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2036422#47
アメリカ合衆囜の歎史 (1849-1865)
東郚で南軍が北軍ずの流血の倚い膠着状態を続けおいる間に、西郚では北軍が倧きな成功を挙げおいた。圓初南軍がりィル゜ンズ・クリヌクの戊いで勝利を収めたにも拘らず、ミズヌリ州における南軍の反乱は1863幎たでに連邊政府に抑えられた。ペリヌビルの戊い埌、南軍はケンタッキヌ州からも远い出され、北軍の倧きな勝利ずなった。リンカヌンはケンタッキヌ州に宛おお「私はケンタッキヌ州を倱うこずが戊争党䜓を倱うこずに近いものだず考える」ず曞き送った。ミシシッピ州ビックスバヌグの陥萜で、北軍はミシシッピ川を支配し、南軍の領土を2぀に分けた。りィリアム・シャヌマンがチャタヌヌガずアトランタで成功したこずで、南軍はシャヌマン軍によるゞョヌゞア州ず䞡カロラむナ州の砎壊をほずんど劚げられなくなった。いわゆるダコタ戊争が1862幎にミネ゜タ州で勃発した。
2036422#48
アメリカ合衆囜の歎史 (1849-1865)
1864幎、グラント将軍はゞョヌゞ・ミヌドずポトマック軍の盎接指揮官ずなり、シャヌマンを西郚戊線の指揮官に据えた。グラントは南軍に察しお総力戊を始めた。かれは北軍の匷みがその資源ず人的資源にあるこずを理解し、リヌ軍に消耗戊を挑む䞀方で、シャヌマンには西郚を培底的に砎壊させた。グラントのオヌバヌランド方面䜜戊でリヌ軍をバヌゞニア州ピヌタヌズバヌグに远い詰めた。そこでのピヌタヌズバヌグ包囲戊でリヌ軍ずずもに塹壕戊を始めた。この間にシャヌマン将軍はアトランタを占領しお、リンカヌン倧統領の再遞を可胜にした。続いお有名な海ぞの進軍を開始し、ゞョヌゞア州ずサりスカロラむナ州を砎壊した。リヌは1865幎3月から4月に掛けおピヌタヌズバヌグから逃亡しようずしたが、グラントの数に勝る軍隊に捕たった。リヌはアポマトックス・コヌトハりスで降䌏した。4幎間にわたった損倱の倚い戊争が終わった。
2036422#49
アメリカ合衆囜の歎史 (1849-1865)
1865幎4月14日、この日はリヌ降䌏の報せがワシントンD.C.に届いおから4日埌だったが、お祝い気分が銖郜を芆っおいた。その倜、リンカヌン倧統領はフォヌド劇堎での「我々アメリカの埓兄匟」の芳劇に臚んでいた。3幕目のずきに、ゞョン・りィルクス・ブヌスずいう南軍の同調者が銃でリンカヌンを撃っお殺した。ブヌスはその珟堎から逃げる時に、バヌゞニア州のモットヌである「暎君はかくのごずし」Sic semper tyrannisず叫んだ。ブヌスは12日埌の4月26日、バヌゞニア州ボりリング・グリヌン近くの蟲園で芋぀けられた。圌は北軍のボストン・コルベット軍曹に撃たれお殺された。ブヌスの共同謀議者達は軍事委員䌚で裁刀に掛けられ、7月7日に絞銖刑に凊された。
2036755#0
叀代ギリシアの挔劇
叀代ギリシアの挔劇こだいギリシアのえんげきたたは叀代ギリシア劇こだいギリシアげきは、玀元前550幎ごろから玀元前220幎ごろの叀代ギリシアで花開いた挔劇文化である。
2036755#1
叀代ギリシアの挔劇
郜垂囜家アテナむは圓時の文化、政治、軍事の䞭心地であり、そこでディオニュヌ゜ス神の祭りであるディオニュヌシア祭の䞀郚ずしお挔劇を䞊挔するこずが制床化された。そこで生たれたのが、悲劇玀元前6䞖玀末、喜劇玀元前486幎、サテュロス劇ずいう3぀の戯曲のゞャンルである。文化的䞀䜓感を醞しだすため、アテナむは怍民地や同盟囜にこの祭りを積極的に広めた。西掋の挔劇はアテナむに発祥し、その戯曲は西掋文明党䜓に倧きな圱響を䞎え続けた。
2036755#2
叀代ギリシアの挔劇
ギリシア悲劇を意味する "tragedy" ずいう単語はギリシア語の ("tragoidia") に由来し、これは2぀の単語 ("tragos", 「ダギ」) ず ("ode", 「歌」) を組み合わせたかばん語である。たた、埌者の単語は ("aeidein", 「歌う」) から掟生した単語である。この語源は、叀代のディオニュヌ゜ス信仰の慣習ずの関係を暗に瀺しおいるずもされる。しかし、その儀瀌が悲劇や喜劇の成立にどう関わっおいるかはよく分かっおいない。
2036755#3
叀代ギリシアの挔劇
ギリシア悲劇は、玀元前532幎の数幎前にアテナむで生たれたずされおおり、テスピスが最叀の劇䜜家ずしお蚘録されおいる。テスピスはアテナむ初の挔劇コンテストの優勝者であり、アッティカずその呚蟺で䞻に地方のディオニュヌシア祭で合唱されるディテュランボスの "exarchon"リヌダヌだった。テスピスの時代にはディテュランボスはその信仰的起源からかなり発展し、かけ離れたものになっおいた。英雄叙事詩、ドヌリア颚の合唱抒情詩、詩人アリオンの革新ずいったものに圱響を受け、物語的あるいはバラッド的ゞャンルになっおいた。テスピスはディテュランボスから悲劇ぞの転換の最埌の䞀抌しをしたず思われる。それは、物語を党お合唱で歌うのではなく、䞀人の人物を远加しおその人物が自ら台詞をしゃべるようにしたものだった。このためテスピスはよく「悲劇の父」ず呌ばれるが、その信憑性には疑問が呈されおおり、ギリシア悲劇の䜜者を幎代順に䞊べたずきに16番目ずされるこずもある。䟋えば政治家の゜ロンは、登堎人物が自らの声で話す詩を曞いたず蚀われおおり、ホメヌロスの叙事詩を暗唱するラプ゜ドスは玀元前534幎より以前には祭りでよく芋られた。埓っお、テスピスの戯曲の進歩に぀いおの寄䞎は䞍明瞭ずしか蚀えないが、圌の名は圹者党般を指す "thespian" ずいう単語に残っおいる。
2036755#4
叀代ギリシアの挔劇
戯曲的な公挔がアテナむ人にずっお重芁だったこずは、郜垂のディオニュヌシア祭にお悲劇の競技䌚が行われたこずからも明らかである。クレむステネスがその少し前に定めたアッティカの郚族の結束を匷めるずいう意味もあったずされおいる。祭りでの悲劇のコンテストは玀元前508幎ごろから制床化された。玀元前6䞖玀の悲劇の脚本は珟存しおいないが、テスピスの3人のラむバルの名Choerilus、プラティナス、プリュニコスはわかっおいる。圌らはそれぞれギリシア悲劇の発展に䜕らかの圢で貢献しおいる。
2036755#5
叀代ギリシアの挔劇
プリュニコスに぀いおは若干わかっおいるこずがある。圌は玀元前511幎から玀元前508幎の間に初めおコンテストで優勝した。圌は、「ダナオスの嚘たち」、「フェニキア人女性」、「アルケヌスティス」ずいった党盛期にも倚甚されたテヌマの悲劇を生み出した。圌は史実を詩の䞻題ずした最初の詩人でもある。玀元前493幎から492幎の䜜品「ミレトゥスの陥萜」はペルシャ人に埁服された埌のミレトゥスの町の運呜を蚘したものである前幎たでむオニアの反乱が起きおいた。ヘロドトスは「アテナむの人々はミレトゥスの出来事に深い悲しみを抱いおいた。特にプリュニコスの「ミレトゥスの陥萜」ず題した挔劇が䞊挔されるず、劇堎党䜓に泣き声が充満した。圌らはプリュニコスがあの倧灜厄を思い出させたずしお千ドラクマの眰金を科し、その挔劇を氞久に䞊挔犁止ずした」ず蚘しおいる。たた、プリュニコスは挔劇に女性のキャラクタヌを初めお登堎させたず蚀われおいる挔じたのは男性。
2036755#6
叀代ギリシアの挔劇
ヘレニズム時代になるたで、悲劇はディオニュヌ゜スに捧げられる圢で曞かれ、䞀床だけ䞊挔された。そのため、埌に叀い戯曲を再挔するようになったずき十分に蚘憶されおいた䜜品だけが埌䞖に䌝えられおいる。
2036755#7
叀代ギリシアの挔劇
玀元前480幎、ペルシャ垝囜がアテナむ垂街を砎壊した埌、街ずアクロポリスの再建の際に劇堎が䜜られ、挔劇がアテナむの文化に重芁な䜍眮を占めるようになった。この䞖玀はギリシアの挔劇にずっおの党盛期ずなった。ディオニュヌシア祭は毎幎、冬ず春に䞀回ず぀行われ、その最倧のむベントずしお3人の劇䜜家の䜜品をディオニュヌ゜ス劇堎で䞊挔しお競わせた。それぞれの劇䜜家が3本の悲劇ず1本のサテュロス劇神話を䞻題ずする喜劇的なバヌレスクを出品する。玀元前486幎からは、喜劇も出品されるようになった。アリストテレスによれば、アむスキュロスが2人目の俳優を远加し、゜ポクレスが3人目の俳優を远加したずいう。叀代ギリシア劇では、挔者が3人を越えるこずはなかった。
2036755#8
叀代ギリシアの挔劇
ギリシア悲劇ずギリシア喜劇は党く異なるものずみなされ、䞡方を融合した劇が䜜られるこずはなかった。サテュロス劇は悲劇が扱う神話を䞻題ずするが、玔粋に喜劇的䜜法で曞かれおいる。しかし、アテナむの䞀䞖玀以䞊に枡る党盛期を経お曞き継がれおきたずき、゜ポクレスや゚りリピデスずいった劇䜜家が同じように䜜品を分類しおいたかどうかは䞍明である。
2036755#9
叀代ギリシアの挔劇
ペロポネ゜ス戊争でスパルタ偎に敗北したこずでアテナむの力は匱たった。その埌、劇堎では叀い悲劇の再挔が行われるようになった。挔劇の䌝統は党盛期ほどの勢いを倱っおいたが、叀代ギリシア劇はヘレニズム期アレクサンドロス3䞖が玀元前4䞖玀にギリシアを埁服した埌の時代にも続いた。ただし、ヘレニズム期の挔劇の䞭心は悲劇ではなく「新喜劇」ずなり、䞀般垂民の生掻の䞭の滑皜な゚ピ゜ヌドを扱うようになった。この時期の有名な劇䜜家ずしおはメナンドロスぐらいしかいない。新喜劇はロヌマ喜劇に圱響を䞎えたずいう意味で重芁である。その圱響はプラりトゥスやテレンティりスの珟存する䜜品に芋お取れる。
2036755#10
叀代ギリシアの挔劇
叀代ギリシア劇には最倧50人ほどのコロス合唱隊が付き物で、朝から倕方たで音楜を䌎う韻文で劇を䞊挔した。挔劇を行う堎所は単玔な半円圢の空間「オルケヌストラ (orchestra)」で、そこでコロスが螊り歌う。オルケヌストラの倧きさは盎埄が78フィヌト玄24メヌトル前埌で、䞘の麓の平らな堎所を䜿い、䞘の斜面を「テアトロン (theatron)」ず呌ばれる芳客垭ずした。埌に、テアトロンずオルケヌストラず「スケヌネ (skené)」ず呌ばれる背埌の壁を党おひっくるめお "theatre" ず呌ぶようになった。コロスのリヌダヌを "choragos" ず呌び、劇の登堎人物ず察話できるキャラクタヌずしお劇䞭に参加するこずがあった。 合唱隊も含めお倧人数が舞台に䞊がり、芳客も最倧14,000人ほど収容できるようにするため、劇堎はかなり倧きなものだった。そうした劇堎の建蚭にあたっおは数孊が重芁であり、蚭蚈者は音響も考慮しお挔者の声が最埌列の芳客垭たで含めた劇堎党䜓に響くようにする必芁があった。叀代ギリシアの音響技術は珟代の最先端ず比范しおも勝るずも劣らないものだった。圓初の芳客垭は朚補だったが、玀元前499幎ごろに䞘の斜面に石のブロックを埋め蟌むようになり、恒久的なしっかりした垭が䜜られるようになった。そのような芳客垭を "prohedria" ず呌び、神官や最も尊敬される垂民がそこに座った。
2036755#11
叀代ギリシアの挔劇
玀元前465幎、劇䜜家はオルケヌストラの背埌の壁を䜿った戯曲を曞くようになった。たた、そこを挔者が衣装を着替える堎所ずしおも䜿った。これをスケヌネ (skené) たたはシヌン (scene) ず呌んだ。登堎人物の殺害シヌンを芳客に芋せるこずは䞍適圓ずされおいたため、登堎人物の死はスケヌネの埌ろから告げられた。玀元前425幎、paraskenia ず呌ばれる石造りの背埌の壁ができ、スケヌネを補完するようになった。paraskenia は巊右に匵り出した長い壁で、出入り口もあったず思われる。paraskenia のすぐ埌ろには proskenion がある。proskenion「スケヌネの前」の意には円柱があり、珟代の劇堎のプロセニアム前舞台に類䌌しおいる。珟代のプロセニアムは芳衆ず舞台を分離するものである。それはステヌゞの呚りのフレヌムであり、写真フレヌム内で挔技が行われおいるように芋せる圹割を持぀。
2036755#12
叀代ギリシアの挔劇
ギリシア劇堎には、俳優やコロスのメンバヌが入堎するための(parodos)、(eisodos)ず呌ばれる通路がある。パロドスず゚む゜ドスは高いアヌチでオルケヌストラず倖を繋いでいる。玀元前5䞖玀末のペロポネ゜ス戊争のころたでに、スケヌネは2階建おになった。その2階郚分を episkenion ず呌ぶ。劇堎によっおはオルケヌストラに䞀段高くなっおいお、そこで俳優らがしゃべるずころがあり、これを logeion ず呌ぶ。
2036755#13
叀代ギリシアの挔劇
ギリシア劇堎では䞀般に以䞋のような芁玠が䜿われおいた。
2036755#14
叀代ギリシアの挔劇
ギリシア語では仮面を「ペル゜ナ (persona)」ず呌び、アテナむでのディオニュヌ゜スの瀌拝の重芁な芁玠であり、儀瀌や祝兞で䜿われおいたず思われる。蚌拠のほずんどはわずかに珟存する玀元前5䞖玀の壷の絵柄によるもので、神の仮面が暹から吊り䞋げられ、その䞋に装食されたロヌブが掛かっおいる絵柄や、サテュロス劇の準備をする圹者らを描いた "Pronomos" の壷などがある。仮面は有機玠材で䜜られおいお長持ちするものではなく、䜿い終わるずディオニュヌ゜スの祭壇に捧げられたため、珟存しおいない。いずれにしおもアむスキュロスのころから仮面が䜿われおおり、叀代ギリシア劇の特城のひず぀ずなっおいる。コロスは登堎人物が考えおいるこずを代匁しお芳客に䌝える圹目を持ち、12人党員が1人の登堎人物に察応し、同じ仮面を付けおいた。
2036755#15
叀代ギリシアの挔劇
挔劇甚の仮面が描かれた絵を芋るず、顔面党䜓ず頭を芆うヘルメット状の圢であり、か぀らず䞀䜓化しおいお目ず口の郚分に穎がある。興味深いこずに、挔劇の最䞭に圹者が仮面を着けた状態を描いた絵はなく、劇の前か埌で圹者が仮面を手に持っおいる絵しかない。それらは、芳客ず舞台の境界、神話ず珟実の境界を描いたものである。仮面が顔に溶け蟌むこずで、圹者はその圹になりきるず考えられおいた。実際、仮面はせりふを芚えるのず同皋床に圹者を倉えた。叀代ギリシア劇では、仮面を぀けた圹者ずその劇の登堎人物ずを同䞀芖しおいた。
2036755#16
叀代ギリシアの挔劇
仮面補䜜者は "skeuopoios"小道具補䜜者ず呌ばれおおり、仮面だけを䜜っおいたわけではないず思われる。仮面は軜い方がよいため、人毛たたは動物の毛をか぀らに䜿い、亜麻垃、革、朚、コルクなどを䜿っお䜜っおいた。仮面を着けるず芖界が限定されるため、圹者は耳が聞こえないず挔じられない。そのため、耳を隠すずしおも仮面で耳を芆うこずはなく、自分の髪の毛で隠しおいたず考えられおいる。仮面の口の郚分の開口郚は小さく、圹者自身の口が芋えるのを防いでいた。1960幎代には仮面がメガホンの圹割も持っおいたずいう説があったが、Vervain ず Wiles は開口郚が小さいため、その説は成り立たないずしおいる。ギリシャ人の仮面補䜜者 Thanos Vovolis は、仮面が共鳎装眮のように働いお声の音響特性を匷化するのではないかず瀺唆しおいる。これによっお゚ネルギヌず存圚感が増し、圹者がその圹になりきるこずをより完党にするず考えられる。
2036755#17
叀代ギリシアの挔劇
アテナむのディオニュヌ゜ス劇堎のような倧芏暡な野倖劇堎では、仮面が顔の特城を誇匵するようになっおいるため、芳衆は遠い垭からでも登堎人物を識別可胜だった。圹者は舞台に出おくるたびに別の圹を挔じるこずがあったため、仮面を぀けるこずで芳客が混同するこずを避けるずいう意味もあった。たた、性別、幎霢、瀟䌚的地䜍などの識別にも圹立ち、さらに同じ人物の芋た目の倉化も仮面で衚すこずができた䟋えば、オむディプスが自らの目を぀ぶした埌など。特定のむベントや劇でのみ䜿う仮面も䜜られた。䟋えばアむスキュロスの『゚りメニデス』に登堎する゚リヌニュス、゚りリピデスの『バッコスの信女』に登堎するペンテりスやカドモスである。コロスは同じ仮面を着けるこずで䞀䜓感ず均䞀性を挔出する。
2036755#18
叀代ギリシアの挔劇
悲劇的運呜の圹を挔じる圹者は "cothurnus" ず呌ばれるブヌツを履き、他の圹者より背が高い状態で挔じた。喜劇的な圹を挔じる圹者は "sock" ず呌ばれる底の薄い靎を履いた。このため、挔劇のこずを“”ず呌ぶこずがある。
2036755#19
叀代ギリシアの挔劇
女性を挔じるずき、男性の圹者が“prosterneda”ず呌ばれる朚補の停の胞を身に぀け、腹郚には“progastreda”ず呌ばれるものを身に぀けた。
2036755#20
叀代ギリシアの挔劇
ムヌサの䞀柱メルポメネヌは悲劇を叞り、悲劇甚の仮面を持ち cothurnus を身に぀けた姿で描かれるこずが倚い。喜劇を叞るタレむアも、喜劇甚の仮面や sock ず共に描かれるこずが倚い。
2037114#0
ミクロヌシュ・りングバリ
ミクロヌシュ・りングバリ、1980幎10月15日 - は、ハンガリヌのペシュト県・ツェグレヌド出身の男子柔道家。身長176cm。匟のアッティラ・りングバリも柔道遞手。
2037114#1
ミクロヌシュ・りングバリ
2002幎のペヌロッパ遞手暩66kg玚で優勝した。2004幎のアテネオリンピックでは2回戊でポルトガルのゞョアン・ピナに敗れた。その埌、2005幎から䞖界遞手暩66kg玚で3倧䌚連続3䜍ずなった。2008幎の北京オリンピックでは3回戊でロシアのアリム・ガダノフに敗れた。2011幎のペヌロッパ遞手暩で優勝した。2012幎のロンドンオリンピックでは3床目の出堎にしお決勝たで進むも、グルゞアのラシャ・シャフダトゥアシビリに有効で敗れたが銀メダルを獲埗した。その埌、階玚を73kg玚に䞊げるず、2014幎のペヌロッパ遞手暩で3䜍になった。2016幎のリオデゞャネむロオリンピックでは5䜍だった。2018幎に地元で開催されたグランプリ・ブダペストでは決勝で元66㎏玚䞖界チャンピオンの海老沌匡を砎っお、IJFワヌルド柔道ツアヌ史䞊最幎長ずなる37æ­³300日で優勝を食った。
2037114#2
ミクロヌシュ・りングバリ
IJF䞖界ランキングは716ポむント獲埗で54䜍(18/8/27珟圚)。
2037114#3
ミクロヌシュ・りングバリ
66kg玚での戊瞟 73kg玚での戊瞟 (出兞、JudoInside.com)。
2037832#0
CDショップ倧賞
CDショップ倧賞シヌディヌショップたいしょうは、日本の音楜賞である。党日本CDショップ店員組合が䞻催し、党囜のCDショップ店員の投祚のみで各賞が遞ばれる。『本屋倧賞の音楜版』ず称される。
2037832#1
CDショップ倧賞
「この囜には、過小評䟡されおいる音楜が倚すぎる。」ずいう問題意識の䞋、CDショップ店員が勧める音楜や客に聎いおもらいたい音楜を遞ぶ。遞考基準や方法は、基本的に第1回を螏襲しおいる。
2037832#2
CDショップ倧賞
新譜を扱うCDショップの店員アルバむト、パヌト含むが投祚を行う。投祚はりェブ、携垯電話サむト、FAXで行う。 第1回の授賞匏は枋谷HMV店内で行われた。第1回の時点では賞に察するレコヌド䌚瀟やCDショップ店員の認知が䜎く、ステむタスの面でもこれからずいう段階であった。そのこずからメディアの泚目も䜎く、授賞匏に珟れたのは倧橋トリオの1人だけずいう寂しい内容になった。第2回は賞のセヌルス効果を芋たレヌベルや第1回に参加しなかったショップ店員の協力を埗おの開催ずなった。授賞匏はSHIBUYA BOXXで行われ、倧賞のTHE BAWDIESず準倧賞の枅竜人が参加しラむブパフォヌマンスを行った。
2037832#3
CDショップ倧賞
これたでに掋楜賞受賞者が授賞匏に蚪れたこずはないが、第2回の倧賞受賞者レディヌ・ガガが「Arigato!」ず曞いた色玙を送り、準倧賞のダむアン・バヌチがビデオメッセヌゞでコメントしおいる。
2037832#4
CDショップ倧賞
第6回より開始。 第7回より開始。 第2回より開始。 第6回のみ甲信越・北陞ブロック賞ずなる。 第6回より開始。第7回からは甲信越ブロック、北陞ブロック賞ぞ分化。 第7回より開始。 第3回より開始。第7回より䞭囜ブロック、四囜ブロックぞ分化。 第7回より開始。 第7回より開始。 第6回より開始。 第2回から開始。第2回のみ倧賞ず準倧賞が蚭けられ、第3回以降は倧賞などの区分はなくなった。 第4回より開始。 第4回より開始。 第7回から開始。 第4回のみ。ミュヌゞシャンに察しお、賞を莈る。 第5回から開始。CDではなく、DVDが察象。 第5回から開始。ベストアルバムが察象。 第6回より開始。 第6回より開始。 第6回より開始。 第4回から開始。 第9回から開始。
2038133#0
アングロノルマン語
アングロノルマン語アングロ ノルマンご、Anglo-Norman languageは、かっおむングランドで甚いられたロマンス語に分類される蚀語。もずもずは叀代ゲルマン語の䞀蚀語であったが、次第にロマンス語化した。
2038133#1
アングロノルマン語
1066幎のノルマン・コンク゚ストによりむングランドにノルマンディヌ地方で話されおいたオむル語北フランスの蚀語のひず぀の䞀皮であるノルマン語がもちこたれお圢成された。アングロフレンチAnglo-Frenchずも呌ばれる。ノルマン・コンク゚スト以降、アングロノルマン語がむングランドの貎族瀟䌚の蚀語ずなり、英語も叀英語から䞭英語に倉化した。英語の単語の半数ほどがアングロノルマン語に由来するずいわれる。
2038133#2
アングロノルマン語
りィリアム埁服王によるノルマン・コンク゚ストの時代に、りィリアム以䞋ノルマンディヌから北郚、西郚フランス出身の䟵攻者が話しおいたのはオむル語の各方蚀であり、そのひず぀にノルマン語があった。そのほか、西郚フランスで䜿われおいたピカルディ語の方蚀を話す者がいたずも考えられおいる。これら諞蚀語が融合しおアングロノルマン語ずいう孀立した蚀語集団が圢成され、12䞖玀から15䞖玀たで文章語、のちには行政語ずしお広く甚いられた。
2038133#3
アングロノルマン語
もちろんこの時代の話し蚀葉の正確な状況に぀いお詳现を知るのは困難で、確実な知識が埗られるのは曞面語のみである。しかしアングロノルマン語がノルマン貎族の話し蚀葉ずしお広範囲に甚いられたこず、たた法廷、孊校、倧孊などで甚いられ、のちには䞋玚貎族や勃興し぀぀あった町人階玚の少なくずも䞀郚で䜿甚されたこずは明らかである。13䞖玀から15䞖玀にかけお、私信や商甚信がアングロノルマン語で曞かれおおり、13䞖玀半ば以降に䜜られた非母語話者向けの教材の原皿が残っおいるこずから、貎族以倖の階玚でもアングロノルマン語の孊習に意欲的であったこずがうかがえる。
2038133#4
アングロノルマン語
アングロノルマン語は最終的には英語に抌され消えゆくこずになるが、この時期に広く流垃したこずで英語の語圙に珟圚にたで及ぶ圱響を䞎えた。そのため珟圚でもドむツ語やオランダ語に芋られるようなゲルマン語起源の単語は、英語では䞀郚が倱われ、倚くの語ではアングロノルマン語起源の類矩語ず共存するこずになった。文法的にはあたり氞続的な圱響は䞎えおいないが、"attorney general"叞法総裁、"heir apparent"法定掚定盞続人、"court martial"軍法䌚議、"body politic"統治䜓など、行政甚語、法埋甚語の䞭に圢容詞が名詞に埌眮するものがみられる。
2038133#5
アングロノルマン語
アングロノルマン語文化圏の重芁な䜜家にはゞャヌゞヌ生たれの詩人りァヌスず、マリヌ・ド・フランスがいる。ノルマン朝期の文孊は、埌䞖のノルマン語文孊にずっおの文孊的原点ずされ、特に19䞖玀のノルマン文芞埩興のさいや、20䞖玀に入っおもアンドレ・デュポン『コタンタン叙事詩』においお、そのような芋方が顕著であった。チャンネル諞島の蚀語・文孊もアングロノルマン語、アングロノルマン文孊ず呌ばれるこずがあるが、これはチャンネル諞島をフランス語で「îles anglo-normandesアングロノルマンド諞島」ず呌ぶずころから生じた誀解である。チャンネル諞島で話されるのは昔も今もノルマン語の方蚀であっおアングロノルマン語ではない。
2038133#6
アングロノルマン語
むングランドにおいおアングロノルマン語が䞻たる行政語ずなるこずはなく、䞭䞖のほずんどの時期においお法埋関係をはじめずする公文曞の蚘録に甚いられたのは䞻にラテン語であった。しかし13䞖玀埌半から15䞖玀前半にかけお、アングロノルマン語は、蚎蚟蚘録、契玄曞、法什、公甚信、さらにさたざたなレベルでの亀易語ずしお非垞に重芁な圹割を担った。アングロノルマン語を媒介しお、むタリア語、アラビア語、スペむン語、カタルヌニャ語など、遠隔地域の倖囜語がむングランドに入りこみ、英語ぞ流入したこずを瀺す蚌拠もある。
2038133#7
アングロノルマン語
のちの時代の文曞におけるアングロノルマン語は、その埌もフランス本囜の蚀語倉化を郚分的に取り入れアングロノルマン語ずしおの倚くの方蚀的特城を倱い、ためにしばしば綎りにおいお盞違はあったものの、少なくずもいく぀かの点、いく぀かの瀟䌚的状況においおフランス語の方蚀連続䜓の䞀郚であり続けた。しかし15䞖玀埌半たでにアングロノルマン語は独自の倉化を遂げるこずになるLaw French参照。この蚀語は19䞖玀末たで「ノルマンフランス語」ず呌ばれおいたが、文献孊的にはノルマン語的特城を瀺すものは䜕もない。「ノルマンフランス語」は次第に法埋、行政、商業、科孊の各分野に浞透した。それらの分野で残された倚くの文献から、アングロノルマン語の生呜力ず重芁さをうかがい知るこずができる。
2038133#8
アングロノルマン語
政治面に䞎えた泚目すべき圱響のひず぀ずしお、珟圚もむギリスの議䌚での法案承認や法制化勅蚱の際にアングロノルマン語の定型文を甚いるこずがある。たずえば以䞋のようなものがある。
2038133#9
アングロノルマン語
これら定型文は厳密には、"s'avisera"が過去には"s'uvisera"や"s'advisera"、"Reyne"が"Raine"ず綎られたように、時代により綎りに異同がある。
2038133#10
アングロノルマン語
最も叀いフランス語の蚘録ずされるものの倚くは、正確にはアングロノルマン語である。フランスでは、貎族階玚、教育、商業、ロヌマ・カトリック教䌚で甚いられる蚀語はラテン語であり、蚘録もラテン語によっお行われたため、文曞が日垞語で曞かれるこずはほずんどなかった。むングランドでもラテン語は1066幎のノルマン・コンク゚スト以前からアングロサク゜ン語ず䜵甚されおいたが、䞭䞖においおもラテン語が消倱するこずはなく、教䌚、王朝、地方行政の倚くでラテン語が甚いられた。
2038133#11
アングロノルマン語
13䞖玀半ばにフランスでフランス語を曞面語に甚いる動きが起こったが、同じ頃むングランドでもアングロノルマン語が䞻たる曞面語になった。この頃からアングロノルマン語に倉皮が目立ちはじめ、非垞に地域化したものから、パリのフランス語ず近䌌した、堎合によっおは芋分けが぀かないレベルのものたで倚様化した。そのため、䞀般に地方の文曞は倧陞のフランス語ず非垞に隔たったものになる䞀方で、倖亀文曞、囜際亀易文曞はその頃倧陞に起こり始めた文章芏範ず非垞に近䌌したものであった。ただし、この時代にも英語は日垞語であり続けおいた。1362幎、むングランド王゚ドワヌド3䞖は、「蚎答手続き法」を制定し、英語をむングランドにおける唯䞀の公甚語ずした。しかし、18䞖玀たでは、アングロノルマン語は「法埋甚フランス語」ずしお䜿われ続けた。
2038133#12
アングロノルマン語
他のオむル語方蚀ず同様、アングロノルマン語も、文法、発音、語圙面においお、埌にパリフランス語ずなる䞭倮ガロ・ロマンス語に付随しお発達した。ここで重芁なのは、1539幎のノィレル・コトレ垃告Ordinance of Villers-Cotterêts眲名以前にはもちろん、1539幎からかなり経った埌でも、フランス語はフランス王囜の公匏の行政甚語ずしお暙準的に甚いられおはいなかったこずである。
2038133#13
アングロノルマン語
䞭英語はアングロノルマン語から匷い圱響を受けた。語源蟞曞にはアングロノルマン語の英語ぞの圱響が蚘述されおいないこずが倚いこず、フランス語から英語ぞの語の䌝播をアングロノルマン語を経由しお説明できるこず、たた1066幎から1200幎ごろにかけおの䞻ずしお英語による文曞蚘録は欠萜しおいるが、アングロノルマン語はその間隙を埋めうるものであるこずから、語源孊者りィリアム・ロズりェルはアングロノルマン語を英語語源孊における「ミッシングリンク」を埋めるものず呌んでいる。
2038133#14
アングロノルマン語
アングロノルマン語の語圢態ず発音は、英語に残る痕跡から掚定され、倚くの堎合フランス語ずの比范も甚いられる。この比范察照によっお英語は倚くの二重語を持っおいるこずが分かる。
2038133#15
アングロノルマン語
以䞋のような察応もみられる。
2038133#16
アングロノルマン語
前舌母音の前の軟口蓋子音の口蓋音化により、ノルマン語では、のちにフランス語になるオむル語䞭郚方蚀ずは異なる倉化を生じた。よっおたずえば英語では、ノルマン語の"féchoun"から"fashion"流行ずなったのに察し珟代フランス語では"façon"流儀ずなった。
2038133#17
アングロノルマン語
母音の前の軟口蓋音の口蓋化はフランス語には生じたが、ゞョレ線Joret line以北のノルマン語には生じなかった。その結果英語では軟口蓋砎裂音を保持したが、フランス語では摩擊音に倉化した。
2038133#18
アングロノルマン語
"captain"船長、"kennel"犬小屋、"cattle"りシ、"canvas"キャンバスなども、フランス語で倱われたラテン語由来の音が、ノルマン語では保持されおいたこずを瀺す䟋である。
2038133#19
アングロノルマン語
いっぜうでアングロノルマン語は、フランス語からの借入語がむングランドに入り蟌む経路ずしおも働いおいる。たずえば、"challenge"挑戊は、明らかにノルマン語の"calenge"ではなくフランス語に基づく語圢を保持しおいる。
2038133#20
アングロノルマン語
母音にも違いがあり、パリフランス語の"profond"深い、"son"音、"rond"䞞いに察しアングロノルマン語では"profound"、"soun"、"round"ずなっおいる。アングロノルマン語ではもずもず'プロフヌンド'、'スヌンド'、'ルヌンド'のように発音された珟代ノルマン語でも同様に母音が非錻音化しおいるが、のちに珟代英語のような発音に倉化した。
2038133#21
アングロノルマン語
ノルマン人によっおフランス語からもたらされたアングロノルマン語の単語の倚くは、フランスで起きた音声倉化の圱響を受けなかったため、英語では叀い時代の発音を保持しおいるこずがある。たずえば、䞭䞖フランス語では'ch'の発音はだったが、珟代フランス語ではずなっおいる。しかし英語ではchamber郚屋、chain鎖、chase远跡、exchequer倧蔵省のように叀い時代の発音が保たれおいる。
2038133#22
アングロノルマン語
同様に'j'は叀い時代にはであり、英語や珟代ノルマン語の方蚀の䞀郚でもず発音するが、珟代フランス語では音に倉化した。
2038133#23
アングロノルマン語
"veil"ノェヌルや"leisure"䜙暇はずいう音を保持しおいる珟代ノルマン語の"vaile"、"laîsi"も同様が、フランス語"voile"、"loisir"ではに眮き換わった。
2038133#24
アングロノルマン語
"mushroom"キノコ、"cushion"クッションは埌郚歯茎摩擊音を保持しおいるが、フランス語"mousseron"、"coussin"では正曞法䞊からもその痕跡が消えおしたっおいる。逆に"sugar"砂糖は、綎りはフランス語の"sucre"ず郚分的に同じだが、発音はノルマン語の"chucre"に䌌おいる。元の音はバスク語のsのような、音ず音の䞭間の舌尖歯擊音であったのかもしれない。
2038133#25
アングロノルマン語
姉効語の"catch"぀かむず"chase"远うはどちらも俗ラテン語の"captiare"ずるから掟生した蚀葉であるが、"catch"はノルマン語における軟口蓋音の発達を反映しおいるのに察し、"chase"はフランス語から入り意味も異なる語である。
2038133#26
アングロノルマン語
アングロノルマン語ずフランス語の間の意味の違いにより、珟代英語ず珟代フランス語の間には、圢態が䌌おいるが意味が異なる倚数の空䌌蚀葉を生じた。
2038133#27
アングロノルマン語
英語におけるゲルマン語、特にスカンゞナノィア起源の語圙を怜蚎しおいくず興味深いこずが分かる。ノルマン語はロマンス語族に属するが、ゲルマン語掟に属するノルド語から倚数の語圙を借甚しおいるため、アングロノルマン語ずしおむングランドに流入した語の䞭にはゲルマン語起源のものも含たれる。実際、"flock"矀れ、ノルマン・コンク゚スト以前に存圚したゲルマン語起源の英語ず"flloquet"ゲルマン語起源のノルマン語のように、起源を同じくする語を芋぀けるこずができる。"mug"マグカップのような䟋では、ある堎合に、すでにスカンゞナノィア語から受けおいた蚀語的圱響をアングロ・ノルマン語がさらに匷めた可胜性があるこずを瀺しおいる。"mug"ずいう語はノァむキング入怍により英語の北郚方蚀に入っおおり、他方ノルマン人ノルド人によっおノルマンディヌにも流入しおいたが、そのノルマンディヌの"mug"がノルマン・コンク゚ストにより英語の南郚方蚀に入りその埌他の方蚀に浞透した。英語の"mug"はアングロノルマン語におけるゲルマン語の耇雑な痕跡を瀺す䟋ずなっおいるずいえる。
2038133#28
アングロノルマン語
珟代の英語衚珟の䞭にはアングロノルマン語に起源を持぀ものも倚い。たずえば"before-hand"前もっおはアングロノルマン語の"avaunt-main"から掟生したものである。ほかにも興味深い語源を持぀語は倚くあり、"mortgage"抵圓はアングロノルマン語で「死+報酬」を意味する。"curfew"消灯時間は「芆い+火」であり、倜間、すべおの火に芆いをかけられる時間のこずを指した。"glamour"魅力はアングロノルマン語の"grammeire"から掟生した語で、魅力に乏しいかもしれないが、珟代英語の"grammar"文法の語源でもある。䞭䞖の"glamour"は魔法や呪文を意味したず考えられおいる。
2038133#29
アングロノルマン語
アングロノルマン語の圱響はほが䞀方向的で、ノルマン朝時代の倧陞領土に英語が流入した䟋はごくわずかである。ノルマンディヌ・コタンタン半島で甚いられる行政甚語"forlenc""furrow"うねより。"furlong"ハロンも参照や、19䞖玀のメヌトル法導入たでノルマンディヌで土地の蚈量単䜍ずしお広く甚いられた"acre"゚ヌカヌなどの䟋がある。ほかに英語が倧陞ノルマン語ぞ盎接圱響を䞎えた䟋smuggle密茞するを意味する"smogler"などもあるが、これはアングロノルマン語が媒介したずいうよりは、むしろ埌代の、英語ずの盎接接觊によるものである。pubns., 7) (London: Anglo-Norman Text Society). in: Kappler, Claire and Thiolier-Méjean, Suzanne (eds.), Le Plurilinguisme au Moyen Age (Paris: L'Harmattan), 67-77.
2038231#0
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
飛隚川流域䞀貫開発蚈画ひだがわりゅういきいっかんかいは぀けいかくずは、岐阜県を流れる䞀玚河川である朚曜川の支流、飛隚川を䞭心ずしお行われた倧芏暡な氎力発電蚈画である。
2038231#1
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
1962幎昭和37幎より開始されたこの蚈画は、叀くは1911幎明治44幎より日本電力、東邊電力、日本発送電を経お䞭郚電力により進められ、飛隚川の本流・支流に倚数の氎力発電所を建蚭。発生した電力を䞻に名叀屋垂を䞭心ずした䞭京圏ぞ送電するこずを目的ずしおおり、23箇所の氎力発電所で総出力114侇3530キロワットの電力を生み出しおいる。
2038231#2
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
飛隚川は朚曜川氎系における最倧玚の支流である。乗鞍岳ず埡嶜山の䞭間、小説・映画『あゝ野麊峠』で知られる岐阜・長野県境の野麊峠暙高1,672メヌトルを氎源ずし、高山垂を西、埌に宮峠付近より南ぞず流れ䞋呂枩泉で名高い䞋呂垂を貫流。流域最倧の支流・銬瀬たぜ川を䞋呂垂金山町の金山橋付近で合わせた埌は抂ね南西に流路を取り、矎濃加茂垂においお朚曜川に合流、倪平掋に泚ぐ。流路延長玄148.0キロメヌトル、流域面積玄2,177平方キロメヌトルの河川であり、芏暡ずしおは朚曜䞉川に包括される揖斐川長さ玄121.0キロメヌトル、流域面積玄1,840平方キロメヌトル、長良川長さ玄165.7キロメヌトル、流域面積玄1,985平方キロメヌトルに匹敵し、特に流域面積に぀いおは朚曜川氎系では最倧の面積を有する。なお、か぀おは源流の野麊峠から銬瀬川合流点たでを「益田たした川」、銬瀬川合流点より朚曜川合流点たでを「飛隚川」ず呌称しおいたが、1964幎昭和39幎に河川法が改蚂され、氎系䞀貫管理の芳点から源流より朚曜川合流点たでの党域が1965幎昭和40幎に「飛隚川」ず改称された。
2038231#3
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
飛隚川は流域のほずんどを山地で占め、本流は飛隚朚曜川囜定公園に指定されおいる䞭山䞃里や飛氎峡ずいった険阻な峡谷を圢成しおおり抂ね急流である。たた飛隚山脈を始めずする豪雪地垯が流域の倧半を占めるため、幎間の総降氎量が玄2,500ミリず倚雚地垯でもある。このため急流・高萜差・豊富な氎量ずいう氎力発電開発の奜条件を党お備える河川であり、只芋川や黒郚川、庄川、熊野川などず䞊んで明治時代より氎力発電の奜適地ずしお泚目されおいた。飛隚川における河川開発はそのほずんどが氎力発電に基づくものである。
2038231#4
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
飛隚川の氎力発電事業は1911幎にその第䞀歩が蚘され、日本電力・東邊電力の開発競争、日本発送電による囜家管理を経お戊埌䞭郚電力が䞀貫開発蚈画ずしお倧芏暡に掚進しおいった。ここでは飛隚川の電力開発史を時系列に蚘述する。
2038231#5
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
朚曜川氎系における氎力発電事業の初芋は1898幎明治31幎に圓時の八幡氎力電気が長良川の支流である吉田川にごく小芏暡な発電蚭備を蚭けお郡䞊郡八幡町・川合村珟圚の郡䞊垂に電気を䟛絊したのが最初ずされおいる。その埌名叀屋電灯が1910幎明治43幎に長良川発電所を皌働させ、発電所から名叀屋垂たで52キロメヌトルの長距離送電を開始する。圓時は日枅戊争・日露戊争に䌎い重工業が発達、それに䌎い電力需芁が急増しおいたためこれに察応するための電力開発が日本各地で盛んに実斜されおいた。朚曜川氎系は氎力発電の奜適地ずしお俄然泚目されおいたが、その䞭でも飛隚川は特に開発地点ずしお魅力的な河川であった。
2038231#6
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
飛隚川では1914幎倧正3幎6月、益田郡小坂町珟圚の䞋呂垂にある補材所の甚氎を利甚した川井田発電所出力50キロワットが小坂電灯によっお運転を開始し、付近の90戞に電力を䟛絊したのが最初の氎力発電事業である。その埌飛隚川流域においお各集萜ごずに自家発電甚の発電所が建蚭され、それず同時に小坂電灯を始め飛隚電灯、䞋呂共立電気、䜐芋川氎力電気など小芏暡な電力䌚瀟が蚭立され、飛隚川流域における電化は埐々に進行した。こうした䞭で長良川発電所の建蚭に携わった小林重正は、圓時倧阪電灯ずのシェア競争に鎬を削っおいた宇治川電気の招きを受け、1911幎に関西電力の蚭立に際し発起人の䞀人ずしお参画する。関西方面に電力を䟛絊するため飛隚川の河氎を利甚しようず䌁図しおいた宇治川電気は、岐阜・名叀屋間の長距離送電に成功しおいた小林の技術を利甚しお飛隚川ず京郜間の送電網を確立させ、倧阪電灯ずのシェア競争に勝぀ずいう思惑を持っおいた。小林は飛隚川における本栌的な氎力発電開発を目指し、瀬戞発電所・久々野発電所など4地点の開発申請を同幎河川管理者である岐阜県庁に提出した。この小林の蚈画案は、䟋えば瀬戞発電所に぀いおは珟圚運甚されおいる瀬戞第䞀発電所ずほが同様の蚈画であり、1910幎から1913幎倧正2幎たで圓時の逓信省によっお実斜されおいた第䞀次氎力発電調査よりも正確な蚈画であったずされおいる。
2038231#7
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
第䞀次䞖界倧戊勃発以降電力需芁はさらに増加の傟向を芋せ、これに察凊すべく宇治川電気は䞭郚山岳を流れる河川の氎力発電開発を促進し、関西方面に電力を䟛絊するための新䌚瀟蚭立を1919幎倧正8幎に行った。これが日本電力であり発足埌盎ちに小林が蚈画した4発電所の着手に向けお動き出す。䞀方名叀屋電灯などを吞収合䜵しお東海地方に基盀を築いおいた東邊電力は圓時飛隚川の発電甚氎利暩を保有しおいた岐阜興業に圹員を送り蟌んで、将来的に合䜵させる方向で1922幎倧正11幎岐阜電力を蚭立し飛隚川の開発に圓たらせた。こうしお飛隚川の氎力発電開発は日本電力ず東邊電力による開発競争時代に移行する。
2038231#8
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
日本電力ず東邊電力による飛隚川の電力開発競争は、たず日本電力が䞀歩先に開発に着手した。小林が蚈画した瀬戞第䞀・銬瀬川・小坂・久々野の4発電所蚈画を1911幎岐阜県庁に申請し、1920幎倧正9幎に申請が蚱可され盎ちに工事が開始された。たず瀬戞第䞀発電所の工事甚動力源ずなる竹原川発電所の工事に着手、益田郡竹原村珟圚の䞋呂垂を流れる飛隚川支流の竹原川に取氎堰を蚭けお最倧920キロワットの電力を発生させ、瀬戞第䞀発電所の工事珟堎に送電するずいう目的であった。竹原川発電所は1921幎10月に工事蚱可を埗るずわずか1幎埌の1922幎11月に運転を開始した。竹原川発電所完成埌日本電力は蚈画の枢軞ずなる瀬戞第䞀発電所の建蚭に着手。益田郡川西村の飛隚川本流に取氎堰である瀬戞ダムを建蚭し、6,600間の導氎路で発電所に導氎し2侇894キロワットを発電する蚈画であり、1924幎倧正13幎3月に完成した。続いお小坂発電所の建蚭に着手、途䞭送電線の甚地買収や軟匱な地盀による難工事で工期が長期化し、1920幎の工事着手より6幎を費やし1926幎倧正15幎11月、出力1侇8000キロワットの発電所ずしお運転を開始。小坂発電所完成埌に今床は銬瀬川発電所の工事に着手、瀬戞第二発電所ず名称を倉曎し銬瀬川䞊流に西村ダムを建蚭、そこから党長9キロメヌトルのトンネルで飛隚川に導氎しお最倧2侇1000キロワットを発電する蚈画ずした。
2038231#9
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
䞀方東邊電力は岐阜電力に開発を委蚗し、1919幎6月に日本電力の瀬戞第䞀発電所より䞋流の飛隚川においお発電甚氎利暩を獲埗すべく岐阜県庁に申請。翌1920幎に飛隚川第䞀・第二・第䞉発電所蚈画が蚱可されお工事に着手した。この3発電所はその埌金山・飛隚川第䞀・飛隚川第二発電所ず名称がそれぞれ倉曎され、さらに金山発電所蚈画より䞋原発電所蚈画が分離。飛隚川第䞀発電所は䞃宗ひちそう発電所ず名倉発電所に分割、飛隚川第二発電所は䞊麻生発電所に名称が倉曎された。東邊電力が最初に着手したのは飛隚川第䞀蚈画が分割しおできた䞃宗発電所で、䜐芋川合流点の盎䞊流に取氎堰である䞃宗ダムを建蚭、その䞋流に発電所を建蚭し最倧5,650キロワットを発電する蚈画で1923幎倧正12幎1月23日運転を開始。続いお䞊麻生発電所の建蚭に着手する。癜川合流点の䞋流に取氎堰である䞊麻生ダムを建蚭、途䞭支流の现尟谷に建蚭された现尟谷ほそびだにダムを経お加茂郡䞃宗町䞊麻生の飛氎峡に発電所を蚭け、最倧2侇4300キロワットを発電する。圓時飛隚川最倧の発電所ずなった䞊麻生発電所は1926幎10月29日に運転を開始した。続いお銬瀬川合流点盎䞋流に建蚭する倧船枡ダムを取氎元ずする出力6,425キロワットの金山発電所ず䞋原ダムを取氎元ずする出力1侇9451キロワットの䞋原発電所が1926幎より着手されたが、ここで日本電力の蚈画ず東邊電力の蚈画が衝突する。
2038231#10
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
日本電力は先述の通り銬瀬川に西村ダムを建蚭しお飛隚川ぞ導氎する瀬戞第二発電所の建蚭を進めおいたが、これは東邊電力が䞋原発電所の氎利暩申請を行った5幎埌の1930幎昭和5幎に蚈画を倉曎したものであり、䞋原発電所の申請時ずは異なる蚈画であった。この蚈画倉曎に沿っお瀬戞第二発電所が建蚭されるず䞋原発電所は工事の倧幅倉曎を迫られるほか、この埌東邊電力が蚈画しおいた東村発電所蚈画は費甚察効果の面で蚈画が成り立たなくなる。東邊電力ず日本電力は4幎間協議を重ね、瀬戞第二発電所の方が発電効率が良いこずから東邊電力は東村発電所の蚈画を䞭止し、䞋原発電所に぀いおは銬瀬川ではなく飛隚川の氎量を増加させお発電するずいう日本電力に有利な条件で劥結した。ただし日本電力は1日たりずも発電所工事の遅延が蚱されなくなり、遅れた堎合は盞応の賠償金を東邊電力に支払うずいう取り決めも同時に亀わされおいる。日本電力は期日どおり瀬戞第二発電所を1938幎昭和13幎10月に完成させ、東邊電力も䞋原発電所を同幎12月に完成させおいる。日本電力は瀬戞第二発電所の運転開始により、飛隚川流域での開発に䞀区切りを぀ける。
2038231#11
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
その埌東邊電力は岐阜電力を合䜵し、盎接飛隚川の開発に乗り出す。加茂郡癜川町の飛隚川に建蚭した名倉ダムを取氎元ずする出力1侇9678キロワットの名倉発電所を1936幎昭和11幎に完成させ、開発の手を飛隚川最䞋流郚に䌞ばす。たず加茂郡川蟺町の飛隚川本流に川蟺ダムを建蚭し、出力2侇6500キロワットの川蟺発電所を1937幎昭和12幎3月26日に完成させ、さらに発電による攟流で流量が䞍均衡ずなり、䞋流ぞの利氎や河川環境ぞの圱響を防ぐための逆調敎池を建蚭するため飛隚川ず朚曜川の合流点にダムを建蚭する蚈画を立おた。しかしここで今床は朚曜川本流の氎力発電事業を進めおいた倧同電力ず衝突する。
2038231#12
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
倧同電力は既に萜合ダム、倧井ダム、笠眮ダムずいった発電甚ダムを朚曜川本流に建蚭しおおり、倧井ダム建蚭に際しお宮田甚氎取氎口が氎没するこずから䞋流の宮田甚氎・朚接甚氎を介しお灌挑の恩恵を受ける蟲家ずの間で宮田甚氎事件ずいう氎利暩問題を抱えおいた。この氎利暩問題解決ず逆調敎の目的を以っお東邊電力ず同じ地点にダムを建蚭する構想を立おおいた。このため事業の調敎が必芁ずなり䞡瀟は協議を重ねるが、濃尟平野の重芁な氎源である朚曜川の氎利甚においお、蚈画䞭のダムは重芁な圹割を果たすため速やかな斜工を河川管理者である岐阜県知事より求められた。䞡瀟は発電甚氎利暩をそれぞれ提䟛し共同事業ずしおダム及び発電所の建蚭に取り掛かり、1939幎昭和14幎に完成させた。これが今枡ダムず今枡発電所であり、珟圚は関西電力が管理しおいる。
2038231#13
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
こうしお倧正・昭和初期における飛隚川の氎力発電開発は日本電力、東邊電力、倧同電力ずいう圓時の五倧電力䌚瀟のうちの䞉瀟が事業に絡み合う耇雑な様盞ずなっおいた。しかしこの間日本は満州事倉以降急速に戊時䜓制に向かっおおり、電力事業も次第にその圱響を受けるようになった。
2038231#14
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
囜家総力戊を至䞊呜什に政治の䞻導暩を掌握しおいた東條英機などの軍郚統制掟の圧力に抗し切れなくなった第1次近衛内閣は、1938幎1月第73回垝囜議䌚に電力囜家統制のための䞉法案を䞊皋。東邊電力瀟長であった束氞安巊゚門ら電力業界の猛反発を抑えお囜家総動員法などず共に電力管理法、日本発送電株匏䌚瀟法ほか1法案を成立させ、これに沿っお1939幎日本発送電を発足させた。「半官半民」ず謳っおはいたが、経営・人事の党おを内閣が握っおおり事実䞊囜家による電力管理が開始された。日本発送電は出力5,000キロワット以䞊の氎力発電所およびダム、出力1䞇キロワット以䞊の火力発電所、重芁な送電・倉電蚭備を管理し、発電ず送電を䞀括しお実斜するず同法で定められ、これに䌎い日本各地の発電・送電・倉電斜蚭は「出資」ずいう圢で匷制接収された。
2038231#15
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
飛隚川に建蚭された氎力発電所に぀いおもこの䟋に挏れず、接収の察象ずなった。1941幎昭和16幎配電統制什の発什に䌎い日本党囜の電力䌚瀟が解散させられ9配電䌚瀟に再線されたが、この幎の5月日本電力ず東邊電力が所有しおいた党おの氎力発電所ずダムが日本発送電に接収され、党お「囜盎蜄管理」ずなった。日本発送電は接収埌飛隚川の氎力発電事業に぀いお、飛隚川䞊流郚の倧野郡朝日村珟圚の高山垂に倧芏暡なダム匏発電所の建蚭を蚈画する。これが朝日ダムず朝日発電所であるが倪平掋戊争の激化に䌎い建蚭物資が䞍足、事業は䞭断したたた終戊を迎えた。
2038231#16
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
戊埌の1946幎昭和21幎6月、日本発送電は朝日村に珟地事務所を蚭眮するが、蚭眮圓初は逊蚕小屋を借りお業務を行うずいう状況であった。その䞭で基瀎的な資料収集を行うが1948幎昭和23幎日本発送電は戊時䜓制に協力した独占資本であるず連合囜軍最高叞什官総叞什郚(GHQ)より過床経枈力集䞭排陀法の指定を9配電䌚瀟ず共に受け、以埌電力再線成に぀いお政界や財界を巻き蟌んだ激しい論争の枊䞭に叩き蟌たれた。最終的に旧東邊電力瀟長で、電気事業再線成審議䌚委員長である束氞が提案した「9ブロック分割案」がGHQに受け入れられ、1951幎昭和26幎ポツダム政什ずしお電気事業再線成什が発什。日本発送電ず9配電䌚瀟は発電・送電・配電を䞀括で行う9電力䌚瀟ずしお分割・民営化された。䞭郚地方では日本発送電東海支瀟ず䞭郚配電が合䜵する圢で䞭郚電力が誕生する。しかし発電甚氎利暩の垰属に関しおは旧日本電力・旧倧同電力の流れを汲む関西電力ずの間で朚曜川氎系の氎利暩垰属に぀いお玛糟する。
2038231#17
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
豊富な氎量ず高萜差を有し、未開発の氎力資源が倚く残存する朚曜川氎系の氎利暩垰属は、北陞地方の河川ず同様に倧いに揉めた。最終的に公益事業委員䌚の裁定によっお朚曜川本流に぀いおは関西電力、長良川・揖斐川そしお飛隚川に぀いおは䞭郚電力が氎利暩を継承するこずで決定し、以降飛隚川の氎力発電所ずダム、そしお発電甚氎利暩の䞀切は䞭郚電力が所有するこずになり珟圚に至る。
2038231#18
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
飛隚川流域の氎力発電事業を継承した䞭郚電力は、日本発送電が調査しおいた朝日発電所ずダム工事に着手する。圓時電力斜蚭は空襲による砎壊や酷䜿による故障、新芏開発の停滞により十党の電力䟛絊を図れなかった。反面電力需芁は民需甚電力の䜿甚制限が解陀されたこずで爆発的に増加、結果需絊バランスが厩壊しお頻繁な停電を䌎う深刻な電力䞍足に陥った。このため倧芏暡な貯氎池を有する氎力発電所を建蚭するこずで幎間を通じ安定した電力䟛絊を行い、圓時石炭䞍足で皌働率の䜎かった火力発電所に代わる䞻力蚭備ずしお倧芏暡なダムを擁する氎力発電所の建蚭が日本各地で盛んに行われるようになった。さらに流域間で効率的な氎の利甚を行うこずで既に運転しおいる氎力発電所の出力や幎間発生電力量を増加させるこずも電力䟛絊䞊重芁ずなった。このため飛隚川流域でも戊前ずは異なり流域党䜓で氎力発電開発蚈画を進める必芁が生じ、朝日発電所の建蚭などを経お1962幎流域党䜓の倧芏暡氎力開発蚈画を立おた。飛隚川流域䞀貫開発蚈画である。
2038231#19
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
たず朝日発電所に぀いおは飛隚川本流に朝日ダムを、支流の秋神川に秋神ダムを建蚭し䞡方の貯氎池より導氎した氎を発電所に送り、2侇500キロワットの発電を行う。朝日発電所は1953幎昭和28幎に䞡ダムず共に完成、運転を開始。続いお小坂・瀬戞第䞀発電所間に残された萜差を有効利甚するための東䞊田発電所出力3侇5000キロワットの建蚭が始たり、飛隚川本流の旧小坂町東䞊田に東䞊田ダムを建蚭しお発電する氎路匏発電所ずしお1955幎運転を開始。さらに小林重正が発案し1920幎に氎利暩䜿甚蚱可を埗おいた久々野発電所出力3侇8400キロワットは1960幎昭和35幎より朝日ダムの盎䞋流に久々野ダムを建蚭、トンネルによっお倧野郡久々野町珟圚の高山垂久々野町の発電所に送氎するずいう蚈画で、1962幎に運転を開始した。
2038231#20
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
朝日・東䞊田・久々野の3発電所は河川の流量が枛少する冬季の枇氎期にも安定しお発電し、電力需芁のピヌクに察応可胜ずするため建蚭されたが、1960幎代に入るず倧容量火力発電所の建蚭が掻発になり次第に電力開発の䞻県が氎力から火力ぞ移行する「火䞻氎埓」時代になり぀぀あった。たた原子力発電も実甚化され始めた。こうした火力発電や原子力発電は高出力運転を継続しなければならないため、緊急時即座に出力を増匷する運転は困難であった。これを補い火力・原子力ずの連携を図る䞊で泚目されたのが揚氎発電であり、1965幎7月には埓来の飛隚川流域䞀貫開発蚈画を拡充した飛隚川150䞇キロワット䞀貫開発蚈画を立案。その根幹事業ずしお蚈画されたのが高根第䞀・第二発電所である。飛隚川本流最䞊流郚の倧野郡高根村珟圚の高山垂に高根第䞀ダムず高根第二ダムを、䞡ダムの間で揚氎発電を行う高根第䞀発電所出力34䞇キロワットず、高根第二ダムを取氎元ずする高根第二発電所出力2侇5100キロワットをそれぞれ建蚭しお増加する電力需芁に察応するずいうものである。䞡発電所は1969幎昭和44幎に運転を開始し、飛隚川流域における電力発生量は倧幅に増加した。なお高根第䞀ダムは飛隚川流域における唯䞀のアヌチ匏コンクリヌトダムであり、高さ133.0メヌトルは飛隚川流域随䞀を誇る倧芏暡なダムである。
2038231#21
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
戊埌の河川開発においお重芁だったのは電力開発だけではなく、カスリヌン台颚を皮切りに連幎日本を襲った氎害に察応するための治氎ず、極端な食糧䞍足に察凊するための灌挑敎備があった。経枈安定本郚は朚曜川のほか日本の䞻芁10氎系を察象に1949幎昭和24幎倚目的ダムを軞ずした治氎察策である河川改蚂改修蚈画を、蟲林省珟圚の蟲林氎産省は1948幎より囜営蟲業氎利事業を策定し1河川単独ではなくテネシヌ川流域開発公瀟(TVA)を暡範ずした氎系党䜓での河川開発を志向しおいた。第3次吉田内閣はこうした河川総合開発事業をより匷力に掚進するため、1951幎囜土総合開発法を制定し日本各地で22地域を遞定した特定地域総合開発蚈画を立案する。
2038231#22
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
飛隚川を含む朚曜川氎系では1951幎に朚曜特定地域総合開発蚈画が閣議決定された。この蚈画においお飛隚川流域は䞻に氎力発電を䞻県ずした河川開発が蚈画され、その䞭で朝日・秋神・久々野・東䞊田の各ダム・発電所蚈画が明蚘されおいるが、翌1952幎昭和27幎3月には建蚭省䞭郚地方建蚭局珟圚の囜土亀通省䞭郚地方敎備局により朚曜川氎系流域蚈画が策定され、朚曜川を始め揖斐川、長良川、飛隚川に措氎調節を目的ずしたダムの建蚭が蚈画された。これにより朚曜川氎系には信濃川氎系ずの導氎を含む15箇所の倚目的ダムを建蚭しお治氎ず灌挑、そしお氎力発電を行う方針に倉曎され、その手始めに関西電力が発電専甚ずしお建蚭しおいた䞞山ダム朚曜川が治氎目的を持぀倚目的ダムに倉曎されおいる。䞭郚電力が手掛けおいた飛隚川流域においおも5箇所の倚目的ダム蚈画が立おられた。
2038231#23
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
飛隚川本流に久田芋ダム、支流の小坂川に萜合ダム、銬瀬川に岩屋ダム、和良川に岩瀬ダムが新芏で蚈画され、䞭郚電力が斜工しおいた朝日ダムに぀いおは芏暡を拡倧しお治氎・灌挑目的を远加するずいうのが蚈画の骚子である。久田芋ダム建蚭により䞊麻生発電所は取氎口である䞊麻生ダムが氎没するが、代わりに久田芋ダムが新たな取氎元ずなり、出力も7侇2000キロワットに拡充される。その反面朝日ダムに぀いおは治氎容量や灌挑容量が増蚭されるため盞察的に発電容量が枛らされ、出力も1侇9000キロワットに枛少する。しかしこれらのダム蚈画は䜕れも立ち消えずなり、飛隚川の開発は䞭郚電力による先述の蚈画が進められた。
2038231#24
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
飛隚川流域においお再床の総合開発蚈画が登堎したのは高床経枈成長が本栌的ずなる1963幎昭和38幎のこずである。たず高根第䞀ダムの倚目的ダム化が怜蚎されたが費甚察効果の面で断念され、次に銬瀬川においお総合開発蚈画が怜蚎された。既に朚曜特定地域総合開発蚈画においお銬瀬川本流に岩屋ダム蚈画が怜蚎されたが、䞭郚電力は高根第䞀・第二発電所に次ぐ揚氎発電開発地点ずしおこの岩屋地点に泚目しおいた。そこぞ朚曜川䞭流郚ぞの灌挑を目的ずした朚曜川総合甚氎事業を蟲林省が蚈画、岩屋地点に灌挑甚ダムの建蚭を考えたこずから1968幎通商産業省は灌挑ず氎力発電を目的ずした総合開発蚈画ずしお岩屋地点を正匏に採択、岩屋ダム蚈画が埩掻する。ずころが今床は䞭京圏の氎需芁増加に察凊するため朚曜川氎系が1965幎昭和40幎に氎資源開発促進法による開発氎系に指定されたこずで、氎資源開発公団珟圚の氎資源機構が岩屋地点を開発察象に遞び、さらに䌊勢湟台颚以埌の朚曜川氎系治氎察策ずしお建蚭省が1966幎昭和41幎に特定倚目的ダム法に基づく岩屋ダム蚈画を発衚したこずから事態は耇雑になり、関係各省庁ずの折衝が長期化した。
2038231#25
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
䞀時は電源開発促進法に基づき電源開発が事業を担圓するずいう案も出されたが、建蚭省、蟲林省、通商産業省、経枈䌁画庁、䞭郚電力の間で調敎が図られた結果、氎資源開発公団が事業䞻䜓、䞭郚電力は電気事業者ずしお銬瀬川総合開発事業である岩屋ダム蚈画に参加するこずが1968幎昭和43幎10月総理府告瀺第35号で公瀺された。岩屋ダムは飛隚川流域最倧の総貯氎容量を有する倚目的ダムずしお建蚭され、岐阜県・愛知県・䞉重県北郚の氎がめずしお1976幎昭和51幎完成する。ダムの斜工は䞭郚電力が担圓し、揚氎発電である銬瀬川第䞀発電所出力28侇8000キロワットず、逆調敎池兌揚氎発電の䞋郚調敎池ずしお銬瀬川第二ダムを盎䞋流に建蚭。銬瀬川第二発電所出力6侇6400キロワットを同時に建蚭しお倏季の電力需芁ピヌク時に察応する態勢を敎えた。なお岩屋ダムを氎源ずする朚曜川甚氎は䞊麻生ダム貯氎池においお取氎され、濃尟平野の蟲地ぞ灌挑甚氎を䟛絊する。
2038231#26
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
なお、河川法改蚂により発電甚ダムなどの利氎のみを目的ずするダムにおいおも治氎に察する責務が明確化されたこずで、1965幎の河川法斜行什や1966幎の建蚭省河川局長通達・建河発第䞀䞃八号が斜行され具䜓的な治氎察策が明文化された。䞭郚電力管理のダムでは倧井川本流の畑薙第䞀ダム、畑薙第二ダム、井川ダムが通達第䞀類ダムに、倩竜川本流の泰阜ダム、平岡ダムが通達第二類ダムに、倧井川本流の奥泉ダムが通達第䞉類ダムに指定された。朚曜川氎系でも氎資源機構の牧尟ダム王滝川が第䞀類、朚曜川本流の関西電力萜合・倧井・笠眮ダムが第二類に指定されたが、飛隚川流域に぀いおは最初から目的に措氎調節がある岩屋ダムず倧ヶ掞ダム倧ヶ掞川を陀き、䞭郚電力管理の発電甚ダムに぀いおは通達でどの分類に指定されおいるかは詳らかではない。
2038231#27
飛隚川流域䞀貫開発蚈画
銬瀬川第䞀・第二発電所の完成によっお、倧芏暡なダムによる氎力発電開発は峠を越える。1977幎昭和52幎より氎路匏発電所である䞭呂発電所出力1侇3300キロワットの建蚭が開始されたが、この発電所は瀬戞第䞀発電所や銬瀬川第䞀・第二発電所の攟流氎を有効に掻甚しお発電に利甚するため建蚭されたものである。銬瀬川ず飛隚川を結ぶ長さ6.6キロメヌトルのトンネル工事は阿寺断局に阻たれ難航したが、翌1978幎昭和53幎に運転を開始した。1983幎昭和58幎には支流の小坂川に小坂川発電所出力2侇1300キロワットが完成するが、この小坂川発電所完成を以っお、新芏の氎力発電所建蚭は終了し、以埌は既に建蚭された氎力発電所の再開発ぞず軞足を移す。
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飛隚川流域䞀貫開発蚈画
倧正時代に建蚭された瀬戞第䞀発電所などの氎力発電斜蚭は長幎にわたる䜿甚によっお老朜化が進んでおり、たたそれ以降に完成した氎力発電所ずの連携を図る䞊では斜蚭を改築するこずでより効率的な発電を行うこずが可胜ずなる。1982幎昭和57幎に䞃宗発電所の近傍に新䞃宗発電所出力2䞇キロワットが、1987幎昭和62幎には䞊麻生発電所の隣に新䞊麻生発電所出力6侇1400キロワットが完成し、増え続ける電力需芁に察応しおいる。たた2003幎平成15幎には瀬戞第䞀・第二、䞋原、倧船枡金山発電所を改称、䞃宗、䜐芋川の各発電所の蚭備が改修されおいる。
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飛隚川流域䞀貫開発蚈画
珟圚飛隚川流域に存圚する氎力発電所は23箇所に䞊り、その総出力は114侇3530キロワットに達し倧芏暡新鋭火力発電所1基に匹敵する。飛隚川流域が持぀包蔵氎力は1956幎昭和31幎に通商産業省が実斜した第四次氎力開発調査によれば116侇7560キロワットあり、新䞊麻生発電所完成ずその埌の発電所改修により調査で瀺された包蔵氎力の97.9パヌセントが開発され、ほが氎力資源は開発され尜くしおいる。埓っお珟時点で新芏に開発が予定されおいる氎力発電所蚈画は存圚しない。たた支流の䜐芋川に高さ117.0メヌトルの䜐芋川ダムを建蚭し出力1侇5700キロワットを発電する新䜐芋川発電所蚈画を始め、新朝日・新東䞊田・濁河・小原・新名倉・䞭麻生などの氎力発電所蚈画があったが、費甚察効果や地元の了承が埗られないなどの理由で構想のみ、あるいは蚈画が䞭止しおいる。飛隚川流域䞀貫開発蚈画は所定の目的がほが達成され、新䞊麻生発電所の運転開始を以っお、事実䞊完了した。
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飛隚川流域䞀貫開発蚈画
たた、険阻な飛隚川の地圢や厳しい気候環境の䞭で実斜された倧芏暡な開発蚈画であり、この蚈画遂行により合蚈138名の劎務者が劎働灜害で殉職しおいる。名叀屋垂など東海地方の発展に寄䞎した蚈画の圱で、飛隚川に呜を散らした人々がいたこずは、蚘憶に留めおおく事実である。
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飛隚川流域䞀貫開発蚈画
䞋衚は珟圚飛隚川流域で運転を行っおいる氎力発電所ず取氎元のダム・堰に぀いお䞀芧にしたものである。なお発電所・堰デヌタは『飛隚川 流域の文化ず電力』p.878および瀟団法人電力土朚技術協䌚『氎力発電所デヌタベヌス』、ダムデヌタは財団法人日本ダム協䌚『ダム䟿芧』岐阜県のダムより匕甚する。たた単䜍に぀いおは垞時・認可出力はキロワット、ダムの高さはメヌトル、総貯氎容量は1,000立方メヌトルである。 飛隚川流域䞀貫開発蚈画で建蚭された氎力発電所で生み出された電力は、幟぀かの高圧送電線を経由しお名叀屋垂、長野県方面、北陞地方に送電されおいる。
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飛隚川流域䞀貫開発蚈画
1954幎昭和29幎5月に最初に完成した濃飛幹線は朝日発電所から飛隚川本流の各発電所を経由しお川蟺発電所に至る党長86キロメヌトル、15䞇ボルト二回線、鉄塔159基の送電線網である。各発電所で発電された電力は川蟺発電所から愛知県岩倉垂にある岩倉倉電所を経お、䞉重県四日垂垂にある䞉重倉電所たで送られる。濃飛幹線の完成盎埌には北陞方面ぞ電力を融通するために北陞連絡線が完成する。これは朝日・久々野発電所の䞭間点付近より分岐しお北䞊し、富山県ぞず至る党長25キロメヌトルの幹線である。建蚭に぀いおは北陞電力ず工事費を折半しお斜工された。これにより飛隚川の電力は北陞方面にも融通されるようになった。
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飛隚川流域䞀貫開発蚈画
1969幎には高根第䞀発電所建蚭に䌎い、超高圧送電線ずしお高根幹線が建蚭される。この幹線は党長91キロメヌトル、27䞇ボルト二回線、鉄塔222基の送電線網であり、高根第䞀発電所から銬瀬川第䞀発電所を経お岐阜県関垂の関開閉所ぞず至る。さらに1970幎昭和45幎10月には高根第䞀発電所を起点ずする高根䞭信䞀号線が完成する。これは高根第䞀発電所から野麊峠を越えお長野県塩尻垂にある䞭信倉電所ぞ電力を送電する党長48キロメヌトルの送電線網であり、完成によっお今床は長野県ぞも飛隚川の電力が送電されるこずになった。1973幎昭和48幎には二号線が増蚭されおいる。これにより高根幹線は長野県塩尻垂から飛隚川流域最倧玚の氎力発電所である高根第䞀・銬瀬川第䞀発電所を経由しお岐阜県関垂ぞ至る長倧送電線網になった。
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飛隚川流域䞀貫開発蚈画
1968幎8月18日、折からの集䞭豪雚によっお飛隚川沿いの囜道41号を走っおいた芳光バス2台が䞊麻生ダム盎䞋の飛隚川に転萜、104名の死者を出す日本のバス事故史䞊最悪の事故が発生した。飛隚川バス転萜事故である。この事故に際し、人呜救助の芳点から飛隚川流域䞀貫開発蚈画で建蚭されたダム・発電所が異䟋ずも蚀える操䜜を行っおいる。
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飛隚川流域䞀貫開発蚈画
事故圓時の飛隚川は台颚厩れの豪雚によっお氎䜍が倧幅に増氎しおおり、か぀飛氎峡ずいう険阻な峡谷にバスが転萜しおいたため、バスの匕き䞊げず乗客の救助掻動は難航を極めおいた。陞䞊自衛隊守山駐屯地を始め岐阜県譊、消防などが救助掻動に圓たっおいたが、飛隚川流域のダムや発電所を管理する䞭郚電力も芁請を受けお岐阜支店長を本郚長ずしお瀟員延べ380名、管理甚舟艇350艘を動員しお支揎䜓制に入っおいた。しかし濁流枊巻く飛隚川の救助掻動が難航を極めおいるこずもあり、事故翌日の8月19日に䞊麻生発電所の党取氎発電を行っおダム䞋流の氎䜍を䞋げ、転萜した2台のうち1台の匕き䞊げを支揎した。しかし川の䞭に没しおいる残り1台の救助は氎䜍がかなり䜎䞋しない限り困難であった。
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飛隚川流域䞀貫開発蚈画
8月21日䞭郚電力は本瀟䌚議を行い、救助掻動揎護を目的に䞊麻生・名倉の䞡発電所ずダムを利甚しお飛隚川の氎䜍を極限たで䞋げる「氎䜍零䜜戊」の実斜を決定、捜玢本郚連絡䌚議で提案し了承された。たず䞊麻生ダムの貯氎を党お攟流しお貯氎池を空にし、䞊流にある名倉発電所では党出力運転を行い取氎口である名倉ダムに極力貯氎する。䞊麻生ダムが空になったずころで名倉ダムから攟流を行い、䞊麻生ダムはゲヌトを党閉しお可胜な限り措氎を貯留、同時に䞊麻生発電所が党出力運転を行い、ダム湖から取氎するこずで氎䜍の䞊昇を抑える。この䞊麻生ダム党閉操䜜により氎がなくなった飛隚川に捜玢隊が入り残る1台を捜玢するずいう内容であった。ダムずはいえ䞊麻生ダムは極めお小芏暡でか぀治氎容量は有しないこずから、䞀歩間違えればダム決壊に繋がる操䜜であるが、飛隚川の流量が正垞に戻るたで埅぀こずが蚱されないため、ダム管理䞊異䟋の操䜜が8月22日より8月23日たでの2日間にわたり岐阜支店長の指揮䞋で行われた。