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「僕かね、是非行くよ。
出来るなら媒酌人たるの栄を得たいくらいのものだ。
シャンパンの三々九度や春の宵。
——なに仲人は鈴木の藤さんだって?
なるほどそこいらだろうと思った。
これは残念だが仕方がない。
仲人が二人出来ても多過ぎるだろう、ただの人間としてまさに出席するよ」
「あなたはどうです」
「僕ですか、一竿風月閑生計、人釣白蘋紅蓼間」
「何ですかそれは、唐詩選ですか」
「何だかわからんです」
「わからんですか、困りますな。
寒月君は出てくれるでしょうね。
今までの関係もあるから」
「きっと出る事にします、僕の作った曲を楽隊が奏するのを、きき落すのは残念ですからね」
「そうですとも。
君はどうです東風君」
「そうですね。
出て御両人の前で新体詩を朗読したいです」
「そりゃ愉快だ。
先生私は生れてから、こんな愉快な事はないです。
だからもう一杯ビールを飲みます」と自分で買って来たビールを一人でぐいぐい飲んで真赤になった。
短かい秋の日はようやく暮れて、巻煙草の死骸が算を乱す火鉢のなかを見れば火はとくの昔に消えている。
さすが呑気の連中も少しく興が尽きたと見えて、「大分遅くなった。
もう帰ろうか」とまず独仙君が立ち上がる。
つづいて「僕も帰る」と口々に玄関に出る。
寄席がはねたあとのように座敷は淋しくなった。
主人は夕飯をすまして書斎に入る。
妻君は肌寒の襦袢の襟をかき合せて、洗い晒しの不断着を縫う。
小供は枕を並べて寝る。
下女は湯に行った。
呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。
悟ったようでも独仙君の足はやはり地面のほかは踏まぬ。
気楽かも知れないが迷亭君の世の中は絵にかいた世の中ではない。
寒月君は珠磨りをやめてとうとうお国から奥さんを連れて来た。
これが順当だ。
しかし順当が永く続くと定めし退屈だろう。
東風君も今十年したら、無暗に新体詩を捧げる事の非を悟るだろう。
三平君に至っては水に住む人か、山に住む人かちと鑑定がむずかしい。
生涯三鞭酒を御馳走して得意と思う事が出来れば結構だ。
鈴木の藤さんはどこまでも転がって行く。
転がれば泥がつく。
泥がついても転がれぬものよりも幅が利く。
猫と生れて人の世に住む事もはや二年越しになる。
自分ではこれほどの見識家はまたとあるまいと思うていたが、先達てカーテル・ムルと云う見ず知らずの同族が突然大気※を揚げたので、ちょっと吃驚した。
よくよく聞いて見たら、実は百年前に死んだのだが、ふとした好奇心からわざと幽霊になって吾輩を驚かせるために、遠い冥土から出張したのだそうだ。
この猫は母と対面をするとき、挨拶のしるしとして、一匹の肴を啣えて出掛けたところ、途中でとうとう我慢がし切れなくなって、自分で食ってしまったと云うほどの不孝ものだけあって、才気もなかなか人間に負けぬほどで、ある時などは詩を作って主人を驚かした事もあるそうだ。
こんな豪傑がすでに一世紀も前に出現しているなら、吾輩のような碌でなしはとうに御暇を頂戴して無何有郷に帰臥してもいいはずであった。
主人は早晩胃病で死ぬ。
金田のじいさんは慾でもう死んでいる。
秋の木の葉は大概落ち尽した。
死ぬのが万物の定業で、生きていてもあんまり役に立たないなら、早く死ぬだけが賢こいかも知れない。
諸先生の説に従えば人間の運命は自殺に帰するそうだ。
油断をすると猫もそんな窮屈な世に生れなくてはならなくなる。
恐るべき事だ。
何だか気がくさくさして来た。
三平君のビールでも飲んでちと景気をつけてやろう。
勝手へ廻る。
秋風にがたつく戸が細目にあいてる間から吹き込んだと見えてランプはいつの間にか消えているが、月夜と思われて窓から影がさす。
コップが盆の上に三つ並んで、その二つに茶色の水が半分ほどたまっている。
硝子の中のものは湯でも冷たい気がする。
まして夜寒の月影に照らされて、静かに火消壺とならんでいるこの液体の事だから、唇をつけぬ先からすでに寒くて飲みたくもない。
しかしものは試しだ。
三平などはあれを飲んでから、真赤になって、熱苦しい息遣いをした。
猫だって飲めば陽気にならん事もあるまい。
どうせいつ死ぬか知れぬ命だ。
何でも命のあるうちにしておく事だ。
死んでからああ残念だと墓場の影から悔やんでもおっつかない。
思い切って飲んで見ろと、勢よく舌を入れてぴちゃぴちゃやって見ると驚いた。
何だか舌の先を針でさされたようにぴりりとした。
人間は何の酔興でこんな腐ったものを飲むのかわからないが、猫にはとても飲み切れない。
どうしても猫とビールは性が合わない。
これは大変だと一度は出した舌を引込めて見たが、また考え直した。
人間は口癖のように良薬口に苦しと言って風邪などをひくと、顔をしかめて変なものを飲む。
飲むから癒るのか、癒るのに飲むのか、今まで疑問であったがちょうどいい幸だ。
この問題をビールで解決してやろう。
飲んで腹の中までにがくなったらそれまでの事、もし三平のように前後を忘れるほど愉快になれば空前の儲け者で、近所の猫へ教えてやってもいい。
まあどうなるか、運を天に任せて、やっつけると決心して再び舌を出した。
眼をあいていると飲みにくいから、しっかり眠って、またぴちゃぴちゃ始めた。
吾輩は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な現象が起った。
始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片付ける時分には別段骨も折れなくなった。
もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。
ついでに盆の上にこぼれたのも拭うがごとく腹内に収めた。
それからしばらくの間は自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。
次第にからだが暖かになる。
眼のふちがぽうっとする。
耳がほてる。
歌がうたいたくなる。
猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。
主人も迷亭も独仙も糞を食えと云う気になる。
金田のじいさんを引掻いてやりたくなる。
妻君の鼻を食い欠きたくなる。
いろいろになる。
最後にふらふらと立ちたくなる。
起ったらよたよたあるきたくなる。
こいつは面白いとそとへ出たくなる。
出ると御月様今晩はと挨拶したくなる。
どうも愉快だ。
陶然とはこんな事を云うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持でしまりのない足をいい加減に運ばせてゆくと、何だかしきりに眠い。
寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。