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福本伸行
福本 伸行(ふくもと のぶゆき、1958年12月10日 - )は、日本の漫画家・漫画原作者。右利き。既婚。 神奈川県横須賀市出身。かざま鋭二のアシスタントを経て、1980年『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)連載の『よろしく純情大将』でデビュー。主な作品に『賭博黙示録カイジ』、『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』、『銀と金』、『天 天和通りの快男児』などがある。1998年に『賭博黙示録カイジ』で第22回講談社漫画賞受賞。 経歴 幼少時は『パーマン』などの少年漫画を読んで育つ。高校では建築科に進み、本人曰く「勉強は出来ないが不良でもないボーッとした学生だった」という。また、強さに憧れ空手やキックボクシングを経験した。高校卒業後、建設会社に就職して現場監督の仕事に就くも、仕事がつまらないと感じ、何か一発当てようと漫画家を志す。 会社勤めに並行して描いた剣道漫画を講談社に持ち込んだところ、「まずアシスタントをして経験を積んではどうか」と勧められる。そこでアシスタントを募集していたかざま鋭二に頼み込んでアシスタントの内定を取り付け、「長く勤めて資格などを取ると辞められなくなる」と考えて入社後わずか3か月で会社を辞める。アシスタント入りしたものの、器用な絵が描けなかった福本はもっぱら炊事などの雑用を任される。1年半ほどした後に、福本を案じたかざまから「福ちゃんは性格がガサツだから、トラック運転手なんかが向いてるんじゃないかなあ」と諭され、アシスタントを辞めることになる。これらの経緯について、かざまは(自ら認めるほど絵に誉めるところはなかったが)「18歳と若いので可能性に賭けた」「福本はあまりにも使えないからクビにしたけど、(俺より)あいつの方が売れちゃった」と語っている。その一方で、福本は退職時に至るまで手厚く世話をしてくれたかざまに対して感謝の念を語っている。 1980年『月刊少年チャンピオン』掲載の『よろしく純情大将』でデビュー。その後、なかなかヒットが出ず、ちゃんぽん店などでアルバイトをし生計を立てつつ、ちばてつや賞などへの応募を続けながら、長く下積みの生活を送る。1983年、『ワニの初恋』で、ちばてつや賞優秀新人賞を受賞。また、バイトも順調でそれなりに稼げていたが、「漫画一本で行くべき」と24歳の時に辞め、退路を断った。この頃使用していたペンネームには、「ふくもと飛火」(とび)というものもある。 投稿時代からデビュー当初は主に人情ものを描いていたが、1980年代は日本経済の景気も良く、ギャンブルをテーマにした漫画が隆盛を極めていたため、仕事が取りやすいという理由でギャンブル漫画を描き始める。1980年代末より『近代麻雀ゴールド』に『天 天和通りの快男児』を連載。この作品は増刷されて福本の初めての人気作品となり、漫画家として名が知られるようになる。 この頃から作品に「ギャンブルもの」が多くなり、『近代麻雀』連載の『アカギ 〜闇に降り立った天才〜』や、更にアウトローの世界の駆け引きを描いた『アクションピザッツ』連載の『銀と金』で、一躍人気作家となる。 1996年から『週刊ヤングマガジン』に『賭博黙示録カイジ』の連載を開始する。『カイジ』シリーズは2021年現在で通算78巻、2000万部以上を売るヒット作となり、福本の人気を不動のものとした。2005年には『アカギ』が、2007年・2011年には『カイジ』がそれぞれTVアニメ化されている。2007年10月からは『週刊少年マガジン』に『賭博覇王伝 零』を連載開始。2019年5月からは『近代麻雀』に『闇麻のマミヤ』を連載開始。 2011年3月11日に発生した東日本大震災の被災地への義援金として現金3000万円を寄付し、応援イラストを寄せた。被災地にも自ら訪れ、被災者にサインやイラストを描いている。 2021年5月現在、『週刊ヤングマガジン』誌上で『賭博堕天録カイジ 24億脱出編』、『近代麻雀』誌上で『闇麻のマミヤ』の2作品を同時に連載中。 作風 ギャンブル漫画の第一人者として知られ、緻密な心理描写・強烈な人物描写が特徴である。作品の多くは、極限勝負に身を置く男達の姿が描かれており、数多くのオリジナルのギャンブルを生み出している。圧倒的なストーリーの面白さが評価される一方で、キャラクターの作画力は漫画家として非常に低く、逆にそれが独特の魅力となり持ち味となっている。 好きなギャンブルは麻雀、大小など。競馬は嫌い。麻雀は中学時代から続けており、本人によれば、学生時代はほとんど負けたことがないが、現在の実力は並だという。本人曰く「大会運がある」らしく、麻雀漫画家の麻雀大会で優勝したことも。プロの麻雀対局に出場した事もある。芸能界屈指の雀士と知られるアカギ・カイジの声優萩原聖人と二度ほど対局して、萩原に「この人に勝てる気がしない」と言わしめた。 また、女性キャラクターの登場が極端に少ない。その理由は「描いていなかったら描けなくなってしまった」とのこと で、「「」(かぎかっこ)」のインタビューでは「ギャンブルの世界に女性はいらない」とも語っている(ただし、人情を主に取り扱った作品にはごく普通に登場している)。ただし、『オトナファミ』2009年10月号では「タカピーな女の娘が体を賭けてギャンブルをして悪いオヤジから金を搾りやっつけるような漫画を描いてみたい」とも言及しており、その後『闇麻のマミヤ』において女性主人公による自分の身体を賭けたギャンブル漫画を描き始めた。 作画の際には「原稿用紙を回しながら執筆する」という特徴的な執筆方法を取る。2009年7月に東京・新宿のロフトプラスワンで開かれた「ビッグコミックスペリオールPresents 第6回『西原理恵子の人生画力対決』」に出演した際には、多数の観客が見守る中でその独特の方法でカイジのイラストを描き、西原や江口寿史など他の出演者を仰天させた。 作品リスト 麻雀グラフィティ 男の風(1977年)※処女作 よろしく純情大将(1980年、『月刊少年チャンピオン』)※デビュー作 当たってくだけろ!(1980年、『月刊少年チャンピオン』) あまりちゃん(1980年、『週刊少年チャンピオン』)※初連載 ワニの初恋(1983年、『モーニング』) 単行本は1987年に講談社()、のちに竹書房から再刊() 見上げれば通天閣(1986年、『別冊アクション』) 単行本は1988年にぶんか社()、1998年に竹書房()、2008年に双葉社から出版() 熱いぜ辺ちゃん(1986年 - 1987年・1994年 - 1995年、『近代麻雀オリジナル』) 単行本・全2巻。 春風にようこそ(1988年 - 1989年、特選麻雀) 単行本は1996年に竹書房から出版。 天 天和通りの快男児(1989年 - 2002年、『近代麻雀ゴールド』) 単行本・全18巻。 銀ヤンマ(1990年、『劇画麻雀時代』) 単行本は1991年に竹書房から出版、「銀ヤンマ」「ガン辰」「遠藤」の3作収録。 熱いぜ天馬(1990年、『週刊少年マガジン』) のちに竹書房から再刊() 無頼な風 鉄(1990年 - 1991年、『競馬ゴールド』) 単行本化されていなかったが、後に竹書房から出版() アカギ 〜闇に降り立った天才〜(1992年 - 2018年、『近代麻雀』) 単行本・全36巻、月一ペースで連載。 銀と金(1992年 - 1996年、『アクションピザッツ』) 単行本・全11巻。 真実の男 大安吉日真太郎(1996年、『漫画サンデー』) 単行本は竹書房から() 賭博黙示録カイジ(1996年 - 1999年、『週刊ヤングマガジン』) 単行本・全13巻。 RUDE(あくたれ)39(1999年、『パチンコ時代』) 単行本は竹書房から() 無頼伝 涯(2000年 - 2001年、『週刊少年マガジン』) 単行本・全5巻。 賭博破戒録カイジ(2000年 - 2004年、『週刊ヤングマガジン』) 単行本・全13巻。 最強伝説 黒沢(2003年 - 2006年、『ビッグコミックオリジナル』) 単行本・全11巻。 賭博堕天録カイジ(2004年 - 2008年、『週刊ヤングマガジン』) 単行本・全13巻。 賭博覇王伝 零(2007年 - 2009年、『週刊少年マガジン』) 単行本・全8巻。 賭博堕天録カイジ 和也編(2009年 - 2012年、『週刊ヤングマガジン』) 単行本・全10巻。 賭博覇王伝 零 ギャン鬼編(2011年 - 2013年、『週刊少年マガジン』) 単行本・全10巻。 賭博堕天録カイジ ワン・ポーカー編(2013年 - 2017年、『週刊ヤングマガジン』) 単行本・全16巻。 新黒沢 最強伝説(2013年 - 2020年、『ビッグコミックオリジナル』) 単行本・全21巻。 賭博堕天録カイジ 24億脱出編(2017年 - 、『週刊ヤングマガジン』) 単行本・既刊20巻。 闇麻のマミヤ(2019年 -、『近代麻雀』) 単行本・既刊6巻。 作品集 あの人のトランペット 福本伸行自撰短編集 1(竹書房、1998年11月) 星降る夜に 福本伸行自撰短編集 2(竹書房、1999年1月) 前へ…!! 福本伸行自撰短編集 3(竹書房、1999年1月) 福本伸行作品集(竹書房、2008年) コンビニ版とも言われる。同じような内容で2004年にも出版しているが、2008年版の方が作品を多く収録している。 鉄と天馬(2008年6月 ) 「無頼な風 鉄」「熱いぜ天馬」収録。 熱いぜ辺ちゃん(2008年7月 ) 単行本2巻まとめて収録。 最強伝説 真実の男(2008年9月 ) 「ワニの初恋」も併録。 銀ヤンマ(2008年10月 ) 「銀ヤンマ」「ガン辰」「遠藤」「赤鼻」「オヤジのオヤジ」「かすみとゲンコツ」「まさみ」「先生お元気ですか?」「千葉ケンの空」「エンマ先生」「あの人のトランペット」「ガメラ」収録。 漫画原作 生存 LifE (1999年、『ヤングマガジンアッパーズ』)作画はかわぐちかいじ。2002年にテレビドラマ化。単行本は全3巻。 告白 CONFESSION(2001年、『ヤングマガジンアッパーズ』)作画はかわぐちかいじ。 漫画監修 ワシズ -閻魔の闘牌-(2008年 - 2012年、『近代麻雀オリジナル』) ワシズ 天下創世闘牌録 (2012年 - 2014年、『近代麻雀オリジナル』→『近代漫画』) 「アカギ 〜闇に降り立った天才〜」のスピンオフ作品。『近代麻雀オリジナル』で移籍。作者は原恵一郎。単行本は「閻魔の闘牌」が全8巻、「天下創世闘牌録」が全4巻。 HERO -逆境の闘牌-(2009年 - 2021年、『近代麻雀』) 「天 天和通りの快男児」のスピンオフ作品。作者は前田治郎。単行本は全18巻。 中間管理録トネガワ(2015年 - 2020年、『月刊ヤングマガジン』→『コミックDAYS』) 「賭博黙示録カイジ」のスピンオフ作品第1弾。原作は萩原天晴、漫画は橋本智広。単行本は全10巻。 1日外出録ハンチョウ(2016年-、『週刊ヤングマガジン』) 「賭博黙示録カイジ」のスピンオフ作品第2弾。原作は萩原天晴、漫画は上原求・新井和也。単行本は既刊13巻。 最強伝説 仲根(2017年-、『やわらかスピリッツ』) 「最強伝説黒沢」のスピンオフ作品。原作は横井憲治、漫画は上原求・新井和也。単行本は既刊2巻。 上京生活録イチジョウ(2021年-、『モーニング』) 「賭博黙示録カイジ」のスピンオフ作品第3弾。原作は萩原天晴、漫画は三好智樹・瀬戸義明。単行本は既刊4巻。 その他 短編マンガ「合法といって売られている薬物の、本当の怖さを知っていますか?」(2014年、政府広報オンライン) 山田くんと7人の魔女 第4話エンドカード 大戦乱!!三国志バトル 鐘会カードイラスト メイドインアビス 第9話エンドカード 関連人物 師匠 かざま鋭二 知人 西原理恵子 「ビッグコミックスペリオールPresents 第6回『西原理恵子の人生画力対決』」に出演した際には、その場で二十年来の知己であることを明かし、「当時から福本さんは男前でマジメ、ものごしのやわらかいステキな人で」、でも絶対に売れそうにないので女性マンガ家たちに無視されていたと記している。「まさか後から売れるとは、いいえ、今でもどうして売れているのかさっぱりわからない」「次々と出てくる、数式的に間違った頭脳戦(バツで消してある)」と発言した。 テレビ出演 アメトーーク!(テレビ朝日)「福本伸行先生にシビれた芸人」でゲストとして出演した。 NMB48須藤凜々花の麻雀ガチバトル! (2015年9月5日、2016年3月19日、TBSチャンネル1) 銀と金 第9話、第10話(2017年3月4日、2017年3月11日、テレビ東京) アカギ「竜崎・矢木編 /市川編」 第2話(2017年10月20日、BSスカパー!) ゼロ 一獲千金ゲーム 第7話(2018年8月26日、日本テレビ) - 黒服 役 天 天和通りの快男児 第5話(2018年11月1日、テレビ東京) - 黒服 役 映画出演 カイジ 人生逆転ゲーム(2009年) - 黒服 役 カイジ2 人生奪回ゲーム(2011年) カイジ ファイナルゲーム(2020年) 特集など 『ヤングマガジン増刊 赤BUTA』 1997年6月18日(No.12)講談社(インタビュー) 週刊少年「」 2003年5月6日放送 フジテレビCS放送・フジテレビ721(インタビュー) のち単行本化(太田出版 2003年12月 ) ウォーカープラス 2006年6月24日 角川クロスメディア(インタビュー) 『オトナファミ』 2008年5月3日 エンターブレイン(インタビュー) 『ユリイカ』 2009年10月号 福本伸行 人生を逆転する名言集 福本伸行 人生を逆転する名言集 2 脚注 日本の漫画家 神奈川県出身の人物 1958年生 存命人物
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%83%AD%E6%B3%95
カー・パリネロ法
カー・パリネロ法(カーパリネロほう、、CP法)は、1985年、カー(R. Car)とパリネロ(M. Parrinello)によって考案されたバンド計算の手法である。従来用いられていた行列要素の対角化を行わずに固有値(及び固有ベクトル)を求めることにより、計算を大幅に高速化した。これにより、系の電子状態と共に、その構造の最適化(この部分は古典的分子動力学法を用いる)も可能とした。 名称に関して 本手法は、第一原理分子動力学法(, FPMD, またはab initio molecular dynamics, AIMD)などとも呼ばれる。それぞれ微妙に異なるものを意味している場合もある。現在では、カー、パリネロによるオリジナルな手法が用いられることはほとんどなく、より効率化、高速化を図った手法に置き換わっている。ただし、これら現在主流となっている手法も広い意味でのカー・パリネロ法の範疇にあると言える。 カー・パリネロ法使用の利点 計算量の減少 : 対角化を使用しないため、計算量のオーダーをN3から最大 N log N 程度まで減らすことができる。N は使用する基底関数の展開数。 メモリの節約 : 同様にして必要なメモリも大体N2から、NMのオーダーにすることが出来る。M はバンドの数。ここで基底関数の数は、バンド数より一桁以上大きいことが前提(←平面波基底の場合、N ≫ M) 系の構造の分子動力学計算や最適化が電子状態計算と同時に行える。 ラグランジアンが出発点 : バンドの指標 : k点 : 波動関数に対する仮想質量 : 波動関数 : イオン芯(原子核)部分の質量(Iは指標) : イオン芯の座標の位置ベクトル : 系の全エネルギー : ラグランジュの未定係数 ドットは時間微分を表し、上付きの"*"は複素共役を表す。 規格直交性(基底関数に対する制約)  波動関数部分 ← イオン芯部分 以上から、以下の二つの運動方程式が得られる。t は時間(波動関数に対する時間tは仮想的な時間で実時間ではない)、δは変分(汎関数微分)、H はハミルトニアンを意味する。 参照 : ラグランジュ力学 上記、最後の2式から系の電子状態及び系の構造の最適化を行う。波動関数に関しての仮想的な運動方程式は、時間の2階微分を1階微分に置き換えると最急降下法となる。他にもいくつかの手法(例 : 共役勾配法など)への発展形がある。 過去、現在、未来 カー・パリネロ法が出てくる以前は、電子状態の計算(バンド計算)を行いつつ、構造の最適化(〔準〕安定構造の探索)を同時に行うことは、計算(対角化)で求められる原子間に働く力から、手動でユニットセル内の原子を動かして次のステップに回すか(手動で動かす段階で一旦計算が終了してしまう)、計算量が膨大な対角化を用いて、計算から得られる力をもとにユニットセル内の原子を分子動力学を用いて動かすことが行われていた。いずれにしても、大変効率が悪く、扱える原子数はせいぜい数個のオーダーであった。 カー・パリネロ法の出現は、この扱える原子数を一気に数十個のオーダーに引き上げた。数十個という規模ならスラブ近似を用いれば比較的扱い易いシリコンの表面系の安定構造を求める計算や、構造最適化の動力学的な過程を追っていくことが可能となった。 初期のカー・パリネロ法では、系の原子(より正確にはイオン芯または原子核)を分子動力学によって解くのと同時に、電子の波動関数を仮想的に時間発展していくものとして、波動関数に関する仮想的な運動方程式を分子動力学的手法と同じ形式を用いて原子系と連動して解いていた(上記、ラグランジアンの式変形参照)。これは後により効率の良い方法へと発展していくこととなる。 当初は、専ら擬ポテンシャル+平面波基底による方法で、カー・パリネロ的手法が実現されたが、その後、全電子手法であるAPW法に対し、カー・パリネロ的手法を取り入れたものが出現している。更に、タイトバインディング法との結合 (TBMD) や、混合基底を使った手法でもカー・パリネロ的手法を導入したものが登場している。 電子状態を解くための手法面でも、初めは電子の波動関数を最急降下法やベレの方法で逐次的に解く方法が使われたが、その後、共役勾配法(いくつかの改良版がある)や、より洗練された方法(例 : RMM-DIIS法、ダビッドソン法)が使われるようになっている。 波動関数を計算する部分(電子状態計算部分)も、原子の動力学と同時に解くのではなく、原子を動かす時間幅を大きくとるようにして、原子を動かす毎に電子状態部分を常にボルン‐オッペンハイマー面まで収束させるようにする手法が主流となっていった(ペインのアルゴリズム)。また、この手法では原子の移動(構造の最適化)も同時に行われるが、この時原子の移動量による波動関数の変化を外挿により予想する方法など、高速化、効率化を図る数多くの提案がなされている。 最近では、オーダーN法や、ハイブリッド法内での利用などの拡張も行われている。 温度に関して ユニットセル内の原子(イオン芯)を分子動力学手法で扱う場合は有限温度での計算が可能であるが、一方、同時に行う電子状態計算部分は密度汎関数法の枠内での計算なので絶対零度での計算となる。ペインのアルゴリズムのように、原子を動かす毎に電子状態をボルン‐オッペンハイマー面に収束させる場合、計算上の支障はないが、電子状態計算はあくまで絶対零度での計算であることに注意が必要である。電子状態計算部分も有限温度へ拡張するアプローチも存在する。 カー・パリネロ法で必要な近似、手法、道具 上述のように、最急降下法、共役勾配法、RMM-DIIS法などを使って、波動関数の更新(電子状態部分の計算)を行う。 断熱近似 : 電子状態の計算と共に、ユニットセル内の原子の分子動力学計算(→原子を動かす)を行うので、この近似が成立しない系には適用できない。 ヘルマン-ファインマン力 : 原子(イオン芯)の分子動力学計算を行うためには、原子間に働く力を電子状態計算から求める必要がある。 圧力(ストレス) : 初期の頃は、ユニットセル内の原子(イオン芯)の構造の最適化のみが行われたが、後に圧力やストレスも計算してユニットセルの大きさや形そのものも最適化の対象となった。つまり電子状態の計算と同時に、ユニットセルの内部構造及びユニットセル自身の最適化(〔準〕安定構造の探索)も現在では行われるようになっている。 グラム・シュミットの正規直交化法 : 電子状態計算において、基底は直交していなければならない(←少なくともセルフコンシステントな計算が収束した段階では)。このため直交化(手法←グラムシュミットの方法以外の直交化手段もある)が必要。 高速フーリエ変換 : カー・パリネロ法に限らず、実空間法のような場合を除いて、電子状態計算(バンド計算)にとっては必須の手法と言っても過言ではない。 スーパーコンピュータ、超並列マシン : カー・パリネロ法の出現により、計算速度、効率は飛躍的に上がったが、電子状態部分の計算には依然として大量の計算資源が要求され、2003年においても原子数が100個を越えるような大きな系の計算の実現のためには、スーパーコンピュータや超並列マシンが必須である。 ワークステーション、パーソナルコンピュータ(PC) : カー・パリネロ法が登場した当初はPC上での第一原理分子動力学計算などは夢のような話であったが、同法が利用されるようになってから20年近くが経った2003年では、手法そのものの向上及び、ワークステーションやPC等の飛躍的な性能向上も相まって、スーパーコンピュータのような巨大な計算資源を使わなくとも中規模程度(〜数十原子からなる系)の第一原理分子動力学計算なら(←計算条件、目的にもよる)、ワークステーションや数台のPCクラスターあるいは単独で計算遂行が可能になっている。 脚注 参考文献 関連項目 第一原理バンド計算 固体物理学 計算物理学 量子化学 分子動力学
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E7%90%86%E6%B3%95
調理法
調理法(ちょうりほう)とは、調理に用いる手法である。専門的な手法は調理技術などと呼ばれる。 食材の切り方一覧 中華料理の切り方一覧、フランス料理の切り方一覧 漬け方一覧 茹で物 煮物 焼き物 揚げ物 炒め物 蒸し物 和え物 焙煎 燻製 冷凍 盛り付け 調理技術 霜降り 炊き合せ 灰汁抜き 三杯酢 三枚おろし 洗い 塩揉み 塩茹で 水煮 下拵え しめ、締め、〆 湯煎 湯通し 燻煙 関連項目 電子レンジ 真空調理法 新調理システム 料理本 食文化関連の一覧 de:Lebensmittelindustrie#Industrielle Lebensmittelverarbeitung en:Outline of food preparation#Food preparation techniques he:עיבוד מזון
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%8E%B2%E5%8F%B8
山田玲司
山田 玲司(やまだ れいじ、1966年1月8日 - )は、日本の漫画家。東京都出身、埼玉県越谷市在住。多摩美術大学美術学部絵画学科油絵専攻卒。 略歴 東京都中央区日本橋生まれ。7歳から埼玉県越谷市にて育つ。10歳の頃に手塚治虫に憧れ、漫画家を志す。13歳で秋田書店に持ち込みを行い、高校では創作研究同好会に入って漫画漬けの日々を送る。高校在学中、父親に薦められた美術大学受験のために、放課後は予備校に通い、多摩美術大学に現役合格する。 大学では、たかはまこから漫画やその後についてのアドバイスを受けたという。漫画家の江川達也のアシスタントもしており、当時のチーフアシスタントは藤島康介だった。初期作品では、大学時代の後輩であるウエダハジメや冬目景、きらたかしなどがアシスタントを務めていた。在学中の1986年に『コミックモーニング』に掲載された『17番街の情景』で漫画家としてデビューする。 デビュー後は、連載した作品が4度も打ち切られるなど、しばらく不遇の時代を過ごす。1991年に『ヤングサンデー』で連載を開始した『Bバージン』がヒットし、その後は各界の著名人へのインタビュー漫画『絶望に効くクスリ』、自身の美大受験体験を基に『美大受験戦記アリエネ』などを連載した。多摩美術大学の漫研に在籍していた沙村広明は、大学祭のときに漫研OBである山田から持ち込みを勧められたことがデビューのきっかけであるとしている。 女性のための恋愛コミックエッセイ『モテない女は罪である』など、一般書籍も多数執筆している。 2014年10月から、ニコニコチャンネルで『山田玲司のヤングサンデー』を毎週水曜日に配信。番組名はヤングサンデー創刊から休刊まで関わったこと。休刊で喪失感を味わい、当時の何でもありの空気が好きだったことなどが由来。当初は小学館黙認であったが、小学館社員ゲスト出演以降は(会社として何かをするわけでないものの)番組名のみ認める形となっており、いずれは小学館と何らかの形でコラボしたいと述べている。番組のモットーは「ゴキゲン主義」。 2021年3月から、AuDeeで『山田玲司とバグラビッツ』を毎週日曜22時に配信中。 動画生配信などが話題になり、2022年5月頃よりYahoo! JAPANにおける検索数が徐々に伸びていることから、Yahoo!検索大賞 2022のネクストブレイクカテゴリーの3名のうちの1名に選出された。 作品リスト 漫画作品 17番街の情景 (コミックモーニング、1986年 - 1988年) RAIN (1986年) COLD (コミックモーニング、1987年) 真夜中の蒸気船 (コミックモーニング、1987年) 眠れぬ夜のために (週刊ヤングサンデー、1987年 - 1988年) 霧の降る夜に (コミックモーニング、1988年) 不器用なテレフォンフィッシュ (週刊ヤングサンデー、1988年) 木曜日の絵画達 SWEET DREAMS (月刊アフタヌーン、1989年) 理想主義者の屍に乾杯 (自費出版、1989年) 適応の条件 (ロッキングコミック、1989年) イデオロキッズ (宝島、1990年) 駿河台ブレイクダウン (マンガ宝島、1990年) Bバージン (週刊ヤングサンデー、1991年 - 1997年) インディゴブルース (短編集、1992年) ストリッパー (ヤングサンデー増刊号「大漫王」、1994年) 心のジョアンナ (1994年) ドルフィン・ブレイン (第一部:週刊少年サンデー・第二部:週刊少年サンデー超、1995年 - 1997年) 人生裏口入学 (コミッカーズ、1995年 - 2000年) あらいぐまタンピー (近代麻雀、1997年) アガペイズ (週刊ヤングサンデー、1998年 - 2000年) NG (週刊ヤングサンデー、2000年 - 2001年) ゴールドパンサーズ (週刊ヤングサンデー、2001年 - 2002年) 絶望に効くクスリ (週刊ヤングサンデー、2003年 - 2008年) ゼブラーマン (原作:宮藤官九郎、ビッグコミックスピリッツ、2004年 - 2005年) しあしご (木楽舎『ソトコト』、2005年 - 2007年) いのちの食べ方 (アスコム『田原総一朗 責任編集 オフレコ!』、2005年) 水の鳥 (短編集、2007年) ほんと未来はどうなるの? あかりちゃんとタルト (フリーペーパー『豪快な号外』収録、2007年) ココナッツピリオド -地球温暖化を止めるウサギ- (ビッグコミックスピリッツ、2008年 - 2009年) エコエコパンドラ (まんがくらぶオリジナル、2008年 - 2009年) リア充ハンター ウサラッチ (FLASH、2009年) SOUL BOX MAN (近代麻雀、2009年) ゼブラーマン2 〜ゼブラシティの逆襲〜 (原作:宮藤官九郎、月刊スピリッツ、2009年 - 2010年) 絶望に効く薬 敗者復活編 (FLASH、2010年 - 2012年9月)※『マケデミー賞』改題 美大受験戦記 アリエネ (ビッグコミックスピリッツ、2011年 - 2014年) スーパースーパーブルーハーツ (クラブサンデー、2015年) CICADA(原作:山田玲司、作画:バナーイ 月刊!スピリッツ、2016年 - 2018年) シェアボーイ(漫画家 山田玲司 公式サイト、2017年 - ) 白亜 (原作:山田玲司、作画・原案:愛☆まどんな 2019年) 一般書籍 アルマジロの木(どうぶつ社、1994年) ISBN 4-88622-002-9 学校嫌い 江川達也×山田玲司 狂った教育から解放されるために(共著:江川達也、一迅社、2007年) ISBN 9784758010771 非属の才能(光文社、2007年) ISBN 978-4-334-03429-0 いますぐ考えよう!地球温暖化1 地球温暖化と自然環境 なぜおこる、なにがおこる(共著:田中優、岩崎書店、2008年) ISBN 978-4-265-02851-1 いますぐ考えよう!地球温暖化2 地球温暖化と省エネルギー なにができる、なにがへらせる(共著:田中優、岩崎書店、2008年) ISBN 978-4-265-02852-8 いますぐ考えよう!地球温暖化3 地球温暖化と自然エネルギー わたしたちの未来、みんなの地球(共著:田中優、岩崎書店、2008年) ISBN 978-4-265-02853-5 キラークエスチョン(光文社、2009年) ISBN 978-4334035211 資本主義卒業試験(星海社、2011年) ISBN 978-4061385054 ハミ出す自分を信じよう(星海社、2013年) モテない女は罪である (大和書房、2014年) おそらく彼は「もう1度話し合おう(涙)」と来ます。 でも実は、「しばらくほっておいたら、どうにかなるだろ」と思っています。 - 男の本音を密告する「恋の男子更衣室」 (ワニブックス、2015年) 見下すことからはじめよう (ベストセラーズ、2016年) 年上の義務 (光文社、2016年) UMA水族館 (文響社、2017年) 出演など 舞台 夜の手塚治虫〜ここでしか語れない、黒くて妖しいオサムのこと。(2018年10月12日、吉祥寺シアター) - 手塚のアシスタント・山田玲司役 その他 2017年1月開始のテレビアニメ「けものフレンズ」について、同年3月上旬のヤングサンデーで考察を行った。その後、3月下旬に以下の媒体でコメントをした。 TOKYOFM「TIME LINE」2017年3月28日 - 『深夜アニメ「けものフレンズ」が支持される深い理由』 AERA 2017年4月10日号 - 『「けものフレンズ」がネットで20~40代に受け入れられた理由』 芸人アニメ監督(フジテレビ 2022年6月11日) - ゲスト出演 脚注 関連人物 江川達也 - 漫画家。アシスタント経験がある。 藤島康介 - 漫画家。アシスタント時代の先輩。 だろめおん - 漫画家。元アシスタント。 ウエダハジメ - 漫画家。元アシスタント。大学の後輩。 冬目景 - 漫画家。元アシスタント。大学の後輩。 沙村広明 - 漫画家。大学の後輩。 石渡治 - 漫画家。 井上雄彦 - 漫画家。 きたがわ翔 - 漫画家。山田を「玲ちゃん」と呼ぶほど親しい。漫画について語るWeb番組『れいとしょう(玲と翔、レイトショーを掛けている)』を不定期に配信している。2021年にきたがわが出した新書の帯には山田の名が載った。 軌保博光 - 環境活動家。 田中優 - 環境活動家。 枝廣淳子 - 環境ジャーナリスト、同時通訳者、翻訳家。 外部リンク 漫画家 山田玲司 公式サイト リゾート計画 - 本人のブログ 山田玲司が語る、永田照喜治。 - ほぼ日刊イトイ新聞 山田玲司の男子更衣室へようこそ - AM「アム」で連載していた恋愛コラム 山田玲司とバグラビッツ - AuDee 日本の漫画家 多摩美術大学出身の人物 東京都区部出身の人物 1966年生 存命人物
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福田重男
福田 重男(ふくだ しげお、1957年5月8日 - )は、ジャズピアニスト。 群馬県前橋市出身。3~4歳からクラシック・ピアノを始める。明治大学在学中にジャズ・ピアノを志し、辛島文雄に師事。1980年、プロ・デビュー。 2010年 第一回 風のまち音楽祭(前橋市)をアドバイザーとして成功に導く。 音楽 リーダーアルバム Blessing : 1998.01.21 / KICJ 328 INNER VIEWS : 2002.06.19 / MTCJ-1038 (JAZZBNK / Minton's House) LIVE@BODY&SOUL (CD) : 2003.05.27 / MSQR-5005 (m-square) 不協和音 / BODY&SOUL : 2008. 06. 18. / BAS-006 外部リンク 福田重男 The Jazz Pianist(公式サイト) 日本のジャズ・ピアニスト 群馬県出身の人物 1957年生 存命人物
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藤子不二雄
藤子 不二雄(ふじこ ふじお)は、日本の漫画家。藤本弘(ふじもと ひろし)と安孫子素雄(あびこ もとお)の共同ペンネームである。1951年にコンビを結成。1954年から、コンビを解消する1987年まで使用。解消後はそれぞれ藤子・F・不二雄、藤子 不二雄Ⓐと名乗った。代表作は『オバケのQ太郎』(共作)、『ドラえもん』(藤本)、『パーマン』(藤本)、『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)など多数。 本稿ではコンビ結成中の仕事を中心に記述する。個別の経歴についてはそれぞれの項目を参照のこと。 プロフィール 藤子・F・不二雄(ふじこ・エフ・ふじお、本名:藤本 弘(ふじもと ひろし)、1933年12月1日 - 1996年9月23日、O型) 富山県高岡市出身。コンビ解消後の約1年間は「藤子不二雄Ⓕ」名義であった、石ノ森章太郎の案で「藤子・F・不二雄」に改名した。事務所はコンビ解消後に設立した藤子・F・不二雄プロ(通称藤子プロ)。本人の自画像ではベレー帽に長身、パイプを銜えた人物として描かれる。 藤子 不二雄Ⓐ(ふじこ・ふじお・エー、本名:安孫子 素雄(あびこ もとお)、1934年3月10日 - 2022年4月7日、A型) 富山県氷見市出身。事務所は共有筆名の使用時に立ち上げた藤子スタジオ。本人の自画像ではちょっと太めな短い体のメガネをかけた人物として描かれる。 来歴 高岡時代 1944年(昭和19年)9月に、安孫子が藤本のいる高岡市立定塚国民学校(のち高岡市立定塚小学校、2022年閉校)に転校してきて、同じクラスになった。安孫子が休み時間にノートに漫画を描いていたところ、それを見た藤本が話し掛けたことで2人は仲良くなり、いつも一緒に遊んでいたという。 中学3年の時に、手塚治虫の「新宝島」に衝撃と大きな影響を受け漫画家を志す(この時の強い衝撃は著書『まんが道』でも大きく語られる)。この頃、漫画・小説を全て手書きという雑誌のパロディ『少太陽』を制作。 中学から高校にかけて『漫画少年』をはじめとした雑誌投稿をはじめた。当初はそれぞれが単独で投稿していたが、入選率は藤本の方が断然よく、安孫子は屈辱感と嫉妬に悩まされたこともあった。しかし合作をはじめるようになると、藤本が才能を発揮しててもそうした心理的屈折はなくなったという。高校2年頃から完全に合作に切り替え、共通の郵便貯金口座を作り、原稿料を管理するようになった。金の管理は、藤本が行っていた。そこから金を引き出し、一緒に映画を鑑賞するようになった。これがきっかけで藤子不二雄名義で描いたもののギャラは全て二分割というスタイルがコンビ解消時まで貫かれた。 彼らは手塚治虫のことを尊敬し手塚に手紙を書いたところ「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」と手塚から直筆のハガキを受け取った。これはますます彼らを漫画家になることを決意させた。この頃の二人は手塚治虫の模写ばかりしており、漫画の内容も手塚タッチであった。 1951年(昭和26年)に『毎日小学生新聞』へ手紙と4コマ漫画を送る。手紙の内容は「ぼくたちは富山の高校生です。手塚治虫先生の大ファンで、マァチャンの日記帳からの愛読者です。今、手塚先生の連載漫画がのっていないので、かわりにぼくたちの漫画を連載して下さい」というものであった。そしてひと月が経ち『天使の玉ちゃん』は掲載され、事実上のデビュー作となる(なお、『まんが道』に掲載された『天使の玉ちゃん』はオリジナルのものではなく、安孫子がリメイクしたものである)。またこのことで、二人が漫画を描いていることが先生や他の同級生にも一気に知れ渡った。また、同年には高岡市で発行されていた週刊市民新聞1月新春号に、安孫子の1コマ漫画「うさぎの年」、藤本の4コマ漫画「かるたとり」が掲載された。 1952年(昭和27年)、二人は高校卒業後は就職することにしたが、漫画家への夢を諦めきれずに卒業直前の春休みを利用して宝塚の手塚治虫の自宅へ訪れた。そこで2人が書いた漫画(『ベン・ハー』)を手塚に見せる。手塚はその際「上手だね」という言葉を掛けてその場を取り繕ったが、内心はその出来栄えに衝撃を覚え「とんでもない子達が現れた…」と驚いたという。この時二人が見せた漫画を手塚は終生大切に保管していた。安孫子は手塚と初めて会った際のエピソードとして「あまりにもオーラが凄過ぎて光り輝いて見えた」とラジオ番組で語っている。また、二人はこの時に大好きだった手塚の『来るべき世界』の生原稿を見せてもらい感激する。しかし、その原稿は1300ページもあり二人が知っている内容ではなかった。手塚が「ああ、それはね、没にした原稿なんだよ」というと、二人は「手塚先生は700ページも没にして漫画を描くのか!」と驚いたという。 その後二人は漫画家を目指すにあたり、1人でやるより2人でやった方が力になるだろうということで合作を決意。以後、『新宝島』の手塚治虫にあやかり「手塚不二雄」の名で投稿する。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」足塚不二雄名義になった。 高校卒業後、安孫子はおじが経営していた富山新聞社へ入社、藤本は製菓会社へ入社した。しかし藤本は、もし機械に腕を巻き込まれ大怪我をして漫画が描けなくなったらどうしよう、仕事が合わない、と思い数日で退職。安孫子は得意の漫画をいかして紙面にイラストを多く取り入れるなどし、順調に会社勤めをこなしていた。一方、藤本は雑誌社へ送る漫画を描き、週末には安孫子も手伝うという状態だった。足塚不二雄にとって初めての連載作品である『四万年漂流』を連載しはじめたが、数回で打ち切られる。その後、最初で最後の書き下ろし単行本であり藤子不二雄(当時は足塚不二雄名義)の初めての単行本の『UTOPIA 最後の世界大戦』(鶴書房)が出版される。これは名義が「足塚不二雄」であり、現存冊数も少なく日本で最もプレミアム価値がついた漫画単行本の一つである。 上京、トキワ荘へ 1954年(昭和29年)6月、藤本が安孫子を誘う形で二人は上京。後がない藤本と違って、安定したサラリーマン生活がある安孫子は新聞社に未練があったと語っている。最初に二人が暮らしたのは東京都江東区森下にある安孫子の親戚の家の2畳の和室であった。東京ではトキワ荘(豊島区)に住んでいた寺田ヒロオ、ならびに同じ寺田の弟分である坂本三郎、森安なおや、永田竹丸、と新進児童漫画家のグループである「新漫画党」を結成。この頃描いた『探偵王』の読みきり・『宇宙鉱脈』から、ペンネームを「足塚不二雄」から二人の名前を取って「藤子不二雄」に変更した。 やがて手塚治虫がトキワ荘を出たため、藤子不二雄の二人は手塚がいた部屋の後釜に納まる。その時、二人は憧れの手塚治虫がいたトキワ荘14号室で漫画が描けることに喜んだという。またお金のない二人のためにトキワ荘の敷金は手塚が肩代わりしており、手塚が使っていた漫画を描く机もそのままにしておいた。そのため、二人は手塚が使っていた机と同じ机で漫画を描いていた。 トキワ荘入居後、読みきり作品や新漫画党メンバーによる合作などをこなしていくうちに仕事が急増し、毎月10本の連載漫画を持つようになる。安孫子は手塚治虫の漫画を手伝うこともあった。しかし、限界を無視して仕事を引き受け過ぎたため、1955年1月、富山に一時帰省中、連載の〆切を8本落とすという大失態を演じてしまう。 以後、一時は漫画家廃業も考えたが、寺田ヒロオの勧めもあり、再びトキワ荘に戻る。約1年間は雑誌社から干されてしまうが、何とか復帰を果たす。この頃より合作ではなく、単独で描いた漫画が徐々に増えていく。また、近所のアパートの一室を借りてその部屋を仕事場とした。 漫画を描くかたわらで、当時珍しかったテレビを秋葉原で購入したり、8ミリカメラで映画を製作したりする。テレビの導入は週刊誌での連載が増えて〆切日も短くなったため、話題を知るために役に立ったといい、仕事中はいつもつけっぱなしにしていたという。 1959年(昭和34年)、小学館が創刊した『週刊少年サンデー』に「海の王子」(合作)を連載。1960年、光文社の『少年』で「シルバークロス」(安孫子)連載。1961年、トキワ荘を出る。 スタジオ・ゼロと『オバQ』 1963年(昭和38年)、鈴木伸一・石森章太郎・つのだじろうらとアニメーション・スタジオであるスタジオ・ゼロを結成。 1964年に藤子不二雄の2人とスタジオ・ゼロの雑誌部によって描かれた『オバケのQ太郎』が大ヒット(連載は『週刊少年サンデー』1964年6号からで、同号発売が1月22日、誌面にクレジットの発行日は2月2日)。それまではシリアス志向の作品が多かったが、これにより「ギャグ漫画の藤子不二雄」として広く認知されるようになる。この時期には『週刊少年マガジン』に『わかとの』(こちらも藤子不二雄とスタジオゼロ名義)、『週刊少年キング』に『フータくん』(安孫子)を連載していて、藤子不二雄として週刊漫画誌3誌同時連載となった。 これに続いて『パーマン』(藤本)・『忍者ハットリくん』(安孫子)・『怪物くん』(安孫子)・『21エモン』(藤本)・『ウメ星デンカ』(藤本)などの現在でもよく知られた漫画が続々と発表され、立て続けにテレビアニメ化される。 二人の路線の乖離 1960年頃から、劇画が隆盛し、少年誌もそれまでよりもずっと対象年齢が高い漫画を中心に載せるようになった。 1968年(昭和43年)に『ビッグコミック』で安孫子は『黒イせぇるすまん』を発表。それまでも風刺色の強い漫画をしばしば発表していたが、本作を機に社会人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。また少年漫画においては1972年に連載を開始した『魔太郎がくる!!』『ブラック商会変奇郎』などの怪奇漫画を執筆。その他に安孫子の趣味であるゴルフを生かして『プロゴルファー猿』といった大作も生まれた。 一方、藤本は基本的には児童漫画に専念していた。しかし劇画隆盛の中、『ウメ星デンカ』や『モジャ公』など思うように人気が出ず悩んでいたと言われる。少年漫画誌が青年読者の獲得に力を入れる中、『週刊少年サンデー』編集部に、ゴンスケをサラリーマン化した新作を提案されたが、藤本は「私は最近の読者層の変質についていけません」とこれを拒否している。そんな中、1970年(昭和45年)に『ウメ星デンカ』の後作として『小学館の学習雑誌』にて連載が開始された『ドラえもん』の人気が日本テレビの初アニメ化こそ制作サイドの問題で半年打ち切りとなったものの、小学生の間で徐々に上がっていく。またSF短篇作品を多数発表しており、こちらは青年漫画雑誌、SF専門誌などでも発表した。 二人が合作を取り止め、それぞれの作品に専念するようになったことは、コンビ解消まで積極的には公言していなかった。たとえば、1977年初版の自伝『二人で少年漫画ばかり描いてきた』では、安孫子はどちらの作品も「僕たち」の作品と表現している。また、作中に作者本人が描かれる時も、二人揃って登場することが多かった。そのため、実際には自分の執筆では無い作品について取材を受けたり、コメントをすることもあった。しかし、両者の作風の違いは徐々に読者にも知られるようになり、安孫子は「黒い藤子」、藤本は「白い藤子」とあだ名されるようになった。 ドラえもん人気爆発と藤子不二雄旋風 『ドラえもん』の人気と比例して藤子不二雄の人気も高まり、藤子不二雄作品を中心とした『コロコロコミック』が1977年(昭和52年)に創刊、また『週刊少年キング』には藤子不二雄の自伝的漫画である『まんが道』(安孫子)も連載された。 1979年に『ドラえもん』がテレビ朝日の製作により同系列で再アニメ化・全国放映され、その人気の不動を決定付けた。翌年の1980年には映画化され、現在まで続くシリーズ作品となる。『ドラえもん』に続いて1980年代には『怪物くん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』『エスパー魔美』『ウルトラB』『ビリ犬』が立て続けにテレビアニメ・映画化されるなど各メディアを席巻し、これらのシリーズを複数まとめて放送する番組枠(『藤子不二雄ワイド』など)がレギュラー編成されるほどであった。また、中央公論社から藤子不二雄の漫画全集である『藤子不二雄ランド』が創刊された。 一見すると好調に見える時期だが、藤本はしばしば体調を崩しており、『ドラえもん のび太のパラレル西遊記』(1988年公開)は映画原作漫画が描かれなかった。 コンビ解消 1987年(昭和62年)の暮れ、二人は出版関係者にあいさつ状を配布し、コンビ解消の意思を表明した。その理由として「この辺で、二人三脚のヒモをほどいて、それぞれの足で歩いてみたらどうか、と話し合いました。新しい展開としてそれぞれやりたいことをやってみるのも面白いんじゃないかと」とした。藤本は自身が入退院を繰り返したことから「二人三脚でくくっていたほうの足が、かすかにヒリヒリしていた。ひもを解いてみれば、何か新しいことやれるのではないか」とし、安孫子は「いままでのように二人のペースを合わせるのは無理な年になってきた。漫画だけでなく、ぼくも文章なども書いてみたいが、藤子不二雄の名前では勝手なことやれない」とした。このあいさつ状で、これまで合作とされてきた各作品がそれぞれ分担で描いていたことを公式に明らかにした。 コンビ解消後、安孫子は「藤子スタジオ」に残り、藤本は「藤子プロ」を立ち上げ、藤子スタジオの隣のビルに移った。安孫子は藤子不二雄Ⓐに、藤本は藤子不二雄Ⓕとしたが、1年後に藤子不二雄Ⓕは石ノ森章太郎の薦めにより藤子・F・不二雄へ改名した。なお安孫子は藤本と対照的に死去するまで藤子不二雄Ⓐ名義のまま執筆を続けている。 1988年以降から1990年代にかけては藤本作の『チンプイ』『21エモン』が引き続きテレビ朝日で、また他局では『キテレツ大百科』『ポコニャン!』『モジャ公』、安孫子作の『笑ゥせぇるすまん』『パラソルヘンべえ』『さすらいくん』がそれぞれテレビアニメ化された。 後に安孫子はインタビュー(『別冊宝島』409 ザ・マンガ家 / 宝島社)で、コンビ解消の理由として「藤本君は生活ギャグ一本でやってきたが、自分は傾向が変わってきた。ブラックユーモアを描くようになったのが転機となった。作品も生活も自分と藤本君とは違いが出て来た。自分が過激なのを描こうとして、藤本君の『ドラえもん』を傷つけるといけないから。50まで漫画やるとは思わなかったし、やる事はやり尽くして来たので、あとは好きなように気楽にやろうと別れた(以上要約)」と語っている。 しかし『笑ゥせぇるすまん』の元となった『黒ィせぇるすまん』はコンビ解消より20年近く前(昭和40年代)に執筆された作品であり、その時期既に安孫子は『黒ベエ』、『ブラック商会変奇郎』など、昭和50年代には『魔太郎がくる!!』などダークな作品群を多く発表している。 安孫子によると、青年漫画を描くようになった1973年頃、「少年雑誌にまた、たくさんおもしろいマンガをかいてください」という子供のファンレターを読み、少年漫画への回帰を決意した。しかし後年、安孫子は藤本の『ドラえもん』が大ヒットしたのを見て、「このままだと、藤本氏のマネジャーかアシスタントをやるしかないのでは」と内心悩んでいたと振り返っている。安孫子はその後、再び青年・大人向け漫画での活動が多くなるが、ブラックユーモアを描くようになってから、コンビ解消を決断するまで、かなり長い期間を必要とした。 また安孫子は「自分は社交性があるため、酒やゴルフを覚えたが、藤本君はそのようなことは一切しなかった。結果的に藤本君は少年のような心を持ち続けるきっかけとなり、逆に自分はこども心が薄れ、作風に差が出た」とも語っていた。なおコンビ解消後も安孫子は児童漫画から完全に決別した訳ではなく、平成期には『パラソルヘンべえ』や『プリンスデモキン』を連載している。 コンビ解消を切り出したのは、安孫子によると、藤本の方であった。藤子不二雄としての著作権料は関与の度合いに関係なく均等に二分割だったが、どちらかの死後、遺族によって『ドラえもん』の巨額の著作権料の分配が問題となると予想され、それを未然に防ぐためにコンビを解消したという。藤本夫人の藤本正子によると、コンビ解消のきっかけは1986年に起きた藤本の胃癌(藤本は告知を受けていなかった)だった。手術後に藤本は復帰したが、また体調を崩し、その翌年に「安孫子氏と別れようと思う」と打ち明けた。 お互いの不仲によるコンビ解消ではなかったため、藤本は海外旅行へ行くたび安孫子には土産をプレゼントしており、安孫子も自宅の応接間にそれらを飾っているなど、コンビ解消後も交遊関係は続いていたという。また、映画鑑賞が共通の趣味である事から、映画の試写会で顔を合わせるのが常だったという。 事実上コンビとしての活動期間は36年に及び、“他人同士の漫画家ユニット”としては、2015年に『キン肉マン』などの作者・ゆでたまごが更新するまで日本の漫画家で最長だった。 藤子・F・不二雄死去後 コンビを解消した9年後の1996年(平成8年)、藤本が死去。藤本と安孫子の合作作品は、中央公論社発行の『藤子不二雄ランド』が絶版になった後、20年近くにわたり購入不可能になっていた。しかし2009年より『藤子・F・不二雄大全集』が刊行され、『オバケのQ太郎』をはじめとした藤本と安孫子の合作作品が復刊された。2010年には『二人で少年漫画ばかり描いてきた』が、2011年には『UTOPIA 最後の世界大戦』が復刊され、さらに2015年からは『オバケのQ太郎』の新装版がてんとう虫コミックスから刊行されるなど、藤本と安孫子の合作作品の購入が容易になっている。一方、安孫子の単独作品については、かつての『藤子不二雄ランド』のうち安孫子の単独作品が、2002年よりブッキング(のち復刊ドットコム)から『藤子不二雄Ⓐランド』として復刊され、2014年からは小学館の編集で電子書籍版『藤子不二雄Ⓐデジタルセレクション』が刊行された。これにより、2020年代の時点では小学館の編集下で藤本・安孫子両名の作品の大部分が体系的に読めるようになっている。 コンビ解消後しばらく、従前からの合作作品の単行本は「藤子不二雄」名義のまま発売を続けていたが、後に発売された関連書籍や単行本の新装版では「藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ」の連名に移行している。 ただし、安孫子のキャラクターである「ハットリくん」と藤本のキャラクターである「パーマン」が共演した『忍者ハットリくん+パーマン』などは復刊の見込みが立たない状況が続いた。 藤子不二雄Ⓐ死去後 藤本の死から26年後の2022年(令和4年)4月7日、安孫子が神奈川県川崎市の自宅で死去し、コンビの両方がこの世を去った。 受賞歴 第8回(昭和37年度)小学館漫画賞受賞(『すすめロボケット』『てぶくろてっちゃん』) 第27回(昭和56年度)小学館漫画賞児童部門 受賞(『ドラえもん』) 藤子不二雄の作品 藤本弘と安孫子素雄の共著。それぞれが単独で執筆した物については藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐを参照。 漫画 初期の作品に、 天使の玉ちゃん(1951年 - 1952年) ある日本人留学生からのローマ便り(1954年) 星の子ガン(1961年) 名犬タンタン(1965年 - 1968年) などがある。 UTOPIA 最後の世界大戦 1953年(昭和28年)に鶴書房から足塚不二雄名義で出版される。藤子不二雄の初の単行本化された作品。 海の王子 1959年 - 1964年に『週刊少年サンデー』などに連載される。 藤子不二雄初の週刊誌連載漫画。 オバケのQ太郎 1964年 - 1966年、1971年 - 1974年に『週刊少年サンデー』などに連載される。 大原家にやってきた一匹のオバケ・Q太郎が起こすいろいろな騒動を面白おかしく描いた生活ギャグ漫画。三度にわたってアニメ化された(1965 - 1967年、1971 - 1972年、1985 - 1987年)。 1965年 - 1967年に連載されたなかで一部合作ではなく藤本のみで描かれた作品もある。1965年 - 1967年の『週刊少年サンデー』連載分は、石森章太郎も一部作画に加わっている。1971年 - 1974年に連載された作品は、藤本が大部分を手がけ、安孫子は一部の作画以外は関与していないとされる。 チンタラ神ちゃん 1967年に『少年ブック』(集英社)に連載される。 チンタラ教の教祖である神ちゃんが町で信者を増やそうとして騒動を巻き起こすギャグ漫画。 仙べえ 1971年 - 1972年に『週刊少年サンデー』に連載される。 半人前の仙人・仙べえが100年後の現代に帰ってきて、弟のひ孫である峰野家に居候して騒動を巻き起こすギャグ漫画。ストーリーと背景の作画を藤本が、キャラクターの作画を安孫子が担当した。 自伝 二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史 1977年4月 毎日新聞社、ISBN 4620300810 1980年9月 文庫版 文春文庫 ISBN 4167253011 2010年1月25日 人間の記録 171 日本図書センター(「人間の記録」シリーズとして復刻) ISBN 978-4284700412 TBS『調査情報』連載の「僕たちはこの歳になっても、まだ少年漫画を描いている」を元にしている。『調査情報』の今井明編集長に安孫子が勧められて始めた連載であった。 安孫子の『まんが道』とは異なり、純然たる自伝。また、漫画ではない。主に安孫子が書き、各章の冒頭に藤本の「中書き」が付いている。中書きと本文の字数の比が、藤本と安孫子の「普段の口数の比に等しいとお考え下さい」と、藤本は述べている。巻末の年表は、石子順造『戦後マンガ史略年譜』の年表を元に加筆変更したもの。 文春文庫版では、一部の誤字が訂正された。また本文中の図表、巻末の年表が加筆、あるいは変更されている。後書き(安孫子の筆)では『ドラえもん』が大ブームになったことが記され、少年漫画の世界に戻ったのは間違っていなかったこと、また(安孫子作の)『少年時代』の反響について記されている。 日本図書センターの復刻版では著者名表記が「藤子不二雄」から「藤子不二雄」「藤子・F・不二雄」連名に変わった。誤字(「ドラえもん」を「どらえもん」と表記しているなど)などもそのまま復刻している。また、毎日新聞社版の復刻であるため、文春文庫版の加筆部分は収録されていない。 共通の設定 藤子不二雄の頃、設定したもので、コンビ解消後も、それを受け継いでいる。 藤子不二雄Ⓐと藤子・F・不二雄の両方の漫画に登場するキャラクターとして 小池さん 神成さん ゴンスケ などがいる。 カメオ パーマン - 『忍者ハットリくん』では藤子・F・不二雄の作品であるパーマンが共演している。 全集・選集 藤子・F・不二雄大全集 (小学館)一部藤子不二雄Ⓐとの共作を含む。 藤子不二雄ランド (中央公論社) 藤子不二雄Ⓐランド (ブッキング)として藤子不二雄Ⓐの分のみ2002年より復刊。 藤子不二雄Ⓐ デジタルセレクション(小学館 電子書籍 全215巻) アニメ アシスタント 田中道明 えびはら武司 方倉陽二 たかや健二(チーフアシスタント) むぎわらしんたろう(1993年(平成5年)よりチーフアシスタント) 阿部淳二 ヨシダ忠 竹村よしひこ しのだひでお 三谷幸広 村田博司 羽中ルイ 高峰至 志村みどり 関連項目 シンエイ動画 肝付兼太 - 声優。藤子原作のアニメ作品の常連として多数出演していた。 藤子不二雄研究を取り扱った書籍 浜田祐介(著)『藤子・F・不二雄論』ISBN 4835518748 米澤嘉博(著)『藤子不二雄論―FとAの方程式』河出書房新社、ISBN 4309265499(2002年4月)。のちに河出文庫版も。 藤子不二雄(A)(監修):完全保存版「まんが道 大解剖」、三栄書房(サンエイムック)、ISBN 978-4-7796-3054-5(2017年4月13日)。 脚注 注釈 出典 外部リンク ドラえもんチャンネル - 藤子プロ(藤子・F・不二雄)の公式サイト 藤子不二雄Aさんが語る手塚さんの思い出 7日から特別展「トキワ荘と手塚治虫展」(産経新聞2021年4月6日記事) 日本の漫画家 トキワ荘 共有筆名 富山県出身の人物
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%B0%B8%E8%88%AA%E4%B8%80%E9%83%8E
安永航一郎
安永 航一郎(やすなが こういちろう、1962年(昭和37年)1月13日 - )は、日本の漫画家。パロディや下ネタを扱った作品を多く手掛ける。 また、同人サークル「沖縄体液軍人会」(おきなわたいえきぐんじんかい)を主宰しており、同人活動においては、自身の作風をより強めた形でアニメやゲーム作品などの二次創作作品を発行している。 経歴 大分県出身。大分舞鶴高等学校を経て、九州大学へ進学。 1980年(昭和55年)、「FIELD BALL1980」が『週刊ヤングマガジン』(講談社)主催の「ヤングマガジン創刊記念新人賞」を受賞し、同誌に掲載されて大学在学中にデビュー(図星 京一郎名義)。 1981年(昭和56年)、「鉄人スポーツマスク」が『少年ジェッツ』(白泉社)主催の「少年ジェッツ創刊記念少年漫画賞ギャグ漫画部門」に入選し、同誌へ掲載される(TAJIMAN名義)。連作シリーズとなり計4話が同誌および別冊誌へ掲載。 1982年(昭和57年)から『週刊少年サンデー増刊』(小学館)に短編を発表し、現在のペンネームである「安永 航一郎」名義を使用する。1980年代後半は、『週刊少年サンデー』および『週刊少年サンデー増刊』を中心に、主に小学館系の雑誌で活動。 1995年(平成7年)末から「沖縄体液軍人会」という同人サークルを主宰し、アニメ・マンガ・ゲームのパロディ作品を積極的に制作している。 作品 漫画 連載 県立地球防衛軍 (週刊少年サンデー増刊号、1983年5月号 - 1985年9月号) エイチマン (週刊少年サンデー、1984年34号 - 36号) 陸軍中野予備校 (週刊少年サンデー、1985年42号 - 1986年52号) 巨乳ハンター (週刊少年サンデー、1989年 - 1990年 → 週刊少年サンデー増刊号、1990年) - 不定期連載 わたしの親父はホトケ様 (ウィングス、1989年4月号 - 7月号) - 短期集中連載 海底人類アンチョビー (週刊少年サンデー増刊号、1992年3月 - 1994年8月) 頑丈人間スパルタカス (少年キャプテン、1993年6月号 - 1996年1月号) 超感覚ANALマン (電撃大王、1994年創刊号 - 1999年12月号) 超人トトカルチョ (小学五年生 → 小学六年生、1995年3月号 - 8月号) 火星人刑事 (ウルトラジャンプ、1997年No.14 - 2002年9月号) 青空にとおく酒浸り (月刊COMICリュウ、2006年創刊号 - 2012年12月号) 下のほうの兄さん(モバMAN、掲載年不詳) 読み切り 宇宙戦艦ハーレムノクターン(サイバーコミックス、004号およびガンダムジェネレーション、1号) - アンソロジーコミックに収録 実録ジオン体育大学(サイバーコミックス、1990年016号) - アンソロジーコミックに収録 ロボゾック(サイバーコミックス、022号) ゴジラ 対 盆栽娘(THEゴジラCOMIC収録) サンデー19Show 奥崎健三、貧者の一報(週刊少年サンデー、1988年2・3合併号) フィギュアB×B(月刊チャンピオンREDいちご、2010年05月号) 挿絵 東京忍者・総集編(ぶらじま太郎・著、富士見ファンタジア文庫) 中村うさぎのビンボー日記(中村うさぎ・著、ザ・スニーカー連載) 定吉七番シリーズ(東郷隆・著) 太閤殿下の定吉七番 カバーイラスト、ゲーム版のキャラクターデザイン・イラスト・コミカライズ 定吉七番の復活 (小説現代2010年6月号 - 2011年2月号)雑誌連載版のみで単行本には未収録、文庫版でカバーイラスト ビンボー・怒りの脱出(同人誌)表紙イラスト マンコ・カパックの陰謀(同人誌)表紙イラスト マンコ・カパックの逆襲(同人誌)表紙イラスト ゲーム 定吉七番(ハドソン、PCエンジン) キャラクターデザイン、コミカライズ 悪代官(ホビージャパン) カードイラスト、パッケージイラスト 脚注 注釈 出典 日本の漫画家 大分県出身の人物 1962年生 存命人物 九州大学出身の人物
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DVD
DVD(、デジタル多用途〈多目的〉ディスク)は、デジタルデータの記録媒体である第2世代光ディスクの一種である。 媒体の形状や記録・読取方式はCD(コンパクトディスク)とほぼ同じだが記録容量がCDの約6倍になるため、CDでは不可能だった長時間映像の記録が可能である。 開発にあたっては、ハリウッド映画業界からの要求で「現在のメディアを上回る高画質・高音質で、1枚につき片面133分以上の収録時間」を目指すこととされ、1枚あたりの記録容量は当時の技術水準との兼ね合いからVHSビデオテープ方式と同等画質で133分の録画が可能となる4.7GB(片面一層の場合)のディスクとして開発された。約2時間の映像の場合、DVD以前から映像記録媒体として使用されていたレーザーディスクでは両面に記録する必要があり、視聴途中でディスクを裏返す必要があったが、DVDでは片面で収録可能になったため、映画作品の大半を途切れることなく視聴できるようになった。またデジタル化されたため、安定した映像が再生できるようになった。 こうしてCDと同様の使い勝手で高画質な映像を視聴出来ることから、2000年代以降の映像記録の主要メディアに位置づけられ、VHSやレーザーディスクを置き換える形で普及した。従来の映像記録媒体と同様に映画やドキュメンタリー、ドラマなど、様々な映像ソフトが市販されている。また、民生用カムコーダやノンリニア編集対応パソコンなどの普及に伴い、自主編集した映像のDVD記録も可能で、また映像用途だけでなくコンピュータ用のデータ・ストレージ(保存媒体)としても使用される。 2000年代からは容量面でDVDを上回る、第3世代光ディスクと呼ばれるBlu-ray Discが登場し、2010年代以降はDVDと同時期に普及したUSBメモリなどのフラッシュメモリの容量もDVDを上回った。1メディアの容量当たり単価はフラッシュメモリが上回っているが、堅牢性、融通性から、PCなどでの単なるデータの受け渡し用途としては、フラッシュメモリにその座を明け渡している。 2020年代に入ると、ネットワークを経由して端末やクラウドの間で大容量データをやり取りすることが主流となり、映像用途としてもBlu-ray DiscおよびYouTubeやNetflixなどの動画配信サービスが普及したことで、その座を明け渡している。 登場から普及までの経緯 第2世代光ディスクの開発と規格争い DVD登場以前の1990年代初頭、CDより高密度の第2世代光ディスクには映画の情報量から考えると50倍の容量が必要でそれを実現するためには青色レーザーが必須と考えられており、研究が行われていた。ハリウッド映画業界から早期に商品化してほしいという要望があったが当時は青色レーザーによる光ディスクの実用化は困難であった。そのため当時急速に進歩していた動画圧縮技術で必要とする容量を大幅に減らし、青色レーザーを使わず大容量化を図った光ディスクを組み合わせる方向で開発が進められた。ソニーは青色と赤色レーザーの中間の波長となるSHGグリーンレーザーを用いた光ディスクを研究していたがCDと同じディスクの厚みに拘ったため他社の赤色レーザーを用いた改良型の光ディスクに容量で劣っていた。1994年末には東芝・タイム・ワーナー・松下電器産業(現・パナソニック)・日立・パイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)・トムソン・日本ビクター(現・JVCケンウッド)の連合による赤色レーザーを使ったSuper Density Disc (SD) の開発がされていた。一方で、フィリップス・ソニー陣営も赤色レーザーを使ったMultiMedia Compact Disc(MMCD)を同時期に開発しており、1980年代のVHS対ベータ戦争の再来が危惧されていた。 そこで、IBMのルー・ガースナーが仲介に入り、フィリップスとソニーはMMCD規格の採用を諦めることと引き替えに、SD規格のサーボトラッキング機構に関する2項目の修正を認めることで、フィリップスとソニーも東芝主導のSD規格につき、両陣営は合意に至った。 1つ目の項目は、フィリップス・ソニーの特許技術である「プッシュプル式トラッキング」技術を可能とするためのピットジオメトリーの採用だった。2つ目は、ケイス・スホウハメル・イミンクの設計によるフィリップスのEFMPlus採用だった。これは、東芝のSDコードよりも効率が6 %低かったため、SD規格自体の容量は5 GBだったが、結果的に4.7 GBの容量となった。EFMPlusは、ディスク面に対するひっかき傷や指紋等に対する耐障害性に大きく優れていた。結果としてが1995年に発表され、1996年9月に完成した。名称はDVDになったが、SDのロゴはSDメモリーカードのロゴに継承されている。 この統合により、規格の乱立は避けられると一旦は思われたが、その後各家電メーカーや映画会社から多数の注文をつけられ(ランダムアクセス、2時間収録、ドルビーデジタル収録など)、後述の「DVD-」「DVD+」「DVD-RAM」など、多数の派生規格が生まれた。 名称 DVDは上記の経緯により当初はデジタルビデオ映像を記録するためのメディアとして策定され、の略だと解釈されたが、その後コンピュータ補助記憶メディアとしても用いられることから、DVDフォーラムはDVDを の代わりに「多用途」の意味がある (ヴァーサタイル)を用いた「(デジタルヴァーサタイルディスク)」の略称とした。 またデジタルビデオ映像が記録されたDVDのことを世間的に総称で「DVDビデオ」と表現することが多いがそれとは別にDVDへのデジタルビデオ映像データの記録方法の1つに「DVD-Video」があり、両者は同義ではなく全く別のものである。「DVD-Video」は、DVDにデジタルビデオ映像のデータをDVD-Videoフォーマット (「DVD-VF」) で記録したものに限定される。 一方、「DVDビデオ」という総称はDVDにデジタルビデオ映像のデータが記録されたもの全て(DVD-Video、DVD-VR、AVCHD、AVCRECなどビデオ専用アプリケーションフォーマットで記録したもの、ビデオ専用フォーマットを用いずにMPEGファイルやAVIファイルを直接記録したものなど)が対象になる。ビデオカメラの撮影記録メディアとして記録されたものも一般的にここに包含される。 DVD-Videoメディア・プレイヤーの商用化 プレーヤーやドライブは、CD-DAやCD-ROMの再生にも兼用できるものが一般的であり、DVD-Videoメディア及びプレイヤーの初の商用化は日本では1996年10月、米国では1997年3月、欧州では1998年3月、豪州では1999年2月になされた。世界で初めての市販DVD-Videoソフトは『カストラート』であり、1996年10月1日に発売された。なお、初の2.1chサラウンド音響は『ツイスター』、5.1chサラウンドは『インデペンデンス・デイ』が初である。 その後日本では2000年3月4日にソニーコンピュータエンタテインメントから発売されたゲーム機、PlayStation 2にもDVD視聴機能が搭載されたことで普及が始まり、2004年にはDVDプレーヤーの国内出荷台数がVTRを上回った。 パソコン分野でも光学メディアの中心はCDからDVDに移行した。一方オーディオ分野では、一部愛好者向けに留まり、普及しなかった(DVD-Audio参照)。 メディア製造コストは、VHSの1巻120円程度に対し、DVDは1枚20円程度と安い。取扱いも容易なので、パブリッシャー側からすれば収益が上げやすい。このため、映像を取り扱う産業では、セルDVDを(副ではなく)主な収益源とする企業が増え、業界の状況を一変させた。 こうしてデジタルビデオといえばDVDと認知されるほど広く定着した。 ライセンス DVDのフォーマットおよびロゴのライセンスは、 (DVD FLLC) が管理している。 仕様 ディスクには物理構造による違いとデータ書き込み方の形式(論理フォーマット)による違い、さらにはビデオ用途でのアプリケーションフォーマットによる違いもあり、それぞれの組み合わせでさらに多くの種類が存在する。 サイズ 0.6 mm厚、直径12 cmおよび8 cmのポリカーボネート製円板を2枚張り合わせたもの。 読み取り方法 読み取りには、650 nmの赤色レーザー光を使用する。 容量 1セクタあたりの容量は2048バイトでこれにヘッダの16バイトを加えて2064バイトとなる、CSS等もこのヘッダを利用しているが基本的にリッピング時にこの16バイトをリッピングすることはできない。 容量4.9 GBの片面一層12 cmDVDも存在する。 両面のディスクは、片面に対して2倍の容量を持つが、二層のディスクは一層に対して2倍の容量を持たない(後述)。 1 GiB = 10243 バイト (byte) = 230 バイト = バイト = 。DVDの商品には容量がGB単位で表示されているが、OSやアプリケーションがファイルサイズをGiB単位で表示するとき(そしてそのときはたいてい「〇〇 GiB」のような形式ではなく「〇〇 GB」のように表示されるから紛らわしいのであるが)、数字の上で7 %以上も差があることに留意が必要である。DVD-Rなどの媒体ではファイル管理に使われる領域が確保されるため、ユーザファイルが使える容量はそれを差し引いた量となる。4.7 GBのDVDにたとえば4.25 GiBより大きなファイルが書き込めないのは、このような理由による。 二層構造 DVDは、大容量の記録を目指したディスクであり、CDではレーベル面に当たる面にも記録できるよう、両面記録の規格が存在する。しかし、レーザーディスクのように一面の読み込みが終わった際に裏返すのは手間がかかる。そこで、片面に二層構造を持たせれば、一層構造より多くの容量を確保することができ、裏返す手間もなくなる。ユーザ記録型のDVD+R DLが市場に登場したのは2004年6月で、DVD-R DLが2005年5月である。光学ドライブによっては、相性や仕様で読み取れない場合もある。また、単層方式に比べレーベル面の取り扱いに注意しないと、CDのように記録層が破損する等のトラブルに見舞われる。 二層構造の場合、全反射をする層を2つ持たせると奥にある層の読み込みができなくなる。それゆえ、片面(両面)二層ディスクの第1層目(「レイヤー0」、あるいは略して「L0」と呼ぶ)が薄い金属膜でできており、第2層目(「レイヤー1」または「L1」と呼ぶ)は全反射をする構造になっている。レイヤー0は薄膜であるのでレイヤー1よりも読み取りのための反射光の検出率が悪くなるが、記録密度を下げることで読み取り性能を確保している。したがって、二層ディスクの容量は単層ディスクの2倍よりも少ない。 レイヤー0は(CDと同じで)内周側から外周側に向かって記録・読み込みを行う方式であるが、レイヤー1の記録方式には以下の二通りがある。 パラレル方式 レイヤ―0(第1層目)と同じく、内周側から外周側に向かっていく方式。 オポジット方式 レイヤー0とは逆で、外周側から内側に向かっていく方式。 これらの情報は、DVDの管理情報としてレイヤー0の最内側に記録されている。ちなみに、DVD+R DLではオポジット方式のみとなっている。二層ディスクのDVDを再生していると、途中で読み込むレイヤーを切り替えるときが来る。DVD-Videoを再生している場合、一部の再生機ではレイヤーの切り替えの際に時間がかかってビデオ再生が一瞬停止したような状態になることがある。(連続再生時にレイヤーが切り替わる際の読み取りピックアップの移動はオポジット方式であればパラレル方式よりも少なくて済む利点がある。) 二層方式のDVDはDLと略して呼ばれることが多いが、正式名称はDVD-DLでは、DVD+DLではと、それぞれ異なる。 記録方法 トラックに沿って、ピットと呼ばれる凹みを作ることで記録することができる。読みとる際はレーザー光線を当て、凹み有無による反射の違いを利用する。 DVDのトラック形状は同心円型ではなく、CDと同様の渦巻き型である。 トラック・フォーマットは物理規格ごとに異なっている。 ウォブル・ランドプリピット方式を採用したDVD-R/RWディスクには、グルーブ(溝)とランド(丘)があらかじめ刻まれており、グルーブは蛇行している。この蛇行をウォブルと呼ぶ。またランドにはあらかじめランドプレピットというランド部分の途切れている部分がある。ドライブは、ウォブルとランドプレピットにより、位置決め(アドレッシング)を行う。記録されるデータ(ピット)はグルーブに書き込まれる。 高周波ウォブル・グルーブ方式を採用したDVD+R/RWディスクでは、ランドプレピットがなく、ウォブルの蛇行周波数が高い。ピットはDVD-R/RWと同じくグルーブに書き込む。 ウォブル・ランドグルーブ方式を採用したDVD-RAMではグルーブとランドにピットを書き込む。 読み出し専用のDVD-ROMはピット方式を採用している。 なお、位置情報の記録方法はDVD-RW系とDVD+RW系で異なる。 転送速度 データの転送速度は等倍速で11.08 Mbps (=1385 kiB/s) である。これはCDの転送速度を1倍速 (150 kiB/s) として、9倍速程度に相当する。規格上定められている最大転送速度は16倍速(DVD-Rの場合)であるが、これは177.28 Mbps (=22.16 MiB/s) に相当する。 論理フォーマット DVDに使用される論理フォーマットは主に以下の二つである。 ISO 9660 Universal Disk Format (UDF 1.02, 1.50, 2.00, 2.01) CD時代から使用されているISO 9660に加えて、Optical Storage Technology Association(略:OSTA)が策定した、拡張性の高いUDFに対応している。映像用途ではDVD-VideoがUDF 1.02、デジタル放送の録画で使われるDVD-VRにはUDF 2.00が使用されている。 PC向けのデータDVDでは上記のどのフォーマットでも使用できるが、PCのDVDドライブとOSが対応していないければ読み込むことができない。ISO 9660は古い規格で拡張性に乏しいのでそれだけ互換性には優れているため、ISO 9660とUDF 1.02の両方に対応したUDF Bridgeも使用される。 実際のファイルシステムは使用するOSやドライバーソフトに依存する。 UDF - 他のOSとの互換性に優れる。通常はこれが推奨される。 UDF1.02 - DVD-ROMの標準フォーマット。記録型メディアにも使用できるが、一度に全体を書き込む必要がある。DVD-Video方式での記録ができるようになる。DVD-RAMではほとんど使われない。 UDF1.5 - CD-R/RWの登場を機に、UDF1.02にパケットライト機能を追加したもの。パソコン用途でよく使用される。 UDF2.00 - UDF1.5の拡張版で、DVD-VR方式での記録ができるようになる。DVD-RAMの標準的なフォーマット。アナログ放送用のDVD-RAMレコーダーで使用されていたほか、パソコン用途でもよく使用される。 UDF2.01 - UDF2.00のバグ修正版。DVD-AR (DVD-Audio) 等で利用。 UDF2.5 - 本来はBD用のフォーマット。AVCREC方式での記録ができるようになる。ハイビジョン対応のレコーダーで使用される。 UDF2.6 - UDF2.6はBD-Rにファイルの疑似消去や疑似書き換えを盛り込んだ規格。 FAT - FAT16とFAT32が使える。主にWindows用のフォーマットであり、Windowsを除く古いOSとの互換性に問題がある。Windows XPや、デスクトップ向けLinuxディストリビューションなど、OSに標準搭載されているディスク・ユーティリティがUDFでのフォーマットをサポートしていない場合を除き、DVD-RAMではほとんど使われない。Windows 8以降の標準ディスク・ユーティリティ上でのフォーマットはサポートされていない。 HFS、HFS+ - 主にMac用。他のOSとの互換性に問題がある。ほとんど使われないが、2000年頃のPower MacにDVD-RAMドライブが搭載された事が有り、一部機種では起動ディスクにする事が出来たためメンテナンス用には重宝した。 ISO 9660 - ほとんど全てのOSで読み込みができるが、ファイル名などに制限がある。DVD-RAMではほとんど使われない。 のパソコン用としてはほとんどUDF1.5かUDF2.01で使用される。このフォーマットで初期化することでHDD同様、自由に読み書きができる。 物理フォーマット 規格はDVDフォーラムの他、Ecmaインターナショナルによっても標準化されている。 データを記録するには記録型DVDを使用する。記録型DVD規格としてDVD-R(1回だけ書き込み可能)とDVD-RW、DVD-RAM(複数回の書き込みが可能)がDVDフォーラムによって制定されている。これに対抗するものとして、DVD+RWアライアンスの策定したDVD+RやDVD+RWがある。 記録型DVDについて、一部海外メーカーのものに品質に重大な問題がある場合がある。品質の悪いディスクは動画の再生時にブロックノイズが入る、再生が止まる、保存したデータが消える、ドライブやレコーダの寿命が縮むといった問題を引き起こす可能性が高い。 しかし、ドライブの性能や相性によって書き込み品質が下がることもあるため、一概に国産メディアを使えば大丈夫という保証はない(国内ブランドでも海外製メディアを採用していることがある)。安心して使うためには、これから利用するメディアを1枚買って書き込みテストを行い、問題がないことを確認してから利用することが望ましい。また、発売当初は100年程度もつといわれていた書き込みメディア耐久性であるが、これはあくまで良質なメディアの加速試験(実際に100年間試験するのではなく、代わりに紫外線の照射強度などを変えて100年間相当の環境にするもの)における結果であって、現実には数年程度でデータが消えてしまう品質の悪いディスクも存在する(逆に言えば100年を超えても使えるメディアも存在する)。長持ちさせるためには、紫外線の当たる場所や高温多湿な場所を避けることが重要である。また、VHSと比較してテープが絡まって故障する心配は無いものの、ディスクが傷つくと読み込み不可能になる場合もある。 読み出し専用型 DVD-ROM DVDにコンピュータ用の読み取りファイルを記録したもの。DVDフォーラムにより策定、ECMA-267・268により標準化されており、パソコンやゲーム機データ配布用媒体として定着している。 容量は一層タイプが片面4.7 GB・両面9.4 GB、2層タイプが片面8.5 GB・両面17 GB。論理フォーマットはUDF Ver.1.02である。 ゲーム機としてはPlayStation 2、Xbox、Xbox 360がソフト用の媒体に採用しており、パソコンではAppleのmacOSが媒体に採用しWindows 98 Second Edition以降のWindowsがサポートしている。 市販のDVDビデオソフトは、このDVD-ROMの物理フォーマットのディスクに映像データがDVD-Videoのアプリケーションフォーマットで記録されたもの。 ゲームやDVDビデオソフトなども含めたDVD-ROMは読み取り専用であるため、他の書き込み型DVDやレンタルも含む市販ビデオテープソフトなどのように、その作成時には記録媒体にデータを直接記録して作成されているわけではなく、データ記録面に読み取り用のピットを形成したマスター原盤(スタンパー)を作成後、それを元にしたプレスと張り合わせの工程による物理的な工法によって量産されている。そのため、書き込み型DVDに比べて経年化学変化の影響を受けにくく、物理的な形状破損や読み取りレーザー光反射層の金属素材の劣化がない限りは基本的に読み取り可能である。 書き込み可能型 以下、全てのメディアに「データ用 ()」と「ビデオ録画用 ()」の2種類がある。後者は地上デジタル放送移行前は私的録音録画補償金制度により補償金が上乗せされていたが、移行後は、コピー制限があるという理由で補償金が上乗せずに販売されている(私的録音録画補償金制度#デジタル放送専用レコーダーの私的録画補償金に対する訴訟を参照)。なおCPRM非対応の録画用メディア(アナログ放送専用などと表示されている場合もある)にはコピーワンスのデジタル放送を記録できない。 DVDフォーラムが制定した正式規格 DVD-R/DVD-RWの「-」は本来ハイフンであるが、後述のDVD+R/DVD+RWが「+」を「プラス」と読むため、区別のために「マイナス」と読まれる場合も多い。一方、DVD-RAMの「-」もハイフンであるが、DVD+RAMが存在しないので「マイナス」とはほとんど読まれない。 VCPSを採用したDVD+と異なり、DVD-の録画用メディアはCPRM、HD Rec、AVCRECに対応している。 追記型 一度だけの書き込みが可能(ファイナライズ前なら削除や追記も可能)なタイプとして以下のものがある。 DVD-R DVD-RはDVD Recordable の略称。ライトワンス型の記録型DVDフォーマット。DVDフォーラムにより策定、ECMA-359により標準化されている。1997年9月にパイオニアによって開発された。 容量は片面で4.7GB、両面で9.4GBである。 CD-Rと同様、色素を使って記録されるがM-DISCには無機系が採用されている。記録層にはアゾ色素、シアニン色素、オキソライフ色素が用いられている。 データの記録は、ディスクの基板上に連続した線上に存在するランド(丘)に挟まれたグルーブ(溝)に強いレーザー光を当てることでピット(くぼみ)を焼付け形成することで行なわれる。ピットを形成する皮膜の記録材料には有機色素材料を使用しておりレーザー光照射による色素の分解という化学変化を利用しているため、素材コストの関係で比較的に価格を安価にできる一方で一度しかその場所にはデータを書き込めない。また、当初のVersion1.0規格では3.95GBだったが、Version2.0規格で4.7GBに容量を増加した。またVersion2.0規格では業務用の「」と一般向けの「」の2つに規格が分かれており、一般向けの「」にはコピー防止機能が組み込まれている。 量産効果により価格が最も低く、パーソナルコンピュータ用としてはDVD-RAM/RやDVD-RW/Rといった両対応ドライブが登場しCD-Rに代わるものとして広く普及している。家庭用DVDレコーダーにおいてもパナソニックとソニー以外の企業はDVD-R/-RWドライブを採用している。またパナソニックも2005年春以降のモデルはDVD-RWへの書き込みに対応している。 また、記録面皮膜材料に有機色素材料を使用していることで光の中でも特に紫外線の影響を受けやすく、太陽光を長時間当てた場合など記録情報が失われることがあることが実験で示されている。DVD-RAMやDVD-RWは皮膜材料に有機色素材料とは異なるものを用いているので光の影響による経年変化はほとんどないとされているが代わりに熱に弱いと言われ、アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) では「書き換え可能なDVD-RAMやDVD-RWは熱に敏感に反応する素材を使っているためにDVD-Rより長期保存には使えない」としている。いずれにせよ、保存環境やディスクの質によって寿命は大きく変化する。 コピーワンスの制限がかかった地上デジタルテレビ放送・BS・CSデジタル放送の場合、DVD-Rへの録画は出来なかったが2004年に録画が可能なCPRM対応DVD-R(CPRMへの対応はDVD-VRフォーマット時のみ可能)が登場した。 DVD-Videoでの記録の場合、テレビ放送/DVD-VR/DVD-Videoの各音声方式の違いによる影響のためレコーダーでテレビ放送の二ヶ国語放送/解説放送が記録出来る市販レコーダーは2006年現在製造されていない(ステレオ放送は可能)。ただし後年はDVD-VRフォーマットでの記録が可能な製品も販売されており、DVD-VRの場合は二ヶ国語放送/解説放送の記録も可能。またDVD-Videoフォーマットでの記録の場合でも、マルチ音声トラック機能を用いて二ヶ国語以上の音声のDVD-Videoディスクを作成することは可能(DVD-VRでの記録も、DVD-Videoでの二ヶ国語切り替えディスクの作成もその可/不可は録画機器や作成ソフトなどのツール側の機能による)。また、東芝やパイオニア、シャープ等の一部メーカーのDVDレコーダーでは追記型VR記録が可能であるがファイナライズ処理を行わないと他のプレーヤー等で再生はできない。またDVD-Rメディアの初期状態はDVD-Videoフォーマットだが、DVD-VRでフォーマットをするとDVD-Videoフォーマットには戻せない。 DVD-R DL DVD-R DL (Dual Layer) は1層タイプのDVD-Rを発展させたもので、片面に2層記録が可能。DVDフォーラムにより策定、ECMA-382により標準化されている。 容量は片面で8.5 GBである。両面のものは市販されていない。 初期は+DLに比べて記録速度が遅くシェアも低かったが、現在では速度では+DLに並びほとんどのドライブで対応している。2005年春に三菱化学メディアよりDVD-R DLが発売された。 繰り返し記録型 削除や再フォーマットにより、繰り返し記録できるタイプとして以下のものがある。 DVD-RW DVD-RWはパイオニアが開発したDVD ReWritable の略称。DVDフォーラムにより策定、ECMA-338により標準化されている。 容量は片面4.7 GB・両面9.4 GB。 データの記録は、基本的にはDVD-Rと同じ方式。ただし記録マークを形成する皮膜の記録材料にはDVD-Rのような有機色素材料ではなくアモルファス金属材料を使用しており、色素材料のように光による化学変化で分解するわけではなくレーザー光照射による加熱でのアモルファス金属の結晶化・非結晶化を利用している(結晶化することでその場所の反射率が変化する)。結晶化した場所に再びレーザーを当てて結晶状態を溶かして急激に冷やすことで非結晶化が可能であり、データの消去や再利用(同じ場所へのデータ書き込み)が可能となっている。 書き換え可能回数は1000回以上で10万回以上書き換え可能なDVD-RAMよりは少ない。他の書き込み型DVDとの違いは、ビデオ用途で使用する場合に買ってそのままではデータの書き込みができないことである。VideoモードとVRモード両方で使えるメリットがある一方でフォーマット形式が異なるため、どちらで使用するかを選択し、約1分程度かけてフォーマットする必要がある。 再生機との互換性を確保するためファイナライズ処理が可能で、ファイナライズを解除し再び追記することも基本的には可能である(レコーダーによっては不可)。 DVD-RW DL 日本ビクター(現・JVCケンウッド)が2層のDVD-RW (DVD-RW DL; 容量8.5 GB)を開発し、2007年6月のDVDフォーラムの承認後、同8月に発売予定だったが、対応ドライブが製品化されないまま2008年3月に発売の凍結が発表された。 規格はECMA-384により標準化されている。 DVD-RAM DVD-RAMはDigital Versatile Disc Random Access Memoryの略称。相変化記録方式の記録型DVDである。DVDフォーラムにより策定、1997年4月に2.6 GBのVersion1.0規格が制定され、2000年夏に片面4.7 GBのVersion2.0規格が制定された。またECMA-330により標準化されている。 PD規格を提案した松下電器産業(現・パナソニック)が中心となってPDの技術をもとに開発され、1998年4月にパナソニックと日立製作所から最初の製品が発売された。 DVD-RWとは異なりデータの記録面の材料にはアモルファス金属材料を用いているが、レーザー光照射による加熱での結晶化を利用している(結晶化することで反射率が変化する)点では同じである。 DVD規格の一つであるが、記録密度・ランダムアクセス性向上のために通常のDVDとは異なるアドレス方式やトラッキング方式をとっており(前述)、ディスクの回転制御の方式も大きく異なるなど他のディスク (DVD-ROM/DVD-R/DVD-RW) とは物理的記録方式に異なる点が多いため、特に対応したドライブでしか読み書きができない。他の書き換え型DVDであるDVD±R/RWが一般のDVD機器で読み書きができるのとは対照的である。また、初期のDVD-RAMドライブはPDも使用可能であったが、Version2.0対応のドライブからは互換性がなくなった。 記録面は、円周方向に他のDVDメディアには見られない細く短い線が微妙に角度を変えながら全面に分布している。これは埋め込みサーボ技術のサーボパターンであり、このパターンを検出することで瞬時にヘッドの位置を認識することが出来、ランダムアクセスの高速化に役立っている。同様の技術はMOやHDD(磁気情報なので肉眼では見ることが出来ない)にも使われている。 かつてはDVD-RAMへ書き込みを行うにはドライバ(UDF)のインストールが必要だったが、Mac OS XやWindows XP以降ではOS標準でサポートされるようになった(FAT32形式のみ)。また読み書きに専用のライティングソフトは必要とせず、通常のファイル操作で使用できるのも特徴である。Windows 95ではHDDだと1つのドライブにつき2 GB以下のパーティションしか扱えないというFAT16フォーマットの制限があったが、DVD-RAMの場合はUDFフォーマットが利用できるため、Windows 95であっても 当初はデータ用として普及したが後にビデオ録画用にも普及した。民生機では書き込みの高速性を利用して録画を行いながら別番組を再生することなども可能。また、DVD-RAMは不要な部分だけを簡単に消せるうえ、録画したDVD-RAMを別の機器で再生させる場合でもファイナライズ処理が不要である。 アナログ放送用のDVD-RAMレコーダーでは、DVD-VR方式で記録する。このため、パソコンを使って映像をDVD-VR方式で書き込めばレコーダーで再生することができる。逆に、レコーダーで録画したディスクをパソコン上で再生することもできる。これらを可能にするソフトウェアとしてはパナソニックのDVD-Movie album、UleadのDVD Diskrecorder(DVD MovieWriterにも実装)、ペガシス製のTMPGEncシリーズ等がある。これらは主にタイトル名編集、カット編集、DVD-Videoモード形式への変換などの機能がある。 ハイビジョン放送用のDVD-RAM対応レコーダーでは、AVCREC方式で記録する。これもパソコンで扱えるが、UDF2.5フォーマットに対応していること、アプリケーションがAVCRECに対応していることが前提となる。 なおDVD-Video方式でDVD-RAMに書き込むことも可能であり、対応するアプリケーションも存在するが、市販されているDVDプレーヤーの多くは最新機種も含めてDVD-RAMには未対応のまま現在に至っている。 ファイルシステムとして読み書きすることが前提となっているため、回転速度は各ドライブの設計に依存する。ただし実際には低速度メディアではZCLV、高速メディアではPCAVで制御しているドライブが大半である。 DVD±RWの1000回を上回る、10万回以上の書き換えが可能である。さらに不良セクタの代替機構の構築や、書き込み時のベリファイが自動的に行われる。ただしベリファイを行うため、たとえば2倍速の書き込みは1倍速の読み出しと同程度の時間を要する。 デメリットは構造上の特徴からDVD-Videoとの互換性が無い点であり、DVD再生専用プレイヤーやDVD再生対応ゲーム機などで対応機種が少ない点である。また、カートリッジ付メディアの挿入は出来ないドライブが多い。、カートリッジ型対応のドライブを生産しているのはパナソニックほか少数である。ただし後年は読み取りドライブのマルチ化が進んでおり、 当初規格統一に参加していたソニーやフィリップスなどはDVD-RAMがDVD-ROMとの互換性が比較的低いことなどを理由に、1997年5月になってDVD+RWを対抗する規格として提唱した。これは片面3 GB、両面6 GBの容量を持ちDVD-ROMと互換性があった。しかしDVD-RAM陣営は1999年6月、これを上回る片面4.7 GBのVersion 2.0規格の決定を発表した。ソニー、フィリップス、ヒューレット・パッカードの3社を中心とするDVD+RWアライアンスは、独自の対抗規格として同等の容量を持つDVD+RWを策定している。 DVD-RAM陣営はドライブの製造メーカーとしてはパナソニック、日立LGデータストレージ、東芝サムスンストレージ・テクノロジーなどが、テレビの録画用DVDレコーダーとしてはパナソニック、日立、東芝、日本ビクターなどがあった。2006年4月にはパイオニアも加わった。このうち日立・日本ビクター・パイオニアはカートリッジタイプのディスクは使用できなかった。 2003年の時点では記録型DVDとしての世界シェアは約10 %、日本国内ではレコーダーの普及により約60 %のシェアを持っていた。しかしその後日立と日本ビクターが民生用DVDレコーダー事業から事実上撤退し、2007年12月以降はパナソニック・東芝の2社のみとなった。 そもそも、東芝はDVD-RAM陣営であるにもかかわらず再生専用機ではDVD-RAMへの対応を行っていなかった。これは、同社のDVDプレーヤーの大半がオリオン電機(社名変更を経て清算済)などからOEM供給されたものであったためである。自社生産品であるHD DVDプレーヤー「HD-XA1」では対応していたものの、CPRMには対応していなかった。Blu-ray Discレコーダーでも再生のみの対応となっている。パナソニックも車載用機器では対応していなかった。。 の傾向としてパイオニア、NECなど今までDVD-RAMに対応していなかった複数のメーカーからDVD-RAM対応のドライブ(パイオニアの場合はDVD-RAM録再対応のDVDレコーダーも登場。ただし、2006年4月以降の新機種から)が発売された。ランダムアクセスが可能でありデータの書き込みに専用ライティングソフトが不要である。 パナソニックは市場規模の縮小を理由に、2019年5月末で録画用DVD-RAMの生産を完了した。 メディアの規格は基本的に他のDVD規格に準ずる。両面メディアが存在するなど仕様は複数あり、容量は片面1.46–4.7 GB、両面2.92–9.4 GB。2層タイプは製品化されていない。8 cmディスクはVersion2.1より設定された。 当初はディスク保護のためカートリッジ入りでそこからメディア円盤の取り外しができない規格のみだったが、後にメディア取り外しが可能なカートリッジ型が登場し、さらに記録面の耐久性が改善されたことによりカートリッジ無しタイプも販売されるようになった。ではドライブ、メディア共にカートリッジなしタイプで2倍速から5倍速に対応した製品が主流となっている。 DVD+RWアライアンスが制定した別規格 DVD+RWアライアンスが策定したこれらの規格はDVDフォーラムの規格外のため厳密にはDVDとは呼べず、DVDロゴは付いていない。また正式名称に「DVD」の文字はない。このように本来のDVDとは似て非なるものである。しかし2008年にはDVD関連ライセンス団体であるDVD6Cがこれらの規格のライセンスを管理するようになるなど。 DVD-R/-RW/-RAM陣営(以下、DVDフォーラム陣営)とDVD+R/+RW陣営(以下、+RWアライアンス陣営)がVHS対ベータマックスのような規格争いを行って消費者に混乱を招くことが懸念されたが、現在はDVDレコーダーではDVD-R/-RW/-RAMにほぼ落ち着き、パソコン向けドライブでは両対応のスーパーマルチドライブが普及したためそれほど混乱は生じていない。 Windows Vistaでは、Mount Rainier(DVD+MRW)と呼ばれる規格がサポートされている。これはパケットライト方式で書き込む際に有効でフォーマットを必要最小限の領域にとどめ、残りの領域のフォーマットは書き込みドライブが未使用のときに実行することでフォーマット時間を大幅に短縮できるというものである。 記録速度や2層メディアの登場など開発スピードがDVDフォーラム陣営に比べて速いことが特長だった。しかし、DVDフォーラム陣営も開発速度を上げ、DVD+R/+RWは著作権保護技術としてCPRMではなくVCPS ()を採用しているために日本のコピーガードに対応しておらず録画用メディアであってもデジタル放送を記録できない。日本では、DVD+R/+RWは廃れた存在となった。 追記型 一度だけの書き込みが可能(ファイナライズ前なら削除や追記も可能)なタイプとして以下のものがある。 DVD+R ライトワンス型の記録型DVDフォーマットで、正式名称は(プラス アール)。規格としてはECMA-349で標準化されている。DVD+Rで記録されたディスクは一般的なDVD-VideoやDVD-ROMドライブで再生が可能とされるが、実際にはメディアID(ブックタイプ)がDVD+Rであるため再生できないケースもまれにある。ただし、ファイルシステムの構造がDVD-Rに比べDVD-ROMに近いためROM化を行った場合、DVD-Rよりも互換性は高くなる。 記録面材料は、DVD-Rと同様に有機色素系材料である。 現在はソニーの「スゴ録」「PSX」(共に生産終了)ブルーレイディスクレコーダーに、DVD+Rでの録画に対応するDVDレコーダーが存在する。パイオニア等も対応レコーダー(デジタルチューナー非搭載機)を販売していたことがある。パソコンでもスーパーマルチドライブによりDVD-Rと全く同じように記録できる。 DVD-Rがたとえ1バイトのデータを記録する際でもダミーデータを上乗せして1.1 GBにしてしまうのに対しDVD+Rではダミーデータの上乗せを行わないこと(DVD-Rも後に制限が解除された)、高速化が容易なこと、メディアID(ブックタイプ)がDVD-ROMと同じものに変更可能であるため互換性が向上することなど DVD+R DL DVD+R DL (Double Layer) はDVD+Rを発展させたもので、片面に2層記録が可能。規格としてはECMA-364で標準化されている。DVD-R DLよりも先行して一般市場に出回った。ディスクのメディアIDをROM化することによりDVDプレーヤーでの再生互換性が。 繰り返し記録型 削除や再フォーマットにより、繰り返し記録できるタイプとして以下のものがある。 DVD+RW パナソニックのDVD-RAMに対抗する規格として策定された規格で、正式名称はplus RW。規格としてはECMA-337で標準化されている。DVD-ROMとの互換性のある独自の書き換え可能方式を採用している。書き込み可能回数は1000回以上。記録面の使用材料はDVD-RWと同じようにアモルファス金属材料を用いている。 世界三大経済圏の有力電機メーカーである日本のソニー、オランダのフィリップス、アメリカのヒューレット・パッカードの3社が提唱しているだけに有力視されていたが、日本の大手電機メーカーでDVDレコーダーにこの方式を採用しているのはソニーのみである。一時は日立製作所とパイオニア(いずれもデジタルチューナー非搭載モデル)に対応機種があったが現在は生産終了している。 ただし、録画用メディアとしてはDVD+RWの仕様として「1つのファイルは連続した領域のみに記録される」仕様のため、DVD上での編集により生じた空き領域は使用できない。そのため、CMカットしても実質空き時間が増えないという欠点がある。いったんハードディスクドライブに移し変え、再記録することでは可能である。 DVD+Rよりも先に規格が制定され、当初はDVD+RWと記録型CDの書き込みのみに対応したドライブが発売された。 DVD+RW DL 規格としてはECMA-374で標準化されているが製品化は中止。 特殊な物理規格 DualDisc は、片面に音楽CD、もう片面にDVDを貼り合わせた両面の再生専用ディスク。2004年に米国の大手レコード会社が発売した。DVDフォーラムが定めた規格ではない。CD面は正式な音楽CD規格(レッドブック)に準拠していないためCDロゴは付いておらず、 ツインフォーマットディスク 片面にDVD-ROMとHD DVD-ROMの両規格を収録した多層構造のディスク。映像ソフトで製品化されている。 48DVD 2006年、日本出版販売から48DVDという、開封後約48時間の間のみ再生可能な使い捨てのDVDが販売されたが不調に終わった。酸素に触れると徐々に劣化する色素を記録に用いている。使い捨て式であるため環境面での批判があった。DVDフォーラムが定めた規格ではない。 アプリケーションフォーマット ディスクに書き込むデータ形式の違いにより以下のものが存在する。 DVD-Video DVDに複数の映像、音声、字幕を記録するフォーマット。マルチアングルでの記録も可能。複製防止技術(厳密には、再生技術である)として (CSS) という暗号化をすることが可能。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。 本来は市販DVDビデオソフトの製作用(読み出し専用)に策定された規格であるが、家庭用DVDレコーダーや、パソコンで専用ソフトウェアを使っての記録・追記・書き込み前の編集などが可能になった。 DVDの規格上は両面2層まで可能(富士フイルムから両面式のDVD-Rが発売されている)であるが、パッケージソフトとして販売される性格から片面2層とし裏面に絵やロゴ等(レーベル)を印刷する場合がほとんどである。なおディスクを返すことなく、両面自動連続再生可能なプレーヤーが存在しない。そのため、2枚組でも両面2層でも入れ替える必要性がある点は同様なのでユーザの利便性にとっては大差がないと言える(ちなみに、LDでは両面再生対応機種が存在した)。 DVD-Videoプレーヤーのほか、LDとのコンパチブルプレーヤー(2008年1月現在、生産中)、VHSとの複合機などで再生できる。またディスクサイズが12 cmと小型であるためラジカセやカーオーディオ、LCD付ポータブルプレーヤーなど様々な対応機器が存在する。PC用のドライブでも利用可能であるため、DVD-ROMドライブを搭載したPCでは、DVD-Videoの視聴が可能であることが多い。 世界をいくつかの地域に分け、リージョンコード(地域コード)を割り当てることで地域限定のリリースやリリース日をずらすということができる。DVDプレーヤーとDVD-Videoディスクの地域コードが一致しないと再生できない。一致してもテレビ方式が合わないと再生できない。PCに海外のリージョンコードの入ったDVDを入れると勝手にリージョンが変更されることがある。 映像はMPEG-2で記録され音声は標準でPCM、ドルビーデジタル (AC-3)、オプションでDTS(デジタル・シアター・システムズ)が利用可能である。地域によって、その他の音声フォーマットにも対応する。 DVD-VR 正式には、。一部ではDVD-VRFとも表記されているがいずれも同じものであり、登場時からの時間の経過と共にDVD-VRとしての記述に収束方向にある。論理フォーマットはUDF Ver.2.00。 DVD-Videoフォーマット規格を元に、家庭用レコーダーで記録するためにより適した規格に改良したもの。技術的な内容は近似しているので、レコーダーの設計者が両方式間のコンバート機能を設計する際には便利ではあるが、記録されたディスクとしてはDVD-Videoフォーマットとの間に互換性があるわけではない。 HDD搭載のDVDレコーダーの多くは実質的にはDVD-VRレコーダーの性格で企画開発されたものが多いため、録画物をHDD内に記録する場合はDVD-VRの規格に応じた形式が用いられる場合が多い。ごく一部の機種ではHDDへの記録でもDVD-Videoフォーマットで行うものがある。 DVD-Audio コンパクトディスク (CD) に比べ高音質で、著作権保護など複製されにくい特徴を備えた、通称「次世代CD」規格としてDVDフォーラムが1999年に策定を完了させたオーディオ専用のアプリケーションフォーマット。 リニアPCM 最大192 kHz/24 bit(2.0chステレオ時のみ)、最大96 kHz/24 bit(最大5.1chサラウンド)に対応する。可逆圧縮音声データを収録することも可能 (MLP)。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。読み取り専用の音楽ソフトだけでなく、パーソナルコンピュータ用の音楽制作アプリケーションと記録型DVDを用いて作成することも可能。 「次世代CD」規格としては日本ビクター(現・JVCケンウッド)・パナソニック・東芝・パイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)等が推進したDVDオーディオ (DVD-Audio)と、ソニー・フィリップス等が推進するスーパーオーディオCD (SACD)の2つの規格がある。これらの間に互換性はない。 DVDオーディオの再生にはDVDオーディオ対応のプレーヤーが必要である。ただしソフト(録音媒体)によってはDVD-Videoに準拠したデータを併せて収録しており、その場合はDVDプレーヤーでも再生ができる(ただし音質はDVD-Video相当となる)。また、音楽コンテンツ向けの付加機能として映像コンテンツを収録することもできる。 ユーザーが録ったハイサンプリングレートによる音源を記録する用途にはDVDオーディオ方式の方がスーパーオーディオCDの方式よりも有利であると言える。ダイレクトストリームデジタルでは録音レベルを調整するためのイコライザですらかけられない上に、1bitレコーダーを用いた録音はファイル形式が異なるので市販のスーパーオーディオCDプレイヤーでは再生ができる対応機種はほとんど存在しないからである。DVDオーディオではその点、専用ソフトを用いればDVD書き込みに対応した光学ドライブを用いてDVDオーディオ規格のディスク媒体の作成が自由に可能であった。 スーパーオーディオCDの項目にあるように、高音質・サラウンドへの需要は盛り上がらず、それよりもむしろ利便性に優れているMP3や音楽配信などが普及し、2010年代に入るとDVDオーディオと同等のリニアPCM・FLAC音源やスーパーオーディオCDと同等以上のDSD音源も配信されているため、DVDオーディオもスーパーオーディオCDも共に普及のペースは非常に鈍いので将来が危ぶまれる。 スーパーオーディオCDはオーディオ愛好者から一定の支持を得てまだ専用プレーヤーも発売されているが、DVDオーディオの方は既に自然消滅に近い状態である。日本の業界団体・DVDオーディオ プロモーション協議会は2007年3月をもってホームページを事実上閉鎖した。2013年現在ではマルチ対応のユニバーサルプレーヤーが対応する。また、2008年以前まではパソコン用のDVDビデオ再生アプリケーションの一部もDVDオーディオの再生をサポートしていた。 DVD-AR 正式には、。に対するに相当する規格である。2007年現在は規格として存在するのみで、適応製品としては開発されていない。 DVD-SR 正式には、。論理フォーマットはUDF Ver.2.01。デジタル放送の放送信号(ストリーム信号)をそのまま丸ごと記録するための方式。ハイビジョンをDVDに録画できるが、可能記録容量の関係でDVDへの適応は2008年現在は行なわれていない。DVD-VRと一部共通性があるので、同一のディスクに記録して利用できるメリットもある。 BDの派生規格であるAVCRECの登場後はそちらが主流である。 HD Rec HD DVDのアプリケーションフォーマットに準拠したハイビジョン映像を記録型DVDに記録する規格。DVDフォーラムが2007年に策定した。東芝が対応レコーダーを2007年末に発売。 既に対応機器の発売は終了しており、AVCRECに移行している。類似する規格としてHD DVD9がある。 DVDフォーラム以外で策定されたアプリケーションフォーマット 各種デジタルデータの記録 上記のDVDビデオとしてのアプリケーションフォーマット以外にも、PCのメモリ上で認識可能な各種データも書き込み可能である。ゲームソフトのプログラムやDVDビデオの規格では許容されていない各種画像・映像データファイルも書き込み可能で、読み取り機器側さえ対応していればそれらのデータファイルの表示・動作も可能となる。用語としての定義とは別に、DVDがではなくという名称であるのは。 DVD+VR 正式には、。DVD+RWアライアンス陣営が策定したDVD+RW向けの フォーマット。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。DVD-VRがDVD-Videoとの再生互換性が全くない一方で、DVD-Videoとの再生互換性を目指して策定された規格。論理的にはDVD-ROMドライブやDVD-Videoプレーヤーでの再生可能なフォーマット。DVD-RWと異なりCPRMは規格上存在しないため、「1回だけ録画可能」のデジタル放送を記録することはできない。 AVCHD 前述した各種デジタルデータファイルの書き込みの延長線上にあるものでもあるが、既存のDVDビデオの各種規格とは別にハイビジョン動画ビデオの記録と再生を目的にした次世代規格として2006年にAVCHDの規格が登場した。ソニーとパナソニックが策定。書き込みも読み出しも専用対応機器が必要である。 AVCREC が策定した、HD Recと同様のハイビジョン映像記録用規格。従来のDVDレコーダーで採用されているDVD-Video・DVD-VR規格はハイビジョン規格の映像信号をSD(標準画質)にダウンコンバートしなければならない。DVDメディアにハイビジョンを記録するにはDVDビデオ規格 (DVD-Video・DVD-VR) にハイビジョン規格の解像度を新たに加える規格変更が必要になるが規格変更の必要性の他にも大きな問題がありDVD-Video・DVD-VR規格で映像圧縮技術に採用されているMPEG-2ではDVDメディアには2層メディアでも1時間以下、1層メディアでは30分以下となり特にテレビ番組の録画を目的にした場合の実用性に乏しいためDVDメディアにハイビジョン映像をMPEG-2のままで記録するDVD規格は当初から考案・策定されていない。 ただし映像を記録する際の圧縮技術に従来のMPEG-2の約2倍の圧縮効率を持つMPEG4 AVC/H.264を採用したHD RecやAVCRECにより、ハイビジョンのままでDVD-VideoやDVD-VRと同程度の時間をDVDメディアに記録できる。2007年11月に松下(現:パナソニック)がAVCREC対応レコーダーを発売した。HD RecとAVCRECの間に互換性はないが、各社から発売されたAVCREC対応のレコーダー・BDプレイヤーが市場を席巻している。HD Recは事実上東芝のみで終焉を迎え、同社もAVCREC対応へとシフトした。また、類似したコンセプトでBD9も策定されたことがある。 3x DVD ワーナー・ブラザースが提唱した規格。DVD-Videoの3倍の帯域幅を持っており、ハイビジョン規格映像をDVDに記録できる。 BD規格からアプローチしたBD9とHD DVD規格からアプローチしたHD DVD9に細分化されるが、いずれも製品化は実現していない。 類似した規格で製品化したものとして、既に対応機器の生産が終了しているHD Rec、ならびにデファクトスタンダード化したAVCRECがある。 メーカー ディスク販売メーカー 日立マクセル(現・マクセル) ソニー パナソニック Verbatim Japan(三菱ケミカルメディアより事業譲受、CMCマグネティクス子会社) 磁気研究所 (HIDISC) リーダー・メディア・テクノ (ALL-WAYS) 撤退 RICOH 太陽誘電 イメーション(現:グラスブリッジ・エンタープライゼス) TDK JVCケンウッド 三菱ケミカルメディア 海外ディスク製造メーカー RiTEK (RiDATA) CMCマグネティクス (Mr.DATA) DVDの後継規格 2000年代後半、DVDで用いられる赤色レーザーに比べ、より波長の短い青紫色レーザーを使用した高密度な第3世代光ディスク規格としてBlu-ray Disc(以下BD)とAOD(後のHD DVD)が登場した。DVDと同じ12 cmサイズのディスクだが、既存のDVDプレーヤーでの再生互換はない。第3世代光ディスク機器の多くは主にユーザーに対する販売・普及戦略上の理由からDVDの再生機能も併載することでDVDの再生を可能として、機器としての互換性を確保している。このように、第3世代光ディスク機器でDVDが再生できるのは第3世代光ディスクの方式自体の互換性ではない。 主に映像ソフトやデジタルテレビ放送のHD映像記録用途を主眼としておりソニー・パナソニックなどのBD陣営と東芝・NECのHD DVD陣営は規格統一を模索していたが、2005年交渉が決裂。2006年に分裂した状態で製品化され、ハリウッドの映画産業などを巻き込んだ激しい規格争いが勃発した。しかし2008年2月、製品の発売から2年を経ずして東芝がHD DVD事業からの撤退を発表し第3世代光ディスクのデファクトスタンダードはBDに一本化された。 DVDの規格策定時にもソニーと東芝は、ソニーフィリップス陣営のMMCDと東芝・パナソニック陣営のSDのどちらを選ぶかで対立した。結果的にはCD規格延長を目論むMMCDより、CDと異なり2枚の板の貼り合せ構造を採用し大容量化を実現したSDを基にDVD規格は作られた。一方、同じBD陣営に属するソニーとパナソニックも書き換え可能型DVDで激しく対立した間柄だった。ソニーはDVDと似て非なるDVD+RWを作り出している。またパイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)やシャープもBD陣営だが、こちらも書き換え型DVDではDVD-RW陣営としてパナソニックと敵対関係である。 しかしデータ記録・搬送用途では従来型DVDがあり、大量のデータ容量が必要な場合でもハードディスクがある。映像分野でもDVDビデオの画像をBD並のHD映像画質に補正補完するアップスケール技術、逆にMPEG-4 AVC/H.264圧縮により記録型DVDにHD映像の長時間録画を可能にする技術などを搭載したレコーダーもある。そもそもインターネットを介して利用するオンラインストレージやコンテンツ配信サービスの普及で、一般消費者における物理メディアの需要は大幅に減少している。 脚注 注釈 出典 関連項目 DVD規格 MPEG-2 miniDVD AVCHD AVCREC 他のディスクメディア レーザーディスク VHD CDビデオ ビデオCD スーパービデオCD 第3世代光ディスク HD DVD Blu-ray Disc HVD 機器 DVDレコーダー DVDプレーヤー ユニバーサルプレーヤー その他 DVD探知犬 DVD6C プロッティー - DVDプロテクター 外部リンク ALL About DVD-R/RW, パイオニア ビデオディスク デジタルオーディオストレージ コンピュータゲーム流通 相変化記録
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藤原カムイ
藤原 カムイ(ふじわら カムイ、1959年9月23日 - )は、日本の漫画家。東京都荒川区出身。男性。 私立本郷高校デザイン科を経て、桑沢デザイン研究所卒業。竹熊健太郎は桑沢時代の友人。 幼少の頃からマンガを描き、1979年、第18回手塚賞佳作でデビュー(「いつもの朝に」(藤原領一名義)。同期受賞者に北条司、野部利雄がいる)。商業誌デビューは1981年に『マンガ宝島』(宝島社)に掲載された「バベルの楽園」(藤原神居名義)。以降、オリジナリティのある繊細な画風が話題となり、様々な雑誌で独自の世界観に基づく短編作品を多く発表する。 1987年より『月刊コミックバーガー』(スコラ)で寺島優原作の『雷火』、1991年には『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)で川又千秋原作の『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』を連載し、人気となる。 代表作に『雷火』『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』『西遊記』『精霊の守り人』など。 大友克洋同様、メビウスより多大な影響を受けており、繊細な絵が特徴。ペンネームの由来は、アイヌ語で神や森羅万象を表す「カムイ」からで、高校時代より使い始める。 押井守原作『犬狼伝説』と『犬狼伝説 完結篇』で作画を担当。押井の作品『御先祖様万々歳!』が好きで久々にハマりましたと発言している。『アサルトガールズ』トリビュートコミック「アサルトガールズ・ボーナスステージ」も書いている。 阪神・淡路大震災の復興チャリティユニットとして声優の神谷明の呼びかけで結成されたWITH YOUのロゴデザインを務めている。 仕事一覧 デザイン エルヴァンディアストーリー(キャラクターデザイン) 天地創造(キャラクターデザイン) グランディア エクストリーム(キャラクターデザイン) 46億年物語 はるかなるエデンへ(キャラクターデザイン) アド・バード(キャラクターデザイン、制作中止) 地球防衛未亡人(ユニフォームデザイン) 漫画作品 各作品の詳細などについてはリンク先の各記事を参照。 2022年10月現在。 未単行本化漫画 週刊マンガ日本史(朝日新聞出版) 創刊号「卑弥呼」 第16号「雪舟」 他に付録「日本史人物カード」の絵を「毎号9枚×50号=450枚」描いた。 週刊マンガ世界の偉人(朝日新聞出版) 第80号「アームストロング」 他に付録「世界史人物カード」の絵を「毎号9枚×50号=450枚」描いた。 銀色のうさぎ(ケロケロエース、2012年8月号)原案久保淳 / 脚本伊藤和典 マンガアニメーションとしても配信 異世界に転生したら投資を勧められた件 - YouTubeチャンネル「ビジネスドライブ!」で公開された。(株式会社SBI証券, 2021年11月19日 - 2022年1月29日) 挿絵 ノーベル 未来へのメッセージ(著:大野進、講談社青い鳥文庫) 全1巻 ゲーム ワールド・ネバーランド - パッケージなどのデザイン 46億年物語 - パッケージイラスト SFC版 エニックス 天地創造 - キャラクターデザイン SFC エニックス  グランディアエクストリーム - キャラクターデザイン PS2 エニックス 特撮世代のための正義と愛と力の新感覚カードゲーム スーパーヒーローvs悪の帝国 - イラスト全般 カードゲーム 翔企画 アニメ 「ザ・チョコレートパニック・ピクチャーショー」(1985年) 「チョコレート・パニック」のアニメ化。藤原カムイは原作だけでなく企画・構成等にも連名だがクレジットされている。 「王立宇宙軍 オネアミスの翼」 プロダクションデザインとレイアウトデザインの一人として参加していた。 「地底人Ⅱ クリスマスはエエド」 アシスタント 伊藤勢 杉浦守 出典 外部リンク 旧公式サイト 日本の漫画家 桑沢デザイン研究所出身の人物 本郷高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 1959年生 存命人物
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藤原芳秀
藤原 芳秀(ふじわら よしひで、男性、1966年6月13日 - )は、日本の漫画家。鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市河原町)出身(本籍地は八頭郡船岡町〈現・八頭町〉)。 河原第一小学校→河原中学校→鳥取県立鳥取西工業高等学校(現・鳥取県立鳥取湖稜高等学校)卒業。 1984年、高校在学中に『魔利巣(マリス)』で小学館新人コミック大賞に入選。卒業後、池上遼一・本宮ひろ志のアシスタントを経て、1986年に『私立終点高校』でデビューする。 代表作に『拳児』、『ジーザス』、『コンデ・コマ』、『闇のイージス』など。師匠譲りの劇画調タッチが特色である。 2019年からふじわら・よしひでの名義でさいとう・プロダクションに制作スタッフとして所属している。同じくさいとう・プロダクション所属の藤原輝美は、芳秀の双子の兄である。 作品リスト 私立終点高校(原作・きむらはじめ) 拳児(原作・松田隆智、週刊少年サンデー、小学館) ジーザス(原作・七月鏡一、週刊少年サンデー、小学館) Dr.トゥモロウ(原作・七月鏡一、『週刊少年サンデー』1999年41-42号、小学館) バーチャファイター(原作・七月鏡一、小学館) コンデ・コマ(原作・鍋田吉郎、週刊ヤングサンデー、小学館) 諸葛孔明伝(原作・瀬戸龍哉、小学館 、『小学六年生』1996年4月号 - 1997年3月号) 闇のイージス(原作・七月鏡一、週刊ヤングサンデー、小学館) 暁のイージス(原作・七月鏡一、週刊ヤングサンデー - YSスペシャル、小学館) BUGS -捕食者たちの夏-(原作・七月鏡一、週刊ヤングサンデー、小学館) JESUS 砂塵航路(原作・七月鏡一、モバMAN、小学館) ※『ジーザス』の続編 ファーストレディ(原作・宮崎克、週刊漫画ゴラク連載中、不定期連載、日本文芸社) BUGS LAND(原作・七月鏡一、モバMAN連載中、小学館) ※『BUGS -捕食者たちの夏-』の続編 もののふ-山陰鳥取 知られざる歴史の物語-(原作・増田孝彦、リイド社、2014年) ※鳥取を舞台とした『コミック乱ツインズ』掲載読切を収録 葉隠物語(原作・安部龍太郎、コミック乱ツインズ、リイド社) リー・クアンユー物語:国家を創った男(原作・鍋田吉郎、小学館、2016年) ZEUS -INSTALLED-(原作・七月鏡一、モバMAN、小学館、2016年) コミック版 金栗四三物語 ~日本初のオリンピックマラソンランナー(原案協力・佐山和夫、脚本・鍋田吉郎、小学館、2018年) たびごはん ~みさと駅弁メモリーズ~(モバMAN、小学館、2018年) 拳児2 (原案・松田隆智、シナリオ協力・佐藤俊章、サンデーうぇぶり、2018年 - ) 参加作品 漫画 ゴルゴ13(さいとう・たかを/さいとう・プロダクション) 鬼平犯科帳(同上) 以上、ふじわら・よしひで名義、作画の一員として(2019年から) ゲーム LIVE A LIVE (1994年、スクウェア) 功夫編のキャラクターデザイン GURPS マーシャル・アーツ(1993年)表紙、本文イラスト 師匠 池上遼一 本宮ひろ志 脚注 注釈 出典 外部リンク 藤原芳秀の部屋 日本の漫画家 さいとう・プロダクションの人物 日本出身の双子 鳥取県出身の人物 1966年生 存命人物
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羅川真里茂
羅川 真里茂(らがわ まりも、9月21日 - )は、日本の漫画家。青森県八戸市出身。血液型はB型。女性。 来歴 青森県立南郷高等学校に通学していた。 デビュー以前は、月刊『JUNE』「ケーコたん(竹宮惠子)のお絵描き教室」に投稿。竹宮から「背景画がサッパリしすぎていてプロとしては通用しない」と酷評された。なお、このとき用いられた主人公たちは後に『赤ちゃんと僕』などに再登場している。 1990年、「タイムリミット」(『花とゆめ』(白泉社)11号)にてデビュー。翌1991年、同誌にてホームコメディ「赤ちゃんと僕」の連載を開始。同作品は6年間に渡って連載され、1996年にはアニメ化も行われるなど、羅川の代表作となった。 1995年、『花とゆめ』にてゲイをテーマにしたシリアスな作品「ニューヨーク・ニューヨーク」の連載を開始。同年、『赤ちゃんと僕』で第40回小学館漫画賞(少女部門)を受賞。 1998年、『花とゆめ』にて高校を舞台としたテニス漫画「しゃにむにGO」の連載を開始。同作品は約11年に渡る長期連載となった。 2010年、読み切りを経て『月刊少年マガジン』(講談社)5月号より「ましろのおと」の連載を開始。出身の青森県内の津軽地方における津軽三味線奏者をテーマとしている。 2011年4月2日、TV番組『王様のブランチ』に出演した。 2016年、『別冊花とゆめ』にて木原音瀬の同名BL小説を漫画化した「吸血鬼と愉快な仲間たち」の連載を開始。 人物 父の勇男は過酷な遠洋漁業を16歳から50年に渡り戦い抜いた元イカ漁師。 元女子レスリング選手・吉田沙保里ははとこにあたる。羅川の父方の祖母の妹が吉田の父方の祖母である。2019年8月13日放送の「初めまして!遠い親戚さん」にて2人の関係が判明したが、その際に手紙と一緒に吉田沙保里の似顔絵を本人に送った。 作品リスト 発表年は掲載誌の号数に準拠。 太字は連載作品 〈掲載誌〉HY:『花とゆめ』 / THY :『ザ花とゆめ』 / HYE:『花とゆめEPO』 / HYPZ:『花とゆめプラネット増刊』 / BHY:『別冊花とゆめ』 / HYP:『花とゆめプラス』 / HYA:『花とゆめAi』 / ML:『メロディ』 (以上、白泉社) MSM:『月刊少年マガジン』 (講談社) 〈収録〉赤僕:『赤ちゃんと僕』 / 東京:『東京少年物語』 / お天気:『いつでもお天気気分』 / NY:『ニューヨーク・ニューヨーク』 / チムア:『チムアポート』 / 朝くる:『朝がまたくるから』、後ろの数字は単行本巻数 書籍 漫画単行本 詳細は各リンク先および脚注を参照 。 新書版(注記なきものは全て花とゆめコミックスレーベル(白泉社)より刊行) 『赤ちゃんと僕』 全18巻 『いつでもお天気気分』 全7巻 『ニューヨーク・ニューヨーク』 ジェッツコミックス(白泉社) 全4巻 『しゃにむにGO』 全32巻 『東京少年物語』 『朝がまたくるから』 花とゆめコミックススペシャル(白泉社) 『チムアポート』 花とゆめコミックススペシャル 『ましろのおと』 講談社コミックス月刊マガジン、全31巻 『吸血鬼と愉快な仲間たち』 原作:木原音瀬、花とゆめコミックススペシャル、既刊4巻(2019年12月現在) 文庫版(全て白泉社文庫より刊行) 『赤ちゃんと僕』全10巻 『ニューヨーク・ニューヨーク』 全2巻 『僕から君へ 羅川真里茂傑作集』 愛蔵版(花とゆめコミックススペシャルより刊行) 『赤ちゃんと僕』 全9巻 新装版(花とゆめコミックススペシャルより刊行) 『しゃにむにGO』 全16巻 画集 『赤ちゃんと僕 おもちゃ箱ひっくりかえした』 白泉社、1995年2月発売、、B6判 『赤ちゃんと僕 くりーむいっぱいのケーキ』 白泉社、1996年12月発売、、B6判 その他 『花とゆめメモリアル 赤ちゃんと僕トリビュート』 白泉社、2009年8月5日発売、、B6判 関連書籍 明るい家族プロジェクト研究会 『『赤ちゃんと僕』の秘密』 データハウス、1997年2月発売、 藤本由香里 『少女まんが魂 現在を映す少女まんが完全ガイド&インタビュー集』 白泉社、2000年12月発売、 受賞歴 第152回花とゆめまんが家コーストップ賞(1990年・受賞作 「兄弟の面々」) 第16回花とゆめまんが家コースビッグチャレンジ賞佳作(1990年・受賞作 「ばかでかるくてわがままで」) 第40回小学館漫画賞(少女部門)(1995年・受賞作 「赤ちゃんと僕」) 第35回講談社漫画賞(少年部門)(2012年・受賞作 「ましろのおと」) 脚注 注釈 出典 外部リンク PariPariMarimosenbei - 羅川真里茂公式サイト「ぱりぱりまりもせんべぇ」 日本の漫画家 青森県出身の人物 生年未記載 存命人物
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%9D%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E8%BF%91%E4%BC%BC
コヒーレントポテンシャル近似
コヒーレントポテンシャル近似(コヒーレントポテンシャルきんじ、、CPA) は1967年に P. Sovenが考案したバンド計算手法のことである。 ポテンシャルがランダムな系(例:不規則二元合金、原理上三元以上でも計算可能)の電子状態を計算するための手法であり、電子の散乱理論を基にして電子状態を求める KKR-CPA法が最もよく使われる。これは、KKR法をランダムな系に対応させるためCPAを導入したものである。 他に、タイトバインディング法によるCPA (TB-CPA) もある。 参考文献 関連項目 ATA 仮想結晶近似 リジッドバンドモデル バンド計算
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%B0%97%E5%A9%A2
陽気婢
陽気婢(ようきひ、1966年4月7日 - )は、日本の漫画家。男性。大阪府出身、大阪大学卒業。 来歴、人物 大学卒業前に漫画家デビュー。卒業後は都銀に勤めていたが、1年で退社。『キャンディータイム』での連載などを経て、『週刊ヤングマガジン』、『快楽天』などに作品を発表している。男性の理想を具体化したような作品が多く、エロティックなシーンのある漫画が主である。代表作に『2×1』『えっちーず』『眠れる惑星』など。 趣味はフライ・フィッシング、好物はカレーライス。 作品リスト 初版年代順。 マジック・マッシュルーム - 富士美コミックス。 Doki dokiきのこパーティ - フランス書院XXコミックスより フレックスキッド - 徳間書店少年キャプテンコミックスより、全2巻 2×1 - ワニマガジンコミックスより全1巻。後にOVA化される。だが当時の自主規制からか、女性キャラクターはスレンダーなラインを得意とする作者のキャラクターより巨乳に描かれた。 えっちーず - ワニマガジンコミックスより全5巻。後にOVA化される。 ちょっとHな課外授業 - フランス書院コミック文庫。 いつもギラギラする日 - 茜新社ニンジンコミックスより、「マジック・マッシュルーム」「Doki dokiきのこパーティ」からの再録と追加。 Doki dokiきのこパーティ-PLUS- - 茜新社テンマコミックスより、「マジック・マッシュルーム」「Doki dokiきのこパーティ」からの再録と追加。 日本の裸族 彼女の自由- ワニマガジンコミックス。 身想心裡- 講談社ヤンマガKCデラックス。 内向エロス ロケハン - 小学館サンデーGXコミックス。 PSI遊記 - 富士美コミックス。茜新社ニンジンコミックスより新装版としても再刊行。 眠れる惑星 - 小学館サンデーGXコミックス。 ドクター&ドーター 脳カレ 薬多江町へようこそ ラブホール 好きな漫画家 単行本「眠れる惑星」カバー折り返しに記載されている「好きな漫画家」一覧。 星里もちる、永野のりこ、ふくやまけいこ、黒田硫黄、福島聡、植芝理一、あさりよしとお、桜玉吉、うすた京介、伊藤潤二、松本次郎、岩明均、谷川史子、小畑健、渡辺多恵子、天竺浪人、SABE、古屋兎丸、桑田乃梨子、園田健一、藤島康介、士郎正宗、武富智、ウエダハジメ、山本直樹、櫻見弘樹、喜国雅彦、島本和彦、奥浩哉、藤田和日郎、細野不二彦、浦沢直樹、高橋留美子、諸星大二郎、外薗昌也、竹本泉、すぎむらしんいち、花見沢Q太郎、唐沢なをき、吉田戦車、ロクニシコージ、田丸浩史、吉田蛇作、末広雅里、森永みるく、福山庸治、こうの史代、松本剛、華倫変、坂口尚、手塚治虫 心に残るマッドサイエンティスト 単行本「ドクター&ドーター」カバー折返しに記載。 パトリック・コーリー(カート・シオドマク著『ドノヴァンの脳髄』より) ローガン博士(ジョージ・A・ロメロ監督作『死霊のえじき』より) すげこまくん(永野のりこ著『GOD SAVE THE すげこまくん!』より) ウォルター・ビショップ(米国TVドラマ『フリンジ』より) 外部リンク FreeStyle YOUKIHI 公式サイト 漫画のお仕事情報 公式ブログ 日本の漫画家 大阪大学出身の人物 大阪府出身の人物 1966年生 存命人物
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https://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%B7%9A
JR京都線
JR京都線(ジェイアールきょうとせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、京都府京都市下京区の京都駅から大阪府大阪市北区の大阪駅までの区間に付けられた愛称である。 この愛称は1988年3月13日から使用されている。ほぼ全区間で阪急電鉄の京都線とも呼ばれる京都本線と並行し、近畿日本鉄道(近鉄)にも京都線があり、阪急とは大阪駅(大阪梅田駅)で、近鉄とは京都駅で接続しているため、それらと区別するために「JR」と付けている。 概要 JR西日本のアーバンネットワーク(京阪神エリア)の路線のひとつである。東海道新幹線や阪急京都本線に並行して淀川右岸を走り、京都市と大阪市を結ぶ都市間連絡輸送(インターアーバン)を担っている。大阪市・京都市への通勤・通学路線であるとともに京都市へ向かう観光路線でもある。新快速を中心に多くの列車がJR神戸線・琵琶湖線・湖西線に直通運転を行なっている。 京都駅 - 大阪駅間 (42.8km) を新快速が最短28分で結んでおり、表定速度は92km/hと特急列車に匹敵する。全区間が方向別複々線であり、緩急分離運転が行われている。東海道新幹線、阪急京都本線と並行する区間が長く、また淀川を挟んで京阪本線が存在するが、それぞれターミナルの位置で棲み分けがなされており、直接的な競合は存在しないが、各線とも運営会社がサービス面で非常に力を入れている。 大阪駅から日本海側を縦貫して青森駅まで結ぶ路線の総称「日本海縦貫線」の一部となっており、金沢駅まで至る特急「サンダーバード」など日本海縦貫線の列車が多く乗り入れる。 ラインカラーは青()であり、JR神戸線とともにアーバンネットワークの主要路線という位置づけから、JR西日本のコーポレートカラー自体がそのままラインカラーとして使われている。路線記号は A 。 当該区間での旅客案内での路線表記も基本的には「東海道線」ではなく「JR京都線」で統一されているが、例外として新大阪駅では、高槻・京都方面のみ「JR京都線」と案内され、大阪方面は「JR神戸線」及び「JR宝塚線」といった、大阪駅以西の直通先の愛称で案内されている(JR神戸線の尼崎駅、琵琶湖線の山科駅でも同様の対応が取られている)。なお、駅備え付けの運賃表や一部の路線図では、括弧書きで(東海道線)と併記される。全区間がJR西日本近畿統括本部の管轄であり、IC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれているとともに、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」および、電車特定区間に含まれ、区間外よりも割安な旅客運賃が適用されている。 大阪駅 - 京都駅間の1日平均利用者数は350,717人で、同区間では阪急京都本線の180,954人、京阪本線の162,479人と比べて圧倒的に多い。 路線データ 管轄・路線距離(営業キロ):全長42.8 km 西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者): 京都駅 - 大阪駅間 42.8 km 日本貨物鉄道(第二種鉄道事業者): 京都駅 - 吹田貨物ターミナル駅間 (33.7km)…吹田貨物ターミナル駅以西は貨物支線経由 軌間:1,067 mm 駅数:17(起終点駅含む・貨物駅2駅除く) 複線区間: 複々線:京都駅 - 大阪駅間(ただし京都駅 - 向日町駅間と茨木駅 - 吹田貨物ターミナル駅間は貨物列車用の線増あり) 電化区間:全線電化(直流1,500 V) 閉塞方式:複線自動閉塞式 保安装置:ATS-PおよびATS-SW(拠点P方式) 運転指令所:大阪総合指令所 列車運行管理システム:JR京都・神戸線運行管理システム 最高速度:外側線130 km/h、内側線120 km/h IC乗車カード対応区間 ICOCAエリア:全線(全線PiTaPaポストペイサービス対象区間) 2020年度の混雑率:快速線98%(茨木→新大阪 6:50-7:50)、緩行線85%(茨木→新大阪 7:30-8:30) 沿線概況 京都駅 - 向日町駅間は上下内外側線を構成する複々線と貨物線1線を加えた5線区間で、向日町駅 - 茨木駅は複々線となるが、茨木駅からは再び貨物線が分岐する。茨木駅 - 吹田貨物ターミナル駅間は5線(上下内外側線と貨物線)、吹田貨物ターミナル駅から新大阪駅にかけては上下内外側線に梅田貨物線と北方貨物線の複線を加えた8線区間となっている。 多数の欠円アーチやねじりまんぽを含む沿線の煉瓦造の鉄道橋及び隧道群(1875年 - 1876年造)は、2017年(平成29年)に「大阪京都間鉄道煉瓦拱渠群」として土木学会選奨土木遺産に選ばれている。 運行形態 隣接する琵琶湖線やJR神戸線と一体的に運行されており、湖西線や福知山線(JR宝塚線)との直通列車も設定されている。乗車券のみで利用できる列車は停車駅の少ない順に新快速・快速・普通(緩行電車)の3種別があり、このほかに北陸・関西国際空港・南紀・山陰方面などへの特急列車が加わり、複々線を有効活用したパターンダイヤが組まれている。 ほぼ全線にわたり線形はきわめてよく、外側線は一部の曲線区間を除いて130km/h運転が可能である。内側線も120km/h運転に対応している。 ダイヤ 基本的に15分サイクルで運転されており、22時(土曜・休日は21時)を過ぎると20分サイクルになる。 朝通勤時間帯下り(大阪方面)は8分サイクルが基本となっている。基本的に1サイクルに新快速が1本、快速が1本、京都駅あるいはそれ以遠始発の普通が1本、高槻駅発の普通が1本である。 昼間時間帯は、基本的に15分サイクルに新快速1本、快速1本、高槻駅発着の普通1本、京都駅発着の普通1本である。曜日・時間帯によって高槻駅 - 京都駅の普通列車の本数は変わる。 夕ラッシュ時間帯の上り(京都方面)は昼間時間帯と同様のダイヤであるが、平日の最ラッシュ時間帯において大阪駅始発の新快速が2本設定されており、その時間帯については新快速の運行が7.5分間隔となる。夜間は20分サイクルとなる。 優等列車 JR発足後、天王寺発着だった南紀方面の特急や、智頭急行線開業で運行を開始した山陰地方への特急「スーパーはくと」などが新たに京都駅まで直通運転されるようになり、この区間の特急の列車本数は増えた。特に関西国際空港開港と同時に運転を開始した特急「はるか」は、その1年後にはすべての列車が京都駅まで定期列車で入るようになり、新大阪駅 - 京都駅間は北陸方面との特急「サンダーバード」など、ほかの列車と合わせ1時間に4本程度が運転される特急街道になっている。 阪和線に直通する特急「はるか」や「くろしお」は、下り列車が吹田貨物ターミナル駅から大阪環状線の西九条駅まで、上り列車が西九条駅から新大阪駅まで、それぞれ梅田貨物線を走行し、大阪駅を経由しない。 京都駅30番のりば発の下り列車は京都貨物駅構内を通り、向日町駅構内で下り外側線に合流するため、この区間を外側線で走る特急や新快速より若干所要時間が余計にかかる。 この区間を走行する優等列車は2021年3月13日改正時点では以下のとおり。 定期列車 寝台特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」(東京駅 - 高松駅・出雲市駅間) - JR京都線内は東京行きのみ大阪駅に停車。 特急「サンダーバード」(和倉温泉駅・金沢駅 - 大阪駅間) 特急「びわこエクスプレス」(米原駅・草津駅 - 大阪駅間) 特急「はるか」(野洲駅・草津駅・京都駅 - 関西空港駅間) 特急「ひだ」(高山駅 - 大阪駅間) 特急「くろしお」(京都駅 - 新宮駅間) 特急「スーパーはくと」(京都駅 - 鳥取駅・倉吉駅間) 特急「こうのとり」(新大阪駅 - 福知山駅・豊岡駅・城崎温泉駅間) 新快速 特急・急行列車以外では最も停車駅の少ない速達列車である。JR京都線内の停車駅は、京都駅・高槻駅・新大阪駅・大阪駅。特に京都駅 - 高槻駅間 21.6 km は無停車となる。JR神戸線姫路駅、山陽本線網干駅・上郡駅、赤穂線播州赤穂駅からJR京都線を経由し琵琶湖線長浜駅、北陸本線近江塩津駅・敦賀駅まで直通運転している。 日中時間帯は大阪駅 - 京都駅間で1時間に4本運転されており、このうち3本が琵琶湖線野洲駅・米原駅発着および北陸本線経由近江塩津駅発着、1本は湖西線経由敦賀駅発着である。この時間帯の下り列車は京都駅を、また上り列車は大阪駅を、それぞれ毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車し、京都駅 - 大阪駅間を28 - 29分で結んでいる。夕方ラッシュ時から21時台までは大阪駅 → 京都駅間で基本4本であるが、18時台は大阪始発の列車2本が入るため6本(最短で7分半間隔)で運行されている。大阪発18時台の敦賀行きが京都駅から湖西線経由の「快速」(おごと温泉駅にも停車)として運転する以外は、すべて琵琶湖線に直通する。このため、大阪発15 - 18時台の30分発は米原経由敦賀行きとして運転されている。 全列車が全区間で外側線を走行する(かつては新大阪駅 - 大阪駅間のみ内側線を走行していたが、新大阪駅配線改良により、現在の形になった)。 全列車網干総合車両所所属の225系0番台・100番台・223系1000番台・2000番台が使用されており、12両編成(平日夕方の大阪始発は8両編成)で運転されている。土曜・休日は2011年3月12日のダイヤ改正から、平日は2017年3月4日のダイヤ改正から一部を除いて、姫路駅 - 米原駅間を終日12両編成として混雑緩和を図っている。 快速 快速は京都駅を越え琵琶湖線や一部は湖西線と直通し、大阪駅からは朝ラッシュ時の一部を除きJR神戸線へと直通している。JR宝塚線とは直通しない。JR京都線内の停車駅は京都駅・長岡京駅・高槻駅・茨木駅・新大阪駅・大阪駅。JR京都線の全区間を快速運転する列車は、下りは京都発基準で朝5時台から8時過ぎまでの15本(土曜・休日は5・6時台の6本)、上りは大阪発基準で朝5 - 7時台の6本(土曜・休日は5・6時台の4本)のみで、日中以降のJR京都線での快速運転区間は高槻駅 - 大阪駅間であり、京都駅 - 高槻駅間は各駅に停車する「普通」として運転している。2003年11月28日までは全区間で快速運転する列車に須磨駅・垂水駅・舞子駅を通過する設定があった。 平日朝は高槻駅→大阪駅間で外側線を走行しており、223系1000・2000番台と225系0番台・100番台を用いて130km/hで走行する。朝ラッシュ時間帯大阪方面行きはおおむね8分間隔の運転である。日中から夜21時台にかけては大阪駅 - 京都駅間で1時間に4本が運転されており、この時間帯の高槻駅 - 京都駅間の各駅での停車本数は4 - 8本(時間帯によって変動する)である。この時間帯の下り列車は京都駅を毎時09・24・39・54分、また上り列車は大阪駅を毎時08・23・38・53分の15分間隔で発車し、京都駅 - 大阪駅間を41分で結んでいる。 平日の日中以降および土曜・休日ダイヤでは内側線を走行する。2006年3月17日までは全区間で快速運転を行い、外側線を走行する大阪発17時台の快速野洲行きが運行されていた。2004年10月15日までは17 - 19時台の50分発で、野洲駅・草津線柘植駅・湖西線近江今津駅にそれぞれ直通していた。 車両は網干総合車両所所属の221系、223系1000番台・2000番台・6000番台および225系0番台・100番台が使用されており、6・8・10・12両編成で運転されている。 普通 「普通」は各駅に停車する列車であるが、ここではJR京都線内の全区間で「普通」として運転される列車について解説する(高槻以東のみ各駅に停車する列車については前節を参照)。国鉄時代の通称である京阪神緩行線(緩行電車)と呼ばれることがある。全区間で内側線を走行する。 日中から21時台までは1時間に8本運転されている。日中は8本とも高槻駅発着であるが、夕方ラッシュ時から21時台までは高槻駅・京都駅発着が4本ずつ運転されている。土曜・休日ダイヤの11・12時台では高槻駅・京都駅発着が4本ずつの運行である。大阪駅以西は半数がJR神戸線須磨・西明石方面、半数がJR宝塚線新三田方面(2020年3月14日のダイヤ改正より、概ね下り10 - 14時台・上り12 - 16時台は宝塚駅発着に短縮された)と直通する。 朝ラッシュ時以外は大阪駅 - 京都駅間で後続の快速より先着し、朝ラッシュ時も高槻駅 - 京都駅間は後続の快速より先着する。 大阪発で平日ダイヤの朝7時台に琵琶湖線直通草津行きが1本設定されている。また、平日朝の高槻発2本はJR神戸線加古川行きとして運行されている。 区間列車として、高槻発4時と平日6時台に京都行きの設定がある。また、毎日朝には大阪駅 - 吹田駅間の列車が1往復設定されている。 車両は、網干総合車両所所属の207系・321系電車が使用され、すべて7両編成で運転されている。 1972年3月15日の新幹線の岡山駅までの開業に伴うダイヤ改正で、昼間15分パターンのダイヤが生まれた。当時の1時間の運行本数は大阪駅 - 吹田駅間で8本、吹田駅 - 京都駅間で4本であった。上り京都方面を例にすると、新快速・快速(大阪駅で新快速待避)・普通(甲子園口発京都行き)・普通(西明石発吹田行き)の順に大阪駅を発車するパターンが15分ごとに繰り返される。普通が西明石駅 - 吹田駅間と甲子園口駅 - 京都駅間に系統分割されたのは、西明石発京都行きで直通運転を行うと当時内側線を走行していた新快速に追いつかれるからである。さらに朝晩時間帯は高槻駅発着の列車も運転されていた。 1985年3月14日の改正で日中の快速が高槻駅 - 京都駅間で各駅に停車するようになり、この時間帯の運転区間は大阪駅 - 高槻駅間となった。201系が投入されたことによりスピードアップが図られ、大阪駅 - 吹田駅間で6本、吹田駅 - 高槻駅間が4本の運行パターンとなった。朝・夕方の一部列車は草津駅まで延長運転されるようになった。1986年11月1日改正では新快速が外側線運転に変更されたのに伴い、日中時間帯は高槻駅発着に統一され、運行本数も1時間に8本に増発された。 1994年3月1日に、207系が運用を開始するとともに、湖西線堅田始発の列車が運行されるようになった。京都駅ビル開業の1997年9月1日の改正で日中の高槻駅発着の半数が京都駅発着に延長され、2002年10月5日改正でJR神戸線直通系統が京都駅発着、JR宝塚線発着系統は高槻駅発着に統一された。2004年10月16日の改正で、琵琶湖線野洲駅と湖西線近江今津駅発着の列車が運行されるようになった。 2010年3月13日改正で日中の高槻駅 - 京都駅間の運行本数が1時間に2本に減便された。2011年3月12日改正で朝のJR宝塚線からの上りと下り尼崎行きの1往復が吹田駅発着に変更されたのち、2013年3月16日改正で現在の形態となっている。 2015年3月14日改正時点で、大阪発毎日21時台には湖西線近江舞子行きが設定されていたほか、湖西線堅田を毎日6時台に出発して大阪方面へ向かう列車が設定されていたが、2016年3月26日のダイヤ改正で湖西線と直通しJR京都線内全線を普通として運転される列車はなくなった。 女性専用車 平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、207系の加古川・西明石・須磨側から5両目と321系の5号車に女性専用車が設定されている。なお、ダイヤが乱れた際などに女性専用車の設定が解除されることがある。 JR京都線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。なお、京都駅を越えてJR京都線と琵琶湖線を直通および京都駅発の琵琶湖線内のみ運転する207系・321系による列車についても列車の運転全区間において女性専用車の設定は維持される。 大晦日終夜運転 大晦日深夜から元旦にかけて、JR京都線では全線(運転区間は京都駅 - JR神戸線西明石駅間)で普通のみ約30分間隔で終夜運転が実施されている。かつては奈良線にも乗り入れ、奈良駅 - (奈良線経由) - 京都駅 - 大阪駅 - 西明石駅間で運転されていたこともあったが、奈良線への乗り入れは1999年度限りで終了している。 貨物列車 貨物列車は全列車、大阪駅を経由せずに茨木駅構内で分岐し、吹田貨物ターミナル駅へと向かう貨物線で運転されている。 山陽本線に直通する貨物列車は、吹田貨物ターミナル駅 - 宮原操車場 - 尼崎駅間の通称北方貨物線を経由する。桜島線安治川口駅への貨物列車は吹田貨物ターミナル駅から梅田信号場を通り、大阪環状線西九条駅に至る梅田貨物線を通る。 使用車両 国鉄分割民営化後の使用車両を記述する。 現在の車両 優等列車 電車 287系:特急「くろしお」として京都駅 - 新大阪駅間で、特急「こうのとり」として新大阪駅 - 大阪駅間で運用されている。 289系:特急「くろしお」として京都駅 - 新大阪駅間で、特急「こうのとり」として新大阪駅 - 大阪駅間で運用されている。 281系・271系:特急「はるか」として京都駅 - 新大阪駅間で運用されている。 285系:寝台特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 681系・683系:特急「サンダーバード」・特急「びわこエクスプレス」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 117系:臨時寝台特急「WEST EXPRESS 銀河」や団体臨時列車として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 気動車 キハ189系:特急「びわこエクスプレス」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 キハ85系:特急「(ワイドビュー)ひだ」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 HOT7000系:特急「スーパーはくと」として京都駅 - 大阪駅間で運用されている。 このほか、大阪駅 - 向日町操車場間では回送列車として「はまかぜ」や「サンダーバード」の一部列車が運転されている。「サンダーバード」は、大阪駅到着後そのまま神戸方面へ発車し、塚本駅から北方貨物線に入り、茨木駅構内でJR京都線(外側線)に合流する(出区のときはこの逆ルート)。この場合、JR京都線内は編成の向きが逆向きになる。 快速・普通列車 すべて電車で運転されている。 225系(0・100番台) 網干総合車両所(本所)の車両が使用されている。2010年12月1日から新快速・快速(高槻駅 - 京都駅間を普通として運転する列車も含む)で営業運転を開始した。 223系(1000・2000・6000番台) 網干総合車両所の車両が使用されている。1995年8月12日から運用を開始し、新快速・快速(高槻駅 - 京都駅間を普通として運転する列車も含む)に使用されている。なお、6000番台は車両の性能を221系に合わせて固定し、221系と連結して運転することを前提としているため、新快速には充当されていない。 221系 網干総合車両所(本所)の車両が使用されている。快速(高槻駅 - 京都駅間を普通として運転する列車も含む)に使用され、一部の列車は223系6000番台と併結して運転されている。 207系・321系 207系は1994年3月1日から、321系は2005年12月1日から運用を開始した。いずれも網干総合車両所(明石支所)の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運転されている。 過去の車両 優等列車 電車 381系:特急「くろしお」として京都駅 - 新大阪駅間で、特急「こうのとり」として新大阪駅 - 大阪駅間で、特急「しなの」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 485・489系電車:特急「雷鳥」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 583系:急行(2012年3月 - 2013年1月まで臨時急行)「きたぐに」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 283系:特急「くろしお」として京都駅 - 新大阪駅間で運用されていたが、運用区間の縮小で運行線区外となった。 383系:特急「(ワイドビュー)しなの」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていたが、運用区間の縮小で運行線区外となった。 気動車 181系:特急「はくと」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 電気機関車 EF81形:寝台特急「日本海」、臨時寝台特急「トワイライトエクスプレス」の牽引機関車として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 客車 24系:寝台特急「日本海」、臨時寝台特急「トワイライトエクスプレス」として京都駅 - 大阪駅間で運用されていた。 普通・快速列車 国鉄分割民営化以降は、すべて電車が使用されていた。 113系 宮原電車区・網干総合車両所の車両が6両・7両・8両・11両・12両編成で大垣駅 - 姫路方面間の快速に、また京都総合運転所の車両が4両・8両・12両で湖西線・草津線からの直通として大阪駅まで運転されていたが、最後まで残った網干車の運転が2004年10月16日のダイヤ改正により廃止された。113系自体は京都駅 - 向日町駅間で湖西線・草津線での運用のために、回送として運転されている。 117系 1980年から新快速として運用を開始し、1989年3月11日から新快速に221系が投入された後でも最高速度を115km/hに向上させて新快速に充当されていたが、1991年3月16日のダイヤ改正以降は早朝・深夜の新快速に限定して運用されていた。1995年8月12日に223系の投入が始まり、1999年5月10日のダイヤ改正から朝ラッシュ時において223系で130km/h運転が始まったのに伴い、JR京都線からは前日の9日限りで運用を終了した。新快速撤退後一部編成は快速用に8両編成に組成し運用されていたが、1992年に岡山地区への転用によって当路線への運用が廃止された。113系と同様、京都駅 - 向日町駅間では回送として運転されている。 103系 明石電車区・高槻電車区・宮原総合運転所の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運用していたが、高速化やJR東西線の開業を見越して207系に置き換えられ、JR宝塚線直通を除いて1994年3月1日に運用が廃止された。1995年9月1日に新大阪行き・吹田駅始発運用が設定され、1997年3月8日に高槻駅始発、そして9月1日に京都駅発着運用が復活したが、2003年8月14日に当路線での運用は廃止された。その後、JR福知山線脱線事故の影響で2005年8月1日より森ノ宮電車区から宮原総合運転所に103系を借り入れて運用に復帰、9月には東日本旅客鉄道(JR東日本)から103系を購入した編成が運用を開始し、321系の運用が始まる前日の2005年11月30日まで使用された。 201系 明石電車区・高槻電車区・網干総合車両所の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運用していたが、321系を投入して普通の最高速度120km/hに統一するため、森ノ宮電車区および奈良電車区に転属して2007年3月17日限りで運用が廃止された。 205系(0番台) 網干総合車両所の車両を使用し、普通(京阪神緩行線)として運用していたが、321系を投入して普通の最高速度120km/hに統一するため、2006年2月7日限りで運用が廃止され、日根野電車区(現:吹田総合車両所日根野支所)に転属して阪和線運用に就いた。その後、宮原総合運転所(現:網干総合車両所宮原支所)に転属した車両により2011年3月12日から4編成すべて運用に復帰した。しかし、阪和線転属前のように終日運用されるのではなく、平日の朝のラッシュ時の京都駅・高槻駅 - 尼崎駅間限定の運用だった。また、帯の色も水色から207系や321系と同様の濃紺とオレンジに変わり、復帰当初は行先表示器は幕だったが、後に4編成すべてLED表示に改装され、車内の更新工事も施され、ドアチャイムも設置された。しかし、2013年3月16日のダイヤ改正で再び撤退し、再度阪和線に転属した。 歴史 駅一覧 以下では、JR京都線内にある各停車場(駅・信号場)の営業キロ、停車列車、接続路線を一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「東海道本線#廃駅」を参照。 駅名 (貨)=貨物専用駅 特定都区市内制度適用範囲の駅:=京都市内、=大阪市内 停車駅 普通:すべての旅客駅に停車(表中省略) 快速・新快速:●印の駅は全列車停車、▲印の駅は朝ラッシュ終了以降停車、|印の駅は全列車通過 快速は、高槻駅または京都駅から琵琶湖線米原方面は普通として運転 特急:#優等列車に挙げられている各列車記事参照 接続路線:駅名が異なる場合は⇒印で駅名を示す。 線路は、全区間方向別複々線 駅ナンバーは2018年3月17日より導入、北陸本線と琵琶湖線からの通し番号となっている。 直営駅(15駅) 京都駅・西大路駅・桂川駅・向日町駅・長岡京駅・高槻駅・摂津富田駅・JR總持寺駅・茨木駅・千里丘駅・岸辺駅・吹田駅・東淀川駅・新大阪駅・大阪駅 業務委託駅(2駅) JR西日本交通サービス 山崎駅・島本駅 過去の接続路線 京都駅:京都市電(京都駅前駅) 堀川線 - 1961年8月1日廃止 伏見線 - 1970年4月1日廃止 烏丸線 - 1977年10月1日廃止 河原町線 - 1978年10月1日廃止 西大路駅:京都市電西大路線(西大路駅前駅) - 1978年10月1日廃止 新駅設置計画 高槻市は、高槻駅 - 島本駅間の新駅設置を検討している。 連続立体交差事業 摂津富田駅付近(区間は、JR総持寺駅東付近から川西中学校東付近まで)において、連続立体交差事業(鉄道高架化)の事業化を進める計画がある。 脚注 注釈 出典 参考文献 川島令三編著『東海道ライン - 全線・全駅・全配線』8 米原駅 - 大阪エリア、講談社、2009年。。 関連項目 日本の鉄道路線一覧 京阪神快速 京阪神緩行線 外部リンク JR京都線:JR西日本 列車走行位置 近畿地方の鉄道路線 西日本旅客鉄道の鉄道路線 大阪府の交通 京都府の交通 きようとせん
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%80%E5%86%85%E5%A4%8F%E5%AD%90
塀内夏子
塀内 夏子(へいうち なつこ、1960年6月30日 - )は、日本の漫画家。神奈川県川崎市宮前区出身。女性。元ペンネームは、塀内真人(へいうち まさと)。 経歴 神奈川県川崎市宮前区出身。中学時代はバスケットボール部に、神奈川県立多摩高等学校時代はワンダーフォーゲル部に所属した。 高校在学中に本格的に少女漫画を描き始め、処女作の『ボロクズ』が別マ少女まんがスクール銀賞を受賞し、『別冊マーガレット』(集英社)1979年2月増刊号に掲載されてデビューした。一方、担当編集と打ち合わせを続けるうちに少女誌的な表現方法やラブコメディは不向きだと認識し、次第に漫画を描かなくなった。 高校卒業後に武蔵野美術大学に進学するものの中退(塀内本人は学費未納で除籍と言っている)。アニメの背景画を手掛ける石垣プロダクションに就職し『六神合体ゴッドマーズ』などの作品に関わるも1年半ほどで退職した。その後、少年漫画を描き始めるようになり山をテーマにした『背負子と足音』が週刊少年マガジン新人漫画賞に入選(1982年11月入選)し、『週刊少年マガジン』(講談社)1983年1・2合併号に掲載されて、再デビューをした。 なお、デビュー当初は弟の名前を拝借して「塀内真人」というペンネームを使用していた。その理由については「女の子の書いたスポーツ漫画なんて、だれも読んでくれないんじゃないかって、思ったんです」としている。その後、読者にとっては面白ければ性別は特に関係ないと理解し、元号が平成に変わったのを機にペンネームの使用を止め本名に戻している。ただし、1986年に刊行した短編集『夢千代パラダイス』の著者名には塀内夏子を採用し、カバーを外した表紙には彼女の中学3年生のときの通知表を印刷していた。 以降、『おれたちの頂』(登山)、『フィフティーン・ラブ』(テニス)、『オフサイド』(サッカー)などのスポーツ漫画を多く発表していることから、スポーツ青春漫画の盟主とも評される。また『海よ、おまえは』や『勝利の朝』のような実在の社会問題を題材とした作品も発表している。 2004年からは三国志を題材としながらも戦争の悲惨さと平和の大切さをテーマとした『覇王の剣』を発表したが「虎牢関の戦い」の後に打ち切りとなり、2000年代半ば以降は青年誌や女性誌などに発表の場を広げている。 作風 登場人物の激情的な心理描写や、熱血青春ものを得意としている。塀内自身は「私には男の子のDNAはない」「多少無理をして少年マンガのラインにいる」と発言しており、萩尾望都や樹村みのりといった少女漫画家の言葉の感覚に影響を受けているとしている。 先述のようにスポーツ青春漫画の盟主とも評されており、自身は「スポーツ漫画を描くならスポーツを好きでなくてはならないという信念を持っている」と発言している。その作風は正統的なスポーツ漫画ではなく、スポーツノンフィクションに近いものとも評される。 スポーツを題材として選んだ経緯については「80年代の『週刊少年マガジン』で流行っていたのは、不良マンガとバイクマンガとスポーツマンガ。そのほかに(中略)ラブコメディが出始めた頃で、おおざっぱに言うとその四つくらい。消去法で、ラブコメディはもう二度と描きたくない。バイクマンガはどうしても理解できない。不良マンガは『マガジン』にコンテまで出していたんですけど、やっぱりわからない」と消去していくうちに、スポーツマンガが残されたと語っている。ただし、当時からスポーツをテレビ観戦するのが好きで、ちばてつやや水島新司の作品にも親しんでいたという。 「取材力に定評がある」と評されるが、登場人物のキャラクター作りを最優先している。また競技特有の繊細な身体動作を良く理解できないまま連載に入るため、後から読み返して赤面することもあるという。こうした点について塀内は「半年くらい描いていると、なんとなく滑らかになってくる」「サッカーとかバレーボールみたいな、あまり道具を使わないものの方がつかみやすい。みんな自然の動きでしょ。だから、テニスとか野球とか、ああいう道具を使うものはなかなかわからなかった」と評している。 趣向 登山 高校時代にワンダーフォーゲル部に所属していた経緯から、少年誌での初掲載は登山を扱った作品となっているが、自ら題材として選んだのではなく当時の編集者から勧められたからだとしている。その後も数本の登山漫画を連載している。 高校時代にもいくつか登ってはいたが、2003年より本格的に日本百名山を筑波山から登り始め、2008年に幌尻岳で100を登山している(高校時代に登頂経験のある山もこの期間内に再登頂している)。『山と渓谷』(山と溪谷社)に、この体験をエッセー漫画、ルポ漫画「なつこの百名山奮“登”記」として2013年7月号から2015年まで20山分ほどを連載し、2020年には残りを描き下ろして電子書籍『なつこの百名山 百コ登ったどー』(電書バト)として刊行した。 テニス 1980年代の『フィフティーン・ラブ』連載当時は取材のために国外の大会へ訪れるほどだった。当時はチェコスロバキア出身のイワン・レンドルのファンで、1985年に日本で行われた「セイコー・スーパー・テニス」にレンドルが出場した際には取材用パスを使って関係者エリアに入り込み、直接プレゼントを渡したこともある。 サッカー 『オフサイド』の連載前は特別にサッカー好きだった訳ではなく、海外サッカーは1982年のトヨタカップ、国内では1983年1月に清水東高校と韮崎高校が対戦した高校選手権決勝を記憶している程度だった。そのためサッカー漫画の連載にあたっては基礎的なルールを覚えることから始めたという。1993年に取材旅行としてカタールを訪れた際にドーハの悲劇を体験したことが自慢といい、『Jドリーム』ではフィールドプレーヤーの視点から、『松永成立物語』ではゴールキーパーの視点からドーハの悲劇を描いた。 トラブル 海よ、おまえは 『週刊少年マガジン』1984年39号に掲載された読み切り『海よ、おまえは』は石垣島の空港建設(新石垣空港)計画をテーマにし、白保地区で民宿を営む両親の下で暮らす建設反対派の少女(中学3年生)が建設推進派の青年技師に命を助けられたことを契機にそれまでの主義主張を捨て賛成派に転向する姿を描いた。一方、主人公の少女のモデルを容易に特定できる点や、空港建設が開始されていないにもかかわらず作中において決定事項であるかのように描かれていた点が問題視され、建設反対派の「新石垣島空港建設阻止委員会」と「八重山白保の海を守る会」から週刊少年マガジン編集部と塀内に対して公開質問状が送られた。 塀内側は「特定の人物をモデルにした事実はない」と主張したが、作品自体は取材に基づいたものだった。また、舞台となった白保地区には民宿は一件しか存在しない点、その家には作品と同様に中学3年生で反対派に属する少女がいた点、実在する民宿の名称をそのまま使用した点などから、モデルが存在することは明らかだった。協議の結果、掲載誌上において謝罪文を掲載、モデルとなった少女および家族に対し謝罪文を送ることで決着した。 イカロスの山 『モーニング』で連載されていた登山漫画『イカロスの山』第2巻が2006年5月に発売された際、事前に登山用ロープの技術用法に関する事実誤認が指摘されていたにもかかわらず、修正を見落とした状態で出版した。そのため『モーニング』2006年6月22日号において謝罪文と修正箇所を掲載した。 作品リスト 主な連載 おれたちの頂 (週刊少年マガジン、1983年30号 - 41号、全2巻、ワイド版全1巻)のちに山と溪谷社から文庫本が出版 フィフティーン・ラブ (週刊少年マガジン、1984年1・2合併号 - 1986年15号、全11巻、ワイド版全5巻) 涙のバレーボール (マガジンSPECIAL、1986年1号 - 1987年2号、全3巻、ワイド版全2巻、文庫版全2巻) オフサイド (週刊少年マガジン、1987年6号 - 1992年17号、全29巻、ワイド版全15巻、文庫版全15巻) 勝利の朝 (週刊ヤングサンデー、1992年18号 - 1992年22号、全1巻) ミス・バレーボール (週刊少年マガジン、1992年34号 - 1992年35・36合併号、全1巻) Jドリーム (週刊少年マガジン、1993年3・4合併号 - 1995年43号、全14巻、文庫版全7巻) Jドリーム・飛翔編 (週刊少年マガジン、1996年7号 - 1997年41号、全10巻、文庫版全5巻) Jドリーム・完全燃焼編 (週刊少年マガジン、1998年16号 - 1999年44号、全8巻、文庫版全4巻) Boy Meets Girl〜マウンドの少女〜 (マガジンSPECIAL、2000年5号 - 12号、全2巻) ROAD〜輝ける道〜 (週刊少年マガジン、2001年28号 - 2002年1号、全3巻) ROAD〜ふたつの太陽〜 (週刊少年マガジン、2002年42号 - 50号、全5巻) 史上最低のレガッタ (ヤングマガジンアッパーズ、2003年9号 - 2004年1号、全3巻) 覇王の剣 (週刊少年マガジン、2004年40号 - 2005年21号、全4巻) イカロスの山 (モーニング、2005年52号 - 2007年42号、全10巻) プリンセス オン アイス (BE・LOVE、2008年5号 - 2009年2号、全3巻) 明日のない空 (ビッグコミックスピリッツ、 2008年41号 - 2012年25号、全3巻) ※不定期でシリーズ連載 中澤佑二物語 (週刊ヤングマガジン、2006年・2008年17号 - 20号、全1巻) コラソン サッカー魂 (週刊ヤングマガジン、2010年13号 - 2012年1号、全9巻) 青春少年マガジン -紙の翼- (週刊少年マガジン、2014年12号 - 2014年21・22合併号) なつこの百名山奮“登”記(山と渓谷、2013年7月号 - 2015年) 書き下ろしを含めて『なつこの百名山 百コ登ったどー』(電書バト)として電子書籍を刊行 EVIL〜光と影のタペストリー〜(マンガonウェブ、創刊号 - 第8号、全3巻) EVIL II〜メビウスの扉〜(マンガonウェブ、第10号 - 第18号、全3巻) 短編・読み切り等 短編の大半は、『ダイヤモンド芸夢』『夢千代パラダイス』『サーカス★ドリーム』『塀内夏子短編集1』『塀内夏子短編集2』(いずれも単巻)及び、連載作品のコミックスに収められている。『週刊少年マガジン』、『週刊少年マガジン増刊』、『マガジンFRESH』、『マガジンSPECIAL』等で不定期に掲載された漫画家漫画は、『雲の上のドラゴン』(全1巻)として刊行されている。 脚注 参考文献 外部リンク (公式サイト) 日本の漫画家 川崎市出身の人物 1960年生 存命人物
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松苗あけみ
松苗 あけみ(まつなえ あけみ、1956年11月18日 - )は、日本の漫画家。コメディを多く手がける。内田善美の紹介で一条ゆかりのアシスタントをしていた。「有閑倶楽部」に登場するペットのニワトリ・アケミの名前のモデルである(詳しくは「有閑倶楽部」参照)。 概要・経歴 1977年、『リリカ』4月号にて「約束」でデビュー。その後1978年3月号で『リリカ』が休刊となったため『ぶ〜け』他で活躍。代表作「純情クレイジーフルーツ」など。華やかな絵柄と脱力系のキャラクターのギャップが大きく、それがギャグともなっている。 1988年度(昭和63年)、第12回講談社漫画賞少女部門受賞(「純情クレイジーフルーツ」)。1988年から1991年にかけて『ビッグコミックスピリッツ』で連載された「原色恋愛図鑑」は、1989年に井森美幸が主演でTVドラマ化された。2005年には『COMIC MIU』で連載された「恋愛内科25時」が吉沢悠主演でTVドラマ化された。 2022年現在は、ぶんか社を中心に活動している。 影響を受けた画家として、松苗はアルフォンス・ミュシャを挙げている。2020年7月11日から9月6日まで静岡県立美術館で開催されている展覧会「みんなのミュシャ」において、「コマーシャリズムの要素もありながら、絵画的でもあり、装飾美にもあふれて、それを一幅の絵に収めているのはミュシャだけだった」(原文のまま)とコメントしている。 作品リスト 雑誌掲載 約束(『リリカ』1977年4月号) 赤毛のアン(『リリカ』1977年5月号) ハッピー・エンドじゃ終わらない(『リリカ』1978年3月号) 私の愛したスーパーマン(『リリカ』1978年6月号) ハロー・グッドバイ(『ぶ〜け』1979年11月号) 春だからめざめたみたい(『ぶ〜け』1980年5月号) マジックラブ・チャイルド(『ぶ〜け』1981年2月号 - 3月号前後編) 僕は天使に嘘をつかない(『ぶ〜け』1981年8月号 - 10月号連載) ふり向いてねゴードン(『ぶ〜け』1982年2月号) 純情クレイジーフルーツ(『ぶ〜け』1982年7月号 - 12月号連載) 山田くんと佐藤さん(『ぶ〜け』1983年5月号 - 1984年3月号連載) ファンタストの恋愛(『ぶ〜け』1984年7月号、集英社) 浮気なファンタスト(『ぶ〜け』1984年11月号、集英社) 奥様とわたし(『ぶ〜け』集英社、1984年10月号) 九月姫最後の冒険」(『ぶ〜け』1984年9月号) WE LOVE YOU 海で、真珠がみる夢は(『ぶ〜け』1984年8月号) 純情クレイジーフルーツ続編(『ぶ〜け』1985年2月号 - 1988年3月号連載) My favorite things(『ぶ〜けデラックス』1986年増刊号) 原色恋愛図鑑(『ビッグコミックスピリッツ』1988年 - 1991年不定期連載) カトレアな女達(『LaLa増刊』1988年 - 1991年) HUSH!(『ぶ〜け』1988年7月号 - 1990年9月号連載) 純情クレイジーフルーツ番外編 大奥純情絵巻(『ぶ〜け』1990年11月号 - 12月号前後編) ロマンスの王国(『ぶ〜け』1991年4月号 - 1993年7月号連載) 女たちの都(『ぶ〜け』1993年9月号 - 1994年7月号連載)※「カトレアな女達」の続編。 お友達で行こう!(『ぶ〜け』1994年10月号 - 1996年3月号連載) 結婚よそうよ(『Monthly mimi』1996年6月号、9月号、『Monthly Kiss』1997年1月号、4月号、『Kiss』1997年 - 1999年連載) この国で幸せになるの(『コーラス』1996年7月号 - 1997年連載) 友よ尾をふれ!(『セリエミステリー』1996年8月号 - 1997年6月号連載) うるとらまりりん-3001年から来た女(『コーラス』1997年9月号 - 1998年連載) 進めBowwow Road(『ぶ〜け』1997年11月号 - 12月号) あなたにだけ見えない(『ぶ〜け』1997年5月号) 新・お友達で行こう!(『ぶ〜け』1998年6月号) 先生、泊めてください(『Kissカーニバル』1999年2月号、『Kiss』1999年No.12、2000年No.5) ロミオとジュリエットの法則(『ぶ〜け』1999年3月号) もう学校へなんかいかない(『ぶ〜け』1999年9月号 - 10月号前後編) 恋愛内科25時(『COMIC MIU』1999年 - 2004年連載) マサコ先生のお気に入り(『ぶ〜け』2000年2月号) 食と薔薇の日々(『月刊MELODY』2000年 - 2002年不定期連載) 純情クレイジーフルーツ21世紀篇もう一度夢みたい!(クイーンズコミックス、2002年 - 2004年) アパートの鍵あいてます(『モーニング』2002年23号、47号、2003年21・22合併号、『イブニング』2004年6号 - 9号) 世界で一番幸せなハズ(『Kiss』2002年No.18 - 2003年No.17) 恋愛内科クリニック(『COMIC MIU』2004年)「恋愛内科25時」の続編。 猫と薔薇の日々(『One more Kiss』2006年9月号 - 2008年1月号、『Kiss PLUS』2008年3月号 - 7月号) マダムとお遊戯(『マンガ・エロティクス・エフ』2006年Vol.37 - 2009年Vol.57不定期連載) デリカレ(『Silky』2007年10月号 - 2008年6月号) 花咲ける國のオトメ~英国紳士と出会う~(『BE・LOVE』2009年2号 - 7号連載) 十二月がくるたびに/優しすぎる花嫁(2008年12月)宙出版 猫もえ!(2010年9月)ぶんか社 妄想婦人倶楽部(2011年3月)実業之日本社 ゆううつ皇女の結婚(2011年3月)宙出版 グリム艶童話~恋を欲しがるお姫様たち~(2011年7月)ぶんか社 不機嫌な伯爵()宙出版 放課後は恋のレッスンを/君は最高のダイヤモンド(2012年5月)宙出版 ベルサイユ狂想曲~エマは♥♥がお好き~(2012年10月)ぶんか社 伯爵と一輪の花(2013年5月)宙出版 猫はなんにもすることがない(『本当にあった笑える話』連載) 松苗あけみの少女まんが道(『本当にあった笑える話』2018年9月号 - 2020年4月号連載) 松苗あけみの少女まんが道・結(むすび)(『本当にあった笑える話』2022年11月号〜連載中) 単行本未収録 花嫁にダイヤモンドを(集英社『ぶ〜け』1979年6月号) 選挙の日(白泉社『ShortStories』1987年SUMMER号) あっらー、アクバル(白泉社『MELODY』1999年10月号) 調査中 緋野家の兄弟 花賀家の姉妹(「緋野家の兄弟」2話、「花賀家の姉妹」2話収録) 夏は人魚とパラダイス 猫もえ!お蔵出し ぶんか社 単行本 1981年 - 1989年 『マジックラブ・チャイルド』集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1981年、 『僕は天使に嘘をつかない』集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1982年、 『純情クレイジーフルーツ』、集英社〈ぶ〜けコミックス〉、全2巻 前編、1983年、 後編、1983年、 『山田くんと佐藤さん』集英社〈ぶ〜けコミックス〉 前編、1984年、 後編、1984年、 『ファンタストの恋愛』、集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1985年6月、 併録「浮気なファンタスト」「奥様とわたし」「九月姫最後の冒険」 『純情クレイジーフルーツ 続編』集英社〈ぶ〜けコミックス〉、全9巻 1985年、 1985年、 1986年、 1986年、 1986年、 1987年、 1988年、 1988年、 1988年、 『WE LOVE YOU』集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1986年9月、 併録「海で、真珠がみる夢は」「My favorite things」 『HUSH!』、集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1988年 - 1990年、全7巻 1988年11月、 1989年4月、 1989年9月、 1990年、 1990年5月、 1990年8月、 1990年11月、 1990年 - 1999年 『山田くんと佐藤さん』集英社文庫、1990年2月、 『山田くんと佐藤さん ハイスクール編』、集英社〈ぶ〜けコミックスワイド版〉、1990年2月、 『純情クレイジーフルーツ番外編 大奥純情絵巻』集英社〈ぶ〜けコミックスワイド版〉、1991年、 『緋野家の兄弟 花賀家の姉妹』、集英社〈ぶ〜けコミックスワイド版〉、1991年、 「緋野家の兄弟」2話、「花賀家の姉妹」2話収録 『カトレアな女達』白泉社〈ジェッツコミックス〉、1991年、 『ロマンスの王国』集英社〈ぶ〜けコミックスワイド版〉 1991年、 1992年、 1992年、 1993年3月、 1993年7月、 1993年11月、 『夏は人魚とパラダイス』、集英社〈ぶ〜けコミックス〉、1992年、 『原色恋愛図鑑』小学館〈ビッグコミックス〉、1992年2月、 『女たちの都』集英社〈ぶ〜けコミックス〉、全3巻 ※「カトレアな女達」の続編。 1994年3月、 1994年6月、 1994年9月、 『お友達で行こう!』集英社〈マーガレットコミックス〉、全4巻 1995年3月、 1995年7月、 1995年12月、 1996年5月、 『HUSH!』創美社〈マーガレットレインボーコミックス〉、全4巻 1996年7月、 1996年8月、 1996年9月、 1996年10月、 『結婚よそうよ』講談社〈コミックキス〉、全3巻 1997年6月、 1998年7月、 1999年5月、 『この国で幸せになるの』集英社〈ヤングユーコミックス〉、全2巻 1997年7月、 1997年11月、 『友よ尾をふれ!』白泉社、1997年9月、(全1巻、文庫版は「カトレアな女達」に併録) 『うるとらまりりん - 3001年から来た女』集英社〈ヤングユーコミックス〉、1998年8月、 『進めBowwow Road』集英社〈マーガレットコミックス〉、1998年11月、 併録「あなたにだけ見えない」「新・お友達で行こう!」 『純情クレイジーフルーツ』、集英社文庫、1999年2月、全1巻、 2000年 - 2009年 『続・純情クレージーフルーツ』集英社文庫、全5巻 2000年1月、 2000年1月、 2000年3月、 2000年3月、 2000年3月、 『もう学校へなんかいかない』集英社〈マーガレットコミックス〉、2000年4月、 併録「ロミオとジュリエットの法則」「マサコ先生のお気に入り」 『先生、泊めてください!』講談社〈コミックキス〉、2000年6月、 『恋愛内科25時』秋田書店〈Miu comics〉、全6巻 2000年12月、 2001年6月、 2002年1月、 2002年8月、 2003年6月、 2004年2月、 『食と薔薇の日々』白泉社〈ジェッツコミックス〉、全2巻 2001年11月、 2002年5月、 『原色恋愛図鑑』小学館〈小学館文庫〉、2002年12月、 『恋愛内科クリニック』秋田書店〈Miu comics DX〉、2004年12月、 ※「恋愛内科25時」の続編。 『純情クレイジーフルーツ - 21世紀篇もう一度夢みたい!』集英社〈クイーンズコミックス〉、全2巻 2002年5月、 2004年10月、 『カトレアな女達』白泉社〈白泉社文庫〉、2002年6月、 文庫版併録「友よ尾をふれ!」 『松苗あけみ the best : 恋はジタバタ』集英社〈クイーンズコミックス〉、2003年6月、 『世界で一番幸せなハズ』講談社〈コミックキス〉、2003年11月、 『アパートの鍵あいてます』講談社〈イブニングKC〉 2004年5月、 『女たちの都』あおば出版、2005年、 『大停電の夜に』原案・原作:カリュアード(源孝志+相沢友子、講談社〈ワイドKC〉、2005年11月、 ※書き下ろし 『マダムとお遊戯』太田出版〈F×COMICS〉、全2巻 2007年2月22日、 2009年6月27日、 『ロマンスの王国』宙出版、2007年、 『食と薔薇の日々』白泉社〈白泉社文庫〉、2007年11月、 『デリカレ』白泉社〈Hana to yume comics special〉、2008年8月、 『HOMETOWN GIRL - ロマンスの王国2』宙出版、2008年、 『猫と薔薇の日々』講談社〈ワイドKC〉、2008年9月、 『十二月がくるたびに/優しすぎる花嫁』、グレイス・グリーン/ローリー・ブライト原作、宙出版、2008年12月、 『花咲ける國のオトメ〜英国紳士と出会う〜』講談社〈KCデラックス〉、2009年6月、 2010年 - 『HUSH!』ホーム社〈ホーム社漫画文庫〉、全4巻 2010年6月、 2010年7月、 2010年8月、 2010年9月、 『猫もえ!』ぶんか社、2010年10月、 『妄想婦人倶楽部』実業之日本社〈コンペイトウ書房〉、2011年3月、 『ゆううつ皇女の結婚』宙出版〈ロマンスコミックス. Emerald comics〉、2011年3月、 併録「不機嫌な伯爵」 『グリム艶童話~恋を欲しがるお姫様たち~』ぶんか社、2011年7月、 『放課後は恋のレッスンを/君は最高のダイヤモンド』宙出版〈ロマンスコミックス. Emerald comics〉、2012年5月、 『ベルサイユ狂想曲~エマは♥♥がお好き~』ぶんか社、2012年10月、 併録「猫もえ!お蔵出し」 『伯爵と一輪の花』ダイアナ・パーマー原作、宙出版、2013年5月、 『猫はなんにもすることがない』、ぶんか社〈Bunkasha comics〉、2016年10月、 『あと何回ペットロスになればいいですか?』、ぶんか社、2018年10月、 『松苗あけみの少女まんが道』、ぶんか社、2020年6月、 画集・ぬり絵 『DREAM GARDEN - 松苗あけみイラストレーション集』、集英社、1988年、 『松苗あけみぬり絵』、宙出版、2007年1月、 アンソロジー 『もっともっともっと愛し合うH』集英社、2001年2月、 『てのひらに月 : 10minute diary』集英社〈Queens' comics〉、2005年10月 『ねこまん : 猫だらけコミック・アンソロジー』ホーム社〈ホームコミックス〉、2008年6月 『にゃんスペ : nyanko-special anthology』、イースト・プレス, 2010.4 『女子校育ちはなおらない』KADOKAWA〈メディアファクトリーのコミックエッセイ〉、2014年10月、 『ねこまみれ : おだんご』野中のばら, 松苗あけみ, たらさわみち ほか著. ぶんか社, 2014年10月 『ねこざんまい』野中のばら, 松苗あけみ, たらさわみち ほか著. ぶんか社〈Bunkasha comics〉、2015年5月 『泣けちゃう両想い』、講談社〈KCフレンド〉、2002年8月 「私立ヒミツの花園女学院」収録 『マイ・ダイヤモンド センシティブLOVE』講談社〈講談社漫画文庫〉、2004年5月 『カップル乱れ打ち』講談社〈KCデラックス〉、2004年6月、 『妖怪変化 京極堂トリビュート』講談社、2007年12月 「薔薇十字猫探偵社」収録 『王宮ロマンスアンソロジー プリンスの魅惑のプロポーズ』宙出版〈ハーモニィ&ロマンスコミックス〉、2013年12月 挿絵・イラスト 『王子さまを探して』、花井愛子著、角川書店〈角川スニーカー文庫〉、1988年、 『オヤジの穴』、泉麻人と共著、ロッキングオン、2006年3月、 『しあわせ脳練習帖』、黒川伊保子監修、講談社、2006年、 『しあわせ脳練習帖』、黒川伊保子監修、講談社+α文庫、2010年6月、 『しあわせ脳学・習・帖 - 男ゴコロの取扱説明書』、黒川伊保子監修、講談社、2007年9月、 『ハナイ式ちょびっとダイエット』、花井愛子著、講談社、2007年、 出典 外部リンク ROMANTIC KINGDOM 松苗あけみさんのデータベース 一条ゆかりら少女漫画界レジェンドの裏話を『純情クレイジーフルーツ』松苗あけみが語る | 女子SPA! 日本の漫画家 東京都出身の人物 1956年生 存命人物
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星野めみ
星野 めみ(ほしの めみ)は、東京都大森出身。日本の漫画家であり薬剤師でもある。 人物 9月29日生まれのA型。1975年、『週刊マーガレット』(集英社)増刊号に掲載の「セントヘレナのケーキ屋さん」でデビュー。同誌や『BE・LOVE』(講談社)他のレディースコミック誌で活躍。代表作に『え~カミさんを一席』『新・夢ホテル』『アリス動物病院診察絵日記』など。趣味は観劇、落語、ミステリー読み。ファンクラブに入会するほど氷川きよしのファンであり、犬好きでもある。 薬剤師の経歴は共立薬科大学卒業。実家が薬局であり、薬剤師として店にいることもある。 エピソード 2015年 2015年年末は氷川きよしの通常コンサート、大阪フェスティバルホール。クリスマスコンサート、東京国際フォーラムAホームの総動員可数満員で歓喜した話。クリスマスコンサートの翌年のコンサートの雛型になる上に、コンセプト沢山詰まっているという。オープニングは、赤頭付き歌舞伎の連獅子の衣装で登場。『男花』『御免』を歌い上げた後、司会者の西寄ひがしのMC、その間に衣装変え。白波五人男の弁天男にふんして、番傘片手に『弁天小僧』の歌詞「女にしたい~」は、衣装込みで大歓喜だった。2016年の通常コンサートは、ウェスタ川越。満員だったと語っていた。新曲『みれん心』が、オリコン総合初登場2位。カラオケでも歌いやすそうな上に、初動45000枚の快進撃だと言う。しかしながら近年のCDの売り方に対して、10枚買ったら、サイン。握手券など、枚数を釣り上げる風潮を何とかならないかと苦言を出した。自身は、本当は家族に1枚が理想だが、3バージョンの場合、カップリングの曲が聞きたいので3枚買う。後は、姉の分。これが限界だと述べていた。順位や枚数を上げる為にCDを買う事は資金が尽きたら、崩壊する事を挙げてる。CD業界が沈下している昨今、1番知恵を搾らないといけないのは、レコード会社だと言う事を述べていた。 2016年 2016年。妹と一緒に初めて氷川のコンサート遠征を2回した話。1回目は奈良、2回目は名古屋。特に名古屋はファンクラブ限定のツーショット撮影会があった。去年から全国各地で催されていたが、今年の名古屋で一区切りするそうである。去年は東京開催日にエントリーしたが落選している。今年は東京を第1希望、名古屋を第2希望にしたら名古屋の方が当たった。妹も名古屋に当たった上に3部に分けて行われる撮影会では姉妹共々1部。しかし妹は星野と一緒ではなく30番先の順番だった。氷川が前日が埼玉県戸田市でNHK『新・BS日本のうた』SPの収録や前後にコンサート、TV、ラジオ出演とハードスケジュールなのに元気に『Jewel』『へっちゃらマンボ』の生歌披露している。妹は『Jewel』を聞いた時、メロメロになったと言う。ツーショット撮影会の感想はありとあらゆる言葉で褒めまくるほど素敵だったと語っている。次に芝公園で行われた2日間昼夜コンサートに行った。更に『みれん心』のD、E、F盤のリリースイベント。愛知、大阪、東京、川崎へ行っている。ラゾーナ川崎サイドから記録的動員数告げられて歓喜している。『みれん心』の売り上げが125000枚以上になった事に喜んでいた。しかしCD1枚買って握手をする事はしていません。ツーショット撮影時にもCDは売らない。トップ演歌歌手としての心意気が潔い!D、E、F盤を発売する事に悩まされたと思う。基本的にCDは1人に1枚と言う方だと信じていると推論を語っている。CD業界はITによってかなり厳しい状況。氷川に頼らざるをえないでしょうと言う推論後。出版業界も厳しい状況だと明かしている。2017年ではレコード会社は知恵を絞り、古い因習を捨てて新しいやり方を頑張って欲しいと述べている。最後に氷川、司会者の西寄、スタッフ方々にエールを送っている。更にこの後盛岡、大阪、東京のコンサートに参りますと語っていた。 2017年 2016年、紅白歌合戦で氷川が熊本城の中継。震災の後、修復していない城の前で『白雲の城』を歌い上げた姿に妹込みで感激しまくった話から始まった。そして氷川は休み無く1月に「氷川きよしコンサートツアー、日本全国 歌の渡り鳥Part2」がはじまり、3月に新曲『男の絶唱』A、B、C盤がオリコンウィークリー総合初登場3位、9月に『男の絶唱』D、E、F盤がオリコンウィークリー総合2位で20万枚の大ヒット。アルバムも2枚発売し、2枚ともオリコンウィークリー総合トップ10入り。アニメ『ドラゴンボール超』の主題歌が配信で500ダウンロード超え、オリコンウィークリー総合5位と讃えた。NHKの「ラジオ深夜便」の歌でGReeeeNの作詞作曲した『碧し』も歌唱。この曲は2017年で星野自身が1番好きな歌だと述べている。6月の明治座1ヶ月の座長公演『きよしのねずみ小僧』43公園全て満員。2018年10月にも明治座1ヶ月公演も決まっていると言う。『思い出のメロディー』の司会に抜擢。平和の思いを込めて美空ひばりの『一本の鉛筆』を歌唱。他に大阪の新歌舞伎座で昼夜1日満席の公演、第20回日本有線大賞を受賞と目が回るスケジュールなのでファンも嬉しい悲鳴だということを語っていた。11月末の大阪のフェスティバルホール昼夜4公演が通常コンサートの最後で丁度100公演。明治座の公演を入れると143公演。動員数、約25万人。デビューからのコンサート数は、まもなく3000回になると語っていた。このスケジュールに星野は氷川を凄いと讃えていた。一方星野自身は、明治座を12回。遠征は宇治、水戸、山形、大阪。ツーショット撮影会は落選。握手会は妹込みで当たり。氷川の両手を取りあった時、かなり幸せだったと述べていた。通常コンサートと演歌まつり等は約30回参加。司会者・西寄ひがしのトークライブには3回。非常に忙しかったと語っている。この後、ディナーショー、レコード大賞、紅白歌合戦に行くと言う。2018年も、まだまだ行く事を公言していた。 2018年 氷川のファン歴8年、ファンをやっていると1年が滅茶苦茶早く過ぎる上に、ここ2年加速しているという。テレビ出演が多い為、録画のハードディスクの容量のどんどん減る、嬉しい悲鳴だと語っている。今年の勝負曲は『勝負の花道』。20万超えのロングヒットになり、演歌部門では2018年度の売り上げ第1位。氷川とファンの皆様頑張った!と語っている。2018年、演歌まつり、明治座座長公演、クリスマスコンサート、ディナーショーを含めて、38回もコンサートに行ってしまったと明かしている。何処に行っても超満員だったと驚愕していたという。1月、8月に珍しく握手会が当たり、妹と参加。1000人クラスの握手会なので、1人3秒だとスタッフから言われた。しかし、前に並んでいる人が長かったりすると、1人、1秒になったりと言う事もあり、妹が焦りまくる星野を冷静に見てくれたので有難かったと語っている。初めの握手会の時は氷川の目しか覚えていなかった。2018年時には漸く全身を覚えるようになったと、語っている。自身が一番好きなのは、通常コンサート。今年のオープニングは、津軽三味線で、アルバム収録曲『じょんから挽歌』。袴姿で凛と立つ氷川に雪が舞い散る中、まるで紅白歌合戦のトリみたいに歌う氷川に格段に上手いと称賛。演歌を堪能させた後、軽快なリズム歌謡。この時の宝塚風のマタドール姿に絶賛。更にアニメソングも歌ったと言う。他に会場の席が良いと嬉しいが、隣の方が良い方だと、またとても楽しいと語っている。一回だけ最前列席が当選し、お隣の人も良い人で、キャーキャーと見ていたら、氷川が星野のいる方向にニッコリと笑みをした後、大きな目に感激し、それ以降の記憶が無いほどぶっ飛んだと述べている。コンサートのラストは『きよしのズンドコ節』でいつも大盛りで終演を迎え「あ~あ終わっちゃた」と皆でため息、「またどこかの会場で!」と別れます。それ故に、仲の良いきよ友とコンサートを見る時は本当に楽しいと述べていた。10月の明治座1ヶ月座長公演は、40公演。自身は9回行ったと言う。氷川の初の若衆姿に感激し、今回5万4千人を動員した上に連日の大入り、立ち見が出る程、大盛況な上に、入場列が明治座を一周していた事に、驚愕していたと述べていた。2019年、氷川の20周年コンサートは武道館、7月11日~12日の2日間、3公演において、皆で「おめでとう!!」と言いたいと語ってた。 作品リスト 公式には表記されていないが、作品の題名が異なる同キャラクター登場の連載作品に関しては、分類別として「○○シリーズ」と記述する。 少女漫画 セントヘレナのケーキ屋さん (1975年、週刊マーガレット増刊号、集英社)デビュー作 星空1号館 (1976年、週刊マーガレット) リンゴひとつ物語 記念樹 3月のピーターパン (1977年、週刊マーガレット) 太鼓がドンドン (1977年、週刊マーガレット) 夢物語さん (1977年、週刊マーガレット) マッチのお弁当箱 (1978年、週刊マーガレット) 雪色クレヨン1ダース (1978年、週刊マーガレット) ユッコの夢追い船 (1978年、週刊マーガレット) きこえますか愛! (1978年、週刊マーガレット) エドウィンさんの子守唄 (1978年、週刊マーガレット) アッキ(※オムニバス題名) ひふみ(※オムニバス題名) ちひろ(※オムニバス題名) 笑って!殿下 かくれんぼシリーズ かくれんぼ手帳 かくれんぼLOVE (1979年、週刊マーガレット) かくれんぼキッス (1979年 - 1981年、週刊マーガレット) ノボとニンジン先生 (1980年、週刊マーガレット) 私はピアノ エリントン家の奇跡 (1982年、週刊マーガレット) おとなりの明智先生 (1983年、週刊マーガレット) おとなりの東くん (1983年 - 1984年、週刊マーガレット) りんこ親衛隊 秘密のリリアス おまたせ美彦くん Darling!!シリーズ Darling!! メヌエット きのこホテル日記 虹の時間のルカ 菜々いろの瞳 五月の贈り物 霊界から来た少年 暗闇のシンフォニー レディース漫画 短編 夏祭り夫婦漫才 乙姫の春 恋はMrs,ドーナッツ せつ子さんちの古時計 クリスマスの真珠 レディス・カツ丼・ジェントルメン 夕鶴恋まとい 愛しのGREEN GROCER 引っ越しセンター金太郎 おやこ小町捕物帖 花嫁坂 せつない探偵 クリスマスパイ物語 星子のおじさま (1990年、BE・LOVEブライダル、講談社) 星影のテラス (1990年、BE・LOVEブライダル) 夢子さんのカレーライス (1990年、BE・LOVEブライダル) おむすびパラダイス (1991年、BE・LOVEブライダル) ウェディング イン ザ レイン (1991年、BE・LOVEブライダル) ときめき珈琲館 (1991年、BE・LOVEパフェ) 君に着せたいウェディングドレス (1992年、BE・LOVEブライダル) 野の花の花嫁 (1992年、BE・LOVEブライダル) 足ながおじさんの赤い靴 (1992年、BE・LOVEパフェ) オムライスより愛をこめて (1992年、BE・LOVEブライダル) 聖パンプキン物語 (1993年、BE・LOVEブライダル) 天使が街にやってきた (1994年、BE・LOVEブライダル) 危険なあなたに紅いバラ (1994年、BE・LOVEブライダル) 花子さん お茶! (1994年、BE・LOVEブライダル) メリーさんちのクリスマス (1994年、BE・LOVEブライダル) 春うらら (1995年、BE・LOVEブライダル) ホワイト・シチュー物語 ケーキ畑のプリンセス Happy Newままこさん (1997年、BE・LOVEブライダル) 不思議屋だより〜オムレツ天使〜 男前やでパパ 花婿募集 純情かぐや姫 ケーキ畑のプリンセス 乙姫の春 せつない探偵 君はおめでたい花嫁 (1999年、BE・LOVEパフェ) シンデレラ伝説 春を待つウサギ (1999年、BE・LOVEパフェ) 合言葉はパパとママ (1999年、BE・LOVEパフェ) おそうじ人走る (1999年、BE・LOVEパフェ) あなたは花形オムコさん (2001年、Silky、白泉社) 連載、読み切り連載 2話以上4話以内作品 舞ダーリン 林檎の秘密 (1995年 - 1996年、BE・LOVEブライダル) さえ子さんの縁側物語 (1996年、BE・LOVEブライダル) 1巻もの ロマンスシリーズ 三日月ロマンス (1994年、BE・LOVEブライダル) 満月ロマンス (1994年、BE・LOVEブライダル) 薔薇色ロマンス (1995年、BE・LOVEブライダル) 月光ロマンス (1996年、BE・LOVEブライダル) うちのカミ様 栗子さんちシリーズ 栗子さんちのオルゴール (1995年、BE・LOVEブライダル) 栗子さんちのお弁当 (1995年、BE・LOVEブライダル) 栗子さんちの秋祭り (1996年、BE・LOVEブライダル) 家族のメロディー (1999年 - 2000年、BE・LOVEパフェ) クマさんのやさしい手 (1996年、BE・LOVEブライダル) チョコさんの彼氏 (1997年、BE・LOVEブライダル) おべんと殿下 (1997年、BE・LOVEブライダル) マリアと茶・チャ・チャ!! 人形館物語 (1998年、BE・LOVEブライダル) 第1話 おかえりチーズ(※オムニバス題名) 第2話 9月の「いちま」さん(※オムニバス題名) 第3話 10月のピエロ(※オムニバス題名) 第4話 11月のテディ・ベア(※オムニバス題名) 花より明治堂 「花のや」でございます (2004年 - 2005年、BE・LOVE) 私はいい人ではありません!!(2008年 - 不明、デジールSP) ハルちゃんの恋歌 (2007年 - 2008年、BE・LOVE) 春*奈ころりん(2011年12月号-2012年12月号、JOURすてきな主婦たち、双葉社、監修・林家彦いち) ボスは不機嫌な探偵(2013年8月号 - 2014年12月号、JOURすてきな主婦たち、双葉社、「特集・事件です!」「特集・子供を守る」の個別作品としての参加) ルリさんの不思議なアパート(2020年5月号 - 2021年1月号、JOURすてきな主婦たち、双葉社) 2巻もの 桜町4丁目ものがたり 花言葉の恋 湯の花橋純情(2005年 - 不明、デジール、デジールSP、秋田書店) かおり湯の花(※オムニバス題名) 姫ヒオウギの約束(※オムニバス題名) キッチン螢(※オムニバス題名) 面影のシオン(※オムニバス題名) 仔犬とドレス(※オムニバス題名) 後ろ姿のカクテル(※オムニバス題名) Dr.スイートピー(※オムニバス題名) ミモザ写真館(※オムニバス題名) キャサリン、巫女です!!(アイディア協力・林家彦いち、2008年 - 不明、サクラ愛の物語、メディアックス、初の単行本は竹書房より2014年4月28日に発売。初の税込8%込みの完全新刊本でもある。) キャサリン、巫女です!!2(不明-2013年2月号、海王社、最高の主婦たち、初の単行本は竹書房から2014年5月30日発売。) アリス動物病院診察絵日記(監修、クローバー動物病院、蜷川圭。2011年、ウーマン劇場、竹書房) アリス動物病院 診察絵日記2(2012年 - 2013年、ウーマン劇場、竹書房) すずなり動物ハウス(2018年5月号 - 2020年1月号 、JOURすてきな主婦たち) 3巻以上 大黒屋本舗シリーズ 花ざかり大黒屋本舗 (1999年 - 2011、JOURすてきな主婦たち、双葉社) 梨絵さんのささやかな夢 (2002年、JOURすてきな主婦たち) 夢ホテルシリーズ 夢ホテル(さくら 愛の物語、あおば出版~宙出版) 新・夢ホテル 夢ホテルへようこそ(2012 、宙出版、幸せな結婚と15の感動クライマックス2012年10月号、2巻以降、不明 - 2014年、幸せな結婚、15の感動クライマックススペシャル、15の感動クライマックス) 一席シリーズ(監修・林家彦いち) え〜カミさんを一席 (2000年 - 連載中、BE・LOVEパフェ) え〜カミさんを一席 特別番外編(※漫画文庫版) 帰ってきたえ〜カミさんを一席 (2003年 - 2005年、BE・LOVE、BE・LOVEパフェ大人が泣けるラブストーリー、講談社) 如春亭にようこそ (2006年 - 2007年、BE・LOVE) 毎度!え〜カミさんを一席 (2010年-不明 この作品から宙出版の発行となる。この出版社からの未収録4作品込みの単行本以降、2010年同社「幸せな結婚」12月号から連載再開となったが。同雑誌が休刊になったと同時に連載は終わった。) 動物ER ワンコはワンコ (2015年2月号 -2018年1月号、JOURすてきな主婦たち、双葉社) 再版 販売終了している作品が多い。 あおば出版 夢ホテル(ポケット版)- 全9巻。 結婚協奏曲pockets 「うちのカミ様」が収録。 宙出版 マリアと茶・チャ・チャ!! クマさんのやさしい手 「野の花の花嫁」が収録。 講談社 新12の結婚物語 (他の作者と合同) - 全6巻。 星野めみ傑作集(講談社漫画文庫)- 全4巻。 りんこ親衛隊 (講談社漫画文庫)- 全3巻。 集英社 かくれんぼキッス (集英社文庫―コミック版) - 全2巻。 スコラ 舞ダーリン 竹書房 チョコさんの彼氏 家族のメロディー 花婿募集 「乙姫の春」「夏祭り夫婦漫才」「おそうじ人走る」が収録。 栗子さんちのオルゴール 恋はMrs,ドーナッツ 「春うらら」「不思議屋だより〜オムレツ天使〜」「あしながおじさんの赤い靴」が収録。 菜々いろの瞳 「Darling!!」「暗闇のシンフォニー」が収録。 シンデレラ伝説 「ホワイト・シチュー物語」「レディス・カツ丼・ジェントルメン」「霊界から来た少年」が収録。 男前やでパパ 「林檎の秘密」「ケーキ畑のプリンセス」が収録。 花嫁坂 「Happy Newままこさん」「純情かぐや姫」「夢子さんのカレーライス」が収録。 5月の贈り物 「オムライスより愛をこめて」「引っ越しセンター金太郎」「せつ子さんちの古時計」が収録。 さえ子さんの縁側物語 「花子さん お茶!」「愛しのGREEN GROCER」が収録。 合言葉はパパとママ 「舞ダーリン」1~3を収録。 薔薇色ロマンス 笑って!殿下(1~3巻まで販売した。レディースコミックからの再録) 笑って!殿下 青春編 笑って!殿下2 愛情編 笑って!殿下3 友情編 人形館物語 聖パンプキン物語 「春を待つウサギ」「天使が街にやってきた」「夕鶴恋まとい」が収録。 星影のテラス 「危険なあなたに紅いバラ」「メヌエット」が収録。 その他 完全保存版大好きだった! 少女マンガ70年代篇 双葉社、2014年7月23日、オフィスJ.B 編集、ISBN 4575454605 「作家&作品リスト」に『記念樹』をメインに1970年代の作品が紹介された。 注釈 脚注 外部リンク 星野めみの日記/ウェブリブログ 日本の漫画家 日本の薬剤師 女性薬剤師 共立薬科大学出身の人物 東京都出身の人物 20世紀生 存命人物
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3
コンピュータビジョン
コンピュータビジョン()はコンピュータがデジタルな画像、または動画をいかによく理解できるか、ということを扱う研究分野である。工学的には、人間の視覚システムが行うことができるタスクを自動化することを追求する分野である。 この分野はコンピュータが実世界の情報を取得する全ての過程を扱うため、画像センシングのためのハードウェアから情報を認識するための人工知能的理論まで幅広く研究されている。また、ではコンピュータグラフィックスとコンピュータビジョンの融合が注目を集めている。 研究対象を大別すると、 画像センサ カメラ レンジファインダ 2次元画像処理 背景差分法 フレーム間差分法 オプティカルフロー 動きベクトル 3次元画像処理 ステレオ法(コンピュータステレオビジョン) エピポーラ幾何 Shape from X 因子分解法 (factorization) 認識・識別 機械学習のアルゴリズム(k-nn, k-means, svm等) 深層学習のアルゴリズム(CNN, RNN等) 情報提示 バーチャルリアリティ 複合現実感・拡張現実感 が挙げられる。 これらの技術はロボットビジョン、ウェアラブルコンピュータなどとも深く結びついており、。 また、背景知識として信号処理、線型代数などが要求される。人間の目と脳に匹敵するコンピュータビジョンの開発はAI完全な問題とされている。 関連項目 OpenCV - オープンソースの汎用的なコンピュータビジョンライブラリ。様々な画像処理が標準機能として実装されている。 Matrox Imaging Library 情報学 マシンビジョン 物体認識 物体検出 視覚と自然言語の融合研究 - コンピュータビジョンと自然言語処理の融合分野 外部リンク 画像処理ポータル 画像機器総覧 画像機器総覧は画像処理に関連する製品、技術情報を紹介しているポータルサイト CVPR ICCV2007 PAMI 数分でComputer Vision を概観 こんひゆうたひしよん こんひゆうたひしよん
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9CDeNA%E3%83%99%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA%20%28%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%A0%29
横浜DeNAベイスターズ (ファーム)
横浜DeNAベイスターズ(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズ、Yokohama DeNA BayStars)のファームは、日本のプロ野球球団・横浜DeNAベイスターズの下部組織として設置されているファームチームである。イースタン・リーグの球団のひとつ。2000年から2010年のシーズン終了までは「湘南シーレックス」(しょうなんシーレックス、Shonan Searex)という名称だった(詳細は後述)。 本拠地は横須賀スタジアム(神奈川県横須賀市)。イ・リーグ優勝歴は3度あるが、いずれもジュニア日本選手権及びファーム日本選手権が開催される前の優勝であるため、これらの大会に出場したことはない。これはイ・リーグ所属チームの中では唯一である。 準本拠地であるバッティングパレス相石スタジアムひらつか(神奈川県平塚市)で月2試合程度公式戦を行う。本拠地以外の主催試合に関しては横浜DeNAベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。 歴史・概要 元々は1949年暮れに発足した「大洋ホエールズ」(たいようホエールズ)の二軍として一軍の創設と同時に誕生したとみられ、1950年のプロ野球二軍選手権に参加している。 渡辺大陸総監督が退団した1951年5月に二軍組織が一時解散したことから、山陽電気鉄道傘下の独立二軍球団『山陽クラウンズ』に二軍の選手の育成を委託するという、今日のアメリカにおけるメジャーリーグ球団とマイナーリーグ球団のような方式をとっていた。 その後、山陽クラウンズが1952年10月に解散し、1953年1月に一軍が松竹ロビンスと合併したことに伴い、山陽から復帰した選手と松竹の二軍を合併する形で活動を再開。1954年に新日本リーグに「洋松ジュニアロビンス」(ようしょうジュニアロビンス)として参加、小倉市(現:北九州市)の小倉豊楽園球場を本拠地とする。しかし、松竹が同年末を以て球団経営から撤退したことから「大洋ジュニアホエールズ」に改称し、イースタン・リーグ(第1期)に参加。この際に川崎市へ移転し、長期間のリーグ中断を経て1961年よりイースタンリーグ(第2期)に参加した。 大洋多摩川グランド(1955年~1980年)、保土ヶ谷大洋球場(1980年~1986年、現:横浜FC東戸塚フットボールパーク in 横浜スポーツマンクラブ)を経て、1986年に平塚球場を本拠地として以来、湘南地域をフランチャイズと位置づけ(実際は二軍には保護地域はない)、1997年に横須賀スタジアムの改修工事が完了してからは横須賀と平塚の2球場を主に使用していた。 2000年1月1日、二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、ファームに独自の球団名を採用することを決定。チーム名は「海」を表す“Sea”と、ラテン語で「王」を意味する“Rex”を組み合わせた造語から「湘南シーレックス」と命名。球団旗も独自のデザインに変更したが、ベイスターズのものと同様「REACH FOR THE STARS」のスローガンが入った。また、チームエンブレムは2本のバットに「三浦半島と相模湾を中心とした神奈川県湘南地域」を図案化したものとした。同時に、地元を中心に独自のスポンサーを募るなど独立採算の道を模索するための部署「シーレックス事業部」を開設。しかし毎年2億円前後の赤字を計上するなど採算割れを解消することができず、2004年に解散。その後は球団業務部内の一部署となった。 チーム名やユニフォームなどを一軍とは異なるものを使用することにより、若手選手の意識向上を促すとともに、観客へのサービス向上などを通じた地域密着を目指した。本拠地は引き続き横須賀スタジアムを使用(平塚球場は準本拠地と位置づけた)。 二軍としては異例だが、毎年11月には横須賀スタジアムで「ファン感謝デー」を行っている。 日本のプロ野球球団のユニフォームの多くは、背番号・背ネーム部分をユニフォームの生地に直付け(刺繍もしくはプリント)しているが、湘南のユニフォームの背ネーム部分は、アーチ状の生地にネームをプリントしたものをユニフォームの生地に縫い付けていた。これは「シーレックスに定着されては困る」という励ましの意味で、2020年現在、日本のプロ球団に於いては唯一の例である。 同じ横須賀市を本拠地とする社会人チームの日産自動車(2009年休部)とは密接な関係があり、柳川事件以後初めてとなるプロアマ交流戦を2001年8月15日に行ったほか、毎年交流戦を行っていた。また、「湘南」を冠しているプロサッカークラブの湘南ベルマーレとも交流を深めており、合同トレーニングなどを実施することもある。 相模原市の政令指定都市指定に向け、相模原球場の所有者が神奈川県から相模原市へ移譲されることに伴い、2009年のシーズンより同球場を準本拠地に加える。 2010年10月より「湘南シーレックス」のチーム名を廃止し「横浜ベイスターズ」に戻す。なお、ユニフォームは一軍と同じものを使用する。2011年12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてDeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認され、翌2日に球団株式が譲渡され、商号変更により「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。 1987年に竣工した同市長浦町のマルハニチロアセット社有地(旧:大洋漁業倉庫敷地跡地)に球団が借り受けて使用していた横浜DeNAベイスターズ総合練習場(ベイスターズ球場)の老朽化が進んでいることや、同練習場と試合会場の横須賀スタジアムのある追浜公園との距離が離れていることから、2016年4月、横須賀市とベイスターズ球団は、合宿所・練習用サブ球場などを追浜公園内に集約・一体化させることを目指した基本協定を締結、2019年7月に「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」として竣工した。 このファーム施設の一体化を受けて、横須賀市・ベイスターズ球団と、横須賀市・1軍本拠地の横浜市が沿線に入っている京浜急行電鉄(京急電鉄)と3社連携協定を結び、スポーツを中心とした魅力あふれる街づくりを進めることで合意した。 略歴 1950年頃 - 大洋ホエールズ創立とほぼ同時に二軍発足。「プロ野球二軍選手権」参加。この当時は下関市を本拠地としていた。 1954年 - 新日本リーグに「洋松ジュニアロビンス」として参加。1軍は大阪市が本拠だったが、2軍は下関市と小倉市(現:北九州市)のダブルフランチャイズを採用。 1955年 - イースタン・リーグ発足。「大洋ホエールズ」に改称し参加。ここから本拠地を川崎市に移す。 1961年 - イ・リーグ再発足。当時の本拠地は大洋多摩川グランド(神奈川県川崎市中原区等々力向原3021)。 1968年 - イ・リーグ優勝。 1975年 - イ・リーグ優勝。 1978年 - 「横浜大洋ホエールズ」(よこはまたいよう - )に改称。 1980年 - 本拠地を保土ヶ谷大洋球場へ移転。 1982年 - イ・リーグ優勝。 1986年 - 本拠地を平塚球場(現:バッティングパレス相石スタジアムひらつか)へ移転。 1987年 - 練習場を新設した横浜大洋ホエールズ総合練習場(現:横浜DeNAベイスターズ総合練習場、通称:ベイスターズ球場)へ移転。 1993年 - 「横浜ベイスターズ」に改称。 1997年 - 本拠地を横須賀スタジアムに移転。この頃より、ユニフォーム左袖に「かがやけYOKOSUKA」と二段組みで書かれたワッペンが付けられた(1999年まで)。 2000年 - 「湘南シーレックス」に改称。 2009年 - 相模原球場(現:サーティーフォー相模原球場)を準本拠地に加える。 2010年10月 - 「横浜ベイスターズ」に改称。 2012年 - 「横浜DeNAベイスターズ」に改称。 2016年2月 - 横須賀市と横浜DeNAベイスターズ球団が、追浜公園内に2軍の練習施設を集約するための基本協定を締結 2019年7月 - 2軍練習場(屋外練習場=練習用サブ球場、屋内練習場、合宿所)を集約した「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」が完成 監督・コーチ 歴代監督 一覧は、イースタン・リーグ再発足以降。 1957年 - 1958年 : 宮崎剛 (第1次) 1961年 - 1962年 : 保井浩一 1963年 - 1965年 : 宮崎剛 (第2次) 1966年 : 沖山光利 1967年 : 宮崎剛 (第3次) 1968年 - 1969年 : 藤井勇 1970年 - 1971年 : 山田潔 1972年 : 宮崎剛 (第4次) 1973年 : 土井淳 1973年 - 1974年 : 鈴木隆 1975年 - 1976年 : 引地信之 (第1次) 1977年 : 秋山登 1978年 - 1979年 : 引地信之 (第2次) 1980年 - 1981年 : 須藤豊 1982年 - 1984年 : 山根俊英 1985年 - 1986年 : 江尻亮 1987年 - 1988年 : 前田益穂 1989年 - 1992年 : 中塚政幸 1993年 - 1996年 : 米田慶三郎 1997年 - 1998年 : 竹之内雅史 1999年 - 2003年 : 日野茂 2003年 : 江藤省三 2004年 - 2006年 : 岩井隆之 2007年 - 2010年 : 田代富雄 ※1 2011年 : 白井一幸 2012年 - 2013年 : 山下大輔 2014年 : 大村巌 2015年 : 山下大輔(第2次) 2016年 - 2017年 : 二宮至 2018年 - 2019年 : 万永貴司 2020年 : 三浦大輔 2021年 - : 仁志敏久 ※1 2009年5月18日よりシーズン終了まで一軍監督代行に就任。その間、シーズン終了までを高木由一が代行 キャラクター(球団マスコット) 日本のプロ野球では1、2軍合わせて最多の16人。モチーフは海の生物(テントリーのみテントウムシ)。全員がベイスターズ二軍の一員という設定。ただし、試合に登場する着ぐるみはレックのみ。 横浜京急バス追浜営業所では、これらのキャラクターを起用した路線バス2台を「シーレックスバス」として、追浜地区路線と磯子駅 - 追浜車庫前線で運行。 漫画家のいけだたかしが横浜の情報誌「Beautiful Yokohama」(2004年シーズンで廃刊)で、球団マスコット達の活躍を描いた漫画を掲載していた。 2012年3月20日のイースタンリーグ公式戦にて全員引退した。 レック ベイスターズ二軍のエースで、キャプテンを務める。チームからも慕われる人気者。ポジションは投手。背番号01。「シーレックス」廃止に伴い、2011年以降は横浜ベイスターズのマスコットの一員となる。二軍マスコットであるが、球団側は「ホッシーの働きが悪ければホッシーを二軍に落とし、入れ替わりで一軍登録もあり得る」とコメントしていた。しかし、結局一軍に昇格されないまま引退となった。 レッタコス ベイスターズ二軍の女房役的存在。野球に関しては理論派だが性格は短気。怒るとスミを吐き出す。ポジションは捕手。背番号02。 スー ベイスターズ二軍一の美人選手。守備は華麗だが打撃はイマイチ。しかし、とてもお洒落な女性である。ポジションは一塁手。背番号03。 カモドッキー ベイスターズ二軍の俊足選手。そそっかしいが、誰とでも仲良くなれる優しい性格。不思議な言葉遣いの持ち主である。ポジションは二塁手。背番号04。 ナンナン 喜怒哀楽がはっきりと表情に出るキュートな女の子。チームのマスコット的存在である。ポジションは三塁手。背番号05。 クスマキ 寡黙な性格だが、ファイトプレイはチーム一の腕白小僧。ヘッドスライディングはお手の物。ポジションは遊撃手。背番号06。 タヌパンマキ 練習嫌いでイタズラ好き。ズル賢い性格だが、何故か憎めないヤツ。ダジャレが得意。ポジションは左翼手。背番号07。 ショー 華麗な守備を見せる名プレイヤー。根は優男で、スーにアタックしても相手にされないらしい。ポジションは中堅手。背番号08。 アンコラーノ チーム一の大食漢。鈍足だが、何故か強肩の持ち主である。ポジションは右翼手。背番号09。 シュリンピー バネを生かした「エビゾリ投法」の持ち主のリリーフエース。子供が24人いる。背番号10。 クルマキ クスマキの妹。兄との出場を夢見る「思い込み」アイドル的存在。ポジションは外野手。背番号12。 ボー 恥ずかしがり屋の女の子。耳を閉じるとまん丸くなる。名前通りボーっとしている。ポジションは内野手。背番号13。 サンジュゴロー 紅顔の頑固者で、監督の言うことを聞かず、身勝手。打ち出すと止まらない打撃の持ち主であるが、好不調の波が激しい。 ポジションは捕手。背番号35。 ハマグリン いつもは冷静な哲学者の外見だが、居眠りの名人。物知りで、チーム最年長のコーチ。背番号89。 テントリー ヘッドコーチで、身体はピンポン球サイズ。敵のチームに飛んでいく参謀役の存在。背番号64。 シーノン いつもは冷静だが、試合になると血が騒ぐ熱血漢に。ファンからも親しまれている温情監督で、背番号71。シーレックス発足当時の監督であった日野茂がモデルと言われている。 放送 テレビ神奈川(?~2004年)湘南シーレックス時代に年間数試合ナイター中継があった BSフジ(2001年のみ) 日テレG+ 読売ジャイアンツ主催ゲーム GAORA 日本ハムファイターズ主催ゲーム 脚注 関連項目 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 大堀隆 ケチャップ (タレント) 吉岡さちこ 湘南ベルマーレ 天津ライオンズ 佐藤友香(湘南ケーブルネットワークFAN FUN シーレックス) 外部リンク 横浜DeNAベイスターズ - ファーム(公式サイト) 日本プロ野球のファームチーム 2 神奈川県の野球チーム 平塚市のスポーツ 横須賀市のスポーツ 1950年設立のスポーツチーム
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山本おさむ
山本 おさむ(やまもと おさむ)は、日本の漫画家。血液型はA型。長崎県立大村工業高校卒業。妻(後に死別)は同業者の久木田律子。 来歴 母子家庭に育ち、1973年に高校卒業後に上京して、運送助手などをしながら漫画修業した。1976年から巴里夫のアシスタントを数年間つとめて、その他に尾瀬あきらのアシスタントもつとめながら、作品を幾多かの出版社に持ち込むが、すべて断られて、唯一『漫画アクション』(双葉社)のみ認められて、本名の山本 収名義で1980年にデビューした。 その後『ぼくたちの疾走』などの青春漫画路線から、『遥かなる甲子園』以降、『漫画アクション』の編集長に掛け合った末に聴覚障害者などを取り上げた作品を多く描くようになる。こうしたテーマへの取り組みの意図は、エッセイ『どんぐりの家のスケッチ - 漫画で障害者を描く』(1998年刊行)で読むことができる。 『遥かなる甲子園』では聾学校の野球部の子供たちを、『わが指のオーケストラ』では日本のろう教育の歴史を描き、障害児教育へ一石を投じたものとして反響を呼んだ。聾学校での重複障害の子供たちを描いた。 『どんぐりの家』は第24回(1995年度)日本漫画家協会賞優秀賞を受賞した。同作品は1997年に映画化され、社会的にも話題になった。映画化にあたり、自ら脚本の執筆、総監督を行った。第1回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞した。 夭折した非凡の棋士村山聖の人生を基にした『聖-天才・羽生が恐れた男』を描くことになったきっかけは、後に死別した妻の久木田が村山と同じ病気を患っていたことであり、間もなく久木田は連載中に亡くなった(後に福島県岩瀬郡天栄村出身の女性と再婚)。 ほかに日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗 日曜版』でエッセイ漫画『今日もいい天気』を連載している(2008年 - 2009年パートI、2012年パートII、2017年パートIII)。福島県天栄村での作者の田舎暮らしをコミカルに描いたパートIが好評だったため、震災前の2010年にパートIIの連載が決まっていたが、その後の原発事故を受け、編集部は続編は無理ではないかと判断していた。作者自身の自主避難体験を描くことを決意していたことも連載の中で描かれている。パートIと対照的な連載になったが、パートIも含めたこの作品が、第42回 (2013年度)日本漫画家協会賞特別賞を受賞をした。 九条の会傘下の「九条の会・さいたま」呼びかけ人を務めている。 作品リスト ぼくたちの疾走 - 『漫画アクション』(双葉社、1981年 - 1985年) 麦青 - 共著:白山宣之、『漫画アクション』(双葉社、1986年) 8カラット - (双葉社、1987年) 遥かなる甲子園 - 『漫画アクション』(双葉社、1988年 - 1990年) わが指のオーケストラ - 原案:川淵依子『指骨』、『ヤングチャンピオン』(秋田書店、1991年 - 1992年、全4巻) どんぐりの家 - 『ビッグコミック』(小学館、1993年 - 1997年) ペンだこパラダイス(双葉社、1994年 - 1995年) コキーユ - 貝殻 - 『ビッグコミック』(小学館、1995年) オーロラの街 - 『ビッグコミック』(小学館、1998年 - 1999年) 聖 -天才・羽生が恐れた男- - 『ビッグコミック』(小学館、2000年 - 2002年) Hey!! ブルースマン - 『モーニング』(講談社、2003年 - 2004年) 天上の弦 - 『ビッグコミック』(小学館、2003年 - 2006年)『海峡を渡るバイオリン』を原作に、バイオリン製作者陳昌鉉を題材にした漫画。 どんぐりの家〜それから〜 - (小学館、2007年) 今日もいい天気 - 『しんぶん赤旗 日曜版』(2008年 - 2009年、2012年、2017年) そばもん ニッポン蕎麦行脚 - 監修:藤村和夫 『ビッグコミック増刊号』(2008年 - 2009年)→『ビッグコミック』(小学館、2009年 - 2016年) 津軽 太宰治短編集(原作:太宰治、小学館、2011年) そばもん外伝 駿府のそば - 山本おさむ with 神田ゆう、『コミック乱ツインズ』(リイド社、2016年 - ) 赤狩り THE RED RAT IN HOLLYWOOD - 『ビッグコミックオリジナル』(小学館、2017年 - 2021年、全10巻) 父を焼く - 『ビッグコミックオリジナル』(原作:宮部喜光、小学館、2022年) シリーズ【父を焼く】もものこと - 『ビッグコミックオリジナル』2022年20号 - (小学館、2022年 - ) 漫画以外の作品 小説どんぐりの家(汐文社 1997年) - 原案 どんぐりの家のデッサン-漫画で障害者を描く(岩波書店、1998年。2018年岩波現代文庫) - エッセイ 映画『星に語りて』(2019年3月全国公開) - 脚本 脚注 関連項目 巴里夫 - 師匠 尾瀬あきら - 師匠 太田垣康男 - アシスタント 日本の漫画家 新聞連載の漫画家 九条の会の人物 長崎県立大村工業高等学校出身の人物 長崎県出身の人物 1954年生 存命人物
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山根和俊
山根 和俊(やまね かずとし、1970年8月10日 - )は、日本の漫画家。三重県出身、京都府育ち。 経歴 1989年、「BERSERK」がホップ☆ステップ賞にて佳作を受賞。その後、萩原一至のアシスタントになり、同時にゲームメーカーウルフチームにアルバイトとして勤務した。 『アークス・オデッセイ(移植版タイトル:アークス・スピリッツ)』『アーネストエバンス』『エル・ヴィエント』『アークスIII』といった作品でキャラクターデザインやイラスト、ビジュアルシーン原画などを担当する。1991年にBEEP!メガドライブ(ソフトバンク)掲載の『エル・ヴィエント』漫画版で商業誌デビュー。なお、この連載の際に使ったペンネーム「上野哲也」は、同作の製作に携わったスタッフの名前をそのまま流用したものだった。 定金伸治の小説『ジハード』の挿絵を経て、『週刊少年ジャンプ』にて「超弩級戦士ジャスティス」にて連載デビュー。以降も『週刊少年ジャンプ』で連載を持つが、あまり支持を得られない時期が続いた。その後、『月刊少年ジャンプ』や『スーパージャンプ』などでも連載を行っていた。 2006年、『週刊少年チャンピオン』に移籍し「ギャンブルフィッシュ」(原作:青山広美)を連載開始する。2010年に連載終了。 2011年、『近代麻雀』で青山広美の過去作品『バード』のリメイク版『バード 〜最凶雀士VS天才魔術士〜』を連載する。その後、新規の続編『バード 〜雀界天使VS天才魔術師〜』『バード BLACK MARKET -闇市編-』を連載している。 作品リスト BARSERK(読み:バァーサーク、ホップ★ステップ賞SELECTION第4巻掲載、「山根和俊短編集 プロトタイプ」に収録) KILL BLADE(『週刊少年ジャンプ増刊 1990年SpringSpecial) SCORPIO(『週刊少年ジャンプ増刊』 1990年SummerSpecial、同短編集に収録) 魔剣戦記 DEICIDE(『週刊少年ジャンプ』 1993年30号) ジハード(『少年ジャンプ季節増刊号』1992年AS(オータムスペシャル) - 1993年SS(スプリングスペシャル)、原作:定金伸治) 超弩級戦士ジャスティス(『週刊少年ジャンプ』1993年48号 - 1994年11号、全2巻) クルセイド 〜風のヴァレリー〜(『月刊少年ジャンプ』1995年8月号 - 1996年3月号、原作:定金伸治、全2巻) 『ジハード』の翻案版。原作の描写や設定についてはあえて細部まで踏襲せず、山根が独自解釈で再構成している。 オメガエンジェル (『週刊少年ジャンプ増刊』、1995年WinterSpecial、同短編集に収録) GANRYU(『週刊少年ジャンプ』 1997年1号、同短編集に収録) JOKER(『週刊少年ジャンプ』1997年15号(読切) 32号 - 47号、全2巻) 山根和俊短編集 プロトタイプ (1998年3月9日発行) CHOPPERS!!(『週刊少年ジャンプ』1998年19号) ガンリュウ(『月刊少年ジャンプ』2000年4月号 - 2003年2月号、全8巻) 大江戸バーリトゥード(『スーパージャンプ』2004年17号 - 2005年7号、『オースーパージャンプ』2005年5月号、原作:福内鬼外、全2巻) ギャンブルフィッシュ(『週刊少年チャンピオン』、原作:青山広美、全19巻) バードシリーズ バード 〜最凶雀士VS天才魔術師〜(『近代麻雀』、原作:青山広美、全2巻) バード 〜雀界天使VS天才魔術師〜(『近代麻雀』、原作:青山広美、全3巻) バード BLACK MARKET -闇市編-(『近代麻雀』、原作:青山広美、全9巻) 超人戦線(『チャンピオンRED』、原作:青山広美、全7巻) 林道タイガー(『ヤングチャンピオン』2020年No.20 - No.21) 黄金バット 大正髑髏奇譚(『チャンピオンRED』2023年2月号 - 、原作:神楽坂淳) 逸話 上記の他にアメリカのコミックレーベルverotikで読切を数本掲載していた。 父が手塚治虫のファンで、それを読んでいたが、19歳まで漫画を描いたことがなく、バイクに夢中だった。高校卒業後に漫画家を目指すことになった。 上記のようにハーレーダビッドソンやドゥカティに乗るバイカーでもあり、両腕にタトゥーを施している。バイク交通事故によって右腕を切断しかける事態に陥ったこともあり、この際に『エル・ヴィエント』の連載を中断(打ち切り)している。 ウルフチームのゲームソフト『アークスI・II・III』や、アーネストエバンズシリーズの最終作『アネット再び』の製作時には既にウルフチームでのアルバイトを辞めていたため参加していないが、前者では関連作『アークス・オデッセイ』や『アークスIII』のキャラクターデザインが流用されており、後者でも『アーネストエバンス』『エル・ヴィエント』における山根のデザインを踏襲の上で新規デザインが起こされている。 既婚者であり、『ギャンブルフィッシュ』11巻の単行本では妻の写真を掲載している。 脚注 関連項目 萩原一至 - 師匠 柳田東一郎 - アシスタント 坂本眞一 - 親友 外部リンク 日本の漫画家 日本テレネットの人物 京都府出身の人物 三重県出身の人物 1970年生 存命人物
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堀江卓
堀江 卓(ほりえ たく、男性、1925年3月14日 - 2007年2月8日)は、日本の漫画家。山口県下関市出身。1956年から連載した『つばくろ頭巾』が人気となり、1957年から連載した『矢車剣之助』はテレビドラマ化されて代表作となった。他の代表作には、テレビドラマ化された『天馬天平』や、新東宝で映画化された『ハンマー・キット』などがある。 来歴 太平洋戦争中は海軍に所属した。終戦後、日立製作所笠戸工場に入り、直営の映画館を任される。支配人を務めながら映画の看板を描く一方、1コマ漫画や4コマ漫画を週刊誌に投稿した。 映画のフィルムを借りに来た大阪でテレビを見て映画の時代は終わると感じ、片手間で描いたコマ漫画が採用されるなら本気で描けば漫画家になれると思い、1955年に漫画家を目指して上京した。1週間でダメなら戻ろうと思って最初に飛び込んだ出版社では、6回描き直させられた挙げ句、編集長に居留守を使われた。しかし、その帰り道に飛び込んだ芳文社で「絵は下手だしストーリーもつたない。しかし、変わっている」と言われ、依頼されるようになる。 1956年、痛快ブック増刊『剣豪ブック』陽春活劇号(3月1日発行)に「俺は藤吉郎だ」を発表してデビュー。以後、『痛快ブック』(芳文社)に時代物の読み切り短編を掲載していった。 『痛快ブック』1957年2月号に掲載された短編「飛燕一刀流」に登場した“つばくろ頭巾”が人気を得た。当時の『痛快ブック』編集者だった藤本七三夫は「西部劇を日本の時代劇に登場させては」と堀江に提案し、5月号より『つばくろ頭巾』の連載が始まった。白馬に乗って拳銃を放つ侍が主人公であるこの作品は3年間の長期連載となり、初期の代表作となるとともに作者を人気作家の地位に押し上げた。 また、『少年』(光文社)1957年8月号からは、後に代表作となる『矢車剣之助』の連載を始める。大岡越前守配下で、剣と銃の達人である少年剣士・矢車剣之助が、謎の黒覆面「夜の帝王」に扮し活躍するこの作品は、無限の弾数を持つ二丁拳銃による派手なアクションや、敵方の城が巨大戦車になるなどのSF的なからくりが全国の子どもたちを熱狂させ、同誌に連載されていた手塚治虫『鉄腕アトム』や横山光輝『鉄人28号』と人気を分けた。後に手塚茂夫主演でテレビドラマ化され、こちらもヒットした。 以後も頼まれた仕事は断らず、『ハンマー・キット』(『少年』)、『ブルージェット』(『おもしろブック』『少年ブック』)、『少年ハリマオ』(『少年クラブ』)、『天馬天平』(『少年画報』)、『隠密剣士』(『週刊少年マガジン』)、『赤い風車』(『ぼくら』)、『スパイキャッチャーJ3』(『ぼくら』)などを連載した。 1974年、短編「路地」を『ビッグコミック』(小学館)7月25日号に発表し、青年誌に進出する。以後、『リイドコミック』などに青年漫画、劇画を執筆する。 1980年からは、『オオカミ王ロボ シートン動物記』(学研)など、名作や伝記、歴史などの学習漫画を執筆。1996年まで漫画を描き続けた。 2007年2月8日、死去。。 作品リスト おれは藤吉郎だ (痛快ブック増刊「剣豪ブック」陽春活劇号 1956年3月1日発行) デカンショくん (痛快ブック 1956年 6月号付録) 忠治子守りうた (痛快ブック増刊「剣豪ブック」白刃乱舞号 1956年8月20日発行) 江戸っ子奉行遠山金四郎(痛快ブック 1956年7月号付録 -1957年 5月号) 剣豪一刀流(痛快ブック 1956年8月号付録) 鞍馬二刀流 (痛快ブック 1956年11月号付録) 魚河岸の石松(痛快ブック 1956年12月号付録) 豪力雲竜 飛燕一刀流 『つばくろ頭巾』完全版、マンガショップ、2007 - 『飛燕一刀流』の登場人物の一人を主人公にしたもの 『矢車剣之助』光文社、1959 秋田書店、1967、講談社漫画文庫、1976- アース出版局、1993 ドラマ化 『天馬天平』全5巻 少年画報社、1957-58 - ドラマ化 『ブルージェット』きんらん社、1961 『ハンマー・キット』完全版、マンガショップ、2010 あばれ頭巾 風速一平太 『太陽仮面』(原作・川内康範)完全版、マンガショップ、2007 『ガン・キング』講談社、1961 『少年ハリマオ』きんらん社、1960 朝日ソノラマ・サン・コミックス、1968 『黒い野牛』完全版、マンガショップ、2007 怪傑黒い月 保安官キッド 『隠密剣士』完全版、マンガショップ、2009 - テレビドラマの漫画化 『黒王子』完全版、マンガショップ、2010 戦国の虎 『忍者シデン』完全版、マンガショップ、2008 『スパイキャッチャーJ3』(原作・都筑道夫)完全版、マンガショップ、2010 - 特撮テレビドラマの漫画化 『少年ハリケーン』完全版 マンガショップ、2006 『赤い風車』秋田書店・サンデーコミックス、1968 完全版、マンガショップ、2006 『黒い編笠』ーテレビ放送された時代劇のコミカライズを『ぼくら』に連載 ウルトラセブン(ぼくら 1968年6月号付録) -  特撮テレビドラマの漫画化 『上杉謙信』宮崎惇原作 (講談社劇画伝記文庫 1969 『豊臣秀吉』宮崎惇 原作 (講談社劇画伝記文庫 1970 路地 劇画関東大震災 万華鏡 遠賀川 ニルスのふしぎな旅 シートン動物記 『天下の副将軍 水戸黄門』学習研究社, 1981.7 『聖徳太子 国づくりの若きリーダー』(学研まんが. 伝記シリーズ) 学習研究社, 1982.1 『源氏と平氏(日本の歴史 5)』学習研究社, 1982.3 『元寇のあらまし(日本の歴史 6)』学習研究社, 1982. 『南北朝の争い(日本の歴史 7)』学習研究社, 1982. 『平家物語 (コミグラフィック. 日本の古典)』辻真先構成. 暁教育図書, 1982.9 『心中天網島 女殺油地獄・曽根崎心中』(コミグラフィック. 日本の古典) 辻真先 構成. 暁教育図書, 1983.5 『まんがでわかる刑法』(原作円山雅也)集英社、1983 『まんがでわかる刑法の落とし穴』円山雅也 著, 集英社, 1987.10 『金色夜叉 :尾崎紅葉 不如帰 :徳富蘆花』 (コミグラフィック. 日本の文学) 三上修平構成, 暁教育図書, 1988.2 『暮らしを守る法律戦術 知らないと一生ソンする!! まんが』和久峻三原作・監修,学習研究社, 1988.4 『高杉晋作 幕末・維新の風雲児 (学研まんが人物日本史) 学習研究社, 1989.11 『広島の歴史 ふるさとまんが 上巻 (毛利元就)』祖田浩一原案. 学習研究社, 1989.3 『広島の歴史 ふるさとまんが 下巻 (毛利輝元)』祖田浩一原案. 学習研究社, 1989.3 『人物日本の歴史 まんがで学習 4 江戸時代(元禄~幕末) 』あかね書房, 1990.4 『まんが百人一首なんでも事典』金の星社, 1993.7 『おもしろ日本史まんが人々のくらしと経済』全3巻 ぎょうせい, 1996.8 源義経 西郷隆盛と大久保利通 エネルギーのひみつ その他、多数 脚注 外部リンク 丑年にちなんだ西部劇マンガ『黒い野牛』 忍者がアメリカ先住民のリーダーに!?(中野晴行【マンガ探偵局がゆく】2021年1月10日記事) 日本の漫画家 山口県出身の人物 1925年生 2007年没
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ほりのぶゆき
ほり のぶゆき(1964年10月16日 - )は、日本の漫画家。兵庫県神戸市出身。 法政大学卒業。学生時代は漫画研究会で活動。同期に永野のりこがいるが、当時は面識が無かった。 1988年、『ビッグコミックスピリッツ』の第1回相原賞で「金のアイハラ賞」を受賞してデビュー。兄は『ビッグコミックスピリッツ』編集長の堀靖樹(サルまんのグラビアでは兄弟そろって顔出ししていた)。 1995年7月21日に『江戸むらさき特急』がオリジナルビデオ化されている。監督は俳優の山城新伍。 作品リスト 世相木端微塵 天然の馬鹿力 もののふの記 からげんき バーディー侍 (『ログイン』アスキー) たわけMONO (『まんがくらぶ』竹書房) 荒川道場 (『まんがパロ野球ニュース』竹書房) 宇宙喜劇M774 (『まんがくらぶ』竹書房)- アスペクトより「21世紀画報」「極東ロボ社会」も収録して単行本化 21世紀画報 (『まんがくらぶ』竹書房) 極東ロボ社会 (『まんがくらぶ』竹書房) 江戸むらさき特急 (『ビッグコミックスピリッツ』小学館、1991年47号 - 1995年19号) 店もん (『ビッグコミックスピリッツ』小学館) ちょんまげどん (『ビッグコミックスピリッツ』小学館) 旅マン (『ビッグコミックスピリッツ』小学館) 怪獣人生 (『ビッグコミックスピリッツ』小学館) てれびさん (『コミックバーガー』スコラ - 2巻目は諸事情により、タイトルを『超人読本』に改められている) 喜劇・空想特撮温泉 (『コミックバーズ』スコラ) 38年目の疑問 (小学館刊『ウルトラマンDNA』掲載) 黒幕さん (『ビッグコミックオリジナル増刊』小学館) 猛虎はん 野球マンガ選集(『HotSPA!』) 旅愁マスク観光系(『パニック7ゴールド』白夜書房) 企業の犬 (『コミックチャージ』角川書店) 東京お侍ランド (『モバMAN』小学館、2008年7月18日 - 2011年2月18日) 東京お侍ランド ハイブリッド(『モバMAN』小学館、2011年 - 2015年4月3日)- 2017年に「まんが版 武士の歴史」と題して全2巻で単行本化 哀しみ本線ブルーダイヤ (『パニック7ゴールド』白夜書房→ガイドワークス)、監修:川崎ぶら パパ侍が往く! (『AERA with Baby』朝日新聞出版) 温泉地獄変 (『漫画サンデー』実業之日本社、2012年30号) 阿鼻叫喚!!ゆるふわ地獄 (『ビッグコミックオリジナル増刊』小学館、2014年1月増刊号 - 2017年1月増刊号) 阿鼻叫喚!!ゆるふわ地獄 阪神増刊特別編(『ビッグコミックオリジナル阪神タイガース増刊号』小学館、2015年6月30日号) 絶倫将軍 (『ビッグコミックオリジナル』小学館、2014年2号) これはゴジラではない(『ビッグコミックオリジナルゴジラ増刊号』小学館、2014年8月10日号) 2014 1号スーツの逆襲(『ビッグコミックオリジナルゴジラ増刊号』小学館、2014年8月10日号)、作画:深山雪男 (タイトル不定)(『月刊Newsがわかる』毎日新聞社、2014年11月号 - ) ※歴史クイズ記事「レキッパ!!」(出題と文:伊沢宏樹)のスペースに掲載の漫画。タイトルは毎回異なる。 アサ芸お侍トピックス(『週刊アサヒ芸能』徳間書店、2015年1月1日・8日合併号 - ) 信長の理望~ん(『コミック乱』リイド社、2015年5月号 - 2017年8月号)、協力:コーエーテクモゲームス -「信長の理望~ん 創造」と題して単行本化 人間の20年 漫画誌の20年(『コミックビーム』KADOKAWA、2015年12月号) 20世紀から来たパチンカー パチマン(『ぱちガブッ!』サミーネットワークス・ガイドワークス、2016年4月14日 - 2016年12月29日) 言うほどみんな猫が好きかというとちょっとギモンである(『月刊ねこだのみ』小学館、vol.5 - vol.12) 猫道 (『ビッグコミックオリジナル増刊』小学館、2017年5月増刊号 - 2022年7月増刊号) 三大怪獣グルメ(『WEBコミックガンマ』竹書房、2019年9月30日 - 2020年4月20日)、原作:河崎実、監修:久住昌之 イラスト 『信長の野望・創造』(織田信長) 『コマンタレビーマー』(『コミックビーム』アスキー→エンターブレイン→KADOKAWA、1995年12月号 - )、コラム:神山修一 ※当初のタイトルは『マッドサイエンティスト列伝 世界のビーマー』。その後タイトルが何回か変更されて「コマンタレビーマー」で定着。2015年に「世界偉人変人博物館」と題して書籍化。 コラム 『ひとときエッセイ そして旅へ』(『ひととき』ウェッジ、2016年3月号) 『ホリホリの旅の絵日記』(『ひととき』ウェッジ、2018年4月号 - ) ※漫画家の堀道広と1ヶ月交代での連載 脚注 関連項目 悪代官 - 三作目でイベントの挿絵を担当 超高速!参勤交代 - 映画のパンフレットに4コマ漫画が掲載 外部リンク 旅姿一人マン(本人のブログ) 日本の漫画家 法政大学出身の人物 神戸市出身の人物 1964年生 存命人物
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横須賀市
横須賀市(よこすかし)は、神奈川県南東部の三浦半島に位置する市。中核市に指定されている。 概要 神奈川県南東部に位置する三浦半島の大部分を占め、市域の東側は東京湾(浦賀水道)、西側は相模湾に面する。東京湾唯一の自然島である猿島も行政区域に含まれる。行政区域内標高の最高点は大楠山の標高242mであり三浦半島の最高峰となっている。それほど標高が高い山はないが、中央部は山間部や急峻な丘陵部(三浦丘陵)が中心で平地は少ない。そのため、古くから海岸線の埋め立てが行われており、現在の中心市街地(京急の横須賀中央駅周辺)も大部分が埋立地にある。また、海岸沿いまで山が迫る地形のためトンネルが多いのも特徴で、神奈川県にある道路・鉄道トンネルのおよそ半数が市内に集中している。直下には三浦半島断層群が所在している。 市内の行政・経済的都市機能が集中する東京湾岸には大工場や住宅群がひしめきあうが、相模湾岸には自然が多く残され農業も盛んである。市内中心部から東京都心までは京急本線で約1時間の距離で、JR横須賀線では約1時間10分かかる。また横浜横須賀道路など地域高規格道路が整備されており、車では平日朝の通勤時間帯だと東京国際空港まで約1時間、東京都心へは1時間15分程度となっている。 東京湾の入口に位置するため江戸時代から国防の拠点とされ、大日本帝国海軍横須賀鎮守府を擁する軍港都市(軍都)として栄えた。現在もアメリカ海軍第7艦隊・横須賀海軍施設および海上自衛隊自衛艦隊・横須賀地方隊および陸上自衛隊武山駐屯地・久里浜駐屯地や航空自衛隊武山分屯基地などの基地が置かれており、現在でもかつての軍都・軍港としての名残を多く残す。また自衛隊関係の教育施設(防衛大学校、陸上自衛隊高等工科学校)も置かれている。 三浦丘陵に位置するため地形が山がちという地理的要因から、今後大きな人口増加は望めないため、「国際海の手文化都市」をスローガンに「交流人口」(仕事やレジャーでの流入人口)の増加、そして「また来てもらえる街」をめざしている。施策として横須賀リサーチパーク (YRP) 開設やよこすか海辺ニュータウンの開発、高等教育機関(神奈川県立保健福祉大学、陽光小学校跡地への福祉系4年制大学)の誘致、海軍カレー、ヨコスカネイビーバーガー(ご当地バーガー)による街興し、異国情緒漂うどぶ板通り、映画撮影や市内が登場するアニメ作品の誘致やタイアップ企画、ヴェルニー公園(1万メートルプロムナード計画の起点)、三笠公園、くりはま花の国、長井海の手公園 ソレイユの丘、横須賀美術館等、観光施設の整備などが積極的に行われている。 また、基幹産業が景気に左右されやすい重厚長大産業であることが災いして、市民の所得水準が県内では三浦市についで低く(ただし、他都道府県の市町村と比べれば高めの方ではある)、多くの人口を抱えながら市民税の収入が県内でワースト3であり、市の財政は市債と地方交付税に頼らざるを得ない。市債償還が財政を圧迫しており、市の財政は非常に苦しいものとなっている。一時は年間数千人単位の人口減にもかかわらずYRP効果で法人市民税が増加していたが、ここ5年はほぼ頭打ちとなり横ばいである。 地理 隣接している自治体・行政区 横浜市(金沢区) 逗子市 三浦市 三浦郡:葉山町 東京湾を間に挟んで千葉県富津市に面する。東京湾フェリーで連絡。 歴史 江戸時代以前については三浦半島#歴史も参照。 約3万年前(旧石器時代)に遡る石器や29000年以前に作られた長方形の落とし穴列が船久保遺跡で発見されている。縄文時代に入ると生活の跡である貝塚も市内に散見されるようになる。古墳時代には小規模ながら古墳がつくられ、奈良時代中ごろまでは相模国から上総国へと抜ける古東海道が通じていた。 市内公郷の宗元寺(曹源寺)は県内屈指の古刹であり、三浦郡の行政の中心地であったともいわれる。中世には三浦氏、後に相模三浦氏が一帯を支配するようになるが、戦国時代に北条氏により滅亡、その後徳川家康の領地となる。江戸時代に入ると海上からの首都の玄関口となり、燈明堂や奉行所がおかれた。1720年(享保5年)に浦賀奉行所が置かれて以降は浦賀が商業地として栄えた。 幕末には黒船来航の地となり、観音埼灯台の点灯、横須賀製鉄所や横須賀鎮守府設置、横須賀線の開通など、近代化や国防における要所として発展、県内では横浜市に次いで2番目に市制施行を果たした。昭和時代に入ると大日本帝国海軍の一大拠点となり、軍事施設を持つ周辺の町村を併合することでほぼ現在と同様の市域が形作られた(逗子町は後に分離)。このため横須賀市では昭和と平成の大合併に伴う市町村合併は行われていない。 戦後はアメリカ軍や自衛隊が駐留する一方、東京や横浜など首都圏のベッドタウンとして発展した。 年表 1063年:村岡為通が衣笠城を築き、三浦氏を名乗る。 1180年:衣笠城が落ち、三浦大介義明が死ぬ(衣笠城合戦)。 1247年:三浦氏は北条時頼に滅ぼされるが、佐原十郎義連の子らが北条氏側につき、「三浦介」をつぐ。 1253年:日蓮が米が浜に流れ着いたと伝えられる。 1518年:新井城が北条早雲に攻められ、三浦氏一族滅亡。 1590年:豊臣秀吉が全国を統一し、三浦半島は徳川家康の領地となる。 1648年:浦賀に燈明堂が置かれる。 1660年:砂村新左衛門が内川新田の開発に着手。 1720年:浦賀に奉行所が置かれる。 1842年:大津陣屋が置かれ、江戸湾(現在の東京湾)の守りが固められる。 1853年:浦賀沖にマシュー・ペリーの率いる黒船が来航(中島三郎助が乗船)、久里浜に上陸。 1860年:咸臨丸、浦賀港を出港。 1864年:小栗忠順たちが造船工場をつくるために横須賀の海を調査。 1865年:レオンス・ヴェルニーと小栗の尽力により横須賀製作所建設開始。 1866年(慶応元年):江戸幕府により横須賀造船所が開設。 1869年(明治2年):日本初の洋式灯台観音埼灯台が点灯。 1870年(明治3年):西浦賀と東浦賀が合併、浦賀村となる。 1873年(明治6年):ヴェルニー、走水の湧水を利用し、造船所への引水を計画する。 1876年(明治9年):横須賀村と浦賀村が町制施行。 1878年(明治11年):郡区町村編制法施行。現在の市域は全域が三浦郡となり、横須賀町に郡役所設置。 1884年(明治17年):横須賀鎮守府が置かれる。 1889年(明治22年):町村制施行により、三浦郡横須賀町が発足。横須賀線(大船駅 - 横須賀駅)開通。 1895年(明治28年):東京湾要塞司令部が置かれる。 1901年(明治34年):久里浜海岸でペリー提督上陸記念碑の除幕式が行われる。 1905年(明治38年):横須賀電燈株式会社設立。 1906年(明治39年):横須賀ガス株式会社設立。横須賀町と豊島町が新設合併し、改めて横須賀町が発足。 1907年(明治40年):2月15日、市制施行し、横須賀市が発足。当時の人口は 62,876人。 1908年(明治41年):水道が引かれる(市営走水水道)。 1916年(大正5年):追浜に海軍航空隊開設。 1921年(大正10年):横須賀水道が海軍により整備される。 1923年(大正12年):関東大震災で大きな被害を受ける。 1925年(大正14年):横須賀線が電化される。 1930年(昭和5年):湘南電気鉄道(黄金町駅 - 浦賀駅、現京急本線)運転開始。 1931年(昭和6年):湘南電鉄黄金町駅 - 日ノ出町駅開通、京浜電鉄と乗入れ開始。 1933年(昭和8年):衣笠村、田浦町を編入。 1937年(昭和12年):初代「横須賀市歌」(作詞・北原白秋、作曲・山田耕筰)を制定。久里浜村を編入。 1938年(昭和13年):6月29日、集中豪雨により横須賀市立豊島小学校で土砂災害が発生。児童5人が死亡。 1942年(昭和17年):2月1日、味噌と醤油の配給制度が始まる(横浜市、川崎市、藤沢市、平塚市、鎌倉市、小田原市も同日から開始)。同時に衣料品にも点数切符制が導入された。 1942年(昭和17年):12月1日、東急(同年京浜電鉄を合併)久里浜線(横須賀堀内駅〜久里浜駅、現堀ノ内駅 - 京急久里浜駅)開通。 1943年(昭和18年):浦賀町、北下浦村、長井町、武山村、大楠町、逗子町を編入。 1944年(昭和19年):国鉄横須賀線(横須賀駅 - 久里浜駅)延伸開通。 1945年(昭和20年):米海兵隊が8月30日に上陸、市内軍事施設は全て進駐軍管理下に置かれる。米海軍横須賀基地司令部が発足。 1948年(昭和23年):横須賀港が重要港湾に指定される。 1950年(昭和25年):旧軍港市転換法に関する住民投票実施、施行。旧逗子町域が横須賀市より分離して逗子町となる。 1952年(昭和27年):保安庁警備隊(後の海上自衛隊)横須賀地方隊が編成される。 1962年(昭和37年):アメリカのコーパスクリスティ市と姉妹都市になる。 1963年(昭和38年):京急久里浜線(京浜久里浜駅 - 野比駅、現京急久里浜駅 - YRP野比駅)延伸開通。 1966年(昭和41年):京急久里浜線(野比駅 - 三浦海岸駅間)延伸開通。 1967年(昭和42年):2代目「横須賀市歌」(作詞・堀口大學、作曲・團伊玖磨)を制定。 1970年(昭和45年):フランスのブレスト市と姉妹都市になる。 1974年(昭和49年):台風8号による豪雨で大きな被害を受ける(市内の死者13人)。 1975年(昭和50年):横須賀新港開港。 1976年(昭和51年):市の木と市の花が決まる。 1979年(昭和54年):オーストラリアのフリマントル市と姉妹都市になる。 1981年(昭和56年):群馬県倉渕村(現高崎市)と友好都市になる。 1982年(昭和57年):イギリスのジリンガム市(現在の市)と姉妹都市になる。横浜横須賀道路が衣笠ICまで開通。 1984年(昭和59年):新市庁舎と教育研究所ができる。平成町の埋め立て工事が始まる。 1985年(昭和60年):4月1日に防災行政無線が開局する。 1987年(昭和62年):市制80周年記念として、倉渕村に「はまゆう山荘」ができる。 1988年(昭和63年):久里浜緑地(現・くりはま花の国)コスモス園開設。 1989年(平成元年):「核兵器廃絶・平和都市宣言」をする。 1990年(平成2年):横浜横須賀道路衣笠IC - 佐原IC間開通。 1992年(平成4年):本町山中有料道路開通。平和モニュメントができる。平成町の埋め立て工事が完了。 1993年(平成5年):ベイスクエアよこすか、総合福祉会館ができる。 1994年(平成6年):2月に横須賀芸術劇場、5月に湘南国際村開設。 1995年(平成7年):よこすかの新しいイメージを考える協議会が「国際海の手文化都市」を提言。 1997年(平成9年):「国際海の手文化都市」を都市像とする横須賀市基本構想を策定。横須賀リサーチパーク (YRP) オープン。 1998年(平成10年):イギリスの市と姉妹都市になる(4月にジリンガム市とロチェスター市が合併しメッドウェイ市となった)。かながわ・ゆめ国体秋季大会開催。 1999年(平成11年):商工会議所、海上自衛隊と協力して「カレーの街」を旗揚げ。 2000年(平成12年):三浦縦貫道路第1期区間開通。 2001年(平成13年):湘南新宿ライン久里浜駅まで延伸。中核市に指定される。横須賀市市民憲章制定。臨海公園をヴェルニー公園として改修。 2004年(平成16年):湘南新宿ライン乗り入れ廃止。 2005年(平成17年):長井海の手公園 ソレイユの丘完成。 2007年(平成19年):市制施行100周年。横須賀美術館完成。 2009年(平成21年):横浜横須賀道路佐原IC - 馬堀海岸IC間開通。「ヨコスカネイビーバーガー」による街おこしがはじまる。 2010年(平成22年):さいか屋横須賀店の大通り館閉店。 2019年(平成31年):イオン横須賀店が一時閉店。 2020年(令和2年):イオン横須賀店がコースカベイサイドストアーズとして新装開店。 2020年(令和2年):6月から市内や隣接する横浜市や三浦市で異臭の通報が相次いだため、神奈川県は気体を採取し分析した結果、ガソリンなどに含まれるイソペンタンなどが通常よりも多く検出された。しかし原因の特定には至っていない。 2022年(令和4年):神奈川県は大滝町1丁目、同2丁目、本町1丁目、米が浜通1丁目、若松町1丁目および同3丁目を暴力団排除特別強化地域に指定した。 人口 1992年(平成4年)5月1日に43万7171人と最高値を記録した。その後は減少に転じ、2018年2月には推計人口が399,845人と発表され、1977年以来41年ぶりに40万の大台を割り込んだ。2021年の人口は約39万人。 地域 横須賀市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている(実施率68.36パーセント)。また、1949年から1956年にかけて一部の区域で町界町名地番整理が実施された。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部であり、町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。なお、町名欄に※印があるものについては、その町区域の一部に住居表示未実施の区域があることを示す。 行政 歴代市長 市組織 総務部、企画調整部、財政部、市民部、健康福祉部、こども育成部、病院管理部、環境部、経済部、都市部、土木みどり部、港湾部、上下水道局業務部、上下水道局施設部、消防局、市議会事務局、教育委員会事務局管理部、教育委員会事務局生涯学習部、選挙管理委員会事務局、監査委員事務局 消防 横須賀市消防局 中央消防署(出張所3) 北消防署(出張所2) 南消防署(分署1、出張所3、派遣所1) 総合訓練センター 警察 横須賀警察署、田浦警察署、浦賀警察署 議会 横須賀市議会 定数:40人 任期:2019年5月2日 - 2023年5月1日 {| class="wikitable" style="text-align: center" ! 会派名 ! 議員数 |- | よこすか未来会議 | 13 |- |自由民主党 | 12 |- | 公明党 | 7 |- | 日本共産党 | 3 |- | 無会派 | 5 |- ! 計 ! 40 |} (2019年5月7日現在) 神奈川県議会 選挙区:横須賀市選挙区 定数:5人 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日 投票日:2019年4月7日 当日有権者数:340,862人 投票率:39.63% 衆議院 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日(「第49回衆議院議員総選挙」参照) 経済 産業 東京湾・浦賀水道に面する市の東側では南部や北部で工業地が形成されている。横須賀港からは自動車が輸出され、ウランとマグロが輸入されている。また主要駅の周辺で商業機能の集積が見られる。市西部では農業や漁業が盛んである。 主な立地企業等 日産自動車追浜工場、総合研究所、追浜専用埠頭 JVCケンウッド横須賀工場、久里浜技術センター JVCケンウッド(旧・日本ビクター)の研究機関であり、1980年代後半大ブームとなったVHSビデオデッキを開発した。 東京電力横須賀火力発電所 財団法人電力中央研究所 (CRIEPI) 日本の発電技術の開発を担うシンクタンク兼研究機関。電力各社の共同出資により運営され、公益法人としては日本最大の研究機関でもある。同組織の部門別組織である、電力技術研究所、エネルギー技術研究所、材料科学研究所がある。数年内に他の研究部門を横須賀市に移転し、横須賀市を発電技術研究の中心地としていく方針となっている。 横須賀リサーチパーク (YRP) 日本の最先端の電気・通信事業の拠点。特に、NTTドコモの携帯電話の研究・開発拠点であり、国内外の情報通信研究をリードする機関である。NTTドコモのほかに、富士通、NEC、パナソニックモバイルコミュニケーションズ、沖電気工業、シャープなども進出している。 日本電信電話横須賀研究開発センタ(サイバーコミュニケーション総合研究所、サイバーソリューション研究所、サイバースペース研究所、未来ねっと研究所) 日本電信電話公社横須賀通信研究所として開設され、現在でもバス停留所等では「通信研究所」と表記されている。 グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン(旧日本ニュークリア・フュエル) 国内における原子力発電用核燃料工場として重要な位置づけにある。 住友重機械工業横須賀製造所、技術開発センター 東芝ライテック本社(横須賀事業所)2009年(平成21年)に品川区から移転。 ハリソン東芝ライティング横須賀事業所 オカムラ追浜事業所 マレリ追浜工場 東邦化学工業追浜工場、追浜研究所 北辰工業横須賀工場 東京ファインケミカル横須賀工場 丸大食品横須賀工場 池内精工本社工場 鉄鋼製品の2次加工(自動車車体部品ドライブシャフト・コイルばね・ベアリング等)の製造・開発企業。 生化学工業久里浜工場 ヒアルロン酸を中心とした大手医療用医薬品製造・開発企業。 コロワイドMD神奈川工場 居酒屋チェーン「甘太郎」・「うまいもん酒場・えこひいき」等を展開する、コロワイドの食材・加工センター。 日清オイリオ横須賀事業場 ステップ本社 移動体端末(携帯・スマートフォン)・基地局のソフトウェア・支援ソフト開発関連企業。 芝技研本社・久里浜テクノパーク工場 非鉄金属(ガラス・シリコン・セラミック)研削加工・および特殊工作機械の製造開発企業。 東邦電線工業本社工場 電気・電子機器内の電線(ワイヤーハーネス)製造・販売・開発企業。 ニコン横須賀製作所 液晶露光装置および半導体露光装置用部品・ユニット等の製造 ニフコ本社、横浜営業部、MCD営業部、ホームソリューションカンパニー 2015年1月に横浜市戸塚区から本社を移転。 農業 市内では都市部、工場地帯、山林が共存し、市の南部・西部を中心に農業活動が盛んに行われている。近年では減少傾向にあるものの、農地は市域の 4% 以上を占める。かつては水田も多く見られたが、平野部の低地は住宅地や工業地に転換し、近年では大部分が畑作地となっている。主な生産物はキャベツ、大根、カボチャ、メロンなど。農協業務は市全域に亘って JAよこすか葉山が執り行っている。 漁業 市西部のほうが漁港が多い。東部の東京湾側は軍港や商港の占める割合が高い。 長井漁港 (第2種) 佐島漁港(第2種) 秋谷漁港 久留和漁港 新安浦漁港 鴨居漁港 北下浦漁港 大津漁港 走水漁港 市内の漁協としては以下の3つがある: 横須賀市大楠漁協 横須賀市東部漁協 長井町漁協 商業 近年横須賀市でも国道や主要地方道といった幹線沿いに多く立地するロードサイド店舗の進出が目立っている。そのため小規模小売店などは厳しい状態に追い込まれておりシャッター街状態の商店街が増え問題となっている。 一方で衰退に歯止めをかけるため斬新な活性化策を実施して効果をあげている商店街も少なくない。市内全体の人口は減少、高齢化が進んでおりロードサイド店舗、商店街関係なく対策が求められている。ちなみに市内で全蓋式アーケードを設置した商店街は市内3つ(船越、衣笠、久里浜)で県内でも3番目に数が多い自治体となっている。 商店街 横須賀中央 どぶ板通り - アメリカと日本の文化が融合した独特の雰囲気を持つ商店街で市内の代表的な観光地の一つ。 三笠ビル商店街 追浜商盛会 衣笠商店街 久里浜商店街 浦賀商友会 北久里浜商店街 YRP野比駅前商店街 船越仲通り商店街 - 田浦地区に所在する約140mの全蓋式アーケードを持つ商店街である。 百貨店・ショッピングモール SAIKAYA YOKOSUKA SHOPPING PLAZA 横須賀モアーズシティ ショッパーズプラザ横須賀(イオン横須賀店) - 2019年3月21日をもって営業終了 → 2020年4月よりコースカベイサイドストアーズとしてリニューアルオープン。 京急ショッピングセンター ウィング久里浜 サンビーチ追浜 ノジマモール横須賀 郊外型店舗・スーパーマーケットチェーン 西友鷹取店、衣笠店、馬堀店、リヴィンよこすか店 イオン久里浜店 ヤマダデンキ家電住まいる館YAMADA横須賀店、YAMADA web.com 久里浜店、ヤマダアウトレット館横須賀店 コジマ×ビックカメラ横須賀店 島忠ホームズ ドン・キホーテ横須賀店 ピカソ横須賀店 ケーヨーD2久里浜店 エイヴイ (市内に6店舗) ユニオネックス(市内に11店舗) 京急ストア (市内に11店舗) トイザらス 金融機関 みずほ銀行 - 横須賀、衣笠、追浜各支店 三菱UFJ銀行 - 横須賀支店 りそな銀行 - 横須賀支店 横浜銀行 - 計7支店 スルガ銀行 - 横須賀、横須賀武山、久里浜各支店 三井住友信託銀行 - 横須賀支店 神奈川銀行 - 横須賀支店、長井支店 かながわ信用金庫 - 本店営業部ほか、計11支店 湘南信用金庫 - 本店営業部ほか、計18支店 横浜幸銀信用組合 - 横須賀支店 中央労働金庫 - 横須賀支店 国の機関 横浜地方裁判所横須賀支部、横浜家庭裁判所横須賀支部、横須賀簡易裁判所 法務省横浜地方法務局横須賀支局 法務省東京矯正管区横浜刑務所横須賀刑務支所 (2007年4月より。それ以前は横須賀刑務所) 法務省東京矯正管区久里浜少年院 横浜地方検察庁横須賀支部、横須賀区検察庁 財務省横浜税関横須賀税関支署 国税庁東京国税局横須賀税務署 厚生労働省神奈川労働局横須賀労働基準監督署 厚生労働省神奈川労働局横須賀公共職業安定所 国土交通省関東地方整備局東京湾口航路事務所 国土交通省国土技術政策総合研究所・横須賀庁舎(沿岸海洋・港湾・空港の研究部門) 海上保安庁第三管区海上保安本部横須賀海上保安部 海上保安庁第三管区海上保安本部東京湾海上交通センター 防衛省南関東防衛局横須賀防衛事務所 防衛省防衛大学校 防衛省陸上自衛隊武山駐屯地、高等工科学校、久里浜駐屯地、通信学校 防衛省海上自衛隊横須賀基地、自衛艦隊司令部、横須賀地方総監部、横須賀教育隊 防衛省航空自衛隊武山分屯基地 防衛装備庁艦艇装備研究所久里浜地区 在日米軍施設 横須賀海軍施設 横須賀海軍施設ドック 吾妻倉庫地区 浦郷倉庫地区 姉妹都市・提携都市 国内 会津若松市(福島県) 2005年(平成17年)4月17日 - 友好都市提携。 文治5年(1189年)、三浦一族の佐原義連が源頼朝から会津四郡を与えられたとされ、室町時代には佐原義連の子孫である芦名氏(名字は横須賀市芦名に由来する)が会津地方を治めた。文化7年(1810年)から文政3年(1820年)にかけて、江戸湾警備を命じられた会津藩は、鴨居村に陣屋を、観音崎に砲台を築いた。会津藩は藩士と家族を移住させ、鴨居村に藩校養正館を築いた。横須賀市内には70基以上の会津藩士の墓があり、市の史跡に指定されている。 富岡市 (群馬県) 2015年(平成27年)11月15日 - 友好都市提携 日本国外 横須賀市は日本国外の以下の都市と姉妹都市協定を結んでいる。地名のカナ表記は横須賀市のサイトによる。 コーパスクリスティ市(アメリカ合衆国) 1962年(昭和37年)10月18日 - 姉妹都市提携 コーパスクリスティからの申し入れによる。海軍基地を有する港湾・産業都市、観光都市であり、横須賀市と類似点が多い。 ブレスト市(フランス) 1970年(昭和45年)11月26日 - 姉妹都市提携 海軍工廠や海軍士官学校を有する軍港都市であるとともに、造船業をはじめとする産業の盛んな港湾都市。ブレストの海軍工廠には、横須賀製鉄所や観音崎灯台をつくるにあたり尽力したレオンス・ヴェルニーが勤務していた縁もある。 フリマントル市(オーストラリア) 1979年(昭和54年)4月25日 - 姉妹都市提携 外務省在パース日本総領事の仲介による。横須賀市を母港とする南極観測船「ふじ」の補給港という縁があり、「ふじ」は両市からのメッセージを運ぶなど、姉妹都市提携に大きな役割を果たした。 市(イギリス) 1982年(昭和57年)4月8日 - ジリンガム市と友好都市提携 1998年(平成10年)8月26日 - メッドウェイ市と姉妹都市提携 航海術や造船技術を日本に伝えたウィリアム・アダムス(三浦按針)の縁による。アダムスが当地に所領を持ったことから「三浦按針祭」を挙行する横須賀市側が、英国按針会の仲立ちにより、アダムスの出生地であるジリンガム市に友好都市提携を提案。1982年4月にジリンガム市と友好都市提携(イギリスの都市が日本の都市と友好都市提携をするのは初であった)。ジリンガムはかつて海軍造船の町として栄えた歴史を持つ。1998年、ジリンガム市が隣接するロチェスター市と合併しメッドウェイ市が発足したため、1999年にメドウェイ市との姉妹都市提携に調印。なお、同じくアダムスの縁で伊東市(静岡県)もメドウェイ市(旧ジリンガム市)と友好都市協定を結んでいる。 かつての友好都市提携 旧倉渕村(群馬県) 1981年(昭和56年)12月14日 - 友好都市提携 横須賀製鉄所をつくるにあたり尽力した小栗上野介の縁。倉渕村の一部となった権田は小栗の領地であり、終焉の地でもある。倉渕村は2006年1月23日付で高崎市に編入されたが、横須賀市と倉渕地域との交流は継続されることとなった。 横須賀市の市制施行80周年記念事業の一環として、旧倉渕村には横須賀市民休養村「はまゆう山荘」が建設された。「はまゆう山荘」は2005年(平成17年)10月1日に横須賀市から倉渕村に譲渡され、倉渕村の高崎市への編入後は高崎市国民健康保険保養施設に指定されているが、横須賀市民は高崎市民とともに割引料金で利用することができる。 その他 姉妹都市のほか、姉妹港提携を結んでいる港湾もある。 横須賀市は、以下のグループに所属している。 カレー五大都市カレーサミット 参加自治体:土浦市、横浜市、横須賀市、郡上市、鳥取市 主な医療機関 横須賀市立市民病院 横須賀市立うわまち病院(旧国立横須賀病院) 横須賀共済病院 - 1906年(明治39年)に開設。出自は海軍病院。癌に対する手術件数は神奈川トップ3。各科とも内視鏡下手術など低侵襲治療に積極的に取り組む。 横須賀共済病院分院 - 2015年(平成27年)閉院 自衛隊横須賀病院 湘南病院 聖ヨゼフ病院 衣笠病院 浦賀病院 ※救急指定病院のみ 教育 小学校 2018年(平成30年)現在、市立46校、私立1校が存在。少子化の進展に伴い、近年市立校の再編が始まっている。 公立 すべて横須賀市立。神奈川県小学校一覧#横須賀市を参照。 私立 横須賀学院小学校 中学校 2018年(平成30年)現在、市立23校、私立2校が存在。中学校についても市立校の再編が始まっている。 公立 すべて横須賀市立。神奈川県中学校一覧#横須賀市を参照。 私立 緑ヶ丘女子中学校 横須賀学院中学校 高等学校 特別支援学校 筑波大学附属久里浜特別支援学校 神奈川県立武山養護学校 横須賀市立養護学校 横須賀市立ろう学校 専門学校 横須賀市立看護専門学校 神奈川衛生学園専門学校 大学・短期大学 神奈川県立保健福祉大学 神奈川歯科大学 神奈川歯科大学短期大学部 学校教育以外の施設 防衛大学校(防衛省の施設等機関) 陸上自衛隊高等工科学校 (卒業生は高等学校卒業資格授与) 文化系施設 美術館 横須賀美術館 谷内六郎館 カスヤの森現代美術館 博物館 観音崎自然博物館 横須賀市自然・人文博物館 ヴェルニー記念館 記念艦 三笠 ペリー記念館 赤星直忠博士文化財資料館 図書館 横須賀市立図書館(中央図書館ほか) 通信 郵便 市内の集配業務は以下の5集配局が管轄する。 田浦郵便局:「237-00xx」 横須賀郵便局:「238-00xx」 長井郵便局:「238-03xx」 久里浜郵便局:「239-08xx」 葉山郵便局(葉山町内):「240-01xx」 郵便局 下記のうち、集配局は横須賀郵便局、久里浜郵便局、長井郵便局、田浦郵便局である。なお、葉山町にある葉山郵便局の集配地域が存在する。 横須賀郵便局(02003) 久里浜郵便局(02005) 横須賀上町北郵便局(02038) 長井郵便局(02041) 横須賀逸見郵便局(02045) 横須賀米が浜通郵便局(02046) 横須賀大津郵便局(02087) 横須賀上町郵便局(02099) 横須賀秋谷郵便局(02120) 横須賀汐入郵便局(02122) 横須賀安浦郵便局(02135) 横須賀不入斗郵便局(02147) 横須賀浦賀郵便局(02148) 横須賀新町郵便局(02158) 横須賀武郵便局(02163) 横須賀船越郵便局(02176) 横須賀佐野町郵便局(02184) 横須賀鴨居郵便局(02209) 横須賀坂本郵便局(02213) 追浜郵便局(02214) 横須賀三春郵便局(02223) 北下浦郵便局(02226) 横須賀長浦郵便局(02231) 横須賀浦郷郵便局(02235) 横須賀馬堀海岸郵便局(02246) 武山郵便局(02255) 横須賀佐野南郵便局(02266) 横須賀津久井郵便局(02278) 田浦郵便局(02288) 横須賀三春西郵便局(02316) 横須賀本浦郵便局(02317) 横須賀池上郵便局(02344) 横須賀公郷郵便局(02404) 横須賀鶴が丘郵便局(02445) 横須賀浦賀一郵便局(02485) 横須賀長坂郵便局(02498) 横須賀森崎郵便局(02525) 横須賀金谷郵便局(02560) 横須賀野比郵便局(02575) 北久里浜郵便局(02589) 横須賀かもめ団地内郵便局(02594) 横須賀ハイランド郵便局(02606) 横須賀鷹取台郵便局(02621) 横須賀森崎四郵便局(02689) 横須賀岩戸郵便局(02697) 横須賀粟田簡易郵便局(02710) 横須賀走水簡易郵便局(02717) 電話番号 市内全域が横須賀MAに属する。市外局番および市内局番合わせての頭4桁は046-8xxであり、横須賀市・三浦市・逗子市・三浦郡葉山町で共通である。 マスメディア 横須賀FM放送 (コミュニティFM:78.50MHz) 神奈川新聞社横須賀支社 読売新聞社横須賀支局 朝日新聞社横須賀支局 毎日新聞社横須賀通信部 タウンニュース社横須賀編集室(フリーペーパー) 交通 鉄道 中心となる駅:横須賀中央駅(京急)、横須賀駅(JR東日本) 東日本旅客鉄道(JR東日本) 横須賀線:田浦駅 - 横須賀駅 - 衣笠駅 - 久里浜駅 京浜急行電鉄 本線:追浜駅 - 京急田浦駅 - 安針塚駅 - 逸見駅 - 汐入駅 - 横須賀中央駅 - 県立大学駅 - 堀ノ内駅 - 京急大津駅 - 馬堀海岸駅 - 浦賀駅 久里浜線:堀ノ内駅 - 新大津駅 - 北久里浜駅 - 京急久里浜駅 - YRP野比駅 - 京急長沢駅 - 津久井浜駅 路線バス 京浜急行バス 衣笠営業所・久里浜営業所・追浜営業所 ハマちゃんバス 横須賀市追浜地区の自治会と市内のNPO法人ふぉーらむが共同で運営しているコミュニティバス。2012年2月より運行開始。追浜地区の高台の住宅地と追浜駅などを結ぶ。 高速バス 横浜駅東口(YCAT) - 横須賀西地区(衣笠IC経由、京浜急行バスが運行 YCAT - 湘南国際村 (逗子IC経由、京浜急行バスが運行 道路 高速道路 横浜横須賀道路(国道16号):横須賀IC - 衣笠IC - 佐原IC - 浦賀IC - 馬堀海岸IC 三浦縦貫道路(神奈川県道26号横須賀三崎線):三浦縦貫道衣笠入口交差点 - 衣笠IC - 三浦縦貫道林入口 神奈川県道28号本町山中線(旧・本町山中有料道路) 一般国道 国道16号、国道134号、国道357号(未開通) 主要地方道 県道24号 横須賀逗子線 県道25号 横須賀停車場線 県道26号 横須賀三崎線 県道27号 横須賀葉山線 一般県道 県道208号 浦賀港線 県道209号 観音崎環状線 県道210号 浦賀港久里浜停車場線 県道211号 久里浜港久里浜停車場線 県道212号 久里浜港線 県道213号 佐島港線 県道214号 武上宮田線 県道217号 逗子葉山横須賀線 港湾 横須賀港 長浦港 久里浜港 浦賀港 - 浦賀の渡し 東京湾フェリー - 久里浜港と千葉県富津市の金谷港を結ぶ。 シャトル・ハイウェイライン - 横須賀新港と大分県大分市大分港を結んでいたフェリー。2007年に廃止。 東京九州フェリー - 横須賀新港と福岡県北九州市門司区新門司港を結ぶフェリー。2021年7月1日より運航中 トライアングル (海運) - YOKOSUKA 軍港めぐりや猿島への渡し船を運営。 漁港については#漁業を参照。 姉妹港 ロサンゼルス港、ロングビーチ港(アメリカ合衆国) 1974年 横須賀港と姉妹港提携 航空灯台 横須賀 VOR/DME 名所・旧跡等 神社 諏訪大神社 走水神社 叶神社 レジャー・観光 猿島 YOKOSUKA 軍港めぐり くりはま花の国 観音崎 ペリー公園 三笠公園 横須賀市しょうぶ園 大楠山ハイキングコース 追浜公園・横須賀スタジアム 横須賀美術館 カスヤの森現代美術館 田浦梅の里 十三峠 塚山公園 市役所前公園 平和中央公園 ヴェルニー公園 海辺つり公園 うみかぜ公園 走水ボードウォーク 根岸公園 神明公園 不入斗公園 陸軍桟橋(西浦賀緑地) 夏島貝塚 衣笠城跡 衣笠山公園(日本さくら名所100選) 光の丘水辺公園 太田和つつじの丘 荒崎公園 立石公園 秋谷海岸 長井海の手公園 ソレイユの丘 どぶ板通り はまゆう公園 ポートマーケット 鷹取山 武山ハイキングコース 津久井浜観光農園 津久井浜海水浴場 長者ヶ崎 燈明堂 天神島 千代ヶ崎砲台跡 祭り 武山初不動(1月) 田浦梅林祭り(2月) よこすかキッズフェスティバル(2月) のたろんフェア(2月) ドブ板バザール(2, 5, 7, 11月) 船越南郷公園桜まつり(3, 4月) 塚山公園さくら祭(3, 4月) 衣笠さくら祭(3, 4月) 桜の散策 走水水源地(3, 4月) うわまち浪漫さくら祭り(3, 4月) 日米親善よこすかスプリングフェスタ(3月) 武山つつじ祭り(5月) よこすかカレーフェスティバル(5月) よこすかYYのりものフェスタ(6月) よこすか開国祭(8月) よこすかシーサイドマラソン(11月) よこすかカウントダウン(12月) 横須賀を本拠地とするスポーツチーム 横浜DeNAベイスターズ (ファーム)(旧名:湘南シーレックス) 日産自動車硬式野球部(横浜DeNAベイスターズ二軍とも交流戦を行っていたが、2009年(平成21年)度で休部) 横浜F・マリノス(2005年(平成17年)度から横浜市に加えてホームタウンに認定。下部組織の練習会場に使用されている) 関係者 主な出身者 政界 小泉純一郎(元衆議院議員、第87 - 89代内閣総理大臣) 田川誠一(元衆議院議員、自治大臣、新自由クラブ代表) 小泉進次郎(衆議院議員、環境大臣、小泉純一郎の次男、小泉孝太郎の弟) 牧島かれん(衆議院議員、デジタル大臣) 田川亮三(元三重県知事) 浅羽義里(神奈川県副知事、横浜新都市センター取締役) 木村良二(弁護士、日本弁護士連合会副会長、関東弁護士会連合会理事長) 坂本堤(弁護士、自由法曹団員。オウム真理教幹部等によって殺害される→坂本堤弁護士一家殺害事件) マスコミ 芸能 芸術 芦奈野ひとし(漫画家) 市川孝典(現代美術家) 遠藤俊介(写真家) 川崎ヒロユキ(脚本家) 上村一夫(漫画家) 久米田康治(漫画家) 野島稔(ピアニスト) 鈴木慶江(ソプラノ歌手) 渡邊達徳(ヴァイオリニスト) 角田喜久雄(小説家) 東山むつき(漫画家) 平井和正(小説家) 最上壽之(彫刻家) 福本伸行(漫画家) 島田修二(歌人) 島田章三(洋画家) 佐藤さとる(児童文学作家) 宮武一貴(メカニックデザイナー、イラストレーター) 花形みつる(小説家) 青山正明(編集者・ライター) スポーツ 野球 サッカー 石川直宏(元プロサッカー選手:FC東京、横浜F・マリノス) 石川貢(元フットサル選手・サッカー選手:湘南ベルマーレフットサルクラブなど) 石川扶(元プロサッカー選手:松本山雅FCなど) 伊東純也(プロサッカー選手:KRCヘンク) 大久保哲哉(サッカー選手:FIFTY CLUB) 柴崎貴広(プロサッカー選手:東京ヴェルディ) 鈴木達也(元プロサッカー選手:柏レイソル、FC東京など) 鈴木智子(元女子サッカー選手:TASAKIペルーレFC、INAC神戸レオネッサなど) 谷口博之(元プロサッカー選手:川崎フロンターレ、サガン鳥栖など) 田丸誠(サッカー選手:横須賀マリンFC) 寺田周平(元プロサッカー選手:川崎フロンターレ) 内藤友康(サッカー選手:東邦チタニウムサッカー部) 中村帆高(プロサッカー選手:FC東京) 早坂優(元女子サッカー選手:東京電力女子サッカー部マリーゼ) 福田健介(サッカー選手:おこしやす京都AC) 前田尚輝(サッカー選手:いわきFC) 山本絵美(女子サッカー選手:ニッパツ横浜FCシーガルズ) バスケットボール 蒲谷正之 - プロバスケットボール選手 君塚大輔 - プロバスケットボール選手 立川真紗美(バスケットボール) エリエット・ドンリー - プロバスケットボール選手 町田洋介 - プロバスケットボール選手 格闘技・武道・相撲 その他 越谷章(バレーボール選手) 髙山樹里(ソフトボール) 西山麗(ソフトボール) 大内麻由美(プロダーツプレーヤー) 池崎祐介(中央競馬元騎手) 山口貴久(車いすラグビー選手) 学究 水越祐一(気象予報士) 天達武史(気象予報士) 佐藤大介(気象予報士) 潮木守一(教育社会学者) 門倉貴史(経済学者) 大澤裕(刑事訴訟法学者、東京大学教授) 竜嵜喜助(民事訴訟法学者) 新倉貴士(経営学者、法政大学教授) 澤登佳人(法学者、新潟大学名誉教授) 真壁昭夫(経済学者、法政大学大学院教授) 赤星直忠(考古学者) 岡本勇(考古学者) 野口定男(哲学者) 伊藤博(国文学者、大妻女子大学名誉教授) 実業家 相澤秀禎(サンミュージックプロダクション創業者) 飯島彰己(三井物産代表取締役会長) 石渡恒夫(京浜急行電鉄社長、日本民営鉄道協会会長) 伊藤邦男(元テレビ朝日社長・会長・相談役) 岡本伝之助(元さいか屋会長) 榊原定征(元東レ特別顧問) 佐藤茂雄(元京阪電気鉄道最高顧問) 原田一之(京浜急行電鉄社長) 水品浩(元日本アイ・ビー・エム社長) その他の分野 河口俊彦(将棋棋士) 斎田晴子(女流棋士) 大住良之(サッカージャーナリスト) 小関順二(スポーツライター) 関口哲平(選挙プロデューサー) 池田健三郎(経済評論家・政策ジャーナリスト) 内藤知周(社会運動家) ハリー・B・ハリス・ジュニア(アメリカ海軍海軍大将) 茶木滋(めだかの学校の作詞家) 佐久間一(統合幕僚会議議長) 齋藤隆(統合幕僚長) 横須賀に縁の有る有名人 三浦按針(ウィリアム・アダムス) - 1600年(慶長5年)に日本へ漂着し、後に江戸幕府の外交顧問となった。塚山公園に史跡指定となった墓がある。 レオンス・ヴェルニー - 横須賀造兵廠建設責任者。JR横須賀駅近くにヴェルニー公園がある。 小栗忠順 - 横須賀造船所の計画者 前島密 - 日本の官僚、政治家。日本の近代郵便制度の創設者の一人。横須賀市芦名にて没。芦名の浄楽寺に墓所がある。 楢崎龍 - 通称おりょう。坂本龍馬の妻。龍馬の死後、横須賀に移り住み、横須賀で没した。市内大津の信楽寺に墓所があり、住んでいた米が浜には「おりょう会館」がある。 芥川龍之介 - 海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として横須賀市に赴任。汐入に下宿した。 井上成美 - 海軍軍人。晩年横須賀市長井で暮らした。 團伊玖磨 - 作曲家。晩年横須賀市秋谷に暮らした。1967年(昭和42年)横須賀市歌を作曲。 立原正秋 - 作家。少年期を横須賀で過ごした。横須賀市立商業学校卒。 小柴昌俊 - ノーベル物理学賞受賞者。少年時代を横須賀で暮らした。県立横須賀中学校卒業。横須賀市名誉市民第一号。 川村エミコ(芸人、たんぽぽ) - 横須賀の高校に通っていた。 舞田敏彦 - 社会統計学者。横須賀市在住。 ※ 1989年のドブ板通り改修に際し、これら出身者およびゆかりある人物18名の手形のレリーフが路面に埋め込まれた。 横須賀を舞台にした作品 文芸 病牀六尺(1902年、正岡子規) 蜜柑 (1919年、芥川龍之介) 進水式 (1929年、寒川鼠骨) 坂の上の雲 (1972年、司馬遼太郎) 血族 (1979年、山口瞳) 井上成美(1992年、阿川弘之) 星のダンスを見においで (1993年、笹本祐一) 「三浦半島記」街道をゆく(1998年、司馬遼太郎) 翳りゆく夏(2003年、赤井三尋) 海の底 (2005年、有川浩) 流星の絆(2006年、東野圭吾) 映画 豚と軍艦 (1961年、日活、今村昌平監督) メカゴジラの逆襲 (1975年、東宝、本多猪四郎監督) 横須賀男狩り 少女・悦楽 (1977年、日活、藤田敏八監督) あの夏、いちばん静かな海。 (1991年、東宝、北野武監督) 赤と黒の熱情 (1992年、東映、工藤栄一監督) すももももも (1995年、パル企画配給、今関あきよし監督) 竜馬の妻とその夫と愛人 (2002年、東宝、市川準監督) そのときは彼によろしく (2007年、東宝、平川雄一朗監督) ガマの油 (2009年、ファントム・フィルム、役所広司監督・主演) BECK (2010年、松竹、堤幸彦監督) スカブロ (2017年、トンネルフィルムズ、矢城潤一監督) テレビドラマ ポニーテールはふり向かない (1985年、TBS・大映テレビ) 二十歳の約束 (1992年、フジテレビ) 土曜ワイド劇場 警察署長 浮かばない死体の謎 (1997年、テレビ朝日・東映) L×I×V×E (1999年、TBS) ディア・フレンド (1999年、TBS) サスペンススペシャル 警察署長 殺意のウェディングベル (2001年、テレビ朝日) 流星の絆(2008年、TBS) 美しい隣人(2011年、関西テレビ・MMJ)舞台の「美空野町」は湘南佐島なぎさの丘。 仰げば尊し(2016年、TBS・東宝) 釣りバカ日誌(2015年・Season2 2017年・テレビ東京) 主人公の浜崎伝助(ハマちゃん)の住所が汐入である事がSeason2の話で明らかになる。また浜崎伝助と鈴木一之助(スーさん)が普段釣り場に使うスポットとして使用されるのが鴨居2丁目にある鴨居港である。 ご当地ソング 横須賀ストーリー、I CAME FROM 横須賀、横須賀サンセット・サンライズ (山口百恵) 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ (ダウン・タウン・ブギウギ・バンド) ブルーライト ヨコスカ (Mi-Ke) 横須賀BABY (横浜銀蝿) よそゆき顔で (松任谷由実、歌詞に「観音崎の歩道橋」が登場する) タイガー&ドラゴン (クレイジーケンバンド) そんなヒロシに騙されて (サザンオールスターズ、高田みづえ、ジューシィ・フルーツ) ヨコスカ・バーニング・ナイト、ヨコスカ・マンボ (上々颱風) Welcome To Yokosuka (渡辺真知子、アルバム曲) トランジスタGガール(TOKIO) ビールを飲もう!横須賀の街で(矢口壹琅) Good-bye 横須賀(網倉一也) 漫画 B・B(1985年 - 1991年、石渡治) チャイルド★プラネット(1996年 - 1997年、永福一成) ヨコハマ買い出し紀行(1994年 - 2006年、芦奈野ひとし)- 横須賀中央、衣笠、馬堀海岸、大楠山、横須賀火力発電所の煙突など市内各地が登場。 ジパング(2000年 - 2009年、かわぐちかいじ)- 主人公の乗船するイージス艦みらいの母港。 カブのイサキ(2007年 -、芦奈野ひとし) あおざくら 防衛大学校物語(2016年 - 、二階堂ヒカル) - 走水にある防衛大学校を舞台とした作品。 スローループ(2018年 - 、うちのまいこ) アニメ B・B(1990年、OVA) - 原作漫画をアニメ化。 ヨコハマ買い出し紀行(1998年と2002年 - 2003年、OVA) - 原作漫画をアニメ化。 ジパング(2004年、TBS系) - 原作漫画をアニメ化。 つよきす Cool×Sweet (2006年、UHFアニメ) - 恋愛アドベンチャーゲーム「つよきす」のアニメ化作品。作品の舞台「松笠市」のモデル。 スカイガールズ (2007年、UHFアニメ) - ソニックダイバー隊の駐屯地が追浜にあるという設定。他に主人公らが横須賀中央に買い物に行くシーンが登場。 たまゆら (アニメ) (2010年、OVA)(2011年・2013年、AT-X他) - 主人公の沢渡楓が中学生まで過ごした物語の最初の舞台として汐入が登場。TVアニメ化を記念したイベントやタイアップ企画が市内各地で行われている。 ハイスクール・フリート (2016年、BS11他) - 主人公たちが通う学校が横須賀にあるという設定。特にOVAではヴェルニー公園やどぶ板通りなど、横須賀市の名所が随所に登場する。アニメとのタイアップ企画も催されている。 スローループ (2022年、AT-X他)-原作漫画をアニメ化。フライフィッシングのお店のモデルが都内だったりするが、主人公達の家や通っている学校、バイト先は横須賀市内のため、基本的には横須賀が物語の舞台となっている。アニメ化に伴い作中の舞台に使用されている市内各所にてタイアップ企画も行われている。 ビデオゲーム シェンムー 一章横須賀 (1999年、セガ) Train Simulator Real THE 京浜急行 (2002年、音楽館) Monochrome(2004年、KID) つよきす (2005年、きゃんでぃそふと) - 作品の舞台「松笠市」のモデル サイキックハーツ (2014年、トミーウォーカー) - 2014年12月21日開催のリアルタイムイベント「武神大戦獄魔覇獄」及び同前哨戦の舞台 帝国海軍恋慕情〜明治横須賀行進曲〜(2015年、ディースリー・パブリッシャー) ソレヨリノ前奏詩 (2015年、minori) 横須賀が登場した作品 文芸 ガリヴァー旅行記 (1726年、ジョナサン・スウィフト) - 設定ではガリヴァーが日本に上陸した地が観音崎だとされる。 映画 ゴジラ (1954年、東宝、本多猪四郎監督)- ゴジラが日本に初上陸したのは、観音崎近くにあるたたら浜という海岸であるという俗説から。現在、足跡の石碑が残っている。実際にはゴジラが初上陸したのは大戸島という架空の島であり、本州に上陸したのも品川である。 メカゴジラの逆襲 (1975年、東宝、本多猪四郎監督)- 横須賀をメカゴジラとチタノザウルスが襲撃する。 あぶない刑事 (1987年、東映、長谷部安春監督)- TVシリーズからの劇場3部作の1作目。横須賀EMクラブなどが登場。 またまたあぶない刑事 (1988年、東映、一倉治雄監督)- TVシリーズからの劇場版3部作の2作目。ボートハウスが登場。 あぶない刑事フォーエバー THE MOVIE(1998年、東映、成田祐介監督)- 日本テレビ開局45周年記念作品。あぶない刑事フォーエバーTVスペシャル'98の続き。サブタイトルは「爆発」。 日本沈没 (2006年、東宝、樋口真嗣監督) キャッチ ア ウェーブ (2006年、ワーナー・ブラザース映画、高橋伸之監督) アニメーション 新世紀エヴァンゲリオン(1995年 - 1996年、テレビ東京系列)‐セカンドインパクトの影響で水没した横須賀の代替として、小田原市の一部を『新横須賀』として再建 ストライクウィッチーズ(2008年と2010年、UHFアニメ) セイクリッドセブン(2011年、MBS他) 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-(2013年、AT-X他) ろんぐらいだぁす!(2016年、TOKYO MX他)-第2話で三浦半島ツーリングとして京急の浦賀駅からスタートし、三浦半島の海沿いを進む。ゴールは江ノ島。 南鎌倉高校女子自転車部(2017年、AT-X他)-第10話・第11話で自転車部初の輪行ツーリングとして三浦半島を選ぶ。スタートはJR横須賀駅で三笠公園〜馬堀海岸〜観音崎〜浦賀(巴、夏海、冬音は途中道を間違え東浦賀から浦賀の渡しで西浦賀へショートカットをする事になる)〜久里浜を経由し、ゴールは城ヶ島。 テレビドラマ あぶない刑事 (1986年、日本テレビ・セントラルアーツ)-横須賀EMクラブが登場。 人間の証明 (2004年、フジテレビ) Mの悲劇 (2005年、TBS) おとなの夏休み (2005年、日本テレビ) 探偵学園Q (2006年、日本テレビ)- 猿島が登場。 坂の上の雲 (テレビドラマ)(2009年 - 2011年、NHK) ビデオゲーム FRONT MISSION3 (1999年、スクウェア) 脚注 注釈 出典 参考文献 関連項目 旧軍港市転換法 神奈川県の軍事拠点や軍事史跡 スカレー 外部リンク 横須賀市観光協会 神奈川県の市町村 日本の港町 中核市 三浦郡 1889年設置の日本の市町村 1906年設置の日本の市町村
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%8D%97%E5%B9%B3
山田南平
山田 南平(やまだ なんぺい、本名:(旧姓:)山田 由夏、西山 由夏、1972年9月2日 - )は、日本の漫画家。神奈川県出身。血液型はB型。既婚。 1991年、『花とゆめプラネット増刊』春の号(白泉社)に掲載の「48ロマンス」でデビュー。以後、『花とゆめ』を中心とした白泉社の雑誌で活動。思春期の少年少女の成長を描いた『オトナになる方法』などを執筆した。 作品リスト 漫画作品 単行本は花とゆめコミックス(白泉社)、文庫版は白泉社文庫(白泉社)。発表年は掲載誌の号数に準拠。 オトナになる方法 〔別名「久美子&真吾シリーズ」〕(1990年〔狭義の『オトナになる方法』の開始は1994年〕 - 1997年、『花とゆめ』、白泉社) - 単行本シリーズ計15巻〔狭義部分が全10巻〕、文庫版全8巻 紅茶王子(1996年 - 2004年、『花とゆめ』) - 単行本全25巻、文庫版全12巻 オトナのコドモたち-オトナになる方法 特別編-(2002年 - 2007年、『ザ花とゆめ』・『花とゆめプラス』・『別冊花とゆめ』) - 単行本全1巻 まなびや三人吉三(2004年 - 2006年、『花とゆめ』) - 単行本全4巻 紅茶王子の姫君(2006年、『ザ花とゆめ』・『花とゆめ』) - 単行本全1巻 空色海岸 (2006年 - 2008年、『別冊花とゆめ』)- 単行本全6巻、文庫版全3巻 オレンジチョコレート(2009年 - 2014年、『別冊花とゆめ』) - 単行本全13巻 in JACK out(2011年 - 継続中、『別冊花とゆめ』) - 単行本既刊1巻(2015年12月現在) 桜の花の紅茶王子(2012年 - 2018年、『花とゆめプラチナ』・『別冊花とゆめ』) - 単行本全13巻 金色のマビノギオン -アーサー王の妹姫-(2017年 - 継続中、『別冊花とゆめ』・「マンガPark」) - 単行本既刊6巻(2022年4月20日現在) 恋するMOON DOG(2018年 - 継続中、『花とゆめAi』) - 単行本既刊8巻(2022年4月20日現在) 画集 カードギャラリー 山田南平(1994年、白泉社) 山田南平画集 Quality Seasons(1999年、白泉社) イラスト いかにしてアーサー王は日本で受容されサブカルチャー界に君臨したか(岡本広毅・小宮真樹子編、2019年、みずき書林) - 表紙 映画『グリーン・ナイト』描きおろしイラスト(2022年11月) 脚注 外部リンク Hot Water Jug(公式サイト) 日本の漫画家 神奈川県出身の人物 1972年生 存命人物
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巻来功士
巻来 功士(まき こうじ、1958年7月21日 - )は、日本の漫画家。 略歴 長崎県佐世保市出身。小学生時代から漫画家を目指し、1974年(16歳時)に投稿作品が『週刊少年ジャンプ』の新人漫画賞の最終候補作になった。それ以来、年5・6回応募して九州産業大学入学後も続けて1978年、20歳で小学館のマンガくん月間まん研新人杯の佳作を受賞する。その後も大賞をめざして『コロコロコミック』『少年サンデー』に応募したが、最終候補に止まった間の授業はさぼり続けて単位が取れず、留年する。本腰を入れて漫画家になるため、1979年に大学を中退して上京。少年画報社に持ち込んだ原稿が認められ、1981年に村田光介名義で同社の『少年キング』に連載された学園アクションコメディ『ジローハリケーン』でデビュー。それが終了した後は『ローリング17』を連載するが、同誌の休刊によって打ち切りとなる。 再び新人賞に応募する日々に戻り、1983年からは集英社へ移って『週刊少年ジャンプ増刊号』に読み切り作品を掲載。原哲夫の『北斗の拳』のアシスタントを経て『週刊少年ジャンプ』に『機械戦士ギルファー』を連載するが、13回で打ち切りとなる。1986年には心機一転し、ダークホラーアクションの『メタルK』を連載、ファンレターが何通も届くなど人気は出たが、10回で打ち切りとなる。その13か月後、代表作の1つとなる『ゴッドサイダー』を1年半連載し、単行本の増刷で印税収入が増える。しかし、その完結から10か月後に新連載した『ザ・グリーンアイズ』は人気が出ず、3か月で終了。その後、少年漫画に見切りをつけて作品発表の場を『スーパージャンプ』などの青年向け漫画誌に移し、『ミキストリ -太陽の死神-』は長期連載となった。 作風 独特で安定した画力と構成力をデビュー時から持っていた。しかし、『週刊少年ジャンプ』での作品はグロテスクなシーンに抵抗を持つ子供も多く、『ゴッドサイダー』以外は1年未満の短期連載に終わった。巻来は、雑誌内のポジションで荒木飛呂彦とダークホラーアクション枠で競合していたことも原因だったと述べている。また、美少女の皮膚が溶ける、お腹で孵化したウジを吐き出す、美女が犯されながら締め殺されるなど、読者が生理的嫌悪感を催すような描写が多く、単に血しぶきの描写がある漫画とは異なっていた。しかし、善と悪の明瞭な分け方もあってか、青年向け漫画誌ではある程度の成功を収め、後に『ゴッドサイダーセカンド』『ニューカマー〜来るべき者達〜 (REVENGER METAL-K2)』など、少年誌時代のリメイク作品も描いている。 全ての漫画にエログロ、寝取られ、オカルトの3要素のいずれかが入っている。 作品リスト ジローハリケーン(少年キング、1981年) ローリング17(少年キング、1982年) 機械戦士ギルファー(原案は西尾元宏。週刊少年ジャンプ、1983年-1984年) メタルK(週刊少年ジャンプ、1986年) ゴッドサイダー(週刊少年ジャンプ、1987年-1988年) ザ・グリーンアイズ(週刊少年ジャンプ、1989年-1990年) ミキストリ -太陽の死神-(スーパージャンプ、1990年-1995年) マジックパラダイス(スーパージャンプ、スーパージャンプアルファ、1992年-1994年) 瑠璃子女王の華麗なる日々(スーパージャンプ、1997年-1998年) たそかれの夢(スーパージャンプ、1998年-1999年) ゴッドサイダーセカンド(週刊コミックバンチ、2004年-2008年) ニューカマー〜来るべき者達〜 (REVENGER METAL-K2)(週刊コミックバンチ、2008年-2009年) ミキストリII -太陽の死神-(週刊コミックバンチ、2009年-2010年) ゴッドサイダーサーガ 神魔三国志(月刊ヤングチャンピオン烈、2010年-2013年) ヘルバスター(地獄を狩る者)(MANGAオールマン) 迷宮魔術団(オースーパージャンプ) 鬼哭忍伝霊牙(オースーパージャンプ) 連載終了!少年ジャンプ黄金期の舞台裏(描き下ろし、2016年) SHODO 勝道上人伝(週刊ヤングジャンプ、2017) 出典 外部リンク MindHouse - 公式サイト 日本の漫画家 長崎県出身の人物 1958年生 存命人物 アまき こうし
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E6%9D%91%E4%B9%85%E5%AE%9F
牧村久実
牧村 久実(まきむら くみ、6月13日 - )は日本の漫画家、イラストレーター。東京都出身。血液型はA型。 趣味は散歩とゴルフ。虫と長い魚が嫌い。 『おまじないコミック』(後に『ティーンズコミックパル』→『少女パル』と誌名変更、実業之日本社)で活動していた。『少女フレンド』(講談社)で執筆し、同誌の休刊後は『デザート』(同)でも作品を発表した。代表作は『ガラス色の瞳』『空においでよ』『毎日逢いたい』『天使の唄』など。 講談社X文庫ティーンズハートでは小林深雪の小説の挿絵としても活躍していた。小林深雪が講談社青い鳥文庫で執筆している現在も、引き続き挿絵を描いている。 また、自身の作品『ツインハート ツインゲーム』(実業之日本社)のイメージCDをリリースしたこともある。 作品リスト MBコミックス 実業之日本社のMBコミックスより刊行されたもの。 ガラス色の瞳(1988年) 陽だまりのさくらんぼ(1988年 - 1989年、全2巻) 雪のイヴ(1989年) ツインハートツインゲーム(1990年 - 1991年、全4巻) 空においでよ(1993年 - 1996年、全3巻) 空においでよ 愛蔵版(2000年 - 2001年、全2巻) KCフレンド/KCデザート 講談社の KCフレンド/KCデザートより刊行されたもの。 満月にお願い(1992年) ASTRAL TWIN (1992年、全2巻) いっしょに暮らそう(1993年、全2巻) Cotton Candy(1994年、全3巻) パラダイスへの扉 (1995年、原作:うさぎ屋宗達) 毎日逢いたい(1996年 - 1997年、全3巻) 天使の唄(1997年 - 2001年、全9巻) 涙は覚悟の恋(2004年、原作:小林深雪) 夢みることはやめられない―フリーライターAYU(2002年 - 2007年、全4巻、原作:小林深雪) 脚注 注釈 出典 外部リンク 日本の漫画家 日本のイラストレーター 存命人物 生年未記載
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E9%A3%9F
月食
月食(げっしょく、)とは、地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のことである。月蝕と表記する場合がある(「食 (天文)#表記」参照)。 望(満月)の時に起こる。日食と違い、月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。 種類 地球から見える月面が本影(地球によって太陽が完全に隠された部分)に入る場合を皆既月食()、一部分だけが本影に入る場合を部分月食()という。 月が半影(地球が太陽の一部を隠している部分)に入った状態は半影食(もしくは半影月食、)と呼ばれるが、半影に入った月面部分の減光の度合いは注意深く観察しなければ分からない程度であるため、事前の予告なしに肉眼で見ても気がつかない場合も多い。 月が地球の影によって隠される度合いを食分といい、「(本影の半径+月の視半径-本影の中心と月の中心の距離)÷(月の視直径)」という式で計算される。皆既月食の場合は1以上、部分月食は0 - 1、半影食ならマイナスの値となる。 太陽光のうち、波長の長い赤系の光が地球の大気によって屈折・散乱されて本影の中に入るため、皆既月食でも通常、月は真っ暗にはならず暗い赤色(赤銅色)に見える。しかし火山爆発等で大気中に特に多量の微粒子が浮遊している場合には、月が非常に暗くなり灰色かほとんど見えなくなる。月食時の明るさは後述の「ダンジョンの尺度」(後述)などで表される。 なお、月食の途中の欠け月が昇ってくることを月出帯食といい、その逆に欠けたままの月が沈むことを月没帯食(もしくは月入帯食)という。 月食の経過 第1接触 月が地球の本影に入り始めた瞬間。 第2接触 月が地球の本影に完全に入った瞬間。この瞬間が中心食の始まりとなる。 食の最大・食甚 月の中心と本影錐の中心との角距離が最小となった時点。 第3接触 月が地球の本影から出始めた瞬間。この瞬間が中心食の終わりとなる。 第4接触 月が地球の本影から完全に出た瞬間。 頻度 月食が起こるのは太陽・月が黄道・白道の交わる点(月の昇交点・降交点)付近にいる時に限られる。 月食は多くの場合1年間に2回起こるか起こらない年、3回起こる年もあり21世紀の100年間では合計142回(皆既月食85回、部分月食57回)起こる。一方、日食は最低でも年に2回、最多で5回起こる年もあり21世紀の100年間では合計224回(皆既日食68回、金環食72回、金環皆既食7回、部分日食77回)である。したがって月食の発生頻度は日食より低い。にもかかわらず普通、日食よりも月食の方が目にする機会は多い。これは月が見えてさえいれば月食は地球上のどこからでも観測が可能なのに対し、日食は月の影が地球表面を横切る帯状の限られた地域でしか見ることができないためである。 月食と日食の頻度に違いが生じる理由は次のように説明できる。地球と太陽がともに内接する巨大な円錐を想定する。月がこの円錐の太陽と反対の部(地球の本影)に入れば月食が生じ、太陽と同方向の部分に入れば日食が生じることになる。この円錐の月軌道付近における半径は月食側が約4460 - 4750km、日食側が約7990 - 8280kmと異なるため月食の発生頻度は日食のそれよりも低くなる。 1年に月食が3回見られた(見られる)年 日本の陸上(島嶼部を含む)でも見られた(見られる)日付を部分月食は斜体字、皆既月食は太文字にて記述している。 1833年(天保3年閏) 1月6日(天保2年閏11月16日) - 7月2日(天保3年5月15日。日本時間:7月3日(5月16日)) - 12月26日(11月16日。日本時間:12月27日(11月17日)) 1852年(嘉永4年) 1月7日(嘉永4年12月16日) - 7月1日(嘉永5年5月14日) - 12月26日(11月16日) 1898年(明治31年) 1月8日(日本時間:1月9日) - 7月3日(日本時間:7月4日) - 12月27日(日本時間:12月28日) 1917年(大正6年) 1月8日 - 7月4日(日本時間:7月5日) - 12月28日 1982年(昭和57年) 1月9日(日本時間:1月10日) - 7月6日 - 12月30日 2028年 1月12日 - 7月6日(日本時間:7月7日) - 12月31日(日本時間:2029年1月1日) 2094年 1月1日(日本時間:1月2日) - 6月28日 - 12月21日(日本時間:12月22日) 日本では他にも2010年(平成22年)(1月1日、6月26日、12月21日)があった。 月食がない年 1966年 - 1969年 - 1980年 - 1984年 - 1998年 - 2002年 - 2016年 - 2020年 日本での観測 最近見られた月食 今後見られる月食 ダンジョンの尺度 皆既月食の時の月面の様子は、地球の大気中の塵の量によって異なる。塵が少ないと、太陽の光が大気中を通過する際の散乱が少なくなり、月面は黄色っぽく明るく見える。逆に、塵が多いと、大気中の散乱が多くなり、月面は暗く見える(大規模な火山噴火があると、大気中の火山灰により、月面が暗くなることが知られている)。フランスの天文学者アンドレ・ダンジョンが20世紀初頃に、月食の明るさを分類するために独自に尺度を決めた。一般的に「ダンジョン・スケール」とも呼ばれる。 ターコイズフリンジ 成層圏まで到達した太陽光の中で、波長の長い赤い光はオゾンに吸収されやすいため、波長の短い青い光だけがオゾン層を通過する。 その青い光が月面に投影され、青い帯として見えることがある。 この青い帯は「ターコイズフリンジ」(turquoise fringe)とも呼ばれ、月食の本影と半影の境目に現れる。2007年5月4日にドイツで観測された皆既月食時に、月に映る青い光の帯が撮影された。2008年2月13日にアメリカ航空宇宙局(NASA)のサイエンスニュースで、その光は「ターコイズフリンジ」と提唱された。2014年10月4日の月食時にも「ターコイズフリンジ」が見られ、日本で大きな話題となった。 月食時に月から見た太陽 月食時に月から太陽を見ると、地球から見る日食のように、太陽が地球によって隠されるように見えるはずである。2009年2月19日、日本の月周回衛星「かぐや」が世界で初めてこの光景の撮影に成功した。半影からの撮影だったため太陽は完全に隠れなかったが、地球による「ダイヤモンドリング」が観察された。 その他 書物における月食の記録は、『日本書紀』に皇極天皇二年庚戌朔乙丑(十六日)と天武天皇九年十一月丁亥(十六日)の2例の記載(ただし前者は日本では観測されるはずのないもの)であった。 鎌倉時代、九条兼実の日記『玉葉』では「殊に慎むべき」として祈念するような記載がある。 脚注 注釈 出典 関連項目 日食 食 (天文) サロス周期 黄道 白道 朔 交点 (天文) 2011年12月10日の月食 2018年1月31日の月食 外部リンク 月食とは - 国立天文台 月食各地予報 - 国立天文台 月食のページ - 厚木市子ども科学館の公式サイト内ページ 月食の基礎知識 - 倉敷科学センター 月 天文学に関する記事
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微分幾何学
数学における微分幾何学(びぶんきかがく、ドイツ語: Differentialgeometrie、英語:differential geometry)とは微分を用いた幾何学の研究である。また、可微分多様体上の微分可能な関数を取り扱う数学の分野は微分位相幾何学(びぶんいそうきかがく、ドイツ語: Differentialtopologie、英語: differential topology)とよばれることがある。微分方程式の研究から自然に発生したこれらの分野は互いに密接に関連しており、特に一般相対性理論をはじめとして物理学に多くの応用がある。これらは可微分多様体についての幾何学を構成しているが、力学系の視点からも直接に研究される。 微分幾何学の道具立て 微分幾何学における基本的な問題意識は多様体上の微分である。これには多様体、接束、余接束、外微分、p-次元部分多様体上のp-形式の積分、ストークスの定理、ウェッジ積、リー微分などの研究が含まれることになる。これらはみな多変数の微積分と関連しているが、幾何学的な理論に応用するために特定の座標系によらずに意味を持つような形で定式化されなければならない。微分幾何学に特徴的な概念によって、二階の導関数の持つ幾何学的な性質、特に曲率の多くの側面が体現されるといえるだろう。 微分位相幾何学 微分位相幾何学では多様体上の滑らかな構造のみに起因するような構造や性質が調べられる。滑らかな多様体は付加的な幾何構造を付与されてしまった多様体よりも柔軟な対象である。付加的な構造は微分位相幾何学的には可能な変形や同値関係の存在に対する障害になることがある。例えば体積やリーマン曲率は一つの滑らかな多様体上の異なった幾何構造を区別する不変量になりうる。つまり、多様体を滑らかに「引き延ばす」ことができるとしてもそれによって空間が変形されてしまい曲率や体積が影響を受けるということがありうる。 逆に、滑らかな多様体は位相多様体と比較すればより厳しい構造をもっている。ある種の位相多様体は滑らかな構造を持ち得ない(ドナルドソンの定理)し、ある種のものは相異なる複数の滑らかな構造を持ちうる(例えば異種球面)。滑らかな多様体から得られる構成のうち、接束のように(追加の考察をすることで)位相多様体に対しても実現可能なものもあるが、そうでないものもある。 内在的な定式化と外在的な定式化 19世紀の初めから中頃まで、微分幾何は外在的な視点に立って研究されていた。外在的な視点とは、(曲面としてはじめから三次元の空間の中に実現されているものを考えるように)曲線や曲面を、より高い次元のユークリッド空間の中におかれたものとして見ることである。特に単純な部分は曲線の微分幾何学に関する結果である。 これに対し、リーマンによる研究を基点として、問題とする幾何学的対象を一個の自立したものとして考え、その「外に出る」ことを要請しない、内在的な視点が発展してきた。この内在的な視点は、外在的な視点に比べ、より柔軟なものである。例えば相対性理論においては、時空(その「外側」の意味は全く明らかではない)を外在的な方法によって自然に捉えられないため、内在的な方法は便利である。しかし内在的な視点のもとでは曲率や接続などの中心的な概念を定義することが見かけ上困難になるという代償を払わなければならない。 これら二つの視点は融和させることが可能であり、外在的な幾何とは、内在的に定められた幾何学的対象に付加的な構造を付与することだとも考えられる。ナッシュの埋め込み定理も参照のこと。 微分幾何学の分野 リーマン幾何学 リーマン幾何学では、滑らかな多様体に線素の長さの概念を付け加えてごく微小な範囲ではユークリッド空間のような構造をあたえられたリーマン多様体が主要な研究対象となる。リーマン多様体上では関数の勾配、ベクトル場の発散や曲線の長さなど様々なユークリッド幾何の概念が(大域的な対称性を落とすことによって)一般化される。リーマン曲率テンソルがリーマン多様体の各点に対して定まり、これによって多様体がどれだけ平坦かをはかることができる。 リーマン多様体の概念をさらに一般化し、各点での接ベクトル空間にノルムが定義されている状況を考えるフィンスラー幾何学が得られる。 シンプレクティック幾何学 シンプレクティック幾何学では、シンプレクティック形式(つまり、非退化で反対称な2次閉形式)があたえられたシンプレクティック多様体(偶数次元でなければならない)が主要な研究対象になる。リーマン幾何学と異なり、次元が同じシンプレクティック多様体の局所的な構造はすべて同じになり(ダルブーの定理)、したがって本質的に問題になるのは大域的な構造だということになる。 複素幾何学 複素微分幾何では複素多様体が研究される。概複素構造とよばれる接ベクトル場準同型(つまり(1, 1) 型のテンソル)J: TM → TM でその自乗が -1 倍作用であるようなものを持つ実多様体 M は概複素多様体とよばれる。概複素多様体のうちで概複素構造 J の「ねじれ」を表すNijenhuisテンソル NJ が消えているようなものは複素多様体とよばれる。この条件は正則なアトラスの存在と同値になる。 複素多様体 (M, J) に対し、さらにリーマン計量g で概複素構造 J と両立するものを考え、g の「ねじれ」ω(X, Y) = g(JX, Y) が閉形式になっているならば (M, J, g) はケーラー多様体とよばれる。ケーラー多様体は特に複素多様体であり、またシンプレクティック多様体にもなっている。滑らかな複素代数多様体として様々なケーラー多様体の例があたえられる。 マキシム・コンツェビッチによるミラー対称性の定式化からはシンプレクティック幾何学と複素幾何学の間に対応がつくことが予想されている。 関連項目 中島啓 古典力学 数学に関する記事
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槇村さとる
槇村 さとる(まきむら さとる、1956年10月3日 - )は、日本の漫画家。東京都葛飾区出身。東京都立工芸高等学校工芸デザイン科卒業。女性。 来歴・人物 思春期に父親から性的虐待を受け、そのトラウマから逃れるために漫画を描き始める。1973年、高校1年で『別冊マーガレット』(集英社)に掲載の「白い追憶」でデビュー。1978年に同誌でフィギュアスケートを題材にした『愛のアランフェス』を連載。1980年代には、ジャズダンスを題材にした『ダンシング・ゼネレーション』、アイスダンスを題材にした『白のファルーカ』などを発表して活躍。 高校卒業後、メーカーに就職したが、漫画の原稿料が給料を上回ったので退職し専業作家になる。1990年代には『ヤングユー』(集英社)など、大人の女性向け漫画誌に活動の舞台を移す。他に代表作として、テレビドラマ化された『イマジン』『おいしい関係』『Real Clothes』など。 父親から受けた虐待のトラウマを35歳で克服し、その経験を綴った自伝的エッセイ『イマジンノート』を2002年に出版。選択的夫婦別姓制度導入がなされないため、42歳で性人類学者のキム・ミョンガンと事実婚。愛知淑徳大学にて非常勤講師として年1回教鞭をとっている。 作品リスト 書籍 マーガレットコミックスから刊行されたものより、集英社にて順次漫画文庫化が進んでいる。 マーガレットコミックス(集英社) 放課後(1977年5月20日) ディスコ・ベイビー(1978年1月20日) 青春志願(1978年6月20日) 氷のミラージュ(1979年2月20日) 愛のアランフェス(1979年6月30日 - 1980年11月、全7巻) クリスタル・レイン(『氷のミラージュ』収録) 青春志願-明日のヒーロー(1981年5月) 鏡の中のアリス(1982年1月30日) ダンシング・ゼネレーション(1982年3月30日 - 1982年11月30日、全4巻) N★Yバード(1983年 - 1984年、全3巻) ※『ダンシング・ゼネレーション』の続編的コミック。 スキャンダル8 1/2(1984年6月) フット・ステップ(1985年) ダイヤモンド・パラダイス(1984年11月 - 1985年4月、全3巻) しなやかに夜は踊る(1986年) 半熟革命(1986年、全3巻) ベルベット・アーミー(1987年、全2巻) 白のファルーカ(1987年 - 1989年、全8巻) NGダンディー・OKレディー(1988年) まみあな四重奏団(1988年 - 1989年) ピーナッツ戦線(1989年) 勝手にしやがれ(1990年) 赤とうがらし物語(1990年) コクーン荘1x1(1991年) シンパシー-失われたささやき(1991年) ラブ・ストーリー19XX(1991年) ダブルヴィジョン(1992年) クレヨンの王様(1992年) フェイク(1992年) God Bless You(1993年) うさぎ(1993年) 華のなまえ(1993年) YES!(2012年、全3巻) モーメント 永遠の一瞬(『Cocohana』2014年3月号 - 連載中、既刊17巻) YOUNG YOUコミックス(集英社) ピタゴラスの定理(1992年) おいしい関係(1993年 - 2000年、全16巻) イマジン(1994年 - 1999年、全11巻) ボレロ(1998年) お天気予報(2000年) ヒューマンステップス(2000年) imagine29(2000年 - 2001年、全3巻) Do Da Dancin'!(2001年 - 2005年、全9巻) 恋のたまご(2002年 - 2004年、全4巻) クイーンズコミックス(集英社) BELIEVE(2004年 - 2006年、全7巻) ヒロインの条件(2006年) Real Clothes(2007年 - 2011年、全13巻) OFFICE YOUコミックス(集英社) ドゥ ダ ダンシン!ヴェネチア国際編(2007年 - 2013年、全13巻)※ヤングユーコミックス『Do Da Dancin'!』の続編 その他単行本 人生の穴 ときどき落ちても大丈夫-槇村さとる対談集(2005年、集英社) イマジン・ノート(2002年、集英社) ふたり歩きの設計図(2003年、集英社) あなた、今、幸せ?(2005年、集英社、キム ミョンガンと共著) スタイル・ノート(2006年、幻冬舎) Do Da Dancin'!バレエエッセンス 槇村さとるに夢中(2007年、集英社) おとな養成所(2010年、光文社) 脚注 出典 外部リンク キムの“き” - キム・ミョンガンの公式ページ 漫画家辞めようと…更年期の不調、槇村さとるさんの場合(朝日新聞記事2021年1月27日) 日本の漫画家 日本のマンガ・アニメ教育者 愛知淑徳大学の教員 東京都立工芸高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 1956年生 存命人物
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やまだないと
やまだ ないと(1965年10月19日 - )は、日本の漫画家。佐賀県唐津市出身。女性。初期のペンネームは山田 朝子(やまだ あさこ)、別のペンネームに加賀 マヒル(かが マヒル)がある。 代表作に『東京座』、『コーデュロイ』、『西荻夫婦』、映画化もされた『フレンチドレッシング』、『L'amant ラマン』、『王様とボク』などがある。 来歴 九州デザイナー学院放送映画学科卒業。山田朝子の名で少女漫画家として活動した後、青年誌に活動の場を移し、1987年、やまだないとのペンネームで『週刊ヤングマガジン』にて「キッス」でデビュー。1996年より、画材としてMacを使い始める。1990年代後半から『COMIC CUE』、『マンガ・エロティクス』、『FEEL YOUNG』などの雑誌で活動。 2021年5月8日から京都のトランスポップギャラリーにて個展「BAD GIRLS」が開催された。同年10月23日から東京都阿佐ヶ谷のギャラリーのVOIDにて、個展「放蕩娘」を開催。 作品リスト 主な連載作品 キッス(1990年、週刊ヤングマガジン)- 同年講談社より全2巻 42℃物語(1991年、ヤングマガジン増刊海賊版)- 同年講談社より全1巻 チャージ(1992年、狩撫麻礼原作、コミックジャングル)- 同年ワニブックスより全2巻 王様とボク(1992年、週刊ヤングサンデー)- 同年小学館より全1巻 ヤング・アンド・ティアーズ(1993-94年、コミックスコラ)- 1993-94年、スコラより全3巻 しましまのぶちぶち(1994-95年、どーぶつくん)- 1997年、朝日ソノラマより全1巻 42℃物語(1995年、ミスターマガジン)- 同年講談社より全1巻 ※1991年作とは別作品 L'amant ラマン(1995-96年、WEEKLY漫画アクション)- 1997年、双葉社より全1巻 エロマラ(1996年、Qyar Lovely!)- 1997年、イースト・プレスより『ero*mala』の題名で単行本化 ビューティフル・ワールド(1998-99年、CUTiE Comic、FEEL YOUNG)- 2000年、祥伝社より全1巻 西荻夫婦(2000-01年、FEEL YOUNG)- 2001年、祥伝社より全1巻 フィガロ(2003-2005年、西田俊也原作、FEEL YOUNG)- 未単行本化 お針子マチルド(2006年- 、FEEL YOUNG)- 未単行本化 上記作品以外の単行本 ピース!(1986年、マーガレット・レインボー・コミックス、集英社) ※山田朝子名義 恋に似ている(1994年、FEEL YOUNG、祥伝社) フレンチドレッシング(1995年、アクションコミックス、双葉社) さよなら おやすみ またあした(1996年、角川書店) MIOU MIOU ミウミウ(1998年、ぶんか社) バイエル[太陽の下の18歳](1999年、太田出版) バイエル[なつびより](1999年、太田出版) ガールフレンズ(1999年、竹書房) 東京座(1999年、飛鳥新社) コーデュロイ(2000年、ぶんか社) FAXPRESS (2000年5月、三好銀共著、竹書房) 傷だらけの天使 (2000年、市川森一原案・西田俊也脚本、辰巳出版) Yの思い出(2001年9月、CUE COMICS、イースト・プレス) イはイチゴのイ(2001年、太田出版) ポルノ青春狂走曲(2002年10月、太田出版) Girl Friday(2002年10月、祥伝社) コーヒーアンドシガレット(2005年3月、祥伝社) ソラミミ(2005年5月、飛鳥新社) ペリカン通り(2005年6月、飛鳥新社) ボーイフレンド 男の子じゃないとだめなんだもの(2006年12月、ディスカヴァー・トゥエンティワン) ハルヒマヒネマ(2008年10月、講談社) ビアティチュードBEATITUDE 1(2008年10月、講談社) 家族生活(2009年5月、小学館クリエイティブ) 新装版・他社版などは省略した。 その他 パリの友達(1999年、ナツヨウコ共著、KKベストセラーズ) - パリのガイド本 文藝別冊やまだないと総特集(2004年3月、河出書房新社) ISBN 4309976751 『家族生活』を収録。 プリンセス プリンセス「プリ2 〜PRINCESS PRINCESS BEST OF BEST〜」(2006年3月8日)ジャケットイラスト メールマガジン「コーヒー&シガレッチョ」エッセイ、写真など 子宮の記憶(2013年、島田佳奈著、ソニー・デジタルエンタテイメント) 脚本作品 テレビ番組 出会いのストーリー(2001-2003年、フジテレビ系)- 2002年8月分 私立探偵 濱マイク(2002年7月-9月、日本テレビ系)- 第10話 映像化作品 映画 フレンチドレッシング(1998年、斎藤久志監督) L'amant ラマン(2004年、廣木隆一監督) 王様とボク(2012年、前田哲監督) オリジナルビデオ エリ 従姉弟関係(2003年)- 原作:『いとこ同士』(『恋に似ている』収録) 天使の病ひ(2003年)- 原作:『エロマラ』 脚注 外部リンク やまだないと - 旧ホームページ 日本の漫画家 佐賀県出身の人物 1965年生 存命人物
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まついなつき
まつい なつき(1960年7月1日 - 2020年1月21日)は、日本の漫画家、エッセイスト、占い師、占い講師。ライター、漫画家としての活動とともに、企画、編集といった出版の仕事にも携わった。 本名は松井なつき(読み;同じ)(結婚してから元夫と別れる迄は町田なつき) 来歴 東京都新宿区生まれ、北海道育ち。16歳で東京に戻り、17歳より同人雑誌活動を始め漫画専門誌(旧)『ぱふ』にてデビュー。1979年にはエロ劇画誌の『漫画エロジェニカ』にH系のギャグ漫画を執筆、「かるめら姫」を名乗る本人がおかっぱにぶかぶかのパンツ一つの姿で描かれていた。 3児の母であり、出産や育児をテーマにした著書が多数ある。1994年に出版された「笑う出産」は60万部のベストセラーであり、代表作。 2002年頃より、西洋占星術・タロット・絵画心理分析・夢分析などの初心者向け講座を開講し、個人鑑定や占い記事の執筆・監修等の活動を行った。 2008年10月に、中野ブロードウェイ内に占い店舗「中野トナカイ」を開店させ、様々な占い師とフレキシブルな営業をした。 元夫はカメラマンの町田仁志。 2020年1月21日、脳梗塞のため東京都中野区内の病院で死去。翌22日に息子3人がまつい本人のTwitterで死去を公表した。59歳没。 作品リスト 単行本(まんが・エッセイ系) かるめら丼 けいせい出版 (1981年6月) かるめらビンボー生活 宝島ブックス (1984年7月) みりん星通信 河出書房新社 (1990年12月) オフレコ。―まついなつきインタビュー全仕事 ビー・エヌ・エヌ (1991年2月) 笑う出産―やっぱり産むのはおもしろい 情報センター出版局 (1994年2月) 東京暮らしの逆襲 角川書店 (1995年5月) うちの子どもにゃヘソがある 小学館 (1995年10月) 子育てが地球を汚す?―子連れエコ転び八起き 婦人生活社 (1995年11月) 笑う出産〈2〉やっぱり2人目もおもしろい 情報センター出版局 (1996年3月) 笑う英会話 情報センター出版局 (1997年5月) おつきあいの極意 (藤臣柊子との共著) 幻冬舎 (1997年6月) お茶の間番長 ぶんか社 (1999年7月) 出産育児どーするどーなる百科 二見書房 (1999年7月) まついなつきのパソコンでこんなんできまっせ 朝日新聞社 (1999年7月) アトピー息子―笑う出産スペシャル 情報センター出版局 (1999年8月) まついさんちの「遊んじゃう家庭生活」講談社 (2000年9月) 恋する女はみんなバカ。―21世紀対応“自立する恋愛”考 祥伝社 (2001年2月) 私だけがタイヘン?―笑う子育て生活 海竜社 (2001年4月) あしたはワタシのお葬式 日本放送出版協会 (2002年4月) ねじまき小学生―ウチの子どもが小学生になっちゃった!! カンゼン (2003年2月) どうすればほめてもらえるの? 現代書林 (2003年9月) まついさんちの子どもめし カンゼン (2006年10月) 英語ってそういうことだったのか!! (山西治男との共著) アスコム (2006年11月) まさかわたしがPTA!? メディアファクトリー (2010年3月) 単行本(占い系) しあわせ占星術 情報センター出版局 (2000年10月) 驚くほど当たる占い完全ガイド 講談社 (2002年4月) 運命が変わる土星占い(サターンリターン) 祥伝社 (2006年12月) まついなつきのムーンチャイルド占星術―親子の相性がわかると子育てが楽になる! 主婦の友社 (2008年3月) 文庫 東京暮らしの逆襲 角川書店 (1999年3月) 女王様のじまんの園 光文社文庫 (1999年2月) 断食ダイエット入門―効果てきめん! ソニーマガジンズ (2004年8月) 愛はめんどくさい 幻冬舎 (2005年2月) 脚注 参考 占いワールド | 占いコラム| 第5回 まつい なつき先生 まついさんの連絡帳 公式webページ(2007年9月2日 18:18 - 2008年6月3日 09:08) 続・まついさんの連絡帳 公式webページ(2008年6月5日 12:26 - 2010年4月1日 14:48) 西洋占星術・タロット占いのお店 - 中野トナカイ(最終更新日:2020年1月23日) (2010年2月12日 13:44:03 - 2020年1月26日 00:18)※ UTC表記。 日本の漫画家 20世紀日本の女性随筆家 21世紀日本の女性随筆家 日本の占星術師 東京都出身の人物 1960年生 2020年没
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松井雪子
松井 雪子(まつい ゆきこ、1967年1月5日 - )は、東京都武蔵野市出身の漫画家、小説家。代表作に『おんなのこポコポン』『マヨネーズ姫』など。カー雑誌『ベストカー』誌上で連載の4コマ漫画では松井くるまりこ名義で執筆している。 『アックス』(青林工藝舎)誌上にて「マヨネーズ姫」を連載中。 経歴 共立女子高等学校、共立女子大学家政学部生活美術科卒業。 1988年、大学在学中にASUKA(角川書店)誌上にて漫画家デビュー(漫画家という職業を選んだのは家でできるからだと話す)。 2001年、「群像」誌上で「私のフジサン」を発表し、小説家としてもデビューする。 2003年、「イエロー」で第128回芥川龍之介賞候補。 2004年、「日曜農園」で第131回芥川龍之介賞候補。 2005年、「恋蜘蛛」で第133回芥川龍之介賞候補。 2007年、「アウラ アウラ」で第137回芥川龍之介賞候補。 作品リスト 漫画 『スピカにおまかせ』(1989年7月、角川書店・あすかコミックス) 『東京デビュー』1991年10月、青林堂 『おんなのこポコポン』全5巻、竹書房・バンブーコミックス、1992-98 『謎のオンナV』(1993年5月、ヤングロゼコミックスDX) 『なぞのカッパ星人』(1993年7月、集英社・ジャンプコミックスデラックス) 『おじゃましまっそ』(1994年2月、竹書房・バンブーコミックス) 『4Pの事情』(1995年1月、祥伝社・フィールコミックスゴールド) 『マヨネーズ姫』(1996年10月、青林堂) 『絶望ハンバーグ工場』(1997年1月、文春コミックス) 『春庭家の3人目』全2巻 アクションコミックス、1997-98  『家庭科のじかん』(1997年9月、祥伝社・フィールコミックスゴールド) 『恋の南極』(1997年12月、ぶんか社コミックス) 『愛の北極』(1998年4月、ぶんか社コミックス) 『らぶらぶルールブック』(1999年6月、フィールコミックスゴールド) 『お嫁ちゃんばー』(2001年10月、まんがタイムコミックス) 『犬と遊ぼ!』(2003年2月、講談社コミックス) 絵本(マツイユキコ名義) 『クウとポーのクリスマス』(2004年11月、平凡社) 小説 『イエロー』(2003年7月、講談社) イエロー(『群像』2002年12月号) 私のフジサン(『群像』2001年5月号) 『チル☆』(2003年1月、講談社)のち文庫 『刺繍天国』(2006年2月、文藝春秋) 恋蜘蛛(『文學界』2005年6月号) 愛・弾丸ツアー(『文學界』2005年12月号) 『日曜農園』(2007年10月、講談社) 日曜農園(『群像』2004年5月号) 『まよいもん』(2008年3月、幻冬舎) のち文庫  『肉と衣のあいだに神は宿る』文藝春秋 2015 単行本未収録作品 白鳥の湖(『小説現代』2005年7月号) エッセイ集ほか 『犬と旅する20の約束』(1996年3月、大和書房)「犬と楽しく旅するQ&A」幻冬舎文庫 『お局さまが待っている』おつぼネット評議委員会共著(1999年5月、小学館文庫) 『奇跡でも魔法でもない犬語の話し方』(2004年7月、幻冬舎) 『男子はじめて物語 それゆけ、映画スタァ「局部」探訪隊』(2006年7月、文藝春秋) 『しあわせぷーどるず』文藝春秋 2009 『ぐうたら山暮らし』イースト・プレス 2013 脚注 外部リンク 松井温泉 雪乃湯(公式サイト)※休館中 https://yukinoyu.exblog.jp/  しあわせぷーどるず(公式ブログ) 日本の漫画家 日本の小説家 1967年生 存命人物 東京都出身の人物 共立女子大学出身の人物 アックス
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まつざきあけみ
まつざき あけみは、日本の漫画家。 経歴 1970年、『週刊マーガレット』にて『リリー』でデビュー。以後講談社の漫画雑誌を皮切りに活動を開始、一時期は、ボーイズラブ雑誌『JUNE(ジュネ)』、『ALLAN(アラン)』(OUT別冊)では欠かせない作家であった。『ぼくらは青年探偵団』は、その系統の代表作で、ギャグのセンスも著しく冴えている。その後、『ハロウィン』などの少女ホラー雑誌を経て、現在も童話系レディースコミック雑誌『まんがグリム童話』で活躍中。 作風 美少年、男色、スプラッタと3拍子揃った、耽美派系(少女)漫画家。白黒原稿では美麗な描線と緻密な描き込みを特徴とし、カラー原稿では日本画の影響を受けた優美な色彩を見せる。 作品リスト 初期作品(週刊・別冊少女誌など) ガラスのアンジェリアン - 『なかよし』(講談社)にて連載。 ごきげん?アピ(原作 / 香田あかね、名木田恵子) - 『なかよし』(講談社)にて連載(講談社、1975年)。 白い鎮魂歌(レクイエム) - 白人と黒人の対立する町に、中学教師としてやって来たシークフリート。 誰の心にも潜む「差別と憎悪」を描く(ペーパームーン・コミックス、1980年)。 リセアン(ペーパームーン・コミックス、1981年) 華麗なる恐怖シリーズ スペシャル・メニュー 犬姫御殿 夜光華 逢魔が刻 ふりむいた男 黄金海流 好敵手 まんがグリム童話 ラプンツェル 一寸法師 淫楽の宴編 かぐや姫 眠れる森の美女 秘密の花園 かしこい田舎娘(ぶんか社、2017年9月) - 主人公に一貫して尽くした侍女が破滅し、罪なき民を疑って投獄したり、金銀に執着する王が罰せられない不条理な結末になっている。 その他 ぼくらは青年探偵団(東京デカド社、1987年) 真夜中の子供(朝日ソノラマ、1991年) ラブ・ゲーム(マガジン・マガジン、1997年) - 宇堂と故硲は高校の同級生。二人を中心に巻き起こされる事件を描く学園サスペンス。 魔の恋人 夢十夜 踊る死仮面 醜い人 人虫 魍魎狩り 魔樹 迷宮城 魔の顔 真夜中の遊戯 封印された心霊体験スペシャル 真夜中の呪文編 学園ホラー&ミステリースペシャル 教室の恐怖伝説編 あなたの心に潜む魔物語スペシャル 悪魔 運命の扉編 花子さんがいる 恐怖劇場(デビル・シアター) メタモルフォーゼ 神尾中正義団 惨劇姫 夏休みはもうこない あの子がこわい 死人の花 死招き人形 子泣きの杜 ブラディ・マリー 画集・イラスト まつざきあけみ画集 夜伽草子 月刊My Birthday(表紙イラスト) ゲーム 世界一ツイてない女 どつぼちゃん(PlayStation用ソフト、キャラクターデザイン) 脚注 外部リンク まつざきあけみのブログ 日本の漫画家 生年未記載 存命人物
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大島
大島(おおしま、おおじま、おしま) 異表記 : 大嶋・大嶌・大㠀・大隝・大嶹など 地名 島嶼 北海道地方 渡島大島 - 北海道松前郡松前町の島。 大島 (北海道色丹村) - 北海道色丹郡色丹村の島。 大島 (阿寒湖) - 北海道釧路市にある阿寒湖の湖中島。 東北地方 大島 (青森県深浦町) - 青森県西津軽郡深浦町の島。 大島 (陸奥湾) - 青森県東津軽郡平内町の島。 大島 (岩手県) - 岩手県下閉伊郡山田町の島。 大島 (宮城県気仙沼市) - 宮城県気仙沼市の島。「気仙沼大島」とも。 大島 (宮城県女川町) - 宮城県牡鹿郡女川町の島。 関東地方 大島 (千葉県) - 千葉県鴨川市の島。 伊豆大島 - 東京都大島町の島。 中部地方 三河大島 - 愛知県蒲郡市の島。 大島 (愛知県) - 愛知県西尾市の島。 大島 (三重県志摩市) - 三重県志摩市の島。 大島 (三重県紀北町) - 三重県北牟婁郡紀北町の島。 大島 (石川県輪島市) - 石川県輪島市の島。 大島 (石川県七尾市) - 石川県七尾市の島。 近畿地方 大島 (京都府舞鶴市) - 京都府舞鶴市の島。 大島 (京都府京丹後市) - 京都府京丹後市の島。 大島 (兵庫県香美町) - 兵庫県美方郡香美町の島。 大島 (兵庫県新温泉町) - 兵庫県美方郡新温泉町の島。 大島 (兵庫県相生市)大島町。 現在は土砂の堆積で埋まり、住宅街の中の小さな岩山。頂上には真言宗の善光寺と言う寺院がある。 大島 (和歌山県和歌山市) - 和歌山県和歌山市の島。 大島 (和歌山県白浜町) - 和歌山県西牟婁郡白浜町の島。 紀伊大島 - 和歌山県東牟婁郡串本町の島。 中国地方 大島 (備前国) - 備前国御野郡にかつてあった島・三角州。中世の干拓により陸地化し、現在の岡山県岡山市中心市街地にあたる。大洲、大洲原とも呼ばれた。 大島 (備中国浅口郡) - 備中国浅口郡にかつてあった島・地名。 大島 (笠岡諸島) - 備中国小田郡、現・岡山県笠岡市の島。笠岡諸島の島の一つ。笠岡市大島地区とは別。 周防大島 - 山口県大島郡周防大島町の島「屋代島」(やしろじま) の異称。 大島 (山口県萩市) - 山口県萩市の島。 大島 (山口県長門市) - 山口県長門市の島。2島存在する。 大島 (鳥取県) - 鳥取県鳥取市の島。「伏野大島」とも。 大島 (島根県江津市) - 島根県江津市の島。 大島 (島根県松江市) - 島根県松江市の島。 大島 (島根県浜田市) - 島根県浜田市の島。 大島 (島根県知夫村) - 島根県隠岐郡知夫村の島。 四国地方 大島 (徳島県) - 徳島県海部郡牟岐町の島。 大島 (香川県土庄町) - 香川県小豆郡土庄町の島。 大島 (香川県高松市) - 香川県高松市の島。 新居大島 - 愛媛県新居浜市の島。 大島 (愛媛県今治市) - 愛媛県今治市の島。 大島 (愛媛県伊方町) - 愛媛県西宇和郡伊方町の島。御島(おしま)。 大島 (愛媛県八幡浜市) - 愛媛県八幡浜市の島。「八幡浜大島」とも。 大島 (愛媛県宇和島市) - 愛媛県宇和島市の島。 大島 (高知県) - 高知県宿毛市の島。 九州地方 大島 (福岡県) - 福岡県宗像市の島。「筑前大島」「筑紫大島」「宗像大島」とも。 的山大島 - 長崎県平戸市の島。 大島 (長崎県佐世保市) - 長崎県佐世保市江上町の島。 大島 (長崎県佐世保市鹿町町九十九島) - 長崎県佐世保市鹿町町の島。 大島 (長崎県対馬市) - 長崎県対馬市の島。 大島 (長崎県壱岐市) - 長崎県壱岐市の島。 大島 (長崎県西海市) - 長崎県西海市の島。 大島 (長崎県小値賀町) - 長崎県北松浦郡小値賀町の島。 大島 (熊本県) - 熊本県天草市の島。 大島 (大分県佐伯市) - 大分県佐伯市の島。 大島 (大分県杵築市) - 大分県杵築市の島。 大島 (宮崎県) - 宮崎県日南市の島。 阿久根大島 - 鹿児島県阿久根市の島。 奄美大島 - 鹿児島県の島。奄美市、大島郡龍郷町・大和村・宇検村・瀬戸内町を含む。 島嶼以外 (かつて島であった地名も含む) 大島 (杉戸町)(おおじま) - 埼玉県杉戸町の町丁。 大島 (江東区)(おおじま) - 東京都江東区の町丁。 大島 (川崎市)(おおしま) - 神奈川県川崎市川崎区の町丁。 大島 (新潟市)(おおじま) - 新潟県新潟市中央区の町字。 大島 (郡上市)(おおしま) - 岐阜県郡上市(旧・郡上郡白鳥町)の大字。 大島 (志賀町)(おしま) - 石川県羽咋郡志賀町の大字。cf. 大島海岸、大島海水浴場。 大島 (宮津市)(おおしま) - 京都府宮津市の大字。 大島 (尼崎市)(おおしま) - 兵庫県尼崎市大庄地区の地名。 大島 (串本町)(おおしま) - 和歌山県東牟婁郡串本町の大字。 大島 (北栄町)(おおしま) - 鳥取県東伯郡北栄町の地名。旧・東伯郡大栄町島。北栄町成立時に地名の重複を避けるため大栄町の「大」を冠し、大島となった。 大島 (倉敷市)(おおじま) - 岡山県倉敷市の大字。 大島 (笠岡市)(おおしま) - 岡山県笠岡市の行政地域。大島中・西大島・西大島新田からなる。旧・浅口郡大島村。 大島 (八女市)(おおじま) - 福岡県八女市の地名。 大島町(おおしままち) - 東京都にある町・地方公共団体。 大島区(おおしまく) - 新潟県上越市の地域自治区。旧・大島村。 大島郷(おおしまごう) - 備中国浅口郡にあった郷。大島の西部。 東大島(ひがしおおしま) - 現在の岡山県浅口市寄島町の旧称。 周防大島町(すおうおおしま)-山口県にある町、地方公共団体 大島郡 (曖昧さ回避) 大島支庁 (曖昧さ回避) 大島町 (曖昧さ回避) 大島村 (曖昧さ回避) 歴史・文化 大島 (相撲) - 相撲の年寄名跡の一つ。 大島部屋 - 相撲部屋の一つ。 大島城 - 信濃国伊奈郡(現・長野県下伊那郡松川町元大島)にあった城。 大島本 - 源氏物語の写本等。 大島紬 - 奄美群島特産の平織り絹布、および、その絹布で縫製した和服。 大島節 - 伊豆大島の民謡。 大島流 - 槍術の流派の一つ。 大島氏 - 日本の氏族。既存項目は「:Category:大島氏」を参照のこと。 施設・組織・乗りもの 大島 (砲艦) - 日本海軍の艦船。 大島丸 (曖昧さ回避) - 日本語船舶名の一つ。 大島連絡船 - 日本にあった鉄道連絡船。 大島空港 - 伊豆大島にある空港。 大島駅 (曖昧さ回避) - 日本各地にある鉄道駅。 大島大橋 (曖昧さ回避) - 日本に複数ある道路橋の名称。 人物 該当者が複数名存在する場合は曖昧さ回避ページを参照のこと。 あ行 大島明美( - あけみ) - 俳優。 大島敦( - あつし) - 政治家。 大島郁将( - いくまさ) - 元・プロ野球選手。 大島宇三郎( - うさぶろう) - 俳優。 大島映二( - えいじ) - 将棋棋士。 大島江里奈( - えりな) - ファッションモデル。 か行 大島かおり - 翻訳家。 大島和子( - かずこ) - 元・アマチュアレスリング選手。 大島一彦( - かずひこ) - 英文学者。 大島和久( - かずひさ) - タレント。 大嶋一也( - かずや) - 競艇選手。 大嶋和也( - かずや) - レーシングドライバー。 大嶋勝吉( - かつよし) - 武将。 大島榎奈( - かな) - ナレーター。 大島喜一郎( - きいちろう) - 政治家。 大島吉之助( - きちのすけ) - 西郷隆盛の変名の一つ。 大島衣恵( - きぬえ) - 能楽師。 大島希巳江( - きみえ) - 教育学者、社会言語学者。 大島清 (曖昧さ回避)( - きよし) 大島杏子( - きょうこ) - 元・体操競技選手。 大島くじら - プロレスラー。 大島九州男( - くすお) - 政治家。 大島邦秀( - くにひで) - 武士、官僚、軍人(陸軍軍人)。 大島久満次( - くまじ) - 政治家。 大島健一( - けんいち) - 軍人(陸軍軍人)、政治家。 大島堅一( - けんいち) - 政治家。 大島鎌吉( - けんきち) - 陸上競技選手(三段跳選手)。 大島健伸( - けんしん) - 実業家(SFCG創業者)。 大島賢治( - けんじ) - 演奏者(ドラマー)。 大島堅造( - けんぞう) - 実業家。 大島賢三( - けんぞう) - 外交官。 大島公一( - こういち) - プロ野球選手。 大島幸治( - こうじ) - 評論家。 大島こうすけ - ミュージシャン。 さ行 大島貞薫( - さだか) - 武士、洋兵学者。 大島貞益( - さだます) - 著作家。 大島さと子( - さとこ) - タレント。 大島里美( - さとみ) - 脚本家。 大島さやか - アナウンサー。 大島三右衛門( - さんえもん) - 西郷隆盛の変名の一つ。 大島治喜太( - じきた) - 戦前の剣道家。 大嶋修一( - しゅういち) - 映画美術監督。 大島史洋( - しよう) - 歌人。 大島襄二( - じょうじ) - 文学学者、文化地理学者。 大島正太郎( - しょうたろう) - 外交官。 大島末男( - すえお) - 神学者。 大島聖子( - せいこ) - 元・競艇選手。 た行 大島泰郎( - たいろう) - 生化学者。 大島孝雄( - たかお) - 小説家。 大島高任( - たかとう) - 鉱山学者。 大島嵩弘( - たかひろ) - プロサッカー選手。 大島崇行( - たかゆき) - プロ野球選手。 大島隆義( - たかよし) - 理学者。 大嶋拓( - たく) - 映画監督。 大嶋匠( - たくみ) - プロ野球選手。 大島武( - たけし) - 元・プロ野球選手。 大島理森( - ただもり) - 政治家。 大島建彦( - たてひこ) - 民俗学者。 大島ちあき - 俳優。 大島親崇( - ちかたか) - 武将。 大島忠一( - ちゅういち) - 元・プロ野球選手。 大島司( - つかさ) - 漫画家。 大島翼( - つばさ) - プロサッカー選手。 大島稔彦( - としひこ) - 政治家。 大島俊之 (曖昧さ回避)( - としゆき) 大島智( - とも) - 漫画家「二階堂みつき」の別・ペンネーム。 大島友治( - ともじ) - 政治家。 大島友之允( - とものじょう) - 武士、外交官。 大嶋文博( - ともひろ) - ミュージシャン「Tom-H@ck」の本名。 大島ともよ - 映像編集技師。 大島永遠( - とわ) - 漫画家。 な行 大島直子( - なおこ) - アナウンサー。 大島直人( - なおと) - ゲームクリエイター。 大島直政( - なおまさ) - トルコ文化・トルコ語研究者。 大島直也( - なおや) - タレント。 大島なぎさ - モデル。 大島渚( - なぎさ) - 映画監督。 大島信生( - のぶお) - 日本文学研究者(国文学者)。 大島信雄 ( - のぶお)- プロ野球選手。 大島伸彦( - のぶひこ) - プロレスラー「CIMA」の本名。 大島信彦( - のぶひこ) - テレビ局制作局長。 大島典子( - のりこ) - テレビ番組プロデューサー。 大嶋記胤( - のりつぐ) - プロボクサー。 は行 大島久直( - ひさなお) - 軍人(陸軍軍人)。 大島久見( - ひさみ) - 能楽師。 大嶋仁( - ひとし) - 比較文学者。 大島破竹郎( - はちくろう) - 官僚、政治家。 大島伯鶴( - はっかく) - 講釈師の名跡。初代および2代目あり。 大島花子( - はなこ) - 歌手。 大島治男( - はるお) - プロサッカー選手。 大島春行( - はるゆき) - タレント(NHK解説委員)。 大島秀夫( - ひでお) - プロサッカー選手。 大島弘子( - ひろこ) - 元・タレント。 大島浩( - ひろし) - 軍人(陸軍軍人)。 大島寛史( - ひろし) - 官僚、生理学者。 大嶋宏成( - ひろなり) - プロボクサー。 大島浩美( - ひろみ) - ヌードモデル「オオシマ・ヒロミ」の別名。 大島博光( - ひろみつ) - 詩人。 大島裕行( - ひろゆき) - プロ野球選手。 大嶋啓之( - ひろゆき) - 作曲家。 ま行 大島麻衣( - まい) - タレント。 大島正健 ( - まさたけ) - 教育者。 大島雅太郎( - まさたろう) - 実業家(三井財閥理事)。 大島政允( - まさのぶ) - 能楽師。 大島正徳( - まさのり) - 哲学者、教育者。 大島昌宏( - まさひろ) - 小説家。 大島正光( - まさみつ) - 医学者。 大島正満( - まさみつ) - 生物学者。 大島将哉( - まさや) - 声優。 大島真寿美( - ますみ) - 小説家。 大島又彦( - またひこ) - 軍人(陸軍軍人)。 大嶋真由子( - まゆみ) - アナウンサー。 大島幹雄( - みきお) - サーカス・プロモーター。 大島通義( - みちよし) - 経済学者。 大嶋光昭( - みつあき) - 電子技術者。 大島美恵子( - みえこ) - 生化学者。 大島ミチル - 作曲家。 大島盈株( - みつもと) - 大工棟梁、建築家。 大島みづき - タレント。 大島みなみ - 元・AV女優。 大島美幸( - みゆき) - タレント。 大島美和( - みわ) - アニメーター。 大島めぐみ - 陸上競技選手。 大嶋恵( - めぐみ) - AV女優。 や行 大島康明( - やすあき) - 元・プロサッカー選手。 大島やすいち - 漫画家。 大島保克( - やすかつ) - 歌手。 大島康邦( - やすくに) - 元・バスケットボール選手。 大島靖( - やすし) - 政治家。 大島康徳( - やすのり) - プロ野球選手。 大島保彦( - やすひこ) - 翻訳家。 大島康正( - やすまさ) - 倫理学者。 大嶋優木( - ゆうき) - 原型師。 大島優希( - ゆうき) - 演奏者(三味線奏者)。 大島ゆう子( - ゆうこ) - ヌードグラビアモデル。 大島優子(曖昧さ回避)( - ゆうこ) 大島雄次( - ゆうじ) - 実業家。 大島由佳( - ゆか) - 元・アナウンサー。 大島由香里( - ゆかり) - アナウンサー。 大島寛( - ゆたか) - 元・プロ野球選手。 大島弓子( - ゆみこ) - 漫画家。 大島由美子( - ゆみこ) - タレント。 大島蓉子( - ようこ) - 俳優。 大島洋平( - ようへい) - プロ野球選手。 大島良明( - よしあき) - アマチュア天文家。 大島義夫( - よしお) - 言語学者。 大島芳彦( - よしひこ) - 建築家。 ⇒ ブルースタジオ 大島慶久( - よしひさ) - 元・政治家。 大島嘉仁( - よしひと) - 経営者。 大島義浮( - よしひろ) - 武士。 大島義昌( - よしまさ) - 武士、軍人(陸軍軍人)。 ら行 大島りえ - アニメーター。 大島璃生( - りお) - 俳優(子役)。 大島里喜( - りき) - 歌手(民謡歌手)。 大島りこ - AV女優。 大嶋良介( - りょうすけ) - アイスホッケー選手。 大嶋竜太郎( - りゅうたろう) - 武道家。 大島竜珉( - りゅうみん) - 右翼活動家。 大島崚( - りょう) - 声優。 大島涼花( - りょうか) - アイドル。AKB48メンバー。 大島僚太( - りょうた) - プロサッカー選手。 大島令子( - れいこ) - 政治家。 関連項目 地名姓
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やまざき貴子
やまざき 貴子(やまざき たかこ、8月18日生)は、日本の少女漫画家。北海道別海町出身、女性。愛称はやまらき。 経歴 1985年、白泉社の第10回アテナ新人大賞新人賞を受賞。1986年、『LaLa DX』掲載の「インセクター☆シンドローム」でデビュー。1987年、第12回アテナ新人大賞にてデビュー優秀者賞を受賞。代表作は「マリー・ブランシュに伝えて」、「ZERO」、「っポイ!」。 2001年、『LaLa』から同社の『MELODY』に移籍。『月刊フラワーズ』(小学館)でも漫画連載を行われている。 作品リスト 白泉社・花とゆめコミックス っポイ!(全30巻) 「ムシ」シリーズ アカデメイアの冒険者 マリー・ブランシュに伝えて GONDWANA アカデメイアの冒険者2 「若菜」シリーズ 晴れて、カラカラ きょうはアラシ 可視光線 ZERO(全11巻) 白泉社・画集 っポイ! 小学館・フラワーコミックス LEGAの13(全6巻) ――準備中。(全4巻) 夢みる機械人形(既刊1巻) 小学館・文庫 きょうはアラシ インセクター☆シンドローム アカデメイアの冒険者 小説の挿絵 自由時間は終わらない(阪本直子作) 脚注 注釈 出典 外部リンク やまざき貴子 オフィシャルブログ 小学館コミック -フラワーズ- やまざき貴子 日本の漫画家 SF漫画家 北海道出身の人物 生年未記載 存命人物
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まつもと泉
まつもと 泉(まつもと いずみ、1958年10月13日 - 2020年10月6日)は、日本の漫画家。男性。富山県高岡市生まれ。富山県立高岡工芸高等学校卒業。 経歴 デビューまで 高校卒業後、ロックミュージシャンを目指して上京する。パートはドラムス。無類のロック好きで、シンガーソングライターの杉真理、ジェネシス、TOTOの大ファンである。しかし、楽譜が読めなかったこともあってミュージシャンは断念し、デザイン専門学校に入学する。 専門学校在学中、高校時代の友人と2人で漫画作品を描き、いくつかの出版社に持ち込みをした。「まつもと泉」のペンネームは、当初はユニットとして、高校時代の同級生の友人と2人で組んで活動を始めたため、それぞれが「松本」「いずみ」と語感の好きな名前を出し合い、そのままでは前者は硬すぎる印象で、後者は女性的な印象なので漢字とひらがなを逆にして決定した。その他の候補では、当時2人でよく打ち合わせに利用していた渋谷駅前の喫茶店名から取った「渋谷パテオ」というのもあったが、却下された。 持ち込みの結果、集英社『週刊少年ジャンプ』編集部の高橋俊昌に認められ、本格的にデビューへの道を歩み出す。1980年代当初、硬派・劇画・スポーツ・ギャグを主軸としていたジャンプでは、売り上げの減少を食い止めるために他誌で人気を博していたラブコメと美少女キャラの要素を取り入れる方向で模索していた。ちょうどその路線に合致するまつもとの絵柄を気に入り、初代担当編集者となった高橋とともに、連載に向けてコンセプトや企画の打ち合わせを重ねつつ、原稿が落ちた『ストップ!! ひばりくん!』(江口寿史)の穴埋め短編漫画や、懸賞ページのイラストなどを描いていた。なお、友人は連載デビューまでの年間のギャラが数万円という経済状況に耐えきれず脱落し、以降は1人で活動を続ける。 連載デビュー 1984年から『きまぐれオレンジ☆ロード』の連載を開始する。それまでのジャンプにはあまり見られなかった絵柄、当時はまだ珍しかったカラースクリーントーンを多用したデザイン性の高いカラーページは注目を集め、瞬く間に人気作品となる。ちば拓や桂正和とともにジャンプでのラブコメ、美少女路線を開拓、読者アンケートでは作中のキャラクターと同年代の10代を中心に男女共にバランスの良い人気を集めた。 影響を受けたマンガ家は、永井豪、山上たつひこ、吾妻ひでお、田村信、江口寿史、高橋留美子など。漫画家の友人は、みやすのんきや清水としみつ、宮崎摩耶など。 また、まつもとの姉が雑誌を購入していた少女マンガにも影響を受けており、この分野では、多田かおる、よしまさこ、くらもちふさこなどの女流漫画家の画風とラブコメの要素の影響も受けている。 『きまぐれオレンジ☆ロード』の連載終了後、『せさみ☆すとりーと』を連載する。この作品は、江口寿史の影響が色濃く見られ、イラスト的な手法を取り入れるなど実験的な試行錯誤もなされていた。 闘病生活と死 21世紀に入ってからは、脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)により漫画家活動ができなくなり、闘病に専念する。『スーパージャンプ』で数年ぶりの新連載の予定だったが、これにより延期となり、結果的には中止となった。また、闘病生活を基にした自伝的な書き下し漫画の計画もあったが、実現することはなかった。さらに、心房細動を発病し心臓の手術をしたことから、イラストや漫画の構想のみに活動が絞られた。 2020年10月6日、入院療養中の病院にて死去。享年61。 エピソード 『きまぐれオレンジ☆ロード』連載中のハードスケジュールの中、連載中盤で体の調子を崩し、半年ほど休養した。その休養期間にアニメ化の企画の話が来た。 平井和正は『きまぐれオレンジ☆ロード』をファンとして愛読していた。1990年代中盤、まつもとの仕事場に平井本人から「『きまぐれオレンジ☆ロード』のアニメと漫画を読んで、とても感銘を受けた」とのファックスが届いた。『きまぐれオレンジ☆ロード』へのオマージュとして小説『ボヘミアンガラス・ストリート』を描いたとのことである。何度か会い、電子出版の未来に新しい出版の形態があることに意気投合し、デジタルコミック『COMIC-ON』を制作した。 『きまぐれオレンジ☆ロード』はリアルタイムでストーリーが進んでいたため、長期連載により主人公である恭介たちは中学3年生から高校3年生になっていた。翌年は大学生の年となり、純粋な世界観にすることが難しく連載を続けることが出来ないと思い至ったまつもとは、担当編集者に「連載を終わらせたい」と相談したところ「最終回まで5週で終わらせろ」と言われ、引き続きさらに「最終回まで3週」に縮まってしまった。本当は最終回につながる終盤の展開は半年ぐらいかけて終わりたかったとのことである。ジャンプ本誌では苦労してどうにか3週で終わらせたが、どうしてもページ数が足りなかったので、ジャンプコミックス単行本に最終回の45Pを書き足した。 『きまぐれオレンジ☆ロード』で自身が好きなエピソードは、恭介が過去にタイムスリップして、まだ幼いまどかに出会って赤い麦藁帽子を買ってあげる長編エピソード。ストーリーが自分の中できちんとまとまったことが理由である。テレビアニメはこのエピソードで最終回を迎えたが、原作の最終回もここで終わっても良かったとのことである。連載中にはここで終わるつもりで描いていなかったが、このエピソードの最後のページの大きな樹のシーンを描いた時に、「先生、これで話が終わるんじゃないの?」と当時のアシスタントたちは全員シーンと黙ってしまったという。 『きまぐれオレンジ☆ロード』の女性キャラクターで一番好きなのは、鮎川まどか。同作を描いているエネルギーの比重の70%ぐらいがまどかで、楽しいし辛いけど描くのに気合が入るし好きで描いていたキャラクターだという。しかしまどかを描く時、描いては消しを繰り返すためとても時間が掛かるキャラクターで、『きまぐれオレンジ・ロード』で何が印象に残っているかというと「まどかを描いていた」ことだという。 年表 1981年、『週刊少年ジャンプ』のフレッシュジャンプ賞で佳作入選。「LIVE! とってもロックンロール」「週刊少年ジャンプ」でショート短編掲載。 1982年、『フレッシュジャンプ』に掲載された『ミルク☆レポート』で正式デビュー。 1984年、『週刊少年ジャンプ』において『きまぐれオレンジ☆ロード』を連載開始。 1988年、『スーパージャンプ』初月刊号から『せさみ☆すとりーと』を連載。 1993年、竹書房『コミックガンマ』新年号から大倉らいた原作で『BLACK MOON』の作画を担当。 1994年、ジャンプJブックスで 寺田憲史との共同原作により小説『新きまぐれオレンジ☆ロード』を制作。 1996年、東芝EMI(現:EMIミュージック・ジャパン)と共同でデジタルコミックCD-ROMマガジン『COMIC ON』を発売。プロデュース業と作家陣の一人二役を兼ねる。以降、紙媒体の雑誌からデジタル・メディアでのマンガ制作に発表の場を移す。 1999年6月、2000年初めから『スーパージャンプ』で数年ぶりの新連載の予定だったが、原因不明の体調不良により延期となった。 2004年7月、上記の病気が4歳の時に遭った交通事故が原因の脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)であったことが判明。まつもとの姉が脳脊髄液減少症という病名と症状を知った時、「弟(まつもと)の症状と同じ」と思ったため、病院で受診するよう勧めた。検査の結果、病名が判明した。効果があると言われているブラッドパッチ(硬膜外自家血注入)治療を受け、以前より体調は改善されたという。闘病生活を基にした自伝的な書き下し漫画の準備を進めている。「この病気のことを知らないために、死んでいった人もたくさんいるだろう。漫画の力でこの病気のことを伝えたい」とのこと。 2007年10月19日、母校の富山県立高岡工芸高等学校で講演をした。 2010年1月10日、『NHKニュースおはよう日本』に出演、自らの持病である脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)や自身の今後の活動に関して語った。 2011年7月1日 - 4日、ロサンゼルスで行われた『アニメエキスポ2011』に15年ぶりに参加した。 2011年7月21日、若いころからファンだった杉真理のライブを楽しんだ後、知人の紹介で杉と対面を果たし感激。記念撮影をしたことをブログに掲載した。 2015年3月26日、心房細動の持病を持っていることを明らかにし、4月3日より8日まで入院して手術を行った。 2016年8月27日、同年4月末に駅で男性とぶつかり頭部を強打し、脳脊髄液減少症が再発したこと、3か月間寝たきりの状態で自宅療養をしていたことを公式サイトで明らかにした。PCなどを操作することが困難であるため、しばらくはそれらには触れず治療に専念するという。 2017年11月19日、公私ともに親交のあった鶴ひろみが同年11月16日に死去した。まつもとは療養中の身を押して、自身の公式サイトへ追悼のコメントを掲載した。 2018年10月1日、1年1か月ぶりにブログを更新。2年に及ぶ闘病生活を経て活動再開を宣言。 2019年2月、杉真理デビュー40周年アルバム『MUSIC LIFE』リリースを記念したスペシャルサイトに祝辞コメントを寄稿。 2020年10月6日、入院療養中であった病院で死去。。脳脊髄液減少症による不定愁訴に苦しみながら復帰に向けて闘病を続けていたが、数年前に手術をした心臓にも不安を抱え、身体が保たなかったという。葬儀は近親者のみで執り行われた。 作品リスト きまぐれオレンジ☆ロード せさみ☆すとりーと(未完) 新きまぐれオレンジ☆ロード(小説) Graffiti(短編集) BLACK MOON(作画) カッパ・トゥ・ザ・ティーチャー(原案、監修) エンジェルグラフィティ 〜あなたへのプロフィール〜(キャラクターデザイン) EE(漫画) 幕末綿羊娘情史(構想のみ) DIGITAL SHORT CONTENTS(フルカラー短編集) GRAPHIC ANTHOLOGY(フルカラー画集) 公式ファンブック第1巻「Recurrence」(インタビュー、ネーム集) 公式ファンブック第2巻「Orange Blossom」(インタビュー、ネーム集) 影響を受けた漫画家 永井豪 山上たつひこ 吾妻ひでお 田村信 江口寿史 高橋留美子 多田かおる くらもちふさこ よしまさこ アシスタント 萩原一至 岡崎武士 本多将 脚注 関連項目 外部リンク デジタル・コミック「COMIC ON」 -公式サイト(1) サイキンのまつもと (公式ブログ)-公式サイト(2) Kimagure Interview (Spanish) with Matsumoto-Sensei -Chibisake(1) Izumi Matsumoto Biography (Spanish) -Chibisake(2) 日本の漫画家 富山県出身の人物 1958年生 2020年没 障害を持つ人物 心臓病で死亡した人物
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松本零士
松本 零士(まつもと れいじ、Leiji Matsumoto、男性、1938年〈昭和13年〉1月25日 - )は、日本の漫画家。本名:松本 晟(まつもと あきら)。福岡県久留米市生まれ、東京都練馬区在住。血液型はB型。旭日小綬章、紫綬褒章、フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。称号は練馬区名誉区民。妻は同じく漫画家の牧美也子。早稲田大学大学院名誉教授で元三菱重工業長崎研究所主管の松本將は実弟。 宝塚大学特任教授、京都産業大学客員教授、デジタルハリウッド大学特任教授を歴任。 代表作に『男おいどん』『銀河鉄道999』など。SF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物ものなど様々なジャンルの漫画を描いている。アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけては松本アニメブームを巻き起こした。 経歴 1938年(昭和13年)、福岡県久留米市に生まれる。 父親である松本強 は少尉候補者制度を用い(少候第10期)、下士官から叩き上げで将校である陸軍少佐(最終階級)にまで上った大日本帝国陸軍の軍人であり、また陸軍航空部隊の古参の操縦者(パイロット)であった。第二次世界大戦中、その父がテストパイロットをやっていた関係で、4歳から6歳まで兵庫県明石市の川崎航空機の社宅に住み。その後は母親の実家がある愛媛県喜多郡新谷村(現在の大洲市新谷町)に疎開していた(両親共に大洲市の出身である)。このときアメリカ軍の戦闘機や、松山市へ空襲に向かうB-29などの軍用機を多数目撃、この体験が後の作品に影響を与えたという。 終戦後、小学校三年から福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。小倉市立米町小学校(現・北九州市立小倉中央小学校)のときから漫画少年で、高井研一郎らと同人グループ「九州漫画研究会」を結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰。 松本が漫画家を志した理由は彼が小学二・三年の頃にあった学級文庫である。それは手塚治虫の漫画『新宝島』『キングコング』『火星博士』『月世界紳士』であった。 小倉市立菊陵中学校(現・北九州市立菊陵中学校)に進学。 1954年(昭和29年)、福岡県立小倉南高等学校1年生のときの投稿作「蜜蜂の冒険」が『漫画少年』(昭和29年2年号)に掲載されデビュー。そのときから中央でも既に知られる存在で、手塚治虫が出奔先の九州で原稿を描くときに高井、松本ら九州漫画研究会にアシスタントを頼んだというエピソードもある。またこの頃から1957年まで「毎日小学生新聞」に多数のマンガが掲載される。 高校卒業後の1957年(昭和32年)、毎日新聞西部本社版で連載をするはずだったが急に担当者が代わりその話は反故にされる。しかし月刊少女雑誌『少女』での連載が決定して上京。『少女』と『少女クラブ』に不定期で描く少女漫画家で出発、少女漫画においてスランプに至った頃にはライターとしてタレントの取材などを手がけ、その後1960年前後から少年誌、青年誌にも進出。デビュー時は「松本あきら」名義を使用しており、「松本零士」を使うようになったのは1965年以降である(後述)。 1962年(昭和37年)、漫画家の牧美也子と結婚。 少年時代から海野十三やH・G・ウェルズのSF小説を愛読して育ったため、SF漫画などを好んで描いていたが、不人気で打ち切りも多く、出世作となったのは1971年(昭和46年)から『週刊少年マガジン』に連載した『男おいどん』である。同作は人気となり、1972年に講談社出版文化賞受賞。松本ならではの「四畳半もの」という独自のジャンルを開拓した。 1974年(昭和49年)秋から放送されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』には企画途中から参加(詳細は宇宙戦艦ヤマト#制作の経緯を参照)。メカニックデザイナーとしての招聘だったが、かねてからアニメ作りを願望していた松本は全面的に携わった。本放送時には低視聴率に終わったものの、再放送によって人気を得、1977年(昭和52年)の劇場版アニメ公開時には社会現象を巻き起こした。これがアニメブームのきっかけとなり、松本はアニメ制作会社の東映動画にイメージクリエイターとして起用され、テレビアニメ『惑星ロボ ダンガードA』『SF西遊記スタージンガー』にデザインを提供。また、自らも企画として温めていた『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』がヤマト人気によりアニメ化が決定され、特に『銀河鉄道999』は大ヒットし、松本零士ブームが到来。以降数々の松本アニメが作られた。 松本アニメブームは1982年(昭和57年)の『わが青春のアルカディア』『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』の頃には下火となり、1983年夏の劇場アニメ映画として企画されていた『クイーン・エメラルダス』 は頓挫して、ブームは終焉。その後20年近く松本原作のテレビアニメは実現しなかった。 一方、1980年代後半からは、宇宙開発事業団などさまざまな団体の役職に就任。また、漫画の執筆では、自作の異なる作品に登場した人気キャラクターを同一の作品世界にまとめる作業を進める。往年の松本アニメブームで育ったクリエイターにより、1990年代後半以降、再び松本作品を原作としたアニメのリリースが活発となった。 2003年(平成15年)には、画業50周年記念作品として『銀河鉄道999』から派生した『銀河鉄道物語』が発表された。 2006年(平成18年)に宝塚造形芸術大学(2010年、宝塚大学に名称変更)のメディア・コンテンツ学部の教授に就任。 2015年(平成27年)に妻の牧美也子と「松本零士×牧美也子 夫婦コラボ展」で話題となる。 2019年(令和元年)11月15日にイベント出席のため訪問中だったイタリア・トリノで体調を崩して倒れ現地の病院へ緊急搬送されたが命に別状なく、12月4日に退院、翌5日に帰国した。 人物 石ノ森章太郎と同じ年月日に生まれる。二人は同時期に練馬区に在住し、同時期に手塚治虫のアシスタントを務めたことがあり、松本は石ノ森のことを「旧友」としている。 大戦後半、父親は第32教育飛行隊(1944年2月編成)の隊長として、特別操縦見習士官や少年飛行兵出身の新参パイロットの教育を行っていたが、課程を終え実戦部隊に転出した部下には後に特別攻撃隊の隊員として出撃していった者も少なくなかった。末期には二式複座戦闘機「屠龍」 に搭乗し、終戦の日まで連合軍と戦っていた。戦後、多くの元軍人パイロットが自衛隊入りしたのに対し、「敵の戦闘機には乗れない」と断固拒否。実家がある大平村での炭焼きや、小倉で野菜の行商をしながら線路脇のバラックに住み、その境遇を自ら進んで赤貧へと落としたが、家族で父に反対する者はおらず零士少年も「俺の父親は最高だ、父親と一緒にいられれば俺は満足」と行商の大八車を押したという。この「本当のサムライとしての父のイメージ」は、後にハーロックや沖田十三のモデルとして、松本の作品に生かされていった。また松本自身、進駐軍兵士がばら撒くキャンディーなどを「食べたくて仕方なかったが全部下駄で踏みつけて潰した」という。 母親は元教師で、子供の宿題に適切な添削までしてくれたという。これについて、子供のころは、大人だからできるのだと思っていたが、後から考えると、なかなかできないことだったと気づいたという。そんな、当時の女性としては高学歴で出身家庭が恵まれていた母親が、夫の意地のため苦労しながらも、周囲の嘲笑に歯を食いしばって耐えながら一緒に働いている姿を、息子たちは見て育ったという。 宇宙への憧れが強く、「片道でもいいから俺を宇宙に行かせてくれ」などの言葉がある。また、民間宇宙飛行の第一号になるという夢を持っていた(しかし、第一号という夢は叶わなかった)。日本人初の「宇宙へ行った宇宙飛行士」となった秋山豊寛は松本作品『ワダチ』の解説を執筆している。 漫画古書のコレクター。特に手塚治虫の初期の希少な漫画本を多くの資料と共に保管し、手塚本人も自作を探す必要があるときはまず松本に問い合わせていた。2002年にはSF作家小松左京がモリミノル名義で描いた赤本漫画の復刻に関わり、2005年の阪本牙城『タンクタンクロー』の復刻の際には原本の提供を行なった。その他にも漫画本の復刻の際に原本を提供することが多い。『漫画大博物館』という漫画の古書を図版で紹介するビジュアル百科事典も出版している。古式銃のコレクター。法的規制の厳しい日本において100丁以上の私有コレクションは稀である。ブライトリング等の航空腕時計が好きである。 音楽の趣味を尋ねられると「クラシック音楽ファン」であると答えている。特にリヒャルト・ワーグナーを愛好する「ワグネリアン」である。『音楽の革命児ワーグナー』(音楽之友社)という著書があり、絵と文の双方を執筆している。「作曲家の生涯」シリーズ(新潮文庫)の『ワーグナー』にもコラムを寄稿している。ワーグナーの『ニーベルングの指輪』を漫画化している。『N響アワー』に出演してワーグナーについて作曲家の池辺晋一郎と対談もしている。これらの影響から作品の構造がワーグナーの楽劇と共通している。『宇宙戦艦ヤマト』における男性キャラクターの好戦性による破壊を女性キャラクターが自己犠牲により救済する図式はワーグナー楽劇に一貫する図式と同じである。また『銀河鉄道999』は、主人公とヒロインが恋仲のようでいて母子でもあること、ヒロインの両親が対立していること、母親に忠誠だった娘が密かに父親に寝返っていること、ヒロインが親の野心のための人材を運んでいること、構築した権力の居城が最後に崩壊することなど、『ニーベルングの指輪』と構造が酷似している。『キャプテンハーロック』がアイパッチをして肩に黒い鳥がとまっている姿は『指輪』の大神ヴォータンと同じ。猫のミーメとは『指輪』の小人のミーメと同じ名。『SF西遊記スタージンガ-』の題名は『ニュルンベルクのマイスタージンガー』をもじったような題名である。など多くの共通点がある。 上京後文京区本郷の山越館へ下宿していた。同じ下宿に巡洋艦『最上』の副艦長などを務めた元海軍中佐の猿渡正之が住んでおり、猿渡が所有していた『大和』『武蔵』の設計図を譲り受けたという。また当時のエピソードは、後に『男おいどん』でやや誇張された形で登場している。 その後練馬区に居を移している。2008年には練馬名誉区民に選定され、区の活動にも積極的に協力・参加している。同区で交付される戸籍や住民票などには「銀河鉄道999」のキャラクターが印刷されている(2013年まで)。2012年には原動機付自転車のナンバープレートにメーテルのイラストが採用された。区内を走行するシャトルバス、在住している大泉学園を通っている西武鉄道の車両のラッピングにも作品がプリントされている。 自作品のパチンコ化にも精力的に取り組んでおり、大手パチンコメーカー三共とのコラボレーション "SANKYO×松本零士" としてCRフィーバー大ヤマト、CRフィーバー銀河鉄道物語、CRフィーバーキャプテンハーロックの3シリーズのパチンコ機が登場している。なお松本零士は『宇宙戦艦ヤマト』の著作権を保持していないことから「大ヤマト」では登場人物や乗り物をわずかに変えて、『宇宙戦艦ヤマト』の主題歌を流す "類似品" としての登場となったが東北新社から訴訟を起こされ、業者が和解金2億5千万円を支払うことになった(後述の「宇宙戦艦ヤマト裁判」も参照のこと)。 自作中のメカ作画にはいろいろこだわりがあり、「実在した兵器についてはデフォルメを行わず、極力設計図等を入手して正確に描く」ことを心がけている。またオリジナルメカについては大量の計器類を登場させることが多く、その作風は『レイジメーター』(零士メーター)とも通称される。 ペンネーム デビューから1968年までは本名のひらがな表記である松本 あきらのペンネームを使用。松本零士名義は1965年から松本あきら名義と並行して使い始め、1968年に松本零士にペンネームを一本化した。ペンネームの由来は、“零歳児の感性をいつまでも忘れずに”というモットー、夜半―午前零時を過ぎないとアイデアが浮かばない事が度々あった事、“毎日夜零時まで働く士(サムライ)”から。 2008年5月に北九州で行われた『毎日フォーラム』では“零士の零は無限大の「れい」、士は「さむらい」、また本名である「あきら」とも読む”と語った。 零士をローマ字で表記する場合、Reijiとはせず、Leijiとする。RでなくLを使っているのは、少年時代に愛読していた山川惣治の絵物語『少年王者』に登場する悪役ライオン「ライオンL」が強くて逞しかったことから。 松本作品におけるスター・システム 松本零士作品には「ハーロック」や「トチロー」「エメラルダス」のように、複数の作品に登場するキャラクターが存在する。これは作品自体がクロスオーバーしていることもあれば、単に名称が同じという場合もある。またパラレルワールドのように「背景世界はつながっていないが、その世界における性格や役割が似たキャラクター」として登場する場合もあり、一種のスター・システムといえる。松本曰く「同じ俳優が演じている」のであり「(描いていると)自然とそうなる」とのことである。 自身の飼い猫をモデルにした「ミーめ」あるいは「ミーくん」というトラジマの猫と、首長で奇声を発する怪鳥「トリさん」、そして猫の様に見えて正体不明な小動物「ナニカ」は松本零士作品にしばしば登場する動物キャラクターである。なお、原作者の松本自身も自らのアニメ映画などでカメオ出演している。 漫画 ※おおむね発表順。 初期作品 ※ほぼ松本あきら名義 銀の谷のマリア (『少女クラブ』1958年4月号付録) 黄金の騎士(『女学生の友』1959年1-3月号) ララミー牧場(『日の丸』1960年12月号 - 1962年10月号付録) 海外ドラマの漫画化。 電光オズマ(『ぼくら』1961年2月号-1962年12月号) 謎の戦闘機部隊を駆る男、電光オズマが、世界征服を企む新国家ノバ帝国のガンモス首相や古代の巨大円盤、怪遊星で地球へ迫り来る異星人と闘う。ロケット戦艦「宇宙戦艦大和」も登場する。 燃えろ南十字星(『日の丸』1963年1-2月号、『少年ブック』1963年3-5月号付録) ラバウルの零戦乗り土浦曹長が主人公の戦記漫画。未完作品だが『電光オズマ』単行本3巻に収録の際、2頁分の結末が書き加えられた。ただし、昭和37年の作品を14年後に補完したので絵柄が大幅に変化している。 ブラック0(『冒険王』1964年1月15日お正月大増刊号) 戦記物。黒い零戦隊の夜間戦闘。 忍法十番勝負 三番勝負(『冒険王』1964年3月号) わたしのエル(『週刊マーガレット』1964年9月6日号-11月15日号) 妻である漫画家・牧美也子との共作。松本零士生誕80周年を記念し、2018年に限定300部で初単行本化された。 スーパー99(『冒険王』1964年11月号-1965年12月号) 超潜水艦スーバー99とヘルメット党の戦いを描く。 ダイナモ7(『まんが王』1966年11月号) カーレーサー物。 心よ海をゆけ(『別冊少女フレンド』1967年5月号) 牧美也子との合作(単行本『マキの口笛』3巻に収録時は「松本零士」名義)。少女マンガではあるが海賊物。 連載 セクサロイド(『漫画ゴラクdokuhon』1968年4月9日号-1970年11月3日号) 光速エスパー(『少年ブック』1968年6月号-1969年4月号) 漂流三千万光年(『少年少女新聞』1969年3月7日-?) 世界観的に『潜水艦スーパー99』の続編的作品。 四次元世界シリーズ(『COM』1969年4月号-12月号) 光速エスパー(『少年ジャンプ』1969年5月8日号-1970年2月16日号) マシンナー・シリーズ(『別冊漫画アクション』1969年11月15日号-1970年6月13日号) 無限世界シリーズ(『COM』1970年1月号-9月号) 大四畳半シリーズ(『別冊漫画アクション』1970年6月27日号-1974年2月9日号) 田舎から上京して来た足立 太(あだち ふとし)が、下宿の四畳半中心に展開する青春物語。いわゆる四畳半ものの、文字通り元祖な作品。長期連載となった。元祖大四畳半大物語 ミステリー・イヴ(『漫画ゴラクdokuhon』1970年11月17日号-1971年8月5日号) 惑星イタスから飛来した女性イヴと邂逅した主人公の大口 守(おおぐち まもる)。そして地球を狙うヘド族との戦いを描くSF漫画。 パニックワールド(『少年キング』1971年2月28日号-3月21日号) 「第三次世界大戦が東京で…」パニック状態の東京を描いた近未来サスペンス。 男おいどん(『少年マガジン』1971年5月9日号-1973年8月5日号) 四畳半ものの一つ。青年誌に掲載された『元祖大四畳半大物語』から性的要素を抜いた後発作品だが、松本にとって少年誌では初めての大ヒット作となった。主人公は大山昇太(おおやま のぼった)。最終話の「宇宙編」は、後の「宇宙戦艦ヤマト」のデザインに繋がっている。 聖凡人伝(『漫画ゴラク』1971年8月19日号-1973年11月15日号) 首吊り頻発の曰く付アパートが舞台の四畳半もの。主人公の出戻 始(でもどり はじめ)他、主要キャラの何人かは『出戻社員伝』にもレギュラー出演。 思春期100万年(『高一時代』1972年4月号-1973年3月号) 大不倫伝(『平凡パンチ』1972年5月15日号-7月17日号) 女性を抱いて離婚を成立させる不倫請負人の流浪物語。主人公である好川ウタマロの容姿はトチローその物だが、肉親として、ほたる(蛍子)なる幼少の妹を引き連れているのが相違点。 ガンフロンティア(『プレイコミック』1972年11月11日号-1974年12月14日号) ひるあんどん(『別冊マンガストーリー』1973年4月14日号-『マンガストーリー』12月1日号) 『出戻社員伝』系のサラリーマン四畳半ものに連なる作品。ただし、前述2作品とは直接的なつながりはない。 スペース開拓者 ワダチ(『少年マガジン』1973年11月4日号-1974年4月14日号) 四畳半もの+SF。後半は未知の惑星での開拓冒険漫画となる。 出戻社員伝(『週刊大衆』1974年1月3日号-3月28日号) 冴えないサラリーマン生活を描いた人生哲学的作品。主人公は『聖凡人伝』の出戻 始の兄、出戻 俊郎(でもどり としろう)。 螢の宿シリーズ(『別冊漫画アクション』1974年2月23日号-12月28日号) 大四畳半ものの一つ。ただし、時代設定は明治維新前後。 宇宙戦艦ヤマト(『冒険王』1974年11月号-1975年4月号) 宇宙戦艦ヤマト2(『冒険王』1978年7月号-1980年1月号) 新宇宙戦艦ヤマト(『月刊コミックGOTTA』2000年4月号-2001年7月号) インセクト(『ビッグコミックオリジナル』1975年1月5日号-6月5日号) 帰らざる時の物語(『プレイコミック』1975年1月11日号-1976年12月9日号) ザ・コクピット・シリーズ(『ビッグコミックオリジナル』1975年6月20日号-不定期連載) ダイバー0(『少年サンデー』1975年9月5日増刊号-1976年9月10日増刊号) トラジマのミーめ(『プリンセス』1975年9月号-1977年12月号) ペットファーザー(『少年アクション』1975年10月6日号-1976年1月26日号) 親不知讃歌(『毎日中学生新聞』1976年4月3日付-1977年3月26日付) 中学生の日常をユーモラスに描いた全51話(単行本には1話未収録)。 恐竜荘物語(『漫画ゴラク』1976年9月2日号-1977年5月12日号) 主人公は『元祖大四畳半大物語』にもでてきたヤクザのジュリー。今風に言えばスピンオフ作品である。 時間旅行少年 ミライザーバン(『月刊マンガ少年』1976年9月号-1978年10月号) ちいさなマキ(『読売新聞』日曜版 1977年1月9日付-7月31日付) 読売新聞の日曜版に連載された、低年齢層向けオールカラー作品。マキと、ちいさな宇宙人・ミライさんとネコのミーくんの大冒険SFファンタジー。 宇宙海賊キャプテンハーロック(『プレイコミック』1977年1月13日号-1979年6月14日号) 銀河鉄道999(『少年キング』1977年1月24・31日合併号-1981年11月6日号) 漂流幹線000(『少年キング』1983年1月14日-11月25日号) 新銀河鉄道999(『ビッグゴールド』1996年9月号-1999年3月号) 新銀河鉄道999(『銀河鉄道999Web』1999年3月15日- ) 新銀河鉄道999(『ビッグコミック』2003年5月25日号- ) 大純情くん(『少年マガジン』1977年2月27日号-10月9日号) 四畳半もの+SF。ただし、『ワダチ』と違って最後まで大四畳半もの。 惑星ロボ ダンガードA(『冒険王』1977年4月号-1978年4月号) 大草原の小さな四畳半(『Apache』1977年7月23日号-1978年1月8日号) 西部劇+日本人+大四畳半もの。『ガンフロンティア』と違い、主人公(トチロー)は四畳半に定住している。 昆虫皇帝(『奇想天外』1978年1月号-1979年12月号) 魔女天使 (『月刊少年マガジン』1978年1月-4月号、1978年9月-1979年7月号) Queenエメラルダス(『少年マガジン』1978年1月8日号-10月8日号) 無限海漂流記(『ビッグゴールド』1978年6月8日号-1985年12月号 不定期連載) 漂流3000万光年(『月刊マンガ少年』1978年12月号-1979年7月号 未完) ステテコンドル(『サンデー毎日』1979年11月11日-1980年12月21日号) 新竹取物語 1000年女王(『サンケイ新聞』朝刊 1980年1月28日付-1983年5月11日付) 松本が出生した九州・山口エリアでは当時サンケイが発行されていなかったため、サンケイスポーツとの提携関係があった西日本スポーツで連載。 ナスカ(『月刊マンガ少年』1980年6月号-1981年5月号) 蜃気楼フェリーアイランダー0(『少年キング』1982年1月22日号-?) HARD METALシリーズ(『ビッグコミック』1984年9月10日号-1990年1月25日号) 『戦場まんがシリーズ』、『ザ・コクピット・シリーズ』に続く、太平洋戦争・南洋を舞台にした戦記モノ。 どんトラ(『少年キング』1985年7月12日号-10月25日号) コスモロードα 眠れる宇宙の王女(『yacニュース』1986年9月22日号-1988年4月1日号、『L5』1988年5月号-1991年11月号) グスコーブドリの伝記(『月刊コミックトム』1986年10-12月号) 宮沢賢治原作。 V2パンツァー(『少年キング』1987年9月24日増刊ヤングキング創刊号-1988年10月17日号) 無の黒船 クライシスⅢ(『夕刊フジ』1988年-1989年) 無=エネルギーゼロ。その先に来る黒船。明治維新、第二次世界大戦に次ぐ第三のクライシス(危機)とは。竹内均(東大名誉教授)監修。 蜃気楼綺譚(『ビッグコミック』1990年5月25日号-1991年3月25日号) ニーベルングの指環①ラインの黄金(『中古車ファン』1990年10月10日号-1991年11月25日号) グレートハーロックが主人公。ハーロック、トチローたちの親世代の物語。 夢奥(王)の細道(『ビッグコミック』1991年4月25日号-8月25日号) ケースハードシリーズ(『ビッグゴールド』1993年1月号-1996年8月号) 戦場シリーズのひとつ。第二次世界大戦もの。 天使の時空船(『コミックトム』1993年5月号-1997年7月号) レオナルド・ダ・ヴィンチ伝。 火聖旅団ダナサイト999.9(『少年王』1994年10月号-1997年4月号) ニーベルングの指環②ワルキューレ(『新潮社Webコミック』1997年4月1日号-1998年2月13日号) コクピット・レジェンド(『ビッグコミックオリジナル』1997年9月増刊号-1999年9月増刊号 不定期連載) ニーベルングの指環③ジークフリート(『新潮社Webコミック』1998年3月11日号-1999年6月10日号) 児女英雄伝(『コミックトムプラス』1998年5月号-2000年5月号) ニーベルングの指環④神々の黄昏(『新潮社Webコミック』1999年8月4日号- ) 読み切り ダイナソア・ゾーン 恐竜帯(『漫画ゴラクdokuhon』1968年9月1日増刊号) パイロット262(『コミックMagazine』1969年2月25日号) ハーロックが初めて主人公となった作品。しかし、傷や眼帯は無い。 機械人間マシンナーバン(『少年サンデー』1969年夏休み増刊号) ミライザーバンのプロトタイプ的作品。宇宙飛行士候補生バン・サイゴー少年が宇宙で、地球へ飛来した異星人の先祖一族の記憶(数万年分)を取り戻す。 模型の時代(『少年マガジン』1971年2月28日号) 小松左京原作。1971年 ヤマビコ13号(『少年マガジン』1971年4月4日号) 空間機甲団(『COM』1971年8月号) 螢の泣く島(『ビッグコミックオリジナル』1974年1月20日号) 昆虫国漂流記(『別冊少年ジャンプ』1974年2月号) 自身の終戦から小学生時代を描く、松本の自伝漫画。 3000年の春(『漫画ゴラク』1976年1月15日・22日合併号) 後に『四次元時計』のタイトルで文庫化。 魔女天使(『月刊少年マガジン』1977年1月号) 大純情くん(『少年マガジン』1977年1月30日・2月6日合併号) 海底機械帝国零号(『少年ジャンプ』1978年4月15日増刊号 SFアドベンチャー特集号) SF短編。単行本未収録作品。 闇夜の鴉の物語(『漫画ゴラク』1981年5月) 超時空戦艦まほろば(『ビッグゴールド』1998年4月号) 未分類 明日から来た影 GENNAI (1989年 書き下ろし) SFテイストの加味された平賀源内の伝記的漫画。 ホタルナ妖 - 2006年 Out of Galaxy 銀のコーシカ - 2009年 漫画単行本 『宇宙作戦第一号』 『青い花びら』 『緑の天使』 『星よきえないで』 『忍法十番勝負』 『セクサロイド』 『銀の谷のマリア』 『潜水艦スーパー99』 『電光オズマ』 『男おいどん』 『聖凡人伝』 『元祖大四畳半大物語』 『スタンレーの魔女』 『鉄の墓標』 『ガンフロンティア』 『宇宙戦艦ヤマト』 『新宇宙戦艦ヤマト』 『ワダチ』 雑誌連載時のタイトルは『スペース開拓者 ワダチ』。 『パニックワールド』 表題作ほか3作を収めた短編集。 『オーロラの牙』 『機械化人都市』 『わが青春のアルカディア』 『インセクト』 昆虫を題材にした11作品が収められた短編集。 『大不倫伝』 『衝撃降下90度』 『四次元世界』 様々な雑誌に掲載された『四次元世界シリーズ』、『無限世界シリーズ』、『幻想世界シリーズ』、『未完成世界シリーズ』を中心に25作品を収めた短篇集。内容は昆虫もの、SFもの、戦場ものとバラエティに富む。小学館文庫版(1977年初版)、全2巻のものと、合本され1冊になった小学館叢書版(1992年初版)と小学館文庫版(1995年初版)がある。 『恐竜荘物語』 『銀河鉄道999』 『漂流幹線000』 『新銀河鉄道999』 『螢の泣く島』 SFのみではないバラエティ豊かな表題作を含んだ9作品を収録した短編集。 『時間旅行少年ミライザーバン』 『惑星ロボ ダンガードA』 『宇宙海賊キャプテンハーロック』 『帰らざる時の物語』 短編集。秋田書店文庫全2巻。 『3000年の春』 『ひるあんどん』 奇想天外文庫。 『螢の宿』 『親不知讃歌』 単行本は通常版(朝日ソノラマ、サンコミックス)と限定500部発行の青林堂版がある。 『出戻社員伝』 『トラジマのミーめ』 『大純情くん』 『大草原の小さな四畳半』 『ミステリー・イヴ』 『悪魔伝の七騎士』 『エスの太陽 - ロマンコミック自選全集 松本零士1』 『空間機甲団』 『ダイナソア・ゾーン 恐龍帯』 『Queen エメラルダス』 『ヤマビコ13号』 『その名はテス - ロマンコミック自選全集 松本零士2』 『復讐を埋めた山』 『妄想鬼』 『魔女天使』 『不滅のアレグレット』 『昆虫皇帝』 『勇者の雷鳴』 『曳光弾回廊』 『新竹取物語1000年女王』 『松本零士初期作品集』 『ナスカ』 『蜜蜂の冒険』 『松本零士自選傑作集』 『闇夜の鴉の物語』 『ザ・ステテコンドル』 『思春期100万年』 『魔境惑星の恋人』 『ダイバー0』 『近眼人類詩集』 『高速エスパー』 『ザ・コクピット』 『火星令嬢』 『蜃気楼フェリー アイランダー0』 『漂流3000万光年』 『怪盗M』 『HARD METAL』 小学館ビッグコミックス、全3巻。 『V2パンツァー』 『無の黒船クライシスⅢ』 『明日から来た影 GENNAI』 『妖星伝』 『蜃気楼綺譚』 『ニーベルングの指環』 『夢奥(王)の細道』 『ケースハード』 『陽炎の紋章』 『天使の時空船』 『漫画絵巻 富岡の歴史』 『無限海漂流記』 『火聖旅団ダナサイト999.9』 『松本零士の飛び出せ宇宙へ!』 『松本零士セレクション』 『超時空戦艦まほろば』 『復刻版 冒険記』 『復刻版 火星令嬢』 『コクピット・レジェンド』 『児女英雄伝』 『ちいさなマキ』 『宇宙博物誌 火星ホテル』 『コスモロードα 眠れる宇宙の王女』 『どんトラ』 『ペットファーザー』 画集・エッセイ 零士のメカゾーン(1979年) 毎日新聞社 - メカ中心のイラスト集。全二巻。松本自身の手による戦車や航空機の試乗リポートも掲載。連載時のタイトルは「サムライゼロ 零士のメカゾーン」 零次元宇宙年代記(1983年) 大和書房 - ガン・フロンティアIIを始めとする松本零士の手による小説・エッセイ集。『銀河鉄道999・未発表オリジナル・シナリオ』の掲載された書。 時の歯車-機械幻想スイス紀行-(1999年) 日本放送出版協会 遠く時の輪の接する処(2002年) 東京書籍 - 松本の自叙伝。 松本零士画集―星の海、美の遺伝子(2004年) 愛育社 松本零士未来へ翔び立つ名言集-ヤマト・999の言葉たち-(2010年) 竹書房 橋富政彦編著 未来創造-夢の発想法-(2010年) 角川書店 原作 ガンフロンティア 〜ハーロック&トチロー青春の旅〜(原作・総設定・デザイン/松本零士、漫画/島崎譲)『チャンピオンRED』2016年12月号 - 2017年5月号、単行本(秋田書店 2017年) 銀河鉄道999 ANOTHER STORY アルティメットジャーニー(原作・総設定・デザイン/松本零士、漫画/島崎譲)『チャンピオンRED』2018年5月号 - 、単行本(秋田書店 2018年 - ) 編著 漫画歴史大博物館 松本零士/編 日高 敏/編 ブロンズ社 1980年 少年小説大系 別巻3 少年漫画傑作集1 三一書房 1993年 少年小説大系 別巻4 少年漫画傑作集2 三一書房 1993年 漫画大博物館-1924-1959- 松本零士編・著 日高敏編・著 小学館クリエイティブ 2004年 映像作品 原作が映像化されたもの、企画に関わったものを記す。アニメと並行して描かれた漫画化作品は前項に記す。 テレビアニメ 宇宙戦艦ヤマト(1974年) 宇宙戦艦ヤマト2(1978年) 宇宙戦艦ヤマトII ヤマトよ永遠なれ!(1979年) 宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち(1979年) 宇宙戦艦ヤマトIII(1980年) 宇宙戦艦ヤマトIII 太陽系の破滅(1983年) 惑星ロボ ダンガードA(1977年) SF西遊記スタージンガー(1978年) SF西遊記スタージンガーII(1979年) 宇宙海賊キャプテンハーロック(1978年) SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK(2003年) 銀河鉄道999(1978年) 銀河鉄道物語(2003年) 画業50周年記念作品 銀河鉄道物語 〜永遠への分岐点〜(2006年) 宇宙交響詩メーテル 銀河鉄道999外伝(2004年) マリンスノーの伝説(1980年) メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行(1980年) 新竹取物語 1000年女王(1981年) わが青春のアルカディア 無限軌道SSX(1982年) コスモウォーリアー零(2001年) ガンフロンティア(2002年) SUBMARINE SUPER 99(2003年)- 『潜水艦スーパー99』のアニメ化 松本零士「オズマ」(2012年) 映画 宇宙戦艦ヤマト(1977年) さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち(1978年) ヤマトよ永遠に(1980年) 宇宙戦艦ヤマト 完結編(1983年) 宇宙戦艦ヤマト2199(2012年) 宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海(2014年) 宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟(2014年) 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち(2017年) 「宇宙戦艦ヤマト」という時代 西暦2202年の選択(2021年) 宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち(2021年) 惑星ロボ ダンガードA対昆虫ロボット軍団(1977年) 惑星ロボ ダンガードA 宇宙大海戦(1978年) 宇宙海賊キャプテンハーロック アルカディア号の謎(1978年) 銀河鉄道999(1979年) 銀河鉄道999 ガラスのクレア(1980年) 銀河鉄道999 エターナルファンタジー(1998年) 元祖大四畳半大物語(1980年) - 実写作品 さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅(1981年) 新竹取物語 1000年女王(1982年) わが青春のアルカディア(1982年) インターステラ5555(2003年) キャプテンハーロック -SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-(2013年) OVA YAMATO2520(1995年) 大ヤマト零号(2004年) ザ・コクピット(1994年) クイーン・エメラルダス(1998年) 火聖旅団 ダナサイト999.9(1998年) ハーロック・サーガ ニーベルングの指環 ラインの黄金(1999年) メーテルレジェンド(2000年) ヤングハーロックを追え! コスモウォーリアー零外伝(2001年) 銀河鉄道物語 〜忘れられた時の惑星〜(2007年) その他の映像作品 アレイの鏡(1985年) セントエルモ 光の来訪者(1986年)関西電力の創立35周年記念、企業PR用長編アニメ。電力をテーマとした宇宙の物語。 光の風のアーマ(1992年)ハウステンボス アニメワールドで上映された作品。 まんがビデオ 宇宙海賊キャプテンハーロック(1999年) 地球のBOOO! 天然ガス・暮らしをささえるエネルギー(1999年)東京ガス株式会社 広報部企画。 未来・スノーエンゼル ―水と生命の惑星― (2002年) フルCGアニメ。 ユマの物語 ~シンフォニーNo.V (2004年) WEB作品。画像付き音声ドラマ。 KANPAI!-乾杯-(2015年)日本酒造組合中央会のアニメ。キャラクター原案。 その他の仕事 1971年、C・L・ムーアのスペースオペラ小説『ノースウェスト・スミス』シリーズの日本語版の表紙イラストと挿絵を担当(ハヤカワ文庫『大宇宙の魔女』他)。古典スペースオペラにおいて妖しい美女としてSFファンに有名なシャンブロウ等が松本の手で描かれている。 1980年、東宝映画「モスラ対ゴジラ」のリバイバル上映の際、パンフレット表紙にゴジラのイラストを描く。 1980年10月からはニッポン放送で神谷明と共に、ゲストの漫画家との対談番組の「ラジオ漫画館」のパーソナリティを担当。 1981年1月、NHK教育テレビジョン「ジュニア・文化シリーズ」(当時平日17:30-18:00生放送)において、特別講義「松本零士のSF漫画講座」の講師(麻上洋子と)を務める 1999年にオープンした大阪府堺市にある大阪府立大型児童館ビッグバン(現・堺市立ビッグバン)の館長を務める(後に名誉館長となる)。マスコットキャラクター『ベアル』と『メロウ』をデザイン。泉北高速鉄道線5000系車両1編成を用いたペイント列車にもなり、2017年10月まで運行。 1999年、福井県敦賀市の駅前通りに銀河鉄道999、宇宙戦艦ヤマトを題材とした28体のブロンズ製モニュメントが建立。「駅と港の街」「科学都市」を掲げる同市のシンボルとして選ばれた。 2001年、北九州市八幡東区のスペースワールド駅前で開催された、北九州博覧祭2001公式ポスター。 2001年10月にオープンした福島県郡山市にある郡山市ふれあい科学館「スペースパーク」の名誉館長を務める。マスコットキャラクター『エンゼルナ』と『みーにゃん』をデザイン。 2001年、フランスの音楽デュオ、ダフト・パンクのアルバム『ディスカバリー』のミュージック・ビデオを制作。 小倉市(現在の北九州市)に縁があることから、小倉競輪場のマスコットキャラクター「スペース騎士(ナイト)」のデザインを行った。名前は小倉競輪場のナイター競走愛称「スペースナイトレース」にちなむ。 2002年、フライトシミュレーターPCソフト『Microsoft Combat Flight Simulator3』(日本発売版)CD-ROM収納ケースに挿入されているラベル絵を担当。 2003年、近鉄伊賀線(現・伊賀鉄道)に、忍者列車のデザイン提供。 2003年からはじまった福島県などが主催する「全国高等学校パソコンコンクール」(パソコン甲子園)の審査委員長を務める。 2003年2月、愛媛県の伊予観光大使(いよかん大使)に就任。 東京都観光汽船の水上バス『ヒミコ』『ホタルナ』のデザイン。共に宇宙船をモチーフとしたデザインで、『ヒミコ』は2004年3月26日から運航を開始し、フジミ模型がプラモデル化もした。『ホタルナ』は2012年から運航を開始している。 2004年6月、福島県のしゃくなげ大使に就任。 2005年、ちほく高原鉄道CR75型車両にペインティング列車のデザイン提供(廃線後、足寄郡陸別町にて保存)。CR75型車両の銀河鉄道999ペインティング列車がTOMIXからNゲージ鉄道模型化された際は、松本自らがその試作品の出来を細かくチェックして、完成度に満足した松本はその試作品の車両の屋根に製品化承認を意味する自身のサインをした。このサイン入りの試作品はTOMIXの発売元であるトミーテックで大切に保管されている。 NHK「探検ロマン世界遺産」進行役CGキャラクターのデザイン。 2006年、湧永製薬の水虫・たむし治療薬『マセトローションT』のパッケージデザイン。この薬は『男おいどん』にも登場する。 2008年3月16日、東京都練馬区のねりたんアニメプロジェクトin大泉の一環として西武鉄道大泉学園駅でに銀河鉄道999のキャラクター「車掌さん」と一日駅長を務めた。名誉区民に選定される。 「アニメのまち練馬区」をPRする活動にも積極的に参加する。同区の住民票の写し、戸籍に関する証明、課税証明書などの各証明書の発行用紙には「銀河鉄道999」の999号、メーテル、鉄郎、車掌さんのイラストが印刷されている(2009年8月3日~2013年8月2日までの期間限定)。また、2012年8月1日からは、原動機付自転車のナンバープレートに、メーテルのカラーイラストを描いたオリジナルプレートを製作。5,000枚限定で交付。希望ナンバーの抽選会及び授受式のイベントにも参加している。 作者の住む大泉学園では「アニメと映像・銀河鉄道999の街」をキャッチコピーに掲げている。駅構内には車掌さんの等身大人形が設置されている。駅前の商店街は「ゆめーてる商店街」と名称を変更し、イメージキャラクターにメーテルを起用していた。しかし、2012年8月3日、作者自らデザインしたオリジナルキャラクター「ゆめーてるちゃん」を発表した。このキャラクターは、かぐや姫~千年女王~◎~女王ラー・メタル~メーテル/クイーンエメラルダスに連なる系譜の「◎」に位置する(メーテルの先祖であるとしている)。現代に生きている小学生の設定。 2008年、トヨタ自動車TV-CM「あしたのハーモニー」出演。 東京都北区滝野川の商店街「滝野川馬場商店会」のシンボルキャラクターおよび看板のデザイン。 西武池袋線所属の3000系にメーテル、星野鉄郎、車掌さんをあしらったデザイン電車のデザイン提供。2009年5月から2014年12月まで運行。 北九州モノレールの開業25周年記念として、1000形にメーテル、星野鉄郎、車掌さんをデザインしたラッピング車両のデザイン提供。2010年3月から3年間運行予定であったが好評のため2016年12月頃までに延長。 2010年4月、福島県の猪苗代湖・裏磐梯水環境保全のイメージキャラクター発表。9月に「水恋(すいれん)」、「湖春(こはる)」と愛称決定。 2011年4月3日、『フジテレビ夢スペシャル「タモリ×SMAP僕らは未来を信じよう!〜宇宙への挑戦と奇跡の物語〜」』内アニメ作品『はやぶさの奇跡』監修・キャラデザイン担当。 2011年11月13日 愛媛県東温市の坊っちゃん劇場ミュージカル「幕末ガール−ドクトル☆おイネ物語−」のポスター原画の制作を、愛媛県の観光や特産物をPRするイベント「愛のくに 愛顔のえひめ フェスティバル」PRイベントで発表。その際に、このミュージカルの主人公のイネはメーテル的存在であり、イネさんの娘の(楠本)高子さんの写真が愛媛の実家の近くで見つり、自身の描いてきた女性の絵にそっくりで驚いたと語った。、 2013年9月4日、ORANGE RANGEのボーカル・HIROKIとギタリスト兼リーダー・NAOTOのユニット「NaotoHiroki&karatesystems」が発売したアルバムTravel Soundsのジャケット描画を担当。 2016年10月15日、16日、えひめいやしの南予博2016のイベントとして「零士ワールド in 大洲」を愛媛県大洲市で開催、トークショーや作品展が行われた。前日の14日には少年期の疎開先の新谷地区に建てられた記念碑の除幕式に出席した。 2017年4月22日、北九州モノレールの「銀河鉄道999号」引退に伴い、新しいデザインの「新・銀河鉄道999号」運行開始。同時にモノレール小倉駅の発車メロディーが「銀河鉄道999」に変更された。 2017年10月2日、大阪府の泉北高速鉄道線のペイント列車が運行を終了し、それに替わって7000系車両1編成を用いた新ラッピング車両「フロンティア号」に、大阪府立大型児童館「ビッグバン」のマスコットキャラクター『ベアル』と『メロウ』のデザインを提供。 2018年6月、「北九州市下水道事業100周年」を記念し、メーテルをはじめとした松本キャラクターのデザインマンホール9種類をJR小倉駅周辺に設置(9箇所)。北九州空港にメーテルのデザインマンホールを設置(1箇所)。 2021年(令和3年)6月末までに北九州市漫画ミュージアムはじめ各地の遊覧施設・メモリアル施設で務めていた名誉館長を退任してその職務を終えた。 創作・著作権に対するスタンス 日本漫画家協会著作権部責任者やコンピュータソフトウェア著作権協会理事などの役職を持つ立場にあることもあって、著作権に対し敏感な面があり、過去に著作権関連のシンポジウムで「孫子の時代まで自分の著作権を守りたいというのが心情だ」と述べたこともあるほか、自らが過去に漫画の中で使用した台詞等の表現を「創作造語」と称し、それに似た表現を他者が無断で使うことに否定的な見解を示している。 松本が著作権に強硬なのは、『宇宙戦艦ヤマト』や戦争ものなどを描く際には戦没者や民族感情に細心の注意を払って配慮しているのに、自分のあずかり知らぬところで、第三者によって自分の創作が意図に反した使われ方をされるのが我慢できないことが一因だという。 2002年には自らが原作のテレビアニメ『SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK』がダビデの星を敵のデザインに使ったことから、ユダヤ人感情に配慮して一時製作中止にさせたこともあった。 権利関係に非常にシビアである印象を持たれるが、作家に対する敬意があり無断で使うのでなければ他の漫画家やミュージックビデオ、広告等に自作のキャラクターを使うことには寛容である。自作を笑いのネタにしたパロディ的な引用にも、松本自身が「面白い」と思えば快く許諾する傾向にある。但し「面白くない」と感じたパロディ的な引用には非常に厳しく、名指しで非難したり、担当編集者や漫画家自身を呼びつけて説教することもあるという。 松本は『スター・ウォーズ』の企画書のレイア姫の初期設定は『宇宙海賊キャプテンハーロック』の有紀蛍と類似しており、同作品の初期企画に自作が影響を与えたと発言しているが、松本が「自身の作品の影響を受けた」とする作品の中には、本当に影響を受けたものかどうか不明なものも含まれている。 『銀河鉄道999』劇場版第2作『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』に登場する星野鉄郎の父親・黒騎士ファウストに関しては、『スター・ウォーズ』旧3部作に登場するダース・ベイダーとでいくつかの共通点が見られる。また宝島社の『完全版 銀河鉄道999 PERFECT BOOK』では、その子ルーク・スカイウォーカーと鉄郎の設定上の類似点などについて言及されている。時期的には『スター・ウォーズ』のほうが制作開始・公開いずれも早い。 宇宙戦艦ヤマト裁判 松本零士は1976年頃に、『宇宙戦艦ヤマト』の原作について、企画・原案はプロデューサーの西崎義展であり、自分は基本ストーリーやアイデアのほとんどを出したが共同作品でもあり、原作については判断できず曖昧であると述べていた。『宇宙戦艦ヤマト』のタイトルも西崎がつけたものと認めていたが、西崎が破産した1997年頃から、自らが『宇宙戦艦ヤマト』の著作権者であり、西崎はアニメ化の使用許諾権を得たプロデューサーに過ぎず、その使用許諾権も失効したと主張し始め、次いで西崎が逮捕された1998年には新潮社や産経新聞社のウェブページにおいて、西崎は『ヤマト』とは無関係で、『ヤマト』の全ての権利は自分が持っていると述べるようになった。そもそも『宇宙戦艦ヤマト』は自作『電光オズマ』の「宇宙戦艦大和の巻」が原型であるというのが松本の説明である。 そして、『ヤマト』の著作権を西崎から取得した東北新社との間で、1999年に「宇宙戦艦ヤマト等に関する合意書」を交わして、2000年からは『新宇宙戦艦ヤマト』という新作を連載し、そのアニメ版の制作発表もした。 1999年になって『宇宙戦艦ヤマト』を作ったのは誰かという著作者を巡って西崎義展と裁判が行われた。松本側が原作と主張した『電光オズマ』『光速エスパー』、『ヤマト』の「創作ノート」、そして『冒険王』連載の漫画『宇宙戦艦ヤマト』のいずれも原作ではないと否定され、なおかつ松本はアニメの製作過程においても部分的にしか関わっていないとして、東京地方裁判所は西崎を著作者と認定し、松本側の全面敗訴となった。控訴審中の2003年に法廷外和解して、松本と西崎の両者ともが著作者という合意を交わしたが、西崎が筆頭著作者であり代表して著作者人格権を有することになり、松本は西崎の同意なしに『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの新作を作れず、また、西﨑側が許諾したヤマト新作については松本は自分の権利を行使できないことになった。西崎側のヤマト新作で松本の名前がクレジットされる際は、従来主張してきた「原作」ではなく「設定・デザイン」であることを松本はこの和解書で認めている。ただしこの和解は、判決と同等の効力がある訴訟上の和解でなく裁判外の和解に過ぎず、その拘束力が及ぶのは和解の当事者のみであり、著作権者の東北新社はこの和解に縛られないとの見解を発表している。 なお、この裁判で西崎に敗訴した際、「私がいなかったら、作品の1コマも存在しない」とのコメントを一部マスコミに報道された。 裁判終結後のシリーズ続編『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』にはスタッフとして参加せず、名前もクレジットされなかった。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの翻案にあたる実写映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や第1作のリメイクである『宇宙戦艦ヤマト2199』『宇宙戦艦ヤマト2202』『宇宙戦艦ヤマト2205』でも、西崎が原作者としてクレジットされ、松本の名は表示されなかった。なお、リメイク版の総監督を務めた出渕裕は、松本と豊田有恒のクレジットを入れようと制作プロダクション側に掛け合っている。 製作スタッフの中では、SF設定を担当した豊田有恒は、著書(日本SFアニメ創世記)で松本零士を全面的に支持し、西崎義展を批判している。一方で作詞家として1作目から関わっていた阿久悠は。劇場版を監督した舛田利雄は実質的な原作者は西崎だとの見解を持っており、企画段階から携わった藤川桂介と山本暎一、松本を補佐した石黒昇も、松本の原作者だとの主張に対して、本作はオリジナル企画であるとして松本による原著作物は存在しないとの立場である。メカデザインのスタジオぬえのメンバーでも松本を原作者と認識するのは少数だという。絵コンテで参加した富野由悠季はそのときの経緯から、松本零士と山本暎一が並列でその上に西崎義展がいて全ての主導権を西崎が握った、西崎が主導する西崎の作品だったと自著に記している。 銀河鉄道999裁判 2006年、槇原敬之がCHEMISTRYに提供した楽曲『約束の場所』の歌詞の一部が、1996年から再開された新展開編『銀河鉄道999』の作中のセリフの盗用であると、松本零士は10月19日発売の『女性セブン』で槇原敬之を非難した。翌日20日の日本テレビ系『スッキリ!!』にも生出演し、同様に槇原を盗作したと非難した。 これに対して槇原は記者会見で否定し、同年11月7日付の公式ホームページにて「『銀河鉄道999』は個人的趣味で読んだことが無く、歌詞は全くのオリジナルであり、本当に盗作だと疑っているのなら(自分を告訴して)裁判で決着していただきたい」旨のコメントを発表している。 2007年3月22日、『スッキリ!!』における松本の発言をめぐり、槇原敬之が松本に対して、盗作だと言っている部分に対して証拠を示して欲しいと著作権侵害不存在確認等請求を東京地方裁判所に起こした。裁判で松本側が盗作だという証拠が示せなかった場合は、CMソングの中止などにより、2,200万円の損害賠償請求も行った。これについて松本は3月26日のトークショーで「男たるもの、負けると判っていても戦わなければならない時がある、一連の訴訟について口頭弁論などに立つ気はない」とも語った。 2008年7月7日、東京地裁で槇原、松本が口頭弁論のため、事件以降、初めて顔を合わせた。槇原はニュースやマスコミなどで取り上げられ、「泥棒扱いされてもしていないものはしてない」「(問題の歌詞の部分は)仏教の因果応報の教えから」「謝れば許すつもりといっているが、それは罪を認める行為だ」と弁論、直後に松本の反論を聴くことなく退廷した。松本は「このセリフは私の座右の銘」で「長く使い、媒体でも講演会でも発表している」「一言、公の場で『すまん』と言ってほしかった」「偶然としても、あそこまで似てるのはありえない」と反論した。 同年12月26日、東京地裁は「原告表現が被告表現に依拠したものと断定することはできない」「2人の表現が酷似しているとは言えない」と依拠性と類似性という著作権侵害の2つの構成要件を認めず、槇原に対する名誉毀損を認め、松本に220万円の損害賠償支払いを命じる判決を下した。その後双方とも控訴している。 2009年11月26日、東京高裁で控訴審が開かれ、松本が「槇原さんの社会的な評価に相当な影響を与えた」と陳謝する内容を和解条項として、和解が成立した(金銭支払なし)。 2011年12月16日、『菊地成孔の粋な夜電波』に近田春夫がゲスト出演。話題がJ-POPのパクリ問題になると「マッキーがパクるわけないじゃん」「(松本が)自分のフレーズを知らないはずがない、というのは思い上がり」と槇原側を全面擁護した。 松本は2011年に槇原のCDの購入者に向けた描き下ろしクリスマスカードで槇原の似顔絵を描いたが、『SPA!』2012年3月27日号で「ひと言『ごめん』と言ってくれたら、それでよかったんです」と、謝罪すべきだったのは槇原側だったとの主張を再び行った。 槇原はその後、2022年3月2日にリリースしたアルバム『Bespoke』で「約束の場所」をセルフカバーしている。 零士メーター 零士メーター(れいじメーター)とは、漫画やアニメ等のフィクション作品に登場する計器デザインの呼称、俗称。松本メーターとも呼ばれる。 主に未来を描いたSF作品に登場する。円形もしくは歯車形のガラスパネルの中に、目盛りと複数(最低でも3本)の指針が書き込まれたスタイル。クロノグラフに似るが、違いは全周型ではなく限界点があること。 『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』を代表とする松本零士の作品に頻繁に登場する事から、同作品のファンを中心に「零士メーター」と呼ばれるようになった。 2009年には、日本のSEAHOPEがレイジメーターをモチーフとした腕時計「零士メーターウォッチ」を999本限定で製品化し、松本がデザイン監修を手掛けた。 板橋克己は『零士メーターから始めるSFメカの描き方』を2017年に玄光社より上梓している。 影響 前述の通り松本零士作品の抽象的な存在ではあったが、他にも『タイムボカンシリーズ』など、1970年代後半から1980年代前半頃までの、日本のSFアニメ、SF漫画には、同種の意匠が多用されていた。 しかし、所謂「リアルロボット系」と呼ばれる『機動戦士ガンダム』シリーズでは、デザイン上のリアリティの追求から実在のOA機器を意識した意匠を多用した為、あまり見られなくなった。その為、同作品がブームを起こした1980年代以降は、他の作品でも徐々に姿を消していった。さらに、1990年代に入ると、パーソナルコンピュータにおいて普及したMicrosoft Windowsを意識したGUIによる統合環境モニターをデザインする事が多くなり、自動車用や、旧来の鉄道車両用・航空機用の単品計器を意識したこの意匠はほとんど使われなくなっている。 アシスタント経験者 千之ナイフ 新谷かおる 小川保雄 板橋克己 赤名修 受賞歴 1954年 - 「漫画少年」第1回長編漫画新人賞 1972年 - 第3回講談社出版文化賞児童漫画部門賞(『男おいどん』にて) 1975年 - 第6回星雲賞(『宇宙戦艦ヤマト』にて) 1978年 - 第23回小学館漫画賞受賞(『銀河鉄道999』『戦場まんがシリーズ』にて) 1978年 - 第7回日本漫画家協会賞特別賞(一連のSFシリーズにて) 1979年 - 第24回映画の日特別功労賞 2001年 - 紫綬褒章受章 2003年 - 第8回アニメーション神戸特別賞受賞 2008年 - 練馬区名誉区民 2010年 - 旭日小綬章受章 2012年 - フランス芸術文化勲章シュヴァリエ受章 役職 日本漫画家協会常務理事《退任》 著作権部 元責任者 コンピュータソフトウェア著作権協会理事(2003年4月 - 退任時期不詳)《退任》 つくば科学万博記念財団評議員《退任》 財団法人日本宇宙少年団理事長《2021年6月退任》 堺市立ビッグバン(元 大阪府立大型児童館ビッグバン)名誉館長《2021年6月退任》 中央青少年団体連絡協議会会長 デジタルハリウッド大学特任教授 京都産業大学 全学共通教育センター客員教員 京都産業大学 全学教育研究センター客員教授 郡山市ふれあい科学館名誉館長《2021年6月退任》 ディスカバリーパーク焼津天文科学館名誉館長《2021年6月退任》 宝塚大学教授(後に特任教授、2021年度まで) 岐阜かかみがはら航空宇宙博物館名誉館長 九州鉄道記念館名誉館長(北九州市門司区)《2021年6月退任》 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)名誉館長《2021年6月退任》 北九州市漫画ミュージアム名誉館長(北九州市小倉北区)《2021年6月退任》 関連書籍 いきなり最終回(JICC出版局) - 名作漫画の最終回を集めた本。松本作品は3作掲載。それぞれに松本のコメントあり。 PART1(1990年)- 『男おいどん』 PART2(1991年)- 『銀河鉄道999』 PART4(1992年)- 『宇宙戦艦ヤマト』(加筆修正された単行本版ではなく「冒険王」誌面版) 脚注 注釈 出典 参考文献 『ぴーぷる最前線 松本零士』 福武書店、1983年、 『遠く時の輪の接する処』松本零士著、東京書籍、2002年、 『松本零士の宇宙』吉本健二著、八幡書店、2003年、 『松本零士の世界』辰巳出版、2005年、 『宇宙戦艦ヤマトの時代』井上静著、世論時報社、2012年、 『松本零士 創作ノート』松本零士著、宮川総一郎編、KKベストセラーズ、2013年、 『蜜蜂の冒険 松本零士未発表・初期作品集 限定版BOX』、小学館クリエイティブ、2014年、 関連項目 零士 (小惑星) 大阪府都市開発5000系電車 外部リンク 松本零士公式ファンクラブ(@Facebook)  ※ 2015年4月以降は書き込み停止中。  ※ 零時社スタッフが「ネコのミーくん」として松本や牧美也子の近況もツイートする。 メディア芸術データベース 文化庁による日本のコンテンツデータベース(ベータ版)。「松本零士」で検索すると松本の作品データが相当数ヒットする。 日本宇宙少年団 ※ 以下はファンによる準・非公式サイト 松本零士 Encyclopedia ヤマトギャラリー零(ZERO) leijiverse: 松本零士の世界 日本の漫画家 SF漫画家 日本のコレクター 日本の蔵書家 宝塚大学の教員 京都産業大学の教員 東北福祉大学の教員 デジタルハリウッド大学の教員 紫綬褒章受章者 旭日小綬章受章者 芸術文化勲章受章者 北九州市出身の人物 1938年生 存命人物
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E9%8D%8B%E8%AD%B2%E6%B2%BB
真鍋譲治
真鍋 譲治(まなべ じょうじ、1964年12月18日 - )は、日本の漫画家。香川県高松市出身。代表作に『銀河戦国群雄伝ライ』および『アウトランダーズ』がある。アニメーターの真鍋譲二とは別人。 同人サークル「スタジオかつ丼」を主宰し、同人活動では男性向けの二次創作作品や雑誌連載時に未完のまま終わってしまった漫画作品の続編を発行している。 略歴・人物 大阪にあるデザイン専門学校に在学していた頃、白泉社に作品を持ち込んだことがきっかけで漫画雑誌『月刊コミコミ』での連載を始める。1984年、「空白海域V-2」(『コミコミ特別編集 コミック読本SF大特集』)でデビュー。初期はSF漫画を描いていたが、90年代に入ってからは掲載誌の休刊や打ち切りが続き、成年漫画と同人誌で活動することが多くなったほか、専門学校で漫画家プロ養成科担当特別講師も務めている。 同人活動に関しても未だに積極的で、自身の作品のセルフパロディないし本編では描けなかった内容の同人誌化をよく行うことでも知られている。商業誌時には一般作品だったものを、同人誌では18禁化して発行することもある(該当するキャラクターは作品本編内でも結婚ないし子供を作っている場合が多い)。 2011年3月11日には、東京都内のマンションの8階に構えていた仕事場で東北地方太平洋沖地震に被災した。本人の怪我は無かったが、フィギュアやプラモデルのコレクションの入ったガラスケースや本棚が転倒し、多大な破損を被った。これらの被害を合わせると、1000万円を超えるだろうと語っている。また、当日は遅れていた原稿を進めるために起きて作業していたが、普段のように寝ていたら倒れてきたもので怪我していただろうと語っている。2021年現在は竹書房月刊キスカ誌で「パトラと鉄十字」、マイクロマガジン社コミックライドアドバンスにてコミカライズ「脱法テイマーの成り上がり冒険譚」を連載中。 作品リスト 一般作品 パワフルまぜごはん(白夜書房・パワフルコミックス) - デビュー前の物を含めた初期作品集・上下巻。袋とじカラーイラスト付き。 上巻「パイレーツ」「トラブルデート」「クーデターSOS」「異次元戦線1945」「辺境惑星の石」解説・みんだ・なお 下巻「果肉」「機甲兵」「未来空間の恋人」「MUTANT」「三流海賊 IN 10000光年」あとがき・真鍋譲治 バンパネラ(富士見書房・富士見ファンタジアコミックス) - 作品集。表題作含めた新規2編や描き下ろしカラー作品、アウトランダーズ(ジェッツコミックス版)に収録された読切を再録。 「ファンタジーワールド」「バンパネラ」「メデューサの船」「Passenger…!!」「ザ・フロンティア」「鳥」「大地の啓示」「ピリオド・セレモニー」 アウトランダーズ(月刊コミコミ、白泉社) - ビクター音楽産業によりOVA、FCゲーム化。 ドーラ(月刊ウィングス、新書館) - 本シリーズの隻眼の女主人公カダフィは、他作品にもスピンオフ登場している(『ライ』の正宗、『カプリコン』のバーラムなど)。 キャラバン・キッド(週刊少年サンデー増刊号、小学館) カプリコン(月刊ウィングス、新書館) - 大陸書房によりOVA化。 ドラクゥーン 竜姫兵 (富士見書房・角川書店) - 単行本描き下ろし。第3巻で中断。後年、描き下ろしにより完結した。 ソーサリアン 天の神々達(コミックコンプ、角川書店) ジャンク・パーティ(角川書店) - 週刊少年サンデー増刊号連載作品だったが、登場人物の肌の色が黒人差別に抵触するとの批判を浴びて打ち切り。 銀河戦国群雄伝ライ(コミックコンプ・電撃コミックガオ、メディアワークス・主婦の友社) - バンダイによりテレビアニメ化、エンジェルによりSFCゲーム化された真鍋の代表作。 銀河戦国群雄伝ライ 異聞 - 上記『ライ』の成人向け二次創作の続編を、一般商業作品として刊行した作品。 怒濤! ジャムカの大冒険(月刊ウィングス、新書館) ビバ☆うさぎ小僧(コミックNORA、学習研究社) 中華一番(コミックNORA、学習研究社) - 雑誌廃刊により打ち切り。 護星童子ラン(少年王、光文社) パワフルチャイナ(少年キャプテン、徳間書店) - 雑誌廃刊により打ち切り。 くろぼね(電撃コミックガオ、メディアワークス) - ある国をモデルにした敗戦国『ガルマ国』の興亡を一種の「戦国乱世」風に描き、ある人物をモデルにした主人公を描写した問題作。明確な理由を発表されないまま連載は打ち切られたが、同人で続編が刊行された。なお、往年の東映動画風の「動物化」手法が用いられており、登場「人物」はすべて人間化した犬。 ワイルドキングダム(ファミ通ブロス、エンターブレイン) - 雑誌廃刊により打ち切り(後に単行本で加筆完結)。 暴君ティラノさん(コミックドラゴン、角川書店) - 初の原作作品(作画はみよね椎)。 重機甲乙女 豆だけど(週刊漫画TIMES、芳文社) - 舞台設定および政治設定はルネサンス期のイタリア(但し、時のローマ教皇等の要人も含めて登場人物は全て架空の人物であり、国際関係における軍事紛争や外交政策も創作)、社会風俗は20世紀初頭のイタリア、軍事描写は第二次世界大戦前後のイタリアおよびオスマン帝国(但し、両勢力共に架空の兵器を保有・運用)というミリタリー作品。 パトラと鉄十字(月刊キスカ、竹書房) 脱法テイマーの成り上がり冒険譚 〜Sランク美少女冒険者が俺の獣魔になっテイマす〜(コミックライドアドバンス、マイクロマガジン社) - ライトノベルのコミカライズ(原作:すかいふぁーむ、キャラクター原案:大熊猫介) 成人向け作品 お肉でCHU(Namaikiッ!、竹書房) - 初のアダルト誌での連載作。真鍋自身は獣人物にしたかったが、編集部がネコ耳の類を許可しなかったとのこと。 お吟―美少女的淫魔獣人伝(宙出版) - 成人向けオリジナル同人作品を商業単行本化した短編集。 幕の内でらっくす(Namaikiッ!、竹書房) てぇいる・ちぇいさー(富士美出版) 恋するウシチチ(富士美出版) - 初版発売時、作品の要修正部分が無修正のまま出版されたとして回収騒動が発生。2009年1月26日には真鍋自身が出版元である辰巳出版へ殴り込みに出かける事態まで発展すると同時に、「店頭在庫は即時全回収を命令」・「あと3回だがモチベーション維持が困難なので連載中断」・「辰巳とはしばらく仕事しない、冷却期間を置く」・「原稿引き上げはせず保管して頂く」ことを決定したことが、作者ブログにて明かされた。なお、単行本未収録分の原稿は、2010年に同人誌として出版された。 リン×ママ(Namaikiッ!、竹書房) - 構成に工夫がある作品で、当初は漫画の基本『起承転結』を各1巻で表現し、全4巻で完結予定であった。しかし、2010年1月27日に刊行された「転」にあたる第3巻のあとがきで、「好評につきもう1巻追加」と発表され、全5巻で完結した。 彼女で満室(いっぱい)(週刊漫画TIMES、芳文社) - 初の週刊誌連載(後に隔週連載に変更)。 くいこみをなおしてるヒマはないっ!(Namaikiッ!、竹書房) 日々これ好日(週刊漫画TIMES、芳文社) 毒妻クラブ(Namaikiッ!、竹書房) 裏銀河戦国群雄伝(スタジオかつ丼) - 一般向け作品で発表している『銀河戦国群雄伝ライ』および『銀河戦国群雄伝ライ 異聞』の成年向け作品を自ら執筆している。 脚注 外部リンク St.katsudon Web Page かつ丼日記(公式ブログ) 公式Twitter 日本の漫画家 香川県出身の人物 1964年生 存命人物
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%88%B9%E4%B8%80%E9%9B%84
真船一雄
真船 一雄(まふね かずお、1964年8月24日 - )は、日本の漫画家。神奈川県南足柄市出身。O型。 経歴 神奈川県立小田原高等学校の学生時代から漫画を描き始める。卒業後、漫画家のアシスタントをしながら漫画賞などに作品を投稿する。やがて、その中の1つが入選し、1984年に「あいつは絶好調」(『フレッシュマガジン』)でプロデビュー。代表作は1988年から1998年まで連載された『スーパードクターK』(1996年より『DoctorK』に改題)である。 作品リスト 現在連載中の作品 K2(医療監修:原田知幸、イブニング、2004年 - ) 過去に連載していた作品 ぶっとび!潤二郎(少年マガジンスペシャル、全4巻) スーパードクターK(週刊少年マガジン、全44巻、文庫版全22巻) DoctorK(週刊少年マガジン、全10巻、文庫版全5巻) 雷神〜RISING〜(週刊少年マガジン、全4巻) 風の柔士(週刊少年マガジン、全2巻) ウルトラマンSTORY 0(月刊マガジンZ→テレまんがヒーローズ→MiChao!、全16巻、文庫版全8巻) 読み切り あいつは絶好調(フレッシュマガジン) 脚注 参考文献 日本の漫画家 神奈川県立小田原高等学校出身の人物 神奈川県出身の人物 1964年生 存命人物
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E5%B3%AF%E5%A4%AA%E9%83%8E
望月峯太郎
望月 峯太郎(もちづき みねたろう、1964年1月29日 - )は、日本の漫画家。神奈川県横浜市出身。男性。『東京怪童』以降、ペンネームを望月 ミネタロウと表記。 略歴 東京デザイナー学院卒業後、グラフィックデザインの仕事を始める。 1985年に『週刊ヤングマガジン』で、望月峯太郎としてデビュー。同年、『バタアシ金魚』を連載。 この時期はニューウェーブ作家として注目される。その作風は後の漫画家にも大きな影響を与えた。『バタアシ金魚』、『ドラゴンヘッド』、『鮫肌男と桃尻女』は映画化され、「お茶の間」はテレビドラマ化されている。 受賞歴 1997年、第21回 講談社漫画賞 受賞(『ドラゴンヘッド』) 2000年、第4回 手塚治虫文化賞 マンガ優秀賞 受賞(『ドラゴンヘッド』) 2013年、第17回 文化庁メディア芸術祭マンガ部門 優秀賞 受賞(『ちいさこべえ』) 2016年、フランスBD評論家協会(ACBD)「2016ベストアジアBD」受賞(『ちいさこべえ』) 2017年、アングレーム国際漫画祭 シリーズ賞 受賞(『ちいさこべえ』) 作品リスト あにまるたち(『別冊アニメージュ SF COMICS リュウ』1981年5月号掲載) - 短編。高校時代の投稿作。望月みねたろう名義。 GO-GO-キリング・マシーン(『別冊アニメージュ SF COMICS リュウ』1981年6月号掲載) - 短編。高校時代の投稿作。望月みねたろう名義。 バタアシ金魚(『週刊ヤングマガジン』、全6巻) バイクメ〜ン(『週刊ヤングマガジン』、全4巻) お茶の間(『ミスターマガジン』、全3巻) - 『バタアシ金魚』の続編に当たる。 座敷女(『週刊ヤングマガジン』、全1巻) 鮫肌男と桃尻女(『ミスターマガジン』、全1巻) ドラゴンヘッド(1995年 - 2000年、『週刊ヤングマガジン』、全10巻) ずっと先の話(短編集) 万祝(『週刊ヤングマガジン』、隔週連載、全11巻) 東京怪童(『モーニング』、隔週連載、全3巻)※連載途中より望月ミネタロウ名義。コミックスは全て望月ミネタロウ名義。 ズベルバー(2011年、アンソロジー「青春ヤンマガ」掲載)- 短編。「ヤングマガジン創刊30周年記念本」というアンソロジーのテーマとは関係なく、高校時代の投稿作と似た趣向のSF作品。 ちいさこべえ(2013年 - 2015年、原作:山本周五郎、『ビッグコミックスピリッツ』、全4巻)※望月ミネタロウ名義。 - 『ちいさこべ』を時代設定変更した翻案作品。 ショート・ボム!(2018年8月出版、短編集・電子書籍、ビッグコミックスピリッツ) 犬ヶ島 (2018年5月初出、『モーニング』) ※ウェス・アンダーソン監督によるストップモーション・アニメーション映画のコミカライズ。 フレデリック(話:山川直人、『ビッグコミックオリジナル』2020年2号 - ) - 同名の絵本からのインスパイア作品。 没有漫画 没有人生 ノーコミック ノーライフ(『ビッグコミックオリジナル』2022年3号 - ) - 初のエッセイ漫画。 出典 外部リンク フランスで望月ミネタロウ『ちいさこべえ』が人気と聞いて 日本の漫画家 横浜市出身の人物 1964年生 存命人物
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地質学
地質学(ちしつがく、)とは、地面より下(生物起源の土壌を除く)の地層・岩石を研究する、地球科学の学問分野である。広義には地球化学を含める場合もある。 1603年、イタリア語でgeologiaという言葉がはじめてつかわれた。当時はまれにしか使用されていなかったが、1795年以降一般に受け入れられた。 分野 地質学は一般地質学()と地史学()の2つに大別される。さらに以下の分野に細分される(これらの分野に含まれない、または複数の分野にまたがる境界領域もある)。 層序学(stratigraphy) 地層のできた順序(新旧関係)を研究する分野。地層累重の法則に基づき、主に野外調査と地質図学(幾何学)、場合によっては古生物学(例えばコノドント)や火山テフラによる時代や、年代測定(例えば、放射年代測定)による年代の挿入をもちいて地層の重なりを復元する。 堆積学(sedimentology) 泥・砂・礫・火山灰などの物質が運ばれて堆積する過程を研究する分野。流体力学などの物理学的手法を主に利用する。 構造地質学(structural geology) 地層や岩石の変形を研究する分野。鉱物を構成する分子の相転移から、褶曲や断層、プレートテクトニクスまで、さまざまな規模の変形、構造を扱う。層序学・幾何学・物理学の手法を主に利用する。 地史学(historical geology) 他の手法をすべて駆使して、ある地域、または地球全体の、地層がたどってきた歴史を研究する分野。 古生物学(paleontology) 過去の生物(古生物)を研究する分野。主に化石を調べることにより、過去の生物の形態・分類・生態・分布・進化を研究する。生物学にもまたがる分野である。化石の時代や棲息環境などを知るために層序学・堆積学の手法も利用する。 岩石学(petrology) 岩石そのものを研究する分野。岩石を構成する物質は何か、どうやって岩石になったのか、などを化学・物理学の手法で調べる。 鉱物学(mineralogy) 鉱物を研究する分野。鉱物の成分や結晶構造、成因(できかた)などを、化学・物理学の手法で調べる。化学(地球化学)、物理学、結晶学、地球物理学、材料科学などと地質学との境界領域にある学問分野である。 鉱床学(economic geology) 鉱床を研究する分野。主に鉱物学・岩石学の手法を用いるほか、構造地質学や地球化学、鉱床の種類によっては堆積学の手法を利用する。 火山学(volcanology) 火山を研究する分野。層序学・堆積学・岩石学・鉱物学のほか、地球物理学・地球化学の手法も駆使するため、地質学とは独立に扱われる場合もある。 地質図学(geological mapping) 独立した分野として扱われることはあまりないが、地質図の描きかたや読み取りかたには一定のルールがある。基本は幾何学。 応用地質学(applied geology、engineering geology) 地質学の成果を工学的に応用する分野。かつての日本では鉱山に関する学問との関連が深かったが、現在では建築・土木などとの関連が深い。最近は環境学、林学、防災との親和性も強まってきている。 石油地質学(petroleum geology) 地質学の成果を工学的に応用するという点では応用地質学の範疇に入るが、特に石油探鉱や油ガス田の成因を扱う場合、石油地質学と称される。 歴史 地球や山の成因に関しては、古代より多くの人々が考察を重ねてきた。1669年にはデンマークのニコラウス・ステノ(ニールス・ステンセン)が『固体の中に自然に含まれている固体についての論文への序文』を著し、この中で地層が水によって堆積したこと、このため地層は成立時は水平であり、横方向に連続しており、さらに下から上に向かって堆積する、いわゆる地層累重の法則を提唱した。これによりステノは層序学の祖とされている。18世紀後半には岩石や山岳の成因について、山岳は堆積によるものとする水成論と、アントン・モーロらが提唱した、山岳は火山活動によるものとする火成論の2つの説が生まれた。18世紀末にはアブラハム・ゴットロープ・ウェルナーらが水成論を、ジェームズ・ハットンらが火成論を提唱した。ハットンは過去に作用した過程は現在観察されている過程と同じだろうという斉一説を唱えたものの、フランスではジョルジュ・キュヴィエによって、地層や化石の変遷を天変地異によるものとする天変地異説が唱えられ、一時有力な学説となった。また、地球の成立時期についてはそれまでヨーロッパにおいては聖書に拠るものが主流であったが、ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォンは1778年に『自然の諸時期 Les Epoques la Nature』を刊行し、この中で地球の年齢をおよそ75000年と推定した。1815年にはウィリアム・スミスがイギリス全土の地質図を完成させた。18世紀末から19世紀初頭にかけてはこうした優れた学者たちによって重要な発見が相次ぎ、近代地質学が確立された。1830年から1833年にかけてはチャールズ・ライエルが『』を発行し、このなかで斉一説が唱えられたことでこの説が主流となった。 地質学の基礎はこうして確立されたものの、造山運動の原因や古生物の分布などいくつかの部分で不可解な部分が残されていた。造山運動の説明としては地向斜説、生物分布としてはかつてその地域に陸地があって離れた2点間をつないでいたとする陸橋説が唱えられていたものの、いずれも不備が多いものだった。これを説明するため、ドイツのアルフレート・ヴェーゲナーが1912年に大陸が移動したという、いわゆる大陸移動説を発表したものの、大陸移動の原因が説明できなかったため彼の生存中は有力説とはならなかった。しかしその後、1944年にアーサー・ホームズが発表したマントル対流説によって大陸移動の原動力を地球内部の熱対流に求めることが可能となり、さらに1950年代に入ると古地磁気学の研究がによって磁北移動の軌跡が導き出され、それが大陸移動説と合致したため、大陸移動説は復活した。さらにその後、1962年にハリー・ハモンド・ヘスやロバート・ディーツが海洋底拡大説を唱えるなど理論が出そろい、これらの理論を統合する形で1968年にプレートテクトニクス理論が完成した。 脚注 参考文献 サイモン・ウィンチェスター著、野中邦子訳『世界を変えた地図 -ウィリアム・スミスと地質学の誕生-』早川書房 2004年 ISBN 4-15-208579-7 C0044 大久保雅弘著『地球の歴史を読みとく -ライエル「地質学原理」抄訳-』古今書院 2005年 ISBN 4-7722-5100-6 C3044 関連項目 地質、地層、岩石、年縞 地球科学 地質調査総合センター 日本地質学会 日本鉱物科学会 資源地質学会 日本地球惑星科学連合 国際地質科学連合(IUGS) 地質調査、地質図、ボーリング ジオパーク、日本の地質百選、地質・鉱物天然記念物一覧 外部リンク 産業技術総合研究所 地質調査総合センター 地質を学ぶ、地球を知る 地質図Navi 日本地質学会 e-フェンスター(学習用ページ) 日本地球惑星科学連合 地球科学の分野
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携帯電話
携帯電話(けいたいでんわ、)とは、無線通信により、携帯することが可能となった電話機である。また、電話機を携帯する形の移動体通信システム、電気通信役務。端末を携帯あるいはケータイ(この場合は、スマートフォンではなくフィーチャーフォンを指すことが多い)と略称することがある。 携帯電話は無線機の一種であるため、その設計は電波法により規制されている。日本国内で一般に流通している携帯電話は、電波法令により規定されている技術基準に適合していることを示すマーク(技適マーク)が刻印されている。 本稿では説明しないが、鉄道設備や構内で使う携帯可能な端末を「携帯電話」と呼ぶ。技術的には固定電話と全く同じ構造であり、設備内のモジュラージャックやロゼットに接続して通話をする。 定義 世界的に狭義の「携帯電話」の範疇に入るものとしては、iDENなどの第二世代携帯電話以降の規格を使っているデジタルMCA無線などの移動体通信携帯端末や、無線免許を要しないUnlicensed Personal Communications Services(UPCS)やPHS、DECTなどのいわゆる小電力無線局の携帯端末などがある。 歴史 構想時代 携帯電話の構想は、電話機が考案されてまもないころからあった。電波を使用して無線で通信でき、かつ人間同士が音声にて会話することが夢として描かれていた。モールス符号を用いる無線電信機は携帯電話の元になる技術だが、実用化されても爆発的に普及するようになるものだとはこの時点では考えられていなかった。 また、携帯できる電話を開発する具体的な研究は古くから行われてきたが、電波のノイズの問題やバッテリーの問題、また通信速度などの多くの問題により電話機が非常に大型になってしまうため、実現は難しかった。 トランシーバーから車載電話機 携帯電話の前身は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用した、モトローラ製のトランシーバー「Walkie Talkie」(SCR-536)である。 戦後1946年には、アメリカのベル・システム(AT&Tの子会社)は無線の電話回線サービスであるを開始した。これは、トランシーバーなどの無線電話が専用の無線回線を用いるのに対し、公衆の電話回線を用いることで、無線通信を一般向けのサービスにまで広げた。こうして、民間でも固定通信に加えて移動体通信サービスが利用可能となった。ただし、当時は人が日常的に携帯できるサイズの電話は技術的に実用化されておらず、車載電話機として設置できるものが小型化の限界であった。アメリカに続いて、ヨーロッパ各国でも同様のサービスが次々と始まった。この無線電話回線サービスは後に、より新しい携帯電話回線サービス(1G - 5G)と対比して、0Gと呼ばれるようになった(レトロニム)。 接続が完全自動化された無線電話回線サービスは、スウェーデンのと呼ばれるもので、1956年にサービスが開始された。これらのサービスは実用性の面で一般に広く普及することは難しかったが、1971年にフィンランドで開始されたという0Gサービスは、移動体通信ネットワークをはりめぐらせ、電波のカバレッジに途切れなく国中で使用でき、ユーザーに広く利用された最初の成功例となった。 1960年 - 1970年代:端末小型化への努力 それ以前は車やバイク、その他の乗り物へ設置できるが、人が持ち運ぶには非実用的なサイズであった。1960年代になると、両手で持ちながら会話できる程度まで小さくすることが可能となったが、短時間の通話でも疲れてしまうほどに重かった。1970年代になると頑張れば片手で持てる程度の大きさまで小型化した。 1970年に大阪府で開催された日本万国博覧会では、ワイヤレスホンとして後年で言うところのコードレスフォンが出展された。これは数メートル程度しか電波が飛ばず、会場内で端末同士が通話できる機器であり、厳密には公衆の電話回線を利用する電話とは異なるものであった。 1973年4月3日、モトローラのエンジニアであるMartin Cooperは実際の無線電話回線につなげて電話をかけることのできる世界で初めての手持ち可能な携帯電話を試作し、デモンストレーションを行った。このとき、彼は携帯電話開発のライバルであったベル・システム社の:en:Joel S. Engelへと電話をかけた。この電話はコードレスで、重さ1.1キロ、大きさ23×13×4.5センチであり、一度の充電で30分間会話ができたが、再充電には10時間が必要であった。 1970年代後半 - 1980年代前半:実用化時代(車載電話) 1979年には、日本において第1世代移動通信システム(1G)を採用したサービスが世界で初めて実用化された。これは上述の0Gよりも、速度やカバレッジが改良された新しい技術であった。ただし、これは0Gと同じく車載電話機を使った自動車電話サービスで、人が携帯するための携帯電話はまだ実現されていなかった。1981年にはバーレーンとスカンディナヴィア地域でもサービスを開始した。 なお、アメリカ合衆国では1978年にAT&Tとモトローラに対して1G実用化実験の許可が出ていたが、すぐには実現に至らなかった。遅れをとった同国はモトローラによる当時のロナルド・レーガン大統領への直訴も功を奏し、1981年に実用化がなされた。 1980年前後から事業として成立するようになり、一部の先進国で車載電話機(自動車電話)として携帯電話機の販売やサービスが開始された。当時は固定電話機と比較すると導入価格や通信費用はともに数十倍であるうえ、通信エリアも都市部に限定されていたため、ごく一部の限られたユーザーが導入するのみであった。 1980年代半ばごろ:実用化時代(ポータブルタイプ) 車載型ではないポータブルタイプとして、1983年にモトローラより発売されたMotorola DynaTACが世界初の市販の手持ちできる携帯電話である。 日本では、1985年にNTTが「ショルダーホン」を発売している。肩にかけて持ち運ぶもので、重量は3キロだった。携帯電話と称したものは1987年にNTTから発売されており、体積は500cc、重量は900グラムだった。 1990年代:デジタル化・多機能化 1990年代になると端末の普及が進み、本体に液晶ディスプレイが搭載され始めた。また、1991年にフィンランドを皮切りに、日本でも1990年代半ばより第2世代移動通信システム(2G)サービスが始まり、通信方式がアナログからデジタルへと移行した。通信規格として、ヨーロッパのGSMとアメリカのCDMAがあった。これによって、着信音に好みの音楽が設定できる着信メロディや、ポケットベルと連帯したメッセージサービスを利用できるようになった。 1999年にはiモードが日本でスタートし、インターネット網への接続が可能となり、通信速度が向上し、画像やJavaを使用したゲームなどの利用が可能となった。 2001年以降:3G時代(インターネットとの融合) 2000年代に入ると第3世代携帯電話(3G)が登場する。2001年に世界に先駆け日本で3G(W-CDMA)の商用サービスが始まった。テレビ電話が可能となったほか、パソコンと接続して高速なデータ通信が行えるようになった。また、ラストワンマイルの問題が解決しやすいことから発展途上国でも爆発的に普及し始め、英調査会社 “Informa Telecoms & Media” の2007年11月29日(英国時間)の発表によれば、世界全体での普及率が5割に達した。ことアフリカにおいては、固定インフラの整備が停滞している一方で携帯電話の普及率や潜在市場は膨大なものが予測されており、市場の急成長が注目を集めているが、その一方で電力インフラの整備が追いついていない地域では、携帯電話の利用に必須な電源として自動車のバッテリーからや人力発電による「充電屋」のような商売も勃興している。 携帯電話は、その発展の歴史において、初期には小型化・軽量化に主眼が置かれていた。しかし、この頃にはある程度手軽な形状が実現したため、東アジアなどの地域では多機能化が進められた。こうした地域では、カメラやインターネット閲覧、モバイル決済、防水、太陽充電、ラジオ・テレビチューナーといった付加機能が製品差別化の要素となった(詳細については日本における携帯電話#端末も参照)。 携帯電話業界の競争激化とともに、ユーザーへの大きな吸引力となる端末のデザイン・機能開発について各メーカーがしのぎを削った。しかし、手に持つ・テンキーで電話をかけるといった機能を維持する共通条件のもとで、その差別化は容易ではなく、タッチパネルやジャイロセンサーの採用など現代最先端の技術を用いていった。こうした多機能化の動きは、後にスマートフォンに継承され世界的に一般化した。 フィーチャーフォンはおおむね「ストレート式」「折りたたみ式」「スライド式」の3種の形状に大別できる。主流ではないが、「フリップ式」「2軸ヒンジ式」「回転式」なども存在した。 ストレート式 携帯電話の基本形。操作部と表示画面がひとかたまりの延べ棒状になっている。表示画面がそのまま外に露出しているため傷つきやすい。また、表示画面の大型化に伴って肥大化しつつあり、コンパクト化が難しい。 折り畳み式 携帯電話が多機能化するに従い表示画面が大型化し、ストレート式では平面形も大きくなりがちであること、また、操作部と表示画面を未使用時に保護する観点から、本体中ほどにヒンジを設け二つ折りにできるようにしたものである。ストレート式より厚くなる傾向だったが、のちの技術革新により、二つ折りでも非常に薄い製品が登場した。 折り畳み式は画面や操作部を保護できる反面、ヒンジや折り畳みの支点で双方の情報をやり取りするケーブルがストレスを受けるため断線しやすく、折り畳みの可動範囲を超えて強く曲げると折れる可能性がある。また、閉じた状態だと電話やメールの着信時に発信者をひと目で確認できないことや、開閉動作が必要なため操作を素早く開始できない、短時間で頻繁に使用していると開閉が煩わしいなどの欠点がある。 これらの欠点を改良するため、背面にサブディスプレイを備えた機種や、両手を使って液晶を開かなくても側面のボタンを押すとばねの力で液晶が開く機構を搭載した機種などが登場した。 スライド式 レールによって直線状に水平スライドする開閉方式。本体が上層の液晶部と下層の操作部の二層に分かれており、液晶部をスライドさせることで操作部内側にある操作キーを露出させる。折り畳み式と違い表示部が表面に露出しており、スライドしなくても基本機能が使えるものが多い。 ストレート式や折り畳み式よりも表示部が大きく設計できる、しかもコンパクトにできる、折り畳み式と異なり片手で容易に開閉できるなどの利点がある。反面、ストレート式と同様表示部が傷つきやすく、スライド機構のスペース分下層部のボタンが小さくなることが多い。また、スライドさせるときにボタンを押してしまい、意図しない動作をさせてしまうこともある。 十字キー/メニューキーなどが液晶部に、テンキーが操作部に別れて搭載されている機種と、下層の操作部にすべてのキーが搭載されている機種がある。 前者は、閉じていても基本操作ができる、折り畳み式と同じ大きさのキーにできる利点がある。反面、スライド時に意図しない動作を招きやすい。後者は、より薄型にできる、十字キー/メニューキーとテンキーが同一面に並んでいるため、十字キーとテンキーの間で指の行き来がしやすい利点がある。反面、スライド機構の分だけ操作部の面積が狭いためキーが小さく、正確なキー操作が必要になる欠点がある。 きわめて少数ではあるが、横長で短辺が上下にスライドし、テンキーより文字入力に適しているQWERTY配列のボタンを搭載した機種もあり、インターネット閲覧やメールなどのヘビーユーザをターゲットにしている。 フリップ式 ストレート式の派生型として、操作キー部分だけが折りたたみ式カバーで覆われ、使用時にはカバーを開ける「フリップ式」と呼ばれるタイプもあるが、折り畳み式の普及以降、そうした製品は少ない。第2世代までの三菱電機製の端末に多く見られた。 2軸ヒンジ式 折り畳み式の派生型として、回転軸を2軸にして、縦方向に開くだけでなく横方向への回転も可能にしたのが「2軸ヒンジ式」である。画面を横向きに回転できるのは、ワンセグや動画の視聴時の快適性や、カメラ撮影時にデジカメのような操作性の実現を狙ったものである。縦、横、利用シーンに適した開き方を選択できる。 回転式 スライド式同様に水平面内でスライドする。スライド式のような上下方向の直線的なスライドではなく、テンキー部上部の軸を中心に水平回転するのが「回転式」。SO505i(docomo、SONY)やA5305K(au、京セラ)などで採用されている。SONYでは、「180°スタイル(ワン・エイティ スタイル)」、京セラでは「リボルバースタイル」と呼称された。 スライド+回転式 回転式よりさらにマイナーな形状として、縦方向の直線的スライドと、水平回転を組み合わせた方式も存在した。docomo F-09Aで採用されている。 2007年以降:スマートフォン時代 2007年からは携帯情報端末(PDA)がさらに進化し、パソコンとの差異が処理能力などの差だけとなった、スマートフォンが普及している。 1999年の頃から、一定の処理機能を備えたPDAに移動体端末の機能を複合させた延長的な製品は散発的に発売されいくつか存在していた。そして2007年に発売されたiPhoneをきっかけに、スマートフォンに注目が集まった(日本では2008年発売のiPhone 3Gが初)。 その後、IPhone・iOSのApple、GoogleおよびOpen Handset Allianceが開発したAndroid系スマホメーカー各社、マイクロソフトが開発するWindows Mobile・Windows Phoneスマホメーカー各社、独自OSを採用するNokia等の勢力が一時入り乱れる。当初のスマートフォンは、通信費用がより多くかかり、バッテリーの持ちが悪い傾向にあったが、改良が進み、2010年代初頭からAndroidが世界的シェアを一気に広げ、スマホが世界中で急速に普及した。 2010年代には、3Gの発展形でさらに高速となった第4世代携帯電話(4G)サービスが始まった。WiMAX方式はアメリカで、LTE方式はスカンジナビアで最初に利用可能となった。 2018年から2019年には、第5世代携帯電話(5G)サービスの運用が局所的に始まった。 携帯電話端末 端末本体は、一般社会や日常生活では単に「携帯(けいたい)」と呼ばれることが多く、「携帯」の語は携帯電話の端末を総称するような言葉のように使われており、完全に定着している。一方で同様に携帯端末であるポケベルやPHS、PDAは「ケータイ」と区別されがちであった。 また通称として「ケータイ」「ケイタイ」と表記されることも多い。NTTドコモや「電電ファミリー」の制作した技術文書では移動機(いどうき)と書かれることもしばしばある。スマートフォン時代になるとスマホと呼ばれる機会も増えた。 構成部位 初期からスマホまで共通する部品としては、アンテナ、スピーカー、マイクと、これらを制御する電子回路と、電源などがある。 2000年代以降の端末の多くではディスプレイを搭載しており、液晶や無機EL、有機EL、発光ダイオードなどさまざまな素材が利用されている。初期型の製品にはアンテナがほとんど露出していたが、2000年代中ごろに内蔵の機種が増え、現在のアンテナはほとんどが内蔵型である(ワンセグ対応機種はテレビアンテナがついているが、このアンテナのみ本体から出して使用する機種が多かった)。ガラケー時代は各社オリジナルの工夫をしたデザインが特徴で、独自機能の増加が相次いでパーツは増える傾向にあった。スマホ時代初期はiPhoneの影響を強く受けたものが多かったが、技術革新とともに再び様々なスタイルが登場している。 電源 電源は初期には一次電池が使われていたが、二次電池の発達により1990年代にはニカド電池およびニッケル・水素蓄電池が、2000年代からはリチウムイオン電池が主流である。携帯電話端末本体が充電器の役割も兼ねており、二次電池の充電回路を搭載している。一般に携帯電話の「充電器」と呼ばれる機器は、正確には携帯電話に内蔵された充電器に電源を供給する外部電源としてのACアダプタである。そのため外部電源を接続することで本体から電池を取り出さなくとも充電が可能である。機種によっては専用の充電用簡易スタンドが付属する。 外部電源としてはACアダプタによる直流電源、USB給電、Qiなどが用いられる。直接電源では家庭用電源を電源とし、3.7 - 5V程度に電圧を落として供給される。 演算・記憶装置 端末のデジタル化により、通信処理を司るベースバンドLSIを利用してコンピュータ化が進み、電話帳機能や発着信履歴の保存のためにフラッシュメモリによる不揮発記憶装置による補助記憶領域も備えるようになった。このことで着信音にバリエーションを持たせることが可能となった。 さらに携帯電話でモバイルブラウザを動かしたり、画像や音楽といったマルチメディアデータを扱うようになると、ベースバンドLSIとは独立したCPUが搭載されるようになった。補助記憶装置の必要性はさらに増し、内蔵の補助記憶装置のみでは容量不足となった。そのため2000年代に入ると外部にメモリーカードのスロットを設け、外部メモリへの記録も可能とした。初期ではSDカードやメモリースティックが用いられていたが、端末に占める容積が大きかったため、miniSDカードやmicroSDカード、メモリースティックDuoなどの携帯電話に特化したメモリーカードが開発された。 技術の進化で大容量通信が可能となると、クラウドストレージへの保管という手段も登場した。 機能 通常の通話機能とSMS程度の単機能のみの古典的な機種から、パソコンに匹敵する高性能スマートフォンまで、さまざまな製品が存在する。回線契約と端末の分離により端末の価格が機能に比例することや、コンテンツサービスが必要でなければ高機能な端末が必要とされないことなどから、安価で基本的な機能の端末にも根強い人気がある。 日本では、高機能(高価)な機種でもインセンティブ(販売報奨金)により安価に流通させるビジネスモデルがとられたため、高機能ガラケー機種が広く普及した。また韓国の携帯電話も高機能機種が多いことで知られる。 カメラ付き携帯電話が登場し、カメラ機能を利用した画像解析機能によりQRコードやJANコードが読み取れるようになった。特にQRコードは大容量の文字データを格納することができるため普及した(参考:携帯機器)。 オペレーティングシステム 専用OS 2000年代によく使われていたオペレーティングシステム(OS)としては、Symbian OS(シンビアン)、REX OS/BREW/Brew MP (クアルコム) 、ITRON/T-Engine(TRONプロジェクト)がある。その他には、OS-9、Nucleus RTOS、China MobileSoft、MIZI、SavaJeがある。LinuxカーネルをベースとしたOS(MontaVista Linux、T-Linux)もある。 各メーカーがOS-9やNucleus RTOS、iTRONなどのRTOSから、Symbian OSやLinuxなど携帯電話向け汎用OSの採用に動いているのは、3Gの到来とともに、その開発コストが高騰しているからである。端末の高機能化が進み、ソフトウェア規模が巨大化してきているため、限られたハードウェアで動作させる組み込み用途を想定したRTOSでは、開発環境、ミドルウェア調達など、コスト面で不利な点が多くなってきている。「RTOSは通信制御を受け持ち、ユーザインターフェースやアプリケーションの動作は汎用OSが担当する」というハイブリッドOS実装もあるが、2つのOSを協調動作させることには難しい点も多く、リアルタイム性能を高めた汎用OSへ集約される傾向にある。 OSと、その上層のミドルウェアを端末メーカ各社で共通化したプラットフォームとして、NTTドコモは、MOAPやオペレータパックを開発した。OS部分にはSymbian OSかLinuxを用いる。それまで、端末メーカ各社が自社で携帯電話用のインターフェース、ミドルウェアなどを開発してきたが、共通プラットフォームによって開発コストの抑制、開発速度の向上が図れる。 同様にKDDIはクアルコムのREX OS、およびBREW、Brew MPをそれぞれ母体に、KCP(2005夏モデル - 2015年春モデルまで)、KCP+(2007年冬モデル - 2011年夏モデルまで)、KCP3.x(2010年夏モデル - 2014年冬モデルまで)という共通プラットフォームを開発した。 スマートフォン用OS スマートフォン用OSとして、iOS、Android、BlackBerry、Windows Mobileなどがある。 特にGoogleのAndroidとAppleのiOSで市場シェアの98%が占められている(2019年現在、IDC調べ)。 ソフトウェア 携帯電話は限られたメモリ空間である一方で、多くの機能を搭載する高性能な電子デバイスであることから、専用のソフトウェアが搭載される。WindowsやmacOSのようなパソコン用OSのサブセットが搭載されている場合もあるが、パソコンのアプリケーションがそのまま動作することはなかったため、chromebookなどパソコンとの互換性を目指す動きもある。 メーカー 2019年の世界スマートフォンおよび携帯電話の販売台数は16億8,721万5,000台であった。そのうち、スマートフォン販売台数は13億7,259万台となり、携帯電話販売台数の84%を占めた(米国調査会社ガートナー調べ)。 国際的に端末を供給しているのは以下の企業である。国名は本社所在地であり、2019年の端末販売台数順に並べてある(米国調査会社ガートナー調べ)。上位10社で約87%のシェアを持つ。 サービス 基地局の整備により、広いサービスエリアにおいて屋外で高速移動中でも安定した通話・通信が利用可能である。第三世代携帯電話は、高速パケット通信と高い周波数利用効率が特長である。なお、高速な無線アクセスとしても利用可能であるが、利用形態によっては高額な課金となり、この現象が俗にパケ死と呼ばれる。また、電話機端末単体による通話・通信の総トラフィック(データ量)に占める割合が高い傾向にある。また、デジタルツールとしての多機能化も関係している。 通話 携帯電話での音声伝送方式は、当初はアナログ方式を採用しており途中からデジタル方式へと切り替えられた。当初サービスが開始された時点でのアナログ方式での通信は、暗号化されずにそのまま送信されていたため、ノイズが乗りやすいだけでなく、傍受が容易に行えるという欠点があった。そのため、強固な暗号化が可能なデジタル化が行われた。 国によってはそのころ、固定電話網もアナログ方式からデジタル方式(ISDN)への切り替えが進んでいたが、固定電話網のデジタル方式はパルス符号変調(PCM)であるのに対し、携帯電話網の方はより圧縮度の高い音声コーデック(おもにAMR形式)を使用している。両電話網の相互接続通話の際には、アナログ方式同士ならば単純だが、デジタル方式では(アナログ・デジタル併存の時期を含め)コーデック変換が、網関門交換機において必要である。 また、音声コーデックの方式は携帯電話事業者やサービス種別によって異なるため、事業者相互・方式相互の音声コーデック変換も必要となる。このため、コーデックの組み合わせによっては変換ロスにより、音声の品質が劣化してしまう。基本的には、同一事業者・同一方式の携帯電話同士の通話では変換によるロスは起こらないため、本来の通話品質を発揮できる。 通信 当初の携帯電話には通話機能しかなかったが、音声通話のデジタル化により端末全体がデジタル化し、これによりパケット通信によるデジタルネットワークへの接続が可能となった。デジタルネットワークの中でも、世界的に普及しているインターネットへの接続が早くから行われ、携帯電話でインターネット網にアクセスできるようになった。クライアント化である。 これにより携帯電話を対象にしたウェブページ(モバイルサイト)が携帯電話会社から公式サイトとして設立されたり、また個人でインターネット上に携帯電話を対象にした勝手サイトと呼ばれるサイトが開設されるようになる。さらに携帯電話の高速通信化により、通信機能を利用して携帯電話で金銭の管理を行うモバイルバンキングやオンライントレードも行えるようになっただけでなく、動画コンテンツの閲覧も可能となった。 従来、携帯電話ではそれのみを対象にして作られた簡素なHTMLによるウェブページしか表示できなかったが、2000年代半ばからパソコン互換ブラウザを搭載した端末も実現し、パソコン向けに作成されたコンテンツの閲覧が可能となった。 通信規格 各地域での携帯電話の通信規格(方式)はおおむね以下のようになっている。 第一世代携帯電話(1G)はアナログ方式。モトローラのTACSやNTTのHiCAPなどがある。 第二世代携帯電話(以下2G)はGSM方式が世界的に主流となっている。日本と韓国および北朝鮮では、GSMは採用されていない。日本では PDC(Personal Digital Cellular)という独自の方式が主流だったため、独自の端末やサービスが普及する一方、海外端末メーカーの参入や国際ローミングサービスが進まず鎖国的状態にあった。韓国では、アメリカのクアルコム(Qualcomm)社のcdmaOne(IS-95)という方式を全面的に採用し、サムスン電子やLG電子などが国際的に飛躍する基となった。北米はEUとは異なり、政府は携帯電話事業者に技術の選択について強制せず、各社の選択に委ねた。結果として、GSMとcdmaOneがほぼ拮抗しているのが現状である。 第三世代携帯電話(以下3G)は、2Gが各国・各地域で独自の方式、異なる周波数を採用し、全世界での同一方式の利用ができなかった反省を踏まえ、第三世代携帯電話の規格、IMT-2000の決定においては、携帯電話を全世界で利用できるようにするための指標が立てられた。しかし、規格策定の過程で、W-CDMAとCDMA2000が並行採用という形となり、GSM陣営はW-CDMAへ、cdmaOne陣営はCDMA2000へ移行することとなった(南北アメリカ・アジア地域の一部)。中国政府は、自己技術育成の観点から独自のTD-SCDMAを導入しようとしている。また3G技術の特許代に関し、「クアルコム」のライセンス価格が高すぎるとして、Qualcommと電話機ベンダー(販売会社)、チップセットベンダー数社の間で、現在係争中である。 日本ではNTTドコモ、ソフトバンクモバイルがW-CDMAを採用し、国際ローミングや海外メーカー参入が促進されている。KDDI(au)は2GはcdmaOne方式のためCDMA2000方式を採用している。ただし、日本のcdmaOneおよびCDMA2000は、UHFテレビ放送波との干渉回避のため、上りと下りの周波数が他国と逆転している。このためグローバルパスポートCDMA端末以外では国際ローミングができない。 先進国やcdmaOne陣営のほとんどは3Gの導入が済んでいるが、GSM陣営では、ユーザーがより安価なGSM端末を好む傾向もあるため、コストがかかるW-CDMAへの移行は進んでいない。安価なGSM端末は、高価なW-CDMA端末より人気がある。スマートフォンなどの高価なGSM端末でも、電池の軽量化を図って消費電力の多いW-CDMAやCDMA2000などの3Gには対応しない端末もある。またGSMでもEDGEやEDGE Evolutionを用いて3G並みの高速なデータ通信ができる。 このため、GSMのサービスの停止時期を打ち出しているGSM事業者は2008年現在、存在しない。 発展途上国では、固定電話網の未整備を補完し、低価格でデータ通信網込みで広域エリア化するために、最初からCDMA2000技術を400MHz帯に使ったCDMA450による3Gネットワークの導入なども行われている。 2006年の世界携帯電話販売台数における比率は、GSMがおおよそ7割弱、CDMA(cdmaOne + CDMA2000)がおおよそ2割強、W-CDMAは1割弱である。 第3.9世代移動通信システムでは、日本は4社ともLTE方式を採用する。 料金形態 料金は音声通話の場合は通話時間、データ通信の場合は通信時間またはデータ量で算出されるのは国際的に共通である。プリペイド(前払い)、ネットワークを自前で持たない仮想移動体通信事業者(MVNO)によるサービスもある。 プリペイドの場合、基本料金はないが、最後に入金してからの経過日数によって有効期限が定められているため、使用頻度が低くても定期的に入金する必要はある。EUは、全般にプリペイド比率が高い。 アメリカなどでは、音声通話は一定時間まで定額であるのが一般的である。また、夜9時以降および週末の通話は無料になる契約が多い。その反面、一般的に、電話をかけた側だけでなく、受けた側も通話料が発生する。 ビジネスモデル 技術的には、SIMカードを交換することにより、通信事業者を変えることが可能である。このため、端末メーカーは最初に世界共通モデルを開発して、必要な場合にだけ、小規模の特定事業者向けのカスタマイズをするのが主流である。 海外ではひとつの機種でもメーカーの出す業界標準の機能のみを搭載している「スタンダードバージョン」とキャリア独自のサービスを付加したものの2種類販売されている。前者はSIMロックがかかっていないため通信方式が同じなら世界中どこでも利用できる。後者はインセンティブ制度のもと、SIMロックがついて販売されている。この辺の事情は日本と同じであるが、インセンティブの額は、日本は突出して大きい。 マーケット規模の巨大な携帯電話は、世界規模での大量販売による価格競争が行われ、膨大な出荷台数を獲得している。 使用上のトラブルと対策 耐水性 防水機能のない携帯電話は軽微な水濡れでも故障するので、利用者から「この程度の水濡れで故障するのは欠陥品ではないか」といった苦情が国民生活センターに寄せられている。国民生活センターでは、利用者に防水でない機種は水に濡らさないように注意し、水に濡れる使い方をする人は防水の機種を購入するように呼びかけている。携帯電話会社には消費者への周知徹底と日常の軽微な水濡れで故障しないような改善、修理をする場合は消費者に一方的な負担をさせないことを要望している。 異常過熱 機器に内蔵するリチウムイオン電池が異常過熱により爆発してけがや火災の原因となる事例もある。 健康への影響 WHO(世界保健機関)の一部であるIARC(国際がん研究機関)は2011年5月31日、発がん性リスクをランク分けする表(IARC発がん性リスク一覧)の中で、「携帯電話の使用」を、5段階中、上から3番目のGroup2Bのカテゴリーに入れたと発表した(Group2Bは、ヒトに対する発癌性が疑われるグループである)。 電子機器への影響 心臓ペースメーカー使用者への携帯電話、スマートフォンの発する電磁波による誤作動などの影響が警鐘されている。 通信遮断エリア 病院や飛行機内などでの利用は制限される。 通信機能抑止装置 : 劇場等の着信音防止。特殊詐欺被害防止。 料金体系の混乱 パケ死 フィルタリング フィルタリング (有害サイトアクセス制限) 犯罪利用 暗号化されたチャットアプリの使用があったが、いずれも捜査機関によって摘発され大規模な逮捕劇となっている。EncroChat、ANOM その他の用途 携帯電話の多機能性を活用して通信以外の用途へ使用する研究が進みつつある。満足な医療が受けられない地域では可搬式の診断装置としての応用が進められる。 国・地域における携帯電話 日本における携帯電話 日本の携帯電話文化 韓国における携帯電話 台湾における携帯電話 中国における携帯電話 アメリカ合衆国における携帯電話 ロシアにおける携帯電話 ウクライナにおける携帯電話 携帯電話の文化 絵文字、ギャル文字 着信メロディ、着信ボイス、着うた 写メール 自分撮り(セルフィー) デコレーション携帯電話 脚注 注釈 出典 関連項目 マルチチャネルアクセス無線 ホットモック モバイルブロードバンド 電話 通信機器 電気通信 AV機器 モバイルネットワーク 無線測位
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日食
日食(にっしょく、solar eclipse)とは太陽が月によって覆われ、太陽が欠けて見えたり、あるいは全く見えなくなったりする現象である。 日蝕と表記する場合がある。 朔すなわち新月の時に起こる。 種類 月と太陽の視直径はほとんど同じであるが、月の地球周回軌道および地球の公転軌道は楕円であるため、地上から見た太陽と月の視直径は常に変化する。月の視直径が太陽より大きく、太陽の全体が隠される場合を皆既日食(または皆既食。total eclipse)という。逆の場合は月の外側に太陽がはみ出して細い光輪状に見え、これを金環日食(または金環食。annular eclipse)と言う。場合によっては月と太陽の視直径が食の経路の途中でまったく同じになるため、正午に中心食となる付近で皆既日食、経路の両端では金環日食になることがあり、これを金環皆既日食(または金環皆既食。hybrid eclipse)と呼ぶが、頻度は少ない。皆既日食と金環日食および金環皆既日食を中心食と称する。 中心食では本影と金環食影が地球上に落ちて西から東に移動しその範囲内で中心食が見られ、そこから外れた地域では半影に入り太陽が部分的に隠される部分日食(または部分食)が見られる。半影だけが地球にかかって、地上のどこからも中心食が見られないこともある。 また日の出の際に太陽が欠けた状態で上る場合を特に日出帯食、逆に欠けた状態で日の入りを迎える場合を日入帯食(日没帯食)と呼ぶ。この場合、いずれも食の最大を迎える前と食の最大を過ぎた後に分類される。 原因 直接の原因は、地球の周囲を公転する月が地球と太陽の間に来て、月の影が地球上に落ちる事による。月の影に入った地域では、太陽が欠け、あるいは全く見えなくなる。 地上から見た太陽は、毎日昇っては沈む「日周運動」とは別に、黄道と呼ばれる仮想の軌道を1年で1周している。太陽は明るいので目で見たのではわからないが、星座の間でゆっくり位置を変え、365.2422日で元の点に戻る。すなわち1日に角度で約1度動く事になる。同じく月は、白道と呼ばれる仮想の軌道を27.3217日で1周する。地上から見ると、月の方がおよそ13倍も速く天球上を動く事になる。ただし、月が太陽を追い越す時が朔すなわち新月であり、地球を挟んで月が太陽と180度の位置に来た時が望すなわち満月であるが、朔から次の朔までの時間、つまり満ち欠けの周期は29.5306日である。月の公転周期27.3217日は朔望月の周期29.5306日と一致しないが、これは公転周期が宇宙空間(恒星)を基準に置いているためである。一方、地球は太陽の周囲を円に近い軌道を描いて公転しているため、月が朔の日から1周公転しても地上から見る太陽が黄道上を先行してしまっており、月が太陽に追いついて次の朔になるには2.2089日余分にかかる事になる。もし黄道と白道とが一致していれば、29.5306日ごとに起こる朔においては必ず月が太陽を覆い隠す、つまり月の影が地球上に達して日食が起こり、望には必ず月は地球の影に入って月食が起こるはずである。しかし実際には黄道と白道とは約5.1度の傾きでずれているため、朔の時(日月の合と言う)でも月が太陽の上や下を通過する場合や、望(日月の衝と呼ぶ)に際しても地球の影の外を通る場合が多い。日食が起こるのは、月が黄道・白道の交わる点つまり交点(月の昇交点・降交点)付近で朔となる時に限られ、月食も交点付近で望になる時に限られる。太陽を基準にすれば、太陽が交点付近にいる時に月が来て朔になれば日食が起こる事になる。 太陽が交点付近にある期間を食の季節と言い、日食はこの期間以外には発生しない。交点は2ヶ所ある、つまり昇交点と降交点が相対しているので、太陽が黄道を1周する間に日食が起こる機会が2度ある。ただし、交点は太陽による月への摂動のため、1年に19度ずつ後退しており、太陽が交点を出て再び戻って来る周期は346.6201日となる。これを「食年」と称するが、実際の日食や月食は約346日から347日周期(交点は2ヶ所あるので、起こるとすれば半分の約173日周期になる)では起こっていない。日食は朔の時にしか起こらないから、食年に最も近い日数となる12朔望月すなわちおよそ354日周期(交点は2ヶ所あるので、半分の6朔望月、およそ177日周期になる)で見られる。表は、21世紀初頭の日食の一覧であるが、桃色・水色で区分したそれぞれの日食は、ほぼ354日周期で発生している事がわかる。 ※表のデータは、主として『理科年表 平成26年』(丸善 2013年)によった。 食年(346.6201日)と12朔望月(354.3672日)には7〜8日もの差があるが、それでうまく日月が重なり、日食が起こるであろうか。太陽と月は共に30分前後の視直径であるから、ちょうど交点でなくとも、その前後の場所で出会えば食が起こり得る。その範囲は、条件により多少異なるが、交点の前後15度から18度程度である。仮に交点から15度もしくは18度近く離れた所で月と太陽が最接近(日月の合)すれば、月は太陽の一部を隠して北極もしくは南極付近で食が見られる。その約354日後には日月は更に交点の近くで合となり(最接近し)、低緯度で中心食となる。しかしその後は月と太陽は離れる一方となり、4回程度で食は起こらなくなる。上の表で、例えば桃色の場合は南極での中心食で始まり、急速に北上して北半球で周期を終えており、水色で示した食は、北極に近い高緯度での中心食に始まり、南下して南極での部分食として終わっているのがわかる。すなわち、太陽が交点から反対側の交点に行くには173.3101日弱かかり、元の交点に戻るのには346.6201日を要する一方、6朔望月は177.1836日、12朔望月は354.3672日である。従って、月と太陽の位置のずれは回数を重ねるごとに大きくなる。それは、ある時点で日食が起きた場合、いつまでもその状況は続かず、4回ほどで途切れてしまう事を意味する。回を重ねるたびに日月の距離が大きくなり、ついには食を起こさなくなるのである。むろん、新たな周期が始まっては繰り返され、よって日食が途絶える事はないのは、表を見ても明らかである。 通常は交点での日月の合は1回であるが、太陽の移動速度は1日に1度というゆっくりしたものであるため、交点から離れた手前で合となって食を起こした場合、29.536日後に再び月が巡って来た時にもまだ食の起こる範囲内にいる場合がある。従ってこのような場合には1ヶ月足らずの間隔で日食が見られる。ただし、日月の位置の隔たりが大きいので、起きる食は高緯度での部分食がほとんどで、表の2011年がそれに当たる。まれに中心食になっても極地で辛うじて見られる程度である。 さて、黄道と白道は天球を取り巻く円(正確には楕円)で表わされる。これらが傾きを持って交差しているから、交点は円の中心をはさんで2ヶ所ある事はすでに何度も述べたとおりで、従って食の季節は通常は年2回であり、日食は1年に最低2回は必ず起こる。しかし、食の季節が3回になる年もある。これは、既に述べた如く、交点が太陽の動く方向と逆向きに動いている(前進している)ためである。もし交点が固定されていれば太陽は平均およそ365日周期で元の交点に戻り、これが食年となるが、実際には346.6201日でしかない。食年は1年より19日ほど短いので、年の初めに食の季節があれば、年末に3度目の食の季節が巡って来る事になる。一方、前述の通り1朔望月は29.5306日であるから、これを12倍すると約354日になり、やはり1年よりおよそ11日短い。従ってある年の1月初めに日食があれば、その年半ばと12月末の3回日食が発生する機会が訪れる。前述のように、食の季節には日食が少なくとも1回、多い時には2回起こる。よって日食は年によっては3回ないし4回、まれには5回起こる(1935年)。 ただし、日食が連続して起こるにはどうしても1朔望月つまり約29.5306日を隔てなければならないから、仮に3回の食の季節に全て2回ずつ日食が起きたとしても、その期間は365日を越えるため、最も多い年でも日食の回数は5回が限度である。また、食の季節であっても月食は起きないこともある。月食が全くない年が数年に1度あり、発生頻度で見れば日食は月食より多い。詳しくは月食を参照。しかし日食は月の影に入った地域でしか観測できないため、地球全体で見れば日食は頻繁に起きていてもある地域に限定すると日食が観測される事は少ないが、月食は起きている時に月が見えている所では必ず観測できるので、一般には月食の方が見られる頻度が多い。 上記の例から、日食に周期性があり、予報できる可能性がある事がわかる。 日食の予報 前の章で記述した354日周期又は177日周期は、地球全体から見れば最も短く扱いやすい予報法であるが、古代人の予報手段には使えない。食が起こる地域が大きく変動する一方、古代の人々は自分たちの居住地から大きく移動する事はなかったし、遠く離れた地域からの情報を入手するのも不可能であったから、地球全体での食の発生を知る事はできず、日食を見る機会はもっぱら自分たちの住む地域とその周辺に限られる。そうした制限下では、日食はあたかも不規則に起こるように見えるため、現在のような天文学知識の無い古代の人々は、突然太陽が欠け、時には見えなくなる日食の発生を非常に恐れたが、やがてその発生に強い規則性があることが知られ、原因はわからないながらも予報できるようになった。 実際には、日食・月食は天球上の月と太陽の規則的な運行周期の一致により発生するもので、いわば日月の運行周期の公倍数として考え得る。その視点に立てば、地球上の1地点でも食はかなり規則的に起きるので、ある程度の期間にわたって食発生の統計が得られれば予報が可能となる。ただし、そうした周期は非常に長いので、人間の一生程度の時間では把握できない。食の予報は、人類が文字を発明して数百年もの長期にわたってデータを蓄積できるようになって初めて実現した。 予報の歴史 日食や月食の予報は、まだ地動説はおろか地球が丸い事さえ知られていなかった時代に既に行われていた。長期にわたる記録を整理して、食の発生に周期性があるのを発見したためである。 古代において、日食は重大な関心を持たれていた。中国の日食予報として著名な逸話に、紀元前2000年頃の夏の時代に、羲氏と和氏という2名の司天官が酒に酔って日食の予報を怠ったため処刑された、と『書経』に記されている、いわゆる「」がある。 事実であれば当時既に日食の予報が行われていた事になって、世界最古の日食予報になる。唐代以降、東西の多くの天文学者がこの日食の比定を試みたが、この記事に完全に符合するものは見つかっていない。 中国においては1994年に存在が確認された「上博楚簡」と呼ばれる竹簡の中に『競建内之』と称される物があり、斉の桓公が皆既日食を恐れて鮑叔の諫言を聞いたという故事が載せられている。『史記』においては専横を敷いていた前漢の最高権力者呂后が日食を目の当たりにし「悪行を行ったせいだ」と恐れ、『晋書』天文志では太陽を君主の象徴として日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。中国の日食予報は戦国時代から行われていたが、三国時代に編纂された景初暦において高度な予報が可能となった。 このため、日本の朝廷でも持統天皇の時代以後に暦博士が日食の予定日を計算し天文博士がこれを観測して密奏を行う規則が成立した。養老律令の儀制令・延喜式陰陽寮式には暦博士が毎年1月1日に陰陽寮に今年の日食の予想日を報告し、陰陽寮は予想日の8日前までに中務省に報告して当日は国家行事や一般政務を中止したとされている。六国史には多くの日食記事が掲載されているが、実際には起こらなかった日食も多い。ただしこれは日食が国政に重大な影響を与えるとする当時の為政者の考えから予め多めに予想したものがそのまま記事化されたためと考えられ、実際に日本の畿内(現在の近畿地方)で観測可能な日食(食分0.1以上)については比較的正確な暦が使われていた奈良時代・平安時代前期の日食予報とほぼ正確に合致している。 1183年の治承・寿永の乱の水島の戦いでは戦闘中に金環日食が発生し、源氏の兵が混乱して平氏が勝ったと源平盛衰記などの史料に記されている。当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある。 江戸時代の1839年(天保10年)には、金環食が発生した。幕府の役人は従来の中国式の予測時刻と伝来したばかりの西洋式の金環食の予測時刻、2種類の計算を行い、築地の海岸で観測を行った。西洋の方法での予測が的中し見える位置、時刻ともに正確であった。以降、西洋の天文学が日本で急速に広まっていった。 西洋においては、トルコから西アジアにかけて領土があったメディア王国とリディア王国が長期にわたり戦争を続けていた紀元前6世紀始め頃、ギリシャの哲学者タレスが予言していた日食が実際に起き、両国は和を結んだという話が、ギリシャの歴史学者ヘロドトスの『歴史(ヒストリア)』に書かれている(日食の戦い)。これも多くの天文学者の興味をそそり、その日食を特定する試みが為され、紀元前585年5月28日の皆既日食と推定された。この日食は南アメリカ北端から北大西洋を通り、ヨーロッパを経てトルコ北部からカスピ海の南に達したものであるが、異説もある。タレスは、古代バビロニアで考案された予報術を用いたとヘロドトスは記し、これは次に述べるサロスであるとの説もあるが、サロスは当時のギリシャでは知られていなかったというのが天文学史の主導的見解であり、タレスは、それまでに伝えられていた大雑把な法則に基づいて日食発生の年を予言したが、月日までは言及できなかったと考えられる()。 最も古くから知られていたのは前述の「サロス」と呼ばれるもので、紀元前6世紀頃にバビロニアで発見されていたとされ、またギリシャでは紀元前443年に数学者のメトンにより「メトン周期」が発見された。 サロス 既に記したとおり、1朔望月は29.5306日であり、223朔望月は6585.3212日となる。月が交点を出て再び戻って来る(交点から始まる軌道を一周する)交点月は27.2122日であり、242交点月は6585.3575日で、前者にきわめて近い。また月が地球をめぐる公転軌道のうちで近地点に来た時を近点月と言うが、239近点月は6585.5375日で、やはり非常に近い。さらに1食年346.6201日を19倍する、すなわち19食年は6585.782日で、これも大差がない。そのため、223朔望月に当る18年と11日(閏年の配置によっては10日)と8時間ほどの周期でよく似た状況の日食(継続時間、食の種類等)が繰り返される。これがサロスと呼ばれる周期である。 ただ、余分の8時間が曲者で、次回の日食は経度でおよそ120度西にずれた所で起こる。その次はおよそ240度西方に動き、3回目で元の位置に戻る。そのため、実用上は3サロス、すなわち54年と約1ヶ月を用いるのがよい。下の表にサロスの実例を示す。3サロス毎にほぼ同じところで日食が起こっている事や、サロスは近点月や食年の倍数とよく一致しているので、毎回起こる食の状況も似ていることがわかる。 表を見ると、食により3サロスの間に経路が少し北上又は南下した事が分かる。サロスは不変ではなく、1000年程度の期間で、極地方の部分食から始まって少しずつ北上(あるいは南下)して赤道を越え、最後は反対側の極地方の部分食となって終わるという経過をたどる。また、サロス周期は約18年であるが、日食は毎年起こる。これは、複数のサロスが存在するためで、実際に18年間に40個ほどのサロスが食を繰り返しており、オランダの天文学者ゲオルグ・ファン・デン・ベルグがサロスに付けた通し番号が一般に使用されている。 メトン(章法) 1年は365.2422日であり、19年は6939.6018日となる。一方、235朔望月は6939.6675日で、非常に近い。さらに20食年(346.6201日×20=6932.402日)とも近似する。したがって、ある日食からちょうど19年後には再び日食が起こる。これをメトン周期と呼び、中国では「章」又は「章法」と言った。 ただし、19年及び235朔望月に対し20食年との差が7日余り出るのが問題で、回を重ねるごとにこれが大きくなるので、予報としては5 - 6回くらいで使えなくなる。下の表にメトンの例を示す。 他にも日食の周期性を用いた予報の種類は多い。 日食の経過 影の移動に基づく日食の経過 月の半影錐が地球を横切り始めると部分食が始まる。 月の本影錐が地球を横切り始めると皆既食または金環食が始まる。本影によって起こるこの2つの食を合わせて中心食と呼ぶ。 月の本影錐の軸が地球表面上を移動した軌跡を中心食線と呼び、この線上では太陽と月が同心円となる。 地球表面上での本影の面積が最大になる時点を食の最大または食甚と呼ぶ。 月の本影錐の軸が地球表面を横切り終わった所で中心食線は終わる。 月の本影錐が地球を横切り終わると皆既食または金環食が終わる。 月の半影錐が地球を横切り終わると部分食が終わる。 月と太陽の位置関係に基づく日食の経過 月が太陽を隠し始めた瞬間を第1接触と呼ぶ。古い用語では初虧(しょき)と言う。 月縁が太陽の輪郭の内部に完全に含まれた瞬間(金環食の場合)、または月によって太陽が完全に隠された瞬間(皆既食の場合)を第2接触と呼ぶ。同じく食既(しょっき)と言う。 日月の中心が最も接近した時を食の最大又は食甚(しょくじん)と呼ぶ。 月が太陽の輪郭の外に出始めた瞬間(金環食の場合)、または太陽が月の背後から再び現れた瞬間(皆既食の場合)を第3接触と呼ぶ。同じく生光(せいこう)。 月縁が太陽から完全に離れた瞬間を第4接触と呼ぶ。同じく復円(ふくえん)。 食の経過及び状況を示すために「食分」という数値が用いられる。 日食の継続時間 皆既食や金環食などの中心食は、多くの場合数分、時には数秒以下しか見られない。皆既食の場合、月が地球に近い所(近地点)にあって地球から見た際の視直径が大きく、地球が太陽から遠い所(遠日点)にあって地球から見た太陽の視直径が小さい時には、月が太陽を隠す時間が長くなり、継続時間も長くなる。また、月の影は地球上を西から東へ秒速1km(時速3600km余り)ほどで進んで行くが、赤道に近い低緯度地方で正午頃に見られるなら、地球の自転により月の影の移動速度が相対的に遅くなり、やはり継続時間が延びる。さらに、白道は黄道から5.1度ずれているので、地球に落ちる月の影も地表面を斜走するため、地球の自転方向が食の中心線と平行になる地域から見れば継続時間が伸びる。 そうした好条件が重なれば、皆既日食の継続時間は、稀ではあるが7分を越える。紀元前4000年から紀元6000年までの間では、紀元(西暦)2186年7月16日に起きる皆既日食が最も長く、7分29秒に及ぶ。この日食はサロス番号139番に属しており、このサロスは皆既継続時間が非常に長く、前後併せて5回も7分以上の皆既が起こる。21世紀中は7分を越える皆既日食はない。 金環食では、皆既食と逆の条件があれば長くなる。太陽と月の平均視直径を比較すると、太陽が32分、月が31分で、前者がわずかに大きく見える。仮に月と地球の公転軌道が完全な円であったなら金環食しか見られなくなる。軌道が楕円であるため視直径が変動し、皆既日食も金環日食も見られるのであるが、このような条件もあって、金環食の方が継続時間の長いものが多い。皆既食は最長でも7分30秒程度であるのに対し、金環食は稀に12分以上継続する事がある。 観測 皆既日食の際、普段は光球の輝きに妨げられて見ることができないコロナや紅炎の観測が可能になり太陽の構造・物理的性質を調べる絶好の機会となり、太陽のみならず恒星一般の研究にも大きな役割を果たす。 第2接触直前または第3接触直前には、月の表面にある起伏の谷間から太陽の光が点々と連なって見える状態になることがある。これを、原理を解明したフランシス・ベイリーの名を取ってベイリー・ビーズ(ベイリーの数珠)といい、古くから月に起伏がある証拠とされてきた。 また皆既食にて太陽がすべて隠れる直前と皆既が終わった直後、又は北限界線や南限界線から食を見る場合には、太陽の光が一ヵ所だけ漏れ出て輝く瞬間があり、黒い太陽(実際は月)の周囲に細く内部コロナが輪状に見えるのと併せて宝石の着いた指輪に似た形状となる。これをダイヤモンドリングと言い、皆既日食の見所の一つである。これも、月面にある起伏による現象である。 皆既日食が起こると空がかなり暗くなり星の観測も可能な状態になる。そのわずかな時間を利用して1919年、一般相対性理論の検証がアーサー・エディントンによって行なわれた。皆既日食中に太陽周辺の星を観測すると、星からの光は太陽の重力場を通るため屈曲することになり、位置がわずかにずれる。一般相対性理論で予想される数値と実際に観測された数値とを比較することで、一般相対性理論の確かさが確認された。 観測方法と注意点 太陽光は光量が大きく有害な紫外線なども含まれるため、部分食や金環食のように太陽の光球が完全に隠されない日食を肉眼で直接観測すると日食網膜症を引き起こし、網膜のやけどや後遺症、ひどい場合には失明を引き起こすことがあるため一定の性能を満たした観測機器が必要となる。 日食観察グラス(日食グラス)による観測 - 日食を日食観察グラス(日食グラス)で観測する場合、一旦太陽に背を向けてグラスを目に当ててから太陽に向かって振り向くという動作をしなければならない。日食観察グラスの品質や性能についても留意が必要であり、透過率は可視光線で0.003%以下、赤外線で3%以下とされ(いずれも目安)、室内の蛍光灯を見てかすかに確認できる程度の見え方であり、LEDライトなどの強い光にかざしたときにひび割れや穴等の損傷が無いものであることが必要となる。20世紀末頃まで一般に用いられてきた、すすを付着させたガラスや通常市販されている黒色の下敷き、カラーネガフィルムによる遮光では不十分である。また、上記のような適切な専用機器を使って正しい観測方法を行ったとしても、時間的な間隔を置かずに継続して観測することによって日食網膜症を引き起こすこともあり、1分観測するごとに2〜3分程度中断して目を休ませるべきだとされており、市販されている日食グラスにもその旨の警告がなされている。 減光フィルターを装着した天体望遠鏡・双眼鏡による観測 太陽投影板での観測 - 専用の機器がない場合でも、紙や薄い板などに針穴すなわちピンホールを開け、そこに日光を通して壁やスクリーンなどに投影すれば、欠けた太陽の形が安全に観測できる(右中央の写真)。 太陽望遠鏡による観測 日食観測の歴史 人類にとって太陽はすべての生命の根源であり、世界全体を照らす最も重要な天体である事は古くから周知されており、世界各地の神話や宗教などで最高神として崇められてきた。その太陽が陰り、時には完全に隠れ、明るかった空が暗くなるということは、科学的な説明が浸透する以前の人々にとっては重大な出来事として認識された。そのため、彗星と共に天変地異を予告する凶兆として恐れられた。 近代天文学が確立する以前、多くの文明で日食や月食を説明する神話が長い間語り継がれてきた。これらの神話の多くでは、日月食は複数の神秘的な力の間の対立や争いによって起こるとされた。例えばヒンドゥー教の神話では、食が起こる月の昇交点がラーフ、降交点がケートゥという2人の魔神として擬人化され、この二神の働きによって食が起こると考えられた。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で「羅睺星」「計斗星」の名で七曜に付け加えられ、九曜の一員を成している。 また北京天文台には日食神話を描いた石の彫刻があり、以下のような説明が添えられている。 「この彫刻の絵は日食の原因を説明している。金烏(太陽の象徴)の中心がヒキガエル(月の象徴)によって隠されている。漢時代の人々はこの現象を太陽と月の良い組み合わせと呼んでいた」 ここで金烏とは金色(太陽)の中にいるという三本足の烏(八咫烏を参照のこと)であり、ヒキガエルは月のクレーターの形に由来するものである。この解説文からは、当時の文化において天文現象としての事実の認識と現象に対する愉快な見立てとが両立していたことが窺える。 ヴァイキングたちの伝承を記した『スノッリのエッダ』ではスコルと呼ばれる狼が太陽を常に追いかけており、狼が太陽に追いつくと日食になるという記述がある。そして、世界の終わりの日に狼はついに太陽を完全に飲み込んでしまうという。 日本においては、計算上は邪馬台国の時代、卑弥呼が死んだとされる247年と248年に日本列島で日食が起きた可能性が推測されている。国立天文台では「特定された日食は『日本書紀』推古天皇36年3月2日(628年4月10日)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため地球の自転速度低下により特定できない」としている。 日食の一覧 文化 天岩戸 - 月と太陽を食べて日食と月食を起こす、9つの太陽を撃ち落とした羿の飼ってた猟犬。嫦娥の残した薬を舐めて巨大化・狂暴化し嫦娥を追いかけて天に上った。天狗食日(月)を止めさせるため地上では爆竹や銅鑼や太鼓を打ち鳴らすこととしている。 脚注 注釈 出典 参考文献 ISBN 4-7629-2872-0、ISBN 978-4-7629-2872-7。 ISBN 4-00-420207-8、ISBN 978-4-00-420207-3。 ISBN 4-254-15017-2、ISBN 978-4-254-15017-9。 原著の新装版:ISBN 0-1918-5119-1, ISBN 978-0-1918-5119-3. 別題:Oxford dictionary of astronomy. 。 ISBN 4-621-08739-8、ISBN 978-4-621-08739-8。 関連項目 月食 食 (天文)(エクリプス) サロス周期 黄道 白道 朔 交点 (天文) 掩蔽 太陽面通過 太陽性網膜症(Solar retinopathy) 日食網膜症(eclipse retinopathy) 冥王星の日食 アポロ・ソユーズテスト計画:米ソ宇宙船による人工日食の実験 Mursili's eclipse(紀元前1308年4月13日 or 紀元前1312年6月24日) Assyrian eclipse(紀元前763年6月15日) 日食の戦い(ハリュス川の戦い)(紀元前585年5月28日) 1919年5月29日の日食 1997年3月9日の日食 1999年8月11日の日食 2006年3月29日の日食 2008年8月1日の日食 2009年1月26日の日食 2009年7月22日の日食 2010年1月15日の日食 2010年7月11日の日食 2012年5月21日の日食 外部リンク 国立天文台 日食各地予報 Eclipse Home Page(NASA) 日食・月食・星食情報データベース Live Eclipse 黒い太陽にロマンを求めて 日食図(日本で観測できる日食) (つるちゃんのプラネタリウム) 将来の金環皆既日食(黒い太陽にロマンを求めて) Pursue romance in the black sun Solar Eclipse Resources Exploratorium 2009皆既日食in奄美 ニコニコ動画 太陽 欠けながら沈む 佐賀でも部分日食(2010年1月15日)(佐賀新聞社提供) 番組エピソード NHKが伝えた日本で見られる金環日食 - NHKアーカイブス 119年前に撮影された皆既日食の動画が公開される | スラド サイエンス 天文現象 太陽 天文学に関する記事
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プログラム
プログラム(、(公示する)から) 一般概念 計画されている催し物やパフォーマンス。→演目。予定。 公営競技における競走(レース)。→レース 長期目標のための一連の活動。 学習計画のこと。→カリキュラムを参照。 政党が有権者に提示する計画。→綱領、選挙公約、マニフェスト あるイベントやパフォーマンスにおけるアイテムや演者の詳細を記した紙や冊子。 演奏会、演劇、運動会、映画などの要素を示したチラシや小冊子のこと。(出演者の紹介や解説などが書かれる場合もある。)→プログラム (冊子)。小冊子、チラシ、演目表、番組表も参照。 ラジオやテレビなどであらかじめ言明されていた時刻に放送されるもの →ラジオ番組、テレビ番組、番組、放送 ある物事の進行についての順序・組み合わせ・筋などのこと。及び、それを書いたもの。 ⇒ 計画、予定、スキーム、スケジュール、デザイン、プラン、プロジェクト、プロットなども参照のこと。 コンピュータやその他の機械をコントロールするために組まれた一連の命令。→プログラム (コンピュータ) 電子楽器をコントロールするために、定められた形式に従って記述された一連の命令。→MIDI カメラのシャッター速度・絞りなどを総合的にコントロールするためにカメラにあらかじめ仕組まれている命令。→AEカメラ 工作機械を制御するための言語。→数値制御 特定の商品名、固有名など ノミ・ダニの駆除を目的としたノバルティス・アニマルヘルス社の動物用医薬品の商品名。ニテンピラムが有効成分。→ ニテンピラム、ノバルティス 脚注 関連項目 番組 「プログラム」を含む記事名一覧 プログラムマネジメント - 複数のプロジェクトを統括的に管理すること。 英語の語句
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コンパイラ
コンパイラ()は、コンピュータ・プログラミング言語の処理系(言語処理系)の一種で、高水準言語によるソースコードから、機械語あるいは元のプログラムよりも低い水準のコードに変換(コンパイル)するプログラムである。 概説 プログラミング言語(人間が理解しやすい言語や数式でプログラムを記述可能な人工言語)で書かれたプログラムを、コンピュータのプロセッサが直接的に実行できる機械語(バイナリコード)、あるいは元のプログラムよりも低いレベルのコード(例えばバイトコードなどの仮想機械向け中間言語あるいは中間表現)に変換することを、英語の動詞で""(コンパイル)と呼ぶ。コンパイラとは、コンパイルを行なうコンピュータプログラムのことである。インタプリタとよく対比される。 コンパイラによって変換される前のプログラムを「ソースコード」と呼び、変換後の機械語あるいは中間言語のプログラムなどを「オブジェクトコード」と呼ぶ。ただし、厳密には「コンパイル」は「ビルド」の一工程である。直接機械語を出力する場合もあるが、コンパイラ自体はアセンブリ言語によるコードを出力するにとどまり、該当アセンブリ言語を機械語に変換する作業(アセンブル)をアセンブラに任せているものも多い。 「compile」はもともと「編集する」「編纂する」という意味の英語であり、「compiler」というのは「編集者」という意味の英語である。 コンパイラでは、ひとつのプログラムとして動作する全てのコードをいっぺんにコンパイルするのではなく、モジュール毎などに分けてコンパイルし(「分割コンパイル」)、ライブラリなどはあらかじめコンパイルされているものと合わせて、実行するようにすることが多い。この場合、コンパイラはリロケータブルバイナリを出力し、実行可能ファイルの生成にはリンケージエディタが必要であり、さらに動的リンクで実行する場合はダイナミックリンカ/ローダ(ローダの一種)も必要である。 開発環境などでは、コンパイルした後に実行するというような手続きを1コマンドで行えるものも増えている。そして、インタプリタでも実行時コンパイラなどの技術の利用がさかんになってきており、古典的な意味での「コンパイラ」と「インタプリタ」の中間的な性質のツール(プログラム)も増えてきているので、「コンパイラ言語 / インタプリタ言語」という、以前よく行われた対比は、あまり意味を持たない場合も増えてきている。 歴史 初期のコンピュータのプログラミングは機械語で直接行なわれていた。プログラムを指して「コード」(英語では暗号を意味する)と呼ぶのは、知らない人間には機械語は全く意味のわからない数値の羅列だからである。しかし、(人間にとって比較的理解のしやすい)十進法の数字で書かれたアドレスを内部表現の二進法に変換する、といったごく単純なアセンブリ言語の機能を持ったプログラムはEDSACにおいて既に存在していた。 機械語でのプログラミングは言うに及ばず、アセンブリ言語を用いても、プログラミングというのは面倒な作業である。そういった低水準言語から、人間がより扱いやすい高水準言語が徐々に求められるようになった。また、機械の詳細が抽象化されることにより、高水準なプログラミング言語で書かれた同一のソースコードを元に、詳細仕様が異なる機械でも動くプログラムを生成できる、という利点もあった。 1950年代末までに、プログラミング言語がいくつか提案され、実験的なコンパイラがいくつか開発された。世界初のコンパイラは、1952年にグレース・ホッパーが書いたA-0 Systemだとされることもある。ただし一般的には、1957年にIBMのジョン・バッカスのチームが開発したFORTRANコンパイラが世界初の完全なコンパイラであるとされている。一般的なコンパイラの開発では、まず動くものを作ってから最適化の機能が付け加えられるが、最初のFORTRANコンパイラでは、コンパイラが実用になることを示すために、最初から最適化に労力が向けられた。 1960年の、ホッパーらによるCOBOLは複数のアーキテクチャ上でコンパイル可能となった言語の最初期の1つである。 様々なアプリケーション領域で、高水準言語というアイデアは素早く浸透していった。機能が拡張されたプログラミング言語が次々と提案され、コンピュータのアーキテクチャそのものも複雑化していったため、コンパイラはどんどん複雑化していった。 初期のコンパイラはアセンブリ言語で書かれていた。世界初の「セルフホスティングコンパイラ」は、1962年にマサチューセッツ工科大学の Hart と Levin が開発したLISPである。1970年代には、特にPascalやC言語などにおいて、コンパイル対象言語でコンパイラを書くことが一般化した。さらにより高水準の言語のコンパイラは、PascalやC言語で実装することも多い。セルフホスティング・コンパイラの構築には、ブートストラップ問題がつきまとう。すなわち、コンパイル対象言語で書かれたコンパイラを最初にコンパイルするには、別の言語で書かれたコンパイラが必要になる。Hart と Levin の LISPコンパイラではコンパイラをインタプリタ上で動作させてコンパイルを行なった。 教育用コンパイラ コンパイラ構築とコンパイラ最適化は、大学での計算機科学や情報工学のカリキュラムの一部となっている。そのようなコースでは適当な言語のコンパイラを実際に作らせることが多い。文書が豊富な例としてはニクラウス・ヴィルトが1970年代に教育用に設計し、教科書中で示した PL/0 がある。PL/0 は単純だが、教育目的にかなった基本が学べるようになっている。PL/0 はPascalで書かれていた。ヴィルトによる教科書は何度か改訂されており、1996年の版ではOberonでOberonのサブセットOberon-0を実装している。 段階的改良によるプログラム開発の採用 再帰下降構文解析の採用 拡張BNF記法による文法記述の採用 Pコードの採用 ブートストラップ問題をT図式(:en:Tombstone diagram)で形式的に記述 分類 機械語にコンパイルするコンパイラもあれば、そうでないコンパイラ(後述)もある。機械語コードのことを、ハードウェアであるプロセッサの生のコード、というような意味でネイティブコードなどと言うことがあり、機械語にコンパイルするコンパイラのことをネイティブコンパイラと言うことがある。 コンパイラに限らず、入力と出力を持つあらゆる変換系は、入力の種類がm種類、出力の種類がn種類あるとすると、m×n種類があることになる。コンパイラの場合、プログラミング言語がm種類、コード生成の対象となる命令セットアーキテクチャがn種類、といったような感じになるわけであり、入力側をフロントエンド、出力側をバックエンドと言うが、中間表現の設計いかんでは、残りの中間処理の部分、特に重要な部分であるコンパイラ最適化を共有できるため、1980年代以降に基本設計が為されたGCCやCOINSやLLVMなどでは、そのようにして多言語・多ターゲットに対応している。 汎用OSなど、開発環境と同じ環境で目的プログラムも動作させるような開発を「セルフ開発」と言い、セルフ開発のコンパイラを「セルフコンパイラ」という。それに対し、開発環境とは別の環境で実行するような開発を「クロス開発」といい、そのためのコンパイラをクロスコンパイラという。OSカーネル自身のコンパイルなどは、カーネル自身の実行環境は、そのOSではなくベアメタルであるという意味ではある種のクロスコンパイルのようなものであるし、新しいコンピュータシステムのための環境を最初に作るにはクロス開発の必要がある。あるいは、組み込みシステムやPDAなど、それ自体が開発環境を動作させるだけの機能や性能を持たない場合、といったものもある。 いわゆるネイティブコードではなく中間コードを生成し、さらに別のコンパイラに処理を任せたり、別のインタプリタによって実行したりするものもある。これを中間コードコンパイラ、バイトコードコンパイラなどと呼ぶ。またそのバイトコードを解釈実行する処理系をバイトコードインタプリタなどと呼ぶ。 ワンパスとマルチパス コンパイラは様々な処理の集合体であり、初期のコンピュータではメモリ容量が不十分であったため、一度に全ての処理を行うことができなかった。このためコンパイラを複数に分割し、ソースコードや何らかの中間的な表現に何度も処理を施すことで解析や変換を行っていた。 一回でコンパイルが可能なものをワンパスコンパイラと呼び、一般にマルチパスコンパイラよりも高速で扱いやすい。Pascalなど、多くの言語はワンパスでコンパイルできるよう意図して設計されている。 言語の設計によっては、コンパイラがソースコードを複数回読み込む必要がある。たとえば、20行目に出現する宣言文が10行目の文の変換に影響を与える場合がある。この場合、一回目のパス(読み込み)で影響を受ける文の後にある宣言に関する情報を集め、二回目のパスで実際の変換を行う。 ワンパスの欠点は、高品質のコードに欠かせない最適化を行いにくいという点が挙げられる。最適化コンパイラが何回読み込みを行うかというのは決まっていないが、最適化の各フェーズで同じ式や文を何度も解析することもあるし、一回しか解析しない箇所もある。 コンパイラを小さなプログラムに分割する手法は、研究レベルでよく行われる。プログラムの正当性の判定は、対象プログラムが小さいほど簡単なためである。 ネイティブコンパイラの他にも以下のような、「ネイティブの機械語」以外をターゲットとするコンパイラ(ないしトランスレータ)がある。 何らかの高水準言語から、何らかの高水準言語に変換する「トランスレータ」。「トランスコンパイラ」などという語もある。たとえば、OpenMPなどの自動並列化コンパイラは並列化が明示されていないプログラムを、並列化を明示したプログラムに変換する。または、FORTRANの DOALL 文など何らかの言語構文を変換する。 ステージコンパイラ(Stage Compiler)は何らかの理論上のマシンのアセンブリ言語を出力する。たとえば、Java や Python のバイトコードコンパイラもステージコンパイラの一種と言える。 Java や Smalltalk やマイクロソフトの共通中間言語システムで使われているJITコンパイラ。コンパイラはいったん中間表現を生成し、実行時に中間表現がターゲットの機械語にコンパイルされる。 コンパイラ言語 もっぱらその言語の処理系がコンパイラとして実装される言語を「コンパイラ言語」などと言い、インタプリタとして実装される言語を「インタプリタ言語」などと言うこともあるが、実験的な実装まで含めればどちらもある言語も多い。Microsoft Visual Studioに付属するF#/C# Interactiveのように、対話環境で入力したプログラムを、コンパイラで共通中間言語(中間表現)にコンパイルし、さらに共通言語ランタイム(仮想機械)上でネイティブコードにJITコンパイルしてインタプリタ的に実行する、というような処理系もある。JavaやMicrosoft Visual Basicのように、登場当初はインタプリタ方式だったが、のちにネイティブコードへのJITコンパイルやAOTコンパイルをサポートするようになった言語もある。 Common Lispなど言語によっては、実装にコンパイル機能を含むことを義務とする仕様もある(ただし、Common Lisp仕様は解釈実行の処理系を禁止しているのではない)。また、インタプリタの実装が容易でコンパイラの実装が困難な言語もある(APL、SNOBOL4など)。メタプログラミングの利用、特に文字列をevalすることは、インタプリタ方式では造作ないことだが、コンパイラ方式では実行環境にコンパイラ自体が必要となる(動的プログラミング言語も参照)。 ハードウェア・コンパイラ ハードウェア記述言語の処理系(合成系)を、ハードウェアコンパイラとかシリコンコンパイラなどと呼ぶことがある。 コンパイルのタイミング コンパイルをアプリケーションの実行時に行うか、実行前に行うかで2つに分かれる。 事前コンパイラ - 実行前に事前にコンパイルする。Ahead-Of-Timeコンパイラ (AOTコンパイラ)。 実行時コンパイラ - 実行時にコンパイルする。Just-In-Timeコンパイラ (JITコンパイラ)。 インタプリタとの違い もともとは、コンパイラはしばしばインタプリタと対比されてきたものである。コンパイラは、生成された機械語プログラムなどの実行は行わないが、一度コンパイルすればコンパイラを使わずに何度も実行できるという利点がある。しかし、インタプリタは、バイナリの実行ファイルは生成せず、実行するときに常に必要だが、プログラムを作ったらすぐに実行できるという利点がある。 しくみと設計 コンパイラは、一般に次のような部分から成る。 ソースコードを読み込み、トークンに分解する字句解析部や字句解析器 トークン列をもとにプログラムの構文木を構築する構文解析部や構文解析器 中間コード作成(省略可能) 最適化 構文木からオブジェクトコードを生成するコード生成部 字句規則から字句解析器を生成するlex、構文規則から構文解析器を生成するパーサジェネレータというプログラムがあり、広く実用に使われている。コンパイラ全体を生成するコンパイラジェネレータも研究されているものの、広く実用に使われるには至っていない。 コンパイラ設計手法は処理の複雑さ、設計者の経験、利用可能なリソース(人間やツール)に影響される。 コンパイル処理の分割を採用したのはカーネギーメロン大学での Production Quality Compiler-Compiler Project であった。このプロジェクトでは、「フロントエンド」、「ミドルエンド」(今日では滅多に使われない)、「バックエンド」という用語が生み出された。 非常に小さなコンパイラ以外、今日では2段階(2フェーズ)以上に分割されている。しかし、どういったフェーズ分けをしようとも、それらフェーズはフロントエンドかバックエンドの一部と見なすことができる。フロントエンドとバックエンドの分割点はどこかというのは論争の種にもなっている。フロントエンドでは主に文法的な処理と意味論的な処理が行われ、ソースコードよりも低レベルな表現に変換する処理が行われる。 ミドルエンドはソースコードでも機械語でもない形式に対して最適化を施すフェーズとされる。ソースコードや機械語と独立しているため、汎用的な最適化が可能とされ、各種言語や各種プロセッサに共通の処理を行う。 バックエンドはミドルエンドの結果を受けて処理を行う。ここでさらなる解析・変換・最適化を特定のプラットフォーム向けに行う場合もある。そして、特定のプロセッサやOS向けにコードを生成する。 このフロントエンド/ミドルエンド/バックエンドという分割法を採用することにより、異なるプログラミング言語向けのフロントエンドを結合したり、異なるCPU向けのバックエンドを結合したりできる。この手法の具体例としてはGNUコンパイラコレクションや Amsterdam Compiler Kit、LLVM がある。これらは複数のフロントエンドと複数のバックエンドがあり、解析部を共有している。 フロントエンド フロントエンドはソースコードを分析して、中間表現または IR と呼ばれるプログラムの内部表現を構築する。また、シンボルテーブルを管理し、ソースコード内の各シンボルに対応したデータ構造に位置情報、型情報、スコープなどの情報を格納する。このような処理はいくつかのフェーズで実施される。たとえば以下のようなフェーズがある。 行再構築(Line reconstruction) - キーワードにを施す場合や識別子に空白を挿入可能な場合、字句解析の前に入力文字列を「正規化」する必要がある。1960年代の一般的なトップダウンの再帰下降型の表駆動構文解析では、ソースコードを一度読み込むだけでトークン化のフェーズは不要だった。ストロッピングを行う言語としては、、、一部のALGOL処理系などがあり、これらは「行再構築」フェーズを持っている。ストロッピングとは、キーワードに何らかの記号をつけることでキーワードとして使われている文字列を予約語とせず、同じ文字列を変数名やサブルーチン名に利用できるようにしたものである。たとえば、シングルクオートでキーワードを囲むとか、%記号を先頭につけるなどの記法がある。 字句解析 - ソースコードを「トークン」と呼ばれる断片に分割する。各トークンは言語の最小構成要素であり、キーワード、識別子、シンボル名などである。トークンは一般に正規言語に従うため、正規表現を解釈する有限オートマトンで認識できる。字句解析を行うソフトウェアを字句解析器(lexical analyzer)と呼ぶ。 プリプロセッサ - コンパイル前の全処理を行うもの。マクロを実装や、定数の定義、ヘッダファイルの読み込みに使われる。一般にこのフェーズは構文解析や意味解析の前に行われる。プリプロセッサはトークンを操作するものであって、構文を考慮しない。だから、C言語などでは、プリプロセッサでマクロを実装できるが、LISPのような言語では構文解析後にマクロを置き換える必要があり、プリプロセッサは使われない。 構文解析 - トークン列を解析し、プログラムの構造を明らかにする。このフェーズで構文木が構築され、単なるトークンの列だったプログラムにその言語の文法を定義した形式文法の規則を適用することで木構造を生成する。構文木は、この後の工程で解析され、強化され、変換される。 - 構文木の要素に意味を追加し、シンボルテーブルを作成する。型チェック(データ型などを間違っていないかのチェック)や、変数や関数の定義と参照箇所を結びつける処理、既定値代入(自動変数の初期化)、意味的に不正なプログラムを検出して通知するなどの処理が行われる。意味解析には完全な構文木が必要であり、理論上構文解析とコード生成の間に行わなければならない。もちろんコンパイラの実装によってはこれらを一度に行うこともある。 バックエンド 「バックエンド」という用語は「コード生成」という用語と混同されることが多い。アセンブリ言語コードを生成するという意味で機能的にも類似しているためである。書籍によっては、バックエンドの汎用解析フェーズと最適化フェーズを「ミドルエンド」と称してマシン依存のコード生成部と区別することがある。 バックエンドに含まれる主なフェーズは以下の通りである。 解析部 - 入力から生成された中間表現を使って各種情報を収集する。主な解析としてUD連鎖を構築するデータフロー解析、依存関係解析、エイリアス解析、ポインタ解析、エスケープ解析などがある。正確な解析によってコンパイラ最適化が可能となる。また、コールグラフや制御フローグラフがここで作られることが多い。 最適化 - 中間表現を機能的には等価だがより「ベター」な形式に変換する。主な最適化手法としてインライン展開、デッドコード削除、定数伝播、ループ変換、レジスタ割り当て、自動並列化などがある。 コード生成 - 実際に出力する機械語やバイトコードを生成する。ここでリソースや記憶装置の割り当てが決定される。たとえば、どの変数をレジスタに格納し、どの変数をメモリに格納するか、どの命令をどういう順番で実行するかをアドレッシングモードなどをセシィ-ウルマン法などを用いて決定する。 コンパイラ解析とは、コンパイラ最適化の前に行われる処理で、両者は密接な関係がある。たとえば依存関係解析はループ変換実施に重要な意味を持つ。 さらに、コンパイラ解析と最適化の範囲は様々であり、基本的なブロック単位の場合からプロシージャや関数レベル、さらにはプロシージャの垣根を超えてプログラム全体を対象とすることもある。広範囲を考慮するコンパイラほど最適化に用いることができる「ヒント」が増え、結果としてより良いコードを生成する可能性がある。しかし、広範囲を考慮する解析や最適化はコンパイル時間やメモリ消費のコストが大きい。これは特にプロシージャ間の解析や最適化を行う場合に顕著である。 最近の商用コンパイラはプロシージャ間解析/最適化を備えているのが普通である(IBM、SGI、インテル、マイクロソフト、サン・マイクロシステムズなど)。オープンソースのGCCはプロシージャ間最適化を持たない点が弱点だったが、これも改善されつつある。他のオープンソースのコンパイラで完全な最適化を行うものとしてOpen64がある。 コンパイラ解析と最適化には時間と空間が必要となるため、コンパイラによってはデフォルトでこれらのフェーズを省略するものもある。この場合、ユーザーはオプションを指定して明示的に最適化を指示しなければならない。 簡単な例 以下のプログラムは中置記法で入力された四則演算を逆ポーランド記法を経て、独自の中間表現にコンパイルするC言語で書かれた非常に単純なワンパス・コンパイラである。このコンパイラは中置記法を逆ポーランド記法にコンパイルすると共に、ある種のアセンブリ言語にもコンパイルする。再帰下降型の戦略を採用している。このため、各関数が文法における各非終端記号に対応している。 #include <stdlib.h> #include <stdio.h> #include <string.h> #define MODE_POSTFIX 0 #define MODE_ASSEMBLY 1 char lookahead; int pos; int compile_mode; char expression[20+1]; void error() { printf("Syntax error!\n"); } void match( char t ) { if( lookahead == t ) { pos++; lookahead = expression[pos]; } else error(); } void digit() { switch( lookahead ) { case '0': case '1': case '2': case '3': case '4': case '5': case '6': case '7': case '8': case '9': if( compile_mode == MODE_POSTFIX ) printf("%c", lookahead); else printf("\tPUSH %c\n", lookahead); match( lookahead ); break; default: error(); break; } } void term() { digit(); while(1) { switch( lookahead ) { case '*': match('*'); digit(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "*" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tMUL A, B\n\tPUSH A\n"); break; case '/': match('/'); digit(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "/" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tDIV A, B\n\tPUSH A\n"); break; default: return; } } } void expr() { term(); while(1) { switch( lookahead ) { case '+': match('+'); term(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "+" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tADD A, B\n\tPUSH A\n"); break; case '-': match('-'); term(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "-" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tSUB A, B\n\tPUSH A\n"); break; default: return; } } } int main ( int argc, char** argv ) { printf("Please enter an infix-notated expression with single digits:\n\n\t"); scanf("%20s", expression); printf("\nCompiling to postfix-notated expression:\n\n\t"); compile_mode = MODE_POSTFIX; pos = 0; lookahead = *expression; expr(); printf("\n\nCompiling to assembly-notated machine code:\n\n"); compile_mode = MODE_ASSEMBLY; pos = 0; lookahead = *expression; expr(); return 0; } この単純なコンパイラの実行例を以下に示す。 Please enter an infix-notated expression with single digits: 3-4*2+2 Compiling to postfix-notated expression: 342*-2+ Compiling to assembly-notated machine code: PUSH 3 PUSH 4 PUSH 2 POP B POP A MUL A, B PUSH A POP B POP A SUB A, B PUSH A PUSH 2 POP B POP A ADD A, B PUSH A 脚注 参考文献 Compiler textbook references コンパイラ構成論の教科書(英語)のリスト Compilers: Principles, Techniques and Tools by Alfred V. Aho, Ravi Sethi, and Jeffrey D. Ullman (ISBN 0-201-10088-6) 原田賢一 訳、『コンパイラ—原理・技法・ツール<1>』サイエンス社、1990年。ISBN 4781905854 原田賢一 訳、『コンパイラ—原理・技法・ツール<2>』サイエンス社、1990年。ISBN 4781905862 Advanced Compiler Design and Implementation by Steven Muchnick (ISBN 1-55860-320-4). Engineering a Compiler by Keith D. Cooper and Linda Torczon . Morgan Kaufmann 2004, ISBN 1-55860-699-8. Understanding and Writing Compilers: A Do It Yourself Guide (ISBN 0-333-21732-2) by Richard Bornat - 構文木からの機械語の再帰的生成を説明している貴重な書籍。古いメインフレームやミニコンピュータの経験に基づいており、最近の書籍が見落としがちな部分もカバーしている。著者のサイトにあるPDF版 An Overview of the Production Quality Compiler-Compiler Project by Leverett, Cattel, Hobbs, Newcomer, Reiner, Schatz and Wulf. Computer 13(8):38-49 (August 1980) Compiler Construction by Niklaus Wirth (ISBN 0-201-40353-6) Addison-Wesley 1996, 176 pages, PDF版。再帰下降構文解析の解説。Oberon-0という小型の言語のコンパイラを題材にしている。 "Programming Language Pragmatics" by Michael Scott (ISBN 0-12-633951-1) Morgan Kaufmann 2005, 2nd edition, 912 pages. 著者のサイト "A History of Language Processor Technology in IBM", by F.E. Allen, IBM Journal of Research and Development, v.25, no.5, September 1981. ニクラウス・ヴィルト(著)、滝沢徹(訳)、牧野裕子(訳):「ヴィルトのコンパイラ構成法」、星雲社、ISBN 4-7952-9706-1(1997年11月28日)。 渡邊担:「コンパイラの仕組み」、朝倉書店、ISBN 4-254-12708-1(1998年4月10日)。 中田育男:「コンパイラの構成と最適化」、朝倉書店、ISBN 978-4-254-12177-3(第2版)(1999年9月15日初版、2009年11月15日第2版)。 A.V.エイホ、M.S.ラム、R.セシィ、J.D.ウルマン、原田賢一(訳):「コンパイラ[第2版]」、サイエンス社、ISBN 978-4-7819-1229-5(2009年5月25日第2版、1990年10月10日初版)。 五月女健治:「JavaCC:コンパイラコンパイラ for Java」、テクノプレス、ISBN 4-924998-64-8(2003年10月20日)。 Andrew W. Appel、神林靖、滝本宗宏(訳):「最新コンパイラ構成技法」、翔泳社、ISBN 978-4-7981-1468-2(2009年10月29日)。 青木峰郎:「ふつうのコンパイラをつくろう」、ソフトバンククリエイティブ、ISBN 978-4-7973-3795-2(2009年7月27日)。 前橋和弥:「プログラミング言語を作る」、技術評論社、ISBN 978-4-7741-3895-4(2009年7月25日)。 日向俊二:「やさしいコンパイラの作り方入門」、カットシステム、ISBN 978-4-87783-220-9(2009年8月10日)。 日向俊二:「やさしいインタープリタの作り方入門」、カットシステム、ISBN 978-4-87783-219-3(2009年3月10日)。 中田育男、渡邊担、佐々政宏:「コンパイラの基盤技術と実践」、朝倉書店、ISBN 978-4-254-12173-5(2008年6月25日)。 石田綾、中田育男:「スモールコンパイラの制作で学ぶプログラミングのしくみ」、技術評論社、ISBN 4-7741-2177-0(2004年12月5日)。 大川知、鈴木大郎:「コンパイラ:言語処理系の基礎からyacc/lexまで」、近代科学社、ISBN 978-4-7649-0359-3(2008年10月31日)。 湯浅太一:「コンパイラ」、昭晃堂、ISBN 4-7856-2050-1(2001年6月14日)。 今城哲二、布広永示、岩澤京子、千葉雄司:「コンパイラとバーチャルマシン」、オーム社、ISBN 4-274-13308-7(2004年9月10日)。 山下義行:「コンパイラ入門」、サイエンス社、ISBN 978-4-7819-1205-9(2008年6月25日)。 中井央(著)、中田育男(監修):「コンパイラ」、コロナ社、ISBN 978-4-339-02708-2(2007年7月6日)。 柏木餅子、風薬:「きつねさんでもわかるLLVM コンパイラを自作するためのガイドブック」、インプレスジャパン、ISBN 978-4-8443-3415-6(2013年6月21日)。 大山口道夫、三橋一郎L:「コンパイラの理論と作成技法」、サイエンス社、 ISBN 978-4-7819-1251-6(2010年6月10日)。 林晴比古:「明解入門 コンパイラ・インタプリタ開発:C処理系を作りながら学ぶ」、ソフトバンククリエイティブ、ISBN 978-4-7973-5703-5(2010年1月15日)。※CD付き。 林晴比古:「明解入門 インタプリタ開発:基本技術から処理系の実装まで」、ISBN 978-4-7973-6881-9(2012年2月6日)。 千葉滋:「2週間でできる!スクリプト言語の作り方」、技術評論社、ISBN 978-4-7741-4974-5(2012年3月10日)。 佐渡一広、寺島美昭、水野忠則:「コンパイラ」、共立出版、 ISBN 978-4-320-12344-1(2014年6月15日)。 関連項目 外部リンク GCC, a widely-used open-source compiler Building and Testing gcc/glibc cross toolchains The Amsterdam Compiler Kit オープンソース The comp.compilers newsgroup and RSS feed コンパイラ構成論 河野真治(琉球大学) プログラミング言語の実装 ソフトウェア開発ツール 構文解析 (プログラミング)
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松本大洋
松本 大洋(まつもと たいよう、男性、1967年10月25日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。和光大学人文学部芸術学科中退。 代表作に『鉄コン筋クリート』『ピンポン』など。スポーツや闘いを題材に、男の持つ美学や世界観を独特のタッチで表現している。初期には講談社『モーニング』で活動するも人気が出ず、小学館『ビッグコミックスピリッツ』に移って以降評価を受けるようになった。 実母は詩人の工藤直子。妻は漫画家の冬野さほで、冬野はしばしば松本のアシスタントもしている。従弟の井上三太も漫画家。 経歴 小学校から高校までは、サッカー部に所属するスポーツ少年だった。小学校時代に、児童養護施設で過ごしている。高校2年のとき、漫画の愛読者だった母の勧めで大友克洋と吉田秋生を読み、特に大友の『童夢』に衝撃を受ける。大学から従弟の井上三太の影響もあり漫画研究会に所属し、18歳で初めて漫画を描く。当時『モーニング』に描いていた土田世紀に憧れ、2本目に描いた作品で講談社に持ち込みを行なう。 1987年、「それゆけファウルズ」が『モーニング パーティ増刊』に掲載。また、『STRAIGHT』が四季賞準入選を受賞し『月刊アフタヌーン』増刊号に掲載され、漫画家としてデビューを飾る。当時、自身を天才だと思っており、そのまま大学もバイトも辞めているが、後で自作品がほかと比べてお粗末なことに気付き、自分の勘違いを知ったという。 同時期のデビューで敵わないと思った漫画家に若林健次、山田芳裕、タナカカツキがいたという。受賞をきっかけにすぐに大学を辞め、『アフタヌーンシーズン増刊』他で短編作品を発表したのち、1988年より『モーニング』にて野球を題材にした作品『STRAIGHT』を連載。しかし単行本2巻までで打ち切りとなる。 その後、1年ほどの空白期間を経て小学館から声がかかり、担当編集者に話を通した後に移籍。『ビッグコミックスピリッツ』に1990年より『ZERO』、1991年より『花男』、1993年より『鉄コン筋クリート』、1997年より『ピンポン』を連載。また、『鉄コン筋クリート』終了後、劇団黒テントからの依頼で上演用の漫画作品「花」を執筆。2000年にも同劇団に戯曲「メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス」を提供、この作品は2001年の岸田國士戯曲賞候補となった。 『ピンポン』から3年を経た2001年、長編描き下ろし作品『GOGOモンスター』を刊行。1998年11月から2000年9月まで約2年を費やして450ページが描かれ、祖父江慎のデザインによる箱入りハードカバーで刊行された。この作品で2001年、第30回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。 2001年11月より、小学館からの新雑誌『スピリッツ増刊 IKKI』(後に独立して『月刊IKKI』となる)の看板作家として『ナンバーファイブ 吾』を連載。のちの『IKKI』編集長江上英樹は『IKKI』に松本を起用したことについて、「『ガロ』が白土三平、『COM』が手塚治虫を擁したのと同じ意味合いで、彼の存在は、この増刊号に不可欠なものと言えた」と振り返っている。 2006年、和光大学漫画研究会の先輩であり、デビュー以来しばしば松本のアシスタントもしていた永福一成を原作者とする時代劇作品『竹光侍』を『ビッグコミックスピリッツ』にて連載開始。同作品で2007年に第11回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を、2011年に第15回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。 2010年12月から、『月刊IKKI』にて最新作『Sunny』の連載が始まった。著者の実体験をベースに描かれており、「少年期の落とし前となるような大事な作品」と語られる1作である。 作品ではスポーツを扱った作品が多く、いずれゴルフ漫画を執筆したいと語っている。インタビュー以外でメディアに露出することは極めて稀であるが、『STRAIGHT』の帯や、画集『松本大洋+ニコラ・ド・クレシー』で本人の姿を確認することができ、谷川俊太郎との共作関連でテレビにも出演している。パソコンなどの電子機器は所有していないが、電子書籍には興味があると語っている。 絵柄 絵柄は作品によって大胆に変えられており、初期の『STRAIGHT』や『点&面』では、顔を記号的に省略した人物が登場し、望月峯太郎に影響を受けたようなタッチが見られる。当時から線にはこだわりを持っていた。構図では魚眼レンズで写したような、空間の広がりを極端に強調したアングルが多かったが、『GOGOモンスター』以降の作品ではこのような手法は使われていない。 画面構成については、『ZERO』が明暗を強調しているのに対し、『花男』ではバンドデシネの影響を受けて明るいタッチのデフォルメされた絵柄が用いられ、『鉄コン筋クリート』では白黒のメリハリが利いたイラスト的なタッチ(フランク・ミラーの影響が強いという)、『ピンポン』では細い線を使った黒味の少ないタッチ、『花』ではトーンを使わない黒っぽいタッチ、『竹光侍』では時代劇の雰囲気に合わせて画用紙を使い、スクリーントーンの代わりに薄めた墨が用いられている。 なお、作品では女性キャラクターが登場することが極めて少ないが、これは女の子を描くことだけは苦手だからであり、それ以上の意味は特にないという。 しかしそれは過去の発言であって、Sunnyからは冬野さほの作画協力も得て多くの女性や少女が登場してる。 画材は一貫してミリペンを使用。絵は枠線などを除いてフリーハンドで描かれており、建物などを描く場合でも定規は使われていない。ただし、デビュー作の『STRAIGHT』の途中まではGペンで描かれている。ミリペンに替えた理由は使いこなせないからだったと話す。 作品リスト 『STRAIGHT』『点&面』を除き、漫画作品はすべてA5判で刊行されている。 連載作品 短編集 画集 その他 短編・コラボレーション作品 絵本 装丁、挿絵 デザイン 劇場アニメ『犬王』キャラクター原案 作品の映像化 ピンポン(2002年、実写映画。監督:曽利文彦、脚本:宮藤官九郎、主演:窪塚洋介) 青い春(2002年、実写映画。監督:豊田利晃、主演:松田龍平) リボルバー 青い春(2003年、実写オリジナルビデオ、監督:渡辺武、主演:玉木宏) 鉄コン筋クリート(2006年、アニメーション映画、監督:マイケル・アリアス、制作:STUDIO 4℃) ピンポン THE ANIMATION(2014年、テレビアニメーション、監督:湯浅政明、制作:タツノコプロ) 脚注 参考文献 『アフタヌーン四季賞CHRONICLE』講談社、2005年 『マンガ夜話 松本大洋「花男」』キネマ旬報社、1998年 『フリースタイル』2007年冬号「特集 松本大洋」フリースタイル 『ユリイカ』2007年1月号「特集・松本大洋」青土社 外部リンク 小学館 松本大洋の本 ほぼ日刊イトイ新聞 谷川俊太郎☓松本大洋 詩人と漫画家と絵本。 日本の漫画家 21世紀日本の劇作家 東京都出身の人物 1967年生 存命人物
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ウサギ
ウサギ(兎、兔)は、最も広義には兎形目、狭義にはウサギ科、さらに狭義にはウサギ亜科もしくはノウサギ亜科 の総称である。 ここでは主にウサギ亜科について記述する。現在の分類では、ウサギ亜科には全ての現生ウサギ科を含めるが、かつては一部を含めない分類もあった。兎形目はウサギ科以外に、ナキウサギ科、サルデーニャウサギ科など。 形態 他の獣と比しての特徴としては、耳介が大型なことが挙げられる。兎形目内では耳介があまり発達していない種でも、他の哺乳綱の分類群との比較においては耳介比率が大きいといえる。音や風のするほうへ耳の正面が向くよう、耳介を動かすことができる。また、毛細血管が透けて見えるこの大きな耳介を風にあてることで体温調節に役立てるともいう。 眼は頭部の上部側面にあり広い視野を確保することができ、夜間や薄明薄暮時の活動に適している。鼻には縦に割れ目があり、上部の皮膚を可動させることで鼻孔を開閉することができる。門歯は発達し、一生伸びつづける。かつてはこの門歯の特徴をもってネズミと同じ齧歯目の中に位置づけられていた。しかし、上顎の門歯の裏側に楔形の門歯があるものをウサギ目として独立した目分類がなされるようになった(齧歯目と近縁の仲間ではある)。歯列は (順に 門歯・犬歯・小臼歯・大臼歯、上下は上下顎)で、計28本の歯を持つ。 かつてネズミの仲間と分類されていたように、肉食であるネコやイヌとは異なる点が多く、多くの種のウサギの足の裏には肉球はなく、厚く柔らかい体毛が生えている。前肢よりも後肢が長く、跳躍走に適している。前肢の指は5本、後肢の趾は4本で、指趾には爪が発達する。体全体は丸みを帯び、尻尾は短い。ただ、盲腸は長い。 生態 草原や半砂漠地帯、雪原、森林、湿原などに生息する。アナウサギは地中に複雑な巣穴を掘って集団で生活する。縄張り意識は比較的強く、顎下の臭腺をこすりつける事で臭いをつけてテリトリーを主張する。ノウサギは穴での生活はしない。 食性は植物食で、草や木の葉、樹皮、果実などを食べる。一部の野生種は昆虫なども食べるという。カイウサギであれば、屋外のアリなども舐めながら食べる。 胎生。ネコなどと同じく、交尾により排卵が誘発される交尾排卵動物。妊娠期間は最長がユキウサギの約50日で、多くの種は30・40日。一度の出産で1・6頭(ないしそれ以上)を出産する。 アナウサギは周年繁殖動物(繁殖期を持たない動物)に分類され、年中繁殖することが可能であり、多産で繁殖力が高い動物である。ノウサギは春先から秋まで、長期的なゆるい繁殖期を持っている。 天敵はヘビ、キツネ、カラスをはじめ小〜中型の肉食獣、猛禽類。 種類にもよるが、時速60-80kmで走ることができるという。 声帯を持たないため滅多に鳴く事はないが、代わりに非言語コミュニケーションを用いる。代表的なものは発達した後脚を地面に強く打ち付けるスタンピングで、その主な動機は天敵が接近した場合に仲間に警戒を促すためであるが、不快な感情を表す際にもこの行動をとる事がある。 ウサギの唾液には、衛生状態を保つ成分が含まれている。顔を前脚で覆うように撫でたり耳を撫でる仕草をみかけるが、前脚に予め付着させておいた自らの唾液を目的の部位全体に行き渡らせる事で衛生状態を保っているのである。 特徴的な長い耳に代表されるように秀でた聴力を持つ一方で、視力には劣り、食物を食べる時に安全性を確認する場合も、視覚より嗅覚を駆使する。 ストレスには非常に弱く、絶えず周囲を警戒している。 餌 ニンジンなどの根菜を食べるイメージがあるが、糖分が高く自然界では食べない。飼育環境下で少量与えられる程度である。主に食べるのはチモシー、アルファルファなどの牧草であるが、チモシーにアレルギーを起こす人が居るので、時々飼育で問題になる。 時折、背を丸めて直接肛門に口を持っていき、口をモグモグとする行動を観察できるが、これは「食糞行動」といい、未消化になった植物繊維等を含んだ糞を再度食べて消化と栄養の再吸収を促す行為であり、異常行動ではない。 ペット飼育 捕食される側である草食動物のため、家飼いする場合もその本能が残存しており、部屋の目立った場所に出ず、カーテンの裏側、机の下、部屋の隅っこなどに陣取る事が多い。 ウサギはデリケートな生き物でもあり、ペット飼育されているウサギにはストレスを感じた時に稀に自分の体毛を毟り取る行動が見られるが、ほかのペット動物でもありうる事である。 前歯が伸び続ける事も手伝い、家飼いする時、屋内のコードというコードを片っ端からかじってしまうことも多い。畳、木材家具に至ってはそのものを食べてしまうこともある。特に家電製品のコード類は感電の恐れもあるので、なるべく手の届かないところに設置すべきである。 排泄場所は、きれい好きのため、きちんとしつければ、特定の場所で排泄を行うようになる。隅で隠れられる場所に排泄場所を置くべきである。 生理学 寿命 5–11年(稀にそれ以上:ネザーランドドワーフで最高年齢13歳の記録がある。※ギネス記録は18歳10か月) 体温 ウサギの平均体温は38–40℃とかなり高温までが正常範囲。39℃台の体温を正常と判断し対処する必要がある。体温が上がりすぎる場合は耳を水で軽く湿らせタオルで全身を巻いた上からアイスボトルなどで冷やし、逆に体温が37.7℃以下の場合は温かい布で全身を包みカイロなどでその上から温める。 心拍数 130–325/分 呼吸数 32–60/分 全血液量 57–65 mL/kg 血圧 90–130 / 60–90 mmHg 食物消費量 5–100 g/日(個体の大きさによる) 飲水消費量 5–10 ml/日・100 g/日(あるいはそれ以上) 胃腸管通過時間 4-5時間 分布 南極大陸や一部の離島を除く世界中の陸地に分布している。ペットとして持ち込まれたものも多く、オーストラリア大陸やマダガスカル島には元々は生息していなかった。特に、オーストラリア大陸に広く分布するようになったウサギは、入植者のトーマス・オースティンが狩猟用に持ち込んだ24匹のウサギが、オーストラリアの環境に適応して爆発的に増えたものであることが知られている。 日本では、各地の縄文時代の貝塚からウサギの骨が出土することや、古事記の「因幡の白兎」などに登場することなどから、そのころには既にかなりの数が棲息していたものと考えられる。灰色や褐色等の毛色を有し、積雪地帯では冬には白毛に生え変わる在来種ニホンノウサギは、日本の固有種として知られている。また、絶滅危惧種であり国の特別天然記念物アマミノクロウサギは、世界でも奄美群島の一部のみに生息する。 利用 狩猟 野ウサギは昔から食料や毛皮、遊興などの目的で狩猟の対象とされている。特に欧米では、ウサギのハンティングは文化的なスポーツとして扱われている。 狩猟の際にウサギを追いかけるときは必ず斜面の上から追いかけると有利、逆に斜面を登る形で追いかけると不利とされている。なぜならウサギの身体的特徴として後ろ足が長く前足が短いため、ウサギは上り坂では体の傾き具合が水平になるため坂を上るのに強く、下り坂では前かがみのようになってしまうため坂を下るのは苦手だからである。 上野公園にある西郷隆盛像は、愛犬「ツン」をつれて趣味の兎狩りをしているときの姿である。 食肉 狩猟や養殖によって得られたウサギの肉は、食用として利用されてきた。古代、マンモスなどの大型の獲物が少なくなるにつれ、ウサギを始めとする小型ですばしっこい動物は、人類にとって重要な獲物となっていった。ネアンデルタール人は、このような小さな獲物を狩るための適応が出来なかったため、滅んだとの説がある。 ウサギは柔らかい食肉となる。ウサギのフィレ・ステーキという料理もあるが、1頭のフィレ部分はホタテ貝の貝柱程度の寸法しかなく数頭分のフィレ肉を使うことになる。挽肉にすると粘着性が高いので、ソーセージやプレスハムに結着剤として使われることがある。 日本でも、古来より狩猟対象であり、食用とされてきた。縄文時代の貝塚から骨が見つかることはそれを示唆するものであると考えられ、江戸時代徳川将軍家では、正月の三が日にウサギ汁を食べる風習があったという(日本の獣肉食の歴史#江戸時代および食のタブー#ウサギも参照)。秋田県の一部地域では「日の丸肉」と呼ばれ、旅館で料理として出されることがある。この日の丸肉という名称は、一説によると、明治期に日本で品種改良されて定着した白毛に赤目の日本白色種が、あたかも日の丸の色彩を具現化したような動物であったことによるともいわれる。明治期に入り、兎の輸入が始まる。兎の種類は肉用(ベルジアン、バタゴニアン)、毛用(アンゴラ)、毛皮用(ヒマラヤン、シベリヤン)、愛玩用(ロップイヤー、ポーリッシュ、ダッチ)がある。ロップイヤーの平均体重は9斤(5.4kg)である。また秋田県の一部のマタギには、ウサギの消化器を内容物と共に料理して食べる「スカ料理」が伝わっている。 20世紀に入り、一般消費者がスーパーマーケットなどで豚肉や牛肉が手軽に購入できるようになっても、ウサギ肉が単独で店頭に並ぶ例はほぼないが、1960年代には豚挽肉にウサギ肉を混入する事例が横行した。1969年には農林省が原材料を明記するよう業界を指導したことがある。 欧州各地でも古来より食用とされ、フランス料理では、伝統的に一般的な料理に使用するものは、カイウサギをラパン()、ノウサギをリエーヴル()という区別で食肉として愛好されてきた。ラパンはしばしば鶏などと同様に家禽類として扱われる。背肉から腿肉までが主要部位で、内臓肉としては腎臓、レバーなどを食べる。 北米では、ウサギ肉はフライ用()、ロースト用()、内臓()の3等級に分類されている。生後9週まで、体重4.5-5ポンドの肉はフライ用。体重5-8ポンド、月齢8ヵ月までの肉をロースト用と定めている。ロースト用はフライ用よりも肉が硬いとされている。肝臓や心臓なども食用にする。 ユダヤ教では、ウサギは「清くない動物」、すなわち非カーシェール(, )とされ、食べてはならない動物に定められている。日本でも一部の地域(埼玉県・群馬県など、後述)において、妊婦が兎肉を食べることを禁忌とする考え方がある(倉林正次 『11日本の民俗 埼玉』 第一法規 1972年 p.158. 武藤典 『群馬のたべもの』 みやま文庫 1979年 p.125.群馬県の俗信では、「妊婦が食すとミツ口=兎口の赤子が生まれる」とされ、食べさせない)。 毛皮 狩猟や養殖によって得られたウサギの毛皮は、服飾品としても利用されてきた。 防寒用として世界各地でその毛皮が用いられてきたほか、一種の装飾用としても用いられる。 また、毛皮としてではなく毛足の長いウサギの毛を羊毛のように刈り取って織物用の繊維として利用することも行われてきた。アジア原産のアンゴラ山羊やアンゴラ兎をつかったモヘヤが知られているが、欧州ではアンゴラウサギという繊維利用専用の品種も作られた。日本でも、明治から太平洋戦争の時代にかけて軍需毛皮を生産する目的からウサギの飼育が盛んになり、日本アンゴラ種という品種が作られた。 西洋では、ウサギの足や尾は幸運のシンボルとして剥製化されて使用される。 膠 ウサギの革を煮込んで得られる膠は、テンペラ画の地塗りに用いられてきた。アクリル絵具が発達した21世紀初頭でもなお、古い絵画の修復に欠くことのできない材料である。 実験動物 家畜化されたアナウサギ(カイウサギ)が、実験動物として広く使われる(ドレイズ試験)。 税金 「明治時代のウサギブーム」「ウサギバブル」も参照。 日本では明治時代に入り、ウサギの売買や飼育が盛んになったことから、1873年(明治6年)に東京府より「兎取締ノ儀」が布達された。ウサギ一頭につき、1円を科せられ、無許可で飼育すると2円の罰金を科せられた。 家畜化 ウサギの一種であるアナウサギを家畜化したものはカイウサギと呼ばれ、広く利用されている。ペットとして人気の高いネザーランド・ドワーフやロップイヤー、毛皮用にも使われるレッキス、日本で実験用によく使われるジャパニーズホワイトなど多くの品種があるが、分類学的にはアナウサギと同種とみなされ、学名も同じである。 利用目的は毛用・肉用・愛玩用など多岐にわたる。ペット用に品種改良されたものはしばしばイエウサギと呼ばれ、一般家庭での飼育も可能である。実験動物としては、薬品や化粧品の安全性試験や、医学研究のモデル生物として使われるが動物実験の結果をそのまま人間には適用できない事例もあるだけでなく、倫理上の観点からも問題視されており、徐々に動物実験を廃止する動きが広まりつつある。 日本の大久野島・前島やニュージーランド、オーストラリアでは逸出したカイウサギの野生化が起こっている。オーストラリアでは、野生化したカイウサギが生態系や農業に与える悪影響が問題視されている。 明治時代、その愛くるしさからウサギを飼う事が大流行し、ウサギの価格が高騰。闇取引することが多く政府が取り締まるほどの一大ムーブメントが起きていた。 ARBA (American Rabbit Breeders Association) は世界最大規模のウサギ協会。純血種を保護するため毎年ブリーダーや一般の飼い主が持ち寄ったウサギを品種ごとに基準を定め品評会を行っている。 文化 ウサギは生息域が広く昼行性で繁殖率も高く人の目にふれやすいため、親しみやすく、擬人化されて童話や説話のモチーフとして使われている。漫画やマスコット等のキャラクターとして登場する。ピーター・ラビットの作者ビアトリクス・ポターは、自らが飼っていたウサギを詳細にデッサン、スケッチして解剖学的にも研究して描いている。 西洋東洋を問わず、子ども向け用品を扱う企業のマスコットやシンボルマークにウサギを使用している。 シンボルとしてのウサギ 昔から言われ続けて来た、月のシンボル 日本から見た月面の模様は古くから餅つきをするウサギに見えていた事から、日本には古来、ウサギが月に棲むという説話が仏教・道教説話あるいは民間説話として伝わっている。 たとえば、仏教的説話を多く題材にとる『今昔物語集』第五巻第十三話「三の獣、菩薩の道を行じ、兎身を焼く語」には、次のような捨身慈悲、滅私献身の象徴としてウサギが描かれる。 以上が、「今は昔、天竺に兎・狐・猿、三(みつ)の獣ありて、共に誠の心を発(おこ)して菩薩の道(どう)を行ひけり」に始まり、「万(よろづ)の人、月を見むごとに此の兎の事思ひいづべし」で終わる説話のあらすじである。 平安時代末期ごろに原型が成立したとされ、江戸時代には広く読まれていた『今昔物語集』に採録されたこの仏教説話は、釈尊の前世エピソードを集めた古いインドの物語ジャータカや中国の『大唐西域記』などの影響をうけているとみられる。この仏教説話がいつごろ日本に伝わり各地に広まったかは定かではないが、奈良時代以前に作られた法隆寺玉虫厨子の台座絵背後の須弥山図では、帝釈天宮の右上に月(中におそらくウサギか蟾蜍(ひきがえる))と、左上に真っ赤な太陽(中に三本脚の烏)がすでに描かれている。また、そのころに作られたとされる中宮寺天寿国繍帳にも、月を意味する円の中に、不老不死の薬壺と月桂樹の枝とともにウサギが刺しゅうされている。なお、中国由来の道教の神仙思想において、月は西王母という仙女が治める世界であり、そこでは永久に枯れない木(月桂樹)のもとで不老不死の薬をウサギが作っているとされ、そこを訪れた美女がに変えられ月にとどめられているという説話がある。 平安時代の『延喜式』には、「三本足の烏、日之精也。白兎、月之精也」という記述がすでにみられ、ウサギは月の象徴として為政者や日本の寺社でも認識されていたことがうかがえる。他にも、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」という言葉があるが、日本では江戸時代までは、太陽と月、すなわち全宇宙を天皇が統べるという意識のもと、朝廷のハレの儀式のときには日月を表す幟(のぼり)を必ず立てることとしていた。この幟には金烏と玉兎がそれぞれ太陽と月の象徴として描かれていたとされる。また、『続日本紀』天平4年(732年)正月の条に「御大極殿受朝。天皇始服冕服。」とある。この年の正月に聖武天皇は大極殿で朝賀を受けたが、天皇が「袞冕(こんべん)」という礼服を着用したのはこの時が初めてであるという内容であるが、以後、天皇の礼服となるこの袞冕(べん)には、赤地の衣の左肩の部分に金糸の円(その中に黒の烏)、右肩の部分に銀糸の円(その中にウサギと蟾蜍)を刺しゅうしてある。中国皇帝が黒地に左肩に月、右肩に太陽の礼服を用いていたことの影響と考えられる。 こうした月の象徴としてのウサギは、仏教・道教的背景を持つ意匠にとどまらず、日本の素朴な民間神事にもあらわれている。 日本、中国、インド、アイヌ、東南アジア、アフリカなど各地に伝わる「射日神話」と呼ばれるものがある。本来なら、一つであるはずの太陽の数が増えすぎて猛暑大旱魃となり、困った人間たちは知恵を絞り、増えすぎた偽の太陽を射落とすというものである。日本でも各地で奉射祭(オビシャ、オコナイなどともいう)と呼ばれる弓神事が民間で行われてきた。現在でも、滋賀県や利根川下流域の茨城南部から千葉県などで広く行われているが、太陽に擬した的と月に擬した的を用意し、太陽に擬した的だけを、弓矢で射抜く行事である。太陽の的には三本足の烏が描かれ、月の的にはウサギが描かれることが多い。 ウサギは月の化身であり神聖なシンボルとして広く用いられてきたのである。 山のシンボル ウサギを「山の神」と同一視、あるいは「山の神の使い(神使)」や乗り物とする伝承も日本各地に広くみられる。 滋賀県高島郡では、山の神の祭日には山の神は白いウサギに乗って山を巡る、山の神は白ウサギの姿をしているとされ、京都府愛宕郡では氏神三輪神社境内に祭られる山の神の2月の祭日には白ウサギが稲の種を蒔き、11月の祭日には白ウサギが稲の落穂を拾うというので、白ウサギは決して獲ってはならないとされている。また、福井県三方郡ではウサギは山の神の使いとされ山の神の祭日に山に入ることの戒めとともに伝わっている。 また、福島県では吾妻山の斜面の雪解け模様(溶け残った雪が白くある部分)を白いウサギの形に見立て、「雪うさぎ 」あるいは「種まきウサギ」と呼んで、これを苗代の種まきの合図とした。福島市には「吾妻小富士の下の残雪がうさぎ形に見られる頃になると晩霜の心配がない」という天気ことわざもあり、また、日照りの際にトンビにさらわれたウサギが山の神となったという説話が伝わっている。 こうしてウサギが各地で山の神と同一視されてきたのは、人間の暮らす里と神や動物のいる山とを身軽に行き来することからの境界を超えるものとしての崇拝、多産で繁殖力に富むことから豊穣をつかさどる意味、そして東日本のノウサギは冬には毛皮が真っ白に変化することから白い動物を神聖視する考え方(白鳥などを神聖視する古来の白への信仰)、西日本のノウサギは白くはないのであるが突然変異で白くなった動物を瑞兆とした考え方(白蛇、白鹿、白亀などが朝廷に献上された例などにも見られる希少な白への信仰)などさまざまな背景があると考えられる。 また、月読命(豊産祈願)や大己貴命(大国主命)、御食津神(五穀豊穣)などを祭神とする寺社ではその祭神の性格からウサギを神の使いとするところも多い。『古事記』には大国主命に助けられるウサギの話として「因幡の素兎」の話が伝わっている。 ウサギは道教・陰陽思想の影響を受けた十二支の生肖の1つでもあり、「卯(う)」として暦時方角をもあらわしてきた(ただし東南アジアではネコが取って代わる)。 多産・豊穣・性のシンボル アングロ・サクソンの多産と豊穣をつかさどる春の女神は、その化身あるいは使いがウサギである。 ウサギは、冬に失われた生命が復活し草木が芽吹き花々が咲く再生の春のシンボルである。卵は宇宙の根源のシンボルであり、宇宙は卵から生まれ、殻の上半分が天になり、下の部分が地になったことをあらわす。絵画等でも女神は必ずといっていいほどウサギを伴った姿で描かれ、このウサギが良い子に卵をもたらすとされる。卵のほうは絵画にはあらわれないが、ウサギと卵の関係について、このウサギは女神が冬に翼の凍ってしまった鳥をウサギに変えたものなので、特別に鳥のように卵を産めるのであるとする話や、ウサギが春色に塗り分けたきれいな卵をプレゼントしたところ女神が大変に喜び、皆にも配るよう命じたという話、ウサギが子どもたちを喜ばせるためにニワトリの卵を庭に隠して探させてみようとしたところ、そのうしろ姿を子どもたちにみられてしまった話などが伝わっている。欧米では現在も春の祭りの日の余興として、子供たちや招かれた客があらかじめ招待主の隠しておいた庭の卵探しをすることがあるという。 同様の話は、オスタラ (Ostera) アスタルテー (Astarte) イシュタル (Ischtar) イナンナ (Inanna) などの女神の名で欧州各地の神話伝説にあり、さかのぼれば、ギリシャのアフロディーテやローマのビーナスなどにも通じ、古代エジプト、ペルシャ、ローマなどでは春の祭りに卵に着色して食べる習慣が既にあったという。のちに、キリスト教が入ってきたときに、キリストの復活と春を祝う女神信仰が「生命への希望」という共通点で結びつき、エオストレ (Eostre) は復活祭 (Easter) の名前の由来となった。 こうした経緯から、キリスト教会で行われる復活祭(イースター)では、生命と復活の象徴を卵とウサギに求めて、イースターエッグやイースターバニーの名で行事にシンボルモチーフとして登場させる。ただし、正教会においてはイースターエッグのみであり、異教の女神と色濃く結びつくイースターバニーのほうは排除されてしまった。 こうした背景の中で、米英を中心とする西欧世界ではイソップ物語や不思議の国のアリスなどに登場するウサギのように、秩序からはずれた存在をあらわす役目をあてがわれ、あわて者、怠け者、異界へ誘う者、トリックスターとして描かれることも多い。 天敵の多いアナウサギは生き残りのために発情期をなくして年中生殖行為が可能である。 年中発情している獣はヒトとウサギ(アナウサギ)くらいであるというイメージから、性的誘惑のシンボルとしてウサギが選ばれ、大人の世界のディズニーランドというコンセプトを目指した米国の高級ナイトクラブであるプレイボーイクラブのウェイトレスの正式なコスチュームとして、「バニーガール」が、1960年に採用され、カジノやバーなどで女性コスチュームに広く採用されるようになった。成人誌『PLAYBOY』でも、連動して1960年からオスのウサギの頭をデザインした「ラビットヘッド」がキャラクターとして用いられている。 ラビットフット(兎の足)という魔除けのお守りが、1940-1960年代にアメリカのヒッチハイカーなどの間で局地的に流行したとされる。その起源はケルトの一族が身に付けていた幸運のお守りであり、ウサギの繁殖力を神聖視していた一族が、ウサギの男根を象徴しているウサギの足のミイラを身に付けて繁栄を願ったものであったとされている。 このように古来からウサギは多産豊穣・繁栄のシンボルとして、洋の東西を問わず女性や子どもと関わりの深い動物であり、1960年代ごろから男性成人向けのキャラクターとしても用いられるようになった。 今日の日本では、卯月が四月の春であること、月見をするのが現在は秋であることから、イメージとしては春とも秋とも結び付けられている。俳句においては、野兎や雪兔は冬の季語とされている。 速さのシンボル 動きの速いものの象徴として使われることもままある。 種類によっても違うが、ノウサギは、天敵から逃げ切るために時速60-80キロほどのスピードで走ることができる。人間の場合、100m走の世界記録保持者であっても時速にすれば40キロにも達しない(しかも最高速が出るのは一瞬だけ)ことを考えると、いかにウサギが俊足であるかが分かる(アナウサギの場合には、隠れる穴を用意してあるためそこまで早い速度で逃げる能力が発達しておらず、時速35キロほどいわれている)。 変速機構においてHi-Loの意味でウサギとカメの絵が描かれる例は多く存在する。例えば建設機械の変速機構操作にはJIS規格としてウサギとカメの絵が描かれているほか、ミシンの速度調節としてもウサギとカメが用いられている。 また日産自動車のブランド「ダットサン」の「ダット」の部分に関して、関係者のイニシャルとともに速く走ることのたとえである「脱兎」が由来になっているとされる。 献身のシンボル 仏教世界においては献身のシンボルとされる。これは仏教説話集ジャータカ()の中に、ウサギが身を火に投じて仙人に布施する物語(ササジャータカ:)があるためである。ちなみに日本におけるモチーフとしてのウサギのところで前述したように、月面の模様をウサギに見立てることも、ここからきている。 宗教のシンボル 神道世界においては神の使いとされることがある。大阪の住吉大社・埼玉の調神社・京都の岡崎神社などの神使として知られている。調神社や岡崎神社には狛犬ではなく狛ウサギがある。 組織のシンボル 縁起の良い動物として、企業や団体のシンボルマークに用いられることも多い。 エスエス製薬では、1952年(昭和27年)からウサギをシンボルマークとしている。これは、因幡の白兎の物語に出てくる治療が日本の文献上における初めての治療薬らしき描写であること、さらに「白い」という清潔感、「とび・跳ねる」という躍動感をもつこと等からである。 全日本不動産協会では、的確に情報をキャッチする耳、未来を見る眼、躍進するジャンプ力のある足をもつことから、ウサギを協会のシンボルマークとしている。 ラビット(Rabbit)は、終戦直後の1946年から1968年にかけて富士産業(のちの富士重工業→SUBARU)が生産したスクーターのブランド名にもなった。そのボディデザインがウサギのイメージと重なり、また、スクーターという軽快な乗り物が、飛び跳ねるうさぎの姿を連想させるところから命名したものである。一部モデルは海外へも輸出された。車体につけられたブランドマークには、楕円の中に跳ねるようなウサギの全身が描かれている。 物語の中のウサギ わらべうたとして「うさぎ うさぎ 何見て跳ねる 十五夜お月様 見て跳ねる」(成立年作詞作曲不詳)と古くから歌われてきたし、ウサギは昔話にもよく登場する身近な動物であった。日本の昔話としては、ウサギが機智を働かせて悪の象徴であるタヌキを懲らしめる「かちかち山」型の説話がよく知られており、そこではウサギは知恵のあるもの、あるいは悪を懲罰するものとして存在している。但し、ウサギの賢明さが時には狡猾と解されることもある。例えば「かちかち山」の後日譚というべき『親敵討腹皷』(おやのかたきうてやはらつづみ)(朋誠堂喜三二 作)では、ウサギはかつて己が手にかけたタヌキの子に仇としてつけ狙われている。 一方、「タヌキとウサギとキツネのぼた餅分け」という民話では、ウサギはタヌキとともに、狡猾なキツネに騙される役柄となっている。 西欧のイソップ物語を原型として明治以降に広められた「ウサギとカメ」の説話では、得意分野で相手を侮って敗れた愚か者として描かれる。 そのほか、月への民間信仰との関わりもあってか、その愛らしい姿をデザインしたものは古くから安産、女性や子供の守り神として広く受け入れられ、郷土玩具その他さまざまな道具の意匠に用いられてきた。他にも、謡曲(能)で『竹生島(ちくぶじま)』で「月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか 面白の島の景色や」と謡われたことなどから、江戸時代には波の上を跳ねるウサギが瑞祥文様として庶民の着物文様や建築意匠に使われている。 迷信 うさぎとフランスの船 フランスでは、「船に災いをもたらす」と言われており多くの船で立ち入り禁止である。この迷信は17世紀にまで遡り、食用として運ばれたウサギが逃げ出すため船体に噛みついて穴を開け、沈没させるからだとされる。 ウサギは寂しいと死ぬ 現代日本において「ウサギは寂しいと死ぬ」という迷信・都市伝説があるが、科学的には何の根拠もない。この迷信が広まった理由として、ウサギは草食であり胃腸は常に動いている必要があるため、12時間以上何も食べずにいると胃腸の動きが停滞することがあり、飼育中のウサギの世話を数日間怠ると死亡することや、飼育中に病気にかかっても飼い主にはわからず、飼い主の外出中に突然死亡することがあること、また、1993年に放送されたテレビドラマ『ひとつ屋根の下』のヒロイン・柏木小雪の「うさぎって寂しいと死んじゃうんだから」というセリフの影響などが指摘されている。また、客に2羽以上購入させることを意図してウサギ販売業者が販売促進のために、作り出した迷信であるという説もある。 伝説上の生物 ジャッカロープ (ツノウサギ)- 未確認生物。頭部にシカの角が生えたウサギ。 アルミラージ - 角の生えた、ウサギに似た生物。 レプス・コルヌトゥス - 角の生えたウサギ。空想生物とされる。 - 伝説の生物。角の生えたウサギ。 月の兎(玉兔) - 月に住むとされるウサギ 言語 漢字コード 兎の異体字「兔」を表すShift_JISコードは0x995cであり、2バイトめが 0x5c、すなわち1バイト文字における「¥」(「円記号」あるいは「バックスラッシュ」)に該当する通称「ダメ文字」の一つである。1バイト文字0x5cには、しばしば特殊な機能が割り当てられているため、マルチバイト文字が入力されることを想定していない(または想定していても対応に不備がある)プログラムは、マルチバイト文字に含まれている0x5cを誤認識し適切に動作しない可能性がある。 日本語の助数詞「羽」 ウサギの日本語における助数詞は、かつて1羽、2羽と鳥と同様の「羽(わ)」を使用していた。この由来には諸説あるが、おもに以下のようなものがある。 獣肉食が禁止されていた時代、大きく長い耳の形状が鳥の羽を連想させることから「ウサギは獣ではなく鳥だ」と見なして食肉としていたとする説。 同じく獣肉食が禁止されていた時代、「ウサギはウ(鵜)とサギ(鷺)に分けられるから鳥だ」とこじつけて食肉としていたとする説。 獲物は耳を束ねて持ち歩き、一掴みにすることを一把(いちわ)、二把(にわ)と数えたことから後の羽(わ)につながったとする説。 千葉徳爾は『狩猟伝承』(1975)において、山裾に仕掛けた網にウサギを追い込む狩猟法が、鳥の狩猟と共通するために「羽」と数えたという説を紹介している。 『羽』は哺乳類ではなく鳥類を数えるときの助数詞であり、『頭』は人間よりも大きな動物、『匹』は人間よりも小さな動物に使うという傾向からすれば、うさぎは『匹』と数えるのが自然であり、『NHK放送のことばハンドブック』では、(文学や食肉として扱う場合を除き)生きたウサギは「匹」を用いるのがふさわしいとしている。愛玩用のウサギは日常的には「匹」または「羽」であるが、商取引では「頭」が使われる場合もある。なお、自然科学の分野では、動物全般について、動物の大きさで区別せず画一的に頭を使用するのが原則であり(鳥類や小さな昆虫でも、一頭二頭と数える)、NHKのニュースにおいても生物学的な話題として報道する場合には、「奄美大島に生息するクロウサギは~現在ではわずか600頭が確認されているに過ぎない」のように表現する場合がある。 慣用句、ことわざなど 日本 脱兎(だっと)の勢い 極めて迅速なさま。 兎に角(とにかく)・兎も角(ともかく)・兎角(とかく) 仏教用語「兎角亀毛(とかくきもう)」(後述)に由来する当て字。夏目漱石が使用して一般に定着したとされる。 兎死すれば狐これを悲しむ 明日は我が身。 兎に祭文 何の効果もないこと。 兎の糞 長続きしないことの形容。 兎兵法 実用的でないこと。 兎の股引 後が続かないこと。 犬兎の争い 当事者が争っている間に第三者に横取りされる。 兎の登り坂 前足に比べて後ろ足が長い兎は、坂を登るのが得意である事から、よい状況に恵まれ、力を発揮することを指す。 中国 始めは処女の如く後は脱兎の如し 出典は『孫子』九地第11「」(始めは処女の如く敵人の戸を開かせ、脱兎の如く素早く攻撃せよ、敵は防御も間に合わない)という兵法。脱兎のごとく、とは素早くの意味。 兎角亀毛(とかくきもう) 出典は『述異記』の「(訳:大亀に毛が生えたり、兎に角が生えたりしたら、それは戦乱が起こる兆しである=意味:通常ならば、亀に毛が生えたり兎に角が生えたりすることはないので、戦争などというものは起こらない)」。『述異記』には、亀は千年生きると毛が生え、五千年で神亀、一万年で霊亀と呼ばれるようになるとも記されている。通常であれば亀は千年も生きないので、「兎角亀毛」は起こりうるはずのないことのたとえに使われる。とはいえ、仮にそのように毛の生えた亀がいるとすればそれは長寿・瑞兆の象徴ということであり、日本でも玄武神亀や鶴亀の瑞祥文様には毛の生えた亀の意匠が用いられる。もともとは仏教用語でもあり、現実にはないのにあると錯覚したり実体のないものを貴ぶことを戒める意として「人間は兎角亀毛のごときものである。」(『毘婆沙論(びばしゃろん)』)などのように用いられ、悟りに至る以前の迷いの現世を表す言葉となっている。 兎起鶻落 出典は蘇軾の『文与可の画きし篔簹谷の偃竹の記』。勢いがあるさま。 獅子搏兎 出典は陸象山の『象山先生全集』。容易なことにも全力で努力する。 狡兎三窟 出典は『戦国策』11巻齊策4齊人有馮諼者の「」。狡賢い者は用心深く難を逃れるのが上手い。 狡兎が死んで(猟)犬が烹られる 用が済んだ有能な部下は殺される。 「」:司馬遷『史記』「越王句踐世家」 「」:司馬遷『史記』92巻淮陰侯列伝韓信 「」:『韓非子』内儲説下 守株(株を守る) 出典は『韓非子』49巻五蠹「」という「守株待兔(しゅしゅたいと)」説話。木の切り株にウサギがぶつかって死んだのを見た宋人が、ひたすらウサギが再び切り株にぶつかるのを寝て待ったことから、旧慣にこだわる愚かしさを意味する。北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡「待ちぼうけ」はこの故事を元にしている。 イギリス ウサギと逃げながら猟犬と狩りをする () 両方の味方をする。信念節操のない人。 三月ウサギのように気が狂っている () 落ち着きのない様子。イギリスにおいて春先のオスの野ウサギが狂ったようになる様から。 スペイン 魚は口がもとで死ぬ、ウサギは歯がもとで捕らえられる。() 「口は禍いの元」の意。 思いもしなかった所からウサギが跳びだす () 「灯台下暗し」の意。 ローマ 二兎を追うものは一兎をも得ず(二匹の兎ともいう) 欲張って一度に2つのものを狙うとかえってどちらともの目的を果たせなくなってしまうこと。 動植物の名前にみるウサギ ウサギを連想するような、白くて丸い形をした動植物に、ウサギの名前が冠せられることがある。 たとえば、貝の中でも丸くて純白の貝を多く含むウミウサギ科にはウサギの名を用いた種が存在するぽ同科の基本種であるい貝はウミのほか、サギガイ科と名付けられており、ウサギを含が挙げられるんだ名がつけられている。ウミウサギ、マメウサギ、ウサギアシカワボタンガイなど。これらの貝殻はその外観の美しさから海のジュエリーとしてダイバーや貝殻愛好家からの人気も高い。 月兎耳(つきとじ)() という多肉植物の名は、白い毛で覆われた長楕円形の葉がウサギの耳を思わせることによる。 ウサギゴケという食虫植物の名は、その白い花が見事に耳をぴんとたてたウサギの形をしていることによる。ウサギギクの名は、長楕円形の葉がウサギの耳を思わせることによる。 また、兎馬(ウサギウマ)はロバを意味するが、これはロバの大きな耳がウサギを思わせることからきていると考えられる。 符号位置 脚注 注釈 出典 参考文献 福井栄一『かわいいだけがウサギじゃない』2010年、技報堂出版、43-61頁、ISBN 978-4765542432 外部リンク 一般社団法人 日本コンパニオンラビット協会(JCRA) ウサギ科 冬の季語
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%81%A4%E3%81%A8%E3%82%80
ひらまつつとむ
ひらまつ つとむ(1959年 - )は、日本の漫画家。滋賀県出身。 来歴 19歳の頃「汚された金庫」で第15回手塚賞佳作を受賞。21歳で「イダテン・ホーク」(平松梅造名義)が第19回手塚賞準入選を受賞し、週刊少年ジャンプ増刊号に掲載された。第20回手塚賞でも「闘士」が最終候補に残っている。 初の連載は武論尊原作の「マッド・ドッグ」(鷹沢圭名義)であったが、10回で打ち切りとなる。次作「飛ぶ教室」は、フレッシュジャンプ掲載の読み切りを経て、1985年に週刊少年ジャンプで連載された。連載自体は短期だったが、核と放射能という重いテーマを描いたことで当時の読者に強烈な印象を残した。 1986年の「ハッスル拳法つよし」、1991年の「ミアフィールドの少女アニー」を経て、集英社以外の出版社に活動の場を広げたが、単行本には恵まれず、2004年の「まぶちの右近」は1巻のみの発売で未完となった。 戦後70年の2015年に復刊ドットコムより「飛ぶ教室」が復刊され、また第2部が準備中であることが発表された。 2020年、潮出版社より既刊部分と新作第2部の180ページを合わせた「完全版 飛ぶ教室」が5月25日に発売されることが、作者のサイトで告知され発売。2022年12月20日には全編描きおろしの2巻が発売された。 元々は劇画系のハードな絵柄だが、ひらまつつとむ名義に変更した「飛ぶ教室」以降はラブコメを意識した柔らかい絵柄と使い分けている。 作品一覧 イダテン・ホーク(手塚賞準入選作) マッド・ドッグ(鷹沢圭名義、原作武論尊、週刊少年ジャンプ、集英社、連載) 飛ぶ教室(週刊少年ジャンプ連載、1985年) ハッスル拳法つよし(週刊少年ジャンプ連載、1986年) ミアフィールドの少女アニー ランナー(スーパージャンプ掲載) ザ・Xデイ(スーパージャンプ掲載) スネーク・ハンター 血と夢(週刊アクション、双葉社、掲載) ゴルバチョフ暗殺特急(週刊アクション掲載) ミッドナイト・エンジェル(週刊少年サンデー増刊号、小学館、連載) プルート〜賢者の石伝説〜(週刊少年サンデー増刊号) コレクション・令嬢亜美の謎(コミックガイズ、学研、連載) 怒涛のギャンブラー(漫画サンデーフォアマン、実業之日本社、連載) 氷のギャンブラー(ビジネスジャンプ増刊) たたらの十蔵 -戦国刺客伝-(ビジネスジャンプ増刊、集英社、連載) エイリアン・ティーチャー 料理の王様 信玄暗殺 多摩川地獄麻雀 まぶちの右近(月刊時代劇コミック 斬鬼、少年画報社、連載) 大江戸万華鏡(コミック乱TWINS、リイド社、不定期連載、2008-2012) 単行本一覧 『マッド・ドッグ』原作:武論尊、集英社、1983年(鷹沢圭名義) 『飛ぶ教室』全2巻、集英社、1986年 『飛ぶ教室』改訂版、全2巻、復刊ドットコム、2015年 『完全版 飛ぶ教室』既刊2巻 潮出版社、2020年 『ハッスル拳法つよし』全2巻、集英社、1988年 『ミアフィールドの少女アニー』集英社、1991年(短編集) 「ミアフィールドの少女アニー」「ランナー」「ザ・Xデイ」「スネーク・ハンター」収録 『こちら葛飾区亀有公園前派出所両さんの宮本武蔵』キャラクター原作:秋本治、監修:大河内昭爾、集英社〈満点人物伝〉、2003年 『まぶちの右近』少年画報社、2004年 脚注 外部リンク ひらまつとむ 公式ホームページ 日本の漫画家 滋賀県出身の人物 1959年生 存命人物
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彗星
彗星(すいせい、)は、太陽系小天体のうち、おもに氷や塵などでできており、太陽に近づいて一時的な大気であるコマや、コマの物質が流出した塵やイオンの尾(テイル)を生じるものを指す。 概要 彗星は、尾が伸びた姿から日本語では箒星(ほうきぼし、彗星、帚星)とも呼ばれる。英語ではコメット(comet)と呼ばれる。天体写真が似るため流星と混同されがちであるが、天体観望における見かけの移動速度は大きく異なり、肉眼による彗星の見かけ移動は日周運動にほぼ等しいため、流星と違い尾を引いたまま天空に留まって見える。 彗星と小惑星とは、コマや尾の有無で形態的に区別するため、太陽から遠方にあるうちは、彗星は小惑星と区別がつかない。彗星は、太陽からおおよそ3AU(天文単位)以内の距離に近づいてから、コマや尾が観測されることが多い。その位置は火星軌道と木星軌道のほぼ中間にあたる。 太陽に近づく周期(公転周期)は、約3年から数百万年以上まで大きな幅があり、中には二度と近づかないものもある。軌道による分類の節を参照のこと。 彗星が太陽に近づいた時に放出された塵は流星の元となる塵の供給源となっている。彗星の中には肉眼でもはっきり見えるほど明るくなるものもあり、数日間~数か月ほど観察できる期間がある、尾の形や大きさが様々であることなどから視認しやすく、古くから観察の対象とされ不吉なことの前兆と考えられるなど、人類の関心の的となってきた。いくつかの明るい彗星の出現の記録は古文献や壁画などに残るほど古代から残されているが、ほとんどの周期が数十年以上であるために、周期的に観察されていることに気づかれたのは「彗星観察の歴史」からすれば最近であると言える。古代ギリシアの時代から長い間、彗星は大気圏内の現象だと考えられてきたが、16世紀になって、宇宙空間にあることが証明された。彗星の性質などにはいまだに不明な点も多く、また近年は太陽系生成論の方面からも大きな関心が寄せられ、彗星の核に探査機が送り込まれるなど、研究・観測が活発に続けられている。 彗星には、発見報告順に最大3人まで発見者(個人またはチーム、プロジェクト)の名前がつけられる。彗星を熱心に捜索する「コメットハンター」と呼ばれる天文家もいるが、20世紀末以降は多くの彗星が自動捜索プロジェクトによって発見されるようになっている。 2006年8月にプラハで開かれた国際天文学連合(IAU)総会での決議により、彗星は小惑星とともに small solar system bodies(SSSB)のカテゴリーに包括することが決定された。これを受け、日本学術会議は2007年4月9日の対外報告(第一報告)において、2007年現在使われている「彗星」「小惑星」などの用語との関係については将来的に整理されることを前提としたうえで、small solar system bodies の訳語として「太陽系小天体」の使用を推奨した。 物理的特徴 核 彗星の本体は核と呼ばれる。核は純粋な氷ではなく、岩石質および有機質の塵を含んでいる。このことから、彗星の核はよく「汚れた雪玉」に例えられる。核の標準的な直径は1 - 10キロ程度で、小さく暗いものでは数十メートル、非常に大きいものでは稀に50キロほどに達する。質量は、大きさによってかなり異なってくるが、直径1キロ程度の彗星で数十億トン単位、10キロ程度の彗星で数兆トン単位であると考えられる。これは、地球の山1つ分ほどに相当する。自らの重力で球形になるには質量が足りないため、彗星の核は不規則な形をしている。 氷の構成成分を分子数で見ると、たとえばハレー彗星の場合、80%近くは水()で、以下量の多い順に一酸化炭素(CO)、二酸化炭素()、アンモニア()、メタン()と続き、微量成分としてメタノール()、シアン化水素(HCN)、ホルムアルデヒド()、エタノール()、エタン()などが含まれる。さらに鎖の長い炭化水素やアミノ酸などのより複雑な分子が含まれる可能性もある。双眼鏡や望遠鏡で見たときに青緑色に見えるのは、これらの微量成分が太陽光で解離してできる(炭素が2つつながったもの)やCNなどのラジカルの輝線スペクトルが強いためである。2009年には、NASAの探査機スターダストによるミッションで回収された彗星の塵から、アミノ酸のグリシンが発見されたことが確認された。 塵の成分はケイ酸塩や有機物を始めとする炭素質である。ケイ酸塩は結晶質と非晶質の両方を含む。通常、ケイ酸塩が結晶化するには数百度の高温が必要であり、彗星は、低温でできる氷と高温でできるケイ酸塩結晶が混じり合っている点で珍しい。 彗星の核は、太陽系に存在する物体の中でもっとも黒い天体である。探査機ジオットは1986年にハレー彗星の核に接近し、核の光のアルベド(反射能)が4%しかないことを発見した。また探査機ディープ・スペース1号も2001年にボレリー彗星に接近して観測を行い、核の表面のアルベドが2.4%から3%程度しかないことを発見した。これは、月やアスファルトの光のアルベドが7%なのと比較するとかなり小さい値である。複雑な有機化合物がこのような暗い表面を構成していると考えられている。太陽によって表面が熱せられると揮発性の化合物が、特に黒っぽい傾向のある長鎖の化合物を残して蒸発して飛び去ってしまい、石炭や原油のように黒くなる。彗星の表面が非常に黒いため、熱を吸収して外層のガスが流出する。 コマと尾 太陽から遠いところでは、低温のため核はすべて凍りついており、地球上から見てもただの恒星状の天体にしか見えない。しかし、彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始める。それにともなって発生したガスや塵は非常に大きく、きわめて希薄な大気となって核の周りを球状に覆う。これはコマと呼ばれる(これは「髪」という意味であり、実際に古くは日本語訳されて「髪」と呼ばれることもあった)。コマの最外層は水素のガス雲となっており、水素コロナと呼ばれる。 そして、太陽からの放射圧と太陽風により、太陽と反対側の方向に尾が形成される。尾には、ダストテイル(塵の尾)という、塵や金属から構成された白っぽい尾と、イオンテイル(イオンの尾)またはプラズマテイルという、イオン化されたガスで構成される青っぽい尾がある。ダストテイルは曲線状となる。これには、核から放出された塵が独自の軌道で公転するようになり、徐々に核本体から遅れていくため、また、太陽の自転により太陽風が渦巻いていたり、太陽の光の圧力(光圧)の影響なども受けていたりするためなどの理由がある。2007年のマックノート彗星や歴史上の大彗星のいくつかでは、何本もに枝分かれしたダストテイルが扇状に広がって見えた。これに対しイオンテイルは、ガスが塵より強く太陽風の影響を受け、太陽の引力よりも磁場に従って運動するため、太陽のほぼ反対側に直線状に伸びていく。ただし、太陽風の乱れによって、時には折れ曲がったりちぎれたりするなど、激しい変化を見せることもある。なお、地球が彗星の軌道面を通過するとき、彗星の曲がった塵の尾と地球との位置の関係で、尾の一部が見かけ上太陽の方向に伸びているように見えることがあり、アンチテイルと呼ばれる(アラン・ローラン彗星(C/1956 R1)のアンチテイルは殊に有名である)。実際には太陽に向かって尾が伸びているわけではなく、あくまでも視覚上の錯覚である。アンチテイルの観測は太陽風の発見に大きく貢献した。 コマや尾は、核に比べて非常に規模が大きくなる。コマは水素コロナを含めると、時には太陽(直径約139万キロ)よりも大きくなることがある。また、尾も1天文単位以上の長さになることがある。1996年春に明るくなり、観測史上もっとも尾が長く伸びた百武彗星では、尾の実長は実に3.8天文単位(5億7,000万キロ)にも達した。コマと尾はどちらも太陽に照らされ、太陽系の内側に入り込んでくると地球から肉眼で見えるようになることもある。塵は太陽の光を直接反射し、ガスはイオン化されるため明るく輝く。ほとんどの彗星は暗すぎて望遠鏡がなければ見ることができないが、10年に数個ほどは、肉眼でも充分見えるほどに明るくなる。 1996年、百武彗星の観測から彗星がX線を放射していることが初めて観測された。彗星がX線を放射していることはそれまで予測されていなかったため、この発見は研究者たちを驚かせた。このX線は彗星コマと太陽風との相互作用により生じると考えられている。イオンが急速に彗星の大気に突入すると、イオンと彗星の原子や分子が衝突する。この衝突により、イオンは1つか複数の電子を捕獲し、それがX線や遠紫外線の光子の放出につながると考えられている。 軌道による分類 彗星は、太陽を焦点のひとつとする楕円、放物線あるいは双曲線の軌道をとり、軌道によって分類される。離心率が1より小さい楕円軌道を持つ彗星は、太陽を周期的に周回するもので、周期彗星と呼ばれる。周期彗星が太陽の近くへ戻ってくることを「回帰」という。離心率が1である放物線軌道、あるいは離心率が1より大きい双曲線軌道を持つ彗星は、二度と戻ってこないと考えられ、非周期彗星と呼ばれる。 ただ、惑星や近傍恒星の重力や、非重力効果により、実際の彗星の軌道は不安定である。特に、周期数百年以上の彗星の楕円軌道は、わずかな軌道の変化で周期が大きく変わるため、周期どおりに戻ってくるとは限らない。また後述する通り、起源や特性からも、周期の長い周期彗星は非周期彗星に近い。このような理由により、彗星を、周期彗星と非周期彗星ではなく、公転周期200年未満の短周期彗星と、200年以上の長周期彗星に分けることが多い。その場合、「周期彗星」という言葉は、短周期彗星と長周期彗星の両方を指す場合もあるが、特に短周期彗星のみを指して用いられる場合もある。周期彗星、長周期彗星、非周期彗星の3つに分けることもある。 21世紀初頭では別の種類として、小惑星帯上にありながら彗星として活動する彗星が発見されており、メインベルト彗星と呼ばれている。これは小惑星と彗星の分類に見直しを迫ることになるかもしれない。ほかにも、特徴的な軌道を持つ彗星として、近日点が太陽にきわめて近いサングレーザーがある(後述)。 軌道の特徴と起源 短周期彗星はエッジワース・カイパーベルト、またはそれに隣接する散乱円盤天体を起源に持つと考えられ、ハレー彗星以外に大型の彗星は少ない。一方、長周期彗星の起源はオールトの雲にあると考えられ、大彗星になるものが多い。特に、以前の観測記録がない大型の彗星は、太陽系の起源を知る上で重要な手がかりとなると考えられている。 小惑星は比較的円に近い楕円軌道を描いているものが多いのに対して、彗星は非常に細長い楕円や放物線、双曲線の軌道をとるものが多い(軌道の離心率の値が大きい)。彗星がなぜ極端な楕円軌道になるような摂動を受けるのかを説明するために、さまざまな説が提唱されてきた。有名なものとして、銀河系の中の恒星が太陽の近くを通過したことにより、オールトの雲を含む太陽系外縁天体の軌道がかき乱され、その一部が太陽へと落下してくるとする説や、ネメシスという太陽の連星、あるいは未知の惑星Xの存在を仮定して、その重力的影響によるものだとする説などがある。 1950年、天文学者のヤン・オールトは、長周期彗星の軌道計算を行い、遠日点が太陽から1万天文単位 - 10万天文単位(約0.1光年 - 1光年)の距離のものが多いことを発見した。そこでオールトは、小天体が多く集まるオールトの雲と呼ばれる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱した。この仮説は広く受け入れられ、それ以後彗星はオールトの雲に起源を持つと考えられるようになった。オールトの雲に存在する天体は、ときどきお互いに重力的相互作用(摂動)を起こし、一部が太陽の引力にとらえられて極端な楕円軌道を描くようになり、太陽に非常に接近するようになる。 オールトの雲とエッジワース・カイパーベルトはいずれも、太陽系の形成と進化の過程において原始惑星系円盤で形成された微惑星、または微惑星が集まった原始惑星が残っていると考えられている領域である。太陽から3AU以遠では比較的凝固点の高い物質がすべて凍り、岩石質の物質の総量を上回るため、微惑星の主成分は氷になる。オールトの雲は、主として木星や土星が形成される付近の軌道にあった氷小天体が、形成後の木星や土星に弾き飛ばされたものと考えられ、太陽系を球殻状に取り巻いている。エッジワース・カイパーベルトは太陽系外縁部の氷小天体が惑星にまで成長できずに残ったものと考えられており、黄道面を取り巻くようにして環状に広がっている。したがって、オールト雲起源の彗星の方がエッジワース・カイパーベルト起源のものより形成温度が高いと考えられている。 2009年11月の時点までで、3,648個の彗星が知られており、そのうち約1,500個がクロイツ群の彗星、約400個が短周期彗星である。この数は増え続けているが、本当に存在するはずの彗星のうちのごく一部である。太陽系外部に存在する彗星の元になる天体はおよそ1兆個存在するかもしれない。地上から肉眼で見えるようになる彗星の数はおおまかには1年に1個程度だが、その大部分は暗く目立たない。歴史上、非常に明るく肉眼でもはっきり見え、多くの人に目撃されたような彗星は大彗星と呼ばれることがある。 彗星は質量が小さく、軌道が楕円であるため、周期的に巨大な惑星に接近し、その度に彗星の軌道は摂動を受け変わる。短周期彗星は、遠日点までの距離が、巨大な惑星の軌道半径と同じになるような強い傾向が見られる。これらはその惑星の名を取って木星族、土星族、天王星族、海王星族の彗星などと呼ばれる。その中でも、木星の軌道付近に遠日点を持つ木星族の彗星が特に多い。オールトの雲からやってきた彗星は、しばしば巨大な惑星に接近し、重力の強い影響を受ける。特に木星は、ほかの惑星をすべて合計したより2倍以上大きな質量を持っているため、非常に大きな摂動を彗星に与える。なお、もし木星や土星のような巨大惑星がなければ、現実より多くの彗星が太陽系中心部に侵入し、一部は地球と衝突していただろうという説がある(惑星の居住可能性#グッド・ジュピターも参照)。 また、重力的な相互作用により軌道が変わったため、過去数十年や数世紀の間に発見された周期彗星のうち、その彗星が将来どこに現れるか予測できるほどよく軌道が定まっていなかったいくつかが見失われている。しかし時折、「新」彗星の過去の軌道をさかのぼることにより、古い「見失われた」彗星と同一だと判明することがある。その例として、テンペル・スイフト・LINEAR彗星(11P)が挙げられる。この彗星は1869年に発見され、「テンペル・スイフト彗星」と命名されたが、木星の摂動により軌道が変わり、1908年以降見失われていた。しかし2001年、LINEARが偶然発見した「LINEAR彗星(C/2001 X3)」が、発見後しばらくしてテンペル・スイフト彗星と同一の天体だと判明し、93年ぶりの再発見が認定されるとともに、名前がテンペル・スイフト・LINEAR彗星に変更されることとなった。 彗星の軌道に関する特徴のひとつとして、軌道面の傾き(軌道傾斜角)が非常に大きいものが多いということが挙げられる。太陽系の惑星は、軌道傾斜角はおおむね数度程度、大きくても10度以内に収まっている。また小惑星も、20度から30度程度まで傾いているものは多いが、軌道傾斜角がある程度小さいものが多い傾向はある。短周期彗星も、惑星の摂動により軌道を変えられた影響もあって、軌道傾斜角が小さいものが大半を占める。しかし、長周期彗星は、黄道面とほとんど垂直な軌道を持ったもの(軌道傾斜角が90度前後)や、惑星や大半の彗星、小惑星と逆向きに公転しているもの(軌道傾斜角が180度であるとも見なせる)も多く、ほとんどランダムに空のどこからでも現れるように見える。これは、オールトの雲の分布が球殻状であると推定する根拠になっている。 彗星の明るさとその予測 彗星の明るさ、すなわち光度は、恒星と同じように等級を単位として表される。しかし、彗星は恒星と違って核、コマ、尾などの構造があり、それぞれ明るさがあるため、すべての部分を含んだ明るさを全光度、核だけの明るさを核光度と呼び区別する。したがって、コマや尾がほとんど発達していない状態の彗星では全光度と核光度は等しく、逆に大きく発達している場合は核光度より全光度のほうが明るくなることになる。彗星には、中心核が特に明るい、すなわち中央集光が強いものも、逆に特に明るい部分がなく非常に拡散しているものもある。 彗星の明るさを測定するには、近くにある恒星と比較することになる。コマや尾が発達していない恒星状の彗星では、変光星や小惑星の場合と同じように、比例法と光階法という方法を用いる。しかし、コマや尾が発達している場合、同じ明るさでも点光源と面光源では明るさが違って見えてくるため、単純に比較することはできない。このため、彗星の明るさを憶えてからピントをずらして基準星が同じ大きさに見えるようにし、明るさを比較するシジウィック法(Sidgwick法、S法)、わざとピントをずらし、彗星と比較星が同じ大きさに見えるようにしてから明るさを比較するボブロフニコフ法(Bobrovnikoff法、B法)、彗星が均一な明るさに見える程度にピントをずらしてから明るさと大きさを憶え、基準星が同じ大きさに見えるまでぼかしてから覚えた彗星の明るさと比較するモーリス法(Morris法、M法)などの方法が用いられる。核光度も、全光度と同様に測定する。測定された彗星の光度は、観測者の熟練の程度やその日の体調、観測器材の状態、観測状況、基準星の明るさの誤差など、さまざまな要因により、観測者によって0.5等級以上ばらつく場合がほとんどである。また、CCDカメラなどで写真を撮影し、近くの基準星を用いて専用ソフトで明るさを測定することもできる。肉眼で見た光度(眼視光度)と、写真で測定した光度(写真光度)は数等級ずれることもある。 彗星の光度を正確に予測するのは非常に難しい。小惑星などの天体は通常、地球までの距離(地心距離)と太陽までの距離(日心距離)の2乗に反比例して明るくなるが、彗星の場合は太陽に近づくと塵やガスが噴出し、コマができたり尾が伸びたりするため、太陽までの距離の5乗から、場合によっては10乗以上に反比例して明るくなっていく。彗星の光度の予測には、一般に以下のような式(光度式)が使用される。 m = m + 5 log Δ + k log r ここで、m は彗星の光度である。m は標準光度、または絶対光度と呼ばれ、彗星が太陽からも地球からも1天文単位の距離にある時の明るさを表す。また、Δ は地心距離、r は日心距離をそれぞれ天文単位で表したものである。また、k は光度係数と呼ばれる値で、この値が大きいと光度変化は激しくなり、小さいと光度変化は穏やかになる。観測期間が長くなり観測データが多数集まってくると、専用ソフトウェアなどを用い、最小二乗法などの方法で標準光度と光度係数を求めることができる。 発見からまもないなど、観測期間が短くデータも少ない場合は、光度係数を10と仮定して明るさを予測することが一般的である。標準光度は彗星の規模によって大きく違うが、光度係数は5.0から30程度の間に収まるものが大半である。しかし、核が分裂するなどの要因で活動が活発化し急激な増光(アウトバースト)が起こった場合は光度係数が100を越える場合もあるし、アウトバーストが終わるなどで活動が衰えた場合や核が崩壊して消滅していく場合などは、光度係数が大きく負の値を取る場合もある。ある1本の光度式に常によく当てはまる光度変化をする彗星もあるが、活動の規模が途中で変化すれば当てはまる標準光度や光度係数の値も変化する。しかし、いつどのように活動が変化するかを予測することは非常に難しい。何回か回帰している彗星は、以前の記録を基にある程度予測が可能だが、初出現の彗星についてはほぼ不可能である。また初出現の彗星は、しばらく観測しないとどんな光度式が当てはまるのかも分からない。彗星の光度予想が難しいと言われるのはこのような理由による。 彗星の崩壊と消失 太陽系からの離脱 彗星の軌道速度が速い場合、太陽系の内部に入ってきてそのまま太陽系の外部へ出ていく場合がある。大部分の非周期彗星がこの例にあたる。また、木星など太陽系内のほかの天体による重力的摂動によって加速され、太陽系の外へ放出される場合もある。 揮発性物質の枯渇 太陽への接近を繰り返すうちに徐々に揮発性の成分が脱落していくが、崩壊・消失に至ることなく小惑星のようになる場合があり、これを彗星・小惑星遷移天体や枯渇彗星核と呼ぶ。そのような過程を経たと思われる天体や、その過渡期にある天体もいくつか見つかっている。小惑星は彗星とは起源が異なり、太陽系の外側ではなく内側で形成されたと考えられているが、ヴィルト第2彗星からのサンプルリターンにより得られたサンプルが小惑星のものと似ていたことから、21世紀初頭では彗星と小惑星の境界はやや曖昧になっている。 分裂と崩壊 もっとも早期に発見された周期彗星のひとつであるビエラ彗星(3D)は1846年の回帰時に2つに分裂し、次の回帰である1852年には双子の彗星となって現れたが、その後は二度と出現しなかった。その代わり、本来彗星が回帰するはずであった1872年と1885年に、1時間あたりの出現数が数万個にも達する壮大な流星雨が観測された。この流星群はアンドロメダ座流星群と呼ばれ、毎年11月5日前後に地球がビエラ彗星の軌道に突入するために起こる。21世紀初頭ではほとんど出現はないが、稀に突発的な1時間あたり数十個の出現が観測されることがある。ビエラ彗星以降も、太陽からの輻射熱や物理的作用により、分裂あるいは崩壊、消失した彗星は、多数観測されている。 彗星のさまざまな様相変化の予想は難しく、彗星核の崩壊や消失に関する理論的な研究はあまりなされていない。しかし、国立天文台の福島英雄らの観測・研究グループによれば、近日点通過前の彗星頭部の崩壊前にきわめて特異なコマ形状を共通して示していることや、光度観測により色指数(V-I)の変化が特異であることが報告された(2003年春季天文学会)。実際には彗星の頭部がY字やT字型からおむすびのような形に変化していき、集光も薄れ消失するのだという。このモデルに合致した彗星としては、たとえばSWAN彗星(C/2002 O6)が挙げられ、普通の彗星のコマと違い三角形の形状をしているという報告がなされた。また、ヘーニッヒ彗星(C/2002 O4)も同様な消滅過程だと報告された。また、2020年のアトラス彗星も3月下旬に分裂したと考えられる。分裂以前に考えられていた、月より明るい光度は、可能性としてはほぼ無に等しい。 衝突 彗星の中には、太陽に飛び込む、あるいは惑星やその他の天体に衝突するなど、より劇的な最後を迎えるものもある。彗星と惑星や衛星との衝突は太陽系の形成と進化の初期にはありふれた出来事だったと考えられている。たとえば地球の衛星である月の膨大なクレーターの一部は、彗星が衝突したことで形成されたと考えられている。 1993年に発見されたシューメーカー・レヴィ第9彗星は、1992年に木星に非常に接近した際にその重力に捕らえられ、木星の周りを回る軌道をとっていた。この接近ですでに彗星の核は分裂し、少なくとも21個の破片に分かれていた。そして分裂した核は1994年7月16日から7月22日までに相次いで木星の大気に突入、巨大な噴煙や衝突痕は地球からも観測された。2009年、2010年にも木星表面に彗星が衝突した痕跡らしきものが観測された。パリ天文台に残されているジョヴァンニ・カッシーニの観測記録によると、1690年にも木星に彗星が衝突した可能性が高い。さらに、2010年に土星と海王星の大気組成の分析が行われ、それぞれ約300年前と約200年前に彗星が衝突したことを示す結果が得られている。 地球にも約40億年前の後期重爆撃期には数多くの彗星や小惑星が衝突した。多くの科学者は、後期重爆撃期に地球に衝突した彗星によって、地球の海を満たしている膨大な量の水のほとんど、少なくともかなりの割合がもたらされたと考えている。しかし、その理論を疑う研究者もいる。彗星に含まれる有機分子を探すことで、彗星や隕石が生命の前駆物質、あるいは生命自体さえも運んできたのではないかと推測されてきた。 彗星の名前と符号 彗星の名前 彗星の名前は、過去2世紀にわたって、いくつかの異なる慣習に従って決められてきた。系統的な慣習が採用されていなかった時代には、彗星の命名はさまざまな方法によってされていた。最初の周期彗星(1P)であるハレー彗星は、彗星の軌道を決定したエドモンド・ハレーの名前からとられた。同じように、2番目の周期彗星(2P)として知られているエンケ彗星は、最初の彗星の発見者ピエール・メシャンではなく、軌道を決定した天文学者であるヨハン・フランツ・エンケの名前がつけられている。クロンメリン彗星(27P)も、同様に軌道計算をしたアンドリュー・クロンメリンの名がつけられている。 18世紀末から20世紀初頭の明るい彗星の中には、3月の大彗星(Great March comet)などと名付けられたものもある。いくつかは単に大彗星(Great comet)で区別がつかないので、「1811年の大彗星」(トルストイの『戦争と平和』に登場する彗星)などとも呼ばれる。 20世紀初頭、彗星の命名として、発見者の名前をつけるという慣習が一般的になった。これは現在まで続いている。彗星にはその彗星を独立発見した人の名前が先着順で3名までつけられる。1990年代に入ると、人工衛星(IRASやSOHOなど)や、国際規模の彗星および小惑星の掃天プロジェクトチーム(LINEAR、NEATなど)による彗星の発見が相次ぐようになり、数多くの彗星に、これらの自動捜索プロジェクト名がつくようになった。たとえば、IRAS・荒貴・オルコック彗星は、赤外線衛星IRASと、日本のアマチュア天文家の荒貴源一、イギリスのジョージ・オルコックによって、独立に発見された。現在では、自動捜索プロジェクト名でない彗星のほうが少ない。 同じ発見者が複数の彗星を発見しても、名前で区別はされない。そのため、たとえば「SOHO彗星」という名前の彗星は1,000を超える。彗星を一意に示すには、後述する符号を使う必要がある。ただし、- 第1彗星、- 第2彗星などを末尾につけて区別することもある。 また、過去に出現した彗星が再発見された場合、彗星自体の発見が公表されたあとに過去の彗星と同定された場合には過去の彗星の名に再発見者の名前がつけられることもある。例としては、バーナード・ボアッティーニ彗星(206P = D/1892 T1 = P/2008 T3)などがある。なお、発見の公表前に過去の彗星と同定された場合には再発見者の名前はつかない。例としては、2008年に板垣公一と金田宏が再発見し、発見の公表前に同定されたジャコビニ彗星 (205P = D/1896 R2)(前述のようにジャコビニ彗星の名のある彗星は10個あり、そのうちのひとつ)がある。 なお、キロン(95P/2060)など少数の彗星が、小惑星として発見され、小惑星の命名規則に基づいて命名されたあとに彗星であることが判明している。逆に見失われていた彗星が小惑星として再発見された例もあり、彗星としての名前のまま小惑星としても登録されている(彗星・小惑星遷移天体を参照)。 旧方式符号 1994年までの彗星の系統的な符号のつけ方としては、まず最初にその彗星が発見された年と、その年内の発見順を示す文字からなる仮符号が与えられた。たとえばベネット彗星の仮符号は「1969i」で、1969年の9番目に発見された彗星であることを意味する。彗星の軌道が確定すると、彗星には、近日点通過の年とローマ数字からなる確定符号が与えられた。ベネット彗星の確定符号は「1970 II」となる。確定符号は、日本語に訳して、1970年第2彗星などとも呼んだ。確定符号がつくと、仮符号は使われなくなった。 彗星の発見数が増加してくると、この方法の運用に綻びが生じてきた。観測技術の進歩により1年の発見数が25を超え、仮符号に使うアルファベットが足りなくなり、また近日点通過から1年以上経って発見されるものも出てきて、確定符号の近日点通過順という原則も崩れてきた。そこで1994年に国際天文学連合は新しい命名方法を採用し、1995年から実施された。 新方式符号 符号は発見が報告された年、月、発見報告順を元にしてつけられる。たとえば、ヘール・ボップ彗星の場合は「C/1995 O1」(シー/1995 オー1)と記載される。 最初の「C/」は「Comet」を意味し、発見報告直後のすべての彗星にはこの符号がつけられる。発見報告後の観測により、周期彗星(なお、本節に限り、「周期彗星」を「公転周期200年以下または複数の近日点通過が観測された彗星」と定義する)だと分かった場合、記号は「P/」(Periodic)に変更される。周期彗星でない場合は「C/」のままである。また、消滅した、または、長期間観測されない周期彗星には「D/」、軌道を求めることができなかった彗星には「X/」をつける。2006年7月時点、「D/」がついた彗星は24個、「X/」がついた彗星は54個ある。 「1995」は、発見が報告された年を表す。 「O」は発見が報告された時期を表す。1月前半(15日まで)が「A」、1月後半(16日から)が「B」、というように、1年を24に分けて表す。ただし、「I」は「J」や「1」と紛らわしいので飛ばし、「Z」は使わない。この規則は、小惑星と共通である。 「1」は、その時期の中での発見報告順を表す。ヘール・ボップ彗星は、1995年7月後半に発見が報告された最初の彗星であることが分かる。 彗星が分裂した場合、「-A」「-B」などが末尾につけられる。 2回目の回帰が観測された彗星、または遠日点でも観測できる彗星、あるいは4回の衝が観測されたケンタウルス族彗星には、「P/」(または「D/」)の前に公式通し番号がつけられる。たとえば、スパール彗星が回帰して2005年に再発見されたときの符号は「171P/2005 R3」で、同時に、最初の発見は「P/1998 W1」から「171P/1998 W1」に変更された(再発見には別の符号がつくことに注意)。複数回の発見を区別する必要がないときは、「171P/Spahr」と表現される。2010年9月現在、244P/Scotti まで番号がつけられている。1994年以前の彗星にも、新方式符号がさかのぼってつけられる。たとえば、前述のベネット彗星の新方式符号は「C/1969 Y1」となる。つまり、1994年以前の彗星は、符号が3つあるということになる。 なお、従来は発見者が発見した順に「テンペル第1彗星」「ヴィルト第2彗星」というように番号(接尾数字)がつけられていた(接尾数字と、公式通し番号の順とは一致しない)が、1995年頭より新発見の彗星には接尾数字がつけられなくなり、2000年には過去の彗星からも接尾数字が廃止された。 彗星観測の歴史 古代・中世の記録と信仰 望遠鏡が発明される以前、彗星は夜空の何もないところから突然現れ、ゆっくりと消えていくように観測された。そのため、流星群や日食と同様に、君主の死や国の滅亡、災害、疫病といった出来事を予告する凶兆と信じられ、果ては地球の住人に対する天からの攻撃であると解釈されることすらあり、人々はその出現を恐れた。 世界各地で古代より彗星についての記録が残っている。紀元前2320年のバビロニアや、『ギルガメシュ叙事詩』、『ヨハネの黙示録』、『エノク書』といった書物で「落ちる星」として言及されているが、これらは彗星もしくは火球について言及したものだと解釈されている。中国では特に多くの記録が残っており、紀元前よりハレー彗星の回帰が4度記録されている。紀元前1059年ごろ、殷代末期の甲骨文に彗星と思われる記述が残されているが、確実な最古と言える記録は紀元前613年の『春秋』に記されたものとされている。ほか紀元前240年、秦の始皇帝がハレー彗星を見たとする記録が『史記』に残されている。ヨーロッパでは彗星は気象現象の一種だと考えられていたため、古い記録は中国ほど多くはないが、有名な例として1066年、イングランド王国のハロルド2世が即位して間もない頃に「火の星」が現れ、従臣たちを怯えさせたことが『アングロサクソン年代記』やバイユーのタペストリーに記録されており、その直後に戦役が発生、王は戦死し国は征服された。日本では、684年のハレー彗星の回帰に関する記述が『日本書紀』にみられる。13世紀に災厄が多発した際には、末法の時代に現れるという「星宿変怪難」として恐れられた。 観察と考察 アリストテレスは、彼が著した最初の気象学の本『気象論』(Meteorologica)で彗星に対する見解を示し、それが西洋の思想を2000年近くにわたって支配することになった。彼は、彗星は惑星であるか少なくとも惑星に関係する現象であるという、それまでの学者の説を否定し天文現象ではなく気象現象と考えた。その根拠は、惑星の動く範囲は黄道帯の中に限られるが、彗星は空のあらゆるところに現れるというものであった。その代わり、彼は彗星を大気の上層部で起こる現象だととらえ、そこは温度が高く、乾いた蒸気が集まり時々勢いよく炎が燃え上がるのだと考えた。彼はこの仕組みは彗星だけでなく、流星や、オーロラ、そして天の川の成因にさえなっていると考えた。 その後、この彗星に対する見方に反論する古代の学者が少数だがいた。ルキウス・アンナエウス・セネカは、彼の著書『自然研究』(Quaestiones naturales)において、彗星は空を規則的に動き、風に邪魔されることがなく、大気中の現象よりは天体に典型的な運動をすることを述べていた。彼はほかの惑星が黄道帯の外に現れることがないことを認めつつも、天球上のものに関する人間の知識は限られているため、惑星のような物体が空のあらゆるところに現れる可能性を否定する理由はないとした。しかし、アリストテレスの立場のほうが影響力が大きく、彗星が地球の大気圏外にあるということが証明されたのは16世紀のことであった。 1577年に明るい彗星が現れ、数か月間肉眼で観察できた。デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは、彗星に測定可能な視差がないことを確かめるため、彗星の位置を自分で測定するとともに、遠く離れた場所の観測者にも測定させた。正確な測定をしたところ、その測定結果は、彗星が少なくとも月より4倍以上遠くにあるということを示していた。 18世紀にもなると、多くの天文学者たちが彗星の発見と研究を競ったが、中には彗星と紛らわしい天体があることも知られるようになった。1764年にロンドン王立協会の外国人会員になったフランスのシャルル・メシエは、自らも彗星の捜索を行うかたわら、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口していた。そこでメシエは彗星ではない天体のリストを作り始めた。これが天体カタログの『メシエカタログ』である。メシエ自身も1760年に最初の彗星を発見している(C/1760 B)。 軌道の研究 彗星が宇宙空間にあるということは証明されたが、彗星がどうやって空を移動しているのかという疑問は、その後、数世紀にわたって議論の中心になるように思われた。ヨハネス・ケプラーが1609年に、惑星の軌道は楕円軌道であると決着をつけたあとでさえ、彼は惑星の運動を支配している法則(ケプラーの法則)がほかの天体にも影響を与えていると信じるのを躊躇した。彼は彗星は惑星の間を直線軌道で運行していると信じていた。ガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスの擁護者であったにもかかわらず、ティコによる彗星の視差の測定結果を受け入れず、彗星は地球大気の上層を直線状に動くというアリストテレスの考えを支持し続けた。ただし、ケプラーの師ミヒャエル・メストリンは彗星の軌道が直線からわずかにずれることを観測で確認しており、ケプラーも自身の説を発表するにあたって師のデータを改竄せず、その理由について「地球の運動のため」との(誤った)考察を与えている。 ケプラーの惑星の運動の法則が彗星にも適用されるべきだと初めて提案したのはウィリアム・ローワーで、1610年のことであった。その後、数十年間、ピエール・プティ、ジョヴァンニ・ボレリ、アドリアン・オーズー、ロバート・フック、そしてジョヴァンニ・カッシーニなどを含むほかの天文学者たちは、彗星は太陽の周りを曲線状の軌道、楕円軌道か放物線軌道を描いて運行しているという説を唱えたが、その一方、クリスティアーン・ホイヘンスやヨハネス・ヘヴェリウスは、彗星は直線運動をしているという説を支持した。 この問題は、1680年11月14日にゴットフリート・キルヒが発見したキルヒ彗星によって解決された。ヨーロッパのいたるところで、天文学者たちはこの彗星の位置を観測し続けた。1687年、アイザック・ニュートンは彼の著書『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)において、万有引力の逆2乗の法則の影響下で運動する物体は、軌道の形が円錐曲線の一種になるということを証明し、天空における彗星の運動が放物線軌道とどのように適合するかを、1680年の彗星を例にして具体的に説明した。 1705年、エドモンド・ハレーは、1337年から1698年までの24個の彗星の出現に対して、ニュートンの手法を応用した。するとハレーは、1531年、1607年、1682年に現れた3つの彗星の軌道要素が、きわめて似通っていることに気づいた。しかも、軌道要素のわずかな違いは、木星と土星による重力的な摂動によって説明することができた。彼はこの3つの彗星の出現は、同じ彗星が3回出現したものだと確信し、この彗星は1758年か1759年に再び戻ってくるだろうと予言した(ハレー以前に、ロバート・フックがすでに1664年に出現した彗星と1618年の彗星を同定し、また同じころカッシーニも1577年、1665年、1680年の彗星は同じものではないかと推測していたが、これらはどちらも間違っていた)。ハレーが予言した彗星の戻ってくる期日は、のちに3人のフランスの数学者によって改良された。アレクシス・クレロー、ジェローム・ラランド、ニコル=レーヌ・ルポートである。彼らは彗星の1759年の近日点通過日時を1か月以内の誤差で予言した。彗星は予言通りに回帰し、その彗星はハレー彗星として知られることとなった(公式な符号は1P/Halley)。 短い周期を持ち、歴史上の記録に何度も登場するような彗星の中で、ハレー彗星はどの出現でも肉眼で見えるほどの明るさになったという点で特異である。ハレー彗星の出現の周期性が確立して以降、数多くの周期彗星が望遠鏡を使って発見されてきた。2番目に発見された周期彗星はエンケ彗星(公式な符号は2P/Encke)である。1819年から1821年までの期間中、ドイツの数学者・物理学者のヨハン・フランツ・エンケは、1786年、1795年、1805年、1818年に観測された一連の彗星の出現から軌道を計算し、これらは同一の彗星であるという結論を下し、1822年の出現を予言するのに成功した。1900年までに、17個の彗星について1回以上の近日点通過が観測され、周期彗星として確認された。2010年までに、240個以上の彗星について周期彗星としての識別に成功しているが、そのうちのいくつかは消滅したり見失われたりしている。 物理的特徴の研究 アイザック・ニュートンは、彗星を固く締まった頑丈な固体だとした。つまり非常に長い楕円軌道を描き、その軌道と方向がかなり自由な惑星の1種であって、その尾は、太陽熱で着火または加熱された頭部、つまり彗星の核から放出された非常に希薄な蒸気だと考えていたのである。また、ニュートンにとっては彗星は、惑星の水分と湿気を維持するために不可欠なものだと思われた。つまり、彗星の蒸気と放出ガスが凝縮したものから、植物が生まれ腐敗し乾燥した土になるために使われるすべての水分が再供給、補充されるとした。ニュートンは、すべての植物は液体から増え、それが腐敗して土になると考えていたためである。だとすると乾いた土の量は絶えず増加するため、その惑星の水分は絶えず供給されていない限り絶えず減っていき、ついにはなくなるはずだと考えたのである。ニュートンは、われわれの空気のもっとも精妙で最上の部分を構成する、生命とすべての存在に絶対不可欠な精気が、彗星によってもたらされるのではないかと考えた。また、彼の推測によると、彗星は太陽に新しい燃料を補充しており、その発光体からすべての方向に絶えず送られる流れによって太陽の光を回復させているとした。 18世紀以前に、彗星の物理的構造について正しい仮説を立てていた科学者もいた。1755年、イマヌエル・カントは、彗星は揮発性の物質で構成されており、それが蒸発することが原因で近日点付近で彗星が明るくなるのだという仮説を立てた。1836年には、ドイツの数学者フリードリッヒ・ベッセルが、1835年のハレー彗星の回帰で蒸気の流れを観察したことから、彗星から蒸発した物質の反動は、彗星の軌道に大きな影響を与えるのに十分なほど大きい可能性があると指摘し、エンケ彗星の非重力的な運動はこの仕組みによるという説を唱えた。 しかし、彗星に関連したほかの発見により、1世紀近くこれらの説はほとんど忘れ去られていた。1864年から1866年の期間中、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリはペルセウス座流星群の軌道を計算し、軌道の類似性から、スイフト・タットル彗星の塵がペルセウス座流星群の原因であるという仮説を立てた。彗星と流星群との関連は、1872年に劇的な形で示されることとなった。ビエラ彗星を原因とする、激しい流星群の活動が観察されたのである。ビエラ彗星は、1846年の回帰で2つに分裂したのが観察され、次の1852年の回帰以降はまったく観測されなくなっていた彗星である。これを基にして、彗星は表面を覆う氷の層と、緩く堆積した小さな岩石のような物体から構成されているとする、彗星の構成の「砂利の堆積」モデルが現れた。 20世紀半ばまで、このモデルは数々の欠点に悩まされてきた。特に、わずかな氷しか含んでいない物体が、何回かの近日点通過を経たあとも蒸気が蒸発することで明るく見え続けるということがなぜ可能なのかを説明できなかった。1950年、フレッド・ホイップルが、「彗星は氷と塵からなる」という「汚れた雪玉」を提唱した。岩石主体の天体にわずかに氷が混じっているのではなく、氷が主体の天体に塵や岩石が混じっているというのである。この「汚れた雪球」モデルはすぐに受け入れられた。 彗星探査機による観測 アメリカ航空宇宙局(NASA)の打ち上げたISEE-3は、当初のミッションを終えたあとにICEと改名されて地球の重力圏を離れ、1985年にジャコビニ・ツィナー彗星に接近し、彗星への近接探査を行った最初の宇宙探査機となった。翌1986年には、日本の宇宙科学研究所(ISAS)、欧州宇宙機関(ESA)、ソ連・東欧宇宙連合(IKI)が打ち上げた計5機の探査機にICEを加えた6機、通称ハレー艦隊が連携してハレー彗星の核を観測した。ESAのジオットが核を撮影したところ、蒸発する物質の流れが観測され、ハレー彗星は氷と塵の集まりであることが確かめられ、ホイップルの説が実証された。ジオットは1992年にもグリッグ・シェレルップ彗星に接近、観測を行った。 1998年に打ち上げられたNASAの工学実験探査機ディープ・スペース1号は、2001年7月21日にボレリー彗星の核に接近して詳細な写真を撮影し、ハレー彗星の特徴はほかの彗星にも同様に当てはまることを立証した。 その後の宇宙飛行ミッションは、彗星を構成している物質についての詳細を明らかにすることを目標に進められている。1999年2月7日に打ち上げられた探査機スターダストは、2004年1月2日にはヴィルト第2彗星に接近して核を撮影するとともにコマの粒子を採取し、2006年1月15日に標本を入れたカプセルを地球に投下した。標本の分析により、彗星を構成する主要元素の構成比から、彗星は太陽や惑星などの原材料物質であることを示すとともに、高温下で形成されるカンラン石などが発見された。高温下で形成される物質は従来の説で彗星が生まれたとされる領域で形成されたとは考えにくく、太陽に近い場所で形成された物質が彗星が形成された太陽系外縁部まで運ばれてきた可能性や、従来の説よりも彗星が形成された場所が太陽に近い場所であった可能性など、彗星の形成理論の再構築が必要となる可能性がある。 2005年1月12日に打ち上げられた探査機ディープ・インパクトは、同年7月4日に、核内部の構造の研究のためにテンペル第1彗星にインパクターを衝突させた。この結果、短周期彗星であるテンペル第1彗星の成分は長周期彗星のものとほぼ同じであることが判明した。さらに、塵の量が氷よりも多かったことから、彗星の核は「汚れた雪玉」というよりも「凍った泥団子」であると見られている。またテンペル第1彗星の内部物質からも、かつて高温下の条件を経験したと考えられる物質が検出されたため、ヴィルト第2彗星からの物質とともに彗星の形成理論や太陽系初期の状況を考える上で貴重な情報となった。 これまでに行われた近接探査 ICE…(21P)ジャコビニ・ツィナー彗星、(1P)ハレー彗星 さきがけ、すいせい、ベガ1号、ベガ2号…(1P)ハレー彗星 ジオット…(1P)ハレー彗星、(26P)グリッグ・シェレルップ彗星 ディープ・スペース1号…(19P)ボレリー彗星 スターダスト…(81P)ヴィルト第2彗星 ディープ・インパクト/エポキシ…(9P)テンペル第1彗星、(103P)ハートレー第2彗星 スターダスト…(9P)テンペル第1彗星 ロゼッタ…(67P)チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星 実現しなかった近接探査 さきがけ…(21P)ジャコビニ・ツィナー彗星 ディープ・スペース1号…(107P/ 4015)ウィルソン・ハリントン彗星 CONTOUR…(2P)エンケ彗星、(73P)シュワスマン・ワハマン第3彗星 ロゼッタ…(46P)ワータネン彗星 ディープ・インパクト…(85P)ボーティン彗星 彗星の探索と発見の歴史 望遠鏡がなかった時代、彗星の発見はもっぱら肉眼によるものであった。1608年に望遠鏡が発明されると、それによって、肉眼では見えないような暗い彗星を発見することができるようになった。やがて、望遠鏡や双眼鏡を駆使して、彗星の捜索を精力的に行う、コメットハンター(comet hunter)と呼ばれる天文家が現れた。 後述のような自動探査プロジェクトが、電子機器の発達などによって、技術的に可能になった20世紀最末期に至るまで、彗星や小惑星の新発見はこうしたアマチュア天文家に深く依存していた。 主なコメットハンター 20世紀以降に活躍したものを挙げる。より詳細や過去のコメットハンターについては当該項目を参照のこと。 日本 本田実 - 日本のコメットハンターの先駆け的存在。 池谷薫 - 1965年に大彗星になった池谷・関彗星の第一発見者。 関勉 - 池谷・関彗星の第二発見者。 百武裕司 - 1996年に大彗星になった百武彗星の発見者。 日本以外 ドナルド・マックホルツ(Donald Machholz)- アメリカ ユージン・シューメーカー(Eugene Merle Shoemaker)とキャロライン・シューメーカー(Carolyn Spellman Shoemaker)夫妻 - アメリカ。小惑星を含め多数の発見記録がある。1994年のシューメーカー・レヴィ第9彗星は有名。 ウィリアム・ブラッドフィールド(William Bradfield)- オーストラリア。彗星発見18個はアマチュアでは現役最高記録。 テリー・ラヴジョイ(en:Terry Lovejoy)- オーストラリア。2011年に大彗星となったラヴジョイ彗星(C/2011 W3)を発見。 ロバート・マックノート(Robert H. McNaught)- オーストラリア。2007年に大彗星となったマックノート彗星(C/2006 P1)を発見。彗星発見数は約50個。 1990年代後半になると、このような状況に劇的な変化が生じた。LINEARやNEATなどといった地球近傍小惑星の強力な自動捜索プロジェクトが相次いで始動し、冷却CCDカメラによって18等や20等などといったきわめて暗い彗星が根こそぎ発見されるようになったのである。北半球で太陽から比較的離れた区域の空は自動捜索プロジェクトによってほとんどの彗星が発見されるようになり、アマチュア天文家などが彗星を発見することは非常に困難になった。また、1996年には太陽観測衛星SOHOが観測を始め、その副産物として、クロイツ群に属する彗星がきわめて多数発見されるようになった。 自動捜索プロジェクトなど 地球近傍天体捜索プロジェクトなど。以下のプロジェクト名の中には定訳がないものもあるのに注意。 スペースウォッチ - Spacewatch。アメリカのアリゾナ大学。1991年から2005年7月までに短周期彗星1個を含む11個の彗星を発見。 地球近傍小惑星追跡 - Near Earth Asteroid Tracking、NEAT、ニート。アメリカのジェット推進研究所。1995年12月から2005年7月までに3個の短周期彗星を含む45個以上の彗星を発見。 SOHO - Solar and Heliospheric Observatory、ソーホー。太陽観測衛星。1996年1月から2006年8月までに1,000個以上の彗星を発見。 ローウェル天文台地球近傍天体捜索 - Lowell Observatory Near-Earth-Object Search、LONEOS、ロニオスまたはロネオス。アメリカのローウェル天文台。1997年12月から2005年7月までに短周期彗星2個を含む15個の彗星を発見。 リンカーン地球近傍小惑星探査 - Lincoln Near-Earth Asteroid Research、LINEAR、リニア。アメリカのリンカーン研究所。1998年1月から2005年7月までに7個の短周期彗星を含む150個以上の彗星を発見。 カタリナ・スカイサーベイ - Catalina Sky Survey、Catalina、カタリナ。アメリカのアリゾナ大学月惑星研究所。1999年から2005年7月までに14個の彗星を発見。 バッターズ - Bisei Asteroid Tracking Telescope for Rapid Survey、BATTeRS。岡山県の美星スペースガードセンター(日本スペースガード協会)。2001年に1個の彗星を発見。 全天自動捜索システム - All Sky Automated Survey、ASAS、エーザス。チリのラスカンパナス天文台。恒星の光度監視プロジェクト。2004年に1個の彗星を発見。 サイディング・スプリングサーベイ - オーストラリアのサイディング・スプリング天文台。ロバート・マックノートが参加している。2006年までに3つの短周期彗星を含む5個の彗星を発見。 大彗星 毎年数百個の小彗星が太陽系の内側を通過していくが、そのうち世間一般の話題となるような彗星はきわめて少数である。大体10年に1個前後、あまり夜空に関心がない人でも気づくほど明るくなるような彗星が現れる。そのような彗星はよく大彗星と呼ばれる。 過去には、明るい彗星はしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられた。20世紀に入ってからも、ハレー彗星の1910年の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まった。 この当時、すでにスペクトル分析によって(先述の通り)彗星の尾には猛毒の青酸が含まれていることが知られており、また天文学者でSF作家でもあったカミーユ・フラマリオンは、尾に含まれる水素が地球の大気中の酸素と結合して地上の人々が窒息死する可能性があると発表した。これらが世界各国の新聞で報道され、さらに尾ひれがついて一般人がパニックに陥ったと言われる。日本では、空気がなくなっても大丈夫なようにと、自転車のタイヤのチューブが高値でも飛ぶように売れ、貧しくて買えないものは水に頭を突っ込んで息を止める練習をするなどの騒動が起きたとされているが、世界の終わりを信じた人はごく一部だったと受け取れるような記録もある(いずれにせよ、実際には彗星の尾は地球の大気に影響を及ぼすにはあまりに希薄だった)。 その後も、1990年にはオウム真理教の麻原彰晃がオースチン彗星(C/1989 X1)の地球接近によって天変地異が起ると喧伝したり(石垣島セミナー)、1997年のヘール・ボップ彗星(C/1995 O1)の出現時にはカルト団体ヘヴンズ・ゲートが集団自殺事件を起こした。しかし、ほとんどの人にとっては、大彗星の出現は単に素晴らしい天体ショーである。 さまざまな要素により、彗星の明るさは予測から大きく外れるため、彗星が大彗星になるか否かを予測するのは難しいということはよく知られている。大まかに言うと、もし彗星の核が大きく活発で、太陽の近くを通る軌道で、もっとも明るいときに地球から見て太陽により不鮮明になっていなければ、大彗星になる可能性が高い。しかし1973年のコホーテク彗星 (C/1973 E1) は、これらすべての条件を満たしており、壮大な彗星になると期待されたにもかかわらず、実際はあまり明るくならなかった。その3年後に現れたウェスト彗星(C/1975 V1)は、ほとんど期待されていなかった(コホーテク彗星の予報が大きく外れたあとだったため、科学者が慎重になっていた可能性もある)が、実際は非常に印象的な大彗星となった。 20世紀後半には大彗星が出現しない長い空白期間があったが、20世紀も終わりに近づいたころ、2つの彗星が相次いで大彗星となった。1996年に発見され明るくなった百武彗星 (C/1996 B2) と、1995年に発見され、1997年に最大光度となったヘール・ボップ彗星である。21世紀初頭には大彗星が、それも2個も同時に見ることができるというニュースが入った。2001年に発見されたNEAT彗星 (C/2001 Q4) と2002年に発見されたLINEAR彗星 (C/2002 T7) である。しかしどちらも最大光度は3等に留まり、大彗星とはならなかった。2006年に発見され、2007年1月に近日点を通過したマックノート彗星 (C/2006 P1) は予想を上回る増光を起こし、昼間でも見えるほどの大彗星となった。近日点通過後は南半球でのみ観測されたが、尾が大きく広がった印象的な姿を見せた。 変わった彗星 知られている数千もの彗星の中には、とても変わったものもある。エンケ彗星は木星の内側から水星の内側にまで入る軌道を回っているし、シュワスマン・ワハマン第1彗星(29P)は木星と土星の軌道の間に収まった軌道を回っている。土星と天王星の間を不安定な軌道で回っているキロンは、最初は小惑星に分類されていたが、のちに希薄なコマが発見されたため、現在では彗星と小惑星の両方に分類されている。同様に、シューメーカー・レヴィ第2彗星(137P)も小惑星として発見された。近日点、遠日点がともに小惑星帯内にある彗星も複数見つかっており、メインベルト彗星と呼ばれている。 上記のキロンやシューメーカー・レヴィ第2彗星のように、最初は小惑星として発見された天体がのちに彗星だと判明する例が20世紀末以降は増えている。逆に、発見時はわずかながらコマや尾が観測されたが、のちの回帰の際は尾がまったく見られなくなっているアラン・リゴー彗星(49P)やウィルソン・ハリントン彗星(107P/4015)、彗星としての活動が観測されたことはまったくないが、流星群の母天体となっている小惑星ファエトンやオルヤトなどのような例もあり、これらは揮発成分を使い果たした枯渇彗星核だと見られている。その他の小惑星や、惑星の衛星の中にも、軌道や成分などから元は彗星だったと考えられるものがある。 彗星によっては、短時間の間に急激な増光(アウトバースト)を起こすことがある。特にホームズ彗星が2007年10月下旬に起こした大増光は印象深い。2日足らずの間に17等から2等級まで(約40万倍)明るくなり、肉眼でも「明るい星」として容易に見ることができた。その後、この増光で放出されたと思われるダストが球状に広がり、その直径は太陽よりも大きく広がった。ホームズ彗星は一時的に太陽系最大の天体となったのである。1986年に接近したハレー彗星も、後に突然増光が確認されている。これもアウトバーストが原因ではないかと言われている。 記録に残されたもの、残されていないもの問わず、多くの彗星の核が分裂するのが観測されてきた。1846年の回帰の際に2つに分裂し、のちに流星群だけを残して消滅したビエラ彗星(参照)が有名な例である。また、シュワスマン・ワハマン第3彗星(73P)は1995年の回帰時に4個に分裂し、その後さらに分裂(いくつかは消滅)して2006年には30個以上の破片になっていた。このほかにもウェスト彗星、池谷・関彗星、ブルックス第2彗星(16P)など、彗星核の分裂が観測された彗星は数多い。 崩壊・消滅した彗星としては、1994年7月に木星に衝突したシューメーカー・レヴィ第9彗星も有名である(参照)。 1908年のツングースカ大爆発はエンケ彗星の破片が地球に衝突したのではないかとする仮説がある。隕石の落下によって生じるクレーターがまったく見られなかったことから、大気圏に突入した彗星の破片が上空で爆発、蒸発したことによって甚大な被害を及ぼしたのではという見解がある。 1979年、かつての大彗星から分裂したクロイツ群の彗星が太陽面に接近し、蒸発、雲散霧消する姿が太陽観測衛星P78-1のコロナグラフ:SOLWIND(ソルウィンド)によって観測された。この彗星(C/1979 Q1)は観測した天文学者らの名前からハワード・クーメン・ミッチェル彗星と命名されたが、同衛星がその後も彗星を発見したためソルウィンド第1彗星として広まる。このような事例は数多く起こっており、1995年に打ち上げられた太陽探査機SOHOは、毎年数十個の彗星が太陽に突入するのを観測している。十分に大きな彗星は、近日点通過後も生き延びるという予測があったが、初の事例となったのは2011年のラヴジョイ彗星 (C/2011 W3)である。 彗星自体が変わった性質を持っているものも多い。1961年に観測されたヒューメイソン彗星(C/1961 R1)は、近日点が約2天文単位と遠かったため、それほど明るい彗星ではなかったが、。また核の直径自体もおよそ30キロと、当時としてはかなり大きい部類に入る彗星でもあった。 有名な彗星・明るくなった彗星 周期彗星 ハレー彗星(1P)- 周期約76年。 エンケ彗星(2P)- 周期約3.3年で、周期彗星中最短。 ホームズ彗星(17P)- 周期約6.9年。2007年に2等級台にまで大増光、肉眼でも見えた。 池谷・張彗星(153P)- 周期約366年で、周期彗星中最長。 非周期彗星 ドナティ彗星 (C/1858 L1) - 1858年秋に明るくなり、尾が3本に分かれて見え、世界中で観測された。 テバット彗星 - 幅広い尾が発達し、1861年の大彗星とも呼ばれた。日本にも記録が残っている。 1882年の大彗星 - 太陽表面からわずか46万キロを通過、太陽のすぐ脇でも別の明るい天体として認識できるほど明るくなった。 池谷・関彗星 (C/1965 S1) - 1965年秋に明け方で長い尾が見られ、また太陽最接近時には-17等級に達した。 ベネット彗星 (C/1969 Y1) - 1970年3月に近日点を通過し、核が非常に明るく明け方の空で-3等級に達した。 コホーテク彗星 (C/1973 E1) - 1974年初頭にマイナス等級になると期待されたが、地上からでは3等止まりだった。 ウェスト彗星(C/1975 V1)- 1976年3月の明け方に見え、核が分裂したため尾が非常に明るくなった。 IRAS・荒貴・オルコック彗星(C/1983 H1)- 1983年5月に、地球から0.0312天文単位の至近距離を通過した。 シューメーカー・レヴィ第9彗星(D/1993 F2)- 1994年に木星に激突し、消滅。 百武彗星 (C/1996 B2) - 1996年3月に地球に0.102天文単位まで接近、0等になり尾が60度以上に伸びた。 ヘール・ボップ彗星(C/1995 O1)- 1997年4月に-1等に達し、3等級以上だった時期が5か月間もあった。 マックノート彗星 (C/2006 P1) - 2007年1月に近日点通過。日本からは西の空の低い位置にあったためにすぐに見えなくなったがオーストラリア方面で世紀の大彗星となって現れた。-4等星にまでなり昼間でも肉眼で確認できたという。 関連ドキュメンタリー作品 『NHKスペシャル 宇宙 未知への大紀行』 第一回『ふりそそぐ彗星が生命を育む』 フィクションの中の彗星 彗星はSF作家や映画製作者には人気のある題材であるが、氷の天体と言うよりも燃えている天体のように誤って描写されることも多い。フィクションの中のハレー彗星については、「ハレー彗星」の項を参照。 ジュール・ヴェルヌの『彗星飛行』(1877年)は、手ごろな彗星によって太陽系を旅行する、ビクトリア朝時代の想像による小説である。 H・G・ウェルズの『彗星時代』(1905年)は、彗星の尾の蒸気がどのようにして世界中にユートピアのような社会を作り出すかを描いた物語である。 トーベ・ヤンソンの『楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星』は、ムーミンの世界が燃えるような彗星に驚く様子を描写している。 アーサー・C・クラークの小説『2061年宇宙の旅』は、ハレー彗星への有人ミッションの物語が詳しく書かれている。 グレゴリー・ベンフォードとデイヴィッド・ブリンの合作小説『彗星の核へ』(1987年)の中では、多国籍のチームがハレー彗星の核を掘り抜いて氷に囲まれた居住地を作る。 笹本祐一の『星のパイロット2 彗星狩り』では、彗星を地球の衛星軌道に乗せて宇宙開発に必要な水資源を確保しようという計画と、その主導権を賭けて彗星への到達を競う宇宙船レースが描かれる。 野尻抱介の『クレギオンシリーズ アンクスの海賊』では、木星型惑星が形成されなかったために太陽系よりはるかに多数の彗星が存在する星系を舞台に、零細(恒星間宇宙船1隻)運送業者の冒険が描かれる。 また、彗星が地球へ衝突する(または衝突しそうになる)という状況を描いた作品も多数存在する。 小説 カミーユ・フラマリオン『此世は如何にして終わるか』 ラリー・ニーヴンとジェリー・パーネルの合作『悪魔のハンマー』 グレゴリー・ベンフォードとウィリアム・ロツラーの合作『シヴァ神降臨』 ビル・ネイピアの『天空の劫罰』 アーサー・C・クラークの『神の鉄槌』 岩倉政治の『空気のなくなる日』 映画 『メテオ』 『アステロイド』 『ディープ・インパクト』 『フィッシュストーリー』 『ドント・ルック・アップ』 テレビドラマ 『ウルトラマン』第25話「怪彗星ツイフォン」 『ウルトラマンメビウス』第16話「宇宙の剣豪」 『暴れん坊将軍II』第131話「夜空燃ゆ! 呪いのほうき星」 『暴れん坊将軍IX』第19話「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」 アニメ 『君の名は。』架空のティアマト彗星が1200年ぶりに地球に接近する中で、物語が展開されていく。 『Charlotte (アニメ)』架空の長周期彗星「シャーロット彗星」が少年少女にもたらす特殊能力をめぐる物語が描かれる。 『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』地球に対する新たな脅威として、宇宙を席巻し星々を侵略する白色彗星帝国が描かれる。 『スーパーマン』(アニメ、「磁気望遠鏡」) 『ストラトス・フォー』 『タイムパトロール隊オタスケマン』(最終回) 『機動戦士ガンダム』主人公のライバルであるシャア・アズナブルの通称が「赤い彗星」である。 脚注 参考文献 関連項目 周期彗星の一覧 非周期彗星の一覧 彗星・小惑星遷移天体 大彗星 ハレー彗星 太陽系外彗星 カロライン・ハーシェル - 彗星を発見した最初の女性 外部リンク 理科ねっとわーく 太陽系図鑑(彗星) 国立科学博物館 宇宙の質問箱(小惑星・彗星・流星・隕石) ザ・ナインプラネッツ 日本語版(彗星) The Nine Planets Comet Facts - ザ・ナインプラネッツ 原語版(彗星) 吉田誠一のホームページ Lists and Plots: Comets - IAU: Minor Planet Center 彗星の名前と符号 by The International Astronomical Union: Minor Planet Center, retrieved on 2006‐08‐06Z. "Cometary Designation System" "" "" 天体 天文学に関する記事
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2
自由ソフトウェア
自由ソフトウェア()とは、ユーザーがどのような目的に対しても実行することを許可し、また、プログラムについて研究したり、変更したり、それを配布したりする自由も認めることを条件として配布されるコンピュータソフトウェアのことである。自由ソフトウェアには、プログラムの対価として支払った価格とは無関係に、ユーザーが(個人で、あるいは、コンピュータプログラマーと協力して)ソフトウェアのコピーを用いて、自身が望むことを(自由ソフトウェアを用いて利益を獲得することを含めて)する自由が存在するということである。コンピュータプログラムが自由であるとみなされる必要十分条件は、本質的には(開発者のみではなく)すべてのユーザーに第一にプログラムをコントロールする権利があるということであるとされる。したがって、ユーザーが所有する装置が「自由」であるためには、プログラムによって何が行われるのかを、ユーザーが本質的にはコントロールできなければならない。 コンピュータプログラムを研究したり変更したりする権利を保証するためには、ユーザーがプログラムのソースコード(これがプログラムの変更を行うために適した形式である)を読むことが可能である必要がある。このことは「ソースコードにアクセスできる」(access to source code)とか「パブリックに利用できる」(public availability)という言葉で言い表されることがよくあるが、フリーソフトウェア財団は、単純にこのような表現を使ってプログラムを考えることに反対している。その理由として、このような表現を使うと、プログラムのコピーを他者に与えなければならないという義務(義務とは権利とは正反対のものである)がユーザーにある、という印象を与える恐れがあることを挙げている。 free softwareという言葉は、自由ソフトウェアの概念が生まれる以前からゆるく使われていたが、リチャード・ストールマンは、彼がGNUプロジェクトを立ち上げたのと同じ1983年から、この言葉を上記で述べたような意味で使うことを促す自由ソフトウェア運動を開始した。GNUプロジェクトは、自由の精神を尊重したオペレーティングシステムを協力して製作するプロジェクトであり、コンピュータの黎明期にハッカーたちの間に存在していた、互いに協力する精神をよみがえらせることを目的としている。 自由ソフトウェアの定義 フリーソフトウェア財団は自由ソフトウェアの定義を提示している。ソフトウェアライセンスについては自由ソフトウェアライセンスを参照。 定義に照らして自由ではない、すなわち改造や再配布などに制限が掛かっていたり、ソースコードが開示されていない、無償で利用できるソフトウェアとは異なる概念であり、この場合はフリーウェアもしくは無料ソフトと呼ぶことが望ましいとフリーソフトウェア財団はしている。 逆に定義に従ったソフトウェアであれば、一次的な配布が有償であっても自由ソフトウェアと呼ぶことができる。ただし、前述したように配布が自由であるため、ほとんどの自由ソフトウェアは無償で配布されている。 また、現状強い影響力を持つ定義として、フリーソフトウェア財団の定義の他に、DebianフリーソフトウェアガイドラインとそれをベースにしたOpen Source Initiativeのオープンソースの定義がある。 自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア そもそも、英単語であるフリー (free) は、「自由」と「無料」、双方の意味をもっていて、たんに"free"といっただけでは区別が付かない。これに対し、Free Softwareの概念においては、「自由」と「無料」の違いが大きな意味を持つ。このため、英語圏では、自由のfreeと、無料のfreeを区別するため、無料を示すのに「free as in "free beer"(無料のビール)」、また、自由であることを示すのに「free as in "free speech"(言論の自由)」などという表現がよく使われる。 熟語として記述する際には、"free software"、"Free Software"と区別している。前者がよく言われる"無料のソフトウェア"であり、後者は固有名詞で、リチャード・ストールマンが自由なソフトウェアに対して名づけた"自由なソフトウェア"のことである。最近では本来英語の単語でないものの、「自由」を意味する単語としてラテン語の "libre" を使い "Software libre" のように表すこともある。 無償のソフトウェア フリーウェアを参照のこと。 自由なソフトウェア コンパイルした成果物だけでなく、ソースコードが入手可能であり、さらに、その改変と再配付も自由である必要がある。 フリーソフトウェア財団(FSF)の創始者リチャード・ストールマン(RMS)が、自由に利用し、改変し、再配布することができるという意味でFree Softwareという語を1980年代初頭に作った。この場合、単に無料であるソフトウェアは、"フリーウェア"と呼んで区別する。 ソフトウェアが自由であることを重視するリチャード・ストールマンの立場からは「無料」との混同は避けたいところである。そのため、彼は折に触れてこの区別を強調し、また「日本語にはせっかく2つの意味を区別する言葉があるのだから、Free Softwareではなく自由なソフトウェアと呼んで欲しい」と述べている。 自由ソフトウェアは、著作権を放棄した「パブリックドメインソフトウェア」とは異なる。一見矛盾しているように見えるかも知れないが、自由ソフトウェアは(自身が自由であるための手段として)著作権を明確に主張し、そのライセンスの文中で自由を規定するという方法を取っている。 このため、あるソフトウェアが、自由なソフトウェアである場合には、自由であることを、ライセンスで明確に示しており、確認することができる。ライセンスが、例えばGPL、LGPL、GFDL、BSDライセンス、X11ライセンスなどであれば、自由なソフトウェアである。 現在、GNU/Linuxとして知られる自由ソフトウェアのオペレーティングシステムのプロジェクト:GNUを始めるに当たって、作られるソフトウェアの自由を保証するために、自由ソフトウェアの概念を定義した。GNUは自由ソフトウェアのみで構成されるというわけである。 自由ソフトウェアとして認められるライセンスには、二通りある。 コピーレフトな自由ソフトウェアのライセンス 再配付/改変後のソフトウェアも自由ソフトウェアにする必要があるライセンス。 GPLやLGPLなど。 コピーレフトではない自由ソフトウェアのライセンス 再配付/改変後のソフトウェアを自由ソフトウェアにする必要のないライセンス。 BSDライセンスなど。 自由と無料の比較 ソースコードが公開されなければ、自由なソフトウェアではない。ソフトウェアを自由に変更・配布することはソースコード無しには極めて困難だからである。 しかし、ソースコードが付属していても、ソースコードを改変したり配布したりする自由が制限されていれば自由なソフトウェアとは言えない。 自由なソフトウェアは、そのソフトウェアが仮に有料で取得されたとしても、それを無料でコピーすることを制限しない。また、同時に、自由なソフトウェアは、それを有料で販売することも制限していない。「自由」には有料で販売する自由、無料でコピーする自由が含まれている。したがって、「有料なので自由なソフトウェアではない」という判断は間違いである。例えばLinuxディストリビューションに有償のものも多いように、自由なソフトウェアを集めてそれらを有償で販売する製品形態は定着してきている。 自由なソフトウェアは、有用なものであれば大抵はそれを無料で配布しようとする者が現れる。勿論、無料で配布することは自由である。その意味では自由なソフトウェアには無料という意味でもフリーなものが多い。 関連する概念 コピーレフト 自由なソフトウェアが、永続的に自由であるための概念としてコピーレフトがある。 コピーレフトとは、配布にあたって「配布される人にソースコードを自由に取得・変更・再配布する権利を提供せずにプログラムの再配布をしてはいけない」という制約をつけることで一旦自由ソフトウェアになったソフトウェアは他人の手を経て再配布されても自由ソフトウェアであり続けることを保証する。 この制約の有効性はプログラム著作者の著作権(コピーライト)によって保証されている。rightをleftに置き換えてコピーレフトという語が作られた。 日本においては、コピーレフトの観念を"永久に無料で更新され続ける"かのようなイメージで語られることがあるが、コピーレフトは、ソフトウェアを"永続的に使う機会を保証する"ために、そのソフトウェアのもとになるソースコードの利用の自由を保証する(させる)だけである。エンドユーザが常に改良されたソフトウェアを使えるかどうかとは無関係である点に注意が必要である。 要するに、私有ソフトウェアは、なんらかの事情で権利主が更新が停止した場合、そのソフトウェアの命脈は文字通りそれまでであるが、コピーレフトであれば、ソースコードを改良する人がいる限り、ソフトウェアの更新も継続される、ということである。逆にいえば、コピーレフトであっても、誰もメンテナンスしなければそのソフトウェアはそのままであるし、実際にそういうソフトウェアは多い。 コピーレフトもまたGNUを始めるに当たって、より自由なソフトウェアを定義するための概念である。GPL/LGPLは、コピーレフトを実現する法的に有効なライセンスで、弁護士の協力の元に作られた。 ソフトウェアに例えて言えば、コピーレフトは「アーキテクチャ」であり、GPLはその「実装」ということになる。つまり、コピーレフトを実現するライセンスにはGPL以外にもあり得る。 コピーレフトやGPL自身が、実社会で動作するコンピュータプログラムのようなもので、天才プログラマのストールマンならではの作品だと言える。自由な社会を作り出すプログラムである。「GPLをあなたのソフトウェア/作品に組み込めばそれは、自由な社会を作り出すために自動的に働き始めますよ」というわけだ。 GNUなどの考え方としては、コピーレフトなライセンスが「自由な世界のソフトウェアは自由を失うことが難しい」という意味で、より自由ということになる。 これに対して、BSDを始めとしたコピーレフトではないライセンスは、「自由なソフトウェアが将来自由を失う可能性があり得る」という意味で、コピーレフトに比べて自由さに欠けるとされる。例えば、BSDライセンスで公開されているソフトウェアを改良して公開するとき、必ずしもソースコードを公開しなくても良い。コピーレフトの考え方によれば、このとき「改良されたバージョンは自由が失われている」とされる。 一方、コピーレフトは「自由であること」が失われないために「自由でなければならない」という制約を付けていると見ることもできる。例えば、コピーレフトなソフトウェアを改造して公開する場合、ソースコードの公開を拒むことはできない。コピーレフトなソフトウェアをBSDライセンスで公開することもできない。この意味で、「コピーレフトは制約が強く、BSDライセンスなどに比べて自由でない」と考える人もいる。 詳しくはGNUプロジェクトの「さまざまなライセンスとそれらについての解説」に自由ソフトウェアとして認められるライセンスの一覧があり、必要に応じて更新されている(日本語版は英語版に比べて更新が遅れるので、最新の情報を得る必要があるときは、英語版を参照のこと)。 オープンソース Free softwareという言葉は「無料」を連想させるため、一般企業には採用されにくい考えかたであった。この状況を改善させるため、エリック・レイモンドらによって近年オープンソースという語が提案され、広く使われるようになった。オープンソースという言葉には自由の思想が含まれておらず(前述の状況を回避するため意図的に避けられている)、あくまでビジネス上の企業戦略の一つとして紹介された。「ソースコードを公開するとどういうメリットがあるか」が関心の中心である。 オープンソースはソースを取得、変更、再配布できることに注目し、ソフトウェアの自由を維持するためのコピーレフトの概念は含まれていない。 このような違いから、自由ソフトウェアとオープンソースの立場は別の物として扱われている。形としては、オープンソースは自由ソフトウェアの一部のように見えるが、意味としては全く違うと、リチャード・ストールマンは主張している。逆にオープンソースは、自由ソフトウェアをその一部として含む。 各ライセンスはオープンソースの概念を発表・定義し、推進する団体であるOpen Source Initiativeによる認証を受けることで「オープンソース・ライセンス」を名乗ることができる。しかしオープンソースは流行語になったため独自の解釈による自称オープンソースが複数存在するため問題となっている。 産業としての自由ソフトウェア 自由ソフトウェアが提唱された当初は批判意見もあり、利用者は研究者や個人に限られていた。 1990年代になると、インターネットの爆発的普及により、自由ソフトウェアに携わる技術者が世界的に増大した。また、ダウンサイジングとオープンシステムの普及により、情報システムにおける標準化とコストの劇的な低下が起こり、相対的にシステム構築や、保守運用のコストの比重が増加した。 このため、自由ソフトウェアを使用し、情報システムの構築、保守運用を行うことで利益を上げるベンチャービジネスが勃興した。 このような企業において独自に行われた、バク修正や機能の追加は、インターネットを通じ公開され、自由ソフトウェアの信頼性向上や高機能化に貢献した。企業も、社会貢献によるイメージアップと、技術力を示すことによる広告効果を期待することよりも、特定の高価な独占ソフトウェアでは利益が独占企業に集中するだけであり、対抗して作られてきた自由ソフトウェアに積極的に開発に携わることにより、利益確保の道を模索している。あるいは、開発、保守の費用負担ができなさそうなソフトウェアを自由ソフトウェアとしてソースコードを公開することより、固定的な費用負担を削減することを目的としている場合もある。 2000年代になると、自由ソフトウェア産業はエコシステムとして機能するようになり、多くの人から産業としての価値を認められるようになった。また、従来からの大企業が自由ソフトウェアに関わることも珍しくなくなった。 一方、現在でも自由ソフトウェア開発では、特許などの知的所有権の保護が十分検証されておらず、企業での利用にはリスクがあると批判されることがある。しかし、国際規格などの公開の規格類に適合していれば、特許・知的所有権は規格制定とその後の所定の期間で検証済みとなるため、企業での利用にリスクがあるとは限らない。保守運用で利益を上げることが難しい個人向けソフトウェアでは、有償の自由ソフトウェアの運用は進んでおらず、個人の自己責任での利用が広がっている。また、自由ソフトウェアが入っていることを知らずに利用している場合の方が多くなっている。 脚注 関連項目 自由ソフトウェアの定義 フリーソフトウェアライセンス フリーソフトウェア財団 FLOSS(Free/Libre and Open Source Software) デジタル権 参考文献 リチャード・ストールマン『フリーソフトウェアと自由な社会 Richard M. Stallmanエッセイ集』アスキー ISBN 4-7561-4281-8 外部リンク 自由ソフトウェアとは? GNU プロジェクトの概要 GNU プロジェクトの思想 「フリーソフトウェア」が「オープンソース」より好ましい理由 Debian フリーソフトウェアガイドライン (DFSG) - Debian プロジェクトによる、何をもってフリーソフトウェアと言えるのかの妥当な定義。 “free software”という用語の各言語訳 - "フリーソフトウェア"の定義に大きく関わるFree Software Foundationの主催するGNUプロジェクトにおける訳語のポリシーを示している。"Free Software"という語の日本語訳を"自由ソフトウェア"としている。 ソフトウェアの分類
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%8F%B2
西洋美術史
西洋美術史(せいようびじゅつし)では、西洋における美術の歴史について概説する。 古代 原始美術 旧石器時代後期に入った頃より、実生活において有用に機能するとは考えにくい遺物・遺構が見られるようになり、これらを総称して一般的に原始美術/先史美術などと呼称し、西洋美術史においては洞窟絵画や、、獣骨などに刻まれた刻線画などがこれに該当する。また、実用品からも動物や魚の骨などを原材料とした器物や石器類などに動物や魚類、木の葉などを写実的に模様化したものが残されており、美術の目覚めを感じさせる。ただし、これらを原始美術と分類し、その地位が確立されたのは20世紀に入ってからである。 古いものはオーリニャック期に生み出されたとされ、フランスの に描かれた山羊の洞窟絵画、スペインのに描かれた鹿の洞窟絵画などが知られている。 動産美術としてはブラッサンプイで出土した象牙彫りの女性頭部像がある。人間を表した作品はたいていの場合裸体女性であり、子孫繁殖を祈念した宗教的意味合いが込められていたと推察される。この時代の美術的特徴としては、単純な輪郭線による写実的な表現や生殖機能を強調した表現が挙げられる。ソリュトレ期の洞窟絵画は発見されていないが、マドレーヌ期 に入ると動物の体毛に応じた明暗の使い分けや、肥痩のある輪郭線を使用した表現力の増した洞窟絵画が出現するようになっている。有名なものとしてはラスコー洞窟やアルタミラ洞窟のものが挙げられる。これらの洞窟絵画では野牛、トナカイ、馬、マンモス、鹿などの狩猟対象となった動物のモチーフが主となっていた。 このため、これらの遺例はヨーロッパ大陸を拠点に生活を営んでいた狩猟採集民族の手によって作成されたものであり、彼らにとって重要・貴重なものを対象として造形的に再現したに過ぎず、後年の美術が獲得していった社会的機能は持っていなかったのではないか、あるいは誰かに見せるために描いたものでは無いのではないかと考えられている。 中石器時代には東スペインで興った様々な動物と人間を描いた岩陰絵画(レバント美術)やスカンジナビア半島からロシアにかけて発達した岩陰線刻画(極北美術)が登場した。初期のものには写実的な表現でもって実物大に近い大きさを有しているものも見られるが、時代を追うごとに形像は小型化し、簡略化・形式化が進んでいる。 新石器時代に入ると人類は土器の製作を始め、線状模様が土器表面に描かれるようになった。この時代に洞窟絵画に見られるような絵画的美術が創出されたのかどうかは今となっては不明であるが、『西洋美術史要説』では制作そのものが少なかったのではないかと推察している。また、土地土地によって建設されたであろう木造住居は残されておらず、美術史的な立場からこの時代の建築遺物としては、メンヒル、ドルメン、ストーンヘンジなどといった宗教的な意味を持っていたと考えられる石製構造物のみである。 後世、20世紀あたりになって、原始美術に影響されに繋がる。 メソポタミア美術 ティグリス・ユーフラテス川水域で開花したメソポタミア文明では、原始農耕社会の中で様々な器形とユーモアな装飾モチーフを特徴とする彩文土器の出現が見られた。特にサーマッラー期やハラフ期の彩文土器は従来の幾何学文様に加えて特徴を極端に誇張した動物文様や人物文様などが加わり、社会の広がりと異なる文化との交流を示している。地域的な事情から石材が乏しかったことから大型の彫刻は制作されず、建築文化も煉瓦の使用やアーチ式建築の技法発達が見られた。ここで誕生したメソポタミア美術は、エジプト美術と並んで西洋美術史における始祖とも言える。 紀元前4000年期に入る頃にはシュメール人たちによって神殿を中心とした都市が形成されるようになり、商業の活発化とともに絵文字などの伝達手段が登場するようになった。特にウルク期の中心的役割を担ったエアンナでは陶片によって壁面や柱がモザイク装飾された神殿が登場し、大理石を素材にした丸彫彫刻が数多く制作された。大理石が持つ白い肌触りと柔らかな質感は人間の肉感を表現するのにうってつけであり、素材に大理石を使用するという手段はギリシア美術へと継承された。 に入ると礼拝者や聖職者を象ったと思われる立像が制作されるようになり、同時に、政治的指導者の出現によって都市国家としての発展が見られるようになった。制作される美術品は写実的な表現が大きく発達し、素材も多様化して金、銀、ラピスラズリ、貝殻などが用いられるようになった。また、叙述的な表現技法も見られ、戦争などの国家的な出来事も作品モチーフとして取り入れられるようになっている。この時代の彫刻は『エビー・イルの像』に代表されるように、強調された大きな目を有していることに特徴があり、エジプト美術にも影響を与えている。 セム人の侵攻によってアッカド王朝が樹立すると、自然主義的な傾向を有した作品が制作されるようになり、同時に、権力者を称えるような王権美術とでも形容すべき様式の確立がなされた。アッカド王朝滅亡後、ウルクによるシュメール都市国家の統合がなされた頃には都市の再建に伴ってジッグラト(聖塔)が各地に建設され、宗教観の発展とともに建築分野の美術が大きく発達した。ジッグラトは後に続くエジプト美術で建設されたピラミッドの原形となった。 一方、メソポタミア北部のアッシリアでは、バビロニアの占領支配によって固有の文化的発展を遂げ、美術作品においても他の地域にない独自性を有するようになった。トゥクルティ・ニヌルタ1世の時代に入った頃から丸彫彫刻や浮彫彫刻などが数多く制作されるようになり、躍動感のある表現が見られるようになった。 また、地理的な環境と版図の拡がりから不透明ながらもアッシリアの美術はフェニキア美術やギリシア美術に一定の影響を与えたと考えられている。アッシリア帝国滅亡後に誕生した新バビロニア帝国ではネブカドネザル2世の手によって都市整備が進展し、イシュタル門に代表される彩釉煉瓦で装飾された建造物が登場した。 その後、アカイメネス朝によって各地が統治されるようになるとメソポタミア、エジプト、ウラルトゥなどの美術様式を統合したが開花した。特に工芸の分野でその特質は顕著で、金銀象嵌などを駆使した精微な作品が数多く制作されている。 エジプト美術 ナイル川流域で興ったエジプト文明は肥沃な大地を背景に大いに発展し、初期王朝時代にはエジプト美術の原型が誕生した。エジプト美術の初期は の影響を受けたと考えられている。初期は蛇王の碑などに代表される浮彫彫刻や丸彫彫刻がさかんに制作され、既に技術、様式においてエジプト美術の独自性の原形が垣間見える。 ファラオの神権的権力が確立する古王国時代には葬祭複合体として古代史においても重要な建築物であるピラミッドがギザなどに建立された。なお、従来の墳墓(マスタバ)の概念を取り払い、ピラミッドとして確立を見たのはジェセル王の時代であり、宰相イムヘテプによってサッカラに建立された階段ピラミッドがその嚆矢とされている。壁画においてはなど、動植物には写実的で精微な表現を有したものが数多く制作されているのに対し、人像表現は極めて形式的かつ概念的で、上半身は正面向き、下半身は真横からといった形態で表現されていることが多い。 これは、魚や鳥は死者の食料としての役割を担っており、生きの良さが重要だったのに対し、表された人々は王侯に奉仕する労働力として永遠不動の形を要求するというエジプト独特の信仰から来る表現の違いであると推察されている。 中央集権が瓦解し、中王国時代に入るとアメンエムハト3世の時代に入るまで巨大建造物の造営は見られなくなり、代わってオシリス柱やハトホル柱など、独創的な形式を有する葬祭殿や神殿が出現した。彫刻においては第11王朝期ごろから個性を写実的に捉える傾向を持った新しいテーベ様式が出現し、従来の伝統的なメンフィス様式とともに二大潮流を形成した。しかしながら経済の停滞とともに制作傾向は大型石像彫刻から木製の小像へと変化している。 新王国時代に入ると王権の強化とともにエジプト美術は絶頂期を迎え、アモン大神殿やルクソール神殿など、テーベを中心に各地で大型の造営事業が推進された。とりわけ、第18王朝期には従来の二大潮流の中に豪華な装飾性と色彩主義が加えられ、宮廷美術の新境地を切り開いた。 また、アマルナの地に都を移したアメンホテプ4世が唯一神アトンへの信仰に没頭したことから、この時代に制作された美術作品は自然主義的な傾向が色濃く反映されており、エジプト美術のなかでは異彩を放っている。宮廷美術として型にはめられ、厳格な形式性から解放されたことから、リアリズム表現の技法が大いに伸張した。王女に口付けをするアメンホテプ4世の彫刻画など、人間の感情や情愛をモチーフとした構図が採用され、表情や姿態に誇張的な表現がとられた。 この時代の美術をそれ以外の時代のエジプト美術と区別し、アマルナ美術と呼称する。アマルナ美術は後世のエジプト美術にも大きな影響を与え、ツタンカーメンの黄金マスクなどにおいても、アマルナ美術の内観的な表現様式の名残が見て取れる。 エジプト美術の最大の特徴はその様式の不変性で、三千年に及ぶ悠久の時を経てもほぼ変わることなく一貫していることが挙げられる。こうして連綿と継承された技術はその洗練性を高め、後期には沈浮彫りなどの高度に発達した特殊な技法が誕生している。一方でこうした不変性は社会的・歴史的基盤があって初めて成立する特殊な美術であったこともまた事実であり、ギリシア美術のような影響力を他の美術に与えることはなかった。しかし、末期王朝時代に入ると王国の衰退とともにエジプト美術も因襲的な模倣に終始し、他国からの影響を受けながらその独自性すら失っていった。紀元前332年、アレクサンドロス3世によってエジプト征服がなされると、エジプト美術は形骸化し、ギリシア美術の影響の中に消えていった。 ギリシア美術 アーサー・エヴァンズのクノッソス発掘によって、地中海域で最初に開花したとされるクレタ美術()の解明がなされた。新石器時代末期から青銅器時代初頭にかけて、キュクラデス諸島などで人体の特徴を簡潔に捉えた石偶や彩色土器、金属器などが制作されている。旧宮殿時代に入ると農業と海上貿易によって都市は経済的に大きく発展し、マリア、クノッソス、アヤ・トリアダなど各地に荘厳な宮殿が造営された。工芸品も数多く制作され、カマレス陶器のような豪華なものも出現している。 紀元前1700年頃に発生した大地震により一時は壊滅の危機に陥るが、新宮殿時代に入るとより複雑で豪華な装飾を持つ宮殿や離宮が建立された。自然と人類を見事に調和させ、自由闊達に描いた壁画が残されており、こうした作風はペロポネソス半島で隆昌したミュケナイ美術へ受容、継承された。紀元前1400年頃に入ってミュケナイ人がクレタ島を征服すると、ミュケナイ美術は最盛期を迎え、後のギリシア建築に大きな影響を与える建造物が複数建築された。 ミュケナイ美術は時代を経るに従って豊かな自然主義的作品から簡素化された装飾モチーフを用いた形式主義的作品へと変遷しており、その理由については明らかになっていない。その後、紀元前12世紀頃のドーリス人大移動を境に衰退期へと移行し、ミュケナイ美術はその幕を閉じることとなった。 紀元前11世紀中ごろ、アテネのケラメイコスからミュケナイ陶器とは異なる特徴を持った陶器が出現した。黒線や水平帯によって区分した装飾帯に波状線や同心円文を配した構築的な装飾を持ったこれらの様式は原幾何学様式と呼ばれ、ミュケナイ美術とは明確に区別されるようになった。 紀元前925年頃になるとこの傾向はより顕著に現れるようになり、紀元前8世紀前半に登場したディピュロン式陶器はメアンダー文、ジグザグ文、鋸歯文、菱形文などを複雑に組み合わせた装飾が配されている。 こうした幾何学的な構想は陶器の文様に限らず、テラコッタや青銅小彫刻などにおいても同様の傾向が見られ、動物や人間などの各部位を幾何学的形態に置き換えた後に全体を再構築するという過程を経て制作されており、有機的形態の分析による認識法や、部分均衡と全体調和によるギリシア美術固有の造形理念が見られる。以上のような経緯を経てギリシア美術は確立に至るが、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが記した『古代美術史』に代表されるように、ギリシア美術こそが西洋美術のはじまりであるとする言説も存在している。 その後、エジプト、アッシリア、シリアの東方から持ち込まれた工芸品を通じて、ギリシア美術における装飾モチーフの表現領域が大きく拡大し、、ロータス、ロゼットなどの植物文やスフィンクスなどの空想動物が用いられるようになった。プロト・コリントス式陶器やコリントス式陶器など、こうした装飾モチーフを利用して制作された作品はギリシア美術の中でも特に東方化様式と呼称し、区別されている。 一方、アテネでは叙事詩や物語への関心が高まったことによりこれらをモチーフとした陶器や彫刻が制作され、これらはやがて神話表現へと昇華していくこととなった。紀元前7世紀に入るとエジプト彫刻の影響で大掛かりな彫刻が制作されるようになり、この頃作られた男性裸体像()は既に両足を前後させて体重を均等に支えるポーズをとっており、ギリシア彫刻としての特徴が見て取れる。 ここまでに培われた表現基盤と技術的要素を背景として紀元前7世紀中盤ごろよりギリシア美術において最も創造力に満ちたアルカイック美術が展開された。人体彫刻はより自然な骨格と筋肉をまとったものへと発展し、神殿建築分野ではこれまでの日干煉瓦や材木に代わって石材が使用されるようになり、に代表される周柱式神殿が誕生した。紀元前6世紀にはサモスのヘラ神殿やエフェソスのアルテミス神殿など、イオニア式オーダーによるより巨大な神殿が建立されるに至り、これに伴う建築装飾技法が大いに発達した。 浮彫彫刻では静止像に動性を、運動像に瞬間の静止を表現できるよう試行錯誤が繰り返されるようになり、その過程でアルカイックスマイルなどの立体表現が生み出された。なお、ギリシア美術で好んで使用された素材である大理石の色によってギリシア彫刻の特徴としてその「白さ」が取り上げられることがあるが、制作当時はエジプトから輸入された顔料などを用いて鮮やかな彩色が施されていたことが近年の研究によって明らかになっている。 陶器画の分野ではアッティカがコリントス式陶器の技法を吸収して黒絵式技法を確立し、フランソワの壺に代表されるような、神々や英雄の神話的場面を描出した作品が制作された。アマシスやエクセキアスはこの技法をさらに洗練させ、前者は人間味溢れる神々の姿を、後者は重厚な筆致で崇高な神々の姿を描き出し、神人同形(アントロポモルフィズム)という観念を確かなものとしている。その後、黒絵式陶器画は赤絵式陶器画へと転換していき、より細部にこだわった絵画的な表現がなされるようになった。こうした技法発展の背景は、板絵や壁画といった新しい芸術表現に対する絵画的探究の表れだったのではないかと考えられている。 紀元前5世紀初頭に入ると、ポリュグノトス (:en:Polygnotos (vase painter)) やといった画家によって「トロイアの陥落」「マラトンの戦い」などの神話歴史画が描かれ、大絵画というジャンルが確立するに至った。四色主義(テトラクロミズム)という制約の下、形像の重複や短縮法といった技法を駆使することによって絵画上に奥行きのある空間表現を試みており、絵画、彫刻におけるギリシア美術の進むべき方向性を示したという意味で特筆すべき存在となった。彫刻分野の作品においては、それまでの直立不動の姿態から支脚/遊脚の概念を取り入れたコントラポストへと変化しており、やなどが制作された。 この時代、ペルシアを撃退し、ギリシア世界の覇権を獲得したアテネは最盛期を迎え、ギリシア美術もそれにあわせてクラシック時代という新しい領域へと突入することとなった。ペリクレスによってアクロポリスの整備が推進され、オリンピアのゼウス神殿やパエストゥムのポセイドン神殿で培った技術にイオニア的な優美さを付加したパルテノン神殿が建立される。彫刻分野ではパルテノン神殿の造営を指揮したフェイディアスによってアテナ・パルテノスの黄金象牙像が制作された他、ポリュクレイトスによって体中線をS字に湾曲させるなどの技法が生み出され、コントラポストの極致が確立された。絵画の分野ではアポロドロスによって空間表現に不可欠な幾何学的遠近法、空気遠近法の融合化を図った作品が制作された。その他、明暗技法に優れた才能を発揮したゼウクシス、性格表現と寓意的表現に優れていたパラシオスなどがギリシア美術における絵画の発展を牽引している。 クラシック時代後期に入ると個人主義が台頭し、美術界においても多大な影響を与えた。彫刻分野ではプラクシテレス、スコパス、リュシッポスが静像に内面性を付加させた表現技法を生み出すとともに、裸体女性像の価値を大きく引き上げることに貢献した。アレクサンドロス3世の宮廷彫刻家としても知られるリュシッポスは肖像彫刻の分野でも優れた作品を残しており、後世やローマ美術の彫刻家達に大きな影響を与えた。同じく宮廷画家であったアペレスは明暗法、ハイライト、遠近法を駆使した大絵画を創出し、古代最大の画家と評価されている。 アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動、人口流動が活発化すると美術の産業化が顕著となった。富裕層の市民が住宅を壁画で装飾して彫刻で彩ることが流行化し、古典主義美術の伝統が一時的に途絶えることとなった。こうした現象についてローマ時代の文筆家大プリニウスは「美術は紀元前3世紀第2四半期に滅亡し、紀元前2世紀中頃に復興した」としている。 ローマ美術 一方、イタリア中部に定着したエトルリア人は、ギリシア美術の影響を受けつつも、独自の宗教観や社会制度を背景に独特の美術文化を形成した。一般にエトルリア美術は東方化様式期、アルカイック期、古典期(中間期)、ヘレニズム期の4つに分類されるが、もっとも繁栄を見たのが紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀前半にかけてのアルカイック期130年間である。 都市や建築の遺構は少ないが、ギリシア美術で頻繁にモチーフとされた神話を描いた陶器などが出土している他、墓室壁画においては葬儀宴会、舞踏、競技、狩猟など日常生活に密着したモチーフが好んで選択されており、エトルリア人独自の来世観を保持していたことが伺える。紀元前7世紀から顕現したこうした兆候はヘレニズム期まで継続していた。彫刻分野も遺例が少ないものの、紀元前6世紀末に活躍したはエトルリア人彫刻家として名が知られている特筆すべき人物で、ヴェイオから出土した「アポロン」など、イオニア彫刻の影響を強く受けたテラコッタ像を制作している。 紀元前5世紀初頭の古典期に突入すると政治、経済の衰退と共に美術的活動も新鮮味と活力が失われ、様式的にも停滞した。しかし、ヘレニズム期に入ると来世観に進展が見られ、やといった魔神が墓室壁画のモチーフとして選択されることが多くなった。肖像彫刻においては写実性溢れる作品が好んで制作されるようになった。 紀元前509年、エトルリアに従属していた都市国家のひとつであったローマは、共和制を樹立し、周辺都市国家を征服しつつ紀元前4世紀にはエトルリアをもその支配下に置いた。その過程でエトルリア美術の影響は次第に薄れてはいったが、独自の美術を生み出すには至っていなかった。 紀元前3世紀に入るとサムニウム戦争や第一次ポエニ戦争などの影響により、戦利品として南イタリアのギリシア植民都市から大量の美術品が持ち込まれると、その成熟された美しさに魅了され、第二次ポエニ戦争以降、ローマ下においてギリシア美術ブームが起こった。これによりローマでは従来の伝統的なエトルリア美術と、「外来」のギリシア美術がそれぞれ潮流を成し、社会に氾濫することとなった。ローマ人の需要に応えるべく、創造性には欠けるが様々な様式の彫刻を注文に合わせて制作すると呼ばれる一派が形成され、アウグストゥスの庇護を受けて伸張した。この影響で「アウグストゥスの平和の祭壇」や「プリマポルタのアウグストゥス」といった高度な写実性を有する、洗練された古典主義的な美術品が数多く制作されている。 建築分野では紀元前1世紀前半ごろより、ヘレニズム期のエトルリア美術を基盤としてローマ固有の建築様式を生み出していった。厳格な左右対称性やコリントス式柱頭の多用、内部空間の重視などがローマ建築の特徴として挙げられる。紀元前2世紀前半に建設されたバシリカや紀元前1世紀前半に建築されたコロッセウムなどは、新しい建築ジャンルとしてローマ美術における代表的な建造物としてしばしば取り上げられる。 また、建造物の壁面に描かれた装飾物についてもヘレニズム期の影響を受けるポンペイ第一様式からポンペイ第二様式と呼ばれる装飾法へ移行を果たし、神話的風景画などがさかんに制作された。帝政期に入ると歴代皇帝の事跡を誇示するかのような歴史浮彫が多数制作され、現代ではトラヤヌス帝の記念柱やコンスタンティヌス帝の凱旋門などがその遺構として知られている。 同時に神話的な情景を主たるモチーフとしていた古典主義は衰退し、現実の情景を記した写実主義がもてはやされるようになった。さらに、2世紀中ごろからは主要人物をより強調して表現する傾向が顕著となり、その影響は肖像彫刻などの他ジャンルへも波及した。こうした自然主義の放棄と表現主義の台頭という変遷は、この後のローマ美術がキリスト教美術へと変質化していく過程における重要な転換点として挙げられる。 中世 初期キリスト教美術 紀元2世紀末から3世紀はじめにかけて地中海沿岸の各地にローマ美術の流れを汲んだキリスト教美術が誕生した。以降キリスト教美術は1500年以上に渡って東西ヨーロッパにおける美術の中核を担っていったが、キリスト教の誕生から5世紀後半までの美術を初期キリスト教美術と呼称している。313年に公布されたミラノ寛容令まではキリスト教に対して弾圧が繰り返されていたこともあり遺跡、遺品ともに残されているものが少ないが、カタコンベ(地下墓所)の壁画や石棺彫刻といった葬礼美術にその特徴を垣間見ることが出来る。火葬と土葬が併用されていた古代ローマ時代からヘレニズム文化の影響を受けて土葬へと急激に転換したことが、こうした葬礼美術が制作されるようになった要因の一つとされている。キリスト教では偶像崇拝が禁じられていたことから、死後の魂の救済を願って描かれた初期の壁画は、構図やモチーフに異教美術からの積極的な借用が見られるものの、十字架の形を象徴する物やイエス・キリストを意味する魚、よき羊飼いや祈る人といった寓意的な人物など、間接的または暗示的な信仰の表明が示されている。教義が出来上がり、教会体制が整うにつれて新約聖書や旧約聖書に語られている物語がモチーフとして選択されるようになった。 380年に、テオドシウス1世によってキリスト教が国教として定められると、帝都コンスタンティノポリス、ローマ、アンティオキアなどの各地で大規模な教会堂の建築が実施された。建築様式としてはローマ美術のバシリカから派生したもの(バシリカ式)、ヘレニズム美術の廟墓建築やユダヤ教の記念堂建築の流れを汲むもの(集中式)に大別されるが、いずれも煉瓦造りの質素な外観に対してモザイク装飾を用いた豪華な内観という特徴を持っており、現実的な地上世界と神秘的な死後世界の対照化を試みている。バシリカ式の教会堂としてはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂が、集中式の教会堂ではラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂が、それぞれこの時代に建築された代表的な例として挙げられる。5世紀に入るとキリスト教美術はローマ美術の古典的な様式から豪華な金地や多様な装飾が施された東方的な荘厳美術へと傾倒していった。 ビザンティン美術 330年、コンスタンティヌス1世により帝都がコンスタンティノポリス(現イスタンブール)へ移されたことがきっかけで美術活動の重心も東方へと移っていった。これによって初期キリスト教美術に古代アジアやサーサーン朝ペルシアの美術的要素が融合し、ビザンティン美術が確立された。ビザンティン美術は15世紀までの長きに渡り、大きな変質なく脈々と一貫性を保ち続け、その特徴は荘厳な様式の中に散りばめられた豪華絢爛な装飾性と、精神性や神秘性を追求した理知的な傾向が挙げられる。ユスティニアヌス1世の第一次黄金時代と呼ばれる時期に建築されたハギア・ソフィア大聖堂は、それまでのバシリカ式と集中式の建築様式を統合し、新しい建築類型を確立させた。また、近東の民族美術の影響で装飾モチーフにも変化が見られ、聖樹や獅子、幾何学文様などの象徴的あるいは抽象的な浮彫装飾が好んで選択されており、人像の表現は激減している。さらに、8世紀に入って聖像論争が勃発して聖像否定派が優勢に立ったことで、こうした傾向はますます顕著となり、造形美術分野は一時的な衰退を余儀なくされた。 9世紀後半に興ったマケドニア王朝はその版図を拡大し続け、11世紀にはイタリア南部からスラブ諸国にまで及ぶ大帝国となった。この時代に始まった美術界における栄華をビザンティン美術における第二次黄金時代と呼ぶ。ヘレニズム期の古典的な伝統美術が影響力を強め、教会堂建築もオシオス・ルカス修道院などに代表される、集中式を基盤とした装いへと立ち返っている。工芸美術の分野では「」や「ナジアンゾスのグレゴリウス説教集」といった擬古典的な様式を採用した写本装飾などが制作された。その後、マケドニア王朝の滅亡とともにコムネノス王朝が興ると華やかな宮廷美術と、人文主義的な伝統美術が融合した独特の美術が開花した。代表的な教会堂建築としてはダフニ修道院、などがある。13世紀前半には十字軍の略奪と占領などによって再び停滞期に突入するが、パレオロゴス王朝の時代に入るとコーラ修道院に代表される写実的で繊細典雅な様式が花開いた。 11世紀中葉以降、西方における帝国拠点都市を通じて、ビザンティン美術は西欧美術に大きな影響を与え続け、大構図モザイク装飾を採用した教会堂が各地に建立された。 初期中世美術 476年の西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン諸族の国家が次々と誕生した。ガリアの地においてもゲルマン民族の手によってブルグント王国が成立したが、5世紀後半にクローヴィス1世率いるフランク王国によって滅ぼされた。クロヴィス1世は都をソワッソンへ移し、ローマ文化を積極的に取り入れ、ローマ帝国の継承者としてメロヴィング朝を興した。こうした経緯によって培われたメロヴィング朝の美術は工芸品分野において優れた技術を見せており、ゲルマン民族特有の豪華な装飾と、ガリア土着の伝統が融合した独特の様式を呈していた。また、近東の修道院制度がイタリアやアイルランドを経てもたらされ、大小様々な僧院が建立されている。写本装飾の分野ではメロヴィング朝特有のの書体との「鳥魚文」が多用されると同時に、花や鳥を幾何学的に組み合わせた文様なども確認でき、古代の自然主義的表現様式とは一線を画すものが制作されている。7世紀にはケルズの書に代表されるような、サクソン、オリエント、コプトからの影響を受けた複雑な装飾が施されるようになった。 カロリング朝の時代に入るとカール大帝の手によって学問や芸術の奨励が始まり、美術史的観点において大きな躍進を遂げた。特に彫刻分野においては、北イタリアを中心に発達した組紐文を象徴的に用いた浮彫が各地へ伝播し、後のロマネスク美術の基礎を築いた。写本装飾の分野においてはメロヴィング朝時代に一時衰退した古典的な人像表現が復活し、装飾モチーフとして積極的に使用された。その後、オットー1世によって神聖ローマ帝国が築かれると、西欧文化の主導権を掌握し、文化的傾向の方向性を確たるものとした。 ロマネスク美術 9世紀から10世紀にかけて、ノルマン人やサラセン人などの異教徒の脅威により、カロリング朝はユーグ・カペーへその王権が引き継がれ、フランク王国は事実上の解体をみた。激動する社会情勢の影響を強く受けた西欧美術も同様に再び大きな変革を迫られることとなった。ロマネスク美術は、そうした社会的変動を背景として初期中世美術という基盤を発展させ開花した、11世紀後半から12世紀にかけての西欧美術を指す。 建築分野におけるロマネスク美術の特徴は、重厚な石壁と暗い内部空間に表され、古代バシリカ式建築を基本に添えつつ、東西への方向軸を持った建造物が増加した。これは、聖地巡礼を行う礼拝客の動線を配慮した結果発展した形態であると考えられている。こうした形態を保持する教会堂を巡礼路聖堂と呼び、トゥールーズのなどがその代表的建造物として挙げられる。この時代、修道院は学問と美術の中心的存在を担っており、各会派は信仰の普及手段として教会堂の建設を推進した。その表現手段は多様で、シトー会派が図像を否定し、質素な美術を奨励したのに対し、ベネディクト会派は豪華な素材を用いて美術の荘厳化に注力した。地方によって同じロマネスク美術建築でも特徴が大きく異なるのは、地域に対する会派の影響度の違いを示している。 また、後年のゴシック美術の建築と比較して壁面が多く、教会堂の天井や側壁には聖書や聖人伝を題材とした説話的な壁画が描かれた。地方によって細微な違いがあり、もっとも西方的な様式を確立したのはフランスで、その他の地域は大なり小なり東方的なビザンティン美術の要素を取り込んだ壁画が制作されている。イタリアではカロリング朝の伝統を継承しつつも、ビザンティン美術の範例を手本としながら力強い筆致で描かれているのが特徴で、イタロ=ビザンティン様式と呼ばれるこうした大構図壁画は、やなどに残されている。スペインでは東方的な色彩との影響によって、カタルーニャ地方に独特のロマネスク美術が開花した。また、オットー朝の写本工房の影響力がドイツ南部、オーストリア、スイス北部などではイタリア経由でもたらされたビザンティン美術の要素と融合を果たしたロマネスク美術が確立されている。 工芸分野では十字架、装幀板、燭台、聖遺物箱、祭具といった宗教用具がさかんに作成され、古代の浮彫や彫刻技法を復活させたことに大きな意義を見出すことが出来る。こうした丸彫像ではコンクの聖女フォワの遺物像がその先駆けとなった。その他オットー朝の伝統を汲むドイツや北イタリアの諸工房では、象牙や金を素材とした工芸細工が数多く制作され、フランスのリムーザン地方ではエマイユ工芸が発達し、聖遺物箱や装幀などが制作された。また、バイユーのタペストリーに代表される刺繍工芸が盛んになったのもロマネスク美術の特徴といえる。 ゴシック美術 ロマネスク美術の延長線上に位置付けられるゴシック美術は12世紀半ばごろより始まり、人間的・写実的な表現を特徴とし、ロマネスク美術の象徴的・抽象的な表現とは対照的な様相を呈している。この変革の背景には社会環境の変化が大きな影響を与えたと考えられている。前時代は修道士や聖職者など、限られた人々が文化の担い手であったのに対し、裕福な市民層や大学を拠点とする知識人などの台頭によってその範囲が拡大していったことが、美術の性格を変革させた一つの要因となっている。 こうした精神を如実に物語っているのが建築分野であり、その先鞭はシュジェールによって行われた1144年のサン=ドニ大聖堂改修工事である。シュジェールは信仰を導く手段として「光」の重要性を謳い、尖頭アーチを用いた肋骨交差穹窿とステンドグラスを嵌め込んだ大窓を組織的に活用することで、新しい建築意匠を創出した。この動きはすぐにサンス、サンリス、パリ、ランなどフランスの周辺都市へ伝播し、同様の意匠を保持する大聖堂が相次いで建立された。さらにはフランス人工匠の手によって国外へも波及し、イギリスのカンタベリー大聖堂など、新規建築や改修時にゴシック建築の様式を取り入れたものが登場している。また、ロマネスク建築の重厚な石造天井は重量的な問題から、自ずと「高さ」に対して限界が見えるようになり、これを解消することを目的とした建築方式が誕生し、広く受け入れられることは必然であったとも言える。 装飾彫刻もこうした動きと連動し、円柱人像などの新しい要素が誕生した。これによって古来以降途絶していた塑像性が復活し、自然な丸みを帯びた人像表現へと発展していく嚆矢となった。また、個々の彫像が採用したモチーフを連関させ、全体としての合理性を持たせるといったことも試行されている。こうした特徴もつ装飾彫刻の代表的なものとしては、シャルトル大聖堂の「王の扉口」(西側正門)などが挙げられる。連関思想は、次第に金属細工や彩色写本といった小型の美術品にも傾向として現出するようになった。 12世紀に入るとゴシック建築を採用した聖堂の建立が本格化しはじめ、内部空間構成と建造物の見事な調和が見られるようになった。ブルージュ、シャルトル、ランス、アミアン、ボーヴェといったフランス各地の大聖堂やイギリスのソールズベリー大聖堂、ケルンのザンクト・ペーター大聖堂など壮大な聖堂が各地に建設されている。特に、世界遺産にも指定されているアミアンのノートルダム大聖堂は、その全長が145メートルにも及ぶ巨大な聖堂である。また、物理的制約から解放されたことで、塔や穹窿は高さに対しても追求がなされるようになった。 並行して円柱人像の技法も発展し、13世紀に入ると扉口浮彫から丸彫像への移行が見られるようになった。同時にゴシック彫刻の特長とも言えるS字型に捻った姿態、柔和な相貌、流麗な衣襞といった表現が確立し、古典主義的な思想を孕んだ作品が数多く制作された。さらには14世紀初頭にドイツで制作されたピエタの彫像のような凄惨な場面を主題とした彫刻作品も登場し、表現領域の拡張に大きな足跡を残した。 また、色彩芸術の分野ではステンドグラスによる主題表現が代表的で、シャルトル大聖堂の「美しきステンドグラスの聖母」など、12世紀から13世紀にかけて制作された傑作が多数残されている。写本絵画では個人向けの聖書・詩篇集の制作がフランスやイギリスで活発化し、多くの写本画家がパリを拠点に活動を行っている。中でも『ベルヴィル家の聖務日課書』を制作したは、フランスの優雅な人物表現とイタリアの空間表現を融合させ、パリ派写本と呼ばれる写本の新しい基準様式を確立させたことで知られる。 イタリアではビザンティン美術の影響が根強く、ゴシック美術の浸透が遅れていたが、やピエトロ・カヴァリーニといった大構図壁画家によってビザンティン美術からの脱却が図られるようになり、これを継承したチマブーエやジョット・ディ・ボンドーネ、シモーネ・マルティーニといった画家たちによって段階的に成し遂げられ、後世におけるルネサンスの礎が築かれた。こうした画家の登場した時代を切り出してプロト・ルネッサンス時代と呼称する場合もある。 14世紀に入ると教会の分裂や黒死病の大流行に加えて、百年戦争の影響によって大規模な建築造営が見られなくなった。取って代わるように王侯貴族の邸宅や都市の公共施設といった世俗的な実用建築が行われるようになり、用途や地域に即した分極化が進行した。14世紀後半には骨組の構造が複雑化し、装飾的に入り組んだ肋骨構造や曲線を絡み合わせた狭間造りといった特徴が見られるようになる。ルーアンのノートルダム大聖堂はこの時代の代表的な作例と言える。 また、絵画は14世紀の後半から芸術において主導的な立場へ昇華した。西欧各地の宮廷に展開された絵画芸術は国際ゴシック様式と呼ばれ、アヴィニョンで興ったシエナ派の流れを汲む、自然観察に基づく正確な細部の描写と豪奢な宮廷趣味を特徴としている。イタリアのピサネロは国際ゴシック様式の代表的な画家であり、『エステ家の姫君の肖像』など、幻想性豊かな作品を制作している。フランスではパリ、ブルージュ、アンジェ、ディジョンなどで国際ゴシック様式が開花し、1355年頃に描かれたとされる『フランス国王ジャン善良王の肖像』は俗人を描いた単身肖像画としては最古のものとして知られている。ディジョンにはフランドル出身の画家や工人が多く住み着き、メルキオール・ブルーデルラム、ジャン・マヌエル、アンリ・ベルショーズといった宮廷画家がフランコ=フラマン派の作品を数多く生み出した。 その他、装飾写本の分野ではネーデルラント出身で写実的な自然描写と精妙な装飾性を有した写本の制作を得意とするランブール兄弟が知られており、『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』はこの時代の写本芸術の最高峰とされている。ランブール兄弟の作品は15世紀のパリ派写本工房へ大きな影響を与えた。 近世 イタリア初期ルネサンス美術 ルネサンスは「再生」を意味するイタリア語 rinascita から派生した呼称であり、古典古代文化の復興という思想のもと、ギリシア美術やローマ美術の復活と自然の美や現実世界の価値が再発見され、人間の尊厳が再認識された時代を指す言葉となった。イタリアの建築家で人文主義者であったレオン・バッティスタ・アルベルティは「意思さえあれば人間は何事も為し得る」という、人間の可能性に絶大な信頼をよせた言葉を残しており、ルネサンス美術の根底に流れる人間中心主義という世界観を見事に表現している。こうした思想は15世紀前半、市民階級がいち早く台頭した都市フィレンツェで芽生えた。 建築分野ではサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の円蓋設計を手がけたフィリッポ・ブルネレスキの名が挙げられる。ブルネレスキの設計した聖堂は、ゴシック様式の建築からの明確な離脱を示し、バシリカ式聖堂のエッセンスを取り入れつつも調和と秩序を重要視した人間中心的世界観を体現しており、15世紀にフィレンツェで確立されたルネサンス建築の代表的な作例となった。こうした理念はアルベルティへ継承され、その理念を元に執筆された三大著作(『絵画論』『彫像論』『建築論』)は同時代を含む後世の芸術家たちに絶大な影響を与えることとなった。また、古代ローマ建築の実測を行うことで、科学的遠近法を発見したことでも後世に大きな影響を残している。 ブルネレスキの死後はアルベルティが台頭することとなる。フィレンツェから追放された商人の息子であったアルベルティはローマ教皇庁や諸侯の顧問として西欧各地を歴訪しており、こうしたルネサンス様式がヨーロッパ全土に伝播する間接的な貢献をしていたとも言える。15世紀半ばに入り、共和制の理想が鳴りを潜め、豪商が町の政治を取り仕切るようになると、大富豪の市内邸宅(パラッツォ)の建築が相次ぐようになった。ミケロッツォ・ミケロッツィが建設したメディチ家の市内邸宅(パラッツォ・メディチ・リッカルディ)は秩序と安定を志向するルネサンス建築の思想が表現されたパラッツォの代表的な作例である。 彫刻分野は古代思想の復活という理念が色濃く示された分野であり、ブルネレスキの『アブラハムの犠牲』など、優雅なゴシック彫刻の伝統を打破する力強い人体の把握や細微な写実性を有した作品が数多く登場した。この分野において、国際ゴシック様式からの脱却を試みた最初の彫刻家はの『4人の聖者』などで知られるであると言われている。古代ローマ以降で初めてコントラポストを採用し、オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』を発表して頭角を現したドナテッロは、『預言者ハバクク』『ダヴィデ』など古代ローマの作風の復活に心血を注ぎ、ルネサンス彫刻の方向性を決定付けた。特に『ダヴィデ』は二本足で立つ孤立像というジャンルで裸体表現を取り入れたという点において特筆すべき作品となっている。ドナテッロの確立したルネサンス彫刻の様式はその後ヴェロッキオやミケランジェロへ受け継がれていくこととなる。その他、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の『カントリア』を制作したルカ・デッラ・ロッビア、後期ゴシック様式を学びながらも『天国の扉』に見られる透視図法を確立したロレンツォ・ギベルティ、墓碑彫刻や写実的な胸像で新境地を開拓したロッセリーノ兄弟(ベルナルド・ロッセリーノ、)などが代表的な彫刻家として知られている。 建築や彫刻分野と比較して絵画分野における革新性の確立は若干遅く1420年代前半ごろであり、これは古典古代における手本とすべき遺品がこの当時ほとんど知られていなかったことが影響していると考えられている。1421年にフィレンツェへ移住してきた国際ゴシック様式の画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノが制作した『マギの礼拝』に僅かながらその片鱗を見ることができるものの、空間に対する配慮は乏しく、目新しさはあまり無い状態であった。しかし、マサッチオの登場により、情勢は一変した。ジョット・ディ・ボンドーネがかつて確立した僅かばかりの空間表現に、光の明暗によって量感を表現する手法が融合され、より奥深い空間を手に入れることに成功したのである。 さらに、ブルネレスキやアルベルティによって合理的な透視図法の理論が構築されると、多くの画家がその刺激を受けて次々と実験的な作品が誕生した。彩色や光の扱い方が拙いながらも透視図法の研究に没頭し、『ジョン・ホークウッド騎馬像』や『サン・ロマーノの戦い』などの作品を発表した国際ゴシック様式の画家パオロ・ウッチェロはその最たる例である。その後、修道僧画家のフィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコらによってマサッチオの様式が取り入れられる。リッピは日常的室内に聖母子を配置したネーデルラント風の絵画を制作した他、人間中心主義を根底に世俗的かつ官能的な聖母や肉感的なイエスなどを描き出している。『受胎告知』などの作品で知られるフラ・アンジェリコは1430年代以降においてマサッチオの空間表現や明暗描写を積極的に取り入れた宗教画を多数制作した。正確な一点透視図法を採用し、聖会話形式(サクラ・コンヴェルティオーネ)の表題を確立したドメニコ・ヴェネツィアーノもマサッチオの影響を受けた画家の一人である。 15世紀後半に入るとフィレンツェで熟成されたルネサンスはイタリアの各都市へ波及していくこととなった。そして、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロやイザベラ・デステといった人文主義的な君主の治世によって、各都市で豊かな文化活動が育まれた。南トスカーナのアレッツォ、およびトスカーナ公国で精力的に作品制作に没頭した数学者で画家のピエロ・デラ・フランチェスカは、15世紀中期における最大の巨匠として知られ、『聖十字架伝説』に代表されるフレスコ壁画の分野では、一切の無駄を排除し、幾何学的とも言える明晰で秩序立った画面を構築している。 一方、絵画・彫刻双方の主題に「動勢」が取り入れられるようになり、アントニオ・デル・ポッライオーロによる力を孕んだ写実的な筋肉の描写や、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』に代表される解剖学的知識を導入した生々しい人体表現を持った作品が登場するようになったのも15世紀後半の出来事であった。また、富の蓄積とこれに伴う趣味の贅沢化によって優美で装飾的な様式を持った作品が流行を来し、サンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』に代表される恥美的世界観を表現した作品が生まれている。その他、アンドレア・マンテーニャやジョヴァンニ・ベリーニもフィレンツェ以外に活動の拠点を置いた同時代の画家として知られ、ルネサンスの波及を象徴している。 15世紀末期には教皇分立時代以降沈滞していたローマにおいても、ボッティチェッリ、ギルランダイオ、ペルジーノらによってシスティーナ礼拝堂の壁面装飾事業が行われるなど、ローマ法王主導の下、旺盛な芸術活動が展開された。1492年にロレンツォ・デ・メディチが没し、フィレンツェが禁欲的なジロラモ・サヴォナローラの支配下に置かれたことによってローマの芸術活動はさらに盛り上がりを見せ、16世紀にはイタリア美術の中心地へと発展していくこととなる。 15世紀の北方美術 ブルゴーニュ公国に属していた15世紀のネーデルラントでは、毛織物工業の発展と国際貿易の振興によって市民階級の台頭目覚しく、豊かな経済と文化が形成された。特に、フランドル地方で発祥した油彩技法は発色に優れ、精緻な質感描写や視覚的世界のリアルな再現を可能とし、西欧全土へと伝播して今日までの揺ぎ無い地位を確立した。ネーデルラントではこうした背景から初期の北方ルネサンスに該当するものは15世紀の絵画に限定され、建築分野や彫刻分野はあくまでゴシック美術の枠内に留まっていたと考えられている。 さて、この新しい油彩技法が採用された最初の作品として挙げられるのは、兄フーベルトが着手し、弟ヤンが完成させたファン・エイク兄弟による『ヘントの祭壇画』である。ヤンはフィリップ3世の宮廷画家としてその後も精力的な活動を続け、数々の宗教画や肖像画を制作している。中でも『ニコラ・ロランの聖母』は、室内に視点を設定しつつもテラスの向こう側に透視図法に従った精微な風景を描くことによって、不自然さを感じさせること無く室内と外景の統合に成功した画期的な作品として特筆される。ヤンの空気遠近法を駆使した奥行き感の描写は以後のネーデルラント画派へ受け継がれていき、北方ルネサンスの大きな特徴として取り上げられるまでになった。 同じ頃、トゥルネーで活躍していたロベルト・カンピンは写実的な技法で描かれた日用品の多くにキリスト教の象徴的意味を秘めさせた作品を制作し、こうしたテクニックがカンピンを師事したロヒール・ファン・デル・ウェイデンによって継承された。ウェイデンは肖像画においても卓越した手腕を見せ、1450年に訪れたイタリアでも賞賛を受けている。 その後はヤンやロヒールの技法様式に色濃く影響を受けたディルク・ボウツ、フーゴー・ファン・デル・グース、ハンス・メムリンクらがルーヴァン、ヘント、ブルッヘなどを中心に活躍した。特にファン・デル・グースが作成した羊飼いたちの写実的表現と細微な風景の装飾的な配置が施された『ポルティナーリ祭壇画』は、後にフィレンツェに持ち込まれ、フィレンツェの画家たちに大きな影響を与えた。一方、ヒエロニムス・ボスは同時代の異色の画家として知られ、人間の悪徳とその懲罰という中世的な思想背景をもとに生み出された数多くの怪物や地獄の描写は、やがて到来するシュールレアリスムを予告しているかのように見られている。 同時代のフランスは百年戦争終結後も市民階級の台頭が見られず、宮廷周辺のごく限られた範囲での芸術活動に留まっていた。そのような中、シャルル7世の宮廷画家をしていたジャン・フーケが『聖母子』など、イタリア初期ルネサンスの影響を受けた作品を制作している。しかし、など、少数の例外を除いてこうした作品は浸透せず、ミニアチュールの制作が主流を占めていた。 対してドイツの美術はネーデルラント絵画の影響下にあり、シュテファン・ロッホナーやコンラート・ヴィッツなどが活躍した。特に、ヴィッツの『奇蹟の漁獲』は特定可能な現実の景観を描いた最初の作例として良く知られている。15世紀後半に入ると、によって雄渾な絵画や細微な彫刻祭壇が制作された。また、新しい分野として版画美術が伸張し、マルティン・ションガウアーの登場で技法はさらに洗練され、後世の巨匠アルブレヒト・デューラーの芸術を育んだ土壌を形成している。 イタリア盛期ルネサンス美術 イタリアルネサンスのうち、15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は特に盛期ルネサンスと呼称し、区別される。これは19世紀に定まった芸術観を背景として、この時代を古代ギリシア・ローマと並ぶ西洋美術の完成期と見做し、それ以前を完成に至る準備段階として軽視していた考え方が根付いたためである。しかし、今日では「初期ルネサンス」「盛期ルネサンス」を比較し、どちらが優れているかといった考え方は改められ、それぞれに特質や魅力が備わっている別個の美術として理解されてきており、その違いを区別するための名称として使用されるようになっている。主たる舞台はユリウス2世の庇護のもとで活気を取り戻したローマと、東方とヨーロッパ諸国を結ぶ貿易で巨万の富を築いたヴェネツィアである。 1470年代から活動をはじめたレオナルド・ダ・ヴィンチは、新しい芸術様式の創始者として活動当時から認識されており、巨匠と呼ぶにふさわしい功績を数多く獲得した。ヴェロッキオを師としてフィレンツェで修行を積んだ後、軍事技師、画家、彫刻家、建築家としてミラノ公の宮廷に仕えたレオナルドは、その多才ぶりを遺憾なく発揮し、多数の作品を後世に伝え、現代に至るまでの芸術家に大きなインパクトを残している。 絵画では『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などを制作しており、特に『モナ・リザ』に使用された新しい技法であるスフマート(ぼかし)は、画面に新たな統一感をもたらし、人物に精気と神秘的雰囲気を与える技法として西洋絵画の様相を一変させるほどの影響を与えた。また、自然科学の分野では、鋭い観察力と的確な描画力で解剖学や水力学などの研究に先駆的な業績を残したことも特筆すべき事項である。 一方、ギルランダイオに師事したミケランジェロ・ブオナローティは人体における新しい表現様式を確立させ、彫刻、絵画の分野において突出した作品を生み出した。ミケランジェロが制作した『ダヴィデ』はルネサンス全体を通して代表的な作品として知られている。ローマに赴いた後、ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画を手がけ、『創世記』の諸場面やキリストの祖先たちの姿を描き出している。特に『アダムの創造』では超越者と人間アダムの邂逅が印象的なタッチで描かれ、アダムの姿は盛期ルネサンスにおける理想的人間像として高い評価を獲得した。従来、ミケランジェロは色彩の乏しい画家との評価がなされてきたが、『アダムの創造』が洗浄され、その色使いが露になったことで、その評価を覆した作品としても名高い。 また、同じシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』では、悲劇的な装いの中にもヘレニズム彫刻的な逞しさを身に纏ったキリストらの肉体を描き出している。1546年にドナト・ブラマンテの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂建築の総監督に任じられるとブラマンテの構想を継承しつつ、新たに円蓋および建物後方部の設計を行っており、古代建築の本質を体現させた。 ペルジーノに師事したラファエロ・サンティは、レオナルドやミケランジェロの業績を巧みに取り入れ、20代半ばの若さで独自の人物表現と画面構成の形式美を確立させ、『アテナイの学堂』に代表されるバチカン宮殿の壁画を制作している。ラファエロが確立した形式美は盛期ルネサンス以降の代表的規範として17世紀から19世紀にかけての多くの画家に影響を与え続けた。 この時代、教会や公共施設による注文以外にも富裕層からの注文による美術品の制作が盛んに行われ、ジョルジョーネの『嵐』に代表されるような周知の物語主題から逸脱した、絵画の感覚的魅力を優先する作品が数多く登場したのも、盛期ルネサンスの特色のひとつと言える。 こうした市場ニーズに呼応してヴェネツィアでは色彩と絵具の塗り方が重要な地位を占めるようになり、デッサンに彩色するフィレンツェの技法に対して色彩で造形するという新しい技法が誕生した。レオナルドのスフマートを取り入れつつ、この技法を確立させたのがジョルジョーネであり、早世したジョルジョーネの後を受け継いで油彩技法のあらゆる可能性を探究したティツィアーノ・ヴェチェッリオであった。 宗教画家・肖像画家としても絶大な人気を誇っていたティツィアーノであるが、『芸術家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、ティツィアーノが描いた『エウロペの掠奪』について「近くから見るとわけがわからないが、離れて見ると完璧な絵が浮かび上がってくる」と評しており、近代油彩画の創始者としてしばしば名が挙げられるようになっている。同時に、静的な伝統を持つヴェネツィア絵画にダイナミズムを導入したこともティツィアーノの功績として知られている。 マニエリスム美術 マニエリスムという言葉は「様式」や「手法」を意味するイタリア語 maniera から来た言葉で、ヴァザーリはこれを「自然を凌駕する高度の芸術的手法」と定義付けた。しかし、17世紀に入った頃より、生み出される芸術は創造性を失い、盛期ルネサンス時代の巨匠たちの模倣に過ぎないと見做されるようになり、否定的呼称として用いられるようになる。その後、21世紀に入って対比評価と切り離され、盛期ルネサンスの特徴であった自然らしさと自然ばなれの調和が崩れ、自然を超えた洗練、芸術的技巧、観念性が存在する作品が登場した盛期ルネサンス後の芸術的動向を指し示す時代様式名として用いられるようになった。 最初にマニエリスムの名が冠されたのは、ルネサンスの古典的調和への意識的反逆と解釈されたヤコポ・ダ・ポントルモやロッソ・フィオレンティーノの作品であった。しかしながら、ミケランジェロの後半期作品をマニエリスムに含める見方や、アーニョロ・ブロンズィーノ、ベンヴェヌート・チェッリーニ、ジャンボローニャのような社会に享受された奇想を指してマニエリスムと呼称する解釈もあり、その範囲や定義は今日なお流動的である。 16世紀初頭は盛期ルネサンスの様式とマニエリスム美術が混ざり合った混沌とした時代であったが、アルプス以北の諸国では比較的早くからマニエリスム美術が受容され、フォンテーヌブロー派による作品が複数残されている。ヴェネツィアでは盛期ルネサンスが他地域よりも持続するが、16世紀後半に入るとティントレットが登場し、その画風にマニエリスムの特徴が見て取れるようになる。その後、ティントレットの影響を受けたクレタ島出身のエル・グレコが、ローマでミケランジェロの芸術に感化され、スペインのトレドでマニエリスム的特徴とヴェネツィア絵画的筆致を融合させた宗教画を作成している。 一方、パルマではコレッジョがマンテーニャの試みを発展させた、感覚的魅力に溢れた作品を制作しており、その中で導入された明暗対比の強調や、天井画におけるダイナミックな上昇表現などは、後世のバロック美術の到来を予告しているかのような雰囲気を醸している。その他、盛期ルネサンスとバロック美術の橋渡し的な存在となった画家としてはパオロ・ヴェロネーゼがいる。ヴェロネーゼが制作した『レヴィ家の饗宴』は当初、『最後の晩餐』と題していたが、主題と無関係な人物を多数描き込んだ事で異端尋問にかけられ、「美しい絵を作る画家の自由」を主張し、タイトルの変更を余儀なくされた作品として知られている。 建築分野では『建築四書』を著したアンドレーア・パッラーディオの名が挙げられる。パッラーディオが設計したヴィラ・アルメリコ・カプラは古典主義建築の規範を示す作品として19世紀に至るまで国際的影響力を固持した。16世紀後半にはジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ、ジャコモ・デッラ・ポルタによってイエズス会の母教会『イル・ジェズ聖堂』が建てられ、外観正面のデザインや身廊と円蓋下の明暗対比などの構成要素が、バロック美術における聖堂建築の原形となった。 北方ルネサンス美術 ドイツのデューラーは、15世紀末から16世紀初頭にかけて行った二度のイタリア旅行を通してルネサンス美術の様式と理念を習得し、人体表現、空間表現において理想とされる技法様式をドイツ絵画へ移入しようと試みた。この成果は木版画の分野において、ドイツの伝統的な表出性とイタリアの記念碑性を融合させて制作された『黙示録連作』で体現されている。銅版画の分野ではエングレービング技法を極め、『メランコリア I』や『アダムとエヴァ』といった人文主義的内容の作品、理想的裸体像を持った作品を制作し、ルネサンスの母国イタリアへも大きな影響を与えた。また、油彩画では『4人の使徒』が代表的な作品として知られている。その他、『人体均衡論』などの著述にも注力し、後世の芸術家に大きな影響を与えた。 線描主体であったデューラーとは対照的に、色彩表現に長けていたマティアス・グリューネヴァルトは『イーゼンハイム祭壇画』などを制作し、ゴシック末期美術の幻想性を継承した特徴を内包している。また、クラーナハ(父)はドイツの森を舞台として古代神話の主題を表現したことで知られている。『ドナウ風景』は西洋美術史上初めて具体的な実景を人間存在抜きで描いた画期的な作品として特筆される。 1517年、マルティン・ルターによって宗教改革の機運が高まると美術活動にも深刻な影響を与え、宗教美術が否定的に見られるようになる。ホルバイン(子)ら宗教画家として活動していた者は次第に肖像画家や宮廷画家へと転向していった。 フランスでは1494年のイタリア遠征でルネサンスの美術に触れたシャルル8世によって多くの建築家が招聘され、王室主導の下建築を中心としたフランスルネサンスが開花する。フランソワ1世の時代にはロワール川流域の城館改修が実施され、ゴシック建築の伝統とイタリアルネサンスの特色が融合された建築物が多数登場した。また、1520年代末にはフォンテーヌブロー城館の改装が始められ、ロッソ・フィオレンティーノ、フランチェスコ・プリマティッチオらを招いて内部装飾を手がけさせた。ここから誕生したイタリアのマニエリスムを体現したロッソらの作品は、フォンテーヌブロー派と呼ばれる宮廷美術様式を生み出す契機になった。その他、ドイツのホルバイン(子)に共通する精緻な様式を確立させた、フランソワ・クルーエ父子や、チェッリーニの影響を受けつつもフランス独自のルネサンス彫刻を誕生させたジャン・グージョンなどがいる。 他方、ネーデルラントの絵画美術は15世紀の段階で成熟し、油彩技法や写実的表現においてイタリアに影響を与える側であったが、盛期ルネサンスを迎えて以降は立場が逆転し、イタリアの美術や古典古代の美術を手本として仰ぐようになった。16世紀初頭に活動したクエンティン・マサイスの画風にはレオナルドのスフマートの影響が見て取れ、ヤン・ホッサールトは古代彫刻風裸体像を描き出している。また、ベルナールト・ファン・オルレイは数学的遠近法、短縮法、複雑な運動表現をネーデルラント美術に取り入れた画家として重要である。こうした、15世紀ネーデルラントの精緻な様式からの脱却と、ルネサンスの壮大な様式への推進を行う者を総じて「ロマニスト」と呼び、こうした傾向自体が16世紀ネーデルラント絵画の特徴のひとつとして挙げられる。 肖像画においてはアントニス・モルが国際的な活躍を果たしたと同時に、ネーデルラント北部の美術活動の活性化に大きく貢献した。デューラーの影響を受けつつも精緻な銅版画を制作したルーカス・ファン・レイデンなどは北部で活躍した代表的な美術家の一人である。さらに、1524年にローマからユトレヒトに戻ったヤン・ファン・スコーレルの影響によってロマニストの活動は北部へも浸透していった。16世紀後半にはプロテスタントの聖像破壊運動などによる宗教的、政治的騒乱が美術活動の発展を妨げたが、16世紀末に登場したコルネリス・ファン・ハールレム、ヘンドリック・ホルツィウスらの活躍により、プラハと並んでハールレムが国際マニエリスムの中心地として栄えた。 16世紀ネーデルラント絵画のもう一つの特徴としては風俗画、風景画、静物画の自立が挙げられる。カタリナ・ファン・ヘメッセンおよびピーテル・アールツェンを嚆矢とするこの傾向は、16世紀初頭のヨアヒム・パティニールによって大きく前進を見る。パティニールは観察と空想から合成された俯瞰図の中に宗教主題の人物を点景として描き表し、人物と背景の関係性の逆転に成功している。その後、ピーテル・ブリューゲルによってこの様式は完成され、後世に多大な影響を残した。『雪中の狩人』はその代表的な作品のひとつである。 バロック美術 異論はあるものの17世紀の西洋美術時代様式を一般にバロック美術と称する。バロックという言葉の意味については諸説あるが、「規範からの逸脱」を示す形容詞として18世紀末ごろより使用されはじめ、建築を中心とした17世紀の美術に対して否定的な意味で適用された。また、狭義には17世紀美術の傾向の一つという意味で使用され、劇的で奔放な特徴を持つ17世紀の作品に対してのみ適用される場合もある。 この時代、盛期ルネサンスの伝統を受け継ぎつつも、より現実に即した表現が強調されるようになり、時間の概念を取り入れた風俗画、風景画、静物画など、実社会により密着したテーマを選定する様式が確立する。活動の舞台はローマを中心に展開されていたが、18世紀初頭にかけてルイ14世の治世には、フランスが政治面とともに文化面でも中心的役割を果たすようになる。 16世紀後半、イタリアの美術活動はそのほとんどをヴェネツィアに依拠していたが、この状況を打破しようとアンニーバレ・カラッチによって1580年代のボローニャにアカデミア(画塾)が設立される。古代美術と盛期ルネサンス美術の理想性とモデルの写生素描という現実性の融合を試みた追究は広く支持され、ボローニャ派と呼ばれる新しい作風の体現に成功した。また、カラッチは理想化されたローマ近郊の風景の中に聖書の人物を描き込む「古典主義的風景画」を創始したことでも知られている。 カラッチの影響を受け、宗教画の人物を現実的な庶民の姿で描き出したミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの作品は、その斬新な主題の描き方で大きな議論を巻き起こした。冒涜的とみなされ、『聖母の死』の例のように教会に引き取りを拒否される場合もあれば、カラヴァジェスキと呼ばれる狂信的な追従者を生み出す結果にも繋がっており、西欧絵画全体に大きな影響を及ぼした人物の一人であったことは疑いが無い。 彫刻および建築の分野ではジャン・ロレンツォ・ベルニーニがこの時代の代表的な美術家として名が挙げられる。若くして名声を確立したベリニーニは『聖テレジアの法悦』で現実の光を巧みに取り入れた彫刻と建築を組み合わせた作品を制作している。その他、多くの噴水彫刻の設計にも携わり、ローマの景観を作り変えたと言われるほどの影響を残した。ベルニーニに師事し、終生のライバルでもあったフランチェスコ・ボッロミーニも、独創的な建築表現で名を残した一人である。代表的な建築物としてはサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂があり、絵画や浮彫による装飾を必要最低限に抑え、波打つようなカーブや圧力で歪んでいる様な緊張を感じさせる、特異な壁面構成の効果を引き出すことに成功している。 フランドルではリュベンスの登場により新しい絵画の様式が確立される。10年近くの間イタリアに滞在し、盛期ルネサンスの美術を習得したリュベンスは、ネーデルラントに帰国した後に制作した『キリスト昇架』によって、ヘレニズム彫刻やミケランジェロを想起させる人体表現とカラヴァッジオに見られる明暗法を見事に融合させ、壮麗で活力漲る独自の方式を完成させた。リュベンスはカトリック復興の気運高まる当時の社会背景から多数の祭壇画を制作する一方で各国宮廷に向けた大規模な建築装飾画を創出し、国際的な評価を獲得した。また、晩年にはブリューゲルの伝統を発展させたフランドルの自然を描き出し、風景画の新たな局面を生み出した。 その他、フランドルを代表する画家としてはアンソニー・ヴァン・ダイク、ヤーコブ・ヨルダーンスなどがいる。リュベンスの助手として出発し、チャールズ1世の宮廷画家として半生をイングランドで全うしたヴァン・ダイクは、優雅で細線な自身の特徴を活かして肖像画の分野において独自性を発揮し、貴族的肖像画の規範を築き上げた。ヨルダーンスは宗教画や神話画を風俗画的観点で描き出すことを得意とし、庶民的な活力溢れる作品を残している。また、17世紀の美術愛好家の蒐集を描き出した「画廊画」という画種も、フランドルの特徴のひとつとして取り上げられる。 16世紀末にオランダ共和国として独立したネーデルラント北部では、国際貿易による経済発展を背景として市民層に向けた作品が大いに発達した。市場競争での勝ち残りをかけた熾烈な技巧発達が見られ、卓越した技術を持った画家を数多く輩出した点は特筆に価する。アムステルダムを活動の拠点においたレンブラント・ファン・レインはその最たる例である。その他集団肖像画や半身像の風俗画を得意としたフランス・ハルス、寓意や諺、民間行事を主題とした作品を描き続けたヤン・ステーン、日常行為に携わる人物を静物画のタッチで捉えて風俗画の新たな境地を開拓したヨハネス・フェルメールなどが代表的な画家として挙げられる。とりわけ、フェルメールは19世紀に入ってその近代性が大いに注目を集め、17世紀最大の画家として評価されるに至った。 他方、写実的傾向が強まった17世紀のスペインでは黄金時代と呼ばれるほどの美術繁栄がもたらされ、ディエゴ・ベラスケスやフランシスコ・デ・スルバラン、バルトロメ・エステバン・ムリーリョといった巨匠が登場した。ベラスケスはカラヴァッジオの影響著しい活動初期を経てヴェネツィア絵画やリュベンスとの接触によって自身の技法と様式を洗練させ、視覚的印象を的確に捉える新しい描法を編み出し、『ラス・メニーナス』を始めとする多くの作品を誕生させた。スルバランも同じくカラヴァッジオに強く影響を受けたセビーリャの画家であるが、素朴で神秘主義的な様式を確立させ、静物画や宗教画を厳格な筆致で描き上げた。ムリーリョはフランドル絵画に影響を受けた画家で、華麗な色彩で甘美な宗教画を制作するとともに、風俗画においても人気を博した。写実的傾向の推進は下地となったイスラム美術の影響と相俟ってバロック美術が内包する装飾性の強化に繋がり、この時代のスペイン美術の特徴として表されるようになった。スペイン黄金時代美術 フランス絵画では終生をローマで活動したニコラ・プッサン、クロード・ロランが代表的な画家として取り上げられる。ラファエロとカラッチの影響を強く受け、厳格な古典主義様式を確立させたプッサンは『アルカディアの牧人』を筆頭に、古典や神話、聖書の主題を考古学的時代考証を交えて描き出すという理知的な作品の創出に注力した。また、ロランは古典主義的風景画の展開に大きな足跡を残した人物として知られ、ローマ郊外の田園やナポリ湾の風景を理想化して古代の情景として登場させ、過去への郷愁を想起させる詩的風景画を誕生させた。両名の芸術はイタリア、フランスの上流階級層に広く受け入れられ、ルイ14世が設立した王立アカデミーにおいてはラファエロやカラッチとともに規範として仰がれるまでの影響を与えた。一方で建築分野においてはイタリア起源のバロック建築に対して古典主義建築がフランスの様式であるとする考えが広まり、クロード・ペローのルーヴル宮殿を筆頭に古代風様式に基づく建設が各地で行われた。また、ジュール・アルドゥアン=マンサール、ルイ・ル・ヴォー、アンドレ・ル・ノートルらによって造営されたヴェルサイユ宮殿は宮殿建築の範例として大きな影響を与えた。 ロココ美術 1710年代から60年頃までのフランスの美術様式を中心とした時代様式を一般にロココ美術と呼称する。ロココという言葉は、後世の新古典主義時代にルイ15世時代の美術を軽視して呼び始めた事を嚆矢とし、バロック建築における庭園装飾で使用されたロカイユと呼ばれるデザインに端を発する。現代においては該当する時代の美術を判然とロココ美術と呼ぶようになったため、性質や指向の相反する文化現象が同様の名の下に冠されることが美術史的観点から問題となっている。 この時代の美術史を概観すると、建築、絵画において特徴的な発展が見られる。らによって建造されたは、白地に金の装飾が施された壮麗な室内はロココ建築の特徴を現す代表的な作例である。17世紀後半にはギリシア美術、ローマ美術への関心が高まり、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって古代風の柱を採用した小トリアノン宮殿が建設された。その他、イタリアの建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージはローマ古代遺跡の壮大さを現し、後世新古典主義やロマン主義に大きな影響を与えたことで知られている。 工芸分野が黄金時代に達したのはロココ美術の大きな特徴で、家具、金工、服飾、陶器などの各分野で質の高い作品が生み出された。ドイツのマイセンが飛躍的進歩を遂げたのもこの時代である。彫刻分野では、、ジャン=アントワーヌ・ウードンらが活躍したが、主要な領域たりえるには至らなかった。 絵画におけるロココ美術の始祖はアントワーヌ・ヴァトーであると言われている。フランドル地方出身のヴァトーは、パリでの修行過程において様々なテーマ、様式の美術と接触することで才能が開花した。中期の代表作『キュテラ島の巡礼』に示された戸外での男女の戯れを表現する画題は「雅な宴(フェート・ギャラント)」と呼ばれ、ロココ美術を語る際に不可欠な要素へと昇華し、ニコラ・ランクレやジャン=バティスト・パテルなどによって追随する形で同様の画題作品が発表されるなど、同年代を含む後世の画家に多大な影響を与えた。フェート・ギャラントはポンパドゥール夫人の庇護を受けたフランソワ・ブーシェによって官能性を帯びた雰囲気を醸し出すようになり、ヨーロッパ中へ広まった。こうした画風はロココ美術最期の画家とされたジャン・オノレ・フラゴナールへと受け継がれていくこととなる。一方で市民的な感性では家族的テーマが好まれる時代となり、ジャン・シメオン・シャルダンやジャン=バティスト・グルーズに代表されるような市井の人々の様子を描いた人物画や、中産階級の家庭の一端を描いた静物画などが数多く生み出された。 また、18世紀中ごろより定期的にサロンが開かれるようになり、芸術品が不特定多数の目に触れる機会を持つようになった。これによってドゥニ・ディドロに代表される美術批評の誕生、画商の増加といった社会的傾向が発生し、芸術家とパトロンの関係性に変化が見られるようになったのも時代の特徴を示す出来事として挙げられる。 一方、イタリアではアレッサンドロ・マニャスコ、ジュゼッペ・マリア・クレスピらによって新しい方向性を持った絵画が生み出された。18世紀に入るとジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロが登場し、白を基調とした明るい天井画や壁画を制作し、重量感を取り去った自由な装飾作品が生まれている。また、イギリスでは大陸美術の輸入により絵画技法が飛躍的に向上したのが18世紀で、19世紀に到来する黄金期の準備段階のような時代となった。代表的な画家としてはトマス・ゲインズバラ、ジョシュア・レノルズなどがいる。 近代 18世紀から19世紀の美術 フランス革命から第二帝政期に至る18世紀から19世紀にかけてのフランスを中心とした美術様式は、一般に新古典主義、ロマン主義、写実主義の3期に分けて考えられている。18世紀前半に火山噴火によって埋没したローマの古代都市ヘルクラネウム、ポンペイが発見されたことにより、古典・古代の美術を自身の規範としようという機運が高まり、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの思想的支柱を得たことでギリシア美術の模倣を尊ぶ志向がヨーロッパ中を席巻する。これは、享楽主義的なロココ美術に反感思想を持つ人々の運動であったとも言われている。その後、ナポレオンの帝政期を経ることでフランスでは帝国の栄光を誇示する美術様式へと変容していき、各国に対する影響力を衰退させる事となった。ナポレオンは絵画を重要なプロパガンダ手段として捉えていたこともあり、皇族の儀式を描いた作品や家族や側近の肖像がなどが大量に制作された。しかし、こうした動きは若い芸術家を中心に焦燥感をもたらす結果となり、主観的な激情に溢れ、社会的矛盾を糾弾するリアリスティックな作品が登場する素地を形成した。同時に、フランス美術の影響力から脱却した周辺各国は国々の歴史や風土に根ざした美術の開花を促進させ、普遍的な古典・古代美術の模倣から国々の特殊性へと関心が移行することとなった。これにより、古典的様式が最良とする考え方は捨て去られ、時と場合に応じた適切な美術様式が選択される折衷主義とも呼べる様式が到来することになった。19世紀中ごろには支配層への不満を募らせた市民社会に対応するかのごとく、社会の現実に目を向け、身の回りの自然を描いた風景画が制作されるようになり、フランス文学とも連動して近代芸術の基調を形成する一大潮流が形作られた。 建築分野では古代建築遺構の本格的な調査によって建築部位の比例や柱式の決定が討議され、18世紀後半に入ると古代建築を規範とした建物の造営が本格化した。パリのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院を建設したは、コリント式の列柱廊を採用し、古代美術の端正で素朴な様式を取り込むことに成功している。また、古典古代建築への関心から幾何学的比例を重視し、やアル=ケ=スナンの王立製塩所を創出したクロード・ニコラ・ルドゥーやアイザック・ニュートン記念碑を設計したエティエンヌ・ルイ・ブーレーは、空想的建築という新境地を開拓した。考古学的関心が薄れ、帝国の威信表現が横行するようになると特定の建築様式が重視されることが無くなり、過去の様々な様式の応用によって建築がなされた。マドレーヌ聖堂 、カルーゼル凱旋門、マルメゾン城、ウェストミンスター宮殿などが代表的な建築物として知られている。 新古典主義時代の彫刻分野は規範とする古典古代の作例が充実していたこともあり、重要な美術分野として位置付けられた。イタリアのアントニオ・カノーヴァは代表的な彫刻家のひとりで、古代志向の特徴を忠実に再現した上で近代彫刻の複雑な構成を融合させることに成功し、『アモールとプシケー』などを制作した。カノーヴァと双璧をなしたデンマークのベルテル・トルバルセンはヘレニズム時代の彫刻に強い影響を受け、端正で典雅な作品を発表した。その他、イギリスのジョン・フラックスマンは形態把握と構成を古代彫刻に倣いつつもゴシック美術を彷彿とさせる流麗な作品を発表している。新古典主義以降は材質の変化があらわれ、大理石以外の石材や青銅が好んで用いられるようになった。また、表題も裸体に代わって時代考証を経た服装を纏うようになった。しかし、美術全体で見ると新古典主義以降は絵画の影響強く低調に推移し、エトワール凱旋門の浮彫装飾を制作したフランソワ・リュード、肖像彫刻を数多く制作したダヴィッド・ダンジェ、動物彫刻という異質性が話題となったら若干名の活躍に留まった。 絵画分野において、フランスでは1760年代に登場したジョゼフ=マリー・ヴィアンがロココ風のテーマの絵に古代の構図やポーズを借用した作品を発表して人気を博し、新古典主義時代の口火を切った。その後、ドゥニ・ディドロの影響を受けたジャン=バティスト・グルーズによってローマ史を主題とした作品が制作され、1780年代に入るとヴィアンに師事したジャック=ルイ・ダヴィッドが登場して、新古典主義の栄華は頂点に達する。ナポレオン革命期において、「皇帝の主席画家」の称号を得たダヴィッドが残した数多くの作品は後世の多方面に大きな影響を与えた。『ホラティウス兄弟の誓い』『ソクラテスの死』といった物語画はプッサンの影響が強く表われた作品に仕上がっており、『テニスコートの誓い』『マラーの死』などは革命期の視覚的記録として重要な意味を持つ作品として位置付けられている。 次代には優美なタッチで古代の叙情を再現したピエール=ポール・プリュードン、劇的な表現描法を特徴としたピエール=ナルシス・ゲランらが登場し、新古典主義の作風に影響を受けつつもその変容を見ることが出来る。また、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの小説挿絵を担当したアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンは、古典的な形態に強い明暗を加えたことでロマン主義的な要素の萌芽を示した。一方、同時代のナポレオンの肖像画や遠征絵画を制作していたアントワーヌ=ジャン・グロ、ドミニク・アングルらは新古典主義の正当後継者として、色彩に対する線の優位性、静的な構図といった新古典主義の綱領を最後まで保持した画家として知られている。その他、アングルの弟子からはテオドール・シャセリオーが頭角を現し、東洋的主題の作品を制作してロマン主義的資質を示した。 1819年にはテオドール・ジェリコーが1816年に起きたフリゲート艦メデューズ号の難破事件という時事的テーマを取り上げて『メデューズ号の筏』を発表したことで大きな議論が巻き起こる。ジェリコーの作品は激しいタッチと運動感の描写によって表現され、その非古典主義的なテーマの開拓はロマン主義絵画の先駆者として名が上げられる一因となった。その後、『ダンテの小舟』を描いたウジェーヌ・ドラクロワによって粗いタッチによる動的表現、東洋的主題の採用、色彩の乱舞といったロマン主義絵画の作風が示され、近代絵画の成立に多大なる影響を残した。一方、同世代のポール・ドラローシュはロマン主義的主題を完璧な新古典主義様式で描き出すという移行期ならではの作風で一世を風靡した。エコール・デ・ボザールの講堂壁画はその代表的な作品のひとつである。 以上に挙げたように、19世紀前半のフランスでは文学的、歴史的テーマを描き出した作品が主流となっていたが、バルビゾン派の画家によって自然を的確に捉えた風景画作品が登場したのもこの時代であった。古典主義的端正さを保ちつつ、ロマン主義的な自然愛好的な心情に溢れたテオドール・ルソー、ジャン=バティスト・カミーユ・コローらの風景画は1830年代ごろより写実主義絵画として新たな局面を開くこととなった。1850年前後に入るとオノレ・ドーミエ、ジャン=フランソワ・ミレー、ギュスターヴ・クールベが登場し、写実主義絵画を代表する画家として知られるようになった。1855年、パリの万国博覧会において、私費で個展を開いたクールベは世間に対して攻撃的に写実主義絵画の存在を知らしめ、19世紀後半に誕生する印象主義への潮流を築いた。 他方、イギリスのロンドンでは、1760年代にベンジャミン・ウエストによって新古典主義的絵画が持ち込まれると、ロイヤル・アカデミーの設立やフラックスマンの活躍などもあり、ローマやパリと並ぶ新古典主義絵画の中心地として栄えた。しかし、古典絵画を規範としつつも伝統に縛られない表現は比較的早くから実践され、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、ウィリアム・ブレイクといった、個性豊かな画家の輩出に成功している。そういった意味では、主題面における絵画の近代化はフランスに先駆けてイギリスで起こったと言って良い。19世紀前半に入るとジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの登場によってイギリス絵画は風景画黄金時代を迎えることとなった。18世紀に流行した地誌的水彩画から出発したターナーは光の表現を追究して油彩、水彩、素描を問わず多数の幻想的な風景画を世に送り出した。ターナーとは対照的に、空と雲の移り変わりを気象学に基づいた知識で精緻に描き出したジョン・コンスタブルの作品は風景画の進むべき方向性を決定的なものとし、19世紀後半の印象主義絵画に大きな影響を与えた。 ドイツにおける新古典主義は1761年、アントン・ラファエル・メングスによって制作された『パルナッソス』にその影響を見ることができるものの、その後は代表的といえる程の画家は輩出されなかった。19世紀初頭に入るとラテン的な形態把握とゲルマン的な内省性を融合させた作品が登場し、他国に無い特異な美術運動が展開された。この運動はカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲらによる風景画の発展とフランツ・プフォル、ヨハン・フリードリヒ・オーファーベックらによる人間表現の深化に大別することができる。特にローマに移住した後、ラファエロやデューラーを規範としてキリスト教的作品の創出に注力したオーファーベックらの活動はナザレ派と呼ばれ、後のラファエロ前派に大きな影響を与えた。 その他、スペインに登場したフランシスコ・デ・ゴヤもこの時代を代表する画家の一人である。1799年に主席宮廷画家の地位に着いたゴヤは、その卓越した画力で戦争や侵略への憎悪を訴えた作品を多数発表した。主観的な情熱を画題とし、作品に託したという点ではロマン主義美術の先駆者であると言える一方、人生の課題を作品に反映させたという点では近代芸術のあり方を示した最初の一人であると言える。 19世紀から20世紀の美術 19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した時代でもあった。このため、美術活動も大きな変革を伴ったのは必然といえる。 建築分野では、シャルル・ガルニエによるパリのオペラ座に見られるような、古典主義を軸としながらも各種建築様式を折衷した建物の造営が主流となり、フランスを中心として高い芸術性を持った建物が各地に作られた。ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクはこの奔流に抗い、機能主義理論を唱えたが、19世紀中には受け入れられず、アール・ヌーヴォーの建築分野において部分的に取り入れられたにすぎなかった。19世紀後半に入ると鉄、ガラス、コンクリート、鉄筋コンクリートといった新しい建材が柱や壁などに大掛かりに用いられるようになった。ジョセフ・パクストンの水晶宮は、初めて大量にガラスを用いた建造物として知られている。また、シカゴ派と呼ばれるアメリカ高層建築の流入も、西洋の建築に大きな影響を与えた。シカゴ派を代表する建築家としてはシュレジンガー・マイヤー百貨店などを設計したルイス・サリヴァンが挙げられる。 彫刻分野では19世紀後半に入り、民族統一や自由を称える記念碑が公共記念物という形で数多く制作された。特に有名なものとしてはフレデリク・バルトルディの『自由の女神像』、ジュール・ダルーの『共和国の勝利』、の『死者の記念碑』などが挙げられる。第二帝政期に入るとジャン=バティスト・カルポーが登場し、『ウゴリーノと息子』『ダンス』『フローラの勝利』など、ロココ美術から受け継いだ優雅な形態とカルポー独自の動態表現を見事に融合させた作品を多数制作し、近代彫刻の父と言われるオーギュスト・ロダンに大きな影響を与えた。アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズに師事したロダンは、イタリアでドナテッロやミケランジェロの作品に触れた後、1877年に『青銅時代』を発表した。『青銅時代』は発表当時、あまりの自然的形態から、モデルから直接型取りしたのではないかと批判を浴びるほどであった。注文彫刻として制作した『カレーの市民たち』では、注文という型にはめられた表現からの脱却を試みている。ロダンは写実表現と劇的な内面表現を融合させることを追究し、終生の大作として『地獄の門』を制作した。その他、19世紀末に活動したドイツのマックス・クリンガーは、1902年のウィーン分離派展で素材の多様性を追求した作品『ベートーヴェン』を発表して大きな成功を収めている。 19世紀に入ると絵画分野では、新古典主義の美学を維持しつつも社会情勢にあわせるかのように、新しい市民社会に適応する様々な表現の獲得をはじめた。ブルジョワジーの趣味を作品に反映させたアレクサンドル・カバネルは、1863年にサロンに出品した『ヴィーナスの誕生』によって絶大な人気を博し、ジャン=レオン・ジェロームは『カエサルの死』に代表されるような、迫真の細部描写と瞬間映像的な場面設定で古代の主題を描きあげた。また、ジュール・バスティアン=ルパージュは印象派の色彩や筆致を取り込んだ自然主義的傾向の作品『干し草』を創出し、第三共和国政府の支持を獲得している。 ドイツのアドルフ・フォン・メンツェルによって写実的に描かれた『圧延工場』はきわめて珍しい工場労働者を主題とした作品として知られている。メンツェルの例にあるように、農民や労働者といった現実的主題を優れた絵画才能によって描き出す画家が登場し始める。『草上の昼食』で一大騒動を巻き起こした後も、明るい色調と軽快なタッチで現代生活を主題にした数々の名作を生み出したエドゥアール・マネはそうした若い画家たちの中心的存在として躍動し、1865年にサロンへ出品した『オランピア』で、古典的伝統を近代絵画へリンクさせる役割を担った。こうしたマネの姿勢や表現方法は印象派の画家に重要な指針を与えることとなった。また、エドガー・ドガは、オペラ座に集う貴族から底辺社会で生活を営む洗濯女まであらゆる階層の人々の現代生活を深く広く探求して得た主題を、知的な構図と優れたデッサン力で描き出した。特に、引き締まった肉体を持つ女性たちが様々な姿態を提供してくれるバレエの世界に共感を覚え、バレエを主題とした多くの作品を残している。その他、日本の芸術がジャポニスムと呼ばれ、西洋絵画に影響を与えたのも19世紀の出来事のひとつであった。 19世紀後半に入ると、印象派と呼ばれる人々の描いた印象主義絵画が世を賑わすようになった。「印象派」という呼称が誕生したのは1874年のことで、展覧会に出品していたクロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌ、ドガ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらのスケッチ的な作品の性格をジャーナリストらが揶揄してつけたものに端を発する。中でもモネは印象派グループを作り上げた最も偉大な画家として知られている。印象派の「印象」はモネの作品「印象・日の出」から批評家が揶揄したことから定着した。 印象派画家は、絵具を用いて光を表現することを追究し、筆触分割や視覚混合といった科学的技法を作品に導入し、日本の浮世絵や写真などからヒントを得た構図の切り取りや大胆な俯瞰といった斬新な発想を取り入れた。こうして制作された多くの作品は西洋絵画を新たな局面へ誘う重要な革新として後年高く評価される一因となった。また、印象派の活動を受けて、その理論をさらに発展させようと1880年代から1890年代にかけて活躍したポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホらは後期印象派と呼ばれ、こちらも美術史における重要な働きを残した。 他方、芸術の卑俗化を嫌悪した芸術家たちによって内的な思考や精神世界、夢の世界を表現することが追究されるようになり、印象主義と並んで19世紀後半における芸術の重要な流れを形作ったのが象徴主義であった。その嚆矢とも言えるのがイギリスで起こったラファエル前派の運動である。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレー、ウィリアム・ホルマン・ハントらによって結成された「ラファエル前派兄弟団」は、ラファエロ以後の絵画を退廃芸術とみなし、それ以前の誠実で理想的な芸術への回帰を主張し、初期ルネサンス時代の絵画に倣った画風で神秘と象徴の世界を描き上げた。その他、象徴主義を代表する画家としてはアルノルト・ベックリン、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンなどが挙げられる。 こうした動きは19世紀末にはベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなど全ヨーロッパに拡充し、ユーゲント・シュティール、アール・ヌーヴォーといった世紀末運動と密接な関係を保ちながら20世紀の芸術へと受け継がれていった。 現代 ベル・エポック ベル・エポック(良き時代)とは、1900年から第一次世界大戦までの華やかで享楽的な時代を指すフランス語で、静かに忍び寄る戦乱の気配に耳を塞ぎ、束の間の繁栄と平和を享受した時代であった。芸術分野においてはアール・ヌーヴォー(新しい時代)、ユーゲント・シュティール(青春様式)、モダニズム・スタイル(近代様式)といった多彩な芸術運動がヨーロッパ中を席巻し、広い分野で相互交流による美術の追究が行われた。世紀末芸術運動とも称されるこの運動は広範囲に及び、それぞれが独自色を保ちつつも新しさを求めようという共通認識の下に活動を展開していた。代表的な活動グループとしてはウィリアム・モリスを中心としたアーツ・アンド・クラフツ運動、『ルヴュ・ブランシュ』を中心としたフランス芸術家たち、ベルギーの前衛芸術グループ自由美学、『ユーゲント』『パン』を舞台としたドイツ画家グループ、ミュンヘン、ベルリン、ウィーンで相次いで結成された分離派グループなどが挙げられる。中でもグスタフ・クリムトを中心としたウィーン分離派の影響力は強く、オスカー・ココシュカ、エゴン・シーレといった表現主義的傾向を強烈に表した尖鋭画家や、アドルフ・ロースのような「装飾は犯罪である」といった思想を持った芸術家の誕生を促す結果となった。また、表現主義の原点とも言えるエドヴァルド・ムンクやジェームズ・アンソール、フェルディナント・ホドラーといった画家が躍動したのもこの時代である。現代美術のはじまりは、こうした豊かで多様な世紀末芸術の成果を受け継ぎ、乗り越えることによって展開されていった。 現代建築 オーギュスト・ペレによる鉄筋コンクリートを用いた建築技法の導入は、構造体としての抵抗力の強さを獲得するとともに自由な造形性を得ることに成功し、20世紀の建築美術は新たな局面を迎えることとなった。新しい建材の特性理解が浸透していくとともに、コンクリートの持つ可能性を引き出した自由な造形性を持った建築物が誕生した。ゆるやかな局面と巨大な屋根を持ったル・コルビュジエのロンシャンの礼拝堂、何の支えも無い部屋が空中に突出しているかのようなフランク・ロイド・ライトの落水荘などは、その代表的な作例として取り上げられる。 建築家の社会的役割が変化したのも20世紀の特色のひとつで、建物の完成のみならず、都市社会における機能性や存在意義についてこれまで以上に配慮が必要となった。ヴァルター・グロピウスが幅広いデザイン教育の機関としてバウハウスを設立したのも、こうした社会的要請を背景にしたものであった。ル・コルビュジエはそうした機能主義を追究した建築家の一人でもあり、こうした流れがミース・ファン・デル・ローエやヴァルター・グロピウスといった機能主義を標榜する建築家の誕生を促した。機能主義建築は合理的形態、規格化、プレファブリケーションを推進し、大量生産と結びつくことで現代的な性格を持つに至った。一方でこうした機能主義建築に機械的な冷徹さを感じ取った建築家は有機的建築を推進した。先に挙げたサリヴァンやライトの他、世紀末建築の巨匠アントニ・ガウディなどもこの流れに含むことができる。 第二次世界大戦によって芸術活動は空白の時間を迎えるが、多くの芸術家がアメリカに亡命したこともあり、戦後はアメリカを中心とした建築活動が展開された。グロピウスやローエをはじめとするバウハウス系の建築家がアメリカで建築教育や設計活動に従事し、現代建築の実験場と揶揄されるほど様々な建築物がアメリカに誕生した。1950年代までは、画一的な建築の普及を目指すバウハウス系建築家がアメリカで大きく活動することによって、彼らの国際様式(モダニズム建築)が世界的なスタンダードとされていたが、次第にこれに反発する動向が見られるようになり、CIAM(近代建築国際会議)の解散も相俟って地域や用途、建築家の感性によってふさわしい造形を決定する個性化の流れが生まれ、大胆な形態の組み合わせを見せるポストモダン建築が登場した。 現代彫刻 20世紀の彫刻は、ロダンの影響を甘受し、脱却するところから始めねばならなかった。画家から彫刻家へ転身し、ダルーのアトリエを通じてロダンと出会ったことでロダンに大きく影響を受けたは、石材からの解放を目論み、素材に蝋や石膏といった伸びのあるものを採用した。蝋を素材とした『この子を見よ』では素材の流動性を生かした表現が見られ、その表面には印象派絵画にも似た光と影の絶妙なコントラストを生み出すことに成功している。ロダンの助手でもあったアントワーヌ・ブールデルは、ロダンの表現力と構想力を受け継ぎつつ、自己の様式確立を追及し、『弓を引くヘラクレス』によって男性的力強さを表現することに成功している。女性像をモチーフとし、健康的で調和の取れた作品を創出したアリスティド・マイヨールは、ブールデルを通じてロダンに高く評価された彫刻家のひとりであるが、その作風はロダンのそれとは明らかに異なった性格を持ち、地中海的伝統を作品に刻みつける事で自己の確立を試みている。初期の作品『地中海』は、古典主義的な落ち着きと調和が見られるマイヨールの代表作のひとつである。マイヨールの作品は後世の彫刻家にも影響を与え、マリノ・マリーニ、アメデオ・モディリアーニといった芸術家の登場を促した。 一方でキュビスムの彫刻は人体の統一性からの脱却を図り、自由奔放な新しい造形表現の獲得に成功している。代表的な彫刻家としてはパブロ・ピカソ、、、オシップ・ザッキンなどが挙げられる。こうした流れを受けてさらにダイナミックな形態のリズムを追究したレイモン・デュシャン=ヴィヨン、ウンベルト・ボッチョーニらが登場し、根源的な形態を追い求めたコンスタンティン・ブランクーシがその後に続いた。ブランクーシはロダンからその才能を見初められ、助手へと誘われた彫刻家のひとりであったが、自身の追い求める表現を実現させるため、あえてその誘いを断っている。 他方で、マックス・エルンスト、ジャン・アルプ、アルベルト・ジャコメッティらによって生み出された作品は、後のダダイスムやシュルレアリスムや幻想絵画(幻想的表現主義)へとつながっていくこととなった。ブールデルから彫刻を学んだジャコメッティはその後、自身もシュルレアリストのグループに参加し、『シュルレアリスム的なテーブル』などの作品を発表した。第二次大戦後、現実との乖離に挫折を覚えたジャコメッティはその作風を大きく変え、戦後のフランス彫刻界において、もっとも高い評価を受けた彫刻家のひとりとなった。 現代絵画 1905年、当時の批評家からフォーヴ(野獣)と呼称された、サロン・ドートンヌに出品された鮮烈な色彩表現を持った一連の作品を創出した画家たちが興した運動であるフォーヴィスムは、20世紀最初の絵画革命と言われている。『ジル・ブラス』紙でに「原色の狂宴の中にいる野獣たちの集まり」と批判されたように、フォービスムは酷評でもって迎えられたが、多くの画家が伝統に縛られない色彩の自立と感情の解放を求める態度に共感を覚え、この新しい様式に共鳴した。主要なメンバーとしてはアンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アルベール・マルケ、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドラン、キース・ヴァン・ドンゲン、ラウル・デュフィ、ジョルジュ・ブラックらが挙げられる。スーラら後期印象主義絵画が持つ色彩理論や、ゴッホの原色表現の影響を受けた彼らの共通点は、独自の色彩表現を探究し、色彩の写実的役割からの解放を目指したことにある。しかしながらこの傾向は明確な声明に支えられていなかったこともあり大きな流行には至らず、1905年をピークとして減衰していくこととなった。フォーヴィスムを体現し、体験した画家たちはその後色調や技法を変えつつ、独自の美学を追究しそれぞれの方向性を見出していくこととなった。 フォーヴィスムが誕生した同じ年にエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、、マックス・ペヒシュタイン、エミール・ノルデらを中心として前衛絵画グループブリュッケがドレスデンで結成された。ドイツ表現主義の第一波とされるこのグループは、強烈な色彩表現を特徴とする点においてはフォーヴィスムと共通していたが、より濃密な絵画を発表している。その他、1909年にミュンヘンで結成された新芸術家同盟は、初期メンバーのフランツ・マルク、アウグスト・マッケ、ワシリー・カンディンスキーらにパウル・クレーが加わることで青騎士へと発展を遂げ、戦後の抽象表現主義につながる大胆な絵画表現を試みる活動を実施している。 その後、ピカソやブラックによって形態と構成における絵画革命キュビスムが推進され、フアン・グリスを加えてモンマルトルを中心に活動を展開した。特にピカソは、90年に渡る長い生涯のなかで絶え間なく絵画の革新と実験を試み、20世紀芸術の方向性に大きな影響を与え続けた。1907年に発表したキュビスムの出発点とも言うべき『アビニヨンの娘たち』では、アフリカの仮面彫刻のようなプリミティブ芸術に影響を受けた大胆なデフォルメと、セザンヌに学んだ知的構成が融合し、それまでになかった新しい絵画世界の実現に成功している。キュビスムは対象を解体して、画面上で再構成するというピカソやブラックが推進した手法もさることながら、同時に創出された新聞などの実物を直接画面に貼付するコラージュという技法が生み出された点も、絵画のあり方を一変させたという点において、後世の芸術家に多大な影響を与えている。ピカソ、ブラック、グリスの他、キュビスムの代表的な画家としてはフェルナン・レジェ、ロベール・ドローネーらがいる。 キュビスムよりやや遅れて結成された未来派は、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティを中心に活動を展開し、機械文明におけるダイナミズムとスピード感を賛美し、積極的な運動表現を作品に取り入れることを探究した。主なメンバーとしてはジャコモ・バッラ、ジーノ・セヴェリーニ、カルロ・カッラなどがいる。未来派の活動は絵画のみならず、音楽、建築、彫刻など多方面に及び、先に紹介したボッチョーニもその影響を受けた彫刻家として知られている。また、マリネッティがロシアを訪れたことでロシアの前衛芸術の形成にも大きな影響を与えた。ミハイル・ラリオーノフ、ナタリア・ゴンチャロワらによるレイヨニスム、カジミール・マレーヴィチらによるシュプレマティスムといった抽象主義的絵画は、こうした影響の中で誕生していった。シュプレマティスムを推進していたウラディミール・タトリン、アントワーヌ・ペヴスネル、ナウム・ガボらはその後、シュプレマティスムが見出した幾何学的形態の極地から、さらに推し進めた構成主義を推進している。 オランダのピエト・モンドリアンが創始した新造形主義も幾何学的な抽象表現を極めた様式のひとつで、モンドリアンはキュビスムの影響を受け、自然風景を垂直と水平の要素にまで還元し、この単純な構図に色の三原色を組み合わせるという美学に到達せしめた。またモンドリアンは、テオ・ファン・ドースブルフとともにデ・ステイル運動を推進し、絵画にとどまらない幅広い芸術分野に新造形主義の様式を拡大していった。 他方、現代絵画のもうひとつの大きな流れとして、人間の心、未知の世界を探究し表現する幻想絵画がある。形而上絵画はその代表的様式で、中心的人物のジョルジョ・デ・キリコは、長く伸びた影や人気の無い町並みを主題として白昼夢のような郷愁を誘う神秘的かつ不気味な不安を感じさせる作品を生み出している。その不安が現実となるかのように第一次世界大戦が勃発すると、厄災を生み出す社会や文化に対して強い批判を表明する芸術運動が同時多発的に持ち上がった。こうした動きはやがてひとつの大きなうねりとなり、あらゆる既成価値を否定するダダイスムが誕生した。マルセル・デュシャンが展覧会に出品した『泉』と称する便器やひげのあるモナ・リザを描いた『L.H.O.O.Q.』はその最たる例である。彼らはあらゆる方法で価値の転換を試み、過去の芸術や文化の徹底的な破壊と否定を推し進めた。代表的なメンバーとしてはハンス・アルプ、フランシス・ピカビア、マン・レイなどがいる。 第一次世界大戦後にはシュルレアリスムが登場し、ダダイスムによる否定を受けて、非合理の世界を解放することによって新しい価値の創造を目論む動きが始まった。シュルレアリスム運動は詩人アンドレア・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表したことによって定義の明確化が図られた。芸術分野においてマックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギーらを中心として展開されたシュルレアリスム運動は、各々の想像力を糧に、夢と現実が矛盾無く世界を構築するような世界(超現実)の実現を目指した。作品制作にあたり、彼らはデペイズマン、オートマティスム、フロッタージュ、デカルコマニーといった新しい技法を次々と考案し、後世に無視できない多大な影響を残した。 こうした新しい芸術運動が様々に展開される一方で、アンリ・ルソー、ルイ・ヴィヴァン、アンドレ・ボーシャン、セラフィーヌ・ルイといったいわゆる素朴派と呼ばれる素人画家が多く登場してきたことも、現代絵画の変革を伝える重要な要素のひとつである。また、エコール・ド・パリ(例:シャガール、ユトリロ、キスリング、スーティン、藤田嗣治)に代表されるように、特定の運動に加わることなく、自己の世界を表現し続けた画家も数多く存在していたことは忘れてはならない。 1945年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響を強く伺わせるいわゆる戦後美術が登場した。作品としてはフランシス・ベーコンが描いた『風景の中の人物』、ジャン・フォートリエの『人質』に代表されるような、戦争の悲劇がもたらした人間そのものへの問いかけを含有する悲劇的な様相を表現する傾向にあった。アメーバのような不定形なフォルムと血を連想させる生々しい色彩を用いたヴォルスや、幼児や精神障害者の描く原生芸術を追求し、アールブリュットを提唱したジャン・デュビュッフェなども代表的な画家として挙げられる。フォートリエが表現した厚塗りの具象的な作品はその後、アンフォルメルと呼ばれる表現主義的抽象絵画として1950年以降もてはやされることとなる。こうした作品は、保守派ジャーナリズムや一般観衆から「子供の悪戯描き」と揶揄されながらも感覚に直接訴えかける新鮮な迫力を持った表現形式としてその地位を確立させた。他方で、こうした表現主義的抽象絵画が採った具象的モチーフの拒否を否定することで、現実への復帰を試みたネオダダやポップアートが誕生したのもこの時代であった。 多様化する表現形式 1980年代以降、美術を表現する新しい方法が次々と生み出され、それらが互いに影響を及ぼしあうことにより複雑な美術体系が構築された。ナムジュン・パイクによるビデオ・アート、映画を含めた映像作品も美術作品として定義することが可能であり、現代美術の主要部分を占めるようになったと言って良い。また、シンディ・シャーマンやロバート・メイプルソープなどの写真美術作品や、マリーナ・アブラモヴィッチのような自身の身体を用いたパフォーマンス的な美術作品に代表されるように、様々なメディアを使用した表現形式(メディアアート)が誕生している。 1960年代後半から1970年代にかけて誕生したロバート・スミッソンを嚆矢とするアースワーク(ランドアート)も、そうした多様化した表現形式の帰結のひとつである。自然派と呼ばれた彼らは地球をキャンバスとし、訪れることさえ容易ではない地に作品を直接制作することで、限られた空間からの解放と美術の商業主義からの脱却を試みた。代表的なものとしてはすでにグレートソルト湖の湖中に水没したスミッソンの『螺旋状の突堤』、落雷を呼ぶ金属ポール400本を等間隔に設置し、落雷現象そのものを美術作品として発表したウォルター・デ・マリアの『ライトニング・フィールド』、ストーンヘンジやストーンサークルといった原初的な造形を追及したリチャード・ロングの環状列石作品群などがある。 脚注 注釈 出典 参考文献 関連文献(全体に関わるもの) 【概説・入門書】 北澤洋子監修『西洋美術史』(武蔵野美術大学出版局、2006)ISBN 9784901631716 千足伸行監修『新西洋美術史』(西村書店、1999)ISBN 9784890135837 高階秀爾・三浦篤編『西洋美術史ハンドブック』(新書館、1997) ISBN 9784403250248 青山昌文『芸術の理論と歴史 改訂版』(放送大学教育振興会、2006)ISBN 9784595306457 『西洋美術の歴史』(全8巻:中央公論新社、2016-2017) 【画集・辞典】 『世界美術大全集:西洋編』(小学館、全28巻、1992-1997)ISBN 4096010014(第1巻) 『世界美術大事典』(小学館、全6巻、1988-1990)ISBN 4096993115(第1巻) 『オックスフォード西洋美術事典』(講談社、1989) ISBN 406200979X 木村三郎ほか編『西洋絵画作品名辞典』(三省堂、1994)ISBN 4385154279 ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典 新装版』(河出書房新社、2004)ISBN 9784309267500 関連項目 美術史 美学 美術家 美術家の一覧 美術館 美術大学 近代美術と現代美術 おもな近代西洋絵画一覧 世界美術大全集西洋編 東洋美術史 西洋文化 ヨーロッパ史
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%B3%20%28%E6%BC%AB%E7%94%BB%29
ピンポン (漫画)
『ピンポン』()は、松本大洋によるスポーツ漫画。『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館刊)1996年第14号より連載が開始、1997年第29号の第55話を以て完結した。神奈川県藤沢市を舞台に、卓球に魅了された5人の高校生によるスポーツアクションや才能を巡る青春が描かれている。単行本は1996年9月に第1巻初版が発売、翌年10月までに全5巻が発売された。2002年に曽利文彦監督、窪塚洋介主演で劇場映画化、2014年に湯浅政明監督によるTVアニメが制作された。 制作背景 松本大洋は1987年に講談社の『モーニング パーティ増刊』にて漫画家として商業デビューを果たし、1988年より『モーニング』で『STRAIGHT』を発表し、長編連載デビューした。『ピンポン』は松本が小学館へ移籍してから制作され、小学館誌上では『ZERO』『花男』『鉄コン筋クリート』に次ぐ4作目の連載作品である。当初、松本の編集を担当していた人物は非常にスポーツを愛好しており、松本もまた小学生から高校生までずっとサッカーに励むスポーツ少年であった。その点で意気投合していた両者はスポーツ漫画として『ZERO』『花男』を発表した。『ピンポン』の制作以前にはサッカー漫画の構想が立てられていたが、松本は自身が長期の連載をしない性質にあり、試合毎に最低22人が登場するサッカーを描くことは困難と判断し、個人競技を描く方向へ転換した。卓球が題材となったのは、取材のために数多のスポーツを観賞した松本が、競技自体の認知度の割に卓球選手個々に戦型があったり、ラケットやラケットに貼るラバーの種類が多いことなど知られていない面が多く、魅力を感じたためであった。 絵柄 松本は作品によって絵柄を大胆に変える傾向があり、前作『鉄コン筋クリート』ではフランク・ミラーの様な、白黒でメリハリが強いイラストレーション色の強いタッチであったが、『ピンポン』ではこのタッチは鳴りを潜め、細線を多様した黒味の薄いタッチが採用された。 あらすじ 神奈川県藤沢市。星野裕(通称ペコ)と月本誠(通称スマイル)は、共にタムラ卓球場で小学生時代から卓球をやってきた幼馴染。ペコは確かな実力を持ちながら己の才能に自惚れ、誰に対しても不遜だった。一方のスマイルは、決して笑わず無愛想で、そんな態度からペコにスマイルと渾名されていた。共に片瀬高校の卓球部へ入ったふたりは、春、県内の辻堂学園学院卓球部へ、上海のジュニアチームから留学してきた孔文革(通称チャイナ)が留学生として雇われたと知る。ふたりは辻堂学院へ偵察に訪れ、チャイナとの対戦にこぎつける。しかしペコはチャイナ相手に1点も獲れず大敗した。続いてチャイナはスマイルへ勝負を持ちかけるが、スマイルはまるで興味を示さなかった。一見すると卓球で勝るのはペコであったが、チャイナはスマイルが抜群の素質を持っているのを見抜いていた。 スマイルの才覚を嗅ぎつけたのはチャイナだけではなかった。片瀬高校の卓球部顧問である小泉丈は、スマイルが才能とは裏腹に勝利への執念が全く無く、真剣勝負でも相手の心情を考慮し、特にペコと試合する際には無自覚に手を抜いていると看破し、彼をさらなる高みへと登らせるべく過酷な指導を試みる。同時期、県内最強と謳われる海王学園高校卓球部の風間竜一(通称ドラゴン)が片瀬へ偵察にやってくる。インターハイ優勝の実力者である風間ですらスマイルの実力を脅威に感じるほどであった。それでも、風間にとってスマイルはあくまでも脅威となりうる存在でしかなく、今度のインターハイでの優勝は確実であると公言する調子だった。 やがてインターハイ予選が開幕した。ペコ、スマイル、ドラゴン、チャイナ、それぞれ順当に勝ち上がっていく。3回戦でスマイルはチャイナと対戦した。留学生として注目を集めるチャイナの勝利が確実視される中、スマイルはチャイナの実力を初セットで見極め、次のセットからまるでロボットのように正確無比なプレーでチャイナを追い詰める。スマイルの勝利が目前になったところで、チャイナのコーチが「ここで負ければ中国代表への道は閉ざされる」と激昂した。その意味を察知したスマイルは途端に萎縮し、結局、チャイナが勝利を挙げた。その一方で、ペコは準々決勝まで順当に勝ち上がった。準々決勝の相手は、同じ道場出身のもうひとりの幼馴染、佐久間学(通称アクマ)であった。以前はアクマ相手に圧倒的な実力を見せつけていたペコだったが、この対戦では地道な努力を重ねたアクマに終始優勢を握られ、あえなく敗退した。さらに別の準々決勝戦では、チャイナとドラゴンが対戦する。実力者であるチャイナをもってしても、日本国内最高峰に立つドラゴンにはまったく歯が立たなかった。インターハイはベスト4をすべて海王の選手が独占してみせた。 インターハイ予選を終え、全国大会へ進出した海王学園は団体戦の序盤で敗退した。個人戦で優勝を果たした風間は、近年の海王の弱体化を憂い、インタビューにおいて「優勝には月本レベルの人間が必要だ」と失言するほどになっていた。そのスマイルは次の大会へ向けて小泉にさらなる指導を受け、練習試合で県内の実力者を次々倒して名を挙げていた。しかし小泉の過剰なスマイルへの入れ込み、スマイルの独善的な卓球への熱は他の卓球部員との軋轢を生んでいた。ペコはアクマに敗戦したのが堪え、すっかりやる気を失っていた。そんな中で、アクマはドラゴンの発言でスマイルへの敵意をむき出しにして単身片瀬へと乗り込み、スマイルへ試合を申し込む。かつてはアクマが常勝だったが、才能を開花させつつあるスマイルの前では為す術なく敗戦した。地道な努力と対戦相手の研究を重ねたアクマはそれらをもってしても勝てないことを嘆くが、スマイルに「それは卓球の才能がないからだ」と一蹴された。試合を終えて帰宅する途中、アクマは苛立ちから傷害事件を起こし、停学処分と、卓球部の強制退部を余儀なくされた。 一方で、スマイルの言葉はペコにも突き刺さり、ペコは学校の焼却炉で自身のラケットを燃やしてしまった。すっかり意気消沈した彼を、久々に道場へ訪れたアクマが激励した。ペコは誰よりも才能に恵まれ卓球を愛していると、才能に恵まれずも卓球を愛したアクマは知っていた。一念発起したペコは、道場で指導するオババへ懇願し再び卓球へ向き合う。オババもまた小泉と同時期に活躍していた卓球の名手であった。彼女の指導の元、堕落した基礎体力を取り戻したペコは、オババの息子が指導する大学の卓球部で指導を受ける。バックハンドの弱点をどうにも克服できなかったペコは、ペンラケットの裏へラバーを貼って繰り出す裏面打法を会得し、たちまち秘めていた才能を開花させ、誰もが驚く速度で進化した。 同時期、片瀬へ再びドラゴンがやってくる。今度は正式にスマイルを引き抜こうという魂胆であった。環境という意味では片瀬よりも海王が優れると踏んだ小泉は移籍を推奨した。精神を疲弊させたスマイルは普段のジョギングのコースを外れ途方も無い距離を走った。両親との距離が遠いスマイルが密かに他人との温もりを必要としていると理解した小泉、さらに卓球部の主将を務める大田は、スマイルへ卓球選手としてではなく、人間として歩み寄る。卓球部とスマイルとの間にあったわだかまりは一応は解消された。 そして、1年が経過し、再びインターハイの季節がやってきた。ペコの初戦の対戦相手は偶然にもチャイナであった。チャイナは1年間で日本に順応し、かつては馬鹿にしていたチームメイトとも打ち解け、実力も当然上昇していた。しかし、ペコは第1セットから前回の対戦との違いを見せつけ、接戦ながらストレート勝ちを決めた。一方、月本は2回戦で海王の副主将である真田と対戦する。ドラゴンには劣るものの国内でも規格外と評される実力者との対戦にもスマイルはまったく怯えず、圧勝してみせた。ドラゴンもまた元来の実力で順当に勝ち上がってゆく。そうしてベスト4へ勝ち上がったのはペコ、スマイル、ドラゴン、そして海王の猫田であった。準決勝で猫田と対戦したスマイルはこれまた圧倒的な結果で勝利して見せた。一方、ペコは急速な成長に比例したオーバーワークが災いし膝に爆弾を抱えていた。周囲から棄権を勧められながらも、ペコは「スマイルが上で呼んでいる」と言う。小学生のころから無愛想でいじめられっ子だったスマイルを助けたペコは、彼らの間でヒーローだった。ところが最近になって、ペコはすっかりやる気を失い、いつしかヒーローの存在感が消えてしまっていた。そのヒーローをスマイルがずっと待っていると、ペコは悟った。 準決勝。ペコはドラゴンにあえなく1セットを先取され、まったく打つ手がなく追い込まれる。しかし試合中、心中でスマイルと会話を交わしたのをきっかけに復活し、まるで遊ぶように大胆で自由な戦型へと変貌、セットを取り返して見せた。ペコのプレーは観客だけでなく、対戦相手であるドラゴンすら歓喜させる面白さだった。長らく強者の重圧、主将としての責任を背負い卓球を憎んですらいたドラゴンは、ペコとの対戦でやがて喜びをあらわにした。試合はペコが勝利した。 決勝戦はオババや小泉や道夫、アクマ・チャイナ・ドラゴンらがどこか嬉しそうに見守る中、共に片瀬高校同士、ペコとスマイルの対戦となった。膝を痛めたペコ相手にスマイルは一切手を抜かない。一方でペコも、傷をまるで感じさせない大胆なプレーで応戦した。その様はただ卓球を楽しむ少年でしかなかった。 5年が経過した。スマイルは小学校の教諭を目指しながら、道場でジュニアの指導をしていた。そこへ親しい仲となったドラゴンが顔を出し二人は昔を懐かしみながら語り合う。ドラゴンはプロの卓球選手となったが、日本代表から外れ、己を凡庸な選手で終わるかもしれないと憂いていた。アクマは高校生のころから交際していた女性と結婚を決めた。ペコは若くしてドイツのプロリーグへ進出し、人気を集めていた。 各話リスト 登場人物 ※声の記述はアニメ版、演の記述は映画版である 主要人物 ペコ / 星野裕(ほしの ゆたか) 声 - 片山福十郎、幼少 - 西田光貴 / 演 - 窪塚洋介、幼少 - 小泉拓也 片瀬高校1→2年生 主人公。通称ペコ。切り揃えたおかっぱ頭と、服装やラケットなどの星マークがトレードマークの少年。自信過剰でフランクな性格。幼少からタムラ卓球場で腕を磨き、平日でも「出られる大会全部行く」と学校に行かずに試合を優先していたほどで、当時から卓球にかけて右に出るものはほとんどいなかった。 大柄ではないが身体能力に優れ、素手の喧嘩も強かったためスマイルに非道を働いていたいじめっ子達もペコの姿を見ると一斉に逃げ出していた。 ちゃらけているようで決めるところは決める性分から、周囲からは尊敬され「ヒーロー」と称されていた。中学卒業後はスマイルと共に片瀬へ入学したが、授業も練習の質が低い部活動もさぼりがちで、タムラ卓球場で一般人を相手に賭け卓球で金を巻き上げる日々を過ごしている。 1年生次のインターハイでは1年生ながら8強まで進出するが、その準々決勝では同じ道場出身だがライバルとも思っていなかったアクマに敗北し、大会後は失意のまま卓球から離れ、さらにスマイルが片瀬高校で決闘に挑んで敗北したアクマに対して放った「卓球の才能がない」という発言に激しいショックを受け、ラケットを焼却炉に捨ててしまうなど堕落した生活を送る。その後、ペコの才能を惜しむアクマから強く復帰を説得され、一念発起し再起を図り、タムラ卓球場のオババから猛特訓を受け、返り咲きを果たす。 プロとなったラストでは、実況に「世界のエースに成長しつつあります」とまで評されていた。 無類の菓子好きで、日常生活や練習の合間、試合の直前でも様々な菓子を食べている。とりわけ飴やチョコレートなど甘い菓子を好んでおり、卓球選手として名を挙げると同時に、カルビーのコマーシャルへの出演が夢であると公言している。テレビアニメではこの描写が、カルビーではなく赤城乳業に変更された。 戦型 ペコの卓球スタイルは漫画において「右ペンホルダー、表ソフト速攻型」、テレビアニメでは「右ペンホルダー、前陣速攻型」と称されている。使用器具は現代において使用人口の少ない日本式ペンホルダーで、表面が粒状で球離れがよく球速に優れる表ソフトラバーを使用している。 いずれも小回りと攻撃に向く道具であり、自身もスピードを活かして卓球台から離れず攻撃に比重を置くスタイルを取る。その実力はジュニア時代から図抜けており、攻守、技術すべての分野で高く賞賛される。しかし実力者や目の利く指導者からは「プレーが雑だ」と称され、スピードに優れる反面で隙が多く、バックハンドが致命的な弱点であると見抜かれる。このバックハンドの弱点を克服するため、日本式ペンホルダーの裏へラバーを貼って繰り出す裏面打法を会得した。当初は短期間での会得は無謀だと思われていたが、やがて誰もが目をみはるほどの成長速度、センスを見出され、才能だけならば全国優勝を経験したドラゴンを超えると称された。 テレビアニメ版では戦型の変遷が若干変更されており、裏面打法の会得と同時期に、フォアハンド面の表ソフトラバーを、ドライブショットに優れる裏ソフトラバーへ変更し、戦型自体をドライブ主体へ変更した。しかしインターハイ準決勝のドラゴン戦を前にして、ペコの最大の長所であるスピードを活かすため表ソフトラバーへ戻し、ラケットを反転式ペンホルダーへ変更した。これによって試合中に表ソフトラバー、裏ソフトラバーの面を自在に切り替え、前陣速攻にもドライブにも囚われない派手なスタイルを確立した。実写映画ではラケットはButterflyの「サイプレス-R」ラバーは同ブランドの「チャレンジャー·アタック」「カタパルト」が使用されている。 スマイル / 月本誠(つきもと まこと) 声 - 内山昂輝、幼少 - 里村洋 / 演 - ARATA、幼少 - 小沼蔵人 片瀬高校1→2年生 主人公。通称スマイル。眼鏡と服や卓球道具の月マークがトレードマーク。感情表現が苦手で無表情で、度々ロボットなどと揶揄される事があったが、心根は人間らしい暖かさを帯びている。 小学校在学中にはその無表情を馬鹿にされいじめの対象にされていたが、同級生だったペコに助けられ、彼が通うタムラ卓球場で卓球を習い始めた。 表面上は物凄く冷めた性格をしており、「卓球なんて死ぬまでの暇つぶし」などと語る事もあるなど卓球においても勝利には関心が薄く、勝利よりも対戦相手や指導者など周囲へ気を配るのに注力し、わざと負けることも少なくないが、本心では初めてペコのプレーを間近で見た時から彼なりの卓球を愛している。 積極性が弱く卓球の実力でペコの陰に隠れがちだったが、密かに強大な才能を抱いている。片瀬高校で指導する小泉に才覚を見出されたのをきっかけに、彼の猛烈な指導を受けて実力を伸ばし、インターハイの優勝候補に名乗りを上げた。 海王から退部に追いやったアクマについては「才能がない」「遅かれ早かれ自分の限界を知る選手」と一蹴しているが、それでも彼を退部に追いやってしまった事に負い目は感じており、「張本人の僕が海王に行って他の連中とうまくやっていけると思いますか?」と小泉に吐露している。 暇を見つけるとアマリリスの鼻歌を歌う癖があり、同時にひとりルービックキューブに興じる。テレビアニメでは時代背景の変更に伴い、ルービックキューブが携帯ゲームに変更された。 戦型 スマイルの戦型は漫画において「右シェークハンド、両面裏ソフトカット主戦型」と称されている。使用器具は現代卓球において主流のシェークハンドラケットを使用し、ラケット両面にはそれぞれ異なる種類の裏ソフトラバーが貼られている。戦型は卓球台からやや離れて相手の攻撃を下回転中心のカットで返すカット主戦型を主としている。 1年生次のインターハイでチャイナと対戦する直前、小泉によってラバーの片方を防御に優れる粒高ラバーへ変更している。防御を中心に攻撃の機会を窺うスタイルを確立しているものの、攻守共に優れた実力を持っており、攻撃に優れない器具を用いても速攻戦型で対応できるほどである。 ドラゴン / 風間竜一(かざま りゅういち) 声 - 咲野俊介、幼少 - 坂口湧久 / 演 - 中村獅童 右シェークハンド(映画ピンポンでは左)オールラウンド 海王学園高校2→3年生 海王学園卓球部部長兼主将。通称ドラゴン。高校最強の選手として知られており、インターハイでも2年連続個人優勝している。 大柄な体格から繰り出されるパワープレイもさる事ながら、チャイナのコーチの分析では「あの筋肉量では(チャイナレベルのボールでなら)左右に振れば素早い対応は難しいのでは」と考えられていたが、実際の対決ではドライブ攻撃にもそつなく対応して見せる素早さも持つ。 ストイックな性格だが、試合の前には無敗のプレッシャーに苦しみ便所に籠るなど繊細。チームの和よりも合理性や純粋な実力を追及するがゆえ薄情にみられる事もあるが、アクマの努力を賞賛し気にかけていた様な描写もあり、試合会場で選手に対する大勢のヤジを一喝して制するなど、実直な面もある。 スマイルの実力に心底惚れ込んでおり、最後のインターハイ予選前は練習試合の対戦相手を全てカットマンで揃えたらしいと言われていた、 低レベルな片瀬高校卓球部で彼が腐ってしまう事を心配し、顧問と共に片瀬高校を訪れ、海王学園への転校を熱烈に勧誘する。 アクマ / 佐久間学(さくま まなぶ) 声 - 木村昴、幼少 - 池澤巧貴 / 演 - 大倉孝二、幼少 - 北山小次郎 右ペンホルダー 前陣速攻型 海王学園高校1→退部 ペコとスマイルの幼馴染でタムラ卓球場出身。吊り上った目からサクマ転じてアクマと渾名されている。重度の乱視で、幼少時から分厚いメガネをかけている。ペコやスマイルを一方的にライバル視してはいるが、ペコやスマイルからは相手にされない。 ドラゴンに憧れて海王学園に入学し、渋る顧問に懇願して卓球部に入部した。生まれ持った才能は無いが、十やれと言うと百でも千でもやる男であり、実力をつけレギュラーの座を獲得。部内での人望も厚い。 元々ペコに憧れ戦型も真似ていたが、海王卓球部入部と共に戦型を変えている。 スマイルを海王にスカウトする事を切望する風間に憤りを感じ、自らを認めて貰うために部の戒律を破ってまで片瀬高校に赴き非公式にスマイルに挑戦した事がきっかけで卓球部を退部。さらにスマイルへの敗北後に彼から「卓球の才能がない」と言われた事への苛立ちから傷害事件を起こし、停学処分を受けた。 その後、自分に悔いを残さないために一時的にカット戦型を試しており、独学ながらもそれなりのレベルには達していたが、元来攻撃的な戦型が性に合っていたらしく、しっくり来る事は無かった様だ。 ペコが挫折して卓球の道を諦めかけた際には、自分のペコに対する嫉妬と羨望の気持ちを吐露し、心から復帰を説得。以降のペコの卓球人生に多大な影響を与えた。 高校を中退してからは工事のバイトに励み、髪を伸ばしてリーゼント(ポンパドゥール)にしている。ムー子とは恋人同士であり、一緒に風間達の試合を見に来ている。 チャイナ / 孔文革(コン・ウェンガ) 声 - 文曄星 / 演 - サム・リー 右中国式ペンホルダー ドライブ主戦型 中国からの雇われ選手。通称チャイナ。上海ジュニアユースのエリート選手だったが、敗れて日本に留学。卓球大国・中国で生まれ育ち、エリート意識を持っている。 球を打ち合う音だけでスマイルの実力を見抜き、当初はペコにスコンクで圧勝。スマイルとの対戦を熱望する。 プライドが高く傲慢で、日本の卓球を馬鹿にしていたため部員からも疎まれていたが、インターハイで接戦の末スマイルに実質の敗北を喫し、その寸前にコーチに「ここで這い上がれなければお前の卓球人生は終わりなんだぞ」「気取った卓球するんじゃねえ!」と一喝される。 そしてドラゴンに敗れてからは日本の卓球を徐々に認めて部の指導にも熱を入れ、日本語も片言ながら話せるようになる。 最後のインターハイ予選でのペコについて、「プレーが型にはまっていない。卓球が好きで好きでたまらないという感じだ。そういう相手と打ち合えるという事は、少なくとも俺には・・・・・・(幸せだ)」と評した。 アニメでは劇中でも特に出番が追加されている。8歳の時に工場勤めの母親(声 - 劉妍)の元を離れ、省のチームに入った生い立ちが判明しており、母親に対しては深い愛情を抱いている事が窺える一面も描かれた。チームメイトとの交流も非常に多く追加され、母親を招き全員でクリスマスを祝いカラオケに行ったり、冗談を飛ばせる仲になり兄のように慕われており、本人も「結構強いチームになってきた」「団体戦ではきっといいところまでいく」と信頼を寄せている。本人も着実に実力を向上させ、最後のインターハイ予選の1回戦では海王のレギュラー相手に踊るように華麗なプレイで圧勝した。原作では不明であった5年後の動向も語られ、世界代表へ返り咲いたとの記事が出ており、スマイルとドラゴンがそれを読んで喜んでいる。 片瀬高等学校 ペコ、スマイルが入学した高校。劇中の記事では名門と称されていたものの、練習環境、選手層の面、選手のモチベーションを見る限り近年はすっかり落ちぶれてしまっており、選手の大半は大会の序盤で敗退している。しかし高校卓球以前に実績のあるペコ、スマイルの台頭によって、彼らが1年生次のインターハイ以後、再び注目を集めた。 小泉丈(こいずみ じょう) 声 - 屋良有作 / 演 - 竹中直人 右ペンホルダー 両ハンド攻撃型 片瀬高校の卓球部顧問であり英語教師。62歳(アニメ版では72歳)。オババとは昔なじみ。 かつてはオババが賛美するほど優秀な選手であり、バタフライジョーと呼ばれていた。1950年世界選手権日本代表の最終選考まで残ったが、ライバル選手(風間竜)の膝の怪我につけ込む戦法をどうしても取れずに敗退、同時に選手生活を引退した。 スマイルの才能を見抜き、スマイルの難しい性格に苦労しながらも一流の選手へと育て上げる。スマイルとの仲を深めるために2人きりで遊園地へ行き、盛り上げようと努力したが、自身がコーヒーカップに乗って具合を悪くしただけだった。 老齢ながらかつての実力は健在で、小泉の本気のサービスを一本目にしただけでペコは戦慄した。 また、スマイルとの対戦時にはスマイルを奮起させるべくダーティーな戦術も披露したが、最後は老齢ゆえスタミナがついていかず、スマイルに意趣返しをされる形で勝負には敗れている。 5年後も関係は続いており、ラストではスマイルの事を「誠」と呼んでおり、家で会食する間柄となっている様だ。 大田(おおた) 声 - 星野貴紀 / 演 - 荒川良々 片瀬高校2→3年生 卓球部キャプテン。特徴的な髪型をしている。顧問の小泉がスマイルのほぼ専任コーチとなってからは、スマイル以外の部員がないがしろにされている事に対して周りの部員と共に不満を漏らし、部への情熱も失っていたが徐々に和解。 他の部員との緩衝材の様な役割も果たし、長期不在であったペコも素直に応援し怪我も気遣っていた。 最後はスマイルに憧れの目を向け、面倒見の良いキャプテンとしてペコやスマイルの活躍を見守る。 劇場版と原作では性格・キャラクターが大幅に異なる。 アニメ版では実家が個人経営の電化製品店を営んでおり、卒業後は家業を引き継ぐ。 山田(やまだ) 声 - 嶋田翔平 片瀬高校3年生 卓球部キャプテン。ペコとスマイルの実力を認めており、大田らをなだめていた。引退後、大田にキャプテンを引き継ぐ。 劇場版では既に大田がキャプテンになっており登場しない。 高村(たかむら)、浜ちょん(はまちょん) 声 - 星光明、浜添伸也 / 演 - 近藤公園、平野貴大 片瀬高校2→3年生 卓球部員。大田と行動を共にしていることが多く、ペコやスマイルに対して強く当たる。キャプテンとなった大田とは異なり、3年に上がってからも態度は変わらなかった。 劇場版では、多胡(たご)、五味(ごみ)という名前にそれぞれ変更されて登場している。 海王学園高校 個人、団体とも無敗を誇る県内屈指の強豪校。卓球専門誌には特集が組まれ、卓球部専用の宿舎、ジム、送迎バス、ビデオルーム、サウナまで完備するプロ顔負けの設備が備わっている。その一方で近年は選手層の弱体化に悩まされ、常勝軍団の名に陰りが見え始めている。 真田昌幸(さなだ まさゆき) 声 - 浜田賢二 / 演 - 末満健一 右シェークハンド 海王学園高校2年→3年 海王学園卓球部副部長。太い眉毛が特徴で、九州弁で喋る。 全国でベスト16に入るほどの強豪で、「モンスター」の異名を持つ。 ドラゴンに少なからず憧れているがゆえに、ドラゴンに執着されているスマイルに嫉妬するが、2年目のインターハイ予選でスマイルと戦い、かけ離れた実力を見せつけられて敗北。 アクマとの語らいの中でドラゴンは「真田も優れた選手」と評しながらも、「だが、(月本相手では)1ゲーム獲る事すらも困難だろう」と語っている。 大学でも本格的に卓球を続けるつもりだった様だが、スマイルに敗北後は「その気も失せたわ」と消沈しており、「風間があれだけ惚れ込むのも分かる」と語った。 退部となったアクマに対するドラゴンの冷たい態度に激昂したり、ドラゴンに叱責された補欠部員を慰めたりするなど、無機質に勝利を求めるドラゴンとは対照的に和を重んじる人情家。 猫田修二(ねこた しゅうじ) 声 - 大隈健太 海王学園高校卓球部部員。関西弁で喋る。2年目のインターハイ予選ではベスト4まで残った。 自身の実力は真田に劣ると考えているらしく、スマイルとの試合中には「ワイの相手やない」「体力も削れないとは」と勝利はほぼ諦めている様な事を考えていた。 毛利(もうり) 声 - 須田祐介 海王学園高校卓球部部員。アニメ版オリジナルキャラクター。津軽弁で喋る。デビュー戦でチャイナと当たり大敗する。 風間卓(かざま たく) 声 - 石住昭彦 海王学園卓球部顧問及び監督。アニメ版では風間理事長の息子であるが、原作ではこの設定は付けられていない。 卓球の指導は厳しいが作中の現役チームを含めた歴代の海王というチームを愛し、また部員個人には優しく接する事もあり、実力があるからと言って誰かを特別扱いもせず、部員たちのことを誰よりも理解している。 才能はないが努力を惜しまないアクマを高く評価している。 風間竜(かざま りゅう) 声 - 小川真司 海王学園理事長。ドラゴンの祖父。アニメ版オリジナルキャラクター。 学園の経営だけでなく「ポセイドン」という卓球用品ブランドを展開している。容赦ない勝利至上主義者で、その為に海王学園の卓球練習環境を過剰なまでに充実させている。 あまり気が進まなかったであろうドラゴンを広告塔に使うなど、金儲けには容赦もない。 ただ、人情や卓球への愛が全くないような人物ではないらしく、インターハイ予選終了時の会場で友二人と昔の様に語らう姿を見せていた。 オリンピックユースで優勝したドラゴンをCMに起用する。1950年世界選手権日本代表の最終選考にて、バタフライジョーを破っている。 辻堂学院高校 かつては東日本に辻堂ありといわれた強豪校だが、近年は弱体化の一途。中国から選手兼コーチとしてチャイナを招き、起死回生を図る。 孔のコーチ 声 - 程波 / 演 - 翁華栄 チャイナとはユースの頃からの間柄らしく、チャイナと共に来日し当初は通訳も務める。 傲慢になり手を焼いていたチャイナを、スマイルとの試合中に本気で𠮟りつけ初心を取り戻させた。 怒鳴り声を上げたのはこの時のみで、チャイナが風間に為す術もなく敗れ再起が絶望的となった際には「コーチとしてではなく孔をよく知る友人として」激励の言葉を贈るなど、普段は非常に穏やかな人格者である。 一度帰国するが、最後のインターハイ予選前に来日し、チャイナの試合からペコvsスマイルの決勝戦までを最後まで見届けた。 木村(きむら)、小枝(こえだ)、飯田(いいだ) 声 - 野沢聡、中務貴幸、玉置祐也 卓球部の部員たち。チャイナの指導により、全員メキメキと実力をつけていく。名前はアニメ版より。 タムラ卓球場 オババ 声 - 野沢雅子 / 演 - 夏木マリ タムラ卓球場を経営している。ペコ・スマイル・アクマを彼らが小学生の頃から指導してきた。ほぼ常にタバコを銜えていたり、たまに場内で居眠りをしていたり、言葉が汚く指導は厳しいが、誰よりも選手達を思い、かわいがっている。挫折からの再起を図ろうとするペコに手を差し伸べ、厳しい特訓を課す。 若き頃は選手としても優秀であったが膝の故障が原因で一線を退く。アニメ版において日本代表育成センターに彼女の銅像があることから相当な実力者だったことが伺える。 彼女が主役の短編「タムラ」ではタムラ卓球場の在りし日の一日が描かれる。 田村道夫(たむら みちお) 声 - 島田岳洋 オババの息子。藤堂大学卓球部(アニメ版では日本代表育成センター)のコーチである。母親の頼みによりペコを指導し、彼のバックサイドの弱点を克服するために裏面打法に挑戦させた。愛称はカモネギ(しかし本人は気に入っていない) 実写映画版には登場しない。 その他 江上(えがみ) 声 - 津田健次郎 大鵬高校3年生 1年のインターハイ予選のスマイルの対戦相手。3年最後の卓球で意気込んでいたが、スマイルの速攻戦法に敗北する。 原作では脇役だが、アニメ版ではその後のストーリーにも登場する。 風間百合枝(かざま ゆりえ) 声 - 川澄綾子 風間卓の娘。短大生。アニメ版オリジナルキャラクター。 ドラゴンの従姉であり、彼とは「清い交際」の関係。卓球用品ブランド「ポセイドン」のCMにも出演している美人。 ムー子(むーこ) 声 - 栗田エリナ / 演 - 三輪明日美 アクマが卓球部を退部して以降、恋人として連れ添う少女。短気なアクマとは対照的に、極度に天然ボケでおっとりした性格。アクマを「マー君」と呼んで慕う。アクマもそれなりに心を開いている様子である。 ドテチン 声 - 宮本崇弘 / 演 - 大浦龍宇一 タムラ卓球場に来た大学生。卓球歴10年の経験者だが、ペコにコテンパンにされた。 劇場版では、アッ君(あっくん)という名前に変更され、早苗(さなえ、演 - 田中千絵)という女子大生を連れていた。 風間のりお(かざま のりお)、風間えみ子(かざま えみこ) 声 - あべそういち、土門敬子 ドラゴンの親。回想に登場する。 その他に、『鉄コン筋クリート』の蛇が藤堂大学の卓球部員として、第32,34,36話でカメオ出演している。 評価 「ピンポン」は1997年、1998年に手塚治虫文化賞の候補に挙げられ、受賞は逃したものの数多くの選考委員から高い評価を得た。「ピンポン THE ANIMATION」を手がけた湯浅政明は連載当時から本作を愛好していたが、完成度の高さを見てアニメ化には当初後ろ向きだったとコメントしている。中国出身の映画監督ビー・ガンはピンポンを始めとする松本の作品群から影響を受けたと公言している。 書籍 単行本(小学館ビッグコミックススペシャル 全5巻) 第1巻(1996年9月1日発行 ISBN 4091847366) 第2巻(1997年1月1日発行 ISBN 4091847374) 第3巻(1997年4月1日発行 ISBN 4091847382) 第4巻(1997年8月1日発行 ISBN 4091847390) 第5巻(1997年10月1日発行 ISBN 4091847404) 新装版(小学館 ビッグコミックススペシャル 全3巻) 第1巻(2002年7月1日発売 ISBN 4091857353) 第2巻(2002年7月1日発売 ISBN 4091857361) 第3巻(2002年7月1日発売 ISBN 409185737X) 文庫版(小学館 小学館文庫 全3巻) 1巻(2012年7月14日発売 ISBN 4091962416) 2巻(2012年7月14日発売 ISBN 4091962424) 3巻(2012年7月14日発売 ISBN 4091962432) ピンポン フルゲームの1、2(小学館 ビッグコミックススペシャル 全2巻) 第1巻(2014年4月1日発売 ISBN 4091860893) 第2巻(2014年4月1日発売 ISBN 4091860907) パチスロ 2010年にSANYOから発売されたパチスロ5号機。 ART+ボーナスタイプの機種で、ゲーム数によるゾーン抽選で発動するART「ピンポンボーナス」が特徴。 声の出演 ペコ - 西墻由香 スマイル - 神谷浩史 アクマ - 鳥海浩輔 ドラゴン - 安元洋貴 映画 漫画の連載終了から4年以上が経過した2002年初頭に映画の制作が発表され、同年7月に劇場公開された。 ストーリー 片瀬高校一年の星野は、将来ヨーロッパに行って卓球で頂点を目指すという夢を持っている。その割には、卓球部の練習はさぼってばかりで、マイペースだ。星野の幼なじみの月本は、幼い頃虐められていたときに、いつも星野に助けてもらった。月本の中では、星野はヒーローであった。星野に卓球を習って、目立たないが卓球の才能を持っている月本は、インターハイチャンピオンの海王学園の風間や、中国のナショナルチームから落ちて日本で再起をはかる孔からも注目されている。しかし月本は卓球は人生の暇つぶしと考えてクールに取り組み、月本を鍛え上げようとする顧問の小泉にも反抗しがちだ。 そしてインターハイ県予選がはじまる。星野は、幼なじみで風間に憧れて海王学園に行った佐久間に破れる。月本は孔を追い詰めるが、情をかけ逆転負けをする。風間に認められたい佐久間は、月本に試合を挑むが完敗、退学し卓球を離れる。一方、卓球をやめようとしていた星野に会い、卓球を続けるように励ます。星野は再起を期して、タムラ卓球のオババのもとで鍛え直す。月本も、小泉と信頼関係を築いていき、特訓をはじめる。 そして翌年のインターハイ予選が始まる。月本は圧倒的な力で決勝に進んだ。星野は孔を下し準決勝に進む。そして膝痛のため、棄権をすすめるオババの忠告を蹴って、月本が待っているからと言って風間と戦う。風間は意地をかけて勝利を目指すが、星野は月本の友情に力を取り戻し風間を下す。死力を尽くした戦いに、風間は幸福を感じていた。月本はヒーローである星野との決勝に臨む。そして星野は月本に勝利し、優勝を果たした。 他出演 橋の上の巡査 - 松尾スズキ 選手Aの父 - 山下真司 選手Aの母 - 石野真子 ゲームセンターのカップル - 津田寛治 ゲームセンターのカップル - 馬渕英里何 スタッフ - 佐藤二朗 服部まこ - 水谷妃里 片瀬高校女子生徒 - 加賀野泉 片瀬高校女子生徒 - 原田夏希 片瀬高校卓球部員 - 守山歩 片瀬高校卓球部員 - 西原亮 片瀬高校卓球部員 - 鈴木清貴 片瀬高校卓球部員 - 小山内勝 片瀬高校卓球部員 - 上地慶 片瀬高校卓球部員 - 大江聡 片瀬高校卓球部員 - 斉藤直行 片瀬高校卓球部員 - 樋田洋平 海王学園高校卓球部員 - 虎牙光揮 海王学園高校卓球部員 - 秋永裕司 海王学園高校卓球部員 - 中村郁雄 海王学園高校卓球部員 - 小川毅史 海王学園高校卓球部員 - 平多康朔 海王学園高校卓球部員 - 田村賢二 海王学園高校卓球部員 - 周防進 海王学園高校卓球部員 - 仲島武士 生徒 - 冨田翔 生徒 - 佐藤幹雄 生徒 - 佐々木哲平 少年太郎 - 小池城太朗 ラストの少年 - 染谷将太 クラスメイト - 田代惇一 クラスメイト - 吉川陸 クラスメイト - 伊藤善博 クラスメイト - 真貝晋史 スタッフ 原作 - 松本大洋 監督・VFX - 曽利文彦 脚本 - 宮藤官九郎 音楽監督 - 二見裕志 主題歌 - SUPERCAR「YUMEGIWA LAST BOY」 挿入曲 - SUPERCAR、SUBTLE、石野卓球、DUB SQUAD、sugar plant、ma-o、GROUP、WORLD FAMOUS、砂原良徳、BOOM BOOM SATELLITES、cicada 音楽プロデューサー - 安井輝 音楽コーディネーター - 小林弘幸 撮影 - 佐光朗 照明 - 渡邊孝一 美術 - 金勝浩一 録音 - 山田均 編集 - 上野聡一 技斗 - 二家本辰己 音響効果 - 岡瀬晶彦 ストーリーボード - 荒牧伸志 特殊造形 - 松井祐一、三好史洋 CG - TBS・CG部、デジタル・フロンティア、DML 卓球アドバイザー - 坂井敏昭 ウィッグ - アートネイチャー ロケ協力 - 茨城県、水海道市(現・常総市) ほか 技術協力 - 東通、ソニーマーケティング スタジオ - 東映東京撮影所 現像 - IMAGICA エグゼクティブ・プロデューサー - 椎名保 プロデューサー - 小川真司、鈴木早苗、井上文雄 製作 - アスミック・エース、小学館、TBSテレビ、BS-TBS、日本出版販売、IMAGICA 配給 - アスミック・エース 製作・エピソード 卓球の試合シーンは主にボール、コート共にフルCGで作られている。CGシーンを担当した荒牧伸志は監督の曽利文彦と共にフルCGによるテレビシリーズ作品を企画していた縁から本作品に参加しており、後に曽利のプロデュースによりフルCGアニメ映画『APPLESEED』の監督を務めている。 劇中音楽は、主題歌を担当したSUPERCARを始めとして、石野卓球やBOOM BOOM SATELLITESなどのミュージシャンらがそれぞれ提供している。 この映画の原作との最大の違いは、キャプテン大田のキャラクターである。荒川良々が演じており、原作とは異なる丸坊主の太っちょといったいでたちで、原作には無いコミカルなシーンが盛り込まれている。また、キャプテン大田主演の宮藤官九郎脚本・監督によるこの映画のサイドストーリー「ティンポン」が存在しており、こちらの内容は本編のパロディとなっている。 原作者の松本大洋本人が劇中にわずかではあるが出演している。 出演者の卓球の技術指導をした平岡義博が海王学園の監督役で出演している。また、当時平岡が監督をしていた明治大学の卓球部の選手たちが撮影協力している。 受賞歴 第20回ゴールデングロス賞話題賞 第26回日本アカデミー賞 優秀作品賞 優秀監督賞(曽利文彦) 優秀脚本賞(宮藤官九郎) 優秀助演女優賞(夏木マリ) 優秀撮影賞(佐光朗) 優秀照明賞(渡邊孝一) 優秀編集賞(上野聡一) 新人俳優賞(中村獅童) ソフト化 ピンポン DVD2枚組DTS特別版(初回限定生産2枚組、2003年2月14日発売、発売元・小学館、発売 / 販売元・アスミック・エース) ディスク1:本編DVD 音声特典 オーディオコメンタリー(監督:曽利文彦×撮影:佐光朗) 音楽トラック 音楽チャプター ディスク2:特典DVD 短編作品「ティンポン」 メイキング・オブ・「ピンポン」 主要キャスト5人映像集 CGシーン解説 デジタルシネマについて 絵コンテ&本編シーンの比較 短編「カンフーマスター」 未公開シーン 平岡コーチの卓球教室 製作発表記者会見 完成披露試写会舞台挨拶 公開初日舞台挨拶 予告編集 劇中使用グッズ紹介 ポスターギャラリー ピンポン メモリアルBOX(DVD2枚組、2003年2月14日発売、発売元・小学館、発売 / 販売元・アスミック・エース、15000セット限定生産) ディスク1:本編DVD(2枚組DTS特別版と同様) ディスク2:特典DVD(2枚組DTS特別版と同様) 封入特典 スペシャル・ヴィジュアル・ファイル 特製バインダーケース 未公開スチール約100点使用ピクチャーカード集 松本大洋「ピンポン」両面ポスター ピンポン星人のペーパー・マスク 「ピンポン」型抜きステンシル 35 mm映画フィルム 片瀬高校ゼッケン 【TCE Blu-ray SELECTION】ピンポン ブルーレイ スペシャル・エディション(BD1枚組、2012年9月5日発売、発売元・アスミック・エース / 小学館、販売元・TCエンタテインメント) 映像特典 短編作品「ティンポン」 メイキング・オブ・「ピンポン」 メインキャスト映像集 平岡コーチの卓球教室 CGシーン解説 デジタルシネマについて 未使用シーン 製作発表記者会見 完成披露試写会舞台挨拶 公開初日舞台挨拶 予告編集 音声特典 オーディオコメンタリー(監督:曽利文彦×撮影:佐光朗) テレビアニメ 『ピンポン THE ANIMATION』(ピンポン ジ・アニメーション)のタイトルで、2014年4月より6月まで、フジテレビ『ノイタミナ』枠にて放送された。原作の絵をほぼそのまま再現し、アニメーション化させるという試みが行われている。 また、本作にはあらかじめ脚本はなく、監督の湯浅政明自ら絵コンテから描き始め、そこでセリフ等を決めている。 2015年、東京アニメアワードフェスティバル 2015でアニメ オブ ザ イヤー部門テレビ部門グランプリ受賞。 原作との違い 作中では、松本が連載時に着想はしたものの、作中では描けなかったエピソードが湯浅の手によって多数映像化されている。その他、連載時との時代相違を考慮した変更が行われている。 百合枝、風間理事長、孔の母親など、オリジナルキャラクターやエピソードの脹らましが存在する。 連載当時のルールから公式ルールが変更されたこともあり、1ゲーム21点制から11点制にルールが変更されている。 スマイルがよく遊んでいるおもちゃがルービックキューブから携帯ゲーム機に変更。 ペコの夢であるCM出演を希望する企業がカルビーではなく赤城乳業に変更された。 小泉の年齢が62歳から72歳になっている。 1年生時のアクマがペコに勝った後に言うセリフの絶対負けない唯一の方法が「勝つことだ」から「闘わないことだ」に変更されている。 学校の焼却炉がほとんどの学校で廃止となっているため、ペコがラケットを処分するシーンが変更されている。 原作では脇役だった江上の出番が多くなっている。 作中二回目のインハイでは、ペコとチャイナは一回戦ではなく二回戦で戦っている。また、それにあたって一回戦でのチャイナと海王選手の試合が追加されている。 アクマのプレースタイルが異なる。 ペコが準決勝で反転式ペンを披露する。 スタッフ(アニメ) 原作 - 松本大洋(小学館 ビッグスピリッツコミックス刊) 製作 - 松崎容子、植田益朗、中尾勇一、石川豊 監督・シリーズ構成・脚本・絵コンテ - 湯浅政明 副監督 - EunYoung Choi キャラクターデザイン・総作画監督 - 伊東伸高 美術監督 - Aymeric Kevin 色彩設計 - 辻田邦夫 撮影監督 - 中村俊介 編集 - 木村佳史子 音響監督 - 木村絵理子 音楽 - 牛尾憲輔 音楽プロデューサー - 佐野弘明、千葉悦子 チーフプロデューサー - 山本幸治 プロデューサー - 岡安由夏、新宅洋平 アニメーションプロデューサー - 藤尾勉 アニメーション制作 - タツノコプロ 制作 - アニメ「ピンポン」製作委員会(フジテレビジョン、アニプレックス、京楽産業ホールディングス、電通) 主題歌 オープニングテーマ「唯一人」 作詞・作曲・編曲・歌 - 爆弾ジョニー エンディングテーマ「僕らについて」 作詞・作曲 - クボケンジ / 歌 - メレンゲ 挿入歌「Midnight Flight -ひとりぼっちのクリスマス・イブ-」(第6話) 作詞・作曲・歌 - 浜田省吾 各話リスト 放送局 BD-BOX / DVD-BOX 2014年8月27日にアニメの全11話とサウンドトラックを収録したBOX仕様で発売された。規格品番はANZX-6281(Blu-ray)、ANZB-6281(DVD・完全生産限定版)、ANSB-6281(DVD・通常版)。 ブラウザゲーム 『〜ピンポン THE ANIMATION〜 超高速!スマッシュパズル!!』というブラウザゲームが2014年4月11日から提供された。ジャンルは卓球パズル。基本プレイ無料のアイテム課金制。カルチャーによる制作で、Yahoo!モバゲーでの配信。 脚注 注釈 出典 外部リンク 映画版公式サイト テレビアニメ版公式サイト 松本大洋 んほん 1996年の漫画 ビッグコミックスピリッツの漫画作品 卓球漫画 日本の高校スポーツを題材とした漫画作品 湘南を舞台とした漫画作品
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%98%9F
衛星
衛星(えいせい、)は、惑星や準惑星・小惑星の周りを公転する天然の天体。ただし、惑星の環などを構成する氷や岩石などの小天体は、普通は衛星とは呼ばれない。 地球の衛星である月が先史時代から存在を知られていた唯一の衛星であるが、コペルニクス以前の天動説では惑星の一つと考えられていた。ガリレオ・ガリレイが木星に発見した4つの衛星いわゆるガリレオ衛星が有史以後発見された最初の衛星である。そしてヨハネス・ケプラーによって地動説が優勢になるなり、ラテン語で従者を意味するsatellesから「衛星」と呼ばれるようになった。 人間が作った人工天体の場合には天然の衛星(自然衛星)と区別するために「人工衛星」() と呼ぶが、これを単に「衛星」と呼ぶことも少なくない。英語では、口語的に "moons" という言葉で、日本語でも「(惑星)の月」という呼び方で、月にかぎらず、各惑星等の衛星全般を指すこともある。 衛星の周りを公転する天体を孫衛星と呼ぶ。天然の孫衛星は現在のところ発見されておらず、一時的に存在できたとしても軌道が不安定であると考えられている。 太陽系内の惑星のうち水星と金星以外の6個、準惑星のうち冥王星、エリス、ハウメア、マケマケの4個は、それぞれ少なくとも1個の衛星を持つ。また、20世紀末以降の観測により衛星を持つ小惑星も100個以上が確認されている(2007年現在)。 地球はやや特殊なパターンで、衛星が極めて大きいものが1つだけあるという構造であり、月の質量は地球の81分の1に及ぶ。他の惑星の衛星の場合は質量比がはるかに小さく、大きくてもそれが属する惑星の1万分の3程度が普通で、次に大きい海王星に対するトリトンの質量比が約5000分の1である、1978年に発見された冥王星の衛星カロンは、質量比7分の1と更にこれを凌駕するものであった。当時は冥王星は惑星とされていたために、さらに特異な例とされていて、地球や月の例やこれらを二重惑星とする意見もあった。しかし、通常はこれらも衛星の範疇に含める慣例となっている。(二重惑星の項を参照のこと) 安定する条件 惑星からロシュ限界以上に離れている事 惑星に近すぎると、惑星の重力が原料のデブリの凝集を防ぐので球状の衛星に成れない。 同期軌道の外側に存在している事 衛星が同期軌道より内側を公転していると潮汐力の影響で惑星の自転速度を上げるため、自身の運動エネルギーを失ってしまい軌道がどんどん降下して(同時に公転周期も短くなり)ロシュ限界に突入してしまう。逆に同期軌道より遠い場合は惑星の自転速度から運動エネルギーをもらい徐々に軌道が上がっていき公転周期が長くなるが、惑星の自転速度も遅くなるので最終的にこれらが釣り合い、衛星の公転周期=惑星の自転周期になった所で止まるので安定する。 逆行衛星でないこと 逆行衛星の場合、潮汐力で惑星の自転と自身の運動エネルギーが相殺し合って運動エネルギーを失うので、最初の軌道がいかに離れていても降下していき、最終的に衛星はロシュ限界に突入する。 衛星が1つだけか、惑星が衛星よりはるかに大きく複数の衛星が軌道共鳴の関係にある事。 基本的に複数の衛星は不安定で惑星との潮汐力の影響で軌道が変わっていく際に均一に移動していかず、最終的にくっついて1つになってしまう。これを防ぐには木星のガリレオ衛星のようにそれぞれの衛星が軌道共鳴にあることで、これならばお互い運動エネルギーを得ては失うことを周期的に繰り返して行く必要があるが、これは惑星が衛星よりはるかに大きい場合にのみ成立し、月と地球のような衛星が惑星の質量に近い場合は不可能である。 また、衛星の形成原因は以下の4通りの説が出されている。 惑星とともに形成された 惑星から分裂した(ただし極めて考えにくい) 衝突によって惑星から分離した 惑星によって捕捉された これらのうち惑星とともに形成された説は惑星に対し質量が相当大きな衛星も存在し得る(ガス惑星と地球サイズの衛星という組み合わせも可能)が、捕捉説は天体が大きくなると惑星の引力で捕捉が困難になるため成立しなくなる他、衝突説は岩石惑星の場合は良いが、ガス惑星の場合衝突で放出されるものの大半が水素やヘリウムといったガスなのですぐに散らばり、大きな衛星形成は困難になるといった違いがある。 また、逆行衛星の場合は捕捉説以外の成因はほぼ不可能で、海王星のトリトンはこうした逆行軌道であることから過去に海王星が捕捉した天体というのが定説となっている。 組成 太陽系内の衛星のうち、地球の月やイオは主に岩石で出来ている。が、エウロパなどのように岩石からなる核の周囲を厚い氷の層が覆っているものと、カリストなどのように分離しきらず岩石と氷が混ざった状態のものがあると考えられている。 多くの衛星はメタンなどの炭素化合物やアンモニアなどの窒素化合物を含んでいる。タイタンは主に窒素からなる濃い大気を持ち、地表には液体のメタンが存在する。 太陽系の惑星と準惑星の衛星 木星・土星の50km以下、天王星の100km以下は登録番号順 ()付きは存在しない可能性があるもの 比喩表現 衛星の比喩として「衛星都市」、「衛星国家」などの表現も用いられる。 脚注 参考・関連文献 『完全図解・宇宙手帳―世界の宇宙開発活動「全記録」』(ブルーバックス、2012年03月 ISBN 978-4062577625)- 衛星の直径や離心率、等級のデータが掲載されている。 関連項目 恒星 惑星 準惑星 不規則衛星 準衛星 自転と公転の同期 衛星の命名 名前が重複している太陽系内の天体 月以外の地球の衛星 小惑星の衛星 人工衛星 太陽系外衛星 天体 天文学に関する記事 ru:Спутники в Солнечной системе
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https://ja.wikipedia.org/wiki/DAPS
DAPS
DAPSとは、データウエストが有する商標である。以下の2つの意味がある。 Datawest Active Picture Systemの略。データウエストが開発した商用の動画再生を利用したソフトウェア群に採用されたシステム。 Datawest Automotive Pro-comsumer Systemの略。データウエストが開発したカーナビゲーションシステム。上記の登録商標資源の有効活用のためにこの名称が付けられた。 概要 CD-ROM黎明期の1990年に開発された。 それまでのFM TOWNS用ゲームでは、アニメーションや音楽再生中に同時並行でCD-ROMからのデータ読み込みが出来ない欠点があった。この欠点を克服することから開発された動画エンジンを核に、インタラクティブな機能を付け加えた独自のハイパーテキストのプレイヤーとその開発システム一式である。 割り込みの優先順位等が通常のTBIOSとは変更されたものが付加され、CD-ROMから実メモリ空間にバックグラウンドでDMA転送される様なシステムが構築されていた。また、音声再生や音楽再生もこのルーチン内で処理され、PCM楽器サウンドには非常に良質でコンパクトなデータが使われた。DAPSでは内蔵音源のみでBGMを実現していた。 同社制作の各種ゲームや学校教材で使用された。同社のゲーム『サイキック・ディティクティブ』シリーズや『第4のユニット』シリーズ等では、デジタルペイントされたセル画アニメーションが使用された。 同社独自のビデオキャプチャ機材も開発され、実写映像も利用可能となり、「平成一のファジイ男」という作品の制作を発表した。しかし諸般の事情で制作できず、NHKエデュケーショナル、トッパンが発売した銀河宇宙オデッセイの第2作目で使用された。その後石見銀山や大阪や神戸でロケハンを行ったミス・ディテクティブシリーズ2作品が制作された。 この動画エンジンは同社の手により、CD-ROMを搭載したSUPER CD-ROM2・メガCD・PC-9821などの各機種にゲームとともに移植された。なお、他社のソフトで使われることはほとんどなかった。 Windows3.1や次世代機の時代になると、「Windows時代を見据えての『DAPS For Windows』を完成させつつある(※要約)」とパソコン誌などで表明していたものの、AVIとCinepak、MPEGなどのコーデックの登場により、独自の動画圧縮システムを使用しなくなった。ただし、同社のインタラクティブなゲームには全てDAPSの記載がある。 PC-9821での作品展開では、同一CD-ROMをFM TOWNSとPC-9821のどちらでも読める仕様であり、「キーディスク」と呼ばれる起動用のフロッピーディスクをそれぞれの機種用に添付しハイブリッド化させた。 ポリゴン画像をリアルタイム表示する「ポリゴンDAPS」なども存在した。これはセルアニメエンジンの流用である。 脚注 メディアプレーヤーソフト コンピュータゲームの技術
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シャルル・メシエ
シャルル・メシエ(Charles Messier 、1730年6月26日 - 1817年4月12日)は、フランスの天文学者。星雲・星団・銀河に番号を振り、『メシエカタログ』を作った。 生涯 ロレーヌのバドンヴィレに生まれる。11歳の頃に父を亡くした。 パリのフランス海軍天文台で、1751年から天文官ジョゼフ=ニコラ・ドリルの助手として働き、航海天文台の事務員となって彗星の発見に没頭。1758年冬から、過去の観測から出現が予報されていたハレー彗星の捜索を始め、翌1759年1月21日に発見、ドリル天文官から表彰を受ける。しかし、それはヨハン・ゲオルク・パリッチュによる発見(1758年12月25日)の1か月後だった。マスコミが未発達のこの時代、1か月遅れの独立発見は仕方がないことではあるが、パリッチュがヨーロッパ中に一躍名を知られるのと対照的に、この発見によっていわれのない誹謗中傷を受けたことからその名を知られることとなる。しかし、この出来事の屈辱をばねとして、彼はより一層彗星探索に没頭するようになっていった。 1760年、ドリルの退官に伴い天文官に就任。彗星発見者としての名声は高まっていき、1764年ロンドン王立協会の外国人会員となる。このころ彗星の捜索の際、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口したメシエは、1764年初めからこうした天体のリストを作り始めた。そして、同年末、18個の自ら発見した天体にそれまで知られていたものを加えた40個 (M1-M40) の天体リストを作成。このとき加えた40番目の天体は二重星だった。その後、1765年におおいぬ座にM41を発見したため、45個にしようと思い立ったメシエは、リストにM42やプレセペ、プレアデスなどの有名な天体を追加した(詳しくは後述)。 1769年、おひつじ座のはずれに大彗星 (C/1769P1) を発見し、プロイセン科学アカデミーの外国人会員の資格を得た。フランス学士院は一介の事務官に学士院会員資格を与えることを渋っていたが、メシエが翌1770年にも彗星(レクセル彗星 (D/1770 L1) )を発見するとさすがに無視できず、同年に科学アカデミーの会員資格を与えた。生涯に発見した彗星は13個に上る(うち一つは助手のピエール・メシャンとの共同発見)。ルイ15世はメシエを「彗星の狩人」と呼んだ。ナポレオンはメシエに勲章を与えた。 1774年に『メシエ天体カタログ』第1巻 (M1-M45)、1781年に第2巻 (M46-M68)、1784年に第3巻 (M69-M103) をそれぞれ発表。 このカタログに掲載された天体をメシエ天体と呼ぶ。たとえば、M31はアンドロメダ銀河を表す。メシエは、カタログの体裁を(末尾の数字を0か5に)整えるため、二重星(M40、現在欠番)や彗星と間違えるはずのない星団(M45など)も入れていた。 後の観測でこれらのメシエ天体には星雲以外に、星団・銀河も多く含むことが判明した。 メシエが使用していた望遠鏡には口径9cmアクロマート屈折望遠鏡や口径15.2cmグレゴリー式反射望遠鏡、および口径19cmグレゴリー式反射望遠鏡などがある。 彼の名誉を称えて月のクレーター(メシエ)、小惑星7359番(メシエ)に彼の名が付けられている。1775年、ジェローム・ラランドによってかんししゃメシエ座(監視者メシエ座)という星座が設定されたことがあるが、現在は用いられていない。 メシエが発見した彗星 いずれも非周期彗星である。 C/1760 B1 (Messier) C/1763 S1 (Messier) C/1764 A1 (Messier) C/1766 E1 (Messier) C/1769 P1 (Messier) D/1770 L1 (Lexell) C/1771 G1 (Messier) C/1773 T1 (Messier) C/1780 U2 (Messier) C/1788 W1 (Messier) C/1793 S2 (Messier) C/1798 G1 (Messier) C/1785 A1 (Messier-Mechain) 注釈 出典 関連項目 メシエカタログ メシエ天体の一覧 18世紀生まれの天文学者 外部リンク Charles Messier 18世紀フランスの科学者 19世紀フランスの科学者 18世紀の天文学者 19世紀の天文学者 彗星発見者 ロレーヌ公国の人物 ブルボン朝の人物 1730年生 1817年没 しやるるめしえ
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ブランコ
ブランコは、座板を支柱や樹木から鎖や紐などで水平に吊るした構造の遊具。揺動系遊具に分類される。 概説 ブランコはポピュラーな遊具の一つで、公園や小学校の運動場などに備え付けられていることが多い。 鞦韆(秋千、しゅうせん)ともいう。「鞦」「韆」はそれぞれ1文字でもブランコの意味を持つ。「鞦韆」は今でこそブランコの意味を持つが、古くは中国で宮女が使った遊び道具(性具)をさす。現代のブランコとは少し違い、飾りがたくさんついており、遊戯中、裾から足が見えて、皇帝が見ていて運よく夜伽に呼ばれる可能性から艶かしいイメージを持たれていた。北宋の文人、蘇軾の漢詩『春夜』にも鞦韆が出てくることから、性行為の過程を詠んだという解釈もある。唐の玄宗は、鞦韆に「半仙戯」の名を与えたという。 雅語は「ふらここ」。「ぶらんこ」の語源については擬態語「ぶらり」「ぶらん」などから来たとする説や、ポルトガル語の balanço (バランソ、英語のバランス、swing スイングの意もある)、もしくはBlanco(ブランコ、白色)から来たとする説などがある。なお、ポルトガル語版での対応項目タイトルは「Balanço」、フランス語版では「Balançoire」となっている。「ふらんど」「ゆさわり」ともいう。 日本へは古く中国から伝わったとされ、樹木や梁から吊り下げたものであった。嵯峨天皇の詩に詠まれ、『倭名類聚抄』にも記述がみられる。「ぶらんこ」と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからとされる。なお、「鞦韆」が古くは性具を指したことから、日本でも「鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す」(高浜虚子『五百句』)、「女優の鞦韆も下からのぞこう。沙翁劇も見よう。洋楽入りの長唄も聞こう。」(永井荷風「妾宅」)など、性的ニュアンスを込める場合などにあえてブランコではなく「鞦韆」が使用されている例が見られる。 サーカスなどの曲芸には空中ブランコという独特なブランコが使われる。非常に高い位置から2条の紐が降りていて、その先に細長い棒のようなものがあるだけである。一般のブランコの紐を長くし台を極限まで小さくしたものと解してよい。英語では、遊具のブランコは swing、空中ブランコは trapeze と呼ぶ。 種類 一方向ブランコ 座板を2本の鎖で支柱から吊り下げる構造を持つ最も一般的なもの。通常は単に「ブランコ」というが、関連文献などでは他の種類と区別するため「一方向ブランコ」として類型化されることがある。座板の材質・形状については、木製の板状のもの、金属製の椅子状のもの、ゴムやポリウレタン製で腰まですっぽり覆われるバケツ型のものなどがある。ただ、ブランコについては飛び降り時に他の遊具や安全柵と衝突するなどの原因による事故も報告されており、座面の改善や転落への対策等が必要という指摘がある。 全方向ブランコ ゴム製のタイヤを3本の鎖で支柱から吊り下げる構造を持つもの。「タイヤブランコ」もしくは「全方向ブランコ」と呼ばれる。 箱ブランコ 可動部に2人~3人が向かい合って座る構造の4人ないし6人乗りの大型のブランコ。「箱ブランコ」のほか「揺りかご型ブランコ」あるいは「丸ブランコ」などとも呼ばれる。 ただ、可動部の重さ、地面との隙間が狭いこと、指や足を挟む隙間が多いなどの問題点が指摘され、1960年代から頭蓋骨骨折や脳挫傷などによる死亡事故の報告例があった、このようなことから全国的に撤去される例が多くなっている。国土交通省管轄の公園においては、2001年には約13000台設置されていたが、2004年には約3600台にまで減少している。 遊動円木 長い座板の両端を鎖で支柱から水平に吊り下げた構造を持つ遊具。遊動円木についても事故の報告があり、座面の材質や可動部の重さが問題点として指摘されている。 遊び方 2本の鎖やロープによってぶら下げられた椅子(踏み台)に乗り、振り子の原理を利用して前後に揺らし、踏み台を漕ぐことによって振幅を徐々に大きくすることで振り子運動を楽しんだり高度感を味わったりする。物理学的には、パラメータ励振で説明できる。具体的に言うと、立ち乗りで漕ぐ時には、最下点付近の遠心力が最も大きくなるあたりで立ち上がり、最上点付近の遠心力が小さなところでしゃがむ運動を繰り返している。 乗り方の例 以下は一般的なブランコにおける乗り方の例である。 1人乗り 座り乗り 最も一般的な乗り方である。ブランコの台に座り、両足を揺り動かすことによりブランコを動かす。この方法だと後ろから誰かに押してもらうことが容易であるので、力のない者でもブランコを楽しむことが出来るし、また転倒などの危険性が少なく、安全性が増す。この方法の欠点は、足が疲れることと、足だけでは作り出す振幅に限りがあるため、すぐには高くまでこぐことが出来ないということである。また立ち乗りが盛んなブランコだと尻が泥で汚れることもある。 立ち乗り ブランコの台に立ったまま乗り、体全体を揺り動かすことによりブランコを動かすというもので、小学校中学年くらいになってからこの方法を取る者が多い。転倒などのリスクはあるが、体全体を使うことで大きな振幅を生むことができるため、スリルや自分が高いところにいることを楽しむことが容易である。本来座るべきブランコの台に土足で立って乗るのは、座り乗りで前述したような迷惑につながるという批判もある。 2人乗り 2人立ち乗り 乗る人をA・Bとすると、Aが大きく足を広げてブランコの台に立って乗りBがAとは逆の方向にAの股の間に足を置いて乗るという説明が出来る。この方法で高さなどを楽しむのはほぼ不可能である。親密な関係にあるもの(カップルなど)が好む傾向にある。なおこの方法では足場が極端に狭くなることから転落の可能性が大変高く、安全であるとは言いがたい。 1人座り1人立ち乗り 乗る人をA・Bとすると、Aが座り乗りをし、Bが立ち乗りをする。BはAと向かい合わせに立つことが多いが、同じ向きに立つことも可能である。Bの足の位置はAと鎖の間に滑り込ませることもあるし、鎖の外側に足を置くこともある。この方法も2人立ち乗りと同様に足場が狭くなることから転落の可能性が高く、振れの角度によっては座っている人が落下する可能性もあり、安全な乗り方ではない。 文化 深夜の公園で一人でブランコに座っている若い女性あるいは中年男性は、寂しい人を象徴するシーンとして映画やテレビドラマなどでよく使われる。よく知られたものに黒澤明の『生きる』や増村保造の『暖流』のシーンがある。 一方、ブランコを性的文脈で使用した映画としては神代辰巳の『櫛の火』がある。作中には草刈正雄演ずる青年がブランコに揺られるジャネット八田演ずる女のスカートの中をのぞき見るというシーンがある。 俳句では春の季語である。 朝松健の「東山殿御庭」ではブランコの古名である「鞦韆」が怪異の謎を解く鍵として使われている。作中では一休宗純が「やれやれ、応仁の乱の十年は都を焼尽いたしたのみならず、子供から〝しうせん〟の思い出まで取り上げた訳じゃ」と述べるなど、「鞦韆」は「しうせん」と表記されてそれが何を意味するのかも1つの謎となっている。 ブランコをテーマにした音楽 『子供の遊び』Op.22より第1曲「ぶらんこ」 - ジョルジュ・ビゼー作曲のピアノ連弾曲。 ブランコ - 都築益世作詞、芥川也寸志作曲の童謡。 ブランコ(日野てる子、東京放送児童合唱団) - 1973年6月にNHKの『みんなのうた』で紹介された楽曲。作詞:水木かおる、作曲:一ノ瀬義孝(なお映像に出て来たブランコは本項で紹介された物ではなく、遊園地の金属製ブランコ(別名:ウエーブ・スインガー)である)。 白いブランコ - ビリー・バンバンの楽曲。 空中ブランコ - Plastic Treeの楽曲。 ブランコから - Plastic Treeの楽曲。 ブランコ - Do As Infinityの楽曲。 鞦韆 - メガマソの楽曲。 由佐波利 - メガマソの楽曲。 韓国 韓国ではブランコはクネ(그네)という。旧暦の5月5日に行われるでは、女性がブランコに乗る(クネティギ、그네뛰기)風習がある。 その他 世界最長のブランコとして、日本の福岡県北九州市が響灘緑地グリーンパークに設置したブランコが2019年5月11日、ギネス世界記録認定された。100台のブランコと支柱などを全長約163mの環状につなげて、同日、ギネス認定員が立ち会って100台全てを同時に漕いで見せた。従来の世界最長ブランコはオランダにあり、約133mだった。 日本のテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』のオープニングには、非常に長い紐のブランコに乗るシーンがある。目視と計算によると、このブランコの最高速度は時速60 km/hを超えるという(柳田理科雄による説)。 ヨーヨーの技の一つに、糸でブランコの骨組みを象り。ヨーヨー本体でブランコを表現する「ブランコ」という技がある。 ブランコを漕ぎながら靴飛ばしをする遊び方もある。 飲食店などで、ハンガーや椅子などにかけた洋服などから財布などを盗む手口をブランコスリという。 脚注・出典 参考文献 関連項目 回転ブランコ キーキング(エストニアのブランコに似たスポーツ) ピエール=オーギュスト・ルノワール 外部リンク (原勝郎著) 遊具 春の季語 振り子 ポルトガル語からの借用語
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主要国首脳会議
主要国首脳会議(しゅようこくしゅのうかいぎ)もしくは先進国首脳会議(せんしんこくしゅのうかいぎ)は、国際的な首脳会議の1つ。 G7、主要7ヶ国首脳会議、先進7ヶ国首脳会議、あるいは単にサミットともいう。 ロシア連邦が参加していた1998年から2013年までは、G8、主要8ヶ国首脳会議などと呼ばれていた。 概要 1998年から2013年まで、主要国首脳会議の構成メンバーは以下の8か国であった。 → 現在参加停止中 上記の8か国の政府の長およびヨーロッパ連合の欧州理事会議長と欧州委員会委員長が1年に1回集まり、国際的な政治的・経済的課題について議論する会合である(その他の国の首脳や国際機関の代表も例外的に出席することがある)。また、それに合わせて数多くの下部会議や政策検討も行われる。しかし、2014年以降、ロシアはその参加資格を停止されている(後述)。 経緯 発足時の名称は「先進国首脳会議」。 冷戦下の1973年のオイルショックと、それに続く世界不況に起源を持つ。1973年3月25日、この不況を憂慮したアメリカ財務長官ジョージ・シュルツは、将来の経済的課題を討議する会議を模索するため、西ドイツ・フランス・イギリスからそれぞれ財務大臣(ヘルムート・シュミット、ヴァレリー・ジスカールデスタン、)を招集し、ワシントンD.C.で非公式の会合を行った。この時、アメリカ大統領ニクソンは会場としてホワイトハウスを提供し、会合が地階の図書室で開催されたことから、この4か国は「ライブラリーグループ」と呼ばれた。その後、秋に開かれた国際通貨基金(IMF)と世界銀行の年次総会の際に行われた非公式会合の場で、シュルツは先の4か国に日本を加えることを提唱し、合意された。 1975年、フランスで大統領となったジスカールデスタンは、ライブラリーグループのメンバーに日本を加えた“工業化された4つの主要民主主義国”の首脳をフランスのランブイエに招待し、フランスを含めて5か国で初めての首脳会議を開き、定期的に首脳会議を持つことを提案した。このときの出席者は、主催国(議長国)を持ち回りで交代しつつ年に1回会議を持つことに合意した。こうしていわゆる「G5」が生まれた。しかし、これを不服としたイタリアの首相アルド・モロが第1回会議に乗り込んで来た為、イタリアを加えG6となる。しかし、これではヨーロッパに偏る為、翌年のプエルトリコの首都サンフアンでのサミットで米国のジェラルド・フォード大統領の要請によりカナダが参加し「G7」となる。 冷戦の終結に続く1991年の第17回先進国首脳会議(ロンドン・サミット)終了後、旧東側諸国の盟主で、かつてはG7諸国と対立していたソ連(現・ロシア)とサミットの枠外で会合を行うようになった。ロシアは1994年のナポリ会合以降は首脳会議のうち政治討議に参加するようになり、1997年のデンバー会議以降は「世界経済」「金融」などの一部セッションを除き基本的に全ての日程に参加することになった。1998年のバーミンガム会議以降は従来の「G7サミット」に代わり「G8サミット」という呼称が用いられるようになった。さらに2003年のエビアン・サミット以降、ロシアは「世界経済」に関するセッションを含め完全に全ての日程に参加するようになった。一方ロシアは経済力が大きくないなどの理由により、7か国財務大臣・中央銀行総裁会議には完全参加していなかった。 ロシアの参加には米大統領ビル・クリントンの示唆などもあった。これは当時のロシア大統領ボリス・エリツィンに経済改革を進めさせ、また北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大政策に関して中立を保つようにさせるためのクリントンのジェスチャーだった。ロシアは加入当初は経済破綻で貧困状態であったために先進国とは言い難く、一人当たり名目GDPも1999年には1334ドルに過ぎない発展途上国状態であった。このころ、名称が「先進国首脳会議」から「主要国首脳会議」に変更された。 他方、2005年2月18日、米上院議員ジョー・リーバーマンとジョン・マケインがロシア大統領ウラジーミル・プーチンによって民主的、政治的自由が確保されるまではG8への参加を見合わせるようにロシアに呼びかけるなどの動きもあった。 当初においては様々な国際的な課題への強い影響力を有していたが、近年では新興諸国の政治的・経済的影響力の上昇に伴う相対的な影響力の低下とともに、形骸化や単なるセレモニー化が指摘されている。一方で、国連総会などの外交官レベルの会議に比べ、主要各国の首脳会議であるサミットは決断力・実行力に格段の優位性をもつほか、拒否権のような制度的問題がなく、国連を補完する意味で一定の役割を果たしているという指摘もある。 2014年3月25日にオランダのハーグで開かれた核セキュリティーサミットとあわせ、臨時のG7サミットが開かれた。その議場において、ロシアのウクライナに対する軍事介入やクリミア半島掌握などを非難したG7の首脳陣は、2014年6月にロシア・ソチで行われる予定だったG8サミットを中止し、会場をベルギーのブリュッセルに変更する決定をした。また同会議において、「ロシアが態度を改め、G8において意味ある議論を行う環境に戻るまで、G8への参加を停止する」という内容のハーグ宣言を発表した。これにより、G8としての活動は事実上停止し、冷戦当時のG7へと戻った。 メンバー国と招待国 G7は国際連合や世界銀行のような国際機関とは異なり、国際横断的な管理部門を持たない。サミットの新たなメンバー国を増やすには、全参加国の支持が必要となる。一方、招待国は議長国に権限が与えられている。またメンバー国の間で毎年順番にグループの議長国が回り、新しい議長国は1月1日から担当が始まると考えられている。議長国は一連の大臣級会議を主催し、続いて年の中頃に3日間の首脳によるサミットを行う。また、出席者の安全を確保するのも議長国の役割である。 大臣級会議は健康、法務、労働を担当する大臣が集まり、相互のまたは全地球的な問題について議論する。これらのうち最もよく知られたものはG8外務大臣会合、G8財務大臣会合などがある。1994年にはG7の後援の下で、情報化社会の実現に関する特別プログラムが設立された。 G8サミット国や招待国以外でも、特定の分野で参加することができる。例えば2005年6月には、G8は幼児性愛者に関する国際的データベースを立ち上げることに同意され設置されたが、G8以外の国もこのデータベースに参加することができる。またG8は、各国のプライバシーと保安にかかる法律の範囲内でテロリズムに関するデータを集積することにも同意した。同時にG8構成国、およびブラジル、中国、インド(発展途上国で最大の地球温暖化ガスの排出国)の国際科学アカデミーが気候変動に関する共同声明に署名した。この声明は気候変動についての科学的理解はいまや各国が即座に対策を執るには十分に明らかになっており、IPCCの統一見解を明示的に支持するということを強調している。 G7(G8)への反発 G8への非難 G8で扱われる課題は議論のある国際的問題であるためG8は非公式な「世界政府」であり、何の関係もない第三世界にまで決定事項が強制されているという非難がアルテルモンディアリストによりしばしばなされる。ちなみにG8の「決議」「決定」「宣言」その他諸々は、国際法上の根拠を何ら持たず、すなわち非参加国に対する拘束力のない“仲間内での取り決め”に過ぎない。 年1回のサミットは、しばしば反グローバリゼーション活動の反対活動の的になる。特に2001年にジェノバで開かれた第27回主要国首脳会議では大規模なデモが行われるなど顕著だった。 G8参加国は現在、地球規模で深刻な問題となっている地球温暖化や発展途上国での貧困の原因となっていると非難があり、また主要国として問題解決に向けて対処すべきという非難もある。このようにG8諸国が作り出していると非難されている問題について責任を取って闘うよう、G8指導者へさまざまな団体から圧力がかかっている。例えば、ボブ・ゲルドフは2005年7月2日と7日にグローバル・アウェアネス・コンサートであるLive 8を組織しG8指導者に「Make Poverty History(貧困を歴史としよう)」を奨励した。また組織関係者は、G8メンバー国に1992年のリオデジャネイロ地球サミットの「アジェンダ21」で概説されたとおり国家予算の0.7%を海外援助に回すよう提案した。このコンサートは第31回G8サミットと同時になるように計画された。 G8とテロリズム 2005年7月7日、スコットランドでのサミットの初日に50人以上が命を落とし数百人が負傷したと言われるロンドン地下鉄およびロンドン2階建てバス同時多発爆破事件が起こった。この攻撃は、直ちに「ヨーロッパ在住のアルカーイダ秘密グループによるジハード」によるものとされた。この攻撃は西側国家に対し、アフガニスタンおよびイラクでの軍事活動をした場合攻撃を行うとイスラム原理主義者によって犯行の予告が先立ってされていた中で英国が軍事行動に参加したことと関係があるものとされた。G8サミットへ集まった国際的な注目は、おそらく最大限の象徴的な効果のためにテロリストによって増幅された。この打撃は、IOCがロンドンを2012年オリンピック大会の開催地に決定した告知をした直後でもあった。 先進国、主要国首脳会議の一覧 以前は、サミット参加7か国の間でフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダの順で毎年持ち回り開催されてきた。ロシアが参加するようになってからはイギリスの次にロシアが入り、8か国持ち回りになった。前半3か国が国際連合安全保障理事会の常任理事国であり、後半4か国はそうではない。 1990年代までは開催国の首都などの大都市での開催が多かったが、1990年代末になると反グローバリズム、アルテルモンディアリスム団体の抵抗運動によるデモ活動が頻発。特に2001年のジェノヴァでは大規模なデモに見舞われたことから、以降、警備のしやすい地方都市、保養地での開催が多くなっている。 出席者 G7(G8)リーダー 第1回はフランス、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本、イタリアの6か国首脳によるG6、第2回から第23回までは6か国にカナダを加えたG7、第24回から第39回までは7か国にロシアを加えたG8。西ドイツは1990年にドイツ再統一が起こったため、第17回からは統一ドイツとして出席している。 1998年から2013年まで、G8は以下の8名で構成された。 フランス共和国大統領 アメリカ合衆国大統領 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国首相兼第一大蔵卿兼国家公務員担当大臣 ドイツ連邦共和国連邦首相 日本国内閣総理大臣 イタリア共和国閣僚評議会議長 カナダ首相 ロシア連邦大統領(2014年参加資格停止) 2014年のクリミア侵攻によってロシア大統領が参加資格停止となったので、それ以降はG7に戻って今日に至っている。 なお第6回のみ日本からは外務大臣大来佐武郎が出席した。サミット直前に内閣総理大臣大平正芳が急死し、大平の後継総理は第36回衆議院議員総選挙、第12回参議院議員通常選挙の衆参同日選挙が終了するまで決定されなかったためである。 現在のG7首脳 歴代出席者の一覧 太字は議長。 記録 最多出席回数 - 16回 ヘルムート・コール(西ドイツ→ドイツ)、アンゲラ・メルケル(ドイツ) コールは1983年から1998年にかけて出席、メルケルは2006年から2021年にかけて出席。 最多主催回数 - 3回 シルヴィオ・ベルルスコーニ(イタリア) イタリアで開催された1994年、2001年、2009年サミットはいずれも議長を務めた。 連続年同一出席者 - 3年 2001年から2003年にかけて。2005年までの5年間を見ると、カナダ首相(クレティエン→マーティン)を除く全メンバーが不動であった。 その他 近年では、G8メンバー以外にも様々な政治のリーダーが会合に参加している。どの国家を招待するかについては、基本的にはそのときの議長国の判断による。 例えば中国共産党総書記(中国国家主席)、大韓民国大統領、オーストラリア首相、インド首相、ブラジル大統領、メキシコ大統領、南アフリカ大統領などが招待されたことがある。しかし議長国の一存次第なので彼らは必ず呼ばれるとは限らない。 このうち韓国大統領、インド首相、オーストラリア首相についてはサミットのメンバーに加えるべきという意見がある。2020年にはこの年のサミット(中止となった)の議長国だったアメリカ大統領ドナルド・トランプが韓国、オーストラリア、インド、ロシアをメンバーに加える構想を打ち出したが、ドイツ、イギリス、カナダ、日本が反対した。2021年のコーンウォールサミットの議長国のイギリス首相ボリス・ジョンソンも韓国、オーストラリア、インドの首脳を同年のサミットに招待するとともに、この3国をメンバーに加えることを提案したが、日本が反対した。 また国際機関の長として、国際連合事務総長や欧州連合の欧州理事会議長および欧州委員会委員長が出席する。このうち欧州理事会議長と欧州委員会委員長はEUを代表してG8の本会合にも参加する。これ以外に経済分野では国際通貨基金専務理事が参加する。 拡大会合参加国 2010年6月25日の拡大会合が行われた。その参加国は次の通りである。 アフリカ - アルジェリア・エチオピア・マラウイ・ナイジェリア・セネガル・南アフリカ共和国 中南米 - コロンビア・ハイチ・ジャマイカ シェルパ 側近達が集まって予備会合を持つことがあるが、こちらは「シェルパ会議」の別名で呼ばれる。サミットが首脳の地位を山頂にたとえることが発端となったことになぞらえ、同行者の意味で随員はシェルパと呼ばれる。シェルパは3名で構成されることが決まっており、日本においては首席シェルパは経済担当外務審議官が務める。 主要国首脳会議にまつわる事柄 首脳の写真撮影の立ち位置 サミットにおいて恒例となった写真撮影では首脳の立ち位置は毎回変化しているが、この立ち位置にはルールがある。 中央に開催国(議長国)の首脳を配し、国家元首(大統領)か否(首相)かと在任期間の長い順に議長に近い順に左右に並ぶ(平成年間の日本は首相の交代が多かったため端に位置することが多い。一方で、比較的在任期間の長かった中曽根康弘や小泉純一郎、安倍晋三は中央付近に並ぶこともある)。また、アメリカ合衆国で開催される場合ではこのルールはあまりこだわることはなく、議長であるアメリカ大統領との関係で立ち位置が決まることもあった。 転語 主要国首脳会議がサミットと呼ばれていることから、トップ同士の集まりのことを「サミット」と形容することがある(例:市町村サミット。首長会は普段は全国市長会と全国町村会に分かれている)。 ギャラリー 脚注 注釈 出典 関連書籍 関連項目 G7(先進国首脳会議) G3 / G4 / G5 / G10 / G15 / G20 / / G77 インターアクション・カウンシル 民主主義サミット アメリカ帝国 外部リンク 首脳会議・外相会議 | 外務省 国際会議 国の分類 (経済システム別) 新冷戦
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E9%9D%A2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BCV3
仮面ライダーV3
『仮面ライダーV3』(かめんライダーブイスリー)は、1973年2月17日から1974年2月9日まで、NET系列で毎週土曜19:30 - 20:00(JST)に全52話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品。 概要 「仮面ライダーシリーズ」の第2作で、前作『仮面ライダー』の直接的な続編。テレビシリーズのほか、劇場版が「東映まんがまつり」の中で公開された。仮面ライダー1号・2号の後を継ぐライダー3号・V3と、ショッカーやゲルショッカーに続く第3の組織・デストロンの戦いを描く。前作の勢いを受け継ぎ、頂点を迎えていた変身ヒーローブームの大きな牽引役を果たした作品であり、主人公の強いキャラクター性とも相まって歴代シリーズ中でも知名度が高い。視聴率も平均で関東20.2%、関西27%を記録したほか、制作局である関西圏の毎日放送ではシリーズ最高視聴率である38%を記録し、その記録はいまだにシリーズでは破られていない。 企画経緯 仮面ライダー3号の登場は元々、「少年仮面ライダー隊の発足」や「ショッカーに代わる新組織登場」と併せ、前作の2年目後半の番組強化策として検討されていたものであり、当初は前作で1号・2号に協力していたFBI捜査官・滝和也がライダー3号となる予定だった。だが、少年仮面ライダー隊が好評を得たことから3号登場案は温存され、次番組の主人公として違う人物がライダー3号として登場することとなり、次番組の第2話を『仮面ライダー』の第100話として捉えて前作を締めくくることとなった。 新番組として立ち上げられた『仮面ライダーV3』は、1号・2号の能力を併せ持つ仮面ライダーV3と動植物に機械を加えたデストロン怪人の対決という構図により番組の強化を体現し、「26の秘密」を巡る縦軸のストーリー展開や前後編形式の導入など、ドラマ性の拡大による前作との差別化にも重点が置かれた。その一方、前作に登場していた立花藤兵衛や少年仮面ライダー隊を継続して登場させることにより、前作からの連続性も維持している。 プロデューサーの平山亨による企画案では『マスクライダー』『ライダー仮面』『ライダーマン』、その後の制作会議では『仮面ライダー3』『仮面ライダーX』などのタイトルが検討されていた。 競合番組の多い4月の改編期より前に新ヒーローを登場させて視聴者の支持を獲得したいという毎日放送の戦略により、改編期とは関係のない2月半ばに番組が開始されることとなった。 撮影 風見志郎を演じた宮内洋が後年にインタビューで語ったところによれば、撮影で使用した火薬の量は彼の要望もあって前作の3倍に及んだうえ、四国のとある島で使用した際には「爆発で島にヒビが入った」と観光協会から、神奈川県の海中で使用した際には「爆発のせいで魚がいなくなる」と漁業組合から、それぞれクレームがあった。そのため、スタッフは年中謝っていた。 ストーリー 仮面ライダー1号・2号の活躍によって悪の組織ゲルショッカーは壊滅し、世界に平和が戻ったかに見えた。しかし、生きていたゲルショッカー首領は密かに新組織・デストロンを結成して再び世界征服に乗り出すと、目撃者を容赦なく抹殺していた。 1号こと本郷猛の大学の後輩風見志郎はある夜、デストロンの悪事を目撃したため、命を狙われるようになる。また、そのアジトを見つけた珠純子を助けたため、怪人・ハサミジャガーが風見家を襲撃し、両親と妹は志郎の目の前で殺害される。怒りに燃えて復讐を誓った志郎はそのための力を得ようと1号・2号に自分の改造を願うが、改造人間の悲哀を誰よりも知る彼らに拒否される。しかしその後、志郎はデストロンの罠に落ちた1号・2号を助けようとして瀕死の重傷を負う。1号・2号は彼の命を救うために改造手術を施し、第3の仮面ライダー「V3」として復活させる。こうして、V3とデストロンとの死闘の幕が切って落とされた。 以下、作品の展開に合わせてストーリーを解説する。 第1話 - 第12話 V3誕生編。「26の秘密」と呼ばれる必殺技や特殊能力を戦いの中で解き明かしていくという謎解きの展開、前作のゲルショッカーの「合成怪人」というコンセプトをさらに推し進めた機械と生物の合成による怪人との戦い、合成怪人が2体登場する前後編ストーリーが特徴。 しかし、V3の苦戦と「26の秘密」の解明につながるという展開が、V3は弱いというイメージを印象づけてしまうなどの問題が発生し、軌道修正が行われた。 第13話 - 第30話 デストロン初代幹部・ドクトルGが登場する。合成怪人との戦いというコンセプトは変わらないが、「26の秘密」を解明する展開は削除され、2体の怪人が登場する前後編でのストーリー展開ではややテンポがダウンすることから、1体の怪人が登場する1話完結ストーリーが中心となる。ドクトルGの存在感、劇場版と同時進行する第20話・第21話の四国ロケ、第19話と第22話の静岡県ロケ、劇場版での1号・2号との競演、第22話 - 第24話の怪談シリーズ、第27話・第28話での前作の大幹部たちの復活、志郎のパートナー・佐久間ケンの登場など、多くのイベントが盛り込まれた。 第31話 - 第40話 視聴率にもかげりが見えてきたことで怪奇性の強化を図るべく、デストロンと結託した怪人部族の長であるキバ男爵とツバサ大僧正を登場させた。それぞれ5話ずつ短期間の登場となったのは、タイアップしている月刊幼年誌向けに月1回話題を提供する意図による。これに伴い、怪人コンセプトも合成怪人から単一の生物怪人に戻しているが、各部族ごとに特徴を大きく取り上げると共に、呪術的な意味合いを加えていた。短期間内の幹部怪人との決戦、1号・2号・V3の共闘(第33話・第34話)、原点を見直す意図による前作エピソードのリメイク(第39話 - 第42話)など、様々な試みが行われた時期でもある。 第41話 - 第52話 怪人部族との結託は一段落し、最後の大幹部・ヨロイ元帥の登場によってデストロンのイメージは初期に近くなる。さらに、ヨロイ元帥の陰謀によってデストロンを追われた元科学者という過去を持つサブヒーロー・ライダーマンこと結城丈二の登場による三つ巴のドラマなど、最後まで多くの話題が提供され続けた。 登場人物 仮面ライダーとその協力者たち。個別に項目の存在するキャラクターの詳細は各項目を参照。 風見 志郎 / 仮面ライダーV3 本作品の主人公。城南大学・生物学部の学生であり、本郷猛の後輩。 結城 丈二 / ライダーマン デストロンの元科学者で幹部候補だった青年。ヨロイ元帥の裏切りに遭い、ライダーマンとなる。 本郷 猛 / 仮面ライダー1号、一文字 隼人 / 仮面ライダー2号 前作の主人公。本郷は城南大学生化学研究室における志郎の先輩でもある。本作品より、オープニングタイトルで「仮面ライダー1号」「仮面ライダー2号」と表記されている。 ゲルショッカーを壊滅させた後、本郷は城南大学の生化学研究室の研究者、一文字はカメラマンと、それぞれ日常生活に戻っていたが、志郎がデストロンによる殺人事件を目撃してから、彼が何度も命を狙われたことに不安を募らせる。第2話でカメバズーカの自爆とともに行方不明となっていたが、第21話でオーストラリアにて生き延びていたことが判明する。その後、劇場版や第33話・第34話で帰国してV3と共闘した。 児童誌では、映像での登場に先駆けてV3と1号・2号が共闘する特写が1973年6月号に掲載された。 立花藤兵衛 前作に引き続きライダーを支援し、特訓の補助や精神的なアドバイスをしている。本作品ではスポーツ用品店「セントラル・スポーツ」を経営する傍ら、引き続き少年ライダー隊の会長も務めており、日本を去った滝和也の代わりに隊長も兼任している。隊員たちからは「会長」と呼ばれている。 ハサミジャガーのアジトを偶然目撃してデストロン戦闘員に襲われていたところを志郎に助けられ、彼の家族を巻き込んで死なせたという自責の念から戦いに参加する。趣味はテニスと絵画。少年ライダー隊では通信係を担当しつつ、志郎に対する好意も垣間見せる。第11話・第12話ではストーカーの黒田雄二に狙われ、その事件の最中にV3の正体に疑惑を抱いたが、立花と志郎が一芝居打ったことで疑惑は消えた。それ以降も志郎=V3の戦いの支えとなって活躍した。 毎日放送プロデューサーの左近洋一は、本作品放送時に誕生した次女に「純子」と名付けた。 第4話から登場した純子の弟で、少年ライダー隊の通信係。隊の中心的な存在であり、純子とともにV3の戦いをサポートする。 少年仮面ライダー隊 制服は赤いブレザーに変更され、ヘルメットやペンダントもV3をモチーフにして赤が多くを占めるデザインに一新された。旧本部は第2話でハサミジャガーに破壊されたため、第3話より「セントラル・スポーツ」の店裏にカモフラージュした本部が再建された。本部に入る時は、ボウリングの球を所定の位置に変えてからペンダントを照射し、横の紐を引く。 公募による少年隊員の出演が行われ、四国ロケでは多数のエキストラが公募されるなど、視聴者参加の場としても活用された。放送前の第3回撮影会では、シゲル以外にも劇団ひまわりの子役が演じる少年仮面ライダー隊員が参加していたが、作中には登場しなかった。 第29話から登場。インターポールパリ本部のデストロン専門捜査機関「デストロンハンター」の一員で、ナンバーは5号。第30話でデストロン改造人間製造工場の爆破に成功するが、ドクトルGに4人の仲間たちを殺され、唯一V3に救われて生き残った。志郎を「先輩」と呼び、彼の弟分的な存在となった。 夏期以降の強化策として、当初は「不知火」という名で『仮面ライダー』の滝和也を目指して設定されて導入されたが、あまり活躍はせず第37話以降は登場しなくなった。 村枝賢一による漫画『仮面ライダーSPIRITS』では、『V3』に登場しなくなってから『仮面ライダーZX』までの作中時間の経過を反映して年齢を重ねた容姿となり、インターポールの本部長として10人ライダーの戦いをサポートする姿が描かれている。 デストロン ゲルショッカー壊滅後にショッカー・ゲルショッカーを支配していた首領が新たに結成させた秘密結社。ショッカー、ゲルショッカー以上の戦力と科学力で世界征服を企む。怪人は機械と動植物を融合させた機械合成怪人となり、幾度となくV3を苦しめた。後半はキバ一族・ツバサ軍団・ヨロイ軍団といった世界各地の部族と手を結び、V3と死闘を繰り広げた。各部族が操る怪人たちはショッカー怪人同様に動植物の怪人たちで構成されており、機械合成怪人とともにショッカーやゲルショッカーの怪人はもちろん、(第1話・第2話・第33話・第34話の客演状況から)仮面ライダー1号・2号でさえも苦戦させる能力を持つ。組織のマークはサソリをモチーフにしている。 最終決戦でプルトンロケットによる日本壊滅をたくらむもライダーマンの捨て身の行動で阻止され、さらに最終作戦であるD作戦もV3に阻止される。そして、デストロン本部を急襲したV3により首領は倒されて本部が大爆発を起こし、デストロンは壊滅した。 名称は「破壊」を意味する「DESTROY」に由来し、プロデューサーの平山亨による企画案では「デストロイヤー」という名称であったほか、「デストロー」という案も存在した。 デストロン首領 前作でショッカー、ゲルショッカーを支配していた首領と同一の存在。旧組織の時と同じく姿は見せず、サソリをかたどった像から声を送って幹部や怪人たちに命令を下すが、これには無線受信器が内蔵されていたため、V3にアジトを知られることとなる。 大幹部 ドクトルG(怪人態:カニレーザー) デストロン日本支部初代大幹部。 キバ男爵 第31話-第35話に登場。アフリカのコンゴ川上流域に数百年栄えるという悪霊崇拝の邪教「ドーブー教」の大魔術師にして、ドーブーを信奉する「キバ一族」の長。ドクトルGの死後、日本支部2代目大幹部としてデストロンの第2次攻勢の指揮を執るべく来日した。1日1回は血を見ないと気が済まない残忍な性格の持ち主だが、部下の怪人の死を悲しんだりその葬式を立てたりするなど、非常に部下思いな慈悲深い性格でもある。 仮面ライダー1号・2号も一目置くほどの呪術の使い手でもあり、戦いの前には怪しげなドーブーの儀式を行なう。獣の皮から作られた衣を着て、頭にはマンモスの頭骨をかたどった兜を被り、マンモスの牙でつくられたダイヤよりも硬い槍を武器として戦う。儀式の際には、タキシードを着ることもあった。 雑誌掲載用の撮影会の時点では、兜に下顎がついており、青いアンダーウェアは着用していなかった。 吸血マンモス 一族の怪人をV3と駆けつけた1号・2号によって次々倒されたため、第35話にて政治・経済・文化の各界要人を誘拐・洗脳してコントロールする日本頭脳改造作戦を成功させるべく、キバ男爵が変身した怪人。右手が人間の腕、左手がマンモスの足になっている。鼻から血を吸って相手を溶かすことができ、牙から火炎弾、小型ミサイル、鼻の穴から出す血の霧・猛毒、一撃で地震を引き起こすほどの怪力でV3に挑む。最後はV3回転三段キックによって元の姿に戻り、「キバ一族、ついに滅ぶ!」とキバ一族の滅亡を呟き、爆死した。 キバ男爵以降の幹部怪人体は、当初は怪人として登場しつつ、最後の戦いで幹部の正体であるとの描写がされている。 プロデューサーの平山亨の著作などでは、以下のような劇中で語られないプロフィールが設定されている。 元はロシア帝国の男爵で、当時はシベリアに住んでいた(本名は特に設定されていない)。 同じ帝政ロシアの貴族出身の陸軍将校で、後にゲルショッカー大幹部となったブラック将軍とも当時から面識があり、ロシア革命以後共にアフリカ大陸に渡った仲でもあった。 ブラックがゲルダム団に入った際に別行動をとり、ケニアで邪悪な呪術を研究。後に「ドーブー教」という暗黒宗教の魔術師となって、デストロンに招かれた。 ツバサ大僧正 第36話-第40話に登場。キバ一族全滅直後に現れたチベット高原を発祥地とする邪宗密教「まんじ教」の教祖であり、飛行能力を持つ怪人によって構成された「ツバサ軍団」を率いる3代目大幹部。 黒い服を纏った老人で顔に翼を模した赤い仮面を着けている。呪術や自在に伸びる髪、袖の下から出す超音波が武器で風速60mの風も起こす。先端に水晶のついた杖を持ち、吸血コウモリを操る能力を持つ。冷酷無比な反面、戦闘員相手に実験が成功した際には笑いながら奇妙な踊りをする一面も持つ。 一族特有の飛行能力を過信したため、特訓を積んだV3の前に敗北を重ねてしまう。 雑誌掲載用の撮影会の時点では、手袋はつけず、首飾りなどの装飾品も作中と異なるものであった。 死人コウモリ 第40話にて、人間を操るヒマラヤの悪魔という細菌で首都地区中の団地に住む人間を使い、暴動を引き起こすためにツバサ大僧正が変身した怪人。 飛行能力を持ち、鉤爪が武器。また、腰にある無数の威嚇用吸血蝙蝠を操る。空中でV3を高速回転させて投げ飛ばす「V3キラー」で一度はV3を倒すが、V3の新必殺技「V3マッハキック」によって翼を折られ、その正体を現した後は死期を悟って棺の中に入り、デストロンの繁栄を願いつつ自爆した。 最終話では、死人コウモリが再生怪人の1人として登場する。 平山の著作などでは、以下のような劇中で語られないプロフィールが設定されている。 200年前のヨーロッパ生まれで、元はキリスト教の牧師だった(本名は特に設定されていない)が、極端な反思想を唱えたためにローマ正教から迫害され、地中海の断崖にある大寺院に200年近く幽閉された。その後、1万匹のコウモリと共に人間の生き血を啜りながら驚異的に生き延びたとされ、身に付けた超能力で脱出してチベット高原でまんじ教を開く。 最終話の脚本では、死人コウモリではなくワナゲクワガタが登場する予定であった。 ヨロイ元帥 第40話-第52話に登場。なお、初登場する第40話においては姿を見せるも、何者であるかは明かされない。ツバサ軍団壊滅後に現れた「ヨロイ一族」の長にして、デストロン最後の4代目大幹部。独特の口調で、デストロンのことを「デーストロン」と呼称する。「結果がすべて」という信条のもと、失敗を犯した者は配下の者ですら始末してきた。 猜疑心が異常に強く、デストロンの科学者・結城丈二のことを自分の地位を脅かすと見なして危険視しており、彼に反乱の濡れ衣を着せて抹殺をもくろむ。しかし、失敗したことで結城は造反者・ライダーマンになってしまう。 旅客機を墜落させるレーザー砲を装備した兜に加え、全身にはモンゴル特産の金属製で、血塗られたように赤い鎧を着用しており、そのエッジ部分は鋭利な刃物になっている。戦闘では左腕に持った、新幹線をも砕く硬度の鉄球を武器として戦う。 第47話では、ライダーマンをおびき寄せる目的で、結城に差出人住所を明記した年賀状を送った。 ザリガーナ 第51話・第52話に登場。ヨロイ元帥が変身したザリガニの怪人。 発火性の泡と左手の鋏、背中の甲羅を割って相手に飛ばす「甲羅崩し」を使う。東京壊滅用のプルトンロケットの実験を目撃した人間を地中から出現し、殺害していたが、プルトンロケットを破壊されたため、最終話で邪魔なV3や少年ライダー隊を再生怪人を使って壊滅させるD作戦を決行する。 V3と戦って左腕の鋏を折られたうえ、V3フル回転キックに敗北して元の姿に戻る。逃走して首領に命乞いするも見限られ、通信機の爆発に巻き込まれる形で処刑された。ショッカーのゾル大佐から先代のツバサ大僧正までの歴代大幹部が、首領や組織に対する忠誠を活動の基本としていたのに対し、彼は常に自分の保身と組織内部での出世しか眼中になかった点が、大きく異なっている。 当初はキバ男爵やツバサ大僧正と同様、5話前後となる第46話での降板が予定されていた。しかし、設定では結城との関わりが深いので降板させることができなくなり、最終話まで登場することになった。オープニングでは「ヨロイ元師」とクレジットされていた。 結城との関わりが深いことから、他の3幹部と比較すると本作品を原案とした後年のメディア作品に登場することが多い。 平山の著作などでは、以下のような劇中で語られないプロフィールが設定されている。 モンゴルの英雄であるジンギスカンの子孫で、祖先の夢だった世界征服を果たすために蒙古砂漠に独自の地下帝国を建設し、ヨロイ一族を組織するが、デストロンの力の前に屈する。 日々殺戮をせねば安眠できないという殺人嗜好者で、その残虐性と行動力から首領からの信任も厚かった。 石ノ森によるラフデザインでは名称はヨロイ騎士(鬼士)となっており、鎧武者風のデザインであった。 新生ザリガーナ 『ぱちんこ仮面ライダー轟音』では、新生ショッカーの幹部として登場。その姿は黄金色のザリガーナとなっていて、『仮面ライダーX』のジンギスカンコンドルの子孫として火炎能力や飛行能力も兼ね備えている。 その他の要職人物 犬神博士 第11話・第12話に登場。ドクトルGが日本支部に着任する前、首領が全幅の信頼を置いていた科学者チーフ。純子に横恋慕する黒田雄二を怪人ドリルモグラに改造したうえ、司祭として呪いの指輪を通じての「デストロン結婚式」を執り行うオカルティストでもあった。V3との乱闘中、ドリルモグラと一緒に逃げようとしたところをV3に引きずり出され、殴られて倒された。 怪人 機械合成怪人 機械合成怪人とは、ゲルショッカーの合成怪人をさらに発展・改良させた怪人である。生物と道具・武器を掛け合わせた能力を持ち、そのパワーは生物同士を掛け合わせた能力を持つゲルショッカー怪人を大幅に上回っている。体の中に機械があるため、動きが鈍いのが弱点。第13話以降は幹部であるドクトルGの指揮のもと、活動する。 プロデューサーの平山亨による企画案では、ラマ密教の秘法による外科手術が基になっていると記述されていた。 派手な武器を持つ機械合成怪人は人気が高まっていったが、それに伴い怪人の武器や作戦が秘密結社らしからぬ過剰に派手なものに変化していき、これを危惧した平山は初期のショッカーのようなシンプルなイメージに方向転換した。 テレビ番組『仮面ライダーアギト』に登場するジャガーロードとトータスロードは、ハサミジャガーとカメバズーカを踏襲してヒョウとカメがモチーフとなった。これはアギトの前作『仮面ライダークウガ』の最初の怪人が『仮面ライダー』を踏襲してクモとコウモリの怪人になったことから、平成2作目の『アギト』では『V3』を踏襲してヒョウとカメの怪人となったことによるものである。 ハサミジャガー 第1・2話に登場。ハサミとジャガーの機械合成怪人。組み合わせるとハサミのようになる両手の刃が武器で、刺殺した人間を溶解させる。 カメバズーカと同時期に「東京都全滅作戦」を実行。悪事の一部始終を目撃した志郎を何度も狙い、家族を本人の目の前で斬殺。V3のV3回転ダブルキックに倒される。2号とは顔を合わせていないと同時に戦っていない。 石ノ森章太郎のラフデザインを高橋章が立体デザインになおした怪人。 放送開始前の第1回撮影会ではブーツが黄色であった。たてがみもテレビシリーズよりも少なく、第3回撮影会で増量された。 劇場版の脚本では再生怪人の1体として登場が予定されていた。 映画『仮面ライダー THE NEXT』に登場するシザーズジャガーは、ハサミジャガーをモチーフとしている。 ゲーム『スーパーヒーロー作戦 ダイダルの野望』ではショッカーの後、デストロンが出現することになっているため、ハサミジャガーによりショッカーライダーが処刑されるシーンが存在する。 パチンコ『仮面ライダーフルスロットル』では、闇のV3に変身する素体として登場。 カメバズーカ 第1・2話に登場。バズーカ砲とカメの機械合成怪人。連続で千発発射が可能な背中のバズーカ砲と特殊金属製の堅固な甲羅が武器。頭と手足を収納することで隠密の活動が可能となる。 ハサミジャガーと同時期に「東京都全滅作戦」を実行。体内に内蔵された原子爆弾を新宿副都心で爆発させようとするが、ダブルライダーにより太平洋上で爆破した。V3とは顔を合わせているが戦っていない。 石ノ森章太郎の原案ラフを高橋章が立体デザインになおした怪人。『冒険王』73年2月号では、バズーカトータスという名称で紹介されていた。 鳴き声は演じ方に悩んだ峰恵研に相談を受けた沢りつおが考案した。 劇場版の脚本では再生怪人の1体として登場が予定されていた。 映画『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』 ショッカーが活動している時期ではあるものの、ショッカーグリードとともに登場。背中のバズーカ砲でデンライナーを破壊する。 PV『KAMEN RIDER V3』 デストロン戦闘員とともに登場。 映画『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』 バダンの怪人として登場。仮面ライダーZOと戦った。 映画『スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号』 ブラック将軍を護衛する怪人としてシュバリアンやザンジオーとともに登場。 テレビスペシャル『手裏剣戦隊ニンニンジャーVS仮面ライダードライブ 春休み合体1時間スペシャル』 声 - 関智一 『仮面ライダー3号』のプロローグ。ショッカーの怪人として登場。真実に近づいた泊進ノ介と伊賀崎天晴たちを殺すべく現れ、最終決戦時にはショッカーブルブルに加勢する。仮面ライダーマッハが放ったヒットマッハーマゼールで背中のバズーカを暴発させられ、倒される。 ゲーム『SDザ・グレイトバトル 新たなる挑戦』 ショッカーステージの中ボスとして登場。 ゲーム『ヒーロー戦記 プロジェクト オリュンポス』 海底都市で登場。強化型のカメバズーカ改も登場する。防御力が高く、通常攻撃では中々ダメージを与えられない。 新生カメバズーカ 『ぱちんこ仮面ライダー轟音』では、新生ショッカーの巨大怪人として登場。トリプルライダーが戦う巨大怪人として描かれている。 テレビバエ 第3話と第4話に登場。ハエとテレビの機械合成怪人。両目からの催眠光線と殺人電波が武器。顔にあるチャンネルを回すことで光線の強さを強化することが可能。また、目のテレビで写した映像を中継する機能を持つ。 イカファイアとともに作戦を実行。第一綜合病院の関院長に成りすまして催眠光線により東京中の人々を洗脳しようとするが、V3のライダー遠心キックを受けてイカファイアとともに爆死。 石ノ森章太郎の原案ラフを高橋章が立体デザインになおした怪人。 『仮面ライダーディケイド 超アドベンチャーDVD 守れ!〈てれびくんの世界〉』に登場するてれびバエくんはテレビバエをベースにしている。 ゲーム『SDザ・グレイトバトル 新たなる挑戦』 ブラックサタン戦闘員と共に第5話の溶岩地帯の雑魚敵として登場。 OVA『仮面ライダーSD』 蜘蛛男やタイホウバッファローとともに蜘蛛の巣城でバトルライダーズと戦う。 イカファイア 第3話と第4話に登場。イカと火炎放射器の機械合成怪人。V3の戦闘を見て生み出された改造人間で、口から吐くファイア墨やエネルギーを消す砂、左腕の鞭が武器で、鞭を外すことで火炎放射器となる。また、体の吸盤で相手のエネルギーを吸い取る。声を自在に変えられる能力を持つ。 ダブルタイフーンを封じてV3を火刑に処そうとするが、その炎の風を吸収され復活したV3のライダー遠心キックを受けてテレビバエとともに爆死。 マシンガンスネーク 第5話に登場。ヘビとマシンガンの機械合成怪人。コブラやマシンガンに変化する右手や猛毒を持つ牙や舌が武器であるほか、ヘビへの変身能力を持つ。 村山博士の開発した新エネルギー理論の書類を奪うため、秘書の西崎を誘拐し、理論の解析を迫る。V3遠心キックを受けて敗北。 石ノ森章太郎の原案ラフを高橋章が立体デザインになおした怪人。 劇中ではマシンガンが3連装であるが、一部の写真では2連装になっている。 ハンマークラゲ 第5話と第6話に登場。クラゲとハンマーの機械合成怪人。左手からの電流、右手のハンマーと鋼鉄鎖分銅がついたチェーンハンマーが武器。 マシンガンスネークの後を継ぎ、秘書の西崎に理論の解析を迫る。V3スクリューキックを受けて敗北。 石ノ森章太郎の原案ラフを高橋章が立体デザインになおした怪人。 ナイフアルマジロ 第7話と第8話に登場。アルマジロとナイフの機械合成怪人。人工心臓学の権威である河井博士の人工心臓手術によって蘇生された被験者・山本が再改造手術を受けたことで変異した姿。堅固な皮膚と体を丸めた後、体当たりをする弾丸鋼鉄球、右手の伸縮自在のナイフが武器。また、鼻からは発狂ガスを噴射する。 一度はV3ダブルアタックを受け敗れるが、博士の手術によって再生する。その後、V3ドリルアタックを受け、爆死する。 劇場版の脚本では再生怪人の1体として登場が予定されていた。 ノコギリトカゲ 第7話と第8話に登場。トカゲと電動ノコギリの機械合成怪人。デストロン初の女性怪人である。鋼鉄製の牙と右手の電動ノコギリが武器。また、頭にある角によって超能力を操る。 河井博士の死人の蘇生研究を利用するため、人工心臓手術を行う博士を誘拐。その後、ナイフアルマジロを再生し、V3ダブルアタックを受け、爆死。 八木功によると、ノコギリの市松模様は素材のバスマット(お風呂マット)の模様が浮き出たとのことだが、田﨑竜太と寺田克也は回転がわかるようにと予想していた。 映画『仮面ライダー THE NEXT』に登場するチェーンソーリザードは、ノコギリトカゲをモチーフとしている。 レンズアリ 第9話と第10話に登場。アリとレンズの機械合成怪人。目から5000℃の破壊熱線を放ち、左手の万力を武器に戦う。また、ドリル状の両足で地中を掘り進む。モトクロスレースの参加選手を誘拐し、デストロンレーサー地獄部隊に改造させ、人工衛星用の核物質を奪取させようとする。 V3きりもみキックを受け、敗北。 八木功によれば、目を開きフラッシュを焚くギミックには苦労させられたという。 カミソリヒトデ 第9話と第10話に登場。ヒトデとカミソリの機械合成怪人。右手の刃部分にデストロンマークがあるカミソリが武器で、折られたとしてもすぐに復元が可能。また、胸から発火性の泡を放つ。レンズアリとともに人工衛星用の核物質を奪取しようとする。 V3きりもみキックを受け、爆死。 テレビスペシャル『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』 バダンのコピー怪人として登場。10人ライダーと闘うが、時空破断システムに巻き込まれる。 スーツはアトラクション用のもので、偶然残っていたため、登場することとなった。 ピッケルシャーク 第11話と第12話に登場。サメとピッケルの機械合成怪人。海洋生物学の中原博士によって改造された。右腕のピッケルが武器で、ここから強烈な光を伴った1万ボルトの電流を放つピッケルフラッシュという技を持つ。 その後、デストロンから脱走し、志郎にアジトの位置を教えた中原を殺害し、アジトに潜入したV3を抹殺しようとするが、V3反転キックを受けて爆死。 ドリルモグラ 第11話と第12話に登場。モグラとドリルの機械合成怪人。正体は珠純子に付きまとっていた黒田雄二で、ピッケルシャークによって拉致され、犬神博士により作られた改造人間で、珠純子と結婚しようと企み、純子が恋心を抱く志郎を始末しようとし、その報酬に純子との結婚式を挙げる。頭部の回転するドリルが武器。 V3反転キックを受け、爆死。 ジシャクイノシシ 第13話に登場。イノシシと磁石の機械合成怪人。左手のスーパー磁石はV3の電子頭脳をも狂わせるほど強い磁力を発生させることができ、磁力を利用したジシャクバリアーを張って身を守る。時速300kmで突進するイノシシダッシュと呼ばれる突進攻撃を持つ。他人に化けることができるが、その状態でも体からは磁力が発せられている。 スーパー磁石で新幹線破壊を企て、V3と応戦するが、逆ダブルタイフーンで死を偽装されていたV3に阻止される。その間にドクトルGを日本に上陸させる「G作戦」を実行する。そして、再び変身が可能になったV3のV3電熱チョップでスーパー磁石を切断され、イノシシダッシュをかわされたことで崖から転落し自爆するものの、G作戦は成功した。 ガマボイラー 第14話に登場。ガマガエルとボイラーの機械合成怪人。ボディにはデストロンマークが記されている。胸からの溶解ガスや、死に際に噴出する相手のエネルギーを奪う泡状の体液が武器。 1号と2号の遺したV3の秘密を奪おうと三浦海岸で国際警察官ジョージ・カマモトを襲うが失敗し、秩父山中でV3と戦闘になり、V3に体液を浴びせた後、自爆した。 バーナーコウモリ 第15話に登場。コウモリとバーナーの機械合成怪人。口から7000℃の火炎を吐く。また、翼によって風速3千mの風を起こす。 ガマボイラーによってダメージを負ったV3を襲うが、逆ダブルタイフーンを受け、敗北。 鳴き声は、関連書籍では「アームー」と表記されるが、「あンぶりー」とする説もあり、『OFFICIAL FILE MAGAZINE 仮面ライダー』では後者がコウモリからコウモリ傘を発想しての「アンブレラ」に由来するものと推測している。演じた八代駿は『仮面ライダー大全』112頁のインタビューで「傘の怪人で「あんぶれらー」と鳴いたものがある」と述べており、『OFFICIAL FILE MAGAZINE 仮面ライダー』ではこれはバーナーコウモリを指したものと推測している。 ミサイルヤモリ 第16話に登場。ヤモリとミサイルの機械合成怪人。保護色で姿を消す能力や、人間を窒息させる吸盤を持つ。背中の大型ミサイルと左腕の3門の小型ミサイルが武器。 ミサイルを使い、京浜工業地帯の石油コンビナートを爆破する「D-18計画」を実行しようとするが、V3回転フルキックの前に倒される。 スプレーネズミ 第17話と第18話に登場。ネズミとスプレーの機械合成怪人。右腕の10mまで伸びる伸縮自在のパワーアームと、敵を食い千切るマウスカッターが武器で、ペストに酷似した新種の病原菌のデビルスプレーをパワーアームから噴射する。 右腕をV3キックで折られ、爆死。 クサリガマテントウ 第17話と第18話に登場。テントウムシと鎖鎌の機械合成怪人。腰から放つテントウミサイルと、左手にあるトゲ付き鉄球が付いた鎖鎌・スネークチェーンと脇腹にあるライフル・わきばら銃が武器で、スネークチェーンを敵に巻き付けて3千ボルトの電流を流す。体内にスネークチェーンの予備を格納している。 スプレーネズミの作戦のための陽動として、脱走者に化けたり、デストロンを裏切ったフリをしたが、全て志郎には見抜かれており、V3キックを受けて敗北。 ハリフグアパッチ 第19話に登場。魚雷とハリセンボンの機械合成怪人。全身に生えている爆破するトゲ・シビレトゲ、左肩から放つフグ魚雷と鼻から噴射する毒液が武器。 フグ魚雷によって船舶を爆破し、竜の子崎沖の支配権を掌握し、組織の領海にすることが使命。そして、そのフグ魚雷の製造のために必要な人間たちの誘拐が目的。V3きりもみキックを受け、敗北。 元々は『仮面ライダー』で「凶悪!フグアパッチ!!ショッカー島の決斗」にショッカー怪人として登場予定だった。 ギロチンザウルス 第20話と第21話に登場。恐竜とギロチンの機械合成怪人。口から吐く火炎と右腕のギロチンが武器。また、左腹の首枷で敵の首を固定する。 ドクバリグモとともに、SS装置の催眠音波を使った「四国占領作戦」実行のため、それを組み立てるのに必要な深沢博士を捕えようとし、V3の四国上陸を妨害する。V3回転キックを受け、爆死。 ドクバリグモ 第20話と第21話に登場。クモと注射器の機械合成怪人。右手にある、注入された人間を操るコントロールビールスが入った注射器が武器だが、自分にも害がある。全身にしびれ毒が付いたトゲが生えている。また、毒蜘蛛への変身能力を持つ。ビールスの血清は左脇腹にある。 ギロチンザウルスとともに、SS装置の催眠音波を使った「四国占領作戦」実行のため、それを組み立てるのに必要な深沢博士を捕えようとする。V3反転キックを受け、爆死。 ウォーターガントド 第22話に登場。トドと水中銃の機械合成怪人。口から吐くグロブタンガスを原料とした毒ガスと銛を撃ち出す。水中銃が武器。 関東一円に初島で製造した毒ガス入り気球を乱気流に乗せ、散布させようとした。だが、V3に追い駆けられたため阻止され、V3回転フルキックを受けて爆死。 プロペラカブト 第23話に登場。カブトムシとプロペラの機械合成怪人。正体は志郎の旧友黒田狂一。活動エネルギー源は女性の血液で、右手のプロペラと左手のヘラ、口から吐く毒液が武器。また、プロペラは投擲武器としても使用が可能。水中を移動できる。 戦闘員の素材となる人間を誘拐し、誘拐した女性は生き血を採取し、男性は戦闘員へと改造させる。V3反転キックを受け、敗北。 ゴキブリスパイク 第24話に登場。ゴキブリとスパイクの機械合成怪人。口から吐く1m以内の人間に高熱伝染病を起こす特殊細菌と右腕のスパイクが武器。 細菌ガスによる「細菌汚染作戦」を画策。大里細菌研究所の家事手伝い募集を申し込んだ女性たちを、細菌ガスの実験台とした。V3反転キックを受け、敗北。 カマキリメラン 第25話に登場。カマキリとブーメランの機械合成怪人。体にあるトゲと左手の鎌、10キロメートル先にいる人間の首を落とすことができる右肩の殺人ブーメランと触角のノコギリが武器。鎌とブーメランをこすり、特殊な音を発することで、デストロンレインジャー部隊と交信する。 ミイラビールスを貯水タンクに撒き、都民のミイラ化をしようとする「ミイラ作戦」に従事する。デストンレインジャー部隊の育成および陣頭指揮担当であったが、部隊とともに移動していたところを工藤俊一に目撃され、彼を殺害。その後、志郎と俊一の弟・健二を山小屋に追い詰めるが、第2部隊の作戦のための陽動であったことを漏らした後、V3回転フルキックを受けて爆死。 ヒーターゼミ 第26話に登場。セミとヒーターの機械合成怪人。喉を渇かせる特殊音波と全身の灼熱化、指先からの小型ミサイルが武器。セミへの変身能力を持つ。 東京都の浄水場にミイラビールスを混入して全滅させる「ミイラ作戦」実行のため、ミイラビールスの血清を作ることができる田口博士の娘・田口晴美を名乗り、V3に近づく。V3回転フルキックを受けて爆死。 ワナゲクワガタ 第27話と第28話に登場。クワガタムシと鉄輪の機械合成怪人。相手の首にかけて絞殺する鉄輪「死巻」と左腕からの煙幕と、吸った人間を呼吸困難にさせる猛毒ガス・ギラードガンマーが内包されたガス弾が武器。また、角からもギラードガンマーを吐く。 5大幹部が指揮する「日本全滅作戦」のサポートを任務することとなり、V3の妨害が目的。強化キックを受け、ペトンガラスに打ち付けられ、爆死。 最終話の脚本では死人コウモリではなくワナゲクワガタが登場する予定であった。 カメラモスキート 第29話に登場。蚊とカメラの機械合成怪人。左眼にあるカメラで撮影した人間への変身能力や虚像の投影能力を持つほか、ミニモスキートを操ることも可能。ドリルのように回転する手が武器。 デストロンハンターが奪ったマイクロフィルムの奪還が使命。佐久間ケンのカバンにミニモスキートを仕込んで、フィルムの入ったカバンを奪うが、志郎によって中身がすり替えられたため、インターポールの田所局長に化け、志郎に近づくが、変身を見破られ、V3ボディアタックを受け、敗北。 キバ一族 「キバ族」とも。キバ男爵が率いる怪人軍団。全員がキバを持っているのが特徴で機械合成怪人を凌ぐパワーを持ち、V3や1号・2号を苦しめた。ドーブー教を行動原理としており、祈祷や魔術によって怪人たちに力を与える。 ドクロイノシシ 第31話に登場。イノシシの改造人間。巨大な牙状の槍・猛毒牙、左手にあるダイヤモンドより硬い鉤爪、触れた相手を白骨化させる牙が武器で、その相手を悪魔の太鼓の音で操る。また、時速500キロメートルで走ることも可能。 小渕沢の人々を襲い操ることで、V3と闘わせる。V3フライングキックを受け、爆死。 オニビセイウチ 第32話に登場。セイウチの改造人間。生き血を飲んだ相手に変身する能力や、鬼火を操る能力、人間を腐らせる人魂ガスを口から吐く技がある。時速200kmで泳ぐことが可能で、水中戦を得意とする。 藤兵衛の旧友・伊藤に成りすまし、鬼火沼の山荘でキャンプに来たライダー隊を待ち伏せ全滅させようとするが、戦闘員を捕まえたV3によって阻止され、V3回転フルキックを受けながらもアジトへとV3を誘導するが、そこで死亡する。 第43話以降のエンディング映像にも登場している。 名称は鬼火セイウチと漢字表記される場合もある。企画段階での名称はヒトダマセイウチであった。 ユキオオカミ 第33話に登場。オオカミの改造人間。噛んだ相手を狼人間(獣人)に変える能力や、志郎をも凍らせた強力な冷気ウルトラブリザードが武器。 人工光化学スモッグの研究者・寒川博士を脅迫し、殺人光化学スモッグにあてると爆発する光線を使った作戦を実行しようとする。V3きりもみチョップを受け、敗北。 第43話以降のエンディング映像にも登場している。 『ぱちんこ仮面ライダー轟音』では、新生ショッカーの怪人として登場。 魔女スミロドーン 第34話に登場した、キバ一族の母なる魔女。キバ男爵の祈祷により100万年の眠りから目覚めた。姉小路と名乗る。人間態ではキバ男爵の知り合いと称して本郷に猛毒塗りの呪いの人形を贈り付けたり、彼の病院に行った藤兵衛を閉じ込めたりするなどの巧みな作戦をとった。バイカーの衣服を着て牙の形をしたバイク(牙型マシン)を乗りこなす。 原始タイガー 魔女スミロドーンが変身する、サーベルタイガーの怪人。 怪人態での戦闘能力はライダー単体より上である。針金状の毛を持つ体での体当たりを得意とする。牙はミサイルになる。口から吐く炎と高熱性の猛毒を持つ牙や爪を駆使してライダーたちを苦しめたが、最後はライダートリプルパワーで倒された。 怪人態では男性の声質となり、人間態でも男性よりの口調である。『CR仮面ライダーV3』では一人称が「俺様」である。 第43話以降のエンディング映像にも登場している。 脚本での名称は原始虎。 『ぱちんこ仮面ライダー轟音』では、新生ショッカーの怪人として登場。 ツバサ一族 「ツバサ族」「ツバサ軍団」とも。ツバサ大僧正が率いる怪人軍団。ほぼ全員が飛行能力を持っているのが特徴であり、空中戦に慣れていないV3を大いに苦しめた。チベットに伝わる密教「まんじ教」が行動原理。 火焔コンドル 第36話に登場。南米ペルーのインカ帝国遺跡から飛来したコンドルの改造人間。口からインカの呪われた火を吐き、妨害電波を発することも可能。また、ミサイル弾となっている爪も武器である。 修行僧に化け、「日本乗っ取り作戦」のためにデストロンへの協力を拒む重要施設の責任者たちを襲っていたところ、駆けつけたV3を一度は倒すが、特訓によって取得したビッグスカイパンチとビッグスカイキックを受けて墜落し、爆死する。 第43話以降のエンディング映像にも登場している。 名称は火炎コンドルと表記される場合もある。 コダマムササビ 第37話に登場。ムササビの改造人間。牙や爪に仕込まれ、触れた人間をムササビに変えるムササビ毒を持つほか、手首から毒ミサイルを放つ。 毒を受けた人間をムササビ型の死骸に変えることができ、ムササビに化けて滑空する。 「ムササビ作戦」により休火山の大雪山の噴火を装ってムササビ毒を都市に降り注ごうとした。ムササビの森でテストを行っていたところ、V3と一戦交え、道連れに自爆を図るが、逆ダブルタイフーンで阻止され、V3トリプルパンチを受け爆発し、白骨化した。 名称は木霊ムササビと漢字表記される場合もある。 ドクガーラ 第38話に登場。蛾(毒蛾)の改造人間。口からは仕込みナイフを伸ばし、羽根からは毒鱗粉を放つ。また、人を白骨化させる毒蛾を操ることも可能。 山北のデストロンアジトの警護が使命で、近づく者たちを次々と殺害していった。ハリケーンラストダッシュを受けて地面に激突し、爆死。 資料によっては、名称を殺人ドクガーラと記載している。 バショウガン 第39話に登場。芭蕉の改造人間。伸縮自在のツルや溶解液が武器。また、カエンバショウへの変身能力もある。 「保存人間計画」で改造人間用の素材となる人間を次々と地中に攫い、毒液を注射し、3万ボルトの電流を流して身体を小さくすることで保存する。V3スカイキックを受け、溶解する。 飛行能力を持たない植物怪人であるが、これは登場する第39話が『仮面ライダー』第4話のリメイクであったため、ストーリーの都合から植物怪人が必要であったことによる。平山による展開案では、フクロウをモチーフとした怪人の登場が予定されていた。 書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を人喰いバショウガンと記載している。 ヨロイ一族 ヨロイ元帥が率いる怪人軍団。「ヨロイ族」や「ヨロイ軍団」とも称される。強固な防御力とパワーを併せ持った怪人が多いのが特徴であり、その多くが鎧のように硬い皮膚を持っている。これまでのデストロン怪人を上回る戦闘力を持ち、V3やライダーマンを苦しめた。 ヨロイ一族の後はトゲ族の登場が予定されていたが、ヨロイ元帥の続投が決まり、最後までヨロイ一族が登場することとなった。オニヒトデは軟体族、サイタンクはツノ一族、オニヒトデとシーラカンスキッドはヒレ一族、カメレオンはトゲ一族の怪人としてデザインされていた。 ガルマジロン 第41話に登場。アルマジロの改造人間。正体は志郎の友人・高木裕介。鱗から放つ人間を溶かす毒液と右手の鉤爪、手足の付け根にある鋭い毛とボウガンが武器。鱗は本体から分離しての行動が可能。また、甲羅のトゲによるガルマジロンバック攻撃と呼ばれる技を持つ。体を丸めて突撃を行う。 志郎を騙して彼とともにアジトに潜入し、正体を明かした上で志郎にデストロンへの恭順を促すも聞き入れられず、V3回転フルキックを受けた後、高木の姿に戻り死亡。 カタツブラー 第42話に登場。カタツムリの改造人間。口からは粘着液を吐き、堅固な殻を使った渦巻き攻撃や、体内に卵を産みつけ、そこから孵ったカタツムリによって人間を操る能力を持ち、マンションに住む人間を操った。また、自己催眠能力や巨大なカタツムリへの変身能力を持つ。霧を使って自身の姿を消す。 胴体にV3キックを受け、溶解。 カマクビガメ 第43話と第44話に登場。カメ(ヘビクビガメ)の改造人間。口から毒ガスを吐き、子亀爆弾が武器。また、首を長く伸ばしたり、1トン近くまで体重を増加させることが可能。 デストロンを脱走した結城やその助手を追い、助手たちを皆殺害した。V3とライダーマンとの戦闘では、V3を丸呑みして優勢に立つが、V3脱出パワーによって体内から破壊され、爆死する。 サイタンク 第45話と第46話に登場。サイの改造人間。500tのものを持ち上げる怪力と、両肩の相手を消し去る角と発射することが可能な頭部の大角が武器。最新の必殺技「V3マッハキック」すらはね返す剛強怪人。 ブラックサンタに化け、優秀な子どもたちを攫い、デストロンの幹部候補生の養成が使命。頭部の角をV3キックで折られ、ロープアームで身体を絡め取られたところにV3きりもみキックを受け、爆死。 パチンコ『仮面ライダーフルスロットル』では、闇のライダーマンに変身する素体として登場。 『ぱちんこ仮面ライダー轟音』では、新生ショッカーの怪人として登場。 シーラカンスキッド 第47話に登場。シーラカンスの改造人間。口から風船状の泡爆弾を吐き、指先からは催眠ガスを放つ。シーラカンスへの変身能力を持つ。剛腕を活かした鯖折りで相手を絞め殺す。 結城を捕え、にせ結城丈二およびデストロンライダーマンに変身し、少年仮面ライダー隊の本部に時限爆弾を仕掛けようとした。必殺きりもみキックを受け、爆死。 デストロンライダーマン(にせライダーマン) シーラカンスキッドがライダーマンの姿に変化した姿。その後、にせ結城丈二に変身した。右手から毒ガスを噴射する。 オニヒトデ 第48話に登場。ヒトデの改造人間。分裂し、敵の攻撃を無効化する能力や溶解液を吐く吸血ヒトデを操る能力を持つ。また、腹部にある口の牙で敵に噛み付いたり、巨大なヒトデへの変身能力を持つ。 東京都皆殺し作戦を実行した。首領の身辺警護のため、彼の潜伏する東都中央病院周辺に吸血ヒトデをばら撒くが、V3に計画が露呈してしまい、首領のいる特別室への侵入を許してしまう。そして、ライダーマンのネットアームで分裂による無効化を封じられ、V3三段キックを受けてガス状となって消滅。 カメレオン 第49話に登場。カメレオンの改造人間。改造人間の制御能力を狂わせるバタル弾を発射するバタルガンや周囲に同化する能力が武器。 結城を庇った志郎にバタル弾が命中したため、ジュンを利用して志郎を倒そうとするが、結城の治療によって全快したV3のV3きりもみキックを受け退散する。 吸血カメレオン 第50話に登場。カメレオンが強化改造された姿。血を吸われた人間を吸血鬼化する能力が加わり、伸縮自在の吸血舌が武器で、口から吸血鬼化させる毒ガスを吐く。 多くの子供たちの生き血を集める「新改造人間製造計画」が使命。みどり学園の子供を吸血鬼化させる。舌を抜かれた後、V3フル回転キックを受け、白い泡となって溶解する。 デストロン戦闘員 デストロンの主戦力である一般兵士。白いサソリ模様の黒い全身タイツ服と、ドクロをイメージした白い模様の黒いマスクを着用する。人間への変身能力もある。 3.0の視力、100mを9.8秒の走力、6倍のジャンプ力など常人の5倍の体力を持ち、ゲルショッカー戦闘員以上の戦力を誇る。 ショッカー時代と同様、デストロンバックルにはショッカー同様、自爆機能が内蔵されている。キバ男爵配下の戦闘員は上腕部に2本のキバが交差したマークが入っており、トーテムポールへの変身も可能。ツバサ大僧正配下の戦闘員はこの装束の袖に長いフリンジを装着しており、空を飛べる。 マスクの白い縁取りの目の部分が尖っていないタイプの戦闘員もいる。左肩の部分のデザインが通常と異なる戦闘員も存在する。腰にはカッターナイフなどや毒矢、銃などの飛び武器を装着している場合がある。 用済みとなった戦闘員は処刑されたり、怪人などの実験台にされたりする。年齢を問わず能力の高い者はごく普通の男性が改造され、デストロンに拉致された男性が戦闘員に改造・脳改造されるなどして洗脳されている。改造の際には改造液を体内に注射して戦闘員化させるほか、洗脳して戦闘員化させることでデストロンに服従させる。『仮面ライダーV3カード』では、悪の細胞を培養して作り上げた人造人間と記述している。 放送開始前の第1回撮影会では、手袋とブーツが黄色であった。 デストロンレインジャー部隊 V3抹殺のために特別に訓練された戦闘員のエリート部隊。「人間ザル」の異名を持つ。服装は通常戦闘員との差異は見られない。第2部隊も存在し、警察官に変身して風見を襲った。 科学者班(白戦闘員、科学者戦闘員) 黒いサソリ模様の白い全身タイツ服、赤い模様の白マスク、すその長い診察衣(白衣)を着用している。しかし、診察衣を着用しない場合やデストロンベルトを着用しない場合がある。スカウト、人質脅迫、金銭報酬などで集められており、優秀な科学者やその助手で構成されている。 結城丈二はここの筆頭的存在であり、助手も何人かマスクを脱いで素顔で登場した。当時の児童書では、結城がタイホウバッファローを製造しているカットも存在する。 女戦闘員 敵の陽動や拉致などの補助的な任務を遂行。第41話のみ戦闘に参加した。 第41話では黒のレオタード姿に赤いパレオを着用していたが、第49話でデストロンに拉致された少女ジュンは、通常戦闘員と同様の黒タイツ姿で登場した後、風見に助け出される。 レーサー地獄部隊 一流のレーサーが改造液を注入され、戦闘員として洗脳されたオートバイ部隊。普段はレース・ウエアに身を包んでいるが、戦闘時に戦闘員の姿となる。人工衛星用の核物質を強奪する。還元液によって元の姿に戻る。 首領親衛隊(親衛隊員) 首領の身辺を警護するエリート部隊。軍服を着用、通常戦闘員と同じマスクの上に制帽をかぶる。第48、51、52話に登場。 幹部 黒ずくめの三角頭巾に長衣を着用した一団。第1話での本郷の生前葬やデストロンパーティーに参加している。また、デストロン裁判での結城の処刑決議時には、同様の衣装を纏った最高幹部が登場している。 その他の作品での登場 『劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』 大ショッカーの戦闘員として登場。同作品ではショッカー戦闘員も大ショッカーの戦闘員として登場している。 『仮面ライダーオーズ/OOO』 第28話(仮面ライダーシリーズ通算1000回記念話)で、元ショッカー戦闘員・千堂院の欲望から生み出された戦闘員軍団に混じって登場している。正体はヤミー(『オーズ』の怪人)。 キャスト レギュラー 風見志郎 / 仮面ライダーV3 - 宮内洋 立花藤兵衛 - 小林昭二 珠純子 - 小野ひずる 珠シゲル - 川口英樹(4話 - 52話) 準レギュラー ドクトル・ゲー - 千波丈太郎(13話−30話) キバ男爵 - 郷鍈治(31話 - 35話) ツバサ大僧正 - 富士乃幸夫(35話 - 40話) ヨロイ元帥 - 中村文弥(40話 - 52話) 佐久間ケン - 川島健(29話 - 32話、35話、36話) 本郷猛 / 仮面ライダー1号 - 藤岡弘(1話、2話、33話、34話) 一文字隼人 / 仮面ライダー2号 - 佐々木剛(1話、2話、33話、34話) 結城丈二 / ライダーマン - 山口暁(43話 - 51話) 声の出演 ナレーター - 中江真司 デストロン首領 - 納谷悟朗 主なゲスト出演者 ※参考文献:『仮面ライダー大図鑑(3)』(バンダイ・1991年)、『仮面ライダーV3大全』(双葉社・2001年) 風見達治 - 加賀邦男 (1話) 風見綾 - 真咲美岐 (1話) 風見雪子 - 関口英利子 (1話、50話) 作業員 - 篠田敏夫 (1話) 敏夫 - 石井政幸 (4話) 村山博士 - 山岡徹也 (5話) 西崎道子 - 前田通子 (5話、6話) 西崎ツトム - 小松陽太郎 (5話、6話) 堀川守 - 藤江喜幸 (5話、6話) 堀川節子 - 村井美恵 (6話) 河井三郎 - 池田忠夫 (7話、8話) 河井タダシ - 染谷利貴 (7話、8話) 京子 - 真木沙織 (7話、8話) 中原博士 - 杉山俊夫 (11話) 犬神博士 - 花巻五郎 (11話、12話) 陽子 - 田所陽子 (13話) ドライバー - 奥村公延 (13話) ジョージ・カマモト - 団巌 (14話) 岡島博士 - 有馬昌彦 (15話) 岡島珠美 - 泉陽子 (15話) 井村耕作 - 宇南山宏 (16話) 高瀬ユリ子 - 堀越光恵 (17話、18話) 市村明雄 - 堀部隆一 (17話、18話) 佐々木 - 川上大輔 (17話、18話) 中村有三 - 長沢大 (19話) 深沢秀雄 - 二瓶秀雄 (20話、21話) 塚本 - 斉藤真 (20話) 健一の姉 - 森桃江 (20話、21話) 早瀬タカオ - 皆川良光 (22話) 黒田幸子 - 山田圭子 (23話) 老婆・しげ - 田中筆子 (24話) 大里博士 - 上田忠好 (24話) 工藤健二 - 奥野建明 (25話) 工藤俊一 - 高島稔 (25話) 登山パーティー - 山田貴光、木下陽夫、新海丈夫 (25話) 死神博士 - 天本英世 (27話、28話) ブラック将軍 - 丹羽又三郎 (27話、28話) ゾル大佐 - 宮口二郎 (27話、28話) 地獄大使 - 潮健児 (27話、28話) 伊藤正太郎 - 渡辺一矢 (27話) 伊藤正一 - 鈴木志郎 (27話) 田所 - 田島義文 (29話、30話) デストロンハンター - 高田裕史〈4号〉(29話)、山西道広〈1号〉(30話) ほか 宮田トシ子 - 斉藤浩子 (31話) トシ子の両親 - 長沢大、上田みゆき (31話) 伊藤 - 中井啓輔 (32話) 寒川博士 - 三島耕 (33話) 寒川弓子 - 菅沢恵美子 (33話) 魔女スミロドーン - 山崎知子 (34話) 宮本経済長官 - 湊俊一 (35話) 中田科学局長 - 南川直 (35話) 井沢局長 - 河合弦司 (36話) 田村昭景 - 見明凡太朗 (37話) 学者 - 団巌 (37話) 安藤 - 平凡太郎 (38話) 安藤ツヨシ - 小塙謙士 (38話) 山田正子 - 津々井和枝 (39話) 山田修一 - 松田洋治 (39話) 小川辰夫 - 松坂雅治 (40話) 小川清志 - 奥野建明 (40話) 山下喜作 - 綾川香 (41話) 川田亜沙子 - 佐々木順子 (42話) 川田美沙子 - 粟屋芳美 (42話) 須藤 - 高田裕史 (42話) 片桐二郎 - 平野康 (43話) 片桐幸江 - 井上真彩子 (43話、44話) 津村ひろし - 高橋仁 (45話、46話) 津村めぐみ - 東啓子 (45話、46話) 津村定吉 - 徳大寺伸 (45話、46話) マサト - 久保木利貴 (48話) エツ子 - 駒沢とよこ (48話) ジュン - 北原和美(49話) 須藤健一 - 半藤浩 (50話) 木村先生 - 服部マリ (50話) 西岡保 - 打田康比古 (51話) デストロン医師 - 小倉雄三 (51話) スーツアクター V3役は中屋敷鉄也が主に担当したが、第1話・第2話のみ前作から引き続き1号を演じた。 ライダーマン役はアクション以外の多くを変身前と同じく山口が演じ、アクションでは数名が担当した。 トランポリンは前作ではJACが担当したが、本作品以降は大野剣友会がトランポリンも担当することとなった。 仮面ライダーV3(メイン)、仮面ライダー1号(第1話・第2話) - 中屋敷鉄也 仮面ライダーV3(第1話・第2話)、ライダーマン(スタント) - 中村祐 仮面ライダーV3(トランポリン) - 佐藤巧 ライダーマン(アップ) - 山口暁 ライダーマン(スタント)、仮面ライダー2号 - 河原崎洋夫 ライダーマン(スタント) - 千代田恵介 仮面ライダー1号、ライダーマン(スタント)、怪人 - 新堀和男 怪人 - 岡田勝 ハサミジャガー - 小林貞夫 ライダーマン、怪人 - 池田力也 カミソリヒトデ - 石塚信之 ガマボイラー、原始タイガー - 中村文弥 ユキオオカミ - 渋谷秀美 スタッフ 『V3』制作当時の生田スタジオは多数の作品を手がけるようになり、監督陣は流動的であった。メイン監督の山田稔は第31話・第32話と第41話・第42話も担当する予定であったが、実際には第27話・第28話を最後に『イナズマン』へと移動した。奥中惇夫は第3話・第4話を担当したのみで『ロボット刑事』へ、前半のローテーションを担った田口勝彦は『どっこい大作』へとそれぞれ移動している。後半は『ロボット刑事』を終えた内田一作と折田至がメインを務めた。 第9話・第10話の脚本は、映画『不良番長』シリーズの監督である内藤誠とその助監督である佐伯俊道が共同執筆した。内藤は息子が仮面ライダーのファンであったことや、テレビドラマ『ゴールドアイ』で宮内洋がゲスト出演した回の監督を務めていたことなどから、プロデューサーの平山亨や阿部征司に執筆を申し出た。 第49話の脚本は助監督の長石多可男が担当した。このストーリーは、長石が他の助監督らと生田スタジオに泊まりこんだ際に酒の席で挙がった話が基になっている。 原作 - 石森章太郎 連載 - たのしい幼稚園、テレビマガジン、冒険王、おともだち、テレビランド 企画 - 平山亨、阿部征司 脚本 - 伊上勝、鈴木生朗、島田真之、内藤まこと、佐伯俊道、滝沢真理、塚田正熙、海堂肇、長石多可男、平山公夫 音楽 - 菊池俊輔 監督 - 山田稔、奥中惇夫、塚田正煕、田口勝彦、折田至、内田一作 技斗 - 高橋一俊(大野剣友会) 撮影 - 川崎龍治、原秀夫 照明 - 太田耕治 美術 - 八木功・島田定信(エキスプロダクション) 仕上音響 - 映広音響 録音 - 太田克己 編集 - 菅野順吉、池原文雄、武中昭世 選曲 - 武田正彦 効果 - 協立効果 記録 - 増田美代子、紀志一子 助監督 - 長石多可男、福島孔道、高橋正治、鈴木隆志、平山公夫、梅田味伸 進行主任 - 大里俊博、大竹昭男、伊藤隆造、斉藤正勝、古泉雅 制作担当 - 佐久間正光 衣裳 - 東京衣装 現像 - 東映化学 トランポリン - 三隅修 (JAC)、佐藤巧(大野剣友会) オートバイ協力 - 鈴木自動車 制作 - 毎日放送、東映 音楽 主題歌 オープニングテーマ 「戦え! 仮面ライダーV3」 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:宮内洋、ザ・スウィンガーズ (SCS-192) オープニング映像はライダーマン編となる第43話から全面変更されたが、結城丈二 / ライダーマンに関する描写はなかった。この他にも初期話数において、細かなマイナーチェンジが行われている。 エンディングテーマ 「少年仮面ライダー隊の歌」(第1話 - 第42話) 作詞:八手三郎 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:水木一郎、コロムビアゆりかご会 (SCS-192) 「走れハリケーン」(第43話 - 最終話) 作詞:能見佐雄 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人、コロムビアゆりかご会(KKS-4076) 作詞の能見佐雄は、毎日放送プロデューサー左近洋一の変名である。原稿では石井照子との連名であった。 挿入歌 オープニングとエンディング同様、作・編曲はすべて菊池俊輔。「デストロン讃歌」、「V3のマーチ」、「V3アクション」、「仮面ライダー讃歌」の冒頭には効果音とセリフが入っている。ライダーマンのテーマ「ぼくのライダーマン」は本作品の劇中でも使用されたが、『仮面ライダーV3』のLPレコード(KKS-4076)はすでに発売されていたため、次作『仮面ライダーX』のLPに収録された。 「仮面ライダー讃歌」 作詞:田中守、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人 「不死身の男」 作詞:島田真之、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:水木一郎 「V3アクション」(第52話) 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:子門真人 「V3の一人歌」 作詞:田中守、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:水木一郎 「V3のマーチ」 作詞:伊上勝、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:水木一郎、コロムビアゆりかご会 「デストロン讃歌」 作詞:土井信 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:日本合唱協会 「V3の子守唄」 作詞:中瀬当一、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:井上裕子 「ぼくらの仮面ライダーV3」 作詞:中瀬当一、丘灯至夫 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:コロムビアゆりかご会 「ぼくのライダーマン」(第51話) 作詞:田中守 / 作曲・編曲:菊池俊輔 / 歌:コロムビアゆりかご会 作詞は東映プロデューサー平山亨の変名である田中守名義となっているが、実際に作詞したのは平山の妻であった。平山の妻は作品はほとんど見ておらず、企画書からのインスピレーションで執筆したという。 放送日程 ネット局・放送時刻 同時ネット局 毎日放送(制作局) 北海道テレビ NETテレビ 名古屋放送(1973年4月から) 広島ホームテレビ 九州朝日放送 時差ネット局 青森放送:金曜 18:00 - 18:30(1973年3月)→ 金曜 17:55 - 18:25(1973年4月から) 岩手放送:土曜 18:00 - 18:30(1974年4月6日まで)→ 水曜 18:00 - 18:30(1974年4月10日から) 秋田放送:金曜 19:00 - 19:30 山形放送:月曜 17:30 - 18:00 東北放送:日曜 9:00 - 9:30 福島テレビ:木曜 19:00 - 19:30 山梨放送:土曜 18:00 - 18:30 新潟放送:日曜 10:00 - 10:30 長野放送:水曜 18:00 - 18:30 テレビ静岡:土曜 19:00 - 19:30 石川テレビ放送:火曜 18:00 - 18:30 北日本放送:月曜 - 金曜 17:50 - 18:20 福井テレビジョン放送:月曜 18:00 - 18:30 名古屋放送:日曜 19:00 - 19:30 (1973年3月まで) 山陰放送:火曜 18:00 - 18:30 岡山放送:土曜 17:00 - 17:30 山口放送 :木曜 18:00 - 18:30 四国放送:木曜 18:00 - 18:30 瀬戸内海放送:金曜 19:00 - 19:30 愛媛放送:火曜 18:00 - 18:30 高知放送:土曜 18:00 - 18:30 長崎放送:火曜 18:00 - 18:30 熊本放送:月曜 18:00 - 18:30 テレビ大分:日曜 10:00 - 10:30 宮崎放送:水曜 18:00 - 18:30 南日本放送:月曜 18:00-18:30 沖縄テレビ放送:火曜 19:30 - 20:00 関連商品 カルビースナック 仮面ライダーV3 仮面ライダーV3カレー 理研ビタミンから発売されたレトルトカレーであり、初のテレビキャラクターを用いたカレー商品であるとされる。切手を模したシールV3切手が封入された。 他媒体展開 各キャラクターの詳細などについては、登場人物の節や各登場人物の項目(仮面ライダーV3 (キャラクター)やライダーマンなど)を参照。 映像ソフト化 いずれも東映ビデオより発売。 ビデオ(VHS、セル・レンタル共通)は全14巻がリリースされた。全話収録だが、当初は傑作選の予定だったため、収録順は放送順と一致していない。 1993年8月25日にLD-BOXが発売された。 2000年5月21日から9月21日にかけて単品のLDが発売された。全7巻の各2枚組で各巻8話(Vol.7のみ1枚・4話)収録。 2002年12月6日にDVD-BOXが発売された。 2007年10月21日から12月7日にかけて2007年10月公開の『仮面ライダー THE NEXT』の公開を記念して単品のDVDが発売された。全9巻で各巻6話(Vol.8、Vol.9は5話)収録。1 - 3、4 - 6、7 - 9はそれぞれ同時リリースされた。 2008年7月21日発売の「石ノ森章太郎 生誕70周年 DVD-BOX」に第1話が収録されている。 2018年4月11日から8月8日にかけてBlu-ray BOXが発売。 他テレビシリーズ 『仮面ライダーX』 第27・28・33・34話に風見志郎 / 仮面ライダーV3が登場。 『仮面ライダーストロンガー』 風見志郎 / 仮面ライダーV3と結城丈二 / ライダーマンが登場。 『仮面ライダー(スカイライダー)』 風見志郎 / 仮面ライダーV3と結城丈二 / ライダーマンが登場。 『仮面ライダーBLACK RX』 『仮面ライダーBLACK』の続編。終盤に仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 『仮面ライダーオーズ/OOO』 第28話にデストロン戦闘員が登場。 テレビスペシャル 『全員集合!7人の仮面ライダー!!』 『仮面ライダーストロンガー』のテレビスペシャル。風見志郎 / 仮面ライダーV3と結城丈二 / ライダーマンが登場。 『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』 『仮面ライダーZX』のテレビスペシャル。風見志郎 / 仮面ライダーV3と結城丈二 / ライダーマンが登場。 『烈車戦隊トッキュウジャーVS仮面ライダー鎧武 春休み合体スペシャル』 『烈車戦隊トッキュウジャー』と『仮面ライダー鎧武/ガイム』のテレビスペシャル。仮面ライダーV3が登場。 映画 『仮面ライダーV3』(1973年3月17日公開) 東映まんがまつりの一編として第2話を上映。 『仮面ライダーV3対デストロン怪人』(1973年7月18日公開) 東映まんがまつりの一編として公開。 同作品とテレビシリーズ第20話・第21話は同時進行で四国ロケが行われている。テレビシリーズとの関係は特に設定されていない。 上記の2作品とも2003年12月5日発売の昭和の仮面ライダーシリーズの映画作品を収録した「仮面ライダー THE MOVIE BOX」および、単品では2006年発売の「仮面ライダー THE MOVIE VOL.2」に収録されている。 『五人ライダー対キングダーク』(1974年7月25日公開) 東映まんがまつりの一編として公開。『仮面ライダーX』の劇場版。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』(1978年3月18日公開) 東映まんがまつりの一編として公開。『ジャッカー電撃隊』と『秘密戦隊ゴレンジャー』のクロスオーバー作品。V3がヨーロッパで鉄面男爵と戦っていたという設定で、写真とBGMが使われた。 『仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王』(1980年3月15日公開) 東映まんがまつりの一編として公開。『仮面ライダー(スカイライダー)』の劇場版。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 『仮面ライダースーパー1』(1981年3月14日公開) 東映まんがまつりの一編として公開。『仮面ライダースーパー1』の劇場版。仮面ライダーV3(声 - 宮内洋)とライダーマンが登場。 『仮面ライダー THE NEXT』(2007年10月27日公開) 『仮面ライダー THE FIRST』の続編。新解釈による作品。新解釈の仮面ライダーV3が登場。また、登場する怪人シザースジャガーとチェーンソーリザードは、それぞれハサミジャガーとノコギリトカゲの新解釈である。 『劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』(2009年8月8日公開) 『仮面ライダーディケイド』の劇場作品。仮面ライダーV3とライダーマン、新解釈の結城丈二が登場。 『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』(2011年4月1日公開) 『仮面ライダーオーズ/OOO』と『仮面ライダー電王』をメインとしたクロスオーバー作品。仮面ライダーV3(声は宮内が担当)とライダーマン、カメバズーカが登場。 『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX』(2011年12月10日公開) 『仮面ライダーフォーゼ』と『仮面ライダーオーズ/OOO』をメインとしたクロスオーバー作品。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 スーパーヒーロー大戦シリーズ いずれも仮面ライダーシリーズとスーパー戦隊シリーズのクロスオーバー作品。 『仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦』(2012年4月21日公開) 仮面ライダーV3とライダーマンとドクトルG / カニレーザーが登場。 『仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z』(2013年4月27日公開) 先の2シリーズとメタルヒーローシリーズのクロスオーバー作品。仮面ライダーV3が登場。 『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』(2014年3月29日公開) 平成ライダー15作品記念のクロスオーバー作品。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 『スーパーヒーロー大戦GP 仮面ライダー3号』(2015年3月21日公開) 仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 『仮面ライダー×仮面ライダー ウィザード&フォーゼ MOVIE大戦アルティメイタム』(2012年12月8日公開) 『仮面ライダーウィザード』と『仮面ライダーフォーゼ』をメインとしたクロスオーバー作品。仮面ライダーV3が名前のみ登場。 コミカライズ 本作品が制作されていた時点で、原作者石森章太郎による漫画版『仮面ライダー』の連載はすでに終了しており、原作者自身による本作品のコミカライズ作品は存在しない。他方で、放送当時から石森プロ所属の漫画家を中心に、多くの作家によるコミカライズは行われている。 放映当時の連載 テレビマガジン掲載版(すがやみつる、1973年3月号 - 1974年2月号) 立花藤兵衛や珠純子など味方側のレギュラーは一切登場せず、V3とデストロンとの戦いにしぼって描かれた。オイルショックによる掲載誌のページ減により1974年2月号をもって連載が打ち切られ、V3とライダーマンが和解して共闘を誓い合うところで話は終了している。 冒険王掲載版(すがやみつる、1973年3月号 - 1974年3月号) テレビシリーズに準じた展開であるが、個々のエピソードや怪人の性格付けなどは独自のもの。幼年誌に比べてページ数に余裕があったため、レギュラーキャラクターや敵幹部もテレビ同様に活躍し、別冊付録では100ページを越える長編も執筆された。デストロンとの最終決戦まで描かれて終了した。 別冊冒険王掲載版(すがやみつる、1973年春季号・4月号 - 1974年2月号) すがやによるスパナサンゴのほか、読者考案のノコギリトンボ、エイジェットなどのオリジナル怪人が登場。 {| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人 |- ||1973年3月号 ||デストロン怪人とうじょうのまき ||ハサミジャガー、カメバズーカ、マシンガンスネーク、テレビバエ、ハンマークラゲ |- ||1979年4月号 ||怪人イカファイヤーのまき ||イカファイヤー |- ||1979年5月号 ||白骨のライダー……のまき ||ナイフアルマジロ、ノコギリトカゲ、ハチサーベル |- ||1979年6月号 ||変身不可能! V3のまき ||ピッケルシャーク、ドリルモグラ、マグネボタル |- ||1979年7月号 ||夜空にさいた恐怖にじのまき!! ||ミサイルヤモリ、バーナーコウモリ、プリズムバット |- ||1979年8月号 ||スパナサンゴのまき ||スパナサンゴ、ドクバリグモ |- ||1979年9月号 ||新怪人・かまきりメランの巻 ||カマキリメラン、ノコギリトンボ、ゼミライト |- ||1979年10月号 ||キバだんしゃくとうじょうのまき ||吸血マンモス、オニビセイウチ、ブーメラクワガタ、ナメクジレンズ、死人コウモリ |- ||1979年11月号 ||ツバサ大僧正登場の巻<前編> ||エイジェット、ゴキブリエレキ、火炎コンドル、木霊ムササビ |- ||1979年12月号 ||ツバサ大僧正登場の巻<後編> ||ラジオコンドル、タイヤタイガー、死人コウモリ |- ||1980年1月号 ||ライダーマンとうじょうのまき ||カマクビガメ、カブトガニアーチェリー、コブラペンチ |- ||1980年2月号 ||平和のために!!の巻 ||シーラカンスキッド |- |} テレビランド掲載版(久留米東、1973年3月号 - 5月号 → 暁俊二、1973年6月号 → 松本めぐむ、1973年7月号 - 1974年2月号) テレビに準じた展開。立花藤兵衛らによる戦い以外のドラマも描かれている。松本版では、結城丈二が珠純子と幼馴染であるなどの独自設定が用いられた。 テレビマガジンと同様の事情で1974年2月号をもって打ち切りとなり、ライダーマンの誕生で話は終了。翌月の『仮面ライダーX』で立花藤兵衛がデストロンとの決戦を回想する形で物語に区切りをつけている。 {| class="wikitable" style="text-align:left ; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年3月号 ||不明記 ||ハサミジャガー、他 | rowspan="3"|久留米東 |- ||1973年4月号 ||不明記 ||テレビバエ、他 |- ||1973年5月号 ||不明記 ||ナイフアルマジロ、他 |- ||1973年6月号 ||不明記 ||ピッケルシャーク、他 ||暁俊二 |- ||1973年7月号 ||不明記 ||ミサイルヤモリ | rowspan="8"|松本めぐむ |- ||1973年8月号 ||不明記 ||ウォーターガントド |- ||1973年9月号 ||不明記 ||ゴキブリスパイク |- ||1973年10月号 ||不明記 |align="left"|ワナガケクワガタ |- ||1973年11月号 ||不明記 ||吸血マンモス |- ||1973年12月号 ||不明記 ||死人コウモリ |- ||1974年1月号 ||不明記 || |- ||1974年2月号 ||不明記 || |- |} たのしい幼稚園掲載版(石川巨人、1973年5月号,6月号,1974年3月号) {| class="wikitable" style="text-align:left ; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年5月号 ||不明記 |align="left"|マシンガンスネーク、他 | rowspan="3"|石川巨人 |- ||1973年6月号 ||不明記 |align="left"|レンズアリ |- ||1974年3月号 ||不明記 |align="left"|ヨロイ元帥 |- |} 別冊たのしい幼稚園掲載版(石川のりひこ、1973年3月号 - 9月号) {| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年3月号 ||不明記 ||ハサミジャガー、他 | rowspan="6"|石川のりひこ |- ||1973年4月号 ||トリプルキックのまき || |- ||1973年5月号 ||不明記 ||ナイフアルマジロ |- ||1973年6月号 ||不明記 ||ピッケルシャーク |- ||1973年7月号 ||不明記 ||ガマボイラー |- ||1973年9月号 ||不明記 |align="left"|ゴキブリスパイク |- |} おともだち掲載版(細井雄二、1973年3月号 - 1974年3月号) {| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年3月号 ||不明記 ||マシンガンスネーク | rowspan="13"|細井雄二 |- ||1973年4月号 ||不明記 ||ハンマークラゲ |- ||1973年5月号 ||不明記 ||テレビバエ |- ||1973年6月号 ||不明記 ||イカファイヤー |- ||1973年7月号 ||不明記 ||ナイフアルマジロ |- ||1973年8月号 ||不明記 |align="left"|ドリルモグラ |- ||1973年9月号 ||不明記 ||クサリガマテントウ |- ||1973年10月号 ||不明記 ||ヒーターゼミ |- ||1973年11月号 ||不明記 ||キバ一族 |- ||1973年12月号 ||不明記 ||火炎コンドル、他 |- ||1974年1月号 ||不明記 ||ガルマジロン |- ||1974年2月号 ||不明記 ||カマクビガメ |- ||1974年3月号 ||不明記 ||カメレオン |- |} ディズニーランド(石川巨人、1973年3月号 - 10月号 → すがやみつる、1973年11月号 → 石川巨人、1973年12月号 - 1974年3月号) {| class="wikitable" style="text-align: left; font-size:smaller;" border="1" |- !掲載号!!サブタイトル!!登場怪人!!著者 |- ||1973年3月号 ||不明記 ||ハサミジャガー | rowspan="8"|石川巨人 |- ||1973年4月号 ||不明記 ||テレビバエ |- ||1973年5月号 ||かいじんマシンガンスネークのまき ||マシンガンスネーク |- ||1973年6月号 ||かいじんレンズアリのまき ||レンズアリ |- ||1973年7月号 ||かいじんガマボイラーのまき ||ガマボイラー |- ||1973年8月号 ||かいじんドクバリグモのまき ||ドクバリグモ |- ||1973年9月号 ||かいじんゴキブリスパイクのまき ||ゴキブリスパイク |- ||1973年10月号 ||不明記 ||ワナガケクワガタ |- ||1973年11月号 ||不明記 |align="left"|カニレーザー ||すがやみつる |- ||1973年12月号 ||かえんコンドルのまき ||かえんコンドル | rowspan="4"|石川巨人 |- ||1974年1月号 ||カタツブラーのまき ||カタツブラー |- ||1974年2月号 ||かいじんカマクビガメのまき |left"|カマクビガメ |- ||1974年3月号 ||かいじんカメレオンのまき ||カメレオン |- |} オリジナル怪人 イカファイヤージュニア すがやみつるの漫画作品に登場。イカファイヤーの息子で、少年の姿で登場しV3に救われるが、その背後をとり自分ごとイカファイヤーに焼かれる。イカファイヤーがV3により火口に落とされたことで自らも、火口の中へ入っていく。 大巨人G すがやみつるの漫画作品の第7回に登場。「冒険王」1973年9月特大号ふろく「テレビコミック」収録。ドクトルGがニューヨーク・モスクワ・アフリカ・オーストラリアの各支部から怪人を呼び寄せ、それを合体した姿。 『仮面ライダー 1号・2号・V3・ライダーマン総特集』では「合体改造人間」と呼ばれている。 放映終了後の連載 『仮面ライダー』テレビランド掲載版(山田ゴロ) 1978年より徳間書店「テレビランド」誌で『仮面ライダー』から『仮面ライダーストロンガー』までのストーリーが新作漫画として連載された。『仮面ライダー (スカイライダー)』の制作決定に伴い連載されたもので、その後も『スカイライダー』から『仮面ライダーZX』まで連載が続いた。 この連載は後に全9巻の単行本にまとめられているが、第1巻後半からライダーマン編を含む第3巻まで(ライダーマン編も含むと第4巻まで)がV3編となり、大きなウエイトを占めている。また、ライダーマン編は第4巻1冊分のページ数が費やされ、結城丈二の前半生について独自の物語が展開された。病母を抱えた貧しい少年・結城丈二がデストロンに見込まれ、やがて科学者として成功しながらもヨロイ元帥に裏切られライダーマンになるまでの物語が独特のテイストで描かれている。山田はラジオの身の上話コーナーを聴いて発想したと述べている。 『仮面ライダーSPIRITS』・『新仮面ライダーSPIRITS』(村枝賢一) 風見志郎/仮面ライダーV3と結城丈二/ライダーマンが主役のメンバーとして登場。『新仮面ライダーSPIRITS』からは珠純子や珠シゲルなども登場。 ゲーム 発売元は東映ビデオとバンダイナムコゲームス(旧バンダイレーベル、旧バンプレストレーベル)による。 『仮面ライダー作戦ファイル2』 1995年発売。PC用のCD-ROM。Windows、Macintosh両方で発売された。『仮面ライダー』のシミュレーションゲーム、『仮面ライダー作戦ファイル』の続編。本編の映像や画像が盛り込まれた図鑑と、新怪人の製作シミュレーション・ゲームが主な内容。風見志郎の声を宮内洋、大首領の声を納谷悟朗が務めている。 『仮面ライダーV3』 2000年9月18日にプレイステーション用の3D格闘アクションゲームとして発売。製作はKAZe。システムは1998年に発売された格闘ゲーム『仮面ライダー』(以下「前作」)に準じているが、キャラクター数や隠し要素は増えている。 前作の音声は主に以前収録された音声によるライブラリ出演であったが、同作品の音声は一部を除き新規に収録された。 ストーリーモードは、番組の内容に沿ったストーリーの他、ライダーマンが主役の「ライダーマン編」、1号・2号が主役の「仮面ライダー編」もある。特別編は条件を満たさないとプレイできない隠し要素だが、前作のセーブデータが同じメモリーカードにあれば、最初からプレイできる。 『仮面ライダー 正義の系譜』 2003年11月27日にPlayStation 2用のアクションアドベンチャーとして発売。制作はバンプレスト。V3とライダーマンが登場し、V3/風見志郎は宮内が声を担当している。 仮面ライダー クライマックスヒーローズ フォーゼ 2011年12月1日にプレイステーション・ポータブルとWii用のヒーローアクションとして発売。製作はエイティング。クライマックスヒーローズシリーズ第4弾より昭和シリーズと共に参加。V3(ライダーマンはアシスト系のみ)が登場。 コンパチヒーローシリーズ 1990年代から発売されているクロスオーバー作品シリーズ。ゲーム機種はそれぞれの作品による。『ウルトラマン』や『ガンダム』と共に共演。『グレイトバトル』シリーズやスポーツなどの作品に登場する。 オリジナルDVD 『仮面ライダーフォーゼ 超バトルDVD 友情のロケットドリルステイツ』 小学館の幼児向け雑誌「てれびくん」の応募者全員サービスとして制作された、『仮面ライダーフォーゼ』の超バトルDVD(オリジナルDVD)。仮面ライダーV3とライダーマンとデストロン怪人が写真のみ登場。 CS放送・ネット配信 CS放送 東映チャンネル…1999年9月 - 2000年3月、2001年1月 - 5月、2004年8月 - 2005年2月、2010年9月 - 2011年3月、2012年9月 - 2013年3月、2018年1月 - 2001年の放送時のみ「ミッドナイトアンコール」枠にて、他はいずれも「石ノ森章太郎劇場」枠にて放送。 東映特撮 YouTube Official…2011年8月1日 - 2012年1月29日、2014年11月29日 - 2015年5月30日、2019年3月30日 - 9月21日 東映特撮ニコニコおふぃしゃる…2016年1月31日 - 2017年1月22日 パチンコ CRぱちんこ仮面ライダーV3(京楽産業.、2013年) 小説 『S.I.C. HERO SAGA』 「MASKED RIDER V3 & RIDERMAN EDITION -RIDERMAN ANOTHER AFTER-」 本作品の小説作品。 「MASKED RIDER EDITION -仮面ライダー #99-」 『仮面ライダー』の小説作品。『V3』の前日談で、仮面ライダーV3やデストロン怪人が登場。 「MASKED RIDER DEN-O EDITION -1971年4月3日-」 『仮面ライダー電王』の小説作品。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 『仮面ライダーEVE-MASKED RIDER GAIA-』 原作者の漫画作品『仮面ライダー』の続編。仮面ライダーV3とライダーマンが登場。 『KIKAIDER00』 『人造人間キカイダー』から派生した小説作品。V3がゲスト出演。 脚注 注釈 クレジットに関する注釈 参照話数 出典 参考文献 大全集シリーズ(講談社) 『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー』講談社 関連項目 カーフェリー(現:商船三井フェリーの「さんふらわあ」) - 旧:日本高速フェリー時代、当時の東京-宇久井港那智勝浦-高知航路で撮影に使われている。 来島どっく - 撮影が行われた造船会社。 仮面ノリダーV2 - フジテレビ系『とんねるずのみなさんのおかげです』にて放送された、本作品のパロディドラマ。 風見しんご - 芸名の由来は風見志郎から。なお、当初の芸名は「風見慎吾」。 登米市 - 石ノ森章太郎の故郷である登米市中田町石森に新しくできた公園にV3の立像とベルトを模したモニュメント、そして除幕式直後にとった宮内の手形が設置されている。除幕式には宮内のほかに、石森プロと東映の関係者、そして数々の石森特撮番組を手がけた平山亨も参列した。 外部リンク Kamen Rider V3 Home Page ふいすりい テレビ朝日土曜7時30分枠の連続ドラマ 毎日放送の特撮番組 1970年代の特撮作品 1973年のテレビドラマ
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%82%B3%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
バンダイナムコエンターテインメント
株式会社バンダイナムコエンターテインメント()は、バンダイナムコグループのコンシューマーゲームなどのゲームソフトの制作および開発を行う日本の企業。バンダイナムコホールディングスの完全子会社であり、バンダイナムコグループにおける中核企業の一つ。本社は東京都港区。略称はBNEI、バンナム。 旧ナムコを母体としており、2006年3月31日にアミューズメント施設事業を新たに設立した株式会社ナムコ(後の株式会社バンダイナムコアミューズメント)に譲渡し、株式会社バンダイのゲーム部門を統合しバンダイナムコゲームス(→2014年4月1日より)に変更、そして2015年4月1日に現社名に変更した。 略称の「バンナム」は、バンダイナムコエンターテインメント発売のゲーム内にも登場している(一例として「ゲームセンターCX 有野の挑戦状2」内の「課長は名探偵」の「バンナムビル」など)。なお、過去にエンターブレインのゲーム雑誌『ファミ通PLAYSTATION+』内コーナーバンダイナムコスポーツにおいて、「バムコ」の名称が用いられていた。 概要 1955年6月1日に中村雅哉が有限会社中村製作所(なかむらせいさくじょ)を設立。1971年に「」の略としてnamcoブランドの使用を開始し、1977年6月1日には社名もナムコと改めた(当時の英語名は「」)。 2005年6月25日の第50回定時株主総会でナムコとバンダイの経営統合の議案が可決承認され、上場会社としてのナムコは9月29日に幕を下ろし、以降は株式会社バンダイナムコホールディングスの子会社となった。 2006年3月31日、バンダイのゲーム部門を統合し、社名をバンダイナムコゲームス(NAMCO BANDAI Games Inc.)に変更した。バンダイナムコホールディングスにおいてゲーム部門を受け持つ企業としての立場を明確にした。 2008年4月1日、バンプレストのゲーム事業の譲受と共にバンプレストレーベルを新設。 それまではナムコから引き継いだものしかモバイルコンテンツを扱っていなかったが、2009年4月1日にバンダイネットワークスを吸収合併したため、バンダイナムコグループにおけるモバイルコンテンツは完全に自社管轄となった。同日、ナムコ・バンダイ・バンプレストの各レーベルごとの公式サイトと全レーベルの総合サイトの4つに分散していた公式サイトを統合し、「バンダイナムコゲームス公式サイト」としてリニューアルされた。サイト統合後は、全レーベルのタイトルを一貫して掲載しサイトへのレーベル表示も行わなくなった。このため、バンダイとバンプレストの統合前のゲームコンテンツの知的財産権が自社に移行され、それまでのバンダイレーベルのゲームソフトのコマーシャルはバンダイ本体に委託されていたが、それ以降から自社の管轄に移動された。 サイト統合以降もレーベル自体を統合した訳ではなく、パッケージ表面およびゲーム起動時に表示するロゴマークについては、各レーベルのものが使い分けられていた(ゲーム起動時に表示されるロゴマークは、2014年1月現在家庭用ゲームではバンダイナムコゲームスのロゴ、各レーベルのロゴの順。ただし「機動戦士ガンダム 戦場の絆」等の一部アーケード作品ではバンダイナムコゲームスレーベルのみ)。2014年4月1日以降に発売されるソフトについては各レーベル表記を廃し、バンダイナムコゲームスレーベルに完全統合された。 2014年4月1日より英文社名をNAMCO BANDAI Games Inc.からBANDAI NAMCO Games Inc.に変更した。 2015年4月1日に、社名をバンダイナムコゲームスからバンダイナムコエンターテインメント(BANDAI NAMCO Entertainment Inc.)に変更した。 2018年4月1日に、アーケードゲーム事業を同日付でナムコから商号変更したバンダイナムコアミューズメントへ移管し、バンダイナムコエンターテインメントはコンシューマーゲーム、携帯電話コンテンツの開発、販売の開発に専念することになった。 バンダイナムコグループの再編とロゴマークの変更に伴い、2022年4月1日に社名の英文表記とロゴマークが変更された。 沿革 1955年6月1日 - 有限会社中村製作所として創業。横浜の百貨店の屋上に、木馬2台を設置。 1959年 - 株式会社に改組。 1967年 - 大阪事務所(後の関西支社)を開設。 1971年 - namcoブランドの使用を開始。 1974年 - アタリジャパンを買収、アーケードゲームに進出。 1977年6月1日 - 株式会社ナムコに社名変更。 1979年 - 日米ゲームメーカーの関係が、これまではナムコとアタリ、またはミッドウェイ(今のミッドウェイゲームズ)とタイトーが親密だったが、各社の事情により『ギャラクシアン』から『パックマン』までは、ナムコとミッドウェイが親密になる。 1984年 - MSXパソコン用の『パックマン』を皮切りとした家庭用ゲームソフト用レーベルとして「namcot(ナムコット)」をスタートさせる。同年2月には任天堂と提携してファミリーコンピュータにもソフトを供給する。 1986年 - イタリアントマトを買収。 1988年 - 東京証券取引所2部に上場。その後、神奈川県横浜市港北区(現・都筑区)に「横浜未来研究所」を開設(2008年閉鎖)。 1991年 - 東京証券取引所1部に上場した。 1992年 - ナムコ・ワンダーエッグ開園(テーマパーク事業進出)。 1994年 - 神奈川県横浜市神奈川区に「横浜クリエイティブセンター」を開設。 1995年 - 家庭用ゲームのレーベルnamcot廃止。業務用レーベルのnamcoに統合される。NECがWindows 95に対応した3DアクセラレータチップセットのPC用ボードを開発した。ナムコはボードの性能を活かし3DCGゲームソフトをPCへ移植することとなった。 1997年 - 日活に出資、子会社化 1997年 - パチンコ・パチスロの液晶基板と映像ソフトの制作を始める。 2001年 - エニックス、スクウェア、およびセガと業務提携。 2005年9月30日 - バンダイと共同持株会社・バンダイナムコホールディングスを設立し、同社の100%子会社になる。 2006年3月31日 - バンダイの家庭用ゲーム事業を譲受し、株式会社バンダイナムコゲームスに商号変更。アミューズメント施設運営組織・新規事業部門の一部事業部門を新設会社「株式会社ナムコ」(2代)に移管。「ナムコ」の商号を受け継ぐ。 2007年 3月6日 - ソニー・コンピュータエンタテインメントと合弁会社「セリウス」を設立。 5月 - 子会社モノリスソフトの株式80%を任天堂へ譲渡。 6月 - 本社および事業拠点を東京都品川区東品川4-5-15(旧・品川パナソニックビル)に移転。「未来研究所」と命名する(アミューズメント施設運営の〈新〉ナムコは移転せず)。 11月 - 2008年4月1日よりバンプレストのゲーム事業を譲受予定と発表。 2008年 4月1日 - バンプレストを吸収合併しゲーム事業を統合、その際にプライズゲーム用景品部門を母体とした新法人「バンプレスト」を設立。 8月6日 - 2009年4月1日を目処にバンダイネットワークスを統合すると発表。 11月 - 携帯電話コンテンツ事業部署を横浜クリエイティブセンターから本社近隣の品川シーサイドパークタワー(バンダイネットワークスの階上)に移転。 2009年 2月12日 - ディースリーの完全子会社化を目的とした公開買い付けを開始。 3月24日 - ディースリーを完全子会社化。 4月1日 - バンダイネットワークスを吸収合併、同日よりバンダイ・ナムコ・バンプレストの各レーベルおよび総合サイトの4つに分散していた公式サイトを統合、「バンダイナムコゲームス公式サイト」としてリニューアル。石川祝男のバンダイナムコホールディングス社長就任に伴い、鵜之澤伸が社長に就任。 10月1日 - インターネットを利用したオンラインゲームその他ソフトウェア、サービスの企画・開発・運営の子会社として、株式会社バンダイナムコオンラインを設立。 2010年 2月18日 - 制作ユニット毎に売上責任を負わせることを発表。 4月1日 - 統合後初のグループ連結赤字350億円の大半がゲーム部門であったため、鵜之澤が責任を取り副社長に降格。石川が出戻り、バンダイナムコホールディングス社長と兼務する。ディースリーが新ディースリー・パブリッシャーとして再編しバンダイナムコホールディングス傘下に。 2011年 3月14日 - 東北地方太平洋沖地震を受け、バンダイナムコグループとして1億円とグループ社員からの募金を義援金として寄付すると発表。 4月1日 - 子会社のベックとバンプレソフトを統合、新会社名をB.B.スタジオとする。 DeNAの共同出資の「BDNA」(後にBNDeNA)を設立する。 2012年 1月1日 - ナムコ・テイルズスタジオを吸収合併。 2月29日 - セリウスを解散。 4月2日 - 開発部門(約1000人)を新会社「バンダイナムコスタジオ」に分社。 2014年 3月31日 - BNDeNAを解散。 4月1日 - 英文社名を「」から「」に変更。 2015年4月1日 - 株式会社バンダイナムコエンターテインメントに商号変更。 2016年 2月2日 - 本社を東京都港区芝5丁目37-8(バンダイナムコ未来研究所〈住友不動産三田ビル〉)へ移転。 2月29日 - 関西支社を閉鎖。関西支社で行っていた業務は同年3月1日付で本社やテクニカルセンターへ移管。 10月17日 - テクニカルセンターを東京都品川区勝島から神奈川県横浜市神奈川区へ移転。 2017年 1月22日 - 中村雅哉(バンダイナムコエンターテインメント名誉相談役)が死去。満91歳没。 4月3日 - テクニカルセンターを新会社「バンダイナムコテクニカ」に分社。 7月14日 - 国内最大級となるVR体感施設『VR ZONE SHINJUKU』を新宿にオープン。 8月3日 - ドリコムとの共同出資の新会社である「BXD」を設立。 2018年 2月9日 - セガ・インタラクティブ、コナミアミューズメントとの間で、アーケードゲーム用ICカードの仕様統一に合意。 4月1日 - アミューズメント機器事業部門を分割しナムコ(同日付でバンダイナムコアミューズメントに商号変更)に承継。 10月1日 - ゲームアプリなどネットワークサービス運営機能を分社し、「バンダイナムコネットワークサービス」を設立。 2019年 4月1日 - 遊技機関連事業を「バンダイナムコセブンズ」へ分社。 8月27日 - B.LEAGUEチーム「島根スサノオマジック」を運営する山陰スポーツネットワークの株式56.5%を取得し子会社化。 2020年 3月31日 - ドリコムよりBXDの全株式を譲受し同社を完全子会社とする。 6月25日 - 電通グループと協業し、インディーゲームパブリッシング事業やクリエイターマネジメント事業を行うPhoenixxと資本業務提携契約を締結する。 2022年 7月1日 - ILCAと共同でハイエンドゲームの企画・開発・運営を行う新会社「バンダイナムコエイセス」を設立。 旧ナムコのキャッチコピー 「オモいカルチャーをオモチャーと言う」 「自宅で遊べるナムコット」 上記2つは最初期のCMで、1984-85年頃のパックマン、ゼビウス等といったファミコンソフト発売時に放映されたもの。CM曲には細野晴臣の「Non Standard Mixture」の一部が使われており、細野自身もCMに出演していた。 「クーソーは、頭のコヤシです」 「クーソーしてから、寝てください」 「遊びをクリエイトするナムコ」 最後のキャッチコピー「遊びをクリエイトするナムコ」は、以後もナムコブランドのゲームのパッケージのロゴ付近にあしらわれ、2014年のBNGIへのブランド統合まで長く親しまれた。 「2001年の大人(クリエイター)達へ」 「集まれ前科者」、「大学8年生に届いた採用通知」、「『C』が多くてもいいじゃないか」、「■肉■食は、弱肉強食か、焼肉定食か」(求職者向け会社案内より) ゲームタイトル バンダイ・ナムコ・バンプレストのゲーム部門を統合する前から各社でゲームソフトの開発が続けられていたため、2006年から2009年3月までは旧バンダイ・旧ナムコ・旧バンプレストのロゴをそれぞれバンダイレーベル、ナムコレーベル、バンプレストレーベルと称し、便宜的な名義(ブランド名)として使用していた。(アーケードゲームにおいては、2014年3月までナムコレーベル、およびバンダイナムコゲームスレーベルの二つが使用されていた)。公式サイトへのレーベル表示を廃止した、2009年4月以降も2013年までパッケージ表面・ゲームソフト起動時に表示するロゴマークについては、前述の戦場の絆等一部アーケード作品を除き、各レーベルのものを引き続き使い分けていたが、2014年以降は一部を除き家庭用作品も、バンダイナムコゲームスレーベル→2015年の社名変更以降はバンダイナムコエンターテインメントレーベルのみが用いられるようになった。 レーベルの変更 一部のゲームは、移植版や続編が登場する際、レーベルが変更される場合がある。以下がその一例である。 『ゲームセンターCX 有野の挑戦状』(ナムコレーベル):続編『ゲームセンターCX 有野の挑戦状2』よりバンダイレーベルへ移行 『機動戦士ガンダム vs.シリーズ』(アーケードゲーム、旧バンプレスト・バンプレストレーベル、エクストリームバーサス以降はバンダイナムコゲームスレーベル):家庭用版はバンダイレーベルで発売 『機動戦士ガンダム 戦場の絆』(アーケードゲーム、旧バンプレスト、Rev2.0よりバンダイナムコゲームスレーベル):PSP版はバンダイレーベルで発売 『魔法少女リリカルなのはA's PORTABLE -THE BATTLE OF ACES-』(ナムコレーベル):続編『魔法少女リリカルなのはA's PORTABLE -THE GEARS OF DESTINY-』はバンプレストレーベルに変更 『魔法少女まどか☆マギカ ポータブル』(バンプレストレーベル):『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ The Battle Pentagram』はナムコレーベルに変更 出身者 岩谷徹(東京工芸大学芸術学部ゲーム学科教授) 遠藤雅伸(東京工芸大学芸術学部ゲーム学科教授、株式会社ゲームスタジオ相談役) 中潟憲雄(有限会社デジフロイド代表取締役) 細江慎治(株式会社スーパースィープ代表取締役) 佐宗綾子(株式会社スーパースィープ取締役) 大久保良一(株式会社トムキャットシステム代表取締役) 高橋由紀夫(株式会社トムキャットシステム取締役) 鈴木宏治(株式会社ノイズ代表取締役) 岩崎拓矢(株式会社ILCA代表取締役) 関連会社 バンダイナムコグループ バンダイナムコホールディングス バンダイナムコスタジオ バンダイナムコテクニカ バンダイ ナムコ・テイルズスタジオ BANDAI SPIRITS B.B.スタジオ ベック バンダイナムコアミューズメント ロケットスタジオ バンダイナムコ島根スサノオマジック 著作権表記 経営統合後の同社の各ゲーム作品の著作権表記は「©NBGI」(家庭用ゲーム機)または「©NAMCO BANDAI Games Inc.」(アーケードゲーム機)に統一されていた。また、2011年以降の旧ナムコレーベルの一部のゲームソフトでは、「©NAMCO BANDAI Games Inc.」が用いられることがあった(旧バンダイレーベル、旧バンプレストレーベルは引き続き「©NBGI」のまま用いられた)。2014年4月に社名表記が変更されてから「バンダイナムコエンターテインメント」に社名変更する前までは家庭用・アーケードを問わず「©BANDAI NAMCO Games Inc.」が用いられるようになり、「©BNGI」の方は省略形にとどまっている。 ただし、全ての『ガンダムシリーズ』系のゲーム作品には存在しない(『ガンダム』以外のサンライズ及びバンダイナムコピクチャーズ制作のゲーム作品を除く)。これは『コンパチヒーローシリーズ』、『スーパーロボット大戦シリーズ』、『Another Century's Episode』シリーズも同様であり、また、『IVY THE KIWI?』や3DS版『テトリス』、ディズニーのゲーム作品にも同様である。 その他 同社が経営統合後の2008年4月以前は提供クレジットでは「バンダイ」と「ナムコ」であり、後者のレーベルのみ「バンダイナムコゲームス」の提供クレジットを使用することがあった。同年4月以降「バンプレスト」から移管され、正式に全てのレーベルで「バンダイナムコゲームス」の提供クレジットが表示されるようになった。なお、2009年3月まではバンダイナムコゲームスのロゴをCMで使用するのはごく稀であり、通常はバンダイ・ナムコ・バンプレストの各社のロゴで表示されていたが、同年4月以降はサイト統合により、前述の戦場の絆等一部のアーケード作品ではバンダイナムコゲームスレーベルを使用している。また、作品に対する登録商標または商標のマーク表示は、旧ナムコが1990年代から行うようになった。 合併以降レーベル統合後の2014年現在においても、旧ナムコおよびナムコレーベルの流れを汲むオリジナルタイトルにのみ慣例的に行われている。ただ、任天堂製ハード向けの作品に対してのみ、パッケージ裏面に「Produced by 株式会社バンダイナムコゲームス」とメーカー名が記載されているにもかかわらず、表面の下部に「発売元:株式会社バンダイナムコゲームス」と二重に記載している。また、Amazon.co.jpにおけるメーカー名表記は、2010年半ばまでは当該レーベル毎であったが、同年以降バンダイナムコゲームスで統一された。 2007年から2016年2月1日まで入居していた旧本社ビルの元になった旧品川パナソニックビルは、1992年に松下電器産業によって建設されたもので、周辺にビルの日陰を作らないように配慮された結果、台形の外観となった。2006年3月に地元の不動産業者に売却された。旧本社ビルは旧本社における営業最終日当日から解体工事が開始され、跡地にはマンションが建設される予定となっている。 サウンドロゴ 2014年になって、TVCMの最後にサウンドロゴを導入した。内容は白バックで画面中央にメーカーロゴを表示し、「バンダイナムコ」というナレーションが入る。このナレーションの担当は通常のものでは声優の高橋信だが、CMによってはそのゲームの登場キャラクターが担当するものも多い。2022年3月まではこのパターンを使用し、2022年4月のコーポレートロゴの変更からサウンドロゴも変更になった。複数の色の枠が中央に集まって「バンダイナムコ♪」とも聞こえる5つの単音と共に新しいバンダイナムコグループのロゴを形成する。サウンドはバンダイナムコスタジオのサウンドチームが手がけ、当社以外のバンダイナムコを社名に冠するグループ会社の商品・サービス関連のプロモーション映像やCMでも使用する。 新規開発事業 Kid'sきずな事業 - 絵本『みのりちゃんのすてきなおうち』の出版と『きずなstyle』の運営。 ハッスル倶楽部 - アーケードゲームをベースとしたリハビリテーション機器の開発・販売。(旧)ナムコの新規開発事業として開始され、2006年のNBGI設立時に一旦ナムコ(2代)へ移管されたが、2009年に再譲受したものの、2013年3月に撤退(修理などのサポートは継続)。「トーキングエイド」シリーズはバンダイナムコの元社員が設立した株式会社ユープラスが継承。 脚注 注釈 出典 関連項目 バンダイナムコエンターテインメントフェスティバル ラジオはアメリカン - かってスポンサーをしていたラジオ番組 超次元タイムボンバー - 筆頭提供テレビ番組で、最終アトラクション以外は全て当社の放送当時で最新のアーケードゲームを使用していた。 NG (ゲーム情報誌) Side-BN 大トロ倶楽部 - ファミコン通信で連載されていた片山まさゆきの漫画。バンダイとナムコの社名を合わせて作られた番台菜夢子(ばんだい なむこ)というキャラクターが登場する。同漫画が復刻連載された際のキャラクター紹介で「作者が合併を予期していたかのような名前」と書かれていた。 同社出身者によって設立された会社 現在 ゲームスタジオ - 出身の遠藤雅伸、大野木宣幸、黒須一雄が設立。旧社は2015年に解散。 ノイズ - ディレクターを務めた鈴木宏治(見城こうじ)が設立。 スタジオカルナバル - 音楽を務めた相原隆行がアリカを経て設立。 スーパースィープ - 音楽を務めた細江慎治、佐宗綾子がアリカを経て設立。 デジフロイド - シナリオ、音楽を務めた中潟憲雄がKAZeを経て設立。 モナカ(MONACA) - 音楽を務めた岡部啓一がフリーランスを経て設立。 ビットスター - 出身の佐々木建仁がセガを経て庄司久美子と共に設立。 スタジオアールエフ - 出身のロマのフ比嘉がフリーランスを経て設立。 DETUNE - 音楽を務めた佐野信義がキャビアを経て設立。 イルカ(ILCA) - プランナー、ディレクターを務めた岩崎拓矢がキャビアを経て設立。 ブッコロ - 出身の横尾太郎がソニー・コンピュータエンタテインメント、キャビア、フリーランスを経て設立。 過去 トムキャットシステム - 出身の大久保良一が設立。2017年解散。 外部リンク バンダイナムコエンターテインメント 日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド 東京都港区の企業 1955年設立の企業 1988年上場の企業 芝 (東京都港区) 株式会社
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E9%BE%8D%E4%B9%8B%E4%BB%8B%E8%B3%9E
芥川龍之介賞
芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称は、芸術性を踏まえた一篇の短編あるいは中編作品に与えられる文学賞である。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。掌編小説には授与されたことがない。 概要 大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞(直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には、正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される。 現在の選考委員は、小川洋子・奥泉光・川上弘美・島田雅彦・平野啓一郎・堀江敏幸・松浦寿輝・山田詠美・吉田修一の9名(2020年上半期から)。選考会は、料亭『新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その翌月の授賞式は、長く東京會舘で行われていたが、同館の建て替えに伴い、現在は帝国ホテルで行われている。 成立 1934年、菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した直木三十五、1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。 設立当時から正賞(賞牌)として記念時計が贈られるとされており、副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成、佐藤春夫、山本有三、瀧井孝作ら11名があたることになった。 芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている。1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており、1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年の石原慎太郎「太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健、1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。 選考過程 上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ計12~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。 最終候補作が決定した時点で候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に築地の料亭・新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。 選考基準 「新人」の基準 芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新人作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に野間宏、中村真一郎、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳 、三島由紀夫ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが1949年の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることさえなかった。また島木健作や田宮虎彦、金達寿、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしばあった。第23回(1950年上半期)に田宮が候補となったとき、坂口安吾は「芥川賞復活の時に、三島君まではすでに既成作家と認めて授賞しない、というのが既定の方針であったが、田宮君が授賞するとなると、三島君はむろんのこと、梅崎君でも武田君でも(中略)かく云う私も、候補に入れてもらわなければならない」と述べて反対している。他方、第5回(1937年上半期)に受賞した尾崎一雄は受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている。第38回(1957年下半期)に開高健と競って僅差で落選した大江健三郎はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回(1958年上半期)でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにも関わらず新人といえるかどうかが議論の的となった。現在では、芥川賞は原稿用紙300枚以内の小説という括り以外では、説明のできない賞になってきている。 作品の長さ 芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年上半期)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった。第50回(1963年下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している。また国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞はおろか直木賞すら受賞していないが村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、英語ほかに翻訳されて読まれることを想定した世界文学に移行したことが理由の一つに挙げられる。現在、芥川賞受賞作品が他国民のために翻訳されて読まれることは、決して多くはない。 なお「作品の短さ」は本になったときに読みやすくまた値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている。300枚未満で連作ではないもの、何らかの雑誌で掲載済みのものならノミネートの対象になる。 直木賞との境界 純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木三十五賞(直木賞)との境界があいまいになることがしばしばある。第6回(1937年下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている。のちに社会派推理作家として一般に認知された松本清張は、「或る『小倉日記』伝」で1952年下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった。第46回(1961年下半期)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている。同様の事態は第111回(1998年上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。 芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄、柴田錬三郎、山田詠美、角田光代、島本理生などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。 批判 賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりと商業的な性格があることを認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため1937年に財団法人日本文学振興会を創設し両賞をまかなわせるようになったが同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。 文学賞に対する批判本『文学賞メッタ斬り!』を著した大森望、豊崎由美は現在の芥川賞の問題点として選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることなどを挙げている。また豊崎は改善策として選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の3分の1は文芸評論家にするなどの案を示している。 最年少・最年長受賞記録 特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。 21世紀に発表されたベストセラーから 綿矢りさ 『蹴りたい背中』(第130回・2003年下半期) 127万部(単行本のみ) 綿矢は17歳のときに『インストール』でデビュー、芥川賞受賞時は19歳で20歳の金原ひとみと同時受賞し最年少記録を大幅に更新、単行本は『限りなく透明に近いブルー』以来28年ぶりのミリオンセラーとなった。受賞作は周囲に溶け込めない女子高生とアイドルおたくの男子生徒との交流を描いたもので、唯一反対した三浦哲郎を除く選考委員の票をすべて集め受賞が決定。「高校における異物排除のメカニズムを正確に書く技倆に感心した」(池澤夏樹)、「作者は作者の周辺に流行しているだろうコミック的観念遊びに足をとられず、小説のカタチで新しさを主張する愚にも陥らず、あくまで人間と人間関係を描こうとしている」(高樹のぶ子)と各選考委員から高評価を受けた。綿矢の受賞と前後してこの時期10 - 20代前半の作家のデビューが相次ぎ、若年層の活躍を印象付けた。 又吉直樹 『火花』(第153回・2015年上半期) 229万部(単行本のみ) 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」と同時受賞。売れない芸人の主人公と天才肌の先輩芸人との交友を描いた作品。お笑い芸人では初の受賞。単行本の累計発行部数は229万部を突破し、芥川賞受賞作品として歴代1位の単行本部数となる。 村田沙耶香 『コンビニ人間』(第155回・2016年上半期) 102万部(単行本のみ) 2016年の発売から年内に50万部を超えてからもじわじわと売れ続け、2年を経て100万部に到達した。 太宰治の落選について 第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について、「例へば、佐藤春夫氏は『逆行』よりも『道化の華』によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた」と言ったことに対し、太宰は『文藝通信』において以下のように反論した。 この批判に対し川端も翌月に、「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁して、石川達三の『蒼氓』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし、「さう分れば、私が〈世間〉や〈金銭関係〉のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう」と述べているが、プライベートに関して人格攻撃をしたこと自体は後に謝罪した。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出したり、選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった。川端はこの規定決定時に欠席しており、「この二つの条件には、多少問題がある」としている。佐藤はこれらの経緯を『小説 芥川賞』と題して詳しく描いている。また、このとき太宰は『新潮』の誌面で、あたかも佐藤との間で受賞の密約を交わしていたかのようなアピールをしているが、佐藤には即座に否定されている。 受賞者一覧 1930年代 第1回(1935年上半期) - 石川達三「蒼氓」 第2回(1935年下半期) - 該当作品なし(二・二六事件のため審査中止) 第3回(1936年上半期) - 小田嶽夫「城外」、鶴田知也「コシャマイン記」 第4回(1936年下半期) - 石川淳「普賢」、冨澤有爲男「地中海」 第5回(1937年上半期) - 尾崎一雄「暢気眼鏡」他 第6回(1937年下半期) - 火野葦平「糞尿譚」 第7回(1938年上半期) - 中山義秀「厚物咲」 第8回(1938年下半期) - 中里恒子「乗合馬車」他 第9回(1939年上半期) - 半田義之「鶏騒動」、長谷健「あさくさの子供」 第10回(1939年下半期) - 寒川光太郎「密獵者」 1940年代 第11回(1940年上半期) - 高木卓「歌と門の盾」(受賞辞退) 第12回(1940年下半期) - 櫻田常久「平賀源内」 第13回(1941年上半期) - 多田裕計「長江デルタ」 第14回(1941年下半期) - 芝木好子「青果の市」 第15回(1942年上半期) - 該当作品なし 第16回(1942年下半期) - 倉光俊夫「連絡員」 第17回(1943年上半期) - 石塚喜久三「纏足の頃」 第18回(1943年下半期) - 東野邊薫「和紙」 第19回(1944年上半期) - 八木義徳「劉廣福」、小尾十三「登攀」 第20回(1944年下半期) - 清水基吉「雁立」 (第二次世界大戦のため中断) 第21回(1949年上半期) - 由起しげ子「本の話」、小谷剛「確証」 第22回(1949年下半期) - 井上靖「闘牛」 1950年代 第23回(1950年上半期) - 辻亮一「異邦人」 第24回(1950年下半期) - 該当作品なし 第25回(1951年上半期) - 安部公房「壁 S・カルマ氏の犯罪」、石川利光「春の草」他 第26回(1951年下半期) - 堀田善衛「広場の孤独」「漢奸」その他 第27回(1952年上半期) - 該当作品なし 第28回(1952年下半期) - 五味康祐「喪神」、松本清張「或る『小倉日記』伝」 第29回(1953年上半期) - 安岡章太郎「悪い仲間・陰気な愉しみ」 第30回(1953年下半期) - 該当作品なし 第31回(1954年上半期) - 吉行淳之介「驟雨」その他 第32回(1954年下半期) - 小島信夫「アメリカン・スクール」、庄野潤三「プールサイド小景」 第33回(1955年上半期) - 遠藤周作「白い人」 第34回(1955年下半期) - 石原慎太郎「太陽の季節」 第35回(1956年上半期) - 近藤啓太郎「海人舟」 第36回(1956年下半期) - 該当作品なし 第37回(1957年上半期) - 菊村到「硫黄島」 第38回(1957年下半期) - 開高健「裸の王様」 第39回(1958年上半期) - 大江健三郎「飼育」 第40回(1958年下半期) - 該当作品なし 第41回(1959年上半期) - 斯波四郎「山塔」 第42回(1959年下半期) - 該当作品なし 1960年代 第43回(1960年上半期) - 北杜夫「夜と霧の隅で」 第44回(1960年下半期) - 三浦哲郎「忍ぶ川」 第45回(1961年上半期) - 該当作品なし 第46回(1961年下半期) - 宇能鴻一郎「鯨神」 第47回(1962年上半期) - 川村晃「美談の出発」 第48回(1962年下半期) - 該当作品なし 第49回(1963年上半期) - 後藤紀一「少年の橋」、河野多惠子「蟹」 第50回(1963年下半期) - 田辺聖子「感傷旅行 センチメンタル・ジャーニィ」 第51回(1964年上半期) - 柴田翔「されどわれらが日々──」 第52回(1964年下半期) - 該当作品なし 第53回(1965年上半期) - 津村節子「玩具」 第54回(1965年下半期) - 高井有一「北の河」 第55回(1966年上半期) - 該当作品なし 第56回(1966年下半期) - 丸山健二「夏の流れ」 第57回(1967年上半期) - 大城立裕「カクテル・パーティー」 第58回(1967年下半期) - 柏原兵三「徳山道助の帰郷」 第59回(1968年上半期) - 丸谷才一「年の残り」、大庭みな子「三匹の蟹」 第60回(1968年下半期) - 該当作品なし 第61回(1969年上半期) - 庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」、田久保英夫「深い河」 第62回(1969年下半期) - 清岡卓行「アカシヤの大連」 1970年代 第63回(1970年上半期) - 吉田知子「無明長夜」、古山高麗雄「プレオー8の夜明け」 第64回(1970年下半期) - 古井由吉「杳子」 第65回(1971年上半期) - 該当作品なし 第66回(1971年下半期) - 李恢成「砧をうつ女」、東峰夫「オキナワの少年」 第67回(1972年上半期) - 畑山博「いつか汽笛を鳴らして」、宮原昭夫「誰かが触った」 第68回(1972年下半期) - 山本道子 「ベティさんの庭」、郷静子「れくいえむ」 第69回(1973年上半期) - 三木卓「鶸」 第70回(1973年下半期) - 野呂邦暢「草のつるぎ」、森敦「月山」 第71回(1974年上半期) - 該当作品なし 第72回(1974年下半期) - 日野啓三「あの夕陽」、阪田寛夫「土の器」 第73回(1975年上半期) - 林京子「祭りの場」 第74回(1975年下半期) - 中上健次「岬」、岡松和夫「志賀島」 第75回(1976年上半期) - 村上龍「限りなく透明に近いブルー」 第76回(1976年下半期) - 該当作品なし 第77回(1977年上半期) - 三田誠広「僕って何」、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」 第78回(1977年下半期) - 宮本輝「螢川」、高城修三 「榧の木祭り」 第79回(1978年上半期) - 高橋揆一郎「伸予」、高橋三千綱「九月の空」 第80回(1978年下半期) - 該当作品なし 第81回(1979年上半期) - 重兼芳子「やまあいの煙」、青野聰「愚者の夜」 第82回(1979年下半期) - 森禮子「モッキングバードのいる町」 1980年代 第83回(1980年上半期) - 該当作品なし 第84回(1980年下半期) - 尾辻克彦「父が消えた」 第85回(1981年上半期) - 吉行理恵「小さな貴婦人」 第86回(1981年下半期) - 該当作品なし 第87回(1982年上半期) - 該当作品なし 第88回(1982年下半期) - 加藤幸子 「夢の壁」、唐十郎「佐川君からの手紙」 第89回(1983年上半期) - 該当作品なし 第90回(1983年下半期) - 笠原淳「杢二の世界」、高樹のぶ子「光抱く友よ」 第91回(1984年上半期) - 該当作品なし 第92回(1984年下半期) - 木崎さと子「青桐」 第93回(1985年上半期) - 該当作品なし 第94回(1985年下半期) - 米谷ふみ子「過越しの祭」 第95回(1986年上半期) - 該当作品なし 第96回(1986年下半期) - 該当作品なし 第97回(1987年上半期) - 村田喜代子「鍋の中」 第98回(1987年下半期) - 池澤夏樹「スティル・ライフ」、三浦清宏「長男の出家」 第99回(1988年上半期) - 新井満 「尋ね人の時間」 第100回(1988年下半期) - 南木佳士「ダイヤモンドダスト」、李良枝「由煕」 第101回(1989年上半期) - 該当作品なし 第102回(1989年下半期) - 大岡玲「表層生活」、瀧澤美恵子「ネコババのいる町で」 1990年代 第103回(1990年上半期) - 辻原登「村の名前」 第104回(1990年下半期) - 小川洋子「妊娠カレンダー」 第105回(1991年上半期) - 辺見庸「自動起床装置」、荻野アンナ「背負い水」 第106回(1991年下半期) - 松村栄子「至高聖所アバトーン」 第107回(1992年上半期) - 藤原智美「運転士」 第108回(1992年下半期) - 多和田葉子「犬婿入り」 第109回(1993年上半期) - 吉目木晴彦「寂寥郊野」 第110回(1993年下半期) - 奥泉光「石の来歴」 第111回(1994年上半期) - 室井光広「おどるでく」、笙野頼子「タイムスリップ・コンビナート」 第112回(1994年下半期) - 該当作品なし 第113回(1995年上半期) - 保坂和志「この人の閾」 第114回(1995年下半期) - 又吉栄喜「豚の報い」 第115回(1996年上半期) - 川上弘美「蛇を踏む」 第116回(1996年下半期) - 辻仁成「海峡の光」、柳美里「家族シネマ」 第117回(1997年上半期) - 目取真俊「水滴」 第118回(1997年下半期) - 該当作品なし 第119回(1998年上半期) - 花村萬月「ゲルマニウムの夜」、藤沢周「ブエノスアイレス午前零時」 第120回(1998年下半期) - 平野啓一郎「日蝕」 第121回(1999年上半期) - 該当作品なし 第122回(1999年下半期) - 玄月「蔭の棲みか」、藤野千夜「夏の約束」 2000年代 第123回(2000年上半期) - 町田康「きれぎれ」、松浦寿輝「花腐し」 第124回(2000年下半期) - 青来有一「聖水」、堀江敏幸「熊の敷石」 第125回(2001年上半期) - 玄侑宗久「中陰の花」 第126回(2001年下半期) - 長嶋有「猛スピードで母は」 第127回(2002年上半期) - 吉田修一「パーク・ライフ」 第128回(2002年下半期) - 大道珠貴「しょっぱいドライブ」 第129回(2003年上半期) - 吉村萬壱「ハリガネムシ」 第130回(2003年下半期) - 金原ひとみ「蛇にピアス」、綿矢りさ「蹴りたい背中」(最年少受賞) 第131回(2004年上半期) - モブ・ノリオ「介護入門」 第132回(2004年下半期) - 阿部和重「グランド・フィナーレ」 第133回(2005年上半期) - 中村文則「土の中の子供」 第134回(2005年下半期) - 絲山秋子「沖で待つ」 第135回(2006年上半期) - 伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」 第136回(2006年下半期) - 青山七恵「ひとり日和」 第137回(2007年上半期) - 諏訪哲史「アサッテの人」 第138回(2007年下半期) - 川上未映子「乳と卵」 第139回(2008年上半期) - 楊逸「時が滲む朝」 第140回(2008年下半期) - 津村記久子「ポトスライムの舟」 第141回(2009年上半期) - 磯崎憲一郎「終の住処」 第142回(2009年下半期) - 該当作品なし 2010年代 第143回(2010年上半期) - 赤染晶子「乙女の密告」 第144回(2010年下半期) - 朝吹真理子「きことわ」、西村賢太「苦役列車」 第145回(2011年上半期) - 該当作品なし 第146回(2011年下半期)- 円城塔「道化師の蝶」、田中慎弥「共喰い」 第147回(2012年上半期)- 鹿島田真希「冥土めぐり」 第148回(2012年下半期)- 黒田夏子「abさんご」 第149回(2013年上半期)- 藤野可織「爪と目」 第150回(2013年下半期)- 小山田浩子「穴」 第151回(2014年上半期)- 柴崎友香「春の庭」 第152回(2014年下半期)- 小野正嗣「九年前の祈り」 第153回(2015年上半期)- 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」、又吉直樹「火花」 第154回(2015年下半期)- 滝口悠生「死んでいない者」、本谷有希子「異類婚姻譚」 第155回(2016年上半期)- 村田沙耶香「コンビニ人間」 第156回(2016年下半期)- 山下澄人「しんせかい」 第157回(2017年上半期)- 沼田真佑「影裏」 第158回(2017年下半期)- 石井遊佳「百年泥」、若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」 第159回(2018年上半期)- 高橋弘希「送り火」 第160回(2018年下半期)- 上田岳弘「ニムロッド」、町屋良平「1R1分34秒」 第161回(2019年上半期)- 今村夏子「むらさきのスカートの女」 第162回(2019年下半期)- 古川真人「背高泡立草」 2020年代 第163回(2020年上半期)- 高山羽根子「首里の馬」、遠野遥「破局」 第164回(2020年下半期)- 宇佐見りん「推し、燃ゆ」 第165回(2021年上半期)- 石沢麻依「貝に続く場所にて」、李琴峰「彼岸花が咲く島」 第166回(2021年下半期)- 砂川文次「ブラックボックス」 第167回(2022年上半期)- 高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」 歴代選考委員 各回ごとの出席状況などは別項芥川賞の受賞者一覧を参照。 参考文献 選評は『芥川賞全集』に収録されている。 永井龍男ほか『芥川賞の研究』みき書房、1979年 永井龍男『回想の芥川・直木賞』文藝春秋、1979年 川口則弘『芥川賞物語』バジリコ、2013年 文春文庫 2017年 『芥川賞全集』文藝春秋、1982年- 『ダカーポ』2006年7月19日号「特集・芥川賞、直木賞を徹底的に楽しむ」マガジンハウス 大森望、豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』シリーズ、PARCO出版、2004年- 文藝春秋特別編集『芥川賞・直木賞150回全記録』文藝春秋、2014年 脚注 注釈 出典 関連項目 いずれも非公募の純文学新人賞。 野間文芸新人賞(講談社) 三島由紀夫賞(新潮社) 芥川賞になぞらえられる他業界の新人賞。 新人作家の登竜門としての知名度の高さから、小説以外の新人賞で似た性質を持つものが「○○界の芥川賞」と紹介されることがある。有名作家を輩出しているという部分に重きを置かれている呼称であり、公募・非公募の別は重視されていない。 H氏賞(現代詩の芥川賞) 角川短歌賞(短歌界の芥川賞) 角川俳句賞(俳句界の芥川賞) 岸田國士戯曲賞(演劇界の芥川賞) 城戸賞(映画界の芥川賞) 木村伊兵衛写真賞(写真界の芥川賞) 外部リンク 芥川龍之介賞|公益財団法人日本文学振興会 芥川賞受賞者一覧|公益財団法人日本文学振興会 芥川賞のすべて・のようなもの 日本の文学賞 芥川龍之介 菊池寛 人名を冠した文学賞 1935年開始のイベント
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%A8%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%94%E8%B3%9E
直木三十五賞
直木三十五賞(なおきさんじゅうごしょう)は、大衆性を押さえた長編小説作品あるいは短編集に与えられる文学賞である。通称は直木賞。 上半期は前年12月1日~5月31日までに発表された作品が対象。候補作発表は6月中旬、選考会は7月中旬、贈呈式は8月中旬。 下半期は6月1日~11月30日までに発表された作品が対象。候補作発表は12月中旬、選考会は翌年1月中旬、贈呈式は2月中旬。 概要 かつては芥川賞と同じく無名・新人作家に対する賞であったといわれているが、1970年代あたりから中堅作家中心に移行、近年では長老クラスの大ベテランが受賞することも多々ある。(もっとも、直木賞は設定当初ですら新人向けの賞であったとは言い難い面がある。第1回受賞の川口松太郎や第3回受賞の海音寺潮五郎からして既に新人とは言うには無理があったし、戦後第一回目である第21回受賞の富田常雄は『姿三四郎』発表後の受賞であり、既に文壇長者番付上位の人気作家であった。その他にも、候補者・受賞者の中には新人とは言い難い人物が少なくない) 沿革 文藝春秋社社長の菊池寛が友人の直木三十五を記念して1935年に芥川龍之介賞(芥川賞)とともに創設し、以降年2回発表される。 授賞する作品は選考委員の合議によって決定される。第6回から、財団法人日本文学振興会により運営されている。第二次世界大戦中の1945年に紙の不足による出版点数の減少から一時中断したが、1949年に復活した。 2019年現在の選考委員は、浅田次郎、伊集院静、角田光代、北方謙三、桐野夏生、高村薫、林真理子、三浦しをん、宮部みゆきの9名(2020年上半期から)。選考会は、料亭・新喜楽の2階で行われる(芥川賞選考会は1階)。芥川賞と直木賞の受賞者記者会見とその翌月の授賞式は、ともに東京會舘で行われてきたが、同館の建て替えにともない現在は帝国ホテルで行われている。 受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円が贈呈され、受賞作はオール讀物に掲載される。なお、複数の受賞者がいる場合でもそれぞれに賞品と100万円の賞金が贈呈され、分割授与にはならない。一方、受賞該当作なしとなった場合は次回受賞分に賞金を繰り越すキャリーオーバーは行われない。 傾向 発足当初の対象は新人による大衆小説であり、芥川賞とは密接不可分の関係にある。また、運営者である日本文学振興会の事務所が社内に置かれている文藝春秋から刊行、あるいは同社の雑誌に掲載された小説に対して多く授賞している傾向があり、文藝春秋とも事実上不可分の関係となっている。 創設時、選考の対象は「無名若しくは新進作家の大衆文芸」(直木賞規定)であったが、戦後になり回を重ねるごとに芥川賞と比べて若手新人が受賞しにくい傾向となった。これは1つには各回の選評にしばしばあるように大衆文学を対象とする賞の性質上、受賞後作家として一本立ちするだけの筆力があるかどうかを選考委員が重視したためであり、背景には「大衆小説は作品を売ることで作家として生計を立ててゆく必要がある」という考え方があったものと推測される。また創設時にはまだ新進のジャンルであった大衆文学の分野における実質唯一の新人賞であった直木賞が、戦後多くの出版社によって後発の大衆文学の賞が創設されていく中にあって、当該分野の中でもっとも長い歴史と権威を持つ、大衆文学の進むべき方向を明らかにする重要な賞として位置づけられるようになったこととも関係があるだろう。 現在ではこのような状態が長く続いたため選考基準に中堅作家という一項が新たに加えられ、実質的には既に一定のキャリアを持つ人気実力派作家のための賞という設定となり、直木賞が当初に持たされていた「文学界の有望新人を発掘する」という機能はおのずから他の新人賞に振られることとなった。結果としてすでに中堅・ベテランの著名作家として名を成している人物に対していわゆる「遅すぎたノミネート」「遅すぎた受賞」を行うケースが多く、さらに既に人気作家となっている者にあっては選考(候補)を辞退する事例も起きておりこの点で文芸界・各種マスコミの内外で数多くの議論が巻き起こってきたことも事実である。 選考対象の「大衆小説」にまつわる問題としては、推理小説を主たる活動分野とする作家が受賞しにくい傾向が長く続いた点がある。受賞したのは多岐川恭の『落ちる』(第40回)、生島治郎『追いつめる』(第57回)、中村正䡄『元首の謀叛』(第84回)くらいで、笹沢左保、真保裕一、貫井徳郎、湊かなえは4度、北方謙三、志水辰夫、西村寿行は3度候補となりながら受賞に至らず、赤川次郎、小杉健治、折原一、島田荘司、福井晴敏ら推理作家として大成した作家も届かず、三好徹、陳舜臣、結城昌治、連城三紀彦、皆川博子らも非ミステリー分野の作品で受賞していた。しかし逢坂剛が『カディスの赤い星』で受賞(第96回)して以後は認められるようになり、笹倉明(第101回)、原尞(第102回)、髙村薫(第109回)、大沢在昌(第110回)、小池真理子、藤原伊織(第114回)、乃南アサ(第115回)、宮部みゆき(第120回)とコンスタントに受賞者が出た1989年から1999年は「ミステリーの隆盛」とも呼ばれる。北方、髙村、宮部は桐野夏生(第121回)、東野圭吾(第134回)と共に選考委員を務めることになり、第150回現在で選考委員9人のうち5人がミステリー畑出身者で占められた(東野圭吾は161回を最後に選考委員を退任し、後任には角田光代が就任した)。 同様に大衆小説内でも発展期以降の歴史が比較的浅いSFやファンタジーなども選考段階では幾度か俎上に上げられてはいるが、実際の受賞事例は景山民夫『遠い海から来たCOO』(第99回)が唯一である(半村良はSF小説で2回候補になった後、人情小説で受賞している)。昭和末期に勃興したライトノベルのレーベルから刊行された作品の中にも広義にいえば若年層向けの大衆文学ともいえる要素を内含している作品が一部見られるが、日本文学振興会と密接な関係にある文藝春秋がこのジャンルに対するノウハウを持ち合わせていないためか、ほぼ目が向けられていないに等しい(ライトノベル出身の受賞作家としては桜庭一樹がいるが、受賞作は一般文芸誌に掲載された作品であった)。この様に現在でも空想性が極端に高いSF・ファンタジー等のジャンルに対する評価が総じて低いのも直木賞選考の特徴である。古くより選考委員の席の大半を過去の本賞受賞者が占めていることもあってか、毎回行われる選評での高評価も伝奇小説・時代小説・歴史小説・人情小説などといった多くの受賞者が属する従来型の大衆文学に属する作品に偏りがちで、新規に開拓された後発ジャンルや選考委員たちが専門知識を持たないか興味の薄いジャンルに対してはジャンルそのものへの理解が乏しい、言い換えれば守旧的な選考を行う傾向が根強い一面がある。この様な風潮によって受賞を逃した作家には小松左京・星新一・筒井康隆・広瀬正・万城目学などがおり、中でも不利とされるSFを専門範囲とし三度にわたり落選の憂き目を見た筒井は、後に別冊文藝春秋において、直木賞をもじった「直廾賞」の選考委員たちが皆殺しにされるという、直木賞選考を批判的に風刺した小説『大いなる助走』を発表している。 近年では、大衆文学の延長線上で生み出された音楽小説なるものにも受賞されることがある。 最年少・最年長・最速受賞記録 受賞者一覧 上半期は同年8月に、下半期は翌年2月に授賞式が行われる。 第1 - 10回 第1回(1935年上半期) - 川口松太郎『鶴八鶴次郎』『風流深川唄』『明治一代女』 第2回(1935年下半期) - 鷲尾雨工『吉野朝太平記』他 第3回(1936年上半期) - 海音寺潮五郎『天正女合戦』『武道傳來記』 第4回(1936年下半期) - 木々高太郎『人生の阿呆』 第5回(1937年上半期) - 該当作品なし 第6回(1937年下半期) - 井伏鱒二『ジョン萬次郎漂流記』他 第7回(1938年上半期) - 橘外男『ナリン殿下への回想』 第8回(1938年下半期) - 大池唯雄『兜首』『秋田口の兄弟』 第9回(1939年上半期) - 該当作品なし 第10回(1939年下半期) - 該当作品なし 第11 - 20回 第11回(1940年上半期) - 堤千代『小指』他、河内仙介『軍事郵便』 第12回(1940年下半期) - 村上元三『上総風土記』他 第13回(1941年上半期) - 木村荘十『雲南守備兵』 第14回(1941年下半期) - 該当作品なし 第15回(1942年上半期) - 該当作品なし 第16回(1942年下半期) - 田岡典夫『強情いちご』他、神崎武雄『寛容』他 第17回(1943年上半期) - 山本周五郎『日本婦道記』(受賞辞退) 第18回(1943年下半期) - 森荘已池『山畠』『蛾と笹舟』 第19回(1944年上半期) - 岡田誠三『ニューギニヤ山岳戦』 第20回(1944年下半期) - 該当作品なし 第21 - 30回 第21回(1949年上半期) - 富田常雄『面』『刺青』 第22回(1949年下半期) - 山田克郎『海の廃園』 第23回(1950年上半期) - 今日出海『天皇の帽子』、小山いと子『執行猶予』 第24回(1950年下半期) - 檀一雄『真説石川五右衛門』『長恨歌』 第25回(1951年上半期) - 源氏鶏太『英語屋さん』『颱風さん』『御苦労さん』 第26回(1951年下半期) - 久生十蘭『鈴木主水』、柴田錬三郎『イエスの裔』 第27回(1952年上半期) - 藤原審爾『罪な女』他 第28回(1952年下半期) - 立野信之『叛乱』 第29回(1953年上半期) - 該当作品なし 第30回(1953年下半期) - 該当作品なし 第31 - 40回 第31回(1954年上半期) - 有馬頼義『終身未決囚』 第32回(1954年下半期) - 梅崎春生『ボロ家の春秋』、戸川幸夫『高安犬物語』 第33回(1955年上半期) - 該当作品なし 第34回(1955年下半期) - 邱永漢『香港』、新田次郎『強力伝』 第35回(1956年上半期) - 南條範夫『燈台鬼』、今官一『壁の花』 第36回(1956年下半期) - 今東光『お吟さま』、穂積驚『勝烏』 第37回(1957年上半期) - 江崎誠致『ルソンの谷間』 第38回(1957年下半期) - 該当作品なし 第39回(1958年上半期) - 山崎豊子『花のれん』、榛葉英治『赤い雪』 第40回(1958年下半期) - 城山三郎『総会屋錦城』、多岐川恭『落ちる』 第41 - 50回 第41回(1959年上半期) - 渡辺喜恵子『馬淵川』、平岩弓枝『鏨師』 第42回(1959年下半期) - 司馬遼太郎『梟の城』、戸板康二『團十郎切腹事件』他 第43回(1960年上半期) - 池波正太郎『錯乱』 第44回(1960年下半期) - 寺内大吉『はぐれ念仏』、黒岩重吾『背徳のメス』 第45回(1961年上半期) - 水上勉『雁の寺』 第46回(1961年下半期) - 伊藤桂一『螢の河』 第47回(1962年上半期) - 杉森久英『天才と狂人の間』 第48回(1962年下半期) - 山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』、杉本苑子『孤愁の岸』 第49回(1963年上半期) - 佐藤得二『女のいくさ』 第50回(1963年下半期) - 安藤鶴夫『巷談本牧亭』、和田芳恵『塵の中』 第51 - 60回 第51回(1964年上半期) - 該当作品なし 第52回(1964年下半期) - 永井路子『炎環』、安西篤子『張少子の話』 第53回(1965年上半期) - 藤井重夫『虹』 第54回(1965年下半期) - 新橋遊吉『八百長』、千葉治平『虜愁記』 第55回(1966年上半期) - 立原正秋『白い罌粟』 第56回(1966年下半期) - 五木寛之『蒼ざめた馬を見よ』 第57回(1967年上半期) - 生島治郎『追いつめる』 第58回(1967年下半期) - 野坂昭如『アメリカひじき』『火垂るの墓』、三好徹『聖少女』 第59回(1968年上半期) - 該当作品なし 第60回(1968年下半期) - 陳舜臣『青玉獅子香炉』、早乙女貢『僑人の檻』 第61 - 70回 第61回(1969年上半期) - 佐藤愛子『戦いすんで日が暮れて』 第62回(1969年下半期) - 該当作品なし 第63回(1970年上半期) - 結城昌治『軍旗はためく下に』、渡辺淳一『光と影』 第64回(1970年下半期) - 豊田穣『長良川』 第65回(1971年上半期) - 該当作品なし 第66回(1971年下半期) - 該当作品なし 第67回(1972年上半期) - 綱淵謙錠『斬』、井上ひさし『手鎖心中』 第68回(1972年下半期) - 該当作品なし 第69回(1973年上半期) - 長部日出雄『津軽世去れ節』『津軽じょんから節』、藤沢周平『暗殺の年輪』 第70回(1973年下半期) - 該当作品なし 第71 - 80回 第71回(1974年上半期) - 藤本義一『鬼の詩』 第72回(1974年下半期) - 半村良『雨やどり』、井出孫六『アトラス伝説』 第73回(1975年上半期) - 該当作品なし 第74回(1975年下半期) - 佐木隆三『復讐するは我にあり』 第75回(1976年上半期) - 該当作品なし 第76回(1976年下半期) - 三好京三『子育てごっこ』 第77回(1977年上半期) - 該当作品なし 第78回(1977年下半期) - 該当作品なし 第79回(1978年上半期) - 津本陽『深重の海』、色川武大『離婚』 第80回(1978年下半期) - 宮尾登美子『一絃の琴』、有明夏夫『大浪花諸人往来』 第81 - 90回 第81回(1979年上半期) - 田中小実昌『浪曲師朝日丸の話』『ミミのこと』、阿刀田高『ナポレオン狂』 第82回(1979年下半期) - 該当作品なし 第83回(1980年上半期) - 向田邦子『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』、志茂田景樹『黄色い牙』 第84回(1980年下半期) - 中村正䡄『元首の謀叛』 第85回(1981年上半期) - 青島幸男『人間万事塞翁が丙午』 第86回(1981年下半期) - つかこうへい『蒲田行進曲』、光岡明『機雷』 第87回(1982年上半期) - 深田祐介『炎熱商人』、村松友視『時代屋の女房』 第88回(1982年下半期) - 該当作品なし 第89回(1983年上半期) - 胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』 第90回(1983年下半期) - 神吉拓郎『私生活』、高橋治『秘伝』 第91 - 100回 第91回(1984年上半期) - 連城三紀彦『恋文』、難波利三『てんのじ村』 第92回(1984年下半期) - 該当作品なし 第93回(1985年上半期) - 山口洋子『演歌の虫』『老梅』 第94回(1985年下半期) - 森田誠吾『魚河岸ものがたり』、林真理子『最終便に間に合えば』『京都まで』 第95回(1986年上半期) - 皆川博子『恋紅』 第96回(1986年下半期) - 逢坂剛『カディスの赤い星』、常盤新平『遠いアメリカ』 第97回(1987年上半期) - 白石一郎『海狼伝』、山田詠美『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』 第98回(1987年下半期) - 阿部牧郎『それぞれの終楽章』 第99回(1988年上半期) - 西木正明『凍れる瞳』『端島の女』、景山民夫『遠い海から来たCOO』 第100回(1988年下半期) - 杉本章子『東京新大橋雨中図』、藤堂志津子『熟れてゆく夏』 第101 - 110回 第101回(1989年上半期) - ねじめ正一『高円寺純情商店街』、笹倉明『遠い国からの殺人者』 第102回(1989年下半期) - 星川清司『小伝抄』、原尞『私が殺した少女』 第103回(1990年上半期) - 泡坂妻夫『蔭桔梗』 第104回(1990年下半期) - 古川薫『漂泊者のアリア』 第105回(1991年上半期) - 宮城谷昌光『夏姫春秋』、芦原すなお『青春デンデケデケデケ』 第106回(1991年下半期) - 高橋義夫『狼奉行』、高橋克彦『緋い記憶』 第107回(1992年上半期) - 伊集院静『受け月』 第108回(1992年下半期) - 出久根達郎『佃島ふたり書房』 第109回(1993年上半期) - 高村薫『マークスの山』、北原亞以子『恋忘れ草』 第110回(1993年下半期) - 佐藤雅美『恵比寿屋喜兵衛手控え』、大沢在昌『新宿鮫 無間人形』 第111 - 120回 第111回(1994年上半期) - 中村彰彦『二つの山河』、海老沢泰久『帰郷』 第112回(1994年下半期) - 該当作品なし 第113回(1995年上半期) - 赤瀬川隼『白球残映』 第114回(1995年下半期) - 小池真理子『恋』、藤原伊織『テロリストのパラソル』 第115回(1996年上半期) - 乃南アサ『凍える牙』 第116回(1996年下半期) - 坂東眞砂子『山妣』 第117回(1997年上半期) - 篠田節子『女たちのジハード』、浅田次郎『鉄道員(ぽっぽや)』 第118回(1997年下半期) - 該当作品なし 第119回(1998年上半期) - 車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』 第120回(1998年下半期) - 宮部みゆき『理由』 第121 - 130回 第121回(1999年上半期) - 佐藤賢一『王妃の離婚』、桐野夏生『柔らかな頬』 第122回(1999年下半期) - なかにし礼『長崎ぶらぶら節』 第123回(2000年上半期) - 船戸与一『虹の谷の五月』、金城一紀『GO』 第124回(2000年下半期) - 山本文緒『プラナリア』、重松清『ビタミンF』 第125回(2001年上半期) - 藤田宜永『愛の領分』 第126回(2001年下半期) - 山本一力『あかね空』、唯川恵『肩ごしの恋人』 第127回(2002年上半期) - 乙川優三郎『生きる』 第128回(2002年下半期) - 該当作品なし 第129回(2003年上半期) - 石田衣良『4TEEN フォーティーン』、村山由佳『星々の舟』 第130回(2003年下半期) - 江國香織『号泣する準備はできていた』、京極夏彦『後巷説百物語』 第131 - 140回 第131回(2004年上半期) - 奥田英朗『空中ブランコ』、熊谷達也『邂逅の森』 第132回(2004年下半期) - 角田光代『対岸の彼女』 第133回(2005年上半期) - 朱川湊人『花まんま』 第134回(2005年下半期) - 東野圭吾『容疑者Xの献身』 第135回(2006年上半期) - 三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』、森絵都『風に舞いあがるビニールシート』 第136回(2006年下半期) - 該当作品なし 第137回(2007年上半期) - 松井今朝子『吉原手引草』 第138回(2007年下半期) - 桜庭一樹『私の男』 第139回(2008年上半期) - 井上荒野『切羽へ』 第140回(2008年下半期) - 天童荒太『悼む人』、山本兼一『利休にたずねよ』 第141 - 150回 第141回(2009年上半期) - 北村薫『鷺と雪』 第142回(2009年下半期) - 佐々木譲『廃墟に乞う』、白石一文『ほかならぬ人へ』 第143回(2010年上半期) - 中島京子『小さいおうち』 第144回(2010年下半期) - 木内昇『漂砂のうたう』、道尾秀介『月と蟹』 第145回(2011年上半期) - 池井戸潤『下町ロケット』 第146回(2011年下半期) - 葉室麟『蜩ノ記』 第147回(2012年上半期) - 辻村深月『鍵のない夢を見る』 第148回(2012年下半期) - 朝井リョウ『何者』、安部龍太郎『等伯』 第149回(2013年上半期) - 桜木紫乃『ホテルローヤル』 第150回(2013年下半期) - 朝井まかて『恋歌』、姫野カオルコ『昭和の犬』 第151 - 160回 第151回(2014年上半期) - 黒川博行『破門』 第152回(2014年下半期) - 西加奈子『サラバ!』 第153回(2015年上半期) - 東山彰良『流』 第154回(2015年下半期) - 青山文平『つまをめとらば』 第155回(2016年上半期) - 荻原浩『海の見える理髪店』 第156回(2016年下半期) - 恩田陸『蜜蜂と遠雷』 第157回(2017年上半期) - 佐藤正午『月の満ち欠け』 第158回(2017年下半期) - 門井慶喜『銀河鉄道の父』 第159回(2018年上半期) - 島本理生『ファーストラヴ』 第160回(2018年下半期) - 真藤順丈『宝島』 第161回 - 第161回(2019年上半期) - 大島真寿美『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』 第162回(2019年下半期) - 川越宗一『熱源』 第163回(2020年上半期) - 馳星周『少年と犬』 第164回(2020年下半期) - 西條奈加『心淋し川』 第165回(2021年上半期) - 佐藤究『テスカトリポカ』、澤田瞳子『星落ちて、なお』 第166回(2021年下半期) - 今村翔吾『塞王の楯』、米澤穂信『黒牢城』 第167回(2022年上半期) - 窪美澄『夜に星を放つ』 テレビ 『ルポルタージュにっぽん』 直木賞の決まる日(NHK 1980年1月26日) 参考文献 『直木賞物語』川口則弘著、バジリコ、2014年 『芥川賞・直木賞150回全記録』文藝春秋特別編集、文藝春秋、2014年 脚注 注釈 出典 関連項目 高校生直木賞 外部リンク 直木三十五賞|公益財団法人日本文学振興会 直木賞受賞者一覧|公益財団法人日本文学振興会 直木三十五記念館 芥川賞・直木賞 特集 直木賞のすべて 日本の文学賞 菊池寛 人名を冠した文学賞 1935年開始のイベント
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バオー来訪者
『バオー来訪者』(バオーらいほうしゃ)は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品、およびそれを原作とするOVA作品。集英社の少年向け漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』に1984年45号から1985年11号まで17話が連載された。単行本は全2巻。 主人公は、生物兵器「バオー」へと改造された青年「橋沢育朗」と予知能力を持つ少女「スミレ」の2人。バオーの超人的能力を狙う、政府系の秘密組織「ドレス」からの逃避行を中心に、2人の成長と相思を綴った物語。 バオー 「バオー(BAOH)」とは変身した育朗を指す言葉ではなく、正確には彼の体内に寄生する40mmほどの寄生虫の名称である。バオーの宿主はヒトである必要はなく、作中では育朗以外にもバオーが寄生したイヌが登場している。この生物を生み出した霞の目博士の弁によれば、バオーを自由に利用することが可能になれば核爆弾級の戦力に匹敵し、「ドレス」は医学および軍事的な面で世界的優位に立てるという。バオーという名前は、作者によると当時話題となっていたバイオテクノロジーなどの「バイオ」から来ている。バオーは宿主の肉体へ進入したのち脳(動脈の中)に寄生し、寄生した日数にしたがって宿主に対する影響力を強めていく。百数十日で成虫になると宿主に産卵、孵った幼虫は宿主の身体をつき破り、新たな宿主へ寄生する(この設定はOVAでは排除されている)。また宿主の肺呼吸が停止すると仮死状態となり、その場合宿主の肉体は再び目覚めるまで老化することはない。 宿主が生命の危機に瀕すると、体内に分泌されたアドレナリンをバオーが感知し、宿主の精神を無力化させてその支配下におく(ただし、劇中では育朗が戦っている自分を次第に知覚していくようになる描写がある)。次に、血管を使い宿主の全身に分泌液をめぐらせ、宿主の骨・筋肉・腱を何倍にも強化し、強靭な肉体とさまざまな特殊能力を付与する。「ドレス」では、この変身を「バオー武装現象(アームド・フェノメノン)」と称している(詳細は後述)。寄生している日数が進むに従って、段階を踏んで徐々に武装現象を発現させていく。 武装現象中のバオーは、宿主の頭部に独自の「触角」を発現させ、これにより視覚・聴覚・嗅覚などの全感覚をまかなう。バオーは対象をすべて「におい」で感知しており、自身が嫌悪する敵意や悪意などの負の感情が持つ「におい」を放つ者を攻撃対象として認識している。また、これにより攻撃目標として認識された者を無力化することはバオーにとって「においを止める」行為に過ぎない。またそのにおいもいくつかにわけ理解しており「生きることを止められた者の悲しいにおい」、「邪悪なにおい」などを嗅ぎわけ、とりわけバオーが嫌いなのはドレスの刺客たちの「邪悪なにおい」である。また戦闘を通じて敵味方の区別をにおいから学ぶ学習能力も備え、味方を守ったりなどの行動をとり、生物としての進化を遂げていく。 また、武装現象の発現中は「バル」「バルバルバルバル」「ウォォォーーム」といった鳴き声(作中では主に咆吼として表現されている)のみを発し、宿主本来の音声・言語を発音することは基本的に無い。 なお、寄生虫バオーは霞の目博士が作り出した生物兵器であるが、劇中後半に変身もせずにバオーの能力が使えたり、攻撃を受け傷ついてもいないのに宿主の意思でバオーに変身したり、変身後に育朗の意識で行動し、しゃべったりと、人間である宿主の育朗がバオーを自在に操作できている。 劇中のこの寄生虫の描写は、夢枕獏による単行本のあとがきの批評にて、その姿を描いた「絵」の持つ説得力が高く評価されている。 バオー武装現象 バオーは宿主の危険を察知すると、宿主の意識・肉体を一時的に支配し、危険から身を守るため宿主に武装現象(バオー・アームド・フェノメノン)を発現させる。武装現象の表記は劇中で一定していない。これらは「高い格調・強烈な描写・長くて覚えにくい名前」ということで、連載当時よく他のマンガなどのネタに使われた。主な能力は以下の通りで、放たれれば防御された事例がほぼない、正しく必殺技である。 OVAではこうした武装現象名を育朗が叫ぶことはなく、その多くは字幕で処理されている。 バオー・メルテッディン・パルム・フェノメノン 体外に排出されると強力な酸に変わる体液を、主に掌から放出して金属などを溶解することができる。 作中の解説では、強力な酸によって自らの体組織も溶解しているが、酸を出すと同時に特殊なカスを作り出しており、このカスが新たな皮膚となって溶解部分を再生するため、事実上ダメージは無いとされている。 育朗の力が増大してきた結果、武装現象への変化なしに発動させることに成功している。 バオー・リスキニハーデン・セイバー・フェノメノン 前腕側部の皮膚組織を突出・硬質・鋭利化して刃物状にする。「セイバー オフ!」の掛け声で切り離して飛ばすことも可能。OVAでは掛け声なしで切り離している。 バオー・シューティングビースス・スティンガー・フェノメノン 毛髪を硬質化して射出する。標的に刺さり、体温の伝導などで一定温度に達すると発火する。 バオー・ブレイク・ダーク・サンダー・フェノメノン 体細胞から発生される電気を直列にして放出する。デンキウナギと同様の原理だが、バオーの筋肉細胞は一つ一つが強力なため、60000ボルトの高圧電流となる。直接放電する以外にも、レーザーへの電力供給を行ったりしている。 その他、治癒能力・代謝能力の活性化や体液の変質などにより、宿主の体の一部が切断されても貼り合わせるだけで元通りに接合したり、瀕死の生物に血を飲ませることでその命を救うことができるようになる。 登場キャラクター 声の項は特記ない限りOVA版のキャスト。 主要キャラクター 橋沢 育朗(はしざわ いくろう) 声:堀秀行 / 内山昂輝(ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル) 研究機関ドレスの実験体としてバオーを寄生させられた少年。家族とともにドライブ旅行中に交通事故にあい、仮死体としてドレスに拉致され、仮死状態で研究所に移送される途中、偶然スミレによって目覚め、以降スミレと共に「ドレス」の刺客から追われることとなる。真面目で物静か。一人称は「ぼく」だったが、OVAでは「おれ」になっている。バイクには乗れる模様。 7歳の頃、氷の張った沼の上で友達と一緒にアイススケートを楽しんでいた時に沼の氷が割れて溺れかけた経験があり、バオーによる自分の体の異変に不気味さを感じた際にはその時の恐怖が甦るという描写があるが、OVAではカットされている。 最後はドレスの秘密研究所の自爆に巻き込まれ、海底で眠る。スミレは予知能力で彼女が彼と同じ17歳になった時に、再会するという映像を見ており希望を感じさせるラストを迎えている。 スミレ 声:日髙のり子 孤児院で育ち、予知能力の素質をドレスに認められた少女。性格はませていてとても口が悪い。序盤から育朗に好意を抱いている様子がある。その能力は微弱で自動書記(作中ではこれを「心を滑らせる」と表現している)やコックリさんなどの手段を用いるが、稀にはっきりとした映像(ヴィジョン)を見る。物語前半に逃亡中の資金を稼ぐため、予知能力を使い競馬場で大穴を当てている。育朗と同じ列車で移送中に車両を脱走し、育朗と出会う。物語後半で育朗をおびき寄せる為のおとりに使われ、ドレスの秘密基地で多数のレーザー砲で撃たれ致命傷を負うも救助に来たバオーの血液を飲み蘇生。生死不明となった育郎が地底湖の中で眠り続けている映像を遠感で察知し、さらに自分が17歳になった時に育朗と再会する予知の映像も見ており、その日を待ち続けるために六郎じいさん夫婦の養女になった。 OVAでは、孤児院の花畑にスミレが咲いていたことからこの名前をつけられたと育朗に語る場面がある。また、エピローグでのスミレの容姿や服装などが、原作と大きく異なる。 サニー・ステフェン・ノッツォ ドレスが作り出した新生物。第一話でスミレと一緒に登場し、マスコットキャラクターとなっている。スミレによくなついており、よく人の顔を舐める。リスのような格好をした夜行性の小動物で、人に慣れる。末端がふくらんだ尾を持ち、これを使ってタンポポの綿毛のように風に乗って飛行が可能。脚にある折りたたみ式のトゲを使って餌を取る。背中には子育て用の袋があり、性別はメス。ジャンプ力は5メートル。ゴキブリが好物らしく、スミレは顔を舐められるのを嫌がっている。鳴き声は「キキー」「プーダ」「イーダ」など。にらめっこのような顔遊びをよくやる。名前の由来は仙台弁であてもなくふらつき歩く「放浪」、「能無し・怠け者」を意味する言葉「のっつぉ」。 OVAではゴキブリを食べる描写はカットされている。 秘密組織ドレス ドレスは作中に登場する秘密組織で、兵器として使える新生物を作り出すための人工進化などを研究している。もとは旧日本軍の化学細菌戦部隊であったが、第二次世界大戦後、その研究はアメリカ合衆国に引き継がれドレスが設立された。北上山地や三陸海岸に研究所を持つほか、独自の偵察衛星や特殊工作員や特殊部隊などの戦力を有し、国鉄に専用列車を自由に走らせる特権も有する。 霞の目(かすみのめ)博士 声:永井一郎 ドレスの研究者で、寄生虫バオーの生みの親。遺伝子操作を施した様々な動物達を、過酷な環境を作り出す実験室で飼育するという実験を「人工進化」と称して行い、それを繰り返してバオーをはじめとする新生物を多数生み出した。橋沢育朗を逃した責任を某国政府関係者から問われ、名誉挽回のため育朗たちに刺客を差し向ける。原作版では寺の住職が表向きの職業のようだが、OVAではその設定は削除されている。科学者としてはマッドサイエンティストの側面が強く、自身の最期に及んでもバオーを「私が生み出した最高傑作」と絶賛していた。 「なぜならッ!」が口癖。名前の由来は宮城県仙台市若林区にある地区のひとつである「霞目」から。 女工作員(ソフィーヌ) 声:井上瑤 第1話でスミレを逃がし育朗が覚醒する切っ掛けを作り、粛清を受けたドレスの名もなき女工作員。任務失敗の責を負い、顔を潰された遺体として発見される。一見普通の美女に見えるが檻の中から飛び掛ってきた犬2頭を手刀と蹴りですかさず倒しており、格闘技術もかなりのものである。 OVAでは設定が大きく異なり、ソフィーヌという名前を与えられている。また服装も赤のジャケットとミニスカートに変更され、ドレスの紅一点、霞の目博士の右腕として一際目立つ設定が加えられた。ラストシーンまで生き残り、霞の目博士と共に死亡した。 第22の男 声:沢木郁也 ドレスが放った、一人目の刺客。鼻には横に走る一本の傷跡があり、丸眼鏡の形をしたサングラスと「SCARFACE」と書かれたジャンパーを着ている。24時間以内の育朗の抹殺(エリミネート)と、ガソリンによる死体の焼却を指示され、育朗にナイフで重傷を負わせる。育朗とスミレがガソリンの残りが少ないバイクを奪って逃走したため、車でガソリンスタンドに先回りして育朗を殺害しようとするが、第一の攻撃化態であるバオー・メルテッディン・パルム・フェノメノンにより顔を溶かされて死亡。 OVAではジャンパーの文字はなく、またドルドの部下という設定になっている。 ドルド 声:池田秀一 ドレス特殊工作部門の戦闘員で、組織内では「サイボーグ・ドルド中佐」と呼ばれている。本人の弁によれば戦場では2500人を殺したという。暗殺術と狙撃の達人であり、霞の目が生み出した生物兵器・芳香蝙蝠や催眠術を駆使して育朗を狙う。育朗の始末には失敗したものの、スミレを誘拐して三陸沖にあるドレスの施設へと連れ去った。現役中に爆弾で重傷を負ったのがもとで体の半分以上がサイボーグ化されている。 サイボーグ化された体にさまざまな機能が装備されている。片腕が金属製の義手になっており、洗脳機械として変化し六助じいさんを催眠術にかけたり、超音波を発し芳香蝙蝠を操ることができるほか、仕込み銃として弾丸を発射できる。この義手は切り落とされても遠隔操作が可能で、内蔵された爆薬により爆弾としても使用できる。義手を外しライフルを装着&右目をスコープに連結して狙撃する、といったメカニカルな描写もあった。体から数本のパイプが伸びハングライダーに変化して遠距離飛行もできる。 失敗続きから来る焦りから、単独行動でバオーの遠距離狙撃を狙うが失敗し、最期は霞の目博士の命令を受けたウォーケンによって粛清される。 OVAでは冷静なキャラクターとして振る舞い、登場時期や最期も原作と異なる。 ケイン、ブラッディ スミレを救出するべく、ドレスの敷地内に進入した育郎の前に現れた2人組の刺客。ジャンプしながら2人で爆弾を投げつけるが空中で爆弾を停止させられ、新たに発現したバオーの武装現象「バオー・ブレイク・ダーク・サンダー・フェノメノン」の前に敗れ去った。バオーに瞬殺されたが、命令を無視したドルドを取り押さえ、連行出来る程の強さを持っている OVAでは名前すら名乗る間もなく倒されている。 ウォーケン 声:屋良有作 架空のアメリカインディアンの部族・スクークム族の末裔で、誇り高き戦士。霞の目曰く「地上最強の超能力者」であり、物語における最強最後の敵としてバオーの前に立ちはだかる。戦いこそが全てであると語り、殺戮を生きがいとする男。敵であるバオーを自身と対等の力を持つ戦士と認め、命を賭した凄絶な戦いを繰り広げる。 分子を自在に振動させる超能力を持ち、液体を瞬時に沸騰させ、金属や岩石などあらゆる物体を振動させ粉砕できる。そのあまりにも強大な能力をセーブするために、普段は精神制御装置を組み込んだ特殊なヘッドホンを着用している。このヘッドフォンが外れると、味方の研究者なども容赦なく殺害するほどに暴走してしまう。必殺技はその能力を活かした分子空動波と分子地動波。またバオーのことをメインタイトルにもある「来訪者」と初めて呼んだのはウォーケンであり、初対面の際にも強敵として敬意を表している。 名前の由来は『集英社ジャンプリミックス 魔少年ビーティー対バオー来訪者』にて、アメリカの俳優「Christopher Walken」ではないかと推測されている。外見は、永井豪の漫画並びに同作の主人公『バイオレンスジャック』に酷似しており、本作のOVAを紹介した「アニメビデオカタログ'90」(玄光社MOOK)でもそれを指摘する記述がある。 OVAでは部族の名称がスクーム族となり、パワーセーブのために着用しているヘッドホンがバンダナになっていて透視能力で育郎達が廃墟に身を潜めているのを突き止めたりもした。 ドレスの新生物 霞の目による「人工進化」の実験を経て誕生した、過酷な環境にも適応した体を持った動物達のこと。いずれも動物兵器として開発されたもので、寄生虫バオーやノッツォなどもドレスの新生物である。 ここでは、バオーの敵として登場した動物達を挙げる。OVAにはいずれも未登場。 マーチン ドレスによって種の改良と戦闘用の訓練を施された、非常に大型のマンドリル。高度な知能と残忍な性格を併せ持ち、強靱な四肢から発揮される跳躍力はバオーを上回る。相手の動きを鈍らせる無臭の毒ガスや攻撃用のワイヤーなど様々な武器を体内に隠し持っている。包帯で顔を覆った専属の戦闘員により調教が行われ、彼が使用するムチの風を切る音による命令でバオーと戦う。このマーチンの主人ともいえる戦闘員が顔を包帯で覆っているのは、訓練中マーチンに「じゃれつかれ」重傷を負ったためである。 名前の由来は『集英社ジャンプリミックス 魔少年ビーティー対バオー来訪者』にて、アメリカの俳優「Dean Martin」ではないかと推測されている。 OVAには未登場。 芳香蝙蝠(アロマ・バット) ドルドが育朗を暗殺するために使用したコウモリで、その名の通り特殊な芳香を放つ。ドルドの義手から出る超音波で操られている。その芳香でバオーに変身した育朗の触角を麻痺させ、劇中では体の自由を奪っている。 液グモ タランチュラを巨大化させたようなクモ。体内に特殊な酵素を持っているため、ドレスが開発した食虫植物が持つネペンテス液の消化酵素を強化した液体の中でも自由に動くことが可能。口から伸びた管を相手の体に突き刺しその体液を吸い尽くすとされていたが、バオーには通用しなかった模様。 その他 OVAにはいずれも未登場。 六助じいさん 育朗たちが逃避行中に立ち寄った民家の住人。山奥で猟師(マタギ)として生活している。息子がいるが都会に出て行ってしまったため、現在は妻と2人暮らし。はじめは育朗たちを怪しんでいたが、育朗の紳士的な態度を信頼し、先祖代々のマタギのしきたりに沿い、一夜の宿を貸す。後にスミレを引き取り面倒を見ている。 おばあさん 六助じいさんの妻。逃避行中の育朗とスミレを怪しみ、育朗たちに冷たく接していた。六助じいさんがドルドによって負傷させられたことで育朗を責めるが、六助じいさんに諭され自分の行為を反省。スミレを取り戻そうとする育朗に、息子が残していったバイクと旅費を手渡す。 綾 道を尋ねられた育朗に一目惚れする女性。線路に足を挟まれ列車事故に遭うところを育朗に命を助けられ、地図を探す道案内をする。彼女とのアクシデントがきっかけで、育朗は次第にバオーの潜在能力を意識的にコントロールできるようになってゆく。一緒に居続けることでドレスの刺客の追っ手の巻き添えにさせないため、育朗は彼女の前から姿を消した。 一緒に彼女に好意を抱く知り合いの男性がおり、話しかけてきた育朗に敵意むき出しの対応をしていたが、彼女の足が挟まれた際に何もせずにその場から逃げ出してしまった。 書誌情報 単行本 無敵の肉体バオーの巻 1985年9月9日発売、ISBN 4-08-851029-1 魔人ウォーケンの巻1985年11月8日発売、ISBN 4-08-851030-5 文庫本 2000年6月16日発売、ISBN 4-08-617486-3 補足 本作は短期間で連載終了となったが、『集英社ジャンプリミックス 魔少年ビーティー対バオー来訪者』の記載では、ストーリーが纏まっている事から連載当初より物語構成が考えられており、2巻分程度の内容を想定して書かれていたと推測されている。 荒木自身は本作について、単行本1巻表紙カバーでのコメント欄で「カッコイイけど悲しいお話」とコメントしている。 本作品はラポート株式会社発行の『月刊ファンロード』1986年5月号にて特集が組まれた。また表紙(普段は特集作品のイラストをファンが描く)や中折ポスターも荒木本人の描き下ろしであり、写真入りでファンとの対談記事も組まれている。なお、この特集が縁で『ジョジョの奇妙な冒険』単行本第1巻末にファンロード編集長浜松克樹が推薦文を寄稿している。 単行本巻末のコメントは、1巻が寺沢武一で2巻が夢枕獏。夢枕はこのコメントの最後で「続編は描かれなければならない」との言葉で締めくくっており、荒木自身も「続きを描かないのか」と時々言われることがあるそうだが、荒木は「自分の中では終わった話」としている。 連載当時まだ荒木飛呂彦が無名だったにもかかわらず、そのインパクトから数人の著名マンガ家には強い印象を与えており、荒木の名がマンガ家の対談などに上がったことがある。 漫画「198Xメモリーズ」(井上和郎)では、作中の登場人物達が本作について盛り上がっている場面がある。 OVA 1989年に製作され、同年9月16日にテアトル池袋と大阪の2館のみであるが、OVAとして発売される前に東宝で劇場公開もされた。併映は『ザ・ボーグマン ラストバトル』。バオーの時限爆弾的な特性や育朗のトラウマなど、深く語られないで終わった設定は排除されている。 スタッフ 原作 - 荒木飛呂彦 総監修・絵コンテ - 鳥海永行 キャラクターデザイン・作画監督 - 沙那芭美智 作画監督補佐 - 大橋誉志光、高木弘樹、増尾昭一 メカニックデザイン - 田野雅祥 脚本 - 寺田憲史 企画 - 阿部高久、藤原正道 制作 - 中野和雄、斎春雄 プロデューサー - 深草礼子 音楽プロデューサー - 大場龍雄、藤田純二 演出 - 横山広行 撮影監督 - 金子仁 美術監督 - 宮前光春 音響監督 - 松浦典良 音楽 - 難波弘之 編集 - 掛須編集室 制作協力 - スタジオぴえろ 主題歌 エンディングテーマ「永遠のSoldier」 作曲:茂村泰彦 / 作詞:安藤芳彦 / 編曲:難波弘之 / 歌手:町田義人 ビデオ / LD / DVD ビデオ、LD - 1989年に発売。ビデオは同年11月1日にVHS・ベータマックスの2種で発売、LDは同年12月21日発売。 DVD - 2003年4月2日 東芝デジタルフロンティアから発売。販売元はジェネオンエンタテインメント。 サウンドトラック 1989年10月11日に、OVAで使用されたBGM全19曲を収録した音楽集がCDとテープで発売されている。 ゲームへの登場 作品単独としてのゲームは製作されていないが、PS3用ソフト『ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル』(2013年8月29日発売)にて、DLC追加キャラクターとして「橋沢育朗(バオー)」が配信されている。 担当声優はOVA版の堀秀行から内山昂輝に変更されている。OVA版では字幕で処理されていた技の名前は、ナレーションの大川透が叫び、育朗の心の声も同様にナレーションが担当している。 立体物 メディコム・トイ REAL ACTION HEROES(リアルアクションヒーローズ)RAH No.367 バオー(ワンダーフェスティバル 2008 [冬] 開催記念限定商品)2008年2月24日発売。 バンダイ Manga Realization(マンガリアライゼーション)バオー来訪者 2010年3月20日発売。 メディコム・トイ REAL ACTION HEROES(リアルアクションヒーローズ)RAH No.546 バオー(リニューアルver.)2011年8月30日発売。 メディコス・エンタテイメント 超像可動“バオー来訪者 ”【バオー】限定版 2017年2月19日発売。 脚注 荒木飛呂彦 おおらいほうしや 週刊少年ジャンプの漫画作品 おおらいほうしや 1989年のOVA ユーメックスのアニメ作品 寄生生物を題材とした作品 変身ヒーロー 寄生生物を題材とした漫画作品
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83
野球
は、2つの(基本的には9人編成の)チームが攻撃と守備を交代しながら、各頂点に4つのベースを持つ菱形の区画において得点を競い合うである。「フィールド」や「野球場」、「スタジアム」と呼ばれる場所で行われる。アメリカ発祥のスポーツであり、1845年にアメリカで現在の形・ルールの基礎がつくられ、1869年には最初のプロチームが生まれ、アメリカで有数の人気スポーツとなり国民的娯楽となった。(もとはイギリスからの移民がアメリカに持ち込んだスポーツが元型・祖型になっている、とされる。#歴史) 概説 野球は、2つのチームが攻撃と守備を交互に繰り返して得点を取り合い、得点数の多いか少ないかに基づいて勝敗を競う競技である。点数の多いチームが勝利を手に入れる。 1チーム9人ずつで構成された2チームが守備側と攻撃側に分かれ、守備側の投手が投げたボールを攻撃側の打者がバットで打ち、設置された4つのベース(塁)を反時計回りに進み、一周することで得点を得る。両チームは攻撃と守備をそれぞれ交互に9回ずつ(7回以下ずつの場合もある)行い、その間に挙げた得点の多さを競う。 4つのベースは、それぞれ一塁(ファースト・ベース)、二塁(セカンド・ベース)、三塁(サード・ベース)、本塁(ホーム・ベース)と言う。なお、大会やリーグによってルールの細部に相違点があり、たとえば予め定めた以上の一方的展開になった場合や気象条件等により途中で試合を打ち切るコールドゲームの規定、攻撃時に投手と呼ばれるポジションの選手の代わりに攻撃専門の選手を使う指名打者(DH)制度の有無、審判員の人数等細かな違いがあり、大会やリーグごとにそれぞれの環境に最適と考えられる制度を採用している。 アメリカが発祥の地および本場であり、アメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)が主導している。他の国で行われる野球のルールも、基本的にはアメリカのベースボールのルールを模倣したり、アメリカでルールの修正・変更があれば、たいていはアメリカを「後追い」する形で修正・変更されている。国際大会が開催される場合も、基本的にアメリカのルールが基準になっている。 「baseball(ベースボール)」という名称は、4つのbase(ベース)を使用するという特性を由来としている。なお、日本語の「野球」という名称は、明治期に日本で中馬庚が作った和製漢語である(後述)。 本記事では、ベースボール(野球)と、亜種とはしっかり区別して説明する。 本来のもの 発祥地であり、一番さかんな国であるアメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)によって行われているベースボールが世界の野球の基準になっている。あくまで硬式である。 発祥地で本場のアメリカではボール(球)はあくまで硬式である。硬式以外のボールを使うものは「別物」、別種の競技とされている。 アメリカでの球が具体的どのようなものか説明すると、MLBは最高級のボールを使っている。最適な革でくるみ、縫い目もしっかり巻くように縫われている。MLBの選手は最高レベルの技術でプレーするからその質に合わせたボールが使われるのである。 MiLB(Minor League Baseball マイナーリーグベースボール)ではMLBと比べて少し材質が劣るボールが使われている。 アメリカの高校野球や大学野球ではMLBと同じサイズのボールを使うが、密度はわずかに低い(少しだけ軽い)。そこでは金属バットが使われるのでそれに合わせて設計されている。 本場アメリカでは少年野球の段階から硬式を使う。少年野球の段階からすでに柔らかいボールは絶対に使わない。少年野球でも革でくるんだボールを使い、ただし芯はウール巻のものを使う。 日本でも、プロ野球や社会人野球、大学野球、高校野球においては本来の硬式野球が行われている(だが中学以下が軟式で別物になってしまっている)。 歴史 野球の起源は明確にはされていないが、イギリスの球技である「」がイギリス系移民によってアメリカに持ち込まれた後に変化し、野球として形成されたと考える研究者が多い。1830年代から1840年代に原型が成立した後、主にアメリカの北部で盛んとなり、南北戦争(1861年 - 1865年)を機に南部にも伝えられたことでアメリカ全土において人気を博するようになった。19世紀後半を通じてルールに大幅な改良が加えられ、現在の形となった。 1869年には世界初のプロ球団であるシンシナティ・レッドストッキングスが設立され、1871年には世界初のプロ野球リーグであるナショナル・アソシエーションが設立された。このリーグ自体は5年で破綻したものの、1876年にはこれを引き継ぐ形でナショナルリーグが設立され、MLBが成立した。この頃、日本を訪問したアメリカ人によって日本に野球が伝えられた。 規則 2つのチームが攻撃と守備を交互に繰り返して勝敗を競う。ルールは本場アメリカのMLBのOFFICIAL BASEBALL RULES(MLB公式ルール)が世界基準となっている。各国の国内ルールも原則それに沿った内容になるように整備されており、日本の公認野球規則も原則的にMLBルールに合致した内容になるようにMLB公式ルールを基本的には翻訳したものである。 試合形式 攻撃側は、相手チームの投手が投げたボールを打って、一塁・二塁・三塁・本塁をまわることで得点を得る。守備側は相手チームの走者が本塁に到達しないように打者や走者をアウトにする。相手チームの選手を3人アウトにできれば、攻撃に移ることができる。攻撃と守備の一巡はイニングと呼ばれる。一試合は9イニングからなり、得点の合計が多いチームが勝者となる。両者の得点が等しい場合は、延長戦を行う、引き分けとするなどルール体系によって対応が分かれる。 各チームの目的は「より多くの得点を得て、勝つこと」であり、公認野球規則1.05には「各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする。」と明記されている。規則書に「勝つことを目的とする」と明確に表記されていることは、野球のルールの際立った特徴の一つでもある。 チーム編成 1チームは選手9人(指名打者制を採る場合は10人)と監督、コーチなどで編成される。試合にはそれ以外にも控え選手がおり、日本のプロ野球では16人、日本の高校野球では9人まで控えとして途中からの試合出場ができる。しかし、一度交代により退いた選手は、その試合中は再び試合に出ることはできない。(交代させずに)守備位置を変えることは可能である。また、守備位置を交代しても再び交代する前の守備位置に戻ることは可能である。 用具 野球を行うにあたっては、様々な用具が必要であるが、選手が野球を行う上で必要となる用具のうち、代表的なものについて述べる。詳しくは各項目を参照のこと。 ボール バット バットは滑らかな円い棒であり、打者が投球を打ち返すための用具である。 グラブ(グローブ)・ミット グラブやミットは、投球、打球、送球を受けるための革で作られた用具である。形状によってミットは捕手用のキャッチャーミット・一塁手用のファーストミットの2種類があり、グラブには 投手用・二塁手用・三塁手用・遊撃手用・外野手用・ある程度まんべんなく使えるオールラウンド向け等、数種類に分類することができる。そのそれぞれについて、右投げ用(左手に着用)・左投げ用(右手に着用)・両投げ用が存在する。グラブはどの形状でもすべてのポジションで使用できるが、ミットに関しては捕手と一塁手の使用についてのみ、公認野球規則の3.04、3.05にそれぞれ規定されている。投手が着用するグラブについては、グラブ全体が一色であり、商標・マーク類は白色・灰色以外であること、グラブにグラブの色と異なるものをつけてはならないことといった制限がある。 スパイクシューズ 野球用の靴でスパイク部分は金属または樹脂を使用している。少年野球では危険なため、樹脂製スパイクを使用している場合が多い。スパイク部分が取り外し可能なものもある。また、ピッチャーが利き足のシューズの先端に、保護革(P革)をつけることがある。これは投球時、ピッチャーが後ろ足(利き手と同じ側の足)でマウンドを蹴りシューズがすり減る事を防ぐため。バッティングでも同じ現象が起きるためか、野手がこの保護革をつけることも多い。 捕手の防具 マスク(面)前頭部、顔面、喉を保護するために装着する。 プロテクター肩、胸、腹を保護するために装着する。 ファウルカップ股間周辺を保護するために装着する。 レガース 膝から足首までを保護するために装着する。 ロージンバッグ(ロジンバッグ) 滑り止めの白い粉が入った袋。主にピッチャーが用い、マウンドに置いてある。打者が使用する場合もあり、ネクストバッタースボックスにも置いてある。 ユニフォーム 同じチームの選手・監督・コーチなど競技に参加する者は、同色・同形・同意匠のユニフォームと野球帽を着用する。原則として全員(少なくとも選手)の背中には背番号をつける。アンダーシャツ、ストッキング、ベルトは同色での着用が必要。スパイクもユニフォームの一部に相当するため、チームで同色にそろえる必要がある。プロ野球においてはプレイングマネージャーやベースコーチに立つ場合を除き監督がユニフォームを着ない場合がある。ボールが胸部に当たると心臓に負担が掛かり倒れてしまう(死亡・重傷事故の例もある)ことがあるので、胸部の部分にパッドを付けることを推奨する。 グラウンド 野球に使われるグラウンドと付帯設備は野球場もしくは球場と称される。4つのベースを結ぶ正方形内は内野と呼ばれ、またその形状から「ダイヤモンド」とも呼ばれる。内野とランナーコーチボックス、ネクストバッターサークルの距離は公認野球規則で決められているが、グラウンドの大きさについては球場によって異なる。「内野」は規則上は正方形内と定められているが、慣習的には内野手が普通の守備行為を行う守備範囲も含める。 ポジション 表中の数字は守備番号を示す。 バッテリー(投手と捕手)を内野手の一員とみなす場合もある。 審判員 構成 野球における審判員は、試合の進行や、投手の投球、本塁における判定を主に担当する球審(英: umpire-in-chief; plate umpire)と、各塁における判定を行う塁審(英: base umpires)、必要に応じて外野に外審(英: outfield umpires)を配置する。 一般には球審1名と各塁の塁審3名の4人で審判団を作ることが多いが、重要な試合では外審2名を加えて6人で審判団を作ることもある。試合によっては塁審の人数が2名ないしは1名になることもあれば、球審だけ(塁審なし)で審判を行うこともある。 チャレンジシステム MLBでは2014年度より審判員に加え、ニューヨークにある映像センターでのインスタントビデオ判定を採用している。監督は審判員の判定に異議がある場合、1試合で2回まで要求することができる。もし、リクエストが成功すると、残りのリクエスト数は減らされない。7回以降は審判も要求することができる。またNPBでも、2018年度よりMLBと同様にビデオ判定を行う「リクエスト制度」が導入されている。 試合の展開 戦略と戦術 野球には数多くの戦略と戦術が生み出された。その一部を以下に記す。詳細はそれぞれの項を参照のこと。 スモールボール - かつてドジャース戦法と呼ばれた ビッグボール -出塁率、四球や長打力重視する戦略 プラトーン・システム - 選手を使い分ける戦術 スクイズプレイ - 攻撃側のプレイ ヒットエンドラン - 進塁を狙う戦術 ピッチアウト - 守備側のバッテリーが採る戦術 タッグアップ - 走塁戦術 オープナー - 投手の起用法 データと野球 野球は、他のスポーツに比べて豊富な記録・統計が取られることから、数値化に適したスポーツであり、19世紀以来、有力選手の各種記録が試合結果と同様にファンに楽しみを提供してきた。 20世紀後半に入ると、それらの記録を統計学的見地から客観的に分析し、選手の評価やチームの運営・戦略を考察する「セイバーメトリクス」が提唱され、20世紀末以降、本格的に導入するチームが増加している。中でも、2000年代初め頃のオークランド・アスレチックスがビリー・ビーンGMの下でセイバーメトリクスを軸とした低予算でのチーム運営によって黄金期を築いたことで広く受け入れられるようになり、この際ビーンが提唱した画期的な戦術は、ビーンの活動の様子を描いたノンフィクション書籍の名をとって「マネー・ボール」として認知されている。 さらに、21世紀に入ると、軍事技術を応用したスタットキャストやトラックマンといった計測機材・システムが導入されたことにより、より詳細で精緻なデータ計測・分析の他、選手やボールの動きを数値化することで選手のプレーや能力そのものの改善に繋げることが可能となっており、特にMLBにおいてプレースタイルや戦術の傾向の変化に大きく影響を及ぼしている。 試合展開上の問題点 サイン盗み 第二次世界大戦後、中堅の観客席から望遠鏡を用いて捕手のサインを盗み見し、それをバッターに伝達するという手法が定着した。その後、スコアボード(各チームの各得点などを表示する大きなボード)の裏に潜んだ職員がサインを盗み、何らかのシグナルを送り打者に伝える形が生まれ、1970年代のインディアンスでは球場に設置されたチームロゴである先住民の目が開けば直球、閉じればカーブ、という形で伝達が行われていた。MLB、NPB、日本の高校野球などでもサイン盗みでトラブルになることがしばしばある。最近では、メジャーリーグで、アストロズによるサイン盗みが大問題となっている。球団史上初の世界一に輝いた2017年から翌18年にかけてサイン盗みを行っていたとされており、すでにMLBが処分。球団はジェフ・ルーノー前GM(ゼネラルマネージャー)とAJ・ヒンチ前監督を解雇したものの、2021年もまだ不正行為を続けていたと他球団の選手が指摘するなど、騒動は収束する気配がない。 そのやっかいな問題を解決するために、MLBは、2021年夏には、キャッチャーがピッチャーへ指示を伝えるための電子機器のテストを開始し、2022年のシーズンからその電子機器を正式に導入した(それを使いたいバッテリーつまりキャッチャーとピッチャーが使う。従来通りのサインでいいと考えるバッテリーは使わなくてもよい)。キャッチャーの腕にボタンが多数配置された送信専用機を巻き、ピッチャーの帽子の中に小型受信機を配し帽子の小型スピーカーから小さな音量の音声が流れる(他の選手には聞こえないくらい、小さな音が流れる)。 本塁でのクロスプレー 捕手と走者の本塁突入をめぐるクロスプレーでは選手の安全のためコリジョンルールが採用されるようになった。 各種記録 野球組織 国際野球連盟(IBAF)を中心として、特に野球が盛んなアジア、アメリカを始め、 ヨーロッパやアフリカにも地域単位での連盟・協会が存在する。さらにその傘下に各国の連盟・協会が設置されており、各国内のリーグ運営や活動を統括している。 各地域の野球 世界では主に北米のアメリカ合衆国・カナダ、欧州ではオランダ・イタリア、中南米のキューバ・ドミニカ共和国・ベネズエラ・メキシコ・プエルトリコ・ニカラグア・パナマ・オランダ領アンティル、コロンビア、東アジアの日本、大韓民国、台湾などで盛んである。とりわけパナマ、キューバ、ドミニカ共和国、ベネズエラ、ニカラグア、台湾においては、事実上の国技として親しまれている。日本では、国技と呼ばれることは少ないものの非常に人気の高いスポーツであり、「日本の国民的スポーツ」のひとつである。 北米 アメリカ野球学会によると、ジャッキー・ロビンソンがデビューした1947年、アフリカ系米国人選手の割合は全体のわずか0.9%。徐々に比率は増し、62年には10.1%と初めて1割を超えた。81年には過去最高の18.7%に上った。だが、その後は伸び悩み、2005年には9.1%と1割を切り、昨季は6.7%と過去60年で最低に並ぶ数字となった、メジャーリーグでは、有望選手でも多くは高校卒業後にマイナー契約からメジャー昇格を目指すのが基本線。低所得者層のアフリカ系も少なくない中で、「アメリカンドリーム」をつかむには、安月給で移動も過酷な下積みを経験する道のりが待っている。 韓国 歴史 近況 韓国では青少年少女の人気スポーツとなっている。1982年のKBOリーグは総観客数143万人だったが、2012年には700万人を突破し、2016年には観客動員数800万人超えを記録。動員数は世界のプロスポーツリーグ上位10位内に入っている。また、プロアマともに数々の国際大会で好成績を残している。その一方で、競技人口自体はさほど多くないのが特徴であり、それはアマチュア野球の段階で行われる少数精鋭化が要因である。 ヨーロッパ ヨーロッパでは各国でサッカー人気が根強いため野球がことさらに取り上げられることは少ないものの、欧州野球連盟には39か国が加盟しており、その中でイタリアとオランダ、ドイツの3か国ではプロリーグが存在している。 オランダ王立野球・ソフトボール協会は、野球の問題点を明らかにするためにアンケートを行い「他競技に比べ、運動量が少ない」「専用のグラウンドが必要である」「ルールが複雑である」「人数を集めるのが大変」など数多くの課題が上がり、これらの課題を解決するために野球をより簡略化したスポーツ「BeeBall」を考案した。 その他の地域 オーストラリアでは1850年代にアメリカ合衆国から金鉱に来た鉱夫により、野球がもたらされた。1989年に最初のオーストラリアン・ベースボールリーグ(en)が発足したが、11年で終了した。その後2010年からMLB機構も支援する形でオーストラリアン・ベースボールリーグが発足している。 アフリカでは、オーストラリアと類似した沿革を持つ南アフリカで比較的早く野球がある程度の広がりを見せたが、それ以外の地域については普及途上である。詳細はアフリカの野球を参照。 日本国内の「野球」 世界では通用しない日本国内の特殊事情について、節をひとつ割いて、説明する。 プロ野球については、「日本のプロ野球」を参照。 ボール 日本では広義の「野球」で用いられているボールには硬式球・準硬式球・軟式球の3種類がある。これは世界では一般的ではない状況である。 硬式球ゴムやコルクの芯を糸で巻き、牛革や馬革を縫い合わせて作った球。硬球(こうきゅう)とも言う。プロ野球や高校野球、中学生のシニア・ボーイズリーグ、小学生のリトルリーグでもこのボールを使って行う。 軟式球全日本軟式野球連盟が公認したボール。中が空洞になったゴム製の球で、とも言う。中学生以上向けの「M号球」と小学生向けの「J号球」があり、サイズ、重量、反発係数などが調整されている。硬式球に比べて安価で安全性が高いため、日本国内では草野球、少年野球、公園でのキャッチボールなど広く一般的に使われている。なお、表面に彫られたディンプルは桜の花びらを模した形状をしており、ボールの反発係数やサイズは硬式球に近いものとなっている。彫られたデザインは空気抵抗の調節の役に立っている。 準硬式球軟式球の一種として開発されたものである。大きさやボールの表面は軟式A号とほぼ同じでゴム製だが、内部は硬式球のそれと類似しており、打球感は硬式とほぼ同一である。現在は軟式球H号と呼ばれる。大学野球で多く使われる。 Kボール バット 材質により木製バットとその他の素材のバットに分けられる。公認野球規則では最大直径7 cm以下かつ全長106.7 cm以下とされているが、少年用や女性用を除くと実際の多くは全長82 - 87 cm程度である。 木製バット原則として一本の木材を削って作製する。日本のプロ野球を含めて各連盟の公認での制限が無く、どのような試合でも使える。素材はアオダモ、ホワイトアッシュ、メイプル、トネリコなどがある。 金属製バットアマチュア野球で各連盟が公認した場合に使用する。日本のプロ野球では使用が認められていない。高校硬式野球では重量を900グラム以上とする規定がある。素材はアルミ合金と超々ジュラルミンが主となっている。 繊維強化プラスチック製バット柔らかい素材を生かして軟式野球で使われるもので、通称「カーボンバット」と呼ばれる。近年では反発力や飛距離を伸ばすため、ウレタンなど複数の素材を組み合わせたハイコンバットと呼ばれるものも多数存在する。中学生の大会では使用不可となっている。 竹製バット竹材を接着剤によって貼り合わせて加工したもの。基本的には各連盟の公式戦では使えないが、耐久性に優れ、芯をはずして打つと手や腕に強い衝撃が感じられることを生かし、主に練習用として使用される。 野球場 日本においては、硬式野球仕様かつプロ野球の試合で使用される野球場は、本塁より左右両翼およびセンターのフェンスまでの距離について、古い球場では両翼90メートル、中堅120メートル弱の球場が多いが、1980年代以降に建設された球場では両翼99.1 - 100メートル、中堅122メートルを基準としている(野球場・規格の項参照)。 日本の野球場は、本塁から左右翼までの距離が等しい「左右対称」の野球場がほとんどであり、現在のNPB12球団の本拠地の中で左右対称でない野球場はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のみである。それに対し、MLBの球団の本拠地となっている野球場は本塁から左翼・右翼までの距離が異なる「左右非対称」の野球場が多く、30球場のうち27球場が左右非対称である。 歴史 日本へは、1871年(明治4年)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが当時の東京開成学校予科で教え、その後全国的に広まった。したがって、日本国内の野球の創成期の歴史は、そのまま大学野球の創成期の歴史と重なっている。1903年に米・サンフランシスコで米・カリフォルニア大学バークレイ校名誉教授・小圃千浦(日本国瑞宝章受章者)らによって日系人野球チーム“フジ・クラブ”が誕生し、日米野球交流の礎が作られることになる。 「ベースボール」を、初めて「野球」と日本語に訳したのは、第一高等中学校の野球部員であった中馬庚である(この詳細な経緯は中馬の項も参考のこと)。明治期の俳人で、1889年(明治22年)に喀血してやめるまで捕手として好んで野球をプレイした正岡子規が翻訳したという俗説があるが、子規が自らの幼名である「升(のぼる)」にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いていたことが誤解されたものと考えられている。ただし、子規が現在にまで残る野球用語を数多く翻訳したのも事実であり、2002年にはその功績によって野球殿堂入りを果たした。 野球日本代表は世界大会で度々好成績を残している。1996年のアトランタオリンピックでは準優勝、2006年と2009年のWBCでは優勝した。アマチュアレベルでもIBAFインターコンチネンタルカップで2回の優勝と5回の準優勝をしている。メジャーリーグベースボールでは野茂英雄やイチロー、松井秀喜が活躍の道を開き、現在ではダルビッシュ有、前田健太、大谷翔平らが活躍している。 なお、沖縄県出身のプロ野球選手の数は片手で数えられるくらいだったが、2010年頃から徐々に人数が増え 、現在では出身都道府県別の人口割合でプロ野球選手の輩出が最も多い 。 日本のアマチュア野球 日本では、社会人野球と学生野球(大学野球、高校野球)がそれぞれ独立して運営されている。1990年に全日本アマチュア野球連盟が発足し、社会人と学生との間で日本代表チームメンバーの派遣調整にあたるようになったが、あくまで連絡機関であり上部組織ではない。硬式野球と軟式野球(準硬式野球も含む)も互いに無関係な別組織の運営となっており、かつ硬式・軟式それぞれにおいても、国内の全関連競技団体が統一的な組織にはなっていない(詳細についてはアマチュア野球界における関連団体の組織体系を参照)。 日本では、特に高校野球などのアマチュア野球においていわゆる「ガラパゴス化」が起こっていると見られており、それに伴う日本野球のレベル低下の可能性が問題視されている。 その要因としては、トーナメント方式の大会様式、金属バットの普及、投手に対する「球数・登板間隔無制限」などが挙げられる。世界の青少年野球が「リーグ戦中心」で「球数制限、登板間隔制限」を行い、木製バットや反発係数の低い金属バットで野球をしている中で、日本の高校野球だけが「トーナメント中心」で、球数も登板間隔も無制限の「投げ放題」で、反発係数の高い金属バットを使用しているのである。 例えば、台湾の高校野球は2004年から木製バットを使用している。韓国の高校野球では、以前は金属バットを使用していたものの2000年より木製バットへ変更された。日本と同様に金属バットが普及しているアメリカでも、2012年から反発係数が木製バットと同じ程度になるバット(BBCOR規定=Batted Ball Coefficient of Restitution)のみ使用が許可されている。 大量得点したチームが盗塁やバントをすることは、MLBなど世界の野球では「マナー違反」「好ましくない」とされるが、日本では「大差でリードしていても攻撃の手を緩めないのは立派だ」と評する人さえいる。 他 「勝利至上主義」が原因で、試合に出られない高校生選手 私学の中には、試合に出られない野球部員を大量に抱え込む高校があるが、それが大きな問題にならないのは義務教育段階から「実力がなければ試合に出られないのは当たり前」という認識があるためであるとする意見もある。 国際大会 ワールドカップ (IBAF) IBAFワールドカップ(Baseball World Cup)は、1938年から2011年まで開催されていた野球の国際大会である。国際野球連盟(IBAF)が主催した。 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC) 1990年代後半からアメリカのみならずメジャーリーグベースボールにおける東アジアや北中米カリブ海諸国出身の選手の増加が進むなど、世界各国で野球人気の拡大があり、これをうけて2005年5月にMLB機構が翌年3月に野球の世界大会を開催することを発表した。2006年3月に16か国・地域が参加し、ワールド・ベースボール・クラシックの第1回大会である2006 ワールド・ベースボール・クラシックが開催された。その後、2009年、2013年にも第2回大会、第3回大会が開催された。 WBSCプレミア12 2015年11月には、世界ランキング上位12か国が野球力No.1をかけて戦うWBSCプレミア12が日本・台湾で初開催される。 夏季オリンピック 夏季オリンピックでは、野球は1904年セントルイスオリンピックで公開競技として採用されたものの、オリンピックの野球競技として正式競技になるのはそれから80年後の1992年バルセロナオリンピックからとなった(1984年ロサンゼルスオリンピック、1988年ソウルオリンピックでも公開競技として実施されている)。だが、環太平洋地域以外で盛んではないという理由でIOCは2012年のロンドン五輪以降オリンピック競技から野球とソフトボールを外すことを決定した。これに対し、日本野球機構など各種団体は2016年度以降の野球競技復活をめざしキャンペーンを行ったものの、2016年リオデジャネイロオリンピックにおいては復活は見送られた。しかし、2020年の東京オリンピックでは男子野球は同じ競技扱いとなった女子ソフトボールとともに追加種目としてだが2008年北京大会以来の実施が決定した。そして、男子野球は女子ソフトボールとともに2017年にIOC総会で選出される2024年夏季オリンピックの正式競技に立候補したが、2016年・2020年(追加種目除く)と同じ28の競技が実施されることが2017年6月9日のIOC理事会で決定したため、2024年夏季オリンピックでの正式種目での開催は無い。 野球文化 野球の人気度 アメリカ アメリカでの野球人気は中長期的に低落傾向にある。ギャラップの世論調査によると、1960年には最も人気のあるスポーツであったが、1972年にはアメリカンフットボールに抜かれ、2番人気に転落した。2013年には1番人気のアメリカンフットボールに対し、3倍近いポイント差をつけられている。伝統的に「国民的娯楽」と見なされていたが、2015年のブルームバーグの世論調査によると、アメリカ人の67%がアメリカンフットボールを国民的娯楽と見なしている一方、野球は28%に甘んじている。 ワールドシリーズの全米視聴率は2012年には史上最低の平均視聴率を記録したが、2016年は第1戦から高視聴率を記録。第7戦では視聴率25.2%、総視聴者数4000万人に達しており、ここ25年間で最高を記録している。また、視聴率調査大手のニールセンによると、2015年時点での野球の視聴者は、55歳以上の割合が50%であったが、その10年前の2005年は41%であったことからも高齢化は顕著である。MLBのポストシーズン・ゲームの視聴者の6歳から17歳の若年層が占める割合はここ10年で7%から4%まで落ち込んでいる。ESPNの「若者が好きなスポーツ選手トップ30」にも、初めて野球選手が1人もランクインしなかった。SFIAの調査によれば2009年の6歳から17歳までの野球人口は701万2000人であるのに対し、2014年では671万1000人となっている。また、この調査によるとアメリカンフットボールやバスケットボールと言ったメジャースポーツも競技人口が減少しており、ラグビーやラクロスといった、今までアメリカではマイナーとされてきた競技が競技人口を増やしている。 MLBでは観客動員が特定の球団では激減し、MLB関係者は危機感を募らせている。近年は「北米4大スポーツ」の他の競技の人気向上・競技人口増加によって市場占有率を奪われつつある。そんな中で、MLBは2017年には約7316万人(1試合あたり3万0132人)を動員。競争が厳しい中、何とか横ばいの数字を維持してきた。 日本 日本プロ野球の観客動員数は2015年途中時点で読売ジャイアンツ以外の11球団が前年比で増加した。また同年オリックス・バファローズ、広島東洋カープはシーズン途中時点で史上最多の観客動員数を記録した他、同年シーズンの総観客数がセ・リーグが1351万900人、パ・リーグが1072万6020人と、いずれも実数発表となった2005年以降で最多を記録。2016年にも交流戦の観客動員数において過去最多となる1試合平均2万9447人を記録する。以降もNPBでは観客動員数の増加が見受けられており、地元密着を主眼とした各球団の企業努力の成果とする向きもある一方で、その実態はあくまで「各フランチャイズ地域内でのリピーター増加を意味するものであり、『球団がない地域』を含む全国的な野球人気向上には繋がっていない」「新規のファンは増えていない」とする調査・分析もある。 2010年には史上初めて日本シリーズの地上波中継が3試合無くなった。日本テレビ副社長の舛方勝宏は「割り切っていえば、BSの普及のためにはいい。野球はBSのソフトとしては強力になってきた」と話し、「働き盛りの人は午後7時台に家に帰っていない。そういう状況で地上波では数字(視聴率)がとれなくなってきている。試合開始からじっくり見る団塊世代の人は、BSで見ている」と見解を示している。 台湾 台湾では1990年代後半から野球賭博や八百長が多発したことから、特にプロ野球(CPBL)の人気が大きく低下。チーム数も1997年の11球団をピークに減少し、2009年には創設時(1990年)と同じ4球団となったが、2019年6月24日に味全ドラゴンズが加盟し、5球団に拡大した。 韓国 韓国では青少年少女の人気スポーツとなっている。1982年のKBOリーグは総観客数143万人だったが、2012年には700万人を突破し、2016年には観客動員数800万人超えを記録。動員数は世界のプロスポーツリーグ上位10位内に入っている。ただし、その人気・実力に対して国内の競技人口は比較的少なく、日本が高校硬式野球部加盟校4,021校、部員数168,898人であるのに対し、韓国の高校野球部は67校、部員数は約2,400人である。もっとも、この傾向は野球に限ったことではなく、韓国には日本のような趣味的要素を含む部活動がほぼ存在せず、アマチュアの段階で少数精鋭化が行われるのが要因であるとされる。少数精鋭によるエリート教育はいわば韓国の文化であり、実際にプロアマともに数々の国際大会で好成績を残しているなど一定の成果を上げていはいるものの、「裾野を狭める」「メダル至上主義である」といった批判もある。 試合観戦 試合はイニング制を採用している。サッカーやバスケットボールのような時間制ではないため、試合の展開により試合時間に大きな幅があるが、概ね1試合2時間 - 3時間程度である(MLBでは決着が付くまで無制限の延長する)。2010年までの日本のプロ野球においては12回で決着がつかなければ引き分けにしていた。しかし、2011年に東日本大震災が発生しその影響により試合開始から3時間30分以内で決着がつかない場合は引き分けとなりこのルールは2012年シーズン終了まで採用された。なお、2013年シーズンより元の「12回で決着がつかなければ引き分ける」のルールに戻った。MLBやNPBなどのプロリーグでは年間140試合を超える多数の公式戦を行うことで大きなビジネスとなっている。 アメリカ アメリカでは、ファウルボールが観客に直撃するアクシデントが立て続けに起こっている。「ファウルボール訴訟」が多発しているが、「危険があることを予め承知してスタジアムに来る」として、観客がケガしても球団側は免責されるケースが大半である。観客席以外でファウルボールによって負傷した場合は訴えが認められることがあるが、基本的には裁判しても勝ち目はない。 日本 野球観戦における日本独自の文化としては、応援団主導の楽器や応援歌を用いたいわゆる「鳴り物応援」がプロアマ問わず定着していることが挙げられる。起源については様々な説があるが、プロ野球においては1970年代の広島東洋カープが選手に対する個別応援歌を用いての応援を始めたとされる。ただし、日本独自の文化として肯定的に取り上げられる一方で、「妨害行為・迷惑行為である」など否定的な意見も少なくない。 競技人口 日本 日本における野球は、実際に参加するスポーツというよりは、観戦スポーツとして楽しむ人が多い傾向にある。レジャー白書2005によると、2004年時点の「野球・ソフトボール用品」に対する出費は、990億円である。「球技スポーツ用品」に対する出費6640億円の15%を占めている。 「クラブ・同好会」の形で楽しむスポーツとしては一定の地位を占めている。内閣府による「体力・スポーツに関する世論調査」(2007年2月調査)では、クラブ・同好会に加入している男性のうち、22.7%が野球クラブ・同好会に加入しており、2位のゴルフ、5位テニスよりも多い。ただし、女性は5位までに含まれていなかった。 文部科学省の「我が国の体育・スポーツ施設」(平成16年3月)によると、「職場スポーツ施設」(8286カ所)においては全8286施設のうち13%(第2位)を「野球場・ソフトボール場」が占め、内閣府の統計と合致する。 日本では伝統的に野球が盛んだが、中学生の野球チームに所属する少年の数は2009年から14年までに28%減少したことが、公式統計で明らかになった。全日本軟式野球連盟の小学生の軟式野球登録チーム数を見ても、2010年に1万4824チームから、2014年には1万2663チームまで減少し、高校野球においても、硬式野球の全国の野球部員数は1997年の14万201人を底に一旦は増加に転じ2014年には史上最多となる17万312人に達するも、同年を頂点に再び漸減傾向にある。軟式に至っては、1990年度の1万9915人を頂点に右肩下がりの減少を続け、2016年度の部員総数は1990年度のほぼ半数の人数にまで減少している。 野球を題材にした玩具と作品 1886年、アメリカではタバコのおまけとして野球選手の姿を画いたカード(シガレットカード)であるベースボールカードを付けることが流行した。以後、ベースボールカードはトレーディングカードの一分野として人気がある。 パチンコやスマートボールに野球の要素を取り入れたボードゲームに野球盤がある。日本ではエポック社が1958年より生産、販売し続けている。 1960年代の日本ではちばてつや『ちかいの魔球』や梶原一騎『巨人の星』が嚆矢となり、少年漫画の一ジャンルとして野球漫画が流行した。1970年代には水島新司『ドカベン』が、1980年代にはあだち充『タッチ』が、2000年代には森田まさのり『ROOKIES』などがそれぞれ人気を博し、アニメ化や実写映画化がなされている。 アメリカでは映画のジャンルとして野球映画が継続して制作されている。1942年公開の『打撃王』はアカデミー賞を受賞している。この他には1984年公開の『ナチュラル』と1989年公開の『フィールド・オブ・ドリームス』もそれぞれアカデミー賞にノミネートされている。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の一環として選定したスポーツ分野のアメリカ映画トップ10では『打撃王』が3位、『さよならゲーム』が5位にそれぞれランクインしている。また、『がんばれ!ベアーズ』や『メジャーリーグ』などは何度も続編やリメイクが制作されている。 1983年に任天堂からファミリーコンピュータが発売されると、同年の内に野球を題材としたゲームソフト「ベースボール」が発売され人気を博した。以後、日米で「プロ野球ファミリースタジアム」シリーズや「実況パワフルプロ野球」シリーズ、「MLB The Show」シリーズなどの野球ゲームが継続して生産、販売されている。 野球界を取り巻く問題 賭博と八百長 野球の試合結果を利用した(日本においては非合法な)賭博が一部の人間の間で行われている。そのほとんどは野球界とは無関係な人間によるものだが、野球界自身の人間も関わっていることが判明した事件もある。その一部を以下に記す。 1919年 - メジャーリーグベースボールでブラックソックス事件が起きた。 1969年〜1971年 日本プロ野球で黒い霧事件が起きた。 2009年 - 台湾プロ野球で台湾黒社会が取り仕切る賭博に伴う八百長問題が発覚した。 2012年 - 韓国プロ野球で韓国プロ野球八百長事件が起きた。 2015年10月 - 読売ジャイアンツ所属の現役選手3名(福田聡志、笠原将生、松本竜也)が、野球賭博(読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題)に関与していたことが、日本野球機構の発表で明らかとなった。 類似競技 野球とは異なる起源を持つ競技 クリケット ラプター ラウンダーズ スティックボール シュラークバル 野球から派生した競技 ソフトボール ペサパッロ ティーボール キックベースボール ハンドベースボール ラケットベースボール ロングベースボール 三角ベース カラーボール野球 エクストリーム野球 ヴィンテージベースボール BeeBall キャップ投げ野球 ベースボール5 障害者向けに考案された競技 グランドソフトボール 車いす野球 身体障害者野球 脚注 注釈 出典 参考文献 レジャー白書2005 財団法人 社会経済生産性本部 ISBN 4-9902191-1-2 スポーツ白書2010 笹川スポーツ財団 ISBN 4-915944-26-3 関連項目 軟式野球、準硬式野球、硬式野球、Kボール アマチュア野球 少年野球 高校野球 大学野球 社会人野球 女子野球 プロ野球 日本プロ野球 日本野球機構 メジャーリーグベースボール 独立リーグ プロ野球チーム一覧 プロ野球選手 野球の各種記録 野球の歴史 野球評論家 野球リーグ一覧 野球くじ 野球拳 野球害毒論 外部リンク 公式 WBSC - 世界野球ソフトボール連盟 NPB - 日本野球機構 セントラル・リーグ パシフィック・リーグ その他 [ 石井研堂『明治事物起原』](国立国会図書館より) オリンピック競技 野球に関する記事
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https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%883%E6%97%A5
2月3日
2月3日(にがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から34日目に当たり、年末まであと331日(閏年では332日)ある。 できごと 1377年 - イタリア・チェゼーナに教皇領軍が侵攻し、市民2000人を虐殺。(チェゼーナの血浴) 1451年 - オスマン帝国のスルタン・ムラッド2世が死去。子のメフメト2世がスルタンに即位。 1488年 - バルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達し、アフリカ南端にたどり着いた最初のヨーロッパ人となる。 1605年(慶長9年12月16日) - 慶長地震が発生、津波被害。 1637年 - オランダのチューリップ相場が突然暴落し、チューリップ・バブルが崩壊。 1783年 - アメリカ独立戦争: スペインがアメリカ合衆国の独立を承認。 1813年 - アルゼンチン独立戦争: サン・ロレンソの戦い 1815年 - スイスで最初の商業生産を目的とするチーズ工場が設立される。 1851年(嘉永4年1月3日) - ジョン万次郎がアメリカから10年ぶりに帰国する。 1870年 - アメリカ合衆国憲法修正第15条の批准が成立。 1870年(明治3年1月3日)- 日本で大教宣布が出され、祭政一致の方針が示される。 1901年 - 国家主義団体・黒龍会が内田良平らによって創立される。 1913年 - アメリカ合衆国憲法修正第16条の批准が成立。 1917年 - 米国がドイツと国交断絶 1922年 - 現在の新潟県糸魚川市勝山地区で雪崩が発生。列車が巻き込まれ死者90人、負傷者40名。(北陸線列車雪崩直撃事故) 1930年 - ホー・チ・ミンの指導でベトナム共産党が創設される。 1931年 - ホークスベイ地震。ニュージーランド史上最大の被害を出す。258人が死亡。 1946年 - 通化事件。通化で日本人が蜂起するが八路軍に鎮圧され数千名が虐殺される。 1946年 - ダグラス・マッカーサー がGHQ民政局に日本憲法草案の作成を指示。 1952年 - 田口事件発生。 1958年 - 若乃花が第45代横綱に昇進。 1959年 - アイオワ州でロックンローラー・バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、が乗った小型飛行機が墜落し、パイロットを含めた全員が死亡。ドン・マクリーンが「アメリカン・パイ」の中でこの事故を「音楽が死んだ日」と歌う。 1962年 - ケネディ米大統領がキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表。 1966年 - ソ連の無人宇宙探査機「ルナ9号」が史上初めて月面軟着陸に成功。 1969年 - カイロで開かれたパレスチナ国民議会でヤーセル・アラファトがパレスチナ解放機構議長に任命される。 1970年 - 核拡散防止条約に日本が調印。 1972年 - 第11回冬季オリンピック・札幌大会が開幕。2月13日まで。 1984年 - カリフォルニア大学ハーバー医療センターで世界初の受精卵移植による出産が行われる。 1984年 - 札幌中島体育センターで、藤原喜明が入場する長州力を花道で鉄パイプで襲撃する。 1986年 - ピクサー・アニメーション・スタジオ創立 1996年 - 麗江地震。 1998年 - アメリカ海兵隊のパイロットがイタリア・カヴァレーゼのスキー場でリフトのケーブルをくぐりぬけて飛行しようとし、ケーブルを切断、20人を死亡させる。(チェルミス・ロープウェイ切断事件) 1998年 - Netscapeブラウザのソースコードの公開方法の会議の中で、初めてオープンソースという言葉が使われる。 2005年 - 福岡市地下鉄七隈線の天神南駅 - 橋本駅間が開業。 2011年 - IANAが予約していたIPv4アドレスの中央在庫がRIRに分配され枯渇。 2018年 - 内之浦宇宙空間観測所からSS-520ロケット5号機から超小型衛星のTRICOM-1の打ち上げに成功。 誕生日 1654年 - ピエトロ・アントニオ・フィオッコ、作曲家(+ 1714年) 1669年(寛文9年1月3日) - 荷田春満、国学者(+ 1736年) 1683年(天和3年1月7日) - 立花鑑任、第4代柳河藩主(+ 1721年) 1687年(貞享3年12月21日) - 鍋島宗茂、第5代佐賀藩主(+ 1755年) 1748年 - サミュエル・オズグッド、第4代アメリカ合衆国郵政長官(+ 1813年) 1790年 - ギデオン・マンテル、医師、古生物学者(+ 1852年) 1795年 - アントニオ・ホセ・デ・スクレ、ボリビア独立の父(+ 1830年) 1809年 - フェリックス・メンデルスゾーン、作曲家(+ 1847年) 1811年 - ホレス・グリーリー、政治家、新聞人(+ 1872年) 1826年 - ウォルター・バジョット、評論家、ジャーナリスト(+ 1877年) 1830年 - ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)、政治家、イギリス首相(+ 1903年) 1844年(天保14年12月15日) - 仙石政固、第8代出石藩主・子爵(+ 1917年) 1859年 - ヒューゴー・ユンカース、ユンカース社創設者(+ 1935年) 1865年(元治2年1月8日) - 郷誠之助、実業家(+ 1942年) 1869年(慶応4年1月10日) - 水野錬太郎、政治家(+ 1949年) 1874年 - ガートルード・スタイン、小説家(+ 1946年) 1878年 - 国分謙吉、政治家(+ 1958年) 1885年 - 田辺元、哲学者(+ 1962年) 1887年 - ゲオルク・トラークル、詩人(+ 1914年) 1889年 - カール・テオドア・ドライヤー、映画監督(+ 1968年) 1893年 - ガストン・ジュリア、数学者(+ 1978年) 1894年 - ノーマン・ロックウェル、画家(+ 1978年) 1898年 - アルヴァ・アールト、建築家、デザイナー(+ 1976年) 1899年 - 老舎、小説家、劇作家(+ 1966年) 1904年 - 目加田誠、中国文学者(+ 1994年) 1904年 - ルイージ・ダッラピッコラ、作曲家(+ 1975年) 1907年 - ウォルト・モーレー、児童文学作家(+ 1992年) 1908年 - 永井隆、医学者、随筆家(+ 1951年) 1909年 - 宮島義勇、撮影監督(+ 1998年) 1909年 - シモーヌ・ヴェイユ、哲学者(+ 1943年) 1911年 - ジャン・アラン、オルガニスト、作曲家(+ 1940年) 1912年 - 檀一雄、小説家(+ 1976年) 1921年 - ラルフ・アルファー、物理学者(+ 2007年) 1924年 - エドワード・P・トムスン、歴史家、社会主義思想家(+ 1993年) 1924年 - 石本美由紀、作詞家(+ 2009年) 1925年 - 伊藤栄樹、検察官(+ 1988年) 1926年 - 高橋二三、脚本家(+ 2015年) 1927年 - 井口洋夫、化学者(+ 2014年) 1928年 - 鴨居玲、洋画家(+ 1985年) 1929年 - カミロ・トーレス・レストレポ、コロンビアのカトリック司祭(+ 1966年) 1930年 - 品田雄吉、映画評論家(+ 2014年) 1931年 - 雨宮敬子、彫刻家 1933年 - 濱田隆士、古生物学者(+ 2011年) 1933年 - 志賀節、政治家(+2021年) 1934年 - 秋山登、元プロ野球選手、プロ野球監督(+ 2000年) 1935年 - ジョニー・"ギター"・ワトソン、ブルースギタリスト(+ 1996年) 1935年 - 飯山平一、元プロ野球選手 1936年 - 小沢さとる、漫画家 1940年 - 城之内邦雄、元プロ野球選手 1941年 - ドリー・ファンク・ジュニア、元プロレスラー 1942年 - 田中聡子、元水泳選手、コーチ 1942年 - エフゲニー・シャポシニコフ、軍人、政治家(+ 2020年) 1943年 - 福本清三、俳優(+ 2021年) 1943年 - ブライス・ダナー、女優 1944年 - ヒサクニヒコ、漫画家 1944年 - 矢玉四郎、児童文学作家、画家 1947年 - デイヴ・デイヴィス、ミュージシャン(キンクス) 1947年 - ポール・オースター、小説家、詩人 1948年 - ヘニング・マンケル、推理作家、児童文学作家(+ 2015年) 1948年 - カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ、司教、ノーベル平和賞受賞 1949年 - 北村哲治、元プロ野球選手 1950年 - モーガン・フェアチャイルド、女優 1952年 - 津雲むつみ、漫画家(+2017年) 1954年 - 根岸季衣、女優 1954年 - 斎藤輝美、元プロ野球選手 1955年 - 烏丸せつこ、女優 1956年 - 福江純、天文学者 1956年 - ネイサン・レイン、俳優 1957年 - 国谷裕子、キャスター 1957年 - みぶ真也、俳優、怪談タレント 1957年 - 玉元光男、歌手(フィンガー5) 1957年 - 河瀬雅英、元プロ野球選手 1958年 - グレゴリー・マンキュー、経済学者 1958年 - 松下建夫、元プロ野球選手 1959年 - 小西康陽、ミュージシャン 1959年 - 柴田まゆみ、シンガーソングライター 1959年 - フェルザン・オズペテク、映画監督 1960年 - ケリー・フォン・エリック、プロレスラー(+ 1993年) 1960年 - マーティ・ジャネッティ、プロレスラー 1960年 - ヨアヒム・レーヴ、元サッカー選手、指導者 1963年 - 川合俊一、タレント、元バレーボール選手 1963年 - 松井秀、アナウンサー 1964年 - 片瀬清利、元プロ野球選手 1964年 - 田亀源五郎、漫画家 1964年 - ミヒャエル・ルンメニゲ、元サッカー選手 1964年 - ENRIQUE、ベーシスト 1966年 - 伊藤毅、ミュージシャン 1966年 - 宮崎敦吉、俳優、声優 1966年 - 松本小雪、タレント 1967年 - 岡本麻弥、声優 1969年 - 彩花みん、漫画家 1970年 - リッチー・コッツェン、ミュージシャン 1970年 - オスカル・コルドバ、元サッカー選手 1970年 - 中座真、将棋棋士 1971年 - 有田哲平、お笑い芸人(くりぃむしちゅー) 1974年 - 宮島依里、声優 1974年 - 平田治、放送作家 1975年 - 牛川とこ、元レースクイーン 1976年 - バート・ミアディッチ、元プロ野球選手 1976年 - イゴール・ルカニン、フィギュアスケート選手 1976年 - アイラ・フィッシャー、女優 1976年 - 椎名英姫、女優、モデル 1976年 - ダディー・ヤンキー、ミュージシャン 1977年 - ブルーノ・エベルトン・クアドロス、元サッカー選手 1977年 - 小河正史、元声優 1978年 - 増沢由貴子、元騎手、調教助手 1978年 - 中屋大介、政治家 1979年 - 川島明、お笑い芸人(麒麟) 1980年 - 吉岡美穂、タレント、元グラビアアイドル 1980年 - 堤さやか、元AV女優 1980年 - 張力、野球選手 1981年 - 風野舞子、元タレント 1981年 - 遠藤大智、声優 1982年 - 松下亜吉、デザイナー、イラストレーター、ライター 1982年 - 清水ゆみ、女優 1983年 - 古力、囲碁棋士 1984年 - まぁこ、お笑い芸人 1984年 - 東長濱秀作、ハンドボール選手 1985年 - 八代みなせ、女優、タレント、モデル 1986年 - 柳原可奈子 、お笑い芸人 1987年 - 田中里奈、モデル 1988年 - 須藤祐実、声優 1989年 - 延江大輔、元プロ野球選手 1989年 - 渡邉卓也、プロボクサー 1990年 - ショーン・キングストン、ラッパー 1990年 - 小原莉子、声優、ギタリスト(元The Sketchbook) 1990年 - 鈴木美咲、声優 1990年 - 浦尾岳大、俳優、声優 1990年 - マイケル・ウチェボ、サッカー選手 1991年 - まえだくん、漫画家 1991年 - 谷内亮太、プロ野球選手 1992年 - 大野将平、柔道家 1992年 - オーランド・カリクステ、プロ野球選手 1992年 - 北みぃな、元グラビアアイドル 1992年 - 杉浦里穂、歌手、モデル(元キャナァーリ倶楽部) 1992年 - シュミット・ダニエル、サッカー選手 1992年 - マイロ、ラッパー、音楽プロデューサー 1993年 - 池田晃信、俳優 1993年 - 中村桃佳、競艇選手 1994年 - ルーグネッド・オドーア、プロ野球選手 1995年 - 土屋太鳳、女優 1996年 - 井阪郁巳、俳優 1996年 - 熊谷知博、元子役 1996年 - 田村真子、TBSアナウンサー 1997年 - 奥西亮太、元子役 1997年 - 髙橋光成、プロ野球選手 1997年 - 井桁弘恵、女優 1998年 - 成田翔、プロ野球選手 1999年 - 橋本環奈、女優、歌手 1999年 - 弓木奈於、アイドル(乃木坂46) 2000年 - 斎藤アリーナ、ミュージシャン 2000年 - 杉浦花菜、元子役 2000年 - 伊藤康祐、プロ野球選手 2000年 - 谷口茉妃菜、アイドル(STU48) 2000年 - 太田和さくら、アイドル 2003年 - 久松由依、アイドル(fishbowl) 2004年 - レイ、アイドル(IVE) 2005年 - 平野夢来、モデル 生年不明 - あゆみゆい、漫画家 生年不明 - 永見はるか、元声優 生年不明 - 松永雪希、元声優 生年不明 - AKi、ミュージシャン(シド) 生年不明 - 吉田羊、女優 生年不明 - 中村徳也、声優 生年不明 - 東和良、声優 生年不明 - TAKUYA、ミュージシャン(Qyoto) 忌日 619年 - カンタベリーのラウレンティウス、カンタベリー大司教 853年(仁寿2年12月22日) - 小野篁、歌人(* 802年) 1014年 - スヴェン1世、デンマーク王(* 960年) 1116年 - カールマーン、ハンガリー王(* 1070年頃) 1117年(永久4年12月30日)- 源基綱、平安時代の公卿(* 1049年) 1239年(暦仁元年12月28日)- 九条任子、後鳥羽天皇の中宮(* 1173年) 1399年 - ジョン・オブ・ゴーント、ランカスター公(* 1340年) 1428年(応永35年1月18日) - 足利義持、室町幕府第4代将軍(* 1386年) 1451年 - ムラト2世、第6代オスマン帝国スルタン(* 1404年) 1468年 - ヨハネス・グーテンベルク、印刷技術の開発者(* 1390年代) 1573年(元亀元年1月1日)- 村上義清、戦国大名(* 1501年) 1751年 - ムザッファル・ジャング、ニザーム藩王 1752年(宝暦元年12月19日) - 大岡忠相、幕臣、大名、大岡越前のモデル(* 1677年) 1779年 - ルイ・ド・ジョクール、百科全書の執筆に携わった学者(* 1704年) 1798年(寛政9年12月18日) - 宇田川玄随、医学者、蘭学者(* 1756年) 1814年 - ヤン・コジェルフ、作曲家(* 1738年) 1862年 - ジャン=バティスト・ビオ、物理学者(* 1774年) 1887年 - ベル・スター、西部開拓時代のアウトロー(* 1848年) 1900年 - デイヴィッド・マッケンドリー・キー、第30代アメリカ合衆国郵政長官(* 1824年) 1900年 - オトカル・ノヴァーチェク、ヴァイオリニスト、作曲家(* 1866年) 1901年 - 福沢諭吉、思想家、慶應義塾創設者(* 1835年) 1911年 - 島地黙雷、浄土真宗の僧侶(* 1838年) 1919年 - エドワード・ピッカリング、天文学者(* 1846年) 1923年 - 黒木為楨、日本陸軍の大将(* 1844年) 1924年 - ウッドロウ・ウィルソン、第28代アメリカ合衆国大統領(* 1856年) 1925年 - オリヴァー・ヘヴィサイド、技術者、数学者(* 1850年) 1935年 - ヒューゴー・ユンカース、ユンカース社創設者(* 1859年) 1936年 - ゾフィー・フォン・シェーンブルク=ヴァルデンブルク、アルバニア公ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィートの妃(* 1885年) 1945年 - ローラント・フライスラー、ナチス・ドイツ人民法廷長官(* 1893年) 1946年 - エドワード・オッペンハイム、小説家(* 1866年) 1947年 - マーク・ミッチャー、アメリカ海軍の大将(* 1887年) 1952年 - 蒲原有明、詩人(* 1876年) 1959年 - 岡田正平、新潟県知事(* 1878年) 1959年 - バディ・ホリー、ロックンロール歌手(* 1936年) 1959年 - リッチー・ヴァレンス、ロックンロール歌手(* 1941年) 1959年 - 加藤厚太郎、実業家(* 1895年) 1967年 - 泉谷祐勝、野球選手(* 1882年) 1975年 - ウム・クルスーム、歌手(* 1904年) 1978年 - 置鮎与一、博多人形作家(* 1896年) 1987年 - 高松宮宣仁親王、皇族(* 1905年) 1989年 - ジョン・カサヴェテス、映画監督(* 1929年) 1994年 - アラン・ヘルフリッチ、陸上競技選手(* 1900年) 1995年 - 古井喜實、内務省官僚、政治家(* 1903年) 1997年 - ボフミル・フラバル、小説家(* 1914年) 1997年 - 与田凖一、児童文学者、詩人(* 1905年) 2000年 - 二階堂進、政治家(* 1909年) 2004年 - ノラ・グルムリーコヴァー、ヴァイオリニスト(* 1930年) 2005年 - エルンスト・マイヤー、生物学者(* 1904年) 2005年 - ズラブ・ジワニア、グルジア首相(* 1963年) 2006年 - ロマーノ・ムッソリーニ、ピアニスト、画家(* 1927年) 2009年 - 泡坂妻夫、推理作家(* 1933年) 2012年 - ベン・ギャザラ、俳優(* 1930年) 2013年 - 十二代目市川團十郎、歌舞伎俳優、演出家(* 1946年) 2014年 - ジョーン・モンデール、アメリカ合衆国のセカンドレディ(* 1930年) 2016年 - 井上洋介、絵本作家、イラストレーター(* 1931年) 2016年 - モーリス・ホワイト、ミュージシャン(アース・ウィンド・アンド・ファイアー)(* 1941年) 2017年 - 三浦朱門、小説家(* 1926年) 2017年 - 林義郎、政治家(* 1927年) 記念日・年中行事 立春( 1897年、2021年以降4年ごと、2057年、2058年) 節分( 1985年 - 2020年)※立春の前日 のり巻きの日()※節分と同日 節分に食べる恵方巻にちなんで、全国海苔貝類漁業協同組合連合会が1987年に制定。 大豆の日() この日が豆撒きをする節分になることが多いことから。ニチモウバイオティックスが制定。 4人のチャプレンの日() 1943年のこの日に、魚雷攻撃を受けたアメリカ陸軍の輸送艦ドーチェスターで救助活動を行って戦死した4名の従軍聖職者を賛える日。1948年にアメリカ合衆国議会が制定。 () 1969年のこの日、モザンビークの独立指導者・エドゥアルド・モンドラーネが、爆弾入りの荷物により暗殺された。 解放殉死者の日() 退役軍人の日() 大岡越前の日() 享保2年(1717年)旧暦2月3日に、大岡忠相が南町奉行に就任したことに由来している。 ベトナム共産党設立記念日() 1930年。ベトナムの都市によくある「2月3日通り」()はこれに由来する。 にじさんじの日() 「にじさんじ」を運営するANYCOLOR株式会社が制定。多くの人に「にじさんじ」のメンバーを知ってもらうことが目的。日付は「に(2)じさん(3)じ」とグループ名に2と3の数字が入っていることから。また2月は「にじさんじ」が本格的に活動を始めた月であることから。 鬼除け鬼まんじゅうの日() 岐阜県瑞浪市の「美濃廣庵 満開堂」が制定。中部地方のソウルフードと呼ばれ、同店で人気の和菓子「鬼まんじゅう」を全国の人々に知ってもらうのが目的。日付は寒さがピークを迎える頃の節分に温かい蒸したての「鬼まんじゅう」を食べて、鬼が現れる夜までに厄除けをしてもらいたいとの思いから。 ササミ巻きガムの日() 株式会社ペティオが制定。ワンちゃんのおやつとして2000年2月から発売をしている人気商品の「ササミ巻きガム」を、より多くの人に知ってもらうことが目的。日付は節分に食べると縁起が良いとされる恵方巻きに習い、2月3日に。 乳酸菌の日() 毎月23日の「乳酸菌の日」と共に、1年の中でシンボル的な日としてカゴメ株式会社が制定。日付は2と3で「乳酸」の語呂合わせから。 絵手紙の日() 日本絵手紙協会が制定。「絵手紙」を書いて送ることを世界中に呼びかける日。日付は、2と3で「ふみ」と読む語呂合わせから。 フィクションのできごと 誕生日(フィクション) 1990年 - 夏油傑、漫画・アニメ『呪術廻戦』に登場するキャラクター 1995年 - 昼神幸郎、漫画・アニメ『ハイキュー!!』に登場するキャラクター 2078年 - フェイズ・シッファー・ベレス、ゲーム『スターオーシャン4 -THE LAST HOPE-』に登場するキャラクター 生年不明 - 江戸城本丸、漫画・アニメ『まじかる☆タルるートくん』に登場する主人公のひとり 生年不明 - 遠坂凛、ゲーム・アニメ『Fate/stay night』のヒロイン 生年不明 - 立花つぼみ、漫画・アニメ『ないしょのつぼみ』の主人公 生年不明 - Elmo(エルモ)、『セサミストリート』に登場するキャラクター 生年不明 - 茶ひげ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター 生年不明 - ビザール、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター 生年不明 - フザ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター 生年不明 - 小石川健二郎、漫画・アニメ『テニスの王子様』に登場するキャラクター 生年不明 - 矢胴丸リサ、漫画・アニメ『BLEACH』に登場するキャラクター 生年不明 - ジャン・ラッセル、漫画『D.Gray-man』に登場するキャラクター 生年不明 - 13号、漫画・アニメ『僕のヒーローアカデミア』に登場するキャラクター 生年不明 - 九ノ瀬ミミ、漫画・アニメ『エルドライブ【ēlDLIVE】』に登場するキャラクター 生年不明 - 保科美友、漫画・アニメ『君のいる町』に登場するキャラクター 生年不明 - 有戸月、漫画『かけあうつきひ』に登場するキャラクター 生年不明 - セルゲイ・ミハイロビッチ・マレンコフ、漫画・アニメ『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』に登場するキャラクター 生年不明 - 八坂こう、漫画・アニメ『らき☆すた』に登場するキャラクター 生年不明 - シリウス・ハシバ、漫画・アニメ『隠の王』に登場するキャラクター 生年不明 - ギリシャ、漫画、アニメ『Axis powers ヘタリア』に登場するキャラクター 生年不明 - スウォン、漫画・アニメ・舞台『暁のヨナ』に登場するキャラクター 生年不明 - 丸太町ちか、漫画・アニメ『いなり、こんこん、恋いろは。』に登場するキャラクター 生年不明 - 白築ナナ、漫画 『シノハユ the dawn of age』に登場するキャラクター 生年不明 - 鬼瓦輪、漫画・アニメ『武装少女マキャヴェリズム』に登場するキャラクター 生年不明 - 木霊文花(こだまふみか)、アニメ『妖怪ウォッチ』に登場するキャラクター 生年不明 - 要瑞保、アニメ『イナズマイレブン アレスの天秤』に登場するキャラクター 生年不明 - ミミ・バルゲリー、小説・アニメ『ロウきゅーぶ!』に登場するキャラクター 生年不明 - 音無柘榴、小説・アニメ『クオリディア・コード』に登場するキャラクター 生年不明 - 郡千景、小説・漫画・ドラマCD『乃木若葉は勇者である』に登場するキャラクター 生年不明 - 姫野二三、アニメ・漫画『舞-HiME』に登場するキャラクター 生年不明 - 風花真白、アニメ・漫画『舞-HiME』に登場するキャラクター 生年不明 - 如月未緒、ゲーム『ときめきメモリアル』に登場するキャラクター 生年不明 - 双海詩音、ゲーム『Memories Off』に登場するキャラクター 生年不明 - オリビア、ゲーム『どうぶつの森』シリーズに登場するキャラクター 生年不明 - 聖沙・B・クリステレス、ゲーム『ティンクル☆くるせいだーす』に登場するキャラクター 生年不明 - 柊木綾子、ゲーム・アニメ『ワルキューレロマンツェ』に登場するキャラクター 生年不明 - 二宮飛鳥、ゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』に登場するキャラクター 生年不明 - 霧生院竜胆、ゲーム『ももいろ性癖開放宣言!』に登場するキャラクター 生年不明 - 蓮見うらら、ゲーム『バトルガール ハイスクール』に登場するキャラクター 生年不明 - 猪瀬連十郎、ゲーム『ハナヒメ*アブソリュート!』に登場するキャラクター 生年不明 - 瀬尾鳴海、ゲーム・アニメ『スタンドマイヒーローズ』に登場するキャラクター 生年不明 - 春日ツバキ、ゲーム『ブルーアーカイブ -Blue Archive-』に登場するキャラクター 生年不明 - 天羽翼、メディアミックス『Starry☆Sky』に登場するキャラクター 生年不明 - 高見沢アリサ、メディアミックス『告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜』に登場するキャラクター 生年不明 - 城北玄刃、メディアミックス『Re:ステージ!』に登場するキャラクター 生年不明 - 夢大路文、メディアミックス『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-』に登場するキャラクター 出典 (18歳未満閲覧禁止のサイトを含みます) 関連項目
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%20%28%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF%29
オリンピック (曖昧さ回避)
オリンピック (Olympic) 競技会 古代オリンピック - 紀元前9世紀から紀元後4世紀にかけて、古代ギリシアで4年に1度行われた競技会。 近代オリンピック - 西暦が偶数の隔々年に国際オリンピック委員会が開催する世界的なスポーツ大会。 夏季オリンピック 冬季オリンピック ユースオリンピック - ユース世代(14歳から18歳)を対象としたオリンピック。4年に1回、一般世代の五輪とは反対の季節(夏季五輪の年は冬季大会、冬季五輪の年は夏季大会)で行う。 ジュニアオリンピック - 日本オリンピック委員会 (JOC) 後援の、学童・中学生をメインにして行われるスポーツ大会。 古代オリンピックや近代オリンピックを模して行われる競技会。 国際科学オリンピック - 国際数学オリンピック 国際物理オリンピック 国際化学オリンピック 国際情報オリンピック 国際生物学オリンピック 国際天文学オリンピック ユニバーシアード (学生のオリンピック) FISM (マジックのオリンピック) 医療オリンピックC-1 (柔道整復師、はり師、きゅう師、あん摩マッサージ指圧師のオリンピック) 地名 オリンピック半島 - アメリカ合衆国ワシントン州の半島。 オリンピック山脈 - オリンピック半島に位置する山脈。 オリンピック国立公園 - オリンピック半島に位置する国立公園。世界遺産(自然遺産)。 企業 Olympicグループ - 日本のスーパーマーケットチェーンと、その運営企業グループ。 オリンピック航空 - ギリシャの航空会社。 オリムピック - 釣具メーカー。1992年にマミヤ光機と合併しその後はマミヤ・オーピー。釣具事業からは撤退したが、2000年に別メーカーとして復活。 オリンピックスポーツ - 1996年に倒産したスポーツ用品店。※同名の別法人の店舗あり オリンピックスポーツクラブ - 以前存在したスポーツクラブ。上記企業からダイエーが引き取り「ダイエーオリンピックスポーツクラブ」となった後、「コナミオリンピックスポーツクラブ」となりコナミ(後のコナミホールディングス)の子会社となった。→コナミスポーツクラブ サッカー オリンピック・リヨン - フランスのプロサッカークラブ オリンピック・マルセイユ - フランスのプロサッカークラブ その他 オリンピック作戦 - 太平洋戦争中のアメリカ軍による九州南部への上陸作戦。実行されなかった。 オリンピッククイズ - テレビ朝日系で放送されたクイズ番組。 家族対抗オリンピッククイズ - 1979年に放送された番組 オリンピッククイズ 燃えろ!アトランタ王 - 1996年に放送された番組 ハイパーオリンピック - 近代オリンピックをイメージして作られたコンピュータゲーム。 グランド・オリンピック・オーディトリアム - アメリカ合衆国・ロサンゼルスに存在したインドアアリーナ オリンピック (客船) - 北大西洋を航路としたクルーズ船。 オリンピック (カクテル) - ブランデー・ベースのカクテル。 OLYMPIC (アルバム) - 大江千里のアルバム。
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近代オリンピック
は、 フランスの教育学者クーベルタン男爵の「スポーツによる青少年教育の振興と世界平和実現のために古代オリンピックを復興しよう」という呼びかけに応じて開催されるようになった、オリンピズムに基づき行われる祭典であり、オリンピズムを人々に広めるための祭典である。オリンピズム(オリンピック哲学)が目指しているのは、平和な世界を実現し人間の尊厳を護るためには人類の調和的な成長が必要なので、そのためにスポーツを役立てることである。近代オリンピックは平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。国際オリンピック委員会(略称: IOC)が開催する。各国語で短く「Olympics オリンピック」と呼ばれ、日本語ではオリンピックシンボルにちなんで五輪(ごりん)と呼ぶこともある。 概要 スポーツが備えている力を活用し、良き手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などを人々に広め、人々の生き方を高めるための祭典であり、それによって平和な世界や人間の尊厳が護られた世界が実現することを目的としており、オリンピズムに基づいて開催され、そのオリンピズムを人々に広めるための祭典である。近代オリンピックの最重要の目的は人間の生き方を高め人類の平和や人間の尊厳を実現することであり、スポーツはそれのための手段である。 クーベルタンによる提唱、開催の目的、目的を明記した憲章 フランスのピエール・ド・クーベルタンが、古代ギリシアの人々の行動に着目して着想した。古代ギリシャ人たちも普段は互いに憎みあい、戦争を行い、殺しあっていたのだが、ゼウス神の聖地であるオリンピアの地でゼウス神にささげる祭典が開催される間だけは、考え方を一変させ、戦争を一時的に停止し(休戦。オリンピックの期間の停戦を特にオリンピック休戦と言う)、一か所に集い、「美にして善なること」を重んじ、つまり身体的な美しさだけでなく各人の心も道徳的であることを重んじた。クーベルタンは古代ギリシアの人々のようにスポーツの持つ力を活用することを着想し、19世紀末のパリ大学ソルボンヌ大における会議で提唱し、それが決議されたのである。 近代オリンピックは、人々の道徳性を高め世界平和や人間の尊厳を実現するためにオリンピズムを広めることが最重要の目的で開催される祭典であるので、それを明記したオリンピック憲章が制定されており、関係者が常に守るべき国際オリンピック委員会倫理規定も定めてある。 開催周期 もともと近代オリンピックは夏季オリンピックと冬季オリンピックが同じ年に、4年ごとに行われており、このオリンピックによる4年間、4年ごとのピリオド(期間)はOlympiad オリンピアードと呼ばれている。1992年までは夏季と冬季が同じ年に行われていた(1992年バルセロナ夏季オリンピック、1992年アルベールビル冬季オリンピック)のであるが、IOCは1986年のローザンヌにおける総会で同じ年に開催するという点を変更することを決議し、その後も夏季オリンピックも冬季オリンピックもそれぞれ4年毎に開催されていることに変更は無いが、夏季オリンピックはオリンピアードの第一年に行い、冬季オリンピックはオリンピアードの第三年に行うようにされた。 夏季と冬季に大会があり、夏季オリンピック第1回は、1896年にアテネ(ギリシャ)で開催され、2度の世界大戦による中断を挟みながら継続されている。冬季オリンピックの第1回は、1924年にシャモニー・モンブラン(フランス)で開催された。 冬季オリンピックが始まった当初は夏季オリンピックの開催国の都市に優先的に開催権が与えられてきたが、降雪量の少ない国での開催に無理が生じることから1940年代前半に規約が改正され、同一開催の原則が廃止された(1928年アムステルダム大会時の際、オランダでは降雪量不足で雪山が無く、会場の確保困難であったことからこの年の冬季大会はサンモリッツ(スイス)で開催された)。 大会の公用語は、第一公用語がフランス語(近代オリンピック開催を提唱したピエール・ド・クーベルタンの母語がフランス語であった事に因む)、第二公用語が英語である。フランス語版と英語版の規定に相違がある場合はフランス語を優先する、としていることでフランス語を第1公用語とする事を明らかにしている。現在は、開催地の公用語のリストにフランス語も英語も含まれていない場合は、開閉会式等では開催地の公用語を第三の言語として加える場合がある。 1988年ソウル大会以降、パラリンピックとの連動が強化され、オリンピック終了後、同一国での開催がおこなわれている。 夏季オリンピックは開催されなかった場合も回数としてカウントされるが、冬季オリンピックは開催されなかった場合は回数としてカウントされない。 なお、夏季大会において第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・イギリス・フランス・スイス・オーストラリアの5か国のみである。ギリシャによる開催は、1896年と2004年が正規のものとされている。第1回大会の十年後、1906年アテネ中間大会が唯一、例外的に開催され、開催事実も記録も公式に認めてメダル授与も行っている。しかし、4年に1度のサイクルから外れた開催であったため、後にこれはキャンセルとされ現在では正規の開催数に計上されておらず優勝者もメダリスト名簿から外され登録されてはいない。 歴史 各期毎の概略は、以下を参照。 黎明期 1896年、クーベルタンの提唱により、第1回オリンピックをギリシャ王国のアテネで開催することになった。資金集めに苦労し、会期も10日間と短かったが、バルカン半島の小国の一つという国際的地位をいっそう向上させたいというギリシャ王国の協力もあり大成功に終わった。しかし、1900年のパリ大会、1904年のセントルイス大会は同時期に開催された万国博覧会の附属大会に成り下がってしまい、賞金つきの競技(1900年)、キセルマラソンの発覚(1904年)など大会運営にも不手際が目立った。1908年のロンドン大会、1912年のストックホルム大会から本来のオリンピック大会としての体制が整いだした。1908年のロンドン大会ではマラソンの走行距離は42.195kmであったがこれが1924年パリ大会以降固定され採用されている。この時期には古代オリンピックに倣いスポーツ部門と芸術部門のふたつ競技会が開催されており、クーベルタン自身は1900年パリ大会において芸術部門で金メダルを獲得している。 発展期 第一次世界大戦で1916年のベルリン大会は開催中止となったが、1920年のアントワープ大会から再開され初めてオリンピック旗が会場で披露された。この時期は、選手村・マイクロフォン(1924年)、冬季大会の開催(1924年)、16日前後の開催期間(1928年)、聖火リレー(1936年)など、現在の大会の基盤となる施策が採用された時期である。この時期からオリンピックは万博の添え物という扱いから国家の国力を比べる目安として国際社会から認知されるようになり「国を挙げてのメダル争い」が萌芽した。この様子は1924年のパリ大会を描いたイギリス映画『炎のランナー』に詳しい。開催国のほうもオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントだと認識するようになりオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、1936年のベルリン大会では当時のナチス政権は巧みに国威発揚に利用した。聖火リレーやオリンピック記録映画の制作などの劇的な演出もこのとき始まった。その後、第二次世界大戦でオリンピックは2度も流会してしまうこととなる。 女性の参加 近代オリンピックで初めて女性の参加が認められた競技は、1900年の第2回パリ大会でのテニスとゴルフである。その後セントルイス大会ではアーチェリー、ロンドン大会ではアーチェリー・フィギュアスケート・テニス、ストックホルム大会ではダイビング・水泳・テニス、アントワープ大会ではダイビング・フィギュアスケート・水泳・テニスと変わったが、これらはいずれも大会を運営する中産階級の男性が許容できる「女性らしい」競技であった。クーベルタンは「体力の劣る女性の参加はオリンピックの品位を下げることにつながる。」と女性の男性的競技の参加に否定的だった。アリス・ミリアは1919年に女子の陸上競技の参加を国際オリンピック委員会に拒否されると、1921年に国際女子スポーツ連盟を組織し、1928年アムステルダムオリンピックで5種目ではあったが陸上競技が採用された。 拡大期 第二次世界大戦が終結し、1948年にロンドンでオリンピックが再開されたが、敗戦国の日本とドイツは招待されなかった。また1948年のロンドン大会から芸術部門が廃止され、スポーツ部門のみとなった。これによりオリンピックは「古代ギリシャの権威を身にまとった世界屈指の国際的なスポーツ競技大会」としての性格を確立することになった。1952年のヘルシンキ大会よりソビエト連邦が初めて参加し、オリンピックは名実と共に「世界の大会」と呼ばれ、同時に東西冷戦を象徴する場としてアメリカとソ連のメダル争いは話題となった。それに伴って二つの中国問題(中国と台湾)やドイツ問題(東ドイツと西ドイツ)などといった新たな問題点も浮かび上がってくることとなる。航空機の発達は、欧米に限られていたオリンピックの開催を世界各国で可能にした。1956年メルボルン大会(オーストラリア)は南半球初、1964年東京大会(日本)はアジア初の開催地として、大会が行われた。 オリンピック冬の時代 オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになると、1968年のメキシコシティ大会では黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会ではアラブのゲリラによるイスラエル選手に対するテロ事件まで起きた(ミュンヘンオリンピック事件)。1976年のモントリオール大会になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対してアフリカの諸国22ヶ国がボイコットを行った。そして、1980年のモスクワ大会ではソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いでボイコットを行った。1984年ロサンゼルス大会ではソ連と東側諸国が報復ボイコットを行ない、参加したのはソ連と対立していた中国とルーマニアだけだった。中でも、イラン革命後のイラン・イスラム共和国はモスクワとロサンゼルス双方のオリンピックをボイコットしている。 オリンピックが巨大化するに従って財政負担の増大が大きな問題となり、1976年の夏季大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続いた。 商業主義 1984年のロサンゼルス大会は画期的な大会で、大会組織委員長に就任したピーター・ユベロスの指揮のもとオリンピックをショービジネス化した。結果として2億1500万ドルの黒字を計上した。スポンサーを「一業種一社」に絞ることにより、スポンサー料を吊り上げ聖火リレー走者からも参加費を徴収することなどにより黒字化を達成したのである。その後「オリンピックは儲かる」との認識が広まり立候補都市が激増し、各国のオリンピック委員会とスポーツ業界の競技レベル・政治力・経済力などが問われる総力戦の様相を呈するようになり、誘致運動だけですら途方もない金銭が投入されるようになってゆく。 1989年12月のマルタ会談を以て冷戦が終結してからオリンピックへの冷戦の影響は減り、共産圏と旧共産圏のステート・アマも減ったがその反面ドーピングの問題や過度の招致合戦によるIOC委員に対する接待や賄賂など、オリンピックに内外で関与する人物・組織の倫理面にまつわる問題が度々表面化するようになった。招致活動や関連団体への政治家の参入も増えている。 北京大会(+約10億元)やロンドン大会(+約3000万ポンド)は、黒字となり商業的には成功した。 一方でIOC加盟、非加盟にかかわらず、ほとんどの国際競技連盟主催の大会で会場広告は許されておりパラリンピックでも許されるようになったが、オリンピックではかたくなに禁止されている。広告収入がないだけでなく、オリンピック開催時の会場常設広告費の補償や撤去費、復元費は開催都市の負担を増している。 アマチュアリズムの崩壊とプロ化 アマチュアリズムの根底には「スポーツは貴族のもの」という階級主義があると考える人も多くいて世界に反階級主義が広がる中、アマチュアリズムはだんだんと軽んじられてきた。アマチュアリズムを徹底するとオリンピックは働かないでもスポーツに専念できる資産家ほど活躍できる状況になってしまうのであった。 一方で共産圏、旧共産圏の国や日本がスポーツアスリートを公務員として雇ったり、日本ではスポーツに専念している実質のプロ選手を国・自治体・公共団体・企業が雇うステートアマチュア、企業アマチュアが横行しアマチュアリズムを進めるにはステートアマチュア、企業アマチュアをやっていない国からの不満が抑えられない状況になっていた。 1974年ウィーンでのIOC総会においてオリンピック憲章からアマチュア条項が削除されプロ選手の参加は各競技の国際競技連盟に任されることになった。 そののち、IOC内での「オリンピックを最高の選手が集う場にしたい」という意志と商業主義の台頭もあり、プロ選手の参加は促された。 アジェンダ2020 21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が北京(中華人民共和国)、2016年が南米初のリオデジャネイロ(ブラジル)といったBRICs各国に広まる。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。 オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、トーマス・バッハ第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月のIOC臨時総会で採択された。その一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)。1984年のロサンゼルスが6,829人(221種目)だったが、2008年の北京では10,942人(302種目)まで増大していた。他にも、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた。 開催都市 開催都市の多くが北半球の都市である。南半球では冬季大会の開催が皆無、夏季大会もオーストラリアのメルボルンで開かれたメルボルンオリンピック(1956年)、同じくオーストラリアのシドニーで開催されたシドニーオリンピック(2000年)、ブラジルのリオデジャネイロで開催されたリオデジャネイロオリンピック(2016年)の3大会のみである(2032年にオーストラリアのブリスベンで4回目の南半球での夏季大会が行われる予定)。また、これまでアフリカで開催されたことはない。 開催を行うに際しては、各国・地域でオリンピックの開催を希望する自治体からの審査・ヒヤリングを各国・地域オリンピック委員会が行い、まずその国・地域内でのオリンピック開催候補地1箇所を選ぶ。その候補地を国際オリンピック委員会に推薦し正式に立候補を行い、国際オリンピック委員会総会において、委員会理事による投票で過半数を得ることが必要である。ただし投票の過半数を満たしていない場合、その回の投票における最下位の候補地を次の投票から除外する仕組みで繰り返し過半数が出るまで投票を繰り返す(最終的に2箇所になったところで決選投票となる)。 開催都市一覧 参考: シンボル 式典 開会式 開会式では、オリンピック賛歌を演奏することやオリンピック旗掲揚、開催国の国歌斉唱または演奏、走者達のリレーによる聖火点火、そして平和の象徴の鳩が解き放たれることがオリンピック憲章で規定されていた。しかし、聖火台で鳩を焼いてしまったソウル大会での一件や、外来生物への危惧や鳩の生息できる環境ではない場所(特に冬季オリンピック)でオリンピックが行われる事もあるなどの理由から動物愛護協会の反対もあり、1998年の長野大会からは風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になった。2004年版以降のオリンピック憲章では、鳩の使用についての規定も削除された。ロンドン大会では、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し、そのうちの一人がワイヤーアクションで空中へ上昇した。 開会式の入場行進はオリンピックの発祥地であるギリシャの選手団が先導し、その後参加国は開催国の言語順に入場し、最後に開催国の選手団が入場する。ギリシャのアテネが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導して入場し、最後にギリシャの選手団が入場していた。 開会宣言はオリンピック憲章55条3項により以下のとおり。 夏季オリンピック 私は、第○回(次)近代オリンピアードを祝し、オリンピック(開催都市名)大会の開会を宣言します。 冬季オリンピック 私は、第○回オリンピック冬季競技大会(開催都市名)大会の開会を宣言します。 使用される言語は開催国の任意であるが、内容の改変、アドリブは認められない。2002年のソルトレークシティオリンピックではジョージ・W・ブッシュ大統領が「(オリンピック開催国に選ばれたことを)栄誉とし、(その成功に)専心しつつ、かつ(その機会を得たことに対する)感謝の念に満ちたこの国を代表し(On behalf of a proud, determined and grateful nation)」の一節を付け加えて開会宣言したが、これはオリンピック憲章違反である。 なお、2021年の東京オリンピックでは日本国天皇徳仁は「オリンピアードを祝し、」の代わりに「オリンピアードを記念する、」と述べ、開会宣言がなされた。これは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行を踏まえ、IOCが和訳の一部を祝祭色の薄い言葉に変えるという判断をしたためである。 また、開催国国家元首による開会宣言の直後にその大会ごとのファンファーレが演奏されることが通例となっている。1984年のロサンゼルス大会のファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ作曲)は世界的に有名となった。なお、あくまでその大会ごとのファンファーレであって、オリンピックの公式ファンファーレは存在しない。 なお、夏季大会では試合日程の関係で開会式の前に競技を開催するもの(例えばサッカーなど)がある。 閉会式 表彰式 競技種目 大会の継続的運営と商業主義 大会の大規模化とともに開催に伴う開催都市と地元政府の経済的負担が問題となったが、ユベロスが組織委員長を務めた1984年のロサンゼルス大会では商業活動と民間の寄付を本格的に導入することによって、地元の財政的負担を軽減しオリンピック大会の開催を継続することが可能になった。それを契機とし、アディダスや電通などを始めとした企業から一大ビジネスチャンスとして注目されるようになった。 元々、オリンピックは発足当初からアマ選手のみに参加資格を限って来たが、旧共産圏(ソ連やキューバなど)のステートアマ問題などもあり、1974年にオーストリア首都ウィーンで開催された第75回IOC総会で、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除した。さらに観客や視聴者の期待にも応える形で、プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになった(当初はテニスなど限られていたが、後にバスケットボール、サッカー、野球などに拡大)。 1984年ロサンゼルス大会の後、フアン・アントニオ・サマランチ主導で商業主義(利権の生成、放映権と提供料の高額化)が加速したと言われたことがあり、またかつて誘致活動としてIOC委員へ賄賂が提供された事などが問題になったことがある。さらには、年々巨大化する大会で開催費用負担が増額する傾向があったがジャック・ロゲ会長の代になり、これまで増え続けていた競技種目を減らし、大会規模を維持することで一定の理解を得るようになった。 なお、現在のIOCの収入構造は47%が世界各国での放送権料で、また45%がTOPスポンサーからの協賛金、5%が入場料収入、3%がオリンピックマークなどのライセンス収入となっており、このうち90%を大会組織委員会と各国オリンピック委員会、各競技団体に配布する形で大会の継続的運用を確保している。 開催費用 (費用:アメリカ合衆国ドル) 問題点 平和の祭典という根本目的に反する出来事 オリンピックは平和の祭典であるが、その本来の目的とは逆に、IOC側の意図や予想を超えて、戦争遂行のための国威発揚やプロパガンダに利用されてしまったり、民族と民族の争い事の場にされてしまうということが起きている。 特にナチスドイツのヒトラー政権下による1936年ベルリンオリンピックは、オリンピックの持つ大きな影響力が、ヒトラーによって巧妙に利用されてしまい、ドイツ国民の心理操作の道具のひとつとして使われてしまった。ヒトラーが雇った監督によって大会中にフィルム撮影が行われたが、その後編集され出来上がった映画作品『オリンピア』は、オリンピックを本来の平和の祭典として扱うのではなく、ヒトラー好みの意味内容になるように勝手に「民族の祭典」という意味に見えるように編集してしまっており、ドイツ人の民族主義的感情を高揚させ戦争へと駆り立てるための道具のひとつとして映画館で繰り返し上映されたのであり、オリンピックが平和目的ではなく、真反対の、戦争目的で使われてしまった。また皮肉なことに、聖火リレーのルートも、後日ドイツ国防軍がそのまま逆進したとされる。 またオリンピックの間は戦争を止めるというオリンピック休戦の意義が人々に理解されず、1972年にはオリンピックの場そのものが、ミュンヘン大会におけるテロ事件の事件現場になってしまった。1996年のアトランタ大会でもオリンピック公園を標的としたテロが発生した。 冷戦期におけるモスクワ大会、ロサンゼルス大会の西側諸国・東側諸国による大規模ボイコット合戦、冷戦下、1970年代後半から1980年代にかけてのアフガニスタン紛争が起きていた時期には、東西の「ボイコット合戦」という、形を変えてはいるが、東西陣営の醜い争い事がオリンピックの場で起きてしまった。 また国際オリンピック委員会は世界平和の実現と、人権の尊重、差別の撲滅などを推進する「オリンピックムーヴメント」を推進することをかかげているが、オリンピックムーヴメントの理念にそぐわない国が開催することに異議を唱える運動もしばしば起こり、2008年の北京大会では大会に反対するデモが相次いだ。また2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」(en)に抗議してアメリカ、ドイツ、フランスなど欧米諸国の首脳が開会式を欠席した。このような政治問題を抱えてしまっているオリンピックは「平和の祭典」とは言えないとも指摘されている。 国威発揚のための悪用 最初にオリンピックを政治的に利用し、国威の発揚、民族主義の高揚、戦争開始のためなどに悪用したのは1936年ベルリンオリンピックの際のアドルフ・ヒトラーであるが、戦後にオリンピックが世界的なイベントとして認知されると、国威発揚のために政治的に利用する国が多くなった。 オリンピック憲章ではオリンピックの政治的利用は禁止とされているが、金メダルをとった選手の表彰式の際、国歌が流れ、国旗が掲揚されてしまっている。オリンピックの場でこの儀式が行われてしまっていることに対して疑問を呈する人々はいる。1936年のベルリン大会のマラソン競技で日本統治時代の朝鮮から「日本代表」として出場し優勝した孫基禎も、強く疑問に思った。 共産主義時代のソ連や東欧諸国では国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成し(いわゆる「ステート・アマ」)、メダルを量産してきた。共産主義が崩壊した今でもその傾向は続いており、2016年のリオデジャネイロ大会の前にはロシアが国家主導で過去の大会においてドーピング行為を行ったことが判明した(ドーピング問題については後述)。政治利用を防ぐため1968年メキシコ五輪時のIOC総会で表彰式での国旗・国歌を廃止する案が提出されたが、(国威発揚のための利用しつづけている)共産圏の反対により否決された。 冷戦後でも同様で、中露ではもちろんのこと、アメリカ合衆国でも2002年の冬季ソルトレークシティ大会の開会式の際は前年の米国同時多発テロで崩壊したニューヨーク世界貿易センタービルの跡地から発見された星条旗が入場させている。 過熱化する招致合戦と賄賂問題 1988年大会は有利と言われていた名古屋を抑えてソウルが開催地に選ばれたが、その裏ではソウル関係者のIOC委員への過剰な接待がなされていたとされる。1998年には、ソルトレークシティ大会の組織委員会が、カメルーンのIOC委員の子どもの奨学金を肩代わりしていた贈賄事件が発覚。翌1999年には、オーストラリア大会の招致責任者がウガンダとケニアのIOC委員に金銭を支払っていたことも発覚した。これを受け、複数のIOC委員が除名された。2017年には、ブラジルオリンピック委員会のカルロス・ヌズマン会長が、リオデジャネイロ大会招致にあたりIOC委員に金銭を支払っていたとして逮捕され、ブラジル検察によって起訴されている。またブラジル検察は、東京大会招致委員会からIOC関係者への送金についても明らかにし、買収目的だったと指摘している。ただし、開催費の高騰から、近年は立候補都市が減少している。 莫大な開催費 1976年のモントリオール大会では大幅な赤字を出し、モントリオールは2006年までの30年間にわたり特別税を徴収し、債務の返済を行った。また2004年のアテネ大会では施設建設費の多くを国債で賄った結果、2010年のギリシャ危機の一因ともなった。前述のとおり、こうした莫大な開催費用が敬遠され、近年は立候補都市が減少している。 スポンサーやテレビ局への優遇 1984年のロサンゼルス大会からは、商業主義を取り入れることとなった。この方式は成功したが、一方でIOCが、競技者よりも、金銭を提供するテレビ局やスポンサーを優遇する問題が生じている。2008年の北京大会ではアメリカのテレビ局NBCの意向で、アメリカでの視聴率が取りやすいように(北京の午前はアメリカの夜のゴールデンタイムになるため)一部の競技の決勝が午前中に開催された。2018年の平昌大会ではその傾向が顕著になり、スキージャンプ競技は深夜の風の強いコンディションで行われ、更に普通夕方~夜に行われるフィギュアスケートは午前から競技開始と異例の競技時間となった。2020年の東京大会でも、NBAやメジャーリーグベースボールなどアメリカ国内の他プロスポーツとの兼ね合いから開催時期を7~8月に設定した結果、後に猛暑から選手の健康を守るという観点で開催9ヵ月前にも関わらず、男女マラソンや競歩の開催地を東京から札幌市に移す一因にもなった。しかし、一方でアメリカの地上波テレビ局は視聴者が少なくなる7~8月には人気番組を放送したがらない。後述の#アンブッシュマーケティング規制の問題は、スポンサーにのみオリンピックへの言及を許し、一般企業がオリンピックを応援することを規制しようとする試みである。 ボランティアという無給労働 大会の運営には、数万人のボランティアが動員される。IOCも大会ボランティアの必要性を認めており、開会式あるいは閉会式には、ボランティアへの謝意が示される。しかしボランティアは無給であり、さらに開催地への滞在費などは自己負担であり、長期にわたって拘束される。そのため、2016年リオデジャネイロオリンピックでは、5万人のボランティアのうち1万5000人が欠勤した。その理由は過酷な労働条件が「参加するに値しない」と判断されたためであった。 著述家の本間龍は、現在の商業五輪において、様々な労働条件を付帯した無償ボランティアを募集することは、自発性、非営利性、公共性が求められるボランティアの本来の趣旨に反していると指摘し、「善意で集まってくるボランティアを徹底的に使役しようとしている」、「五輪という美名のもとにあらゆる資格の価値を無視し、すべて無償で調達しよう」としているとして批判している。また、2020年東京五輪組織委員会のボランティア募集の呼びかけに応じた教育機関や医療関係団体が、学生や加盟者にボランティア参加要請することについては、「思慮がない」「無責任」と批評している。 ドーピング問題 1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤のアンフェタミンを投与されていたことが判明した。これをきっかけにIOCはドーピング対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物のスタノゾロールが発見されて失格になってからである。その後1999年には世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発…といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前にはロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった。 アンブッシュマーケティング規制の問題 オリンピック委員会側が主張する問題 国際オリンピック委員会は、無関係の会社や店舗などの組織が「オリンピックを応援する」などと言うことは、実際は応援では無くオリンピックの知名度等を不正に利用する「アンブッシュマーケティング」であると称し、禁止をしている。その理由としてオリンピックの公式スポンサー(ワールドワイドパートナー、ゴールドパートナー、オフィシャルパートナー、オフィシャルサポーター。#The Olympic Partners programme)のみが排他的な商業的利用権が与えられていると述べている。 他組織の見解主張 日本広告審査機構(JARO)は、「いかなる文言を使用しようとも、商業広告で2020年のオリンピック東京大会を想起させる表現をすることは、アンブッシュ・マーケティング(いわゆる便乗広告)として不正競争行為に該当するおそれがあり、JOC(日本オリンピック委員会)やIOC(国際オリンピック委員会)から使用の差し止め要請や損害賠償請求を受ける可能性がある」との見解を出しており、「東京オリンピック・パラリンピックを応援しています」という直接的な表現以外に「祝・夢の祭典」「2020円キャンペーン」など間接的に連想できる物もアンブッシュマーケティングである可能性であることを示唆している。 ライターで1級知的財産管理技能士の友利昴はオリンピック委員会の規制には根拠がないことが明らかにしている。過去の裁判やトラブル事例から「キャンペーンや抗議行動の態度からうかがえる、非常に旺盛な権利保護方針の割には、実際にはなんでもかんでも訴えているわけではない」と指摘し、アンブッシュマーケティングをめぐり訴訟になった数少ない裁判では、IOC側が敗訴していることを挙げている(オーストラリア、カナダ)。また上記のJAROの見解はIOCやJOCへの忖度に過ぎないとして、(JAROが正しい法的検討をせずに)「逃げを打つのは、広告業界の指針となるべき団体として、適切な姿勢といえるだろうか」と批判している。 日本の商標権に関する規則では登録商標は同一又は類似した商品・役務の登録商標にのみ独占権があるとしており、オリンピックそのもの(大会や委員会)を示すために使うことは合法であるとしている。飲食店の屋号や商品の表示として権利者に許可無く「オリンピックレストラン」、「オリンピック公式レストラン」、「オリンピック公式テレビ」、「オリンピックテレビ」などと表示するのは違法だが、本物のオリンピックに対して「オリンピックを見ながら飲食しましょう」、「本テレビでオリンピックを観ましょう」と宣伝するのは問題無いとしている(商標としての独占であり、言葉の独占では無い)。 著作権法上では公式のロゴやマークを許可無く利用する事は一般的に禁止されており、オリンピックも同様である。店内でのオリンピック競技の放映をオリンピック委員会の許可無く行う事は禁止されているが、誰でも見られる放送をそのまま店内の民生用機器で再生する事は一般的な権利として認められる。このため、テレビ放映されているオリンピックの映像を店内で流すことに関しては問題が無い。この場合は放送局がオリンピック委員会に放送するという事で利用料を払っている。 設備の維持管理 開催に向けて土地を工面し巨額な建設費をかけて完成した競技会場及び関連施設が、大会終了後は維持管理先が決まらなかったり、再活用や運営が予定通りに進まず資金面などで維持管理が困難になる結果、レガシーとして残されずに撤去されたり廃墟化するケースがある。 The Olympic Partners programme (略してTOP)programmeとは、特定カテゴリーを一社で独占できるようなグローバルなスポンサーシップのことである。元々、オリンピックマークの商業使用権は各国の国内オリンピック委員会(NOC)が各々で管理をしていたが、サマランチ会長がIOCの一括管理にした事から1988年の冬季カルガリー大会と夏季ソウル大会から始まったプログラムで、オリンピックの中でも全世界的に設けられた最高位のスポンサーである。基本的には4年単位の契約で1業種1社に限定されており、毎回計9〜11社ほどが契約を結んでいる。なお、TOPにパナソニック、サムスンと同業種の企業が名を連ねているが、これはパナソニックが音響・映像機器、サムスンは無線通信機器と細分化されており、その他の製品など上記と重ならないカテゴリーのスポンサーとなっているからである。また2019年、ノンアルコール飲料で長らくスポンサー契約を続けてきたザ コカ・コーラ カンパニーが蒙牛乳業と共同で2021年以降のスポンサー契約を結んだ。IOCは特例としてこれを認めている。 この他にも、各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象とした「ゴールドスポンサー」(1社数十億円程度)、権利はゴールドスポンサーと同様だがTOPと競合しない事が条件の「オフィシャルサプライヤー/サポーター」(1社数億円程度)、グッズの商品化のみが可能な「オフィシャルライセンシー」がある。 2022年現在、 airbnb(SNS) アリババグループ(ECサービス、情報技術) アリアンツ(保険) アトス(情報技術) ブリヂストン(タイヤ、免震ゴム、自転車) コカ・コーラ/ 蒙牛乳業(ノンアルコール飲料、乳製品) デロイト トウシュ トーマツ(会計事務所) インテル(情報機器) オメガ(時計、計時、採点システム) パナソニック(音響・映像機器) P&G(家庭用品) サムスン(無線通信機器) トヨタ自動車(モビリティ) Visa(クレジットカード他決済システム) の14分野15社が名を連ねている。 The Olympic Partners(TOP)は指定された製品カテゴリーの中で独占的な世界規模でのマーケティング権利と機会を受ける事ができる。また、IOCやNOC、オリンピック組織委員会といった関係団体と共に商品開発などをする事も可能である。 スポンサーを巡るトラブル 2012年に開催されたロンドンオリンピックにおいて、同オリンピック組織委員会の会長がBBCのラジオ番組において、「(公式スポンサーであるコカ・コーラの同業他社の)ペプシのロゴ入りTシャツを着ている観戦者は競技場に入れないだろう」と発言したために問題となり、ロンドン市などが火消しに追われた。 2021年にはカシマサッカースタジアム(茨城県鹿嶋市)で行われる予定の東京オリンピックサッカー競技の観戦を巡り、一部の学校において、児童生徒がペットボトルをスタジアムに持ち込む際に出来るだけ(公式スポンサーである)コカ・コーラ社製とするように保護者に対して文書で通知していることがTwitter上で拡散し、批判が出る事態となった。鹿嶋市の教育委員会によると、実際は混乱防止の観点から、メーカーを問わず、飲料のラベルを一律で剥がすように指示していた。また選手村では(公式クレジットカードの)VISAカード以外は使用出来ない。 日本との関わり 日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。 なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。 日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。 日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京で2度(1964年、2021年)、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。 報奨金 日本オリンピック委員会は、1992年アルベールビルオリンピック以降のオリンピック金メダリストに300万円(2016年リオデジャネイロオリンピックからは500万円)、銀メダリストに200万円、銅メダリストに100万円の報奨金を贈っている。 五輪という訳語 五輪(ごりん)という訳語は、近代オリンピックのシンボルマークである5色で表現した5つの輪と宮本武蔵の『五輪書』の書名を由来として、読売新聞記者の川本信正が1936年に考案した。本人は「以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著「五輪書」を思い出し、とっさに「五輪」とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた」と述べている。 脚注 注釈 出典 参考文献 「平和の祭典?オリンピックの真の姿と報道」Global News View (GNV). 2021年5月20日. Kyoka Maeda. 関連項目 オリンピック関連用語一覧 オリンピック関連年表 オリンピック競技 近代オリンピックでの国・地域別メダル総獲得数一覧 日本オリンピック委員会 ワールドゲームズ パラリンピック スペシャルオリンピックス デフリンピック プレオリンピック ユースオリンピック ユニバーシアード ジャパンコンソーシアム - 日本でのオリンピックやFIFAワールドカップの放送に際するNHK・民間放送の合同組織 オリンピック景気 オリンピック・レガシー オリンピアード 古代オリンピック オリンピック・バーチャルシリーズ 総合競技大会 - 国際的に「競技大会」といえばこの単語が先に上がる。マルチスポーツイベント とも称される。オリンピックはこれらの中で最も重要なポジションを占めている 外部リンク 公式 国際オリンピック委員会 アジア・オリンピック評議会 日本オリンピック委員会 五輪|NHKアーカイブス 近代オリンピックとその時代 - 時事通信 大会 夏季ロンドンオリンピック2012 冬季ソチオリンピック2014 夏季リオオリンピック2016 冬季平昌オリンピック2018 夏季東京オリンピック2020 きんたい
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B9
オープンソース
オープンソース()とは、コンピューターソフトウェアをバイナリプログラムのみの配布ではなく、プログラムの設計図であるソースコードが入手でき、目的を問わず利用、修正、頒布できることの明示的な許可および、それを利用する個人や団体の努力、利益を遮ることがないライセンスを適用したコンピューターソフトウェアと、そのソフトウェア開発の手法。 オープンソースとはこれらを示すために作られた概念であり、それを表すために作られた用語である。概念を提唱し推進のために作られた団体であるオープンソース・イニシアティブでは、「オープンソース」と名乗るための要件として「オープンソースの定義」を掲げている。 歴史 「オープンソース」という用語が作られる前年、1997年当時、「フリーソフトウェア」というものに対する経営者や投資家の印象は必ずしも良いものではなかった。1つには、「自由なソフトウェア」を意味する「フリーソフトウェア」という言葉が多くの場合に使われていた「無償のソフトウェア」という意味と紛らわしく、無償という考え方は営利目的主体のビジネスには馴染まなかったことがある。また1つには、フリーソフトウェア運動を進める中心的な存在であるフリーソフトウェア財団がフリー(自由)ではないソフトウェア(プロプライエタリソフトウェア)に対して攻撃的であったことがある。さらに1つには、フリーソフトウェア財団の「フリーソフトウェア」が掲げていた「コンピュータのプログラマとユーザは、何の制約も受けずにソフトウェア(のソースコード)を他人と共有できるべきなのである」という主張が共産主義的だとされた。そのような背景から、「フリーソフトウェア」は営利目的の企業としては関わりたくない対象であった。 1998年2月3日、パロアルトにおいて、マイクロソフトのInternet Explorerとの競争でシェアが低下したネットスケープコミュニケーションズのブラウザNetscape Navigatorの建て直しの戦略会議が開かれた。会議では製品の機能と品質の向上とシェア回復のために、技術者の参加を募集する方法、誰でも開発および供給に参加できる理念について議論していた。そこでソースコードの公開は有意義であるが、フリーソフトウェア運動の急進的な思想は非現実的であり、その極端な思想がビジネスの世界からは拒否されていると考えた人々は、「free software」に代わる用語と理念を検討した。そこで「オープンソース」という用語をが提案した。また、「オープンソース」では敢えて自由という点を強調はせず、むしろ「ソースコードを公開するとどういうメリットがあるか」を関心の中心とした。 「オープンソース」はフリーソフトウェア運動をしている、ジョン・ホール、サム・オックマン、マイケル・ティーマン、エリック・レイモンドなどの会議の参加者に受け入れられた。翌週、エリック・レイモンドたちは用語の展開を働きはじめた。リーナス・トーバルズは翌日、全ての重要な承認を実施した。フィル・ヒューズはLinux Journalへの投稿を提案した。フリーソフトウェア運動の先駆者であるリチャード・ストールマンはこの用語を受け入れることを考えたが、後に考えを改めている。 1998年4月7日、ティム・オライリーが開催した多くのフリーソフトウェアとオープンソースのプロジェクトリーダーが参加するフリーウェアサミット(後にオープンソースサミットに名称を変更)で大きく躍進を遂げた。会議には、リーナス・トーバルズ、ラリー・ウォール、、エリック・オールマン、グイド・ヴァンロッサム、マイケル・ティーマン、エリック・レイモンド、ポール・ヴィクシー、そしてネットスケープコミュニケーションズのが参加した。その会議では名称について混乱を引き起こし、マイケル・ティーマンは新しく「sourceware」を主張し、エリック・レイモンドは「open source」を主張した。集まった開発者たちは投票を行い、同日午後に勝者である「open source」が記者会見で公表された。5日後の4月12日、エリック・レイモンドはフリーソフトウェアコミュニティへ新しい用語の「open source」の受け入れの発表をした。その後すぐ、同月末にオープンソース・イニシアティブが設立された。 1999年6月、アメリカでオープンソース・イニシアティブが「Open Source」の商標登録を求めたが、「Open Source」は一般的な用語であり特定団体が権利を持つ商標にはならないと判断されている。これについて、オープンソース・イニシアティブは「Open Source」が一般的な用語として周知されたことを歓迎する立場を取っている。 2002年3月、日本ではオープンソースグループ・ジャパンが「オープンソース/Open Source」を商標登録(第4553488号)している。日本での用語の利用に際しては特に許諾や制限は求められないが、オープンソースの定義と同等の扱いで利用されることが望まれている。 オープンソースの定義 オープンソース・イニシアティブ(OSI)はオープンソース・ソフトウェア()の要件として、「オープンソースの定義」を掲げている。オープンソースの定義は、ソフトウェアのソースコードへのアクセスが開かれている(ソースコードが公開されている)ことを示すのではなく、オープンソース・ソフトウェアの配布条件として完全に従うべき事項を示している。オープンソースの定義では、ソースコードを商用、非商用の目的を問わず利用、修正、頒布することを許し、それを利用する個人や団体の努力や利益を遮ることがないことが求められている。 オープンソース・イニシアティブは、「Open Source」という用語の利用は、オープンソースの定義に準拠したものにおいて使用されることを求めている。2007年にはSugarCRMが自社のことを「Commercial Open Source」と表現して、オープンソースの定義に準拠していないソフトウェアライセンスをソフトウェアに課していたことを非難した。 オープンソース・ソフトウェア オープンソース・ソフトウェア()とは、オープンソース・イニシアティブの掲げるオープンソースの定義に準拠したソフトウェアである。 オープンソース・イニシアティブはオープンソースライセンスというライセンスカテゴリを管理しており、そのオープンソースの定義に準拠したライセンスのみをオープンソースライセンスとして承認している。オープンソース・ソフトウェアはオープンソースライセンスが課せられたソフトウェアであると言い換えることが出来る。オープンソースライセンスはライセンスの氾濫を防ぐために虚栄心による独自ライセンスや複製ライセンスを承認していないため、オープンソースの定義に準拠しているがオープンソースライセンスと承認されていないライセンス、およびそのライセンスが課せられたオープンソース・ソフトウェアは存在している。基準はオープンソースの定義であり、その定義に準拠したソフトウェアはオープンソース・ソフトウェアである。 オープンソース・ハードウェア オープンソースの概念はソフトウェアにとどまらず、集積回路やプリント基板、CADデータなどの設計情報を公開し共有するものはオープンソース・ハードウェアと呼ばれる。 その種類は多肢にわたり、ワンボードマイコン (Arduino)、CPU (OpenRISC、OpenSPARC)、3Dプリンター (RepRap、OpenSLS)、人型ロボット (iCub)、電気自動車 (Open Motors)などがある。 ライセンスはソフトウェア用のものやクリエイティブ・コモンズ・ライセンスも使用されるが、ハードウェア用としてはTAPR Open Hardware LicenseやCERN Open Hardware Licenceがある。 オープンソースライセンス オープンソースライセンスは、一定の条件の下でソフトウェアの使用、複製、改変、(複製物または二次的著作物の)再頒布を認めている。次の2つの条件はほぼ共通している。 無保証であること オープンソースの性質上、ソフトウェアやその二次的著作物は元の著作者でも制御しきれない形で流通し、元の著作者がそこから直接に利益を得ることは難しい。したがって、ソフトウェアは「有用であるとは思うが無保証である」と謳っている。つまり、著作者は、そのソフトウェアについて、予期した動作をする/しないの保証をしない。また、その動作の結果何らかの損害をもたらしたとしても、それを保障しないと定めている。 著作権表示を保持すること オープンソースは一定の条件内で自由な利用を認めるものであって、著作権を放棄するものではない。むしろ、「一定の条件」を守らせるための法的根拠は原著作者の著作権に求められる。したがって、多くのライセンスは適切な形でソースコードや付属文書に含まれる著作権表示を保持し、つまり二次的著作物を作った者が自分で0から作ったように偽らないことを定めている。 ソースコードを伴わないバイナリ形式だけでの配布を認めているライセンスでは、その際にも付属文書に著作権表示を記載するように定めているものもある。 次の条件は、採用しているライセンスと、そうでないライセンスがある。 同一ライセンスの適用 複製や改変物を頒布する際には、必ず元と同じライセンスでの利用を認めるように定めているものがある。GNU General Public License (GPL) が代表的である。例えば、GPLのソースコードを BSD ライセンスのソースコードと組み合わせて新しいソースコードを作った場合、GPL の規定によって、このソースコードを頒布する際には GPL での利用を認めなければならない(詳細はコピーレフトを参照)。このようなソースコードを利用して、ソースコードを独占する(プロプライエタリな)ソフトウェアを作成することは難しい。 原著作者の特別な権利 この種の条件は、現在ソースコードを独占的に所有している企業がそれをオープンソース化するに当たって考慮する余地のあるものである。例えばMozillaのためのライセンスとして作成されたMPLでは、二次的著作物を頒布する際にはソースコードを公開しなくてはならないが、元々のMozillaの著作権を有していたネットスケープコミュニケーションズだけは特別であって、二次的著作物のソースコードを公開しなくてもよい権利をもっている。 用語と概念への批判 オープンソースの概念は一定の成功を収め、オープンソースのソフトウェア開発の手法と意義の浸透をもたらしたが、自由を強調しないという点はフリーソフトウェア運動の支持者からの攻撃の標的となることがある。 1999年2月17日、オープンソース・イニシアティブの創始者の1人ブルース・ペレンスはオープンソースが既に成功を収めたこと、そしてオープンソースがフリーソフトウェアから離れすぎていることを挙げて「今こそフリーソフトウェアについて再び語るべきときだ」と述べた。 2007年、フリーソフトウェア財団の代表リチャード・ストールマンはオープンソースの概念はフリーソフトウェアが主な目的としている利用者にとって重要な自由を守るに足りえないとして、オープンソースはフリーソフトウェアの的を外していると批判した。 またストールマンは2013年に、フリーソフトウェア運動が問題視している利用者の自由に対する制限の不当性をオープンソースは問題視していないと述べ、フリーソフトウェアの理念を正しく伝えるため「OSS(Open Source Software)」ではなく、フリーソフトウェアとオープンソースを複合した用語の「FLOSS(Free/Libre and Open Source Software)」の利用を推奨した。 出典 関連項目 オープンソースの定義 オープンソース・イニシアティブ オープンソースソフトウェア オープンソースソフトウェアの歴史 オープンソースハードウェア フリーソフトウェア 外部リンク ソフトウェアの分類 ソフトウェア
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龍安寺
龍安寺(りょうあんじ)は、京都市右京区龍安寺御陵下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。大本山妙心寺の境外塔頭。山号は大雲山。本尊は釈迦如来。開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。有名な石庭で知られる。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。 歴史 もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。 この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450年)敷地内に龍安寺を建立した。初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の境内地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。 細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、応仁2年(1468年)に焼失した。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、旧地(現在地)に戻すが、勝元は文明5年(1473年)に没す。 長享2年(1488年)勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興された。寺では特芳を中興開山と称している。明応8年(1499年)には方丈が上棟された。その後、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。 『都名所図会』(安永9年(1780年)刊行)によると、当時は龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として紹介されており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名だったようである。 寛政9年(1797年)に京都町奉行へ提出された図面には23か寺の塔頭があったが、同年に起こった火災で食堂、方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失した。そのため、塔頭の西源院(せいげんいん、現在は妙心寺の塔頭)の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っている。 その後、明治時代初期の廃仏毀釈によって衰退し、1895年(明治28年)には狩野派の手による方丈の襖絵90面が他の寺院に売却されている。 1929年(昭和4年)に火災により一部を焼失した。 1951年(昭和26年)7月11日、京都府一帯を襲った集中豪雨により裏山が崩壊。濁水が石庭に流れ込み赤土に覆われる被害が出た。 1975年(昭和50年)にイギリスの女王エリザベス2世とエディンバラ公フィリップが日本を公式訪問した折、5月10日午後、方丈庭園(石庭)に立ち寄った。 1994年(平成6年)ユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」に登録された。 上記にある狩野派による方丈の襖絵90面であるが、他寺に売却された後、再び売りに出され、九州の炭坑王・伊藤伝右衛門により買い取られている。その後、第二次世界大戦後に流出してしまい、その多くは所在が分からなくなっている。現在はアメリカのメトロポリタン美術館やシアトル美術館に襖絵の一部が所蔵されているのが分かっている。 そんな中、所在不明となっていた襖絵のうち2010年(平成22年)に「群仙図」4面と「琴棋書画図」2面がアメリカのニューヨークでオークションに出品され、龍安寺が買い戻している。また、2018年(平成30年)には「芭蕉図」9面が、静岡県のコレクターを経て、龍安寺が買い戻している。 なお、鏡容池の周囲には西源院以外にもいくつか塔頭寺院があるが、それらは現在は龍安寺の塔頭ではなく、妙心寺の境外塔頭となっている。 石庭 方丈庭園(国の史跡・特別名勝)、いわゆる「龍安寺の石庭」である。白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴を有する。 幅25メートル、奥行10メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。これらの石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。 寺伝では、室町時代末期(1500年頃)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。塀ぎわの細長い石には「小太郎・□二郎」と刻まれており、作庭に関わった人物と推測されるが、詳細は不明である。 この庭は石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称がある。「虎の子渡し」とは、虎は、3匹の子供がいると、そのうち1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで、母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に行くと、今度は、どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る、という中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に基づくものである。 また、「七五三の庭」とは、東から5、2、3、2、3の5群で構成される石組を、5と2で七石、3と2で五石、そして3で三石と、七・五・三の3群とも見られることによる。古来より奇数は陽数、すなわちおめでたい数とされ、その真ん中の数字をとったものである。 この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されている。どこから鑑賞しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている。 知足の蹲踞 知足の蹲踞(つくばい) - 蹲踞は茶室に入る前に手や口を清めるための手水鉢のこと。茶室「蔵六庵」の露地にあり、水戸藩主徳川光圀の寄進によるものと伝えられている。見学コースで方丈北側にある蹲踞は精密な複製である。蹲踞の上部にある文字は一見「五・隹・疋(但し、上の横棒がない)・矢」と読めるが、水溜めに穿った中心の正方形を漢字部首の「口」と見て「吾れ唯だ足るを知る」となる。「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の格言を謎解き風に図案化したものである。 境内 寺の南側には広大な鏡容池があり、周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる。境内北側には庫裡、方丈、仏殿などが建ち、これらの西側には「西の庭」がある。有名な石庭は方丈南側にある。 仏殿 - 1981年(昭和56年)再建。寛政9年(1797年)に焼失後、約200年ぶりに再建された。入母屋造、屋根は銅板葺きの禅宗建築で、建材は樹齢1,000年から1,200年の台湾桧が使用されている。 昭堂(開山堂) - 1977年(昭和52年)建立。 鐘楼 方丈(重要文化財) - 元の方丈が寛政9年(1797年)の火災で失われた後、塔頭の西源院方丈を移築したもの。慶長11年(1606年)、織田信包による建立である。本来ここには狩野派の手による襖絵があったが、それらは明治初期の廃仏毀釈の影響により寺から出て散逸してしまった。現在の襖絵は、龍と北朝鮮の金剛山が題材で、1953年(昭和28年)から5年がかりで皐月鶴翁によって描かれたものである。北側には「吾唯知足(われただたるをしる)」の蹲踞〔いわゆる「知足の蹲踞」〕の複製が置かれている。 方丈庭園「石庭」(国の史跡・特別名勝) - 枯山水庭園。解説は既出。 勅使門(重要文化財) - 寛政9年(1797年)に火災で焼失した後、西源院唐門を移築したもの。 庫裡 - 寛政9年(1797年)に火災で焼失し、その後再建される。 茶室「蔵六庵」 - 江戸時代初期に建てられた後、明治時代中期と1996年(平成8年)に移築が行われた。徳川光圀が寄進した「吾唯知足」の蹲踞が置かれている。 細川勝元の墓 春林寺殿の墓 - 細川勝元の正室で、山名宗全の養女(山名熙貴の娘)。 細川政元の墓 細川高国の墓 細川稙国の墓 細川氏綱の墓 西の庭 - 1982年(昭和57年)に室町時代風の庭園として復元された。 細川廟 - 明暦4年(1658年)、藤原種久作の細川勝元像と細川管領家歴代の位牌が祀られている。西の庭の中にある。 パゴダ - ビルマ方面軍自動車廠戦没者の慰霊塔。1970年(昭和45年)8月建立。 涅槃堂(納骨堂) 桜苑 梅枝庵 玄々庵 西源院 - 妙心寺塔頭。湯豆腐と精進料理を提供している。かつては龍安寺の塔頭であった。 大珠院 - 妙心寺塔頭。 真田信繁(真田幸村)の墓 霊光院 - 妙心寺塔頭。 お犬の方の墓 佐治一成の墓 鏡容池(国の名勝) - 一帯は鏡容池を中心とする庭園となっている。この池はこの地に円融天皇の御願寺である円融寺があった頃からのものである。 大弁財尊天 - 鏡容池にある弁天島に祀られている。 山門 - 江戸時代中期再建。宝暦5年(1755年)洪水により破損し再建される。 方丈の真裏で、背後の朱山の麓に当たる地には後三条天皇圓宗寺陵、後冷泉天皇圓教寺陵と後朱雀天皇圓乘寺陵があり、その東方の石段を登り切った山上には一条天皇圓融寺北陵と堀河天皇後圓教寺陵がある。いずれも現在は宮内庁の管理下にある。 文化財 重要文化財 方丈 附:勅使門 - 慶長11年(1606年)建立の旧西源院方丈。重要文化財指定名称は「龍安寺本堂 附 玄関」。 太平記12冊 - 『太平記』の古写本の代表的なもの。徳川光圀が本書を借用したことでも知られる。1929年(昭和4年)に火災に遭い、全13冊のうちの1冊を焼失。残りの12冊も焼損痕が残っている。 国の史跡・特別名勝 龍安寺方丈庭園 国の名勝 龍安寺庭園 京都府指定有形文化財 九条袈裟 義天玄承所用 1肩(工芸品) - 2016年(平成28年)3月18日指定。 京都市指定有形文化財 絹本著色細川昭元夫人像(絵画) - 天正十年月航宗津の賛がある。京都国立博物館寄託。1993年(平成5年)4月1日指定。 紙本墨画潙山倒瓶図 狩野元信筆(絵画) - 京都国立博物館寄託。2000年(平成12年)4月1日指定。 絹本著色鄧林宗棟像 狩野元信筆(絵画) - 永正十八年の自賛がある。2022年(令和4年)3月31日指定。 脚注 関連項目 盆石 外部リンク 大雲山 龍安寺 臨済宗妙心寺派の寺院 京都市右京区の寺 世界遺産 ら行 特別名勝 京都府にある国指定の名勝 重要文化財 (建造物) 京都市の重要文化財 京都にある日本庭園 京都府にある国指定の史跡 古都京都の文化財 日本の陵墓 江戸時代の建築 禅の芸術と文化 釈迦如来を本尊とする寺
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マジックナンバー
マジックナンバー、 スポーツ マジックナンバー (野球) - 「何勝すれば優勝が決定する」と言える勝ち数を意味する。米国では野球以外でも使われる。 音楽 ザ・マジック・ナンバーズ - イギリスのロック・バンド。 ザ・マジック・ナンバーズ (アルバム) - 上記バンドのアルバム。 マジックナンバー (坂本真綾の曲) magic number (KICK THE CAN CREWのアルバム) ファッションブランド MAGIC NUMBER - 日本のストリート、サーフ系ファッションブランド。ディレクターは中村竜。 コンピュータ用語 マジックナンバー (プログラム) - プログラム中に直接埋め込まれた数値。 マジックナンバー (フォーマット識別子) マジックナンバー (メッセージ) - 内部状態を利用者に通知するメッセージ。 その他 魔法数 - 原子核の安定性。 マジカルナンバー - ジョージ・ミラーが提唱した、短期的記憶の上限数。 荒井チェリーの漫画作品。 関連項目 マジック (曖昧さ回避)
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魔少年ビーティー
『魔少年ビーティー』(ましょうねんビーティー)、サブタイトル「COOL SHOCK B.T.」は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品。集英社の少年向け漫画雑誌『フレッシュジャンプ』1982年3号に読切として掲載された後、『週刊少年ジャンプ』1983年42号から51号に連載された。サブタイトルは「少年ピカレスク(悪漢小説)ロマン」。 荒木の連載作品としてのデビュー作。手品やトリックに長けた少年ビーティーと友人の公一が怪事件と遭遇する物語を展開する。 作風 平凡な少年の麦刈公一を語り手として物語は進む。転校生として現れ、公一の親友となったビーティーに関するエピソードが、一話完結形式で綴られていく。全5話でコミックスは全1巻完結である。読切版は単行本『荒木飛呂彦短編集 ゴージャス☆アイリン』に収録されている(#既刊一覧参照)。 正義や熱血を重んじる当時の少年漫画界において、「魔少年」というタイトルと悪行を繰り返す主人公は、異色の存在であった。しかしながら一方で、主人公の精神的高潔さを貫く姿勢や、彼なりの正義に対する考え方、友情を重んじる精神なども、同時に描かれている。 あらすじ 平凡な少年麦刈公一は、ある日、転校生のビーティーと出会う。科学や心理学などを巧みに使った奇術やトリックが得意なビーティーは、その好奇心から様々な悪事(単なる悪戯から犯罪まで)を実行していく。学校のキャンプでビーティーが不良達に絡まれた際、ただ一人彼を助けようとした公一は、やがてビーティーと親友になる(もちろん、後でビーティーは、その不良達には持ち前のトリックで制裁を与えた)。ビーティーと公一のコンビは、あるときは様々な事件に巻き込まれ、またあるときは積極的に悪事をはたらいていく。事件や悪事を通じて、2人は様々な悪漢達と対峙し、その中で彼らなりの正義を貫いていく。 制作 荒木は当初連載を目指して読切を発表したが、作品のコンセプトが編集部に理解されず、理解のあった担当編集者が編集部を説得するのに時間がかかっている。雑誌連載がスタートしたものの人気は低迷し、第3回の掲載後のアンケートを見た担当編集者は既に打ち切りを予想しており、結局10回の連載で終了することになった。しかし最終回のアンケート結果だけが好評だった理由を担当編集者と検討した際、最終回だけにあった主人公と敵の頭脳戦が理由ではないかと推測し、自身が目指す『漫画の王道』や、後に連載するヒット作『ジョジョの奇妙な冒険』で注目された『頭脳バトル』についての理解が深まったという。 当時、荒木は故郷の仙台市に在住していたが、本作の連載終了を機に本格的な作家活動に入るため上京している。 2021年10月19日発売の『ウルトラジャンプ』11月号にて、本作の60年後の世界を舞台とする読切『魔老紳士ビーティー』が掲載。原作は西尾維新、作画は出水ぽすかによる。 登場人物 ビーティー 本作の主人公。「13日の金曜日、13時13分」に麦刈公一が学校にて出会った、謎多き少年である。非常に気高い精神と、自らの行動に罪悪感を一切感じない悪魔的精神を併せ持つ。本名・来歴などは一切明かされていない。非常に気転の利くトリックスターであり、臨機応変に手品やトリック技、心理話術をこなしては、様々な相手にスリリングに打ち勝っていく。自身が「ケイパー」と呼ぶ(無邪気な)悪巧みを実行することに興味を持っており、連載では語られない部分でも、しばしば公一を巻き添えにしている。しかし、彼にとって公一は、何物にも代えられない大切な友人であることは確かで、彼のためにわざと自分を窮地におくこともある。化石や標本といったアイテムを収集する趣味を持っている。本人は明言していないが「ケイパー」によって盗んだものと覚しきものが多数コレクションされている。考え事をしたり何か企んでいる時などに耳を触る癖がある。相手に向けて放つ「(要求を呑め!)さもなくば! 然るべき報いを食らわせてやる!」が決め台詞。 「ビーティー」のネーミングは、彼のイニシャル(B.T.)である。物語の語り手の公一が「仮にそう呼ぶ」としており、本当の名前は作中では明かされていない。また、これが彼の本名にちなむものなのかどうかさえも不明である。荒木飛呂彦によると、BTというイニシャルは、『コブラ』作者の寺沢武一からとったものであるとのことである。なお、荒木は、それ以前には、『ファンロード』の『バオー来訪者』特集で「特定の人とか名前から取ったというわけではありません。T(ティー)で終わるイニシャルが格好いいなと、以前から思っていたんです。で、そこにアルファベットを順番に付けていくと、エーティー…ではいまいち。ビーティー…なんか良い感じだな。で決めました。」と語っている。 麦刈公一(むぎかりこういち) ビーティーと出会った事で彼の起こす事件に巻き込まれる、いたって平凡な少年である。正義感に強く、友情を大切にする一面もある。また、それゆえにビーティーと親友になる。前述の通り、この作品は彼の独白という形を取っており、登場人物全員が主人公を作中で「B.T(ビーティー)」と呼んでいるのも、関係者からの怒りと復讐を避けるための公一の「措置」である。人がよく、物事を断れない性格であり、強引なビーティーに連れ回されては事件に巻き込まれる役どころである。しかし、芯は強く、自身が危機に陥ってもビーティーとの友情を貫こうとする。 『ジョジョの奇妙な冒険Part4/ダイヤモンドは砕けない』に登場する「広瀬康一」のモデルである。 おばあちゃん ビーティーの祖母であり、彼と共に屋敷で暮らしている。ビーティーの両親は離れて暮らしており、おばあちゃんは彼の唯一の家族である。ビーティー以上に謎多き老婆であり、本名なども不明である。屋敷には来客が多いらしく(ビーティー曰く「顔が広い」)、きな臭い組織とも関わりを持っている。祖母がどういう人物なのかは、孫のビーティーすらよく知らない。ビーティーの「ケイパー」を咎めておらず、むしろ推奨している節がある。 エピソードのゲスト サマーキャンプ事件の巻 黒山(くろやま) 「サマーキャンプ事件の巻」に登場した生徒。身体の大きく短気な典型的いじめっ子であり、転校してきたばかりで言う事を聞かないビーティーに暴力や嫌がらせを仕掛けた。 赤川(あかがわ) 同話に登場した、細身で眼鏡をかけた生徒。黒山とつるんでビーティーに嫌がらせをするが、彼自身もまた黒山の抑圧の対象であり、黒山から脅しやイタズラを受けていた。飛び出しナイフを隠し持っている。ビーティーは赤川の性格・所持品と彼と黒山との関係を見抜いたうえで、黒山・赤川両人に巧妙な報復を仕掛けた。 イタズラ死体事件の巻 伊達(だて) ビーティー達の先輩。成績優秀で剣道部の主将も務め、ハンサムで人気者であり、(すごくつまらない)ユーモアのセンスもあり、絵に描いたような模範生徒である。しかし一方で、演劇部に入ったビーティーのメイクを見て、ビーティーを小馬鹿にするといった陰湿な一面を持つ。ビーティーの怒りを買い、彼の計略によって、下記の天妃子を含む生徒達の前で恥をかかされてしまった。 天妃子(あいこ) ビーティー憧れの先輩。彼女と伊達が懇意にしているのをビーティーが見て、今回のイタズラの決行に踏み切った。 ニの森(にのもり) 伊達と同じ剣道部の一員である。剣道の腕前は伊達に一歩及ばず、皆に慕われる彼を嫌っている。その感情をビーティーに利用されて、伊達をハメるための「イタズラ死体」役に挑むが、思わぬアクシデントに見舞われた。ビーティーの計略は失敗かに思われたが、ビーティーはそれも切り抜けた。口癖は「ムカドタマー」。 おじさんX事件の巻 所長(しょちょう) ビーティー達のサイクリングで訪れた先に現れた本名不詳の変人。「強制捕虜収容所の所長」になりきっており、鷲の意匠や黒十字、トーテンコップ、ルーン文字のSSなどのシンボルをあしらった軍服を身につけている。下記の曹長と一緒に、それまでは犬猫を虐待して遊んでいたが、ビーティー達を見つけて、虐待行為の対象の手を人間に伸ばそうとした。しかし最終的には、曹長ともどもビーティーのトリックでやっつけられ、ビーティーに有り金を巻き上げられてしまった。 曹長(そうちょう) 所長の部下役になりきる大男である。少々ニブいが、怪力でビーティーと公一を追い詰めた。 恐竜化石泥棒事件の巻 西戸(さいこ) デパートの警備員。『デパートの影の支配者』になりきる妄想に取り憑かれており、脈絡の無い脅しで、ビーティーたちに絡んだ。深夜のデパートに化石を盗みに侵入したビーティーと公一を、チェーンを振り回して追いかけ回したが、ビーティーによるハッタリの化学トリックの前に敗北した。 女スパイ(おんなスパイ) ビーティー達の化石泥棒に乗じて、盗品疑惑のかけられた支店長の金庫を探っていた。彼女は、ビーティーのおばあちゃんの差金であった。 そばかすの不気味少年事件の巻 そばかすの少年(そばかすのしょうねん) 素性の知れない子供。公一のパパの車と接触事故を起こすが、それは当たり屋行為であり、麦刈家に上がりこむための作戦だった。とてもずる賢く、ビーティーに賭けごとを挑み、勝負巧者のビーティーを一度は打ち負かした。しかし、その賭けで奪った公一の犬(タロー)をビーティーに利用され、敗北した。悪役ではあるが、その敗北を潔く認め、ビーティーを称賛するなどの一面ももっていた。 家族からは「マナブ」と呼ばれている。 少年の家族(しょうねんのかぞく) そばかすの少年を使ってターゲットに弱みを握らせてから、そのターゲットの家庭内に上がり込み寄生する、という悪辣な手段を用いて生活してきた一家である。今回は麦刈家を標的にした。ビーティーに一服盛られて病院送りにされ、そのことをそばかすの少年を計略にはめるのに利用された。 読み切り版 中川冬子(なかがわふゆこ) 読み切り版(有罪くずし事件)に登場したビーティーの憧れの上級生。ルポライターに落とした生徒手帳をネタに呼び出され、乱暴されそうになったので抵抗した際にルポライターを誤ってハサミを突き立て殺害した、という事を自供して逮捕・連行された。 ビーティーの活躍で無罪放免となったが、後に公一はルポライターが撮った彼女が万引き行為をしている写真を見つけており、彼女の「自供」に疑問を感じながら幕は閉じる。 ルポライター 冬子に乱暴しようとしたところ、冬子の抵抗にあい、背中にハサミを刺されて殺害された…とされる男性である。実は、様々な相手に盗撮によるゆすり行為を行っていた。 警部補(けいぶほ) 今回の殺人事件を担当した警部補である。冬子をルポライター殺害容疑で逮捕した。実は、暴力団から賄賂を受け取っていたところをルポライターに撮影され、それをネタにゆすられていた。その事を知ったビーティーは真犯人は警部補であり冬子に罪をなすりつけたという巧妙なストーリーを組み立てた。 本当にその通りだったかは真実は不明だが、賄賂行為を暴かれ立場が悪くなった警部補は言葉巧みにビーティーによって拳銃を抜くよう誘導させられた上に、拳銃を抜いた場面を下記の記者に押さえられ、結果破滅した。 新聞記者(しんぶんきしゃ) 公一の叔父の新聞記者で、警部補から聞いた今回の事件の概要をビーティーと公一に話した。冬子がルポライターを殺害した経緯に疑問を持ち、取材を進め、ビーティーが用意した決定的場面を押さえることに成功した。 既刊一覧 魔少年ビーティー (ジャンプ・コミックス) - 1984年発売。ISBN 978-4088510187 魔少年ビーティー (集英社文庫) - 2000年発売。上記ジャンプ・コミックスの装幀をリニューアルし、2000年時点での作者のあとがきなどを新たに付したもの。ISBN 978-4086174855 ゴージャス☆アイリン (集英社文庫) - 2011年発売の荒木飛呂彦の短編集。読み切り版の「魔少年ビーティー」を収録している。ISBN 978-4086193092 出典 関連項目 蒔野靖弘 - アシスタントとして参加 しようねんひいてい フレッシュジャンプ 週刊少年ジャンプの漫画作品 奇術を題材とした漫画作品 荒木飛呂彦
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老子
老子(ろうし)は、中国春秋時代における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。 史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている。 老子の履歴 史記の記述 老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。 これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」、字は「聃」(または「伯陽」)。楚の苦県(現在の河南省周口市鹿邑県)、厲郷の曲仁里という場所の出身で、周の守藏室之史(書庫の記録官)を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる)に着くと、関所の役人であるが「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい、その後の事は誰も知らない。(「老子」『列仙伝』においては大秦国すなわちローマへ向かった。) 「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える。 出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(現在の江蘇省徐州市沛県)に老子を訪ねている。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う。 『史記』には続けて、 とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると)または「ある人曰く」(ある人物によると)で始められている通り、前説とは別な話として書かれている。 さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。 ここでは、老子は周の「太史儋(太史聸)」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、秦の献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(聸)」と老子の字「聃」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う。 これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないためこれらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す。 『史記』は老子の子孫についても言及する。 老子の子は「宗」と言い、魏の将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、注の子は「宮」、宮の玄孫(老子の七世の孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。 この膠西王卬(劉卬)とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している。 諸子百家の著述 荘子(紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」や外雑篇)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる。荀子(紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」(老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている。さらに秦の呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編で「老耽貴柔」(老耽は柔を貴ぶ)老耽という思想家に触れている。貴公編では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。 このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象(252年? - 312年)が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない。 定まらない評価 このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、北魏の宰相・崔浩(381年 - 450年)だった。唐の韓愈(768年 - 824年)は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の宋代には陳師道、葉適、黄震らが老子の伝記を検証し、清代の汪中(『老子道徳経異序』『述学、補遺、老子考異』)と崔述(『崔東壁遺書・洙泗考信録』)は『史記』第三の説にある「太史捶」が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した。 20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える「信古」と、逆に批判的な「疑古」とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、胡適(『中国哲学史』、1926年)、唐蘭(『老聃的生命和時代考』)、郭沫若(『老聃・関尹・環淵』)、黄方剛(『老子年代之考察』)、(『辨「老子」非戦国後期之作品』他)、(『重訂老子正詁』、1957年)、詹剣峰(『老子其人書及其道論』、1982年)、(『老子注釈与評介』、1984年)らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする「早期説」と唱え、梁啓超(1873年 - 1929年、「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』)、銭穆(『関干老子成書年代之一種考察』)、(『老子及老子書的問題』)、(『二老研究』)などは戦国末期と考える「晩期説」を主張した。老子の存在を否定する派では、孫次舟(『再評「古史辨」』)は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し、1957年に刊行されたの『先秦諸子思想概要』では、中国思想の論理学派(孔子・荘子・墨子・荀子・韓非子など)を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている。 伝承 生涯にまつわる伝説 一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、儀礼に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている。 『神仙伝』など民間の伝承では、周の定王3年(紀元前603年)に母親(「真妙玉女」または「玄妙玉女」)が流星を見たとき(または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき)に老子を懐妊したが62年間(80年間? 、81年間? 、72年間または3700年間などの説も)も胎内におり、彼女が梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産したという。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)もある。 中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名され、ますます尊崇を受けた。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる。 字・伯陽 現代に伝わる『史記』には記載されていないが、老子には「伯陽」という字があったとされる。伯陽とは元々西周第12代・幽王の時代に周が滅亡することを預言した人物の事である。これは『史記』に言う太史儋の覇王出現の預言が影響し、後漢の時代に「聃」を諡に変えて「伯陽」を字とする改竄が加えられた事の名残である。 老子など多くの歴史的人物を仙人視する風潮は前漢時代に起こり、これを批判し王充は『論衡』という書の「道虚篇」で老子不老不死説を取り上げ否定した。伯陽と老子を同一視する説は、このような時代の流行を反映したもので、逆にそれが『史記』の改竄にまで及んだことを示す。 尹喜 伝統的記述では、老子は都市生活におけるモラルの低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の衛兵・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願った。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子に供し、二度とその姿を見せなかったともある。 この尹喜は、『荘子』「天下篇」などで登場する「関尹(關尹)」ではないかとする説がある。「天下篇」で荘子は関尹を老子(老聃)と同じ道家の一派と分類している。「関」は文字通り関所であり、「尹」は役所の長官という意味を持つ。そのため、元々は役職名から転じた通称「関尹」なる人物が、尊敬する老子と出会い喜んだ様が『史記』に見られる「關令尹喜」という表現となり、人物名「尹喜」へ転じたという説がある。 郭沫若は、この関尹とは斉の稷下の学者の一人である「環淵」が訛ったものという説を述べた。これに基づけば、環淵の黄老思想が老子の思想体系化に影響を与えたと考えられる。 『老子道徳経』から推測される老子 議論 老子が著したと伝わる『老子道徳経』は、『老子』『道徳経』『道経』『徳道経』『五千言』など、様々な名称でも呼ばれる。この書籍の真偽、元々の形についても老子の実在や時代の判断に直結する事もあり、数多くの主張や議論が行われてきた。この『老子道徳経』成立期が判明すれば、それは老子が生きた時代の下限と考えられる。 『老子道徳経』(『老子』)がその書籍名を明示して引用された最初の例は、前漢の武帝代に淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が編纂した『淮南子』である。ここに注目し、『老子道徳経』は先人の金言が徐々に集積され、武帝の時代に形式が整えられて書名が与えられたという説がある。 「晩期説」を唱えた梁啓超は、1922年に新聞紙上に短い論説を発表し、『老子道徳経』は戦国末期に出来たものと唱え、4年後に武内義雄が『老子原始』にて独自にほぼ同じ説を述べた。梁啓超は自説を纏め、6項目の根拠を示した。 老子の8代目子孫と孔子の13代目子孫が同じ時代に生きていたと言われ、5代分の開きがある。 墨子や孟子の著作には、老子について触れた部分が全く無い。 礼を守ったと伝わる老子と、その著作『老子道徳経』の内容には、大きな隔たりがある。 (老子について述べた箇所がある)『荘子』にある多くの説話のほとんどは寓話であり、事実とはみなされない。 老子の言動(『老子道徳経』の内容)は、春秋時代の雰囲気からすると異質すぎる。 『老子道徳経』には、戦国時代に使われた用語(例えば「王侯」「万乗之君」「仁義」など)が含まれる。 馮友蘭は文体論から『老子道徳経』を考察し、経典の形式である点は戦国時代の特徴で、春秋時代の対話形式ではない点から戦国期成立を主張。他にも、老子の「不尚賢」という概念は墨子の「尚賢」を否定したもので、それ故に老子は墨子以降の人という説も唱えられた。 一方で、春秋時代の成立とみなす学者も多く、例えば呂思勉(『先秦学術概論』)は『老子道徳経』内で用いられる語義が非常に古い点、その思想は女権優位が軸を成す点、また「男・女」ではなく「牡・牝」という後代とは異なる漢字が使われる点を根拠に挙げている。戦国期成立説への反証も行われ、時代考察の一派を占める。 また、もっと後世の作という説もあり、『呂氏春秋』と共通する箇所は引用ではないと主張した。顧頡剛らは呂不韋と同じ秦代、劉節は前漢の景帝時代という見解を述べた。 このような議論を通じ、少なくとも老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、同書は『孔子』(『論語』)や『墨子』同様にその系譜に当たる弟子が後年に纏めたものという考えが主流となり、「疑古」派もしくはこれに民俗学や文献学などを取り入れる「釈古」派の考えが定説として固まりつつあった。 馬王堆・郭店の発掘書 このような『老子道徳経』の成立に関わる考古学的発見が、20世紀後半に2件もたらされた。1973年、湖南省長沙市で漢代の紀元前168年に造営された馬王堆3号墓から帛書の写本(馬王堆帛書)が出土したが、これには二種の『老子道徳経』が含まれていた。さらに1993年、今度は湖北省荊門市郭店で、戦国時代の楚国の墓(郭店一号楚墓)から730枚の竹簡(郭店楚簡)が発見された。この中には三種類の『老子道徳経』が含まれていた。いずれも書名は記されておらず、また現在に伝わる『老子道徳経』とはそれぞれに差異こそあるが、この発見は老子研究に貢献する新たな物証となった。 1973年に発見された馬王堆帛書老子道徳経二種は、現在に伝わる『老子道徳経』とほぼ同じ内容ながら、二種共上・下篇の順序が逆転し、下篇が前上篇が後になっている。「甲本」「乙本」という名は、便宜上つけられたものである。甲本の字体は秦の小篆の流れを汲む隷書体であり、乙本は同じ隷書でも漢代の字体を持っていた。さらに、乙本では「邦」の字がすべて「国」に置き換えられていたのに対し、甲本は「邦」を使用している。これは、乙本には前漢の劉邦死(紀元前195年)後にこの字を避諱したことが反映され、甲本はそれ以前に写本制作されたことを示す。これによって、現本『老子道徳経』は少なくとも前漢・高祖時代には現在の形で完成していたと証明される。 さらに郭店一号楚墓は、副葬品の特徴を分析した結果などから戦国時代中期の紀元前300年頃のものと推定された。その中には君主が老齢の臣下に賜る鳩杖があったことから、正式発表は無いが被葬者は70歳以上で死亡したと考えられる。この墓から発見された竹簡は16種類あり、さらに『老子道徳経』に相当するものは「甲本」「乙本」「丙本」の3種類に分けられた。この甲・乙・丙本に共通する文章はわずかに甲と丙の一部にのみあるが、細かな文言などに差異があった。そして三本を合わせても31章にしかならず、現在の『老子道徳経』81章の にしか相当しない。 浅野裕一は郭店楚簡甲・乙・丙本について、『老子道徳経』に相当する原本が存在し、被葬者もしくは写本製作者が何らかの意図を持ってその都度部分的に写し取った三つの竹簡と推測した。その根拠は三本に共通部分がほとんど無い点を挙げ、これらが『老子道徳経』が形成される途上の3過程とは解釈できないとした。その一方で思想内容には整合性があることから、別々の作者とも考えにくいと述べた。さらに、甲・丙本の共通部分(現行本第64章後半に相当)にある差異は、原本『老子道徳経』には写本を繰り返す中で既に複数の系統に分かれたものが存在していたと推定した。 当時、書籍は簡単に作成・流通できるものではなく、郭店一号楚墓の被葬者も長命な人生の中で機会を得て郭店楚簡を得たと考えられ、もしそれが若い時分ならばそれだけで原本は紀元前300年から数十年単位で遡り存在したことになる。さらに甲・丙本の差に見られる複数の写本系統を考慮すれば、その時代はさらに古くなり、『老子道徳経』原本は戦国前期の紀元前403年 - 紀元前343年には成立していた可能性が高まり、数々の論議はかなり絞られてくる。郭店一号楚墓被葬者の年齢など科学的分析結果は全容が公表されていないが、それ如何によっては『老子道徳経』成立時期がさらに明らかになる可能性がある。 老子の思想の形成について 中国の古い書物はそのほとんどが、一人の著者のみで書いたものではなく、時代を変遷して、多数の著者の手により追記編集されていったものであるとされている。その門流の人々は、次々にその原本に書き足していったものを、全体として構成し直し、それをその発端者の名前で呼んでいるようである。老子道徳経に編纂されている思想についても、多数の著者によって、いくつかの思想が述べられており、それを後代の人が書物としてまとめたものであるとみることができる。 老子の「道」について 老子道徳経に述べられている「道」の区分については、①普遍的法則としての道、②根元的実在としての道、③処世術としての道、④政治思想としての道、の四通りの「道」の区分があると見ることができる。このうち、②根元的実在としての道について述べられた部分が、古い老子の思想であると見ることができる。 「建言」というのは、下編の最初のほうに出てくる『老子道徳経』よりも古くからあったとされる、諺などを記した書物であるとされている。この諺や名言は、老子本文を構成するのに引用されているところからすると、「老子下編」を編集した人物にとっての、最古の老子の伝説の書のようなものであったということができる。「建言」とは、永久に記憶されるべきことば、という意味を持つ。。 「建言」に見る、実在としての道 「建言」によると、実在としての道は、循環運動を永遠に続けている。あらゆる存在は、「有」として、「無」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。 「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。 「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。 思想から見る老子 政治思想の源流 政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた。このような考えは大国を志向した儒家や墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思考とも読める。 しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う。同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子を会う話がある。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には中原諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる。 柄谷行人によると、人間社会は、四つの交換様式の組み合わせから成り立ち、一つ目の交換様式Aは「互酬(贈与とお返し)」。人類史で見れば、原始社会や氏族社会は交換様式Aの原理から成り立つ。二つ目は、被支配者は支配者に対して税や年貢を支払い、その見返りとして、生命財産の保護を受け、公共事業や福祉などを通じて再分配を受ける交換様式B「略取と再分配」。三つ目の交換様式Cは、資本主義社会で最も支配的な交換様式である「商品交換」。四つ目の交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である。「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す社会運動が出現する条件は、非常に発展した交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会に浸透していることであり、交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会を包摂しているからこそ、それらを無化し、乗り越えようとする交換様式Dが出現する。交換様式Dは、まず崩壊していく交換様式Aを高次に回復する社会運動として現れる。具体的には、共同体的拘束から解き放たれた自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指す。したがって、交換様式Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗する(交換様式Aと交換様式Bを批判し、否定する)。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。これこそが交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味であり、中国における老子もまた交換様式Dを開示したとみられる。 老子の社会階級 老子が描く理想的な「小国寡民」国家は、とても牧歌的な社会である。 老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、今のままでもその食物を美味と思い、服装も立派だと考え、住まいに満足し、それらを自給自足で賄い、その素朴な習俗を楽しむという。隣の国との関係は、互いに望み合えてせいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するように上からの干渉を極力抑えて、民のあるがままにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭し(9章)、民に対する為政者へりくだりこそが天下に歓迎され、長期にわたり安泰を維持出来るとある(66章)。権力政治に対して、民が君主の圧政と重罰に慣れると、上の権力をものともしない状態になり(72章)、民が圧政に苦しみ、死を恐れなくなれば死罪による脅しも効かなくなり民の反乱、国家の崩壊を招くと警告している(74章)。また、法令をどんなに整備しても必ず法網をくぐる者が現れ、さらに犯罪者が増えるという趣旨から法律・政令の簡素化を説いている(57章)。 中国の共産主義革命以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、范文瀾は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。マルクス主義の呂振羽は、都市商人に対する農村の新興地主らの闘争理論だと述べた。侯外廬は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない。 道教における老子 伝統的に老子は道教を創立させた人物と評され、『老子道徳経』は道教の根本または源泉と関連づけられる。一般的な宗教である道教では最高の神格(en)を玉皇大帝としているが、五斗米道など道教の知的集団では、老子は神名・太上老君にて神位の中でも最上位を占める三清の一柱とみなしている。 漢王朝以降、老子の伝記は強い宗教的意味合いを持ち、道教が一般に根付くとともに老子は神の一員に加わった。神聖なる老子が「道」を明らかにしたという信仰が、五斗米道という道教初となる教団の組織に繋がった。さらに後年の道教信奉者たちは老子こそ「道」が実態化した存在と考えるようになった。道教には、『老子道徳経』を執筆した後も老子は行方をくらまさず「老君」になったと考える一派もいるが、多くは「道」の深淵を明らかにするためにインドへ向かったと考える者が多い。 理想の師弟 西門の守衛・尹喜と老子の関係についても、多様な伝説が残されている。『老子道徳経』の成立は、西へ去ろうとする老子を引き止めた尹喜が、迷い苦しむ人々を救う真実をもたらす神性なる老子の叡智を書き残して欲しいという懇願に応えたものが発端と言われる。民俗学的には、この老子と尹喜の出逢いは道教における理想的な師と弟子の関係を表したものと受け止められた。 7世紀の書『三洞珠嚢』は、老子と尹喜の関係についての記述がある。老子は、西の門を通ろうとした際に農民のふりをしていた。ところが門番の尹喜が見破り尊い師へ言葉を請いた。老子はただちに答えようとはせず、尹喜へ説明を求めた。彼は、己がいかに深く「道」を探求しているか、そして占星を長く学んで来たかを述べ、改めて老子の教えを願った。これを老子は認め、尹喜の弟子入りを許可したという。これは、門下に入る前に希望する者は試験を受けなければならないという道教における師弟の規範を反映している。信者には決意と能力を立証することが求められ、求めを明瞭に説明し、「道」を理解するために進む意思を示さなければならない。 『三洞珠嚢』によると師弟のやりとりは続く。老子が尹喜に『老子道徳経』を渡して弟子入りを許可した際、道教の一員が受けるべき数々の論理的手法、学説、聖典など他の教材や訓示も与えた。ただしこれらは道家としての初歩段階に過ぎず、尹喜は師に認められるために生活の全てを投じた三年間を過ごし、「道」の理解を完成させた。約束の時となり、尹喜は再び決意と責務を全うしたことを示すために黒い羊(青い羊?)を連れ、市場で師弟はまみえた。すると老子は、尹喜の名が不滅のものとして天上界に記されたことを告げ、不朽なる者の意匠を尹喜に与えるために天の行列を降臨させた。物語は続き、老子は尹喜に数多くの称号を与え、9つの天上界を含む宇宙を巡る漫遊へ連れて行ったという。この幻想的な旅を終えて戻った二人の賢人は、野蛮人どもが跋扈する西域へ出発した。この「修練」「再見」「漫遊」は、中世の道教における最高位への到達過程「三洞窟の教訓」に比される。この伝説では、老子は道教の最上位の師であり、尹喜は理想的な弟子である。老子は「道」を具現化した存在として描かれ、人類を救う教えを授けている。教えを受ける尹喜は試練と評価を経て、師事そして到達という正しい段階を踏んでいる。 老子八十一化説 太上老君は、歴史の中で多くの「化身」または様々な受肉を経て多様な外観を備え、道の本質を説いたという。 これは、元の時代に再解釈され、仏教に対する道教の優位性を論拠付けるために『老子八十一化図』が作成された。老子の生涯を図で示し、その偉大さを示そうとした全眞教の道士・李志常が指示し令狐璋と史志経が作成した同書は、憲宗の近臣を通じて広く流布させようと画策された。 しかし、本書は一部を除き仏陀の伝承を剽窃したもので、これを祥邁は「採釋瑞而爲老瑞、(中略)改迦祥而作老祥」(仏陀の吉祥を書き換えて、老子の吉祥に仕立て直している)と批判した。事実これは、全真道の丘長春(長春真人)がチンギス・カンと面会して以来発展を続ける道教の宣伝活動に加えて「化胡説」を強調して仏教の相対的地位低下も狙っていた。仏教界の反発は強く、1255年8月には皇帝を前に仏教界と道教界の直接論争が行われた。その後同様の論争が開かれ、『老子八十一化図』が偽作と認定されるなど最終的に道教側が破れ、古典以外の道教の書や経は焚書された。 参考文献 Komjathy, Louis. Handbooks for Daoist Practice. 10 vols. Hong Kong: Yuen Yuen Institute, 2008. Kosack Wolfgang.Laotse Von der Kraft und Vom Sinn. Buch der Sinnsprüche in 81 Abschnitten und 2 Teilen. Uebertragen aus den Seidentexten zu Ma Wang Dui <Provinz Honan> Christoph Brunner, Basel 2014. ISBN 978-3-906206-18-9. Long, Roderick T. Austro-Libertarian Themes in Early Confucianism, The Journal of Libertarian Studies Vol XVII No 3 (Summer 2003), pp. 35?62. Rothbard, Murray N. The Ancient Chinese Libertarian Tradition, Ludwig von Mises Institute (2005). Rothbard, Murray N. Concepts in the Role of Intellectuals in Social Change Towards Laissez Faire, The Journal of Libertarian Studies Vol IX No 2 (Fall 1990), pp. 43?67. 脚注 注釈 出典 出典2 本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。 読書案内 外部リンク Stanford Encyclopedia of Philosophy: Laozi Internet Encyclopedia of Philosophy: Laozi Lǎozǐ Dàodéjīng Chinese + English + German, verbatim + analogous 老子八十一化図 図像大谷大学所蔵 紀元前6世紀中国の哲学者 中国の論理学者 神秘思想家 道家の人物 道教に関連する人物 諸子百家の人物 生没年不詳
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%AB
プロトコル
プロトコルまたはプロトコール( , 、 )とは、複数の者が対象となる事項を確実に実行するための手順について定めたもの。 近年では、手順という意味だけにとどまらず,複数間における、コミュニケーション言語、ルール、考え方、などをまとめて示す言葉でもあり、ある特定のグループの中で、これらが一致すること、すなわち「プロトコルの一致」がいかなる場面でも重要視される。 もともとは「人間同士のやりとり」だけに関する用語であった。戦間期の学術的批判を経て、情報工学分野でマシンやソフトウェア同士のやりとりに関する取り決め(通信規約)を指すためにも用いられるようになった。 日本語に意訳した語としては、「仕様」「規定」「議定書」「儀典」などがある。 歴史と語源 古代ギリシアでパピルスで作られた巻物の最初の1枚目を()と呼び、巻物の内容などを記すためのページとして使われていた。その後、草稿、議事録という意味を経て議定書、外交儀礼といった意味へと発展した。 プロトコルの「プロト」は「最初の」、「コル」は「糊」という意味で、表紙に糊付けした紙を表している。 ウィーン学団の一人、オットー・ノイラートの1932年の論文「プロトコル命題」において、「プロトコル」を含む用語が用いられている。 1968年に大型コンピュータを共有するために世界で最初に作られたインターネットであるARPANETが稼働し、これが「プロトコル」という用語および手順がインターネットで使われた最初となった。 その後、最初期のパケット交換技術の方式のひとつであるX.25が登場し、研究者のみの利用であったARPANETから成長し一般ユーザも利用出来るものを目指し作成された結果、世界中のパケット交換技術者間でプロトコルという用語が定着し、共通語となった。 政治 政治、その中でも特に外交の用語として、複数の用法が存在する。プロトコルの成立当初よりも排他的な用語である。 外交儀礼 外交儀礼としてのプロトコルとは、外交の場や国際的催しで、その実務や交流の場における公式な規則や手順などを、ひとつの典拠として利用できるようまとめた基本原則ともなるもの。歴史的外交事例に基づいた慣行や慣習を整理し成文化したものであり、法的な拘束力はもたない。 具体例としては、列席者の序列、国旗の取扱い、式例の進行手順、参列者の服装、物事の言い表し方などについて、その一般的な運用法をあらかじめ決めて明示するものだが、そもそも成文化されていない純粋な慣例も多く、その内容は時と必要に応じてさまざまに変化する。 また国際的に尊重されるべき大枠での合意ではあるものの、運用国の実情や慣習に応じてその内容が変化する場合もある。例えば国旗の取扱いでは、国際的には自国旗を他国旗よりも上位(左側)に掲揚または配置するのが一般的なプロトコルだが、日本では相手国に敬意を表する意味で逆に他国旗を日章旗の上位に持ってくる場合も多い。 なお外交関係者の中には、この外交儀礼の「プロトコル」を「プロトコール」と延ばして書いたり言ったりする者が多い。これはかつてのいわゆる「外交共通語」が英語ではなくフランス語だった時代の名残でもある。 世界共通の一般的マナーとして活用されることもあるが、あくまでも国家間の儀礼上のルールである。 批判表現のプロトコル 外交上用いられる他国への批判表現は批判の度合いにより8段階が規定されており、レベルが上になるほど批判の度合いが強くなる。 レベル8 - 断固非難 レベル7 - 非難 レベル6 - 極めて遺憾 レベル5 - 遺憾 レベル4 - 深く憂慮 レベル3 - 憂慮 レベル2 - 強く懸念 レベル1 - 懸念 国際法 国際法における条約の一種である議定書は、英語の protocol の訳語であることから、外交関係者の間ではこれをプロトコルと呼ぶこともある。 情報工学 コンピュータにおける「プロトコル」とは通信規約を意味する。たとえ異なる企業どうしの装置であっても通信が行えるよう、用語を含めて厳密に規定されている。一度定められたプロトコルを変更することは容易ではないため、情報通信技術が今後どのように開発されるかを見据えながらプロトコルの作成が行われる。工学におけるシステムの設計は階層によって行われることが多く、コンピュータにおけるプロトコルも厳密な階層的設計が行われる。 国際標準化機構と国際電気通信連合がOSI基本参照モデルを定めていて、多くのプロトコルがこれをモデルとして作られている。インターネットにおけるプロトコルは RFC で技術仕様が公開されている。 実験プロトコル 実験プロトコルは分子生物学や生化学などの実験において、実験の手順、及び条件等について記述したものである。 脚注 参考文献 関連項目 マナー・プロトコール検定 日本マナー・プロトコール協会 シオン賢者の議定書 外交 国際法 通信 儀礼 インタフェース
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B5%E7%94%BB
絵画
は、物体の形象を平面に描き出したもの。日本語では類語の絵(え)が幅広く用いられ、絵画という語は、特に芸術作品としての絵を指す場合がある。ただし、絵と絵画を区別して用いるとは限らない。また画を後ろにつけて描写の技法や対象を示す用語もある(水墨画、静物画など)ほか、絵の描き手を画家と呼ぶ。フランス語では peinture(パンチュール)、英語では painting(ペインティング)。日本語の雅言的表現で絵と呼ぶこともある。 ヒト特有の行動とみられ、顔の輪郭だけを描いた下絵と筆を与えても、高度な知能を持つチンパンジーは顔の絵を描けなかったのに対して、人間の幼児は2歳後半から眼や口を描き込めるようになり、言語能力と密接に関連していると推定される。 文字などを「書く」ことより早く、絵画を「描く」行動は幼少期から見られる行動である。発達心理学などの分野では、14歳から18歳程度で完成期と呼ばれる時期を迎え、多くの人はその頃から、ほとんど描かなくなる。子どもの絵に関する社会科学的研究は豊富だが、大人の絵に関する同様の研究は少ない。その一方で、多くの人が描かなくなる年齢を過ぎても活動的に絵を描く人々が居る。歴史的に代表的なのは画家であると言えるが、現代ではより多くの業種に見出される傾向である。なお、人間の発達には個人差があり、柔軟な姿勢が必要である。 概説 絵画は、基本的には、線や色彩を用いて、物の形や姿を平面上に描き出したものである。その起源は有史以前に遡り、スペインで6万5000年以上前にネアンデルタール人が描いたと推定される洞窟壁画が発見されている。また、「絵画は, ある物質の表面に故意に色をつけてつくり上げた「もの」にすぎない」との定義もある。 定義の問題 油彩画の初期には板に描かれ、油彩画の以前にはテンペラ画もあった。また額に掛けて壁に飾るのは新しい様態であって、古くは壁に直接描く技法(壁画)があった。そういった古いものも絵画として認識するためには、たとえば「」という定義が考えられる。 20世紀以降において、絵画の概念の設定にも困難がつきまとう。理由の一つは新しい素材や技法の登場による。切り絵や貼り絵、コラージュ等である。例えばパブロ・ピカソの1912年の作品『籘張りの椅子のある静物』には籘張り糢様の布が画布に直接貼り付けられている。また、イタリアのルーチョ・フォンタナの『空間概念』(1950年代)がある。これは画布に切り目が入った作品である。 組成 技法的観点、素材的観点は伝統的には組成などと通称された経緯がある。網羅的ではないが体系的範疇が蓋然的にであれ存在し、大学などの教育機関にあっても一定の認識が存在する。 素材 以下は素朴なリストである。詳細は油彩画、水彩画の項等参照。 支持体 紙 布、特に帆布。他に亜麻布や絹。 皮革 板 鉄板 ガラス 段ボール 食器などの工芸品 建造物などの壁面や天井 絵具(液体着色材料、及び、固体着色材料) 油絵具 水彩絵具 パステル クレヨン その他 木炭 鉛筆 墨 インク 技法 油彩 水彩 ガッシュ ボディーカラー テンペラ ディステンパー 日本画 洋画 水墨画 合成樹脂塗料 フレスコ パステル チョークアート ペン画 ドローイング クロッキー 版画 切り絵 ちぎり絵 コラージュ 類型 風景画 静物画 人物画 肖像画 自画像 博物画 植物画 動物画 宗教画 歴史画 風俗画 戦争画 風刺画 イラストレーション トリックアート 類語 図画 図画(ずが)は、小学校の教科に図画工作があり、「絵画」と同様の意味で使われることもあるが、絵画のほかに素描(デッサン、ドローイング)、イラスト、版画などを含んでいる。法律文書では「文書図画」のように文書と組み合わせて使われる。なお、絵画に関する学問は画学と称される。 平面作品 彫刻に対比される絵画ではなく、「立体作品」に対比される「平面作品」という語が登場した。しかし、絵画、版画、イラストレーション、印刷物、映画、写真、2次元コンピュータグラフィックス(2DCG)等が「平面作品」であるかどうか判然とせず、曖昧である。加えて、絵画も立体であるという批判もある。 ギャラリー 注釈 出典 参考文献 関連項目 絵画関連の催事 日展 - 日本画・洋画・彫刻・工芸美術・書からなる総合美術展 二科展 - 絵画・彫刻・デザイン・写真からなる総合美術展 創画展 - 日本画のみを対象とした公募展 院展 - 日本画のみを対象とした公募展 絵画に関連する概念 美術 美術史 西洋美術史 東洋美術史 画家 タブロー イラストレーション 壁紙 インテリア 外部リンク 美術のジャンル 媒体
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https://ja.wikipedia.org/wiki/OSI%E5%8F%82%E7%85%A7%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB
OSI参照モデル
OSI参照モデル(OSIさんしょうモデル、)は、コンピュータネットワークで利用されている多数のプロトコルについて、それぞれの役割を分類し、明確化するためのモデルである。国際標準化機構(ISO)によって策定された。OSI基本参照モデル、OSIモデルなどとも呼ばれ、通信機能(通信プロトコル)を7つの階層に分けて定義している。 いくつかの教科書や、以下の「#例」の節で「理解を助けるための参考資料」などとして、SNAの7階層や、TCP/IPモデルに沿っているプロトコルなどを、このOSIのモデルに対応付けした表などが見られる。これについてはIETFなどが、インターネット・プロトコル・スイートの開発はOSIに準拠する意図はないとしている。しかしながら、対応づけをすることはWTO/TBT協定の趣旨に沿って非関税障壁をなくすための行為である。 概要 OSI参照モデルは、1977年から1984年にかけて定義されたOSIのために策定された。OSI自体は普及せず、OSI参照モデルだけがネットワークの基礎知識として広まったものである。現在幅広くに利用されているEthernet、TCP/IPとは適合していないという主張や、ネットワークを理解するためのモデルとして不適切であるという意見がある。OSI参照モデルはISO 7498として規格化され、後にITU-TではX.200、JISではJIS X5003として、同一内容を定義している。ITU, JISともにネットで規格文書を公開しており、通信規約を規定する技術仕様を記述する上での出発点として用いることができる。 レイヤー構成 国際標準化機構 (ISO) によって制定された、異機種間のデータ通信を実現するためのネットワーク構造の設計方針「開放型システム間相互接続 (、OSI)」に基づいて通信機能を以下の7階層(レイヤ)に分割する。 第7層 - アプリケーション層 具体的な通信サービス(例えばファイル・メールの転送、遠隔データベースアクセスなど)を提供。HTTPやFTPなどの通信サービス。 第6層 - プレゼンテーション層 データの表現方法(例えばEBCDICコードのテキストファイルをASCIIコードのファイルへ変換する)。 第5層 - セッション層 通信プログラム間の通信の開始から終了までの手順(例えば接続が途切れた場合、接続の回復を試みる)。 第4層 - トランスポート層 ネットワークの端から端までの通信管理(エラー訂正、再送制御など)。 第3層 - ネットワーク層 ネットワークにおける通信経路の選択(ルーティング)。データ中継。 第2層 - データリンク層 直接的(隣接的)に接続されている通信機器間の信号の受け渡し。 第1層 - 物理層 物理的な接続。コネクタのピンの数、コネクタ形状の規定など。銅線-光ファイバ間の電気信号の変換など。 例 下記は、OSIモデルの各層ごとのプロトコルやサービスの例である。ただし上述のようにOSIモデルはOSI準拠プロトコルのための参照モデルであり、OSIスイート以外はOSIモデルに沿って設計・開発される訳ではない。このため、下の例はあくまで「仮にOSIで言えばどの層に相当すると思われる」程度の参考である。 実際には、一部のプロトコルやサービスは、OSIモデルのどの層に属するかについて、いくつかの異なる見解が存在する。また複数層に跨っている物もある。図示の例はあくまでも一見解に過ぎない。 層別の例 層別・プロトコルスイート別の例 歴史 1970年代中ごろ、ネットワーク機器各社独自のネットワークアーキテクチャーが次々に発表され始めた。IBMのSNA、DECのDNA、富士通のFNA、日立製作所のHNA、日本電気(NEC)のDINA、電電公社のDCNAなどである。機器を一つのメーカー製で揃えられるのであれば問題は無いが現実的には難しく、異なる機種同士を接続するための標準化が急がれていた。 ISO(国際標準化機構)の情報処理システム技術委員会は1977年3月にSC 16を設置、OSIの国際標準化を開始する。 しかし、CCITT(国際電信電話諮問委員会)がOSI参照モデル案を参考として独自の検討を開始。CCITTとSC 16での意見のすり合わせを行い、基本的な意見を合意。1982年にトランスポート層の標準、1983年にセッション層の標準の草稿が完成。 1984年、情報処理システム技術委員会はSC 16からSC 21にOSIの標準化を引き継がせ、1985年に応用層の新プロトコルを標準化項目に追加した。 その後、当初の予定では、OSI参照モデルを基に、準拠した通信機器やソフトウェアが開発・製品化していくはずであった。TCP/IPが1990年代中ごろから急速に普及したため、OSI準拠製品は普及しないまま、現在に至る。 回線速度と通信速度 ISDNやADSLやIEEE 802.3などで表記される回線速度は第2層のことであり、例えばファイル転送で計測する通信速度とは異なる。ファイル転送で計測する速度は実アプリケーションから見た速度であって、通常は第3層以上の各種制御情報が付記されるため、回線事業者の謳う回線速度より若干低い値となる。 比喩 米国では、OSI参照モデルの7階層モデルを拡張して技術的でないことまで指し示してしまう、というジョークもある。良く知られているのは10階層モデルであり、「第8層ユーザ層」「第9層財務層」「第10層政治層」あるいは「第8層お金層」「第9層政治層」「第10層宗教層」などとなっている。 ネットワーク技術者が「第8層問題だよ」と言っていれば、それは「ネットワーク自体には問題は無くて、エンドユーザに問題があるんだよ」という意味である。同様に、財務層に問題があるとはコストの面で問題があるということ。お金で解決できることは決して少なくない。政治層は、社内政治や導入に関連するSI同士の競合によって導入できる技術仕様に制限がかかる、といった状況を指す。宗教層は「信ずるもの」の意味である。導入責任者の技術志向性や信念などに相当する。 OSIモデルをタコベルモデル(7段重ねのブリートで有名)と比喩することもある。 「第0層土建層」(有線ネットワークを敷設する建物の構造)という比喩もある。 OSIモデルを”あぷせとねでぶ”と頭文字を取って学習することがある。 関連書籍 『OSIプロトコル絵とき読本』(初版)オーム社(1987年発行) ISBN 4-274-07379-3 『OSIプロトコル絵とき読本』(改版)オーム社(1989年発行) ISBN 4-274-07530-3 注釈・出典 関連項目 DAPRAモデル 開放型システム間相互接続 (OSI) プロトコルスタック Open Data-Link Interface Network Driver Interface Specification カプセル化 通信プロトコル ISO標準 ISO/IEC標準 JIS 種類別のモデル
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ISO%209660
ISO 9660
ISO 9660:1988は、1988年にISOで標準化されたCD-ROMのファイルシステムである。 (High Sierra Format, HSF) が元になっている。Ecma InternationalのECMA-119に対応する。JISではJIS X 0606に対応する。ISO 9660に準拠することで、様々なオペレーティングシステム (OS) で同じCD-ROMを読み込むことができる。 ファイル名に制限が多かったため、後に様々な拡張フォーマットが登場した。 もともとはCD-ROM用であるが、DVDやBDでも用いられることがある。 水準 ファイル名やディレクトリ名に使える文字は数字、英大文字、“_”(アンダースコア)の37種類(規格ではこの文字群を d文字 または d1文字 と呼ぶ) ファイル名は以下の規則を持つ。 「0文字以上 + “.” + 0文字以上 + “;” + 1から32767までのバージョン番号」で表される 「0文字以上 + “.” + 0文字以上」は合わせて31文字まで “.”の前後どちらかは1文字以上なければならない ディレクトリ名は31文字まで ディレクトリは8階層まで 「ファイル名の文字数 + そのファイルに関連するルートディレクトリまでの各親ディレクトリ名の文字数の総和 + 同親ディレクトリの数(ディレクトリ区切り)」は255まで 制限の厳しいシステムとのやり取りの為3つのレベルが規定され、上記に加えて制限がかかる。 ISO 9660 Level 1: ファイル名は「8文字以下 + “.” + 3文字以下 + “;” + 1から32767までのバージョン番号」まで ディレクトリ名は8文字まで ファイルデータは単一のしか持てない ISO 9660 Level 2: ファイルデータは単一のエクステントしか持てない ISO 9660 Level 3: 追加の制約は課さない ISO 9660:1988/Amd.1:2013 ISO 9660:1988/Amd.1:2013は、ISO 9660規格の最新の追補である。JISでは、ISOより先にJIS X 0606:1998として取り入れられている。 次のような特徴がある。 ファイル名、ディレクトリ名は207文字まで 拡張子の必要性が無い(ファイル名に “.” を含める必要が無い) バージョン番号の必要性が無い 8階層までというディレクトリの階層の制限を取り払って無制限になった また、Joliet拡張(後述)と本規格の差異に関する情報がAnnex B.2に追加されている。 拡張規格 El Torito El Toritoは、1995年にIBMとが提唱した規格である。CD-ROM上からのブートがサポートされている。 El Toritoの名は、日本でもつくば市・東京都などで展開しているココス系列のメキシカンレストランエルトリートから取られている。 Rock Ridge Rock Ridge(ロックリッジ)は、IEEEによってIEEE P1282として制定されたISO 9660の拡張規格である。おもにUnix系OSで利用される。 次の機能をサポートしている。 UNIX式のアクセス権の設定(ISO 9660でも拡張属性レコードにPOSIXパーミッションがあるが、レコードは列挙に対し非効率的に配置される) シンボリックリンク デバイスファイル 大文字・小文字の区別 最大255文字のファイル名 8階層以上(ISO 9660の仕様)のディレクトリの作成(ISO 9660上ではルート直下にRR_MOVEDまたは.rr_movedディレクトリとして配置される) ISO 9660と上位互換であり、Rock Ridgeを利用できないシステムでもISO 9660 Level 1として読み込めるようになっている。 Joliet Joliet(ジョリエット)は、マイクロソフトが設計したISO 9660の拡張規格である。 次の機能をサポートしている。 UCS-2の利用 最大64文字までのファイル名 8階層以上(ISO 9660の仕様)のディレクトリの作成 ISO 9660と上位互換であり、Jolietを利用できないシステムでもISO 9660 Level 1として読み込めるようになっている。Windows 95から現在に至るまでのWindowsやその他のOSでもサポートされている。UCS-2の利用により、仮名や漢字、アラビア文字なども使用することができる。 Apple ISO 9660 Extensions Apple ISO 9660 Extensionsは、AppleがISO 9660を拡張するために設計されたいくつかの規格である。CD-ROM上でのHFS (HFS+) を利用出来るように設計されてあるものもあり、HFSのメリットを利用することができる。 ほぼClassic Mac OSおよびmacOS専用の拡張規格であり、利用できないシステムではISO 9660 Level 2として読み込めるようになっている。 Romeo Romeoは、アダプテックが設計したISO 9660の拡張規格である。 次の機能をサポートしている。 最大128文字までのファイル名 ISO 9660のディスクフォーマットを拡張しており、ISO 9660との互換性は無い。 規格の逸脱 他の拡張規格のように規格化されたものではないが、多くのOSの実装において多少の規格違反は許容されており、それを逆手に取った意図的な規格違反をすることでISO 9660の厳しい制限を回避することができる。しかし互換性は下がることになる。 以下のようなものが存在する。 ファイル名にd1文字以外の使用 ファイル名に複数の“.”の使用 ファイル名に“.”の非使用 9660:1999では規格合致。 8階層を超えるディレクトリ 9660:1999では規格合致。 “;”およびバージョン番号の省略 9660:1999では規格合致。多くのOSでは“;”とバージョン番号はユーザーから見えないようになっているが、それらを隠してくれない環境では有用となる。 ファイル名に37文字までの使用 “;”とバージョン番号用の領域をファイル名に使用する。必然的にバージョン番号は省略される。 (Joliet拡張)110文字までのファイル名の使用。 ディスクフォーマット上はファイル名に使用できる領域は64文字分より大きく確保可能である。 OSのISO 9660サポート 関連項目 ユニバーサルディスクフォーマット ディスクドライブ仮想化ソフト ISOイメージ 脚注 外部リンク Joliet Specification(Jolietの仕様) Information technology - Volume and file structure of CD-ROM for information interchange(ISO/IEC 9660:1999の仕様) 09660 OSのファイルシステム
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%80%89%E7%94%B1%E7%BE%8E
白倉由美
白倉 由美(しらくら ゆみ、1965年3月8日 - )は、日本の小説家、漫画家、ラジオ番組などのプロデューサー。千葉県出身。武蔵野女子大学文学部日本語・日本文学科卒業。夫は作家、漫画原作者の大塚英志。作品によっていくつかのペンネームが存在する。 漫画家としての経歴 漫画家時代 1983年 - 漫画雑誌『プチアップル・パイ』(徳間書店)3号に掲載された『魚座生まれのロンリーキャット』でデビュー。 以降、3年ほど『プチアップル・パイ』や『漫画ブリッコ』(発行:白夜書房、発売:日正堂)にて執筆活動を続ける。夫である大塚英志は当時『漫画ブリッコ』の編集者だった。 1986年 雑誌『リュウ』(徳間書店)にて『恋するスパークリングフラッシュ』を、『週刊少年チャンピオン』にて『セーラー服で一晩中』を連載。 1988年 - 1990年 『ヤングチャンピオン』にて『卒業、最後のセーラー服。』を連載。 1989年 - 『サクリファイス』を単行本書下ろしで発表。 1991年 - 『贖いの聖者』を単行本書下ろしで発表。 1991年 - 『週刊少年チャンピオン』にて『東京星に、いこう』の連載を開始(-1992年)。 1992年 - 尾崎豊の急死に伴い、『卒業、最後のセーラー服。』の後半部分のみを改訂して書き下ろした単行本『懐かしい年への手紙』を出版社を変えて刊行。 1992年 - 同年より『季刊仏教』(法藏館)にて『グレーテルの記憶』の連載を始める。 1996年 - 『グレーテルの記憶』連載を中断。 その後は小説『夢から、さめない』に漫画を描き下ろしたり、2001年に復刊された『白倉由美コレクション1 セーラー服物語』にて単行本未収録だった『短距離走者』を新たに書き下している。 漫画作品の復刊 白倉由美は『グレーテルの記憶』の執筆を開始する前後に、自身の単行本を全て絶版にした。しかし、1996年にリーディングストーリィ『東京星に、いこう』のCD発売を契機に、少しずつ自身の作品を出版社は変えつつ復刊している。 1996年 - 東京星に、いこう 2001年 - 白倉由美コレクション(1巻が『セーラー服物語』、2・3巻が『セーラー服で一晩中』) 2002年 - 贖いの聖者 2003年 - グレーテルの記憶(前半の一部分のみ。これ以前は単行本未収録だった。) 漫画原作者としての活動 1996年 - 1997年 - 『少年王』(光文社)で連載された『Dream Girl 声優物語』の原作を担当。 1997年 - 1998年 - 『月刊ASUKAファンタジーDX』で連載された『イイナ 〜Feel for Love〜』の原作を「S-nery Angel」名義で担当。 2001年 - 2002年 - 『月刊少年エース』にて掲載された『雨の音が聞こえる』の原作を「大塚麻巳子」名義で担当。 プロデューサーとしての経歴 ラジオ番組の内容 1995年10月、マダラプロジェクト(後の大塚英志事務所/物語環境開発)制作のラジオ番組「マダラプロジェクトアワー」がTBSラジオより放送を開始し、白倉由美はそのプロデューサーを務める。 この番組には3つの特徴があった。当時新人の声優だった桑島法子、桂川千絵、前田このみをパーソナリティとして起用したこと、3人で「S-nery」(サナリィ)という名のグループを結成させてアイドルのように演出したこと、そして短編の物語を朗読する「リーディングストーリー」(「リーディングストーリィ」とも表記される)というコーナーがあったことである。リーディングストーリーとは、静かなピアノの曲などを背景に静かな口調で朗読するもので、派手な効果音が無い点でラジオドラマとは異なる。最初のリーディングストーリー『夢から、さめない』はS-neryによって演じられた。 当初は半年で終了する予定だったが、1週間に1,000通以上の葉書が来ることもある人気番組となったこと、白倉由美も最初のリーディングストーリー『夢から、さめない』の続編を制作することを強く希望したため、番組の続行が決定した。リーディングストーリー『夢から、さめない』は2ヶ月オーバーの33話で終わる。 。ラジオは聴取率上がると別の会社がもっとスポンサー料出し枠をもっていくということがあり新しいスポンサーのゲームメーカーが100%スポンサー料を出せばTBSに残れたが、パーソナリティーを変えリーディングが流さないことが条件になったため、その後は、キー・ステーションをAM KOBEに変更し、番組名やパーソナリティを頻繁に変更・交替しつつ、最終的には2000年3月まで番組は続いた。その間に、『夢から、さめない』の続編である『東京星に、いこう』など多数のリーディングストーリーが制作され、その内のいくつかはCDに収録されて発売された。また、白倉により作詞・プロデュースされた楽曲も多くがCD化された。番組からはパーソナリティを務めた多くの新人女性声優が巣立っていったが、中には卒業後声優として成功を収めたものも何人か現れた。なお、白倉は全てのリーディングストーリーの脚本を担当し、またパーソナリティの人選も全て彼女が決定した。 白倉がプロデュースした番組は、パーソナリティが自由気ままに喋っているように放送されていたが、実際にはフリートークでさえも白倉が用意した台本を一字一句に至るまで読まされていた。放送時の番組台本的発行物である光文社出版「夢さめ戦隊S-neryサナリー」P227にそれを陰喩する注釈があり、後日、太田出版『新現実 vol.4』13P・60Pで白倉がその旨を明言している。 番組が終了することになった原因は、白倉がその年の4月より社会人枠で武蔵野女子大学に入学することが決まったためである。終了する頃には、AM KOBEでは青春ラジメニアに次いで人気番組となっていたと、番組の最終回で大塚英志は述べている。 番組終了後 白倉がプロデュースしたCDは発売後ほとんどが廃盤となっていたが、2003年12月より『白倉由美ベストセレクションシリーズ』として復刻し始めている。2005年8月現在までに復活したのは、リーディングストーリー『東京星に、いこう』、音楽CD(白倉のラジオ番組のパーソナリティ、または一般の声優によるヴォーカル)である。また、併せて新作『グレーテルの記憶』も発売されている。今後の予定は不明である。 白倉は2004年に武蔵野大学を卒業し、2005年7月3日より始まったラジオ関西の「改め!ラジオ新現実」にて、再びリーディングストーリーを始めた。番組は同年12月25日に終了した。 ラジオ番組 マダラプロジェクトアワー 声優育成シミュレーション学園少女 マダラプロジェクトアワー2 S-neryのジョカ・ラジ マダラプロジェクトアワー3 夢さめ戦隊S-nery 夢さめ学園 イイナ向上委員会 声優志願の英雄志願 超時空学園 SORANE 夢さめ戦隊 また西へ 秘密結社 くらげ会 アリスの憂鬱 ヴァニラの秘密 番組に出演した主な人物 大塚英志(番組プロデューサー) 桑島法子 前田このみ 桂川千絵 竹田ともよ 千葉千恵巳 豊嶋真千子 前田愛 前田千亜紀 ジョディ(モデル) 浅川悠 小島幸子 菊地由美 成田紗矢香 吉本桂子(モデル・タレント) 真田アサミ 那須野雅美 八巻千紘 大塚ギチ(ライター・編集者) 白倉由美 小説家としての経歴 白倉は元々大の文学好きで、文学者への憧れが昔からあったらしい。既に漫画家時代から大江健三郎などの小説家の影響が随所に見受けられた。1989年には既に『卒業、最後のセーラー服。』の3巻で『今はもう、いない』という、夕やけニャンニャンを題材にした短編小説を掲載していた。 1997年 - ラジオで放送されたリーディングストーリィ『夢から、さめない』の内容を一部改訂した小説『夢から、さめない』を刊行。 1998年 - 1999年 - 『ザ・スニーカー』にて『ミルナの禁忌』を連載。 2000年 - 『月刊ニュータイプ』において『多重人格探偵サイコ -雨宮一彦の帰還- ロリータの温度』を連載。 2000年 - 単行本『ロリータの温度』を書き下ろす。『月刊ニュータイプ』に連載されていたものとは別物である。 2001年 - 『小説現代増刊号メフィスト』(講談社)にて、私小説『おおきくなりません』の掲載を開始。続編の『やっぱりおおきくなりません』を含めれば2003年まで続く。 2003年 - 初めて児童文学に挑戦した『きみを守るためにぼくは夢をみる』(講談社)を刊行。 2002年に創刊された、大塚英志が編集を務める思想誌『新現実』(角川書店)より『しっぽでごめんね』の連載を始めた。また2004年に『新現実』の姉妹誌として漫画専門誌『Comic 新現実』が創刊されると、同時に『しっぽでごめんね』の連載も移行した。同誌では新作『海の境界』も執筆している。 備考 自身の今までの作品について、白倉由美自身は「大きなイニシエーションみたいなのがなくなって、いつまでもコドモのままでオトナになれない主人公たちを、どうやって大人にならせてあげようか」というのがテーマであると語っている(『comic新現実 vol.4』10P - 11P)。 芸能界を舞台や背景にした作品がいくつもあるが、それらは白倉がおニャン子クラブのファンだったことに由来する(単行本『セーラー服で一晩中』でのコメントなど)。また、岡田有希子の自殺を『サクリファイス』や『イイナ 〜Feel for Love〜』の題材に取り上げ、またその他の作品でも断片的にこの事件に言及している。『夢から、さめない』の第3話『水の影を踏む』の後半部分では、『ノルウェイの森』の第一章後半の記述をほぼそのまま転載している。 白倉由美がプロデューサーを担当したラジオ番組には、2011年現在も声優として活動している者や、当時その卵だった者が中心に出演していた。ラジオ番組担当ではないが、平野綾もデビュー間もない頃にCD・書籍の「ロリータの温度」に出演している。また作家・佐藤友哉もこの番組に影響を受けた一人である(『S-neryベスト盤 夢からさめない』の解説より)。 『贖いの聖者』は、原作は大塚英志というクレジットがつけられているが、これは版元の要求によりつけられたものであり、実際には白倉由美のオリジナル作品である(『comic新現実 vol.4』33P)。ただし本書のあとがきを見る限り、ある程度は大塚もかかわっているようである。逆に、『イイナ 〜Feel for Love〜』は白倉が原作者であるようにクレジットがつけられているが、実際には大塚が原作を担当していた(『S-neryベスト盤 夢からさめない』の解説より)。ただしCDドラマの方は白倉が原作担当のようである。 小説『夢から、さめない』には、「なんだかこの仕事は、私のやりたいこととちがうかも…」と思って漫画を描くことをやめたという記述がある。『comic新現実 vol.4』にはより詳細な理由が記載されていて、自身の絵柄の印象と実際に作者が志向する主題との格差に苛まれたためであるという。 作品リスト 漫画・画集 (絶版となった後で復刊された作品は、復刊された方のみ記述) スゥエード・キルシュ(白夜書房) 絶版 ソロモンの指環(徳間書店) 絶版 恋するスパーリングフラッシュ(徳間書店) 絶版 学園少女 / 砂緒(白夜書房) 絶版 セーラー服物語2巻(バナナムーンで会いましょう 収録)絶版 セーラー服物語3巻(彼女の海岸線 収録) 絶版 卒業、最後のセーラー服。(秋田書店) 絶版 サクリファイス(発行:スケール、発売:弓立社) 絶版 懐かしい年への手紙(秋田書店) 絶版 東京星に、いこう(発行:オプトコミュニケーションズ、発売:主婦の友社) 絶版 白倉由美コレクション(セーラー服物語・セーラー服で一晩中) (角川書店) 贖いの聖者(角川書店) グレーテルの記憶(講談社) 漫画原作 Dream Girl 声優物語(作画:内村かなめ) (光文社) イイナ 〜Feel for Love〜(原作:S-nery Angel、作画:成瀬かおり) (角川書店) 雨の音が聞こえる(原作:大塚麻巳子 作画:やまさきもへじ) (角川書店) CD 『夢さめ戦隊ラジオ・イイナ』(NECアベニュー、Vol.1リリース:1996年12月21日、Vol.2リリース:1997年3月20日) 廃盤 『Baby Baby』(レーベル:(東芝EMI(現EMIミュージック・ジャパン)、リリース:1996年12月18日) 廃盤 原作:田島昭宇、プロデューサー:大塚英志、演出・脚本:白倉由美、リーディング:中川亜紀子、音楽:吉川清之 『冬の教室』(レーベル:東芝EMI、リリース:1997年3月19日) 廃盤 原作・プロデューサー:大塚英志、演出・脚本:白倉由美、リーディング:宮村優子、音楽:吉川清之、キャラクターイメージ:田島昭宇 『飛ぶ教室、その他の短編』(発売:マリン・エンタテインメント、販売:バンダイ・ミュージックエンタテインメント、リリース:1997年4月21日) 廃盤 演出・脚本:白倉由美、プロデューサー:大塚英志、リーディング:桑島法子、飯塚雅弓、中川亜紀子、宮村優子他 『リーディングストーリー MADARA天使編―麒麟』(レーベル:キングレコード、リリース:1997年12月3日) 原作・プロデュース:大塚英志、演出・脚本:白倉由美、朗読:飯塚雅弓、音楽:岸本友彦、イラストレーション:田島昭宇 『Angel Voice Memorial ポケットラブ』(発売:ファーストスマイル・エンタテインメント、販売:ポニーキャニオン、Vol.1リリース:1998年1月21日、Vol.2リリース:1998年2月28日、Vol.3リリース:1998年3月18日) 廃盤 『MPD-PSYCHO サイコ サウンド・ストーリー』(レーベル:ソニーレコード、リリース:1998年5月30日、規格品番はSVWC-7001。) 監督:白倉由美、脚本:白倉由美・大塚英志、音楽制作:ファースト・スマイルエンターテイメント、イラストレーション:田島昭宇 『声優物語 All in the golden afternoon』(日本コロムビア、Vol.1リリース:1998年6月20日、Vol.2リリース:1998年7月18日) 廃盤 『サウンド・ストーリー ミルナの禁忌』(SPEビジュアルワークス、リリース:1998年11月21日) 原作・演出・脚本:白倉由美、プロデューサー:大塚英志、キャラクターデザイン:内藤泰弘、出演:成田紗矢香他 『ロリータの温度』(『多重人格探偵サイコ/雨宮一彦の帰還』サウンドトラック) (レーベル:キングレコード、リリース:2001年8月29日) ボーカル:平野綾、企画:大塚英志、作詞:白倉由美、作曲:後藤次利) 白倉由美ベストセレクションシリーズ(発売:アブソードミュージックジャパン/モモアンドグレープスカンパニー、販売:キングレコード) VOL.1 S-neryベスト盤『夢からさめない』(リリース:2003年12月26日) VOL.3 S-neryリーディングストーリー『東京星に、いこう』総集編(リリース:2004年1月21日) VOL.4 『声優ボーカル集』(リリース:2004年2月25日) 企画:物語環境開発、全作詞・挿絵:白倉由美、プロデューサー:大塚英志、ジャケットデザイン:大塚ギチ VOL.5 リーディングストーリー『グレーテルの記憶』(リリース:2004年6月23日) プロデューサー・ディレクター・脚本・朗読:白倉由美、サウンドプロデューサー:大川正義、ジャケットデザイン:大塚ギチ 小説 夢から、さめない (角川書店 〈角川スニーカー文庫〉、1997年) 夢から、さめない (角川グループパブリッシング 〈文庫〉、2009年) ミルナの禁忌 (角川書店 〈単行本〉、2000年) ロリータの温度 (角川書店 〈単行本〉、2000年) 終わらない夏休み〜セーラー服で一晩中〜 (角川書店 〈角川スニーカー文庫〉、2001年) おおきくなりません (講談社 〈単行本〉、2002年) おおきくなりません (徳間書店 〈徳間デュアル文庫〉、2007年) きみを守るためにぼくは夢をみる (講談社 〈単行本〉、2003年) きみを守るためにぼくは夢をみる (星海社 〈星海社文庫〉、2011年) II巻(2011年)、III巻(2012年)、IV巻(2013年) ラジオ・キス (講談社 〈単行本〉、2007年) やっぱりおおきくなりません (徳間書店 〈徳間デュアル文庫〉、2008年) しっぽでごめんね (角川書店 〈単行本〉、2005年) ネネとヨヨのもしもの魔法(徳間書店、2014年) 僕らの惜春(星海社、2016年) 日本の漫画家 日本の小説家 武蔵野大学出身の人物 千葉県出身の人物 1965年生 存命人物 大塚英志
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ダイヤモンド
ダイヤモンド( )は、炭素のみからなる鉱物。炭素の同素体の一種であり、天然に存在する物質のうちで最も硬度が高く、一般的に無色透明で美しい光沢をもつ。ダイヤとも略される。和名は「金剛石(こんごうせき)」。 概要 採掘によって得られるもの(「天然ダイヤモンド」)と、合成によって得られるもの(「合成ダイヤモンド」)がある。 ダイヤモンドの結晶は、等軸晶系であり、多くが八面体や十二面体をしている。地球内部の非常に高温高圧な環境で生成されるダイヤモンドは定まった形では産出されず、必ずしも角張っているわけではない。 炭素の同素体にはダイヤモンド、グラファイト(黒鉛)、フラーレンなどがあり、それぞれ結合に使われている価電子の数が異なっている。その中でダイヤモンドはと呼ばれる、炭素Cの価電子4個が全て結合に使われている構造の物質である。 性質 実験で確かめられている中では天然で最も硬い物質である。光を透過する(透明)。熱伝導率が非常に高い。電気を通さない(ダイヤモンド結晶の原子には不対電子が存在しないため)。→#性質 用途 主な用途は、宝飾目的(宝石)や工業目的である。 工業目的としては、ダイヤモンドの諸性質を活かして、研磨材、金属加工の超精密加工用バイト、線引き用のダイス、超高圧アンビル(#ダイヤモンドアンビルセル)などの加工工具や耐摩工具、また医療用ナイフ、ヒートシンクなど。 各国語の呼び方 ダイヤモンドという名前は、古代ギリシア語の (adámas 征服できない、屈しない)に由来する。それが古代ローマのラテン語でadamansとなり、中世ラテン語では変化形のdiamasも使われて、それが古フランス語へ入り、古フランス語から中英語へと入り英語ではdiamondとなった。 現在、イタリア語・スペイン語・ポルトガル語では diamánte(ディアマンテ)、フランス語では (ディアマン)、ポーランド語では (ディヤメント)、漢語表現では金剛石という。ロシア語では (ヂヤマント)というよりは (アルマース)という方が普通であるが、これは特に磨かれていないダイヤモンド原石のことを指す場合がある。磨かれたものについては (ブリリヤント)で総称されるのが普通。 性質 屈折率 ダイヤモンドの屈折率は2.42と高く、内部での全反射が起こりやすい。またダイヤモンドのカットとしてよく用いられるブリリアントカットでは、光を当ててその反射を見る時、次の3種類の輝きの相乗効果となり、美しく見える。 シンチレーション チカチカとした輝き。表面反射によるもの。 ブリリアンシー 白く強いきらめき。ダイヤモンド内部に入った光が比較的少ない回数の反射をして戻ったもの。 ディスパーション 虹色の輝き。ダイヤモンド内部に入った光が反射を繰り返し、プリズム効果によって虹色となったもの。 硬度、割れる性質、安定性 ダイヤモンドの硬さは古くからよく知られ、工業的にも研磨や切削など多くの用途に利用されている。ダイヤモンドは「天然の物質の中」では最高クラスのモース硬度(摩擦やひっかき傷に対する強さ)10、ヌープ硬度でも飛び抜けて硬いことが知られている。ビッカース硬度は種類によって異なり、70 – 150 GPaである。ただし、ダイヤモンドより硬い物質はいくつか知られている。他の宝石や貴金属類と触れ合うような状態で持ち運んでいると、それらを傷つけてしまう事があるので配慮が必要となる。 宝石の耐久性の表し方は他にも靱性という割れや欠けに対する抵抗力などがある。靱性は水晶と同じ7.5であり、ルビーやサファイアの8よりも低い。ダイヤモンドの靱性は大きくないので、瞬時に与えられる力に対しては弱く、金鎚(ハンマー)で上から叩けば粉々に割れてしまう。 ここで言う安定性とは薬品や光線などによる変化に対する強さの事である。ダイヤモンドは硫酸や塩酸などにも変化せず、日光に長年さらされても変化は起きない。熱力学的には25 、105 Paの下でエンタルピーで1.895 kJ/mol、ギブス自由エネルギーで2.900 kJ/molそれぞれグラファイトより高く不安定であり、27 では約15,000気圧以上の高圧下で安定となる。ただし常温常圧において相互の転移速度は観測不能であるほど充分に遅く、常温常圧では準安定状態とされる。 また、3次元性の結晶構造なのでグラファイトなどに備わっている自己潤滑性はない。 ダイヤモンドより硬い物質 ダイヤモンドの炭素原子が一部窒素原子に置換された立方晶窒化炭素は、ダイヤモンド以上の硬度を持つ可能性があると予測されている。さらに、六方晶ダイヤモンドとの別名を持つロンズデーライトは、ダイヤモンドよりも58 %高い硬度を持つことが計算により予想されている。人工素材と含めると、2009年時点で存在するダイヤモンドより硬い物質は、ハイパーダイヤモンドで市販の多結晶質ダイヤモンドの3倍程度の硬さ。また同程度の硬さの物質は超硬度ナノチューブがある。 硬い理由 ダイヤモンドの硬さは、炭素原子同士が作る共有結合に由来する。ダイヤモンドでは1つの炭素原子が正四面体の中心にあるとすると、最近接の炭素原子はその四面体の頂点上に存在する。頂点上の炭素原子それぞれがsp3混成軌道によって結合しており、幾何的に理想的な角度であるため全く歪みが無い。その結合長は0.154 nmである。この結晶構造を持つダイヤを立方晶ダイヤとよぶ。一方で、炭素の同素体であるグラファイト(石墨)は、層状の六方晶構造で、層内の炭素同士の結合はsp2混成軌道を形成している。この層内では共有結合を有し結合力は比較的強いが、層間はファンデルワールス結合であるため弱い。六方晶の構造を持つダイヤ(ロンズデーライト)も存在するが、不安定で地球上には隕石痕など非常に限られた場所でしかみつかっておらず、0.1 mmを超える大きさの単結晶は存在しない。純粋なものはダイヤモンドよりも硬いことが予想されるが、その性質はまだ分かっていないことも多い。 劈開性 ダイヤモンドには一定の面に沿って割れやすい性質(劈開性)がある(4方向に完全)。ダイヤモンドは、普通の物質や道具では傷つけられないと思われているが、「結晶方向に対する角度を考慮して瞬間的に大きな力を加える」「燃焼などの化学反応を人為的に促進する」などの方法で容易に壊すことができる。また傷があれば、カッターナイフを当てて軽く手で叩くだけで割れてしまう(ダイヤの原石のカットはこの手法で行われる)。 熱伝導 ダイヤモンドは熱伝導性が非常に高い。これは原子の熱振動がフォノンとなって結晶中を伝わりやすいことによる。触ると冷たく感じるのはこのためである。ダイヤモンドテスターはこの性質を利用して考案され、ダイヤモンドの類似石から識別できる道具だが、合成モアッサナイトだけは識別できない。12Cと13Cではフォノンの振動数が異なり混在はフォノンを散乱させて熱伝導の妨げとなるため、12Cだけで合成された人工ダイヤモンドは天然ダイヤモンドより熱伝導が高くなる。 CVD人工ダイヤモンドの薄板を手で持って氷を切ると、すぱすぱと切れる。それほどダイヤモンドが熱伝導性に優れるという。 電気伝導 バンドギャップは室温で5.47 eVであり、真性半導体として絶縁体だが、不純物を添加することによる不純物半導体化の試みがなされ、ホウ素添加によりp形、リン添加によりn形が得られている。その物性により、現在よりもはるかに高周波・高出力で動作する半導体素子や、バンドギャップを反映した深紫外線LEDが実現できるのではないかと期待されてきた。現在、自由励起子による波長235 nmの発光がダイヤモンドpn接合LEDにより、物質・材料研究機構と産業技術総合研究所から報告されている。バンドギャップの温度依存性については報告があるが、半経験則による計算式で用いられているデバイ温度については、負の値があてがわれたり、式自体を意味のあるデバイ温度を用いるために修正したりして報告されており、未解決になっている。p形半導体ダイヤモンドでは、ホウ素添加濃度が1021 cm−3以上で極低温で超伝導となることが報告され、半導体による超伝導現象として現在盛んに研究されている。また、1019 cm−3以上では電気伝導がバンド伝導からホッピング伝導、そして濃度の上昇とともに活性化エネルギーがほとんどない金属的伝導になることが知られている。この不純物濃度と不純物準位との相関についても、不純物バンドやモットの金属・非金属転移と絡めて研究が進んでいる。このような半導体としての基礎的な議論が可能となってきた現在のダイヤモンドの半導体としての品質はシリコンと互角であると言えるが、制御性は今後の研究開発がさらに必要である。 親油性 ダイヤモンドは油になじみやすい性質(親油性)があり、この性質を利用してダイヤモンド原石とそうでないものを分ける作業もある。ジュエリーとして身に付けているうちに皮脂などの汚れがつくと、油の膜によって光がダイヤモンド内部に入らなくなり、輝きが鈍くなる。中性洗剤や洗顔料などで洗うと油が取れて、輝きが戻る。逆に水には全くなじまず、はじいてしまう。 カラーダイヤモンド ダイヤモンドは無色透明のものよりも、黄色みを帯びたものや褐色の場合が多い。結晶構造の歪みや、窒素 (N)、ホウ素 (B) などの元素によって着色する場合もある。無色透明のものほど価値が高く、黄色や茶色など色のついたものは価値が落ちるとされるが、や、、グリーン などは稀少であり、無色のものよりも高価で取引される(緑はドレスデン・グリーンのように、放射線を長期にわたって受けたためである事が分かっている。ピンクは結晶構造のひずみによる)。また、低級とされるイエロー・ダイヤモンドでも、綺麗な黄色(カナリー・イエローと呼ばれる物など)であれば価値が高い。2010年に南アフリカで発見され、『サンドロップ (Sun-Drop)』と名付けられた110.03カラットのイエロー・ダイヤモンドに、サザビーズは「セイヨウナシの形をしており、装飾的で、光り輝くイエローダイヤとしては世界最大」と賞賛、最も希少で最も魅力的な「ファンシー・イエロー」の鑑定書を付けた。このダイヤは2011年11月、ジュネーブで行なわれた競売において、1000万スイス・フラン(約8億4000万円)で落札された。 20世紀末頃から、内包するグラファイトなどにより黒色不透明となったブラック・ダイヤモンド(ボルツ・ダイヤモンドとも呼ばれる)がアクセサリーとして評価され、高級宝飾店ティファニーなどの宝飾品に使用されている。 放射線処理により青や黒い色をつけた処理石も多い。最近ではアップルグリーン色のダイヤもあるがこれも高温高圧によって着色された処理石である。また、無色の(目立った色のない)ダイヤモンドに別の物質を蒸着することでコーティング処理した、安価な処理石もある。 天然ダイヤモンド 採掘によって産出されるダイヤモンド。 産出地と地質構造 ダイヤモンドはマントル起源の火成岩であるキンバーライトに含まれる。キンバーライトの貫入とともにマントルにおける高温・高圧状態の炭素(ダイヤモンド)が地表近くまで一気に移動することでグラファイトへの相転移を起こさなかったと考えられている。このため、ダイヤモンドの産出地はキンバーライトの認められる地域、すなわち安定陸塊に偏っている。 ダイヤモンドの母岩であるキンバーライトは古い地質構造が保存されている場所にしか存在せず、地質構造の新しい日本においてダイヤモンドは産出されないというのが定説とされてきた。しかし2007年、1μm程度の極めて微小な結晶が日本の愛媛県四国中央市産出のかんらん岩から発見された。 産出量 2004年時点の総産出量は1億5600万カラット(以下、USGS Minerals Yearbook 2004)であった。国別の生産量(単位カラット)を以下に示す(カラットは宝石の質量を表すのに良く用いられる単位で、1カラットは0.2グラムに等しい)。 ロシア 3560万 ボツワナ 3110万 コンゴ民主共和国 2800万 オーストラリア 2062万 南アフリカ共和国 1445万 カナダ 1262万 アンゴラ 600万 ナミビア 200万 中華人民共和国 121万 ガーナ 100万 上位6カ国、すなわちロシア (22.8 %)、ボツワナ (19.9 %)、コンゴ民主共和国 (18.0 %)、オーストラリア (13.2 %)、南アフリカ共和国 (9.3 %)、カナダ (8.1 %) だけで、世界シェアの90 %を占める。 採掘 ダイヤモンドの採掘は、古くは鉱床の近くの河原などの二次鉱床で母岩から流れ出した鉱石を探し出す方式が主流であった。1867年にオレンジ自由国と英領ケープ植民地との国境付近でダイヤモンドが発見され、その東隣にダイヤモンドの鉱床たる母岩があると地質学者が突き止めたことで方式が変わった。その母岩のある地域はキンバリーと名付けられ、母岩を粉砕して大量の岩石を処理し、その中からダイヤモンドの鉱石を探し出す方式が以後主流となった。キンバリーの最初の鉱床には、現在ビッグ・ホールと呼ばれる大穴が開いており、観光地となっている。このキンバリーの鉱床の中からデ・ビアス社が産声を上げ、ダイヤモンドの世界市場を支配することとなった。1967年には独立したばかりのボツワナ共和国北部のオラパ鉱山において大鉱床が発見され、その後も次々と鉱床が発見されたことでボツワナが世界2位のダイヤモンド生産国となり、その利益によってボツワナは「アフリカの奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げることに成功した。 合成ダイヤモンド 19世紀末のアンリ・モアッサンの実験など、ダイヤモンドを人工的に作ることは古くから試みられてきたが、実際に成功したのは20世紀後半になってからである。1955年3月に米国のゼネラルエレクトリック社(現ダイヤモンド・イノベーションズ社)が高温高圧合成により初めてダイヤモンド合成に成功した。上述の発表後、スウェーデンのASEA社がゼネラル・エレクトリック社よりも数年前にダイヤモンド合成に成功していたという発表がされたが、ASEA社では宝飾用ダイヤモンドの合成を狙っていたため、ダイヤモンドの小さな粒子が合成されていたことに気づいていなかった。現在では、ダイヤモンドを人工的に作成する方法は複数が存在する。 製造方法 高温高圧法 高温高圧法(High Pressure High Temperature, HPHT。静的高温高圧法と動的高圧高温法がある)は、炭素に1200 – 2400 、55,000 – 100,000気圧の高温高圧をかけてダイヤモンドを合成する。静的高温高圧法では、鉄、ニッケル、マンガン、コバルト、塩化ナトリウムなどの触媒や窒素などの不純物 の混入などで黄、緑、黒やこれらの混合した色等の結晶として生成され、主に工業用ダイヤモンドとして研磨や切削加工(ルータービットやヤスリ、ガラス切り)に利用されている。高温高圧法は1日程度の加圧加温で合成されるが、1週間程度に加圧加温を延長して結晶の成長を促せば、宝飾品レベルのダイヤモンドは人工的に合成可能である。技術的な面では何も問題は無く、単純な採算性の問題となっている。 化学気相成長法 大気圧近傍で合成が可能な化学気相成長法(Chemical Vapor Deposition, CVD。熱CVD法、プラズマCVD法、光CVD法、燃焼炎法などがある)によりプラズマ状にしたガス(例えば、メタンと水素を混合させたもの、その他にメタン-酸素やアセチレン-酸素などがある)から結晶を基板上で成長させる方法などが知られている。化学気相成長法(CVD法)によって0.1 – 10 μm/hという低速度での人工ダイヤモンド合成が1990年代に行なわれていたが、1999年頃に米カーネギー研究所が開発した、窒素を加える方法で150 μm/hの速度になってからは、ボストンのアポロ社で宝飾用のダイヤモンドを製造して販売している。紫外線によるオレンジ色の発光や、レーザーを使用したフォトルミネッセンスによるCVD独特の吸収線、カソードルミネッセンスにおける成長模様などによってCVDと天然ダイヤモンドの違いが検出できるようになってきている。プラズマCVDなどの気相合成法により他物質へのダイヤモンドのコーティングは可能であり、一部のドリルや音響機器で実用化されている。 用途 工業用途 上述の高温高圧合成などによって合成された工業用ダイヤモンドはもはや高価な材料ではない。工業用ダイヤモンドにも多種あるが、金の10分の1程度の価格で取引されているものが多い。ダイヤモンドを工業用途として使用する最大の特徴はその硬さである。工業用ダイヤモンドや宝飾用途に適さない色の天然の結晶を用いることで、電子材料、超硬合金、セラミック・アルミニウム系合金・ガラスなどの高硬度材料・難削材料の研削(ダイヤモンドカッター)・研磨(ダイヤモンドやすり、ダイヤモンドペースト)をはじめとして、切削用バイト、木材加工などオールラウンドな加工が可能である。 工業用ダイヤモンドには用途により、数ナノメートルから数ミリメートルまでの粒径、形状、破砕性、表面状態などによる多くの品種がある。また、前述のバイトは超硬合金を基板にダイヤモンドをコバルトなどと共に焼結することによって得られるダイヤモンド焼結体を指すこともある。しかしながら、ダイヤモンドは高温下で鉄 (Fe)、コバルト (Co)、ニッケル (Ni) と容易に化学反応を起こす、などの性質のために、鋼など鉄基合金や耐熱合金の切削には適さない。ダイヤモンドが使用できない分野では、代わりに立方晶窒化ホウ素 (cubic Boron Nitride, cBN) の焼結体(「ボラゾン」)を用いる。 半導体 大部分のダイヤモンドは不導体であるが、ホウ素が微量含まれたIIb型のダイヤモンド結晶はP型半導体の特性を持ち、燐が微量含まれるとN型半導体となる。これらを使用したMES(金属-半導体結合)型やMIS(金属-半導体の間に絶縁体を挟む結合)型のFET(電界効果トランジスタ)半導体素子が研究されている。 窒化ケイ素の基板上に微量ホウ素を含むP型半導体のダイヤモンドを作ると、−70 – 600 の広い温度範囲に対して直線的に抵抗値が変化する高精度の温度センサーができる。これは圧力センサーとしての利用も検討されている。 ダイヤモンドアンビルセル ダイヤモンドアンビルセル (diamond anvil cell, DAC) は、天然または人工合成のダイヤモンドを使って超高圧を実現するための機械。小さなダイヤモンドを2つ用意し、その間に試料を挟み込んで圧縮する。小型(手のひらサイズ)で透明(リアルタイムで光学的な観測が可能)であり、サブテラパスカル(数百万気圧、数百GPa)までの加圧が可能である。鉱物学や物性物理学などで用いられる。一方、ダイヤモンドそのものが大型化できないので、試料は大変小さなものにしなければならない。ダイヤモンド以外に、サファイヤ、炭化ケイ素を使ったアンビルセルもあるが、加圧できる圧力はダイヤモンドよりも劣る。なお、アンビルとは金床のことである。 音響機器 レコードプレーヤーのレコード針に使われる他、スピーカーの高域ユニットの振動板としても使用される。チタンなどの軽金属で形成されたベースに化学気相成長法でダイヤモンドをコーティングした製品が多い。樹脂のベースに厚くダイヤ皮膜を形成し、その後ベースを熔解除去し、ダイヤモンドだけで形成される振動板も登場した。 宝石用の人工ダイヤモンド 宝石用の人工ダイヤモンドも製造可能である。天然では貴重なカラーダイヤモンドも作製可能であるが、その鑑定書を作成する公的機関では、決められた手順に沿って評価され、その過程で天然・人工の区別も行われている。評価方法は、目視・顕微鏡観察から、赤外線および紫外線の吸収・反射・透過による測定、レーザーによるフォトルミネッセンス、ラマン分光法、電気伝導度測定などあらゆる角度で進められる。 天然ダイヤモンドを取扱う業界にとって、合成ダイヤモンドの宝石市場への進出は脅威になりつつある。天然ダイヤの流通企業らは、彼らが取得した全ての特許情報を開示し、宝石にシリアルナンバーをレーザーで刻む方法を行った。米国フロリダ州に本社を置くジェムシス社の公式サイトには、シリアルナンバー付きの宝石が紹介され、これらには "Gemesis created" とシリアルナンバーの前に "LG (Laboratory grown)" という文字を付け加えている。 2012年3月時点、ジェムシス社は自社が開発した1.0 - 1.5カラットの無色や黄色の合成ダイヤモンド宝石を販売し、合成ダイヤモンドアクセサリーは、天然ダイヤモンドよりも低価格でウェブサイトで一般向けに販売している。 2018年、世界的ダイヤ大手企業のデビアスが合成ダイヤモンド専門ブランドを立ち上げた。合成ダイヤモンドの独自ブランドを設けた日本企業もある。価格が安いことと、紛争とは無縁であることが利点として挙げられる一方、天然ダイヤモンドと誤認して売買されるトラブルが起きている。日本ジュエリー協会は、希少性がないという理由で「宝石」と看做すことに否定的である。 宝飾用ダイヤモンド 4C ダイヤモンドの品質を知るための指標としてGIA(アメリカ宝石学協会)が考案したもの。色(Color)、透明度(Clarity(クラリティ))、重さ(Carat(カラット))、研磨(Cut)(en)によって品質を評価する。ラウンドブリリアントカット(58面体)に対してカット評価がされるので、他のカットの場合、カットの種類しか鑑定書に記載されない。詳しくは4Cを参照。 近年はダイヤモンド自体のスペックを測る4Cではなく、見た目の美しさによって価値を見出す指標を考えるなど、その存在価値が見直されている。(例:O.E.カット、Crown-K-Cut) メレダイヤモンド 0.17カラット以下の小粒なダイヤモンド。宝飾品においては中石を引き立てるために周囲に散りばめられるなどの利用をされる。 有名なダイヤモンド カリナンは1905年に南アフリカで発見され、カット前の原石は3106カラットもあり、これをカットすることで合計1063カラットの105個の宝石が得られた。これらは当時のイギリス国王であるエドワード7世に献上されている。105個のなかで最大のカリナンIは530.20カラットで「偉大なアフリカの星 (The Great Star of Africa)」の別名を持ち、カットされたダイヤモンドとしては長らく世界最大の大きさを誇っていた。カリナンIはロンドン塔内に展示されており、見学することができる。 現在、世界最大の研磨済みダイヤモンドは、ザ・ゴールデン・ジュビリーである。この石は545.67カラットあり、国王ラーマ9世の治世50周年を記念して1997年にタイ王室に献上された。 その他、写真に示す有名なダイヤモンドについて記す。 :フランスの宝石商タヴェルニエの旅行記に記された伝説のダイヤモンド。原石の状態では787.50カラットあったとされ、事実とすればその当時世界最大だが、わざわざヴェネツィアから呼んだカット職人がカットに失敗し280カラット余りに。その後の行方は不明。卵を半分に切ったような形、といった記述からと同じではないかと考える研究家もいる。 (上面):インド産。わずかに青みを帯びる。グレート・ムガルから切り出されたのではないかと考えられている。140.64カラット。ルーヴル美術館蔵。 (上面):インド産のイエロー・ダイヤモンド。137.27カラット。長年トスカーナ大公家に所蔵されていたが、その後、所有権がハプスブルク家へ移る。ハプスブルク最期の皇帝が帝政崩壊時に持ち逃げした後、現在まで行方不明。 :ブラジル産。128.48カラット。2002年に著名なフランスのブランド、カルティエ社が購入した。その後、さるインド人の個人所有物になったらしいが、真相は不明。 フロレンティン(側面) :インド産、微かに黄ばんだダイヤモンド。55.23カラット。ルーブル美術館蔵。 ドレスデン・グリーン:おそらくインド産のグリーン・ダイヤモンド。41カラット。ドレスデン美術館蔵。 コ・イ・ヌール(1852年以前):ムガル帝室に伝来した、歴史的に最も古い有名なダイヤモンド。186.0125カラット。 ホープ:おそらくインド産。サファイアのような濃青のダイヤモンド。所有者が次々に不慮の事故で死亡すると云う呪いの宝石の都市伝説で有名。45.52カラット。アメリカ合衆国国立自然史博物館蔵。 コ・イ・ヌール(ブリリアント・カット上面、1852年以後):インドのマハラジャからイギリス東インド会社を経て、イギリスのヴィクトリア女王へ献上された後、夫のアルバート公がオランダの研磨業者にブリリアント・カットに仕立て直しを命じ、重量が105.602カラットに減少。現在もイギリス王室が所蔵しており、ロンドン塔に展示されている。 リージェント(側面) コ・イ・ヌール(ブリリアント・カット側面、1852年以後) さらには有名な宝石の一覧#ダイヤモンドも参照。 紛争ダイヤモンド 紛争ダイヤモンドは、紛争地で採掘され密売されるダイヤモンド。1990年代に冷戦構造の崩壊とともに各地の反政府組織への東西両陣営からの武器援助が途絶え、新たな財源を求めた反政府組織がダイヤモンド利権に目を付けたことから大きな問題となった。反政府組織の財源となり紛争の拡大、長期化の原因となる。シエラレオネ、リベリア、アンゴラ、コンゴ民主共和国などで採掘されたものが特に問題となった。これらの国で悲惨な内戦が激化するにしたがって国際的に取引を禁止する動きが起き、1998年のアンゴラからのダイヤモンド輸出を禁じる国連決議などを受け、2000年7月19日にはアントウェルペンで開催された世界ダイヤモンド会議によってダイヤモンド輸出入の認証制度が提案され、2001年1月17日から1月18日にはそのための新組織ワールド・ダイヤモンド・カウンシルが結成された。そして、2002年11月に、紛争地からのダイヤモンド輸出入の禁止を目的としたキンバリープロセス認証制度が制定された。 模造ダイヤモンド 宝飾用のダイヤモンドの代用品(イミテーション)としては、ジルコニア(二酸化ジルコニウムの結晶)やガラスが用いられる。ダイヤモンドとそのイミテーション、模造ダイヤモンドの見分け方として、フェルトペンで結晶の上に線を書くというものがある。ダイヤモンドは親油性の物体であり、油脂を弾かない。一方、ジルコニアなどのイミテーションや模造ダイヤモンドは油を弾く性質を持っている。したがって、油性フェルトペンの筆跡が残らなければ偽物だと見分けることができる。その他の方法としてはラインテストがある。黒い線の上にダイヤモンドをテーブル面を下にして乗せると、下の黒い線は見えないが、キュービックジルコニアでは下の黒い線が透けて見える。また、本物のダイヤより硬度に劣るため磨耗しやすい。宝石商などがルーペでダイヤを見て真贋を判定するシーンが映画、ドラマ等でよく見られるが、あれはカットされた角の磨耗を見ており、本物のダイヤは当然磨耗で角が丸まることがない。 また水晶などダイヤモンドとは全く組成が異なる鉱物を指して「○○ダイヤモンド」(○○には産地名などが入る)などと呼ぶことがある。こうした名称はフォールス・ネーム (false name) またはフェイク・ジェムストーン (fake gemstone) といい、販売業者が値を吊り上げるなど、手前の都合良いよう勝手にこじつけただけのものである。紛らわしいので、現在はまともな宝石店、ジュエリー・ショップではその使用を避けている。 ナノダイヤモンド 化粧品・口腔内用品での利用 ナノダイヤモンド(ND)は毒性がないので化粧品、口腔内用品に利用可能である。例えばローション、フェイスマスク、乳液、シャンプー、保湿クリーム、歯磨き粉、マウスウォッシュ液、皮膚の老廃細胞削剥、皮膚接合用テープ等。 比喩 ダイヤモンドは、その堅さと煌びやかさから、「貴重なもの」「高価なもの」「お金になるもの」の比喩としてよく使われる。また、色を冠して特定の商品を表すこともある。「野球場のダイヤモンド」など、単に菱形の物に対しても使われる。 記念祭では、60周年または75周年のシンボルをダイヤモンドとする。例えば、「ダイヤモンド婚式」は結婚60周年、「ダイヤモンド・ジュビリー」は60周年または75周年の記念祭を意味する語である。 高価な物の例え 黒いダイヤ - 石炭、マグロ、トリュフ、オオクワガタ 赤いダイヤ - 梶山季之の小説の題名で、小豆を指す(商品先物取引で時に大儲けできることから)。 白いダイヤ - シラスウナギ(ウナギの稚魚)、吉野葛(本葛) 黄色いダイヤ - 数の子、硫黄 ダイヤの原石 - 今は価値が低いが、その後の扱いにより、磨けば価値の出る(可能性のある)人・物のこと。 山のダイヤ、森林のダイヤ - 松茸 鼻水 - 主に寒さの中での芸の末に流れ出た鼻水を「リアクション芸人のダイヤモンド」と喩える事がある。 形状が菱形の物の例え カットされた宝飾品のダイヤモンドの形から、菱形、記号(◇)、トランプの絵柄(スート)のひとつ、野球の内野(野球場の塁に囲まれた領域)などを指してダイヤモンドとも言われている。 (→ダイヤ (シンボル)) ダイヤモンドと映画作品や漫画作品 ダイヤモンド産業の暗い裏側を描いた作品 宝石として登場する多くの作品以外に、以下ではダイヤモンドが世界の資金移動や資金調達にどのように作用しているか扱っている。 映画『ブラッド・ダイヤモンド』: 武器の資金調達のため、不法に取引される紛争ダイヤモンドについて、リアルに描写。 映画『ロード・オブ・ウォー』: 武器取引の代金として紛争ダイヤが登場する。 ダイヤモンドを機能素材として扱ったSF作品 このほかダイヤモンドをSF的な機能性素材として扱っている作品としては、地球攻撃用のレーザー軍事衛星(映画『007 ダイヤモンドは永遠に』)や雹の核(『パタリロ! スターダスト計画』)、熱線の反射ミラー(『ゴジラvsビオランテ』に登場するスーパーX2)などがある。 脚注 参考文献 砂川 一郎 『ダイヤモンドの話』 岩波新書、1964年。 砂川 一郎 『宝石は語る―地下からの手紙』 岩波新書、1983年。 砂川 一郎 『結晶―成長、形、完全性』 共立出版、2003年。 関連項目 鉱物 - 元素鉱物 鉱物の一覧 宝石、宝石の一覧 誕生石 炭素、石墨(グラファイト)、フラーレン、カーボンナノチューブ、ロンズデーライト、チャオ石 キンバーライト モアッサン石 - ダイヤモンドと同じ結晶構造を持ち、性質も似ている鉱物。 立方晶窒化ホウ素 - ダイヤモンドと同じ結晶構造の化合物。 遺灰ダイヤモンド デビアス - ダイヤモンド採掘・流通会社。 アントウェルペン(アントワープ) - ダイヤモンドの取引、研磨の中心地で有名なベルギーの都市。 カルテル 紛争ダイヤモンド ディアナサンダイヤモンド アダマント かに座55番星e - 内部に地球の3倍もの質量のダイヤモンド層があると推測されている系外惑星。ダイヤモンド星の1つ。 ケンタウルス座V886星 - 内部に炭素の結晶構造を持つと推測されている白色矮星。ダイヤモンド星の1つ。 宝塚歌劇団 - 特定の組に属していない専科のマークに使用されている。 外部リンク Diamond: Diamond mineral information and data. - mindat.org ダイヤモンド・ミュージアム - (株)中央宝石研究所 Amon - Amon 炭素の単体 元素鉱物 宝石 同素体 立方晶系鉱物 研磨材 発光鉱物
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Hypertext%20Transfer%20Protocol
Hypertext Transfer Protocol
Hypertext Transfer Protocol(ハイパーテキスト・トランスファー・プロトコル、略称 HTTP)とは、WebブラウザがWebサーバと通信する際に主として使用する通信プロトコルであり、インターネット・プロトコル・スイートのメンバである。HTMLなどのテキストによって記述されたWebページなどのコンテンツの送受信に用いられる。 概要 HTML (HyperText Markup Language) や XML (Extensible Markup Language) によって記述されたハイパーテキストの転送を主な目的としているが、それ以外にも、バイナリ形式の画像、音声を含め、様々なデータを扱うことが可能である。 HTTPはリクエスト-レスポンス型のプロトコルであり、クライアントがサーバにリクエストメッセージを送信する。 基本的な考え方は非常に単純で、「何を」「どうして」欲しいのかを伝える。URLが「何を」、メソッドが「どうして」に当たる。 サーバはこれにレスポンスメッセージを返し、基本的にこの時点で初期状態に戻る。つまり、サーバはクライアントの状態を保存しない。 World Wide WebにおけるWebページなどのリソースは、Uniform Resource Identifierによって指定される。HTTP を使用してリソースにアクセスするときは、http: が先頭についた URL を使用する。下にURL の例を挙げる。 http://www.example.co.jp/~test/samples/index.html 最初の HTTP/0.9 ではURLを指定してコンテントをダウンロードするのみの簡単なやりとりだったが、HTTP/1.0 で改良された。 リクエストのセマンティクスを指定する、様々なリクエストメソッドが追加された。POSTを使って、アップロード(クライアントからサーバへのデータの転送)が可能になった。 NNTPやSMTPのような各種ヘッダが定義され、HTTP cookieなどの利用が可能になった。 HTTP/1.1 では複数データを効率よく転送するための持続的接続や、プロキシの利用なども想定した仕様になった。 さらに HTTP/2やHTTP/3が策定された。ただし、これによってHTTP/1.1が廃止されることはなく、各メジャーバージョン(HTTP/1.1、HTTP/2、HTTP/3)は今後も共存する。また、HTTP/1.1も改訂され、各メジャーバージョン間で共通概念であるセマンティクスに関する仕様をHTTP/1.1から分離する(独立したRFCとする)作業も行われ、RFC 9110、RFC 9111などとなっている。 このほかの点を箇条書きで示す。 TCPのポート番号80をデフォルトとして使用する(HTTP/0.9〜1.1とHTTP/2の場合)。 TLSで暗号化され、セキュリティを確保したHTTPは、HTTPSと呼ばれる(httpsは実際にはURIスキームの1つであり、実際のプロトコルにはHTTP over SSL/TLSまたはHTTP/3が用いられる)。 HTTP は基本的にサーバが状態を保持しない (stateless) プロトコルだが、データベースなどを使用するWebアプリケーションにおいては状態保持が必要だったため、いわゆる Cookie(クッキー)とよばれる機構が Netscape Communications Corporation によって導入された。Cookie を使用することによって状態を管理し、セッションを維持することが可能になる。 行末文字はCRLFで、インターネット・プロトコル・スイートにおいてアプリケーション層に属する他の多くのプロトコルと同じである(HTTP/0.9〜1.1の場合)。 歴史 イギリスの物理学者ティム・バーナーズ=リーは1990年末、ロバート・カイリューと共に初のWebブラウザとWebサーバを作成した。ブラウザには通信をするためのプロトコルが必要だったので、二人はHTTPの最初期のバージョンを設計した。 以来インターネットの大部分をHTTP通信が占めるようになり、1998年にはインターネット上の通信の75%がHTTPによるものになった。 最初期のHTTP/0.9の仕様書は紙に印刷すれば1枚で済むような非常に簡素なドキュメントだったが、2度のバージョンアップを経たHTTP/1.1の仕様書は実に176ページ近くの分量に膨れあがった。 HTTP/0.9 1991年に最初にドキュメント化されたバージョン。メソッドは GET しかなかった。レスポンスは単純にドキュメントの内容を返してコネクションを切断するだけで、レスポンスコードの規定もない。下記は、HTTP/0.9 のリクエストの例。 GET /index.html HTTP/1.0 1996年5月に RFC 1945 として発表された。仕様が RFC で扱われるようになった。メソッドに POST など GET 以外のものが増えた。レスポンスはヘッダーがつくようになり、ステータスコードを含めるようになった。HTTP/0.9 と区別するため、リクエストプロトコルにバージョンを含めることになった。 HTTP/1.0のリクエスト GET /index.html HTTP/1.0 HTTP/1.1 1997年1月に RFC 2068 として初版が発表された。その後、3回改訂され、現在はセマンティクス・キャッシングを除く部分がRFC 9112で規定されている。 名前ベースバーチャルホストのため、Hostヘッダーフィールドの規定が追加された。 HTTP/1.1のリクエスト GET /index.html HTTP/1.1 Host: foo.example.com HTTP/2 HTTP/2の目標はHTTP/1.1のトランザクション・セマンティクスとの完全な後方互換性を維持したまま非同期な接続の多重化、ヘッダ圧縮、リクエストとレスポンスのパイプライン化を実現することである。Googleによって立ち上げられ、GoogleのブラウザーであるChromeだけではなく、他にも、Opera、Firefox、Amazon Silkなどが対応しているHTTP互換のプロトコルSPDYの人気が高まっていることに対応するために開発された。 HTTP/3 HTTP-over-QUIC(hq)としてIETFが開発していた新たな通信プロトコルが、HTTP/3へと改名される。 IETFが策定を進めているQUICはトランスポート層におけるプロトコルの名称であり、アプリケーション層プロトコルであるHTTP-over-QUICとの区別を明確にするため、このような名称変更に至った。 HTTP/2と比べ、多重化するストリームの取り扱いが下位層のQUICへ移行したこと、を回避するためのヘッダ圧縮の変更(HTTP/3用にQPACKが開発されている)などの差異がある。 動作 通信の開始 他のプロトコル同様、クライアント側とサーバ側では役割が大きく異なる。HTTP通信を開始できるのはクライアント側のみである。 クライアント側がサーバにリクエストを送り、サーバがクライアントにレスポンスを返すのが最も典型的なHTTPのやりとりである。 接続 システム間でメッセージをやりとりするには接続を確立させる必要がある。HTTP/0.9~HTTP/1.1およびHTTP/2ではTCPを使用する。 HTTP/0.9ではクライアントのリクエストごとにTCP接続を確立させる必要があった。これは当時のWebサイトがシンプルなテキストベースであることが多かったためである。近年ではJavaScriptやアニメーション画像など、多数のオブジェクトが埋め込まれたWebサイトが一般的となってきており、これらのオブジェクトを取得するたびにTCP接続を確立するのはサーバやネットワークに大きな負担を強いるため、1回のTCP接続で、複数のHTTPリクエスト・レスポンスをやり取りする持続的接続がHTTP/1.0の拡張として導入された。その後、HTTP/1.1では、持続的接続がデフォルトとなった。すなわち、何も指定しなければ持続的接続となり、持続的接続を望まなければヘッダーフィールドにConnection: closeを追加する仕様となっている。 パイプライン クライアントは前のリクエストに対するサーバの応答を待たずに別のリクエストを発行できる。 リクエストメソッド HTTPでは8つのメソッドが定義されている。ただし、実際のHTTP通信ではGETとPOSTメソッドが大部分を占める。 GET 指定されたURIのリソースを取り出す。HTTPの最も基本的な動作で、HTTP/0.9では唯一のメソッド。 POST GETとは反対にクライアントがサーバにデータを送信する。Webフォームや電子掲示板への投稿などで使用される。GETの場合と同じく、サーバはクライアントにデータを返すことができる。 PUT 指定したURIにリソースを保存する。URIが指し示すリソースが存在しない場合は、サーバはそのURIにリソースを作成する。画像のアップロードなどが代表的。 DELETE 指定したURIのリソースを削除する。 OPTIONS サーバを調査する。例えば、サーバがサポートしているHTTPバージョンなどを知ることができる。 HEAD GETと似ているが、サーバはHTTPヘッダのみ返す。クライアントはWebページを取得せずともそのWebページが存在するかどうかを知ることができる。例えばWebページのリンク先が生きているか、データを全て取得することなく検証することができる。 TRACE サーバまでのネットワーク経路をチェックする。サーバは受け取ったメッセージのそれ自体をレスポンスのデータにコピーして応答する。WindowsのTracertやUNIXのTracerouteとよく似た動作。 CONNECT TCPトンネルを接続する。暗号化したメッセージをプロキシサーバを経由して転送する際に用いる。当初、ネットスケープコミュニケーションズによって考案されたものがIETFドラフトTunneling TCP based protocols through Web proxy serversとして公開され、RFC 2817 に取り込まれた。その後、RFC 7230 で定義が更新されている。 HTTPの仕様以外で定義しているメソッドは、IANAのHypertext Transfer Protocol (HTTP) Method Registryで管理されている。WebDavで使用するものや、 RFC 5789 のなどがある。 サーバの連携 バーチャルホスト 1つのサーバーで複数のホスト名に対するHTTPリクエストを受け付ける機能である。 インターネット人気に伴い多くの企業がWebサイトを持ち始めたが、当時はまだまだ企業が自前のWebサーバを運用するのは人員、効率の問題で難しく、ISPのサーバでホスティングをしていた。また、1社ごとに専用サーバを用意するほどのことでもないため、1台のサーバで複数のWebサイトを運用していた。 しかし、IPアドレスのみで相手を特定するHTTP/1.0はこれに対応できなかった。例えば、ある1台のサーバに foo.example.com と bar.example.com という2つの仮想Webサーバがあり、クライアントは http://foo.example.com/index.html にアクセスしたいとする。この場合はDNSサーバに foo.example.com のIPアドレスを問い合わせ、次にそのIPアドレスを使って該当サーバにアクセスし、GET index.html を要求することになる。しかし同じサーバ上にある bar.example.comもIPアドレスは同じであり、もし両方の仮想サーバに index.html というファイルが存在すれば、クライアントがどちらにアクセスしようとしているのか、判別できない。 対策としてはそれぞれにIPアドレスを付与する方法もあるが、IPv4の資源を無駄にすることになる。この問題を解決するため、HTTP/1.1でHostヘッダーフィールドが追加され、名前ベースバーチャルホストが用いられるようになった。 名前ベースバーチャルホストのため、以下のようにHTTPリクエストでホスト名を指定する。 HTTP/1.1: Hostヘッダーフィールドでホスト名を指定する。 HTTP/2およびHTTP/3: :authority疑似ヘッダーフィールドでホスト名を指定する。 リダイレクト 別のURIに対して再度のメソッド実行を要求する機能である。301 Movedや303 See Otherなどのリダイレクトを指示するステータスコードとURIを受け取り、クライアントはこのURIに再度メソッドを実行する。 クッキー HTTPメッセージ リクエストとレスポンスでやり取りされるデータは、HTTPメッセージと呼ばれる。クライアントからリクエストHTTPメッセージを送り、サーバーからレスポンスHTTPメッセージを返す。 HTTPメッセージは以下で構成される。 コントロールデータ ヘッダー コンテント トレイラー なおHTTP/1.1では、コントロールデータをリクエスト行・ステータス行として表現し、コンテントを格納する部分をメッセージボディまたは単にボディと呼ぶ。 ヘッダー・コンテント・トレイラーは空となる場合もある。 下にもっとも単純なクライアントとサーバ(www.google.co.jp:80)とのやり取りの例を挙げる。 クライアントのリクエスト: GET / HTTP/1.1 Host: www.google.co.jp この例では、リクエスト行とヘッダーにフィールドが1項目あるのみで、ボディは空でトレーラーも無い。 リクエスト行はメソッド、リクエストターゲット、HTTPバージョンの3つの要素から構成され、それぞれスペースで区切られる。 メソッドはGET、リクエストターゲットは「/」、HTTPバージョンは1.1である。 GETはリソースを取得するためのメソッドであり、リクエストターゲットの「/」はURIのパス部分であってルートリソースを対象にしたリクエストであることを示している。 サーバのレスポンス: HTTP/1.1 200 OK Cache-Control: private Content-Type: text/html Set-Cookie: PREF=ID=72c1ca72230dea65:LD=ja:TM=1113132863:LM=1113132863:S=nNO7MIp W2o7Cqeu_; expires=Sun, 17-Jan-2038 19:14:07 GMT; path=/; domain=.google.co.jp Server: GWS/2.1 Date: Sun, 10 Apr 2005 11:34:23 GMT Connection: Close <html><head><meta http-equiv="content-type" content="text/html; charset=Shift_JI S"><title>Google</title><style><!--  ……以下省略 --> 先頭のステータス行はHTTPバージョン、ステータスコード、ステータスメッセージから構成される。 ステータスコードの「200」は処理の成功を表し、これを補足するメッセージが「OK」である。 2行目以降にヘッダフィールドが続く。 さらに空行を挟んで、レスポンスボディとなる。 このレスポンスにもトレーラーは無い。 HTTPヘッダフィールド ヘッダの各要素はフィールド名: 内容のペアで構成される。 ブラウザの情報を表すUser-Agent、使用候補言語を表すAccept-Language、他ページへのリンクを辿った場合にそのリンク元ページのURLを表すRefererなどが代表的なフィールドである。 なお、リクエスト時のHostヘッダはHTTP/1.1では必須であるが、HTTP/1.0ではなくてもよい。 ただし、サーバがバーチャルホストを利用している場合は、Hostヘッダがないとリソース取得に失敗するので、たとえHTTP/1.0を使用していてもHostヘッダを付加しなければならない。 HTTPヘッダフィールドの一覧 Accept サーバのレスポンスに含まれるメッセージボディで受け入れることが出来るコンテンツタイプと各コンテンツタイプの相対的な優先度を指定するリクエストヘッダ。指定できるコンテンツタイプはIANAによって定義されている。 Accept: text/plain; q=0.5, text/html, text/x-dvi; q=0.8, text/x-c 上記のようにAcceptヘッダには行をわけて複数のコンテンツタイプを指定できる。上記の例はいずれの4のコンテンツタイプのいずれも受け入れ可能であることを示す。0.5や0.8といった数字は品質係数で0〜1の範囲の数値である。数値の指定がなければ1.0となる。 text/plain; q=0.5 text/html text/x-dvi; q=0.8 text/x-c Accept-Charset レスポンスで返されるメッセージボディの文字コードを指定するリクエストヘッダ。Acceptと同じく複数指定でき品質係数も設定できる。定義済み文字セットはIANAが管理している。 Accept-Charset: UTF-8, *; q=0.8 この例だとクライアントはUTF-8を優先的に希望しているが他の文字セットとの相対優先度0.8で受け入れている。ただしサーバからのレスポンスのHTTPヘッダそのものの文字コードは常にISO-8859-1である。 Accept-Encoding クライアントが受信できるメッセージボディのエンコーディングを指定する。 Accept-Encoding: gzip, deflate この例ではクライアントはgzip、またはzlibフォーマットに対応している。ただし必ずしもここで指定されたエンコーディングでメッセージボディが返ってくるとは限らない。 Accept-Encodingで指定可能なエンコーディングは、IANAがHTTP Content Coding Registryとして管理されている。 Accept-Language レスポンスの言語(人間の言語)に対する優先度を指定する。言語の指定にはIETF言語タグを用いる。書き方は他のAccept-群と変わらず。 Accept-Language: en-gb, en; q=0.8 上記の例はまずイギリス英語を要求し、利用できない場合はその他の英語を要求する。 Accept-Ranges Acceptで始まる他のヘッダフィールドと違いレスポンスヘッダである。現在の仕様では2つの指定方法しかない。 Age リソースの推定経過時間を表示するレスポンスヘッダ。キャッシュサーバーはAgeヘッダの値からキャッシュしたリソースが有効かどうかを判定する。 Allow Authentication-info ユーザ認証のやりとりの最後で用いられる、成功したレスポンスのサーバが含めることの出来るレスポンスヘッダ。 Authorization サーバに対するクライアント自身の認証を行うことが出来る。 Cache-Control キャッシングの動作を指定するためのマスターヘッダ。 Connection 接続に対するオプションを指定する。その値には以下が使用される。 keep-alive 持続的接続を行う。 close 持続的接続を行わない。 upgrade 他のプロトコルへのアップグレードを希望する。 Content-Encoding Content-Language リソースの表現に用いられる言語の明示に使われる。言語の指定はAccept-Languageヘッダと同じ。 Content-Length Content-Location Content-MD5 メッセージボディが変更されず宛先に届いたことの保証に用いる。MD5によるハッシュ値をヘッダー値に記載する。ただし悪意の改ざんに対しては当然MD5も改ざんされるのであまり機能はしない。どちらかといえば偶発的な変化が生じていないことの保証をしている。RFC 7231で廃止された。 Content-Range ダウンロードの再開に用いられる。 Content-Type メッセージボディに含まれるオブジェクトタイプを示す。次の例はリソースがテキストファイル、文字セットはISO-8859-4を使用していることを示している。 Content-Type: text/plain; Charset=ISO-8859-4 Cookie クライアントがHTTP状態管理を望む場合にサーバから受け取ったクッキーを以後のリクエストに次の例のようなヘッダを付加する。 Cookie: $Version="1"; NAME="VALUE"; $Path="/shopping"; $domain="www.shop.com"+ $Port="80" $VersionはHTTPのバージョン、NAMEはクッキーの名前である。$から始まるクッキー名は使用が禁止されている。 Cookie2 基本的にCookieヘッダとCookie2ヘッダは別物である。 Date サーバがメッセージを生成した日時を示す。リソースの更新日時を示すLast-Modifiedヘッダとは別である。 HTTP/1.1では次のような形式を用いる。これはRFC 7231の7.1.1.1. Date/Time Formatsで定義されている。HTTP/1.1の以前の版であるRFC 2616では、日時の形式の定義にRFC 1123を参照していた(内容は同等である)。 Date: Sun, 06, Nov 1994 08:49:37 GMT HTTP仕様ではレスポンスにDateヘッダを含めることを求めている。ただしレスポンスのステータスがサーバエラーの場合にはDateヘッダは返らない。 ETag 主にキャッシングのパフォーマンスを向上する目的で使われる。 Expect サーバに対して特定の動作の期待を知らせる。用途としてはクライアントがサーバに対して100 Continueステータスを返すことを期待する場合に使われる。 Expect: 100-continue サーバが期待に応じられない場合は417 Expectation Failedを返す。クライアントがいくつかのプロキシ経由で通信している場合、各プロキシサーバはExpectヘッダの一切の修正を許されない。 Expires オブジェクトの有効期限を示す。このヘッダで指定された日時までキャッシュはレスポンスのコピーを保持し、リクエストに対するレスポンスとして返すことができる。サーバがオブジェクトのキャッシュを望まない場合にはExpiresヘッダに過去の日時を設定することが多い。仕様では1年以上先の日時は設定できない。 Expires: Thu, 28 Aug 2010 16:00:00 GMT Cache-Controlヘッダのmax-ageディレクティブはExpiresヘッダより優先されるため注意が必要である。 From リクエストを発行したユーザを特定することが出来る。1990年代では電子メールアドレスを設定することが多かったが、迷惑メールの問題もあり現在では殆ど使われていない。 From: user@example.com Host 主にレンタルサーバのサポートを目的としてHTTP/1.1で導入された。現在ではHostヘッダを利用できない場合、レンタルサーバのWebサイトとまともな通信ができないと言ってよい(詳細はHTTP#歴史を参照)。 If-Match ETagが一致した場合のみ、メソッドを実行するようにサーバに要求する。例えばウィキペディアを編集する際、記事のソースを取得し、書き換える際の間に別のユーザが既に編集していないかを判断するときなどに用いられる。 利用者:AがHTTPの記事を取得。ETagは1234。 利用者:BがHTTPの記事を取得。ETagは1234。 利用者:AがHTTPのETagを再度取得。先ほど取得したETag: 1234と現在のETag: 1234が一致。 利用者:AがHTTPの記事を編集。ETagは1256になる。 利用者:BがHTTPのETagを再度取得。先ほど取得したETagと現在のETagはマッチせず。 サーバは利用者:Bの書き込みを拒否。 If-Modified-Since 指定日時以降にオブジェクトが変更されている場合のみ、メソッドを実行するようにサーバに要求する。通信量の削減に効果がある。 If-None-Match If-Matchの逆で、ETagが一致しない場合のみの実行を要求する。 If-Range クライアントがキャッシュにオブジェクトの一部分を持っている場合にパフォーマンスを向上できる。 If-Unmodified-Since If-Modified-Sinceの逆で、指定時刻以降に変更がない場合のみの実行を要求する。 Last-Modified レスポンスでオブジェクトの最終更新日時を示す。リクエスト時のIf-Modified-Sinceヘッダと組み合わせることで、効率的な通信が可能になる。 Location サーバがクライアントにリダイレクト先URLを知らせる際に用いられる。一般的にステータスコードが3xx代のレスポンスと共に使われるが201 Createdのレスポンスでも使うことができる。Content-Locationヘッダと名前が似ているが全く関係のない別のヘッダであるため注意。 Max-Forwards プロキシサーバなどを経由する際の最大ホップ数を指定する。二重ループなどでサーバから応答が得られない場合の問題解決の際、OPTIONメソッドやTRACEメソッドと共に用いられる。 HTTPステータスコード ステータスコードはサーバからのレスポンスで、リクエストの結果を通知する。3桁の数字から成り、おおまかな分類として、1xxは「情報」、2xxは「成功」、3xxは「リダイレクト」、4xxは「クライアントエラー」、5xxは「サーバエラー」を示す。 セキュリティ技術 いくつかの観点でセキュリティに関する追加機能が存在する。 HTTPS セキュアな通信路でHTTP通信を行うことを通常HTTPSと言う。 HTTP認証 HTTPの中で認証を行う仕組みが用意されている。 Basic認証 HTTP/1.1で定義されている最も単純なセキュリティ技術である。「基本認証を用いるくらいならなにも使わない方がまし」と主張する人もいる。平文で認証情報を送信する仕組みであるため、TLS (HTTPS)など安全を確保した通信路での利用が望ましい。通常サーバはステータスコード401で応答する。 Digest認証 派生・拡張プロトコル HTTPSのほか、以下のようなHTTPのセマンティクスを利用するプロトコル、HTTPの構文を元とするプロトコルなどが存在する。以下はその一例である。 WebDAV: HTTP上でファイル転送を実現するプロトコル。 WebSocket: 双方向通信プロトコル。 Internet Printing Protocol (IPP): プリンタの制御と印刷データの伝送を行うプロトコル。 UPnPでは、HTTPをUDP上で使用するHTTPUや、マルチキャストで使用するHTTPMUが規定された。 Hyper Text Coffee Pot Control Protocol (HTCPCP): エイプリルフールのジョーク。コーヒーポットの制御機能を有するプロトコル。 なお、このようなHTTPの利用に関する文書として RFC 9205 Building Protocols with HTTP (BCP 56)が存在する。 関連項目 HTTP/2 HTTPステータスコード FTP WebDAV Webサーバ ウェブブラウザ アプリケーションサーバ Representational State Transfer (REST) HTTPヘッダ・インジェクション Hyper Text Coffee Pot Control Protocol バーチャルホスト 参照 外部リンク RFC 9110 - HTTP Semantics RFC 9111 - HTTP Caching RFC 9112 - HTTP/1.1 RFC 9113 - HTTP/2 RFC 9114 - HTTP/3 RFC 9205 - Building Protocols with HTTP HTTP に基づくプロトコルの築き方(非公式な日本語訳) 以下は旧式であり非推奨となった仕様 RFC 7540 - Hypertext Transfer Protocol Version 2 (HTTP/2) RFC7540 日本語訳(非公式) RFC 7230 - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Message Syntax and Routing RFC 7230 — HTTP/1.1: Message Syntax and Routing (日本語訳)(非公式) RFC 7231 - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Semantics and Content RFC 7231 — HTTP/1.1: Semantics and Content (日本語訳)(非公式) RFC 7232 - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Conditional Requests RFC 7232 — HTTP/1.1: Conditional Requests(日本語訳)(非公式) RFC 7233 - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Range Requests RFC 7233 — HTTP/1.1: Range Requests (日本語訳)(非公式) RFC 7234 - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Caching RFC 7234 — HTTP/1.1: Caching (日本語訳)(非公式) RFC 7235 - Hypertext Transfer Protocol (HTTP/1.1): Authentication RFC 7235 — HTTP/1.1: Authentication (日本語訳)(非公式) RFC 2818 - HTTP Over TLS HTTP Over TLS(IPAによる非公式な日本語訳) RFC 2817 - Upgrading to TLS Within HTTP/1.1 RFC 2616 - HTTP/1.1(RFC 2068の改訂版,RFC 7230 から RFC 7235 によって obsolete) ハイパーテキスト転送プロトコル -- HTTP/1.1 RFC 2068 - HTTP/1.1(初版,RFC 2616 によって obsolete) TS X 0085:2004 - ハイパテキスト転送プロトコル HTTP/1.1 日本標準仕様書(TS X 0085:2004) RFC 1945 - HTTP/1.0 The HTTP Protocol As Implemented In W3 - HTTP/0.9 その他 7230 ティム・バーナーズ=リー
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https://ja.wikipedia.org/wiki/File%20Transfer%20Protocol
File Transfer Protocol
File Transfer Protocol(ファイル・トランスファー・プロトコル、FTP、ファイル転送プロトコル)は、コンピュータネットワーク上のクライアントとサーバの間でファイル転送を行うための通信プロトコルの一つである。 概説 インターネット初期の頃から存在するプロトコルで、インターネットでよく使用される通信プロトコルの1つである。FTPはクライアントサーバモデルのアーキテクチャとして設計されており、クライアントとサーバの間で制御用とデータ転送用の2つの別のコネクションを使用する。 FTPでは、認証のためのユーザ名・パスワードや転送データは暗号化されず、平文でやり取りされる。そのため現在では、FTPの通信をSSL/TLSにより保護したFTPSや、SSHの仕組みを利用したSSH File Transfer Protocol(SFTP)などの代替のプロトコルに置き換えられている。 用途としては ウェブページ用各種データファイル(HTMLソース、画像など)のクライアントのパソコンからウェブサーバへのアップロード パソコンソフト配布サイトや、データが入っているFTPファイルサーバからクライアントへのファイルのダウンロード LANにおけるファイルの転送 などに使われる。 アップロードやダウンロードについては「FTPクライアントソフト」と呼ばれるソフトウェアで行う。多くのOSにはCUIコマンドで操作するクライアントが付属している。また、GUIで操作できるソフトウェアやホームページ作成ソフトに内蔵されている。 ダウンロードについては、かつて多くのブラウザソフトにダウンロードに特化したFTPクライアントソフトの機能が実装されていたが、2020年代初頭に多くのブラウザがサポートを打ち切った。 初期のFTPクライアントは、OSがGUIを持っていなかった時期に開発されたコマンドラインプログラムであり、今でもほとんどのOSに同梱されている。多くのFTPクライアントや自動化ユーティリティが開発されており、また、HTMLエディタなどの生産性アプリケーションにも組み込まれてきた。 歴史 FTPの元の仕様はアバイ・ブーシャンによって書かれ、1971年4月16日にとして公開された。1980年まで、FTPはTCP/IPの前身であるNCPで実行されていた。(1980年6月)と(1985年10月)によりFTPはTCP/IP上で動くバージョンに修正され、これが現行のFTPの仕様の元となっている。その後、(1994年2月)でファイアウォール内からでも使用できるパッシブモードが追加され、(1997年6月)ではセキュリティ拡張が提案された。(1998年9月)ではIPv6に対応し、新しい種類のパッシブモードが定義された。 プロトコルの概要 通信とデータ転送 FTPの動作モードには、データ転送用コネクションの確立方法の違いによりアクティブモード(active mode)とパッシブモード(passive mode)がある。どちらの場合でも、データ転送用コネクションとは別に制御用コネクションを使用する。制御用コネクションは、クライアント側が、特権付きでないランダムなポート番号Nから、サーバのポート21へのTCPのコネクションとして確立する。 アクティブモード(ポートモードとも言う)では、クライアントが制御用コネクションでFTPコマンド"PORT M"(Mはポート番号)をサーバに送信してポート番号を通知し、通知したポートMでサーバからのデータ転送用コネクションの接続を待ち受ける。サーバはポート20(FTPサーバのデータポート)からクライアントへのデータ転送用コネクションを確立する。 ファイアウォールやNAT(IPマスカレード)などを使った環境では場合によってはアクティブモードでは接続できないこともある。この場合はパッシブモードを使用する。このモードでは、クライアントは制御用コネクションで"PASV"コマンドをサーバに送信してパッシブモードを利用することを通知し、サーバはクライアントにサーバ側のIPアドレスとポート番号を通知する。クライアントはサーバから通知されたIPアドレスとポート番号へデータ転送用コネクションを確立する。 1998年9月に、両方のモードはIPv6に対応するために更新され、パッシブモードには変更が加えられて拡張パッシブモード(extended passive mode)となった。 サーバは、制御用コネクションを介してASCIIの3桁の数字のステータスコードで応答する。ステータスコードにはテキストによるメッセージがつくことがある。例えば、"200"(または "200 OK")は、最後のコマンドが成功したことを意味する。数字は応答のコードを表し、追加のテキストは人間が読める説明または要求を表す。データ転送用コネクションを介したファイルデータの転送中、制御用コネクションを介して割り込みメッセージを送信することによって転送を中止することができる。 データ転送には以下の4つのデータ表現が利用できる。 ASCIIモード: テキストデータに使用される。必要に応じて、送信側で送信ホストの文字表現から拡張ASCIIに変換され、受信側では受信ホストの文字表現に変換される。そのため、このモードはプレーンテキスト以外のデータを含むファイルには不適切である。 バイナリモード(イメージモードとも言う): 送信側のマシンは各ファイルをバイト単位で送信し、受信側はを保存する。送信側・受信側ともデータの変換を行わない。FTPの全ての実装に対してバイナリモードの対応が推奨されている。 EBCDICモード: EBCDIC文字セットを使用しているホスト間のプレーンテキストに使用される。 ローカルモード: 同じ設定の2台のコンピュータが独自のフォーマットでデータをASCIIに変換することなく送信できるようにする。 データ転送は以下の3つのモードのいずれかで行うことができる。 ストリームモード: データは連続したストリームとして送信される。FTPとしては処理は行わず、全ての処理をTCPに任せる。 データがレコードに分割されていない限り、End-of-file標識は必要ない。 ブロックモード: FTPはデータをいくつかのブロック(ブロックヘッダ、バイト数、データフィールドから構成される)に分割してからTCPに渡す。 圧縮モード: 単純なアルゴリズム(通常は連長圧縮)でデータを圧縮してからTCPに渡す。 FTPソフトウェアの中には、「モードZ」と呼ばれるDeflateを使用した圧縮モードを実装しているものがある。このモードはインターネットドラフトに記載されているが、標準化はされていない。 ログイン FTPログインは、アクセスを許可するために通常のユーザ名とパスワードのスキームを使用する。ユーザ名はUSERコマンドを使用してサーバに送信され、パスワードはPASSコマンドを使用して送信される。この一連のやり取りは暗号化されていないため、に対して脆弱である。クライアントから提供された情報がサーバによって受け入れられた場合、サーバはクライアントにグリーティングを送信し、セッションが開始される。 Anonymous FTP FTPサービスを提供するホストは、専らファイル(主に無償のフリーソフトなど)を配布する目的で、匿名でアクセスできるAnonymousアクセスを提供することができる。この場合でも形式上認証が必要であり、ユーザ名として"anonymous"または"ftp"を指定する。パスワードは通常何でもよいが、配布したソフトに瑕疵があった場合などにサーバ管理者が連絡をとることができるよう、ユーザの電子メールアドレスを指定するのがマナー(ネチケット)とされてきた(メールアドレスのドメインがクライアントのIPアドレスの逆引きなどから明らかな場合は、"foo@"のようにドメインを省略することも多い)。サーバによっては、パスワードがメールアドレスの形式を満たさないと利用できないこともある。しかし、近年ではスパム(迷惑メール)などの問題により、むやみにメールアドレスを公開しない風潮が高まっていることから、このマナーは廃れつつある。 NATやファイアウォールの通過 FTPは通常、クライアントがPORTコマンドを送信し、サーバがクライアントの通知されたポートに接続することによってデータを転送する。これは、インターネット側から内部ホストへの接続を許可しないNATやファイアウォールにおいて問題となる。NATの場合、PORTコマンドで通知するIPアドレスとポート番号は、NATによる変換後のものではなく、変換前のものとなる。 この問題を解決するには2つの方法がある。1つは、PASVコマンドを使用してパッシブモードに移行する方法である。これにより、FTPクライアント側からサーバへデータ転送用コネクションが確立される。これは現代のFTPクライアントにおいて広く使われている。もう1つは、NATがを使用してPORTコマンドの値を書き換える方法である。 HTTPとの違い FTPでは、Webページでよく見られるような多くの小さな一時的な転送に使用するのが不便であり、HTTPではそれを修正している。 FTPには、現在の作業ディレクトリと他のフラグを保持するステートフルな制御用コネクションがあり、転送するファイルごとに、データを転送するための別のコネクションを必要とする。パッシブモードでは、この別のコネクションはクライアントからサーバへの接続であるが、デフォルトのアクティブモードでは、このコネクションはサーバからクライアントへの接続である。アクティブモードにおけるこの役割の逆転、および全ての転送において使用されるポート番号がランダムであることが、ファイアウォールやNATゲートウェイを通してFTPを使用することを困難にしている。HTTPはステートレスであり、クライアントからサーバへの、Well-knownなポート番号による単一のコネクションを介して、制御とデータを多重化する。これにより、NATゲートウェイやファイアウォールの通過が簡単になる。 FTPの制御用コネクションの設定は、必要な全てのコマンドを送信して応答を待つまでに往復遅延があるため、非常に遅くなる。そのため、毎回セッションを破棄して再確立するのではなく、制御用コネクションを確立した後、それを複数のファイル転送のために開いたままにするのが一般的である。これとは対照的に、HTTPはその方が安価であるため、元々転送ごとにコネクションを切断していた。その後、HTTPには複数の転送に1つのTCP接続を再利用する機能が追加されたが、概念モデルとしてはセッションではなく独立した要求である。 FTPがデータ用コネクションを介して転送している間、制御用コネクションはアイドル状態である。転送に時間がかかりすぎると、ファイアウォールやNATは制御用コネクションが無効であると判断してそれを追跡しなくなり、事実上接続が切断されてしまう。HTTP接続においてはアイドル状態となるのは要求と要求の間のみであり、タイムアウトした後にコネクションがドロップされるのは正常で、予期されたものである。 Webブラウザの対応 かつてはほとんどの一般的なWebブラウザは、FTPサーバに格納されているファイルを取得することができた。しかし2020年以降主要ブラウザはあいついでFTPサポートを廃止した。 セキュリティ FTPは、インターネット初期から存在する古いプロトコルであり、セキュア(安全)なプロトコルとして設計されていない。ユーザ名やパスワードなどの認証情報を含むすべての通信内容を暗号化せずに転送するなどの問題の他、数多くのセキュリティ脆弱性が指摘されている。(1999年5月)では、以下の脆弱性が列挙されている。 総当たり攻撃 パケットキャプチャ Port stealing(次に開いているポートを推測して正当なコネクションを奪う) スプーフィング攻撃 ユーザ名保護 DoS攻撃 FTPは通信内容を暗号化できない。全ての送信は平文で行われるため、通信経路上でパケットをキャプチャすることで、ユーザ名・パスワード・コマンド・データといった情報を容易に盗聴できる。この問題は、TLS/SSLなどの暗号化メカニズムが開発される前に設計された他のインターネットプロトコル仕様(SMTP、Telnet、POP、IMAPなど)でも同様である。 この問題に対する一般的な解決策は、次の通りである。 安全なバージョンのプロトコルを使用する。例えば、FTPの代わりにFTPS、Telnetの代わりにTelnetSを使用する。 SSH File Transfer Protocol(SFTP)やSecure Copy Protocol(SCP)など、ジョブを処理できるより安全なプロトコルを使用する。 Secure Shell(SSH)やVPNなどのセキュアトンネルを使用する。 FTPは、Gumblarなどのコンピュータウイルスの標的にもされた。そのため、現在では、FTPではなく前述の FTPS (SSL/TLSを使ったFTP) や SFTP (SSH File Transfer Protocol)、SCP、SSH上でのrsync、など暗号化された手法を用いることが強く推奨される。 FTP over SSH FTP over SSHは、Secure Shell接続を介して通常のFTPセッションをトンネリングする方法である。FTPは複数のTCP接続を使用するため、SSHを介してトンネリングすることは特に困難である。多くのSSHクライアントでは、制御チャネル(ポート21による最初のクライアントとサーバの間の接続)用にトンネルを設定しようとすると、そのチャネルだけが保護される。データを転送するときは新しいTCP接続(データチャネル)を確立するため、機密性や完全性の保護はない。 そのため、SSHクライアントソフトウェアがFTPプロトコルの情報を持ち、FTP制御チャネルのメッセージを監視して書き換え、FTPデータチャネルのための新しいパケット転送を自律的に開く必要がある。 派生プロトコル FTPS 明示的FTPS(Explicit FTPS)は、クライアントがFTPセッションの暗号化を要求できるようにするFTP標準の拡張である。これは、"AUTH TLS"コマンドを送ることによって行われる。サーバには、TLSを使用しない接続の許可・拒否のオプションがある。このプロトコル拡張は、で定義されている。 暗黙的FTPS(Implicit FTPS)は、SSL/TLS接続の使用を必要するFTPの古い標準であり、通常のFTPとは異なるポートを使用するように指定されていた。 SFTP SSH File Transfer Protocol(SFTP)は、ファイル転送にSecure Shell(SSH)プロトコルを使用する。FTPとは異なり、コマンドとデータの両方を暗号化し、パスワードや機密情報がネットワークを介して公に送信されるのを防ぐ。FTPサーバやクライアントとは相互運用できない。 TFTP Trivial File Transfer Protocol(TFTP)は、クライアントがリモートホストからファイルを取得したり、リモートホストにファイルを保存したりすることを可能にする単純なロックステップのFTPである。TFTPは認証を行わないため実装が非常に簡単であり、主にネットワークブートの初期段階で使用される。TFTPは1981年に最初に標準化された。TFTPの現在の仕様はである。 Simple File Transfer Protocol Simple File Transfer Protocolは、TFTPとFTPの中間的なレベルの複雑さを持つ(セキュアではない)FTPとして提案された。で定義されている。このプロトコルもSSH File Transfer Protocolと同様"SFTP"と略称されるが、この略称を持つプロトコルの中ではSimple File Transfer Protocolの方が先に標準化されている。このプロトコルはインターネットで広く受け入れられず、このRFCはIETFによって"Historic"(歴史的文書)の状態とされている。 ポート115を介して実行され、多くの場合SFTPの初期設定を受信する。11のコマンドと、ASCII・バイナリ・連続の3つのデータ転送を持つ。 ワードサイズが8ビットの倍数であるシステムでは、バイナリモードと連続モードの実装は同じである。このプロトコルは、ユーザーIDとパスワードによるログイン、階層フォルダーとファイル管理(名前の変更、削除、アップロード、ダウンロード、上書きダウンロード、追加ダウンロード)に対応する。 その他の同様の目的に使えるプロトコル HTTP/WebDAV Secure copy(SCP) Rcp rsync Network File System(NFS) Server Message Block(SMB)/CIFS (Samba) FTPコマンド FTPリターンコード FTPサーバから返されるリターンコードはで標準化されている。リターンコードは3桁の数値である。 1桁目は、成功、失敗、エラー・不完全な応答のいずれかを示す。 2yz – 成功応答 4yz, 5yz – 失敗応答 1yz, 3yz – エラー・不完全な応答 2桁目は、エラーの種類を表す。 x0z – 構文。構文エラーを表す。 x1z – 情報。情報の要求に応答する。 x2z – コネクション。制御用コネクションやデータ用コネクションに関するエラーを表す。 x3z – 認証とアカウント。ログインプロセスとアカウントに関するエラーを表す。 x4z – 未定義。 x5z – ファイルシステム。サーバのファイルシステムからのステータスコードを中継する。 3桁目は、2桁目で定義されている各カテゴリの詳細情報を提供するために使用される。 関連項目 FTPサーバ FTPクライアント File eXchange Protocol (FXP) (FSP) FTAM Archie OBEX 共有資源 TCP Wrapper 脚注 参考文献 – CWD Command of FTP. July 1975. – (Standard) File Transfer Protocol (FTP). J. Postel, J. Reynolds. October 1985. – (Informational) Firewall-Friendly FTP. February 1994. – (Informational) How to Use Anonymous FTP. May 1994. – FTP Operation Over Big Address Records (FOOBAR). June 1994. – Uniform Resource Locators (URL). December 1994. – (Proposed Standard) FTP Security Extensions. October 1997. – (Proposed Standard) Feature negotiation mechanism for the File Transfer Protocol. August 1998. – (Proposed Standard) Extensions for IPv6, NAT, and Extended passive mode. September 1998. – (Informational) FTP Security Considerations. May 1999. – (Proposed Standard) Internationalization of the File Transfer Protocol. July 1999. – (Proposed Standard) Extensions to FTP. P. Hethmon. March 2007. – (Proposed Standard) FTP Command and Extension Registry. March 2010. – (Proposed Standard) File Transfer Protocol HOST Command for Virtual Hosts. March 2014. IANA FTP Commands and Extensions registry – The official registry of FTP Commands and Extensions 外部リンク FTP Server Online Tester Authentication, encryption, mode and connectivity. アプリケーション層プロトコル インターネット標準 0959
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%94%A8%E6%BC%A2%E5%AD%97
常用漢字
とは、「法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」として、内閣告示「常用漢字表」で示された現代日本における日本語の漢字である。現行の常用漢字表は、2010年(平成22年)11月30日に平成22年内閣告示第2号として告示され、2,136字、4,388音訓(2,352音、2,036訓)から成る(一覧)。 常用漢字は、漢字使用の目安であって制限ではない。一方、日本の学習指導要領では、義務教育の国語で習う漢字は常用漢字のみと規定している。日本の主な報道機関は、日本新聞協会が発行する『新聞用語集』(新聞用語懇談会編)に掲載される新聞常用漢字表に基づき、各社で多少の手を加えて漢字使用の基準としている場合が多い。 一覧 歴史 1923年(大正12年)、文部省臨時国語調査会が発表した常用漢字表、漢字1,962字とその略字154字。一部資料に1,960字とあるのは略字によって2組が同字となるため。同年9月1日実施予定であったが、同日発生した関東大震災により頓挫した。 1931年(昭和6年)、「常用漢字表及仮名遣改定案に関する修正」にて上記常用漢字表中の147字を減らし45字を増やして修正した1,858字。 1942年(昭和17年)、国語審議会が作成した標準漢字表2,528字のうちの常用漢字1,134字。ほかに準常用漢字1,320字、特別漢字74字。簡易字体(略字)の本体78字、許容64字があった。 1946年(昭和21年)、国語審議会が上記標準漢字表の中の常用漢字から88字を削り249字を加えた常用漢字表1,295字案。この案は採択されず、同年、これを修正した1,850字が当用漢字として公布された。 1981年(昭和56年)3月23日に国語審議会が答申し、同年10月1日に昭和56年内閣告示第1号として告示された常用漢字表。当用漢字の後継であり、1,945字/4,087音訓[2,187音・1,900訓]から成る。 2010年(平成22年)6月7日に文化審議会が改定常用漢字表として答申し、同年11月30日に平成22年内閣告示第2号として告示された常用漢字表。告示の際、昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」は廃止された。2,136字/4,388音訓[2,352音・2,036訓]から成る。 なお、このページでは5.および6.について解説する。 1981年の制定時(当用漢字との違い) 昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」(1,945字/4,087音訓[2,187音・1,900訓])では、当用漢字表と比べて字数の上では、以下の96字が増加した。削除された字種はなかった。 追加された字 字体を改めた字 当用漢字字体表の「」が「」に改められた。 音訓が加わった字 (はえる)、(あやぶむ)、(いこう)、(かおる)、(うれえる)、(うたう)、(ロウ)、(オ) 付表に加わったもの ・(おじ)、・(おば)、(さじき)、(でこぼこ) 音訓が削られた字 (はだ)、(めくら) 2010年の改定 文化審議会は2010年6月7日、改定常用漢字表(2,136字/4,388音訓[2,352音・2,036訓])を答申した。これは同年11月30日に平成22年内閣告示第2号「常用漢字表」として内閣告示された。その際、昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」は廃止された。 追加(196字) 削除(5字) 勺 錘 銑 脹 匁同時に新人名用漢字に取り入れられているため、新生児の命名には引き続き使用可能である。 また音訓が以下の通り追加、変更、削除された。 追加(29音訓) (ゆだねる)、(はぐくむ)、(こたえる)、(コツ)、(かかわる)、(やかた)、(かんがみる)、(こむ)、(わたし)、(におう)、(シュン)、(のべる)、(ふれる)、(いき)、(いく)、(つたない)、(すべて)、(つくる)、(はやまる)、(ほか)、(ジュウ)、(かく)、(ほうる)、(つとまる)、(いえる・いやす)、(かなめ)、(からめる)、(たぐい) 変更(1訓) (かわ) - 訓「かわ」を「がわ」に変更。 削除(3音訓) (せ)、(つからす)、(ホ) 備考欄などについて以下の通り変更された。 変更 - 備考欄に都道府県名を注記。 - 語例「」を「」に変更。備考欄「」の注記を削除。 - 語例「」を追加。備考欄に〈「」は、「タンノウ」とも。〉と注記。 - 語例「」を追加。 - 備考欄に〈「ジュッ」とも。〉と注記。 - 語例「」を削除。 - 語例「」を追加。 - 備考欄に〈「かわ」とも。〉と注記。 - 語例「」を削除。 - 語例「」を追加。 - 凡例に注記。 付表は以下の通り追加、変更された。 追加(6語) (かじ)、(かたず)、(しっぽ)、(しにせ)、(まじめ)、(やよい) 変更(5語) (こじ) - 「」を「」に変更。 (さつき) - 「」を「」に変更。 (おかあさん) - 「」を「」に変更。 (おとうさん) - 「」を「」に変更。 (あま) - 「」を「」に変更。 経緯 2005年(平成17年)2月2日に国語分科会が「情報化時代に対応する漢字政策の在り方を検討することが必要」であるとした報告書を文化審議会に提出した。これを受けて、同年3月30日、中山成彬文部科学大臣は常用漢字表の見直しの検討などを文化審議会に諮問した。同年9月から文化審議会国語分科会の漢字小委員会が常用漢字見直しの審議に入った。 その後、第6回漢字小委員会では、「『常用漢字』と『準常用漢字(読めるだけでいい漢字)』に分けることの是非」という文言を含む資料が配付された。また答申時期については、第15回漢字小委員会で2010年2月の新常用漢字表答申を目指すと述べられている。なお、その後の漢字小委員会で表の煩雑化に疑問の声があり、「準常用漢字」などの区分は最終的に行われなかった。2008年(平成20年)1月9日、都道府県名に使われている漢字で常用漢字に現在含まれていない「」の11字を常用漢字に含めることを決めた。これは固有名詞については常用漢字表の対象としないのが原則であり、今後も維持するが、特に公共性が高い都道府県名について例外として扱ったものである。またその後、「」が追加候補に入ったが、これは都道府県名に準じる漢字としての位置付けである。 2008年(平成20年)5月12日の第21回漢字小委員会で、第1次字種候補素案218字が発表された(220字と明記され、主要新聞社もそのように発表したが、実際には「」がデザイン差で重複しており、また既に常用漢字表に入っている「」が誤って入っていたため218字が正しい)。この時点では特定の語に限って常用漢字と同様に認める熟語が「別表」として付記されていたが、「なるべく単純明快な漢字表を作成する」という考え方に基づき、その後の6月16日の第23回漢字小委員会では第2次字種候補案が「別表」を統合した形で発表され、同日の審議でもその旨了承された。なお、第2次字種候補案では「本表に入れる可能性のある候補漢字」は188字とされた。また「」が削除候補から外された。 同年7月15日の第24回漢字小委員会では、7月31日の第39回国語分科会に提出する資料について「最終的な扱いについては前田主査に一任する」ことが了承された。また、国語分科会で字種候補案が了承されたとしても、今後、行われる音訓の検討過程で字種の出し入れの可能性があることも確認された。実際にその後の9月22日の第25回漢字小委員会では、追加候補に「」の4字が追加され、「」が削除された。これにより追加候補は191字となった。2009年(平成21年)10月23日の第37回漢字小委員会および11月10日の第42回国語分科会で了承された修正案では「」の9字が追加、「」の4字が削除され、追加候補は196字となった。なお、漢字表の名称は現行と同じ「常用漢字表(改定常用漢字表)」とすることが確定した。 文化審議会は2010年6月7日の第51回文化審議会総会で、改定常用漢字表を答申した。 (参考)一度は追加候補漢字に入りながら、その後外された漢字(85字) また、文化庁は「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」を公開、パブリックコメント募集を行い、2009年(平成21年)3月16日から行われたものの結果がニュースなどで報道された。これは第31回漢字小委員会以降で配付された資料に基づくものである。それによると、新たに302字の追加希望があったという。 最も追加要望が多かったのは「」の22件である。三鷹市、鷹栖町、白鷹町など名称に「」を含む自治体が意見書を出していた。三鷹市によれば、「鷹」は「都道府県名や動植物名等の固有名詞を中心とした使用例が多い」との理由で追加字種候補から除外されたが、市はこれに反論して四字熟語を含む熟語や故事・諺など多数の用例を挙げ「社会生活や日本の伝統文化を表す語が多数存在する」と主張した。またもう一つの根拠として和文書体データのフォント作成の際に、全ての漢字の構成要素が凝縮されているとして「鷹・東・永・国・室・道・機・識・闘・愛・警・酬」の12文字を基準に作成されていることを挙げて「鷹」の追加を強く要望した。この三鷹市の取り組みに対しては全国から多くの反響が寄せられたという。 続いて「」の20件は、一部の障害者団体が「」を「」と表記するよう主張していることが関係している。その他、6件以上意見があったのは「」であった。 一方、削除希望の漢字も挙げられ、最も多かったのは「」、次いで「」であった。そのほか「」などが挙がっており、「」など都道府県に用いられる漢字に対しても削除の要望があった。今回のパブリックコメントでは約220件の意見が寄せられ「敬語の指針(報告案)」の際の5倍に上った。文化庁は、このパブリックコメントを加味した上で、再度指針案を練り直すとしていた。 その後、2009年(平成21年)11月25日から12月24日まで再度、修正案を対象にしたパブリックコメントが実施され、272件の意見が寄せられた。追加希望が最も多かった字は「玻」の95件で、この字が人名用漢字でないことを理由に子供の出生届を不受理とされた処分の無効を求めていた愛知県在住の夫婦とその支援者による組織票により、前回の0件から一転して95件の追加希望が寄せられた。また、前回のパブリックコメントでは20件であった「」は86件と大幅に追加希望が増加。「」は前回より2件増の24件であった。 この結果に基づいて審議が行われた結果、2010年(平成22年)4月13日に開催された第41回漢字小委員会は「」のいずれも追加を見送り、2009年11月の試案通り字種を「196増5減」とする案が了承された。ただし「碍」については内閣府の障がい者制度改革推進本部で「障害」の表記の在り方について検討しているため、その結果によっては改めて検討することとした。 字体 「改定常用漢字表」(文化審議会答申)では「現行の常用漢字表制定時に追加した95字については、表内の字体に合わせ、一部の字体を簡略化したが、今回は追加字種における字体が既に『印刷標準字体』及び『人名用漢字字体』として示され、社会的に極めて安定しつつある状況を重視し、そのような方針は採らなかった」ため、「現行の常用漢字表で示す『通用字体』と異なるものが一部採用される」ことになった。 印刷文字 「」の5字には「『しんにょう/しょくへん』にかかわる字のうち、『』の字形が通用字体であるものについては、『』の字形を角括弧に入れて許容字体として併せ示した。当該の字に関して、現に印刷文字として許容字体を用いている場合、通用字体である『』の字形に改める必要はない。」という「字体の許容」が適用される。 「」の5字には「特定の字種に適用されるデザイン差」(個別デザイン差)が認められている。 「情報機器に搭載されている印刷文字字体の関係で、本表の掲出字体とは異なる字体(掲出字体の『』に対する『・・』など)を使用することは差し支えない」とされている。これを適用する具体的な字種は明記されていないが、「」の14字が該当すると考えられる。 「」の12字は表外漢字字体表で「漢字使用の実態への配慮から、字体の差と考えなくてもよいと判断」された字形差が、改定常用漢字表ではデザインの差ではなく字体の差とされる。 手書き(筆写の楷書) 「印刷文字字形と手書き字形との関係について、現行常用漢字表にある『(付)字体についての解説』、表外漢字字体表にある『印刷文字字形(明朝体字形)と筆写の楷書字形との関係』を踏襲しながら、実際に手書きをする際の参考となるよう、更に具体例を増やして記述した。」 「備考欄にある『*』は、『(付)字体についての解説』『第2 明朝体と筆写の楷書との関係について』の『3 筆写の楷書字形と印刷文字字形の違いが、字体の違いに及ぶもの』の中に参照すべき具体例があることを示す。」 備考欄に「*」が付いているのは「」の26字である。 「『*』の付いた字の多くは、昭和56年の制定当初から常用漢字表に入っていた字体とは、『⇔』『⇔』『⇔』『⇔』『⇔』などのように、同じ構成要素を持ちながら、通用字体の扱いに字体上の差異があるものである。」 「『しんにゅう』の印刷文字字形である『』に関して付言すれば、どちらの印刷文字字形であっても、手書き字形としては同じ『』の形で書くことが一般的である、という認識を社会全般に普及していく必要がある。」 「しんにゅうの字、及びしんにゅうを構成要素として含む字のうち通用字体が『』で示されている字については、上記『第2 明朝体と筆写の楷書との関係について』の『1 明朝体に特徴的な表現の仕方があるもの』の中に『-』が示され、『』も筆写では『』と同様に『』と書くことから、備考欄に『*』を付した。」 都道府県名など 「改定常用漢字表」(文化審議会答申)では「固有名詞を対象とするものではない。ただし、固有名詞の中でも特に公共性の高い都道府県名に用いる漢字及びそれに準じる漢字は例外として扱う。」とした。これにより、都道府県名に用いる漢字で常用漢字表になかった11字と、近畿の「」・韓国の「」の2字が常用漢字になった。この13字について整理すると以下の通り。 「都道府県名専用」および「地名専用」で示した8字が、固有名詞の例外として追加された「都道府県名に用いる漢字及びそれに準じる漢字」に該当する。 ※「都道府県名専用」は「1字下げで示した音訓のうち、備考欄に都道府県名を注記したものは、原則として、その都道府県名にのみ用いる音訓であることを示す」という記述に基づくものである。 なお、日本新聞協会新聞用語懇談会では「」は「都道府県名専用」とはせず、限定的な熟語(、、)には使用するよう決めている。 法令における使用 法令では常用漢字のみを使用することを原則として、常用漢字外の字は、語そのものの言い換えが行われるか、その字のみ平仮名書きするか、常用漢字外の字を使用しつつ初出の箇所にのみ振り仮名(ルビ)をつける運用がなされる。 同音の漢字による書きかえは、第二次世界大戦後、当用漢字告示後から多用されている。「」を「」と表記するなどである。 平仮名書きは、機械的に行えるために多く使用されてきたが、同音異義語がある場合や、「」()「」()など語の一部のみ平仮名書き(交ぜ書き)される不自然さがあり、次第に避けられるようになりつつある。 初出箇所にのみ振り仮名を振る方式は、常用漢字使用の原則に沿いつつ、自然な記載をなしうるため、法令の条文の記載において、多く用いられるようになりつつある。平成に入って口語化された刑法・民事訴訟法などはいずれもこの方式によっている例である。 法令以外の公用文においても、「公用文作成の要領」「公用文における漢字使用等について」により、常用漢字のみを使用することを原則とするように定められている。 実際には使用されないもの 日本国憲法に用いられている漢字は全て当用漢字表に採られ、常用漢字表にも引き継がれている。一般的に用いられない漢字が常用漢字である一因はこのためである。 『公用文作成の要領』において「常用漢字表にあるものであっても,仮名で表記するもの」とされているもの 、 れ:「おそれ」 :「かつ」 (接続詞):「したがって」、動詞「したがう」の活用として用いる場合は「従って」と表記。 :「ただし」 :「ただし書」 、:「ほか」 :「また」(ただし,「または」は「又は」と表記する。) :「よる」 常用漢字表にある字種だが、日本新聞協会新聞用語懇談会が使用しないことを決めた7字 (おそれ):『新聞用語集』「用字用語集」では「恐れ」の表記が示され、『NHK漢字表記辞典』では「おそれ」の表記が採られている。常用漢字表外の音に「グ」があり、熟語として虞美人、虞犯などがある。報道関係では「虞犯」は「犯罪予備軍」「非行少年」などに言い換えている。 (かつ):「かつ」は副詞で「同時に」、接続詞で「それに加えて」という意味があるが、仮名書きが一般的であるとして、新聞社などマスメディアでは漢字を用いない。 (ジュン):「決められた規則などに従う」という意味。遵守、遵法などの熟語があるが、『新聞用語集』『NHK漢字表記辞典』共に、など、同音の「順」とする表記を採る。 (チン):かつての天皇の一人称。使用頻度が低いとして使用しないこととされている。『新聞用語集』「用字用語集」に表記例は示されず、『NHK漢字表記辞典』では仮名書きすることが示されている。 (ただし):仮名書きが一般的であるとして漢字を使用しないこととされている。 (フ):同音の「付」に書き換える。新聞では学校名や病院名など固有名詞に含まれる「附属」も「付属」とする表記が行われる。『NHK漢字表記辞典』では固有名詞では「附属」の表記も認めている。 (また):仮名書きが一般的であるとして漢字を使用しないこととされている。公用文とは違い「または」も仮名書きにする。 用途が限られる常用漢字 (うね・せ):「」(せ)は尺貫法の面積の単位で、反の十分の一。2010年の改定で「せ」の読みが常用漢字表から削除された。「うね」は畑の土盛りの部分。農業関係者を除き用いる機会はまれである。 (ジ):「」とは天子(皇族)の印のこと。、、などといった熟語があるが、日常で用いられることは極めて少ない。 (チン):「」は天皇の旧一人称。現在は「」(わたくし)を用いているが、日本国憲法の上諭で使われている。他は西洋史において「朕は国家なり」という諺が使用される程度で、日常で用いることは極めてまれである。 尺貫法で用いられる常用漢字 (キン):「」は尺貫法で用いられる質量の単位であり、江戸時代は貨幣の単位にも用いられた。削除が検討され、人名用漢字になる予定だったが、慣習的に食パンを数える単位として用いられるため常用漢字に残された。熟語として斤量などがあるが、競馬において頻用されるほかはあまり用いられていない。 世論調査によって、あまり使用しないと回答された漢字 (テイ):「」は「一定の数だけ〜していく」という意味。熟語として、、があり、かつて日本では1946年まで逓信省という行政機関が存在し、また現在の日本郵政グループ労働組合の前身の一つとなる労働組合は2004年まで「全逓信労働組合(全逓)」を名乗っていた。世論調査によって、6割以上の人があまり使用しないと回答した漢字の一つである。 (ジュン):「」同様に、世論調査によって、6割以上の人があまり使用しないと回答した漢字の一つである。 字体・字形に関する指針(報告) 近年、手書き文字と印刷文字の表し方に習慣に基づく違いがあることが理解されにくくなっている。また、文字の細部に必要以上の注意が向けられ、正誤が決められる傾向が生じている。 文化庁では、平成26年度から文化審議会国語分科会漢字小委員会において、「手書き文字の字形」と「印刷文字の字形」に関する指針の作成」に関して検討を進めていたが、その検討結果が国語分科会で「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」(案)として示された。 脚注 注釈 出典 参考文献 関連項目 常用漢字一覧 教育漢字 人名用漢字 表外漢字字体表(印刷標準字体) - 表外漢字字体表の漢字一覧 当用漢字 国語国字問題 学習指導要領 新聞常用漢字表 JIS漢字コード 外部リンク 内閣告示・内閣訓令 | 常用漢字表(平成22年内閣告示第2号) - 文化庁 漢字表一覧 - 青空文庫 漢字小委員会 - 文化庁 INTERNET Watch “情報化時代”に追いつけるか? 審議が進む「新常用漢字表(仮)」 [ 誤れる文字文章と正しき用字法 (近代デジタルライブラリー)] 大町桂月 1918年 誤れる文字文章 第八版 (Google Books) 大町桂月 1918年 日本の漢字 日本の言語政策
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E
ノーベル賞
は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞である。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。 経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環として、ノーベルの死後70年後にあたる1968年に設立されたものであり、ノーベル財団は「ノーベル賞ではない」としている。 沿革 ノーベル賞は、スウェーデン語では (ノベルプリース/ノベルプリーセット)、ノルウェー語では(ノベルプリース(ン))という。1895年に創設され、1901年に初めて授与式が行われた。一方、ノーベル経済学賞は1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われた。 賞設立の遺言を残したアルフレッド・ノーベル(1833年10月21日 - 1896年12月10日)は、スウェーデンの発明家・企業家であり、ダイナマイトをはじめとするさまざまな爆薬の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし、爆薬や兵器を元に富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。1888年、兄のルードヴィがカンヌにて死去するが、このときフランスのある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「死の商人、死す」との見出しとともに報道した。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった。1896年12月10日に63歳でノーベルは死去するが、遺言は死の1年以上前の1895年11月27日にパリのスウェーデン人・ノルウェー人クラブにおいて署名されていた。 この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。彼がこの遺言のために残した金額は彼の総資産の94パーセント、3100万スウェーデン・クローナに及んだ。周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、1897年4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されなかった。その後、彼の遺志を継ぐためにラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストがノーベル財団設立委員会を結成し、賞設立の準備を行った。賞の名前はノーベルを記念してノーベル賞とされた。1897年4月には平和賞を授与するためのノルウェー・ノーベル委員会が設立され、6月7日にはカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、6月9日にはスウェーデン・アカデミーが、6月11日にはスウェーデン王立科学アカデミーが授与機関に選定されて選考体制は整った。賞の授与体制が整うと、1900年にノーベル財団の設立法令がスウェーデン国王オスカル2世(1905年まで兼ノルウェー国王)によって公布された。同年、科学者のスヴァンテ・アレニウスもノーベル賞の創設に関わり、1901年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれたが、これには反対の声もあった。その後はノーベル委員会の物理学部門の委員となり、化学部門でも事実上の委員として活動した。彼はその立場を利用して友人(ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ、ヴィルヘルム・オストヴァルト、セオドア・リチャーズ)にノーベル賞を受賞させるよう誘導し、敵対する科学者(パウル・エールリヒ、ヴァルター・ネルンスト)には受賞させないよう画策した(画策は成功しなかった)。1903年、アレニウス自身もスウェーデン人初のノーベル化学賞を受賞した。1905年にノルウェーとスウェーデンは同君連合を解消したが、両国分離後も授与機関は変更されなかった。 ノーベル賞はその歴史と伝統などから権威が高く、ノーベル賞に部門のない分野における権威のある賞が「〇〇のノーベル賞」と呼ばれたり(ある分野のノーベル賞として知られる賞の一覧を参照)、不可能に近いことやきわめて困難なことの例えに比喩的にノーベル賞が使われたりする(「それができたらノーベル賞を取れる」など)。 部門 以下の部門から構成される。 ノーベル生理学・医学賞 ノーベル物理学賞 ノーベル化学賞 ノーベル文学賞 ノーベル平和賞 ノーベル経済学賞 特に自然科学部門のノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の3部門における受賞は、科学分野における世界最高の栄誉であると考えられている。近年は生理学・医学賞と化学賞、物理学賞との境界が曖昧な分野が増えてきている。また世界的に関心の高い分野への受賞など社会的なメッセージともとれる例がある。 経済学賞について、ノーベル財団は同賞をノーベル賞とは認めておらず、この賞を正式名称(「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」)または「ノーベル」を冠しない「経済学賞」と呼ぶ。なお、経済学賞の創設後、環境、数学、建築、音楽など様々な分野の関係者から経済学賞と同様に費用を負担するので「ノーベル記念賞」を創設してほしいとの申し出があったが、新設されていない。 複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞することができる。ただし、同時受賞者の立場は対等とは限らず、受賞者の貢献度(Prize share)に応じて賞金が分割される。なお、性質上「複数人による業績」が考えづらい文学賞は例外で、定数は一度に1人と定められている。また、基本的に個人にのみ与えられる賞であるが、平和賞のみ団体の受賞が認められており、過去に国境なき医師団やICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)などが受賞している。 選考 選考は「物理学賞」「化学賞」「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。 ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表される。よって「ノーベル賞の候補」というものは公的には存在しないことになるが、「いつか受賞するだろう」と目される人物が各分野に存在するのも事実である。トムソン・ロイター社は旧トムソン時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表しており、2017年以降は同事業を引き継いだクラリベイト・アナリティクスがクラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞としてノーベル賞候補を選定発表している。これは近年の論文の引用数などから算出したものである。ただし、ノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いため、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではない。最終選考は発表日当日に行われることが慣例になっており、マスコミの事前予測が難しい所以である。 資格 1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例としては、1931年の文学賞を受賞したエリク・アクセル・カールフェルト、1961年の平和賞を受賞したダグ・ハマーショルドが授賞決定発表時に故人であった。 1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされている。2011年には、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことがのちに判明し、問題となった。ただし、授賞決定発表のあとに本人が死去した場合には、その授賞が取り消されることはない。スタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まった。 授賞式 授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られる。 晩餐会・舞踏会 授賞式終了後、平和賞以外はストックホルム市庁舎(1930年まではストックホルムのグランドホテルの舞踏室)にて、スウェーデン王室および約1,300人のゲストが参加する晩餐会が行われる。王室、受賞者などが階段を上がり、2階の別室へと退場したあと晩餐会はお開きとなり、そのまま2階のゴールデンホールという大きな部屋で舞踏会が始まる。平和賞の晩餐会はオスロのグランドホテルで行われ、こちらにはノルウェーの国会、首相および2006年以降はノルウェーの国王夫妻を含めた約250人が招かれている。1979年の平和賞の晩餐会は、受賞者のマザー・テレサが「貧しい人にお金を使ってください」として出席を辞退、開催を中止させ、晩餐会に使うはずだった7,000USドルの費用はインドのコルカタ(旧名:カルカッタ)の2,000人のホームレスへのクリスマスの夕食に使われた。これは現時点で唯一の晩餐会が中止になった例である。 1991年にノーベル賞90周年事業の一環として、晩餐会に使う食器類をすべてスウェーデン製に置き換えようとしたが、カトラリーだけはその複雑なデザインゆえに仕上げ研磨ができる技術が国内になく、カトラリーのデザインを担当したゴナ・セリンが懇意にしていた新潟県燕市の山崎金属工業に依頼した。食器類など授賞式に使う調度品は、普段は厳重に鍵のかかった倉庫に保管されており、ノーベル賞の晩餐会にのみ使用される。晩餐会で使用されるカトラリーセットは「ノーベルデザインカトラリー」として一般向けにも販売されている。 ドレスコードは燕尾服もしくはナショナルドレス(民族衣装)であるため、川端康成や本庶佑は紋付羽織袴で出席している。 その他のイベント 受賞者は受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行うのが通例になっている。その後、受賞者はストックホルム大学やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、そこで大学生らと希望する受賞者はさらなる躍進を願って一斉に「蛙跳び」をするのが慣例となっている。 授与 受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられる。受賞者に与えられる賞金は、ノーベルの遺言に基づき、彼の遺産をノーベル財団が運用して得た利益を原資としている。ただし「経済学賞」は1968年に創設され1969年から授与されたが、その原資はスウェーデン国立銀行の基金による。 ノーベル賞の賞金は、過去幾度も変動してきた。ノーベルは遺産を安全な有価証券にすることを指定しており、このため得られる利子額は長年にわたって低いものであり、賞金もそれに連動して設立当初より相対的に低い額にとどまっていた。こうした状況は1946年にノーベル財団が免税となったことと、1950年代に株式への投資が解禁されたことによって改善され、1990年代には設立当初の賞金レベルを回復した。2001年から現在まで賞金額は1000万スウェーデン・クローナ(約1億円)である。しかしスウェーデンのノーベル財団は2012年6月11日の理事会で、過去10年間にわたって運用益が予想を下回ったことなどを理由として、2012年のノーベル賞受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8900万円)とすることを決めた。 なお、日本においてはノーベル賞の賞金は所得税法第9条第1項第13号ホにあるように、所得税は非課税となっている。これは、1949年に湯川秀樹が日本人として初のノーベル賞を受賞した際に、賞金への課税について論争が起こったのを受けて改正されたものである。 メダル 受賞時に渡されるメダルは1902年から使用され、ノーベル財団によって商標登録されている。1901年の第1回受賞時にはメダルが間に合わなかったため、第2回からの授与となっている。 メダルには表面にアルフレッド・ノーベルの肖像(横顔)と生没年が記されている。表面のデザインは物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞では同じであるが、平和賞と経済学賞では若干異なる。裏面のデザインは賞によって異なるが、物理学賞と化学賞では共通のデザインで、自然の女神のベールを科学の女神がそっと外して横顔を覗いているデザインとなっている。1980年以前のメダルは24Kの純金であったが、落としただけで曲がってしまったり、傷がつきやすいということもあり、現在では18Kを基材として、24Kでメッキした金メダルが使用されている。重量は約200グラム、直径約6.6センチ。 メダルのレプリカは、受賞者本人が上限を3個として作成してもらうことが許可されている。 2010年までは、スウェーデン政府の機関が制作していたが、予算削減のため2011年からノルウェーの企業に委託されることになった。しかし国内での製造を望む国民の要望が多かったため、2012年からスウェーデンの民間企業で製造されることが決定した。 ガムラスタンにあるノーベル博物館には、ノーベル賞のメダルを模した「メダルチョコ」が売られており、観光客だけではなく授賞式に訪れた受賞者本人も土産として購入するという。益川敏英はこのチョコレートを600個も買い込んで話題となった。 受賞者がメダルを売却する事例もあり、1962年に生理学・医学賞を受賞しフランシス・クリックは死後の2013年、共同受賞者のジェームズ・ワトソンは経済的な理由から2014年、2021年に平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフ所有のメダルが2022年、それぞれオークションを通じて第三者に譲渡された。 科学史としてのノーベル賞 前述のようにノーベル賞の自然科学分野における受賞者は欧米の研究者を中心としており、1920年代に日本人の山極勝三郎がノミネートされた際には、選考委員会で「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明らかになっている。また、元国連大使の松平康東は、1930年代に呉建がノミネートされた際には日本が枢軸国であったことで受賞に至らなかったとしている。欧米以外の国で研究活動を行った非欧米人では、1930年にインド人のチャンドラセカール・ラマンが物理学賞を受賞したのが最初である。日本人である湯川秀樹(1949年受賞)、朝永振一郎(1965年受賞)らがやはり物理学賞で受賞している。 受賞条件と辞退 ノーベル賞は受賞者が自然人の場合、「本人が生存中」が受賞条件だが、かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、そのケースに当てはまる受賞者には、1931年文学賞のエリク・アクセル・カールフェルトと、1961年平和賞のダグ・ハマーショルドがいる。1973年から、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要があるが、その後死亡しても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されなかった。2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人が3日前に死亡していたことが判明したが、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになった。 辞退 これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、以下のとおりである。 ジャン=ポール・サルトル(1964年文学賞辞退) - 公的な賞はどれも辞退してきた。 レ・ドゥク・ト(1973年平和賞辞退)- ベトナムにまだ平和が訪れていないからという理由で辞退 ゲルハルト・ドーマク(1939年生理学・医学賞辞退) - ナチス政府の圧力 リヒャルト・クーン(1938年化学賞辞退) - ナチス政府の圧力 アドルフ・ブーテナント(1939年化学賞辞退) - ナチス政府の圧力 ボリス・パステルナーク(1958年文学賞辞退) - ソ連政府の圧力 ドーマクは戦後の1947年、クーン、ブーテナントは1949年、パステルナークは没後に遺族が賞を受け取ったとされているため、最終的に受け取らなかったのは前者2名である。 評価と論争 ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されている。理由は諸説ありはっきりしないが、当時のスウェーデンとノルウェーは同君連合を組んでいたこと、そして当時のノルウェーには自主的外交権がなかったために平和賞の選考には常に中立性が期待できたことなどが理由と考えられている。 1929年の生理学・医学賞はビタミンBの発見によりオランダのクリスティアーン・エイクマンに贈られているが、エイクマンは米ぬかの中に脚気の治癒に効果のある栄養素(ビタミン)が存在することを示唆したにすぎず、実際にその栄養素をオリザニンとして分離・抽出したのは日本の鈴木梅太郎である。 1926年の生理学・医学賞は寄生虫によるガン発生を唱えたデンマークのヨハネス・フィビゲルに贈られ、同時期に刺激説を唱えていた山極勝三郎が受賞を逃している。後年、フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆されている。 ポルトガルのエガス・モニスはロボトミー手術を確立したことで1949年の生理学・医学賞を受賞しているが、ロボトミーは効果が限定的であるにもかかわらず副作用や事故が多く、またその後向精神薬が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはない。モニス自身も実験的な手術を行っただけで、臨床に導入してはいなかった。 文学賞は、過去には歴史書や哲学書の著者にも贈られたことがあったが、1953年にイギリス首相のウィンストン・チャーチルが自著『第二次世界大戦回顧録』を理由に文学賞を受賞したことで選考対象の定義をめぐる論争が起こった。結局これ以降、2016年にアメリカのシンガーソングライター・ミュージシャンのボブ・ディランが受賞するまで純文学の著者による受賞が続くことになる。 戦争を起こした当事者が平和賞を受賞したこともある。キャンプ・デービッド合意によりエジプトとイスラエルの間に和平をもたらしたことが評価され、1978年の平和賞はエジプトのアンワル・サダト大統領とイスラエル首相のメナヘム・ベギン首相に贈られたが、そもそもその仲介役としてアメリカの重い腰を上げさせるために第四次中東戦争を企画し、イスラエルへの奇襲作戦を主導したのはそのサダト自身だった。結果的にサダトの狙いは的中したが、これは外交手段の一環として引き起こした戦争を恒久的平和にまで持ち込むことに成功した稀な例となった。一方、サダトとベギン両首脳に実に12日間にもわたってワシントンD.C.郊外の大統領保養地キャンプ・デービッドを自由に使わせ、難航する和平会談の成功に奔走したアメリカのジミー・カーター大統領が、この両首脳とともに平和賞を受賞しなかったことに対しては疑問を唱える声が各方面から上がった。そのカーターには2002年になって「数十年間にわたり国際紛争の平和的解決への努力を続けた」ことなどを理由に、遅ればせながらの平和賞が贈られている。 平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがあることから、受賞者の国の政府から反発を受けることがよくある。その例として、ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキー、ソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフ、中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世、ポーランド民主化運動を主導した「連帯」のレフ・ワレサ、南アフリカの人種隔離政策を批判したデズモンド・ツツ主教、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチー、中国の人権侵害を批判し民主化を訴えた劉暁波などが挙げられる。 1958年に文学賞を受賞したボリス・パステルナークは、ソ連政府の圧力により授賞辞退を余儀なくされた。それでもノーベル委員会は彼に一方的に賞を贈っている。 1925年に文学賞を受賞したバーナード・ショーは、ノーベル賞について「ダイナマイトを発明したのは、まだ許せるとしても、ノーベル文学賞を考え出すなんて言語道断だ」「殺生と破壊の手段であるダイナマイトを発明して金を儲けたノーベルの罪も大きいが、世界の人材を序列化するノーベル賞を作ったのは最もゆるせない罪だ」などと皮肉し、受賞するまでに何度も受賞を拒んだことがある。 3通の遺言 ノーベルの遺言は3通ある。書かれた年次は、順に1889年、1893年、1895年である。1889年の初めて書かれた遺言は破棄されている。 1893年に書かれた2通目は、もっとも形式が整ったものである。具体的な金額が盛り込まれておらず、遺産分配の割合が記されていた。親類・仕事仲間・友人らへ20パーセントを与え、協会や研究所などに16パーセントを寄付し、残りの64パーセントを基金の設立のためにストックホルムの科学アカデミーに移譲するという内容であった。 16パーセント枠にオーストリア平和協会が入っており、「平和運動推進のため」使うよう明記されていた。ベルタ・フォン・ズットナーに宛てた言葉と考えられている。 64パーセント枠について、(生理学と医学を除く分野で)業績を残した者に利子を与えること、そして、受賞要件とはしないが、欧州平和裁判所の設立に関して、政府や国家の偏見と、著作や行動で果敢に戦う者は、候補として推挙すること、なお、選考で国籍や性別を問わないことが記されている。 1895年に書かれた3通目は、ノーベルが翌年夏、ストックホルム・エンシルダ銀行に保管した。2通目以前を無効とする旨が明記されているが、2通目との違いは大きく分けて2点ある。1つは個人相続分が具体的な金額で示され、結果として2通目と比べた総額は実質的に3分の1程度に縮小された点である。内訳は次の通り。なお、兄ロベルトの子供たち4人その他には生前にそれぞれ2万クローナが振り込まれた。 甥ヤルマル:20万クローナ 甥ルードヴィ:20万クローナ 甥エマヌエル:30万クローナ ゾフィー・ヘス:年金として26000フローリン オルガ・ボットゲァー嬢(ゾフィーの妹):10万クローナ アラリック・リードベック:10万クローナ エリーセ・アンツン嬢:年金として2500フラン アルフレッド・ハモンド:1万ドル エミー・ウィンケルマン嬢:15万マルク マリエ・ウィンケルマン嬢:15万マルク 家政婦のゴーシャー婦人:10万フラン 召使アウグスト・オスワルド:年金として1,000フラン アウグストの妻アルフォンセ・オスワルド:1,000フラン 元庭師ジャン・レコツ:年金として300フラン 郵便局員デッソル夫人:年金として300フラン ジョルジュ・ファーレンバック:1899年1月まで毎年5,000フラン 2通目との相違における第2点は、文学賞、医学賞、平和賞の選考主体を新たに指定した点である。これらの選考がスウェーデン王立科学アカデミーには難しいとノーベルが考えていたことが推測されている。 なお、3通目の終わりで指名された遺言執行人は、ラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストの2人である。 候補者の予想 2017年以降、クラリベイト・アナリテイクスは、同社が運営する代表的なサイテーションインデックス(学術文献引用データベース)のWeb of Scienceの情報に基づいて、ノーベル賞の有力候補者の予想としてクラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞を発表している。2011年のノーベル賞においては、自然科学系の3賞と経済学賞の受賞者9人全員が、過去にトムソン・ロイター引用栄誉賞(現・クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞)で候補に挙げられていた。 賞に関する記録 ノーベル賞を2度受賞した人・団体 マリ・キュリー(1903年に物理学賞、1911年に化学賞) ライナス・ポーリング(1954年に化学賞、1962年に平和賞) ジョン・バーディーン(1956年と1972年に物理学賞) フレデリック・サンガー(1958年と1980年に化学賞) 国際連合難民高等弁務官事務所(1954年と1981年に平和賞) バリー・シャープレス(2001年と2022年に化学賞) ノーベル平和賞を3度受賞した団体 赤十字国際委員会(1917年、1944年、および1963年) 夫婦でノーベル賞を受賞した組 ピエール・キュリーとマリ・キュリー フレデリック・ジョリオ=キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリー カール・コリとゲルティー・コリ グンナー・ミュルダールとアルバ・ライマル・ミュルダール マイブリット・モーセルとエドバルド・モーセル(受賞後に離婚) アビジット・V・バナジーとエスター・デュフロ 夫婦で共同受賞した組 ピエール・キュリーとマリ・キュリー(1903年物理学賞) フレデリック・ジョリオ=キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリー(1935年化学賞) カール・コリとゲルティー・コリ(1947年生理学・医学賞) マイブリット・モーセルとエドバルド・モーセル(2014年生理学・医学賞) アビジット・V・バナジーとエスター・デュフロ(2019年経済学賞) 親子でノーベル賞を受賞した組 ピエール・キュリー、マリ・キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリーの親子 ジョゼフ・ジョン・トムソンとジョージ・パジェット・トムソンの父子 ヘンリー・ブラッグとローレンス・ブラッグの父子 ニールス・ボーアとオーゲ・ニールス・ボーアの父子 マンネ・シーグバーンとカイ・シーグバーンの父子 アーサー・コーンバーグとロジャー・コーンバーグの父子 ハンス・フォン・オイラー=ケルピンとウルフ・スファンテ・フォン・オイラーの父子 スネ・ベリストロームとスバンテ・ペーボの父子 親子で共同受賞した組 ヘンリー・ブラッグとローレンス・ブラッグ(1915年物理学賞) 兄弟でのノーベル賞を受賞した組 ヤン・ティンバーゲンとニコ・ティンバーゲンの兄弟 叔父-甥の関係でノーベル賞受賞 チャンドラセカール・ラマンとスブラマニアン・チャンドラセカール 最年少ノーベル賞受賞者 マララ・ユスフザイ(2014年に17歳で平和賞受賞) ローレンス・ブラッグ(1915年に25歳で物理学賞受賞) フレデリック・バンティング(1923年に32歳で生理学・医学賞受賞) フレデリック・ジョリオ=キュリー(1935年に35歳で化学賞受賞) ラドヤード・キップリング(1907年に42歳で文学賞受賞) エスター・デュフロ(2019年に46歳で経済学賞受賞) 最年長ノーベル賞受賞者 ジョン・グッドイナフ(2019年に97歳で化学賞受賞) アーサー・アシュキン(2018年に96歳で物理学賞受賞) レオニード・ハーヴィッツ(2007年に90歳で経済学賞受賞) ドリス・レッシング(2007年に88歳で文学賞受賞) ペイトン・ラウス(1966年に87歳で生理学・医学賞受賞) カール・フォン・フリッシュ(1973年に87歳で生理学・医学賞受賞) ジョセフ・ロートブラット(1995年に87歳で平和賞受賞) (受賞の決め手となる功績から)最短記録 バラク・オバマ - 2009年4月にプラハで行った「核のない世界」への包括的構想の発表から約半年後の2009年に受賞 (受賞の決め手となる功績から)最長記録 ペイトン・ラウス - 発がん性ウイルスの発見の約55年後の1966年に受賞 エルンスト・ルスカ - 電子顕微鏡の開発の約55年後の1986年に受賞 ノーベル賞とオリンピックのメダルを両方受賞した人 フィリップ・ノエル=ベーカー(1920年アントワープオリンピックの陸上競技1500m走で銀メダル受賞、1959年平和賞受賞) ノーベル賞とイグノーベル賞を両方受賞した人 アンドレ・ガイム(2000年イグノーベル物理学賞受賞、2010年ノーベル物理学賞受賞) ノーベル数学賞 ノーベル賞に数学部門が存在しない理由として、スウェーデンの著名な数学者ヨースタ・ミッタク=レフラーがノーベルの妻を奪ったことを根に持ったためだとする俗説があるが、そもそもノーベルは生涯独身であった。 しかし、数学賞がない原因がミッタク=レフラーとの確執にあるという噂は、文献による証拠がないものの事実である可能性がある。 実際、1890年にミッタク=レフラーがソーニャ・コワレフスカヤへの資金的援助をノーベルに頼んだとき、ノーベルはこれを断っている。またノーベルの1883年の遺書には自身の遺産の一部をミッタク=レフラーのいたStockholms Högskola(のちのストックホルム大学)にも渡すように書いていたが、1896年に最終版の遺書を書いたときにはこの記述を削除した。Högskolaの学長を勤めたオットー・ペテルソンとスヴァンテ・アレニウスの推測によれば、ノーベルの遺書からこの記述が削除されたのは、ノーベルがミッタク=レフラーを嫌っていたためである。 当時の人々によるミッタク=レフラーの性格に関する評価は肯定的なものではない。 数学者のフィールズも2人の確執はありそうな話だとしているが、フィールズ自身はミッタク=レフラーと親しく、このことがフィールズ賞の設立につながったのではないかとする意見もある。 このような経緯があったにもかかわらず、ミッタク=レフラーはマリ・キュリーのノーベル物理学賞受賞に貢献している。女性への偏見が強かったフランス科学アカデミーは彼女のノーベル賞への推薦を意図的に削除したが、ミッタク=レフラーが彼女を強く推したため、彼女はノーベル賞を受賞する運びとなったのである。詳細はマリ・キュリー#女性としてを参照。 脚注 注釈 出典 参考文献 Patrick Coffey, Cathedrals of Science: The Personalities and Rivalries That Made Modern Chemistry, Oxford University Press, 2008. ISBN 978-0-19-532134-0 関連項目 ノーベル賞受賞者の一覧 国別のノーベル賞受賞者 日本人のノーベル賞受賞者 中国人・華人のノーベル賞受賞者 ハンガリー人のノーベル賞受賞者 ユダヤ人のノーベル賞受賞者 ノーベル賞受賞者の大学別ランキング :en:Nobel laureates by university affiliation - 出身大学別の受賞者一覧 ノーベル財団 ノーベル博物館 ストックホルム国際青年科学セミナー :リンダウ・ノーベル賞受賞者会議 - ドイツのリンダウで毎年催されるノーベル賞受賞者による会議。 ノーベル物理学賞への第一歩 - ポーランド発祥で、世界中の高校生を対象とした教育シンポジウム。 ある分野のノーベル賞として知られる賞の一覧 イグノーベル賞 - ノーベル賞のパロディ版。 京都賞(先端技術部門、基礎科学部門、思想・芸術部門) - ノーベル賞を相補するような選出がなされている。稲盛財団主催。 クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞 - ノーベル賞受賞の可能性が高い人にクラリベイト・アナリティクス社が授与している賞(旧トムソン・ロイター引用栄誉賞)。 孔子平和賞 - 劉暁波への平和賞授与に反発した中国によって創設された賞。 スターリン平和賞 - ソビエト連邦がノーベル平和賞に対抗して創設した賞。後にレーニン平和賞と改められる。 ドイツ芸術科学国家賞 - カール・フォン・オシエツキーへの平和賞授与に反発したナチス・ドイツによって創設された賞。 ルードヴィ・ノーベル賞 - アルフレッド・ノーベルの兄であるルードヴィの名を冠したロシアの賞。歴史はノーベル賞よりも古く帝政ロシア時代の1888年創設。 ノーベル症 - ノーベル賞を受賞した(一部の)人が、奇妙であったり科学的に不合理な説を抱くこと。 匿名Aによる論文大量不正疑義事件 - 日本の生理学・医学賞受賞者の大半は受賞後に匿名Aから疑義を指摘されている。 科学における不正行為 - 受賞の1年後に60報近い論文の疑義がPubPeerで告発される例も近年ある。研究不正問題はノーベル賞受賞者にも無縁ではない。 外部リンク Nobelprize.org(ノーベル賞の公式サイト) Royal Swedish Academy of Sciences (スウェーデン王立科学アカデミー) Karolinska Institutet (カロリンスカ研究所) Swedish Academy (スウェーデンアカデミー) Norwegian Nobel Institute (ノルウェー・ノーベル委員会) Lindau Nobel Laureate Meetings(リンダウ・ノーベル賞受賞者会議) スウェーデンの賞 北欧の文化 アルフレッド・ノーベル スウェーデン=ノルウェー連合王国 人名を冠した賞 オスカル2世 スヴァンテ・アレニウス
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小柴昌俊
小柴 昌俊(こしば まさとし、1926年〈大正15年〉9月19日 - 2020年〈令和2年〉11月12日)は、日本の物理学者、天文学者。勲等は勲一等。正三位。学位はDoctor of Philosophy(ロチェスター大学・1955年)、理学博士(東京大学・1967年)。東京大学特別栄誉教授・名誉教授、東海大学特別栄誉教授、杉並区立桃井第五小学校名誉校長、日本学術会議栄誉会員、日本学士院会員、文化功労者。 血液型はA型。 シカゴ大学研究員、東京大学原子核研究所助教授、東京大学理学部教授、東京大学高エネルギー物理学実験施設施設長、東海大学理学部教授、財団法人平成基礎科学財団理事長などを歴任した。 概要 愛知県生まれの物理学者であり、ニュートリノ天文学を開拓した天文学者でもある。東京大学や東海大学において教鞭を執った。1987年、自らが設計を指導・監督したカミオカンデによって史上初めて太陽系外で発生したニュートリノの観測に成功した。この業績により、1989年に日本学士院賞を受賞し、2002年にはノーベル物理学賞を受賞した。また、1997年に文化勲章を受章しており、日本学士院会員にも選任されている。晩年は、ノーベル物理学賞の賞金などを基にして平成基礎科学財団を設立し、科学の啓蒙活動に取り組んだ。 経歴 1926年9月19日 - 愛知県豊橋市で、父親である陸軍歩兵大佐小柴俊男(千葉県館山市出身)と、農家の末娘はや(同県木更津市出身)の間に生を受ける 1927年 - 1歳の頃、東京府豊多摩郡大久保町西大久保に転居 1933年 - 東京市立大久保尋常高等小学校(新宿区立大久保小学校)入学 1939年3月 - 横須賀市立諏訪尋常高等小学校卒業 1939年 - 神奈川県立横須賀中学校(現・神奈川県立横須賀高等学校)1年生のときに小児麻痺に罹患する 1944年 3月 - 同中学校卒業 4月 - 東京明治工業専門学校(現・明治大学理工学部)に入学(1945年1月に退学) 1945年4月 - 旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)入学 1948年4月 - 東京大学理学部物理学科入学 1951年 3月 - 東京大学理学部物理学科卒業 4月 - 東京大学大学院(旧制大学院)入学。理学修士。研究テーマは「原子核乾板による素粒子実験学」。 1953年9月 - 米国ロチェスター大学に留学 1955年6月 - ロチェスター大学でPh.D.を取得し、シカゴ大学研究員に就任 1959年 - 一時帰国し慶子と結婚(媒酌は朝永振一郎夫妻)し再び渡米、後に1男1女(俊と眞理)を儲ける 1962年 - アメリカから帰国し、東京大学原子核研究所助教授に就任 1963年 - 東京大学理学部物理学科助教授に就任 1967年 - 東京大学理学博士。論文の題は「超高エネルギー現象の統一的解釈」 1970年3月 - 東京大学理学部教授に就任 1974年 - 東京大学理学部内に高エネルギー物理学実験施設(現・東京大学素粒子物理国際研究センター(ICEPP、全学センター))を設立、施設長・センター長を務める 1979年 - 陽子崩壊の検出を主目的に岐阜県神岡鉱山跡に「カミオカンデ」の建設を開始 1983年 - 「カミオカンデ」が完成し観測を開始 1987年 - 東海大学理学部教授に就任 1996年 - 「スーパーカミオカンデ」の登場により「カミオカンデ」稼働を停止 1997年3月 - 東海大学を退職 2002年1月23日− 「カミオカンデ」稼働再開 2003年 - 平成基礎科学財団を設立し理事長に就任 2020年11月12日 老衰のため死去、94歳。死没日をもって正三位に叙される。 その他役職 財団法人高エネルギー加速器科学研究奨励会評議員 財団法人日本宇宙少年団顧問 社団法人国際経済政策調査会理事 財団法人高松宮妃癌研究基金評議員 財団法人関信越音楽協会理事 学術賞 1987年 - 『超新星爆発に伴うニュートリノの検出』により、戸塚洋二(東京大学理学部)、須田英博(東京大学宇宙線研究所)と共に仁科記念賞を受賞。また、同業績に対し「神岡観測グループ(代表者 小柴昌俊)」に朝日賞が授与される。 1989年 - 日本学士院賞を受賞。 1997年 - フンボルト賞を受賞。 2000年 - レイモンド・デイヴィスと共にウルフ賞物理学部門を受賞。 2002年 - 「天体物理学とくに宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」により、レイモンド・デイヴィスと共にノーベル物理学賞を受賞。ニュートリノ天文学という新しい学問分野を開拓した。 2003年 - レイモンド・デイヴィスと共にベンジャミン・フランクリン・メダルを受賞。 栄誉 1985年 - ドイツ電子シンクロトロン研究所 (DESY) における国際共同研究の業績により、ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章 1997年 - 文化勲章 2002年 - 杉並区名誉区民、明治大学名誉博士 2003年 - 勲一等旭日大綬章、東京都名誉都民 2005年 - 東京大学特別栄誉教授 2019年 - 東海大学特別栄誉教授 2020年 - 叙正三位 小柴賞 財団法人高エネルギー加速器科学研究会では、小柴の業績を記念してその「奨励賞」に2003年度から「小柴賞」を設けた。 人物 幼少期は軍人か音楽家を目指していた。12歳の時に罹患した小児麻痺により、二つの夢を諦めることになったが、その入院中に担任から贈られたアインシュタインの本が物理学者を目指すきっかけとなった。 一高時代は落ちこぼれで成績が悪かった。寮(当時の旧制高校は全寮制)の風呂場裏で彼を貶める教師の雑談を聞いてしまい一念発起、寮の同室の同級生(朽津耕三(現・東京大学化学科名誉教授))を家庭教師に物理の猛勉強を始め東大物理学科へ入学。小柴が「やれば、できる」と言う由縁は自らの体験から生まれたものである。 天体力学を専門とする天文学者の古在由秀は大学時代からの友人である。そのためSN 1987Aからのニュートリノの検出に成功した時古在が編集委員を務めていた天文雑誌『星の手帖』編集長の阿部昭と『星の手帖』編集委員で天体写真家の藤井旭が小柴と古在の対談を企画した。この対談はニュートリノ検出の翌年である1988年に実現したが、結果的には、ニュートリノ検出の話よりも小柴と古在の学生時代の思い出話で盛り上がった。 自らを「変人学者」「東大物理学科をビリで卒業した落ちこぼれ」と称し、「現場主義の研究者」としての立場を貫いている。東京大学卒業時の成績証明書を公開したことがあり、16教科のうち「優」は2(物理学実験第1と第2のみ)、「良」は10、「可」は4(原子物理学ほか)であった。また、後進の教育・指導にも当たり、「私の研究を受け継いだ者の中からノーベル賞を受賞する研究を成し遂げる者があと2人は出るであろう」と発言した。実際にも彼の愛弟子の一人であった戸塚洋二はノーベル物理学賞の有力候補として注目されていたが、戸塚は2008年にがんで亡くなり、受賞は叶わなかった。しかし、同じく愛弟子の一人である梶田隆章が2015年にノーベル物理学賞を受賞し、戸塚が果たせなかった悲願を実現させている。 東大物理学科でも成績は悪かったが朝永振一郎に推薦状を書いてもらい、フルブライト奨学生としてアメリカ合衆国・ロチェスター大学博士課程へ留学。ロチェスター大学では留学生手当てが少なく生活が苦しかったが、博士号 (Ph.D.) を取得し博士研究員として大学に在籍すると給与が倍増されると聞き、1年8ヵ月で博士号を取得した。1年8ヵ月での博士号取得はロチェスター大学での最短記録であり、この記録は現在でも破られていない。 大学院生時代に、当時、神奈川県横須賀市にあった栄光学園にて物理の臨時講師を担当した。「この世に摩擦がなければどうなるのか」との質問を生徒に出題。摩擦がないと鉛筆の先が滑って答案は書けない、それ故に正答は「白紙答案」。解答を記入すると不正解になる奇問・難問を出題した。 逸話 アメリカでの研究生活が長く、アメリカと日本の大学における研究の環境について「アメリカでは偉い先生が間違ったことを言っても、それはおかしいと言える環境がある。しかし日本では偉い先生が間違ったこと言っても、学生は萎縮してしまい何も言えない。」と答えている。 東京大学本郷キャンパスの理学部1号館には小柴昌俊のノーベル賞受賞を記念して「小柴ホール」が設置された。 研究室の学生たちからは、『親分』と呼ばれる。 趣味・嗜好 趣味はクラシック音楽で、モーツァルト愛好家である。また、ゲームソフトの『ファイナルファンタジー』を好んでプレイしている。 家族・親族 妻は社会福祉法人仁生社江戸川病院創立者である加藤峰三郎の長女慶子(きょうこ)。 長男は香川大学工学部教授で材料物理工学者の小柴俊。 長女は藤井眞理、孫の藤井亜美は整形外科医。 遠縁の親戚には石原慎太郎(政治家)、石原裕次郎(俳優)、石原伸晃(政治家)、石原良純(俳優)、斎藤友佳理(バレリーナ)がいる。 主要論文 小柴昌俊、νの実験(「Neutrino Astronomy」研究会報告) 素粒子論研究 1964年 30巻 3号 p.280-, 小柴昌俊、Brawley stack 素粒子論研究 1966年 32巻 6号 p.F7- , 小柴昌俊、χ-baryon 1967年 35巻 3号 p.C25-, 小柴昌俊、高エネルギ反応について(O(4)対称性などの研究会(第2回)報告) 素粒子論研究 1973年 47巻 6号 p.764-765, 小柴昌俊、陰・陽電子コライディングビーム 東京大学理学部弘報 1973年 5巻 4号 p.5-7, 小柴昌俊、素粒子物理学国際協力施設 東京大学理学部弘報 1977年 9巻 2号 p.2-6, 小柴昌俊、素粒子物理国際センターの発足 東京大学理学部弘報 1984年 16巻 1号 p.2-2, 小柴昌俊、老いのくりごと 東京大学理学部弘報 1987年 18巻 4号 p.16-17, 小柴昌俊、科学する楽しさ 日本科学教育学会年会論文集(会議録・要旨集)27 巻 (2003) p.1-2, 著書 英訳書 Tomonaga, Shin-ichiro『Quantum Mechanics』 Interscience Publishers(1962年、朝永振一郎 『量子力学 I、II』(みすず書房)の英訳本。現在入手不能) 参考文献 藤井旭 著 『白河天体観測所』 誠文堂新光社、2015年10月15日発行、ISBN 978-4-416-11537-4 脚注・出典 関連項目 カミオカンデ スーパーカミオカンデ カムランド 戸塚洋二 駒宮幸男 梶田隆章 外部リンク The Nobel Prize in Physics 2002 - 授賞式や受賞記念講演の動画など 東京大学理学系研究科・理学部 代表的な卒業生 - 小柴特別栄誉教授の略歴、業績など 情熱と鋭い感性 小柴昌俊さんをしのぶ会、教え子ら数々の名言で振り返る (サイエンスポータル2021年11月26日掲載) ようこそ同窓生 小柴昌俊さん(中32期) - 神奈川県立横須賀高校ホームページ 20世紀日本の物理学者 21世紀日本の物理学者 20世紀日本の天文学者 21世紀日本の天文学者 日本の天体物理学者 日本のノーベル賞受賞者 ノーベル物理学賞受賞者 ウルフ賞物理学部門受賞者 日本学士院賞受賞者 朝日賞受賞者 仁科記念賞の受賞者 藤原科学財団の藤原賞の受賞者 ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会) 受賞者 正三位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 文化勲章受章者 理学博士取得者 Doctor of Philosophy取得者 理学修士取得者 理学士取得者 名誉都民 米国科学アカデミー外国人会員 ロシア科学アカデミー外国人会員 アメリカ物理学会フェロー 日本学士院会員 日本学術会議会員 東京大学の教員 東海大学の教員 急性灰白髄炎の人物 東京大学素粒子物理国際研究センターの人物 高エネルギー加速器研究機構の人物 天文学に関する記事 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 神奈川県立横須賀高等学校出身の人物 愛知県出身の人物 1926年生 2020年没
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徳田ザウルス
徳田 ザウルス(とくだ ザウルス、本名: 徳田 肇(とくだ はじめ)、1958年12月1日 - 2006年3月23日)は、日本の漫画家、3DCGイラストレーター。神奈川県横浜市出身。J-Mac理事。 人物・略歴 大のマシン好きが高じて自動車販売業者に勤務していたが、漫画家を志し退職。愛車もチョッパーバイクやシボレーのコルベット、フリートラインなどを好んで乗っていた。 1980年代、桜多吾作のアシスタントを務めた後、当時の月刊コロコロコミック編集部が用意した漫画家用執筆室を利用する常連漫画家志望者の1人として、様々な作家の原稿を手伝っていた。またコロコロ内の特集記事ページでイラストカットを手掛けることもあった。 1987年には以下の出来事が集中する。 コロコロ本誌のRCカー技術解説ページ『前ちゃんのラジコンスクール』のイラストカットを4月号から翌年3月号まで毎号担当。 夏休み増刊号の読み切り『走れ!前ちゃん』で漫画家デビュー。 本誌11月号の読み切り『前ちゃんのミニ四駆大作戦』を経て、翌12月号から初連載作品『ダッシュ!四駆郎』がスタートする。 1992年1月28日に急病で倒れ、35日間の意識不明、20日間の危篤状態になり、左足に麻痺が残る。連載中だった『四駆郎』も休載。同年5月5日に復帰。発病前は野菜嫌いの偏食家で、牛丼の具のタマネギすら残すほどだったという。 その後も通院や養生をしながら様々な漫画やイラストを執筆し続けていたが、2006年3月23日未明に再び倒れ、同日午前3時5分、急性心不全のため横浜市内の病院で死去。享年47。葬儀は日本キリスト教会鶴見教会で行われた。 妻はイラストレーターの徳田じざべ。 作品リスト ダッシュ!四駆郎 - TVアニメ化もされ、アニメ版では自身をモデルとした登場人物の声も担当していた。 真ダッシュ!四駆郎 - ポスターとチラシのみ。 風のレーサー侠 風のレーサー侠 外伝 - ポスターとチラシのみ。 ダッシュボーイ天 一着!70キ(いっちゃく!ななまるき)- 別冊コロコロコミックスペシャル 1994年12月号(64号)に前編と1995年2月号(65号)に後編が掲載。世界初のCGミニ四駆漫画。掲載誌には爆走兄弟レッツ&ゴーやGO!GO!ミニ四ファイターなどミニ四駆漫画が並んでおり、徳田のキャッチフレーズは「元祖ミニ四恐竜」となっている。 アシスタント 樫本学ヴ 青木たかお 脚注 参考文献 コロコロ創刊伝説(のむらしんぼ) - 5巻(第28話から第32話)で第1次ミニ四駆ブーム時を描いており徳田が主要人物として登場。特に第32話は「漫画家・徳田ザウルス伝説」として彼の漫画家人生を描いている。 日本の漫画家 日本のイラストレーター 横浜市出身の人物 1958年生 2006年没
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%B3
アントシアニン
アントシアニン()は、植物界において広く存在する色素である。果実や花に見られる、赤や青や紫などを呈する水溶性の色素群として知られる、アントシアン()に分類される化合物の中で、アントシアニジン()がアグリコンとして糖や糖鎖と結びついた配糖体が、アントシアニンである。植物の抗酸化物質としても知られる。 色素 植物の代表的な色素としては、比較的水溶性の高いフラボノイドとベタレイン、逆に親油性のカロチノイドとクロロフィル、合わせて4つの化合物群が挙げられる。これらの中でフラボノイドの中に、アントシアニンは分類される。高等植物では普遍的に見られる物質であり、花や果実の色の表現に役立っている。 構造 アグリコンであるアントシアニジン部位の B環(構造式右側のベンゼン環部分)のヒドロキシ基の数によりペラルゴジニン、シアニジン、デルフィニジンの3系統(表参照)に分類され、糖鎖の構成により様々な種類がある。B環上のヒドロキシ基がメトキシ化 (−OCH3) された物(ペオニジン、マルビジン、ペチュニジンなど)も存在する。糖鎖の結合位置は、A 環(構造式左側の二環構造)の3位(荷電酸素原子から時計回りで数える。B環結合部位の下)と5位(同じくA環左半下側)のヒドロキシ基が主である。 発色団 発色団とは、分子の化学構造の中で、光が当たった際に、特定の波長を強く吸収して、色を出す部分を指す。アントシアニンの発色団は、共役系が広がるアントシアニジンの部分であり、ここがヒトの可視光線の波長域の一部を吸収するため、ヒトの視覚では色が付いて見える。 pHの影響 アントシアニンの色はpH によって著しく変化し、一般に、酸性では赤っぽくなり、塩基性では青っぽくなる。したがって、ある種の酸塩基指示薬として機能する。中性溶液の色はペラルゴニジンは鮮赤色、シアニジンは紫色、デルフィニジンは紫赤色である。これが、例えばシアニジンの場合は、酸性条件下で赤色に変化し、塩基性条件下で青色ないしは青緑色に変化する。また、pH 11を超えた場合には、カルコン型への開環が起こる。 糖鎖の影響 アントシアニンの発色団は、基本的にアントシアニジンの部分である。しかし、それに結合した糖鎖も色に影響を与える場合がある。例えば、アグリコンであるアントシアニジンの、3位のみに糖鎖が付いた物よりも、3位と5位の両方に糖鎖の付いた物の方が、色の濃い傾向が見られる。 また、これはキキョウやトリカブトなどの花の例だが、これらの青や青紫の色は、アントシアニジンに結合している糖に、フェノール性の有機酸などが結合しており、この結合した有機酸が自身の色調を調整して出している色である。 共存する金属イオンの影響 アントシアニンの色は、共存する金属イオンの影響も受ける。これは、アルミニウム、マグネシウム、鉄などの様々な金属イオンとキレート錯体を形成し、その色調が変化するためである。 これはアジサイの例だが、アジサイの花はアントシアニンの色だけでなく、植物体中のアルミニウムの量によって影響を受ける事が知られている。酸性の土壌では、土壌中のアルミニウムが溶出し易く、結果として植物中のアルミニウムイオンの濃度が増すため、花は青味が強くなる傾向にあるのに対して、植物中のアルミニウムの濃度が低いと赤味が強くなる傾向が見られる。 生合成 アントシアニジンは、複数の段階を経て植物体内において生合成される。チロシンおよびフェニルアラニンを原料として、4-ヒドロキシケイヒ酸(4-クマル酸)を作る。つまり、ここまでは植物で行われるフェニルプロパノイドの生合成経路である。なお、4-ヒドロキシケイヒ酸が持つベンゼン環の部分が、アントシアニジンのB環である。4-ヒドロキシケイヒ酸にCoAを結合させて4-クマロイルCoAを作る。 これとは別に、マロニルCoAを3分子も併せて、フラバノン(ナリンゲニン)を合成する。ここで、アントシアニンの生合成経路は、他のフラボノイドの分岐する。ここからは、ロイコアントシアニジンを経由して、アントシアニジンは生合成される。さらに、必要に応じて、糖が結合される。 利用 色を利用して(主に布の)染料や食品の着色料として利用されてきた。アントシアニンは食用植物に普遍的に存在する物質であり、飲食した場合でも比較的安全性は高いと考えられる。 アントシアニン類を研究する上で、分離には主に高速液体クロマトグラフィーが用いられ、個々のアントシアニン類の特定には主に分光光度計が用いられる。 健康食品 フレンチパラドックスにより赤ワイン中のプロシアニジンが注目され、幾つかの研究が実施された。その1つ、有賀ら(2000)の報告によると、動物実験では抗酸化性に由来すると考えられる薬理作用が見出され、ヒトでは筋疲労を抑制し、運動による過酸化脂質の増加を抑制したとの実験結果が得られた。薬理作用は完全には解明されておらず、日本ではアントシアニンを薬効成分とした医薬品も認可されていない。ただし、欧米では代替医療が伝統的に認められているという社会背景から、医薬品として利用される物もある。 国立健康・栄養研究所によれば、俗に「視力回復に良い」「動脈硬化や老化を防ぐ」「炎症を抑える」などと言われているが、ヒトでの有効性・安全性については、信頼できるデータが十分ではない」とされている。その内訳は、血圧に影響がなしとの2016年のメタ分析、コレステロール値を改善するとの2016年のメタ分析、心血管リスク低下との2014年のメタ分析、食事由来の場合食道がんリスク低下との2017年のメタ分析、食事由来で上気道消化管がんと大腸がんのリスク低下したものの、その他は関連なしとの2017年のメタ分析、乳がんとの関連がないという2013年のメタ分析、その他個別のランダム化比較試験である。 72人と59人での偽薬対照クロスオーバー試験2研究では、暗順応と夜間視力の改善は見られず、光退縮後の視力の回復は早くなっていた。 2018年のメタ分析は、サプリメントでインスリン抵抗性の指標(糖尿病の指標)を改善することを発見した。2018年のメタ分析は、サプリメントで脂質プロファイル(脂質異常症の指標)を改善することを発見した。 ブルーベリー中のアントシアニンは、微生物を利用した醗酵処理を行うと29パーセント減少し、殺菌処理を行うと46パーセント減少した。 育種的利用 植物育種学において、これまで存在していなかった花色の品種を育成する目的の基礎研究としてアントシアニンが研究されている。これらの研究の応用では、青いキクや青いバラや青いカーネーションが作出された。これらはデルフィニジン生合成に関与する酵素 flavonoid 3',5'-hydroxylase の cDNA をカンパニュラやペチュニアやパンジーから単離して、遺伝子組換えによって組み込み、発現させて達成された。 アントシアニンを含む植物の例 脚注 注釈 出典 関連項目 アントシアニジン 金属錯体型アントシアニン ピリリウム ポリフェノール 外部リンク ポリフェノール フラボノイド配糖体 生体色素 酸塩基指示薬 アントシアニジン 着色料
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近鉄
近鉄 鉄道会社の略称・通称。 (きんてつ) - 近畿日本鉄道の略称。近鉄グループホールディングス 上記鉄道会社傘下のプロ野球球団「近鉄パールス」→「近鉄バファロー」→「近鉄バファローズ」→「大阪近鉄バファローズ」(1950年 - 2004年)の通称。 上記鉄道会社のラグビー部「近鉄ライナーズ」の通称。 デパートの近鉄百貨店や不動産販売会社の近鉄不動産など、上記鉄道会社率いる近鉄グループ傘下企業の各業種における通称。 (おうてつ、きんてつ) - 近畿日本鉄道発足以前の近江鉄道の略称。 (こんてつ) - 近藤鉄太郎(アナウンサー)の愛称。
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池澤夏樹
池澤 夏樹(いけざわ なつき、1945年7月7日 - )は、日本の小説家・詩人。翻訳、書評も手がける。日本芸術院会員。 文明や日本についての考察を基調にした小説や随筆を発表している。翻訳は、ギリシア現代詩からアメリカ現代小説など幅広く手がけている。 各地へ旅をしたことが大学時代に専攻した物理学と併せて、池澤の作品の特徴となる。また、詩が小説に先行していることも、その文章に大きな影響を与えている。 声優の池澤春菜は娘。 来歴 北海道帯広市出身。マチネ・ポエティクで同人だった原條あき子(山下澄、1923年 - 2004年)と福永武彦の間に、疎開先の帯広で誕生した。1950年、両親が離婚し、1951年母に連れられて東京に移る。母はその後再婚して池澤姓を名乗ったため、池澤は実父について高校時代まで知らなかったという。父方の大伯父に天文学者で理学博士でもあった海軍少将(水路部員)の秋吉利雄、又従兄に立教大学名誉教授の秋吉輝雄がいる。 都立富士高校卒業後、1964年に埼玉大学理工学部物理学科に入学。1968年中退。ハヤカワミステリの短編やテレビ台本、『リーダーズダイジェスト』の記事などを翻訳。 ロレンス・ダレルの弟のナチュラリストであるジェラルド・ダレルが少年時代を回顧した、ギリシアを舞台にした『虫とけものと家族たち』『鳥とけものと親類たち』『風とけものと友人たち』を1974年から翻訳。これがきっかけで、1975年にギリシアに移住、3年間同地で過ごす。 『ユリイカ』の当時の編集長・三浦雅士の誘いがきっかけで、『ユリイカ』に詩を掲載。帰国後、初の詩集『塩の道』を出版。1979年より『旅芸人の記録』(監督テオ・アンゲロプロス)の字幕を担当、これがきっかけでアンゲロプロスの作品の字幕を担当する。 1984年5月号『海』に長編小説「夏の朝の成層圏」を発表、1987年中央公論新人賞を受賞した小説「スティル・ライフ」で、1988年に第98回芥川賞を受賞。 1993年に沖縄に移住。2005年にフランスのフォンテヌブローに移住。2009年に北海道札幌に移住。「ぼくが生まれて育ったのは北海道である。梅雨がないことで知られるとおり、最も乾燥した土地だ。フランスを離れて日本に帰ろうかと思った時、同じ空気の中に住みたいと思って、札幌に決めた。ここの今日の湿度は六八パーセント。やっぱり乾いている。」と『週刊文春』にて述べている。 小説では『マシアス・ギリの失脚』で谷崎潤一郎賞、『花を運ぶ妹』で毎日出版文化賞、『すばらしい新世界』で芸術選奨、『静かな大地』で親鸞賞などを受賞。また、随筆では『母なる自然のおっぱい』で読売文学賞(随筆・紀行部門)、評論では『楽しい終末』で伊藤整文学賞(評論部門)を受賞。2007年紫綬褒章受章。 『むくどり通信』シリーズなどの随筆もある。2010年、北海道新聞や中日新聞、東京新聞、北陸中日新聞、西日本新聞及び中国新聞に、小説「氷山の南」を連載。 2001年9月11日アメリカでのアメリカ同時多発テロ事件の直後から『新世紀へようこそ』というメールコラムを100回にわたって発信し、その後メールコラムは『パンドラの時代』、『異国の客』へと移っている。2002年11月にはイラクを訪れ、現地の普通の人々の暮らしを伝える『イラクの小さな橋を渡って』(写真・本橋成一)を緊急出版した。 池澤の個人編集の河出書房新社の『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』全30巻が2007年11月より刊行された。 小説や評論が国語の教科書など教育現場において採用されることも多く、『スティル・ライフ』は2002年度の大学入試センター試験国語I・国語IIの追試験問題で出題された(過去問題集では池澤の意向で文章は省略されている)。 2011年第145回をもって、1995年第114回から務めた芥川賞の選考委員を辞任。 2012年現在、谷崎潤一郎賞、読売文学賞選考委員。 2014年8月1日より、北海道立文学館館長に就任。同年10月、過去に元従軍慰安婦の偽証言を報じた北星学園大学非常勤講師植村隆の解雇に反対する「負けるな北星!の会(マケルナ会)」を結成。「たくさんの人が一人の人を非難している。その非難に根拠がないとしたら、もっとたくさんの人が立ち上がってその人を守らなければならない。」と発言した。 2020年8月から2022年1月まで、大伯父・秋吉利雄の伝記小説『また会う日まで』を朝日新聞に連載。 現代世界の十大小説 『現代世界の十大小説』(NHK出版新書 2014年)でサマセット・モームの『世界の十大小説』から60年後に、十作を選んでいる。 ガルシア=マルケス『百年の孤独』 アゴタ・クリストフ『悪童日記』 ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』(Maitreyi) ジーン・リース『サルガッソーの広い海』(Wide Sargasso Sea) ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』(Vendredi ou les Limbes du Pacifique) カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ』(Gringo viejo) ジョン・アップダイク『クーデタ』(The Coup) メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』(Birds of America) バオ・ニン『戦争の悲しみ』(The Sorrow of War) 石牟礼道子『苦海浄土』 受賞・受章歴 1987年 - 中央公論新人賞(「スティル・ライフ」 ) 1988年 - 芥川龍之介賞(「スティル・ライフ」) 1992年 - 小学館文学賞(『南の島のティオ』) 1993年 - 読売文学賞 随筆・紀行賞(『母なる自然のおっぱい』) 1993年 - 谷崎潤一郎賞(『マシアス・ギリの失脚』) 1994年 - 伊藤整文学賞(『楽しい終末』) 1996年 - JTB出版文化賞(『ハワイイ紀行』) 2000年 - 毎日出版文化賞 文学・芸術部門(『花を運ぶ妹』) 2001年 - 芸術選奨文部科学大臣賞(『すばらしい新世界』) 2003年 - 宮沢賢治賞(『言葉の流星群』)、司馬遼太郎賞(『イラクの小さな橋を渡って』『憲法なんて知らないよ』『静かな大地』などの著作活動全般) 2004年 - 親鸞賞(『世界文学を読みほどく』『静かな大地』) 2005年 - 桑原武夫学芸賞(『パレオマニア』) 2007年 - 紫綬褒章 2010年 - 毎日出版文化賞 企画部門(河出書房新社『世界文学全集』の編纂) 2011年 - 朝日賞(2010年度) 2020年 - 毎日出版文化賞 企画部門(河出書房新社『日本文学全集』の編纂) 2021年 - フランス芸術文化勲章オフィシエ 親交のある人々 丸谷才一 須賀敦子 石牟礼道子 日野啓三 星野道夫 ジャック・マイヨール テオ・アンゲロプロス 作品一覧 詩 『塩の道』(書肆山田、1978) 『もっとも長い河に関する考察』(書肆山田、1982) 『池澤夏樹詩集成』(書肆山田、1996) 『メランコリア』(光琳社出版、1998) 『この世界のぜんぶ』(中央公論新社、2001)のち文庫 小説 『夏の朝の成層圏』(中央公論社、1984)のち文庫 『スティル・ライフ』(中央公論社、1988)のち文庫 『真昼のプリニウス』(中央公論社、1989)のち文庫 『バビロンに行きて歌え』(新潮社、1990)のち文庫 『マリコ / マリキータ』(文藝春秋、1990)のち文庫、角川文庫 『タマリンドの木』(文藝春秋、1991)のち文庫 『南の島のティオ』(楡出版、1992)のち文春文庫、講談社青い鳥文庫 『TIO'S ISLAND』(小学館、2010、写真:竹沢うるま) 『きみが住む星』(文化出版局、1992、写真:エルンスト・ハース)のち角川文庫 『マシアス・ギリの失脚』(新潮社、1993)のち文庫 『骨は珊瑚、眼は真珠』(文藝春秋、1995)のち文庫 『やがてヒトに与えられたときが満ちて……』(河出書房新社、1996)のち角川文庫 『世界一しあわせなタバコの木。』(絵本館、1997、絵:渡邉良重)絵本 『花を運ぶ妹』(文藝春秋、2000)のち文庫 Schwere Blumen (tr. Sabine Mangold, Hamburg: Abera, 2014) 『すばらしい新世界』(中央公論新社、2000)のち文庫 『カイマナヒラの家』(ホーム社、2001)のち集英社文庫 『静かな大地』(朝日新聞社、2004)のち文庫 『キップをなくして』(角川書店、2005)のち文庫 『きみのためのバラ』(新潮社、2007)のち文庫 『光の指で触れよ』(中央公論新社、2008)のち文庫 『星に降る雪 修道院』(角川書店、2008)のち改題「星に降る雪」角川文庫 『熊になった少年』(スイッチパブリッシング、2009) 『カデナ』(新潮社、2009)のち文庫 『氷山の南』(文藝春秋、2012)のち文庫 『双頭の船』(新潮社 2013)のち文庫 『アトミック・ボックス』(毎日新聞社、2014)のち角川文庫 『砂浜に坐り込んだ船』(新潮社 2015)のち文庫 『キトラ・ボックス』(KADOKAWA、2017)のち文庫 『ワカタケル』(日本経済新聞出版、2020) 『また会う日まで』朝日新聞朝刊に2022年1月31日まで連載 随筆・評論など 『サーカムナヴィゲイション』(イザラ書房、1980) 『見えない博物館』(小沢書店、1986)のち平凡社ライブラリー 『ギリシアの誘惑』(書肆山田、1987、増補版2017) 『ブッキッシュな世界像』(白水社、1988、新版1993)のち白水Uブックス 『シネ・シティー鳥瞰図』(中公文庫、1988) 『都市の書物』(太田出版、1990) 『インパラは転ばない』(光文社、1990、イラスト:飯野和好)のち新潮文庫 『読書癖』(全4巻、みすず書房、1991-1999) 『エデンを遠く離れて』(朝日新聞社、1991)のち文庫 『南鳥島特別航路』(日本交通公社、1991)のち新潮文庫 『母なる自然のおっぱい』(新潮社、1992)のち文庫 『宇宙のつくりかた』(福音館書店、たくさんのふしぎ、1992)小学3・4年生以上向け 『楽しい終末』(文藝春秋、1993)のち文庫 『むくどり通信』(朝日新聞社、1994)のち文庫 『小説の羅針盤』(新潮社、1995) 『星界からの報告』(書肆山田、1995) 『むくどりは飛んでゆく』(朝日新聞社、1995) 『海図と航海日誌』(スイッチ・パブリッシング、1995) 『むくどりは千羽に一羽……』(朝日新聞社、1996) 『ハワイイ紀行』(新潮社、1996)のち文庫 『むくどりの巣ごもり』(朝日新聞社、1997)「むくどり通信 雄飛編」文庫 『沖縄式風力発言』(ボーダーインク、1997) 『明るい旅情』(新潮社、1997)のち文庫 『室内旅行 池澤夏樹の読書日記』(文藝春秋、1998) 『むくどりとしゃっきん鳥』(朝日新聞社、1998) 『むくどり最終便』(朝日新聞社、1999)「むくどり通信・雌伏編」文庫 『旅をした人 星野道夫の生と死』(スイッチ・パブリッシング、2000) 『新世紀へようこそ』(光文社、2002) 『言葉の流星群』(角川書店、2003)のち文庫 『イラクの小さな橋を渡って』(光文社、2003)のち文庫 『憲法なんて知らないよ というキミのための「日本の憲法」』(ホーム社、2003)のち集英社文庫 『世界のために涙せよ 新世紀へようこそ2』(光文社、2003) 『神々の食』(文藝春秋、2003)のち文庫 『風がページを・・・・ 池澤夏樹の読書日記』(文藝春秋、2003) 『パレオマニア 大英博物館からの13の旅』(集英社インターナショナル、2004)のち文庫 『アマバルの自然誌 沖縄の田舎で暮らす』(光文社、2004)のち文庫 『異国の客』(集英社、2005)のち文庫 『世界文学を読みほどく スタンダールからピンチョンまで』(新潮選書、2005、増補版2017) 『池澤夏樹の旅地図 Along the footsteps of a lay pilgrim』(世界文化社、2007) 『虹の彼方に 池澤夏樹の同時代コラム』(講談社、2007)のち文庫 『叡智の断片』(集英社インターナショナル、2007)のち文庫 『セーヌの川辺』(集英社、2008)のち文庫 『風神帖―エッセー集成1』(みすず書房、2008) 『雷神帖―エッセー集成2』(みすず書房、2008) 『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』(小学館、2009)のち文庫 『嵐の夜の読書』(みすず書房、2010) 『池澤夏樹の世界文学リミックス』(河出書房新社、2011)のち文庫 『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』(中央公論新社、2011)のち文庫 『終わりと始まり』(朝日新聞出版、2013)のち文庫 『文明の渚』(岩波ブックレット、2013) 『現代世界の十大小説』(NHK出版新書、2014) 『うつくしい列島 地理学的名所紀行』(河出書房新社、2015)のち文庫 『詩のなぐさめ』(岩波書店、2015) 『沖縄への短い帰還』(ボーダーインク、2016) 『知の仕事術』(集英社インターナショナル新書、2017) 『のりものづくし』(中公文庫、2018) 『詩のきらめき』(岩波書店、2018) 『科学する心』(集英社インターナショナル、2019) 『いつだって読むのは目の前の一冊なのだ』(作品社、2019) 『されく魂 わが石牟礼道子抄』(河出書房新社、2021) 共著 『新潮古典文学アルバム 上田秋成』長島弘明共著 新潮社 1991 『沖縄いろいろ事典』(編)(新潮社、1992)「オキナワなんでも事典」文庫 『イスタンブール歴史散歩 とんぼの本』澁澤幸子共著 新潮社 1994 『沖にむかって泳ぐ 池澤夏樹ロング・インタヴュー』新井敏記著 文藝春秋 1994 『クジラが見る夢 ジャック・マイヨールとの海の日々』(テレコムスタッフ、1994、写真:高砂淳二・垂見健吾)のち新潮文庫 『沖縄からはじまる』大田昌秀共著 集英社 1998 『池澤夏樹アジアの感情 Long interview』新井敏記著 スイッチ・パブリッシング 2002 『池澤夏樹の世界文学ワンダーランド』(NHK出版「NHK知る楽」、2009年10-11月)、放送テキスト 『ぜんぶ本の話』池澤春菜共著 毎日新聞出版 2020 『みっちんの声』石牟礼道子共著 河出書房新社 2021 編著 『日本の名随筆 別巻 50 本屋』編 作品社 1995 『ことばのたくらみ 実作集』編 岩波書店 21世紀文学の創造 2003 『やがて麗しい五月が訪れ 原條あき子全詩集』編 書肆山田 2004 『歩く学問ナマコの思想』鶴見俊輔,内海愛子,中村尚司,熊岡路矢共著 埼玉大学共生社会研究センター編 コモンズ 2005 『本は、これから』編 岩波新書 2010 『怖い本と楽しい本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選 1998~2004』丸谷才一共編 毎日新聞社 2012 『分厚い本と熱い本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選2005~2011』丸谷才一共編 毎日新聞社 2012 『愉快な本と立派な本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選. 1992~1997』丸谷才一共編 毎日新聞社 2012 『丸谷才一全集』全12巻 辻原登・三浦雅士・湯川豊と編纂委員 文藝春秋 2013-2014 池澤夏樹=個人編集 世界文学全集(全30巻)河出書房新社 2007-2011年 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集(全30巻)河出書房新社、2014-2017年 監修 『須賀敦子の本棚』河出書房新社 ダンテ『神曲 地獄篇 第1歌-第17歌』須賀敦子・藤谷道夫訳、2018年6月 ウィラ・キャザー『大司教に死来る』著、 須賀敦子訳、2018年8月 ナタリア・ギンズブルグ『小さな徳』白崎容子訳、2018年10月 エルサ・モランテ『嘘と魔法』上下 北代美和子訳、2018年12月 シャルル・ペギー『クリオ 歴史と異教的魂の対話』宮林寛訳、2019年2月 メアリー・マッカーシー『私のカトリック少女時代』若島正訳著、2019年4月 翻訳 カート・ヴォネガット『母なる夜』(白水社 1973年、白水Uブックス、1984年) ジェラルド・ダレル『虫とけものと家族たち』(集英社 1974年、集英社文庫、1983年、中公文庫、2014年) ジェラルド・ダレル『鳥とけものと親類たち』(集英社 1977年、集英社文庫、1985年) ジェラルド・ダレル『風とけものと友人たち』(集英社 1984年) リチャード・ブローティガン『チャイナタウンからの葉書』(サンリオ、1977年、ちくま文庫、2011年) アル・ラムラス、ジョン・シェイナー『戦艦奪取大作戦』(集英社、1980年、集英社文庫、1983年) ジェイムズ・ヘリオット『Dr.ヘリオットのおかしな体験』(集英社、1981年、集英社文庫、1997年) ジョン・アップダイク『クーデタ』(講談社、1981年) ピーター・グッドチャイルド『ヒロシマを壊滅させた男オッペンハイマー』(白水社 1982、新版1995) 『世界のライト・ヴァース 太陽の半分と月の全部と』(藤井昇、桑名一博、米川良夫共編・訳 森本清彦絵 書肆山田 1982) 『王さまのリンゴの木 ギリシャの民話』(ソフィア・ザランボウカ再話 ほるぷ出版 1982) 『ジャック・ケルアック詩集』(高橋雄一郎共訳 思潮社 1991年) E・M・フォースター『ファロスとファリロン』「著作集 7」みすず書房 1994年 『ジョン・レノン ラスト・インタビュー』(ジョン・レノン、オノ・ヨーコ、中公文庫 2001年) 『テオ・アンゲロプロス シナリオ全集』(愛育社 2004年) アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『星の王子さま』(集英社文庫、2005年) 『古事記』(河出書房新社、2014年)- 池澤夏樹 個人編集「日本文学全集」収録 『カヴァフィス全詩』(書肆山田、2018年) ウィリアム・ブレイク『無垢の歌』(池澤春菜共訳 毎日新聞出版 2021年) 脚注 外部リンク Cafe Impala - 公式サイト 新聞連載「氷山の南」 http://www.impala.jp/hyozan/index.html 池澤夏樹さんインタビュー - ブックショート ポンペイが舞台の”南の島のティオ”を読んでみた - ミクロネシア連邦現地からの考察 20世紀日本の小説家 21世紀日本の小説家 20世紀日本の詩人 21世紀日本の詩人 20世紀日本の翻訳家 21世紀日本の翻訳家 朝日賞受賞者 芥川賞受賞者 谷崎潤一郎賞受賞者 読売文学賞受賞者 日本藝術院会員 紫綬褒章受章者 芸術文化勲章受章者 東京都立富士高等学校出身の人物 北海道出身の人物 1945年生 存命人物 +いけさわ なつき
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https://ja.wikipedia.org/wiki/GC
GC
GC 学術的な単位・記号 Gc - 非SI接頭辞 グルーチ () 。1030。Morgan Burkeの提案 gc - 非SI接頭辞 グルーチョ () 。10-30。Morgan Burkeの提案 正式名称 ジーシー - 歯科材料を扱う日本の企業。 ジーシー - かつて存在した日本のクレジットカード会社。「GCカード」を発行していた。⇒ 新生フィナンシャル 略語・略称 一般名詞・術語 ゴルフクラブ () ゴールデンクロス - 投資のテクニカル分析手法の一つグランビルの法則において上昇(買い)シグナルとされる現象。 国連グローバル・コンパクト () - 自発的な企業市民のイニシアチブ。 グリーンカード () - 「緑色のカード」の意。 ガベージコレクション () - プログラム上で不要となったメモリをまとめる動作。 ガスクロマトグラフィー () 群局 () - 加入者線交換機が設置されているセンター。 ゴーイングコンサーン () - 継続企業の前提/継続企業 グアニル酸シクラーゼ () - グアノシン三リン酸 (GTP) を環状グアノシン一リン酸 (cGMP) に変換する酵素。 グルココルチコイド () - 副腎皮質ホルモン・医薬品 ガソリンカー () ⇒ 気動車 固有名詞 企業・組織 Google Chrome - Google社のウェブブラウザ グリーンチャンネル - 日本の競馬専門CS放送局。 グリーンコープ生活協同組合連合会 - 福岡県を本拠地とし西日本で展開している生活協同組合。 イベント 富士グランチャンピオンレース - 過去に日本で開催されていた自動車レースシリーズ。 ゲームズ・コンベンション () - ドイツライプツィヒで2002年–2008年に開催されたゲーム見本市。 ゲームズコム () - ドイツケルンで2009年から開催されているゲーム見本市。 人のユニット GARNET CROW - 日本の音楽グループ。 商品名 ニンテンドーゲームキューブ - 任天堂が発売した据え置き型ゲーム機。 ガンガンコミックス - スクウェア・エニックス刊の漫画単行本レーベル。 GCノベルズ - マイクロマガジン社が刊行しているライトノベル系レーベル。 スーパーロボット大戦GC グルーヴコースター - タイトーが開発した音楽ゲーム コード・形式名 スバル・インプレッサ - 初代セダンモデルの型式名が「GC」である。 関連項目 ラテン文字のアルファベット二文字組み合わせの一覧 GCで始まる記事の一覧 Gc,gcで始まる記事の一覧
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https://ja.wikipedia.org/wiki/FTP
FTP
FTP 技術 File Transfer Protocol - インターネットのプロトコル。ファイル転送プロトコル。 File Transfer Profile - Bluetoothプロファイルの一つ 金属箔被覆ツイストペア (foiled twisted pair) - 金属箔のシールドで囲まれたツイストペアケーブル - アメリカ合衆国にかつてあったソフトウェア会社 DTPにおいてフィルムから刷版を作成する方法(Film To Plate)。これに対しコンピュータから直接刷版を作成するのはCTP(Computer to Plate)。 その他 (Faulkes Telescope Project) - イギリスの実業家・ディル・フォークスが支援する天文学教育プロジェクト 連邦劇場計画 (Federal Theatre Project) Free-to-play - ビデオゲームのビジネスモデルの一つ。「基本プレイ無料」のこと。 フォスター・ザ・ピープル (Foster the People) - アメリカ合衆国のインディー・ポップバンド
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https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%886%E6%97%A5
12月6日
12月6日(じゅうにがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から340日目(閏年では341日目)にあたり、年末まであと25日ある。 できごと 1240年 - モンゴルのルーシ侵攻: バトゥ率いるモンゴル軍によりキーウが陥落し、キエフ大公国が滅亡。 1648年 - イングランドでクーデター(プライドのパージ)が起こる。ニューモデル軍と独立派が長期議会内部の長老派議員を大勢追放、残りの議員でランプ議会を構成。 1768年 - 『ブリタニカ百科事典』第1版が発行。 1865年 - 公式に奴隷制を廃止するアメリカ合衆国憲法修正第13条が27州の批准により成立。 1877年 - トーマス・エジソンが、自身が発明した蓄音機で初めて人の声を録音する。 1877年 - 『ワシントン・ポスト』が創刊。 1914年 - 山田耕筰作曲「勝鬨と平和」初演(日本人が作曲した最初の交響曲)。 1917年 - フィンランドがロシアからの独立を宣言。 1917年 - ハリファックス大爆発 1918年 - 大学令・高等学校令公布。単科大学・私立公立の大学・高校を認可。 1921年 - 英愛条約締結。大英帝国内の自治国としてアイルランド自由国の建国が決定。 1922年 - 英愛条約に基づきアイルランド自由国が建国。 1927年 - 『労農』が創刊、労農派が誕生。 1932年 - 日豊本線が全通。 1940年 - 各省・軍の情報部門を統合して内閣情報局を設置。 1941年 - 第二次世界大戦: イギリスがフィンランドに宣戦布告。 1950年 - 朝鮮戦争: 中国人民志願軍39軍の116師(師長:)と朝鮮人民軍1軍団(軍団長:李権武)が平壌を占領する。 1951年 - 国際柔道連盟結成。 1956年 - メルボルンオリンピック: メルボルンの流血戦 1957年 - アメリカ初の人工衛星「ヴァンガードTV3」を打ち上げようとするが、打ち上げ直後に発射台で爆発。 1969年 - 大阪市営地下鉄堺筋線・天神橋筋六丁目駅 - 動物園前駅間が開業。またこの時既存の大阪市営地下鉄線(1号線 - 5号線)に愛称が付けられる。 1978年 - スペインで現行のスペイン1978年憲法が成立。(スペインの憲法記念日) 1979年 - 崔圭夏が第10代韓国大統領に就任。 1982年 - 東京地裁が「コンピュータのプログラムは著作物に該当」という初の判断。 1984年 - 三笠宮家の第三男子・憲仁親王と鳥取久子の結婚の儀。同日、高円宮家を創設。 1985年 - 新日本プロレス両国国技館大会にUWFの前田日明、藤原喜明、木戸修、高田伸彦、山崎一夫が乗り込み宣戦布告する。 1988年 - リクルート事件: 参議院で江副浩正リクルート前会長の証人喚問。宮澤喜一蔵相の証言との食い違いが判明し、9日に宮澤が蔵相を辞任。 1989年 - モントリオール理工科大学虐殺事件 1992年 - ヒンドゥー教原理主義者によりインド・アヨーディヤーのモスク・バーブリー・マスジドが完全に破壊。 1992年 - 新東京国際空港(現在の成田国際空港)第2旅客ターミナルビルの供用開始。第1旅客ターミナルビル北ウイング、第1及び第2サテライトが閉鎖。 1998年 - ウゴ・チャベスがベネズエラ大統領に選出。 2005年 - 韓国海上警察が日本の海上保安庁に対し、日本領海の捜査権の譲渡を要求するが、海上保安庁は「主権侵害にあたる」としてこれを拒否。 2008年 - ギリシャ・アテネで15歳の少年が警察官に射殺される。抗議行動がギリシャ全土に広まり、一部が暴動化。(2008年ギリシャの暴動) 2008年 - マウイ島ハレアカラ山頂にて、地球近傍天体観測プロジェクト・パンスターズが活動開始。 2015年 - 仙台市地下鉄東西線(八木山動物公園 - 荒井)が開業。 2017年 - 日本放送協会の受信料徴収をめぐる最高裁判決が行われ、合憲と判断される。 2020年 - 小惑星探査機「はやぶさ2」の回収カプセルが地球に帰還。 誕生日 1421年 - ヘンリー6世、イングランド国王(+ 1471年) 1644年(寛永21年11月7日)- 藤堂高通、初代久居藩主(+ 1697年) 1682年(天和2年11月8日)- 伊達村豊、第3代吉田藩主(+ 1737年) 1778年 - ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック、化学者、物理学者(+ 1850年) 1823年 - フリードリヒ・マックス・ミュラー、東洋学者(+ 1900年) 1829年(文政12年11月11日) - 由利公正、政治家(+ 1909年) 1848年(嘉永元年11月11日) - 川上操六、陸軍軍人(+ 1899年) 1856年 - ハンス・モーリッシュ、植物学者(+ 1937年) 1875年 - 松平基則、伯爵(+ 1930年) 1878年 - 安藤幸、ヴァイオリニスト(+ 1963年) 1878年 - 松平保男、海軍軍人、子爵(+ 1944年) 1886年 - 大川周明、思想家 (+1957年) 1890年 - 仁科芳雄、物理学者(+ 1951年) 1891年 - 木村昌福、海軍軍人(+ 1960年) 1899年 - ジョッコ・コンラン、メジャーリーグ審判(+ 1989年) 1903年 - トニー・ラゼリ、プロ野球選手(+ 1946年) 1919年 - ギデオン・クライン、作曲家(+ 1945年) 1919年 - ポール・ド・マン、文学理論家(+ 1983年) 1920年 - ジョージ・ポーター、化学者(+ 2002年) 1924年 - 鶴田浩二、俳優(+ 1987年) 1925年 - 東久邇成子、皇族(+ 1961年) 1927年 - 宮沢昭、ジャズテナーサクソフォーン奏者(+ 2000年) 1929年 - ニコラウス・アーノンクール、指揮者(+ 2016年) 1930年 - キダ・タロー、作曲家 1930年 - 井上隆明、文芸評論家 (+ 2021年) 1933年 - ヘンリク・ミコワイ・グレツキ、作曲家(+ 2010年) 1933年 - 宍戸錠、俳優(+ 2020年) 1933年 - 鎮西清高、地質学者 1934年 - ニック・ボックウィンクル、プロレスラー(+ 2015年) 1934年 - 荻孝雄、元プロ野球選手(+ 2014年) 1935年 - 木原正二郎、声優 1937年 - レジナルド・ゴリッジ、地理学者(+ 2009年) 1938年 - 浅田満、ハンナン会長 1940年 - 露木茂、ニュースキャスター、アナウンサー 1941年 - ブルース・ナウマン、現代美術家 1942年 - ペーター・ハントケ、作家 1942年 - 斎藤功、地理学者(+ 2014年) 1943年 - 車だん吉、タレント 1943年 - 星由里子、女優(+ 2018年) 1947年 - 冨松彰、宇宙物理学者 1948年 - ケケ・ロズベルグ、F1レーサー 1948年 - 菅義偉 、政治家、第99代内閣総理大臣 1949年 - 三田純義、工学者 1950年 - 久石譲、作曲家 1950年 - ウーベ・カゲルマン、フィギュアスケート選手 1950年 - 松屋健治、元プロ野球選手 1951年 - ダニエル・アドニ、ピアニスト 1952年 - 佐藤史生、漫画家(+ 2010年) 1953年 - 車田正美、漫画家 1953年 - 山下雄三、歌手 1954年 - アンドレイ・ミネンコフ、フィギュアスケート選手 1956年 - 雷門ケン坊、声優 1956年 - ランディ・ローズ、ギタリスト(+ 1982年) 1956年 - 若狭勝、政治家、検事 1957年 - 立石充男、元プロ野球選手 1957年 - スティーブ・ベドローシアン、元プロ野球選手 1957年 - アンドリュー・クオモ 、政治家、弁護士、ニューヨーク州知事 1958年 - 守村大、漫画家 1959年 - 福崎文吾、棋士 1959年 - 吉良知彦、ミュージシャン(ZABADAK)(+ 2016年) 1959年 - 岩田聡 、実業家、任天堂第4代社長(+ 2015年) 1959年 - ラリー・シーツ、元プロ野球選手 1959年 - 吉田紀子、脚本家 1960年 - 勝谷誠彦、コラムニスト、写真家(+ 2018年) 1960年 - 琴椿克之、元大相撲力士、年寄14代・16代白玉 1960年 - 橋爪紳也、建築史家 1961年 - 西川慶二、棋士(+2022年) 1961年 - 福田央、研究者 1962年 - 安藤大将、競艇選手 1964年 - 林家たい平、落語家 1965年 - ホイラー・グレイシー、柔術家 1965年 - 水島努、アニメーション監督 1965年 - 古川元久、政治家 1965年 - 若松俊秀、俳優 1966年 - 中尾秀正、調教師 1966年 - 渡辺俊美、ミュージシャン(TOKYO No.1 SOUL SET) 1967年 - 遠藤遼一、ミュージシャン(ENDS、元SOFT BALLET) 1968年 - 矢野燿大、元プロ野球選手、監督 1971年 - アダム・ハイズデュ、元プロ野球選手 1971年 - 影木栄貴、漫画家 1971年 - 高橋直純、ミュージシャン、声優 1971年 - ホセ・コントレラス、元プロ野球選手 1972年 - リック・ショート、元プロ野球選手 1972年 - 武藤幸司 、元野球選手 1974年 - 宮田仁、元野球選手 1975年 - 朝見優香、女優 1975年 - 笠原健治 、実業家 1975年 - 大原さやか、声優 1976年 - 満仲由紀子、声優 1977年 - 13代目市川團十郎、歌舞伎俳優 1978年 - ミドリカワ書房、歌手 1978年 - エメルソン、元サッカー選手 1979年 - 滝沢和典、プロ雀士 1979年 - 橋本義隆、元プロ野球選手 1979年 - 森直史、トラスパレンテオーナー 1979年 - アレックス・ムンブル、バスケットボール選手 1979年 - ティム・ケーヒル、元サッカー選手 1980年 - 保田圭、タレント、アイドル(元モーニング娘。) 1980年 - 金森正晃、映画監督 1981年 - 辻隼、陸上競技選手 1981年 - 牛田成樹、元プロ野球選手 1981年 - 佐藤賢、元プロ野球選手 1981年 - 管家修一、元野球選手 1982年 - アルベルト・コンタドール、自転車競技ロードレース選手 1982年 - エレク・アティッラ、フィギュアスケート選手 1983年 - ティファニー・タン、女優 1984年 - 宇佐美友紀、タレント、元アイドル(元AKB48) 1984年 - 岡田晃、陸上競技選手 1984年 - 長野久義、プロ野球選手 1986年 - 冨岡真理央、女優 1986年 - 梅本由紀、元野球選手 1987年 - 西平せれな、シンガーソングライター、パーカッショニスト、杜氏 1988年 - 石井琴里、元タレント 1988年 - 島﨑信長、声優 1989年 - 斉藤愛璃、プロゴルファー 1989年 - 榊原徹士、俳優(元新選組リアン) 1990年 - 林遣都、俳優 1990年 - 志田達哉、囲碁棋士 1990年 - タミラ・パシェク、テニスプレーヤー 1991年 - ココ・バンダウェイ、テニス選手 1992年 - 細貝柊、ピアニスト 1993年 - 高野祐衣、元歌手、元アイドル(元吉本坂46、元NMB48) 1993年 - 渡邊達徳、ヴァイオリニスト、俳優 1994年 - 栗原類、ファッションモデル 1994年 - 村上聡、声優 1994年 - 島袋美由利、声優 1994年 - 若隆景渥、大相撲力士 1996年 - ステファニー・スコット、女優、歌手 1996年 - 井田明宏、棋士 1997年 - 原嵩、元プロ野球選手 1998年 - アンゲリーナ・クチヴァルスカ、フィギュアスケート選手 1998年 - 幸村恵理、声優 1998年 - 本髙克樹、アイドル(7 MEN 侍) 1999年 - 高木渉、プロ野球選手 2002年 - 西川大和、総合格闘家 2003年 - 川名凜、歌手、アイドル(アンジュルム) 生年不明 - 海保えりか、声優 生年不明 - 高見まこ、漫画家 忌日 350年ごろ - ミラのニコラオス(聖ニコラウス)、キリスト教の聖人、サンタクロースのモデル(* 270年ごろ) 735年(天平7年11月14日) - 舎人親王、奈良時代の皇族、淳仁天皇の父(* 676年) 805年(延暦24年11月12日) - 壱志濃王、皇族(* 733年) 1185年 - アフォンソ1世、ブルゴーニュ王朝初代ポルトガル王(* 1109年) 1311年(応長元年10月26日) - 北条貞時、鎌倉幕府第9代執権(* 1272年) 1352年 - クレメンス6世、第198代ローマ教皇(* 1291年) 1562年 - ヤン・ファン・スコーレル、画家(* 1495年) 1613年 - アントン・プレトリウス、牧師(* 1560年) 1672年 - ヤン2世、ポーランド王(* 1609年) 1679年(延宝7年11月4日)- 伊達宗勝、初代一関藩主(* 1621年) 1779年 - ジャン・シメオン・シャルダン、画家(* 1699年) 1779年(安永8年10月29日) - 後桃園天皇 、第118代天皇(* 1758年) 1841年(天保12年10月24日) - 島津斉宣、第9代薩摩藩主(* 1774年) 1882年 - ルイ・ブラン、政治家(* 1811年) 1887年 - 島津久光、薩摩藩の指導者(* 1817年) 1889年 - ジェファーソン・デイヴィス、アメリカ南部連邦の大統領(* 1808年) 1892年 - ヴェルナー・フォン・ジーメンス、電気技術者(* 1816年) 1893年 - ルドルフ・ウォルフ、天文学者(* 1816年) 1910年 - 重野安繹、歴史学者(* 1827年) 1920年 - ロザリア・ロンバルド、ミイラ保存された少女(* 1918年) 1922年 - 宮崎滔天、革命家(* 1871年) 1925年 - リヒャルト・アイレンベルク、作曲家(* 1848年) 1940年 - 田中隆三、政治家(*1864年) 1942年 - エイモス・ルーシー 、プロ野球選手(* 1871年) 1946年 - マクシミリアン・シテインベルク、作曲家(* 1883年) 1947年 - 醍醐忠重、軍人(* 1891年) 1949年 - レッドベリー、ブルースギタリスト(* 1888年) 1954年 - ルシアン・テニエール、言語学者(* 1954年) 1955年 - ホーナス・ワグナー 、プロ野球選手(* 1874年) 1955年 - ジョージ・プラット・ラインス、写真家(* 1907年) 1956年 - ビームラーオ・アンベードカル、政治家、思想家(* 1891年) 1957年 - ロベール・エスノー=ペルトリ、飛行機設計者(* 1881年) 1959年 - 筒井敬三、プロ野球選手(* 1925年) 1961年 - フランツ・ファノン、思想家(* 1925年) 1975年 - 正木ひろし、弁護士(* 1896年) 1985年 - バーリー・グライムス 、プロ野球選手(* 1893年) 1988年 - ロイ・オービソン、歌手(* 1936年) 1989年 - ジョン・ペイン、俳優(* 1912年) 1990年 - トゥンク・アブドゥル・ラーマン、マレーシア初代首相(* 1903年) 1991年 - リチャード・ストーン、経済学者(* 1913年) 1991年 - 小林恒夫、映画監督(* 1911年) 1998年 - セザール・バルダッチーニ、彫刻家(* 1921年) 1998年 - 山下耕作、映画監督(* 1930年) 2003年 - ハンス・ホッター、バスバリトン歌手(* 1909年) 2006年 - 阿部文男、政治家(* 1922年) 2008年 - 遠藤実、作曲家(* 1932年) 2012年 - 佐藤允、俳優(* 1934年) 2014年 - ラルフ・ベア、発明家(* 1922年) 2015年 - 平良とみ、女優(* 1928年) 2015年 - フランツル・ラング、ヨーデル歌手(* 1930年) 2017年 - 海老一染之助、太神楽師(* 1934年) 2020年 - タバレ・バスケス、政治家、医師(* 1940年) 2020年 - デニス・ラルストン、テニス選手(* 1942年) 2021年 - 荒木浩、元東京電力社長(* 1931年) 2022年 - 水木一郎、歌手(* 1948年) 記念日・年中行事 独立記念日 1917年のこの日、フィンランドがロシア帝国から独立した。 憲法記念日 1978年のこの日、スペインで現行のスペイン1978年憲法が成立した。 ミラの聖ニコラウスの祝日 子供・結婚前の若い女性・商人・質屋・薬剤師・ロシアの守護聖人である聖ニコラウスの聖名祝日。いくつかの国では前日の12月5日が重要な祭日となる(たとえばオランダのシンタクラースの日)。 姉の日 姉妹型・兄弟型研究の第一人者、畑田国男が6月6日の「兄の日」、9月6日の「妹の日」に次いで提唱した日。この日が祝日である聖ニコラウスにまつわる三姉妹伝説がその日付の由来になっている。 音の日 日本オーディオ協会が1994年に制定。1877年のこの日、トーマス・エジソンが自身が発明した蓄音機で音を録音・再生することに成功したことを記念。 フィクションのできごと 1945年(照和20年) - 日本本土にドイツ第3帝国超重爆撃機「ヨルムンガンド」が来襲するも、日本側の迎撃機によりこれをほぼ殲滅。(荒巻義雄原作『紺碧の艦隊』) 誕生日(フィクション) 1988年 - 鳴滝風香、漫画・アニメ『魔法先生ネギま!』に登場するキャラクター 1988年 - 鳴滝史伽、漫画・アニメ『魔法先生ネギま!』に登場するキャラクター 生年不明 - アルマ、漫画『D.Gray-man』に登場するキャラクター 生年不明 - フィンランド(ティノ・ヴァイナマイネン)、漫画・アニメ『Axis powers ヘタリア』に登場するキャラクター 生年不明 - 西条飛鳥、漫画『りぶねす』に登場するキャラクター 生年不明 - 朝宮龍斗、漫画・アニメ『史上最強の弟子ケンイチ』に登場するキャラクター 生年不明 - 飯島ゆん、漫画・アニメ『NEW GAME!』に登場するキャラクター 生年不明 - ツバキ、漫画・アニメ『ラピスリライツ 〜この世界のアイドルは魔法が使える〜』に登場するキャラクター 生年不明 - 原田千絵、アニメ『舞-HiME』に登場するキャラクター 生年不明 - 上井つる公、アニメ『あはれ!名作くん』に登場するキャラクター 生年不明 - 牧穂乃果、アニメ『キズナイーバー』に登場するキャラクター 生年不明 - 内田まゆみ、アニメ『ハイスクール・フリート』に登場するキャラクター 生年不明 - 天野美汐、ゲーム『Kanon』に登場するキャラクター 生年不明 - アイシア、ゲーム『D.C. 〜ダ・カーポ〜』に登場するキャラクター 生年不明 - 亥清悠、ゲーム『アイドリッシュセブン』に登場するキャラクター 生年不明 - 大咲みよ、ゲーム『八月のシンデレラナイン』に登場するキャラクター 生年不明 - ミア・テイラー、メディアミックス『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』に登場するキャラクター 生年不明 - 赤崎こころ、メディアミックス『IDOLY PRIDE』に登場するキャラクター 出典 関連項目
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https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
2チャンネル
2チャンネル(英語:2 (two) channel/2ch、にチャンネル、ツーチャンネル) NHK教育テレビジョンの全国共通のリモコン番号。 2ちゃんねる - インターネット上の電子掲示板。 2ちゃんねる (2ch.net) - 1999年に西村博之によって開設されたインターネット上の電子掲示板。2017年10月1日に「5ちゃんねる」に改名。 2ちゃんねる (2ch.sc) - 2014年4月に西村博之によって開設されたインターネット上の電子掲示板。 おーぷん2ちゃんねる - 2012年6月開設のインターネット上の電子掲示板。2ちゃんねるのパロディ掲示板として開設され、本家とは異なる独自の発展を遂げる。 ステレオ - ステレオの一種である2chステレオのこと。 脚注
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1877%E5%B9%B4
1877年
他の紀年法 干支:丁丑 日本(月日は一致) 明治10年 皇紀2537年 清:光緒2年11月17日 - 光緒3年11月27日 朝鮮 李氏朝鮮・高宗14年 檀紀4210年 阮朝(ベトナム):嗣徳29年11月17日 - 嗣徳30年11月27日 仏滅紀元:2419年 - 2420年 イスラム暦:1293年12月15日 - 1294年12月25日 ユダヤ暦:5637年4月16日 - 5638年4月25日 修正ユリウス日(MJD):6620 - 6984 リリウス日(LD):107461 - 107825 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。 カレンダー できごと 1月 1月1日 - 英ヴィクトリア女王がインド女帝に即位 1月29日 - 米国議会が大統領選問題解決のため選挙委員会を設置 1月30日 - オランダ沿岸部が暴風雨により洪水 2月 2月6日 - 東海道本線大阪 - 京都間開通開業 2月15日 - 西南戦争( - 9月24日) 2月19日 - 日本で毒薬劇薬取締規則施行 2月20日 - インターナショナル・アソシエーション創設(最古のマイナーリーグ) 2月27日 - 米選挙委員会がラザフォード・ヘイズの大統領選勝利を決定 3月 3月4日 西南戦争: 田原坂の戦い( - 3月20日) チャイコフスキーバレエ「白鳥の湖」初演(ボリショイ劇場) ラザフォード・ヘイズが米大統領に就任 3月18日 - 米ヘイズ大統領がフレデリック・ダグラスをワシントンの連邦保安官に任命 3月24日 - 團團珍聞創刊 4月 4月12日 東京大学(旧制)設立(開成学校と東京医学校を合併、近代的な高等教育機関として日本初の大学) 英国がトランスヴァールを併合 4月24日 - 露土戦争: ロシア帝国がオスマン帝国に宣戦布告 5月 5月1日 - 博愛社(後の日本赤十字社)設立 5月21日 - 露土戦争において自治公国ルーマニア公国がオスマン帝国からの完全独立を宣言(承認1878年) クラーク博士離日 6月 6月1日 - 米国芸術家協会(Society of American Artists)創立 6月19日 - エドワード・S・モースが大森貝塚を発見 6月26日 - エクアドルでコトパクシ山が噴火(死者千名) 6月29日 - 日本が万国郵便連合に加盟 7月 7月9日 - 第1回ウィンブルドン選手権( - 7月19日) 7月14日 - 米国で大規模鉄道ストライキ 7月19日 - 露土戦争: プレヴェン包囲戦(Siege of Pleven)始まる( - 12月10日) 8月 8月12日 - アサフ・ホールが火星の衛星ダイモスを発見 8月18日 - アサフ・ホールが火星の衛星フォボスを発見 8月21日 - 第1回内国勧業博覧会開催(上野公園 - 11月30日) 9月 9月16日 - モースが、初めての大森貝塚の調査を学生たちと開始した。 9月24日 - 西南戦争で城山の戦いが起こった。 10月 10月1日 - 東海道線住吉駅-西ノ宮駅間で列車が正面衝突し、乗務員3人が死亡。日本初の鉄道死亡事故。 10月8日 - 東京一致神学校(後の明治学院大学)開校 10月9日 - 米国人道協会(American Humane Association)創立 10月10日-三島中洲が漢学塾二松學舍を創立 10月17日 - 学習院開業式 日本各地でコレラが流行し始める(1879年まで) 11月 11月13日 - 西南戦役戦死者招魂祭(招魂社) 11月29日 - トーマス・エジソンが手回し蓄音機を実演 12月 12月2日 - サン=サーンス歌劇「サムソンとデリラ」初演(ヴァイマル) 12月6日 - ワシントン・ポスト創刊 12月6日 - トーマス・エジソンが、自身が発明した蓄音機で初めて人の声を録音する=エジソンが蓄音機を完成する 12月16日 - ブルックナー交響曲第3番初演(ウィーン) 12月28日 - 一円紙幣発行(不換紙幣)  12月30日 - ブラームス交響曲第2番初演(ウィーン) 12月 - 大森貝塚遺物の天覧が実現 不明 日本初の海洋生物学 - 発祥の地は神奈川県藤沢市にある湘南の江の島 誕生 1月20日 - レーモン・ルーセル、小説家・詩人(+ 1933年) 2月25日 - ノルベルト・ヨークル、アルバニア語学者(+ 1942年) 3月1日 - 中田薫、法学者(+ 1967年) 3月6日 - ハロルド・E・パーマー、言語教育・音声学者(+ 1949年) 3月11日 - モーリス・アルブヴァクス、社会学者(+ 1945年) 3月18日 - エドガー・ケイシー、予言者(+ 1945年) 4月5日 - ウォルター・S・サットン、生物学者・医学者(+ 1916年) 4月15日 - 辻善之助、歴史学者(+ 1955年) 4月15日 - エド・アッバティッチオ、メジャーリーガー(+ 1957年) 4月17日 - 松平恒雄、外交官・政治家(+ 1949年) 5月19日 - 薄田泣菫、詩人(+ 1945年) 5月26日 - 荒木貞夫、陸軍軍人・政治家(+ 1966年) 5月26日 - イサドラ・ダンカン、舞踊家(+ 1927年) 6月3日 - ラウル・デュフィ、画家(+ 1953年) 6月8日 - 窪田空穂、歌人・国文学者(+ 1967年) 6月18日 - 島田俊雄、政治家・第36代衆議院議長(+ 1947年) 6月19日 - 秋山愛二郎、陸軍軍人(+ 没年不詳) 6月18日 - ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ、画家・イラストレーター(+ 1960年) 6月30日 - 東くめ、童謡作詞家(+ 1969年) 7月2日 - ヘルマン・ヘッセ、作家(+ 1962年) 7月12日 - 暁烏敏、真宗大谷派の僧侶(+ 1954年) 7月21日 - 波多野精一、哲学者(+ 1950年) 7月26日 - ジェシー・リバモア、投機家(+ 1940年) 8月7日 - ウルリッヒ・サルコウ、フィギュアスケート選手(+ 1949年) 8月10日 - フランク・マーシャル、チェスプレーヤー(+ 1944年) 8月15日 - 太刀山峯右エ門、大相撲第22代横綱(+ 1941年) 8月27日 - チャールズ・ロールズ、ロールス・ロイス共同創業者(+ 1910年) 8月28日 - 池田仲博、華族、貴族院議員、陸軍軍人(+ 1948年) 9月2日 - フレデリック・ソディ、化学者(+ 1956年) 9月3日 - ジョージ・ストーン、メジャーリーガー(+ 1945年) 9月6日 - 山本嘉一、俳優(+ 1939年) 9月9日 - フランク・チャンス、メジャーリーガー(+ 1924年) 9月11日 - ジェームズ・ジーンズ、物理学者・天文学者・数学者(+ 1946年) 9月13日 - ヴィルヘルム・フィルヒナー、探検家(+ 1957年) 9月15日 - 山崎今朝弥、弁護士・社会主義者(+ 1954年) 9月26日 - アルフレッド・コルトー、ピアニスト(+ 1962年) 10月21日 - オズワルド・アベリー、医師(+ 1955年) 11月9日 - エンリコ・デ・ニコラ、イタリア初代大統領(+ 1959年) 11月17日 - 菅野経三郎、政治家(+ 1956年) 11月15日 - ウィリアム・H・ホジスン、小説家(+ 1918年) 12月11日 - 近藤平三郎、医学者(+ 1963年) 12月13日 - 大谷竹次郎、実業家、松竹の創業者(+ 1969年) 12月13日 - 白井松次郎、実業家、松竹の創業者(+ 1951年) 12月16日 - 野村吉三郎、外交官(+ 1964年) 12月25日 - ポール・フラマリエ、地質学者(+ 1970年) 12月31日 - ヴィクトル・ダイク、詩人・作家・政治家(+ 1931年) 死去 1月2日 - アレクサンダー・ベイン、発明家(* 1811年) 1月4日 - コーネリアス・ヴァンダービルト、実業家(* 1794年) 2月22日 - 、画家(* 1801年) 3月4日 - 篠原国幹、西南戦争時の西郷軍一番大隊指揮長(* 1837年) 3月8日 - 綾瀬川山左エ門、大相撲の力士(* 1835年) 3月14日 - フアン・マヌエル・デ・ロサス、アルゼンチンの指導者(* 1793年) 3月24日 - ウォルター・バジョット、評論家・ジャーナリスト(* 1826年) 3月29日 - 稲妻雷五郎、大相撲第7代横綱(* 1802年) 3月31日 - アントワーヌ・オーギュスタン・クールノー、哲学者、数学者、経済学者(* 1801年) 5月26日 - 木戸孝允、幕末の志士・政治家(* 1833年) 6月3日 - ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル、ケッヘル番号創始者(* 1800年) 6月3日 - ゾフィー・フォン・ヴュルテンベルク、オランダ王ヴィレム3世の妃(* 1818年) 6月13日 - ルートヴィヒ3世、第3代ヘッセン大公(* 1806年) 6月26日 - 山田方谷、儒学者・備中松山藩士(* 1805年) 8月2日 - 池田慶徳、因幡鳥取藩第12代藩主(* 1837年) 8月24日 - 小林虎三郎、越後長岡藩大参事(* 1828年) 9月2日 - 和宮親子内親王、徳川家第14代将軍・家茂の妻(* 1846年) 9月3日 - アドルフ・ティエール、フランス大統領(* 1797年) 9月5日 - クレイジー・ホース、北米インディアンスー族酋長(* 1849年) 9月12日 - ユリウス・リーツ、指揮者・チェリスト・作曲家(* 1812年) 9月17日 - ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット、発明家・写真家(* 1800年) 9月23日 - ユルバン・ルヴェリエ、天文学者(* 1811年) 9月24日 - 西郷隆盛、明治維新の元勲(* 1828年) 9月24日 - 桐野利秋、幕末の志士(* 1838年) 9月24日 - 別府晋介、西郷軍独立大隊連合指揮長(* 1847年) 9月24日 - 島津啓次郎、西郷軍佐土原隊隊長(* 1856年) 9月30日 - 大山綱良、鹿児島県県令(* 1825年) 10月2日 - ルートヴィヒ・カール・ゲオルク・プファイファー、医師・植物学者・貝類学者(* 1805年) 11月1日 - オリヴァー・ハザード・ペリー・スロック・モートン、第14代インディアナ州知事(* 1823年) 11月8日 - カレル・サビナ、作家・ジャーナリスト(*1813年) 12月30日 - 松平頼胤、第10代高松藩主(* 1811年) 12月31日 - ギュスターヴ・クールベ、画家(* 1819年) フィクションのできごと 年月不明 - レイジレーサーに登場する架空の自動車メーカー、アージュ社の創始者であるルイ・アージュが誕生した。 2月(日は不明) - 三浦綾子の長編小説『塩狩峠』の架空な登場人物である、主人公・永野信夫が誕生した。 脚注 関連項目 年の一覧 年表 年表一覧
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ラオス
ラオス人民民主共和国(ラオスじんみんみんしゅきょうわこく、、)、通称ラオスは、東南アジアのインドシナ半島に位置する社会主義共和制国家。首都はヴィエンチャン。24万平方キロメートルに約50の民族からなる約710万人(2019年時点)の国民が暮らす。東南アジア唯一の内陸国で、北は中華人民共和国(中国)、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ王国、北西でミャンマーと国境を接する。ラオス人民革命党による一党独裁体制が敷かれている。 1353年にラオ人最初の統一国家であるランサン王国が成立。18世紀初めに3王国に分裂。1770年代末に3王国はタイに支配されたが、1893年にフランスがタイにラオスへの宗主権を放棄させて植民地化し、1899年にフランス領インドシナ(仏印)に編入された。この時に現在の領域がほぼ定まった。第二次世界大戦中の日本軍による仏印進駐や第一次インドシナ戦争などを経てインドシナ半島におけるフランス植民地体制が崩壊過程に入る中で1949年にフランス連合内でラオス王国として独立、ついで1953年に完全独立した。その後パテト・ラオなどの左派と王政を支持する右派、中立派に分かれてラオス内戦が発生したが、ベトナム戦争後に右派が没落し、1975年に王政は廃され、社会主義体制のラオス人民民主共和国が成立した。 その政治体制はラオス人民革命党(パテト・ラオの政党)による一党独裁体制である。『エコノミスト』誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は世界155位と後順位で、「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも172位と後順位であり、最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)。 人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、人民の基本的自由が著しく制約されていること、労働権が不在であること、薬物使用の疑いがある個人を起訴しないまま人権侵害が横行する薬物常用者拘留センターに拘禁していること、活動家を強制失踪させていることなどを問題視している。 経済面では1975年以降、社会主義計画経済のもとにあったが、ソビエト連邦のペレストロイカやベトナムのドイモイの影響を受けて1986年から「新思考」(チンタナカーン・マイ)政策と呼ぶ国営企業の独立採算制、民営企業の復活など市場経済化への経済改革を行っている。しかし経済状態は厳しく、国連が定める世界最貧国の一つである。また、中華人民共和国が主導する経済圏「一帯一路」に参加しており、中国ラオス鉄道に代表されるインフラ建設などが進んでいるが、債務を返済できなくなる「債務のワナ」に陥ることも懸念されている。 外交面では王政時代の1955年に国連に加盟し、1997年に東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟。1975年に社会主義体制になって以降ベトナムとの外交を軸にしてきたが、中華人民共和国との外交を軸としている。 軍事面では徴兵制度が敷かれており、ラオス人民軍の兵力は2.9万人(2020年)ほどであり、軍事費は日本円にて約30億円(2016年)ほどである。正規軍の他にも、地方防衛用の民兵である自衛隊が10万人いると言われる。 人口は、2018年のラオス計画投資省の発表によれば701万人。住民はタイ諸族の一つであるラオ人が半数以上を占め、最も多いが、他にも少数民族が多数暮らしており、ベトナム人や中国人なども住んでいる。 地理としてはASEAN加盟10か国中唯一の内陸国で、面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である。その間をメコン川とその支流が流れている。国土は南北に細長く、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、北西はミャンマーと国境を接する。 国名 正式名称はラーオ語でສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ,(ラテン文字転写: Sathalanalat Paxathipatai Paxaxon Lao 読み: サーターラナラット・パサーティパタイ・パサーソン・ラーオ)。サーターラナラットが「共和国」、パサーティパタイが「民主主義」、パサーソンが「人民」、ラーオが「ラーオ族」を意味する。 公式の英語表記は (ラウ・ピープルズ・デモクラティック・リパブリック)。ビザなどでは「Lao P.D.R」と略される。通称は Laos(ラウス、または、ラオス)。 日本語表記はラオス人民民主共和国。通称はラオス。日本での漢字表記は羅宇、老檛。一方、中国国内では「老撾(, )」と表記し「老」と省略するが、台湾、香港、マレーシア、シンガポールでは「寮國(, )」と称し、「寮」と省略する。ラオス華人の間では「寮」が広く使われており、ヴィエンチャン市内には中国語学校の名門「寮都学校」がある。また、日寮や寮華などの略称を冠する団体・企業は、ラオス国内外を問わず多数存在する。 歴史 ラーンサーン王国 ラオスの歴史は、中国南西部(現在の雲南省中心)にあったナンチャオ王国(南詔)の支配領域が南下し、この地に定住者が現れた時代に始まる。王国滅亡後の1353年に、ラーオ族による統一王朝ランサン王国がにより建国。1551年に即位したセタティラート王の時代には、首都をヴィエンチャンに移し、その勢力は現在のタイ北東部やカンボジア北部にまで及んだ。ラーンサーンとは「100万のゾウ」という意味である。昔、ゾウは戦争の際に戦車のように戦象として使われていたので、この国名は国の強大さを示し、近隣諸国を警戒させた。 17世紀には西欧との交易も開始し、ヴィエンチャンは東南アジアでも有数の繁栄を誇った。しかし18世紀にはヴィエンチャン王国、ルアンパバーン王国、チャンパーサック王国の3国に分裂。それぞれタイやカンボジアの影響下に置かれ、両国の争いに巻き込まれる形で戦乱が続いた。 フランス植民地支配 19世紀半ばにフランス人がインドシナ半島に進出し始めた頃には、ラオスの3国はタイの支配下にあった。が、ラオスの王族はフランスの力を借りて隣国に対抗しようとし、1893年に仏泰戦争が起こる。その結果、ラオスはフランスの保護国となり、1899年にフランス領インドシナに編入された。ルアンパバーン王国は保護国、それ以外の地域は直轄植民地とされた。 第二次世界大戦中は日本が仏ヴィシー政権との協定によりフランス領インドシナを占領した(仏印進駐)。大戦末期の1945年3月には日本がラオスの地に軍を入れてフランスの植民地支配を排除し、ラオスは1945年4月8日に日本の協力下で、独立を宣言をした。 だが大戦後、フランスは仏領インドシナ連邦を復活させようとしたことが原因で、1946年に第一次インドシナ戦争が勃発。1949年、ラオスはフランス連合内のラオス王国として名目上独立した。 独立と内戦 1953年10月22日、フランス・ラオス条約により完全独立を達成した。独立後、ラオスでは右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)によるラオス内戦が長期にわたり続いた。ベトナム戦争にも巻き込まれ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)による南ベトナム解放民族戦線への補給路(いわゆるホーチミン・ルート)に使われた。1973年にベトナム戦争の一方の当事者であったアメリカ合衆国がベトナムから撤退。1974年、三派連合によるラオス民族連合政府が成立したが、1975年に南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイゴンが北ベトナム軍により陥落すると、同年12月に連合政府が王政の廃止を宣言。社会主義国のラオス人民民主共和国を樹立した。 東西冷戦と中ソ対立という国際情勢下で、ラオス人民民主共和国は内政・外交両面でベトナムと、それを支援するソ連の影響下に置かれた。 ラオス人民民主共和国 1977年12月、在ラオス日本大使館杉江清一書記官夫妻殺害事件が発生。反政府派による政治的犯行を示唆する発表がラオス国営放送から成された。 1979年、中国共産党と関係断絶。 1980年、タイと国境紛争。 1986年、新経済政策(チンタナカンマイ)を導入。 1987年、タイと国境紛争(タイ空軍機1機が撃墜される)。 1988年、タイとの関係正常化。 1989年、カイソーン・ポムウィハーン首相が中国公式訪問、翌1990年の中国・李鵬首相のラオス公式訪問で、対中関係の改善。 1991年、憲法制定。ラオス人民革命党の一党体制維持を確認。 1992年2月、タイと友好協力条約を締結。7月、ベトナムとともに東南アジア諸国連合 (ASEAN) にオブザーバーとして参加。11月21日、カイソーン・ポムウィハーン国家主席(ラオス人民民主共和国の初代最高指導者)死去。 1997年7月23日、東南アジア諸国連合(ASEAN)に正式加盟(ミャンマー加盟と同日)。 2006年4月30日投票の第6期国民議会(一院制、任期5年)選挙の結果選出された国会議員115人のうち114人はラオス人民革命党の党員で、非党員は1人。同年6月に招集された第6期国民議会第1回会議において、ラオス人民革命党書記長で軍出身のチュンマリー・サイニャソーンが国家主席に、ラオス人民革命党政治局員のブアソーン・ブッパーヴァンが首相に選出された。 2007年6月、アメリカ合衆国に亡命したミャオ族の元王国軍将軍とアメリカ軍退役少佐によるクーデター計画が発覚。関係者はアメリカ司法当局により、局外中立違反で逮捕された。 2010年12月23日の第6期国民議会第10回会議の閉会式において、ブアソーン首相は任期途中で辞任し、国民議会議長のトーンシン・タムマヴォンが新首相に就任した。 2016年3月の第8期国民議会総選挙により、ブンニャン・ウォーラチット国家主席、トーンルン・シースリット首相体制となった。 政治 憲法の前文で「人民民主主義」を謳い、第3条では「ラオス人民革命党を主軸とする政治制度」と規定されているなど、マルクス・レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による社会主義国型の一党制が敷かれている。政府の政策決定は、9人で構成される党の政治局と、49人で構成される党の中央委員会において決定される。特に重要な政策に関しては、さらに大臣の会議で審議される。 元首 国家主席を元首とする社会主義共和制国家であり、国家主席は国民議会で選出され、任期は5年。職務の補佐・代行のために国家副主席がいる。 行政 行政府の長は首相である。国家主席に指名され、国民議会で承認を受ける。任期は5年。副首相が3人。各省大臣、省と同格の機関の長により構成される。首相は、副大臣、県副知事、中央直轄市副市長、郡長を任免する権限を持つ。2006年7月、首相と政府を補佐し、閣議を準備し、政府に資料を提供する機関として、政府書記局が設けられた。 立法 立法府は一院制の国民議会。132議席で、民選、任期5年。休会期間中には国民議会常務委員会が国政監視などの権限を代行する。議席数は、1992年選挙では85、1997年選挙では99、2002年選挙では109と増やされてきた。 2018年12月6日、日本の国際協力機構(JICA)の法整備支援を受けて起案された民法が成立し、2020年に施行した。 軍事 国防の中心はラオス人民軍が担う。他には民兵組織がある。2006年の国防予算は1,330万ドル。徴兵制で陸軍25,600人、空軍3,500人から成る。車輌・航空機等の装備は旧ソ連製のものを多く保有している。歴史的にベトナム人民軍と関係が深いが、中国人民解放軍との交流が活発化してきている。 国際関係 日本との関係 中国との関係 地方行政区分 地方に議会を設置しないで、県知事は国家主席が、郡長は首相が、それぞれを任命するという中央集権的地方行政制度をとっている。 首都ヴィエンチャンを含む、広域ヴィエンチャン行政区であるヴィエンチャン都(ナコーンルアン・ヴィエンチャン/Prefecture)と17県(クウェーン/Province)から構成される。以前はサイソムブーン特別区(ケートピセート・サイソムブーン)が治安上の理由から首相府の直轄下に設けられていたが、2006年に廃止された。その後、サイソムブーン特別区は県に昇格して復活した。 ヴィエンチャン都と県の下には100前後の村(バーン)から成る郡(ムアン)がある。ムアンにはラーオ語で「郡」の他に「街」という意味もあり、日本の市町村に相当するものだと考えられる。ヴィエンチャン都を除き、全ての県には県庁所在地となる郡があり、そこが県都とされている。 県都とされる郡の名称は「ポンサーリー郡」や「ルアンナムター郡」のように県の名前と合致する場合、「サイ郡」や「サマッキーサイ郡」のように県の名前とは全く異なる場合があるが、ラオス人の多くは他県のことであれば県の名称=県都(チャンパーサック県など一部例外はあるものの)であり、一般人で県都の名称を全て正確に覚えている人は少ない。 北部 ウドムサイ県 - (サイ郡) サイニャブーリー県 - () シエンクワーン県 - (ポーンサワン郡) - (軍事基地:) フアパン県 - (サムヌア郡) ボーケーオ県 - (フアイサーイ郡) ポンサーリー県 - () ルアンナムター県 - (ルアンナムター郡) ルアンパバーン県 - (ルアンパバーン郡) 中部 <li> ヴィエンチャン県 - ()(ヴィエンチャン県はヴィエンカム県に改称する決定がラオス国民議会で決議された) <li> ヴィエンチャン都 - (首都:ヴィエンチャン) <li> カムムアン県 - (ターケーク郡) <li> サワンナケート県 - (サワンナケート, 旧称:カンタブーリー郡) ラオス第二の街 <li> サイソムブーン県(元特別区) <li> ボーリカムサイ県 - () 南部 <li> アッタプー県 - ()(ホーチミン・ルート) <li> サーラワン県 - () <li> セーコーン県 - () <li> チャンパーサック県 - (パークセー郡) ラオス第二の街(ボーラウェン高原・シーパンドン) 主要都市 ラオスの首都はヴィエンチャンで、主要都市にルアンパバーン、サワンナケート、パークセー(パクセー)などがある。 地理 ラオスは、海と接しない内陸国である。国土の多くが山岳で占められており、隣国に比べて比較的森林資源が多く残っていた地域であるが、急激な森林破壊が問題となっている。国土面積の61%は二次林(2006年)。そして、この森林地帯でも多くの人々が生活している。原生林は、国土面積の6%である。 ビア山(標高2817メートル)が最高峰である。 メコン川 メコン川周辺には小さく平地が広がっている。メコン川はラオスを貫いて流れており、ミャンマーと、またタイとの国境をなしている。タイとの国境線の3分の2はメコン川である。また、国境として隔てるだけでなく、人や物が行き来する河川舟運にも利用されている。1866年にフランスは、雲南とサイゴンを結ぶ通商路としてメコン川を利用しようと探検隊を派遣した。探検隊は中国まで到達はしたが、カンボジアとラオスとの国境にあるコーンパペンの滝が越えがたかったので、通商路としての可能性は否定された。それでも今日(2000年代)、ヴィエンチャンと雲南・景洪(中国とラオスの国境にある)との間で物産を満載した船が行き来し、大切な交通路となっている。 メコン川の乾季と雨季の水位の差は、ヴィエンチャンで10メートルを超えることもある。乾季の終わりの4月頃には最低の水位になり、小さな支流では水がほとんどなくなってしまい、メコン川本流でも驚くほど水位が下がってしまう。しかし、5月の雨季とともに水量が増し、8 - 9月には自然堤防を越えるほどの水量になり、低地を水で覆うほどになる。 メコン川は栄養塩類が少ないが、雨季に洪水となる後背地・氾濫原の底土からの栄養塩類を受けられる。そのため藻類やプランクトンなどが多く発生し、草食性・プランクトン食性の魚類の藻場になっている。このようなことから川には魚が多く、周囲の人たちの漁場になっている。 気候 モンスーン(季節風)の影響により、ラオスには明瞭な雨季と乾季がある。 暑季は2月下旬頃から5月。4月から5月の平均気温は30度近くあり、最高気温が40度を超える日もある。 雨季は6月から10月。年間総雨量のほとんどは雨季に集中する。ただし1日中雨が降り続く日は少なく、短時間に大雨が降ることが多い。 乾季は11月から2月下旬。北東の季節風が吹き、降雨はほとんどない。12月から1月頃には気温が下がって冬になる。 交通 道路 都市部以外の地域においては、幹線道路の多くが舗装されていない。 鉄道 空運 首都ヴィエンチャンにあるワットタイ国際空港には、タイ国際航空や中国南方航空などが国外から乗り入れている。国内の航空会社では、ラオス国営航空がワットタイ国際空港を拠点に国際線と国内線を運航している。過去にはラオス初の民間航空会社としてラオ・セントラル航空も事業に参入していたが、2014年に運航を停止した。 経済 主要産業は、人口の78%が従事し、国内総生産(GDP)の41%を占める農業である。 国際通貨基金(IMF)によると、2013年のラオスのGDPは100億ドル。一人当たりのGDPは1,475ドルであり、世界平均の15%に満たない水準である。 国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民の60%を超える412万人と推定されている。 1975年12月にラオス人民民主共和国が樹立され、急速な社会主義化を行ったものの、タイからの国境封鎖や、1975年と1976年の旱魃などにより、激しいインフレと農産物・日用品の不足を引き起こし、1979年には社会主義建設のスピードが緩和された。 1983年に再び社会主義化を目指すが、ソ連のペレストロイカの動きと呼応して1986年には市場原理の導入、対外経済開放を基本とする新経済メカニズムが導入された。 この間、ソ連やベトナムを中心とする東側諸国からの多大な援助に依存する経済構造であった。そのため、1989年から1991年にかけて東欧諸国で起こった共産政権の瓦解は、ラオスにとっても危機であった。この時期に価格の自由化を行ったことによって、激しいインフレと通貨キープが大幅に下落するなど経済は混乱した。 ラオス政府はIMFのアドバイスの下、経済引き締め政策を実施した。また、西側先進国との関係を改善し、国際機関や西側先進国からの援助が増大した結果、1992年には経済が安定した。 1997年7月に隣国タイで始まったアジア通貨危機はラオスにも大きな影響を与え、キープは対ドルだけでなく、対バーツでも大幅に減価した。 国内ではタイバーツが自国通貨のキープと同じように流通し、バーツ経済圏に取り込まれている。米ドルも通用するので、ホテルやレストランから市場や街の雑貨屋まで、この3つのどの通貨でも支払いができる。中国国境近くでは、人民元も通用する。 1997年にルアン・パバンの町が、2001年にはチャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群がそれぞれ世界遺産に公式登録されたほか、政府が1999年から2000年にかけてをラオス観光年として観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。 観光のほか、国土の約半分を占める森林から得られる木材、ナムグム・ダムを始めとする水力発電の隣国タイへの売電、対外援助などが主な外貨源となっている。この中でも特に水力発電によってラオスは東南アジアのバッテリーと呼ばれている。 21世紀に入り、外国企業の投資促進のため、国内に経済特別区が設けられ、2012年には10か所となった。南部パークセー郡には日系中小企業向けの特区も開設されている。中国やタイなどの賃金水準が上昇する中、安い労働力を求める企業の注目を集めている。海外からの援助や投資により、2008年には7.8%の経済成長を実現している。 とりわけ隣の大国である中国の進出は目覚ましく、官民挙げて中国から業者や労働者がラオスに流入している。2007年には、ヴィエンチャンに中国系の店舗が集まるショッピングモールが出来た。また、首都には中国が建設した公園が完成し、ダム工事など主に日本が行ってきたインフラ整備にも進出している。 2012年の世界貿易機関(WTO)加盟により関税引き下げの動きが進んでおり、また、2015年にはASEAN経済共同体のメンバーとして域内の貿易が自由化することで、物流リンクの拠点としての位置づけを高める政策がとられている。 農業 少ない人口が満遍なく分散して暮らすラオスでは、大部分の人は稲作を基盤とする農業を営んでいる。まず、自給米を確保して余剰分を販売し、現金収入とする。ラオス人の主食はもち米である。自給農業を基盤とした分散型社会である。 ラオスでは、毎年約220万 - 250万トンの米が生産されている。雨季には稲作を、乾季には野菜等の栽培を行っている農家が多い。2005年の生産高は、米57万トン、野菜類77.5万トンである。労働人口の約8割が農業に従事しており、GDPは低いが食料は豊富で、飢餓に陥ったり物乞いが増えたりするといった状況にはない。「貧しい国の豊かさ」と言われるゆえんである。 稲作は、平野部で行われる水田水稲作と山地の斜面を利用した焼畑陸稲作とに大きく分けられる。水田は、小規模な井堰で灌漑し、親から子へと相続し、人々はそこに定着している。焼畑は太陽エネルギーと水循環がもたらす森林植生回復力に依存した農業であるため、土地への執着は少なく、集落内外での移住を人々はいとわない。、現金収入を得やすいパラゴムノキの栽培をする地域が現れている。 メコン川流域は降雨量に恵まれて土壌が肥沃なため、葉菜類の栽培も多い。パクセー市郊外のボーラウェン高原は良質なコーヒー、キャベツ、ジャガイモの産地であり、コーヒーはラオス最大の輸出農作物となっている。また、農薬や肥料の使用がされてこなかったことから、無農薬栽培の作物を育てて輸出する動きもある。 林業 ラオスの山林にはマホガニーやチークなどの木材が豊富だが、19世紀からフランスが徹底的に伐採した。マツが主に日本に輸出されている。ラオス高地のマツは樹齢数百年という巨大で良質なものが多く、年間3万立方メートルの山林が伐採されて日本へ送られる。2, 3級のクズ材は、ラオス国内とベトナムのバイヤーに売られる。マツとともに常緑森林が根こそぎ伐採されるため、保水機能が大きく損なわれて大きな問題となっている。 鉱業・エネルギー ラオスの鉱業資源は未開発な段階にある。例えば、肥料の原料などに利用できるカリ岩塩の大規模な鉱床が発見されており、面積は30km2に及ぶ。スズ鉱床の埋蔵量は100億トンに及ぶと見積もられている。アンチモン、硫黄、金、タングステン、鉄、銅、鉛、マグネシウム、マンガンの鉱床も発見されている。 しかしながら、険しい山脈が縦横に広がる国土、未整備な交通インフラなどのため、2003年時点では、石炭(29万トン)、スズ(300トン)、塩(5000トン)に留まっている。唯一開発が進んでいるのは宝石であり、1991年にはサファイアの生産量が3万5000カラットに達した。 ラオスは落差が大きい河川が多い割には人口が少なく、工業の発展が遅れている。このため水力発電所の建設が相次ぎ、タイなどに電力を輸出している。ただ国内の送電網整備が遅れているため、売り先のタイから電力を輸入する矛盾も抱えている。 製造業 内陸国であり、外洋に面した港を持っていない。メコン川は大型船も航行できる川幅はあるが、ラオス南部にコーンパペンの滝群があるため、外海から遡上できない。こうした物流面でのハンディは、外海に面した港湾を持つ周辺諸国との道路・鉄道整備により克服されつつある。このため、賃金上昇や人手不足に直面しているタイに比べて労働力が豊富で人件費が安い「タイ+1(プラスワン)」の対象国として、カンボジアやミャンマーともに注目されている。ただ現状では製造業は発展途上で、市場に並ぶ工業製品の大半はタイ製か中国製である。 かつて近代的な設備を備えた大きな工場は、ビールや清涼飲料水などを生産する国営のメーカー「ビア・ラオ」が目立つ程度であった。ラオスの酒と言えば米を原料とする焼酎ラオ・ラーオがあるが、生産は家内制手工業レベルにとどまる。伝統的な織物も名高いが、多くは農家の女性たちの副業として手作業により作られている。 観光業 1986年のソ連のペレストロイカの影響を受け、ラオスでもチンタナカーン・マイ(新思考)と呼ばれる市場経済導入が図られた。これは、中国の改革開放、ベトナムのドイモイ(刷新)と同様の、社会主義体制の中に資本主義のシステムを取り入れようという試みである。共産主義政権樹立以降ほぼ鎖国状態にあったラオスであったが、チンタナカーン・マイ以降自由化と開放が進み、上記の経済の項目にある通り、政府がラオス観光年を設定しプロモーションを行って観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。ルアン・パバンの町とワット・プーなどの2つの世界文化遺産や、ジャール平原、多くの仏教寺院などが年間300万人を超える外国観光客を呼び、外貨獲得の大きな産業となっている。プロモーションのため、日本では2007年9月23日-24日、東京の代々木公園でラオスの魅力を紹介する第1回ラオスフェスティバル2007が開催された。 国民 2011年時点での人口は656万人であり、2000年以降は年10万人ペースで右肩上がりに着実に増加している。 人口密度は、1 km2辺り24人。ちなみに、ベトナムは256人、タイは132人、中国・雲南省は114人、カンボジアは82人、ミャンマーは74人であり、ラオスは人口が少ないことが分かる。ラオスには、大きい人口を抱える広大な地域がない。たとえばベトナムの紅河デルタ、メコンデルタ、タイのデルタ、ミャンマーののような政治・経済の中心地になる地域がない。最大の人口を抱える首都ヴィエンチャンでも人口71万人である。 民族 一番多いのは人口の半分以上を占めるラオ族(ラーオ族)であり、それに50程度の少数民族が続く。しかし、ラオス政府はラオス国籍を持つ者を一様にラオス人として定義しているため、公式には少数民族は存在しない。 1950年以降は次のように大きく3つに分けられており、それぞれの人口比率は60対25対15である。その区分の有効性は疑わしいが、この区分が国民の間に広まっている。 ラオス政府の定義するラオス人は住む地域の高度により、低地ラーオ族(ラーオルム、国民の約7割、ラオス北部の山間盆地)、丘陵地ラーオ族(ラーオトゥン、国民の約2割、山麓部に居住、水田水稲作と焼畑の両者を組み合わせ)、高地ラーオ族(ラーオスーン、国民の約1割、山深くに居住、陸稲・トウモロコシを焼畑で栽培)に分けられる。 低地ラーオ族 川の流域の平野、平地に住む人々、国勢調査(2005年)8民族。タイ族系民族。ラオスの先住民ではない。メコン河沿いのルアンパバーン、サワンナケート、チャムパーサックの平野、シェンクワンやカムムアンの高原などに居住し、人口を増やしていった。水田水稲作、高床住居、天秤棒で運搬、母系制、上座部仏教信仰。 丘陵地ラーオ族 産地の中腹、丘陵地に住む人々、モン族 (Mon)・クメール系民族。ラオスの先住民族。北から南の山の中腹(300 - 800メートルくらい)にラオス中に広く居住。特に南部に多い。山の斜面で焼畑、狩りに長じる森の民族。国勢調査(2005年)32民族。最多がクム族の61万人、最少はクリー族が500人未満(1995年統計よりさらに減少)。存亡が危惧される民族も多い。南部の世界遺産プラーサート・ワット・プーその他のクメール遺跡を残す。 高地ラーオ族 山の高地、頂上近くに住む人々、モン族 (Hmong)・ミエン(Mien, メオ・ヤオ)系民族、チベット・ビルマ系民族。ラオスで一番新しい住民たちで、18世紀から19世紀にかけて、中国の雲南省や四川省などから移住してきた人々である。中国清朝時代の少数民族に対する圧政に耐えかねて逃れてきた人々も多い。中国、ベトナム、タイ、ミャンマーなどの国境の山岳地帯にまたがって、広がって住んでいる民族である。これらの民族は、焼畑でうるち米やトウモロコシを作って生活している。文字を持っていない。 実際には、フアパン県にカム族、タイデン族、タイダム族、モン族、青モン族、黒モン族、ヤオ族が、ウドムサイ県にはモン族が、 ポンサーリー県にはアカ族とタイダム族が、ルアンナムター県にはランテン族、黒タイ族、タイルー族、タイダム族、アカ族、イゴー族、ヤオ族、モン族が住んでいる。 このような標高による住み分け分布ができたのは、紀元前からモン・クメール系の人々がこの地域に暮らしていたが、9世紀頃からタイ系の人々が南下してきたことに端を発する。その後、清代末期の19世紀後半からモン・ミエン系やチベット・ビルマ系の人々が中国南部から移住してきた。漢人の支配・干渉を嫌い移住してきたと言われている。 言語 各民族語が話されているが、公用語に定められているのはラオス語(ラーオ語)である。ラーオ語とタイ語は同一言語に属する個別の地域変種の関係(平たく言えば、ラーオ語とタイ語はそれぞれが互いに方言関係)にあるが、ラオスではタイからの影響力を遮断するため、ラーオ語の独立性を強調する傾向にある。 英語は、ホテルや旅行者向けのレストランなどではほぼ通じる。また、でフランス式教育を受けた者や政府幹部、エリートなどにはフランス語も通用する。 宗教 宗教は上座部仏教が60%、アニミズムやその他の宗教が40%であるが、しばしば仏教とアニミズムが混同されて信仰されていることがある。その他ラオス南部ではキリスト教も信仰されている。 19世紀まで続いていたラーンサーン王朝では仏教が国教とされていた。しかし、ラオス人民民主共和国成立後、仏教は特別な保護を受けなくなった。ただし、農村の地域コミュニティーと仏教寺院は密接な関係を保ち続けている。そのため、ラオス人民革命党も「党の理念・思想と一致する」と明言するなど、仏教との関係を意識している。 婚姻 ほとんどの女性が夫の姓に改姓する(夫婦同姓)が、改姓しない女性もいる(夫婦別姓)。 文化 音楽 芸術 映画 食文化 世界遺産 ラオス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。 ルアン・パバンの町 - (1995年) チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群 - (2001年) シエンクワーン県ジャール平原の巨大石壺遺跡群 - (2019年) 祝祭日 スポーツ サッカー ラオス国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1990年にサッカーリーグのラオス・リーグが創設され、2013年にプロ化された。ペプシコーラがリーグに協賛しており、「ペプシ・ラオ・リーグ1」と呼ばれている。ラオスサッカー連盟(LFF)によって構成されるサッカーラオス代表は、これまでFIFAワールドカップやAFCアジアカップには未出場である。東南アジアサッカー選手権には12度出場しているが、全大会でグループリーグ敗退となっている。 社会問題 人身売買 2017年2月20日、裕福な中国人との偽りの結婚話で騙され、売春をさせられる女子高校生が増加していると地元メディアが報じた。以前より結婚や就職を隠れ蓑にしてタイへ少女を売る被害が報告されていたが、このタイルートに加え、中国ルートが増加していることが人身売買を調査しているNGO団体職員により判明している。被害少女の多くは高校2、3年生が主体で、結婚のために学校を中退する。中国人は首都ヴィエンチャンを含むラオス全土で少女らに声をかけており、ラオス政府も事態を把握している。旧来から存在するタイルートでは役人への賄賂が常習化し、一つのビジネスとなっているが、中国ルートも同様になっている可能性が高い。ラオス国内の人身売買の実態は公式の調査が行われず、正確な被害数すら把握されておらず、人権団体の調査も政府機関の不透明な対応で妨害されがちであるという。 メディア ラオスの新聞は、英語新聞『ヴィエンチャン・タイムズ』(Vientiane Times) およびフランス語新聞『ル・レノヴァテュール』(Le Rénovateur) を含めて全て政府機関発行である。更に、公認通信社カオサン・パテート・ラオ (Khaosan Pathet Lao, Lao News Agency) が同名の英仏語版新聞を発行している。主なラーオ語新聞としては『パサション』(Pasaxon)、『ヴィエンチャン・マイ』(Vientiane Mai Newspaper) がある。 ラオスでは、ラオス国営ラジオ (Lao National Radio, LNR) の放送が中波、短波、FMにて行われている。テレビは、ラオス国営テレビ (Lao National Television, LNTV) が2つのチャンネルで放送されている。また、タイのテレビ放送を視聴している人も多い。 一方で国境なき記者団が発表している世界報道自由度ランキングの2009年版では、中華人民共和国に次いで低い169位に選ばれている。 インターネット メッセージのやり取りにはWhatsAppやLINEといった外国製アプリの利用者が多いが、ラオスの通信会社シリチャルーンサイと政府が共同開発した「LoudChat」(ラウドチャット)のサービスが2022年4月に始まった。言論への監視・統制が行なわれているが、SNSでは政府批判が投稿されることもある。 著名な出身者 脚注 注釈 出典 参考文献 菊池陽子・鈴木玲子・阿部健一編著『ラオスを知るための60章』2010年、東京、明石書店 ISBN 978-4-7503-3309-0 関連項目 ラオス関係記事の一覧 ラオス人民革命党 ラオス人民軍 日本とラオスの関係 駐日ラオス大使館 在日ラオス人 一党独裁制 外部リンク 政府 法律 憲法(日本語訳) - 法務省法務総合研究所国際協力部のウェブサイト内。 ラオス法制度の概要 - 法務省法務総合研究所国際協力部のウェブサイト内。法整備支援を通じて得られた知見を整理したもの。統治機構、司法制度、法体系、立法手続など。 ラオス民法教科書作成支援について - 法務省法務総合研究所国際協力部のウェブサイト内。法整備支援の展望のほか、ラオス民法の概要や特色を解説。 ラオス民事判決書マニュアル及び附属判決例1-4(日本語訳) - 日本の法整備支援を受けて作成された。従前のラオスの判決の特色や支援の経過などは、 ラオス法制度整備プロジェクト-民事判決書マニュアル-を参照。 ラオス政府観光局 ラオス国営航空 日本政府 日本外務省 ラオスの情報 在ラオス日本国大使館 その他 ジェトロ - ラオス 日本アセアンセンター - ラオス ヴィエンチャン・タイムズ ル・レノヴァテュール カオサン・パテート・ラオ パサション ラオス国営ラジオ ラオスフェスティバル公式サイト 地球の歩き方 - ラオスの旅行・観光ガイド JTB - ラオス観光ガイド LAODI - ラオス産の世界的無農薬クラフトラム酒 共和国 社会主義国 内陸国 東南アジアの社会主義 フランコフォニー加盟国 国際連合加盟国 後発開発途上国
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Garnet%20OS
Garnet OS
Garnet OS(ガーネットOS)は、ACCESS Systems(旧PalmSource)が開発・ライセンス提供するPDA用オペレーティングシステム (OS)。旧称Palm OS。 概要 1996年にパームが開発し、Palm OSの名前で自社のPalm機の搭載用OSとして世に出した。 グラフィティと呼ばれる独特の手書き入力法を採用したほか、起動などの待ち時間が短い軽快な動作と使い勝手の良さからPalmデバイスは大ヒット。 その後、Handspringやソニーなど多くのメーカーがPalm OSを採用した互換機を発売した。 OSの開発はその後、Palm本社から分離独立したPalmSource(現ACCESS Systems)社が担当することとなり、2004年2月にはPalm OS CobaltとPalm OS Garnetに分化した。 Palm OS Cobalt(コバルト)はもともとPalm OS 6として開発されてきたバージョンで、ハイエンド向け。Palm OS Garnet(ガーネット)は従来のPalm OS 5の進化系で、エントリーモデルに窓を開きつつ機能の強化を図っている。 数字でなく元素や宝石の名前をつけたのは、後者が前者の下位システムという位置づけではなく、それぞれ独自に発展していくことを示す狙いがあるとされる。 実際、ACCESS SystemsによればCobaltはそのソースコードの大半が書き直され、Garnetとは別物に仕上がっているという。 2007年1月25日に、ACCESS Systemsは、Palm OSの名前をGarnet OSに変更すると発表。Palm OS搭載機に刻印されていた「Palm Powered」のロゴも「ACCESS Powered」に改められた。 製品シリーズの一覧 Palmデバイスを提供している(いた)メーカーと、製品ブランドの一覧。 パーム(旧・palmOne) PalmPilot(この名称はパイロットの商標権を侵害していたので使えなくなった。) Palm Tungsten Tungsten T5(フラッシュメモリーを搭載) Zire Treo(Handspring を買収) LifeDrive(4GBのMicroDrive搭載) Handspring Visor Treo ソニー CLIE(2005年7月販売終了) IBM WorkPad(PalmのOEM) WorkPad 31J(PHS内蔵) TRG TRGpro HandEra 330 Tapwave Zodiac1 Zodiac2 脚注 関連項目 パーム (企業) ACCESS Systems (旧称・PalmSource) Palm WebOS Handspring CLIE モバイルオペレーティングシステム 組み込みオペレーティングシステム 携帯情報端末 1996年のソフトウェア
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https://ja.wikipedia.org/wiki/OCaml
OCaml
OCaml( 、オーキャムル、オーキャメル)は、フランスの が開発したプログラミング言語MLの方言とその実装である。MLの各要素に加え、オブジェクト指向的要素の追加が特長である。かつては Objective Caml という名前で、その略として OCaml と広く呼ばれていたが、正式に OCaml に改名された。 概要 もとはCamlという名前の、MLの方言の処理系実装、および言語であった。この名前はcategorical abstract machine languageの頭字語に由来する(:en:Categorical abstract machineも参照)。やがて、categorical abstract machineよりも効率の良い抽象機械ベースに書き直され、クラスや継承などクラスベースオブジェクト指向の言語機能が追加され Objective Camlという名前になり、その後、略称だったOCamlを正式な名前とした。ウェブサイトの概要説明では「OCamlはCaml派生の言語の中で最も知られたものである」としている。もとの処理系も配布され続けており、Caml Lightという名前になっている。英語ではCamlはcamel(ラクダ)と同様に発音されており、アイコン等にもラクダを使っている。 MLの特徴の他に、関数型とオブジェクト指向の両方を併せもつことが特徴的である。ただしそのため、オブジェクト指向を利用した破壊的操作を伴うプログラムがかなり容易に書けてしまう。また、多相バリアント型という特殊なバリアント型により(通常のバリアント型については代数的データ型を参照のこと)、サブセットとスーパーセットの関係になっているバリアント型などを記述できるなどといった特徴もある。 処理系としての特徴は、関数型言語としてはかなり高速に動作することが挙げられ、gccでコンパイルされたC言語と互角かやや遅い程度と言われる。 関数型言語としては比較的アプリケーションの数が多く、例えばMediaWikiにおいてTeXの記述からHTML、MathMLおよび画像の数式を生成するプログラムもOCamlで記述されている。 Caml Caml は OCaml の前身であるMLの方言とその実装である。現在も Caml Light という名前で配布され続けている。 MinCaml MinCamlは、ペンシルベニア大学(当時)の住井英二郎がOCamlで実装した、Caml似のMLの小型版である。同作者により、コンパイラが OCaml 自身で書かれている。MinCaml は、2004年度の未踏ソフトウェア創造事業に採択された。 MinCaml コンパイラは教育目的での利用を主眼としている。わずか2000行前後のコードで書かれており、実装されている機能はMLのサブセットである。バックエンドはSPARCとx86に対応しており、ある程度の学習をすれば比較的容易に改造を行うことができる(実際、有志によってPowerPC用に出力できるバージョンも提供されている。バックエンドをLLVMに置き換えた例も報告されている。)。実際に東京大学理学部情報科学科などで教育目的に利用され、国内における OCaml および関数型言語の普及と理解に一定の役割を果たしている。 速攻MinCamlコンパイラ概説 - MinCamlの配布・解説(SourceForge.net) Moscow ML CamlやOCamlのような方言ではなく、SML(Standard ML)の処理系の実装にCaml Light利用している。完全なSMLを実装する。 その他 OchaCaml など、研究用の改造のベースとして、規模の大きくなった OCaml ではなく Caml(Caml Light)を利用する例がみられる。 プログラム例 以下の例は、プログラム自体としてはMLと比べ特別なものでもないし、オブジェクト指向を活用したものでもないが、OCaml を含む Caml では旧来のMLや Standard ML からの記法や演算子や名前の変更が多く、簡単なプログラムでもそのままではエラーになるものが多いので、ここでは OCaml のコードを示す。 特徴として、型推論の活用により、多くの場合に型の宣言が必要なく、一部の静的型付き言語にありがちな煩雑さがないことが挙げられる。 Hello World Hello world の例を示す。以下のプログラム hello.ml は、 print_endline "Hello world!";; 以下のようにしてバイトコードにコンパイルされる。 $ ocamlc hello.ml -o hello 以下が実行結果である。 $ ./hello Hello world! $ クイックソート クイックソートのコード例を示す。MLは多くの関数型言語と同様、再帰処理に秀でる。また、Haskell などにも見られるパターンマッチの機能がここでも使われている。 let rec quicksort = function | [] -> [] | pivot :: rest -> let is_less x = x < pivot in let left, right = List.partition is_less rest in quicksort left @ [pivot] @ quicksort right チャーチ数 以下は、ラムダ計算の教科書などに見られる、自然数ののコード例である。 let zero f x = x let succ n f x = f (n f x) let one = succ zero let two = succ (succ zero) let add n1 n2 f x = n1 f (n2 f x) let to_int n = n (fun k -> k+1) 0 let _ = print (add (succ two) two) チャーチ数nは、高階関数として表され、関数fと値xを受け取りxにn回fを適用する関数として定義されている。チャーチ数nを自然数nに変換するには、チャーチ数(実体は関数)に、インクリメントする関数と初期値0を渡せばよい。MLは関数型言語であるため、数学的なプログラミングの理論そのままに、記述することができる。 OCaml で書かれたソフトウェア FFTW – 離散フーリエ変換を高速に行う高速フーリエ変換のライブラリ。C言語のコードを出力するgenfft という OCaml プログラムが使われている。 Unison – 二つのディレクトリのファイルを比較し同期をとるプログラム。 Mldonkey – EDonkey network 用の P2P クライアント。 GeneWeb – マルチプラットフォームの、フリーの家系図ソフトウェア。 Haxe – オープンソースのプログラミング言語およびコンパイラ実装。 Frama-c – C言語のプログラムを解析するためのフレームワーク。 Coq - INRIAで開発されている定理支援証明系言語。 Flow - JavaScriptの静的型チェッカー。Facebookにより開発されている。 fbinfer - Java、C言語、C++、Objective-C 向けの静的解析チェッカー。Facebookがオープンソース化した。 Tezos - 自己進化型のスマート・コントラクト プラットフォーム。XTZ を仮想通貨とする。 参考文献 脚注 関連項目 HDCaml F Sharp 外部リンク Objective Caml 入門 OCaml プログラミング入門 OCaml.JP OCamlチュートリアル ODT: OCaml Development Tools PLEAC-Objective CAML 関数型プログラミング言語 オブジェクト指向言語
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Eiffel
Eiffel
Eiffel(アイフェル、エッフェル)は頑健なソフトウェアの生産に注力したオブジェクト指向プログラミング言語である。 概要 1985年にバートランド・メイヤー()によって考案された。その文法はPascalを連想させるものである。Eiffelは静的な型指定を強く指向しており、かつ動的なメモリ管理(一般的にガベージコレクションにより実装される)を備えている。 少し前、オブジェクト指向の教科書的言語といえば、SmalltalkかEiffelか、という状況で、手続き型言語でのPascalのような存在であった。多重継承、ガベージコレクションといった特徴があるが、設計者によってライブラリのメンテナンスが重視されており、契約による設計()の概念が全面に打ち出されている。同じくオブジェクト指向を取り入れた言語であるJavaほどは普及していない。Assertionなど、Javaが追いかけているところもあるが、インタフェースによる継承、GCあり、とかぶるところが多い。 また、C/C++のようにネイティブコードを直接生成するのではなく、C言語やJavaのコードを生成する、という特徴ももっている。 言語名の由来は、エッフェル塔ではなく、その設計者ギュスターヴ・エッフェルである。 基本構成 Eiffel のソースは以下のように記述する。 -- コメント class クラス名 inherit 継承元のクラス(継承しない場合は省略可) creation コンストラクタの宣言(コンストラクタが必要ない場合は省略可) feature{アクセス権限} メンバ変数、メンバ関数の記述 end Eiffel は「クラスとはオブジェクトの生成機である」という考え方が徹底しており、このため両者の概念を混同するようなクラス変数やクラスメソッドの機能は存在しない。このことは「クラスもオブジェクトの一種である」と考える Smalltalk とは対照的である。 また「クラス」に対する考え方も独特で、例えば Java ではソースファイルをコンパイルすると「クラスファイル」というファイルを作るのを見てわかるように、一般的には「ソースコード」は「クラスの設計図」という概念であるのに対し、Eiffel では「クラス」とは「ソースコードそのものである」という考え方である。コンパイルして生成されるファイルは「クラス(ソースコード)によって作られたインスタンス」という考え方であり、このため Eiffel ではメインルーチンに相当する処理をコンストラクタで行う。 コンストラクタはcreation下で宣言されたメンバ関数が使用される、このメンバ関数はどんな名称でも構わないが慣例的にmakeとする場合が多い。作成したクラスを使用する場合は x :(クラス名) !!x.(コンストラクタ名) でインスタンスを作成する(コンストラクタが指定されているクラスは上記の構文中で必ずコンストラクタを呼び出さなければならない)。 クラスの継承を省略した場合は ANY というクラスの継承クラスとして扱われる。入出力などのグローバルな機能は ANY クラス内で定義されており、各 Eiffel のクラスではこれらの機能の実装に関して考慮をする必要性がないようになっている。 なお、Eiffelはクラス名は全て大文字で書かなければならないという命名規則がある。 rename と redefine Eiffel の特徴の一つとして、継承における細かい指定が可能ということが挙げられる。例えば class A feature method1 is io.put_string("Hello from A") io.new_line end end class B inherit A feature method1 is io.put_string("Hello from B") io.new_line end end というコードがあるとする(ioは標準入出力を扱うインスタンスで、ANYクラスのメンバである)。これは A というクラスを継承した B というクラスに同じ名前のメソッドがある場合である。このとき class C creation make feature a : A b : B make is do !!b a := b b.method1 a.method1 end end というコードを実行したとき。b.method1 はおそらく B で定義されたメソッドが動くと誰もが期待するだろうが、a.method1 で実行されるメソッドは A と B どちらで定義されたものだろうか?この場合の処理は言語によって異なっており例えばC++の場合は A で定義されたメソッドが実行され、Javaの場合は B のメソッドが実行される。すなわち言語によって動作が違うため作成者の勘違いなどによって混乱を招くおそれがある。 Eiffelでは実のところ、どちらが実行されるか以前に上記のような例ではコンパイルすることができないことになっている。すなわち Eiffelのメソッドは全てデフォルトでは継承不可である。しかしこれでは、あまりに制約が強すぎるため、同名のメソッドを定義する必要性があるときは、継承クラスの作成者がどちらを実行するかを指定することが出来る。 具体的には rename と redefine という機能があり、上記の例では A で定義されたメソッドを実行したい場合は class B inherit A rename method1 as method2 end とする。この場合クラス B では A のメソッドを method2 という名前に改名させて、名前の衝突を防いでいる。B のインスタンスでも、クラス A のインスタンスとして扱われた場合(上記の例のような場合)は A の method1 が実行され、クラス B のインスタンスとして扱われた場合は B のmethod1 が実行される。B のインスタンスとして扱われた状態で A の method1 を実行するには上記の例では b.method2 とすればよい。これらの改名による効果は継承先と継承元の他、多重継承時のメソッド同士の衝突にも使用できる。 逆に A のインスタンスとして扱われる場合でも B の method1 を実行したい場合は以下のようにする。 class B inherit A redefine method1 end この場合、クラス B はクラス A の method1 を継承時に破棄しクラス B で再定義することを示している。クラス B のインスタンスは A、B どちらで扱われても method1 はクラス B のものが実行され、クラス A の method1 はもはや実行されることは無い。なお再定義を宣言された method1 は必ずクラス B で再定義しなければならず、再定義していない場合はコンパイルエラーとなる。 このように、Eiffel ではクラスの継承時に継承クラスの作成者がメソッドの扱いを自由に設定することができる。 コンストラクタの非継承 Eiffel の特徴の一つとして多重継承をサポートしていることが挙げられる。 多重継承時に問題となるものの一つとして、継承した二つの(あるいはそれ以上)のクラスのどちらにもコンストラクタが定義されている場合、二つのクラスのどちらのコンストラクタが実行されるか?というものがある。Eiffel の他に多重定義をサポートしている C++や Python では継承元のコンストラクタの実行順に複雑な規則が導入されている。 Eiffelではコンストラクタは継承されないことになっている。このためコンストラクタの実行手順といったものは原理的に存在しない。どうしても継承元のコンストラクタを使用する必要がある場合は、継承時に rename でコンストラクタとして宣言されているメソッドを改名し、改名したメソッドをコンストラクタ内で実行することで実装できる。 脚注 外部リンク Eiffel.org SmartEiffel The GNU Eiffel Compiler - SmartEiffel (GNUプロジェクトによるフリーのEiffelコンパイラ)配布ページ 形式仕様記述言語 オブジェクト指向言語 エポニム
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Sather
Sather
Satherはカリフォルニア大学バークレー校(UCB) と提携し、ICSI(International Computer Science Institute)によって開発されたオブジェクト指向プログラミング言語である。 言語仕様は、初期にはEiffelのサブセットであり、言語の基本的な枠組みや構文や表記もEiffelから大きく影響を受けている。Satherの名称もEiffel Towerに対し、カリフォルニア大学バークレイ校の構内にある、同校のシンボル的存在「Sather Tower」からとっている(塔つながり)。しかし、後には独自の拡張・工夫が、特に効率の面で多くなされている。 特徴 Satherは、ガベージコレクションを持ち、強く型付けされた、多重継承をベースにしたオブジェクト指向言語である。パラメータ化されたクラス、インタフェースの継承と実装の継承(include)の分離、動的ディスパッチ、イテレータ、高階手続き、例外処理、契約プログラミングなどの機能を持つ。 SatherはEiffelと同様にC言語にコンパイルされる。 pSatherはSatherの並行処理拡張版であり、分散処理にも対応する。 外部リンク GNU Sather http://www.icsi.berkeley.edu/~sather/ SATHER
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Prolog
Prolog
(プロログ)は論理プログラミング言語の一つであり、該当分野で最もよく知られている論理型言語の代表格である。主に人工知能研究や計算言語学との関連性を持つ。定理証明、エキスパートシステム、自動計画、自然言語処理とも繋がりが深い。一階述語論理と形式論理を基礎にして、事実群と規則群の表現および関係の観点に立った宣言型パラダイムに準拠しており、その関係に則った質問によって計算が開始されるという性質を持つ。 Prologは、1972年にマルセイユ大学のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ラッセルによって開発された。フランス語の「」がその名の由来である。Prologの誕生にはエディンバラ大学のロバート・コワルスキが考案したホーン節が大きく寄与している。カルメラウアーによる元祖版はマルセイユPrologと呼ばれている。その後、コワルスキの門弟のデヴィッド・ワーレンが1977年に改訂開発したエディンバラProlog(DEC-10 Prolog)が標準になってPrologは広く普及した。 概要 1972年ごろにフランスのアラン・カルメラウアーとフィリップ・ルーセルによって考案された。 成立の事情から、 プログラムは論理式とみなされ、その実行は述語論理によって述語が定義された環境における定理証明に擬して解釈されることが多い。利用者は論理プログラミングの枠組みを、取り分け述語論理を学習することで、この枠組みに極めて忠実なこの言語の基礎的な構造のほとんどを理解できる。その言語仕様はこの枠組み以外には考案者たちも含めてそれ以上の拡張をほとんど行っていないため、他のプログラム言語とは異なり、学習しなくてはならない概念や用語もまた、述語論理のものだけでこと足りる。基本的に計算機科学の新しい概念や新しい手法とは無縁である。ただし、SWI-Prolog等の処理系では様々な機能拡張の試みが行われている。一階述語論理は型理論や操作的意味論の研究論文で多数用いられており、今後、再注目される可能性がある。 述語論理と論理プログラミング のプログラムは一階述語論理に基づいてデータ間の関係を示す命題として記述され、処理系がそれらに単一化(ユニフィケーション)と呼ばれるパターンマッチングを施しながら、与えられた命題が成立するか再帰的手続きによって探索している。 プログラムの実行は述語集合が定義された環境の元で、質問することによってなされるが、これは反駁という述語論理的な証明過程を模して、処理系が用意する導出木と呼ばれるグラフをたどって解を得る過程である。 のもととなるこの演繹手法は導出と呼ばれ、自動定理証明の研究において 開発以前からよく知られていた。 は、導出において節を頭部が一つの命題からのみなるホーン節に限定したもので、この場合の導出をSLD導出(Selective Linear resolution for Definite clause)と呼ぶ。ホーン節に限定しているということは、つまり、Prolog は任意の述語をそのまま扱えるわけではない。Prolog が述語の形式をホーン節に限定した理由は、もし頭部に項の連言を認めるならば、導出時の計算量が爆発的に増大して、全ての解を得ることの保証が難しくなることが必至だからである。 述語論理を論理的な背景に持つことによって、Prolog のプログラムはその正しさを確認することが比較的容易である。同時に、プログラマは でプログラミングすることが何を意味するかを明確に理解した上で、プログラムを書いていくことができる。 非述語論理的な立場 上記は の一つの解釈である。一方、 というプログラム言語を述語論理という枠にはめないで捉える立場もある。導出、単一化、非決定性、双方向性、関係データベースといったこの言語に独特の機能とその表現力、記述力に着目し、そのプログラム言語としての可能性を率直に評価しようとするものだ。 新たに を学びたいと思う人は、他のプログラム言語を全く知らなくても、ソフトウェア科学的な予備知識や概念に不通であっても、単一化という単純なルールをほとんど唯一の基軸として、パズル的な、あるいはゲーム的な感覚にだけ導かれて、プログラムを簡単に書き進むことができる。さらに、どの言語にも比して平坦で、平明な言語構造を持つ はラベル名(アトム、関数名、述語名)に適切な意味性を付与することにより、自然言語の領域にも接近したプログラミングが期待できるほとんど唯一の言語でもある。 十分述語論理的な教養を持った上で を学び、そのプログラムを書くならば、短期間で高度で安定したプログラムを書くことができる。しかし、それを前提としないでも、 は冒険的で、未知の領域に満ちたプログラム言語なのである。 実はこれらの主張は、述語論理的な主張に隠れて、これまであまり強調されたことがなかった。 このような立場や主張が生まれる背景には、 が期待されたほどにはソフトウェア革新の担い手になり得ていない理由が、その後の数理論理学の学問的な評価をもって、プログラム言語としての可能性を十分検証することを放棄して、定理証明といった狭い目的へ封じ込めようとする風潮を生んだことにある、という反省がある。そのことを踏まえて、 が述語論理から成立したことにこだわらず、実在するプログラム言語として自由な視点からこの言語を見直そうとするものである。 記号処理用言語・人工知能言語 は の資産の多くを継承して間違いなく記号処理用の言語であるが、人工知能言語として分類されることも多い。これは、人工知能の世界では述語論理が古くから理論的な柱の一つとなっているからである。述語論理を基礎とするトップ・ダウン式の問題解決と同じく述語論理を基礎とする の駆動機構の相性は当然良いため、人工知能研究に広く利用されてきた。特にエキスパートシステムで多用されるプロダクションシステムにおいては、ルールを自然に自ら動的に変更できる能力を持つことと、後ろ向き推論と呼ばれる推論が の導出過程そのものであることから、その最も主要な記述言語の位置を占めてきた。 宣言型言語 は一階の述語論理に対応することから論理型言語に分類される汎用言語であるが、その主張の一行一行を独立して論理式とほとんど等価な表現で行うことから、最も代表的な宣言型言語と見なされている。 のプログラム単位である述語の各節の本体に現れる質問単位である副目標数は平均5個以内と極めて少ない。この副目標と各節の頭部に現れる引数の組み合わせによって得られる関係が述語の意味を構成している考えられる。これが宣言型とされるゆえんである。 <頭部> :- <本体>. % Prologの節は頭部と本体によって構成される。 % 述語定義は複数の節からなる。本体は幾つかの副目標からなる。 % 副目標の全てが真となった時に節の宣言は成立する(節は真となる)。 述語名(引数_1,引数_2) :- <副目標_1>,<副目標_2>. 述語名(引数_1,引数_2) :- <副目標_3> ・・・ 単一化 単一化は1960年代の述語論理理論の発展の鍵となった概念であるが、 が述語論理に導かれて機械による自動証明を実現するためのプログラム言語として成立したことから、必然的にこの言語の必須の最も重要な機構となった。単一化は副目標(質問)と対応する定義節の頭部のパターンが完全に一致するか、調べることで、節の選択を可能にする。さらに、 の実行順序等の制御は単一化のからくりを利用してプログラミングされる。 簡単なからくりでかつ極めて強力な単一化であるが実行コストも大きい、すなわち実行速度が遅くなる原因となる。さらに、パターンとして認識することと引き換えに、引数での関数評価は不可能になった。独立して節の本体で式評価を記述しなくてはならないため、数値計算ではやや冗長になる。 これらの点は、単一化の強力さとのトレードオフの関係になっている。 動的型付け 型付けは動的型付けに分類できるが、言語仕様の中に型概念は登場しない。上記の単一化、バックトラッキング、と論理変数の束縛においては独特のものがあり、その実行は型推論の実行過程に酷似している。既に はその引数の引渡し時に単一化という厳密なパターンマッチングを施すことに多大なコストを掛けた。単一化だけでプログラムをコントロールできる言語が であるといっても過言ではない。この単一化のみによる簡素で強力なプログラムコントロールの足を引っ張ることに成り兼ねない、型付けの強化は、 言語とその支持者によって受け入れられることはないだろう。 非オブジェクト指向言語 は言語による思考をモデル化して主語・述語といった意味での文中の述語を特に重視して記述する系である。この一点からも、対象物を中心に記述していくオブジェクト指向とは距離が大きい。述語論理以前にオブジェクトありきとする立場を一般には取らない。 いくつかの処理系では、オブジェクト指向言語としての拡張が行なわれているが、オブジェクトを中心に設計されることは、論理プログラミングを重視して記述される限りほとんどない。分類するならば、非オブジェクト指向言語に分類される。オブジェクト指向に拡張された言語としては Visual Prolog Logtalk が存在する。 オンメモリデータベース 後に述べるが の述語はその構造が頭部と本体と分かれていて、本体はルールを意味するため、全体として、ルールを持ったデータベース、演繹データベースとして捉えることができる。これはPrologプログラム全体がデータベースであるということだから、データベースの表現としては最強のクラスに属する。一方、事実を表す本体のない(強制的に真)頭部のみの定義節による述語は関係データベースとその集合論的な性質で一致する。収集した情報を一つの述語に対して多数の頭部のみを持った節の集まりとして定義することにより、オンメモリ関係データベースを構築することが可能である。しかし、Prologをデータベース管理システムとして捉えた場合、 assert、retract、setof、bagof、findall という組込述語を持つこと以外には、管理機構としての特別の組込述語が用意されている訳ではなく、ディクショナリ管理などのための述語定義をユーザが追加する必要がある。 非決定性と双方向性 関数型言語等、他のプログラミング言語と比較しての の特長は、上記、一階述語論理に基づくこと、単一化、データベース言語的性格の他に、非決定性と双方向性が挙げられる。 非決定性は、解が唯一とは限らない場合、処理系側から見てひとつの解に決定できない場合、外部からの選択の余地を与える。そういうことが当然可能なこととして述語は定義されていく。インタプリタトップではなく、導出を繰り返すプログラム内部にあっては、処理系側とした所を述語と置き換えて考えると、非決定性の述語の解を決定するのは、前方または後方に連接する質問(副目標)である。前方の副目標群から引数経由で与えられる情報によって副目標は一つの解を作り出すが、この解が真であるとするのは最終的に後方に連接する副目標である。この後方に連接した副目標が全て真となった場合に限り副目標は真となる。後方に連接する副目標のどれかが真にならなかった場合は、それが存在すればであるが別解を用意しなくてはならない。ここでも非決定性の述語、ここでは副目標から見ての解の決定権は、外部にあるということになる。 非決定性は導出の過程、取り分けバックトラックアルゴリズムと一体化しており、 プログラムの制御の根幹のひとつである。ただ、非決定性述語実行時に見られる論理変数の 束縛→解放→再束縛という遷移、すなわち一度束縛されたものが別のものに再度束縛されるということを好ましくないとする見方もある。 双方向性は、述語が実行された場合の返り値は真または偽だけであり、その代わりとして引数内の変数で値の授受を終始するのだが、このとき、入力として使われた変数が出力に、出力として使われていた変数が入力として使うことのできる述語となることがある。この性質を双方向性という。多くの場合、双方向性を持つ述語はそれ自体多義性を持つ。例えば append という3引数の述語は第一引数と第二引数に具体的なリストが来て呼ばれた時は、リストを結合する意味でよいが、第三引数がリストで第一引数と第二引数が変数の状態で呼ばれた場合その意味は、リストを分解する、がふさわしい。既に存在するリストを、それが結合されて存在したものと考え、それではどのように結合されていったか、あるいは、どのような組み合わせで結合されていったのかを、示していると解釈できる。 このような、双方向性は の述語自らがリバースエンジニアリング的開示能力を持ち、それを示していると捉えることができる。この性質は、Prologを含む論理型プログラム言語の持つ際立った特徴であり、プログラム作成時はもちろん、テスト、デバッグなどの検証の各段階でプログラムコードに対する見通しを向上させる。 プログラミングの難しさ プログラマは引数の単一化、再帰/失敗駆動等のプログラムパターンの選択、非決定性、双方向性といった特長をできる限り生かすことなどに配慮しながら、述語の骨格を決めプログラミングを進める。しかし、これらの特長、性質は複合した場合には相当に複雑であり、制御上相反する部分も多々ある。 では、述語論理を逸脱して計算量/資源量/制御の調整に当たる述語「!」(カット)を導入してこの問題に対処しているが、 プログラミングの難しさはこの調整部分に集中している。 歴史 誕生 の性格上、その歴史には定理の自動証明の研究が大きく関係している。1930年にジャック・エルブランは自動定理証明やPrologのベースとなる数理論理学上の基本定理であるエルブランの定理を発表した。エルブランの論文には で必須の単一化アルゴリズムもすでに含まれていた。 1950年代以降、計算機上での定理証明の研究が活発になり、ギルモアのアルゴリズム(1960)やデービス・パトナムのアルゴリズム(1958,1960) 、プラウィツによる定理証明への単一化アルゴリズムの導入(1960)などを経て、1965年のロビンソンによる導出原理 や1960年代後半のラブランドによるモデル消去の証明手続きの成果からひとつの結実期を迎えた。その数年後の1971年マルセイユ大学のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ルーセルのグループは自動定理証明システムとフランス語の自然言語解析システムとを組み合わせたコンピュータとの自然言語対話システムを作成していた。この際に自然言語解析システムも自動定理証明システムと共通の論理式という枠組みで構築できることに気が付き、論理式をそのままプログラムとして実行できる最初の を1972年に完成させた。これは数千年に及ぶ人類の叡智である論理学の成果をプログラム言語に置き換えたものと言えるが、現在の でプログラムの制御に使われるカットオペレータに相当する機能が最初から導入されるなど、現在の と同様、単なる定理証明システムではなくプログラミング言語として設計されたものだった。以下にその当時の プログラムの一部を示す。論理変数名の最初の文字が "*" で始まるなど、現在の とはシンタックスが異なる。 READ RULES +DESC(*X,*Y) -CHILD(*X,*Y);; +DESC(*X,*Z) -CHILD(*X,*Y) -DESC(*Y,*Z);; +BROTHERSISTER(*X,*Y) -CHILD(*Z,*X) -CHILD(*Z,*Y) -DIF (*X,*Y);; AMEN コワルスキと 彼らグループに理論的な助言を与えていたエジンバラ大学のロバート・コワルスキとデービッド・H・D・ウォレンは汎用機 上にマルセイユ大学とはシンタックスが異なる処理系を作り上げた。これは後に と呼ばれることになるが、ISO 標準規格を含む今日動作する 処理系はほとんどがこの系統のシンタックスに従っている。 desc(X,Y) :- child(X,Y). desc(X,Z) :- child(X,Y),desc(Y,Z). brothersister(X,Y) :- child(Z,X),child(Z,Y),dif(X,Y). コワルスキはその後、インペリアル・カレッジ・ロンドンに移り、1979年に集大成ともいえる「」を著し、その後のこの言語と論理プログラミングの研究に決定的な影響を与えた。 コワルスキの活動と の存在によって、英国は 研究の中心地となった。エジンバラ大学のW・F・クロックシンとC・S・メリシュの著わした「」は長く のバイブル本として利用された。エジンバラ大学からSRIインターナショナルに転じたディビッド・ウォレンは1983年 の仮想マシンコードである(WAM)を発表した。この後の 処理系の実装は、一旦C言語などでこの仮想マシンコードを実装して、その上で のソースコードをこのマシンコードに変換するコンパイラを用意するという手順を踏むことによって、開発を簡素化し実装上の標準化を図ることが普通になった。日本の新世代コンピュータ技術開発機構の マシン PSI は1987〜1988年頃に開発された PSI2 からこれを採用したし、その後開発された 処理系の多くはこの方式に従った。 1976年にSRIに留学していた古川康一はカルメラウアーらの 処理系のリストを見つけ帰国時に電子技術総合研究所に持ち帰った。当時電子技術総合研究所で推論機構研究室長をしていた渕一博はこのリストを解析して 処理系を走らせ、ルービックキューブを解くプログラムを作成するなど論理プログラミングに対する理解を深めていった。 1978年MITに留学中の中島秀之が「情報処理」誌に紹介記事を寄稿して、 は日本でも広く知られるようになった。 新世代コンピュータ技術開発機構と 1970年代終り頃、日本では通産省の電子技術総合研究所の渕一博を中心とするグループが論理プログラミングの重要性を認識して、日本のコンピュータ技術の基礎技術としてこれを取り上げることを提案する。これが最終的に1980年代の新世代コンピュータ技術開発機構の発足と活動につながった。総額約570億円の国家予算を約束されて1982年に新世代コンピュータ技術開発機構()は活動を開始する。 を含む論理型言語はこの研究の核言語と位置づけられ世界的な注目を浴びることとなる。約10年間の研究活動中に と論理プログラミングの研究は急激に深化した。実際1980年からの20年間に をメインテーマにした日本語の書籍は約50冊発刊された。ICOT の研究員は積極的に Prolog の啓蒙に努め、講習会、チュートリアル、ワークショップを年に一度ならず開催した。 が主催したロジック・プログラミング・コンファレンスは1983〜1985年頃をピークに若い研究者達を刺激した。研究活動前半の期間では論理型言語の実用性を証明するために、マシンが設計され、三菱電機と沖電気によって製作され、 の他大学等研究機関に配布された。この個人用逐次推論マシン PSI の機械語 KL0 は単一化やバックトラックなど の基本的特徴を完全に備えていた。この KL0 によって、PSI のマイクロコードを制御した。KL0 を基礎として、オペレーティングシステム が設計され、これを記述するために、 にオブジェクト指向プログラミングを取り入れた ESPが近山隆により設計されて使われた。ESPは多重継承を特徴とする当時としては先鋭のオブジェクト指向言語であったが、後にカプセル化の不備などが指摘されて、今日あまり話題となることはない。しかし、OSを記述するという課題を通じて、論理型言語にオブジェクト指向言語的要素を加えることによって、可読性が高まりプログラム管理がしやすくなることが確認された。その反面、 のみでオペレーティングシステムを完全に記述してみる絶好の機会を逸したことも確かである。ESPはPSIを前提にせずに利用できるように、C言語で書き直したCESPが開発されたが、これが普及への起爆剤になることはなかった。後に述べるように、PrologのISO標準規格のモジュール仕様としてESPの採用が否決された1995-6年頃以降はほとんど利用されることはなくなった。 ここまで述べたように、Prologは によって持ち上げられた言語 との印象が強いが、 というプログラミング言語から見ての の影響は実は限定的だった。淵所長ら の主研究テーマは並列論理型言語にあり、研究後半では そのものからは離れて行くことになる。PSI に使用した電子基盤を利用して並列推論マシン PIM が製作されて、(GHC)に基づく並列演算処理を追加した KL1 が設計された。この環境に依存する形で、並列論理プログラム言語のKL1は知識プログラミング全般の研究に利用された。PSI と を使った研究も続けられはしたが、割り当てられた研究員の数は極めて少なかった。 の活動を総括して、知識プログラミング各課題において準備不足からくる未消化を指摘する向きが強いのだが、こと から見ての前半期の活動は、今日語られることも少ないが、極めて充実したものであったといえる。 の活動盛期の1984年京都大学の学生3名が研究課題として製作した がその性能の高さとアセンブラで記述されたことからくる高速性で世界を驚かせた。この処理系は 上で製品化されて の普及に大きく貢献した。 や末尾再帰の最適化など高い安定した性能で黎明期のパソコン上のビジネスソフトの基礎言語としての展開も期待されたが、16ビットの整数しか持たず、浮動小数点数も扱えない仕様であったため、この分野への展開は起こらなかった。この点はアセンブラで記述されて簡単には拡張できない点が裏目に出た。結果としてこの仕様の乏しさが、日本のビジネスソフトが知識プログラミングの水準との間に横たわる分水嶺を越えることができなかった原因の一つとなった。 1990年代とISO標準規格 1990年代に入ると制約論理プログラミングが注目され処理系が多数誕生した。これは から見ると引数の論理変数間の関係(制約)を記述可能に拡張したものである。制約論理型言語は、変数評価に遅延実行などを持ち込むことが必要となるが、連立方程式をはじめとする多くの課題で より記述が柔軟になる。 の組込述語には引数が変数で渡るとエラーとなるものが多く、このため プログラマは変数が具体化されるように副目標の記述順序に気を配る必要がある。結果としてプログラミングに逐次性が生じる。制約論理プログラミングにおいては、後に変数が具体化されたときに検査されるための変数の間の制約を記述するだけで、この逐次性の拘束を解決して通過することができる。実はこの制約はPrologから見ても自然な拡張であり、むしろ の単一化が制約論理プログラミングの制約を「=」のみに限定したものだと解釈することができる。しかし、簡素で逐次的な性格を強く持つ の処理系に慣れた利用者が、制約論理プログラミングの述語中に更に変数制約の宣言を追加しなくてはならない負担を、受け入れているとは言い難い。制約論理プログラム処理系が のそれに置き換わる気配は、2013年11月現在においてもない。 ISO の標準化作業は1987年頃から作業委員会(WG17)が作られ、日本委員も情報処理学会から15名ほどがこれに加わった。1995年 ISO標準規格がISO/IEC 13211-1 Prolog-Part 1: General Coreとして制定された。さらに、2000年にはISO/IEC 13211-2 Prolog-Part 2: Moduleとしてモジュール仕様が追加して規格化された。モジュール仕様については日本委員から、ICOTによって作成されたESP(Extended Self-contained Prolog)を以てその標準とする案が出されていたが、これは否決された。 ISO標準規格はエジンバラ仕様 を基調に既に一家をなしていた など有力ベンダと主としてヨーロッパの学者を主体にこれに日本などの委員が参加して作成された。この規格は現在 Prolog 処理系の製作者に指針を与え、大きな逸脱を心理的に妨げる役割を果たしているが、組込述語の個々の仕様ではベンダの意向が強く反映されたものの、全体としては最初に述べた論理学的立場を尊重して保守的で極めて小さな仕様となっている。そのため多くの 処理系はこの規格の述語を搭載しつつ、独自の拡張部分を修正したり削除することに消極的である。結果として個々の処理系の互換性の乏しさは残り、それは の弱点として認識されている。 JIS規格も一旦は2001年にJIS X 3013:2001が、"標題 プログラム言語Prolog―第1部:基本部"が要約JISとして発行されたが、2012年1月に何ら実効を見ること無く、「周知としての目的は終了した」として廃止された。 人工知能ブームと 日本において、 の活動時期から1990年代前半に掛けては、いわゆる人工知能ブームの時期であり、人工知能研究への期待はこの時期再び異様に高まった。 マシンによる医療情報エキスパートシステムでの成果は、人工知能の研究の成果の一部は情報処理に於いても利用可能なのではないかとの夢を抱かせた。このような評価の中で は人工知能のアセンブリ言語的な位置づけを期待された。知識情報処理はこの水準の言語を基礎にその上側に築かれるべきだとの意味である。手っ取り早く利用可能な人工知能技術としてエキスパートシステムが選別され、これを支えるナレッジエンジニアの存在とそれを養成するための教育が必要とされた。 はその中心に存在した。日本も例外ではないが、日本以外の国では特に、 の名著は1990年代前半に刊行されている。これは、 の活動とは若干のタイムラグがあるが、この時期社会的に 人工知能向き言語としての に大きな期待が寄せられていたことの証しである。エキスパートシステムはビジネス分野において広範囲に応用可能な基礎技術であったが、このような低水準な分野への適用はあまり試みられず、この分野からの 言語への要請はほとんど見られないまま終った。 機械翻訳などの自然言語処理もまた人工知能の一翼を担う分野であるが、歴史的経緯から人工知能ブーム以前から、この言語に最も期待が掛けられた分野であった。しかし、左再帰問題の回避でトップダウン解析の明解さをいきなり殺がれた。さらに句構造文法への適用においては、 が得意とする、句構造に分解して意味に相当するグラフを形成することの他に、極めて膨大な辞書を構造体として定義する必要が展望された。この辞書作成は とは直接関係しないタスクであることから、次第に は句構造文法によるアプローチの前線から後退してしまった。統計的言語処理のアプローチでは、単一化等に多くの計算量を費やす は大量データを扱うのに不向きとされて、利用されることはほとんどない。自然言語処理のテキストの多くが を用いて解説されているにも関わらず、期待が大きかった割に実務的には、表面に現れている成果はIBM社のワトソン程度にとどまり、自然言語処理はむしろ 評価の足を引っ張る傾向にさえある。 以後の日本における衰退 日本においては、 解散後数年を経て、論理プログラミングと は急激に下火となる。先にあげたコワルスキの成果があまりにも完成されたものでその研究成果の範囲を越えることが難しかったこと、歴史的にプログラム言語でありながら論理学からの逸脱を厳しく制限され、自由なアイデアによるプログラミング言語としての発展・展開が困難に見えたことも研究者・技術者を離れさせた。そして、人工知能ブームもまた去って行った。企業等で続けられた研究開発も発表される機会が産業応用シンポジウム(INAP)などに限定され、人々の目に の成果が触れることは極端に少なくなった。 の多大な研究成果がネット上に閲覧可能な状態で置かれたが、 言語の処理系はインターネット時代の技術・流れに乗れず、初心者・初学者が利用するためのネット上での情報も他の有力言語に比べて少なく、新しい利用者を惹きつけることができなかった。パソコンのオペレーティングシステムとして が一般に普及し始めると、初心者教育にウィンドウの部品の展開を題材とするのに適したオブジェクト指向言語に人気が集中し、 は動作の遅い外れた言語のイメージを持たれるようになる。さらに21世紀に入ると がクラス概念を持たないため、マイクロソフト社による アーキテクチュアの共通言語基盤(CLR)の対象言語から外され、この傾向に拍車をかけた。ついには枯れた言語というニュアンスを含んでではあるが、「化石言語」と揶揄されるまでに至ったのである。 今日 盛時の勢いは失ったものの、 は各教育機関で主として論理学の教材として利用され続け、今日まで数万人の人が の講座を受講している。実務的に利用される機会が少ないにも関わらず、その素養を持つ人が大量に存在するという特異な位置にあるプログラム言語となっている。また、多くのプログラミング言語でその言語上にPrologインタプリタを制作してみることが難度の高い学習課題の一つとして採用され、その結果としてもPrologを理解しているプログラマは増加する傾向がある。 2011年夏 ブルース・A・テイト著『7つの言語 7つの世界』が出版され、その7つの言語の一つとして が紹介されたことから、多くの人々の関心を呼び起こし、この言語は突然に息を吹き返した。ダニエル・ジャクソン著『抽象によるソフトウェア設計』も翻訳されて述語論理に基礎を持つ形式記述言語 が注目されるなど、 に極めて親近した領域での議論がようやく活発になった。 2012年 イワン・ブラトコ著「」の第四版が11年ぶりに刊行されて、人々に は今でも活火山的な存在であることを印象付けた。また、世界的に利用されているアプリケーション自動生成ツール が によって書かれてからそれを他の利用言語に変換されて製品化されていることや、IBM 社のワトソンの根幹部分である言語解析部分と質問の生成部分を現在も が担っていることなどが次々と喧伝されて、応用面でも現役言語であることが改めて認識されつつある。さらに世界的な関数型言語への急激な関心の高まりによって、関数型言語と類縁性の高い論理型言語の盟主であり、人気関数型言語 の原像でもある への関心は再び強まってきた。 2013年 IBMはワトソンの商用化を積極的に進めることとし、研究開発要員を2000名に増強することを発表した。さらに2014年秋、ソフトバンクとの間でワトソンの日本語化で提携することが発表された。ソフトバンクは既にADSLの故障診断をPrologで開発して利用してきた実績があり、既に公開され、2015年春出荷が予定されている感情認識パーソナルロボットPepperでも中核部にPrologを採用することが予想されている。同社がワトソンと強く結びつくことによって、Pepperが将来ワトソンから情報を受け取ることによって、どのように強化されて、変化していくのかということが俄然興味深い問題に浮上した。同時に、その二つのシステムに跨って、Prologがどのような関わりを持つのか、役割を担うのかということも注目されている。 2021年8月4日に発表された"TIOBE Index for August 2021"で19位にランクされた。この指標は検索数や記事数などの指標であり、20位以内の復帰は2003年以来となる。世界的に話題性を取り戻しつつある証だろう。 今後 2016年 FLOPS で Ki Yung Ahn と Andrea Vezzosi の論文 Executable Relational Specifications of Polymorphic Type Systems で Prolog による Let多相の型推論器が発表された。あまり話題にはなっていませんが、昨今の型理論には一階述語論理が用いられており、型システムの実装実験において極めて簡略に記述出来るため、利用されていく可能性がある。 Prolog向けの集合論的型システムが実用化されれば、関数型言語学会において古くから用いられてきた数式をより形式的にできるようになるかもしれない。 処理系 多くの処理系は の基本機能以外に、制約プログラミングや並行プログラミングのための拡張機能や などの各種言語をライブラリとして含んでいる。 書籍 『プログラムの理論 コンピュータ・サイエンス研究所シリーズ』 Zohar Manna 著 五十嵐滋 訳 1975/1/25 日本コンピュータ協会 『人工知能の基礎 知識の表現と理解』 Daniel G.Bobrow Allan Collins 共著 渕一博 石崎俊 板橋秀一 太田耕三 大谷木重夫 黒川利明 桜井彰人 佐藤泰介 島田俊夫 田中穂積 田村浩一郎 溝口文雄 元吉文雄 山口喜教 横井俊夫 横山昌一 訳 1978/9/20 近代科学社 『日常言語の論理学』 オールウド・アンデソン・ダール 著 公平珠躬 野家啓一 訳 1979/9/25 産業図書 ISBN 4-7828-0011-8 『日本語の文法と論理』 坂井英寿 著 1979/11/25 勁草書房 『人工知能 岩波講座 情報科学-22』 白井良明 辻井潤一 共著 1982/4/9 岩波書店 『人工知能の原理 コンピュータ・サイエンス研究書シリーズ26』 Nils.j.Nilsson 著 白井良明 辻井潤一 佐藤泰介 訳 1983/1/15 日本コンピュータ協会 『最適化 岩波講座 情報科学-19』 西川偉一 三宮信夫 茨木俊秀 共著 1982 / 9 / 10 岩波書店 『言語工学 人工知能シリーズ2』 長尾真 著 1983/6/25 昭晃堂 ISBN 4-7856-3042-6 『Prologプログラミング』 W.F.Clocksin C.S.Mellish 共著 中村克彦 訳 1983/6/25 マイクロソフトウェア 『機械知能論 人工知能シリーズ1』 志村正道 著 1983/7/15 昭晃堂 ISBN 4-7856-3043-4 『Prolog』 中島秀之 著 1983/8/25 産業図書 『PROLOG入門 ソフトウェアライブラリI』 後藤滋樹 著 1984/4/10 サイエンス社 ISBN 4-7819-0352-5 『Prolog入門』 太細孝 鈴木克彦 伊藤ひとみ 佐藤裕幸 共著 1984/8/30 啓学出版 ISBN 4-7665-0146-2 『人工知能2 マグロウヒル コンピュータシリーズ』 E.リッチ 著 廣田薫 富村勲 訳 1984/9/1 マグロウヒル ISBN 4-8950-1172-0 『知識表現とProlog/KR』 中島秀之 著 1985/2/28 産業図書 『Prologプログラミング入門』 安部憲広 著 1985/3/20 共立出版 ISBN 4-320-02237-8 『エキスパート・システム ソフトウェア サイエンス シリーズ』 フレデリック ヘイズーロス レナルドA.ウォーターマン 編 ダグラスB.レナート 著 中島秀之 白井英俊 田中卓史 中川裕志 鈴木浩之 松原仁 寺野隆雄 斎藤康巳 平賀譲 片桐恭弘 訳 1985/6/27 産業図書 ISBN 4-7828-5002-6 『Prologとその応用2 プログラム作成支援 エディタ設計 自然言語設計 データベース』 溝口文雄 武田正之 畝見達夫 溝口理一郎 共著 1985/7/15 総研出版 ISBN 4-7952-6307-8 『人工知能の世界 コンピュータに関心あるすべての人のために』 田村隆一 柳原圭雄 唐沢博 共著 1985/9/16 技術評論社 ISBN 4-87408-168-1 『日常言語の推論 認知科学選書2』 坂原茂 著 1985/10/1 東京大学出版会 ISBN 4-13-013052-8 『PROLOGデータベース・システム』 D.リー 著 安部憲広 訳 1985/10/1 近代科学社 ISBN 4-7649-0106-4 『Prologのソフトウェア作法 岩波コンピュータサイエンス』 黒川利明 著 1985/11/8 岩波書店 ISBN 4-00-007681-7 『Prologと論理プログラミング』 中村克彦 著 1985/12/25 オーム社 ISBN 978-4-275-07266-5 『新世代プログラミング』 井田哲雄 尾内理紀夫 黒川利明 竹内彰一 外山芳人 渕一博 共著 1986/2/10 共立出版 ISBN 4-320-02259-9 『micro-PROLOGプログラム コレクション 人工知能のための』 山田眞市一 著 1986/3/25 サイエンス社 ISBN 4-7819-0435-1 『知識ベース入門』 石塚満 上野春樹 大須賀節雄 奥野博 小山照夫 白井良明 辻井恭一 速水悟 共著 1986/4/20 オーム社 ISBN 4-274-07287-8 『知識の学習メカニズム 知識情報処理シリーズ2』 国藤進 有川節夫 篠原武 北上始 原口誠 武脇敏晃 堀浩一 共著 1986/5/5 共立出版 ISBN 4-320-02262-9 『知識指向言語Prolog 人工知能プログラミングへの序曲』 小谷善行 著 1986/5/20 技術評論社 ISBN 4-87408-827-9 『協調型計算システム --分散型ソフトウェアの技法と道具立て--』 R.E.フィルマン D.P.フリードマン 共著 雨宮真人 尾内理紀夫 高橋直久 訳 1986/7/1 マグロウヒル ISBN 4-89501-030-9 『BASICで学ぶPROLOGシステム 言語と構造理解のために』 市川新 著 1986/8/20 啓学出版 ISBN 4-7665-0294-9 『Prolog-KABA入門 岩波コンピュータサイエンス』 柴山悦哉 桜川貴司 萩野達也 共著 1986/9/22 岩波書店 ISBN 4-00-007687-6 『Prolog入門』 古川康一 著 1986/9/30 オーム社 ISBN 4-274-07308-4 『自然言語の基礎理論』 石川彰 松本裕治 向井国昭 安川秀樹 安食敏宏 共著 1986/10/16 共立出版 ISBN 4-320-02264-5 『Prolog 人工知能用言語シリーズ 1』 新田克己 佐藤 泰介 共著 1986/10/25 昭晃堂 ISBN 978-4-7856-3601-2 『micro PROLOGはじめてのプログラミング』 ヒュー・ド・サラム 著 倉田和彦 山田和美 訳 1986/10/ 31 啓学出版 ISBN 4-7665-0306-6 『知識情報処理 知識工学講座1』 大須賀節雄 著 1986/11/25 オーム社 ISBN 4-274-07321-1 『知識工学 人工知能シリーズ10』 小林重信 著 1986/12/10 昭晃堂 ISBN 4-7856-3068-X 『RUN/Prolog入門 データベースとしての活用と述語解説』 小島政行 著 1986/12/10 アムコインターナショナル ISBN 978-4-8705-0034-1 『エキスパート・システム入門』 安部憲広 滝寛和 共著 1986/12/15 共立出版 ISBN 4-320-02297-1 『エキスパートシステム --知識工学とその応用--』 上野晴樹 著 1986/12/25 オーム社 ISBN 4-274-07318-1 『エキスパート・システム 基礎概念と実例』 J.L.アルティ M.J.クームス 共著 太原育夫 訳 1987/1/10 啓学出版 ISBN 4-7665-0312-0 『知識の表現と利用 知識工学講座2』 上野春樹 小山照夫 岡本敏雄 松尾文雄 石塚満 共著 1987/2/10 オーム社 ISBN 4-274-07331-9 『RUN/PROLOG ばじめての人工知能言語』 斎藤孝 著 1987/2/20 HBJ ISBN 4-8337-8511-0 『論理による問題の解法 ---Prolog入門 情報処理シリーズ8』 R.コワルスキ 著 浦昭二 山田眞市 菊池光昭 桑野龍夫 訳 1987/3/20 培風館 ISBN 4-563-00788-9 『知識の獲得と学習 知識工学講座3』 大須賀節雄 佐伯胖 小橋康章 大槻説乎 北橋忠宏 田中譲 篠原武 宮原哲浩 原口誠 共著 1987/3/20 オーム社 ISBN 4-274-07346-7 『Prologプログラミング入門 RUN/Prologを用いた』 鑰山徹 著 1987/4/1 工学図書株式会社 ISBN 4-7692-0163-X 『人工知能コンピュータ 判断・推論のしくみ』 秋田輿一郎 著 1987/5/25 電気書院 ISBN 4-485-57102-5 『Prologランニングブック RUN/Prolog演習プログラム 下』 横井与次郎 著 1987/5/25 ラジオ技術社 ISBN 4-8443-0185-3 『Prologランニングブック RUN/Prolog演習プログラム 上』 横井与次郎 著 1987/5/25 ラジオ技術社 ISBN 4-8443-0180-2 『AI入門』 矢田光治 著 1987/5/25 オーム社 ISBN 4-274-07355-6 『はじめてのRUN/PROLOG』 成田佳応 谷田部賢一 共著 1987/5/30 ナツメ社 ISBN 4816307001 『論理プログラミングの基礎』 J.W.ロイド 著 佐藤雅彦 森下真一 訳 1987/6/30 産業図書 ISBN 978-4-7625-5003-4 『プログラム変換 知識処理シリーズ7』 佐藤泰介 二木厚吉 玉木久夫 二村良彦 竹内彰一 安村通晃 吉田紀彦 共著 1987/8/1 共立出版 ISBN 4-320-02267-X 『並列論理型言語GHCとその応用 知識情報処理シリーズ6』 竹内彰一 上田和紀 野田泰徳 松本裕治 杉本勉 田中二郎 太田由紀子 共著 1987/9/10 共立出版 ISBN 4-320-02266-1 『はじめてのProlog Prolog-KABAによる人工知能へのアプローチ』 舟本奨 著 1987/9/20 ナツメ社 ISBN 4-8163-0712-5 『TURBO PROLOGトレーニングマニュアル』 小林鉾史 著 1987/10/3 JICC出版局 ISBN 4-88063-335-6 『RUN/Prologとその応用』 杉原敏夫 著 1987/11/30 工学図書株式会社 ISBN 4-7692-0176-1 『Prologプログラミング入門 RUN/Arity』 大原茂之 著 1988/2/25 オーム社 ISBN 4-274-07401-3 『コンピュータ言語進化論 思考増幅装置を求める知的冒険の旅』 Howard Levine Howard Rheingold 共著 椋田直子 訳 1988/3/21 アスキー出版局 ISBN 4-87148-301-0 『Prologで学ぶAI手法 推論システムと自然言語処理』 高野真 著 1998/3/31 啓学出版 ISBN 4-7665-0110-1 『パソコンエキスパートシステム -低価格ツールによるエキスパートシステムの構築手順-』 OHM編集部編 1988/4/30 オーム社 ISBN 4-274-07409-9 『述語論理と論理プログラミング』 有川節夫 原口誠 共著 1988/5/10 オーム社 ISBN 4-274-07386-6 『知識の帰納的推論 知識処理シリーズ3』 E.Y.Shapiro 著 有川節夫 訳 1988/7/20 共立出版 ISBN 4-320-02263-7 『知識と推論 岩波講座 ソフトウェア科学-14』 長尾真 著 1988/7/25 岩波書店 ISBN 4-00010-354-7 『記号処理プログラミング 岩波講座 ソフトウェア科学-8』 後藤滋樹 著 1988/8/10 岩波書店 ISBN 4-00-010348-2 『Prologの技芸』 L.Sterling E.Shapiro 共著 松田利夫 訳 1988/8/1 共立出版 ISBN 4-320-09710-6 『TURBO PROLOG入門』 Carl Townsent 著 倉谷直臣 酒見高広 訳 1988/8/25 オーム社 ISBN 4-274-07449-8 『知識プログラミング 知識処理シリーズ8』 鈴木浩之 小野典彦 中島秀之 国藤進 石塚満 松田哲史 井下博史 有馬淳 佐藤健 房岡璋 高橋和子 著 1988/9/1 共立出版 ISBN 4-320-02268-8 『Prologプログラミング入門 体験学習ビジネスマンのための』 高橋三雄 著 1988/9/30 オーム社 ISBN 4-274-07442-0 『エキスパートシステム 知識工学講座5』 上野晴樹 小山照夫 共著 1988/12/20 オーム社 ISBN 4-274-07462-5 『並列Prologコンピュータ データフロー処理によるアプローチ』 マイケル・J・ワイズ 著 曽和将容 訳 1989/1/10 啓学出版 ISBN 4-7665-0345-7 『コンピュータによる推論技法』 L.ウォス R.オーバーピーク E.ラスク J.ボイル 共著 川越恭二 久野茂 前田康行 光本圭子 訳 1989/1/20 マグロウヒル ISBN 4-89501-292-1 『TURBO Prolog プログラミング』 Information&computing 玉井浩 著 1989/2/25 サイエンス社 ISBN 978-4-7819-0539-6 『新しいプログラミングパラダイム』 相場亮 井田哲雄 大須賀昭彦 加藤和彦 柴山悦哉 田中二郎 富樫敦 横内寛文 横田一正 共著 1989/11/10 共立出版 ISBN 4-320-02493-1 『制約論理プログラミング』 坂井公 佐藤洋裕 田中二郎 相場亮 川村十志夫 橋田浩一 丸山文宏 渡辺俊典 佐藤由美子 森文彦 戸沢義夫 昭尾雅之 森下真一 共著 1989/11/20 共立出版 ISBN 4-320-02469-9 『自然言語解析の基礎』 田中穂積 著 1989/11/27 産業図書 ISBN 4-7828-5127-8 『定性推論 知識処理シリーズ別巻1』 渕一博 溝口文雄 古川康一 安西祐一郎 田中博 西田豊明 本田一賀 開一夫 堂下修司 清水周作 大木優 元田浩 共著 1989/2/15 共立出版 ISBN 4-320-02468-0 『人工知能』 志村正道 著 1989/4/20 オーム社 ISBN 4-274-07506-0 『人事情報エキスパートシステム』 三重野博司 著 1989/7/20 オーム社 ISBN 4-274-07521-4 『Prologプログラミング入門 KE養成講座』 黒川利明 田中直之 共著 1989/7/25 オーム社 ISBN 4-274-12857-1 『データベースと知識ベース 新しい情報システムを目指して』 大須賀節雄 著 1989/7/30 共立出版 ISBN 4-274-07520-6 『わかる:-Prolog』 塚本龍男 著 1989/11/1 共立出版 ISBN 4-320-02337-4 『入門TURBO PROLOG』 ダン・シェーファー 著 北脇和夫 北脇庸子 訳 1989/11/1 啓学出版 ISBN 4-7665-0990-0 『TURBO Prolog エキスパート・システム設計入門』 Carl Townsend 著 玄光男 佐々木正仁 訳 1989/11/28 HBJ出版局 ISBN 4-8337-8030-5 『OA実務家の書いたエキスパート・システムの本』 三菱商事(株)システム企画部OA技術チーム編 1990/2/1 日本能率協会 ISBN 4-8207-0664-0 『法律家のためのコンピュータ利用法 論理プログラミング入門』 加賀山茂 著 1990/2/10 有斐閣 ISBN 4-641-07541-7 『Prologへの入門 PrologとAI』 I.Bratko 著 安部憲広 訳 1990/3/20 近代科学社 ISBN 4-7649-0165-X 『パソコン言語による人工知能(AI)プログラミング PC-9800対応 Prolog/LISP/Smalltalk/C/FORTRAN/COBOL/BASIC』 舟本奨 著 1990/3/20 ナツメ社 ISBN 4-8163-1035-5 『作品としてのプログラム 黒川利明 著 1990/4/27 岩波書店 ISBN 4-00-005403-1 『自然言語理解と論理プログラミング』 Y.Dahi P.Saint-Dizier 共著 西田豊明 松本裕治 上原邦昭 訳 1990/4/30 近代科学社 ISBN 4-7649-0163-3 『Prologで作る数学の世界 Prologそして集合-位相-群』 飯高茂 著 1990/6/20 朝倉書店 ISBN 4-254-11054-5 『Prolog詳説 対話形式によるアプローチ』 ラマンチャンドウン・バラス 著 斉藤重光 舟本奨 訳 1990/6/30 啓学出版 ISBN 4-7665-1078-X 『Prologユーティリティライブラリ』 ボグダン・フィリビッチ 著 中原誠 伊藤哲郎 訳 1990/8/25 海文堂出版 ISBN 4-303-71700-2 『SF的Prologの世界 コンピュータウイルス盛衰記』 福田敏宏 田村三郎 田中正彦 共著 1990/9/20 現代数学社 ISBN 4-7687-0195-7 『Prologによる論理プログラミング入門』 小川束 著 1990/10/31 啓学出版 ISBN 4-7665-1081-X 『人工知能における知識ベースシステム』 ランドール・デービス ダグラス・B・レナート共著 溝口文雄 諏訪基 実近憲昭 平井成興 仁木和久 豊田順一 上原邦昭 河合和久 山口高平 溝口理一郎 訳 1991/4/10 啓学出版 ISBN 4-7665-1100-X 『情報の論理数学入門 ブール代数から述語論理まで』 小倉久和 高濱徹行 共著 1991/4/20 近代科学社 ISBN 4-7649-0180-3 『自然言語処理入門 情報・電子入門シリーズ』 岡田直之 著 1991/5/20 共立出版 ISBN 4-320-02434-6 『エキスパートシステム MARUZEN Advanced Technology 電子・情報・通信編』 石塚満 小林重信 薦田憲久 竹垣盛一 寺野隆雄 山崎知彦 共著 丸善株式会社 1991/9/30 ISBN 4-621-03622-X 『人工知能概論』 荒屋真二 著 共立出版 1991/11/5 ISBN 4-320-02605-5 『Prologの冒険 アドベンチャーゲームを作りながらPrologをマスターしよう』 Dennis Merritt 著 岩谷宏 訳 1992/10/21 ソフトバンク ISBN 4-89052-344-8 『Prologマシン』 金田悠紀夫 著 1992/4/7 森北出版 ISBN 4-627-80810-0 『Prolog入門 図解コンピュータシリーズ』 江村潤朗監修 瀬下孝之 著 1992/7/15 オーム社 ISBN 4-274-07723-3 『楽しいプログラミングⅡ記号の世界』 中島秀之 上田和紀 共著 1992/5/29 岩波書店 ISBN 4-00-007755-4 『Prologを楽しむ』 松田紀之 著 1993/1/31 オーム社 ISBN 4-2740-7749-7 『Micro-PROLOG ロジックプログラミングによる問題解決』 K.L.クラーク F.G.マッケイブ 著 溝口文雄 大和田勇人 訳 1993/1/31 啓学出版 ISBN 4-76651-165-4 『人工知能最前線 財務エキスパートシステム』 D.E.オゥレアリ P.R.ワトキンス 共著 佐伯光彌 光村司 西ヶ谷邦正 斎藤孝一 三藤利雄 訳 1993/4/30 学友社 ISBN 4-7620-0483-9 『Prologを楽しむ』 松田紀之 著 1993/1/31 オーム社 ISBN 4-274-07749-7 『情報学概論 Prologプログラミング』 吉田要 著 1993/3/25 八千代出版 ISBN 4-8429-0874-2 エキスパートシステムII 技術の動向 朝倉AIらいぶらり 溝口理一郎 著 1993/6/20 朝倉書店 ISBN 4-254-12623-9 『意思決定支援システムとエキスパートシステム シリーズ・経営情報システム』 飯島淳一 著 1993/10/23 日科技連出版社 ISBN 4-8171-6162-0 『自然言語 情報数学セミナー』 郡司隆男 著 1994/1/15 日本評論社 ISBN 4-535-60811-3 『Prolog入門. 例題演習』 塩野充 著 1995/4/30 オーム社 ISBN 4-274-07642-3 『Prologを学ぶ 文化とその実践』 杉崎昭生 著 1995/5/25 海文堂 ISBN 4-303-71690-1 『知識処理論 知識・情報メディアシリーズ』 萩野達也 著 1995/6/30 産業図書 ISBN 4-7828-5302-5 『スケジューリングとシミュレーション』 田中克己 石井信明 共著 1995/10/20 コロナ社 ISBN 4-339-08357-7 『形式言語と有限オートマトン入門 例題を中心とした情報の離散数学』 小倉久和 著 1996/10/15 コロナ社 ISBN 4-339-02339-6 『AIプログラミング PrologとAI I.Bratko 著 安部憲広 訳 1996/4/10 近代科学社 ISBN 4-7649-0254-0 『エージェントアプローチ 人工知能』 スチュワート・ラッセル ピーター・ノーヴィグ 共著 古川康一 訳 1997/12/15 共立出版 ISBN 4-320-02878-3 『関数プログラミング 情報数学セミナー』 萩谷昌己 著 1998/3/30 日本評論社 ISBN 4-535-60817-2 『自然言語・意味論・論理』 赤間世紀 著 1998/9/15 共立出版 ISBN 4-320-02908-9 『形式言語の理論 情報科学コアカリキュラム講座』 西野哲朗 石坂裕毅 共著 1999/7/31 丸善株式会社 ISBN 4-621-04626-8 『人工知能の基礎 情報科学コアカリキュラム講座』 西田豊明 著 1999/9/30 丸善株式会社 ISBN 4-621-04646-2 『新しい人工知能 発展編』 前田隆 青木文夫 共著 2000/3/10 オーム社 ISBN 4-274-13198-X 計算論理に基づく 推論ソフトウェア論 山崎進 著 2000/5/26 コロナ社 ISBN 4-339-02373-6 『知的エージェントのための集合と論理 インターネット時代の数学シリーズ6』 中島秀之 著 2000/6/10 共立出版 ISBN 4-320-01645-9 『人工知能の基礎理論』 赤間世紀 著 2000/12/25 電気書院 ISBN 4-485-66246-2 『Interlog コンピュータ言語』 吉川永一 著 2002/3/29 東京図書出版会 ISBN 4-434-03554-1 『帰納論理プログラミング Inductive Logic Programming』 古川康一 尾崎知伸 植野研 共著 2001/5/25 共立出版 ISBN 4-320-12014-0 『知識と推論 Information Science & Engineering-T1』 新田克己 著 2002/6/10 サイエンス社 ISBN 4-7819-1008-4 『法律人工知能 法的知識の解明と法的推論の実現』 吉野一 著 2002/2/29 創成社 ISBN 4-7944-4030-8 『人工知能 IT Text』 本井田真一 松本一教 宮原哲浩 永井保夫 著 2005/7/20 オーム社 ISBN 4-274-20106-6 『組み込みソフトウェアの設計&検証 組込み動作からRTOSを使った,ツールによる動作検証まで』 藤倉俊幸 著 2006/9/1 CQ出版社 ISBN 978-4-7898-3344-8 『言語・知識・信念の論理 知の科学』 東条敏 人工知能学会 共著 2006/3/15 オーム社 ISBN 4-274-20211-9 『論理と計算のしくみ』 萩谷昌己 西崎真也 共著 2007/6/27 岩波書店 ISBN 978-4-00-006191-9 『コンピュータプログラミングの概念・技法・モデル Concepts Techniques and Modelsof Computer Programming』 ピーター・ヴァン・ロイ セイフ・ハリディ 共著 羽永洋 訳 2007/11/7 翔泳社 ISBN 978-4-7981-1346-3 『On Lisp』 Paul Graham 著 野田開 訳 2008/3/23 オーム社 ISBN 978-4-274-06637-5 『数理論理学 コンピュータサイエンス教科書シリーズ 18』 古川康一 向井国昭 共著 2008/6/27 コロナ社 ISBN 978-4-339-02718-1 『新 人工知能の基礎知識』 太原育夫著 2008/6/30 近代科学社 ISBN 978-4-7649-0356-2 『Prologで学ぶAIプログラミング I/OBOOKS』 赤間世紀 著 2008/11/10 工学社 ISBN 978-4-7775-1402-1 『メディア情報学入門』 鈴木昇一 著 2010/4/1 東京図書出版会 ISBN 4862234062 『実用 Common Lisp (IT Architects’Archive CLASSIC MODER)』 ピーター・ノーヴィッグ著 松本宣男 訳 2010/5/11 翔泳社 ISBN 978-4798118901 『7つの言語 7つの世界 Ruby lo Prolog Scala Erlang Clojure and Haskell』 Bruce A. Tate 著 まつもとゆきひろ監訳 田和数 訳 2011/7/25 オーム社 ISBN 978-4-274-06857-7 『入門 自然言語処理』 Steven Bird Ewan Klein Edward Loper 共著 萩原正人 中山敬広 水野貴明 訳 2010/11/8 株式会社オーム社 ISBN 978-4-87311-470-5 『アルゴリズム設計マニュアル上』 S.S スキーナ 著 平田富夫 訳 2012/1/31 丸善出版株式会社 ISBN 978-4-621-08510-3 『知識基盤社会のための人工知能入門 計測・制御テクノロジーシリーズ 16』 国藤進 中田豊久 羽山徹彩 共著 2012/5/9 コロナ社 ISBN 978-4-339-03366-3 『プログラミング言語温故知新―人工言語の継承を学ぶ』 土屋勝著 2014/9/1 カットシステム ISBN 978-4-87783-328-2 『イラストで学ぶ 人工知能概論』 谷口忠大 著 2014/9/25 オーム社 ISBN 978-406-1538238 『数理論理学-合理的エージェントへの応用に向けて』 加藤暢,高田司郎,新出尚之 共著 2014/10/30 コロナ社 ISBN 978-4-339-02489-0 『知能の物語』 中島秀之著 2015/5/31 公立はこだて未来大学出版会発行 近代科学社発売 ISBN 978-4-7649-5552-3 国際会議 — FLOPS ー International Symposium on Functional and Logic Programming 脚注 注釈 出典 参考文献 William F. Clocksin, Christopher S. Mellish: Programming in Prolog: Using the ISO Standard. Springer, 5th ed., 2003, ISBN 978-3540006787. Leon Sterling, Ehud Shapiro: The Art of Prolog: Advanced Programming Techniques, 1994, ISBN 0-262-19338-8. D.L. Bowen, L. Byrd, F.C.N. Pereira,L.M. Pereira and David H.D. Warren: DECsystem-10 PROLOG USER'S MANUAL, University of Edinburgh,1982. ISO/IEC 13211: Information technology — Programming languages — Prolog. International Organization for Standardization, Geneva. Robert Kowalski. The Early Years of Logic Programming, CACM January 1988. Alain Colmerauer, Philippe Roussel. The birth of Prolog, in The second ACM SIGPLAN conference on History of programming languages, p. 37-52, 1992. David H D Warren, Luis M. Pereira and Fernando Pereira, Prolog - the language and its implementation compared with Lisp. ACM SIGART Bulletin archive, Issue 64. Proceedings of the 1977 symposium on Artificial intelligence and programming languages, pp 109 - 115. Buss, Samuel R., "On Herbrand's Theorem", in Maurice, Daniel; Leivant, Raphaël, Logic and Computational Complexity, Lecture Notes in Computer Science, Springer-Verlag, pp. 195–209. 1995. Buss, Samuel R., "On Herbrand's Theorem", in Maurice, Daniel; Leivant, Raphaël, Logic and Computational Complexity, Lecture Notes in Computer Science, Springer-Verlag, pp. 195–209. 1995. 古川康一:第五世代コンピュータからスキルサイエンスへ - 論理プログラミング・アプローチ,特別講演資料, 2014. 関連項目 論理プログラミング 制約論理プログラミング 並行論理プログラミング 並行制約プログラミング 命題論理 述語論理 ホーン節 導出原理 ユニフィケーション 失敗による否定 Planner 第五世代コンピュータ 論理プログラミング言語 計算機科学における論理 ユニフィケーション
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E5%A4%96%E7%94%9F%E5%91%BD
地球外生命
とは、地球以外の惑星や宇宙空間など、地球の大気圏の外に生存している生命をいう。、ともいう。 知能の高低は問わず、知的生命でないものも含む。また、大気圏外にあって生存してはいても地球由来の生物(宇宙飛行士や宇宙船内の実験用生物)はこれを含まない。 英語(事実上の国際共通語)では、"extraterrestrial()" 、"extraterrestrial being" 、"extraterrestrial biological entity" 、"extraterrestrial life" 等々、様々な名称が用いられるが、日本語の「生命」「生命体」「生物」のもつ語意のようなものがそれぞれに異なるのと同様、少しずつニュアンスが異なる。ET(イーティー)という略語も頻用されるが、これは extra-terrestrial の頭字語である。EBE(イーバ)も略語で、こちらは extraterrestrial biological entity の頭字語。また、それが知能の低くない異星人(ヒトと相似する、異星の知的生命)であれば、"alien life" ともいう。 概要 1970年代から天文学者が主に電波望遠鏡を用いて地球外の知的生命の活動の兆候を探索しているが、未だに地球外生命体の存在は確認されていない。 1787年ころ、イタリアの神父で博物学者のラザロ・スパランツァーニが、「そもそも地球の生命は地球外から来た」とする説を唱えていた。生命の起源が地球外にあるとする説は「パンスペルミア説」というが、こうした説(仮説)は、DNAの二重らせん構造を発見したフランシス・クリックも表明している。 十九世紀の観測 アメリカの天文学者パーシヴァル・ローウェル(1855-1916年)は、火星を観測した結果、その表面に「運河」などの人工的な建造物に見える巨大構造があると信じ、火星に文明が存在する証拠だと著作で述べた。サイエンス・フィクションの分野では火星に棲むタコ状(イカ状)の生命体(たこ型火星人)がさかんに描かれたが、これはイギリスの作家H・G・ウェルズが1898年に発表したSF小説『宇宙戦争』によるイメージの定着が発端であるとされる。 1959年、イタリアの物理学者とアメリカの物理学者フィリップ・モリソンが、地球外生命に言及する論文を学術誌に初めて発表し(※誌は『ネイチャー』)、「地球外に文明社会が存在すれば、我々は既にその文明と通信するだけの技術的能力を持っている」と指摘した。また、「その通信は電波で行われるだろう」と推論した。この論文は自然科学者らに衝撃を与え、一般人も知的生命体がこの宇宙に存在する可能性について大真面目に語り、様々な憶測、様々な空想が語られるようになっていた。 1960年にはフランク・ドレイクがオズマ計画に着手した。 ドレイクの方程式 1961年にアメリカの天文学者フランク・ドレイクがドレイクの方程式を示し、画期的なことに、可能性・確率について具体的に数値で論ずることを可能にした。我々の銀河系に存在する通信可能な地球外文明の数を仮に「N」と表すとするならば、そのNは次の式で表せる、と述べたのである。 ただし、各変数は下記の通りである。 1961年にこの式を発表した時、ドレイクは各値に関する推測値も併せて示し、 と計算してみせた。つまりそうした文明の数を10個だと推定してみせたのである。これがまた自然科学者らに大きな衝撃を与えた。SFに登場する「タコ状の火星人」などのイメージの影響(悪影響)で、地球外生命を頭ごなしに否定していた自然科学者でも、この理詰めの式を見せられて、自分たちが思っていた以上に存在の可能性があるのかも知れない、とりあえず調べてみる価値はあるのかも知れない、論理的に考えても存在の可能性を期待してもよいのかも知れない、と考えるようになったのである。このドレイクの式の持つ説得力が、賛同者を増やし、地球外生命の探索のための政府予算を組むことにつながった。 生命の起源に関するパンスペルミア説では、そもそも宇宙には生命の種が満ちており、宇宙のあちこちで生命が誕生している、と考えている。 太陽系内 太陽系内の知的生命への期待と観測・探査 ジョヴァンニ・スキアパレッリの火星観測に関する論文が発表された時代(1879年、1881年)から今日に到る長きに亘って、地球以外の太陽系内惑星にも生命が存在する(あるいは、存在した)のではないかとの推測が絶えたことはない。温度や大気の組成や引力の大きさなどを考慮したところ、特に生命体が棲んでいる可能性が高いと考えられていたのが火星であった。「火星に知的生命が棲んでいて地球にまでやってくる」といったストーリーのSF作品も盛んに創られた。 火星を観測した天文学者パーシヴァル・ローウェル(1855-1916年)は、スキアパレッリがイタリア語で "canali"(※『運河』の意もあるが、ここでは自然地形としての『溝』の意)と呼んだ地表面の直線的地形を英語で "canal"(運河)と解釈し、「人面岩」など人工建造物に見える巨大な構造体があるのにも気付き、これらがスキアパレッリの言うような自然地形ではなく人工物に違いないとの認識の下、文明の存在を示すものであろうとの説を、1894年にボストン科学ソサエティで行った講演で初めて唱え、次いで、1895年の自著 "Mars "(:火星)、1906年の自著 "Mars and Its Canals " 、1908年の自著 "Mars As the Abode of Life "(:火星 生命のすみか)にも記した。しかしながら、後世に行われたマリナー計画(1962-1973年)による探査と研究により、パーシヴァルの見ていたものが自然地形であった事実が判明し、火星人工物説を巡る論争は完全否定される形で決着した。知的生命の火星での現生は確認できず、パーシヴァルが指摘した文明の痕跡も否定されたことから、太陽系内における地球人以外の知的生命の存在可能性は限りなく低いと見做されるようになった。 地球にも熱水噴出孔付近など、摂氏400度を超え、太陽光も届かない過酷な環境でも生物が生きているという事実から、エウロパなど宇宙の星々にも、微生物などの地球外生命が存在するのではと語るNASAの研究者もいる。 太陽系内の原始的生命 火星に知的な生命はいないにしても、原始的な生命に関しては、火星はかつて大気と液体の水を持っていたと考えられているので(という証拠とされるものが見つかっているので)、生命が発生していた可能性もある、と考えられている。 1970年代にNASAが送り込んだ火星探査機バイキング1号および2号は火星表土のサンプルを採取し、そこに生命活動の兆候が見られるか確認する試験を行ったが、結果は生命の存在を肯定するものではなかった。 1996年にギブソンらが行った報告では、火星由来の隕石に化石状の構造が認められ、生命の痕跡と考えられるとしている。ただしこの見解は統一見解には至らず、論争の的になっている(詳細はアラン・ヒルズ84001を参照)。 2003年にESAが火星に送り込んだビーグル2号はバイキング以来はじめての生命探査を目的とした着陸機だったが、大気圏突入後に交信が途絶えて失敗に終わった。 火星以外では、木星の衛星であるエウロパやガニメデ、土星の衛星であるエンケラドゥスなどが、原始的な生命がいる候補として注目されている。これらの天体は主に氷や岩石から出来ているが、地下には液体の水の層が存在しているのではないかと考えられている。水中にはバクテリアがいるかもしれない。また、土星の衛星タイタンも、厚い大気圏を持ち、表面に液体の炭化水素が存在していることなどから、生命の存在する天体の候補に挙げられている。 太陽系外 原始的生命に関しては太陽系内での探索が続けられているが、知的生命に関しては太陽系内は望み薄と判断されるようになり、太陽系外での探索が続けられている。 NASAなどによって地球外知的生命体がいるのかどうかの探査(地球外知的生命体探査、頭字語:SETI)が行われている。現在行われている探査・研究活動はいくつかの手法がある。ひとつは、宇宙空間を通じてやってくる電波のパターンを受信し解析することで地球外の知的存在の活動を発見しようという試みである。特に近い星を絞り込んで行う手法もある。他の手法としては、地球から近い恒星の中から、生命の生まれる可能性がありそうな惑星を持つものを見つけ、その惑星に対して電波をこちらから送信してやり、反応があるかどうか調べる、という方法である。地球に最も近い恒星・惑星群の中には、地球から(わずか)数光年~数十光年程度の距離にあるものもあるので、実験として現実的な年数の間に生命からの反応・返信が得られるかも知れないという期待とともに探査が行われている。受信方式の探査を「パッシブ」、送信方式の探査を「アクティブ」と呼んでいる。 ケプラー442b ハビタブルゾーン(生命居住可能領域)内に惑星が存在する可能性が高く、生命が存在することが期待されている太陽系外惑星。 脚注 注釈 出典 文献一覧 参考文献 ISBN 4-87502-515-7、ISBN 978-4-87502-515-3。 ISBN 4-7835-0233-1、ISBN 978-4-7835-0233-3。 原著:ISBN 0-671-25562-2, ISBN 978-0-671-25562-6. ISBN 4-87502-347-2、ISBN 978-4-87502-347-0。※3分冊・続きページ形式。 原著: ISBN 4-87712-053-X、ISBN 978-4-87712-053-5。 Wikisource:en:Mars (Lowell) 復刻版の一例:ISBN 1161441565, ISBN 978-1161441567. 復刻版の一例:ISBN 1177666103, ISBN 978-1177666107. 復刻版の一例:ISBN 123086170X, ISBN 978-1230861708. 関連文献 ISBN 4-621-06178-X、ISBN 978-4-621-06178-7。 原著:ISBN 354032836X, ISBN 978-3540328360. ISBN 4-7993-1045-3、ISBN 978-4-7993-1045-8。 ISBN 4-7966-7795-X、ISBN 978-4-7966-7795-0。 ISBN 4-334-03129-3、ISBN 978-4-334-03129-9。 関連項目 内部リンク 生物学上の未解決問題 日本宇宙生物科学会 極限環境生物学会 緩歩動物 - 宇宙空間で生存が可能な唯一の動物。 宇宙人 外部リンク 宇宙生物学 天文学に関する記事 宇宙探査 天文学の未解決問題 科学関連の論争
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https://ja.wikipedia.org/wiki/20%E4%B8%96%E7%B4%80
20世紀
20世紀(にじっせいき、にじゅっせいき)とは、西暦1901年から西暦2000年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最後の世紀である。漢字で二十世紀の他に、廿世紀と表記される場合もある。 20世紀の詳細な出来事(年表)については、「20世紀の十年紀と各年」より各年代、各年の記事を参照のこと。 歴史概説 20世紀の人類の科学の発展は著しかった。飛行機、潜水艦、宇宙ロケットの開発により、人類の行動可能な範囲は、空へ深海へ宇宙へと拡大した。そして、北極点、南極点への到達などにより、地球上での人類未踏の地はほぼなくなった。科学の発展は産業の発展をもたらし、大量生産、大量消費の社会を生み出し、人々の生活を豊かにした反面、環境問題など多くの解決しなければならない、諸問題をも生み出した。さらに高度な科学技術は、極めて破壊力の大きい兵器をも作り出し、現在では人類を何度も滅亡させることの出来るほどの核兵器、化学兵器が存在する。 また、産業革命以降に増加のペースが早くなっていた世界人口は、20世紀に入り人口爆発とも呼ばれる急激な増加を見せた。20世紀初頭に約15億人だった世界人口は第二次世界大戦終結後の1950年に約25億人となり、それからわずか50年しか経ってない20世紀末には2倍以上となる約60億人にまで膨れ上がっている。 政治経済史 帝国主義の崩壊 20世紀は、2度の世界大戦とその後の冷戦、植民地の独立などにより、何度も政治的なパワーバランスの大きな変化が訪れた。19世紀までの西欧列強による植民地争奪競争と市民革命の流れは終了し、20世紀の初頭には列強による本国と獲得した植民地保護(帝国主義体制)を維持するために、勢力均衡による安全保障が図られるようになり、また市民革命や人権問題(白人至上主義等)などにおいては後まわしとされがちだった、社会改革・改良への要求が強まった。また日本の近代化の成功や日露戦争の勝利に刺激され、中国では辛亥革命 が起き、またイスラム圏の民族運動が盛んになった。 列強による勢力均衡が破れた時、第一次世界大戦が勃発した。この大戦は総力戦となり、ヨーロッパは疲弊し国際的な影響力が弱まった。また厭戦気分と専制政治への反感から、ロシア帝国では史上初の社会主義革命が発生し、世界最初の社会主義国家であるソビエト連邦が成立した。この大戦において敗戦国となったオーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国もまた、ロシア帝国同様に崩壊し、ローマ帝国以来およそ1900年以上の長きにわたって続いてきたヨーロッパにおける帝国支配の歴史は、名実共に崩壊の時を迎えた。その後の1930年代には世界恐慌が発生し、ここで行き詰った枢軸国と、植民地大国である連合国との間で第二次世界大戦が勃発した。 冷戦体制 第二次世界大戦が終わると、2度の世界大戦を勝ち抜いたアメリカ合衆国は超大国となり資本主義国を勢力下においた。さらに黒人の公民権運動などによりアメリカの民主主義はより高度なものに発展した。一方、これまで数百年の間欧米諸国、それも第二次世界大戦の勝戦国の植民地となっていたインドや東南アジアでは独立運動が高まり、インドネシア独立戦争を火種に次々と独立していった。東南アジアでの独立運動は同じように、欧米の植民地だった中東やアフリカ大陸にも波及しアフリカの世紀と呼ばれる時期が訪れる。ソ連も大戦中に東欧諸国を衛星国化して超大国となった。両国は対立し冷戦と呼ばれる時代となった。 ヨーロッパ諸国は、アメリカや日本の経済力に対抗するため、EEC(欧州経済共同体)を発足し、さらにEC(欧州共同体)、EU(欧州連合)へと統合を進めた。ナショナリズムの高まりと西欧諸国の弱体化にともない、植民地の大半は独立し、第三世界と呼ばれるようになった。その後、東西の緊張緩和(デタント)の時期も存在したが、再び米ソ間は緊張状態に陥った。ソ連ではゴルバチョフがペレストロイカをすすめるとともに軍縮と緊張緩和につとめ、1989年12月、マルタ会談でジョージ・ブッシュ大統領と冷戦の終結を宣言した。しかし1991年にはソ連共産党の支配体制のゆるみが抑えきれなくなり、ソ連の崩壊を迎えた。東欧諸国ではソ連の支配が緩むと東欧革命がおきて自立し、冷戦時代は過去のものとなった。しかし、冷戦時代に表に現れなかった民族間の対立が露呈し、アフリカやバルカン半島などの各地で民族紛争が発生した。 世界経済の発展 アメリカ合衆国や、イギリスをはじめとした欧州諸国では、世界恐慌による経済危機を克服するため、公共事業による雇用確保や景気回復を図ったり、社会保障制度を構築する社会政策に力が注がれた。市場メカニズムを活用しながら、国家が経済に介入することによって、矛盾の克服が目指された(混合経済、大きな政府)。戦後、混合経済政策は社会自由主義政党や社会民主主義政党だけでなく保守政党にも採用されて各国に未曽有の経済成長をもたらし、世界的に経済規模は拡大を続けたが、オイルショック以降、国家にかかる財政的な負担が目立ち始め、多くの国では不況とインフレーションに見舞われた(スタグフレーション)。 そのため、英国や北米、日本などでは1980年代から民間の自発的な活力を期待して、各種の法的な規制を緩め(規制緩和)、公営企業の民営化による解体を行う新自由主義もしくは小さな政府と呼ばれる政策が新保守主義と結びついて推進された。一方、北欧などでは自発的な住民自治を期待して1980年代から政府機関の分権化をすすめ、環境などの新たな価値を取り込んで、福祉国家の再編成がはかられた。ソ連の崩壊で唯一の超大国となったアメリカは、世界をリードしグローバル化を進めることとなった。 重大なできごと・発明 科学・技術 20世紀科学の特徴としては、以下のような点があげられる。 科学とその応用としての技術が緊密に結びつき、科学技術という語がよく用いられるようになった。 20世紀前半は物理学、後半は生物学がとくに際立って著しい発展を遂げた。 科学研究者の数が非常に増え、科学研究が国家プロジェクトとして推進されるようになった。 理学分野 現代物理学 - 相対性理論、量子力学、素粒子物理学、宇宙物理学など 光量子仮説 特殊相対性理論と一般相対性理論の提唱 中間子理論の提唱 化学 - 高分子化学の確立 化学合成の発展。合成繊維の普及 創薬技術 フラーレンとカーボンナノチューブの発見 生物学 - 分子生物学、遺伝学、生理学 DNA二重らせん構造の発見。ゲノム研究のはじまり タンパク質研究の発達とプロテオーム研究のはじまり 地球科学 - 地球物理学の発展 プレートテクトニクス理論の確立、地球内部構造の推定 気象学、海洋学の発展 医学・バイオテクノロジー分野 遺伝子組み換え 化学療法の発達 抗生物質、抗がん剤などの合成・発見。 画像診断 - CT、MRI、PETなどの発明 臓器移植 精神医学 - 向精神薬の発見。 工学分野 原子力の利用 原子炉の実現、原子力発電の普及 核兵器の製造と核実験 放射線医学 輸送機器の飛躍的進歩 - 宇宙開発、飛行機、自動車、高速鉄道など 飛行機・ヘリコプターの発明と発展 宇宙ロケットの登場、人工衛星の登場と宇宙開発のはじまり 宇宙探査、有人宇宙飛行や有人月探査の実現 情報技術の飛躍的発展 電子式コンピュータの実現と爆発的発展 トランジスタや集積回路の発明、情報工学の発達 有線通信・無線通信技術の発達 通信衛星、インターネットによる世界的通信網の発達 ほか多数 戦争 日露戦争(1904年 - 1905年) バルカン戦争(1912年 - 1913年) 第一次世界大戦(1914年 - 1918年) ロシア内戦(1918年 - 1922年) シベリア出兵(1919年 - 1924年) 日中戦争(1937年 - 1945年) スペイン内戦(1936年-1939年) 冬戦争(1939年 - 1940年)・継続戦争(1941年 - 1944年) 第二次世界大戦(1939年 - 1945年) 第一次中東戦争(1948年 - 1949年) 朝鮮戦争(1950年 - 1953年) アルジェリア戦争(1954年-1962年) インドシナ戦争(1946年 - 1954年) 第二次中東戦争(1956年) ベトナム戦争(1963年 - 1975年) ビアフラ戦争(1967年 - 1970年) 第三次中東戦争(1967年) 第四次中東戦争(1973年) 中越戦争(1979年) アフガン侵攻(1979年-1989年) イラン・イラク戦争(1980年 - 1988年) ルワンダ紛争 (1990年-1994年) 湾岸戦争(1991年) ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年-1995年) 政治 1911年 - 辛亥革命勃発 1917年 - ソビエト連邦成立。 1920年 - 国際連盟成立。 1922年 - オスマン帝国解体。 1928年 - 張作霖爆殺 世界恐慌(1929年) 1931年 - 柳条湖事件、満州事変勃発 1932年 - 満州国建国、五・一五事件 1933年 - 日本が国際連盟脱退。 1936年 - 二・二六事件、日独防共協定締結。 1937年 - 盧溝橋事件 1939年 - ドイツのポーランド侵攻。 1940年 - 日独伊三国軍事同盟結成。 1941年 - 真珠湾攻撃。 1945年 - 広島と長崎への原子爆弾投下。第二次世界大戦終結。国際連合成立。 冷戦(1945年〜1989年) 1946年 - 国際連盟解散。 1955年 - アジア・アフリカ会議 1961年 - ベルリンの壁建設。 1962年 - キューバ危機 文化大革命(1966年 - 1976年) 1973年 - オイルショック 1989年 - 天安門事件、東欧革命、ベルリンの壁崩壊 冷戦終結後(1989年〜) 1990年 - ドイツ再統一 1991年 - ソビエト連邦崩壊。 文化 ノーベルの遺言によりノーベル賞の設立(1901年) 共産主義、ファシズム、市民運動、エコロジー、新保守主義などの台頭 現代芸術(ダダイスム、未来派、シュルレアリスム、キュビズム、表現主義などの諸潮流) 社会主義圏におけるロシア・アヴァンギャルドと社会主義リアリズム 現代文学(モダニズム文学、マジックリアリズム、現代詩、実存主義、革命文学、ポストモダン文学などの諸潮流) 現代音楽、電子音楽の出現。 写真・映画が芸術表現として確立する。 ジャズやロックなどのポピュラー音楽、映画などの映像メディアによる文化の大衆化 1920年代のアメリカから、大量生産・大量消費の生活様式が広まった ラジオ・テレビ、社会政策による国民文化の形成 近代オリンピックやFIFAワールドカップに代表される、国民的・国際的な大規模スポーツイベントの開催 人・モノ・サービスの国境を越えた移動、海外旅行の一般化、文化のグローバル化 その他 衛星放送、国際電話、インターネットの普及による情報の即時化・全世界化 石炭から石油へのエネルギー源の転換、電力の大量消費 環境問題の世界化、それに対する意識の向上 人物 首脳・君主 フランツ・ヨーゼフ1世(オーストリア=ハンガリー帝国皇帝、在位1848年 - 1916年) ヴィルヘルム2世(ドイツ帝国皇帝、在位1888年 - 1918年) 宣統帝(溥儀)(清朝皇帝、在位1908年 - 1912年。満州国皇帝、在位1932年 - 1945年) ニコライ2世(ロシア帝国皇帝、在位1894年 - 1917年) メフメト6世(オスマン帝国スルタン、在位1918年 - 1922年) 昭和天皇(大日本帝国及び日本国天皇、在位1926年 - 1989年) 佐藤栄作(日本国内閣総理大臣、在任1964年 - 1972年) エリザベス2世(イギリス女王、在位1952年〜2022年) ヨハネ・パウロ2世(ローマ教皇、在位1978年〜2005年) アドルフ・ヒトラー(ナチスドイツ総統、在任1934年 - 1945年) ベニート・ムッソリーニ(イタリア首相、在任1928年 - 1943年) ネヴィル・チェンバレン(イギリス首相、在任1937年 - 1940年) ウィンストン・チャーチル(イギリス首相、在任1940年 - 1945年) フランクリン・D・ルーズベルト(第32代アメリカ大統領、任期1933年 - 1945年) ハリー・S・トルーマン(第33代アメリカ大統領、任期1945年 - 1953年) ドワイト・D・アイゼンハワー(第34代アメリカ大統領、任期1953年 - 1961年) ジョン・F・ケネディ(第35代アメリカ大統領、任期1961年 - 1963年) リチャード・ニクソン(第37代アメリカ大統領、任期1969年 - 1974年) ロナルド・レーガン(第40代アメリカ大統領、任期1981年 - 1989年) ジョージ・H・W・ブッシュ(第41代アメリカ大統領、任期1989年 - 1993年) シャルル・ド・ゴール(フランス大統領、在任1959年 - 1969年) コンラート・アデナウアー(西ドイツ連邦首相、在任1949年 - 1963年) ネルソン・マンデラ(南アフリカ大統領、1994年 - 1999年) ウラジーミル・レーニン(ソ連、1917年 - 1922年) ヨシフ・スターリン(ソ連最高指導者、1922年 - 1953年) ニキータ・フルシチョフ(ソ連最高指導者、1953年 - 1964年) ミハイル・ゴルバチョフ(ソ連共産党書記長、在任1985年 - 1991年) ヨシップ・ブロズ・チトー(ユーゴスラビア首相・大統領、在任1945年 - 1980年) マハトマ・ガンディー(インド) ジャワハルラール・ネルー(インド首相、1947年 - 1964年) 毛沢東(中国共産党中央委員会主席、中華人民共和国の初代指導者、1949年 - 1976年) 周恩来(中華人民共和国の初代国務院総理、1949年 - 1976年) 蔣介石(中華民国総統、中国国民党総裁、中国時代:1927年 - 1949年、台湾時代:在任1950年 - 1975年) 蔣経国(中華民国総統、中国国民党主席、1975年 - 1988年) 鄧小平(中国共産党中央顧問委員会主任、中華人民共和国の第2代指導者、1978年- 1989年) ホー・チ・ミン(ベトナム、1945年 - 1969年) マハティール・ビン・モハマド(マレーシア首相、1981年 - 2003年) リー・クアンユー(シンガポール首相、在任1959年 - 1990年) プミポン(タイ国王、在位1946年 - 2016年) フィデル・カストロ(キューバ国家評議会議長、在任1959年 - 2008年) チェ・ゲバラ(キューバなど) ルーホッラー・ホメイニー(イラン最高指導者、1979年 - 1989年) サダム・フセイン(イラク大統領、在任1979年 - 2003年) 産業と科学 アルベルト・アインシュタイン(物理学者、相対性理論) トーマス・エジソン(発明家) ライト兄弟(飛行機を発明) ヘンリー・フォード(フォード自動車を発明) ジョン・フォン・ノイマン(数学者) ヴェルナー・フォン・ブラウン(ロケット開発) セルゲイ・コロリョフ(ロケット開発) ユーリイ・ガガーリン(宇宙飛行士) ニール・アームストロング(宇宙飛行士) ニコラ・テスラ(発明家) バックミンスター・フラー(建築家、物理学者、数学者) 安藤百福(日清食品会長) 盛田昭夫(ソニー会長) アラン・ケイ (コンピュータ科学者、教育者) ビル・ゲイツ(マイクロソフト会長) 人権運動 ヘレン・ケラー(アメリカ) マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(アメリカ) ダライ・ラマ14世(チベット) マザー・テレサ(インド) 文化 パブロ・ピカソ(画家) サルバドール・ダリ(画家) アンリ・マティス(画家) チャーリー・チャップリン(映画監督・俳優) フランツ・カフカ(小説家) マルティン・ハイデッガー(哲学者) エルンスト・ユンガー(小説家、思想家) ウォルト・ディズニー(レジャー) アーサー・C・クラーク(小説家) マリリン・モンロー(映画俳優) オードリー・ヘプバーン(映画俳優) ロバート・デ・ニーロ(映画俳優) フランク・シナトラ(歌手・俳優) ポール・ヴァレリー(作家) スティーヴン・スピルバーグ(映画監督) 黒澤明(映画監督) 三船敏郎(映画俳優) 宮本茂(ゲームクリエイター) フレッド・アステア(俳優、ダンサー、歌手) ガリーナ・ウラノワ(バレリーナ) 音楽 クロード・ドビュッシー(1862年 - 1918年) ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908年 - 1989年) モーリス・ラヴェル(1875年 - 1937年) アルノルト・シェーンベルク(1874年 - 1951年) アントン・ヴェーベルン(1863年 - 1945年) イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882年 - 1971年) ホアキン・ロドリーゴ(1901年 - 1999年) アラム・ハチャトゥリアン(1903年 - 1978年) ジョン・ケージ(1912年 - 1992年) ジョージ・ガーシュウィン(1898年 - 1937年) カールハインツ・シュトックハウゼン(1920年 - 2007年) ルイ・アームストロング(1901年 - 1971年) エルヴィス・プレスリー(1935年 - 1977年) ビートルズ(1957年 - 1970年) ジョン・レノン(1940年 - 1980年) ポール・マッカートニー(1942年 - ) ジョージ・ハリスン(1943年 - 2001年) リンゴ・スター(1940年 - ) マイケル・ジャクソン(1958年 - 2009年) ジョン・ウィリアムズ(1932年 - ) スポーツ ベーブ・ルース(野球選手) アベベ・ビキラ(マラソン選手) カール・ルイス(陸上選手) モハメド・アリ(ボクサー) 山下泰裕(柔道選手) ディエゴ・マラドーナ(サッカー選手) ペレ(サッカー選手) マイケル・ジョーダン(バスケットボール選手) アイルトン・セナ(カーレーサー) ナディア・コマネチ(体操選手) 双葉山定次(大相撲力士) その他 アナスタシア皇女 ダイアナ・スペンサー アル・カポネ 架空のできごと 半ば - 欧州某国で通常生物にない塩基を持つ生物が捕獲される。その後の実地踏査と研究により世界各地で同種の生物が発見され、「特異遺伝因子保持生物」を略して「特遺生物」、日本では「怪」と総称されるようになる。(小説『ダブルブリッド』) 後半 - 突然、謎の生物「イペリット」が多数出現し、地球環境を己の生存に適したものへ造り変え始める。その過程で、人類はイペリットによる殺戮と放出されるガスによって排除され、21世紀にはガスの届かない高地などの極地でわずかに生き残るのみとなる。(漫画『Thisコミュニケーション』) 末 - 大型隕石の落下を引き金として、怪獣出現や他の惑星からの地球侵略などが連続して発生。これを受け、国連軍はロボット専門防衛チーム「テデロス(TDRS)」を発足させる。(玩具・特撮テレビ番組『20世紀未来ロボット防衛隊テデロス』) 末 - 異星人「スプ・トラ」の宇宙船が地球に到来。地球近傍で米ソの乗組員を乗せたシャトルとファーストコンタクトを果たした後、小型の船でネヴァダ州の砂漠に着陸する。これは機密とされ、極軌道上のスプ・トラの宇宙船はソ連の膨張型風船反射衛星だと発表される。(小説『エンベディング』) 末 - 宇宙飛行士イムボボを乗せて木星を目指していた弾道船が、ジャイロの故障によって遭難しガニメデに着陸。イムボボはガニメデで異星の種族「アンシル」の都市の遺跡と無尽蔵のエネルギー源「スターコア」を発見する。(小説『星の秘宝を求めて』) 末 - ユーラシア大陸中央部などに生じた異次元空間「ネスト」から未知の敵「イクシス」が出現。防衛線の確立には成功するが、その後も世界各地に小規模なネストとイクシスが発生するようになる。(プラモデルほか『リトルアーモリー』) 19××年夏 - 太陽に大黒点が生じ、そこから発せられた放射線の作用によって、メトロポリス市のチャールズ・ロートン博士が人造細胞を作り出すことに成功。これを狙う秘密組織「レッド党」がロートン博士を脅迫し、人造細胞を用いた超人「ミッチイ」を作らせる。(漫画『メトロポリス』) 19××年 - 「来訪」発生。異星の超文明からの「来訪者」により、ハーモント市を始めとする地球上の6ヵ所に内部で様々な異常が発生する「来訪ゾーン」が生じる。その後、この「ゾーン」の研究を目的として国際地球外文化研究所が創設される。(小説『』) 19××年 - 「大いなる存在」によって天からもたらされた石「メダリオン」を巡り世界大戦が再燃。文明が滅亡に向かう中、4人のパイロットが争いの元凶であるメダリオンを破壊するために飛び立つ。(ゲーム『ギガウイング』) 19××年 - 宇宙空間の各所に生じたワークスポットの調査に向かったスペースシャトルが、異次元空間に進入し地球に似た環境を持つファゾム星に漂着。ファゾム星の住人であるチハリア人と接触する。(プラモデル『スペースオペレーションシリーズ』) 19XX年 - 世界平和維持機構と兵器結社「アウターリミッツ」の間での局地戦が世界各地で頻発する中、終焉兵器(ドゥームズ・ディ・ウェポン)の開発を進めるアウターリミッツに対し、世界平和維持機構は2機の戦闘機による反抗作戦を開始する。(ゲーム『19XX THE WAR AGAINST DESTINY』) 19XX年 - 東京に巨大隕石が落下し、その直後に謎の銀色の飛行物体による攻撃が開始される。日本政府のSOSを受けた国連は、これに対して米ソが共同開発した戦闘機「バイプレーン」および「ミニプレーン」の使用を決定し、国会議事堂地下からバイプレーンが緊急発進する。(ゲーム『スクランブルフォーメーション』) カーンバ種族を始めとする異星の種族の通信が、星間宇宙の探査を目的とした電波探知機によって探知される。これを受け、地球上での争いは沈静化し始める。(小説『バーサーカー』シリーズ) 脚注 注釈 出典 関連項目 短い20世紀 アメリカの世紀 年表 明治 大正 昭和 平成 外部リンク ポストモダニズム