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Q11569024
_START_ARTICLE_ 熱くなれたら _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 表題曲「熱くなれたら」は、テレビアニメ・『シティーハンター3』のエンディングテーマとして使用された。
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Q11569318
_START_ARTICLE_ 爆発物取締罰則 _START_SECTION_ 解説 _START_PARAGRAPH_ 制定時の社会情勢としては自由民権運動急進派による事件(加波山事件など)が続発していた時期であり、警察官に対する爆発物の使用なども行われたという背景があった。また、当時のヨーロッパで同種の立法の動きがあり、本罰則は1883年にイギリスで制定された Explosive Substance Act を参考にして制定されたとされている。_NEWLINE_大日本帝国憲法施行前に太政官布告として制定されており、帝国議会または国会の議決を経た法律ではないが、大日本帝国憲法施行の際に法律と同様の効力を有するものとして取り扱われ(同憲法76条1項)、したがって日本国憲法の下でも法律としての効力を保有しているものと解されている(最判昭和34年7月3日刑集13巻7号1075号)。本太政官布告が規定する犯罪は基本的に公共危険罪として位置づけられるが、後述するとおり行政犯的な性格を有する規定もある。_NEWLINE_本太政官布告にいう爆発物については「理化学上の爆発現象を惹起するような不安定な平衡状態において、薬品その他の資材が結合する物体であって、その爆発作用そのものによって公共の安全をみだし、または人の身体財産を害するに足る破壊力を有するもの」を指すと解されている(最判昭和31年6月27日刑集第10巻6号921頁)。_NEWLINE_太平洋戦争での日本の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から日本政府に対して「人権指令」が指示され、治安維持法や治安警察法が廃止されたため、日本政府は代替措置として冬眠状態にあった爆発物取締罰則の第一条などを治安維持法の代わりとして使用し、政府に批判的な社会運動の取締りにあたった。_NEWLINE_直近では核テロ処罰法の制定に伴い、2007年に改正されている。 _START_SECTION_ 公共危険罪としての類型 _START_PARAGRAPH_ 本罰則が規定する犯罪のうち、1条から5条及び9条に規定する類型(爆発物使用罪、爆発物使用未遂罪、爆発物使用予備罪、爆発物使用脅迫・教唆・煽動・共謀罪、爆発物使用幇助罪、爆発物犯罪者蔵匿・隠避罪)は、放火罪に近い公共危険罪として位置づけられる。_NEWLINE_基本となる犯罪類型である爆発物使用罪(1条)は、爆発物の危険性を重視したこと、「治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスルノ目的」を成立要件とする目的犯であること等から、罪を犯した場合の刑が死刑又は無期若しくは7年以上の有期懲役又は禁錮刑と、法定刑が著しく重い。 _START_SECTION_ 激発物破裂罪との関係 _START_PARAGRAPH_ 刑法117条が激発物破裂罪につき規定しているため、爆発物を使用して建造物等を損壊した場合につき、激発物破裂罪と本罰則1条の爆発物使用罪との関係が問題となる。大審院判例は、両罪は観念的競合の関係にあり、刑法54条によって処理されるとする(大判大正11年3月31日刑集1巻186頁)。もっとも、本罰則1条の爆発物使用罪は、刑法117条の激発物破裂罪の特別罪であり、前者のみが成立するという見解もある。
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Q11569990
_START_ARTICLE_ 牌効率 _START_PARAGRAPH_ 牌効率(はいこうりつ)とは、麻雀において、聴牌に至る確率・早さのことをいう。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 現代の麻雀では、ほとんどのルールで一発・裏ドラが採用され、また赤ドラが採用されることも少なくない。そのような現在一般的なルールでは、立直以外の手役を作らずとも、メンゼンの状態でテンパイしてリーチをかけることで、一定以上の得点を期待できることが多い。そのため少しでも効率の高い打牌(切り牌)を選び、受け入れを広くしてできるだけ早くテンパイすることが重要視される傾向にある。 _START_SECTION_ 牌効率を重視した選択の例 _START_PARAGRAPH_ 牌効率を重視した選択の典型は以下の場面におけるものである。_NEWLINE_ここにを自摸したとする。 平和を確定させたいのであれば2枚となったは雀頭として手牌に残してまたはを捨てるべきであるが、牌効率を最優先させる場合には、この段階で平和を確定させることは考えずにを捨てるべきである。_NEWLINE_なぜなら、を残しまたはを捨てた場合、以後の4種類の牌を自摸することで(門前で)聴牌となるが、を捨てた場合には の10種類の牌を自摸することで聴牌となるからである。聴牌を可能とする牌の種類が多いということは、当然、一般論(どのような種類の牌がすでに捨てられているかといった具体的な条件を無視した論)としては聴牌の可能性が高い、すなわち牌効率がよいということになる。
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Q30927284
_START_ARTICLE_ 牧広大 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 東京都出身。血液型A型。日本大学法学部経営法学科卒業。牧広大 | ミスターフェニックスコンテスト2011 | MR COLLE ミスターコレ。ミスターフェニックスコンテスト2011グランプリ。_NEWLINE_2015年4月に仙台放送に入社。
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Q30931719
_START_ARTICLE_ 犯罪徴表説 _START_PARAGRAPH_ 犯罪徴表説(はんざいちょうひょうせつ)は近代刑法理論の一つである。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 近代刑法学説の一つである。19世紀後半に社会と経済の変化によって犯罪が増加した。その際犯罪や刑罰を観念的にとらえている旧来の古典学派への批判が集まり、より実証性の高い方法で犯罪をとらえられる近代学派が誕生し、その中でこの説が誕生した。従来の学説では人が犯罪を犯したとき、犯罪行為そのものに対して刑罰を与えるという認識だったが、この学説では犯罪行為は行為者の危険性を徴表している(示している)として犯罪行為ではなくその行為した人に刑罰を与えるという認識になる。 _START_SECTION_ 犯罪徴表説の意義 _START_PARAGRAPH_ 刑法の是認理由を法益保護に求める立場をとる時は、社会侵害行為(すなわち法益侵害行為)に対して社会を防衛するためにこの説が用いられる。つまり犯罪は人の法益侵害に対する危険性を表すこととして意味される。またこの学説の立場では危険な性格の所有者は社会から防衛的対抗を受けるべき地位にあるという点で、社会に対して自己の危険性を理由に責任を負う、即ちこの立場では犯人の主観や人格が最優先されるのである。そのため、保護刑主義は必然主観主義の学説が要求され、保護刑主義の帰結先としてこの学説が存在している。 _START_SECTION_ 犯罪徴表説に対する批判 _START_PARAGRAPH_ 犯罪行為を犯人の心理的欠陥の徴表と解釈すると、犯罪が刑罰の基礎ではなく刑罰の機会にすぎなくなり、刑罰の基礎が犯人がさらに犯罪を起こすことの蓋然性とすると、この蓋然性を認めるために特定の刑法に定められた行為を認めてしまうことになり、矛盾をはらんでしまうという批判である。また、この説では過失犯に対しても性格の嫌疑がかかるという点で個人の権利が侵害されるという批判も存在している。
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Q15920653
_START_ARTICLE_ 猛安・謀克 _START_PARAGRAPH_ 猛安(もうあん)、謀克(ぼうこく)とは中国、金の支配民族女真族の社会組織・軍事組織、およびそれらの組織の指導者の役職名である。女真の間に元来行われていた社会制度を元に、1114年に金の太祖阿骨打によって創始された。この制度を指して猛安・謀克制と呼び、猛安と謀克はどちらも同名の役職によって管理されていた。_NEWLINE_阿骨打によって統一される前の女真の諸部族はそれぞれ勃極烈と呼ばれる族長に率いられており、戦時には率いる兵数に応じた称号が勃極烈に与えられていた。また、猛安・謀克制と北魏の八部制、遼の二十部から構成される軍事組織、モンゴル帝国で実施された千戸制・百戸制、北アジアの遊牧民族の間で行われた軍事組織の編成法との関連も指摘されている。_NEWLINE_猛安・謀克制は、兵士となることができる成年男子300人を含む300戸を1謀克とし、10謀克を1猛安として、女真族を編成する社会組織・軍事組織である。猛安は女真語で「千」を意味するming-kan、謀克は「族長」を意味するmukeの音訳とされており、時に猛安は「千戸」「千戸長」と意訳される。また、謀克は女真語で「族」を意味するmuhunと語源を同じくすると考えられている。猛安・謀克は平時には割り当てられた戸を管理し、戦時になると自前で武具と兵糧を用意し、自らの戸から徴収した兵士を率いて戦った。戦時には1謀克から100人の兵士が供出され、1猛安は1,000人の兵士で構成される。猛安・謀克の指導者の地位は世襲制で、世官と呼ばれることもある。 _NEWLINE_初期は金の支配下に置かれているすべての民衆に猛安・謀克制が適用されていたが、金の勢力が華北に及ぶと猛安・謀克は再編される。1125年に猛安・謀克制の対象を女真族、契丹族、北方の諸民族に限定し、他の民族の管理には州県制が適用された。契丹の猛安・謀克の指導者には契丹族を任命して世襲制が適用され、猛安・謀克制による契丹族への懐柔策は一定の成功を収めた。世宗の時代には相次ぐ契丹の反乱に対処するため、彼らも猛安・謀克制から除外される。_NEWLINE_1142年に金と南宋の間に和約が結ばれた後、満州に居住していた女真族は猛安・謀克の組織を保ったまま華北に移住し、その数は1,000,000人に達すると言われている。河北、山東、河南の北部に移住した集団は一定の農地を与えられて耕作に従事し、戦争に備えた軍事訓練を行い、一部の集団は辺境の防衛や首都の警備を輪番で担当した。漢人に入り混じって華北に住む女真族は租税、耕作の面で国家から優遇され、漢人との間に紛争が起きた時には女真族に有利な裁定が下されることが多かった。海陵王によって会寧から燕京に遷都された後、女真族の華北への移住はより活発になる。 _NEWLINE_華北に移住した女真族は漢人の生活を模倣して南宋から物資を購入し、次第に漢人間の貨幣経済に組み込まれていき、貨幣経済の浸透は世宗期に起こる女真族の貧困化の一因となる。漢人との雑居によって尚武の気風を失った女真族は、経済的に困窮していく。1161年の海陵王の南宋遠征には多数の女真族の男子が動員され、働き手を失った女真族の没落はより進行する。海陵王の次に即位した世宗は困窮する女真族の救済に乗り出すが成果は上がらず、章宗の時代に華北に暮らす女真族の没落はより顕著になる。女真族を救済するために漢人が不利益を被る政策がとられることが多くなり、漢人の不満の増大が金の衰退の一因になったと考えられている。
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Q11572492
_START_ARTICLE_ 玉子丼 _START_PARAGRAPH_ 玉子丼(たまごどんぶり)は、ネギ、タマネギ、ミツバ、シイタケなどの繊切りを、砂糖、醤油、みりん、出汁などで下煮して、鶏卵を流し込んでとじたものを丼飯の上に乗せた料理。玉丼(たまどん、ぎょくどん)とも呼ばれる。鶏肉無しの親子丼と言ってもよい。蒲鉾やナルト、薩摩揚げなどの魚肉練り製品が入ることもある。具材が少ないため、蕎麦屋や定食屋では最も安価に提供される丼飯のひとつである。
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Q11573256
_START_ARTICLE_ 玖保キリコ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1982年『LaLa』掲載の「物思いモノローグ」でデビュー。『シニカル・ヒステリー・アワー』の連載で人気を得る。『いまどきのこども』で、男性読者にも知られるようになった。_NEWLINE_ピッキーピクニックというバンドにも参加している。_NEWLINE_小学館の『マミイ』の表紙に、2000年4月号から2007年9月号までイラストレーションを掲載した。
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Q22124922
_START_ARTICLE_ 琴慈 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 高校生時に『月刊Gファンタジー』(エニックス出版局)(現スクウェア・エニックス)でデビュー。当時の名前は本名を使用しているため、今では明かされていない。_NEWLINE_しばらく同出版局の雑誌で一般向け読み切り漫画を描いていたが、趣味・同人活動としての執筆に変化し商業活動を休止する。_NEWLINE_後にスカウトされ成人向け漫画・イラストの執筆、さらにその後一般向け漫画・イラストの商業活動を再開した。
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Q64783918
_START_ARTICLE_ 瓦田隆根 _START_SECTION_ 経歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 佐賀県出身。1912年(明治45年)陸軍士官学校第24期卒業、陸軍歩兵少尉に任官。_NEWLINE_1939年(昭和14年)3月に陸軍歩兵大佐・独立守備歩兵第5大隊長、同年10月に歩兵第89連隊長、1941年(昭和16年)3月に留守第3師団司令部附(名古屋帝国大学配属将校)、1943年(昭和18年)8月に南西第1守備隊長、1944年(昭和19年)3月に第12野戦補充隊長を経て、同年8月に陸軍少将に進級。_NEWLINE_1945年(昭和20年)2月に独立混成第92旅団長(支那派遣軍、第13軍)に補任され、大同で警備に当たる最中、終戦を迎えた。
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Q18459021
_START_ARTICLE_ 生涯未婚率 _START_PARAGRAPH_ 生涯未婚率(しょうがいみこんりつ)とは、日本政府が人口の統計において用いている用語であり、50歳になった時点で一度も結婚をしたことがない人間の割合を意味する言葉である。また生涯未婚率について、政府が表現を変更し、50歳時未婚率に統一するとのこと。_NEWLINE_江戸時代は江戸に住む男性の生涯未婚率は50%近くあった。1970年代までは安定して2%程度を推移し、2000年頃でも10%未満という少ない数字であったが、年々上昇傾向にあり2010年には男性の生涯未婚率は20%を超えた。今後この数字がさらに増加すると予想されており、このことにより少子化などといった問題が一層深刻になっていくとされている。2015年に男性が約23%、女性が約14%である。推計では2035年に男性が約29%、女性が19%になるとの推計が出ている。
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Q8191909
_START_ARTICLE_ 生駒治美 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 大阪テレビタレントビューロー(TTB)に所属していたが、一時期TTBを脱退し、フリーで活動する。2006年にTTBに復帰した後、2007年にJプロダクションに移籍。_NEWLINE_大阪を拠点に活動する声優としては代表的であり、SNK・SNKプレイモアの格闘ゲームで『龍虎の拳』のキングや『サムライスピリッツ』のナコルルなどの多数の女性キャラクターを演じている事で知られる。また、フリーの間は東京で活動し、『こどものおもちゃ』の出演を機に、『おじゃる丸』の金ちゃん役などテレビアニメへの出演、特にネルケプランニングのキャスティングの作品への出演が目立った。 _START_SECTION_ 出演 _START_PARAGRAPH_ 太字はメインキャラクター。
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Q2269
_START_ARTICLE_ 産業革命 _START_PARAGRAPH_ 産業革命(さんぎょうかくめい、英: Industrial Revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。_NEWLINE_産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程における様々な技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こったことも重要である。_NEWLINE_経済史において、それまで安定していた一人あたりのGDP(国内総生産)が産業革命以降増加を始めたことから、経済成長は資本主義経済の中で始まったとも言え、産業革命は市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事であったとされる。また産業革命を「工業化」という見方をする事もあり、それを踏まえて工業革命とも訳される。ただしイギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的な意義がある点を踏まえ、一般に産業革命という用語が用いられている。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 「産業革命」という言葉が初めて使われたのは1837年、経済学者のジェローム=アドルフ・ブランキによるものからである。その後、1844年にフリードリヒ・エンゲルスによって広まり、アーノルド・トインビーが著作の中で使用したことから学術用語として定着した。もともとは1760年代から1830年代にかけてイギリスで起こった「最初の」産業革命を指した言葉だが、いわゆる発展段階論において市民革命と並んで、近代とそれ以前を分かつ分水嶺とされたため、イギリスを皮切りにベルギー、フランス、アメリカ、ドイツ、ロシア、日本といった風に順次各国でも産業革命が起こったとされた。_NEWLINE_イギリスで産業革命が始まった要因として、原料供給地および市場としての植民地の存在、清教徒革命・名誉革命による社会・経済的な環境整備、蓄積された資本ないし資金調達が容易な環境、および農業革命によってもたらされた労働力、などが挙げられる。これらの条件の多くはフランスでもそれほど変わることはなかったが、唯一決定的に違ったのが、植民地の有無である。_NEWLINE_イギリス産業革命は1760年代に始まるとされるが、七年戦争が終結し、アメリカ、インドにおけるイギリスのフランスに対する優位が決定づけられたのは1763年のパリ条約の時である。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが市場・原料供給地を得た、というよりも、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場・原料供給地を失ったというべきであろう。いずれにせよ、イギリスはライバルであるフランスに先んじて産業革命を開始し、フランスに限らず一体化しつつあった地球上の全ての国々に対して有利な位置を占めることとなった。言い換えるならば、七年戦争の勝利によってイギリスは近代世界システムにおける覇権国家の地位を決定づけたのである。_NEWLINE_イギリスの産業革命は1760年代から1830年代までという比較的長い期間に渡って漸進的に進行した。またイギリスに限らず西ヨーロッパ地域では「産業革命」に先行してプロト工業化と呼ばれる技術革新が存在した。そのため、そもそも「産業革命」のような長期的かつ緩慢で、唯一でもない進歩が「革命」と呼ぶに値するか、という議論もある。_NEWLINE_初期の軽工業中心のころを「第一次産業革命」、電気・石油による重化学工業への移行後を「第二次産業革命」、原子力エネルギーを利用する現代を「第三次産業革命」と呼ぶ立場があるが、このような技術形態に重きを置く産業革命の理解からは、「産業革命不在説」に対する有力な反論は出にくい。そのため、現在では産業の変化とそれに伴う社会の変化については、「革命」というほど急激な変化ではないという観点から、「工業化」という言葉で表されることが多い。ただし、イギリスの事例については依然として「産業革命」という言葉も使われている。_NEWLINE_イギリスについて目を向ければ、労働者階級の成立、中流階級の成長、および地主貴族階級の成熟による三階級構造の確立や消費社会の定着など、1760年代から1830年代という「産業革命期」を挟んで大きな社会的変化を見出すことができる。また世界史に目を向ければ、最初の工業化であるイギリス産業革命を期に、奴隷貿易を含む貿易の拡大や、国際分業体制の確立といった地球規模での大変化が始まったとも言える。_NEWLINE_この世界規模での影響(負の側面も含めて)は、先行するプロト工業化などではなかったものである。そのため、産業革命は単なる技術上の変化としてではなく、また一国単位の出来事としてでもなく、より広い見地から理解される必要がある。世界最初の産業革命になった _START_SECTION_ 毛織物工業と資本 _START_PARAGRAPH_ 産業革命に先行して、イギリスでは新毛織物と呼ばれる薄手の羊毛製品の製造が盛んであった。もともとイギリスでは中世末期から毛織物が盛んで、フランドルなどに比較的厚手の半完成品を輸出していた。この種の毛織物は新毛織物に対して、旧毛織物と呼ばれる。_NEWLINE_その後、毛織物の主流は新毛織物へと変わり、当初イギリスはフランスやネーデルラントなどから新毛織物を輸入していたが、宗教改革後のスペインとの関係悪化により輸入が停止すると、ネーデルラント独立戦争の混乱を避け大陸から逃れてきた新教徒を集めて、自国での生産を開始する。_NEWLINE_こうした毛織物生産は都市ではなく、各地の農村において行われることが多かった。農村部には余剰労働力が常に存在しており、またイギリスではかなり撤廃が進んでいたものの、都市部においては規制に縛られることがあり自由な生産に障害が起きやすかったためである。都市にいる問屋が機材を持つ農民に対して原材料を供給し、農民が副業として織物を生産することが多く、こうした生産様式は問屋制家内工業と呼ばれた。一部においてはさらにこれが大規模化し、工場に生産者を集中させて生産を行う、いわゆる工場制手工業(マニュファクチュア)に発展するものも出てきた。こういった農村工業の進展はプロト工業化と呼ばれる。毛織物工業で蓄積された資本は、後に綿織物工業に利用され、産業革命につながったとされるが、初期の綿織物工業にはそれほど大きな設備投資が必要ではなく、毛織物の担い手であったジェントリ以外にも雑多な職業の人間が参入していたことが分かっている。彼らの多くは蓄積された資本ではなく、借金によって必要な資金を賄ったといわれ、柔軟な資金供給が当時としては問題であったとも言われる。 _START_SECTION_ 労働力 _START_PARAGRAPH_ 18世紀から19世紀にかけて、西ヨーロッパにおいて一連の農業技術上の改革(イギリスでは特に農業革命と呼ばれる)があった。休耕地を無くした四輪作の導入、囲い込みによる集約的土地利用などによって、食料生産が飛躍的に伸びた一方で、中小の農民は自営農から賃金労働者に転落した。しかし、賃金労働者となったものの、従来言われたように職を失い都市部に流入したわけではない。_NEWLINE_農業革命による新農法は広い土地を必要としたが、依然耕作のための人手も必要としており、自営農であった者たちは同じ土地でそのまま農業労働者となったと言うのが正しい。むしろ食料生産の増加によってもたらされた人口の増加によって、産業革命に必要な労働力は賄われたといえる。_NEWLINE_この人口増加は、イギリスに限らず西ヨーロッパ全域でおこっており、人口革命とも呼ばれる。またこの他にもアイルランドからの人口流入も労働力需要に応えたが、競争にさらされることとなったプロテスタント系イギリス労働者との間に軋轢を引き起こし、1780年にロンドンで発生した反カトリック暴動の原因にもなった。 _START_SECTION_ 海外植民地と商業革命 _START_PARAGRAPH_ 資本の蓄積や人口増加、いずれにせよ、イギリス固有というよりもヨーロッパに共通の事柄であり、現在よく言われる様に、産業革命前夜のイギリスとフランスではさしたる差は存在しなかった。むしろ手工業という点ではイギリスよりもヨーロッパ大陸諸国の方が若干発達していたともされる。_NEWLINE_フランスで起きなかった産業革命がイギリスで起こった原因は、イギリスにあってフランスに無かったもの、つまり広大な海外植民地であった。初期の産業革命で生産された雑工業製品の多くがヨーロッパ外の地域に向けられた事からも産業革命における海外植民地の重要性を見て取る事ができる。こうした対外貿易の隆盛によって、イギリス商業革命と呼ばれる急激な商業の成長が起き、イギリスは産業革命に必要な資本の蓄積が可能となった。また、ギルドの廃止など国内商業自体の改革も進んだ。 _START_SECTION_ 需要と市場保護 _START_PARAGRAPH_ インド産キャラコによって綿織物に対する需要が生み出されたが、イギリスから輸出できる生産品は毛織物程度しかなかったうえ、毛織物はインドはじめ温暖な地方においてはほとんど需要がなかったため、18世紀におけるイギリスの貿易収支は常に大幅な貿易赤字となっていた。これを改善するために綿織物の国内生産が進められるようになった。綿織物産業が主に成立したのはランカシャー地方であり、ここは東部の毛織物工業地帯と西部の麻織物工業地帯に挟まれて両工業の資本やノウハウ、技術が利用可能な地域だった。こうして生産された綿織物や亜麻と綿の混紡(ファスチャン)は品質が良くなかったために輸出用として大西洋三角貿易に回され、市場を得た綿織物工業は徐々に成長していった。さらに生活革命により、その他の雑工業製品に対する需要は飛躍的に大きくなった。これにより工業化がもたらす商品生産能力向上を吸収・消費する国内市場が形成された。 _START_SECTION_ 技術力の向上 _START_PARAGRAPH_ 産業革命の原動力となった蒸気機関や紡績機などの機械は、多くの部品を正確に制作して組み合わせ、狂いなく動作するように仕上げる技術が必要であり、作成には高度な技術力が求められる。こうした多数の部品を組み合わせ正確に動作させる技術は、時計産業の発達によってもたらされた。時計は多数の部品を正確に組み合わせないと動作しない高度な機械製品であるが、18世紀後半にはジョン・ハリソンのクロノメーターの開発に代表されるように時計制作技術が長足の進歩を遂げており、イギリスをはじめとしてフランスやスイスには時計を分業によって制作できる高度な技術を持った職人集団が成立していた。この機械製作技術やシステムはそのまま蒸気機関や紡績機といった黎明期の産業機械製作に応用され、産業革命の技術的基礎となった。 _START_SECTION_ 織機・紡績機の改良 _START_PARAGRAPH_ イギリス産業革命の原動力となったもののうち、もっとも重要だったのが綿織物工業における様々な技術革新である。こうした技術革新の端緒となったのは、1733年ジョン・ケイが、織機の一部分である杼を改良した飛び杼(flying shuttle)を発明したことである。これにより、手で杼を動かす必要がなくなり、織機が高速化された。これは行程の一つの改善でしかなかったが、これにより綿布生産の速度が向上したために、旧来の糸車を使った紡績では綿糸生産能力が需要に追いつかなくなった。そのため、旺盛な需要に応じるために1764年ハーグリーブスがジェニー紡績機を発明した。これは、従来の手挽車が1本ずつ糸を取る代わりに、8本(のちに16本に改良)の糸を同時につむぐことのできる多軸紡績機であった。ただしこの段階ではいまだ紡績は人力と熟練に依存しており、ジェニー紡績機が小型であることもあってこの紡績機は農村工業地帯に広く普及した。_NEWLINE_1771年リチャード・アークライトが水力紡績機を開発した。綿をローラーで引き延ばしてから撚りをかける機械で、ジェニー紡績機のように小形のものではなく、人間の力では動かない大型の機械だったので、水力を利用したもの。個人の住宅では使用できないため工場を設け、機械を据え付けて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した。これにより、大量生産が可能になり、立地に制約がなくなったうえに紡糸作業に熟練した労働者が必要としなくなったため、失業を恐れる労働者や同業者などから妨害を受けた。この発明は、本格的な工場制機械工業のはじまりとなった。_NEWLINE_そしてこれらの特徴を併せ持ったサミュエル・クロンプトンのミュール紡績機が1779年に誕生し、綿糸供給が改良される。すなわち、ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすく、水力紡績機の糸は丈夫だが太かったため、細くて丈夫な糸をつくろうとしてうまれたのがミュール紡績機であった。ミュールとはラバのことで、要するにウマとロバの長所を採ったという意味である。_NEWLINE_これらの発明によって紡績過程は大幅に改善されたが、織布過程は飛び杼以来目立った改良がなく、生産能力が不足していた。このため、これを受けてエドモンド・カートライトが蒸気機関を動力とした力織機を1785年に発明した。これはその名の通り世界初の動力式の織機であり、これによってさらに生産速度は上がった。原綿の供給においても、1793年にアメリカのイーライ・ホイットニーが綿繰り機を発明したことで梳毛が大幅に改良され、大量の原綿が供給されることとなった。紡績過程においてはミュール紡績機は長らく主力であり続けたが、多くの人々によって常に改良がなされており、1830年にリチャード・ロバーツによって完全に自動化された。_NEWLINE_これらのように、問題点の改良が各地で行われた結果として生産性が加速度的に向上することとなった。問題点の解決が生産余剰を生み出す又は前行程の生産増大を促し生産効率を揚げるという相乗効果の中で、最終的な生産物が過去とは比較できない比率で生産出来るようになった。こうした数々の改善の結果イギリスの綿織物の生産は激増し、品質も改良されて全世界に輸出できるものとなっていった。1802年から1803年にはとうとうそれまでイギリスの主力産業であった毛織物の輸出を上回るようになり、綿織物は新たなイギリスの主力産業となっていった。 _START_SECTION_ 製鉄技術の改良 _START_PARAGRAPH_ 繊維業とならんでイギリス産業革命の推進役となったのが製鉄業である。イギリスでは既に16世紀頃から鉄製品に対する需要が高まっていたが、当時は木炭を用いていたため、急速に成長する鉄需要に対応するうちに木材が深刻に不足し、17世紀にはロシアやスウェーデンから鉄を輸入する事態となっていた。木炭不足に対応すべく、一般家庭の燃料にはこのころから石炭が利用されるようになっていた。イギリスには石炭が豊富に存在したからである。しかし石炭に含まれる硫黄分が鉄をもろくしたため、石炭を製鉄に使用する試みはすべて失敗に終わっていた。_NEWLINE_18世紀に入り、1709年にエイブラハム・ダービー1世が石炭を蒸し焼きにしたコークスを製鉄に利用するコークス製鉄法が開発されたことで状況は変わったものの、この製鉄法が広く普及するためにはさらに数十年を要した。1735年には彼の息子であるエイブラハム・ダービー2世によって更に改良が加えられ、1750年ごろからコークス製鉄法はイギリス全土に普及していった。1740年代にはベンジャミン・ハンツマンによって良質の鋼鉄も作られるようになったが、この鋼鉄は大量生産ができず、鋼鉄を一般的に使用できるようにはできなかった。1760年代にはジョン・スミートンによって高炉用の送風機が改良され、これにワット式蒸気機関を組み合わせることで送風過程はさらに効率が良くなった。ついで1784年にはヘンリー・コートが攪拌精錬法を発明し、これによって良質の錬鉄が大量に生産できるようになった。_NEWLINE_この様な鉄の需要は、はじめのうちは生活革命によって使用されるようになった軽工業製品によって牽引されたが、やがて産業革命が進むにつれて、工業機械や鉄道のためにさらなる鉄が必要となっていった。イギリスで作られた工業機械は1774年に海外への輸出が禁じられたものの、1825年にこの禁止が解除され、以後イギリスの優れた機械は海外へ輸出され、ドイツなどの工業化を進めることとなった。 _START_SECTION_ 各種工業の発展 _START_PARAGRAPH_ 様々な産業機械の発明と発展は、その産業機械を生み出す機械工業を誕生させ、さらに機械を生産するための加工技術も発展を続けた。1774年には製鉄業者であるジョン・ウィルキンソンが中ぐり盤を発明し、これによってシリンダーなどの内面の精度が大きく向上した。この精度の向上によって、後述するワット蒸気機関の作動を保障できるだけの前提が整った。また、1800年にはヘンリー・モーズリーが実用的なねじ切り旋盤を発明したことにより、ねじ山が統一したサイズでねじを生産できるようになり、ボルトとナットが互換性を持った形で量産が可能になった。それまでは対となるボルトとナットは世界に一つきりのもので、互換性など求めるべくもなかったのである。これによって、ヘンリー・モーズリーは工作機械の父とも呼ばれる。_NEWLINE_また、これ以外の産業技術の開発もこの時期進んだ。1791年にはフランスのニコラ・ルブランがソーダ灰(炭酸ナトリウム)の大量生産法を発明し、このルブラン法によってアルカリを大量に使用するガラス産業などの原料供給のネックが解消され、ガラスの増産が進んだ。製紙業においては、1798年にフランスのルイ=ニコラ・ロベールが連続型の抄紙機を発明し、1799年にはイギリスのヘンリー・フォードリニアがこれを実用化した。印刷業においては、1800年にイギリスのチャールズ・スタンホープ(スタナップ)が鉄製で手動のスタンホープ(スタナップ)印刷機を発明し、それまでの木製のグーテンベルク印刷機にとってかわった。1811年にはドイツのフリードリヒ・ケーニヒが蒸気式の印刷機を開発し、製紙と印刷の改善によって出版がより一層盛んとなった。建材においては、ジョン・スミートンが水硬性石灰の水硬性の条件を特定したことからセメントの研究が進み、1824年にはジョセフ・アスプディンがポルトランドセメントを発明し、以後セメントは重要な建築材料の地位を占めるようになった。照明においても、1792年にウィリアム・マードックがガス灯を発明し、19世紀初頭にはヨーロッパで普及した。 _START_SECTION_ 動力源の開発 _START_PARAGRAPH_ 石炭の採掘が盛んになると、炭坑に溜まる地下水の処理が問題となった。こうした中、1712年にニューコメンによって蒸気機関を用いた排水ポンプが実用化された。ただしこれは効率の悪いもので、産出された石炭の3分の1が蒸気機関の運用に使用されたといわれているが、ともかくもこれによって鉱山の排水は改善され、石炭の生産は増大した。_NEWLINE_1765年、ジェームズ・ワットが蒸気機関から復水器を独立させたことで、蒸気機関の能力は著しく増大し、真に動力源として革命的なものとなった。これによりエネルギー効率が大幅に改善され、燃料の75%の節約が可能となったのである。実用化にはしばらく時間を必要としたが、1775年にマシュー・ボールトンの出資を受け、ボールトン・アンド・ワット商会を設立してからは設計は順調に進み、1776年には最初の実用的なワット蒸気機関が完成した。さらにワットは1781年に遊星歯車機構の特許を取り、蒸気機関のエネルギーをピストン運動から円運動へ転換させることに成功した。この蒸気機関の改良によって、蒸気機関は鉱山排水のみならず様々な機械に応用されるようになった。それまで工場は水力を利用するために川沿いに建設するほかなかったが、ワットが蒸気機関を改良したことによって、川を離れ都市近郊に工場を建設することが可能となった。これにより新興商工業都市は更なる成長を遂げるが、一方で過密による住環境の悪化を招くこととなる。ワットは爆発事故を防ぐために蒸気機関を高圧で使用することを禁じていたが、1800年にワットの特許が切れるとリチャード・トレビシックらによってさっそく蒸気機関の高圧化がはかられ、出力を急上昇させた蒸気機関はさらに多くの用途を持つようになった。 _START_SECTION_ 移動手段の発達 _START_PARAGRAPH_ 産業の発展に伴い、イギリス国内の輸送手段も徐々に改善されるようになった。最初期の輸送手段改善は主に運河の建設によってなされた。きっかけは、ブリッジウォーター公フランシス・エジャートンが1761年に建設したブリッジウォーター運河である。この運河はブリッジウォーター公の領地であるワースリー炭鉱と工業都市マンチェスターを結ぶものであり、大成功をおさめ、マンチェスターの石炭価格が半額に下落したうえに経費も大幅に節約できた。この成功は各地に模倣を生み、1760年代から1830年代にかけてはイギリスにおいて運河時代と呼ばれる一時代が現出した。とくに1790年代前半には「運河熱」と呼ばれる運河建設・投資ブームが巻き起こり、急速に運河の建設が進んだ。この運河網の発達は安定した大量輸送を各地で確保し、産業革命を推進する大きな力の一つとなった。また、陸路に頼らざるを得ない鉱山などにおいては、線路を敷設しその上にトロッコや貨車を走らせることが行われていたが、これも18世紀後半にはレールが鋳鉄製となり、人力に代わって車を馬に曳かせる馬車鉄道なども導入されて、多くの鉱山で使用されるようになっていた。また、19世紀初頭にはジョン・マカダムによっていわゆるマカダム舗装が実用化され、道路は大きく改良された。_NEWLINE_しかしこの時点においてはいまだ、交通機関そのものに対する抜本的な改良はなされていなかった。しかし蒸気機関が改良されるとともに、蒸気機関を輸送手段に使用する試みがなされるようになっていった。こうした試みのうち、最も早く実用化がなされたのは蒸気船であり、1807年にロバート・フルトンによって河川航行が可能な外輪船が実用化された。外輪船は荒波に弱かったために外洋航行には使用できなかったが、1830年代には改良された外輪船が外洋航行を行うようになる。しかし本格的に蒸気船が使用され始めるのは、1840年代により高速を得られ安定性も高いスクリュープロペラが開発されるまでかかった。また、産業革命期は帆船の改良も進められており、快速帆船(クリッパー)と呼ばれる高速の帆船が登場し帆船が全盛期を迎えるのは、イギリスで産業革命が終わった後の1840年代以降のことになる。このため、蒸気船が帆船にこの時期とってかわったわけではないことには注意が必要である。_NEWLINE_また1804年にはトレビシックにより蒸気機関車が発明された。この蒸気機関車は実用的なものではなかったが、その後蒸気機関車はジョージ・スチーブンソンらによって改良され、1825年には世界最初の商用鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通した。さらに蒸気機関車の改良は進められ、1829年にロバート・スチーブンソンの設計したロケット号によって基本的な機構が完成された。翌1830年のリバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開業によって、蒸気機関車とそれの走る鉄道というシステムが完成した。蒸気船の普及に時間がかかったのとは対照的に、陸上にほかに特に対抗できる高速交通機関が存在しなかった鉄道の普及は急速なもので、1830年代後半になるとすでに鉄道網の整備が進み始めており、1850年までには6000マイルの鉄道が開通した。また、鉄道は時をおかずして諸国にも伝わり、1830年代にはすでにアメリカ・フランス・ドイツ、さらにはロシアなどにおいても鉄道が開通し、1850年ごろにはこれらの国でもかなりの長さの鉄道網が開通していた。これらの移動手段の発達は「交通革命」と呼ばれる。イギリスにおいては鉄道は産業革命の原動力ではなくひとつの結実であり、イギリスは鉄道なしで産業革命を成し遂げた唯一の国家となった。後発諸国の産業革命・工業化においては、鉄道の敷設は前提条件となった。 _START_SECTION_ 社会変化と影響 _START_PARAGRAPH_ 産業革命は1760年代から1830年代までに及ぶ非常に長くゆるやかな変化であったが、産業革命以前と以後において社会の姿は激変していた。農民の比率は減少し商工業従事者が激増したが、なかでも鉱工業に従事する労働者の数が大幅に増えた。工業の比率が高まるとともに都市には多くの労働者が集住するようになり、都市化はこのころから徐々に進むようになった。生産システムも、それまでの家内制手工業から工場制手工業(マニュファクチュア)に代わり、都市に大規模な工場を建設して機械により生産を行う、いわゆる工場制機械工業の割合が増加していった。ただし、イギリスにおいても工場制機械工業は1830年代を過ぎるまでは工業生産の主流とは言えず、手工業が各地に残存していたことは特筆されるべきである。また、この流れの中で工業に従事する者の中でも階層分化が起き、工場を所持する産業資本家層と、その工場で働く労働者層が成立した。_NEWLINE_産業革命の進展と、それによる工業生産の増大は工場を所持する産業資本家の勢力の増大をもたらし、参政権を求める声も高まっていった。この動きは1832年にホイッグ党のグレイ内閣が、人口の極端に少ない、いわゆる「腐敗選挙区」を廃止するとともにブルジョワ層に選挙権を拡大することにつながった。こうした動きの中で産業資本家層は旧来からの地主貴族層と結合を深め支配層の仲間いりを果たすが、一方で労働者層の不満も非常に高まっていた。労働者の生活水準は非常に低いものであり、また鉱山や工場においては児童労働などの問題も深刻だった。1811年から1812年にかけてのラッダイト運動などの抗議を繰り返すようになった。この資本家と労働者の対立は、産業化が進むにつれてより一層深刻となり、以後の世界政治の重要な底流の一つとなった。_NEWLINE_イギリスの工業生産は最盛期の1820年代には一国で世界の工業生産の半分(50%)を占めるようになり、以後1870年代にいたるまでイギリスは世界最大の工業国でありつづけ、「世界の工場」と呼ばれるようになった。_NEWLINE_産業革命期の生活水準については、常に論争の種となってきた。特に都市部においては都市開発技術の発展や衛生観念の発展などが人口増加に追い付かず、賃金レベルも低く、産業革命以前と比べて生活レベルが下がったという見解がある一方、輸送コストの低減や特に綿織物の価格の低落による衣料事情の改善などがそれをかなりの部分相殺したという見解もある。 _START_SECTION_ イギリス以外への伝播 _START_PARAGRAPH_ イギリスで産業革命がほぼ完了する1830年代に入ると、イギリス以外の国々にも産業革命が伝播するようになった。まず最初に産業革命が伝播したのはベルギーで、1830年の独立とほぼ同時に産業革命が開始されている。ベルギーが産業革命の先陣を切った理由は、南部のワロニア地域に豊富な鉄鉱石と石炭の埋蔵があったことや欧州の中央に位置し交通の便に恵まれていたことなどによる。ついで、ほぼ同時期に、七月王政期に入ったフランスと、米英戦争(1812年 -1814年)後にイギリスからの経済的自立が深まり、さらに西部の開拓が急速に進みつつあるアメリカでも産業革命が始まった。イギリスとそれ以外の国々の産業革命における最大の差異は、鉄道の有無である。1825年に実用化された蒸気機関車式の鉄道は、瞬く間にヨーロッパやアメリカ諸国へと伝播し、輸送システムを一変させた。また、こうした後発諸国は先行するイギリスの技術や社会システムを取り入れて発展することができたので、より急速な成長が可能となった。ただしこれら諸国の産業革命のスピードは各国によってまちまちであり、たとえばフランスにおいては産業革命の進展は緩やかなものであり、急速に進展を始めるのはナポレオン3世による第二帝政を待たねばならなかった。_NEWLINE_こうした先発諸国に対し、1834年のドイツ関税同盟成立によって広大な共通市場を得たドイツ諸邦が、1840年代から産業革命を開始した。その後、19世紀後半にはイタリアやロシア、そしてスウェーデンやなどの北欧諸国が、さらにアジアにおいてはそれまで世界最大の経済大国だった中国とインドはイギリスとの戦争で敗戦して工業化にも失敗し、唯一日本が産業革命を成功させ、工業化社会を築き上げていった。イギリス産業革命がほぼ民間資本のみによって「下から」達成されたのに対し、これら後発諸国の多くにおいては政府が積極的に工業の育成に取り組み、いわゆる「上からの」産業革命が推進されていった。工業化を成功化させた国々と、工業化がなされない国や工業化を成功させた国の植民地との国力差は、産業革命以前と比べて非常に大きなものとなった。
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Q1385156
_START_ARTICLE_ 田中利明 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 北海道出身。日本大学卒業。_NEWLINE_世界卓球選手権では、1955年から3年連続決勝に進出し、1955年および1957年に世界チャンピオンとなった。また荻村伊智朗、角田啓輔らとともに、1954年から、世界卓球選手権男子団体3連覇に貢献した。男子シングルスでは、1955年、ドリナーをわずか15分で破り初優勝、1956年は決勝で荻村に敗れたが、1957年は決勝で荻村を破り2度目の優勝を果たした。1956年大会の男子団体準決勝ルーマニア戦では日本が3-4と追い込まれた(5点先取)8番手の試合で、ゲームオール14-20とマッチポイントを取られた状況から23-21と逆転勝利した。_NEWLINE_昭和29(1954)年度から全日本男子シングルス3連覇を達成している。_NEWLINE_1992年のバルセロナオリンピックでは、日本代表の総監督を務めた。_NEWLINE_1997年に、荻村伊智朗、松崎キミ代、江口冨士枝らと共に世界卓球殿堂入りを果たした。
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Q11575431
_START_ARTICLE_ 田中壽一 _START_PARAGRAPH_ 田中 壽一(たなか じゅいち、1886年(明治19年)10月5日 - 1960年(昭和35年)11月11日)は、日本の物理学者。学校法人名城大学創設者。福岡県山門郡柳河町(現・福岡県柳川市)出身。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 柳河尋常小学校、柳河高等小学校、福岡県立中学伝習館(現・福岡県立伝習館高等学校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科電気機械分科を卒業(明治42年)。卒業後逓信省(現総務省)に入り、電気事業者届出落成電気工作物の検査・監査に当たった。その当時の部下が後に東海大学を創立した松前重義である。明治45年(1912年)4月、明治専門学校(現九州工業大学)助教授となったが、大正4年(1915年)8月東北帝国大学理科大学物理学科(現東北大学理学部)に入学して勉学に励んだ。大正7年(1918年)同校を卒業し、東京芝浦製作所に研究員として勤務、翌8年(1919年)、東北帝国大学の助教授となった。そのころ、助手には後の東京大学総長茅誠司がいた。大正11年(1922年)文部省の在外研究員として主にドイツに留学、2年後の大正13年(1924年)7月に帰国、浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)教授に任ぜられ、初代電気工学科長となった。当時の部下であった高柳健次郎は日本初のテレビジョンを開発した。_NEWLINE_大正15年(1926年)同校を休職し、かねてからの念願であった私立学校の設立を志して名古屋に移り、夜間の名古屋高等理工科講習所を開設。その後名城大学、名城大学短期大学部、名城大学附属高等学校を設置。1960年病没。_NEWLINE_名城大学附属高等学校には胸像がある。
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Q11575472
_START_ARTICLE_ 田中宗一郎 _START_SECTION_ 経歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 立教大学文学部では前田愛に学ぶ。広告代理店勤務を経た後、ロッキング・オンに入社。洋楽専門の月刊音楽雑誌『rockin'on』の副編集長を務める。_NEWLINE_1997年にロッキング・オンを退社し、リトルモア社から音楽雑誌『snoozer』を創刊、2011年に廃刊。_NEWLINE_現在は、club SNOOZERを主催。the sign magazineのクリエイティヴ・ディレクターを務める。
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Q45830438
_START_ARTICLE_ 田中美真 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 寛保元年(1741年)部屋住みより御役所見習となり、5人扶持を受けた。寛延2年(1749年)父田中千也の跡を継ぎ、諸帳面手形改役となった。宝暦元年(1751年)目付役となり、宝暦2年(1752年)土地を拝領した。_NEWLINE_明和元年(1764年)山方役となり、江戸上納金銀を宰領し、地方・銀山方勘定を仕上げ、6月江戸に勤務した。明和8年(1771年)再び江戸に勤務し、安永元年(1772年)8月帰郷した。_NEWLINE_安永7年(1778年)沢根御番所定番役。天明4年(1784年)12月11日59歳で死去した。法名は化成院幡誉幢光美真居士。
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Q11576761
_START_ARTICLE_ 田川豊 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 呉港中学校時代の1934年捕手として全国中等学校優勝野球大会に出場。2学年上の藤村富美男(のち大阪タイガースの投手・内外野手・監督)とバッテリーを組み全国制覇。1935年からは内野手に転向。この年夏は準々決勝敗退(対早稲田実業0-5)。藤村富美男が卒業した1936年の春全国中等学校選抜野球大会からは投手に転向。エースで4番だったが、優勝した愛知商業に初戦負け (1-4) 。同年夏も初戦敗退(対桐生中学0-4)。1937年夏には田川(4番エース)、2学年下の柚木進(兼・3番ファースト)、藤村隆男(兼・6番センター)の3投手を擁したが準々決勝でこの年準優勝した熊本工業の川上哲治に3安打に抑えられた。通算5回甲子園に出場した。_NEWLINE_法政大学進学後は1941年の東京六大学野球秋季連盟戦で首位打者を獲得。呉港中の後輩、柚木らと法政5度目の優勝に貢献。戦中は第8飛行師団に中尉として従軍。戦後は神戸川崎重工業にいたが鶴岡一人に口説かれ1946年、グレートリングに入団。新人ながら打率2位(=.341、1位・金田正泰(阪神).347)の成績を残し、戦後プロ野球再開年のチーム初優勝に貢献。この年に記録した打率.341は歴代新人最高打率であり、新人でこの打率を超えた選手は未だにいない。_NEWLINE_法大の後輩森下重好を主砲として擁する1948年に大陽ロビンス(1953年に大洋ホエールズと合併し大洋松竹ロビンスとなる)に移籍。1949年11月に法大の先輩、藤田省三が初代監督に就任した近鉄パールスの設立に森下と共に現役選手として参加。1953年に大映スターズに移籍し1954年に引退した。_NEWLINE_引退した翌年の1955年パシフィック・リーグの関西審判部に入局しプロ野球審判に転向。威勢のいいテキパキしたジャッジで、「デンさん」と呼ばれ親しまれた。個性豊かな審判として有名で、大の酒好きで知られ、土井正博は「試合前夜でも飲み明かして、酔っぱらって小便たれたズボンのまま球場に来るんですよ。臭いのなんの。『二日酔いで見えへんから辛抱してくれ』ですよ。笑うしかなかった」と選手以上に個性派揃いだった審判として村田康一、露崎元弥とともに名前を挙げている。線審を務めていた試合で守備中に嘔吐していた永淵洋三を諌めた日の晩、自身も飲みすぎて店のトイレで嘔吐した際、偶々同じ店に訪れていた永淵本人に介抱されたこともある。_NEWLINE_1979年に病気を理由に引退するまで審判を務める。また珍しい記録として読売ジャイアンツのV9期間中、優勝決定試合9回のうち8回に出場。球審・塁審・外審として見届けていた。パ・リーグの歴史的な優勝決定試合や1971年に起きた日本プロ野球最後の放棄試合にも出場しているが、パ・リーグの審判でありながら、巨人の歴史に顔を出している審判といえる。_NEWLINE_1977年にパ・リーグが審判袖番号を採用しているが田川がつけた番号は12(初採用から1979年引退まで。12は1981年以降柿木園悟がつけて今に至っているが柿木園も関西審判部所属である)。2000 - 3999打数の打者では3571打数954安打、打率.267 通算打率98位と、これは審判中最高の成績であり、選手として一流の成績を残したのち審判員に転向した人物である。_NEWLINE_1981年8月22日、心筋梗塞のため死去。享年62。
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Q11576827
_START_ARTICLE_ 田村ゆかり *Cutie・Cutie Concert* 2005 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 2005年11月13日、東京国際フォーラム・ホールAで行われたスペシャルコンサート『田村ゆかり *Cutie Cutie Concert* 2005』の模様をDisc1に全曲完全収録している。また、Disc2には2005年3月に行われたスプリングライブツアー『田村ゆかり Live Tour 2005 *Spring fever*』のダイジェストが収録されている。オールカラー別冊20Pプックレット付き。
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Q17212467
_START_ARTICLE_ 田町ハイレーン _START_PARAGRAPH_ 田町ハイレーン(たまちハイレーン)は、東京都港区にある株式会社タツノの子会社である株式会社タツノレジャーが運営していたボウリング場。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1972年創業。レーン数は3階と4階にそれぞれ24レーン、5階に20レーン。合計68レーンを所有する。オープン当初は2~6階まで合計110レーンを擁していたが、ボウリングブームの終焉と共に規模を縮小し、オフィスフロアや飲食店等に一部フロアを転用した。ただしレーン自体は残されており、その上に新たに床板を敷いただけであったという。閉館時点では3・4階がウッドレーン、5階が「ウッドレーンを削り過ぎたため」という理由でプラスチックレーンとなっていた。_NEWLINE_また、田町ハイレーンビルの6階・7階に『日本ボウリング史料館』があり、2002年に日本テレビで放送されたドラマ『ゴールデンボウル』で金城武が使用したボールやプロボウラーの中山律子の「パーフェクト第1号ビデオ」や須田開代子・粕谷三郎の秘蔵品などが展示されていた。公益社団法人日本ボウリング場協会もこのビルの7階に入居していた。その他屋上はゴルフ練習場として利用されていた。_NEWLINE_BS日テレで放送されている『ボウリング革命 P★League』など、ボウリングを題材にしたテレビ番組の収録によく使用された。またテレビ朝日系で放送されていた刑事ドラマ『西部警察』では、バックヤード部分を含めて施設のあちこちで撮影が行われた。_NEWLINE_老朽化に伴い、2015年3月29日をもって閉館した。建物も同年5月には取り壊された。最後のロケは『水曜日のダウンタウンSP』の「大食いボウリング」対決(2015年4月15日放送分)であった。
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Q11577571
_START_ARTICLE_ 由加神社本宮 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 由加山は太古より磐座信仰が行われていたとされる。天平5年(733年)行基によりこの地に十一面観音が祀られ、神社仏閣が一体となった瑜伽大権現(由加大権現)と呼ばれる神仏習合の山となったという。北麓にある熊野神社の縁起によれば、奈良時代の初めに役行者の高弟5人が紀州熊野より熊野本宮大社を捧持してこの地に熊野神社を興し、その後、新熊野三山の一つとして由加山に那智宮を開いたとしている。_NEWLINE_江戸時代中期より備前藩主池田氏の祈願所となり、正月・五月・九月には藩主自ら参拝していた。池田氏は当神社の社殿や、蓮台寺の客殿を造営した。_NEWLINE_参道には多くの土産物店等が軒を連ね門前町を形成しており、初詣などの時期には多くの参拝者で賑わう。なお、この門前町で売られている「あんころ餅」は由加山の名物である。_NEWLINE_明治時代になると神仏分離令により、由加神社と蓮台寺に分離された。現在は西日本を中心に全国に末社52社を有する。_NEWLINE_第二次世界大戦後の国家神道解体により、形式的には分離したままながら、僧職が本殿で祈祷を行う等事実上明治以前の形態に復し、蓮台寺により一体的に運営されていた。このため由加神社としての宗教法人資格は一応保持、神職を配置しつつも、事実上休眠状態に近かった。_NEWLINE_1997年3月3日、宗教法人としての独自活動を開始。これ以降蓮台寺と対立状態にある。独自に法人活動を開始した経緯は不明。_NEWLINE_江戸時代には、瑜伽大権現(瑜伽山蓮台寺)と讃岐国の金毘羅大権現(金光院松尾寺)を両方参拝するという両参りといわれる慣習が成立。そのため、由加山南方の港町である田ノ口地区は、由加山の門前町の様相も呈していた。 _START_SECTION_ 祭神 _START_PARAGRAPH_ 祭神は彦狭知命、神直日神、大権現(本地仏:阿弥陀如来、薬師如来)、手置帆負命、天之御中主神、素盞鳴命、倉稲魂命、菅原道真公、大綿津見命。
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Q11578682
_START_ARTICLE_ 畠山義深 _START_PARAGRAPH_ 畠山 義深(はたけやま よしふか/よしとお_NEWLINE_、元弘元年(1331年) - 康暦元年/天授5年10月12日(1379年11月21日))は、南北朝時代の武将。畠山氏6代当主。畠山家国の子。兄弟に畠山国清、足利基氏室が、子に畠山基国、畠山深秋がいる。通称、三郎。増福寺と号。_NEWLINE_国清とともに幕政に参与、関東で兄とともに北朝方として戦う。以降兄と行動を共にし、康安元年(1361年)11月、兄国清が伊豆で挙兵した際もこれに従うが(畠山国清の乱)、敗北し降伏_NEWLINE_。貞治5年(1366年)、幕府に許され、貞治の変で失脚した斯波高経の分国であった越前守護に任命され、高経を打ち破った。のち、能登守、越中守、河内守、和泉守、紀伊守、伊豆、越前の守護を歴任した。
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Q18338814
_START_ARTICLE_ 白馬山頂簡易郵便局 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 開設期間は夏山シーズンに合わせた7月から8月末のみで営業時間は5:00-21:00である。郵便業務のみを取り扱っている。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 1959年(昭和34年)7月1日に白馬村営頂上宿舎内に開設された。
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Q11580557
_START_ARTICLE_ 白鳥姫 (シベリウス) _START_SECTION_ 劇付随音楽 _START_PARAGRAPH_ ヨハン・アウグスト・ストリンドベリの戯曲による。 _START_SECTION_ 管弦楽組曲 _START_PARAGRAPH_ 劇の上演後、シベリウスは付随音楽を7曲からなる組曲に編曲した。
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Q11580638
_START_ARTICLE_ 白鹿グループ _START_PARAGRAPH_ 白鹿グループ(はくしかグループ)は、旧辰馬財閥の中核企業辰馬本家酒造株式会社(清酒「白鹿」で有名)を中心とするグループ。
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Q7062272
_START_ARTICLE_ 百万ドルをとり返せ! _START_SECTION_ 作品が書かれた経緯 _START_PARAGRAPH_ 作者自身がこの小説同様に石油開発への投資詐欺にあい、破産に近い状態になったことがきっかけと言われている。
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Q42348065
_START_ARTICLE_ 百里救難隊 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1965年(昭和40年)2月1日に航空自衛隊8番目の救難隊として百里基地で編成された。_NEWLINE_部隊マークは、昼夜を問わずに救難活動を行うという意味を込め、フクロウをモチーフとしたものになっている。
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Q11580984
_START_ARTICLE_ 皆見昭 _START_PARAGRAPH_ 皆見昭(みなみ あきら、1931年 - )は、英文学者。_NEWLINE_1957年京都大学大学院英米文学修士課程修了。長崎大学学芸学部講師、京都教育大学助教授、1970年岡山大学助教授、甲南大学教授、1984年関西外国語大学教授、1989年ノートルダム女子大学教授、2002年定年。2015年春の叙勲で瑞宝中綬章受章。
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Q11581317
_START_ARTICLE_ 盛バイパス _START_SECTION_ 特徴 _START_PARAGRAPH_ 大船渡市盛町市街地の混雑及び狭隘箇所を避ける、また旧国道45号と並走する形で建設されたバイパス。全区間4車線で両側に走行車線と追越車線が設置されている。
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Q908854
_START_ARTICLE_ 盛岡藩 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町 (青森県)相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県三戸町に三戸城を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。_NEWLINE_南部氏は、相馬氏、相良氏、宗氏、島津氏と並び、鎌倉時代以来、明治まで、700年近くにわたり同一の国・地域を治め続けた、世界でも稀有な領主である。_NEWLINE_ちなみに、盛岡市の市章は「違菱(たがいびし)」と呼ばれ、南部氏の家紋「向鶴(むかいづる)」にあしらわれた鶴と、甲斐源氏を出自とすることの表れである元来の家紋「菱」を連想させるものである。現在の市章が使われるようになった経緯は明らかでないが、菱を重ねた紋は、少なくとも江戸時代には既に南部家で使われていたものと言われている。 _START_SECTION_ 安土桃山時代 _START_PARAGRAPH_ 天正18年(1590年)7月、「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代南部信直(初代盛岡藩主・南部利直の父)が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しそのまま奥州仕置に従軍中、秀吉から宇都宮において7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、志和郡、そして遠野保)についての覚書の朱印状を得ることによって、豊臣大名として公認された。このときに秀吉との間をとりもったのが前田利家であり、南部家はこの恩を忘れぬようにと以降の歴代当主の名前には「利」をつけるようになる。_NEWLINE_さらに、翌天正19年(1591年)九戸政実の乱の後本拠を、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に移したが、津軽為信に安堵されたことで失領した津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の岩手県、青森県・秋田県の3県にまたがっており、蒲生氏郷や浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け不来方の地を本拠とすべく、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、文禄元年(1592年)、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。 _START_SECTION_ 白石藩 _START_PARAGRAPH_ 利恭は明治政府が仙台藩から没収した所領の一部、白石13万石(刈田郡・柴田郡・伊具郡・亘理郡および宇多郡の一部)への減転封を命じられた。明治2年(1869年)4月、旧城主片倉氏から白石城が南部氏側に引き渡され、6月17日の版籍奉還にともない白石藩知事に任命されたが、その間も重臣たちが中心となって国替停止と盛岡城地安堵の運動が続けられ、領民たちも政府に対して藩主・利恭の盛岡復帰請願を続けた。その結果7月22日に上納金70万両の献納を条件に盛岡復帰が認められ、(実際は一部を納めたのみ)、8月10日に利恭は盛岡藩知事を拝命し、陸中四郡(岩手郡・紫波郡・稗貫郡・和賀郡の一部)13万石を管轄した。_NEWLINE_白石藩領はその後政府直轄の白石県となり、10月に南部氏から後任の県知事に引き継がれた後、11月県庁を角田城に移し角田県となる。 _START_SECTION_ 廃藩 _START_PARAGRAPH_ 念願の盛岡復帰を果たした南部家とその家臣たちであったが、その条件として課せられた70万両もの大金は明らかに献納不能なものであった。また凶作で税収が見込めない中、前藩主・南部利剛の娘の郁子が華頂宮博経親王に嫁ぐことになり多額の出費を余儀なくされるなど、藩財政は完全に破綻していた。藩を取り仕切っていた大参事の東政図は、この状況を切り抜けるには南部利恭の藩知事辞任と廃藩置県を実行する他にないと考え新政府に嘆願していた。明治 3年(1870年)4月、70万両の献納は撤回されたものの、他藩への影響などを考慮して藩知事の辞任は許可されずにいた。しかし藩の再三の嘆願を受けた新政府により明治 3年7月10日、盛岡藩を廃して盛岡県が設置された。_NEWLINE_盛岡県は明治 5年(1872年)1月8日に岩手県と改称され、後に江刺県と磐井県の一部を編入し現在に至る。盛岡県成立時の領地は陸中国岩手郡、稗貫郡および紫波郡、和賀郡の一部のみであり、旧領のうち陸奥国北郡、二戸郡および三戸郡の一部と陸中国鹿角郡および九戸郡の一部は三戸県に(三戸県の大部分は後に江刺県に、鹿角郡は秋田県にそれぞれ編入された)、陸中国閉伊郡および和賀郡の一部は江刺県に、岩代国伊達郡の一部は福島県にそれぞれ移管されていた。_NEWLINE_盛岡城の城郭は明治元年(1868年)に新政府に接収され、当初は廃城令の存城とされたものの、建物の老朽化が著しく、明治7年(1874年)に廃城となり、建造物はことごとく破却、民間に払い下げられた。現在、盛岡城の地上建造物が残されていないのはこのためである。 _START_SECTION_ 藩の職制 _START_PARAGRAPH_ 藩の行政組織は10万石の軍役組織によるもので、中央の職制は幕府を模倣し、藩主の下に家老のほか諸役を置いた。 _START_SECTION_ 家老・加判役 _START_PARAGRAPH_ 藩行政の最高機関であり、常時は数人の家老の合議制によって大綱が決定された。日常中丸に登城して庶務を決議し、連署に応ずる。 _START_SECTION_ 御席詰 _START_PARAGRAPH_ 藩主の常勤する御用の間に出仕する、家格が高く、家老の経験を積んだ老練な人が選任される。 _START_SECTION_ 御大老 _START_PARAGRAPH_ 筆頭家老であった。 _START_SECTION_ 北地御用所 _START_PARAGRAPH_ 北方警備の監督部署であった。分轄された蝦夷地の警備・下北半島から釜石浦に至る海岸の防備についての費用調達、動員計画、陣屋説定、配備計画などを行う。 _START_SECTION_ 御用人所 _START_PARAGRAPH_ 城内中丸の御用人所に常勤し、その庶務を執る。 _START_SECTION_ 目付所 _START_PARAGRAPH_ 御目付所は司法、検察等、主として治安方面を総轄し、その大目付は高知格についても検察の権があり、常時二人とされた。勘定所、寺社町奉行とともに公示三役と称されて、広汎に亘っていた。_NEWLINE_御目付所の所管には、寺社町奉行、表目付、牛馬目付、武具奉行、御境奉行などがあり、監査・検察を要するものは、目付所の管轄に置かれている。 _START_SECTION_ 勘定所 _START_PARAGRAPH_ 城内に設置されてあった出納事務所で、目付所、寺社町奉行とともに公示三役と称された職掌であった。御郡支配方、御代官方、御支配方、山林方、御土蔵方の七つの分掌となって、領内の地方行政に関わっていた。 _START_SECTION_ 家臣団構成 _START_PARAGRAPH_ 盛岡藩士の家系を調べる際の必須の書とされている『参考諸家系図』が岩手県立図書館に架蔵されており、復刻版も出版されている。 _START_SECTION_ 家臣在郷制 _START_PARAGRAPH_ 通常の武士身分で在郷している御給人制があり、また、陪臣は在郷のものが多い。 _START_SECTION_ 本番組 _START_PARAGRAPH_ 御用人・花巻城代・寺社奉行・御勘定所元締・新番組御番頭などのほか、御境奉行・代官・御船手頭・町奉行・郡奉行などに就任した。平士のうち100石以上(天保15年時点)または150石以上(明治元年時点)の者が該当した。 _START_SECTION_ 加番組 _START_PARAGRAPH_ 御金奉行・御銅山吟味役・御作事奉行・万所奉行・御勝手方などに就任した。平士のうち50石以上が該当。明治2年、新番組とあわせて下士となった。 _START_SECTION_ 新番組 _START_PARAGRAPH_ 諸御山奉行・大納戸奉行・新田奉行・御国産方などに就任した。平士のうち50石以下に当たる。 _START_SECTION_ 諸城破却書上 _START_PARAGRAPH_ 天正18年(1590年)7月、秀吉より所領安堵の五カ条からなる朱印状が交付され、南部信直は領内にある家中の城館の破棄を命ぜられ、また家中の妻は、南部氏の居城下に集合を厳命されている。地方の諸城にいたものは従来の在地地主から、その城館を破却して大名城下に出仕して、不在地主という性格に変わっていった。_NEWLINE_同20年6月には、その処理を報告している。 _START_SECTION_ 代官 _START_PARAGRAPH_ 大目付は司法、警察、軍事を総轄し、勘定奉行の下に御代官、御山奉行などが配置され、代官は100石以上の本番組士。各通ごとに2人を置かれ当番非番制により、民政関係の庶務に従事していた。 _START_SECTION_ 通制 _START_PARAGRAPH_ 盛岡・八戸両藩の独特の行政組織としての「通制」である。領内の郷村支配のため、代官統治地区を「通(とおり)」と称しているが、藩政初期は単に方面とか、その地方を表現した言葉であったが、天和年間(1681年 - 1683年には、代官所統治区域を指した。_NEWLINE_「通」には原則として代官を置き、盛岡で藩士の中から任命し、任期を2年として2人を任用、半年交替勤務とした。その下に下役・物書を2、3人を任用した。_NEWLINE_下役は代官が地方の給人から任用し。代官は地方行政・司法・警察・租税の一切を執行する権限をもち、その経費は村高に応じて地方付加税として徴収した。 _START_SECTION_ 盛岡町奉行 _START_PARAGRAPH_ 藩の諸機関の整備に寛永年間に基礎が定まり、地方統治は城代統治が城の廃絶に伴って、代官統治へと移行していった。_NEWLINE_大目付所の下に盛岡町奉行(天和元年(1681年)以降、寺社奉行と兼務し、寺社町奉行と称した。)が置かれ、市内取締まりのため特に任命され、創設の年代は盛岡城下開市にともなって、慶長年間といわれている。_NEWLINE_ (盛岡城下)検断頭(六検断) - 町検断役 - 書留役 - 宿老役_NEWLINE_盛岡城下六検断は苗字帯刀が許され ており、通例中津川を挟んで、向い町(河南)方向に3人、川北に3人常置され、藩からの任命で任期は終身であり、町吏の最高機関として、直接町奉行の支配に属していた。 _START_SECTION_ 通制 _START_PARAGRAPH_ 八戸藩の領内の行政区分は盛岡藩と同様に「通制」を用いた。_NEWLINE_元禄元年(1688年)正月、領内の郷村に庄屋名主制度を採用し、元禄7年(1694年)10月に実施し、町検断を庄屋に、肝入を名主と改称した。盛岡藩とは異なっている。 _START_SECTION_ 陸路の主要街道 _START_PARAGRAPH_ 目的地の地名を冠して街道名と呼ぶため、街道沿いの別の土地では、別名称で呼ばれているのが常態であった。 _START_SECTION_ 藩邸および江戸での菩提寺 _START_PARAGRAPH_ 宗藩盛岡藩の江戸藩邸は、外桜田に上屋敷、麻布南部坂に下屋敷があった。後に鉄砲洲に中屋敷を設けるが品川大崎村に移転。また、江戸蔵屋敷は芝田町に、京都藩邸は東岡崎村に、大坂藩邸は北浜過書町におかれた。江戸における菩提寺は芝切通しにあった五山派の勝林山金地院であった。_NEWLINE_また、江戸藩邸は元禄16年(1703年)の元禄大地震では1度すべて全壊している。 _START_SECTION_ 飢饉 _START_PARAGRAPH_ 古来、この地方では飢饉が非常に多く、その度に多大な死者を出していた。特に、慶長5年(1600年)から明治3年(1870年)の盛岡廃藩までの270年間を通じて断続的に飢饉が続き、その間に、記録に残っているだけでも不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回あった。_NEWLINE_特に沿岸部(閉伊・九戸・三戸地方)においては、やませと呼ばれる冷風による被害が甚大で、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)にかけて起った全国的な大飢饉(天明の大飢饉)では収穫が0という惨状であった。_NEWLINE_また、藩経営が潤滑に進まなかったため備蓄が少ないばかりか、農地も農作物も無いという状態に陥ったことから、死者がさらに増えた原因であるとされている。 _START_SECTION_ 飢饉・一揆 _START_PARAGRAPH_ 東北地方の太平洋側では、初夏になると、「やませ」と呼ばれる冷涼な北東風が吹き、夏でも気温が上がらず、明治以降においても、冷害が凶作をひきおこしたことがある。北奥に位置する南部藩は領域は広大であっても、そのほとんどが山林原野によって占められて耕地が少なく、また水稲生産の限界地的な地域で、当時の幕藩社会が石高制に基づいて、つねに財政的基盤を畑作より水稲生産力に求めていたが、天候不順に起因する冷害と、旱舷・風水害・霜害・病虫害を原囚とする凶作を契機にして、食糧の欠乏が原因で多数の飢人と餓死者を出していた。_NEWLINE_盛岡・八戸両藩で発生した百姓一揆は132回を数え、徳川期の最多発生地であった。その中でも「稗貫・和賀」(花巻・北上)地方が最多発地域だった。_NEWLINE_元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は被害が甚大で盛岡藩の四大飢饉といわれ、凶作・飢饉の続発で藩財政を圧迫し、重税とそれに反対する一揆が繰り返されてきた。 _START_SECTION_ 元禄の飢饉 _START_PARAGRAPH_ (元禄4年(1691年) - 8年(1695年))_NEWLINE_ 元禄年間(1688年~1704年)の盛岡藩は、元禄6年(1693年)・10年・11年・16年の四ヵ年を除くと、あとは連年不作と凶作が続き、元禄8年と15年には飢饉となった。_NEWLINE_元禄8年、典型的な霖雨・早冷による冷害がもとで作柄も悪く、年貢収納が例年の28.6%しか見込めず、ついに飢饉となって米価が高騰した。_NEWLINE_11月、藩では幕府に「領内不作の儀」について報告した結果、来春の参勤が免除され、その費用をもって飢饉対策に充当した。_NEWLINE_米雑穀等の他領移出禁止、貯穀奨励、他領者の領内逗留禁止、酒造の禁止、火の用心などを命令するとともに、城下の庶民救済のため払米をし、紺屋町と寺町では盛岡御蔵米を小売させた。さらに城下の寺院や富豪の協力を得て、長町梨子本丁出口辺と束顕寺門前の二ヵ所に御救小屋を設け、飢人の救済にあたった。 _START_SECTION_ 寛延2年 猪飢饉(イノシシけがづ) _START_PARAGRAPH_ 当時関東周辺で、田畑を木綿や養蚕などの収益の上がる作目に転換したため、大豆が不足し、盛岡藩や八戸藩が大豆生産のため、焼き畑を繰り返し放棄地に餌が生い茂ることで猪が異常繁殖して、寛延2年(1749年)、凶作で里に下りてきた畑の作物を食い荒らし、多くの農民を餓死に追いやった。 _START_SECTION_ 宝暦の飢饉 _START_PARAGRAPH_ (宝暦3年(1753年) - 宝暦7年(1757年))_NEWLINE_宝暦4年(1754年)が大豊作であったので約10万石の江戸廻米を行った結果、藩内に米が払底し、宝暦5年(1755年)の大凶作を契機に大飢饉に発展した。藩では城下の富豪からの御用金を資金として、翌宝暦6年(1756年)正月、城下の永祥院と円光寺に茅葺きの御救小屋を建て、飢人の収容救済に乗り出した。_NEWLINE_宝暦6年に代官所が提出した報告書によると、餓死者 49,594人、空家 7,043軒であり、なかでも三戸郡五戸通、次いで岩手郡の雫石通・沼宮内通の被害が激甚を極めた。 _START_SECTION_ 天明の飢饉 _START_PARAGRAPH_ (天明2年(1782年) - 天明8年(1788年))_NEWLINE_天明3年、土用になっても「やませ」よって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、加えて、大風、霜害によって収穫ゼロという未曾有の大凶作となり、その年の秋から翌年にかけて大飢饉となり、多くの餓死者を生じた。また、気象不順という自然災害だけに原因があるわけでなく、農村に対する年貢収取が限度を超え、農業における再生産が不可能な状態に陥った。 _START_SECTION_ 寛政11年 - 文政 4年 蝦夷地幕領化にともなう一揆 _START_PARAGRAPH_ 下北地区の一揆13件の内8件までは、寛政11年(1799年)から文政4年(1821年)までの蝦夷地幕領化にともなう時期に集中している。_NEWLINE_寛政11年(1799年)2月の東蝦夷地の幕領化によって、享和2年(1802年)の東蝦夷地の永久直轄化と、課役負担の固定化という危機感を増幅させた。_NEWLINE_文化元年(1804年)の佐井 - 箱舘間の航路にともなう夫役・伝馬役にかかわる課役負担の増加に、人馬通行役の軽減を求めた愁訟が起こり、文化5年(1808年)12月に、盛岡藩は東西蝦夷地を永久に警護するため1,000人の藩兵を蝦夷地へおくることになったが、代わりに領地加増を伴わない20万石への高直しが行われる。それにより増俸なしに軍役負担だけが倍になって藩財政は枯渇状態であるという過重な結果をまねいた。_NEWLINE_文化9年(1812年)農民が従来負担してきた賦役を貨幣で賦課した「定役銭」を農民に転嫁したため、北通の関根村、下風呂村、易国間村、蛇浦村、大間村、奥戸村、牛滝村、佐井村の各肝入と大畑村険断が連名で田名部代官所に愁訴に及び免除された(文化9年定役銭一揆)が、西通と東通の村々は負担が重くなった。また、文化12年(1815年)にも新役銭の徴収免除の愁訴が行われた。 _START_SECTION_ 天保の飢饉 _START_PARAGRAPH_ (天保3年(1832年) - 天保10年(1839年))_NEWLINE_霖雨・早冷・降霜などの気象条件を主な原因とし、天保3年(1832年)から同9年(1838年)まで連続的に凶作が続き、これを七年「飢渇(けかつ)」と呼ばれた、また藩財政の窮乏による重税政策がその度を高めた。_NEWLINE_天保期、盛岡藩領では凶作がうち続き、にもかかわらず、盛岡藩領からは藩財政の補填のために米価の高い江戸を目標としての米の移出が強行されていた。それは百姓からの年貢の通常の取り立てでまかなうことはできず、来年の耕作のための種籾や、食料としての蓄えにも及ぶものさえ取り立てて廻送していった。_NEWLINE_天保期の一揆・騒動は盛岡以南の穀倉地帯の買米制度とその停止を要求して行われており、田名部・野辺地・七戸の各通は買米の対象となる穀倉地帯ではなく、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であったため、対立を引き起こさなかった。そして、寛永期以降の蝦夷地幕領化の中で「松前稼」と呼ばれた、蝦夷地への労働力移動が可能であり、飢餓期の困窮を一時的に回避することができた。 _START_SECTION_ 天保 5年 久慈・軽米通 稗三合一揆 _START_PARAGRAPH_ 天保4年(1833年)の飢饉に際して、八戸藩は一切の救済を行うことなく、領民の一日の食料を精白しない稗三合と定め、それ以外の穀物は市場の実勢を無視し、強制的にすべて藩札で安く買い上げることを布告した。_NEWLINE_天保5年(1834年)12月に入って是川村を皮切りに、久慈・軽米・嶋守に広がり、最初集結した2千人の一揆勢が久慈街道を、法螺貝の音轟かせながら八戸城下鍛治町および周辺村々に結集した時には人数8千になっていたと言われる。一揆の訴願書には、70以上の願書を出して、野村軍記の引き渡しと稗三合一件の撤回を要求した。_NEWLINE_野村軍記は起こった総百姓一揆の責任を負わされて入牢して八戸で獄死した。 _START_SECTION_ 天保 7年 盛岡南方一揆 盛岡越訴 _START_PARAGRAPH_ 天保7年(1836年)11月に新税・増税反対一揆として、現大迫町(花巻市)の農民数千人が決起して、盛岡城下に押しかけ(盛岡強訴)の一揆側の要求を一度受入れたが、解散をすると、前言を取消した。 _START_SECTION_ 天保 8年 盛岡南方一揆 仙台越訴 _START_PARAGRAPH_ 天保8年(1837年)には、昨年の一揆に対し稗貫・和賀の農民2千人以上が 仙台領に越訴する事態に発展し、南部藩を非難した。南部藩は一揆衆を取り戻すため、首謀者を処罰しないことを約束し、仙台藩は幕府に内密にすることを約束した。しかし南部藩は一揆衆を取り戻した後、許可したものを破棄し、首謀者を処刑した。これで領民からは軽蔑するようになった。その後、南部藩は目安箱を設置した。 _START_SECTION_ 三閉伊一揆 _START_PARAGRAPH_ 三陸東海岸では水稲生産力には恵まれず、江戸市場輸出・長崎俵物輸出、魚粕・魚油の商品生産化によって、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であった。 _START_SECTION_ 弘化4年 遠野強訴 _START_PARAGRAPH_ 盛岡藩は、天保10年(1839年)、今後、御用金など一切の租税を廃止するとして、全領内に一軒あたり1貫800匁を基準に全戸に割り当てた軒別役という新たな税を課した。三陸沿岸の大槌・宮古通の三閉伊地域は、特に課税額が多く、全領の合計は2万9180両に及んだ。_NEWLINE_弘化4年(1847年)10月に、新たな課税はしないという先の約束を破り、財政難に窮した藩は、外船警備のための特別御用金5万2500両を課した。これが契機となって11月17日、野田通の安家村(下閉伊郡岩泉町)から起きた一揆が周辺も村々を巻き込んで小本、田老、宮古、山田、大槌と南下し各地の一揆と合流して笛吹峠を越えて、遠野に強訴した。_NEWLINE_上納金の不払いを要求するものではなく、大挙して仙台領へ出稼ぎにでてその労賃をもって支払うという経緯のため、南部藩の恥を天下にさらすこととなり、鎮圧一点ばりの鎮撫は行えなかった。_NEWLINE_ 12月4日、遠野早瀬川原において、不信極まる本藩上席家老南部土佐に何を問われても口を開かず終始無言で相手とせず、遠野南部家家老新田小十郎に、一揆の代表は集会の25ヶ条の要求を願書で提出した。要求は、御用金の免除、大豆・塩の買い上げ免除、いままでの定役と年貢以外の新税の免除などであった。ついに、盛岡藩は、これらの要求の12条を認めて事態を収拾しようとしたざるを得なかった。_NEWLINE_遠野南部家では一揆の農民に帰路の食料を支給したので、12月5日から各村々に散っていって、伊達領への越藩もかろうじてまぬがれ、ひとまず鎮撫するにいたった。_NEWLINE_『内史略』によれば、一揆の代表弥五兵衛は花巻で逮捕され、盛岡で牢死している。_NEWLINE_ また、これに呼応し、同年12月1日に鬼柳・黒沢尻通、同15日には徳田・伝法寺通と八幡・寺林通でも一揆が発生したが、当局によって鎮圧された。_NEWLINE_(藩の対応)_NEWLINE_嘉永元年(1848年)6月、責任を取る形で南部利済は病気在国中であったため病気隠退を願いで、南部利義が第13代藩主となるが、利済は家督は譲ったものの官位も返上せず「大太守」の名で院政が行われた。_NEWLINE_嘉永2年(1849年)7月、利済は藩主位を譲っていた南部利義が江戸滞在中に南部土佐を派遣して退位するように圧力をかけられて、11月に隠居した。この廃立に反対した東堂学派一派は翌1850年に弾圧され、南部利剛を第14代藩主に相続させて院政を継続した。 _START_SECTION_ 嘉永6年 仙台強訴 _START_PARAGRAPH_ 嘉永6年(1853年)2月、藩は行きづまった財政はいかんともしがたく、郷割御用金の徴収が強制されたことを契機にして、各種の新税に反対する流通商人を中心に、同年5月、野田通の田野畑村から一斉に蜂起をはじめ、 浜通りを南下して田老・宮古・山田の各村を押し出すにつれ大群衆となっていった。_NEWLINE_6月4日、大槌通に押し寄せ、翌5日に釜石に集合した一揆の人数は一万六千余人にも達し、仙台領への越訴を画策し、盛岡領平田番所から仙台領へ押し通ろうしたが、唐丹番所側では 藩境警備を厳重に取り締まっていたため、間道を進み気仙郡唐丹村に八千人余が越訴し、仙台藩の役人に訴え出るという、前代未聞の自体になっていた。_NEWLINE_これに対して、盛岡藩が策を練るすべもなく混乱しているうちに、6月17日に一揆の代表45人を残して帰国した。村々は、この代表に何らかの不幸が起きた場合には共同で子孫養育料をだすことなどの約束を取り交わしていたのである。_NEWLINE_その訴状によれば、三閉伊を幕領化か、仙台藩領化を願い出たもので、仙台藩では政治的要求であるから返答は出来ないとし、具体的な要求を尋ね、商品経済の発達によって賦課された重税に対する反対行動であったが、答えた47箇条の願文をつくりあげ、伊達藩へ差し出した。伊達藩と南部藩の話し合いは5ヶ月も話し合われ、ようやく三閉伊通りの農漁民の願いが叶ったのであった。6ヶ月間にわたった押し出し一揆は成功の内に終わる_NEWLINE_(藩の対応)_NEWLINE_嘉永7年(1854年)、この一揆は幕府に知られ、藩主・利剛はお構いなし、隠居の利済には参府の上、永久閉居が申し付けられた。_NEWLINE_領袖を失った利済派は、家老 南部土佐、横沢兵庫を、御役御免のうえ家祿半減、永久閉居。参政石原汀、田鎖茂左衛門、川島杢左衛門らも家祿屋敷を没収のうえ、召しかかえを放たれる。_NEWLINE_南部利義は隠居の身になっており、父利済が公儀から謹慎を命ぜられたときも、遊興遊猟を続けていたため、譴責を受け、江戸家老の毛馬内典膳、東中務は責任を負って免職されている。 _START_SECTION_ 蝦夷地との関わり _START_PARAGRAPH_ 江戸幕府が成立すると徳川家康はアイヌ人の往来を自由とする黒印状を発布した。そこで17世紀、盛岡藩領のアイヌ人の津軽半島往来は自由に行われ、盛岡藩領内には公式なアイヌ人居住地の戎村や、ほかにもアイヌ人の非公式な交易拠点があった。東北アイヌは和人風俗を身に付け、逆に和人の領民の中にもアイヌ風俗が一部普及したため、日常ではアイヌと非アイヌの境界はあいまいだった。これを利用して、盛岡藩はアイヌ人を仲介とした北方貿易の担い手にもなっていた。_NEWLINE_寛文 8年(1668年)、シャクシャインの戦いの際、翌寛文9年 アイヌ蜂起の鎮圧のため、幕命により弘前藩・久保田藩とともに蝦夷地へ出兵し、また、領内において下北アイヌの監視をも兼ねて田名部・野辺地に藩士を派遣した。_NEWLINE_18世紀には、盛岡藩領内の飛騨屋が蝦夷地での材木業、のちに漁業にも進出した。飛騨屋には下北半島や宮古周辺から出稼ぎ労働者が集まり、アイヌ人を酷使しながら大きな利益を上げた。やがて反発したアイヌ人が蜂起(国後目梨の戦い)したが、松前藩が鎮圧に成功した。このとき盛岡藩の出稼ぎ労働者の一部がアイヌ側に保護され、盛岡藩に引き渡されている。_NEWLINE_寛政11年(1799年)、幕府は千島列島に進出しつつあったロシアに対抗して蝦夷地の直轄領化が試みられた。このとき幕府より蝦夷地経営、警備の名目によって東北諸藩が出兵を命じられ、盛岡藩は後の渡島国(松前藩領を除く)・胆振国・択捉島の領域を担当した。特にレザノフの部下による択捉島攻撃の際は矢面に立ち、敗北している。盛岡藩はその後も対ロシア警備の前線を担当し、ゴローニンの逮捕も盛岡藩兵が行ったものである。当初、幕命により箱館に陣屋を建設して警備に当たったが、新渡戸十次郎らの建策より1857年に室蘭に移った。これらは1868年の戊辰戦争の際に引き払ったが、跡地は現在でも残っている。 _START_SECTION_ 盛岡藩領と青森県 _START_PARAGRAPH_ 廃藩置県により、盛岡藩は岩手県だけではなく、青森県にも編入された。現在の青森県域については、江戸時代中期以降の盛岡藩領と八戸藩領が共存している。_NEWLINE_いわゆる「南部地方」と呼ばれる地域は、ほとんどが旧盛岡藩領である。また、下北地方も旧盛岡藩領であった。_NEWLINE_八戸市周辺から岩手県久慈市に到る海岸に沿った九戸郡を含む領域と志和4ヵ村は、旧八戸藩領であった。志和4ヵ村は収穫量5,000石の飛び領で、周辺の盛岡藩領の農民が八戸藩領農民を圧迫し、八戸の役人がたびたび交渉に赴き、ついには討って出ると迫って八戸藩領の農民の権益を保護するなど、盛岡藩と八戸藩の係争地であった。八戸藩では領内において代官が各2名ずつ置かれていたが、領外(飛地)の志和については4名に増員された。 _START_SECTION_ 弘前藩との遺恨 _START_PARAGRAPH_ 盛岡藩南部氏は、戦国時代から弘前藩津軽氏と確執を抱えていた。津軽氏は、元々南部氏の分家・大浦氏であったが南部宗家への従属意識が薄く、大浦為信のときに独立した。その際に南部氏重臣・石川高信(盛岡藩初代藩主となる南部利直の祖父にあたる)らが討たれている。その後の中央工作によって大浦氏が津軽氏と名乗り豊臣政権から大名として認められてしまったため、南部氏の領地は大幅に減少することになった。この遺恨は江戸時代も続き、弘前藩主津軽氏の参勤交代は南部領を一切通らずに行なわれたし、江戸在府期間も原則として両家は重ならないように配慮され同席させられなかった。_NEWLINE_江戸後期には南部家の家臣による津軽当主暗殺未遂事件(相馬大作事件)の遠因にもなった。 _START_SECTION_ 畜産 _START_PARAGRAPH_ 古代・中世に糠部と呼ばれた地域は名馬の産地として知られ、糠部の駿馬と称されており、その中心は北奥の三郡(北、三戸、九戸)であった。平安末期には東西南北の4つの「門」(かど)と、9つの「戸」(へ)に分けられ、九ヵ部四門の制(くかのぶ しかどのせい)が成立し馬牧・駿馬の産地として知られていた。糠部の公田に課せられた年貢は馬で納められていた。 _START_SECTION_ 南部駒 _START_PARAGRAPH_ 近世期に入ると、南部藩の馬制は、藩直営の牧野で飼う「御野馬(おのま)」と、民牧の「里馬(さとうま)」との二本建になっている。南部藩内の(九牧含む)すべての牛馬の総轄したのが、「牛馬掛御用人」であって、その下に「野馬掛」と「里馬掛」がおかれた。_NEWLINE_また、民間の馬であっても藩の許可なく移動することも売却することも禁止されており、藩は馬産による収益を確保していた。_NEWLINE_藩から貸与された種牡馬によって生まれた若駒(牡馬を「駒」、牝馬は「駄」と呼ばれた。)は、牝なら馬主に与えたが、牡はすべて二歳駒で「掫駒(せりごま)市」にかけて廉価で徴収して種馬や群軍用馬にして、馬商人も取引区域が限られ、他国人は取引が制限されていた。_NEWLINE_盛岡城下の成立とともに産馬の掫(せり)市が始められたといわれているが、詳細は明らかではない。_NEWLINE_田名部では季節的に早い馬市が毎年ひらかれていた。_NEWLINE_貞享元年(1684年)、御掫駒奉行が9組20人任命され、領内30カ所近くの馬市を開催している。 _START_SECTION_ 里馬 _START_PARAGRAPH_ 里馬は飼育にあたって、村単位に春から秋まで共同の牧野や、冬場の舎飼のための草刈り場も共同利用の入会秣場であり、村ごとに「馬組」が結成されて、「馬肝入」がそれを統括し、藩の牛馬方役人につながっていた。_NEWLINE_藩有の「野馬」は藩の乗用や贈答用にあてられていたほかに、郷村に無償で父馬として預けて「里馬」の改良に役立つ貸付種馬の育成を目的としており、藩の「牛馬改役」のほか、各代官所の「牛馬役」が巡回して郷村の農家の飼食する牡馬の調査を行なった。_NEWLINE_宝永3年(1706年)、領内の里馬に関して、牝馬(母駄)を上中下の三等級に区分して本帳(馬籍帳)に登録し、その区別を何人も判別するために、髪を切り父馬も髪を切り一般牡馬と区別の明確化を図り、上駒、中駒は一切他領に出すことは禁じられていた。 _START_SECTION_ 御馬買衆 _START_PARAGRAPH_ 毎年秋に江戸幕府から「公儀御馬買衆」、諸大名から「わき馬買」と呼ばれる軍馬買い入れの役人が派遣されており、江戸幕府は軍馬購入のために、刈田郡宮(宮城県)から出羽国に出て、途中の横手の馬市で仕入れた後、六郷・角館・生保内を経由して国見峠を越え、主産地の盛岡入りするのが通例だった。_NEWLINE_公儀御馬買衆は寛永2年(1625年)にはじめられ、元禄3年(1690年)を最後に廃止されたが、ある年の記録によれば一行の人数は御馬買衆は2人で従者を含めると50人におよんだという。軍馬の購入は例年二百頭前後で、11月には奥羽街道を経て江戸に帰ったという。_NEWLINE_元禄4年(1691年)4月、老中より、盛岡・仙台両藩の留守居役に対して、御馬買衆の派遣は中止するが、歳、毛色、性別を目録に認めて、幕府に提出するよう求められ、目録をもとに注文して馬を購入するようにした。この仕組みを「御買馬」と呼ぶようになった。享保4年(1719年)まで続き、毎年7-8疋が購入された。 _START_SECTION_ 牛の飼育 _START_PARAGRAPH_ 南部領の牛飼育の産地は偏っておらず、北上川流域以外で行われ、閉伊郡の北方や九戸郡北部方面に飼育され、峻嶮な山谷の運搬のためなど、民間の駄用に利用され、農耕に使役された形跡がない。北上谷の米穀地帯への塩とその他の海産物を、おおむね閉伊・九戸の海岸に近い山間部から「野田ベコ」と呼ばれる牛方によって搬入されて来る例があった。_NEWLINE_藩における牛の飼育は、馬に比較すると後れていたため、馬における諸制度のような完備が見受けられなく統制も緩やかであった。官職には目付役監督下に馬牛改役があり、各代官所毎に牛馬役があって、各村の馬牛肝煎を指揮していた。 _START_SECTION_ 鉄器、鉄製品 _START_PARAGRAPH_ 今でも「南部鉄器」として鉄瓶などが有名であるが、その歴史は17世紀中頃からとされ、上述の南部重直が、甲州から鈴木縫殿を鋳物師として、京都から小泉五郎七を釜師として呼び寄せたのが始まりである。_NEWLINE_また、八戸藩領の九戸郡でも、十分な産出量の砂鉄を利用した鉄器があり、上記項目「飢饉による一揆」でも説明されたように、盛岡藩に出回った偽金の製造はこの地方が主流であったという。もっとも、悪貨が良貨を駆逐し、その後の藩札乱発もあって激しい物価高となり一揆の原因ともなった。 _START_SECTION_ 八戸藩(八戸南部藩) _START_PARAGRAPH_ 八戸藩は陸奥国三戸郡八戸(青森県八戸市内丸)に存在した南部氏族の藩である。前述の通り、将軍の裁定により成立した藩であるため支藩ではない。_NEWLINE_寛文4年(1664年)に八戸藩が分立され、藩庁は八戸城である。盛岡藩との関係については、独立した関係とされる。文化9年(1812年)八戸藩の上屋敷が類焼した際に財政支援を行っているが、盛岡藩主南部利敬より「八戸藩は独立した藩であり、心得違いがあってはならない」という趣旨の見解を示している。_NEWLINE_領内人口は寛延2年(1749年)に7万1352人で(江戸時代の日本の人口統計#盛岡藩 (南部藩)参照)、領地の内訳は三戸郡41ヶ村、九戸郡38ヶ村、志和郡(現在の岩手県紫波郡)4ヶ村の計83ヶ村。志和は周囲を盛岡藩に囲まれた飛び地である一方、九戸郡内には周囲を八戸藩に囲まれた盛岡藩の飛び地があった。現在の八戸市域と比較すると、現在の八戸市市川町の一部分などは盛岡藩域に属している。貞享元年(1687年)に盛岡・八戸両藩の間で侍浜村・白前村と七崎村が領地の交換がされ、七崎村が八戸藩領に編入された。_NEWLINE_藩庁である八戸城の一部は角御殿表門が市内南部会館の表門として移築され現存する。 _START_SECTION_ 七戸藩(盛岡新田藩) _START_PARAGRAPH_ 別名、盛岡新田藩と言われる盛岡藩の支藩。元々は江戸幕府旗本寄合席の石高5,000石の旗本であったが、本家より加増を受けて成立したもの。定府(江戸住まい)大名であるが、南部信鄰が幼少の南部吉次郎利用を補佐する際には幕府の許可をもらって盛岡に下向し、本家藩政に参画した。_NEWLINE_陸奥国北郡(現在の青森県上北郡七戸町周辺)に領地があったと言われるが、書面上のものであったとも言われる。藩主は定府であったが、戊辰戦争後の戦後処理の際、盛岡藩重臣の新渡戸傳によって1863年に分知が実施されたとする書類が提示され(書類が本物であるかについては不詳)、これに基づく実際の領地が確定し、藩主が七戸に下った。陣屋門が1棟移築され現存する。_NEWLINE_当初より七戸南部氏であったわけではなく、居所を七戸城とする分知大名の創設を幕府に願って認められて以後の呼称である。_NEWLINE_七戸藩の江戸藩邸上屋敷は、江戸城半蔵門外(大手より10町。現在の「ふくおか会館(福岡県東京事務所)」(東京都千代田区麹町)附近)にあり、これは旗本時代以来からのものである。また、天保年間には青山五十人町に下屋敷を設けた。ちなみに江戸の菩提寺は宗藩と同じ。_NEWLINE_なお、盛岡藩主となった南部重信が養嗣子となって継いでいた七戸を知行地とする一族家臣七戸氏の跡は、重信の子の1人英信が名跡を継ぎ、七戸氏を称した。またそれ以外の重信の子(七戸秀信・七戸定信・七戸愛信)も七戸を称している。七戸愛信は盛岡藩家老職を務めている。
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Q11581826
_START_ARTICLE_ 直球勝負!大澤広樹 _START_PARAGRAPH_ 直球勝負!大澤広樹(ちょっきゅうしょうぶおおさわひろき)は、2007年4月22日から2010年3月21日まで放送されていた、東海ラジオ放送の日曜昼のワイド番組。正式には4月15日からの放送スタートであるが野球中継の延長により休止になった。
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Q19597294
_START_ARTICLE_ 眼球破裂 _START_PARAGRAPH_ 眼球破裂(がんきゅうはれつ、globe rupture)とは、角膜や強膜の損傷に起因する眼外傷の1種であり、何らかの原因で眼球の構造が破壊された状態である。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 交通外傷や喧嘩、労務災害、天災、スポーツなどによって眼球に強い力がかかることにより、眼球が物理的に損傷し、強膜が裂けて破裂する。広義には異物の穿入によって強膜や角膜に穿孔が発生することを含める。虹彩、毛様体、脈絡膜、水晶体等といった眼内構造物が外部に露出することもある。損傷の程度にも寄るが、視力は大きく損なわれ放置すれば失明する。感染性眼内炎を併発しやすく緊急手術が必要となる。眼球の機能損失を最小限度にとどめるためにも緊急手術が必要となる。 _START_SECTION_ 治療 _START_PARAGRAPH_ 初期対応としては、損傷部位の洗浄は行わない方が良いとされる。角膜部分での破裂の場合で、損傷孔が小さい場合は治療用のコンタクトレンズを装用し保存的加療をすることもあるものの、損傷孔が大きな場合や強膜部の損傷の場合は縫合が必要となる。また、必要に応じて硝子体手術や網膜へのレーザー焼却術、水晶体の眼内レンズ置換術、異物除去術などが同時に実施される。術前術後の感染症のコントロールも重要である。損傷が高度な場合は、失明になり義眼と交換しなければならなくなる。 _START_SECTION_ 交感性眼炎 _START_PARAGRAPH_ 受傷後、1か月程度経過してから、非受傷側の健側眼球に交感性眼炎(Sympathetic Ophthalmia)と呼ばれる炎症が起こることがある。病態としては原田病と全く同じことが起こる。ぶどう膜に対する自己免疫機序が関与しており、ステロイドホルモン製剤の大量投与を行うことで対処する。なお、ステロイド大量投与療法が著効すると知られる前は、予防的に非受傷側の健側眼球も摘出することもあった。
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Q55525504
_START_ARTICLE_ 矢延洋泰 _START_PARAGRAPH_ 矢延 洋泰(やのぶ ひろやす、1947年 - )は、日本の地理学者。専門は東南アジア地域研究、経済地理学、環境科学。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 広島県生まれ。崇徳高等学校卒業。同年、理科系大学に入学し中退。1969年駒澤大学文学部地理学科入学、1973年同卒業_NEWLINE_。同年 東京大学工学部研究生。1977年イタリア政府の招請でトスカーナ州シエナ大学に短期留学。1978年駒澤大学大学院博士課程地理学専攻満期退学。_NEWLINE_立教大学大学院、青山学院大学、駒澤大学、東京純心女子大学講師を歴任。
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Q11584304
_START_ARTICLE_ 矢部禅尼 _START_PARAGRAPH_ 矢部禅尼(やべぜんに、文治3年(1187年) - 康元元年4月10日(1256年5月16日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての三浦一族の女性。鎌倉幕府の有力御家人・三浦義村の娘。3代執権・北条泰時の前妻(正室)で、第4代執権・経時、第5代執権・時頼の祖母にあたる。 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 建久5年(1194年)2月に13歳の泰時が元服した際、源頼朝の命により三浦義澄の孫から良い娘を選んで泰時と娶せる事が決められる。この8年後の建仁2年(1202年)8月23日、義澄の嫡男義村の娘(のちの矢部禅尼)が泰時に嫁ぎ、翌年長男の時氏が産まれるが、後に泰時と離別している。時期は不明だが、泰時の後妻である安保実員の娘が泰時の次男時実を建暦2年(1212年)に産んでいる事から、それ以前には離縁したものと考えられる。離縁の理由は特に不仲が生じたわけでも無く、理由は不明である。_NEWLINE_その後、三浦氏佐原流の佐原盛連に再嫁して三子(蘆名光盛・加納(三浦)盛時・新宮時連)を産み、夫・盛連の死後は三浦矢部郷に帰って出家し、法名禅阿、矢部禅尼と称した。嘉禎3年(1237年)6月、幕府から矢部禅尼に和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷まで下文を届ける使いをしている。北条氏との対立によって三浦一族が滅亡した宝治元年(1247年)の宝治合戦では、矢部禅尼の子達は北条氏側として戦い、盛時は後に三浦姓を名乗って三浦家を再興している。_NEWLINE_康元元年(1256年)4月10日、不食の所労により70歳で死去。時頼は祖母の死にあたり50日の喪に服している。_NEWLINE_再婚相手の盛連は時氏との血縁を利用して側近になって上洛しているが(『明月記』嘉禄2年正月24日条)、盛連は乱行で京都中に知られており、在京でも乱暴行為で知られており時氏を悩ませたと伝わる。
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Q873645
_START_ARTICLE_ 知恩院 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は建永2年(1207年)には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。_NEWLINE_法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷禅坊」などと称されていた。ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう(嘉禄の法難)。文暦元年(1234年)、法然の弟子である紫野門徒の勢観房源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されるなどして紫野門徒の拠点となっていった。_NEWLINE_建治2年(1276年)、鎮西義の弁長の弟子良忠が鎌倉からやってくると、間もなくして紫野門徒の百万遍知恩寺3世信慧は東山の赤築地(あかつじ)において良忠と談義を行った。そこで両流を校合してみたところ、相違するところが全くなく符合したので、以後源智の門流は別流を立てずに、鎮西義に合流することとなった(「赤築地の談」)。_NEWLINE_これにより、紫野門徒の拠点であった知恩院と百万遍知恩寺は鎮西義の京都での有力な拠点となった。_NEWLINE_永享3年(1431年)に火災にあって焼失するが、間もなくして再興されている。_NEWLINE_応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱の際には、知恩院22世珠琳が現在の滋賀県大津市にある金蓮寺に避難、その後現在の大津市内に新知恩院を建立した。そして、文明10年(1478年)に知恩院を再興するが、永正14年(1517年)にも消失する。_NEWLINE_大永3年(1523年)、知恩院25世存牛と百万遍知恩寺25世慶秀との間で本寺争いとなったが知恩院が勝利し、鎮西義で第一の座次となり本山となった。_NEWLINE_また、戦国時代には縁誉称念による専修念仏集団一心院流(捨世派)が成立して鎮西義から分派し、天文17年(1548年)に法然上人御廟の向かいに一心院を建立している。_NEWLINE_さらに天正3年(1575年)には正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられた(「毀破綸旨」)。_NEWLINE_現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことである。浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。_NEWLINE_徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。_NEWLINE_江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。_NEWLINE_1947年(昭和22年)、法然上人御廟を中心とする「一宗一元運動」を提唱し、知恩院は自らを本山とする本派浄土宗(後に浄土宗本派に改称)を結成し、浄土宗から分派する。1950年(昭和25年)には法然上人御廟の向かいにある一心院が浄土宗捨世派を結成して浄土宗から分派した。しかし、1961年(昭和36年)の法然上人750年忌を機に、翌1962年(昭和37年)に知恩院と浄土宗本派は浄土宗に合流し、知恩院が再び浄土宗の総本山となった。 _START_SECTION_ 三門 _START_PARAGRAPH_ 東大路通に面した総門(新門)を通り、緩い坂道を上った先に西面して三門が建つ。三門をくぐると急な石段があり、本堂などの建つ「中段」に至る。三門は徳川二代将軍徳川秀忠が寄進したもので、平成大修理時に上層屋根の土居葺板という部材から元和7年(1621年)の墨書が発見され、同年の建立と判明する。入母屋造、本瓦葺き、五間三戸の二重門である。(「五間三戸」は正面柱間が5つで、うち中央3間が通路になっているもの。「二重門」は2階建てで、1階・2階の両方に軒の張りだしがあるものをいう。)高さ24メートルの堂々たる門で、東大寺南大門より大きく、現存する日本の寺院の三門(山門)のなかで最大の二階二重門である。組物(軒の出を支える構造材)を密に並べた「詰組」とすること、粽(ちまき)付きの円柱を礎盤上に立てること、上層の垂木を扇垂木とすることなど、細部の様式は禅宗様であり、禅寺の三門に似た形式とする。門の上層内部は釈迦如来像と十六羅漢像を安置し、天井には龍図を描くなど、やはり禅寺風になっている。_NEWLINE_日本三大門のひとつに数える説がある。 _START_SECTION_ 本堂(御影堂) _START_PARAGRAPH_ 知恩院境内は下段、中段、上段の3段に整地されており、本堂はそのうちの中段に南面して建つ。寛永10年(1633年)の焼失により、寛永16年(1639年)に徳川家光によって再建。宗祖法然の像を安置することから、御影堂(みえいどう)とも呼ばれる。知恩院で最大の堂宇であることから、大殿(だいでん)とも呼ばれる。_NEWLINE_入母屋造本瓦葺き、間口44.8メートル、奥行34.5メートルの壮大な建築で、江戸幕府造営の仏堂としての偉容を示している。建築様式は外観は保守的な和様を基調としつつ、内部には禅宗様(唐様)の要素を取り入れている。柱間は桁行(正面)11間、梁間(奥行)9間で、手前の梁間3間分を畳敷きの外陣とし、その奥の桁行5間・梁間5間分を内陣とする。内陣の左右はそれぞれ手前の梁間3間分を「脇陣」、奥の梁間2間分を「脇壇前」と呼ぶ。堂内もっとも奥の梁間1間分は、中央の桁行5間を後陣、左右の桁行各3間を脇壇とする。内陣の奥には四天柱(4本の柱)を立てて内々陣とし、宮殿(くうでん)形厨子を置き、宗祖法然の木像を安置する。徳川幕府の造営になる、近世の本格的かつ大規模な仏教建築の代表例であり、日本文化に多大な影響を与えてきた浄土宗の本山寺院の建築としての文化史的意義も高いことから、2002年、三門とともに国宝に指定されている。_NEWLINE_屋根の上、中央に屋根瓦が少し積まれているが、これは完璧な物はないことの暗喩だとされる。2007年から屋根の修復作業が行われている。法然上人像は毎年12月25日に御身拭式が行われているが、平成23年(2011年)12月25日には御影堂大修理に伴い、御身拭式の後、遷座式が執り行われ、修理の間、法然上人御堂(集會堂)に安置されている。 _START_SECTION_ 御影堂大修理 _START_PARAGRAPH_ 2011年に半解体をともなう大修理を発願し、8年計画で屋根瓦の全面葺き替えをはじめ腐朽、破損箇所の取り替えと補修、軒下の修正、耐震診断調査に基づく構造補強などを行い、2019年に竣工予定である。一度外されて補修された屋根が2016年に再び御影堂に載り、修理現場が一般公開された。 _START_SECTION_ 拝観 _START_PARAGRAPH_ 境内は無料で拝観できる。ただし、方丈庭園と友禅苑はそれぞれ庭園拝観料が必要である。また、臨時で三門の楼上および大方丈(時には小方丈も)の建物内が有料で一般公開されることがある。阿弥陀堂・集會堂(法然上人御堂)・勢至堂の内部および阿弥陀堂と集會堂を結ぶ渡り廊下に無料で入場できる。以前は本堂(御影堂)も無料で入場できたが、現在は修理中であるので、修理が終了するまで入場できない。その代わり年始を除く毎月第1日曜日に「御影堂平成大修理 現場見学会」(1日2回・各50名定員)を無料で行っている。電話かメールで見学を予約した人なら誰でも御影堂の仮設素屋根の内部に入り、修理の様子を間近で見ることができる。参考
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Q20043101
_START_ARTICLE_ 石ちゃん&振分親方のご当地グルメとりわけ旅 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 石塚英彦と振分親方の冠番組であり、毎回全国各地のグルメを堪能する番組である。_NEWLINE_しかしこの番組の特徴かつルールとして、原則、料理は一般の人が食べる1人前の普通盛り(おかず等も、それに相当する量)しか与えられない。そこで、じゃんけんなどの勝負を行い、勝者が敗者に対し好きな分だけ取り分け、残りは全て勝者が食べられるようになっている(例:海鮮丼であれば、切り身一切れだけを敗者に与え、残りは全て勝者が食べる)。そのため、勝負の前には「勝てば満腹、負ければ空腹」との表示がされる。ただし、高級な食べ物やエンディングを飾る料理の場合などは、敢えて意地悪をせずに勝者の提案で半々にすることもある。ゲストがいる場合は3人以上で勝負となり、この場合は1位から順番に好きなだけ取っていき、最後のほうになると殆ど残っていない状態を余儀なくされる。
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Q11584862
_START_ARTICLE_ 石井伸幸 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 藤枝明誠高では3年春に投手となり、夏は県大会1回戦敗退。1992年のドラフト7位で西武ライオンズに入団。_NEWLINE_一軍での登板が無いまま、1995年に引退。
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Q864253
_START_ARTICLE_ 石倉駅 _START_SECTION_ 駅名の由来 _START_PARAGRAPH_ 所在地名より。1973年(昭和48年)に国鉄北海道総局が発行した『北海道 駅名の起源』では「起源はつまびらかではない」としているが、同書の前身にあたる『駅名の起源』(鉄道省札幌鉄道局編、1939年版)では「附近一帯に石地が多い為」としている。また、本多貢『北海道地名漢字解』では箱館戦争時の榎本武揚軍の石倉三左衛門という人物から、としている。 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 地上駅。混合ホーム2面3線のうち真ん中の線路を取り払ったことによって生じた、ホーム・線路・ホーム・線路の順に並ぶという特異な構造を持つ。駅舎はなく、ホームの上に比較的大きな待合所が設置される。無人駅となっている。上下ホームの連絡は、構内踏切で行う。
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Q11585620
_START_ARTICLE_ 石嶺誠一郎 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 東京都立三鷹高等学校を経て東京理科大学卒業後、1980年アナウンサーとして入局。_NEWLINE_公式プロフィールによると、長崎・大阪での勤務時に相次いで大規模な自然災害に見舞われ、その報道に携わったことが印象に残っているという(雲仙普賢岳大噴火と阪神・淡路大震災)。
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Q11586279
_START_ARTICLE_ 石川真介 _START_PARAGRAPH_ 石川 真介(いしかわしんすけ、1953年 - )は、日本の推理作家。福井県鯖江市生まれ。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 鯖江市立神明小学校、同中央中学校を経て、東京大学法学部卒。1991年に処女小説「不連続線」(光文社文庫)で第2回鮎川哲也賞を受賞。トヨタ自動車に勤務しながら、旺盛な執筆活動を続けている。錯綜したストーリーと堅牢な構成、女性の数奇な運命と斬新な社会テーマ、丹念な現地取材に基づくローカル描写とグルメ、そして奇抜なアリバイ工作を主眼に置いた長編旅情ミステリーを得意にしている。シリーズで活躍する探偵役は、事件記者兼推理作家兼特任捜査官の吉本紀子と愛知県警所属広域捜査官の上島透警部。『女と愛とミステリー(テレビ東京系)』『木曜ミステリー(テレビ朝日系)』でドラマ化。_NEWLINE_光文社文庫版を除いて、紙の本は大半が絶版になっていたが、㈱アドレナライズから2018年内に全点が電子書籍化された。さらに、同社を主戦場として、年に3、4タイトルの新作長編を発表していく予定。_NEWLINE_2019年1月、㈱アドレナライズから電子書籍初の書き下ろし『南紀十津川殺人ライン』を配信。_NEWLINE_同年7月、㈱アドレナライズから電子書籍書き下ろし2作目『シンデレラ名古屋嬢殺人事件』を配信。_NEWLINE_福井ふるさと大使。鯖江市ふるさと大使。日本推理作家協会会員。
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Q11586519
_START_ARTICLE_ 石弘光 _START_PARAGRAPH_ 石 弘光(いし ひろみつ、1937年4月9日 - 2018年8月25日)は日本の経済学者。専門は財政学。一橋大学名誉教授(第14代学長)、放送大学名誉学長(第6代学長)、中国人民大学名誉教授。 _START_SECTION_ 人物・来歴 _START_PARAGRAPH_ 東京府(現・東京都)出身。父は教育学者(学校経営学)の石三次郎(元全国家庭科教育協会長・東京教育大学(現筑波大学)教授)。環境ジャーナリストの石弘之(元東京大学教授)は弟。末弟の石和久は日本の医師、医学博士であり順天堂大学名誉教授。他に姉1人、弟1人。_NEWLINE_一橋大学経済学部卒業。木村元一ゼミ出身。平尾光司(元長銀総合研究所社長)は大学の同期で友人。オックスフォード大学客員教授、一橋大学学長、日本経済学会常任理事、政府税制調査会会長、国立大学協会副会長、日本郵政取締役監査委員長、放送大学学長等を歴任。一橋大学学長時代には、国際・公共政策大学院にアジア公共政策プログラムを設立し、世界銀行出身の大学同期の浅沼信爾の参画などを得て、アジアの財務関係省庁の職員らへの公共政策教育の体制を整備した。_NEWLINE_租税負担の不公平分析した。著作『財政改革の論理』でサントリー学芸賞を受賞。中国人民大学名誉教授。_NEWLINE_政府税制調査会会長時にはいわゆる「サラリーマン増税」(給料所得控除や配偶者控除などの廃止・縮小を進める増税案)を纏め世論の不評をかったが、その一方で、「増税の痛みを国民に押しつけるから」と無報酬を貫いた。安倍政権は歳出削減による財政再建をめざし、増税なくして再建不可能という考えの石の会長続投を受け入れなかった。安倍内閣において政府税制調査会会長の職を解かれ、2006年11月、後任会長に本間正明大阪大学教授が就任したが、翌12月に、本間は公務員官舎の不適切な使用問題で会長職を辞した。_NEWLINE_2009年民主党の鳩山由紀夫内閣下で、日本郵政社外取締役監査委員長、行政刷新会議第2ワーキンググループ評価者に就任。_NEWLINE_2017年5月、2016年に見つかったステージ4Bの膵臓がんの罹患体験記の連載を『日本経済新聞』で始めた。東京医科歯科大学医学部附属病院で抗がん剤治療を受けながら、如水会館で囲碁をするなど趣味を楽しみ、2018年までは10年間続けていた国立大学法人新潟大学経営協議会委員と学長選考会議委員も務めた。_NEWLINE_2018年8月25日、膵臓がんのため東京医科歯科大学医学部附属病院で死去した。81歳没。如水会館でお別れの会が開かれ、小泉純一郎元内閣総理大臣、黒田東彦日本銀行総裁、岡本薫明財務事務次官らが参列した。_NEWLINE_ゼミ生に、蓼沼宏一(一橋大学長)、油井雄二(学校法人成城学園長)、佐藤主光(一橋大学教授)、松井道夫(松井証券社長)、河田正也(日清紡ホールディングス社長)や、三日月大造(滋賀県知事)、柿沼正明(元衆議院議員)、金子能宏(一橋大学教授)、山重慎二(一橋大学教授)、島本哲朗(京都大学教授)らがいる。
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Q24866029
_START_ARTICLE_ 石押分之子 _START_PARAGRAPH_ 石押分之子(いわおしわくのこ)は、『古事記』、『日本書紀』に記述される大和国の国津神。『紀』では、磐排別が子と表記される。吉野の国巣の祖(『紀』では、国巣部(ら)の始祖(もとつおや)なりと記される)。_NEWLINE_『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野から吉野(大和)へ入り、3番目に出会った国津神とされ、山に入った所で岩を押し分けて出て来た上、2番目に出会った井氷鹿と同様に尾が生えていた(有尾人だった)ので、天皇がお前は誰かと問うと、「私は国津神で、名を石押分之子」と答え、「今、天津神の御子である天皇の行幸と聞き、迎えに参じた者です」と説明した(『紀』に、宇陀の穿邑から軽装の兵をつれ、巡幸した際の事と記す)。_NEWLINE_名称にある「子」とは、誰々の子という意味ではなく、愛称である。また国栖(くず)とは「くにす」がつまった語であり、「国を住み家とする者」の意で、「国津神を祀る人々」を指す。
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Q22117863
_START_ARTICLE_ 石田耕太郎 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 鳥取県倉吉市出身。1968年(昭和43年)3月、鳥取県立倉吉東高等学校卒業。1973年(昭和48年)3月、大阪市立大学法学部卒業。_NEWLINE_1979年(昭和54年)10月、鳥取県庁に入庁。2000年(平成12年)8月、境港管理組合事務局長に就任。2009年(平成14年)4月、県営病院事業管理者に就任。_NEWLINE_2010年(平成22年)3月28日に行われた倉吉市長選挙に出馬し初当選。2014年(平成26年)の市長選は無投票で再選。2018年(平成30年)、3選。
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Q2979665
_START_ARTICLE_ 石田芳夫 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 碁好きが嵩じて碁会所を開いていた父から小学2年の時に囲碁を教えられる。碁を覚えて1年でアマ5段まで到達した。その年木谷實が名古屋に来た際に同行していた大竹英雄初段(当時)と六子で打って認められ、その1957年に木谷道場に入門する。師匠から「日吉丸」とあだ名される。_NEWLINE_3回目の挑戦の14歳でプロ試験合格。1963年入段。初勝利は同年5月1日(大手合泉谷政憲二段に黒番中押し勝ち)。 若手時代は同じ木谷門の加藤正夫、武宮正樹とともに「黄金トリオ」「木谷三羽烏」と呼ばれた。1967年五段。1968年に首相杯争奪戦、69年に新鋭トーナメント戦優勝。1970年、六段で日本棋院選手権戦で大平修三を3-1で破り初タイトル獲得、同年七段。四段時1967年から71年にかけて大手合30連勝を記録。_NEWLINE_1971年、初の本因坊リーグ入りで6勝1敗で挑戦者となり、林海峰本因坊を4-2で破って22歳10ヶ月で師匠・木谷が3度挑戦して果たせなかった宿願であった本因坊を獲得した。これは本因坊獲得の最年少記録であるとともに、井山裕太が20歳4か月で名人位を獲得するまで、三大タイトル(棋聖・名人・本因坊)獲得の最年少記録ともなった。続いて2年連続で林のリターンマッチを受けたが防衛し、「林の天敵」とも言われた。本因坊は計5連覇。プロ十傑戦も1971、72年と2連覇。1972年8月に木谷道場から独立。名人戦では、1973年に林海峰名人に挑戦するが、3連勝後の4連敗という七番勝負史上初のスコアで敗れる。翌74年に再度名人挑戦して林を破り、坂田栄男、林に次いで選手権制史上3人目の名人本因坊となる。これにより九段に推挙され、入段以来11年で九段到達の記録となった。同年王座も獲得し三冠。_NEWLINE_1975年には第14期名人戦で大竹英雄に3-4、1976年には第31期本因坊戦で武宮正樹に1-4と、木谷門の兄弟弟子にタイトルを奪われる。1976年新名人戦第一期で大竹名人にリターンマッチを挑むが1-4で敗北。1978年には本因坊戦で加藤剱正本因坊への挑戦者となるが、最終局は必勝の碁をポカで落とし3-4で敗れる。1979年には挑戦者決定戦で坂田栄男を破り棋聖戦挑戦者となるが、藤沢秀行棋聖に1-4で敗れる。_NEWLINE_その後も1984年の天元位獲得、1987年以後NHK杯優勝3回や、早碁選手権戦、NEC杯、IBM早碁オープン戦などの早碁棋戦優勝はあるが、過去の実績からすれば低迷と見られている。_NEWLINE_1990年代は竜星戦準優勝、世界囲碁選手権富士通杯に何度か出場。2000年から棋聖戦リーグに4期連続在籍し、2000年にはBリーグ4勝1敗で趙善津と同率1位になるが、順位差で挑戦者決定戦進出を逃した。2001年にはNHK杯テレビ囲碁トーナメントで11年ぶりの優勝を果たした。2011年、第1回エステー&フマキラー囲碁マスターズカップでは準決勝進出。_NEWLINE_2014年8月31日、クラウドファンディング13路盤選抜プロトーナメント戦で高尾紳路十段を破り優勝。2016年7月23日、第1回13路盤プロアマトーナメント戦でも、河野臨九段を下し優勝する。_NEWLINE_国際棋戦では、1987年に日中テレビ囲碁選手権戦で聶衛平を下した。富士通杯で1991、99年にベスト8進出、2010年には1回戦で睦鎮碩を破りベスト16に進むが2回戦で孔傑に敗れる。_NEWLINE_2008年、60歳をもって規定により二十四世本因坊秀芳を名乗る。2016年紫綬褒章を受章。_NEWLINE_2005年から2008年まで日本棋院棋士会(東京)会長。またテレビ等での囲碁解説者として、2006年度(前期)、08年度(後期)のNHK囲碁講座では講師を務める。1983年からは代々木上原に「二十四世本因坊秀芳囲碁さろん」を開いている。門下に高橋秀夫七段。_NEWLINE_2010年5月20日、三王裕孝九段を破り、通算11人目となる公式戦通算1000勝(604敗)を達成する。_NEWLINE_2019年1月17日、史上15人目となる通算1100勝を達成。 _START_SECTION_ 棋風 _START_PARAGRAPH_ 地に辛い棋風で、三々を多用し、両三々も得意戦法とした。ヨセが強いという評価に加えて、序盤構想も意欲的である。大斜定石の研究家としても知られ、中国流布石に対抗する白番の有力な手法としても活用した。_NEWLINE_置碁の名手としても知られ、1972年から2年間『棋道』誌上でアマチュアとの2子から5子局の指導碁シリーズを打ち、23勝1敗という結果だった。1983年から『レッツ碁』誌上ではプロ対プロの置碁対局も行い、九子置かせて57目負けなどの記録が残っている。また、2013年3月21日の囲碁ソフト「crazy stone」との四子局に敗退し、「人間なら打ってくる場所に打たない冷静さと柔軟さを感じた。天才かも」と述べた。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 「コンピューター石田」のニックネームなどと相まって、クールというイメージにより「新時代の勝負師」など現代的棋士像の代表のように言われ、本因坊を奪取した頃には趣味のギターの弾き語りをする姿が雑誌に掲載され、現代っ子の本因坊として話題を集めた。また本因坊獲得時はまだ木谷の内弟子として生活し、「部屋住みの本因坊」とも呼ばれた。_NEWLINE_現最多タイトル獲得者で弟弟子の趙治勲名誉名人曰く、内弟子時代は生活態度は劣等生で座っているときはギターを弾き、寝転がってはマンガを読むどうしようもない人だったという。またこの時期にもっと勉強していたら自分なんて吹っ飛ぶとんでもなく強い棋士になっていただろうと語る。_NEWLINE_内弟子時代早くから独立を希望していたが遊び呆けるのは目に見えていたため、師匠夫妻は許さなかった。何度も願い出た末、「タイトルを取ったら」という条件が示された。そうしたら人が変わり必死に勉強し、何と本因坊を取ってしまった。本当に取れるとは思っていなかった師匠夫妻は「あと一つタイトルを取ったら、今度こそ独立を許そう」ともう一度条件を提示した。そうしたら見事名人を取り独立を許された。_NEWLINE_あだ名「コンピューター」について石田は、地の計算に熱心な自分を揶揄する意味で、高川格が言い出したのではないかと語っている。_NEWLINE_「秀芳」という雅号は、石田ら木谷門下と交流のあった書家佐々木泰南の命名による。_NEWLINE_将棋棋士の内藤国雄が「おゆき」でヒットしたとき、囲碁界からも誰かということで、石田に白羽の矢が立ち、1977年にコロムビアからレコード「忘れるぜ」「ひよわな花」を出し、歌手デビューした。このころから、1980年代前半ごろまで、口ひげを蓄えた時期があった。_NEWLINE_木谷道場の平塚時代・四谷時代両方内弟子だったのは石田のみである。_NEWLINE_道場で一番料理がうまくキャベツ刻みが得意だった。
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Q11587115
_START_ARTICLE_ 石神井 _START_PARAGRAPH_ 石神井(しゃくじい)とは、東京都練馬区の南西部に位置する地区。石神井が含まれる町名は、石神井町、下石神井、石神井台、上石神井、上石神井南町に分けられる。 _START_SECTION_ 名称の由来 _START_PARAGRAPH_ 「石神」(しゃくじ、いしがみ)に由来すると伝えられている。むかし村人が井戸を掘った折、石棒が出てきた。その石棒には奇端(きずい=めでたいことの前兆)があり、村人達はそれを霊石、石神様として祭った。これが通称「石神神社」、今の石神井神社の始まりだという。いつか、村の名もそれにちなんで石神井となった。一説には、石神様は三宝寺池(今の石神井公園の一部)から出現した石剣ともいう。 _NEWLINE_石神井の地名は古く、鎌倉時代の弘安5年(1282年)に宇多重広(うだしげひろ)という武将が、娘に石神井の所領を譲った書付けがある。_NEWLINE_現在この石剣は、石神井神社に神体として祭られている。
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Q18335661
_START_ARTICLE_ 石谷春貴 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 中学時代、友だちに誘われて児童劇団の裏方の手伝いをして、演技に興味を持つ。ずっと陸上をやっていたが、高校2年の試合中に怪我を負い、続けることを断念。入院中に放送されていた『クレヨンしんちゃん』の野原ひろしの台詞に感銘を受け、本格的に声優を志す。_NEWLINE_2017年、『AKIBA'S TRIP -THE ANIMATION-』の伝木凱タモツ役で初主演。_NEWLINE_2019年、第13回声優アワードにて、ヒプノシスマイクとして歌唱賞を受賞。 _START_SECTION_ 出演 _START_PARAGRAPH_ 太字はメインキャラクター。
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_START_ARTICLE_ 石鹸屋 (バンド) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 高校時代に同級生だったドラムのhellnianとギターの秀三、hellnianの姉と同級生だったベースのイノが2005年4月に結成。_NEWLINE_その後「東方不可拘束〜the maximum moving about!〜」以降、秀三の弟の厚志(当時はACE)がボーカルとして参加。_NEWLINE_東方アレンジを始めたきっかけは、リーダーのhellnianが東方作品をプレイして音楽を気に入ったところから始まる。_NEWLINE_メジャーデビューする以前から全国ツアーを行うなど、ライブ活動は活発に行っている。_NEWLINE_音楽性は、秀三曰く「僕らの音楽性のルーツって東方アレンジや同人音楽以前の音楽、90年代前後の邦楽・洋楽のメジャーシーンで流行っていた音楽にある」。実際、「さっきゅんライト」や「True Blossom」など90年代の楽曲に影響されていると思われる曲がいくつもある。また、音楽業界では70 - 80年代のロック音楽と評されていることもある。_NEWLINE_基本的に作曲は秀三、作詞はベース以外のメンバーという場合が多い。ただ、「ヒルクライム」、「エレクトリック・グランド・ファーザー」(作曲 イガラシ、秀三)や未発表曲「デッドエンド『騙し絵の孤独』」(作曲 BOSS)など、ベースが作った曲も一応存在する。
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_START_ARTICLE_ 石黒彩 _START_SECTION_ 出演 _START_PARAGRAPH_ モーニング娘。卒業後は、主婦タレントとしての出演が多い。
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Q11587344
_START_ARTICLE_ 石黒英彦 _START_PARAGRAPH_ 石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - 1945年6月21日)は、日本の文部・朝鮮総督府・台湾総督府官僚。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 広島県出身。石黒清左衛門の五男として生まれる。広島中学、第三高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年5月、文部省維新史料編纂事務局書記となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年6月、文部属となり普通学務局に配属。その後、兼内務属・地方局勤務、秋田県理事官、群馬県視学官などを歴任。_NEWLINE_1919年8月、朝鮮総督府に転じ江原道第三部長に就任。さらに平安北道第三部長、同警察部長、朝鮮総督府内務局地方課長などを歴任した。1927年2月、台湾総督府に移り文教局長に就任し、次いで内務局長を務めた。_NEWLINE_1931年5月、奈良県知事に就任。次いで1931年12月から1937年6月まで岩手県知事。在任中、二度に渡る大凶作や、1933年3月3日の昭和三陸地震などの復興に尽力した。大津波の翌年、石黒を中心に「慰霊の歌」と「復興の歌」が作られた。1937年6月~1938年12月、北海道庁長官。1938年北海道神宮内に開拓神社を設立。また1940年に開催されるはずだった札幌オリンピック実行委員会を設置した。同年12月、文部次官に就任。在任中、野球は一本勝負であるべきで、2回戦(2戦先勝方式)などは行うべきでない、総て真剣勝負であるという論法を出して東京六大学リーグを1回戦にした。1939年9月まで在任し退官した。_NEWLINE_その後、1942年6月から1943年10月まで大政翼賛会錬成局長を務めた。
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_START_ARTICLE_ 砂漠の雨 (今井麻美の曲) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 表題曲「砂漠の雨」は、2015公開の映画『コープスパーティー』の続編『コープスパーティー Book of Shadows』の主題歌に起用された。 カップリングには、SBS(静岡放送)×DLEが仕掛ける「静岡(S)の夜(Y)をざわつかせる(Z)」歌ものアニメプロジェクト『しずぷろ(SYZ Project)』とのコラボ楽曲「sp-RING-time」、ライブツアー「Words of GRACE」東京公演で披露された軽快なロックナンバー「M's カーニバル」を収録。
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Q11587612
_START_ARTICLE_ 破産債権 _START_SECTION_ 優先的破産債権 _START_PARAGRAPH_ 破産財団に属する財産につき一般の先取特権(民法306条)その他一般の優先権がある破産債権を優先的破産債権といい、他の破産債権に優先して弁済を受ける(破産法第98条第1項)。_NEWLINE_先取特権などの一般の優先権は、保護する必要が大きい債権に対して他の一般債権者に優先して弁済を受けることを可能とするために政策的に付与される権利であり、優先的破産債権は、これと同様の保護を破産手続において付与するために認められた制度である。 _START_SECTION_ 連帯債務者の一部の破産、保証債務履行請求債権、求償権等の手続参加 _START_PARAGRAPH_ 数人が各自全部の履行をなす義務を負う場合(連帯債務など)において、その全員又はその中の数人が破産手続開始決定を受けたときは、債権者は、破産手続開始の時において有する債権の全額につき、それぞれの破産手続に参加することができる(破産法第104条第1項)。_NEWLINE_この場合において他の(破産者以外の)全部の履行をする義務を負う者(連帯債務者など)が、破産手続開始決定後に債権者に弁済等を行ったときでも、その債権者は、破産手続開始の時において有する債権の全額についてその権利を行使できる(破産法第104条第2項)。_NEWLINE_破産者に対して将来行うことあるべき求償権を有する者(保証人、他の連帯債務者など)も、その全額につき、破産債権者としてその権利を行うことができるが(破産法第104条第3項)、債権者がその債権の全額につき権利を行ったときは、求償権者が破産手続に参加するには、自らの債務の全部を履行しなければならないとされている(破産法第104条第3項但し書き、第4項により「最高裁昭和62年6月2日判決・民集41巻4号769頁」を法制化)。_NEWLINE_担保を供した第三者(物上保証人)が破産者に対して将来行うことあるべき求償権についても、同様である(破産法第104条第5項で、同条第2項、第3項,第4項を準用)。_NEWLINE_保証人が破産手続開始決定を受けたときは、債権者は、破産手続開始の時において有する債権の全額につき、破産債権者としてその権利を行うことができる(破産法第105条)。_NEWLINE_法人の債務について無限責任を負う者(合名会社・合資会社の無限責任社員など)について破産手続き開始決定があったときは、当該法人の債権者は、破産手続開始の時において有する債権の全額につき、破産手続に参加することができる(破産法第106条)。_NEWLINE_法人の債務について有限責任を負う者(株式会社の株主・特例有限会社の社員・合資会社の有限責任社員・合同会社の有限責任社員など)について破産手続き開始決定があったときは、当該法人の債権者は、破産手続手続に参加することができない(破産法第107条第1項)。_NEWLINE_法人の債務に付有限の責任がある場合に、当該法人について破産手続開始決定があったときは、当該法人の債権者は、当該法人の債務につき、有限責任を負う者に対してその権利を行使することができない(破産法第107条第2項)。_NEWLINE_破産債権者は、破産手続開始決定があった後に、破産財団に属する財産で外国にあるものに対して権利行使したことにより、破産債権について弁済を受けた場合であっても、その弁済を受ける前の債権の額について破産手続に参加することができる(破産法第109条)。 _START_SECTION_ 別除権者等の手続参加 _START_PARAGRAPH_ 別除権者は、当該別除権に係る第65条第2項に規定する担保権によって担保される債権については、その別除権の行使によって弁済を受けることができない債権の額についてのみ、破産債権者としてその権利を行使することができる。ただし、当該担保権によって担保される債権の全部又は一部が破産手続開始後に担保されないこととなった場合には、その債権の当該全部又は一部の額について、破産債権者としてその権利を行使することを妨げない。(破産法第108条第1項)。_NEWLINE_破産財団に属しない破産者の財産につき特別の先取特権、質権若しくは抵当権を有する者又は破産者につき更に破産手続開始の決定があった場合における前の破産手続において破産債権を有する者も、上記と同様とする(破産法第108条第2項)。 _START_SECTION_ 破産債権の確定 _START_PARAGRAPH_ 債権調査の期日において破産管財人及び破産債権者の異議がなかったときは、債権の額、優先権及び劣後的破産債権の区分は、これによって確定する(同法124条1項)。確定債権については、破産債権者表の記載は、破産債権者の全員に対し、確定判決と同一の効力を有する(同法124条3項)。 _START_SECTION_ 調査への異議と債権の確定に関する訴訟 _START_PARAGRAPH_ 破産者、破産債権者又はその代理人は、異議を述べることができる(破産法121条2項、123条など)。_NEWLINE_異議を出された破産債権の破産債権者は、異議者を相手方として裁判所に破産債権査定申立てをすることができる(破産法125条1項)。裁判所は原則としてこれに対する裁判(破産債権査定決定)をすることになるが(破産法125条3項)その決定に対して不服のある異議者はさらに訴え(破産債権査定異議の訴え)を提起することができる(破産法126条1項)。_NEWLINE_もっとも、破産債権者は、上述の査定決定又は異議の訴えにおいて、債権調査の結果として破産債権者表に記載された事項のみを主張することができる(破産法128条)。また、執行力ある債務名義又は終局判決がある債権については、異議者が、破産者がなすことができる訴訟手続(例えば確定判決であれば、口頭弁論の終結後に生じた異議の事由をもってする請求異議の訴え(民事執行法35条1項、2項))によってのみ、その異議を主張することができる(破産法129条1項)。_NEWLINE_債権確定訴訟の結果は、破産管財人又は破産債権者の申立てにより破産債権者表に記載される(破産法130条)とともに、破産債権者の全員に対してその効力を有する(破産法131条1項)。 _START_SECTION_ 相殺権 _START_PARAGRAPH_ 破産債権者が、破産手続開始の当時、破産者に対して債務を負担するときは、破産手続によらないで相殺をなすことができる(破産法第67条第1項)。相殺の担保的機能に対する信頼を重視し、債務者が破産した場合にも原則それが認められることを定めた規定である。ただし、以下の場合は相殺をなすことができない。
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Q21652536
_START_ARTICLE_ 碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 2001年4月にオープンし、建物は鉄筋コンクリートで一部が木造である。エントランスにはめがね橋を模したレンガ造りのものが採用された。だが、2013年7月31日に火災が発生し、長期にわたって休業していたが、2015年12月1日に再開した。再開後は中央棟の1階は入館料を払わないでも入ることができるようになった。_NEWLINE_また、碓氷峠鉄道文化むらのトロッコ列車「シェルパくん」の終着駅であるほか、アプトの道のおおよその中間点でもあり、ふれあいテラスからアプトの道に行くこともできる。 _START_SECTION_ 和風大浴場「碓氷」 _START_PARAGRAPH_ 室内風呂と露天風呂そのほか水風呂、高温サウナ、エアーレスジェットバスがあり、浴槽は石造りで壁材にはヒノキを多用した木材を使用している。風呂からは東側の裏妙義の自然を眺めることができる。_NEWLINE_室内大浴槽は14.8㎡、露天風呂は18.0㎡、水風呂は2.4㎡となっており、室内浴槽より露天風呂の方が面積が広くなっている。 _START_SECTION_ 洋風大浴場「霧積」 _START_PARAGRAPH_ 浴槽は石造りの洋風で、露天風呂は円形の石造りになっている。露天風呂には壺風呂が併設されており、高温サウナと水風呂もある。風呂からは浴場の名前ともなっている霧積の山々を一望することができる。_NEWLINE_室内大浴場は18.6㎡、露天風呂は16.8㎡となっており、和風大浴場「碓氷」とは違い、室内浴槽の方が面積が広くなっている。 _START_SECTION_ 家族風呂「刎石」・「龍駒」 _START_PARAGRAPH_ タイル張りの浴室と石造りの浴槽があり、洋間の休憩室(13.2㎡)をもつのが「刎石」、木造りの浴室・浴槽、畳が敷いてある和室(8畳)の休憩室をもつのは「龍駒」である。また利用にはいずれも予約が必要であるが、当日の予約がなければ予約なしでも入ることはできる。 _START_SECTION_ レストラン「碓氷テラス」 _START_PARAGRAPH_ 中央棟1階にあり、アプト式鉄道全盛の明治~昭和初期を思わせる、レトロモダンの雰囲気がある。また入浴受付の外にあるため食事だけの使用も可能である。_NEWLINE_メニューはパスタやカレーなど洋風メニューを提供している。また、リニューアル後は峠の釜めしの販売は行っていない。 _START_SECTION_ 碓氷安中食堂 _START_PARAGRAPH_ 大浴場の隣、2階中央棟にある。売店のみで食事はラウンジ「くつろぎの場」で行えるようになっている。碓氷テラスと違い受付の中にあるため入場料を払わないと入ることはできない。メニューも碓氷テラスと違い定食やおつまみなどがある。_NEWLINE_テーブル10卓に椅子55脚で構成されているくつろぎの場は碓氷安中食堂で買ったものを食べる以外にも使用できる。テーブル席のほかに座敷もあり、ここも食事利用以外でも使用できる。また、峠の湯では大浴場を除くすべてで無線LAN環境が整っている。 _START_SECTION_ シェルパくんとうげのゆ駅 _START_PARAGRAPH_ 碓氷峠鉄道文化むらから旧信越本線の線路を使い、峠の湯まで来ている。_NEWLINE_2011年5月に機関車が故障し、急勾配区間での運行ができなくなったため手前のまるやま駅までの運行となったが2013年3月27日に新型の機関車が導入され、当駅までの運行が再開された。_NEWLINE_旧信越本線の路線を使い走っているが、とうげのゆ駅は本線から分岐して作られている。分岐点から信越本線新線の軽井沢駅方は立ち入り禁止となっている(アプトの道は旧線を使用して作られている)。 _START_SECTION_ 火災 _START_PARAGRAPH_ 2013年7月31日未明に火災が起こった。 出火したのはロビーなどがある中央棟で2階エレベーター付近が激しく燃えていたことから電気関係からの出火が有力と考えられていたが、電気配線からの状況で断定、推定に導く物証がなかったことでこの火災の原因は不明とされている。 また、この火災では初期消火はされていなかった。_NEWLINE_7月31日午前2時30分に自動火災報知設備の発報で出動し、近隣住民からの119番通報で出動中に建物火災の指令に切り替わった。 鎮火したのは同日6時50分だった。 _START_SECTION_ 火災後の経過 _START_PARAGRAPH_ この火災により中央棟は解体のち改築となり、被害が少なかった東西の棟は火災による焦げやにおいがついていたため全面的なリフォームとなった。 浴場が入る東棟のボイラーはそのまま使用するが、浴槽などその他の設備は元々、傷みが著しかったため造り直した。
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Q11589346
_START_ARTICLE_ 神奈川県道710号神縄神山線 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 現在、山北町玄倉と松田町寄(やどりき)の間の秦野峠を越える区間は未開通であり、一般車通行禁止の秦野峠林道のみが通じている状態である。 _START_SECTION_ 補足 _START_PARAGRAPH_ 誤記されている地図が多いが、国道246号線の蛇塚交差点から踏切を渡り、山之神橋に至るルート(座標・google マップ)は秦野市道である。
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Q11589639
_START_ARTICLE_ 神崎敏雄 _START_PARAGRAPH_ 神崎 敏雄(かんざき としお、1912年11月5日 - 1997年1月22日)は日本の政治家。元日本共産党大阪府大阪市議、同衆議院議員。関西中小工業協議会初代事務局長。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 大阪府大阪市出身。大阪市議を経て1972年の第33回衆議院議員総選挙に旧大阪6区から出馬し初(及びトップ)当選を果たす。以後、1976年の第34回衆議院議員総選挙での落選を挟み1979年の第35回衆議院議員総選挙にて再選。_NEWLINE_党内では議会対策委員長や府党常任委員などを歴任した。_NEWLINE_1997年1月22日、誤嚥性肺炎のため大阪市の病院で死去。84歳。
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Q11589880
_START_ARTICLE_ 神戸居留地競馬 _START_PARAGRAPH_ 神戸居留地競馬(こうべきょりゅうちけいば)とは1868年年末から1874年秋にかけて神戸外国人居留地およびその周辺で居留外国人が開催した競馬(居留地競馬)である。 _START_SECTION_ 1868年クリスマスの競馬 _START_PARAGRAPH_ 1868年1月1日(慶応3年12月7日)、1858年に結ばれた安政五カ国条約に基づき兵庫港(後の神戸港)が開港し神戸村に外国人が居住し商業活動を行うための外国人居留地(神戸外国人居留地)が設けられた。1868年12月25日(明治元年11月12日)、居留外国人が開港1年目のクリスマスを祝うイベントとして居留地東北部の砂道で競馬を開催した。この競馬は神戸外国人居留地における初の組織的なスポーツ活動であった。この開催は239分(4分は1両に相当する)の剰余金を出す成功を収め、それを受けて居留外国人は競馬施行体を作りその下で定期的に競馬を開催することを計画した。 _START_SECTION_ ヒョウゴ・レース・クラブ(HRC)の創設 _START_PARAGRAPH_ 翌1869年3月1日(明治2年1月19日)、当時の神戸外国人居留地における主要な外交官、実業家が多く出席する会議が開かれ競馬施行体ヒョウゴ・レース・クラブ(HRC)の創設が承認された。HRCは横浜居留地の横浜レース倶楽部に続き居留外国人が外国人居留地に設立した2つ目の競馬施行体であり、かつ神戸外国人居留地で最初に発足したスポーツ組織であった。4月17日(3月6日)、HRCの下で初となる競馬が前年のクリスマスと同様に居留地東北部の砂道で開催された。開催当日は休日とされ、居留地内の店舗は休業した。この慣習は横浜居留地でも取り入れられていたもので、以降の開催も同様に休日となった。この開催は盛況を博し、開催当日の夜に行われたパーティーでは早くも次回開催に向けて寄付金が集められた。 _START_SECTION_ 競馬場の建設 _START_PARAGRAPH_ 居留地東北部の砂道は本来は建設用地で、購入者が決まっていなかったため空地となっていたものを競馬に使用していたに過ぎなかった。そのため5月になると競馬場の建設を求める声が上がるようになった。HRCは秋までに神戸外国人居留地の外、生田宮村の東西を生田神社と旧生田川、南北を西国街道(現在の花時計線)と中山手通りに挟まれた土地について兵庫県を通じて日本政府と借地契約を結んで競馬場の建設用地を確保し建設工事に着手した。正確な着工時期や竣工時期は定かではないが9月末までには競馬を行うコースの地ならしや柵の設置など基本的な工事が完了し、その後11月12日(10月9日)と13日(10日)に行われた開催までには完成した。コースの素材はダートで、居留民のレクリエーションのためにも使用された(例えば1871年4月には居留外国人による運動会が開かれている)。なお、HRCは9月に名称をヒョウゴ・オーサカ・レース・クラブ(HORC)に改めた。_NEWLINE_11月12日(10月9日)から13日(10日)にかけて、HORCの下で初となる競馬が完成したばかりの競馬場で行われた。それまで居留地内で行われていた競馬と違い、居留地の外にある競馬場で行われる競馬は日本人も自由に見学することができた。物珍しさも手伝ってこの開催は大勢の日本人が見物に訪れ、それまでの中で最大の盛り上がりを見せた。開催終了後、11月20日付のコウベ・オーサカ・ヘラルド紙は「神戸の競馬の前途は明るい」と報じた。 _START_SECTION_ 競馬場の改修と移転に関する問題の発生 _START_PARAGRAPH_ 1870年以降も競馬は年2回(春と秋)のペースで開催されて活況を呈し、1回の開催における開催日数は1870年秋以降3日に増加した。しかし競馬場はいくつかの構造上の問題を抱えていた。まず第2コーナーと第3コーナーのカーブが急で、襲歩で走行できないほど急であった。またダートコースの水はけは非常に悪く、横浜競馬場のようにコースに芝を張ることが検討されたものの技術的に困難であるという理由から断念された。HORCの内部ではコースの補修を行うか別に用地を確保し新しい競馬場を建設するべきであるという議論がしばしば持ち上がり、1870年7月に開かれた総会で将来的な移転を見据えつつ改修工事を行うという結論に達した。そんな折、11月になって日本政府が競馬場が建てられていた土地を鉄道の敷設のために接収する計画が明らかとなった。HORCはこの計画を利用して新競馬場建設のための土地と費用を日本政府に用意させようとしたが代替地の選定や新競馬場の造成費の負担を巡って交渉は難航し最終的に日本政府が路線を競馬場の南側に迂回させることを決断したため、鉄道敷設に伴う新競馬場建設の可能性は消滅した。 _START_SECTION_ 神戸居留地競馬の終焉 _START_PARAGRAPH_ 1873年から1874年にかけて日本の経済状況は悪く、その影響は神戸外国人居留地の居留外国人が行う商業活動にも影響を及ぼした。さらに後述する競走馬の問題(日本産馬と中国産馬のいずれを重視するか)が加わってHORCの会員数は減少し、それに伴い競走馬の頭数は開催の成立が危ぶまれるほどに減少した。開催日数は1874年春に2日、同年秋に1日と減少し1875年には開催が中止に追い込まれた。同年秋、HORCは日本政府に対して経済状況の悪化を理由に借地料の減額を請願し、さらに居留地東側にある内外遊園地の外周部分に新コースを建設する計画を申請したがいずれも却下された。その結果翌土地は借地料の支払い不能により接収され、それに伴い競馬場は日本側に返還されることになりHORCは1876年以降競馬を開催することができなくなった。資金難から新たな競馬場を建設する見込みも立たず、HORCは1877年11月をもって解散した。この後、神戸外国人居留地で競馬が行われることはなかった。_NEWLINE_競馬場の跡地には店舗が立ち並ぶようになり、神戸市街の中心地が三宮に定まると同市を代表する歓楽街の一つである生田東門商店街(東門街)が形成された。同商店街の通りはS字に曲がっているが、これは競馬場のコース形態の名残である。 _START_SECTION_ 使用された馬の種類 _START_PARAGRAPH_ 神戸居留地競馬で競走馬として使用されたのは、日本産馬(日本在来馬。体高が低かったため、ジャパンポニーと呼ばれた)と中国産馬(品種は不明。日本産馬と同様に体高が低く、チャイナポニーと呼ばれた)である。その他、1869年秋までは障害競走用に「ホース」と呼ばれる日本産馬や中国産馬より大型の馬も使用されていた。日本産馬は総じて気性が荒くしかも馴致が行われていなかったため、レースでは騎乗者の指示に従わずにスタート直後から全力で疾走しスタミナ切れを起こす欠点を持っていた。それに対し中国産馬は馴致が十分になされており、日本産馬のようにスタミナ切れを起こさなかった。これらの要因から日本産馬は中国産馬よりも能力的に大きく劣った。_NEWLINE_日本産馬と中国産馬のいずれを重視するべきかについてはHORC内部で意見の対立があり日本産馬重視派は日本産馬を用いることで日本の馬産の発展に資することができると主張し、さらに日本産馬と比べて高価な中国産馬を重視し過ぎた場合、資力に優れた馬主によって賞金が独占されてしまう懸念や賭けによって資金を確保するために八百長を行う危険性があると指摘した。これに対し中国産馬重視派は日本の馬産の発展など考慮する必要はなく、能力に優れた中国産馬を走らせることでより本格的な競馬を行うことができると主張した。実際には初期の開催では日本産馬およびその馬主に配慮した番組編成がなされたものの、次第に中国産馬に重きを置いた番組編成がなされるようになった。それに伴って競馬は中国産馬を購入できる資力のある馬主によって独占され、資力の乏しい馬主はHORCを退会していった。最後の開催となった1874年秋の開催では出走した日本産馬はわずか1頭で、それまで施行されていた日本産馬限定競走は施行されなかった。 _START_SECTION_ 競馬場 _START_PARAGRAPH_ 1869年に建設された競馬場の規模は公称で総敷地6000坪、コースは左回りのダートコースで1周1150ヤード(約1050m)であったが実際には総敷地5113坪3合、コースは1周950ヤード(約870m)に満たなかったといわれている。競馬場は前述のように第2コーナーと第3コーナーが襲歩で走行できないほど急で、その上コースの水はけが悪いという欠陥を抱えていた。さらにそうした欠陥を抱えていたがゆえにしばしば競馬場の移転が検討され、移転までの仮の競馬場と見なされがちであった影響から競馬場の施設は十分な補修が施されないまま放置されがちであった。競馬開催時には競馬場内のスタンドのほか、周辺の土地を借りて小屋を建てて観客を収容した。なお、1868年のクリスマスと1869年春に競馬が行われた居留地東北部のコースは1周が約800mほどであったといわれている。 _START_SECTION_ ギャンブル _START_PARAGRAPH_ 神戸居留地競馬はギャンブルの対象となり、HORC(HRC)や居留地内で営業する複数の商社がlotteryと呼ばれる馬券(どのような方式の馬券であったかは不明)を神戸・川口両居留地内のホテルで販売した。馬券購入の際の検討資料としては新聞が予想記事を執筆したほか、各競走に登録した競走馬などを記載したレースブックと呼ばれる本が発売されていた。なお前述のように日本産馬と中国産馬のいずれを重視するべきかという議論においては、高価な中国産馬を重視すると馬主がその購入代金を捻出するために八百長を仕組んで競走結果を操作する危険性が指摘された。 _START_SECTION_ 横浜レース倶楽部との交流 _START_PARAGRAPH_ 横浜居留地では1862年に横浜レース倶楽部(YRC)が成立し、1866年から横浜競馬場で競馬が開催されていた。YRCとHORCの交流は、まずHORCの会員によるYRC会員が所有する競走馬の購入という形で始まった。主な馬に前述のSans ReprocheやDelightがいる。_NEWLINE_1871年春になると、HORCに所属していた競走馬がYRC会員の名義で横浜競馬場の競走に出走するケースが見られるようになった(出走馬の競走馬名については不明)。さらに1872年春になると、HORCに所属する競走馬がHORC会員の名義のまま横浜競馬場の競走に出走するようになった。出走したのはGin Yen(日本産馬)とGenseric(中国産馬)の2頭で、Gin Yenが1勝を挙げた。その後も1872年秋にGenseric(2勝)とChisai(日本産馬、1勝)、1873年春にCrusader(中国産馬、2勝)とChisai(0勝)、1874年春にGame Cock(中国産馬、2勝)とWoodcock(中国産馬、0勝)、Frair Tuck(日本産馬、0勝)、1874年秋にFinale(品種不明、0勝)が出走した。このうち1872年春に出走したGin Yenと1873年春に出走したCrusaderは開催後YRCの会員に購入され、横浜で競走生活を送った。一方、1872年秋にはYRC所属の競走馬3頭(中国産馬Edgar、中国産馬Will o'the Wisp、日本産馬Massaki)がHORCの開催に出走したがいずれも未勝利に終わっている。この開催以外でYRC所属馬が神戸で出走したという記録はない。
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Q38276981
_START_ARTICLE_ 神戸市電税関線 _START_SECTION_ 備考 _START_PARAGRAPH_ 当路線は1934年9月7日に複線化されるまで神戸市電で唯一単線だった路線である。
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Q529313
_START_ARTICLE_ 神本美恵子 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1948年、福岡県朝倉郡出身。_NEWLINE_1970年3月、福岡教育大学教育学部卒業後、横浜市立下野谷小学校教諭になる。_NEWLINE_筑紫野市立二日市東小学校教諭などを経て1991年6月福岡県教職員組合組織部執行委員・女性部長就任。_NEWLINE_同時期より連合福岡女性委員会副委員長を兼任し1995年まで連合福岡女性委員会で活動。_NEWLINE_その後、1996年から2001年まで日本教職員組合(日教組)中央執行委員。_NEWLINE_2000年からは日本教職員組合中央執行委員教育文化局長を務めた。_NEWLINE_2001年7月の第19回参議院議員通常選挙において民主党より比例区に立候補し初当選。_NEWLINE_民主党に所属する他、日本民主教育政治連盟(日政連)に所属する。民主党における位置付けとしては旧社会党の流れを汲む横路グループに分類される。_NEWLINE_参議院において内閣委員会、決算委員会、少子高齢社会に関する調査会、教育基本法に関する特別委員会の委員を務めた。民主党においては民主党男女共同参画推進本部事務局次長、民主党参議院比例区第31総支部代表を務める。地元は福岡であるが民主党福岡県連(民主党福岡県総支部連合会)には所属していない。_NEWLINE_2007年7月の第21回参議院議員通常選挙に比例区で出馬し、再選。_NEWLINE_2011年9月2日に発足した野田内閣で文部科学大臣政務官に就任し、2012年1月13日に発足した野田改造内閣でも留任したが、2012年9月民主党代表選挙では赤松広隆の推薦人に名を連ねていた。_NEWLINE_2013年7月の第23回参議院議員通常選挙に比例区で出馬し、3選。_NEWLINE_2016年1月、参議院内閣委員長に就任。_NEWLINE_2017年10月末に希望の党に合流する前原誠司代表が、民進党の衆院選後の方針を決める立場にいることを反対して民進党代表の辞任を求めた。_NEWLINE_2018年5月の民進党と希望の党による新党には参加せず、5月7日に民進党を離党、立憲民主党に入党を申請、翌8日の常任幹事会で入党が承認された。_NEWLINE_2019年7月の第25回参議院議員通常選挙には、出馬せず引退。日教組の組織内候補の後継として前職の水岡俊一が立候補し当選。
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Q5367698
_START_ARTICLE_ 神様、もう少しだけ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 初回の視聴率は18.2%であったが、ドラマ界では珍しく、2話以降徐々に視聴率を上げ始め平均視聴率22.6%、最終回視聴率28.3%を記録する大ヒットとなった。_NEWLINE_HIV感染をテーマとした作品であり、ドラマの最後にはHIVに対して正しい理解を求めるテロップが表示がされた。_NEWLINE_金城武と深田恭子の両者を一気にブレイクさせるきっかけとなった作品でもある。また、仲間由紀恵の名が知れ渡った出世作でもある。_NEWLINE_2003年2月21日にDVDが発売された。 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 援助交際が元でHIVに感染した女子高生・真生(深田恭子)と人気音楽プロデューサー・啓吾(金城武)の恋の物語。_NEWLINE_人気音楽プロデューサーの石川啓吾は、昔の恋人の死後、かつてのように曲が書けず自堕落な生活を繰り返し、レコード会社には契約を切られそうになっていた。_NEWLINE_一方、どこにでもいそうな普通の女子高生である叶野真生は、代わり映えのしない毎日にうんざりしていた。_NEWLINE_そんな真生が夢中になれることといえば、石川啓吾の作った楽曲だけ。年内最後となる啓吾の日本公演を唯一楽しみにしていたが、チケットを入れていた財布の紛失により、援助交際でチケット代を手にしようとする。ウリに抵抗がある真生は性行為なしの約束で、一人の男と会う事になった。ところが男にホテルへと誘われ、話が違うと帰ろうとした時に、日常から抜け出したかったという男の言葉に同調し、性行為を了承してしまう。_NEWLINE_後日、コンサートへ行ったその帰り道。啓吾の乗る車に遭遇した真生は雨の中を追いかけ、二人は出逢った。_NEWLINE_それから数か月。好きな相手と一晩を過ごしたことで、うんざりしてた日々から抜け出した真生の姿があったが、ある日、交通事故で軽傷を負ってしまい、念のために検査をすることとなった。_NEWLINE_久しぶりに日本へ帰国した啓吾は、真生に連絡を取り二人は再び会う約束をする。_NEWLINE_当日。待ち合わせの前に病院へ向かった真生は、検査の結果で、自分がHIVに感染していることを告げられるのだった。
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Q11591720
_START_ARTICLE_ 福井美恵子 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 中学ではバレーボール部に所属するが、高校女子バスケの名将原田茂監督の誘いを受け樟蔭東高校に進学しバスケットボールに転向。インターハイ・国体で優勝に輝き、全日本ジュニアにも選ばれた。_NEWLINE_卒業後の1975年、ユニチカに入社。日本リーグ新人王を獲得。1977-78シーズンにはリーグ優勝の原動力となり、この年より3年連続でベスト5に選ばれた。_NEWLINE_また、全日本のメンバーとして1975年世界選手権準優勝メンバーとなる。_NEWLINE_翌年のモントリオールオリンピックにも控えとして出場した。_NEWLINE_1979年世界選手権では全8試合に出場。_NEWLINE_幼い頃から抱えていた内臓疾患が悪化したため1980年にユニチカを退社。その後も病院で療養しながら復帰を目指したものの、同年11月30日に心不全のため23歳で死去した。_NEWLINE_幻のモスクワ五輪代表だった元バレーボール選手の水原理枝子はユニチカの同期入社にあたる。
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Q11592020
_START_ARTICLE_ 福山太陽光発電所 _START_PARAGRAPH_ 福山太陽光発電所(ふくやまたいようこうはつでんしょ)は、広島県福山市箕沖(みのおき)町にある中国電力の太陽光発電所。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 福山市の港湾地区に建設された太陽光発電所であり、2011年12月1日に運転を開始した中国電力初のメガソーラー発電所である。約320m×140mの約45,000m²の敷地に16,544枚の太陽電池パネルが敷き詰められ、出力は3,000kW。年間発電量は約368万kWhであり、一般家庭の約1,000世帯の年間使用電力量に相当する。_NEWLINE_建設にあたっては環境への配慮から、鉱物油が用いられた通常の変圧器ではなく菜種油を絶縁油に用いた環境調和型変圧器を採用。PR施設などの建設にも、コンクリートを硬化させる時に二酸化炭素を吸収させる特殊な混和材を材料とした環境配慮型コンクリートを使用している。 _NEWLINE_発電所前には見学用広場が設置されているほか、デジタル表示版にて現在の出力とその日の発電量を表示している。発電状況は公式サイトでも見ることができる(5分毎の出力とその日の発電量、前日の発電量)。
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Q11592950
_START_ARTICLE_ 福岡連隊区 _START_SECTION_ 沿革 _START_PARAGRAPH_ 1888年(明治21年)5月14日、大隊区司令部条例(明治21年勅令第29号)によって福岡大隊区が設けられ、陸軍管区表(明治21年勅令第32号)により福岡県の一部が管轄区域に定められた。第6師管第12旅管に属した。_NEWLINE_1890年(明治23年)5月20日、管轄区域の変更が行われた。_NEWLINE_1896年(明治29年)4月1日、福岡大隊区は連隊区司令部条例(明治29年勅令第56号)によって久留米連隊区(第一次)に改組され、旅管が廃止となり第12師管に属した。1897年(明治30年)4月1日、名称を福岡連隊区に改称した。1898年(明治31年)4月1日、司令部は福岡市洲崎裏町旧砲台跡の新築庁舎に移転した。_NEWLINE_1903年(明治36年)2月14日、陸軍管区表が改正され、再び旅管が採用され連隊区は第12師管第23旅管に属した。また、佐賀連隊区の廃止などにより管轄区域に佐賀県全域が含まれた。_NEWLINE_日本陸軍の内地19個師団体制に対応するため陸軍管区表が改正(明治40年9月17日軍令陸第3号)となり、1907年10月1日、第12師管第35旅管に属し、佐賀連隊区の再設置などにより管轄区域が変更された。_NEWLINE_1925年(大正14年)4月6日、日本陸軍の第三次軍備整理に伴い陸軍管区表が改正(大正14年軍令陸第2号)され、同年5月1日、旅管は廃され引き続き第12師管の所属となり、管轄区域が変更された。_NEWLINE_1940年(昭和15年)8月1日、福岡連隊区は西部軍管区久留米師管に属することとなった。1941年(昭和16年)11月1日、小倉連隊区が廃止され、その旧管轄区域と佐賀連隊区の福岡県区域を編入して、福岡県全域を管轄とした。_NEWLINE_1945年には作戦と軍政の分離が進められ、軍管区・師管区に司令部が設けられたのに伴い、同年3月24日、連隊区の同域に地区司令部が設けられた。地区司令部の司令官以下要員は連隊区司令部人員の兼任である。同年4月1日、久留米師管は久留米師管区と改称された。
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Q11594066
_START_ARTICLE_ 福田三河守 _START_PARAGRAPH_ 福田 三河守(ふくだ みかわのかみ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。卅六飛将の一人。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 天正3年5月16日(1575年)、長篠の戦いの際に三河国牛窪城の警固役として、丸毛光兼と共にその任に就く。また、同年8月16日に織田信長が越前国の府中龍門寺に出陣 (越前一向一揆) の際に、路地警固として越前国今城を任される。。_NEWLINE_天正5年3月2日(1577年)、織田信長の雑賀攻めの際に、将の一人として根来口より侵攻する。_NEWLINE_天正10年5月29日(1582年)、織田信長の中国遠征の際に、安土城の二の丸警固役の一人として、その任に就く。
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Q814825
_START_ARTICLE_ 福田汽車 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1996年8月28日に創立され、北京市昌平区に本拠を構える福田は50億元を超える資産と29,000人を超える従業員を有する。福田の事業所は北京市、天津市、山東省、湖南省、湖北省、遼寧省、広東省といった市や省に所在している。R&D拠点は日本、ドイツ、台湾、フィリピンに分散している。2005年にはブランド価値が119億3200万元を超えた福田は、最も価値のある中国ブランド・トップ500において自動車工業部門で4位、総合で43位にランクインした。_NEWLINE_福田は拡大するラテンアメリカの小型商用車市場へ参入するためにコロンビアに組立工場を建設する予定である。また、インド西マハーラーシュトラにも工場を建設する計画である。 _START_SECTION_ ダイムラーとの合弁 _START_PARAGRAPH_ 2010年7月16日、ダイムラーと合弁設立で合意し、調印式を行った。2011年9月に中国政府商務部の認可を取得し、2012年2月18日、北京福田戴姆勒汽車有限公司 (Beijing Foton Daimler Automotive, BFDA) が正式に発足した。北京市懐柔区に本社を置くこの新会社はダイムラーとの折半出資で設立され、福田の中型/大型トラック事業は同社に移管された。BFDAは同年7月9日から福田の「欧曼」トラックの生産を開始した。また、7月19日には1億3500万ユーロを投じてディーゼルエンジン工場を建設すると発表。欧曼に搭載されるメルセデス・ベンツのOM457型エンジンを生産する予定である。 _START_SECTION_ ボルクヴァルトの復活 _START_PARAGRAPH_ 1961年に破産したドイツの自動車メーカーのボルクヴァルトを2008年に51年ぶりに復活させ、旧ボルクヴァルト創業者カールの孫であるクリスチャン・ボルクヴァルトを創業者に据えて共同出資者兼CEOにはかつてサーブやダイムラーに勤めたKarlheinz L. Knöss、車体デザイナーにはかつてメルセデスベンツ・Eクラスの設計に携わったノルウェーのEinar J. Hareideを迎え、実際の車体製造および財政面での支援は福田汽車が行うことになった。
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Q51647
_START_ARTICLE_ 福音宣教 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ ジョン・ストットによれば、宣教の起こりは創世記12章にあるアブラハムの選びと契約にあり、これがイエス・キリストの福音において成就したとされる。中村敏によれば、旧約における世界宣教の例は、ヨナ書にある。_NEWLINE_イエス・キリストは弟子たちに、全世界に福音を宣べ伝え、弟子とするように命じた。中村敏によれば、異邦人の回心の最初の例は執事ピリポの伝道によるエチオピアの宦官であるが、本格的な異邦人への宣教は使徒ペテロが受けた神の啓示によるコルネリオ一族の救いである。。最初の宣教師の一人は異邦人の使徒パウロである。_NEWLINE_エウセビオスは使徒トマスに遣わされたタダイが国王の病気をいやし、国をキリスト教化したと記している。_NEWLINE_ウルフィラスはゴート族への宣教師となり、マルティヌスはフランスへの宣教師となり、パトリキウスはアイルランドへの宣教師となり、コルンバはスコットランド宣教師となった。_NEWLINE_カンタベリーのアウグスティヌスはブリテン島に派遣され、ボニファティウスはドイツ宣教、アンスカールはスカンジナビア、オーラフはノルウェーで宣教した。_NEWLINE_9世紀、「スラブの亜使徒」と呼ばれたキュリロスとメトディオスの兄弟はスラブに遣わされた。_NEWLINE_アッシジのフランチェスコ、ライムンドゥス・ルルスはイスラムに宣教した。_NEWLINE_ローマ・カトリック教会は宗教改革で失われた失地回復の為に、世界宣教を積極的に行い、海外に乗り出していったが、プロテスタントでは長い間、世界宣教がなされなかった。 イエズス会は日本にも宣教師を派遣し、多くの回心者を得たが、日本のキリシタンは迫害を受けて殲滅され、生き残りは地下にもぐった。_NEWLINE_ドイツの敬虔主義によりプロテスタントの世界宣教が回復される。モラヴィア兄弟団も福音宣教を行った。_NEWLINE_19世紀は偉大なる世紀(The Great Century)と呼ばれる世界宣教の時代である。_NEWLINE_自由主義神学の社会的福音に対する反発から、福音派が政治や社会問題に関わらない時代が続いたが、それ以前にはウィリアム・ウィルバーフォースのようにクリスチャンとして社会的責任を果たした福音派がいた。_NEWLINE_1973年、エキュメニカル派の世界教会協議会(WCC)バンコク会議は、「今日の救済」を発表し、政治的、経済的解放が救済であるとした。リベラル派は、社会的責任に重点を置いている。_NEWLINE_また1983年、世界教会協議会(WCC)のヴァンクーバー大会は「イエス・キリスト-世界のいのち」で急進的な革命運動が「慰めの宣教」であるとした。_NEWLINE_1974年の福音派のローザンヌ世界伝道会議は、エキュメニカル派と異なる立場を採り、宣教を福音伝道と社会責任にわけ、福音伝道が優先されると宣言した。一般啓示による神知識は人を救済に導くものではなく、イエス・キリストこそが唯一の救い主である。すべての人は罪人であり、滅びに向かっているので、「イエス・キリストを世の救い主として告知する」伝道とは、「悔い改めと信仰による全人格的明け渡しによって神に応答するように、すべての人を招くことである」と宣言し、誓約を結んだ。
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Q6961717
_START_ARTICLE_ 秋元奈美 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1986年、第2回なかよし新人まんが賞佳作の「LOVING YOU」(なかよしデラックス、講談社、8月号)でデビュー。_NEWLINE_同期の武内直子や猫部ねことともに1990年代前半の『なかよし』(講談社)の主力作家として活躍、その後は、『少女フレンド』(廃刊、同)→『なかよし』→『デザート』(同)と渡り歩いた。_NEWLINE_2018年現在は『恋愛LoveMAX』(秋田書店)で作品を発表。_NEWLINE_代表作は、テレビアニメ化もされた『ミラクル☆ガールズ』。
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Q11594983
_START_ARTICLE_ 秋山徳三郎 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 兵庫県青垣町(現:丹波市)おいて、秋山宝右衛門の二男として生まれる。柏原中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第10大隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。さらに陸軍派遣学生として東京帝国大学工科大学土木科で学び1919年(大正8年)7月に卒業した。その際、南清博士奨励記念賞を受賞している。_NEWLINE_1920年(大正9年)4月、陸軍築城本部員となり、英仏駐在を経て、1924年(大正13年)10月、イギリス工兵校を卒業。1926年(大正15年)8月、陸軍省軍務局課員に発令され、陸軍技術本部イギリス駐在官、関東軍特務部員(満州国国道局顧問)、陸軍航空本部員を経て、1935年(昭和10年)8月、工兵大佐に昇進し兵器局器材課長に就任。_NEWLINE_1936年(昭和11年)8月、兵器局機械課長となり、電信第1連隊長を経て、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級し工兵監部付となる。同年12月、航空本部第2部長兼大本営野戦航空兵器長官に就任し、1941年(昭和16年)8月、陸軍中将に進み太平洋戦争を迎えた。_NEWLINE_1942年(昭和17年)2月、工兵監部付となり、同年8月、築城本部長に就任。兼飛行場設定練習部長を経て、1943年(昭和18年)12月、中国軍需監理部長となり、1944年(昭和19年)11月、陸軍燃料本部長に就任し終戦を迎えた。1945年(昭和20年)11月に復員。
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Q11595707
_START_ARTICLE_ 秋田県道57号十文字羽後鳥海線 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 横手市十文字町の佐賀会沖田交差点から、国道342号宮城県方面から連続して路線が始まり、すぐに湯沢横手道路を立体交差後に皆瀬川の北側をおおむね西方向へ向かう。雄物川を渡って羽後町に入ると国道398号と重複して南進し、羽後町の中心部を過ぎたあと国道398号から分岐し山間部を南西方向へ向かう。赤沢ダム、松倉ダムの北側を通り、立石峠を越えると、急カーブが続く未整備区間になり、由利本荘市鳥海町下笹子で国道108号に合流する。_NEWLINE_1994年までは一般県道・山崎鴻屋十文字線に指定されていたが、羽後町鴻屋地区が国道398号に指定され、明治-横根峠-田代ルートから西馬音内ルートに変更したため改称し、路線の起点・終点も逆転した。_NEWLINE_十文字地区はバイパス工事化が進み、当初(前名称時代は)十文字町上鍋倉地区から秋田県道117号野崎十文字線を分ける形で住宅街を縫うルートだったが今は工事され、南側の交差点から国道13号と直接分岐して羽後町へつながる。
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Q11596157
_START_ARTICLE_ 秩父重英 _START_PARAGRAPH_ 秩父 重英(ちちぶ しげふさ、 - )は、日本の工学者、東北大学教授、工学博士。
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Q57314756
_START_ARTICLE_ 穂高結花 _START_SECTION_ 略歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 2015年7月にAVデビュー_NEWLINE_身長168センチのスレンダー系のAV女優。
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Q3033506
_START_ARTICLE_ 空グラフ _START_PARAGRAPH_ 空グラフ(英: null graph)は、数学のグラフ理論において、位数0のグラフ、または辺のないグラフ (edgeless graph) を意味する(後者は empty graph とも呼ぶ)。
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Q11597468
_START_ARTICLE_ 空港ホーバークラフト _START_PARAGRAPH_ 空港ホーバークラフト株式会社(くうこうホーバークラフト)は、かつて存在した鹿児島県の海運会社である。_NEWLINE_1972年(昭和47年)7月15日に営業開始し、三井造船製のホバークラフト「MV-PP5」を使い、鹿児島空港への交通機関として空港に近い加治木港から指宿港までを直行・桜島経由・鹿児島市経由の3ルートで1日10便運航していた。定員は52名。鹿児島から指宿まで20分とのキャッチフレーズであった。_NEWLINE_桜島などにおいては海上で乗下船をしたが、指宿港においては干満に応じて陸上で乗下船をすることがあった。_NEWLINE_本社は鹿児島市甲突町27-22に置かれ、加藤勉伯が代表を務めていた。加藤は地元の建設資材商社である土佐屋の社長を務めていた人物である。_NEWLINE_利用不振により1977年(昭和52年)12月に航路は廃止され、会社は清算された。使っていたホバークラフトは、名鉄海上観光船に用船された。
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Q18233936
_START_ARTICLE_ 竇瑾 _START_PARAGRAPH_ 竇 瑾(とう きん、生年不詳 - 454年)は、北魏の軍人・官僚。字は道瑜。本貫は頓丘郡衛国県。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 後漢の司空の竇融の後裔を自称した。若くして文学で名を知られ、中書博士から中書侍郎となった。繁陽子の爵位を受け、寧遠将軍の号を加えられた。たびたび軍功を挙げて、秘書監に転じ、衛国侯の爵位に進んだ。冠軍将軍の号を加えられ、西部尚書に任じられた。北魏が夏の赫連定を破って関中を平定すると、竇瑾は使持節・散騎常侍・都督秦雍二州諸軍事・寧西将軍・長安鎮将に任じられ、毗陵公に封じられた。長安に駐屯すること8年、関中の治安の安定につとめた。_NEWLINE_平城に召還されて、殿中都官尚書となり、そのまま散騎常侍の位を受けた。446年(太平真君7年)、蓋呉の乱に対する討伐に参加して、先駆けて巴西郡の氐・羌の首領たちの説得工作にあたり、数千家を帰順させ、従わない者を処断した。また少数民族の首長の仇天爾ら3000家を五将山で降伏させた。蓋呉の乱が平定されると、竇瑾は再び長安に駐屯した。後に平城に召還されて、再び殿中都官となり、典左右執法をつとめた。_NEWLINE_451年(太平真君12年)、皇太子拓跋晃が死去すると、竇瑾は司徒を兼ね、景穆の諡号を奉った。鎮南将軍・冀州刺史として出向し、清廉で質実倹約な統治で知られた。後に平城に召還されて、内都大官となった。454年(興光元年)、竇瑾の娘婿の鬱林公司馬弥陀に臨涇公主を妻として迎える話が持ち上がると、竇瑾は弥陀に断るよう教唆したが、このときに誹謗呪詛の言があったとして、弥陀とともに処刑された。
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Q60230004
_START_ARTICLE_ 立山学 _START_PARAGRAPH_ 立山 学(たてやま まなぶ、1935年 - 2011年2月24日)は、日本の政治運動家、文筆家。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 熊本県菊池市生まれ。1959年九州大学経済学部卒業、在学中から日本社会党青年部で活動。1960年安保闘争の最中、雑誌『社会主義』(社会主義協会)の編集者となる。社青同(日本社会主義青年同盟)港支部(東京)を組織。浅沼社会党委員長刺殺抗議デモに参加。三池無期限全面スト支援のため各労組をオルグ。1961年三池闘争支援のため「三池を守る会」を組織。医療労働者の人権侵害、労働条件改悪に抗議する闘争支援(十仁・愛育・船員・慶応病院など)。1964年社青同第四回大会で書記長に選出される。1965年反戦青年委員会設立に努める。1967年の社会主義協会分裂に際しては、太田派に属する。1968年社青同第八回大会で委員長に選出され、1969年社青同第九回大会で退陣。以降は執筆活動が中心となる。
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Q11598821
_START_ARTICLE_ 竹内俊一 _START_PARAGRAPH_ 竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - 1976年10月26日)は日本の実業家。三菱石油(現JXTGホールディングス)社長・会長や、石油連盟会長を務めた。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 大阪府出身。津山中学校(現岡山県立津山高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三菱合資会社入社。三菱商事を経て、1941年から三菱石油。_NEWLINE_1946年三菱石油社長、1936年同会長。社長就任後、各ポストの職名を変え、責任を明確化。方針決定は、合議制で行われるように組織改編を行った。_NEWLINE_石油連盟会長や、日経連常任理事、東京ロータリークラブ会長等も歴任。_NEWLINE_趣味はゴルフと歌舞伎鑑賞。
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Q11598829
_START_ARTICLE_ 竹内優美子 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 2001年頃にデビューしたAV女優で、幼い顔付きや体型から主にロリータ系や女子高生ものの作品に多く出演した。_NEWLINE_現在は引退している。
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Q11599265
_START_ARTICLE_ 竹槍事件 _START_PARAGRAPH_ 竹槍事件(たけやりじけん)とは、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)2月23日付け『毎日新聞』第一面に掲載された戦局解説記事が原因でおきた言論弾圧事件。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 問題となった戦局解説記事は、毎日新聞社政経部および黒潮会(海軍省記者クラブ)主任記者である海軍御用記者の新名丈夫記者が執筆した記事(見出し作成は山本光春)で、「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た」という大見出しの下でまず「眦決して見よ 敵の鋏状侵寇」として南方における防衛線の窮状を解説し続いて「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」として海軍航空力を増強すべきだと説いている(#『毎日新聞』(1944年2月23日付)の記事参照)。これは海軍航空力増強を渇望する海軍当局からは大いに歓迎されたが、時の東條英機陸相兼首相は怒り、毎日新聞は松村秀逸大本営報道部長から掲載紙の発禁および編集責任者と筆者の処分を命じられた。毎日新聞社は編集責任者は処分したものの、筆者である新名記者の処分は行わなかったところ、その後ほどなく新名記者が37歳にして召集された。 _START_SECTION_ 背景 _START_PARAGRAPH_ この事件の背景には、海軍が海洋航空力を増強するため陸軍より多くの航空機用資材(ジェラルミンなど)を求めても、陸軍はこれに応じようとはしないで、半々にせよとして譲らない、海軍の飛行機工場の技師を召集してしまうなど、航空機や軍需物資の調達配分をめぐる陸軍と海軍の間の深刻な対立があった。しかし陸軍は1942年末の時点で(海軍航空の大消耗に驚嘆した)海軍の要求に答えるかたちで本来は海軍航空担当地域である筈のソロモン諸島、ニューギニア方面に陸軍航空を大規模派兵しており、特に長期にわたるニューギニアの戦い(本来の海軍航空は戦力再編ため撤退し陸軍航空のみが同方面を担当)にて、戦線非拡大派であった陸軍・陸軍航空は不本意な大消耗を強いられ陸軍航空は大きな損害を被っていることに留意する必要がある(1944年4月のホーランジア陥落をもって第4航空軍各部隊は事実上壊滅)。_NEWLINE_1943年末には海軍の源田実と陸軍の瀬島龍三は共同研究による大本営陸海軍部の合一に関する研究案を提出し、陸海の統帥部一体化、航空兵力統合などを提案したが、1944年2月21日に軍令部総長を兼任した海軍大臣嶋田繁太郎により即刻研究中止となった。_NEWLINE_東條はこのころ、戦争遂行のためには国務と統帥の一致が必要と考え、トラック島空襲をきっかけにして首相・陸相と参謀総長の兼務に踏み切ったところであった。これは統帥権に抵触するおそれがあるとして「東條幕府」と揶揄され様々な問題や軋轢を生んでいた。秦郁彦は、東條は政府批判や和平運動は「国賊的行動」とみなし、また東條批判は「陛下のご信任によって首相の任にある者に対する批判や中傷はすなわち陛下に対する中傷」として許さず、憲兵を使って言論を取り締まり、批判者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをしたと見ている。1942年9月12日から1944年1月29日にかけては戦時中最大の言論弾圧事件である横浜事件が発生した。_NEWLINE_東條が出した『非常時宣言』の中の「本土決戦」によると、「一億玉砕」の覚悟を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施した。_NEWLINE_そのような状況下で、深刻な航空機不足に直面していた海軍では、航空機用資材の供給についての要求が通らなかったことで陸軍および東條内閣への不満が強まっていた。そこで毎日新聞の黒潮会(海軍省記者クラブ)担当キャップだった新名は海軍に同調し、海軍省との紳士協定(「海軍省担当キャップが執筆した記事については事前検閲は不要」)を利用してキャンペーン記事を書くことを進言した。_NEWLINE_新名は「日本の破局が目前に迫っているのに、国民は陸海軍の酷い相克を知りません。今こそ言論機関が立ち上がるほかありません」と上司の吉岡文六編集局長に上告書を出した。 _START_SECTION_ 新名の「懲罰召集」 _START_PARAGRAPH_ 毎日新聞は責任者を処分したが、新名は退社させず、逆に編集局長が賞を与えるなどした。記事執筆から8日後、新名に召集令状が届く。新名本人も周囲も、この「指名召集」を東條首相による「懲罰召集」だと受け止めた。新名は郷里、高松に行き、二等兵として丸亀の重機関銃中隊(第11師団歩兵第12連隊)に1人で入営した。中央からは、激戦地となることが予想される硫黄島の「球」部隊へ転属させるよう指令が届いていた。(ただし、「球」の通称号を持つ部隊は硫黄島ではなく沖縄に配置された第32軍である)。これに対し、新名が黒潮会主任記者という御用記者であり、軍需物資の海軍配当割増という海軍の要求を代弁させた結果の事件であったことから海軍が召集に抗議した。新名は、海軍の庇護に加え、日中戦争当時に善通寺師団の従軍記者をしていたこともあって、中隊内で特別待遇を受けつつ3か月で召集解除となった。その際、中隊の陸軍将校から「近いうちに再召集の命が下るだろうから、内地にいないほうがよい」と忠告されている。_NEWLINE_その後、陸軍が再召集しようとしたが、その前に海軍が新名を海軍報道班員として外地、フィリピンに送っていたため、再召集を逃れている。_NEWLINE_新名が徴兵検査を受けたのは大正時代のことで、それまでその世代は1人も召集されていなかった。そのため、海軍は「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍を批判した。それに対し陸軍は、新名と同世代で大正時代に徴兵検査を受けた人間を250人召集し、歩兵第12連隊に入営させて辻褄を合わせた。その30代後半の老兵達は、全員が硫黄島の戦いで玉砕・戦死した(ただし歩兵第12連隊は硫黄島に展開していない)。 _START_SECTION_ 海軍側の反応 _START_PARAGRAPH_ 当時の海軍報道部長であった栗原悦蔵少将は、「もう太平洋の東の制空権はほとんど失ってしまったと」「海軍としては国民全体に知らせたいと思って、私もずいぶんその黒潮会にもお願いいたしましたけれども、なかなかそれを書く人がない、そこを大胆に新名さんが書いてくださいましたので、われわれとしては、たいへん喜んで絶賛したわけですね」と証言している。
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Q456193
_START_ARTICLE_ 笛木優子 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ デビュー前には東京パフォーマンスドールに研修生として在籍。2000年に『天気予報の恋人』でドラマ初出演、2001年『ホタル』で映画デビュー。同年『新・雪国』で主演した。_NEWLINE_2001年11月、韓国へ居を移し、芸能活動を開始。女優としてテレビ、映画などに出演。_NEWLINE_2006年、オスカープロモーションに所属。再び日本を拠点に活動することになり2月23日会見を行った。ドラマ『アテンションプリーズ』の出演を機に日本での活動を再開した。_NEWLINE_2009年、韓国の大作ドラマ『IRIS』に出演。2010年、韓国SBSの週末連続ドラマ『美しき人生』【韓国タイトル「인생은 아름다워(人生は美しい)」】に出演。韓国での活動も継続的に行っていく姿勢を明らかにした。_NEWLINE_2018年6月29日、1歳年上の一般男性と結婚したことを発表。
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Q40037299
_START_ARTICLE_ 笠間靖 _START_PARAGRAPH_ 笠間 靖(かさま やすし、1867年10月19日(慶応3年9月22日)- 1948年(昭和23年)1月25日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 武蔵国比企郡小川村(現:埼玉県比企郡小川町)で生まれる。東京高等商業学校予科を経て明治学院を卒業した。_NEWLINE_1896年、自由党に所属し埼玉県会議員に当選。その後、比企郡会議員、同参事会員、埼玉農工銀行設立委員、同専務取締役を務めた。_NEWLINE_1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。_NEWLINE_その後、上武鉄道(秩父鉄道)、小川銀行、熊谷銀行、秩父銀行などの設立に参画。晩年は砕石工場経営の傍ら小川町会議員、学務委員、消防組役員などを務めた。
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Q4357024
_START_ARTICLE_ 第一勧業銀行 _START_SECTION_ 合併 _START_PARAGRAPH_ 1971年、第一銀行(国内資金量順位6位)とかつての特殊銀行だった日本勧業銀行(同8位、勧銀)が合併し、総資産では富士銀行を抜いて国内第一位の都市銀行として誕生した。都市銀行同士の合併は第二次世界大戦後初であった。この合併には神戸銀行が加わる計画もあったが、同行は離脱、翌々年に太陽銀行と合併し太陽神戸銀行が発足する運びとなる。_NEWLINE_第一・勧銀はこの合併について「第一の店舗は東京圏中心で、融資先には重化学工業が多い。一方、勧銀の店舗は地方部にも分散しており、融資先には中小製造業及び流通・運輸・小売業が多い。このため補完効果が高いうえ、互いに中位行でかつ非財閥系であり、対等合併が可能である」とその意義を説明した。特に第一側には財閥系銀行との合併にアレルギーを示す人間が多く(詳細は後述)、勧銀が非財閥系であることは合併相手の選定において極めて重要な要素だった。_NEWLINE_大蔵省は、「規模の利益を生かし、経営基盤の強化を図り、さらに国民経済の要請に応えることは、金融効率の趣旨にかなうもの」とこれを評価した。 _START_SECTION_ 経営・人事 _START_PARAGRAPH_ 存続会社は勧銀だが、統一金融機関コードは第一銀行の0001を使用、看板には赤地に白のハートのマークを使い「ハートの銀行」と称していた。勧銀の流れを受けて宝くじを取り扱い、その関係から全都道府県に支店を有していた。当初の本店は現在の丸の内センタービルの位置に所在した旧第一銀行本店に置かれたが、1981年に千代田区内幸町の旧日本勧業銀行本店跡に本店ビル(現:みずほ銀行内幸町本部ビル)を新築し、移転した。_NEWLINE_旧第一銀行は第二次大戦中に三井銀行と合併して帝国銀行となったものの、両行の業務・企業文化の違いから再分裂したという苦い経験を持っていた。このため、勧銀との合併以前に浮上した三菱銀行との統合計画は途上で白紙撤回され、非財閥系である勧銀との合併後もいわゆる「たすきがけ人事」や頭取の「順送り(第一・勧銀交互に選出)」が行われ、人事部も旧第一・旧勧銀で別々に置かれた。しかし、こういった人事は旧第一(D)・旧勧銀出身者(K)の対立を生んでしまって両者の融合が進まず、その収益性は富士・住友・三和・三菱などの他の上位都銀に比べると低いものであった。_NEWLINE_一方、一勧以降の東京三菱銀行まで5件の都市銀行同士の合併と比較すると、いずれも合併コスト増大が資金調達コストの低減を上回っているのに対し、一勧は唯一コスト削減に成功しており、合併が効果的に働いていることがわかる。また、合併から20年を経た1991年3月期決算では、業務純益で都市銀行首位となったこともある。佐高信はバブル崩壊以降、都市銀行の不良債権問題に際し、「第一勧銀の不良債権比率が低いのは、旧行出身者による互いのチェック・アンド・バランスが働いているため」と分析しており、合併の評価は一様ではない。 _START_SECTION_ 総会屋利益供与事件 _START_PARAGRAPH_ 1997年(平成9年)には、総会屋・小池隆一へ460億円にのぼる利益供与事件で、第一勧業銀行本店を東京地方検察庁特別捜査部に家宅捜索された。_NEWLINE_近藤克彦頭取は、1997年(平成9年)5月23日に「(総会屋側に)多額の融資を行った最大の要因は、(歴代最高幹部が親しかった)元出版社社長の依頼を断れなかったことで、社長の死後もその呪縛が解けず、関係を断ち切れなかった…」と記者会見で述べ退任、次期頭取と紹介された副頭取藤田一郎の「以前から不正融資を知っていた」と記者会見で告白し、一銀幹部も驚く爆弾発言となった。_NEWLINE_頭取経験者の11人に及ぶ逮捕や、宮崎邦次元会長の自殺という事態を引き起こし、更に調べ上げると、第一勧業銀行が1985年(昭和60年)から1996年(平成8年)まで、総会屋に提供した総額460億円にのぼる資金は、四大証券会社(山一證券・野村證券・日興証券・大和証券)を揺る資金元となり、銀行・証券界と監督当局との腐りきった関係を、白日の下に晒した大蔵省接待汚職事件、遂には大蔵省解体と帰結し、未曾有の経済疑獄となって、日本国民は信じがたい事実に、金融業界の断末魔を見ることになった。_NEWLINE_この時も、逮捕された元頭取の中には「あれは旧第一銀行の案件で、自分は旧日本勧業銀行出身だから関係ない」などと公判で無責任な証言をした者がおり、いかに旧第一・勧業の関係が悪いものであったかを露呈してしまう結果になった。この不祥事以降、宝くじの広告から「受託 第一勧業銀行」の文字が消え、みずほ銀行となった2018年現在も、広告には表示されていない。_NEWLINE_第一勧業銀行総会屋利益供与事件をきっかけに、この年出版された高杉良による経済小説『金融腐蝕列島』が耳目を集め、後年には事件を題材に続編が書かれ、「金融腐蝕列島 呪縛」(1999年)として映画化もされた。タイトルは、近藤克彦頭取の「呪縛が解けなかった。」と、記者会見で述べた事に由来している。 _START_SECTION_ ロゴマーク・コーポレートカラー _START_PARAGRAPH_ 1971年の合併成立時に制定したロゴマーク(ハートマーク及び同行の略称“DKB”を○で囲んだもの)やロゴタイプ、コーポレートカラーは、2002年に同行がみずほ銀に商号変更されるまで一切変更する事なく使用し続けた。同年3月時点で1970年代に制定したロゴマークやロゴタイプ、コーポレートカラーの全てを継続使用していたのは、都銀では第一勧銀が唯一のケースであった。 _START_SECTION_ マスコットキャラクター _START_PARAGRAPH_ 1971年の合併成立時から、同行独自のキャラクターを設定し広告媒体などに使用していたが、1992年新たに、サンリオのおさるのもんきちを採用し、広告媒体や販促品、通帳デザインなどに使用していた。その後、1998年にはサンリオのハローキティにキャラクターを変更し、みずほ銀成立時まで広告媒体や販促品、通帳デザインなどに使用していた。また、アートデザイン通帳として1990年代後半、タレントのジミー大西デザインによる通帳を発行していた時期がある。 _START_SECTION_ イメージキャラクター _START_PARAGRAPH_ 1990年9月、イメージキャラクターとして小泉今日子を起用。同行のポスターや新聞広告のほか、1991年1月から銀行のテレビCMが解禁された際には小泉が出演するCMの出稿が開始され、3年間イメージキャラクターを務めた。1995年1月からは新たに西田ひかるを起用した。
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Q16142814
_START_ARTICLE_ 第八十八国立銀行 _START_PARAGRAPH_ 第八十八国立銀行(だいはちじゅうはちこくりつぎんこう)は、明治期に岩手県一関で設立された銀行。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1878年(明治11年)に、田村家一関藩士族らの金禄公債証書を元に設立。創業時の資本金は50万円。
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Q4600221
_START_ARTICLE_ 第14回日本女子サッカーリーグ _START_PARAGRAPH_ 第14回日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)は、2002年7月から12月まで開催された。東日本リーグには新たにASエルフェン狭山FCが加入し11チームとなったが、ワールドカップ韓国・日本大会が開催された関係もあり、一次リーグはこの回に限り1回戦総当たりとなっている。 _START_SECTION_ 成績 _START_PARAGRAPH_ ○:勝利 △:引き分け ●:敗戦
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Q11600512
_START_ARTICLE_ 第204飛行隊 (航空自衛隊) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1964年(昭和39年)12月1日、航空自衛隊4番目のF-104J飛行隊として新田原基地第5航空団隷下にて発足。自衛隊法84条に基づく対領空侵犯措置任務と、運用機種であるF-104の機種転換操縦課程(操縦者教育)の両方を任務とした。_NEWLINE_1985年(昭和60年)には航空自衛隊3番目のF-15J飛行隊として部隊改編を行うこととなる。新田原にてF-104の運用を終了した後、百里基地の第7航空団隷下でF-15部隊として再編成。約24年間の長きに渡り首都圏防空を担った。_NEWLINE_平成17年度中期防に基づき、2008年(平成20年)末に沖縄への移駐が決定。翌2009年(平成21年)1月に那覇基地への部隊移駐を開始し第83航空隊隷下へ編入。3月には第302飛行隊から任務引継ぎを完了し、日本最南端のイーグル飛行隊として任務を再開した。_NEWLINE_部隊マークは白頭鷲の横顔(イーグルヘッド)を描いたもので、「Eagle of Eagles(最強のイーグル飛行隊)」という意味を込めたとされる。八つの冠羽と下部三つの金冠羽で「第83航空隊」を表すようデザインされている。新田原基地に所属していた頃は、青と黄色淵で第五航空団共通の「Ⅴ」マークをかたどったデザインであった。部隊章は大きく羽を広げた白頭鷲の上を、F-15がコントレイルを曳きながら沖縄本島を周回しているデザイン。_NEWLINE_また、同隊はミスティックイーグルと呼ばれる北欧神話に登場するワルキューレをノーズアートとして描いていた事でも知られている。隊所属の現役整備員が考案し、後に著名漫画家やイラストレーターも制作に参加した。塗装は戦技競技会の出場機に対して行われ、96年以降はシリーズ化された。毎年進化する美しいデザインは関係者の注目を集めたが、2003年度の競技会を最後に描かれていない。
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Q11601044
_START_ARTICLE_ 第39回ブルーリボン賞 (鉄道) _START_PARAGRAPH_ 第39回ブルーリボン賞(だい39かいぶるーりぼんしょう)は、1996年に鉄道友の会が選定したブルーリボン賞である。本稿では、第36回ローレル賞(だい36かいろーれるしょう)についても併せて記す。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 日本国内で使用する鉄道・軌道車両のうち、1995年1月1日から12月31日までの間に日本国内で営業運転に就いた新形式車両またはそれとみなせる車両で、候補車両決定の時点で現に営業をしていることを概ねの要件とする選定候補車両28車種のなかから、ブルーリボン賞1形式、ローレル賞2形式が選定された。
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Q2816887
_START_ARTICLE_ 第45回全米映画批評家協会賞 _START_PARAGRAPH_ 第45回全米映画批評家協会賞は、全米映画批評家協会が2010年の映画に贈る賞で、2011年1月8日に発表された。
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Q11602480
_START_ARTICLE_ 笹下釜利谷道路 _START_SECTION_ 利用状況 _START_PARAGRAPH_ 横浜市金沢区・磯子区西部の住宅地から上大岡方面へ抜ける道路なので、通勤利用者が多い。栗木交差点以北はほぼ2車線である上、バスの本数も多いため車の通過状態が悪い。また、神奈川県道22号横浜伊勢原線と併せて、国道16号のバイパスとしても使えるので、国道渋滞時には頻繁に利用される。
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Q247906
_START_ARTICLE_ 等差×等比数列 _START_SECTION_ 一般項の様子 _START_PARAGRAPH_ 初項 a, 公差 d の算術数列 (青) と初項 b, 公比 r の幾何数列 (緑) を合成して得た算術幾何数列の最初のほうの項は_NEWLINE_ のようになっている。_NEWLINE_簡単のため、本項ではこれ以降 b = 1 と仮定して話を進める。 _START_SECTION_ 例 _START_PARAGRAPH_ 例えば数列 _NEWLINE_ は d = b = 1, a = 0, r = 1/2 の定める算術幾何数列である。 _START_SECTION_ 有限和 _START_PARAGRAPH_ 算術幾何数列の初めの n 項からなる第 n-部分和_NEWLINE_ は閉じた形の式 _NEWLINE_ で表すことができる。 _START_SECTION_ 導出 _START_PARAGRAPH_ 求める和_NEWLINE_ に公比 r を掛けて _NEWLINE_ としてから、辺々引くことにより_NEWLINE_ を得る(最後の行、真ん中の項は幾何級数の公式を用いた)。最後に、両辺を (1 − r) で割れば所期の式を得る。 _START_SECTION_ 例: 期待値の計算 _START_PARAGRAPH_ d = b = 1, a = 0, r = 1/2 で定まる算術幾何級数 _NEWLINE_ は収束して S = 2 である。_NEWLINE_この数列はコイントスにおいて「テイル」を得るまでの回数の期待値に対応している。k-回目のトスで初めてテイルを得る確率 Tₖ は、_NEWLINE_で与えられる。したがってトス回数の期待値は_NEWLINE_ である。
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Q11604833
_START_ARTICLE_ 糸満 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 糸満市中心部の旧中心市街地。照屋・兼城・真栄里・潮崎町・国吉・西川町と隣接する。西川町分離前は西崎にも隣接していた。_NEWLINE_かつて存在した公共施設の多くは埋立地に移転し、現在は公設市場や銀行の支店を残すのみとなったが、郵便局は旧敷地内に「糸満新島郵便局」として存続しているほか、警察署も旧敷地に近い糸満ロータリーに交番を設置している。それでも字糸満内を通る沖縄県道256号豊見城糸満線や沖縄県道77号糸満与那原線の幹線道路は迂回する道路はあっても、道幅がそれほど大きくないため糸満ロータリー付近は県道256号を中心に渋滞する。そのため那覇市から市南部の南部戦跡に向かう観光バスは国道を避けて内陸の沖縄県道7号奥武山米須線を通る。また渋滞解消のため沖縄西海岸道路糸満道路が開通したほか、国道や県道の拡幅、字糸満内の市街地を迂回する大型車通行可能な道路が建設されている。_NEWLINE_このため、糸満自体はかつてに比べ陰りが見えつつあるが、周辺の埋立地が発展しているためその分助けられている面もある。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ かつては兼城間切糸満村として同間切の一部だったが、この一帯は海人(うみんちゅ)の町として漁業が盛んであったため、1908年4月の島嶼町村制施行時に兼城村から分立し、糸満町として唯一町制を敷いた(当時の沖縄県は現在の那覇市の一部にあたる県都の那覇区と首里区、そして糸満町以外は村だった)。その後、港を中心に沖縄本島南部の中心として発展していった。また1923年には沖縄県営鉄道糸満線が開通し、町内には終着駅となる糸満駅が糸満小学校の近くに設置された。しかし鉄道は沖縄戦で破壊され、糸満駅の跡地には糸満中学校が建てられた。_NEWLINE_1961年10月1日に旧糸満町・兼城村・高嶺村・三和村と合併し新糸満町となり、旧糸満町は糸満町字糸満となった。そして1971年12月1日には市に昇格、糸満市となった。1町3村合併後は糸満町、そして糸満市の政治・経済の中心地としてさらに発展し、市役所をはじめ警察署、郵便局、消防署、銀行などが字糸満内に置かれていた。_NEWLINE_しかしもともと住宅が密集し過密状態であることと、市全体の人口増加で公共施設が老朽・狭隘化したため、復帰前に周辺の西側に埋め立てを行いに当地域内に編入した後、復帰後には漁港拡充・工場誘致も含めさらに北西側に埋立地を建設した。そのため主な公共施設は1990年代までにすべて埋立地に移転した。また市制施行時に漁港西側の埋立地に移転した市庁舎も老朽化と国道331号バイパス建設のため、2002年に南側に埋め立てた潮崎町に移転した。現在は公設市場や銀行の支店を残すのみとなったが、郵便局は旧敷地内に「糸満新島郵便局」として存続しているほか、警察署も旧敷地に近い糸満ロータリーに交番を設置している。
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Q5357328
_START_ARTICLE_ 紀伊市木駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 単式ホーム1面1線を有する地上駅であり、列車の行き違いはできない。開業当初からの駅舎が残っていたが、2016年(平成28年)に解体され、待合室だけの簡易型駅舎に建て替えられた。熊野市駅管理の無人駅。
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Q11605027
_START_ARTICLE_ 紀尾井坂 _START_PARAGRAPH_ 紀尾井坂(きおいざか)は、東京都千代田区にある坂である。清水谷(清水谷公園)から西に上って喰違見附(くいちがいみつけ)に至る全長200mほどの区間で、「清水坂」とも呼ばれる。 _START_SECTION_ 由来 _START_PARAGRAPH_ 江戸時代における正式名称は「清水坂」とよばれていた。_NEWLINE_当時周辺一帯には大名の江戸藩邸が多くあり、清水坂の南側に紀州徳川家(現在は清水谷公園やグランドプリンスホテル赤坂)、北側には尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷が角を接していた。江戸の住人たちは、要となる三家があった坂道であるところから、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家の「尾」、井伊家の「井」のそれぞれ一字ずつを取って「紀尾井坂」とよぶようになる。そして元来の「清水坂」の名称は使われなくなり、「紀尾井坂」の名称はのちに一般に広まっていったものである。_NEWLINE_周辺の紀尾井町という町名もこの坂に由来しており、明治維新後に新しい町名を名付けるときに紀尾井坂の愛称から決められたものである。 また、これらの大名の城下町だった和歌山・名古屋・彦根の3都市をまとめて「紀尾井」と呼ぶこともある。 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 1878年(明治11年)5月14日に内務卿大久保利通が旧加賀藩士島田一郎らに暗殺された。紀尾井坂は、この事件が起こった「紀尾井坂の変」のあった場所としてもよく知られている。近くの清水谷公園(大久保邸跡)には「贈右大臣大久保公哀悼碑」(1888年建立)がある。_NEWLINE_紀尾井坂から南に清水谷公園へむかう紀尾井町通りは、都内ではめずらしい八重桜の並木である。 坂の下は清水谷とよばれる谷があり、紀尾井坂は清水谷坂とも接しており、紀尾井坂を下って東に進むと清水谷坂になる。古くは紀尾井坂を「清水谷坂」あるいは「清水坂」と呼んでいた。_NEWLINE_坂上の食違見附は江戸の外堀の渡り道が防衛上の理由でジグザグに造られたことから名付けられた。1872年に木戸は取り壊されたが土塁が残っている。1874年にはここで岩倉具視が襲われる事件が起きた(喰違の変)。食違見附の先は紀伊国坂 (港区)(外堀通り)に通じる。
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Q11605190
_START_ARTICLE_ 紅児会 _START_PARAGRAPH_ 紅児会(こうじかい)とは、明治期に結成された大和絵系日本画家の研究団体である。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1898年(明治31年)頃、小堀鞆音門下の安田靫彦、磯田長秋、小山栄達らが結成した紫紅会に、1900年(明治33年)松本楓湖門下の今村紫紅が加わり名前を紅児会に改め発足した。_NEWLINE_1902年(明治35年)7月に東京の日本橋常盤木倶楽部で第1回展を開く。_NEWLINE_その後、小林古径、前田青邨、速水御舟(当時は禾湖の号を使用)等、新鋭画家が次々と入会し、主に歴史画を中心とした意欲的な研究活動と作品の発表を続ける。その活動は画壇に新風を送り込むと共に、大きな注目を受けた。_NEWLINE_1913年(大正2年)8月、安田靫彦の発議により第19回展を最後に盛況のまま解散した。_NEWLINE_解散後、会員の多くは再興された日本美術院に参加し、中心画家として活躍した。
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Q11605974
_START_ARTICLE_ 細川義季 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 足利氏3代当主・義氏が三河国の守護になると、兄の仁木実国らと三河額田郡細川郷に住み、細川次郎と名乗った。彼の子孫が、室町幕府の三管領の一で、江戸時代、熊本藩の祖となった細川氏であるが、当時は三河の御家人の一人にすぎなかった。_NEWLINE_子には系図上義俊他数名が確認されるが、実子は義俊のみでその他は孫である義俊の子たちや、曾孫の頼貞などを養子として迎えたとされている。義俊の子である孫の俊氏(頼貞の父)が義季の後継となった。
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Q997369
_START_ARTICLE_ 結城藩 _START_SECTION_ 沿革 _START_PARAGRAPH_ 結城の地は鎌倉時代以来、「関東八屋形」の一つに数えられた名門結城氏が本拠としてきた。近世大名領化したのは、徳川家康の次男秀康が結城家の養子に入り、天正19年(1591年)に結城城を相続して以降である。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、秀康は越前北ノ庄に転封となった。結城秀康の支配は江戸幕府の成立以前のことであり、これを藩とみなさない見方もある。_NEWLINE_結城秀康の転封後、結城城は破却され、以後しばらく大名領が当地に置かれることはなかった。一説には、結城一帯は当時全国屈指の養蚕地域であり、幕府がその利益を独占しようと図ったからだと言われている。しかし元禄年間には他の幕府直轄領にも結城の養蚕技術が広められて、幕府が直接結城を保持する必要性が薄れていった。_NEWLINE_結城に再び大名が配されたのは、元禄13年(1700年)に水野勝長が能登国西谷藩より転封されたときである。勝長は改易された備後福山藩主水野勝岑の父・勝種の又従弟にあたる。福山藩改易後、藩祖であり家康の従弟に当たる宗家当主日向守勝成の功績が考慮され、勝長に家督相続が許され、元禄11年(1698年)に能登国内に1万石を与えられていた。その後、数度の加増の後、元禄16年(1703年)に結城城の再建を許され、以降城主1万8000石の帝鑑間詰め譜代大名として、幕末まで続くことになる。_NEWLINE_幕末には、藩主勝知と隠居の勝進が佐幕と勤王に分かれて対立し、互いに結城城を奪い合う争奪戦を起こしている。 _START_SECTION_ 居城 _START_PARAGRAPH_ 結城城は現在、遺構として空堀と土塁の跡が残る。城跡の東側には藩祖勝成を祀る聡敏社がある。また福山市の福山城址北に鎮座する福山八幡宮境内にも同じく聡敏神社として祭られている。
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Q1154565
_START_ARTICLE_ 結城郡 _START_SECTION_ 古代 _START_PARAGRAPH_ 『古語拾遺』によれば、神武東征において橿原宮を造営した天富命が、阿波国に続いて房総を開拓し、穀の木の生育した当地は「結城郡」と言われた。古代より、ふさ(麻)やゆう(コウゾ属の繊維)の産地として「総の国」のゆうきと呼ばれ、令制国の下総国に属した。
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Q11606712
_START_ARTICLE_ 結物 _START_PARAGRAPH_ 結物(ゆいもの)とは、短冊状の則板を円筒状に並べて、竹などで作ったたがで締めて、底板(場合によっては更に鏡蓋)を取り付けて作った木製品のこと。刳物・曲物の流れを汲み、桶・樽などに用いられた。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 鎌倉時代末期に生まれ、室町時代に酒造業などの醸造業の発展と共に急速に広まった。結物によって作られた桶や樽を結桶(ゆいおけ)・結樽(ゆいたる)と呼ぶ場合もある。従来の曲物の桶や樽に比較して強度・密閉性・耐久性に優れ、酒や醤油・油・味噌・酢・塩など液体や水に溶けやすい物資を入れて輸送するのに都合が良かった。また、風呂や井戸、台所など水が大量に置かれる場所(井戸は井戸側・釣瓶・手桶、風呂は風呂桶・たらい、台所は水桶・洗桶・漬物桶・飯櫃・寿司桶などが代表される)に用いられ、産業では漆・砥粉・堆肥など輸送が困難なものにも用いられた。_NEWLINE_材料は杉・檜・サワラなどを用いる。側板の木取りによって使用方法が分かれ、板目取りは液体の漏れにくい物に、柾目取りは板目の綺麗さからより外的な美観が求められる道具に採用された。醸造用の大桶の中には80年以上経た杉の大木を玉切り・ミカン割りをして板目取りによって作られた直径・高さとも6尺にも及ぶ。桶の側板は榑(くれ)、樽の側板は樽丸と呼ばれている。側板は板を鉈で割って短冊状にして、次に鏟(せん)を用いて断面を下部がやや狭くなる扇形に仕上げることで、たががはまりやすくした。
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Q17239666
_START_ARTICLE_ 絵画芸術論 _START_SECTION_ 内容 _START_PARAGRAPH_ 本作はラファエロ・サンティがバルダッサーレ・カスティリオーネに書いた手紙を引用し、美の追求の普及に影響を及ぼした。
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Q18338914
_START_ARTICLE_ 繁昌神社 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 清和天皇の御代(858年-876年)、藤原繁成の邸宅の庭に功徳池(くどくいけ)という池があった。延喜年間(901年-922年)、安芸国の宮島から市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神を功徳池の中島に勧請したのが繁昌神社の起源である。13世紀前半に成立した『宇治拾遺物語』巻三十五には、長門前司の娘の葬送をめぐる怪異譚として繁昌神社の前身社が登場し、これが文献による繁昌神社の初出である。文明9年(1477年)に作成された『八坂神社文書』の一部にも繁昌神社らしき社の記載があり、応仁の乱から遠くない時期に、繁昌神社が堀などをともなって存在していたことを知ることができる。文禄2年(1593年)の書き上げには「はんちよ町」という記載がある。_NEWLINE_17世紀後半に記された地誌『雍州府志』には、豊臣秀吉が社殿を東山五条の佐女牛八番宮社(若宮八幡宮社)近くに移そうとしたが、祟りがあったとして現在地に戻されたことが記されている。元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)に付随して起こった大火どんどん焼けでは、繁昌神社の社殿も焼失した。祭神としていた弁財天は仏教色が強く、近代の神仏分離の際には市杵嶋姫命を祭神とするようになった。_NEWLINE_江戸時代には真言宗の寺院によって管理され、功徳院と呼ばれていたが、神仏分離の際に現在の神社となった。かつては班女神社(はんにょじんじゃ)と呼ばれていたが、いつしか訛って繁昌神社(はんじょうじんじゃ)と呼ばれるようになったという。18世紀になると周辺が繁昌町と呼ばれるようになり、現在でも下京区繁昌町という地名として残っている。
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Q3315566
_START_ARTICLE_ 美濃路 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 美濃路の原型は古代において東海道から尾張国の国府を経由して美濃国にあった東山道の不破関に出る経路であったと考えられている。当時の正規の東海道は尾張国から伊勢湾を横断して伊勢国に渡ることになっていたが、東国から馬で奈良・京都に向かう場合に馬と一緒に伊勢湾を渡ることができず、近隣の住人に馬を預けてトラブルになることがあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩あるいは馬で西に向かう人はこのルートを用いたとみられている。_NEWLINE_関ヶ原の戦いにおいては、東軍の先鋒である福島正則が起(愛知県一宮市)から美濃へ進軍し、戦いに勝利した徳川家康が凱旋した道で、「吉例街道」とも呼ばれ、将軍上洛時にも使われた。朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中などが、この美濃路を通行した。_NEWLINE_東海道では、宮宿と桑名宿の間に七里の渡しが存在しており、江戸時代は水難事故も起こりやすい難所とされていたため、東西を移動するのに遠回りであっても海路を避けられる美濃路が好まれることがあった。 _START_SECTION_ 朝鮮通信使(10回) _START_PARAGRAPH_ 美濃路では、大垣泊、墨俣または起で休憩、名古屋泊が通例であった。 _START_SECTION_ 琉球王使(11回) _START_PARAGRAPH_ 最初は東海道経由であったが、1714年(正徳4年)以降は、美濃路経由となった。休泊地は一定していなかった。 _START_SECTION_ お茶壺道中(毎年) _START_PARAGRAPH_ 往路は東海道で茶壺が運ばれ、宇治で新茶がつめられて、帰路は中山道を経由するというのが通例だったが、元禄以降、帰路は美濃路経由で東海道を通った。 _START_SECTION_ 象の通行(1729年) _START_PARAGRAPH_ 美濃路での行程は、垂井泊、墨俣休、起泊、稲葉休、清須泊、宮休。 _START_SECTION_ 美濃路の現在の交通 _START_PARAGRAPH_ 東海道本線、東海道新幹線、東名・名神高速道路などは、東京から熱田までは江戸時代の「東海道」に沿って敷かれているが、岐阜・草津間は「中山道」、そして熱田・岐阜間は美濃路に沿って敷かれている。_NEWLINE_これは東西両京を結ぶ鉄道路線が計画された際、初めは中山道を経由して琵琶湖水運を当面の間は用いる案が採用されており、その建設資材を運びこむために愛知県武豊町の港を活用するべく、中山道の加納(岐阜)から名古屋を経由して武豊にいたる路線を敷設したことに起因している。_NEWLINE_東西両京を結ぶ路線は、後に「中山道線」から「東海道線」に計画変更されたが、既に神戸から大阪・京都を経て大津までと、上記の区間を含む長浜から岐阜・名古屋を経て武豊間の鉄道が開業し、大津・長浜間の琵琶湖水運を用いて神戸から武豊までが結ばれていたことから、熱田以西は本来の東海道ではなく、すでに完成していたこれら路線を活用することが決められ、現在の東海道本線が形成された。その後に建設された新幹線も、基本的にはこの美濃路を継承するルートを踏襲している。_NEWLINE_高速道路は当初、中央自動車道として東京から小牧を経て西宮に至る路線が計画されたが、そのうちルートが先行確定していた小牧から西宮までを名神高速道路として開業させ、それに中央自動車道より先に開業した東名高速道路が接続したため、美濃路に沿う現状形態となった。
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Q11609390
_START_ARTICLE_ 美達大和 _START_PARAGRAPH_ 美達 大和(みたつ やまと、1959年 - )は、殺人犯、無期懲役囚、文筆家。_NEWLINE_本名など不詳。2件の殺人事件で無期懲役となり、仮釈放を放棄、終身刑に服している。著書多数。刑務所内部での死刑回避に成功した殺人犯の様子から無期懲役廃止と死刑適用を訴えている。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 在日韓国人1世の貸金業者の父と日本人の母の間に生まれる。父親は1924年に韓国の貧しい農家に生まれ、金を稼ぐために18歳の時に日本の鉱山で働き始め、戦後の混乱期に歓楽街の用心棒、債権回収業から金貸しとなり、裏社会ともつながりもつなど、腕力と負けん気で財を成した人物で、息子の前で債務者の耳を引きちぎるなど血と暴力の人だった。息子に対しても、喧嘩の仕方をはじめ、「一番じゃなければすべてクズだ」「男らしくあれ」「俺の子供なら喧嘩が一番で当然だ」「自分の信念に忠実に」「嘘をつくな」などといった厳しい規範を暴力とともに教え込んだ。美達はこの父親の期待に応え、運転手付きのキャデラックで通っていた小学校時代は「神童」「IQ150の天才児」と呼ばれるほどで生徒会長なども務める優等生だったが、限界を感じた小学生最後の時期に自殺未遂を起こす。優等生である一方、喧嘩も300戦以上経験し、中学では年上の不良たちからも一目置かれる存在となった。10代より「自分にしかなり得ないなにものかになる為に生まれてきた」というロマン・ロランの言葉を胸に生き、高校を中退して飲食チェーンに勤めたのをはじめ、金融・不動産・外車販売などを手掛け、学習教材の営業で年収8000万円を稼いだこともあった。21歳から貸金業を営み、二度の結婚を経験し、やくざの幹部にもなり、筋を通さなかったという理由で二度の殺人事件を起こし、服役した。_NEWLINE_幼少期から本が好きで、刑務所の中の運動会をテーマにした小説を自ら書き出版社に打診したが断られたため、自身の特異な境遇を書いたほうがマーケティング的に勝算があると思い、2009年に自らの半生と人を殺すまでの過程、その後についてを記した『人を殺すとはどういうことか』を刊行。その後数冊のノンフィクションを上梓後、2012年に父親をモデルに書き下ろした小説『夢の国』で小説家デビューを果たす。ペンネームの「美達」は触れるものが全て金に変わるというミダス王から取り、「大和」は日本人を意味する。
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Q11609441
_START_ARTICLE_ 美馬中継局 _START_PARAGRAPH_ 美馬中継局(みまちゅうけいきょく)は、徳島県美馬市の旧美馬郡美馬町域にあるアナログテレビとFM放送の中継局である。
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_START_ARTICLE_ 翔殷路駅 _START_SECTION_ 交通 _START_PARAGRAPH_ バスは28、59、80、102、133、139、405、406、453、522、559、577、726、812、813、868、870、大橋三線、大橋五線で乗れる。
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