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Q38276521 |
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月野ゆりあ
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略歴・人物
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長野県出身。2016年12月、SODクリエイトのレーベル「青春時代」から専属女優としてデビューした、スレンダー体型のロリ系AV女優。趣味は読書、特技は水泳・茶道。_NEWLINE_AV女優を志したのは「自分の変態レベルを上げたい」というのが理由で、自ら応募した。_NEWLINE_2018年9月6日、自身のツイッター上でARMプロモーションを辞しAV活動を引退したと発表。 | 11813455270038122775 |
Q11516306 |
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有原誠治
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経歴
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秋田県出身。Aプロダクションを経て、その後虫プロダクションに籍を移し長く活動していた、現在は退社している。_NEWLINE_全国労働組合総連合(全労連)傘下の労働組合、映像・文化関連産業労働組合(映産労)の委員長も務め、戦争をモチーフとした作品を多く手がけている。 | 3547316748646326934 |
Q11516630 |
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有田麻里
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来歴・人物
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静岡県立清水東高等学校卒業。現代演劇協会附属研究所を経て、劇団雲に入団し、深沢 英子(ふかざわ えいこ)の芸名で俳優活動をスタートする。1975年、演劇集団 円の結成に参加。有田麻里に改名し、舞台を中心にテレビドラマなどでも活躍する。2006年、夫である俳優・平野稔と共に円を退団し、LLC平野企画の創立に参加。_NEWLINE_2009年12月3日、膵臓癌により死去。70歳没。 | 12702654063160792553 |
Q11516680 |
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有賀夏紀
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有賀 夏紀(あるが なつき、女性、1944年7月15日 - )は、日本の歴史学者。埼玉大学名誉教授、元アメリカ学会会長。専門はアメリカ社会史、現代史。東京都出身。_NEWLINE_『AERA』2004年2月2日号の「先生で選ぶ良い大学」メディア発信度の高い文系教員50人リストに掲載された。 | 8392489086286868928 |
Q4790685 |
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有馬口駅
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駅構造
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島式2面4線ホームを持つ地平駅。ホーム有効長は4両。駅舎は下り線側三田寄りにあるほか、上り線側三田寄りにも無人改札口がある。これらの改札と各ホームの間は構内踏切で渡る必要がある。_NEWLINE_無人改札口には券売機がないため、入場時には発行機で「発駅証明証」を取って入場し、構内踏切経由で本駅舎に回って乗車券を購入する。また、構内通行証で駅構内の通り抜けができるようになっている。_NEWLINE_以前は有馬温泉方面と三田方面の重要な乗換駅にもかかわらず発車案内標がなく、自動放送が固定音声のもののみだったが、2008年までに神戸電鉄初のフルカラーLED発車標がホームに設置され、同時に自動放送も詳細化された。また、外国からの有馬温泉への観光客への配慮からか、英語による自動放送も行われている。これは神戸電鉄では初である。
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2006年の事故
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2006年1月22日に、当駅構内において上り回送列車が脱線した。原因不明のまま神戸電鉄は現場保全命令がとかれた直後に運転再開、入線の際に速度を時速15kmにまで減速する措置を取っていたにもかかわらず、2月3日に再び同駅にて下り普通列車が脱線した。2回の事故共に死傷者は無かったが、事態を重く見た国土交通省近畿運輸局は保安監査を行い、それに基づき神戸電鉄に対し具体的な改善計画の提出を含む改善勧告を発した。_NEWLINE_当初原因として当駅構内のレール1箇所における極度の摩耗、1回目の事故車両の車輪転削の不全などが指摘されたが、2007年9月28日の国土交通省航空・鉄道事故調査委員会の報告書では、神戸電鉄のレールを50kgに交換する際に、工事費がかさむなどとして構内に設置されたままとなっていた「大正14年型」と呼ばれる旧式の37kg分岐器が、他のレールより7mm盛り上がっており、その上脱線した車両が車輪転削を終えたばかりで、車輪の摩擦力が増大したことが事故の原因であるとされた。_NEWLINE_勧告直後から神戸電鉄は、当面の処置として当駅構内の37kg分岐器の使用の停止、車輪転削の改善、運転指令者・乗務員に対する指導の徹底を実施。またこれによって三田線は特快速の運転休止などを中心とした暫定ダイヤとなる。さらに改善計画の提出期限日であった2006年3月23日には神戸電鉄線内に残る37kg分岐器の交換・撤去、有馬口駅構内におけるホーム拡幅・曲線緩和のほか、安全投資を年10億円増額するなどの長期的改善策を表明。11月には分岐器の交換が完了し、11月25日始発より事故前のダイヤに戻っている。
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2013年の事故
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2013年5月28日午後8時頃、当駅構内において新開地発道場南口行き普通電車の2両目が脱線した。事故の影響で発生日から同年5月31日まで谷上‐岡場間と有馬口‐有馬温泉間が運休した。脱線箇所の分岐器を撤去し同年6月1日初発より運転を再開したが、新開地方面から有馬温泉への配線が一時的になくなった為、暫定的に運行形態を変更した。 | 10029194372111307092 |
Q11516932 |
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服部敏和
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来歴・人物
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静岡高校では、1年生時の1963年、左翼手として小田義人らと共に夏の甲子園に出場し、2回戦で銚子商業高校に敗退。1965年春の選抜では中堅手として準々決勝まで進出するが、岡山東商業高校(主戦は平松政次)に完封負けを喫する。高校での同期に小田の他、佐藤竹秀がいる。高校卒業後は立教大学に進学し、東京六大学野球リーグでは1年生からレギュラー外野手となる。1966年春季リーグでは、優勝を経験。しかし同大学を2年で中退し、日本楽器(現・ヤマハ)に入社した。_NEWLINE_1968年、ドラフト10位指名で近鉄バファローズに入団。1969年には、ジュニアオールスターゲームに出場した。1970年に一軍に定着し71試合に先発出場、主にチャンスメーカーとして三塁手と外野手をこなす。1973年は外野手に専念、規定打席には届かなかったが、打率.321の好記録を残す。翌年は退団したジム・クォルスに代わり二塁手に回される。1975年のシーズンオフに、永淵洋三、市橋秀彦と共に阪本敏三、八重沢憲一との交換トレードで日本ハムファイターズに移籍。日本ハムでも主に外野手の準レギュラーとして長く活躍、1981年の巨人との日本シリーズ第1戦では、同点の9回裏にを中前打を放ち、代打井上弘昭のサヨナラ安打でホームインを果たす。1982年限りで引退した。 | 1478052383112383819 |
Q5353646 |
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朝倉あき
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略歴
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福岡県朝倉市で生まれ、日出高等学校を卒業。_NEWLINE_2006年第6回東宝シンデレラオーディションにエントリーNo.8で応募して最終選考の一員となり、受賞は逃すが東宝芸能の所属となる。2007年にNHK BS hi『わたしが子どもだったころ「女優・斉藤由貴」』で初めて役者を務め、2008年2月公開の『歓喜の歌』で初めて映画に出演した。_NEWLINE_2010年1月スタートの『とめはねっ! 鈴里高校書道部』(NHK)でテレビドラマ初主演。9月スタートの『てっぱん』で朝の連続テレビ小説に初出演し、瀧本美織が演じるヒロインの親友役を演じた。2011年に渡辺謙がスマートフォンに扮したNTTドコモのCM「上京篇」に出演し、田舎の家族に見送られながら上京し都会での新生活を始める若者を演じて注目を集めた。_NEWLINE_2013年11月公開のスタジオジブリのアニメ映画『かぐや姫の物語』でヒロインのかぐや姫の声に抜擢された。監督した高畑勲は「今の女優さんは受け身の声が多い。でも彼女の声はワガママだから」抜擢したと語っている。_NEWLINE_2014年3月31日付で東宝芸能と契約を終了し、芸能活動を一時休止。これから女優活動を続けるかどうかは考えず、休業中の1年間は事務のアルバイトをしていた。_NEWLINE_2015年に芸能事務所コニイの所属となり、2月に放送されたNHK-FMのラジオドラマ青春アドベンチャー『ニコイナ食堂』で活動を再開した。9月公開の『ハロウィンナイトメア』で実写映画初主演。_NEWLINE_2017年に、主演した『四月の永い夢』が、第39回モスクワ国際映画祭の国際映画批評家連盟賞とロシア映画批評家連盟特別表彰を受賞した。_NEWLINE_2019年4月スタートの『歌舞伎町弁護人 凜花』(BSテレビ東京)で民放連続ドラマ初主演。_NEWLINE_2019年7月から上演の舞台『フローズン・ビーチ』への出演が予定されていたが、体調不良のため降板。 | 13171843061707419435 |
Q6527201 |
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朝倉在重 (石見守)
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朝倉 在重(あさくら ありしげ、1583年(天正11年) - 1651年1月10日(慶安3年11月19日))は、江戸時代の旗本。父は同名の朝倉在重 (河内守)、兄は徳川忠長の御附家老だった朝倉宣正。この宣正の子であるとする説もある。通称は仁左衛門、名乗りは石見守、朝倉 石見守(あさくら いわみのかみ)として知られる。_NEWLINE_子女に朝倉重成、牧野儀成室、兼松正尾室、塚原十左衛門室、朝倉重興(重朝)、朝倉重利、松平忠行室、大生市左衛門室、岡田庄九郎室、藤波伊兵衛室がいる。
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来歴
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はじめ徳川秀忠に仕えて書院番士となる。のち膳番に転じ、大坂夏の陣では親族の牧野忠成に従い出陣、寛永2年(1625年)7月、500石に加増されて目付に昇進した。寛永7年(1630年)には使番で1000石と順調に昇進を重ね、寛永9年(1632年)に加藤忠広が改易された際には八代城受け渡しの大役を任され、新たに熊本藩主となった細川忠利の家臣・有吉立道にこれを無事引き渡している。_NEWLINE_寛永10年(1633年)には2000石に加増され、寛永16年(1639年)に江戸北町奉行に任じられた。寛永18年(1641年)には、本来は3000石以上の大身旗本にのみ許される守名乗りを特に許されて石見守を称す。寛永19年(1642年)には幕閣の一員として、駿河田中藩主松平忠晴に対し飢饉対策を講じるよう命じた沙汰書に老中・松平信綱らと連署している。_NEWLINE_慶安3年(1650年)11月19日、在職のまま死去、享年68。墓所は四谷の全勝寺。法名は要玄院的翁松瑞。家督は嫡男の重成が継いだ。 | 11981211582028417046 |
Q18458437 |
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朝陽丸 (漢方薬)
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朝陽丸(ちょうようがん)は、北京廣大製薬有限公司で製造されている脂肪肝の治療薬。肝臓の肥大による食欲不振、腹部膨満感、疲労、倦怠感の症状を緩和させる働きがある。 主な成分は黄蓍、鹿茸、硫黄、硫酸アルミニウム、大棗、核桃仁、大黄、青皮、銅緑。 | 7785242276918106483 |
Q18097 |
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朝鮮
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「朝鮮」の由来
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この地名はすでに紀元前4世紀頃からあったことが確認され、『史記』や『管子』に「朝鮮」という地名に関する記述がある。その由来について、史記の注釈書『史記集解』の朝鮮列傳に呼応した部位には張晏の説で「朝鮮には湿水、洌水、汕水が有り、3つの川は洌水として合わさる。恐らくここから楽浪朝鮮の名前を取ったと思う。」とあり、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の官選地理書『東国輿地勝覧』によると中国人が朝光鮮麗の地、あるいは、産業に乏しかったことから朝貢鮮少の地(皇帝への貢物が少ない国)と呼んだためといわれ、さらに、東方(=朝)の鮮卑に由来すると言う説もあり、結論が出ていない。_NEWLINE_13世紀に成立した朝鮮の史書『三国遺事』には、伝説的な人物である檀君が国を建てる際に「朝鮮」と号したという話があるが、三韓時代の百済、新羅、高句麗、日本の史書、中国の史書にはこのような記載はなく、後漢時代にはこの伝説は生まれていなかったと見られている。
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古代における朝鮮の場所
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かつての朝鮮は半島全体を示す地域名称ではなかったが、その地域は史書によって相違点もある。_NEWLINE_『漢書』巻28下には、「箕子が朝鮮に赴いて民を教化した」という記述がある。箕子はいわゆる王朝としての箕子朝鮮の祖である。前漢代に設置された楽浪郡の都は朝鮮県と呼ばれており、かなり狭い範囲のものであった。現在では発掘調査の結果、「朝鮮県」は現在の平壌付近を指すことが定説となっている。『三国志』が引く『魏略』には、箕子が統治した「朝鮮」は、燕の東、遼東、遼西を含めた地域であると説明されている。『魏書』には、北魏の支配する平州には楽浪郡があり、その下に朝鮮県があったと記述されている。『遼史』では東京遼陽府、現在の遼寧省遼陽市がかつて朝鮮と呼ばれていたという記述があるが、同時にかつて「平壌城」と呼ばれていたという記述もある。
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李氏朝鮮による採用
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高麗を打倒して王位に就いた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」(朝の静けさの国)と「和寧」(平和の国)の二つの候補を準備し、明の洪武帝に選んでもらった。「和寧」は北元の本拠地カラコルムの別名であったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、朝鮮は正式な国号となった。和寧というのは単に李成桂の出身地の名であり、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮の正統性を継承する意味があったためにこちらが本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた。
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「朝鮮/韓」などの相違
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日本語を含む漢字文化圏では、「○○半島」(○○반도、○○バンド)、「○○民族」」(○○민족、○○ミンジョク)、「○○語」(○○어、○○オ)などの様々な局面において、この地域を何と呼称するかが問題となる。
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現地における呼称
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現地の朝鮮語では、統治する国家によって南北で2種類の異なる呼び方がなされている。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では「朝鮮」(조선、チョソン)、大韓民国(韓国)では「大韓」(대한、テハン)ないし「韓」(한、ハン)ないし「韓国」(한국、ハングク)と呼ばれ、互いに他方の名で呼ばれることを好まない。これらは北半分や南半分の一方を指す名称ではなく、共に全体の名称である。_NEWLINE_これは、直接には両国における自称の国名が北朝鮮では「朝鮮」になったのに対し、韓国では朝鮮という国名は使われなくなり、「韓」が国家のみならず民族や半島をも含めた名称として受け入れられているためである。従って、現在の韓国では「朝鮮民族」や「朝鮮半島」という呼称はめったに使われず、「韓民族」「韓半島」が使用される。_NEWLINE_この煩雑さを避け、政治的中立性を保つ意図で「コリア」、稀に「高麗」(こうらい、고려、コリョ)と呼ばれることがある。
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日本語における呼称
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この記事名である「朝鮮」(歴史的仮名遣では「てうせん」)は、この地域や民族の名称として日本語において広く用いられる呼称である。古くは、この地域の人々を指す言葉として「韓人」(からひと)、「高麗人」(こまびと)などがあり、李氏朝鮮時代には李朝の国号から「朝鮮人」(ちょうせんじん)という呼称が生まれた。李氏朝鮮が大韓帝国に国号を変えると、「韓国人」(かんこくじん)という呼称が生まれた。_NEWLINE_韓国併合によって大韓帝国が消滅すると、日本は韓国の地名を朝鮮とし、朝鮮に本籍地を有する日本臣民となった者が法律上、「朝鮮人」と称されることになった。本国(内地)と植民地という力関係を反映し、「朝鮮人」やこれを略した「鮮人」という呼び方には見下すようなニュアンスがこめられがちであるため、「朝鮮出身者」「朝鮮の方」といった遠まわしな言い方がしばしば使われた。朝鮮総督府は内地人に「鮮人」と呼ばないようしばしば呼びかけ、多くの文書で「朝鮮(半島)同胞」との呼称を用いた。旧陸軍においても朝鮮人兵士に対して「朝鮮人」や「鮮人」の語を使用しないよう指導がなされていた。_NEWLINE_日本の朝鮮統治が終わった後もこのような傾向は続き、現在に至るまでも面と向かって「朝鮮人」と言うのを憚る風潮が存在する。しかし、「朝鮮」を統一名称とみなしている、または韓国を支持しない等々さまざまな理由から、在日朝鮮人が好んで「朝鮮人」を自称するケースもあるため、必ずしも蔑称とはみなされていない。韓国・北朝鮮の成立後は、全体を漠然と指すときは従来通りの「朝鮮人」が多く用いられ、特に韓国の国籍を保持する者を「韓国人」と呼んで区別している。「韓国人」の対立概念として「朝鮮人」を使用する場合には、北朝鮮を正統国家として支持する者や、または朝鮮籍の在日朝鮮人を限定して指すこともある。マスコミでは、「韓」と「朝鮮」との区別が問題になることを避けるために漠然と「朝鮮民族」と称することが多い。_NEWLINE_日本語では朝鮮族という言い方も存在するが、これは中国吉林省延辺朝鮮族自治州を中心に、中国東北部(満州)やロシア沿海地方などに住む朝鮮民族を特に指す語として使われる。
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その他の言語における呼称
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英語など、漢字文化圏以外の多くの言語では、中世の高麗王朝に由来する Korean 、 Coréen 、 Koreaner などで呼んでおり、朝鮮と韓との区別はない。
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「李氏朝鮮」の呼称
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日本においては王室の姓をとり「李氏朝鮮」もしくは「李朝」の呼称が用いられていたが、近年では「李氏朝鮮」を「朝鮮王朝」と言い換え、古朝鮮と朝鮮とで呼び分ける立場が日本の朝鮮史研究者の間では主流となってきた。文部科学省は2002年に「李氏朝鮮」という呼称について「表記が不適切」との検定意見をつけた。その理由を、日本における学術研究の成果を反映したためとし、特に朝鮮史学界での呼び方に倣ったことを強調した。
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韓国における「朝鮮」
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韓国においては「チョソン」は古称・雅名としても認知され、そのような文脈に限っては抵抗なく使われることもあるが、北朝鮮式の呼称であることによる忌避のみならず、日本語読みの「ちょうせん」は差別の意味合いを持って受け取られることがある。また、ヘル朝鮮にみられるように、朝鮮王朝時代の後進性からネガディブなイメージの呼称として受け取られることがある。南北をひっくるめて論じるときなどは「韓民族」「韓半島」などというのが普通であり、かつて日本の保守系親韓派知識人の一部もこのような用語法を用いた例もある。
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北朝鮮における諸事情
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北朝鮮では「ハングル」など読み方が「韓」を連想させるような語彙は嫌われることもある(ただし「ハングル」のハンは「韓」ではなく「偉大な」の意味である)。北朝鮮の日本向け日本語放送(国際放送)『朝鮮の声放送』では「チョソン」の呼称が用いられる。 | 4561413884271734272 |
Q60685862 |
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木俣守前
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家系
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木俣清左衛門家は、徳川家康の家臣で井伊直政に与力として付けられ、後に、彦根藩井伊家の筆頭家老となった木俣守勝に始まる家。楠木正成の孫正勝の末裔を称す。姓は橘氏。家紋は三つ盛鱗。_NEWLINE_代々の当主は、「土佐」「清左衛門」を通称とし筆頭家老を務めた。特に、3代守明、5代守盈、10代守彝は執権職(幕政では大老に相当)に就いている。知行高は1万石。_NEWLINE_12代畏三が、明治33年(1900年)に男爵に叙されている。
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生涯
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明和2年(1765年)11月11日、彦根藩筆頭家老木俣守将の子として生まれる。天明2年(1782年)11月、部屋住みながら家老となり、藩主直幸に仕えた。_NEWLINE_寛政6年(1794年)9月、藩主直中が左近衛少将に昇進し、口宣御礼使者(叙位任官の勅命文書を伝奏から受け取る使者)を務めた。_NEWLINE_寛政9年(1797年)2月、父守将の隠居により家督を相続し筆頭家老となる。寛政11年(1799年)4月、藩主直中に近江と山城の御鷹場巡見の供を命じられた。7月、直中に藩校稽古館開設を命じられる。_NEWLINE_文政3年(1820年)2月、隠居して家督を守易に譲る。文政8年(1826年)11月23日死去。享年61。 | 3489192695033860021 |
Q58139794 |
_START_ARTICLE_
末和海
_START_PARAGRAPH_
末 和海(すえ かずみ、1929年 - )は日本の時計技術者である。 | 8468018911650542379 |
Q45829297 |
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末近光久
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生涯
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小早川氏家臣の末近信賀の子として生まれ、父同様に小早川隆景に仕えた。_NEWLINE_天正10年(1582年)の備中高松城の戦いで、清水宗治、清水月清入道、難波宗忠と共に父・信賀が切腹したため、末近氏の家督を相続する。同年6月18日に隆景は光久へ書状を送って信賀の切腹を都鄙に隠れなき名誉であると賞賛し、信賀の忠義を忘れないと述べている。_NEWLINE_しかし、光久もその後早くに死去したようで、隆景が光久の子である吉通(宮寿丸)と宗次(弟法子)に年不詳4月10日付で送った書状では、信賀が備中高松城で切腹したため、せめて子の光久には褒美を与えようと内心考えていた所、光久が死去してしまい無念であると述べられている。 | 11227227435628117262 |
Q11520589 |
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本田実信
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来歴・人物
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愛知県出身。東京帝国大学文学部東洋史学科を経て、東京大学大学院修了。北海道大学文学部教授、1975年京都大学文学部西南アジア史学科教授、86年定年退官、名古屋商科大学商学部教授を歴任。_NEWLINE_モンゴル帝国史、イラン中世史を主に研究。ペルシア語文献とイスラム写本研究で業績があり、数々の著書・論文を発表した。_NEWLINE_1998年、大同生命地域研究賞を受賞。 | 16531574335491479453 |
Q11521469 |
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札幌聖心女子学院中学校・高等学校
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制服
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冬服は、こげ茶色のベストとスカートに、ジャケットを合わせるというスタイルとなっている。ジャケットは千鳥格子柄となっており、襟の部分だけがこげ茶色となっている。_NEWLINE_夏服は、ブラウス、クリーム色のニットベスト、ベージュ系のチェックスカートとなっている。
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交通手段
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JR北海道バスの大倉山競技場入り口停留所下車。 | 4797550489944836440 |
Q10331667 |
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朶顔衛
_START_PARAGRAPH_
朶顔衛とは、14世紀から16世紀にかけてモンゴリア東南部で活動した遊牧部族で、泰寧衛・福余衛とともにウリヤンハイ三衛を構成した。モンゴル帝国成立以前より存在するウリャンカイ部の後裔であり、モンゴル側ではウリヤンハイ(兀良哈)と呼ばれ、朶顔衛頭目はウリャンカイ部出身のジェルメを始祖としていた。_NEWLINE_三衛の中では最も南に位置していたため、明朝との交流も多く、元来三衛の中心であった泰寧衛に代わって三衛の代表的存在となった。三衛の中では唯一解体を免れ、カラチン旗として存続した。
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名称
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『華夷訳語』には朶顔衛指揮同知脱児豁察児の言葉として、「ウリヤンハイ人はチンギス・カンの時代より額客多延温都児山(Eke Doyan Ündür、大ドヤン山の意)の地にいた」との記述があり、このドヤン山によって「朶顔」の名がつけられたと推測されている。また、大元ウルスの時代には遼陽等処行中書省開元路に朶因温都児兀良哈千戸所が設置されており、これが朶顔衛の前身であると見られる。_NEWLINE_また、明朝ではしばしばその種族名ウリヤンハイの音写である「兀良哈」とも記された。同時代には同じ名称を持つウリヤンハイ・トゥメン、タンヌ・ウリャンカイ(唐努烏梁海)、ワルカ/オランカイ(兀良哈)といった勢力が存在するが、歴とした別の勢力である。 | 13193118661881127248 |
Q11095360 |
_START_ARTICLE_
李係
_START_PARAGRAPH_
李 係(り けい、? - 762年)は、唐の皇族。第10代皇帝・粛宗の子で第11代皇帝・代宗の弟。757年に趙王、後に南陽王に封じられた。当時は安史の乱が起こっており、759年に関東出兵を命じられて天兵馬元帥・越王に封じられた。_NEWLINE_762年、父の粛宗が重病になると、張皇后は宦官の李輔国を殺害しようと計画し、李係もこれに応じて200人の私兵を集めた。しかし李輔国に事前に発覚し、皇后と共に殺害された。 | 10878889259945123657 |
Q11522411 |
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李和
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李 和(り わ、506年 - 582年)は、中国の西魏・北周の政治家・軍人。もとの名は慶和。字は慶穆。本貫は隴西郡狄道県。
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経歴
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李僧養の子として生まれた。北魏の末年に、夏州刺史源子邕とともに起兵し、諸乱の平定にあたった。軍功により、安北将軍・銀青光禄大夫の位を受けた。大都督となり、徐州に出向した。534年、孝武帝が関中に入ると、新陽県開国伯に封ぜられた。_NEWLINE_535年、竇泰を討ち、沙苑の戦いに功績を挙げて、爵位は公に進んだ。漢陽郡太守・帳内大都督に任ぜられた。後に車騎将軍・左光禄大夫・都督の位を加えられ、使持節・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍・侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を歴任し、宇文氏の姓を賜った。宇文泰により意の名を受けた。永豊県公に改封された。夏州諸軍事・夏州刺史として出向した。北周が建国されると、闡煕郡公に改封され、司憲中大夫の位を受けた。義城郡公に改封され、洛州諸軍事・洛州刺史として出向した。まもなく徳広郡公に改封された。567年、秭帰・信陵の2城に糧食を送り、向武陵・向天玉らの乱を平定した。568年、位は大将軍に進み、延綏丹三州武安伏夷安民三防諸軍事・延州刺史に任ぜられた。571年、柱国大将軍に進んだ。572年、延綏銀三州文安伏夷安民周昌梁和五防諸軍事となった。罪のために免官された。まもなく柱国として復活した。_NEWLINE_581年、隋が建国されると、上柱国に進んだ。このころ、和を名とした。582年4月15日、邸で死去した。使持節・司徒公・徐兗邳沂海泗六州諸軍事・徐州刺史の位を追贈された。諡を粛といった。その年の12月に馮翊郡華池県(現在の陝西省三原県付近)の万寿原に葬られた。_NEWLINE_子の李徹が後を嗣いだ。 | 11472339264366490078 |
Q497473 |
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李子春
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生涯
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高麗を東北方面からおさえる元朝の拠点の咸鏡道の双城総管府につかえ、千戸(千人隊長)の役職についていたが、恭愍王が反元政策のもと、総管府を攻略したとき、李子春はただちに高麗に投降した。正室の懿恵王后崔氏は、中国山東半島登州人で、咸鏡道に移住して暮らしており、もともとの姓は趙であり、懿恵王后の父の名前は趙祚(조조)だったが、元朝の役職千戸(千人隊長)任命されたことから、崔閑奇(최한기)に改名して、その崔閑奇の娘が懿恵王后である。そして、李子春と懿恵王后崔氏のあいだに生まれた子が李氏朝鮮の初代王李成桂である。祖母の本貫は登州であり、登州で戸長を務めていた崔基烈(최기열)の娘貞淑王后崔氏である。_NEWLINE_死後、王として即位した李成桂によって桓王、孫の3代国王朝鮮王によって桓祖淵武聖桓大王と追尊された。陵墓は咸鏡南道咸興市にある定陵で、懿恵王后と共に眠っている。_NEWLINE_『高麗史』によると、桓祖は恭愍王5年3月に入朝して、国王に謁見して「卿宣歸鎭、吾民哾有變、當如我命」という親諭を下賜され、王命によって流移の土民の主にされると記述するが、池内宏は、わずか千戸の微官だった桓祖が親しく国王に謁見して教旨を下賜されるとは怪しく、さらに殊遇を受けながら、高位に登用されず、顕官にも推されず、わずか辺境流移の土民の主にされることがますます怪しく、したがって恭愍王4年及び5年3月の桓祖の入朝の記述は創作であり措信の価値がないと斥けている。_NEWLINE_ただし池内宏は、李子春が実在していた人物であることは疑いの余地がないという。_NEWLINE_李氏朝鮮史が専門の六反田豊(東京大学教授)は、李子春が双城などの千戸として元朝に仕えたが、1355年に高麗に内応して小府尹に任命され、翌年高麗が行った双城総管府攻撃の際に、高麗王の命令を受けてこれを攻撃して戦功を立て咸鏡道の万戸・兵馬使の任命されたなどというのは「伝説」として、「こうした伝説は、『高麗史』・『太祖実録』・『竜飛御天歌』等にみられるが、どこまで史実を反映したものであるかは疑問である。」と述べている。 | 17806791545957473422 |
Q1473554 |
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李鉄拐
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李鉄拐(り てっかい)は、中国の代表的な仙人である八仙の一人。鉄拐李とも呼ばれる。_NEWLINE_名は玄、凝陽、洪水、岳など諸説ある。_NEWLINE_鉄拐とは、彼の幼名であるとする説や、足が不自由で鉄の杖をついていたためという説がある。_NEWLINE_暗八仙は葫蘆(瓢箪)。_NEWLINE_絵ではボロボロの服を着て足の不自由な物乞いの姿をしていることが多いが、もとはがっしりとした体格の道士であった。二十歳の頃から仙道を志すようになり、ある日、太上老君に崋山で逢うことになり、魂を遊離させ、逢いに行くことにした。そこで、彼が帰ってくるまでの七日間の間、魂の抜けた身体を見守るよう弟子に言いつけ、もし七日経っても帰ってこなければ身体を焼くように言った。しかし、六日目に弟子の母が危篤との知らせを受けて、弟子は鉄拐の身体を焼き、母の元に行ってしまった。鉄拐が戻ってきてみると、自分の身体は既に焼かれていた。彼は近くに足の不自由な物乞いの死体を見つけ、その身体を借りて蘇った。_NEWLINE_兵法三十六計の一つ、借屍還魂は、この逸話をもとにした計略である。_NEWLINE_また、西王母に師事して東華教主となり、漢鍾離を得道させたという説もある。_NEWLINE_ほかにも岳寿という小役人が李屠という者の体を借りて李鉄拐になったという話もある。鄭州奉行所の都孔目(裁判官)である岳寿は、悪の限りを尽くし、私腹を肥やして地獄に落ちてしまったが、生前、一つだけいいことをしていたことから呂洞賓に地獄から助け出された。しかし、死体は既に焼かれており、仕方なく死んだばかりの鄭州東城門内の肉屋である李屠の息子の小李屠に乗り移ったところ、小李屠は足が悪かったところから、杖をつくようになった。 | 4771201079489771582 |
Q22127425 |
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村上木彫堆朱
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村上木彫堆朱(むらかみきぼりついしゅ)は、新潟県の村上市において製造される漆器である。1955年には新潟県文化財、1976年には経済産業大臣指定伝統的工芸品の指定をそれぞれ受けた。
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歴史
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室町時代の文安年代より、この地域近辺に耕雲寺や龍皐寺などの寺院が建立されていた。その際、京都から来ていた大工や工芸師などがその事業に加わったことが、当漆器の起こりとされている。村上頼勝が藩主の時、寺院の建築が盛んになった。_NEWLINE_江戸時代に入り、元和には城郭や武家屋敷の改築や建設が進められ、それは寛文まで続けられた。京都から木匠伊太郎などを招聘し、村上で彫刻の技術が高められたのはこの頃とされる。寛文2年に羽黒神社が再建となり、神輿に漆工芸を施す必要があったが、これも京都から職人を招いている。寛文7年、榊原政倫の時代には藩士の荒山市右衛門が漆奉行になったという。それと同時に、ウルシを植樹させている。_NEWLINE_文政の時、江戸詰であった村上頓宮次郎兵衛は堆朱の名工、玉楮象谷を師匠として彫刻を学び、同藩士の澤村吉四郎も加わって世に聞こえた才能を乞うた。天保年間に江戸詰となった澤村吉四郎が、久松老松軒、岩村太郎左衛門などに教示し、彼らがその漆工を持ち帰った。藩の工芸奨励政策もあり、工匠たちの間で広まった。板垣周左衛門(後に苗字帯刀を許され、有磯周斎となる)は技巧の向上のほか、活発に販路の拡大を進めて漆器を村上の特産品にし、今日の村上漆器の基礎を固めたとされる。慶応年間に仏壇や仏具にも加工を広げ、世間に広まって行った。_NEWLINE_明治に入って漆業は一種の道楽から生業となり、元士族の間でも行われた。その後は需要が増加するも、濫造する結果を招いていた。そこで周斎の子、周亭や山脇長平などが明治26年に村上工芸社を組織し、技術の進歩と販路拡大を図った。販路は海外にも広まり、分業制の活用もあって村上漆器は栄えた。昭和11年(1936年)当時では、80名の会員が在籍していた。_NEWLINE_現在、生産されているものには、杯・皿・重箱・鉢・茶筒・なつめ・菓子器・盆・箸・花器などがある。 | 3519413733864806037 |
Q11523317 |
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村松秀直
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生涯
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寛永19年(1642年)、浪人の堀江九右衛門の長男として江戸で生まれた。父・九右衛門は町人に身を落とすが、秀直自身は寛文元年(1661年)頃に赤穂藩士で和算学者の村松茂清(九太夫)の婿養子に入り、武士の身分を保った。茂清には村松半太夫という実子がいたが、家を飛び出して行方不明になっていたため、秀直が婿養子に迎えいれられたのである。_NEWLINE_元禄9年(1696年)に養父・茂清が死去し、村松家の家督を継いだ。赤穂藩では江戸詰めの扶持奉行また宗門改(20石5人扶持)として仕えた。長く江戸詰めであり、元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際にも秀直もその長男村松高直も江戸にあった。すぐさま赤穂へ向かい、大石良雄に神文血判書を提出した。その後、江戸へ戻ると、はじめ南八丁堀築地小田原町、のち吉良邸のある本所に借家し、隆円と号して医者に成りすましながら、吉良の動向を探った。しかし金に苦労したようで大石から1両の借金をしている。_NEWLINE_その後、長男・高直とともに吉良邸討ち入りに参加し、表門隊に属した。本懐後、長府藩毛利家にお預かりとなり、同家家臣・田上五左衛門の介錯で切腹した。享年62。主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃有梅剣信士。_NEWLINE_なお次男村松政右衛門は。旗本小笠原長門守の家臣になっていたが、父と兄に連座して伊豆大島へ流された。宝永3年(1706年)に政右衛門の依願赦免が認められて、他の赤穂浪士たちの遺児よりも一足早く江戸へ戻った。洞雲寺で出家し、無染と号する。さらに宝永6年(1709年)には赤穂浪士遺児全員に大赦があったので還俗した。その後、赤穂浪士の英雄化もあって小笠原長門守に再び仕えることができたという。 | 15984538871566691843 |
Q493808 |
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東ソウル大学
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歴史
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1977年に設置認可され1978年3月に開校した大侑工業専門学校が始まり。1979年に大侑工業専門大学に昇格する。1992年、運営団体名が学校法人鶴山学園に変更される。1998年、大侑工業専門大学は東ソウル大学に名称変更される。 | 12023192344291685227 |
Q20041606 |
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東京スクールオブミュージック専門学校渋谷
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概要
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ミュージシャン・作曲家・レコーディングエンジニア・音楽関係者・俳優・声優・ダンサーを養成する事を目的にし、音楽・音響・パフォーマンス・ステージ技術などについて実践的に学ぶ専門学校である。
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沿革
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2002年4月開校。音楽、エンターテイメント業界に即戦力を養成することを目的に設立した。 | 2041572428976957503 |
Q22128914 |
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東京レインボープライド
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東京レインボープライド(とうきょうレインボープライド)は、「LGBT、いわゆる性的少数者が、差別や偏見にさらされず、前向きに生活できる社会の実現」を目指した団体、およびイベントの総称。東京都渋谷区代々木公園周辺で開催される。_NEWLINE_「東京レズビアン&ゲイパレード」「東京プライドパレード」などを前身とする。
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沿革
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1994年8月28日、日本初のゲイ・パレードである「第1回レズビアン&ゲイパレード」が開催される。_NEWLINE_1996年、第3回のパレードが開催。しかし閉会時に、実行委員の南定四郎の方針に異議を申し立てる人々が閉会式の会場であった代々木公園の屋外ステージを占拠する事件が発生。これをきっかけとして翌年から大きなパレードはしばらく中断する。_NEWLINE_2000年8月27日、「東京レズビアン&ゲイパレード2000」として復活。2003年、2004年は実行委員長を引き受ける人がおらず再び中断。_NEWLINE_2005年、毎年安定してパレードが実施していくための運営母体として「東京プライド」が設立され、この団体が委嘱するする形で2005年、2006年と開催される。_NEWLINE_2007年、パレードの名称が「東京プライドパレード」に変更される。2008年は中止。2009年5月23日、パレードのない形で「東京プライドフェスティバル」が代々木公園で開催された。2010年8月14日、パレードが復活し「東京プライドパレード2010」が開催された。_NEWLINE_2011年は同年3月11日発生の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)の影響などにより中止。2011年5月、運営母体「東京プライド」が分かれ「東京レインボープライド」が新たに設立される。_NEWLINE_翌2012年から毎年「東京レインボープライド」は、団体名を冠したパレードを開催している。
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団体の趣旨
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「特定非営利活動法人 東京レインボープライド」は、「らしく、たのしく、ほこらしく」をモットーに、性的指向および性自認(SOGI=Sexual Orientation, Gender Identity)のいかんにかかわらず、すべての人が、より自分らしく誇りをもって、前向きに楽しく生きていくことができる社会の実現をめざしています。_NEWLINE_ — 公式ウェブサイトより | 8158450748929613779 |
Q11525114 |
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東京臨海病院
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概要
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江戸川区の臨海地域の急激な人口増加への対応、および台東区根岸にあった日本私立学校振興・共済事業団の下谷病院の老朽化に伴い2002年4月に移転・開院した。建物は特徴的な三角柱の8階建てで、埋立地への建設のため免震構造をとっている。_NEWLINE_健康診断のための健康医学センターを併設している。 | 10681428349701722361 |
Q11525279 |
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東京都大学サッカーリーグ
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東京都大学サッカーリーグ(とうきょうとだいがくサッカーリーグ)とは、東京都サッカー協会(第1種学生の部)に登録された大学サッカー部によるサッカーリーグである。_NEWLINE_2018年現在は山梨県サッカー協会の登録分と合同で行われている。 | 9337054959871497984 |
Q6529301 |
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東光寺 (甲府市)
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歴史
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創建年代は不明だが、寺伝の由緒書によれば平安時代の保安2年(1121年)に源義光(新羅三郎)が国家鎮護と仏法繁盛の祈願所として諸堂を再興し、寺号を興国院とした。その後荒廃し、密教寺院であったが鎌倉時代の弘長2年(1262年)に、配流されていた渡来僧の蘭渓道隆が禅宗寺院として再興し、寺号も東光寺と改める。江戸後期の『甲斐国志』では再興年を鎌倉時代の文永年間としている。また、官寺として執権・北条高時から諸山位に次ぐ寺格を与えられ(鎌倉市立図書館所蔵文書『崇鑑北条高時公帖』)、五山十刹の次に位置。室町時代の応永27年(1420年)には、在所不明の大林寺から梵鐘が移されている。_NEWLINE_戦国時代の天文年間には臨済宗妙心寺派に帰依していた甲斐国国主・武田晴信(信玄)による庇護を受けて再興され、山号を法蓋山、寺号を東光興国禅寺と改めた。陣夫役の免除などを受けた。この頃の住職・藍田恵青は中興開山と位置づけられている。_NEWLINE_『高白斎記』に拠れば、天文11年(1543年)7月の武田氏のよる諏訪侵攻で諏訪領主・諏訪頼重は甲府へ連行されて自害しているが、『塩山向獄禅菴小年代記』に拠れば頼重は当寺で自害しているとされ、当寺に幽閉されていたと考えられている。また、永禄8年(1565年)には謀反の疑いをかけられた武田家嫡男・義信が幽閉されて永禄10年には死去しており(『上杉家御年譜』)、裏山墓地には頼重や義信の墓所がある。天正10年(1582年)、織田氏の侵攻で武田家が滅亡すると焼き討ちに遭い、藍田恵青らも兵火で死去し、諸堂や文書類も焼失。天正19年4月5日には加藤光政から、慶長8年(1603年)には平岩親吉から禁制を受けている。_NEWLINE_江戸時代には徳川氏により寺領と山林の安堵を受けたが、明治の廃仏毀釈の影響を受け、1945年(昭和20年)の甲府空襲では再建本堂を焼失している。諸堂のうち、仏殿(薬師堂)は入母屋造檜皮葺屋根の中世以来の建築様式を残し、国の重要文化財に指定されている。
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その他
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当寺は甲府市内の地名の由来にもなっており、中世には東光寺郷、近世には東光寺村が見られ、1937年(昭和12年)からは甲府市東光寺町(現・東光寺三丁目)として現在に至る。 | 16797780200017839223 |
Q56348232 |
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東光院 (綾部市)
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歴史
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白鳳2年(西暦673年)理趣仙人によって建立したと伝わる。中筋村史には開創は理趣仙人と書かれているが創立は平城天皇の大同2年(西暦807年)と記載がある。 | 15383667404397899098 |
Q11526236 |
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東北百名山
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東北百名山(とうほくひゃくめいざん)は、東北山岳写真家集団によって選定された東北地方の名山百選である。初版は1990年であり、2000年の新版では10座の入替えが行われた。本項目では新版による東北百名山を記述する。東北地方の山々であるが、一部、境界線を接する関東百名山にも属する荒海山や、甲信越百名山にも属する浅草岳のように重複するものもある。
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概要
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東北地方の山々は標高は2,000メートルそこそこであるが、比較的寒冷地にあるため標高1,000メートルから2,000メートルの範囲で様々な高山植物が見られ、山麓にはブナ林、その上部の標高1,000メートル付近からはオオシラビソなどの亜高山帯針葉樹林帯が広がる。なかでも白神山地のブナ林は、日本で初めてユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された。また奥羽山脈には活火山が点在し、豊富な温泉群に恵まれる。_NEWLINE_中央の脊梁をなす奥羽山脈や、それに並行する出羽山地は火山が多く分布するが、太平洋側の北上高地や阿武隈高地および日本海側の越後山脈は火山は少なく古い花崗岩から構成される。日本海側には新第三紀の火山活動による堆積物であるグリーンタフと呼ばれる緑色凝灰岩が分布する。日本海側の山々は冬季にシベリア気団による季節風が吹きつけ、とくに鳥海山および月山などは10メートルを超える積雪に見舞われる。_NEWLINE_出羽三山、岩木山、鳥海山、飯豊山および安達太良山を筆頭に、古来より信仰の山とされ、山岳修験の山として開山されてきたものも少なくない。これらの山々は実りの神、農耕の神として崇められてきた。深田久弥の日本百名山は15座を数える。 | 17949078082122918849 |
Q11526399 |
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東坊城家
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概要
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家格は、半家である。極官は室町時代の東坊城益長(1407年 - 1474年)以降、代々文章博士・大学頭・少納言・大蔵卿等を経て権大納言を極官とする。_NEWLINE_家業は紀伝道で、代々天皇の侍読を務めた。歴代当主の中には漢学の才を認められ、改元の際の新年号の候補およびその出典を記した「年号勘文」の提出者となった者も多い。_NEWLINE_東坊城家は高辻家から見ると、本来ならば庶流扱いである。しかし、東坊城家の女子からは勾当内侍(掌侍(ないしのじょう)の筆頭)を多く輩出し、同家からは氏長者も出した実績がある。更に、幕末の東坊城聡長(正二位・権大納言、1799年 - 1861年)は武家伝奏に任じられている。_NEWLINE_その実績もあって、江戸時代の家禄は菅原氏出身の堂上家では最高の300石であった。
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明治以降
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明治維新後は華族令施行により、徳長に子爵の爵位が与えられた。_NEWLINE_大学頭東坊城任長の子、正三位勲三等子爵、貴族院議員東坊城徳長は、20歳にして製作会社「入江ぷろだくしょん」を設立した戦前の映画女優入江たか子(出生名:東坊城英子、三女)、戦前の日活大将軍撮影所等で活躍した映画俳優・脚本家・映画監督の東坊城恭長(三男)兄妹の父、入江の長女で、東映京都作品、のちに大林宣彦作品で知られる女優入江若葉(出生名田村若葉、父は元俳優田村道美)の祖父に当たる。_NEWLINE_徳長は1911年に引退し、爵位を長子政長が継いだが、1922年徳長の没後、翌1923年の関東大震災によって東京の家屋敷は半壊、東坊城家はそれを手放す憂き目に遭った。爵位継承者は、ついで元長であった。_NEWLINE_同家のもともとの居所は「西院参町」(京都市上京区)、菩提寺(本墓所)は京都・上京区の浄福寺である。戦後、東坊城家名の五輪塔を徳長の三女英子(入江たか子)が1962年に多磨霊園に建立している。女優を引退した英子が1959年に東京・銀座でバーを始めた3年後のことであった。 | 15053169734143781433 |
Q66365183 |
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東漢坂上子麻呂
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東漢坂上 子麻呂(やまとのあや の さかのうえ の こまろ)は、古墳時代の豪族。姓は直。
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記録
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『新撰姓氏録』「右京諸蕃」によると、坂上氏は「出自後漢霊帝男延王也」とあり、東漢氏の有力な支族である。_NEWLINE_『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇31年4月(570年)の江渟裙代(えぬ の もしろ)の奏上を受け、天皇は越国に漂流した高句麗使節を饗応し、近江国に到着した使節を、山背国の相楽郡(さがらのこおり)に用意してあった館(むろつみ)に迎え入れている。その際に、子麻呂は錦部大石(にしこり の おおいし)とともに使節を護衛し、館で饗応している。_NEWLINE_2年後の敏達天皇元年(572年)6月、高句麗の副使たちによる、賊の仕業に偽装した大使の殺人事件が発生した。領客(まろうとのつかさ=接待役)の子麻呂は翌朝副使たちへを取り調べたが、副使たちは嘘をつき、大使が天皇から下賜された妻を受け入れなかったため、礼に反するとして殺害した、と証言した(本当のところは、漂着時に土地の豪族に貢ぎ物を与えてしまい、そのことを国王に報告されることを恐れたのである)。大使の亡骸は礼式をもって葬られ、7月に高句麗の使節たちはかえっていった。 | 9938304850644132979 |
Q11103924 |
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東禅寺事件
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東禅寺事件(とうぜんじじけん)は、江戸時代末期(幕末)に攘夷派志士が高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃した事件。1861年と1862年の2回発生した。
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第一次東禅寺事件
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文久元年5月28日(1861年7月5日)、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件。_NEWLINE_文久元年5月、イギリス公使オールコックは長崎から江戸へ向かう際、幕府が警備上の問題から海路での移動を勧めたのに対し、条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で江戸へ旅し、5月27日にはイギリス公使館が置かれていた江戸高輪東禅寺に入った。この行動に対し、尊攘派の志士らは「夷狄である外人男性に神州日本が穢された」と憤激した。_NEWLINE_水戸藩脱藩の攘夷派浪士・有賀半弥ら14名は、5月24日に常陸国玉造湊を出航し、東禅寺門前の浜に上陸すると、品川宿の妓楼「虎屋」で決別の盃を交わした後、5月28日午後10時頃、東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃した。外国奉行配下で公使館の警備に就いていた旗本や郡山藩士・西尾藩士らが応戦し、邸の内外で攘夷派浪士と戦闘し、双方が死傷者を出した(警備兵2名、浪士側3名が死亡)。オールコックは危うく難を逃れたが、書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷した。両名はその後帰国している。_NEWLINE_攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗し逃走、有賀半弥、小堀寅吉、古川主馬之介の3名がその場で討取られ、榊鉞三郎が現場で捕縛された(旗本・生駒親敬に預けられた後、12月に斬首)。逃げた浪士も、「虎屋」で包囲され、中村貞吉、山崎信之介の2名は切腹、石井金四郎は捕えられ、旗本・山名義済に預けられた後に処刑。前木新八郎も逃げ切れず切腹している。浪士らはいずれも襲撃の趣意書を携帯しており、それには「尊攘の大義のため」実行した旨が記されていた。逃走した黒沢五郎、高畑総次郎はその後、坂下門外の変に参加し闘死した。岡見留次郎は西国に逃走し天誅組の変に参加、敗走後捕えられ斬首された。木村幸之助、森半蔵ら、その他の浪士たちも逃亡の末切腹・獄死及び斬首され、明治時代まで生き延びたのは渡辺剛蔵、矢沢金之助と、襲撃に参加せず、逃走・捕縛後に明治維新により特赦された堀江芳之助のみであった。_NEWLINE_事件後、オールコックは江戸幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみた。しかし、この交渉に基づき品川御殿山に建設中であった公使館は、翌年12月に高杉晋作らによって放火されている(英国公使館焼き討ち事件)。_NEWLINE_事件以前、オールコックは幕府が警備を口実として自分達を監視していると思っていたが、攘夷運動の熾烈さを強く認識することとなった。彼は著書で「警備兵は浪士と戦わなかった」と記しているが、実際には警備兵はその責務を果たしている。_NEWLINE_事件当時、外国方として東禅寺にいた福地桜痴は目撃した事件の概要を記録している(『史談会速記録』)。後日、浪士らを撃退した警備の武士ら48名に対し褒賞が下された。
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第二次東禅寺事件
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文久2年(1862年)5月29日、東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件。_NEWLINE_第一次東禅寺事件の後、オールコックは幕府による警護が期待できないとして、公使館を横浜に移した。しかし、オールコックが帰国中に代理公使となったジョン・ニールは、再び東禅寺に公使館を戻し、大垣藩、岸和田藩、松本藩が警護にあたることとなった。東禅寺警備兵の一人、松本藩士・伊藤軍兵衛は、東禅寺警備により自藩が多くの出費を強いられていることや、外国人のために日本人同士が殺しあうことを憂い、公使を殺害し自藩の東禅寺警備の任を解こうと考えた。伊藤は夜中にニールの寝室に侵入しようとしたが、警備のイギリス兵2人に発見され戦闘になり、彼らを倒したものの自分も負傷し、番小屋に逃れて自刃した。_NEWLINE_幕府は警備責任者を処罰し、松本藩主松平光則に差控を命じ、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行ったがまとまらず、紛糾するうちに生麦事件が発生した。幕府は翌文久3年4月、生麦事件の賠償金とともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見た。 | 7893854133703909772 |
Q11528183 |
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東結城駅
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概要
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当駅は駅名の通り結城市の東部に位置し、同市と筑西市の境界に位置する。鬼怒川の最寄り駅である。
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駅構造
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単式ホーム1面1線を有する地上駅である。_NEWLINE_無人駅で簡易Suica改札機と乗車駅証明書発行機が設置されている。 | 12791753542640896314 |
Q11528409 |
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東進ハイスクール
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概要
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1971年3月に東京都三鷹市で、社長の永瀬昭幸が東京大学在学中にアパートの一室ではじめた「ナガセ進学教室」にその起源を持つ。_NEWLINE_1976年5月に「ナガセ進学教室」を母体に株式会社ナガセを設立した。立ち上げ当時は株式会社方式の予備校として話題を集めた(通常は準学校法人による専修学校・各種学校のため)。_NEWLINE_1988年には有名講師を競合予備校からスカウトし、1990年代初頭の大浪人時代のピーク前に「現役中心」の運営体系に切り替えた。授業方式は一部の例外を除いてVODの視聴によるものであり、生授業の予備校のスタイルは全く残っていない。なお大学全入時代となり、浪人生が減少している現在では三大予備校においても、従来の準学校法人方式の校舎運営から切り離した現役生専門校を株式会社方式で関連会社が設立したり、映像授業専門コースなどを取り入れ追随している。_NEWLINE_東進の合格実績は高3時在籍していた現役生のみの数字で、講習生や模試のみの生徒を含まないことを売りにしている。三大予備校の実績が浪人生や講習生を含む実績(現在は代々木ゼミナールは合格実績は発表していない)である中、一線を画している。また東進の東大現役合格実績は、実績を公表している全国すべての塾・予備校の中で最大値となっており、日本一(2018年現在)である。2017年度東大推薦入試現役合格者に占める東進生の比率は29.4%(68名中20名)であった。
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校舎
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東京都・埼玉県・神奈川県・千葉県・茨城県・静岡県・長野県・奈良県に校舎を展開している。(東進ハイスクールのみ)
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東進衛星予備校
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東進衛星予備校(とうしんえいせいよびこう)は、株式会社ナガセによって経営される東進ハイスクールの部門の一部(予備校)。1985年に開校した東進ハイスクールが、1991年に衛星授業サテライブを開始し、自校舎への映像配信システムを他の学習塾が利用できるシステムに発展させたものが東進衛星予備校で、現在全国に約1000校ある。映像配信システムとフランチャイズ方式を用いた大学受験予備校。講師の講義を通信衛星やインターネット回線を利用して全国の加盟校に送信するシステムを用いる。_NEWLINE_当初は東進ハイスクールでは生授業が行われていたので東進衛星予備校は衛星授業を行う部門として位置づけられていたが、現在は東進ハイスクールでも特別公開授業などを除いて生授業を廃止したため、直営校が東進ハイスクール、フランチャイズ校が東進衛星予備校という違いがあるだけで、学習システムや教育方法の差はない。_NEWLINE_尚、東進育英舎が運営する東進衛星予備校水戸校、日立校、ひたちなか校は東進衛星予備校だがナガセの直営校である。
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東進模試
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東進模試(とうしんもし)は、大学受験などの対策として、株式会社ナガセ(社長・永瀬昭幸)が運営する東進ハイスクール、東進衛星予備校が実施している模擬試験の総称。_NEWLINE_2014年度まで、すべての模試で相対評価方式ではなく、絶対評価方式を採用していた(ただし、本番換算の形で偏差値が出ることもある)が、現在は『絶対評価』と『相対評価』の2つのものさしで合格可能性と、合格への道標を提示している。_NEWLINE_成績表返却は、各模試を受験してから約5日(マーク式)~と三大予備校に比べて返却が早い。
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大学合格基礎力判定テスト
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旧:対志望大基礎学力判定テスト。生徒の基礎学力のどこが欠けているのかを分析するために行われる模試。全生徒が受験できる。教科は国語、数学(Ⅰ・AとⅡ・B)、英語。原則的にマークシート方式。かつては記述式の英作文や課題作文(国語)の出題もあったが、2010年度以降はマークシート方式の問題のみの出題である。_NEWLINE_大問は分野ごとに分かれており(例:英語なら「単語」「熟語」「文法構文」「長文読解」など)、その分野ごとに制限時間が決定されている(例:英語の第1問「単語」は10分)。成績は分野ごとに算出される。そのため、問題冊子は独特の袋とじになっており、大問毎に該当部分を開封する仕組みになっている(開封に要する時間はカウントされない)。なお解答に要する時間も成績算出に影響するため、時間が余っても他の大問は解いてはならない。
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二次試験対策模試
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二次試験に対応できる力を総合的にはかる「難関大」「有名大」と、各大学への個別の対応力をはかる「東大」「京大」「北大」「東北大」「名大」「阪大」「九大」の本番レベル模試が用意されている。「難関大」「有名大」模試は3月を除く奇数月(1月はセンター試験本試験の1週間後)に実施される。
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講師陣
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出典:単元ジャンル別演習 説明冊子 等 | 16316791093295748910 |
Q11528914 |
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松下井知夫
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松下 井知夫(まつした いちお、1910年4月21日 - 1990年8月28日)は、日本の漫画家、作家。本名:松下 市郎(まつした いちろう)、東京都出身、明治大学新聞科卒業。日本近代漫画の祖、北澤楽天に師事し、子供向け長編物語漫画作家の草分けの一人と言われる。
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経歴
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北澤楽天が主宰した画塾「楽天漫画スタジオ」で漫画を修業。1933年に、楽天の推薦で東京毎夕新聞社に入社し、「串差おでん」を連載、映画化される程の人気を博す。東京毎夕新聞社では、漫画部主任、上海特派員などを歴任。戦時中は、『アサヒグラフ』に「推進親爺」を連載。1938年には、大田耕士、小野沢亘らと風刺雑誌『カリカレ』の創刊に参加した。_NEWLINE_戦後は、横山隆一・近藤日出造・杉浦幸雄らが中心となって設立した漫画家グループ「漫画集団」に参加し中心的メンバーとなる。この「漫画集団」において多くの若手漫画家に強い影響を与え、手塚治虫の結婚式の媒酌人をつとめたことでも知られる。『新バグダッドの盗賊』(1948年)、「星から来た男」(1957年、『週刊漫画TIMES』連載)などで幅広い人気を博した。_NEWLINE_漫画家としての活動のほかに、日本語の日常的な用法にも強い関心を持ち、日常用語を原点を照らし合わせながら日本語のコトバとしての魅力を解説した『コトバの原典:アイウエオの神秘』(大平圭拮との共著、東明社、1985年)は、NHKをはじめマスコミ関係の教育現場で教材として活用された。 | 6840258871872399420 |
Q6788008 |
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松之大廊下
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松之大廊下(まつのおおろうか)は、江戸城内にあった大廊下のひとつ。本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下。廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから松之大廊下と称された。ただし、「江戸御城内御住居之図」の当該部分には「松ノ御廊下」と記され、「マツノヲンロウカ」と読み仮名が振られる(ライデン大学図書館蔵、『長崎出島からの旅 ヨーロッパに眠る日本の宝 シーボルト・コレクション』(シーボルト・カウンシル編、1990年)140頁に写真所収)。_NEWLINE_元禄14年(1701年)3月14日午前10時頃、赤穂藩主で勅使饗応役であった浅野長矩がこの廊下で高家肝煎の吉良義央に斬りつけた事件で一般的にも有名である。_NEWLINE_現在、皇居東御苑内の松之大廊下があった場所には所在を示す碑が建てられている。ちなみに『忠臣蔵』関連の時代劇では襖絵に巨大な松が描かれている作品があるが、実際の襖絵は松並木が続いたものであり、史実に反する。 | 898437886827741407 |
Q11529044 |
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松井つね
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松井 つね(まつい つね、天保8年9月10日(1837年10月9日) - 明治25年(1892年7月20日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性。新選組局長近藤勇の正妻。現代では婚姻すると姓が変わるという思い込みにより、近藤つねと表記されることが多い。
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生涯
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天保8年(1837年)、清水徳川家の家臣・松井八十五郎の長女として生まれる。_NEWLINE_万延元年(1860年)3月29日、天然理心流次期4代目である近藤勇と見合い結婚する。近藤は武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市)の百姓・宮川久次郎の三男で、嘉永元年(1848年)に江戸牛込の天然理心流道場である試衛場(試衛館)の近藤周助に入門し、翌嘉永2年10月19日に周助の養子となる。文久2年(1862年)に長女たまを出産した。_NEWLINE_文久3年(1863年)、試衛場を継いでいた勇は浪士組として上洛し新選組を結成したが、京都政局において活躍し会津藩預かりの幕臣となる。戊辰戦争のさなか慶応4年(1868年)に幕府軍艦に乗艦して江戸へ戻り、隊を再編して再起を図るが、同年4月に下総国流山(千葉県流山市)において新政府軍により捕縛され、処刑される。_NEWLINE_つねは娘・たま(6歳)と、その許嫁である宮川勇五郎(17歳)と共に本郷村成願寺に身を隠す。明治維新後は義兄(勇の兄)・宮川音五郎のもとへ身を寄せた。明治25年(1892年)、死去。 | 6421445855452272424 |
Q11529215 |
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松井隆司
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松井 隆司(まつい たかし、1949年 - )は、兵庫県明石市出身の音楽教育者。神戸演奏家協会会員、神戸学院大学管弦楽団指揮者、神戸学院大学吹奏楽部音楽監督、明石フィルハーモニー管弦楽団演奏委員及び指揮者。_NEWLINE_神戸学院大学法学部教授。
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人物・来歴
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神戸大学附属明石中学校、兵庫県立明石高等学校、大阪教育大学特設音楽課程卒業。神戸大学大学院修士課程(指揮)修了。_NEWLINE_関西歌劇団、神戸オペラ協会、神戸アーバンオペラハウス等でトーマス・ザンデルリング、ブルーノ・ダルボン、松尾葉子、ティツィアーノ・セヴェリーニ、飯森範親、阪哲朗らのアシスタントとして合唱指揮、副指揮を務め多くの公演を成功に導いた。_NEWLINE_管弦楽では大阪シンフォニカー、兵庫交響楽団、神戸室内合奏団を指揮。2004年3月にはロシアのサンクトペテルブルクにおいてサンクトペテルブルクオペラ&バレエオーケストラ「コングレス」を指揮、2005年7月にはブルガリアの首都ソフィアにおいて国立ソフィアフィルハーモニー管弦楽団のワークショップ(指揮部門)に参加、修了演奏会に出演しディプロマを得た。また、2008年と2009年にも同地においてソフィアフィルハーモニー管弦楽団の「秋の名曲演奏会」を指揮している。_NEWLINE_その他、各地のアマチュアオーケストラ、大学オーケストラの指揮や吹奏楽指導講習会の講師、吹奏楽コンテストの審査員としても活躍している。_NEWLINE_指揮法を斉田好男、金洪才に師事。 | 18236168760527165171 |
Q6143025 |
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松原秀治
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松原 秀治(まつばら ひでじ、1902年 - 1984年)は、日本の外交官、言語学者。
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経歴
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慶應義塾大学卒業、外務省に勤務し、翻訳課で仏訳などを手がけるうちに、冠詞研究を深めていった。三宅徳嘉によれば、その業績は日本人の仏語研究としてフランス本国で高い評価を得た最初のものであるという。以後も外務省勤務の傍ら仏語研究や著述を続けた。_NEWLINE_コンゴ代理大使などを経て、退官後は白百合女子大学教授。_NEWLINE_1929年から32年までパリ、リヨン、グルノーブルに留学・勤務した。グルノーブル大学に留学中、フランス文学者松原秀一が生まれている。青柳瑞穂の友人。娘は小山七々子の名で著作活動をしている。 | 2491172413031424548 |
Q28356848 |
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松島肇 (政治家)
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松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15日 - 1969年(昭和44年)2月7日)は、日本の政治家、実業家。徳島県阿波市出身。明治大学法学部卒業。
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経歴
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松島素敬の息子として板野郡土成村土成(現在の阿波市土成町土成)で生まれる。京都の中学校を卒業後、1901年(明治34年)に上京して明治大学法科に入学し、卒業後は同大学の学生部長を務めた。_NEWLINE_1906年(明治39年)に共同火災保険会社(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身)に入社し、1910年(明治43年)には早稲田大学校友会に推薦された。_NEWLINE_昌栄貯蓄銀行、日本資金信託、第一倉庫、安全印刷、摂津煉瓦、大阪計器製作所、中央インキ、東海市場、東亜フェルト各株式会社の社長、美馬郡是製糸、カルチウム鉱泉、東亜織布、常盤商工、黒崎電機製作所、市岡電気工業、東京絹綿紡績、大阪造船所各株式会社の取締役、東京リベット製造、日東炭鉱、日本鋼管シャフト、城南土地各株式会社の監査役などに就いた。_NEWLINE_1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に当選し、1924年(大正13年)まで衆議院議員を2期務めた。_NEWLINE_1931年(昭和6年)5月、経営する糸崎船渠株式会社・帝国毛織紡績株式会社などから約300万円を横領して熱海宝塚土地株式会社に注ぎ込んだとして、業務上横領・商法違反で大審院で懲役2年6か月の判決を受けた。また三池炭鉱株式会社創設に関わる5万7千円詐欺事件で、同年7月の大審院判決で懲役2年が確定した。_NEWLINE_1969年(昭和44年)2月7日、東京都で没する。享年89。 | 2166446776710301946 |
Q11530236 |
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松崎静馬
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松崎 静馬(まつざき しずま、生没年不詳)は壬生浪士組、及び新選組の隊士である。松崎野馬と記された文献もある。_NEWLINE_文久三年6月以降の入隊で、同年の八月十八日の政変に参加。以後、文献には現れず、池田屋事件の時点では確実に在隊していない。
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消息
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永倉新八が建てた板橋の石碑の中で「変死・病死」に列記されている為、在隊中に何らかの理由で死亡したと考えられる。_NEWLINE_一説には、松山幾之助と同一人物ともいわれている。この説が真実である場合、御蔵伊勢武、荒木田左馬之助らが刺殺された直後だと考えられる。 | 3457200675219365637 |
Q11531153 |
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松本正雄 (英文学者)
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松本 正雄(まつもと まさお、1901年3月14日 - 1976年4月15日)は、日本の評論家、英文学者である。_NEWLINE_東京生まれ。青山学院英語師範科卒業。1927年、平凡社に入社し、『新興文学全集』の編集を通じてプロレタリア文学運動に接近。日本プロレタリア作家同盟やプロレタリア科学研究所に参加してアメリカ文学の紹介をすると共に、『プロレタリア英語入門』(鉄塔書院、1932年)などを著した。_NEWLINE_のち日本評論社に移るが、1944年横浜事件で逮捕され、敗戦後釈放される。_NEWLINE_戦後は、日本民主主義文化連盟の創設に参加、日本ジャーナリスト会議副議長をつとめた。回想記『過去と記憶』(光和堂)で、多喜二・百合子賞を受賞した。_NEWLINE_翻訳にジョン・リード『世界をゆるがせた十日間』(新日本文庫)などがある。 | 11572836761981304457 |
Q11531531 |
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松橋郵便局
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概要
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住所:〒869-0599 熊本県宇城市松橋町松橋964-1_NEWLINE_民営化直前の集配業務再編において、多くの集配普通郵便局は統括センターとなったが、当局は配達センターとされたため、民営化後も郵便事業株式会社の支店は併設されず、郵便事業熊本北支店松橋集配センターが併設された。_NEWLINE_だが、2012年(平成24年)10月1日にそれぞれの運営会社だった郵便事業株式会社と郵便局株式会社の統合によって日本郵便株式会社が発足したことに伴い、それぞれの店舗も統合された。 | 3131182743539964961 |
Q17228979 |
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染谷源右衛門
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染谷 源右衛門(そめや げんうえもん、生没年不詳)は、江戸時代中期(18世紀前半)の下総国千葉郡平戸村(現在の八千代市平戸)の名主。印旛沼干拓を最初に試みた人物として知られる。_NEWLINE_享保9年(1724年)、江戸幕府に対して印旛沼の水害防止のために印旛沼のほとりにある平戸村から同郡検見川村(現在の千葉市花見川区検見川町)に向けて約4里12町(約17㎞)の水路を開いて印旛沼の水を内海へ流すことを願い出た。_NEWLINE_江戸幕府も現地を調査して、下総台地の新田開発や利根川と江戸を結ぶ水運の便なども期待できるとしてこれを認め、源右衛門が工事を請け負うとともに幕府からも6000両が貸し与えられた。_NEWLINE_しかし、工事は困難を極めて資金は底を尽き、全財産を工事に投じた源右衛門自身も破産してしまったため、工事は失敗に終わった。 | 16231481823873202853 |
Q11534126 |
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柳内達雄
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柳内 達雄(やなうち たつお、1911年9月9日 - 1978年6月23日)は、日本の教育・児童文化評論家。
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来歴
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東京神田生まれ。東京府青山師範学校(現・東京学芸大学)卒。小学校教師として作文(綴方)教育に熱心で、日本作文の会常任委員。_NEWLINE_東京都世田谷区立代沢国民学校(現・世田谷区立代沢小学校)に勤務していた1944年、集団疎開先(浅間温泉)で受け持った学童に鉛筆部隊の名称を与え、家族や戦地の兵士への手紙を書くことを奨励した。その後、近くの松本飛行場にいた特別攻撃隊員と学童の間で交流があり、その事績が後にきむらけんの著書『鉛筆部隊と特攻隊-もう一つの戦史-』(彩流社、2012年)で紹介された。_NEWLINE_藤田圭雄らの赤とんぼ会の幹部。1958年『私たちの詩と作文』で産経児童出版文化賞受賞。 | 3068641042423416140 |
Q11534290 |
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柳川益美
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柳川 益美(やながわ ますみ、1957年7月 - )は、日本の体育学者。現在群馬大学教育学部保健体育講座教授。専門領域は体育学。 | 4598259329858926149 |
Q64783106 |
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柳明昌
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柳 明昌(やなぎ あきまさ)は、日本の商法学者。法政大学ボアソナード記念現代法研究所所長等を経て、慶應義塾大学法学部法律学科教授。
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人物・経歴
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1991年東北大学法学部卒業。1994年東北大学大学院法学研究科博士前期課程修了、修士(法学)。筑波大学大学院ビジネス科学研究科准教授、法政大学法学部法律学科教授、法政大学ボアソナード記念現代法研究所所長等を経て、慶應義塾大学法学部法律学科教授。専門は商法、会社法、金融商品取引法。 | 914771413119016042 |
Q65271607 |
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柴公園
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柴公園(しばこうえん)は2019年1月10日よりテレビ神奈川を皮きりに、各UHF局で順次放送されているテレビドラマである。2019年6月14日に劇場映画版が公開。3人の柴犬の飼い主である中年男性とその柴犬をメインにしたユーモア満載の日常ドラマである。_NEWLINE_番組キャッチコピーは『衝撃のまったり感!おっさん3人+柴犬3匹。公園ダベリエンターテインメント』
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制作
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田口桂監督は、『機動警察パトレイバー2 the Movie』『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』など国内外で高く評価される押井守監督のもとで修行を積んだ秘蔵っ子。「話の台本に初めて出会ったとき、押井監督と一緒にやってきた映画の要素が色々重なってることに勝手に運命を感じた。押井的要素を少し意識して作りました。」と話している。 | 7129647058109416313 |
Q30925925 |
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栃木城
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概要
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皆川氏の居城を山城である皆川城から平城に移す計画自体は天正年間の初めから始まっていて、寺社を皆川からこの付近に移転させていたことからもそれが見られる。しかし、3万5千石の小大名である皆川氏にとっては、新しい城を造ることが簡単ではなかった。そんな中、天正18年(1590年)に皆川城が豊臣秀吉の軍勢によって落とされた。居城を失ったことにより、翌天正19年(1591年)、皆川広照によりこの城が築かれるにいたった。_NEWLINE_城は1年ほどで完成し、広照は城下町の構築を始めた。当時の栃木は荒れ地であったが、広照の政策によって繁栄を見せ、江戸時代に日光例幣使街道の宿場・栃木宿として巴波川の舟運で栄えることとなった。_NEWLINE_慶長14年(1609年)、将軍徳川家康による広照の改易と、城取り壊し政策により廃城となる。築城からわずか19年間という短い歴史であった。その後、栃木町は支配者の変遷を繰り返したのち足利藩領になり、その陣屋は宝永元年(1704年)栃木城内に設けられた。それから寛政元年(1789年)に、現在の薗部山満福寺南側から栃木簡易裁判所にかけての場所に移された。_NEWLINE_現在、城跡の一部は昭和47年(1972年)8月に市指定史跡となり、翌年からの整備事業で児童公園(栃木城址公園)に生まれ変わっている。城の名残としては、L字型の堀と小高い築山が残っている。 | 18215599424813670691 |
Q11536142 |
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株主の差止請求
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違法・定款違反行為の差止め
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会社法では「株主による取締役の行為の差止め」と表現されている(360条)。取締役が会社の目的の範囲外の行為または、法令もしくは定款に違反した行為をしている・するおそれがある場合に、それによって会社に「著しい損害」が生じるおそれがあるときには、株主はその行為の差止めを請求できる。ただし、会社が監査役設置会社・委員会設置会社であるときは、「著しい損害」ではなく「回復することができない損害」が必要になる。_NEWLINE_このとき、会社にもそれを差し止める権限が当然あると考えられている。しかし経営陣の暴走を会社自身が差し止めることが期待できない場合もあり、そのため360条はそうした取締役の行為を差し止める権利を株主に与えている。この制度を株主の差止請求という。_NEWLINE_この規定は、会社の清算人についても準用されている(482条4項)。また、委員会設置会社では、執行役の行為の差止めとして同様の制度が設けられている(422条)。_NEWLINE_公開会社では、差止請求をすることができる株主に一定の制限がある。すなわち、6ヶ月前から引き続き株式を保有している株主でなければならない。(ただし、定款で6ヶ月を下回る期間を定めることも可能。)これは会社経営の攪乱を狙う者の請求を排除する狙いがあるが、たとえ1株であっても6ヶ月以上それを保有している株主であれば差止請求をすることができる。他方、公開会社でない会社については、この制限はない。_NEWLINE_差止請求は、差止の対象となる行為をしようとしている取締役に対して行う。裁判手続を利用せずに当該取締役に対して差止めを請求することも可能であるが、実効性の点では疑問が残る。そこで、その取締役を被告として差止めの訴えを提起し、必要ならば民事保全法に基づき差止の仮処分を申請するという方法もある。_NEWLINE_株主による差止めの訴えの具体的な内容について会社法上の規定はない。しかし株主代表訴訟と本質的には類似のものである。つまり、差止めの訴えは本来ならば会社が取締役に対して行使すべき差止請求権を株主が会社に代わって行使するのであるから、判決の効果は株主ではなく会社に対して生じる。また、専属管轄等についても代表訴訟の手続が類推適用されると考えられている。ただし、株主代表訴訟においてはまず会社に対して取締役に対する訴訟を提起するよう請求をしなければならないと規定されているが、差止請求の場合には会社への請求をすることなく初めから訴訟を提起することも許される。これは差止請求においては迅速性が要求されるためである。_NEWLINE_差止請求または差止の仮処分があったにもかかわらず、取締役がこれに反して行為を強行する場合もある。そうした行為の効力は本来無効とするべきであるが、会社経営においては利害関係人が多数に上る。そのため、そうした事情について知らない者(善意の第三者)に対しては有効な行為として扱うべきと考えられている。_NEWLINE_なお監査役も同趣旨の差止請求権を持っている(385条)。この差し止め請求権は、「著しい損害」が生じるおそれのある場合に行使することができる。この場合、差止の仮処分を申請する際に担保を提供する必要がないことが定められている。ただし、定款によって監査役の監査の範囲を会計に関するものに限定した場合、監査役にこの権限はない。
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新株発行の差止
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会社が新たに株式を発行する(新株発行)に際しても、株主には差止請求が認められている。すなわち、会社が法令もしくは定款に違反、または著しく不公正な方法によって株式を発行することによって株主が不利益を受けるおそれがある場合、株主はその新株発行について差止を請求できる(210条)。この請求は訴訟を提起せずに行うこともできるが、通常は新株発行差止めの訴えを提起することによって行われる。訴えによって請求を行う場合には、発行差止の仮処分を申請することもできる。この仮処分に違反して行われた新株発行は新株発行無効の訴えによって無効とすることができる(最高裁判所平成5年12月16日第一小法廷判決 民集47巻10号5423頁)。_NEWLINE_新株発行に際し、金融商品取引法により有価証券届出書を提出する義務のある会社においては、払込み期日の25日前までに届出義務が、その他の公開会社においては、2週間前までに通知または公告義務(201条3項・4項)があり、公開会社でない会社においては、株主総会における議決が必要なこと(199条2項)から、このことによって、株主に対する新株発行の差止めの訴え及び仮処分を提起する機会が与えられる。_NEWLINE_なお、新株予約権および新株予約権付社債の発行についても同様の差止請求が可能である(247条)。_NEWLINE_前述の取締役による違法行為等に対する差止請求権が会社の利益を守るための制度であるのに対し、新株発行の差止は株主の個人的利益を守るための制度である。そのことは前者においては「会社」に損害が生じるおそれのあることを要件としているのに対し、後者においては「株主」が不利益を受けるおそれを要件としている点によく表れている。_NEWLINE_「著しく不公正な方法」の具体的な内容について会社法は言及しておらず、解釈に委ねられている。裁判例を見ると、資金調達以外の目的、すなわち特定の株主の持株比率を低下させ、現在の支配権を維持することを主要な目的としてなされた新株発行が「著しく不公正な方法」による新株発行に該当するとして差止の仮処分を認めたものがある(「忠実屋・いなげや事件」東京地方裁判所平成1年7月25日決定 判例時報1317号28頁)。その判決ではたとえ支配権維持が主要な目的でないとしても特定の株主の持株比率低下を認識しつつ行った新株発行にそれを正当化するだけの理由がなければやはり「著しく不公正な方法」として差止の対象になるとしている。_NEWLINE_新株発行の「主要な目的」がなんであるかによって「著しく不公正な方法」にあたるか否かを判断する判決が昭和40年代後半以降に多く出された。その一方で、具体的な資金調達目的があれば差止の対象とならないとした判決もある(大坂地方裁判所平成2年7月12日決定 判例時報1364号104頁)。_NEWLINE_新株が株主以外の第三者に対し、特に有利な発行価額によって割り当てる場合(有利発行という)には、公開会社でない会社であっても株主総会における特別決議が必要である(199条3項、201条1項)。それを経ないで行われた新株発行は法令に違反することになるため、新株発行の差止め請求をすることができる。
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事例
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オートバックスセブンが発行した新株予約権付社債発行をオートバックス社の株主であるSilchester International Investors, International Value Equity Fund社が東京地方裁判所に対し、新株予約権付社債発行差止仮処分の申立てを行った。_NEWLINE_金融・商事判例No.1281/2008年1月1日号によると、東京地方裁判所の決定要旨は、「本件新株予約権付社債の発行が有利発行に該当するとはいえない。」というものであり、Silchester International Investors, International Value Equity Fund社の新株予約権付社債発行差止請求を棄却した。これは新株予約権付社債発行差止の仮処分請求が棄却された初の事例である。_NEWLINE_また、債務者側で算定を行ったのはプルータス・コンサルティングであり、債権者側で算定を行ったのはクレジット・プライシング・コーポレーションである。債務者側の算定人であるプルータス・コンサルティングは本算定において、モンテカルロ・シミュレーションという手法を採用し、債務者の将来株価のシミュレーションを行い、ある一定の前提を置いた発行者(債務者)、投資家の行動の結果、発生した将来の投資家の利益を現在価値に割り戻すという方法で、算定した結果、本件新株予約権単体の価値は、額面金額1億円の社債当たり198万円の算定結果を出した模様である。 | 16143102034914411565 |
Q11536972 |
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桃吐マキル
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経歴
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1994年に調理師免許取得後、『森繁ダイナミック』で小学館新人コミック大賞に入選。同作品でヤングサンデーにて連載。_NEWLINE_2009年には人間大學レコードに所属し、アブストラクト且つプリミティブな心を独自な路線で展開している。 | 3405660163999290644 |
Q6002512 |
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桃源への旅立ち
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背景
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後にフランク・ザッパ・バンドで活動するアラン・ザヴォッドと、後にジェスロ・タルのアルバム『A』(1980年)に参加するマーク・クレイニーが新メンバーとして迎えられた。「新世界発見」はカントリー・ミュージックからの影響を取り入れた曲で、ポンティ自身は後年、TheUrbanMusicScene.comのインタビューにおいて「アメリカに渡ってナッシュビルのフィドル奏者と会って、それをR&Bと融合してみたいと思った」と語っている。
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反響・評価
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アメリカの総合アルバム・チャートBillboard 200では67位に達し、『ビルボード』のジャズ・アルバム・チャートでは2位を記録した。_NEWLINE_Richard S. Ginellはオールミュージックにおいて5点満点中4点を付け「マハヴィシュヌ・オーケストラと同様エレクトリック・ヴァイオリン、ギター、キーボード、ベース、ドラムスという楽器編成だが、ここでは重点の置き所が変化しており、彼自身のヴァイオリンが直接的に押し出されて、共演者達の演奏との対決は抑えめとなった」と評している。 | 11788198440880029975 |
Q11537179 |
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桐原氏
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桐原氏(きりはらし)は、日本の氏族の一つ。
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丹党の桐原氏
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武蔵七党の一つ丹党から派生した氏族の桐原氏である。『姓氏家系大辞典』ではこの氏族の発祥の地を、上野国山田郡桐原村ではないかと推測している。
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概要
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常陸国の佐竹氏の家臣の系譜の一つ、『諸士系図』に桐原氏が見え、佐竹義宣の秋田転封に桐原茂左衛門が随行したと記録がある。また、同じく『諸士系図』別流の桐原氏を載せる。もう一方の桐原氏の本姓は平氏。家系は桓武平氏の祖 高望王の子 平良文の5代目 鎌倉景正(鎌倉氏)の流れを汲む大庭氏の分流で、現在の藤沢市桐原が本貫という。佐竹家臣としての桐原氏がはじめて確認されるのは桐原弥二郎景永であり、天永年間に没したという。景永の子には四子あり、それぞれ弥二郎景広、蔵人秀貞、助進秀兼、太郎右衛門景光といった。景広の一子は須田盛秀より諱を授けられ弥二郎秀景と名乗り、主君 義宣の秋田転封に随行、秋田藩内に采地50石を賜る。秀貞の家系は須賀川城主 須田氏の家臣となり陸奥国須賀川に住んだ。また、秀兼の一子 助之允景綱も秋田に随行し、平鹿郡横手に住んだという。景綱の跡は木村直通の子が養子となり弥十郎景直と名乗ったという。景光の家系は水戸に住んだとされる。 | 5766278356472203028 |
Q304135 |
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桑原城の戦い
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概要
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戦国時代に甲斐国の武田信虎と信濃の諏訪氏は同盟を結び、武田氏は信濃佐久・小県郡への侵攻を行っており、天文9年(1540年)には武田・諏訪、信濃村上義清と結んで信濃小県郡への出兵を行っている。天文10年(1541年)6月に信虎が嫡子・武田晴信らにより駿河に追放されると、武田氏は外交方針の転換を行う。_NEWLINE_天文9年(1540年)の小県郡侵攻で敗北した海野棟綱は上野の山内上杉憲政に援軍を要請し、憲政は信濃への出兵を行う。諏訪頼重は武田・村上氏へ断ることなく単独で上杉氏と講和を行い、領地の割譲を行う(『神使御頭之日記』)。武田氏はこれを盟約違反と見て、諏訪領への侵攻を行ったと考えられている。_NEWLINE_天文11年(1542年)3月には諏訪頼重が信濃守護・小笠原長時と連合して甲斐に侵攻するが、晴信はこれを撃退した(瀬沢の戦い)。このように頼重時代の諏訪家は気候異常によって領内が連年風水害を受け疲弊した中であるにも関わらず軍事行動を続け、その見返りとなる領地も余り拡大せず、利益が少なかったので人心が離れつつあった。_NEWLINE_これにより武田・諏訪両家の関係は悪化し、両家の国境では小競り合いが始まる。晴信は諏訪惣領家に対して不満を抱く諏訪庶家の高遠頼継、諏訪下社の金刺氏らを調略により味方に付ける。そして6月24日、晴信は大挙して上諏訪に攻め込んだ。_NEWLINE_6月29日、晴信は御射山に本陣を置いた。これに対して諏訪軍は7月1日に矢崎原で武田軍と対峙した。武田・高遠軍と対峙するだけの兵力的余裕の無い(諏訪軍の兵力は騎馬150、歩兵700から800人)頼重は、居城の上原城を自ら焼き捨てて支城である桑原城へ後退した。もともと甲斐一国と諏訪一郡の戦いで兵力も権力も、使用できる軍費も異なり、さらに甲斐統一の過程で武田軍は戦闘慣れしており、武田軍の優位は明らかであった。_NEWLINE_武田・高遠連合軍は頼重を追い、7月3日に桑原城下の高橋口に進出しようとしたため、諏訪軍が防衛にあたり、武田軍を追い返した。_NEWLINE_7月4日、頼重は武田からの和睦を申し入れ、晴信はこれを受け入れて頼重の身柄を甲府へ連行した。和睦の条件では頼重の生命は保障されていたとされるが、7月21日に晴信はこれを反故にして頼重とその実弟の頼高を切腹させた。これにより諏訪惣領家は事実上滅亡した。
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戦後
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諏訪家を滅ぼした晴信だが、これが必ずしも諏訪郡全域を平定したというわけではない。諏訪頼重を攻める際に連合した高遠頼継と戦後、諏訪領を宮川を境界にして分割していたからである。しかしこの分割に不満を抱いた頼継はわずか2か月後の9月に上諏訪に侵攻を行ない、今度は晴信と頼継の間で抗争が行なわれることとなる(宮川橋の戦い)。 | 10486320878653856896 |
Q11538178 |
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桜真澄
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桜 真澄(さくら ますみ、10月15日 - )は、日本の漫画家である。血液型O型。
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人物
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大阪芸術大学芸術学部デザイン学科を卒業。大学卒業後、コナミコンピュータエンタテインメント大阪(後のコナミ株式会社)、ソニー企業株式会社(ソニーグループ)での勤務を経験。_NEWLINE_2004年『四季物語』で第1回大阪芸術大学新人漫画賞小池賞佳作を受賞し、漫画家デビュー。_NEWLINE_10代の頃に映画監督大林宣彦より映画出演のスカウトを受けた経験をエッセイ漫画で公表している。_NEWLINE_少女漫画でデビューしたが、里中満智子から「静寂でありながら胸が熱くなるストーリーを構成できる」との評価。 | 11727198725853901783 |
Q17686624 |
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桜菜々美
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略歴・人物
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千葉県出身。2012年4月13日に“KMP史上No.1アイドル”のキャッチフレーズでAVデビュー。所属事務所はエルプロモーション。_NEWLINE_2012年7月26日の公式ブログにて、長期療養のため引退することを発表。 | 13338350097142983619 |
Q11538228 |
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桜鍋
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桜鍋(サクラ鍋、さくらなべ)は、馬肉(桜肉)をすき焼きのようにして食べる鍋料理のこと。味噌仕立てで馬肉を煮る桜鍋は、明治初期から続く東京の伝統料理である。精力をつける料理なので吉原など色街の近くに多かった。馬肉の生産地である青森県や長野県、熊本県にも同じ料理がある。また、馬肉をしゃぶしゃぶの要領で食すこともある。_NEWLINE_東京下町に流行していた鍋料理の一つである。 | 16224624456072806469 |
Q26043916 |
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桝本セツ
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桝本 セツ(ますもと せつ、1912年2月 - )は、ロシア語翻訳家、政治運動家。岡邦雄の愛人として知られる。_NEWLINE_長崎生まれ。節子とも。父は造船技師の桝本卯平、母は長崎の料亭で働いており、三歳の時に死去。日本女子大学附属女学校卒、東京女子高等師範学校中退。朝鮮京城で二年間ロシア語を学び帰国。唯物論研究会に入り、1936年妻のある岡邦雄と恋におち、アパートに同棲。38年ともに治安維持法違反で検挙される。42年男児、44年女児を生む。1946年岡と日本共産党に入る。57年離党。71年岡が死去する。 | 4481034030399355126 |
Q11115053 |
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梅澤捨次郎
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梅澤 捨次郎(うめざわ すてじろう、新字体:梅沢 捨次郎、1890年(明治23年)12月1日 - 1958年(昭和33年)4月29日)は石川県出身の建築家。日本統治時代の台湾で数々の公共建築物の設計を手がけ、多くは文化資産として現在も活用されている。2000年代以降にアニメーション作家、アニメ監督として活躍している吉浦康裕の曾祖父にあたる。
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人物
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1890年(明治23年)12月1日、石川県石川郡鶴来町(現・白山市)の士族のもとで出生。_NEWLINE_元は秋田姓だった。本籍は同県金沢市広阪通。_NEWLINE_1907年(明治40年)、測量人員として県に就職するが、翌年東京の私立工手学校(現・工学院大学)建築科入学のため離職。同時に大日本帝国陸軍の陸地測量部地形科に職員として在籍。_NEWLINE_1910年(明治43年)に陸軍第一師営経理部営繕課。1911年(明治44年)2月12日に卒業し同年10月8日に台湾へ渡航する。_NEWLINE_台湾総督府土木部へ着任し、営繕課に配属。_NEWLINE_1917年(大正6年)3月31日に総督府技手として民政部土木局営繕課勤務。その後梅澤は1922年(大正11年)8月1日より台北高等商業学校新営工事主任に、翌年工事部営繕係で摂政宮(昭和天皇)が皇太子時代に行った台湾行啓の奉迎準備に携わり、1924年(大正13年)12月25日より台湾総督府官房会計課と営繕係に勤務する。_NEWLINE_1928年(昭和3年)、台湾総督府交通局鉄道部技手を兼任、1929年(昭和4年)2月20日に免官。5月12日より官房営繕課へ。_NEWLINE_1930年(昭和5年)2月3日より台南州地方技師となり内務部土木課に配属、1931年から1933年の間は台湾建築会台南州支部長を兼任。この期間中に台南警察署庁舎と末広町商店住宅設計に携わる。_NEWLINE_1934年(昭和9年)7月、台湾総督府専売局庶務課技師に転任、官六等を授章。1942年(昭和17年)2月13日に依願退職。_NEWLINE_当時の台湾総督だった長谷川清は専売局長代理佐治孝徳の上申書により、「正五位」授与ならびに官職を四等から三等への昇格を以って功績を称えた。また、その功績のため奨金3,960円が給付された。_NEWLINE_専売局在任中は各地の局施設建築設計も担当している。_NEWLINE_戦後もしばらくは台湾に残留していたが、1955年(昭和30年)に健康上の理由に帰国。台湾からの再渡航要請もあったが病状の悪化により拒否したまま1958年(昭和33年)4月29日に病死。
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師弟関係
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高等法院(現・司法院司法大廈)などを手がけた井手薫は営繕課課長として梅澤とは上司部下の関係だった。_NEWLINE_井手は台湾建築会会長でもあり、末広町住宅では技術的に協力しただけでなく、台南警察署設計では技術顧問を務めるなど、梅澤とは相当親密な関係を築いていた。 | 16613878636773406401 |
Q16769811 |
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梅田邦夫
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梅田 邦夫(うめだ くにお、1954年(昭和29年)3月10日 - )は、日本の外交官。外務省国際協力局長を経て、2014年(平成26年)1月28日からブラジル駐箚特命全権大使、2016年(平成28年)10月21日からベトナム駐箚特命全権大使。 | 11608508589053009361 |
Q11539519 |
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森岡信年
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生涯
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文禄3年(1594年)、津軽氏の重臣森岡信元の嫡男として誕生。慶長5年(1600年)、父・信元が久渡寺(現弘前市郊外)で殺害されると、その死を病死として届け、母と共に小沢の館より追小野木に移住した。慶長14年(1611年)に城下の馬屋町に移住し、元和7年(1621年)300石を与えられた。後に500石に加増となり、寛永17年(1640年)には家老となった。同17年には700石となり、慶安4年(1651年)、死去した。 | 16861212544965865337 |
Q3324063 |
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森狙仙
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森狙仙(もり そせん、1747年(延享4年) - 1821年8月18日(文政4年7月21日))は日本の江戸時代後期の絵師。通称は八兵衛、名を守象、字は叔牙。号としては祖仙、如寒斎、霊明庵、屋号の花屋も用いた。_NEWLINE_狩野派や円山応挙などの影響を受けながら独自の画風を追求し、養子森徹山へと連なる森派の祖となった。主として動物画を描き、とりわけ得意とした猿画の代表作として『秋山遊猿図』がある。
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生涯
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森狙仙の生涯については残された資料が少なく、かなりの部分が不明である。1747年(延享4年)、絵師の森如閑斎という絵師の三男として生まれる。兄に、森陽信、森周峯がいる。出生地については大阪説、西宮説、長崎説がある。いずれの説をとるにせよ、大阪を中心に活動した。はじめ、勝部如春斎について狩野派の技術を学び、如寒斎と号した。天明4年(1784年)師の如春斎が没するあたりから、沈南蘋や円山応挙の影響を受けて画風を変え、写実を重視するようになり、猿画の名手として評判が高くなったと考えられる。天明8年(1788年)成立と推定される大田南畝『巴人集拾遺』に、「徂(原文ママ)仙猿画」という狂詩が載っている。_NEWLINE_還暦を迎えた文化4年(1807年)にそれまで「祖仙」としていた号を「狙仙」と改める。1802年に刊行された莚破居士著『浪華なまり』に紹介される、文化11年1814年(申年)には柿本神社に絵馬を奉納する。1821年(文政4年)、大阪で没した。墓所は易往山西福寺(大阪市北区)にある。_NEWLINE_次兄である森周峯の子であり円山応挙の高弟でもあった森徹山を養子に迎えた。徹山の後に森一鳳、森寛斎が続き、森派と称される。弟子に森春渓、中殿暁園など。
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作品
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残されている作品のうち、90%以上は猿の絵と言われる。柔らかな体毛の質感を表現する技術、個々の猿の生き生きとした表情やユーモラスな仕草を描く構成力、巧妙な擬人化による親しみやすさなど狙仙ならではのものである。猿画に習熟するにあたって、猟師に生け捕りしてきてもらった猿を観察して猿画を書いたが、それでは自然そのままの猿を知ることができないと知人に指摘されたため、山野で猿を観察することに数年を費やしたという伝説がある。他にも鹿・狸・猫・虎などの動物画にも秀逸なものが少なくない。反面、山水画や人物画は殆ど無い。_NEWLINE_2006年12月現在、『秋山遊猿図』が重要美術品に認定されているのを除き、国の重要文化財以上の指定を受けている作品はない。地方自治体の文化財として保護されているものとしては大阪府指定の『紫雲寺本堂内陣鳥獣画』、明石市指定の『猿の図絵馬』がある。『雨中桜五匹猿図』は2005年の切手趣味週間にちなむ80円郵便切手の図案に採用された。 | 16892702677611418322 |
Q10342182 |
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楊沛
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楊 沛(よう はい、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代魏の政治家。字は孔渠。馮翊郡万年県の人。『魏略』では賈逵・李孚とともに立伝されていた。
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生涯
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初平年間(190年〜194年)に公府の史令に、転じて新鄭の長に任じられた。_NEWLINE_興平の末ごろ、飢餓に苦しむ農民たちに策を授けて飢えを止め、むしろ穀物を千石程度を備蓄させた。曹操が兗州刺史として天子を奉戴しに向かう途中に曹操ら千人余りの食料が尽きた。ちょうど新鄭を通ったときだったので、楊沛は曹操に謁して備蓄の食料を振舞った。曹操は大いに喜んだという。_NEWLINE_曹操が朝廷を牛耳ることになると楊沛は長社の令に昇進した。当時、曹洪の食客が県の境におり、規則通りの納税をしなかった。楊沛はまずその者の脚を叩き折り、結局殺してしまった。これを知った曹操は楊沛を有能だと判断した。九江・東平・楽安の太守を歴任し、いずれの地でも治績を上げた。_NEWLINE_曹操は遠征で譙にいた際、鄴で禁令を無視するものが多いと聞き及んだので鄴の令を選出した。厳格有能な点において楊沛に及ぶ者はないと考え、曹操は督軍と揉めて髠刑(髪を剃る刑罰)五年に処されていた楊沛を抜擢した。曹操が楊沛に問うて曰く「どうやって鄴を治めるか」楊沛、「心力を尽くして法律を徹底させます」。曹操はこれを聞いて満足し、振り返って周りの人々に言った、「諸君、この男は手ごわい」。そして曹操は楊沛を激励するのと以前の恩を返すため、奴隷十人と絹百匹を与えた。_NEWLINE_楊沛が鄴に着任するより前に楊沛の名を畏れた曹洪・劉勲などは人を走らせて自らが養う食客に品行を改めるように通達した。楊沛は鄴の令を数年務め、功績と能力によって護羌校尉に転任した。_NEWLINE_建安16年(211年)、馬超征伐に従軍した。孟津の渡河作戦を指揮した。曹操が渡り終えて他の諸将がまだ渡り終えていないときに、既に渡っていた中黄門(宦官)が忘れものがあったのでひっそりと引き返して取りに行き、それを持って役人に小舟を要求して先に一人で渡ろうとした。役人は承知せず、諍いが起こった。楊沛が黄門に書付の有無を尋ねると、黄門は持っていないと答えた。楊沛は腹を立てて言った「どうしてお前が逃げ出さないとわかるのか」。楊沛は人に黄門を拘束させ、杖を与えて殴らせようとしたが、黄門は衣服をボロボロにしながら曹操の下へ逃げ込んだ。黄門は楊沛の仕打ちを訴えたが、曹操は「殺されなかっただけ幸運だと思え」と言った。これにより楊沛の評判は響き渡った。_NEWLINE_関中平定の後、張既の後任として京兆の尹になった。_NEWLINE_黄初年間(220年〜227年)は儒学の教養のある者が登用され、事務能力によって身を立てた楊沛は結局のところ議郎として町を散歩して暇を潰すだけだった。_NEWLINE_何度か郡県の長を歴任したが、個人的利益は一切求めなかった。また、高位の人物に追従することもなかったので引退したときは家に余計な備蓄はなかった。家で病気の療養をした。官舎から小僧を借り、それ以外に召使はいなかった。のちに河南几陽亭にある荒田を買って小屋を建て、その中で寝起きした。妻子は寒さと飢えに苦しんだ。楊沛は病気で亡くなり、郷里の親友や故吏、領民たちが葬式をあげた。
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逸話
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新鄭の長をしていた際、楊沛はある人から「八月一日に曹公(曹操)がお越しになり、君に杖を渡して薬酒を飲ませてくださるだろう」と告げられる夢を見た。これを夢占いの周宣に占わせたところ、周宣は「杖は弱者を立たせるもの、薬は人の病を治すもの。八月一日になればきっと賊徒どもは必ず滅ぼしつくされるでしょう」と答えた。その時になると実際に賊徒らは敗れ去った。 | 8832754727044644772 |
Q43427119 |
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楠木あると
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楠木 あると(くすのき あると)は、日本の漫画家。_NEWLINE_東京都出身。_NEWLINE_1988年春のアフタヌーン四季賞に楠本あると名義『アルバイター新子』が佳作入賞。_NEWLINE_成蹊大学文学部在学中に『モーニングパーティー増刊』(講談社)でデビューした。その後、大学は卒業。_NEWLINE_講談社の雑誌での連載が多いが、2011年頃より『グランドジャンプ』(集英社)などでも連載する。 | 8737468687278461259 |
Q1390935 |
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構造的暴力
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構造的暴力(こうぞうてきぼうりょく)は、国際政治学および平和学の概念の一つ。_NEWLINE_暴力行為を誘発する原因が明確な個人や集団に特定できないような社会構造を原因とする暴力の形態である。_NEWLINE_暴力の形態には物理的なものから心理的なもの、行為主体が個人に特定可能なものから集団的なものまでさまざまに考えられる。その中で行為主体が不明確であり、間接的・潜在的にふりかかる暴力の形態を構造的暴力と呼ぶ。具体的には貧困・飢餓・抑圧・差別・愚民政策などがこれに当たる。_NEWLINE_構造的暴力と対置される暴力、すなわち行為主体がいる暴力は、直接的暴力という。戦争は直接的暴力の一種でひときわ大規模なものである。この理論のもとでは、平和とは暴力がない状態であり、直接的暴力がない状態は消極的平和、構造的暴力がない状態が積極的平和である。
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広義の暴力と構造的暴力
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構造的暴力という用語は、1969年にノルウェー人の平和研究者ヨハン・ガルトゥングが提唱した。ガルトゥングは論文「暴力・平和・平和研究」において、望ましい、追求すべき目標としての平和概念を作るために、その反対である暴力の概念を大きく広げようとした。_NEWLINE_狭い定義では、力を直接行使して他人の肉体を損傷させることだけが暴力となるが、その場合、たとえば威嚇によって間接的に人に危害を与えるのは暴力に含まれない。間接的な危害が常態化したような社会の維持を、望ましい平和として追求するわけにはいかない。その種の様々な疑念を払拭できるように大きく拡張したのが、「ある人にたいして影響力が行使された結果、彼が現実的に肉体的、精神的に実現しえたものが、彼のもつ潜在的実現可能性を下まわった場合、そこには暴力が存在する」という暴力の定義である。_NEWLINE_構造的暴力は、ガルトゥングがこの暴力を様々な側面から分類した中の一つで、もっとも著名なものである。構造的暴力とは、暴力を行為する主体が存在しないような暴力である。たとえば、不平等な社会において、貧困のせいで人の生存が危ぶまれている場合、危害を与えている人を名指しすることはできないが、構造的暴力がある。ガルトゥングは行為主体がいない暴力を構造的暴力または間接的暴力、行為主体がいる暴力を個人的暴力または直接的暴力と呼んだ。ガルトゥングは集団的で大規模な暴力までも個人的暴力と呼ぶが、その用法は普及せず、諸学者が構造的暴力と対にするのは直接的暴力である。_NEWLINE_構造的暴力は、平和のための研究・実践が立ち向かうべき課題を明らかにするために作られた概念であり、因果関係を直接示すものではない。たとえば、直接的暴力はすべて構造的暴力に根ざしているとか、構造的暴力の解決のほうが直接的暴力の除去より重要だ、といった結論は導き出せない。その逆に、直接的暴力のほうが構造的暴力より重大だといった主張も正しくない。重要性の軽重や因果関係は個別的には当然あるが、殴り合いから核戦争まで含む直接的暴力と、政治的抑圧から経済的不平等まで含む構造的暴力を、全部まとめてどちらが上か下かと論じるのは無理というものである。
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平和研究への影響
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構造的暴力の概念は、平和研究(平和学)の対象を、貧困と抑圧の問題にまで大きく押し広げることに貢献するものであった。戦争と構造的暴力を、世界的な取り組みを必要とする二大課題とする考えは、平和学の基礎となっている。21世紀に広まった人間の安全保障の構想も、同じ関心を継承するものである。 | 3164808453325490171 |
Q11542018 |
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槻川
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地理
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秩父郡東秩父村白石地区の堂平山付近に源を発する。「新編武蔵」によると源流点に欅(槻)の大木があったのでこの名がある。外秩父山地に平行して北流するが、坂本地区で支流の大内沢川を合流する辺りより、流れを東南東方向から東方向に向きを変える。安戸地区を過ぎると小川町腰越地区へ入り、南から北へヘアピンカーブ状に穿入蛇行しながら小川盆地へ向かう。小川町は槻川の清流を生かした小川和紙(細川紙)の生産地として知られている。_NEWLINE_兜川と合流し、小川盆地を抜けると次第に狭窄な地形となり谷底平野を大きく蛇行する。太平山の麓では南へ北へヘアピンカーブを描くように曲流し、長瀞の様な結晶片岩の岩畳を縫って流れる渓谷の様相を見せる。この付近の槻川は嵐山渓谷と呼ばれる景勝地で、周辺の緑地に関しては1997年、「さいたま緑のトラスト基金」により県と嵐山町が取得し、みどりのトラスト保全第3号地「武蔵嵐山渓谷周辺樹林地」に指定されている。渓谷を抜けると東へ直線的に流れ、嵐山町鎌形で都幾川の左岸に合流する。_NEWLINE_合流点までの河川延長は、山地を挟みすぐ南側を流れる水源がほぼ同じな都幾川とは大差はない。また、河床勾配が急な河川で地形に沿って頻繁に屈曲を繰り返して流れている。_NEWLINE_また、埼玉県の水辺再生100プラン事業の下、河岸が整備された親しみやすい川へ向けた事業が随所で行われている。 | 9148168806398416946 |
Q48760441 |
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横山四郎
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横山 四郎(横山 四朗、よこやま しろう、1893年(明治26年)11月13日 - 没年不明)は、日本の地主、政治家・神奈川県議会議員、横浜市会議員、神奈川県多額納税者、実業家。鶴見青果社長。第85代神奈川県議会議長横山哲夫の父。
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人物
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神奈川県橘樹郡旭村(現・横浜市)出身。横山秀民の長男。1916年、東大農科実科を卒業。日本大学法科卒業。農業を営み、地主である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は謡曲、旅行。宗教は禅宗。 | 3518892435229850951 |
Q48745404 |
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横浜市の農業
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横浜市の農業(よこはましののうぎょう)。本項では、横浜市における農業の歴史と現況について述べる。_NEWLINE_一般に「ミナト・ヨコハマ」のイメージのある横浜市であるが、郊外には台地上の畑や河川に沿った水田、住宅地の合間の市民農園などがあり、野菜や果実、花卉、畜産など多彩な農業生産が行われている。横浜市内には2016年(平成28年)現在、市内18区のうち西区を除く各区に合計3,047haの農地があり、これは市域の総面積の約7%を占める。2015年(平成27年)度の農林業センサスによると、市内の農家の戸数は3451世帯(そのうち、作物の販売を行う戸数は2029世帯)、農業就業人口は4,482人である。2006年(平成18年)度の統計では、横浜市の農業産出額は約101億円である。その構成は野菜62%、果実10%、豚7%、花卉6%、イモ類・乳用牛各4%、その他7%で、野菜類の生産が大きな比重を占めている。
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歴史
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農耕文化が横浜市域に根付いたのは弥生時代中期で、鶴見川流域に大規模な集落が形成されたと考えられている。河川沿いは水害、谷あいの田は旱魃の影響を受けやすく、農業生産性は高くなかった。江戸時代初期には吉田新田をはじめ大規模な新田開発が行われた。1859年に横浜港が開港し、外国人が居住を始めると自給自足的に西洋野菜の栽培を始めた。1862年(文久2年)にラザフォード・オールコックが著した『大君の都』によると、エドワード・ローレイロがレタスや芽キャベツ、パセリなどの菜園を起こしたとある。1860年(万延元年)に神奈川奉行所はアメリカ麦を試作。1863年(文久3年)には末吉町(現在の中区)でキャベツやセロリ、ニンジン、ラディッシュ、トマト、サヤエンドウ、イチゴの生産を始める。同じ年には、現在の中区山下町で、千葉県出身の前田留吉により日本初の牛乳の生産販売が始まった。この頃より根岸村(現在の中区と磯子区にまたがる一帯)でセロリやキャベツ、1866年(慶応2年)頃より子安(現在の神奈川区)周辺でセロリの栽培が始まった。明治に入ると鶴見川・境川・帷子川流域を中心に養蚕業が発展した。明治末から大正にかけては、交通の発達により鶴見区や神奈川区で農地の宅地への転用が見られた。昭和10年代には磯子区栗木でカーネーションやスイートピーなど花卉の温室栽培が行われていたが、横浜大空襲で焼失した。笹下釜利谷道路の「温室前」のバス停留所名(江ノ電バス、京浜急行バス)がその名残である。第二次世界大戦後は農地から住宅地や工業用地への転用が急速に進み、1950年には8665戸あった専業農家は、1960年には4436戸に半減した。市では農地保全のため山内(酪農)、菅田(植木)、新羽町(園芸)、瀬谷町(水田)、中和田(養豚)を農業モデル地区に指定。翌年には寺家・野庭町(園芸)、都田町(養豚)、原宿(植木)、汲沢(酪農)を追加指定した。
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横浜野菜・果実
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横浜市の農業生産の主力は野菜類で、作付け面積は農地面積の約7割、産出額ベースで62%を占める。2006年(平成18年)度の野菜の生産量は59,658トンで、収穫量の多い品目にはキャベツ12,900トン、ダイコン6,590トン、ホウレンソウ4,200トン、トマト4,040トン、コマツナ3,700トン、ジャガイモ2,130トン、ナス1,110トン、ニンジン991トン、枝豆766トン、カリフラワー504トンなどがある。このうちホウレンソウ、コマツナ、枝豆、カリフラワーは神奈川県内の市町村ごとの収穫量では1位。コマツナは日本全国の市町村ごとの生産量で1位となっている。キャベツは神奈川区、キュウリは戸塚区・泉区・都筑区、コマツナは都筑区・港北区・戸塚区、ホウレンソウは都筑区、ニンジンは瀬谷区での栽培が盛んである。_NEWLINE_果実生産量は1,997トンで、日本梨1,440トン、柿230トン、梅110トン、栗90トン、ブドウ64トンなどとなっている。このうち、日本梨と栗は、県内の市町村ごとの収穫量では1位である。市内の認定農家が生産した梨は「浜なし」の地域ブランドで販売される。品種は豊水、幸水、新水が主である。主な産地は緑区、青葉区、都筑区、港北区、泉区、戸塚区で、栽培面積は70ha。市場に出回ることはまれで、多くが直売や宅配で販売される。ブドウの品種は藤稔、ピオーネ、竜宝、紅伊豆が主で、主な産地は港北区、都筑区、緑区、戸塚区、泉区、港南区。栽培面積は12haである。ブルーベリーやミカン、イチジクの収穫体験ができる農園もある。_NEWLINE_横浜野菜の流通において、直売の比率が比較的高いことが特徴の一つである。市内で生産される野菜のうち農産物直売所で販売されるものが約4割、市場を通すものが約5割である。横浜市環境創造局農業振興課の調査によると、横浜市内に有人の直売所が約900軒、無人直売所やJAの協同直売所を含めると1000ヶ所を越える直売所がある。これには、農業人口が高齢化し、市場まで運ぶことが困難であること、生産者が自由に価格を決定できること、都市農業であり生産地と消費地が近接していることが理由として挙げられる。
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米穀
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横浜市内でのコメや小麦の生産は、野菜に比較すると盛んではない。市北部の鶴見川・恩田川、南部の境川・柏尾川の流域が主なコメの産地で、作付け面積は約166ha。これは、市内の農地面積の約6%ほどである。品種はキヌヒカリ、さとじまん、コシヒカリが主で、生産量は756トン。多くが自家消費されるが、一部は直売所で販売される。小麦は青葉区や保土ケ谷区、旭区、戸塚区で生産され、多くは自家消費されるが青葉区と保土ケ谷区で生産されるうち一部は「田奈うどん」「ハマっ子うどん」に加工され、JAより販売されている。
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酪農・畜産
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2010年(平成22年)度の調査では、市内で乳牛・肉牛を飼育している農家24戸、養豚農家12戸、養鶏農家は10戸ある。横浜産の豚肉は学校給食で使い残した食材を飼料に使用しているのが特徴で、「はまぽーく」のブランドで販売されている。神奈川県産の、肉質等級A5・A4・B5・B4以上の牛肉は「横濱ビーフ」のブランドで販売されている。横浜市内の横濱ビーフ生産農家は5戸ある。横浜は日本の牛乳発祥の地であり、昭和40年代には酪農家戸数504戸、飼養頭数5100頭に登ったが、2015年度末には14農場で、約300頭が飼育されている。戸塚区や瀬谷区にはアイスクリーム工房やカフェが併設されている牧場がある。
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花卉・植木
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横浜では開港以来、花卉園芸や植木の生産も盛んである。パンジー、ニチニチソウは栽培農家数・栽培面積とも全国1位、シクラメンとペチュニアは栽培農家数で全国1位であった。神奈川区と金沢区(横浜南部市場)には生花の卸売市場が開設されている。
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農業協同組合
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市内には2000年代初頭までは横浜北・横浜南・横浜中央・保土ケ谷・鶴見・田奈の6つの農業協同組合があった。このうち田奈を除く5つの組合は2003年に合併し、横浜農業協同組合(JA横浜)となる。2015年にはJA横浜と田奈農業協同組合が合併した。JA横浜では、管内で収穫された野菜等を「ハマっ子」のブランドで販売している。
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農体験
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戸塚区の舞岡ふるさと村ではタケノコやサツマイモの収穫体験や干し柿つくりができ、併設の直売所では野菜や漬物、地元産の豚肉を使ったハム・ソーセージや精肉の販売を行う。青葉区の寺家ふるさと村では味噌づくりやそば打ちの講習会を開催している。田奈・新治・都岡の「恵みの里」でも米作り体験などのイベントを開催している。_NEWLINE_特定農地貸付法に基づいた区画貸しの市民農園(特区農園)は2016年(平成28年)3月末現在215農園27.6haが開設されている。このほか、農家の栽培指導のもと農作業体験ができる栽培収穫体験ファーム(62農園 9.0ha)、市民農園整備促進法に基づきJA横浜が500区画運営する「柴シーサイドファーム」などがある。 | 268148900599585628 |
Q11543435 |
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横穴式石室
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横穴式石室(よこあなしきせきしつ)とは、日本においては、古墳時代後期に古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓室のことをいう。_NEWLINE_イギリスの古墳(羨道墳、Passage grave)などヨーロッパやインドなどでも普遍的に見られる墳丘墓の内部施設であるが、特に日本の場合は、古墳時代前期の粘土槨による竪穴式の墓室や竪穴式の石室に対する概念として、中国の塼槨墓(せんかくぼ)の影響を受けながら、新羅などの朝鮮半島諸国や日本で発展・盛行した横穴式の古墳内部施設としての墓室を指す概念である。_NEWLINE_高句麗の影響が、5世紀頃に百済や伽耶諸国を経由して日本にも伝播したと考えられ、主に6~7世紀の古墳で盛んに造られた。奈良県の石舞台古墳のような巨石を用いるもの(石舞台の場合は墳丘が喪失している)が典型的であるが、中国の塼槨墓を意識したような切石や平石を互目積(ごのめづみ)にした磚槨式石室と呼ばれるものもある。 | 16443945433171819605 |
Q11543796 |
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橋本ひろしの日本元気劇場!
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橋本ひろしの日本元気劇場!(はしもとひろしのにっぽんげんきげきじょう)は2009年4月から9月までTOKYO FMなどで放送されていたラジオ番組。
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概要
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放送開始の前月まで放送されていた「橋本ひろしの世の中は口に出してはいけないことで成り立っている」はTOKYO FMローカルだったが、この番組は6局ネットに拡大して放送されている。_NEWLINE_設定は、六本木にある架空の劇場「日本元気劇場」が舞台で、観客がラジオの前のリスナー、キャパシティは3000万人、橋本ひろしが毎週観客に元気をブチ込んでいるというもの。_NEWLINE_番組では橋本ひろしのライブ音源が放送されている。_NEWLINE_CMは流れないが、この番組はスポンサード番組であるため、放送地域は東京、大阪と橋本ひろしの出身地の長野と日本元気劇場(石川県加賀市のテーマパーク)が所在する北陸に限られている。レギュラー放送時間が特別番組編成になる場合も休止にはならず、日時を変更して放送された。 | 17288238941849513882 |
Q11544102 |
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橋爪勇樹
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来歴
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小学校4年でサッカーを始める。中学・高校時代は上田ジェンシャン、創造学園大学附属高校でそれぞれプレーした。2009年、ヴァンフォーレ甲府と業務提携を締結した山梨学院大学の強化育成1期生として同大学に入学。チームは東京都大学サッカーリーグ3部からスタートしたが、2010年に2部、2011年に1部へ昇格。FWとしてチームを牽引し、2011年にはリーグ戦の得点王とMVPを獲得した。_NEWLINE_2013年より、大学の業務提携先であるヴァンフォーレ甲府へ入団。同年4月、FWから右サイドバックにコンバートされた。 | 2075233356856445944 |
Q1347206 |
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機動揚陸プラットフォーム
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概念と設計
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アメリカ軍が基地から離れた地点に大規模な強襲揚陸作戦を行う際に、ウェルドックとLCACを備える従来の強襲揚陸艦では艦の数と規模が限られ小規模な作戦しか行えない。大規模な揚陸作戦は港湾を利用する必要があるが、多くの場合は外国の領土であり政治的な問題が避けられない。そこで海上に兵站基地を設けるシー・ベイシング(英: seabasing)の概念が提唱されるようになった。海兵隊の装備を積み即応体制にあるRO-RO船タイプの海上事前集積船隊輸送艦からLCACやヘリコプターなどへ兵員や装備を移動させることができれば従来の問題を解決できる。このために導入されるのがMLPである。兵士や装備は喫水の深い大型輸送艦から、「海上の桟橋」として機能するMLPを介して直接揚陸作戦を行うLCACやヘリコプターに乗り換え任務に向かうことになる。_NEWLINE_ジェネラル・ダイナミクスによる初期デザインでは、6隻のLCACを備え2隻のLCACを同時に運用(ドック入り、荷下ろし、積み込み、発進)できるものだった。輸送艦からMLPへの移動には折畳式ランプを持つカーゴテック(Cargotec)社のテスト・アーティクル・ビークル・トランスファー・システム(英: Test Article Vehicle Transfer System)が予定されていた。この設計案のMLPは旅団規模の兵力を収容でき、速力は20ノット (37 km/h; 23 mph)で最大航行距離は9,000海里 (17,000 km; 10,000 mi)、1隻あたりの建造費は15億ドルと見積もられていた。_NEWLINE_将来の予算削減が不可避となったため2009年に計画は縮小された。ジェネラル・ダイナミクスは子会社のナショナル・スチール・シップビルディング社(NASSCO)が建造しているアラスカ級石油タンカーを元にした設計を提案した。FOFO船(英: float-on/float-off ship)であるためLCACの発着艦のために甲板高さを調節できる。広く低い中央甲板に車両待機エリアとサイドポート・ランプ、防舷材、LCACレーンを備える。コスト削減のために輸送艦との車両移動についてはテスト・アーティクル・ビークル・トランスファー・システムの採用は中止されサイドポート・ランプに変更し、ヘリコプター運用能力も削除、さらに装備するLCACも3隻に削減された。載貨重量トン数は60,000メトリックトン以上になる。1隻あたりの建造費は5億ドルとなる。
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概念実証試験
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2005年にアメリカ海軍はMLPの概念実証試験の実行を認可した。重量物運搬船のマイティ・サーヴァント1をMLPに、RO-RO船のワトソン級車両貨物輸送艦USNSワトキンズを海上事前集積船隊向けに計画中の新型艦に見立てて実験はおこなわれた。ワシントン州ピュージェット湾で予備的な試験がおこなわれた後二隻はサンディエゴ沖に移動し、荷がワトキンスからマイティ・サーヴァント1、さらにLCACへ移された。マイティ・サーヴァント1の喫水はLCACが海面上に発進出来るよう調整された。_NEWLINE_二回目の試験はバージニア州ノーフォーク沖でUSNSレッド・クラウドとマイティ・サーヴァント3を用いて2006年におこなわれた。2010年にはメキシコ湾においてマイティ・サーヴァント3とUSNSソダーマンを用いて試験された。波高が最大シーステート4の環境において、テスト・アーティクル・ビークル・トランスファー・システムと輸送船のランプ両方を用いて人員やハンヴィー、M1エイブラムスなどの装備を輸送艦からMLPを経由しLCACに移す作業がおこなわれた。
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建造
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2010年8月にNASSCOはMLPの設計と初号艦を建造する契約を獲得した。艦の建造は2011年7月にサンディエゴのNASSCO工場で開始された 。2015年に就役する予定。_NEWLINE_機関システムはフランスのコンバチーム(英: Converteam)が受注した。_NEWLINE_二号艦、三号艦の建造もNASSCOが受注しており発注は2013年および2015年に予定されている。三号艦は2018年に就役する。_NEWLINE_2011年1月に建造が予定されている3隻の艦名が公表された。キャンプ・モントフォード・ポイントはノースカロライナ州の海兵隊基地で1942年から1949年の間に20,000人の黒人兵士を訓練した。ハリー・S・トルーマン大統領はこれらの黒人兵士を高く評価し、軍隊における人種差別を1948年に公式に撤廃した。最近になってこれらの兵士全体に対して議会名誉黄金勲章が授与された。ジョン・グレンは海兵隊大佐、パイロット、宇宙飛行士で上院議員。ルイス・B・プラーは海兵隊中将で唯一の五度の海軍十字章受賞者。_NEWLINE_なおネームシップのモントフォード・ポイントは2013年に竣工しており、同年5月に軍事海上輸送司令部に配備された。
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活動
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モントフォード・ポイントは、2014年6月26日から8月1日にかけて実施されたリムパック2014に、遠征用高速輸送艦ミリノケット(JHSV-3)、沿海域戦闘艦コロナドといった新造艦w隻とともに参加。リムパック演習の一環ながら、カリフォルニア州沖の演習海域において海兵隊と共に訓練を実施した。 | 16517058390913316365 |
Q38279309 |
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機械振興協会
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概要
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1964年(昭和39年)8月24日に機械工業界の総意と協力によって設立された。_NEWLINE_経済研究所と技術研究所での事業を軸として機械産業の発展振興に携わり、事務局と経済研究所は機械振興会館内に、技術研究所本所は東久留米市にある。機械振興会館やBICライブラリの運営、調査研究事業、優れた技術開発成果を表彰する「機械振興協会賞」の実施などをおこなっている。
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組織
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機械振興協会は、事務局、経済研究所、技術研究所からなる。
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経済研究所
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機械工業関連のリサーチライブラリであるBICライブラリは、機械振興会館地下1階にて運営されている。
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技術研究所
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1964年(昭和39年)の機械振興協会設立に伴い、機械総合研究所から技術研究所と改称した。
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主な事業
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機械振興協会における事業については、2010年(平成22年)度以降、公式ウェブサイトから「事業報告書、財務諸表及び収支計算書」を入手することが可能である。 | 5268413656180718844 |
Q161549 |
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欧州石炭鉄鋼共同体
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概要
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欧州石炭鉄鋼共同体はシューマン宣言に基づき、1951年のパリ条約により設立された。条約の調印にはフランスとドイツ(当時は西ドイツ)だけでなく、イタリアとさらにオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス3か国も加わった。欧州石炭鉄鋼共同体の発足によりこれらの調印国の間で石炭と鉄鋼の共同市場を創設することが企図されていた。欧州石炭鉄鋼共同体は加盟国政府の代表、議会の議員、独立の立場にある司法の監督を受ける最高機関の下で運営がなされた。_NEWLINE_1956年、石炭価格規制が解除されて加盟国間で価格が自由化された。自由化直後は、翌年に連邦議会選挙を控えて、ゲオルクを解散するなどして石炭価格は低く抑えられていた。選挙が済むやいなや、炭鉱会社は価格の引き上げをECSCの高等機関へ一斉に働きかけた。価格は据え置かれて、石炭需要側はアメリカ炭に切り替え出した。そこで西ドイツは1969年まで石油税を課した。_NEWLINE_1957年のローマ条約では欧州経済共同体と欧州原子力共同体が設立された。欧州石炭鉄鋼共同体は、これらと加盟国や一部の機関を共有した。1958年にアメリカ炭がダンピングをかけてきて、また1960年には世界の重油価格が1958年比で5/8程度に急落した。_NEWLINE_1967年、ローマ条約に鼎立した欧州諸共同体の運営機関が統一された。諸共同体は存置された。この後西ドイツは年率10%のペースで石油の消費量を増やし、天然ガスの使用量も倍増させ、原子力発電も実用化しだした。より具体的には、ジーメンスとAEGの共同子会社KWU が、AEI系7カ国コンソーシアムのTNPG と技術協定を結んだ。TNPG は既にヒンクリー・ポイントBを建設した実績があった。後にハンターストン原子力発電所B原発も建設する。_NEWLINE_これより先、欧州石炭の国際競争力は失墜した(#成果と失敗)。外資が投下され、金融面ではユニバーサル・バンク化が進んだ。ベルリンの壁崩壊翌年にドイツで固定価格買い取り制度が導入された。_NEWLINE_2002年にパリ条約が失効し、特に更新もなく、欧州石炭鉄鋼共同体の活動や資源は欧州共同体にうけつがれた。
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カルテルの究極
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パリ条約第65条は原則としてカルテルを一切禁止する。過度経済力集中排除法にあたる規定も存在した。_NEWLINE_しかし共同市場は産業の合理化に都合が良いから標榜されたのであって、参加国の独占資本には抜け道が用意してあった。共同体は、自らの権限で生産割当や価格制限をすることができたし、場合によってカルテルを認可することもできた(65条第2項)。認可された例は、西ドイツ製鐵メーカーのアメリカ炭輸入協定、イタリア・フランスの薄板・特殊鋼供給契約、そしてベルギーの鉄鋼カルテルである。認可の下りなかった例として、西ドイツ・イタリアの鉄くずカルテルがあるけれども、共同体全体でスクラップの共同輸入を1953年から1958年末にかけて行い、事実上そのカルテルを存続させた。共同体内に発生したスクラップには賦課金をかけ、輸入鉄くずに補償金を与えた。しかも鉄くずの使いすぎに罰金を課して、銑鉄使用に補助金を出した。_NEWLINE_また、民間企業の設備投資は原則として各企業の自由であった。しかし共同体は五カ年計画のようなこともやった。民間企業から投資設計を報告させるなどして需要予測を立てた。それに照らして需給バランスに問題を認めるときは、警告したり自ら救済融資に動いたりすることができた。1957年に銑鉄が不足し鉄くずの消費が増大したときは、警告の上銑鉄部門に融資を行った。また、この数年後にわたり共同体は西ドイツ鉄鋼メーカーへ何度も融資をした。それは例えばザルツギッターへの1億マルク信用保証とか、ティッセン事業拡大への融資などである。この頃ちょうど共同体はクーン・ローブなどから多額の融資を受けており、外の金融カルテルとも関係していることが分かる(ベルギー#独立以降を参照)。共同体は、生産割当・価格制限・情報共有というカルテルの伝統的な機能だけでなく、投資調整まで可能であった。_NEWLINE_共同体の機関は最高機関、共同総会、閣僚特別理事会、司法裁判所の四部構成であるが、そのうち共同総会と司法裁判所は共同体の設立からほどなく欧州原子力共同体と共有された。欧州石炭鉄鋼共同体発足時は原子力大国フランスの発言力が大きかった。原子力問題省Bundesministerium für Atomfragen の設立とチュニジアの独立を経た後、1958年、西ドイツ下院で核武装が決議された。ボタンはNATO が持つことになった。これはニュークリア・シェアリングと呼ばれている。そしてこの頃、共同体は西ドイツ鉄鋼メーカーへ継続的に資金を提供していたのである。共同体は、投資調整と安全保障とエネルギー政策を不可分な形で担ったのである。_NEWLINE_共同体内の鉄鋼業は国際輸出カルテルを結んでいた。1953年3月に発足したブラッセル・コンベンションである。原加盟国はフランス・ベルギー・ルクセンブルクであったが、同年9月オランダと西ドイツが参加した。いつしかイタリアも加盟した。協定品目は画期的、つまり鉄なら大体全部であった。罰金の徴収・管理は戦前から引続きスイス信託会社が請け負った。ブラッセル・コンベンションは共同体内よりも高い価格で輸出し、関税及び貿易に関する一般協定の総会で問題にされた。最高機関はブラッセル・コンベンションを条約違反と宣言したが、条約の規制する競争制限は共同体内に限り輸出は規制外という抗弁が通ってしまった。_NEWLINE_1968年、ブラッセル・コンベンションはブラッセル体制を敷いた。そしてこの年にユーロクリアができたのである。
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歴史
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1919年に出版した『平和の経済的帰結』において、ジョン・メイナード・ケインズがヴェルサイユ条約を「ヨーロッパの経済復興に資する条項を一つだに設けていない」と批判した。そこでケインズが示した具体案にはECSC構想と理解できる部分が存在した。それは次のような計画であった。連合国が設立した石炭委員会を国際連盟の付属機関として、ここにドイツだけでなく中東欧諸国と北欧中立国も参加させ、国際連盟の管理下で石炭生産体制をつくるというものである。_NEWLINE_1926年に結ばれたEntente internationale de l'acier という国際カルテルがECSC の土台となった。_NEWLINE_1950年5月9日(のちにヨーロッパ・デーとされる)に発表されたシューマン宣言は次のように述べている。_NEWLINE_ヨーロッパの他の国々が自由に参加できるひとつの機構の枠組みにおいて、フランスとドイツの石炭および鉄鋼の生産をすべて共通の最高機関の管理下に置くことを提案する。_NEWLINE_ — 駐日欧州委員会代表部による仮訳、10px_NEWLINE_この提案は経済の成長を促し、また長らく敵対してきたフランスとドイツとの間での平和を強固にするということが目的とされている。石炭と鉄鋼は国家が戦争を起こすのに欠かせない資源であり、敵同士であった両国の間でこれらの資源を共有するということはきわめて象徴的なものとして受け止められた。そのためシューマンの構想は「ヨーロッパ連邦」の第1歩としても捉えられている。
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政治的圧力
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西ドイツではヨーロッパの労働組合や社会主義者の支持を受けているにもかかわらず、社会民主党がシューマンの構想に反対することを決定した。フランスや資本主義、コンラート・アデナウアーに対する個人的な不信感とは別にクルト・シューマッハーは、「6か国による小ヨーロッパ」という統合の概念は社会民主党の党是であるドイツ再統一を覆すもので、西側諸国のアルトラナショナリズムや共産主義の動きを強めるものだと主張した。またシューマッハーは、欧州石炭鉄鋼共同体では鉄鋼産業の国有化が不可能となり、「カルテル、聖職者、保守派」のヨーロッパが独占することになると考えていた。_NEWLINE_フランスでは、シャルル・ド・ゴールがかねてより経済圏の「連携」を支持しており、また1945年にはルール地方の資源開発を行う「ヨーロッパの同盟」について語っていた。ところがド・ゴールは欧州石炭鉄鋼共同体について、「見せかけの共有」 "le pool, ce faux semblant" と表現している。ド・ゴールは、欧州石炭鉄鋼共同体がヨーロッパの統合においては不十分な「断片的なアプローチ」であり、また共同体におけるフランス政府の優位性があまりにも弱すぎると考えていたのである。また議員総会がヨーロッパ市民の選挙で選ばれていないことからスープラナショナル機関として欧州石炭鉄鋼共同体は不完全なものであるとも考え、欧州石炭鉄鋼共同体の設立はアメリカ主導の経済復興からの脱却であるというレイモン・アロンの主張を受け入れなかった。このような状況でド・ゴール率いるフランス国民連合はパリ条約批准承認にあたって、国民議会で反対にまわった。_NEWLINE_このような反対勢力があったものの、欧州石炭鉄鋼共同体は設立されることになった。
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条約
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欧州石炭鉄鋼共同体を設立することがうたわれた100か条にわたるパリ条約は1951年4月18日にフランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクによって調印された。パリ条約により史上初のスープラナショナリズムに基づく国際機関が設立されることになり、またそもそもが石炭と鉄鋼の共同市場の設立が目的であったものが、共同体における経済の拡大、雇用の増進、市民の生活水準の向上といったことも狙いとなっていた。さらに共同市場は、安定と雇用を確保する一方で高水準の製品の流通を合理化するということも企図されていた。石炭の共同市場は1953年2月10日に、鉄鋼市場は同年5月1日にそれぞれ開設された。欧州石炭鉄鋼共同体が発足したことをうけて、ルール国際機関はその役目を欧州石炭鉄鋼共同体に譲った。_NEWLINE_パリ条約の調印から6年後に、欧州石炭鉄鋼共同体の加盟国は欧州経済共同体と欧州原子力共同体の創設を取りまとめたローマ条約に調印した。両共同体は若干の修正がなされているものの、欧州石炭鉄鋼共同体の持つ構造や理念に基づいて設立されている。パリ条約が発効から50年後に効力を失うのとは異なり、ローマ条約には期限が設定されていない。この新たな共同体はそれぞれ関税同盟と原子力エネルギーでの協力体制を構築するものであったが、その後対象とする分野が急速に拡張され、欧州経済共同体が政治面での統合において最も大きな役割を持つようになったのに対して、欧州石炭鉄鋼共同体の存在感は薄くなっていった。
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統合、消滅
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法令上は別個の組織で閣僚理事会や最高機関・共同体委員会もそれぞれに設置されていたが、欧州石炭鉄鋼共同体、欧州経済共同体、欧州原子力共同体は議員総会(のちの欧州議会)や欧州司法裁判所を共有していた。その後重複による無駄を省くため、ブリュッセル条約により3共同体の機関が統合された。また欧州経済共同体はのちの欧州連合における3つの柱の1つとなった。_NEWLINE_パリ条約は欧州諸共同体や欧州連合が発展、拡大するにつれてたびたび修正がなされていった。また2002年にパリ条約が失効することもあり、その後の対処に関する議論が1990年代初頭から始められたが、規定どおり失効させることが決定された。欧州石炭鉄鋼共同体の対象分野についてはローマ条約に移し、未処分の財産や欧州石炭鉄鋼共同体の研究基金についてはニース条約の附属議定書で扱うこととなった。2002年7月23日にパリ条約は失効し、ブリュッセルの欧州委員会本部の前で掲げられていた欧州石炭鉄鋼共同体の旗は降ろされて欧州旗に取り替えられた。
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機関
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欧州石炭鉄鋼共同体の機関には最高機関、共同総会、閣僚特別理事会、司法裁判所があった。また付属機関として諮問評議会が最高機関に設置されていた。これらの機関は1967年の欧州諸共同体発足時に統合されたが、諮問評議会だけは2002年のパリ条約失効時まで独立して存続していた。_NEWLINE_パリ条約では機関の所在地について加盟国の総意で決めるよううたっていたが、これについては激しい議論となった。その場しのぎの妥協として、共同総会はストラスブールとしたものの、それ以外の機関は暫定的にルクセンブルク市に置かれた。
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その他の機関
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共同総会は78名で構成され、執行機関である最高機関の監督にあたっていた。共同総会の議員は各国議会内で互選された議員か、市民が直接選んだ人物であるとされた。ただ実際には前者だけしかおらず、またローマ条約が発効するまで選挙を実施する必要がなかったうえに、直接選挙が初めて実施されたのは1979年のことである。しかしながら共同総会という議会組織は各国政府の代表者で構成される従来の国際機関とは異なるものであるということが強調されており、それはパリ条約において「諸国民の代表」という文言が用いられているところに表れている。共同総会はシューマンの構想には盛り込まれていなかったが、パリ条約の協議の2日目にジャン・モネが提案して創設されることになった。共同総会の設置は民主的な配慮を示すもので、正式な権限は与えられていないものの最高機関を統制する意味合いを持たせている。共同総会の初代議長にはポール=アンリ・スパークが選ばれた。_NEWLINE_欧州連合理事会の前身である閣僚特別理事会は各国政府の代表者で構成されていた。また議長は加盟国が3か月ごとにアルファベット順の輪番制で務めていた。閣僚特別理事会の重要な点は最高機関と各国政府の政策執行の調整であり、当時国内の一般的な経済政策については加盟国政府があたっていた。さらに理事会は最高機関が担当する政策のなかで、特定分野について意見を述べることが求められていた。石炭と鉄鋼に関する案件に限っては最高機関が排他的に扱い、これらの政策分野について理事会はただ監視にあたるのみであった。ところが石炭と鉄鋼以外の政策分野では理事会の同意が求められた。_NEWLINE_司法裁判所の使命はパリ条約の解釈・適用を行い、欧州石炭鉄鋼共同体の法令遵守を確保することであった。裁判所は各国政府の総意で任命された7人の判事で構成され、任期は6年である。判事の国籍については問われることがなく、ただ適性が認められ、その独自性に疑念がもたれないということが要件となっている。さらに2人の法務官が裁判所を補佐している。_NEWLINE_欧州連合の経済社会評議会に似たような機関であった諮問評議会は、石炭・鉄鋼産業の生産者、労働者、消費者、販売者から人数が平等にされた、30人から50人ほどの議員で構成されていた。議員の任期は2年間で、任命した組織の負託や制約を受けていない人物とされていた。評議会には全員出席の総会、事務局、議長が設置されていた。最高機関は評議会に対して、特定の分野の案件について適切な機会に諮問し、また情報を開示する義務を負っていた。ほかの機関が統合されていったなかで2002年まで諮問評議会は独立性を維持し、パリ条約が失効した後は経済社会委員会にその機能が引き継がれた。ただしそれぞれに同じ案件が諮られたときは、独立性を維持しつつも諮問評議会は経済社会評議会と協調していた。
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成果と失敗
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欧州石炭鉄鋼共同体は鉄鋼の生産量を増加させた。石炭については雇用と生産量を減らしながら生産性を向上させた。加盟国間では、石炭の貿易量は10倍となるなど通商関係が促進された。最高機関は生産量の向上と経費削減を促すために産業界へ280件も融資を実施していた。また、国境通過の際の関税を廃止したことで経費がさらに削減された。最終的に石炭価格は米国炭のダンピングに屈した。西ドイツは石炭に対するエネルギー依存を1967年に前年の3701ペタジュールから3291ペタジュールへ縮小させた。_NEWLINE_西ドイツの対アジア輸出は1952年に8億マルク程度だったのが、1956年に19.95億マルクに増えた。1956年の輸出先ではインドが突出して8.19億マルクであった。このように輸出が伸びた時期にちょうどインド準備銀行が行った外資等の実態における調査は、英米ないし国際機関による投融資が主体であった事実を記録している。西ドイツからの輸入は英米等の直接投資が呼び込んだものと推察される。数字としては成功だが、しかし金融においては当時から英米に主導権を握られていた(フランスが良い例)。_NEWLINE_厚生面では欧州復興に貢献した。15年以上にわたり労働者に対して11万2500件の共同住宅購入向けの融資を実施し、1件あたり平均で1,770USドルを貸与されたことで労働者は手の届かなかった住宅を購入することができた。さらに欧州石炭鉄鋼共同体は、石炭・鉄鋼関連施設が閉鎖されて職を失った労働者の転職にかかる費用の半額を支払った。地域の再開発支援とあわせて欧州石炭鉄鋼共同体は1億5000万ドルを拠出して10万件の雇用を創出し、その3分の1は失業した石炭・鉄鋼関連の労働者に割り当てた。欧州石炭鉄鋼共同体が考案した社会保障政策は加盟国政府の一部で石炭・鉄鋼業以外の労働者にもその対象を広げられていた。 | 13648320957591721253 |
Q7488 |
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欽宗
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人物
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宣和7年(1125年)、父の徽宗が金に対する詐術的な外交政策に失敗し、金は宋に対して大軍をもって攻撃を行った。同年12月23日(西暦で1126年1月25日)、徽宗は「自らを罪する詔」を出し、帝位を欽宗に譲り太上皇となった。即位した欽宗は父帝以来の大臣の蔡京らを流罪にして、その子の蔡攸ら兄弟を誅殺した。翌年(西暦で同年)、金が開封を包囲すると欽宗は李綱を任用して防御に当たったが、賠償金の支払いと領土を割譲する条件で金と和議が成立することとなった。_NEWLINE_しかし金軍が撤退すると、宋の官人の間では金に対する強硬論が主張されるようになり、賠償金や領土割譲を拒否する方針に転換した。この宋の違約に、金は再び開封を攻めて陥落させた。徽宗と欽宗は金軍により捕虜となった(靖康の変)。金の天会5年(1127年)2月丙寅に金の太宗の詔で、徽宗・欽宗は共に庶人に落とされた上、上京に連行された。翌天会6年(1128年)8月丁丑、素服を着せられて太祖廟に跪拝させられ、続いて乾元殿において太宗に目通りさせられた。ここで徽宗は昏徳公、欽宗は重昏侯に封ぜられると、10月戊寅に韓州(現在の吉林省四平市梨樹県)、天会8年(1130年)に東北の五国城(現在の黒竜江省ハルビン市依蘭県)へと連れ去られた。_NEWLINE_二帝と共に、徽宗の妃韋氏、欽宗の皇后朱氏など、宋の宮廷の皇后、妃嬪、皇女、その他宗室の女性や女官、宮女たちが、金軍の慰安用に北へ連行され、後宮に入れられた後、1128年6月には金の官設の妓楼である洗衣院に下されて、金の皇族や貴族を客とする娼婦になることを強いられた。朱皇后はその境遇に耐えかね、入水自殺している。_NEWLINE_1127年(金の天会5年)、欽宗の弟・趙構(高宗)が南宋を興すと(同年を建炎元年とした)、欽宗は複雑な立場に立たされる。欽宗の南宋帰還が認められれば、高宗は簒奪者とされる可能性があった(実際に1129年の明受の変では、反乱軍が高宗即位の正統性を問題にしている)。これは、宋が中国の歴代王朝の中でも特に正閏論が厳格な時代であったためである。金の側も欽宗の帰還を計画したが、高宗から抑留継続の要望が婉曲に出され、結局南宋への帰還は実現しなかった。また、高宗の生母である韋賢妃(顕仁皇后)が南宋へ帰還する際に欽宗は、韋氏の影響力を行使して自身の帰還を実現するよう涙を流して嘆願したと伝わる。_NEWLINE_欽宗はその後も30年以上にわたって、現在の中国東北部に監禁され続けた。_NEWLINE_1135年(金の天会13年、南宋の紹興5年)、父の徽宗が没した。_NEWLINE_金で熙宗が即位すると待遇が改善されたようで、皇統元年(1141年)2月乙酉に徽宗には天水郡王が追贈され、欽宗は天水郡公に改封されている。_NEWLINE_1161年(金の正隆6年、南宋の紹興31年)、欽宗は五国城にて62歳で没した。
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死亡時期について
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欽宗は1161年に没したとされているが、一方で欽宗の子孫が1161年7月己丑、海陵王によって殺害され子孫が断絶したとされている。海陵王は同年12月に殺害されているため、1161年の死去が事実とすると、わずか1年の間でそれだけの事件が立て続けに起こったことになる。また、『金史』「海陵本紀」では、正隆元年(1156年)6月庚辰に「天水郡公趙桓薨」と記載されており、『宋史』と『金史』の記述には食い違いが生じている。_NEWLINE_南宋末の通俗説話『宣和遺事』では、1156年に海陵王の命令によって57歳の欽宗と82歳の遼の最後の皇帝天祚帝(正史では1128年没)が撃鞠(ポロ)の競技の試合をすることになり、欽宗は落馬して馬に踏まれて死亡し、仰天した天祚帝は逃走するが、射殺されてしまった、と記載されている。この死期の食い違いについて、『金史』列伝第67では、1156年の欽宗の死去が、5年後に南宋に伝えられたとしている。 | 3242181246474011217 |
Q2625013 |
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歌川豊広
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歌川 豊広(うたがわ とよひろ、安永3年〈1774年〉 - 文政12年12月21日〈1830年1月15日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。
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来歴
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歌川豊春の門人。本姓は岡島、俗称藤三郎。一柳斎と号す。江戸の人で芝片門前町に住んでいた。_NEWLINE_豊春に入門し一柳斎と称して天明8年(1788年)頃から絵暦の作画を始める。前年秋、中村座の狂言と考証される二世小佐川常世のおさんと三世沢村宗十郎の茂兵衛を描いた細判錦絵がある。ともいわれる。ただし、その後、寛政の末までの間の作品の有無に関しては未詳。初代歌川豊国とは同門であったが、豊広の作品は豊国より地味で、それが美人画や風景画にも現れている。豊春門下では豊国に次ぐ実力者であったが、版本の挿絵が活動の主体で、寛政12年(1800年)頃から、文化7年(1810年)の頃にかけては主に敵討物の黄表紙や合巻、噺本の挿絵を多く手がけており、山東京伝や曲亭馬琴、十返舎一九らの作品に携わっている。豊国のように役者絵に没頭しなかったので、門人に初代歌川広重の様な風景画家が輩出することとなった。広重の師として若干の風景画も残している。豊国と比較すると作品数は極めて少ないが、寛政(1789年 - 1801年)末年から文化(1804年 - 1818年)期に描いた美人画には、清楚でどこか弱々しく淋しげな表情が見られ、すらりとした柳腰の独特な趣がある。縦二枚続は豊広の創案と考えられる。また、肉筆美人画には叙情性の豊かな優れたものが数多く見られる。文化3年(1806年)から文政10年(1827年)頃まで、曲亭馬琴に認められてその読本に数多くの挿絵を描いた。錦絵の代表作として、「豊国豊広両画十二候」や「江戸八景」などがあげられる。享年56。墓所は港区虎ノ門の専光寺。法名は釈顕秀信士。_NEWLINE_豊広の門人には「東海道五十三次」の作者として著名な歌川広重のほか、息子の歌川豊清、歌川広近、歌川広演、歌川広兼、鳥羽広丸、歌川広恒、歌川広昌、歌川広政、歌川直広、歌川豊熊、歌川芳広らがいた。歌川広昌は沼津で旅人宿「太平屋」を営み、文化のころ活躍している。また歌川広政と同一人ともいわれる。 | 5595779405564675321 |
Q57538501 |
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武田光司
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来歴
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6歳からレスリングを始め、小学生・中学生年代で全国優勝を果たすと、埼玉栄高校時代にはJOC杯カデット、全国高校選抜大会、インターハイ、全国高校生グレコローマン選手権、国民体育大会の5冠を獲得した。高校卒業後は専修大学に進学したが、2年次で中退し、元レスリング五輪代表の宮田和幸が主宰する総合格闘技ジム・BRAVEに入門。2017年にプロデビューした。_NEWLINE_2018年10月27日、DEEP 86 IMPACTのライト級タイトルマッチで王者の北岡悟に挑戦。5-0の判定勝ちを収め、王座獲得に成功した。
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RIZIN
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2019年4月21日、RIZIN.15で元UFCファイターのダミアン・ブラウンと対戦し、0-3の判定負け。キャリア初黒星を喫した。 | 4091013767347374346 |
Q11546764 |
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歯ぎしり球団
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『歯ぎしり球団』(はぎしりきゅうだん)は、吉田戦車による日本の野球漫画。
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概要
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野球に青春をかける若者達を、野球のルールにとらわれない形で描いたギャグ漫画。_NEWLINE_1995年に『コミックバーガー』(スコラ)で連載されていた。掲載誌が『コミックバーズ』へと改名するにあたり、本作も「新歯ぎしり球団」とリニューアルして登場人物も一新された。_NEWLINE_単行本の作者あとがきによると、連載当初の作者は野球に対してほとんど興味が無かったが、本作を通してプロ野球を面白く見られる心境の変化があったという。
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歯ぎしり球団
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ストライクが全く入らないエース後藤手術を中心にした草野球チーム「歯ぎしり球団」の活躍が描かれる。
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新歯ぎしり球団
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学校に野球部を設立しようとする県立歯ぎしり中学校の少年達が、校長が試練として差し向ける多様な野球チームに挑む姿を描く。野球部ではないため、校長は彼らを「歯ぎしり球団」と呼ぶ。 | 13030442747955453643 |
Q1340341 |
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歴史の終わり
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「歴史の終わり」とは何か?
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「歴史の終わり」とは、国際社会において民主主義と自由経済が最終的に勝利し、それからは社会制度の発展が終結し、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという仮説である。民主政治が政治体制の最終形態であり、安定した政治体制が構築されるため、政治体制を破壊するほどの戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなる。そのため、この状況を「歴史の終わり」と呼ぶ。_NEWLINE_もちろん、人類の滅亡による人類史の終わりを意味するのではない。ここで言う「歴史」とは、本質論的には、弁証法的なイデオロギー闘争の過程であり、現象論的には戦争やクーデターなどによる政治体制(国家、王朝、原始的な共同体も含めた政治的統治組織など)の興亡の変遷である。歴史とは、国家が成立し、発展し、やがて崩壊する過程である。「剣を執る者は皆、剣によって滅びる」とは、歴史の鉄則であり、諸行無常と栄枯盛衰を繰り返す歴史に永遠などあるはずもなく、古代ポリス、マケドニア王国、古代ローマ帝国、オスマン帝国、モンゴル帝国、中国の歴代王朝、ブルボン王朝、フランス第一帝政、ナチスドイツ、ソビエト連邦など、強権的な支配で覇権を極めた国家は、すべて崩壊した。しかし、歴史を脱却した民主国家は、崩壊せず永久に存続するという主張である。_NEWLINE_すべての民族、文化圏、宗教圏に妥当する網羅的なグランド・セオリー(大理論)である普遍的な歴史(近代化のプロセス。リオタールの用語で言えば「大きな物語」)としての「歴史の終わり」であり、その他の歴史、文化史、技術史、芸術史、スポーツ史、個人史などの個別的な歴史(リオタールの用語で言えば「小さな物語」)は、もちろん不断に変革を繰り返して、継続されていく。_NEWLINE_フクヤマは、ソビエト連邦の崩壊を以って「歴史は終わった」と主張した。しかし、これは、ソビエト連邦が崩壊したら直ちに世界中が民主化され、世界中から戦争やテロが廃絶されるという意味の、楽天的な世界平和論や政治安定論ではない。ソビエト連邦の崩壊によって、「最良の政治体制は何か」「全人類に普遍的な政治体制は何か」「恒久的な政治体制は存在するのか」という社会科学的論争やイデオロギー論争に最終的な決着がついた事を意味している。民主主義が正しいとだけ聞けば、民主教育を受けた民主国家の国民は当たり前のように聞こえる。しかし、フクヤマの主張で重要なのは、民主主義は絶対的(全世界のどこを見回してもリベラルな民主主義に対抗できるイデオロギーは存在しない)であり、普遍的(民主主義はどんな民族、文化圏、宗教圏でも問題なく適合する)であり、恒久的(民主体制は人類統治の最終形態であるがゆえに、滅びることはない)なイデオロギーであるという点である(弁証法という概念のなかでは、絶対、普遍、永遠は同じことを意味する)。民主国家国民が民主主義が正しいと信じ込んでいるのも、他の独裁国と同様、教育や情報統制の結果であり、ただの洗脳や思い込みに過ぎないのではないかという批判もあり、民主主義は社会科学的に正しいという命題を証明することは、学術史上、きわめて困難な問題だった。_NEWLINE_科学的な証明とその実用化の間には時間差がある。それと同じように、具体的には、世界中が発展途上国も含めてみな民主化されるのはまだ時間がかかり、その間、こと発展途上国は、まだ政情不安定で戦争やテロが起こりやすく、民主国家と全体主義国家との戦争も起こりえて、9・11同時多発テロのように民主主義先進国が全体主義側テロの標的にされることもある。しかし、民主主義各国では、もはや民主体制が内乱や革命によって破綻することは起こり得ない、ということである。よって、フクヤマ的歴史終焉論が現象論的に、社会科学として反証されるときは、現在の先進民主国家体制が崩壊し、次の異なる政治体制に移行したときである。(リベラルな民主主義が弁証法的に止揚、アウフヘーベンされたとき)_NEWLINE_また、フクヤマは、崩壊したソビエト連邦が核武装していた点にも着目している。究極兵器である核兵器を多数保有し、世界最強規模の軍事力を保持したソビエト連邦が崩壊したことは、ソフトパワー(文化力)が究極のハードパワー(軍事力)を覆した決定的な事件であり、これは長い人類史的にみても画期的な出来事である。最強の軍事国家が崩壊するなど、それ以前の国際政治学の常識では考えられないことだった。これは「武力こそ正義である」というハードパワー中心の歴史時代の終わりと、「ペンは剣よりも強い」というソフトパワー中心の脱歴史時代の始まりを意味している。_NEWLINE_「歴史の終わり」は、たびたび「共産主義体制にたいする資本主義体制の勝利宣言」といわれるが、厳密にいえば、経済体制よりも政治体制について本質的に述べた論文であり、正確には「一組織、一党派が政治と経済を強く統制する一党独裁体制などの寡頭政治や、一個人または一王家の指導者原理、カリスマ的支配、伝統的支配による専制政治にたいする、万民が平等に政治家や政策を選択できる多数決原理にもとづいたリベラルな民主主義体制の最終的な勝利宣言」と呼ぶほうが本旨に合っている(だから、ニーチェ論が重要になってくる)。フクヤマは資本主義経済、自由主義経済の生産性と効率性を高く評価しているが、民主主義体制の永続性ほど強く資本主義体制の永続性を主張しているわけではないし、その根拠を示しているわけでもない。どのように経済体制や生産構造が変化しても、どのような世界恐慌が起こっても、民主体制そのものが否定されたり、崩壊することはないと指摘しているのである。そもそも、フクヤマにとって米ソ冷戦を経済体制の争いと解釈することは歴史の誤読なのである。
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なぜ民主体制は滅びないのか?
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民主国家永遠論は、ナチスドイツの「ドイツ千年帝国」のような願望や信念を述べたものではなく、世界各地が厭きる程に歴史を経験した結果として帰納された社会科学的分析である。
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制度論的な理由
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なにか重大な政治的問題が起きても、民主国家は普通選挙による政権交代という形で柔軟に対処できるために、国家体制として滅びる必要がないのである。先進民主国家は核武装しているため、外敵によって軍事占領され、抑圧的な政治体制を強制されることもない。将来、世界政府が生まれ、現在の民主国家が解体され、一州や一県となるということは大いにありうるが、その過程はイマニュエル・カントが民主的平和論で論じたように民主的な手続きによって行われ、武力征服や暴力革命という形で行われるのではない。民主政体と民主的イデオロギー(門地の平等、基本的人権、議会主義、普通選挙、国民投票、複数政党制、思想・報道・言論・集会・結社などの各種政治的自由、一切の差別の撤廃)は、世界政府に受け継がれ、永遠に存続するのである。_NEWLINE_また、ドイツのワイマール共和制がナチスの一党独裁に転化したように、合法的な手段やクーデターによって、民主体制が全体主義化する可能性も存在するという指摘もあるが、共産主義が崩壊した現代ではこの可能性はきわめて低い。ドイツがヒトラーによって全体主義化したのは、「共産主義のイデオロギー侵攻に備えるために、仕方なく一時的に言論、報道、集会の自由を停止する」という趣旨のものであり、もはや民主主義に敵対するイデオロギーが存在しない現代では、そのイデオロギー的侵攻を防ぐために自由を規制し、全体主義化するなどという論法は通用せず、ナチスのように国民的な支持を受けることはできないのである。同じように、武装勢力がクーデターを起こして、一時的に政治中枢を掌握したとしても、やはり国民的な支持を得られるイデオロギーが存在しないため、わずか数日でクーデターは失敗する結果となる。大災害で国家運営機能が一時的に麻痺したのと同じで、それは革命でも民主体制の崩壊でもないのである。また、ナチスドイツや日本軍国主義は、軍事的緊張感の高まる国際社会のなかでの戦時体制という側面もあった。政治的指導者を最高司令官として、国家全体が巨大な軍隊組織と化したのである。しかし、核ボタン1つで相手国を焦土化できる現代では、国家体制そのものを軍事体制化する必要性はなく、戦時下を理由に全体主義化するということは起こりえないのである。
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弁証法的な理由
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今現在、民主主義に対抗しうるイデオロギーが存在しないからと言って、未来永劫民主体制が続くとは短絡的であり、とつぜん民主主義を超えるイデオロギーを提唱する天才思想家が出現する場合もありえるという批判もあるが、弁証法的な論理からいえばその可能性はきわめて低い。弁証法とはすべては諸事象の集合体ではなく諸過程の集合体だと考える、時間軸を導入した4次元的な思考法である。無から有は生まれず、新しいものは必ず古いものの複雑な複合体であるに過ぎない。新しい完成品には、必ず過去にその源流となる原型、雛形、試作品があると考えられている。よって、今現在、民主主義を超える可能性を感じさせるイデオロギーの原型、雛形、試作品すら存在しないということは、もはや永遠に民主主義を超えるイデオロギーは出現しないということである。過去、現在に存在しないものは、未来にも存在しないのだ。たとえば、世界中の技術者が飛行機の開発に尽力したのは、鳥や模型飛行機という飛行機の原型がすでに存在し、原理的に空を飛ぶことは不可能ではないと知っていたからである。逆に、一部のマッドサイエンティスト以外、誰もタイムマシーンの発明に本気で取り組まないのは、時間移動と思われる現象が過去に一件も発見されず、タイムマシーンの原型と呼べる機械も存在しないので、科学者は弁証法的にタイムマシーンの開発は半永久的に不可能だと考えているからである。たとえ本当に天才思想家が出現したとしても、前例がない思想であるがゆえに周囲の人間は誰も理解できず、天才思想家は哀れな変人として一生を終えるはめになってしまう。_NEWLINE_弁証法的思考によれば、テーゼ(一意見)とそれに対するアンチテーゼ(批判的代案)との矛盾が原動力となって、アウフヘーベン(革命や維新のような、より高次なレベルへの移行)が起き、ジンテーゼ(より高次でハイレベルな改良案)が生まれるのであり、アンチテーゼが存在しなければアウフヘーベンは起きない。アンチテーゼが存在しない以上、民主体制をアウフヘーベンする矛盾、原動力、理由、必要性、モチベーションが存在しないのである。_NEWLINE_弁証法的闘争とは、イメージでいえばトーナメント方式の戦いに似ている。強豪チームも弱小チームも玉石混交で初戦からトーナメントに参加し、弱小チームは一回戦、二回戦の序盤で敗退して歴史のトーナメントから姿を消す。強豪チームも経験をつむことによって、より強く成長し、トーナメントは終盤になればなるほどよりハイレベルな戦いになってくる。世界史上に起こったすべての戦争や内乱、革命、政争は、このトーナメント戦の一場面である。優勝チームを除いて、すべてのチームが敗退して脱落したら、歴史のトーナメントは終了する。例えていえばアメリカ自由民主主義、日本軍国主義、ソ連共産主義、ナチスドイツらを主軸として行われた第2次大戦は、歴史のトーナメント戦のベスト4による準決勝であり、そのなかで日本軍国主義とナチスドイツが敗退し、アメリカ自由民主主義とソ連共産主義が決勝戦に進出したという流れになる。世界を二分した米ソ冷戦は、文字通り、歴史の決勝戦と呼ぶにふさわしい戦いだった。_NEWLINE_フクヤマが歴史を単純にイデオロギー闘争史と呼ぶのではなく、「弁証法的な」イデオロギー闘争史と付け加えているのは、このことを踏まえている。
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フクヤマの歴史哲学
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フクヤマの『歴史の終わり』は、主にヘーゲル、マルクス、ニーチェの歴史哲学と実存主義哲学について論じたものである。フクヤマはコジェーブのヘーゲル解釈を利用し、マルクスの歴史哲学とニーチェの実存主義哲学を批判する。しかし、フクヤマはニーチェの近代批判を高く評価しており、そのリベラル民主主義批判は、マルクスよりも本質的で根源的だと述べている。フクヤマはニーチェ哲学を論破したというよりも、政治体制領域に入ってこないように、個人レベルの領域に限定化したと読んだほうが正確である。_NEWLINE_フクヤマのヘーゲル解釈が妥当かどうかについて、それを批判するヘーゲル研究家もいる。19世紀の人物であるヘーゲルが、はたして現在のアメリカ型の個人主義的な民主国家を歴史の終わりと考えていたかは疑問である。フクヤマはヘーゲルを俗化、単純化しすぎているなどという批判である。しかし、フクヤマは、自分がヘーゲル哲学と呼んでいるのはあくまでコジェーブ解釈によるヘーゲル=コジェーブ主義であるとして、ヘーゲルの解釈論争には一切踏み込んでいない。フクヤマが研究しているのはあくまで歴史そのものの発展法則であり、哲学者ヘーゲルという個人ではないのである。
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歴史とは何か?
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フクヤマ(ヘーゲル=コジェーブ主義)にとって、歴史とは様々なイデオロギーの弁証法的闘争の過程であり、民主主義が自己の正当性を証明していく過程である。よって、民主主義が他のイデオロギーに勝利し、その正当性を完全に証明したとき歴史は終わる(歴史の弁証法的発展が完結する)。歴史哲学では、歴史は意味を持ち、方向性を持ち、目的を持つと考えられている。目的を持っているから、その目的を達成したら、「歴史が終わる」という発想が生まれる。_NEWLINE_世界史上に起こった戦争は、本質的にはみな名誉や気概、正当性を賭けたイデオロギー闘争(階級闘争や経済的利害の衝突ではなく)であり、承認を求める闘争である。歴史には栄華を誇った大国は数あるが、非民主国家はみなその不合理性ゆえに崩壊した。真に安定性のある政治体制は、合理的な支配体制である民主体制のみであると、フクヤマは考えている。_NEWLINE_フクヤマ的な歴史解釈にのっとれば、第二次世界大戦は、「持てる国vs持たざる国」の植民地再分割戦争というよりも、「民主主義 vs 共産主義(世襲なき前衛主義的な党派独裁や寡頭政治) vs ファシズム(選民思想・指導者原理型のカルト政治)」の政治体制の戦争になる。また、長期的に見れば、戦争の勝敗も、戦術や兵站の優劣よりも、イデオロギーの優劣が決定する。例えば、独ソ戦でソビエト連邦が勝利した要因は、ナチスドイツのゲルマン民族至上主義とアドルフ・ヒトラー個人への強制崇拝よりも、ソビエト連邦の共産主義の方が、民族の壁を越えられる普遍性を持っており、他民族の支持を受けやすかったからである。同様に、太平洋戦争で中華民国やアメリカ合衆国が勝利した要因は、大日本帝国の日本民族至上主義と天皇への強制崇拝よりも、中華民国の党国体制やアメリカ合衆国の大統領制の方が、民族の壁を越えられる普遍性を持っており、他民族の支持を受けやすかったからである。これらのように、国内外の支持を受けることができたので、結果的に、戦術的にも兵站的にも優位に立てたのである。_NEWLINE_ナチスドイツや大日本帝国のような偏狭な民族主義とカルト支配では、どれだけ支配領域を拡大しても、政治的抑圧によって他民族の敵対心を買い、パルチザンや内乱という形で支配体制が揺らいだり、広島と長崎への原爆投下という形で他国軍に倒される。戦争が政治的存在による集団戦である以上、民衆を統率する根拠であるイデオロギーが最も重要なのである。ベトナム戦争やイラク戦争のように、たとえ世界最強の軍事力を持ったアメリカ合衆国でも、国内外に支持される大義名分を構築しないまま戦争に踏み切れば、国内外の非難を浴び、大きなしっぺ返しを受けて終わる。_NEWLINE_同じように、米ソ冷戦でアメリカ合衆国が勝利した要因も、アメリカ合衆国の方が、自由で普遍的なイデオロギーを持っていたからである。ソビエト連邦は、偏狭な民族主義からは自由だったが、共産主義以外のイデオロギーや自由を求める人々は「反革命的だ」「非科学的だ」「政府の敵」だと弾圧され、政府が政治と経済を強硬に統制し、国民は政治家や政策を自由に選べなかったので、他の様々な民衆や党派からは支持されず、最終的には崩壊した。アメリカ合衆国は、自由主義と複数政党制を維持し、市場原理主義者、社会民主主義者、宗教主義者などの様々な主義者の支持を集めることができたので、結果的に戦略的、兵站的な優位に立てたのである。
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歴史に法則性はあるのか?
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「歴史の進歩」という概念そのものが西洋的、キリスト教的であり、歴史はカオスであり、法則を見出すことは不可能であるという予定調和な運命論的歴史観批判(当時はマルクス主義的唯物史観の運命論的・決定論的歴史観の挫折から、『歴史の法則性』という概念そのものが懐疑的に見られていた。そのため、ニーチェの永劫回帰説が再評価されていた。また、冷戦当時、核武装したソ連が崩壊するという状況を想定しづらかった)に対して、フクヤマは民主主義の普及は不可逆的な要素であり、じゅうぶん進歩と呼びうると主張する。歴史は弁証法的に発展するものであり、ただ繰り返されるものではない。紆余曲折を経ながらも、民主国家が増えているというのは歴史的事実であり、歴史には否定できない法則性が厳然と存在するとフクヤマは主張する。
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歴史を動かす原動力とは?
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フクヤマは歴史を動かす原動力は、認知を求める奴隷の労働だと主張する。気概が、優越願望が、人間のモチベーションを駆り立て、歴史を発展させるのである。経済的な貧困そのものが問題なのではない。貧困であるというコンプレックス、劣等感、ルサンチマン、認知の乏しさ、資本家や富豪に対する嫉妬や羨望が、階級闘争の原因になるのである。戦争や内乱が起きるのも、経済的利害ではなく、気概の衝突によって起こる。現実に2度の世界大戦は、戦勝国も敗戦国も両方大損害を被って、両者得る所なく終わった。経済的利益を重視する功利性の原理や功利主義、合理的選択論では、城を枕に討ち死にするとか、首都が瓦礫と化すまで徹底抗戦するとか、滅びの美学をもって特攻するという人間の行動は説明できない。もし人間が生存欲求を最優先するのなら、大規模な戦争は起こらず、せいぜい軍事力の誇示や威嚇、国境付近の小競り合いていどで終わったはずである。劣勢な側は命を奪われる前に不利な条件でも降伏し、優位な側も相手の了承しやすい講和条件で妥協し、必死の徹底抗戦を受けないように配慮したはずである。実際に、生存本能の強い動物の世界では、同種同士で争いが起きても、殺し合いまでエスカレートすることはほとんどない。_NEWLINE_戦争は元々経済的には不合理な行為であり、戦争原因は居丈高に盛り上がった民族主義やナショナリズム(過剰な優越願望)にある。命あっての物種である以上、単純に経済的利害のみで動く人間は、むしろ戦争を避けようとする。命がけで戦うのは、命よりも大事なものがあるからである。生命保存の欲求を越えて戦うことができるからこそ、人間は本質的に自由なのである。これは、戦争の原因を経済的利害の対立に見ようとするマルクス主義的唯物史観、レーニン的な帝国主義論に対する批判である。_NEWLINE_たとえば、身寄りのない孤児の少年が一切れのパンほしさに強盗殺人を犯したというような事件は、単純に飢えと貧困が生んだ争いといえるかもしれない。しかし、一国家の正規軍による組織的な戦争は、それとはまったく次元が異なるのである。自国民を飢えや貧困から救いたいのであれば、大軍を擁して長期的な戦争を行えるほどの政治力や組織力があるのであれば、その人員や予算を農業や工業などの内政に振り分け、自国民の生活水準を上昇させたほうがはるかに効率的である。自国民の生活のために多大な人員や戦費を犠牲にして、命がけで他国に軍事侵攻を行うということは、経済的にはまったく本末転倒で不合理な行動なのである。また、自国民が飢えに苦しむほど経済が逼迫しているのであれば、近代的な軍備を整えることすら不可能なはずである。大規模な戦争はむしろ、経済的な余裕があるから行えるのである。人間は経済的な理由で戦争をやめることはあっても、本質的な意味で、経済的な理由で戦争を行うことなどありえないのである。_NEWLINE_唯物論的な立場に立つマルクス主義者は、精神的なイデオロギーは虚偽意識や仮象形態に過ぎず、経済対立や生存競争が本質的であると指摘していたが、むしろ、ナチスドイツの社会ダーウィニズムにもとづいた生存圏構想などのほうが後付であり、虚偽で仮象なのである。
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優越願望と対等願望
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カール・マルクスは、歴史の発展の原動力は経済的な階級対立にあると主張したが、フランシス・フクヤマはむしろ精神的な優越願望(megalothymia:メガロサミア。直訳すると誇大気概)・対等願望(isothymia:アイソサミア。直訳すると平等気概)の対立によって生じると主張する(これはそのままニーチェ哲学の貴族道徳・奴隷道徳に類比できる)。_NEWLINE_優越願望とは、他人よりも上に立ちたいという野心であり、向上心であり、勝利への執着心である。また、カリスマ的な人物に心酔し、自己投影し、その人物に忠誠を誓うような武士道的忠義心も優越願望の形態のひとつである。対等願望とは、差別はいけない、傲慢になってはいけないというような、キリスト教的な博愛主義、平等主義である。上下関係や身分制度などの秩序や差別はあって当然だと主張する優越願望の強い貴族と、貴族も同じ人間に過ぎないと主張する対等願望の強い奴隷との対立が、歴史の本質的な流れなのである。_NEWLINE_世界史上に存在したイデオロギーや正義のほとんどは、その当時、その地域の支配階級の優越願望の表現形態である。帝国や王国内での正義とは、その皇帝や国王に敬意を示し、忠誠を誓うことであり、抵抗することは反逆であり、不敬であり、利己的で、悪とされた。宗教原理主義とはその宗教の優越願望、ナチズムとはドイツ民族の優越願望、天皇主義とは日本民族の優越願望の表現形態である。政治体制領域における優越願望(貴族道徳)の最後にして最高の発現形態が、大衆を愚衆と考えた、ソ連のエリートによる前衛主義的一党独裁体制である。_NEWLINE_奴隷は暴動や反乱だけでなく、道徳を利用して貴族に報復する。貴族に対して、「傲慢さを悔い改めるべきだ」「神の前では人間は平等だ」「強いものは弱いものをいたわらなくてはならない」と説教し、改心を迫るのである。それを、ニーチェは「道徳は弱者の復讐である」と指摘している。_NEWLINE_奴隷が攻撃手段として道徳を利用する態度は、核武装したソビエト連邦が崩壊した要因を考える上で重要である。もし奴隷が暴動や反乱を起こすだけだったら、ソ連共産党は反乱軍に見せしめとして核を打ち込めば、一瞬にして反乱軍を壊滅できたはずである。それをしなかったのは、ソ連共産党が奴隷の説教を受け容れて「改悛」したからに他ならない。現実主義派の国際政治学者たちがソビエト連邦の崩壊に動揺した要因は、「最強の軍事力を持った暴君の改悛」という予想外の事態が実際に起こったからである。当時の現実主義派の国際政治学者は、「敵の改悛に期待するとは、お人好しの最たるものであり、現実はそんな甘いものではない」という認識を持っていた。_NEWLINE_フクヤマは、長い歴史の闘争の結果、ユダヤ的対等願望(奴隷道徳)はゲルマン的優越願望(貴族道徳)に勝利したと述べている。奴隷道徳が勝利した理由は単純であり、貴族よりも奴隷のほうが数が多いからである。奴隷が必要な技術と知恵を身につければ、どんな貴族も数の力で支配者の地位から引きずり落すことが可能なのである。すべての奴隷が解放され、貴族と奴隷の身分制度が消滅し、出身や人種、性別、宗教などによる差別がなくなれば(それは法制度的には男女普通選挙制など、各種の政治的権利の平等によって達成される)、もはや歴史を発展させる要素はなくなる。_NEWLINE_しかし、必ずしも経済的な平等や、生産手段の共有化を達成する必要はない。人間が憤りを感じる不合理は、あくまで機会の平等、ルールの平等が破られた場合であり、公平な自由競争の結果としての不平等(スポーツの勝敗や成績、学歴、収入、企業でのポストの差など)は納得して受け入れる。ルールが公平なら、社会に競争が存在することは人間の優越願望を健全に消化する上で重要なことであると、フクヤマは指摘している。機会の平等だけでなく、結果の平等まで認めてしまえば、努力する者も怠ける者も報酬は同じになってしまい、健全な競争意識を減退させ、共産主義体制のような悪平等に陥ってしまう。_NEWLINE_政治的権利、機会、ルールの平等が達成されたら、もはや不合理は存在せず、大規模で組織的な内乱も反乱も起きなくなり(奴隷が反乱を起こす理由がなくなる)、安定した統治が確立されるので、歴史は終わる。_NEWLINE_ここで言う貴族とは、マルクス主義的な唯物史観でいうような、土地や生産手段を私的所有している者を指すのではない。単純に精神のあり様であり、降伏するぐらいなら死を選ぶという気概を持った人間を貴族と呼び、殺されるぐらいなら降伏すると考える者を奴隷と呼ぶ。貴族が土地や財産を所有しているのは、あくまで死を恐れずに戦った結果であり、その戦利品である。貴族にとって広大な土地や財産は自分の物理的・生理的な欲求だけを満たすものではなく、自分の勇敢さを示す勲章であり、ステイタスであり、アクセサリーである。だから貴族は、一生かかっても費やせないほどの財産を持っていても、なお貪欲にその領土や資産を拡大しようとする。睡眠欲、食欲、性欲などの生理的欲望には限界があるが、名誉欲には限界がなく、貴族は最終的には自己神聖化を行い、世界征服をも夢想するようになる。
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フクヤマの人間観
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フクヤマはプラトンの魂の三分説を引用し、人間は欲望・理性・気概の3つの要素から分析しなければ、正確な行動原理を導き出せないと考えている。マルクス主義は、人間の物理的な欲望を重視し、気概の存在を過小評価したいわゆるアングロ・サクソン的な人間観(冷静かつ効率的に資本の増大を図るブルジョワ・タイプ)である。_NEWLINE_しかし、現実では人間は気概や名誉のために物理的な犠牲を払う場合も多い。例えば、アマチュアスポーツ選手がメダルのために、禁欲的で過酷な練習を行うのも名誉のためである。フランスやドイツが、猫の額のような狭い領土争いに国が傾くほどの財力を費やしたのも名誉のためである。日本が圧倒的な国力を持つロシアやアメリカに挑みかかったのも理性的な判断ではなく、長く蔑視されていた有色人種の白人支配に対する怒りのためであり、名誉のためである。安定した社会体制や国家関係を作るためには、物質的な満足だけでなく、精神的な気概も満たせてやらなくてはならない。相手の面子も立てなくては、いつまでたっても闘争は終わらないのである。そのためには人種や民族、宗教、身分、職業などの差別を撤廃し、普遍的な認知(全人類を差別なく認め合うこと)を広めなくてはいけない。
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主人と奴隷の弁証法
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フクヤマはヘーゲルの『精神現象学』から、主人と奴隷の弁証法を読み解く。主人は奴隷を支配することによって自分の気概を満たす。また、奴隷は主人の適切な指示によって、効率的な労働を行う。しかし、人間扱いされない奴隷から敬意をもたれていても、自分の気概は完全には満たされない。そこで奴隷を人間まで成長させ、人間として成長した奴隷から敬意をもたれたいと思う。_NEWLINE_支配階級の資本家や知識人が、被支配者階級である奴隷や労働者へ、積極的な啓蒙活動や教育を行うのがその例である。しかし、奴隷を成長させることは、反乱や革命を起こすだけの知恵や技術を与えるということであり、自分の支配体制を崩壊させることにもつながりかねない。主人は有能な労働者としての奴隷の成長を喜ぶが、同時に恐怖も覚えるというジレンマに陥る。支配関係であると同時に、師弟関係でもあることが、主人と奴隷の関係性の矛盾である。しかし、最後は主人の支配権の放棄と、奴隷の啓蒙によって、主人と奴隷の身分関係は消滅し、安定した関係が構築される。主人と奴隷の関係性の矛盾が、弁証法的に止揚されるのである。
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歴史世界と脱歴史世界
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フクヤマは、いまだ民主化を達成していない国家や地域を「歴史世界」、民主化を達成した国家や地域を「脱歴史世界」と呼ぶ。いまだ歴史(イデオロギー闘争、政治的抑圧、政治的不平等)を行っている世界と、歴史を卒業した世界という意味である。_NEWLINE_「歴史世界」と「脱歴史世界」という2つの世界では、行動原理が全く異なる。歴史世界では、マキャヴェリズムや軍国主義が大手をふるい、性懲りもなく他国を侵略したり、政府が市民を裁判にもかけず、虐殺したりするだろう。しかし、脱歴史世界では、トラブルは民主的な対話によって回避され、軍事的緊張も起きなくなる。_NEWLINE_事実として、以前は慢性的な交戦状態にあったヨーロッパも、今では全くといっていいほど軍事的緊張感は存在しない。国家行動を考える上では、宗教や文明の違いよりも、民主国家か全体主義国家かの違いで判断するほうが合理的かつ効果的だと考えている。
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もはや万能ではなくなった現実主義
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政治学における現実主義とは、国際情勢をパワーポリティックス、物理的な軍事バランスによって判断する考えである。国際関係論で大きな影響力を持つ考え方だが、フクヤマは脱歴史世界ではもはやこの考えは有効ではないと指摘している。_NEWLINE_例えば、ソビエト連邦が崩壊した原因は、軍事的に弱体化したためではない。ソビエト連邦は、究極兵器である核兵器を持ったまま崩壊した。これは、現実主義や軍事バランス論では説明できないことだ。ソビエト連邦が崩壊した原因は、軍事的に弱体化したためではなく、政府(ソビエト連邦共産党)が支配の正統性を失ったからである。また、アメリカとカナダの国境線は、軍事的には真空地帯であるのにもかかわらず、どちらもその隙をついて侵攻を企てたりはしない。かつては植民地主義と世界大戦の震源地となったヨーロッパも、今ではその国境線沿いには、治安維持程度の警察力しか配置していない。_NEWLINE_民主国家間では、軍事的に強いから攻め込まれない、軍事的に弱いから攻め込まれる、などという現実主義的なパワーポリティックスは通用しない。民主国家同士では、トラブルは民主的な対話によって回避され、互いの主権や正統性を評価し合っているため、それに異議を唱える軍事行動などは起こらないのである。これは民主的平和論と呼ばれ、その論客であるマイケル・ドイルやブルース・ラセットをフクヤマは高く評価している。しかし、民主国家同士の大規模な戦争はもはや起こらないだろうが、今後も民主国家と独裁国家の闘争は起こりうることであり、そこではまだ現実主義や武力外交が有効だろうと考えている。_NEWLINE_ヒトラーを宥和政策でとめることができなかったように、独裁国相手に対話や協議だけで問題が解決すると考えるのは楽観的すぎるのであり、逆に、民主国家が民主国家にたいして、すぐ武力を誇示したり威嚇的行動をとるのは好戦的すぎるのである。
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最後の人間
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タイトルの『歴史の終わりと最後の人間』の「最後の人間」は、ニーチェ哲学の概念である。_NEWLINE_ニーチェは、民主主義的な価値相対主義の中に埋没し、平等を愛して、他人と争うことを嫌い、気概を失った人間を「最後の人間」と呼ぶ。フクヤマは「最後の人間」を、ヘーゲル哲学に出てくる「最初の人間」と対比させている。「最初の人間」たちは名誉のために命がけで戦い、勝った者は主人となり、敗けた者は奴隷となった。主人は誇りを覚え、奴隷は忍従を覚えた。貴族と奴隷の階級分化(貴族道徳と奴隷道徳の分離と成立)が起こったのが「歴史の始まり」である。フクヤマ的解釈では、ヘーゲルの歴史哲学とは、すぐ勝ち負けにムキになる傲慢で子供じみた「最初の人間」が、角のとれた温和で寛容な「最後の人間」になるという観念論的な精神成長史である。_NEWLINE_ニーチェは近代の奴隷道徳の台頭に対して、貴族道徳の復活をラディカルに説いた思想家なので、この「最後の人間」を否定的、侮蔑的に語っている。「最後の人間」は気高い貴族的精神を失い、命がけで戦う信念も勇気も持たずに付和雷同的に周囲に同調して媚びへつらい、目先の利益には聡いブルジョワ的な小利口な人間であり、軽蔑すべき畜群である。だから翻訳者によっては、ラストマンのことを「末人」「おしまいの人間」などと翻訳している。しかし、フクヤマの使う「最後の人間」という用語にはそういう侮蔑的なニュアンスはなく、単純に歴史の最終段階に出現した人間だから、「最後の人間」と呼んでいる。_NEWLINE_民主主義は国民の平等を説いた。この世に奴隷はなく、みな人間としての名誉を認められた。しかし、「普遍的な認知」というものが果たして意味を持ちうるのか? すべての人間が平等に価値があるのなら、すべての人間には平等に価値がないとも言い換えられるのではないか? キリスト教は普遍愛を説くが、すべてを愛するということは、逆に言えば何も愛していないというニヒリズムでもあるのではないか? ニーチェはブルジョワ民主主義の平等主義、価値相対主義のニヒリズムを指摘した。これは本質的な矛盾であるがゆえに、永遠に民主主義に付きまとう矛盾である。それがゆえに、ニーチェの近代批判はマルクスよりも本質的で、根源的だった。_NEWLINE_フクヤマは、歴史終焉論を単純な「アメリカ勝利論」や「民主主義万歳論」と言うよりも、むしろ寂寥感のあるイメージで語っている。歴史の終わりとは、壮大な歴史の動きの終わりであり、もはや革命も戦争もおき得ない。カエサルやチンギス・ハン、ナポレオンのような英雄も現れない。ベトナム戦争下の学生運動のような大きな政治的ムーブメントもおきず、人々はただ淡々と日常生活を過ごすだけ。歴史の終わり以前の歴史とは、誇り高い英雄たちの闘いの叙事詩だったが、歴史の終わり以後の歴史は、ただの記録の羅列でしかない。しかし、それが果たして本当に人間を幸せにしていると言えるのか? 近代化を完成させ、すべての歴史のプロセスを終えてしまった人間の寂しさ、ニヒリズムの到来もフクヤマは指摘しているのである。_NEWLINE_単調な日常生活に耐えられず、時折、刹那的な通り魔事件や無差別テロを起こす人間も出現する。しかし、それはあくまでも個人のコンプレックスや倦怠感に基づくものであり、ある集団に対する組織的で制度的な差別によるものではない。国家体制を揺さぶるような内乱になりえず、どこまでいっても一人ぼっちの反乱に過ぎない。個人の葛藤や懊悩がどれほど深くとも、すべては小さな物語に過ぎない。貴族道徳の復活とニヒリズムの克服を説くニーチェ主義は個人のなかでは永遠に妥当しうるが、もはや社会運動化することはないのである。民主体制は平等主義と個人主義を普及させることにより、奴隷の反乱軍を細分化し、無力化することに成功したのである。_NEWLINE_ただし、フクヤマは、マルクス主義が破綻した現代、歴史が再起動するとしたら、このニーチェのニヒリズムの克服論であるかもしれないという含みは残している。
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『文明の衝突』論との関り
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フクヤマの説に対し、サミュエル・P・ハンティントンは著書『文明の衝突』の中で「支配的な文明は人類の政治の形態を決定するが、持続はしない」とし「歴史は終わらない」と主張した。_NEWLINE_このように、「歴史の終わり」への批判として、ハンティントンの「文明の衝突」論が挙げられることが多いが、文明の衝突論と歴史終焉論はもともと思考軸が違うことに注意を払う必要がある。_NEWLINE_ハンティントンが言うように、文明による価値観の違いが衝突を生むということは十分ありえる。しかし、フクヤマの考えによれば、その文明の衝突を回避する唯一の方法は、リベラルな民主主義の普及のみであり、発展途上国の宗教戦争や民族紛争は、民主主義理念の普及が不十分だから起こるのであるとする。また、フクヤマは9・11同時多発テロ後も、「まだ歴史は終わったままだ」という見解を示している。フクヤマにとって、リベラル民主主義とは、文明圏や宗教圏よりも高次にある普遍的なイデオロギーであり、けしてキリスト教圏やアングロ・サクソン文化圏などに固有なものではない。日本や大韓民国、台湾、インドといったアジア諸地域にも民主主義は普及した。ウラジーミル・プーチンの強権主義が批判されるロシアも、一党独裁に回帰するような動きは見られない。五大国の最後の独裁国家である中華人民共和国も段階的な民主化を進めている。反米的なイスラム教国であるイラン・イスラム共和国も限定的だが民主体制は維持されており、フセイン体制崩壊後のイラクの国民議会選挙にも多くの有権者が参加した。アフリカでも、2011年、チュニジアでは「ジャスミン革命」が起き、約23年続いたベンアリ政権が崩壊した。エジプトでも約30年続いたムバラク政権が崩壊した。カダフィ政権の崩壊したリビアでもその原動力となったのは市民によるネット世論やデモの盛り上がりである。「歴史の終わり」が発表されて10年以上たつが、その間、フクヤマの「歴史とは世界が民主化されていく過程である」という主張は、揺らぐどころか、ますます精度を増しているとフクヤマは考えている。_NEWLINE_「米ソ冷戦の終結によってイデオロギー闘争の時代が終わり、次に文明の衝突が始まる」という言説は、フクヤマの歴史哲学に対する誤解である。フクヤマにとって文明の衝突は、弁証法的に統一される、歴史上ごくありきたりなイデオロギー対立でしかない。フクヤマは「歴史の終わり」で、共産主義に対してのみ勝利宣言を行ったのではなく、他のすべてのイデオロギーに対して、民主主義の勝利宣言を行ったのである。_NEWLINE_宗教戦争や民族紛争は、はるか太古の時代から繰り広げられてきたものであり、新時代の現象として、なんら目新しいものではない。弁証法的な対立としてみたら、「民主主義vs共産主義」「民選政体vs共産党一党独裁政体」の冷戦のイデオロギー対立よりも原始的で低レベルなものである。民主主義のアンチテーゼとしても、宗教原理主義や民族原理主義よりも、マルクス・レーニン主義のほうが理論性といい、普遍性といい、はるかに洗練されていた。現実に、宗教原理主義者はテロ行為は行えても、正規軍抗争ではまったくと言っていいほど民主国家諸国に歯が立たないし、他宗教国家からはまったくというほど支持、共感されない。あくまで治安維持レベルの問題であり、国家の存亡を左右する歴史的でマクロ的な問題ではないのである。共産主義という最強のライバルを打倒した民主主義諸国家からすれば、宗教原理主義や民族原理主義は、はるかに格下で脆弱なライバルでしかない。宗教テロリズムは新しい時代の矛盾ではなく、近代化に適応できないただの時代錯誤の集団であり、時間が経てば経つほど、弁証法的に切り捨てられ、孤立化し、無力化していく存在なのである。フクヤマにとって、それらは文明の衝突というよりも、あくまでも民主主義とそれに敵対するイデオロギーとのイデオロギー対立なのであり、民主国家と独裁国家(カルト的なテロ組織)、脱歴史世界と歴史世界の衝突なのである。_NEWLINE_また、歴史終焉論よりも文明の衝突論のほうが未来を予見していた事例として、中国の急成長を挙げる識者もいるが、これも典型的な誤解のひとつである。中国が急成長を遂げているのは、あくまで資本主義や自由主義経済を取り入れた結果であり、経済的な共産主義体制そのものの効果ではない。中国が経済的に成長すればするほど、中国共産党は支配の正統性を失っていくのである。中国の国力が増大し、国際的な影響力を増せば増すほど、むしろ中国共産党一党独裁による支配体制は揺らいでいくという、まさに主人と奴隷の弁証法の矛盾の真っ只中に、中国共産党は叩き落されているのである。中国国民は資本主義的な労働を通して、中国共産党に反抗するだけの気概と知恵と技術を確実に身につけていっているのだ。実際に中国国内では暴動が頻発し、将来の体制崩壊を予期して家族や資産を外国に逃亡させている中国共産党幹部も多い。もはや共産党一党独裁体制を長期維持することは困難だと、中国共産党もよく自覚しているのである。_NEWLINE_また、ハンティントンの文明論は文明の定義や境界が曖昧であり、紛争が起こった地域を後付で異なった文明同士の境目であり、文明の衝突だと指摘することが可能である。それに対してフクヤマの国家体制論は、明文化された法制度に基づいたものであり、厳密な基準と反証可能性を有したものである。_NEWLINE_ハンティントンの文明の衝突論が、冷戦の終結によって、押さえ込まれていた民族紛争や宗教戦争が先祖返り的に復活する危険性を妊んでいるという問題提起であるのなら、フクヤマの歴史終焉論はその問題提起に対するひとつの解決案である。
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フクヤマ主義の真意
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フクヤマは、民主主義は、合理的で普遍的な正当性を持ったイデオロギーであると述べている。これは、言い換えると『民主主義絶対善』の考え方である。価値相対主義を信条とする民主主義が絶対善へと化し、不寛容で冷酷な政策を採る。これは古くから言われていた民主主義の持つ危険性であり、矛盾である。2003年にアメリカのブッシュ大統領が、『中東の民主化』を掲げ、大量破壊兵器の存在を口実に軍事侵攻を開始した。独裁者はそれだけで悪なので、武力に訴えて追放しても許されるというブッシュの行動は、やはりフクヤマ的な歴史終焉論が大きな思想的背景になっているのは否定できない。_NEWLINE_しかし、フクヤマの歴史終焉論は歴史哲学であり、現状論ではない。歴史段階が成熟していないところに、不用意に民主主義を持ち込んでも混乱するだけである。実際問題として中東は混乱している。それは石油という地下資源に恵まれすぎているので近代化、工業化、産業化する必要が他国よりもないという側面もあるだろうし、イスラム教の政教分離が現段階では不十分であるという側面もある。さまざまな理由により、民主主義的理念(価値相対主義や平等主義)が充分に普及していないのである。イラクの混迷は文明や宗教の差というよりも、歴史段階の差であり、時間はかかるが必ず中東にも民主主義は根付くとフクヤマは考えている。フクヤマが観念論的なヘーゲル主義を展開したのは、民主主義を広めるには、単純に武力というハードパワーによって独裁者を追放するだけでは駄目で、ソフトパワーによる民主主義理念の普及拡大が必要不可欠だからである。独裁国の国民に民主主義を文字通り「説教」しなくてはいけないのである。そのためには、国民の識字率を上げ、宗教的迷信ではなく科学的批判精神を教育する普通教育制度、新聞やラジオ、テレビ、インターネットなどのメディア網、テロではなく話し合いによってトラブルを解決する裁判制度などの社会インフラの整備も必要である。フクヤマの歴史終焉論は、民主体制が近代化の結果であることを説くことによって、歴史段階の相応しない安易かつ性急な民主主義の拡大をむしろ戒めるものなのである。_NEWLINE_フクヤマはあくまでも近代化のプロセスを描いた社会科学である自分の歴史終焉論が、アメリカ人にある種の使命感を持たせてしまったことに困惑し、『岐路に立つアメリカ』のなかで、「アメリカは自国の善意を信じているだけでは駄目で、国際機関を尊重しなければならない」と述べ、アメリカ単独行動主義、ネオコン批判を行っている。本来は一般向けとしてはやや難解な哲学書であるフクヤマの「歴史の終わり」が、センセーショナルに取り上げられ、喧伝されたのは、アメリカが御用学説、プロパガンダとして利用できると考えた側面も否定できない。「リベラルな民主主義の正当性は社会科学的に証明された。よって、民主主義の拡大のために行われるアメリカの戦争は、正義と平和のための戦争である」と容易に国際世論を誘導できるのである。しかし、フクヤマが主張したのはあくまでリベラルな民主主義の最終的勝利であり、アメリカ覇権主義の勝利ではない。これを踏まえ、あらゆるプロパガンダに利用されないように注意しなくてはいけない。
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フクヤマ以前の歴史終焉論
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フクヤマ以前にも歴史終焉論を唱えた哲学者は存在する。ヘーゲルはイエナの会戦、コジェーブは第2次世界大戦の終結に歴史の終わりを見たといわれている。_NEWLINE_ヘーゲル、コジェーブの歴史終焉論と、フクヤマの歴史終焉論の歴史段階的な違いは、政治体制論的には共産主義の崩壊以前か、以後かであり、科学技術的には、相互確証破壊が成立するほどの核兵器の有無の差である。フクヤマが主張するように、歴史が終わった要因には人道主義や価値相対主義、平等主義が発達し、人間が精神的に成長した点も大きいが、大量破壊兵器が発達し、あらゆる面において先進国間の武力解決が不合理になってしまったため、結果的に対話と多数決による非暴力的決定という民主主義的な手段を採用せざるを得なくなった側面もある。軍事力が飽和化してしまったために、結果的に軍事力というハードパワーそのものが無意味化してしまったのである。また、他国民への差別意識が軽減され、世界レベルでの普遍的認知が達成されたのは、通信・移動手段が発達して高度な世界の一体化が実現されたため、村民、町民、市民、国民と発達してきた同胞意識が世界市民まで拡大できたという側面もある。差別意識や偏見を軽減するには、十分な意志の疎通が行える通信・移動手段などのコミュニケーション技術の発達が不可欠なのである。太古の時代から、人間は他集団や異民族には残酷かつ攻撃的、差別的に対応したが、顔馴染みの同胞や友人には礼儀正しく、紳士的に振舞っていた。_NEWLINE_しかし、フクヤマは歴史をイデオロギー発展史と見た場合、アイデアとしての民主主義理念はヘーゲルが指摘したようにイエナの会戦で完成しており、それ以降は本質的な進歩は起きなかったと述べている。あくまで、それを現象論的に、社会科学的に誰が見ても明らかであると証明されるまで、ソ連の崩壊まで待たなければならなかったというだけである。_NEWLINE_また、他にマルクスは『経済学批判』のなかで、共産主義社会の実現を歴史の前史の終わりと指摘している。(マルクスもレーニンも、歴史は無限に続く弁証法的発展の過程と考えていたため、基本的に「歴史の終わり」という概念はない。だからあくまで、「前史」の終わりと指摘している。例え共産主義体制が成立したとしても、その体制内から新たな矛盾が生まれ、共産主義体制もいつか崩壊すると考えていた。マルクス、レーニンにとって、一体制が永遠に続くなど、宗教的な迷信となんら変わらず、非科学的な見解であった。)ニーチェは、貴族道徳と奴隷道徳の二項対立は人間の本質に根ざしたものなので、どちらかが最終的に勝利するということはなく、歴史には終わりも始まりもないという永劫回帰説を主張していた。_NEWLINE_「人類の歴史とは階級闘争の歴史である」というマルクスの指摘は鋭かったが、人間が求めていたのは経済的な平等や生産手段の公有化ではなく、認知の平等であった。また、世界の倫理史のなかに貴族道徳と奴隷道徳の対立を見出したニーチェの直感はまさに卓見と呼ぶべきだったが、ニーチェには弁証法的思考という概念がなかった。フクヤマの歴史哲学は、この二人の長所を取り上げて短所を切り捨てるという、いわば弁証法的に止揚、統合することによって成り立っている。
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歴史の終わりの思想史的位置づけ
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ジャン=フランソワ・リオタールは、社会の全体をひとつの理論でとらえようとする大理論の否定として「大きな物語の終結」を主張し、ポスト・モダンの到来を説いたが、フクヤマはそれを復活させた。すべての民族、文化圏、宗教圏に共通する普遍的な歴史、「大きな物語」は存在すると主張した上で、その完了として、歴史の終わりを説いたのである。 | 16067408727659732139 |
Q20040523 |
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死の翌朝
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概要
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ブレイクの1966年の作品で、彼のレギュラー探偵ナイジェル・ストレンジウェイズが活躍する最後の長編作品。2014年に、論創社の論創海外ミステリの一冊として翻訳刊行された。1950年代から日本のミステリファンにも長らく親しまれた名探偵ストレンジウェイズものの、最後の未訳作品でもあった。翻訳は熊木信太郎。通常は母国のイギリスで活躍のナイジェルが、アメリカに出かけた際に遭遇した殺人事件の謎を追う。
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あらすじ
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ケネディ暗殺事件で世界が震撼したのちの、1960年代半ば。学者で私立探偵のナイジェル・ストレンジウェイズは、オックスフォード時代の旧友エドワーズに誘われてアメリカに赴く。目的は、エドワーズが学生寮「ホーソン・ハウス」の寮長を務めているアメリカ東部のカボット大学で、文学関連の調査をするためだ。現地でナイジェルは同大学に関係のある人物やその周辺の者たちと知己になった。やがて大学の中で、殺人事件が発生。英国の名探偵として高名を馳せたナイジェル・ストレンジウェイズは、この事件の捜査に乗り出すが……。 | 9190328220062655903 |
Q21015393 |
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残穢
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概要
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作者と同様のプロフィールを持つ作家<私>が、東京郊外のマンションで起こる怪異に迫っていくホラー作品。実在の作家の平山夢明や福澤徹三が物語の登場人物になるなど、モキュメンタリーを連想させる作劇となっている。_NEWLINE_単行本は、2012年7月20日に新潮社より書き下ろしで刊行された。文庫版は、2015年8月1日に新潮文庫より刊行された。装丁は、単行本が祖父江慎+鯉沼恵一(cozfish)による。装画は、単行本が司修、文庫版が町田尚子による。_NEWLINE_2012年、「ダ・ヴィンチ BOOK OF THE YEAR 2012」(小説ランキング50)第8位。「ミステリが読みたい! 2013年版」(国内部門)第10位。2013年、第26回山本周五郎賞を受賞。『ダ・ヴィンチ』の「怪談オブザイヤー」で第1位。_NEWLINE_2016年1月より映画化作品『残穢 -住んではいけない部屋-』が公開。
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物語
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京都市で暮らす〈私〉の生業は小説家である。執筆分野は大人向け小説が中心だが、嘗ては少女向けにライトノベルやホラー小説を執筆しており、そのあとがきで読者に「怖い話」の募集を呼び掛けていた。その縁で、嘗ての読者から「怖い話」を実体験として相談されることがある。_NEWLINE_2001年末(映画では2012年5月)、嘗ての読者で「岡谷マンション」の204号室に住む30代の女性・久保から1通の手紙が届く。手紙によると、久保がリビングでライターの仕事をしていると背後の開けっ放しの寝室から「畳を掃くような音」がするのだという。更には、翌年に久保から改めて電子メールが届く。相変わらず寝室から右に左に畳を擦るような音が続いたため、振り返ってみると着物の帯のような平たい布が目に入ったという。その話に〈私〉は奇妙な既視感を覚える。同じ頃、転居・同業者の夫との同居を控えていた〈私〉は荷物の整理をする内に、屋嶋という女性から1999年7月に受け取った手紙を目に留める。既視感の正体はこれだったと気づく。屋嶋も自宅マンションである401号室の寝室から時折聞こえる何かが床を掃くような音に悩まされていた。久保と屋嶋の住所は部屋こそ違えど同じマンションだったため、〈私〉は彼女らが遭遇しているのは同じものなのではないだろうかと考える。_NEWLINE_久保と屋嶋の話を合わせる内に〈私〉の脳裏には「和服姿の女性が縊死し、その折に解けて乱れた帯が床を擦っている」というイメージが浮かぶ。久保は、その帯がいわゆる金襴緞子の帯ではないかと言う。久保は不動産業者や図書館などで調べるが、「岡谷マンション」で過去に自殺者が出たというような情報は得られない。そんな中、久保は204号室の前住者・梶川亮の不幸な出来事を知る。彼は精神を病んで「岡谷マンション」を退去し、職を辞した後に新居のアパートで首を吊って自殺していた。久保と〈私〉は「岡谷マンション」が建つ土地が「いわくつき」だったのではないかと考える。久保は「岡谷マンション」が建っている土地やその周辺のいわくを調べるため、周辺の住人への聞き取りを始める。_NEWLINE_地元住民の1人である益子香奈恵の証言によれば、マンションが建つ前は駐車場で、更に遡ると数軒の一戸建て住宅が建っていたという。しかし、バブル期の地上げで軒並み転居した。最後まで残っていた小井戸家は近所でも有名なゴミ屋敷で、住人の男性は最終的に孤独死したと語る。そんな中、〈私〉は1999年当時に「岡谷マンション」の401号に住んでいた屋嶋から電話を貰い、部屋で遭遇した怪奇現象を聞かされる。彼女が401号室に入居したのは1999年3月だったが、最初から部屋には憂鬱な気が漂っていたという。当時2歳になる娘・美都は、和室の天井のあたりを意味もなく凝視し「ぶらんこ」とつぶやき、屋嶋自身も何かを掃くような音に悩まされていた。1999年7月頃、美都がぬいぐるみ「みふぃ」の首に紐をかけ、それを揺らして「ぶらんこ」と言いながら遊んでいたのに仰天し叱ったという。それらの現象に戸惑った末、彼女は〈私〉に手紙で訴えたのだった。霊感のない夫共々に寝床の周囲を赤ん坊がはい回るような音に悩まされ、最初の頃は無邪気に笑っていた娘も徐々に怯えるようになったため、たまりかねてその年の10月にマンションを引き払ったと語る。_NEWLINE_端緒の「岡谷マンション」と同じ土地で近隣にある団地「岡谷団地」には、何故か住人が居着かない家がある。最初の住人に因んで「黒石邸」と呼ぶ家の現在の住人・鈴木も〈私〉に奇怪な出来事を語る。ある日、台所で洗い物をしていた彼女は背後に何かの気配を感じる。蛇口の表面を見ると、髪の長い女が彼女の手許を肩越しに覗き込んでいるのが映りこんでいたという。後でよくよく思い返してみると割と長身の鈴木の肩越しだと背後に立っていたにしては女性の位置がかなり高く不自然だということに気づく。屋嶋からマンションでの体験を聞かされた鈴木は、蛇口に映っていた女は首を吊ってぶら下がっていたのだと考える。最初はからかってもいた夫も幾度となく怪異に苛まれて嫌がるようになり、夫婦揃って耐え切れなくなって退去した。_NEWLINE_2003年、〈私〉と久保は地域の町内会長だった老人・秋山から高度経済成長期における地域の情報、特に「ゴミ屋敷」として名高い小井戸家の情報を得る。秋山の証言によれば、小井戸家の住人・泰志は定職にも就かず戦争未亡人の母・照代と長年2人暮らしだったという。1980年頃に母親が死去した後に泰志はゴミを溜め込んだため、近隣住人は悪臭に悩むようになった。1990年7月に秋山らが町内会として訪ねたところ、泰志はゴミの山の中に敷かれた布団の上で死亡しているのが発見されたという。_NEWLINE_地元の神社の世話役・田之倉は、小井戸家が建つ以前の地域の様子を語る。彼の話によれば、戦後間もない頃は付近一帯は鋳物工場だったが、火災で全焼し、その跡地に高野という裕福な一家が家を構えていた。しかし、1955年頃、高野家の夫人・トシヱが末娘・礼子の結婚式の直後に礼装の黒紋付き姿で帯締めを鴨居にかけ、首を吊って自殺したという。妻を喪った高野氏はこの地を去り、その後に建ったのが小井戸家とのことだ。その話を聞いた久保は、自身が「岡谷マンション」の部屋で見た金襴の帯はトシヱの自殺した姿だったと確信する。_NEWLINE_2005年、〈私〉と久保は高野トシヱの友人だった日下部清子を取材する。彼女の話によれば、トシヱの末娘だった礼子は「進歩的な女性」で、男女交際が憚られる時代ながら男友達も多かったという。高校卒業後に都内で勤務していた礼子だったが、ほどなく帰郷、お見合いの末に結婚を目前としていた。そんなある夜、トシヱと外を歩いていた清子はトシヱから「赤ん坊の泣き声がしないか」と訴えられた。昔患った病気の所為で耳が少し遠かった清子には聞こえなかったが、トシヱは「何軒もの家で赤ん坊を泣かせて私たちをからかい面白がっているのだ」などとまくし立て、赤ん坊の声を異常に恐れていた。疑心暗鬼に陥ったトシヱに辟易してうっかり「私には聞こえないんだけどね」と口を滑らせてしまい、攻撃する連中の仲間かと誤解されかけ冷たい視線を向けられたこともあったという。やがて礼子が嫁入りする日が迫り、清子は娘の千香と2人で「結婚祝い」のため高野家を訪れる。その折、確かに部屋から湧きあがるような赤ん坊の声が響き、清子と千香も「赤ん坊の声」に納得せざるを得なかった。娘の結婚式の際、赤ん坊の声が聞こえて親戚連中まで嫌がらせを始めたのかと激昂したトシヱは帰宅してすぐ首を吊ってしまう。清子らは当時を思い出しながら、礼子は東京で不純交際の末に妊娠し、堕胎したのではないかと推理する。_NEWLINE_話を聞いた〈私〉と久保は、トシヱは娘の妊娠、そして堕胎による羞恥心と罪悪感に耐えきれず、更には「赤ん坊の泣き声」からノイローゼとなり発作的に縊死したのではないか考える。しかし、〈私〉は清子や千香の話を詳細に考察し、赤ん坊の声は「礼子の子」のみではなく複数だったのではないかと思いつく。久保は考えすぎではないかと言うが、懐疑的な〈私〉は複数の赤ん坊の声という考えを捨てられなかった。地域住人である辻の述懐によれば、高野家が建築される前に当地には植竹工業という鋳物工場があったが、戦後まもなく失火で全焼したという。植竹工場の周辺には工員の住居として長屋が立ち並んでいたが、その長屋にも幽霊話が取沙汰されており、他の地域の子供らは長屋で遊ぶのを避けていた。元工員の証言では、実際に工場で死亡事故が発生していた。また、2006年の秋に友人の〈ハマさん〉から〈私〉に情報が寄せられ、工場の長屋に住んでいた女性・中村美佐緒は貞操観念が薄く、妊娠・出産の度に嬰児殺しを繰り返していた。工場の焼失後も転居先でなおも続け、新聞沙汰になったという。〈私〉は、トシヱが耳にして脅えた赤ん坊の声とは、美佐緒の嬰児たちの声だったのだろうと考える。_NEWLINE_2006年末、久保は「岡谷マンション」の401号室の元住人・梶川の終の棲家であるアパートの大家・伊藤から、意外なことを聞かされる。梶川が縊死して1年以上を経た部屋に伊藤の反対を押し切って入居した住人から怪奇現象を訴えられたという。その怪異とは「畳を擦るような音」と「首吊り自殺した着物姿の女性の幽霊」だった。最初の入居者は結局4か月で逃げ出し、翌年の入居者も同様の怪異に見舞われ、今まで女性の入居者は1人もいないこと、自殺したのは男性であること、見ればわかるようにフローリングであること、首を吊ろうにもロープをかける場所自体がないと伊藤が説明するも聞かずに2人目の入居者も3ヶ月でアパートを出て行ってしまう。高野夫人の自殺に端を発する「穢れ」が、梶川によって何の関係もないアパートに伝染してしまったのだ。一方で体調不良に悩んだ久保は「岡谷マンション」からワンルームに転居するのだが、怪音はついて来てしまった。_NEWLINE_2007年、〈私〉は独自に「岡谷マンション一帯の土地の記憶」を調べていた怪奇作家・平山と再会する。調査結果によれば、植竹工場が建設される以前の大正時代、その地には資産家・吉兼一族の屋敷があった。しかし、吉兼家の三男・友三郎には精神障害があり、座敷牢に閉じ込められていたという。吉兼一族の菩提寺は近隣に健在だったが、住職・國谷は先代が住職を務めていた1945年、吉兼家の夫人・ハツが寺を訪問して以来、一族は離散・絶縁状態だと語る。寺に残る墓誌や過去帳を探ったところ、吉三郎の継母である吉兼三喜の奇怪な事象を聞かされる。後妻として吉兼家に嫁いだ三喜は、嫁入り道具の中に美人画の掛け軸を携えていた。寺の先々代の住職の備忘録によれば、吉兼家に不幸な出来事があると描かれた女性の顔が禍々しい笑みに歪み、ダンプなどが立てる低周波音域の音に似た地下を吹き抜けるような風の音が聞こえるという。間もなく吉兼家では息子の発狂や死産など不幸が相次ぎ、三善はその元凶と思われる掛け軸を菩提寺の住職に預けてすぐに若死にしていた。そんな不吉な掛け軸を嫁入り道具に持たせたことに〈私〉は三喜の実家の神経を疑うのだった。_NEWLINE_健康上の都合で久保が調査から外れた矢先、存在自体が怪である北九州最強の「奥山怪談」が浮上する。三善の実家は九州・福岡県にあった、この怪談の元である奥山家だった。地元の郷土研究家・福澤によると、小さいながら炭鉱を経営する奥山家は地域でも有名な資産家だった。しかし、大正の末、奥山家最後の当主・奥山義宜は家族と使用人を皆殺しにした挙げ句に自殺し、一族は断絶した。屋敷の跡地に建った家・真辺家でも不幸が重なり、解体された奥山屋敷の部材を買い取った愛知県の米溪家ではその部材「欄間」から仏間を覗くと地獄が見えると伝えられ、仏間の次の間で寝ると呻き声の混じった何処か遠い地の底で吹いているような風の音が聞こえて金縛りに遭ったり、東京の下宿に怪異がついて行ってしまったのか黒い人影が物騒な言葉を呟くなどと怪奇現象が頻発し、奥山家に関係するものはことごとく呪われた経過を辿ることになるという。奥山家の惨劇が、その後の枝分かれし量産された怪異の震源地だった。〈私〉は、久保が「岡谷マンション」で遭遇した怪異を末端とする一連の連鎖の震源地は奥山家だと考える。_NEWLINE_2008年11月、〈私〉と久保、平山や彼と懇意の編集者、そして福澤の5人は嘗て奥山家が存在した敷地に建つ真辺家の廃墟を調査するべく、九州に赴く。
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書評
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怪奇幻想文学研究家の中島晶也は「本書の怖ろしさは読み終わって本を閉じた後も読者を脅かし続ける」「本書が提示する恐怖は、過去に根差していて古いがゆえに本源的であり普遍的である」と評価している。書評家の朝宮運河は「同時発売の『鬼談百景』とともに著者の〈怪談実話趣味〉が見事に実を結んだ傑作」と評価している。詩人の川口晴美は、「流動民が増え土地の記憶を遡るのが難しくなった現代に、ウイルスに感染するようにして拡散していく恐怖の気配がなまなましい」と評した。
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ラジオドラマ
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NHK-FM「FMシアター」で2014年1月18日に放送。
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キャスト
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南果歩 平岩紙 伊藤友乃 石河美幸内田藍子 外山文孝 鈴木惠理 登澤良平原みなほ 高川裕也 | 8948808903120795503 |
Q11547385 |
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比例九州ブロック
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地域
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福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県
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選出議員
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ドント方式による議席割り当て順に表示。 | 9248614097406407536 |
Q286949 |
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気道確保
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気道確保(きどうかくほ、英: Airway management)は、呼吸に必要な酸素の通り道である気道の物理的な閉塞を予防、解除することにより窒息を予防し呼吸管理を行うための処置である。心肺蘇生においては、まず第一に行われる処置。_NEWLINE_意識レベルの低下した人では筋肉が弛緩し、舌根が後方(背側)に落ち込むために上気道を閉塞する。これを「舌根沈下」と呼ぶ。また、意識が正常であっても声帯の固定、気管内の腫瘍による閉塞、気管周囲の腫脹による圧迫あるいは気管支喘息などさまざまな要因で気道が閉塞してしまうことに対し、呼吸のための換気路を確保する要することがある。_NEWLINE_原因の如何に関わらず気道閉塞は一刻も早く取り除かなければならない。 | 9205761430813303688 |
Q1096168 |
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水平尾翼
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水平尾翼(すいへいびよく)は、飛行機を始めとする航空機の尾翼の一種の名称である。
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概要
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航空機の尾翼の一種で、水平についている部分。水平安定板と昇降舵によって構成され、縦の安定性の向上と、ピッチングの操作に使用される。_NEWLINE_小さな(したがって軽い)尾翼で十分なモーメントを発生できるように、通常は機体の重心から後方へ離れた位置、すなわち機体の最後尾に取りつけられる。一方、主翼は重心付近の若干重心より後方に取り付けられる。そのため、バランスを取るため、尾翼はマイナスの揚力を発生することになる。航空機の創成期においては、主翼を重心より若干前方に取り付け、尾翼はプラスの揚力を発生するものも存在したが、操縦性に問題があったため、その後採用されなくなった。しかしながら、1970年代以降の戦闘機においては、CCV技術の手法のひとつである静安定緩和の手段として、水平尾翼の発生する揚力を下げ、主翼を重心近くに配置するようになった。_NEWLINE_水平尾翼は一般に機体に直接取り付けられているが、リアエンジン方式の機種ではエンジンの高流・排気の影響を避けるために、垂直尾翼の上部に取り付けられることもある。これをT尾翼、またはT字尾翼と呼ぶ。離陸時、比較的高い上昇角をとることができる反面、迎え角を大きく取ると主翼の後流が水平尾翼の効果を無くし、急激な機体の頭上げ(ピッチアップ)を生じる欠点がある。そのため、これを採用した機体(特にF-101 ブードゥーやF-104 スターファイターなどの戦闘機)では、迎え角を一定以上取れないように制御することになる。運動性を重視する戦闘機の場合は迎え角を大きく取れないのは致命的な欠陥となり、T字尾翼を含めて主翼より上方に水平尾翼を配置する設計はなされなくなった。_NEWLINE_まれに、水平尾翼を機首や機体前部に取り付けた機種もある。この水平尾翼を先尾翼(カナード)と言い、この方式の機体をエンテ型飛行機と呼ぶ。エンテ型飛行機の場合も主翼は重心より若干後方に配置するのは同様であり、そのため、先尾翼はプラスの揚力を発生することになる。リアエンジンの機体の場合は、重心が機体の後方に位置し、機体の最後尾では重心からさほど離れていないことになるため、尾翼を重心からできるだけ離すという意味では、エンテ型が望ましい。_NEWLINE_水平尾翼は単純に発生する揚力で効果を推し量ることができないため、その指標として水平尾翼容積という値が使用される。_NEWLINE_超音速戦闘機などでは、水平尾翼全体が昇降舵として機能する全遊動式(オールフライング・テール)となっている例が見られる。_NEWLINE_全遊動式を含め水平尾翼舵を差動させ、ロール制御に用いる場合もあり、テイルロン(テイル+エルロン)とも呼ばれる。_NEWLINE__NEWLINE_また、水平尾翼を省略した無尾翼機も存在する。この場合、主翼そのものが水平尾翼の働きを兼ねたり、あるいはコンピューター制御(CCV技術)により安定を保つ。 | 7239280545509486655 |
Q17231608 |
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水谷海越
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水谷 海越 (みずたに かいえつ 1951年 - )は日本の書家。以前は、陽翠の号で活動していた。
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概要
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二源会の会長を務めており、毎年春に書展を開催している。過去には陽華会の会長を務めていた。_NEWLINE_また、後進の育成にも力をいれており、愛知県名古屋市の郷導文化学院を主宰しているほか、天白高校でも講師を29年勤めた。 | 13047703520415320224 |
Q25982964 |
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永島達司
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永島 達司(ながしま たつじ, 1926年4月26日 - 1999年5月2日)は、日本初のプロモーター。1953年に「新々プロダクション」を設立。1957年に社名を協同企画(現・キョードー東京)に変更。_NEWLINE_戦後の海外アーチストの日本公演を手掛けた第一人者であり、ナット・キング・コール、ベンチャーズ、ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマン、シュープリームズ、スティービー・ワンダー、レッド・ツェッペリン、アンディ・ウィリアムス、サイモンとガーファンクルをはじめ、ビートルズを日本に呼んだプロモーターとして知られる。海外ではタッツ・ナガシマの愛称で呼ばれた。
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生涯
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1926年4月26日、神奈川県保土ケ谷町に5人兄弟姉妹の次男として生まれる。三菱銀行勤務であった父・忠雄の転勤に伴い、2歳でニューヨークに移り住む。4歳でロンドンに移り、8歳の時に一時帰国したが、12歳の時に父親がニューヨーク支店長となり再びニューヨーク州ウエストチェスターに。当時、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、在来の日本人や日系移民への圧迫を強めていた時期であったが、アメリカ東部の住宅街では、日本人を差別することもなかった。永島は身長も高い方であったので、クラスメートにいじめられた記憶はないという。この少年時代に、ジャズやポピュラー音楽と出会い、夢中になる。15歳の時(太平洋戦争開戦の4ヶ月前・1941年8月)に帰国。_NEWLINE_終戦後の1945年、永島が早稲田第一高等学院(旧制)3年生の時、路上で進駐軍のトラックに呼び止められ、ビールの醸造所に案内したのがきっかけで、ホテルの進駐軍将校用クラブで通訳を始め、その後GI向けの芸能担当となる。永島の流暢で美しい英語が米兵の間で評判になり、ジョンソン基地・将校クラブの支配人になる。この時期に、日本人ジャズシンガーのマネジメントを行っている。早稲田大学法学部卒業(基地でアルバイトをしていた時期に、理工学部から転学)。_NEWLINE_1952年、永島はジョンソン基地の将校クラブを退職し、アメリカ人の知人2人と、進駐軍のクラブにミュージシャンを斡旋するSNプロダクションを始める。1957年には協同企画(現・キョードー東京)を設立。設立後、ナット・キング・コール、ビートルズ、エルトン・ジョンやマイケル・ジャクソンなど大物ミュージシャンを呼び、興行を成功させている。1962年には洋楽専門の著作権管理会社「大洋音楽」を設立し社長を兼任。業界の第一人者としての立場を確立した後も表舞台に出ることなくミュージシャンへの接待に徹している。ビジネスライクなプロモーターが多いなか、私生活面でも面倒見がよいことから海外ミュージシャンから高い評価を得た。永島は、仕事で知り合った外国人タレントに「タツの英語はエリザベス女王みたいだ」と言われるほどの完璧で上品な発音の英語を話す。身長も180cmを超える長身で、彫りの深い顔立ちで美男子であった。アメリカ人からは「ハンガリー系なのか」と質問される事もあったという。_NEWLINE_生前「向こうの曲に日本語の歌詞をのせたものには昔、すごく違和感持ってたんですけど、ジャズ・ブームのころに日本語で歌った江利チエミや雪村いづみは売れたわけだし、ビートルズを日本風にアレンジしたGSも支持されましたよね。フォークだって吉田拓郎や、ロックではサザンオールスターズとか、オリジナルなものを日本ぽく、極端にいえば演歌っぽく仕立てたアーティストが日本では売れる。逆に言えば技術的な面では海外でもひけはとらないが、言葉が障害になってるということですね。僕も生きてる間に日本の音楽が世界的にはやるのを見てみたいですね」と話していた。_NEWLINE_1995年、俳優の本木雅弘と也哉子(ミュージシャン・内田裕也と女優・樹木希林夫妻の娘)夫妻の仲人を務めた。1998年6月8日、ロンドンでのセント・マーティン教会で行われたリンダ・マッカートニー(ポール・マッカートニーの妻)を追悼するメモリアル・サービスには、日本人では永島だけが招待された。1999年5月2日、肺炎により73歳で死去。(ポール・マッカートニーは永島の妻に手紙を送っている)。
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家族
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父親の永島忠雄は東大法科卒業後、大正7年に三菱合資入社、三菱銀行の取締役まで務めたのち、昭和24年に三菱海運に移り、社長となった。妻は1953年3月28日に結婚した女優の藤田泰子(泰子は映画界を引退)。子にトムとジョージ。長男のトム永島(永島智之)もキョードー東京に務めた後、トライセラトップスらが所属するトリニティー・アーティストにて、音楽プロモーターをしている。 | 7440987606472698765 |
Q11550316 |
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永福稲荷神社 (杉並区)
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由緒
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当神社は、社伝によれば享禄3年(1530年)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として、伊勢外宮より豊受大神を勧請したものされている。このように寺の鎮守として祀られたわけだが、寛永16年(1639年)の検地の際に、永福寺村持ちの鎮守になったといわれている。明治維新後、永福寺から分離して今日に至っている。明治11年(1878年)には社殿を町全体を守るように西向きに建て直された。明治40年(1907年)10月には北野神社を合祀している。 | 10729319723048932282 |
Q11550485 |
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求衛昭紀
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来歴
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宮崎県日南市で育ち、日南市立吾田中学校を経て日章学園高等学校へ進学。高校2年次の2000年に宮崎県選抜チームに選出されて2000年とやま国体に出場し、ベスト4を経験した他、大会優秀選手に選出された。_NEWLINE_卒業後佐川急便大阪SCに入団、2006年までに56試合に出場して4得点を挙げた。2007年所属チームの合併に伴い滋賀県に設立された佐川急便SC(2008年よりSAGAWA SHIGA FC)に参加した。 | 5862318657865245895 |
Q30929244 |
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江口晃平
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略歴
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2013年、伏見工業高校卒業後、立命館大学に入学する。なお伏見工業高校時代、高校日本代表候補に選ばれたことがある。_NEWLINE_2016年、立命館大学ラグビー部の副将に就任した。_NEWLINE_2017年、立命館大学卒業後、ヤマハ発動機ジュビロに加入。 | 7507576122494811468 |
Q65272154 |
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池田町トウゲ
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地理
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南は池田町ヤサン、西は池田町ヤマダ、池田町クヤウジ、北は吉野川を挟んで池田町州津、東は井川町西井川にそれぞれ接する。旧池田町と旧井川町の町境。 | 4521637477973039169 |
Q11552219 |
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池畑潤二
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履歴
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高校時代の1975年、大江慎也とバンド「薔薇族」を結成。その後、1979年「人間クラブ」の結成に参加し、そこからボーカルの南浩二が脱退する形で「ルースターズ」を結成。1983年にルースターズを脱退する。_NEWLINE_その後はZERO SPECTERや山善&Midnight Specialに参加。またセッション・ドラマーとして、布袋寅泰、中川勝彦、山下久美子、浅川マキ、UA、COMPLEX、吉川晃司、石橋凌、泉谷しげる、花田裕之、浅井健一、トータス松本、椎名林檎、松井常松、本田美奈子、和田アキ子等のレコーディング、ライブサポートとして参加。松井常松の『SONG OF JOY』は、松井名義のアルバムだが、実質的に池畑と松井の共作である。_NEWLINE_1998年、自身のバンドであるNo Stars InnovationやDee Dee Feverを結成。また2001年、元ルースターズのメンバーである花田裕之、井上富雄、下山淳と「ROCK'N'ROLL GYPSIES」を結成(のちに井上富雄は脱退し、市川勝也が参加)。さらに2002年には、浅井健一のバンド「JUDE」のメンバーとして活動(2003年まで)。他、冷牟田竜之率いるDAD MOM GODや、SION with THE MOGAMI、Ocuppy、HEATWAVE、柴山俊之&ギラギラバンド等のメンバーとして、精力的に幅広く活動を続けている。_NEWLINE_2015年、中島美嘉のバンドプロジェクト「MIKA RANMARU」に参加。 | 1044488238170899567 |
Q3119101 |
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池部良
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来歴
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大学では富田彬などから学ぶとともに、映画監督になるのを夢見て在学中の1940年に東宝撮影所のシナリオ研究所に研究生として入り、1941年に卒業と同時にシナリオ研究所を卒業し東宝に入社する。監督希望だったが戦時下の作品制作数の大幅減少で助監督の空きがなく、文芸部に配属。早々部長に、面食いだからと当時子役の大スターだった中村メイコの子守を命じられ、彼女の大絶賛を聞いた映画監督・島津保次郎に請われて『闘魚』に脇役で出演する。それが好評となり知的でスマートな若手俳優のホープとして目された。_NEWLINE_1942年の『緑の大地』のクランク・アップの翌日に陸軍に召集され、中国山東省に派遣された。大学卒ということで幹部候補生試験への受験を勧められる。任期が長くなる(当時、兵隊のままだと任期は2年とされていた)ため断るが、上官に無理やり受けさせられ白紙で答案を提出したにもかかわらず甲種幹部候補生にされ、厳しい訓練を受けた。1943年11月に見習士官に任官後、予備陸軍少尉となる。1944年に南方戦線に移動される。竹一船団の輸送船「天津山丸」に乗船するが、5月12日に敵潜水艦に撃沈されセレベス海に投げ出され10時間泳いだ後、海軍の艦船に救出されインドネシア北東部のハルマヘラ島へ配属された。食料、弾薬ともに豊富なハルマヘラ島に配属された彼らは1944年9月アメリカ軍のすさまじい艦砲射撃、空爆を受けてジャングルに逃げ込んだ。_NEWLINE_その後は上官がすべて他島へ移動してしまったため、少尉ながら衛生隊本隊を任され終戦まで戦い、終戦時の階級は中尉だった。_NEWLINE_1945年11月には進駐してきたオーストラリア海軍との交渉役を任され、単身で豪海軍駆逐艦に乗り込み人格者であった艦長とオールド・パーを飲み交わしている。1946年6月まで抑留され、南方から苦労して復員船に乗る。他の隊の将校は海に放り込まれたりするが、池部隊では部下が円陣を作って隊長を守ってくれ、日本に帰る。腸チフスに罹患した池部は俳優を続けるかどうか決めかねていたが、東宝や高峰秀子に熱心に請われ、特に高峰には市川崑を付き添いに疎開先の茨城県の山村にまで直接訪れて説得され、俳優に戻る。映画界に復帰した池部は日本共産党とそのシンパによる東宝争議に1948年秋まで煩わされた。_NEWLINE_175cmの身長と渋い容貌を生かして次々と主演作品をヒットさせる。1948年に女優の羽鳥敏子と結婚したが離婚。その後も青春スターの第一人者として活躍を続けた。特に1949年の『青い山脈』では当時30代だったにもかかわらず、旧制高校の生徒をさわやかに演じ、戦後の自由な雰囲気を象徴する映画として大ヒットした。その後は1950年に新東宝の『暁の脱走』、1952年に松竹の『現代人』と他社の作品にも出演。特に『現代人』では池部がそれまでの二枚目スターから演技派俳優として最初に認められるようになった作品であった。『坊っちゃん』(1953年)、『雪国』(1957年)、『暗夜行路』(1959年)などの多くの文芸作品で翳のある青年を演じ、文芸路線や都会派映画に欠かせない二枚目スターとして君臨した。1960年代に入ると徐々に脇役に転じたが、1964年に主演した『乾いた花』でのヤクザ役が評判となる。この頃、18歳年下の女性と再婚した。1960年代からはテレビドラマにも出演し始めた。_NEWLINE_1965年、石原裕次郎・里見浩太郎・山城新伍ら俳優が暴力団のために拳銃密輸していたことが明るみに出た。警察庁は芸能興行関係者に暴力団との腐れ縁を絶てと強い調子で警告。同年2月22日、日本映画俳優協会会長であった池部は映画俳優と暴力団との完全絶縁を表明した。同年9月、東宝を離れ池部プロダクションを設立。自ら映画を企画しストーリーを書くようになるが、1967年に1億円の負債を抱え倒産した。同年、東映より高倉健主演『昭和残侠伝』(1965年)の出演を依頼されたが、妻が強く反対し、当初は断っている。しかしプロデューサー俊藤浩滋による再三の申し入れもあり、「入れ墨を入れないこと、毎回殺されること、ポスターでの露出を小さくすること」を条件に出演を承諾した。公開された『昭和残侠伝』は大ヒットし、役名は毎回違っても主人公を支えるヤクザ役でシリーズを支えていく。三島由紀夫は役中の誠実さについて「他人の心にある火を自分の事のように、そっと温めている」と熱く語った。なかでも『昭和残侠伝 死んで貰います』(1970年)で池部演じる風間重吉がクライマックスで高倉に語る「ご一緒、願います」は流行語となった。このほかの東映作品では池部が元警視総監を演じた千葉真一主演『直撃! 地獄拳』が1974年度に4億1700万円の配給収入を上げ、同年度の日本映画配給収入ランキング第5位に入った。アメリカ合衆国では『The Executioner』というタイトルで1999年現在、10万本以上のビデオが売れている。_NEWLINE_1983年より2009年まで創設された日本映画俳優協会初代理事長を務める。1991年、『毎日新聞』連載の『そよ風ときにはつむじ風』で日本文芸大賞を受賞したことから多数の連載を抱えることとなり、以後は文筆業や講演が活動中心となる。2007年、初の池部良研究本『映画俳優 池部良』を出版。同年2月、東京池袋の新文芸坐のトークショーにてその本の編集者から「青い山脈の時に31歳でしたが…」との質問に対し、実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を渋々受けたことを告白した。ただし、過去の池部のエッセイではこのことを暗に仄めかした記述がある。年齢より若い役が多く、実年齢が近い森繁久彌や藤田進の息子役を演じたこともある。文筆業が中心となってからでも「自分は(映画)俳優である」という意識を持っていた。しかし「オファーがあっても(相手から)年齢を聞かれて、答えると『じゃあ、この話は…』と断られてしまう」ことを2008年2月の『徹子の部屋』出演時に語っていた。_NEWLINE_2010年10月8日午後1時55分、敗血症のため東京都内の病院で死去。92歳没。亡くなった際も、雑誌「百歳万歳」「銀座百点」ほか4誌にエッセイを連載中だった。
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人物
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父は風刺・風俗漫画家として一世を風靡した池部鈞(日本芸術院より恩賜賞を受賞)、母は画家・漫画家岡本一平の妹。芸術家の岡本太郎は従兄。妻の美子は森永製菓二代目社長の松崎半三郎が祖父であり、従姪には衆議院議員・内閣総理大臣の安倍晋三の夫人である安倍昭恵がいる。 | 16209387572649381856 |
Q51167020 |
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沢木順
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沢木 順(さわき じゅん、1945年10月13日- )は北海道出身の日本の俳優。東宝ミュージカル、劇団四季で活動後フリー。作曲家八洲秀章の次男。
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来歴
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北海道虻田郡真狩村に生まれ、鎌倉で育つ。神奈川県立湘南高等学校を経て早稲田大学文学部演劇科に入学(のち中退)。在学中に東宝のオーディションに合格、主役を務めた「ファンタスティックス」を始め、数々の東宝ミュージカルに出演、また東宝では劇作家、菊田一夫に学んだ。_NEWLINE_1975年、33歳の時に浅利慶太に誘われて劇団四季へ移籍。以後、『ジーザス・クライスト=スーパースター』『コーラスライン』『キャッツ』『オペラ座の怪人』で主役を務め、退団後はフリー。 | 15690737365636774298 |
Q11553815 |
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河島喜好
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河島 喜好(かわしま きよし 1928年 - 2013年10月31日)は、自動車エンジニア、実業家。元本田技研工業代表取締役社長。_NEWLINE_ 実弟の河島博は日本楽器製造(現ヤマハ)社長、ダイエー副社長歴任。
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経歴
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1947年、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科卒業後、本田技研工業の前身である本田技術研究所に入社。ホンダA型やホンダ初の4ストロークエンジンを搭載した二輪車であるドリームE型など最初期の市販モデルから、競技専用バイクの開発に携わった。_NEWLINE_1950年代からホンダのレーシングチームの監督を務め、1959年〜1967年には2輪世界グランプリレースでホンダワークスチームを率いた。1965年には一時的に4輪のホンダF1の監督も務めたことがある。_NEWLINE_1971年に本田技術研究所の社長に就任。_NEWLINE_1973年10月に本田宗一郎の後を受け、45歳の若さで本田技研工業代表取締役社長に就任。7人の候補がいた中で、宗一郎本人が河島を後継者として指名した。川島喜八郎、西田通弘らとのトロイカ体制で経営を担い、在任中は一時的に軽自動車市場から撤退する一方で、アメリカ・オハイオ州に現地生産工場を開設、欧州ではブリティッシュ・レイランド(後のローバー)と提携を結ぶなどした。またヤマハ発動機との激しい二輪車の販売シェア争い(HY戦争)においても陣頭指揮を執った。_NEWLINE_1983年、後輩の久米是志に後を譲って社長を退任。1994年から1999年にかけて東京商工会議所副会頭を務めた。_NEWLINE_2007年、旭日重光章受章。_NEWLINE_2013年10月31日逝去。85歳歿。 | 6915311688335739490 |
Q55525186 |
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泉州YOSAKOIゑぇじゃないか祭り
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開催経緯
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出典:_NEWLINE_財政難のあおりを受け、地元の花火大会や市民祭り等が相次いで中止されるのを憂い、地元泉州に熱気・活気・元気を取り戻そうと、泉佐野市を拠点に活動するよさこいチーム「泉州ソーリャ踊り子隊」の呼びかけで「にぎわい夢創りプロジェクト実行委員会」が発足される。_NEWLINE_明治維新改革期に世直しを求めて発生したといわれる「ええじゃないか」に象徴される踊りのパワーにあやかり、「ゑぇじゃないか祭り」と名づけ2004年10月17日、「第1回泉州YOSAKOIゑぇじゃないか祭り~群衆の宴~」が開催された。
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初日
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第15回大会より開催、泉南市にある、イオンモールりんくう泉南店において、店内と駐車場に分けた2会場で開催を行う。
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本祭
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ゑぇじゃないま祭りの本番。中心に複数の会場で開催され、参加チームは最大3か所で演舞を行う。会場はりんくうタウン近隣のショッピングセンター等となっており、シャトルバスで移動することができる。_NEWLINE_毎回、メイン会場が設定されており、グランドフィナーレとしてイベントの締めくくりが開催される。_NEWLINE_毎年、高知よさこいチームのほにやがゲスト出演を行っている。
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前夜祭
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本祭の前日夕方よりメイン会場のみで開催される。抽選会が開催されたり、コスプレでのよさこい演舞など本祭では見られないイベントがある。_NEWLINE_また、大抽選会もあり、泉州地域の特産品が賞品として出品され、中には、開催地である泉佐野市長との会食券というものもある。
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フォトコンテスト
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本イベントにて開催される写真コンテスト。前夜祭、本祭、または関連イベントの写真を投稿することで参加できる。_NEWLINE_発表と表彰は泉佐野市にあるショッピングセンター「いこらも~る泉佐野」にて開催。また、第14回開催分よりイオンモールりんくう泉南店でも展示を実施する。
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ボランティア
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運営には数多くのボランティアの協力がある。毎年、ボランティアに支給されるTシャツは、年度ごとにデザインが変わる。デザイナーは廣田キョウコ氏によるものである。
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Everybode ゑぇじゃないか 作詞・作曲 NEO
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会場にいる踊り子、観客、スタッフ全員がステージに上がれる「総踊り」で使われるよさこい曲の一つ。_NEWLINE_振付DVDはゑぇじゃないか祭り事務局にて購入することができる。
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タオル de ゑぇじゃないか
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泉佐野市が「タオル」の発祥の地ということから、鳴子の代わりにタオルでも踊れるよさこい曲。鳴子バージョンもある。
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みんな居たんだ 作詞・作曲 篠 了平
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ゑぇじゃないか祭りのグランドフィナーレ(本祭のラスト)に流れるバラード曲。 | 9267062167859427382 |
Q17996212 |
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泰利特杯中韓女子囲棋対抗戦
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泰利特杯中韓女子囲棋対抗戦(泰利特杯中韩女子围棋对抗赛)は、中国と韓国の囲碁の女流棋士による団体対抗棋戦。2000年、2001年の2回開催された。_NEWLINE_スポンサーは泰利特グループ(泰利特集团)。 | 6434463517417690921 |
Q17221771 |
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泰成親王
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経歴
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正平15年/延文5年(1360年)頃、摂津住吉行宮で誕生する。南朝での詳細な経歴は不明だが、親王宣下を受け、弘和元年/永徳元年(1381年)まで(恐らく天授年間)に大宰帥に任じられた。このことから、かつては征西将軍懐良親王の跡を継承して九州南軍を指揮した「後征西将軍宮(兵部卿親王)」と同一視されていたが、泰成親王には九州へ下向した形跡が確認できないため、現在では否定されている。歌人としては、自邸で探題会を催した他、『新葉和歌集』に5首が入集する。_NEWLINE_「この親王は皇子方の中で取分け、将来帝位に登られるべき方」と花山院長親が讃えたとおり、早くから皇位継承の予定者と目されていたらしく、実際に泰成親王を東宮(皇太子)とする系図もいくつか伝存する。ただし近年、小川剛生が指摘した『吉田家日次記』の記事によると、「南朝春宮」は帥宮と称された泰成親王の兄の惟成親王のことと考えられ、系図とは齟齬を来たしている。何れにしても、元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一後は入洛し、後亀山上皇を助けて嵯峨に閑居していたのだろう。応永19年(1412年)1月参賀のため幕府御所に臨んだ「大覚寺殿帥宮」とは泰成親王の可能性がある。同30年(1423年)には既に故人であった。 | 9787691283531213332 |
Q11555910 |
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津久井城
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構造
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隣接する津久井湖はダム湖で、当時には無いことを理解する必要がある。城山に築かれた山城。南北の根小屋が残っており根小屋式城郭の端緒・典型とされている。ただし、最近の調査・研究の結果、山頂付近にも物見櫓や兵士駐屯のための建物が配置された形成も発見されており、落城前には、相応の防御能力があった山城であることが伺えるようになってきた。
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歴史・沿革
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鎌倉時代に三浦党の筑井氏が築城したと言われている。大江(毛利)氏の津久井三郎の居館として現在地の詰めの城と、同八幡社の行政舎が整備されたと言われる。本格的に城と使われ始めたのは戦国時代の後北条氏の時であった。この地は甲斐と小田原を結ぶ要所であるため武田軍と後北条軍が鎬を削ったところである。後北条氏は武田軍にそなえて、津久井城主の内藤氏らを中心に津久井衆と呼び守らせたが実際は「敵半地」と呼ばれ、半分は奥三保(現在の裏丹沢)などの武田氏の勢力下(小山田氏を盟主とする郡内衆)だった。_NEWLINE_1569年(永禄12年)の三増峠の戦いの時は、武田側の加藤丹後によって押さえられて出陣できなかった。_NEWLINE_1590年(天正18年)の小田原征伐の時には城主内藤景豊は小田原城にいたので、老臣等が守っていたが、徳川家康の武将平岩親吉らによる攻撃により6月25日に開城した。その後城は廃城となり徳川直轄領。近くに陣屋を置き八木家などの代官がこの地を統括した。_NEWLINE_城山の中心部分は相模原市緑区根小屋に存在するが、津久井郡に属していた城山町(現・相模原市緑区)の名は城山の東の麓にあることに由来する。
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遺構
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現在津久井城には、家老屋敷跡や宝ヶ池、堀切などが残っている。また、発掘調査が行われた根本・城坂の「御屋敷跡」では掘立柱建物や空堀、土塁、焔硝蔵などが検出されている。現在は主要部分が神奈川県立津久井湖城山公園となっており、ハイキングコースも整備されている。 | 1941943931157454810 |
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流星のくちづけ
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概要
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前作「少女トラベラー」以来5か月振りの2012年第2弾、アルバム『9nine』のリリース後初となるシングル。「Cross Over」から6作連続でタイトル曲はタイアップ付き。今回はリニューアル後初となる連続ドラマ主題歌で、TBSドラマNEO『放課後はミステリーとともに』主題歌。「通常盤」のほか、DVDに「流星のくちづけ」のミュージック・ビデオやメイキングを収録した「初回生産限定盤A」、2012年1月28日に品川ステラボールにて行われた「ワンマン9nine〜略して”ワンナイ”スペシャル!!〜」の映像を収録した「初回生産限定盤B」「初回生産限定盤C」の4形態で発売された。またオリコンチャートにて、デビュー以来初のデイリー5位を獲得。週間チャートも10位と前作に続き2作連続TOP10入りを果たした。 | 13405721813910294550 |
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