来ないうちは、いかに江漢でも、手の下しようがない", "あの耀蔵さんも、一体、何をぐずぐすしているんだろう" ], [ "なあ羅門氏。江漢はとうとう、夜逃げをいたしたらしいぞ", "いや、そんなお方ではない" ], [ "しかし、今に至っても、沙汰のないのは如何したものだ。拙者の考えでは、吾々に会わす顔がなく、逃亡したか、でなければ、老腹を切って、今夜あたりは何処かで死んでおるんじゃないかと思うが", "まだ分りますまい。明日の晩――そして夜明けの鐘が鳴るまでは", "あと一日や半日で、どうなるものではない。もうそろそろ、郁次郎の首斬り道具を、並べておいても間違いはない", "それはそうと、亀山の龍山公は、どこへ宿所をおとり遊ばしたかなあ。ぜひご拝謁を願いたいことがあるのだが……", "羅門氏は、そればかり気になすっているが、何か火急のご用事なのか", "お世継の問題で、六万石のお国許の浮沈にかかわる一大事なのです。この羅門も、かねてご依頼をうけていることゆえ、安閑と、よそごとに眺めてはおられません", "そうそう、いつか承った。龍山公のお血統を探すについて、尊公が内々その詮議を仰せつかっているというような話を――", "されば、それについて、非常に心をいためておるが、昨年来当奉行所に関り合って、意外な難事件に携わったため、その方がすっかり捗らずにいるのです。こんどのご出府には、まず何よりまっ先に、そのお詫びからいたさねば気がすみません", "ご尤もな心配じゃ。しかし、幕府の方は、御老中や要路の役人方へ、相応な黄白をもってご挨拶いたせば、まだ二年や三年のご猶予はして下さると思うが……" ], [ "明夜? 明夜は郁次郎の首を斬る日だのに、尊公が、立ち会わぬのは甚だ困る", "いや、夜明けまでには、立ち帰ります", "して龍山公は、どこにおられるので", "ご親戚だそうで、八重洲河岸の小笠原左近将監様のお屋敷に、ご滞在ということです。ご隠居のお身ではあり、ご微行のことなので、よほど、質素にお住居と見えます。――折から、明夜は八月十五日、ご邸内に名月の宴が催されるから、月見がてらに、訪ねて参れという有難いおことばなので", "あ。なるほど、あしたは十五夜だ" ], [ "余が今度の出府、なんの為か、存じておろうが", "恐察申しあげておりまする", "いかがいたした、詮議の事は。――かねて国家老大村郷左衛門より、そちの技倆を見込んで、篤と申しつけてあったに、遂に今にいたるまで、何の効もあがらぬではないか", "不肖羅門塔十郎、不才をもって、老公のお眼鑑を身にうけ、ここ数年来、寝食を忘れて苦心はしておりますなれど、何せよ……", "その言い訳は、郷左衛門からも聞き飽きておる。しかも、すでにそれは遅い。幕府へのご誓約に対しても、この秋には、亀山六万石の家名はご返上せねばならぬ時機に迫っておるのじゃ", "しかし、羅門の承知しますところによれば、それは要路の大官方へ、何らかのご方法をもってお願いいたせば、まだ両三年の……", "だまれ、だまれ!" ], [ "九年の間、雲閣に坐して、身は老衰隠居いたしても、前黄門松平周防守であるぞ。左様なこそくな手段ができると思うか、うつけ者め!", "ヘヘッ" ], [ "数年の間、身が落胤をたずねるために、国家老郷左衛門の手を通じて莫大なる手当を与えておいたに、汝は、それをよいことにして、空しく、徒食しておったのであろう", "滅相もないおことば", "では、今日まで、何をいたしたか", "実は、まだ確証の揃うまではと、ご披露はいたしませぬが、たった一人、ご落胤の女性を、見出してはござりますので", "なんじゃ? ……" ], [ "羅門、それは真か。なぜ、そうならそうと早くいわぬ。――この際じゃ、きびしい証は多く要らぬ。何ぞ一つでも、たしかに、この龍山の血統じゃといえる印さえあればよい。してその女は、いずれにおるか", "ただ今は、蔵前片町のほとりに、侘しくお住居でござります", "ほう……何をして", "鷺江雪女と申す笛師の弟子となって、舞曲を習っておりましたが、てまえが、それと知りました後は、世間に知れては悪しと存じて、何事も遊ばさずに", "年は。また名は", "ちょうど二十四歳。お名は、玉枝様と申しまする", "何か、血統という証拠は", "ご系図一巻", "なに系図書、それは立派な証拠だ。ほかには", "そのご系図に書いてあるのを見ますると、四名のお孫様は、みな女性でござりました。そして、ご姉妹の年順に、まだ乳呑児のうちに、左の指の爪へ、漆のごとく、お鉄漿の入墨をなされました", "爪へ、入墨をしたとか。それは、何の為に", "恐らくは、高貴のご血統たることを、子孫から子孫へ、遺すためではないでしょうか。尤も、小普請の石川家には、昔から女子は夭折するという遺伝があって、それには、左の指の爪を、歯のように、鉄漿で染めれば育つという申し伝えもありましたのです", "ふーム……。さては、わしの正腹の嫡子のないことを、石川家の方でも薄々心にとめていたものと見える", "まさか、その石川家が断絶して、ご姉妹がみな、離散なさるとはお考えなく、ただ後日に、何かの証ともなろうかという親心から、なされたことではあるまいかと考えまするが……。その黒い爪が、てまえの見出した、玉枝様にもあるのでござります", "とにかく、その女性に会いたいものじゃ。たしかに、血統とわかれば、他家より養子を迎えても、亀山六万石は安泰なわけじゃ", "では、折を伺って", "いや、早いがよかろうぞ。……今宵のうちに", "したが、大事なご対面です。今夜というのも、余りにご性急、わけて、本人は寝耳に水でもござりましょうゆえ", "いや、苦しゅうない。羅門、孫へ手紙を書け" ], [ "羅門! 玉枝とは、この女か", "はっ……左様にござります", "相違ないか", "相違ござりませぬ", "たしかに見よ" ], [ "――たしかに、玉枝様にござります", "はははは" ], [ "羅門。おまえの眼も、今宵にかぎり、少々どうかいたして来たな", "えっ", "もういちど見直すがいい。玉枝はおまえの情婦ではないか。いくらふだん、他人に似るように、作り化粧をさせているにせよ、情婦の顔を見違えるたわけがあるか。明皎々たる名月の光をもって、よく、胆と眸をすえて見るがよかろうぞ!" ], [ "――逃げるか羅門。イヤ、覆面の男、悪魔の首領!", "な、なにッ", "汝が生涯の智恵をしぼって劃策した悪の大事業は、なんの因縁か、名月の晩にはじまって、名月の晩に崩れた。敗軍の将兵を語らずというから、その口では申されまい。この江漢がすべての魂胆を割ッて申そう", "ウーム" ], [ "まるで、お前の分身のように、瓜二つに似せて、悪の手先になって働いていた玉枝という女は、あれは、故意に、そなたの姿や顔に似せて、作り化粧をしている妖女だ。――なぜそんな真似をしたろう。それはおまえが真の龍山公のお血統であるからだ", "えっ、私が、私があの……", "おう、そなたは、自分の爪を見るがよい。また、亡き養父の五百之進殿の日記を後で検めてみるがよい" ], [ "しかも、そなたのほかの姉妹は、三人とも、皆この悪魔の首領、羅門塔十郎のために殺められた。お半を殺害したのも羅門のしわざ、江の島の巫女殺しも羅門のしたこと。――また溯って、女笛師の雪女を殺したのも羅門塔十郎以外の何者でもない!", "だまれッ、江漢" ], [ "余人の眼はくらませても、この江漢の眼は晦まされん。――なぜ殺したか、その証拠は歴々と数えることができる。しかし、わしは吟味役ではない、ただ重要なところだけを抉っておけば足りる", "えいッ、老耄め。汝の子の罪悪を、口賢くも、この羅門に塗りつけようとするか", "羅門よ。それはおまえのことだ", "証拠があるか", "ある!", "なにッ、聞こう!", "おう、言わずにおこうか。抑〻、其方が大それた悪事を目企みはじめたのは、いうまでもなく、龍山公のお血統の詮議を依頼されてからのこと。次に、その血統の四人を、すべてこの世から亡い者にして、玉枝一人を代え玉につかい、亀山六万石を乗っ取ろうとしたのは、国家老大村郷左衛門のふところに抱き込まれてからのことじゃ", "見たような嘘をいう奴だ。なんでそれが証拠になる。世囈言も、ほどにいたせ", "だまれ、静かに聴け" ], [ "その密約が成り立つと、汝は、指一本を、千金に売った。郷左衛門は、その指一つを手にするごとに、龍山公の血統が絶滅してゆくのをよろこび、やがて、伜の主水を、主家の世継に立てる悪謀を夢みていた。その悪謀につけ入って、汝は、おのれの情婦としている玉枝を、偽落胤に仕立てあげて、主水の正室にすることを約束している。――そして亀山六万石を、あの愚か息子と、芸人上がりの玉枝とで、二つに頒ける魂胆であった", "う、うぬ。――まだ申すか", "汝に代って、懺悔をしてつかわすのだ", "懺悔? 片腹いたいことを申すな。おのれの一子郁次郎の罪悪はつつんで", "あれにも落度はある。しかし、法を犯したものではない。女笛師のお雪が、旅芸人であった頃、彼はふと、遊学先の長崎で、その美貌にひき込まれて、恋に落ちたまでのことだ。彼は、気が小さい、そして善人すぎるために、わしにそれを打ち明け得なんだ。そして、この江漢には、まだ江戸表へ帰らぬていにしておいて、許嫁の花世どのに、苦しい胸を打ちあけた。それが、五百之進殿の耳にはいったため、すべてを婚儀の前に、内密に済まそうとしたのが間違いだった。――長崎以来、雪女の女中弟子になっていた玉枝が、羅門へ仔細を通じたので、悪の首領たる其方は、得たり賢しと、善人の郁次郎を、誰が目にも、すべての下手人であるように仕組んで、まず第一に、雪女を殺した", "待てッ、江漢" ], [ "貴様は、驚くべき嘘の天才だ。大山師だ。よくもそう根も葉もないことを、すらすらと言えたものだ", "これでも根も葉もないことか" ], [ "何だ、この子供騙しみたいな物は", "そうだ、いかにも子供騙しにちがいない。しかし汝は、これを玉枝の手から大村郷左衛門へ送らせては、数千金の金を取ったではないか", "覚えはない! 左様なこと", "佐渡平――" ], [ "為替台帳と、荷為替の送り状帳を揃えて、この素浪人に見せてやれ", "へい……" ], [ "見たらどうだ、羅門、遠慮はいらん", "知らん!" ], [ "拙者は、上方の与力羅門塔十郎だぞ。江戸の無役者に、吟味をうけるいわれはない", "そうか" ], [ "では、乞食と言わさぬ生き証拠を出そうか", "おう、見よう!" ], [ "もう、これまでだ", "恐れ入ったか", "勝手にしろ" ], [ "この上は、獄門、逆磔、いかなる極刑も甘んじてうけまするが、どうせの罪ほろぼしに、公儀の大事にかかわるもう一つの陰謀を、併せて自白したいと存じます。そして、心涼しく刑をうけたい願いにござります", "神妙じゃ。――したが公儀にかかる陰謀とは", "党類も数多あって、諸藩へもかかわることですから、願わくば、別室を拝借して、ひそかに申し上げたいと思いますが", "フーム" ], [ "出合え!", "羅門を召捕れ" ], [ "老先生、八弥です! 波越です!", "八弥……。わしの傷は浅いぞ。わしは死なぬぞ", "は、はい、浅うござります", "縛れ。わしの傷口を、かたく、かたく、縛れ。――そして大急ぎで、わしのからだを、南町奉行所まで連れてゆけ", "うごいてはお悪うございます。老先生、どうか、静かに", "ええい、たわけめ。そんな場合ではないわ。花世はおるか、花世、花世", "はい……お父様。わたくしが、しっかりとこう手を握っているのがお分りになりませんか", "オオそうか……。分る、分る。わしはまだ死なんぞ。花世、わしはこれから、夜明けまでに、目出度い、目出度い、おまえ達の婚礼の席にのぞまねばならんのじゃ。おまえの死装束は、幸いにも、そのまま目出度い晴れ着になる。……わしを抱いて起してくれ。そしてわしを歩かしてくれ", "だ、だい丈夫ですか。先生。老先生", "八弥は、右の肩を助け、花世は左を貸してくれ", "それならば、お駕を、お駕を" ], [ "波越、どうしたのだ", "老先生が、斬られた", "えっ! だ、だれに", "羅門だ", "畜生ッ" ], [ "誰であろうと、駕のまま、奉行所へ乗り入れるとは不埒である。駕を戻して、歩き直して来い", "いや、老先生は、ご重態です。一歩も、歩行はできません", "やっ、病気か", "太刀傷です。仔細はあとでお聞きなさい" ], [ "オオ! 父上", "伜か", "ど、ど、どうなされました。この血は、おお、この血は!", "驚くな、伜よ。こんなことは、四十年間十手をとっていた生涯の間に、とうにあってよいことだ。……おまえと、花世の婚礼に、わしは、世の中の何ものよりも強い、何ものよりも真実な、真っ赤な、神の美酒をここへ湛えて来たんじゃ。驚いてくれるな" ], [ "ふたり共に、わしの見ている前で……わしの息のあるうちに、婚儀をあげてくれ。おお! 一献の酒も、一荷の祝いもないと、嘆いてくれるな。わしはどうしても、ここで、そなた達二人を、若い未来へ、幸福な生涯へ、見送らねばならぬ義務がある。それは、富武五百之進殿に対して誓ったことばがあるからだ。瀕死の老人でも、まだわしが呼吸をしているうちに、二人を結ぶことは、どんなに心強いか知れまい。……よいか", "お父様……", "父上……", "なぜ泣く。強く生きよ。いいか。幸福に行けよ! いいか", "は、はい……", "郁次郎は、気が小さい。世間に弱い。社会にうとい。それを直せ、修業しろよ", "ご苦労をかけました。父上、この、不孝の罪を、何とおわびしてよいか分りませぬ", "花世! いや、伜の嫁よ", "はい……", "いじらしい、牢獄の花嫁よ! そなたは、何という薄命だったろう。だが、これからは幸福になれる。きっとなれる。わしが、あの世からも守ってあげる。よい嬰児を生みなさい。よい母になっておくれ……。そうしてくれれば、五百之進殿へ、わしは心の責めが幾分かすむ", "わかりました、お父様! どうぞ、安心してください。安心して……" ] ]
底本:「牢獄の花嫁」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年6月11日第1刷発行    1993(平成5)年11月19日第5刷発行 初出:「キング」大日本雄辯會講談社    1931(昭和6)年1月~12月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「蟋蟀」に対するルビの「きりぎりす」と「こおろぎ」の混在は、底本通りです。 入力:川山隆 校正:トレンドイースト 2016年12月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056046", "作品名": "牢獄の花嫁", "作品名読み": "ろうごくのはなよめ", "ソート用読み": "ろうこくのはなよめ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「キング」大日本雄辯會講談社、1931(昭和6)年1月~12月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-01-03T00:00:00", "最終更新日": "2016-12-09T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card56046.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "牢獄の花嫁", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年6月11日第1刷", "入力に使用した版1": "1993(平成5)年11月19日第5刷", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年6月11日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "トレンドイースト", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56046_ruby_60418.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-12-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/56046_60462.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-12-09T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "――あの日、会社のお使いが来て、おまえが、ドックへ墜ちましたっていう、知らせじゃないの、お母さんも、台所にいて、そのまま腰が抜けそうになったけれど……お父さんも、あの日ばかりは、何ともいえない顔をして、腹のそこから云ってたことよ", "お父さん、なんて云ってた?", "ああ、男の子ひとり、なくしてしまったか……って", "ぼくが即死したと思ったんだね", "そうよ、それやあ、お母さんだって、どきッとしたわ。病院へ来てみるまではね。でもまだ、あの日一晩中は、お母さんが枕元に附きッ切りで居たのを、おまえは全く知らなかったでしょう", "知らない" ], [ "ねえ、……またドックへ勤めるのは、あんたも嫌なんでしょう、辛いんでしょう。お母さんは、こんな事のない前から、毎朝のように、おまえのお弁当を詰めるたびに思っていたの。あんな危険な勤めは、どうかして止めさせたいし、おまえも、年頃だしと思って", "だって今、ぼくがやめたら、困るだろ、お母さんも", "それは困るけれどさ。こんどこそ、病院を出たら、思いきって、お父さんにお云いなさい", "なんて?", "いつも、胸に思ってることをさ。……あんたの望みをね", "東京へ出して勉強させて下さいって云うの", "ええ。お母さんも、それとなく、お父さんに、おすすめしておくからね。お父さんも、こんどの事では、ひどく感じていらっしゃるから、きっと、ゆるしてくれますよ", "けれど、ぼくが居なくなったら、お母さんだって、心細くない", "もう、家の事は心配しないで……。お母さんの事も。……それより、おまえは、もう、おまえだけの方針を取って、苦学するなり、東京で働き口をみつけるなりしておくれ" ] ]
底本:「忘れ残りの記」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年4月11日第1刷発行    2012(平成24)年6月1日第19刷発行 初出:「文藝春秋」    1955(昭和30)年1月号~1956(昭和31)年10月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「生まれ」と「生れ」、「変わる」と「変る」、「殆ど」と「殆んど」、「角刈」と「角刈り」、「繰返し」と「繰り返し」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、「吉川英治全集・48 忘れ残りの記」講談社、1968(昭和43)年8月20日第1刷発行の表記にそって、あらためました。 ※底本巻末の註解は省略しました。 入力:川山隆 校正:トレンドイースト 2019年8月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "054155", "作品名": "忘れ残りの記", "作品名読み": "わすれのこりのき", "ソート用読み": "わすれのこりのき", "副題": "――四半自叙伝――", "副題読み": "しはんじじょでん", "原題": "", "初出": "「文藝春秋」1955(昭和30)年1月~1956(昭和31)年10月", "分類番号": "NDC 910", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2019-09-07T00:00:00", "最終更新日": "2019-08-30T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/card54155.html", "人物ID": "001562", "姓": "吉川", "名": "英治", "姓読み": "よしかわ", "名読み": "えいじ", "姓読みソート用": "よしかわ", "名読みソート用": "えいし", "姓ローマ字": "Yoshikawa", "名ローマ字": "Eiji", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1892-08-11", "没年月日": "1962-09-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "忘れ残りの記", "底本出版社名1": "吉川英治歴史時代文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年4月11日", "入力に使用した版1": "2012(平成24)年6月1日第19刷", "校正に使用した版1": "2018(平成30)年9月4日第21刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "トレンドイースト", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/54155_ruby_69026.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-08-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/54155_69117.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-08-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "こんな子供じゃ役に立ちません。いれるだけ無駄です", "だが、山田さん、柄は小さいけど――" ], [ "石山、気の毒だが仕方がない。さア、二人とも仕事にかかってくれ", "平さん、わるく思わないでくれ。この年じゃまだ無理だよ" ], [ "ところで船長、お帰りはまだかい", "船長?" ], [ "わが石山丸の船長さ。お父つぁんはまだかってんだよ", "まア、兄さんたらお家と船を一しょにして――", "船さ、船だとも、世の荒波を勇ましく乗り切る船だよ。――だが、この機関長、腹が減ってるんだがなア", "もう、お父つぁんも帰る時分よ", "そうか、じゃ水夫ども、甲板掃除だ" ], [ "あっちの部屋を綺麗にしろよ", "ようし、甲板掃除だ", "あたち、水夫よ" ], [ "困ったな", "なんか見つかるよ、お父つぁん" ] ]
底本:「少年小説大系 第10巻 戦時下少年小説集」三一書房    1990(平成2)年3月31日第1版第1刷発行 入力:門田裕志 校正:富田倫生 2007年12月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047231", "作品名": "秋空晴れて", "作品名読み": "あきぞらはれて", "ソート用読み": "あきそらはれて", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-01-01T00:00:00", "最終更新日": "2021-09-04T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001258/card47231.html", "人物ID": "001258", "姓": "吉田", "名": "甲子太郎", "姓読み": "よしだ", "名読み": "きねたろう", "姓読みソート用": "よした", "名読みソート用": "きねたろう", "姓ローマ字": "Yoshida", "名ローマ字": "Kinetaro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-03-23", "没年月日": "1957-01-08", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "少年小説大系 第10巻 戦時下少年小説集", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年3月31日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年3月31日第1版第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "富田倫生", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001258/files/47231_ruby_29109.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-01-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001258/files/47231_29110.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "僕は雪小屋を建てたいと思っているんですがね。僕とお母さんが居心地よく暮せる大きな雪小屋でなくっちゃいけないんです", "うん" ], [ "皆の衆! いいつけられた通り、わしらはキーシュのあとをつけていったよ、やつに気がつかれないようにうまくやってな。はじめの日のひる頃まで歩くとあの子は大きな雄熊に出会ったのだ。それはとても大きな熊だった", "あんな大きなのはめったにないよ" ], [ "そうだ、たしかに体の中だ。自分の体を引っ掻きむしり、ふざけてる小犬のように氷の上を転がりまわるんだからな。うなったりキューキューいったりする様子を見ていると、どうしたってふざけてるんじゃなくて、痛くてたまらないにちがいないんだ。熊があんなに苦しがっているのは全く見たことがないよ!", "そうだとも、おれだって見たことはないよ。それに、あんな大きな熊だものなア" ], [ "まじないだ。まじないにちがいない", "そうかも知れない。だが、まア聞け――" ], [ "熊はうろつきまわった。こっちへ来るかと思うとあっちへゆく。同じ道をいったり来たり、ぐるぐる輪をかいて歩きまわったりするんだ。そんなことをしているうちに、とうとうはじめにキーシュに出会った場所の近くへかえって来たもんだ。この時にはもう、熊は這うことも出来ないのだ。そこでキーシュは熊のそばへ寄って、ずぶりと槍で突き殺してしまったんだ", "それからどうした" ], [ "そんなことはありません、魔法などというものが子供に覚えられるでしょうか。僕は魔法使なんてものに知合はありません。僕は楽に熊が殺せる手だてを考え出した、ただそれだけのことです。頭の力です、魔法の力ではありません", "誰にでも出来ることなのか", "出来ますとも" ] ]
底本:「少年小説大系 第10巻 戦時下少年小説集」三一書房    1990(平成2)年3月31日第1版第1刷発行 入力:門田裕志 校正:富田倫生 2007年12月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047232", "作品名": "負けない少年", "作品名読み": "まけないしょうねん", "ソート用読み": "まけないしようねん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-01-06T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001258/card47232.html", "人物ID": "001258", "姓": "吉田", "名": "甲子太郎", "姓読み": "よしだ", "名読み": "きねたろう", "姓読みソート用": "よした", "名読みソート用": "きねたろう", "姓ローマ字": "Yoshida", "名ローマ字": "Kinetaro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-03-23", "没年月日": "1957-01-08", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "少年小説大系 第10巻 戦時下少年小説集", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年3月31日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年3月31日第1版第1刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "富田倫生", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001258/files/47232_ruby_29286.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-01-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001258/files/47232_29285.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-01-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "――君は不景気に処する道を知っていますか? それとも、君は他の女と異った意見をもっていますか。", "――商業地の真ん中で、水入らずにそんな謎のような話をするものじゃありませんわ。あなたのような方は、この銀安を遁さず上海にでも行って金貨のありがたさを味わってくるんだわ。今朝の新聞では日本向カワセ相場は九六両四分の三、千の寝床を得るのはお安いとこが経済ってものだわ。" ], [ "――それよりか、君のコオセット・ボタンがいくつあるか計算さしてもらいたいもんだね。", "――あなたは図う〳〵しいのね。" ], [ "――妾だったら、自殺するかわりに結婚するわよ。", "――政府じゃないが緊縮してまでもか。", "――あら、快楽のためにはフォードだってかまわない、山間を疾駆するじゃありませんか。" ] ]
底本:「吉行エイスケ作品集」文園社    1997(平成9)年7月10日初版発行    1997(平成9)年7月18日第2刷発行 底本の親本:「吉行エイスケ作品集 ※[#ローマ数字2、1-13-22] 飛行機から墜ちるまで」冬樹社    1977(昭和52)年11月30日第1刷発行 ※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。 入力:霊鷲類子、宮脇叔恵 校正:大野晋 2000年6月13日公開 2009年3月21日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000343", "作品名": "大阪万華鏡", "作品名読み": "おおさかまんげきょう", "ソート用読み": "おおさかまんけきよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-06-13T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/card343.html", "人物ID": "000043", "姓": "吉行", "名": "エイスケ", "姓読み": "よしゆき", "名読み": "えいすけ", "姓読みソート用": "よしゆき", "名読みソート用": "えいすけ", "姓ローマ字": "Yoshiyuki", "名ローマ字": "Eisuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1906-05-10", "没年月日": "1940-07-08", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "吉行エイスケ作品集", "底本出版社名1": "文園社", "底本初版発行年1": "1997(平成9)年7月10日", "入力に使用した版1": "1997(平成9)年7月18日第2刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "吉行エイスケ作品集Ⅱ 飛行機から墜ちるまで", "底本の親本出版社名1": "冬樹社", "底本の親本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "霊鷲類子、宮脇叔恵", "校正者": "大野晋", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/files/343_ruby_34720.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-03-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/files/343_34721.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-03-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "あのなあ、蒙古人がやってきはって、ピダホヤグラガルチュトゴリジアガバラちゅうのや。あははは。", "けったいやなあ、それなんや。", "それがなあ。散歩してーえな、ちゅうことなのや。おお寒む。" ], [ "ミサコ女史よ、巴里ではミモザの花は一輪いくらしますか。", "ムーラン・ルージュの恋物語でございますか。はい、一輪お高うございますわ。" ], [ "カァキイ色の小切手を出しましょう。失礼ですが、奥さんは必要なもののありかをご存じですか。", "いただくわ。契約するわ。", "期日は。" ], [ "ああ、あなた探訪記者だわね。", "深夜のミイラとりだわよ。" ], [ "ちょいと。", "なーに。", "これ少しよ。", "まあ、妾に。でもこれじゃ駄目だわ。" ], [ "あなたいらないの。", "いただくわ。", "ではお願いがあるわ。あなた妾を明朝たずねてきていただきたいの。妾の考えではあなた中々見こみがあるわ。" ], [ "お早うございます。マダム・ミサ。妾は中央ステイションでおりたのよ。あなた達の悪癖には妾顔まけして了ったわ。", "妾のお願いと云うのはね。", "ところがマダム、いくら流行病とは云いながら彼のアマは朝の市街を厚化粧であるいているんだ!", "そのくらいで結構、妾にはそれがだれだか分っているのさ。" ], [ "あなたにお願いと云うのはね、妾の同業の厚化粧ぐみをね、彼奴たちはどうせろくなことはやらないのさ。", "まったくですわ。ねえ、マダム。", "妾は正道をあんたも知っているように歩んでるわ。だからさ。妾はあんたのような正しい心をもった女らしい人が好きなのさ。", "あら!" ], [ "これ、手附さ。あいつ達のネタを一週間以内にもってくれば手附の十倍の報酬を進呈するわ。", "売りこむのは?", "××の夕刊新聞。" ], [ "あんた、妾妊娠したかも知れないわ。", "そんなこと、不思議なものか。あんたが奥さんである以上は。" ], [ "すると。", "妾うれしいわ。" ], [ "いまになって三マルとはひどいではないか。昨日まであんたは四マル半ぐらいなら妾がいただくから他には話さないでくれと狂気のようになってわしにたのんだ。わしはあんたを信じた。あんたは、わしが今日限り抵当ながれにならなくてはならないわしの土地についてはよく承知なんだ。", "妾残念に存じます。妾の無力をわたしは悲しく存じますわ。", "あんたはわしを死ぬような目にあわしなすった。", "どうか、妾を悪い女にしないでください。あなたのお顔を見ていると、妾はいまになってどうしていいか分らなくなってしまったのです。", "万事休す。わしはだまされた。" ], [ "おい、どうしたのだ。", "妾、どのくらい寝ていて。", "いまさっき、アタゴ山のサイレンが鳴ったよ。", "すると正午だわね。", "そうだよ、おまえどうかしていない。" ], [ "あなた、ナナコはまだ学校を引けないわね。", "あのおてんばのことは、どうも、俺には分らないよ。", "ねえ、あなた。妾はいいママだわねえ。" ], [ "ウイルキンス。約束のもの持ってきて?", "五百円、たしかに。" ] ]
底本:「吉行エイスケ作品集」文園社    1997(平成9)年7月10日初版発行    1997(平成9)年7月18日第2刷発行 底本の親本:「吉行エイスケ作品集 ※[#ローマ数字2、1-13-22] 飛行機から墜ちるまで」冬樹社    1977(昭和52)年11月30日第1刷発行 ※底本中の「!」は全て右斜めに傾いていたが本テキストでは「!」を用いた。 ※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。 入力:霊鷲類子、宮脇叔恵 校正:大野晋 2000年6月13日公開 2009年3月19日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000342", "作品名": "女百貨店", "作品名読み": "おんなひゃっかてん", "ソート用読み": "おんなひやつかてん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-06-13T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/card342.html", "人物ID": "000043", "姓": "吉行", "名": "エイスケ", "姓読み": "よしゆき", "名読み": "えいすけ", "姓読みソート用": "よしゆき", "名読みソート用": "えいすけ", "姓ローマ字": "Yoshiyuki", "名ローマ字": "Eisuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1906-05-10", "没年月日": "1940-07-08", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "吉行エイスケ作品集", "底本出版社名1": "文園社", "底本初版発行年1": "1997(平成9)年7月10日", "入力に使用した版1": "1997(平成9)年7月18日第2刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "吉行エイスケ作品集II 飛行機から堕ちるまで", "底本の親本出版社名1": "冬樹社", "底本の親本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "霊鷲類子、宮脇叔恵", "校正者": "大野晋", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/files/342_ruby_34713.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-03-19T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/files/342_34714.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-03-19T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "おい此ドレスなあ。黄に買わして喜ばしてやるんだ。", "マリ、黄はお前と夫婦になりたいと云ったぞ。", "毎夜おれが酔って、いびきかいてるうちになあ、彼奴そんな真似をしているんだよ。", "よせ、冗談は。黄は子供の頃京城で結婚した女と別れて晴れてお前と夫婦になりたいと真剣だったぞ。" ], [ "おい、マリ、山下へのみにゆかないか。ただし俺はカイン・ゲルトだ。", "よせ、やあ。剃刀を買おうよ。", "大丸谷のチャブ屋女と間違えられるぞ。", "ちぇ! 酔ってかいほうさしてやるぞ。こうみえてもなあ、おれは天界ホテルの令嬢マリよ。", "へん、シンガポールから迎えのこぬうちにくたばっちまえ。" ], [ "ううん、おれがよくなかった。", "マリ、お前こん夜俺につきあうか。", "なんでもよくきく。" ], [ "おい、ナタリー、おまえおれの女房になってくれ。", "マリ、するとあんたが妾のダンナさんね。", "うん、そうだ。" ], [ "マリ、どうかしたかね。", "うん、おれはナタリーが好きだ。" ], [ "おい、お六ちゃん。亭主が引ぱられてからの感想が聞きたいよ。", "そんなこと云わんとおいておくれよ。", "淋しいかい。", "淋しくなくてかい。", "信じているかい。", "犯罪については妾には分りませんわ。しかしいまになって妾はあの男を愛していたような悲壮な気もちがいたしますわ。", "ふふん、もっともそんな気もちになって喜んでいるのもおたのしみだね。" ] ]
底本:「吉行エイスケ作品集」文園社    1997(平成9)年7月10日初版発行 底本の親本:「吉行エイスケ作品集 ※[#ローマ数字2、1-13-22] 飛行機から墜ちるまで」冬樹社    1977(昭和52)年11月30日第1刷発行 ※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。 入力:田辺浩昭 校正:地田尚 2001年2月19日公開 2009年3月15日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002174", "作品名": "スポールティフな娼婦", "作品名読み": "スポールティフなしょうふ", "ソート用読み": "すほおるていふなしようふ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文学時代」昭和5年2月号(*原題には「横浜」という副題がある)", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-02-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/card2174.html", "人物ID": "000043", "姓": "吉行", "名": "エイスケ", "姓読み": "よしゆき", "名読み": "えいすけ", "姓読みソート用": "よしゆき", "名読みソート用": "えいすけ", "姓ローマ字": "Yoshiyuki", "名ローマ字": "Eisuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1906-05-10", "没年月日": "1940-07-08", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "吉行エイスケ作品集", "底本出版社名1": "文園社", "底本初版発行年1": "1997(平成9)年7月10日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "吉行エイスケ作品集Ⅱ 飛行機から墜ちるまで", "底本の親本出版社名1": "冬樹社", "底本の親本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "田辺浩昭", "校正者": "地田尚", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/files/2174_ruby_34706.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-03-15T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/files/2174_34707.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-03-15T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "――うん。最上等の立ち淫売だ。", "――もし、……そうなら、今夜は君をかの女の恋愛術の中へ預けたいのよ。", "――うん、御随意だが、君はどうする?", "――仕事があるのよ。Sデパートに依頼された新衣裳と、R新聞に原稿を明朝までに書いて置かなくちゃならないの。" ], [ "――その女房と云うのはどんな役目なの?", "――君に委任された僕のセンジュアス以外のものの委托品あずかり所なのだ。", "――あなたの云うこと、よく分んないわ。" ], [ "――お早う。昨夜はよく寝られたかね。", "――……君のいない、……おかげで、あたし睡眠を充分とることが出来たわ。" ] ]
底本:「吉行エイスケ作品集」文園社    1997(平成9)年7月10日初版発行    1997(平成9)年7月18日第2刷発行 底本の親本:「吉行エイスケ作品集※[#ローマ数字2、1-13-22] 飛行機から墜ちるまで」冬樹社    1977(昭和52)年11月30日第1刷発行 ※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。 入力:霊鷲類子、宮脇叔恵 校正:大野晋 2000年6月7日公開 2009年3月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000344", "作品名": "戦争のファンタジイ", "作品名読み": "せんそうのファンタジイ", "ソート用読み": "せんそうのふあんたしい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-06-07T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/card344.html", "人物ID": "000043", "姓": "吉行", "名": "エイスケ", "姓読み": "よしゆき", "名読み": "えいすけ", "姓読みソート用": "よしゆき", "名読みソート用": "えいすけ", "姓ローマ字": "Yoshiyuki", "名ローマ字": "Eisuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1906-05-10", "没年月日": "1940-07-08", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "吉行エイスケ作品集", "底本出版社名1": "文園社", "底本初版発行年1": "1997(平成9)年7月10日", "入力に使用した版1": "1997(平成9)年7月18日第2刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "吉行エイスケ作品集Ⅱ 飛行機から墜ちるまで", "底本の親本出版社名1": "冬樹社", "底本の親本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "霊鷲類子、宮脇叔恵", "校正者": "大野晋", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/files/344_ruby_34786.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-03-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/files/344_34787.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-03-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "――………うん。", "――………浮気しよって?" ], [ "――たのむ。", "――その御礼は?………………", "――その、今月分の衣裳屋の仕払いを引うけるよ。" ], [ "――僕は、あなたを、どう解釈したらいいんでしょう?", "――そんなこと、ご自由だと思いますわ。" ], [ "――そんなら、僕と、ホールからお出掛けになりますか?", "――あたし、お供したいんですわ。", "――何処へ?", "――あたしのこと、なにもかも、あなたにお委せするのです。", "――………しかし。", "――………おいや。" ], [ "――僕は、あなたに恋愛をするかも知れませんよ。", "――あたし、そんなこと、好きでなくってよ。", "――いや、僕にはそれ以外のことはつまらないことなんだ。", "――あら、なぜ、そんなに亢奮なさるの。" ], [ "――いくら?…………", "……………………………", "――僕は、あらゆるものをあなたのために失くしてもいいんです。" ], [ "――あたし神戸だわ、でも明夜の十時五十五分の列車で妾帰ります。", "――さようなら。", "――……さようなら。" ] ]
底本:「吉行エイスケ作品集」文園社    1997(平成9)年7月10日初版発行 底本の親本:「吉行エイスケ作品集 ※[#ローマ数字2、1-13-22] 飛行機から墜ちるまで」冬樹社 ※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。 入力:田辺浩昭 校正:地田尚 2001年2月19日公開 2009年3月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002172", "作品名": "東京ロマンティック恋愛記", "作品名読み": "とうきょうロマンティックれんあいき", "ソート用読み": "とうきようろまんていつくれんあいき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「近代生活」昭和6年4月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-02-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/card2172.html", "人物ID": "000043", "姓": "吉行", "名": "エイスケ", "姓読み": "よしゆき", "名読み": "えいすけ", "姓読みソート用": "よしゆき", "名読みソート用": "えいすけ", "姓ローマ字": "Yoshiyuki", "名ローマ字": "Eisuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1906-05-10", "没年月日": "1940-07-08", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "吉行エイスケ作品集", "底本出版社名1": "文園社", "底本初版発行年1": "1997(平成9)年7月10日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "吉行エイスケ作品集Ⅱ 飛行機から墜ちるまで", "底本の親本出版社名1": "冬樹社", "底本の親本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "田辺浩昭", "校正者": "地田尚", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/files/2172_ruby_34693.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-03-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000043/files/2172_34694.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-03-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ところで、あんたが、われわれガンの仲間に思いきってはいって来たのは、どういうわけです?", "わたしたち飼い鳥だって、なにかとりえはあるってことを、あなたがたに知らせたいからですよ。" ], [ "このブレーキンゲでは、なんにもありませんでした、沼フクロウさん。でも、スコーネでは、とってもめずらしいことがあったんですって。ひとりの男の子が、小リスぐらいしかない小人にされてしまいましてね、それからは、ガチョウにのって、ラプランドへ旅をしにいったという話ですよ。", "そりゃ、めずらしいニュースですね、ほんとにめずらしいニュースですね。その子はもう人間にはなれないでしょう? 森フクロウさん。ねえ、もう人間にはなれないでしょう?", "これはほんとうは秘密なんですがね、沼フクロウさん、でも、あなたのことですから、お話しするんですよ。小人が言うのには、もしその子がガチョウのせわをよくしてやって、ガチョウが、ぶじに帰れれば――――", "で、それから? 森フクロウさん、そして、それからどうなんです?", "あたしといっしょに教会の塔までいらっしゃいな。そしたら、すっかりお話ししてあげますよ。ここだと、下の道でだれか聞いているかもしれませんもの。" ], [ "わたくしは、この港をえらび、造船所をつくって、海軍を再建した方に向かって、こういうすべてのものをつくりだした王さまにむかって、脱帽いたします。", "感謝するぞ、ローセンブーム、よく言ってくれた。そちはりっぱな人間じゃ、ローセンブーム。だが、そこにいるのは何者じゃ?" ], [ "おれはな、むかし、この地方に一羽のメンドリがいたのを思いだしていたところさ。そいつは、飼い主のおくさんが大すきだったんだ。それで、そのおくさんを喜ばせてやろうと思って、とてつもなくでかい卵をうんでよ、それを穀物倉の床下にかくしておいたんだ。そのメンドリのやつめ、卵がかえったら、おくさんがさぞ喜ぶだろうと思って、ひとりでうれしがっていたのよ。おくさんのほうじゃ、メンドリの姿が長いあいだ見えないもんだから、どうしたんだろうと、ふしぎに思って、あっちこっちさがしてみた。しかし、どうしても見つかりゃしない。おい、口なが、そのメンドリを見つけたなあ、だれだかわかるか?", "わかりますとも、おかしら。だが、それじゃ、わっしもそれに似た話を、お聞かせしやしょう。おかしらは、ヒンネリュードの牧師館にいた大きな黒ネコを、おぼえていなさるかね? あのやろうは、子をうむと、いつも人間がとって、川んなかにほうりこんじまうもんだから、不平たらたらだったんでさ。ところが、一どだけ、おもてのほし草の中に、うまくかくしたことがあるんですよ。あいつは、うまくかくしたと大よろこびでしたが、あいつよりも、じつは、このわっしのほうが大よろこびでしたのさ。" ], [ "つまり、ここは、あがめられ、尊敬されている地方なんだ。", "そりゃあそうです。", "そして、これからさきも、ずっとそうだとわかっているのさ。" ], [ "あっ、ほんとうだ。でも、ずいぶんちっぽけな字だね。", "あたしに見せてごらん! ええと――ええと、『西ヴェンメンヘーイのニールス・ホルゲルッソン』" ], [ "わたしに、寝場所を教えてくれって? それじゃ、あんたはここに住んでいるんじゃないの?", "ああ、おばさんはぼくをほんとの小人だと思ってるんですね。ぼくは、おばさんとおんなじ人間なんですよ。こんな姿になってはいますけど。", "まあ、驚いた! いったい、どうしたわけなの? 話してちょうだいな!" ] ]
底本:「ニールスのふしぎな旅 上」岩波少年文庫、岩波書店    1953(昭和28)年5月15日第1刷発行    1980(昭和55)年5月25日第9刷発行 底本:「ニールスのふしぎな旅 下」岩波少年文庫、岩波書店    1954(昭和29)年1月20日第1刷発行    1980(昭和55)年5月10日第8刷発行 ※「チビさん」と「ちびさん」、「ローソク」と「ロウソク」、「エンチェーピング」と「リンチェーピング」と「ノルチェーピング」の混在は、底本通りです。 ※著者名は底本の奥付では、〔Selma Lagerlo:f〕です。 ※原作は、第一巻と第二巻とに分かれている物語です。入力に使用した底本は、訳者矢崎源九郎氏の方針により「第一巻を、上巻と下巻とに分けて訳すことにし、第二巻のほうはあらすじだけを下巻のおしまいにつけて」いるものとなっています。このテキストは底本の上巻と下巻を合わせたものです。 入力:sogo 校正:チエコ 2019年10月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "058052", "作品名": "ニールスのふしぎな旅", "作品名読み": "ニールスのふしぎなたび", "ソート用読み": "にいるすのふしきなたひ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "NILS HOLGERSSONS UNDERBARA RESA GENOM SVERIGE", "初出": "", "分類番号": "NDC K949", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2019-11-20T00:00:00", "最終更新日": "2019-11-20T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001892/card58052.html", "人物ID": "001892", "姓": "ラーゲルレーヴ", "名": "セルマ", "姓読み": "ラーゲルレーヴ", "名読み": "セルマ", "姓読みソート用": "らあけるれえう", "名読みソート用": "せるま", "姓ローマ字": "Lagerlof", "名ローマ字": "Selma", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1858-11-20", "没年月日": "1940-03-16", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "ニールスのふしぎな旅 下", "底本出版社名1": "岩波少年文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1954(昭和29)年1月20日", "入力に使用した版1": "1980(昭和55)年5月10日第8刷", "校正に使用した版1": "1983(昭和58)年6月10日第11刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "ニールスのふしぎな旅 上", "底本出版社名2": "岩波少年文庫、岩波書店", "底本初版発行年2": "1953(昭和28)年5月15日", "入力に使用した版2": "1980(昭和55)年5月25日第9刷", "校正に使用した版2": "1983(昭和58)年6月10日第12刷", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "チエコ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001892/files/58052_ruby_69527.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-10-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001892/files/58052_69578.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-10-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ご気嫌ね……オハヨウ――", "え……" ], [ "や、オハヨウ……", "いい朝ね、ご覧なさいよ、百合が咲いてるわ", "そう" ], [ "どれ――", "ほら、あんな高いとこよ" ], [ "ほお、なるほど……", "あの花粉――っていうの魅惑的ね、そう思わない……露に濡れた花粉だの蕊だのって、じーっと見てると、こう、なんだか身ぶるいしたくなるわ……ね", "そお……" ], [ "お早よう……", "や、お早よう……" ], [ "どして……", "どうかなさったの――" ], [ "ほっほっほっ、月に一遍、どうも熱っぽくなるの", "まあ……", "ほっほっほっ" ], [ "どうぞ……", "そう、じゃお先きに……" ], [ "いかがです", "別に……" ], [ "諸口さん、いい天気ですね……あの雲なんかまるでクリーニングされた脱脂綿みたいに白いですね", "まあ、いやだ脱脂綿みたいだなんて、そんなこと、いうもんじゃないわよ" ], [ "あたし……なんだか心配になっちまったの……", "なにが……", "なにって……段々体が悪くなりそうで……ほんとよ……今にも急に熱が出そうな気がして仕様がないのよ……", "バカな……そんな心配が熱を出すモトさ……あまりヒマだからだよ、そんなことを考えるより入道雲を見て、勝手な想像をした方が、ずっと体のためだぜ……", "まア……" ], [ "ははは、……どんなことを考えていたの……", "……マダムと青木さんのことよ……あんた知ってる", "何を――", "あら、知らないの、暢気ね", "仲がいいってことかい", "その位だったら、皆んな知ってるわ", "ふん、じゃなんかあんのかい", "……まアね……あっちへ行きましょう――" ], [ "あれ――って何さ", "あのね……夜になると……消燈が過ぎてからよ……青木さんがマダムのとこに来るのよ……", "ふーん", "そしてね……何すると思って――", "絵を描きに行くのよ、肌に絵を描きに……つまり、刺青をしによ……", "まさか――", "あら、ほんとよ、だって私の部屋マダムの隣りでしょう、よくわかんの", "だって、刺青したらすぐ解るだろうに、診察の時……", "それはところによるわ……", "成るほどね、……だけどなんの為に――", "あらやだ、あたしそんなこと知らないわよ、だって壁越しですもの……", "ふーん", "……とっても、親しそうだわ……" ], [ "ねえこの唄どう思って……", "どうって……", "あたし、この唄青木さんから教わったんだけど、『肺病の唄』だと思うわ", "その文句ですか" ], [ "いいえ、――それもだけど――このメロディよ、ね、よく聞いて御覧なさいよ、あの体温表のカーヴとこのメロディと、ぴったり合うじゃないの、高低抑揚が、恰度あの波形の体温と吃驚するほど、ピッタリ合うじゃないの……", "そう……そういえば成るほど……" ], [ "三時ですわ、お熱は……", "あ、忘れてた……今はかるよ、マダムどう――", "はあ……" ], [ "恰度、お体の悪い時なので、なかなか出血が止まらない、と先生が仰言ってましたわ……", "ああそうか、悪い時やったもんだナ" ], [ "僕も熱が出ちまったよ", "皆さんですわ、……あんなのご覧になると……諸口さんなんかもうお部屋で真蒼になってお寝みですわよ" ], [ "いいえ、お部屋じゃなくて", "お部屋にも、マダムのとこにも、まるで見えなくてよ", "散歩かしら", "それにしても、長すぎるわ……" ], [ "変だナ……", "どうしたんでしょう……" ], [ "どお……", "……" ] ]
底本:「火星の魔術師」国書刊行会    1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行 底本の親本:「夢鬼」古今荘    1936(昭和11)年 初出:「探偵文学」    1936(昭和11)年7月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※表題は底本では、「※[#「氓のへん/(虫+虫)」、第3水準1-91-58]《あぶ》の囁き」となっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2006年12月30日作成 2014年8月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002195", "作品名": "蝱の囁き", "作品名読み": "あぶのささやき", "ソート用読み": "あふのささやき", "副題": "――肺病の唄――", "副題読み": "――はいびょうのうた――", "原題": "", "初出": "「探偵文学」1936(昭和11)年7月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-01-16T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/card2195.html", "人物ID": "000325", "姓": "蘭", "名": "郁二郎", "姓読み": "らん", "名読み": "いくじろう", "姓読みソート用": "らん", "名読みソート用": "いくしろう", "姓ローマ字": "Ran", "名ローマ字": "Ikujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-09-02", "没年月日": "1944-01-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "火星の魔術師", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1993(平成5)年7月20日", "入力に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "底本の親本名1": "夢鬼", "底本の親本出版社名1": "古今荘", "底本の親本初版発行年1": "1936(昭和11)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2195_ruby_24726.zip", "テキストファイル最終更新日": "2014-08-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2195_25512.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2014-08-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "どうしたんだ、ばかにぼんやりしてるじゃないか", "……いやあ", "はっは、腐ってるんだな、わかるよ、腐るな腐るな", "いやあ、何も……", "ふっふっふ、いいじゃないか、希望を持て希望を――、何も今度ぽっきりのことじゃないんだからな、きっと俺たちも行くようになるぜ" ], [ "そんなことじゃない", "そんなことじゃないって――、じゃあ何んだね、何んにもないじゃないか、そんなにスネるもんじゃないぜ、そんなに行きたけりゃ、所長の方へ申出て置けよ、俺は早速申出るつもりだ", "ふむ……", "君の分も、申込んで置こうか", "いや、いいよ" ], [ "あの、どうかなさったんですか、木曾さん……", "エ?" ], [ "なんだ、石井さんがここにいたのか……、今の、所長の話を聞いたかね", "えっ", "あ、そうそう、石井さんも行く方だったね", "はあ――、でも私なんかに勤まりますかしら", "大丈夫だよ、あんたならきっとしっかりやってくれる……、あんたに行かれるのは残念だけれど、しかしまあそんなことはいってられないからね", "……でも、木曾さんはいらっしゃいませんのね、どうしたんでしょう", "いやあ僕なんか……、留守軍だよ、僕の分もしっかりやって来て下さい、いや、やって来て下さいじゃない、やって下さい、だ。一寸出張のようなつもりでは困る、業績のためには骨を埋めるつもりで行って貰いたいっていってたからね、所長が―、はっは" ], [ "ふーん、ボルネオ行きのことかい、そりゃさっき所長も一寸いっていたように、つまりこの研究所のような、磁気学研究所といったものは、地球磁力の影響の尠いところがのぞましい、といって地球上では地球磁力の作用しないというところはないんだから、結局南北極から一番離れた、その両極の中間にある赤道地帯がよかろう、ということになるんだね、あんたも知っているだろう、一つの棒磁石があるとその両方の端が一番磁力が強い、真ン中はその両端に比べれば、ほとんど磁力がないといってもいい、両方が釣り合ってしまっているんだ、地球も形は丸いが、一つの丸い磁石だといっていいから赤道のあたりが一番両方の力の釣合っているところだね、勿論地球の北極と南極は、地図の上の極の位置とは違って、年中ふらふら動き廻っているんだから、――丁度、廻っている独楽の心棒の先きが、きちんと止っていずにふらふらするように――だから赤道が必ず真ン中だとはいえないけれど、しかしこの辺に比べたらずっとずっと平衡しているわけだ", "東京と、そんなに違うでしょうかしら", "違うね、第一そうだろう、東京あたりで磁石針の止ったところを横から見ると、きっと北を指している方が、下っている、決して平らではないんだ、これは東京が南極から離れて北極に近よっているために、北極の力を余計に受けているからだね、しかもこれはもっと北に行くほどひどくなって来て、北極に行ってしまえば磁石針の針は北を下にして突立ってしまうに違いない――、まあこれは激しい例だけれど、とにかく磁石針にすら地球磁力の差がはっきりと現われる場所では、それだけ僕たちの実験にも地球磁力の影響というものが加わっているということを考えなけりゃいけない、そんな意味でこの磁気学研究所の分身が、赤道直下にあるボルネオのポンチャナクから少し溯った上流に作られるというのは実に、寧ろ当然であるといってもいいじゃないかね", "そうですわね、でも、何も知らない人から見ると、こんなジミな研究所まで南方熱に浮かされたように思われませんかしら……", "はっはっは、まあそう思う者には思わせといてもいいさ、要するに南に行っただけの業績をあげればいいんだからね", "ええ、でも木曾さんにまでそう仰言られると、なんだかこう、身動きも出来ないものを背負わされたような気がしますわ" ], [ "ああ、そう――。村尾君もボルネオ行きだったね", "はあ、お蔭様で……" ], [ "まあ、しっかりやってくれたまえよ、石井さんも行くんだ、よろしく頼むよ", "はあ、あの……", "はっは" ], [ "所長もいっていたがね、同じ赤道直下の場所でも、なぜボルネオを選んだかというとね、東漸して来た西欧文明は先ずジャバ島に上陸した、そしてジャバ島を殆んど西欧化して東印度で一番の開発された島としたんだ、そしてなおも東漸しようとしたがボルネオはまだ本当に手がつけられていなかった、だからボルネオは東印度の、いや世界の暗黒島といわれていた、しかし今度は東亜文化を西漸せしめなければならん、それには既に敵の手をつけた施設を流用するのもいいが、取りのこされていたボルネオに先ず東亜文化の一燈をつけるのも面白いじゃないか――とこんな風な、味なこともいっていたよ、それからその中には所長も出かけるといっていた、しっかりやってくれんと困るぜ、僕もここで、君たちに負けんつもりでやる", "やります、僕は金の創造を、西洋の錬金術師が数百年かかって出来なかった金の創造というやつを、元素転換で工業的にやってのけたいと思っていますからね、現在のサイクロトロンといったものではまだまだとても駄目です" ], [ "うん、そうだね、現在のサイクロトロンじゃあまだ一匙の水銀を転換させるのにだって何日かかることだか……一グラム何千円という金を造っていては、金を造って破産することだ、はっはっは、――石井さんは?", "さあ、私は、研究室の皆さんが病気をされないように、それだけを心がけたいと思いますわ、それ以上のことは出来そうもありませんし、病気をされることが一番つまらない無駄なことですものね……それが結局皆さんの研究に、直接ではなくてもお手伝い出来たことになりますもの", "なるほど……" ] ]
底本:「火星の魔術師」国書刊行会    1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行 入力:門田裕志 校正:川山隆 2006年12月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002194", "作品名": "宇宙爆撃", "作品名読み": "うちゅうばくげき", "ソート用読み": "うちゆうはくけき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-01-16T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/card2194.html", "人物ID": "000325", "姓": "蘭", "名": "郁二郎", "姓読み": "らん", "名読み": "いくじろう", "姓読みソート用": "らん", "名読みソート用": "いくしろう", "姓ローマ字": "Ran", "名ローマ字": "Ikujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-09-02", "没年月日": "1944-01-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "火星の魔術師", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1993(平成5)年7月20日", "入力に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2194_ruby_24732.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2194_25513.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "何しろここまで来ると空気以外に褒めもんがないんですからね", "まあ、そういうなよ、今年は十五年ぶりで火星が近づいているんだ、この空気の澄んでいる高原は、火星観測には持って来いなんだよ", "そりゃそうかも知れんけど……、その辺を一寸歩いて見ませんか、星が出るまでにはまだ間がありますよ", "うん……" ], [ "とにかく火星のことになると夢中なんだからなあ、昌作さんは", "いいじゃないか", "いいですよ、とてもいい趣味ですけど――", "ですけどとはなんだい、妙ないい方だね", "そんなことないですよ、――それはそうと、どんなキッカケから昌作さんは火星狂になったんですか", "火星狂――? そんな言葉があるかね、狂は少しひどいぞ", "おこっちゃいけませんよ、狂といったっていい意味です、その野球狂とか飛行狂とか――つまりファンですね", "こいつ、うまく逃げたな、まあいいさ、何んだって興味を持てば持つほど面白くなって来るんだ、たとえば火星という奴は、あんなに沢山星のあるなかで一際赤く光っている。ぼくも最初に興味をもったのはこの事かな", "今でもですか", "冗談じゃないよ、そんなに何時まで、ただ星が赤いからって面白がっていられるもんか", "じゃ、何んです", "今のところ最大の興味は『火星の生物』のことだね、とにかく無数の星の中で地球に一番近い兄弟分というばかりか、何か生物がいるに違いない、と思われるのはこの火星だけだからね", "近いといえば月は――?", "そりゃ、近いという距離だけからいえば月の方がずっと近いよ、だが此奴はもう空気も水もない死んだ世界なんだから仕様がない、それよりか我々が例えばロケットか何かで地球を飛出したとすれば、まず火星に行くより仕方がないだろうね、そしてそいつがうまく行ったら火星は地球の別荘さ、地球の別荘に日章旗を立てたら痛快だろう", "大きく出ましたね", "ふふん、しかしそれとは逆に、地球人がまごまごしているうちに宇宙の天外から、この地球めがけて来襲するものがあるとすれば、それも先ず火星人以外にはないといっていい" ], [ "いるかも知れない。いてもいい条件があるんだからね", "そうそう、だいぶ前に『火星の運河』っていうのが問題になりましたね", "うん、しかしあれはまだ正体がハッキリしていないんだよ、だが、植物のあることだけは突止められている。火星には空気もあり、しかもそれは酸素を多く含んでいる。酸素は活溌な元素なのにそれが自然に遊離しているからには植物があるに違いない――というわけさ、その上火星の夏には青々としていた所が、秋になると次第に黄ばんで来る、これは其処に植物が繁茂している証拠だといっていいだろうね", "ちょっと、ややっこしくなって来ましたね", "ややっこしいもんか、とても面白いじゃないか、こんな風に、たしかに植物が生えているっていうのは、あとにも先きにもこの地球以外には火星だけしかないんだからね", "成程ね、でも太陽からは遠いし、ひどく寒いんじゃないんですか", "そりゃ寒いだろう。しかしこの地球だって年中氷にとざされている南極にも、ペンギン鳥のような生物がちゃんと生きているんだからね。寒さに耐える生物がいるんだろう……、もっとも火星の生物は植物にしても動物にしても、地球のものとはまるで違っているかも知れないけど", "そりゃそうでしょう、進化の途が全然違うんですからね", "うん、そしてこんなことも考えられるんだ、――地球の人間は、動物が進化してここまで来た、しかし火星の人間は、動物ではなくて、植物が進化して我々よりももっともっと進化した火星人になっているかも知れない、とね", "…………" ], [ "昌作さん――", "なんだい英ちゃん――" ], [ "何かだいぶ愕かれた様子ですな、はっはっは", "…………", "はっははは、『火星の果実』はいかがですか、お気に召したら一つあがって見て下さい" ], [ "か、火星の果実――?", "左様、進化した果実です", "…………" ], [ "何処、でしょうか。あまり時間もないんですが――", "いや、ついこの先きですよ、ほんの荒屋ですが", "そうですね" ], [ "いらっしゃいませ、どうぞごゆっくり", "はあ、どうも……、突然上りまして", "いいえ、兄はいつも退屈しておりますから、きっと無理にお誘いしたのでございましょう。今日は、丁度菊も咲きましたし……", "はあ――?" ], [ "いやあ、一寸お詫をしなけりゃならんですが、今までご覧に入れたのは、皆な火星の果実でもなんでもありません、この地上のものですよ", "なんですって――?" ], [ "火星から、ひょっくり植物のタネが来るわけもないじゃありませんか、実はさっきお二人がさかんに火星の話をされていたようだったし、そのあとで私の作った作物に愕かれたようだったんで、ひょいとそんなことをいってしまったんです……", "ははあ……", "しかし、これらはたしかに普通のものじゃありませんし、あとでこれを市場に売出す時には火星の栗とか、火星の茄子とか、そう銘打っても一向差支えないと思いますね、――お蔭でいい商標を思いつきましたよ", "すると、あれは皆な志賀さんが作られたんですか", "そうですとも。あなた方は話に気をとられて、志賀農園入口という立札に気づかないで来てしまったんでしょう。さもなければ村の人達に気狂いとか、魔術師とかいわれて白眼で見られているこの農園に、悠々と這入って来られないでしょうからね", "いや、僕たちはここに来たばかりで、そんなことは少しも聞いていませんでしたよ、しかし……" ], [ "その発明がどんな方法かは知りませんが、とにかく大発明です、農芸に大革命を起させる、食糧問題も一挙に解決させる大発明ですね――", "そうですか、ほんとにそう思ってくれますか、しかもその方法たるやとても簡単なことなんです。これは肥料なんかとはそう関係ありません。高価い肥料もフンダンに使わなければならんような、それでいて草や木がその養分を吸い上げてくれるのを待っているような、そんな旧式な、そんな消極的な農芸じゃないんです。もっと茄子なら茄子、麦なら麦の体質を改造してかかる積極的な方法なんですよ" ], [ "染色体――?", "そうです染色体です、動物でも植物でもこれはすべて沢山の細胞から出来ています、そしてその中に顕微鏡で見られる染色体というものが幾つかはいっているんです", "なるほど、それがどうかしたんですか", "それですよ、この染色体という奴が問題なんです。これは犬でも菊でもその種類によって数が必ずきまっているんです。例えば百合が二十四で犬が二十、人間なら男が四十七で女は四十八というように……" ], [ "雑草のように野生している小麦の染色体は十四ですが、私たちが食用にするような栽培されている小麦はその三倍の四十二です、それから野苺は十四ですが私たちが食べるような苺はその四倍の五十六、こんな風に、つまり染色体の数が多いと同じ苺なら苺でも優れているんです、例えば育ちが良いとか、寒暑に耐えるとか……", "なるほどね、そうすると、何んとかして染色体とやらの数を多くすれば、優れた作物が出来る、というわけですね", "そうです、そう思っていいでしょう。だからもし人工的に染色体の数を多くしてやることが出来たら、定めし立派な作物が出来るだろう……というわけですね", "じゃ志賀さんがその方法を発見された、というんですか" ], [ "いや私というわけじゃありませんよ。つい最近外国でアルカロイド剤の一種を使って、すでに非常な成功を見せているんです。こいつは簡単な方法で煙草でも玉蜀黍でも大成功、金盞花という花では、この薬を使って直径が普通の倍もある見事な花を咲かせたそうです――、ただ私はそれに少しばかりの改良を加えたまでのことなんですよ", "少しばかりの改良――といわれるけれど、本当はその仕事が実に大変なことなんでしょう、そんなに謙遜ることはありませんよ、絶対ありません、とにかくこれだけ出来ればすばらしい成功です、寧ろ大いに自慢し宣伝した方が、国家のためだと思いますね" ], [ "とにかくこんな大発明を遠慮することなんかあるもんですか、染色体がどうのこうのなんていうから、ややっこしくなるんです。そんな理屈はぬきにして、どうです一つ『火星の果実』という名前で大いに売出して御覧なさい", "ありがとう……、そういって下さるとやっと私にも自信がついて来ましたよ、仰言る通り議論よりかモノですからね……" ], [ "ありがとう、しかしぼく達を逃がしたらあなたが困りませんか", "いいえ、私なんか……", "でも、もしかあなたが、あの危険な実験の犠牲になるようなことは――", "いいんですの、まさか兄妹ですし……" ] ]
底本:「火星の魔術師」国書刊行会    1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行 底本の親本:「百万の目撃者」越後屋書房    1942(昭和17)年発行 初出:「ユーモアクラブ」    1941(昭和16)年5月 入力:門田裕志 校正:川山隆 2006年12月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002193", "作品名": "火星の魔術師", "作品名読み": "かせいのまじゅつし", "ソート用読み": "かせいのましゆつし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「ユーモアクラブ」1941(昭和16)年5月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-01-16T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/card2193.html", "人物ID": "000325", "姓": "蘭", "名": "郁二郎", "姓読み": "らん", "名読み": "いくじろう", "姓読みソート用": "らん", "名読みソート用": "いくしろう", "姓ローマ字": "Ran", "名ローマ字": "Ikujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-09-02", "没年月日": "1944-01-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "火星の魔術師", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1993(平成5)年7月20日", "入力に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "底本の親本名1": "百万の目撃者", "底本の親本出版社名1": "越後屋書房", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2193_ruby_24728.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2193_25514.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "危かったですね", "…………" ], [ "この近くに家があるんですか、実はぼく迷っちゃったんですよ、熊野川の方に出ようと思ってたんですが、そっちに行くにはどんな見当でしょう……", "…………" ], [ "ない、村なぞは無い", "ほう――" ], [ "ほう、じゃこのお二人はよっぽど遠くから来られたんですか", "いや――", "へえ、どういうわけですか", "わし達は、この近くにおる", "はあ? するとこのお二人だけで山奥に住っていられるというわけですか", "ふむ", "ここは一体、何の見当なんでしょうか、この沼も地図に載ってないようですが……", "載っておらん。載っておらんというのもわしが造ったからだ", "造った――?", "ふむ、水の出口を堰止めて雨水を溜めただけのことだ", "へえ、大変な事業ですね、何かよっぽどの研究でもされているんですか", "ふむ――" ], [ "……君は結論から先きに這入ってしまったのだよ、この有様は、君をひどく愕かしてしまったらしいね、左様、宝石がだんだんに磨かれて行ったことを知らずに、いきなり出来上ったものの輝きに愕いているんだ", "…………" ], [ "これを知ってますか", "いいえ。――植物ですか、小さな" ], [ "さあ――", "動物ですか植物ですか", "さあ――" ], [ "どうです、今君が、その眼でシカと見たように、植物の祖先も又動物の祖先のように活溌に動き廻っている。なるほど高等な動物と、高等な植物とは一見して判るけれど、しかしそれを遡ぼって行くにつれて、その境界というものは、甚だあやしくなって行くんだ。松の木と、その上に登っている猿とは一つとして似てはいない、それはお互いに分れた道を頂上まで登りつめているからだ。けれど、それを逆に次第に元へ戻って辿って行けばやがていつか同じ一本の元の道になってしまう。松も猿も、ともに養分を摂り、それを体の中に循環し、そしてともに消化酵素を持ち、呼吸をする、その生活状態はまったく共通なのだ", "……そうですね" ], [ "……そうですね、太古には植物とも動物ともつかぬ生物があって、それから色々なものが次第に進化して来たのが今の世の中だ、ってことは聞いてましたが……", "そう、その通り、まったくその通りなんだ、先ず最初にやがて植物となるべき微生物が今君が顕微鏡で見たようなもの――と、それらのように葉緑体も細胞膜も持っていない――つまりやがて動物となるべき――細胞体とが分れた、それは全歴史を通じての最大な分岐点といえるだろう。ここに於いて松と猿とが分れたんだ、人間と雑草とが分れてしまったんだよ、だがしかし全く別のものではない、進化の仕方が途中で分れてしまっただけなんだ。運動や感覚は動物だけのものではない、朝顔の花は夜あけとともに開く、だから植物だって運動をする。その上はえとりぐさの奴は濡れた紙片をつけてやると欺されて捉えるけれど、つづけて二三回も欺してやるともうその次には反応をしなくなる、これこそ植物にも感覚と記憶があるという疑いのない証拠なんだ", "ははあ、しかし一般に植物は動物みたいに活溌じゃありませんね", "そう、そこだよ、その違いがこの二つの物の、最も根本的な違いなんだ、植物の奴は動物と違って食糧の残滓を体の外に棄てることを知らない――、それが不活溌なことの最大の原因なんだ、動物にしても海鞘のように腎臓のない規則外れの奴があるが、こいつは迚も動物とは思えないほど鈍間なんだから、このことからも残滓の排泄を知らないで、全身中にへばり附けている植物は不活溌だろうじゃないか", "…………" ], [ "そう、そうなんだ、いかにもわしはその君のいう素晴らしい植物を作ったんだ、到底、いや絶対にといってもいい位君は信じないだろうが――、つまり先刻君が見た三人の少女を", "なんですって?" ], [ "あの三人の少女は、われわれのような人間ではない、動物ではないんだ、植物なのだ。植物から進化した人間、なのだよ", "…………", "勿論、君はそんなことを信じやしまい、今までの誰にしたって同じことだった。――所謂常識とやらを外れたことだからね", "……しかし、なるほど動物も植物ももとは一緒だとしても、そんなに早く、人間にまで進化さすことが出来ますか", "適当な方法を使えば雪の降る日に西瓜を実らすことも出来る。わしはそのあらゆる方法を使って、この地に発見された珍らしい活溌な寄生木の一種をもとに、あれまで漕ぎつけたのだ。寄生木はほとんど根らしいものを持たぬあれは菜食植物だ", "…………", "ところが、寄生木から出来たものは、御覧の通り人間でいう女性ばかりだったよ" ], [ "いずれにしても、あの綺麗な、成人した少女たちを、こんな山奥の沼畔にいつまでも置いては可哀想じゃないんですか、都会――というより世の中に出して教育をされるとか、また、あなたにしても、これだけの大成果を誇ってもいいし少くとも発表すべきではないんですか", "世の中に出す、って――" ], [ "いや、君はそんなことはないね、まさか君はあの三人をわしから引挘って行って、一と儲けをたくらむような、そんなことはあるまいね、――洋子たちは此処で充分幸福なのだ、そっとして置いてやってくれたまえ、それに、この素晴らしい大事業の名誉を、わしのために守ってくれるなら、わし自身が発表するまで君だけの胸に畳んで置いてもらいたいのだが……", "むろん、そんなこといいやしません、ぼくは香具師じゃありませんからね", "そう、ありがとう……、植物人間はまだわしが充分と思うまで完成されていないのだ、それがしっかり完成するまで他人に知られたくはないのでね", "よくわかってますよ、――万一ぼくが口をすべらしたからって、第一地図にもない沼のほとりで遭ったこの出来事を、そのまま信じてくれる人なんぞあるものですか" ] ]
底本:「怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像」ちくま文庫、筑摩書房    2003(平成5)年6月10日第1刷発行 初出:「オール読物」    1940(昭和15)年11月号 入力:門田裕志 校正:川山隆 2006年11月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043432", "作品名": "植物人間", "作品名読み": "しょくぶつにんげん", "ソート用読み": "しよくふつにんけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「オール読物」1940(昭和15)年11月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-12-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/card43432.html", "人物ID": "000325", "姓": "蘭", "名": "郁二郎", "姓読み": "らん", "名読み": "いくじろう", "姓読みソート用": "らん", "名読みソート用": "いくしろう", "姓ローマ字": "Ran", "名ローマ字": "Ikujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-09-02", "没年月日": "1944-01-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年6月10日", "入力に使用した版1": "2003(平成5)年6月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2003(平成5)年6月10日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/43432_ruby_24866.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-11-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/43432_24880.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-11-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "君、あの一番奥のボックスの男にね、喜村さんじゃありませんか、って聞いて来てくれないか、――もしそうだったらここに村田がいるっていってね", "あら、ご存じなの……", "うん、たしか喜村に違いないと思うんだが……", "じゃ聞いて来たげるわ" ], [ "それはそうと、珍らしいところで逢ったもんじゃないか……、たしか高等学校の二年で忽然と姿を消しちまったって噂だが、――誰かがそういってたぜ", "まさに、その通り", "ふーん", "忙しいんでね――", "何やってんだ、一体――。別に学校を退めるほどの事情もなさそうだったが、働かなきゃならんほどの", "犬――を飼ってるよ、それが仕事さ", "へーえ", "学校なんかよかグンと面白い――。それに今は時節柄、軍用犬の方の仕事もひどく忙しいんでね", "おやおや、犬が好きだってことは聞いていたが……、すると犬屋か", "左様――" ], [ "おい見ろよ", "え――" ], [ "なんて名前――? ほしいわ", "都合によっては、やらんこともない――", "まあ、ほんと", "ほんと、さ", "おい、喜村。こういう手があるとは知らなかったね", "はっははは", "ねえ、なんて名前よ", "名前か――、ムラタ", "ムラタ? ――ムラタ、チンチン", "くさらすない" ], [ "はっははは、しかし可愛いだろ、こんなのは余興だけど家にゃ素晴らしいのがいるぜ、犬の王者のセントバーナードの仔もいる、こいつは少し、混っているかも知れんが", "なあんだ" ], [ "今、何処にいるんだい……、矢ッ張り前の大森……", "いや越したよ、茅ヶ崎にいる、大森あたりはじゃんじゃん工場が建っちまってね、犬の奴が神経衰弱になるんだ", "おやおや、お犬様――だな", "空気もいいしね……" ], [ "それに、こう冬になってまで眠り病が流行ってちゃ都会はあぶないよ", "まったく……", "そうだ、丁度今日は土曜日だね、これから一緒に遊びに来ないか、あした一日ゆっくりいい空気を吸って、陽に当って行くといい", "犬の蚤がたかりやしないか", "冗談いうな、まさか犬小屋には泊めない", "あたりまえさ" ], [ "じゃ、行くかな……", "うん、そうしろよ。――君、奥のを呼んで来てくれ" ], [ "おや? 連れがあったのかい――", "妹さ", "妹? 妹を連れてバーなんぞをうろうろしてんのかい", "というわけでもないがね、ちょいちょい出て来るのは大変だし、昼間はデパート巡りをつきあったから、こんどはちょいと此処をつきあわしたのさ", "あきれたね……" ], [ "美都子だよ――", "よろしく……" ], [ "村田君だ。知らなかったかね……、今、今なにしてんだっけね君は", "まだいわないよ", "ああそうか" ], [ "……どういうことをしてんだい", "今のとこ、さっき君のいった嗜眠性脳炎の問題をがんがんせめられてんだがね", "ははあ、そういう研究所かい、あんまり聞かない名前だと思ったが、ちょっと伝染病研究所みたいなもんだね", "まあ、そういったもんだ", "で、どうだい――", "どうだいって、全然わからんよ、まだ病原体もわからないんだから手がつけられない", "しかし、新聞じゃ相当騒いでるね、だんだん活字が大きくなるし", "そうなんだ、それだけに余計やいやいわれるんだよ", "とにかく死亡率が非常に高いからね……、予防っていうのは、矢張り過労しないようにとか、日光に直射されないようにとか、そういったぐらいかね", "まあ、そうだろうね、心細いが――。だいたいこの病気は一九一七年にはじめて発見されたというぐらいの、つまり近代病なんだから研究も遅れているわけさ、日本に起ったのは、つい十年ぐらいじゃないのかい……、それも、二年ぐらいの周期で蔓延するっていうが、今年に特に物凄いからね、凉風が吹いて下火になるどころか、こんな真冬になっても物凄い発病者があるんだからな、実際の数字を発表したらびっくりするくらいあるんだ", "発表しないのかい", "発表しない、というわけでもあるまいが、それが○○関係の工場地帯に特に多いんだし、……秘密だけれど、このために職工が全滅に近い下請工場も一つや二つじゃない", "矢ッ張り過労――からかな", "いや、そればかりじゃないらしいね、或る工場では最初の発病者があってから、あわてて五時間交代にして体を休めさしたんだが、それでも仕事中に、ばたばた倒れて眠ってしまう者が続出した、っていうからね", "ふーん、相手がわからないだけに気持が悪いなあ、まあ、あんまり東京に出て来るのは止そう……、しかしね、東京ばかりじゃないらしいぜ……" ], [ "あらッ", "寝ちまった?" ], [ "やだね", "ほんとにねえ、あたし、もう東京に来るのがこわくなったわ……茅ヶ崎にはまだ一人も出ないわよ" ], [ "仕様がないな、東京に来たせいか、とても神経質になっちまったよ――", "だからお止しなさい、っていったのに――、汽車で見つかっても知らないわよ", "大丈夫さ――、たぶん" ], [ "よわったね……、あっ、チ、チキショウ", "あら、どしたの", "こいつ……" ], [ "此奴、とうとうやっちまった……どうも変だと思ったが……", "あらやだわ、ポケットの中で?", "うー、ズボンまで浸みて来る――" ], [ "こいつ、やっぱり催してたんだね……、いつもはこんなことないんだけど", "まあ、いいわ、お兄様のポケットだもん", "こいつ……", "はっははは、でも汽車に乗るんだと思うと、近くても旅に出るような気がするね", "そうでしょう" ], [ "乗ってしまえば一時間と一寸なのだからちょいちょい出て来られそうなものでも、でもやっぱり乗るまでが憶劫になっちまうのよ、すっかり田舎者になっちゃったわ", "まさか……", "ほんとなのよ", "こいつはね、東京を離れたのが不服なんだよ、――そんなら眠り病になればいいさ、あれは村田にいわせると近代病だそうだから……", "あらいやだ……、こんな病気が流行るんなら茅ヶ崎の方がいいわ" ], [ "なかなかいいとこだね", "まあ、健康的だろ", "犬も相当いるようじゃないか、世話が大変だろう……", "三十匹ぐらいだよ。それにいまシェパードなんかの軍用犬の訓練も引受けてるしね、助手は三人だが、まあ好きでなきゃ出来ないさ、はっははは", "先きまわりしていっちゃったな、――まったく好きでなくちゃ出来ない" ], [ "はあ、あの、お正午すぎに、どうしたのかゲンが急に吠出しまして……それにつれてほかのまで皆んな吠出してよわりましたが……", "ゲンか――、あいつは一寸神経質だからね……、それだけかい", "はい", "ありがと。――村田君、こんやは遅いからあしたゆっくり案内してやるよ", "うん、その方がいいや、僕も一寸つかれてる", "やだね、まさか眠り病じゃあるまいね", "冗談いうなよ……しかし、ちょいと飲んで汽車に乗ったせいか、いい具合に眠くなった" ], [ "な、なんだい――", "ああよかった、眼が覚めたかい", "え?", "まあこれを見ろよ、東京じゃ大騒ぎだぜ、眠り病が大猖獗だ……、君もあんまりよく寝てるからやられたんじゃないかと思って心配しちゃったよ", "なんだよ一体", "まあその新聞を見ろよ、デカデカと出てる、きのうの東京は今までにない物凄い発病者だとさ", "へーえ……" ], [ "なるほど、ね", "まだある" ], [ "ふーん、ここも危くなっちまったんだね", "そうなんだ、美都子もくさっていたよ、それで君のことを気にして、早く起して見ろなんていっていたんだがね……。それはそうと、これは素人考えだけど、この眠り病の病原体ってのは、大陸から来たんじゃないかね――", "どして――?", "どして、っていうと困るが、つい一ト月ぐらい前にね、ここで訓練した軍用犬に附ついて国境の方まで行って見たんだが、あの辺にも相当この病気が流行っているらしかったぜ", "ほう、初耳だね", "別に、新聞にもそんなことは出ないようだがね", "初耳だよ、で、犬はなんともないのかい", "犬にゃ眠り病もないらしいね、しかしどういうもんか向うに行くと神経質になって、吠てばかりいて困ったが……", "…………" ], [ "君、君、きのう此処で吠た犬はなんていったっけね?", "なんだい急に――、ゲンのことかい", "そう、それそれ、それとあのポケットテリヤを借してくれないか", "借してくれ――? どうしたんだい一体", "いや、急に思いついたことがあるんだ、眠り病だ", "しっかりしてくれよ、なにいってんのかさっぱりわからんじゃないか……", "……、そうか" ], [ "とにかく、その二匹を借してくれたまえ、東京に連れて行って研究したいんだ", "研究材料にはもったいないよ、そんなことなら野良犬で沢山じゃないか――", "いや駄目だ、あの二匹にかぎる", "無理いうなよ……", "無理なもんか、別に殺す訳じゃあるまいし、それに、人の命にくらべれば問題にならんよ", "だからさ、どういうわけであの二匹を君が……" ], [ "君、あれがゲンの声かい?", "そうだよ……", "よしッ……" ], [ "お兄様――", "なんだい。……そんな真蒼な顔をして", "だって、だって山田が急に倒れたのよ、犬小屋の前で寝てしまったのよ", "えッ、山田が、寝てしまった?……" ], [ "仕様がないな、どうしたんだろう", "ヘンねえ、少し来たのじゃないかしら" ], [ "そうかね、……あんまり眠り病、眠り病で研究させられているところに、ばたばた人が倒れるのを昨日からさんざ見せつけられたんでカッとなったかな", "そうかも、しれないわ、だけど、早いわね、ずいぶん" ], [ "やっと止まったわ、何さがしてんでしょ", "あ、ゲンもいる、ゲンも――" ], [ "どうしたんだい、一体。――あ、ここは昨日眠り病が出たという家だぜ", "しーっ" ], [ "なんだろ、こりゃ――。まるで訳がわからんね", "泥棒かしら……", "まさか" ], [ "喜村。逃がすなッ!", "よし!" ], [ "おーい、村田、大丈夫か", "大丈夫――、喜村、ちょっと来て見ろよ" ], [ "相当やられたな……", "なあに……。これだ、これを見ろよ" ], [ "これだよ、これが眠り病の正体だ――", "えッ、こ、これが眠り病の――", "そうさ", "そうさ、って君、これはただの箱じゃないか、眠り病というからには何んか……、それともこの箱が眠り病の病菌の巣かなんかで……", "いやいや、これは機械だよ", "機械――?", "そうさ、いま東京中に猖獗している嗜眠性脳炎を病理学的にやろうとしたのが間違いなのさ、思えばずいぶん無駄な努力をしたもんだ、いくら顕微鏡なんかを覗いたって病原体なんか見つかる筈がない", "というと", "つまり、これは大陰謀なんだ、帝都を眠り病の死都と化さしめようという、恐るべき大陰謀だってことが、タッタ今わかった……" ], [ "あの箱がくせものなんだ、電燈線に接いであったろう――、あれは電燈線を動力として簡単に超音波を発生する装置なんだよ", "超音波――?", "いかにも" ], [ "その超音波こそ、嗜眠性脳炎――俗称眠り病の原因なんだ", "ふーん", "眠り病の原因が物理的なもんだとは古今未曾有の大発見さ……、しかもこれを素早くスパイの奴が利用していたんだから恐ろしいね、東京全体を眠り殺すばかりか、君の話によると国境方面の警備隊にまでやっていたんだからね……、殺人光線が掛声ばかりで、空気中に導帯をつくる問題で行きなやんでいる際に、その恐るべき殺人音波、眠り音波が着々と猛威を振いはじめていたんだぜ", "ふーん、しかし、そんなことが出来るんかね、一向に音らしいものは聴こえなかったが……", "出来るかって現に被害者が続々と出ているじゃないか……、音がしなかったというが、しなかったんじゃないよ、ただ聴こえなかっただけなんだ、つまり人間の耳の可聴範囲外の、毎秒三四万振動ぐらいの超音波だったから人間にはなんにも聴こえない――。けれどもその超音波といっても色々あって、調節して人間の鼓膜には一向感じないけど、直接に頭蓋骨を透して脳髄に響く超音波も出来るわけだ。それを利用したんだ、君ね、一定の単調な音を聞いていると睡くなるような経験はないかい……、それさ、それと同時に、これは脳髄をしびれさすような力を持っている筈だ", "…………", "ただね、相手が音波だしそう強烈なもんじゃないから、先ず子供とか過労者なんかがやられたんだ、しかしこれとても持続してやられたら健康な青年でもたまらない訳さ、だいたい超音波なんてものは近代の、機械文明のせいだからね、電車、汽車、発動機、発電機――工場という工場では物凄い機械が廻っているし、そのなかには、喧しい騒音とともに、聴こえない超音波が、非常に発生しているわけだ、そしてそのなかのある波長のものが人間に眠り音波として作用するらしい――眠り病が、近代になって突然発生したという意味はこれでわかる、そしてこれを、×国の奴が、早くも大陰謀に悪用したんだ……", "なるほど……" ], [ "しかし、そんなことがよくわかったね?", "それは君、犬のお蔭だよ", "犬の?", "うん、昨日からの三つの例に、いつも犬がいた、そして、その時に限って犬が急に落着きがなくなったり騒いだりした、だから僕は、もう一度実験しようと思って二匹の犬を借してくれ、っていったんだけど、その前に今の騒ぎが起ったんで万事解決さ……", "どうして、ゲンたちにはわかるんです?" ], [ "つまりね、耳がいいんですよ、人間にはとても聴こえない毎秒八万振動ぐらいの音まで、犬には聴こえるんです、だからあの眠り音波が唸り出すと、五月蠅くって仕様がないんでしょう、それでそのたびにワンワン吠て怒るんです……僕達には、何んにも聴こえないのに犬が騒ぎ出す、というのから逆に考えて超音波を思いついたんですよ、だから都会生活というのは、犬にとっては人間以上に五月蠅いもんでしょうね", "まあ……" ] ]
底本:「火星の魔術師」国書刊行会    1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行 底本の親本:「百万の目撃者」越後屋書房    1942(昭和17)年発行 初出:「ユーモアクラブ」    1940(昭和15)年2月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2006年12月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002191", "作品名": "睡魔", "作品名読み": "すいま", "ソート用読み": "すいま", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「ユーモアクラブ」1940(昭和15)年2月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-01-16T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/card2191.html", "人物ID": "000325", "姓": "蘭", "名": "郁二郎", "姓読み": "らん", "名読み": "いくじろう", "姓読みソート用": "らん", "名読みソート用": "いくしろう", "姓ローマ字": "Ran", "名ローマ字": "Ikujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-09-02", "没年月日": "1944-01-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "火星の魔術師", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1993(平成5)年7月20日", "入力に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "底本の親本名1": "百万の目撃者", "底本の親本出版社名1": "越後屋書房", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2191_ruby_24731.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2191_25515.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "どれ……、又かしてもらうかな", "…………" ], [ "叔父さん――", "…………" ], [ "まあ、今迄デッキにいらしたの……、よく飛ばされなかったわね", "まったく……、えらいスピードですね、おまけにすーっと出たんで何時動き出したんかちっとも知らなかった" ], [ "――それにしても、一向エンジンの音がしませんね", "エンジン――?" ], [ "そんな旧式なもんつけてませんわ、これ電気船ですもん", "ははあ、するとやっぱり蓄電池かなんかで……" ], [ "蓄電池なんて、そんな重たい場ふさぎなもんなんて、使っていませんわ", "へえ――、するとどういう仕掛けで", "どういう仕掛けって、なんていったらいいかしら、無線で電力を受けて、それで動かしているのよ", "ははあ……", "つまりラジオのように放送されている電力を受けて、動かしているわけ", "……うまいことを考えたもんですね、しかしそんな『電力放送局』があるんですか", "あるわよ、あるから動いているんじゃなくて……", "……成るほど", "あなたの叔父様の発明よ", "あ、叔父、細川の叔父の――", "ええ……", "ど、どこにいます?", "あちらの機械室に……ご案内しましょうか?", "いや、あとでいいですよ――。僕は中野五郎という者で", "さっきお聞きしましたわね、ほっほほほ、私の名はもっと憶えいい名よ、小池慶子", "小池慶子――さん", "ええ、逆に読んでもコイケケイコ……、憶えいいでしょ、ほほほほほ" ], [ "どうして此処へ――", "うっかりしている間に船が動いてしまっていたんです……、それに、一寸慶子さんと話していたもんですから", "困るねえ……もう陸からは一千粁も離れているんだ。今更かえっている暇はない", "一千粁――? そ、そんなに……", "そうだよ、この船はお前たちの考えている飛行機よりずっと速いんだ、『音』と同じ位の速度が出るんだからね、一秒に三百四十米としても……もう三十分にもなるから九十一万四千米は来ている――" ], [ "こんな男が乗ったのを、なぜもっと早くいってくれないんです?", "……うっかりしてましたわ" ], [ "一体、何処へ行くんですか", "一体何処って、まあ、仕方がない、太平洋上のある島だよ、無論地図にもない島だ", "そんな島があるんですか", "現にあるんだ、勿論普通の航路からはずっと離れたとこにあるし、低い島だから余程そばに来てもなかなかわからない", "そこに十何年もいたんですか。何をしているんです", "……ある人の頼みで研究に従事しているんだ。秘密が洩れぬよう音信不通の約束でね……、こんどだって必要なものを買いに行ったんだがあのK海岸のように混雑している所の方が却て眼立たぬつもりでいたのに、お前がいたのは運のつきだった", "しかし、この船などから見ると相当大規模なことをしているようですが、一体誰が経営しているんです?", "名はいえないよ、言えばすぐわかるからね、つまりその人はアメリカからの帰りに、船が難破して、やっと助けられたものの頭が少し変になったといわれている大金持だよ。実は漂流しているうちにこの島を発見したのでわざと頭の調子が悪いように見せかけて内地を去り、我々のような者を集めてその島に一大科学国を造っているわけなんだ。その意味で震災は科学者が大量に姿を消すにはこの上もないチャンスだった。あの時に行方不明になったという者の大部分は、現在盛んに研究に従っているからね", "……まるで夢物語ですね", "ばかをいってはいかん。……尤もお前たちから見れば『夢物語』のようなことかも知れないがね。がこの船のようなスピードを出したものは他にあるまい。人類の達した最高の速度の中に、今お前はいるんだ。これほどハッキリした話はあるまい", "…………", "一秒間に三百四十米という音と同じ速さは、ほぼこの地球の自転の速さに匹敵する速さだ。だからもしこの船が地球の自転と反対の方向に駛ったら、永劫に夜というものを知らないでいることが出来る……、恐らく空気中では最高の速度だといっていいだろう", "すごいもんですね……それにしても一向に震動がないじゃありませんか、波なんか問題にしないんですか", "波? はっははは" ], [ "着水したんですね", "うん、島についたんだ", "どんな島です……" ], [ "まだ、ですね", "いや、そこだよ", "でも見渡すかぎりの海で……", "島は隠してあるのさ、俗物の近寄らんように", "島を隠してある?", "そうだよ、つまり蜃気楼、人工蜃気楼で一面の海のように見せかけてあるんだ", "ほう……", "これなんか一寸面白いと思うね。例えば敵機が大編隊で東京を空襲に来る。防禦の飛行機が舞上るが、とても全部撃墜というわけには行かない。半数位は薄暮の東京上空に侵入して毒ガス弾、爆弾を雨霰と撒きちらし、東京全市は大混乱の末、まったくの廃墟と化した――、と思うと、実はこれは人工蜃気楼で東京全市を太平洋に浮べてあっただけだから、敵は命がけで遠い所を爆弾を運んで、なんのことはない太平洋に爆弾を棄てに来たようなものであった……とはどうだ。面白い筋書じゃないか" ], [ "一寸、壮観でしょう……、私もはじめは、まるで私の影がそこら中にうろうろしているみたいに感じて、ずいぶんヘンだったんですけど……でも、馴れちまったわ。却ていい時もあるわよ、私が悪戯しても誰が誰だか解んなくなっちまうんですもん", "……しかし、よくもまあこんなにソックリな人をあつめたもんですねえ" ], [ "あーらいやだ", "やだわ、あたしたちが人造人間だなんて……", "少し面喰っているのよ、この人", "ねえ、慶子さんこの人なんていう名?", "教えてよ、いいじゃないの", "ちょっと、ハンサムじゃない?" ], [ "どうしたんだい、島に上る早々この騒ぎは……", "どうも、僕にもわからんのです" ], [ "残念ながらこの島でも、人造人間をあれほど精巧に造るまでにはいっていないよ。何しろあの人たちは本当の女性なんだからね……ただ整形外科の医学の方は人の顔の美醜を自由に造りかえる位にはいっている。顔の美醜といっても、眼は二つ鼻と口は一つというように造作にかわりはないんだ。要するにその造作の配置の問題だからね。その配置さえ適当にすれば醜女たちまち絶世の美女となるわけさ……といっても真逆シンコ細工のようにちょいちょいするわけには行かんから、勢いモデルが必要となる。そのモデルに撰ばれたのが、ここにいる慶子さんだ。だからソックリ同じ美女が、ずらりと出来上ってしまったのさ……", "なるほど――" ], [ "でも、いやあね、ぱったり道で会ったりすると、どきっとするわよ", "そうでしょうね、しかしそれ位は安い税金だ――", "まあ……" ], [ "なんです、この化け物屋敷のような部屋は……", "一口にはいい憎いが、とにかく物の大きさというものの疑問を研究している部屋だよ、つまり、兎なら兎、鼠なら鼠と、大体その大きさは一定しているだろう。いかに栄養をよくしても、犬のような蚤は出来ないし、又いかに不足な栄養でも目高ぐらいの鯛はいない――この研究は、ほぼ完成に近づいて、あのように牛ぐらいもある松虫や犬ころみたいな象が造れるようになった", "…………", "毒気を抜かれた恰好だね、ふふふふ" ], [ "ここは、最近だいぶ犠牲者を出した部屋だ――", "犠牲者――?" ], [ "月世界行のロケットだ、第二号目さ", "第二号目……というと?", "第一号は、失敗してしまったのさ。十分の一秒の計算違いをしたために、えらいことをしてしまった", "たった十分の一秒の違いですって?" ], [ "そうだよ、それがえらいことなのだ。大体月までの平均距離は三十八万粁ばかりある。それを一秒間に五百米のスピードでロケットを飛ばして行ったとすると約八日と二十一時間かかるんだ。一秒に五百米なんていうスピードは一寸想像も出来ない。ましてそれだけのスピードを持たすための初速度は実に物凄いもので、たかが市内電車の急発車でもひっくりかえるような人間は、ロケットが飛出した瞬間に床に叩きつけられて死んでしまう位がオチさ。しかしそれの予防法は出来た。……が、第一回のロケットの出発の際に十分の一秒、つまり計算上,の打ちどころを一桁だけ間違ったために、いざそのロケットが月に到着する時になって七千五百二十六万四千米ばかりも喰い違いが出来た。えらいことさ。第一回のロケットはそうした訳で、月の通ってしまったあとの、空ッぽのところに飛んで行ったんだ……", "……そして、どうなったんです", "……そして、肝腎の月に行きあたらなかったから、そのロケット日章島第一号は、今も果てしもない大宇宙を飛んでいるよ。闇黒の零下二百七十度の中を――。無論もう酸素も食糧も尽きただろうから十五人の地球人の死骸を乗せた棺桶となったロケットが飛びつづけている。真空の宇宙だから止まることはない。無限に運動をつづけているわけだ……つまり、一つの星となってしまったのさ" ], [ "え、なんですか……", "一寸、ここに寝てくれんか" ], [ "えっ、こ、ここへ?", "いやか", "いやですよ、何処も悪くないです", "今更いやじゃ困る。これを頼もうと思ったから、黙って連れて来てやったんだ……", "ど、どうするんですか", "どうもせんよ、一寸モデルになって貰えばいいんだ", "モデル――?" ], [ "あ、あなたも……", "ええ、到頭来てしまったの……" ] ]
底本:「火星の魔術師」国書刊行会    1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行 底本の親本:「百万の目撃者」越後屋書房    1942(昭和17)年発行 初出:「ユーモアクラブ」    1939(昭和14)年10月 入力:門田裕志 校正:川山隆 2006年12月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ふーん、輸入ものは駄目かね", "そうさ、当り前じゃねえか、このマスクメロンてものはな、時期が大切なんだ、蔓を切って船へ積んで、のこのこと海を渡ってくるようじゃほんとの味は時期外れさ" ], [ "なるほど、そういえばそうに違いない――、このメロンは年に何回位採れるんかね、一体", "他じゃ順ぐり順ぐりにやってもいいとこ三回だろう、俺んとこじゃ、まずその倍だよ……", "倍って、六回も採れるかね", "そうさ、もっと採れるようになる筈だ", "ほほお、何かそういう方法があるんかね", "他の奴等みたいに、ただ温室は暖めればいいと思っているんじゃせいぜい三回が関の山さ。それが猿真似だ、温室の湯をスチームがわりにする位、子供だってするだろうさ……ふっふっふっ、方法? 方法があるのさ" ], [ "それは、この建て方だ、温室の建て方だよ、他の奴みたいに空地がありさえすれば、構わず建てたのとは違うね、それからアンテナだ", "へえ、温室にアンテナがいるのかね、……なるほど、そういわれるとみんなついているようだ" ], [ "この温室は全部東西に縦に建っているんだ、その上アンテナを張ってある、というのは地球の磁力を利用しているんだよ。正確な測量で磁計の示す南北に、正しく直角の方向なんだ。尤も極の移動から来る誤差は、どうも仕様がない。それがハッキリ捉えることが出来たらもっと能率が挙るに相違ないんだが", "磁力が肥料になるとでもいうのかね", "というのは、磁力というものが鉄にのみ作用すると考えると同様な認識不足さ、それが一般の考えだろう――。君は『死人の北枕』というのを知っているかね。尤もこれは釈迦が死んだ時に北を枕にしていた、という伝説から来たものといわれているが、然し時々伝説という奴は真理をもっているもんだ。磁力線と並行の北枕というのが、理論上最も静かなる位置なんだからね。その磁力線を直角に截る方向に置き、それをアンテナと地中線を張って有効に捉えたとすれば、その僕の企てた増穫が不思議でもなんでもないじゃないか。事実が最高の理論だよ、それは総ての方面に応用されていいんだ。地球上に無駄に放射されているエネルギーを、誰がどんなに利用しようと一向差支えもないからね" ], [ "……まだ、発表するなどというところまでは行っていませんね。一つのデータとはいえるかも知れないが、時機尚早、というところでしょう。勿論アンテナと地中線ばかりではないので、それに附属した装置が、まだ未完成だ、というんですよ", "成程、それで、まだ発表出来ない、というんですね――" ], [ "いや、田舎者ですよ、ただ僕の、いわば趣味であんな恰好をさせているんですよ", "ほほお、驚きましたね、そんな芸当もするんですか、私はまたただの変人――" ], [ "どうです、ここは暑いから家へ行ってお茶でも――", "ええ、私だけは交際してくれるんですか", "皮肉ですね", "いやいや、そういう訳じゃないんです。交際を、お願いしているんです……" ], [ "遠藤さん、といいましたね、――その科学小説というものを愛読されているんですか。そして、どう思います?", "愛読、というわけでもないのですが、勿論きらいでもありません", "そのきらいでもない、というのは所謂科学小説の架空性を好まれる――というのではないですか。いいかえれば、僕は、科学小説とは架空小説と同義語だといえると思うのです。一種の空想小説だともいえると思うのです。ひどい言葉のようですけど、今迄のは、殆んどそういっていいと思うのですよ。例えば月世界旅行記、火星征服記、といったようなものはその興味あるテーマでしょう。然し又、その空想も『科学的にあり得ること、いつか為し得ること』という所が大切なのです。例えば永久動力などというのは、それが出来ない証明があるのですから、一寸科学小説とはいえませんね――おや、すると、矢ッ張り科学小説と空想小説とは違うかな……" ], [ "なるほど、そうですね、月世界旅行というのは面白い考えです――が、地球から出て、果して月にまで行けますかね。というのは地球から月までの距離を一とするとですね、地球の引力は月の引力の六倍だそうですから、その距離の六分の五まで行った時には、つまり月へもう六分の一だ、という所で、両方の引力が零になるわけで、宙ぶらりんになってしまうことはないですかね。寧ろ、その点に太陽か、さもなくば他の星の引力が働いているとしたら、折角、月に向って行ったのに、とんでもない宇宙旅行がはじまってしまうんじゃないですかね", "そんなことはないさ。地球から月へ向って行く慣性の方が大きいだろうから、月へ寧ろ激突するだろう――そんなことの興味よりも、僕は『大きさ』というものの方が、もっともっと深刻な興味があると思うね。大体ものの『大きさ』というのがすべて相対的のもので、絶対的ではないんだからね。人間が『仮り』に定めた尺度でもって、それと相対して僕が五尺三寸あるとか、あの木は四米の高さだとか、このタバコ盆は厚みが四分の一吋だとか、そう唱えているに過ぎないのだからね。例えば太陽の周りを地球や火星が廻っている、それは原子の周りをいくつかの電子が廻っているのとソックリ同じじゃないか。ただ大きさが違うというが、それならば、その大きさとは何か、となると、一体なんといったらいいのかね。――こう考えると、この太陽系を包含する宇宙も、それを一つの元素と見なしている超大世界があるのかも知れない。逆に、この我々の超顕微鏡下にある原子の、その周りを廻っている電子の一つに、我々と同じような生活を営んでいる『人間』がい、木があり、川があり地球と称しているかも知れない――要するに、大きさという絶対でないものの悪戯なのさ――" ], [ "ルミは、非常にあなたが好きらしいですよ――", "…………" ], [ "いえ、その――、そのお邪魔だと思って", "まあ、そんなことありませんわ。ぜひ毎日でも来て下さいません、どうせ退屈なのですから", "え、それはもう、私こそ退屈で閉口しているんですから――、これからちょいちょいお邪魔します" ], [ "ほんとに、是非来て下さい、僕は『変人』で話し相手がないんですから――", "綺麗なお友達が出来て、大変光栄です" ], [ "やあ、どうも大変お邪魔しまして……、又伺わせてもらいます――", "えっ――" ], [ "ああ、そうそう、こんど伺ったら、一度あなたの研究室を見せて頂きたいと思っていますよ", "そうですね、なアにたいした設備もないけれど、そのうち見て下さい" ], [ "どうしたのです、一体――", "…………" ], [ "いやあ、失礼しました。お騒がせして済みません、とんだ騒ぎをしてしまって……", "そんなことは一向に構いませんよ、だが、ひどい音をたてて倒れたようですが――", "そうです、丁度、電気が切れたのです", "えッ、電気が切れた?", "おや、まだ気づかれなかったんですか、ルミ、このルミは私が半生の苦心を払って、やっと造りあげた電気人間なんですよ――", "電気人間!", "そうです、私が命よりも大切にしている電気人間なんです" ], [ "この美しい皮膚、瞳、これが人造でしょうか?", "…………" ], [ "だから、彼女ルミを操縦するには、私が、頭の中で『立て』と思えば立ち、『右手を挙げ』と思えば、右手を挙げるのです。私は、命令を口に出す必要はない、ただ、頭の中で、命令を考えればいいのです", "ほう――" ], [ "ところが、このルミが、余り精巧であった為でしょう、あなたは、このルミに、人並み以上の好意を持たれたようです――", "…………" ], [ "そして、それ以上に不幸なことは、どうやらルミも亦、あなたに恋を感じているらしいのです", "えっ――" ] ]
底本:「怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像」ちくま文庫、筑摩書房    2003(平成5)年6月10日第1刷発行 初出:「科学ペン」    1938(昭和13)年9月号 ※「人造恋愛」を改題。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2006年11月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043436", "作品名": "脳波操縦士", "作品名読み": "のうはそうじゅうし", "ソート用読み": "のうはそうしゆうし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「科学ペン」1938(昭和13)年9月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-12-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/card43436.html", "人物ID": "000325", "姓": "蘭", "名": "郁二郎", "姓読み": "らん", "名読み": "いくじろう", "姓読みソート用": "らん", "名読みソート用": "いくしろう", "姓ローマ字": "Ran", "名ローマ字": "Ikujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-09-02", "没年月日": "1944-01-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年6月10日", "入力に使用した版1": "2003(平成5)年6月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2003(平成5)年6月10日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/43436_ruby_24869.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-11-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/43436_24883.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-11-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "河井さん――、といいましたね、いかがです、恋愛についての御意見はありませんか", "レン愛――?", "そうですよ、男女の――。お若いあなただ、豊富でしょうが", "いや、そんなもんありませんよ、ほんとに", "おやおや。そうですかなア……。でも、その恋愛の本質について、考えられたことがありませんか、――例えばですねえ、電気って奴は、陰と陽とがあって、お互いに吸引する。が、同性は反撥する――ネ、一寸、似てるじゃありませんか。一緒になるまでは障害物を乗越えて、火花を散らしてまでも、という大変な力を出しながら、さて放電してしまうと、淡々水の如く無に還るという――、面白いじゃありませんか" ], [ "先ず結果からいいますよ、あなたはビオ・サヴァルの法則っていうのを知っていますか――", "さあ――、一向に", "そうですか、それはこういう式です" ], [ "いや――。それはそうとさっきの式の中にですねKというのがあったようですが、それはどんなことを表わしているんですか", "はッははは、早速この式を利用しようというんですか――、なるほど、なるほど、はッははは、Kというのはね。或る係数ですよ、これは、その時の状態によって加減しなければならん数を表しているんです――、が、まアあの木美子だけはお止しなさい、木美子の場合にとっては、この係数が零なんですよ、だからこの式に零をかければ、結局全部が零になってしまって、一向に反応がない、ということになりますからネ", "しかし……" ], [ "うむ、なかなか観察が鋭い、君ならば或いはわしのいうことがわかってくれるかも知れんナ――どうじゃ、わしの研究室に来て見ないかね", "いや――、しかし……", "遠慮は無用。君はわしの人物試験にパスしたんじゃ……だからいうが、わしはこのバーの主人なんじゃよ" ], [ "なアに君、これは震災の時に出来た断層なんじゃよ、そこを一寸手入れしただけでネ……なかなか便利じゃ、第一他人に見られる心配はなし、実験用の電気はロハときとるからの", "ロハ――?", "ふッふッふ" ], [ "一体、何を研究されているんですか……", "電気じゃよ、しかもわしのは機械を相手とする電気ではなくて人間を対象とする、つまり恋愛電気学を完成しようと思っての", "ですけど……、どうも人間と電気とを一緒にするのがハッキリ飲込めないんですが……", "まあ、最初は無理ないさ。しかし君、以心伝心という現象を知っとるかね、つまりこちらの思うことが、言葉を使わずに、直接先方に伝えられる――この現象をなんといって説明するかね、一寸六ヶ敷いじゃろう。……これは電気学的に説明が出来るんじゃ、感応作用、相互誘導作用、じゃよ――、つまり考える、ということによって脳に一種の電流が生じる、これに感応して相手の脳髄に電流が誘起されるのが以心伝心という現象なんじゃ。しかしこれも感度のいい頭の奴と悪い奴があることは機械と同様、又同じ者でも空中状態によって相当なる差も出来るもんじゃがね", "すると、ものを考えるというと脳に電流が起るんですか", "そうじゃ、その電流が神経という導線を伝わって手や足に刺戟を与える、すると運動を起す、ということになるんじゃよ", "しかし……", "ウソだ、というのかね。よろしい、それならば君に、君の知っている実例を示して話そう――あの木美子を知っとるじゃろう", "一寸、見たきりで", "それでいい、木美子は元々左ききではなかった。それが、こんなことになったのはこういう事情があるんじゃ。木美子はわしの娘ではない、震災で両親を失った孤児じゃ、しかもその時たった二つか三つだった木美子は、可哀そうに潰れた家の下敷になって柔かい両腕を折られてしまったのじゃよ", "じゃ、あの、義手で……", "違う! 黙っとれ!――しかし幸いなことに命だけは助かって、わしが救い出し、丁度救護に当っていた外科の名手、畔柳博士に診てもらったが、残念なことには両腕とも運動神経がすっかり切れてしまっとる。これも一寸や二寸なら引っ張って継がせられようが、どういう非道い眼にあったもんか、滅茶滅茶に切れてしまっとるのじゃ、なんとかならんか――と思った時に、ふと考えついたのが、わしの研究をしておる電気学で、電線で神経の代用が出来ぬものか、と思いあたったのじゃ、そして電気をよく通すもの、しかし銅では体内で酸化したり腐食する惧れがあるというので、白金を髪の毛のように細かく打伸ばしてな、これを使って見た、ところがどうじゃ大成功なのじゃ、神経系統にいささかの障りもないばかりか、しかも流石は畔柳博士の執刀だけに、現在傷一つも皮膚に残っておらんからの――", "へーえ……では、左ききというのはどうしたわけなんですか、白金線を入れても、それはそれで神経が自然に、又伸びてきて接がったのじゃないですか", "ふふん、それは素人考えというもんじゃよ、瞭らかに現在も木美子の腕の運動神経は白金線が代用しとる証拠があるんじゃ、というのは畔柳博士が忙しさのあまり白金線を逆につけてしまったのじゃ、つまり普通の人間では脳の左半球から出る命令が体の右半分を、右半球の脳が左半身を司っていることは君も先刻承知じゃろう、それを、なんとしたことか腕の運動神経だけ右は右、左は左につけてしまったのじゃ、その結果、木美子は生れもつかぬ左ききになってしまった……、そればかりか、君、普通の者が歩く時は、右足を前に出す時、左手を振り、次に左足を出すと右手を振る、こうして平衡をとりながら歩行するじゃろう、ところが哀れにも木美子は右足を出すと同時に右手を振り、左足と左手を同時に出してしまうのじゃ、――それであのように、ぎこちない歩き方をするのじゃよ", "…………" ], [ "はッははは、いや、そう変な顔をしないでくれたまえ、金がかかるといってもこの鷲尾は、絶対に人の世話になろうとは思わんよ。僅かな私財は全部研究費に注ぎ込んで、今はたった一つしか残っておらんが、しかし素晴らしい名画をもっておるからの、これだけ手離せば、わしの研究の完成まで位、悠々と支えられる筈じゃ", "なんです、その名画というのは――" ], [ "ミケランジェロじゃがね", "え?", "ミケランジェロじゃよ――。そうじゃな、君はいきなりこの研究室で手伝って貰うより先ずこの画を売るのを心配して貰うとするかな……、ともかく一つ、まあ見てくれたまえ" ], [ "おお、木美子、あのミケランジェロを持って来ておくれ", "はい……" ], [ "なるほど、ミケランジェロか。――しかしどこかでこんな構図のものを……", "写真か何かで見た、っていうんじゃろう。その筈じゃよ、これはあの有名なシスティーン礼拝堂の大壁画『最後の審判』と同じなんじゃ。同じというより、これはその下絵か、又は特に頼まれての縮図じゃろうかね――いや、年代からいって、壁画を描いたあとで頼まれたものらしいナ", "ほう、よくそんな細かい年代がわかりますね", "わかるともさ――" ], [ "で、どの位に売りたいのですか", "そうじゃね、そう大してもいらんが研究費として十万位でどうかの", "十万――?" ], [ "鷲尾さん、折角ですが、この画はとてもそんなには売れませんよ", "そんなには売れん――? どの位じゃ?", "とても、その千分の一も六ヶ敷いでしょう……", "バカッ!" ], [ "な、なんという……ばかナ……、これが、に、偽物とでもいうのか", "……残念ながら……、そうです", "だ、だからいっとるのが解らんのか、ちゃんと日附まで這入っとるのが……", "だから、その日附があればこそ、偽物だというのですよ" ], [ "あの画はどうしました……", "あれはつい二三ヶ月前に夜店で買ったものなのよ。それが、頭が狂ってから、急に自分で日附など入れたりして珍重がっていられたの……、でも河井さん、あんな六ヶ敷しいこと言われたけど、ミケランジェロならあの日附より二十年も前の、一五六四年に死んでいたのじゃなくて……", "ああそうか、なるほどなるほど、いかにもそうでしたね、……そりゃ叔父さんのクセが伝染って六ヶ敷しく考えすぎたかナ……" ] ]
底本:「火星の魔術師」国書刊行会    1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行 底本の親本:「百万の目撃者」越後屋書房    1942(昭和17)年発行 初出:「奇譚」    1939(昭和14)年8月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。但し「あんな六ヶ敷しいこと」「クセが伝染《うつ》って六ヶ敷しく」は底本でも「ヶ」になっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2006年12月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002190", "作品名": "白金神経の少女", "作品名読み": "プラチナしんけいのしょうじょ", "ソート用読み": "ふらちなしんけいのしようしよ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「奇譚」1939(昭和14)年8月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-01-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/card2190.html", "人物ID": "000325", "姓": "蘭", "名": "郁二郎", "姓読み": "らん", "名読み": "いくじろう", "姓読みソート用": "らん", "名読みソート用": "いくしろう", "姓ローマ字": "Ran", "名ローマ字": "Ikujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-09-02", "没年月日": "1944-01-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "火星の魔術師", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1993(平成5)年7月20日", "入力に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "底本の親本名1": "百万の目撃者", "底本の親本出版社名1": "越後屋書房", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2190_ruby_24730.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2190_25517.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "僕だよ、寺田、寺田洵吉だ――", "あ、寺田君か、よく来た。今一寸、手がはなせないから上っていてくれたまえ――" ], [ "どうだい、素晴らしいだろう――これがあの浅草の小川鳥子なんだぜ。やっと承知させて裸のやつを今日撮って来たんだ", "小川……", "小川鳥子といえば、今売出しの踊子じゃないか……" ], [ "いやすぐは出来ないよ。僕には前から考えている一生一代の大願目があるんだ、それを撮ったら、展覧会をやろう……", "何んだい、それは", "一寸、今はいえないんだ……けれど、それを撮りたいばかりに、今迄君に手伝って貰ったようなもんだよ" ], [ "誰だい、君に女の友達が来ているとはしらなかった、……だけど、よく寝てるじゃないか", "はッ、はッ、はッ" ], [ "どうするって……、何時か君に話したろう、僕の一生一代の大願目の写真だ、題は『腐りゆくアダムとイヴ』っていうんだ、どうだ、ステキな題だろう……", "アダムとイヴ?", "腐りゆくアダムとイヴ、だ", "イヴはいいけれども、アダムはこれから見つけるのかい" ], [ "アダムはもう出来ているよ、アダムはずっと前から決ってるんだ。イヴが見つかるまで僕の手伝をして貰った人だよ……", "えッ" ], [ "ふ、ふ、もう顔色が変ってきたな。僕は浅草で逢った時から君の『甲種合格』の体に惚れていたんだ……どうだい気分は、さっきの水は味がヘンだったろう……", "水木、俺を殺すんだな" ] ]
底本:「火星の魔術師」国書刊行会    1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行 底本の親本:「夢鬼」古今荘    1936(昭和11)年発行 初出:「探偵文学」    1936(昭和11)年5月 入力:門田裕志 校正:川山隆 2006年12月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002189", "作品名": "魔像", "作品名読み": "まぞう", "ソート用読み": "まそう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「探偵文学」1936(昭和11)年5月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-01-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/card2189.html", "人物ID": "000325", "姓": "蘭", "名": "郁二郎", "姓読み": "らん", "名読み": "いくじろう", "姓読みソート用": "らん", "名読みソート用": "いくしろう", "姓ローマ字": "Ran", "名ローマ字": "Ikujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-09-02", "没年月日": "1944-01-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "火星の魔術師", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1993(平成5)年7月20日", "入力に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "底本の親本名1": "夢鬼", "底本の親本出版社名1": "古今荘", "底本の親本初版発行年1": "1936(昭和11)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2189_ruby_24729.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2189_25518.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ウン、たまには一杯やらなくちゃ……", "ちえッ、たまには、とはよくもいいやがった。明日があるんだ、大丈夫か", "ナーニ、少しはやらなくちゃ続かねエよ、いやなら止せよ", "いやじゃねエよ", "ハハハ、五月蠅えなア" ], [ "さあ、葉ちゃんの出番だよ", "あら、もうあたしなの、いそがしいわ", "いそいで、いそいで" ], [ "出番じゃねエか。愚図愚図してると、又ひどいぞ", "ウン" ], [ "ほんとに綺麗な森ね、黒ちゃんは森が好きなの。綺麗だから――", "ううん、森なんか嫌いだい。君の方が綺麗じゃないか", "まあ――" ], [ "黒ちゃんは穏和しいから好きよ。ゆうべだって……", "えッ。知ってんの――" ], [ "あんたが上っているのを見たから、直ぐ後から来たのよ", "なんか用――", "ウウン、用なんかないわ。……あんた変な人ね、あたしが嫌いなの。そんなら、なぜあんな事、したの", "違う、違うよ。俺ア葉ちゃんが好きなんだよ。――だけど、どうもどうもうまく喋べれないんだ……" ], [ "じゃどうして、寝たふりしてたの", "だって。あの虫みたいな(あらごめんなさい、みんなあんたの事をそういうのよ、隅で小さくなってるから……)だけどあたし好きになっちゃったわ、あんたが" ], [ "うん", "だからあたしいい事聞いたの。あんた本当に一生懸命やるつもりあって", "やるとも、葉ちゃんと一緒にやるのかい", "いいえ、一緒じゃないわ……けど、とっても六ヶ敷い芸なの、今は誰もしないわ、せんに源二郎爺さんが、若い時にやったきりですって、それが出来りゃ親方だって、大事にするわ", "うん", "ほんとに出来たら、二人でしましょうか、親方に頼んで……", "ああ、そうしよう、でなきゃつまんないや。でも、どんなことだい" ], [ "黒ちゃん、すごいわねエ、あんなに勇気があると思わなかった", "すごかないさ、葉ちゃん見てたの" ], [ "血が出てる? アッ、触っちゃ痛いよ", "…………" ], [ "痛いもんか", "だって、体が震えていたんだもの。舐めた方が早くなおるんだって、いったわ" ], [ "俺ア、葉ちゃんに訊きたい事があるんだ", "なによ", "何って。なぜ俺みたいに醜ないもんと、遊んでくれるんだい", "醜なかないじゃないの。あたしあんたが好きよ。穏和しいんだもん。義公みたいになまっ白い、それでいて威張っている奴なんか大嫌さ" ], [ "ほんとに負けないでね、あんたがここの立て役になったら、あたし嬉しいわ。……夫婦になってもいいわ", "夫婦に" ], [ "ははは。――お仙様という色男がいるのになア……", "まったくヨ", "テ、しょってやがる" ], [ "こんな事、聞いたぜ。黒公の奴がなア俺にいったよ。俺ア葉ちゃんと夫婦になるんだぜ、葉ちゃんが、そうしようといったんだ、って抜かしやがる。――面白くねエよ", "ほんとか。――まったく今の調子じゃ解らねエぞ……", "莫迦いえ!" ], [ "そんなことがあるもんか。俺、ちゃんと知ってるんだ。黒公の奴はちょいちょい葉ちゃんに撲られてんだぜ", "え、ほんとか……" ], [ "何いってたのよ、いま", "何って(変だなア)って独語いったのさ", "どうして変なの、何が――", "そういわれると、困るけど、一寸、不思議な事さ", "何さ一体、……まあいいわ、意地悪ねエ、あたしなんかにいいたくないんでしょう、いいわ、そんなら" ], [ "いうよ。いうよ。葉ちゃんにいえない事なんか、ないじゃないか……俺ア、葉ちゃんの顔を見るんだよ", "あたしの顔を?", "うん、それが、空を飛ぶ時なんだ、あのブランコでさ。まぼろしっていうんかしら", "まあ、あんな時。あたしなんか一生懸命で、なんにも考えることなんか出来ないわ", "そりゃ俺だって夢中さ。だけど眼の前に、ぽーっと浮ぶんだよ。だから、変だなア、っていったんだ", "へんなの。……あたしどんな顔していて? そんとき――" ], [ "そんなことをいったって、誰も呼びに来ないじゃないか、解りやしないよ――", "そんなこと、いまいったって駄目よ、ここにあんたが居るってのを知ってるのは、あたしぐらいなもんだわ――" ], [ "なんだ、じゃ葉ちゃんは、わざと俺に教えなかったのか……。ひどいなア", "そうでもないわ、まあいって御覧なさいよ" ], [ "親方。俺ア指輪をめっけたんです。あの空を飛ぶ時に……", "バカいえ。あんな高い所から下が見えるか", "でも、でも……" ], [ "ああ、ありましたか……やっぱり……", "あったよ。黒公、一体どこで見つけたんだ", "よかったなア……ですから、あの空を飛んだ時に……", "冗談いうな、もう憤らねエからいってみな千里眼じゃあるまいし……それにあんな高いところから下がハッキリ見えるもんか、おまけに、あそこからは、洗面所は陰になって、見えねエ筈だぜ……", "そ、そうですが……" ], [ "なぜだか知りませんが、とにかく見えたんだす。もやもやッとした中に、洗面所と指輪だけが……指輪のことばっかり考えていたからかも知れませんけど――", "まるで夢みてエな話じゃねエか、夢中になって考えていたから――というんだな", "ええそうなんです", "ふーん", "だもんで……" ], [ "だもんで、みつけたな、と思った途端に、舞台のことを忘れちまって、失敗しちゃったんです。……どうも済みません……決して悪気でやったんじゃないんです……", "あたりめエだ、悪気でやっても命がけだ……顔を洗う時に落したのかな……" ], [ "まア、今日のところはいいや……だが、これから女の夢なんか見やがって、落こちたら承知しねエぞ……", "エッ" ], [ "なアに、用?", "うん、ほんの少し", "じゃ一寸よ。又、直ぐ出なけりゃならないから……" ], [ "何さ、一体……呼んでおいてサ", "葉ちゃん……葉ちゃんは、やっぱり上手いね" ], [ "誰って、誰もいわないよ。俺が、只、そう思うんだ", "まア、いつあたしが、あんたを嫌いだといったの、そんなことないわ" ], [ "なんだ由坊か、おどかすない", "ほ、ほ、ほ、葉ちゃんじゃなくて、お気の毒ね" ], [ "何がお気の毒だい、そんな……", "やアだ、知ってるわよ。あんた葉ちゃんと喧嘩したんでしょう", "ウソ……", "嘘じゃないわよ、ちゃんと知ってるわ、あたし見たの。葉ちゃんたら変な人ね、あたし、すっかり同情しちゃったわ、あんたに", "こいつ奴……" ], [ "いいよ、由ちゃん。あり難う。なんでもないんだよ", "そお、じゃいいけど……" ], [ "黒ちゃん", "うん", "あのね、あんたね、悪いことはいわないわ、葉ちゃんなんか、忘れた方がいいわよ……", "なぜ――", "なぜって……", "そんなこと、いったって仕様がないじゃないか" ], [ "でも、でも、どうせあんたが不幸になりそうなんだもん", "へんなこと、いうじゃないか。どうせ俺ア不幸だよ、――由坊みたいに綺麗じゃないからな……", "まア黒ちゃん、ソンナこというもんじゃないわよ、あんた、あたしを疑ぐってんの、そんなに僻むもんじゃないわよ" ], [ "恐ろしいくせって……", "葉ちゃんたら、とても慘酷しいのよ、アンナ綺麗な顔してるくせに――、あんた気がつかないの" ], [ "葉ちゃん、シッカリやろうぜ", "ええ", "葉ちゃんに別れんの、つらいからなあ……", "まあ、何いってんのさ……一生懸命やって『入り』がなきゃあ、仕様がないじゃないの", "でも……", "そんなにくよくよすんなら、一そ、落こちて血鱠になっちゃいなさいよ……", "ふ、落ちて死ぬんなら独りじゃ、やだよ、葉ちゃんも一緒に引落しちゃう――", "まあ、――ふん、どうせそうでしょ" ], [ "先生、俺助かるでしょうか……", "大丈夫だとも、全く運がよかったんだよ、落ちたところが砂の上だったからね", "……", "どうしたい、痛いかね", "ううん、俺、死んだ方がよかったなあ、その方がサッパリすらあ……極東が解散しちゃ飯の喰上げで……" ], [ "ええ、だいぶいいです", "そうか、それはよかったな……いい具合だった", "いつ、退院できるですかね、……", "まだまだ。そうあわてては不可んよ。暢気にしていたまえ", "でも、でも俺にゃ金がないんで……", "はっははは、君、そう心配しなくていいよ、ここは施療院だから――", "施療院――?" ], [ "先生、どこか曲馬団を、ご存じでないかな", "ふん、なぜだね" ], [ "君、まだあの曲芸をするつもりなのかね、……その片足で――", "えッ" ], [ "黒ちゃん、どお――", "うん……", "でも、こんなに早くよくなって、よかったわねエ……", "うん", "……まだ気分が悪いの――", "ううん、もうすっかりいいんだ", "そう、よかったわね", "葉子ちゃんは――", "葉子ちゃん?" ], [ "葉ちゃんはね、解散するとすぐ義公と東京の叔父さんを頼って行くって行ったわ", "義公と――" ], [ "あら、どうしたの……", "ううん、一寸、痛かったんだ、足が……" ], [ "由っちゃん、済まなかったね、時々見舞いに来てくれたんだろう……何処へも行かないのかい", "あら、済まないなんて、やだわ。御見舞いに来んのあたりまえじゃないの……あたし、黒ちゃんが可哀そうだし、それに――" ], [ "知ってるわ……だから、一層同情しちゃったの……", "ふん、生いってらア", "いいの、いいのよ、あたし、あなたの気持が好きなの――顔なんか、跛足なんか――" ], [ "あら、そんな……不自由な体で――", "でも、俺にゃ、あの宙乗りの気持が忘れられないんだ。何も彼も忘れて飛びたい――", "でもね、……あなたにいうのは、却って逆だけれど、あの宙乗りは、ほんとの呼吸もんでしょう、ブランコと呼吸とがピッタリ合わなけりゃ危ないわよ", "そうさ――", "それが、それが、片足になったら、その呼吸が全然違うじゃないの――片足で振る時と、両足で勢いをつけるのとじゃ、まるで違うわ……恐らく、あの半分も飛べないわ", "ううん……" ], [ "そう興奮してはいかんね、どうした", "ああ、先生、先生、空を飛ぶ商売はないでしょうか、思い切り飛べるような、足がなくてもいいような――" ], [ "じゃ君、飛行機はどうだい。――といって君には操縦は出来まいしね……あ、そうそういいことがあるよ、この町から汽車で三ツ目の町に『柏木航空研究所』っていうのがあってね――時々飛行機の音が聞えるだろう――あそこでパラシューターを募集してるそうだよ、それならどうだい……", "パラシューター?……", "知らんのかい、そら、飛行機から落下傘で飛下りるのさ", "あっ! あれか、ありゃ素的だ……けど先生、もう満員じゃないかしら", "どうしてどうして、なかなか満員なんかならんよ、何しろ命がけの仕事だからね、あそこじゃ新型のパラシュートを研究しているんで、その実地試験をやらせるらしいね、それで募集しているらしいが、なんでも一回で十円くれるそうだよ", "十円! 十円もくれるんですか" ], [ "パラシューター", "パラシューター" ], [ "僕です。頼みます。是非お願いします", "駄目だよ、普通の人間でさえ、なかなか六ヶ敷いのに、君は片足じゃないか", "でも、パラシューターに足なんか要らないでしょう――、僕は、もと曲芸師だったんです、どんな六ヶ敷い曲芸でもやっていたんです――飛行機から飛下りる位なんでもありません……お願いします。是非お願いします、このパラシューター以外に、僕は生きて行かれないんです……" ], [ "どうでしたの……", "うん、すごいぜ、由っちゃん", "あら、そう――", "だって――、何んていうかな、とにかく、曲芸なんて、飛行機に比べたら、鼻くそみたいなもんだぜ、いいなあ、飛行機は……", "まあ、素敵でしょうねエ、あたしも乗ってみたいな――", "駄目さ、女なんて――", "あら、そんなのないわ、女だから駄目だなんて、ひどいわ、ひどいわ……" ], [ "由っちゃん、――なぜ俺なんかがすきなんだい、こんな怪物みたいな男が――。店にはもっと色男が一杯来るだろうに……", "何いってんのさ、ふん、店に来るような、色男ぶった生ッ白い奴なんか大嫌いだよ――上べはすましているくせに、考えてることはみんな同じさ、どうせあんなところに来る奴は色餓鬼ばかりさ、あさましいってのか、なんてのか……いやんなっちまう――" ], [ "そうか――じゃ女の子に好かれるには、わざと知らん顔をした方がいいんだね", "まア、そうね、だけど……ちょいちょいやったら承知しないわよ" ], [ "いらっしゃい、何を……", "あっ――", "あら――", "葉ちゃん!" ], [ "葉ちゃん、しばらくだったなア", "ほんとに……", "……あの、東京に行ったって聞いたけど……", "そうよ、一度東京に行くことは行ったの、だけど、尋ねる叔父が、なんのことはない、この町に帰ったっていうんで、又来たわけなのよ……", "ふーん、そうか……あの……あの、義公はどうしたんだい――", "義公? ああ、あいつ仕様がない奴さ、あんまり執拗いから東京でまいちゃったんさ――よく知ってんね、黒ちゃん" ], [ "葉ちゃん、葉ちゃん……逢いたかったなあ", "逢ったじゃないの", "うん、よかった、ほんとによかった――" ], [ "葉ちゃん、僕は、葉ちゃんを、ここに来る前に見付てたんだよ", "あら、いつ――", "さっきさ……ほら、前にいったことがあるだろう、あの空を飛ぶ時に見る夢さ、あれだよ。今日パラシュートで飛下りた時に、ふっと葉ちゃんの顔を見たんだぜ……", "まあ、そうなの――" ], [ "気味が悪いわね……", "気味悪くないさ……僕ア、僕アいつも葉ちゃんのことばっかり思ってたんだもん……", "まあ……、あたしそんなこという人、きらいよ――どして男ってそうなんだろうなア、義公もそんなことばかりいうから嫌いなっちゃって、さよならしちまったんだし", "義公が……" ], [ "どしたの、黒ちゃん", "うん、いや、どうもしないよ", "そお……", "ね、葉ちゃん、俺んところへ遊びに来ないか……", "そおね……" ], [ "一人でいんの……", "そうさ、勿論……", "あら、えらいわね、よく一人でやってけんのね……その中、行くわ", "ほんとだよ、きっとだよ、ね、……" ], [ "なんだ由公か……", "あら、すごい元気ね", "そうさ" ], [ "由っちゃん、きょうはね、葉ちゃんに逢ったんだよ……", "え、葉ちゃんに!", "うん、葉ちゃん、葉子だよ、俺と仲よしの――", "まあ、そうお、どこで……" ], [ "あのね、裏門のとこに、千鳥っていう『呑屋』があるだろ、あそこだよ", "ああ、あそこなの、どおりで。店に来るお客さんがそういってたわ、近頃あそこにとても綺麗なのが来たんだぜ――って、お蔭様で研究所の人たちは、みんなあっちへ行っちゃうのよ。きっと、葉ちゃんを張りに行くのね……", "ふーん" ], [ "ねえ、黒ちゃん、葉ちゃんと、あたしと、どっちが好きなの――", "うん", "ね、ねえ、どお……", "俺は、俺は……葉ちゃんも……", "ええ、どうせそうでしょ、あたしなんか、……", "いや、由っちゃん、由っちゃん、そういう訳じゃないんだよ……ね、ね……" ], [ "黒ちゃん、おたのしみね、……ほほほ、一人だよ、なんて可笑しくって……。由っちゃん、お久しぶり……せいぜいその不具の化物を可愛がってやってくださいね、あたしもね、退屈だから、一寸揶揄ってやろうと思って来たんだけど、先約があっちゃねエ……ごゆっくり――さよなら――", "あ、葉ちゃん!" ], [ "葉ちゃん――、毎日逢いながら、こう二人っきりで葉ちゃんと呼んだのは、ほんとに、何月ぶりだろう", "……", "そんなに嫌な顔をしなくても、いいだろう……そんなに俺が厭なんかい――", "……", "俺は、俺は、命がけで葉ちゃんのことを思っているんだよ……ね、ね、少しは察してくれてもいいじゃないか、ね", "……", "何んとか返事をしてくれてもいいじゃないか……、生ッ白い化粧品屋の伜に、また、逢いに行くのかい……", "ええまあ、まあ、何故それを――", "ふっふっふっ、驚ろいたろう――俺は何んでも知ってるんだよ", "そんなことないわよ、いま一寸、用があって来たのよ――" ], [ "葉ちゃん、もう一度でいい、その手を握らしてくれ、その円い胸を抱かせて……、それでいい、俺はそれで満足するんだ、ね……もう一度――", "何、いってんのさ、跛足のバカ……お前さんの顔は、化物そっくりだよ、ヘンだ、そんな顔でよくも図迂図迂しいことがいえたもんだね……せいぜい、由公でも抱いてるさ……" ] ]
底本:「火星の魔術師」国書刊行会    1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行 底本の親本:「夢鬼」古今荘    1936(昭和11)年発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:宮城高志 2010年7月31日作成 2011年1月19日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "いや、そう思うだけさ", "なんだ、行って見よう。――おやつきあたりだ、矢張り知ってるんじゃないか", "ふーん" ] ]
底本:「火星の魔術師」国書刊行会    1993(平成5)年7月20日初版第1刷発行 底本の親本:「夢鬼」古今荘    1936(昭和11)年発行 初出:「秋田魁新報夕刊」    1932(昭和7)年6月3、4、7~9日 入力:門田裕志 校正:川山隆 2006年12月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002188", "作品名": "歪んだ夢", "作品名読み": "ゆがんだゆめ", "ソート用読み": "ゆかんたゆめ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「秋田魁新報夕刊」1932(昭和7)年6月3、4、7~9日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-01-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/card2188.html", "人物ID": "000325", "姓": "蘭", "名": "郁二郎", "姓読み": "らん", "名読み": "いくじろう", "姓読みソート用": "らん", "名読みソート用": "いくしろう", "姓ローマ字": "Ran", "名ローマ字": "Ikujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-09-02", "没年月日": "1944-01-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "火星の魔術師", "底本出版社名1": "国書刊行会", "底本初版発行年1": "1993(平成5)年7月20日", "入力に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年7月20日初版第1刷", "底本の親本名1": "夢鬼", "底本の親本出版社名1": "古今荘", "底本の親本初版発行年1": "1936(昭和11)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2188_ruby_24733.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000325/files/2188_25519.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-12-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ええ。毎晩いたします。", "泳げるかね。", "大好きです。" ], [ "冬になるとお前さんどこへ行くかね。コッペンハアゲンだろうね。", "いいえ。ここにいます。", "ここにいるのだって。この別荘造りの下宿にかね。", "ええ。", "お前さんの外にも、冬になってあの家にいる人があるかね。", "わたくしの外には誰もいません。" ], [ "心持の好さそうな住まいだね。", "ええ。", "冬になってからは、誰が煮炊をするのだね。" ], [ "この土地の冬が好きだと云ったっけね。", "大好きです。", "冬の間に誰か尋ねて来るかね。" ], [ "冬になったら、この辺は早く暗くなるだろうね。", "三時半位です。", "早く寝るかね。" ], [ "誰の。", "わたくしのです。", "どう云う文句かね。" ], [ "その刑期を済ましたのかね。", "ええ。わたくしの約束した女房を附け廻していた船乗でした。", "そのお上さんになるはずの女はどうなったかね。" ], [ "それはよほど前の事かね。", "さよう。もう三十年程になります。" ] ]
底本:「於母影 冬の王 森鴎外全集12」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「森鴎外全集」岩波書店 初出:「帝国文学」    1912(明治45)年1月1日 入力:土屋隆 校正:小林繁雄 2005年10月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "045276", "作品名": "冬の王", "作品名読み": "ふゆのおう", "ソート用読み": "ふゆのおう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「帝国文学」1912(明治45)年1月1日", "分類番号": "NDC 943", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-10-29T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001196/card45276.html", "人物ID": "001196", "姓": "ランド", "名": "ハンス", "姓読み": "ランド", "名読み": "ハンス", "姓読みソート用": "らんと", "名読みソート用": "はんす", "姓ローマ字": "Land", "名ローマ字": "Hans", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1861", "没年月日": "不詳", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "於母影 冬の王 森鴎外全集12", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年3月21日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷", "底本の親本名1": "森鴎外全集", "底本の親本出版社名1": "岩波書店", "底本の親本初版発行年1": " ", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001196/files/45276_ruby_19722.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-10-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001196/files/45276_19777.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-10-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "われわれは最近思いもつかないことに出逢ったよ。ロンドンのまんなかに化け物屋敷を見つけたぜ", "ほんとうか。何が出る。……幽霊か", "さあ、たしかな返事はできないが、僕の知っているのはまずこれだけのことだ。六週間以前に、家内と僕とが二人連れで、家具付きのアパートメントをさがしに出て、ある閑静な町をとおると、窓に家具付き貸間という札が貼ってある家を見つけたのだ。場所もわれわれに適当であると思ったので、はいってみると部屋も気に入った。そこでまず一週間の約束で借りる約束をしたのだが……。三日目に立ちのいてしまった。誰がどう言ったって、家内はもうその家にいるのは忌だという。それも無理はないのだ", "君は何か見たのか" ], [ "あなたはそこの家で誰かをお尋ねなさるんですか", "むむ。貸家があるということを聞いたので……", "貸家ですか。そこはJさんが雇い婆さんに一週間一ポンドずつやって、窓の開け閉てをさせていたんですがね。もういけませんよ", "いけない。なぜだね", "その家は何かに祟られているんですよ。雇い婆さんは眼を大きくあいたままで、寝床のなかに死んでいたんです。世間の評判じゃあ、化け物に絞め殺されたんだと言いますが……", "ふむう。そのJさんというのは、この家の持ち主かね", "そうです", "どこに住んでいるね" ], [ "よろしゅうございます。あなたのご用の済むまでお貸し申しましょう。家賃などはどうでもかまいません。あの婆さんは宿なしの貧乏人で養育院にいたのを、わたしが引き取って来たのです。あの婆さんは子供の時にわたしの家族のある者と知り合いであったと言いますし、またその以前は都合がよくって、わたしの叔父からあの家を借りて住んでいたこともあるというので、それらの関係からわたしが引き取って番人に雇っておいたのですが、可哀そうに三週間前に死んでしまいました。あの婆さんは高等の教育もあり、気性もしっかりした女で、わたしが今まで連れて来た番人のうちで無事にあの家に踏みとどまっていたのは、あの女ばかりでした。それが今度死んで、しかも突然に死んだものですから、検視が来るなどという騒ぎになって、近所でもいろいろの忌な噂を立てます。したがって、そのかわりの番人を見つけるのも困難ですし、もちろん借り手もあるまいと思いますから、今後一年間はその人がすべての税金さえ納めてくれればいいという約束で、無代で誰にでも貸そうと考えているのです", "いったい、いつごろからそんな評判が立つようになったのです", "それは確かには申されませんが、もうよほど以前からのことです。唯今お話し申した婆さんが借りていた時、すなわち三十年前から四十年前のあいだだそうですが、すでにそのころから怪しいことがあったといいます。わたしが覚えてからでも、あの家に三日とつづけて住んでいた人はありません。その怪談はいろいろですから、いちいちにそのお話をすることは出来ませんし、また、そのお話をしてあなたに何かの予覚をあたえるよりも、あなた自身があの家へ入り込んで直接にご判断なさるほうがよろしかろうと思います。ただ、なにかしら見えるかもしれない、聞こえるかもしれないというお覚悟で、あなたがご随意に警戒をなさればよろしいのです", "あなたはあの家に、一夜を明かそうというような好奇心をお持ちになったことはありませんか", "一夜を明かしたことはありませんが、真っ昼間に三時間ほど、たった一人であの家のなかにいたことがあります。わたしの好奇心は満足されませんでしたが、その好奇心も消滅して、ふたたび経験を新たにする気も出なくなりました。と申したら、なぜ十分に探究しないかとおっしゃるかもしれませんが、それにはまた訳があるのです。そこで、あなたもこの一件について非常に興味を持ち、また、あなたの神経が非常に強いというのであれば格別、さもなければあの家で一夜を明かすということは、まあ、お考えになったほうがよろしくはないかと思います" ], [ "何か注意すべきようなことを、見も聞きもしなかったか", "なんだか変な音を聞きましたよ", "どんなことだ、どんなことだ", "わたくしのうしろをぱたぱた通るような跫音を聞きました。それから、わたくしの耳のそばで何かささやくような声が一度か二度……。そのほかには何事もありませんでした", "怖くなかったか", "ちっとも……" ], [ "あなたですか。そんなことをしたのは……", "わたしが……。何をしたというのだ", "でも、何かがわたくしをぶちました。肩のところを強くぶちました。ちょうどここの所を……", "わたしではない。しかし、おれたちの前には魔術師どもがいるからな。その手妻はまだ見つけ出さないが、あいつらがおれたちをおどかす前に、こっちがあいつらを取っつかまえてやるぞ" ], [ "さきにお話し申した通り、あの婆さんがわたしのほうの知り合いであるという以外、その若いときの経歴などについては、あまりよく知らないのです。しかしあなたのお話を伺って、おぼろげな追憶を呼び起こすようにもなりましたから、わたしは更に聞き合わせて、その結果をご報告しましょう。それにしても、ここに一人の犯罪者または犯罪の犠牲者があって、その霊魂が犯罪の行なわれた場所へ再び立ち戻って来るという、世間一般の迷信を承認するとしても、あの婆さんの死ぬ前からあの家に不思議の物が見えたり、不思議な音が聞こえたりしたのはどういうわけでしょうか。……あなたは笑っていられるが、それにはどういうご意見がありますか", "もし、われわれがこの秘密の底深くまで進んで行ったら、生きている人間の働いていることを発見するだろうと思われます", "え、なんとおっしゃる。では、あなたはすべてのことが詐欺だと言われるのですか。どうしてそんなことが分かりました", "いや、詐欺というのとは違います。たとえば、わたしが突然に深い睡眠状態におちいって――それはあなたが揺り起こすことの出来ないような深い睡眠状態におちいったとして、その時わたしは眼ざめた後に訴えることの出来ないほど正確に、あなたの問いに答えることが出来ます。すなわちあなたのポケットにはいくらの金を持っているとか、あなたは何を考えているとか……そういうたぐいのことは詐欺というべきではなく、むしろ無理にしいられた一種の超自然的の作用ともいうべきものです。わたしは自分の知らないあいだに、遠方からある人間に催眠術をほどこされて、その交感関係に支配されていたのだと思うのです", "かりに催眠術師が生きた人間に対してそういう感応をあたえ得るとしても、生きていないもの……すなわち椅子やドアのような物に対して、それを動かしたり、あけたりしめたりすることが出来るでしょうか" ], [ "強烈なる獣性の創造力がそれらの動物を殺すほどの影響をあたえるのですが、人間は他の動物よりも更に強い抵抗力を持っているのです。まずそれはそれとして、あなたは私の理論をご諒解になりましたか", "まず大抵は……。失礼ながらお蔭さまで、多少の手がかりを得ました。われわれが子供部屋にいるときから沁みこんでいる幽霊や化け物に対する概念を、ただそのままに受け入れるよりも、むしろあなたのお説に従うべきでしょう。しかし議論は議論として、わたしの貸家に悪いことのあるのはどうにもなりません。そこで一体あの家をどうしたらいいでしょうか", "こうしたらどうです。わたしの泊まった寝室のドアと直角になっている、家具のない小さい部屋が怪しいように思われます。あの部屋があの家に祟りをなす一種の感動力の出発点か、または置き所だと認められますから、私はぜひあなたにお勧め申して、あすこの壁を取りのけ、あすこの床をはずしたいのです。そうでなければ、あの部屋をみな取り毀してしまうのです。あの部屋は建物の総体から離れて、小さい裏庭の上に作られているのですから、あれを動かしたところで、建物の他の部分にはなんにも差支えはありますまい", "そこで、わたしがその通りにしましたらば……", "まず電信線を切りはずすのです。それをやってご覧なさい。もしその作業の指揮をわたしに任せて下さるなら、わたしがその工事費の半額を支払います", "いや、それは私がみな負担します。その余のことは、書面で申し上げましょう" ] ]
底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社    1987(昭和62)年9月4日初版発行    2002(平成14)年6月20日新装版初版発行 入力:門田裕志、小林繁雄 校正:大久保ゆう 2004年9月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042306", "作品名": "世界怪談名作集", "作品名読み": "せかいかいだんめいさくしゅう", "ソート用読み": "せかいかいたんめいさくしゆう", "副題": "02 貸家", "副題読み": "02 かしや", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 933 908", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-10-24T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001089/card42306.html", "人物ID": "001089", "姓": "リットン", "名": "エドワード・ジョージ・アール・ブルワー", "姓読み": "リットン", "名読み": "エドワード・ジョージ・アール・ブルワー", "姓読みソート用": "りつとん", "名読みソート用": "えとわあとしよおしああるふるわあ", "姓ローマ字": "Lytton", "名ローマ字": "Edward George Earle Bulwer", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1803-05-25", "没年月日": "1873-01-18", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "世界怪談名作集 上", "底本出版社名1": "河出文庫、河出書房新社", "底本初版発行年1": "1987(昭和62)年9月4日", "入力に使用した版1": "2002(平成14)年6月20日新装版初版", "校正に使用した版1": "2002(平成14)年6月20日新装版初版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "小林繁雄、門田裕志", "校正者": "大久保ゆう", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001089/files/42306_ruby_16495.zip", "テキストファイル最終更新日": "2004-09-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001089/files/42306_16643.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-09-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "幸よくお歸りなさい。侯爵。――", "マリア樣があなたをお護りになるやうに。" ] ]
底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房    1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行 初出:「高原 第一輯」    1946(昭和21)年8月1日刊 ※初出時の表題は「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」、「堀辰雄小品集・薔薇」角川書店(1951(昭和26)年6月15日)収録時「旗手クリストフ・リルケ抄」と改題。実際は「抄」ではなく全訳。 入力:tatsuki 校正:岡村和彦 2013年4月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047903", "作品名": "旗手クリストフ・リルケ抄", "作品名読み": "きしゅクリストフ・リルケしょう", "ソート用読み": "きしゆくりすとふりるけしよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「高原 第一輯」1946(昭和21)年8月1日", "分類番号": "NDC 941", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-05-18T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000075/card47903.html", "人物ID": "000075", "姓": "リルケ", "名": "ライネル・マリア", "姓読み": "リルケ", "名読み": "ライネル・マリア", "姓読みソート用": "りるけ", "名読みソート用": "らいねるまりあ", "姓ローマ字": "Rilke", "名ローマ字": "Rainer Maria", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-12-04", "没年月日": "1926-12-29", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "堀辰雄作品集第五卷", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1982(昭和57)年9月30日", "入力に使用した版1": "1982(昭和57)年9月30日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1982(昭和57)年9月30日初版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000075/files/47903_ruby_50135.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-04-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000075/files/47903_50594.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-04-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "奥さん。あなたもやはりあちらへ、ニッツアへ御旅行ですか。", "いいえ。わたくしは国へ帰りますの。", "まだ三月ではありませんか。独逸はまだひどく寒いのです。今時分お帰りなさるようでは、あなたは御保養にいらっしゃったのではございませんね。", "いいえ。わたくしも病気なのでございます。" ] ]
底本:「於母影 冬の王 森鴎外全集12」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 入力:門田裕志 校正:米田 2010年8月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050920", "作品名": "白", "作品名読み": "しろ", "ソート用読み": "しろ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 943", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-09-01T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000075/card50920.html", "人物ID": "000075", "姓": "リルケ", "名": "ライネル・マリア", "姓読み": "リルケ", "名読み": "ライネル・マリア", "姓読みソート用": "りるけ", "名読みソート用": "らいねるまりあ", "姓ローマ字": "Rilke", "名ローマ字": "Rainer Maria", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-12-04", "没年月日": "1926-12-29", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "於母影 冬の王 森鴎外全集12", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年3月21日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年3月21日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "米田", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000075/files/50920_ruby_39171.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-08-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000075/files/50920_40145.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-08-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "しかし、お前がこの女の情夫であったということを、大勢の証人が申立てているではないか", "証人の申立はみな違っています。まったく知らない女です" ], [ "身に覚えのないことは、自白の仕様がありません", "もう一度注意するが、強情を張ると利益にならんぞ。多分激昂して発作的に殺したんだろう。この屍体を御覧。この惨たらしい死態を見て気の毒とは思わんか。後悔もしないか", "自分で殺しもしないのに、どうして後悔が出来ましょう。そりゃ私だって感情というものがありますから、死者を可憫そうだとは思います。しかしその憫むという感情も、此室へ入ればこんなものを見せられると予期したために、よほど薄らいで大方貴方と同じぐらいの程度になっています。これ以上に感動しろというのは無理なことで、もし感動しないのが悪いと仰しゃるなら、この光景を平気で見ておられる貴方を、反対に私が告発して差支ないという理窟になるではありませんか" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「新青年」    1923(大正12)年1月増刊号 ※「締めつけ」と「絞めつけ」の混在は、底本通りです。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2021年9月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059609", "作品名": "青蠅", "作品名読み": "あおばえ", "ソート用読み": "あおはえ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」1923(大正12)年1月増刊号", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-10-05T00:00:00", "最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59609.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59609_ruby_74165.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59609_74202.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "誰に聞いたのでもありません。自分の眼で見ているのです", "それは不思議だ。あんなに高い所から……あの危険な芸をやっていながら……きみは観客の顔を見わける余裕があるかね", "そんな余裕があるもんですか。わたしは下の方の観客席なんかてんで見やしません。しょっちゅう動いたりしゃべったりしている観客に少しでも気を散らしたら、非常な危険ですからね。だがわたしどもの職業では、技芸や、理屈や、熟練のほかに、もっともっと大切なことがあります……いわばトリックのようなもんですがね……", "えっ、トリックがあるかね" ] ]
底本:「フランス怪談集」河出文庫、河出書房新社    1989(平成元)年11月4日初版発行 入力:山田芳美 校正:しず 2001年8月13日公開 2006年1月3日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "起ちなさい、もう泣かんでもいい。おれにも欠点があったんだからな", "いいえ、貴郎、飛んでもない……" ], [ "貴郎は何てやさしい方でしょうね", "おれは公平だよ" ], [ "お前はこれから何うするんだい", "わかりません。わたし大変疲れていますから、四、五日ゆっくり休みたいんです。それから勤めに出ます。また売り子か、衣裳屋の生模型の口でも探しますわ", "お前は相変らず美くしいだろうな" ], [ "遁げるもんですか。ここに、じっとしているわ", "そうかい、そんならもっと此方へお寄り。顔が見られない代り、せめてお前の手に触ってみたいな。もう一度そのふっくりした手に触らせてくれないか。極まりがわるいけれどお願いだ。一寸でいいから手を握らせてくれ。盲というものはな、触っただけでも、奇態にさまざまな思い出がかえって来るものだよ" ], [ "おお、可愛い手だ。ふるえなくてもいいよ。嬉しい仲であった時分のことを思い出させてくれ。おや、おれの与った指環をはめていないね。どうしたんだい。おれは取りかえした覚えはないが。お前も『これはわたし達の結婚指環にしましょう』って云っていたではないか。何故脱ったの", "だって、極まりがわるいんですもの", "いいから箝めていなさい。ね、きっと左様すると誓ってくれ", "では、左様しますわ" ], [ "ああ懐かしい匂いがするね。おれはもう一度この匂いが嗅ぎたさに、お前の使いつけの香水を買ってみたが、どうもしっくりしなかった。お前がつけると、髪や肌の匂いと調和するからいいんだね。もっと此方へお寄り。今帰って行くと二度と来てはくれまいから、せめて匂いだけでもたんのうさせておくれ。お前はふるえているね。この顔がそんなに怖いのか", "わたし、寒いのよ", "なるほど、薄着だな。外套も着て来なかったようだね。もう十一月だよ……外は曇って、じめじめして、寒いだろう。大層ふるえているね……おれ達の旧の家は暖かくて、気持がよかったな。お前も思いだすだろう。あの時分は、抱きよせるとお前は恍惚とおれの肩へ顔をかくしたりしたもんだが、今じゃおれに抱かれたがる女なんか一人だってありはしない。もっと傍へお寄り。そっちの手も握らせてくれないか。左様左様。ところで、お前はおれが会いたいという言伝を弁護士から聞いたときに、どう思ったの", "来なければならないと思いました", "そんなら、まだおれを愛していてくれるんだね", "それは愛していますわ" ], [ "帰りたいか。お待ち、お前はまだ沁々おれの顔を見ないだろうが、ようく見て御覧……唇を貸して……もっと思いきって前へ出せよ……どうだ怖かアないか", "おお苦しい" ], [ "そうじゃあるまい、怖いんだろう", "おお苦しい、苦しい" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「新青年」    1926(大正15)年9月号 ※初出時の表題は「闇」です。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2021年12月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "もう十時だよ、寝ようじゃないか", "ええ" ], [ "お前の寝室へ行っていいだろう", "駄目よ、今夜は" ], [ "この人、何でもありませんわ", "ははア、そんなことでわしが欺せると思うか" ], [ "この男が入って来たことを、家の者は知るまいな", "誰も知りません、猟犬があんなに騒いでいるものですから", "それにしても、此奴何でこんな時刻にやって来たんだろう", "不思議でございますね。だけど、何じゃないでしょうか、急に気分が悪くなったものだから、この人は独りぽっちで、不安になって、助けて貰うために来たのではないでしょうか。今に気分が癒って物が云えるようになったら、自分で説明するでしょう", "多分お前のいう通りだろう。が、その話はこの男の口からはもう聞けないんだよ。此奴死んでしまったからな" ], [ "そ、そんなことがあるものですか、この人が", "いや、死んでいる" ], [ "さアお前が先きに立て", "貴郎、どうなさるの", "心配せんでもいい。先きへ行ってくれ" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「新青年」    1923(大正12)年3月号 ※初出時の表題は「暴風雨《あらし》の夜」です。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2021年10月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059612", "作品名": "犬舎", "作品名読み": "いぬごや", "ソート用読み": "いぬこや", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」1923(大正12)年3月号", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-11-07T00:00:00", "最終更新日": "2021-10-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59612.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59612_ruby_74371.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-10-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59612_74409.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-10-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "いや些しばかりでお気の毒だな", "恐れ入ります、旦那さま。お寒いのに、わざわざお手をお出しなすって……お難有うございます。こんな日は、私のような病人はまことに難渋いたします。その苦しみというものは、とてもとてもお話しになったものじゃござんせん" ], [ "お前は生れつき眼が見えないのか", "いいえ、齢を老りしだいに悪くなりましたので、お医者は老齢のせいだといいます。白内障とかいう眼だそうでございます。けれど、老齢のせいばかりではございません……あまり度々不幸な目に遭ってあまり酷く泣かされたせいでございます", "じゃ、随分不幸つづきだったんだね", "はい、旦那さま、一年のうちに女房と、娘と、男の子を二人死られました。こうして私を愛してくれるべき可愛い者達にすっかり先死たれ、おまけに大病に取憑かれて、すんでのことに彼世へ行くところでございました。幸い癒りはしましたもののもう体が弱って仕事が出来ませんので、年中貧乏で不自由をしております。何日も物を食べずに暮らすことが珍らしくありません。昨日少しばかりの麺麭屑を、この犬と二人で頒けて食べてから、まだ何も口に入れませぬ。今旦那さまに戴いたこのお銭で、今晩と明日の食べものを求める積りでございます。ハイ" ], [ "来いよ、わしと一緒に。此処はあんまり寒いから、そこいらへ行って何か御馳走しよう", "それはそれは、旦那さま、どうも恐れ入ります" ], [ "ねえさん、何程", "四十四銭頂きます" ], [ "お前はこれから遠方へ帰るのか", "ここは一体何処でございましょう", "サン・ラザール停車場の近所だよ", "では、可成り遠うございますな。私は河向うの或る小舎に寝泊りしておりますので", "そんなら途中まで送ってあげよう", "難有うござります。御親切に、どうも難有うござります", "いや、いや、そんなに礼をいうほどのことでもないさ" ], [ "ここまで来ればもう一人で帰れます。犬がついていますから大丈夫です", "そうかい。では、気をつけて行けよ" ], [ "お難有うござります、旦那さま。どうぞ御姓名を伺わせて下さい、貴方さまの御幸福をお祷りするために", "名乗るほどのこともないさ。寒いから早くお帰り。わしこそお蔭で大変いい心持になったよ。左様なら" ], [ "身投げだ。救けろ", "橋からじゃ駄目だ", "河岸へ行け、早く早く" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「新青年」    1925(大正14)年1月増刊号 ※初出時の表題は「雪降る夜」です。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2020年3月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "少し息をつかせておやりよ。これじゃ荷が重過ぎらア", "重いことがあるもんか。此馬意久地がねえんだ。我がままをさせると癖になるから駄目だよ。さあ畜生、しっかりしろ!……大将、石を一つ拾って来てくれ。車が退らからねえように止め石に使うんだ。そして斜かけに登らせよう" ], [ "開けてくれ", "帰れ帰れ", "うんにゃ、開けてくれ" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「新青年」    1923(大正12)年8月号 ※「呶鳴」と「怒鳴」の混在は、底本通りです。 ※初出時の表題は「夜の荷馬車」です。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2020年9月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "お二人の御席でございますか", "いや、僕は一人だ", "では、どうぞ此方へ" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2021年11月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059613", "作品名": "孤独", "作品名読み": "こどく", "ソート用読み": "ことく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「夜鳥」春陽堂、1928(昭和3)年6月23日", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-12-08T00:00:00", "最終更新日": "2021-11-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59613.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59613_ruby_74568.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-11-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59613_74605.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-11-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "私は、この話を自分と共に葬ってしまいたくはありません。どうぞ貴方から法官諸君に伝えて下さい。そうすると、裁判官というものは法によって公平に審かねばならぬもので、何でもかでも人を処罰する目的で法廷へ出るものではないという教訓にもなりましょう。なお、検事たる者が求刑をする際には、こうした誤審の恐ろしさをも考えて貰いたいのです", "きっとお望みどおりに伝えます" ], [ "もう一つのお願いは、私の財産――不幸な人達に分けきれなかった金が幾らかその抽斗の中に残っています。私が死んだあとで彼等に施して下さい。私の名前を出さずに、今から三十年前に私の誤審によって死刑になった男の名――ラナイユという名によって施して下さい", "え、ラナイユですって? それは私が弁護した被告ではありませんか。私はその時分弁護士だったので" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「新青年」    1924(大正13)年8月増刊号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※初出時の表題は「或る検事の告白」です。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2020年10月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059492", "作品名": "自責", "作品名読み": "じせき", "ソート用読み": "しせき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」1924(大正13)年8月増刊号", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-11-25T00:00:00", "最終更新日": "2020-10-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59492.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59492_ruby_72092.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-10-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59492_72133.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-10-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "息子さんから暫く音信がないんでしょう", "ちょいちょい手紙をくれますよ……今朝もね、お前さん……" ], [ "ねえ、変じゃありませんか。ほんとうに途方もないことだ", "まったく変ね、同じ聯隊に同じ姓名の兵卒が二人いるなんて" ], [ "倅はどうなるでしょうか。先生のお力で死刑だけは免れるように、どうぞお助けをねがいます", "お気の毒だが、死刑らしいね。尤も何か酌量されるような情状でもあれば、助からぬとも限らんが", "情状って云いますと、そりゃ何ういうことでございましょう", "それは判事の眼から見て、罪が軽くなるような事情をいうのさ。例えば、或る男が他人の金品を盗んだとする。しかしそれが、貧乏でわが子が饑死するというような場合であったとすれば、裁判官もその事情を酌んで幾らか罪を軽くする。それを情状酌量というのだよ。だが今度の事件ではそうした事情もなし、おまけに初犯でもない。前にも一度窃盗をやったことがある。尤も当人は、前のは自分の仕事でないといっているがな。ああ、いいともいいとも、出来るだけの尽力はしてあげるよ" ], [ "はい", "お前は被告の素行上の欠点について、何か気づいたことはないか", "何もございません", "被告はこれまでに、朋輩から何か悪い感化をうけたというようなことはないか", "悪い友達など一人もございません。この子の死んだ父親というのは、誰からでも好かれ、また敬まわれておりまして、至って厳格な人でございましたから、なかなかこの子が悪い友達をこしらえるどころではございませぬ。また、わたしとしても、悪いことは黙って見ていられない性分でございまして、子供の躾は、それは八釜しくいたしたつもりでございます", "うむ……左もあろう左もあろう……" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「新青年」    1923(大正12)年8月号 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2021年12月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059616", "作品名": "情状酌量", "作品名読み": "じょうじょうしゃくりょう", "ソート用読み": "しようしようしやくりよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」1923(大正12)年8月号", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2022-01-12T00:00:00", "最終更新日": "2021-12-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59616.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59616_ruby_74764.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-12-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59616_74798.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-12-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "……僕はどうも生れつき異常なんです。子供の時から自分は友達と異っているということに気がついていました。時々突然に家を飛びだしてどこかに隠れて独りぼっちになろうとしました。そうかと思うと目茶苦茶に友達が欲しくなりました。そんなふうに興奮するとまるで夢中でした。時としては、何という理由もなく、急に癇癪が起りましてね……そんなときには大抵海岸か山の方へ転地しましたが、ちっとも効果がありませんでした。それは子供の時分のことですが、この頃はまた、すこしの音響にも驚愕するくせが付き、そして明るい光線を見るのが非常な苦痛です。体は至って壮健ですが、全体に痛みを覚えます。二三の医師に診せましたが、みんなどこにも故障がないという診断です。それから夜もいけません。朝に眼が醒めたときは、徹宵放蕩でもしたように体がぐだぐだに疲れています。時々これぞという原因もなしに、しきりに懊悩煩悶しまして、頭がぐらぐらします。それに睡眠ができないので困ります。たまに眠ったかと思うと夢魔されるので……", "酒は飲りますか?", "僕は酒は大嫌いで、アルコールのにおいも厭です。僕の飲みものといえば、まず水だけですね。ところで、もう一つ一番いけないことをお話しするのを忘れていました……これには自分でも閉口していますが……どんな些末んことでも他人から反対されると、口に出して言われる場合は無論のこと、目付なり、仕草なり、その他どんな微かな仕方ででも、自分の意に逆らったことをされると、嚇怒となるのです。だから僕は決して武器などを携帯しないように気をつけています。自分を制しきれなくなってそんな武器を振り廻しちゃ大変ですからね、そんなときには僕の意思というものが留守になっています。他の人格が僕の頭に入って来て、僕を追い使うので、まったく正気じゃないんです、だから正気にかえったときは。自分が何をやったかまるっきり記憶がありません……、だが不思議じゃありませんか、自分は人殺しをやりたかったんだということだけは、きっと頭に残っています。こうした発作が家にいるときに起ると、いきなり自分の部屋に引籠るから安全ですが、これまでも度々あったように、ひょっと戸外で起りますと、どこをどう歩いて、どんなことをやるんですか、夜半になって見も知らぬ場所の共同椅子の上などで目が醒めるまでは、一向に気がつかないんです。そんなときは、もしや夢中で何か罪をやったんじゃないか、と思うと急に恐ろしくなって、飛ぶように家に帰って閉じ籠りますが、早鐘を打つように動悸がして、心が怖々してちっとも落着くということができません。それでも四五日何事もなく経過すると、やっと解放されたような気がしてほっと安心します。こんな状態ですから、先生、どうも放抛っておけないんです。僕は今に健康を損すばかりでなく、頭も狂いそうです。……一体どうしたらいいでしょう?" ], [ "僕はありのままに申し上げたのです", "何か他に事情がありましょう。あなたは御兄姉はおありですか? ……無い……お母さんは御在命ですか? ……そうですか……お母さんは神経質なお方でしょう? ……そうじゃないって……そんならお父さんは、やはり御健全ですか?" ], [ "夭折の方でしたか?", "ええ、僕がやっと二歳になった年に死んだそうです" ] ]
底本:「幻影城 9月号(第2巻・第10号)」幻影城    1976(昭和51)年9月1日発行 底本の親本:「新青年」    1923(大正12)年1月増刊号 初出:「新青年」    1923(大正12)年1月増刊号 入力:sogo 校正:ノワール 2019年4月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056149", "作品名": "誰?", "作品名読み": "だれ?", "ソート用読み": "たれ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」1923(大正12)年1月増刊号", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2019-05-25T00:00:00", "最終更新日": "2022-10-09T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card56149.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "幻影城 9月号(第2巻・第10号)", "底本出版社名1": "幻影城", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年9月1日", "入力に使用した版1": "1976(昭和51)年9月1日", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年9月1日", "底本の親本名1": "新青年", "底本の親本出版社名1": " ", "底本の親本初版発行年1": "1923(大正12)年1月増刊号", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "ノワール", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/56149_ruby_67985.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-04-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/56149_68028.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-04-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "裁縫は出来るの", "少しばかり致します", "煮焚も出来るね", "はい、マダム", "毎日、朝六時からここへ来て、家の雑用と食事の仕度をしてもらいます。給金は葡萄酒代も入れて一ト月四十フランだがね、それでいいの", "それはもう結構でございますが……ただ……" ], [ "困ったね。その子、幾歳なの", "生れて三月でございます", "三月の赤ん坊を此家へつれて来るって? 駄目よ、旦那さまはきっと可けないと仰しゃるわ、心配が大変だからね。怪我でもあったらどうするの。ひょっとして猫に喰いつかれるとか、それにまだ乳呑児なんだからね、大きな声を出したり、泣いたり……いいえ、駄目です。近所にでも託けたらどうだね", "そう仰しゃらずに、マダム……", "お気の毒だがね、此家は駄目よ" ], [ "子供のことでお願いにまいりました", "託けるんだね? よろしい、その子をこっちへお出し" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2021年12月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "シャプーの家では、あの老ぼれの牝鶏を皆んな片づけたって、真実かね? それからリゾアの家では、乳酪がすっかり溶けてしまったっていうじゃないの", "そんなことをおれが知るもんか" ], [ "それはそうと、お前さん、仕事の方はどうだったの。好い手間になって?", "何を云うんだい", "あら、大層御機嫌がわるいのね。何うしたっていうの" ], [ "何でもねえんだよ", "お前さん、何か怒ってるんだね", "何でもねえよ、煩さいっ" ], [ "背高のジャッケ? 会わないわ。それが何うしたのさ", "先刻此家へ来ていたと思ったがなあ", "そんなことがあるもんですか" ], [ "馬鹿なことをおいいでないよ", "口先はどうでもいいから、証拠を出せ。おれは知ってるぞ。え、おい、知ってるんだぞ" ], [ "お前はどこまでも誤魔化してゆけると思ったんだろう。無理アねえ、おれがこれっぱかしも疑らなかったほどのお人好しだからなア。だがおれがほんとうにそんな間抜かどうか、今にわかるぞ……そればかりじゃねえ……一体誰の子だい、あの餓鬼がさ。誰の子だい", "そりゃ余まりだわ。余まりだわ" ], [ "母アちゃーん。母アちゃーん……", "おお、坊や。坊や" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「新青年」    1926(大正15)年4月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「憤恚」に対するルビの「ふんい」と「いかり」の混在は、底本通りです。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2022年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059620", "作品名": "生さぬ児", "作品名読み": "なさぬこ", "ソート用読み": "なさぬこ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」1926(大正15)年4月号", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2022-03-09T00:00:00", "最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59620.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59620_ruby_75124.zip", "テキストファイル最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59620_75162.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "外へ出ましょうよ。ボア公園へ散歩に出かけようじゃありませんか", "僕は疲れているから駄目だ。家にいる方がいい" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2022年3月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "今日は、フェリシテ", "今日は、ムッシュウ", "あなたは僕を覚えているでしょう", "ええええ" ], [ "ここですわ", "もう遅いから駄目。それに、僕は友人から晩餐に招ばれているんですがね、お忙しくなければ、談しながらそこまで送って行って下さいませんか" ], [ "これが友人の家です。一しょに歩いて貰ってほんとうに愉快でした。ええと、今日は火曜日なんだが、あなたは土曜はお忙しいですか", "いいえ", "お邪魔でなければ、五時頃ちょっとお礼に行きますよ。左様なら、フェリシテ", "左様なら、ムッシュウ" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2022年3月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059627", "作品名": "フェリシテ", "作品名読み": "フェリシテ", "ソート用読み": "ふえりして", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「夜鳥」春陽堂、1928(昭和3)年6月23日", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2022-04-18T00:00:00", "最終更新日": "2022-03-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59627.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59627_ruby_75276.zip", "テキストファイル最終更新日": "2022-03-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59627_75308.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-03-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "名前は何ていうの", "ジャン", "苗字は?", "ジャン" ], [ "ほんとうに似ているでしょうか", "ええ、あなたに似て可愛い坊ちゃんです。もっとも、あのくらいのときは漠然と似ている場合が多いので、細かい特徴になると、お父さんと較べてみなければわかりませんがね" ], [ "ジャンや、母ちゃんが帰って来たよ", "そう、母ちゃん" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2022年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059621", "作品名": "二人の母親", "作品名読み": "ふたりのははおや", "ソート用読み": "ふたりのははおや", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「夜鳥」春陽堂、1928(昭和3)年6月23日", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2022-02-03T00:00:00", "最終更新日": "2022-01-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59621.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59621_ruby_74888.zip", "テキストファイル最終更新日": "2022-01-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59621_74923.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-01-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "僕も悪かったけれど、そんなに虐めなくたっていいじゃありませんか。成るほど僕はちょっと不実なことをした。あなたが憤るのも無理がない。だから僕は散々謝罪ったでしょう。足りなければ何回でもお詫します。しかしあんなことのために全然愛想づかしをして、前々からの手紙まで取り返すというのは酷い。つまり僕はあなたの愛を失ったばかりでなく、あなたから踏みつけにされるのですね。それに……", "もう沢山、愛なんてことを二度と仰しゃらないで下さい" ], [ "いえ、いえ、それに違いありません。わたしは貴君のお心がようく解っています。何でもないことです。貴方だって後になって考えると、やはり、あんなものは返していいことをしたとお思いなさるでしょう。もう邪魔者が来なくなりますからね、みっちりと御勉強なさいまし。こうした経験をお書きになると、また素晴らしい創作がお出来になりますわ。だけど、わたしなんかつまらないのね。今に貴方の御作を読んで、第一番に泣かされるのはわたしよ", "僕は、あなたのその涙がたった今欲しい" ], [ "いいえ、ちょいちょい来て下さらないと困るわ。ぱったりお顔が見えなくなると、人がまた変な噂を立てますからね", "そんなら伺います" ], [ "この頃は書きつづけですからね。何時間も卓子に獅噛みついた後では、こうして親しいお友達の前へ出ても、何だか頭がぼうっとしているようです", "きっと、お書きになる小説の中の人物と一緒になって、泣いたり笑ったりしていらっしゃるんでしょう" ], [ "それがさ、他で考えるほど愉快なものじゃありませんよ", "でも貴方は健筆家でいらっしゃるから、ほんとうに結構ですわ" ], [ "いや、どういたしまして。今やっている仕事なんか筆が渋って仕様がありません。実は大変不幸な出来事が突発して、仕事の上に大打撃をうけたのです。一体今度の作は、手紙小説の形式で行こうと思って書きはじめたのです。もちろん有りふれた型ですがね。しかし僕の場合に限って立派に成功する望みがあったのです。というのは、僕はそのモデルとして傑作ともいうべき恋文を沢山もっていたからです。ところが申し上げるのも変なお話ですが、その婦人が僕を捨ててしまったんです。いったい恋文などは、貰った当人以外の者にとっては一向値打のないもので、その当人だって時が過ぎると何の興味も感じないものですが、僕が貰ったその恋文というのは清新そのものといっていいくらいで、いつ読んでも感動させられます。僕があれだけ感動したんだから、一般読者の胸に響かんということはありません。その手紙の署名と日附を変えて、ちょいちょい加筆しただけでも、熱情的な、すばらしい恋愛小説が出来ます。その手紙を書いた婦人は、何も名文を書こうなんていう野心からでなく、只もう感情を有りのままにさらけ出したものですがね、実にすばらしい傑作です。その女は僕の今度の手紙小説を読んだら、おそらく自分で自分の天才に吃驚するでしょう。ところが実に残念です、もう一息という時になって……", "気が差して書けないと仰しゃるんでしょう" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「新青年」    1926(大正15)年8月増刊号 ※初出時の表題は「文束」です。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2019年7月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059494", "作品名": "ふみたば", "作品名読み": "ふみたば", "ソート用読み": "ふみたは", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」1926(大正15)年8月増刊号", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2019-08-29T00:00:00", "最終更新日": "2019-07-30T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59494.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59494_ruby_68732.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-07-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59494_68781.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-07-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "おい四番、お前さんは外出したいって云ったそうだが、本統かい", "はい" ], [ "飛んでもないことだ。お前さんは辛と二、三日前に起床られるようになったばかりじゃないか。それに、こんな天気に外出するとまた悪くなるよ。もう少し我慢をしなさい。此院は別段不足がない筈なんだが、それとも誰か気に触ることでもしたかい", "いいえ、先生、そんなことはございません", "そんなら何故だしぬけに外出したいなんて云うんだね", "わたし、どうしても出かけなければなりません" ], [ "その情人は何時亡くなったの", "もう、一年になります", "何だってそんなに若死をしたんだね?" ], [ "彼女がヴァンダの情婦だぜ、滅法窶れやがったな", "ヴァンダって誰だい", "お前知らねえのか。あの、そら、人殺しをやった……" ], [ "いいえ、わたし左様していられないの。女将さん居て?", "ああ彼処にいるよ" ], [ "わたしお願があってよ、マダム。衣物を取りに来たの。これじゃ寒くてやりきれないんですもの", "お前さんの荷物はみんな屋根部屋の方へ片づけさせておいたから、何処かにあるだろうよ。誰か見にやりましょう。まア暖炉の傍へ来ておあたりよ", "ええ難有う。でも、わたし左様していられないの。ちょいと出かけて、すぐ帰って来るわ" ], [ "お願いですお願いです、大急ぎで駆けて行ってすぐに帰って来ます。たった二分間……", "じゃ、行ってらっしゃい。早く出なければいけませんよ" ], [ "いいえ、わたし知らないわ", "じゃ教えてあげよう。彼男はね、ル・バングよ", "え、何ですって?……ル……?" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2020年11月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059495", "作品名": "碧眼", "作品名読み": "へきがん", "ソート用読み": "へきかん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「夜鳥」春陽堂、1928(昭和3)年6月23日", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-12-19T00:00:00", "最終更新日": "2020-11-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59495.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59495_ruby_72269.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-11-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59495_72317.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-11-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ほんとうに、この汽車は何て長いんでしょうね。わたし些とも眠れないのよ。せめて新聞でも買っておいて下さればよかったのに", "失礼ですが" ], [ "一本いかがですか", "難有う" ], [ "この季節は夜明けが遅いもんだから、ヴァロルブへ着いてもまだ暗いのに、彼駅では税関の手続きがあるので、三十分間の停車です。貴方がたは多分伊太利へいらっしゃるんでしょう", "いや、瑞西へ出かけるところです。家内が少し健康がわるいので、医者から山へ転地しろと云われたものですから。しかし山が寒くて此女が困るようでしたら、湖水の方へ降りるつもりです。此女はよほど大切に保養せねばならんのです。それに私もこの頃過労れているので、ゆっくり静養したいと思います" ], [ "あの事件の何処にそんな興味があるのか、不思議だね", "何処って、全体が面白いのよ。巧妙な殺人――謎の事件――素的じゃありませんか" ], [ "あなたの仰しゃるのは、ペルゴレーズ街の殺人事件のことでしょう、マダム", "ええ、あれは面白い事件じゃありませんか", "実に面白いですね", "そうれ御覧なさい、この方も同じ御意見よ" ], [ "一体どうした事件だったかね", "あら、貴郎も新聞を読んだくせに。先晩劇場の幕間にあんなに詳しく読んだではありませんか。それに今朝だって発つ前にも……" ], [ "ああ、わかったよ。遊び女が自分の家で、夜中に短刀で殺されたとかいう事件だろう", "夜中じゃない、真昼間よ" ], [ "昼間だったかね。賊は金や宝石を攫って行ったんだろう。ざらにある事件さ", "どういたしまして。もっともっと不可思議な事件ですわ", "お前の怪事件好きには降参だよ" ], [ "その不幸な女が兇行に遭っている最中に、誰か戸口へ訪なっただろうという説もありますが、どうも左様らしいですわね", "あなたは、何うしてそれを信ずるのですか", "ごく簡単なことでございます。というのは、賊が入ったにも拘らず宝石類が一つも紛失していません。箪笥の上には高価な指輪が二つと、ダイヤ入りのブローチが一つ、元のままに載っていて、陳列玻璃函の中の骨董品にも手を触れた形跡がなく、室の中は整然となっていたそうです。きっと犯人は突然戸口に人が来た物音に驚いて、獲物を取込む暇もなかったのでしょう。ですからあの犯人は、大した得にもならなかったのです" ], [ "ところが、大儲けですよ。あんな大儲けをした殺人事件は、この数年来ありませんな。おまけに賊は悠々と行って除けたのです。それは私が保証します", "そんなら、何故宝石を盗らなかったでしょうか", "それは賊が利口な奴で、『貨幣や紙幣は無難だが、宝石類は所持していても売っても足がつき易い』と考えたからです。当節は電信や電話というものがあって、犯罪者も迂闊出来ませんよ。例えば海上で無線電信をかけると、犯人は法律で引渡しを禁じられている安全な国へ上陸する前に捕縛されますからね", "けれど今度の犯人は、早速足がつかないように要慎して、抜け目なく立廻ったんでしょうね", "それは左様ですとも。結局捕まりっこありませんな" ], [ "貴方は新聞社の方でいらっしゃいますか", "いや、奥様。しかし情報は詳しく知っていますよ。私は警察の嘱託医として最初の検証にも立会いました。そのときは――あの兇行のあった室が暗かったものですから――短刀で胸を一突きに刺られたのが致命傷ということだけ判ったのですが、屍体を屍体置場へ運んでから、私が改めて検べると、左の乳房の下に、可成り大きな一種の汚点を発見しました。茶褐色を帯びていて、恰度人間の手型を捺したかと思われる汚点です。そこで私はその汚点を写真に撮って、種板を補力して焼付けてみると、果して手型に相異なく、しかも長い華奢な手で、あらゆる細部が、襞や線や指紋の一つも欠けないではっきりと現たではありませんか" ], [ "今晩だけはね。しかし明日は駄目です。今いった手型の写真が明日あらゆる新聞に載ます。そうするとこの手は、仏蘭西中は無論のこと、二日後には欧羅巴全体に知れわたりますからね。犯人は一生涯寝ても起きても手套を離さないという決心をしなければ、必ずこの手から発覚します。それが厭なら男らしく自分で手首を截断するんですね。何故って、この手は種々なる特徴があって、専門家が見ると容易に判別が出来るばかりでなく、もう一つ、誰が見ても判る目印があります。それは無名指の尖から、手相見の謂わゆる生命線の基点へ走っている一条の創痕なんですがね、実に鮮やかなもので見まいとしても目につくのです。それで大変不吉なお話だが、もしもその犯人がこの車室に乗っているとすれば、奥様なり、諸君なり、私なりが直ちに彼を認めて、次の停車場で警官に捕縛させることが出来るわけです", "おお" ], [ "早く見とうございますわ", "わけないことです。鞄の中に一枚もっていますからお目にかけましょう。これですよ" ], [ "この白い条を御覧なさい。鮮やかなもんでしょう。さてこの条は……", "何だか鬱陶しいじゃありませんか。少し開けましょう" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2019年7月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "それは大変な考え違いですよ、マダム。そんなときは、滅多に恋人なんかの手にかかるもんじゃありません", "何故ですの? 恋しい人が傍についていてくれたら、どんなに心強いかしれませんわ。そうした生命にもかかろうというときは、思念をすっかりその人の上に集めますと、精神の脱漏を防ぐことが出来ますからね。恋人の眼でじっと見つめられながら麻酔に陥ちてゆくなんて、どんなにいい気持でしょう。それから、意識にかえるときの嬉しい心持を思っても御覧なさい。『覚醒』の嬉しさをね……" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 初出:「新青年」    1923(大正12)年8月増刊号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:土屋隆 校正:noriko saito 2007年12月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046670", "作品名": "麻酔剤", "作品名読み": "ますいざい", "ソート用読み": "ますいさい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」1923(大正12)年8月増刊号", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-02-07T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card46670.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/46670_ruby_28599.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-12-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/46670_29078.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-12-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "コレ、嫁は今時分まで何をしくさるだ。何時になったら来るかの", "正午には皆んなの弁当をもって来るよ" ], [ "何にしても、楽なもんじゃのう", "なアに何家の嬶も同じことよ。彼女はここへ来ても、小舎にいても、せっせと仕事をしているだ", "ふむ、彼様な仕事をな" ], [ "何いうだ", "うんにゃ、何でもねえだよ。話がさ……ただ……" ], [ "何だっておれに其様な話をするだ", "何でもねえがの、父親はお前なんかよりも気が廻っていたっていうことよ" ], [ "誰がさ", "誰ってこともねえがの……皆ながよ……もっとも無理アねえだ、眼にあまることは見まいとしても見えるものだで", "出鱈目いっているだ" ], [ "お前のためを思えばこそ、此様なこともいうだよ。わしはお前の母親でねえか。隠し立ては厭だからのう、後で怨まれるか知んねえが、云うだけはいっておくだ", "皆んな出鱈目だっていうことよ。セリーヌはいい女房で、よく働いてくれるだ。それに、おれはこれっぱかりも彼女に不自由はさせてねえだから、彼女が何でおれを袖にするもんか" ], [ "おいセリーヌ、お前縫針を持ってるかい", "ござりますよ、旦那さま", "そんならここへ来て、わしのブルーズを繕うてくれ。乳牛は皆んな牧場へ放してあるし、あれ等を牛舎へ入れるまでにはまだまだ間がある。おお、ここも暑くなって来たぞ。わしは林檎の樹の下へ行っているから、お前も束ねが済んだら彼処へ来てくれないか。畦を歩くんだぞ、麦を倒すと可けないからな" ], [ "お前は先刻旦那の仰しゃったことを聞いたかね", "ああ聞いたよ", "そんなら、何でぐずぐずしているだ", "今行くよ" ], [ "厭……あの人に見つかると大変よ", "しっ、彼はまだ向うの端れにぐずぐずしているんだよ。ここまで刈って来るには、半時間も間のあることだ……どれ、もっと傍へお寄り" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2022年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059623", "作品名": "麦畑", "作品名読み": "むぎばたけ", "ソート用読み": "むきはたけ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「夜鳥」春陽堂、1928(昭和3)年6月23日", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2022-03-20T00:00:00", "最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59623.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59623_ruby_75138.zip", "テキストファイル最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59623_75176.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "別段に理由はありません", "いや何か理由があっただろう。やたらに他人の家へ入りこんで人を殺すということは出来るものでない。いったい、何のためにあんなことをやったのか", "目的もなくやっつけたのです", "いや、あの男は、お前に対して何か不都合なことでもしたんだろう" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「夜鳥」春陽堂    1928(昭和3)年6月23日 初出:「新青年」    1923(大正12)年8月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※初出時の表題は「親を殺した話」です。 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2020年12月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059496", "作品名": "無駄骨", "作品名読み": "むだぼね", "ソート用読み": "むたほね", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」1923(大正12)年8月号", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-01-17T00:00:00", "最終更新日": "2020-12-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/card59496.html", "人物ID": "000326", "姓": "ルヴェル", "名": "モーリス", "姓読み": "ルヴェル", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るうえる", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Level", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-08-29", "没年月日": "1926-04-15", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夜鳥", "底本出版社名1": "創元推理文庫、東京創元社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年2月14日", "入力に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年2月14日初版", "底本の親本名1": "夜鳥", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年6月23日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ノワール", "校正者": "栗田美恵子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59496_ruby_72442.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-12-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000326/files/59496_72482.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-12-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "一杯飲ろうなんて、どうしたんですか?", "飲みたくなったからさ" ], [ "酒は何がいい?", "シトロン酒の強いやつを飲まして下さい" ], [ "一体君は、職業は何だね", "そういうお前さんは?", "おれかい。おれは先刻君も見たラ・ベル・フィユという二檣帆船の運転士だがね、姓名は……聞きたければ教えてもいいが", "こうお交際を願ったからには、聞かしてもらいたいね", "おれはモッフっていうんだが、君は?", "私はチューブッフ(牛殺の意)", "そんな姓名があるものか", "でも、それで私が返事をして、用が足りたらいいでしょう", "それはどうでもいいが、兎に角、大いに飲ろうじゃないか" ], [ "実はいい仕事があるんだが、君、一つ試ってみる気はないか", "物によりけりですね" ], [ "ええ", "遠洋かね?", "なアに鼻っ先のレエ島へ行ったばかりでさア", "貨物船だろうな?", "ええ、それじゃ駄目ですかね" ], [ "結構結構。どうせ腕っ節の要る仕事なんだ", "そんなら、お前さんの船は同盟罷業じゃないんですね?", "警戒おさおさ怠りなしさ。何しろ船長は支那人を二十人ばかり雇いこんだが、其奴等は馬鹿に忠実で、よく働いて、僅かな給料と半人前の食物を充てがわれ、軍艦同様な八釜しい規則にも、不平一つ云わずに服従しているんだ。ところが、おれは密かに彼等を語らって、船長に対して一騒動起そうという計画なんだ。あの連中は腕っ節も強いし、頭もあって確かりした手合だが、どうだい君も仲間に入らないか" ], [ "ところで、こうした闘いは一遍にどっと勝を占めてしまわねばならん。一騎打ちをやっていた日にはどうなるか分らないからね。それに、おれの方の一味は二十人だが、いざとなると五、六人はきっと逃げるものだ。そこで君のような強い男が十人も加勢してくれると、わけないんだがなア", "それはいいが、お前さんは船長達を殺つけた後で、港へ入れますか? そこんところを何ういって弁解するつもりかね?" ], [ "一週間なんて、暢気なことを云っちゃ困る。明日の晩までに集めてくれないか。船は明日の夜半の満潮と同時に出帆することになっているんだ", "そいつア早過ぎますね。だが、一つ試ってみましょう。それで、手筈はどうすればいいんですか", "明日の今時分に船へ来てくれ。その時分にはおれの外に誰も甲板へ出ていないが、ひょっとして見付かると可けないから、目立たぬように、二、三人ずつ密とやって来たまえ。事を挙げるまでは、少しの間船艙に隠れていて貰わにゃならんが、そこはだだっ広いから、君等は鱈腹食って飲んで臥ころんでいてくれればいいので、その代り物音を立てたり、大声で饒舌ったりしては不可んよ。そして三、四日目におれが合図をしたら飛出して思う存分に働いてくれ。つまり君等は伏兵なんだ。いいか?", "わかりました" ], [ "おい、お前が腕を貸せっていうから、おれ達は加勢に来たんだ。こんな穴ん中へ燻ぶりに来たんじゃねえ", "まったくだ。酷い目に遭わせやがったな。おれ達を元へ返してくれ" ], [ "恐ろしく揺れるなア", "堪ったもんじゃない" ], [ "おい大変だぞ。此船は空船なんだ。人っ子一人居やしない", "な、何だって? 人がいない?", "うむ、ガラ空きだ。おれは船首も、船尾の方も、上から下まで探した。大きな声で呼んでみた。けれど誰もいやしない。舵にも、帆檣にも、甲板の何処にも、まるで人がいないんだ", "〆たっ! この船はおれ達の所有だ!" ], [ "これが乗組員の残りだよ", "えっ、そんならあの件を実行たんですか?" ], [ "私にゃ解りませんが……印度ならもっと遠いように思いますがね", "下らんことを云わないで、自分の仕事をやれ。余計なことを考えては可かん", "何時港へ入れるんですか", "皆が精を出せば二日以内さ。怠ければ四日だ" ], [ "ええ、ひどい同盟罷業でね。実は、この船なんかも、マルセイユではたった十人しか残らないという騒ぎだったが、僕のような海上の古狸になると、そんなことは平気なもので、早速独特の術で新規の乗組員を募集しました。非常の時は非常手段でなくっちゃね。その代り素晴らしい代物を連れて来ましたぜ。昨日運転士からお知らせしたように、彼等の中には徒刑場から脱走した罪人がいます。それは警察への御土産で、彼奴等を捕縛て下されば、僕も大助りです。用意はいいでしょうな?", "ええ、此方もそのつもりで、汽艇に平服憲兵が待ちかまえています" ] ]
底本:「夜鳥」創元推理文庫、東京創元社    2003(平成15)年2月14日初版 底本の親本:「新青年」    1928(昭和3)年10月号 初出:「新青年」    1928(昭和3)年10月号 入力:ノワール 校正:栗田美恵子 2022年3月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "じゃ、お前は、エルネスチイヌ?", "あら、母さん、あたし、こわいわ" ], [ "奴、どうしたんだ?", "夢でうなされているんですよ" ], [ "さ、いいかい! 用意はできたね!", "ああ、いいよ!" ], [ "ああ、汚ない。食べた、食べた。自分のだよ、おまけに……。昨夜のだよ", "そうだろうと思った" ], [ "なんて変な臭いだい", "母さん、おはよう" ], [ "おや、にんじん、まだ鉄砲をもっているな。ずっとお前がもち通しか?", "うん、たいてい……" ], [ "さ、いうことを聞いたげてよ。だから、ぶつぶついいっこなしよ。あのとおり、罎は蓋をしたまま暖炉の上に置いたるじゃないの。感心でしょう。だけど、あたし、自慢はできないわ。だって、にんじんの髪の毛なら、セメントでなくちゃだめだけど、あんたのなら、ポマードもいらないくらいだわ。ひとりで縮れて、ふっくらしてるわ。あんたの頭は、花キャベツみたいよ。この分けたとこだって、晩までそのまま持つわよ", "ありがとう" ], [ "ねえ、兄さん、水へはいると、きっといい気持だね。うんと泳いでやらあ", "生意気いえ!" ], [ "こっちへおいでよ、にんじん。もっと深いところがあるぜ。こら、足がつかないや。沈むぜ。ごらんよ、ほら、僕が見えるだろう。そらこのとおり……見えなくなるよ。そいじゃ、こんだ、あの柳の木のほうへ行ってろよ。動いちゃいけないよ。そこまで十ぺんで行くからね", "数えてるよ" ], [ "こんだ、お前の番さ、ね、僕の背中へおあがりよ", "僕あ、自分で練習してるんだから、ほっといておくれよ" ], [ "なんの用だ?", "先生、室長が、僕の手はきたないから、そういいに行けっていったんです。だけど、そんなことないんです" ], [ "僕は、やっぱり、さっきいったようにしたほうがいいと思うなあ。どうして、しばらくの間、子供の世話をほかの牝羊にさせないのさ", "あっちで断らあね" ], [ "来ない、にんじん? うちのお父つぁんが川へ網をかけてるんだ。手伝いに行こう。そいで、僕たちは笊でオタマジャクシをしゃくおうよ", "母さんに訊けよ" ], [ "僕としちゃあ、家族っていう名義は、およそ意味のないもんだと思うんだ。だからさ、父さん、僕は、父さんを愛してるね。ところが、父さんを愛してるっていうのは、僕の父さんだからというわけじゃないんだ。僕の友だちだからさ。実際、父さんにゃ、父親としての資格なんか、まるでないんだもの。しかし、僕あ、父さんの友情を、深い恩恵として眺めている。それは決して報酬というようなもんじゃない。しかも、寛大にそれを与え得るんだ", "ふむ" ], [ "おれはどうだい?", "あたしは?" ], [ "ことに、そいつを、お前の年で、ほかのものに言って聞かせるなんて……。もし亡くなったお前のお祖父さんに、そんな軽口をわしがこれっぱかりでも言ってみろ。さっそく、蹴っ飛ばされるか、ひっぱたかれるかして、わしがどこまでもお祖父さんの息子だってことを知らされるだけだ", "暇つぶしに話してるんだからいいじゃないの" ], [ "やい、因業婆! いよいよ、これで申し分なしだ! おれはお前が大嫌いなんだ!", "こら、止せ! なにはともあれ、お前の母さんだ" ], [ "どうしてにんじんなんてお呼びになるんです? 髪の毛が黄色いからですか", "性根ときたら、もっと黄色いですよ" ] ]
底本:「にんじん」岩波文庫、岩波書店    1950(昭和25)年4月1日第1刷発行    1976(昭和51)年2月16日第31刷改版発行    2004(平成16)年5月25日第76刷発行 ※フェリックス・ヴァロットン(1865年12月28日~1925年12月29日)の挿絵を同梱しました。 入力:門田裕志 校正:砂場清隆 2014年7月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050658", "作品名": "にんじん", "作品名読み": "にんじん", "ソート用読み": "にんしん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "POIL DE CAROTTE", "初出": "", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2014-08-13T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001156/card50658.html", "人物ID": "001156", "姓": "ルナール", "名": "ジュール", "姓読み": "ルナール", "名読み": "ジュール", "姓読みソート用": "るなある", "名読みソート用": "しゆうる", "姓ローマ字": "Renard", "名ローマ字": "Jules", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1864-02-22", "没年月日": "1910-05-22", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "にんじん", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1950(昭和25)年4月1日、1976(昭和51)年2月16日第31刷改版", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年5月25日第76刷", "校正に使用した版1": "2011(平成23)年4月15日第82刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "砂場清隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001156/files/50658_ruby_53991.zip", "テキストファイル最終更新日": "2014-07-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001156/files/50658_54033.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2014-07-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "何の代りだ?", "ブリュネットの代りでさ" ], [ "砂糖があるんだよ", "なんだい、砂糖って?", "そら、ここんとこさ" ], [ "気持が悪いだろう?", "ごそごそすらあ", "ひりひりもするだろう、え! 真っ赤になってるぜ" ], [ "なんだ? なんだ? なんだ?", "なんでもない" ], [ "ひとりでに?", "うん", "ふうん……。木の枝にでも引っかかったんだね、きっと?", "さあ、どうだか" ] ]
底本:「博物誌」新潮文庫、新潮社    1954(昭和29)年4月15日発行    2001(平成13)年6月20日46刷改版    2002(平成14)年4月15日47刷 ※ピエール・ボナール(1867年10月3日~1947年1月23日)の挿絵を同梱しました。 入力:大野晋、門田裕志 校正:砂場清隆 2012年7月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043603", "作品名": "博物誌", "作品名読み": "はくぶつし", "ソート用読み": "はくふつし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "HISTOIRES NATURELLES", "初出": "", "分類番号": "NDC 954", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2012-08-04T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001156/card43603.html", "人物ID": "001156", "姓": "ルナール", "名": "ジュール", "姓読み": "ルナール", "名読み": "ジュール", "姓読みソート用": "るなある", "名読みソート用": "しゆうる", "姓ローマ字": "Renard", "名ローマ字": "Jules", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1864-02-22", "没年月日": "1910-05-22", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "博物誌", "底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社", "底本初版発行年1": "1954(昭和29)年4月15日", "入力に使用した版1": "2002(平成14)年4月15日47刷", "校正に使用した版1": "2010(平成22)年3月5日50刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "大野晋、門田裕志", "校正者": "砂場清隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001156/files/43603_ruby_48015.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-07-15T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001156/files/43603_48251.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-07-15T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "貧乏も、よっぽど貧乏じゃなくっちゃね、これをこのまんまうっちゃらかしとくなんて……", "どうして? 僕は、とてもいいと思うね、この家" ], [ "だから、小巴里新報の古いので、穴をふさげばいいじゃないか。誰も、それをするなとは言やしない", "お金持の住むような家が欲しいわけじゃないのさ。さっぱりしてさえすりゃいいんだから。これで、いくらか溜めてでもありゃ、こんなぼろ家でもすぐに手入れぐらいはするんだけれど", "それは、よしたほうがいい、おばさん。まったくすてきだもの、この家は", "いつぺしゃんこになるかわからないね", "心配せんでいい。お前が葬られるまでは大丈夫", "これが頭の上へ落ちて来てかい" ], [ "麻の地に、太い毛糸で繍取りをした幕でしたよ。プウランジって言ったものですけれどね、擦り切れるなんていうことはありませんでしたよ", "まったく、もつにゃもった。掛けたっきり、はずさないんです。寝台をかくしているわけですね。はいる時だけ開ける、それが芝居小屋のようでね。おやじが寝にはいる時は、――おやすみ、わしはちょっくら芝居に行く――なんて言ったもんです" ], [ "じゃ、別の寝床では眠られまいっていうわけだね", "自分一人じゃ眠れないでしょうよ", "あんたは、フィリップさん", "わたしゃ外で泊ったっていうことがないんだからね" ], [ "掛け布団の下へ隠しとくさ。誰にも見えやしない", "上へ出しとくのが流行ですもの", "だけど、枕があれば、枕を頭の下に敷くのはあたりまえだ" ], [ "つまり、夢ってどんなものか知らないわけだね", "知りません" ], [ "何時に起きるの?", "時候によりますね", "夏は", "夏ね。時間をきめてあるわけじゃないんですよ。お天道様のかげんなんですよ", "鎧戸が閉めてあっても?" ], [ "土地のものが、そんなふうに死んでしまったら、そのうち一人も残らなくなりますよ", "もっともだ……。今、仕事は忙しいの?", "畑が耡けるようになるまで、なんでもござれです。村の課役で石割りもします。薪束もこさえます。ぶどう畑の杭も削ります。肥車を畑へひっぱっても行きます。それで、暇があれば火にあたっています。それから寝るんです", "何時ごろ", "八時過ぎまで起きているのは辛いですよ。年鑑を出して読んで見ることもあるんですが、じき鼻を紙へくっつけて眠ってしまいます", "あんたは、おばさん、お勝手の用事がすんでから、なにをするの", "この通り、靴下を編むんですよ", "やっぱりいつかの、あれかね?" ], [ "誰のです、そいつは、ピエエル君の?", "いいえ、アントワアヌの", "兵隊に行っている人。連隊は気に入ってるようかね" ], [ "いつまた、会えるの?", "たぶん、今晩", "今晩だって?", "ええ、この前の手紙で、今日来るって、夕方の汽車でね、そう言って来たんですけれど。べつだん取消しても来ませんから", "じゃ、来るんだろう。フィリップさん、あんた迎えには行かないの?", "何しにです", "停車場へ迎えにさ" ], [ "だって、そのほうが、帰りたてのほやほやのところをキスしてやれるわけだ", "そりゃまあ", "そうだろう。あんたはアントワアヌ君が可愛いんだろう" ], [ "どこにいるの?", "小屋の中、放してあります", "静かにしてるかね", "二日こっち、じっとしてます。食物をやらないんです。しばらく食わせずに置いて殺すほうがいいんだから" ], [ "目方はいくら?", "二百と七斤", "たいした目方だね" ], [ "用意はすっかりできてるの?", "せがれのピエエルを留めて置きました。運河の方へ働きに行くのをやめて、手伝わせます", "僕も手伝うよ" ], [ "何時に起こすの?", "豚かね", "ああ", "日が昇ったら", "じゃ、おやすみ。どら、眠って元気をつけてこよう" ], [ "あんたは、なんでも同じことにしてしまう。問題は幸福ということだ。この村の人たちは、以前より今のほうが幸福だろうか", "若いものは、そうじゃないって言いますね", "しかし、あんたはどうだね、フィリップさん、年寄り仲間とも話をし、若い連中のぐちも聞いてみて、どう思うね?", "わたしは、以前よりは仕合せなのが本当だと思いますね。寝る場所もよくなったし、食い物もよくなる、以前ほどみじめな暮らしはしなくなりましたよ。わたしにしてからが、嫁をもらうまで寝台なんかに寝たことはなかったんですからね", "家畜と一緒に寝てたんだね", "ええ。乾いた藁のほうが、汚れた敷布よりゃましですよ。夜中の十二時に、家畜が眼を覚ますので、わたしは、それまでに、とろとろっとするばかりです。奴らには奴らの習慣があってね。夜中に起きて、秣を一口食うんです。角が飼棚の桟にあたってことこというのが聞こえたりします。冬は、奴らの吐き出す息でからだが温まる。しかし、夏はよく外へ寝ました。夜じゅう草原に放してある牛の番をするんです。百姓で、自分の牛をほうっといて気楽に眠ってるような奴はいませんでした。役に立たなくなった古い手押し車を原に出して置いて、框の上に、大麦や裸麦の稈をかぶせて屋根を作り、番人はその中にはいって寝るんです", "楽に寝られるかね、それで?", "別に窮屈でもありませんよ。なにしろ好い時候の時ですからね。朝冷えで、ちょっと手がかじかむぐらいのものです", "牛の番をするって、何が来るの?", "第一、狼がいまさ", "え、狼が、こんなニエヴル河の辺に?", "いたんですよ", "今はどうしたの", "知らないね。それから、牧場に柵をしてなかったので、今のようにね、で、牛が逃げ出すかもしれません。それに、番人は牛の番をするだけでなく、草を食わせなくっちゃならないんです。仕事で疲れきった牛は、あんまり食いたがりません。草の中に寝そべって眠るほうがいいんです。そこで、番人が車の中から出て行って、足で蹴って起こすんです。牛は、しかたがなしに草を食いはじめる。時々は、日中ひどく照りつけられたような後なんか、下男が夜じゅう、凉みがてら、一匹ずつ見まわって歩くこともあります。日の出る前に、牛を鋤車につけるんです", "牛の番をする。そこで、フィリップさん、その番人の番は誰がするんだろう", "誰もしない。これくらいの苦しい仕事は、みんな、あたりまえだと思っていましたよ。ほかの仕事と別に変らないぐらいに思っている。まあ、こんな仕事を、いまどきの若いものに言いつけてごらんなさい。いやだと言ってはねつけるか、承知をしたところで、車の中にはいないで、あっちこっちと、近所の百姓家を目がけて、おさんどんのそばへあったまりに行くのがせいぜいでさ", "でも、どうして夜番をしないようになったの?", "もう流行らなくなったんです", "百姓はそれで気楽に眠れるかね?", "ええ", "で、牛のほうは?", "自分で番をするわけです", "それで、育ち方がわるくなったっていうようなことはないかね", "いいえ。現にやっているのは、仕事をしない牛だけ見まわって、草を食わせるんです。そして、ふとらせるんです。わたしが働いてたころも、終りがたには、それが、コルネイユの家で、わたしの仕事になっていました。毎朝、四時に、特別牧場に放してある牛を見まわりに行くんです。朝飯前に、そのほかの牧場を半分だけ見に行き、帰って来ると、大急ぎで丼を平げ、昼までに、残りの半分を見まわる。一匹ずつ、病気はないかどうか見てあるき、なお、いちいち脂肪のつきかげんを手でさわって見ます", "ずいぶんくたびれるね、その仕事は", "ほかの仕事と別に変りませんよ", "一度も危い目にあったことはないの?", "牛はわたしを知っていますからね。恐ろしいのは露ばかりです。長靴をはいているのに、腿のところまで昇って来る。日が照っても、昼までは脚が乾いたということはありません、食卓につくまではね", "コルネイユのうちの人たちはあんたを大事にしたかね", "お神さんは、わたしたちの分に、裸麦や蚕豆や豌豆や、なにやかやを入れたパンを作ってくれました", "小麦だけ入れないで?" ], [ "肉はどっさり食わせるかね", "馬が一匹怪我でもしてくたばりかけると、そいつを殺して、使ってるものに食わせるんですが、その肉が二週間も続けうちでね。でも、蹄まで食ったもんでさ", "酒は飲めたの?", "一度も。今じゃ、使われているものも飲みますがね", "良い酒を?", "犬の足を洗うのにゃ良いでしょうよ。酒を飲むって言えりゃ、それでいいんです、あいつらは", "農家の人がよくなったのかね", "そうじゃありません。働くほうが横着になったんですよ。請求するんですからね", "あんたには、それができなかったんだね", "わたしらのころは、そんなことを考えるものもありませんでした", "あんた方は日に十五スウぐらいしか稼げなかったのに、今のものはその三倍稼いでいる。あんた方は連枷で麦を打ち、箕で簸るのが仕事だったのに、今のものは機械で打ち、唐箕を使っている。あんた方はお祭の日にしか休みを取らなかったのに、今のものは、それをぶつくさ言う", "そして楽ばかりしようとする", "そりゃね、楽になれば、それにつれて欲しいものもできてくる。それで、差し引きどうだろう、今は昔より仕合せというわけでもないね", "なるほど、そうも言えるでしょう。若いものが猫も杓子も土地を離れて、パリへ出掛けて行くんだから。そうすりゃ贅沢な暮らしができようってわけでね。なるほど、運さえよけりゃ宝を掘り当てます。が、残っているものは、今も昔と変らず、驢馬になったつもりでいなけりゃなりません。ごくきりつめて、せっせと稼げば、暮らしだけは立てて行かれる上に、年を取ってから、堅パンを買う金ぐらいは、溜めて置けますよ", "肉もなけりゃ" ], [ "死に方が遅いと言うだけだ。どうだろう、フィリップさん、世の中の悪いことは、一方で有り余るほど有っているのに、一方で有つべきものも有てないでいる、そこから来るんだと思わないかね", "金持もいなくっちゃならないんですからね", "どうして?", "だって、今まで、ずっといたものなんだから", "どうして、あんたが金持になる番にあたらないんだ。あんたのおやじさんもお祖父さんも貧乏だった。あんたも貧乏だ。あんたの息子さんも、そのまた子供も貧乏に違いない。そりゃどうしてだろう", "でも、そりゃ、そういうふうにできてるからですよ", "ただ偶然にそうなっただけさ。偶然しだいで、どうにでもなるんじゃないか", "その偶然という奴が、わたしにかぶりを振ったんでしょう", "そういう不当なことに対して、あんたは苦情を持ち込む権利があるだろう", "受け付けてくれるものがありゃね", "どうだかわかるもんか。大きな声でどなるんだ。金持は出すと思うね", "奴さんたち、それほど馬鹿じゃありませんよ。奴さんたちの身になってみりゃ……", "少くとも、余分なものだけは出させるがいい", "人に何かやると、金でもなんでもね、その人間は善いほうにゃ向かないもんです。わたしにしてからが――早い話がね――すぐに始末におえない人間になりますよ", "財産を潰さないようにはできるだろう、世間なみの金持のように", "いいや、いいや", "どうして? 頑張るんだね。どうしてさ?", "われわれと、あの連中とは違うからですよ" ], [ "また、あした", "今日だろう、また今日と言えよ" ], [ "おめでとう。いつのことだね、その光栄にあずかったのは", "今朝ですよ。部屋で仕事をしていますとね、だしぬけに、あの綺麗な奥さまがはいって来なさるじゃありませんか。わたしはどこへ体を置いていいかわかりませんでした。で、おっしゃるには、――今日は、お神さん。その辺を通りかかったので、ちょっとお寄りしましたの――ってね。わたしは一時ぽっとなりましたよ。それでも気を取り直して――まあ、ようこそ、奥さま――こう言って、お掛けになる椅子を差上げたんですがね。――いいえ、ありがとう、くたびれていませんから――っておっしゃるんですよ。でも、なんだかせわしそうな呼吸づかいをなすっていらっしゃったようですけれどね――それでも立っているほうがいいっておっしゃるんです。家の壁だとか、柱時計だとか、寝台だとか、迫持のところだとかを、つくづく見ておいでになりましたよ。それから、おやじさんや、子供たちのことをお尋ねになったり、今年は、秣や麦や果物がよくできそうかどうか、そんなことを訊いたりなんかなすって、話をなさるにも、わたしゃお返事をするひまがないんですもの。で、そのうちに、どうしたものか、思い出したように――さよなら――って言って、帰っておしまいになったんですよ", "そんなに急に?", "そんなふうでしたよ", "おかしいな", "ね、おかしいでしょう、お邸の奥さまが、朝っぱらから、わたしのような貧乏人のところへ訪ねて見えるなんて、誰がほんとにするでしょう", "誰もほんとにしないね。僕も、いろいろ考えてみるが、その訪ねて来たわけがわからない", "わけですって。だけど、奥さまが、そのわけをおっしゃったんですもの。わたしがどうしているか様子を見に来て下すったんです。御親切から、ただそれだけですよ", "たしかにそうかね", "でも、ほかに、あの方がここに見えるわけはないじゃありませんか。おいで下さいと言った覚えもないし", "おばさん、あんたは、真面目に、あの人がほんとに、あんたを訪ねてくれたんだと思っているの?", "そうじゃないんですか。そりゃあなた、べつだんわざわざでもなく、ぶらっと寄って下すったんでしょうけれどね。わたしこう思ったんですよ――奥さまは散歩にお出掛けになった。天気はよし、晴れ晴れした気持におなりになった。わたしのうちの前をお通りになると戸が開いている。わたしの姿がお目にとまった。――おや、フィリップの住んでいる小屋をまだ見たことがない。どれ、あの神さんがどんなふうに家で暮らしているかを見てやろう。きっと、神さんがよろこぶだろう――まあこんな気をお起こしになったんでしょうよ", "ありがたいと思ってるの?", "だって、あのお方が、わたし風情をそんなにさげすんでは下さらないと思うと、いやな気持はしないでしょう。それにしても、さぞわたしのことを無作法な女だとお思いになったでしょうよ。それがね、何か冷たいものでも召上りませんかって、伺うのをつい忘れてしまったんですよ。あんまり急に行っておしまいになるもんだから。できることなら、後から追っかけて行きたかったけれど", "呼吸づかいがせわしかったっていうね?", "ええ、暑いもんだから、真っ赤な顔をしておいででしたよ", "ねえ、おばさん、あの人がはいって来た時、あんた、道の上に何か見かけなかったかね", "いいえ", "道に牛がいなかった?", "どんな牛が?", "牛がいたかって言うのさ", "牛が道を通るのを見ていて、何が面白いもんですか", "あんた、牛をこわいと思ったことはないの? あんたがだよ", "なんだってまた、そんなことを訊くんです", "お邸の奥さんは牛をこわがるかどうか知ってるかね?", "知りません。知ったところでなんにもならないでしょう", "なんにもならないどころか、それが大事なんだ。なぜなら、お金持のお邸の奥さんのドランジュ夫人が牛をこわがる人で、その奥さんがあんたのうちへはいってきた時に、ちょうど道の上を牛が通っていたとしたら、その奥さんが訪ねて来たからって、驚くに当たらないし、また、自慢にもならないわけだからね" ], [ "どうやって?", "吸ったんですよ", "いくつだったの、あんたは", "十九", "でも、あんたはまだお嫁に行く前だろう", "ええ", "それで、コルネイユさんとこの奥さんは恥かしがらなかった?", "わたしのほうからそう言ったんですよ。初めは、いいって言うんです。――あんたにできるもんか、おかしくって――こう言うんです。で、わたしは――奥さん、わたしは心からしてあげたいと思っているんです。なにも自分が面白くってやるんじゃありません。あなたが病気になるのが目に見えているからです――。すると、奥さんは、胴着のボタンをはずし、わたしは、奥さんの膝の間に割り込みました。すぐに慣れてしまいましたよ、奥さんは。朝、眼を覚ますと、わたしを呼ぶんです――さ、おっぱいを吸いにおいで――。そりゃ優しいんですよ、言い方がね。そのうち、間もなく楽になりましたけれどね。すると、いろんな馴れ馴れしい言葉でお礼を言いなすったっけ", "気持はどう、好い気持かしら?", "べつだん飛びつくほどの仕事でもありませんね。ただ、あのやさしい奥さんが、苦しんでいなさるんでね。それを見ながら、ほうっておけますか", "いいや、それはほうっとけない", "ほんとにかわいそうでしたからね", "吸乳器をどうして使わなかったの", "そんなものはそのころ知られてませんでしたからね" ], [ "あんたは乳を吸うのが上手だったんだね", "ええ、自慢でなくね。はじめのうち、なにしろ娘のことですからね、朋輩から、からかわれるのがこわさに、隠れていましたけれどね。そのうち、誰よりもわたしが一番吸い方が上手だっていう評判が立ってしまって、それからというものは、どこかに乳の張る女がいると、わたしを呼びに来るんですよ。嫁入りしてからは、一度もこの仕事を断わったことはありません", "そんな評判が立っても、フィリップさんは、あんたを可愛がらなくなるなんていうことはなかった?" ], [ "お前さんの名はなんていうの?", "フィリップ", "これから、ジャンていう名におし" ], [ "そんな粗相をしたからって、誰もおい出すとは言やしないよ。ジャン、こんどから気をつけておくれね", "せっかくですが、奥さん、ともかくお暇を頂きます", "どうして? 置いてあげるって言ってるじゃないの", "わたしがいやだと言うのに置いて下さるんですか。さきほど、わたしは嘘をつきました。あの花瓶は、わざと、悪意で、暇を出されようと思って、こわしたのです" ], [ "これで夏が越せます", "リボンをはずすといい", "なに、邪魔になりません" ], [ "草は一本もなし、何を食えばいいんだね、奴さんたち", "何も食べやしません。地べたに接吻するだけでさ" ], [ "いられるさ", "絹のシャツを百姓の股引と一緒に着るのかい", "いけないのか", "困った人だね、この人は、ほかと釣合いが取れないじゃないか。狼の尻尾は狼についてなくっちゃね", "やれやれ、しかたがねえ。一度ぐらい、その尻尾が道に落ちてることはないか" ], [ "うそじゃないよ", "うそだったら。鳴ったんなら聞こえるはずだもの", "眠ってたからさ" ], [ "じゃ、ちょうど鐘が聞こえないぐらい眠ってたんだろう", "鐘が鳴りゃ、大きな音がするんだから、びっくりしてとび起きらあね", "いくら頑張ったって、この僕が鳴ったと言うんじゃないか。あんたが行きつく時分には、もう司祭さんは始めてるから" ], [ "じゃ、信用しないんだね、僕の言うことを", "いったいお前さんはミサがいつ鳴るか知ってるのかい、そんなこと言うけれど", "もう一度言うが、僕は聾でもないし、道の真中で立ったまま眠りもしないからね。鳴ったと言ったら鳴ったんだよ", "そうか。そんなに立派に聞こえたんなら、なぜ自分で行かないんだい、この罰当たり", "おや、僕が冗談を言うと思ってるんだね", "へん、それくらいのことはしかねないからさ、信心のことときたら", "きっとだから……", "うるさい", "よしよし、強情っぱり、勝手にするがいい。ちゃんと教えてあげたんだからね。お気の毒だが後悔しなさんな。従弟のうちの従弟がせっかくこう言ってるのに、それで取りかえしのつかない罪を犯したら、それこそ自業自得だと思うがいい" ], [ "あの、ひょっとして、ミサの鐘はもう鳴ったんじゃあるまいかね", "とっくに鳴ったよ", "とっくにって、よっぽど前にかい" ], [ "家へ帰ると、寝台の上に跪いて、持っている本をひろげてミサを読んだんだよ。だけどお前、やっぱりね、いくら一生懸命に読んでも、御堂の式に出るのとは違うからね", "そりゃ違うどころの話じゃないさ" ], [ "この次から、お前さんの従弟の言うことはちゃんと聞くがいい", "お前は、だって、本気でものを言ってるのかどうかわからないんだもの、いつでも。あたしゃこの日曜っていう日は忘れないよ", "この罪を購うのにゃ骨が折れるね", "神さまのお赦しがあれば、きっと罪ほろぼしをするよ", "僕が神さまだったら、ちょっと考えるね" ], [ "行っといでよ。おっと、気をつけて、あんたは裾で梯段を掃いてるよ。裾を引き上げなくっちゃ。いや、そんなに、それじゃあんまりだよ、脛が見えるじゃないか", "綺麗な脛だから", "誰も綺麗だなんて言やしない" ], [ "あなたですよ、こいつをかいたのは", "わたしだよ、そうそう、だが別にみっともなくはないじゃないか" ], [ "どうしてって、嗅ぎたばこなんか、君の年で、婆さんみたいじゃないか、わたしの伯母ならわかってるが", "嗅ぐのは脳に効くんですよ", "そう、そりゃ知ってるがね、頭がすうっとすらあね。だが、若いものがなんだ、みっともない癖だね。長くやってるのかい", "おやじが死んでからでさ", "どういう関係なんだ、そりゃ。悲しくって嗅ぎたばこを嗅ぐわけか" ], [ "こいつは鼠尾だね", "ええ、あんまり綺麗じゃありません。樺の木の皮ですよ。おやじがそりゃ大事にしてましてね。銀のたばこ入れなんかよりゃこのほうが好きだったでしょう。でも、どんなのが好きにもなんにも、これきりなかったんだから。それに、どうしてもこいつを手離したがりませんでね。おやじがこいつをくれたについては、きっと、わたしも使うようにっていう腹だったろうと、こう思ったもんですから、そのうち、これで嗅ぐようになったわけです", "そんならまあ、君は好きで嗅ぐわけじゃなく、お父さんの記念を尊重して嗅ぎたばこを嗅ぎ始めたんだね", "慣れるのにちっとも骨は折れませんでしたよ。はじめて嗅いでみたとき、気持がよかったんですよ。喫うたばこよりはからだにもよし、ずっと安上りでさ", "その上、死んだお父さんを悦ばすわけだね", "まあそうですね。このたばこ入れを開けるたんびに、おやじのことを考えます", "たんびに?", "まあね", "君はそんなにお父さんが好きだったのかい" ], [ "遺産っていうのは、そのたばこ入れだけかね", "おやじの家も残して行きましたよ", "いま君が住んでる?", "ええ", "住み心地はいいかね", "広いんでね。いくらか湿けるようですがね。わたしは一日中、外で働いて、寝に帰るだけなんだから。湿けて困るのは、うちにじっとしている御新造さんだけでさ", "どこの御新造さん", "家内ですよ", "お神さんをもらったの", "ええ、あなたと同じでさ", "別嬪かね、君んとこの御新造さんは", "あなたんとこのと同じでさ", "いやはや", "全くわたしにとっちゃ申し分なしの別嬪でしょうな。二人の頭を枕の上に並べてみて、べつだん、ほかの夫婦よりゃまずいとも思いません", "子供はあるの", "二人、あなたと同じ、一人は男、一人は女、これもあなたと同じでさ。ですが、間違ってたと思うのは、そいつを養うことが、あなたのようにできるかどうか、そこを考えてみなかったことです", "何を言うんだ、君はわたしよりは金持だよ、そしてわたしより仕合せだよ" ], [ "退職恩給でもついたらね", "そうさ", "わたしゃ、これでもう退職になってるんでさ。お待ちしてます", "隣り同士で一生を送るかな" ], [ "ほんとにそうしようよ。それから、砂糖を入れたブランでも飲もうよ。それから、寝る前には本を読もうよ、本を。どうだい、時々は本を読むかい", "村の図書館の本を読みます", "どんな本?", "物語でさ", "フランスの?", "いいえ、インド人の……。奴らは茨の林を掻きわけてはいずり廻るんですね。で、だしぬけに飛び出して来て、農園を荒して行くんです。ぞっとするね。襦袢の中へ汗をかくんです。そういう本ですよ。夢中になって読むのは。あなたは?", "わたしもそうだ。それから、今日みたいに、日当たりのいいところを散歩しようね。まあ見てごらん、この土地を、われわれの故郷を。美しいじゃないか。この大きな草原、向こうに見える牧場、それをイヨンヌ河が貫いている、なんていう緑の色だ", "すてきな射的場ができますぜ", "射的場、なんだってそんな気になったんだ。あれは、とびきり上等な草が生える草地だよ" ], [ "われわれの大きな白い牡牛が、あのおかげで生きてるんだ。それにどうして、牡牛の代りに兵隊なんぞを入れようって言うんだ", "別にそういうわけじゃないんですよ", "それならそれでいいが……。それからまあ、あっちをごらん、河の向こう岸を……、どうだい、あの鐘楼の夕陽に輝いていることは", "畜生、あいつをここから、ずどんと一発大砲でやったらなあ", "またそんなことを言う。いったい、どうしたんだい。この自然を見て、君はそんな気ばかり起こすのかい。まるで将軍みたいなことを言うじゃないか。戦争があればいいと思うのか" ], [ "でも、今さっき、この草原を荒したり、あの鐘楼を大砲で撃ったりしようと思ったじゃないか", "ありゃ、言うにゃ言いましたけれど、ほかのことを言ってもよかったんです", "気をつけたほうがいいよ、ロベエル、人が聞いてるからね。そんなことを口に出すと、人がそいつを覚えていて、またほかのものに言うんだ。なにげなく言ったことでも、人は、君がそんなことを考えていると思うからね。なんでもない言葉が世間の評判になる。ことに、君は自分の村を他の村よりはいいと思っている。すると、君をよく知らない人間どもは、君がほかの土地のものを嫌っているように取るんだ。もしさっき言ったようなことを、そう言う人間が聞いたら、いくら君が平和な人でも、君は兄弟たちを絞め殺すことしか考えていないって言うよ、きっと" ], [ "いくらなんでも三十スウの涎掛けに飾り花をつけて、それで十五フラン下さいといえますかね。あの奥さんがびっくりしても、それを無理だとは言えないわよ", "でも、オランプさん、あの人が選んだ型はあんまり贅沢すぎるって、そう言って聞かせてやればよかったのに", "せっかくあたしを贔屓にして下さるのに、そんなことを言って、気まずい思いをさせる勇気はあたしにはないんですもの" ], [ "高いくらいですよ。でも、よかったら二時間いればいいんだから", "同じ報酬で……", "そりゃ……来た以上はいくらいたって……" ], [ "ぐちを言うことはないんです。町の奥さんたちは、そりゃ親切で、仕事も下さるししますからね。ジェルヴェ夫人、お医者さんの奥さん、あの方は娘さんの支度をすっかりあたしにさせて下さるんですよ", "娘さんはお嫁に行くんですか", "いいえ、まだ十四ですもの", "それにもうその支度を、あなたがなさるんですか", "だって、早晩お嫁に行くことはきまってるじゃありませんか", "それにしても、ジェルヴェ夫人は手廻しが早いな", "あたしのためには都合がいいんですよ。自分の気が向いた時に、その支度のほうは、ぼつぼつやればいいんでしょう。今週は襦袢の繍を一つ、来週はハンケチを一つ、そんなふうにね、ジェルヴェ夫人は、別にあたしに急いでとはおっしゃらないんだから", "好い人ですね", "そりゃそうですよ。お嫁入りの時に、パリに行って一緒にさせれば、支度はできてしまうんですからね", "そうすりゃ高くつくでしょう", "お金持なんですもの", "同時にしまり屋なんですよ。きっと金は払わないでしょう。いや、わたしの言うのはね、余計は出すまいっていうこと", "あたしがいるだけ下さることになっているんです。私どもは貸借の勘定があるんです", "だって、あなたは勘定をしたためしがないじゃありませんか" ], [ "ええ、母さん、もう起きてよ", "ゆうべは、お前、何時に寝たの", "いつもの通りよ。母さん、九時" ], [ "なんだ、その罎の中の黄色いのは?", "油と酢、そこの食料品屋で買ったんだ", "サラダへ入れるのか", "あたりまえよ、スープんなかじゃねえ", "なんだって、そんなに振るんだい、罎をさ", "油と酢とがよく混ざるようによ", "どこへ持って行くんだい", "うちの車へさ", "車へ?", "そうよ、あすこの、運河の橋んとこにいるんだ。今朝着いたんだよ、おれたちゃ。そして、今夜たつんだ", "面白いかい、そうして、ほうぼうの道を通るのは", "うんにゃ、そりゃ働いたほうがいいや", "その年でか、生意気だなあ", "九つだよ、おりゃもう", "九つで、何ができると思う", "人のうちへ傭ってもらうんだ", "小さ過ぎるよ、お前じゃ", "だって、おれより小さい、七つのやつが牛車を引っ張ってたぜ", "うそつけ", "ほんとだよ、おじさん、刺棒を持ってだよ。だから、言ってやったんだ――ひっくり返すなよ――って。そしたら――心配するない、おやじ――って言やがった。とうとうひっくり返さなかったよ、それで", "どうかなあ、ほんとか、そりゃ", "うそだったら、神さまのそばへ行けなくってもいいや", "お前、それで牛が引っ張れると思うかい", "でなきゃ、羊か豚の番ならできら", "お父っつぁんが許さないだろう。夜、川の中へ釣針を沈める手伝いをしたほうがいいって言うだろう", "できることなら、おれに仕事を見つけてくれたいんだよ。きっとよろこぶよ。おっ母あだってそうだ", "お前はあんまり小さいって言ってるじゃないか" ], [ "そんなら、そんなに威張るなら、この村の百姓家に置いてもらったらいいじゃないか", "今、行って来たんだよ。きっと置いてくれるんだけどなあ。もうちゃんと手が揃ってるからだめだ" ], [ "女の姉妹が三人、だけど、一人はもう歌わなくなっちゃった", "ははあ、風邪を引いたな", "そうじゃない、死んじゃったんだよ", "お前は、おれに何かくれって言わないね。銭を持ってることがあるか", "ない", "欲しいか", "うん", "どうするんだ", "パンを買うんだ", "パン、どうして。おれがよろこぶと思ってるのか。そんな……。なんだってかまうもんか。それより飴を買え、飴を", "おじさんの買えって言うものを買わあ" ], [ "ああ、じゃ、そうすらあ", "うちの人に見せるんじゃないぞ", "ああ", "お前が、ああって言ったって、見つけられるだろう、そうしたら取り上げられるばかりだ", "隠しとくよ", "どこへ" ], [ "いくつの年にお嫁に行ったの?", "二十四のとき。もっと早く行けたんだけれどね。綺麗じゃない、そりゃとびきり綺麗というほうじゃなかったけれど、人が見て逃げて行くようなことはなかったんですよ。これでも、なかなか望み手はあったもんです。ただ、おれが延ばせるだけ延ばそうと思って", "なんだって延ばすの?", "ただ、そんな気がしただけさ", "すぐに子供ができたかね", "いいえ、嫁入ってから、二年間はずっと娘さ。ところが、一番上の男の子ができてからというもの……", "そうそう、そりゃ知ってる" ], [ "ずっと操を立て通したの?", "そりゃむろん", "お嫁に行ってる間だけね", "行ってる間も、その後も", "その後は、ぜひそうしなけりゃならないこともなかったろう" ], [ "そう言うけれど、田舎にも、だらしのない女がいるにはいるね", "四人はいる", "そういう女を軽蔑しますか", "それはおれに関係のないこった", "誰か嫌いな人間がいるかな", "誰かって?", "誰か、まあ、あんたの敵っていうようなもの、あんたを悲しい目に遭わせたり、あんたに迷惑をかけたりした人間", "誰もいないね、おれに迷惑をかけたような人間は", "じゃ、あんたは誰かに迷惑をかけたことがありますか", "お蔭様でそんなこたあありません。そんなことでもあったらそれこそ大変だ" ], [ "それはそうと、年を取って意地が悪くなりはしないか、それが心配でね", "心配はいらないよ", "いいえ、いいえ、おりゃ、時々、そのへんの酔っ払いやのらくら者を見ると、腹の立つことがあるように思えてね", "そのへんとは?", "ええ、お互いさまだって、そのへんの人さね。ところが、そんな時、よっぽど我慢をしないと、つい馬鹿なことを言ってしまいそうでね", "あんたにそんなことができるものか", "これで、どうして、油断がならないよ", "とんだ間違いさ。それがあんたの夢の見納めだろう" ], [ "ずいぶん苦しいことがあったろう", "授かった苦しみです", "あんたのような働き手はいまどきないね", "まあね", "あんたは死ぬのがこわい?", "めったにそんなことは考えないよ", "あんたは死なないかもわからないね" ], [ "あんたぐらいの年になれば、もう死ぬわけがないじゃありませんか", "年を取った、それだけでも死にますよ", "百年は生きられるだろう", "若いものにそういってやるんだよ。すると怒るよ", "だが、全くのところ、もうしみじみ不幸な目に遭うのがいやになったでしょう。百年も生きていたかないね" ], [ "目をお覚ましなさい", "でもね、笑うこたあずいぶん笑ったんですよ", "あんたが? どんな場合に?", "土地の祭や、村の婚礼、それから川で洗濯女と一緒に", "どんなことで?", "いろんなことで。うれしいから笑ったんですよ。それに笑ったり踊ったりすることが好きでしたからね。こう見えても、裳の下に棒杭ばかり入れていたわけじゃないんですよ。とっぴょうしもない声で笑いながら踊ったもんですよ", "まだ踊ろうと思えば踊れるかね", "孫のピエエルが死んでなくって、あした、嫁でももらうっていうんなら、おりゃ、一番に踊るね", "せめて、笑うことだけはできるね", "心底からね、いざとなりゃ。人もうんと笑わせてやるよ", "ちょっと笑ってごらん", "笑いたかないもの", "ただ、どんなふうにして笑うか見たいからさ", "本気にならなきゃ、だめですよ。なんといったって違いますよ", "いいんだよ、わたしを悦ばせると思って。さあ、笑ってごらん", "じゃ、よござんす、あなたのことだから" ], [ "それごらんなさい、無理に笑うんじゃだめですよ。息子の婚礼で、うんと笑いましたよ。そりゃ、よく笑ったもんだ、まったくよく笑った", "そんなに笑ったの?、変だなあ" ], [ "そういう一生を、もう一度繰り返してみたいと思うかね", "苦も楽もひっくるめてなら、神様さえお許しになれば、もう一度繰り返してみてもいいね", "お願いしてみたら?", "どうもお祈りの仕方が悪いんでね、おれは。晩、寝床の中で、お祈りをしている最中に眠ってしまうんだもの。朝は、急いで仕事に出掛けるもんだから、みちみちお祈りをする。ところが、誰かに遇うと、ついおしゃべりをしてしまって、お祈りは半分どころでおしまいさ", "正直な話、神様っていうものはあると思う?", "あるにゃあるんだろうけれどね。あなたは?", "わたし? わたしはどうだか、そんなことは知らないよ。じゃ、あんたは、若い時分と同じように神様を信じていますか", "ああ、だけど、以前の方が神様は好きだったね", "へえ、じゃ、どんなところが気に入らないの、神様の?", "あんまりだと思うことが二つあるね、おれにはどうしてもそれがわからない。あとのことはまあいいとしてさ。第一、どうして悪い天気があって、作物に害をするんだね? どうして、前の日に下すったものを、翌日取り上げておしまいになるんだね? 裏の畑の桜実も、おりゃ取り上げられた。陽が照りすぎて萎びてしまったんだよ。慈悲深い神様なら、なんだって人を困らせておよろこびになるんだね?", "神様なんていうものはきっとないんだろう", "まったく、そう言いたくなるね", "じゃ疑ってるんだね", "疑っちゃいません。桜実が惜しいんだよ。それから、なぜ若いものを先に死なせ、年寄りを後に残すんです。ピエエル、おれの末の孫っ子ね、この冬死んじまった。それに、なんにも役に立たない婆のおれが、まだこうしてるじゃないかね", "泣くのはよしなさい。天国でピエエル君のそばへ行けるよ。天国があることを信じてるでしょう", "それも時と場合でね、日によるんですよ。おりゃなんだかもうわからない" ], [ "あんまり早過ぎるかね、笑うのが", "誰が笑って下さいといいました", "言われない先にやってあげたんだ。わたしは習慣を心得ている。初めて写真を撮るんではないんだ。わたしはもう子供じゃない。子供なら、――さ、こっちをごらん、可愛いコッコが出るよ――こういうところだ。わたしは自分一人で笑っているんだ、予めね。こうして長い時間、笑顔を作っておれる。別段、疲れもしない" ], [ "や、海の上に美しい珊瑚の環が", "あたしの口よ、それは。指をどけてちょうだい" ], [ "しかし……", "そうさ、わかってるとも、星が飛ぶもんか" ], [ "何か召し上りますか", "湯たんぽを一つ頼む……" ], [ "ああ、ここへ来てせいせいした", "そうだろう、ここの気候は腺病患者にもってこいだ" ], [ "顔を海の方に向けて、右へ進むのです。そうして市役所を左へやっておしまいなさい", "大丈夫です" ], [ "うまいにも、まずいにも、誇張しないでくれ", "聴かせてもらおう" ], [ "あたしの胸が平べったいって、ちゃんと言ったらどう", "そうじゃないのよ、マリイ、でも、あんたの胸は、あたしのみたいに邪魔にならないって言うの。あたしそう思うわ" ], [ "坊や、赤ちゃんにぶつかるよ", "坊や、赤ちゃんに砂掬いを貸しておあげ、お兄さんみたいに" ], [ "まあお立派な赤ちゃんですこと、奥さま", "ありがとうございます、奥さま。みなさんがよくそうおっしゃって下さいますんですよ。いくらそうおっしゃられても、こればかりは聞き倦きませんの。でも、母親の眼で見ますと、自分の子ですもの、どうしてもひいき目っていうものがございましてね", "そんな、あなた、いくら御自慢なすったってようございますわ。綺麗でまぶしいようですもの。見ているだけでも好い心持になりますわ。あのしっかり締った肉付き、生でたべてもようございますわね。どうでしょう、靨がいっぱい、どこにもかしこにも。おてて、あんよ、おそろしいようですわ。百年は大丈夫ですわね。まあ、あのかんかんの総々して軽そうですこと。失礼ですけれど、なんじゃございませんか、やっぱり鏝をおかけになるんでしょうね、そうでしょう、奥さま", "いいえ、奥さま、そんな、わたくし、子供の頭にかけて誓いますわ、そんなもったいない、穢らわしい、鏝なんか、髪の毛に対して申しわけがあるものですか。生れたときから、あれなんでございますよ", "そうでしょうとも、奥様、ほんとにね、おしあわせですわね、お母さまが。心の底からお羨しく存じますわ" ], [ "それなら、この留針を持っていると、僕に運が向くって言うんでしょう", "いいえ、あたし、そんな御幣かつぎじゃないの" ] ]
底本:「ぶどう畑のぶどう作り」岩波文庫、岩波書店    1938(昭和13)年4月15日第1刷発行    1973(昭和48)年7月16日第10刷改版発行    2009(平成21)年7月16日第20刷発行 ※「搏打」と「博打」、「焔」と「※[#「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88]」、「わたし」と「あたし」の混在は、底本の通りです。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2019年1月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050723", "作品名": "ぶどう畑のぶどう作り", "作品名読み": "ぶどうばたけのぶどうづくり", "ソート用読み": "ふとうはたけのふとうつくり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "LE VIGNERON DANS SA VIGNE", "初出": "", "分類番号": "NDC K953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2019-02-22T00:00:00", "最終更新日": "2019-01-29T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001156/card50723.html", "人物ID": "001156", "姓": "ルナール", "名": "ジュール", "姓読み": "ルナール", "名読み": "ジュール", "姓読みソート用": "るなある", "名読みソート用": "しゆうる", "姓ローマ字": "Renard", "名ローマ字": "Jules", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1864-02-22", "没年月日": "1910-05-22", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "ぶどう畑のぶどう作り", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1938(昭和13)年4月15日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年7月16日第20刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年7月16日第20刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001156/files/50723_ruby_66939.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-01-29T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001156/files/50723_66985.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-01-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "レイモンドさん……あなたなの?あなたも聞いて!", "ええ……あなたも目を覚ましたのね!", "私、きっと犬の声で起きたのよ……もうしばらくしてよ。けれどももう犬は鳴かないわね……今何時でしょう?", "四時頃だわ。", "あら! お聞きなさい。誰か客間を歩いているようよ。", "でも大丈夫よ、お父様が階下にいるんですもの、シュザンヌさん。", "でもかえってお父様が心配だわ。", "ドバルさんが一緒にいらしってよ。", "でもドバルさんはあっちの端よ、どうして聞えるものですか。" ], [ "呼びましょう……救けを呼びましょう。", "誰が来てくれるかしら、お父様には聞えるわね……だけどもしまだ他の泥棒でもいて、……お父様に飛びついたら……", "でも……下男を呼びましょう……呼鈴が下男部屋に通じているわよ。", "そうよ……それはいい考だわ……でもいい工合に来てくれればいいわね。" ], [ "それではその時間がなかったのですな。", "この点を我々は十分調べてみようとしているのです。" ], [ "あなたはその男を御存知ですか?", "いいえ、少しも見覚えがありません。", "ドバルは人に恨まれているようなことはありませんか。", "ドバルですか、仇敵ですか? いやあれは実に立派な人間です。二十年この方私の宅にいて正直な男でした。", "そうするとやはり盗むつもりで忍び込んだのですね。", "そうです。泥棒です。", "すると何か盗まれましたか。", "いえ、何も。しかし私の娘と姪が、二人の曲者が邸園を逃げる時、大きな包を持っているのをたしかに見たのですから。", "では二人のお嬢さんにお聞きしましょう。" ], [ "邸園を横切った二人の男は、たしかに大きな包を下げていました。", "では三番目の男は?", "何も持っていませんでした。", "どんな男でしたか?", "何しろ懐中電灯の光で眼がくらんでいてよく分りませんでしたが、肥って背の高い男のようでした。" ], [ "はい、私は主人に逢いましたが、この帽子は馭者に売ったそうです。", "馭者に?", "はあ、何でも一人の馭者が店先に馬車を止めて、御客様が入用だから、自動車運転手用の黄色い皮帽子をくれといって、ちょうどこれが一個あったのでそれを差し出すと、馭者は大きさも調べずに、買いとって出ていったそうです。", "それは何日だい?", "何日?何日って今日です、今朝の八時です。", "今朝?君は何をいっているのか?", "この帽子は今朝売れたのです。", "しかしこの帽子は今朝この邸園で発見されたんじゃないか。してみれば、それはとにかくその前に買われていなければならん。", "しかし帽子屋ではたしかに今朝といっていました。" ], [ "これがあいつの帽子と外套です。", "帽子をかぶらずに出掛けたのか。", "懐中から黄色い皮の帽子を出して被っていったそうです。", "黄色い皮の帽子?そんなことがあるもんか、それは現にここにあるじゃないか。" ], [ "しかしその前に判事さん、もっと気をつけなければならないことがありますよ。まあこの紙切を読んで下さい。これは外套のポケットから出たものです。", "外套というのは?", "馭者の残していったものです。" ], [ "そして、君は?", "僕ですか?", "さよう、何という新聞社へ勤めているのですか?", "そうですなあ、判事さん、僕は種々な新聞に書いているんです……方々の新聞に……", "身分証明書は?", "持っていません。", "すると君の姓名は、何か書類でもありますか?", "書類なんて持っていません。", "君は職業を証明すべき書類を持っていないのですね。", "僕は職業ってありません。" ], [ "判事さん。あなたは僕を犯人の中の一人だとお思いになるんですね。しかしもし僕が本当に犯人の一人なら、さっきの馭者のように、とっくに逃げてしまったでしょう。考えてみても……", "冗談もたいていにしたまえ!君の姓名は?", "イジドール・ボートルレです。", "職業は?", "ジャンソン中学校の生徒です。" ], [ "何、何だって?中学校の生徒……", "ジャンソン中学です。ポンプ街の……", "おいこら、馬鹿なことをいうな!そんな戯けたことをいってもしようがないじゃないか。", "ですが判事さん、本当なのです。あ、この髯ですね。御安心下さい、これはつけ髯なのです。" ], [ "君は何しに来たのです。", "僕はちょうど学校が休みなのです。僕はそれでこっちの方面を旅行しているのです。父が奨めてくれましたから。", "つけ髯をなぜつけているのですか。", "あ、僕たちは学校でよく探偵談をしたり、探偵小説を読んでいるもんですから、ただちょっとつけ髯をつけてみたんです。それで中学生じゃ人が信用してくれませんから新聞記者に化けたんです。一週間ばかり面白くない旅行をしていたところ、ちょうど昨晩ルーアンの友達に逢って、今朝この事件が起きたのを聞いたので、二人で馬車を雇ってきたんです。" ], [ "ところで君はここへ来て面白いと思いますか。", "素的ですね、実に面白いです。ね、判事さん出来事を一つ一つ集めて、だんだん事件の真相らしいものが出来上っていくのを見ていると実に愉快です。", "真相らしいというのは、こりゃ面白い、すると君は今度の事件の真相についていくらか分りそうですか。" ], [ "ただ一つ、僕には意見をつくることが出来そうです。またそれからその他にもたいへん大切な考が出来そうです。", "へえ、君から何か教えてもらえるかもしれんねえ、はずかしいが私にはちっとも分らない。", "それは判事さん、あなたがまだ十分考える時間がないからですよ。僕はこうしてあなたが種々調べたことから真相らしいものを考え出すんです。", "偉い!そうするとこの客間から何か盗まれたんですか。", "僕はちゃんと知っています。", "なお偉い!この家の主人よりよく知っている。では犯人の名前も知っているでしょう。", "それも知っています。" ], [ "すると犯人の名前を知っているのですね。", "そうです。", "また隠れている場所も知っているでしょうね?", "そうです。" ], [ "それは幸だ、で、君はその驚くべき考を私に話してくれるでしょうね。", "今からでも出来ます。" ], [ "判事様……", "何ですかお嬢さん。" ], [ "私は昨日午後四時頃土塀の外の森を散歩していますと、ちょうどこの方くらいの背丈で、同じ着物を着てお髯もやはり短く切っていた若い方を見掛けました。その人はたしかに人に見られないようにしていたようでした。", "そしてそれが僕なのですか?", "はっきりとは申し上げられませんけれど、本当によく似たお方でした。" ], [ "君は令嬢の言葉にどう返事しますか?", "もちろん令嬢が間違っています、僕は昨日その時分にはブュールにいました。", "証明がなければ困る。とにかく調べる必要があるから、君、警部君、この青年を監視させてくれたまえ。" ], [ "判事さん、じゃもうすっかり分りましたね。", "十分分りました。第一レイモンド嬢が塀の外の小路で君を見たという時間に、君はたしかにブールレローズにおられた。君は間違いなくジャンソン中学の学生で、しかも優等生であることが分りました。", "では放免して下さいますか。", "もちろんします。しかし先日話し掛けて止めてしまった話のつづきをぜひしていただきたい。二日間も飛び廻ったことだから、だいぶ調べは進んだでしょう。" ], [ "僕は調べたことをお話して、知ったか振りをしようとは思いませんが、まず盗まれたもののことからお話しましょう。僕にはこれは一番易しい問題でしたから。", "易しいというのは?", "順々に考えてみさえすればいいからです。それはこうです。二人の令嬢の言葉によれば、二人の男が何か持って逃げたということです。そうすると何か盗まれたに違いないのです。", "なるほど、何か盗まれたのですね。", "ところが伯爵は何も盗まれてはいないといっています。", "なるほど。", "この二つのことから考えてみると、何か盗まれたのに、何も失くなっていないということは、何か盗んだ品物と少しも変らぬ物が本当の物とおき変えられてあるに違いありません。" ], [ "この部屋で強盗の眼につくものは何でしょうか?二つの物があります。第一にあの立派な絨氈です。しかしこんな古い掛物はとてもこれと同じようなものは出来ません。すぐに偽物ということが分ります。次にあるのは四枚のこの名画です。あの壁に掛けてある有名な絵は偽物です。", "何ですって!そんなはずはない。", "いや、たしかにそうです。", "いや、それは間違いだ。", "まあ、判事さんお聞きなさい。ちょうど一年前ある一人の男が、伯爵のところへ尋ねてきて、あの名画を写させて下さいと申し込みました。伯爵が許されたので、その男は早速それから五ヶ月も毎日この客間に来て写していったのです。ここに掛っているのは、その時写した方の偽物です。" ], [ "実は判事さん、この名画は四枚とも偽物です。", "では、なぜさようおっしゃらなかったのです。", "私は穏な方法でその絵をとり戻そうと思ったからです。", "それはどんな方法ですか?" ], [ "君は実に偉いですね。どうぞ先を話して下さい。君は犯人の名前も知っているといわれたはずですね。", "そうです。", "誰があのドバルを殺したのでしょう。その男はどこに隠れているのでしょう。", "実はそのことについては、一つの間違いがあります。ドバルを殺した男と、逃げた男とは別の人間です。" ], [ "そうです。", "では別にまだ逃げた犯人がいるのですね。", "いいえ。", "ではどうもよく分らないですな。誰がドバルを殺したのです。", "それを申し上げる前に、少しくわしくお話をしないと、私が余り変なことをいうようにお思いになるでしょう。まずドバルが殺されたのは夜中の四時であるのに、ドバルは昼間と同じような着物を着ていました。伯爵はドバルは夜更しをする癖があるといわれましたが、みんなのいうのを聞きますと、それとは反対に、ドバルはたいへん早く寝るそうです。そうしますと話が合わないで少しおかしくなります。それに僕の調べたところによると、あの名画を写させてくれといった画家は、ドバルの知り人だったということです。それでいよいよ僕はドバルが怪しいと思いました。", "するとどういうことになりますか?", "つまり画家とドバルとは仲間でした。それにはたしかな証拠があります。ドバルが手紙を書いた吸取紙の端に『A・L・N』という字があったのを見つけました。電報の名前と同じです。ドバルは名画を盗みとった強盗犯人と手紙のやり取りをしていたのです。" ], [ "ですから、逃げた犯人が、仲間であるドバルを殺すはずはありません。", "そうかしら?", "判事さん思い出して下さい。気を失っていた伯爵が一番初めに叫んだ言葉は『ドバルは生きているか?』ということでした。その後伯爵は『眉間を曲者に殴られて気を失ってしまった。』といわれました。どうして気を失った伯爵が、正気づくと同時にドバルが短剣で刺されたことを知っていたのでしょう。" ], [ "そうするとどうして生きているのだろう。食物や飲物も入るだろうに。", "それは僕にはいえません。しかし彼があそこにいることは決して間違いありません。僕はそれを断言します。" ], [ "君、何をしているんです。眠っていたの?", "いいえ、僕は考えていたんです。", "今朝からずっと?", "え、今朝からずっと。ね判事さん、犯人は初めからレイモンド嬢を殺すつもりだったのなら、なぜわざわざ外まで連れ出して殺したのでしょう? そしてその死体はどうしたのでしょう。", "さあ、それは私にも分らん。そして死体もまだ発見されてはいない。しかし調べてみると、海岸に望んだあの絶壁まで行った形跡がある。そこは恐ろしいほど切り立った崖で、下を見下すと約百米突ばかりの深い絶壁で、その下には大きな巌に波が恐ろしい勢で打ちつけている。たぶんそこへ投げ捨てたものと思われる。", "そうでしょうか?", "そうだ。ルパンが死んだので、この前に脅迫した通り令嬢を暗殺した。しかしよく考えてみると、どうもおかしい。まだルパンは生きているに違いない。ね、ボートルレ君、いよいよ事件は分らなくなってしまった。それに君、ジェーブル伯爵は、わざわざロンドンから、エルロック・ショルムスを呼んだ。ショルムスは来週の火曜日から来ることになった。ね、君、我々はどうしてもその前にこの謎を解かなければならない。", "では判事さん、今日は土曜日です。月曜の朝十時にここでお逢いしましょう。それまでに考えておきます。" ], [ "六遍?……そしていつ頃から。", "その前から毎日でさあ、しかしいつも品物は違っているようでしたよ。大きな石ころみたいな物や、時には新聞紙に包んだ小さなかなり長い物などがありました。とても大切がって私らには指もさわらせませんでしたよ。" ], [ "どうです、分りましたか。", "分りました。とても素晴らしいことが。今はルパンの隠れ家どころではありません。我々が今まで気づかずにいたもっと他の物が失くなっています。", "名画の他にですか?", "さよう、もっと大切な物が、しかも名画と同じように替りの品物をおいていきました。" ], [ "判事さん、あなたはそれを知りたいんですか。", "もちろん知りたいです。" ], [ "どうしたのです。", "ボートルレ君、い、居た。何かある!", "え!どこに?", "あの大石の下に、あれ、見たまえ!" ], [ "あ! ボートルレ君一体どうしたのです。", "いえ、何でもないんです。しかし判事さん、この邸の中でさえも僕のすることを見張っている者があるんですよ。", "え! 本当かね、それは。", "そうです。そいつを見つけるのはあなたの役です。しかし僕は思ったより以上に調べを進めました。それで奴らも本気になって仕事をし出したらしいのです。僕のまわりにも危険が迫ってきました。", "そんな……ボートルレ君。", "いえ、とにかくそれよりも先に、あのいつか血染の襟巻と一緒に拾った紙切のことですが、あのことは誰にも話してはいらっしゃらないでしょうね。", "いや、誰にも、しかしあんな紙切が何か役に立つのですか?", "え、大いに大切なのです。僕はあれに書いてあった暗号の謎を少し解くことが出来ました。それについて申し上げますが。" ], [ "何だろう、おかしいな。", "ちょっと、下までおいで下さいといって、馬車をまだお降りになりません。" ], [ "話せ、何が望みなのだ。", "紙切さ、あれを渡せ。", "僕は持っていない。", "嘘をつけ、俺はちゃんと見たんだ。", "それから?", "それから。手前は少しおとなしくしろ、手前は俺たちの邪魔ばかりしやがる。手前は手前の勉強をすれやいいんだ。" ], [ "とにかくその前にボートルレ君、あの判事の書記が君に乱暴したことを僕は謝らなければならない。", "いや、実際あれには僕も少し驚きました。だってルパンのやり方ではないんですもの。", "そう、実際、あれは我輩の少しも知らないことだった。あの部下はまだ新米なので、我輩の命令に背いて勝手にしてしまったことなんだ。我輩はあの部下を厳しく罰しておいた。君の蒼い顔を見てはいっそうお気の毒です。勘弁してくれますか。" ], [ "では、あなたは僕にどうしろというんです。", "人は自分々々の仕事があるものだ。それより余計なことはしないようにするものだ。", "そうすると、あなたはあなたの好き勝手に強盗を働き、僕は勝手に勉強ばかりしていろというんですね。", "そうだ、君は俺を放っておけばいいんだ。", "では、今あなたは何がいけないというんですか。", "君は白ばっくれるな、君は俺の最も大切な秘密を知っている。君はそれを発表してはならん。君は新聞に約束した。明日発表することになっている。", "その通りです。" ], [ "嫌だ!", "貴様は別のことを書け、世間で思っている通りのことを書いてそれを発表しろ!", "嫌だ!" ], [ "やい、貴様は何でも俺のいう通りにするんだ。やい、ボートルレ!貴様はあの僧院の土窖の中で発見された死体はアルセーヌ・ルパンに相違ないと書くんだ。俺は、俺が死んでしまったものと世間の奴らに思わせなければならないんだ。貴様は今俺がいった通りにしろ!もし貴様がそうしないな……ら", "僕がそうしないなら?", "貴様の親父は、ガニマールやショルムスがやられたと同じように、今夜誘拐されるぞ!" ], [ "笑うな!……返事をしろ!", "僕は、あなたの思うようにならないのは気の毒とは思うんですが、僕は約束したんだから話します。", "今俺がいった通りに話せ!" ], [ "何のことだろう?僕には分らない……", "電報を打った所の名をよくごらん、そらシェルブールとあるだろう。これでもすぐ分ることじゃないか。", "え!、なるほど、分る……シェルブールだ、それから?", "ニモツニツキソッテイク、メイレイマツツゴウヨロシ、もう分ったろう。馬鹿だなあ、ニモツとは君のお父さんのことだ、まさかボートルレ氏父とも書けないじゃないか。二十人の護衛者がついていても、俺の部下の方ではツゴウヨロシといって俺の命令を待っている。え、どうだい、赤ちゃん?" ], [ "もし僕があなたのいうようにするなら、お父様を赦してくれますか。", "それはいうまでもなく赦す、部下は君のお父さんをある田舎の町へ自動車で連れていくことになっているが、もし新聞に出ていることが僕のいう通りになっていたら、俺はすぐ部下に電報を打って、君のお父さんを赦すように命ずる。" ], [ "しかし誰が、誰が私の家の中へ入ってきたのでしょう?", "それは分りませんね、だが父がこの写真で騙されたのはきっと本当です。港へ大急ぎで行って、誰かに尋ねて調べてごらんなさい。" ], [ "さあさあすぎたことは仕方がありません。僕は決して怒りはしません。その代り男たちがどんなことを話していたか、知っているだけ話して下さい、僕のお父様を何で連れていって?", "自動車よ……", "何かいっていましたか?", "何だか、町の名をいっていたのよ。", "どんな名前?", "シャート……何とかいってよ。", "シャートブリアン?", "いいえ……", "シャートールー?", "そそ、そうよ、シャートールーよ。" ], [ "あの、森の向うにある古いお城は何という城ですか?", "あれはね、エイギュイユ城っていうのよ。" ], [ "え!エイギュイユ城ですって……ここは何県ですか?アントル県ですね、たしか?", "いいえ、アントル県は川の向う岸よ。ここはクリューズ県ですよ。" ], [ "この城の中に閉じ込められているのは私ばかりではない……", "ああ、誰?ガニマール?ショルムス?", "いいえ、そんな人は見たことがない。若い令嬢だ、", "ああ、レイモンド嬢です、きっと。どの部屋にいらっしゃるか知っていますか。", "この廊下の右側の三番目。" ], [ "その本はどこにございましょう。", "それ、その机の上です。" ], [ "分らなくなりました。", "なるほど、分らない。" ], [ "どうしたんです!", "破ってある!途中の二頁だけ破ってある、ごらんなさい。跡がある……" ], [ "あなたは、この本をお読みになったのなら、裂かれた二頁もお存じでいらっしゃいましょう。", "ええ。", "ではどうぞ、その二頁のところを私にお話し下さい。", "え、よろしゅうございます。その二頁はたいへん面白いと思って読みました。それは本当に珍しいことで……", "それです。それが一番大切なことです。エイギュイユ・クリューズは何でしょう。早くどうぞお話し下さい。", "思ったよりも簡単なことです。それは……" ], [ "あなたはどなたです。", "分りませんかね、私はショルムスです。" ], [ "こっちだって十二三艘の漁船を雇って、それに一人ずつ部下を乗り込ませておいて捕まえるさ。", "ルパンのことだから、その漁船の間だってついと逃げてしまうかもしれません。", "その時は大砲で沈めてしまうばかりだ。", "大砲を用意するんですか。", "そう、水雷艇が私の電報一本で、すぐ応援に来てくれることになっている。" ], [ "こっちにも段があります。", "ははあ、こっちからのぼれば、こっちから逃げる考えだな。" ], [ "そうさ、今度こそ本物のアルセーヌ・ルパン、どうぞよく見てくれたまえ。", "では、あの令嬢は?" ], [ "ね、下に何か音がしますわね、聞えるでしょう。", "何、何でもないよ。浪の音だよ。", "いいえ、違いますわ、あの音は。" ], [ "それでは仏王に伝わった宝物は?", "ああ、君はそれが知りたいんだね。" ], [ "あははは、大べら棒!", "御用だ!ルパン、神妙にしろ!" ], [ "早く、早く、私、ずいぶん心配しましたわ。何していらっしたの?", "何大丈夫だよ、船は用意したかい?" ], [ "何だ、何か起ったのか。", "男が、今朝の英国の男が来て、……あなたのお母様を……" ], [ "その婦人を放せ!", "ならん!" ], [ "その婦人を放せ!", "ならん!" ] ]
底本:「小學生全集第四十五卷 少年探偵譚」興文社、文藝春秋社    1928(昭和3)年12月25日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「彼奴→あいつ 彼方→あっち 貴方・貴女→あなた 或→ある 或は→あるいは 如何→いか 不可ない→いけない 一層→いっそう 一杯→いっぱい 否→いや 愈々→いよいよ 中→うち お出で・御出で→おいで 大方→おおかた お蔭→おかげ 反って→かえって か知ら→かしら 微か→かすか 可なり→かなり 兼ね→かね 彼の→かの かも知れ→かもしれ 位→くらい・ぐらい 呉れる→くれる 此奴→こいつ 御ざる→ござる 毎→ごと 御らん→ごらん 今日は→こんにちは 流石→さすが 左様→さよう 更に→さらに 然し→しかし 然も→しかも 頻りに→しきりに 暫く・暫らく→しばらく 失敗った→しまった ずい分→ずいぶん すぐ様→すぐさま 即ち→すなわち 是非→ぜひ 其奴→そいつ 密と→そっと その内→そのうち 大層→たいそう 大抵→たいてい 大分→だいぶ 大変→たいへん 沢山→たくさん 只・唯→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 給え→たまえ 段々→だんだん 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 遂に→ついに (て)上げ→あげ (て)行→い (て)頂→いただ (て)置→お (て)来→き・く・こ (て)参→まい (て)見せ→みせ (て)見→み (て)貰→もら 何処→どこ 尚→なお 仲々→なかなか 何故→なぜ 成る可く→なるべく 成程→なるほど 許り→ばかり 筈→はず 判然→はっきり 酷く→ひどく 一先ず→ひとまず 可き→べき 程→ほど 将に→まさに 先ず→まず 益々→ますます 迄→まで 侭→まま 間もなく→まもなく 見たい→みたい 見る見る→みるみる 勿論→もちろん 尤も→もっとも 最早→もはや 様に→ように 漸く→ようやく 他所→よそ 等→ら 訳→わけ 僅か→わずか」 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※底本中、混在している「ボードルレ」「ボートルレ」は「ボートルレ」、「イジドール」「イジトール」は「イジドール」、「バルメラ男爵」「バラメラ男爵」「バラメル男爵」は「バルメラ男爵」、「レイモンド」「レイラモンド」は「レイモンド」に統一し、「ビクトール」「ヴィクトール」、「エルロック」「ヘルロック」はそのままにしました。 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 ※原作品では、暗号紙片に欠けがあり、解読がそのままでは困難なものになっています。この底本はそれをほぼ踏襲しておりますが、原作および底本を尊重し、そのままにしました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2006年5月2日作成 2011年4月29日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046187", "作品名": "奇巌城", "作品名読み": "きがんじょう", "ソート用読み": "きかんしよう", "副題": "アルセーヌ・ルパン", "副題読み": "アルセーヌ・ルパン", "原題": "L'AIGUILLE CREUSE", "初出": "", "分類番号": "NDC K953", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-05-24T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001121/card46187.html", "人物ID": "001121", "姓": "ルブラン", "名": "モーリス", "姓読み": "ルブラン", "名読み": "モーリス", "姓読みソート用": "るふらん", "名読みソート用": "もおりす", "姓ローマ字": "Leblanc", "名ローマ字": "Maurice", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1864-11-11", "没年月日": "1941-11-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "小學生全集第四十五卷 少年探偵譚", "底本出版社名1": "興文社、文藝春秋社", "底本初版発行年1": "1928(昭和3)年12月25日", "入力に使用した版1": "1928(昭和3)年12月25日", "校正に使用した版1": "1928(昭和3)年12月25日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001121/files/46187_ruby_21726.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-04-29T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001121/files/46187_23055.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-04-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "おつ母さん。難有うよ。わたくしこれでお妃様のやうな心持でゐますの。", "なんだつて。あのお妃様のやうだつて。まあ、お待よ。今にわたしが林檎を入れたお菓子を焼いて食べさせて上げるからね。その時どんなにおいしいか、どんなに好い心持がするか、その時さう云つてお聞せ。おや。ドルフが桟橋を渡つて来るやうだよ。粉と、玉子と、牛乳とを買つて来てくれる筈なのだよ。" ], [ "わたしあなたと中が悪くなる程なら、死んでしまふわ。", "さうか。己はお前より二つ年上だ。お前が十になつた時、己は十二だつたが、今思つて見れば、己はもうあの時からお前が好だつた。それは今とは心持は違ふが。" ], [ "でも折々はわたし早く天に往つて、聖母様にあなたのわたしにして下すつた事を申し上げた方が好いかと思ふの。", "おい。お前が陰気になると、己も陰気になつてしまふ。今夜のやうな晩には、御免だぜ。", "あら。わたしちよいとでもあなたのお心持を悪くしたくはないわ。そんな事をする程なら、わたしの心の臓の血を上げた方が好いわ。", "そんならその綺麗な歯を見せて笑つてくれ。", "わたしなんでもあなたの云ふやうにしてよ。わたしの喜だの悲だのと云ふものは、皆あなたの物なのだから。", "それで好い。己もお前の為にいろんなものになつて遣る。お前のお父つさん、お前の亭主、それからお前の子供だ。さうだらう。少しはお前の子供のやうな処もあるぜ。今に子供が二人になるのだ。" ], [ "えゝ。トビアスをぢさん、今晩は。ドルフさんは途中で友達に留められなすつたので、わたしが代りにプツゼルをばさんを連れて来て上げました。", "それは御苦労だつた。まあ這入つて一杯呑んでから、ドルフのゐる処へ帰りなさるが好い。" ] ]
底本:「鴎外選集 第14巻」岩波書店    1979(昭和54)年12月19日第1刷発行 初出:「三田文学 四ノ一一―一二」    1913(大正2)年11月~12月 ※表題は底本では、「聖《せい》ニコラウスの夜《よ》」となっています。 入力:tatsuki 校正:しず 2001年10月25日公開 2016年2月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002063", "作品名": "聖ニコラウスの夜", "作品名読み": "せいニコラウスのよ", "ソート用読み": "せいにこらうすのよ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "SANKT NIKOLAUS BEI DEN SCHIFFERN", "初出": "「三田文学 四ノ一―四」1913(大正2)年11月~12月", "分類番号": "NDC 953", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-10-25T00:00:00", "最終更新日": "2016-02-01T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000358/card2063.html", "人物ID": "000358", "姓": "ルモンニエー", "名": "カミーユ", "姓読み": "ルモンニエー", "名読み": "カミーユ", "姓読みソート用": "るもんにええ", "名読みソート用": "かみいゆ", "姓ローマ字": "Lemonnier", "名ローマ字": "Camille", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1844-03-24", "没年月日": "1913-06-13", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鴎外選集 第14巻", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1979(昭和54)年12月19日", "入力に使用した版1": "1979(昭和54)年12月19日第1刷", "校正に使用した版1": "1979(昭和54)年12月19日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "しず", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000358/files/2063_ruby_23049.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-02-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000358/files/2063_23050.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-02-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "ほらご覧、坊っちゃん、あすこを。……ほんとに、なんて気味のわるい?", "うん、気味がわるいね、ばあやさん。", "でもね、わたしがこれから話してあげることは、もっとずっと気味がわるいのよ。" ], [ "うん、ぎりぎり結著だ。", "ただそれだけの仔細なんですね?", "うん、それだけだ。", "まあまあ、それで安心しました。さもないとわたしは、あんたにとって現在の弟が、そこらの奴隷一匹より安いのかと、そう思うところでしたよ。ではこうしましょう、あんたは約束を破るまでもない、ただあのアルカーシカを、わたしのむく犬の毛を刈込みにおよこし下さい。その先あれが何をするかは、わたしの知ったことですて。" ], [ "わたくしが決心した次第は、ただこの胸の底に納めてございます。", "ひょっとするとお前は、弾除けのまじないでも受けていて、それでピストルを怖れんのではないかな。" ], [ "けれど、その名高いカモジの美術家をここへ葬ったのは、一たい誰だったの?", "県知事さんですよ、坊っちゃん。ほかならぬ県知事さんが、自身でお葬いに来たんですよ。当り前ですとも! 士官さんですものね、――おミサの時も、補祭さんや神父さんは『貴族』アルカージイと呼び上げなすったし、やがてお棺を吊りおろす時には、兵隊が鉄砲を空へ向けてカラ弾を打ったものですよ。またその旅籠屋の亭主には、やがて一年ほどしてから、お仕置き役人がイリインカの広場で鞭打ちの刑を執行しました。その男はアルカージイ・イリイーチを殺めた報いで四十三の鞭を受けましたが、とうとう堪えとおして――生きていたので、焼印をおされて懲役にやられましたよ。お屋敷の男衆で手のすいていた人たちは、みんな見物に行きましたが、あの非道な先代の伯爵をあやめた下手人のお仕置きのことを覚えている年寄り連中は、その四十三の鞭というのは、まだしも少ない方だと言っていました。それはアルカーシャが平民の出だったからで、前の下手人たちは相手が伯爵だというので、百一本の鞭をくったのだそうです。掟によると、偶数はいけないことになっていて、鞭の数はかならず奇数でなければいけないのですよ。その時はわざわざトゥーラからお仕置き役人を連れて来て、いざ始める前にラム酒を三杯も引っかけさせたそうです。そこで初めの百本は、ただ一寸刻み五分だめしのつもりでやって置いて、やがて最後の百一本目を思いっきりピシリとやったものだから、脊骨が砕けてしまったそうですよ。板から引っぱり起された時には、もう息を引きとりかけていたのを、……それからコモにくるんで牢屋へ送ろうとしたのですが、途中で死んでしまったのですよ。ところがそのトゥーラのお仕置き役人は、人の噂によると、『やい、もっと誰か叩かせろ――オリョールじゅうの奴らを、片っ端からぶっ殺してやるぞ』と、どなり散らしていたそうですよ。", "でも、ばあやさんは、その人のお葬いに行ったの、行かなかったの?" ], [ "行きましたとも。みんなして行ったのですよ。伯爵がね、芝居者をのこらず連れて行って、うちの者のなかからそんな立派な奴の出たことを、よく見させて置けと下知したのですからね。", "それで、お別れができたわけなの?", "できましたともさ! みんなお棺のそばへ行って、お別れをしたのですよ。そしてわたしは……そう、あの人はすっかり面変りがして、これがあの人かとびっくりするほどでした。痩せこけて、まっ蒼な顔をして――無理はありません、血がすっかり出尽してしまったのですもの。何しろあの人が刺し殺されたのは、ちょうど真夜中のことでしたからねえ。……一たいどれほどの血をあの人は流したことやら……" ] ]
底本:「真珠の首飾り 他二篇」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年2月10日第1刷発行    2007(平成19)年2月21日第7刷発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 ※原註記号「*」は、底本では直前の文字の右横に、ルビのように付きます。 入力:oterudon 校正:伊藤時也 2009年7月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047205", "作品名": "かもじの美術家", "作品名読み": "かもじのびじゅつか", "ソート用読み": "かもしのひしゆつか", "副題": "――墓のうえの物語――", "副題読み": "――はかのうえのものがたり――", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 983", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-08-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001295/card47205.html", "人物ID": "001295", "姓": "レスコーフ", "名": "ニコライ・セミョーノヴィチ", "姓読み": "レスコーフ", "名読み": "ニコライ・セミョーノヴィチ", "姓読みソート用": "れすこおふ", "名読みソート用": "にこらいせみよおのういち", "姓ローマ字": "Leskov", "名ローマ字": "Nikolai Semyonovich ", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1831-02-16", "没年月日": "1895-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "真珠の首飾り 他二篇", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1951(昭和26)年2月10日", "入力に使用した版1": "2007(平成19)年2月21日第7刷", "校正に使用した版1": "2007(平成19)年2月21日第7刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "oterudon", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001295/files/47205_ruby_35364.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-07-15T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001295/files/47205_35644.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-07-15T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "だが、君はその意見を、いったい何をもって実証するつもりかね? なるほどと思わせるためには、君自身ひとつ、ロシヤ社会の現代生活のなかから、そんな事件をとり出して見せてくれるべきだね。時代とか現代人とかいうものも立派に反映しており、しかもそれなりにクリスマス物語の形式にも註文にもあてはまって、――つまりちょいとファンタスティクでもあり、なんらかの迷信の打破にも役だつものであり、おまけにめそめそしたのじゃない、明るい結末のついたものでもある、――そんな奴をね。", "おやすい御用さ。お望みとあらば、そんな話を一つお目にかけてもいいがね。", "そいつは是非たのむぜ! ただね、これだけは一つ、しっかり願いたいんだが、その話というのは、ほんとにあった事でないと困るぜ!", "ああ、そこは大船に乗ったつもりでいたまえ。僕がこれから話そうというのは、本当も本当、正銘いつわりなしの実話な上に、その登場人物がまた、僕にとって頗る親密かつ親愛なる連中なのさ。実をいうとその主人公は、ほかならぬ僕の実の弟なのだ。あれは、たぶん諸君もご承知かと思うが、なかなか心がけのいい役人でね、それなりにまた、世間の評判もなかなかいい男なんだよ。" ], [ "僕が尊重してたって、そりゃ一体なんのことだい?", "そろばん抜きの共鳴よ、心と心の触れ合いよ。" ], [ "へえ、その先は?", "その先は、二人でいいようにすればいいわ。ただね、余計な口を出さないで下さいよ。" ], [ "馬鹿げたことなんかになるもんですか。", "それは結構。", "とてもうまく行くにきまってるわ。幸福な夫婦ができあがってよ!" ], [ "それがどうかしましたの? 残念ながらわたしも、その事だけは反対の余地はありませんけど、かといって別だんあのマーシェンカが、立派な娘さんでなくなるわけでも、立派な嫁さんになれなくなるわけでも、ないじゃありませんか。あなたは、きっと忘れておしまいになったのね、ほら、二度も三度もわたしたちが論じ合ったあの事を。ねえ、思いだしてごらんなさいな、――トゥルゲーネフの小説に出てくる立派な女たちは、選りに選ってみんな、すこぶる俗っぽい両親を持っているじゃありませんか。", "いや、僕の言うのはそんな事じゃないんだ。いかにもマーシェンカは、実に立派な娘だよ。ところが考えてごらん、あの親父と来たら、上の二人の娘を嫁にやるとき、婿さんを二人とも一杯くわせて、びた一文つけてやらなかったんだぜ。――マーシャにだって、一文もよこさないに決まってるよ。", "どうしてそれが分りますの? あの親父さんは、あの子が一ばん可愛いのよ。", "いや、おっ母さんや、まあたんと皮算用をしたけりゃしなさいだがね。嫁にやってしまう娘にたいするあの連中の『格別の』愛情なるものが、一体どんなものだか、ちゃんと分っているじゃないか。みんな一杯くわされるんだよ! それにまた、あいつにして見りゃ、一杯くわさずに済ますわけには行かんのさ、――何しろそれが、あの男の立ってる土台なんだからねえ。世間のうわさじゃ、あの男が財産を築きあげたそもそもの始まりは、非常な高利で抵当貸しをしたことだというじゃないか。人もあろうにそんな男から、お前は愛情だの気前のよさだのを捜し出そうとかかっているんだよ。参考までに言っておくが、上の娘たちの婿さんは、二人とも一筋縄ではいかんなかなかの曲者なんだ。それでいながらまんまとあの男に一杯くわされて、今日じゃ犬猿もただならざる仲になっているとすりゃ、ましてやうちの弟なんぞは、何しろ子供の頃からおっそろしく御念の入った弱気な奴だから、指をくわえて追っ払われることなんか、朝飯まえだぜ。" ], [ "まあ、おっ母さんや、そらっとぼけなさんな。", "いいえ、そらっとぼけてなんかいませんわよ。", "じゃお前、知らないのかい、『指をくわえる』ってことを? マーシェンカにはびた一文よこすまいってことさ、――困るというのは、つまりそこだよ。", "まあ、そんな訳でしたの!", "うん、その通りさ。" ], [ "僕はなにも、自分のことをとやかく言うんじゃないぜ。……", "いいえそうです、じゃ一体なぜ……?", "いやはや、そりゃ酷すぎるぜ、ねえお前!", "何がひどすぎますの?", "なにが酷すぎるって、僕が自分のことなんか一言も言やしないのにさ。", "でも、考えてらしたわ。", "いいや、だんぜん考えてもいなかった。", "じゃ、想像してらしたわ。", "なにを、ばかな。夢にだって想像していなかったよ!", "まあ、なんだってそんな金切り声をお立てになるの?", "べつに金切り声なんか立てやしないさ!", "だって『なにを』だの……『ばかな』だのって。……そりゃ一体なんですの?", "それはお前、お前の言うことを聞いてると、ついむしゃくしゃしてくるからさ。", "へえ、それで分ったわ! そりゃわたしが金持の娘で、持参金をかかえて来たら、さぞよかったでしょうとも……", "げッ、むむむゥ!……" ], [ "ニコライ・イヴァーノヴィチさんたら、すごく気前を見せてね、わたしたちすっかり御馳走になっちまったわ。", "なるほどね。", "ええ、――とても愉快で、時のたつのも忘れたほどでしたの。おまけにシャンパンまで出たわよ。" ], [ "うへっ! もうそこまで来たのかい! いやお目出とう。", "勿論よ! 弟さんは、もう一ぺんあんたと相談した上でなくちゃ、正式の申込をするのはいやだと言うんですけど、とにかくああして婚礼をいそいでらっしゃるでしょう。ところがあなたといったら、まるでわざと意地わるをしているみたいに、あの厭らしい裁判所に入りびたりなんですもの。とても待っちゃいられなくなって、婚約をとりかわしてしまったのよ。" ], [ "あなた、それは皮肉ですの?", "皮肉だなんて、とんでもない。", "それとも、当てこすりですの?", "いいや、当てこすりもしやせんよ。", "どっちにしたって無駄骨ですわよ。だって、いくらあなたがギャアギャア仰しゃったところで、あの二人とても幸福な御夫婦になるにきまってますもの。" ], [ "へえ、どうして空中楼閣なんだい? 願わくは、娘さんの方で婿えらびをするのじゃなしに、婿さんの方から娘さんに求婚するのでありたいものだよ。", "そりゃ、なるほど求婚はしますわ、――けれど、念入りに選り分けるとか慎重に選り分けるなんていうことは、とてもあり得ないことですわ。" ], [ "もう少し、自分の言ってることを、検討して見ちゃどうかね。例えば僕はこうして、君というものを選んだじゃないか、――それというのも、君を尊敬し、君の長所を見抜いたからじゃないか。", "嘘ばっかり。", "嘘だって?", "嘘ですとも、――だって、あなたがこのわたしを選んだのは、決して長所を見ぬいたためなんかじゃないんですもの。", "じゃ、なんだというんだい?", "わたしのことを、ちょいといい女だ、と思っただけのことだわ。", "いやはや、君はじぶんには長所なんかないとでも言うのかい!", "とんでもない、長所ならちゃんとあります。でもあなたは、わたしのことをいい女だとお思いにならなかったら、やっぱり結婚はなさらなかったでしょうよ。" ], [ "わたしの顔が見たかったからよ。", "ちがう、――僕は君の性格を研究していたんだ。" ], [ "そら笑いはよしてくれ!", "そら笑いなんかじゃなくてよ。そんなこと仰しゃったって、結局なに一つわたしの研究なんかなさらなかったのよ。それに第一、お出来になるはずもなかったのよ。", "どうしてだい?", "言ってもよくって?", "ああ頼む、言ってくれ!", "それはね、あなたがわたしに恋しちまったからよ。", "まあ、それもよかろう。だがそれが僕にとって、君の精神的な性質を見るうえの妨げになったわけでもあるまい。", "なったわ。", "いいや、ならん。", "なったわ。しかも誰にだって妨げになるものなのよ。だから、いくら長いことかかって研究したところで、なんの役にも立ちゃしないのよ。あなたは、相手の女に恋していながら、しかもその女を批判的に見てらっしゃるおつもりだけれど、実は空想的にぼんやり眺めてらっしゃるに過ぎないのよ。" ], [ "いや、ちょうど兄さんの言われるようなことが、じっさい僕の身にも起りましてね、こいつはどうも吾ながら気が変になったのじゃあるまいかと、そう思ってた矢先なんです。今日ここに初日をあけた僕の家庭生活は、わが最愛の妻に期待していたよろこびを僕にもたらしたのみならず、舅どのからまで、予期せざる福運を授けてもらったという次第なんです。", "そりゃまた一体、何ごとがもちあがったんだい?", "まあ、ずっとお通りください、お話ししますから。" ] ]
底本:「真珠の首飾り 他二篇」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年2月10日第1刷発行    2007(平成19)年2月21日第7刷発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 入力:oterudon 校正:伊藤時也 2009年7月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047206", "作品名": "真珠の首飾り", "作品名読み": "しんじゅのくびかざり", "ソート用読み": "しんしゆのくひかさり", "副題": "――クリスマスの物語――", "副題読み": "――クリスマスのものがたり――", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 983", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-08-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001295/card47206.html", "人物ID": "001295", "姓": "レスコーフ", "名": "ニコライ・セミョーノヴィチ", "姓読み": "レスコーフ", "名読み": "ニコライ・セミョーノヴィチ", "姓読みソート用": "れすこおふ", "名読みソート用": "にこらいせみよおのういち", "姓ローマ字": "Leskov", "名ローマ字": "Nikolai Semyonovich ", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1831-02-16", "没年月日": "1895-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "真珠の首飾り 他二篇", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1951(昭和26)年2月10日", "入力に使用した版1": "2007(平成19)年2月21日第7刷", "校正に使用した版1": "2007(平成19)年2月21日第7刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "oterudon", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001295/files/47206_ruby_35365.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-07-15T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001295/files/47206_35645.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-07-15T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "何をお前さん呆れたんだい?", "だって、おかみさんが十五貫もあるなんてさ、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ。あっしは、こう思うんですがね、――よしんばまる一んち、おかみさんを両手で抱っこしていろって言われたところで、どだいもう苦になるどころか、ただもうぞくぞく嬉しいばかりだろうってね。" ], [ "生きとりますよ、おかみさん、生きとりますよ――どうして中々! 憎まれっ子、世にはばかるって、この事でございますよ。", "いったい誰の胤なのさ?", "いえなに! つまりまあ、父なし児でございますよ――こうして大勢の男衆にまじっていますもんで――父なし児でございますよ。", "うちへ来てから長いのかい、あの若い衆?", "誰でございます? あのセルゲイのことでございますか?", "そう。" ], [ "何か用なの、セルゲイ?", "ちょいとお耳を拝借したいことがあるんです、カテリーナ・リヴォーヴナ。なあに、ほんのつまらない事なんですが、ちょいとそのお願いの筋があるもんでして。ほんの一分ほど、お目通りをねがえませんか。" ], [ "何がそう淋しいんだい!", "まあ察しておくんなさい、どうして淋しがらずにいられましょう。ご覧のとおり若い身ぞらでさ、しかもここの暮らしと来た日にゃ、どっか修道院か何かにぶち込まれたも同然じゃありませんか。おまけに身の行く先でわかっていることといったら、いずれお墓の下で横になるその日まで、どうやらこうして話相手もない境涯のままで、一生を棒にふることになるらしい――ということだけですしねえ。時にや自棄っぱちにもなりますよ。", "どうして嫁さんを貰わないのさ?", "嫁をもらうなんて、奥さん、そう易々と言えるこってすかね? 一たい誰が嫁に来てくれるというんです? あっしはご覧のとおりの小者です。まさか旦那のお嬢さんが来てくれるはずもなし、そうかといって、何せ金がないもんであっしども仲間と来た日にゃみんな、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、奥さんも先刻ご存じのとおり、無教育ものばかりでさあ。そうした家の娘っ子に、ほんとの愛というものを弁えろと言ったところで、どだい無理というもんじゃありませんか! どうです奥さん、これであの連中とお金持との間には、どれほど物の考えように隔たりがあるかということが、お分りでしょうな。早い話が現にあなただっても、こう申しちゃなんですが、じぶんの気持を分ってくれる人間であってくれさえすりゃ、たとえそれがどこのどいつであろうとも、ただもうその男一人に身も心もささげて、明け暮れ慰めもし励ましもしてやろうものをと、そんな気持でいらっしゃるに違いないんだ。ところがどうです、実際はこうしてこの家で、籠の鳥みたいに囲われてらっしゃるじゃありませんか。" ], [ "まったくこんな暮らしじゃ、奥さん、淋しがるなって言われたって淋しがらずにゃいられませんよ! これじゃたとい、よく世間の奥さんがたがなさるように、よしんばほかに誰かいい人があったにしたところで、一目逢うことだって出来やしませんものねえ。", "え、なんだって?……そんなことじゃないわ。あたしの言うのはね、ただこれで赤さんが出来さえすりゃ、それだけでもう気が晴ればれするだろうと思うのさ。", "ですけどね奥さん、こいだけは申し上げときますがね、赤ちゃんが出来るにしたって、ただのほほんとしてたって駄目なんで、やっぱし何か種がなくちゃ始まりません。ねえ奥さん、こうしてもう長の年つき旦那がたのとこで暮らして、商家のお内儀というものの明け暮れがどんなものかということも、さんざん見あきるくらい見てきていながら、それでもやっぱしお互い何か胸に思いあたることはないもんでしょうかね? こんな唄がありましたっけ――『心の友がないままに、ふさぎの虫にとり憑かれ』ってね。ところで奥さん、このふさぎの虫っていう奴が、こう申しちゃなんですが、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、じつはほかならぬこのあっしの胸にしたたかこたえましてね、いっそもうあっしは、匕首でもってぐさりとこの胸からそいつを切りとって、ひと思いにあんたのそのおみ足へ、叩きつけてやりたいと思うほどなんです。そうしたらもうその途端に、百層倍もこの胸のなかが軽くなることでしょうにねえ……" ], [ "嫁女のところに泊りおったのか?", "さあねえ、旦那。泊った場所なら、それもあっしは確かに知っちゃおりますがね。ところで、これは念のため申しあげときますがね、ボリース・チモフェーイチ、いいですかい、――一たん引っくら返った水は、元へ戻りゃしませんとさ。まあ一つ、先祖代々のノレンに疵のつかないように、せいぜい御用心を願いやすぜ。さてそこで、あっしをどうなさるおつもりかね? どうしたらおなかの虫が収まるんですかい?" ], [ "なんですかね、おかみさん?", "それがね、どうやら夢らしくもないんだけどね、とにかくこうありありと、どこかの猫が一匹、あたしの寝床へちゃんともぐりこんで来たのさ。", "あら嫌ですよ、おかみさん、まさか?", "ほんとにさ、猫がもぐりこんで来たんだよ。" ], [ "でもおかみさん、なんだってそんな猫なんぞを、可愛がってやんなすったんですね?", "うん、つまり、そのことさ! どうして撫でてやる気になったものか、われながら合点がいかないんだよ。" ], [ "当のあたしだって、考えれば考えるほど不思議でならないんだよ。", "てっきりそりゃあ、誰かがこう、そのうちひょっくりやって来るというお告げか、さもなけりゃ、何か思いがけないことでもある、という前兆かもしれませんねえ。", "って言うと、つまり何だろうね?", "さあ、つまりこれこれということになると、そりゃおかみさん、誰にだってはっきりとは申し上げられますまいけれどね、それはまあそうとして、きっと何かありますよ。" ], [ "でもさ、気の迷いなら迷いでいいけど、なぜそれが、今までついぞなかったんだろうね、ねえ、セリョージャ?", "今までなかったことなんぞ、ざらにあらあな! 現に見ねえ、ついこのあいだまでは、おいらは只お前さんを遠目に拝むだけでさ、人しれず胸を焦がすのが落ちだったもんだが、今じゃどうだい! お前さんのむっちりと白いからだは、まるまるみんな俺らのもんじゃないか。" ], [ "あたしに焦がれていたって、それ本当、セリョージャ?", "なんで焦がれずにいらりょうか、ってことさ。", "一体どんなふうに焦がれてたのさ? それを話してお聞かせな。", "話してきかせろったって、じゃどう言やいいんだい? 焦がれるの何のということが、口で講釈できるものだとでもいうのかい? 恋しかったんだよ、おいら。", "でもさ、セリョージャ、それほどお前さんが思いつめていてくれたものを、あたしがどうして感じずにいたんだろうねえ。だってほら、世間でよく以心伝心なんて言うじゃないか。" ], [ "そんな悪口を言いふらす奴は、一体どこのどいつですかい?", "だってさ、みんながそう言うもの。", "そりゃ俺らだって、まるっきり惚れる値打ちのない女たちにゃ、煮湯をのましたこともありまさあ。きっとそんな時のことを言うんだろうなあ。", "なんてお馬鹿さんなの、お前は、惚れる値打ちのない女なんかと出来合うなんてさ? だいいち値打ちのない女に、惚れるなんていう法はないわ。", "口はなんとでも言えまさあ! だがね、一体全体そうした物ごとが、理窟や分別ではこぶとでも思うんですかい? ふらふらっと迷いこむ、ただそいだけのことでさあ。……女がいる。その女とね、こっちじゃ別にこれという下心もなしに、あっさりつきあっているうち、ひょいと戒律を犯してしまう。そうなると女は、こっちの首っ玉へぶらさがって来て、いつかな離れることじゃない。これがつまり、恋仲っていうもんでさ!", "いいかい、セリョージャ! あたしはね、お前さんにこれまでどんな女があったかは知らないし、今さら野暮ったくそれを洗いたてようとも思わないさ。ただね、これだけはお忘れでないよ――あたしたち二人が、今の仲になるまでにゃ、どんなにお前さんがあたしを口説き立てたかっていうことをさ。お前さん自身だって忘れちゃいまいねえ、――何もあたしからばっかし好きこのんでこの恋に身を投げだしたわけじゃなくって、まあ半分がとこはお前さんのワナにはまったも同然だったということをね。だからさ、もし万が一お前が、いいかいセリョージャ、このあたしを今更ほかの女に見かえるようなことがあったら、よしんばその女がどこのどなた様であろうがあるまいが、ねえ可愛いセリョージャ、済まないけどあたしはお前さんと、とても生きちゃ別れられまいと思うのさ。" ], [ "聞かせて、さ、聞かせておくれ、セリョージャ、お前さんの苦労を洗いざらい。", "聞かせるも何もありゃしねえ! 第一さ、今にもそら、思ってもぞっとするぜ、お前さんの亭主が、がらがらっと馬車で帰ってくる。と、途端にもう、可哀そうなこのセルゲイ・フィリップィチの奴は、さらりと秋の捨て扇だ。すごすご裏庭へ退散して、胴間声の歌の仲間入りでもして、納戸の軒から指をくわえて、カテリーナ・イリヴォーヴナの寝間に蝋燭がぽっかりともってるところだの、おかみさんがふかふかした蒲団を叩いて膨らましてるところだの、天下晴れての御亭主のジノーヴィー・ボリースィチとよろしくお床入りの有様だのを、あっけらかんと眺めていなけりゃならないんだ。" ], [ "なんで桑ばら桑ばらなものかね! 憚りながらあっしだって、あんたという人が所詮そうならずにいるものでないことぐらい、ちゃんと心得ていますさ。だがね、カテリーナ・イリヴォーヴナ、あっしだっても、おいらなりに心もあれば情けもあるんだ。そいで自分がどんなに苦しいだろうかってことも、ちゃんと見えずにはいないというわけでさあ。", "もう沢山。そんな話、もうよして。" ], [ "まあ、あなたなの、ジノーヴィー・ボリースィチ?", "うん、おれだ! なんだい、この声が聞えないみたいにさ!" ], [ "一たい何をお聞きになったんですの?", "まあ、お前さんのいい事を色々とな。", "わたしべつに、いい事なんぞありゃしませんのにさ。" ], [ "それよりかな、もうちっとわが身を省みたほうがよかろう、ということさ。", "あたし何も、省みることなんかありゃしませんもの。そのへんの金棒引きが、あること無いこと口から出まかせに言いふらす。その中傷沙汰を、一つ残らずこのあたしが背負いこまなけりゃならないんだわ! そんな話って一体あるもんかしら!", "ところが金棒引きどころか、世間にゃもう立派に、お前たちの色恋ざたが知れわたっているんだぜ。" ], [ "いやなに、ちゃんとおれには分っている。", "分ってらっしゃるんなら、いいじゃありませんか、もっとはっきり仰しゃったって!" ], [ "今にわかる、そうあわてんでもいい。", "わかったわ、あのセルゲイのことでしょう、あなたの耳にはいったその相手の男とやらいうのは?", "今にわかる、今にわかるよ、カテリーナ・リヴォーヴナ。お前さんにたいするわしの実権は、まだ誰にも横取りされたわけではなし、また誰にしたところで、横取りはできないはずだ。……結局お前さんが、口を割ることになるのさ。……" ], [ "なぜおじゃんなんだい、ええセリョージャ?", "だってさ、これで何もかも洗いざらい、分け取りってことになるんでしょう。その挙句に残ったなけなしの物じゃ、さっぱり主人になり甲斐がなかろうじゃありませんかい?", "おやセリョージャ、お前さんには少なすぎるとでも言うのかい?", "いいや、べつにあっしにどうのこうのと言うんじゃありませんがね。ただちょいと心配なのは、そうなるとつまり、あっしたちの仕合わせにも差し響きはすまいかと、そんな気がするもんでしてね。", "そりゃまたなぜなのさ? どうして仕合わせまでが消えてなくなるんだい。ええ、セリョージャ?" ], [ "けどね、セリョージャ、あたしはべつに、贅沢なんかしたくはないことよ。", "なるほどそりゃあ、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、あんたにして見りゃ、痛くも痒くもないことかも知れませんや。だがね、少なくともあっしの身にしてみりゃあ、あんたを大事に思えば思うだけ、また一つにゃ、焼いたり妬んだりしている世間の野郎どもの目に、あっしたちの暮らしがどう映るだろうかと思うにつけ、なんとしてもこりゃ辛いことでさあ。あんたは勿論、平気の平左でいられるかも知れませんがね、あっしはどうも、万一そんな工合になったら、とても仕合わせな気持じゃいられそうもありませんや。" ], [ "聖者伝ですよ、おばさん。", "おもしろいこと?", "ええ、とても面白いの、おばさん。" ], [ "そろそろ寝たらどう、フェージャ?", "いいえ、おばさん、僕おばあさんの帰るまで起きています。", "起きていたって仕様がないじゃないの?", "だって、晩祷の聖パンを頂いて来てくれるって、約束したんですもの。" ], [ "何をびっくりしたのさ?", "だって、誰か一緒にきたんじゃなかった、おばさん?", "どこに? 誰も一緒になんか来やしませんよ。", "だあれも?" ], [ "二十五銭は金のうちにゃはいらないのかい? その二十五銭という奴を、お前さんだいぶ道々拾っていたっけが(訳者註。投げ銭を拾うのである)、ばらまいた数だって、もう相当なもんだぜ。", "だから、セリョージャ、ちょいちょい逢えたじゃないの。", "ふん、飛んだこった。さんざ辛い目をした挙句に、ちっとやそっと逢えたところでくそ面白くもねえじゃないか! 自分の命を呪うのが本当だ、逢曳どころの騒ぎじゃねえぜ。", "でもセリョージャ、あたしは平気だよ。お前さんに遭えさえすりゃあ。" ], [ "おや、じゃあお前さんだったの?……", "後生だから返しておくれよ。", "けどね、なんだって仲を裂くような真似をするんだい?", "仲を裂くなんて、とんでもないよ。今さらあたしに、好いた惚れたの沙汰があるもんかね! 尖んがらかることは、ちっともないさ。" ], [ "まあ仕方があるまいな、カザンの病院に入れてでももらうほかにゃ。", "まあ、縁起でもない、どうしたのさ、セリョージャ?", "だって仕様がないじゃないか、今にも死にそうに痛むんだものな。", "じゃあ、お前さんが後に残って、あたしだけ追っ立てられて行くのかい?" ] ]
底本:「真珠の首飾り 他二篇」岩波文庫、岩波書店    1951(昭和26)年2月10日第1刷発行    2007(平成19)年2月21日第7刷発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 入力:oterudon 校正:伊藤時也 2009年7月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047207", "作品名": "ムツェンスク郡のマクベス夫人", "作品名読み": "ムツェンスクぐんのマクベスふじん", "ソート用読み": "むつえんすくくんのまくへすふしん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 983", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-08-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001295/card47207.html", "人物ID": "001295", "姓": "レスコーフ", "名": "ニコライ・セミョーノヴィチ", "姓読み": "レスコーフ", "名読み": "ニコライ・セミョーノヴィチ", "姓読みソート用": "れすこおふ", "名読みソート用": "にこらいせみよおのういち", "姓ローマ字": "Leskov", "名ローマ字": "Nikolai Semyonovich ", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1831-02-16", "没年月日": "1895-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "真珠の首飾り 他二篇", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1951(昭和26)年2月10日", "入力に使用した版1": "2007(平成19)年2月21日第7刷", "校正に使用した版1": "2007(平成19)年2月21日第7刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "oterudon", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001295/files/47207_ruby_35366.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-07-15T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001295/files/47207_35646.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-07-15T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "青竜四百!", "よし……あける……ぞ" ], [ "天門当り――隅返し、人と、中張張手無し――阿Qの銭はお取上げ――", "中張百文――よし百五十文張ったぞ" ], [ "から坊主! 早く帰れ。和尚が待っているぞ", "お前は何だって手出しをするの" ], [ "ほう阿Q、お前さん、帰っておいでだね", "帰って来たよ", "景気がいいねえ。お前さんは――にいたの……" ], [ "何しろ結構なこった。そこで……噂によるとお前は古著をたくさん持っているそうだが、ここへ持って来て見せるがいい……外でもない、乃公も欲しいと思っているんだ……", "鄒七嫂にも話した通りですが、皆売切れました" ], [ "あれは友達の物で、品数もあんまり多くは無いのですが、少しばかり分けてやったんです", "そんなことを言っても、まだいくらかあるに違いない", "たった一枚幕が残っております" ], [ "Qさん", "思切ってやっつけろ……" ], [ "謀反? 面白いな……来たぞ来たぞ。一陣の白鉢巻、白兜、革命党は皆ダンビラをひっさげて鋼鉄の鞭、爆弾、大砲、菱形に尖った両刃の劒、鎖鎌。土穀祠の前を通り過ぎて『阿Q、一緒に来い』と叫んだ。そこで乃公は一緒に行く、この時未荘の村烏、一群の男女こそは、いかにも気の毒千万だぜ。『阿Q、命だけはどうぞお赦し下さいまし』誰が赦してやるもんか。まず第一に死ぬべき奴は小Dと趙太爺だ。その外秀才もある。偽毛唐もある。……残る奴ばらは何本ある? 王なんて奴は残してやるべき筋合の者だが、まあどうでもいいや……", "品物は……すぐに入り込んで箱を開けるんだ。元宝、銀貨、モスリンの著物……秀才婦人の寝台をまずこの廟の中へ移して、そのほか錢家の卓と椅子。あるいは趙家の物でもいい。自分は懐ろ手して小Dなどは顎でつかい、おい、早くやれ。愚図々々するとぶんなぐるぞ", "趙司晨の妹はまずい。鄒七嫂の小娘は二三年たってから話をしよう。偽毛唐の女房は辮子の無い男と寝てやがる、はッ、こいつはたちが好くねえぞ。秀才の女房は眼蓋の上に疵がある――しばらく逢わないが呉媽はどこへ行ったかしらんて……惜しいことにあいつ少し脚が太過ぎる" ], [ "何だ", "わたし……", "出て行け", "わたしも……に入りたい" ], [ "偽毛唐が許さなかったんです", "譃を吐け。この場になってもう遅い。お前の仲間は今どこにいる", "何でげす?", "あの晩、趙家を襲った仲間だ" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932年(昭和7年)11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「彼奴→あいつ 或→ある 或は→あるいは 些か・聊か→いささか 一層→いっそう 一旦→いったん 愈々→いよいよ 所謂→いわゆる 於いて→おいて 大方→おおかた 却・反って→かえって か知ら→かしら 且つ→かつ 曾て→かつて 可成り→かなり 屹度→きっと 位→くらい 此奴→こいつ 極く→ごく 極々→ごくごく 此処→ここ 此の→この 此処→ここ 之→これ 偖て→さて 宛ら→さながら 併し→しかし 而も→しかも 然らば→しからば 従って→したがって 暫く→しばらく 仕舞う→しまう 随分→ずいぶん 頗る→すこぶる 即ち→すなわち 折角→せっかく 是非とも→ぜひとも 其→その 大分→だいぶ・だいぶん 沢山→たくさん 丈け→だけ 唯・只→ただ 但し→ただし 忽ち→たちまち 例如ば→たとえば 給え→たまえ 為→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就いて→ついて 詰り→つまり て置→てお て呉れ→てくれ て見→てみ て貰→てもら 何処→どこ 兎に角→とにかく 尚お・猶お→なお 猶更→なおさら 中々→なかなか 許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 程→ほど 殆んど・幾んど→ほとんど 正に→まさに 況して→まして 先ず→まず 又・亦→また 未だ→まだ 儘→まま 丸切り→まるきり 丸で→まるで 若し→もし 勿論→もちろん 尤も→もっとも 矢張り→やはり 已むを得ず→やむをえず 漸く→ようやく 余ッ程→よッぽど 余程→よほど 俺→わし」 ただし、一部のカタカナ表記については、あらためていません。 ※底本に混在している「灯」「燈」はそのままにしました。 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2004年8月22日作成 2018年7月25日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042934", "作品名": "阿Q正伝", "作品名読み": "あキューせいでん", "ソート用読み": "あきゆうせいてん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-09-20T00:00:00", "最終更新日": "2018-07-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card42934.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42934_ruby_16367.zip", "テキストファイル最終更新日": "2018-07-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42934_16419.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-07-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "先生、うちの寶兒は何の病いでしょう", "この子は身体の内部が焦げて塞がっている", "構いますまいか", "まず二服ほど飲めばなおる", "この子は息苦しそうで小鼻が動いていますが", "それや火が金に尅したんだ" ], [ "單四嫂子、寶兒はどんな工合だえ、先生に見てもらったかえ", "見てもらいましたがね、王九媽、貴女は年をとってるから眼が肥えてる。いっそ貴女のお眼鑑で見ていただきましょう。どうでしょうね、この子は", "ウン……", "どうでしょうね、この子は", "ウン……" ], [ "憎くなるほど、可愛いお前、一人でいるのは淋しかろ", "アハハハハハ" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「愈々→いよいよ 大凡→おおよそ 却って→かえって 位→くらい 呉れ→くれ 極く→ごく 此→この 而も→しかも 暫く→しばらく 其→その 慥かに→たしかに 只→ただ 忽ち→たちまち 丁度→ちょうど て戴く→ていただく て仕舞う→てしまう 何処→どこ 尚ほ→なお 中々→なかなか 殆んど→ほとんど 先づ→まず 亦・又→また 未だ→まだ 丸で→まるで 貰→もら 漸く→ようやく」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2004年3月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042935", "作品名": "明日", "作品名読み": "あす", "ソート用読み": "あす", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-04-01T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card42935.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42935_ruby_14898.zip", "テキストファイル最終更新日": "2004-03-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42935_15329.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-03-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "迅ちゃん、お前、また猫を打ったね", "いいえ、あいつ等は仲間同士で咬み合ったんです。わたしに打たれるようなヘマはしません" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の書き換えをおこないました。 「彼奴→あいつ 或→ある 於て→おいて 大方→おおかた 恐らく→おそらく 反って→かえって か知→かし 曽て→かつて 屹度→きっと 位→くらい 此処→ここ 殊に→ことに 此→この 宛ら→さながら  (て)仕舞→(て)しま 頗る→すこぶる 凡て→すべて 其処→そこ 其→その 大概→たいがい 慥か→たしか 忽ち→たちまち 多分→たぶん 一寸→ちょっと迚も→とても 兎に角→とにかく 許り→ばかり 甚だ→はなはだ 況して→まして 又・亦→また 未だ→まだ 丸で→まるで 若し→もし 勿論→もちろん 以て→もって」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 ※底本に収録された他の作品に、「燈」と「灯」の混在がみられるので、この作品でも、「燈」はそのままにしました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2008年5月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043411", "作品名": "兎と猫", "作品名読み": "うさぎとねこ", "ソート用読み": "うさきとねこ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-07-18T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card43411.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43411_ruby_31028.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-05-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43411_31642.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "夏になって御覧なさい。大雨のあとで、あなたは蒼蝿いほど蝦蟇の叫びを聴き出すでしょう。あれは皆溝の中に住んでいるのです。北京にはどこにも溝がありますからね", "おお……" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の書き換えをおこないました。 「貴郎→あなた 或る→ある 所謂→いわゆる 彼処→かしこ 曾て→かつて 位→ぐらい 極く→ごく 此処→ここ 其→その 併し→しかし 而も→しかも (て)仕舞→しま 屡々→しばしば 即ち→すなわち 沢山→たくさん 慥か→たしか 只→ただ 忽ち→たちまち 偶々→たまたま 何処→どこ 迚も→とても 中々→なかなか 甚だ→はなはだ 又→また (て)見→み (て)貰→もら 矢張り→やはり 易→やす」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(鈴樹尚志) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2007年5月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043412", "作品名": "鴨の喜劇", "作品名読み": "かものきげき", "ソート用読み": "かものきけき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-07-04T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card43412.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43412_ruby_26842.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-05-06T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43412_26864.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-05-06T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "お前、きょうはだいぶいいようだね", "はい", "きょうは何先生に来ていただいたから、見てもらいな", "ああそうですか" ], [ "うまく行ったかえ", "そんなことを訊いてどうするんだ。お前は本統にわかるのかね。冗当を言っているんじゃないかな。きょうは大層いい天気だよ" ], [ "いけ……", "いけない? あいつ等はもう食ってしまったんだろう", "ありもしないこと", "ありもしないこと? 狼村では現在食べているし、本にもちゃんと書いてある。出来立てのほやほやだ" ], [ "あるかもしれないが、まあそんなものさ……", "まあそんなものだ。じゃ旨く行ったんだね", "わたしはお前とそんな話をするのはいやだ。どうしてもお前は間違っている。話をすればするほど間違って来る" ], [ "兄さん、わたしはあなたに言いたいことがある", "お前、言ってごらん" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「彼奴→あいつ 貴郎→あなた 或→ある・あるい(は) 如何なる→いかなる ~戴く→~いただく 一体→いったい ~置→~お 恐らく→おそらく か知ら→かしら 屹度→きっと 位→くらい ~呉れ→くれ 此奴→こいつ 殊更→ことさら 此間→こないだ 此→この ~御覧→~ごらん 偖て→さて ~仕舞う→~しまう ~知れない→~しれない 頗る→すこぶる 折角→せっかく 其(の)→その 大分→だいぶ 沢山→たくさん 只→ただ 忽ち→たちまち ~給え→~たまえ 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 何処→どこ 迚も→とても 中々→なかなか 筈→はず 只管→ひたすら 程→ほど 正に・将に→まさに 況して→まして 先ず→まず 又、亦→また 未だ→まだ 丸切り→まるきり 丸で→まるで 萬更→まんざら ~見た→~みた 若し→もし ~貰う→~もらう 矢張(り)→やはり 僅に→わずかに」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(上村要) 校正:京都大学電子テクスト研究会(高柳典子) 2004年11月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042936", "作品名": "狂人日記", "作品名読み": "きょうじんにっき", "ソート用読み": "きようしんにつき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-12-12T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card42936.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42936_ruby_15983.zip", "テキストファイル最終更新日": "2004-11-19T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42936_16990.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-11-19T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "小栓、お前は起きないでいい。店はお母さんがいい按排にする", "…………" ], [ "ふん、親爺", "元気だね……" ], [ "いいえ", "いいえ? そうだろう。にこにこしているからな。いつもとは違う" ], [ "康おじさん、きょう死刑になった人は夏家の息子だそうだが、誰の生んだ子だえ。一体なにをしたのだえ", "誰って、きまってまさ。夏四奶奶の子さ。あの餓鬼め" ], [ "小栓、少しは楽になったかえ。やッぱりお腹が空くのかえ", "いい包だ。いい包だ" ], [ "夏三爺はすばしッこいね。もし前に訴え出がなければ今頃はどんな風になるのだろう。一家一門は皆殺されているぜ。お金!――あの小わッぱめ。本当に大それた奴だ。牢に入れられても監守に向ってやっぱり謀叛を勧めていやがる", "おやおや、そんなことまでもしたのかね" ], [ "まあ聴きなさい。赤眼の阿義が訊問にゆくとね。あいつはいい気になって釣り込もうとしやがる。あいつの話では、この大清の天下はわれわれの物、すなわち皆の物だというのだ。ねえ君、これが人間の言葉と思えるかね。赤眼はあいつの家にたった一人のお袋がいることを前から承知している。そりゃ困っているにはちがいないが、搾り出しても一滴の油が出ないので腹を欠いているところへ、あいつが虎の頭を掻いたから堪らない。たちまちポカポカと二つほど頂戴したぜ", "義哥は棒使いの名人だ。二つも食ったら参っちまうぜ" ], [ "ところがあの馬の骨め、打たれても平気で、可憐そうだ。可憐そうだ、と抜かしやがるんだ", "あんな奴を打ったって、可憐そうも糞もあるもんか" ], [ "いい包だ! 小栓――お前、そんなに咳嗽いてはいかんぞ、いい包だ!", "気狂いだ" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「彼奴→あいつ 或→ある 却って→かえって 屹度→きっと 呉れ→くれ 此処→ここ 此→この 宛ら→さながら 暫く→しばらく 即ち→すなわち 其→その 只→ただ 忽ち→たちまち 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て仕舞った→てしまった 尚お→なお 筈→はず 甚だ→はなはだ 又・亦→また 未だ→まだ 丸切り→まるきり 若し→もし 矢ッ張り→やッぱり 余程→よほど」 ※底本内には「燈」と「灯」が混在していますが、そのままにしました。 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2004年5月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042937", "作品名": "薬", "作品名読み": "くすり", "ソート用読み": "くすり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-05-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card42937.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42937_ruby_15449.zip", "テキストファイル最終更新日": "2004-05-17T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42937_15652.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-05-17T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "酒を二合燗けてくれ。それから豆を一皿", "馬鹿に景気がいいぜ。これやテッキリ盗んで来たに違いない" ], [ "汝はなんすれぞ斯くの如く空に憑って人の清白を汚す", "何、清白だと? 乃公はお前が何家の書物を盗んで吊し打ちになったのをこないだ見たばかりだ" ], [ "お前は本が読めるかえ", "…………", "本が読めるなら乃公が試験してやろう。茴香豆の茴の字は、どう書くんだか知ってるかえ" ], [ "あいつは来るはずがない。腿の骨をぶっ挫いちゃったんだ", "ええ、何だと", "相変らず泥棒していたんだ。今度はあいつも眼が眩んだね。ところもあろうに丁挙人の家に入ったんだから、な。あすこの品物が盗み出せると思うか", "そうしてどうした", "どうしたッて? 謝罪状を書くより外はあるめえ。書いたあとで叩かれ、夜中まで叩かれどおしで、もう一度叩かれたら、ポキリと言って腿の骨が折れてしまった", "それからどうした", "それから腿が折れたんだ", "折れてからどうした", "どうしたか解るものか。たぶん死んだろう" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「彼奴→あいつ 或(る)→ある 大方→おおかた ~置き→~おき 曾て→かつて 位→ぐらい ~呉れ→~くれ 此奴→こいつ 此→この 偖て→さて 暫く→しばらく 仕舞う→しまう 終い→じまい 随分→ずいぶん 其→その 沢山→たくさん 只→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 何処→どこ 迚も→とても 中々→なかなか ~に取って→~にとって 筈→はず 甚だ→はなはだ 程→ほど 又・亦→また 未だ→まだ 見る見る→みるみる 若し→もし」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(上村要) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2005年5月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042938", "作品名": "孔乙己", "作品名読み": "こういっき", "ソート用読み": "こういつき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-06-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card42938.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42938_ruby_18431.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-05-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42938_18510.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-05-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "つまり、この幸福の家庭がAに在ると極めれば問題はない。家庭にはもちろん一組の夫婦があって、とりもなおさず、それが主人と主婦で、自由結婚だ。彼等は四十何個条かの非常に詳細な、だから極めて平等な、十分に自由な条約を訂結している。それに高等な教育と、高尚にして優美な……しかし日本の留学生はもう流行らない。――そんなら仮りに西洋の留学生としておこう。主人はいつも洋服を著て、ハードカラーはいつも雪のように真白。夫人は髪の毛に鏝をかけ、雀の巣のようなモヤモヤの中から雪白の歯を露わしているが、著物は支那服で……", "駄目々々、そいつは駄目だ! 二十五斤だよ!" ], [ "薪を使い切ってしまいましたから、今日ちっとばかり買ったんですが。前には十斤で両吊四だったのに、今日は両吊六だというのです。私は両吊五でもやればいいと思いますがいいでしょうか?", "よし、よし。両吊五でも", "とても秤を誤魔化すんですよ。薪屋はどうしても二十四斤半というのだけれど、私は二十三斤半で勘定してやればいいと思います。どうでしょうかね?", "よし、よし。二十三斤半払ってやれ", "それなら、五五の二十五、三五の十五……", "ウムウム――。五五の二十五、三五の十五……" ], [ "あなたまでもわたしを馬鹿にするんだね。人の仕事の手伝いもしないで、邪魔するだけだ。――その上、洋灯をひっくりかえしったら晩には何を点けるんです?……", "おお、よしよし、泣くでないぞ泣くでないぞ" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「彼奴→あいつ 貴方→あなた 或る→ある 或は→あるいは (て)居→い 何時→いつ (て)置→お 恐らく→おそらく 位→くらい 且つ→かつ 曾て→かつて 位→くらい 宛ら→さながら (て)仕舞→しま 頗る→すこぶる 其処→そこ 其→その 沢山→たくさん 慥か→たしか 忽ち→たちまち 多分→たぶん 為め→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就て→ついて 何処→どこ 取も直さず→とりもなおさず 尚更→なおさら 中々→なかなか 何故→なぜ 許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 先ず→まず 益々→ますます 又・亦→また 未だ→まだ 丸で→まるで (て)見→み 若し→もし 勿論→もちろん 矢張→やはり 稍→やや」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2005年1月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043650", "作品名": "幸福な家庭", "作品名読み": "こうふくなかてい", "ソート用読み": "こうふくなかてい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-01-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card43650.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日発行", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43650_ruby_17189.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-01-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43650_17367.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-01-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "はい", "それから閏土だがね。あれはうちへ来る度ごとに、いつもお前のことを聞くよ。大へんお前に会いたがってね。私はお前が帰って来る日取は知らせて置いてやっているからあれも今にすぐ来るだろうよ" ], [ "今は寒いけれど、お前、夏おれたちの方へ来るといいな。おれたちは昼間は海辺へ行って貝殼をさがすのだぜ。紅いのやら青いのやらいろいろあるよ。『鬼おそれ』もあるし、『観音様の手』もあるし、夜になるとお父つあんに従いて西瓜畑へ番に行くんだ。お前も行こうや。", "泥棒の番するの?", "うんにゃ、通りがかりの人が水気が欲しくなって瓜を一つ取って食うなんてのは、おらがの方じゃ泥棒のうちへは算えねえや。番をしなけりゃならぬのは穴熊や針鼠や猹だ。月の明るい時に、ガリガリガリガリいう音が耳に入ったら、そいつあ猹の奴が西瓜を噛っているのさ。だからすぐに刺又をかまえて忍び足で進み寄ってさ、……" ], [ "そいつ人に咬みつかないの?", "刺又を持ってるじゃねえか。進んで行って、猹を見つけたら、すぐやっつけるのさ。あん畜生それや悧巧な奴だから、人間の方へ向って駈け出し、そして胯の下からすり抜けて逃げてってしまうのさ。あいつの毛はまるで滑っこくって油みたいだものなあ……" ], [ "汽車へ乗って行くの?", "汽車へ乗って行くのだよ", "お船は?", "はじめは船へ乗って……" ], [ "それでは、お願いがありますが、迅ちゃん、お前さん大へんエラクおなりだってね。持ち運びだって不便ですぜ。お前さんこんなガラクタ道具なんかどうしようっての。あたしに呉れてやって行きなさいよ、あたしたち貧乏人には間に合うのだからさ", "私はエラクなんかならないよ、私はこんな物でも売らなきゃならないのですよ。そして…", "おや、おや。お前さんは道台(大官)になっていながら、エラクないだって、お前さんは現に三人のお妾さんを持って、外へ出ると言えば八人舁ぎの轎で出るくせに、エラクないだって、ふん、そんなことを言ってわたしを瞞すつもりですかい" ], [ "伯父さん、私たちは何時になったら帰って来るのでしょうね", "帰って来るって? お前まだ行きもしないうちから何だって帰って来ることなどを考えているの" ] ]
底本:「故郷・孤独者」新学社文庫、新学社教友館    1973(昭和48)年5月1日発行    1976(昭和51)年6月1日重版 初出:「中央公論」    1932(昭和7)年1月1日発行 ※「…」と「……」と「…………」の混在は、底本通りです。 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:大久保ゆう 校正:佐藤すだれ 2021年4月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059433", "作品名": "故郷", "作品名読み": "こきょう", "ソート用読み": "こきよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中央公論」1932(昭和7)年1月1日", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-05-06T00:00:00", "最終更新日": "2021-05-06T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card59433.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "故郷・孤独者", "底本出版社名1": "新学社文庫、新学社教友館", "底本初版発行年1": "1973(昭和48)年5月1日", "入力に使用した版1": "1976(昭和51)年6月1日重版", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年6月1日重版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "大久保ゆう", "校正者": "佐藤すだれ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/59433_ruby_73154.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-04-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/59433_73194.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-04-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "あちらの家も借りることに極めて、家具もあらかた調えましたが、まだ少し足らないものもありますから、ここにある嵩張物を売払って向うで買うことにしましょう", "それがいいよ。わたしもそう思ってね。荷拵えをした時、嵩張物は持運びに不便だから半分ばかり売ってみたがなかなかお銭にならないよ" ], [ "お前さんは久しぶりで来たんだから、本家や親類に暇乞いを済まして、それから出て行くことにしましょう", "ええそうしましょう" ], [ "今度到著の日取を知らせてやったから、たぶん来るかもしれないよ", "おお、閏土! ずいぶん昔のことですね" ], [ "今は寒くていけませんが、夏になったらわたしの処へ被入っしゃい。わたしどもは昼間海辺に貝殻取に行きます。赤いのや青いのや、鬼が見て恐れるのや、観音様の手もあります。晩にはお父さんと一緒に西瓜の見張りに行きますから、あなたも被入っしゃい", "泥棒の見張をするのかえ", "いいえ、旅の人が喉が渇いて一つぐらい取って食べても、家の方では泥棒の数に入れません。見張が要るのは貛猪、山あらし、土竜の類です。月明りの下でじっと耳を澄ましているとララと響いて来ます。土竜が瓜を噛んでるんですよ。その時あなたは叉棒を攫んでそっと行って御覧なさい" ], [ "彼は咬みついて来るだろうね", "こちらには叉棒がありますからね。歩いて行って見つけ次第、あなたはそれを刺せばいい。こん畜生は馬鹿に利巧な奴で、あべこべにあなたの方へ馳け出して来て、跨の下から逃げてゆきます。あいつの毛皮は油のように滑ッこい" ], [ "そりゃ面白い。彼はどんな風です", "あの人かえ、あの人の景気もあんまりよくないようだよ" ], [ "わたしどもは汽車に乗ってゆくのですか", "汽車に乗ってゆくんだよ", "船は?", "まず船に乗るんだ", "おや、こんなになったんですかね。お鬚がまあ長くなりましたこと" ], [ "忘れたの? 出世すると眼の位まで高くなるというが、本当だね", "いえ、決してそんなことはありません、わたし……" ], [ "そんなら迅ちゃん、お前さんに言うがね。お前はお金持になったんだから、引越しだってなかなか御大層だ。こんな我楽多道具なんか要るもんかね。わたしに譲っておくれよ、わたしども貧乏人こそ使い道があるわよ", "わたしは決して金持ではありません。こんなものでも売ったら何かの足しまえになるかと思って……", "おやおやお前は結構な道台さえも捨てたという話じゃないか。それでもお金持じゃないの? お前は今三人のお妾さんがあって、外に出る時には八人舁きの大轎に乗って、それでもお金持じゃないの? ホホ何と被仰ろうが、私を瞞すことは出来ないよ" ], [ "大奥様、お手紙を有難く頂戴致しました。わたしは旦那様がお帰りになると聞いて、何しろハアこんな嬉しいことは御座いません", "まあお前はなぜそんな遠慮深くしているの、先にはまるで兄弟のようにしていたじゃないか。やっぱり昔のように迅ちゃんとお言いよ" ], [ "叔父さん、わたしどもはいつここへ帰って来るんでしょうね", "帰る? ハハハ。お前は向うに行き著きもしないのにもう帰ることを考えているのか", "あの水生がね、自分の家へ遊びに来てくれと言っているんですよ" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932年(昭和7年)11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「彼奴→あいつ 貴郎→あなた 或→ある 所謂→いわゆる 薄ら→うすら 曽て→かつて 兼ね→かね かも知れない→かもしれない 屹度→きっと 切り→きり 位→ぐらい 呉れ→くれ 極く→ごく 此→この 此処→ここ 之れ→これ 宛ら→さながら 然し→しかし 随分→ずいぶん 是非→ぜひ 其→その 沢山→たくさん 慥か→たしか 只→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就いて→ついて て置く→ておく て仕舞う→てしまう 尚お→なお 中々→なかなか 許り→ばかり 甚だ→はなはだ 外でもない→ほかでもない 先ず→まず 益々→ますます 又・亦→また 未だ→まだ 丸切り→まるきり 丸で→まるで 矢張り→やはり」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2004年3月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042939", "作品名": "故郷", "作品名読み": "こきょう", "ソート用読み": "こきよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-04-01T00:00:00", "最終更新日": "2021-05-06T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card42939.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42939_ruby_14897.zip", "テキストファイル最終更新日": "2004-03-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42939_15330.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-03-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "どうかなさいましたか", "突傷が出来ました" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の書き換えをおこないました。 「貴郎→あなた 或は→あるいは 一層→いっそう 所謂→いわゆる 却って→かえって 位→くらい (て)呉れ→(て)くれ 爰に→ここに 此→この 之れ・之→これ 偖て措き→さておき 而も→しかも (て)仕舞う→(て)しまう 随分→ずいぶん 其→その 只→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 為め→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就いて→ついて 積り→つもり 務めて→つとめて (に)取って→(に)とって 筈→はず 殆んど→ほとんど 亦・又→また 未だ→まだ 若し→もし 漸く→ようやく」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2008年5月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043019", "作品名": "些細な事件", "作品名読み": "ささいなじけん", "ソート用読み": "ささいなしけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-07-18T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card43019.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43019_ruby_31029.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-05-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43019_31643.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "そら見ろ、本を教えて月給取るのが卑しいか。これは皆連絡のあることで、人は飯を食わなければならん、飯は米で作らなければならん、米は銭で買わなければならん。こんな些細のことを知らないのか……", "全くそうよ、お金なしではお米が買えません、お米なしでは御飯が焚けません……" ], [ "乃公は行かない。これは官俸だよ。賞与ではないぞ。定例に依って会計課から送って来るのが当りまえだ", "だけど、送って来なかったらどうしましょうね。おお昨日いうのを忘れましたが、子供の月謝をたびたび催促されて、もしこの上払わないと学校で……", "馬鹿言え、大きな大人を教育してさえ金が取れんのに、子供に少しばかり本を読ませて金が要るのか" ], [ "払出しが十分でないから受取ることが出来ない。銀行はとっくに門を閉めてしまったから、八日まで待つより外はない", "自分で被入ったの" ], [ "いい按排に役所の方ではまだ問題が起らないから、大概八日になったらお金が入るだろう……あんまり懇意にしない親戚や友達のところへ金を借りにゆくのは、実につらい話だ。わたしは午後厚釜しく金永生を訪ねてしばらく話をした、彼はわたしが給金を請求せぬことや、直接受領せぬことを非常な清高な行いとして賞讃したが、わたしが五十円融通してくれと申込むと、たちまち彼の口の中へ一攫みの塩を押込んだようにおおよそ彼の顔じゅうで皺の出来るところは皆皺が出来た。近頃は家賃が集まらないし、商売の方では元を食い込むし、これでもなかなか困っているのですよ。同僚の前へ行って取るべきものを取るのは当然ですから、そういうことにおしなさい、とすぐにわたしを弾き出した", "節句の真際になって金を借りに行ったって、誰が貸すもんですか" ], [ "商人?……八日の午後来いと言え", "わたしにはそんなことが言えません。向うで信用しません、承知しません", "信用しないことがあるもんか。向うへ行って聞けばわかる。役所じゅうの人は誰一人貰っていない。皆八日だ" ], [ "何か他の方法といっても、乃公は『筆の上では筆耕生にもなれないし、腕力では消防夫にもなれない』、別にどうしようもない", "あなたは上海の本屋に文章を書いてやりませんか", "上海の本屋? あいつもいよいよ原稿を買う段になると、一つ一つ字を勘定するからね。空間は勘定の中に入れない。お前、見たろう。乃公があの白話詩を作った時、空間がどのくらいあったか。おそらく一冊書いて三百文くらいのものだ。印税は半年経っても音沙汰がない。『遠くの水では近処の火事が救えない』、とても面倒だよ", "そんならここの新聞社におやりになってみたら……", "なに、新聞社にやると? ここの一番大きな新聞社へ、乃公はこの間ある学生を世話して、向うの編輯の顔で原稿を買ってもらったが、一千字書いても幾らにもならん、朝から晩まで書き詰めに書いても、お前たちを養うことが出来ない。まして乃公の肚の中にはあんまり名文章がないからな", "そんなら節句が過ぎたら、どうする積りなんです", "節句が過ぎたら? やっぱり官吏さ。あした商人が来て金呉れと言ったら、八日の午後に来いと言いさえすればいい" ], [ "節句が過ぎて八日になったら、わたしゃ……いっそのこと富籤でも買った方がいいと思いますわ", "馬鹿な! そんな無教育なことを言う奴があるもんか" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「貴郎→あなた 或・或る→ある 聊か→いささか 一旦→いったん 愈々→いよいよ 於いて→おいて 大方→おおかた 大凡→おおよそ 恐らく→おそらく 位→くらい 殊更→ことさら 此処→ここ 此→この 併し→しかし 暫く→しばらく 仕舞う→しまう 頗る→すこぶる 則ち・乃ち→すなわち 其→その 慥か→たしか 只→ただ 但し→ただし 忽ち→たちまち 譬えば→たとえば 度々→たびたび 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て呉れ→てくれ て貰→てもら 迚も→とても 兎に角→とにかく 取も直さず→とりもなおさず 中々→なかなか 成程→なるほど に取って→にとって 許り→ばかり 甚だ→はなはだ 殆んど→ほとんど 況してや→ましてや 先ず→まず 又・亦→また 未だ→まだ 又々→またまた 丸で→まるで 若し・※[#「にんべん+尚」、第3水準1-14-30]し→もし 若しくは→もしくは 勿論→もちろん 矢張り→やはり 僅かに→わずかに」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(青木和美) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2004年4月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043020", "作品名": "端午節", "作品名読み": "たんごせつ", "ソート用読み": "たんこせつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-05-05T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card43020.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43020_ruby_15512.zip", "テキストファイル最終更新日": "2004-04-29T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43020_15537.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-04-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "帰るのか", "ウン、雨が降りそうだからな" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の書き換えをおこないました。 「或→ある 或は→あるいは 一層→いっそう 被仰る→おっしゃる 却って・反って→かえって か知ら→かしら 且つ→かつ 曽て→かつて 爰に→ここに 御座います→ございます 此・此の→この 此→これ 併し→しかし 而も→しかも 即ち→すなわち 其→その 大分→たいぶん 只→ただ 忽ち→たちまち 度→たび 為め・為→ため 一寸→ちょっと 就いて→ついて (て)置く→(て)おく (て)仕舞う→(て)しまう 何処→どこ 尚お→なお ※[#「(來+攵)/心」、第4水準2-12-72]い→なまじい 筈→はず 甚だ→はなはだ 程→ほど 先ず→まず 益々→ますます 又・亦→また 未だ→まだ ※[#「にんべん+淌のつくり」、第3水準1-14-30]し→もし 八釜しく→やかましく 矢張り→やはり」 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2008年5月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043021", "作品名": "頭髪の故事", "作品名読み": "とうはつのこじ", "ソート用読み": "とうはつのこし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-07-18T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card43021.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43021_ruby_31027.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-05-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43021_31644.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-05-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "何にするんでもない", "そんならこれを写すのはどういう考ですな", "どういう考もない", "あなたは少し文章を作ってみる気になりませんか" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の書き換えをおこないました。 「貴郎→あなた 或る・或→ある 或は→あるいは 一々→いちいち 所謂→いわゆる 於て→おいて 凡そ→およそ 曽て→かつて (て)呉れ→(て)くれ 此→この 流石→さすが 而も→しかも (て)仕舞→(て)しま 即ち→すなわち 其処→そこ 其→その 沢山→たくさん 慥か→たしか 只→ただ 偶々→たまたま 為→ため 丁度→ちょうど 兎に角→とにかく 猶お・尚お・仍お→なお 中々→なかなか 甚だ→はなはだ 程→ほど 殆ど→ほとんど 況して→まして 又→また 未だ→まだ 丸切り→まるきり 以て→もって」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 ※底本の表題は「原序」ですが、全集内の「吶喊」の冒頭にあるため、通例にならい「「吶喊」原序」とあらためました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2008年5月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042933", "作品名": "「吶喊」原序", "作品名読み": "「とっかん」げんじょ", "ソート用読み": "とつかんけんしよ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923 924", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-07-07T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card42933.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42933_ruby_31025.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-05-18T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42933_31543.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-05-18T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "天子様は辮子が要るのかね", "天子様は辮子が要る" ], [ "お前は今こそそんな事をいうが、あの時は……", "なんだ。活き腐れめ、咎人め" ], [ "お前は城内で何か聴いておいでだろうね", "なんにも聴かなかった", "天子様はお匿れにならないのだろう", "あいつ等は何とも言っていなかった", "咸亨酒店の中で何とか言っていた人はなかったかね", "なんとも言っていなかった", "わたしはきっと天子様はお匿れにならないと思うよ。わたしはきょう趙七爺の店の前を通ると、あの人は坐って本を読んでいたが、辮子は前のように頭の上にまるめていたよ。そして長衫は著ていなかった", "……………", "お前はどう思う。ね、お匿れにならないのだろう", "そうだね。お匿れにならないのだろう" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の書き換えをおこないました。 「或→ある 彼奴→あやつ 些か→いささか 今更→今さら 未だ→いまだ 屹度→きっと 呉→く 極く→ごく 御座→ござ 此→この 之れ→これ 宛ら→さながら 暫く→しばらく 仕舞→しま 是非とも→ぜひとも 其処→そこ 忽ち→たちまち 例如ば→たとえば 丁度→ちょうど 就いて→ついて 何処→どこ 中々→なかなか 筈→はず 況して→まして 又・亦→また 丸で→まるで 若し→もし 矢鱈に→やたらに 矢張り→やはり 依って→よって」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2009年8月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043022", "作品名": "風波", "作品名読み": "ふうは", "ソート用読み": "ふうは", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-08-22T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card43022.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日発行", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43022_ruby_35452.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-08-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43022_35765.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-08-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "私共の軍隊は敗走し、私共の后はそのためにその頭を不周の山に打ちつけられ、そのために天の柱は折れ、地の軸は絶え、私共の后も歿くなられました、ああ、これは本当に……", "よろしい、よろしい、私にはお前のいうことは判らない。" ], [ "あの今の一騒ぎさ?", "あの先ほどの騒ぎ?" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の書き換えをおこないました。 「嗚呼→ああ 恰も→あたかも 或る→ある 如何→いかん 一向→いっこう 一層→いっそう 且つ→かつ 曾て→かつて 如く→ごとく 此の→この 暫く→しばらく 仕舞う→しまう 頗る→すこぶる 其→その 沢山→たくさん 只→ただ 惟だ→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 給→たま 一寸→ちょっと 丁度→ちょうど 何故→なぜ 筈→はず 程→ほど 殆ど→ほとんど 亦→また 復た→また 未だ→まだ (て)見→み 勿論→もちろん 稍々→やや 故→ゆえ 漸く→ようやく 余程→よほど」 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(鈴樹尚志) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2007年5月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043414", "作品名": "不周山", "作品名読み": "ふしゅうざん", "ソート用読み": "ふしゆうさん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 923", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-07-04T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card43414.html", "人物ID": "001124", "姓": "魯迅", "名": "", "姓読み": "ろじん", "名読み": "", "姓読みソート用": "ろしん", "名読みソート用": "", "姓ローマ字": "Lu Xun", "名ローマ字": "", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1881-09-25", "没年月日": "1936-10-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯迅全集", "底本出版社名1": "改造社", "底本初版発行年1": "1932(昭和7)年11月18日", "入力に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "校正に使用した版1": "1932(昭和7)年11月18日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班", "校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43414_ruby_26843.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-05-06T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/43414_26865.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-05-06T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "なぜ行くのだ。返辞をしたまえな", "いやどうも失敬、なんだかドンドンガンガンして、君のいうことはサッパリ聞えないよ" ], [ "豆はうまかったかね", "ああ大変うまかったよ" ] ]
底本:「魯迅全集」改造社    1932(昭和7)年11月18日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「彼奴→あいつ 或る→ある 一層→いっそう 況んや→いわんや 恐らく→おそらく 凡そ→およそ 屹度→きっと 位→くらい 呉れ→くれ 此奴→こいつ 極々→ごくごく 此処→ここ 此の・此→この 宛ら→さながら 而も→しかも 知れない→しれない 随分→ずいぶん 其処→そこ 其→その 沢山→たくさん 丈け→だけ 只→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 給え→たまえ 為→ため 一寸→ちょっと て居→てい て置→てお て来→てく て仕舞→てしま て見→てみ 迚も→とても 兎に角→とにかく 取りも直さず→とりもなおさず 尚お→なお 殆んど→ほとんど 況して→まして 又・亦→また 未だ→まだ 丸切り→まるきり 丸で→まるで 見る見る→みるみる 若し→もし 矢ッ張り→やッぱり 矢張り→やはり 漸く→ようやく」 ※底本に収録された他の作品に、「燈」と「灯」の混在がみられるので、この作品でも、「燈」はそのままにしました。 ※底本は総ルビですが、一部を省きました。 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2004年8月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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