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おもに、入試の現代文対策を述べる。学校の定期テスト対策では、授業中にとったノートや教科書や教科書ガイドなどをキチンと復習すればよい。 学校のテストでも、教科書に書いてない作品を問題文として出題する場合がある。そういう問題の対策にも、これから述べる入試対策の現代文対策と似たような勉強法が必要になるだろう。 これから述べる読解の作法は、あくまで、入試対策や、定期テストでの授業で扱っていない範囲から出題された問題文への対策です。授業でならった範囲から出た問題文の場合は、あらかじめ内容や解釈を覚えた方が、てっとり早いです。というより、授業で習った範囲の問題文の解釈は、あらかじめテスト前の復習で、解釈ごと覚えておかないと、テスト中に問題をテスト時間内に解き終わりません。 現代文の読解は、筆者の主張を短時間で正確に理解するための作業です。読解力とは、そのような短時間での理解の作業を遂行していく能力でしょう。 数学に公式と言う「手法」があるように、現代文の読解にも「手法」があります。 読解中の具体的な作業として、「それ」とか「その○○」みたいな指示語などの「それ」とは何を指すかを明確にしながら、問題文を読み進めます。 このため、国語の問題練習では、鉛筆や消しゴムなど筆記用具が必要になります。単に読むだけでは、練習になりません。数学などと学習法が似ています。数学などでは、計算練習のような、鉛筆を使った作業が必要な科目です。現代文も、鉛筆などの筆記用具を使った作業が必要です。 テスト問題にも、問題文(作品の文章本文のこと)中に代名詞の「それ」とか「あれ」とかに傍線が引いてあって、設問文で "傍線部Aの「それ」とは何を指すかを問題文中から抜き出して書きなさい。" というような設問が多く出ます。 なので、文を読むときに、最初から「それ」とか「その」などの代名詞などが出てきたら、問題文の何に相当するかをメモしながら(試験用紙などにメモ)、読み進めます。線で結ぶとか、カタカナ書きなどで具体的に対応する語句をメモしておくと良いでしょう。 話題は変わりますが、もし自分で文章を書くときは、代名詞をあまり多用しすぎないように書いたほうが、読み手にとっては分かりやすい文章が書けるでしょう。 「それ」などの代名詞を用いるよりも、「その○○」などというふうに具体的に指示対象を併記したほうが読み手が分かりやすいでしょう。 とくに実社会での報告書や説明文などでは、なるべく読み手に掛かる読解の手間を、減らす工夫をしなければなりません。報告書での文の読まれる順序は、かならずしも文章のはじめから文が読まれるとはかぎらず、抜粋(ばっすい)などをされて、第三者の読者に途中だけ読まれる場合もあります。なので、もし書く際に代名詞を多用すると、読み手が前の文を読み返す負担が増えるので、なるべく代名詞を抑えたほうが良いのです。途中の段落の始めや、途中の章の始めなどでは、読み手がわざわざ前の段落や前の章を読み返さなくてもすむように、代名詞や指示語の使用はひかえめにして、具体的に名称を書くほうが読みやすくなる場合が多いでしょう。 中学生・高校生では、別に報告書の書き方をここまで練習する必要は無いでしょう。学習時間も足りませんし。(学生は、他の教科・他の単元の学習もしなければならない。) まあ、読者は頭の片隅にでも、報告書の書き方を入れといてください。 たとえるなら算数で引き算の練習をやれば、自然に足し算も上達しますよね。同様に、読解の練習をすると、自然に書く能力も上がります。 なので読解練習での指示語の指示対象を探す練習の学習成果によって、自然に報告書や説明文を書く能力も上がります。 ただし、詩歌や俳句や物語文などの場合は、文を書く際のノウハウが変わります。俳句の場合は字数の制限がありますし、詩歌や物語文などの場合には音のリズムの関係もあるでしょうから、あまりに具体的に名称を書いてばかりいると、かえって読みづらくなってしまうかもしれません。このような詩歌などの場合には、指示語や代名詞も用いたほうが良いかもしれません。 なので、書き手は用途に応じて、書き方を分けてください。 問題文の主張に、感心する必要はありません。そんな事は入試では要求されません。現代文のテスト問題には、出題者が「この作品は優れた内容の作品であるので、出題しよう。」と判断した作品が問題文として採用されているので、ついつい感心しやすい内容の問題文が出ます。しかし、テスト中には、感心している暇がありません。そういう感傷(かんしょう)は、テスト後にひたりましょう。 もっとも、検定教科書に採用された作品の場合、とくに説明文や近代文学などの場合は、内容の理解も教育の一部として考えられているので、もし予習復習の時間に余裕があったら、感心するような作品の問題文は何度か読み返すのも良いでしょう。また、現代文ではないですが、古文や漢文などでも、あらかじめ内容を理解してないと読解に時間が掛かるので、古文・漢文の作品は内容ごと覚えてしまうのも良いでしょう。 ただし、作品に「感心した」「感動した」という感情は、主観的な感情にすぎません。テスト等では、客観的に測定できる分析力や読解力が要求されます。客観的な読解能力とは、訓練しないと身につきづらいものです。客観的な読解能力のほうが、需要(じゅよう)が高いのです。 読解問題には時間が掛かります。なので、まずは暗記してれば解ける、漢字問題などを中心とした大問(たいもん)があれば、そちらから解くことで、得点を確保しましょう。 また、古文・漢文などの古典の問題は、比較的、短時間で読解できたり、あるいは暗記問題だったりするので、現代文よりも先に古典文の大問から解いたほうが、得点できるでしょう。 さて、問題の問題文を読む前に、設問を読むのが、受験テクニックです。現代文の大問では当然、設問から読むべきだし、古典の大問でも同様に、設問から読むべきです。 その上で、設問で問われることを念頭に置きながら、問題文を読みます。もし、そうせずに、かりに試験用紙の掲載順どおりに読んでしまい、つまり問題文を読んでから設問文を読むと、そうすると設問文を読んだあとに再び問題文を読み直す必要がありますので、問題文を2度読むことになります。だから掲載順どおりの読み方をしてしまうと、問題文の読み直しをする必要が生じてしまうので、余計な時間が掛かり、設問を考える時間が足りなくなります。 多少の例外はあるかもしれませんが、たいていの場合、設問から先に読んだほうが、得(とく)な場合が多いです。 もしくは、本文の最初の段落など、本文の一部だけ先に読んでおいて、そのあとに設問を読んで、それから本文全部を順番に読む、などという方法も、よいかもしれません。 かりに設問の数がやたらと多い場合とかは別でしょうが、普通のテストでは、そういう事はありません。そういう例外的な場合(設問の数がメチャクチャと多い場合とか)でない限りは、まずは設問を読んでから問題文全体を読んだほうが安全でしょう。 そして、設問を先に読んでいるので、問われる内容が分かってるので、問題文を読んでる途中に、ある設問の答えが分かる場合があります。もし答えが分かった場合、その答えを忘れないうちに、もう解答用紙に書いてしまいましょう。どうしても解答用紙にかけない場合(たとえば字数内にマトメルのに時間が掛かる、とか)でも、せめて、答えの内容のメモ書きくらいは、問題用紙の余白などに、しておきましょう。 数分でも時間がたつと、意外と忘れるものです。なので、忘れない内にメモ、です。 なお、「代名詞の内容を追いながら、読む」などのテクニックを実行しながら、問題文本文を読むことを忘れないようにしてください。 つまり、これまでの読解テクニックをまとめると というような順番になります。 もし問題文を1回読んでも分からない場合、ほんの1分ほど設問に関係しそうな場所を読み直して、それでも分からない場合、もし他にも別作品の大問があれば、そちら(別作品)を解くのに取りかかります。 たいてい1つのテストで、2個や3個の作品が問題文として別々に出題されてるので、それらに均等に時間配分をして、テストを解いていきます。ときどき、最初に掲載された問題文が、やたらと難しい場合もあるので、もしそういう場合に、最初の問題文だけに時間を割くと、ほかの問題を解く時間が無くなってしまいます。 「問題用紙に掲載された作品中、どの作品が易しく解けて、どの作品が難しいか」なんてのは、読んでみないと分からないので、とりあえず、設問を読み終わったら、さっさと問題文を最初の作品から順番に読み始めましょう。 さて、問題文と設問文との掲載順序について、けっして出題者は「気を利かして先に設問を掲載してから、次に問題文を掲載する、」なんて事は、してくれません。なので、しかたなく受験者のほうが、気を利かして先に設問文を読む必要があります。 実社会でも、上司に報告や連絡や相談などをするときには、先に概要(がいよう)とか要約(ようやく)を話してから、続けて詳細を続けて話す必要があります。そうやって先に要約を話しておかないと、上司が聞きなおす必要が生じて、上司の時間を奪ってしまうからです。実社会での報告・連絡・相談では、もし先に要約を話さずに、先に詳細から話しはじめると、おそらく上司に叱られます。 なので、新人の社会人は報告での要約の練習をさせられたりします。 学校の現代文での練習で、設問を先に読むことも、そういう実社会での要約の練習だと思って、がんばりましょう。 また、実社会でも、文献調査(ぶんけんちょうさ)や取材(しゅざい)などをするときは、客先(きゃくさき)などから質問されそうなことを先に目星をつけておきながら、それから文献調査したり取材したりして、気付いたことをノートなどにメモをしながら、調査をしていくわけです。(※ ここで私のいう「取材」とは、一般企業の社員などが、勤務する業界の関連する展示会(てんじかい)イベントなどを取材することです。テレビ局などマスコミの「取材」の場合とは、ちがうかもしれません。) 特に取材の場合、出張費用などが掛かったり、イベントなどの取材だと年に1回しか取材できない場合とかがありますので、取材前に事前に目星をつける必要があるわけです。 話を戻すと、中学の国語の読解問題の解きかたの話でしたね。 ともかく、設問を先に読んでから、問題文を読むのが、受験テクニックです。 学校や入試での、国語の現代文の長文読解での読解作業は、報告書の書き方とは逆方向の読み方を、やれば良いワケです。 それでは、報告書の書き方のノウハウを例示しましょう。 日本語は、文章の最後まで読まないと意味が確定しません。なので、一文が長いと、読む際の負担が増えます。この「一文は、短めに書く。」という文章自体、なるべく短く書こうとしています。 日本語は、文章の最後まで読まないと意味が確定しません。さて日本語では、否定形は、文の最後に来ます。否定形の前後では、文全体の意味が正反対に変わります。なので、否定形があると、読み直しの手間が生じます。だから否定形が多いと、読み直しの手間が増えて、読みにくい文章になります。この記事の「なるべく肯定形で書く。あまり、否定形は用いない。」という文章じたい、「○○で書く」という肯定形の表現を優先し、「△△は用いない。」というような否定形の表現を後回しにしています。 たとえ読み手が文章を最後まで読まなくても、読み手が文意を予測できるようにして、冒頭に接続詞などを用いて、文意を示します。この「たとえ読み手が文章を最後まで読まなくても、」という文節自体が、「たとえ」という接続詞によって、文意を予測させています。 理由は、箇条書きによって説明対象が明示的になるから。そのため、この記事自体、箇条書きを利用しています。 なぜなら、読者にとっては、読み直しの手間が減ります。この記事自体、なるべく結論から書こうとしています。 学生のテスト対策では、これの逆の文章が出題されることを意識すれば、対策しやすいわけです。つまり国語テストの読解問題の設問には、文章の結論を問う設問が、ほぼ必ず一問は出題されたりします。 「作者の主張に近いものを、次の選択肢の中から選べ」というような設問です。 あるいは接続詞を問う問題が出題されます。たとえば問題文のある文の接続詞を隠して空欄にして、その空欄に適した接続詞を選択させる選択問題なども、よく出題されます。 ある指示語のさす内容について、字数を一定以下に限定し、「この指示語の内容を○○文字以内で書け。」というような設問も、箇条書きの能力に近いでしょう。 ある動作の主語の内容を問う選択問題も多いです。たとえば設問文で 「傍線部Aの「彼」とは誰ですか? 問題文の中から抜き出しなさい。」みたいに主語の内容を問う問題も多いです。 学校で習う文章は、テスト問題として出すための文章であるという理由から、実社会で書くべき文章とはズレがあります。学校で習う文章は、読解練習用に教育用に編集された文章であるので、やや読解が難しめの文章になっています。 「教育用に編集」という主張の意味は、たとえば、たとえ作者が読み手に分かりやすいように、作者が文の冒頭に要約を書いていたりしても、出題者が冒頭の要約を隠して問題文を出題したりして、わざと分かりづらくさせたりまします。しまいには選択問題として、隠された要約にふさわしい選択肢を選ぶ問題が出題される場合すらも、あります。同様に、たとえ作者が文章の最後に結論やマトメなどを書いていても、出題者が結論などを隠して、問題の一つとして出題する場合もあります。 ですが、教育訓練の用途としては、あえて分かりづらく編集する出題も、必要な措置(そち)です。 実は「具体的に明示的に書く。読み手に読みやすくなるように、書き手が書く。」というのは、書き手にとっては、難しいのです。読み手にとっては読むのが簡単な文章ほど、書き手にとっては書くのが難しくなります。 たとえば全自動の洗濯機とか、あるいは全自動の炊飯器とかで、家事をするのは、利用者にとってはボタン一つで簡単かもしれませんが、その全自動の製品を作っている企業での仕事は、決してボタンひとつでは片付きません。 同様に、読み手がスラスラと読めて内容を即座に把握しやすい文章であるほど、その文章を書き手は時間を多く掛けて書いています。 だから、いきなり学生に文を書かせる教育は、難しいのです。なので、まずは、やや難しめにした文章を読ませる練習から、学生は教育されるわけです。 たとえば小学校の算数の練習で、全自動の電卓をあまり使わない事と似ていますね。「電卓を作れ!」「計算機を作れ!」という課題は、小学生には解決が無理です。なので、まずは電卓に頼らなくても計算できるように、小学生は教育されますよね。 同様に、中学での国語の読解練習でも、たとえ書き手の親切心に頼らなくても中学生が読解を出来るようになるため、中学生は読解練習をさせられているわけです。 読解は独学しづらいので、学校の授業や塾などを活用する。まずは、キチンと学校に通って、キチンと予習復習をする。 宿題などで「課題図書を読め」などという宿題も、読解力など訓練も兼ねているだろうから、キチンと宿題をする。 ここでは高校受験の国語のうち、現代文の対策について解説する。高校受験の現代文は以下の内容が出されることが多い。 国語は数学・英語と並んで「主要3教科」と呼ばれることが多いが、3教科の中ではもっとも扱いが低い傾向にある。それは普段私たちが使用している日本語の読み書きが中心で、普段の生活でなんとなく身についているかのように見えるからであろう。しかし、国語の現代文の力は数学や英語と同じくらい、力をつけるのに時間のかかるものである。たとえば新聞が読めるからといって、哲学書や難解な評論が読める(理解できる)とはかぎらない。これらを読むには筆者の主張を丁寧に追うトレーニングを積まなければならない。小説でもストーリーを理解することはそれほど難しくはないが、登場人物の心理といった表面的な部分に描かれていないものを理解するには日常体験や他の本で読んだことなどと重ね合わせるなどを行わなければ読み間違えるであろう。また、筆者・作者が用いている日本語の表現技法も理解する必要がある。読解に限らず、作文でも同じことが言える。メールが書けることと仕事の報告書などを書くこととは全くことなる。この二つはそもそもルールが違うのだ。 国語の現代文が英語・数学に比べて軽視されがちなもう一つの理由は勉強方法がわかりにくいというのもあるだろう。数学は計算練習や公式の暗記と適用が、英語は単語や文法の学習が基礎となることがはっきりしているが、国語の現代文では何をやればよいのかがよくわからないまま「なんとなく」点を取ったり落としたりすることは珍しいことではない。 国語の学習に必要なものは丁寧に文章を追い、筆者の主張や作者の意図を汲み取るのに必要な読解力だけではなく、それを自分で組み立てなおす論理的な思考や体験や経験、一般常識などと重ね合わせる力である。これらは漫然と学習しても身につかない。正解・不正解にかかわらず「なぜこの答えになるのか(なったのか)」ということを考えながら解いてゆかなければならない。 大雑把に分けると、あるものごとについて説明することが中心で筆者の意見が少ない説明文(たとえば「科学はどのように進んできたか」「サルの行動からわかること」など)、ある事実を踏まえて筆者の意見を述べているため筆者の主張がはっきりとしている評論文(たとえば「環境問題を解決するには何が必要か」など)、詩や俳句がどのようにしてでき、そのみどころなどを作品に沿って筆者の意見も交えながら解説している解説文に分けられる。 全体として現在も存命の評論家や学者の文章が多い。これは現代文が現在進行しているいろいろな問題について評論・説明している文章を扱うことが多いためである。 筆者の意見とその理由などが明確なため、文章を丁寧に追えば根拠となる部分を見つけることは難しくない。そのため、比較的力をつけやすく点を取りやすい。 説明文や評論文では筆者の意見なのか事実なのかを理解しなければ文章を読んでいるうちに混乱してしまう。 大学入試の現代文で出題されることの多い鷲田清一の文章だが、易しいところを高校入試に出題することもある。エコロジーへの関心などから内山節の評論も近年出題されやすくなった。また、数十年前から入試国語で人気のある大岡信・外山滋比古・加藤周一も、時間があればチェックしても損はない。 物語文と随筆文に分けることができる。説明的文章と同様に現在も活躍している作家の作品が多く、公立高校や中堅私立高校ではすでに亡くなった作家はあまり登場しない。詩・短歌(和歌)・俳句が単独で出されることはあまりなく、解説文や古文と共に出題されることが多い。 感覚的な理解や心理の読み取りといったものが必要とされるが、これはすぐに身につくものではない。そのため、早くからいろいろな問題を練習するのがよい。 物語文ではまず、登場人物や場面をおさえなければならない。どんな人がいて、その人の人物像を簡単にとらえること、場面はどんなところで登場人物が何をしているのかをしっかりおさえるのが基本である。その上で場面の転換やストーリーの展開、登場人物の言動とその理由を考えると解きやすくなる。 随筆文の読解は説明的文章に近い。つまり、筆者が何についてどう感じたのかを文章にそって考えなければならない。 小説文ではあまりメジャーな作家の作品は出題されない。例外が重松清で、彼の作品は中学入試・高校入試共にどこかで出題されることが多い。そのため、彼の著作に一冊ぐらい目を通しておくと役に立つかもしれない。随筆では五木寛之の文章が比較的出題されやすい。白洲正子や向田邦子の随筆は、故人である上に教科書や問題集に文章が掲載されていることが多く、(公平性を保つことを目的に)公立高校を中心に高校入試では出題されにくい。しかし、今でも読みつがれている作家であるので、私立入試では出題者が「これくらいは読んでほしい」という気持ちを含めて、出題することもある。 漢字の読み書きは大問1に出されることが多い。数学の計算問題と同じように始めにすませるのがよい。また、漢字の書き順に関する問題が出ることもある。 奈良県の公立高校入試問題などのように手本の文を楷書で書き写すというのもある。この場合、止め・はねの正確さなどがチェックされる。 多くの公立高校の入試では200字程度の作文を書かせる。作文には以下のような傾向が見られる。 文章の内容や構成だけでなく、原稿用紙の基本的な使い方や言葉づかいなどもチェックされる。作文に限らないが国語の記述問題では制限字数の80%は最低書かなければ、減点される恐れがある。 現代文と古文・漢文をセットにした問題が出されることがある。また、2008年まで都立高校の入試問題には対談が出題された。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87
たとえば読書感想文では、感想が重視されます。どんなに事実が書いてあっても、あなたの感想が書かれてなければ成績は0点でしょう。 いっぽう、理科や社会科のレポート課題などでは、事実を調べて整理することが重視されます。どんなに斬新(ざんしん)な視点での感想が書かれていても、調査結果が一つも書かれてなければ成績は0点でしょう。 また、報告書の評価方法では、感想よりも分析の質が重視されます。 どんな作文課題でも、事実と感想とを区別する必要があります。 決して、「事実」と言って、意見や感想を書いてはいけません。 感想・考えを書くときは「感想」、事実を書くときは「事実」として書きましょう。 語尾が「です」・「ます」のような丁寧ないいまわしの表現を敬体(けいたい)といいます。 いっぽう、語尾が「である」・「だ」のような表現を常体といいます。 一般に、常体と敬体とが、混ざらないように書くのが正式な書き方だとされており、検定教科書でもそう紹介されています。 ただし、会話文の引用で、たとえば読書感想文での、作中の会話文の引用で、 のような、引用の場所の文体が、引用以外の場所とは異なるような場合に場合は例外です。 質が優れてなくても良いので、しめきり日を守ってください。ただし、真面目に書いてください。 あまり中学校では意識することはないですが、原稿枚数オーバー(原稿枚数の超過)、または字数オーバー(字数の超過)は禁止です。 理由は、もし出版物に掲載する原稿の場合、字数オーバーは、他人の原稿のスペースを削ってしまうからです。 なので、原稿の字数オーバーは、実務 や 入試の小論文 などでは、大幅に減点されます。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E4%BD%9C%E6%96%87
読書感想文と、それ以外の、学校行事などの感想文とでは、同じ「感想文」と言っても、書き手に求められる能力が違います。 読書感想文は、「感想文」というより、あなたの感想をもとにした、分析レポートという意味での報告書に近いです。 準備のための時間が多くある場合と無い場合とで、書き方が異なります。 このページでは、基本的に、宿題などとして、数週間ほどの時間が与えられている場合について、述べます。 学校行事の感想文の場合、極端な場合、行事の数日後〜翌週あたりに、抜き打ちで、用紙1枚ていどの感想文を書かされる場合も、あります。 まず読者に、どの行事なのか、どんな行事なのかを、完結に説明したほうが良いでしょう。運動会なのか、クラス対抗の音楽コンクールなのか、修学旅行なのか・・・、そして、とにかく感想を書いてください。 いきなり書く内容を整理できない場合は、まず、下書きを書き始めてください。十行か二十行ほど下書きが書けたら、そろそろ、いったん清書したほうが良いでしょう。 あと、他人のプライバシー(個人的な秘密など)とかは、当然、書いてはいけません。同級生のプライバシーはもちろん書いていけませんし、その他の人のプライバシーも書いてはいけません。 なにも学校での感想文だけに限らず、そもそも文書(ぶんしょ)で、他人のプライバシーを勝手に公表してはいけません。 感想文の必要に応じて、一緒に行事に参加した同級生の行動についても書く必要があるかもしれませんが、プライバシーを侵害しないように注意してください。他人のプライバシーについては、たとえ相手を褒める(ほめる)内容であっても、書かれた本人はプライバシーを気にする場合もあります。 「○○くんは僕にしか見せてないけど、○○くんが△△で頑張っていた。」みたいな事は、ほめる内容ですが、しかし当事者しか知らないプライバシーなので、書かないほうが良いのです。 同級生や同学年・同学校の生徒などについて、感想文で紹介する場合は、あくまでも公表されている情報を紹介します。たとえば、クラスのみんなの前で、あるいは学校生徒のみんなの前で公表されている情報であるなら、紹介できるかもしれません。 まず、読む本を決めます。学校で課題図書が指定されている場合は、それを読みます。また、読書感想文にしてよい本の条件を学校側が決めていますので(たとえば恋愛小説や推理小説は禁止だとか)、その条件にしたがってください。 「物語文であること」が、感想文を書くための条件として指定されている場合が、よくあります。 21世紀の現代では感想文テンプレートという教材があります。そのテンプレートでも、前提として感想文の書き手が、それまで読んだことのない物語の感想、初めて読んだばかりについての物語の感想であることを、テンプレートの前提にしています。 なので、もし、もう何か月も前に読んでしまった本、何年も前に読んでしまった本を、感想文のための読書に選んでしまうと、とたんに感想文を書くのが難しくなってしまいます。 ほか、さきほどの「問題点」の節で述べたように、日本の「読書感想文」教育の宿題では、長い作文をさせたがります。 すでに何度も読んだことのある本は、新鮮味が無いので、また読んだところで、とくに感じることがなく、なので、感想を規定枚数の以上に書くことが大変です。 (すでに何度も読んだことのある作品を読むことで、高度な分析ができるかもしれませんが、しかし規定の枚数・字数を満たしづらくなります。この「読書感想文」の宿題で要求される能力は、ある程度の長さの感想文を書く能力ですので、残念ながら分析の高度さは要求されてないのです。) なので、読む本として本を選ぶさいには、まだきちんと読んだことのない本で、読み終えられる本を、選んでください。 読む作品を選ぶさい、あまり厚すぎる本を選ぶと、読み終わらないので、読み終えられる作品を選んでください。 また、難解すぎても、理解できず、感想が「難しかった」「よく分からない」以外に思いつきません。なので、そこそこ理解できる本を選んでください。課題図書などで指定されている本と、同じくらいの読者対象と厚さの本を選べば、とくに問題ないでしょう。 どうしても、高度な本を読みたいなら、感想文の宿題を終わらせてから、自分の趣味でしましょう。 いったん本を選んだら、よほど自分にあってないかぎり、次の手順で最後まで感想を書きすすめます。 あれもこれもと本を変えていると、いつまでたっても、感想文が完成しません。 どのみち、学校の宿題の感想文のための本を選ぶセンスなんて、実社会はあなたに求めていません。 そして、読みながら、ノートなどに、感動した事項とかをメモに取ると良いでしょう。読後に思い出すのは、けっこう大変です。全ての文章でメモを取るのは大変なので、書籍全体の文量の5%〜10%くらいを読むたびにメモを取れば、充分です。 ネットにある、感想文の書き方のコツを紹介したサイトでも、メモを取りながら読み進めることを、すすめています[1][2]。 物語文を読んでいる場合、読書中の予想した展開が、どんでん返しで間違える場合もありますが、気にせずノートにメモを取ります。「どんでん返しに、ダマされた!」ってのも、立派な感想です。 メモ書きに時間を掛け過ぎても読み終わらないので、本当に最小限のメモでも充分です。そもそも、ほとんどの人は、たぶん、メモすらも取りません。 そしてまず、読み終えたら、(現代ならパソコンなどで)下書きで感想を書いてください。ペース配分のため、いったん最後まで読む終えるまでは、まだ感想の(下書き ではなく)清書は書き始めないほうが良いでしょう。 とにかく、「どこがどう、面白かったのか」などを書き始めます。単に「面白かった」とかだけなら、読者にとって不要な情報ですし、その後に書く文章も続きません。 ※ 宿題の名前は「感想文」だが、実際は「書評」(しょひょう)と混同されている。「書評」とは、書物の内容についての評論文のことです。 読書感想文の清書の場合、そもそも何の本を読んだのかを、冒頭のほうで、明確に記載する。少なくともタイトルと著者名と出版社名をきちんと書く。たとえば夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んだのなら、それと、感想文に選んだ本の出版社名も記載する。出版社を書く理由は、教員が必要に応じて、その出版物を確認するためです。感想文の題名に、作品名を書く場合もあります。たとえば、『 夏目漱石『我輩は猫である』の感想文 』などのような感想文タイトルを書く場合があります。 近代小説などの教科書などで紹介されている有名作品であっても、出版社によって、文中の漢字が変わっていたりする場合があるので、念のため出版社名も書きくのも良いかもしれません。 書籍の題名、著者名、出版社名を紹介したら、「あらすじ」の紹介は最小限にして、あらすじ紹介を早く終わらせて、さっさと感想を書き始めます。宿題はけっして「あらすじ紹介文」ではなく、「感想文」が宿題なのですから。(しかし残念ながら、日本の教育では、感想文教育と読書教育が混同されており、しばしば、あらすじを長々と紹介しないと規定枚数を満たしづらい場合がよくある。) 理想的には「あらすじ」よりも、感想を優先して書くべきです(実社会の書評では、そうなのです)。 とりあえず理想的には、感想の根拠を説明するために、必要最低限の「あらすじ」を文章で紹介すれば、充分です。 書いていてネタ切れをして、選んだ図書を読み返してみても、どうしても書くネタが思いつかない場合、時間があれば、国語の参考書などを読んだりして、ネタを仕入れてもよいです。たとえば夏目漱石の『我輩は猫である』の感想文を書く場合、どうしてもネタが思いつかないなら、参考書などで夏目漱石についての解説を読んだり、その時代の文学史の解説を読んだりします。あらたな知識を仕入れて視点が変わりますので、書けるネタが増えるでしょう。ただし、参考書を読むにも時間が掛かりますので、どうしてもネタが思いつかない場合にだけ、参考書でネタを仕入れてください。 どっちみち、仕入れたネタをそのまま書いても、評価はもらえません。感想文は、べつに文学史のレポートではありません。あくまでもテーマは「感想」です。 そのまま文学史を書くのはダメだが、感想の発想の参考にするだけなら、構わないということです。 このように、読書感想文は、学校行事の感想文とは、やや違います。「読書感想文」の宿題には、その名に反して、物語文を読むための勉強結果についてのレポートの宿題みたいな所があります。 このような、パソコンなどを利用する場合、下書きで、まずパソコンで下書きを書くのが良いでしょう。(ワープロソフトなどを使うと、自分が読みやすいでしょう。) そして、字数が規定枚数を満たすように、パソコンで編集していきます。 たとえば、原稿用紙1枚が400字詰めの用紙の場合、「原稿用紙で3枚以上」という条件なら、1200字「1200字以上」という条件を満たすように、パソコン上で下書きをチェックします。 パソコンの無料ソフトで、「文字数カウンター」などというような名前のソフトがあるので、そのようなものを使うとラクでしょう(実務では、そのようなものを使います)。 そして、下書きが字数などの規定条件を満たしたら、そこで文章の言い回しなどを整えたりしてみて、最後に手書きで原稿用紙に書き写します。 感想文は、べつに読解のレポートでもなければ、文学史のレポートではありません。あくまでもテーマは「感想」です。なので、あまり参考書とか資料集とかを読んでも、評価されません。参考書を何ページも読む時間があるなら、感想文課題に選んだ作品を何度か読み返したほうが良いです。 2020年代の現代、小学生~中学生あたりを対象に、読書感想文のための文章スタイルを紹介したテンプレート教材があります。検定教科書ではないのですが。 ネットなどでも「読書感想文 テンプレート」などで検索すれば、画像つきで情報が得られるでしょう。「テンプレート」とは「ひな形(ひな型)」・「定型書式」といった感じの意味です。 すでにマスコミなどでも感想文テンプレートは紹介されています[3]。 いくつかの会社が、そういう感想文テンプレートの教材を出しています。 会社によって、感想文のスタイルは違いますが、おおむね、以下のような構成で、以下のような順序です。 ※ 「自分の考え」の最後が「結論」「今後」を兼ねる場合もあります。 その作品に興味をもった理由を、手短(てみじか)に書く。これは、感想文に限らず、論文でも同じです。 この機会に、そういう型を身に着けてしまいましょう。 あと、単純な理由として、興味のない作品を何日も分析しつづけるのは、とても面倒です。 きちんと、自分でも興味をもてそうな作品を選びましょう。 けっして、「有名なこの作品に興味をもつと、周囲から頭良さそうに思われるから、本当は興味ないけど、仕方なくこの作品の感想文を書こう」なんてことは、しないでください。 そして、感想文の読者は、作品の内容を知らないので、手短(てみじか)に書くわけですが、その際、「最終的に誰がどうした」という能動形・肯定形で書くと、書きやすいかもしれません。(前提として、たいていの場合、感想文を書く対象の文章作品は、物語文なので、登場人物がいるはずです。) 小説界や映画界やマンガ産業などの背景事情として、物語文の創作の基本テクニックとして、作者は、登場人物に、作品のテーマや意味を込めています。物語の登場人物たちのことや、あるいは物語上の登場人物などの特徴づけのことを「キャラクター」と言います。 また、物語上の特徴づけとしての設定や性格などのことを「キャラクター性」と言う場合もあります。論者によって用語の使い方が多少は違うので、文脈から判断してください。 日本の高校教師むけの国語教育書でも、ややニュアンスは違いますが、「キャラクター」という言葉が使われています。たとえば大修館書店の教育書『変わる! 高校国語の新しい理論と実践 「資質・能力」の確実な育成を目指して』には、次のような文章があります。「登場人物の言葉遣いをそれぞれ変えることでキャラクターを表現したりしている」[4]、「登場人物のキャラクターについて、宋定泊は利口だが欲深い人物、幽霊は美女という設定をし、」[5]などといった文章があります。(なお上記の抜粋(ばっすい)は、漢文『捜神記』(そうじんき)という古代中国のファンタジー小説・ホラー小説っぽい作品をもとに、高校生が作ったオリジナル演劇(朗読劇)を例に国語教育を説明している教育書にある文の抜粋。上記の作品キャラクター設定の抜粋は、あくまで高校生オリジナル作品の演劇の話なので、読者は覚えなくていい(古典知識ではありません。誤解しないように)。)  これは決してwiki独自研究ではなく、2023年の時点では中学・高校では習わない学問ですが、実は小説や映画などの物語にも、ウケのいい作法や型があり、「シナリオ理論」または「シナリオ論」などとして知られており、専門書なども存在しています。(一般の本屋ではシナリオ論の書籍はおいてないだろうが、大学レベルの文学書を置いてある専門書店などを探せば、そういうシナリオ論の書籍も置いてあったりする。) 国語教育学でも、「物語論」(ナラトロジー)と言う名前ですが、上述の理論と類似の理論が知られています[7]。 すでに国際的な学力調査であるPISA調査による言語能力の調査にも、物語論などの手法も取り入れられています[8]。アメリカやフィンランドでも、物語論の知見が国語教育に取り入れられています[9] 日本の文部科学省などはPISA対策なども考えているので、日本の中学生・高校生は将来的に、上述のような物語論やシナリオ論のような考え方も、身に付けざるを得ません。 だからといって中学生がシナリオ論やら物語論の書籍を買う必要はありません。「じつはシナリオ論という学問が存在しており、ウケる小説や英語の型のパターンを研究している学問である」ということを知っていれば十分です(文学趣味などの大人ですら、これを知らない人もいます)。 キャラクターでテーマを置き換えるのは、シナリオ論でも物語論でも基本手法です。 そもそも、物語論でも、登場人物には基本的に、役割があるとされています[10]。 だから後述のように、5W1H(いつ When、 どこで Where、 だれが Who、 なにを What、 どのように 、どうした)の各要素の価値は、けっして平等ではなく、Who (誰が)こそが重要なのです。 特に、マンガやアニメやイラストなど、キャラクターをどうデザインしたり作中でどう活用したりするかの理論体系を、俗(ぞく)に「キャラクター論」[11]と言います。 だから、「最終的に誰がどうした」という形で要約を書くことで、自然とシナリオ論や、キャラクター論といった、現代的な手法を、自然と練習できるのです。 5W1H (いつ When、 どこで Where、 だれが Who、 なにを What、 どのように 、どうした)と言いますが、実は5Wの価値は、作家サイドでは平等ではないのです。 断然、登場人物・キャラクターについての「だれが」 Who こそが、現代的な物語論・シナリオ論・キャラクター論の重点なのです。 実写の映画の観客だって、ほとんどは役者さんに注目します。役者さんの歩いている場所といった「どこが」 Where を知りたがる人なんて、滅多にいません。 よほど抽象的な内容の小説ならともかく、小学生・中学生が読める程度の小説なら、シナリオ論や物語論(ナラトロジー)やキャラクター論にもとづくテンプレートで、だいたいは対応できるでしょう。 なので、教材会社の読書感想文テンプレートで、良いのです。 読者がシナリオ論やキャラクター論の存在を知ってるかは、関係ありません。21世紀の現代では、小説家や映画作家などの作り手の側にとっての常識なのです。 小説などのあらすじを、箇条書きにしたのを 1 ヤマダが〇〇する 2 それに対してタナカが△△した 3 アベが□□した みたいなのを、合計で十数段くらい行ってマトメたものをプロットと言います。 小説家・脚本家は基本的に、作品を作る前などに、こういうのを作っています。 そして、作品全体を読んでて「いちばん心に残ったこと」も書くのも、定石です。 これは、感想文に限らず、就職してからの社外のイベント展示会などの見学レポートなどでも同じです。 「心に残ったこと」も基本、登場人物がどうしたという形になることが多いでしょう。ただし場合によっては、登場人物そのものではなく、その人物の発したセリフなどが、印象にいちばん残ったものの場合もあります。 そして、なぜ印象に残ったのかという理由も、なるべく具体的に、自分の体験なども交えて、書きましょう。 「自分の体験も交えて」が重要テクニックです。 要するに、あなたは最終的に人生でどうなりたいのか、です。 感想文は、小論文とは異なり、客観性を要求されるものではありません。感想文を読んでる読者が読みたいのは、あくまで「感想」です。 だから、自分の人生の体験なども交えて、感想を具体的に分かりやすく書きましょう。 「心に残ったこと」という形ではなくとも、たとえば本を読む前と読んだ後で、その本の影響で自分の考え方が変わったりすれば、代わりにその考え方の変化を書くのも良いかもしれません。 この場合も、人生の体験などもふまえて具体的に、考え方の変化の理由を書くと、分かりやすいかもしれません。 「いちばん心に」という「いちばん」にこだわる理由は、なぜなら人生には時間に限りがあるので、そんなに「(1番目ではなく)6番目に心に残ったこと」とかまでは、説明しきれないのです。有限な人生なので、「いちばん心に残ったことは何か?」というのを、レポートでは要求されることが多くあります。(ただし、理科などの実験レポートでは、そういうのは要求されない場合もある。もっとも、大学の卒業論文などだと、学校によっては要求される場合もあるなど(学校にもよる)。) 物語をつくる作者の側の時間も、有限です。作家の人生も有限ですので、ある程度は、内容を絞っているはずです。 そもそも、文庫本などの書籍の紙のページ数も有限です。小説家は、有限のページ数の中で、「最低限はこれを伝えたい」という内容を、ある程度は絞っています。 作家が、自分の作品で読者・観客などに伝えたい内容のことを「テーマ」と言います。 べつに作者の考えたテーマと、読者がじっさいに感じた内容とが、同じとは限りませんし、その必要もありません。むしろ、作家側のテーマと読者の感じた印象とのギャップによって、その作品のファンたちによって文化が作られることすら、あります。 ともかく、有限のページ数のため小説家などはテーマを絞っているのが普通なので、「いちばん心に残ったこと」を書くことで、自然と作品のテーマ的なものについて考察することになります。 「感想文」は、けっして小論文でもなく、まして教科書でもありません。 感想文では、自分の考えを書きましょう。感想文テンプレートの多くも、そういうスタイルを進めています。 とはいえ、すでに「いちばん心に残ったこと」を書いているので、そこで書いたことは、いちいち書かなくても良いでしょう。 よって、「自分の考え」は、言い残した、補足的な内容になるでしょうか。 この場合も、自分の体験などを交えたり、「自分ならどうする?」とか、ともかく自分に置き換えて具体的に考えると、感想の説得力が高まるでしょう。 ただし、主役が悪人・ダメ人間の小説なども存在しますので(太宰治『人間失格』、芥川龍之介『羅生門』、など)、そういう場合にまで、「自分ならどうする」にコダワル必要もありません。感想を書く作品の性質に合わせて、うまくアレンジして使い分けてください。 もっとも、下記コラムで述べるように、高校入試の傾向として、出題される作品のほとんどは基本的には道徳的な作品であり、そのため作中の教師などの人物は善い人物であることが高校入試の傾向として知られています。 また、物語以外の、『ファーブル昆虫記』みたいな子供向けの研究書みたいのも、「自分ならどうする?」は書けないでしょう? (「昆虫になれ!」というのか? カフカ『変身』じゃあるまいし。) うまくテンプレートをアレンジして作品のジャンルに合わせてください。 高校入試国語の物語文の傾向として、中学卒業(高校入試を含む)までに出てくる国語の物語文は、基本的には道徳的な内容であることが知られています[12]。また、そのため高校入試でも(私立高校の入試でも)、出題された物語文の作中で教師役の人物が出てくる場合、ほとんどの作品では教師役は善人であり、さらに教師の行動や発言は正しいという傾向があります[13]。 現実なら「先生は善人でいい人なんだけど、しかし先生の熱意が生徒にはプレッシャーになってしまって、空回りしている」と言うようなことも人間社会にはありそうですが、しかし、そういう複雑な状況の物語文は高校入試には出づらい傾向が高い事が知られています[14]。 さらに言うと、物語中の家族関係における父親の役割について、近代小説や戦後の昭和の時代でも、高校入試に出そうな小説の中では、基本的には父親の役割は、子どもを自立させるための教師役のようなものであるのが知られており[15]、少なくとも2002年発売の『小説入門のための高校入試国語』による分析ではそうです。 父親の役割は以下の2通り[16]。 この2パターンが、入試国語での典型的な「父と子の物語」のパターンです[17]。 2020年以降はどうか知りませんが、2002年までの入試国語は上記パターンだったのです。 さらに父親の役割は、単に正しいだけでなく、さらに(精神的にも社会的にも)「強い」のが入試国語での「父と子の物語」のパターンです[18]。 もし父親が弱くて、子どもが簡単に乗り越えられてしまったら、その「父と子の物語」がすぐに終わってしまうので、なので父親は強めに設定されています。 父親は、大人社会の象徴なのです[19]。 「父親が社会の象徴という設定」は、もう近代の19世紀のヨーロッパの心理学や社会学などで、すでに提唱されていることです[20]。なので、昭和・平成の多くの作家が踏襲している設定です。 なお、その心理学の理論が正しいかどうかは、当wikiの知ることではありません。21世紀の心理学では「再現性の危機」という問題があり、20世紀の心理学の教科書にもあったような過去の有名な理論を21世紀に追試験してみたら、なんと再現性が確認できなかった(なので心理学の教科書で、理論の見直しが必要になってしまった)という大問題があります。しかし、19世紀の心理学における家族関係の理論が正しかろうが間違ってようが、近代から昭和末期までの文学史上の統計的な傾向とは関係ありません。文学作品の内容は空想なので、21世紀の現実社会での心理学の学説の変化とは関係ありません。 入試国語の母親については、自立につれて去っていく家庭の象徴であり[21]、なので道徳的には美しい存在です。上記の心理学や社会学でも、母親を家庭の象徴とする理論が19世紀から知られています。 なので、けっしてヒッチコック映画『鳥』(とり)のようなヒステリックな女性としての母親とか、入試国語には出てきません。 また、子どもは母親に同情するのが入試国語の正解、もしくは自分も母親になるのが正解です[22]。 母親の苦労が分かることになることが、子どもの成長のあかしであり、子どもの自立の証拠、という入試国語のパターンなのです。 子供の成長につれて、子どもは家庭の外の人間関係が大きくなっていくので、家庭を置き去りしていくので、なので入試に出されそうな多くの物語では母親は孤独な存在になるので、なので母親には同情すべし、というパターンもよくあります[23]。 なお、国語としても、日本語の「父性」や「母性」と言った言葉の意味は、上述の心理学理論が前提になっています。19世紀のスウェーデンの心理学者が上述のような理論をもとに moderskap(モータースカップ)とスウェーデン語の造語を発明し、それを日本語に訳したものが「母性」です[24]。 これらの心理学・社会学の「父性」と「母性」の理論では、母性により、母親は本能的に子供を愛するとされます。そして父親は、その父性により、子どもに社会のルールなどを教えるために、子どもを母性あふれる母親から切り離す、とされます。 現実がそうかは知りません。「父性」「母性」と言った言葉は、こういうふうに使われる、と言う話をしています。果たして、現実の母親や父親の心理的傾向が統計的にそうなっているかは、当ページのwiki編集者たちの知ることではありません。21世紀の日本の家族関係の現実は、「父性」や「母性」の言葉の意味とは関係ありません。 現実社会では、21世紀では、日本の土地事情などにより大人になっても親子で同居、ということもあります。しかしそんなのは、入試に出そうな近代文学の作品の設定には関係ありません。 パート主婦とか、近代文学には関係ありません。 暗黙の前提でしたが、学校国語に採用される児童文学では、「子どもは早く大人のように手に職をつけたがっている」というのが前提です[25]。 なので、決してピーターパンのようなネバーランドのような子供だけの国とか、入試国語には、基本的にはないはずです。 入試問題の場合、試験の時間が限られていますので、パターン外の設定の多すぎる作品は出てこないはずです。たまに例外的に、入試問題でも上記パターンに当てはまらない作品の出題がされ、難問な場合もあります。ですが、そのような難問は、どうせ他の受験生も解けないので、あまり気にする必要ないでしょう。 入試は、「傾向と対策」と昔から言うように、一般的な問題集や過去問にあるパターン通りの問題がきちんと解ければいいのです。 受験勉強では、パターン外の難しい国語問題に対策する時間があるなら、それよりも英単語とかを多く覚えましょう。 ※ 「自分の考え」の最後が「結論」「今後」を兼ねる場合もあります。 最後のほうに(この作品の影響で)「今後、自分はどうしたいか?」というのを書きます。 感想文だけでなく、論文などでも、似たような構成を書くことがあります。たとえば、学術系の論文なら、論文に書いた自分の研究成果をもとに、研究し残した、自分の次の研究テーマの希望や予想を書いたりするのも、よくあります。 21世紀以降の論文などに文章スタイルとして使われることの多いパラグラフ・ライティングという文章法は、感想文テンプレートのスタイルとは違います。 パラグラフ・ライティングは、 などの文章スタイルです。 パラグラフ・ライティングは、どちらかというと感想ではなく論文など客観性の高いコンテンツのための文章スタイルです。このため、21世紀では、大学などで次第にパラグラフ・ライティングも教育されるようになっています。 しかし大学などでの学生むけのトレーニングでは、まだ論文を書くほどの研究力をつけてない学生に向けて、あえて日記や感想文やエッセイなどといった割と主観的なコンテンツをパラグラフ・ライティングで書かせる課題などが行われる場合もあります。 ですが、エッセイなどをパラグラフ・ライティングで書かせるのは、あくまでトレーニング上での都合に過ぎず、あまり実用的ではありません。(そういう書籍も、あまり流行していません。) 感想文についての文章のスタイルは、パラグラフ・ライティングではなく、上述の感想文テンプレートのような書き方のほうが無難でしょう。 「テンプレ-ト」と呼び方のほかに「フレームワーク」(「枠組み」という意味)という呼び方をする場合もあります。文章のジャンルごとによって、その業界で適するフレームワークは違います。使い分けましょう。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E6%84%9F%E6%83%B3%E6%96%87
小学校で、説明的な文章の書き方や、説明的な発表のしかたを練習したでしょう。 では、中学生むけの教材として、説明的な文章の書き方などを、本書では、まとめます。(本単元の内容は、基本的には、小学校で習ったことを、中学生むけの語句で簡潔に言い直したものである。) 説明の対象の時間が変化していく場合(たとえば過去、現在、未来と変化していく場合)、 なにかの作りかたを説明する場合と、それとも予想や分析を説明する場合とで、順序がちがう。 なにかの作り方(たとえば料理の作り方)の説明の場合、 時間の順に、 また、説明の順序を決めたら、その説明の最中は統一するべきです。 たとえば、学校の通学路で、危険な場所について調査して報告をする場合、報告の順序としては、(※ 下記の例の一覧は、教育出版の検定教科書での例) など、順番の考え方がいくつも、あります。 どの順序で伝えるにしても、順序の方針を決めたら、その順序で最後まで伝えないと、聞き手・読み手が混乱します。 何かを説明する文章を書く時は、見出しをつけると、読みやすくなる場合が多いです。(※ 東京書籍の中1国語教科書の見解) たとえば、ある料理の作り方の説明では(※ 架空の料理です)、 /////////////// 例 /////////////// <この料理をつくるときに特別に準備するもの> 食材 器具 <調理の手順> (※ 以下省略) /////////////// のように、見出しをつけると、どこに何が書いてあるのか、ハッキリと分かるようになります。 事実を伝えるときは、5W1H(ごダブリュいちエイチ)を意識して、伝えると良い。 文章で書く場合は、「いつ・どこで・だれが・なにを・どのように・どうした」(←これが5W1H)を意識して、書くのである。 理由などの「なぜ、そうしたのか?」などの分析や理由などの詳しい情報は、5W1Hのあとから説明する。 なお、こういう説明の書き方でいう「事実」とは、いわゆる客観的事実(きゃっかんてき じじつ)のことです。 なので、「私がこう思ったことは事実です。」というのは、たしかに一応(いちおう)は「私」さんにとっては事実ですが、しかし「私」さんの主観なので、客観的事実ではないので、説明的な文章では避けるべき(さけるべき)です。 また、事実でないことを伝えるには、たとえば推測ならば、文末に「だろうと思います。」などのように文末表現を工夫して、その文章が、推測であると分かるようにすべきである。 この前提として、事実と、それ以外の意見(感想または推測や予想)などとは、文章を別々に分けるべきである。(※ 教育出版の中1国語の見解) いっぽう、事実を伝えるときは、文末をはっきりと「である。」「です。」「ます。」「だ。」などといった言い切りの形にすべきです。(※ 教育出版の中1国語の見解) もしかしたら、ひかえめな表現のつもりで、事実を伝えようとしているのに「思います。」という表現をする人がいそうですが、しかし説明の場所では、語尾が「思います」だと意見だと誤解をされる可能性があります。 人前で演説(えんぜつ)や発表などのスピーチをする場合、 まず、自分の番のスピーチの最初で、自己紹介をしましょう。 くらいの簡潔な紹介でかまいません。(※ 三省堂の中学3年国語など) 作文だったら、原稿用紙に自分の名前を書けば分かりますが、しかしスピーチでは自分で自己紹介をする必要があります。 そして、その演説をとおして何を伝えたいのか、ハッキリさせておきましょう。 というのも、スピーチを聞くために、多くの聴衆に集まっていただいているからです。 学生のスピーチの場合、「です・ます」調で話すのが良いとされる。 また、スピーチは、あまり、1人あたりの発表時間を長くできません。 このため、自分の意見の根拠の全てを伝えることは、スピーチでは無理です。 なのでスピーチでは、どうしても伝えたい意見と、その根拠にしぼって、話すことになるでしょう。(※ 三省堂の見解) よって、スピーチのための原稿を用意する段階では、発表する内容をしぼりこむ必要があります。 さて、スピーチでは、聞いている相手は、わからない事があっても、その場では調べることができません。 なので、たとえば小学生を聞き手として、中学生が、自中学に見学にきた小学生を相手に、小学校と中学校との違いを説明するような場合は、話し手の中学生の側は、相手の小学生の知識を想定して、わかりやすい言葉で話す必要があります。(※ たとえば三省堂の中3国語では、全校生徒にスピーチする場合は、中1が聞いても分かるように言葉づかいを選びなさい、という内容の指導している。) さて、小学生を相手にスピーチする場合、具体的には、小学生が知らないだろう「部活」や「中間テスト」「期末テスト」といった、普通の小学校では使うことのない言葉を、無意識に使わないように気をつけましょう。 なお、一般に、スピーチのあとには、聞き手からの質問などの時間があります。これを「質疑応答」(しつぎ おうとう)といいます。(※ 光村図書の中2国語) なので話し手の側は事前に、よくありそうな質問には、ある程度は応えられるように準備しておきましょう。 議論(ぎろん)や討論(とうろん)などをする場合の「意見」の書き方としては、自分がその意見を「客観的に正しい」と思える理由も伝えましょう。(※ 東京書籍が中1で紹介) くわしくは2年生の範囲になりますが、議論や討論とは、そういうものだから、です。 たとえば、あるアンケートでの、多かった意見の回答者数などのように、数値で客観的に計算できるものが多くある場合、数値そのものを記述するだけでなく、グラフなどを活用すると、わかりやすくなる。(※ 東京書籍の見解) ある商品の販売数の年度ごとの変化や、ライバル他社の販売数との比較なども、数値などで説明できるものはグラフで説明すると、わかりやすい。(※ 東京書籍の見解 棒グラフや円グラフ、折れ線グラフなど、適したグラフを活用しよう。 もし、数値の対象の人数や販売数が膨大な場合(たとえば「15,6427台」とかの場合、「15万台」のように近似(きんじ)の値で良い。 なお、報告書では、保護者への校内の合唱コンクールについての、保護者への報告がある。 案内状の書き方は、どんなイベントの案内をするかで変わってきますが、どのイベントでも共通することもあります。 まず、 という事です。 たとえば、仮に、ある学校で、生徒たちの書いたポスターの展示会をしたとしましょう。 日時と場所は、箇条書きで書くのが普通です。 のように。 こういうのを、3~5行ていどのアイサツ文の直後にでも置きます。 たとえば、草稿(そうこう、下書きの原稿のこと)を考えると、下記のような感じになるでしょうか? なお、左上のあて先(あてさき、宛先)などを通して、誰は来れないのかを、伝達する必要もあります。(※ たとえば、光村図書の中2国語の同窓会の案内では、「元6年2組の皆様」と宛先を明記してある。) たとえば、「生徒の兄弟や姉妹や友人は、来れるのか?」という問題もあります。 「生徒の近所の家に住んでいる大人は、これるのか?」という問題もあります。 あて先で、「保護者の皆様へ」とあるので、なるべく保護者だけに来て来てほしいと、しているのです。 (※ 観客席などの席のある校内イベントでは、席の数の問題や、防犯などの問題で、もし保護者でない人が来ても、退席ねがう場合がある。) (※ ほぼ範囲外:)また、案内状の最後には、「以上」と明記して、文の終わりを明記します。(※ たとえば、光村図書の中2国語の同窓会の案内では、「以上」と文末を明記してある。) こうすることで、もし、印刷ミスなどの不備によって、たとえば「日時」とその下の行の印刷が消えてしまった印刷物が保護者に届けられても、その場合には、「以上」の語句も消えるので、保護者は「以上」の語句が無いので異常に気づきます。 また、同窓会などの学外イベントの場合、開催場所が(学校ではなく)たとえば市民ホールだったりして、その施設をレンタルするのに費用が掛かるなどの都合で、出席者の会費をとったり、あるいは出欠の連絡が事前の必要になったりします。(※ 光村が中2にそう指導している。) 出欠の連絡が必要な場合、 などの明記も必要です。 (※ くわしくは中学レベルを大幅に超えるので、以降の説明を省略したい。)
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E8%AA%AC%E6%98%8E%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%9F
親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。 親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ。 庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている。これは命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋という質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎という十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、栗を盗みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。その時勘太郎は逃げ路を失って、一生懸命に飛びかかってきた。向うは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。鉢の開いた頭を、こっちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷の袖の中にはいった。邪魔になって手が使えぬから、無暗に手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。しまいに苦しがって袖の中から、おれの二の腕へ食い付いた。痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦をかけて向うへ倒してやった。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。その晩母が山城屋に詫びに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。 この外いたずらは大分やった。大工の兼公と肴屋の角をつれて、茂作の人参畠をあらした事がある。人参の芽が出揃わぬ処へ藁が一面に敷いてあったから、その上で三人が半日相撲をとりつづけに取ったら、人参がみんな踏みつぶされてしまった。古川の持っている田圃の井戸を埋めて尻を持ち込まれた事もある。太い孟宗の節を抜いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらの稲にみずがかかる仕掛であった。その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ挿し込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食っていたら、古川が真赤になって怒鳴り込んで来た。たしか罰金を出して済んだようである。 おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった。母は兄ばかり贔屓にしていた。この兄はやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった。おれを見る度にこいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。なるほど碌なものにはならない。ご覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役に行かないで生きているばかりである。 母が病気で死ぬ二三日前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲って大いに痛かった。母が大層怒って、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ泊りに行っていた。するととうとう死んだと云う報知が来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。 母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮していた。おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖のように云っていた。何が駄目なんだか今に分らない。妙なおやじがあったもんだ。兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付けた。おやじがおれを勘当すると言い出した。 その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに詫まって、ようやくおやじの怒りが解けた。それにもかかわらずあまりおやじを怖いとは思わなかった。かえってこの清と云う下女に気の毒であった。この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするようになったのだと聞いている。だから婆さんである。この婆さんがどういう因縁か、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きをする――このおれを無暗に珍重してくれた。おれは到底人に好かれる性でないとあきらめていたから、他人から木の端のように取り扱われるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審に考えた。清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真っ直でよいご気性だ」と賞める事が時々あった。しかしおれには清の云う意味が分からなかった。好い気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。清がこんな事を云う度におれはお世辞は嫌いだと答えるのが常であった。すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。少々気味がわるかった。 母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、廃せばいいのにと思った。気の毒だと思った。それでも清は可愛がる。折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか寝ている枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼饂飩さえ買ってくれた。ただ食い物ばかりではない。靴足袋ももらった。鉛筆も貰った、帳面も貰った。これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。実は大変嬉しかった。その三円を蝦蟇口へ入れて、懐へ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架の中へ落してしまった。仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒を捜して来て、取って上げますと云った。しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水で洗っていた。それから口をあけて壱円札を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。清は火鉢で乾かして、これでいいでしょうと出した。ちょっとかいでみて臭いやと云ったら、それじゃお出しなさい、取り換えて来て上げますからと、どこでどう胡魔化したか札の代りに銀貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。 清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄したものでお兄様はお父様が買ってお上げなさるから構いませんと云う。これは不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺れていたに違いない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。単にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。こんな婆さんに逢っては叶わない。自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。おれはその時から別段何になると云う了見もなかった。しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。今から考えると馬鹿馬鹿しい。ある時などは清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考えもなかったようだ。ただ手車へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。 それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所になる気でいた。どうか置いて下さいと何遍も繰り返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町ですか麻布ですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りで並べていた。その時は家なんか欲しくも何ともなかった。西洋館も日本建も全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。清は何と云っても賞めてくれる。 母が死んでから五六年の間はこの状態で暮していた。おやじには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には菓子を貰う、時々賞められる。別に望みもない。これでたくさんだと思っていた。ほかの小供も一概にこんなものだろうと思っていた。ただ清が何かにつけて、あなたはお可哀想だ、不仕合だと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。その外に苦になる事は少しもなかった。ただおやじが小遣いをくれないには閉口した。 母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があって行かなければならん。おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家を売って財産を片付けて任地へ出立すると云い出した。おれはどうでもするがよかろうと返事をした。どうせ兄の厄介になる気はない。世話をしてくれるにしたところで、喧嘩をするから、向うでも何とか云い出すに極っている。なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食ってられると覚悟をした。兄はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の瓦落多を二束三文に売った。家屋敷はある人の周旋である金満家に譲った。この方は大分金になったようだが、詳しい事は一向知らぬ。おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町へ下宿していた。清は十何年居たうちが人手に渡るのを大いに残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。婆さんは何も知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。 兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州下りまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時のおれは四畳半の安下宿に籠って、それすらもいざとなれば直ちに引き払わねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん。清に聞いてみた。どこかへ奉公でもする気かねと云ったらあなたがおうちを持って、奥さまをお貰いになるまでは、仕方がないから、甥の厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。この甥は裁判所の書記でまず今日には差支えなく暮していたから、今までも清に来るなら来いと二三度勧めたのだが、清はたとい下女奉公はしても年来住み馴れた家の方がいいと云って応じなかった。しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易えをして入らぬ気兼を仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。それにしても早くうちを持ての、妻を貰えの、来て世話をするのと云う。親身の甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。 九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出してこれを資本にして商買をするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも随意に使うがいい、その代りあとは構わないと云った。兄にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊な処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。兄はそれから五十円出してこれをついでに清に渡してくれと云ったから、異議なく引き受けた。二日立って新橋の停車場で分れたぎり兄にはその後一遍も逢わない。 おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。商買をしたって面倒くさくって旨く出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は生来どれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。 三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。 引き受けた以上は赴任せねばならぬ。この三年間は四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々面倒臭い。 家を畳んでからも清の所へは折々行った。清の甥というのは存外結構な人である。おれが行くたびに、居りさえすれば、何くれと款待なしてくれた。清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴した事もある。独りで極めて一人で喋舌るから、こっちは困まって顔を赤くした。それも一度や二度ではない。折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ清は昔風の女だから、自分とおれの関係を封建時代の主従のように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点したものらしい。甥こそいい面の皮だ。 いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寝ていた。おれの来たのを見て起き直るが早いか、坊っちゃんいつ家をお持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子で、胡麻塩の鬢の乱れをしきりに撫でた。あまり気の毒だから「行く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」と慰めてやった。それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後の笹飴が食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。「西の方だよ」と云うと「箱根のさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。 出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。来る途中小間物屋で買って来た歯磨と楊子と手拭をズックの革鞄に入れてくれた。そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌よう」と小さな声で云った。目に涙が一杯たまっている。おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。 青空文庫より
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https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html 他のウェブサイトにある文書の転載が許可されていない為、紹介という形にさせて頂きました。 或る日、お釈迦さまは極楽の蓮池のほとりを散歩していた。 遥、下には地獄があり、犍陀多(かんだた)という男が血の池でもがいているのが見える。 犍陀多(かんだた)は生前、殺人や放火など、多くの凶悪な罪を犯した大泥棒であった。 しかしそんな彼でも一度だけ良いことをしていた。道ばたの小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてやったのだ。 そのことを思い出したお釈迦さまは彼を地獄から救い出してやろうと考え、地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らした。 血の池で溺れていた犍陀多(かんだた)が顔を上げると、一筋の銀色の糸がするすると垂れてきた。 これで地獄から抜け出せると思った彼は、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命に上へ上へと登った。 地獄と極楽との間にはとてつもない距離があるため、のぼることに疲れた犍陀多(かんだた)は糸の途中にぶらさがって休憩していたが、しかし下を見ると、まっ暗な血の池から這い上がり蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいて来る。 このままでは重みに耐えきれずに蜘蛛の糸が切れてしまうと考えた犍陀多(かんだた)は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだ。 すると突然、蜘蛛の糸は犍陀多がいる部分でぷつりと切れてしまい、彼は罪人達と一緒に暗闇へと、真っ逆さまに落ちていった。 此の一部始終を上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池(はすいけ)を立ち去った。
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中学校の古文は、竹取物語、枕草子、徒然草、平家物語、おくのほそ道 など、日本文学でも代表的なものを学ぶ。 古典は、もともと、句読点やかぎかっこなどはない(白文)。 ただし、教科書では学習用として、すでに出版者側がつけている。 また、古典の場合、動作主が明確にかかれていないことが、多いので、 文脈から読み取ることになる。 文には、歴史的仮名遣いが使われている。 歴史的仮名遣いで書かれた文を読むときの読み方の原則をここでは挙げる。
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小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校国語 > 中学校国語 古文 > 中学校国語 古文/竹取物語 このページでは「地球人」は地球の人類のことを、「宇宙人」は地球人を除いた宇宙人を指します。ご注意ください。 かぐや姫はじつは月の世界の人。天人である。 だが、単にかぐや姫が宇宙人というだけでは、ここまで後世に残る名作にはならない。かぐや姫と人間との関わりが面白さの醍醐味。 かぐや姫がじつは宇宙人といっても、考え方の様式はほぼ地球人である。ただし、月 (の国) に帰らなければならないという宿命があるので、いくつかの地上の権威は結果的に通用しないことになる。もっとも、かぐや姫本人は、地上の権威を理解しているし、なるべく育ての親のおじいさんやおばあさんに幸せな暮らしをさせたいとも思っている。かぐや姫に地上の権威が通用しないという例を、作品中ではかぐや姫への求婚を、姫がすべて断る、ということで表現している。そのためか、かぐや姫はとても美人だ、という設定になっている。結果的に求婚を断る行動は地上の権威を否定することになるから読者には痛快であろう{{}}。しかも、かぐや姫の行動は、法に逆らっているわけでもないので、読者は大して罪悪感を感じないで済む。 かぐや姫が通常の人間ではないということが読者に分かるように、冒頭で竹の中から小さな姫が発見される。しかし、この冒頭の段階では、かぐや姫の正体が月の住人だということは、まだ読者には分からない。かぐや姫の正体が分かるのは、結末ちかくになってからである。冒頭を読んだ読者に「かぐや姫はひょっとしたら普通の人間ではないのかもしれない」という事が分かれば十分である。 そのような、姫の生い立ちの前置きが無いと、単に強情な娘が求婚を断り続けるだけのわがままな箱入り娘、という印象になってしまう。作中でも求婚を断り続けるかぐや姫のあまりの強情っぷりに、後に出てくる帝 (天皇) があきれるようなシーンもある。 姫は全ての求婚を断るが、あまりの美貌に「我こそ」という美青年も数人 (より多い可能性もある) 現れる。この中でも特に美しい5人の貴族たちがおり、彼らの求婚は可能性を残した形で断られる。彼らは入手困難なものをそれぞれ要求され、持参した者と結婚するとした。5人の貴族はそれぞれの財力などを用いて自身に命じられたものを用意しようと一念発起した。しかし、偽物を献上し見破られたり、大金をはたいて天竺 (現在のインド) の商人か偽物しか得られなかったり、船が難破したりと散々だった。求婚をした貴族のうちの一人は、その自身の不幸な結末から、かぐや姫を疫病神あつかいをしはじめて、すっかり、かぐや姫への恋愛をなくしてしまうぐらいである(そのようなストーリ-中盤での疫病神あつかいが、ストーリー後半で明らかになる、かぐや姫の正体の伏線にもなってるのかもしれない)。 五人の貴族の求婚がすべて失敗に終わったあと、(日本の)帝 (=天皇) がかぐや姫に興味を抱き、宮中に召抱えようとする。最終的に、かぐや姫を抱えようとする天皇も、姫に断られる。この帝ですら、かぐや姫の宿命を引き立てるための、引き立て役である。 終盤にでてくる、天界の人たちの言説では、地上の権威や、地上人たちの人情などは、取るに足らない下らないものとして扱われている。 中国や朝鮮などの外国では、日本の権威があまり通用しないが、どうも、そういう影響が作品にあるのかもしれない。仏教などの外来宗教の影響もあるのだろう。 そのような、日本の権威や常識が通用しない世界が、地球上には存在することが、この地上の権威や人情を見下す天人たちの行動に、説得力などを与えているのであろうか。 単に感情だけが、地上の感情だけが、天人にとって取るに足らないのでなく、かぐや姫を守ろうとする地上の兵士たちの警備の行動といった武力的な能力すらも、天人たちの超能力的な力の前には、地上は無力である。 こうして、地上の感情も、地上の力も、天人たちの前では、無力・無駄な物として表現される。 そして、ついに、かぐや姫は、天界に、つれて帰られてしまう。そして、天界の超能力的な力により、かぐや姫は地上のことも忘れてしまう。「天の羽衣」という物を、かぐや姫が着せられることにより、かぐや姫は地上のことを忘れてしまう。 こうして、天人とともに、かぐや姫が月に帰って以降、もう、かつての人情のあった「かぐや姫」は出てこない。地上のことを忘れ去っているので、出てくる余地も無い。実際に、もうストーリー中には、天人もかぐや姫も登場しない。 しかし、結末は、べつに月に帰るシーンでない。かぐや姫が帰る直前に、地上の者が、かぐや姫から貰った 不死の薬 があるのだが、この薬を地上の人たちが、不要な物として燃やすのが、結末である。 かぐや姫が月に帰ったシーンを結末にするのではなく、結末は、そのあとの地上の人たちの、あきらめたあとの行動を結末にしているのである。 悲劇的な結末である。 ストーリー冒頭での、竹の中が光っているという幻想的なシーンとは対照的に、結末は、つらい。 竹取物語が書かれた時代は、かな文字が成立した時代であると考えられている。 そもそも、かな文字が成立したので、日本語で物語が書きやすくなったと考えられている(※ 教育出版の見解)。 (抜粋) 今は昔、竹取の翁(おきな)といふものありけり。 野山にまじりて竹をとりつつ、万(よろづ)のことにつかひけり。 名をばさぬきのみやつことなむいひける。 その竹の中に、本光る竹なむ一筋(ひとすぢ)ありけり。 怪しがりて(あやしがりて)寄りて(よりて)見るに、筒の中光りたり。 それを見れば、三寸ばかりなる人いと7美しうてゐたり。 翁いふやう、 「われ朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になり給ふ(たまう)べき人なめり。」 とて、手にうち入れて家に持ちて来ぬ(きぬ)。 妻(つま)の嫗(おうな)に預けて養はす。 美しきこと限りなし。 いと幼けれ10ば、籠に入れてふ。 今となっては昔のことだが、竹取の翁(おきな)というものがいた。 野山に分け入って竹をとっては、様々なことに使っていた。 名を「さぬきのみやつこ」と言った。 その竹の中に、根元が光るものが一本あった。 不思議がって近づいて見ると、竹の筒の中が光っていた。 それを見ると、三寸ほどの人がたいそうかわいらしく座っていた。 翁が言うことは、 「私が毎朝毎晩見ている竹の中にいらっしゃるために分かった。子供になってくださる人であるようだ。」 と、手に入れて家に持って来た。 妻の嫗にあずけて育てさせる。 かわいらしいこと限りがない。 たいそう小さいので、籠に入れて育てる。 「いふもの」(イウモノ)、「ゐたり」(イタリ)などのように、明治時代よりも以前(つまり古代~江戸時代の終わり)までの古典の仮名遣い(かなづかい)は、現代の仮名遣いとは違っている。 この(「いふもの」「ゐたり」などの)ように、明治以前の古典に見られるような仮名遣いのことを「歴史的仮名遣い」という。 その他、仮名遣いの現代と古典との違いの例をあげる。 「いふもの」や「いひける」のように、語頭以外での「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」は、多くの場合、「は」→「わ」、「ひ」→「い」、「ふ」→「う」、「へ」→「え」、「ほ」→「お」と読むことが多い。 「なむ」を「なん」と読むように、「む」を「ん」と読む場合がある。 古文:「うつくしう」→ 読み:「うつくしゅう」 の様に、古文:「しう」→読み:「しゅう」。 この冒頭文の以外からも例を出せば、古文の「けふ」は「きょう」(今日)。古文の「てふ」は「ちょう」と読む。古文の「てふてふ」は読みは「ちょうちょう」で蝶々(ちょうちょう)のこと。「てふてふ」はアゲハチョウとかモンシロチョウなど、昆虫のチョウのこと。 のように 枕草子の「をかし」 → 読み:「おかし」の例のように、 というふうになる。 意味は「不思議に思って」。現代の「怪しいと思う」とは意味がちがい、「変だと思う」というような意味は無い。 ※ 高校の範囲だが、『枕草子』にも「小さきものは、みな、うつくし」(145段)という表現があるので、古語の「うつくし」は現代語の「かわいい」に対応する語だと推測することができるだろう。 この「あやし」や「うつくし」のように、たとえ同じ語が現代にあっても、古文では意味が違う場合があるので、注意。 「いと美しうて」の「いと」とは、現代では「非常に」「とても」に置きかえられています。現代日本語では、「非常に」という意味での「いと」は使われていません。 このように、古典には、現代に使われなくなった言葉も多くあります。 竹取の翁この子を見つけて後に、竹をとるに、節をへだてて1よごとに金ある竹を見つくること重なりぬ。 2かくて翁やうやう豊かになりゆく。 この児養ふ3ほどに、すくすくと大きになりまさる。 三月ばかりになる程に、4よき程なる人になりぬれば、5髪上げなどさうして、髪上げさせ6裳着す。 帳の内よりも出さず、いつき養ふ。 この児のかたち清らなること7世になく、家の内は暗き処なく光満ちたり。 翁心地あしく苦しき時も、この子を見れば苦しき事も止みぬ。 腹だたしきことも慰みけり。 竹取の翁はこの子を見つけて以後に、竹を取ると、節を隔てて空洞(よ)ごとに金が入っている竹を見つけることが重なった。 このようにして、翁はだんだん豊かになっていく。 この子を育てると、すくすくと大きくなっていく。 三か月ほどたった頃に、成人したので、髪上げなどをあれこれ手配して、髪上げし裳着を行った。 帳台の中からも出さず、心をこめて大切に育てる。 この子の顔だちの美しいことは世に類がなく、家の中は暗いところなど無いほど光に満ち溢れていた。 翁は気分が悪く苦しいときでも、この子を見ると苦しいこともなくなった。 腹立たしいことも気が晴れた。 竹から見つかった、この美しい娘は「なよたけのかぐや姫」と名づけられた。 「ありけり」や「使ひけり」の文末の「けり」は、過去についての伝聞をあらわす。 「けり」は、『竹取物語』のように昔話などで用いられることが多いので、覚えておこう。 「名をば、さかきのみやつことなむいいける」や「もと光る竹なむ一筋ありける。」の文末の「ける」は、「けり」の連体形。「ける」になっている理由は、文中に係り助詞「なむ」があるため。 文中に、係り助詞「ぞ」・「なむ」・「や」・「か」がある場合、文末は連体形(れんたいけい)になる。 なお、文中に係り助詞「こそ」がある場合、文末は已然形(いぜんけい)になる。 「ける」の意味は、連体形になっていても、「けり」と同じであり、過去についての伝聞をあらわす。 美しいかぐや姫には多くの男たちが求婚した。しかし、かぐや姫は求婚を断り続けた。なので、求婚をしつづける者は減っていった。そのうち、求婚をしつづける者が5人の男の貴族へとしぼられていった。 かぐや姫はいっさい結婚をする気は無かったが、娘の将来を心配する翁が結婚をせかすのでかぐや姫は結婚の条件として5人の貴族たちに無理難題(むりなんだい)を出した。入手が至難の品物を持ってくることを結婚の条件にした。品物は5人の貴族ごとにそれぞれ別である。「蓬莱の玉の枝」はその品物の一つである。 貴族の一人の「くらもちの皇子」(くらもちのみこ)が、「蓬莱の玉の枝」(ほうらいのたま の えだ)を持ってくる条件を出された。 ちなみに「蓬莱」(ほうらい)とは、中国(チャイナのほうの中国)の神話にある伝説上の島で、中国の東の海にある伝説の島である。中国の西・北・南には海はなく陸地であり、異民族の国であり、伝説の島などはありようがない。中国の東の島といってもべつに台湾(たいわん)でなければ、日本列島でもない。 この「蓬莱」のように中国の神話の影響が『竹取物語』にはあるようだ。 さて、条件を出されたくらもちの皇子は、最初から「蓬莱の玉の枝」を探すのをあきらめ、かわりに偽(にせ)の「蓬莱の玉の枝」をつくってかぐや姫をだまそうとした。 そのため手下の匠(たくみ)たちに「蓬莱の玉の枝」そっくりの枝を作らせた。 そして、3年の月日がかかり、ようやく偽(にせ)の「蓬莱の玉の枝」が出来上がった。そして、翁の家をおとずれかぐや姫たちをだますために架空の冒険談をでっちあげて話しはじめた。 当初、かぐや姫たちは「蓬莱の玉の枝」が偽造だとは知らなかった。しかし、話のあと匠たちが給料をかぐや姫に請求しに翁の家につめかけに来たことから皇子の嘘(うそ)がばれる。 ちなみに5人の貴公子の名前はそれぞれ 結婚の条件として持ってくるべき品物はそれぞれ 入手のための方法はそれぞれ 以下の話はくらもちの皇子がでっち上げた、架空の冒険談である。 これやわが求むる山ならむと思ひて、さすがに怖しく思えて、山のめぐりをさしめぐらして、二三日ばかり見ありくに、天人の装ひしたる女、山の中より出で(いで)来て、銀(しろがね)の鋺(かなまる)を持ちて水を汲みありく。これを見て舟より下りて(おりて)、「この山の名を何とか申す」と問ふ。女、答へていはく、『これは蓬莱の山なり』と答ふ。これを聞くに、うれしきことかぎりなし。 これこそが、自分が探している(蓬莱の)山だろうと思って、(うれしかったが)やはり恐ろしく思われて、山のまわりをこぎまわって二日・三日ほど、様子を見て回っていたら、天人の服装をした女が山の中から出てきて、銀のお椀で水をくんでいます。これを(私が)見て、(私は)船から降りて、「この山の名を、何というのですか。」と尋ねました。女は答えて、「この山は、蓬莱の山です。」と答える。これを聞いて、(私は)うれしくて、たまらない。 (中略) その山、見るに、さらに登るべきやう(ヨウ)なし。 その山のそばひらをめぐれば、世の中になき花の木ども立てり。 金(こがね)・銀(しろがね)・瑠璃(るり)色の水、山より流れいでたり。 それには、色々の玉の橋渡せり(わたせり)。 そのあたりに、照り輝く(かがやく)木ども立てり。 その中に、この取りてまうで(モウデ)来たりしは、いとわろかりしかども、のたまひし(ノタマイシ)に違は(タガワ)ましかばと、この花を折りてまうで(モウデ)来たるなり。 その山を、見ると、(険しくて)まったく登れそうには、ありません。その山の斜面を回ってみると、この世の物には無い(この世の物とは思えないほど美しい)花の木が立っています。金色の水、銀色の水、瑠璃色の水が、山より流れ出ています。 その川には、色さまざまの玉でつくられた橋が架けられています。その付近に、光り輝く木々が立っています。その中で(その木の中から取ってきた)、この取ってきたのは(取ってきた枝は)、かなり見劣りするものではありましたが、(姫の)おっしゃった物とは違ってはいけないだろうと思い、この花(の枝)を折って、まいってきたのです。 (後略) 玉の枝が偽物とはいえ匠たちが3年もの歳月をかけて作りあげたのだからとても高価な品物ではあろう。しかし、そんなことにはかぐや姫は興味が無い。かぐや姫はさっさと球の枝を皇子に返した。 他の4人もすべて失敗した。ある貴公子は大金を使ったが失敗する。ある貴公子は船旅の途中に暴風雨にあって失敗し、かぐや姫を疫病神あつかいしはじめかぐや姫への興味がなくなる。ある貴公子は事故にあい大けがをして失敗する。ある貴公子はかぐや姫をだまそうとして失敗する。 そして結局、5人の貴公子の求婚はすべて失敗した。 このあと天皇がかぐや姫の話題を聞きつけ、興味をいだき、かぐや姫を見てほれてしまい、天皇もかぐや姫に求婚しはじめる。 天皇はこの物語世界では地上での最高の権力者である。その天皇からかぐや姫は求婚された。 しかし、かぐや姫はかたくなに結婚をしようとしない。 天皇はかぐや姫を無理やり宮中に連れようとかぐや姫をにぎるとかぐや姫は変身して影(かげ)になって一時的に消えてしまう。 なので無理やりつれていくことも出来ない。 かぐや姫が変身することで、かぐや姫が通常の人間でないことが説得力を持って読者や登場人物に伝わる。 このあと、いろんなやり取りがあって、そうこうしているうちに月日が流れ、かぐや姫は月に帰らなければならない日が近づく。 かぐや姫を月に連れもどそうとする天人からかぐや姫を守ろうと、帝は翁の家に警備の兵を派遣して守らせる。 その山、見るに・・・ このように、古文では助詞や主語が省略されることが多い。また、省略される主語の人称はかならずしも話し手(1人称)自身とはかぎらないので注意のこと。前後の文の文脈から主語をおぎなうことになる。 そして、ついに天人たちがかぐや姫を月に連れかえりに地上の翁の家にやってくる。 警備の兵は捕まえようとするが、天人たちの不思議な超能力によりまったく力が入らない。 かろうじて弓矢を持ったものが矢を射っても、矢がまったく違う方向へ飛んでしまい当たらない。 そして、かぐや姫は天人の超能力により自動的に屋外へと引きずりだされ、天人の居る場所へと動いてしまう。 ついに天人がかぐや姫を月に連れ戻そうとする。ここでかぐや姫は手紙を書き残すための時間が欲しいと頼み、天人に手紙を書くための時間を与えられる。 月にかえる直前のかぐや姫はまだ地上の情の記憶が残ってるうちに手紙を書き残し、その手紙は天皇へ当てられた。 天人の中に持たせたる箱あり。天の羽衣(はごろも)入れり。また、あるは不死の薬入れり。 一人の天人言ふ。「壺(つぼ)なる御薬(みくすり)たてまつれ。きたなき所の物きこしめしたれば、御心地(おんここち)悪しからむ(あしからン)ものぞ。」とて、持て寄りたれば、いささかなめたまひひて、少し形見とて、脱ぎ置く衣(きぬ)に包まむとすれば、ある天人包ませず。 御衣(みぞ)を取り出でて(いでて)着せむとす。その時にかぐや姫、「しばし待て。」と言ふ。 「衣、着せつる人は、心、異(こと)になるなりといふ。物(もの)一言(ひとこと)いひおくべきことありけり。」といひて文(ふみ)書く。 天人の中の一人に持たせている箱がある。(その箱には)天の羽衣が、入っている。また別の箱には、不死の薬が入っている。一人の天人が言う、「壷に入っているお薬を飲みなさい。汚い所(=地上)のものを召し上がってきたので、ご気分が、(きっと)悪いでしょう。」と言って、(薬の壷を)持って寄ってきたので、(かぐや姫は)僅か(わずか)おなめになって、少し形見といて脱いでおく着物に包もうとすると、天人が(薬を)包ませない。 (そして、)(天人が)お召し物(=天の羽衣)を取り出して、(かぐや姫に)着せようとする。 その時に、かぐや姫は、「しばらく待ちなさい。」と言う。「天の羽衣を着せられた人は、心が、この地上の人間とは(別の心に)変わってしまうという。(じつは)一言、(地上の者たちに)言っておかなければならないことがあった。」と言って、(帝に当てた)手紙を書く。 中将取りつれば、 ふと天の羽衣うち着せたてまつりつれば、翁をいとほし、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣(きぬ)着つる人は、もの思ひ(イ)なくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人(てんにん)具して昇り(のぼり)ぬ。 (地上の人間の)中将が(手紙と壷を)受け取ると、 天人が、いきなり、さっと天の羽衣を(かぐや姫に)着せてさしあげたので、(もう、かぐや姫は)「翁を気の毒だ、かわいそうだ。」と思っていた気持ちも消え失せてしまった。 この天の羽衣を着た人(=元・かぐや姫)は、(もはや、地上の人としての気持ちが失せてしまったので、)(たかが地上のことで)思い悩むことも無くなり、(そのまま、)(天を飛ぶ)車に乗って、百人ほどの天人とともに、天に昇ってしまった。 かぐや姫は連れてかれてしまった。そして、かぐや姫は「天の羽衣」を着たことにより、地上の人情は忘れてしまい、かぐや姫は翁たちにも興味はなくなった。 翁・嫗(おうな)、血の涙を流して惑へど(まどえど)、かひ(かい)なし。あの書きおきし文を読みて聞かせけれど、「何せむにか命も惜し(おし)からむ。誰(た)がためにか何事も用なし。」とて、薬も食はず、やがて起きも上がらで、病み伏せり。 中将、人々引き具して帰り参り(まゐり)て、かぐや姫をえ戦ひ留めずなりぬる事を細々(こまごま)と奏す(そうす)。薬(くすり)の壺(つぼ)に御文(おんふみ)添へ(そエ)参らす。広げて御覽(ごらん)じて、いといたくあはれがらせたまひて物もきこしめさず。御遊びなどもなかりけり。 翁と嫗(おうな)は、血の涙を流すほどに(悲しみ)取り乱したが、どうしようもない。(かぐや姫によって)書き置かれた、あの手紙を読み聞かせたが、「(今さら)何をすることがあるのでしょう。(どうして、)命が惜しいでしょうか。誰のために生きるのですか。もう、何も無用です。」と言って、薬も飲まず、やがて病み伏せってしまって、起き上がらない。 中将は、人々(=兵士など)を引きつれ(宮中に)帰り参上した。(帝に報告し、)かぐや姫を引き留めるために戦うことが出来なかった事を細々と申し上げた。 (そして、中将が預かっていた)薬の壷および手紙を、帝に、さしあげた。 (帝は手紙を)広げて、お読みになり、とても、たいそう悲しみになり、食事も召し上がらない。(音楽などの)お遊びも、なされなかった。 月に帰る直前のかぐや姫から地上の者たちは「不死の薬」を受け取り、天皇に薬がわたされたが、天皇も翁も嫗(おうな)もだれも薬を飲もうとしない。かぐや姫のいない世界で不死を生きることに翁たちはもはや興味が無い。翁と嫗は自分の娘としてかぐや姫をかわいがっていた。天皇も不死に興味が無く、その薬を士たちに富士山で燃やさせる。「不死の薬を燃やしたから不死=富士」と思わせておいて、実は「士に富む」(原文では「士どもあまた」)から「富士」というオチである。 御文(おんふみ)、不死の薬の壺(つぼ)並べて、火をつけて燃やすべきよし仰せ(おほせ)たまふ。 そのよしうけたまはりて、士(つはもの)どもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づけける。 その煙(けぶり)、いまだ雲の中へ立ち上るとぞ、言ひ伝へたる。 (帝は)お手紙と不死の手紙を並べて、火をつけて燃やすようにと、ご命令になった。その旨を承り、兵士たちを大勢ひきつれて山に登ったという事から、その山を「ふじの山」と名づけたという。 その煙は、いまだに雲の中へと立ち上ってると、言い伝えられている。
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「故事」(こじ)とは、昔の出来事のことである。 「故事成語」(こじせいご)とは、ある故事が元になって出来た熟語である。たいてい、中国の古典に書かれた故事が、故事成語の元になっている。 ここでいう「中国」は、チャイナのほうの中国である。なお、中学校のこの単元においては以下の漢文についてを習うこと及びその次に述べる故事成語を覚えることを目的とする。 wikibooksの仕組みではどうしても横書きになってしまう。一文字ずつ改行してならできなくもないものの、ページが大変なこと(長さ)になってしまうので、やむをえず横書きにした。横書きで上つきの記号は、縦書きでは右側に、同じく下つきの記号は左側に、と読み替えてほしい。 以下に例を述べる。その前に、簡易的ではあるが、説明をしておく。右側(ここでは横書きなので倒して上側)にあるカタカナが送り仮名で、左側(ここでは同じく横書きなので倒して下側)にあるのが訓読記号である。 ① まず、上(実際には縦書きなので右側)のカタカナは前述の通り「送り仮名」である。無論古文の読み方によって読まなくてはならない。次に、下(これまた実際には縦書きなので左側)の前述の通り訓読記号の『レ』はレ点と称し、これがある文字の一つ前の文字を読むのは後であり、先にこれの後の文字を先に読んだ後(一文字)先ほどのレ点の前の文字を読む。 ② まず、最初の有にレ点がついているので、また同様に無しにもレ点がついているので、読む順番は1、備え(古文の読み方で)2、有れば3、患い(古文の読み方で)4、無し、となる。ここでは古文の読み方を適用することが重要である。間違っても、『備え患い有れば無し』(先に「レ点のないもの」を全て読んでしまった例)のようにしてはならない。レ点がついている文字は、レ点の次の文字を読んだ後、すぐに読む。 ③ まず、『一』・『二』・『三』は『一・二・三点』という。二文字以上戻る場合、レ点では対処できないから出てくる。番号順に読む。 では、これを踏まえて、見てみよう。先に訓読記号のついていないものを読むので、1、東のかた2、鳥江を3、渡らんと4、欲す、となる。1、を読んだ後、他に訓読記号のついていない文字がないので、一(訓読記号)から順番に読む。こうすると、読むことができる。なお、漢文を書く場合においてもレ点と一・二・三点の使い分けをしよう。 では、これらを生かして、下の故事成語を読んでみよう。 ある主張の辻褄(つじつま)が合わないこと。 矛盾 楚人(そひと)に盾(たて)と矛(ほこ)とを鬻ぐ(ひさぐ)者あり。之(これ)を誉(ほ)めて曰(いは)く「わが盾(たて)の堅き(かたき)こと、能く(よく)陥す(とおす)ものなきなり。」と。また、その矛(ほこ)を誉めて曰く「わが矛の利なること、物において陥さざるなきなり。」と。 ある人いはく(いわく)「子(し)の矛を以て、子の盾を陥さば(とおさば)いかん。」と。その人応ふる(こたうる)こと能はざる(あたわざる)なり。 楚の国の人で、盾と矛とを売る者がいた。その人が、盾をほめて、「私の盾の堅いことといったら、突き通せる物が無い。」と。また、その人は、矛をほめて、「私の矛の鋭いことといったら、どんな物でも突き通す。」 ある人が尋ねて、「あなたの矛で、あなたの盾を突きさすと、どうなるのか。」と言った。その商人は、答えることができなかった。 中学校国語 漢文/矛盾も参照のこと。 よけいなもの。 中国の楚(そ)の国で、数名の者が地面に蛇の絵を早く描く競争をしていて、いちばん早く描き終えた者は酒を飲めるという競争をした。このときに、ある者が、いったん先に描き終えたが、「足まで描ける」と言ったら、別の者が「蛇には足がない。」と言われ、足を描いた男が負けてしまい、酒をうばわれたという。 周囲を敵に囲まれること。または、周囲が敵ばかりで味方のいないこと。 紀元前202年ごろの、古代の中国で、楚(そ)の国と、漢(かん)の国が、天下をめぐって争っていた。秦(しん)の王朝が滅んだあとの時代であり、いくつかの国が天下を争っていた。最終的に、楚と漢に、集約されていった。 そして、ついに楚と漢との決戦が起きた。 楚(そ)の指導者の項羽(こうう)は、楚軍が垓下(がいか)の戦いで劣勢になり、敵側の漢の大軍に包囲された。その日の夜、項羽は四方の漢軍の陣のほうから、故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか。」と驚き(おどろき)嘆いた(なげいた)。この故事から"周囲を敵に囲まれること"を四面楚歌(しめんそか)と言うようになった。 ※最終的に項羽は戦に負け自殺し、漢が天下をにぎる。漢の指導者の劉邦(りゅうほう)が、あたらしい王朝の「漢」を作る。これが、漢王朝の始まりである。 ふたつの勢力がひとつの事柄について争っている間に、第三者が利益を得てしまうこと。 ハマグリが殻(から)を開けてひなたぼっこをしていると、鳥のシギがやってきて、ハマグリの身をついばもうとした。ハマグリは殻をとじて、シギのくちばしをはさみました。シギは『このまま今日も明日も雨が降らなければ、ハマグリは死ぬだろう』と言い、ハマグリは『今日も明日もこのままならば、シギの方が死ぬだろう』と言う。そうして、争っている間に、両者(りゃうしゃ)とも、漁師に捕まってしまった。 中国の戦国時代における、たとえ話の一つ。 必要のない心配、取り越し苦労(とりこしぐろう)のこと。 杞(き)の国に、ひどく心配性の人がいた。もしも天が落ちてきたらどうしよう、地面が崩れたらどうしようと心配し、夜も眠れず食事ものどを通らぬほどに心配した人がいた。このことから、無駄な心配、取り越し苦労のことを指して杞憂(きゆう)という。 人の幸不幸は変わりやすいということ。 用例の一例として不幸な人をはげます場合に、「人間万事、塞翁が馬」などと使うことが多い。幸福で浮かれている人をいましめる場合にも、用いられる場合がある。 このことから、人間、良いこともあれば悪いこともあるというたとえとなり、だから、あまり不幸にくよくよするな、とか幸せに浮かれるなという教訓として生かされる言葉になり、「人間万事塞翁が馬」などと使われる。 文章の言い回しを、よりよく考え直すこと。 単に、出版物などの誤字・脱字を訂正することは「校正」(こうせい)という熟語であり、推敲とは意味が異なる。 唐の詩人の賈島(かとう)は、乗っているロバの上で詩を作っていた。その途中、「僧(そう)は推す(おす) 月下の門(げっかのもん)」という一句を口ずさんでから、「推す」のほかに「敲く」(たたく)という語を思いついて迷った。あまりにも夢中になっていたので、向こうから役人の韓愈(かんゆ)のひきいる行列がやってきたのにも気づかず、その中にぶつかってしまった。賈島はすぐに捕らえられ、韓愈の前に連れて行かれた。そこで賈島は経緯をつぶさに申し立てた。事情を知った韓愈は、賈島の話を聞き終わると、「それは『敲く』の方がいいだろう、月下に音を響かせる風情があって良い」と言った。そして、二人は、馬を並べていきながら詩を論じ合った。 このことから「文章を書いた後、字句を良くするために何回も読んで練り直すこと」を「推敲」という。 あまりちがいのないこと。 (書き下し文) 中学校国語 漢文/五十歩百歩も参照のこと。
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中学校国語 漢文 > 矛盾 ここでは故事成語「矛盾」のもとになった話を解説する。なお、原文の難解な漢字はひらがなに直している。 楚人1に盾と矛2とを鬻ぐ3者有り。これを誉めて曰く「わが盾の堅きこと、よくとほすもの莫きなり」と。また、その矛を誉めて曰く「わが矛の利なる4こと、物においてとほさざる無きなり」と。ある人曰く「子5の矛をもって、子の盾をとほさばいかん」と。その人こたふることあたはざるなり。 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。 (『韓非子』(かんぴし)より) 楚の国の人で盾と矛を売る者がいた。この人はこれを誉めて「私の盾は頑丈で、これを貫けるものはない」と言った。また、矛を誉めて「私の矛は鋭くて、物において貫けないものはない」と言った。ある人が「あなたの矛であなたの盾を貫いたらどうなるのですか」といった。商人は答えることができなかった 「何でも突き通す矛」と「どんな攻撃も防ぐ盾」の2つがあるというのはおかしい。なぜなら、「何でも突き通す矛」が本当ならば「どんな攻撃も防ぐ盾」はウソになるし、その逆の場合は矛のほうがウソになるからである。このように、つじつまの合わないことを「矛盾」(むじゅん)と言うようになったのはこの話による。
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中学校国語 漢文 > 青は藍より出でて藍よりも青し ここでは故事成語「青は藍より出でて藍よりも青し」のもとになった話を解説する。なお、原文の難解な漢字はひらがなに直している。 君子1曰く、学は以て已2むべからず。青はこれを藍3より取りて、藍よりも青く、氷は水之を為して、水よりも寒し、と。 君子曰、學不可以已。青取之於藍、而青於藍、冰、水爲之、而寒於水。 (『荀子』より) 君子がこうおっしゃった。「学問は終わったと思ってはいけない。青は藍から取り出すが藍よりも青い。氷は水が作り出すが水よりも冷たい。」と。 「青は藍より出でて藍よりも青し」は「出藍の誉れ」とも言う。親や先生よりも優れた才能を示したり、仕事をしたりしたときに使われる言葉である。ここでは学問というものがどんどん発展していくのだから、「ここで終わり」という制限をかけて努力をやめることをいましめている。 さて、原文は長い文ではないが少し難しい。「青取之於藍、而青於藍」を忠実に書き下し文にすると「青は之を藍より取りて、藍より青し」なる。この書き下し文をよく見ると「於」「而」という字は使っていないことに注目してほしい。この二つは「置き字」といい、原則として読まない(ただし、ふりがながあれば読む)のだが、これが返り点を打つ問題でのミスのもとになる。なお、返り点をうつと「青取二之於藍一、而青二於藍一」となる。同様に「而寒於水」には「而寒二於水一」と打つ。
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中学校国語 漢文 > 温故知新 ここでは四字熟語「温故知新」のもとになった話を解説する。なお、原文の難解な漢字はひらがなに直している。 子1曰く、「故きを温ねて2新しきを知れば、もって師たるべしと」。 子曰、温故而知新、可以爲師矣。 (『論語』より) 孔子はおっしゃった。「昔の出来事や学説を研究して、現在にも通じる新しいものを発見すれば指導する立場になれるだろう」と。 原文の「温故而知新」から「青は藍より出でて藍よりも青し」で解説した置き字である「而」を取り除いたのが四字熟語「温故知新」である。 本文が短いので全部に返り点を打つと「子曰、温レ故而知レ新、可二以爲一レ師矣」となる。ここでも置き字と返り点に悩まされることになる。その理由は(ここでは横書きなのでわかりにくいだろうが)「一レ点」が登場することと最後にある置き字「矣」にある。「一レ点」のある部分はレ点を優先して下の字から上の字に返って読み、その後二点へ飛ぶ。さらに最後の「矣」は置き字なので読まない。この二つに気をつけたい。
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ここでは故事成語「五十歩百歩」の基になった文を見ていきたい。 今から約2300年ほど前、中国の中心部の近くに魏(梁)という国があり、そこに恵王(けいおう)という王がいた。恵王は戦争好きで、国を強くするために先生として招いていた孟子に、こう相談した。「私は政治に心を尽くしています。ある地方で作物が取れないときは、そこの民衆を別の地方に移し、穀物を移します。となりの国の政治をよく観察してみても、私のように民衆のために心を砕いている者はいません。それなのに、となりの国の人口が減らず、私の国の人口が増えないのは、なぜですか」と。 この恵王の質問に、孟子はどう答えたのだろうか。 孟子対へていはく、「王戦ひを好む。請ふ戦ひをもってたとへん。填然として、これに鼓し、兵刃既に接す。甲を棄て兵をひきて走る、あるいは百歩にして後止まり、あるいは五十歩にして後止まる。五十歩をもって百歩を笑はば、すなわちいかん」と。 いはく、「不可なり。ただ百歩ならざるのみ。これもまた走るなり。」と。 孟子は答えて言った。「王様は戦争がお好きです。戦争でたとえさせてください。ドンドンと進軍の太鼓が鳴り、武器はぶつかって火花を散らしています。そうしたら、よろいを捨てて武器を引きずって逃げ出した者がおりました。一方は百歩で立ち止まり、もう一方は五十歩で立ち止まりました。五十歩逃げた者が百歩逃げた者をおくびょうだと言って笑ったならば、どうでしょうか。」 王は言った。「それはダメだ。ただ百歩でないというだけで、逃げたことには変わりない。」 孟子は、恵王への答えに、こう言う。「それがおわかりでしたら、人口が多くなることを期待してはなりません」と。孟子からすれば、恵王の政治も、となりの国の政治も、大きな差がない―五十歩百歩なのである。 孟子対曰、「王好戦。請以戦喩。填然、鼓之、兵刃既接。棄甲曳兵而走、或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。」 曰、「不可。直不百歩耳。是亦走也。」 もともとは少し長めの文章だが、故事成語のもとになったところだけをピックアップした。 さて、すでにすこし触れたが「大きな差がない」ことを「五十歩百歩」という。これはすでに紹介したように「五十歩逃げた者が百歩逃げた者を馬鹿にして笑うことは意味がない」ことからきている。似たような言葉に「どんぐりの背比べ」「目くそ鼻くそを笑う」がある。
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中学校の文法では、現代語の文法及び品詞(ひんし)などについて学ぶ。 まず、現代の日本語は、漢字と仮名(かな)を使って文章を構成するのが通常である。 このような文体のことを、「漢字仮名混じり文」という。つまり、現代日本語の標準的な文体は「漢字仮名混じり文」である。 念のために説明しておくが、仮名とは、平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことである。 また、平仮名は、その文字自体には意味が無い。 いっぽう、漢字には、意味がある。たとえば「た」という平仮名には意味が無い。しかし、「田」と書けば意味をもち、「田」の意味は農業のあれになる。 また、「他」も「田」も発音は同じ「た」と発音するが、しかし意味は違う。 漢字のように、その文字そのものが意味をもつ文字のことを表意文字という。 いっぽう、平仮名のように、文字単独では意味を持たない、あるいは意味の確定しない文字であり、発音だけを指定している文字のことを、表音文字という。 「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」の5つの音のことを母音(ぼいん)という。母音は単体(1音)で表現する。 なお、ローマ字のka, ki, ku ,ke ,ko のkの部分や、sa,si,su,se,so の s の部分のことを子音(しいん)という。子音は母音と組み合わせて構成する。 日本語の平仮名やカタカナには、子音を表す文字は無い。 日本語の仮名の発音は通常、母音(たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」)、または、母音と子音 (たとえば「か」や「そ」など)の組み合わせで発音される。 日本語は一つの文をいくつも重ねて全体として意味がわかるものを文章(ぶんしょう)とよぶ。 また、その中でも内容の大きなまとまりで分けられたものを、段落(だんらく)という。段落の始まりには、他の文より文の初めを一字下げるのが普通である。 その段落の中の、文章を組み立てているものを文(ぶん)と呼び、文の切れ目には句点(。)をつけるのが普通である。 場合によっては、「。」の代わりに、文の最後が「?」や「!」で終わる場合も、現代の日本語ではある。疑問がある場合に「?」を使う。びっくりした時や大声を出した声の場合などに「!」を使う。 たとえば とか などのように。 さて、文を発音や意味の上で不自然にならないように区切ったものを文節(ぶんせつ)と呼ぶ。 例 上の例の文章は、4つの文でできている。 そして最初の文は「今日は/ 国語と/ 数学と/ 英語の/ テストが/ ありました」と文節分けでき、6つの文節がある。 また、文節を分けるときには、間に「ね」や「よ」を入れるとうまく分けることができる。 例 「今日は『ね』/ 国語と『ね』/ 数学と『ね』/ 英語の『ね』/ テストが『ね』/ ありました『よ』」とうまく文節で分けられる。 さらに、文節を、言葉の意味がなくならないようにさらに分けたものを、単語(たんご)という。これは、それだけで使える言葉の最小単位である。 たとえば、 例 なら、 と単語分けすることができる。 文節は役割から主語、述語、修飾語、接続語、独立語に分けることができる。 主語(しゅご)は「何(誰)が」を表す、文の主題を提示したり、行動や様子の主を定める文節である。 たとえば例文「花が、さいた。」の主語は「花が」である。 一般に、主語は語尾(ごび)に「は」または「が」が付く場合が多い。 しかし、「僕も学校に行く」という文章では、「僕も」が主語である。なぜなら、行動の主は「僕」であるからである。 また、日本語の文には、主語が無い場合もある。 たとえば「学校に行くよ。」という文には、主語は無い。 また、ある単語の後ろに「は」または「が」がついても、かならずしも主語とは限らない。 たとえば、 という文では、「犬が」は主語ではない。好きな行動の主は「彼」なので、彼がこの文の主語である。 また、 の場合、カレーを食べたのは「今日」さんではなく、書き手の人がカレーを食べたと思われるので、「今日は」は主語ではない。この文「今日はカレーを食べた。」に主語は無い。 述語(じゅつご)は、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」「ない」を表す、何をどうするかなどの行為を示す部分、または何かの様子を示す部分のことである。 たとえば、「花が、さいた。」の述語は「さいた。」である。 なお、主語と述語のことをまとめて「主述」(しゅじゅつ)という。 主語と述語の関係のことを「主述の関係」という。 修飾語(しゅうしょくご)は主語・述語について、たとえば、どこでしたか、あるいはどのようにしたかなど、くわしく説明するために使われる文節の一種である。 たとえば、 なら「まじめに」の部分が修飾語である。 いっぽう、修飾語が説明している対象のことを被修飾語(ひしゅうしょくご)という。 「弟が、まじめに 勉強する。」なら、修飾語は「まじめに」であり、被修飾語が「勉強する」である。 「きれいな」が修飾語で、被修飾語は「花」です。 「きれいな」は「チョウ」を修飾する修飾語で(つまり「きれいな」が修飾語)、被修飾語は「チョウ」です。「いきなり」は「飛び立つ」を修飾する修飾語です(つまり「いきなり」が修飾語)。 この例文のように、ひとつの文に2つ以上の修飾語のある場合もあります。 また、修飾語と被修飾語の関係を、「修飾・被修飾の関係」という。 または単語についての説明や意味をつけくわえる。特にあとで述べる用言(ようげん)を修飾するものを連用修飾語(れんようしゅうしょくご)と言う。 いっぽう、体言(たいげん)を修飾するものを連体修飾語(れんたいしゅうしょくご)と言い、修飾される言葉は被修飾語(ひしゅうしょくご)とよばれる。 たとえば、 この場合、「大きく」は連用修飾でしょうか、連体修飾でしょうか? ヒントとして、大きいのは何でしょうか? ボールでしょうか、それとも投げ方が大きいのでしょうか? 答えを言うと、この文で大きいのは投げ方ですので、つまり「大きく」は動詞の「投げた」を修飾しており、そして動詞は活用があるので用言ですので、つまり「大きく」は連用修飾です。 いっぽう、 なら、ボールが大きいわけですし、「ボール」は活用も無いので、ボールは体言です。なので、つまり「大きな」は連体修飾です。 のように、ひとつの文に連用修飾と連体修飾の両方がふくまれている場合もあります。 接続語(せつぞくご)は他の文や文節との関係をあらわす。 接続語が何を修飾しているかが曖昧な場合があります。 エラーしたのが山田?出塁したのが山田? 独立語(どくりつご)は、ほかの文節とは結びついてなくて、それだけで意味の通る語である。 あいさつ や あいづち などが、独立語になる場合が、よくあります。 上の例文の「先生」などのように、呼びかけも独立語になります。 上の例文の「山田さん」も独立語です。 いっぽう、 この例文(「山田さんに頼みごとがあります。」)の「山田さん」も「山田さんに」も独立語ではないです。 この例文の「あのう」は独立語です。 この例文の「東京」は独立語です。 二つ以上の文節がまとまって、ひとつの働きをする文節のことを連文節(れんぶんせつ)という。 連文節には、主に、主部、述部、修飾部、接続部、独立部の5種類がある。 また、並立の関係にある文節も、おたがいに連文節である。 日本語で「主語」といった場合、単語の単位ですので、たとえば例文 の主語は、「消しゴム」です。「自分の消しゴム」は主語ではないです。 しかし、 という文章があったとして、「消しゴム」だけでは、「自分の消しゴム」なのか、「友達の消しゴム」なのか、不明です。 そこで、主語に、その主語にかかる修飾語をあわせたものを主部(しゅぶ)といいますので、この概念を導入しましょう。 の主部は、「自分の消しゴム」です。 例文 の述語は、「する」です。しかし、「する」だけでは、何をするのか不明なので、いまいち不便でしょう。 そこで、述語にかかる修飾語と 述語じしん をまとめたものを述部(じゅつぶ)といいますので、この概念(がいねん)を導入しましょう。 この文「妹は食事をする。」の述部は、「食事をする」です。 例文 について、「昨日の」と「晩に」は、別々の文節ですが、しかし、この文の「晩」とはいつの晩かといえば「昨日」の晩ですので、「昨日の」と「晩に」は、ひとまとめに扱えると便利です。 そこで、修飾部(しゅうしょくぶ)という、関連のある一続きの修飾語をまとめる概念があるので、これを導入しましょう。 「昨日の晩に」で、ひとつの修飾部になります。 「うまくて」と「やすい」は、別々の文節ですが、両方とも、「この店のカレー」の性質をあらわしているので、ひとまとめにできると便利です。 この「うまくて」と「やすい」のように、対等に他の同じ文節(例の場合は「カレーは」)に結びつく関係の文節のことを、並立(へいりつ)の関係といいます。 つまり、「うまくて」と「やすい」は、並立の関係にあります。 また、並立の関係にある単語を並立語といいます。 「うまくて」と「やすい」は、それぞれお互いに並立語です。 さきほどの例文では述語が並立していました。 ほかの例文では、主語が並立している場合もあります。たとえば という例文では、「父」と「母」が並立の関係であり、お互いに並立語です。 単独で文節を作ることができる単語のことを自立語(じりつご)という。 たとえば、「学校に行く。」という文のうち、「学校」は自立語である。 いっぽう、「に」は自立語ではない。 原則として、一つの文節には一つの自立語しかないが、例外的に「松の木」「男の子」「読むこと」のように二つ以上の自立語を組み合わせた文節もある。 なお、「行く」の「行」を自立語と解釈する場合もある。 なお、「学校に」でひとつの文節、「行く」でもうひとつの文節なので、原則「一つの文節には一つの自立語しかない」を満たしている。 いっぽう、「学校に行く。」の「に」は自立語ではなく付属語という。 付属語はかならず自立語の下について、しかも付属語だけでは意味を成さない。 名詞は普通、自立語に分類する。 動詞の語感を自立語に分類する。 動詞の活用語尾(「行く」の「く」の部分や、「行った」の「た」の部分)は、付属語に分類する。 たとえば(学校に)「行った」のうち、自立語は「行っ」、付属語は「た」である。 (学校に)「行ったらしい」では、付属語は「た」と「らしい」の2つである。このように、ひとつの文節に付属語が2個以上ある場合もある。 (学校に)「行ったらしいね」なら、付属語は「た」「らしい」「ね」の3つである。 「行く」(いく)は「行った」(いった)、「行けば」(いけば)、「行きたい」などのように、続く単語や言い切ったりするときに、規則にしたがって、形に変化します。 たとえば、「学校に行ったなら」と「なら」が続く場合には手前には「行った」がきます。けっして、「行けばなら」(×)などとは言いません。 このように、単語の形が規則にしたがって変わることを活用(かつよう)といいます。 自立語にも、活用のあるものと無いものがあります。 たとえば、「学校」は自立語ですが、活用がありません。 「行く」(あるいは「行った」)には、活用があります。 付属語にも、活用のあるものと無いものとがあります。 活用のある自立語のことを用言(ようげん)と言います。 用言は普通、述語になれます。 後述するが、動詞・形容詞・形容動詞が、用言に分類されるのが一般的です。 動詞とは、「走る」「書く」などのように動作を表す言葉です。「走る」なら、たとえば「走らない」「走れば」などのような活用があります。 形容詞とは、「広い」「赤い」などのような、言葉です。「広い」なら、たとえば「広く」「広ければ」などのように活用があります。 用言の性質として などの性質があります。 自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。 後述しますが、名詞(めいし)に分類されるものが体言である場合が普通です。 名詞とは、「ビル」「学校」「月曜日」などのように、ものの名前になることのできる言葉のことです。 体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。 例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。 単語を役割ごとに分類したものを品詞(ひんし)という。日本語の品詞は動詞(どうし)、形容詞(けいようし)、形容動詞(けいようどうし)、名詞(めいし)、(代名詞(だいめいし))、副詞(ふくし)、連体詞(れんたいし)、接続詞(せつぞくし)、感動詞(かんどうし)、助動詞(じょどうし)、助詞(じょし)の10種類(代名詞を別に数えると11種類)ある。 「歩く」「書く」「読む」「食べる」など、活用があり、主に動作をあらわす言葉が動詞です。 たとえば「歩く」なら、 「歩けば」「歩きます」「歩きたい」「歩けよ。」「歩かなければ」・・・のように活用できるので、「歩く」は動詞です。 また、動詞は述語になることができる。 たとえば「駅まで歩こう。」のように、述語になっています。 動詞には活用があるが、最後の音がウの段の音にした場合を、文法上での基準の形とする。 たとえば、「歩く」が、動詞「歩く」の基準となる形である。なぜなら、「歩く」は「く」というウ段の音で終わってるからである。 いっぽう、「歩け」「歩き」などは、どんなに話し手が強く言ってても、最後の音がウ段でないので、動詞「歩く」の基準の形ではない。 同様に、動詞「書く」の標準の形は「書く」である。 「書け」「書き」は、動詞「書く」の基準の形ではない。 また、「歩きよりも走りでゴールまで行こう。」のように、歩行という意味での「歩き」は活用が無いので、動詞ではないです。 「歩くスピードが速い。」のように、体言を修飾する場合にも動詞(例文の「歩く」は動詞として、あつかう)が使われる場合もあります。 名詞には、いろいろな種類がある。 「京都」「夏目漱石」などのように、特定の地名や人名などをあらわす名詞のことを固有名詞(こゆう めいし)という。 「ボール」「茶」「人」「犬」「机」など、特定の人名や地名をあらわしていない、普通の名詞のことを普通名詞(ふつうめいし)という。 「一人」「二つ」「二枚」「一枚」「三本」「三人」、などは、それぞれ数詞(すうし)といいます。 のような文での「もの」、 または の「こと」のような名詞を、形式名詞という。 「僕」「それ」「彼」「あれ」「あなた」などのように、代名詞がある。 ※ 代名詞を名詞とは別の品詞と解釈する場合もある。 代名詞のうち、「僕」「私」「あなた」「彼」「彼女」「俺」などの、普通は人を指す場合につかう代名詞のことを人称代名詞(にんしょう だいめいし)という。 いっぽう、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」などは物や場所に使う代名詞であり、このような代名詞を指示代名詞(しじだいめいし)または指示語という。小学校で習った、いわゆる「こそあど言葉」が、指示代名詞です。 代名詞を分類すると、主に、人称代名詞または指示代名詞の、二通りに分類できる。 代名詞は、活用がない語である。 この一覧表にあるのは、あくまで指示代名詞だけである。 けっして全ての代名詞が一覧になっているわけではない。指示代名詞でない代名詞は、この一覧表には、まったく記載されていない。 代名詞には、指示代名詞でない代名詞も存在し、「わたし」「あなた」「ぼく」「彼」「彼女」など、代名詞は、いくつもある。 名詞は普通、自立語です。 副詞とは、例をあげると「ゆっくり」とか「もっと」「とても」とか、「のそのそ」「はっきり」などである。 副詞は活用がない語であり、主に用言を修飾し、修飾語にしかならず、たいていの場合は連用修飾語になる。副詞には状態の副詞、程度の副詞、呼応(陳述・叙述)の副詞がある。 状態の副詞は主に動詞を修飾する。 程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾するが、他の副詞や名詞を修飾することもある。 「呼応の副詞」とは、 のように、あとにくる言葉に決まった言い方がくるのが呼応の副詞である。 たとえば、「決して」は、必ずいくつか後の文節に「ない」が来る。 「けっして、きのうはカレーを食べていない。」というように、「けっして」のあとには「ない」が来るのが普通。 のように の「全然」も、21世紀の現代では、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「全然」を呼応の副詞として紹介。) (※ 範囲外: )ただし、「全然」は明治時代くらいは、 ※ このような事情があってか、三省堂いがいの他の教科書会社は、「全然」については紹介しないでいる。 の「とうてい」も、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「とうてい」を呼応の副詞として紹介。) 「叙述の副詞」(じょじゅつのふくし)または「陳述の副詞」とは、話し手の気持ちや判断を述べるための副詞である。 「おそらく」とか「きっと」などの、何かの可能性の程度を推測する副詞が、叙述の副詞の場合がある。 これ以外にも、 または とかの「まるで」の部分も、叙述の副詞である。 教科書によっては「呼応の副詞」を「叙述の副詞」と完全に同一視して分類する場合もある(※ たとえば学校図書(教科書会社名)では同一視している)。 たとえば、 のように、「おそらく」・「たぶん」のあとには、「だろう」または「であろう」「でしょう」などが来る場合がよくある。(※ 学校図書が、「おそらく」を呼応の副詞としている。三省堂が「たぶん」を呼応の副詞としている) などの疑問の意味の副詞も、呼応の副詞に分類される場合がある。(※ 光村図書の中3教科書が「どうして」を呼応の副詞として紹介、教育出版の中2教科書が「なぜ」を呼応の副詞として紹介している。) 叙述・陳述の副詞は、連用修飾語である。よって、叙述・陳述の副詞や、呼応の副詞の副詞の部分は、ほかの体言については修飾しないのが普通である。 状態の副詞は主に動詞を修飾する。 の「ゆっくり」は、状態の副詞である。 程度の副詞は、 「かなり」・「もっと」・「とても」のように、程度をあらわす副詞である。 の「少し」は、副詞である(この例文での「少し」は形容詞ではない)。 「ずっと」のように、時間のスケールの程度を表す副詞も、程度の副詞である。 「もっと大きく」のように、程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾する場合が典型的だが、 「もっと右。」「もっと昔から。」 のように名詞などの体言を修飾することもある。 また、「もっとゆっくり歩いて。」のように、程度の副詞(例文では「もっと」)が、ほかの副詞(例文では「ゆっくり」)を修飾する場合がある。 指示語である「あの」「その」や「大きな」などがある。体言を修飾し、必ず連体修飾語になる。活用がない語。 連体詞の直後には、かならず体言がつく。 「大きな」 など一部の連体詞と形容詞(「大きい」)は、基準の形が似ているが、しかし別の品詞である。 「大きい」は形容詞であるが、「大きな」は連体詞である。 たとえば形容詞「うつくしい」の場合、「美しかった」「美しく」「美しい」「美しければ」のような活用になる。 「うつくしな」(×)とは言わない。つまり、形容詞に「◯◯な」の形は無い。 なので、「大きな」は、形容詞とは別の品詞でなければならない。つまり、「大きな」は連体詞である。 同様に、「小さな」も連体詞である。 「たいした話だ。」などの「たいした」も連体詞である。 「この」「その」「あの」「どの」は連体詞である。 「あらゆる状況」、「いかなる困難」などの「あらゆる」「いかなる」も連体詞である。 動詞など他の品詞とまぎらわしい連体詞が、いくつかある。 などの修飾語としての「ある」は、学校文法では連体詞に分類する。 いっぽう の「ある」は、動詞である。 このように、同じ「ある」という形でも、文脈や位置によって品詞が変わるので、品詞をさぐる場合には文章をよく読むこと。 のような連体修飾語「去る」は連体詞である。 「大したヤツだな。」とか「大それた事をしてしまった。」とか「とんだ失敗をした。」「とんだ災難だったね。」などの「大した」「大それた」「とんだ」は、連体詞である。 たとえば、「走る」は動詞ですが、しかし「歩きよりも走りで行きたい。」などの「走り」は名詞です。 このように、動詞がもとになって派生した名詞があり、このような、ある品詞の単語が別の品詞の単語に派生することを転成といいます。 形容詞「大きい」と連体詞「大きな」も、転成の関係だと思われています。(※ 学校図書(検定教科書の出版社のひとつ)の解釈) 「楽しい」は形容詞ですが、「楽しむ」は動詞です。この「楽しい」と「楽しむ」も、転成の関係です。(※ 教育出版の解釈) 感動詞は感動・呼びかけ・応答・挨拶の4種類ある。「おはよう」「ああ」などがある。ある状態や個人の感情、あいさつ や返事などを表す。活用がない語。ふつう、自立語である。単独で文にすることが多いが、文の中にあるときは独立語とする。 典型的な4つの例: (※ 下線部が感動詞) いろいろな例 「そして」「だから」「でもって(話し言葉)」などが該当する。活用がない語である。文や文節を繋いで関係をはっきりさせる語で、必ず接続語になる。 「きのう、カレーを買った。」の「た」は、過去をあらわす助動詞です。 助動詞とは、活用のある付属語です。 「買った」は、「買ったら」や「買ってれ(ば)」などのように活用します。 つまり、「た」は「たら」「てれ」のように活用します。 いっぽう、「カレーをかってやろう。」の「て」には、過去の意味は無く、つまり「て」は別の品詞です。この場合の「て」は助詞です。助詞は、活用のない付属語です。 「山田の好きな食べ物はカレーだそうだ。」の「そうだ」も助動詞です。 「そうだ」は「そうだっ(た)」「そうな」「そうなら」のように活用します。 「カレーを食べたい。」の「たい」も助動詞であり、願望・希望をあらわす助動詞です。 「食べたい」は「食べたけれ(ば)」「食べたく」「食べたか(ろう)」などのように活用します。 動詞、形容詞、形容動詞、助動詞は下につく言葉によって語の一部または全体が変化する。このことを活用(かつよう)という。 たとえば、動詞「話す」は、「話さ(ない)」(未然)、「話し(ます)」(連用)、「話す(。)」(終始)、「話す(とき)」(連体)、「話せば」(仮定)、「話せ」(命令)のように活用します。 活用の変化後のそれぞれの形を活用形(かつようけい)という。 たとえば、動詞の活用形には、 の6種類がある。 また、用言の多くは変化する部分と変化しない部分がある。変化する部分を活用語尾(かつようごび)と言い、変化しない部分を語幹(ごかん)という。助動詞の中には語幹や活用が事実上ないものもある。 たとえば、動詞「話す」の語幹は、「話」(はな)の部分です。 「話せ」の「せ」 や 「話す」の「す」 などが、(つまり「せ」や「す」の部分が)活用語尾です。 動作を表す言葉で、述語として文の最後につくことが多い。最後が「う段」(ローマ字で書いたとき「遊ぶ(asobu)」「見る(miru)」のようにuで終わること)の音で終わる。また、五段活用動詞の連用形は名詞に変わることがある。例としては、「ひかり(動詞「ひかる」より)」「読み(動詞「読む」より)」などがある。 たとえば、上記の「咲く」の場合、 「咲か(ない)」「咲き(ます)」「咲く(。)」「咲く(とき)」「咲け(ば)」「咲け」のように活用される。 また、上記の表のように、活用形や語幹、活用語尾などをひとまとめにした表のことを活用表といいます。 「来る」(くる)、「する」、などの一部の動詞には語幹が無い。 五段活用では、下記の表のように、語幹の最後の文字の所属する行ごとに、活用形が変わる。 たとえば、「行かない」・「話さない」のように言うことはある。しかし、けっして「行さない(×)」「話かない(×)」のようには活用しないという事である。 命令形は、「行け」「書け」などのように命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。(※ ただし、「行けよ」のように助詞「よ」などの助詞をつける場合はある。) 下記の動詞の一覧表でも同様に命令形は、命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。 上一段活用(かみいちだん かつよう)をする動詞には、「生きる」・「起きる」・「似る」・「開ける」などがある。 「起きる」の語幹は「お」である。「おき」は語幹ではない。活用語尾には、すべて最初に「き」がついているが、だからといって語源を「おき」にしない。 もし、「おき」を語幹にしてしまうと、未然形と連用形の活用形が無くなってしまうが、そうなると不便である(※ 教育出版の見解)。 なので、「起きる」の語幹は「お」にされている。 「似る」・「見る」など、一部の動詞では、語幹と活用語尾が区別しづらい。 下一段活用(しもいちだん かつよう)をする動詞には、「教える」・「答える起きる」・「出る」がある(※ 検定教科書で紹介される動詞)。「受ける」「食べる」なども下一段活用である(※ 参考書などで紹介される動詞)。 「出る」など、一部の動詞には、語幹と活用語尾が区別しづらい。 カ行変格活用になる動詞は「来る」(くる)一語のみである。 カ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。 サ行変格活用になる動詞は「する」と、「料理する」「勉強する」のように「する」が後ろについて出来た複合動詞「◯◯する」のみである。 サ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。 動詞には、おもに、次のように三種類の音便(おんびん)があります。 「書か(ない)」(未然)、「書き(ます)」(連用)、「書く」(終始)、「書く(とき)」(連体)、「書け(ば)」(仮定)、「書け」(命令) というように、動詞「書く」は5段活用される。 しかし、「書いた」は、このどれにも当てはまらない。 「書いた」は、連用形「書き」+「た」が なまった音が由来だとされる。 このように、いくつかの動詞などで、活用語尾が「い」に変化する現象をイ音便(いおんびん)という。 いっぽう、動詞「走る」(はしる)は、活用で「走った」のように言う場合があります。 この「走った」は、連用形「走り」+「た」が なまった音が由来だとされる。 このように、活用語尾が「っ」に変化する現象を促音便(そくおんびん)という。 動詞「読む」は「読んだ」と活用される場合があまう。 これは、「読む」+「た」あるいは「読み」+「た」が由来だろうとされています。 この「読んだ」のように、「読む」または「読み」が「読ん」になるように、活用語尾が「ん」になることを撥音便(はつおんびん)といいます。 「撥」(はつ)とは、「はねる」という意味です。 動詞「飛ぶ」も「飛んだ」と活用されるので、撥音便のある動詞です。 共通語では、音便のある動詞は、五段活用される動詞です。 しかし、方言では、ほかの活用をされる動詞でも音便のある場合があります。 促音(そくおん)とは、たとえば「だっこ」の真ん中の小さい「つ」、つまり「っ」の音のことをいう。 撥音(はつおん)とは、「ん」の音のことをいう。 なお、動詞の音便とは別に、形容詞にも「ウ音便」というのがある。くわしくは形容詞の節で説明する。 特殊な動詞に補助動詞というものがある。補助動詞とは、たとえば の「みる」・「いる」・「いう」の部分が、それぞれ補助動詞である。 本来これらは「見る」「居る」「言う」という意味があったのだが、その意味が薄れ、様子や状態を表す助動詞のような役割を果たすようになった。 このように、動詞ではあるが、ほかの単語について、補助的な意味をする動詞のことを補助動詞という。 形式動詞は普通の動詞と区別するためにひらがなで書くが、文節分けは行う。 助動詞と補助動詞とは違う。 などの「ある」・「おく」・「しまう」、「いく」も、それぞれ補助動詞である。 の「あげる」・「くれる」・「もらう」も補助動詞である。 の「いただく」・「なる」も補助動詞である。 「行ける」・「書ける」のようにそれだけで可能の意味を含む動詞を特に可能動詞という。可能動詞は、すべて下一段活用の語である。また、可能動詞に命令形は無い。 学校文法で、可能動詞のもとになる動詞は、「行く」・「書く」など五段活用の動詞である。 たとえば など、もとになる動詞の活用は、すべて五段活用である。 いっぽう、上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」など、五段活用でない動詞をもとに可能動詞とするのは、(小中高の)学校文法では誤りとされる。 つまり、「みれる(△)」「でれる(△)」などは、学校文法では誤りとされる。 「見る」や「出る」ことが可能なことを一語で言いたい場合、学校文法では、助動詞「られる」を使って、「みられる」・「でられる」というふうに言うのが正式であるとされる。 動詞は自動詞(じどうし)と他動詞(たどうし)に区別できる。自動詞は対象を必要とせず、ある動作や状態がそれ自身で行われることをいう。他動詞は必ず動作の目的や対象への働きかけを示す言葉が必要である。 例:「起きる」と「起こす」。 「起きる」が自動詞である。なぜなら「起きる」は動作の対象を必要としないため、「彼を起きる」という文章が作れない。 一方、「起こす」は動作の対象を示すことができるので、「彼を起こす」という文章が作れる。なので、「起こす」は他動詞である。[1][2]。 「水を流す」と「水に流れる」なら、「流す」が他動詞であり、「流れる」が自動詞である。 ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「い」で終わる。(例)すばらしい、美しい など。形容詞の語幹に「さ」をつけると名詞に変わる。 など。 特殊な形容詞として「ない」「ほしい」がある。「ない」は というように「無」の状態を表す場合と、 のように、ほかの形容詞の後ろにつく場合がある。 この、「明るくない。」の場合の「ない」のように、ほかの単語の補助としてつかう形容詞を補助形容詞という。 「明るくない」などの「ない」は、けっして助動詞ではない。なぜならば、 「やらない」「書かない」などの助動詞「ない」は「ぬ」に置きかえても意味が同じだし、「やらぬ」「書かぬ」と通じる。 しかし「明るくない」はけっして「明るくぬ(×)」とは言わない。なので、「明るくない」の「ない」は助動詞ではない。 また、格助詞「は」を補って「明るくはない」という場合はあるが、しかし、「書かはない(×)」とは言わない。 このように、補助形容詞と助動詞とは、区別する必要がある。 なお、「この本に書いてある。」の「ある」は補助動詞である。(「ある」は形容詞ではない。) 「花が咲いている。」の「いる」は補助動詞である。(「いる」は形容詞ではない。) なお、補助動詞と補助形容詞をまとめて、補助用言(ほじょ ようげん)という。 なお、「ほしい」は同じ意味の英語の"want"は動詞だが、しかし日本語の「ほしい」の活用は形容詞(「ほしかろう」、「ほしく」、「ほしけれ」)の活用である。 「ほしい」も のように、ほかの動詞のうしろに補助的につくので、「ほしい」も補助用言である。 日本語で補助形容詞は「ない」と「ほしい」だけである。 補助用言をふくむ文章を、文節ごとに分かる場合には、補助用言は前の文節とひとつにまとめて一文節として数える(※ 教育出版の見解)。 つまり、 例 という文章では、「歩いている」で、1文節と数える。 つまり、「猫が歩いている。」という文は、「猫は」と「歩いている。」で、合計2個の文節がある。 また、補助用言は普通、ひらがなで書く(※ 三省堂の見解)。 (批判的な意味での)「くだらない」、(「粗末にすべきではない」(大切に扱うべきだ)という意味での)「もったいない」などは、 たとえば「くだらない」なら、あたかも形式的には、動詞「くだる」の未然形に助動詞「ない」がついたように見えるが、 しかし、「くだらない」一語で形容詞として扱う。 「もったいない」も、「もったいない」一語で形容詞として扱う。(※ 教育出版が中3教科書で「くだらない」「もったいない」「きたない」などを紹介している。) 「静かだ」・「きれいだ」などのように、ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「だ」または「です」で終わる。特殊な形容動詞には「あんなだ」「こんなだ」がある。 形容動詞は、活用のある自立語で、単独で述語になることができる。 形容動詞に命令形は無い。 「静かにしろ」のような命令表現は、学校文法では「しろ」の部分が動詞「する」の命令形であると解釈する。なので、形容動詞の部分「静かに」そのものには命令形が無いと学校文法では考える。 なお、形容動詞でないが混同しやすい表現として、連体詞「大きな」がある。「大きだろう(×)」とは言わないので、「大きな」は連体詞である。 自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。 例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。 名詞(めいし)とは、ものの名前を表す言葉。その他、数字なども名詞とする。活用がない語。ほかにも用言を体言のようなものにする働きを持つ「こと」「とき」「ため」などがある。これらは本来「事(ものごと)」「時(時間)」「為(理由や対象をさす)」という意味があったが、それらの意味が薄れ、単に用言に接続して用言に体言のような働きを持たせる文節をつくる言葉になった。これらを形式名詞という。形式名詞は普通は平がなで書き、文節分けはしない。 単独で文節をつくることができない単語を付属語(ふぞくご)と呼ぶ。 文や文節に否定や断定、丁寧、推測、過去などの意味をつけくわえる語。主に用言・体言・助動詞に接続する。活用がある。 助動詞には、次のものがある。 例 活用は、「読ませれば」「読ませて」「読ませる」などのように活用する。 例 「書かれた」「書かれれば」「書かれる」などのように活用される。 例 「知らなかろう」・「知らぬ」・「知らなければ」などのように活用する。 「存ぜぬ」・「存ぜん」のように活用する。 なお、「何もない。」の「ない」は形容詞「なし」の変化であるので、助動詞ではない。 例 この文の時点からみて、駅に到着したばかりだし、その文の時点で駅にいるので、完了である。 この文では、はたして現在ではマラソン選手かどうかは不明である。だが、過去にマラソン選手だったのは確かである。 服がつるされている時は、この文の時点からみて、過去ではなく現在なので、服はつるされつづけているので、存続である。 また、存続の場合、普通は「た」のあとに体言が続く。 「たい」は普通、話し手が希望している場合に使う。 「たがる」は、話し手以外の第三者が希望している場合に使う。 「知りたい」の活用は、たとえば「知りたかった」「知りたく」「知りたい」「知りたければ」などのように活用する。 「そんな話があろうはずがない」の「あろう」の「う」が助動詞「う」である。活用は「う」しか形が無いが、しかし「あろうはず」のように体言「はず」につながるので、連体形である。終止形の「(あろ)う」と連体形の「(あろ)う」があるので、便宜的に「う」は助動詞として分類される。 「よう」も同様、便宜的に助動詞として分類される。 (※ 範囲外)活用せず、「まい」しか形が無い。しかし、「まい」の古語の「まじ」に活用があるので、便宜上、「まい」も助動詞として扱う。 時代劇などで「あるまじき無礼(ぶれい)」のようなセリフがあるが、「まじ」は「(ある)まじき」「(ある)まじく」などのように活用するので、「まじ」は古語の助動詞である。 「打ち消しの意志」とは、「今後は◯◯しないでおこう」のような意味。 「打ち消しの推量」とは、「今後は、そうはならないだろう」のような意味。 「だろう」は助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」がついたものであると分類する。 また、「東北は私の故郷であり」の「で」も助動詞「だ」の連用形に分類する。 「だろ(う)」・「だった」などのように活用するので、助動詞である。 「です」は、助動詞「だ」を丁寧にした形。 「でしょ(う)」・「でし(たら)」などのように活用するので助動詞。 「ようだ」は、活用の変化は断定の助動詞「だ」に似ているが、しかし意味が断定ではなく推定なので、便宜上、推定の助動詞「ようだ」と断定の助動詞「だ」は別々の助動詞として、あつかう。 「ようです」は、「ようだ」を丁寧にした形。 「そうだ」は、連用形の後ろに つながる場合は様態の意味。 「そうだ」は、終始形の後ろに つながる場合は伝聞の意味。 「そうです」は、「そうだ」を丁寧にした形。 (※ 執筆中) 国語学者の大野晋によれば[3]助動詞の語順は、人為・自然(「れる」「られる」や使役)+敬意(補助動詞)+完了・存続+推量・否定・記憶(+働きかけの終助詞)の順に並ぶとされる。 助詞とは、付属語で活用が無く、単語や文節同士をつないだり、つながれたものどうしの関係づけを行ったりする語である。また、文や文節のリズムを整えたり、禁止や疑問、強調の意味を添える役割もある。 主に用言・体言・助動詞に接続する。活用はない。 学校文法では助詞は格助詞(かくじょし)・副助詞(ふくじょし)・接続助詞(せつぞくじょし)・終助詞(しゅうじょし)の四つに分類される。格助詞(かくじょし)は体言に接続するか、または体言と同じような働きをするものに接続して使われる。 格助詞は、直後の単語との関係を明確なものにするために使われる。 たとえば「ライオン、トラ、襲う。」では、 それとも はたまた のかわからない。 この「が」「を」のような、動作をする側とされる側の関係づけをするための助詞のことを格助詞(かくじょし)という。 気を付けるべきこととして、助詞「が」のつく文節は、必ずしも主語とは限らない。 たとえば、 という文は、けっして「これ」さんが何かを欲しがっているわけではない。そうでなくて、話し手の、欲しがっている対象物が、代名詞「これ」で表される何かなだけである。 つまり、ここでいう「これが」は、英語でいう所の目的格である。なお、学校文法では「これが欲しい」の「これが」は『連用修飾格』という格に分類する。 しかし、日本語の学校文法では、(英語でいう)目的格のようなものも「格」として扱うので、助詞「が」は、どっちにせよ「が」は格助詞である。 なお、「寒いが、外出した。」の「が」は、格助詞ではない。「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。 つまり、「より」は格助詞である。「から」は格助詞である。 さて、「僕は好きだ。」・「テニスは好きだ。」のような「は」については、文法の理論上、難しい問題があり、いちぶの学校教科書によっては説明を避けている場合もある。 三省堂や学校図書や光村図書の検定教科書で助詞「は」を紹介しているが、これらの出版社の検定教科書では、助詞「は」は副助詞(ふくじょし)に分類される。副助詞については後述する。格助詞としては扱わない。) たとえば、(学校教科書では習わない文だが、) という文を考えれば、「は」を格助詞と考えるべきかどうか、いまいち不明確だと分かるだろう。「象」は「鼻が長い」性質の(英文法でいうところの)主格でもなければ、(英文法でいうところの)目的格でもない。(英語でいう所有格「〜の」の)象の鼻は長いが、しかし料亭で「ぼくはチャーシューメン」という場合は、チャーシューメンを注文しているのであって、けっして「僕のチャーシューメン」をどうかしようとしているわけではない。 助詞「は」の意味を紹介している三省堂の検定教科書では、助詞「は」は、題目をあらわす助詞として分類している。 (※ 範囲外: )学校文法(主に橋本文法)ではないが、助詞「は」を、主題・話題をあらわす助詞として分類する学説もある(三上文法など)。 などの連体修飾語としての「の」は、格助詞に分類します。 「の」には、 のように、名詞のかわりをする用法もあります。(「もの」の意味。例文の場合は、「君のものだ。」の意味) のように、「すること」の「こと」の意味で「の」が使われる場合もあります。 このように「こと」「もの」の意味で助詞「の」が使われる場合もあり、この場合の助詞「の」も格助詞に分類します。 また、 のように、動詞の前に「の」がついて、主語になる場合もある。 これらの用法(「の」の名詞の代わり用法。主語を示す助詞としての「の」)の場合も、すべて格助詞として分類する。 なお、混同しやすい例として のような文末の「の」がありますが、これは終助詞「の」です。文末の「の」は格助詞ではないです。 接続助詞(せつぞくじょし)は、主に用言に接続して、下に来る部分との関係を明らかにするものである。接続詞に置き換えることもできる。 「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。 副助詞(ふくじょし)は体言や格助詞に接続し、その文節に副詞のように用言や述語・述部を修飾する役割を持たせる。 三省堂や学校図書や光村図書(教科書会社名)の検定教科書では、助詞「は」は副助詞として分類される。 教育出版は、助詞「は」については説明をさけている。 終助詞(しゅうじょし)は述語に接続し、聞き手や読者などに禁止や疑問・勧誘などの働きかけを行う。 他にも「君の(もの)だ」の「の」のように体言の働きを持つものを準体助詞、「ね」「さ」「よ」などのように文節の切れ目に自由に入れて、強調したりリズムを整えたりするものを間投助詞という。 単語の中には品詞を区別しにくいものも多い。いくつかの例を見てみよう。 1の「きれいだ」は形容動詞だが、2の「病気だ」は名詞「病気」+助動詞「だ」である。これをどうやったら区別すればよいだろうか。この場合は副詞「とても」を入れるとよい。副詞は主に用言を修飾するので、1は問題ないが、2だと「山田さんはとても病気だ」となり、不自然な文になる。 「小さい」は形容詞だが、「小さな」は連体詞である。これは形容詞の活用の中に「な」の形がないことから判断する。 どちらも「ない」だが、1は打消の助動詞「ない」で、2は形容詞「ない」である。この場合は自立語は単独でも文節を作れることや打消の助動詞「ぬ」を入れて判断することができる。 単語の一部または全体につけることで品詞そのものを変えたり、意味を付け加えたりする言葉がある。その内、単語の頭につけるものを接頭語、後ろにつけるものを接尾語という。接頭語・接尾語は一つの単語として数えず、接続したものとセットで一つの単語としてみる。 日本語の接頭語の例を挙げる。「お」「ご」は名詞や動詞について尊敬や丁寧の意味を付け加える。既に敬語のところで述べたように、「お」は和語に、「ご」は漢語に接続する。他には名詞に接続する「新」「超」「反」や特定の色の名詞に接続する「まっ」がある。 接尾語は、形容詞の語幹に接続して名詞を作る「さ」、「さん」「様」などの敬称、名詞に接続して連体修飾語な意味を持たせる「的」「性」などが挙げられる。 文には単文(たんぶん)、複文(ふくぶん)、重文(じゅうぶん)の3種類がある。単文(たんぶん)は一つの主語・述語のセットで成り立っている。複文(ふくぶん)は二つ以上の主語・述語のセットでできており、ある主語・述語のセットが別の文節を修飾したり、文の主部・述部になっているものである。重文(じゅうぶん)も二つ以上の主語・述語のセットでできているが、修飾関係などはなく対等な関係にある。 例文:
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%96%87%E6%B3%95
※ 冒頭部のみを紹介する。資料の範囲なので、覚えなくてよい。中学生は1回か2回ほど通読すれば、充分である。 『土佐日記』(とさにっき)とは、紀貫之(きの つらゆき)によって平安時代に書かれた日記。 小倉百人一首(おぐら ひゃくにんいっしゅ)でも、紀貫之の作の歌が出てくる。たとえば、「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の 香に にほひける」は、紀貫之の歌である。 この紀貫之の生きた時代、平仮名(ひらがな)や万葉仮名などの仮名(かな)は女が使うものとされていたが、作者の紀貫之は男だが、女のふりをして『土佐日記』を書いた。 というふうに始まる。「女もしてみむ」と言ってるが、もちろん本当は男である紀貫之が書いているのである。 著者の紀貫之(きの つらゆき)は男だが、女のふりをして冒頭文を書いた。船旅になるが、まだ初日の12月21日は船に乗ってない。 女である私も日記を書いてみよう。 ある人(紀貫之)が国司の任期を終え、後任の者への引継ぎも終わり、ある人(紀貫之)は帰りの旅立ちのために土佐の官舎を発った日が12月21日の夜だった。そして。ある人は船着場へ移り、見送りの人たちによる送別のため、皆で大騒ぎをしているうちに夜が更けた。 (まだ船には乗ってない。) 男もすなる日記(にき)といふ(イウ)ものを、女もしてみむ(ミン)とて、するなり。 それの年の十二月(しはす、シワス)の二十日余り一日(ひとひ)の日の戌(いぬ)の刻(とき)に、門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。 ある人、県(あがた)の四年(よとせ)五年(いつとせ)果てて、例の事(こと)どもみなし終へて(オエテ)、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろ、よくくらべつる人々なむ(ナン)、別れ難く思ひて(オモイテ)、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。 男もするという日記というものを、女も書いてみようとして書くのである。 ある年の十二月の二十一日の午後八時頃に、(土佐から)出発する。その時の様子を、少しばかり、もの(=紙)に書き付ける。 ある人が(=紀貫之)、国司の(任期の)4年・5年間を終えて、(国司交代などの)通例の事務なども終えて、解由状(げゆじょう)などを(新任者から紀貫之が)受け取って、住んでいた官舎(かんしゃ)から(紀貫之は)出て、(紀貫之は)船に乗る予定の所へ移る。 (見送りの人は)あの人この人、知っている人知らない人、(などが、私を)見送ってくれる。 長年、親しく交際してきた人が、ことさら別れがつらく思って、一日中、あれこれと世話をして、大騒ぎしているうちに、夜が更けてしまった。 ※ 男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとて、するなり。 - とても有名な冒頭文なので、読者は、そのまま覚えてしまっても良い。 『土佐日記』は日本初の仮名文(かなぶん)日記(にっき)である。 日記の内容は私的な感想などであり、べつに公的な報告・記録などでは無い。 紀貫之は公務で、土佐(とさ、現在の高知県)に 地方官として、国司(こくし)として 赴任(ふにん)しており、土佐守(とさのかみ)としての仕事をしていた。その任が終わり、その帰り道での旅の、五十五日間の日記である。 この時代の公文書などは漢文で書かれており、男も漢文を使うものとされていた。そして日記は、男が、公務などについての、その日の記録を、漢文で書いたのが日記だとされていてた。 しかし、土佐日記では、その慣例をやぶり、ひらがなで、著者が女を装い、私的な感情を書いた。このように日記で私的な感情を表現するのは、当時としては異例である。 この『土佐日記』によって、私的な日記によって文学的な表現活動をするという文化が起こり、のちの時代の日記文学および女流文学に、大きな影響を与えた。そして今で言う「日記文学」というようなジャンルが、土佐日記によって起こり始めた。 (『土佐日記』はタイトルには「日記」とつくが、しかし現代の観点で見れば、『土佐日記』は後日に日記風の文体で書いた紀行文であろう。しかし、ふつう古典文学の『土佐日記』や『蜻蛉日記』(かげろうにっき)、『和泉式部日記』(いずみしきぶにっき)、『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)、『更級日記』(さらしなにっき)など、古典での「○○日記」などは、日記文学として扱うのが普通である。)
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まず、「会議」と「議論」は違う。(※ 検定教科書では、混同されている。しかし、旺文社の参考書では区別している。) 会議とは、なにかの団体が、今後の行動などを決めるための相談である。そのため、会議では事前に、どのようにして、決めるのかを、あらかじめ打ち合わせしておくのが、望ましい。 たとえば、その団体の長(会長や社長など、学校ならば担任(たんにん)の教員)が決めるのか、それとも会議の出席者の多数決で決めるのか、などの決定の方法を、会議ではあらかじめ決めておくのが望ましい。 (※ なので、たとえば、「学級会」などで委員会のメンバーを選挙したりするのは、「議論」ではなく「会議」。) 議論(ぎろん、英語ではディスカッション)の目的として、なにかのトラブルなどの解決策をさぐるためのアイデアを出させたり、あるいは、なにか未解明のものを解明するのに情報を出し合うのが目的である。 なので議論をする場合、解決策になりそうな、いろんなアイデアを出させよう。 アイデアを出すのが目的だから、わざわざ2グループに分けて、勝ち負けを決める必要は無い。(なお、議論のさいに2グループに分けて、勝ち負けを決める方法で競争させて意見を出させる方法のことを「競技ディベート」という。 小学校で練習した、2グループに分けて勝負させるのは、正確には「競技ディベート」である。) ただし、あくまで解決策を出させるのが目的だから、解決策をすばやく見つけ出させそうにない話題がでてきた場合、その話題は中断してもらおう。 よくある例として、たとえば、「転勤して他校にうつる英語教員のALT(アシスタント・ラーニング・ティーチャー)の先生に、クラスから贈り物をすべきか?」という議論のさいに、「そもそも、日本のAETの制度の始まりは、〜〜〜〜(以下略)」とかの歴史などの話題が出てきたら、たとえその歴史の内容が正しくても、議論の進行をさまたげるので中断してもらうのが普通です。 もし、ほかの人が歴史とかの話題を持ち出してきて、それに反論するために「そもそも」とかの意見をいうのなら構いません。しかし、いきなり、「そもそも」とか言い出すのは、まず、議論のさまたげになります。けっして「そもそも、〜〜」とか自分から言い出さないように、つつしみましょう。 この単元では、特に採決(さいけつ)をしない、「議論」について扱う。 さて、議論をするにも会議をするにも、時間にかぎりがある。なので、なるべく実現可能性の高い話題について、話し合うべきである。 また、建設的な話し合いをするために、客観的に検証できような話題を議題に選ぶのが良い。 たとえどんなに高尚(こうしょう)な話題でも、客観的に検証できない話題は、議論では、あまり好ましくない。なぜなら、第三者の役に立たないからである。 たとえば、「夏目漱石と、森鴎外(もり おうがい)の、どちらが、すぐれた文豪(ぶんごう)か?」というのは、話題は文学的に高尚でありそうだが、しかし、検証方法が無い。 どうしても、このような話題を話し合いたい場合、検証可能な話題に置き換える必要がある。 たとえば、出版社での今後の出版方針のために夏目と森を比較する議論なら、「夏目漱石の著作と、森鴎外の著作、どちらが今までの販売数が多いか?」などの、客観的な指標に置き換える必要がある。 学習塾での塾講師どうしの議論なら、「夏目漱石の著作と、森鴎外の著作、どちらを読むように進めるのが、塾生の全国模試での成績を上げるか?」など、客観的な指標に置き換える必要がある。 議論のさいに意見を求められることもある。また、「これから◯◯の賛否についての議論をしよう」という提案も、意見である。 さて、どちらの場合にせよ、まず実現可能性の高そうなアイデアをみちびけそうな意見を出すべきであう。(※ 旺文社の参考書では、そう主張している。) たとえば、「世界から病気を無くすべきだ」という主張や、「死を無くそう」とかの主張は、もはや、なにも建設的な提案をしてないのと同じである。 たとえ、一見すると高尚な字面をならべていても、実現可能性の極端に低い主張や、実現可能性を無視した主張は、議論などでは好ましくないか、そもそも「議論に値しない」として無視されかねない。 とにかく、前提として、実現可能性の高いことを、話題にすべきである。 たとえば、「(私達は)割り箸をつかわないようにしよう」という提案があったとしましょう。(※ 教育出版の検定教科書にある例) さて、意見を提案する場合、冒頭に、あなたが「◯◯させたい」と思っている提案の内容を先に書くべきです。そのあとに、根拠を書くべきです。 つまり、たとえば のようになります。 そもそも、意見以外の感想は、「意見」ではない事です。 「割り箸を使わない人が好きです。」とか、そういうのは、個人の感覚にもとづくので意見ではないのです。 また、もし「割り箸を使わない人が好きです。」という主観を意見であるとすると、これはつまり、「私の主観を、あなたは尊重すべきだ」という命令であり、とても傲慢です。 世の中には、ご都合主義の自分勝手な人で、自分の意見を主張するときは「世間はもっと議論すべきだ」「世間はもっとディネートすべきだ」と言い、なのに、自分の嫌いな意見を他人に言われた時は「あなたの意見を聞いたせいで、気分が悪くなった」とか「めまいが酷くなる」とか言い出す、頭おかしい人または詐欺師(さぎし)・ペテン師がいます。人によっては、「医師もそう言っている」とか言い出します。はたして、その医者が実在するかどうか知りませんが。医師がどうこう言いますが診断書を見せなかったりします。 対する世間の人は仕事で忙しく、慰謝料とか請求されたら面倒なので、そこで世間の人は意見を言い続けるのをやめます。しかし、頭おかしい人は、それで論破、論証などの議論をしたつもりになります。 自分の嫌いな主張や意見に対して「気分が悪くなる」とか「めまいが酷くなる」とか生理的反応を言い出して、病気を言い訳に意見の中止をさせて、それで議論で論破したつもりになる頭のヘンな人がいます。もしかしたらそういう反対意見を聞くと気分が悪くなる病気があるのかもしれませんが、しかしそういう人があたかも論理的なフリをされては世間に迷惑です(肉体労働の現場に、五体不満足の人が来られても迷惑なのと同様)。 なお、この手の人物の行動パターンとして、自分の意見を肩書で権威づけるために大卒のフリをしたりもしますが、実は短大卒だったり、難関の私大の系列のそれほど難関でない専門学校卒だったりするようなこともあります。 競技ディベートを開催したいなら、議題としては、意見が「賛成」または「反対」の2種類だけに分かれる議題を選びましょう。 たとえば、 という議題は、学校内での競技ディベートの議題としても、かまいません。(※ 学校図書や光村図書などで、図書室マンガ案のディベートがある。) しかし、 という模索は、競技ディベートとしては不適切です。 なぜなら、賛成または反対の2つの意見に分かれないからです。 べつに、こういった模索を考えること自体が悪いのでなく、競技ディベートのルールとはズレている、という事です。 なお、学校などで意見の出し方の練習として競技ディベートをする場合、賛成派と反対派のグループ分けは、くじ引き や コイン投げ などで機械的に決めます。(※ 学校図書の中2国語の検定教科書の見解。) このため、競技ディベート中の立場が自身の本音とは違う場合もあるかもしれませんが、そういうのを体験することも勉強のひとつです。 この節で話すのは、競技ディベートではなく、ディスカッションの仕方の説明です。 ディスカッションでの議論の議題として、「○○すべきである。」といった意見を出すときは、そう思った具体的な理由を出しましょう。 たとえば、ディスカッションにふさわしくない提案のしかたとして「わが中学の図書室にマンガをもっと置くべきだ。」という提案だけで、なぜそう思ったのか理由のない提案のしかたがあります。 この提案だけで理由が無い提案は、競技ディベートの場合の最初の議題の出し方です。ディスカッションの提案の仕方ではないのです。 なので、競技を目的としない議論としては、あまり良くない提案のしかたです。(※ いくつかの検定教科書が、競技ディベートの方法だけを「意見」として説明している。) 議論では、最初の理由の説明によって、しばらくはそれに合った話を皆でするので、よって最初の理由説明で議論の内容が大きく変わるのです。なので、議論の開催のさいには、あらかじめ、提案の根拠を述べるべきです。 たとえば、提案のときに、 という理由なのか、あるいは、 という理由では、 その後の議論の内容が、大きく変わってきます。 もし図書室を利用する生徒を増やしたいという理由なら、「そもそも、なぜ利用する生徒を増やす必要があるのか? 利用者が少なくても良いのでは? 少ないと困ると考えている理由を話すべきだ」という反論などのように次の議論につながります。 いっぽう、「マンガは今や日本が世界に誇る文化なので、」なら、「だったら、ゲームもマンガ同様に、日本が誇る子供文化だが、それも置くべきと考えているのか?」などの反論・議論につながります。 このように、提案者や、議論の開始時点の理由で、その後の議論の方向は、大きく変わります。 なので、マジメな議論をする場合、提案に理由をつけくわえましょう。 理由のない提案の場合、そもそも議論に、マジメな人が集まらないのが普通です。 ディスカッションは、べつに勝ち負けを争う(あらそう)ものではないので、 のような、模索をする議題でも可能です。 パソコンでプレゼンテーション用のソフトがあるので、それによって映像を編集できる。 また、プロジェクターがやや高価だが、電気量販店などで市販されている。すでに学校で購入ずみだろうから、それを使えばいい。 プレゼンテーションは、時間が数分と限られている場合が多いので、短時間で説明できるように、映像にする図やグラフなどをあらかじめ、まとめておく必要があります。 また、その図やグラフを作成するための資料集めなどにも、時間が掛かります。なので、仕事でプレゼンテーションにする場合、スケジュールを遅らさないように気を付けましょう。 また、プレゼンテーションにかぎらず演説などでも、外部の人の前で発表する場合は、事前に内部の人どうしでリハーサルをしましょう。 中学校で習う「意見文」というのも、読者が、上述のような議論などのさいの参考になるように、書き手が自分の意見を書いた文章のことです。 とはいえ、一人で書くわけですので、限界はあります。 まず、書き手は、よくありそうな反対意見を想定して、自身の意見を書くべきです。 このように、反論を想定して書くことで、自分の意見が明確になります。(※ 光村図書の中2国語の見解) また、ある程度の反論に対して、理由のある再反論をすることで、自分の意見の説得力を高めることもできます。(※ 東京書籍の中2国語の見解) そして、自分の主張の根拠などを述べます。
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実社会での報告書や説明文などでは、なるべく読み手に掛かる読解作業の手間を、減らす工夫をしなければなりません。 そのため、次の節で述べるような、以下の工夫が必要です。 ※ 注意 報告書、レポートとは、何かを調査して、調べて分かった結果を、書類にまとめたものである。 書類にまとめる理由は、あとから見返せるようにするためです。 また、報告書を読む人は、アナタ以外の他人です。(あなた自身が読むために書き残す場合は、「メモ」「ノート」などと言います。) 学生レベルの報告書なら、もし、あなたと同じ学年の平均レベルの学力の他人が読んでも、理解できるように、書かなければなりません。 さらにまた注意事項として、書類を渡した相手(担任など)以外の第三者(学校なら先輩や後輩の生徒や担任以外の教師など、はたまた場合によっては学外の関係者など)が読む場合もありうるので、なるべく一般人が読んで分かるように書きましょう。特定の相手でないと通じないような書き方は、あまり好ましくないです。 そのため、報告書は書き方は、誰が書いても似たような書き方になってきます。作家性や独自性などは不要です。 あるビジネス報告書の書き方についての書籍でも、「ビジネス文書では複雑な文章、かっこいい文章、難しい語彙を使った文章を書こうとしない」のがコツだとあります[1]。 「レポート」の意味について、英語としては不正確な用法だが、「レポート」と「報告書」とでは、慣習的に意味が違っている。「レポート」とは、報告に加えて、さらに分析などの入った書類のことであるという用法が、日本では慣例である[2][3]。 単に起きただけのことを報告するだけの文章は、たしかに報告ではありますが、レベルが低いです[4]。 「試合に負けた。」とか「テストで80点をとった。」とか、そういうのは報告です。 もちろん場合によっては、そういった「なるべく早い」報告が必要な場合もありますし、仕事でも起きたことを口頭またはメールなどの文面ですぐに行うこともあります。しかしそれは「報告書」とは言わず、単なる「報告」です。(「なるべく早く」を略して、俗(ぞく)に「なるはや」などと言います。たとえば会社で上司からの命令で、「なるはやで〇〇の件、報告、よろしく」みたいに命令される場合もあります。) 一言も「レベルが低い報告書」が悪いとは言っていません。ただ、レベルが低いものであることは知っておいてください。 「報告書」と言った場合、最低限、起きたことや気づいたことなどの全体像を短時間で読みやすく把握しやすくするために、たとえば、可能なら表やグラフなどを追加したり、あるいは箇条書きなどで冒頭に要点をまとめたりして、文章も使って、まとめたりしたものです。 統計レポートの場合なら、ひとまず情報の欠落なくまとめた上でなら、追加でさらに分析しやするために情報の欠落があっても追加の別グラフや別表などでまとめ方をするぶんには、構わないと思います。 一般に、表がなければグラフも無い文章だけのレポートより、表やグラフを追加したレポートのほうが、レベルの高いレポートです。ただし、作成に時間が掛かります。 さらに、分析を行って記述したり、分析のための追加調査とより深い分析を行ったりすると、もっとレベルの高いレポートになりますが、しかし分析のための調査や作成に時間が掛かってしまうというコストがあります。 あるいは、仕事の種類によっては提案などを行ったりすると、レベルの高いレポートになるかもしれません。 ただし、状況によっては、スピード重視のため、あえてレベルの低めのレポートにして提出したほうが良い場合もあるでしょう。グラフや表を追加したレベルのレポートで留める場合もあります。 社外の業界イベントの訪問の出張報告書とかなら、グラフや表は適さないので、そういう場合はグラフや表は不要です。 このように、報告書は、ジャンルによって、必要な書き方が変わります。 ほか、職場によっては、レポートの種類によっては、あらかじめ書式が決められている場合もあります。 たとえば、社外の業界イベントの訪問の報告書などなら、5W1H(いつ When ・どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どのように(How))などは、あらかじめ書式で、 みたいに箇条書きなどで書式(よく「テンプレート」と言います)が決められているかもしれません。また、もし書式で上記のような事が決められていなくても、一般にこのように冒頭などに箇条書きすることが望ましいです。 細かいテンプレートは、それぞれの会社ごとに違うので、このページでは説明しません。 ただし、出張報告書の場合でも、出張で得られた知見などを分析的に報告することが求められています。 もし、提出までの時間に余裕があるなら、必ずしも出張中に気づいたことだけを書く必要は無く、出張で得られた知見をもとに関連性と有用性の高そうな話題を追加調査して得られた情報とその知見を書いても構わないと思います。そのほうがレベルが高いレポートと見なされるでしょう。 ただし、追加調査すると時間が掛かるので、もし「なるべく早く」が要求されている場合なら、出張中に気づいた情報だけで提出するほうが良いかもしれません。 上記のように、テンプレートを定めておくことで、あらかじめレポートに必要なレベルを事前に設定している会社もあります。 さて、たとえば、いったんレベル低めのレポートを提出した上で、上司が把握したら、その上でレベルの上がった分析レポートを提出する、みたいな二段階のレポート提出の可能性もあるかもしれません。 ただし、会社ではなく学校(小中高および大学)では、こういった2段階のレポート提出の話は、あまり聞きません。先生が忙しく、そこまでの時間がありません。 学校だと、学生の分析力をトレーニングするための目的で、分析のあるレポートまで要求することも、高校や大学のレポートではあるかと思います。(特に大学の2~3年生では論文に向けてのトレーニングとして、簡易な分析が要求されることもある)。 企業のレポートにはある程度のスピードが要求されるので、決して最初からミスなしの完璧は目指さずに、とりあえず一通りの完成をしたら提出して、上司の修正の指示を受けて、レポートを修正していきます。 まず、報告書の題名には、たとえば『○○について 報告』または『○○の調査結果』などのように、その書類の種類が報告書であることが分かるように題名をつける必要があります。 単に『○○について』という題名だと、後日、その書類が感想文なのか報告書なのか何だったかのか、第三者がひとめ見たときに、分からなくなってしまいます。報告書を管理する人のことを思いやりましょう。 また、企業などでは、報告書を要求する上司は、報告書以外にも他の多くの書類を管理していることが多く、それら他書類との混同をふせぐため、題名で報告書であることを明記する必要があります。 また、報告対象について(『○○について 報告』の「○○」の部分)の明記も、忘れないようにしましょう。 会社では通常、多くの事例についての報告書が管理されています。なので、報告対象について題名で説明がないと、分からなくなってしまいます。 なお、書き手に余裕があれば、報告書の題名は、下記のように、より具体的にしましょう。たとえば、もし報告書の目的が、もし提案ならタイトルは「○○について 提案書」のようにするのが合理的です。 あるいは提案ではなく、調査報告が目的の報告書なら「○○について 調査結果報告」などのように、具体的に目的が分かるようにするのが良いでしょう。[5]。 資料集めなど調べることに夢中になって、教師が注意しないと、なかなか書き始めない生徒がときどきいるとのことです。特にネットがある現代、気を付けないと無制限に時間を調査でつぶしてしまうことになりがちです。 なので、さっさと書き始めるのがコツです。調査レポートだけでなく、大学や一部高校の卒業論文とかでも同様です[6]。 とりあえず書き始めて、トライ&エラー(試行錯誤)を何回も繰り返して[7]、たとえば出典を追加したりとか、論理構成を組み替えなおしたりとか、当初の「問い」を何度も直したりして、だんだんと文章の質を上げていくのが、調査レポートや論文の書き方です[8]。 具体的に書き始めるためには、本を読んでいるときなどに、さっさと のが有効です[9]。 生徒はまず、情報収集は、メモ程度で終わらせます。パソコンがあるなら、単語や箇条書きなどの雑なメモでもいいので、さっさと実際にテキストファイルにメモします[10]。文献でもネットでも、何かレポートに使えそうな情報を見つけたら、忘れないうちに、さっさと早めに単語・箇条書きなどでテキストファイルなどにその情報をメモします[11]。 早めにメモしないと忘れてしまい、読み直し・検索しなおしなど時間が余計に掛かるので、なるべく早めにメモしておくと安全です。 メモの段階では文章を整えず、文章を整えるのは、実際にレポートを書く段階で十分です。 そして、レポートに必要な量の最低限の情報収集をしたら、とりあえず、なるべく早めに、情報・資料がやや不揃い(ふぞろい)でも、さっさと書き始めると良いでしょう。 なぜなら、書かずに「たぶんこの情報が必要になるだろう」と思って情報収集するよりも、実際に書き始めてみてから実際に必要になった情報を集めるほうが的確に情報を集められるからです。 卒業論文を1年間の年度で書く場合、最初の1か月目あたりで最初の実験やデータ取りをしたら、とりあえず文体は後回しで良いので、なんか論文っぽい作文をパソコンで書く。 ソフトウェアは、普通のワープロソフトで良い。たとえば、Microsoft Word など。どの学校にもあるだろう。 いきなり文献を読むと、メモの単語の量が多くなりすぎる恐れがある。なので、実験をしたら先に、論文っぽい文章を書き、あとから文献を読んで単語を拾うメモをするのが良いかもしれない。 読者が知りたいのは、文献の内容よりも、実験の成果のほうである。なので、実験をしたら、先に、論文の下書きを書こう。 もちろん最終的な完成版とは大違いのデキになるが、しかしともかく論文の下書きを書き始める。 そして、文献を1~2冊読んで、下書きをアップデートする。これは最初の1か月くらいで可能であろう。(スケジュールにも寄る。) 決して、いつまでも下調べをし過ぎないように気を付けて、最低限の実験などを1回して参考文献を1~2冊読んだら(計算などで読みこなすのに年単位で時間が掛かる書籍の場合なら、結果の文章だけ読むのでも良い。つまり、参考文献を読むのに時間をかけ過ぎないように。参考文献はとりあえず数日で読むように)、卒業論文を書き始めるのがコツである。 最終版に向けて文体やレイアウトなどを整えるのは、できれば提出の締め切り(年明けの1~2月中旬とか)の1~2月か月前(つまり最終学年の12月~年明け1月)くらいに、いったん終わっていれば好都合である。 授業や部活(9月までとか)や就職活動や受験勉強(大学生でも大学院に進学する人もいる)や教育実習(大学で教員免許を取る場合)などがあるので、そんなに卒業論文ばかりに時間は掛けられない。そのため、参考文献を読むのにも時間を掛けられない。なので、あまり参考文献を読み込み過ぎないように注意する。 極論、ネットのある現代、あとから良い参考文献を入手した場合、自分のブログなどで追加版などを発表すれば済む。 文献はあまり増やし過ぎず、せいぜい部活終わりの9月くらいまでに読める量で良い。それ以降は、実験や論文執筆などを優先すること。 締め切りは、だいたい、卒業年度の年明けの1月。2月に卒論の学内での正式な口頭発表。3月は卒業式。 ・・・となるだろう。 逆算して、12月までに、ほぼ完成形の草稿(そうこう)が書き終わってないとマズイ。 論文のデキが悪くてもいいので、締め切りを守ることを優先する。 なぜなら、「当初のアイデアと当学校の設備で出来る実験では、あまり大した成果を出せなかった」というのも、立派な成果の一つである。この成果により、後輩や次世代の若者などが「別のアイデアを試してみよう」などと先に進んでいけるからである。外付けハードディスクでもUSBメモリでも構わないが、とにかく実験データや卒論ファイルなどのバックアップ用に保存メディアを2個以上は買え。 「卒論のデータの入ったUSBを無くした」「データを間違えて消した」「USBメモリが壊れた」などのミスをする学生が時々いるので、実験データなどは最低でも3か所以上に保管せよ。1か所にしか保存しないのは、リスク分散できてない、単なる馬鹿である。 さて、プレゼンテーション用のスライド作成(パワーポイントなど)は、年明けの1月あたりの後回しで良い。 12月版の草稿にそなえて、10月までに、いったん完成形に近い書式で、とりあえず草稿(10月版)を書きあげる。この10月版草稿を、12月までに何回かアップデートしていく。 最終学年の夏休みあたりに、中間発表をするのも良いだろう。研究室内でそういう中間発表をする大学・学部も多い。 なお、学校側からも、7月あたりまでに、学生は卒業論文の仮題目(要するに論文の題名・テーマ)を申請・提出させられる。 自分の論文の新規性は、既存の研究とはどう違うのかを説明するために、参考文献を使うのが本来の使い方。 ただし、論文の分野に不慣れな読者のために、新規性の説明以外にもジャンルの概要的な内容説明をするのも多少はあっても良いだろう(限度はあるが)。 なお、同じ学年の生徒に理解できるように書こうと思っても、無理である。なぜなら、自分が1年間かけて書く論文を、同学年の生徒は別のテーマで忙しいので理解できない。 自分と同じテーマに興味ある後輩が、実験などを追試できるように(そして検証できるように)論文を書けばいい。ここでいう「追試」とは、実験などを第三者が検証のために行うこと。(決して赤点の人の、再テストではない) いたずらに高度な数式や抽象概念などを使わなくてもいいので、まずは追試をできるように論文を書くのを目指そう。 あるいは、もし理論研究などで実験の存在しない場合なら、式変形などのプロセスなど、ともかく思考のプロセスを論文で文章化して明示することで、後輩がアイデアの追体験をできるようにしよう。 報告書じたいの著者名として、自分の名前を、題名のあとの冒頭、または書類の末尾など、見つけやすい場所に入れる必要があります。 なぜなら、企業など実社会での報告書は、けっして1回書いて提出すれば終わりではなく、通常、書き直しを何度かする必要があるからです。 通常、報告書を渡された相手である上司が報告書の内容をチェックして、内容に不足や誤字や明確な間違いなどがないことを確かめ、もし不足などがあれば著者が追記や書き直しなどを求められることがあります。 上司は、あなた以外の人の書く書類も管理するので、なので書類には著者名が必要です。 なお、企業の報告書や大学でのレポート・論文では、表紙だけで1ページを使用します[13]。企業などでの本格的なレポート・論文・報告書などの表紙には、そのレポート的な書類の管理のために必要な題名・著者名のほかに印刷による記載のほかに、印字などで管理部署などのハンコが押されたりして保管されたりするので、なので、表紙だけで1枚、必要です。 なので、本格レポートでは、本文の書き出しは(表紙から、ではなく)2枚目以降になります。(実際には、さらに目次などが加わるので、本文書き出しは3枚目以降になる可能性もある) しかし中学・高校では、ここまでしなくても(表紙だけで1枚にしなくても)良いでしょう。 報告書には、正確さが必要です」[14]。 このため、下記のように、報告書を書く際に、けっして、やってはいけない事があります。 レポートを書く際に、「やってはいけない」「やる必要はない」書き方の一覧は以下の通り。 上記の行為は、報告書ではしてはいけません。 その他、「してはいけない」というほどの禁止事項ではないが、不要なこととしては、 があります。 なお、報告書・レポートの文体には、次の点に気をつけてください。 報告書やレポートは簡潔であることがもとめられます。そのため、字数が無駄に増えやすい敬体は使わず、常体で文章を書いていくのが基本です。 また、報告書などに限りませんが、書き言葉を使うのが鉄則です。文章は普段使うような言葉で書きがちですが、書くものは書き言葉でなければなりません。以下に、まちがえがちな話し言葉と書き言葉の一例をあげていきます。 もちろん、会話を引用した場合には話し言葉でもかまいません。ただし、「」をつけて会話であることを示してください。 また、敬体を使わないこととも関連しますが、尊敬語や謙譲語も、基本的には、組織内部(社内や学内)での報告書では不要です。 たとえば誰かが何かを言ったことを報告する場合、単に「〇〇が言うには、」のように書けば、一般の企業の報告書では充分でしょう。 もし、いちいち「おっしゃった」とか「申した」とか報告書で書くと、読み手にとっても面倒です。 たとえ敬体を社内のメール連絡などで使う場合でも、せいぜい「〇〇さんが言うには、〜〜 と言ってます。」のように丁寧語で書けば普通の企業では充分でしょう。 ただし、外部とのやりとりをする文書などでは、必要に応じて、敬語などを用いたアイサツ文などの書類を添える必要があるでしょう。 報告書を読む人物は、あなた以外の他人です。だから報告書では、勤務先・在籍先などの会社・組織で一番その分野に詳しくない人でも知っている情報を前提にして、報告書を書いてください[15]。なので、場合によっては、世間の大人が知らないだろう専門知識や専門用語の使用が報告書で必要な場合には、報告書の内部で、その専門知識などの内容を1行〜2行程度で簡潔に紹介するなどの必要のある場合もあります。 当然です。物語文を書くのならともかく、報告書では嘘をついてはいけません。 起承転結とは、漢文での漢詩の絶句の書き方から生まれた文章の流れです[16]。起承転結は、報告書の書き方ではありません。 報告書を書く時は、とくに こだわり のないかぎり、結論から書くべきです。 参考までに、報告書の例ではないですが、商業高校の教科書『ビジネス基礎』には、章『話し方と聞き方』とで「結論から先に話す。」「わかりやすい言葉を使う。」「聞き取りやすい声の大きさと速さで、相手の反応を確かめながら話す。」とあります[17]。このように、ビジネスでは結論から話されるのを好みますので、とくに書式が指定されていないかぎりは、なるべく早めに結論や全体像などを相手に伝えるように心がけたほうが良い場合が多いと思われます。 商業高校の教科書『ビジネス・コミュニケーション』によると、ビジネス文書の場合では、「起承転結」の構成ではなく「結起承」(けっきしょう)の構成で書くことが望まれている場合も多い[18]と言われている。 さて、報告書の話題に戻ります。 一般に、ビジネス系の文書では、書式が特に規定されてないかぎりは、最初に結論・要約を書くのが、ビジネス系の報告書では普通[19]。 つまり、書式の指示が無い限り のような順序で、書くのが良いでしょう。 起承転結で書いてしまうとよくない最大の理由は、「転」の部分です[20][21]。冒頭の「起」で読者が予想したことが、「転」でどんでん返しで外れてしまうと、読者が読み返す必要が生じてしまいますし、読解にも時間が掛かります。 原稿用紙が何枚もある報告書を読みなおしたり読解したりする作業は、読者にとって、かなり労力が必要です。 なお、歌舞伎の用語で「序・破・急」(じょはきゅう)という用語がありますが、この「序・破・急」も起承転結と同様、報告書・レポート・論文などの書き方としては不適切です[22]。 そもそも書類の目的として、報告書の目的は、何かを調査するためだし、レポートや論文の目的は、なにかの課題・疑問の問いを見つけることです。 いっぽう、起承転結や序破急は、起承転結の目的は漢詩の比喩の効果を高めるためのものだし、序破急の目的は日本舞踊を美しくみせるためのものなので、レポートなどとは目的がズレています[23]。 どうしても論文・レポート・報告書などを文学などのジャンルに例えたいなら、小説や漢詩ではなく、さしずめ推理小説のようなものだろう[24]と言われており、まるで探偵が証拠にもとづき犯人を絞り込んでいくように、レポートなどでも調査結果の事実にもとづいて分析などを確固たるものにしていく必要があります。 さて、結論が書類の冒頭と最後の両方に書かれるようなスタイル(結論→理由→結論)の文章構成を「双括式」(そうかつしき)と言います。 「序論→本論→結論 」または「経緯→結論」のように、最後にだけ結論が来るスタイルは「尾括式」(びかつしき)と言います。 「結論→理由」の順序のように、最初に結論が来るスタイルは「頭括式」(とうかつしき)と言います。 文章による報告書の場合、双括式で書けば、読み手にとって読みやすくなる場合が多いので、読者は、とくにこだわりのないかぎり双括式で書きましょう。 なぜ双括式だと読み手がラクになりやすいかというと、もし読み手が2回目の結論のある場所を読んだ時、その2回目の結論の直前の文が、理由の説明の終わりだと分かるので、読み手にとって理由の文の位置を特定するのがラクになり、そのため読み手が理由を分析するのもラクになります[25]。 いっぽう頭括式だと、細かい分析が必要な報告書の場合には、理由を読み終えたあとに、いくつか前の文にもどって結論を確認する手間が生じるので、不便です。 あるいは尾括式だと、理由を読むときが暗中模索の状態になりやすく、報告書では、かなり面倒になりやすいのです。 なので、報告書では、双括式がいちばん便利なのです。 学生にとっては双括式という用語の暗記よりも、このスタイルを使いこなせるようになることのほうが重要です。 特に、1本の報告書のなかに、いくつかの小報告がある場合に、双括式が便利でしょう。なぜなら、1本の報告書の中のそれぞれの小報告をそれぞれ双括式で書くことにより、それぞれの小報告の範囲や境界が、読み手にとって明確になりますので、おすすめです。 ただし、調査対象が複雑だったり、相手の予備知識が不足している場合などは、結論より先に、必要に応じて予備知識などを手短かに冒頭の段落などで説明することもあります。[26] ただし、予備知識を書く場合は、なるべく短くするべきです。なぜなら、予備知識は、知りたいことの本質ではないからです。報告書を読む上司などが知りたいのは、問題点や、その問題の事実です。予備知識は、問題の起きてない部分なので、本質ではありません[27]。 ですが、たとえ背景を先に書く場合でも、けっして、わざわざ起承転結のストーリーを長々と書いて誤解を招く必要は無いでしょう。 また、明確な結論が無い場合でも、概要を先に書くのが望ましい[28]。 文学ではありませんので、なるべく管理しやすいように、あるいは今後の編集をしやすいように、形式的に書くべきです[29]。 そのため、章番号や項目番号などのナンバリングも必要なら報告書に付けます[30]。 報告書やレポートでは原則的に、レトリックなどの文学的表現は不要です[31]。 修辞法(レトリックともいいます)については文法で解説しているので、そちらを見てください。ここでは、どうして修辞法を使わないのかを説明します。 修辞法は文章の中で、表現に余韻を持たせたり、読者に考えさせたりするために使われます。しかし、報告文はなるべく正確に物事を読者に伝えることが目的の文章です[32]。文章の余韻や自分の感動、豊かな情景描写は報告する上で必要ではありません。あくまで、客観的な事実を簡潔かつ正確に伝えることが報告文の目的なのですから、読者に「この表現のセンスはいいね」「言葉の使い方が上手い」から言われることを目的としてはいけません。また、文法のページにもあるように、修辞法を使う文はイヤミでキザなイメージを与える可能性もあります。 また、読者に考えさせることで、解釈が分かれるような文章にするのも報告文の趣旨から外れます。事実を正確に伝えるという役割を果たさなくなるからです。 ただし、様子を伝えるのに「~のようだ(ような)」は使ってもいいでしょう。たとえば、「ネコのような大きさの動物」といった表現は、その動物の様子を正確に伝えるという役割を果たしています。この場合でも、あまり知られていないようなたとえを使ったり、独特のたとえは要りません。あくまで、誰でもイメージできる・分かるものでなければなりません。つまり、比喩を使う場合は、直喩(ちょくゆ)でたとえる必要があります。 隠喩(いんゆ)は、読み手に読解の負担を与えるので、避けてください。隠喩とは、たとえば、ネコのような大きさのネコ以外の動物(たとえばウサギなど)に対して、「ウサギはネコだ。」とかいうように、「ような」「ようだ」を省略する表現です。 「これから私は○○しようと思いました」などと今後の抱負やら予定が、文末などに書かれる場合がありますが、出題者から抱負の記述を要求されてないかぎり抱負は不要です。 中学校・高校によっては、教育的な理由から(「生徒に自分の意見を書く練習をさせたい」など)、報告書で今後の抱負を書かせる場合もありますが、本来は報告書では、抱負の記述は不要です。なぜなら抱負は、事実でもなければ、分析でもないからです。 それでも、どうしても抱負のような今後の目標を報告書に書く場合、段落を分けたほうが良いでしょう。つまり、抱負のための段落を、新たに用意します。報告書を受け取った人物が、第三者に報告書の内容を紹介する際、抱負が不要な場合には、抱負の段落を省いて紹介する事ができます。逆に第三者に抱負の内容を紹介したい場合でも、抱負の内容だけを抜粋する事もできます。 大学生の実験レポートなどでも、「今後の目標」は、行った実験データ部分の段落とは、段落が別々に分けられるのが通常でしょう。 まだ調べてないことについて、1日で調べられるような事なのに「もっと調べたいと思いました」程度の抱負・予定なら、書く必要はありません。むしろ、その程度の予定なら、書かないほうがマシかもしれません。 それとも、もし未調査のことがあって、それを調べるには数カ月や数年も掛かりそうなら、「○○を調べたいと思いました」と言うよりも、はっきりと「○○は未調査であり、今後の研究には、さらなる年月が調査に必要だろう」などと書くべきです。 たいていの場合、文献などでの調査中に、あなたの知らなかった新事実が判明するので、調査項目について全てを調べきるのは不可能ですし、調べきる必要もありません。 したがって、報告書では、例外として学校側から「○○について、文献△△で、すべてを調べろ」などと指定してないかぎり、項目すべてを調べきる必要がありません。提出期限までに調べられることを調べて、調べ終わらないことについては、未調査として扱えばいいだけです。 あまりにも未調査の項目が多すぎると、書き直しを命じられますが、中学生として、きちんと文献を調べているなら問題はありません。 だいたい、「○○を調べたい」と言われても、読者からすれば、「そんなに○○を調べたいなら、どうぞご自由に、実行すればいいんじゃないですかね?」って思うだけです。 中学生・高校生が1日か2日で調べられることに、世間一般の大人は、興味がありません。 大学の卒業研究みたいに数カ月も掛かったり、あるいは調査費用が高かったりするならばともかく、1日程度の調査で終わるだろう予定を紹介されても、大人の読者は「あ、そう。じゃあ、調べれば?」と思うだけです。 報告書で聞かれているのは、調査対象についての調査したデータとか、そのデータの分析です。あなたの今後の予定は聞いてないのです。 世間一般の大人は、あなたに興味は無いのです。 よほど面白いアイデアが思いついて、そのアイデアをアピールしたいならともかく、そうでないなら、今後の抱負は不要です。 報告書では、出題者から感想を指定されてない限り、感想を書く必要はありません。 それでも、もし、報告書で感想を書く必要のある場合は、手短かに要点を書きましょう。 感想も原則的に不要です。 なぜなら報告書の本質は、報告されたデータとか、そのデータに対する分析や調査結果です。あなたの感想には興味ないのです。 報告書の本質でない「感想」を、長々と説明されても、読者は困ります。 もし報告書で感想を書くにしても、なるべく、分析にも役立ちそうな感想を優先的に書くべきです。たとえば分析中に気になった事や、調査中に気になった事などがあれば、その気になった点とやらを書くのが良いでしょう。 気になった点を書くことは「感想」というよりも、今後の調査についての「意見」などに近いかもしれませんが、あまり細かいことは気にする必要はありません。 大人が書くレポートでも、最後に「感想」を書く場合は、実質的には、今後の調査についての「意見」を書いている場合が多いでしょう。 企業で必要な「感想」(自称)の具体例を挙げます こういうのが、企業の報告書とかでの「感想」です。 つまり、予想外の現象に遭遇したり、設備不足・人員不足などの理由で、きちんと検証しきれていない現象があるので、あくまで推測にすぎず「思われる」とか「見える」とかで語尾を濁さざるを得ないが、しかし、報告の必要がありそうな重要そうな現象を発見したかもしれないときに、「感想」とかの項目を追加して、マトメて報告するテクニックを使う場合もあります。 はたして、企業のこういう想定外マトメの報告を「感想」と言うのが国語的に正当なのかという疑問はありますが、しかし、企業では、これが報告書の「感想」の実情です。文句を言うなら、経団連とかに文句を言ってください。 残念ながら、大学とかでレポートの書き方を教えている大学教授とかは、こういう実情を知らないので、あいかわらず読書感想文の感想みたいな感想をレポートなどで要求しますが、しかし企業の「感想」は意味が違います。 なお、たとえ想定外の特記事項の無い場合であっても、もし「感想」欄があるなら、下記のように、特記事項の無いことと、その根拠となる観察結果の印象などを書くと、読み手が検証しやすいので、便利です。 こう書くと、特記事項の無いと判断した根拠も読み手が分かるので、読み手はいちいち書き手の意図を確認する手間が減ります。 「感想」というより、「特記事項」や「追記事項」とでも言うべき項目のような気もしますが、しかし日本企業には、こういう言葉の使い方をしている企業もあるので、まあ必要に応じて、使い分けてください。 なお、「所感」または「所見」という場合もあります」[33]。「考察」と言う場合もあります[34]。 また、企業によって、特記事項的なことを「感想」という場合もあり、いっぽうで、読書感想文みたいな感想のほうは「所感」という企業もあれば、その逆の企業もあります、 つまり、特記事項的なことを「所感」といい、読書感想文的な感想のほうを「感想」という企業もあります。 企業によって用語の使い方がバラバラなので、読者は将来、就職先の用語に合わせてください。 それでも、どうしても報告書に、読書感想文みたいな感想を書くのだとしたら、 抱負と感想に要求される内容が似ているため、もし感想を書くなら、抱負とまとめても良いかもしれません。 しかし、単に「報告書を書いて、勉強になった」「ためになった」「もっと勉強しようと思いました」などの感想なら、わざわざ書くほどの必要がありません。 小学校・中学校での、人生で初めてかもしれない報告書の体験なら、感想を書くことにも教育的な意義があるかもしれません。しかし、大人の社会の報告書では、単純な「勉強になった」などの感想は不要です。 なお、さきほど(今後の調査についての)「意見」と言いましたが、日常語でいう「意見」とは意味が違い、報告書や論説文でいう「意見」とは根拠のある提案などのことです。もしくは、根拠をもとに、なにかを証明することです。どちらにせよ、根拠をともないます。 けっして、なんの根拠もない「〇〇すべきである。」(あるいは「〇〇するのが合理的だろう。」など)というだけの単独の文は、報告書でいう「意見」ではないのです。 「意見」とは、それにさらに論拠を加えたものです。 つまり のような文章構成のことが、報告書でいう「意見」のことです。 このように、意見を提案する場合には、先に意見を書き、直後に理由を書くのがマナーです。[35]。なぜならビジネス文書では、先に結論を書くのがマナーだからです。 あるいは他の文例構成としては、報告書によっては提案の直前の文で論拠を説明している場合もよくあるので、 のように書かれる場合もあるかもしれません。 ともかく、「提案」と「根拠」がセットでないと、報告書では「意見」として役立ちません。 意見を書く際には、提案のすぐ近くに、根拠を書く必要があります。 ただし、意見や提案は、報告書のメインではないです。 報告書は、あくまで、実際に起きたことを報告するのが本来の役割です。 どうしても意見や提案の書類が必要な場合は、なるべく別の段落または別の書類にまとめましょう。ただし企業の場合、意見や提案などは、書類ではなく口頭で済ます場合も多く、意見や提案の書類が造られない場合もあります。(提案や意見は却下される場合も多く、却下される事項の書類をいちいち作成するのは、企業では手間なので。) それでも、もし意見や提案などの書類を作る場合なら、報告書のほうに「別紙にて意見/提案あります」のようなコメントで紹介するぶんには、構わないでしょう。 冒頭などで紹介するための結論(または要点)をまとめる場合は、まず下書きが必要です。 あらかじめ別の用紙に下書きして、思うことがあれば、どんどん書き出していくのが良いです。その際、パソコンのワープロソフトなどを用いて、下書きしてもよいでしょう。パソコンを用いると、今後の構成の編集でも楽をできます。 いったん紙やパソコンで書いてみると、意外と、書きたいことがどんどん思いつくものです。 文章を十行くらい書き出したら、そこでいったん、書いた内容の順序を入れ替えて、結論から文章が始まるという構成にします。パソコンがあると、この文章の順序を入れ替える作業が、コピーペーストのボタンだけで終わるので、とても便利です。 この結論から書き直した文章を核にして、文章を書いていくと、良いでしょう。 報告書では理想的には、調査や分析などが充分であるのが理想的ですが、しかし、時間や費用などの問題で、不十分な調査で終わってしまう場合もあります。 その場合、要点を冒頭に書こうにも、何が要点なのかすら不明なので、「結末・要点から書く」という手法では書きようが無いという状況になります。 このように、調査が不十分で要点を書けない場合の対応策として、仮説を報告書内の適切な場所に書くのが良いでしょう。 調べている最中で集めたデータなどをもとに、自分はどんなことを予想したか、そういったことを書くと良いでしょう。 もちろん、あくまで仮説なので、「仮説であるが、〇〇かもしれない、と思っている。」などと、仮説であることが読み手に伝わるように記述しておく必要があります。このように、仮説と事実とは、報告書では区別を明確にできるようにすべきです。 また、もちろんその仮説の前提となるデータも、可能なかぎり、報告書に記述しましょう。 報告書で、過去に実際に起きた出来事(できごと)を報告するとき、報告の順序では、かならずしも過去から順に報告する必要は無いです。 なぜなら、もし過去の出来事が多い場合、読者がいちばん知る必要のある現在のできごとに到達するまでに、時間がかなり掛かってしまいます。 なので、報告する出来事が多くなりそうな場合、まず最初に、現在起きていることを報告してしまいましょう。 そのあと、過去から順に現在まで報告するのです。 つまり、たとえば例文は のような説明順になります。 つまり のような文章構成になります。 また、このような説明の副次的なメリット(利点 のこと)として、いちばん重要である現在の情報の読み落しする可能性がなくなるのと、論理のつながりが明確になるので安全です。 上述のように最後にまた現在の話を書くこと、数学の定理の証明の文章のように、最後に提起された話題が再び来るので、論理構造が明確になります。 報告書というよりかは説明文の書き方の話なのですが、何かを説明するときは(※ 例外として、厳密な証明でない限りは)少しくらいの重複があっても論理のつながりを明確にすることを優先するのが、国際標準での論文や企業などでの報告書のスタイルです[36][37]。言葉足らずになって論理が伝わらないよりも、少しくらいの説明の重複があってもいいので相手が確実に理解できるように説明することが、国際的にも求められていますし、文科系だけでなく科学技術の学会などの世界でも求められています。[38]。1981年発売『理科系の作文技術』(木下是雄 著、中公新書)から、2011年の福島原発の事故調査委員会で委員長を勤めた工学者の畑村洋一郎が編集している機械設計論の本にも、そう書いてあり、時代を超えて通用する考え方です。 また、重複してでもいいので、なるべく、読み返しなどをしないで済むようにして、書類中での論理の流れを止めないようにする必要があります[39][40]。 「パラグラフ ライティング」と言った場合、決して単に段落の冒頭に結論を書くだけでなく(それは出来て当然ですが)、さらに上述のように、言葉足らずにならないように、重複が少しあっても良いので説明内容の論理展開のつながりを明確にする文章構造も求められている事に注意してください。ビジネスマン向けのパラグラフライティングの入門書で、講談社ブルーバックス『論理が伝わる 世界標準の「書く技術」』でも、そうすべきだと主張されています。[41]。 一般に説明やレポートと言うのは、読み手の時間節約のため説明の一部を抜粋しても内容が把握できるように書くことがビジネス現場で求められるので、ところどころ説明に重複があるのです。 また、派生的な効果ですが、抜粋しても分かるように説明することで、仮にどこか不明な説明不足な個所があっても、その説明不足ミスが全体に波及することを食い止めることができます[42]。 たとえば大型客船や軍艦の設計など、大型の船舶の設計では、仮に座礁(ざしょう)やら敵軍からの砲弾の被弾などのせいで自分らの船に穴が一か所あいても、沈没しないように、船舶の内部をいくつかの開閉式の隔壁(かくへき)で区切ったブロックに分けて、浸水がブロック内にとどまるように設計します。 文章の設計でも同様に、もし何か説明不足があっても、ミスがブロック内にとどまるようにするための隔壁として、それぞれの章や段落ごとのブロック内にミスの影響を留められるよう、他の章や段落で説明したことでも多少の重複をして説明しましょう。 また、上述の参考文献の種類から、科学技術の世界の作業現場や開発現場でも、学会などの学術の世界でも、行政の世界でも(事故調査委員会は行政です)、ビジネスの世界でも、基本的には言葉足らずよりも重複してでも確実に伝えるほうがマシです。 戦前の電報の時代ではないので(「サクラサク」とかああいうのが電報)、特別な理由がないのに字数を減らしても無意味です。 レポートや論文だけでなく、政治家の演説でも同様に教育指導されます。講談社ブルーバックスの『「分かりやすい話し方」の技術―言いたいことを相手に確実に伝える15の方法』に、そう書いてあります(著者が元・議員秘書で、自由民主党議員の秘書です)。[43] ただし例外もあります。ソフトウェアのプログラムや、機械製造などの図面などといった詳細な設計をする分野では、重複のせいで指示ミスなどのさいの修正の手間が増やすので(たとえば、ある指示にミスが含まれていて、そのミスを含んだ指示を5回重複してしまうと、修正量が5倍になってしまう)、このような設計設計の分野では例外的に重複を避ける必要もあります。 文科系の評論家や文科系の大学教授などの学者のなかには、詩歌などを例にして重複を極端におそれる人もいますが、しかし報告書はけっして娯楽ポエムでもなければ、娯楽ソングの歌詞でもないので、少しくらいの言説の重複を避ける必要はありません。 もし大学教授あたりが何か知ったかぶりで何かの文献を権威にして文句を言ってきたら、上述の自民党議員秘書の講談社ブルーバックス文庫の書籍と、福島原発事故調査委員会委員長を勤めた畑村の書籍を論拠にして、反証しましょう。 「歌を歌う」とか「違和感を感じる」というような表現を『重言』(じゅうげん、じゅうごん)と言います。(※ ワープロソフトで漢字変換する際は「じゅうげん」で出す。「じゅうごん」だと変換できないソフトもある。) 国語教育では、いくつかの重言は不正解として扱われます。たとえば国語教師むけの教育書『変わる!高校国語の新しい理論と実践』(大修館書店)を読むと、「違和感を感じる」という表現を問題視しています[44]。 しかし、講談社ブルーバックスの倉島保美 著『論理が伝わる 世界標準の「書く技術」』などで重言を不正解とする国語教育者が反論されているように、日本国民の総意としては合意が取れていませんし、世間にも重言が普及しているのが実態です(普及しているのが実態だからこそ教育書でも取り上げざるを得ない)。受け身の「ら」抜き言葉などと同様、普及しているのが実態です。 報告書の書き方とは直接の関係はありませんが、当wikiでは他にツッコめそうな単元のページが無いので、この単元を間借り(まがり)して、少しツッコんでおきます。 なお、中学高校の検定教科書では、重言については特に触れられておらず、したがって文法違反とも正当とも、どちらとも言われていません。『変わる!高校国語の新しい理論と実践』(大修館書店)の執筆者の一人に文科省の官僚の一人もいるので、もしかしたら検定官は重言を文法違反だと思っているのかもしれませんが、しかし文科省からは省庁の声明などは出せていません。 ハッキリ言うと、パラグラフライティングの教育を国語ではなく(高校の)英語教科書で行われているのですが、この英語教育で文章の書き方を教える例のように、日本の大学などの国語学者はもう、日本の理科系の知識人からは国語教育者として相手されてません。しかし、人気商売のビジネスマンとかは国語学者を参考にしているかもしれません。 なお、講談社ブルーバックスの著者の倉島保美は、民間や私企業だけでそういってるのではなく、大学などの公演などにも招かれてパラグラフライティングなどを教育指導している人です(たとえば東京都立大学の公演 2023.10.13「著者 倉島先生から教わる論理的な文章を書くための『パラグラフライティング講座』」開催について に招かれている人であり、リンク先に「対象者 本学教職員、博士後期課程学生、博士後期課程への進学を検討する博士前期課程学生」とあります)。手元に本が無いので大学名を忘れましたが、そのほかの大学の理系学部でも授業の講師をしていたはずです。 このように、ある大学の教育者が言っていることだからと言って、別に普遍の真実でも何でもなく、決して大学業界の多数での合意があるわけでもなく、業界や共同体の種類によって正解は変わるという事です。 文章というのは、客層によって文体などを変える必要があります。もっと言うと、報告書のような、ある程度の知的な文章を書く際は、あまりにも広すぎる客層は、避けたほうが安全です。 報告書と言うのは、仕事などに関して実際に起きている事を会社に報告するのが目的の書類ですので、決して暇つぶしなどに小説を読んでいる人は客層ではありません。だからこそ、パラグラフライティングを紹介している倉島などは、国文学者の文学でしか通用しない国語教育を批判しているわけです。 サラリーマンがフルタイムで1日8時間ほど働いた場合、最低でも月給で15万円以上は、もらえます。報告書とは、月15万円以上を毎月欠かさずに払ってくれる会社のために書く書類であり、仕事に関する出来事とその分析などを報告するために書くものです。決して、せいぜい月に3000円ていどしか払ってくれなくて払わない月もあるような暇つぶしの小説読者なんかのために書くものではありません。 本来なら、きちんと みたいに指導してほしいものですが、困ったことに大学教師などでも、自分の業界の書き方だけを唯一正解のどこでも通用する書き方として指導する、ちょっと頭の悪い大学教師もいて、まったく淘汰されません。困ったものです。 だいたい、「違和感を感じる」という表現がダメだとして、ではどの表現が正解なのか、大修館書店の教育書は言いません。じゃあ「違和感がある」とか「違和を感じる」とかが正解なのか。 ハッキリ言って、「違和を感じる」なんて言い回し、世間では使われていません。 サイト 矢野 幸那 著『「違和感を感じる」という使い方は正しい? 間違い? 言い換え表現を紹介 』掲載日 2023/04/17 20:01 によると、「違和感を覚える」「違和感を抱く」などの言いかえを提唱しています。 しかし、そのほかの感情、たとえば「喜び」、「怒り」、「哀しみ・哀しみ」、「楽しみ」など喜怒哀楽(きどあいらく)について、 「喜びを感じる」は特に重複していませんし、「怒りを感じる」も特に重複していませんし、この流儀だと「違和感」だけ使い方が違ってしまい、不便です。 「快感を感じる」とかもダメなのか? じゃあ「快楽を感じる」はどうなのか? 「快感と快楽とで併用する動詞を変えるのは不便すぎないか?」とか、もしこう突っ込まれたら、どう反論するのか。 「快感を抱く」なんて言うか? 「快感を覚える」と言い換えると、少し意味合いが変わってしまう(「初めての快感」みたいな意味に受け取られる)。 あるいは「優越感」や「劣等感」は? さーて、どうする!?  ほーら、難しくなってきたー! ・・・・と、まあ、このように、日本語の文法と言うのは、とても難しく、実際には慣用などによって成り立っています。 あまりに慣用、慣例などが多すぎるので、日本在住の外国人にとっての日本語学習の負担にもなっているので、外国人との付き合い方にも影響を与えており、国際化の現代としては、言語文化の維持と国際化との両立とで、いろいろと悩みを抱えている日本人すらもいるくらいです。日本経済は貿易に成り立っている、という事も忘れるわけにはいきません。 さて、 矢野 幸那 著『「違和感を感じる」という使い方は正しい? 間違い? 言い換え表現を紹介 』掲載日 2023/04/17 20:01 では。 重言(二重表現)でも普通に使われる言葉も 同じ重言の中でも、一般的に許容されている表現もあります。例えば「犯罪を犯す」「被害を被る」などは、テレビや雑誌でも普通に使われている重言です。一方、「頭痛が痛い」「本を読書する」などは控えた方がいい重言とされています。判断が難しいですが、言い換え表現が存在するのであれば、そちらを使うのが無難です。 とあります。ご参考に。 「判断が難しいですが」とか「無難」と言われているように、現代語の文法的には正解とか間違いとかは、決められていません。もし決めている自称・国語学者がいたら、少なくとも現代語の学者としては確実にインチキ学者ですので、淘汰すべきです。 じっさい、明治時代から既に重言は存在しており、webサイトでは 「違和感を感じる」は誤用?正しい日本語の使い方 が紹介しています。 さらに綿谷は明治25年に出刊された『道楽全書之内』の巻頭に掲載された番付【重言競】を以下のように翻刻し、「すべて当時の実用語中から、“重言”といい得る用法の言葉を取り上げたもので、案外その語数の多いのに驚かされる」とも述べています。 番付【重言競】 行司:月夜の晩、見てごらん、明朝早朝 勤進元:学問を学ぶ、五戒の戒め 《東》 大関:後で後悔 関脇:何月の月 小結:旧暦の暦 前頭:1.一時間の間、2.珍物もの、3.夫婦二人、4.一所の所、5.五色の色、6.人は上人、7.面長な面(かお)、8.五桐ぎり、9.急ぐ急用、10.半紙の紙、11.白髪の髪、12.御神酒の酒、13.迷子の子、14.入札を入る、15.古いむかし、16.鉄道の道、17.遠い遠国、18.干物もの、19.上へ上る、20.山家の家 《西》 大関:理解の解 関脇:何日(いつか)の日 小結:何歳の年 前頭:1.一言の言葉、2.上品な品、3.幾人の人、4.別れて別々、5.金絲の絲、6.偏人な人、7.いゝ別嬪、8.紅葉の紅葉(こうよう)、9.廻文を廻す、10.木の葉ッぱ、11.船の船頭、12.燈明の明り、13.実子の子、14.落札が落る、15.今の当世風、16.馬車の車、17.近い近所、18.唐物もの、19.下へ下る、20.寺の寺内 (※「前頭」の1.~20.は、東西の対をわかりやすくするための便宜上ナンバリング) 「後で後悔」とか「月夜の晩」とか「学問を学ぶ」とか、21世紀でもよく聞きます。「見てごらん」は子どもに話かけるような表現であまり使われなくなっているかもしれませんが、特に文法的には問題視されていないのが現状です。(「ごらん」は「御覧」なので閲覧(えつらん)・観覧(かんらん)のような意味があり、「見る」とほぼ同じ意味) サイト冒頭で、「重言」(じゅうげん、じゅうごん)のことばの意味を紹介しており、 「違和感を感じる」「馬から落馬する」「後で後悔する」「被害を被る」「犯罪を犯す」「頭痛が痛い」「必ず必要」「返事を返す」…。これらの表現にあなたは「違和感を感じる」でしょうか? 上記のような「同じ意味の語を重ねた言い方」は、「重言(じゅうごん/じゅうげん)」と呼ばれています。 と、あります。 このサイト著者は 一方、「我々」「泣き泣き」「またまた」「はやばや」「知らず知らず」などの、同じ単語または語根を重ねて一語とした複合語である「畳語(じょうご)」や、「歌を歌う」「舞を舞う」などの「同族目的語」は避ける必要はありません。 と言うが、このサイト著者は「違和感を感じる」を問題視していますが、だったら「違和感を感じる」は同族目的語だと言えば反論できてしまいます。つまり、「『違和感を感じる』が同族目的語ではない」という事をサイトは証明できていません。 「違和感」と「感じる」で「感」という漢字を2回使っているから同族目的語ではないというなら、「歌を歌う」も「後で後悔」もダメです。ろくに論理的に反論できていません。 要するに、単に文句を言う人が多ければ濫用を控えるべきだとして、文句を言う人が少なかったり偉い文学者とかが使っていれば問題視しない、という、非常にろくでもない理由で決まっているだけです。 小説家や詩人といった作家のような人気商売なら、それでもいいでしょう。なので文学部とかで文革作家志望のコースとかでそうするのも(重言を控えるのも)アリかもしれません。ですが、義務教育でそれを無批判に「正解」とされては困ります。「重言を問題視する人もいるので、文学部進学者もいる中学高校教育の場では重言を仕方なく控えてもらう。」というのなら分かりますが、それは公教育の都合でしかありません。 なぜなら、別に義務教育の国語教育は、作家志望者のコースではありません。義務教育の国語は、決して部活の文芸部の練習場ではありません。 そもそも、そういう文学寄りの国語教育が現実の大人社会で使う日本語とズレているのが2010年代に問題視されたからこそ、2022年の教育指導要領の改訂で、国語教育が大幅に改定されて、契約書の読み方だとか法律文の読み方を高校教育でもっと時間を掛けて教える事になったのです。(要するに、日本の大学の文学部の国文学科(こくぶんがっか)の国語学者が、少し文科省からは信用されていません。大学入試の国語の入試問題を作っている国語学者そのものが、文科省からは少し信用されていない、という意味です。) なので、講談社ブルーバックスの著者の人たちのような理系の人たちも、そういう非論理的な日本の文系の業界の人たちを信用していません。パラグラフライティングの教育も、日本では国語学者たちはロクに紹介してこなかったので、理系の人たちが主導して(文学部ではなく理学部・工学部などの)理系の大学学部で教育してきたという歴史的経緯すらあるくらいです。 国語学者の浅知恵の教育ではなく、正しい国語教育をするなら という事を基本的に教える必要があります。それゆえ、 という方針になるでしょう。 たとえば「ら」抜き言葉を不正解として問題視する勢力がある一方、「受け身」と「可能」の区別といった文意が明確になるとして活用する人もいます。たとえば「ら」抜き言葉の活用派の意見で、 「やれる」なら可能、「やられる」なら受け身、 といった使い分けができるとして「ら」抜き言葉を積極活用する人もいます。いっぽう、明治時代あたりに制定された文部省あたりの文法だと「やられる」でも可能の意味としても使えることになります。 もっと言うと、明治時代や昭和の敗戦などのあとの国語改革で文部省などの制定した文法と、実際に世間や小説やビジネスなどの場で使われている日本語とは、もう明治時代あたりから既に異なっています。 だから業界や地方などによって、通用している日本語が違います。 たとえば「私」の読みの「わたし」と「わたくし」の意味の違いすら、地域や年代によって違います。 逆に、 このように業界が異なれば、好ましいとされる表現も食い違っているくらい、実際の日本語の運用は業界などによってバラバラなのです。 だから、21世紀の現代の文部科学省では、現代語の国語教育としては小学校で習うような最低限の規則だけを定めて、あとはそれぞれの業界の慣例に任せており、決して文科省は深入りしていません。 日本では業界などによって、好ましいとされる表現の細部が変わるのが実態ですので、そういう業界差を教えないで「正解」と「不正解」の表現を決める人からは離れたほうが良いでしょう。例外的に、明らかな文法ミス、たとえば「私は have a ペンで~す」とか「ペンは、わたーしを、もってるでーす」みたいなカタコト外人みたいな表現を除けば、まず明確な正解・不正解が日本語にはないのが実態です。 日本語では、統一的な正解表現というのは、ありません。 明治や昭和の文部省(現在は文部科学省)などの定めた国文法や国語教育は、とりあえずの共通語のための文法に過ぎません。実際は、文部省の定めた文法ですら、方言の一種です。 まとめを箇条書きするなら、 という事を教えることと とでも、なるでしょうか。 ときどき、企業の管理職や、または大学教員などでも多少の重複した説明を不正解とする人もいますが、講談社ブルーバックスの著者の政治家秘書や設計技術者などの書籍の知見や「同族目的語」の概念から、重複を不正解とする人は大した仕事をしてない人だという事が、分かります。そういう出来の悪い管理職のいる会社からは、ひそかに転職活動を開始するなどして、そっと離れましょう。 設計などのアイデア出しの際、いちいち言い換え表現とか考えるのが時間の無駄なので、同族目的語のように許容するのが実態です。だから元・設計技術者の倉島(NECで集積回路LSIの設計をしてた人です)は、重言を問題視してないわけです。 重言をやみくもに不正解とする人は、設計といった上流工程の仕事をしてない人(ここでは「上流」と言っても決して「身分が高い」という意味ではなく「最初のほうの工程」と言う意味です)、たとえば人格的に問題があって、そういう上流の仕事を任せてもらえない人なので、転職などをして離れる必要があります。 社会では、文句ばかりを言う層は、そもそも客層から排除されます。たとえばイスラム教徒は戒律(かいりつ)がきびしく文句を色々とつけてくるので、日本の創作物などでは、そもそもイスラム教徒を出さなくなり、最初から作品内にイアスラム教徒などは基本的に「居ない」ものとして扱われている傾向すらあります。もっとも、イスラム教徒も別に日本などとの商売のために宗教をしているわけではないので、それでも気にしていませんが。 東アジア系などの在日外国人なども同様で、最初から居ないものとして扱っている作品も多くあります。 企業の中には、金払いが悪いくせに口うるさい消費者を嫌って、そもそも一般消費者に向けては商品を販売していない企業すらも存在するくらいであり、そのような企業群をまとめて「B to B 」企業(ビー・トゥー・ビーきぎょう)と言います。Business to Business の略です。いっぽう、一般消費者向けの企業のことは「B to C 企業」と言い、to Consumer (消費者向け)の意味です。 消費しかしたことのない子どもには分からないのかもしれませんが、大衆むけ・消費者むけの商売というのは、今や、嫌々(いやいや)にやらされる仕事なのです。 株主などの外部向けの報告書や、一般消費者むけの報告書は、いやいや書かされるものです。株主に関しては、実際に数百万円以上を出資してくれたり、株式総会の会場に足を運んでくれるので、最低限の礼儀として、一応は義務教育教育レベルの敬語で書類を書いて、真摯に対応します。 音楽ミュージシャンなんか芸能人の一部も既にそうなっており、たとえば音楽CDなどを出してもケチくらい消費者に文句しか言われないし違法コピーも広まりやすいから、いまやライブイベント中心のミュージシャンすらもいるくらいです。実際にライブ会場という現地に実際に足を運んでくれる人だけを相手する、という商売です。万が一、ライブイベントが違法に録画されても、誰が録画したかを追跡しやすい(なので訴訟(そしょう)しやすい)、という利点もあります。おそらく、落語家や噺家(はなしか)なども同様の傾向でしょう。 いまや、宣伝のために仕方なく、最低限のCDやDVDや書籍を販売する、といった構造になっている業界すらも、あるくらいなのです。 さて、(外部向けではなく)社内向けの報告書で、いちいち「拝啓」だの「敬具」だの書いてたら、上司に馬鹿にされます。「そんなことに気を使ってるくらいなら、さっさと、起きたことだけを書いて、報告書を提出しろ」みたいに上司に指導されるのがオチです。 社外向けの書類だけ、仕方なく、無礼のないように最低限の礼儀として「拝啓」だの「~でございます」だのみたいな丁寧な表現を使うだけです。 企業社会での敬語と言うのは、中学校や高校の教科書や参考書にあるような敬語で十分です。 なお、敬語の使い方について、少しくらい丁寧すぎるぶんには、企業では問題ありません。 たとえば「~させていただきます事になります。」みたいな表現を敬語の使いすぎの表現みたいに批判する評論家もいますが、しかし小売業界では特に問題視はされていません。 あるいは、文章だと字数を短くするために「~します。」となって、口頭だと「~させていただきます」になったりと、文章と口頭とで言い回しが違うことすら、あります。 スーパーやデパートなど小売業界のレジ打ちの人の言葉遣いを「丁寧すぎる」と問題視する評論家もいますが、小売業界からは全く相手されていません。 学校の作文では、あまり、それぞれの段落にタイトルをつける事はないですが、しかし、企業などでのレポートは違います。 あなたが今このページで読んでいる文章にも各章にタイトルがあるように、レポートにも章ごとにタイトルがあると、管理しやすくなります。 また、そのタイトルのつけかたは、その章の調査対象などを簡潔に示すタイトルにしてください。 たとえば、日本の歴史についてのレポートで、ある章では日本の江戸時代の食文化について調査した結果を主に紹介しているなら、その章のタイトルは単に「江戸時代の食文化について」のような簡潔なタイトルで充分です。 けっして、世間の各種の広告のキャッチコピーなどのように、一見すると矛盾するようなタイトルをつけないでください。 たとえば、江戸時代の食文化のレポートなのに、人目を引こうと思って「江戸の寿司は未来だ!」(× ダメな例)とかの矛盾したタイトルをつけると、レポートの管理者(上司など)に読解作業の負担が掛かります。 なお、感想などの段落も、タイトルをつけるべきです。感想の欄のタイトルは「感想」で充分でしょう。 たとえば社会科の地理などのレポートで、特定の国の文化についてレポートを書く場合には、文献調査が必要でしょう。 たとえ、理科実験など実技関係のレポートでも、参考書も用意しておいて、必要に応じて、関連箇所を目次で探して読むと、良いでしょう。 (ただし、その科目の参考書が市販されてれば、の場合ですが) 参考書を読む必要が無いなら、参考書を読む必要はありません。調査時間も限られているだろうし、参考書のすべてを読む必要はありません。参考書については、目次で関連の深そうなテーマを1つか2つか探して、数ページでも読めば充分です。 それでも分からないことがあれば、そこで初めて、図書館を利用したり、インターネットを利用したりすればよいのです。 参考書を読めば分かるようなことを調べるのに、わざわざ図書館に行くのは、時間が大変に掛かります。それに夜中などは図書館が閉まっています。 中学の参考書だけでなく、高校の参考書・資料集も、文献調査の際に買っておくと、図書館で文献を探す時間を節約できて便利です。 内容の羅列をするなら、その文献を紹介すれば良いのです。そもそも内容の羅列は、学校側の出す課題のテーマにならないでしょう。そして、その文献の内容のうち、報告書で必要な箇所を紹介すれば、済むだけです。 教科書・参考書以外の本の内容を紹介する場合でも同様です。 説明のため、どうしても教科書または参考書の一文や語句などを紹介する必要がある場合などでも、紹介した文や語句についての自分(=あなた自身)の考えを、自分の理解できる言葉で説明してください。読者が知りたいのは、あなたの分析であり、べつにどこの教科書や参考書に、何が書いてあるかを知りたいのではありません。あなたの考えを説明するべきなのです。 なお、引用などが必要な場合なら、カギ括弧(「」とか『』)で くくって、また、引用であることを明記してください。この引用のルールは、引用のもとになった作品の作者の著作権などの権利を尊重するためです。 実技分野以外の、国語や社会科などのレポートなどで、文献を読んでレポートを書く課題の場合です。 文献調査によって書く報告書の場合、あなたの主張の根拠にした出典を紹介してください。あなたが調査のために読んだ本のタイトルなどです。読んだ本が複数冊ある場合は、最低でも1冊はタイトルを書いてください。 報告書にかぎらず、引用の場合には最低でも、その出典について、著者名・タイトル・出版社名 の3点は必ず記載するのがマナーです[45]。 一般的には、大人の文献調査では、基本的には、出版社名・タイトル・著者名・出版年および版・参考にしたページなどを書きます。 このように、主張の根拠にした文献などを「参考文献」と言います。 引用とは、他の本に書いてあることを、そのまま書き写すことです。 たとえば『平家物語』から冒頭部を引用すると「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」となります。読みがな(「ぎおんしょうじゃ」とか「しょぎょうむじょう」とか)は、引用する必要は、ありません。 上記の平家物語からの引用の例のように、引用が必要な場合は、その引用した部分を、カギ括弧(「」など)で、くくってください。 上記の例では「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」の部分が、引用された箇所になります。 また、どこの本からの引用なのか、はっきりと分かるように紹介するべきです。上記の例の場合、『平家物語』という本からの引用だと分かります。 引用の文量は、最低限にしてください。また、引用の際には、原則的に文字を変えたりせず、そのまま書き写します。ただし、漢字が常用漢字以外などの場合、常用漢字に変えてもかまいません(この場合、常用漢字に変更したことは、いちいち説明しなくていい)。 しかし、そのような特別な理由が無いかぎり、そのまま記載するのが、引用のルールです。 もし、なんらかの特別な理由があって、そのまま記載できない場合には、その理由を手短かに説明するようにしましょう。そうでなければ、剽窃といって、他の人の文章をぬすんだのと同じ扱いになってしまいます。剽窃とみなされると、よくてレポートの書き直し、悪ければ0点扱いされてしまいます。 よくある、間違った引用の例として、作者名とその人の発言だけを紹介する例があります。 たとえば ※ ダメ名引用の記載の例 みたいな引用の仕方です。なお、この文章(夏は~季節)は検定図書からの引用で、学校図書(教科書出版社のひとつ)の中1国語の中にある文章。 この文章だけ紹介されても、紹介文を読まされた読者にとっては、裏づけ調査が不可能または困難です。どの文献を調べれば乗っているかすら明記していないので、この作家のすべての著作を把握しないと、裏づけ調査できなくなってしまいます。そして、そもそも、この作家のすべての著悪を把握しているような人にとっては、そもそも、「椎名誠」と出典の作者名を紹介する必要は無いので、よって読者にとっては作者名だけを紹介するのは無駄です。 正しい引用の仕方は、書籍名、作者名、ページ、出版年月日や第何版や第何刷などを正確に記述する必要があります。でないと、他の人が裏づけ調査をできないからです。 なので、正しい引用の仕方だと、たとえば みたいに、どこから引用したのかを、きちんと第三者が「本当にもとの文献には、そう書いてあるか?」裏づけ調査をできるように引用を紹介する必要があります。 どうやら みたいな、偉人の名文などの文章の紹介とかと混同しているような、まちがった引用の方法が、インターネットでは、ときどき見受けられます。(なお、パスカルとは西洋の哲学者・科学者のひとり。) なお、このパスカルのような外国の偉人の文献での発言ですら、本来の引用なら、たとえば みたいに、なにを調べれば裏づけ調査できるかのように描かないと、第三者が裏づけ調査しづらいために引用としては役立たず、あまり引用として正しいとは認められないでしょう。 まだしも、小学校や中学校など義務教育や公教育で習うような常識的な有名作から、 のように有名作を紹介するならともかく、 読者に知らない人も多いかもしれない作品ですら、書籍名すら挙げないのは、明確に引用としては間違っています。 物語文などでは文章の主語は省略される場合もあります。しかし、説明文や報告書などでは、なるべく主語を書いたほうが分かりやすいです。この箇条書き項目の「なるべく主語、あるいは目的語は省略せず、主語・目的語を書いたほうが分かりやすいです」という文章も、主語や目的語を省略せず、書いています。 また、できれば主語と述語とが、近くにあるほうが、読みやすくなります(日本語は述語で意味が確定するため)。 このため、もし一文の修飾語が長い場合には、文節を分ける工夫が必要です[50]。 たとえば、 ではなくて、 のほうが、読みやすいでしょう。 このように正確さを損なわない範囲で、なるべく主語と述語を近づけましょう。 また、一般に物事を分かりやすく説明したい場合には、全体像や概要を先に述べてから、各論を述べたほうが伝わりやすいです。 なお、このように、レポートや報告書などの冒頭で述べる、全体像を手短かにまとめた段落のことを「アウトライン」(英:outline [51])といいます[52]。(※ なお論文の場合は冒頭の要点の段落のことを「アブストラクト」というが、「アウトライン」と「アブストラクト」ではニュアンスが微妙に違う。論文の書き方については中学生には高度なため、説明を省略。 また、この冒頭の概要(読者向けのアウトライン)を書く順序としては、よくあるパターンとして、じつは、その書類執筆時の最後のほうの時点で書くことになる場合がよくあります[53][54]。なぜなら、最後のほうの時点で冒頭を書いたほうが、書き手が書類で概要のあとに説明する内容をすでに分かっているので、より的確な概要を書くことができるからです。 パソコン時代の著作・編集は、じつはこういう順序になるのが普通です。手書きの時代とは、順序が違います。 ただし、もうひとつの別パターンとして、多くの要因からなる複雑なテーマを扱うレポートの場合には、下書きで冒頭に概要・序論などを先に書いて話題を限定して、自分のためのガイドラインとして概要・序論を活用しつつ、そのあとから、序論の方針にしたがって本論を書き加え、そして最後にまた冒頭の概要・序論を書きなおす[55]、などというパターンもあります。 どちらのパターンにせよ結局、冒頭部は、本論を書いた後に、冒頭部の概要・序論を書き直す必要があります。 もし書類に目次をつける場合にも、おそらく目次を書く時点がいつかというと、スケジュールでは最後のほうの時点に目次を書くことになるでしょう。 さて、文章を書く際、主語と述語を近づけた文章構成にすれば、自然と、最初の主語・出後の文節で概要が述べられ、次の主語・述語の文節で各論が述べられるので、つたわりやすくなるので、一石二鳥です。 ただし、このように、主語と述語を近づけると、やや堅苦しい言い方だと受け取られる場合や、内容によっては不正確になってしまう場合もあるので、読者の中学生は、うまく使い分けてください。 日本語は、文章の最後まで読まないと意味が確定しません。そのため、一文が長いと、読む際の負担が増えます。この「一文は、短めに書く」という文章自体、なるべく短く書こうとしています。 一般に、ビジネス文書でも、一文はなるべく短く書くのがマナーとされています[56][57]。 また、このため「~であるが、」など助詞「が」をあまり使わないのもテクニックです。逆接の助詞「が」を使うと文章が長くなりがちです。「~である。しかし」のように接続詞「しかし」に言い換えるのもテクニックです[58]。「しかし」ではなく「ただし」のほうが適切な場合もありますので、文章に応じて使い分けてください[59]。 なお、「であるが」「だが」は逆接でない場合も多くあります。どちらにせよ、「であるが」「だが」は、使う場合は文章が長くなりがちなので少し気を付ける必要があります。 理由を表す「であるから」「であるので」という長い言い回しもなるべく避けるべきで、改善策として「である。だから」「である。なので」のように2つの文に分けるほうが無難です[60]。 日本語は、文章の最後まで読まないと意味が確定しません。日本語では、否定形(〜ない、〜しない、〜ず)などの動詞などは文の最後に来ます。否定形の前後では、文全体の意味が正反対に変わります。 たとえば、「食べない」は、「食べ」の段階では読み手・聞き手にとっては「食べたい」「食べるとき」「食べよう」「食べない」など、色々な可能性があります。 そのため、否定形があると、読み直しの手間が生じます。否定形が多いと、読み直しの手間が増えて、読みにくい文章になります。この箇条書き項目「なるべく肯定形で書く。あまり、否定形は用いない」という文章自体、「○○で書く」という肯定形の表現を優先し、「△△は用いない」というような否定形の表現を後回しにしています。 どうしても否定形だけでかく場合、まず、否定される語句を短くします。 たとえば、 という文章の場合、否定される語句は「右」という、たった1文字です。このように、たった数文字だけに短くします。 悪い例として、否定される語句が長い例文をみてみましょう。 なんて否定される語句の長い文を読まされたら、きっと読んでる人はムカつくつでしょう。なぜなら、読んでる人は、せっかく「ジュゲムジュゲムゴゴーノスリキレ」という長い語句を読んだのに、その後に「ではなくて」と否定されるので、いままで読んだ努力が無駄になってしまうからです。 あるいは、否定を使う場合のもうひとつの手法として、直前に疑問文をつけて「では、○○なのか?」と問うた直後に答えで「違う。○○ではない。」とかのように、「違う。」とかを前につけると、誤読のおそれが少ないでしょう。 「では、山田さんなのか? ちがう。『山田さん』ではなく『田山さん』である。」のように。 口頭で「ちがう」だと強すぎる表現で失礼だと感じる場合、「ちがうと思います」とか「ちがうのではないでしょうか?」みたいに、婉曲的な語尾をつける方向性で丁寧にしていくのが安全でしょう。 別の理由ですが、ある書籍では、一文に複数のテーマを設けると読みづらくなるので、「肯定」と「否定」は別々の文章に分けるべきだと主張しています[61]。同様の理由で、「原因」と「結果」も1文には書かないようにすべきと主張しています。「原則」と「例外」も1文には書かないようにすべきと主張しています[62]。 ついでですが、口頭での報告の場合、「○○ではないです」のような否定表現は、避けたほうが安全です。なぜなら聞き間違えのおそれが高く、「○○で」と聞いた時点では「○○です。」と予想される可能性があるからです。特に仕事での口頭報告では、周囲の騒音などで、「○○で」「ガシャーン(騒音)」「です」のように、さえぎられる可能性があるので、気をつけてください。 口頭での報告では、「○○ではないです」のような、否定形の補足説明は、むしろ逆効果です。 口頭での報告は、なるべく肯定形だけで「△△です」のように肯定形だけで報告するほうが安全です。 どのみち、説明される側の人も、口頭報告だけで細かい事を説明されても、覚えきれません。細かい説明は、後日、部下が書類(報告書)にまとめることになります。 この単元では、おもに文章での報告方法を中心に説明します。 さて、肯定形を先に無く場合、注意すべきは、肯定形の文と否定形の文を、必要に応じて2つの文に分けることです。たとえば仮に という文章があったとしましょう。 「フドシラ」「ペネモモ」「ロブキフ」とは、いまここで考えた固有名詞です。当然、辞書には載ってません。 さて、この文章(「フドシラはペネモモでありロブキフではない。」)では、肯定形(「〜であり」の部分)と否定形(「〜ではない」の部分)を、くっつけて、ひとつの文にしています。さて、結局、「フドシラ」とは「ペネモモ」なのでしょうか、それともペネモモではないのでしょうか?  解釈が、次のように何通りにも分かれます。 このように、肯定形と否定形をひとつの文にくっつけると、解釈の仕方が2通り以上、考えられる場合が生じるので、読む手にとっては面倒な事態が生じます。 なお、もし元の文(「フドシラはペネモモでありロブキフではない」)のかわりに「フドシラはロブキフではなく、ペネモモである」と書けば、解釈2の場合だと分かります。 そのため、どうしても肯定形と否定形を1つの文につなげる必要のある場合、否定形を先に持ってきましょう。 さて、もし「フドシラ」「ペネモモ」などの意味不明な単語ではなく、 という文章だったら、一般の読み手は「神奈川県」と「岡山県」は別の県だと知ってますから、山田くんの出身地を「神奈川県であり岡山県」という土地だと誤解する事はありません。 しかし、報告書で使うことになる単語は、必ずしも一般の読み手が知ってる単語だとは限りません。例えば、 とかになったら、もう読み手は、お手上げです。結局、ゴンザレスの出身地は「新井」なのでしょうか。それとも出身地は「新井」の「3丁目」ではなく、まったく別の場所なのでしょうか。 肯定形を先にかく手法には、こういうリスクがありますので、書類では、肯定形を先に書くのをやめて否定形を先に書く方が良い状況もあります。 しかし、口頭での報告では、 疑問点は、文中で早めに説明していただけると、読者にとっては読み返す手間が省けるので、疑問点は文中で早めに説明したほうが良いです。また、疑問「点」と表記しているように、できれば疑問の箇所は文中で明確にしておき、説明のための文とは、別の文とすべきでしょう。さきほどの「あまり、否定形は用いない」にする理由と似ていて、読み返しの手間が少ない文章構成にするほうが、読者にとって便利です。 ・ ノウハウ(参考): 疑問文が長くなりそうなら、文頭で「疑問だが」などと述べてしまうのも、一つの手法。 日本語では、「ある文が疑問文であるかどうか」は、文末を読まないと分からないため(文末に「〜なのだろうか?」「〜ではないか?」などのように文末の表現を読まなければ分からない)、もし疑問文が長い場合、読者に長い文を読み返す必要が生じてしまいます。読者は、文末を読む手前の瞬間までは、てっきりその文を平叙文だと思って読んでいるのが普通です。読者は文末を読んでから、やっと、その文が疑問文だということに気付くのです。 読者が、文末を読んで疑問文だと気付いてから、文頭の内容を思い返したり、あるいは読みかえしたりして、疑問文の内容を把握しようとするのです。 もし、疑問文の文章が短くて、しかも単純な内容なら、通常の疑問文で構わないでしょう。短い文章を読み返すのに、たいした手間は掛からないからです。 でも、もし疑問文が長くて、しかも内容が難解なら? そして、たいていの場合、学生の書く疑問文は長くなりがちです。何故かというと、報告書の書き手が分からない内容を、書き手自身が手短かに説明するのは困難だからです。そもそも短く説明するためには、要点を理解してなければなりません。しかし、そもそも分からない内容の要点を理解するというひとは、通常ありえません。しかも報告書に書くような難しいテーマなので、なかなか短く説明するのが難しいのです。 そのため、たいていの場合、疑問文は長くなりがちです。 そこで、もし報告書で疑問点を述べる場合、疑問文の冒頭で「疑問点であるが、〜」「疑問だが、〜」のように、文頭で最初っから、その文が疑問文である事を述べてしまえば、読者は読み返しの必要が減るので、読者にとって助かります。 英文法を考えてみれば、英語では、疑問文は冒頭に「Do you 」とか「Are you 」と表現していて、疑問文である事が明確です。日本語の報告書でも同様に、疑問がある場合は、文頭の表現を工夫して、疑問文であることを明確にしましょう。 東京書籍の中1国語の教科書『新しい国語1』で、文章を書くときに、事実と推測と提案の区別をして書くように との指摘がある。 学校教科書にかぎらず、ビジネス文書の書き方入門書などでも同様に、事実と意見は区別せよ、と指導するのが普通である[63] 。 事実(ファクト[64] fact)と意見(オピニオン[65] opinion)は分離すべきです。(なお「オピニオン雑誌」というのは、政治などの議論にて、評論家の意見などの書かれた雑誌のこと。) さらに、報告書などでは、推測や提案があるときは「推測だが、」とか「提案だが、」とか書いてくれると、読み手が読みやすくなるので、ぜひ諸君はそう書いてほしい[66]。 事実の場合は、いちいち、事実を紹介している全ての文で「事実だが」と述べると、大量の「事実だが」という文が続出してしまいかねないので、省略するか、あるいは一つの段落に事実の説明をまとめるなど、工夫してほしい。 もし大量に推測や提案がある場合にも、段落をまとめる必要があるかもしれない。 電子メールなどで、メールの件名に「【質問】 ○○は△△ですか?」とか「【○○の連絡】 △△が□□に変更しました」とかのように、そのメールの文章の種類をあらかじめ明示する場合もあります[67] 。 ただし、報告書では、このようなタグ表記の記号は、使いづらいかもしれません。 なお、メール件名のタグ表記の記号(【】など)はとくに決まりはなく、[ ] や < > などでも良い。 ただし日本では視認性の良さなどの理由で、すみつきカッコ【】がよく、電子メール件名のタグに使われている[68] 。 なお、インターネット技術では、 < > の記号が別の意味ですでに使われてしまってるので(HTMLタグという技術ですでに使われている)、電子メールによる報告などでは<>記号は避けたほうが良いでしょう。 また、学校教材では 〔 〕の記号がよく、空欄補充の問題をあらわすのに使われるので、避けたほうが安全かもしれません。 なお、電子メールで長い報告書を書くのは、一般にマナー違反です。電子メールソフトは、あまり長い書類を読むようには、つくられていません。 もし電子メールで報告をする必要のある場合、なるべく短く、まとめましょう。 たとえ読み手が文章を最後まで読まなくても、読み手が文意を予測できるようにして、冒頭に接続詞などを用いて、文意を示します[69]。さっき読んだ冒頭文の「たとえ読み手が文章を最後まで読まなくても、」という文節自体が、「たとえ」という接続詞によって、文意を予測させています。 重要なのは、読み手にそのあとの文章を予想させることですので、必ずしも文法的には接続詞でなくても構いません。 たとえば文頭で「具体的には」と書けば、読み手にとっては、「あ、このあとに具体例が来るんだな」って予測できます[70]。 「同様に」などの言い回しを文頭に持ってきた場合も同じく、読み手はその後の内容を予想できます。こういう文章テクニックを活用しましょう。 理由のひとつは、箇条書きによって、説明対象の全体像がハッキリするからです。 たとえば と冒頭で箇条書きする事によって、これから説明する項目(「* なるべく主語〜」「* 一文は〜」「* なるべく肯定系〜」・・・「* なるべく結論から」)の全体の構造が、ハッキリします。ここでいう「構造」とは、「* なるべく主語〜」について説明と、「* 一文は〜」の説明が分離している事が分かるなどのように、何と何が分離しているかが分かります。 もし、「一文は短めに書き、さらになるべく肯定系で書き、そして接続詞を用いて文の概要を示し、」・・・などのように書いてしまうと、文章が長くなり、読者は読解をするのが大変になってしまいますし、構造がどうなってるかも分かりづらいです。 しかも構造が、次の例のように読者には何パターンも考えられてしまいます。たとえば、 のように、読者は色々なパターンを想定して、どの構造なのかを読解せねばならず、読者に余計な手間が増えます。 また、書く人の側も、接続詞の「さらに」「そして」など、文脈に応じて追加せねばならず、手間が増えて、大変になります。 箇条書きにしない場合、読者も、書き手も、ともに手間が増えてしまい、なにも良いことはありません。企業などでの報告書の実務では、積極的に箇条書きを用いたほうが良いでしょう。 この記事自体も、箇条書きを積極的に利用しています。学校の作文などでは、原稿用紙の都合などで箇条書きが難しい場合もありますが、念頭に入れてください。 なお、箇条書きをする際は、箇条書きされた各文の冒頭に「・」などの記号をつけて、箇条書きである事を分かりやすく表示しましょう。 なぜなら、読者にとっては、読み直しの手間が減ります。この記事自体、なるべく結論から書こうとしています。 報告書での文の読まれる順序は、かならずしも文章のはじめから文が読まれるとはかぎらず、抜粋などをされて、第三者の読者に途中だけ読まれる場合もあります。 もし書く際に代名詞(それ、あれ、あの人、彼、彼女、・・・などなど)を多用すると、読み手が代名詞の答えを探すために前の文を読み返す負担が増えるので、報告書や論文・レポートなどでは、なるべく代名詞を抑え、具体的な名称などで書いたほうが良いのです[71]。 具体的な名称とは、たとえば「その本は」ではなくて、「その『我輩は猫である』という本は」のように具体名で言い換えるという事です。 他にも、段落の始めや、章の始めなどでは、読み手がわざわざ前の段落や前の章を読み返さなくてもすむように、代名詞や指示語の使用はひかえめにしたほうがいいでしょう。つまり、段落の始めなどでは、具体的に名称を書くほうが、きっと読みやすいのです。 中学生・高校生では、別に報告書の書き方をここまで練習する必要は無いでしょう。そもそも、学習時間も足りません。(学生は、他の教科・他の単元の学習もしなければならない。) 頭の片隅にでも、読者である中高生は、報告書の書き方を入れておいてください。 ただし、詩歌や俳句や物語文などの場合は、文を書く際のノウハウが、報告書とは変わります。俳句の場合は字数の制限がありますし、詩歌や物語文などの場合には音のリズムの関係もあるでしょうから、あまりに具体的に名称を書いてばかりいると、かえって読みづらくなってしまうかもしれません。このような詩歌などの場合には、指示語や代名詞も用いたほうが良いかもしれません。 書き手は用途に応じて、書き方を分けてください。 実務の報告書では、かならずしも、すべてを文章で表記する必要はなく、数値的なデータなら、グラフ(棒グラフや円グラフなど)で表示するほうが、ひと目で読み手が把握しやすく、読みやすい場合もあります。 パソコンの表計算ソフト(エクセルなど)には、グラフを作る機能もあります。 そしてワープロソフト(ワードなど)に、表計算ソフトで作ったグラフ画像を貼りつける機能があります。 文章を書いたばかりのときは、書き手の頭の中では、予備知識がフル稼働しているので、なかなか他人視点になれません。 なので、後日に読み返して見直したり[72]、あるいは他人に読んでもらって改善点をもらうのも良いでしょう。 (※ 口頭発表は、中学3年の国語の範囲。) 口頭発表では、聞き手が、聞き返すことが、むずかしいのです。 もし、報告書の文章を読み返す場合なら、読み手が「読みかえそう」と思えば、時間さえあれば、いくらでも読み返せます。 しかし、口頭発表では、聞き手が、「聞きかえしたい」と思っても、話し手に頼める立場になければ、聞き返すことができません。 なので、もし、口頭発表をする場合は、このことの注意して、文章を、あらかじめ考えておく必要があります。 まず、報告書の書き方でも教えたように、要点を先に伝えるという方法を、口頭発表でも行います。 また、日本語の演説ならば、否定型ではなく肯定形で言い替えるという手法も、演説などの口頭発表では必要です。 さて、キング牧師の黒人差別反対の演説を、おそらく中学3年くらいに学校で習うと思います。 「私には、夢がある。」という、あの演説です。 キング牧師が、こういうふうに言ってるのは、かならずしも文芸的な表現とはかぎらず、演説のさいに、要点をさいしょに伝えるという手法を使った結果でもあるでしょう。 仮に、あなたが、キング牧師のあの時代のあの場所にいた観客の1人だとしましょう。演説者のキング牧師から「私には、夢がある。」という言葉を聞けば、聞き手は、「この発言のすぐあとに、これから、その夢の内容を語るんだな・・・」と予想できます。 で、その夢の内容が、黒人差別をやめさせたい、という、あの有名な演説なわけです。 いっぽう、もし、いきなり、キング牧師が夢の内容を語ったとしましょう。「私には、夢がある。」という前置きをいわずに、いきなり「黒人への差別を、やめさせたい。」とか言ったとしましょう。(なお、キング牧師のじっさいに言った演説は、もっと長く、何分間も話し続ける演説である。しかし、本wikibooksでは、説明を簡単にするため、仮に(かりに)、キング牧師の演説の内容が数秒だったと、置き換えることにする。) 観客の立場になってみましょう。すると、下記に述べますが、いくつかの欠点があるのです。 実際には英語で牧師は言ったのでしょうが、ここwikibooks日本語版では、日本の読者にわかりやすく問題点を伝えるため、かりに牧師が日本語で発音したとして、なにが欠点なのかを説明します。 仮に日本語で、キング牧師が「黒人への差別を、やめさせたい。」と演説したとしましょう。 数秒たって、 さて、さらに数秒たって、 このように、もし、あらかじめ「私には、夢がある。」とキング牧師が言ってないとしたら、 観客が、いきなり「こくじんへのさべつをやめさせるのが」と聞いても、例えば、もしかしたら、次のように予想するかもしれないのです。 このように、前置きの「私には、夢がある。」がないと、聞き手にとっては、まったく予想がつかないのです。 そして、もしも、話の内容について、まちがった予想をしてしまった聞き手は、そのあとの話を、聞きそびれてしまいます。かといって、観客が、話を聞いた時に、なにも予想しなければ、観客はその話(はなし)を理解できません。 だからこそ、演説では、結論を前置きとして、手短かにいうことが大切なのです。 その証拠に、ためしに、日本語に置き換えたバージョンのキング牧師のこの演説に、前置きがあったとしましょう。「私には、夢がある。」の前置きがあったとしましょう。 観客は、もう、ここまで聞いた時点で、予想できます、「キング牧師は、黒人差別をやめさせる事が、目標なんだ!!」って予想がつきます。 「私には、夢がある!」という前置きさえあれば、もはや、牧師の口から「やめさせのが、夢なんだ!」との発言を聞かなくても、観客はもう、予想できてしまうのです。黒人であるキング牧師の口から、「夢がある」と聞いた直後に、「黒人差別をやめさせることが」との発言を聞いた時点で、観客は、もう予想できるのです、「『私には夢がある。黒人差別をやめさせる事が、私の夢なんだ!』とか牧師が言おうとしてるんだな」という予想を。 報告書では、意見や提案は、上司や相手から特に要求されてないかぎり、事実を優先して報告するようにしましょう。 それでも、もしメールなどで、短い報告文や提案文を同じメールでひとまとめにする場合(相手が一度のメールを読むだけで済むので、企業社会では、よくある)、せめて段落・章などを分けましょう。 たとえば、もしアナタがIT業界に勤務するプログラマーだとして、ある会社での開発中のソフトウェアの不具合(ふぐあい)の連絡のための報告メールを書くなら、たとえば みたいに、報告と案とは、別個の章にすべきでしょう。 こうすることで、たとえ提案が却下されたとしても、相手に不具合の報告がきちんと伝わります。 なお、提案をする場合も、最初に結論を書き、つまり、「最終的に、こうなったほうが良いと思う状態」な結論を先に書き、あとから、その提案を思いついた根拠を書きます。 こうすることで、相手が、読み返しする手間が減ります。 文章構成の順序として、提案では、結論が先、理由はその(結論の)直後に、といった構成です。 さて、提案は不採用になる場合もあるので、あまり長々と提案を書きすぎず、手短かに提案を書きましょう。 報告メールの提案の場合なら、提案として思いついた事と、その根拠を、せいぜい5行ていどで紹介するようにしましょう。 さて、もし何かの評論などで「意見」を書く場合では、「提案」に「根拠」がセットでないと、評論などは「意見」として役立ちません。 こう報告書で書くべき理由は、なぜなら報告書の読み手である上司や客などは、根拠の部分を読んで、提案を採用するかどうかを決めるからです。 提案の採用の権限をもっている人物は、大抵、あなたではなく、上司や、金を払う客です。 なので、もしも根拠の情報がなくて提案だけを書いても、まったく役立ちません。 もし根拠が無い場合、読み手は書き手の能力を疑い、「こいつ(書き手のこと)は自分の立場を理解できてないのではないか?」と疑うでしょう。 もし提案だけで根拠が書かれてない場合、読み手はおそらく書き手の能力を疑い、その時点で読み手は、書かれた提案を自動的に不採用にするでしょう。 なので、「提案」には「根拠」がセットでないと、役立ちません。 の公式だと思っておきましょう。 日常語でいう「意見」とは、何かの論文や評論などでいう「意見」とは、やや意味がちがうので、混同しないようにしましょう。 もし、評論や論説文などで提案をする場合、けっして、抽象的に「もっと改善を増やすべきだ」みたいな漠然(ばくぜん)とした事を言うべきではない、という事を意識すべきです。 つまり、意識すべきことして「具体的に何をどう変えれば改善になり、そのために我々はいま、こうすべきである」という事を念頭に、具体的に案を提案する必要があります。 たとえば、環境保護のための活動の提案ならば、 けっして漠然と「環境保護をすべきだ」ではなく、 たとえば、企業での提案にたとえれば、例文として みたいに具体的に行動案を提案するべきです。 つまり、社会で必要な意見とは、 です。 提案は、 に分解されます。 社長の提案なら具体案が無くても部下が気をつかって代わりに具体案を考えてくれますが、しかし、もし新人や若手社員が具体例の無い提案をしても、企業の会社内部では、案の検討が後回しにされたり軽視されたりといった扱いになります。 なぜなら、たかが新人の気持ちの読解や心情の読解なんぞに、会社の上層部にとっては、時間を割きたくないからです。 なお、意見を書く場合だけでなく、(例外として数学の証明を除き、)一般の社会では、何かの理論を提唱(ていしょう)する場合も同様に、具体例と根拠をつける必要があります。 つまり です。 「意見」について、長々と説明しましたが、しかし基本的に報告書では、意見は無くてもいいか、あっても手短かにすべきです。 また、メールなどで、なにかの提案メールを書く場合などでも、気をつけるべき事として、意見にともなう提案の論拠を、あまり長々と書きすぎないように、気をつけてください。 なぜなら、もし提案などを書いても、その提案が不採用になる場合もあります。不採用になるかもしれないのに、提案の論拠を長々と書かれては、上司にとって困ります。 しかし、たとえそれでも論拠を意見には書くべきです。論拠を書く理由は、上述のような上司を説得する理由のほかにも、理由がいくつかあります。 まず、調査した本人にとっては当然のよくある思考法であっても、それ以外の役職の人にとっては、以外とわかりづらい思考法の場合があります。なので、短くてもいいので、自分以外の役職の人にも思考が分かるように、どういう思考回路でどう提案しているのかを示す必要があります。 また、もう一つの理由とは、たとえ提案が不採用になっても、その論拠を導くための思考方法などは、別の報告や仕事などで活用できる場合があるからです。 論拠を読んだ上司が、回答として「君のこの提案は却下するが、しかし、きみの説明する根拠にも一定の事実がありそうなので、よって、別件であるが、わが社は□□をしようと思う」などのように、別の分野に流用される場合があります。 ともかく、もし意見をなにかの書類や仕事メールなどに書く場合には、主張する提案などに、論拠を手短かに加えましょう。 日本語では通常、通常の文章の文末には「。」をつけます[73]。 市販の報告書の書き方入門本を見ても、文末は原則的に「。」をつけています。(たとえば 倉島保美『改訂新版 書く技術・伝える技術』あさ出版 ) 例外的に文末に「。」をつけない場合とは、 小中高では会話文の最後に「。」をつける文体で紹介されます。たとえば のように。 しかし市販の書籍の多くでは、会話文の最後には「。」をつけていないです。たとえば のように、会話の最後の「。」は省略されることも、よくあります。 体言止めをレポートの文末で使うというミスが市販の入門書から報告されていますが[75]、やはり体言止めの効果である余韻を残すことは、レポート・報告書の目的である正確な報告とはズレていますので、体言止めの濫用はひかえるべきでしょう。 もし、文献調査などをした報告書の場合、参考文献があるので、参考文献を末尾につけると、読者が検証しやすくなり、便利です。 引用箇所だけでなく、さらに巻末にも、こういった参考文献リストが必要です。 本wikiにも、(執筆時点の版では)参考文献リストが記載されていると思いますので、参考にしてください。 印刷する場合、ビジネスの報告書は基本、フォントサイズは12pくらいが目安です[76]。 どうしても小さくする場合でも、最低でも 10.5pt はないと、老眼などの人が読めません[77]。 提案書とか会議などで、よくあるダメな言い回しとして、「効率化するべき」とか「高度化するべき」とかいう文言があります[78]。 「効率化するべき」とかの言い回しは、具体的な行動の提案になっておらず、目標に過ぎません。 新人とかに「効率化するべき」などと言われるまでなく、上司はとっくに仕事の効率化を目指しています。読み手である上司が提案書などで知りたいのは、効率化をするために「具体的に何をするか?」というアイデアです。 しかし「効率化するべき」とかの言い回しは、なんのアイデアにもなっていません。 こういう具体的な行動を伴わない用語は、気をつけましょう。なるべく、具体的な行動を伴わない用語は、提案や企画などでは避けるべきです[79]。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87/%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%81%8D%E6%96%B9
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。 「王様は、人を殺します。」 「なぜ殺すのだ。」 「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」 「たくさんの人を殺したのか。」 「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」 「おどろいた。国王は乱心か。」 「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」  聞いて、メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」  メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。 「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。 「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。 「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」 「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」 「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」 「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」 「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」 「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」 「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」 「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」  それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。 「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」 「なに、何をおっしゃる。」 「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」  メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。  竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。  メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。 「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」  妹は頬をあからめた。 「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」  メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。  眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄の季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。メロスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、 「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」  花嫁は、夢見心地で首肯いた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、 「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」  花婿は揉み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。  眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。  私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」  濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。 「待て。」 「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」 「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」 「その、いのちが欲しいのだ。」 「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」  山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、 「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。  ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。  私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。  路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。 「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。 「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。 「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」 「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。 「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」 「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」  言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。 「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」  セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」  メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。  群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」  どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」  ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」  勇者は、ひどく赤面した。 (古伝説と、シルレルの詩から。) 青空文庫より引用。
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中学校の文法では、現代語の文法及び品詞(ひんし)などについて学ぶ。 まず、現代の日本語は、漢字と仮名(かな)を使って文章を構成するのが通常である。 このような文体のことを、「漢字仮名混じり文」という。つまり、現代日本語の標準的な文体は「漢字仮名混じり文」である。 念のために説明しておくが、仮名とは、平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことである。 また、平仮名は、その文字自体には意味が無い。 いっぽう、漢字には、意味がある。たとえば「た」という平仮名には意味が無い。しかし、「田」と書けば意味をもち、「田」の意味は農業のあれになる。 また、「他」も「田」も発音は同じ「た」と発音するが、しかし意味は違う。 漢字のように、その文字そのものが意味をもつ文字のことを表意文字という。 いっぽう、平仮名のように、文字単独では意味を持たない、あるいは意味の確定しない文字であり、発音だけを指定している文字のことを、表音文字という。 「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」の5つの音のことを母音(ぼいん)という。母音は単体(1音)で表現する。 なお、ローマ字のka, ki, ku ,ke ,ko のkの部分や、sa,si,su,se,so の s の部分のことを子音(しいん)という。子音は母音と組み合わせて構成する。 日本語の平仮名やカタカナには、子音を表す文字は無い。 日本語の仮名の発音は通常、母音(たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」)、または、母音と子音 (たとえば「か」や「そ」など)の組み合わせで発音される。 日本語は一つの文をいくつも重ねて全体として意味がわかるものを文章(ぶんしょう)とよぶ。 また、その中でも内容の大きなまとまりで分けられたものを、段落(だんらく)という。段落の始まりには、他の文より文の初めを一字下げるのが普通である。 その段落の中の、文章を組み立てているものを文(ぶん)と呼び、文の切れ目には句点(。)をつけるのが普通である。 場合によっては、「。」の代わりに、文の最後が「?」や「!」で終わる場合も、現代の日本語ではある。疑問がある場合に「?」を使う。びっくりした時や大声を出した声の場合などに「!」を使う。 たとえば とか などのように。 さて、文を発音や意味の上で不自然にならないように区切ったものを文節(ぶんせつ)と呼ぶ。 例 上の例の文章は、4つの文でできている。 そして最初の文は「今日は/ 国語と/ 数学と/ 英語の/ テストが/ ありました」と文節分けでき、6つの文節がある。 また、文節を分けるときには、間に「ね」や「よ」を入れるとうまく分けることができる。 例 「今日は『ね』/ 国語と『ね』/ 数学と『ね』/ 英語の『ね』/ テストが『ね』/ ありました『よ』」とうまく文節で分けられる。 さらに、文節を、言葉の意味がなくならないようにさらに分けたものを、単語(たんご)という。これは、それだけで使える言葉の最小単位である。 たとえば、 例 なら、 と単語分けすることができる。 文節は役割から主語、述語、修飾語、接続語、独立語に分けることができる。 主語(しゅご)は「何(誰)が」を表す、文の主題を提示したり、行動や様子の主を定める文節である。 たとえば例文「花が、さいた。」の主語は「花が」である。 一般に、主語は語尾(ごび)に「は」または「が」が付く場合が多い。 しかし、「僕も学校に行く」という文章では、「僕も」が主語である。なぜなら、行動の主は「僕」であるからである。 また、日本語の文には、主語が無い場合もある。 たとえば「学校に行くよ。」という文には、主語は無い。 また、ある単語の後ろに「は」または「が」がついても、かならずしも主語とは限らない。 たとえば、 という文では、「犬が」は主語ではない。好きな行動の主は「彼」なので、彼がこの文の主語である。 また、 の場合、カレーを食べたのは「今日」さんではなく、書き手の人がカレーを食べたと思われるので、「今日は」は主語ではない。この文「今日はカレーを食べた。」に主語は無い。 述語(じゅつご)は、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」「ない」を表す、何をどうするかなどの行為を示す部分、または何かの様子を示す部分のことである。 たとえば、「花が、さいた。」の述語は「さいた。」である。 なお、主語と述語のことをまとめて「主述」(しゅじゅつ)という。 主語と述語の関係のことを「主述の関係」という。 修飾語(しゅうしょくご)は主語・述語について、たとえば、どこでしたか、あるいはどのようにしたかなど、くわしく説明するために使われる文節の一種である。 たとえば、 なら「まじめに」の部分が修飾語である。 いっぽう、修飾語が説明している対象のことを被修飾語(ひしゅうしょくご)という。 「弟が、まじめに 勉強する。」なら、修飾語は「まじめに」であり、被修飾語が「勉強する」である。 「きれいな」が修飾語で、被修飾語は「花」です。 「きれいな」は「チョウ」を修飾する修飾語で(つまり「きれいな」が修飾語)、被修飾語は「チョウ」です。「いきなり」は「飛び立つ」を修飾する修飾語です(つまり「いきなり」が修飾語)。 この例文のように、ひとつの文に2つ以上の修飾語のある場合もあります。 また、修飾語と被修飾語の関係を、「修飾・被修飾の関係」という。 または単語についての説明や意味をつけくわえる。特にあとで述べる用言(ようげん)を修飾するものを連用修飾語(れんようしゅうしょくご)と言う。 いっぽう、体言(たいげん)を修飾するものを連体修飾語(れんたいしゅうしょくご)と言い、修飾される言葉は被修飾語(ひしゅうしょくご)とよばれる。 たとえば、 この場合、「大きく」は連用修飾でしょうか、連体修飾でしょうか? ヒントとして、大きいのは何でしょうか? ボールでしょうか、それとも投げ方が大きいのでしょうか? 答えを言うと、この文で大きいのは投げ方ですので、つまり「大きく」は動詞の「投げた」を修飾しており、そして動詞は活用があるので用言ですので、つまり「大きく」は連用修飾です。 いっぽう、 なら、ボールが大きいわけですし、「ボール」は活用も無いので、ボールは体言です。なので、つまり「大きな」は連体修飾です。 のように、ひとつの文に連用修飾と連体修飾の両方がふくまれている場合もあります。 接続語(せつぞくご)は他の文や文節との関係をあらわす。 接続語が何を修飾しているかが曖昧な場合があります。 エラーしたのが山田?出塁したのが山田? 独立語(どくりつご)は、ほかの文節とは結びついてなくて、それだけで意味の通る語である。 あいさつ や あいづち などが、独立語になる場合が、よくあります。 上の例文の「先生」などのように、呼びかけも独立語になります。 上の例文の「山田さん」も独立語です。 いっぽう、 この例文(「山田さんに頼みごとがあります。」)の「山田さん」も「山田さんに」も独立語ではないです。 この例文の「あのう」は独立語です。 この例文の「東京」は独立語です。 二つ以上の文節がまとまって、ひとつの働きをする文節のことを連文節(れんぶんせつ)という。 連文節には、主に、主部、述部、修飾部、接続部、独立部の5種類がある。 また、並立の関係にある文節も、おたがいに連文節である。 日本語で「主語」といった場合、単語の単位ですので、たとえば例文 の主語は、「消しゴム」です。「自分の消しゴム」は主語ではないです。 しかし、 という文章があったとして、「消しゴム」だけでは、「自分の消しゴム」なのか、「友達の消しゴム」なのか、不明です。 そこで、主語に、その主語にかかる修飾語をあわせたものを主部(しゅぶ)といいますので、この概念を導入しましょう。 の主部は、「自分の消しゴム」です。 例文 の述語は、「する」です。しかし、「する」だけでは、何をするのか不明なので、いまいち不便でしょう。 そこで、述語にかかる修飾語と 述語じしん をまとめたものを述部(じゅつぶ)といいますので、この概念(がいねん)を導入しましょう。 この文「妹は食事をする。」の述部は、「食事をする」です。 例文 について、「昨日の」と「晩に」は、別々の文節ですが、しかし、この文の「晩」とはいつの晩かといえば「昨日」の晩ですので、「昨日の」と「晩に」は、ひとまとめに扱えると便利です。 そこで、修飾部(しゅうしょくぶ)という、関連のある一続きの修飾語をまとめる概念があるので、これを導入しましょう。 「昨日の晩に」で、ひとつの修飾部になります。 「うまくて」と「やすい」は、別々の文節ですが、両方とも、「この店のカレー」の性質をあらわしているので、ひとまとめにできると便利です。 この「うまくて」と「やすい」のように、対等に他の同じ文節(例の場合は「カレーは」)に結びつく関係の文節のことを、並立(へいりつ)の関係といいます。 つまり、「うまくて」と「やすい」は、並立の関係にあります。 また、並立の関係にある単語を並立語といいます。 「うまくて」と「やすい」は、それぞれお互いに並立語です。 さきほどの例文では述語が並立していました。 ほかの例文では、主語が並立している場合もあります。たとえば という例文では、「父」と「母」が並立の関係であり、お互いに並立語です。 単独で文節を作ることができる単語のことを自立語(じりつご)という。 たとえば、「学校に行く。」という文のうち、「学校」は自立語である。 いっぽう、「に」は自立語ではない。 原則として、一つの文節には一つの自立語しかないが、例外的に「松の木」「男の子」「読むこと」のように二つ以上の自立語を組み合わせた文節もある。 なお、「行く」の「行」を自立語と解釈する場合もある。 なお、「学校に」でひとつの文節、「行く」でもうひとつの文節なので、原則「一つの文節には一つの自立語しかない」を満たしている。 いっぽう、「学校に行く。」の「に」は自立語ではなく付属語という。 付属語はかならず自立語の下について、しかも付属語だけでは意味を成さない。 名詞は普通、自立語に分類する。 動詞の語感を自立語に分類する。 動詞の活用語尾(「行く」の「く」の部分や、「行った」の「た」の部分)は、付属語に分類する。 たとえば(学校に)「行った」のうち、自立語は「行っ」、付属語は「た」である。 (学校に)「行ったらしい」では、付属語は「た」と「らしい」の2つである。このように、ひとつの文節に付属語が2個以上ある場合もある。 (学校に)「行ったらしいね」なら、付属語は「た」「らしい」「ね」の3つである。 「行く」(いく)は「行った」(いった)、「行けば」(いけば)、「行きたい」などのように、続く単語や言い切ったりするときに、規則にしたがって、形に変化します。 たとえば、「学校に行ったなら」と「なら」が続く場合には手前には「行った」がきます。けっして、「行けばなら」(×)などとは言いません。 このように、単語の形が規則にしたがって変わることを活用(かつよう)といいます。 自立語にも、活用のあるものと無いものがあります。 たとえば、「学校」は自立語ですが、活用がありません。 「行く」(あるいは「行った」)には、活用があります。 付属語にも、活用のあるものと無いものとがあります。 活用のある自立語のことを用言(ようげん)と言います。 用言は普通、述語になれます。 後述するが、動詞・形容詞・形容動詞が、用言に分類されるのが一般的です。 動詞とは、「走る」「書く」などのように動作を表す言葉です。「走る」なら、たとえば「走らない」「走れば」などのような活用があります。 形容詞とは、「広い」「赤い」などのような、言葉です。「広い」なら、たとえば「広く」「広ければ」などのように活用があります。 用言の性質として などの性質があります。 自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。 後述しますが、名詞(めいし)に分類されるものが体言である場合が普通です。 名詞とは、「ビル」「学校」「月曜日」などのように、ものの名前になることのできる言葉のことです。 体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。 例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。 単語を役割ごとに分類したものを品詞(ひんし)という。日本語の品詞は動詞(どうし)、形容詞(けいようし)、形容動詞(けいようどうし)、名詞(めいし)、(代名詞(だいめいし))、副詞(ふくし)、連体詞(れんたいし)、接続詞(せつぞくし)、感動詞(かんどうし)、助動詞(じょどうし)、助詞(じょし)の10種類(代名詞を別に数えると11種類)ある。 「歩く」「書く」「読む」「食べる」など、活用があり、主に動作をあらわす言葉が動詞です。 たとえば「歩く」なら、 「歩けば」「歩きます」「歩きたい」「歩けよ。」「歩かなければ」・・・のように活用できるので、「歩く」は動詞です。 また、動詞は述語になることができる。 たとえば「駅まで歩こう。」のように、述語になっています。 動詞には活用があるが、最後の音がウの段の音にした場合を、文法上での基準の形とする。 たとえば、「歩く」が、動詞「歩く」の基準となる形である。なぜなら、「歩く」は「く」というウ段の音で終わってるからである。 いっぽう、「歩け」「歩き」などは、どんなに話し手が強く言ってても、最後の音がウ段でないので、動詞「歩く」の基準の形ではない。 同様に、動詞「書く」の標準の形は「書く」である。 「書け」「書き」は、動詞「書く」の基準の形ではない。 また、「歩きよりも走りでゴールまで行こう。」のように、歩行という意味での「歩き」は活用が無いので、動詞ではないです。 「歩くスピードが速い。」のように、体言を修飾する場合にも動詞(例文の「歩く」は動詞として、あつかう)が使われる場合もあります。 名詞には、いろいろな種類がある。 「京都」「夏目漱石」などのように、特定の地名や人名などをあらわす名詞のことを固有名詞(こゆう めいし)という。 「ボール」「茶」「人」「犬」「机」など、特定の人名や地名をあらわしていない、普通の名詞のことを普通名詞(ふつうめいし)という。 「一人」「二つ」「二枚」「一枚」「三本」「三人」、などは、それぞれ数詞(すうし)といいます。 のような文での「もの」、 または の「こと」のような名詞を、形式名詞という。 「僕」「それ」「彼」「あれ」「あなた」などのように、代名詞がある。 ※ 代名詞を名詞とは別の品詞と解釈する場合もある。 代名詞のうち、「僕」「私」「あなた」「彼」「彼女」「俺」などの、普通は人を指す場合につかう代名詞のことを人称代名詞(にんしょう だいめいし)という。 いっぽう、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」などは物や場所に使う代名詞であり、このような代名詞を指示代名詞(しじだいめいし)または指示語という。小学校で習った、いわゆる「こそあど言葉」が、指示代名詞です。 代名詞を分類すると、主に、人称代名詞または指示代名詞の、二通りに分類できる。 代名詞は、活用がない語である。 この一覧表にあるのは、あくまで指示代名詞だけである。 けっして全ての代名詞が一覧になっているわけではない。指示代名詞でない代名詞は、この一覧表には、まったく記載されていない。 代名詞には、指示代名詞でない代名詞も存在し、「わたし」「あなた」「ぼく」「彼」「彼女」など、代名詞は、いくつもある。 名詞は普通、自立語です。 副詞とは、例をあげると「ゆっくり」とか「もっと」「とても」とか、「のそのそ」「はっきり」などである。 副詞は活用がない語であり、主に用言を修飾し、修飾語にしかならず、たいていの場合は連用修飾語になる。副詞には状態の副詞、程度の副詞、呼応(陳述・叙述)の副詞がある。 状態の副詞は主に動詞を修飾する。 程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾するが、他の副詞や名詞を修飾することもある。 「呼応の副詞」とは、 のように、あとにくる言葉に決まった言い方がくるのが呼応の副詞である。 たとえば、「決して」は、必ずいくつか後の文節に「ない」が来る。 「けっして、きのうはカレーを食べていない。」というように、「けっして」のあとには「ない」が来るのが普通。 のように の「全然」も、21世紀の現代では、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「全然」を呼応の副詞として紹介。) (※ 範囲外: )ただし、「全然」は明治時代くらいは、 ※ このような事情があってか、三省堂いがいの他の教科書会社は、「全然」については紹介しないでいる。 の「とうてい」も、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「とうてい」を呼応の副詞として紹介。) 「叙述の副詞」(じょじゅつのふくし)または「陳述の副詞」とは、話し手の気持ちや判断を述べるための副詞である。 「おそらく」とか「きっと」などの、何かの可能性の程度を推測する副詞が、叙述の副詞の場合がある。 これ以外にも、 または とかの「まるで」の部分も、叙述の副詞である。 教科書によっては「呼応の副詞」を「叙述の副詞」と完全に同一視して分類する場合もある(※ たとえば学校図書(教科書会社名)では同一視している)。 たとえば、 のように、「おそらく」・「たぶん」のあとには、「だろう」または「であろう」「でしょう」などが来る場合がよくある。(※ 学校図書が、「おそらく」を呼応の副詞としている。三省堂が「たぶん」を呼応の副詞としている) などの疑問の意味の副詞も、呼応の副詞に分類される場合がある。(※ 光村図書の中3教科書が「どうして」を呼応の副詞として紹介、教育出版の中2教科書が「なぜ」を呼応の副詞として紹介している。) 叙述・陳述の副詞は、連用修飾語である。よって、叙述・陳述の副詞や、呼応の副詞の副詞の部分は、ほかの体言については修飾しないのが普通である。 状態の副詞は主に動詞を修飾する。 の「ゆっくり」は、状態の副詞である。 程度の副詞は、 「かなり」・「もっと」・「とても」のように、程度をあらわす副詞である。 の「少し」は、副詞である(この例文での「少し」は形容詞ではない)。 「ずっと」のように、時間のスケールの程度を表す副詞も、程度の副詞である。 「もっと大きく」のように、程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾する場合が典型的だが、 「もっと右。」「もっと昔から。」 のように名詞などの体言を修飾することもある。 また、「もっとゆっくり歩いて。」のように、程度の副詞(例文では「もっと」)が、ほかの副詞(例文では「ゆっくり」)を修飾する場合がある。 指示語である「あの」「その」や「大きな」などがある。体言を修飾し、必ず連体修飾語になる。活用がない語。 連体詞の直後には、かならず体言がつく。 「大きな」 など一部の連体詞と形容詞(「大きい」)は、基準の形が似ているが、しかし別の品詞である。 「大きい」は形容詞であるが、「大きな」は連体詞である。 たとえば形容詞「うつくしい」の場合、「美しかった」「美しく」「美しい」「美しければ」のような活用になる。 「うつくしな」(×)とは言わない。つまり、形容詞に「◯◯な」の形は無い。 なので、「大きな」は、形容詞とは別の品詞でなければならない。つまり、「大きな」は連体詞である。 同様に、「小さな」も連体詞である。 「たいした話だ。」などの「たいした」も連体詞である。 「この」「その」「あの」「どの」は連体詞である。 「あらゆる状況」、「いかなる困難」などの「あらゆる」「いかなる」も連体詞である。 動詞など他の品詞とまぎらわしい連体詞が、いくつかある。 などの修飾語としての「ある」は、学校文法では連体詞に分類する。 いっぽう の「ある」は、動詞である。 このように、同じ「ある」という形でも、文脈や位置によって品詞が変わるので、品詞をさぐる場合には文章をよく読むこと。 のような連体修飾語「去る」は連体詞である。 「大したヤツだな。」とか「大それた事をしてしまった。」とか「とんだ失敗をした。」「とんだ災難だったね。」などの「大した」「大それた」「とんだ」は、連体詞である。 たとえば、「走る」は動詞ですが、しかし「歩きよりも走りで行きたい。」などの「走り」は名詞です。 このように、動詞がもとになって派生した名詞があり、このような、ある品詞の単語が別の品詞の単語に派生することを転成といいます。 形容詞「大きい」と連体詞「大きな」も、転成の関係だと思われています。(※ 学校図書(検定教科書の出版社のひとつ)の解釈) 「楽しい」は形容詞ですが、「楽しむ」は動詞です。この「楽しい」と「楽しむ」も、転成の関係です。(※ 教育出版の解釈) 感動詞は感動・呼びかけ・応答・挨拶の4種類ある。「おはよう」「ああ」などがある。ある状態や個人の感情、あいさつ や返事などを表す。活用がない語。ふつう、自立語である。単独で文にすることが多いが、文の中にあるときは独立語とする。 典型的な4つの例: (※ 下線部が感動詞) いろいろな例 「そして」「だから」「でもって(話し言葉)」などが該当する。活用がない語である。文や文節を繋いで関係をはっきりさせる語で、必ず接続語になる。 「きのう、カレーを買った。」の「た」は、過去をあらわす助動詞です。 助動詞とは、活用のある付属語です。 「買った」は、「買ったら」や「買ってれ(ば)」などのように活用します。 つまり、「た」は「たら」「てれ」のように活用します。 いっぽう、「カレーをかってやろう。」の「て」には、過去の意味は無く、つまり「て」は別の品詞です。この場合の「て」は助詞です。助詞は、活用のない付属語です。 「山田の好きな食べ物はカレーだそうだ。」の「そうだ」も助動詞です。 「そうだ」は「そうだっ(た)」「そうな」「そうなら」のように活用します。 「カレーを食べたい。」の「たい」も助動詞であり、願望・希望をあらわす助動詞です。 「食べたい」は「食べたけれ(ば)」「食べたく」「食べたか(ろう)」などのように活用します。 動詞、形容詞、形容動詞、助動詞は下につく言葉によって語の一部または全体が変化する。このことを活用(かつよう)という。 たとえば、動詞「話す」は、「話さ(ない)」(未然)、「話し(ます)」(連用)、「話す(。)」(終始)、「話す(とき)」(連体)、「話せば」(仮定)、「話せ」(命令)のように活用します。 活用の変化後のそれぞれの形を活用形(かつようけい)という。 たとえば、動詞の活用形には、 の6種類がある。 また、用言の多くは変化する部分と変化しない部分がある。変化する部分を活用語尾(かつようごび)と言い、変化しない部分を語幹(ごかん)という。助動詞の中には語幹や活用が事実上ないものもある。 たとえば、動詞「話す」の語幹は、「話」(はな)の部分です。 「話せ」の「せ」 や 「話す」の「す」 などが、(つまり「せ」や「す」の部分が)活用語尾です。 動作を表す言葉で、述語として文の最後につくことが多い。最後が「う段」(ローマ字で書いたとき「遊ぶ(asobu)」「見る(miru)」のようにuで終わること)の音で終わる。また、五段活用動詞の連用形は名詞に変わることがある。例としては、「ひかり(動詞「ひかる」より)」「読み(動詞「読む」より)」などがある。 たとえば、上記の「咲く」の場合、 「咲か(ない)」「咲き(ます)」「咲く(。)」「咲く(とき)」「咲け(ば)」「咲け」のように活用される。 また、上記の表のように、活用形や語幹、活用語尾などをひとまとめにした表のことを活用表といいます。 「来る」(くる)、「する」、などの一部の動詞には語幹が無い。 五段活用では、下記の表のように、語幹の最後の文字の所属する行ごとに、活用形が変わる。 たとえば、「行かない」・「話さない」のように言うことはある。しかし、けっして「行さない(×)」「話かない(×)」のようには活用しないという事である。 命令形は、「行け」「書け」などのように命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。(※ ただし、「行けよ」のように助詞「よ」などの助詞をつける場合はある。) 下記の動詞の一覧表でも同様に命令形は、命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。 上一段活用(かみいちだん かつよう)をする動詞には、「生きる」・「起きる」・「似る」・「開ける」などがある。 「起きる」の語幹は「お」である。「おき」は語幹ではない。活用語尾には、すべて最初に「き」がついているが、だからといって語源を「おき」にしない。 もし、「おき」を語幹にしてしまうと、未然形と連用形の活用形が無くなってしまうが、そうなると不便である(※ 教育出版の見解)。 なので、「起きる」の語幹は「お」にされている。 「似る」・「見る」など、一部の動詞では、語幹と活用語尾が区別しづらい。 下一段活用(しもいちだん かつよう)をする動詞には、「教える」・「答える起きる」・「出る」がある(※ 検定教科書で紹介される動詞)。「受ける」「食べる」なども下一段活用である(※ 参考書などで紹介される動詞)。 「出る」など、一部の動詞には、語幹と活用語尾が区別しづらい。 カ行変格活用になる動詞は「来る」(くる)一語のみである。 カ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。 サ行変格活用になる動詞は「する」と、「料理する」「勉強する」のように「する」が後ろについて出来た複合動詞「◯◯する」のみである。 サ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。 動詞には、おもに、次のように三種類の音便(おんびん)があります。 「書か(ない)」(未然)、「書き(ます)」(連用)、「書く」(終始)、「書く(とき)」(連体)、「書け(ば)」(仮定)、「書け」(命令) というように、動詞「書く」は5段活用される。 しかし、「書いた」は、このどれにも当てはまらない。 「書いた」は、連用形「書き」+「た」が なまった音が由来だとされる。 このように、いくつかの動詞などで、活用語尾が「い」に変化する現象をイ音便(いおんびん)という。 いっぽう、動詞「走る」(はしる)は、活用で「走った」のように言う場合があります。 この「走った」は、連用形「走り」+「た」が なまった音が由来だとされる。 このように、活用語尾が「っ」に変化する現象を促音便(そくおんびん)という。 動詞「読む」は「読んだ」と活用される場合があまう。 これは、「読む」+「た」あるいは「読み」+「た」が由来だろうとされています。 この「読んだ」のように、「読む」または「読み」が「読ん」になるように、活用語尾が「ん」になることを撥音便(はつおんびん)といいます。 「撥」(はつ)とは、「はねる」という意味です。 動詞「飛ぶ」も「飛んだ」と活用されるので、撥音便のある動詞です。 共通語では、音便のある動詞は、五段活用される動詞です。 しかし、方言では、ほかの活用をされる動詞でも音便のある場合があります。 促音(そくおん)とは、たとえば「だっこ」の真ん中の小さい「つ」、つまり「っ」の音のことをいう。 撥音(はつおん)とは、「ん」の音のことをいう。 なお、動詞の音便とは別に、形容詞にも「ウ音便」というのがある。くわしくは形容詞の節で説明する。 特殊な動詞に補助動詞というものがある。補助動詞とは、たとえば の「みる」・「いる」・「いう」の部分が、それぞれ補助動詞である。 本来これらは「見る」「居る」「言う」という意味があったのだが、その意味が薄れ、様子や状態を表す助動詞のような役割を果たすようになった。 このように、動詞ではあるが、ほかの単語について、補助的な意味をする動詞のことを補助動詞という。 形式動詞は普通の動詞と区別するためにひらがなで書くが、文節分けは行う。 助動詞と補助動詞とは違う。 などの「ある」・「おく」・「しまう」、「いく」も、それぞれ補助動詞である。 の「あげる」・「くれる」・「もらう」も補助動詞である。 の「いただく」・「なる」も補助動詞である。 「行ける」・「書ける」のようにそれだけで可能の意味を含む動詞を特に可能動詞という。可能動詞は、すべて下一段活用の語である。また、可能動詞に命令形は無い。 学校文法で、可能動詞のもとになる動詞は、「行く」・「書く」など五段活用の動詞である。 たとえば など、もとになる動詞の活用は、すべて五段活用である。 いっぽう、上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」など、五段活用でない動詞をもとに可能動詞とするのは、(小中高の)学校文法では誤りとされる。 つまり、「みれる(△)」「でれる(△)」などは、学校文法では誤りとされる。 「見る」や「出る」ことが可能なことを一語で言いたい場合、学校文法では、助動詞「られる」を使って、「みられる」・「でられる」というふうに言うのが正式であるとされる。 動詞は自動詞(じどうし)と他動詞(たどうし)に区別できる。自動詞は対象を必要とせず、ある動作や状態がそれ自身で行われることをいう。他動詞は必ず動作の目的や対象への働きかけを示す言葉が必要である。 例:「起きる」と「起こす」。 「起きる」が自動詞である。なぜなら「起きる」は動作の対象を必要としないため、「彼を起きる」という文章が作れない。 一方、「起こす」は動作の対象を示すことができるので、「彼を起こす」という文章が作れる。なので、「起こす」は他動詞である。[1][2]。 「水を流す」と「水に流れる」なら、「流す」が他動詞であり、「流れる」が自動詞である。 ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「い」で終わる。(例)すばらしい、美しい など。形容詞の語幹に「さ」をつけると名詞に変わる。 など。 特殊な形容詞として「ない」「ほしい」がある。「ない」は というように「無」の状態を表す場合と、 のように、ほかの形容詞の後ろにつく場合がある。 この、「明るくない。」の場合の「ない」のように、ほかの単語の補助としてつかう形容詞を補助形容詞という。 「明るくない」などの「ない」は、けっして助動詞ではない。なぜならば、 「やらない」「書かない」などの助動詞「ない」は「ぬ」に置きかえても意味が同じだし、「やらぬ」「書かぬ」と通じる。 しかし「明るくない」はけっして「明るくぬ(×)」とは言わない。なので、「明るくない」の「ない」は助動詞ではない。 また、格助詞「は」を補って「明るくはない」という場合はあるが、しかし、「書かはない(×)」とは言わない。 このように、補助形容詞と助動詞とは、区別する必要がある。 なお、「この本に書いてある。」の「ある」は補助動詞である。(「ある」は形容詞ではない。) 「花が咲いている。」の「いる」は補助動詞である。(「いる」は形容詞ではない。) なお、補助動詞と補助形容詞をまとめて、補助用言(ほじょ ようげん)という。 なお、「ほしい」は同じ意味の英語の"want"は動詞だが、しかし日本語の「ほしい」の活用は形容詞(「ほしかろう」、「ほしく」、「ほしけれ」)の活用である。 「ほしい」も のように、ほかの動詞のうしろに補助的につくので、「ほしい」も補助用言である。 日本語で補助形容詞は「ない」と「ほしい」だけである。 補助用言をふくむ文章を、文節ごとに分かる場合には、補助用言は前の文節とひとつにまとめて一文節として数える(※ 教育出版の見解)。 つまり、 例 という文章では、「歩いている」で、1文節と数える。 つまり、「猫が歩いている。」という文は、「猫は」と「歩いている。」で、合計2個の文節がある。 また、補助用言は普通、ひらがなで書く(※ 三省堂の見解)。 (批判的な意味での)「くだらない」、(「粗末にすべきではない」(大切に扱うべきだ)という意味での)「もったいない」などは、 たとえば「くだらない」なら、あたかも形式的には、動詞「くだる」の未然形に助動詞「ない」がついたように見えるが、 しかし、「くだらない」一語で形容詞として扱う。 「もったいない」も、「もったいない」一語で形容詞として扱う。(※ 教育出版が中3教科書で「くだらない」「もったいない」「きたない」などを紹介している。) 「静かだ」・「きれいだ」などのように、ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「だ」または「です」で終わる。特殊な形容動詞には「あんなだ」「こんなだ」がある。 形容動詞は、活用のある自立語で、単独で述語になることができる。 形容動詞に命令形は無い。 「静かにしろ」のような命令表現は、学校文法では「しろ」の部分が動詞「する」の命令形であると解釈する。なので、形容動詞の部分「静かに」そのものには命令形が無いと学校文法では考える。 なお、形容動詞でないが混同しやすい表現として、連体詞「大きな」がある。「大きだろう(×)」とは言わないので、「大きな」は連体詞である。 自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。 例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。 名詞(めいし)とは、ものの名前を表す言葉。その他、数字なども名詞とする。活用がない語。ほかにも用言を体言のようなものにする働きを持つ「こと」「とき」「ため」などがある。これらは本来「事(ものごと)」「時(時間)」「為(理由や対象をさす)」という意味があったが、それらの意味が薄れ、単に用言に接続して用言に体言のような働きを持たせる文節をつくる言葉になった。これらを形式名詞という。形式名詞は普通は平がなで書き、文節分けはしない。 単独で文節をつくることができない単語を付属語(ふぞくご)と呼ぶ。 文や文節に否定や断定、丁寧、推測、過去などの意味をつけくわえる語。主に用言・体言・助動詞に接続する。活用がある。 助動詞には、次のものがある。 例 活用は、「読ませれば」「読ませて」「読ませる」などのように活用する。 例 「書かれた」「書かれれば」「書かれる」などのように活用される。 例 「知らなかろう」・「知らぬ」・「知らなければ」などのように活用する。 「存ぜぬ」・「存ぜん」のように活用する。 なお、「何もない。」の「ない」は形容詞「なし」の変化であるので、助動詞ではない。 例 この文の時点からみて、駅に到着したばかりだし、その文の時点で駅にいるので、完了である。 この文では、はたして現在ではマラソン選手かどうかは不明である。だが、過去にマラソン選手だったのは確かである。 服がつるされている時は、この文の時点からみて、過去ではなく現在なので、服はつるされつづけているので、存続である。 また、存続の場合、普通は「た」のあとに体言が続く。 「たい」は普通、話し手が希望している場合に使う。 「たがる」は、話し手以外の第三者が希望している場合に使う。 「知りたい」の活用は、たとえば「知りたかった」「知りたく」「知りたい」「知りたければ」などのように活用する。 「そんな話があろうはずがない」の「あろう」の「う」が助動詞「う」である。活用は「う」しか形が無いが、しかし「あろうはず」のように体言「はず」につながるので、連体形である。終止形の「(あろ)う」と連体形の「(あろ)う」があるので、便宜的に「う」は助動詞として分類される。 「よう」も同様、便宜的に助動詞として分類される。 (※ 範囲外)活用せず、「まい」しか形が無い。しかし、「まい」の古語の「まじ」に活用があるので、便宜上、「まい」も助動詞として扱う。 時代劇などで「あるまじき無礼(ぶれい)」のようなセリフがあるが、「まじ」は「(ある)まじき」「(ある)まじく」などのように活用するので、「まじ」は古語の助動詞である。 「打ち消しの意志」とは、「今後は◯◯しないでおこう」のような意味。 「打ち消しの推量」とは、「今後は、そうはならないだろう」のような意味。 「だろう」は助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」がついたものであると分類する。 また、「東北は私の故郷であり」の「で」も助動詞「だ」の連用形に分類する。 「だろ(う)」・「だった」などのように活用するので、助動詞である。 「です」は、助動詞「だ」を丁寧にした形。 「でしょ(う)」・「でし(たら)」などのように活用するので助動詞。 「ようだ」は、活用の変化は断定の助動詞「だ」に似ているが、しかし意味が断定ではなく推定なので、便宜上、推定の助動詞「ようだ」と断定の助動詞「だ」は別々の助動詞として、あつかう。 「ようです」は、「ようだ」を丁寧にした形。 「そうだ」は、連用形の後ろに つながる場合は様態の意味。 「そうだ」は、終始形の後ろに つながる場合は伝聞の意味。 「そうです」は、「そうだ」を丁寧にした形。 (※ 執筆中) 国語学者の大野晋によれば[3]助動詞の語順は、人為・自然(「れる」「られる」や使役)+敬意(補助動詞)+完了・存続+推量・否定・記憶(+働きかけの終助詞)の順に並ぶとされる。 助詞とは、付属語で活用が無く、単語や文節同士をつないだり、つながれたものどうしの関係づけを行ったりする語である。また、文や文節のリズムを整えたり、禁止や疑問、強調の意味を添える役割もある。 主に用言・体言・助動詞に接続する。活用はない。 学校文法では助詞は格助詞(かくじょし)・副助詞(ふくじょし)・接続助詞(せつぞくじょし)・終助詞(しゅうじょし)の四つに分類される。格助詞(かくじょし)は体言に接続するか、または体言と同じような働きをするものに接続して使われる。 格助詞は、直後の単語との関係を明確なものにするために使われる。 たとえば「ライオン、トラ、襲う。」では、 それとも はたまた のかわからない。 この「が」「を」のような、動作をする側とされる側の関係づけをするための助詞のことを格助詞(かくじょし)という。 気を付けるべきこととして、助詞「が」のつく文節は、必ずしも主語とは限らない。 たとえば、 という文は、けっして「これ」さんが何かを欲しがっているわけではない。そうでなくて、話し手の、欲しがっている対象物が、代名詞「これ」で表される何かなだけである。 つまり、ここでいう「これが」は、英語でいう所の目的格である。なお、学校文法では「これが欲しい」の「これが」は『連用修飾格』という格に分類する。 しかし、日本語の学校文法では、(英語でいう)目的格のようなものも「格」として扱うので、助詞「が」は、どっちにせよ「が」は格助詞である。 なお、「寒いが、外出した。」の「が」は、格助詞ではない。「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。 つまり、「より」は格助詞である。「から」は格助詞である。 さて、「僕は好きだ。」・「テニスは好きだ。」のような「は」については、文法の理論上、難しい問題があり、いちぶの学校教科書によっては説明を避けている場合もある。 三省堂や学校図書や光村図書の検定教科書で助詞「は」を紹介しているが、これらの出版社の検定教科書では、助詞「は」は副助詞(ふくじょし)に分類される。副助詞については後述する。格助詞としては扱わない。) たとえば、(学校教科書では習わない文だが、) という文を考えれば、「は」を格助詞と考えるべきかどうか、いまいち不明確だと分かるだろう。「象」は「鼻が長い」性質の(英文法でいうところの)主格でもなければ、(英文法でいうところの)目的格でもない。(英語でいう所有格「〜の」の)象の鼻は長いが、しかし料亭で「ぼくはチャーシューメン」という場合は、チャーシューメンを注文しているのであって、けっして「僕のチャーシューメン」をどうかしようとしているわけではない。 助詞「は」の意味を紹介している三省堂の検定教科書では、助詞「は」は、題目をあらわす助詞として分類している。 (※ 範囲外: )学校文法(主に橋本文法)ではないが、助詞「は」を、主題・話題をあらわす助詞として分類する学説もある(三上文法など)。 などの連体修飾語としての「の」は、格助詞に分類します。 「の」には、 のように、名詞のかわりをする用法もあります。(「もの」の意味。例文の場合は、「君のものだ。」の意味) のように、「すること」の「こと」の意味で「の」が使われる場合もあります。 このように「こと」「もの」の意味で助詞「の」が使われる場合もあり、この場合の助詞「の」も格助詞に分類します。 また、 のように、動詞の前に「の」がついて、主語になる場合もある。 これらの用法(「の」の名詞の代わり用法。主語を示す助詞としての「の」)の場合も、すべて格助詞として分類する。 なお、混同しやすい例として のような文末の「の」がありますが、これは終助詞「の」です。文末の「の」は格助詞ではないです。 接続助詞(せつぞくじょし)は、主に用言に接続して、下に来る部分との関係を明らかにするものである。接続詞に置き換えることもできる。 「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。 副助詞(ふくじょし)は体言や格助詞に接続し、その文節に副詞のように用言や述語・述部を修飾する役割を持たせる。 三省堂や学校図書や光村図書(教科書会社名)の検定教科書では、助詞「は」は副助詞として分類される。 教育出版は、助詞「は」については説明をさけている。 終助詞(しゅうじょし)は述語に接続し、聞き手や読者などに禁止や疑問・勧誘などの働きかけを行う。 他にも「君の(もの)だ」の「の」のように体言の働きを持つものを準体助詞、「ね」「さ」「よ」などのように文節の切れ目に自由に入れて、強調したりリズムを整えたりするものを間投助詞という。 単語の中には品詞を区別しにくいものも多い。いくつかの例を見てみよう。 1の「きれいだ」は形容動詞だが、2の「病気だ」は名詞「病気」+助動詞「だ」である。これをどうやったら区別すればよいだろうか。この場合は副詞「とても」を入れるとよい。副詞は主に用言を修飾するので、1は問題ないが、2だと「山田さんはとても病気だ」となり、不自然な文になる。 「小さい」は形容詞だが、「小さな」は連体詞である。これは形容詞の活用の中に「な」の形がないことから判断する。 どちらも「ない」だが、1は打消の助動詞「ない」で、2は形容詞「ない」である。この場合は自立語は単独でも文節を作れることや打消の助動詞「ぬ」を入れて判断することができる。 単語の一部または全体につけることで品詞そのものを変えたり、意味を付け加えたりする言葉がある。その内、単語の頭につけるものを接頭語、後ろにつけるものを接尾語という。接頭語・接尾語は一つの単語として数えず、接続したものとセットで一つの単語としてみる。 日本語の接頭語の例を挙げる。「お」「ご」は名詞や動詞について尊敬や丁寧の意味を付け加える。既に敬語のところで述べたように、「お」は和語に、「ご」は漢語に接続する。他には名詞に接続する「新」「超」「反」や特定の色の名詞に接続する「まっ」がある。 接尾語は、形容詞の語幹に接続して名詞を作る「さ」、「さん」「様」などの敬称、名詞に接続して連体修飾語な意味を持たせる「的」「性」などが挙げられる。 文には単文(たんぶん)、複文(ふくぶん)、重文(じゅうぶん)の3種類がある。単文(たんぶん)は一つの主語・述語のセットで成り立っている。複文(ふくぶん)は二つ以上の主語・述語のセットでできており、ある主語・述語のセットが別の文節を修飾したり、文の主部・述部になっているものである。重文(じゅうぶん)も二つ以上の主語・述語のセットでできているが、修飾関係などはなく対等な関係にある。 例文:
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中学校の教科書の漢文では、一年生では故事成語(こじせいご)を習い、二年生以降杜甫(とほ)、李白(りはく)、孟浩然、王維(おうい)などの唐代の盛唐四大家の詩と論語(ろんご)を学ぶ。 学習内容は、レ点(れてん)や一二点(いちにてん)、漢詩(絶句、律句などの形式)である。 白文(はくぶん)は、この後紹介する返り点や送り仮名を書いていない、漢文の元の文章をそのまま書き表したものである。 訓読文(くんどくぶん)は、白文に日本語として読みやすいように返り点や送り仮名をつけた文である。 書き下し文(かきくだしぶん)は、訓読文についている返り点や読み仮名を反映した、日本語として成立した文である。 レ点(れてん)とは、上の語と下の語を入れ替えて読む記号である。漢字と漢字の間の左に書く。 例えば、 は、「別れを恨みては鳥にも心を驚かす」となる。 一二点は、二点が上にあり、一点が下にある。 読み方は、二点のすぐ上の語を最後に読み、先に二点のすぐしたにある語から一点になるまで下に読み続ける。 例えば、 は、「烽火三月に連なり」となる。 今度はこれらを組み合わせたものを見てみよう。 この場合、レ点が連続していることがわかる。このときは二つ目のレ点の下・真ん中・一番上とよむ。したがって「その人応(こた)ふる能(あた)はざるなり」と書く。 今度は一点とレ点が組み合わさっている。このときはレ点を優先して「之(これ)」から読み、続いて「問」を読むようにする。他は基本に従って読む。そうすると「子路(人名)をして之に問はしむ」と読む。 漢文を書き下し文にして読むときに使用しない字がある。これを置き字(おきじ)という。中学校では「而」「於」ぐらいしかないので覚えてしまいたい。ただし、ひらがなで読みがなが書かれているときには書き下し文に書いて読む。 詩の形式は、律詩、絶句と五言、七言を組み合わせた四つがある。 律詩は、首聯(一・二句目)・がん聯(三・四句目)・頸聯(五・六句目)・尾聯(七・八句目)からできている。 そのうち、がん聯と頸聯は対句とし、レ点や一二点の位置を句内で対称にする。 絶句は、起句(一句目)・承句(二句目)・転句(三句目)・結句(四句目)からなる。 五言は、一句の文字数が五つである。また、七言は、文字数が七つである。 押韻は、同音の句が韻を踏んでいることである。 五言の場合は、偶数句末。七言は、初句末と偶数句末である。
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国破れて 山河在り (くにやぶれて さんがあり) 城春にして 草木深し (しろはるにして そうもくふかし) 時に感じては 花にも涙を濺ぎ (ときにかんじては はなにもなみだをそそぎ) 別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす (わかれをうらんでは とりにもこころをおどろかす) 烽火 三月に連なり (ほうか さんげつにつらなり) 家書 万金に抵たる (かしょ ばんきんにあたる) 白頭掻けば 更に短く (はくとうかけば さらにみじかく) 渾て簪に 勝えざらんと欲す (すべてしんに たえざらんとほっす) 国の都の長安は戦争で破壊されてしまったが、自然の姿は昔のままである。 町にも春が来て、草木は深く生い茂っている。 このような戦乱の時世を思えば、花を見ても涙が落ちる。 家族との別れを悲しんでは、鳥の鳴き声を聞いても心が痛む。 戦乱ののろし火は、もう何ヶ月も続いていて、家族からの手紙は万金にも値(「あたい」)する(ほど貴重である)。 (悲しみのあまり頭を掻いて)白髪頭を掻けば、(髪が抜けるので)髪は更に薄くなって、簪(かんざし)も挿せなく(させなく)なりそうだ。 四句からなる詩を絶句(ぜっく)といい、八句からなる詩を律詩(りっし)という。 『春望』の形式は律詩。(八句からなるので。) 律詩のうち、一句の字数が五字のものを五言律詩(ごごんりっし)といい、一句の字数が七字のものを七言律詩(しちごんりっし)という。 『春望』の形式は五言律詩。
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黄鶴楼(こうかくろう)にて孟浩然(もうこうねん)の 広陵(こうりょう)に之く(ゆく)を送る 故人(こじん)西のかた、黄鶴楼(こうかくろう)を辞(じ)し 煙花(えんか)三月(さんがつ)揚州(ようしゅう)に下(くだ)る 孤帆(こはん)の遠影(えんえい)、碧空(へきくう)に尽(つ)き 唯だ(ただ)見る長江(ちょうこう)の天際(てんさい)に流るる(ながるる)を 古くからの友人(孟浩然)は、西にある黄鶴楼(こうかくろう)に別れを告げ、 花が咲き春の霞が立つ三月に、揚州へと(長江を)下っていった。 遠くに見える(友が乗っている)一そうの舟の帆も、青空に消えそうになり、 ただ、長江が天の果てまで流れていくのを見るばかりである。 七言絶句
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江(こう)は 碧(みどり)にして 鳥(とり)は 逾々(いよいよ)白(しろ)く 山(やま)は 青(あお)くして 花(はな)は 然えん(もえん)と欲す(ほっす) 今春(こんしゅん) 看(みすみす) 又(また)過(す)ぐ 何(いず)れの日(ひ)か 是(こ)れ 帰年(きねん)ならん
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春眠不覚暁   春眠(しゅんみん) 暁(あかつき)を覚えず(おぼえず)、 処処聞啼鳥   処処啼鳥(しょしょていちょう)を聞く、 夜来風雨声   夜来風雨(やらいふうう)の声(こえ)、 花落知多少   花(はな)落つること(おつること)知る(しる)多少(たしょう)。 漢文(かんぶん)とは、昔の中国の文章。漢文の原文は、漢字のみ。しかし、漢字だけでは、われわれ日本人が読みづらいので、古くから日本では、送り仮名をつけて読んでいた。「春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚えず(おぼえず)、」といった読み方は日本での読み方であり、べつに中国人が、こう読んでいるわけではない。また、日本語での語順と、漢文の語順はちがっている。文法が、中国語と日本語ではちがうので、語順がちがってくるのである。 四句からなる詩を絶句(ぜっく)といい、八句からなる詩を律詩(りっし)という。 絶句のうち、一句の字数が五字のものを五言絶句(ごごんぜっく)といい、一句の字数が七字のものを七言絶句(しちごんぜっく)という。 一句の字数は五字で四句からなるので、『春暁』の形式は五言絶句である。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E6%98%A5%E6%9A%81
(書き出しの部分) (インドにある)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音には、「すべてのものは、(けっして、そのままでは、いられず)かわりゆく。」ということを知らせる響きがある(ように聞こえる)。 沙羅双樹の花の色には、どんなに勢い(いきおい)のさかんな者でも、いつかはほろびゆくという事をあらわしている(ように見える)。 おごりたかぶっている者も、その地位には、長くは、いられない。ただ、春の夜の夢のように、はかない。強い者も、最終的には、ほろんでしまう。 まるで、風に吹き飛ばされる塵(ちり)と同じようだ。 遠く異朝(いてう、イチョウ)をとぶらへば、秦(しん)の趙高(ちょうこう)、漢(かん)の王莽(おうまう、オウモウ)、梁(りゃう、リョウ)の朱伊(しうい、シュウイ)、唐(たう、トウ)の禄山(ろくざん)、これらは皆(みな)、旧主先皇(せんくわう、センコウ)の政(まつりごと)にも従はず(したがはず)、楽しみを極め(きはめ)、諌め(いさめ)をも思ひ(オモイ)入れず、天下の乱れむ事を悟らず(さとらず)して、民間の愁ふる(ウレウル)ところを知らざりしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。 近く本朝(ほんてう、ホンチョウ)をうかがふに、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これらはおごれる心もたけき事も、皆(みな)とりどりにこそありしかども、 間近くは(まぢかくは)、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう、ニュウドウ)前(さきの)太政大臣平朝臣(タイラノアッソン)清盛公と申しし人のありさま、伝へ(ツタエ)承る(うけたまはる、ウケタマワル)こそ、心も詞(ことば)も及ばれね(およばれぬ)。 遠く外国の(例を)さがせば、(盛者必衰の例としては)秦(しん、王朝の名)の趙高(ちょうこう、人名)、漢(かん)の王莽(おうもう、人名)、梁(りょう)の朱伊(しゅい、人名)、唐(とう)の禄山(ろくざん、人名)(などの者がおり)、これら(人)は皆、もとの主君や皇帝の政治に従うこともせず、栄華をつくし、(他人に)忠告されても深く考えず、(その結果、民衆の苦しみなどで)世の中の(政治が)乱れていくことも気づかず、民衆が嘆き訴えることを気づかず、(権力も)長く続かずに滅んでしまった者たちである。 (いっぽう、)身近に、わが国(=日本)(の例)では、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これら(の者ども)は、おごった心も、勢いの盛んさも、皆それぞれに(大したものであり、)、(こまかな違いはあったので、)まったく同じではなかったが、最近(の例)では、六波羅の入道の平清盛公と申した人の有様(ありさま)は、(とても、かつての権勢はさかんであったので、)(有様を想像する)心も、(言い表す)言葉も、不十分なほどである。 一の谷の戦いで源氏が勝利をおさめ、平家は海上に逃れていった。 源氏の武将、熊谷(くまがい)が磯(いそ)のほうに進むと、なにやら立派な鎧の敵将が、これから海に逃れようとしている。 熊谷、 「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ(さふらえ)。まさなう(ノウ)も敵(かたき)に後ろ(うしろ)を見せさせたまふものかな。返させたまへ。」 と扇(あふぎ、オウギ)を上げて招き(まねき)ければ、招かれてとつて(トッテ)返す。 汀に(みぎはに、ミギワに)うち上がらむとするところに、おし並べてむずと組んでどうど落ち、とつて(トッテ)おさへて首をかかんと甲(かぶと)をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧(うすげしやう)して、かねぐろなり。わが子の小次郎(こじらう)がよはひ(ヨワイ)ほどにて容顔まことに美麗(びれい)なりければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。 熊谷が(言った)、 「そこを行かれるあなたは大将軍とお見受けいたします。見苦しくも敵(=源氏)に後ろ(=後ろ姿、背中)をお見せになるものよ。お引き返しなされ。」 と扇を上げて、招くと、(その平家の武者は、)招かれて引き返す。 (平家の武者が)波打ち際に上がろうとするところに、(熊谷は、馬を)強引に並べて、むずと組んでどうっと落ち、(熊谷が、平家の武者を)取り押さえて、(平家の武者の)首を切ろうと、かぶとを仰向け(おうむけ)にして(顔を)見てみると、年十六、七くらいの(若武者)が薄化粧して、お歯黒をつけているのであった。わが子の(熊谷の子の)小次郎ぐらいの年齢であった。顔立ちがたいへんに美しく、(熊谷は)どこに刀をさしてよいかも分からない。 「そもそも、いかなる人にてましまし候ふ(さふらふ、ソウロウ)ぞ。名のらせたまへ、助けまいらせん。」 と申せば、「汝は(ナンジは)たそ」 ととひ給ふ。 「物そのもので候はねども、武藏(むさし)の国(くに)の住人、熊谷(くまげへの、クマガエノ)次郎(じらう、ジロウ)直実(なほざね、ナオザネ)。」と名のり申す。 「さては、なんぢにあふては名のるまじゐ(イ)ぞ、なんぢがためにはよい敵(かたき)ぞ。名のらずとも首をとって人に問へ(トエ)。見知らふ(ミシロウ)ずるぞ。」 とぞのたまひ(イ)ひける。 (熊谷が若武者に言った、)「いったい、(あなたは)どういう身分の人にて、いらっしゃいますか。お名乗りください。お助けいたしましょう。」と申すと、「(そういう)おまえは誰だ。」とお尋ねになる、(熊谷は答えて、)「物の数に入るほどの者ではございませんが、武蔵野の国の住人、熊谷次郎直実。」と名乗り申し上げる。 (若武者は答えて)「それでは、お前に対しては名乗る気はないぞ。お前の(手柄の)ためには、(私は)よい敵だぞ。(私が)名乗らなくても、首を切って、人に(私の名を)尋ねてみろ。見知っているだろうよ。」と、おっしゃった。 熊谷(くまがえ) 「あつぱれ(アッパレ)大将軍(たいしやうぐん)や、この人一人(いちにん)討ち(うち)たてまたりとも、負くべきいくさに勝べきやう(ヨウ)もなし。また討ちたてまつらずども、勝つべきいくさに負くることよもあらじ。小次郎が薄手(うすで)負うたるをだに、直実は心苦しう(クルシュウ)こそおもふに、この殿(との)の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆き(なげき)たまはん(タマワン)ずらん、あはれ(アワレ)、助けたてまつらばや」と思ひて、後ろをきっと見ければ、土肥(とひ、トイ)・梶原(かぢはら、カジワラ)五十騎(き)ばかりで続いたり。 熊谷(くまがえ)泪(なみだ)をおさへて申けるは、 「助けまゐ(イ)らせんとは存じ候へども、味方(みかた)の軍兵(ぐんぴょう)、雲霞(うんか)のごとく候ふ。よものがれさせ給はじ。人手にかけまゐ(イ)らせんより、同じくは、直実が手にかけまゐ(イ)らせて、後の御孝養(おんけんやう)をこそ仕り(つかまつり)候はめ。」 と申ければ、 「ただ、とくとく首をとれ。」 とぞのたまひける。 熊谷あまりにいとほ(オ)しくて、いづくに(イズクニ)刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消えはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く々く首をぞかいてんげる。 「あはれ、弓矢とる身ほど口惜し(くちをし、クチオシ)かりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかる憂き目(うきめ)をばみるべき。情けなうも討ちたてまつる物かな。」 とかきくどき、袖を顔(かほ)に押し(おし)あててさめざめとぞ泣きゐ(イ)たる。 熊谷は(言った)、「ああ、立派な大将軍だ。この人一人を討ち申したとしても、負けるはずのいくさに勝てるわけでもない。また、討ち申さなくとも、勝つはずのいくさに負けることも、まさかあるまい。わが子の小次郎が軽い傷を負っただけでも、この直実(自分)はつらく思うのに、まして、この殿(若武者)の父親は、(子が)討たれたと聞いたら、どれほどお嘆きになるだろう。ああ、お助け申したい。」と思って、(自分の)後ろをさっと見てみれば、(味方の源氏の)土肥・梶原の軍勢が五十騎ほど続いている。 熊谷は泪(なみだ)を抑えて、(若武者・敦盛(あつもり)に)申したことは、「お助け申したいとは思いますが、味方(=源氏側)の軍勢が雲霞のように(大ぜい)おります。決して、お逃げにはなれないでしょう。他の者の手にかかるならば、(どっちみち命が助からないのならば、)同じことなら、この直実の手でお討ちになり、のちのご供養(ごくよう)をさせていただきましょう。」と申したところ、 (若武者は、)「とにかく、さっさと(私の)首を取れ。」とおっしゃった。 熊谷は、あまりに、(若武者が)かわいそうに感じて、どこに刀を刺してよいかも分からず、涙で目もくらみ、気も動転して、(まるで)前後も分からないようなほどに思われたけど、(けっして、いつまでも、)そうばかりもしていられないので、泣く泣く首を切ってしまった。 (熊谷は、)「ああ、弓矢を取る(武士の)身ほど、悔やまれるものはない。武芸の家に生まれさえしなければ、なんでこのようなつらい目にあったであろうか。非情にも、お討ち申しあげたものだ。」と、くりかえし嘆き(「かきくどき」=繰り返し、つぶやく。)、そでを顔に押し当てて、さめざめと泣き続けた。 やや久しう(シュウ)あつて(アッテ)、さてもあるべきならねば、鎧(よろい)直垂(びたたれ ←ひたたれとも読むがこの場合はびたたれ)をとつて(トッテ)、首を包まん(つつまん)としけるに、錦(にしき)の袋に入れたる笛をぞ、腰にさされたる。  「あないとおし、この暁(あかつき)、城のうちにて管絃(くわんげん、カンゲン)したまひつるは、この人々にておはしけり。当時味方に東国の勢何万騎(ぎ)かあるらめども、いくさの陣(ぢん)へ笛持つ人はよもあらじ。上﨟(じやうらふ)は、なほも(ナオも)やさしかりけり。」 とて、九郎御曹司(くらういんざうし)の見参(げんざん)に入れたりければ、これをみる人、涙を流さずといふことなし。後に聞けば、修理大夫(しゅりのだいぶ)経盛(つねもり)の子息に大夫敦盛(あつもり)とて、生年(しょうねん)十七にぞなられける。 それよりしてこそ熊谷が発心(ほつしん、ホッシン)の思ひ(オモイ)はすすみけれ。 (翻訳は省略前節の解説を読んでください。) 結末: 結局、与一の放った矢は命中する。 那須与一は、源氏のがわの兵で、弓矢の名人。 海上にいる平家の側の舟から、扇(おうぎ)のついた棒の立った舟が出てきたので、疑問に思った義経が「あれは何だ?」と部下に聞いたところ、「この扇を射ってみろ、という事でしょう。おそらく、弓をいろうと出てきた義経さまを、逆に射殺してやろうという策略でしょう。それでも、部下のものに、扇を射させたほうが、よろしいでしょう。」と。 そして、与一が選ばれる。 途中、いろいろあったが、最終的に扇に、与一の矢が命中する。 頃(ころ)は二月(にんぐわつ)十八日の酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風(ほくふう)激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。 舟は、揺り上げ揺りすゑ(え)漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。 沖には平家、舟を一面に並べて見物す。 陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。 いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。 与一目をふさいで、 「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光(につくわう、ニッコウ)の権現(ごんげん)、宇都宮(うつのみや)、那須(なす)の湯泉大明神(ゆぜんだいみやう(ミョウ)じん、)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度(ふたたび)面(おもて)を向かふべからず。いま一度(いちど)本国へ迎へん(ムカエン)とおぼしめさば、この矢はづさせ(ハズサセ)たまふな。」 と心のうちに祈念(きねん)して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。 与一、鏑(かぶら)を取つてつがひ、よつ引ぴいて(ヨッピイテ)ひやう(ヒョウ)ど放つ。 時は二月十八日の酉の刻(=午後六時)ごろのことであったが、折から北風が激しく(吹い)て、磯に打ち付ける波も高かった。舟は(並みのため)上へ下へと揺れて漂うので、扇も竿の先に静止しておらず、ひらひらとしている。沖では平家が、舟を一面にならべて見物している。(いっぽう、)陸では源氏が、馬のくつわを並べて、これを見守る。 どちらも、どちらも、晴れがましい情景である。与一は目をふさいで、 「南無八幡大菩薩(なむはちまん だいぼさつ)、わが故郷の神々の、日光の権現(ごんげん)、宇都宮大明神と、那須の湯泉(ゆぜん)大明神よ、願わくは、あの扇の真ん中を射させてください。(もし、)これを射損じるものならば、弓を切りおって(私・与一が)自害(自害=自殺・切腹など)し、人に(他人に)二度と顔を合わせるつもりはありません。いま一度、(私を)故郷に迎えてやろうとお思いになるなら、この矢を外させないでください。」 と(与一が)心のうちに祈り(いのり)念じて、(与一が)目を見開いたところ、風も少し弱まり、扇も(静かになり)射やすくなった。 与一は鏑矢(かぶらや)を取ってつがえ、十分に引きしぼって(「よっぴいて」=「よく引いて」の音便)、ひょうと(矢を)放った。 小兵(こひやう、コヒョウ)といふぢやう(イウジョウ)、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦(うら)響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要(かなめ)際(ギワ、ぎは)一寸ばかりおいて、ひいふつ(ヒイフッ)とぞ射切つ(キッ)たる。 鏑(かぶら)は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。 しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海へさつ(サッ)とぞ散つたり(チッタリ)ける。 夕日のかかやいたるに、みな紅(ぐれなゐ、クレナイ)の扇の日出(い)だしたるが、白波の上に漂ひ(タダヨイ)、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船端(ふなばた)をたたいて感じたり、陸には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり。 (与一は)小柄な武者とは言いながら、矢(の長さ)は十二束三伏で(長くて)、弓も強く、浦一帯に響くほど(鏑矢は)長いあいだ鳴り響き、誤りなく扇の要際から一寸ほど離れたところを、ひいふっと射きった。かぶら矢は海へ落ち、扇は(衝撃で)空へと舞い上がった。 扇は、しばらく空中で舞っていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散り落ちていった。夕日のかがやいている中に、日輪を描いた真っ赤な扇が白波の上に漂い、(扇が)浮きつ沈みつ揺られれば、沖では平家が(感嘆し)、船端を叩いて感嘆し、陸では源氏が、えびらをたたいて、はやしたてた。 あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやとおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男(をのこ)の、黒革をどしの鎧(よろひ)着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持つたる(モッタル)が、扇立てたりける所に立つて舞ひしめたり。 伊勢三郎義盛(いせのさぶらうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄って、 「御定(ごぢやう)ぞ、つかまつれ。」 と言ひければ、今度は中差(なかざし)取つて(トッテ)うちくはせ、よつぴいて、しや(シャ)頸(くび)の骨をひやうふつ(ヒョウフッ)と射て、舟底へ逆さまに射倒す。 平家の方(かた)には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。 「あ、射たり。」 と言ふ(イウ)人もあり、また、 「情けなし。」 と言ふ者もあり。 あまりの面白さに、感に堪えなかったのであろうか、舟の中から年のころ五十歳ばかりの男で、黒革おどしの鎧を着ていて、白江の長刀を持った男が、扇の立ててあった場所に男が近づき、舞を踊る。(源氏側の)伊勢(いせの)三郎(さぶろう)義盛(よしもり)は、与一の後ろに馬を歩み寄らせ、「ご命令だ、射よ。」と言うので、(与一は)今度は中差を取って弓につがえ、十分に引きしぼり、男の首の骨をひょうふっと射て、男を(船底へ)真っ逆さまに射倒す。 その平家側の男を射ることを命じる。命令どおり、与一は射って、舞っていた男は首のあたりを射られ、射殺され、海へと落ちる。 「ああ、射当てた。」と言う人もあれば、「非情だ。」と言う者もいる。 作者は、舞をまった男を殺した源氏の行為を、戦場の非情さの例として書いている、と思われる。 戦場なので、敵を殺すこと自体には、非難される理由はない。 しかし、作者は、「情けなし。」(非常だ。心無いことだ。)という意見を、あえて取り上げている。ここに、戦場の敵側とはいえ、自分たち源氏を祝う者を殺した源氏に対しての、作者の不快感が出ていると思われる。そして、なにより、戦場の非情さを描いていると思われる。 そして、人生の "はかなさ" を書こうとしているものと思われる。 そのほか、平家と源氏との美意識のちがいなどを、作者は書こうとしていると思われる。平家の、敵とはいえ素晴らしい者には祝って舞を舞うという風流な価値観。いっぽう、源氏の側は戦争の勝利こそが、武士の名誉と考えている。 平家と源氏の美意識のちがいは、ひいては、貴族と武士との価値観の違いであろう。 (なお、平家も、武士の一族である。) 平家物語の作者は不明だが、琵琶法師などによって語りつがれた。 作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。 作者:不明 平家(へいけ)という武士(ぶし)の日本を支配(しはい)した一族が、源氏(げんじ)という新たに勢力の強まった新興(しんこう)の武士に、ほろぼされる歴史という実際の出来事をもとにした、物語。 平安時代から鎌倉時代に時代が変わるときの、源氏(げんじ)と平氏(へいし)との戦争をもとにした物語。 なお、平家がほろび、源氏(げんじ)の源頼朝(みなもとのよりとも)が政権をうばいとって、鎌倉時代が始まる。 那須与一は、歴史上は実在しなかった、架空の人物の可能性がある。そのため読者は、中学高校の歴史教科書では、那須与一を実在人物としては習わないだろう。
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仁和寺の僧侶の失敗談。 ある仁和寺の僧侶が、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を拝もうと旅行したが、付属の神社などを本体と勘違いし、本体である石清水八幡宮には参拝しないまま、帰ってきてしまった、という話。 兼好法師は、教訓として「ささいなことにも、指導者は、あってほしいものだ。」と結論づけている。 石清水八幡宮は山の上にあり、その山のふもとには付属の自社である極楽寺や高良神社がある。 仁和寺(にんなじ)にある法師(ほふし)、年寄(としよ)るまで、石清水(いはしみづ)を拝ま(をがま)ざりければ、心憂(う)く覚えて、ある時(とき)思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)より詣で(まうで)けり。極楽寺(ごくらくじ)、高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得(こころえ)て帰りにけり。 さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果(はた)し侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊く(たっとく)こそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事(なにごと)かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。 すこしのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。 仁和寺(にんなじ)にいる僧が、年をとるまで、岩清水八幡宮(いわしみず はちまんぐう)を参拝しなかったので、(まだ参拝してないことを)残念に思ったので、あるとき(参拝しようと)思い立って、たった一人で徒歩で、お参りした。極楽寺(ごくらくじ)や高良神社(こうらじんじゃ)などを拝んで、これだけのものと思い、帰ってしまった。 さて(帰ったあと)、仲間に向かって、「長年の間、思っていたことを、果たしました。(八幡宮は、)(うわさに)聞いていた以上に、とうとくあられた。それにしても、(岩清水に)お参りにきていた人が、みんな、山に登って行ったのは、何があったのだろうか。(私も)ぜひ見てみたかったけれど、(岩清水八幡宮の)神へお参りするのが最初からの目的であると思って(観光旅行ではないので、よそはよそと)、山までは見なかった。」と言ったという。 (こういうことがあるので、)ちょっとしたことにも、その道の案内者はあってほしいものである。 「尊く」は「とうとく」「荘厳で」。「おはす」は「あられる」「いらっしゃる」。「けれ」は過去を表す助動詞「けり」の已然形。 → 仁和寺のお坊さんは、他の参拝者の皆が山に登るので、なぜ登っているのか、山の上に何があるのかが、たいそう気になったのである。多くの人は、岩清水八幡宮(のご本尊)が山上にあることくらい知っている。しかし、このお坊さんは、岩清水八幡宮へはもうすでに全部お参りしたと勘違いしていて、長年の夢を果たしたとひとり思い込んで(せっかく出かけたのに)帰ってしまった。しかも、それを仲間に得意げに(きまじめな顔で)話している、少しおっちょこちょいなお坊さんである。 そうして、著者の兼好法師は、ちょっとしたことも、ガイドさんがいた方が、失敗が無くてすむというものだ、という結論で締めくくっているのである。この話を読んだ私たち読者は、これを教訓として捉えるのである。 ※「係り結びの法則」について (書き出しの部分) (一人で特にすることもなく、)退屈なのにまかせて、一日中、机に向かって、心の中に次々と浮かんでは消えていく、たわいのないことを、(勢いにまかせて、)とりとめもなく書きつけていると、妙になんだかおかしな気分になってくる。 「ものぐるほし」: 単語集によっては意味が「気が変になりそうだ」というものもあれば(桐原)、「馬鹿げている」というものもある(三省堂)。このように、単語集によって訳が違うので、訳出において、あまり細部を暗記する必要はない。 「つれづれなる」: 徒然草は鎌倉時代に書かれた作品である。さて、「つれづれなる」という言葉を使い始めたのは、けっして鎌倉時代の吉田兼好ではない。すでに平安時代の『源氏物語』という作品で(高校で源氏物語を習う。なお、鎌倉幕府の源平合戦とは無関係)、「つれづれなるままに、南の半蔀(はじとみ)ある長屋に渡り来つつ」(源氏物語・夕顔(ゆうがお) )という文がある。「手持ちぶさたなので(「特にすることがないので」という意味)、南の半蔀(はじとみ)ある長屋にやって来ては」と訳せる。 上述の語注の「(3) 静かで集中できるさま」は、やや意訳である。高校レベルの単語集を見ても(桐原、三省堂)、そのような意味は無い。 このほか、平安時代に『枕草子』で、134段「つれづれなるもの、除目(ずもく)に官(つかさ)得ぬ人の家。」とあるが、ただし前後の文脈からこの場合、「退屈」とは意味がやや違っている。 ある人、弓射ることを習ふに、諸矢(もろや)をたばさみて、的(まと)に向かふ。 師の言はく、 「初心(しょしん)の人、二つの矢を持つことなかれ。後(のち)の矢を頼みて、初めの矢になほざりの心あり。毎度(まいど)、ただ、得失(とくしつ)なく、この一矢(ひとや)に定むべしと思へ。」 と言ふ。 わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせむと思はんや。懈怠(けだい)の心、自ら(みづから)知らずといへども、師、これを知る。この戒(いまし)め、万事(ばんじ)にわたるべし。道を学する人、夕(ゆふべ)には朝あらむことを思ひ、朝には夕あらむことを思ひて、重ねてねんごろに修(しゅ)せむことを期(ご)す。いはむや、一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らむや。何(なん)ぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだ難(かた)き。 ある人が、弓を射ることを習うときに、二本の矢を手にはさんで、的に向かう。先生の言うには、 「初心者は(= 習い始めの人は)、二つの矢を持ってはいけない。(なぜなら、)のちの矢(= 二本目の矢)をあてにして、はじめの矢(一本目の矢)を、おろそかにしてしまう気持ちがでる。毎回、当たるか外れるかを考えず、この一本で当てようと思え。」 たった二本の矢を射るのに、先生の前で、おろそかにしよう(射よう)と思うだろうか。(いや、思うはずがない。)(しかし、)怠け心というものは、(弓を習っている)本人は気付かなくても、(実は)心の片隅に生じてしまうということを、先生は分かっている。(ところで、)この(弓についての)教訓は、全ての物事に通用するだろう。仏道を修める人は、夕方には翌朝があることを思い、朝には夕方があることを思って、あとでもう一度丁寧に修行する心づもりでいる。(そんなにのんきでいて、)どうしてほんの一瞬間の中に、怠けおこたる心があることを気付くだろうか、いや、気付きはしない。(しかし、実はここに怠けりの心が潜んでいるのである。)  (こう考えてくると、)なんとまあ、たった今の一瞬間において、すぐに実行することの非常に難しいことよ。 兼好法師は、鎌倉時代の人物。 本名は、卜部兼好(うらべ かねよし)。 はじめは、卜部家が代々、朝廷に神職として仕えていたので、兼好法師も後二条天皇に仕えていたが、崩御ののち、兼好法師は出家した。 京都の「吉田」という場所に住んでいたので(あるいは、京都の「吉田神社」にちなんで)、江戸時代以降、吉田兼好(よしだけんこう)の名で広く呼ばれるようになった。
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『枕草子』(まくらのそうし)とは、清少納言(せい しょうなごん)という実在の女が、ひごろ、感じたことを書いた文章である。現代(げんだい)でいう、いわゆる「随筆」(ずいひつ)である。枕草子は、物語ではない。平安時代の作品である。 うつくしきもの。瓜(うり)に描きたる(かきたる)ちごの顔。すずめの子の、ねず鳴きするに踊り(をどり)来る。二つ三つばかりなるちごの、急ぎて這ひ(はイ)くる道に、いと小さき塵(ちり)のありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげ(おかしげ)なる指(および)にとらへて、大人ごとに見せたる、いとうつくし。 頭(かしら)は尼(あま)そぎなるちごの、目に髪(かみ)のおほえるをかきはやらで、うち傾きて(かたぶきて)ものなど見たるも、うつくし。 現代語訳 かわいらしいもの。瓜に描いてある幼児の顔。(また、他にも、かわいらしいものとしては、)すずめの子が、(人が)ねずみの鳴きまねをしてチュウチュウとすると、踊るようにして、やってくる(のも、かわいらしい)。 (他にも。)二歳か三歳ぐらいの幼児が、急いで這ってくる途中に、とても小さいごみがあったのを、目ざとく見つけて、とても愛らしげな指(ゆび)につまんで、大人などに見せているのは、とてもかわいらしい。 髪をおかっぱにしている幼児の、目に髪の毛がおおいかぶさっているのを、かきあげもしないで、首をかしげて何かを見ているのも、かわいらしい。 (第一四五段) 語註など 「をかし」と「あはれ」の違い: 「をかし」も「あはれ」も、ともに「趣(おもむき)が深い」と訳される場合があるが、しかし意味あいは微妙に異なる。「をかし」は基本的に、やや明るい感じにさせるものを言う場合に使う傾向がある。 いっぽう、「あはれ」は、しみじみとした気分にさせるものを言う[1]。 現代語訳 春は、明け方(あけがた)が良い。 だんだん、白くなっていく山ぎわが、 少し明るくなって、紫がかった雲が、細くたなびいているのが、良い。 (読み: はる わ あけぼの。 ようよう しろく なりゆく やまぎわ、 すこし あかりて、むらさきだちたる くも の ほそく たなびきたる。) 夏は夜が良い。 月のあるころは言うまでも無い。(言うまでもなく、良い。) 月のない闇夜(やみよ)ですらも、蛍の多く飛び立っているのが見れて良い。 ただ、一ひき、二ひきなど、少しずつ飛んでいくのも、おもむきがある。 雨などがふるのも、おもむきがある。 「さらなり」の和訳の「言うまでもない」は、けっして意訳ではない。ほかの古典作品でも「言うまでもない」という意味である。 高校レベルだが「大鏡」(おおかがみ)という古典でも「さらなり」という単語があり、ここでも「言うまでもない」という意味である。 大鏡・6・冒頭部「延喜の御時に古今撰ぜられしをり、貫之はさらなり」(以下略)とあるのだが、これは意味は「延喜の時代、古今和歌集を撰じられたとき、紀貫之(きのつらゆき、※ 和歌ですごく有名な歌人のひとり)は言うまでもなく、」という内容である。 秋は夕暮れが良い。 夕日がさして、山ぎわに近くなったころに、からすが、ねぐらに帰るために、三羽・四羽、あるいは二羽・三羽、飛んでゆくのも、しみじみとしている。 まして、かりなどの列をつくっているようすが、(遠くを飛んだりして)小さく見えるのは、とても、おもむきがある。日がしずんでしまって、風の音や虫の声が聞こえてくるのは、言うまでも無い。(言うまでもなく、とても、おもむきがある。) ※ 「言ふべきにあらず。」の訳を、「言うことが出来ない。」「言いようが無い。」という訳をする場合もある。「言いようが無いほど、おもむきがある。」というような意味。 冬は、早朝が良い。雪のふりつもった朝は、言うまでもない。(言うまでもなく、良い。) 霜(しも)がおりて、たいそう白くなっているのも、また、そうでなくとも、たいそう寒い朝に火などを急いで起こして炭火を持って、廊下(ろうか)などをわたるのも、(冬らしくて)とても似つかわしい。(しかし、)昼になって、寒さがしだいにゆるんでいくと、火おけの火が、灰がちに白くなっているのは、みっともない。 (※高校の範囲)「つきづきし」 ・・・ 意味は「似つかわしい」。 清少納言は、清原元輔(きよはらのもとすけ、908年 - 990年)の娘。清少納言の本名は不明。 清原の姓にちなんで「清少納言」と呼ばれた。 清少納言は、平安時代の女房(にょうぼう)の一人。女房とは、宮中の女官。 清少納言は、枕草子の作者である。 一条天皇の時代に、藤原定子(ふじわらのていし)の女房として宮中に仕えた。藤原定子は、一条天皇の中宮。 藤原定子は女。「中宮」とは、天皇の妻たちの一つ。 源氏物語の作者の紫式部とともに、平安時代の王朝についての代表的な作家として、清少納言は有名。
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相手への敬意をあらわしたり、文をやわらかくする言葉を敬語(けいご)という。動詞や助動詞が特別な形になったり、名詞に「お」「ご」をつけることで敬語にすることができる。(一覧表はw:敬語より) 敬語の分類法は、じつは2通りある。 ひとつは、丁寧語・尊敬語・謙譲語の3種類に分類する方法と、 もうひとつは、丁寧語・尊敬語・謙譲語・美化語・丁重語の5種類に分類する方法である。 3種類に分類する場合、美化語は丁寧語の一部として扱うのが普通である。 学校教科書でも、教科書会社にとって3種類の方法を採用しているか、それとも5種類の方法を採用しているかが違う。 文献によっては、丁重語を「謙譲語II」などと表記する場合もある。 教育の歴史的には、明治時代から西暦2000年ごろまで長く、敬語は3分類で教育してきた。 しかし2007年ごろから、中学高校の学校教育で敬語の5分類を紹介してよい事になったようである。 尊敬語(そんけいご)とは、文中で話題になっている人物への敬意を直接表す言葉である。 動詞の尊敬語の場合なら、その動作をする人物が尊敬の対象である。 よって、たとえ、話題になってない人物への敬意があっても、話題にしている人物や動作主への敬意を示さない表現ならば、それは「尊敬語」には分類しない。 このような、文中の話題人物だけに敬意の限られる表現を、果たして「尊敬語」と呼ぶべきか読者は疑問があるかもしれないが、しかし歴史的な経緯によって「尊敬語」と呼ぶように普及してしまっている。なので、学校教科書でも、文中で話題になっている人物への敬意を直接表す言葉のことは「尊敬語」と呼んでいる。 動詞いがいでも、名詞にも尊敬語はある。 などは、名前に「さま」・「殿」をつけられる相手が尊敬されているので、尊敬語に分類される。 「あなた」・「どなた」も尊敬語である。 尊敬語とは、文中で話題になっている相手に敬意があることを明確に示す表現である。 なので、たとえ丁寧な言い回しであっても、たとえば「お米」や「ご飯」などのように、尊敬の意思が不明な表現の場合には、尊敬語には分類しない。 「ごらんになる」は見る人を尊敬しているので尊敬語である。 しかし「ご飯」は食べる人を尊敬しているわけではないので、尊敬語ではない。 たとえば のように、まったく敬意のない表現であっても、慣用的に「ご飯」でひとつの単語になっているので、使う場合もある。 「お休みになる」は、休む人を尊敬しているので、(「お休みになる」は)尊敬語である。 しかし「お米」は、コメを尊敬してはいないので、尊敬語ではない。 「ごらんになる」の「ご○○になる」ほかにも、「お帰りになる」「お食事になられる」などのように などのような動作をあらわす表現は普通、尊敬語である場合が多い。 しかし、「おたずねする」は、尋ねる人物は自分なので、尊敬語ではなく、謙譲語に分類する。 さて、中学・高校の敬語教育では、「お◯◯する」は機械的に謙譲語へと分類される。「お◯◯になる」は、機械的に尊敬語へと分類される。 たとえば、「お食事する」は謙譲語に分類される。「お食事になる」なら、機械的に尊敬語に分類される。 たとえば、 の「お元気」とは、尊敬語か丁寧語か。 これがもし「お米(を食べる)」や「ご飯(を食べる)」といった単語の場合、特に誰も尊敬していないので、「お米」も「ご飯」も普通は丁寧語に分類する。 しかし、「お元気ですか?」という文章の場合、尊敬している対象が聞き手、もしくは読み手である事が、明確である。 じっさい、自分の健康のことを「お元気」とは言わない。 「お元気」といった場合、自分いがいの誰かの健康のことについて言及しているのである。 これが、「お米」や「ご飯」などと、「お元気」の違いである。 問題は、この「お元気」を尊敬語に分類するか丁寧語に分類するかである。 日本の小中高の教育の敬語の分類では、「お元気」・「お休みになる」・「ごらんになる」などは「丁寧語」には分類しない。「お元気」などは尊敬語として分類する。 日本の学校文法では、けっして「丁寧語であり尊敬語である」(×)のような、2つの種類にまたがる分類はしない。 ひとつの敬語表現は、「もし丁寧語であれば、尊敬語ではないし謙譲語でもない」し、「もし尊敬語であれば、丁寧語ではないし謙譲語でもない」のように、丁寧語か尊敬語か謙譲語かのどれかひとつであるように分類する。 謙譲語(けんじょうご)とは、動詞の場合、その動作の受け手への敬意をあらわす表現である。 また、人物などの名詞・代名詞の場合は、その人物の立場を低くする(へりくだる)ことで、間接的に聞き手などへの敬意を表す言葉が、謙譲語である。 特殊な形のものが多い。 「おたずねする」は、たずねるのは自分なので、「おたずねする」は謙譲語に分類される。 名詞の謙譲語とは、たとえば「粗品(そしな)をお送りします。」の「粗品」が謙譲語である。(※ 光村図書が「拙著」を紹介) 自分のことを「小生」(しょうせい)というのも、謙譲語である。(※ 三省堂が「小生」を紹介) 自分が作家の場合、自分の著作を拙著(せっちょ)というのも、謙譲語である。「拙」(せつ)とは、「つたない」という意味であり、「つたない」とは、「ヘタである」「未熟だ」のような意味である。(※ 光村図書が「拙著」を紹介) 大人のサラリーマンやビジネスマンが、自分の勤務先の会社を「弊社」(へいしゃ)という場合があるが、これも謙譲語であろう。「弊」(へい)とは、「ついえる」とか「つかれる」とか、そういう意味である。(※ 光村図書が「弊社」を紹介) ちなみに、自分の勤務先いがいの会社のことを敬語でいう場合は「御社」(おんしゃ)という。(※ 光村図書が「御社」を紹介) さて、ところで、偉い人からの手紙を受けとった場合、「お手紙を受けとった」などと言ったら、「お手紙」は謙譲語だろうか? いっぽう、自分が手紙を送る場合にも「お手紙をお送りします」などというので、「お手紙」は尊敬語にもなるのだろうか? 検定教科書の出版社によっては、ある教科書会社の見解では、偉い人から送られた「お手紙」は謙譲語に分類し、一方、自分が偉い人に送る「お手紙」は尊敬語に分類する教科書もある。(※ 光村図書、教育出版などの中2国語の教科書) いっぽう、三省堂や学校図書の中2教科書は、このような「お手紙」の話題については、触れていない。 丁寧語(ていねいご)とは、特に敬意の対象を設けず、文をやわらかい調子にする言葉。文末を「です」「ます」としたり(敬体)、動詞と同じく「お」「ご」をつけることで丁寧語になる。 敬意の対象を設けないとはいえ、結果的に話し相手や読み手に敬意があってもかまわない。 丁寧語のうち「お花」や「お水」などのように、丁寧にされる対象のもの(例では、「花」や「水」)が尊敬対象で無い場合の丁寧語をとくに美化語と呼ぶ場合がある。 花を尊敬しているわけではなく、話し相手などを尊敬して場合もあるが、しかし、そうとは限らず特に誰も尊敬していない場合もあるので、尊敬語には分類せず、「お花」や「お水」などは「美化語」という丁寧語の一種に分類する。 ほかにも、たとえば、 のように、現代では「お」をつけるのが普通になってしまっている単語もある。 「ご飯」(ごはん)も、美化語である。(飯を尊敬しているわけではないだろう。) 敬語は日本語を母語とする人でも間違えやすい。間違いの多くは、尊敬・謙譲・丁寧の区別があいまいで、謙譲語を使うべきときに尊敬語を使ってしまうなどのミスと二重敬語と呼ばれる尊敬語(または謙譲語)の文節に尊敬の助動詞「れる」「られる」を用いる過剰な敬語表現である。よくあるミスを挙げてみよう。 また、よく議論になる敬語として、さ入れ言葉、れ足す言葉、「バイト敬語[3]」などがある。さ入れ言葉とは、「読ませていただきます」を「読まさせていただきます」とするように動詞の後に「さ」を入れることである。れ足す言葉は、「行けます」を「行けれます」といってしまうことである。そして、「バイト敬語」とは「コーヒーのほうをお持ちしました(正しくは「コーヒーをお持ちしました」)」「こちらコーヒーになります(「こちらがコーヒーです」でよい)」など、ファミリーレストランやコンビニにてよく使われる敬語のことである。 さ入れ言葉やれ足す言葉は「正しい日本語」として認知されていないため、違和感を感じる人が多い[4]。「バイト敬語」はテレビやコンビニなどで日常的に使われ、耳にすることの多い敬語だが、年配の人を中心に違和感を感じる人も少なくない。いずれにせよ、どれも現在「正しい日本語」とされていないため、作文や面接の際には使わないようにしたい。 謙譲語とは、自分をへりくだる表現である。 謙譲語のうち、特に話の聞き手(話し相手)を尊敬している場合、それを「丁重語」(ていちょうご)というのに分類する場合もある。 たとえば、謙譲語「参る」は丁重語に分類される。 丁寧語のうち、「です」「ます」「ございます」を、話相手に対する敬意があるとして、「お米」「ご飯」などとは独立させる流儀もある。 つまり、
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メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。 「王様は、人を殺します。」 「なぜ殺すのだ。」 「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」 「たくさんの人を殺したのか。」 「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」 「おどろいた。国王は乱心か。」 「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」  聞いて、メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」  メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。 「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。 「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。 「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」 「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」 「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」 「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」 「だまれ、下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」 「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」 「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」 「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」  それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。 「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」 「なに、何をおっしゃる。」 「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」  メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。  竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言で首肯き、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。  メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。 「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」  妹は頬をあからめた。 「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」  メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。  眼が覚めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄の季節まで待ってくれ、と答えた。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。メロスも、満面に喜色を湛え、しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、 「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」  花嫁は、夢見心地で首肯いた。メロスは、それから花婿の肩をたたいて、 「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」  花婿は揉み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。  眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。  私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」  濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。 「待て。」 「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」 「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」 「その、いのちが欲しいのだ。」 「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」  山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、 「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たメロスよ。真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく王の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。  ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。  私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。  路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。 「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。 「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。 「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」 「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。 「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」 「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」  言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。 「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」  セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」  メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。  群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」  どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」  ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」  勇者は、ひどく赤面した。 (古伝説と、シルレルの詩から。) 青空文庫より引用。
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中学校の文法では、現代語の文法及び品詞(ひんし)などについて学ぶ。 まず、現代の日本語は、漢字と仮名(かな)を使って文章を構成するのが通常である。 このような文体のことを、「漢字仮名混じり文」という。つまり、現代日本語の標準的な文体は「漢字仮名混じり文」である。 念のために説明しておくが、仮名とは、平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことである。 また、平仮名は、その文字自体には意味が無い。 いっぽう、漢字には、意味がある。たとえば「た」という平仮名には意味が無い。しかし、「田」と書けば意味をもち、「田」の意味は農業のあれになる。 また、「他」も「田」も発音は同じ「た」と発音するが、しかし意味は違う。 漢字のように、その文字そのものが意味をもつ文字のことを表意文字という。 いっぽう、平仮名のように、文字単独では意味を持たない、あるいは意味の確定しない文字であり、発音だけを指定している文字のことを、表音文字という。 「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」の5つの音のことを母音(ぼいん)という。母音は単体(1音)で表現する。 なお、ローマ字のka, ki, ku ,ke ,ko のkの部分や、sa,si,su,se,so の s の部分のことを子音(しいん)という。子音は母音と組み合わせて構成する。 日本語の平仮名やカタカナには、子音を表す文字は無い。 日本語の仮名の発音は通常、母音(たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」)、または、母音と子音 (たとえば「か」や「そ」など)の組み合わせで発音される。 日本語は一つの文をいくつも重ねて全体として意味がわかるものを文章(ぶんしょう)とよぶ。 また、その中でも内容の大きなまとまりで分けられたものを、段落(だんらく)という。段落の始まりには、他の文より文の初めを一字下げるのが普通である。 その段落の中の、文章を組み立てているものを文(ぶん)と呼び、文の切れ目には句点(。)をつけるのが普通である。 場合によっては、「。」の代わりに、文の最後が「?」や「!」で終わる場合も、現代の日本語ではある。疑問がある場合に「?」を使う。びっくりした時や大声を出した声の場合などに「!」を使う。 たとえば とか などのように。 さて、文を発音や意味の上で不自然にならないように区切ったものを文節(ぶんせつ)と呼ぶ。 例 上の例の文章は、4つの文でできている。 そして最初の文は「今日は/ 国語と/ 数学と/ 英語の/ テストが/ ありました」と文節分けでき、6つの文節がある。 また、文節を分けるときには、間に「ね」や「よ」を入れるとうまく分けることができる。 例 「今日は『ね』/ 国語と『ね』/ 数学と『ね』/ 英語の『ね』/ テストが『ね』/ ありました『よ』」とうまく文節で分けられる。 さらに、文節を、言葉の意味がなくならないようにさらに分けたものを、単語(たんご)という。これは、それだけで使える言葉の最小単位である。 たとえば、 例 なら、 と単語分けすることができる。 文節は役割から主語、述語、修飾語、接続語、独立語に分けることができる。 主語(しゅご)は「何(誰)が」を表す、文の主題を提示したり、行動や様子の主を定める文節である。 たとえば例文「花が、さいた。」の主語は「花が」である。 一般に、主語は語尾(ごび)に「は」または「が」が付く場合が多い。 しかし、「僕も学校に行く」という文章では、「僕も」が主語である。なぜなら、行動の主は「僕」であるからである。 また、日本語の文には、主語が無い場合もある。 たとえば「学校に行くよ。」という文には、主語は無い。 また、ある単語の後ろに「は」または「が」がついても、かならずしも主語とは限らない。 たとえば、 という文では、「犬が」は主語ではない。好きな行動の主は「彼」なので、彼がこの文の主語である。 また、 の場合、カレーを食べたのは「今日」さんではなく、書き手の人がカレーを食べたと思われるので、「今日は」は主語ではない。この文「今日はカレーを食べた。」に主語は無い。 述語(じゅつご)は、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」「ない」を表す、何をどうするかなどの行為を示す部分、または何かの様子を示す部分のことである。 たとえば、「花が、さいた。」の述語は「さいた。」である。 なお、主語と述語のことをまとめて「主述」(しゅじゅつ)という。 主語と述語の関係のことを「主述の関係」という。 修飾語(しゅうしょくご)は主語・述語について、たとえば、どこでしたか、あるいはどのようにしたかなど、くわしく説明するために使われる文節の一種である。 たとえば、 なら「まじめに」の部分が修飾語である。 いっぽう、修飾語が説明している対象のことを被修飾語(ひしゅうしょくご)という。 「弟が、まじめに 勉強する。」なら、修飾語は「まじめに」であり、被修飾語が「勉強する」である。 「きれいな」が修飾語で、被修飾語は「花」です。 「きれいな」は「チョウ」を修飾する修飾語で(つまり「きれいな」が修飾語)、被修飾語は「チョウ」です。「いきなり」は「飛び立つ」を修飾する修飾語です(つまり「いきなり」が修飾語)。 この例文のように、ひとつの文に2つ以上の修飾語のある場合もあります。 また、修飾語と被修飾語の関係を、「修飾・被修飾の関係」という。 または単語についての説明や意味をつけくわえる。特にあとで述べる用言(ようげん)を修飾するものを連用修飾語(れんようしゅうしょくご)と言う。 いっぽう、体言(たいげん)を修飾するものを連体修飾語(れんたいしゅうしょくご)と言い、修飾される言葉は被修飾語(ひしゅうしょくご)とよばれる。 たとえば、 この場合、「大きく」は連用修飾でしょうか、連体修飾でしょうか? ヒントとして、大きいのは何でしょうか? ボールでしょうか、それとも投げ方が大きいのでしょうか? 答えを言うと、この文で大きいのは投げ方ですので、つまり「大きく」は動詞の「投げた」を修飾しており、そして動詞は活用があるので用言ですので、つまり「大きく」は連用修飾です。 いっぽう、 なら、ボールが大きいわけですし、「ボール」は活用も無いので、ボールは体言です。なので、つまり「大きな」は連体修飾です。 のように、ひとつの文に連用修飾と連体修飾の両方がふくまれている場合もあります。 接続語(せつぞくご)は他の文や文節との関係をあらわす。 接続語が何を修飾しているかが曖昧な場合があります。 エラーしたのが山田?出塁したのが山田? 独立語(どくりつご)は、ほかの文節とは結びついてなくて、それだけで意味の通る語である。 あいさつ や あいづち などが、独立語になる場合が、よくあります。 上の例文の「先生」などのように、呼びかけも独立語になります。 上の例文の「山田さん」も独立語です。 いっぽう、 この例文(「山田さんに頼みごとがあります。」)の「山田さん」も「山田さんに」も独立語ではないです。 この例文の「あのう」は独立語です。 この例文の「東京」は独立語です。 二つ以上の文節がまとまって、ひとつの働きをする文節のことを連文節(れんぶんせつ)という。 連文節には、主に、主部、述部、修飾部、接続部、独立部の5種類がある。 また、並立の関係にある文節も、おたがいに連文節である。 日本語で「主語」といった場合、単語の単位ですので、たとえば例文 の主語は、「消しゴム」です。「自分の消しゴム」は主語ではないです。 しかし、 という文章があったとして、「消しゴム」だけでは、「自分の消しゴム」なのか、「友達の消しゴム」なのか、不明です。 そこで、主語に、その主語にかかる修飾語をあわせたものを主部(しゅぶ)といいますので、この概念を導入しましょう。 の主部は、「自分の消しゴム」です。 例文 の述語は、「する」です。しかし、「する」だけでは、何をするのか不明なので、いまいち不便でしょう。 そこで、述語にかかる修飾語と 述語じしん をまとめたものを述部(じゅつぶ)といいますので、この概念(がいねん)を導入しましょう。 この文「妹は食事をする。」の述部は、「食事をする」です。 例文 について、「昨日の」と「晩に」は、別々の文節ですが、しかし、この文の「晩」とはいつの晩かといえば「昨日」の晩ですので、「昨日の」と「晩に」は、ひとまとめに扱えると便利です。 そこで、修飾部(しゅうしょくぶ)という、関連のある一続きの修飾語をまとめる概念があるので、これを導入しましょう。 「昨日の晩に」で、ひとつの修飾部になります。 「うまくて」と「やすい」は、別々の文節ですが、両方とも、「この店のカレー」の性質をあらわしているので、ひとまとめにできると便利です。 この「うまくて」と「やすい」のように、対等に他の同じ文節(例の場合は「カレーは」)に結びつく関係の文節のことを、並立(へいりつ)の関係といいます。 つまり、「うまくて」と「やすい」は、並立の関係にあります。 また、並立の関係にある単語を並立語といいます。 「うまくて」と「やすい」は、それぞれお互いに並立語です。 さきほどの例文では述語が並立していました。 ほかの例文では、主語が並立している場合もあります。たとえば という例文では、「父」と「母」が並立の関係であり、お互いに並立語です。 単独で文節を作ることができる単語のことを自立語(じりつご)という。 たとえば、「学校に行く。」という文のうち、「学校」は自立語である。 いっぽう、「に」は自立語ではない。 原則として、一つの文節には一つの自立語しかないが、例外的に「松の木」「男の子」「読むこと」のように二つ以上の自立語を組み合わせた文節もある。 なお、「行く」の「行」を自立語と解釈する場合もある。 なお、「学校に」でひとつの文節、「行く」でもうひとつの文節なので、原則「一つの文節には一つの自立語しかない」を満たしている。 いっぽう、「学校に行く。」の「に」は自立語ではなく付属語という。 付属語はかならず自立語の下について、しかも付属語だけでは意味を成さない。 名詞は普通、自立語に分類する。 動詞の語感を自立語に分類する。 動詞の活用語尾(「行く」の「く」の部分や、「行った」の「た」の部分)は、付属語に分類する。 たとえば(学校に)「行った」のうち、自立語は「行っ」、付属語は「た」である。 (学校に)「行ったらしい」では、付属語は「た」と「らしい」の2つである。このように、ひとつの文節に付属語が2個以上ある場合もある。 (学校に)「行ったらしいね」なら、付属語は「た」「らしい」「ね」の3つである。 「行く」(いく)は「行った」(いった)、「行けば」(いけば)、「行きたい」などのように、続く単語や言い切ったりするときに、規則にしたがって、形に変化します。 たとえば、「学校に行ったなら」と「なら」が続く場合には手前には「行った」がきます。けっして、「行けばなら」(×)などとは言いません。 このように、単語の形が規則にしたがって変わることを活用(かつよう)といいます。 自立語にも、活用のあるものと無いものがあります。 たとえば、「学校」は自立語ですが、活用がありません。 「行く」(あるいは「行った」)には、活用があります。 付属語にも、活用のあるものと無いものとがあります。 活用のある自立語のことを用言(ようげん)と言います。 用言は普通、述語になれます。 後述するが、動詞・形容詞・形容動詞が、用言に分類されるのが一般的です。 動詞とは、「走る」「書く」などのように動作を表す言葉です。「走る」なら、たとえば「走らない」「走れば」などのような活用があります。 形容詞とは、「広い」「赤い」などのような、言葉です。「広い」なら、たとえば「広く」「広ければ」などのように活用があります。 用言の性質として などの性質があります。 自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。 後述しますが、名詞(めいし)に分類されるものが体言である場合が普通です。 名詞とは、「ビル」「学校」「月曜日」などのように、ものの名前になることのできる言葉のことです。 体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。 例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。 単語を役割ごとに分類したものを品詞(ひんし)という。日本語の品詞は動詞(どうし)、形容詞(けいようし)、形容動詞(けいようどうし)、名詞(めいし)、(代名詞(だいめいし))、副詞(ふくし)、連体詞(れんたいし)、接続詞(せつぞくし)、感動詞(かんどうし)、助動詞(じょどうし)、助詞(じょし)の10種類(代名詞を別に数えると11種類)ある。 「歩く」「書く」「読む」「食べる」など、活用があり、主に動作をあらわす言葉が動詞です。 たとえば「歩く」なら、 「歩けば」「歩きます」「歩きたい」「歩けよ。」「歩かなければ」・・・のように活用できるので、「歩く」は動詞です。 また、動詞は述語になることができる。 たとえば「駅まで歩こう。」のように、述語になっています。 動詞には活用があるが、最後の音がウの段の音にした場合を、文法上での基準の形とする。 たとえば、「歩く」が、動詞「歩く」の基準となる形である。なぜなら、「歩く」は「く」というウ段の音で終わってるからである。 いっぽう、「歩け」「歩き」などは、どんなに話し手が強く言ってても、最後の音がウ段でないので、動詞「歩く」の基準の形ではない。 同様に、動詞「書く」の標準の形は「書く」である。 「書け」「書き」は、動詞「書く」の基準の形ではない。 また、「歩きよりも走りでゴールまで行こう。」のように、歩行という意味での「歩き」は活用が無いので、動詞ではないです。 「歩くスピードが速い。」のように、体言を修飾する場合にも動詞(例文の「歩く」は動詞として、あつかう)が使われる場合もあります。 名詞には、いろいろな種類がある。 「京都」「夏目漱石」などのように、特定の地名や人名などをあらわす名詞のことを固有名詞(こゆう めいし)という。 「ボール」「茶」「人」「犬」「机」など、特定の人名や地名をあらわしていない、普通の名詞のことを普通名詞(ふつうめいし)という。 「一人」「二つ」「二枚」「一枚」「三本」「三人」、などは、それぞれ数詞(すうし)といいます。 のような文での「もの」、 または の「こと」のような名詞を、形式名詞という。 「僕」「それ」「彼」「あれ」「あなた」などのように、代名詞がある。 ※ 代名詞を名詞とは別の品詞と解釈する場合もある。 代名詞のうち、「僕」「私」「あなた」「彼」「彼女」「俺」などの、普通は人を指す場合につかう代名詞のことを人称代名詞(にんしょう だいめいし)という。 いっぽう、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」などは物や場所に使う代名詞であり、このような代名詞を指示代名詞(しじだいめいし)または指示語という。小学校で習った、いわゆる「こそあど言葉」が、指示代名詞です。 代名詞を分類すると、主に、人称代名詞または指示代名詞の、二通りに分類できる。 代名詞は、活用がない語である。 この一覧表にあるのは、あくまで指示代名詞だけである。 けっして全ての代名詞が一覧になっているわけではない。指示代名詞でない代名詞は、この一覧表には、まったく記載されていない。 代名詞には、指示代名詞でない代名詞も存在し、「わたし」「あなた」「ぼく」「彼」「彼女」など、代名詞は、いくつもある。 名詞は普通、自立語です。 副詞とは、例をあげると「ゆっくり」とか「もっと」「とても」とか、「のそのそ」「はっきり」などである。 副詞は活用がない語であり、主に用言を修飾し、修飾語にしかならず、たいていの場合は連用修飾語になる。副詞には状態の副詞、程度の副詞、呼応(陳述・叙述)の副詞がある。 状態の副詞は主に動詞を修飾する。 程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾するが、他の副詞や名詞を修飾することもある。 「呼応の副詞」とは、 のように、あとにくる言葉に決まった言い方がくるのが呼応の副詞である。 たとえば、「決して」は、必ずいくつか後の文節に「ない」が来る。 「けっして、きのうはカレーを食べていない。」というように、「けっして」のあとには「ない」が来るのが普通。 のように の「全然」も、21世紀の現代では、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「全然」を呼応の副詞として紹介。) (※ 範囲外: )ただし、「全然」は明治時代くらいは、 ※ このような事情があってか、三省堂いがいの他の教科書会社は、「全然」については紹介しないでいる。 の「とうてい」も、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「とうてい」を呼応の副詞として紹介。) 「叙述の副詞」(じょじゅつのふくし)または「陳述の副詞」とは、話し手の気持ちや判断を述べるための副詞である。 「おそらく」とか「きっと」などの、何かの可能性の程度を推測する副詞が、叙述の副詞の場合がある。 これ以外にも、 または とかの「まるで」の部分も、叙述の副詞である。 教科書によっては「呼応の副詞」を「叙述の副詞」と完全に同一視して分類する場合もある(※ たとえば学校図書(教科書会社名)では同一視している)。 たとえば、 のように、「おそらく」・「たぶん」のあとには、「だろう」または「であろう」「でしょう」などが来る場合がよくある。(※ 学校図書が、「おそらく」を呼応の副詞としている。三省堂が「たぶん」を呼応の副詞としている) などの疑問の意味の副詞も、呼応の副詞に分類される場合がある。(※ 光村図書の中3教科書が「どうして」を呼応の副詞として紹介、教育出版の中2教科書が「なぜ」を呼応の副詞として紹介している。) 叙述・陳述の副詞は、連用修飾語である。よって、叙述・陳述の副詞や、呼応の副詞の副詞の部分は、ほかの体言については修飾しないのが普通である。 状態の副詞は主に動詞を修飾する。 の「ゆっくり」は、状態の副詞である。 程度の副詞は、 「かなり」・「もっと」・「とても」のように、程度をあらわす副詞である。 の「少し」は、副詞である(この例文での「少し」は形容詞ではない)。 「ずっと」のように、時間のスケールの程度を表す副詞も、程度の副詞である。 「もっと大きく」のように、程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾する場合が典型的だが、 「もっと右。」「もっと昔から。」 のように名詞などの体言を修飾することもある。 また、「もっとゆっくり歩いて。」のように、程度の副詞(例文では「もっと」)が、ほかの副詞(例文では「ゆっくり」)を修飾する場合がある。 指示語である「あの」「その」や「大きな」などがある。体言を修飾し、必ず連体修飾語になる。活用がない語。 連体詞の直後には、かならず体言がつく。 「大きな」 など一部の連体詞と形容詞(「大きい」)は、基準の形が似ているが、しかし別の品詞である。 「大きい」は形容詞であるが、「大きな」は連体詞である。 たとえば形容詞「うつくしい」の場合、「美しかった」「美しく」「美しい」「美しければ」のような活用になる。 「うつくしな」(×)とは言わない。つまり、形容詞に「◯◯な」の形は無い。 なので、「大きな」は、形容詞とは別の品詞でなければならない。つまり、「大きな」は連体詞である。 同様に、「小さな」も連体詞である。 「たいした話だ。」などの「たいした」も連体詞である。 「この」「その」「あの」「どの」は連体詞である。 「あらゆる状況」、「いかなる困難」などの「あらゆる」「いかなる」も連体詞である。 動詞など他の品詞とまぎらわしい連体詞が、いくつかある。 などの修飾語としての「ある」は、学校文法では連体詞に分類する。 いっぽう の「ある」は、動詞である。 このように、同じ「ある」という形でも、文脈や位置によって品詞が変わるので、品詞をさぐる場合には文章をよく読むこと。 のような連体修飾語「去る」は連体詞である。 「大したヤツだな。」とか「大それた事をしてしまった。」とか「とんだ失敗をした。」「とんだ災難だったね。」などの「大した」「大それた」「とんだ」は、連体詞である。 たとえば、「走る」は動詞ですが、しかし「歩きよりも走りで行きたい。」などの「走り」は名詞です。 このように、動詞がもとになって派生した名詞があり、このような、ある品詞の単語が別の品詞の単語に派生することを転成といいます。 形容詞「大きい」と連体詞「大きな」も、転成の関係だと思われています。(※ 学校図書(検定教科書の出版社のひとつ)の解釈) 「楽しい」は形容詞ですが、「楽しむ」は動詞です。この「楽しい」と「楽しむ」も、転成の関係です。(※ 教育出版の解釈) 感動詞は感動・呼びかけ・応答・挨拶の4種類ある。「おはよう」「ああ」などがある。ある状態や個人の感情、あいさつ や返事などを表す。活用がない語。ふつう、自立語である。単独で文にすることが多いが、文の中にあるときは独立語とする。 典型的な4つの例: (※ 下線部が感動詞) いろいろな例 「そして」「だから」「でもって(話し言葉)」などが該当する。活用がない語である。文や文節を繋いで関係をはっきりさせる語で、必ず接続語になる。 「きのう、カレーを買った。」の「た」は、過去をあらわす助動詞です。 助動詞とは、活用のある付属語です。 「買った」は、「買ったら」や「買ってれ(ば)」などのように活用します。 つまり、「た」は「たら」「てれ」のように活用します。 いっぽう、「カレーをかってやろう。」の「て」には、過去の意味は無く、つまり「て」は別の品詞です。この場合の「て」は助詞です。助詞は、活用のない付属語です。 「山田の好きな食べ物はカレーだそうだ。」の「そうだ」も助動詞です。 「そうだ」は「そうだっ(た)」「そうな」「そうなら」のように活用します。 「カレーを食べたい。」の「たい」も助動詞であり、願望・希望をあらわす助動詞です。 「食べたい」は「食べたけれ(ば)」「食べたく」「食べたか(ろう)」などのように活用します。 動詞、形容詞、形容動詞、助動詞は下につく言葉によって語の一部または全体が変化する。このことを活用(かつよう)という。 たとえば、動詞「話す」は、「話さ(ない)」(未然)、「話し(ます)」(連用)、「話す(。)」(終始)、「話す(とき)」(連体)、「話せば」(仮定)、「話せ」(命令)のように活用します。 活用の変化後のそれぞれの形を活用形(かつようけい)という。 たとえば、動詞の活用形には、 の6種類がある。 また、用言の多くは変化する部分と変化しない部分がある。変化する部分を活用語尾(かつようごび)と言い、変化しない部分を語幹(ごかん)という。助動詞の中には語幹や活用が事実上ないものもある。 たとえば、動詞「話す」の語幹は、「話」(はな)の部分です。 「話せ」の「せ」 や 「話す」の「す」 などが、(つまり「せ」や「す」の部分が)活用語尾です。 動作を表す言葉で、述語として文の最後につくことが多い。最後が「う段」(ローマ字で書いたとき「遊ぶ(asobu)」「見る(miru)」のようにuで終わること)の音で終わる。また、五段活用動詞の連用形は名詞に変わることがある。例としては、「ひかり(動詞「ひかる」より)」「読み(動詞「読む」より)」などがある。 たとえば、上記の「咲く」の場合、 「咲か(ない)」「咲き(ます)」「咲く(。)」「咲く(とき)」「咲け(ば)」「咲け」のように活用される。 また、上記の表のように、活用形や語幹、活用語尾などをひとまとめにした表のことを活用表といいます。 「来る」(くる)、「する」、などの一部の動詞には語幹が無い。 五段活用では、下記の表のように、語幹の最後の文字の所属する行ごとに、活用形が変わる。 たとえば、「行かない」・「話さない」のように言うことはある。しかし、けっして「行さない(×)」「話かない(×)」のようには活用しないという事である。 命令形は、「行け」「書け」などのように命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。(※ ただし、「行けよ」のように助詞「よ」などの助詞をつける場合はある。) 下記の動詞の一覧表でも同様に命令形は、命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。 上一段活用(かみいちだん かつよう)をする動詞には、「生きる」・「起きる」・「似る」・「開ける」などがある。 「起きる」の語幹は「お」である。「おき」は語幹ではない。活用語尾には、すべて最初に「き」がついているが、だからといって語源を「おき」にしない。 もし、「おき」を語幹にしてしまうと、未然形と連用形の活用形が無くなってしまうが、そうなると不便である(※ 教育出版の見解)。 なので、「起きる」の語幹は「お」にされている。 「似る」・「見る」など、一部の動詞では、語幹と活用語尾が区別しづらい。 下一段活用(しもいちだん かつよう)をする動詞には、「教える」・「答える起きる」・「出る」がある(※ 検定教科書で紹介される動詞)。「受ける」「食べる」なども下一段活用である(※ 参考書などで紹介される動詞)。 「出る」など、一部の動詞には、語幹と活用語尾が区別しづらい。 カ行変格活用になる動詞は「来る」(くる)一語のみである。 カ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。 サ行変格活用になる動詞は「する」と、「料理する」「勉強する」のように「する」が後ろについて出来た複合動詞「◯◯する」のみである。 サ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。 動詞には、おもに、次のように三種類の音便(おんびん)があります。 「書か(ない)」(未然)、「書き(ます)」(連用)、「書く」(終始)、「書く(とき)」(連体)、「書け(ば)」(仮定)、「書け」(命令) というように、動詞「書く」は5段活用される。 しかし、「書いた」は、このどれにも当てはまらない。 「書いた」は、連用形「書き」+「た」が なまった音が由来だとされる。 このように、いくつかの動詞などで、活用語尾が「い」に変化する現象をイ音便(いおんびん)という。 いっぽう、動詞「走る」(はしる)は、活用で「走った」のように言う場合があります。 この「走った」は、連用形「走り」+「た」が なまった音が由来だとされる。 このように、活用語尾が「っ」に変化する現象を促音便(そくおんびん)という。 動詞「読む」は「読んだ」と活用される場合があまう。 これは、「読む」+「た」あるいは「読み」+「た」が由来だろうとされています。 この「読んだ」のように、「読む」または「読み」が「読ん」になるように、活用語尾が「ん」になることを撥音便(はつおんびん)といいます。 「撥」(はつ)とは、「はねる」という意味です。 動詞「飛ぶ」も「飛んだ」と活用されるので、撥音便のある動詞です。 共通語では、音便のある動詞は、五段活用される動詞です。 しかし、方言では、ほかの活用をされる動詞でも音便のある場合があります。 促音(そくおん)とは、たとえば「だっこ」の真ん中の小さい「つ」、つまり「っ」の音のことをいう。 撥音(はつおん)とは、「ん」の音のことをいう。 なお、動詞の音便とは別に、形容詞にも「ウ音便」というのがある。くわしくは形容詞の節で説明する。 特殊な動詞に補助動詞というものがある。補助動詞とは、たとえば の「みる」・「いる」・「いう」の部分が、それぞれ補助動詞である。 本来これらは「見る」「居る」「言う」という意味があったのだが、その意味が薄れ、様子や状態を表す助動詞のような役割を果たすようになった。 このように、動詞ではあるが、ほかの単語について、補助的な意味をする動詞のことを補助動詞という。 形式動詞は普通の動詞と区別するためにひらがなで書くが、文節分けは行う。 助動詞と補助動詞とは違う。 などの「ある」・「おく」・「しまう」、「いく」も、それぞれ補助動詞である。 の「あげる」・「くれる」・「もらう」も補助動詞である。 の「いただく」・「なる」も補助動詞である。 「行ける」・「書ける」のようにそれだけで可能の意味を含む動詞を特に可能動詞という。可能動詞は、すべて下一段活用の語である。また、可能動詞に命令形は無い。 学校文法で、可能動詞のもとになる動詞は、「行く」・「書く」など五段活用の動詞である。 たとえば など、もとになる動詞の活用は、すべて五段活用である。 いっぽう、上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」など、五段活用でない動詞をもとに可能動詞とするのは、(小中高の)学校文法では誤りとされる。 つまり、「みれる(△)」「でれる(△)」などは、学校文法では誤りとされる。 「見る」や「出る」ことが可能なことを一語で言いたい場合、学校文法では、助動詞「られる」を使って、「みられる」・「でられる」というふうに言うのが正式であるとされる。 動詞は自動詞(じどうし)と他動詞(たどうし)に区別できる。自動詞は対象を必要とせず、ある動作や状態がそれ自身で行われることをいう。他動詞は必ず動作の目的や対象への働きかけを示す言葉が必要である。 例:「起きる」と「起こす」。 「起きる」が自動詞である。なぜなら「起きる」は動作の対象を必要としないため、「彼を起きる」という文章が作れない。 一方、「起こす」は動作の対象を示すことができるので、「彼を起こす」という文章が作れる。なので、「起こす」は他動詞である。[1][2]。 「水を流す」と「水に流れる」なら、「流す」が他動詞であり、「流れる」が自動詞である。 ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「い」で終わる。(例)すばらしい、美しい など。形容詞の語幹に「さ」をつけると名詞に変わる。 など。 特殊な形容詞として「ない」「ほしい」がある。「ない」は というように「無」の状態を表す場合と、 のように、ほかの形容詞の後ろにつく場合がある。 この、「明るくない。」の場合の「ない」のように、ほかの単語の補助としてつかう形容詞を補助形容詞という。 「明るくない」などの「ない」は、けっして助動詞ではない。なぜならば、 「やらない」「書かない」などの助動詞「ない」は「ぬ」に置きかえても意味が同じだし、「やらぬ」「書かぬ」と通じる。 しかし「明るくない」はけっして「明るくぬ(×)」とは言わない。なので、「明るくない」の「ない」は助動詞ではない。 また、格助詞「は」を補って「明るくはない」という場合はあるが、しかし、「書かはない(×)」とは言わない。 このように、補助形容詞と助動詞とは、区別する必要がある。 なお、「この本に書いてある。」の「ある」は補助動詞である。(「ある」は形容詞ではない。) 「花が咲いている。」の「いる」は補助動詞である。(「いる」は形容詞ではない。) なお、補助動詞と補助形容詞をまとめて、補助用言(ほじょ ようげん)という。 なお、「ほしい」は同じ意味の英語の"want"は動詞だが、しかし日本語の「ほしい」の活用は形容詞(「ほしかろう」、「ほしく」、「ほしけれ」)の活用である。 「ほしい」も のように、ほかの動詞のうしろに補助的につくので、「ほしい」も補助用言である。 日本語で補助形容詞は「ない」と「ほしい」だけである。 補助用言をふくむ文章を、文節ごとに分かる場合には、補助用言は前の文節とひとつにまとめて一文節として数える(※ 教育出版の見解)。 つまり、 例 という文章では、「歩いている」で、1文節と数える。 つまり、「猫が歩いている。」という文は、「猫は」と「歩いている。」で、合計2個の文節がある。 また、補助用言は普通、ひらがなで書く(※ 三省堂の見解)。 (批判的な意味での)「くだらない」、(「粗末にすべきではない」(大切に扱うべきだ)という意味での)「もったいない」などは、 たとえば「くだらない」なら、あたかも形式的には、動詞「くだる」の未然形に助動詞「ない」がついたように見えるが、 しかし、「くだらない」一語で形容詞として扱う。 「もったいない」も、「もったいない」一語で形容詞として扱う。(※ 教育出版が中3教科書で「くだらない」「もったいない」「きたない」などを紹介している。) 「静かだ」・「きれいだ」などのように、ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「だ」または「です」で終わる。特殊な形容動詞には「あんなだ」「こんなだ」がある。 形容動詞は、活用のある自立語で、単独で述語になることができる。 形容動詞に命令形は無い。 「静かにしろ」のような命令表現は、学校文法では「しろ」の部分が動詞「する」の命令形であると解釈する。なので、形容動詞の部分「静かに」そのものには命令形が無いと学校文法では考える。 なお、形容動詞でないが混同しやすい表現として、連体詞「大きな」がある。「大きだろう(×)」とは言わないので、「大きな」は連体詞である。 自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。 例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。 名詞(めいし)とは、ものの名前を表す言葉。その他、数字なども名詞とする。活用がない語。ほかにも用言を体言のようなものにする働きを持つ「こと」「とき」「ため」などがある。これらは本来「事(ものごと)」「時(時間)」「為(理由や対象をさす)」という意味があったが、それらの意味が薄れ、単に用言に接続して用言に体言のような働きを持たせる文節をつくる言葉になった。これらを形式名詞という。形式名詞は普通は平がなで書き、文節分けはしない。 単独で文節をつくることができない単語を付属語(ふぞくご)と呼ぶ。 文や文節に否定や断定、丁寧、推測、過去などの意味をつけくわえる語。主に用言・体言・助動詞に接続する。活用がある。 助動詞には、次のものがある。 例 活用は、「読ませれば」「読ませて」「読ませる」などのように活用する。 例 「書かれた」「書かれれば」「書かれる」などのように活用される。 例 「知らなかろう」・「知らぬ」・「知らなければ」などのように活用する。 「存ぜぬ」・「存ぜん」のように活用する。 なお、「何もない。」の「ない」は形容詞「なし」の変化であるので、助動詞ではない。 例 この文の時点からみて、駅に到着したばかりだし、その文の時点で駅にいるので、完了である。 この文では、はたして現在ではマラソン選手かどうかは不明である。だが、過去にマラソン選手だったのは確かである。 服がつるされている時は、この文の時点からみて、過去ではなく現在なので、服はつるされつづけているので、存続である。 また、存続の場合、普通は「た」のあとに体言が続く。 「たい」は普通、話し手が希望している場合に使う。 「たがる」は、話し手以外の第三者が希望している場合に使う。 「知りたい」の活用は、たとえば「知りたかった」「知りたく」「知りたい」「知りたければ」などのように活用する。 「そんな話があろうはずがない」の「あろう」の「う」が助動詞「う」である。活用は「う」しか形が無いが、しかし「あろうはず」のように体言「はず」につながるので、連体形である。終止形の「(あろ)う」と連体形の「(あろ)う」があるので、便宜的に「う」は助動詞として分類される。 「よう」も同様、便宜的に助動詞として分類される。 (※ 範囲外)活用せず、「まい」しか形が無い。しかし、「まい」の古語の「まじ」に活用があるので、便宜上、「まい」も助動詞として扱う。 時代劇などで「あるまじき無礼(ぶれい)」のようなセリフがあるが、「まじ」は「(ある)まじき」「(ある)まじく」などのように活用するので、「まじ」は古語の助動詞である。 「打ち消しの意志」とは、「今後は◯◯しないでおこう」のような意味。 「打ち消しの推量」とは、「今後は、そうはならないだろう」のような意味。 「だろう」は助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」がついたものであると分類する。 また、「東北は私の故郷であり」の「で」も助動詞「だ」の連用形に分類する。 「だろ(う)」・「だった」などのように活用するので、助動詞である。 「です」は、助動詞「だ」を丁寧にした形。 「でしょ(う)」・「でし(たら)」などのように活用するので助動詞。 「ようだ」は、活用の変化は断定の助動詞「だ」に似ているが、しかし意味が断定ではなく推定なので、便宜上、推定の助動詞「ようだ」と断定の助動詞「だ」は別々の助動詞として、あつかう。 「ようです」は、「ようだ」を丁寧にした形。 「そうだ」は、連用形の後ろに つながる場合は様態の意味。 「そうだ」は、終始形の後ろに つながる場合は伝聞の意味。 「そうです」は、「そうだ」を丁寧にした形。 (※ 執筆中) 国語学者の大野晋によれば[3]助動詞の語順は、人為・自然(「れる」「られる」や使役)+敬意(補助動詞)+完了・存続+推量・否定・記憶(+働きかけの終助詞)の順に並ぶとされる。 助詞とは、付属語で活用が無く、単語や文節同士をつないだり、つながれたものどうしの関係づけを行ったりする語である。また、文や文節のリズムを整えたり、禁止や疑問、強調の意味を添える役割もある。 主に用言・体言・助動詞に接続する。活用はない。 学校文法では助詞は格助詞(かくじょし)・副助詞(ふくじょし)・接続助詞(せつぞくじょし)・終助詞(しゅうじょし)の四つに分類される。格助詞(かくじょし)は体言に接続するか、または体言と同じような働きをするものに接続して使われる。 格助詞は、直後の単語との関係を明確なものにするために使われる。 たとえば「ライオン、トラ、襲う。」では、 それとも はたまた のかわからない。 この「が」「を」のような、動作をする側とされる側の関係づけをするための助詞のことを格助詞(かくじょし)という。 気を付けるべきこととして、助詞「が」のつく文節は、必ずしも主語とは限らない。 たとえば、 という文は、けっして「これ」さんが何かを欲しがっているわけではない。そうでなくて、話し手の、欲しがっている対象物が、代名詞「これ」で表される何かなだけである。 つまり、ここでいう「これが」は、英語でいう所の目的格である。なお、学校文法では「これが欲しい」の「これが」は『連用修飾格』という格に分類する。 しかし、日本語の学校文法では、(英語でいう)目的格のようなものも「格」として扱うので、助詞「が」は、どっちにせよ「が」は格助詞である。 なお、「寒いが、外出した。」の「が」は、格助詞ではない。「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。 つまり、「より」は格助詞である。「から」は格助詞である。 さて、「僕は好きだ。」・「テニスは好きだ。」のような「は」については、文法の理論上、難しい問題があり、いちぶの学校教科書によっては説明を避けている場合もある。 三省堂や学校図書や光村図書の検定教科書で助詞「は」を紹介しているが、これらの出版社の検定教科書では、助詞「は」は副助詞(ふくじょし)に分類される。副助詞については後述する。格助詞としては扱わない。) たとえば、(学校教科書では習わない文だが、) という文を考えれば、「は」を格助詞と考えるべきかどうか、いまいち不明確だと分かるだろう。「象」は「鼻が長い」性質の(英文法でいうところの)主格でもなければ、(英文法でいうところの)目的格でもない。(英語でいう所有格「〜の」の)象の鼻は長いが、しかし料亭で「ぼくはチャーシューメン」という場合は、チャーシューメンを注文しているのであって、けっして「僕のチャーシューメン」をどうかしようとしているわけではない。 助詞「は」の意味を紹介している三省堂の検定教科書では、助詞「は」は、題目をあらわす助詞として分類している。 (※ 範囲外: )学校文法(主に橋本文法)ではないが、助詞「は」を、主題・話題をあらわす助詞として分類する学説もある(三上文法など)。 などの連体修飾語としての「の」は、格助詞に分類します。 「の」には、 のように、名詞のかわりをする用法もあります。(「もの」の意味。例文の場合は、「君のものだ。」の意味) のように、「すること」の「こと」の意味で「の」が使われる場合もあります。 このように「こと」「もの」の意味で助詞「の」が使われる場合もあり、この場合の助詞「の」も格助詞に分類します。 また、 のように、動詞の前に「の」がついて、主語になる場合もある。 これらの用法(「の」の名詞の代わり用法。主語を示す助詞としての「の」)の場合も、すべて格助詞として分類する。 なお、混同しやすい例として のような文末の「の」がありますが、これは終助詞「の」です。文末の「の」は格助詞ではないです。 接続助詞(せつぞくじょし)は、主に用言に接続して、下に来る部分との関係を明らかにするものである。接続詞に置き換えることもできる。 「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。 副助詞(ふくじょし)は体言や格助詞に接続し、その文節に副詞のように用言や述語・述部を修飾する役割を持たせる。 三省堂や学校図書や光村図書(教科書会社名)の検定教科書では、助詞「は」は副助詞として分類される。 教育出版は、助詞「は」については説明をさけている。 終助詞(しゅうじょし)は述語に接続し、聞き手や読者などに禁止や疑問・勧誘などの働きかけを行う。 他にも「君の(もの)だ」の「の」のように体言の働きを持つものを準体助詞、「ね」「さ」「よ」などのように文節の切れ目に自由に入れて、強調したりリズムを整えたりするものを間投助詞という。 単語の中には品詞を区別しにくいものも多い。いくつかの例を見てみよう。 1の「きれいだ」は形容動詞だが、2の「病気だ」は名詞「病気」+助動詞「だ」である。これをどうやったら区別すればよいだろうか。この場合は副詞「とても」を入れるとよい。副詞は主に用言を修飾するので、1は問題ないが、2だと「山田さんはとても病気だ」となり、不自然な文になる。 「小さい」は形容詞だが、「小さな」は連体詞である。これは形容詞の活用の中に「な」の形がないことから判断する。 どちらも「ない」だが、1は打消の助動詞「ない」で、2は形容詞「ない」である。この場合は自立語は単独でも文節を作れることや打消の助動詞「ぬ」を入れて判断することができる。 単語の一部または全体につけることで品詞そのものを変えたり、意味を付け加えたりする言葉がある。その内、単語の頭につけるものを接頭語、後ろにつけるものを接尾語という。接頭語・接尾語は一つの単語として数えず、接続したものとセットで一つの単語としてみる。 日本語の接頭語の例を挙げる。「お」「ご」は名詞や動詞について尊敬や丁寧の意味を付け加える。既に敬語のところで述べたように、「お」は和語に、「ご」は漢語に接続する。他には名詞に接続する「新」「超」「反」や特定の色の名詞に接続する「まっ」がある。 接尾語は、形容詞の語幹に接続して名詞を作る「さ」、「さん」「様」などの敬称、名詞に接続して連体修飾語な意味を持たせる「的」「性」などが挙げられる。 文には単文(たんぶん)、複文(ふくぶん)、重文(じゅうぶん)の3種類がある。単文(たんぶん)は一つの主語・述語のセットで成り立っている。複文(ふくぶん)は二つ以上の主語・述語のセットでできており、ある主語・述語のセットが別の文節を修飾したり、文の主部・述部になっているものである。重文(じゅうぶん)も二つ以上の主語・述語のセットでできているが、修飾関係などはなく対等な関係にある。 例文:
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%96%87%E6%B3%95
元二(げんじ)の安西(あんせい)に使ひ(つかい)するを送る   王維(おうい) 渭城の朝雨軽塵を浥し 客舎青青柳色新たなり 君に勧む更に尽くせ一杯の酒 西のかた陽関を出づれば(仮定未然形+ば) 故人無からん ※ 予備知識 旅立つのは友人・元二であり、王維ではない。 (友人・元二との別れの日、)渭城に、朝、降った雨が、土ぼこりを潤して、 雨が降ったので旅館のそばの柳の木は、(葉が)青々として色も鮮やかだ。 さあ、君に勧めよう、(前日にすでに飲みあかしたが)さらに、もういっぱいの酒を飲もうではないか。 西のほうにある関所の陽関を出てしまったら、(君のような)親しい友人も、もう、いなくなるだろうから。 (左から右に読んでください。) 前半の二句 は、友人の出発を祝う句。 後半の二句 は、別れをさびしんでいることを表現した句。 七言絶句
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E5%85%83%E4%BA%8C%E3%81%AE%E5%AE%89%E8%A5%BF%E3%81%AB%E4%BD%BF%E3%81%B2%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%92%E9%80%81%E3%82%8B
牀前看月光   牀前(しょうぜん) 月光(げっこう)を看(み)る 疑是地上霜   疑うらくは 是(こ)れ 地上(ちじょう)の霜(しも)かと 挙頭望山月   頭(こうべ)を挙げて(あげて) 山月(さんげつ)を望み(のぞみ) 低頭思故郷   頭(こうべ)を低れて(たれて) 故郷(こきょう)を思う(おもう) 五言絶句。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E9%9D%99%E5%A4%9C%E6%80%9D
芭蕉は、自然の雄大さと、人間の儚さとを対比させ、無常観を表現している。しかし人の世が儚いからと言って決して人を見下しているわけではなく、儚いながらも、精一杯生きようとすることに人の意義を見出している。 三代(さんだい)の栄耀(えいよう)一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(たかだち)に登れば、北上川(きたかみがわ)、南部(なんぶ)より流るる大河(たいが)なり。衣川(ころもがわ)は和泉が城(いすみがじょう)を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。 泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関(ころもがせき)を隔てて南部口(なんぶぐち)をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても、義臣(ぎしん)すぐつてこの城にこもり、功名(こうみょう)一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。『国破れて山河あり、城(しろ、じょう)春にして草青みたり』と、笠うち敷きて(しきて)、時の移るまで泪(なみだ)を落としはべりぬ。 かねて耳驚かしたる二堂開帳(かいちょう)す。経堂(きょうどう)は三将の像を残し、光堂(ひかりどう)は三代の棺(ひつぎ)を納め、三尊(さんぞん)の仏を安置す。七宝(しっぽう)散り失せて、珠(たま)の扉風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、既に頽廃空虚(たいはいくうきょ)の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆ひて風雨を凌ぐ(しのぐ)。しばらく千歳の記念(せんざいのかたみ)とはなれり。 語注 予備知識: 「平泉」(ひらいずみ)は、今で言う岩手県の一地方。 (奥州に居た、奥州・藤原氏の)三代にわたる栄華も、(後世の歴史の視点からみれば、一瞬のあいだの夢のように)一睡のうちに消えて 、(いまや廃墟になり、)大門のあとは一里ほど手前にある。(藤原)秀衡の館のあとは、いまや田野になってしまい、(彼が築かせた)金鶏山のみ、形を残している。 (源義経が居たという)高館にのぼれば、北上川(きたかみがわ)が見えるが、北上川は南部地方から流れてくる大河である、 衣川(ころもがわ)は( 藤原泰衡(やすひら)のいた )和泉が城(いすみがじょう)をめぐって流れ、高館のもとで大河に流れ込んでいる。 源頼朝と対立した源義経は、奥州へと逃げのび、藤原秀衡に保護された。だが、秀衡の子の泰衡(やすひら)は、義経を攻め滅ぼした。高館ちは、そのときの戦場になった。 川の流れという自然現象だけでなく、歴史を掛けていると思われる。 芭蕉の一行が平泉を訪れた季節は、夏。以下の芭蕉の文章の訳は、夏ごろの風景を前提にしている。 泰衡(やすひら)らの旧跡は、衣が関(ころもがせき)を隔てて、(平泉への入口である)南部からの入口(なんぶぐち)をかたく守り、夷(えぞ)の侵入を防ぐと思われる。それにしても、(義経に忠誠をちかう、)よりすぐられた忠義の臣が、この高館にたてこもり、奮戦したのだが、その功名(こうみょう)も一時(いちじ)の叢(くさむら)となってしまった。(漢文の杜甫の詩「春望」にあるように)『国(くに)破れて山河(さんが)あり、城(しろ、じょう)春にして草(くさ)青みたり』(国は破壊されても、自然の山や川は変わらず残り続ける。(廃墟となってしまった)城は、春ともなれば、草が生い茂り、青みがかっている。)と、笠を敷きて(しいて)、しばらくの間、泪を落としたのでありました。 その昔、ここ(平泉)では、源義経(よしつね)の一行や藤原兼房(ふじわらのかねふさ)らが、功名を夢見て、敵とあらそっていたが、その名も今では歴史のかなたへと消え去り、ひと時の夢となってしまった。いまや、ただ夏草が生い茂る(おいしげる)ばかりである。 (季語は「夏草」。季節は夏。) (卯(う)の花は白いが、)白い卯の花を見ると、義経の家来として、老臣ながら奮戦した兼房が、白髪(しらが)を振り乱して奮戦している様子が思い浮かぶことよ。   (季語は「卯の花」。季節は夏。曾良は芭蕉に同行してるのだから、季節は同じはず。芭蕉の「夏草や・・・」に対応させて、植物で句をはじめたと思われる。) (義経の高館をめぐったあと、芭蕉の一行は、中尊寺の金色堂を見に行く。) 前々から耳にしていて、驚かされていた金色堂の二堂(経堂・光堂)が、開かれていた。経堂(きょうどう)には、像が三体あり、藤原清衡(ふじわらのきよひら)、藤原基衡(もとひら)、藤原秀衡(ひでひら)の三将の像が残っている。 光堂には、この三代の棺をおさめられてあり、仏の像が三体ある。阿弥陀(あみだ)・観世音(かんぜおん)・勢至(せいし)の、三尊(さんぞん)の仏像が安置されている。 (七宝が、かつては堂内を飾っていたが、)今では七宝(しちほう)も散り失せ、かつては珠玉(しゅぎょく)をちりばめられていただろう扉も、(長年の風雨により)今では風雨にいたみ、金箔の柱も霜や雪に朽ちて、もうすこしで退廃して草むらとなるところを、(鎌倉時代に)周囲の四面を囲い、風雨をよけるようにした(鞘堂が建てられた)。こうして、しばらくの間、千年の記念として残ることになったのである。 五月雨の  降り(ふり)のこしてや  光堂(ひかりどう) 光堂は昔のままだ。まるで、五月雨が、この光堂には降り残したかのようだ。(あたかも、光堂だけには降らなかったかのようだ。) 江戸時代の俳人(はいじん)の松尾芭蕉(まつおばしょう)が、実際に旅をして、旅先の様子などを書いた紀行文(きこうぶん)。 出発年: 元禄(げんろく)2年、(1689年)に芭蕉は江戸を出発した。 5ヶ月のあいだ、旅を続けた。 関東・東北・北陸・(岐阜の)大垣(おおがき)などを旅した。 旅の途中、句を多く、つくった。 従者(じゅうしゃ)として、曾良(そら)という人物をつれて、ともに旅をした。 現代語訳 月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。 舟(ふね)の上(うえ)に生涯(しょうがい)を浮かべ(うかべ)、馬の口(うまのくち)とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)をすみかとす。 古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。 予(よ)も、いづれの年よりか、片雲(へんうん)の風に誘われて(さそわれて)、漂泊(ひょうはく)の思ひ(おもい)やまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋(あき)、江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)を払ひて(はらひて)、やや年も暮れ(くれ)、春立てる(はるたてる)霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心(こころ)を狂はせ(くるわせ)、道祖神(どうそじん)の招き(まねき)にあひて、取(と)るもの手(て)につかず。 ももひきの破れ(やぶれ)をつづり、笠(かさ)の緒(お)つけかえて、三里(さんり)に灸(きゅう)すゆるより、松島の月(まつしまのつき)まず心にかかりて、住(す)める方(かた)は人(ひと)に譲(ゆず)り、杉風(さんぷう)が別しょ(べっしょ)に移る(うつる)に、 面八句(おもてはっく)を庵(いおり)の柱(はしら)に懸け(かけ)置(お)く。 月日は永遠に旅をつづける旅人のようなものであり、毎年、来ては去る年も、また旅人のようなものである。  (船頭(せんどう)として)舟(ふね)の上で一生を暮らす人や、(馬方(うまかた)として)馬のくつわを取って老いをむかえる人は、旅そのものを毎日、(仕事として)住み家としている(ようなものだ)。 昔の人も、多くの人が旅の途中で死んだ。 私も、いつごろの年からか、ちぎれ雲が風に誘われて漂う(ただよう)ように、旅をしたいと思うようになり、漂泊の思いやまず、海辺の地方などをさすらい歩きたく、去年の秋、川のほとりの粗末(そまつ)な家に(帰って)、くもの古巣(ふるす)を払ひって(暮らしているうちい)、しだいに年も暮れ、春になると、霞(かすみ)の立ちこめる空のもとで、白河の関(「しらかわのせき」、奥州地方の関所、現在でいう福島県にあった。) をこえようと、「そぞろ神」(そぞろがみ)が(私に)乗りうつって心をそわそわさせ、「道祖神」(どうそじん、旅や通行の安全を守る神)に招かれているように、何事も手につかない(ように、落ち着かない)。 そこで(もう、旅に出てしまおうと思い)、(旅支度として)ももひきの破れを繕い(つくろい)、笠(かさ)の緒(お)をつけかえて、(足のツボの)「三里」(さんり、ひざ下にあるツボ)に灸(きゅう)をすえて(足を健脚にして)(旅支度をすますと)、松島の月(まつしまのつき)(の美しさ)がまず気になって、住んでいた家は人に譲り(ゆずり)(理由:帰れるかどうか分からないので)、自分はかわりに(弟子の一人の)「杉風」(さんぷう)が持っていた別しょ(べっしょ)に移った。 と句を詠んで(よんで)、この句をはじめに面八句(おもてはっく)をつくり、庵(いおり)の柱(はしら)にかけておいた。 いくつかの句が、おくの細道で詠まれているが、代表的な句を挙げる。 夏草(なつくさ)や  兵(つわもの)どもが  夢(ゆめ)の跡(あと) 場所:平泉(ひらいずみ) 解釈 季語は「夏草」。季節は夏。 芭蕉が旅をした季節は、月を陽暦になおすと5月から10月のあいだなので、基本的に『おくの細道』に出てくる句の季節は、夏の前後である。 閑かさ(しずかさ)や  岩(いわ)に しみいる  蝉(せみ)の声(こえ) 場所:立石寺(りっしゃくじ) 解釈 もともと、芭蕉は最初は「閑かさや」のかわりに「さびしさや」と書いていたが、「さびしさや」だと直接的すぎて、読者にわびしさを感じさせようとする意図が見え見えで興ざめするし、芭蕉なりの工夫のあとがあるのだろう。 季語は「蝉」。季節は夏。 五月雨(さみだれ)を  集めて早し(はやし)  最上川(もがみがわ) 場所:最上川 解釈 季語は「五月雨」。季節は梅雨どき。(旧暦の5月なので) 五月雨の  降り(ふり)のこしてや  光堂(ひかりどう) 場所: 荒海(あらうみ)や  佐渡(さど)に 横たふ(よこたう)  天の河(あまのがわ) 場所:越後路(えちごじ) 解釈 とりあえず、句を文字通りに解釈すると、 というふうな解釈にでも、なるだろう。 季語は「天の河」。季節は秋。芭蕉たちの旅の期間が夏の前後なので、この句が「天の河」から秋の句だと分かる。したがって、「荒海」は、この句では季語ではない。 まちがって、「荒海」などから台風どきの日本海や、冬の日本海などを連想しないように注意。
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わたしは厳寒を冒して、二千余里を隔て二十余年も別れていた故郷に帰って来た。時はもう冬の最中(さなか)で故郷に近づくに従って天気は小闇(おぐら)くなり、身を切るような風が船室に吹き込んでびゅうびゅうと鳴る。苫の隙間から外を見ると、蒼黄いろい空の下にしめやかな荒村(あれむら)があちこちに横たわっていささかの活気もない。わたしはうら悲しき心の動きが抑え切れなくなった。  おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。  わたしの想い出す故郷はまるきり、こんなものではない。わたしの故郷はもっと佳(よ)いところが多いのだ。しかしその佳いところを記すには姿もなく言葉もないので、どうやらまずこんなものだとしておこう。そうしてわたし自身解釈して、故郷はもともとこんなものだと言っておく。――進歩はしないがわたしの感ずるほどうら悲しいものでもなかろう。これはただわたし自身の心境の変化だ。今度の帰省はもともと何のたのしみもないからだ。  わたしどもが永い間身内と一緒に棲んでいた老屋がすでに公売され、家を明け渡す期限が本年一ぱいになっていたから、ぜひとも正月元日前に行(ゆ)かなければならない。それが今度の帰省の全部の目的であった。住み慣れた老屋と永別して、その上また住み慣れた故郷に遠く離れて、今食い繋ぎをしているよそ国に家移りするのである。  わたしは二日目の朝早く我が家の門口に著(つ)いた。屋根瓦のうえに茎ばかりの枯草が風に向って顫(ふる)えているのは、ちょうどこの老屋が主を更(か)えなければならない原因を説明するようである。同じ屋敷内(うち)に住む本家の家族は大概もう移転したあとで、あたりはひっそりしていた。わたしが部屋の外側まで来た時、母は迎えに出て来た。八歳になる甥の宏兒(こうじ)も飛出(とびだ)して来た。  母は非常に喜んだ。何とも言われぬ淋しさを押包みながら、お茶を入れて、話をよそ事に紛らしていた。宏兒は今度初めて逢うので遠くの方へ突立って真正面からわたしを見ていた。  わたしどもはとうとう家移りのことを話した。 「あちらの家も借りることに極(き)めて、家具もあらかた調えましたが、まだ少し足らないものもありますから、ここにある嵩張物(かさばりもの)を売払って向うで買うことにしましょう」 「それがいいよ。わたしもそう思ってね。荷拵(にごしら)えをした時、嵩張物は持運びに不便だから半分ばかり売ってみたがなかなかお銭(あし)にならないよ」  こんな話をしたあとで母は語を継いだ。 「お前さんは久しぶりで来たんだから、本家や親類に暇乞いを済まして、それから出て行くことにしましょう」 「ええそうしましょう」 「あの閏土(じゅんど)がね、家へ来るたんびにお前のことをきいて、ぜひ一度逢いたいと言っているんだよ」と母はにこにこして 「今度到著(とうちゃく)の日取を知らせてやったから、たぶん来るかもしれないよ」 「おお、閏土! ずいぶん昔のことですね」  この時わたしの頭の中に一つの神さびた画面が閃き出した。深藍色(はなだいろ)の大空にかかる月はまんまろの黄金色(こがねいろ)であった。下は海辺の砂地に作られた西瓜(すいか)畑で、果てしもなき碧緑の中に十一二歳の少年がぽつりと一人立っている。項(えり)には銀の輪を掛け、手には鋼鉄の叉棒(さすぼう)を握って一疋(ぴき)の土竜(もぐら)に向って力任せに突き刺すと、土竜は身をひねって彼の跨(また)ぐらを潜(くぐ)って逃げ出す。  この少年が閏土であった。わたしが彼を知ったのは十幾つかの歳であったが、別れて今は三十年にもなる。あの時分は父も在世して家事の都合もよく、わたしは一人の坊ッちゃまであった。その年はちょうど三十何年目に一度廻って来る家(うち)の大祭の年に当り、祭は鄭重を極め、正月中掲げられた影像の前には多くの供え物をなし、祭器の撰択が八釜(やかま)しく行われ、参詣人が雑沓(ざっとう)するので泥棒の用心をしなければならぬ。わたしの家(うち)には忙月(マンユエ)が一人きりだから手廻りかね、祭器の見張番に倅(せがれ)をよびたいと申出たので父はこれを許した。(この村の小作人は三つに分れている。一年契約の者を長年(チャンネン)といい、日雇いの者を短工(トワンコン)という。自分で地面を持ち節期時や刈入時に臨時に人の家に行って仕事をする者を忙月(マンユエ)という)  わたしは閏土が来ると聞いて非常に嬉しく思った。というのはわたしは前から閏土の名前を聞き及んでいるし、年頃もわたしとおつかつだし、閏月(うるうづき)生れで五行の土が欠けているから閏土と名づけたわけも知っていた。彼は仕掛罠で小鳥を取ることが上手だ。  わたしは日々に新年の来るのを待ちかねた。新年が来ると閏土も来るのだ。まもなく年末になり、ある日の事、母はわたしを呼んで 「閏土が来たよ」と告げた。わたしは馳(か)け出して行ってみると、彼は炊事部屋にいた。紫色の丸顔! 頭に小さな漉羅紗帽(すきらしゃぼう)をかぶり、項にキラキラした銀の頸輪(くびわ)を掛け、――これを見ても彼の父親がいかに彼を愛しているかが解る。彼の死去を恐れて神仏に願を掛け、頸に輪を掛け、彼を庇護しているのである――人を見て大層はにかんだが、わたしに対して特別だった。誰もいない時に好く話をして、半日経たぬうちに我々はすっかり仲よしになった。  われわれはその時、何か知らんいろんな事を話したが、ただ覚えているのは、閏土が非常にハシャいで、まだ見たことのないいろいろの物を街へ来て初めて見たとの話だった。  次の日わたしは彼に鳥をつかまえてくれと頼んだ。 「それは出来ません。大雪が降ればいいのですがね。わたしどもの沙地(すなぢ)の上に雪が降ると、わたしは雪を掻き出して小さな一つの空地を作り、短い棒で大きな箕(み)を支え、小米を撒きちらしておきます。小鳥が食いに来た時、わたしは遠くの方で棒の上に縛ってある縄を引くと、小鳥は箕の下へ入ってしまいます。何でも皆ありますよ。稲鶏(いねどり)、角鶏(つのどり)、※鴣(のばと)[#「孛+鳥」、105-11]、藍背(あいせ)……」  そこでわたしは雪の降るのを待ちかねた。閏土はまた左(さ)のような話をした。 「今は寒くていけませんが、夏になったらわたしの処へ被入(いら)っしゃい。わたしどもは昼間海辺に貝殻取に行きます。赤いのや青いのや、鬼が見て恐れるのや、観音様の手もあります。晩にはお父さんと一緒に西瓜の見張りに行きますから、あなたも被入(いら)っしゃい」 「泥棒の見張をするのかえ」 「いいえ、旅の人が喉が渇いて一つぐらい取って食べても、家(うち)の方では泥棒の数に入れません。見張が要るのは※(「權」の「木」に代えて「豸」、第4水準2-89-10)猪(いのしし)、山あらし、土竜の類(るい)です。月明りの下でじっと耳を澄ましているとララと響いて来ます。土竜が瓜を噛んでるんですよ。その時あなたは叉棒を攫(つか)んでそっと行って御覧なさい」  わたしはそのいわゆる土竜というものがどんなものか、その時ちっとも知らなかった。――今でも解らない――ただわけもなく、小犬のような形で非常に猛烈のように感じた。 「彼は咬(か)みついて来るだろうね」 「こちらには叉棒がありますからね。歩いて行って見つけ次第、あなたはそれを刺せばいい。こん畜生は馬鹿に利巧な奴で、あべこべにあなたの方へ馳け出して来て、跨の下から逃げてゆきます。あいつの毛皮は油のように滑(すべ)ッこい」  わたしは今までこれほど多くの珍らしいことが世の中にあろうとは知らなかった。海辺にこんな五色(しき)の貝殻があったり、西瓜にこんな危険性があったり――わたしは今の先(さ)きまで西瓜は水菓子屋の店に売っているものとばかし思っていた。 「わたしどもの沙地の中には大潮の来る前に、たくさん跳ね魚が集(あつま)って来て、ただそれだけが跳ね廻っています。青蛙のように二つの脚があって……」  ああ閏土の胸の中には際限もなく不思議な話が繋がっていた。それはふだんわたしどもの往来(ゆきき)している友達の知らぬことばかりで、彼等は本当に何一つ知らなかった。閏土が海辺にいる時彼等はわたしと同じように、高塀に囲まれた屋敷の上の四角な空ばかり眺めていたのだから。  惜しいかな、正月は過ぎ去り、閏土は彼の郷里に帰ることになった。わたしは大哭(おおな)きに哭いた。閏土もまた泣き出し、台所に隠れて出て行くまいとしたが、遂に彼の父親に引張り出された。  彼はその後父親に託(ことづ)けて貝殻一包(つつみ)と見事な鳥の毛を何本か送って寄越した。わたしの方でも一二度品物を届けてやったこともあるが、それきり顔を見たことが無い。  現在わたしの母が彼のことを持出したので、わたしのあの時の記憶が電(いなずま)の如くよみがえって来て、本当に自分の美しい故郷を見きわめたように覚えた。わたしは声に応じて答えた。 「そりゃ面白い。彼はどんな風です」 「あの人かえ、あの人の景気もあんまりよくないようだよ」  母はそういいながら室(へや)の外を見た。 「おやまた誰か来たよ。木器(もくき)買うと言っては手当り次第に持って行くんだから、わたしがちょっと見て来ましょう」  母が出て行くと門外の方で四五人の女の声がした。わたしは宏兒を側(そば)へ喚(よ)んで彼と話をした。字が書けるか、この家(うち)を出て行きたいと思うか、などということを訊いてみた。 「わたしどもは汽車に乗ってゆくのですか」 「汽車に乗ってゆくんだよ」 「船は?」 「まず船に乗るんだ」 「おや、こんなになったんですかね。お鬚がまあ長くなりましたこと」  一種尖ったおかしな声が突然わめき出した。  わたしは喫驚(びっくり)して頭を上げると、頬骨の尖った唇の薄い、五十前後の女が一人、わたしの眼の前に突立っていた。袴も無しに股引穿(ももひきば)きの両足を踏ん張っている姿は、まるで製図器のコンパスみたいだ。  わたしはぎょっとした。 「解らないかね、わたしはお前を抱いてやったことが幾度もあるよ」  わたしはいよいよ驚いたが、いい塩梅にすぐあとから母が入って来て側(そば)から 「この人は永い間外に出ていたから、みんな忘れてしまったんです。お前、覚えておいでだろうね」  とわたしの方へ向って 「これはすじ向うの楊二嫂(ようにそう)だよ。そら豆腐屋さんの」  おおそう言われると想い出した。わたしの子供の時分、すじ向うの豆腐屋の奥に一日坐り込んでいたのがたしか楊二嫂とか言った。彼女は近処(きんじょ)で評判の「豆腐西施(せいし)」で白粉(おしろい)をコテコテ塗っていたが、頬骨もこんなに高くはなく、唇もこんなに薄くはなく、それにまたいつも坐っていたので、こんな分廻(ぶんまわ)しのような姿勢を見るのはわたしも初めてで、その時分彼女があるためにこの豆腐屋の商売が繁盛するという噂をきいていたが、それも年齢の関係で、わたしは未(いま)だかつて感化を受けたことがないからまるきり覚えていない。ところがコンパス西施はわたしに対してはなはだ不平らしく、たちまち侮りの色を現し、さながらフランス人にしてナポレオンを知らず、亜米利加(アメリカ)人にしてワシントンを知らざるを嘲る如く冷笑した。 「忘れたの? 出世すると眼の位まで高くなるというが、本当だね」 「いえ、決してそんなことはありません、わたし……」  わたしは慌てて立上がった。 「そんなら迅(じん)ちゃん、お前さんに言うがね。お前はお金持になったんだから、引越しだってなかなか御大層だ。こんな我楽多(がらくた)道具なんか要るもんかね。わたしに譲っておくれよ、わたしども貧乏人こそ使い道があるわよ」 「わたしは決して金持ではありません。こんなものでも売ったら何かの足しまえになるかと思って……」 「おやおやお前は結構な道台(おやくめ)さえも捨てたという話じゃないか。それでもお金持じゃないの? お前は今三人のお妾(めかけ)さんがあって、外に出る時には八人舁(かつ)きの大轎(おおかご)に乗って、それでもお金持じゃないの? ホホ何と被仰(おっしゃ)ろうが、私を瞞(だま)すことは出来ないよ」  わたしは話のしようがなくなって口を噤んで立っていると 「全くね、お金があればあるほど塵ッ葉一つ出すのはいやだ。塵ッ葉一つ出さなければますますお金が溜るわけだ」  コンパスはむっとして身を翻し、ぶつぶつ言いながら出て行ったが、なお、行きがけの駄賃に母の手袋を一双、素早く掻っ払ってズボンの腰に捻じ込んで立去った。  そのあとで近処の本家や親戚の人達がわたしを訪ねて来たので、わたしはそれに応酬しながら暇を偸(ぬす)んで行李(こうり)をまとめ、こんなことで三四日も過した。  非常に寒い日の午後、わたしは昼飯を済ましてお茶を飲んでいると、外から人が入って来た。見ると思わず知らず驚いた。この人はほかでもない閏土であった。わたしは一目見てそれと知ったが、それは記憶の上の閏土ではなかった。身の丈けは一倍も伸びて、紫色の丸顔はすでに変じてどんよりと黄ばみ、額には溝のような深皺が出来ていた。目許は彼の父親ソックリで地腫れがしていたが、これはわたしも知っている。海辺地方の百姓は年じゅう汐風に吹かれているので皆が皆こんな風になるのである。彼の頭の上には破れた漉羅紗帽が一つ、身体の上にはごく薄い棉入れが一枚、その著(き)こなしがいかにも見すぼらしく、手に紙包と長煙管(ながぎせる)を持っていたが、その手もわたしの覚えていた赤く丸い、ふっくらしたものではなく、荒っぽくざらざらして松皮(まつかわ)のような裂け目があった。  わたしは非常に亢奮して何と言っていいやら 「あ、閏土さん、よく来てくれた」  とまず口を切って、続いて連珠の如く湧き出す話、角鶏、飛魚、貝殻、土竜……けれど結局何かに弾かれたような工合(ぐあい)になって、ただ頭の中をぐるぐる廻っているだけで口外へ吐き出すことが出来ない。  彼はのそりと立っていた。顔の上には喜びと淋しさを現わし、唇は動かしているが声が出ない。彼の態度は結局敬い奉るのであった。 「旦那様」  と一つハッキリ言った。わたしはぞっとして身顫いが出そうになった。なるほどわたしどもの間にはもはや悲しむべき隔てが出来たのかと思うと、わたしはもう話も出来ない。  彼は頭を後ろに向け 「水生(すいせい)や、旦那様にお辞儀をしなさい」  と背中に躱(かく)れている子供を引出した。これはちょうど三十年前の閏土と同じような者であるが、それよりずっと痩せ黄ばんで頸のまわりに銀の輪がない。 「これは五番目の倅ですが、人様の前に出たことがありませんから、はにかんで困ります」  母は宏兒を連れて二階から下りて来た。大方われわれの話声(はなしごえ)を聞きつけて来たのだろう。閏土は丁寧に頭を低(さ)げて 「大奥様、お手紙を有難く頂戴致しました。わたしは旦那様がお帰りになると聞いて、何しろハアこんな嬉しいことは御座いません」 「まあお前はなぜそんな遠慮深くしているの、先(せん)にはまるで兄弟のようにしていたじゃないか。やっぱり昔のように迅ちゃんとお言いよ」  母親はいい機嫌であった。 「奥さん、今はそんなわけにはゆきません。あの時分は子供のことで何もかも解りませんでしたが」  閏土はそう言いながら子供を前に引出してお辞儀をさせようとしたが、子供は羞(はずか)しがって背中にこびりついて離れない。 「その子は水生だね。五番目かえ。みんなうぶだから懼(こわ)がるのは当前(あたりまえ)だよ。宏兒がちょうどいい相手だ。さあお前さん達は向うへ行ってお遊び」  宏兒はこの話を聞くとすぐに水生をさし招いた。水生は俄に元気づいて一緒になって馳け出して行った。母は閏土に席をすすめた。彼はしばらくうじうじして遂に席に著(つ)いた。長煙管を卓の側(そば)に寄せ掛け、一つの紙包を持出した。 「冬のことで何も御座いませんが、この青豆は家(うち)の庭で乾かしたんですから旦那様に差上げて下さい」  わたしは彼に暮向(くらしむき)のことを訊ねると、彼は頭を揺り動かした。 「なかなか大変です。あの下の子供にも手伝わせておりますが、どうしても足りません。……世の中は始終ゴタついておりますし、……どちらを向いてもお金の費(い)ることばかりで、方途(ほうず)が知れません……実りが悪いし、種物を売り出せば幾度も税金を掛けられ、元を削って売らなければ腐れるばかりです」  彼はひたすら頭を振った。見ると顔の上にはたくさんの皺が刻まれているが、石像のようにまるきり動かない。たぶん苦しみを感ずるだけで表現することが出来ないのだろう。しばらく思案に沈んでいたが煙管を持出して煙草を吸った。  母は彼の多忙を察してあしたすぐに引取らせることにした。まだ昼飯も食べていないので台所へ行って自分で飯を焚いておあがりと吩付(いいつ)けた。  あとで母とわたしは彼の境遇について歎息した。子供は殖(ふ)えるし、飢饉年は続くし、税金は重なるし、土匪(どひ)や兵隊が乱暴するし、官吏や地主がのしかかって来るし、凡(すべ)ての苦しみは彼をして一つの木偶(でく)とならしめた。「要らないものは何でも彼にやるがいいよ。勝手に撰(よ)り取らせてもいい」と母は言った。  午後、彼は入用の物を幾つか撰り出していた。長卓二台、椅子四脚、香炉と燭台一対ずつ、天秤(てんびん)一本。またここに溜っている藁灰も要るのだが、(わたしどもの村では飯を焚く時藁を燃料とするので、その灰は砂地の肥料に持って来いだ)わたしどもの出発前(ぜん)に船を寄越して積取ってゆく。  晩になってわたしどもはゆっくり話をしたが、格別必要な話でもなかった。そうして次の朝、彼は水生を連れて帰った。  九日目にわたしどもの出発の日が来た。閏土は朝早くから出て来た。今度は水生の代りに五つになる女の児を連れて来て船の見張をさせた。その日は一日急がしく、もう彼と話をしている暇もない。来客もまた少からずあった。見送りに来た者、品物を持出しに来た者、見送りと持出しを兼ねて来た者などがゴタゴタして、日暮れになってわたしどもがようやく船に乗った時には、この老屋の中にあった大小の我楽多道具はキレイに一掃されて、塵ッ葉一つ残らずガラ空きになった。  船はずんずん進んで行った。両岸の青山はたそがれの中に深黛色(しんたいしょく)の装いを凝らし、皆連れ立って船後の梢に向って退(しりぞ)く。  わたしは船窓に凭(よ)って外のぼんやりした景色を眺めていると、たちまち宏兒が質問を発した。 「叔父さん、わたしどもはいつここへ帰って来るんでしょうね」 「帰る? ハハハ。お前は向うに行き著きもしないのにもう帰ることを考えているのか」 「あの水生がね、自分の家(うち)へ遊びに来てくれと言っているんですよ」  宏兒は黒目勝ちの眼をみはってうっとりと外を眺めている。  わたしどもはうすら睡(ねむ)くなって来た。そこでまた閏土の話を持出した。母は語った。 「あの豆腐西施は家(うち)で荷造りを始めてから毎日きっとやって来るんだよ。きのうは灰溜の中から皿小鉢を十幾枚も拾い出し、論判(ろっぱん)の挙句、これはきっと閏土が埋(うず)めておいたに違いない、彼は灰を運ぶ時一緒に持帰る積りだろうなどと言って、この事を非常に手柄にして『犬ぢらし』を掴んでまるで飛ぶように馳け出して行ったが、あの纏足の足でよくまああんなに早く歩けたものだね」 (犬ぢらしはわたしどもの村の養鶏の道具で、木盤の上に木柵を嵌(は)め、中には餌(え)を入れておく。鶏は嘴が長いから柵をとおして啄(ついば)むことが出来る。犬は柵に鼻が閊(つか)えて食うことが出来ない。故に犬じ[#「じ」はママ]らしという)  だんだん故郷の山水に遠ざかり、一時ハッキリした少年時代の記憶がまたぼんやりして来た。わたしは今の故郷に対して何の未練も残らないが、あの美しい記憶が薄らぐことが何よりも悲しかった。  母も宏兒も睡ってしまった。  わたしは横になって船底のせせらぎを聴き、自分の道を走っていることを知った。わたしは遂に閏土と隔絶してこの位置まで来てしまった。けれど、わたしの後輩はやはり一脈の気を通わしているではないか。宏兒は水生を思念しているではないか。わたしは彼等の間に再び隔膜が出来ることを望まない。しかしながら彼等は一脈の気を求むるために、凡てがわたしのように辛苦展転して生活することを望まない。また彼等の凡てが閏土のように辛苦麻痺して生活することを望まない。また凡てが別人のように辛苦放埒して生活することを望まない。彼等はわたしどものまだ経験せざる新しき生活をしてこそ然(しか)る可(べ)きだ。  わたしはそう思うとたちまち羞しくなった。閏土が香炉と燭台が要ると言った時、わたしは内々彼を笑っていた。彼はどうしても偶像崇拝で、いかなる時にもそれを忘れ去ることが出来ないと。ところが現在わたしのいわゆる希望はわたしの手製の偶像ではなかろうか。ただ彼の希望は遠くの方でぼんやりしているだけの相違だ。  夢うつつの中(うち)に眼の前に野広い海辺の緑の沙地が展開して来た。上には深藍色の大空に掛るまんまろの月が黄金色であった。  希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。 (一九二一年一月) 青空文庫より引用。
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高瀬舟(たかせぶね)は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島(ゑんたう)を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞(いとまごひ)をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた、默許であつた。  當時遠島を申し渡された罪人は、勿論重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盜をするために、人を殺し火を放つたと云ふやうな、獰惡(だうあく)な人物が多數を占めてゐたわけではない。高瀬舟に乘る罪人の過半は、所謂心得違のために、想はぬ科(とが)を犯した人であつた。有り觸れた例を擧げて見れば、當時相對死と云つた情死を謀つて、相手の女を殺して、自分だけ活き殘つた男と云ふやうな類である。  さう云ふ罪人を載せて、入相(いりあひ)の鐘の鳴る頃に漕ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を兩岸に見つつ、東へ走つて、加茂川を横ぎつて下るのであつた。此舟の中で、罪人と其親類の者とは夜どほし身の上を語り合ふ。いつもいつも悔やんでも還らぬ繰言である。護送の役をする同心は、傍でそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族(けんぞく)の悲慘な境遇を細かに知ることが出來た。所詮町奉行所の白洲(しらす)で、表向の口供を聞いたり、役所の机の上で、口書(くちがき)を讀んだりする役人の夢にも窺ふことの出來ぬ境遇である。  同心を勤める人にも、種々の性質があるから、此時只うるさいと思つて、耳を掩ひたく思ふ冷淡な同心があるかと思へば、又しみじみと人の哀を身に引き受けて、役柄ゆゑ氣色には見せぬながら、無言の中に私かに胸を痛める同心もあつた。場合によつて非常に悲慘な境遇に陷つた罪人と其親類とを、特に心弱い、涙脆い同心が宰領して行くことになると、其同心は不覺の涙を禁じ得ぬのであつた。  そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で、不快な職務として嫌はれてゐた。 ―――――――――――――――― いつの頃であつたか。多分江戸で白河樂翁侯が政柄(せいへい)を執つてゐた寛政の頃ででもあつただらう。智恩院(ちおんゐん)の櫻が入相の鐘に散る春の夕に、これまで類のない、珍らしい罪人が高瀬舟に載せられた。  それは名を喜助と云つて、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。固より牢屋敷に呼び出されるやうな親類はないので、舟にも只一人で乘つた。  護送を命ぜられて、一しよに舟に乘り込んだ同心羽田庄兵衞は、只喜助が弟殺しの罪人だと云ふことだけを聞いてゐた。さて牢屋敷から棧橋まで連れて來る間、この痩肉(やせじし)の、色の蒼白い喜助の樣子を見るに、いかにも神妙に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬つて、何事につけても逆はぬやうにしてゐる。しかもそれが、罪人の間に往々見受けるやうな、温順を裝つて權勢に媚びる態度ではない。  庄兵衞は不思議に思つた。そして舟に乘つてからも、單に役目の表で見張つてゐるばかりでなく、絶えず喜助の擧動に、細かい注意をしてゐた。  其日は暮方から風が歇(や)んで、空一面を蔽つた薄い雲が、月の輪廓をかすませ、やうやう近寄つて來る夏の温さが、兩岸の土からも、川床の土からも、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。下京の町を離れて、加茂川を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、只舳(へさき)に割かれる水のささやきを聞くのみである。  夜舟で寢ることは、罪人にも許されてゐるのに、喜助は横にならうともせず、雲の濃淡に從つて、光の増したり減じたりする月を仰いで、默つてゐる。其額は晴やかで目には微かなかがやきがある。  庄兵衞はまともには見てゐぬが、始終喜助の顏から目を離さずにゐる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返してゐる。それは喜助の顏が縱から見ても、横から見ても、いかにも樂しさうで、若し役人に對する氣兼がなかつたなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌ひ出すとかしさうに思はれたからである。  庄兵衞は心の内に思つた。これまで此高瀬舟の宰領をしたことは幾度だか知れない。しかし載せて行く罪人は、いつも殆ど同じやうに、目も當てられぬ氣の毒な樣子をしてゐた。それに此男はどうしたのだらう。遊山船にでも乘つたやうな顏をしてゐる。罪は弟を殺したのださうだが、よしや其弟が惡い奴で、それをどんな行掛りになつて殺したにせよ、人の情として好い心持はせぬ筈である。この色の蒼い痩男が、その人の情と云ふものが全く缺けてゐる程の、世にも稀な惡人であらうか。どうもさうは思はれない。ひよつと氣でも狂つてゐるのではあるまいか。いやいや。それにしては何一つ辻褄の合はぬ言語や擧動がない。此男はどうしたのだらう。庄兵衞がためには喜助の態度が考へれば考へる程わからなくなるのである。 ―――――――――――――――― 暫くして、庄兵衞はこらへ切れなくなつて呼び掛けた。「喜助。お前何を思つてゐるのか。」 「はい」と云つてあたりを見廻した喜助は、何事をかお役人に見咎められたのではないかと氣遣ふらしく、居ずまひを直して庄兵衞の氣色を伺つた。  庄兵衞は自分が突然問を發した動機を明して、役目を離れた應對を求める分疏(いひわけ)をしなくてはならぬやうに感じた。そこでかう云つた。「いや。別にわけがあつて聞いたのではない。實はな、己は先刻からお前の島へ往く心持が聞いて見たかつたのだ。己はこれまで此舟で大勢の人を島へ送つた。それは隨分いろいろな身の上の人だつたが、どれもどれも島へ往くのを悲しがつて、見送りに來て、一しよに舟に乘る親類のものと、夜どほし泣くに極まつてゐた。それにお前の樣子を見れば、どうも島へ往くのを苦にしてはゐないやうだ。一體お前はどう思つてゐるのだい。」  喜助はにつこり笑つた。「御親切に仰やつて下すつて、難有うございます。なる程島へ往くといふことは、外の人には悲しい事でございませう。其心持はわたくしにも思ひ遣つて見ることが出來ます。しかしそれは世間で樂をしてゐた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして參つたやうな苦みは、どこへ參つてもなからうと存じます。お上のお慈悲で、命を助けて島へ遣つて下さいます。島はよしやつらい所でも、鬼の栖(す)む所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこと云つて自分のゐて好い所と云ふものがございませんでした。こん度お上で島にゐろと仰やつて下さいます。そのゐろと仰やる所に落ち著いてゐることが出來ますのが、先づ何よりも難有い事でございます。それにわたくしはこんなにかよわい體ではございますが、つひぞ病氣をいたしたことがございませんから、島へ往つてから、どんなつらい爲事をしたつて、體を痛めるやうなことはあるまいと存じます。それからこん度島へお遣下さるに付きまして、二百文の鳥目(てうもく)を戴きました。それをここに持つてをります。」かう云ひ掛けて、喜助は胸に手を當てた。遠島を仰せ附けられるものには、鳥目二百銅を遣すと云ふのは、當時の掟であつた。  喜助は語を續いだ。「お恥かしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文と云ふお足を、かうして懷に入れて持つてゐたことはございませぬ。どこかで爲事(しごと)に取り附きたいと思つて、爲事を尋ねて歩きまして、それが見附かり次第、骨を惜まずに働きました。そして貰つた錢は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買つて食べられる時は、わたくしの工面の好い時で、大抵は借りたものを返して、又跡を借りたのでございます。それがお牢に這入つてからは、爲事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に對して濟まない事をいたしてゐるやうでなりませぬ。それにお牢を出る時に、此二百文を戴きましたのでございます。かうして相變らずお上の物を食べてゐて見ますれば、此二百文はわたくしが使はずに持つてゐることが出來ます。お足を自分の物にして持つてゐると云ふことは、わたくしに取つては、これが始でございます。島へ往つて見ますまでは、どんな爲事が出來るかわかりませんが、わたくしは此二百文を島でする爲事の本手にしようと樂しんでをります。」かう云つて、喜助は口を噤んだ。  庄兵衞は「うん、さうかい」とは云つたが、聞く事毎に餘り意表に出たので、これも暫く何も云ふことが出來ずに、考へ込んで默つてゐた。  庄兵衞は彼此初老に手の屆く年になつてゐて、もう女房に子供を四人生ませてゐる。それに老母が生きてゐるので、家は七人暮しである。平生人には吝嗇と云はれる程の、儉約な生活をしてゐて、衣類は自分が役目のために著るものの外、寢卷しか拵へぬ位にしてゐる。しかし不幸な事には、妻を好い身代の商人の家から迎へた。そこで女房は夫の貰ふ扶持米で暮しを立てて行かうとする善意はあるが、裕な家に可哀がられて育つた癖があるので、夫が滿足する程手元を引き締めて暮して行くことが出來ない。動もすれば月末になつて勘定が足りなくなる。すると女房が内證で里から金を持つて來て帳尻を合はせる。それは夫が借財と云ふものを毛蟲のやうに嫌ふからである。さう云ふ事は所詮夫に知れずにはゐない。庄兵衞は五節句だと云つては、里方から物を貰ひ、子供の七五三の祝だと云つては、里方から子供に衣類を貰ふのでさへ、心苦しく思つてゐるのだから、暮しの穴を填(う)めて貰つたのに氣が附いては、好い顏はしない。格別平和を破るやうな事のない羽田の家に、折々波風の起るのは、是が原因である。  庄兵衞は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べて見た。喜助は爲事をして給料を取つても、右から左へ人手に渡して亡くしてしまふと云つた。いかにも哀な、氣の毒な境界である。しかし一轉して我身の上を顧みれば、彼と我との間に、果してどれ程の差があるか。自分も上から貰ふ扶持米(ふちまい)を、右から左へ人手に渡して暮してゐるに過ぎぬではないか。彼と我との相違は、謂はば十露盤(そろばん)の桁が違つてゐるだけで、喜助の難有がる二百文に相當する貯蓄だに、こつちはないのである。  さて桁を違へて考へて見れば、鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでゐるのに無理はない。其心持はこつちから察して遣ることが出來る。しかしいかに桁を違へて考へて見ても、不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知つてゐることである。  喜助は世間で爲事を見附けるのに苦んだ。それを見附けさへすれば、骨を惜まずに働いて、やうやう口を糊することの出來るだけで滿足した。そこで牢に入つてからは、今まで得難かつた食が、殆ど天から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ滿足を覺えたのである。  庄兵衞はいかに桁を違へて考へて見ても、ここに彼と我との間に、大いなる懸隔のあることを知つた。自分の扶持米で立てて行く暮しは、折々足らぬことがあるにしても、大抵出納が合つてゐる。手一ぱいの生活である。然るにそこに滿足を覺えたことは殆ど無い。常は幸とも不幸とも感ぜずに過してゐる。しかし心の奧には、かうして暮してゐて、ふいとお役が御免になつたらどうしよう、大病にでもなつたらどうしようと云ふ疑懼(ぎく)が潜んでゐて、折々妻が里方から金を取り出して來て穴填をしたことなどがわかると、此疑懼が意識の閾の上に頭を擡げて來るのである。  一體此懸隔はどうして生じて來るだらう。只上邊だけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こつちにはあるからだと云つてしまへばそれまでである。しかしそれは※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)である。よしや自分が一人者であつたとしても、どうも喜助のやうな心持にはなられさうにない。この根柢はもつと深い處にあるやうだと、庄兵衞は思つた。  庄兵衞は只漠然と、人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考へて見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出來るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衞は氣が附いた。  庄兵衞は今さらのやうに驚異の目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)つて喜助を見た。此時庄兵衞は空を仰いでゐる喜助の頭から毫光(がうくわう)がさすやうに思つた。 ―――――――――――――――― 庄兵衞は喜助の顏をまもりつつ又、「喜助さん」と呼び掛けた。今度は「さん」と云つたが、これは十分の意識を以て稱呼を改めたわけではない。其聲が我口から出て我耳に入るや否や、庄兵衞は此稱呼の不穩當なのに氣が附いたが、今さら既に出た詞を取り返すことも出來なかつた。 「はい」と答へた喜助も、「さん」と呼ばれたのを不審に思ふらしく、おそる/\庄兵衞の氣色を覗つた。  庄兵衞は少し間の惡いのをこらへて云つた。「色々の事を聞くやうだが、お前が今度島へ遣られるのは、人をあやめたからだと云ふ事だ。己に序にそのわけを話して聞せてくれぬか。」  喜助はひどく恐れ入つた樣子で、「かしこまりました」と云つて、小聲で話し出した。「どうも飛んだ心得違(こゝろえちがひ)で、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げやうがございませぬ。跡で思つて見ますと、どうしてあんな事が出來たかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親が時疫(じえき)で亡くなりまして、弟と二人跡に殘りました。初は丁度軒下に生れた狗(いぬ)の子にふびんを掛けるやうに町内の人達がお惠下さいますので、近所中の走使などをいたして、飢ゑ凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を搜しますにも、なるたけ二人が離れないやうにいたして、一しよにゐて、助け合つて働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引(そらびき)と云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病氣で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の掘立小屋同樣の所に寢起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて歸ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては濟まない/\と申してをりました。或る日いつものやうに何心なく歸つて見ますと、弟は布團の上に突つ伏してゐまして、周圍は血だらけなのでございます。わたくしはびつくりいたして、手に持つてゐた竹の皮包や何かを、そこへおつぽり出して、傍へ往つて『どうした/\』と申しました。すると弟は眞蒼な顏の、兩方の頬から腮へ掛けて血に染つたのを擧げて、わたくしを見ましたが、物を言ふことが出來ませぬ。息をいたす度に、創口でひゆう/\と云ふ音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも樣子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と云つて、傍へ寄らうといたすと、弟は右の手を床に衝いて、少し體を起しました。左の手はしつかり腮の下の所を押へてゐますが、其指の間から黒血の固まりがはみ出してゐます。弟は目でわたくしの傍へ寄るのを留めるやうにして口を利きました。やう/\物が言へるやうになつたのでございます。『濟まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなほりさうにもない病氣だから、早く死んで少しでも兄きに樂がさせたいと思つたのだ。笛を切つたら、すぐ死ねるだらうと思つたが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く/\と思つて、力一ぱい押し込むと、横へすべつてしまつた。刃は飜(こぼ)れはしなかつたやうだ。これを旨く拔いてくれたら己は死ねるだらうと思つてゐる。物を言ふのがせつなくつて可けない。どうぞ手を借して拔いてくれ』と云ふのでございます。弟が左の手を弛めるとそこから又息が漏ります。わたくしはなんと云はうにも、聲が出ませんので、默つて弟の咽の創を覗いて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持つて、横に笛を切つたが、それでは死に切れなかつたので、其儘剃刀を、刳るやうに深く突つ込んだものと見えます。柄がやつと二寸ばかり創口から出てゐます。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようと云ふ思案も附かずに、弟の顏を見ました。弟はぢつとわたくしを見詰めてゐます。わたくしはやつとの事で、『待つてゐてくれ、お醫者を呼んで來るから』と申しました。弟は怨めしさうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしつかり押へて、『醫者がなんになる、あゝ苦しい、早く拔いてくれ、頼む』と云ふのでございます。わたくしは途方に暮れたやうな心持になつて、只弟の顏ばかり見てをります。こんな時は、不思議なもので、目が物を言ひます。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と云つて、さも怨めしさうにわたくしを見てゐます。わたくしの頭の中では、なんだかかう車の輪のやうな物がぐる/\廻つてゐるやうでございましたが、弟の目は恐ろしい催促を罷(や)めません。それに其目の怨めしさうなのが段々險しくなつて來て、とう/\敵の顏をでも睨むやうな、憎々しい目になつてしまひます。それを見てゐて、わたくしはとう/\、これは弟の言つた通にして遣らなくてはならないと思ひました。わたくしは『しかたがない、拔いて遣るぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと變つて、晴やかに、さも嬉しさうになりました。わたくしはなんでも一と思にしなくてはと思つて膝を撞(つ)くやうにして體を前へ乘り出しました。弟は衝いてゐた右の手を放して、今まで喉を押へてゐた手の肘を床に衝いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしつかり握つて、ずつと引きました。此時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆あさんが這入つて來ました。留守の間、弟に藥を飮ませたり何かしてくれるやうに、わたくしの頼んで置いた婆あさんなのでございます。もう大ぶ内のなかが暗くなつてゐましたから、わたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、婆あさんはあつと云つた切、表口をあけ放しにして置いて驅け出してしまひました。わたくしは剃刀を拔く時、手早く拔かう、眞直に拔かうと云ふだけの用心はいたしましたが、どうも拔いた時の手應(てごたへ)は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。刃が外の方へ向ひてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。わたくしは剃刀を握つた儘、婆あさんの這入つて來て又驅け出して行つたのを、ぼんやりして見てをりました。婆あさんが行つてしまつてから、氣が附いて弟を見ますと、弟はもう息が切れてをりました。創口からは大そうな血が出てをりました。それから年寄衆(としよりしゆう)がお出になつて、役場へ連れて行かれますまで、わたくしは剃刀を傍に置いて、目を半分あいた儘死んでゐる弟の顏を見詰めてゐたのでございます。」  少し俯向き加減になつて庄兵衞の顏を下から見上げて話してゐた喜助は、かう云つてしまつて視線を膝の上に落した。  喜助の話は好く條理が立つてゐる。殆ど條理が立ち過ぎてゐると云つても好い位である。これは半年程の間、當時の事を幾度も思ひ浮べて見たのと、役場で問はれ、町奉行所で調べられる其度毎に、注意に注意を加へて浚つて見させられたのとのためである。  庄兵衞は其場の樣子を目のあたり見るやうな思ひをして聞いてゐたが、これが果して弟殺しと云ふものだらうか、人殺しと云ふものだらうかと云ふ疑が、話を半分聞いた時から起つて來て、聞いてしまつても、其疑を解くことが出來なかつた。弟は剃刀を拔いてくれたら死なれるだらうから、拔いてくれと云つた。それを拔いて遣つて死なせたのだ、殺したのだとは云はれる。しかし其儘にして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であつたらしい。それが早く死にたいと云つたのは、苦しさに耐へなかつたからである。喜助は其苦を見てゐるに忍びなかつた。苦から救つて遣らうと思つて命を絶つた。それが罪であらうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救ふためであつたと思ふと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。  庄兵衞の心の中には、いろ/\に考へて見た末に、自分より上のものの判斷に任す外ないと云ふ念、オオトリテエに從ふ外ないと云ふ念が生じた。庄兵衞はお奉行樣の判斷を、其儘自分の判斷にしようと思つたのである。さうは思つても、庄兵衞はまだどこやらに腑に落ちぬものが殘つてゐるので、なんだかお奉行樣に聞いて見たくてならなかつた。  次第に更けて行く朧夜に、沈默の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべつて行つた。 (大正五年一月「中央公論」第三十一年第一號) 青空文庫より 初出:「中央公論 第三十一年第一號」    1916(大正5)年1月
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元文(げんぶん)三年十一月二十三日の事である。大阪で、船乘業(ふなのりげふ)桂屋太郎兵衞(かつらやたろべゑ)と云ふものを、木津川口(きづがはぐち)で三日間曝(さら)した上、斬罪に處すると、高札(かうさつ)に書いて立てられた。市中到る處太郎兵衞の噂ばかりしてゐる中に、それを最も痛切に感ぜなくてはならぬ太郎兵衞の家族は、南組(みなみぐみ)堀江橋際(ほりえばしぎは)の家で、もう丸二年程、殆ど全く世間との交通を絶つて暮してゐるのである。  この豫期すべき出來事を、桂屋へ知らせに來たのは、程遠からぬ平野町(ひらのまち)に住んでゐる太郎兵衞が女房の母であつた。この白髮頭の媼(おうな)の事を桂屋では平野町のおばあ樣と云つてゐる。おばあ樣とは、桂屋にゐる五人の子供がいつも好い物をお土産に持つて來てくれる祖母に名づけた名で、それを主人も呼び、女房も呼ぶやうになつたのである。  おばあ樣を慕つて、おばあ樣にあまえ、おばあ樣にねだる孫が、桂屋に五人ゐる。その四人は、おばあ樣が十七になつた娘を桂屋へよめによこしてから、今年十六年目になるまでの間に生れたのである。長女いちが十六歳、二女まつが十四歳になる。其次に、太郎兵衞が娘をよめに出す覺悟で、平野町の女房の里方(さとかた)から、赤子(あかご)のうちに貰ひ受けた、長太郎と云ふ十二歳の男子がある。其次に又生れた太郎兵衞の娘は、とくと云つて八歳になる。最後に太郎兵衞の始て設けた男子の初五郎がゐて、これが六歳になる。  平野町の里方は有福なので、おばあ樣のお土産はいつも孫達に滿足を與へてゐた。それが一昨年太郎兵衞の入牢(にふらう)してからは、兎角孫達に失望を起させるやうになつた。おばあ樣が暮し向の用に立つ物を主に持つて來るので、おもちややお菓子は少くなつたからである。  しかしこれから生ひ立つて行く子供の元氣は盛んなもので、只おばあ樣のお土産が乏しくなつたばかりでなく、おつ母樣(かさま)の不機嫌になつたのにも、程なく馴れて、格別萎(しを)れた樣子もなく、相變らず小さい爭鬪と小さい和睦との刻々に交代する、賑やかな生活を續けてゐる。そして「遠い/\所へ往つて歸らぬ」と言ひ聞された父の代りに、このおばあ樣の來るのを歡迎してゐる。  これに反して、厄難(やくなん)に逢つてからこのかた、いつも同じやうな悔恨と悲痛との外に、何物をも心に受け入れることの出來なくなつた太郎兵衞の女房は、手厚くみついでくれ、親切に慰めてくれる母に對しても、ろく/\感謝の意をも表することがない。母がいつ來ても、同じやうな繰言(くりごと)を聞せて歸すのである。  厄難に逢つた初には、女房は只茫然と目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)つてゐて、食事も子供のために、器械的に世話をするだけで、自分は殆ど何も食はずに、頻(しきり)に咽が乾くと云つては、湯を少しづつ呑んでゐた。夜は疲れてぐつすり寢たかと思ふと、度々目を醒まして溜息を衝く。それから起きて、夜なかに裁縫などをすることがある。そんな時は、傍に母の寢てゐぬのに氣が附いて、最初に四歳になる初五郎が目を醒ます。次いで六歳になるとくが目を醒ます。女房は子供に呼ばれて床にはいつて、子供が安心して寢附くと、又大きく目をあいて溜息を衝いてゐるのであつた。それから二三日立つて、やう/\泊り掛けに來てゐる母に繰言を言つて泣くことが出來るやうになつた。それから丸二年程の間、女房は器械的に立ち働いては、同じやうに繰言を言ひ、同じやうに泣いてゐるのである。  高札の立つた日には、午過ぎに母が來て、女房に太郎兵衞の運命の極まつたことを話した。しかし女房は、母の恐れた程驚きもせず、聞いてしまつて、又いつもと同じ繰言を言つて泣いた。母は餘り手ごたへのないのを物足らなく思ふ位であつた。此時長女のいちは、襖の蔭に立つて、おばあ樣の話を聞いてゐた。 ―――――――――――――――― 桂屋にかぶさつて來た厄難と云ふのはかうである。主人太郎兵衞は船乘とは云つても、自分が船に乘るのではない。北國通ひの船を持つてゐて、それに新七と云ふ男を乘せて、運送の業を營んでゐる。大阪では此太郎兵衞のやうな男を居船頭と云つてゐた。居船頭の太郎兵衞が沖船頭の新七を使つてゐるのである。  元文元年の秋、新七の船は、出羽國秋田から米を積んで出帆した。其船が不幸にも航海中に風波の難に逢つて、半難船の姿になつて、積荷の半分以上を流出した。新七は殘つた米を賣つて金にして、大阪へ持つて歸つた。  さて新七が太郎兵衞に言ふには、難船をしたことは港々で知つてゐる。殘つた積荷を賣つた此金は、もう米主に返すには及ぶまい。これは跡の船をしたてる費用に當てようぢやないかと云つた。  太郎兵衞はそれまで正直に營業してゐたのだが、營業上に大きい損失を見た直後に、現金を目の前に並べられたので、ふと良心の鏡が曇つて、其金を受け取つてしまつた。  すると、秋田の米主の方では、難船の知らせを得た後に、殘り荷のあつたことやら、それを買つた人のあつたことやらを、人傳(ひとづて)に聞いて、わざ/\人を調べに出した。そして新七の手から太郎兵衞に渡つた金高までを探り出してしまつた。  米主は大阪へ出て訴へた。新七は逃走した。そこで太郎兵衞が入牢してとう/\死罪に行はれることになつたのである。 ―――――――――――――――― 平野町のおばあ樣が來て、恐ろしい話をするのを※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、252-下-27]娘のいちが立聞をした晩の事である。桂屋の女房はいつも繰言を言つて泣いた跡で出る疲が出て、ぐつすり寐入つた。女房の兩脇には、初五郎と、とくとが寢てゐる。初五郎の隣には長太郎が寢てゐる。とくの隣にまつ、それに並んでいちが寢てゐる。  暫く立つて、いちが何やら布團の中で獨言を言つた。「ああ、さうしよう。きつと出來るわ」と、云つたやうである。  まつがそれを聞き附けた。そして「※(ね)[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、253-上-7]えさん、まだ寐ないの」と云つた。 「大きい聲をおしでない。わたし好い事を考へたから。」いちは先づかう云つて妹を制して置いて、それから小聲でかう云ふ事をささやいた。お父つさんはあさつて殺されるのである。自分はそれを殺させぬやうにすることが出來ると思ふ。どうするかと云ふと、願書(ねがひしよ)と云ふものを書いてお奉行樣に出すのである。しかし只殺さないで置いて下さいと云つたつて、それでは聽かれない。お父つさんを助けて、其代りにわたくし共子供を殺して下さいと云つて頼むのである。それをお奉行樣が聽いて下すつて、お父つさんが助かれば、それで好い。子供は本當に皆殺されるやら、わたしが殺されて、小さいものは助かるやら、それはわからない。只お願をする時、長太郎だけは一しよに殺して下さらないやうに書いて置く。あれはお父つさんの本當の子でないから、死ななくても好い。それにお父つさんが此家の跡を取らせようと云つて入らつしやつたのだから、殺されない方が好いのである。いちは妹にそれだけの事を話した。 「でもこはいわねえ」と、まつが云つた。 「そんなら、お父つさんが助けてもらひたくないの。」 「それは助けてもらひたいわ。」 「それ御覽。まつさんは只わたしに附いて來て同じやうにさへしてゐれば好いのだよ。わたしが今夜願書を書いて置いて、あしたの朝早く持つて行きませうね。」  いちは起きて、手習の清書をする半紙に、平假名で願書を書いた。父の命を助けて、其代りに自分と妹のまつ、とく、弟の初五郎をおしおきにして戴きたい、實子でない長太郎だけはお許下さるやうにと云ふだけの事ではあるが、どう書き綴つて好いかわからぬので、幾度も書き損つて、清書のためにもらつてあつた白紙が殘少になつた。しかしとう/\一番鷄の啼く頃に願書が出來た。  願書を書いてゐるうちに、まつが寐入つたので、いちは小聲で呼び起して、床の傍に疊んであつた不斷着に著更へさせた。そして自分も支度をした。  女房と初五郎とは知らずに寐てゐたが、長太郎が目を醒まして、「ねえさん、もう夜が明けたの」と云つた。  いちは長太郎の床の傍へ往つてささやいた。「まだ早いから、お前は寐ておいで。ねえさん達は、お父つさんの大事な御用で、そつと往つて來る所があるのだからね。」 「そんならおいらも往く」と云つて、長太郎はむつくり起き上がつた。  いちは云つた。「ぢやあ、お起(おき)、著物を著せて上げよう。長さんは小さくても男だから、一しよに往つてくれれば、其方が好いのよ」と云つた。  女房は夢のやうにあたりの騷がしいのを聞いて、少し不安になつて寢がへりをしたが、目は醒めなかつた。  三人の子供がそつと家を拔け出したのは、二番鷄の啼く頃であつた。戸の外は霜の曉であつた。提灯を持つて、拍子木を敲(たゝ)いて來る夜廻の爺いさんに、お奉行樣の所へはどう往つたら往かれようと、いちがたづねた。爺いさんは親切な、物分りの好い人で、子供の話を眞面目に聞いて、月番の西奉行所のある所を、丁寧に教へてくれた。當時の町奉行は、東が稻垣淡路守種信(いながきあはぢのかみたねのぶ)で、西が佐佐又四郎成意(なりむね)である。そして十一月には西の佐佐が月番に當つてゐたのである。  爺いさんが教へてゐるうちに、それを聞いてゐた長太郎が、「そんなら、おいらの知つた町だ」と云つた。そこで※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、253-下-29]妹は長太郎を先に立てて歩き出した。  やう/\西奉行所に辿り附いて見れば、門がまだ締まつてゐた。門番所の窓の下に往つて、いちが「もし/\」と度々繰り返して呼んだ。  暫くして窓の戸があいて、そこへ四十恰好の男の顏が覗いた。「やかましい。なんだ。」 「お奉行樣にお願があつてまゐりました」と、いちが丁寧に腰を屈めて云つた。 「ええ」と云つたが、男は容易に詞の意味を解し兼ねる樣子であつた。  いちは又同じ事を言つた。  男はやう/\わかつたらしく、「お奉行樣には子供が物を申し上げることは出來ない、親が出て來るが好い」と云つた。 「いゝえ、父はあしたおしおきになりますので、それに就いてお願がございます。」 「なんだ。あしたおしおきになる。それぢやあ、お前は桂屋太郎兵衞の子か。」 「はい」といちが答へた。 「ふん」と云つて、男は少し考へた。そして云つた。「怪しからん。子供までが上を恐れんと見える。お奉行樣はお前達にお逢(あひ)はない。歸れ歸れ。」かう云つて、窓を締めてしまつた。  まつが※(あね)[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、254-上-22]に言つた。「ねえさん、あんなに叱るから歸りませう。」  いちは云つた。「默つてお出。叱られたつて歸るのぢやありません。ねえさんのする通りにしてお出。」かう云つて、いちは門の前にしやがんだ。まつと長太郎とは附いてしやがんだ。  三人の子供は門のあくのを大ぶ久しく待つた。やう/\貫木(くわんのき)をはづす音がして、門があいた。あけたのは、先に窓から顏を出した男である。  いちが先に立つて門内に進み入ると、まつと長太郎とが背後(うしろ)に續いた。  いちの態度が餘り平氣なので、門番の男は急に支へ留めようともせずにゐた。そして暫く三人の子供の玄關の方へ進むのを、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つて見送つて居たが、やう/\我に歸つて、「これこれ」と聲を掛けた。 「はい」と云つて、いちはおとなしく立ち留まつて振り返つた。 「どこへ往くのだ。さつき歸れと云つたぢやないか。」 「さう仰やいましたが、わたくし共はお願を聞いて戴くまでは、どうしても歸らない積りでございます。」 「ふん。しぶとい奴だな。兎に角そんな所へ往つてはいかん。こつちへ來い。」  子供達は引き返して、門番の詰所(つめしよ)へ來た。それと同時に玄關脇から、「なんだ、なんだ」と云つて、二三人の詰衆(つめしゆう)が出て來て、子供達を取り卷いた。いちは殆どかうなるのを待ち構へてゐたやうに、そこに蹲(うづくま)つて、懷中から書附を出して、眞先にゐる與力(よりき)の前に差し附けた。まつと長太郎も一しよに蹲つて禮をした。  書附を前へ出された與力は、それを受け取つたものか、どうしたものかと迷ふらしく、默つていちの顏を見卸してゐた。 「お願でございます」と、いちが云つた。 「こいつ等は木津川口で曝し物になつてゐる桂屋太郎兵衞の子供でございます。親の命乞をするのだと云つてゐます」と、門番が傍から説明した。  與力は同役の人達を顧みて、「では兎に角書附を預かつて置いて、伺つて見ることにしませうかな」と云つた。それには誰も異議がなかつた。  與力は願書をいちの手から受け取つて、玄關にはいつた。 ―――――――――――――――― 西町奉行の佐佐は、兩奉行の中の新參で、大阪に來てから、まだ一年立つてゐない。役向(やくむき)の事は總て同役の稻垣に相談して、城代(じやうだい)に伺つて處置するのであつた。それであるから、桂屋太郎兵衞の公事(くじ)に就いて、前役の申繼を受けてから、それを重要事件として氣に掛けてゐて、やうやう處刑の手續が濟んだのを重荷を卸したやうに思つてゐた。  そこへ今朝になつて、宿直の與力が出て、命乞(いのちごひ)の願に出たものがあると云つたので、佐佐は先づ切角運ばせた事に邪魔がはいつたやうに感じた。 「參つたのはどんなものか。」佐佐の聲は不機嫌であつた。 「太郎兵衞の娘兩人と倅とがまゐりまして、年上の娘が願書を差上げたいと申しますので、これに預つてをります。御覽になりませうか。」 「それは目安箱(めやすばこ)をもお設になつてをる御趣意から、次第によつては受け取つても宜しいが、一應はそれぞれ手續のあることを申聞せんではなるまい。兎に角預かつてをるなら、内見しよう。」  與力は願書を佐佐の前に出した。それを披いて見て佐佐は不審らしい顏をした。「いちと云ふのがその年上の娘であらうが、何歳になる。」 「取り調べはいたしませんが、十四五歳位に見受けまする。」 「さうか。」佐佐は暫く書附を見てゐた。不束(ふつゝか)な假名文字で書いてはあるが、條理が善く整つてゐて、大人でもこれだけの短文に、これだけの事柄を書くのは、容易であるまいと思はれる程である。大人が書かせたのではあるまいかと云ふ念が、ふと萌した。續いて、上を僞る横着物(わうちやくもの)の所爲(しよゐ)ではないかと思議した。それから一應の處置を考へた。太郎兵衞は明日の夕方迄曝すことになつてゐる。刑を執行するまでには、まだ時がある。それまでに願書を受理しようとも、すまいとも、同役に相談し、上役に伺ふことも出來る。又縱(よ)しや其間に情僞(じやうぎ)があるとしても、相當の手續をさせるうちには、それを探ることも出來よう。兎に角子供を歸さうと、佐佐は考へた。  そこで與力にはかう云つた。此願書は内見したが、これは奉行に出されぬから、持つて歸つて町年寄(まちどしより)に出せと云へと云つた。  與力は、門番が歸さうとしたが、どうしても歸らなかつたと云ふことを、佐佐に言つた。佐佐は、そんなら菓子でも遣つて、賺(すか)して歸せ、それでも聽かぬなら引き立てて歸せと命じた。  與力の座を起つた跡へ、城代(じやうだい)太田備中守資晴(おほたびつちゆうのかみすけはる)が訪ねて來た。正式の見廻りではなく、私の用事があつて來たのである。太田の用事が濟むと、佐佐は只今かやうかやうの事があつたと告げて、自分の考を述べ、指圖を請(こ)うた。  太田は別に思案もないので、佐佐に同意して、午過ぎに東町奉行稻垣をも出席させて、町年寄五人に桂屋太郎兵衞が子供を召し連れて出させることにした。情僞があらうかと云ふ、佐佐の懸念も尤もだと云ふので、白洲へは責道具を並べさせることにした。これは子供を嚇して實を吐かせようと云ふ手段である。  丁度此相談が濟んだ所へ、前の與力が出て、入口に控へて氣色を伺つた。 「どうぢや、子供は歸つたか」と、佐佐が聲を掛けた。 「御意でござりまする。お菓子を遣(つかは)しまして歸さうと致しましたが、いちと申す娘がどうしても聽きませぬ。とうとう願書を懷へ押し込みまして、引き立てて歸しました。妹娘はしくしく泣きましたが、いちは泣かずに歸りました。」 「餘程情の剛(こは)い娘と見えますな」と、太田が佐佐を顧みて云つた。 ―――――――――――――――― 十一月二十四日の未(ひつじ)の下刻(げこく)である。西町奉行所の白洲ははればれしい光景を呈してゐる。書院には兩奉行が列座する。奧まつた所には別席を設けて、表向の出座ではないが、城代が取調の模樣を餘所(よそ)ながら見に來てゐる。縁側には取調を命ぜられた與力が、書役を隨へて著座する。  同心(どうしん)等が三道具(みつだうぐ)を衝き立てて、嚴めしく警固してゐる庭に、拷問に用ゐる、あらゆる道具が並べられた。そこへ桂屋太郎兵衞の女房と五人の子供とを連れて、町年寄五人が來た。  尋問は女房から始められた。しかし名を問はれ、年を問はれた時に、かつがつ返事をしたばかりで、其外の事を問はれても、「一向に存じませぬ」、「恐れ入りました」と云ふより外、何一つ申し立てない。  次に長女いちが調べられた。當年十六歳にしては、少し穉(をさな)く見える、痩肉(やせじし)の小娘である。しかしこれは些(ちと)の臆する氣色もなしに、一部始終の陳述をした。祖母の話を物蔭から聞いた事、夜になつて床に入つてから、出願を思ひ立つた事、妹まつに打明けて勸誘した事、自分で願書を書いた事、長太郎が目を醒したので同行を許し、奉行所の町名を聞いてから、案内をさせた事、奉行所に來て門番と應對し、次いで詰衆の與力に願書の取次を頼んだ事、與力等に強要せられて歸つた事、凡そ前日來經歴した事を問はれる儘に、はつきり答へた。 「それではまつの外には誰にも相談はいたさぬのぢやな」と、取調役が問うた。 「誰にも申しません。長太郎にも精しい事は申しません。お父つさんを助けて戴く樣に、お願しに往くと申しただけでございます。お役所から歸りまして、年寄衆のお目に掛かりました時、わたくし共四人の命を差し上げて、父をお助け下さるやうに願ふのだと申しましたら、長太郎が、それでは自分も命が差し上げたいと申して、とうとうわたくしに自分だけのお願書を書かせて、持つてまゐりました。」  いちがかう申し立てると、長太郎が懷から書附を出した。  取締役の指圖で、同心が一人長太郎の手から書附を受け取つて、縁側に出した。  取締役はそれを披いて、いちの願書と引き比べた。いちの願書は町年寄の手から、取調の始まる前に、出させてあつたのである。  長太郎の願書には、自分も※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、256-下-2]や弟妹と一しよに、父の身代りになつて死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあつた。  取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに氣が附かなかつた。いちが「お呼になつたのだよ」と云つた時、まつは始めておそるおそる項垂れてゐた頭を擧げて、縁側の上の役人を見た。 「お前は※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、256-下-8]と一しよに死にたいのだな」と、取調役が問うた。  まつは「はい」と云つて頷いた。  次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。  長太郎はすぐに「はい」と云つた。 「お前は書附に書いてある通りに、兄弟一しよに死にたいのぢやな。」 「みんな死にますのに、わたしが一人生きてゐたくはありません」と、長太郎ははつきり答へた。 「とく」と取調役が呼んだ。とくは※[#「姉」の正字、「女+※(第3水準1-85-57)のつくり」、256-下-16]や兄が順序に呼ばれたので、こんどは自分が呼ばれたのだと氣が附いた。そして只目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)つて役人の顏を仰ぎ見た。 「お前も死んでも好いのか。」  とくは默つて顏を見てゐるうちに、唇に血色が亡くなつて、目に涙が一ぱい溜まつて來た。 「初五郎」と取調役が呼んだ。  やう/\六歳になる末子の初五郎は、これも默つて役人の顏を見たが、「お前はどうぢや、死ぬるのか」と問はれて、活溌にかぶりを振つた。書院の人々は覺えず、それを見て微笑んだ。  此時佐佐が書院の敷居際まで進み出て、「いち」と呼んだ。 「はい。」 「お前の申立には※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)はあるまいな。若し少しでも申した事に間違があつて、人に教へられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。  いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたはずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言ひ放つた。其目は冷かで、其詞は徐かであつた。 「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」 「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。  佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。  次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が濟んだから、引き取れ」と言ひ渡した。  白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先(おひさき)の恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆(けうさ)せられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の徳川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗の鋒(ほこさき)は、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。 ―――――――――――――――― 城代も兩奉行もいちを「變な小娘だ」と感じて、その感じには物でも憑(つ)いてゐるのではないかと云ふ迷信さへ加はつたので、孝女に對する同情は薄かつたが、當時の行政司法の、元始的な機關が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衞の刑の執行は、「江戸へ伺中(うかゞひちゆう)日延(ひのべ)」と云ふことになつた。これは取調のあつた翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗會(だいじやうゑ)御執行(ごしつかう)相成候(あひなりさふらう)てより日限も不相立儀(あひたたざるぎ)に付、太郎兵衞事、死罪(しざい)御赦免(ごしやめん)被仰出(おほせいだされ)、大阪北、南組、天滿の三口御構(おかまひ)の上追放」と云ふことになつた。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出來た。大嘗會と云ふのは、貞享四年に東山天皇の盛儀があつてから、桂屋太郎兵衞の事を書いた高札の立つた元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、櫻町天皇が擧行し給ふまで、中絶してゐたのである。 青空文庫より引用。 (大正四年十月「中央公論」第三十年第十一號)
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読解とかをするとき、いろいろと具体例をもとに説明するので、関連することを連想するでしょう。感想文や小論文などで「連想」が必要な場合もありますが、「連想は、論証とは違う」ということを自覚してください。 小学校と中学校の読解は、ここが違うでしょう(←仮説)。中学の説明文・評論文では、あなたの想像力だけでなく、作者という他人の想像と合わせて、読解をする必要があるのです(←知ったか振り、要検証)。 読解中の連想は、単なる仮説です。文章に関連することを連想するわけですから、なんらかの因果関係はあります。しかし、その思い浮んだ因果関係は、まだ仮説です。 読んでる作品の文章中で、その連想した仮説が紹介される場合もあれば、紹介されない場合もあります。 なぜ、こういう事をわざわざ言うかというと、世の中には、自分の意見に近い意見の感想だけを聞いて、それで論証したつもりになる人が、けっこう多いんです。また、民主主義での議会の決定手続きは、多数決ですから、てっきり多数の人の感想を聞いて、それで論証したつもりになる人も、けっこう世間には、います(←偏見)。 だから世間には、連想と論証の区別のついてない人が、結構たくさん、いるからです。自分の体験談とその時の感想を述べて、なにかを証明したつもりになっている人が、世間には、けっこう多いのです。 たとえば政治評論とかで、誰かが、なんらかの政策に不満を持ったとしましょう。その人が、その政策を不満に感じる切っ掛けになった体験談と、そのときの感想を述べたとします。それ自体は、国民の意見の一つとしての民主的価値があるので大切な意見なのですが、だからといって、誰かの感想を聞いただけで証明をしたつもりになってはイケマセン。 この例では政治評論を例に上げましたが、べつに政治評論や社会評論だけに限らず、ほかの様々な評論や説明文でも、連想と論証の区別を注意してください。 学問の研究の世界では、 < 自分の意見に近い意見の感想だけを聞いて、それで論証したつもりになる人 > ってのは、まったく相手にされません。 文化系の学問の研究ってのは、その感想とか連想とかを客観的な方法で検証することこそが、研究なのです。もちろん中学生では、まだ研究には早いですが、将来的には、そうなんだ、って事を知っててください。 だから中学校以上の国語の評論などでは、作者の意見と、世間の多数の意見とが、ときどき違う場合もあります。もちろん、あまり違わない場合もあります。 また、たとえ作者の意見と世間の意見が同じでも、その意見に辿りつくためのプロセスが世間の多数と違ってて、珍しいプロセスの場合もあります。そもそも、なんらかの珍しさがある意見だから、わざわざ教材などで紹介するわけです。 体験談とかにもとづく感想を述べたのは、エッセイとか随筆(ずいひつ)とかと言われるジャンルですね。古典で習う、清少納言の『枕草子』や兼好法師の『徒然草』も、随筆です。現代風に言えば、枕草子も徒然草も、エッセイです。それはそれで、価値があります。随筆も、国語で習うでしょう。随筆なんかだと、その価値は、体験の珍しさ、または感想の珍しさにこそあるわけです。 教科書で紹介される作品によっては、随筆と評論との区別が、付きづらい場合もあります。随筆の感想にも、感想の前提として何らかの価値観が付いていますから、価値観があれば意見を感じているはずで、随筆も、間接的に自分の意見を述べているジャンルになります。 随筆と評論との違いは、自分の感想の紹介を重点に負いたのが随筆かな? 評論は、その仮説の検証に重点を置いているのかな? 近代文学作家の作品では、作家名だけでは、評論なのか小説なのか随筆なのかは、判断できません。たとえば夏目漱石だって、評論を書いています。たとえば夏目漱石『私の個人主義』は、おそらく評論でしょう(『私の個人主義』は中学の範囲外なので、無理して読まなくてよい)。小説家の長文作品だって、評論の場合もあれば、随筆の場合もあるし、説明文の場合もあります(←べつに「夏目漱石がそうだ」とは言ってない、「夏目漱石が随筆を書いた」なんて言ってない。連想と論証の区別ってのは、こういうことだ)。 説明文のテスト問題だと、(課題文ではなく)設問文も、理屈っぽいです。 たとえば、「筆者の主張を、文中で使われてる語句も書き出して用いて、20字以内の文章で、まとめて書け(句読点が必要なら、句読点をふくめて20字以内で)。」と設問文に書いてあったら、たとえ近い内容の15字ほどの名詞が文中にあろうが、それが解答ではなくて、きちんと文章でまとめて書くことが解答です。 このような設問では解答のパターンが複数パターンありますが、条件1「筆者の主張」、条件2「文中で使われてる語句も書き出して用いて」、条件3「20字以内」、条件4「文章で」・・・という諸条件があるので、数個のパターンに限定される、というワケです。 たとえ「書き出して」と設問文に書いてあっても、けっして「筆者の主張と最も近い文中の語句を書き出せ」という設問ではなくて、わざわざ設問文で(語句)「も」とか助け船を書いてあるんだし、さらにわざわざ「まとめて」とも設問に書いてあるんだから、きちんと自分で言葉を考えてまとめて書かないと不正解にしてやるぞ〜、という設問なワケです。 このような設問は、高校受験では私立高校などの入試国語で出題される場合があります。このようなタイプの設問は、けっして「引っ掛け問題」でもなんでもなく、むしろ親切です。だって、わざわざ、「文章で」とか、設問に書いてあるんだし。 つまり出題する高校の意図は、「文章」と「名詞」「語句」の区別がつかない受験生の答案は、その区別の語彙力が無い時点で「国語力が低いなあ。語彙力もないし、文章と名詞の区別がついてないから、文法の理解も浅いぞ。よって、この答案を不正解にしてやる。」と判断するわけです。 なにも説明文・表論文に限ったタイプの設問ではなく、物語文などでも同様のタイプの出題される場合もあります。ですが、とくに説明文・表論文に、このようなタイプの問題が出る場合が比較的多いかもしれません(←推測)。 先ほど言ったように、このような自分で言葉を考える必要のある設問の場合、模範解答が複数パターンある場合もあります。 そして入試国語では、私立高校の入試なんかで、こういう模範解答が複数パターンの設問が出る場合があります。公立高校だと、税金で運営されている立場上、答えが複数パターンある問題は、出題しづらい場合があります。 そもそも、こういう公立高校などの採点の都合上があるので、だから入試過去問などでは模範解答が一個のパターンになるような「書き出し」タイプの問題が多いわけです。また、「書き出し」タイプの設問では、採点がほぼ機械的に反復作業で可能なので、大量の受験生を採点する必要のある公立高校入試では、答えが一個になる「書き出し」タイプの設問の場合が多いです。 しかし私立では、学校側に、採点の裁量権があります。(もっとも私立にも私学助成金はあるが・・・) また、他人の主張をまとめるタイプの問題は、出題者から見れば、受験生の読解力と語彙力や論理性を同時に測定できるので、難度が中堅レベル以上の学校では出題される場合もあります。 ただし、最近では不況による私立学校の経営上の都合上、採点するのに手間(つまり人件費)が掛かるので、もしかしたら今では複数パターンの答えのある設問が出題されづらいかもしれません。 また、入試はけっして現代文だけではないので、古典や他教科の受験対策もする必要があるし、なので現代文の読解の勉強時間には限界もあります。 なお、大学入試では、採点の手間の都合上、受験生が多いので、手間の掛かる、答案複数パターンな設問が出題されづらいかもしれません。また、センター入試では、選択問題しか出ないので、このような文章を書かせる設問は出ません。私大なら裁量権があるはずですが、マスコミなどでは「入試問題の答えは一つでなければならない。そうでない問題は悪問。」という考えが強いかもしれず、大学側もマスコミなどからの批判を恐れて、複数パターン解答の問題を出さないかもしれません。 高校入試国語よりも大学入試国語のほうが要求される分析力が浅いってのは、社会問題かもしれませんが(社会科の入試問題ではなく)、しかし現実として、こういう懸念があるでしょう。 おそらく大卒の資格が、いくつかの国家資格では要件や1次試験試験免除になってたりするので、大学入試では公平性の観点から「解答は1個だけ」タイプの設問が好まれるのでしょう。たとえ私大でも、法律上は国公立と同様に「大学」なので、というわけです。
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中学校の文法では、現代語の文法及び品詞(ひんし)などについて学ぶ。 まず、現代の日本語は、漢字と仮名(かな)を使って文章を構成するのが通常である。 このような文体のことを、「漢字仮名混じり文」という。つまり、現代日本語の標準的な文体は「漢字仮名混じり文」である。 念のために説明しておくが、仮名とは、平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことである。 また、平仮名は、その文字自体には意味が無い。 いっぽう、漢字には、意味がある。たとえば「た」という平仮名には意味が無い。しかし、「田」と書けば意味をもち、「田」の意味は農業のあれになる。 また、「他」も「田」も発音は同じ「た」と発音するが、しかし意味は違う。 漢字のように、その文字そのものが意味をもつ文字のことを表意文字という。 いっぽう、平仮名のように、文字単独では意味を持たない、あるいは意味の確定しない文字であり、発音だけを指定している文字のことを、表音文字という。 「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」の5つの音のことを母音(ぼいん)という。母音は単体(1音)で表現する。 なお、ローマ字のka, ki, ku ,ke ,ko のkの部分や、sa,si,su,se,so の s の部分のことを子音(しいん)という。子音は母音と組み合わせて構成する。 日本語の平仮名やカタカナには、子音を表す文字は無い。 日本語の仮名の発音は通常、母音(たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」)、または、母音と子音 (たとえば「か」や「そ」など)の組み合わせで発音される。 日本語は一つの文をいくつも重ねて全体として意味がわかるものを文章(ぶんしょう)とよぶ。 また、その中でも内容の大きなまとまりで分けられたものを、段落(だんらく)という。段落の始まりには、他の文より文の初めを一字下げるのが普通である。 その段落の中の、文章を組み立てているものを文(ぶん)と呼び、文の切れ目には句点(。)をつけるのが普通である。 場合によっては、「。」の代わりに、文の最後が「?」や「!」で終わる場合も、現代の日本語ではある。疑問がある場合に「?」を使う。びっくりした時や大声を出した声の場合などに「!」を使う。 たとえば とか などのように。 さて、文を発音や意味の上で不自然にならないように区切ったものを文節(ぶんせつ)と呼ぶ。 例 上の例の文章は、4つの文でできている。 そして最初の文は「今日は/ 国語と/ 数学と/ 英語の/ テストが/ ありました」と文節分けでき、6つの文節がある。 また、文節を分けるときには、間に「ね」や「よ」を入れるとうまく分けることができる。 例 「今日は『ね』/ 国語と『ね』/ 数学と『ね』/ 英語の『ね』/ テストが『ね』/ ありました『よ』」とうまく文節で分けられる。 さらに、文節を、言葉の意味がなくならないようにさらに分けたものを、単語(たんご)という。これは、それだけで使える言葉の最小単位である。 たとえば、 例 なら、 と単語分けすることができる。 文節は役割から主語、述語、修飾語、接続語、独立語に分けることができる。 主語(しゅご)は「何(誰)が」を表す、文の主題を提示したり、行動や様子の主を定める文節である。 たとえば例文「花が、さいた。」の主語は「花が」である。 一般に、主語は語尾(ごび)に「は」または「が」が付く場合が多い。 しかし、「僕も学校に行く」という文章では、「僕も」が主語である。なぜなら、行動の主は「僕」であるからである。 また、日本語の文には、主語が無い場合もある。 たとえば「学校に行くよ。」という文には、主語は無い。 また、ある単語の後ろに「は」または「が」がついても、かならずしも主語とは限らない。 たとえば、 という文では、「犬が」は主語ではない。好きな行動の主は「彼」なので、彼がこの文の主語である。 また、 の場合、カレーを食べたのは「今日」さんではなく、書き手の人がカレーを食べたと思われるので、「今日は」は主語ではない。この文「今日はカレーを食べた。」に主語は無い。 述語(じゅつご)は、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」「ない」を表す、何をどうするかなどの行為を示す部分、または何かの様子を示す部分のことである。 たとえば、「花が、さいた。」の述語は「さいた。」である。 なお、主語と述語のことをまとめて「主述」(しゅじゅつ)という。 主語と述語の関係のことを「主述の関係」という。 修飾語(しゅうしょくご)は主語・述語について、たとえば、どこでしたか、あるいはどのようにしたかなど、くわしく説明するために使われる文節の一種である。 たとえば、 なら「まじめに」の部分が修飾語である。 いっぽう、修飾語が説明している対象のことを被修飾語(ひしゅうしょくご)という。 「弟が、まじめに 勉強する。」なら、修飾語は「まじめに」であり、被修飾語が「勉強する」である。 「きれいな」が修飾語で、被修飾語は「花」です。 「きれいな」は「チョウ」を修飾する修飾語で(つまり「きれいな」が修飾語)、被修飾語は「チョウ」です。「いきなり」は「飛び立つ」を修飾する修飾語です(つまり「いきなり」が修飾語)。 この例文のように、ひとつの文に2つ以上の修飾語のある場合もあります。 また、修飾語と被修飾語の関係を、「修飾・被修飾の関係」という。 または単語についての説明や意味をつけくわえる。特にあとで述べる用言(ようげん)を修飾するものを連用修飾語(れんようしゅうしょくご)と言う。 いっぽう、体言(たいげん)を修飾するものを連体修飾語(れんたいしゅうしょくご)と言い、修飾される言葉は被修飾語(ひしゅうしょくご)とよばれる。 たとえば、 この場合、「大きく」は連用修飾でしょうか、連体修飾でしょうか? ヒントとして、大きいのは何でしょうか? ボールでしょうか、それとも投げ方が大きいのでしょうか? 答えを言うと、この文で大きいのは投げ方ですので、つまり「大きく」は動詞の「投げた」を修飾しており、そして動詞は活用があるので用言ですので、つまり「大きく」は連用修飾です。 いっぽう、 なら、ボールが大きいわけですし、「ボール」は活用も無いので、ボールは体言です。なので、つまり「大きな」は連体修飾です。 のように、ひとつの文に連用修飾と連体修飾の両方がふくまれている場合もあります。 接続語(せつぞくご)は他の文や文節との関係をあらわす。 接続語が何を修飾しているかが曖昧な場合があります。 エラーしたのが山田?出塁したのが山田? 独立語(どくりつご)は、ほかの文節とは結びついてなくて、それだけで意味の通る語である。 あいさつ や あいづち などが、独立語になる場合が、よくあります。 上の例文の「先生」などのように、呼びかけも独立語になります。 上の例文の「山田さん」も独立語です。 いっぽう、 この例文(「山田さんに頼みごとがあります。」)の「山田さん」も「山田さんに」も独立語ではないです。 この例文の「あのう」は独立語です。 この例文の「東京」は独立語です。 二つ以上の文節がまとまって、ひとつの働きをする文節のことを連文節(れんぶんせつ)という。 連文節には、主に、主部、述部、修飾部、接続部、独立部の5種類がある。 また、並立の関係にある文節も、おたがいに連文節である。 日本語で「主語」といった場合、単語の単位ですので、たとえば例文 の主語は、「消しゴム」です。「自分の消しゴム」は主語ではないです。 しかし、 という文章があったとして、「消しゴム」だけでは、「自分の消しゴム」なのか、「友達の消しゴム」なのか、不明です。 そこで、主語に、その主語にかかる修飾語をあわせたものを主部(しゅぶ)といいますので、この概念を導入しましょう。 の主部は、「自分の消しゴム」です。 例文 の述語は、「する」です。しかし、「する」だけでは、何をするのか不明なので、いまいち不便でしょう。 そこで、述語にかかる修飾語と 述語じしん をまとめたものを述部(じゅつぶ)といいますので、この概念(がいねん)を導入しましょう。 この文「妹は食事をする。」の述部は、「食事をする」です。 例文 について、「昨日の」と「晩に」は、別々の文節ですが、しかし、この文の「晩」とはいつの晩かといえば「昨日」の晩ですので、「昨日の」と「晩に」は、ひとまとめに扱えると便利です。 そこで、修飾部(しゅうしょくぶ)という、関連のある一続きの修飾語をまとめる概念があるので、これを導入しましょう。 「昨日の晩に」で、ひとつの修飾部になります。 「うまくて」と「やすい」は、別々の文節ですが、両方とも、「この店のカレー」の性質をあらわしているので、ひとまとめにできると便利です。 この「うまくて」と「やすい」のように、対等に他の同じ文節(例の場合は「カレーは」)に結びつく関係の文節のことを、並立(へいりつ)の関係といいます。 つまり、「うまくて」と「やすい」は、並立の関係にあります。 また、並立の関係にある単語を並立語といいます。 「うまくて」と「やすい」は、それぞれお互いに並立語です。 さきほどの例文では述語が並立していました。 ほかの例文では、主語が並立している場合もあります。たとえば という例文では、「父」と「母」が並立の関係であり、お互いに並立語です。 単独で文節を作ることができる単語のことを自立語(じりつご)という。 たとえば、「学校に行く。」という文のうち、「学校」は自立語である。 いっぽう、「に」は自立語ではない。 原則として、一つの文節には一つの自立語しかないが、例外的に「松の木」「男の子」「読むこと」のように二つ以上の自立語を組み合わせた文節もある。 なお、「行く」の「行」を自立語と解釈する場合もある。 なお、「学校に」でひとつの文節、「行く」でもうひとつの文節なので、原則「一つの文節には一つの自立語しかない」を満たしている。 いっぽう、「学校に行く。」の「に」は自立語ではなく付属語という。 付属語はかならず自立語の下について、しかも付属語だけでは意味を成さない。 名詞は普通、自立語に分類する。 動詞の語感を自立語に分類する。 動詞の活用語尾(「行く」の「く」の部分や、「行った」の「た」の部分)は、付属語に分類する。 たとえば(学校に)「行った」のうち、自立語は「行っ」、付属語は「た」である。 (学校に)「行ったらしい」では、付属語は「た」と「らしい」の2つである。このように、ひとつの文節に付属語が2個以上ある場合もある。 (学校に)「行ったらしいね」なら、付属語は「た」「らしい」「ね」の3つである。 「行く」(いく)は「行った」(いった)、「行けば」(いけば)、「行きたい」などのように、続く単語や言い切ったりするときに、規則にしたがって、形に変化します。 たとえば、「学校に行ったなら」と「なら」が続く場合には手前には「行った」がきます。けっして、「行けばなら」(×)などとは言いません。 このように、単語の形が規則にしたがって変わることを活用(かつよう)といいます。 自立語にも、活用のあるものと無いものがあります。 たとえば、「学校」は自立語ですが、活用がありません。 「行く」(あるいは「行った」)には、活用があります。 付属語にも、活用のあるものと無いものとがあります。 活用のある自立語のことを用言(ようげん)と言います。 用言は普通、述語になれます。 後述するが、動詞・形容詞・形容動詞が、用言に分類されるのが一般的です。 動詞とは、「走る」「書く」などのように動作を表す言葉です。「走る」なら、たとえば「走らない」「走れば」などのような活用があります。 形容詞とは、「広い」「赤い」などのような、言葉です。「広い」なら、たとえば「広く」「広ければ」などのように活用があります。 用言の性質として などの性質があります。 自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。 後述しますが、名詞(めいし)に分類されるものが体言である場合が普通です。 名詞とは、「ビル」「学校」「月曜日」などのように、ものの名前になることのできる言葉のことです。 体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。 例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。 単語を役割ごとに分類したものを品詞(ひんし)という。日本語の品詞は動詞(どうし)、形容詞(けいようし)、形容動詞(けいようどうし)、名詞(めいし)、(代名詞(だいめいし))、副詞(ふくし)、連体詞(れんたいし)、接続詞(せつぞくし)、感動詞(かんどうし)、助動詞(じょどうし)、助詞(じょし)の10種類(代名詞を別に数えると11種類)ある。 「歩く」「書く」「読む」「食べる」など、活用があり、主に動作をあらわす言葉が動詞です。 たとえば「歩く」なら、 「歩けば」「歩きます」「歩きたい」「歩けよ。」「歩かなければ」・・・のように活用できるので、「歩く」は動詞です。 また、動詞は述語になることができる。 たとえば「駅まで歩こう。」のように、述語になっています。 動詞には活用があるが、最後の音がウの段の音にした場合を、文法上での基準の形とする。 たとえば、「歩く」が、動詞「歩く」の基準となる形である。なぜなら、「歩く」は「く」というウ段の音で終わってるからである。 いっぽう、「歩け」「歩き」などは、どんなに話し手が強く言ってても、最後の音がウ段でないので、動詞「歩く」の基準の形ではない。 同様に、動詞「書く」の標準の形は「書く」である。 「書け」「書き」は、動詞「書く」の基準の形ではない。 また、「歩きよりも走りでゴールまで行こう。」のように、歩行という意味での「歩き」は活用が無いので、動詞ではないです。 「歩くスピードが速い。」のように、体言を修飾する場合にも動詞(例文の「歩く」は動詞として、あつかう)が使われる場合もあります。 名詞には、いろいろな種類がある。 「京都」「夏目漱石」などのように、特定の地名や人名などをあらわす名詞のことを固有名詞(こゆう めいし)という。 「ボール」「茶」「人」「犬」「机」など、特定の人名や地名をあらわしていない、普通の名詞のことを普通名詞(ふつうめいし)という。 「一人」「二つ」「二枚」「一枚」「三本」「三人」、などは、それぞれ数詞(すうし)といいます。 のような文での「もの」、 または の「こと」のような名詞を、形式名詞という。 「僕」「それ」「彼」「あれ」「あなた」などのように、代名詞がある。 ※ 代名詞を名詞とは別の品詞と解釈する場合もある。 代名詞のうち、「僕」「私」「あなた」「彼」「彼女」「俺」などの、普通は人を指す場合につかう代名詞のことを人称代名詞(にんしょう だいめいし)という。 いっぽう、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」などは物や場所に使う代名詞であり、このような代名詞を指示代名詞(しじだいめいし)または指示語という。小学校で習った、いわゆる「こそあど言葉」が、指示代名詞です。 代名詞を分類すると、主に、人称代名詞または指示代名詞の、二通りに分類できる。 代名詞は、活用がない語である。 この一覧表にあるのは、あくまで指示代名詞だけである。 けっして全ての代名詞が一覧になっているわけではない。指示代名詞でない代名詞は、この一覧表には、まったく記載されていない。 代名詞には、指示代名詞でない代名詞も存在し、「わたし」「あなた」「ぼく」「彼」「彼女」など、代名詞は、いくつもある。 名詞は普通、自立語です。 副詞とは、例をあげると「ゆっくり」とか「もっと」「とても」とか、「のそのそ」「はっきり」などである。 副詞は活用がない語であり、主に用言を修飾し、修飾語にしかならず、たいていの場合は連用修飾語になる。副詞には状態の副詞、程度の副詞、呼応(陳述・叙述)の副詞がある。 状態の副詞は主に動詞を修飾する。 程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾するが、他の副詞や名詞を修飾することもある。 「呼応の副詞」とは、 のように、あとにくる言葉に決まった言い方がくるのが呼応の副詞である。 たとえば、「決して」は、必ずいくつか後の文節に「ない」が来る。 「けっして、きのうはカレーを食べていない。」というように、「けっして」のあとには「ない」が来るのが普通。 のように の「全然」も、21世紀の現代では、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「全然」を呼応の副詞として紹介。) (※ 範囲外: )ただし、「全然」は明治時代くらいは、 ※ このような事情があってか、三省堂いがいの他の教科書会社は、「全然」については紹介しないでいる。 の「とうてい」も、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「とうてい」を呼応の副詞として紹介。) 「叙述の副詞」(じょじゅつのふくし)または「陳述の副詞」とは、話し手の気持ちや判断を述べるための副詞である。 「おそらく」とか「きっと」などの、何かの可能性の程度を推測する副詞が、叙述の副詞の場合がある。 これ以外にも、 または とかの「まるで」の部分も、叙述の副詞である。 教科書によっては「呼応の副詞」を「叙述の副詞」と完全に同一視して分類する場合もある(※ たとえば学校図書(教科書会社名)では同一視している)。 たとえば、 のように、「おそらく」・「たぶん」のあとには、「だろう」または「であろう」「でしょう」などが来る場合がよくある。(※ 学校図書が、「おそらく」を呼応の副詞としている。三省堂が「たぶん」を呼応の副詞としている) などの疑問の意味の副詞も、呼応の副詞に分類される場合がある。(※ 光村図書の中3教科書が「どうして」を呼応の副詞として紹介、教育出版の中2教科書が「なぜ」を呼応の副詞として紹介している。) 叙述・陳述の副詞は、連用修飾語である。よって、叙述・陳述の副詞や、呼応の副詞の副詞の部分は、ほかの体言については修飾しないのが普通である。 状態の副詞は主に動詞を修飾する。 の「ゆっくり」は、状態の副詞である。 程度の副詞は、 「かなり」・「もっと」・「とても」のように、程度をあらわす副詞である。 の「少し」は、副詞である(この例文での「少し」は形容詞ではない)。 「ずっと」のように、時間のスケールの程度を表す副詞も、程度の副詞である。 「もっと大きく」のように、程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾する場合が典型的だが、 「もっと右。」「もっと昔から。」 のように名詞などの体言を修飾することもある。 また、「もっとゆっくり歩いて。」のように、程度の副詞(例文では「もっと」)が、ほかの副詞(例文では「ゆっくり」)を修飾する場合がある。 指示語である「あの」「その」や「大きな」などがある。体言を修飾し、必ず連体修飾語になる。活用がない語。 連体詞の直後には、かならず体言がつく。 「大きな」 など一部の連体詞と形容詞(「大きい」)は、基準の形が似ているが、しかし別の品詞である。 「大きい」は形容詞であるが、「大きな」は連体詞である。 たとえば形容詞「うつくしい」の場合、「美しかった」「美しく」「美しい」「美しければ」のような活用になる。 「うつくしな」(×)とは言わない。つまり、形容詞に「◯◯な」の形は無い。 なので、「大きな」は、形容詞とは別の品詞でなければならない。つまり、「大きな」は連体詞である。 同様に、「小さな」も連体詞である。 「たいした話だ。」などの「たいした」も連体詞である。 「この」「その」「あの」「どの」は連体詞である。 「あらゆる状況」、「いかなる困難」などの「あらゆる」「いかなる」も連体詞である。 動詞など他の品詞とまぎらわしい連体詞が、いくつかある。 などの修飾語としての「ある」は、学校文法では連体詞に分類する。 いっぽう の「ある」は、動詞である。 このように、同じ「ある」という形でも、文脈や位置によって品詞が変わるので、品詞をさぐる場合には文章をよく読むこと。 のような連体修飾語「去る」は連体詞である。 「大したヤツだな。」とか「大それた事をしてしまった。」とか「とんだ失敗をした。」「とんだ災難だったね。」などの「大した」「大それた」「とんだ」は、連体詞である。 たとえば、「走る」は動詞ですが、しかし「歩きよりも走りで行きたい。」などの「走り」は名詞です。 このように、動詞がもとになって派生した名詞があり、このような、ある品詞の単語が別の品詞の単語に派生することを転成といいます。 形容詞「大きい」と連体詞「大きな」も、転成の関係だと思われています。(※ 学校図書(検定教科書の出版社のひとつ)の解釈) 「楽しい」は形容詞ですが、「楽しむ」は動詞です。この「楽しい」と「楽しむ」も、転成の関係です。(※ 教育出版の解釈) 感動詞は感動・呼びかけ・応答・挨拶の4種類ある。「おはよう」「ああ」などがある。ある状態や個人の感情、あいさつ や返事などを表す。活用がない語。ふつう、自立語である。単独で文にすることが多いが、文の中にあるときは独立語とする。 典型的な4つの例: (※ 下線部が感動詞) いろいろな例 「そして」「だから」「でもって(話し言葉)」などが該当する。活用がない語である。文や文節を繋いで関係をはっきりさせる語で、必ず接続語になる。 「きのう、カレーを買った。」の「た」は、過去をあらわす助動詞です。 助動詞とは、活用のある付属語です。 「買った」は、「買ったら」や「買ってれ(ば)」などのように活用します。 つまり、「た」は「たら」「てれ」のように活用します。 いっぽう、「カレーをかってやろう。」の「て」には、過去の意味は無く、つまり「て」は別の品詞です。この場合の「て」は助詞です。助詞は、活用のない付属語です。 「山田の好きな食べ物はカレーだそうだ。」の「そうだ」も助動詞です。 「そうだ」は「そうだっ(た)」「そうな」「そうなら」のように活用します。 「カレーを食べたい。」の「たい」も助動詞であり、願望・希望をあらわす助動詞です。 「食べたい」は「食べたけれ(ば)」「食べたく」「食べたか(ろう)」などのように活用します。 動詞、形容詞、形容動詞、助動詞は下につく言葉によって語の一部または全体が変化する。このことを活用(かつよう)という。 たとえば、動詞「話す」は、「話さ(ない)」(未然)、「話し(ます)」(連用)、「話す(。)」(終始)、「話す(とき)」(連体)、「話せば」(仮定)、「話せ」(命令)のように活用します。 活用の変化後のそれぞれの形を活用形(かつようけい)という。 たとえば、動詞の活用形には、 の6種類がある。 また、用言の多くは変化する部分と変化しない部分がある。変化する部分を活用語尾(かつようごび)と言い、変化しない部分を語幹(ごかん)という。助動詞の中には語幹や活用が事実上ないものもある。 たとえば、動詞「話す」の語幹は、「話」(はな)の部分です。 「話せ」の「せ」 や 「話す」の「す」 などが、(つまり「せ」や「す」の部分が)活用語尾です。 動作を表す言葉で、述語として文の最後につくことが多い。最後が「う段」(ローマ字で書いたとき「遊ぶ(asobu)」「見る(miru)」のようにuで終わること)の音で終わる。また、五段活用動詞の連用形は名詞に変わることがある。例としては、「ひかり(動詞「ひかる」より)」「読み(動詞「読む」より)」などがある。 たとえば、上記の「咲く」の場合、 「咲か(ない)」「咲き(ます)」「咲く(。)」「咲く(とき)」「咲け(ば)」「咲け」のように活用される。 また、上記の表のように、活用形や語幹、活用語尾などをひとまとめにした表のことを活用表といいます。 「来る」(くる)、「する」、などの一部の動詞には語幹が無い。 五段活用では、下記の表のように、語幹の最後の文字の所属する行ごとに、活用形が変わる。 たとえば、「行かない」・「話さない」のように言うことはある。しかし、けっして「行さない(×)」「話かない(×)」のようには活用しないという事である。 命令形は、「行け」「書け」などのように命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。(※ ただし、「行けよ」のように助詞「よ」などの助詞をつける場合はある。) 下記の動詞の一覧表でも同様に命令形は、命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。 上一段活用(かみいちだん かつよう)をする動詞には、「生きる」・「起きる」・「似る」・「開ける」などがある。 「起きる」の語幹は「お」である。「おき」は語幹ではない。活用語尾には、すべて最初に「き」がついているが、だからといって語源を「おき」にしない。 もし、「おき」を語幹にしてしまうと、未然形と連用形の活用形が無くなってしまうが、そうなると不便である(※ 教育出版の見解)。 なので、「起きる」の語幹は「お」にされている。 「似る」・「見る」など、一部の動詞では、語幹と活用語尾が区別しづらい。 下一段活用(しもいちだん かつよう)をする動詞には、「教える」・「答える起きる」・「出る」がある(※ 検定教科書で紹介される動詞)。「受ける」「食べる」なども下一段活用である(※ 参考書などで紹介される動詞)。 「出る」など、一部の動詞には、語幹と活用語尾が区別しづらい。 カ行変格活用になる動詞は「来る」(くる)一語のみである。 カ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。 サ行変格活用になる動詞は「する」と、「料理する」「勉強する」のように「する」が後ろについて出来た複合動詞「◯◯する」のみである。 サ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。 動詞には、おもに、次のように三種類の音便(おんびん)があります。 「書か(ない)」(未然)、「書き(ます)」(連用)、「書く」(終始)、「書く(とき)」(連体)、「書け(ば)」(仮定)、「書け」(命令) というように、動詞「書く」は5段活用される。 しかし、「書いた」は、このどれにも当てはまらない。 「書いた」は、連用形「書き」+「た」が なまった音が由来だとされる。 このように、いくつかの動詞などで、活用語尾が「い」に変化する現象をイ音便(いおんびん)という。 いっぽう、動詞「走る」(はしる)は、活用で「走った」のように言う場合があります。 この「走った」は、連用形「走り」+「た」が なまった音が由来だとされる。 このように、活用語尾が「っ」に変化する現象を促音便(そくおんびん)という。 動詞「読む」は「読んだ」と活用される場合があまう。 これは、「読む」+「た」あるいは「読み」+「た」が由来だろうとされています。 この「読んだ」のように、「読む」または「読み」が「読ん」になるように、活用語尾が「ん」になることを撥音便(はつおんびん)といいます。 「撥」(はつ)とは、「はねる」という意味です。 動詞「飛ぶ」も「飛んだ」と活用されるので、撥音便のある動詞です。 共通語では、音便のある動詞は、五段活用される動詞です。 しかし、方言では、ほかの活用をされる動詞でも音便のある場合があります。 促音(そくおん)とは、たとえば「だっこ」の真ん中の小さい「つ」、つまり「っ」の音のことをいう。 撥音(はつおん)とは、「ん」の音のことをいう。 なお、動詞の音便とは別に、形容詞にも「ウ音便」というのがある。くわしくは形容詞の節で説明する。 特殊な動詞に補助動詞というものがある。補助動詞とは、たとえば の「みる」・「いる」・「いう」の部分が、それぞれ補助動詞である。 本来これらは「見る」「居る」「言う」という意味があったのだが、その意味が薄れ、様子や状態を表す助動詞のような役割を果たすようになった。 このように、動詞ではあるが、ほかの単語について、補助的な意味をする動詞のことを補助動詞という。 形式動詞は普通の動詞と区別するためにひらがなで書くが、文節分けは行う。 助動詞と補助動詞とは違う。 などの「ある」・「おく」・「しまう」、「いく」も、それぞれ補助動詞である。 の「あげる」・「くれる」・「もらう」も補助動詞である。 の「いただく」・「なる」も補助動詞である。 「行ける」・「書ける」のようにそれだけで可能の意味を含む動詞を特に可能動詞という。可能動詞は、すべて下一段活用の語である。また、可能動詞に命令形は無い。 学校文法で、可能動詞のもとになる動詞は、「行く」・「書く」など五段活用の動詞である。 たとえば など、もとになる動詞の活用は、すべて五段活用である。 いっぽう、上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」など、五段活用でない動詞をもとに可能動詞とするのは、(小中高の)学校文法では誤りとされる。 つまり、「みれる(△)」「でれる(△)」などは、学校文法では誤りとされる。 「見る」や「出る」ことが可能なことを一語で言いたい場合、学校文法では、助動詞「られる」を使って、「みられる」・「でられる」というふうに言うのが正式であるとされる。 動詞は自動詞(じどうし)と他動詞(たどうし)に区別できる。自動詞は対象を必要とせず、ある動作や状態がそれ自身で行われることをいう。他動詞は必ず動作の目的や対象への働きかけを示す言葉が必要である。 例:「起きる」と「起こす」。 「起きる」が自動詞である。なぜなら「起きる」は動作の対象を必要としないため、「彼を起きる」という文章が作れない。 一方、「起こす」は動作の対象を示すことができるので、「彼を起こす」という文章が作れる。なので、「起こす」は他動詞である。[1][2]。 「水を流す」と「水に流れる」なら、「流す」が他動詞であり、「流れる」が自動詞である。 ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「い」で終わる。(例)すばらしい、美しい など。形容詞の語幹に「さ」をつけると名詞に変わる。 など。 特殊な形容詞として「ない」「ほしい」がある。「ない」は というように「無」の状態を表す場合と、 のように、ほかの形容詞の後ろにつく場合がある。 この、「明るくない。」の場合の「ない」のように、ほかの単語の補助としてつかう形容詞を補助形容詞という。 「明るくない」などの「ない」は、けっして助動詞ではない。なぜならば、 「やらない」「書かない」などの助動詞「ない」は「ぬ」に置きかえても意味が同じだし、「やらぬ」「書かぬ」と通じる。 しかし「明るくない」はけっして「明るくぬ(×)」とは言わない。なので、「明るくない」の「ない」は助動詞ではない。 また、格助詞「は」を補って「明るくはない」という場合はあるが、しかし、「書かはない(×)」とは言わない。 このように、補助形容詞と助動詞とは、区別する必要がある。 なお、「この本に書いてある。」の「ある」は補助動詞である。(「ある」は形容詞ではない。) 「花が咲いている。」の「いる」は補助動詞である。(「いる」は形容詞ではない。) なお、補助動詞と補助形容詞をまとめて、補助用言(ほじょ ようげん)という。 なお、「ほしい」は同じ意味の英語の"want"は動詞だが、しかし日本語の「ほしい」の活用は形容詞(「ほしかろう」、「ほしく」、「ほしけれ」)の活用である。 「ほしい」も のように、ほかの動詞のうしろに補助的につくので、「ほしい」も補助用言である。 日本語で補助形容詞は「ない」と「ほしい」だけである。 補助用言をふくむ文章を、文節ごとに分かる場合には、補助用言は前の文節とひとつにまとめて一文節として数える(※ 教育出版の見解)。 つまり、 例 という文章では、「歩いている」で、1文節と数える。 つまり、「猫が歩いている。」という文は、「猫は」と「歩いている。」で、合計2個の文節がある。 また、補助用言は普通、ひらがなで書く(※ 三省堂の見解)。 (批判的な意味での)「くだらない」、(「粗末にすべきではない」(大切に扱うべきだ)という意味での)「もったいない」などは、 たとえば「くだらない」なら、あたかも形式的には、動詞「くだる」の未然形に助動詞「ない」がついたように見えるが、 しかし、「くだらない」一語で形容詞として扱う。 「もったいない」も、「もったいない」一語で形容詞として扱う。(※ 教育出版が中3教科書で「くだらない」「もったいない」「きたない」などを紹介している。) 「静かだ」・「きれいだ」などのように、ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「だ」または「です」で終わる。特殊な形容動詞には「あんなだ」「こんなだ」がある。 形容動詞は、活用のある自立語で、単独で述語になることができる。 形容動詞に命令形は無い。 「静かにしろ」のような命令表現は、学校文法では「しろ」の部分が動詞「する」の命令形であると解釈する。なので、形容動詞の部分「静かに」そのものには命令形が無いと学校文法では考える。 なお、形容動詞でないが混同しやすい表現として、連体詞「大きな」がある。「大きだろう(×)」とは言わないので、「大きな」は連体詞である。 自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。 例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。 名詞(めいし)とは、ものの名前を表す言葉。その他、数字なども名詞とする。活用がない語。ほかにも用言を体言のようなものにする働きを持つ「こと」「とき」「ため」などがある。これらは本来「事(ものごと)」「時(時間)」「為(理由や対象をさす)」という意味があったが、それらの意味が薄れ、単に用言に接続して用言に体言のような働きを持たせる文節をつくる言葉になった。これらを形式名詞という。形式名詞は普通は平がなで書き、文節分けはしない。 単独で文節をつくることができない単語を付属語(ふぞくご)と呼ぶ。 文や文節に否定や断定、丁寧、推測、過去などの意味をつけくわえる語。主に用言・体言・助動詞に接続する。活用がある。 助動詞には、次のものがある。 例 活用は、「読ませれば」「読ませて」「読ませる」などのように活用する。 例 「書かれた」「書かれれば」「書かれる」などのように活用される。 例 「知らなかろう」・「知らぬ」・「知らなければ」などのように活用する。 「存ぜぬ」・「存ぜん」のように活用する。 なお、「何もない。」の「ない」は形容詞「なし」の変化であるので、助動詞ではない。 例 この文の時点からみて、駅に到着したばかりだし、その文の時点で駅にいるので、完了である。 この文では、はたして現在ではマラソン選手かどうかは不明である。だが、過去にマラソン選手だったのは確かである。 服がつるされている時は、この文の時点からみて、過去ではなく現在なので、服はつるされつづけているので、存続である。 また、存続の場合、普通は「た」のあとに体言が続く。 「たい」は普通、話し手が希望している場合に使う。 「たがる」は、話し手以外の第三者が希望している場合に使う。 「知りたい」の活用は、たとえば「知りたかった」「知りたく」「知りたい」「知りたければ」などのように活用する。 「そんな話があろうはずがない」の「あろう」の「う」が助動詞「う」である。活用は「う」しか形が無いが、しかし「あろうはず」のように体言「はず」につながるので、連体形である。終止形の「(あろ)う」と連体形の「(あろ)う」があるので、便宜的に「う」は助動詞として分類される。 「よう」も同様、便宜的に助動詞として分類される。 (※ 範囲外)活用せず、「まい」しか形が無い。しかし、「まい」の古語の「まじ」に活用があるので、便宜上、「まい」も助動詞として扱う。 時代劇などで「あるまじき無礼(ぶれい)」のようなセリフがあるが、「まじ」は「(ある)まじき」「(ある)まじく」などのように活用するので、「まじ」は古語の助動詞である。 「打ち消しの意志」とは、「今後は◯◯しないでおこう」のような意味。 「打ち消しの推量」とは、「今後は、そうはならないだろう」のような意味。 「だろう」は助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」がついたものであると分類する。 また、「東北は私の故郷であり」の「で」も助動詞「だ」の連用形に分類する。 「だろ(う)」・「だった」などのように活用するので、助動詞である。 「です」は、助動詞「だ」を丁寧にした形。 「でしょ(う)」・「でし(たら)」などのように活用するので助動詞。 「ようだ」は、活用の変化は断定の助動詞「だ」に似ているが、しかし意味が断定ではなく推定なので、便宜上、推定の助動詞「ようだ」と断定の助動詞「だ」は別々の助動詞として、あつかう。 「ようです」は、「ようだ」を丁寧にした形。 「そうだ」は、連用形の後ろに つながる場合は様態の意味。 「そうだ」は、終始形の後ろに つながる場合は伝聞の意味。 「そうです」は、「そうだ」を丁寧にした形。 (※ 執筆中) 国語学者の大野晋によれば[3]助動詞の語順は、人為・自然(「れる」「られる」や使役)+敬意(補助動詞)+完了・存続+推量・否定・記憶(+働きかけの終助詞)の順に並ぶとされる。 助詞とは、付属語で活用が無く、単語や文節同士をつないだり、つながれたものどうしの関係づけを行ったりする語である。また、文や文節のリズムを整えたり、禁止や疑問、強調の意味を添える役割もある。 主に用言・体言・助動詞に接続する。活用はない。 学校文法では助詞は格助詞(かくじょし)・副助詞(ふくじょし)・接続助詞(せつぞくじょし)・終助詞(しゅうじょし)の四つに分類される。格助詞(かくじょし)は体言に接続するか、または体言と同じような働きをするものに接続して使われる。 格助詞は、直後の単語との関係を明確なものにするために使われる。 たとえば「ライオン、トラ、襲う。」では、 それとも はたまた のかわからない。 この「が」「を」のような、動作をする側とされる側の関係づけをするための助詞のことを格助詞(かくじょし)という。 気を付けるべきこととして、助詞「が」のつく文節は、必ずしも主語とは限らない。 たとえば、 という文は、けっして「これ」さんが何かを欲しがっているわけではない。そうでなくて、話し手の、欲しがっている対象物が、代名詞「これ」で表される何かなだけである。 つまり、ここでいう「これが」は、英語でいう所の目的格である。なお、学校文法では「これが欲しい」の「これが」は『連用修飾格』という格に分類する。 しかし、日本語の学校文法では、(英語でいう)目的格のようなものも「格」として扱うので、助詞「が」は、どっちにせよ「が」は格助詞である。 なお、「寒いが、外出した。」の「が」は、格助詞ではない。「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。 つまり、「より」は格助詞である。「から」は格助詞である。 さて、「僕は好きだ。」・「テニスは好きだ。」のような「は」については、文法の理論上、難しい問題があり、いちぶの学校教科書によっては説明を避けている場合もある。 三省堂や学校図書や光村図書の検定教科書で助詞「は」を紹介しているが、これらの出版社の検定教科書では、助詞「は」は副助詞(ふくじょし)に分類される。副助詞については後述する。格助詞としては扱わない。) たとえば、(学校教科書では習わない文だが、) という文を考えれば、「は」を格助詞と考えるべきかどうか、いまいち不明確だと分かるだろう。「象」は「鼻が長い」性質の(英文法でいうところの)主格でもなければ、(英文法でいうところの)目的格でもない。(英語でいう所有格「〜の」の)象の鼻は長いが、しかし料亭で「ぼくはチャーシューメン」という場合は、チャーシューメンを注文しているのであって、けっして「僕のチャーシューメン」をどうかしようとしているわけではない。 助詞「は」の意味を紹介している三省堂の検定教科書では、助詞「は」は、題目をあらわす助詞として分類している。 (※ 範囲外: )学校文法(主に橋本文法)ではないが、助詞「は」を、主題・話題をあらわす助詞として分類する学説もある(三上文法など)。 などの連体修飾語としての「の」は、格助詞に分類します。 「の」には、 のように、名詞のかわりをする用法もあります。(「もの」の意味。例文の場合は、「君のものだ。」の意味) のように、「すること」の「こと」の意味で「の」が使われる場合もあります。 このように「こと」「もの」の意味で助詞「の」が使われる場合もあり、この場合の助詞「の」も格助詞に分類します。 また、 のように、動詞の前に「の」がついて、主語になる場合もある。 これらの用法(「の」の名詞の代わり用法。主語を示す助詞としての「の」)の場合も、すべて格助詞として分類する。 なお、混同しやすい例として のような文末の「の」がありますが、これは終助詞「の」です。文末の「の」は格助詞ではないです。 接続助詞(せつぞくじょし)は、主に用言に接続して、下に来る部分との関係を明らかにするものである。接続詞に置き換えることもできる。 「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。 副助詞(ふくじょし)は体言や格助詞に接続し、その文節に副詞のように用言や述語・述部を修飾する役割を持たせる。 三省堂や学校図書や光村図書(教科書会社名)の検定教科書では、助詞「は」は副助詞として分類される。 教育出版は、助詞「は」については説明をさけている。 終助詞(しゅうじょし)は述語に接続し、聞き手や読者などに禁止や疑問・勧誘などの働きかけを行う。 他にも「君の(もの)だ」の「の」のように体言の働きを持つものを準体助詞、「ね」「さ」「よ」などのように文節の切れ目に自由に入れて、強調したりリズムを整えたりするものを間投助詞という。 単語の中には品詞を区別しにくいものも多い。いくつかの例を見てみよう。 1の「きれいだ」は形容動詞だが、2の「病気だ」は名詞「病気」+助動詞「だ」である。これをどうやったら区別すればよいだろうか。この場合は副詞「とても」を入れるとよい。副詞は主に用言を修飾するので、1は問題ないが、2だと「山田さんはとても病気だ」となり、不自然な文になる。 「小さい」は形容詞だが、「小さな」は連体詞である。これは形容詞の活用の中に「な」の形がないことから判断する。 どちらも「ない」だが、1は打消の助動詞「ない」で、2は形容詞「ない」である。この場合は自立語は単独でも文節を作れることや打消の助動詞「ぬ」を入れて判断することができる。 単語の一部または全体につけることで品詞そのものを変えたり、意味を付け加えたりする言葉がある。その内、単語の頭につけるものを接頭語、後ろにつけるものを接尾語という。接頭語・接尾語は一つの単語として数えず、接続したものとセットで一つの単語としてみる。 日本語の接頭語の例を挙げる。「お」「ご」は名詞や動詞について尊敬や丁寧の意味を付け加える。既に敬語のところで述べたように、「お」は和語に、「ご」は漢語に接続する。他には名詞に接続する「新」「超」「反」や特定の色の名詞に接続する「まっ」がある。 接尾語は、形容詞の語幹に接続して名詞を作る「さ」、「さん」「様」などの敬称、名詞に接続して連体修飾語な意味を持たせる「的」「性」などが挙げられる。 文には単文(たんぶん)、複文(ふくぶん)、重文(じゅうぶん)の3種類がある。単文(たんぶん)は一つの主語・述語のセットで成り立っている。複文(ふくぶん)は二つ以上の主語・述語のセットでできており、ある主語・述語のセットが別の文節を修飾したり、文の主部・述部になっているものである。重文(じゅうぶん)も二つ以上の主語・述語のセットでできているが、修飾関係などはなく対等な関係にある。 例文:
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%96%87%E6%B3%95
(※ 三省堂、教育出版の中3) 干支(えと)は、図のように、東西南北の方角とも関連づけされている。むかしの中国や、むかしの日本では、しばしば、干支(えと)が用いられた。 子(ね) = ネズミ 丑(うし) = 牛 寅(とら) = 虎 卯(う) = うさぎ 辰(たつ) = 龍 巳(み) = 蛇(へび) 午(うま) = 馬 未(ひつじ)= 羊(ひつじ) 申(さる) = 猿 酉(とり) = 鳥 戌(いぬ) = 犬(イヌ) 亥(い) = いのしし (春) (夏) (秋) (冬) 日本の旧暦は、月の満ち欠けを元にした太陰暦である。 現在の暦は、太陽を元にした太陽暦(たいようれき)である。 旧暦と、現在の暦には、季節のずれがある。 旧暦では、1月・2月・3月が春。旧暦の夏は4月・5月・6月である。旧暦の秋は7月・8月・9月である。旧暦の冬は10月・11月・12月である。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E5%B8%B8%E8%AD%98
中学校の文法では、現代語の文法及び品詞(ひんし)などについて学ぶ。 まず、現代の日本語は、漢字と仮名(かな)を使って文章を構成するのが通常である。 このような文体のことを、「漢字仮名混じり文」という。つまり、現代日本語の標準的な文体は「漢字仮名混じり文」である。 念のために説明しておくが、仮名とは、平仮名(ひらがな)と片仮名(カタカナ)のことである。 また、平仮名は、その文字自体には意味が無い。 いっぽう、漢字には、意味がある。たとえば「た」という平仮名には意味が無い。しかし、「田」と書けば意味をもち、「田」の意味は農業のあれになる。 また、「他」も「田」も発音は同じ「た」と発音するが、しかし意味は違う。 漢字のように、その文字そのものが意味をもつ文字のことを表意文字という。 いっぽう、平仮名のように、文字単独では意味を持たない、あるいは意味の確定しない文字であり、発音だけを指定している文字のことを、表音文字という。 「あ」、「い」、「う」、「え」、「お」の5つの音のことを母音(ぼいん)という。母音は単体(1音)で表現する。 なお、ローマ字のka, ki, ku ,ke ,ko のkの部分や、sa,si,su,se,so の s の部分のことを子音(しいん)という。子音は母音と組み合わせて構成する。 日本語の平仮名やカタカナには、子音を表す文字は無い。 日本語の仮名の発音は通常、母音(たとえば「あ」「い」「う」「え」「お」)、または、母音と子音 (たとえば「か」や「そ」など)の組み合わせで発音される。 日本語は一つの文をいくつも重ねて全体として意味がわかるものを文章(ぶんしょう)とよぶ。 また、その中でも内容の大きなまとまりで分けられたものを、段落(だんらく)という。段落の始まりには、他の文より文の初めを一字下げるのが普通である。 その段落の中の、文章を組み立てているものを文(ぶん)と呼び、文の切れ目には句点(。)をつけるのが普通である。 場合によっては、「。」の代わりに、文の最後が「?」や「!」で終わる場合も、現代の日本語ではある。疑問がある場合に「?」を使う。びっくりした時や大声を出した声の場合などに「!」を使う。 たとえば とか などのように。 さて、文を発音や意味の上で不自然にならないように区切ったものを文節(ぶんせつ)と呼ぶ。 例 上の例の文章は、4つの文でできている。 そして最初の文は「今日は/ 国語と/ 数学と/ 英語の/ テストが/ ありました」と文節分けでき、6つの文節がある。 また、文節を分けるときには、間に「ね」や「よ」を入れるとうまく分けることができる。 例 「今日は『ね』/ 国語と『ね』/ 数学と『ね』/ 英語の『ね』/ テストが『ね』/ ありました『よ』」とうまく文節で分けられる。 さらに、文節を、言葉の意味がなくならないようにさらに分けたものを、単語(たんご)という。これは、それだけで使える言葉の最小単位である。 たとえば、 例 なら、 と単語分けすることができる。 文節は役割から主語、述語、修飾語、接続語、独立語に分けることができる。 主語(しゅご)は「何(誰)が」を表す、文の主題を提示したり、行動や様子の主を定める文節である。 たとえば例文「花が、さいた。」の主語は「花が」である。 一般に、主語は語尾(ごび)に「は」または「が」が付く場合が多い。 しかし、「僕も学校に行く」という文章では、「僕も」が主語である。なぜなら、行動の主は「僕」であるからである。 また、日本語の文には、主語が無い場合もある。 たとえば「学校に行くよ。」という文には、主語は無い。 また、ある単語の後ろに「は」または「が」がついても、かならずしも主語とは限らない。 たとえば、 という文では、「犬が」は主語ではない。好きな行動の主は「彼」なので、彼がこの文の主語である。 また、 の場合、カレーを食べたのは「今日」さんではなく、書き手の人がカレーを食べたと思われるので、「今日は」は主語ではない。この文「今日はカレーを食べた。」に主語は無い。 述語(じゅつご)は、「どうする」「どんなだ」「何だ」「ある・いる」「ない」を表す、何をどうするかなどの行為を示す部分、または何かの様子を示す部分のことである。 たとえば、「花が、さいた。」の述語は「さいた。」である。 なお、主語と述語のことをまとめて「主述」(しゅじゅつ)という。 主語と述語の関係のことを「主述の関係」という。 修飾語(しゅうしょくご)は主語・述語について、たとえば、どこでしたか、あるいはどのようにしたかなど、くわしく説明するために使われる文節の一種である。 たとえば、 なら「まじめに」の部分が修飾語である。 いっぽう、修飾語が説明している対象のことを被修飾語(ひしゅうしょくご)という。 「弟が、まじめに 勉強する。」なら、修飾語は「まじめに」であり、被修飾語が「勉強する」である。 「きれいな」が修飾語で、被修飾語は「花」です。 「きれいな」は「チョウ」を修飾する修飾語で(つまり「きれいな」が修飾語)、被修飾語は「チョウ」です。「いきなり」は「飛び立つ」を修飾する修飾語です(つまり「いきなり」が修飾語)。 この例文のように、ひとつの文に2つ以上の修飾語のある場合もあります。 また、修飾語と被修飾語の関係を、「修飾・被修飾の関係」という。 または単語についての説明や意味をつけくわえる。特にあとで述べる用言(ようげん)を修飾するものを連用修飾語(れんようしゅうしょくご)と言う。 いっぽう、体言(たいげん)を修飾するものを連体修飾語(れんたいしゅうしょくご)と言い、修飾される言葉は被修飾語(ひしゅうしょくご)とよばれる。 たとえば、 この場合、「大きく」は連用修飾でしょうか、連体修飾でしょうか? ヒントとして、大きいのは何でしょうか? ボールでしょうか、それとも投げ方が大きいのでしょうか? 答えを言うと、この文で大きいのは投げ方ですので、つまり「大きく」は動詞の「投げた」を修飾しており、そして動詞は活用があるので用言ですので、つまり「大きく」は連用修飾です。 いっぽう、 なら、ボールが大きいわけですし、「ボール」は活用も無いので、ボールは体言です。なので、つまり「大きな」は連体修飾です。 のように、ひとつの文に連用修飾と連体修飾の両方がふくまれている場合もあります。 接続語(せつぞくご)は他の文や文節との関係をあらわす。 接続語が何を修飾しているかが曖昧な場合があります。 エラーしたのが山田?出塁したのが山田? 独立語(どくりつご)は、ほかの文節とは結びついてなくて、それだけで意味の通る語である。 あいさつ や あいづち などが、独立語になる場合が、よくあります。 上の例文の「先生」などのように、呼びかけも独立語になります。 上の例文の「山田さん」も独立語です。 いっぽう、 この例文(「山田さんに頼みごとがあります。」)の「山田さん」も「山田さんに」も独立語ではないです。 この例文の「あのう」は独立語です。 この例文の「東京」は独立語です。 二つ以上の文節がまとまって、ひとつの働きをする文節のことを連文節(れんぶんせつ)という。 連文節には、主に、主部、述部、修飾部、接続部、独立部の5種類がある。 また、並立の関係にある文節も、おたがいに連文節である。 日本語で「主語」といった場合、単語の単位ですので、たとえば例文 の主語は、「消しゴム」です。「自分の消しゴム」は主語ではないです。 しかし、 という文章があったとして、「消しゴム」だけでは、「自分の消しゴム」なのか、「友達の消しゴム」なのか、不明です。 そこで、主語に、その主語にかかる修飾語をあわせたものを主部(しゅぶ)といいますので、この概念を導入しましょう。 の主部は、「自分の消しゴム」です。 例文 の述語は、「する」です。しかし、「する」だけでは、何をするのか不明なので、いまいち不便でしょう。 そこで、述語にかかる修飾語と 述語じしん をまとめたものを述部(じゅつぶ)といいますので、この概念(がいねん)を導入しましょう。 この文「妹は食事をする。」の述部は、「食事をする」です。 例文 について、「昨日の」と「晩に」は、別々の文節ですが、しかし、この文の「晩」とはいつの晩かといえば「昨日」の晩ですので、「昨日の」と「晩に」は、ひとまとめに扱えると便利です。 そこで、修飾部(しゅうしょくぶ)という、関連のある一続きの修飾語をまとめる概念があるので、これを導入しましょう。 「昨日の晩に」で、ひとつの修飾部になります。 「うまくて」と「やすい」は、別々の文節ですが、両方とも、「この店のカレー」の性質をあらわしているので、ひとまとめにできると便利です。 この「うまくて」と「やすい」のように、対等に他の同じ文節(例の場合は「カレーは」)に結びつく関係の文節のことを、並立(へいりつ)の関係といいます。 つまり、「うまくて」と「やすい」は、並立の関係にあります。 また、並立の関係にある単語を並立語といいます。 「うまくて」と「やすい」は、それぞれお互いに並立語です。 さきほどの例文では述語が並立していました。 ほかの例文では、主語が並立している場合もあります。たとえば という例文では、「父」と「母」が並立の関係であり、お互いに並立語です。 単独で文節を作ることができる単語のことを自立語(じりつご)という。 たとえば、「学校に行く。」という文のうち、「学校」は自立語である。 いっぽう、「に」は自立語ではない。 原則として、一つの文節には一つの自立語しかないが、例外的に「松の木」「男の子」「読むこと」のように二つ以上の自立語を組み合わせた文節もある。 なお、「行く」の「行」を自立語と解釈する場合もある。 なお、「学校に」でひとつの文節、「行く」でもうひとつの文節なので、原則「一つの文節には一つの自立語しかない」を満たしている。 いっぽう、「学校に行く。」の「に」は自立語ではなく付属語という。 付属語はかならず自立語の下について、しかも付属語だけでは意味を成さない。 名詞は普通、自立語に分類する。 動詞の語感を自立語に分類する。 動詞の活用語尾(「行く」の「く」の部分や、「行った」の「た」の部分)は、付属語に分類する。 たとえば(学校に)「行った」のうち、自立語は「行っ」、付属語は「た」である。 (学校に)「行ったらしい」では、付属語は「た」と「らしい」の2つである。このように、ひとつの文節に付属語が2個以上ある場合もある。 (学校に)「行ったらしいね」なら、付属語は「た」「らしい」「ね」の3つである。 「行く」(いく)は「行った」(いった)、「行けば」(いけば)、「行きたい」などのように、続く単語や言い切ったりするときに、規則にしたがって、形に変化します。 たとえば、「学校に行ったなら」と「なら」が続く場合には手前には「行った」がきます。けっして、「行けばなら」(×)などとは言いません。 このように、単語の形が規則にしたがって変わることを活用(かつよう)といいます。 自立語にも、活用のあるものと無いものがあります。 たとえば、「学校」は自立語ですが、活用がありません。 「行く」(あるいは「行った」)には、活用があります。 付属語にも、活用のあるものと無いものとがあります。 活用のある自立語のことを用言(ようげん)と言います。 用言は普通、述語になれます。 後述するが、動詞・形容詞・形容動詞が、用言に分類されるのが一般的です。 動詞とは、「走る」「書く」などのように動作を表す言葉です。「走る」なら、たとえば「走らない」「走れば」などのような活用があります。 形容詞とは、「広い」「赤い」などのような、言葉です。「広い」なら、たとえば「広く」「広ければ」などのように活用があります。 用言の性質として などの性質があります。 自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。 後述しますが、名詞(めいし)に分類されるものが体言である場合が普通です。 名詞とは、「ビル」「学校」「月曜日」などのように、ものの名前になることのできる言葉のことです。 体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。 例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。 単語を役割ごとに分類したものを品詞(ひんし)という。日本語の品詞は動詞(どうし)、形容詞(けいようし)、形容動詞(けいようどうし)、名詞(めいし)、(代名詞(だいめいし))、副詞(ふくし)、連体詞(れんたいし)、接続詞(せつぞくし)、感動詞(かんどうし)、助動詞(じょどうし)、助詞(じょし)の10種類(代名詞を別に数えると11種類)ある。 「歩く」「書く」「読む」「食べる」など、活用があり、主に動作をあらわす言葉が動詞です。 たとえば「歩く」なら、 「歩けば」「歩きます」「歩きたい」「歩けよ。」「歩かなければ」・・・のように活用できるので、「歩く」は動詞です。 また、動詞は述語になることができる。 たとえば「駅まで歩こう。」のように、述語になっています。 動詞には活用があるが、最後の音がウの段の音にした場合を、文法上での基準の形とする。 たとえば、「歩く」が、動詞「歩く」の基準となる形である。なぜなら、「歩く」は「く」というウ段の音で終わってるからである。 いっぽう、「歩け」「歩き」などは、どんなに話し手が強く言ってても、最後の音がウ段でないので、動詞「歩く」の基準の形ではない。 同様に、動詞「書く」の標準の形は「書く」である。 「書け」「書き」は、動詞「書く」の基準の形ではない。 また、「歩きよりも走りでゴールまで行こう。」のように、歩行という意味での「歩き」は活用が無いので、動詞ではないです。 「歩くスピードが速い。」のように、体言を修飾する場合にも動詞(例文の「歩く」は動詞として、あつかう)が使われる場合もあります。 名詞には、いろいろな種類がある。 「京都」「夏目漱石」などのように、特定の地名や人名などをあらわす名詞のことを固有名詞(こゆう めいし)という。 「ボール」「茶」「人」「犬」「机」など、特定の人名や地名をあらわしていない、普通の名詞のことを普通名詞(ふつうめいし)という。 「一人」「二つ」「二枚」「一枚」「三本」「三人」、などは、それぞれ数詞(すうし)といいます。 のような文での「もの」、 または の「こと」のような名詞を、形式名詞という。 「僕」「それ」「彼」「あれ」「あなた」などのように、代名詞がある。 ※ 代名詞を名詞とは別の品詞と解釈する場合もある。 代名詞のうち、「僕」「私」「あなた」「彼」「彼女」「俺」などの、普通は人を指す場合につかう代名詞のことを人称代名詞(にんしょう だいめいし)という。 いっぽう、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」などは物や場所に使う代名詞であり、このような代名詞を指示代名詞(しじだいめいし)または指示語という。小学校で習った、いわゆる「こそあど言葉」が、指示代名詞です。 代名詞を分類すると、主に、人称代名詞または指示代名詞の、二通りに分類できる。 代名詞は、活用がない語である。 この一覧表にあるのは、あくまで指示代名詞だけである。 けっして全ての代名詞が一覧になっているわけではない。指示代名詞でない代名詞は、この一覧表には、まったく記載されていない。 代名詞には、指示代名詞でない代名詞も存在し、「わたし」「あなた」「ぼく」「彼」「彼女」など、代名詞は、いくつもある。 名詞は普通、自立語です。 副詞とは、例をあげると「ゆっくり」とか「もっと」「とても」とか、「のそのそ」「はっきり」などである。 副詞は活用がない語であり、主に用言を修飾し、修飾語にしかならず、たいていの場合は連用修飾語になる。副詞には状態の副詞、程度の副詞、呼応(陳述・叙述)の副詞がある。 状態の副詞は主に動詞を修飾する。 程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾するが、他の副詞や名詞を修飾することもある。 「呼応の副詞」とは、 のように、あとにくる言葉に決まった言い方がくるのが呼応の副詞である。 たとえば、「決して」は、必ずいくつか後の文節に「ない」が来る。 「けっして、きのうはカレーを食べていない。」というように、「けっして」のあとには「ない」が来るのが普通。 のように の「全然」も、21世紀の現代では、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「全然」を呼応の副詞として紹介。) (※ 範囲外: )ただし、「全然」は明治時代くらいは、 ※ このような事情があってか、三省堂いがいの他の教科書会社は、「全然」については紹介しないでいる。 の「とうてい」も、呼応の副詞である。(※ 三省堂の中1教科書が「とうてい」を呼応の副詞として紹介。) 「叙述の副詞」(じょじゅつのふくし)または「陳述の副詞」とは、話し手の気持ちや判断を述べるための副詞である。 「おそらく」とか「きっと」などの、何かの可能性の程度を推測する副詞が、叙述の副詞の場合がある。 これ以外にも、 または とかの「まるで」の部分も、叙述の副詞である。 教科書によっては「呼応の副詞」を「叙述の副詞」と完全に同一視して分類する場合もある(※ たとえば学校図書(教科書会社名)では同一視している)。 たとえば、 のように、「おそらく」・「たぶん」のあとには、「だろう」または「であろう」「でしょう」などが来る場合がよくある。(※ 学校図書が、「おそらく」を呼応の副詞としている。三省堂が「たぶん」を呼応の副詞としている) などの疑問の意味の副詞も、呼応の副詞に分類される場合がある。(※ 光村図書の中3教科書が「どうして」を呼応の副詞として紹介、教育出版の中2教科書が「なぜ」を呼応の副詞として紹介している。) 叙述・陳述の副詞は、連用修飾語である。よって、叙述・陳述の副詞や、呼応の副詞の副詞の部分は、ほかの体言については修飾しないのが普通である。 状態の副詞は主に動詞を修飾する。 の「ゆっくり」は、状態の副詞である。 程度の副詞は、 「かなり」・「もっと」・「とても」のように、程度をあらわす副詞である。 の「少し」は、副詞である(この例文での「少し」は形容詞ではない)。 「ずっと」のように、時間のスケールの程度を表す副詞も、程度の副詞である。 「もっと大きく」のように、程度の副詞は主に形容詞・形容動詞を修飾する場合が典型的だが、 「もっと右。」「もっと昔から。」 のように名詞などの体言を修飾することもある。 また、「もっとゆっくり歩いて。」のように、程度の副詞(例文では「もっと」)が、ほかの副詞(例文では「ゆっくり」)を修飾する場合がある。 指示語である「あの」「その」や「大きな」などがある。体言を修飾し、必ず連体修飾語になる。活用がない語。 連体詞の直後には、かならず体言がつく。 「大きな」 など一部の連体詞と形容詞(「大きい」)は、基準の形が似ているが、しかし別の品詞である。 「大きい」は形容詞であるが、「大きな」は連体詞である。 たとえば形容詞「うつくしい」の場合、「美しかった」「美しく」「美しい」「美しければ」のような活用になる。 「うつくしな」(×)とは言わない。つまり、形容詞に「◯◯な」の形は無い。 なので、「大きな」は、形容詞とは別の品詞でなければならない。つまり、「大きな」は連体詞である。 同様に、「小さな」も連体詞である。 「たいした話だ。」などの「たいした」も連体詞である。 「この」「その」「あの」「どの」は連体詞である。 「あらゆる状況」、「いかなる困難」などの「あらゆる」「いかなる」も連体詞である。 動詞など他の品詞とまぎらわしい連体詞が、いくつかある。 などの修飾語としての「ある」は、学校文法では連体詞に分類する。 いっぽう の「ある」は、動詞である。 このように、同じ「ある」という形でも、文脈や位置によって品詞が変わるので、品詞をさぐる場合には文章をよく読むこと。 のような連体修飾語「去る」は連体詞である。 「大したヤツだな。」とか「大それた事をしてしまった。」とか「とんだ失敗をした。」「とんだ災難だったね。」などの「大した」「大それた」「とんだ」は、連体詞である。 たとえば、「走る」は動詞ですが、しかし「歩きよりも走りで行きたい。」などの「走り」は名詞です。 このように、動詞がもとになって派生した名詞があり、このような、ある品詞の単語が別の品詞の単語に派生することを転成といいます。 形容詞「大きい」と連体詞「大きな」も、転成の関係だと思われています。(※ 学校図書(検定教科書の出版社のひとつ)の解釈) 「楽しい」は形容詞ですが、「楽しむ」は動詞です。この「楽しい」と「楽しむ」も、転成の関係です。(※ 教育出版の解釈) 感動詞は感動・呼びかけ・応答・挨拶の4種類ある。「おはよう」「ああ」などがある。ある状態や個人の感情、あいさつ や返事などを表す。活用がない語。ふつう、自立語である。単独で文にすることが多いが、文の中にあるときは独立語とする。 典型的な4つの例: (※ 下線部が感動詞) いろいろな例 「そして」「だから」「でもって(話し言葉)」などが該当する。活用がない語である。文や文節を繋いで関係をはっきりさせる語で、必ず接続語になる。 「きのう、カレーを買った。」の「た」は、過去をあらわす助動詞です。 助動詞とは、活用のある付属語です。 「買った」は、「買ったら」や「買ってれ(ば)」などのように活用します。 つまり、「た」は「たら」「てれ」のように活用します。 いっぽう、「カレーをかってやろう。」の「て」には、過去の意味は無く、つまり「て」は別の品詞です。この場合の「て」は助詞です。助詞は、活用のない付属語です。 「山田の好きな食べ物はカレーだそうだ。」の「そうだ」も助動詞です。 「そうだ」は「そうだっ(た)」「そうな」「そうなら」のように活用します。 「カレーを食べたい。」の「たい」も助動詞であり、願望・希望をあらわす助動詞です。 「食べたい」は「食べたけれ(ば)」「食べたく」「食べたか(ろう)」などのように活用します。 動詞、形容詞、形容動詞、助動詞は下につく言葉によって語の一部または全体が変化する。このことを活用(かつよう)という。 たとえば、動詞「話す」は、「話さ(ない)」(未然)、「話し(ます)」(連用)、「話す(。)」(終始)、「話す(とき)」(連体)、「話せば」(仮定)、「話せ」(命令)のように活用します。 活用の変化後のそれぞれの形を活用形(かつようけい)という。 たとえば、動詞の活用形には、 の6種類がある。 また、用言の多くは変化する部分と変化しない部分がある。変化する部分を活用語尾(かつようごび)と言い、変化しない部分を語幹(ごかん)という。助動詞の中には語幹や活用が事実上ないものもある。 たとえば、動詞「話す」の語幹は、「話」(はな)の部分です。 「話せ」の「せ」 や 「話す」の「す」 などが、(つまり「せ」や「す」の部分が)活用語尾です。 動作を表す言葉で、述語として文の最後につくことが多い。最後が「う段」(ローマ字で書いたとき「遊ぶ(asobu)」「見る(miru)」のようにuで終わること)の音で終わる。また、五段活用動詞の連用形は名詞に変わることがある。例としては、「ひかり(動詞「ひかる」より)」「読み(動詞「読む」より)」などがある。 たとえば、上記の「咲く」の場合、 「咲か(ない)」「咲き(ます)」「咲く(。)」「咲く(とき)」「咲け(ば)」「咲け」のように活用される。 また、上記の表のように、活用形や語幹、活用語尾などをひとまとめにした表のことを活用表といいます。 「来る」(くる)、「する」、などの一部の動詞には語幹が無い。 五段活用では、下記の表のように、語幹の最後の文字の所属する行ごとに、活用形が変わる。 たとえば、「行かない」・「話さない」のように言うことはある。しかし、けっして「行さない(×)」「話かない(×)」のようには活用しないという事である。 命令形は、「行け」「書け」などのように命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。(※ ただし、「行けよ」のように助詞「よ」などの助詞をつける場合はある。) 下記の動詞の一覧表でも同様に命令形は、命令の形で言い切るので、活用としての直後の接続は無い。 上一段活用(かみいちだん かつよう)をする動詞には、「生きる」・「起きる」・「似る」・「開ける」などがある。 「起きる」の語幹は「お」である。「おき」は語幹ではない。活用語尾には、すべて最初に「き」がついているが、だからといって語源を「おき」にしない。 もし、「おき」を語幹にしてしまうと、未然形と連用形の活用形が無くなってしまうが、そうなると不便である(※ 教育出版の見解)。 なので、「起きる」の語幹は「お」にされている。 「似る」・「見る」など、一部の動詞では、語幹と活用語尾が区別しづらい。 下一段活用(しもいちだん かつよう)をする動詞には、「教える」・「答える起きる」・「出る」がある(※ 検定教科書で紹介される動詞)。「受ける」「食べる」なども下一段活用である(※ 参考書などで紹介される動詞)。 「出る」など、一部の動詞には、語幹と活用語尾が区別しづらい。 カ行変格活用になる動詞は「来る」(くる)一語のみである。 カ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。 サ行変格活用になる動詞は「する」と、「料理する」「勉強する」のように「する」が後ろについて出来た複合動詞「◯◯する」のみである。 サ行変格活用の語幹は、活用と区別が無い。 動詞には、おもに、次のように三種類の音便(おんびん)があります。 「書か(ない)」(未然)、「書き(ます)」(連用)、「書く」(終始)、「書く(とき)」(連体)、「書け(ば)」(仮定)、「書け」(命令) というように、動詞「書く」は5段活用される。 しかし、「書いた」は、このどれにも当てはまらない。 「書いた」は、連用形「書き」+「た」が なまった音が由来だとされる。 このように、いくつかの動詞などで、活用語尾が「い」に変化する現象をイ音便(いおんびん)という。 いっぽう、動詞「走る」(はしる)は、活用で「走った」のように言う場合があります。 この「走った」は、連用形「走り」+「た」が なまった音が由来だとされる。 このように、活用語尾が「っ」に変化する現象を促音便(そくおんびん)という。 動詞「読む」は「読んだ」と活用される場合があまう。 これは、「読む」+「た」あるいは「読み」+「た」が由来だろうとされています。 この「読んだ」のように、「読む」または「読み」が「読ん」になるように、活用語尾が「ん」になることを撥音便(はつおんびん)といいます。 「撥」(はつ)とは、「はねる」という意味です。 動詞「飛ぶ」も「飛んだ」と活用されるので、撥音便のある動詞です。 共通語では、音便のある動詞は、五段活用される動詞です。 しかし、方言では、ほかの活用をされる動詞でも音便のある場合があります。 促音(そくおん)とは、たとえば「だっこ」の真ん中の小さい「つ」、つまり「っ」の音のことをいう。 撥音(はつおん)とは、「ん」の音のことをいう。 なお、動詞の音便とは別に、形容詞にも「ウ音便」というのがある。くわしくは形容詞の節で説明する。 特殊な動詞に補助動詞というものがある。補助動詞とは、たとえば の「みる」・「いる」・「いう」の部分が、それぞれ補助動詞である。 本来これらは「見る」「居る」「言う」という意味があったのだが、その意味が薄れ、様子や状態を表す助動詞のような役割を果たすようになった。 このように、動詞ではあるが、ほかの単語について、補助的な意味をする動詞のことを補助動詞という。 形式動詞は普通の動詞と区別するためにひらがなで書くが、文節分けは行う。 助動詞と補助動詞とは違う。 などの「ある」・「おく」・「しまう」、「いく」も、それぞれ補助動詞である。 の「あげる」・「くれる」・「もらう」も補助動詞である。 の「いただく」・「なる」も補助動詞である。 「行ける」・「書ける」のようにそれだけで可能の意味を含む動詞を特に可能動詞という。可能動詞は、すべて下一段活用の語である。また、可能動詞に命令形は無い。 学校文法で、可能動詞のもとになる動詞は、「行く」・「書く」など五段活用の動詞である。 たとえば など、もとになる動詞の活用は、すべて五段活用である。 いっぽう、上一段活用の「見る」や、下一段活用の「出る」など、五段活用でない動詞をもとに可能動詞とするのは、(小中高の)学校文法では誤りとされる。 つまり、「みれる(△)」「でれる(△)」などは、学校文法では誤りとされる。 「見る」や「出る」ことが可能なことを一語で言いたい場合、学校文法では、助動詞「られる」を使って、「みられる」・「でられる」というふうに言うのが正式であるとされる。 動詞は自動詞(じどうし)と他動詞(たどうし)に区別できる。自動詞は対象を必要とせず、ある動作や状態がそれ自身で行われることをいう。他動詞は必ず動作の目的や対象への働きかけを示す言葉が必要である。 例:「起きる」と「起こす」。 「起きる」が自動詞である。なぜなら「起きる」は動作の対象を必要としないため、「彼を起きる」という文章が作れない。 一方、「起こす」は動作の対象を示すことができるので、「彼を起こす」という文章が作れる。なので、「起こす」は他動詞である。[1][2]。 「水を流す」と「水に流れる」なら、「流す」が他動詞であり、「流れる」が自動詞である。 ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「い」で終わる。(例)すばらしい、美しい など。形容詞の語幹に「さ」をつけると名詞に変わる。 など。 特殊な形容詞として「ない」「ほしい」がある。「ない」は というように「無」の状態を表す場合と、 のように、ほかの形容詞の後ろにつく場合がある。 この、「明るくない。」の場合の「ない」のように、ほかの単語の補助としてつかう形容詞を補助形容詞という。 「明るくない」などの「ない」は、けっして助動詞ではない。なぜならば、 「やらない」「書かない」などの助動詞「ない」は「ぬ」に置きかえても意味が同じだし、「やらぬ」「書かぬ」と通じる。 しかし「明るくない」はけっして「明るくぬ(×)」とは言わない。なので、「明るくない」の「ない」は助動詞ではない。 また、格助詞「は」を補って「明るくはない」という場合はあるが、しかし、「書かはない(×)」とは言わない。 このように、補助形容詞と助動詞とは、区別する必要がある。 なお、「この本に書いてある。」の「ある」は補助動詞である。(「ある」は形容詞ではない。) 「花が咲いている。」の「いる」は補助動詞である。(「いる」は形容詞ではない。) なお、補助動詞と補助形容詞をまとめて、補助用言(ほじょ ようげん)という。 なお、「ほしい」は同じ意味の英語の"want"は動詞だが、しかし日本語の「ほしい」の活用は形容詞(「ほしかろう」、「ほしく」、「ほしけれ」)の活用である。 「ほしい」も のように、ほかの動詞のうしろに補助的につくので、「ほしい」も補助用言である。 日本語で補助形容詞は「ない」と「ほしい」だけである。 補助用言をふくむ文章を、文節ごとに分かる場合には、補助用言は前の文節とひとつにまとめて一文節として数える(※ 教育出版の見解)。 つまり、 例 という文章では、「歩いている」で、1文節と数える。 つまり、「猫が歩いている。」という文は、「猫は」と「歩いている。」で、合計2個の文節がある。 また、補助用言は普通、ひらがなで書く(※ 三省堂の見解)。 (批判的な意味での)「くだらない」、(「粗末にすべきではない」(大切に扱うべきだ)という意味での)「もったいない」などは、 たとえば「くだらない」なら、あたかも形式的には、動詞「くだる」の未然形に助動詞「ない」がついたように見えるが、 しかし、「くだらない」一語で形容詞として扱う。 「もったいない」も、「もったいない」一語で形容詞として扱う。(※ 教育出版が中3教科書で「くだらない」「もったいない」「きたない」などを紹介している。) 「静かだ」・「きれいだ」などのように、ものごとの様子を表す言葉で、修飾語や述語になることが多い。言い切りの形(終止形)が「だ」または「です」で終わる。特殊な形容動詞には「あんなだ」「こんなだ」がある。 形容動詞は、活用のある自立語で、単独で述語になることができる。 形容動詞に命令形は無い。 「静かにしろ」のような命令表現は、学校文法では「しろ」の部分が動詞「する」の命令形であると解釈する。なので、形容動詞の部分「静かに」そのものには命令形が無いと学校文法では考える。 なお、形容動詞でないが混同しやすい表現として、連体詞「大きな」がある。「大きだろう(×)」とは言わないので、「大きな」は連体詞である。 自立語の中でも活用がなく、文の主題となりうるものを体言(たいげん)という。体言は「が・は・も・こそ・さえ」などの言葉を下につけることで主語になるのが最大の特徴である。原則として主語になるのは体言のみである。また、単独で独立語にすることもできる。助詞・助動詞をつければ修飾語にもなる。また、下に「だ・です」をつければ述語にもなるが、単独で述語にすることは少なく、体言のみで文を終わらせることを特に体言止め(たいげんどめ)という。 例として、「歴史、それは一つのロマンだ」いう文を見てみる。まず最初の「歴史」は文の主題を提示する独立語である。「それは」は「それ」+「は」で主語を作り、「一つの」は「一つ」+「の」で修飾語となり、「ロマンだ」は「ロマン」+「だ」で述語になったものである。 名詞(めいし)とは、ものの名前を表す言葉。その他、数字なども名詞とする。活用がない語。ほかにも用言を体言のようなものにする働きを持つ「こと」「とき」「ため」などがある。これらは本来「事(ものごと)」「時(時間)」「為(理由や対象をさす)」という意味があったが、それらの意味が薄れ、単に用言に接続して用言に体言のような働きを持たせる文節をつくる言葉になった。これらを形式名詞という。形式名詞は普通は平がなで書き、文節分けはしない。 単独で文節をつくることができない単語を付属語(ふぞくご)と呼ぶ。 文や文節に否定や断定、丁寧、推測、過去などの意味をつけくわえる語。主に用言・体言・助動詞に接続する。活用がある。 助動詞には、次のものがある。 例 活用は、「読ませれば」「読ませて」「読ませる」などのように活用する。 例 「書かれた」「書かれれば」「書かれる」などのように活用される。 例 「知らなかろう」・「知らぬ」・「知らなければ」などのように活用する。 「存ぜぬ」・「存ぜん」のように活用する。 なお、「何もない。」の「ない」は形容詞「なし」の変化であるので、助動詞ではない。 例 この文の時点からみて、駅に到着したばかりだし、その文の時点で駅にいるので、完了である。 この文では、はたして現在ではマラソン選手かどうかは不明である。だが、過去にマラソン選手だったのは確かである。 服がつるされている時は、この文の時点からみて、過去ではなく現在なので、服はつるされつづけているので、存続である。 また、存続の場合、普通は「た」のあとに体言が続く。 「たい」は普通、話し手が希望している場合に使う。 「たがる」は、話し手以外の第三者が希望している場合に使う。 「知りたい」の活用は、たとえば「知りたかった」「知りたく」「知りたい」「知りたければ」などのように活用する。 「そんな話があろうはずがない」の「あろう」の「う」が助動詞「う」である。活用は「う」しか形が無いが、しかし「あろうはず」のように体言「はず」につながるので、連体形である。終止形の「(あろ)う」と連体形の「(あろ)う」があるので、便宜的に「う」は助動詞として分類される。 「よう」も同様、便宜的に助動詞として分類される。 (※ 範囲外)活用せず、「まい」しか形が無い。しかし、「まい」の古語の「まじ」に活用があるので、便宜上、「まい」も助動詞として扱う。 時代劇などで「あるまじき無礼(ぶれい)」のようなセリフがあるが、「まじ」は「(ある)まじき」「(ある)まじく」などのように活用するので、「まじ」は古語の助動詞である。 「打ち消しの意志」とは、「今後は◯◯しないでおこう」のような意味。 「打ち消しの推量」とは、「今後は、そうはならないだろう」のような意味。 「だろう」は助動詞「だ」の未然形「だろ」に推量の助動詞「う」がついたものであると分類する。 また、「東北は私の故郷であり」の「で」も助動詞「だ」の連用形に分類する。 「だろ(う)」・「だった」などのように活用するので、助動詞である。 「です」は、助動詞「だ」を丁寧にした形。 「でしょ(う)」・「でし(たら)」などのように活用するので助動詞。 「ようだ」は、活用の変化は断定の助動詞「だ」に似ているが、しかし意味が断定ではなく推定なので、便宜上、推定の助動詞「ようだ」と断定の助動詞「だ」は別々の助動詞として、あつかう。 「ようです」は、「ようだ」を丁寧にした形。 「そうだ」は、連用形の後ろに つながる場合は様態の意味。 「そうだ」は、終始形の後ろに つながる場合は伝聞の意味。 「そうです」は、「そうだ」を丁寧にした形。 (※ 執筆中) 国語学者の大野晋によれば[3]助動詞の語順は、人為・自然(「れる」「られる」や使役)+敬意(補助動詞)+完了・存続+推量・否定・記憶(+働きかけの終助詞)の順に並ぶとされる。 助詞とは、付属語で活用が無く、単語や文節同士をつないだり、つながれたものどうしの関係づけを行ったりする語である。また、文や文節のリズムを整えたり、禁止や疑問、強調の意味を添える役割もある。 主に用言・体言・助動詞に接続する。活用はない。 学校文法では助詞は格助詞(かくじょし)・副助詞(ふくじょし)・接続助詞(せつぞくじょし)・終助詞(しゅうじょし)の四つに分類される。格助詞(かくじょし)は体言に接続するか、または体言と同じような働きをするものに接続して使われる。 格助詞は、直後の単語との関係を明確なものにするために使われる。 たとえば「ライオン、トラ、襲う。」では、 それとも はたまた のかわからない。 この「が」「を」のような、動作をする側とされる側の関係づけをするための助詞のことを格助詞(かくじょし)という。 気を付けるべきこととして、助詞「が」のつく文節は、必ずしも主語とは限らない。 たとえば、 という文は、けっして「これ」さんが何かを欲しがっているわけではない。そうでなくて、話し手の、欲しがっている対象物が、代名詞「これ」で表される何かなだけである。 つまり、ここでいう「これが」は、英語でいう所の目的格である。なお、学校文法では「これが欲しい」の「これが」は『連用修飾格』という格に分類する。 しかし、日本語の学校文法では、(英語でいう)目的格のようなものも「格」として扱うので、助詞「が」は、どっちにせよ「が」は格助詞である。 なお、「寒いが、外出した。」の「が」は、格助詞ではない。「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。 つまり、「より」は格助詞である。「から」は格助詞である。 さて、「僕は好きだ。」・「テニスは好きだ。」のような「は」については、文法の理論上、難しい問題があり、いちぶの学校教科書によっては説明を避けている場合もある。 三省堂や学校図書や光村図書の検定教科書で助詞「は」を紹介しているが、これらの出版社の検定教科書では、助詞「は」は副助詞(ふくじょし)に分類される。副助詞については後述する。格助詞としては扱わない。) たとえば、(学校教科書では習わない文だが、) という文を考えれば、「は」を格助詞と考えるべきかどうか、いまいち不明確だと分かるだろう。「象」は「鼻が長い」性質の(英文法でいうところの)主格でもなければ、(英文法でいうところの)目的格でもない。(英語でいう所有格「〜の」の)象の鼻は長いが、しかし料亭で「ぼくはチャーシューメン」という場合は、チャーシューメンを注文しているのであって、けっして「僕のチャーシューメン」をどうかしようとしているわけではない。 助詞「は」の意味を紹介している三省堂の検定教科書では、助詞「は」は、題目をあらわす助詞として分類している。 (※ 範囲外: )学校文法(主に橋本文法)ではないが、助詞「は」を、主題・話題をあらわす助詞として分類する学説もある(三上文法など)。 などの連体修飾語としての「の」は、格助詞に分類します。 「の」には、 のように、名詞のかわりをする用法もあります。(「もの」の意味。例文の場合は、「君のものだ。」の意味) のように、「すること」の「こと」の意味で「の」が使われる場合もあります。 このように「こと」「もの」の意味で助詞「の」が使われる場合もあり、この場合の助詞「の」も格助詞に分類します。 また、 のように、動詞の前に「の」がついて、主語になる場合もある。 これらの用法(「の」の名詞の代わり用法。主語を示す助詞としての「の」)の場合も、すべて格助詞として分類する。 なお、混同しやすい例として のような文末の「の」がありますが、これは終助詞「の」です。文末の「の」は格助詞ではないです。 接続助詞(せつぞくじょし)は、主に用言に接続して、下に来る部分との関係を明らかにするものである。接続詞に置き換えることもできる。 「寒いが、外出した。」の「が」は、接続助詞である。 副助詞(ふくじょし)は体言や格助詞に接続し、その文節に副詞のように用言や述語・述部を修飾する役割を持たせる。 三省堂や学校図書や光村図書(教科書会社名)の検定教科書では、助詞「は」は副助詞として分類される。 教育出版は、助詞「は」については説明をさけている。 終助詞(しゅうじょし)は述語に接続し、聞き手や読者などに禁止や疑問・勧誘などの働きかけを行う。 他にも「君の(もの)だ」の「の」のように体言の働きを持つものを準体助詞、「ね」「さ」「よ」などのように文節の切れ目に自由に入れて、強調したりリズムを整えたりするものを間投助詞という。 単語の中には品詞を区別しにくいものも多い。いくつかの例を見てみよう。 1の「きれいだ」は形容動詞だが、2の「病気だ」は名詞「病気」+助動詞「だ」である。これをどうやったら区別すればよいだろうか。この場合は副詞「とても」を入れるとよい。副詞は主に用言を修飾するので、1は問題ないが、2だと「山田さんはとても病気だ」となり、不自然な文になる。 「小さい」は形容詞だが、「小さな」は連体詞である。これは形容詞の活用の中に「な」の形がないことから判断する。 どちらも「ない」だが、1は打消の助動詞「ない」で、2は形容詞「ない」である。この場合は自立語は単独でも文節を作れることや打消の助動詞「ぬ」を入れて判断することができる。 単語の一部または全体につけることで品詞そのものを変えたり、意味を付け加えたりする言葉がある。その内、単語の頭につけるものを接頭語、後ろにつけるものを接尾語という。接頭語・接尾語は一つの単語として数えず、接続したものとセットで一つの単語としてみる。 日本語の接頭語の例を挙げる。「お」「ご」は名詞や動詞について尊敬や丁寧の意味を付け加える。既に敬語のところで述べたように、「お」は和語に、「ご」は漢語に接続する。他には名詞に接続する「新」「超」「反」や特定の色の名詞に接続する「まっ」がある。 接尾語は、形容詞の語幹に接続して名詞を作る「さ」、「さん」「様」などの敬称、名詞に接続して連体修飾語な意味を持たせる「的」「性」などが挙げられる。 文には単文(たんぶん)、複文(ふくぶん)、重文(じゅうぶん)の3種類がある。単文(たんぶん)は一つの主語・述語のセットで成り立っている。複文(ふくぶん)は二つ以上の主語・述語のセットでできており、ある主語・述語のセットが別の文節を修飾したり、文の主部・述部になっているものである。重文(じゅうぶん)も二つ以上の主語・述語のセットでできているが、修飾関係などはなく対等な関係にある。 例文:
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%96%87%E6%B3%95
文を強調するための技術を修辞法という。あくまで強調のためのものであり、使いすぎると強調点がわからなくなったり、いやみな文のように見えてしまう。また、小説や詩歌、話し言葉ではよく使われるが、説明文・論説文ではあまり使わない。 小学校では「たとえ」と習う。あるものを別のものにたとえることである。「~のようだ」という言葉を使う直喩(ちょくゆ)といい、それを使わない隠喩(いんゆ)または暗喩(あんゆ)といい、人間以外のものを人間のようにたとえる擬人法(ぎじんほう)がある。 例 日本語の文では体言のみで終わることは少なく、「だ」「である」などをつけくわえる。それをあえて破り、体言のみの文末(述語)とすることを体言止め(たいげんどめ)といい、感動や詠嘆を表すことが多い。話し言葉では断定の助動詞「だ」などを省略することが多いため、結果的に体言止めになることが少なくない。 例:「五月雨をあつめてはやし最上川」(松尾芭蕉) 日本語の語順は主語・述語という順序が標準である。(また、修飾語と被修飾語も同様の語順である。)その語順を破ることで強調したいことを示したり、感動や詠嘆を表すことを倒置法(とうちほう)という。話し言葉や詩歌で多く使われる。 例:「きれいだなあ、この海は。」ここでは主語と述語の語順を入れ替えて述語を強調している。 同じ語をくり返す方法。 例)嬉しい。めっちゃ嬉しい。 人間ではないものを人間に例える方法。 例 星が笑ってる。 意味の近い言葉どうしやリズムの近い文どうしを合わせてセットにすることにより、組み合わせを強調する手法。詩歌などで情景を豊かに表す手法として用いることが多い。 例:「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」(『平家物語』より)このばあい、「祇園精舎の鐘の声」と「沙羅双樹の花の色」、「諸行無常」と「盛者必衰」が対になっている。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E6%8A%80%E6%B3%95
「故事」(こじ)とは、昔の出来事のことである。 「故事成語」(こじせいご)とは、ある故事が元になって出来た熟語である。たいてい、中国の古典に書かれた故事が、故事成語の元になっている。 ここでいう「中国」は、チャイナのほうの中国である。なお、中学校のこの単元においては以下の漢文についてを習うこと及びその次に述べる故事成語を覚えることを目的とする。 wikibooksの仕組みではどうしても横書きになってしまう。一文字ずつ改行してならできなくもないものの、ページが大変なこと(長さ)になってしまうので、やむをえず横書きにした。横書きで上つきの記号は、縦書きでは右側に、同じく下つきの記号は左側に、と読み替えてほしい。 以下に例を述べる。その前に、簡易的ではあるが、説明をしておく。右側(ここでは横書きなので倒して上側)にあるカタカナが送り仮名で、左側(ここでは同じく横書きなので倒して下側)にあるのが訓読記号である。 ① まず、上(実際には縦書きなので右側)のカタカナは前述の通り「送り仮名」である。無論古文の読み方によって読まなくてはならない。次に、下(これまた実際には縦書きなので左側)の前述の通り訓読記号の『レ』はレ点と称し、これがある文字の一つ前の文字を読むのは後であり、先にこれの後の文字を先に読んだ後(一文字)先ほどのレ点の前の文字を読む。 ② まず、最初の有にレ点がついているので、また同様に無しにもレ点がついているので、読む順番は1、備え(古文の読み方で)2、有れば3、患い(古文の読み方で)4、無し、となる。ここでは古文の読み方を適用することが重要である。間違っても、『備え患い有れば無し』(先に「レ点のないもの」を全て読んでしまった例)のようにしてはならない。レ点がついている文字は、レ点の次の文字を読んだ後、すぐに読む。 ③ まず、『一』・『二』・『三』は『一・二・三点』という。二文字以上戻る場合、レ点では対処できないから出てくる。番号順に読む。 では、これを踏まえて、見てみよう。先に訓読記号のついていないものを読むので、1、東のかた2、鳥江を3、渡らんと4、欲す、となる。1、を読んだ後、他に訓読記号のついていない文字がないので、一(訓読記号)から順番に読む。こうすると、読むことができる。なお、漢文を書く場合においてもレ点と一・二・三点の使い分けをしよう。 では、これらを生かして、下の故事成語を読んでみよう。 ある主張の辻褄(つじつま)が合わないこと。 矛盾 楚人(そひと)に盾(たて)と矛(ほこ)とを鬻ぐ(ひさぐ)者あり。之(これ)を誉(ほ)めて曰(いは)く「わが盾(たて)の堅き(かたき)こと、能く(よく)陥す(とおす)ものなきなり。」と。また、その矛(ほこ)を誉めて曰く「わが矛の利なること、物において陥さざるなきなり。」と。 ある人いはく(いわく)「子(し)の矛を以て、子の盾を陥さば(とおさば)いかん。」と。その人応ふる(こたうる)こと能はざる(あたわざる)なり。 楚の国の人で、盾と矛とを売る者がいた。その人が、盾をほめて、「私の盾の堅いことといったら、突き通せる物が無い。」と。また、その人は、矛をほめて、「私の矛の鋭いことといったら、どんな物でも突き通す。」 ある人が尋ねて、「あなたの矛で、あなたの盾を突きさすと、どうなるのか。」と言った。その商人は、答えることができなかった。 中学校国語 漢文/矛盾も参照のこと。 よけいなもの。 中国の楚(そ)の国で、数名の者が地面に蛇の絵を早く描く競争をしていて、いちばん早く描き終えた者は酒を飲めるという競争をした。このときに、ある者が、いったん先に描き終えたが、「足まで描ける」と言ったら、別の者が「蛇には足がない。」と言われ、足を描いた男が負けてしまい、酒をうばわれたという。 周囲を敵に囲まれること。または、周囲が敵ばかりで味方のいないこと。 紀元前202年ごろの、古代の中国で、楚(そ)の国と、漢(かん)の国が、天下をめぐって争っていた。秦(しん)の王朝が滅んだあとの時代であり、いくつかの国が天下を争っていた。最終的に、楚と漢に、集約されていった。 そして、ついに楚と漢との決戦が起きた。 楚(そ)の指導者の項羽(こうう)は、楚軍が垓下(がいか)の戦いで劣勢になり、敵側の漢の大軍に包囲された。その日の夜、項羽は四方の漢軍の陣のほうから、故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか。」と驚き(おどろき)嘆いた(なげいた)。この故事から"周囲を敵に囲まれること"を四面楚歌(しめんそか)と言うようになった。 ※最終的に項羽は戦に負け自殺し、漢が天下をにぎる。漢の指導者の劉邦(りゅうほう)が、あたらしい王朝の「漢」を作る。これが、漢王朝の始まりである。 ふたつの勢力がひとつの事柄について争っている間に、第三者が利益を得てしまうこと。 ハマグリが殻(から)を開けてひなたぼっこをしていると、鳥のシギがやってきて、ハマグリの身をついばもうとした。ハマグリは殻をとじて、シギのくちばしをはさみました。シギは『このまま今日も明日も雨が降らなければ、ハマグリは死ぬだろう』と言い、ハマグリは『今日も明日もこのままならば、シギの方が死ぬだろう』と言う。そうして、争っている間に、両者(りゃうしゃ)とも、漁師に捕まってしまった。 中国の戦国時代における、たとえ話の一つ。 必要のない心配、取り越し苦労(とりこしぐろう)のこと。 杞(き)の国に、ひどく心配性の人がいた。もしも天が落ちてきたらどうしよう、地面が崩れたらどうしようと心配し、夜も眠れず食事ものどを通らぬほどに心配した人がいた。このことから、無駄な心配、取り越し苦労のことを指して杞憂(きゆう)という。 人の幸不幸は変わりやすいということ。 用例の一例として不幸な人をはげます場合に、「人間万事、塞翁が馬」などと使うことが多い。幸福で浮かれている人をいましめる場合にも、用いられる場合がある。 このことから、人間、良いこともあれば悪いこともあるというたとえとなり、だから、あまり不幸にくよくよするな、とか幸せに浮かれるなという教訓として生かされる言葉になり、「人間万事塞翁が馬」などと使われる。 文章の言い回しを、よりよく考え直すこと。 単に、出版物などの誤字・脱字を訂正することは「校正」(こうせい)という熟語であり、推敲とは意味が異なる。 唐の詩人の賈島(かとう)は、乗っているロバの上で詩を作っていた。その途中、「僧(そう)は推す(おす) 月下の門(げっかのもん)」という一句を口ずさんでから、「推す」のほかに「敲く」(たたく)という語を思いついて迷った。あまりにも夢中になっていたので、向こうから役人の韓愈(かんゆ)のひきいる行列がやってきたのにも気づかず、その中にぶつかってしまった。賈島はすぐに捕らえられ、韓愈の前に連れて行かれた。そこで賈島は経緯をつぶさに申し立てた。事情を知った韓愈は、賈島の話を聞き終わると、「それは『敲く』の方がいいだろう、月下に音を響かせる風情があって良い」と言った。そして、二人は、馬を並べていきながら詩を論じ合った。 このことから「文章を書いた後、字句を良くするために何回も読んで練り直すこと」を「推敲」という。 あまりちがいのないこと。 (書き下し文) 中学校国語 漢文/五十歩百歩も参照のこと。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E6%95%85%E4%BA%8B%E6%88%90%E8%AA%9E_1%E5%B9%B4
(※漢字紹介の著作権に関する見解 --すじにくシチュー (トーク) 2014年9月24日 (水) 13:01 (UTC)  本記事では、各社の教科書や教科書ガイドなどを参考に、各学年の漢字の範囲を判断し、この記事で漢字を紹介しています。漢字そのものには著作権が無いと考えています。この「漢字そのものには著作権が無い」という考えに基づき、参考文献などとしても、教科書や教科書ガイド等は特に紹介はしません。)
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E/%E6%BC%A2%E5%AD%97_1%E5%B9%B4
中等教育前期(中学校)の教科書です。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%AD%89%E6%95%99%E8%82%B2%E5%89%8D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E5%9B%BD%E8%AA%9E
ここでは高校受験の国語のうち、現代文の対策について解説する。高校受験の現代文は以下の内容が出されることが多い。 国語は数学・英語と並んで「主要3教科」と呼ばれることが多いが、3教科の中ではもっとも扱いが低い傾向にある。それは普段私たちが使用している日本語の読み書きが中心で、普段の生活でなんとなく身についているかのように見えるからであろう。しかし、国語の現代文の力は数学や英語と同じくらい、力をつけるのに時間のかかるものである。たとえば新聞が読めるからといって、哲学書や難解な評論が読める(理解できる)とはかぎらない。これらを読むには筆者の主張を丁寧に追うトレーニングを積まなければならない。小説でもストーリーを理解することはそれほど難しくはないが、登場人物の心理といった表面的な部分に描かれていないものを理解するには日常体験や他の本で読んだことなどと重ね合わせるなどを行わなければ読み間違えるであろう。また、筆者・作者が用いている日本語の表現技法も理解する必要がある。読解に限らず、作文でも同じことが言える。メールが書けることと仕事の報告書などを書くこととは全くことなる。この二つはそもそもルールが違うのだ。 国語の現代文が英語・数学に比べて軽視されがちなもう一つの理由は勉強方法がわかりにくいというのもあるだろう。数学は計算練習や公式の暗記と適用が、英語は単語や文法の学習が基礎となることがはっきりしているが、国語の現代文では何をやればよいのかがよくわからないまま「なんとなく」点を取ったり落としたりすることは珍しいことではない。 国語の学習に必要なものは丁寧に文章を追い、筆者の主張や作者の意図を汲み取るのに必要な読解力だけではなく、それを自分で組み立てなおす論理的な思考や体験や経験、一般常識などと重ね合わせる力である。これらは漫然と学習しても身につかない。正解・不正解にかかわらず「なぜこの答えになるのか(なったのか)」ということを考えながら解いてゆかなければならない。 大雑把に分けると、あるものごとについて説明することが中心で筆者の意見が少ない説明文(たとえば「科学はどのように進んできたか」「サルの行動からわかること」など)、ある事実を踏まえて筆者の意見を述べているため筆者の主張がはっきりとしている評論文(たとえば「環境問題を解決するには何が必要か」など)、詩や俳句がどのようにしてでき、そのみどころなどを作品に沿って筆者の意見も交えながら解説している解説文に分けられる。 全体として現在も存命の評論家や学者の文章が多い。これは現代文が現在進行しているいろいろな問題について評論・説明している文章を扱うことが多いためである。 筆者の意見とその理由などが明確なため、文章を丁寧に追えば根拠となる部分を見つけることは難しくない。そのため、比較的力をつけやすく点を取りやすい。 説明文や評論文では筆者の意見なのか事実なのかを理解しなければ文章を読んでいるうちに混乱してしまう。 大学入試の現代文で出題されることの多い鷲田清一の文章だが、易しいところを高校入試に出題することもある。エコロジーへの関心などから内山節の評論も近年出題されやすくなった。また、数十年前から入試国語で人気のある大岡信・外山滋比古・加藤周一もチェックして損はない。 物語文と随筆文に分けることができる。説明的文章と同様に現在も活躍している作家の作品が多く、公立高校や中堅私立高校ではすでに亡くなった作家はあまり登場しない。詩・短歌(和歌)・俳句が単独で出されることはあまりなく、解説文や古文と共に出題されることが多い。 感覚的な理解や心理の読み取りといったものが必要とされるが、これはすぐに身につくものではない。そのため、早くからいろいろな問題を練習するのがよい。 物語文ではまず、登場人物や場面をおさえなければならない。どんな人がいて、その人の人物像を簡単にとらえること、場面はどんなところで登場人物が何をしているのかをしっかりおさえるのが基本である。その上で場面の転換やストーリーの展開、登場人物の言動とその理由を考えると解きやすくなる。 随筆文の読解は説明的文章に近い。つまり、筆者が何についてどう感じたのかを文章にそって考えなければならない。 小説文ではあまりメジャーな作家の作品は出題されない。例外が重松清で、彼の作品は中学入試・高校入試共にどこかで出題されることが多い。そのため、彼の著作に一冊ぐらい目を通しておくと役に立つかもしれない。随筆では五木寛之の文章が比較的出題されやすい。白洲正子や向田邦子の随筆は、故人である上に教科書や問題集に文章が掲載されていることが多く、(公平性を保つことを目的に)公立高校を中心に高校入試では出題されにくい。しかし、今でも読みつがれている作家であるので、私立入試では出題者が「これくらいは読んでほしい」という気持ちを含めて、出題することもある。 漢字の読み書きは大問1に出されることが多い。数学の計算問題と同じように始めにすませるのがよい。また、漢字の書き順に関する問題が出ることもある。 奈良県の公立高校入試問題などのように手本の文を楷書で書きうつすというのもある。この場合、止めはねの正確さなどがチェックされる。 多くの公立高校の入試では200字程度の作文を書かせる。作文には以下のような傾向が見られる。 文章の内容や構成だけでなく、原稿用紙の基本的な使い方や言葉づかいなどもチェックされる。作文に限らないが国語の記述問題では制限字数の80%は最低書かなければ、減点されるおそれがある。 現代文と古文・漢文をセットにした問題が出されることがある。また、2008年まで都立高校の入試問題には対談が出題された。
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高等学校受験において古文は「国語」の問題に含まれる。古文の扱いについては都道府県や学校(私立や国立)ごとに異なる。例えば、東京都立高校の古文は現代文との融合問題として出題されるため、教科書レベルの単語や文法をおさえれば現代文との対応で判断できるため難しくはない。また、私立高校の中には古文を出題しない高校もある。しかし、他の公立高校や難関私立では一部の難解な語に注がつく程度で古文の読解をしなければならないものがある。どの教科にも共通して言えることだが、自分の志望する高校の国語ではどの程度の古文が出題されるかを過去問でチェックしておくべきである。 まず教科書に出てくる文章を正確に音読できることが大切である。古文に限らないが、読めないものを理解することはできない。その上で現代語などと比較して大まかに意味を理解していこう。その過程で現代とことなる意味の言葉(古語)や言い回しをチェックしていく。こうして古語の意味を覚え、古文特有のリズムを身につけるとよい。そして、古文特有の表現や価値観を知っておくとさらに理解しやすくなる。 まず表現について見てみよう。ただ「花」といった場合、奈良時代や平安時代始めの文章なら梅の花だが、それ以降は桜のことである。主語は省略することが多いので、行為や発言を誰が行ったのかをストーリーを元にとらえかえす必要がある。 価値観については以下のことをおさえておこう。まず、「をかし」「あはれなり」という美意識が重要視される。「をかし」とは「趣がある」ことに感動する心である。そして、「あはれなり」は「しみじみと(心の内からわきおこるような)感動」である。これらは自然現象や風景の面白さ・不思議さ・美しさ、他の人の気づかいや人情に対する感心や機転・機知への賞賛などに使われる言葉である。このことから「風流であること」「気配り」「とっさの知恵」が大切にされていたことを知ると格段に文章を理解しやすくなる。 もう一つは無常観である。仏教が伝来してから私たちの祖先はこの考え方を取り入れてきた。その中でも特に広く共有されたものが、世の中は全て移り変わるという価値観である。これは平家物語の冒頭で示される「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」に代表される。こうした世界の変化を筆者や作者がどのように捉えているのかを考えてみるのも大切である。また、神や仏に対する信仰心は今とは比べ物にならないほど強いことも念頭に置こう。 最後に現代の笑い話はシャレや話の切り返しのうまさなどに注目すること、教訓話はどのようなことをしたからこうなったのかを理解しながら筆者の考えを見つけることができるようにしよう。 中学校では古典文法をあまり習わないので基本的なことをおさえておけばよい。特に以下の点には気をつけよう。 以下の古語は現代語と意味がことなる上、入試にも出やすい。まずはこれから覚えておこう。 傾向としては随筆や説話が多い。 難解なものが多いためあまり出題されない。ただし、和歌の問題として『万葉集』から出題されることがある。
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ここでは著作権上、問題のない漢字や文法などの問題を演習する。
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中学校書写では、行書が始まります。 要点を押さえつつ、行書の発祥や楷書との違いを押さえておくと、行書の書き方や面白さが分かると思いますので、自らでも調べてみて下さい。 楷書(かいしょ)は、普段私たちが使う字のことです。 硬筆などで扱われ、小学校での書写で教わった書き方です。 一方、行書は以下に述べるように、いかにも人間の書く自然に見える字です。 小学校との大きな違いは、個性を表現して、ルールがなく伸びやかにかけるところです。 行書(ぎょうしょ)が中学校から始まるわけですが、「行書」と聞くと難しそうだなぁというイメージがあるかもしれません。 しかし、ルールや決まりの多い楷書に比べれば簡単です。 中国の後漢時代にできましたが、筆を使えることができたら誰でもかける字体となっています。 行書では、一筆書きのような滑らかな字を書くことができ、特にこれといった決まりがありません。 したがって、どこを繋げるかなど、自分で工夫することができ、人によって個性が現れます。 街などに行くとよく看板などで見る(例:飲食店や古道具売りなど)文字ですが、とても読みやすいというメリットがあります。 手紙やメッセージなどに使うことによって、自然体の柔らかい印象を持たすことができます。 行書は生活にてとても重宝されている字体なのです。 先程述べたように、これといった書き方はありません。しかし、綺麗に見える文字の形や書き方というのは自然と出てくるものです。 道具は、筆を柔らかくほぐしたものが最適です。 「崩そう」という意識を持たず、筆の流れを意識して書くと効率的に行書に味を持たせることができます。 書く姿勢も大事です。 体の重心を中央に持ってきて、背中をピンと伸ばす。(これは小学校で習ったものかもしれません。)書道の基本を押さえつつ自分の書きたい文字を書いたら上手く行きます。
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世界には、陸地には6つの 大陸(たいりく、英:continent コンティネント) と、海洋には3つの 大洋(たいよう、英:ocean オーシャン) がある。 六大陸(ろくたいりく)や三大洋(さんたいよう)などと呼ばれることもある。 地球全体の陸地よりも、地球全体の海洋のほうが広い。 陸地と海洋の面積の比は、おおよそ である。 つまり、海のほうが陸地よりも2倍以上広い。 3つの大洋とは 太平洋(たいへいよう、英:Pacific Ocean)、大西洋(たいせいよう、英:Atlantic Ocean)、インド洋(英:Indian Ocean) である。このうち、日本が接しているのは太平洋のみである。 「太平洋」の「太」は「ふとい」の字だが、「大西洋」の「大」は「おおきい」の字なので、間違えないように。 世界地理の話題では、日本海など3つの大洋以外の海は、大洋のどれかに属した海として扱う。 大西洋とは、ヨーロッパ(英:Europe)の西側にあり、ヨーロッパとアメリカ(英:America)との間にある大きな海です。 インド洋とは、インド半島(英:Indian subcontinent)の周囲とインドの南にあり、アフリカの東海岸とオーストラリアの西海岸で囲まれた、アフリカ(Africa)・インド(India)・オーストラリア(Australia)との間の海です。 6つの大陸とは、ユーラシア大陸(英: Eurasia ユーレイシア)、アフリカ大陸(Africa アフリカ)、北アメリカ大陸(North America ノース・アメリカ)、南アメリカ大陸(South America サウス・アメリカ)、オーストラリア大陸(Australia オーストレイリア)、南極大陸(Antarctica アンタークティカ)の6つである。 ユーラシア大陸とは、ロシアや中華人民共和国やヨーロッパ諸国やインドなどがある大陸である。もっとも広い大陸はユーラシア大陸である。 いくつかの大陸は、さらに州(しゅう)に分けられる。 その結果、世界は大まかに6つの州に分けられる。 アジア州(アジアしゅう、Asia エイジャ)、ヨーロッパ州(ヨーロッパしゅう、Europe ユーロプ)、アフリカ州、北アメリカ州、南アメリカ州、オセアニア州(Oceania オウシェアニア)の6つの州である。 ユーラシア大陸は、ウラル山脈(英: Ural Mountains)を境(さかい)にして、 ヨーロッパ州(ヨーロッパしゅう) と アジア州(アジアしゅう) とに分かれています。 ロシア(英:Russia)というユーラシア大陸の北にある大きな国は、ヨーロッパ州とアジア州に、またがっています。なお、ロシアは、かつてソビエト連邦(英:Soviet Union ソビエト・ユニオン)を冷戦のときに構成していた国である。 オセアニア州とは、オーストラリア大陸と、その周辺の諸島の地域です。 いくつかの州は、さらに細かく分かれます。 アジア州では、東アジア(英:East Asia イースト・エイジャ)や東南アジア(英:Southeast Asia)、シベリア(英:Siberia サイビーリア)、中央アジア(英:Central Asia セントラル・エイジャ)、南アジア(英:South Asia サウス・エイジャ)、西アジア(英:Western Asia)などに分かれます。 私たちの国の日本(英:Japan ジャパン)は、東アジアにあります。
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経度(けいど、英:longitude ロンジテュード)と緯度(いど、英:latitude ラティチュード)は、地球上での位置を知るための座標のひとつである。 このふたつの座標を使うことによって、地球上のすべての位置を表すことができる。 また、世界地図や日本地図などをみると、線が縦と横に見られるが、これは同じ経度どうしを結んだ線や、同じ緯度どうしを結んだ線であり、それぞれ経線(けいせん)および緯線(いせん)という線である。 では、この2つの座標について詳しく見ていくことにしよう。 経度とは、北極点と南極点を結んだ、縦の座標である。このうち、イギリスのロンドンにある旧グリニッジ天文台(Greenwich Observatory グリニッジ・オブザーバトリー)を通る本初子午線(ほんしょしごせん、Prime meridian プライム・ミリディアン)を0度として、東西に180度ずつ、ひかれている。本初子午線より東側を東経(とうけい、east longitude)と言い、西側を西経(せいけい、west longitude)と言う。 また、経度180度の線にそって日付変更線(ひづけへんこうせん、国際日付変更線、International Date Line インターナショナル・デイト・ライン、略:IDL)がひかれている。なお、日付変更線は陸地等を避けるために、一直線ではない。陸地を避けるのは、もし陸地を日付変更線が通っていると、同じ陸地内で2つの日付が存在することになり混乱を招くからである。 日本の経度は、東経123度から、東経154度のあいだにあります。 東京の経度は、東経140度です。 地球の、回転軸に垂直な面のうち最も太い面と、地表の交わる線を赤道(せきどう、英: Equator イクウェイタ)といい、赤道の緯度は0°です。 緯度は、赤道に平行にひいた、横の座標である。赤道より北側を北緯(ほくい、north latitude ノース・ラティチュード)とよび、南側を南緯(なんい、south latitude サウス・ラティチュード)とよびます。 このうち緯度は、赤道を0度として、南極点(なんきょくてん)を南緯90度として、北極点を北緯90度として、線が引かれています。 日本の緯度は、およそ北緯20度から北緯46度のあいだにあります。 東京の位置は、北緯36度です。 東京を緯度・経度で表せば、北緯36度、東経140度になります。 原則的に赤道に近い地域ほど、暑い地域になります。つまり、緯度が0度に近い地域ほど、暑い地域というわけです。この理由は何故でしょうか? 日本では、昼間の太陽は南に登りますが、南半球の国では昼間の太陽は北に登ります。 つまり、赤道の真上の方角に太陽はあります。じっさいに赤道の地域では、ほぼ真上に、昼間の太陽はあります。 太陽から地球に降りそそぐ太陽光線の向きから見て、赤道の地域は、ほぼ垂直です。しかし北極や南極に近づく地域ほど、太陽光線から見て斜めに降りそそいでいます。 たとえば豆腐をナナメに切ると、まっすぐ垂直に切ったときよりも、断面積が大きくなりますよね? それと同じように、太陽光がナナメに降りそそぐということは、大きな面積を太陽が照らしていることになります。太陽光線の量は変わらないのに、照らされる面積が広くなってしまったのだから、面積あたりの太陽光線の量は減ります。よって、北極や南極に近づいている、緯度が大きい地域ほど、日差しが弱くなります。そして日差しが高緯度では弱まるので、高緯度は寒いわけです。 なお、北半球(Northern Hemisphere ノーザン・ヘミスフィア)と南半球(Southern Hemisphere サザン・ヘミスフィア)では、季節が逆になります。たとえば北半球が寒い冬の12月〜2月ごろの時期は、南半球では暑い夏の時期です。つまり北半球が冬の時、南半球は夏です。 北半球が暑い7月〜8月ごろの時期は、南半球では寒い時期です。北半球が夏の時、南半球では冬です。 ところで、右上にある図(地球の公転の図)の、太陽のまわりを回っている地球の自転(じてん)の回転軸を見てみると、ナナメですよね? 実際に回転軸は、やや傾いています。 この、地球の自転の回転軸のことを地軸(ちじく、英:axis アクシス、the earth's axis など)と言います。 地軸の向きは、地球と太陽を結んだ面である公転面(こうてんめん)から、角度で23.4度ほど傾いています。 このため、季節によっては、南北両半球で緯度66.33度の緯線よりも高緯度の地域(北極圏、南極圏)で、夏に太陽が沈まない日を 白夜(びゃくや、Midnight sun ミッドナイト・サン) と言います。逆に、冬に太陽が昇ってこない日を極夜(きょくや、polar night ポーロー・ナイト)と言います。 昼間に日の登っている時間の長さが、季節によって違うのも、地軸の傾きによるものです。
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地球儀(ちきゅうぎ、Globe グロウブ)は、地球(ちきゅう、the globe)を球体で表現した模型。平面に描かれた地図(ちず、英:Map マップ)では方位、角、距離、面積のすべてを同時に正しく示すことはできないが、地球儀は地球と同じ球体であるため、そのいずれにおいても狂いがほとんどない。地球儀の縮尺(縮めた割合)は様々であるが、縮尺とサイズをそれぞれ決められる平面の地図とは異なり、地球儀は縮尺を決めると球体のサイズも決まる。 しかし、持ち歩くには不向きで不便である。このため、時と場所によっては平面の地図のほうが便利な場合もある。 地球上の、2つの地点の間の最短の経路を求めたいなら、地球儀を使って、その地点のあいだを紙テープなどで、まっすぐに貼りあわせてみれば良い。そのテープの経路が、最短経路である。 ちなみに、北極と南極との間の地表の距離は、約20000kmである。つまり、極と赤道のあいだの距離は約10000kmである。なお地球の一周は約40000kmである。 緯度は90度だから、緯度10度あたり、約1100kmである。(本によっては、10度あたり約1000kmと紹介している本もある。) まず、直角に交わった2本の紙テープを用意する。 1本目の紙テープを、経線にそってはかりたい地点の上に貼り合わせる。つまりテープの方向は、北極と南極とを結ぶ方向になる。(経線は南北に走っているので。) 2本目のテープは、1本目のテープと直角だから、2本目のテープは東西に走っている。 地球儀は丸い。正確な形を反映するには、地球儀のような丸い球形でなければならない。なので、2次元上の平面にかかれた地図には、どんな地図の書き方でも、実物とはちがってひずんでしまう。 2次元平面の地図で面積の比率を正しくしようとすると、方向や角度がずれてしまう。平面上で、方向や角度をただしくしとうとすると、今度は面積比がおかしくなってしまう。 メルカトル図法(ずほう)とは、角度を正しくあらわせる図法である。航海図などとして昔から使われており、等角航路(とうかく こうろ)が直線で表される図法である。 しかし、面積比が正しくない。 赤道から離れるにしたがって、面積が実際よりも大きく描かれてしまう。 たとえばグリーンランドは、じっさいには北アメリカ大陸とくらべて小さいのだが、メルカトル図法だとグリーンランドは北アメリカ大陸と同じくらいの大きさにかかれる。実際のグリーンランドの大きさは、南アメリカ大陸の8分の1くらいの大きさである。(※ グリーンランドは、メルカトル図法の説明で、よく例として用いられる。) また、方向も正しくはない。 正距方位図法(せいきょほういずほう)は、地図の中心からの方位と、距離が正しい図法である。飛行機の航空図に、つかわれる。2点間の最短経路の大圏コースが、正距方位図法では直線で表される。 モルワイデ図法(モルワイデずほう)は、地図上の任意の場所で実際の面積との比が等しくなる 正積図法(せいせき ずほう) である。地球全体を1枚の平面に表現でき、地図の外周は楕円(だえん)になる。 主に分布図に利用される。 緯線は、どれも水平な直線になる。経線は中央経線が垂直な直線となるが、それ以外の経線は弧を描く。等積になるように緯線の間隔を調整するため、距離の比は一定になっていない。赤道上では正角でなく、南北方向が東西方向に比べ1.234倍に伸びている。地図の周辺部のゆがみが大きくなる。
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世界の国の数は、190余りの独立国(どくりつこく、英:Sovereign state サーバン・ステイト)があります。独立国とは、領土(りょうど、territory テリトーリー)と主権(しゅけん、英:sovereignty サーバンティー)と国民(こくみん、英:nation ネイション)の3つの条件を持った国であり、その上で他の多くの国から独立しているとして認められた国のことです。 国と国との境(さかい)のことを国境(こっきょう、border ボーダー)と言う。国によっては、大きな山が国境になってたり、大きな川が国境になってたりと、何が国境になっているかは、さまざまです。 自然の地形の形をもとにした国境が多いですが、この他にも、人間が決めた緯線(いせん)や経線(けいせん)などをもとにつくられた国境もあります。 緯度や経度を使った国境は、直線的な国境が多いです。たとえばアフリカ州の国には、直線的な国境が多いです。この理由は、かつてアフリカ州を侵略し植民地にして支配したヨーロッパ人たちが、緯度や経度をもとに国境を決めたからです。 他にも、北アメリカにあるアメリカ合衆国(United States of America ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ)とカナダ(Canada)との国境も直線的です。 日本やニュージーランド(英: New Zealand)やトンガ(英:Tonga)のように、まわりを海で囲まれた国を島国(しまぐに)あるいは海洋国(かいようこく、英: maritime country マリタイム・カントリー)と言います。 なお、イギリスは、正確には、その島の一部が他の国になっていますが、島のほとんどがイギリスになっているので、慣習的にイギリスも海洋国や島国にふくめることが多いです。 島国とは反対に、国土がまったく海に面していない国のことを内陸国(ないりくこく、英:Landlocked country ランドロックド・カントリー)と言います。たとえばモンゴル(英:Mongolia モンゴーリア)は内陸国です。 国境での外国人の行き来の制限は、原則的に、許可のない外国人は入国させないのが普通です。外国への入国のさいには、パスポート(passport)という旅券が必要になります. ヨーロッパのEUの加盟国では、例外的に、加盟国どうしではパスポートのチェックがありません。 ヨーロッパ州の人たちは、日本や朝鮮半島のある地域のあたりのことを「極東」(きょくとう、英:Far East ファー・イースト)と言う場合があります。 彼らヨーロッパ州の人からみると、私たち日本は、ユーラシア大陸の東の端(はし)のほうにあるからです。 世界の人口は2023年度は約80億人です。そのうち日本の人口は約1億2500万人であり、日本は最近1ランク下がり世界で12番目に人口の多い国になりました。 しかし、近年、少子高齢化が進んでいるため、日本の人口は、どんどん減ってきています。 日本の国土の合計の広さ(面積)は、いがいと広いです。ヨーロッパ州の国と比較すると、日本はドイツと同じくらいの広さです。日本の面積は、世界で60番目くらいです。イタリアやイギリスよりも、日本は広いです。 国旗(英:national flag ナショナル・フラッグ)は、その国を表しているシンボルです。 自国の国旗を大事にすることと同様に、外国の国旗も大切にすることが国際的な礼儀になっています。 国旗や国名には、その国の成り立ちが表されてる物も多いです。 たとえばアメリカ合衆国の国旗の星条旗(せいじょうき、the Stars and Stripes)の星の数50個は、アメリカの州の数です。 帯の数が、赤白あわせて13本あるのは、独立した当時の州の数が13個だったからです。 州の数が50個になったのは、1959年にハワイ州が出きた時です。ハワイ共和国を併合して、アメリカ合衆国の一部のハワイ州にしました。 アメリカの国旗は、州が増えるたびに、国旗を変えてていたので、現在までに20回以上も国旗を変更しています。 イギリスの正式な国名は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland )と言います。 イギリスは4つの地域が連合して出来ている王国です。(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北(きた)アイルランド) イギリスの国旗の ユニオン ジャック(Union Jack) は、昔のアイルランドの国旗と、昔のイングランドの国旗と、昔のスコットランドの国旗を合わせたものです。 (ウェールズはデザインに、ドラゴンの絵が入っているので、はぶかれている。) ニュージーランドやオーストラリアなどのように、かつてイギリスの植民地だった国では、国旗の一部にユニオンジャックが入っています。 オーストラリア国旗の左上はユニオンジャックです。なお、南半球にあるオーストラリアとニュージランドの国旗には、南十字星が描かれています。 イスラム教(英:Islam イスラーム)の、さかんな国では、国旗にイスラム教を象徴する三日月や星が入っていることが多いです。たとえば、イスラム教徒の多いトルコ(英:Turkey ターキー)とパキスタン(英:Pakistan パキスターン)の国旗には、三日月と星が入っています。 マレーシア(Malaysia マレイジャ)の国旗にも、三日月と星が入っています。 ロシア(英:Russia ロシア)と、かつての冷戦中のソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦、英表記:The Union of Soviet Socialist Republics)のように、政治のしくみが変わって国名が変わると、国旗も変わることもあります。 カナダ(英:Canada)は1965年に国旗が変わりました。現在の国旗は、かえでの葉のマークが入っています。カナダの昔の国旗には、左上にイギリス国旗が描かれていました。 国旗には、三色を使った国旗も多いです。 ヨーロッパには、十字をかたどった国旗もあります。
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小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校社会 > 中学校社会 地理 >時差 ニュース番組等で、世界各地からの中継を見たことがあるだろうか。そのときに、世界各地の時間が日本の時間と異なっていることに気づくはずだ。この時間の差が、時差(じさ、英:time difference)である。 経線のことを「子午線」(しごせん)とも言う。 地球は、ほぼ24時間かけて1回転している。1回転は360度なので、 経度に15度の差が出るごとに時差は1時間ずつ増えていく。( 360度÷24時間 = 15度 ) 例えば、経度0度の地点と経度15度の地点とでは時差が1時間生じている。 では、日本の標準となる時間(標準時、英:standard time)は、どこの場所の時間だろうか。 日本の標準時は東経135度の地点の時間である。東経135度がちょうど兵庫県 明石市(あかし し)を通っているため、日本はこの地域の時間を標準時としている。 アメリカやロシアのような国土の広い国は、地域ごとに標準時を決めている。そのため、国内で時差が生じることになる。同じアメリカの都市でも、シアトル(Seattle)とニューヨーク(New York)の間には時差が生じているのだ。 また、ほぼ経度180度の線に沿って、日付変更線(ひづけ へんこうせん、英:International Date Line、略してIDL)が引かれている。日付変更線の東側と西側では24時間の時差が生じる。そのため、飛行機などが変更線を西から東へ越える場合には時計の日付を1日前に戻す。いっぽう、飛行機などが東から西へ変更線を越える場合には時計を1日進める。 日付変更線の位置は、太平洋上の位置にある。 では、実際の時差を計算してみる。兵庫県明石市の東経は東経135度である。ただし「サマータイム」(夏時間)などの、季節による時刻調整は考えないとする。 なお、計算式は()内に示した。 ロシアやアメリカのような大きな国では、複数の標準時を持つこともあります。たとえばロシアでは、標準時が9つもあります。国土が東西方向に長いほど、原則的に標準時の数は多くなります。 アメリカでは6つの標準時があります。アメリカの隣国のカナダも、同じように標準時が分かれています。 いっぽう、国によっては独自の標準時をもうけている国もあります。たとえば中国では、国全体で一つの独自の標準時をもうけています。
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イヌイット(英: Inuit )は、主にアラスカ、カナダ北部、グリーンランドなどの北極圏に住む民族である。彼らは寒帯の中でも氷雪地帯と呼ばれる、年の大半が雪や氷に覆われる地域に適応し、長い歴史を持つ狩猟民族として知られている。 この地域は、一年の大半は雪や氷に覆われてるが、夏の間だけ、わずかな時期だが、雪や氷に覆われない時期もある。 イヌイットは昔、定住せずに獲物のいる地域を移動しながら生活していた この地域は木が育たず、草もほとんど育たないため、食料の中心は動物の肉となる。 イヌイットの伝統的な住居は、季節によって変わる。夏の住居はアザラシの皮で作られたテントであり、冬の住居は氷と雪で作られたドーム型のイグルー(英:igloo)である。 ただし、現代ではイグルーには長期滞在はせず、狩猟のときに一時的に居住しているだけである。 伝統的なイヌイットの食料は、野生のカリブー(トナカイの北米地域個体群)の肉、アザラシの肉、クジラの肉、サケなどの魚だった。 伝統的なイヌイットは、極地方では不足がちなビタミンを補うために生肉を摂取していた。とりわけ日照が不足がちで体内での合成が期待できないビタミンDは、魚や動物の肝臓や脂肪から摂取していた。 伝統的なイヌイットは、夏はカリブーを狩り、冬はアザラシを狩っていた。食料は貯蔵庫に保管された。 トナカイやアザラシの毛皮は、衣服や靴などの材料にも利用された。きばや骨は狩り道具の材料として使用された。 1960年代ごろから、カナダ政府はイヌイットに定住化を促し、現在では都市に定住する人も増えている。イヌイットの食事も、商店などで加工食品を購入することもある。 イヌイットの昔の乗り物は犬ぞりでしたが、現在はスノーモービルが一般的だ。狩りの方法も、かつては弓矢でしたが、現在ではライフル銃の使用も一般的だ。 現在では、電化製品も普及しており、都市の住居にはテレビやインターネットなどもある。
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南アメリカ州のペルーからボリビアにかけての地域にあるアンデス山脈(英:Andes アンディース)ぞいには、標高が富士山の山頂(標高3776m)よりも高い地域もあり、標高が高いところでは約4000mもあり、標高が2000m〜4000m以上のある中央アンデス高地が広がっている。 標高が高いので、この中央アンデス高地の地域は全体的に、すずしい。この地域の住民は、インディオ(スペイン語など:indio)とよばれる先住民の人たちが古くから暮らしている。「インディオ」とは、ヨーロッパ人たちによる、この地域の先住民の呼び方である。 すずしいので、低地よりも暮らしやすく、古くから 高山都市(こうざん とし) が発達してきた。 高地のため、木が少ないことから、住居には石づくり、れんがづくりの家が多い。 標高3000m〜4000mあたりの作物は、じゃがいも の栽培である。じゃがいもは寒さに強い。そもそも じゃがいも は、アンデス山脈が発祥の作物である。 標高が下がり、標高2000m〜3000mの、やや温暖なところでは、とうもろこしを栽培することもある。標高によって育ててる作物が変わってくる。 チチカカ湖(Lake Titicaca)という湖が、ペルーとボリビアの国境あたりの、標高3800mのあたりにあり、観光名所の一つになっている。 標高4000m以上の場所では作物が育たないので、家畜を放牧(ほうぼく)しており、リャマやアルパカを放牧(ほうぼく 英:grazing)している。 これらの家畜は、荷物の運搬用や、毛を利用するためであり、あまり食用にはしない。アルパカ(英:Alpaca アルパーカ)の毛が衣類の材料になる。リャマもアルパカもラクダ科である。 現地の人の衣類は、アルパカの毛で作ったポンチョ(英:poncho ポンチョウ)とよばれる服や、つばのついた帽子を着ている。 帽子は、高地の強い日射しを防ぐためにかぶっている。 もっとも高いところは標高6000m近くあるが、これらの標高の地域は氷雪地帯になっている。 携帯電話やインターネットが普及している。急斜面が多いため、電話線を引くのがむずかしく、有線の電話が好まれていない。なので、かわりに携帯電話が普及している。携帯電話なら、通信用のアンテナがあれば、たとえ通信回線を引かなくても、利用できるからである。 世界遺産で、古代のインカ文明(英:Inca Civilization)の遺跡である、マチュピチュ(英:Machu Picchu)があり、観光資源になっている。 道路も整備され、トラックなど による輸送も増えてきた。 アンデス高地の周辺の低地では、赤道に近いこともあり、熱帯雨林などが広がる。 果樹の栽培をしたり、ゴムの栽培をしたりしている。 低地で栽培された作物が、高地の市場(いちば)で取引されることも多い。 古くから使われてきた言語を話す人が少なくなりスペイン語を話す人が増えている アジア州の ヒマラヤ山脈(英:Himalayan Range) の北側にある、チベット高原(チベットこうげん、英:Tibetan Plateau チベトン・プラトー)は、標高が高く(標高4000m前後)、あまり普通の農産物の栽培には向いていない。 ここでは、寒さに強い大麦や小麦が作物として、標高4000m以下の地域あたりで、栽培されている。 チベットの主食は、大麦、小麦などであり、米では無い。 米は熱帯で多雨の土地に適した作物であり、チベットのような寒冷地では米は栽培に適さない。日本の北海道や東北で米が栽培されるのは、品種改良によるものであり、また日本が降水量が多いことによる。 なお、チベットは現在、中華人民共和国に併合されて自治区の一つの チベット自治区 となっており、チベットは漢字で「西蔵」と書く。 チベットでは、中国による開発が進んでいる。
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北海道では屋根に雪が積もらないように、急な三角屋根になっています。 最近では、平らな屋根で屋根の雪を温めて溶かすようになっています。 さらに、信号機は、縦になっていて、雪の重みで落ちないような工夫がされています。 ロシアの西部の地域あたりをシベリア(英: Siberia シバリー)という。 シベリアの北部(特に北極海沿岸や、オホーツク海沿岸部)をのぞく、南部や中部のあたりでは、内陸地を中心に冬はとても寒いが、夏は意外と暑い。 このような気候の地帯を、冷帯(れいたい)あるいは亜寒帯(あかんたい)という。一方、カナダや、アラスカ、シベリア北部の北極海沿岸部などを寒帯(かんたい)という。 この記事では、おもにシベリアを例にして、亜寒帯について説明する。 なお、シベリアの冬は、-40~50℃もしくはそれ以下まで冷え込むことがある。いっぽうで、シベリアの夏は30℃をこえることがある。(※シベリアの夏30度越えの出典: 東京書籍『新しい社会 地理』、平成23年3月30日検定済、平成25年2月10日発行、24ページ) つまり、シベリアの亜寒帯では、寒暖の差が大きい。 シベリアの亜寒帯は夏が暑いので、寒帯とは違い、樹木が育つ。 シベリアの森林地帯には、広い針葉樹林(しんようじゅりん)のタイガ(英:Taiga タイガ)がある。 食料のための農作物では、小麦が多い。綿花も栽培されている。林業もさかんであり、木造の住宅も多い。 夏が暑いので、野菜を夏のあいだに栽培することもあり、また保存食として野菜の漬物(つけもの)などもある。 シベリアの住居は、床が高い、高床(たかゆか)になっている。この理由は、もしも家から出る熱が地面の氷をとかしてしまうと、建物が傾いてしまうからである。 窓は二重窓や三重窓であり、家の中の熱を逃さないようにしている。 冬場に外出するときは、あついコートに帽子をかぶって外出する。 シベリアでは、夏場などは地表が溶けても、地面の奥深くは、氷が残っている。地中ふかくは、年中、凍ったままである。 このシベリアの地中深くのように、年中、凍ったままの大地のある場所を、永久凍土(えいきゅう とうど、英:Permafrost パーマ・フロースト)という。 シベリアの北部の寒帯では、もはや樹木は育たない。しかし、夏場に、氷が溶けるので、草やコケは育つ。このような、植物に草やコケしか育たないほどに寒い地帯のことをツンドラ(英:tundra タンドラ)と言う。ツンドラは、寒帯であり、亜寒帯ではない。 ツンドラでは、トナカイなどを放牧している。トナカイの毛皮がコートの材料にもなる。 北極や南極大陸のあたりは、氷雪気候(ひょうせつ きこう)になり、ツンドラ気候とは異なり、もはや年中、雪や氷が一面に広がっていて、草木は育たない。
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アラビア半島やアフリカ北部では、年間の雨の量が少なく砂漠(さばく)が広がる。アジア州のモンゴルなどは、草原が広がるが、雨が少なく、樹木が育たない。 このような水の少ない乾燥した気候の地域を 乾燥帯(かんそうたい)と言う。 砂漠は、水が足りずに樹木が育たないので、砂漠になっている。どのくらい雨の量( 降水量(こうすいりょう))が少ないかというと、1年間の降水量が日本では東京で1500mmほどだが、砂漠の年降水量はおよそ200mm以下で、それを大きく下回る場所も多い。実際の乾燥の有無は、降水量だけでは判断できず、気温の高さによる水の蒸発のしやすさの違いも考慮に入れないとならないが、おおむね、砂漠の降水量は記述したとおりである。 なお乾燥帯では、1年の降水量は500mm以下である。 アフリカ北部には、サハラ砂漠がある。 ほとんどの場所は砂漠であり、水が無いが、例外的に地下水や井戸水などから水が出る場所がいくつかあり、このような水の出る場所はオアシス(英:Oasis オウエイシス)と言う。オアシスの近くでは、農業が出来て、樹木も育つ。 オアシスの農作物は、乾燥に強い小麦や なつめやし(英:date palm デイト・パーム) などが作られている。オアシスを中心に、季節ごとに家畜の羊やラクダなどを連れて移り住む 遊牧(ゆうぼく、nomadism ノウマディズム) を行っている。移動の理由は、水や草などを求めて、移動している。また、このような遊牧する人たちを遊牧民(ゆうぼくみん、英:nomad ノウマード)という。 雨は少ないが、ごくまれに降ることもあり、降ると樹木が少ないため洪水になりやすい。 大地が乾いているので、すこし風がふいただけでも砂ぼこりが立ちやすい。 サハラ砂漠の中心部から南に離れて、北アフリカの南部、あるいはアフリカ中部のほうは、やや水が多く、草木もあるが、やはり乾燥している。このアフリカ中部のあたりをサヘル(英:Sahel)という。サヘルとは現地の言葉で「縁」(ふち)という意味である。(※誤字に注意 「緑」(みどり)と「縁」(ふち)の字を間違えないように。) サヘルとは、「サハラ砂漠の ふち」と言う意味である。 「乾燥帯」には、サハラ砂漠だけでなく、サヘルまでも含めることが多い。 サヘルのように雨が少し降る地域では、草原が広がる場所もある。草の背たけが低いのが特ちょうである。このような雨の少ない地域の草原をステップ(英:steppe ステープ)という。ステップは、アフリカだけでなく、アジア州の内陸国のモンゴルにもステップはある。 ステップの降水量は、地域にもよるが、およそ、年間で200mm〜500mmほどの降水量である。(※ 参考:日本は年降水量が東京では1500mmくらい。) 住居は、日干しれんがのつくりが多い。森林が少なく、木材が足りないため。 衣服は、長そでを着るのが普通。日射しが強いので、日をさえぎるため。 砂漠の多い国のうち、開発のすすんだ国では、地下水などから水を引く、かんがい設備や水道設備が普及している国や地域もあるが、そのため、地下水の枯渇なども起きている。 また、砂漠はアフリカやアラビア地方の他にも、中国(中華人民共和国)の奥地にも砂漠の地方が存在する。 モンゴルの伝統的な暮らしは、季節ごとに馬や羊やラクダなどの家畜を引き連れて移り住むまた、水を求めて旅をする。 遊牧(ゆうぼく) で生活していました。乾燥しているので、農業に適していません。 モンゴルの1年間の降水量は、およそ300mmであり、ほとんどが夏に集中して雨が降る。ステップ(英:steppe ステープ)と、外国人から呼ばれる草原が広がっている。樹木は、水が足りないので、ほとんど無い。 おもな食料は、馬や羊やラクダなどの家畜の肉や、家畜の乳(ちち)です。そのため、家畜に草や水を与えないといけないので、季節ごとに草や水がある場所に移り住みます。 家畜には、馬や羊、山羊(やぎ)、牛、ラクダなどがあります。 モンゴルの伝統的な住居は、テントの一種のゲル(英:Ger)でした。 ゲルは折りたたみ式で、木の骨組みに、家畜の毛などで作ったフェルトなどの布地(ぬのじ)などで出来ています。 家畜の馬やラクダを率いて、ゲルを運びながら遊牧していました。馬は乗り物に使い、ラクダは荷物の運搬用です。家畜の使いみちは乗り物のほかにも、乳やバターなどの乳製品などを作ったり、食肉にすることもあります。 現在ではゲルにも、太陽光発電のためのソーラーパネルがあり、発電した電気を使ってテレビや携帯電話などを使っていたりします。 今では、首都のウランバートル(英: Ulan Bator)などの都市に定住する人や、アパートなどに住む人も増え、遊牧以外の仕事についている人もいます。 今では、遊牧民の数は、モンゴル国民のうちの10%〜15%ほどでしか、ありません。 現在の移動手段にはトラックなど自動車を使うことも増えています。 現代では農業も、わずかながら始まっており、乾燥に強い農作物である小麦や じゃがいも や、野菜などを中心に作られ始めています。米は、水が足りないので、作られません。
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世界の多くの国では、なんらかの宗教が信仰されている。行事(ぎょうじ)や、衣食住の習慣などにも、宗教の影響はある。 私たちの国の日本でも、神道(しんとう)や仏教(ぶっきょう)が信仰されている。なお、神道とは、神社などで日本の神をまつっている古くからの宗教であり、いっぽう、仏教は外国から伝わってきた別の宗教であるので、間違えないように。 仏教の日本への影響は、寺院や仏像などに影響を与えた。 ときどき「日本人は無宗教である。」という主張をする日本人がいるが、実際には、日本でも、伝統行事や風習などに宗教の影響は強く、単に「日本人が信仰に無自覚なだけ。」であろう。 世界には、さまざまな宗教がある。その中でも、信じている信者の数が多い宗教は、キリスト教とイスラム教と仏教(ぶっきょう)の3つの宗教である。このキリスト教とイスラム教と仏教は、発祥の地や民族をこえて、他の地域や民族でも多く信仰されているので、世界宗教とも言われる。 この世界宗教に対して、ヒンドゥー教やユダヤ教などは、信仰の地域や民族が、ほぼ発祥の民族などに限られているので、民族宗教と言う。ヒンドゥー教はインドの民族宗教である。ユダヤ教はユダヤ人の民族宗教である。日本の神道(しんとう)も、民族宗教である。 世界宗教の一つである仏教は、東南アジアから東アジアで、さかんに信じられている。日本も、寺院などがあるように、仏教の影響を受けている。現在では、タイで、仏教が さかんである。 仏教の初めは、紀元前の6世紀ごろに、インドで、シャカという人物がひらいた。 世界宗教の一つであるイスラム教は、アジア州のアラビア半島のあたりの地域で、さかんに、信じられている。 アラビア半島のほかに、アフリカ北部や中央アジアなどで、さかんな宗教である。東南アジアでも、インドネシアで信じられている。 経典である『コーラン』(あるいは『クルアーン』)に書かれた、唯一の神である「アッラー」という名の神の教えを守り、イスラム教の決まりにしたがった生活をおくる宗教。 イスラム教をひらいたのは、7世紀の初めごろ、ムハンマド(あるいは マホメット とも言う。)という人物がひらいた。 お祈りをするとき、祈る先の方角は、西アジアにあるメッカという都市にある カーバ神殿 に向けて、お祈りする。信仰(しんこう)のあつい人は、1日に5回、お祈りをメッカの方角に向かって、いのる。礼拝所の向きは、最初からメッカの方向に向けて建てられる。 イスラム教の決まりには、お祈りの仕方のほかにも、さまざまな事が決まっている。 (なお、ヒンドゥー教では牛肉を口にしない。イスラム教と、ヒンドゥー教とは、ちがう宗教なので、混同しないように。ヒンドゥー教は、インドで、さかんな宗教。) なお、イスラム教徒のことを ムスリム という。 ヨーロッパ州で広がっている宗教である。南北アメリカ大陸にも広がっている。東南アジアのフィリピンや、オセアニア州にも広がっている。 キリスト教の聖典は「聖書」(せいしょ)である。それによれば、人はみな、神の子イエス・キリストをすくいぬしとすることで、すくわれる。 イエスとは、1世紀の初めごろ生まれた、じっさいの人物であり、クリスマスは、その生まれたことを記念する行事である。この「クリス」の部分はキリストからきている。 聖書では、イエスは十字架にかけられたのち、足かけ三日目の日曜日の朝によみがえっている。 ヨーロッパやアメリカで4月〜5月ごろにある復活祭(イースター)という行事は、これを記念するものである。 キリスト教会で日曜日の朝におこなわれてきた礼拝も同じで、聖書にもそのように日曜日に集まっていたという記録がある。学校や店などの休日が日曜日なのもここからきている。 日本では、アメリカやヨーロッパに広まった暦(こよみ)の制度を明治時代の政府が取り入れて広まったが、キリスト教そのものを取り入れたとはいえない。 日本国内だけの信仰だったら、過去には江戸時代や室町時代などには神道と仏教が混ざったような信仰をしていた歴史もある。 仏教は、日本の他にも、中国や韓国などの東アジアや、東南アジアのタイなどに広まっている。仏教は、もともとインドで発祥した宗教であった。しかし今のインドでは、ヒンドゥー教という、仏教とは別の宗教がさかんである。 正確に言うと、日本の仏教は、インドで発祥した仏教のそのままの形ではなく、中国の民族的な宗教など、日本とインドのあいだにある他の国の民族的な宗教の影響も混ざっている。 中東のパレスチナという地方にある エルサレム という場所に、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地がある。 このエルサレムと周辺の地域で、第二次大戦後にイスラエルが建国を強行した。このことにより、以前にこれらの地に住んでいたパレスチナ人たちが住む場所をうしない、パレスチナ人が難民になった。 パレスチナ人はイスラム教の多い民族であり、イスラエル人はユダヤ教の民族である。 このことが、アラブ諸国のあいだで、イスラエルに対しての反発の理由の一つになっている。 イスラエルがユダヤ教の国なので、アラブ諸国ではユダヤ教への反発が強い。 また、アメリカがイスラエルと同盟を結んでおり、アメリカはキリスト教の多い国なので、そのようなことがアラブ諸国でのキリスト教への反発につながっている。 このようなパレスチナ周辺の政治問題をパレスチナ問題と言う。 イスラエルの紛争は、ユダヤ教とイスラム教の宗教対立と言うよりも、イスラエルと周辺国の対立であろう。 たとえばアメリカはイスラエルの同盟国だが、サウジアラビアやエジプトなどアラブ諸国のいくつかはアメリカの友好国でもある。アメリカはキリスト教の多い国だし、サウジアラビアはイスラム教の国である。宗教が異なっていても、友好国という例は世界中で多い。 2001年には、アメリカ合衆国で 同時多発テロ事件 が起きた。このテロの首謀者が、イスラム教徒を名乗っていた。 そして、首謀者がイスラムの原理主義者だと、欧米日の評論家などから言われた。 これをきっかけに、各国の評論家などが、キリスト教とイスラム教原理主義との宗教どうしの対立が起きている、という評論がなされるようになった。 また、アメリカで、強硬派の有力な政治家らが、キリスト教の支持を強めた。このことも、宗教どうしの対立という見方を助長した面もあるだろう。 しかし、イスラム教の原理主義思想が、テロを引き起こしていると考えるのは、おそらく誤りである。 なぜなら、キリスト教に、原理主義はある。ここで言う原理主義とは、経典の教えを絶対とするという意味である。そもそも宗教は、経典を尊重するのが通常である。 それに、同じ宗教どうしの国々でも、戦争などの対立は起こる。 たとえば仏教の多い東アジア地域でも同様である。たとえば中国は、歴史上では、中国の国内どうしですら、多くの戦争を起こした。韓国や日本も同様に多くの国内戦争を起こしている。日本の戦国時代などの戦争を考えれば分かるだろう。 キリスト教の国どうしでも、たとえばヨーロッパでは何度も戦争が起きている。 イスラム教の国どうしでも、たとえばアラブ諸国では何度も戦争が起きている。 さらに言うなら、「テロは悪いが、戦争は正義だ。」というのは、一部の国の身勝手な考えに過ぎないかもしれない。 テロでは民間人などの非戦闘員が犠牲になることがある。しかし戦争でも、たとえば空襲による住宅街への爆撃などのように、非戦闘員の民間人を標的にした軍事作戦は、近現代の戦争には、ある。 宗教がちがえば、たしかに価値観は大きくことなり、結果的に対立もあるだろう。おそらく歴史上では、ことなる宗教どうしの国の戦争も多くあったのだろう。 しかし近年(2014年に記述)のイランなどイスラム教国と、キリスト教国であるアメリカの外交での対立の原因は、宗教対立と言うよりも、おそらくはパレスチナ問題のような領土問題などが背景になっている。
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ヨーロッパ系の白人や、アフリカ系の黒人などを、肌の色などの、遺伝的な違いを人種と言います。 人種と民族とは、ちがいます。 たとえば私たち日本人の人種は、東洋系の人種であり、肌の色が「黄色い」と言われる黄色人種(おうしょく じんしゅ)であり、アジア系の人種であり、モンゴロイド (英: Mongoloid) と言われる人種であることが分かっています。 ですが、東洋のほかの国々(たとえば中国や韓国など)とは、日本人は民族が違います。中国や韓国の多くの人種は、黄色人種ですし、アジア系の人種ですが、言語も生活様式も、日本とは、大きく異なります。 この日本と韓国、中国との違いは、おもに民族による違いです。 民族どうしの区別は、言語や宗教や生活様式などの文化的な特徴から、それぞれの民族を区別されます。 民族は、一つの国に、かならずしも一つの民族とは、かぎりません。たとえばアメリカ合衆国は、白人や黒人やインディアンなどの多くの人種からなり、また多くの民族からなる多民族国家(たみんぞく こっか、英:multiracial nation など)です。 たとえば中国(中華人民共和国)も、漢民族やウイグル族、モンゴル族、チベット族、ミャオ(苗)族、朝鮮族、ホイ(回)族、チョワン(壮)族などをはじめ、合計で50以上もの民族からなる多民族国家です。 ただ、中国の人種は、多くの民族は、ほぼ東洋系の黄色人種です。このように、民族が違っていても、人種は近いこともあります。 いっぽう、一つの民族がその国の人口のほとんどを占めている国を、単一民族国家(英:racially homogeneous nation 、homogeneous state など)と言います。 実は、現代では、交通の発達や、貿易などによる経済のグローバル化や、国際協調などにより、どの国でも少数は、外国から来た民族など異民族(いみんぞく)がいるので、ほとんどの国の民族構成は多民族です。言葉通りの意味での「単一民族」な国家は、現代では、ほぼ、ありません。 日本も、人口の大半は、ほぼ「大和民族」(やまと みんぞく)などと言われる民族ですが、北海道の先住民のアイヌ系の諸民族もあり、また沖縄には琉球系の諸民族がいました。これら各地の先住民とは別に、明治時代以降に、日本が朝鮮半島の韓国(当時は大韓帝国)を併合したので、その関係から、多くの韓国系・朝鮮系の民族が日本に移住または連れて来られ、今でも日本で生活をしつづけています。 厳密な意味での単一民族国家は少ないですが、中国やアメリカなどの「多民族国家」と比べる場合に便利な言葉なので、実用的には「単一民族国家」という言葉が使われます。 このような事情から、過去に日本で政治家や評論家などが「日本は単一民族国家」などのような内容の発言する場合もありました。そして、その発言に対立する政治家や評論家が反発し「日本にはアイヌ民族などもあり、単一民族国家ではない。少数民族への差別発言である。」などのような内容で批判することもありました。 公用語は、必ずしも、一つの国家に一つだけとはかぎりません。たとえばヨーロッパ州のスイスでは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つの公用語があります。 世界では、英語が国際的な活動の場所で、多くの国で使われています。アメリカ合衆国やインドやニュージーランドやオーストラリアなど、かつてイギリスの植民地だった国では、英語が公用語に使われている国が多いです。 このほか、国際連合の公用語では、英語・ロシア語・フランス語・アラビア語・中国語の5つの言語が、国際連合の公用語になっています。 また、南アメリカ州や中央アメリカのカリブ海の諸国では、かつてスペインの植民地だった国が多く、そのためスペイン語が公用語として今でも使われている国が多いです。
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アジア州はユーラシア大陸の大部分を占めているため、各地の気候は変化に富む。 東部と東南部では、アジア特有の季節風(モンスーン)の影響を受ける。このモンスーンにより、夏には海からの湿った風がくるので、東部と南部で降水量が多い。モンスーンは夏と冬で向きが逆になるのだが、東アジアの場合、夏は南風、冬は北風である。また、季節風により、アジア東部では、四季が明確である。 東南アジアと南アジアは熱帯雨林気候に属している国とサバナ気候に属している国がある。熱帯雨林気候の国ではスコールとよばれる大雨が、ほぼ決まった時間に降るため一年中雨が多く、赤道にも近いため非常に高温になっている。サバナ気候の国は降水量の非常に少ない乾季と大雨が降る雨季に分かれている。 西アジアと中央アジアには雨が非常に少ないので、砂漠気候やステップ気候などの乾燥帯に属している国々が多い。 また、シベリアとよばれるアジアの北部は冷帯(亜寒帯)に属しており、北極に近い地域ではツンドラ気候になっているところもある。 アジアには、中国やインドなど、人口の多い国が多い。 世界の人口の6割がアジアに集まっている。世界人口は約72億人(2014年)の内、約43億人がアジアにいる。東南アジアは、雨が多く、稲作を中心とした農業が盛ん(さかん)なため、人口密度が高い。タイやベトナムは、米の輸出国になっており、東南アジアでは、米を年に2回つくる二期作(にきさく)も多い。 世界の米の大部分はアジアで生産されている。生産量では中国が1位だが、輸出量ではタイが1位。中国の米は国内消費が中心。生産量は1位は中国、2位はインドである。輸出量は1位はタイ、2位はベトナムである。 しかし、これら東アジアや東南アジアの地域は、すでに人口が増えすぎたため、今後は少子化や人口減に向かっていく可能性がある。 一方、気候の暑い南部でも、山地や、内陸部や西アジアなどの乾燥帯などは、農業には向かないため、人口密度も低い。乾燥帯では、砂漠や草原(ステップ)が広がっている。乾燥帯の人々は、草や水を求めて家畜と移動しながら生活する遊牧をして生活していることが多い。チベット高原は、標高が高いため、冷帯であり、あまり農業には向かない。 これら西部の地域で農業をする場合は、稲作には向かないため、米以外の作物の畑作が通常。中国西部やインドでの主要な作物は、小麦などの畑作である。 アジア北部のシベリアも、アジア州である。ロシアの東部のほとんどがシベリアに含まれているが、人口密度は低い。理由は、寒くて住むには厳しいことや、あまり農業に向かない土地であるためである。 東アジアや東南アジアでは、工業化が進んだ。特に日本を中心に、東アジアで工業化が進んでいる。まず日本の高度経済成長で工業化が進んだ。続いて、韓国、シンガポール、台湾などのアジアNIESで工業化した。 日本以外の東アジアや東南アジアでは、かつては、人件費の安さを利用した雑貨などの生産が多かったが、最近は技術力が高まり、東南アジアなどでも自動車部品や電気機械部品なども分業して生産するようになった。 例えば韓国では、技術力が高まり、半導体や電気機械、自動車なども多く輸出するようになっており、東南アジアでは、タイやベトナムなどに工業団地も作られている。 また、インドでは、ソフトウェア開発などが進んでおり、IT産業がインドで盛んです。 なぜなら、インドはかつてイギリスに侵略されて植民地だったため、英語が普及しており、アメリカなどの英語を使う国と仕事がしやすいからです。また、時差の関係上欧米諸国が夜を迎えたときにインドではちょうど勤務時間になっており、仕事を分担して作業しやすいのも一因です。(詳しくは後述)インドの教育は英語が得意なだけでなく、数学も重視しているため理数系も得意なのです。 インドの工業ではコンピュータだけでなく、自動車産業も盛んである。 ここでは主に第二次世界大戦後のアジア諸国との関係についてまとめて紹介します。 韓国(大韓民国)とは1965年に成立した日韓基本条約で正式に国交を回復しました。植民地時代の補償問題などをめぐって日本政府と韓国政府の意見が対立することもあります。 北朝鮮とは2018年現在、国交がありません。 中国(中華人民共和国)とは1972年に日中共同声明を出して国交を回復しました。 農業も盛んになりました。 1972年まで日本政府は台湾(中華民国)を「中国」として承認していました。日中共同声明で、中華人民共和国を「中国」としてからは、正式な国交はなくなりましたが、民間レベルでの日本と台湾の経済交流はつづいています。 国交を回復したときに戦後賠償として道路やダム建設などのインフラ整備を行ったのが、東南アジア諸国との経済関係のきっかけです。1990年代以降、日本の企業が工場をつくっていきました。 日本は西アジア諸国から多くの原油を輸入しています。 中国(中華人民共和国)は、人口が約14億人であり、世界でもっとも人口が多く、世界の人口の約5分の1をしめている。 中国の人口の多くは、東部の平野部や東部の沿海部に集中しています。中国の西部は山地や 砂漠 が多く、人口は少ない。 中国は、人組の夫婦の子供の数は1人だけとする 一人っ子政策(ひとりっこせいさく) を1979年から行っている。 このため、現在、人口の増加は抑えられている。かわりに、高齢者の割合がふえる高齢化(こうれいか)が予測されており、心配されている。 (一方、インドも人口が10億をこえるが、インドでは人口の増加が予測されている。また、将来的にインドの人口が中国の人口を抜く可能性が予測されている。) 2015年に中国は「一人っ子政策」を廃止すると発表し、すべての夫婦に2人目までの子供をもつことを許可した。 中国の人口のうち、およそ9割の民族は漢民族(かんみんぞく)である。漢民族は、おもに中国東部に住んでいる。 ある国で、多数派でない民族は、少数民族(しょうすう みんぞく)という。中国は50以上の少数民族を持つ多民族国家(たみんぞく こっか)である。 漢民族以外に少数民族が、何種類もある。中国の民族は多くあるが、おおまかには、漢民族、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、ミャオ(苗)族、朝鮮族、ホイ(回)族、チョワン(壮)族、などに分けられる。 中国政府は、チベット自治区など、少数民族の自治区をもうけており、伝統文化などを保護しているが、少数民族の中国からの独立などは認めてない。そのため、中国の支配に対する抵抗運動などが、チベットやウイグルなどで、たびたび起きている。中国ではチベット人やウイグル人などに対する少数民族への人権問題が生じている。 チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世(14th Dalai Lama)は、1959年にインドに亡命した。 政治に関しては、共産党が政治の決定権をにぎっており、共産党による独裁政治の国である。たとえば政治指導者は、国民からの直接の選挙では選ばれていない。1989年には、天安門で民主化をもとめる学生の抗議運動がおきたが、この運動は弾圧された。この天安門での抗議運動に関する事件を天安門事件 と言う。 中国は農業の大国である。農業は、華南(「かなん」、意味:中国の南部のこと)や華中(かちゅう、意味:北部と南部のあいだ)では、雨が多いため、稲作が多い。 東南アジアに近いハイナン(海南)島のあたりでは、年に2回、米を作る、二期作も行われる。 華北(「かほく」、意味:中国の東北部)では、雨が少ないため、小麦・大豆などの畑作が多い。西部は、乾燥しており、あまり農業にはむかず、遊牧などの牧畜である。 中国は、小麦の生産量が世界1位である。(2位インド、3位アメリカ。) 中国北部の乾燥地帯の農業では、小麦など乾燥に強い作物の畑作が盛んである。 工業は、人件費の安さを利用している。そのため、世界の多くの国に中国の製品が輸出されており、中国は「世界の工場」とも言われている。 南部の沿岸部の地域などに経済特区が多く、そのため工業地帯も南部の沿岸部に多い。南部の香港(ホンコン)の近くにあるシェンチェン(しんせん、深玔)市が経済特区であり、シェンチェンなどを中心に工業が発展している。 南部とは別にも、中国東北部には第2次大戦の前から日本の旧・満州国への投資などで発達していた工業地帯があり、戦後も東北部の工業地帯が重工業の地帯になっている。 第2次大戦後、中国の経済は、市場経済を禁止して、政府が経済を管理する経済政策を取った。そのため、中国は経済発展が遅れた。1980年ごろから、経済のおくれを取り戻すため、経済特区 をシェンチェン(しんせん、深圳)市やアモイ(廈門)市など一部の地域に導入し、市場経済を部分的に取り入れた。 欧米や日本などの工場も、人件費の安さや、人口の多さによる消費者の多さを当てにして、多くの外国企業の工場などが中国に進出した。こうして、中国は、経済の規模がアメリカや日本につぐ経済大国になり、中国の国内総生産(こくない そうせいさん、GDP)も日本やアメリカと同じ程度になった。 しかし、近年では、中国でも人件費が上昇しつつあり、外国企業は、より人件費の安いベトナムなどの東南アジア諸国に工場を移している。 貧富の格差も大きい。 とくに、内陸部の農村部は貧しい。そのため、農村部から出稼ぎなどで、沿岸部などの都市部に働きに出る。農村部から出稼ぎに来る人たちを 農民工(のうみんこう) と言う。 中国の経済は、その貧富の格差によって、人件費を低くおさえているという面もある。 2008年には北京(ペキン)オリンピックが開催された。2010年には、上海国際博覧会(シャンハイ こくさい はくらんかい)が開かれた。(いわゆる上海万博(シャンハイばんぱく)。 ) 中国は、BRICS(ブリックス)のうちの一国として、各国の投資家などが経済発展を期待している。BRICSとはブラジル (Brazil) 、ロシア (Russia) 、インド (India) 、中国 (China) 、シンガポール (Singapore) のこと。 BRICSは国土と人口と資源の多いことから、経済発展するだろうと期待された5国のことである。(シンガポールを抜いた4国でBRICsともいわれる。) インターネットや携帯電話やテレビなどは、都市部を中心に普及している。しかし検閲(けんえつ)などの言論統制(げんろん とうせい)が厳しく、インターネットやテレビや雑誌などでの自由な議論などは出来ない。 中国人は、中国の本国とは別の場所にも多く移住している。世界中のいろんな国に中国人は移住しており、それら外国にいる中国人を華僑(かきょう)と言う。 近年(2014年に記述)では、西部の内陸部で大規模な開発が進んでいる。理由は、主に、経済格差を解消するためや、すでに沿岸部の開発が進んで沿岸部は開発の余地が減ったこと等だろう。 2009年に、内陸部の湖北(こほく、フーペイ)省で、長江(ちょうこう、揚子江(ようすこう)とも言う。)ぞいに、サンシヤ(三峡、さんきょう)ダムが完成した。ダムの建設により、長江の水の流れがせき止められるので、生態系への影響が各国の環境保護団体により心配されている。 鉄道の建設も、各地で進んでいる。西部のチベット自治区では、青蔵(せいぞう)鉄道が2006年に開通した。 工業地帯や都市を中心に、大気汚染が深刻である。理由は主に、燃料の石炭などが大量に燃やされているため。 大気の汚染にともない、酸性雨の被害も発生している。 耕地を広げたり、工業地域や商業地域の開発などのための無理な森林開拓により、森林破壊も起きている。 工場などから出る排水などによる、水質汚染も各地で深刻である。川の魚が大量に死んだりする事例も多く発生している。 中国の国民1人あたりのエネルギー消費量は世界の平均と比べて低く、経済発展によるエネルギー消費量の上昇にともない、今後も環境破壊が進む恐れ(おそれ)がある。 中国は周辺国と領土問題でもめている。東南アジア諸国と中国とのあいだでは、スプラトリー諸島(Spratly Islands、 中国名:南沙(ナンシャー)諸島 )をめぐって、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイと領土問題がある。 日本とは、日本の尖閣諸島(せんかく しょとう)の領有に、中国は反対をしている。2010年には、中国の漁船が、日本の海上保安庁が所有している船に衝突する事件が起きた。 中国には、中国大陸を中心とした政府を持つ中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)と、もう一つ、台湾に中華民国(ちゅうかみんこく)という政府がある。 (※ この記事では、たんに「中国」といったら、中華人民共和国のこととする。台湾の中華民国政権のことを言う場合には、この節では「台湾」や「中華民国」などと区別することにする。) 台湾の政治は民主主義であり、普通選挙が行われている。 台湾(タイワン)を中心とした政権である。首都は台北(タイペイ)。工業国である。 台湾は南方にあることもあって、農業では稲作が多い。 台湾の工業では、コンピュータ部品などの産業が盛ん(さかん)である。大陸側の人件費の安い労働力などを利用するため、台湾の企業が大陸側に工場をもうけたりしている。 第二次大戦の前や戦中では、中国は中華民国(ちゅうか みんこく)という国であり、国民党という政党が支配をしていて、蒋介石(しょうかいせき)という人物が国の支配者だった。しかし第二次大戦後、ソビエト連邦の支援を受けた中国共産党が、国民党と戦闘し、中国は内戦になった。そして共産党が勝利して、中国は、1949年に 中華人民共和国(ちゅうか じんみん きょうわこく) という国になった。 共産党の支配者は毛沢東(もう・たくとう)という人物で、毛沢東が中国大陸の支配者になった。 いっぽう、負けた蒋介石ひきいる国民党は台湾に逃れた。 このため、台湾は中華民国になった。このころの中国は、「中華人民共和国」と「中華民国」との2つの中国が存在する状況になった。 しかし、日本をふくめ世界の多くの国は、台湾は中国の一部という立場にたっている。また、現在の国際連合では、中華人民共和国を中国の代表として認めており、台湾は国連に加盟できない。 東南アジアでは、いくつもの国があり、民族や宗教もさまざまである。 東南アジアの国々は、かつては欧米諸国の植民地であったが、第2次大戦後に独立した。第二次大戦で、日本軍と、東南アジアを支配していた欧米諸国の軍とが戦闘をした。日本が戦闘を有利にすすめるため、現地の独立運動を軍事的に支援したり、欧米の軍との戦闘によって欧米の軍が弱体化したこともあり、東南アジア諸国での戦後の独立を早めることになった。 だがベトナムなど一部の地域では、戦時中に現地の住民と日本軍とが対立し、住民に被害も出た。 気候的に暖かく、降水量も多いため、米(コメ)の栽培に有利である。地域によっては、年に2回の米を作る二期作(にきさく)が行われる。ただし、かんがい設備などの不足で、貧しい米農家は一期作である。 農業では、ヨーロッパ州などの植民地の時代に、天然ゴムやコーヒーなどの大農園(プランテーション)が開かれた地域も多い。独立後は、現地の人や現地の企業などによって、それらの農園が経営されている。現在では、それらの農産物が主要な輸出品になっている国も多い。プランテーションの作物は、輸出用の商品作物が中心である。 なお現在では合成ゴムの発明によって、天然ゴムの売れ行きが減っている。 マレーシアではアブラやし(油やし) が、さかんに栽培されている。 油やしから取れる油をパーム油という。パーム油は洗剤や食用油やせっけんやマーガリンなどの原料である。日本にも東南アジア産パーム油は輸出されている。 第二次大戦後、天然ゴムの売り上げが減るいっぽう、アブラやしの売り上げが増えたので、マレーシアでは天然ゴム園をアブラやし園に変える転換が進んだ。 フィリピンでは、バナナが主要な産業。 インドネシアなどで、木材を輸出するためやアブラやし園をつくるために熱帯雨林を伐採していたり、農地を無理に拡大するために熱帯雨林を伐採していたりするので、熱帯雨林の破壊が、あやぶまれている。インドネシアの焼き畑による農業も、森林の破壊をまねいている。 かつてインドネシアは丸太をそのまま日本など先進国に輸出していたが、1970年代ごろから自国の工業化のため、丸太のままの輸出を禁止し、板などに加工しないと輸出できないようにする規制がされるようになり、現在も規制が続いている。 タイやベトナムは、米の輸出国である。タイは米の輸出量が世界1位。ベトナムは米の輸出量が世界2位。(生産量では中国のほうが多いが、中国の米は国内消費用であり、輸出量はやや少ない。) タイやインドネシアなど海沿いの国は、えびを日本向けに養殖して輸出してる産地でもある。えびの養殖場をつくるため沿岸部のマングローブ林が伐採され、森林破壊につながっている、という問題点もある。 インドネシアなどは、石油や石炭、天然ガス、すず などが産出し、輸出されている。第2次大戦で日本軍が東南アジアに進出した目的の一つは、これらの資源を獲得するため。軍艦などの兵器を動かすには、石油が必要である。戦前の当時、日本は欧米諸国と対立し、石油などの輸入制限をされており、日本は石油などが不足していた。 東南アジアの宗教は、地域によってさまざまである。 インドネシアではイスラム教が多くの人に信仰されている。インドネシアは国全体ではイスラム教徒が多いが、例外的に、インドネシアのバリ島では、ヒンドゥー教を信仰する人が多い。(※ 教育出版の検定教科書にインドネシアのバリ島にはヒンドゥー教が広まっていることが記述されている。)タイでは仏教徒が多い。フィリピンでは欧米の植民地の時代にキリスト教が普及したため、キリスト教徒が多い。 欧米などの企業や工場が、かつては中国の人件費が安かったので中国に進出をしていたが、近年では、欧米諸国は、より人件費の安い東南アジアのベトナムなどに進出先を変えている。 また、1980年ごろから欧米や日本企業が、シンガポールやタイやマレーシアなどに進出している。 この1980年ごろからの工業化にともない、タイやマレーシアでは都市部などに工業団地が作られた。 このような日本からの工場誘致の政策が成功したため、マレーシアで工場が増えていった。 同じころ、タイも、日本から工業を誘致する政策を行った。そのため現在では、東南アジアではタイとマレーシアが主な工業国である。 これら(タイ、マレーシア、インドネシアなど)の国で工業団地がつくられたのが都市部の近くだったため、都市部の周辺は豊かになったが、しかし都市から離れた農村部は豊かにならなかった。そのため都市と農村との経済格差がこれらの国で存在している、と考えられている。 いっぽう、1980年代ごろまでのベトナムは、ソビエト連邦などと友好的であり、いっぽう日本やアメリカとは対立していた。このため、ベトナムには日本やアメリカからの投資がなく、ベトナムは工業化におくれることになった。 2016年の今でこそ、ベトナムも工業国であるが、それは、ベトナムの発展がおくれたため、ベトナムでは人件費が安いので、衣服など人手の掛かる産業の工場がベトナムに建てられていった、というような事情によるものである。 現在、工業団地もタイやベトナムやインドネシアなどに作られている。日本の製造業も、タイやインドネシアの工業団地に多く進出している。 東南アジアの工業では、かつては人件費の安さを利用した雑貨などの生産が多かった。しかし、最近は技術力が高まり、東南アジアなどでもインドネシアやタイなどの工業団地で、自動車部品や電気機械部品などを生産するようになった。 ASEAN(アセアン、東南アジア諸国連合)は、1967年に結成された、東南アジア諸国どうしの経済協力のための連合。1967年にインドネシア、タイ、シンガポール、フィリピン、マレーシアの5カ国が加盟した。加盟国は、現在では10国に増えている。 本部はインドネシアのジャカルタにある。 第二次大戦前、東南アジアの多くが欧米の植民地になる時代のなかで、タイは唯一、植民地にならなかった国である。その理由は、ヨーロッパ諸国どうしが領土問題を起こして戦争しないようにさせるため、ヨーロッパ諸国の植民地の領土を直接は接触させないように、「緩衝国」として、タイが存続させられたからである。タイの場合、第二次大戦前は、イギリス領とフランス領との間に挟まれていた。 マレー半島の先端にある島国。 中国系の住民が多い。東南アジアなどでの中国系の住民のことを華人(かじん)という。シンガポールでは華人が経済の中心である。 観光重視の政策のため、路上にごみを捨てると、きびしく罰せられる。金融や、電子機械などの工業などが中心である。農業は盛んではない。シンガポールは比較的早くから貿易の拠点として経済発展したこともあり、東南アジアにおける金融の中心地にもなっている。 インドの気候は熱帯である。地域によって、雨の多い地域と少ない地域がある。 インドは東部の地域は多雨。西部は乾燥。東部に ガンジス川 がある。西部に インダス川 がある。 インド東部のガンジス川流域では稲の栽培がされており、降水量が比較的に多かったり、川の豊富な水を利用したりなどして、農業で稲の栽培もされている。 一方、西部の農業では、乾燥に強い小麦の生産がインド西部のインダス川流域のパンジャブ地方などで盛んに行われている。 インドは、世界的なコメの産地である。だが、インドのコメは国内消費用であり、輸出される割合は少ない。 インドの周辺国には東部の隣国に バングラデシュ があり、西部の隣国に パキスタン がある。バングラデシュの気候も、インド東部と同様に多雨であり、バングラデシュの農業も米の生産が盛ん(さかん)である。 インドでの米や小麦など穀物の生産は、国内での自給用であり、輸出はタイなどの東南アジアよりも少ない。 インドは茶や綿花の栽培も盛んである。とくに、降水量のすくないインド西部の農業では、綿花の栽培が盛ん。インド北東部のアッサム地方が、世界的にも紅茶の産地。インドの周辺国のスリランカも、紅茶の産地として有名。アッサム地方は、傾斜地が多く、また、茶は水捌けのよい場所で栽培しやすい。よって、アッサム地方で茶が栽培される。 インドがイギリスの植民地だったこともあり、イギリスなどヨーロッパに人気のある紅茶用の茶の栽培が、これらの地域で盛ん。 インド中部のデカン高原では綿花の栽培が盛ん。このため、繊維工業も盛ん。 インドでは近年、情報技術(IT)産業が盛んで、BRICSのひとつである。 インドが多民族国家なこともあり、公用語のヒンディー語についで英語がインド国民どうしの共通語として普及している。人口は約12億であり、世界2位。将来的に中国の人口世界1位を抜くことが予測されている。 インドはコンピューターのソフトウェア開発の産業が盛んなIT大国である。インドは英語が得意な人も多いので、アメリカなどとのビジネス交渉に有利であり、また人件費も安い。時差を利用して、アメリカから受けた注文を、アメリカでは夜中のうちに仕事を片づけるので(アメリカが夜のとき、インドは昼間)、アメリカからするとインドと協力することで開発が速く出来る。インド南部のバンガロールなどでソフトウェア開発などのIT産業が盛ん。 鉄鋼業や機械工業が盛んである。 インドはBRICs(ブリックス)のうちの一国であり、各国の投資家などが経済発展を期待している。 ヒンドゥー教 が信仰されている。ヒンドゥー教などの、インドの古い身分制度である カースト制 の影響がインドに残っている。カースト制は法律では禁止されているが、インドの人々の意識に深く残っている。インドでの職業の固定化の傾向や格差などは、カースト制の影響だろうと言うのが、国際的な通説である。 ガンジス川 が「聖なる水」としてヒンドゥー教の信仰の対象になっており、ガンジス川に水浴びにくる信者も多い。ヒンドゥー教は多神教である。牛を神聖な動物として崇めているため、牛肉は食べない。 イギリスからのインドの独立後、ヒンドゥー教徒の多い民族と、イスラム教など異教徒の多い民族との対立から、いくつかの国がインドから独立した。 1947年にはイスラム教の多いパキスタンがインドから独立。1948年には仏教徒の多い スリランカ(当時の国名は「セイロン」) がインドから独立。1971年には、東西に分かれていた東パキスタンからバングラデシュが独立。 なお、スリランカは茶の産地として有名。スリランカの丘陵地(きゅうりょうち)で、茶が栽培されている。茶は水捌けのよい場所で栽培しやすいので、丘陵地などで栽培される。 スリランカは1972年に国名を「セイロン」から「スリランカ」に改称した。 具体的にどの国を「西アジア」というかというと、おおむね、サウジアラビア、イラン、イラク、クウェート、アラブ首長国連邦などである。 西アジアは降水量が少なく、あまり農業に向かないが、乾燥につよい小麦やナツメヤシを栽培する。 サウジアラビアなど、西アジアの気候は 乾燥帯(かんそうたい) であり、さばくが多い。東アジアを湿潤(しつじゅん)アジアと言う場合があるのに対し、西アジアは乾燥アジアと呼ばれることもある。 西アジアの国々では石油が産出する国が多く、それら産油国では石油産業が主な産業である。石油産業は1960年代ごろから国有化がなされている。貿易で石油や原油を多く輸出している。日本も西アジアから石油を多く輸入している。 西アジアで、最も石油の生産量が多いのはサウジアラビアである。そのほか、イラン、イラク、クウェート、アラブ首長国連邦で、石油の産出量や輸出量が多い。 サウジアラビアは石油の産出量で世界2位。(世界1位はロシア、3位はアメリカ。) サウジアラビアの原油の埋蔵量は世界の約5分の1で、埋蔵量ではサウジアラビアが世界1位。2位はカナダだが、3位以降は西アジアの国が続き、3位イラン、4位イラク、5位クウェートとなっている。 産油国は石油価格をコントロールするため、産油国どうしで 石油輸出国機構(せきゆ ゆしゅつこく きこう、OPEC、オペック) を1960年代につくった。当初はOPECにイラク、イラン、クウェート、サウジアラビアなどが加盟した。現在は、アラブ首長国連邦、カタールなども加盟している。 現在ではOPECの影響力が低下しており、理由はOPEC加盟国以外の石油の産出が原因である。 西アジアの宗教は、 イスラム教 の国が多い。サウジアラビアは、イスラム教の発祥の地であり、聖地のメッカとメディナはサウジアラビアにある。サウジアラビア、イラン、アラブ首長国連邦などで、イスラム教がおもに信仰されている。 西アジアの民族には、アラブ系の民族が多い。西アジアの言語の文字にはアラビア語や、その系統の文字を用いる。 ただし、イスラエルはユダヤ教の国である。イスラエルは、文化などがヨーロッパ州に近い。その他は、西アジア。
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ヨーロッパ各州はユーラシア大陸の西端に位置している。 ヨーロッパ北部のノルウェーなどの海岸沿い(かいがんぞい)のギザギザした地形は氷河によって削り取られた地形である。このようなギザギザした地形をフィヨルドと言う。ノルウェーでは、この地形を活かし、漁業などの水産業がさかんである。 ヨーロッパには40カ国以上の国がある。それらの国の多くは、国土の面積が日本よりも小さい。 ドイツは、世界でも有数の工業国である。 フランスでは、航空機の産業が有力である。 産業革命がヨーロッパのイギリスやフランスを中心にして起きた。古くからヨーロッパで近代工業が起こったことにより、ヨーロッパでは工業がイギリス、フランス、ドイツなどで発達した。 今でこそ中国が(一昔前は日本が)「世界の工場」と言われているが、元はイギリスが「世界の工場」と言われていた。 現在でも、イギリス、フランス、ドイツなどの工業の技術力も高い。 第2次大戦後はアメリカや日本の工業が発達してきたので、ヨーロッパの国々は日米に対抗するため、ヨーロッパの企業どうしで協力しあっていることが多い。 たとえば航空機の生産では、イギリス、ドイツ、フランス、スペイン、ベルギーの企業が、航空機の部品を分担して共同生産をしている。 EUの4カ国(フランス、ドイツ、イギリス、スペイン)が出資したエアバス社により、各国で部品を作り、最終組み立て工場のラインがあるフランスのトゥールーズで組み立てている。 ヨーロッパ州は工業が古くから発達したことで、大気汚染などの公害や環境問題などにも直面した過去があり、そのため公害などへの規制がきびしい。人々の環境問題への意識も高く、リサイクルも普及している。また、太陽光発電や風力発電など、環境の負荷がひくいと考えられている発電が発達している。 ライン川河口近くにユーロポート(港)が建設され、化学工業が盛んな地域となっている。 北海油田の開発によって、イギリスとノルウェーは産油国となった。 東ヨーロッパ(略して東欧ともいう。)は、工業がおくれており、賃金も安い。そのため、外国の企業が安い賃金の労働力を求めて、工場などを進出させている。日本の企業の工場やアメリカの企業の工場も、東ヨーロッパのチェコやポーランドやハンガリーに進出している。 どのあたりを東ヨーロッパと言うかというかは、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどが挙げられる。 チェコとポーランドとハンガリーの3カ国で工業が盛んである。とくにチェコは昔からの工業国であり、冷戦中はソビエト連邦が主導する社会主義の陣営にチェコやポーランドやハンガリーなどは組み込まれたが、その中でもチェコは工業力の高い国であった。現在でも東ヨーロッパの中でチェコは工業が盛んである。 いっぽう、ポーランドは東欧の中でも人口が多く、国土も広い。ポーランドの国土の広さは、スペインと同じくらいである(チェコとハンガリーの国土面積は、北海道と同じくらい。)。そのため、今後の発展が期待されており、西ヨーロッパやアメリカなど外国の企業もポーランドに進出している。 これらの東ヨーロッパの国の経済発展が遅れた主な理由は、第2次大戦後の冷戦により、多くの東ヨーロッパの国がソビエト連邦の主導する社会主義の陣営に組み込まれたことである。 ヨーロッパには、EUの加盟国どうしでも、発展の格差などの地域格差があり、問題になっている。その一方で、東ヨーロッパへの工場進出のように、これら地域格差を、賃金を抑えるための手法など、経済に利用している面もある。 ヨーロッパの言語は、およそ3種に分類される。ヨーロッパ北西部の英語やドイツ語などのゲルマン系の言語と、南部のフランス語やイタリア語などのラテン系の言語と、東部のロシア語やチェコ語などのスラブ系の言語の3つの系統である。 ヨーロッパの民族も、とてもたくさんの種族がいるが、おおまかにはゲルマン民族、ラテン民族、スラブ民族の3つに分けることが出来る。 ヨーロッパではキリスト教が中心に信仰されている。キリスト教の宗派は、おおまかに3つの宗派に分かれる。古代からの教えを重んじるカトリックと、近世以降に宗教を改革したプロテスタントと、ロシアなどヨーロッパ東部でさかんな正教会(せいきょうかい)である。カトリックはイタリアなど南部のラテン系の国家でさかん。 プロテスタントはイギリスを中心にさかん[1]。 ヨーロッパ単一市場が発足。 ヨーロッパ連合とは、ヨーロッパでの経済の統合など、ヨーロッパの国どうしで協力しあっている国家どうしの連合である。ヨーロッパ連合のことを EU(イーユー) という。 EUの本部はベルギーの首都ブリュッセルにある。 もともとは第二次大戦後に、ヨーロッパの資源の共同管理をすることで、資源をめぐる戦争をなくそうという平和目的として1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体( ヨーロッパ せきたん てっこう きょうどうたい 、英語 略称:ECSC イーシーエスシー)が、戦争であらそったドイツとフランスを中心に設立された。結果的にドイツ・フランスにイタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクを加えた6カ国で1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が設立された。 似たような国際機関で、1958年にはヨーロッパどうしの経済協力を目的にヨーロッパ経済共同体( ヨーロッパ けいざい きょうどうたい、EEC イーイーシー )が設立された。また1958年に原子力の共同管理のためのヨーロッパ原子力共同体(ヨーロッパげんしりょく きょうどうたい、 EURATOM 、 ユーラトム)が設立された。 このECSCとEECとEURATOMの3つが統合して、1967年にヨーロッパ共同体( EC(イーシー) )となった。 その後、ECは加盟国が増えていった。 このヨーロッパ共同体ECが、1993年にはヨーロッパ連合(EU 、イーユー)に発展した。 国際機関が多く出てきたが、中学校では、とりあえずEU(ヨーロッパ連合)だけを覚えておけば、たぶん大丈夫だろう。 2002年からEUの共通通貨のユーロが加盟国の多くで使われている。このため、それまで加盟国にあった通貨(たとえばドイツのマルク通貨やフランスのフラン通貨など)は廃止された。 ユーロは、ドイツやフランスなどをはじめ、多くの加盟国がユーロを導入している。 しかし、イギリスは、ユーロを導入しておらず、イギリスの通貨は「ポンド」である。デンマークも、ユーロを導入していない。 予備知識として、まず、EU域内の農産物の移動には、関税が掛からない、ということを知っておこう。 さて、EU域内で食料を自給しようという目的で、つぎの共通農業政策(きょうつうのうぎょう せいさく)が1960年代から実施された。 共通農業政策の内容は、EU域内で農産物にごと統一価格を定め、生産性の低い国にあわせて、高い価格で農産物を買い取ることである。 この共通農業政策は農家に有利なので、結果的に生産意欲が上がり、生産量も上がった。だが、EU財政の負担になったので、小麦など一部の農産物で買い取り価格の低下をしたり、生産調整をしたりなども起きている。 (※ 「共通農業政策」は中学校の範囲。教育出版の教科書にある。) フランスは、ヨーロッパを代表する農業国であり、小麦の生産がさかんである。フランスは農産物の輸出も多い。フランス南部の地中海沿岸では ぶどう も生産しており、ワイン(ぶどう酒)の産業が有名である。 農業がさかんなため、食料自給率は100%を超えており、外国に農産物を輸出している。 このためフランスは「EUの穀倉」(イーユーのこくそう)とも言われてる。 フランス南部は気候が地中海性気候にちかく、ぶどうやオリーブなどの栽培がさかん。 工業国でもある。 航空機産業や自動車産業が、さかん。航空機製造の大手企業であるエアバス社の組み立て工場が、フランスのトゥールーズにある。 フランスの首都はパリ。芸術の文化がさかん。首都のパリは観光地でもある。 イギリスとフランスとのあいだのドーバー海峡(ドーバーかいきょう)の海底に、海底トンネルのユーロトンネルがある。 また、そのユーロトンネルをつかった高速鉄道のユーロスターが、ロンドン〜パリ間を走る。 スイスは、どこの国とも軍事同盟を結ばない永世中立国である。また、その中立を維持するために、軍事力を高めている国である。スイスには徴兵制(ちょうへいせい)がある。スイスの公用の言語はドイツ語やフランス語やイタリア語である。「スイス語」という言語は無い。 宗教も、カトリックとプロテスタントの両方である。スイスは、中立国ということから、国際会議などの開催の場所になることも多い。スイスには国際機関の本部も多く、たとえば世界保健機関の本部がある。フランスやドイツなどが加盟しているヨーロッパ連合(EU)には、スイスは加盟していない。 永世中立というスイスの立場のため、第2次大戦後、ながらく国際連合にはスイスは加盟しなかったが、2002年にスイスは国際連合に加盟した。 工業もさかんで、精密機械などに強い。 工業がさかん。ドイツはヨーロッパで最大の工業国。 自動車産業や電子工業や重化学工業がさかん。ライン川ぞいにあるルール工業地帯は、かつては石炭の産出地でもあり、鉄鋼業や重化学工業が、さかんであった。 公用語はドイツ語。 宗教はキリスト教。 冷戦時は東西ドイツに分裂していた。なお東ドイツがソ連など共産主義・社会主義の陣営で、西ドイツがアメリカ・イギリスなど資本主義・民主主義の陣営である。 冷戦の終了によって1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年には西ドイツが東ドイツを吸収する形で東西ドイツが統一した。 第二次大戦後、ドイツは、労働力不足をおぎなうため、トルコなど地中海付近の国から移民を多く受け入れた。 ヨーロッパには50カ国くらいあるので、全ては紹介しきれない。学習に関わりが深そうな国をあげる。 ・ オランダ 国土の4分の1が(つまり25%が)、海面よりもひくい干拓地(かんたくち)であり、その干拓地はポルダーと呼ばれる。 チューリップの栽培や、酪農がさかん。 オランダの首都はアムステルダム。 ・デンマーク ・ スウェーデン ヨーロッパ諸国は環境対策に力を入れている。 国にもよるが、たとえばゴミの分別のきまりが、細かく決められている。 また、渋滞問題とも関係するが、都市の中心部への自動車の出入りに税金を掛けることで、鉄道やバスなどの利用をうながしている。 そのバスの燃料も、ゴミ処理施設などから出るメタンガスを利用するなどして、エネルギー資源を有効活用していたりする。 海岸沿いのデンマークでは、風力発電が盛んである。また、酸性雨などにも対策をしている。 ヨーロッパでは、多くの国が陸上で国境を接しているので、ある国で環境問題が起きると、となりの国にも影響が出やすい。 ヨーロッパでは19世紀から大気汚染が深刻になった。 また、工場や自動車の排煙のため、酸性雨(さんせいう)が増えた。酸性雨は、国境をこえて、被害を出した。酸性雨で枯れる樹木も、出てきた。 こうした過去の経験にもとづき、現在では環境保護のための対策が取られている。
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首都:モスクワ ロシアは、ウラル山脈をはさんで、ヨーロッパからアジアにまたがる巨大な国である。ロシアの国土面積は、日本の約45倍もある。 東西に長いため、9個の標準時をもつ。 ウラル山脈から東側をシベリアという。シベリア側がアジア州である。ウラル山脈から西側が、ヨーロッパ州である。 ロシアには多くの民族が暮らしており、スラブ系のロシア人が8割をこえるが、そのほかの少数民族をあわせて100以上の民族がいる。 宗教は、民族が多いため、さまざまな宗教が信仰されているが、スラブ系ロシア人のあいだではキリスト教の正教会が、おもに信仰されている。 ロシアは、国土の大半が亜寒帯である。 南西部の黒海(こっかい)沿岸(えんがん)やシベリア西部は、気候がやや暖かく、ステップ気候にちかく、南西部の農業では小麦などが栽培される。 北部の北極海沿岸は、寒すぎて草木が育たず、コケ類しか育たない、ツンドラとよばれる気候である。 ツンドラ気候の南側の地域に、タイガとよばれる針葉樹林の地帯がある。 ロシア東部は、山地が多い。(「シベリアに、山地が多い」(×)ではなく、ロシア東部に山地が多い。シベリア西部には、平地が広がっている。シベリア東部が、ロシア東部のことであり、このシベリア東部が山地が多い場所である。) 首都のモスクワは、ウラル山脈の西側にあり、つまりヨーロッパに近い側にある。 原油や天然ガスが多く、パイプラインで輸送している。 ソ連時代には、コンビナートと呼ばれる工業地域をつくった。 かつて、ロシアとその周辺にはソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦、ソ連)という国があった。 ソビエト連邦は1922年に誕生し、計画経済(けいかく けいざい)にもとづいた経済政策をしていた社会主義国だったが、1980年ごろには経済が行きづまり、ついに1991年にソビエト連邦は解体され、そしてロシア連邦と14の共和国に分かれた。 ソビエト連邦は、第二次大戦後はしばらく、アメリカ合衆国と対立していた。この、第二次大戦後のアメリカとソ連との対立を 「冷戦」(れいせん) という。(※ 教科書の範囲外。) ソビエト連邦は現在のロシアを含む15の国で構成されていた。ソビエト連邦が崩壊するとそれらの国々は独立した国になった。中央アジアでは、カザフスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタンもソビエト連邦に属していたが、今は独立した国々である。宗教について、カザフスタンなどではイスラム教が信仰されている。 東ヨーロッパ側では、ウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)、モルドバなどがソビエト連邦に属していたが、現在では独立した国になっている。これらの国々はキリスト教の正教会の信者が多い。 バルト海沿岸にある3つの国、エストニア・ラトビア・リトアニアをバルト三国という。バルト三国もソビエト連邦に属する国々であった。しかし、バルト三国は他の国々と違ってソビエト連邦崩壊の前に独立を果たした。バルト三国の宗教は、キリスト教である。 ロシアからみて西南方向に、黒海とカスピ海がある。この黒海とカスピ海に挟まれた地域を「カフカス地方」という。 カフカス地方では、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンが独立国となっている。 ロシア西南部のカフカス地方にある「チェチェン共和国」は、「共和国」とはいうものの、ロシアの一部である。 しかし、チェチェンに独立派がいるが、ロシア政府は独立を認めていない。 このため、独立派とロシア政府が対立し、武力衝突がたびたび発生している(チェチェン紛争)。(※ 中学の範囲内。教育出版『中学社会 地理 地域にまなぶ』、平成23年3月30日検定版、平成25年1月20日発行、71ページ) チェチェンでの宗教は、おもにイスラム教が信仰されている。 ロシア西部とウクライナ周辺で、小麦、大麦、ジャガイモなどの生産が盛んである。 ロシアで農業の盛んな地域は、気候の温暖なロシア西部のため、そのためロシアの農業は、ウクライナの農業に近い。 いっぽう、北極海沿岸や、シベリア東部では、気候が寒冷すぎてツンドラ気候なので、農業がほぼ不可能なので、漁労などで食料を得たりしている。 かつてソ連の時代には、「コルホーズ」(集団農場)や「ソフホーズ」(国営農場)といった、農場の国有的な統制(とうせい)があった。だが現在では、ロシアおよび旧ソ連からの独立国の農業は、民営化(みんえいか)しており、企業的な農業になっている。 カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメンスタンなどを中央アジアという。 中央アジアは乾燥気候である。 中央アジアの農業では、かんがい(灌漑)による綿花(めんか)や小麦の栽培がさかんである。とくにウズベキスタンが、綿花の世界的な生産国になっている。 過剰な かんがい により、アラル海の水位が低下しており、湖面の面積が減少し、アラル海は消滅の危機にある。(※ 中学の範囲内。日本文教出版『中学社会 地理的分野』、平成23年3月30日検定版、平成25年2月8日発行、116ページ) なお、アラル海やカスピ海は、内陸部にある湖(みずうみ)であり、周辺が乾燥地域なため、蒸発により塩分濃度が高い 塩湖(えんこ) になっている。(※ 中学の範囲内。出典は同上。『中学社会 地理的分野』) このため、アラル海の湖面が減少すると、塩が出てきて、周辺の農地などに塩をまきちらし、塩害(えんがい)を起こすので、さまざまな問題を起こす。(※ 中学の範囲内。出典は同上。『中学社会 地理的分野』) 中央アジアでは、羊(ひつじ)の遊牧もしている。 黒海とカスピ海のあいだの地域を「カフカス地方」という。 カフカス地方の農業では、茶の栽培が盛ん。 また、ブドウやオレンジなどの果樹栽培も、カフカス地方では盛ん。 ウクライナの首都はキーウ。 ウクライナでは工業が発達している。 1986年の「チェルノブイリ原発事故」で有名になったチョルノービリ原子力発電所[1]は、ウクライナにある。(※ 中学の範囲内。日本文教出版『中学社会 地理的分野』、平成23年3月30日検定版、平成25年2月8日発行、116ページ) 原油や天然ガスの輸出で、ロシアは世界でも上位の有数の国である。 旧ソ連では、資源産地が離れていたので、それらを鉄道や水運などで結びつける「コンビナート」と呼ばれる方式の工業地域を各地につくった。シベリア鉄道などを輸送(ゆそう)に利用している。
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アフリカの原住民の大半は黒人である。しかし、アフリカ北部の原住民は黒人だけとは限らない。アフリカ北部の住民には、古代や中世からアラブ系の人々やヨーロッパから移住した白人たちの子孫も多い。 「アフリカの原住民 → 黒人」(×)という先入観は、間違いである。 黒人が原住民の多くを占める地域は(アフリカ大陸の北部にある)サハラ砂漠(サハラさばく)より南の地域であり、このアフリカ南部の住民には今でも黒人が多い。 アフリカは、地域によっては砂漠(さばく)の地域もあれば、熱帯林の地域、草原の地域もある。 沿岸部を除く、北部と南部では、砂漠が多い。 アフリカ北部には、サハラ砂漠がある。 アフリカの中部を赤道が通っている。そのため、アフリカの赤道に近い地域は、標高が高いエチオピアなどの地域を除けば、ほとんどが熱帯である。 アフリカ中部のギニア湾岸やコンゴ盆地のあたりの地域は雨が多く、そのため熱帯林が多い。この熱帯林の地域の農業では、いも類やバナナなどを栽培している。 赤道から離れるにしたがって、気候が乾燥していき、風景がしだいに熱帯林から草原に変わっていく。 草原の地帯では、1年のあいだに、雨季(うき)と乾季(かんき)がある。このため、木々はあまり育たず、草原は広がり、サバンナ(サバナ)やステップなどと言われる。 ゾウやしまうま、ライオンなどが多いのは、この草原のあたりである。 そして、さらに赤道から離れると、草原から砂漠へと変わっていく。 ただし、アフリカ北西部のモロッコなどの地中海沿岸では、やや雨が多い。なので、小麦やぶどう、オリーブなどを生産する地中海式の畑作の農業が行われている。大陸の南端の沿岸部も、同様にやや雨が多いので、似たような畑作が行われている。 アフリカ北部にある砂漠で、世界最大のサハラ砂漠がある。 アフリカ北部の文化は、西アジアのアラブ地方の影響が大きい。サハラ砂漠とその北部でのアフリカ北部では、アラビア語が話され、宗教はイスラム教が信仰されている。 砂漠での暮らしも、らくだや羊などの家畜を連れて、草と水を求めて移動する遊牧(ゆうぼく)である。 なお、エジプトは、アフリカ州の北東部にある。エジプトに、ナイル川が流れている。ナイル川は、世界で最長の川である。 アフリカ北西部にナイル川があり、川の周辺では農業が行われ、なつめやし などが栽培されている。 なお、ナイル川は、上流の水源地が降水量の多い場所にあるので、エジプトの乾燥地帯を流れていても、ナイル川は1年中、かれることがない。なお、このように、上流の水源が降水量の多い場所にある、乾燥地帯を流れる川を、外来河川(がいらいかせん)という。 一方で、サハラ砂漠より南の地域では、伝統的な宗教とキリスト教が多い。言語は中央アフリカや南アフリカでは旧宗主国の公用語である英語やフランス語などが使われている国が多い。アフリカには多くの民族や部族があり、それぞれ言葉も違うため、公用語を英語やフランス語などと定めている場合が多いのである。 アフリカは16世紀ごろ、ヨーロッパに侵略され、ヨーロッパの植民地になった。原住民の黒人たちは、奴隷として諸外国に輸出され、とくに北アメリカ大陸と南アメリカ大陸に多く輸出された。 このような貿易を奴隷貿易(どれい ぼうえき)と言う。 しかし、第二次大戦後、世界的な独立運動の高まりや民主主義、民族主義の高まりにより、1950年代ごろから、次々とアフリカの国が独立した。とくに1960年に多くのアフリカ諸国が独立したので、この年は「アフリカの年」(アフリカのとし)と言われている。 ヨーロッパ各国の植民地の境界線は、ヨーロッパ諸国の都合により、緯度や経度によって国境が決められたので、アフリカの国境は直線的であった。それらの境界線が、独立後の今でも国境として残っている。 このため、一つの国内に多くの民族が居るので、民族同士の対立や、領土をめぐる対立など、紛争や内戦のある国も多い。 ガーナはアフリカ中西部のギニア湾の沿岸部にあり、高温多雨の地域であり農業がさかんで、カカオ豆の生産地として世界でも有数である。カカオ豆はチョコレートの原料となる。 コートジボワールとガーナは、世界でも上位のカカオ豆の生産地である。 コートジボワールに次いで、ガーナはアフリカではカカオ豆の生産量が多い。カカオは元々は南アメリカの作物だったが、植民地時代にヨーロッパ人がアフリカに持ち込んだ。 なお、生産量の世界1位はコートジボワール(ギニア湾の沿岸国)の全体の約30%、ガーナは2位〜3位前後で約15%。東南アジアのインドネシアも約15%である。 アフリカの農業では、綿花、コーヒー、カカオ、天然ゴムなどがさかん。 植民地時代にヨーロッパ州への輸出用に、大農場(プランテーション)が作らされた。そのため、アフリカの作物は自給用よりも、主に輸出用の、商品作物が多い。 たとえば、ガーナではカカオのプランテーションが多い。ちなみに、カカオは、植民地時代に南アメリカから(※ アフリカではなく南「アメリカ」)、ヨーロッパ人がアフリカ大陸に持ち込んだものである。 ほかの国では、ケニアで茶のプランテーションが多い。なおケニアは、第二次大戦前はイギリスの植民地だった。イギリスで茶(紅茶)がよく売れるため、ケニアで茶が大量生産されたのである。 第二次大戦後の独立後は、欧米の所有だった農場は国有化されたが、現在でも、それらの農産物が、ドルなどの外貨(「がいか」、意味:外国のお金のこと。)を稼ぐための重要な輸出品である。 国にもよるが、アフリカの多くの国で、工業が発達しておらず、貧しい国が多い。アフリカでは、人口増加がいちじるしい。 アフリカの農産物が輸出用に偏り、自給用の作物が少ない。国によっては食料不足になる国もあり、欧米や日本などの諸外国から経済援助や食料援助を受ける国もある。 アフリカは、金やダイヤモンドや銅などの鉱産資源が豊富である。植民地時代から、これら地下資源の採掘が行われ輸出されてきた。 また20世紀には、石油がナイジェリアやアルジェリアなどで採掘されている。アルジェリアやリビアなど、アフリカ大陸の北部に、石油が多い(ナイジェリアはギニア湾岸にあり、アフリカ中部の国である。)。 さらに近年は、コバルトやクロムなどの希少金属(きしょうきんぞく、レアメタル)が採掘されている。パソコンや携帯電話などの電子機器にもレアメタルは使われている。アフリカ南部に、これら金属の産出地が多い。 資源が多いのにも関わらず、アフリカ国内に高度な工業力を持たないので、あまりアフリカの工業が発展していない。教育が整備されておらず、文字を読めない人なども多い。そのため、あまり工業の労働者が育たない。 アフリカの産業は、農業や鉱産資源など、あまり高度な技術を必要としない産業に偏っており、しかも輸出用の産業に偏っている。 とくに農産物は多くの国で生産できるので、国際競争も激しい。しかも輸出用の作物の多くは、商品作物のため、アフリカ内では消費しづらく、たとえ売り値が安くても輸出せざるを得ない。このため、商品作物は価格が不安定なのが一般であり、国際市場の影響を受けやすい。 このような、輸出に偏った産業の構造のため、アフリカの労働は賃金が低く、それがアフリカの経済が発展しづらい理由の一つだろう、と考えられている。 このような、特定の産業に偏った経済のことを、また、そのために生活が貧しい経済を、モノカルチャー経済という。 南アフリカ共和国の政治では、少数の白人が、黒人を支配する政治が第2次世界大戦前から続いており、アパルトヘイト( 意味:人種隔離(じんしゅ かくり) )と言う、人種隔離の政策が取られていた。 アパルトヘイト政策のため、黒人には長い間、選挙権が無かった。住むところも人種によって決められた。人種の異なる人との結婚は、禁じられていた。 このような差別的な政策に対し黒人による差別への反対運動が続いた。国際社会の批判もあり、1991年にアパルトヘイト政策が廃止された。 そして1994年には、黒人の大統領のマンデラの政権が出来た。 法律による差別は無くなったが、満足な教育を受けていない黒人も多く、賃金の高い職につけない黒人も多いなど、なかなか上手くはいってない。 近年の南アフリカ共和国では、治安が悪化している。とくに、最大の都市のヨハネスバーグ(ヨハネスブルグ)は非常に治安が悪い。 なお、2010年には、サッカーのワールドカップが南アフリカ共和国で開かれた。 アフリカの国でも、都市化が進んでいる。首都などは工業化している国も多い。携帯電話なども都市では普及している。 その一方で、アフリカ各地で人口の増加が多い。農村でも人口の増加は多い。貧しい農村に住みきれなくなった人が、仕事などを求めて都市に移住することが増えている。しかし、都市にも仕事は少ない。また、農村出身者などは、あまり教育を受けていない人が多いので、なかなか農村出身者などが、なかなか満足な仕事につけず、仕事につけたとしても賃金が安い。 満足な仕事につけず、賃金が安く、そのため住居も買えないので、貧しい人々が勝手に路上に住んだり、スラムという公共用地などに勝手につくった住居に住んだりしている。 スラムは、移住者が勝手につくったので、水道などの公共設備は通っておらず、劣悪な環境である。 スエズ運河(スエズうんが、英: Suez Canal)はエジプトにある人口の運河で、アフリカ大陸と、ユーラシア大陸のアジア州のアラビア半島の付け根の、スエズ地峡(スエズちきょう)に位置し、地中海(ちちゅうかい)と紅海(こうかい)を結ぶ、人工の 運河である。 船舶の通行のため、スエズ運河は建設された。 1869年にスエズ運河は開通した。フランス人の土木技師レセップスが工事を指揮した。 開通から、長らくフランスやイギリスが領有を争っていて、地元のエジプトはスエズ運河を領有できなかった。しかし、1956年にエジプトがスエズ運河を国有化した。 中央アメリカにあるパナマ運河とともに、スエズ運河は、世界の二大運河(にだい うんが)として有名である。 エチオピアは、赤道の近くにあるが、標高が高いため、気候がすずしい。 エチオピアは、第二次世界大戦前からヨーロッパの植民地にされていない。エチオピアは、第二次世界大戦前からの独立国である。(※ 標高が高いことと、関連づけて、覚える。) エチオピアの農業では、コーヒーの生産がさかんである。(※ 標高が高いことと、関連づけて、覚える。) 宗教では、キリスト教徒が多い。だが、イスラム教徒の多い地域もあり、民族対立が起きている。 農業では、茶のプランテーションがさかん。 第二次大戦前の植民地時代、イギリスの植民地だった。 ケニアの公用語は、英語とスワヒリ語。スワヒリ語は、ケニアだけでなく、タンザニアなど周辺のいくつかの国でも共通語として使用されている。 ケニアの首都はナイロビである。 ナイロビは発展しているが、周辺にスラムが出来ている。 ケニア山という、アフリカのなかでも、けっこう高い山がある。このケニア山が、国名の由来である。 なお、「マサイの戦士」などとして有名なマサイ族が住んでいるのは、ケニアとタンザニアの周辺である。 エジプトはアフリカ州にある。エジプトの首都はカイロである。 ナイル川が流れている。ナイル川は、世界で最長の川である。 スエズ運河は、エジプトにある。 1971年にアスワンハイダムが建設された。 アスワンハイダムは、農業用水および、洪水の防止に利用されている。 しかし、上流から肥えた(こえた)土が運ばれなくなり、下流に悪影響が出てしまっている。 エジプトの宗教はイスラム教。エジプトの公用語はアラビア語。 ピラミッドやスフィンクスは、エジプトにある。(※ 中学地理の教科書では範囲外だが、このくらいの知識は、小学校の教科書に書いてあるので、覚えておこう。) アフリカ最南端にある国。 黒人差別のアパルトヘイトを実施していた。 トランスバールから石炭が産出する。 アフリカ北西部の端(はし)にある山脈は、アトラス山脈。モロッコに、アトラス山脈がある。 モロッコの北端から、海を隔てて、ヨーロッパのスペインがある。 このモロッコ北部とヨーロッパとのあいだの海峡(かいきょう)を、ジブラルタル海峡という。 アフリカ南部に、喜望峰(きぼうほう)がある(最南端と言われることもあるが間違い。本当の最南端はアガラス岬)。 砂漠は、アフリカ北東にあるサハラ砂漠が広くて有名である。 そのほか、リビアに、リビア砂漠がある。 また、アフリカ南部にカラハリ砂漠やナミブ砂漠がある。 エジプトの東側の、アフリカと西アジアとのあいだの海は、紅海(こうかい)という。 アフリカ大陸の南部と海を隔てて東側に、マダガスカル島があり、マダガスカルという国がある。 コンゴに、コンゴ盆地がある。 キリマンジャロ山は、アフリカで最も標高が高い。 赤道ちかくのアフリカ東部にビクトリア湖という大きな湖がある。 アフリカ大陸南部とマダガスカル島とのあいだの海峡(かいきょう)は、モザンビーク海峡(モザンビークかいきょう)という。 以下の場所が、紛争地帯になっている。 また、これら(スーダン、ソマリアの紛争など)の紛争により、多くの難民が発生している。 スーダンでは、北部のアラブ系イスラム教徒と、南部のアフリカ系住民の地域(キリスト教徒が多い)とが対立している。 2003年に、西部のダルフール地方が、アラブ系イスラム教徒によって襲撃されたため、国連がPKO部隊を派遣した。 2011年に南スーダンが独立した。 ルワンダでは、多数派のツチ族と、植民地時代の支配者であったフツ族とのあいだで内戦が発生している。 1994年、ルワンダで、大量虐殺(ぎゃくさつ)事件が起きた。 東アフリカにある、インド洋に突き出た位置にあるソマリアが、紛争の多発地帯である。 いくつかの地域で、エイズやマラリアなどが流行している。
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中学校社会 地理/北アメリカ州では、北アメリカ州の地理について説明します。 カナダ、アメリカ合衆国、メキシコからパナマにいたる北アメリカ大陸の国と、キューバなどカリブ海の国から成る。アメリカ合衆国やカナダは日本の約25倍以上の国土をもつ。 北アメリカ大陸は南北に長い。気候に関しても、赤道近くの南部と北極に近い北部では大きく異なる。北極に近い北部は寒く、寒帯または亜寒帯に属する。カナダや (アメリカ合衆国の) アラスカが寒帯または亜寒帯である。アメリカ合衆国の南部及びメキシコなど、赤道付近の大陸南部は暑く、熱帯もしくは温帯である。アメリカ合衆国の南部でハリケーンが発生することも多い。 アメリカ合衆国の気候は、アラスカを除きほとんどが温暖である。また、雨の量は東西の地域で変わってくる。 北アメリカで、最も経済力や影響力が高い国は、(英語:United States of America)アメリカ合衆国である。北アメリカ大陸の中だけでなく、世界各国で見てもアメリカ合衆国の影響力は強い。国際的な場での公用の言語として英語が使われることが多い理由の一因は、アメリカ合衆国が公用語として英語を使っているからでもある(無論、かつて世界各地に植民地を持っていたイギリスが英語で植民地支配を行ったという理由もある)。 国名は アメリカ合衆国(英語: United States of America)。アメリカと略されることが多い。U.S.A (United States of Americaの略) と略される場合もある。 アメリカ大陸のうちの北アメリカにある国の一つである。国土が広く、面積は日本の約25倍である。経済力がとても高く、アメリカは国内総生産(GDP)が世界1位である。 アメリカ合衆国には、東西にそれぞれ山脈がある。北アメリカ大陸の西には南北に長く険しい、ロッキー山脈 (英語:Rocky Mountains) がある。北アメリカ大陸の東には、アパラチア山脈 (英語:Appalachian Mountains) がある。そして、その2つの山脈のあいだに、プレーリー (英語:Prairie) あるいは グレートプレーンズ (Great Plains) と呼ばれる、中央平原などをはじめとした平原 (草原) が広がっている。このロッキー山脈が西経100度の近辺で気候に大きく影響を与え、西経100度近辺から西側では乾燥し、砂漠もある。 西側の乾燥地域での農業は、小麦など乾燥に強い作物が栽培されている。また、東部にも少し存在する乾燥地域では、畜産で肉牛なども飼育されている。 一方、東側では雨が多い。アメリカ中部の、中央平原やグレードプレーンズあたりの農業では、大豆やトウモロコシなどが栽培されている。ロッキー山脈より西側の、アメリカ合衆国の南部や南東部は温帯である。そのため、南部の農業ではサトウキビや米、バナナ、コーヒー(豆)、カカオなども栽培されている。 話をロッキー山脈に戻すが,ロッキー山脈は環太平洋造山帯 (英語:Ring of Fire) という、太平洋のまわりに多く連なっている山脈の一部でもある。一応述べておくと、日本列島も環太平洋造山帯の一部である。 アメリカ合衆国は,国土の大半が温暖な地域である。それゆえ、農業大国であり、農業輸出国としては世界最大級である。であるからして、アメリカ合衆国は「世界の食料庫」と言われている。アメリカの農業は、輸出を前提に大量生産している。そのため大規模な農家が多く、日本に見られるような小規模な農家[注釈 1]は少ない。 小麦及び大豆、とうもろこし、綿花で、アメリカ合衆国は世界最大の輸出国である。国際的な穀物の流通大手の企業のいくつかがアメリカ合衆国にあり、それらアメリカ合衆国の穀物流通の大企業である商社を穀物メジャーと言う[注釈 2]。穀物メジャーは,世界の穀物の流通や販売に対して,とても強い影響力を持つ。また、農業関係の企業には,農産物の生産にとどまらず、農産物の加工や流通,農業機械の生産や販売、農産物や農薬、肥料などの販売などといった農業に関するさまざまな産業をまとめて、アグリビジネス (英語:agribuisiness) といい、そのような事業をしている企業も多い。 アメリカ合衆国の農業は、大きな農地を、大型の機械を使って、少ない人手で耕作する農業である。種を蒔く際や農薬をまく際は、自家用の飛行機を使うこともある。また、バイオテクノロジーを利用し遺伝子を組み替えて改良した、新種の品種の農作物を栽培することにも、アメリカの農業 (の生産者) は積極的である。 アメリカ合衆国の西部の内陸部は、雨が少ないため乾燥している。このため、作物の栽培には向かず、家畜の放牧による飼育などに利用されている。 カリフォルニア周辺は、沿岸部であるがゆえに雨がやや多い気候である上,温暖である。よって、カリフォルニアでは、オレンジやブドウ、野菜などが生産されている。 もともとは先住民として北アメリカ大陸には ネイティブ・アメリカン[注釈 3] や イヌイット などの先住民族が住んでいた。 15世紀も末の1492年に、コロンブス(イタリア語:Colombo)が、ヨーロッパ人としては初めてアメリカ大陸を発見した。その後、17世紀にはイギリスなどのヨーロッパ人が移住を始め、彼ら移民が植民地を作った。ヨーロッパからの移民は、原住民から土地を奪い、開拓をしていった。住む場所を奪われた先住民族は人口が減っていった。ヨーロッパ系移民である白人が先住民族を支配した。ヨーロッパ人の開拓は、東海岸 (大西洋側) から始まり、西 (太平洋側) へと進んでいった。 その後、アメリカ大陸では、労働力のため、アフリカ大陸から黒人が奴隷として連れられてきた。特に北アメリカの南部で、綿花などの畑の労働力として多く連れられた。現在のアメリカの黒人の祖先の多くは、アフリカから奴隷として連れられた黒人である。 現在のカナダにあたる地域はフランスによって開拓され、アメリカ合衆国にあたる地域 (の大部分) はイギリスによって開拓された。そのため,現在のアメリカやカナダの文化にイギリスやフランスの影響がある。言語を例に挙げると、アメリカの公用語は英語である。しかし、カナダでは英語とフランス語[注釈 4]が公用語である。また宗教では、多くの人がキリスト教を信仰しており、宗派はプロテスタント (英語: Protestantism,Protestant) が多い。 奴隷とは別に、外国からアメリカ合衆国へ移り住んだ移民も多い。建国前より、イギリスからの移民が多いが,イギリスとは別のヨーロッパ諸国からも多くの移民がアメリカに移り住んだ。アメリカの人口の約6割の人種がヨーロッパ系である。(アフリカ系の)黒人も人口の1割程度である。また、アメリカ合衆国の人口の約1割がメキシコやカリブ海諸国などからのヒスパニック系 (後述) の移民である。 メキシコはスペインによって侵略され、開拓された。カリブ海の諸国もスペインによって開拓された国が多い。それ故、これらの国 (メキシコ以南) ではスペイン語が公用語である。これらアメリカ大陸でスペイン語を話す地域からの移民をヒスパニック (英語:Hispanic) という。野球などスポーツなどの選手では、黒人やヒスパニックも多い。 アメリカ合衆国の白人の多くは、先祖が前述したようなヨーロッパから移住した移民である。よって、イギリス系の白人がもっとも多い。アメリカ合衆国の政治を握る人種は、長らく白人に限られていた。 アメリカ合衆国は多民族国家であり、「人種のサラダボウル」と言われる。 19世紀のリンカーン大統領の時代 (1860年ごろ) に奴隷制が廃止され、黒人などの奴隷は解放された。だが、その後も権利が白人とは同じではなく、公共施設や乗り物などでは、黒人は白人とは違う扱いをうけたりなど、黒人への差別はつづいた。黒人に白人と同じ公民権が公民権法によって与えられたのは1964年である。それまでは黒人と白人の権利は対等ではなかった。 2009年に選挙でアメリカ合衆国では初めての黒人の大統領である、バラク・オバマ大統領が就任した。しかし、現在でも白人と黒人との間で経済的な格差があると指摘されている。 世界で粋をゆく最先端技術をもつ。 #地理及び気候で述べたように、アメリカ北東部には五大湖がある。そして、その五大湖近辺は鉄鉱石の産地である。そして、その南のアパラチア山脈近辺では石炭が採掘されていた。この鉄鉱石と石炭を用いて、アパラチア山脈ピッツバーグで鉄鋼業が始まった。さらに、それらを用いた自動車産業が五大湖にほど近いデトロイトで始まる。これを機として、1970年頃に至るまで、世界で最も大きな工業国だった。 ところが、1970年頃になると,第二次世界大戦から立ち直ったドイツや日本などの製品に国際的な競争力が弱まっていく。そして,それらの国の企業がアメリカに進出する動きが強まる[注釈 5]と、必然的に工場を設置しようと試み始める。それまでに多くの工場が乱立していた北東部には、人件費の面でも、スペースの面でも、もはや工場を設置する理由はなかった。そして、それらの理由を解決できる南部に新しい工業地帯が形成される。これを「サンベルト[1]」と呼ぶ。 そして、1980年代からバイオテクノロジーや情報通信産業,航空宇宙産業などがサンベルトで発展していった。この頃から、北東部の鉄鋼業などは衰えが一層激しくなる。現在、アメリカの工業はサンベルトにおける自動車産業やバイオテクノロジー、情報通信産業、航空宇宙産業とサンフランシスコ郊外の先端技術産業 (世界有数が故に「シリコンバレー」と呼ばれる) に代表されていると言える。 アメリカ合衆国の工業は世界各国の中でも、大量生産を早く成功させた。工作機械などの発明された当時は新型だった生産機械を積極的に活用し、生産工程に機械を積極的に取り入れ、それによって品質のばらつきの少ない工業部品を大量に作ることが出来るようになった。工作機械などによる生産の機械化により、部品の品質のばらつきが小さくなることによって組み立てなどの工程では分業しやすくなった。そのため流れ作業のベルトコンベアーのような生産手法を用いて大量生産をするようになった。 さらに、部品ごとのばらつきを小さくするため、工業部品の規格化が積極的に行われた。こうして、規格大量生産と言われる生産手法がアメリカ合衆国で普及し、自動車産業などで積極的に導入された。一度に大量に製品を作ることで、部品1個を作るのに掛かる費用を安くすることができるため、製品そのものの製造費を安価に抑えられる。アメリカの工業は、次第にヨーロッパとの経済競争にも勝っていき、アメリカは工業大国となった。 アメリカの生活では,生産が増えることで,消費も増えることになり、アメリカの消費生活は大量生産を前提にするものになっていった。 アメリカ合衆国の貿易は輸入額が輸出額よりも多く、貿易赤字である。機械類や石油、自動車の輸入が多い。二酸化炭素の排出量は世界の中でも比較的多い。地球温暖化を防ぐための排出量の削減には大統領がドナルド・トランプに代わって以降あまり積極的ではなくなり、2019年にはパリ協定から離脱した。 アメリカ合衆国の大企業には、海外に多くの子会社や関連企業を持つ多国籍企業(英語:multinational corporation,MNC)も多い。 大手コンピュータ企業やインターネット通信会社、ファストフード店、洗剤の生産で知られる企業など、日本にも多くの多国籍企業が進出している。 世界の石油の流通は、いくつかの大企業に強く支配されている。その石油の流通を支配している大企業を「石油メジャー」または「国際石油資本」と言う。 生活水準は、貧富の格差が大きい。スラムが発生している都市も多い。富裕層 (金に余裕のある世帯) は、都市の中心部の老朽化した建物から、郊外の広い家に住むようになり、都市の中心部では家賃が下がる。すると、そこに貧困層が入ってくるようになり、スラムを形成するため、様々な問題が発生している。これをインナーシティ問題という。 近年では,そこの再開発が進められてオフィスビルや高層マンションなどの建物が次々と建設され、市街地が高級化されている。そこへ富裕層が再び住むようになっているが、これをジェントリフィケーションという。その裏では、再開発のために追い出されてしまった貧困層のホームレス化などの問題も発生している。 モータリゼーションが進んだ現在のアメリカでは自動車が普及しており、多くの高速道路が主要都市を繋いでいる。 自動車を前提としている住宅街などでは,住宅地と商店街が離れている場合もあり、自動車が無いと買い物にも行けずに生活が成り立たない場合もある。また、アメリカのスーパーなどでは、日本よりもサイズが大きいものが販売されているので、大量の荷物を運ぶために自動車は欠かせない。 都市と都市との間が離れているので、アメリカでは空港も多い。 衣服のジーンズやTシャツは、もとはアメリカでの労働者の衣服である。 工業や農業、軍事などの、アメリカの世界各国への影響力の強さと同様に、{{ruby|娯楽などの文化などでも影響力が強い。アメリカの映画産業は、カリフォルニア州のロサンゼルス市にあるハリウッドが著名であるが、ハリウッド映画は世界的にも影響力が高い。なぜなら、アメリカの映画は世界中に輸出されている。映画のストーリーなども,輸出することを前提にしてどこの国にでも人気になりやすいような単純化したストーリーである場合が多い。 また、ファストフード店はアメリカ発祥の文化である。日本にも出店しているある大手ファストフード店の本社はアメリカ合衆国にある。 音楽のジャズは、アフリカ音楽とヨーロッパ音楽の両方の文化をもとにして、アメリカで生まれた音楽である。 スポーツの野球は、まずアメリカで普及し広まった。そのため、アメリカの影響を強く受けた国 (主に太平洋に面した国) で人気な場合が多い。また、バスケットボールもアメリカを発祥としたスポーツである。 ショッピングセンターやコンビニエンス・ストアも、元をたどればアメリカに行きつく。ただしコンビニエンス・ストアは,日本に進出された後、日本で独自の発展をして、今では日本のコンビニの方式がアメリカなどにも輸出されている。また、コーラもアメリカから広がった飲料である。 産業革命のころから、イギリスの国際的な影響力が強くなり(多くあった植民地を英語で支配したため)、そのころから英語が国際的な公用語になりだした。 江戸時代生まれで明治時代の偉人である福沢諭吉は、江戸時代には日本はオランダ経由で洋書を輸入していたので、洋書を読むためオランダ語を学んでいた。だが、明治時代になり海外の情報が多く入ってくるに連れて、英語が国際的に普及していることを知り英語を学び始めたという。 現在では、国際会議などの国際的な場での公用語は英語が多い。これらの理由は、アメリカの経済力によるものだけではない。英語はヨーロッパのイギリス以外の言語の、フランス語やドイツ語などと比べて、文法が簡単なので学習しやすい。そのような事も,英語が普及した理由の一つであろう。 ともあれ、英語が国際的に普及していることもあり、アメリカやイギリスでの出版や報道などの言論は、国際的にも普及しやすい。 アラスカとハワイも,アメリカ合衆国の領土である。 五大湖とは、スペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖の5つである。五大湖のうち、最も北及び西にあるのがスペリオル湖である。さらに、スペリオル湖が最も面積が広い。スペリオル湖の南にミシガン湖がある。 アパラチア山脈の南部にある半島、アメリカ南東部にある半島は、フロリダ半島という。 フロリダ半島とメキシコとの中間あたりにある大きな川が、ミシシッピ川である。また、ミシシッピ川の周辺の平原が、中央平原である。 アメリカ南部の海のメキシコに囲まれた湾は、メキシコ湾。 ロッキー山脈は、カナダ西部からメキシコまで続いている。 世界で2番目に国土が広い(1番はロシア)。 カナダの最大の貿易相手はアメリカ合衆国である。カナダの農業は、アメリカと比べると小規模であるが、小麦の栽培が盛んである。 公用語は英語とフランス語である。国民の多数はイギリス系の住民であり,国民の多数は英語を話す。ケベック州ではフランス系の住民も多く、フランス語が使われている。 気候は、亜寒帯 (冷帯) と寒帯に属している。気候が寒いため、人口密度は低い。 17世紀にフランスに植民地にされ,19世紀にはイギリスの植民地にされた。人口分布は東部に集中している。先住民はイヌイットや、ネイティブ アメリカンである。現在のカナダ経済では、ヨーロッパ系の白人が経済の中心である。ケベック州ではフランス系の住民が多く、カナダからの分離独立を掲げる運動も多い。1999年にはイヌイットが多く住む北部地域にイヌイットの言葉で「自分たちの土地」を意味する名の ヌナブト準州 が発足した。 農業では,小麦の生産がさかんである。品種は春小麦である。春小麦とは、春に種を蒔き秋に収穫する小麦のことである。一方、冬に種をまき、翌年の夏に収穫する小麦を冬小麦と言う。春小麦は、冬を越す前に収穫できるので、寒い地域でも育てやすい。そのため、カナダなどの寒い国での小麦の栽培は、春小麦である。 また,五大湖の周辺地域では酪農がさかんである。 鉱産資源にも恵まれており、ニッケルや鉄鉱石,石油,亜鉛,銀などを産出する。アメリカ合衆国との経済的な結びつきも強く、アメリカ合衆国及びカナダ、メキシコの3カ国は北米自由貿易協定(略称:NAFTA)を結んでいる。 沿岸部が共に世界有数の漁場である太平洋及び大西洋であるが故に、水産業も盛んである。特にニシンやタラ、さけなどの漁獲量が多い。 森林も多く,林業も盛んである。そして、パルプや紙の生産も多い。国土の3分の1をタイガと呼ばれる針葉樹林が占めている。 メキシコやキューバ、ハイチなどのカリブ海諸国のことをまとめて、「中米(英語:Central America)」もしくは「中央アメリカ」などと呼ぶ。「中央アメリカ」と言っても、アメリカ合衆国の内陸部のことではないので間違えないように。 これら中米の地域の多くは、16世紀頃からスペインに侵略され植民地にされた国が多く、従って、中米諸国の公用語ではスペイン語を公用語にしている国が多い。また、主な宗教はキリスト教である国が多い。また,主な人種もスペイン系の白人との混血 (「メスチソ」と言う) である国が多い。アメリカ合衆国やカナダと異なり、中米諸国では、あまり白人そのものの数は多くない。 工業は,国にもよるが,あまり高度な技術を要する工業は発達していない。特に、カリブ海の小さな島国では、農業以外の産業として観光業などを主な産業にしている国もある。経済的には、アメリカやカナダと比べると大変貧しい。治安も非常に悪い。 メキシコやキューバ、ブラジル、アルゼンチンなどには、スペインやポルトガルなどのラテン系ヨーロッパ人が入植し侵略し開拓していったため、これらメキシコやキューバなど地中海諸国及び南アメリカ大陸の諸国を合わせ「ラテンアメリカ」と呼ばれている。 ラテンアメリカに対し、アメリカ合衆国とカナダには、アングロサクソンが多いので、アメリカ合衆国とカナダのことを「アングロアメリカ」という。 カリブ海諸国の気候は熱帯である。アメリカ合衆国南部にあるフロリダ半島も地理的に近く、フロリダ半島の気候も、熱帯である。 古くからの文明の遺跡などが残っている。かつてメキシコの地には、13世紀頃までマヤ文明 (英語:Maya civilization) があり、16世紀頃までアステカ文明があった[注釈 6]。アステカ文明はこの地に植民を始めたスペイン人によって滅ぼされた。それ以降、メキシコは長らくスペインの植民地だった時代がある。 経済的には、アメリカやカナダと比べるとあまり豊かでなく、そのためアメリカに不法入国する者も多い。メキシコの公用語はスペイン語である。他の多くの中米諸国も公用語にスペイン語を用いていることが多い。アメリカ合衆国やカナダと比べると、メキシコの治安はとても悪い。麻薬組織など違法集団の勢力もメキシコでは強く、米国などに麻薬などが密輸されている。 現在の経済では、アメリカやカナダとの経済的な結びつきも強く、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコの3カ国は北米自由貿易協定を結んでいる。 メキシコはNIESと呼ばれる,新興工業経済地域の1つである。 中米諸国の中で見れば、メキシコでは工業が盛んである。20世紀前半より工業化が進んでおり、自動車や製鉄、家電製品の生産などが盛んである。 カリブ海にある島国の一つ。1959年に革命 (キューバ革命) により社会主義国となって、キューバはソビエト連邦の陣営に加わった。そして、アメリカ合衆国と対立していた。革命の指導者は、カストロやチェ・ゲバラなどの人物である。 革命後のキューバの経済では、ソビエト連邦の計画経済を手本にしたため、キューバの経済は市場経済を否定し、それまでの企業は国営化された。冷戦終了後の今でも社会主義国である。ソ連の崩壊後、ソ連からの援助が無くなったため経済が悪化している。 キューバの農業は サトウキビ の生産がさかんであり、砂糖が重要な輸出品になっている。砂糖以外にあまり輸出できる産業がなく、モノカルチャー経済に陥っている。 社会主義の為、医療費や教育費は無料である。社会主義が故に経済格差は少なく、治安は良いとされる。 パナマには,「パナマ運河」という運河がある。太平洋と大西洋をより短く結ぶために建設された。かつてはアメリカ合衆国が管理していたが、1999年にパナマに返還された。 また、運河があるため、海運業がさかんである。パナマでは海運業を盛んにするため、船舶に関する税金が安くなっており、そのため外国の海運会社が船の船籍をパナマで登録することも多い。このような船をべんぎ ちせきせんという。パナマは便宜置籍船の船籍が置かれる国として有名である。 その他にも、中米には多くの国がある。 などの国がある。
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南アメリカの国の数は、12 カ国である。 16世紀ごろからスペインやポルトガルの侵略によって、それらのヨーロッパの国の植民地になった歴史がある。 そのため、多くの国では公用語がスペイン語。ただしブラジルではポルトガル語が公用語。 人種は混血が進んでいる。主に先住民と、ヨーロッパ系の白人と、アフリカ系の黒人との混血がある。 先住民は「インディオ」などと呼ばれている。ヨーロッパや北アメリカの国は、南北アメリカ大陸の先住民を「インティオ」と呼んでいる。この呼び方になった理由は、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸に植民をしはじめたころ、ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸をインドだと勘違いしたことによる。 古代や中世には、先住民がインカ文明やマヤ文明などを築いていた。 アメリカ大陸の黒人の先祖は奴隷としてアフリカ大陸から連れて来られ、農場や鉱山の労働力として働かされた。 先住民とヨーロッパ系との混血はメスティーソ(スペイン語:Mestizo、ポルトガル語:Mestiço)(あるいはメスチーソと表記。スペイン語などで「混血」という意味。)と呼ばれ、南アメリカの各国にいる。ちなみに白人と黒人との混血をムラートという。 スペインやポルトガルの影響が強く、そのためキリスト教が多い。また南アメリカで多いキリスト教の宗派は、スペインやポルトガルでカトリックという宗派が多いのと同様に、南アメリカでもカトリックが多い。 このように、ヨーロッパ南部のスペインやポルトガルなどのラテン系ヨーロッパと、南アメリカ州(およびメキシコ)とは共通点が多いこともあり、よって南アメリカ州およびメキシコのことをまとめてラテンアメリカともいう。 南アメリカ大陸の気候は、熱帯から寒帯まで、さまざまである。 南アメリカ大陸の北部を赤道が通っている。 気候は赤道に近い北部は熱帯であり、高温で雨も多く、熱帯雨林が多い。世界の熱帯林の、およそ3分の1が、南アメリカ州にある。 赤道からはなれ、南に行くにつれて気温は下がり、雨も少なくなっていき、草原になっていく。 ただし、赤道近くでもアンデス山脈の高地では標高が高いため気温は下がり、涼しく、アンデス山脈の気候は高山気候である。 大陸の南端は寒帯である。 南アメリカ大陸のほとんどの地域の気候は、熱帯気候である。 太平洋岸近くに、アンデス山脈があり、南北に長く約1万kmも(地球の全周は約4万km)、アンデス山脈は伸びている。アンデス山脈の標高は5000m〜6000m級である。 赤道近くの大陸北東部にアマゾン川という長い川があり、東西方向に長く流れている。アマゾン川は南アメリカ大陸で最も長い川である。アマゾン川の流域面積は世界最大である。 熱帯林の多くは、このアマゾン側のあたりにある。アマゾン川流域の熱帯林のことを「セルバ」と言う。 大陸の北東部にギアナ高地があり、大陸の東部にブラジル高原がある。アマゾン川が流れている場所は、それらの間の低地であるアマゾン盆地に、アマゾン川が内陸の西から東の海岸方向へと流れているのである。熱帯林は、アマゾン盆地のあたりに広がっている。 このアマゾンの熱帯林が、近代の19世紀ごろから、農地の開拓などのために森林が伐採されており、世界各国から森林破壊のおそれが考えられている。特に第二次世界大戦後、ブラジルが開発のため、アマゾンの熱帯林の地域の開拓をすすめたので、開拓のための森林伐採が多くなった。 ブラジル高原の中央部は乾燥している。 いっぽう、アンデス山脈とブラジル高原との間には、別の大きな川が北から南に流れており、ラプラタ川と言う。ラプラタ川の下流域のアルゼンチンあたりには草原が広がり、そのラプラタ川の下流域の草原をパンパと言う。パンパの気候は温暖湿潤気候やステップ気候であり、パンパの農業では、小麦の栽培や肉牛の放牧などが、さかんに行われている。 ブラジルは、数十年前まではコーヒー豆に頼ったモノカルチャー経済の国だったが、最近は開発が進み他の農作物などもとれるようになった。(大豆など) 中部の大西洋側に、ブラジルという広い国がある。 ブラジルでは工業が発達している。自動車や航空機もブラジルで生産されている。航空機では世界4位の生産量である。 ブラジルの面積は、南アメリカの面積の半分近くであり、世界でも第5位の面積である。人口も多く約1億8000万人である。 かつてポルトガルの植民地だった。(16世紀にポルトガルの植民地になった。) 都市化も進んでいる。人口の増加が速すぎて、水道などの整備が追いつかず、都市部ではスラムも発生している。 国土の多くが熱帯林であり、アマゾン川のほとんどもブラジルを流れている。そのためブラジルの開発が、アマゾンの熱帯林の森林破壊をともなってきたという問題もある。20世紀後半には、アマゾン盆地を横断する大きな道路を作るために森林を伐採したり、農地や牧場を作るために森林を伐採するなど、熱帯林の大規模な伐採も行われた。 熱帯林が、先住民のすみかであり、動植物のすみかでもあるので、それらの保護の観点からも、熱帯林の森林伐採が不安視されている。 ブラジル政府は、近年、熱帯林の開発方針を変え、森林保護を行う方針に変わった。 熱帯林での伝統的な農法は、焼畑農業である。   アマゾン川が流れ流域が広いのが特徴である。 ブラジルの国民の所在は、多くがサンパウロやリオデジャネイロなどの大都市に集まっている。なお、ブラジルの首都はブラジリアであって、サンパウロではない。 南アメリカ州の都市の多くは、おもに大西洋側の沿岸部にある。 都市のスラム化はブラジルだけでなく、ペルーなど他の多くの国でも起きている。 ブラジルの農業を代表する農産物は、コーヒー豆である。ブラジルはコーヒー豆の生産量で世界1位である。ちなみに同じく南アメリカ州にあるコロンビアという国が、コーヒー豆の生産量が世界3位である。 ブラジルの農業では、植民地の時代からプランテーションで、さとうきび を作ってきた。やがて、コーヒーも栽培するようになった。こうして さとうきび とコーヒーが、ブラジルを代表する農産物になった。しかし、これだけだと、輸出品の農産物の種類が少なく、不景気の影響を受けやすい。 このような、特定の産業にかたよった経済のことを、「モノカルチャー経済」という。 ブラジル政府は近年では農業の多角化をすすめた。こうして、コーヒーと さとうきび 以外に綿花、カカオ、大豆、たばこ、とうもろこし、オレンジなどを栽培するようになった。 さとうきびから、バイオ エタノール(バイオ燃料)を作る産業もさかんである。 バイオエタノールは石油と違い、有限の地下資源で無いことが注目されています。また、植物は大気中の二酸化炭素を光合成により吸収しているので、バイオエタノールを燃やしても、吸収したぶんの二酸化炭素が排出されるだけで、差し引きが変わらないので、地球温暖化の防止の観点からも注目されています。二酸化炭素は地球温暖化の原因の物質と考えられています。 しかし、さとうきびを新たに栽培するための農地はどうやって確保するのかという問題があります。既存の森林を切り開いて、さとうきび畑に変えるのが現実的な例です(※ 帝国書院の2022年の教科書の見解)。この場合、既存の森林には保水や土壌の維持の役割があるのですから、その森林を開いて畑に変えることは保水力の低下につながり、実際に土壌の流出も実際にたびたびブラジルでは問題になっています(※ 帝国書院の見解)。 ブラジルでは肉牛の生産もさかんであり、世界2位である。アルゼンチンは世界4位の肉牛生産量である。ブラジルとアルゼンチンが、南アメリカでの代表的な肉牛生産国である。ちなみに世界1位はアメリカ合衆国で、世界3位は中国である。 牛や豚や馬は、ヨーロッパ人が南アメリカに持ち込んだ。もともと、牛や豚や馬は南アメリカには住んでいなかった。 焼畑農業という、森林を伐採して、またはやしての繰り返しをしながら行う農業。 ブラジルには日系人(にっけいじん)が約150万人ほど暮らしている。20世紀の初めごろの1908年から日本からブラジルへの移民が始まった。当時の日系移民の仕事の多くは農作業であり、コーヒー農園やカカオ農園などで重労働をしていた。現在のブラジルの日系人は、かれら日系移民の子孫であり、日系2世〜6世くらいなどである。(2世は第二次大戦後などの近年に移住した人の子孫。) ブラジルのサンパウロには日本人街もある。 最近はブラジルから日本に出稼ぎ(でかせぎ)にくる人も多く、日本国内の自動車工場などで働いている。 日本人街は、近年では中国人や韓国人などの移民が増えており、東洋人街になっている。 ブラジルで有名な行事で、リオのカーニバルがあり、リオデジャネイロで行われている。カーニバルとは、もともとキリスト教の謝肉祭(しゃにくさい)という行事である。だが、ブラジルのカーニバルでは、このキリスト教の謝肉祭に、アフリカなどの祭りが結びついて、独特の祭りになっている。もともとのヨーロッパのカーニバルとは、かなり違った祭りになっている。 南アメリカは、鉄鉱石や銅などの地下資源も豊富である。ブラジルで鉄鉱石が取れ、チリで銅が取れ、ベネズエラでは原油が取れ、それらの国の重要な輸出品になっている。 アンデス山脈の高地には、先住民の多い都市がある。これは、もとから先住民が高地に住んでいたのであり、標高が高いため他の所よりは他の国の侵攻が遅かった。標高の高い高地は気候がすずしいので、古代から都市が発展していた。インカ帝国などの古代文明が、古くはアンデス山脈に存在していた。インカ帝国は16世紀に侵入してきたスペインによって、滅ぼされた。 文化では、南アメリカ州ではヨーロッパの影響も強い。 スポーツでは、南アメリカ州で全体的にサッカーが人気である。 音楽の曲の「コンドルは飛んでいく」という曲は、もともと南アメリカの音楽。 サッカーの強豪国。 1995年に発足(はっそく)した関税引下げの協定であるメルコスール(南米南部共同市場、MERCOSUL)という協定を、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイの4か国が結んだ。(※中学の範囲内。教育出版の教科書に記述あり。「MERCOSUL」の綴りも、教育出版の教科書では写真で紹介している。) 現在は、さらにベネズエラがメルコスールに加盟している。つまり、現在の加盟国はブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ベネズエラの5か国である。 インカ文明は、アンデス山脈のペルーあたりに16世紀まで存在した文明であり、インカ帝国が支配していた。16世紀に、インカ帝国は、スペインから派遣されたコンキスタドール(征服者)のピサロに滅ぼされた。 ナスカの地上絵も、ペルーにある。(※ インカ文明、ナスカ地上絵ともに、中学地理の範囲内。日本文教出版の教科書に記述あり。) マチュピチュ遺跡があるのも、ペルーである。(※中学の範囲内。教育出版、日本文教出版、東京書籍の教科書に記述あり。) なお、「マヤ文明」と「アステカ文明」は、メキシコの古代文明なので、混同しないように。 生物学者のダーウィンが進化論を発見するキッカケにもなった ガラパゴス諸島 は、南アメリカ州にある。(※中学の範囲内。日本文教出版の教科書に記述あり。) ガラパゴス諸島の生物は、大陸から遠く離れているため、生物が独自の進化をとげており、その発見が進化論の発想に影響をあたえた。
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オセアニア州(Oceania)で中心的な影響力を持っている国は、オーストラリア(Australia)である。オーストラリアが政治的かつ経済的に中心になっている。 現在ではオーストラリアの人口では白人が多い。オーストラリアの先住民は、白人では無いアボリジニ(Aborigine)であるが、18世紀にイギリス人が侵略し植民を始めて、オーストラリアはイギリスの植民地となった。20世紀はじめにイギリスから独立したが、引き続き、第二次大戦おわりまで、白人を中心とした政治が行われた。 アボリジニの人口は、オーストラリアの人口のうち約1%である。 オーストラリアの気候は、乾燥帯がほとんどであり、乾燥している。 オーストラリア大陸の内陸部には砂漠や草原が多い。ただし南東部の海岸は雨が多く、そのため都市や農地も、これらの地域に集中している。 オーストラリアの大都市であるシドニーやメルボルンも大陸の南東部にある。ちなみに首都はキャンベラ(英:Canberra)である。 オーストラリアから南東の海に、ニュージーランド(英語: New Zealand)という島国がある。ニュージーランドの気候は温帯である。ニュージランドの先住民はマオリ(Māori)と言う。 オーストラリアの大陸北部の気候も熱帯であり、海岸沿いは降水量が多い。 オーストラリアの北にある、太平洋の諸島の気候は、おもに熱帯であり、降水量も多い。 オーストラリアから北の海に、やや大きめの島でニューギニア島があり、このニューギニア島の東部にパプアニューギニア(英:Papua New Guinea)という国があり、この島の気候は熱帯であり、雨も多い。ニューギニア島の西部はインドネシア領である。 ニューギニア島および周辺の島々をメラネシア(Melanesia)という。 一方、グアム島などの太平洋の北西部の島々をミクロネシア(Micronesia)という。ニュージーランドやハワイ諸島など、太平洋の東部にあると分類されている島々をポリネシア(Polynesia)という。ミクロネシアとポリネシアの境界線は、おおむね、日付変更線である。 気候については、おもな気候は熱帯である。オーストラリアよりも北の、オセアニア州の太平洋の島々の、おもな気候は熱帯である。 オセアニア州の小さな諸島には火山でできた火山島(かざんとう)、あるいは、サンゴ礁で出来た島が多い。 たとえばハワイ諸島(英:Hawaiian Islands)は火山島である。 火山島は、山がちなので、島に斜面が多い。土地も肥えていて、農業がしやすい。 いっぽうサンゴ礁で出来た島は、あまり土地が肥えておらず、農業に向かない。 ニューギニア島から、やや離れた東の海に、ソロモン諸島がある。オーストラリアから見て北東方向にソロモン諸島(英:Solomon Islands)がある。 オーストラリアの貿易では、輸出品には農産物や鉱産資源が多い。アメリカやドイツなどのような他の先進国とくらべて、オーストラリアでは機械製品などの輸出は、あまり多くない。 オーストラリアでは鉱産資源が多く、鉄鉱石や ボーキサイト(アルミニウムの原料、英:bauxite )や石炭などの資源が豊富である。 これら鉱産資源の輸出先は、主に日本や中国、韓国である。 これら鉱産資源の採掘方法は、地面を、あたり丸ごと掘っていく 露天掘り(ろてん ぼり、英:Open-pit mining) という掘り方で掘っている。 農業では、小麦の栽培や、牛や羊の放牧がさかんである。羊は 羊毛(ようもう) を入手するために飼育している。牛は牛肉用である。日本で言う「オージー・ビーフ」(英: Aussie Beef) はオーストラリア産の牛肉のこと。 羊毛の生産量は世界2位で、羊の数は、およそ7,309万頭いる。オーストラリアの人口の約895.6万人 (2021年)より、羊の数のほうが多い。 オーストラリアは南半球にあるので、季節が北半球とは反対である。この季節の反対を利用して、小麦の栽培では、北半球で生産が少ない時期に、オーストラリアでは生産して、輸出している。 日本とも、貿易の関係が深い。近年の貿易の輸出相手は中国や日本、アメリカが輸出先の上位である。 第二次大戦までは、イギリスの植民地が世界に多かったこともあり、イギリスとのオーストラリアの貿易が多かった。 第二次大戦までは、白人を中心とした国づくりを目指しており、そのためイギリス系以外の移民を閉めだしていた。 20世紀のはじめ頃、オーストラリアで金鉱が発見され、ゴールドラッシュにより中国系の移民が増え始めた。中国系の移民によって、白人の仕事がうばわれたり、中国式の生活が広まったりしたので、それに対する白人の反発から、アジア系の移民も閉めだされるようになった。 このようなことから、イギリス系以外の移民を閉めだすようになった。このような政策は 白豪主義(はくごうしゅぎ、英: White Australia policy) と言われた。 だが、労働力の不足などから、この方針を1970年ごろから変えて、ヨーロッパ系の移民やアジア系の移民などを入れ始めた。現在では多文化主義の政策を取っている。 近年ではアジア系の移民が多く、中国系や韓国系の移民が増えている。 先住民のアボリジニについても、現在はアボリジニの文化を保護する政策が取られており、先住民の土地の権利の回復なども行われている。 ニュージーランド(英語: New Zealand)の位置は、オーストラリアから南東の方向の海にある。大きな島が北と南にある(北島と南島)。 先住民族はマオリ族で(Māori)ある。ニュージーランドの人種の構成は、ヨーロッパ系の白人がやや多い。 羊の飼育がさかん。人口(約420万人)よりも、羊の頭数のほうが多い。 オーストラリアと同様に、羊や牛を飼育がさかんである。 羊は、羊毛や羊肉を生産するために飼育している。牛は牛肉の生産のためである。北島で酪農用の乳牛の飼育がさかん。 南島では、島の東西で気候が異なる。島の南北に長い、サザンアルプス山脈(Southern Alps)があり、東西を分けている。偏西風により、島の西側ではしめった風が来るので、島の西側は雨が多い。 島の東側は、やや乾燥しているが、オーストラリア内陸部とは違って砂漠になるほど乾燥しておらず、島の東部は草原などが多い。 雨の少ない、南島の東側では、羊の飼育がさかんである。 なお、ニュージーランドやハワイ諸島など、太平洋の東部にあると分類されている島々をポリネシア(Polynesia)と言う。
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「熱帯」と聞いて、あなたが想像するのは、たとえば、「熱帯雨林」などと呼ばれる、うっそうとしたジャングルかもしれません[1]。また、サバンナが思い浮かんだ人もいるでしょう。 いっぽう、アフリカや中東などの砂漠などの気候も、昼間は暑いです。砂漠のような、雨のすくない地域を、「乾燥帯」といいます。 では、「熱帯」と「乾燥帯」のちがいは、何でしょうか? それは、雨の降る量です。 これは、地理学者であるケッペンが考えた分類法です。 世界中の地理学で、このケッペンの考えた分類法が使われています。 現在、ケッペンの考えた、植生による「熱帯」「乾燥帯」の分類法においては、地球上では例外は見つかっていません。 「植生が多く、乾燥している場所は、どうなるのか? 「乾燥帯」なのか?」などと思うかもしれませんが、そのような場所は、地球上には見つかっていません。 1884年にロシア生まれのドイツ・の気候学者ウラジミール・ケッペン(1846-1940)によって初めて発表されました。 その後ケッペンは1918年と1936年を中心に何度か修正を加え、気候学者のルドルフ・ガイガー(1894-1981)が分類体系にいくつかの変更を加えたため、ケッペン・ガイガー気候分類体系と呼ばれることもあります。 ケッペンの気候区分では、気候を5つの主要な気候グループに分け、各グループは季節的な降水量と気温のパターンに基づいて分けられています。 5つの主なグループは、A(tropical: 熱帯)、B(dry: 乾燥)、C(temperate: 温帯)、D(continental: 大陸)、E(polar: 極地)です。 各グループとサブグループは文字で表されています。 すべての気候は、メイングループ(最初の文字)に割り当てられています。 Eグループを除くすべての気候には、季節性降水量のサブグループ(2文字目)が割り当てられています。 例えば、Afは熱帯雨林気候を示し、Cfbは、末尾のbで示されるように、夏が暖かい海洋性気候であることを示します。 ケッペンは植物学者としての経験に基づいてシステムを設計したため、主な気候群は、与えられた気候分類地域でどのような種類の植物が生育しているかに基づいています。 熱帯とは、年中あつくて、森林のある気候のことです。 具体的には、ハワイなどの太平洋の島や、東南アジアの国々の気候が、熱帯です。 また、南アメリカ大陸の、アマゾン川流域の、赤道に近い地域にも、熱帯があります。 ほかにも、アフリカ大陸のギニア湾岸の赤道近くの地域にも、熱帯があります。 このように熱帯は、赤道ちかくの場所にあることが多いです。 全熱帯地域は、雨がよく降ります。そのため、熱帯雨林が広がっています。 一年のうち、月日によっては、「スコール」などと呼ばれる、短時間に強い雨が、よく降ります。 農業については、熱帯では雨が多くて温度が高いので、米を栽培しようと思えば、栽培できるでしょう。 しかし、東南アジア以外では、米の栽培は、あまり、さかんではないようです。 熱帯で、米をつくらない地域では、タロイモやキャッサバ、ヤムイモなどを主食として栽培していたりします。 キャッサバは、イモ類です。代表的な加工品に タピオカ があります。 なお、東南アジアでも、タロイモ、キャッサバ、ヤムイモなどを栽培しています。 バナナやマンゴー、グアバなどの果物も、熱帯では栽培されることも多いです。 フィリピン産のバナナが、日本でも有名ですが、フィリピンも、熱帯に含まれます。 熱帯には、サトウキビやココヤシなども栽培している国や地域もあります。ココヤシの実は、脂肪分が豊富で、マーガリンや石鹸などの原料になります。 ココヤシの実を乾燥させたものをコプラといいます。ココヤシの油が、フィジーの輸出品になっています。 フィジーでは、自然由来のものでは、サトウキビから作られる砂糖と、ココヤシの油が輸出品になっています。 熱帯での食肉用の家畜には、おもに、「ぶた」 や 「ニワトリ」を飼育していることが多いです。 熱帯雨林には、動物もすんでいます。 東南アジアの熱帯雨林には、オランウータンなどが生息しています。 ツバルやフィジーなど、熱帯の島国では、島の周辺に、サンゴ礁 が見られます。 また、海のちかくの森林では、マングローブといわれる、海水でも育つことのできる、特有の木が、みられます。
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ケッペンの気候区分によると日本の大多数の地域[1]を含む地球の中緯度地方のことを温帯という。 四季がはっきりしていて1年を通して温かい。 温帯は に細分される。
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世界の国々には一年を通して暑い国もあれば、夏でも日本の冬と同じぐらいの気温にしかならない国など様々だ。また、砂漠のようにほとんど雨の降らない国や、逆に一年中たくさん雨が降る国、他にも季節によって雨の多い時期と少ない時期のある国とさまざまな特徴がある。 降水量の平均的な状態を捉えて特徴付けたものを気候という。ここでは、世界の気候を見ていこうと思う。なお、一部発展的な内容の用語もある。無理に覚える必要はないが、知っておくと大変便利なので、できればそちらも見てほしい。 世界の気候については一般的に、ドイツの気候学者ケッペンが植生に注目して気温と降水量から区分したケッペンの気候区分が用いられる。この正確な内容については高校地理Bで習うが、中学校では以下のことを理解してもらえれば十分である。 気候は大まかに5つに分かれ、寒帯気候、亜寒帯気候、温帯気候、熱帯気候、乾燥帯気候がある。 この5つの気候は降水量を元にしてさらに細かく分けられる。 たとえば熱帯気候は、一年中降水量が多く森林の多い熱帯雨林気候と、雨の多い時期と雨の少ない時期の差が大きく木々のまばらなサバナ気候に分かれる。 本記事では、まずは5つの大まかな気候から説明する。 温度のもっとも低い寒帯気候、その次に温度の低い亜寒帯気候、温度のそれほど暑すぎもなく寒すぎもない温帯気候、気温が高く雨の多い熱帯気候などがある。 乾燥帯である砂漠では、普通温度が高い。だが、必ずしも乾燥帯で温度が高いとは限らない。内陸の草原地帯などは、雨が少ない地域では乾燥しているが、温度は砂漠ほどは暑くない場合もある。 乾燥帯であるかの有無は、雨の量などが関わってくるので、涼しくても雨が少なければ乾燥帯でありうる。 この他の気候もある。地域の特性によって、様々な気候がある。 たとえば南アメリカ大陸のアンデス山脈など、標高の高い地域での気候で、高山気候がある。 標高が100m増えるごとに、気温が0.6度ほど下がる。このため、標高が高いほど寒い。 熱帯は、一年中、暑くて雨が多い。地域によって、雨季と乾季がある。日射量が多いため、もっとも寒い月でも平均気温が18度を下回ることがなく、一年を通して気温の変化がほとんどない。そのため、四季ははっきりしない。一年中高い気温のため、上昇気流が発生して低気圧が生まれる。この低気圧が大量の雨をもたらすため、降水量も多い。 分布場所は、おもに、赤道から北回帰線・南回帰線の間にいる。熱帯の場所では、インドネシアなどの東南アジアの島々の熱帯雨林や、南アメリカ大陸のアマゾン川の流域の熱帯雨林や、アフリカ州のケニアの草原(サバナ)などがある。 熱帯は2つに分かれる。年中、雨が多く、森林が多く広葉樹のしげる熱帯雨林気候が一つ。もう一つは、雨季と乾季があり、木々はまばらで、草地(サバナ)の多いサバナ気候にである。長い草が多くなる。 熱帯での農業では、米やカカオ(チョコレートの原料)や綿花など、成長期に多くの雨や水を必要とする作物が作られる事が多い。 赤道直下の地域に分布していて年中多雨で気温の年較差は少ない。午後からはスコールと呼ばれる激しい雨が降る。数十メートルの高さまでになる多種類の熱帯性植物がうっそうと茂っておりこのような森林を熱帯雨林(tropical rainforest [1])と呼ぶ。 一年を通して高温多湿となるので、人々の衣服や住居は湿気を上手く逃がすようなものになっている。たくさんの雨が降るためにラテライトと呼ばれる鉱石の混じったやせた赤土に地面が覆われ、農業には向かない。しかし、焼畑農業によって、キャッサバやタロイモ、ヤムイモの生産が伝統的に行われてきた。現在はプランテーションによる天然ゴム・アブラヤシ・カカオの生産も盛んに行われているが、もともと農業に向かない土地であるため、プランテーションによる農業が熱帯雨林の破壊をもたらしている面もある。 この気候に属する、主な都市はシンガポール(シンガポール)、ジャカルタ(インドネシア)、クアラルンプール(マレーシア)である。 南回帰線から北回帰線の間の多くの地域に分布する。夏は雨の多い雨季となるが、冬は雨の降らない乾季になる。丈の高い草原の中に乾燥に強い樹木がまばらに生える、サバナとよばれる草原が多く見られる。 人々の生活や農業は熱帯雨林気候と大体同じだが、ガンジス川の河口のバングラデシュや、メコン川流域のベトナム南部・カンボジア、チャオプラヤ川流域のタイなどでは米の二期作が行われており、生産量も多い。 この気候に属する主な都市は、ホーチミン(ベトナム)、バンコク(タイ)、リオデジャネイロ(ブラジル)である。 降水量は非常に少ない。そのため、森林が育たない。雨が少なすぎて植物のまったく育たない砂漠気候 と、少しは雨が降るので草などにかぎり植物が育つステップ気候に分けられる。 年間・一日ともに気温差が大きい。回帰線近くの地域では夏は非常に暑く50度近くになることもあるが、冬は20度程度となる。比較的高緯度の地域では冬の気温が氷点下になることも珍しくない。内陸の草原地帯などは、雨が少ない地域では乾燥しているが、温度は砂漠ほどは暑くない場合もある。乾燥帯であるかの有無は、雨の量などが関わってくるので、すずしくても雨が少なければ乾燥帯の場合もある。 乾燥帯での農業は、砂漠・ステップともに、雨が少ないので、あまり盛んでは無いが、もし農業をする場合には、小麦などのやや乾燥に強い作物を育てる事が多い。 年間を通して雨はほとんど降らないため、植物は自生できない。このため、砂や岩石が広がる土地となっている。しかし、川の流域やオアシスとよばれる湧き水のあるところでは植物が自生することができる。 人々は強い日差しと砂嵐とよばれる砂を含む強い風を避けるために、体を覆う服を身に着ける。降水量が非常に少ないため、人々が生活する場所は川の流域や湧き水のあるところに限られており、そこではカレーズと呼ばれる地下水路で水を運んで農業を行ってきた。また、オアシスや大河の流域には交易の重要拠点となったところもあり、そこでは商業も盛んに行われてきた。砂漠の農業は、オアシスの周辺で行われ、小麦やなつめやしなどを育てる事が多い。 この気候に属する主な都市は、バグダッド(イラク)、ドバイ(アラブ首長国連邦)、カイロ(エジプト)である。 乾燥帯の分布場所は、主に緯度20度 〜 40度付近に分布する。 雨は少ないとはいえ、雨季には雨も降るため、ステップと呼ばれる丈の低い草の生える草原が広がる。 ステップ気候の位置は、砂漠の周辺にあることが多い。アフリカのサハラ砂漠の周辺や、アラビア半島の砂漠の周辺にも、ステップ気候の地域がある。 分布場所は、おもに砂漠気候からサバナ気候・温帯への移行地域に分布している。 また、モンゴルのような大陸の内陸でも、雨雲が届かず、雨が少ないので、ステップ気候である事が多い。 ステップ気候の住民の伝統的な生活では、山羊や羊などの家畜をともなって遊牧をしている事が多い。季節によって、草や水が多いところを求めて移動するからである。家畜の食べ物には、草を食べさせる。川や湖の近くでは農業や放牧・遊牧が行われてきた。しかし、近年では過剰な放牧や農地の拡大によって水がなくなったり、草が生えなくなったりして砂漠化が進んでいる地域もある。 この気候に属する主な都市は、ラホール(パキスタン)、ダカール(セネガル)である。 もっとも寒い時期でも氷点下になることは少ないが、夏は地域によっては熱帯と同じぐらいの暑さになることがある。このため、四季の変化に富み、多くの動物・植物が生息する。気温・降水量共に農業に適していることから、古代から現代に至るまで農業や産業の発展した地域が多い。 雨の降りかたなどによって、気候の区分が、次の3つの、温暖湿潤気候、西岸海洋性気候、地中海性気候に分けられる。 温帯の中でも日本のように、1年間を通して気温の変化が大きく、降水量も多い気候を温暖湿潤気候とよぶ。 ヨーロッパの大西洋沿岸では、偏西風の影響のため、1年間を通して降水量の変化が小さい。このヨーロッパの大西洋沿岸の一帯のような気候のことを西岸海洋性気候(せいがん かいようせい きこう)という。日本では道南地方の室蘭市と日高地方で分布している。一年間を通して、雨が降る。 イタリアなどの、ヨーロッパ州とアフリカ州の間にある地中海の周辺の国に多い気候である。夏には乾燥するが、冬は偏西風のために雨が降る。 温帯モンスーン気候または温帯湿潤気候ということもある。主に中緯度の大陸東岸に分布する。 この気候に属する主な都市は、東京(日本)、シャンハイ(中国)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)である。 季節風の影響を強く受けるため、温帯の中で四季の変化が、もっともはっきりしている。 日本や、周辺の東アジア諸国での温暖湿潤気候での季節ごとに変化する原因は、季節によって風向きが変わる季節風が気候に影響を与えるためである。 夏は低緯度の海からの風を受けるために高温多湿となるが、冬は高緯度の大陸からの風を受けるために乾燥した寒い季節となる(しかし、0度を下回ることは少ない)。また、夏には台風のような熱帯低気圧に襲われることもある。 夏は暑く、冬は寒いので、ここに住む人々はそれぞれの季節にあうような生活スタイルを作っていった。例えば日本の伝統的な衣服は夏は涼しく、冬は暖かくなるような素材が好まれた。豊かな水と適度な気温のため、農業に適している。日本などの東アジア周辺では米作りが盛んである。バナナなどの暑い気候でしか作れないものなど以外は、ほとんど栽培可能。 温帯の植物は、いっぱんに、広葉樹林と針葉樹林が混合している。 また、アルゼンチンのパンパ・アメリカのプレーリーのように豊かな草原地帯もある。パンパやプレーリーでは放牧も盛んに行われている。 この気候に属する主な都市は、ロンドン(イギリス)、パリ(フランス)、メルボルン(オーストラリア)である。ちなみに日本でも北海道の室蘭市と日高地方が属している。 大陸西岸の高緯度地方(緯度40度 - 60度付近)に分布する。西ヨーロッパの多くはこの気候に属している。温暖湿潤気候などと比べると、西岸海洋性気候の気温の年間の変化は小さい。夏はあまり暑くならずすごしやすい。冬は長く寒いが、暖流からの偏西風の影響を受けるため、緯度のわりに冷え込みはきびしくない。例えばロンドンやパリは、サハリン(樺太)と同じ緯度だが、冬の平均気温は5度くらいで東京よりも少し寒いぐらいである。また、降水量は一年を通して一定である。 落葉広葉樹や針葉樹林もあるが、牧草も育ちやすい。牧畜に適している地域であるため、農業と牧畜を組み合わせた混合農業が盛んに行われてきた。例えばフランスは小麦の生産が盛んな国であるが、チーズなどの乳製品の生産量も多い。 イタリアのような地中海沿岸が中心だが、南北アメリカ大陸の西側にも見られる。夏は乾燥帯なみに乾燥するが、冬には雨が降る。また、ヨーロッパ州の沿岸の場合、大西洋沿岸には暖流の北大西洋海流が流れているので、緯度の割には温かい。冬はあまり気温が下がらないため、常緑広葉樹林となる。 赤土やテラロッサと呼ばれる石灰岩が風化してできた土に覆われているため、土地はあまり豊かではない。しかし、夏の強い乾燥に耐えられるオレンジ・レモンなどの柑橘類やぶどう、オリーブの生産が盛んで、雨の降る冬に小麦を栽培する。こうした農業を地中海式農業という。また、日光の少ない地域の人々が夏にやってくることも多いため、リゾート地として有名なところも多い。 この気候に属する主な都市は、ローマ(イタリア)、アテネ(ギリシャ)、サンフランシスコ(アメリカ)である。 シベリアのような気候である。冬は長く、特に真冬は寒さがとても厳しいが、夏は気温が上がり、天気が良ければかなり暑くなる。夏には気温が高くなるため、樹木も育つ。 森林には、針葉樹やシラカバなどの木々が多い。 亜寒帯での針葉樹林のことをタイガといい、これが多く分布する。 ユーラシア大陸の北部や、北アメリカ大陸の北部に多く見られる気候である。ロシアの首都のモスクワの気候も亜寒帯である。亜寒帯の分布地域は、中国北東部・朝鮮半島北部・ロシアの半分以上・アメリカ北部からカナダにかけての地域など、おおむね緯度40度以上の高緯度地域に分布する。 季節は、温帯と同様に、四季が見られるが、夏は温帯ほどではないがやはり暑くなる。また、夏は日照時間が長いため昼夜の気温差が大きいのも特徴であり、特に内陸地方では昼にかけては暑くなるが、朝夜は一転して冷え込む。冬の平均気温は0度を下回るのが普通である。 季節による、1年間の夏と冬との温度差が大きい。特に中国の北京のように、夏と冬の気温差が40度近くもあるところも存在する。 冬の寒さが厳しい気候なので、人々は寒さ対策を行ってきた。朝鮮半島のオンドルはその典型例である。春から夏にかけては比較的温暖なので、その時期に小麦を栽培することが多い。特にロシア南部の黒土地帯は世界有数の小麦生産地帯である。また、寒さに強い、カブ・ソバ・ライ麦・ジャガイモの生産も盛んである。また、タイガは豊かな針葉樹林地帯であるので、林業も盛んである。 この気候に属する主な都市は、札幌(日本)、ペキン(中国)、モスクワ(ロシア)である。 細かくは、亜寒帯には亜寒帯冬季少雨気候や亜寒帯湿潤気候などがあるが、中学校ではあまりこの区別は重要ではない。 年間を通して寒い場所であり、氷がほとんど溶けない。ツンドラ地帯では夏の間だけは氷や雪には閉ざされないが、暑くはならず、季節ごとの温度差もあるが、真夏でさえ、気温が0度未満の地域もある。 地面が凍ってしまうので、木々は育たない。 ユーラシア大陸と北アメリカ大陸の北部、グリーンランド、南極大陸に分布する。夏でも平均気温は10度を上回ることはない。このため、樹木は育つことができず、夏にコケなどが育つ程度である。氷雪地帯では一切の植物が育たない。土地も凍りついている、永久凍土とよばれる土地に覆われている。ただし、夏の間だけ表面がとけてコケなどが育つところもあり、そうしたところをツンドラという。 細かくは、寒帯にはツンドラ地帯・氷雪地帯がある。 カナダの北部、ロシアの北部やノルウェーの北部では、寒帯の中では、比較的暖かい地域であり、夏には気温が0度を上回り、氷が溶ける場合もある。寒帯の中では、暖かいと言っても、あくまで「寒帯の中では」という限定つきであり、温帯や亜寒帯と比べると低温である。 さて、寒帯でも、夏に氷が溶ける場所では、コケや草が生える。このような夏に氷が溶けてコケや草が生えた地域をツンドラという。このような気候をツンドラ気候という。 ツンドラ地帯ではコケなどが生息しているため、トナカイなどを遊牧することで生活する人々もいる。 この気候に属する主な都市は、バロー(アメリカ合衆国アラスカ州)などであるが、人口は数千人程度である。 グリーンランドや南極大陸など、もっと寒いところでは夏でも気温が0度を大きく下回り、夏でも氷が溶けない。1年中ずっと、地面が雪や氷に覆われている。そのため、植物が育たない。農業はまったくできず、この環境の中で生きている動物も限られている。 砂漠とならんで人間が住むには非常に厳しい場所のため、大きな都市は存在しない。南極に昭和基地などの観測用基地が、またはグリーンランドなどにイヌイットの集落があるくらいである。 ちなみに、イヌイットの家のことを、イグルーと言う。
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様々な地域の調査という単元です。ここでは、日本国から近い大韓民国を例として使います。 世界には、109あまりの国や地域があります。ここからいきなり選ぶのも難しいかもしれません。まずは、世界の大陸→その大陸の地域区分→その中で興味がある国や地域の順で選んでいくのもよいでしょう。では、この手順で調査する国や地域を決めてみましょう。 例:韓国 韓国と決まったら、それを調査する方法を決定します。方法としては主に次の2つがあります。それぞれ利点と欠点があります。 インターネットで調べることにしました。Wikipediaを検索してみました。 「大韓民国(だいかんみんこく、朝鮮語: 대한민국、漢字: 大韓民國)、通称韓国(かんこく)は、朝鮮半島南部の東アジアの国である。[1]朝鮮民主主義人民共和国の全域の領有権も主張している。英名のKoreaは、Koryŏとも表記されるGoryeo (高麗) を由来とする。陸地では北に朝鮮民主主義人民共和国と軍事境界線を、海上では南と東に日本、西に中華人民共和国と各々国境を接する。5千万人の人口のうちおおよそ半数が、2千5百万人以上で世界第2位の人口を有するソウル首都圏に居住する。[2]」 検索の結果、上のような基礎情報が出てきました。これをレポートとしてまとめたいと思います。レポートは、発表のことも考えてまとめていきます。まず、まとめるときのポイントを書き出します。 大事なところ(要点)だけを書き出す、文字は発表時に見やすいよう大きく書く、特に大事だと思うところは色を変える、わかりやすいよう挿絵などもいれるなどしましょう。 では、要点を実際に書き出してみます。 大韓民国、通称韓国は、北に北朝鮮、西に中国、南と東の海上に日本と国境を接する。国民のうち約半数がソウルにいる。 このほかのサイトも検索し、より多くの情報を整理して発表しましょう。レポートを丸読みするのではなく、あらかじめ考えたわかりやすい文章を発表しましょう。レポートは常体、 つまり 「~だ」、「~である」 としたり、箇条書きにしてもよいですが、発表時は敬体、いわゆる「~です」、「~ます」を使いましょう。大きな声でゆっくり、はっきり話しましょう。
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諸外国と日本の緯度・経度を比べてみましょう。 まず,日本の緯度は、およそ北緯20度から北緯46度のあいだにあります。日本の経度は、およそ東経122度から東経154度のあいだにあります。 日本は、けっこう緯度・経度に幅があるので、東京で代表させましょう。東京を緯度・経度で表せば、北緯36度、東経140度になります。 日本と同じくらいの緯度・経度の国を教えます。 まず、スペインやイタリアなどのヨーロッパ南部と、エジプトなどアフリカ大陸の北部が、北緯20度から北緯46度の幅に重なります。 アフリカ大陸の北端が、日本の東京の緯度と、だいたい同じくらいです。ヨーロッパ州の南部の国は、日本で言うと、東京よりも北の緯度であり、東北地方あたりの緯度にヨーロッパ諸国の南部の国々があります。 地中海の緯度が、日本列島の本州から北海道までの緯度に近いです。 さらにイランやサウジアラビアなども、北緯20度から北緯46度の幅に重なります。 中国、韓国、北朝鮮も、北緯20度から北緯46度の幅に重なります。 アメリカ合衆国の、アラスカを除く、ワシントンD.Cやカリフォルニアなどの北アメリカ大陸部も、北緯20度から北緯46度の幅に重なります。 メキシコの中部から北部も、北緯20度から北緯46度の幅に重なります。 日本の北海道の北端の緯度が、カナダの南部にあるカナダの首都のオタワと、ほぼ同じくらいの緯度です。 日本の南端の緯度が、エジプト南部と同じくらいの緯度です。 緯度が、日本の東北地方と同じ位のは、ポルトガル、スペイン、イタリア、ギリシャ、北朝鮮などです。これらの国は日本の東北地方から北海道と同じくらいの緯度です。 韓国の緯度は、日本で言うと、関東北部〜東北地方南部あたりの緯度です。 中華人民共和国の首都のペキン(北京)の緯度は、日本の東北地方北部のあたりの緯度です。 日本の経度は、およそ東経123度から東経154度のあいだにあります。 オーストラリア大陸の国土の大部分と、ほぼ同じくらいの経度です。 東経123度から東経154度のあいだには、オーストラリアの他にも、韓国、北朝鮮、ロシア、アメリカなどがあります。 ロシアの東部に、あたります。 ヨーロッパ州の人たちは、日本や朝鮮半島のある地域のあたりのことを「極東」(きょくとう、英:Far East ファー・イースト)と言う場合があります。 彼らヨーロッパ州の人からみると、私たち日本は、ユーラシア大陸の東の端(はし)のほうにあるからです。 日本の標準時は東経135度の経線の時間です。この東経135度の経線を標準時子午線(ひょうじゅんじ しごせん)にしている。 この経度に兵庫県 明石市(あかし し)がある。 標準時や時差の計算をするときは、経線のことを「子午線」(しごせん)という場合が多い。 結論 次の国の次の都市と、日本(東経135度とする。)との時差を求めよ。また、次の国の都市とロンドン(イギリス、東経0度)との時差を求めよ。 答え ロンドン(東経0度)との時差は、それぞれ、 日本との時差を求める。まず、日本(東経135度)とロンドン(標準子午線)との時差を求める。 である。 東京都の時差は、それぞれ
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国の主権が及ぶ場所をまとめて、領域(りょういき)と言います。 領域には、陸地である領土(りょうど)のほかに、領土から一定の範囲にある海である領海(りょうかい)と、領土と領海の上空である領空(りょうくう)から、なります。 領空は、大気圏内までです。 日本の領土は、北海道・本州・四国・九州の4つの大きな島と、その周辺の小さな島々から、成り立っています。 領海は、海岸線から12海里(かいり)(12海里 = 約22km、正確には 22224m)の範囲です。( 1海里は1852mである。 ) また領海の最外部から、海岸線から200海里(約370km、正確には 370400m)までの水域、つまり12海里~200海里の水域のことを排他的経済水域(はいたてき けいざい すいいき)と言います。あるいは、経済水域(けいざい すいいき)と言います。 排他的経済水域内にある水産資源や鉱産資源は、沿岸国の物になります。経済水域は領海と違い、他の国と重なることもあります。 1982年に国連海洋法条約で、沿岸の海岸線から200海里までが排他的経済数域と定められました。 日本の排他的経済水域の広さは、国土面積の10倍以上もあります。 経済水域の広さでは、世界の中でも、日本は排他的経済水域が広く、日本の排他的経済水域の広さは世界6位です。 日本は離島が多く、沖ノ鳥島(おきのとりしま)、与那国島(よなぐにじま)、南鳥島(みなみとりしま)などがあるので、このように国土面積の割りに排他的経済水域が広いのです。 英語で排他的経済水域のことを Exclusive Economic Zone(エクスクルーシブ・エコノミック・ゾーン) というので、略称でEEZという場合もあります。 排他的経済水域の中で、領海の最外部から、海岸線から24海里までの水域、つまり12海里~24海里までの水域のことを、接続水域 (せつぞくすいいき) とといいます。 接続水域では、沿岸国が密輸や密入国などを取り締まります。 排他的経済水域の外側の、どの国の領海や排他的経済水域にも属さない海は 公海(こうかい) とよばれ、公海では、どの国も平等に航行や利用が出来ます。(公海自由の原則) 日本では、日本固有の領土であっても、近隣諸国と領土をめぐって様々な問題が発生しています。 北海道の東にある北方領土の歯舞群島、色丹島、択捉島の北方4島は、明治時代から国際的にも認められた日本固有の領土である。 しかし、第二次大戦の末期に、ソ連(現:ロシア)が日ソ中立条約を破り、またソ連はポツダム宣言での連合国どうしの約束を破り、ソ連が国際法に違反して北方4島などへの侵略を開始してソ連軍が北方の諸島に侵入し、この地域を守備していた日本軍と戦闘になった。そして、ソ連は最終的に4島を不法に占拠した。 ソ連が崩壊した後もロシアに不法占拠されている。北方領土をめぐる問題が解決してない。 ロシアは日本の北方領土の国後島などを不法に占拠している。 しばしば、周辺の日本の漁船が近づくと、領海を侵したとして日本漁船を銃撃・拿捕・抑留することも起きている。 日本は返還交渉を続けていて、また文化的な交流事業なども続けているが、あまり進展はしていない。 日本の島根県の竹島は、日本固有の領土である。 歴史的には、そもそも竹島は1905年(明治38年)に、国際法に従って竹島が日本国の島根県に編入された。 しかし、第二次大戦直後に韓国によって侵略され、現在(2022年の時点)は韓国軍が竹島を不法に占拠している状態である。 第2次大戦後の1952年(昭和27年)、韓国の李承晩政権は、一方的に竹島を韓国領に取り込み、また日本海上に韓国は一方的に李承晩ラインを設定し、違反したとする日本漁船に銃撃・拿捕・抑留などをした。 1954年(昭和29年)には、韓国が竹島に沿岸警備隊を派遣し、竹島を不法に占拠した。 日韓基本条約締結の際の日韓漁業協定の成立(1965年)により、ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。 李承晩ラインの廃止以降も、韓国による竹島の不法占拠は続いている。 日本は、平和的な解決のための手段として、国際司法裁判所へ付託することを1954年以来から提案しているが、韓国政府がこれに応じていない。 なお、竹島の韓国名は独島である。 沖縄県の、東シナ海上にある尖閣諸島は、1895年に尖閣諸島が日本に編入されて以来、尖閣諸島は日本固有の領土である。このとき、他国の領有の形跡が尖閣諸島には無いことを日本は確認している。 尖閣諸島は21世紀の現在でも日本が実行支配しているため、尖閣諸島においては領土問題は存在しない。 しかし、1970年代ごろから日本固有の領土である尖閣諸島の海域に油田の存在が確認されると、中国と台湾が領有権を主張するようになった。 そして2010年には、中国の漁船が、尖閣諸島の魚釣島の海域で日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きた。 その後、2012年に尖閣諸島のほとんどを日本政府が国有化したものの、中国は、国際法に違反して武装した中国船を尖閣諸島の海域に侵入させ、日本漁船を追尾して脅迫に近い行動に出るなど、地元の人々は中国の脅威に警戒している。 ここで言う、「分」(ふん)とは角度の単位であり、 60分=1度 である。英語でも minute という。 分の記号を ′ と描く。数字の右上に、離して、ナナメの短い線を書く。(60′=1°) 北方領土のまわりの海は、さけ、たらばがに、ます などの水産資源が豊富。 ちなみに日本の国土面積は約38万km2。世界の190カ国の中で約60位の広さである。ドイツ(約36万km2)より狭い。
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日本には、47の都道府県があります。1都(東京都)、1道(北海道)、2府(大阪府、京都府)、43県です。 1871年(明治4年)の廃藩置県で、それまであった藩(はん)が廃止され、かわりに府(東京府、大阪府、京都府)や県が設置されました。直後は、今よりも多くの県があり、およそ300の県がありました。その後、多くの県が合併をし、1888年までに、最終的に47都道府県になりました。 日本の地域の分け方には、北海道、東北、関東、中部、近畿、中国・四国、九州に分ける、七地方区分(なな ちほうくぶん)があり、この7地方区分がよく用いられます。 場合によって中国・四国地方を別々に分けることで、8地方区分にする場合もあります。 他にも多くの分け方がありますが、まずは、この7地方区分および8地方区分が基本になります。 さまざまな視点により、もっと細かい分け方で区分を増やす場合もあれば、大まかな見方で区分を減らす場合もあります。 まずは、細かく分けて区分を増やすほうを説明します。 中国地方を、山陰と山陽の2つの地方に分ける場合もあります。 中国山地の北側が山陰であり、中国山地の南が山陽です。 中国・四国地方をまとめて、山陰・瀬戸内(せとうち)・南四国の3つの地方に分ける場合もあります。 中国山地の北側が山陰であり、四国山地の南側が南四国であり、中国山地と四国山地の間が瀬戸内です。 三重県を、中部地方(東海地方)に入れる場合があります。 ・日本海に面する、北部。 瀬戸内海に面する、中部低地。 太平洋に面する、南部。 この三つに分けることができる。 中部地方を、南側の中部(静岡県+愛知県+岐阜県+三重県、山梨県、長野県)と、北側の北陸(石川県+富山県+福井県+新潟県)の2つの地方に分ける場合もあります。 他にも、北陸(石川県+富山県+福井県)、甲信越(山梨県+長野県+新潟県)、東海(愛知県+岐阜県+三重県+静岡県)の3つの地方に分ける場合もあります。 静岡県をふくまないで、東海地方と呼ぶ場合もあります。 関東地方を、北関東(茨城県+栃木県+群馬県)と、南関東(東京都+神奈川県+千葉県+埼玉県)の2つに分ける場合もあります。 関東地方(東京都+神奈川県+千葉県+埼玉県+茨城県+栃木 県+群馬県)と甲信越地方(山梨県+長野県+新潟県)をまとめて関東甲信越地方と呼ぶ場合もあります。 逆に、区分を大まかにして、区分の数を少なくする場合もあります。 たとえば日本を、東日本(ひがし にほん)と西日本(にし にほん)とに、分ける場合もあります。ただし、べつに法律などで定められているものではなく、その範囲も明確ではありません。 なお、電気機器の周波数では、東日本が50ヘルツ(Hz)であり、西日本が60ヘルツです。 ほかにも、北日本、東日本、西日本の3つに分ける場合もあります。 * 東日本と近畿と西日本の3つに分ける場合や、東日本・中日本・近畿・西日本の4つに分ける場合もあります。 どの県がどの区分に含まれるかは、場合によって7地方区分と一致しない場合があります。たとえば山梨県は、中部地方に含まれる場合もありますが、天気予報や交通などで、山梨県を首都圏(しゅとけん)の一つの県として扱う場合もあります。 ※地図で関西地方と表記されているが、関西方面は存在するが関西地方は存在しない事に注意する事。
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(注:東京書籍では、「造山帯」という用語が「変動帯」に改められ、環太平洋造山帯、アルプス・ヒマラヤ造山帯という語句が削除されました。なお、造山帯と変動帯の違いについては、Wikipediaを参照ください。) 日本列島は、太平洋をとりまく環太平洋造山帯(かんたいへいよう ぞうざんたい、英:circum-Pacific belt または Ring of Fire)という地帯に含まれています。 北アメリカ大陸のロッキー山脈(英語:Rocky Mountains)や、南アメリカ大陸のアンデス山脈(英:Andes)、東南アジア州のフィリピン諸島や、オセアニア州のニューギニア島も、環太平洋造山帯に含まれています。 「環太平洋造山帯」という名前のとおり、太平洋をとりまく位置にある造山帯です。 いっぽう、ヨーロッパ州のアルプス山脈から、アジア州にあるヒマラヤ山脈(ヒマラヤさんみゃく、Himalayan Range)まで伸びている造山帯が、アルプス=ヒマラヤ造山帯(英:Alpide belt)です。このアルプス=ヒマラヤ造山帯は、インドネシアまで続いています。 一般に、これら2つの造山帯(環太平洋造山帯およびアルプス=ヒマラヤ造山帯)では、地震や火山が多いです。地球の歴史の中で、比較的、新しく出来た造山帯であり、現在も活動がさかんであるからです。 また、地震や火山が多い一方、温泉なども多い特徴があります。 実は、地面はとてもゆっくりにですが、動いているのです。これを 大陸移動説(たいりく いどうせつ) と言い、現代では証明されています。 ハワイ諸島も、日本に向かって年間で約9cmずつ、日本に近づいていることが分かっています。 地面は、プレート(英: plate) という物の上に乗っかっていて、そのプレートが動いているのです。地球上には、いくつものプレートがあります。プレートと、他のプレートがまじわることろでは、プレートどうしが押しあう場合もあります。プレートどうしが押し合う場合、プレートの上に地面があれば、その地面も押しつけられるので、地面がもりあがります。 地球の歴史では、膨大な時間、プレートが押し合って地面が盛り上がり、山脈が出来る場合があります。 なお、地震の原因も、じつはプレートの力です。プレートが地球の中にもどる場所の近くで、プレートは反対側の地中には戻らないほうの岩盤(がんばん)にも、引きずりこむような力を加えるので、プレートは岩盤をひずませます。岩盤に力がかかり続けると、ある時期に岩盤の一部がこわれます。このときの揺れ(ゆれ)が、地震です。 このため、プレートの境界では、地震や火山が多いのです。<-- コメント:現象という意味では火山よりは噴火のほうが収まりがよいのではないか。もっとも、なぜ噴火(火山)が多くなるのかの説明がない。 --> 理科の用語ですが、海中にあるプレートを 海洋プレート(かいようプレート) と言います。陸地の下にあるプレートを 大陸プレート(たいりくプレート) と言います。 プレートとプレートとが交わるところでは、地震が起きやすいです。日本列島の周囲でも、いくつかのプレートが交わっているので、日本は地震が多いです。日本では、ユーラシアプレートと北アメリカプレートと太平洋プレートとフィリピン海プレートの、あわせて4つのプレートが、日本の下で、押し合っています。 いま、地球上にある、いくつかの大陸は、むかしは、ひとつの大きな大陸だったことがわかっています。そのひとつの大きな大陸のなまえを パンゲア(Pangea) といいます。 ドイツの気象学者のウェゲナー(Wegener)は大西洋をはさんだ両岸の大陸の形状(特にアフリカと南アメリカ)が、ほぼ一致することから、大昔は、このアフリカと南アメリカはおなじ大陸だったのが分裂したのではないか、と考えました。 また、アフリカと南アメリカは、地質や生物の分布も、にていることから、ますます、おなじ大陸と考えるようになりました。 ウェゲナーは、このようなアフリカと南アメリカは、昔はおなじ大陸だったという説を1912年に発表しました。 この「実は、大陸は移動している」という説を、大陸移動説(たいりくいどうせつ、英: continental drift theory, theory of continental drift)と言います。 しかし、当時の人々の理解は得られませんでした。また、ウェゲナー本人も、どのような力で、大陸が動いているのかは、わかりませんでした。 ウェゲナーは大陸が動いていることの証拠を探す探検のためグリーンランドを探検している最中の1930年に、50才でウェゲナーは死んでしまいます。 ウェゲナーの唱えた大陸移動説は、彼の生存中は学会の多数からは、みとめられることはありませんでした。 ウェゲナーの時代から、それから数十年がたってから、技術の進歩により、海底の研究が進みました。すると、どうやら海底の奥ふかくから、溶岩が次々と、わき出している場所がある、ということが発見されます。これは 海嶺(かいれい) の発見です。大西洋の中央や、太平洋のチリ沖のイースター島の付近など、地球上のいくつかの海底に、海れいは、あります。 また、海底の奥深くで、地面が地中に引きこまれている場所も見つかります。これが 海溝(かいこう) です。 太平洋のマリアナ諸島の近くのマリアナ海溝や、伊豆・小笠原海溝など、いくつかの海溝が、あります。 海嶺や海溝の研究から、地中や海中のプレートとよばれる岩ばんが動いていることがわかります。 ウェゲナーの大陸移動説は、プレートにのっかった大陸が、プレートごと動くという考え方で説明できるようになりました。 溶岩(ようがん)が、かたまるとき、地磁気の方向で、溶岩がかたまり、溶岩にほんの少しだけ、磁気が のこります。この 古い地質の磁気の方向をしらべることで、大陸移動説は 証明(しょうめい)されました。 現在では、地震の原因はプレートのひずみによって起きることが分かっています。大陸プレートと海洋プレートの押し合いでひずんだプレートが、ひずみに耐え切れなくなって、こわれて、元にもどるときに、地震が発生します。 そしてプレートをひずませる力の原因は、プレートが地中に引き込まれる力です。 このように、「プレートの運動によって、地震がおきる」という考え方を プレート テクトニクス(英: plate tectonics) と言います。 先カンブリア時代に激しい運動を受けた後は、長い間地殻運動を受けずに侵食が進んだ、安定した陸塊。 長期間の侵食により、平原 大地が多い。 日本は環太平洋造山帯に属することもあって、日本は山がちであり、国土のおよそ75%が山地でしめられている。 日本の本州の中部あたりの、新潟県 糸魚川(いといがわ)と 静岡県 静岡市 とを結んだ線の周辺地域あたりに、幅100kmぐらいもある窪地(くぼち)がある。この窪地をフォッサ マグナ(Fossa Magna)という。 フォッサマグナのことを大地溝帯(だい ちこうたい)とも言う。 なお、糸魚川と静岡市を結んだ線のあたりにある断層(だんそう)を、糸魚川−静岡 構造線(いといがわ しずおか こうぞうせん)と言う。 (断層とは、地震などで地面の一部がくいちがって、地面の左右の高さに急な違いがある場所のこと。) フォッサマグナは、線では無く、幅(はば)をもった面である。糸魚川-静岡構造線は、フォッサマグナそのものでは無い。 フォッサマグナは、2つのプレートの交わる境界であることが現在では分かっており、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界に相当する。 このため、フォッサマグナの周辺では地震や火山活動が活発であり、たとえば活火山(active volcano[1])である富士山もフォッサマグナの周辺地帯にある。 フォッサマグナを境にして日本の地形の特徴が東西で異なるので、フォッサマグナを境に東日本と西日本に分ける事が出来る。 東日本は、だいだい山地が南北方向に伸びています。いっぽう西日本は、山地が東西方向に伸びています。 このフォッサマグナの西側に、飛騨山脈(ひだ さんみゃく)、赤石山脈(あかいし さんみゃく)、木曽山脈(きそ さんみゃく)という標高3000mもの山々がある。この飛騨山脈、赤石山脈、木曽山脈を日本アルプス(にほんアルプス)と言う。 フォッサマグナの窪地は、周辺の山々から崩れ落ちた土砂からなる新しい地層によって、埋もれていることが地質調査によって分かっている。仮に周辺の土砂を取り除いた場合、フォッサマグナの深さは、実は 6000mもの深さであることが分かっている。 この日本アルプスを除けば、西日本の山は、あまり標高が高くない。 用語 山が、いくつもまとまっているところを山地(さんち)という。 山地のうち、山々のいただきが、ほぼ、つながって、連なっている山々のことを山脈(さんみゃく)という。 平らな場所を平地という。国土の4分の1が平地である。(のこりの4分の3は山地である。) 平地のうち、海に面している場所を平野(へいや)という。 内陸の平地で、まわりを山で囲まれている平地を、盆地(ぼんち)という。 山梨県の甲府盆地(こうふ ぼんち)が有名。 日本の人口は、平野や盆地などの平らな場所に集中している。 まわりの平野などよりも高い場所にある平地を台地(だいち)という。農業を行う場合は畑に利用する事が多い。 山地のいただきが平らなもの。 低い山地がつらなっているもの。 日本の川は、世界の多くの川と比べると、日本の川は 急流 であり、短いです。理由は、日本は国土面積の割に山が多く、標高の高い所から低いところへ川が流れるためです。 明治時代に日本に来ていたオランダ人 デ・レーケ(de Rijke) は、彼の生まれたオランダは低地国であるため、ゆったりとした川しか見たことがなく、日本の川を見て「これは滝だ」と言ったらしいです。) 日本は川が急なため、上流で大雨が降った場合には、下流では 洪水が起こりやすい です。 このような特徴のため、世界の多くの川に比べて、日本の川は流域面積(りゅういき めんせき)がせまいです。 また、山などから川が流れるため、ダムを作って水をためやすいです。また、ダムを作りやすいため、水力発電にも便利です。 流れる川の水は、地面から土や砂をけずり取り、下流に土砂を運んでいきます。 川が山地から平地に出た麓(ふもと)の地域( 山麓(さんろく)という。 )の周辺では、土砂などが山側を中心にして、扇状(おうぎ じょう)に平地側へ川が広がって、ふもとでは流れがゆるやかになるので運ばれた土砂が積もりはじめ、中流や下流には 扇状地(せんじょうち) という地形ができやすいです。 扇状地の根もとの中央部には、つぶの大きい砂や石が多くて、そのため水が地下に抜けやすい(水はけが良い)ので、果樹園などの畑に利用される。 盆地のまわりの山のふもとには、扇状地が出来ることが多い。そのため、扇状地の周囲が畑に利用される。山梨県の甲府盆地の扇状地の、果樹園の地帯が、このような扇状地の畑作の例として有名である。 下流では、流れが遅くなり、したがって、積もる作用が強まります。また下流での石は、小さく丸い石が多いです。下流に近づくほど、水量は多くなり、川幅(かわはば)もひろくなります。 地形として、川の下流の周辺では、三角州(さんかくす、英:river delta)という地形ができやすい。三角州のことをデルタとも言う。三角州には、つぶの小さい砂や石が多く、水が地下に抜けにくいので、水田として利用されやすい。 日本のまわりの海底には、水深があさく200mていどで、傾斜のゆるい平らな大陸棚(たいりくだな、英:Continental shelf)が、ひろがっている。 また太平洋側の、日本の東に、水深が8000mをこえる海溝(かいこう、trench)がある。 大陸棚は、東シナ海にとても広く、みられる。 この大陸棚には天然ガスや石油などの資源があると考えられている。 暖流(だんりゅう)の黒潮(くろしお)と対馬海流(つしまかいりゅう)は、日本の南の赤道付近から北上して流れてきている。 黒潮は太平洋側の海流で、赤道付近から北上してきている。黒潮のことを日本海流(にほん かいりゅう)とも言う。 対馬海流も、赤道付近から北上してきているが、日本海側に流れる海流である。 いっぽう、日本の北からは寒流(かんりゅう)が流れてきている。日本に来ている寒流の親潮(おやしお)は、千島列島(ちしま れっとう)から南下している。親潮のことを千島海流(ちしま かいりゅう)とも言う。 日本の近海は、暖流と寒流がぶつかる海域であり、良い漁場になっている。 海岸で、岬(みさき)と湾(わん)が くりかえし、海岸線が のこぎり の刃のように、ギザギザと入り組んでいる海岸のことを、リアス海岸(リアスかいがん、英: ria coast)と言います。リアス式海岸(リアスしき かいがん)とも言う。スペイン語の入江(いりえ)を意味するria(リア)に由来する。 東北地方にある岩手県の 三陸海岸(さんりく かいがん) が、リアス海岸の例として有名である。 リアス海岸の出来方は、もともと山地であったところに、谷に、海水が流れこんでできていったものです。このためリアス海岸のちかくには山地がある。 リアス海岸では、多くの入り江や湾があり、また、波が低く水深が深いため、港として利用されやすい。また、波がおだやかなこともあり、貝や わかめ などの養殖(ようしょく)も行われることがある。 海岸には、岩石が切り立っている急な岩場の岩石海岸(がんせき かいがん)と、砂が広がってる砂浜海岸(すなはま かいがん)があります。砂浜海岸の例には、千葉県の 九十九里浜 や、鳥取砂丘(とっとり さきゅう)などがあります。 なお、砂丘とは風によって砂が運ばれて出来上がった丘(おか)である。 さんご礁(さんごしょう)は、浅い海底で成長し、温かい海で成長する。沖縄県の島には、まわりの海にさんご礁のある島が多い。 九州の有明海の海岸には、海岸部に発達する泥により形成された干潟(ひがた)があります。有明海だけでなく、東京や千葉など関東にも干潟はあり、北海道や東北地方や愛知県やなど、日本の各地に干潟はあります。 干潟は、渡り鳥の生息地になっていたり、貝などの生息地になっています。 現在では、干潟は、自然保護の観点から、環境保護をされていますが、昔は干潟はたんなるドロの多い場所と考えられており、多くの干潟が埋めたてられたり干拓などで無くなってしまいました。 浅い海や、浅い湖に、堤防(ていぼう)をきずいて、その土地に水が入りこむのをとめて、土地を乾かして陸地を広げることを 干拓(かんたく) といいます。干拓によって作られた陸地を土地を 干拓地(かんたくち)といいます。 北九州にある有明海(ありあけかい)の海沿い(うみぞい)にも、江戸時代の古くからの干拓地があります。岡山県の児島湾(こじまわん)にも江戸時代からの干拓地があります。 秋田県の八郎潟(はちろうがた)にある大潟村(おおがたむら)は、1964年につくられた干拓地です。
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小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校社会 > 中学校社会 地理 >気候 世界の気候の単元で見てきたように、世界の国々には一年を通して暑い国もあれば、夏でも日本の冬と同じぐらいの気温にしかならない国もある。また、砂漠のようにほとんど雨の降らない国や、逆に一年中たくさんの雨が降る国、他にも季節によって雨の多い時期と少ない時期のある国とさまざまな特徴がある。 では、日本はどうだろうか。日本列島は南北に長いため、北海道のように冬の気温が氷点下にまで下がるところもあれば、沖縄のように冬でも15度と東京の春ごろの気温と変わらないところもある。また、新潟県(山間部)及び青森県津軽地方のように雪が数メートルも積もる地方や、三重県尾鷲市のように非常に雨の多い地方、あるいは岡山県倉敷市のように一年中雨の少ない地方がある。 ここでは、日本の気候の違いを通して、日本各地の環境とそれに影響されている産業や文化などを見ていこう。 まず、日本の大半が属している温帯と北海道のほとんどが属している亜寒帯について復習しよう。なお、ここは中学校社会 地理/世界の気候と同じ内容である。 もっとも寒い時期でも氷点下になることは少ないが、夏は地域によっては熱帯と同じぐらいの暑さになることがある。このため、四季の変化に富み、多くの動物・植物が生息する。気温・降水量共に農業に適していることから、古代から現代に至るまで農業や産業の発展した地域が多い。 雨の降りかたなどによって、気候の区分が、次の3つの、温暖湿潤気候、西岸海洋性気候、地中海性気候に分けられる。 日本のように、1年間をとおして気温の変化が大きく、降水量の変化も大きい、温暖湿潤気候がある。 ヨーロッパの大西洋沿岸では、偏西風の影響のため、1年間を通して降水量の変化が小さい。このヨーロッパの大西洋沿岸の一帯の気候のこと西岸海洋性気候(せいがん かいようせい きこう)という。日本では道南地方の室蘭市と日高地方で分布している。 イタリアなどの、ヨーロッパ州とアフリカ州の間にある地中海の周辺の国に多い気候である。夏には乾燥するが、冬は偏西風のために雨が降る。 温帯モンスーン気候ということもある。主に中緯度の大陸東岸に分布する。 この気候に属する主な都市は、東京(日本)、シャンハイ(中国)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)。 季節風の影響を強く受けるため、特に四季がはっきりとしている。 温帯の中では、四季の変化が、もっともはっきりしている。 日本や、周辺の東アジア諸国での温暖湿潤気候での季節ごとの変化の大きさの原因は、季節によって、気候に影響を与える季節風が変わるためである。 夏は低緯度の海からの風を受けるために高温多湿となるが、冬は高緯度の大陸からの風を受けるために乾燥した寒い季節となる(しかし、0度を下回ることは少ない)。また、夏には台風のような熱帯低気圧に襲われることもある。 夏は暑く、冬は寒いので、ここに住む人々はそれぞれの季節にあうような生活スタイルを作っていった。例えば日本の伝統的な衣服は夏は涼しく、冬は暖かくなるような素材が好まれた。豊かな水と適度な気温のため、農業に適している。日本などの東アジア周辺では米作りが盛んである。 温帯の植物は、いっぱんに、広葉樹林と針葉樹林が混合している。 また、アルゼンチンのパンパ・アメリカのプレーリーのように豊かな草原地帯もある。パンパやプレーリーでは放牧も盛んに行われている。 この気候に属する主な都市は、ロンドン(イギリス)、パリ(フランス)、メルボルン(オーストラリア)である。 ちなみに日本では北海道の室蘭市と日高地方が属している。 大陸西岸の高緯度地方(緯度40度 - 60度付近)に分布する。西ヨーロッパの多くはこの気候に属している。温暖湿潤気候などと比べると、西岸海洋性気候の気温の年間の変化は小さい。夏はあまり暑くならずすごしやすい。冬は長く寒いが、暖流からの偏西風の影響を受けるため、緯度のわりに冷え込みはきびしくない。例えばロンドンやパリは、サハリン(樺太)と同じ緯度だが、冬の平均気温は5度くらいで東京よりも少し寒いぐらいである。また、降水量は一年を通して一定である。 落葉広葉樹や針葉樹林もあるが、牧草も育ちやすい。牧畜に適している地域であるため、農業と牧畜を組み合わせた混合農業が盛んに行われてきた。例えばフランスは小麦の生産が盛んな国であるが、チーズなどの乳製品の生産量も多い。 イタリアのような地中海沿岸が中心だが、南北アメリカ大陸の西側にも見られる。夏は乾燥帯なみに乾燥するが、冬には雨が降る〔偏西風〕。また、ヨーロッパ州の沿岸の場合、大西洋沿岸には暖流の北大西洋海流が流れているので、緯度の割には温かい。冬はあまり気温が下がらないため、常緑広葉樹林となる。 赤土やテラロッサと呼ばれる石灰岩が風化してできた土に覆われているため、土地はあまり豊かではない。しかし、夏の強い乾燥に耐えられるオレンジ・レモン・の柑橘類トマトやぶどう、オリーブの生産が盛んで、雨の降る冬に小麦を栽培する。こうした農業を地中海式農業という。また、日光の少ない地域の人々が夏にやってくることも多いため、リゾート地として有名なところも多い。 この気候に属する主な都市は、ローマ(イタリア)、アテネ(ギリシャ)、サンフランシスコ(アメリカ)である。 (読み:あかんたい・かんたい) 冷帯ともいう。 シベリアのような気候である。冬は長く、特に真冬は寒さがとても厳しいが、夏は気温が上がり、天気が良ければかなり暑くなる。夏には気温が高くなるため、樹木も育つ。 森林には、針葉樹やシラカバなどの木々が多い。 亜寒帯での針葉樹林のことをタイガといい、これが多く分布する。 ユーラシア大陸の北部や、北アメリカ大陸の北部に見られる気候である。 ロシアの首都のモスクワの気候も亜寒帯である。 亜寒帯の分布地域は、中国北東部・朝鮮半島北部・ロシアの半分以上・アメリカ北部からカナダにかけての地域など、おおむね緯度40度以上の高緯度地域に分布する。季節は、温帯と同様に、四季が見られるが、夏は温帯ほどではないがやはり暑くなる。また、夏は日照時間が長いため昼夜の気温差が大きいのも特徴であり、特に内陸地方では昼にかけては暑くなるが、朝夜は一転して冷え込む。冬の平均気温は0度を下回るのが普通である。 季節による、1年間の夏と冬との温度差が大きい。特に中国の北京のように、夏と冬の気温差が40度近くもあるところも存在する。 冬の寒さが厳しい気候なので、人々は寒さ対策を行ってきた。朝鮮半島のオンドルはその典型例である。春から夏にかけては比較的温暖なので、その時期に小麦を栽培することが多い。特にロシア南部の黒土地帯は世界有数の小麦生産地帯である。また、寒さに強い、カブ・ソバ・ライ麦・ジャガイモの生産も盛んである。また、タイガは豊かな針葉樹林地帯であるので、林業も盛んである。 この気候に属する主な都市は、札幌(日本)、ペキン(中国)、モスクワ(ロシア)である。 細かくは、亜寒帯には亜寒帯冬季少雨気候や亜寒帯湿潤気候などがある。中学ではあまりこの区別は重要ではない。 日本の気候は、ほとんどの地域は 温帯 に属し、温帯のうちの温暖湿潤気候に属する。だが北海道や東北地方は 亜寒帯(冷帯) に属する。 また、南西諸島の気候は、亜熱帯という、熱帯と温帯のあいだのような気候である。 日本は季節風(モンスーン)の影響で、四季がはっきりしている。また、日本には梅雨(「つゆ」または「ばいう」)があり、日本の冬には雪もあるため、日本は年間の降水量が多い。 なお、北海道では梅雨が無い。 日本は南北に長いため、南の沖縄県と、北の北海道とでは、気候が大きくことなる。 気候に影響するのは、緯度だけでは無く、山脈や山地によって、太平洋側と日本海側では、気候が大きく異なる。 6月はじめごろから梅雨があり、日本の多くの地域で降水量が多くなる期間が、1ヶ月ほど続く。 梅雨の原因は、北方にある冬の季節風と、南方にある夏の季節風とが、ぶつかりあって、ほとんど動かない梅雨前線が発生するからである。 この梅雨前線では、夏と冬の季節風がぶつかっているので、天気が不安定となり、雨が降りやすい。 夏の季節風も、冬の季節風も、どちらとも、太平洋や日本海を通ってくるので、水分を含んでいる。 しかも、梅雨の間の6月は前線が停滞しているので、前線が北に抜けるまでの1ヶ月ほど、雨の日が多い。 季節が夏に近づくにつれ、夏の季節風のほうが強くなり、冬の季節風を北に押し返すので、前線は北に抜ける。 梅雨前線が北に抜けると、梅雨が終わる。 そして日本は、7月ごろに夏を迎え、気温の暑い日々が9月くらいまでつづく。 夏の季節風は、太平洋の水蒸気を含んでいるので、日本列島の太平洋側の地域では、湿っている。 いっぽう日本海側では、山地をこえるときに季節風が水分を失うので、日本海側では乾燥している。 夏から秋にかけての9月ごろは、台風という、強風や大雨を起こす低気圧が南方から日本列島に北上してやってくる。台風で被害を受ける場合も多い。 台風は、もともと赤道近くの熱帯の海で発生した低気圧( 熱帯性低気圧 )である。 春から夏にかけての梅雨前線と同様に、秋から冬にかけても、秋雨前線が、やってくる。 冬は、シベリア気団の発達により、北西の季節風が強くなる。季節風が日本海の水分をふくんでいるので、日本海側では雪が多く降る。いっぽう太平洋側では、山地をこえるときに季節風が水分を失うので、太平洋側では乾燥している。太平洋側では、日本海側とくらべると、雪もあまり降らない。 冬の太平洋側の地域で、北方の山地から北風が南へ向かって、ふいてくる。この北方の山から吹き降ろしてくる風のことを「からっ風」といい、冷たくて乾燥している。 前の節では、季節ごとによる気候の特徴を説明した。 逆に、太平洋側の地域、および日本海側の地域を基準に、気候を見てみよう。 他にも、地域の特性によって、多くの気候がある。一例として、瀬戸内気候を説明する。 瀬戸内海ぞいの瀬戸内では、南北ともに、四国山地または中国山地にさえぎられているので、瀬戸内では雨も雪も少ない。 このように、南北を山にさえぎられている地域では、雨や雪が少ない。 日本の気候区分はいろいろな説があるが、普通の教科書では以下のように分けられる。 気候によって、農業など、産業や生活の特徴も変わってくる。それらの説明は、後の節や別の記事で説明を行う。 「太平洋岸気候」や「太平洋型気候」などとも言う。夏は太平洋からの暖かく湿った季節風の影響で高温多湿となるが、冬は大陸からの冷たく乾いた風の影響を受けて乾燥する。西日本では暖流の日本海流(黒潮)の影響を強く受けるため、高温多湿となるが、東日本、特に東北地方は寒流の千島海流(親潮)の影響も受けるため、気温が上がらないときもある。特に千島海流の影響が強いときには夏でも やませ とよばれる冷たい風が吹き、冷害が起こることもある。 夏から秋にかけて雨が多く、東北地方を除いて、冬でも寒いとはいえ霜が降ったり雪が降ったりすることは少ない。そのため、米以外の野菜や花の生産も盛んである。また、静岡県や鹿児島県では茶の生産も盛んである。 「日本海岸気候」などとも言う。その名の通り日本海側に見られる気候である。日本海側には暖流である対馬海流が流れており、暖かく湿った空気を運んでくる。しかし、冬になるとユーラシア大陸からの冷たく乾燥した風が対馬海流の湿った風を冷やして雪にする。このため、気温のわりに雪がとても多く、世界有数の豪雪地帯となっている。 冬に雪が多いため、雪への対策が行われている。例えば、雪が積もり過ぎないように屋根の角度を急にしたり、信号機を縦にしたりしている(特に東北と北海道が多い)。また、融雪パイプを使って道路の雪をとかすことも行われている。 この気候では雪が多いため、冬は農業ができない。しかし、春になると雪は豊富な雪解け水をもたらす。これを利用して春から秋にかけて米作りに集中する水田単作地帯が多い。特に新潟県は米作りで有名である。また、冬の間には農業ができないかわりに、さまざまなものづくりが行われてきた。新潟県の小千谷ちぢみ、石川県の輪島塗や加賀友禅などの伝統工業はもともと冬の間の仕事として発展してきたものである。現在でも燕市(新潟)の金属製洋食器、三条市(新潟)の金物、鯖江市(福井)の眼鏡などが有名である。また、豊富な雪解け水を生かした水力発電も積極的に行われてきたため、日本の電源地帯と呼ばれてきた。 古い教科書では北海道式気候といったが、現在ではあまり使われない。 温帯ではなく亜寒帯に属する。このため、夏は比較的すごしやすいが、秋の終わりから春の初めまでの気温は氷点下まで下がる。また、梅雨がなく、台風もあまり来ないため、夏は他の地方よりも乾燥する。ただ、北海道は太平洋側・日本海側・内陸・オホーツク海側とで気温や降水量に差があるため、札幌市や函館市と稚内市などでは違いがあるので注意したい。 明治時代まで朝廷や幕府の力があまり及ばなかったため、長い間、先住民族であるアイヌの人々の伝統的な狩猟や漁業が中心で農業は盛んではなかった。明治以降に北海道として日本に正式に組み込まれると、開拓が進み、農業も活発に行われるようになった。当初は寒さに強い作物と酪農が中心であった。現在でもジャガイモ、ビート(てんさい・さとうだいこん)、小豆、小麦、乳製品の生産量は全国一である。しかし、品種改良によって寒さに強い米が開発され、北海道でも石狩平野を中心に米作りが盛んになり、現在では都道府県別の米の生産量も全国一となった。 中央高地式気候ともいう。古い教科書では内陸式気候、あるいは、大陸性気候という言葉も使われたが、今はあまり使われない。 中央高地(長野県・山梨県・岐阜県北部など)に見られる気候であるが、似たような気候は山形盆地や京都盆地にも見られる。夏は太平洋側で雨が降り、冬は日本海側で雪が降るため、一年を通して降水量は少ない。また、海から離れているため、夏と冬との気温差が大きく、夏は暑く、冬の気温は氷点下になることも珍しくない。特に夏の暖かく乾いた空気がフェーン現象を起こすこともあり、夏の気温をさらに高めることがある。ただし、標高の高い地域では夏でも気温があまり上がらないところもある。 水源は多いが、平地が少ないため、米作りはあまり盛んではない。そのかわり、日当たりのよい山あいと乾燥した気候を利用した果物の栽培が盛んである。長野県のりんごの生産量は全国2位であり、山梨県のぶどう・もも の生産量は全国一である。また、長野県の野辺山原や群馬県の嬬恋村では夏でも涼しい気候を利用した抑制栽培による、キャベツ・レタスの栽培も盛んである。かつては生糸をつくるための養蚕も盛んだったが、日本の産業が軽工業から重工業にうつったため、現在では衰退している。 瀬戸内式気候ともいう。瀬戸内海沿岸地域に見られる気候である。夏の季節風は四国山地に、冬の季節風は中国山地にさえぎられるために一年を通して降水量は少ない。このため、梅雨が短かったり、台風があまり来なかったりするときには干ばつが起こりやすい。その対策として人工的に大きな池を作って水を確保する施設であるため池が各地に作られた。気温は海に面していることもあって温暖である。 雨も雪も少ないため、畑作が中心で、特に小麦が多く作られた。香川県のさぬきうどんは、この小麦を利用して作られてきた。また、雨が少ないということは晴れの日も多いということでもあり、それを利用した果物の栽培も盛んである。岡山県はオリーブやキウイフルーツの生産量が日本一である。愛媛県は長くみかんの生産量が全国一であった(現在は2位)。他にも晴れの日の多さを利用した塩の生産が以前は盛んで、広大な塩を作るための土地(塩田)が、広がっていた。しかし、塩作りの方法が変わったことなどによって、塩田を利用する必要がなくなり、現在は広大な塩田の跡地を工業用地として活用している。 南西諸島気候または亜熱帯ともいう。鹿児島県の奄美大島から沖縄県にかけての気候である。冬の平均気温でも15度程度と本州に比べて温暖であるが、海に面しているため、夏は極端に暑くなることもない(八重山諸島は除く)。日本海流からの暖かく湿った風の影響で、年間降水量も多い。昼と夜の気温差と年間気温差が小さい。 しかし、大きな川がないため、降水量のわりに水不足になりやすく、また台風の直撃を受けることも多いため、農業は畑作が中心であった。米作りは畑作ほど、さかんでない。特にパイナップルやさとうきびの栽培が盛んである。近年はマンゴーやパパイヤといったトロピカルフルーツと呼ばれるものだけでなく、暖かい気温を生かして季節をずらした花や野菜の栽培も盛んとなっているが、航空機の輸送コストの影響を受けやすいという問題も抱えている。 このような様々な気候の特色を知ればこれからはもっと自然との付き合いが楽しめるようになるだろう。 日本は四季がはっきりしており、梅雨の影響によって太平洋側と日本海側で降水量が大きく違う。 6月から7月にかけて雨が降り続く梅雨や、夏から秋にやってきて強い風と雨をもたらす台風は、重要な農業用水や飲料水の確保には欠かせない。しかし、台風の強い風と多くの雨で、くらしや農業に大きな影響が出ることがある。
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東京や大阪などの大都市では、冷房の排熱などが屋外にたまり、周辺の郊外や農村よりも気温が高くなるヒートアイランド(英語:urban heat island:UHI、heat island)という現象があります。地面がアスファルトで覆われていることも、気温の上昇に関わっています。 また、東京などの大都市の夏では、夜間の最低気温が25度以上の「熱帯夜」(ねったいや)と呼ばれる夜が増えています。 この熱帯夜も、ヒートアイランドと関わりがあると考えられています。
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日本列島は環太平洋造山帯(かんたいへいよう ぞうざんたい、英:Ring of Fire)に属しているため、地震と火山が多い。 地震は、地下の岩盤が壊れて生じる断層(だんそう)によって起きる。このため、断層が多い場所で、地震が多い場所は、今後も断層が生じると考えられており、そのため今後も地震が起きると考えられている。地震が起こりうると考えられる断層地帯のことを、活動中の断層という意味で、活断層(かつだんそう)という。 大地震では、家屋の倒壊などの地震の直接の被害のほかにも、地震によって生じた土砂崩れや、地盤の液状化現象など、2次的な災害も起こりうる。 地震の震源(しんげん)が海の下や海の近くの場合では、津波(つなみ、英:tsunami)が起きることもある。なお、断層は海底でも生じる。 2011年に起きた東北の太平洋沖の地震(東日本大震災)では、津波によって大きな被害が出た。東北の海岸には防潮堤があったが、津波の大きさは、防潮堤を乗り越え、そして防潮堤をこわすほどの波の大きさだった。 火山の噴火では、溶岩や火山灰が吹き出す。 1991年に噴火した雲仙岳では、くだけた火山物質が高温のまま、早いスピードで山を下る 火砕流(かさいりゅう、英:pyroclastic flow) によって、多くの被害が出た。 6月の梅雨や、秋ごろの台風では、集中豪雨のため、洪水(こうずい)などの水害(すいがい)が起きることもあります。 洪水など水の直接的な被害のほかにも、山くずれ や土石流(どせきりゅう)などの2次的な災害もあります。 東北地方や北海道の農業では、ときどき、夏場でも気温が大して上がらず、農作物の生育が悪くなり不作になるという冷害(れいがい)もあります。 冷害により米などが不作になる場合もあります。 ただ、米は、もともと熱帯の作物であり、地域に合わない作物を作っていたという面もあります。 東北地方で米が栽培できるようになったのは、品種改良による。 雨がほとんど降らないと、水不足や 干ばつ(かんばつ、英:drought) などが起こります。 森林地帯の樹木などの植物は、雨の際に水を吸収し、水をためておく働きがあります。 洪水の原因の一つには、道路や住宅地などのために森林伐採をしすぎたという面もあります。 このため、山林の森林を伐採しすぎると、その山で土砂くずれが起きやすくなります。 また、明治時代から以降の日本は人口が増えすぎたので、昔だったら土砂くずれなどの災害が多くて人が住めなかったような山奥の場所にも、人が移住してきて住むようになったという面もあります。 都市では、地下通路など地下の施設(しせつ)が多いですが、その地下施設に水が流れ込むこともあります。特に都市では、地面もアスファルトが多く、水が地面にしみこまないので、地下施設に水が流れ込みやすい面もあります。 あらかじめ、災害が起きそうな場所を予測して図示した ハザードマップ(防災マップ、英:Hazard map)がある。 個人の対策も、避難先を決めておくことも大事。 大地震やマグニチュード何度の大災害が起きると、水道管や電線や道路などの、いわゆる ライフ ライン が破壊される場合もある。防災では、もしライフラインが破壊されても、しばらく(数日程度)は生きていけるように、非常用の食べ物や水、懐中電灯や携帯ラジオ、電池(懐中電灯やラジオ用)なども準備しておくべきだろう。 防災では無いが、大人になったら、住居は地震保険などに入っておくことも、必要かもしれない。
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世界の人口は約70億人。(2014年) ある国や地域の人口を、その国や地域の面積で割った量を 人口密度(じんこう みつど、英:population density) と言う。 世界で見ると、東アジアや東南アジアの人口密度が高い。この理由は、これらの地域は稲作などがさかんであり、食料生産が多いからである。 いっぽう、アフリカなどの乾燥帯や、ユーラシア大陸の北部の寒帯、北アメリカ大陸の北部の寒帯では、人口密度が低い。 世界の人口は、アジア地域に6割が集中している。 世界の平均の人口密度は1km2あたり、約50人です。(約50人/km2) いっぽう、日本の人口密度は、約343人/km2であり、人口密度の高さの順位が日本は世界で約34位であり、世界の中でも日本は人口密度が高いほうの国である。シンガポールなどの極端に面積が小さい国を除くと、日本の人口密度の順位は世界5位になる。 以下に、主な地域の人口密度を示す。2005年度データにて作成。単位は人/km²。ただし、シンガポールなど、極端に面積の小さいものは除いてある。 主な国の人口密度は、以下のとおりである。 第二次大戦以降に、先進国の産業が発達し、そのため医療などが急速に発達したことで、先進国・発展途上国ともに死亡率(しぼうりつ、mortality rate あるいは death rate)が下がり、世界の人口が急激に増えました。 中でも、アフリカや南アメリカやアジアの発展途上国では、急激に人口が増加しました。これら発展途上国の人口増加は、人口増加の割合の大きさから、 人口爆発(じんこう ばくはつ、英:human overpopulation) とも言われました。 その後、先進国では、 出生率(しゅっしょうりつ/しゅっせいりつ 、英:birth rate)が下がり、人口の増加は落ち着きました。 ですが、発展途上国では、出生率があまり下がらずに死亡率だけが下がったので、発展途上国では人口の増加が落ち着かず、そのため食料生産が人口増に追いつかない地域も発展途上国には多くあります。 途上国の人口増加で追いつかないのは、食料生産の他にも、水道や電気の普及も追いつかない地域が多いです。また病院や学校の普及も追いついていません。 世界的な人口の増加によって、食料の不足や、環境問題の深刻化などが、心配されています。 中華人民共和国では、中国国内での人口増への防止のため、1979年から、人口を減らすために子供の数を1組の夫婦につき子供1人にかぎる 一人っ子政策(ひとりっこ せいさく、中文:计划生育)を取り始めています。 今後の予測では、世界の人口が、2050年には90億人を超えるという予想もあります。 いっぽう先進国の、日本、ヨーロッパ、アメリカ合衆国などの先進国などでは、人口増加の割合が、発展途上国よりも小さくなっています。先進国の中には、人口が減少している国もあります。 死亡率は低いですが、出生率も低いので、全体として、人口が増加しにくい傾向にあります。 多くの先進国では、少子化が起きています。このため、先進国では、国の人口のうちの高齢者の割合が多くなっており、高齢化(こうれいか)が進んでいます。 少子化と高齢化を合わせて、 少子高齢化(しょうし こうれいか)と言います。 先進国の人口の年齢構成は、少子高齢化の傾向にあります。 日本は、今後の予測では、少子高齢化に向かうと考えられています。 多くの先進国では、現在の人口規模を維持しようと考えています。そのため、子育ての支援などを充実させて子供を生みやすい環境を整備したり、あるいは外国からの移民を受け入れて人口を維持しようとしています。ヨーロッパ諸国では、すでに移民を受け入れた国もあります。 日本は少子化で人口減の傾向が予測されると言っても、人口密度で見た場合、日本の人口密度(約343人/km2)は、世界の平均(約50人)を大きく上回っています。ヨーロッパの工業国であり、ヨーロッパの中では人口密度の高い国であるドイツの人口密度の 230人/km2 よりも、またイギリスの人口密度 253人/km2 よりも、日本は人口密度が上回っています。 各年代の人口をまとめて、年代別の人口が分かるように図示したものを人口ピラミッド(英:population pyramid あるいは age pyramid)と言います。 日本での各国の人口ピラミッドの分類は、おもに、富士山型(ふじさん がた)、つりがね型、つぼ型という、3つの型(かた)に分けられる。 発展途上国では、死亡率の高さから、あるいは死亡への不安から、出生率が高くなりやすく、富士山型が多く見られる。 いっぽう、先進国では、死亡率・出生率がともに低く、つぼ型 か つりがね型 の傾向を示す。 それぞれの型の特徴を示す。 死亡率が高く、出生率も高い国で見られる。いわゆる「多産多死」(たざん たし)。年少者の割合が多い。発展途上国に多い。アフリカの多くの国にあてはまる。 人口ピラミッドが富士山型の国はエチオピア、インド、ブラジルなど。 もし、医療や栄養状況などが改善して死亡率が下がれば、今後は人口が増えるだろうと予測される。あるいは、すでに人口が増加傾向の国も多い。 死亡率が低く、出生率も低い。いわゆる「少産少死」(しょうさん しょうし)。ヨーロッパの先進国に多い。今後は人口が増えもしなければ減りもせず、人口が安定しつづける可能性が高い。このため、高齢者への年金や介護などの社会保障などの負担も今後は増えもせず減りもせず、労働者の人口も今後は増えもせず減りもせず、したがって経済も安定しやすいので、経済発展に有利である。 フランスやアルゼンチンなどが、つりがね型にあたる。 死亡率が低く、出生率も低い。いわゆる「少産少死」(しょうさん しょうし)。つりがね型よりも、出生率が、より低い。いわゆる、少子高齢化。 高齢者の年金や介護などの社会保障などの負担の割合が大きくなりやすい。今後の人口は、減っていくだろうと予測される。 一部の先進国で見られやすい。 日本やドイツ、ギリシャ、イタリア、スペインなどが、つぼ型に当たる。 なお、「高齢者」(こうれいしゃ)の定義は、国や国際機関ごとに異なる場合があり、国際連合(こくさいれんごう)では60歳以上を高齢者としており、国連の世界保健機関 (WHO) の定義では、65歳以上の人のことを高齢者としている。 日本の法律では、65歳以上を高齢者とするのが一般である。 日本では、0歳~14歳を年少人口,15歳~64歳を生産年齢人口,65歳以上を老年人口に区分する。 日本の人口は、平野や平地などに集中しています。なかでも、東京・大阪・名古屋の三大都市圏(さんだい としけん)を始めとした日本各地の都市部に人口が集中しています。東京・大阪・名古屋の三大都市圏だけでも、日本の人口の約4割以上が集中しています。 東京・大阪・名古屋とも、太平洋側にある都市です。日本の人口は、特に太平洋側の平地に集中しています。この東京・大阪・名古屋と、九州の福岡をむすぶ、帯状の地帯を、太平洋ベルトと言います。 太平洋ベルト以外の東北や北海道などの地方でも、札幌や仙台などの地方都市に、その地方の人口が集中している。 高度経済成長期の時代に、主に人々が仕事を求めて、人口が都市や周辺の地域に移動しました。 現在でも、都市では仕事が多いので、昔ほどではないが、いまだに人口が都市や周辺地域に集まっています。 都市では、人口の過密により、交通渋滞(こうつう じゅうたい)や住宅難、ごみ問題、大気汚染などの問題があります。 それでも都市に移住する人や、都市に住み続ける人が多いのが現状です。 都心では、土地が不足したので、都心ではなく周辺の郊外に、農村などから移住する人も増えました。 また、企業の工場の用地なども、都心では不足したので、工場が郊外や、さらにその外側の地域に進出したりすることも増えました。 1980年代ごろ、景気の加熱により、東京都心の土地の値段が上がりすぎたり、土地が不足したので、周辺の郊外が住宅地として開発されて、周辺に人口が流れるドーナツ化現象が置きました。ですが、1990年代ごろに都心の土地の値段が下がったので、2000年ごろからは、ふたたび都心の人口が増える傾向にあります。 かつて1970年代、1980年代ごろに、都心の郊外が開発されたころに、人口が急激に増えたので、学校などの社会的な施設が不足したりするという事態が置きました。 近年の都心では、高層マンションなどが多く建てられるようになり、高層マンションに移住する若い世代が増えましたが、学校などが不足する傾向にあります。 いっぽう、かつて1960年代ごろに開発された郊外のニュータウンなどでは、今では人口の高齢化や、住宅の老朽化により、いわば「オールドタウン」とでも言うような状況に、おちいっている地域もあります。 ニュータウンや新興住宅地などとして1970年代ごろまでに開発された郊外の住宅地も、開発される以前は農村だった場合もあります。 いっぽう、農村や山間部などでは、あまり仕事が無く、仕事も限られ、生活も不便であり、農村などでは人口が流出したりして、人口が減る、過疎化(かそ か)が進みました。今でも、農村などは過疎化が進んでいます。今の過疎化では、人口の移動とは別に、国全体の少子高齢化などによる人口減少もあります。一般に農村など過疎化している地域では、高齢化も進んでいます。 過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になって維持が困難になっている集落(しゅうらく)のことを、限界集落(げんかい しゅうらく)と言います。 多くの過疎の農村などは、自分たちの村を維持しようとしているので、人口を増やすために町おこし・村おこしなどの対策を取ります。 過疎地域での土地の安さを利用して、企業の工場などを誘致している地域もあります。 過疎の地域では、土地の値段は安いですが、産業があまり盛んで無いので、仕事の賃金が低かったり、そもそも就職先が少ないという問題もありえます。過疎化した地域では、鉄道やバスなどの交通網が廃止されることもあります。 老年人口が7%を超えている社会を、高齢化社会といいます。日本では、近年(2012年)では、老年人口が約24%である。 現在の日本は、世界の中でも高齢化がすすんでいる国だが、1980年代ごろは、あまり高齢化が進んでいなくて若い世代が多かった。 日本では、戦後の1947年〜1949年ころのベビーブーム(英語:baby boom [1][2]))により、若い世代が多く、人口も増加していった。 医療の発達や栄養状況の改善などにより平均寿命(へいきん じゅみょう)は伸びたので高齢者は増えていったが、それ以上の割合で子供が生まれたので、社会の高齢化には、ならなかった。 なお、1947年〜1949年ころのベビーブームに生まれた世代を「団塊の世代」(だんかい の せだい)という。 1950年代以降は、ベビーブームほどの多産化は落ち着いて出生率が下がったが、その後の好景気もあり、1970年代まで、多産化の傾向と、それによる人口増は続いた。 そして、1970年〜1980年ごろからは、人口が増えつつも少子化が進みはじめた。ついに、2005年ごろから、人口が減り始めた。 今(2014年に記述。)も少子化が続いていることで、近年になって急激に高齢化が進んでいる。 日本の人口は、もし単純に減少のペースが、今のようなペースで人口が減少した場合、今後の予測の一つでは2050年には人口1億人〜8000万人ほどになるという予想もある。 高齢化により、老年人口を支える福祉の財源の負担が心配されています。また、人口減と高齢化により、労働力人口が今後は減ることが予測されています。日本の多くの有権者は、少子化を防ごうと考えており、そのため日本政府は少子化を防ぐために子供を生みやすい環境を整備するなどの対策を取っています。 現在の日本の、1人あたりの女性が生涯(しょうがい)に産む子供の数である出生率(合計特殊出生率)は、およそ 1.39人(2011年)です。 なお、合計特殊出生率が2.07を下回ると、人口が減少していくと言われています(※ 日本文教出版の公民の教科書)。 人々が、あまり多くの子供を作らなくなった少子化の原因には、色々な説がありますが、高度経済成長の終了などによる経済情勢の悪化や、人口の過密などが主な原因と考えられます。 少子化により子供の割合は減ったものの、働く女性は増加しており、そのため乳幼児を預かってもらう保護施設や保育園などの必要性が高まっており、これらの保育施設は不足の傾向にあります。 経済の国際競争による、日本の経済情勢の悪化により、家庭の収入を増やすために働く女性も増える傾向にあります。 もっとも、2050年以降は人口が減るに連れて高齢者の人数も減るので、2050年以降は高齢化の割合は落ち着いていくとも考えられる。 東京・大阪・名古屋などの都市圏などでは、若い世代の人口の流入も多く、あまり高齢化が進んでいない。いっぽう、東北や四国や中国地方の山陰(日本海側)、九州などで高齢化が進んでいる 農村などでは人付き合いなどで高齢者などの立場が強くなりやすいので、農村での若い人の立場の低さを若い人がきらって、人口が農村から都会に流出するという面もあるだろう。 産業の構造も、高齢化にともない変わる。若い世代を対象にした産業は不利になり、年齢の高い世代を対象にした産業が有利になると考えられている。また、過疎地域の小学校・中学校などは、少子化により、過疎地域では生徒数が減ったり、生徒がいなくなったりしており、小学校などの統廃合が進んでいる。 日本は2014年の現在は高齢化であり人口ピラミッドもつぼ型だが、かつて1930年〜1950年ごろの日本は人口ピラミッドが富士山型の国だった。 今の高齢者は、この1950年ごろの当時は若かった世代が、今では年を取って高齢者になっている面もある。 明治以降の日本の歴史では、人口ピラミッドが富士山型の時代が1960年ごろまで長く続いたので、日本の多くの産業や制度は、子供や若者の人口での割合が多いことを前提にしている。 江戸時代の後半の、日本の人口は約3000万人です。その後、明治時代に開国をして、文明が発達するにつれて人口も増加する時代が明治時代・大正時代・昭和時代と、しばらく続きました。人口が増加するに連れて、住宅地などが足りなくなり、今まで人が住んでいなかった山間部などにも人が移住するようになった歴史もあります。 「一般人口統計 2013年版」によると、2010年(平成22年)の主要国の高齢化率は以下のとおりである。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%9C%B0%E7%90%86/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E6%AF%94%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC_%E4%BA%BA%E5%8F%A3
原油(石油)、石炭、鉄鉱石、銅、天然ガスなど、地下から得られる資源を 鉱産資源(こうさんしげん) という。 鉱産資源には、鉄鉱石のように工業の金属の原料になるものと、原油や石炭や天然ガスなどのように主にエネルギー源になるものがある。 工業の金属の原料になる資源には、鉄を得られる鉄鉱石の他にも、アルミニウムの原料のボーキサイト(bauxite)や、銅、ほかにも金や銀などの金属などがある。 ・ アメリカや中国は鉱産資源の埋蔵量が多いが、自国の鉱産資源はあまり使わず、外国から鉱産資源を輸入している。 ・ 鉱産資源は、その資源が分布している地域に、かたよりが多い。原油の埋蔵量は、アラビア半島周辺などの西アジアに多い。石炭は、比較的、広い地域に分布している。 鉱産資源の消費も、地域による かたより があり、アメリカ合衆国や日本などの工業先進国で資源の消費が多いです。 発展途上国でも、人口の増加や産業の発達、自動車や家電製品などの普及にともない、資源の消費が増えています。 日本では、鉱産資源を輸入しています。実は日本でも、わずかながら石炭などの一部の鉱産資源は産出するのですが、あまり埋蔵量が多くなく、採掘に費用がかかり、オーストラリアなどから石炭を輸入したほうが安いので、日本ではそれらの資源を輸入しています。 エネルギーの供給源の種類は、国によって、割合が大きく異なる。 フランスでは、原子力発電がエネルギー源としてもっとも多く、原子力発電が4割に近い。いっぽう、日本では、石油が、エネルギーの4割に近い。日本はエネルギー資源の80%ちかくを輸入にたよっている。 日本で使われてる石炭と鉄鉱石は、主にオーストラリアから輸入されています。日本は、原油を主にサウジアラビアとアラブ首長国連邦から輸入しています。 日本では、急なエネルギー不足にそなえて、国家が石油などの資源を、九州や北海道などに備蓄しています。そのための備蓄基地(びちく きち)が日本にあります。日本では、石油は200日ぶんの備蓄が、備蓄基地にあります(2016年度)。 多くの国で、電気機械の発達により、エネルギーを電力にして使用する割合が増えている。このため、発電も重要になっている。 発電方法は古くは、ダムなどに水を貯めて、水の落差で水車を回して発電する 水力発電(すいりょく はつでん、hydroelectricity または hydroelectric generation) が主流でした。ですが、電力使用量の増加により、水力だけでは足りなくなり、石炭や石油などの燃料を燃やして、水を沸かして蒸気にして、蒸気でタービンを回すという 火力発電 が、多くの先進国で主流になりました。 第二次大戦後、 原子力発電(英: nuclear electricity generation) が開発されると、国によっては原子力発電の電力生産の割合が大きくなりました。 発電所は、その発電方法の特徴から、建設されている場所にかたよりがあります。 たとえば水力発電にはダムが必要なので、山間部に水力発電所が作られます。 いっぽう、火力発電所は、燃料の石油や石炭・天然ガスを海外から輸入するため、臨海部(りんかいぶ)に火力発電所がある場合が多いです。 また、原子力発電所は、冷却水が大量に必要なため、日本では海水を冷却水として使うため、原子力発電所も臨海部に立地している場合が多いです。 火力発電の燃料である石油や石炭などの資源は有限の資源です。また、化石資源など燃料を燃やすことで、大気中の二酸化炭素を増やしてしまい、地球温暖化の原因にもなります。二酸化炭素は、地球温暖化の原因物質と考えられており、温室効果ガス(おんしつこうかガス、英: greenhouse gas、GHG)とも、よばれています。 なお、原子力発電所の熱源の原料は、ウランです。ウランから出る放射線を熱源として利用して、蒸気をわかし、タービンを回して発電する仕組みです。 原子力発電所は、放射性廃棄物を産出しますが、日本ではその最終処分ができません。原子力発電は火力発電とは違い、石油などの化石燃料を使用していないので、温室効果ガスを出しません。原子力発電所からは、トリチウムや放射性キセノンなどの放射性物質が排出されます。また、原子炉の定期点検のために、放射線被ばくを伴う作業が必要です。 水力発電の建設は、山間部をダムとして開発しなければいかないので、建設できる場所にはかぎりがあります。 火力や原子力には、そのための資源の埋蔵量に、かぎりがあります。 火力発電を行うための石油や石炭などの燃料には埋蔵量にかぎりがあります。原子力発電を行うための原料のウラン(ドイツ語: Uran)にも、埋蔵量にかぎりがあります。 将来的な資源の枯渇により、現状の発電方式のままでは、必要な電力エネルギーを確保できなくなるおそれが高いので、他の発電方法の開発もされています。 このため、 風力発電(Wind power) や、 太陽光発電 (たいようこうはつでん、photovoltaics、Solar Photovoltaics、略してPVとも)、太陽熱発電、 地熱発電(ちねつはつでん、じねつはつでん、英: geothermal power) などの新方式の発電が開発がされています。 風力は風が吹くかぎり、いつまでも発電できます。太陽光発電・太陽熱発電は、太陽の光があるかぎり、いつまでも発電できます。なので、風力発電や太陽光発電など、これらの発電および、発電によって得られたエネルギーを「再生可能エネルギー」(英:renewable energy)などとも言います。 しかし、あまり発電量が大きくなく、また発電量が安定もしていないという、安定供給の技術的な問題があります。 風力発電は、風が吹かなければ発電できません。太陽光・太陽熱発電は、くもり や 雨などで太陽の光が弱まれば、発電量が落ちます。 とは言え、火力発電とちがい、風力発電や太陽熱発電では燃料を必要とせず、ほぼ永久に発電できるので、将来的には石油などの資源の枯渇にともない、風力発電や太陽熱発電などが普及していく可能性が考えられます。 地熱発電は、地下深くのマグマによって熱せられた地下水をもとに、熱水や蒸気によって発電を行う発電です。 日本では、大分県(おおいたけん)などの温泉の多い地域で、地熱発電の開発が行われています。 たとえば、大分県九重町(ここのえ まち)の八丁原(はっちょうばる)に地熱発電所があります。 地熱発電の原理では、地下のマグマが必要です。温泉も、地下のマグマが地下水を暖めることで作られていると考えられています。 (※ 温泉と地熱発電を、関連づけて覚えること。別府(べっぷ)温泉も、湯布院(ゆふいん)も、大分県の温泉である。) なお、これら風力・太陽光・地熱など、他の方式の発電にも、火力・原子力ほどではなくても、環境への影響があります。 火力発電・水力発電・原子力発電は、どの発電方式でも、環境への影響があります。(水力発電を建設するには、ダムを作るために、山間の森林や集落などを無くさなければならない。) 新型の発電方式であっても、発電設備のために場所を広く使いますので、それによる環境への影響が必ずあります。 そのような問題があっても、日本では、なるべく発電方法の種類を増やしたほうが国のエネルギー政策にとって安全だろうという考えと、長期的に見れば石油やウランはいつかは枯渇するので太陽光発電などの再生可能エネルギーに切り替える必要があるという考えのもと、日本では新方式の発電の開発も進められています。 日本の発電量の3割を原子力発電が占めている。(2009年) 水力発電が約10%、 火力発電が約60%、原子力発電が約30% である。2011年の東日本大震災での原子力発電所の事故により、今後の原子力政策のありかたの議論が高まっている。 近年(西暦2013年)の日本は電力は、70%くらいを火力発電で、まかなっています。原子力は20%くらいです。水力は7%くらいです。 日本では1970年代の オイルショック(石油危機、英:oil crisis) による石油不足の反省などから、エネルギー源の確保の観点から石油だけでなく天然ガスなどエネルギー源を多様化する政策が日本では取られてきた。(「オイル・ショック」は和製英語) そのエネルギー源多様化の政策の一環で、ウランも発電用エネルギー源として輸入されてきた。 石油や石炭など資源の埋蔵量には限りがあるので、今後に採掘できる年月である可採年数(かさい ねんすう、minable years、または R/P ratio、reserves/production ratio)は限られている。 限りある資源は、何もエネルギー資源だけに限らず、鉄鉱石など鉱物の埋蔵量にも限りがある。 なので、鉱産資源を用いた製品を リサイクル(Recycle) していくことが必要である。 パソコンや携帯電話などの廃棄物などの中には、金や銀や貴金属などがある場合があるので、都市鉱山(とし こうざん、英語:urban mine)として注目されています。 私達には何ができるでしょう。例えば、スーパーで袋を貰わない、ほかにも基本的なことだけど、ゴミの分別があります。 そういったことを皆さんで行えば、きっといつかこの地球は報われるでしょう。 たとえば買い物をするときは、マイバッグなどのカバンをつかうことで、ビニールぶくろをへらせます。洗剤(せんざい)などを買うときは、つめかえようの洗剤を買うことで、容器のおもさをへらせます。 いらなくなったものは、人にあげたりすることで、そのものが使いつづけられるようにすることでも、あります。洋服などの布は、切れなくなても、雑巾や布巾の材料にできますし、機械などの油をふきとるための ウエス という布地の材料にもなります。 空き缶などは、分別してゴミにだすことで、缶の資源として再利用してもらえます。ペットボトルも分別してゴミに出すことで再利用してもらえます。 食品のトレーなども、スーパーの入り口などにある回収ボックス(かいしゅうボックス)に出すことで再利用してもらえます。 新聞紙や雑誌などの古紙などは、地元のゴミ収集所の、古紙回収の日に、分別して出すことで再利用してもらえます。 電気は 発電所などで、つくられています。では、そもそも発電所では、どうやって電気を作っているのでしょうか? 火力発電所や 水力発電所や 原子力発電所などがありますが、そもそも火力や水力で、なんで発電が出来るのでしょうか? じつは、磁石をうごかすと、電気が発生します。くわしくは、理科で習います。 磁石というのは、N極とS極にわかれている、あの磁石です。鉄をひきつける、あの磁石です。 あとは、火力なり水力なり、なにかの動力で、磁石を動かせば、電気が発生するという仕組みで、これらの火力・水力・原子力の発電所は発電しているのです。 火力発電所では、石油や石炭や天然ガスを燃やした熱で、水を沸かして蒸気にして、その蒸気の力を動力にしてタービンを回しています。あとは、このタービンに磁石をくっつければ、発電をするという仕組みです。 火力発電所は、火で水を沸かすという仕組みなのです。なので日本の場合、海ぞいに火力発電所が立っている場合が多いです。海ぞいは水が多いからです。また、海沿いのほうが、内陸よりも、燃料の重油などを輸送しやすいのです。火力発電所は、大都市の近くの臨海部につくられています。消費地の都市に近いことも理由の一つです。 原子力発電所も、じつは、水をわかして蒸気にして、その蒸気でタービン(英語:turbine)を回しています。 原子力は、水を熱する手段なのです。 ウラン という物質の、原子核(げんしかく)が分裂するときに、熱を発生します。その熱を使って、水を沸かしているのです。原子核が分裂することを 核分裂(かく ぶんれつ) といいます。 原子力発電所では、ウランの核分裂の熱で、水をわかして蒸気にして、蒸気で、タービンという水車のようなものを回して、発電しています。 原子力発電では、ウランを冷やすための冷却水(れいきゃくすい)が大量に必要です。だから建設場所は、海水を冷却水として使える臨海部に、発電所が作られます。また、万が一の原発事故への対策から、都心からは離れた地方に作られるのが普通です。このため、都市からはなれた場所の海岸部に、原子力発電所は多いです。福井県の若狭湾(わかさわん)ぞいや、福島県の沿岸部に、原子力発電所は多いです。 原子力発電には、放射線を出す放射性廃棄物(ほうしゃせい はいきぶつ)が作られるという問題点があります。 水力発電所は、ダム(英: Dam)などから水を落としたときの力で、タービンを回します。 山間部のダムの近くに、水力発電所がつくられるのが普通です。 ダムが山間部にしか作れないので、水力発電所も山間部に多いです。 ・ 風力発電は、風でタービンをまわして、発電する方式です。 ・ 地熱発電では、地熱で蒸気をわかして、タービンを回して発電します。 ・ 太陽光発電は、太陽電池に、太陽の光をあてて発電します。また、夜間は日の光が当たらないので発電できません。太陽光発電では、タービンを回していません。他のタービンを回して磁石で発電する方式とは、太陽光発電は違う原理です。 サトウキビなどからエタノール(エチルアルコール)を作り、そのエタノールを燃料にするバイオエタノール(バイオ燃料 、Bioethanol)がある。 当然、サトウキビを燃料として転用した分だけ食料としてのサトウキビの生産量は減る。なので、燃料として増産できる量には限りがある。 水素ガスなどからエネルギーを取り出せる燃料電池は、べつに発電方法では無い。電池は、発電した電力を蓄える装置でしかない。水素ガスを作るのに、べつの電力が必要になる。水素ガスを作るための電力に、太陽光発電などの他の再生可能エネルギーを用いて、組み合わせる技術が期待されている。
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世界では18世紀後半から始まった 産業革命(さんぎょう かくめい)以降、急速に産業が発展していった。その結果、現代では自動車でいつでも好きな場所へ移動できたり、冷房の普及で夏場も快適に過ごせるなど、私たちの暮らしはとても豊かになった。 しかし、人類による資源の大量消費は地球環境に深刻な問題を起こしつつある。 などの問題がある。 地球温暖化(ちきゅう おんだんか、英:global warming) の主な原因は、石油などの化石燃料(かせき ねんりょう、英:fossil fuel)の大量使用によって、排気にふくまれる二酸化炭素(にさんかたんそ)により、空気中の二酸化炭素が増加したためと考えられている。 国連では温暖化の防止のため、1992年に国連環境開発会議(地球サミット)がブラジルのリオデジャネイロで開かれ、地球サミットで条約として地球温暖化防止条約( 気候変動枠組み(わくぐみ)条約)が採択された。 また1997年には、国連の会議(地球温暖化防止 京都会議)で,温室効果ガスの削減目標を定めた京都議定書(きょうとぎていしょ)が採択された。 しかし、中国などの発展途上国と見なされていた国には、削減が義務づけられていない。 また、アメリカは当時に会議から離脱した。 国別の排出量では2009年では、中国が1位であり、アメリカが2位である。 このような理由のため、京都議定書の実効性が疑問視されている。 (削減義務を負わない)発展途上国と見なされた国の反論は、「地球環境問題を引き起こした原因は、主に先進国の活動が原因であり、われわれ途上国に負担を負わせるのはおかしい。」というような反論を途上国している。 海抜の低いツバル、モルディブ、キリバスの国は、海水面が上がれば国土の多くが水没してしまう恐れがある。 南極の大陸上の氷や氷河の氷が溶ければ、海面上昇。低地が水没する。なお、北極の氷が溶けても、もともと北極海に浮かんでいる氷が水に変わるだけなので、海面は上昇しない。 温暖化によって、マラリアを媒介する蚊のハマダラカの生息域が広がる恐れが有る。 なお、二酸化炭素のことを化学式から CO2(シー・オーツー) とも言う。Cが炭素(英:carbon カーボン)のことで、Oが酸素(英:Oxygen オキシジェン)および酸化(Oxidation オキシデイション)のことである。 主に発展途上国で、耕作や放牧や工業化を目的にした森林伐採などで、森林面積が減少している。温暖化の原因にもなっていると考えられている。また、動物の生息域が減るので、生態系の保護の観点からも、森林破壊が問題である。 なお、温暖化の化石燃料以外の他の原因として、森林伐採などによる森林の減少によって、植物の光合成(こうごうせい)による二酸化炭素の吸収量が減ったのも理由の一つでは、という説もある。 もともと植物の少ない地域で、その地域が砂漠になる現象が世界の各地で起きている。原因は、過度の農業化や周辺の森林伐採などにより、 土壌の保水性が失われたことなどである。 酸性雨の原因は、化石燃料の排気にふくまれる窒素酸化物などの物質が、雨の酸性化の原因と考えられている。酸性雨により、森林が枯れたり、湖や川の魚が死んだりする場合もある。 フロンガスという物質が原因で、オゾン層が破壊されることが1980年代に分かった。 地球環境問題は一国だけの問題ではなく、複数の国々、さらに世界中全ての国に影響を与える問題である。このため、1970年代から国際会議でも取り上げられる重大なテーマとなった。 地球環境問題についての最初の国際会議は1972年にスウェーデンのストックホルムで開かれた国連人間環境会議(ストックホルム会議)である。このとき「かけがえのない地球」というキャッチフレーズが用いられた。 1992年にはブラジルのリオデジャネイロで国連地球サミットが開かれた。( ※ 正式名称は「環境と開発に関する国際連合会議」。ただし、「リオ会議」「国際連合環境開発会議」などとも呼ばれる。 ) 国連地球サミットにおいて、「持続可能な開発」という考え方が示された。 1997年には京都で開かれた京都会議( ※ 正式名称は「第3回 気候変動枠組(わくぐみ)条約 締約国(ていやくこく)会議」 )において京都議定書(きょうと ぎていしょ)が締結され、世界の主要国が温室効果ガスの削減を求められるようになった。議定書の発効は2005年からである。 このようにして世界の国々が地球環境問題に対して一致して取り組むことが求められるようになったが、京都議定書からのアメリカの離脱、中国の経済発展にともなう温室効果ガス排出量の急増、発展途上国の経済発展と環境への影響の増大などに見られるように、各国の事情や利害の対立から一致した行動にはほど遠いという問題は解決されていない。 ヨーロッパでは陸続きの国が多いので、一つの国の環境問題が周囲の国に影響を与えることも大きく、環境問題が外交問題になりかねないこともあり、ヨーロッパでは1970年代ごろから環境問題の取り組みが積極的に行われてきた。 工場などからでる排水や排煙などの処理が不十分だと、排水・排煙にふくまれる有害物質により、周辺の環境が汚染され、近隣の住民など多くの人の健康に被害が出る場合がある。このように、産業活動による多くの人への健康への悪影響を 公害(こうがい、英:pollution ) という。 日本での公害は、第二次大戦の前から知られていたが、戦後の高度経済成長期に日本の全国各地が急激に工業化していくにつれて、さまざまな公害が全国各地で発生し、公害の被害が目立ち始めた。 公害とは、主に、以下の7つの公害が典型的である。 環境基本法では、この7つの種類の公害を、典型七公害(てんけい ななこうがい)としている。 日本でも、かつて、大きな公害をおこしたことがある。四大公害(よんだい こうがい)として、水俣病(みなまたびょう)、四日市ぜんそく(よっかいち ぜんそく)、イタイイタイ病、 新潟水俣病(にいがた みなまたびょう)の4つの公害が、とくに被害が大きい公害として有名である。 化学工場の排水にふくまれていた水銀および水銀化合物(有機水銀、メチル水銀)が原因でおきた病気です。水銀は猛毒(もうどく)なので、この水銀に汚染された水を飲んだり、水銀に汚染された海水で育った魚や貝を食べたりすると、病気になります。体が水銀におかされると、神経細胞が破壊され、手足がしびれたり、うごかなくなります。 熊本県の水俣(みなまた)という地域や、水俣湾(みなまたわん)の周辺で、1953年ごろに新聞報道などで有名になった公害なので、水俣病(みなまたびょう)と言います。 なお、有名になったのは1953年ごろからだが、それ以前の1940年代ごろから、水俣病とおぼしき症例が知られている。 人間以外にも、猫や鳥など、水銀に汚染された魚を食べたり水を飲んだりしたと思われる動物の不審死がいくつもあり、当初は、水俣病の原因もよく分かっていなかったので、しびれている猫が踊って(おどって)るようにも見えたことから、当初は「猫おどり病」(ねこおどりびょう)とも言われた。 三重県の四日市市は石油化学工業で、1940年ごろから、さかえていました。多くの石油化学工場があつまった 石油化学コンビナート といわれる工場のあつまりが、あります。 1950年ごろから、この周辺では、ぜんそくや気管支炎(きかんしえん)など、のどをいためる病気の人が、ふえてきました。また、この近くの海でとれた魚は油くさい、と言われたりもしました。 四日市ぜんそくの原因の物質は 亜硫酸ガス(ありゅうさんガス) だということが、今では分かっています。 どうも、石油化学コンビナートから出る、けむりや排水(はいすい)が、環境に悪い影響をあたえているらしいと言うことが1960年ころから言われはじめ、社会問題になりました。 このうち、とくに ぜんそく の被害が有名なので、この四日市(よっかいち)でおきた公害を 四日市ぜんそく というのです。 四日市ぜんそくの、ぜんそくの原因は、今ではわかっており、けむりにふくまれる亜硫酸ガス(ありゅうさんガス)や窒素酸化物(ちっそ さんかぶつ)が、おもな原因だと分かっています。 1955年ごろ富山県の 神通川(じんづうがわ) の周辺で起きた病気であり、体の ふしぶし が痛くなり、骨が折れやすくなる病気です。 カドミウム が原因です。カドミウムは猛毒です。 川の上流にある鉱山から流れ出る廃水にカドミウムがふくまれており、その廃水を飲んだ人や、廃水に汚染された米などの農産物などを食べた人に、被害が出ました。 1964年ごろに新潟県の 阿賀野川(あがのがわ) の流域で起きた、水銀および水銀化合物による公害です。 化学工場の排水中の水銀化合物が原因です。 症状は、熊本県の水俣病と同じです。 第二水俣病(だいに みなまたびょう)とも言われます。 これらの公害病の原因の物質を排出した会社や工場に対し、住民らが国に裁判を、訴え(うったえ)でます。 1960年代の後半に裁判が起こされ、1970年代の前半の1971年〜1973年ごろに判決が出ます。 判決は、企業側の責任を認め、企業側は被害住民に 賠償金(ばいしょうきん) を支払うように命じた判決が出ます。
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農業は、世界中の多くの国で行われています。いっぽう工業は、世界で見ると、工業の発達している国と、あまり発達していない国があります。工業は、ヨーロッパやアメリカ、日本で、とくに さかんです。 産業には、農林水産業や工業のほかにも、商業やサービス業、金融業など、多くの産業があります。 産業の分け方では、農林水産業を 第一次産業 と言います。工業や建設業を 第二次産業 と言います。そして、商業、サービス業、金融業、運輸業などを 第三次産業 と言います。 近年(2014年に記述)の日本では第三次産業の就業者が約7割であり、もっとも多いです。 第二次大戦前の日本では、稲作による農業を中心とした第一次産業が就業者の過半数を超えていましたが、第二次大戦後の経済成長で工業化が進み、第二次産業と第三次産業の就業者が増えていきました。 その後、1970年代ごろから、石油危機や円高で、日本の工業が不利になり、また、韓国や中国・東南アジアなども工業力をつけ始め、工業の国際競争が厳しさを増し、日本の産業の中心が少しずつ移り変わり、第二次産業から第三次産業へと日本の産業の中心が移っていきました。 日本に限らず、多くの国でも、産業の中心が  第一次産業 → 第二次産業 → 第三次産業  と移り変わっていく、似たような変化をする傾向があります。 農業の生産品は、地域の特徴があり、地域ごとに違っています。たとえば、東南アジアでは稲作がさかんですが、これは米の栽培には多くの水と温暖な気候が必要だからです。 日本では、産業の中心が第三次産業、第二次産業に移ったこともあり、第一次産業を目指す若者が少なくなっており、農業などで後継者不足が起きています。また、農業の就業者の高齢化も進んでいます。
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農業の生産品は、地域の特徴があり、地域ごとに違っている。たとえば、東南アジアでは稲作がさかんであるが、これは米の栽培には多くの水と温暖な気候が必要だからである。 小麦は、世界各地で作られている。 四国地方や九州地方などの温かい地方では、温かい気候を利用して、他の地方では春や夏にならないと作れない作物を早い季節に作る促成栽培(そくせい さいばい)が、さかんです。高知県(四国)や宮崎県(九州)で、促成栽培がさかんです。 長野県の高原や、群馬県の高原、北海道などでは、その地方が寒いことを利用して、他の地域よりも出荷を遅らせる場合もあります。 このように、寒い土地の気候を利用して夏物の野菜の出荷を秋にずらすことを、 抑制栽培(よくせい さいばい) といいます。 群馬県では、高原で作った抑制栽培の野菜の 高原野菜(こうげん やさい)が有名です。群馬県の嬬恋村(つまごいむら)は、キャベツなどの高原野菜で有名です。長野県・山梨県の八ヶ岳(やつがだけ)も、高原野菜で有名です。 キャベツのほか、レタス、白菜などが、高原野菜として有名です。 これらの栽培方法(促成栽培、抑制栽培)では、他の地域が作れない季節なので、農家からすれば競争相手が減り、販売価格が高くても売りさばく事ができます。 これらの栽培方法をするとき、ビニールハウスやガラス温室などの施設を用いている場合もあり、このような施設を用いている場合に、施設園芸農業(しせつ えんげい のうぎょう)と呼ぶ場合も、あります。 食料自給率(しょくりょう じきゅうりつ)が低いです。 国内産の農産物は価格が高く、そのためやすい外国産の輸入農産物に押されています。多くの農産物では、価格の安さでは海外産に日本産はかなわないので、日本独自の品質の高さや安全性の高い農産物を作って対抗しています。 また、農業を継ぐ(つぐ)、「跡継ぎ」(あとつぎ)の若い人が少なく 高齢化(こうれいか)が、進んで(すすんで)います。 耕地がせまいのも問題です。農家1戸あたりの耕地面積は1.5ha(ヘクタール)です。 1haは1辺が100mの正方形の面積です。つまり、1ha=100m×100m=10000m2です。 1ha=100a(アール)です。 日本の国土は山が多いです。都市部に近い地域の平野では、住宅地や工業用地にも使われているので、ますます農地は少なくなります。 日本の耕地では、稲の栽培が、もっとも多いです。稲作は、日本では東北地方や北陸地方で生産がさかんです。 耕地面積の38%くらいが稲です。つづいて飼料用作物が24%で、野菜が13%で、果物が6%、麦が6%です。 耕地面積は、じっさいに植えた農地の面積です。いっぽう、年に二回植えたら2倍として計算した面積を作付面積(さくつけ めんせき)といいます。 作付面積では、野菜のほうが米よりも大きくなります。 米の生産額は、現在では、21%くらいで、野菜の25%よりも少ないです。日本では野菜の生産額は、米よりも多いです。 昔は、コメの方が生産額が多かったです。1980年では、米のほうが生産額が上でした。今では、順位が変わっているので、注意してください。 日本でコメ作りがさかんな地域は東北と北陸です。新潟や秋田で、稲作が、とくに多いです。宮城や福島や青森などでも、稲作がさかんです。 北海道も農地が大きいので、米の生産量は多いです。 東北と北陸をあわせて、日本国内の米の生産量の40%ちかくを生産しています。この東北と北陸は、「日本の米倉」(こめぐら)と呼ばれています。 東北や北陸で米の生産が多い理由としては、 などの理由です。 米の消費量は、へってきています。 第ニ次大戦後の昭和のなかごろから、食事の洋風化や多様化がすすみ、それにともなって米の消費もへりました。 米は、1942年(第二次世界大戦中)に成立した食料管理法((しょくりょうかんりほう)で、政府が農家から米を買い上げて、米の値段(米価「べいか」という。)を安定させ、農家のくらしをささえていました。ですが、戦後の食生活の変化により、だんだん生産があまるようになり、そのため買い上げている国の財政にも負担になりました。 1970年ごろから、政府は、農家に米の生産をへらすよう、命令をだしました。これが米の生産調整(せいさん ちょうせい)です。米の農地面積を減らすことを 減反(げんたん) ともいいます。 政府は農家に、米をつくらず田を休ませる休耕(きゅうこう)や、米以外のほかの作物に栽培する作物をきりかえる 転作(てんさく) を、農家にすすめました。このように米の生産量を調整することを(米の)「生産調整」(せいさんちょうせい)または「減反」(げんたん)といいます。 1995年には、古い食料管理法は廃止され、現在では、食料法(しょくりょうほう)に変わっている。 (※ 範囲外?:) なお、食料管理法の廃止は、1995年に批准されたウルグアイラウンドのミニマムアクセス(最低輸入機会)とも関係している。(※ 参考文献: 清水書院『現代社会ライブラリーにようこそ 2018-19』)なお、さきほど「食料管理法」と書いたが、より厳密には「食糧管理法」である。 果物は、その果物の種類ごとに、栽培に適している環境が違います。たとえば りんご は、すずしい所でよく育ちますが、みかんは温かい所でよく育ちます。このため、地域の気候など、地域の特性にあった果物が栽培されています。 日本で果物の栽培がさかんな地域は、内陸の盆地や、山麓などの扇状地で、果樹の栽培がさかんです。 りんごは、すずしい地域が、栽培に適しているので、青森県などで栽培されています。 みかんは、あたたかい場所で、よく育ちます。このため、西日本に みかん の産地は多いです。愛媛県や和歌山県などが産地として有名です。 ぶどうは、気温が高く、雨の少ない、水はけの良い(=水が、たまりにくい)場所で、育ちやすいです。ぶどうの産地は、山梨県の甲府盆地が産地で有名です。甲府盆地の扇状地は、扇状地なので水はけも良いからです。ほかには、長野県や山形県も、ぶどう栽培のさかんな産地です。 (果物は、他にも多くあるが、すべての種類を解説するのは時間がかかるので、他の果物は説明は省略する。 野菜は、いたみやすいので、消費地の近くで生産されることが多い。 このため、東京に近い、茨城県や埼玉県や千葉県で、野菜づくりはさかんである。 大阪や名古屋の周辺でも同様である。 このように、大都市の近くでおこなわれる農業を、 近郊農業(きんこう のうぎょう) という。 日本の農家の総数は、2010年で、およそ252万戸です。 農家のほとんどは、農家以外でも収入を得ている兼業農家(けんぎょうのうか)です。農家だけで収入を得ている専業農家(せんぎょうのうか)は少ないです。 専業農家は、およそ41万戸である。(2013年に本文を執筆。) 専業農家は総農家数の17%ていどです。今では、ほとんどは、兼業農家です。 兼業農家のなかにも、農家での収入のほうが多い第一種兼業農家と、農家以外での収入が多い第二種兼業農家があります。いまでは、第二種兼業農家のほうが多いです。 第一種種兼業農家が22万戸にたいし、第二種種兼業農家は95万戸で、第二種種兼業農家が総農家の37%をしめています。 兼業農家が多い理由として、農業での収入が低いことです。耕地がせまいので、収入を増やすことも難しいのです。 現在の日本の農業は機械化が進んでいます。アメリカ合衆国ほどの機械化ではありませんが、日本が現在は工業国なこともあり、コンバインなどの農業機械は、日本の多くの農家に普及しています。 農家の中には収入を増やすために、機械をもっと多く買って使って生産性をあげようとする農家もいます。ですが機械を買ったり維持したりするのにも、お金はかかります。なので、なかなか収入がふえません。「機械化貧乏」(きかいか びんぼう)といって、機械を買うのに借りたお金や、機械を維持するのに必要なお金で、かえって貧乏になってしまうこともあります。 広い地域が利用できる北海道や九州で、さかんです。ただし、牛乳用の酪農(らくのう)は、すずしい・寒い地域にかぎります。 酪農では、群馬県あたりの山間部が、北海道よりも東京都市圏に近く、すずしいので、そのような東京に近くて、すずしい山間部などでも、酪農が行われる場合もある。 日本では、第二次大戦前のころは、林業が さかんで、すぎ や ひのき などの木材が活用されていました。しかし、戦後は外国製の安い輸入木材との競争によって、日本の木材よりも外国の木材が多く使われるようになり、日本国内の林業は厳しくなり、また林業に従事する日本人も減りました。 外国の林業の中には、一昔前は、環境保護のことを考えず、無理な過伐採を容認している国もありました。日本の木材は自然保護のことを考えて伐採されているので、なるべくなら日本の木材を用いることが、環境保護の観点では、良いかもしれません。 1985年ごろから、日本の漁獲量が減っており、外国からの輸入が増えている。経済水域が1970年以降に設定されたことにより、日本の漁獲が厳しくなった。それまでは外国の海で魚を取る遠洋漁業を行っていた日本にとっては厳しくなった。 また、魚のとりすぎにより、世界的に漁獲量が減ってきている。魚の保護もあり、世界的に漁獲の制限が厳しくなってきている。 このような漁獲の厳しさがあるので、とる漁業よりも育てる漁業として、養殖(ようしょく)や、栽培漁業(さいばい ぎょぎょう)が重視されている。 日本の近海は、暖流と寒流がぶつかる海域であり、良い漁場になっている。 養殖とは、いけす などで魚や貝などを育てて、あとで食料などにするために、あとで取る仕事です。 カキとノリは、ほとんどが養殖です。カキの養殖は、広島県(ひろしまわん)の広島湾(ひろしまわん)や、宮城県(みやぎけん)の松島湾(まつしまわん)での養殖が有名です。ワカメも、養殖が多いです。 ハマチの養殖や、マダイの養殖なども、あります。ハマチやマダイをそだてるエサは、イワシのすり身(すりみ)などです。このように、魚を養殖するために、ほかの小さな魚がつかわれる場合があります。 逆に、養殖が難しい魚もいます。マグロは養殖が難しいのです。マグロは動きまわるので、いけす に ぶつかりやすく、傷ついてしまい、養殖がむずかしいのです。 養殖がしやすい水産物は、ワカメや、カキのような貝など、あまり動かない生き物です。 養殖は海だけでなく、川や湖でも行われます。うなぎの養殖が、静岡県の浜名湖(はまなこ)で有名(ゆうめい)です。 「いけす」や、漁業センターなどで、卵(たまご)を稚魚(ちぎょ)になるまでそだてて、さらにある程度(ていど)の大きさになるまで育てて(そだてて)から、魚を海に放して、その魚をとる漁業です。魚の数をふやすために、このように、たまごをそだてる方法が、おこなわれています。自然の海では、ほとんどの卵(たまご)は、ほかの魚にたべられてしまい、卵から稚魚にかえることができないから、です。 サケの栽培漁業が有名です。マダイも、栽培漁業がされています。 他にも、ヒラメ・カレイなどの魚や、クルマエビ や イセエビ や ケガニ などの甲殻類(こうかくるい)、サザエ や アワビ などの貝類(かいるい)など、各地で、栽培漁業がされています。 陸から近い海で(日帰りで行ける場所ていど)、漁(りょう)をすることを、沿岸漁業(えんがん ぎょぎょう)と言います。沿岸漁業のうち、海岸に近い場所で漁をすることを 近海漁業(きんかいぎょぎょう) といいます。小型の漁船(ぎょせん)で行くことが多いです。 漁船で行くのに数日ほど掛かる距離の、日本の近海のことを、日本の沖合(おきあい)と言います。日本の沖合で、漁を数日かけて行うことを、沖合漁業(おきあい ぎょぎょう)と言います。中型以上の漁船で行くことが多いです。 沖合よりも遠い北太平洋の海や、南太平洋、大西洋やアフリカ近海などの、日本から遠い海で漁をすることを、遠洋漁業(えんよう ぎょぎょう)と言います。漁の期間は、数カ月ちかく続きます。大型の漁船で行くことが多いです。冷凍設備などの整った大型の漁船が必要です。
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日本の工業 日本の工業技術はアメリカやドイツともならび、世界でも有数の高度な工業技術を持った工業国である。 しかし、近年では大韓民国や中華人民共和国、東南アジア諸国でも工業化が進んでいる。中国など、これら新興の工業国は、賃金の安さを利用して、多くの仕事を取って、工業製品を生産をしている。 そのため、いくつかの業種では、日本から工場がほとんどなくなる産業の空洞化が進んだ。 新興工業国の賃金の安い国の工業に対抗するため、ヨーロッパやアメリカ、日本など前々から工業国だった国は、技術力の高い製品を開発して新興工業国では作れない製品を生産し、差別化を図っている。 また、先進工業国どうしでも工業の競争がある。中国や東南アジアなどの賃金の安い国に、日本やアメリカやドイツなど工業先進国が工場を進出させるのも、より安い価格で製品をつくることで先進工業国どうしの経済競争に勝つためである。このため、中国や東南アジアの工場は、新興の工業国と言っても、ヨーロッパ企業や日本企業、アメリカ企業など先進工業国の企業の支援を受けており、新興工業国の工場の技術力は高い場合もある。 日本で工業が盛んな地域は、主に太平洋側の平野部に多い。関東地方の太平洋側から、瀬戸内海、北九州にかけての地帯で工業がさかんであり、これらの地帯をまとめて 太平洋ベルト と呼ばれている。 日本では、1970年ごろから、工業の国際競争が厳しさを増し、そのため、単純な技術で作られる製品の工場は、賃金の安い海外に移っていった。 日本の製造業では、石油危機の反省から、省エネルギー化の研究開発が進み、省エネ製品が増えた。 太平洋ベルトとよばれる日本列島の太平洋側の臨海部に多い工業地帯を中心に、明治時代の工業は発展してきた。太平洋ベルトの中にある、中京工業地帯 と阪神工業地帯 と京浜工業地帯 を現在では、 <span style="三大工業地帯という。 中京工業地帯は愛知県の名古屋を中心とした工業地帯である。阪神工業地帯は大阪や兵庫を中心とした工業地帯である。京浜工業地帯は、東京や神奈川を中心とした工業地帯である。 生産額は中京工業地帯が最も多く、ついで阪神が2番目の生産額で、京浜は3番目の生産額である[1](2019年)。 昔は北九州をふくめて中京・阪神・京浜・北九州を四大工業地帯と言ってきた。しかし、近年、北九州の生産量が落ちてきているので、北九州をはずして、中京・阪神・京浜を三大工業地帯と呼んでいる。 日本では、第二次世界大戦の前までは、天然繊維の製品の輸出などの繊維工業が日本の主要な工業であった。 しかし戦後、朝鮮戦争による特需景気を日本経済は経験したあと、賃金の安い中国(中華人民共和国)や東南アジアなどの外国に工場を移転させたことやナイロンなどの化学繊維の発明によって、繊維工業の割合は低下した。 1960年代の高度経済成長のころから、機械工業がさかんになった(電子機械もふくむ)。 2014年の現在でも軽工業のなかでは機械工業がさかんである。自動車などの輸送用機械の生産が、機械工業の中ではもっとも多い(2014年)。  日本には、資源が乏しく、外国から原料などを多く輸入している。 このように外国から原料を輸入し、日本国内で加工して工業製品にして、その工業製品を外国に輸出することで外貨をかせぐ貿易の方法を 加工貿易 という。日本にとって、加工貿易は外貨を獲得したり、工業力を発展させるたりするためにも必要な方法である。 なお、現在では、日本国内で製品を作るだけでなく、アメリカなど外国にも日本企業の工場が進出しており、現地の国の人などを雇って生産して、その地域の消費者に販売している。ヨーロッパでも同様に、日本企業の工場などが進出しており、現地生産している。 日本からも、人件費の安い外国(東南アジアなど)に生産工場をうつす動きがあるが、その結果、国内の工場の仕事が減り、国内の生産力が下がるという「産業の空洞化」が起きている。 また、外国に工場を作ると、日本国内の工場でつちかわれた生産ノウハウも外国の労働者に教えることになるので、外国に技術ノウハウが流出するという 技術流出も、問題になっている。 製鉄業や造船業などのように、大きな設備で、とても重い製品をつくる工業を 重工業という。自動車産業や精密機械、電子機械も、重工業に含める。 石油の精製などをつうじて、プラスチックや薬品などを作る工業を化学工業という。重工業と合わせて、 重化学工業 と言う。 繊維工業や食品産業や印刷業などのように、比較的、軽い製品を作る工業を 軽工業という。 日本の工業の内訳は、重化学工業が 約70% である(2008年)。軽工業は 約30% である。 1960年代の高度経済成長のころから、重化学工業がさかんになり、2014年の現在でも重化学工業が大きな割り合いを占める。
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現在(2019年)世界的には、石炭・鉄鉱石など鉱産資源の輸送や、自動車など大きい工業製品の輸出入には、コンテナ船やタンカーなどによる海上輸送<(かいじょう ゆそう)が用いられる事が多い。18世紀末から、産業革命により蒸気船や鉄道などが発明され、輸送は鉄道が覇権を握っていた。だが自由貿易が活発化し輸送は鉄道から船舶による海上輸送に移っていった。 海上輸送だと、時間は掛かるが、低価格で大量に輸送することが可能である。 航空輸送(こうくう ゆそう)は、国際間の人の輸送や、軽い電子機器などの輸送に用いられる。日本では国土が狭いため航空輸送は貨物がおもだが、アメリカ合衆国やロシア連邦では国土が広く鉄道や自動車での移動が現実的ではないため航空輸送は主に旅客で用いられている。 日本では、第二次大戦後の高度経済成長期に、大都市間をつなぐ高速道路が整備され始めた。高速道路沿いに、大きな工場が進出することもあった。製品の輸送の便利さのためである。また、新幹線など、鉄道の高速化も起きた。 戦後の自動車の普及もあり、日本の交通網は高速化していき、移動や輸送にかかる時間は短縮していった。 日本の陸上での貨物輸送は、自動車による運送が中心である。高度経済成長の以降から、現在(2019年)まで、陸上輸送の中心は自動車輸送である。日本では鉄道が広く普及しているが、鉄道による貨物輸送はあまり用いられていない。日本の鉄道は、おもに人間の輸送が中心である。 日本では、少子化や不景気などにより過疎地域などの人口の減少している。そのような地域では、利用者が減少し利益が出なくなったため鉄道路線やバス路線が廃止されている。 世界の通信では、インターネット(英: Internet)が発達している。コンピュータの技術や、インターネットの技術などのことを、IT(情報技術、アイティー、Information Technology)という。 インターネットによって、海外の情報も、簡単に調べられるようになった。また、インターネットを利用した通信販売など「オンライン・ショッピング」などと言われる商取引も、さかんである。パソコンで通信メールをやりとりできる 電子メールも、インターネットを利用している。 インターネットの通信ケーブルは、光ファイバーなどのケーブル線である。日本は海洋国なので、国際間の通信は、通信衛星や海底ケーブル(英:submarine cable)で通信してる。 インターネットは、先進国を中心に普及している。発展途上国では、インターネットの設備が高価なこともあり、インターネットの普及は遅れている。 携帯電話では、固定電話とちがい、電話線を張りめぐらす必要がないため、アフリカなどの発展途上国でも携帯電話が普及している。 日本国内の外国人の数は250万人以上である。(2019年) 国際協調の時代なので、各国とも、各民族とも、おたがいに相手の国を尊重しあうことが必要だろう。 輸出額が輸入額より大きい場合を 貿易黒字(ぼうえき くろじ)という。 輸入額が輸出額を上回ってる場合を 貿易赤字(ぼうえき あかじ)という。 1960年代ごろから、日本からの輸出品で、せんい製品・カラーテレビ・自動車・半導体電子部品などが多く輸出され、アメリカの製造業が不振になり、アメリカと日本との貿易摩擦(ぼうえき まさつ)が起きた。 アメリカは日本に輸出の規制を、もとめた。 日本の自動車産業などは、アメリカに現地工場を進出させて、現地工場で生産することで、アメリカへの輸出を減らしつつも、商売をつづけた。 アメリカと中国が、大きな貿易相手。 日本から外国への輸出では、アメリカへの輸出、中国(中華人民共和国のこと)への輸出、韓国(大韓民国のこと)への輸出、台湾への輸出が多い。 外国から日本への輸入は、中国からの輸入、アメリカからの輸入、オーストラリアからの輸入が多い。
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Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校社会 > 中学校社会 地理 > 中学校社会 地理/日本の諸地域 九州地方 中学校社会 地理/日本の諸地域 九州地方では、九州地方について学習します。 九州の人口: 約1400万人 (2014年) 、日本全人口の約11% 九州の面積: 約4万4468 km2、国土の約12% 県庁所在地:福岡市 博多なども有名です。 県庁所在地:佐賀市 県庁所在地:長崎市 県庁所在地:熊本市 県庁所在地:大分市 県庁所在地:宮崎市 県庁所在地:鹿児島市 県庁所在地:那覇市 地方全体の特徴を捉え、関連づけて理解しよう。 九州地方は山が多く、さらに火山も多い。それゆえ、阿蘇山には世界最大級のカルデラがある。他にも、雲仙普賢岳や鹿児島湾の桜島などがある。九州南部の土壌は、火山の噴出物 (多くは火山灰) で出来たシラス台地が広がる。シラス台地は水はけが良く水持ちが悪いので、山肌などの斜面では、土砂くずれも発生しやすい上、水を張る必要のある稲作にはあまり向かない。そのためシラス台地では、稲作に代わる農業として畑作 (サツマイモなど・サツマイモの「サツマ」とは鹿児島県の旧国名) や畜産 (豚やにわとりなど) が行われている。いっぽう、北部では、広い平野 (筑紫平野) と豊かな水資源 (筑後川) を利用し稲作もさかん (詳細は後述) 。 火山が多いこともあり、火山のエネルギー源となるマグマを利用した温泉も多い。例えば、大分県別府市の別府温泉や大分県由布市由布岳の湯布院など。地熱発電の開発も盛んで、大分県の八丁原など九州各地に地熱発電所がある。 火山の副産物か、防災も発達した。雲仙普賢岳 (以下、雲仙岳) は1991年の噴火の際、砕けた火山物質が高温のまま早いスピードで山を下る 火砕流 (英:pyroclastic flow) によって、多くの被害が発生した。 前述したが、阿蘇山はカルデラ (英: caldera) という火山の頂上がくぼんだ地形で有名。阿蘇山のカルデラの直径は20km近くもある。 韓国や中国などの外国に近い。それゆえ、長崎などは、貿易港や港町として発達した。現在も韓国や中国からの観光客に九州は人気。 沖縄には明治時代まで琉球王国が存在し、江戸時代などは中継貿易で繁栄していた。 気候が温暖。夏や秋には台風の通り道になりやすい。降水量が多い (南部はシラス台地のため、ある程度水はけは良いため、洪水などが起こりづらい) 。気候が温暖なのは、南方にあることに加え、黒潮や対馬海流といった暖流が近くを通るからでもある。また、九州は太平洋に面しているため、南部は冬でも比較的暖かい。いっぽう、九州北部は、冬は日本海側からの季節風の影響もあり、南部ほど暖かくは無い。 前述のような温暖な気候を生かした農業として促成栽培が盛ん。宮崎平野では、きゅうりやピーマンの促成栽培が盛んで、ビニールハウスなどで行われることも多い。冬に行う促成栽培では、ボイラーなどで暖房をすることもある。 九州のその他の農業は、北部と南部で特徴が異なる。九州北部、とくに筑紫平野では、米作をし、米の収穫後に小麦などを栽培する二毛作も行われる。九州南部は前述したとおりシラス台地により水持ちが悪いため、稲作には向いておらず、代わりに畑作や畜産がさかんである。シラス台地の広がる鹿児島県の農業では、水のあまり必要ではないサツマイモや茶の生産が盛んである。九州南部の畜産は、豚や ブロイラー (食用の鶏) 、肉牛 などの畜産が盛ん。近年の畜産業界の経済競争では、外国産の安い肉に押されているので、日本産の肉は、安全性などの品質の高さを売りにしてブランド化している (例:「かごしま黒豚」「阿蘇あか牛」など) 。 沖縄県の諸島や、鹿児島県の離島など、南西諸島の亜熱帯の地域の農業では、パイナップルやサトウキビ、マンゴーなどが栽培されている。宮崎県でも、近年はマンゴーなど南国風の農産物の栽培も盛ん。宮崎県はピーマンやきゅうりなどの促成栽培や、ダイコンの栽培などが宮崎平野などで盛んである。 台風の通り道になりやすいため、家屋は強風にそなえた作りになっている。沖縄県などに、その特徴的な家屋が見られる。 福岡県北九州市を中心として、福岡県一帯には大規模な工場群が見られ北九州工業地帯といわれることがある。 この地に工業地帯が成立したきっかけは、明治時代に、官営の八幡製鉄所が、福岡県の八幡村 (現在の北九州市) に出来たことであるが、これは、鉄鋼業に必要な石炭、鉄鉱石及び石灰石の入手に適していた、すなわち、石炭は筑豊炭田、鉄鉱石は近接した中国から輸入、石灰石は九州北部から山口県で大量に採掘されるという立地にあったことによる。その他、セメント産業などの重化学工業が盛んであった。 しかし、第二次大戦後には、東京、大阪、名古屋といった大規模消費圏から遠いことや、1960年代以降、石炭は安価な輸入炭が主流となり、採炭業は衰え、九州各地にあった炭鉱はほとんどが閉山となるなど、立地状の優位性が低下したため、鉄鋼業にたよった北九州工業地帯の地位は低下していった。以降、自動車や電子機械などの機械工業に転身をするため、九州は1970年ごろから、機械工業の企業の工場を誘致した (沖縄県を除く) 。 現在では北九州工業地域と呼ばれるようになった。 そのため、近年 (2019年現在) でも、IC (集積回路) 工場や自動車工場が、各地にあり、九州は全国的にも電子部品の生産が、盛んな地域になっている。それゆえ、九州を シリコン アイランド という。「シリコン」とは、電子部品に使われている材料の一種であり、半導体という材料の一種である。 久留米 (福岡県) ではゴム工業が盛んである。化学工業も、臨海部を中心に大牟田市 (福岡県) や延岡市 (宮崎県) 、水俣市 (熊本県) で盛んに行われている。大分県は石油化学工業を得意とする。造船なども長崎の佐世保などで盛んである。 北九州市には公害の反省でエコタウンがあり、家電部品のリサイクルや回収、太陽光発電やバイオマスなどの新エネルギーの導入などが行われている。 沖縄は、江戸時代までは、琉球という、日本とは別の国だった。今の沖縄のあたりが琉球王国だったので、琉球王国を沖縄県のかつての名前のように言うことがある。 琉球は、江戸時代に日本国の領土になった。その後、明治時代の廃藩置県のときに、琉球が沖縄県になった。 第二次大戦では、沖縄では地上戦が繰り広げられた。多くの沖縄県民が犠牲になった。 第二次大戦の後、沖縄は、アメリカ合衆国に占領された。日本に沖縄が返還されたのは1972年のこと。ひめゆりの塔 (ひめゆりのとう) などの慰霊碑が建てられている。 沖縄には、多くのアメリカ軍の基地などの軍用地がある。日本国内にあるアメリカの軍用地の70%ほどが、沖縄県にある。 沖縄のまわりの海は、さんご礁が多い。さんご礁 (さんごしょう) は、浅い海底で成長し、温かい海で成長する。 沖縄県の農業では、パイナップルや さとうきび 、マンゴーなども栽培されている。菊やランなどの、花をつくっている農家もある。菊の電照栽培 (でんしょうさいばい) も行われている。沖縄は温かいので、冬でも花がよく育つ。 観光業の割合が高く、観光を中心に第三次産業の割合も高い。 企業への消費者からの電話の問い合わせに受け答える コールセンター が沖縄では多い。産業の誘致のため、沖縄県が誘致したことと、また地方では賃金が安いため企業が地方にコールセンターを作ったためである。 沖縄は、台風が多い。なので、伝統的な家は、屋根が低い。 また、そのような伝統的な家は、風を防ぐため、家の周りには石垣 (いしがき) がある。また、屋根は、瓦 (かわら) を 漆喰 (しっくい) で固めてある。 防風林 (ぼうふうりん) も多い。 最近では、コンクリート造りの家も多い。このような新しい家の多くは、屋根が平らで、家を低くすることで、台風の風を受けにくくするためである。 沖縄では、川が短く、すぐ海に流れてしまうので水不足になりやすい。なので地下ダムをつくって水を貯めたり、家庭に貯水タンクをそなえる場合もある。 化学工場の排水にふくまれていたメチル水銀が原因でおきた病気。水銀は猛毒 (もうどく) なので、この水銀に汚染された水を飲んだり、水銀に汚染された海水で育った魚や貝を食べたりすると、病気になる。体が水銀におかされると、神経細胞が破壊され、手足がしびれたり、動かなくなる。 熊本県の水俣 (みなまた) という地域や、水俣湾 (みなまたわん) の周辺で、1953年ごろに新聞報道などで有名になった公害なので、水俣病 (みなまたびょう) と言う。 なお、有名になったのは1953年ごろからだが、それ以前の1940年代ごろから、水俣病とおぼしき症例が知られている。 人間以外にも、猫や鳥など、水銀に汚染された魚を食べたり水を飲んだりしたと思われる動物の不審死がいくつもあり、当初は、水俣病の原因もよく分かっていなかったので、しびれている猫が踊って (おどって) るようにも見えたことから、当初は「猫おどり病」 (ねこおどりびょう) とも言われた。 佐賀県では、伝統工芸の焼き物の、有田焼 (ありたやき) や伊万里焼 (いまりやき) が有名である。 これら陶器の技術は、戦国時代〜安土桃山時代の豐臣秀吉の朝鮮出兵などで、朝鮮人の捕虜などを通して、朝鮮半島から日本に技術が伝わった。佐賀県の有田焼 (ありたやき) 、鹿児島県の薩摩焼 (さつまやき) 、山口県の萩焼 (はぎやき) など。今では、その地方の特産品の一つになっている。 日本で弥生時代ごろ、漢の皇帝の光武帝 (こうぶてい) は、日本の奴国王 (なのくにのおう、ぬこくおう) に金印 (きんいん) を授けたという。 金印は、江戸時代の1784年に、今の福岡県の博多湾の志賀島 (しかのしま) で発見されている。金印の印の面には「漢委奴国王」と彫られている。「漢委奴国王」の日本語での読みは「かん の わ のな こくおう」や「かん の わ の な の くに の おう」などと読む。 有明海 (ありあけかい) に面した筑紫平野では、江戸時代から干拓 (かんたく) によって陸地が広げられてきた。有明海では、のり の養殖などが、さかんである。干拓で得られた陸地は、田畑や住宅地などになる。 有明海の一部に諫早湾 (いさはやわん) がある。 1989年より着工した諫早湾の干拓事業が、有明海全体を含んだ環境保全上の議論となっている。
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中国地方 四国地方 中国山地と瀬戸内海と四国山地をさかいにして、地域が区分されている。 中国山地の北側を 山陰(さんいん) と言い、中国地方のうち中国山地の南側を山陽(さんよう)と言い、四国のうち四国山地の北側を 北四国(きたしこく )といい、四国山地の南側を 南四国(みなみしこく) という。 そして、中国山地の南側と、四国山地の北側の、瀬戸内海に面した地域を瀬戸内(せとうち)という。 瀬戸内という地域名を用いれば、中国・四国地方は、 山陰 と 瀬戸内 と 南四国 の3つに分類できる。 瀬戸内では、季節風が南北の山地にさえぎられるので、雨が降りづらく、降水量が少ない。そのため、瀬戸内では水不足にもなる。 四国北東部の香川県の周辺の讃岐平野(さぬき へいや)などでは、古くは農業用水のために、ため池 を作って水を貯めることもあった。香川県での農業は、このような乾燥した気候のため、小麦の生産が盛んで、うどん・そば が特産品になっている。讃岐うどんは、香川県の特産品として全国的に有名。 また、瀬戸内、おもに香川県の沿岸部には、かつて塩田(えんでん)が広がっていた。 瀬戸内は水不足になりやすいが、広島県などの山陽側の瀬戸内は、工業などの産業が発展している。 中国・四国地方で人口の多い県は、広島県や岡山県など、中国地方側の山陽にある県である。人口は、沿岸部の、さらに平野部に集中している。瀬戸内の県でも、山間部には人口が少ない。 広島市は、人口が100万人を超えており、中国・四国地方の中心的な都市になっている。また、広島市は政府から地方中枢都市に認定されている。 いっぽう、山陰や四国は、過疎(かそ)の地域が多く、高齢化も進んでいる。広島市と岡山市は、政府から政令指定都市(せいれい してい とし)に認定されている。1980年(昭和55年)4月1日に広島市が日本で10番目の政令指定都市になった。2009年(平成21年)4月1日には岡山市が政令指定都市になった。 南四国は、南方にあることと、太平洋側の暖流の黒潮の影響もあり、温暖な気候である。 南四国は、夏に季節風が太平洋側から来るため、夏には雨が多い。いっぽう山陰は、冬には日本海からの季節風のため、雪も多い。 広島・岡山などの山陽の瀬戸内海の沿岸部では、海上交通などの便が良いこともあり、古くから山陽では産業が発達していた。 鳥取県や島根県などの山陰は、日本海に面することもあり、冬には雪も多く降ることもあります。このため、農業は、冬には、ほとんど行われないので、稲作では米の単作(たんさく)になっている事が多い。 第二次大戦後は、多くの化学工場や石油工場などの石油化学コンビナートが、広島や岡山の瀬戸内海側の沿岸部に集まり重化学工業が発達し、瀬戸内は大きな工業地域になりました。瀬戸内工業地域(せとうち こうぎょうちいき)と言います。 コンビナートとは、関連する工場がパイプラインでつながれている、いくつもの工場の集まりのことです。石油工場や化学工場は、海外からの輸入をしやすくするため、沿岸部にあります。 岡山県の倉敷市(くらしきし)水島(みずしま)、山口県の周南市(しゅうなんし)徳山(とくやま)や 岩国市(いわくにし)などに石油工場、化学工場などコンビナートが多くあります。 これら瀬戸内工業地域が、太平洋ベルトの一部になっています。広島市の周辺では自動車工業も発達しています。呉(くれ)市の周辺では、造船(ぞうせん)業も発達しています。 四国側も、瀬戸内の沿岸部では、中国地方側ほどではないですが、工業が発達していて、機械工業などが見られます。愛媛県の新居浜(にいはま)には、化学コンビナートもあります。 愛媛県の今治(いまばり)はタオルの産地として有名で、日本国内で最大のタオル生産です。「今治タオル」(いまばりタオル)というようなブランドになっています。 促成栽培 南四国では、温暖な気候と、十分な雨をいかした農業が、さかんです。ビニールハウスなどの温室も利用して、きゅうりやなす、ピーマンなどの野菜などの促成栽培も行われています。昔は、米の二期作なども行われていましたが、近年では、より多くの収入を得られる野菜の促成栽培のほうがさかんです。また、かつて日本で米の生産調整が行われたこともあり、稲作から畑作に切り替わる農家も多かったことも理由でしょう。 南四国の促成栽培で生産された農産物は、東京や大阪などの大消費地へ、フェリーやトラックなどで運ばれ、日本全国に出荷されます。 南四国では山がちな地形が多く 山の斜面に作られた、階段状になっている、棚田(たなだ)や段々畑(だんだんばたけ) も多くある。 愛媛(えひめ)県では、みかん の生産が、全国でも上位の生産量。(みかんの、他の生産地域は和歌山県など)  みかんは、気候が温暖な場所で育ちやすい。 愛媛県が山がちなこともあり、みかん畑の段々畑が有名。しかしオレンジの輸入自由化(1991年)もあり、みかんは競争が厳しくなっているので、レモン、いよかん など、類似の果物に栽培を切り替えた農家も多い。 岡山県では、もも、ぶどう の生産が岡山平野などで、さかん。むかし話の桃太郎の場所が、岡山県。「きびだんご」の吉備(きび)とは、岡山の昔の地名のこと 鳥取砂丘(とっとりさきゅう)では、らっきょう、長いも、などの栽培がさかん。その他の農地では、梨(なし)、メロンなどが栽培されている。梨は、「二十世紀なし」などが特産品になっている。 広島県の水産業で養殖が盛んなのと同様に、愛媛県や香川県でも養殖など水産業がさかん。香川県では はまち の養殖、愛媛県では宇和島湾(うわじま わん)で真珠(しんじゅ)の養殖など 鳥取や島根は、日本海に面することもあり、漁業もさかん。あじ、ぶり、ズワイガニなど。 第二次大戦中の1945年の8月6日に、原子爆弾が投下された。広島は、日本の軍事拠点だった。呉(くれ)を中心に軍関係の施設が多かった。 原爆ドームが、ユネスコの世界遺産に登録されている。 現在では、原爆ドームは観光地にもなっており、国際的にも日本をおとずれた際の観光地として有名で外国人の観光客も多い。全国の学校から戦争について学びに来ることも多くある。 瀬戸内の水産業では、養殖(ようしょく)が、さかん。広島で、かき の養殖が広島湾で、さかん。なお、広島の養殖は、かき の他にも、はまち、たい、ぶり、のり なども養殖している。愛媛で、まだい、ぶり、たい などの養殖がさかん。山口県は、くるまえび の養殖が、さかん。 瀬戸内海は多くの島があるので、養殖に使える。 なお、山口県の下関(しものせき)は、フグの産地としても有名。フグは、漁獲されることもあれば、養殖もある。 瀬戸内の漁業は、沿岸漁業が中心。いっぽう、山陰の漁業は、沖合漁業や遠洋漁業も多い。 瀬戸内海は、江戸時代には、大阪に向かう船が通るルートにもなっていた。 第二次大戦後の高度経済成長期の後半頃から、中国・四国地方の交通網が整備され始めた。 交通網が整備された結果、買い物などのため大都市部に人が吸い寄せられて、かえって周辺の地方の産業が衰退する現象が起きた。こういう現象を ストロー現象 という。 瀬戸大橋(せとおおはし)などを初めとして、いくつもの橋の開通により、フェリーの本数は減って、廃止するフェリーの便も出た。 1975年に開通。 1983年に開通。 1997年に開通。 1985年(昭和60年)6月8日に開通した。 1988年に開通。 岡山県倉敷市(くらしきし)と、香川県坂出市(さかいでし)との間。この瀬戸大橋によって、本州と四国とが橋で、つながった。 瀬戸内海を船で渡る必要が無くなった。コレ以前は、中国地方と四国地方とのあいだの行き来には、船で渡る必要があった。 1998年に開通。 瀬戸大橋や明石海峡大橋など、これらの本州と四国を結ぶための橋を、 本州四国連絡橋(ほんしゅう しこく れんらくきょう)という。 1993年に開通。 四国の南部に、高知県に高知平野(こうち へいや)がある。 四国の中央に東西に長い四国山地がある。高知県から見れば、高知の北に四国山地がある。 四国の北東部には、讃岐平野(さぬき へいや)が広がる。 江戸時代16世紀〜17世紀ごろに銀をさかんに産出。世界遺産に2007年に登録された。 出雲(いずも)とは、島根県の昔の呼び名。日本の神話では、日本各地の神々は出雲に旧暦10月に集まる。そのため、旧暦の10月の神無月(かんなづき)は、出雲では神有月(かみありづき)という。
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県庁所在地: 津(つ)市 県庁所在地: 大津(おおつ)市 府庁所在地: 京都市 府庁所在地: 大阪市 県庁所在地: 神戸(こうべ)市 県庁所在地: 奈良市 県庁所在地: 和歌山市 気候は、北部・中央部西部・中央部東部・南部に分けることができる。 平城京・平安京などの古都があったため、古い町並みが多く、それらが世界文化遺産に登録されている場合もあり、世界遺産が多い。また、京都は観光名所にも、なっている。 大阪は、江戸時代は商業の中心地であり、「天下の台所」とも言われた。明治時代の以降も、西日本の商業の中心地になったので、そのような経緯もあり、近畿地方の商業では、卸売(おろしうり)が大阪を中心にして発達している。 大阪・神戸・京都が、この近畿地方の都市圏である。 第二次大戦後は、平地に住宅地が足りなくなったため、山間部を切り開いて、千里(せんり)ニュータウン、泉北(せんぼく)ニュータウンなどが作られた。 臨海部は埋め立ても多い。また、ニュータウンの開発の際に、切り崩された山の土を使って、埋立地のポートアイランドが作られた。 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災(はんしん・あわじ だいしんさい)では震度7の都市直下型の大地震が起きた。 そもそも震度7自体が、この阪神・淡路大震災で新設された。 大阪湾の側の臨海部や埋め立て地には、重化学工業の工場が多く、鉄鋼や石油化学の関連が多い。これら大阪湾の周辺の工業地帯が、阪神工業地帯(はんしん こうぎょうちたい)として知られる。 他の工業地帯・地域とちがい、自動車の工場は少ない。 第二次大戦後は重化学工業が発達したが、戦前の関西では糸を原材料にする繊維工業(せんい こうぎょう)が発達していた。 また、重化学工業の大工場とはべつに、機械工業などの中小工場が、東大阪(ひがし おおさか)市などに多い。人工衛星「まいど1号」なども開発され、打ち上げられた。近年では、ハードロックナットも有名。 内陸部の門真(かどま)の周辺に、大手家電メーカーのパナソニックの工場があるので、関連の電子部品の工場も多い。 三重県の亀山にシャープの液晶テレビ工場がある。 液晶パネルや太陽電池などの生産・開発が、これらの地域でさかんである。 2022年現在は液晶パネル工場は物流センター変わっている 北部の海岸や、南部の海岸には、リアス海岸が多く見られる。 南東部の三重県の志摩半島(しま はんとう)や英虞湾(あごわん)では、真珠の養殖がさかんである。 近畿中部の滋賀県にある琵琶湖(びわこ)は日本一の広さの湖。高度経済成長期のころなど、かつて、生活排水などで琵琶湖に赤潮(あかしお)が大量に発生した。赤潮とは、プランクトンの大量発生で水面が赤くにごって見える現象である。近年でも、ときどき赤潮が発生する。赤潮が大量に発生する原因は、栄養であり、水の富栄養化(ふ えいようか)が原因である。廃水にふくまれる、りん や 窒素 などが原因と考えられている。合成洗剤の廃水に、これらの成分が多い。 和歌山県では、みかん、梅などの生産がさかん。 畜産では、牛肉の生産がさかん。三重県では松坂牛(まつざかぎゅう、まつざかうし)。他の地域では、神戸牛(こうべぎゅう)。近江牛(おうみぎゅう)など。これらの肉牛は高級牛として日本全国で有名。 昔は林業がさかんであった。杉、ひのき の木材を生産していた。吉野杉(よしのすぎ)など。吉野は奈良県。 しかし第二次大戦後は、外国からの輸入木材による価格の低下により、国産木材の需要は低迷した。また、林業の就業者の高齢化も、問題になっている。 京都府では、京友禅(きょうゆうぜん)、西陣織(にしじんおり)、清水焼(きよみずやき)など。 など 日本には、外国人も多く暮らしています。そのうちの多くは、中国人(約64万人)と韓国人・朝鮮人(合わせて約50万人)です。 近年では、フィリピン(約20万人)やブラジル(約18万人)やベトナム(約8万人)などからの出稼ぎ労働者などが増えています。 近畿地方では、歴史的な理由から、中国や韓国・朝鮮国籍の居住者が多いです。 大阪の生野(いくの)区の、鶴橋(つるはし)地域や今里(いまざと)新地地域には、韓国籍・朝鮮国籍の在日韓国人・朝鮮人が多く住む、コリア タウンがある。なお、神戸市の長田区にもコリアタウンがある。 在日韓国人・朝鮮人が多く日本に来た理由には、おもに以下のパターンがある。 第二次大戦前の朝鮮人・韓国人は、もともと仕事として、工場の労働力や、土木工事の労働力として日本に仕事に来た。阪神工業地帯のあたりでは、低賃金の労働者や重労働の労働者が多く必要とされていた。そこで韓国の労働者が、これら低賃金・重労働の仕事に応募した。 当時の朝鮮半島は経済発展が日本よりも遅れており、そのため日本からすれば、低賃金で韓国人・朝鮮人を働かせることが出来た。 今でこそ阪神工業地帯では化学工場や電子機器の工場が多いが、戦前の阪神工業地帯は糸を原料にする紡績業などの繊維工業や、機械工業が発展していた工業地帯であった。 今でこそ、日本の工業製品には高品質を売りにした高価格の工業製品が多いが、戦前の当時は低価格を売りにした工業製品が多かった。そのため、日本人ですら貧しい家庭の出身者などは、低賃金で重労働で働かされた。戦前の日本の輸出品として主要であった生糸(きいと)も、低賃金で女工(じょこう)などを働かして生産されたものであった。 当時は朝鮮半島が韓国併合により日本国の一部になっていたので、今で言うと日本の一地方から低賃金の労働者を雇い入れたような出来事であった。 さて、韓国のチェジュ島(済州島)が、韓国から日本に来る際の経由地点になっていたので、当時の韓国人・朝鮮人労働者の出身地にはチェジュ島が多い。 第二次大戦後、韓国と北朝鮮が独立し、また戦争(第二次世界大戦)も終わったので、戦前から日本にいた在日韓国人・朝鮮人は、朝鮮半島への帰国が出来るようになった。また日本国への国籍の帰化も認められた。なので、当時、日本にいた多くの在日韓国人・朝鮮人は、朝鮮半島に引き上げたり、あるいは日本国に帰化した。 このとき、そのどちらもせず、つまり朝鮮半島に帰国もせず、また日本国に国籍を帰化もしない人もいて、日本に残り続けた。そのような朝鮮半島出身の人々が、今でも在日韓国人・朝鮮人の先祖として続いている。 戦後に、朝鮮戦争などを逃れて、日本に来た在日韓国人・朝鮮人も、これら戦前から日本に移り住んでいた韓国人・朝鮮人を頼って来たので、生野を中心に コリアタウン になっていった。コリアタウンの商店街では現在ではキムチや韓国風焼き肉など韓国料理を売る料亭なども多い。 今でこそ生野の鶴橋地域や今里新地地域はコリアタウンが有名だが、もともと、生野は工場労働者などの住む町であった。今でも、コリアタウンの外側の生野区および周辺で、工場は多い。 もともと、近畿地方には、兵庫県に神戸港があったため、神戸の周辺地区は外国人の居留者も多かった。神戸には中華街「南京町」(なんきんまち)もある。
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3000m級の山々からなる日本アルプスにより、中部地方は次の3つの地域に分かれる。 各地域で、気候や盛んな産業が大きく違う。 日本アルプスは から成る。日本アルプスは「日本の屋根」とも言われる。なお、糸魚川・静岡構造線が日本アルプスの東部にある。 ここからは、各地域の特徴の紹介となる。 冬には雪が多い、豪雪地帯である。新潟県の越後平野は米どころ (米の良い産地) として有名である。(水田地帯) 富士山は日本の最高峰であり、単独峰。山梨県及び静岡県にまたがる。 山に囲まれた平地、すなわち盆地が多い。それゆえ、中央高地の内陸部は、1年を通して降水量が少ない。盆地に都市が多く、甲府市(甲府盆地にある)や松本市(松本盆地にある)などが例である。 季節風の影響により温暖であり、雪は少ない。自動車産業などの機械工業が愛知や静岡で盛んである。 地理的には愛知県から、静岡県にかけてを東海と呼ぶことが多い。ただし、三重県や岐阜県は慣習的に東海に含まれる場合がある。例えば、愛知県、岐阜県、三重県を「東海三県」と表記するケースがある。 名古屋は、三大都市圏(東京・大阪・名古屋)の一つとして、数えられる事が多い。また、政令指定都市として、名古屋や浜松、静岡が指定されている。 愛知県を中心に、工業を主体とした中京工業地帯がある。なお、静岡の一部は東海工業地域と言い、別の工業地帯・地域として扱うのが一般的である。愛知県の西に隣接する三重県は、中京工業地帯に含める場合と、含めない場合がある。 愛知を中心にした中京工業地帯の方が、静岡の東海工業地域よりも規模が大きいので、そちらから説明する。 中京工業地帯では、愛知県の豊田市を中心に自動車産業が盛んである。大手自動車メーカーのトヨタ自動車の工場や関連工場、部品工場が豊田市およびその周辺(下請け企業も含めると三河全体)にある。 自動車工業は、2016年現在の日本の製造業の輸出製品の中では売り上げが多く、自動車は日本の製造業の主力な輸出品である。製造業の中では、自動車産業がもっとも多く外貨を稼いでいると考えられている。しかし、家電や半導体など電気関連の輸出は、近年は不振である。自動車産業は、部品数が数万点にも上るため、景気への影響力が大きい、と考えられている。 自動車の部品工場も中京工業地帯には多い。豊田市は1959年に市名を当時の「挙母市」から、トヨタ自動車にちなんで今の「豊田市」に市名を変更した。豊田市のような、大企業の影響を強く受けている町は 企業城下町 と呼ばれる。 世界的に環境保護及び地球温暖化防止を推進するため、自動車に要求される排ガス基準などの環境基準が厳しくなっていることもあり、ハイブリッド車や電気自動車など環境に対応した低公害の自動車の開発が世界的に進められている。 トヨタは1930年頃までの主力製品は、紡績機械という、自動的に糸をつむいで布製品を作る機械であった(これは現在でも分社化され、続けられている)。この地域の工業技術は、紡績機械の機械技術から、自動車の機械技術へと発展していった。 なお、東海地方と近畿地方の境界の三重県の沿岸部では、石油化学コンビナートや製鉄所などがある。製鉄所で生産された鉄鋼は、自動車の鋼板(外装)などに利用される。石油化学コンビナートで生産されたプラスチックを原料にした製品は自動車の部品などに利用されている。このように、愛知県及び三重県の重化学工業は、自動車産業と深く結びついている。 愛知県の瀬戸市では焼き物の「瀬戸物」が有名[注 1]だ。瀬戸市だけでなく、岐阜県の多治見市でも陶磁器の生産が有名だ。現在もセラミック製品の工場などが瀬戸市や多治見市に多く存在[注 2]する。 そのセラミックだが、自動車産業が盛んである中京工業地帯に必要だ。なぜなら、自動車の点火プラグ (エンジンはガソリンと空気を混ぜた混合気に着火して爆発を起こすことで動いている) などに使われる耐熱部品などでセラミックが使われる (セラミックスは耐熱性が高い) ためである。であるからして、それらセラミック製品なども瀬戸市などの工場で作られている。 このように、愛知県が自動車産業に対する依存度が高いため、景気の影響を愛知県は受けやすい。近年のリーマンショックなどでも影響を受けたという。一般に、企業城下町は、景気の影響を受けやすい[注 3]と言われている。 東海工業地域では、静岡県の浜松市を中心に、オートバイや自動車の生産が盛ん。大手の自動車メーカーの本田技研工業 (ホンダ自動車) の発祥の地でもある。高度経済成長期に、当時は新興企業だったホンダ自動車が、当時としては新しかったオートバイに開発の力を入れるなどしたことが基盤となっている。 また、ピアノなど、楽器の生産も盛ん。東海地方は、楽器メーカーで有名なヤマハの拠点でもある。 中央高地の工業では、空気が比較的きれいなこともあり、IC(集積回路)などの精密電子部品や、プリンターなどの電子機器の工場が多い。また、時計やカメラなどの精密機械の工場も多い。これらは空気がきれいであることだけでなく、山梨県は首都圏に近接していることや長野県には多くの高速道路が走っていることなどの理由もある。特に長野県の諏訪盆地や松本市などに工場が進出している。諏訪市では、戦後、時計やカメラなどの精密機械工業が発達してきた。これらの精密機械工業は、第二次世界大戦中に空襲などを避けるため、諏訪に移転してきた工場である。 さらに、1980年代ごろから、IC(集積回路)など電子部品の工場が進出してきた。前述したように、これらの工場は中央自動車道などの高速道路を利用しやすい地域に工場が進出していることが多い。 また、これらの産業が大きく発達した理由は、昔の産業の技術をうまく利用しているからである。 黒部川のダムの水力発電による電力を利用したアルミ工業がさかんである。アルミは精錬するために電力を多く使うからである。 北陸の沿岸には原子力発電所が多い。福井の若狭湾や新潟などに集中している。 この章では農業や林業、漁業について解説する。 愛知県の渥美半島の農業では、温暖な気候を利用し、菊やメロンなどを温室やビニールハウスで栽培する施設園芸農業が盛んだ。ここで栽培されている菊は、電照菊として電照栽培が有名である。第二次世界大戦後に、用水路などのかんがい設備が発達して、農業が盛んになった。それ以前は、水不足の問題により農業はあまり盛んではなかった。愛知県の明治用水、豊川用水、愛知用水などの用水が有名。 静岡県では、茶及びみかんの栽培が盛んであるが、みかんは国内の他の産地 (和歌山県や愛媛県、熊本県など) との競争やグレープフルーツなど他の果樹との競争が厳しい。 静岡県は海岸線が長く、漁業も盛んに行われている。焼津港、清水港、沼津港など。焼津港はマグロなどを捕る遠洋漁業の基地として有名[要出典]。 北陸は冬の季節風により雪が多いため、冬は農業ができない。それはすなわち裏作や二毛作などができず、田は稲だけの単作である。 越後平野など、北陸には大きな平野がいくつかある。であるからして、地形が平坦な場所を利用しやすい。越後平野の場合は信濃川の下流にある。これらは日本アルプスなどの山々から湧き流れる川の水や雪解け水などを活用できる。要約すると水を得やすいのである。このため、稲作が盛ん。 農業ができない冬の間は副業がさかんに行われる。かつては関東などに出稼ぎをすることが多かったが、今では屋内でも出来る仕事が盛ん。 中央高地の山々に日本アルプスがある。 中央高地の扇状地では、ブドウや桃、リンゴなどの栽培が盛ん。山梨県では、甲府盆地でぶどう及びモモの生産が盛ん。長野県では、長野盆地でリンゴの生産が盛んに行われている。 第二次世界大戦までは、絹の需要が高く、蚕を育てる養蚕業がさかんだったので、扇状地には桑畑が多かった。なぜなら、蚕は桑の葉を食べるからだ。 第二次世界大戦後は、ナイロンなどの化学繊維が普及して、絹の需要が世界的に低下した。このため、扇状地での農産物が桑から果樹に切り替わった。 中央高地の高原では高原野菜としてレタスや白菜などの生産が盛んだ。高原は標高が高いため、他の地域より時期を変えて出荷する[注 4]こともある。長野県の軽井沢は避暑地として、また別荘地として有名。 岐阜県は旧国名で北部を飛騨、南部を美濃と言った。 南西部に愛知県にも跨る濃尾[注 5]平野がある。濃尾平野の岐阜県の側には木曽川や長良川、揖斐川が流れている。この3つの川を、木曽三川という。かつて、木曽三川はよく氾濫したため、川の周辺の集落に、周囲を堤防で囲った輪中という工夫をされた集落がある(詳細は後述)。 南部の多治見などで陶磁器が盛んに製造されている。県北部にある白川郷の合掌造りの家の集落が、ユネスコの世界文化遺産である。 県南部の美濃地方は、平野や高原があるが、県北部の飛騨地方は高地や山地の場所が多い。 新潟は米作りが盛んだ。なぜなら水が豊富だからである。米の銘柄のコシヒカリは新潟の米の品種である。新潟の 越後平野で、特に盛んになっている。長野県から信濃川が流れてくる。 伝統工芸として、燕市の金属洋食器、三条市の金物、小千谷市の織物である 小千谷縮などがある。 湯沢などをはじめとした内陸は豪雪地域である。湯沢では1980年代にスキー場などが作られ、関東からも足を運びやすいため、観光客が増えた。しかし1990年代に入り、スキー客などの冬季の観光客数が減ったことも相まって、現在では夏など冬以外での観光資源の開発などに力を入れている。 県の北部は、日本海に突き出た半島で、能登半島である。西部の海岸は、日本海に長く面しており、冬には北西からの季節風の影響を受け多くの雪が積もる。 金沢は江戸時代に加賀藩の城下町として栄えた。そのため、周辺の地域で伝統工業が有名であり、輪島塗や九谷焼、加賀友禅、金箔がその例である。現在も金沢には城下町であった名残が残存している。武家屋敷なども残っているほか、道が迷路のように複雑である。金沢の道路が迷路のようになっているのは、もし加賀藩領内を戦場とする戦争が発生した際に、敵を惑わすためであった。現在の金沢は県庁所在地となっている。石川県には兼六園 (加賀藩の庭園) があり、日本三名園の一つである。 伝統工芸では、越前和紙、越前漆器などがある。 鯖江市で、眼鏡のフレーム作りが行われている。鯖江の眼鏡フレーム作りは農業ができない冬の間の農家の副業として普及してきた。国内生産の眼鏡の約9割が鯖江で製造された眼鏡フレームを利用している(もっとも、国内で製造される眼鏡の数は外国製のものに押され減少気味)。 周辺の山地などから河川が多く集まり、富山県は水が豊富である。黒部川の流域に、黒部ダムなどの多くのダムがある。すなわち、水力発電所も多い。 発電所が多いということは、電力を確保しやすいと言い換えられる。よって、かつては電力を多く使うアルミニウム産業が盛んだった。現在では、アルミニウムの加工や化学工業などが、富山で盛んに行われている。 岐阜県から愛知県にかけての木曽川及び長良川、揖斐川の下流の流域には濃尾平野がある。これら3つの川は、伊勢湾に流れ込んでいく。 この3つの川の下流の流域は堤防で囲まれている[注 6]土地が多い。堤防で囲まれた土地を輪中と言う。濃尾平野の川の流域にはこの輪中が多い。 輪中の中の土地の高さは川の水面と同じくらいか、水面よりも低いことが多い。この濃尾平野の輪中の多くは水田として利用されているほか、水を利用したレンコン作りや、金魚やウナギ養殖なども有名な産業でである この土地は低地なので水が貯まりやすいため、水はけが良くない。水田は水を必要としますが、水が貯まりすぎても、稲はよく育たない。それゆえ、輪中の人々は代わりに水田を高くしようと、土を盛り、その上に水田を造成している。水田の周囲の土を掘削し、その掘った土で田を高くするため 堀田と言う。 洪水が起きても、被害が少なくなるよう、この輪中に住む人々は工夫をしている。輪中では、家屋を建造する際に盛り土をし、家の土台を高くする。もし洪水が起きた際の被害を減らすためだ。さらに、洪水のときの避難場所は、高いところや、盛り土を盛ったり、石垣を葺いて高くした場所につくられた水屋である。水屋は普段倉庫として活用している。1976年 (昭和51年) の9月の台風では、大雨によって長良川と揖斐川の水かさが増し、安八町で堤防が切れ、水害が発生した。
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17世紀に江戸幕府が開かれ、今の東京のあたりの開発が本格的になった。明治時代以降は、東京が日本の首都である。このため、東京に国会議事堂や最高裁判所など、多くの官庁がある。 各国の大使館も東京にある。日本銀行も東京になる。 大企業の本社や銀行の本店なども、東京に多い。東京証券取引所は、日本での主要な証券取引所のひとつであり、世界的にもロンドンやニューヨークと同じように取引額の大きい取引所のひとつである。 鉄道は、東京都心から、放射状に伸びて開発された。高速道路など自動車道も、これにならい、東京を中心に交通が開発されている。 高度経済成長期には、都心の地価が上がったこともあり、中心部から離れた東京都八王子(はちおうじ)周辺や千葉県などの郊外には、多くのニュータウンなどが建設された。 しかしこれらのニュータウンは高度経済成長の後半ごろの時代に作られた街が多く、そのため近年では老朽化や人口の流出などが問題になっており、「オールドタウン」などと皮肉られてもいる。※ 検定教科書にもニュータウンの「オールドタウン」化の問題が取り上げられている(教育出版の中学地理の教科書にある)。これらは中学生があまり深く念入りにする方ではない。 東京都心は周辺から働きに来る人も多く、東京都心の人口は、夜間人口よりも昼間人口のほうが多い。 大学も、東京に多い。東京には、文化や情報が集められていると、一般的に考えられている。 東京の産業では、出版業・印刷業が発達している。近年ではコンピューターソフトの会社も、東京や大阪などの都会に集まっている。 このように第三次産業が、東京では盛んである。まとめると東京は情報量が多いから出版業・印刷業などの第三次産業が発達している。 千葉県に成田国際空港(いわゆる成田空港(なりた くうこう))があり、また東京に東京国際空港(羽田空港(はねだ くうこう))があり、これらは国際的な空港として機能している。 仕事などを求めて都心に人口が流入していることもあり、近年では高層マンションが臨海部などに増えている。 これらの事は、けっしてバラバラに覚えるのではなく、仮説でいいので、関連づけて覚える。 たとえば、あくまで仮説だが、 などのように、仮説で関連づけること。 関東の土は、火山灰が積もって出来た 関東ローム層 からなる。関東ロームからなる台地と、利根川など川や谷の周囲にできた低地からなる地形である。 関東平野が広がっている。 気候は温暖である。関東の大部分が、太平洋側の気候であり、梅雨には、雨も多く降る。他の太平洋側の地域が冬に乾燥しているのと同様に、関東の冬も乾燥している。ただし、関東北部の山間部などは、気候が異なる。 群馬県では、冬には北西の山間部から吹き降ろす、冷たい風の「からっ風」が有名。 だが、特に関東全体が冬は寒いわけでもない。東京・千葉・神奈川・埼玉の気候は東海地方などと同様に温暖である。関東の都心でも、冬には雪も降る場合もあるが、たとえ雪が降っても雪の量は少ない。 明治時代には、東京と神奈川を中心とする京浜(けいひん)工業地帯から発達した。沿岸部の埋め立て地には、重化学工業の大工場が多い。 「浜」とは、神奈川県の横浜の「浜」である。 第二次世界大戦後、東京湾の沿岸が過密になったこともあり、千葉の沿岸部の埋め立て地などに重化学工業の大工場が出来るようになって京葉(けいよう)工業地域が発達していった。 仮説で関連づける。 ・・・という仮説などを、建てる。 第二次大戦後に、東京が住宅地が増えるなどで過密になって、また東京の土地の値段も高くなったこともあり、埼玉県や栃木・群馬あたりの比較的に土地の広くて安い場所に、自動車工場などの機械工業などの工場が進出して、関東内陸工業地域(かんとう ないりく こうぎょうちいき)が発達した。関東内陸工業地域のうち、特に、埼玉より北の、群馬や茨城などの工業地域を指して北関東工業地域とも言うことも多い。 関東内陸では、高速道路ぞいに工業団地が多く作られた。 群馬県の大泉町(おおいずみ ちょう)には日系ブラジル人などの外国人労働者が多く、大泉町の人口の15%は外国人だと言われている。 かつて第二次大戦前、群馬県に富岡製糸場(とみおか せいしじょう)があったように、戦前は、繊維産業が(北関東に限ったことではないが)盛んであった。つまり戦後、北関東の工業は、繊維産業から機械工業などに交代したことになる。 茨城県には、大手電機メーカーである「日立」(ひたち)の設立地が茨城県の日立市(ひたち し)であるため、茨城県に「日立」(ひたち)の工場と、その取引先や系列の工場が多い。戦前には、茨城県に銅山(日立銅山(ひたち どうざん))があり、ここから産出された銅が、戦前の工業化に利用された。 これら北関東の工業団地とはべつに、東京の西部でも八王子や日野(ひの)、府中(ふちゅう)などにも機械工業や電気機械などの工業団地が多い。 また、東京都の大田区(おおたく)の工業団地には、熟練した技能をもつ職人たちが集まっている工場が多いと言われている。 また、大手製造業の研究所が、東京や神奈川などに多いと言われている。 農業では、野菜の近郊農業が、関東平野の畑で、さかんである。 東京などの大消費地に近いため、輸送費が安く、短時間で届けられる。そのため、野菜や乳製品など、新鮮さが重視されて、関東でも生産しやすい農産物が、関東の農業では生産されている。 このように、消費地の近くで農業をする農業手法を近郊農業(きんこう のうぎょう)という。 群馬県の嬬恋村(つまごいむら)ではキャベツやレタスなどの高原野菜がさかんである。 なお、群馬県は、こんにゃくの産地としても有名。 東京の人口集中を解決しようとするため、1970年代には東京から科学系の研究所のいくつかを筑波に移転させて、筑波研究学園都市(つくば けんきゅう がくえん とし)がつくられた。また、近年の埼玉県に、東京から行政機関のいちぶを移した さいたま新都心 がつくられた。さいたま新都心はオフィス街になっている。 人口の多いのは東京だけでなく、周辺の神奈川・千葉・埼玉にも人口が多いので、東京・神奈川・千葉・埼玉を東京大都市圏という。 高度成長時代、東京の土地が高いことなどもあって、人口が周辺の千葉や埼玉などに流出するという、いわゆるドーナツ化現象が関東では起きていた。 しかし近年、東京の再開発などもあり、東京に人口が流入している。(※ 検定教科書では、「ドーナツ化現象」の用語を紹介してない。いっぽう、市販の参考書では紹介されている。) なお、さいたま新都心は、鉄道跡地である。 などのような仮説が、考えられるだろう。
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東北の気候は、 奥羽山脈(おうう さんみゃく) という南北に長く伸びた山脈を境にし、季節風のため、日本海側と太平洋側とで気候が違う。 日本海側は、冬には雪が多い。日本海側の夏は、フェーン現象のため、暑くなる。 (フェーン現象: 風が山をこえて、向こう側の低地におりるとき、風の気温が上がる。このような現象を フェーン現象 という。東北の場合は、夏に太平洋側から来て、奥羽山脈をこえた風が、低地に下がるときに気温が上がる。また太平洋側で雨などをふらすので、日本海側は夏は乾燥する。) 太平洋側は、夏には「やませ」という北東の海からの季節風で、あまり気温が上がらず、湿っている。この やませ のせいで、夏に くもり の日が多くなり、夏の気温が低くなり、そのため米などの作物が不作になる 冷害になることがある。 太平洋側の冬の雪の量は、日本海側と比べると、雪が少ない。 東北では、日本海側・太平洋側の両側とも米作りがさかんである。冬は積雪のため、田での農業がむずかしく、そのため米は単作である。 おもに平野で米作りがさかんだが、東北の場合、盆地でも米作りをする場合も多い。 銘柄米も種類が多く、秋田県の銘柄米の「あきたこまち」や、山形県の「はえぬき」、宮城県や岩手県の「ひとめぼれ」が有名。 「あきたこまち」の生産場所は、秋田平野 や 横手(よこて)盆地 などで生産されている。山形の「はえぬき」の生産は 庄内平野(しょうない へいや) など。 東北は、 「日本の穀倉地帯」(こくそう ちたい) と言われるほど、米作りが盛ん。地域によっては、収入をおぎなうため、果樹や野菜を栽培したりする地域もあるが、東北全体を見た場合では、米作りが農業の大半をしめ、東北の耕地面積の約7割が水田である。 東北全体で米作りがさかんだが、どちらかというと日本海側のほうで、より、米作りが盛ん。 日本海側の秋田の郷土料理の「きりたんぽ鍋」など、日本海側で米を利用した郷土料理が多い。 太平洋側は、どちらかというと、野菜や果樹栽培や畜産、酪農がさかん。 畜産では、牛や豚、ブロイラー(食用のニワトリ)など。 米沢牛(よねざわ ぎゅう) は、肉牛のブランドとして有名。酪農は、福島県の 阿武隈高地(あぶくま こうち) や、岩手の岩手山ろく(さんろく)にある 小岩井農場(こいわい のうじょう) などが有名。なお、小岩井農場では乳牛を飼育し、バターやチーズなどの乳製品を生産している。 (山ろく・・・山の、ふもとのこと。漢字では「山麓」(さんろく)。) 第二次大戦前までは、馬の飼育も、軍用馬や農耕馬の生産として盛んだったが、戦後は生産がおとろえ、肉牛や乳牛などの飼育に変わっていった。阿武隈高地や小岩井農場などでも、戦前の、かつては、馬の生産が中心だった時代もあった。 盆地などでは、果樹を栽培することも多い。 また、冷涼な気候を活かし、青森では りんご を津軽平野を中心に栽培している。涼しいほうが栽培しやすいこともあり、青森はりんごの全国一の生産量の県であり、全国生産の約半分をしめる。(2014年に記述。) 果樹は、山形県の さくらんぼ や ぶどう、福島県の もも など。山形の さくらんぼ は、日本全国でも有数の生産量になっている。 福島では、福島盆地で、果樹栽培がさかん。 第二次大戦後の米あまりも、果樹栽培の理由の一つ。1960年代ごろから、食事の洋風化によって、米の消費量が減り、米が あまるようになった。 そのため、政府は、それまでの米農家に、畑作への転作をすすめてきた。(米の生産調整) 伝統工芸は、南部鉄器(なんぶてっき)が岩手県盛岡(もりおか)市や奥州市などで盛ん。 会津塗り(あいづぬり)は、福島県の会津(あいづ)市や喜多方(きたかた)市。宮城県の こけし。秋田産の杉(すぎ)を利用した、秋田県 大館(おおだて)市の 曲げわっぱ(まげわっぱ)など。 昔は冬のあいだ、農作業ができなかったので、家内工業として、伝統工業が発達してきた。 高度経済成長期ごろから、高速道路の東北自動車道ぞいには工場が進出しており、IC(集積回路)工場や、電子機械の工場、精密機械などの工場が進出しており、この地帯はシリコンロードと言われる。土地の価格が安くて広く、空気や水がきれいなので、これらの工場が進出した。 東北三大祭り として、青森のねぶた祭り、秋田の竿燈(かんとう)まつり、宮城県の仙台市の七夕(たなばた)がある。これに、山形県の花笠(はながさ)や、秋田で大晦日に行う「なまはげ」を加えて四大祭りや五大祭りという場合もある。なお、「ねぶた」の意味は、いくつかの説があるが、疲れ(つかれ)や睡魔(すいま)を取り除く、「眠り流し」が由来という説がある。 太平洋側の 三陸海岸(さんりく かいがん) は リアス海岸 になっている。三陸の沖合(おきあい)あたりが、寒流(千島海流、親潮)と暖流(日本海流、黒潮)の、ぶつかりあう潮目になっているので、寒暖の両方の海流の魚があつまる、良い漁場になっている。 また、リアス海岸の波のしずかさを利用した養殖もさかんであり、かき や ほたて などの貝、こんぶ、わかめ などを養殖している。 わかめは、三陸が日本1位の生産量である。 三陸海岸の漁港は、気仙沼(けせんぬま)や石巻(いしのまき)が有名。 仙台は、江戸時代には、伊達(だて)氏の治める城下町だった。仙台市は、自然を尊重した町づくりをしており、仙台市みずからを「杜の都」(もりの みやこ)としている。 東北には、中尊寺(ちゅうそんじ)など、歴史的な建造物などが、東北は多い。 東北は全体的に人口が減っており、過疎(かそ)になっている。 作家の宮沢賢治(みやざわ けんじ)は東北の出身である。
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北海道は、北に位置するため梅雨がない。気候は冷帯(亜寒帯)である。冬は長く、11月ごろから雪が降り始める。夏の期間は冬の期間に比べると短い。 家の窓を二重窓にして寒さを防いでいる。道路では、電熱線や温熱パイプで凍結をふせぐロード ヒーティングも発達している。 オホーツク海の流氷(りゅうひょう)が冬に見られる。北海道の北東の海岸がオホーツク海側の海岸であり、1月ごろから3月ごろまで、流氷が見られる。 北海道では冬には雪も多く降るので、札幌市(さっぽろし)では雪まつりも毎年、冬の2月ごろに行われている。 北海道の農業は、全国でも有数の生産量である。農地が大規模な農家が多い。そのため専業農家も多く、農業にコンバインなどの大型の機械を用いている。 石狩平野(いしかり へいや)などでは、稲作がさかん。北海道の西部でも、稲作がさかん。石狩平野も、やや西寄りにある。 東部と比べて西部は、気温も、比較的、夏は高くなる。西部の冬の雪は、東部よりも多い。 北海道の南部から中部に、南北に長く伸びる山脈の 日高山脈(ひだか さんみゃく) があり、この日高山脈の東西で気候が分かれる。 米は、もともと熱帯の作物なので、もともとの米は北海道では育たず、近現代の北海道の米は、品種改良されて寒くても育つように改良された米である。 北海道では、盆地でも米作りがされる。なぜなら、盆地は、夏の間、気温が高くなるからだ。北海道中部の、上川(かみかわ)盆地や富良野(ふらの)盆地などでは、稲作もされる。 東部はあまり気温が上がらない。そして夏には、霧が多く発生する。冬は、西部よりも雪が少ない。 稲作や畑作などに適さない場所では、かわりに畜産や酪農などが行われている。 北海道の東部では、畑作や畜産や酪農がさかんである。 十勝平野(とかち へいや)は、気候がやや冷たいのと火山灰地が広がることから、あまり米づくりに向かず、かわりに畑作や酪農がさかんに行われている。 北海道の畑作物は、じゃがいも、てんさい、たまねぎ、かぼちゃ、にんじん、だいず、あずき などである。 北海道が日本1位の生産量の農産物も多く、だいず、たまねぎ、かぼちゃ、てんさい、あずき、にんじん は、北海道が日本1位の生産量である。(「てんさい」とは砂糖大根のこと。甜菜(てんさい)。根を搾ってその汁を煮詰めると砂糖がとれる。) 甜菜は全国の生産量の100%を占める。 このほか、北海道中部にある夕張(ゆうばり)ではメロン栽培が有名。北海道中部にある富良野(ふらの)ではラベンダー栽培が有名。 根釧台地(こんせんだいち)は冷たい気候で、土が火山灰である。 そのため、農産物の栽培には不向きであり、かわりに酪農や畜産が行われている。根釧台地の酪農では、バターやチーズ、牛乳などを生産している。 根釧台地の火山灰土は、阿寒岳(あかんだけ)や摩周(ましゅう)などからの火山灰である。 根釧台地の開発は、農作物が栽培しづらく開発が遅れたため、第二次世界大戦後になって開発が行われ、酪農などがさかんになった。 1950年代から「パイロットファーム」事業や、1970年代の新酪農村(しん らくのうそん)などで、根釧台地での酪農の開発がさかんになって大きな酪農地帯に発展したが、その後の貿易の自由化などで乳製品などの価格が落ちて、あまり利益があがっていない。 北海道の酪農は、消費地の本州から遠いこともあり、バター、チーズなどの乳製品の生産が発達したが、現代では冷凍輸送の発達もあり、牛乳なども多く生産している。 北海道には、「アイヌ」と言われる先住民族がいる。江戸時代以前の日本では、アイヌ民族のことを「蝦夷」(えぞ、えみし)と言っていた。北海道は蝦夷地(えぞち)と言われていた。 なお、「アイヌ」という特定の1つの民族がいたわけでは無く、何種類かの先住民族がいて、それら先住民族をまとめた言葉が「アイヌ」である。 明治時代に北海道は大日本帝国の領土として一方的に組みこまれ、北海道の開拓が本格的に始まった。そのため、それ以前の自然が失われてしまった。現在の北海道でみられる田畑などの多くは、開拓後のものであり、森林を伐採して切り開いたものである。明治の開拓以前は、原野や森林が多くあった。 アイヌ民族は狩猟で生計をたてており、農耕の習慣が無かった。 明治のはじめごろに、開拓使(かいたくし)という役所が置かれた。 ロシアなどに対抗する警備の役割を兼ねて、日本の兵士に農業をさせる屯田兵(とんでんへい)が多く、北海道に置かれた。 このようにして、北海道の原野は農地などに開拓され、北海道は農業がさかんになった。 明治時代に日本の農学校に赴任(ふにん)したお雇い外国人のクラークも、農学校の教師であった。 地名に、アイヌの名残が多く見られる。たとえば「札幌」は「サッポロベ」が由来。 明治政府が、あまりアイヌの文化の保護に熱心では無く、同化政策に力を入れていたこともあり、アイヌの文化が衰退してしまっており、アイヌは少数民族になっている。第二次世界大戦後は、政府はアイヌ文化を保護する方針へと変えた。 知床半島は日本の三つの自然遺産のうちの一つであり、手つかずの自然が残っている。 釧路湿原(くしろ しつげん)などの湿地も多く、タンチョウヅルなどの水鳥(みずどり)などの飛来する場所にもなっており、ラムサール条約の区域内である。 ラムサール条約とは、水鳥の生息地の湿地を保護するための国際条約である。 タンチョウは、特別天然記念物である。 釧路湿原は国立公園になっている。 他にもラムサール条約に指定された湿地が北海道には多くある。 火山も多く、有珠山(うすざん)や周辺の山々は、ときどき噴火する。 洞爺湖(とうやこ)は、有珠山の活動によって出来たカルデラに水がたまった場所である。このようにカルデラに水がたまって出来た湖をカルデラ湖(カルデラこ)という。 北海道には、他にもカルデラ湖がいくつかあり、たとえば東部には阿寒湖(あかんこ)や摩周湖(ましゅうこ)や屈斜路湖(くっしゃろこ)があり、これらがカルデラ湖である。 洞爺湖の場所は、当然、有珠山にある。 有珠山の周辺地域では、防災マップ(ハザードマップ)も作られている。 洞爺湖の近くに温泉(洞爺湖温泉)があるのも、有珠山が火山だからである。有珠山は、ほぼ30年ごとに噴火すると言われている。1910年、1944年、1977年、2000年に噴火している。 有珠山の近くにある 昭和新山(しょうわ しんざん) は、第二次大戦の末期1944年(昭和19年)に出来た。 札幌市(さっぽろし)に人口が集中している。札幌市の人口は190万人ほどであり、北海道の人口の約3分の1が集中している。札幌は政令指定都市になっている。 札幌市の町並みは、道が京都市のように碁盤(ごばん)の目(め)状に区画されている。これは明治政府が計画して都市が作られたからであり、明治時代に開拓使という役所が置かれた場所も、札幌市である。 漁獲量が全国1位な海産物はさけ、ます、かに、ほたてがある。 1970年以前は、ロシアやアラスカ沿岸(アメリカ合衆国)、ベーリング海で、日本の漁船が漁をする北洋漁業で、 すけとうだら などを取るのが盛んだった。1970年代の排他的経済水域の設定で、北洋漁業がおとろえ、漁獲量が大きく減少した。 近年では、養殖に重点がおかれ、 ほたて や こんぶ などの養殖、栽培漁業などの「育てる漁業」に力を入れている。 水産加工業もさかんでかまぼこや缶詰食品などが生産されている。 室蘭市(むろらん し)で製鉄業。苫小牧市(とまこまい し)で製紙工業。室蘭、苫小牧ともに、場所は北海道の南西部の太平洋側にある。 かつて、北海道に石狩炭田(いしかり たんでん)など、かつて石炭の炭田があり、さかえたが、第二次世界大戦後に衰退した。夕張(ゆうばり)などは、かつて炭鉱都市(たんこう とし)として、さかえていた。 夕張市は、第二次世界大戦後にエネルギー革命によって石炭産業が衰えて、財政が悪化した。そのため夕張市は観光を振興したり、「夕張メロン」などの特産品を作ったりして町おこしをしたが、人口の減少は続き、今も夕張市の財政は苦しいままだ。
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中学校の学習 > 中学校社会 地理 > 都道府県 本ページはウィキブックス教科書として、中学校の社会科の地理分野の学習で用いる、参考用のページである。 本ページからリンクされた各都道府県のページでは、おもに中学生の学習向けに都道府県の説明を行う。 2014年の現在では、中学の社会科地理の検定教科書では、各都道府県ごとの個別の詳細な説明は行われていない。そのため、このリンク先の都道府県ページは、教科書の参考資料用および、高校受験の地理の参考書を兼ねるとする。 それぞれの地域のページにジャンプする。 カッコ内は JIS X 0401 による都道府県コード。北から順につけられている。
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測量などを基にしてに地形を正確に表した地図を地形図と言います。地形図は国土交通省の中にある国土地理院という機関が発行しています。 地形図について詳しく見てみましょう。まず地形図には縮尺というのが定められています。縮尺とは実際の距離を地図上で縮めた割合のことです。また、地形図上に同じ高さを結んだ線があります。これを等高線(とうこうせん)と言います。
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中学校社会 地理/用語集では、中学校の地理(教科書ではこちら)の大切な用語をジャンル(教科書)別に並べてあります。ぜひ学習の参考にしてください。 この用語集の表記の仕方を説明します。 用語をクリックすると、その用語について記述されている教科書にジャンプします。 中学生に覚えてほしい、大切な世界地理の用語をジャンル別に紹介する。 中学生に覚えてほしい、大切な日本地理の用語をジャンル別に紹介する。 ここには、合わせて読んでほしい項目(教科書)を並べておきます。 地理をもっと詳しく知りたい人は、ウィキペディアを読んでみてください。少し難しいかも知れませんが、新しい発見があるかもしれません。地理用語が詳しく一つ一つ細かく説明がされています。ぜひ読んでみてください。ウィキペディアには、下からリンクできます。
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中学校社会 地球/資料集は、中学校の地理の資料を集めたものです。ぜひ、学習の参考にしてください。 ここには、合わせて読んでほしい項目(教科書)を並べておきます。 地理をもっと詳しく知りたい人は、ウィキペディアを読んでみてください。少し難しいかも知れませんが、新しい発見があるかもしれません。地理用語が詳しく一つ一つ細かく説明がされています。ぜひ読んでみてください。ウィキペディアには、下からリンクできます。
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私達、現在の人間の直接の祖先である 新人 (しんじん) が、20万年前には、あらわれていました。 新人を、 現生人類 (げんせいじんるい) とも言い、また、 ホモ=サピエンス とも言います。 フランス南部からは クロマニョン人 のあとが発見されています。 現生人類を含む、直立姿勢を完成した脳の大きな人類。 もともとギリシア哲学以来、人間の本質は英知の優れていることにあると考えられてきた。 これに応じて、賢い人間という意味でこの名がある。 ホモ・サピエンスは約30万~20万年前にアフリカで誕生し、5万年前以降にアフリカを出て、ヨーロッパ、アジア、シベリア、オセアニア、そして米国へと大拡散していったのです。 それ以前に世界各地にいた原人や旧人と、ホモ・サピエンスが生きていた時期は重なりますが、ホモ・サピエンスだけが生き残り、原人、旧人は滅びていきます。 日本列島へのホモ・サピエンスの渡来も、この地球規模の大きな流れの中の一コマとして、捉えることができます。 日本列島にはじめてホモ・サピエンスが現れたのは、今から38000年ほど前のことでした。 かつては、その頃の日本列島とアジア大陸は陸続きで、祖先たちはそこを歩いて渡ってきたと考えられていました。 人類は、どこで生まれて、どのように広がっていったのだろう。 人類は、どのように生活していたのだろう。 猿と人の違いはなんだろうか。 まとめよう。 最初の人類は、次に言う猿人とされています。アフリカのチャドで440万年以上前(約700万年前とされている)の地層から発見されている(ここで見つかった猿人をサヘラントロプス=チャデンシスという)猿人は二本足で立って歩ける二足歩行(にそくほこう)が可能だったといわれています。 二足歩行ができるようになった結果、手で使う道具が発達していき、それにともなって知能も発達していったと考えられています。 猿人は石をそのまま使っていただけだった(ただし一部では打製石器を使っていた)。打製石器は旧石器とも呼ばれます。このような打製石器までしか使っていない時代を旧石器時代といわれています。 さらにその後、類人猿という種類の人類も誕生しました。類人猿の特徴は直立二足歩行をしていてこの頃から打製石器の本格的な使用を始めました。 その後の100万年〜200万年後の時代の間に、人類はアフリカから出て、各地に散らばっていきました。 今から200万年ほど前に原人があらわれました。 アジア大陸の中国の北京の近くの周口店からは、 北京原人(シナントロプス=ペキネンシス)のあとが発見されています。 北京原人は火を使用していたことが分かっています。 インドネシアのジャワ島からはジャワ原人のあとが発見されています。 ドイツからはハイデルベルク人が発見されています。 原人は、言葉を話せました。また、火も道具として使っていました。 石器は、打製石器を使っています。旧石器時代にふくまれます。 ドイツのネアンデルタールから旧人の ネアンデルタール人 のあとが発見されています。 私達、現在の人間の直接の祖先である新人が、20万年前には、あらわれていました。 新人を、現生人類とも言い、また、 ホモ=サピエンス とも言います。 ホモ→ホモ・サピエンス フランス南部からは クロマニョン人 のあとが発見されています。クロマニョン人が住んでいた洞窟の壁画から、当時の生活がわかり、狩りをしていたらしいことが絵から分かります。 そのほか、クロマニョン人は打製石器や骨角器を使っていました。 フランスの洞窟の壁画のラスコーの壁画や、スペインの洞窟のアルタミラの壁画などから、動物の絵が見つかっており、どうやら狩りの成功を、クロマニョン人は、いのっていたようです。 我が国でも新人は発見されています。 新人になると、磨製石器を使用していたので、新石器時代です。 そして、人類の始まりから原人までは、旧石器の打製石器を使っているので旧石器時代です。
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地球環境は、どのように変化していったのだろう。 この時代の人々はどのように生活していたのだろう。 地球は数万年の周期で気温の低い氷期と、比較的に温暖な間氷期とをくりかえしています。 現在は間氷期だろうと科学者の多くには考えられています。 今から3万年ほど前は、地上には今よりも多く氷った土地があったと考えられ、「氷河時代」や「氷河期」などと言われます。 今から1万年ほど前に氷河期がおわり、気候が温暖になりました。 この時代に、アジアやアフリカの大河の川ぞいでは、ゆたかな水をもとに農耕や牧畜が発達しました。 この年代は、我が国では縄文時代に当たります。 今から1万数年ほど前から、世界の各地で農耕が始まり、動物も飼いならされていきました。牛や羊などを飼いならし、乳や肉を取る牧畜を始めました。 農耕で得られた農作物を保存する必要性などから土器が発達しました。土器は、食料の保管や煮炊きに使われました。 また、農耕では、農地の近くに住み続ける必要があるので、竪穴住居などの住宅が発達しました。 同じころ、石器をつくる技術が発達し、石をみがいた石器として磨製石器が作られ始めました。 磨製石器を使い始めた時代を新石器時代と言い、旧石器時代とは区別します。つまり、磨製石器のころである新石器時代に農耕や牧畜が始まりました。言い換えると、旧石器時代には、まだ農耕や牧畜は始まっていません。
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古代の主な文明は、どのような場所で起こり、どのような特色をもっていたのだろう。 農業の発達にともない、治水工事や灌漑工事などの土木工事も行うようになりました。また、仕事の分業が始まるようになりました。 分業が発達すると、農業から離れた仕事をする人も出来てきて、そのような人たちが農地から離れた場所に住むようになり都市が出来ていきました。 石器の時代が過ぎ、やがて青銅器や鉄器などの金属器を作る技術が出来てきました。まず初めに、青銅をつくる技術が発明されました。なお、青銅とは銅とスズ(漢字:「錫」 )との合金です。青銅にすることで、銅やスズの単体の状態よりも、硬くなります。 つづいて、鉄器が紀元前1500年ごろに西アジアで発明され、農具に鉄器が用いられ農耕の生産力が高まりました。 鉄器の生産は、その後、周辺の地域にも広がっていきます。 アフリカやアジアの大河の川ぞいでは、ゆたかな水をもとに農耕や牧畜が発達し、そのため文明が発達できました。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河の流域の各地域で文明が発達していきました。この4地域での文明を四大河文明と言います。 それぞれの文明を、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明といいます。 これらの四大河文明は文字が使われていました。 たとえばメソポタミアでは、つぎのように文明が発達しました。 今のイラクの近くにあるチグリス川、ユーフラテス川ぞいのメソポタミアでは、紀元前3300年ごろには当時としては、かなり高度な文明が栄えていました。これをメソポタミア文明といいます。 紀元前6000年ごろにはすでに、人々がメソポタミアの地に住み、農業などをしていたとされます。しかし、農業文明よりも更に進んだ、高度な文明が特に発展したとされる時代が、この紀元前3300年ごろからです。 紀元前3300年ごろのメソポタミアでは、青銅器が使用され始めていました。また、月の満ち欠けをもとにした暦が作られ、使用されていました。これは我が国では太陰暦と呼ばれます。 この時代までに、1週間の7曜日制や、時間や角度の六十進法、1年間を12か月とすること、などといった、物事の数え方や計り方が作られ、現代にもその影響は数多く残っています。また、そのような数を扱う技術の必要性にともなって、数学が非常によく発達していました。 メソポタミアでは、城壁で囲まれた都市が作られました。都市は、神殿を中心にしています。メソポタミアの宗教では、多くの神々がまつられました。 エジプトのナイル川の流域に発生したエジプト文明は、メソポタミア文明と同様に、当時としては高い技術を持つ、高度に発達した文明でした。たとえば我が国において太陽暦と呼ばれる、太陽の運行を基準にした暦を作り、使用していた。これは現在世界中で使われる現行の暦であるグレゴリオ暦に近いもので、エジプト文明では天文学が発達していたことを示しています、 このような高度な暦は、エジプトの農業において特に重要でした。エジプト文明は、のちの時代のヨーロッパ人から「ナイルの賜物」と呼ばれましたが、これは、ナイル川が毎年夏になると氾濫し、その洪水が運ぶ栄養によって、エジプトの農業が大きな恩恵を受けていたからです。この毎年の氾濫の時期を、正確な暦で予測することにより、氾濫の危険を回避しながら、豊かな恵みの恩恵を受けることが可能になったのです。また、氾濫後には土地を区画整理し直す必要があったため、測量術も発達していきました。 エジプトの農業では、ムギなど栽培をしていました。パピルスという草から紙が作られました。この「パピルス」が紙の英語のpaper(ペーパー)の語源です。ヒエログリフという象形文字が、紙に書かれたり、石にきざまれました。 エジプト文明では、ピラミッドと呼ばれる、多くは四角錐状の巨大な建造物が数多く作られました。これらは王の墓であったとする説が有力ですが、必ずしも墓を主たる目的として建造されたわけではないとする説もあります。いずれにせよ、王には大きな権力があったと考えられており、ピラミッドの建造には多くの技術者や、人夫、奴隷などの労働者が関わっていたとされています。 インド・パキスタンの近くのインダス川の流域ではインダス文明が紀元前2500〜紀元前2300年ごろに起きました。 下水道や浴場などの公共施設もそなえ、死者の丘を意味するレンガ作りのモヘンジョ=ダロという都市を作っています。 紀元前4000年ごろ〜紀元前3000年ごろから、中国(今でいう中華人民共和国の地域)の黄河や長江の流域で、農業が起こり、中国文明が起きました。黄河の流域で、あわ・きび などを栽培していました。長江の流域で、稲を栽培していました。 これら中国の古代文明の、古い呼び方では、川の名前をとって、「黄河文明」「長江文明」などという場合もありましたが、その後の歴史研究で、長江など黄河以外の別の川の流域でも文明が古くから栄えていたことが分かり、現在では「中国文明」と、まとめて呼ぶことが多いといわれます。 農業や石器・土器などよりも以降の文明が発達しだした時代は、おそらく紀元前2000年よりも後の時代であると考えられています。紀元前1500年ごろに、黄河の流域に「殷」という王朝の出来た時代から、とくに文明が発達しはじめました。この殷のころから、青銅器が中国でも作られ使われ始めました。 メソポタミア地方では紀元前18世紀ごろ、バビロニアという国の王であるハンムラビが、この地域を統一しました。そして、ハンムラビ王は法律を整え、ハンムラビ法典を作りました。 この法典では、復讐の権利を認めており、「目には目を、歯には歯を」といわれる記述が、この法典にあります。 この規定は、復讐の権利を認めると同時に、復讐が行き過ぎないように制限をかけている法律でもあります。 交易や行政の都合などから、くさび形文字が発明されていました。ハンムラビ法典も、くさび形文字で書かれています。道路などの工事も進め、メソポタミアでは商業がさかえるようになり、周辺地域との交易もさかんになりました。 くさび形文字は、しだいにアルファベットの原型に発達していきます。 紀元前1500年に北方の中央アジアの異民族のアーリア人に侵入され、征服されます。先住民は奴隷として支配されます。 支配者たちは身分制度を作り、神官のバラモンと呼ばれる階級を頂点とする身分制度を作りました。この身分制度が、のちにインドの伝統的な身分制度のカーストにつながります。 身分にはバラモン(神官)、クシャトリア(王族や武人)、バイシャ(農民や商人などの平民)、シュードラ(奴隷)の身分がありました。 バラモンの権力は宗教だけでなく、政治などでも権力を持ちました。 ※ 別ページで説明する。
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Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校社会 > 中学校社会/歴史 > 中学校社会 歴史/年代測定法 どのような年代測定法があり、その年代測定法にはどのような特徴があるのだろう。 年代測定法は、どのような時代の調査に使用されるのだろう。 紀元前1000年頃までであれば、木材の年代及び木の年輪から年代を測定することもできる。なぜなら、多くの場合木の年輪は毎年1本ずつ増加していくからである。 炭素の原子は3種類の同位体がある[1]。それらは安定で量の多い12C(炭素12)と、ごく僅かで不安定な13C(炭素13)と、極めて僅かで不安定な14C(炭素14)である。自然界の炭素のほとんどは、12Cである。 この14Cは、放射線を出しながら 壊れ続け、約5700年ごとに半分になっていく。この約5700年を半減期という。14Cは、大気上層で高エネルギーの一次宇宙線によって生成される。 生体は光合成や呼吸をしているため、生きている間に関して言えば、生体内の14Cの割合と大気中の14Cの割合はほぼ同じになる(厳密には、「速度論的同位体効果」があるためか、生物種ごとに微妙に13Cや14Cの割合が異なる[2]。大学レベルなので、気にしなくていい)。しかし、死後は呼吸も光合成もしなくなるため、大気中の14Cの割合と死体内の14Cの割合がずれていく。空気中の炭素は、大気圏などから宇宙線によって生成された14Cが供給されるいっぽう、死体の14Cは減り続けていく。この、空気中の14Cの割合と、死体内の14Cとのズレの割合を調べることで年代を算出する。 動物だけでなく、植物でも炭素をふくむので、この方法で測定が可能である。いっぽう、金属など炭素をふくまない物は炭素の方法では年代を測定できない。 過去数百年〜3000年ていどのものについては、歴史書などから年代の分かっている同時代の実物の測定により、この測定に必要な関連データを得られる。 しかし、数千年〜数万年以上も前のものは、ほとんどの地域で歴史書などが残っていなく、関連データを得られない。したがって、科学の進歩により、それ以前の年代測定が訂正されて、測定値が変わることがある。 したがって、なるべく他の測定方法とも組み合わせて確認する必要がある。 考古学では、放射年代の他にも、地層の調査など、さまざまな観察や測定を組み合わせて、より信頼性の高い年代を調べることが行われている。 数万年ていどよりも前になると、もはや、放射性年代測定以外に、確認のしようがなく、はたして本当に放射年代の数値が正確なのかどうかは確認のしようがない。たとえば、太陽から、地球上に降り注ぐ放射線の量が、もしかしたら現在と大幅に違っている可能性もありうるし、もし、そうだとすると、年代測定の数値の前提がくずれる。 だが他に年代の測定方法が、数万年ていどよりも古い時代では、無い。なので仕方なく、もっとも確からしい年代測定法として放射年代測定が使われている。 猿人や原人、旧人、新人などの年代測定も、放射性カリウム40など(通常のカリウムはカリウム39である。)、さまざまな元素の放射性年代測定によって化石などを調べて年代を推定している。 「猿人がアフリカで440万年以上前に発生していた」ということも放射性年代測定によって知り得る。 人間以外の動植物も、化石を放射性年代測定によって調べて年代を推定している。 地球の歴史が46億年ていど だという事も、地球や隕石などのウランによる放射性年代測定での年代比較による。 半減期は一定だろう、と仮定している。なお、ウラン238の半減期は約44億年であり、 今のところ、科学者たちは、「放射性物質の半減期の大きさは、時間がたっても、常に変わらず一定だろう。」と、さまざまな実験結果にもとづいて、判定している。 炭素以外にも、ウランなど、さまざまな放射性原子があり、測定対象の古さや、測定物質の種類にあわせて、使い分けられる。 ちなみに宇宙の年齢の約137億年というのは、天体観測で、天体の出す光の波長を分析して調べている。詳しい解説には、高校レベルの物理や地学の知識が必要なので、中学の社会科での説明は省略する。
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大陸の文明にはどのような特徴があるのだろか 文明は時代によってどのように変化したのだろうか 東アジアでは、中国にある黄河や長江の流域で農業などの原始的な文明が紀元前4000年〜紀元前3000年ごろから始まっていて、土器なども作っていました。これらの中国文明は、東アジアでは、古くから発達した文明の代表例として扱われることも多いとされています。 黄河の流域では、水や肥えた土などを元に畑作が行われ、アワやキビ、ヒエなどの農産物が作られました。同じころ、長江の流域でも、稲作が行われ始めました。 農業により、食料が増えたことで、人口も増えた。磨製石器などの石器や、土器なども生産されていました。 紀元前1600年ごろから、黄河や長江の流域の土地には、都市や国家も形成されていきました。 中国で青銅器を生産しだしたのは、紀元前1600年より以降だと考えられています。中国でも紀元前3000年ごろのものと思われる青銅器も見つかっていますが、これらはメソポタミアなどの先進文明の地域から交易などによって中国に持ち込まれたものだろうと考えられています。 紀元前1600年ごろに、いくつもの国をまとめた 殷という王朝が成立しました。殷のことを「商」とも言います。 この殷は占いを重んじる政治を行いました。亀の甲などを焼くと、ひび割れができますが、このヒビ割れの方向をもとに、殷は政治の占いをしていたことが分かっています。 そして、占いの結果を亀の甲や牛の骨にきざんだものが甲骨文字です。この甲骨文字が後の時代の漢字のもとになっています。 この時代に青銅器も使われていました。 青銅器は貴重品なので、王族や宗教的な儀式などで使われました。 殷は、紀元前1100年ごろに、周に、ほろぼされます。 こうして、周という王朝が出来ました。周の時代に、青銅製の貨幣が作られ、商業が発達していきました。 周の力は紀元前8世紀ごろから弱まり、中国全土が多くの国に分かれて争うようになります。 紀元前8世紀~紀元前3世紀ごろまで続いた争いの時代を春秋・戦国時代といいます。 紀元前8世紀ごろから、鉄製の道具が普及しはじめ、やがて農具や武器などに鉄が使われるようになります。鉄製の農具が普及したことで、農業は発達しました。 戦乱が長く続いたことやそれぞれの国が強力な国となるために、理想的な政治のありかたを考える思想家が多くあらわれました。 孔子は、この春秋戦国時代の思想家です。 孔子は、親子などの家族関係をもとに、君臣の間の上下関係などの礼儀や、葬儀などの儀式などを重んじる思想を唱えました。孔子は、思いやりの大切さを説き、その思いやりの心を「仁」という言葉で表しました。 このような思想が受け入れられた背景として、この春秋・戦国時代は、反逆や戦乱などが耐えない時代でもありました。 孔子の教えを儒教といいます。孔子の教えを弟子たちがまとめた書物を『論語』といいます。のちの時代に、儒教の教えは我が国や朝鮮にも伝わり、その政治などに大きな影響を与えます。 紀元前3世紀である紀元前221年に、秦が中国を統一しました。そして、秦王は、これまでつかわれていた「王」よりも上位の称号として「皇帝」という称号をつくりました。そして、秦王が最初の皇帝となり、自らを始皇帝と名乗りました。 秦は、北方の異民族の侵入を防ぐため、万里の長城を作らせました。 また、それまで中国の各地方によって異なっていた貨幣や文字、長さ・重さ・体積 などの制度も統一しました。 しかし、始皇帝の死後、各地で反乱があいつぎ、秦の統一後から、わずか15年ばかりで、秦は滅びます。 紀元前202年、秦にかわって、漢という王朝が中国を統一しました。漢は約400年ほど続きました。 漢は勢力を広げ、武帝(皇帝の人名)の時代には朝鮮半島にも勢力を広げ、朝鮮半島に楽浪郡を起きました。また、中央アジアにも支配を広げました。 漢の時代に、紙の発明があり、歴史書なども多く書かれました。 商業では、西アジアと中国の交易もさかんになった。のちの時代に、この貿易の経路がシルクロード(英語:Silk Road)と言われるようになります。「シルクロード」の意味は「絹の道」という意味です。ローマ帝国などのヨーロッパの生産物も、このシルクロードを伝って、中国に伝わっていったと考えられています。 中国からは、絹織物などが輸出されました。漢では工芸も発達し絹織物などが生産されていました。一方、西方から中国には仏教やブドウなどが伝わってきました。
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