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4,758,982
94,624,452
9
ハダナラ氏
略史
4古対珠顔:都爾希の子。
p
4758982-94624452-10
4,758,982
94,624,452
10
ハダナラ氏
略史
5太蘭:古対珠顔の子。
p
4758982-94624452-11
4,758,982
94,624,452
11
ハダナラ氏
略史
6布顔:太蘭の子。初代ウラ・ベイレ。
p
4758982-94624452-12
4,758,982
94,624,452
12
ハダナラ氏
略史
9アバハイ:満泰の娘。太祖ヌルハチ大妃。
p
4758982-94624452-13
4,758,982
94,624,452
13
ハダナラ氏
略史
10アイシンギョロ・アジゲ
p
4758982-94624452-14
4,758,982
94,624,452
14
ハダナラ氏
略史
10アイシンギョロ・ドルゴン
p
4758982-94624452-15
4,758,982
94,624,452
15
ハダナラ氏
略史
10アイシンギョロ・ドド
p
4758982-94624452-16
4,758,982
94,624,452
16
ハダナラ氏
略史
8布瞻泰:満泰の弟。
p
4758982-94624452-17
4,758,982
94,624,452
17
ハダナラ氏
略史
3綏屯:嘉穆喀碩朱古の四子。
p
4758982-94624452-18
4,758,982
94,624,452
18
ハダナラ氏
略史
4克習納(都督):綏屯の子。
p
4758982-94624452-19
4,758,982
94,624,452
19
ハダナラ氏
略史
5轍轍木:克習納の子。
p
4758982-94624452-20
4,758,982
94,624,452
20
ハダナラ氏
略史
6万:轍轍木の子。ハダナラ氏始祖。
p
4758982-94624452-21
4,758,982
94,624,452
21
ハダナラ氏
略史
5旺濟外蘭:克習納の子。
p
4758982-94624452-22
4,758,982
94,624,452
22
ハダナラ氏
『八旗滿洲氏族通譜』
『八旗滿洲氏族通譜』巻23「哈達地方納喇氏」の目録には以下の人物が記載されている。
p
4758982-94624452-23
4,758,982
94,624,452
23
ハダナラ氏
『八旗滿洲氏族通譜』
・始祖「万」との関係性を遡ることができ、且つ事績が遺っている者。
p
4758982-94624452-24
4,758,982
94,624,452
24
ハダナラ氏
『八旗滿洲氏族通譜』
吳爾瑚達、海塔、卓内。蘇巴海。約蘭、夏瑚。
p
4758982-94624452-25
4,758,982
94,624,452
25
ハダナラ氏
『八旗滿洲氏族通譜』
・始祖「万」との関係性を遡ることはできないが、事績が遺っている者。
p
4758982-94624452-26
4,758,982
94,624,452
26
ハダナラ氏
『八旗滿洲氏族通譜』
阿敦、達雅理、哲爾德、喀尼穆都珠瑚、都琥禪、明安、彰實、赫書、賽図、碩舒堪、英阿、鄂倫、綽爾賽、丹達理、音泰。
p
4758982-94624452-27
4,758,982
94,624,452
27
ハダナラ氏
『八旗滿洲氏族通譜』
・始祖「万」との関係性を遡ることができず、事績も遺っていないが、帰順時期がわかり、任官歴のわかる者。
p
4758982-94624452-28
4,758,982
94,624,452
28
ハダナラ氏
『八旗滿洲氏族通譜』
喀喇、金塔錫、吉那密。瓦克善。顔岱、錫爾泰、雅克星阿、雅理布、納秦、準拝。満都瑚、伊札拉費揚古、図努瑚、三台、瑚図理、華喇、拝音布。阿那布、額爾徳尼、賽布琥、芳凱。噶爾珠、博羅、瓦渾。
p
4758982-94624452-29
4,758,982
94,624,452
29
ハダナラ氏
『八旗滿洲氏族通譜』
・始祖「万」との関係性を遡ることができず、事績も遺っていず、帰順時期もわからないが、任官歴のわかる者。
p
4758982-94624452-30
4,758,982
94,624,452
30
ハダナラ氏
『八旗滿洲氏族通譜』
邁密泰、阿済理。和托。瑪克占、台音察。喀尼穆、武巴海、巴実。岱珠琥、額克楚尼。穆成額。賚図、倫拝、肇国光。格都爾備、邁図、義常。賚善。
p
4758982-94624452-31
4,758,982
94,624,452
31
ハダナラ氏
清代の主要な世家
吳爾瑚達は孟格布禄の長子、鑲黄旗。代々ハダ地方に居住し清初に部民を引率れ帰順。太祖ヌルハチより吳爾瑚達に公主が、又、吳爾瑚達の子・額森徳礼に郡主が降嫁。吳爾瑚達の部下は八旗に分属、残りはニルに編入、吳爾瑚達の孫・克什訥がこれを統轄。尋いで克什訥は三等男爵を承襲、頭等侍衛に任命。その後除免。
p
4758982-94624452-32
4,758,982
94,624,452
32
ハダナラ氏
清代の主要な世家
克什訥の子に肯特(元・二等侍衛)、孫に長清(現・筆帖式)、曾孫に瑪達納(現・中書)。
p
4758982-94624452-33
4,758,982
94,624,452
33
ハダナラ氏
清代の主要な世家
孟格布禄の次子・聶克色は職能と忠誠を評価され三等軽車都尉に叙爵。三度の恩賞で一等軽車都尉兼一雲騎尉に陞叙。死後、聶克色の次子・渾布(太僕寺少卿兼佐領)が襲爵、しかし疾病を理由に引退し、渾布の子・寧安(佐領)が、恩賞による加増分を除いた三等軽車都尉を承襲。死後、寧安の子・福綬(現·佐領)が襲爵。
p
4758982-94624452-34
4,758,982
94,624,452
34
ハダナラ氏
清代の主要な世家
聶克色の長子に聶赫(元・三等侍衛)、三子に拉哈(元·頭等侍衛兼佐領)、四子に兌親(元·三等侍衛)、孫に盛安(現・都統刑部侍郎)、塞爾特(元・佐領)、来布(元・員外郎兼佐領)、拜善(元・御史兼佐領)、雅爾都(元・藍翎侍衛)、曾孫に喀通阿(現・生員)。
p
4758982-94624452-35
4,758,982
94,624,452
35
ハダナラ氏
清代の主要な世家
海塔は吳爾瑚達の実伯・旺錫の子(吳爾瑚達の従兄弟)、鑲黄旗、代々ハダ地方に居住、元・明朝の広寧遊撃。太祖ヌルハチが広寧に進攻した際、海塔と海塔の実伯・薩穆哈図の孫・達爾琥(海塔の従甥)は投降、共に二等軽車都尉を承襲。後、海塔は騎都尉に降格。死後、海塔の子・噶達渾が襲爵、三度の恩賞で二等軽車都尉に陞叙、江西、湖広に出征し、建昌府(現江西省撫州市)で邵連登ら率いる敵兵八万余を撃破、後、武岡州(現湖南省武岡市)、双井舗(現湖南省邵陽市)地方で呉国貴(将軍)ら率いる敵兵二万が抗戦、これを撃破、戦功により一等軽車都尉に陞叙、参領に任命。死後、噶達渾の子・桑格が襲爵、副都統などを歴任、疾病を理由に引退し、桑格の実兄の孫・兆祥が恩賞による加増分を除いた騎都尉兼一雲騎尉を承襲。
p
4758982-94624452-36
4,758,982
94,624,452
36
ハダナラ氏
清代の主要な世家
海塔の孫に錫特庫(元・三等侍衛)、噶爾薩(元・筆帖式)。
p
4758982-94624452-37
4,758,982
94,624,452
37
ハダナラ氏
清代の主要な世家
達爾琥もまた騎都尉に降格、その後、三度の恩賞で二等軽車都尉に陞叙。死後、達爾琥に継嗣なく、実弟の子・巴達克図、孫・保住、曾孫·珠爾瑪らが代々襲爵。珠爾瑪にも継嗣なく、雍正11(1733)年子孫断絶。達爾琥の大叔父の玄孫・額盛額が恩賜により雲騎尉を承襲。
p
4758982-94624452-38
4,758,982
94,624,452
38
ハダナラ氏
清代の主要な世家
卓内は万の孫、鑲藍旗、代々ハダ地方に居住し、清初に帰順、廃員として錦州に出陣し戦死、騎都尉に追叙、ヌルハチよりギョロ(覚羅)氏を下賜。卓内の子・羅絡が襲爵、礼部侍郎兼佐領などを歴任、後、除免。羅絡の実弟・錫特庫が襲爵、尋いで吏部理事官に昇官、職能を評価され騎都尉兼一雲騎尉に陞叙、流賊討伐に従軍し揚子江で敵の船を奪取、武功をあげ三等軽車都尉に陞叙。死後、錫特庫の子・徹爾貝が襲爵、恩賞により二等軽車都尉に陞叙。
p
4758982-94624452-39
4,758,982
94,624,452
39
ハダナラ氏
清代の主要な世家
死後、徹爾貝に継嗣なく、徹爾貝の実伯・労漢が襲爵、二度の恩賞で一等軽車都尉兼一雲騎尉に陞叙、後、恩賞で得た騎都尉が剥奪(降格)。労漢の実弟の子・隆錫庫が二等軽車都尉を承襲、チャハルブルニ(布爾尼)に出征し、大鹵地方で奮戦し敵兵撃攘、武功により一等軽車都尉に陞叙、副都統などを歴任。死後、隆錫庫の子・鄂密達が襲爵、青州将軍などを歴任、後、除免。
p
4758982-94624452-40
4,758,982
94,624,452
40
ハダナラ氏
清代の主要な世家
鄂密達の大伯父の曾孫・桑格が恩賞による加増分を除いた二等軽車都尉を承襲。
p
4758982-94624452-41
4,758,982
94,624,452
41
ハダナラ氏
清代の主要な世家
卓内の孫に碩倫(元・前鋒侍衛兼佐領)、曾孫に費約色(元・驍騎校)、阿密達(元・甘粛布政使)、羅密達(元・護軍参領)、舒密達(元・副都統)、玄孫に鄂善(元・延建邵道)、阿倫(現・佐領)、舒徳(現・筆帖式)、舒明(現・筆帖式)、費揚古(現・中書)、舒常(現・副都統兼佐領)。
p
4758982-94624452-42
4,758,982
94,624,452
42
ハダナラ氏
清代の主要な世家
蘇巴海は万の叔・旺濟外蘭(王忠)の曾孫、鑲白旗人、代々ハダ地方に居住し、清初に満洲人200人を引率れ帰順、ニルを編成し長子・莽果がこれを統轄。莽果の子に馬拉(元・副都統)、洪納理(元・佐領)、孫に馬緝(元・都統、鎮安将軍兼佐領)。同じく孫の喀爾啓は護軍校として湖広に出征、荆州府(現湖北省荆州市)より江寧に出て加勢し、楊文英(都督)らの敵兵を撃破、江西に進軍し撫州府(現江西省撫州市)を包囲、攻勢に出た賊兵を撃破、死後、戦功により雲騎尉に追叙。喀爾啓の子・喀爾岱が襲爵、疾病を理由に引退し、喀爾岱の子・納福が襲爵。莽果の曾孫に巴晋泰(元・二等侍衛)、斉格(元・参領兼給事中)。同じく曾孫の常賚は広東布政使から雲南巡撫旋に昇官、刑部侍郎に任命、勅命により寧夏將軍印務を署理、後、鎮安将軍に任命され率兵しジュンガル(準噶爾)征討、度々戦功を立て、尋いで副将軍に任命、内大臣などを歴任。同じく曾孫に存住(現・郎中)、玄孫に納爾賽(元・佐領)、納瞻(現・佐領)、納善(現・員外郎)、薩爾泰(現・筆帖式)、玉格(現・筆帖式)。
p
4758982-94624452-43
4,758,982
94,624,452
43
ハダナラ氏
清代の主要な世家
蘇巴海の次子・唐武(元・佐領)の子に薩爾岱(元・前鋒参領)、阿爾岱(元・頭等侍衛)、孫に六格(元・員外郎)、碩色(元・筆帖式)、曾孫に達舒(現・三等侍衛)。
p
4758982-94624452-44
4,758,982
94,624,452
44
ハダナラ氏
清代の主要な世家
蘇巴海の三子・星鼐は職能と忠誠を評価され騎都尉を叙爵、後、北京に向い順義県城を攻略、騎都尉兼一雲騎尉に陞叙、尋いで工部理事官に昇官、五年後、職能を評価され三等軽車都尉に陞叙、流賊征討に従軍し、延安(現陝西省)、池州(現安徽省池州市)などで度々武功をあげ、滕吉思を追逐、トゥシエト(土謝図)汗および碩羅汗らの兵を撃破、戦功により二等軽車都尉に陞叙、後、工部侍郎に昇官、三年後、職能を評価され一等軽車都尉に陞叙、三度の恩賞で二等男爵に陞叙、後、除免、更に罪状に鑑み騎都尉を剥奪、一等軽車都尉兼一雲騎尉に降格。死後、星鼐の長子・成格が襲爵、協領に任命、後、除免。成格の子・臣布(現・佐領)は恩賞による加増分を除いた一等軽車都尉を承襲。星鼐の次子に成徳(元・佐領)。
p
4758982-94624452-45
4,758,982
94,624,452
45
ハダナラ氏
清代の主要な世家
蘇巴海の四子・錫納海の子に巴什(元・護軍参領)、孫に巴達(元・員外郎)、韋馱保(元・筆帖式)、愛音布(元・驍騎校)、曾孫に赫順(現・驍騎校)、玄孫に清福(現・筆帖式)。蘇巴海の五子・伊納海の孫に陶禅(元・筆帖式)、曾孫に通保(現・筆帖式)。
p
4758982-94624452-46
4,758,982
94,624,452
46
ハダナラ氏
清代の主要な世家
蘇巴海の六子・倭赫(元・関口守御)の子に喜峰口(元・筆帖式)。同じく子の党愛は六品典儀として雲南に出征、石門坎(現貴州省)、黄草壩(現貴州省興義市)地方で何継祖(将軍)らの敵兵を度々敗り(三藩の乱)、雲南城を出て抗戦する胡国秉(将軍)の兵一万余を撃破、戦功により騎都尉を叙爵、後、オイラト(厄魯特)ガルダン(噶爾丹)に出征、奮闘し賊兵を撃攘、武功により騎都尉兼一雲騎尉に陞叙、副都統兼佐領などを歴任。死後、党愛の子・占布が襲爵。死後、占布の実弟の子・保福(現・佐領)が襲爵。倭赫の孫に金布(元・佐領)、顔布(現・護軍校)。
p
4758982-94624452-47
4,758,982
94,624,452
47
ハダナラ氏
清代の主要な世家
蘇巴海の実兄・納穆達理の子に納穆(元・副都統)、孫に拉塔(元・参領)、曾孫に蘇禅(元・筆帖式)、納海(元・筆帖式)、玄孫に納親(元・筆帖式)、羅察(現・驍騎校)、来孫に霊官保(元・驍騎校)、黒格(現・驍騎校)。蘇巴海の実弟・阿布海の孫に塔岱(元・驍騎校)、曾孫に台什(元・筆帖式)、玄孫に塞克(現・護軍校)。
p
4758982-94624452-48
4,758,982
94,624,452
48
ハダナラ氏
清代の主要な世家
正紅旗の約蘭は嘉穆喀碩朱古の三子・蘇赫徳の玄孫で、子・懋巴里は軽車都尉を賜与され、ニルを新設して統轄した。約蘭の孫・図爾寨は戦功により三等軽車都尉を叙爵され、子孫の碾転は二等軽車都尉を承襲。約蘭の孫・噶達渾は度々の戦功により二等男爵に陞叙、後に一等軽車都尉に降格、兵部尚書や都統兼佐領を務め、太子太保を追謚、子の噶爾漢が襲爵し、荆州将軍を務めた。子孫は恩賜による加増分を格下げされ、二等軽車都尉を承襲した。約蘭の孫・克普図は戦功により三等軽車都尉を恩賜され、子孫は雲騎尉を承襲。約蘭の孫・額貝は度々戦功をたて、薊州の戦いで殉死、騎都尉を追叙。約蘭の曾孫・瓜什哈は七品官を務め、雲南に出征して馬宝(呉将軍)と交戦し殉死、雲騎尉を追叙。約蘭の曾孫・瑚巴はジュンガルに出征し戦功をあげ、雲騎尉を追叙。その孫・色穆徳が襲爵し、色穆徳の弟・色貝はジュンガルに出征して殉死、雲騎尉を追叙。玄孫の古尔拝は三藩の乱でチャハル、湖広、雲南などに出征し、雲騎尉を叙爵。約蘭のほかの子孫は参領、佐領、歩軍副尉、護軍、護軍校、防御、員外郎、筆帖式、驍騎校、典儀、長史、歩軍校、鳴贊、同知、侍衛などを務めた。約蘭の子・達爾漢は副都統を務め、玄孫・額爾特は内閣侍読学士、法喀は副都統兼佐領を務めた。
p
4758982-94624452-49
4,758,982
94,624,452
49
ハダナラ氏
清代の主要な世家
正黄旗の夏瑚もまた蘇赫徳の玄孫で、ヌルハチ挙兵の最初期に18戸を引率れ帰順、ニルを新設し子・雅琥が統帥した。雅琥の長子・満達爾漢は武功により騎都尉に叙爵され、後、公主養育の功労で三等軽車都尉に陞叙、恩賜により二等軽車都尉に陞叙、礼部尚書兼佐領を務めた。第十子・阿哈丹が襲爵し、二度の恩賜を受けた後アモイで殉死、三等男に追叙、子孫は二等軽車都尉を承襲。満達爾漢の長子・諾穆斉は入関時の戦功により三等軽車都尉に叙爵、子孫が分襲した。満達爾漢の次子・鄂推は松山の戦で重傷を負い死亡、騎都尉を追叙、その子・察庫が襲爵し、駟院大臣、副都統を務めた。満達爾漢の第三子・塔晋泰は北京奠都時の功績で騎都尉に叙爵、恩賜を受け長年の功労により二等男爵に陞叙、内大臣を務めた。その孫の班岱が襲爵し、ジュンガル出征で戦功をあげ、一等男爵に陞叙、副都統を務めた。子孫は騎都尉兼一雲騎尉を承襲した。雅琥の第七子・福尔丹の長子・碩爾対は南明永暦帝捕縛の功で騎都尉兼一雲騎尉を承襲。雅琥のほかの子孫は侍衛、副都統、参領、佐領、護軍統領、冠軍使、歩軍校、筆帖式、主事、協領、驍騎校、牧長、治儀正、鴻臚寺卿などを務めた。満達爾漢の第五子・多謨克托は内大臣、都統、議政大臣、征逆将軍を務めた。七子の鄂内は内大臣、都統、議政大臣、征南将軍を務めた。満達爾漢の孫・鄂克済哈は議政大臣、振武将軍を務めた。雅琥の第八子・馬福塔は戸部尚書、内務府総管兼佐領、その長子・馬希納は吏部尚書、議政大臣兼佐領,次子・馬爾都は内閣学士、礼部侍郎兼佐領を務めた。
p
4758982-94624452-50
4,758,982
94,624,452
50
ハダナラ氏
清代の主要な世家
同地にはほかにも姓氏の同じ一族が存在するがハダベイレ一族との血縁関係について註釈がない。鑲黄旗の阿敦、彰実、正黄旗の達雅理、正白旗の哲爾徳、正藍旗の喀尼穆都珠瑚、鑲藍旗の都琥禅、明安などについては本人あるいは子孫が世職を下賜されている。達雅理の子・根特は度々戦功をあげ、バートルの称号を賜与され、一等軽車都尉を叙爵されている。また、明安は、ホイファの博爾済(鑲黄旗)、那木都魯の莽健(正白旗)、同じく那木都魯の満都瑚(鑲白旗)、吉林ウラの謨爾渾らは同族である。
p
4758984-94620057-0
4,758,984
94,620,057
0
CORONA CITRUS
__LEAD__
CORONA CITRUS(コロナ シトラス)は、川崎汽船が電源開発向けに運航する石炭運搬船である。
p
4758984-94620057-1
4,758,984
94,620,057
1
CORONA CITRUS
構造
川崎汽船では、1994年竣工の初代「CORONA ACE」以来、水深の浅い日本の石炭火力発電所への電力炭輸送に適した幅広浅喫水の石炭運搬船を「コロナシリーズ」として運航してきた。その23番目にあたる「CORONA CITRUS」は載貨重量88,000MT級のポスト・パナマックスと呼ばれる船型で、今治造船丸亀事業本部にて建造された。海洋生態系保護のためバラスト水処理装置を搭載し、2020年に世界の全海域で適用される硫黄酸化物排出規制に対応したSOxスクラバーを導入している。
p
4758984-94620057-2
4,758,984
94,620,057
2
CORONA CITRUS
構造
2023年3月23日、フランスのAIRSEAS社が開発した「Seawing」を同船に搭載することが発表された。気象データと海洋データをリアルタイムで収集・分析し、一定の風力・風向の条件下においてブリッジからのスイッチ操作で船首に搭載した凧を起動し推力を補助するものであり、展張・格納とも自動で行われる。この技術により約20%、1隻あたり年間5,200トンの二酸化炭素排出量削減が期待される。エアバスの部品運搬船ではすでに実用化されているが、日本の電力会社向けの石炭運搬船では初の採用となる。
p
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4,758,989
94,620,126
0
ヤエヤマノコギリハゼ
__LEAD__
ヤエヤマノコギリハゼ(八重山鋸鯊、Butis amboinensis)は、ノコギリハゼ科の淡水魚。マングローブ林の汽水域で、アダンの葉などにくっついていることが多い。
p
4758989-94620126-1
4,758,989
94,620,126
1
ヤエヤマノコギリハゼ
分布
石垣島や西表島、高知県、沖縄島、奄美大島、台湾、アンダマン諸島などの西・南太平洋、インド洋東部の河川河口域のマングローブ林や感潮域際上流域付近のアダンの茂みで生育が確認されている。日本国内では個体数が少ない。
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4,758,989
94,620,126
2
ヤエヤマノコギリハゼ
形態
全長は8~14cm。細長い体形で、頭は縦扁して鋭く尖っており、両眼間に眼に沿って走る1対の鋸歯列がある。尾柄が細長く、眼から尾柄にかけて黒色縦帯が現れる場合がある。胸鰭基部に2つ橙色斑がある。体表にぬめりがなく、触れるとかたい感触を受け、体色は暗褐色。腹鰭は2枚に分かれているため、「ハゼ」と名前にあるが、ハゼ科の魚ではない。
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4,758,989
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3
ヤエヤマノコギリハゼ
生態
河川汽水域の最上流部で淡水の影響が強いところ~感潮域最上流付近までを生息地とし、ヒルギ類の根、倒木の根、水没しているアダンの葉などがあるマングローブやアダンなどの植物帯を好み、このような植物の茎や枝や葉などの裏側に沿って、頭を下にして逆立ちした状態で静止している。あまり遊泳せず、動物食生。
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4,758,989
94,620,126
4
ヤエヤマノコギリハゼ
保全状況
絶滅危惧IA類に指定されている。
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4,758,989
94,620,126
5
ヤエヤマノコギリハゼ
保全状況
絶滅危惧IA類 (CR)(環境省レッドリスト)
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4,758,990
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0
齋藤和哉
__LEAD__
齋藤 和哉(さいとう かずや、1979年 - )は、日本の建築家。齋藤和哉建築設計事務所代表取締役。東北工業大学および東北芸術工科大学非常勤講師。
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4,758,992
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0
野村寅三郎
__LEAD__
野村 寅三郎 (のむら とらさぶろう、1902年11月30日 - 1985年1月22日)は、日本の交通経済学者。神戸大学名誉教授。元日本海運経済学会副会長。
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1
野村寅三郎
人物・経歴
京都市下京区四条通室町東入函谷鉾町生まれ。1921年京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)卒業。級友に新庄博神戸大学名誉教授がいた。1924年神戸高等商業学校(現神戸大学)本科第二学年修了。
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2
野村寅三郎
人物・経歴
1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身で、専門は交通論。同年同大学捕手。1928年中央気象台附属測候技術官養成所(現気象大学校)講師。1929年神戸商業大学助手。
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3
野村寅三郎
人物・経歴
1930年から文部省留学生として、ドイツやウィーン、イタリア、アメリカ合衆国に留学し、レオポルト・マイヤーに師事するなどした。1933年に龍田丸で日本に戻り、同年神戸商業大学助教授。1940年叙正六位。
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4
野村寅三郎
人物・経歴
太平洋戦争中は、東京商科大学東亜経済研究所(現一橋大学経済研究所)の赤松要らの南方調査に加わり、大佐相当官として、1942年から南方軍軍政総監部附。1945年神戸経済大学教授。1946年勲五等瑞宝章受章。1948年神戸経済大学経営学専門部長。
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5
野村寅三郎
人物・経歴
1949年初代神戸経済大学準硬式野球部部長。1950年海技専門学院(現海技大学校)教授併任。1953年神戸大学経営学部教授、神戸大学評議員、兵庫県建築業審議会委員、神戸船員地方労働委員会委員。1958年神戸大学経営学部長。1961年神戸大学評議員、商学博士。1962年日本港湾経済学会設立発起人。
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6
野村寅三郎
人物・経歴
1964年文部省学術奨励審議会専門委員。1966年定年退官、神戸大学名誉教授、名古屋学院大学経済学部教授。名古屋学院大学附属図書館長、日本海運経済学会副会長なども務めた。1973年勲三等旭日中綬章受章。1985年叙従三位。
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水野康孝
__LEAD__
水野 康孝(みずの やすたか、1896年3月3日 - 1987年3月11日)は、日本の大正から昭和時代に活動した作曲家、声楽家、音楽教育者。元岡山大学教育学部長。
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1
水野康孝
__LEAD__
現在の岡山市北区出身。医事評論家の水野肇は長男。
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2
水野康孝
来歴
1896年(明治29年)、岡山市(現在の北区)中山下に生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校本科声楽部を卒業し、同校の研究科に所属したが中退ののち大阪市立中大江東尋常小学校(大阪市立中大江小学校の前身校)に音楽専科教員として採用される。同年内に大阪音楽学校講師となり、1922年(大正11年)に楽劇「百合姫」へ出演。1923年(大正12年)に日東蓄音機(ニットーレコード)へ入社し、東京へ拠点を移すが関東大震災で被災し大阪へ戻る。以降、大阪中央放送局『国民歌謡』の歌唱指導、日本音楽コンクール審査員等の活動に従事した。
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3
水野康孝
来歴
1930年(昭和5年)に大阪音楽学校を退職し、大阪府女子専門学校教授および大阪市役所視学官を兼務。1947年(昭和22年)、広島女子高等師範学校を経て翌年より広島大学教育学部教授。1950年(昭和25年)、広島大学に籍を残したまま郷里の岡山大学教授に着任し、翌年より正式に岡山大学教育学部教授となり学部長に至る。
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94,620,841
4
水野康孝
来歴
1957年(昭和33年)、3代目の岡山県庁舎落成を記念して制定された県民歌「岡山県の歌」を作曲し、自らSP盤に歌唱を吹き込んだ。また、県庁舎の供用開始当日から1991年(平成3年)まで定時に演奏されていたチャイムの編曲も行っている。
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94,620,841
5
水野康孝
来歴
1960年、岡山県文化賞を受賞。1961年に岡山大学を退官して岡山県立短期大学の学長に就任し、1966年(昭和41年)まで務めた。同年に勲三等旭日中綬章を受章。
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4,758,997
94,620,841
6
水野康孝
来歴
晩年は竹久夢二の顕彰団体「郷土夢二の会」会長に就いていたが、1987年(昭和62年)3月11日に死去。享年92(満91歳没)。水野の作曲作品は日本音楽著作権協会(JASRAC)他の管理団体に権利を信託しておらず遺族が厳重に管理を行っているとされ、新規の録音・演奏等も一切許可しない方針が採られている。2005年(平成17年)開催の晴れの国おかやま国体開会式での県旗掲揚時には例外的に県民歌「岡山県の歌」の演奏が許可されたが、県のウェブサイトでは一切紹介されておらず県民手帳からも2010年代半ばに削除された。
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4,758,998
94,625,745
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砂押貴久
__LEAD__
砂押 貴久(すなおし たかひさ、1987年、東京都生まれ)は、日本のコミュニケーション・プランナー、実業家である。「エスモード トーキョー」「ここのがっこう」に進学し、ファッションを学んだ。その後、フリーのファッションジャーナリストとして「毎日新聞」や「livedoor」などで連載を行った。その後、「WWD JAPAN.com」のチーフプランナーとして、サイトリニューアルや広告メニューの立案のほか、ファッションやビューティーブランドを中心にタイアップのプランニングを手がける。2018年1月、株式会社STEKKEYを設立し、代表取締役に就任。キャンペーンの企画制作やコンサルティングを手がけるほか、新しいビジネスモデルの開発にも取り組む。
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94,625,745
1
砂押貴久
__LEAD__
また、自身が取材した人物やトピックについての記事を執筆することでも知られており、「Yahoo!ニュース」や「Forbes JAPAN web」等でも連載を行っている。
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桑島海空
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桑島 海空(くわじま みく、2004年7月1日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル。seju所属。
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1
桑島海空
概要
2022年11月28日発売の『週刊ヤングマガジン』52号でグラビアアイドルデビューし、ショートカットの美女として注目を集める。後日「ヤンマガWeb」にて公開されたオフショットは、同サイトの歴代最高PVを記録した。 翌2023年には、3月27日発売の『週刊ヤングマガジン』17号の表紙・巻頭グラビアに登場。高校生としてラストとなるグラビアであった。
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東田第一高炉史跡広場
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東田第一高炉史跡広場(ひがしだだいいちこうろしせきひろば)は、福岡県北九州市八幡東区にある公園。
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1
東田第一高炉史跡広場
概要
1901年に操業を開始した官営八幡製鉄所の第一高炉一帯を公園として整備したもの。1962年の火入れから1972年まで使用された第10次改修高炉が保存されており、内部の見学が可能。そのほか敷地内には高炉の歴史を紹介したパネル、転炉、トーピードカーなども展示している。
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4,759,017
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東田第一高炉史跡広場
概要
なお、「東田第一高炉跡」は1996年に北九州市の史跡に指定されている。
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ゴスペル・オブ・ホイットニー・ヒューストン
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『ゴスペル・オブ・ホイットニー・ヒューストン』(原題:I Go to the Rock: The Gospel Music of Whitney Houston)は、2023年にリリースのホイットニー・ヒューストンのベスト・アルバム。発売元はアリスタ・レコードおよびレガシー・レコーディングス。
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4759019-94621829-1
4,759,019
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1
ゴスペル・オブ・ホイットニー・ヒューストン
解説
ホイットニーがこれまでに歌ってきたゴスペルミュージックに焦点を置いて選曲、内6曲はライヴ音源などこれまで未発表のもの。
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4,759,024
94,621,776
0
キブンパルク
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キブンパルク(Kybunpark)は、スイス・ザンクト・ガレンにある多目的スタジアム。FCザンクト・ガレンがホームスタジアムとして使用している。
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1
キブンパルク
__LEAD__
スタジアム1階にはショッピングセンター、スタジアム東側にはIKEAのザンクト・ガレン店が隣接している複合型スポーツ施設でもある。
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4759024-94621776-2
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94,621,776
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キブンパルク
概要
2005年9月14日、約10年に渡る長期間の構想を重ねて起工されたスタジアム。18,861人収容となっているスタジアムではあるが、国際試合では立ち見席が禁止されるため、17,371人収容となる。
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94,621,776
3
キブンパルク
概要
こけら落としは2008年5月30日のサッカースイス代表対サッカーリヒテンシュタイン代表の親善試合で行われ、スイス代表が3-0で快勝した。それから約2ヶ月後の7月6日に正式に落成式が執り行われ、FCザンクト・ガレンのOBを招いての親善試合やセレモニーなどが披露された。
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4759024-94621776-4
4,759,024
94,621,776
4
キブンパルク
概要
2008年の開場以来FCザンクト・ガレンがホームスタジアムとして試合を行なっているが、2012-13シーズンは改修工事のためシュタディオン・ベルグホルツ(ドイツ語版)から仮の移転先を探していたFCヴィル1900へ1シーズンのみ使用許可を出した。
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4759024-94621776-5
4,759,024
94,621,776
5
キブンパルク
概要
スタジアム名のキブンパルクは、2016年5月にスタジアムの命名権を購入したトゥールガウ州に本社を置き、医療支援事業を行うKybun AG社によって命名された。それまではAFCアレーナ (AFC Arena)と呼ばれていた。
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4759024-94621776-6
4,759,024
94,621,776
6
キブンパルク
開催された主な試合・イベント
スイス代表の他スペイン代表やブラジル代表の国際Aマッチも開催された。
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4759027-94621878-0
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94,621,878
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大神宮 (桜川市)
__LEAD__
大神宮(大神宮)は、茨城県桜川市岩瀬(西区)に所在する神社である。
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4759027-94621878-1
4,759,027
94,621,878
1
大神宮 (桜川市)
概要
この大神宮は西新田村の村社となっている。境内社として八坂神社が祀られている。
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4759029-94622080-0
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94,622,080
0
マリー・フォン・ナッサウ
__LEAD__
マリー・フォン・ナッサウ(Marie von Massau, 1825年11月29日 - 1902年3月24日)は、第4代ヴィート侯ヘルマンの妃。ルーマニア王妃エリサベタの母。
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4759029-94622080-1
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94,622,080
1
マリー・フォン・ナッサウ
生涯
マリーはナッサウ公ヴィルヘルムとその最初の妃ルイーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼンの第8子、四女としてビープリヒで生まれた。姉にテレーゼ、兄にルクセンブルク大公アドルフがいる。また、スウェーデン=ノルウェー王妃ゾフィアは異母妹である。
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4759029-94622080-2
4,759,029
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マリー・フォン・ナッサウ
生涯
1842年6月20日にビープリヒにおいて、ヴィート侯ヘルマンと結婚した。2人の間には以下の3子が生まれた。
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マリー・フォン・ナッサウ
生涯
ドイツの作家マリー・フォン・ブンゼン(1860年 - 1941年)によると、マリーはバーデンの政治家フランツ・フォン・ロッゲンバッハ(1825年 - 1907年)と関係があったとされ、夫の死後、結婚した可能性もあるという。
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4759030-94622178-0
4,759,030
94,622,178
0
ノー・リーズン
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「ノー・リーズン」(No Reason)は、ケミカル・ブラザーズが2023年3月17日にリリースしたシングル。
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4759030-94622178-1
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1
ノー・リーズン
概要
前作「ザ・ダークネス・ザット・ユー・フィアー」以来2年ぶりとなるシングル。セカンド・レイヤーの楽曲「コーツ・オア・ウォーズ」のヴォーカル・サンプリングが含まれている。
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4,759,032
94,624,009
0
ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
__LEAD__
『ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像』(蘭: Portret van Jacques de Gheyn III, 英: Portrait of Jacob de Gheyn III)は、オランダ黄金時代の巨匠レンブラント・ファン・レインが1632年に制作した肖像画である。油彩。モデルは版画家として知られるヤーコブ・デ・ヘイン3世(英語版)である。高さ29.9センチ、横幅24.9というわずかなサイズはレンブラントのほとんどの作品よりも小さい。過去に何度も盗難に遭っているがその一因は肖像画の大きさにある。現在はダリッジ(英語版)のダリッジ・ピクチャー・ギャラリーに所蔵されている。
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4759032-94624009-1
4,759,032
94,624,009
1
ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
人物
ヤーコブ・デ・ヘインは芸術家の家系に生まれた。彼の祖父はステンドグラス画家・細密画家であり、彼と同じ名前の父ヤーコブ・デ・ヘイン2世(英語版)は版画家であった。デ・ヘインは1614年までにデン・ハーグで版画家として働き、素描や少数の絵画も制作した。デン・ハーグ評議会の書記官であったマウリッツ・ホイヘンス(Maurits Huygens)とは友人であった。1618年、彼はホイヘンスの弟の詩人・作曲家コンスタンティン・ホイヘンス(英語版)ととともにロンドンを旅行し、1620年に祖父とスウェーデンを旅行している。また彼はレンブラントと懇意の間柄であり、レンブラントの絵画をいくつか所有していた。1632年にホイヘンスとともにレンブラントに肖像画を依頼した後、1634年にユトレヒトに定住した。デ・ヘインはマリア教会の聖堂参事会会員となり、1641年にユトレヒトで死去した。
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4759032-94624009-2
4,759,032
94,624,009
2
ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
作品
注文に関する文書は残されていないが、ヤーコブ・デ・ヘインは友人のマウリッツ・ホイヘンスとともに、2人の肖像画を制作するよう依頼したようである。両作品の裏面の碑文が証言しているように、両者は先に死んだ方が所有している肖像画をもう一方に遺贈することに同意していた。どちらの肖像画もほぼ同じ大きさである(ホイヘンスの肖像画のほうがわずかに大きい)。レンブラントがこのような小さな画面で肖像画を描くのは異例のことだが、そのサイズは注文主の友好的な関係を表すことに適していた。
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4759032-94624009-3
4,759,032
94,624,009
3
ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
作品
2点の肖像画は厳密には対作品ではないとはいえ、レンブラントは同じ形式で制作しており、画面のサイズと構図はおたがいに補完し合うように描かれている。すなわちデ・ヘインの肖像画が向かい合って右側の位置を占め、左を向いているのに対し、ホイヘンスの肖像画は左側の位置を占め、右を向いて描かれている。
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4759032-94624009-4
4,759,032
94,624,009
4
ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
作品
レンブラントはシンプルで直接的かつ正面的な構図に光と質感の表現を与えることで命を吹き込んでいる。レンブラントはデ・ヘインに強い光を当てているが、その光はデ・ヘインの左頬の細部を失わせるほどである。しかしそれによって薄暗い背景からデ・ヘインの姿を浮かび上がらせており、その様子はまるでデ・ヘインの周囲を彼の生命力の輝きが取り囲んでいるかのようである。デ・ヘインの顔は様々な筆遣いで柔らかく形作られており、灰色と茶色を繊細に混ぜ合わせて口ひげを塗っているのとは対照的に、強い光に照らされた頬をクリーム色とピンクで比較的大胆に塗っている。さらに塗装面にエッチングすることで右眼の周りのしわを表現している。
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4759032-94624009-5
4,759,032
94,624,009
5
ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
作品
年輪年代学の研究により、レンブラントも同じ年に現在ハンブルク美術館に所蔵されている『マウリッツ・ホイヘンスの肖像』と同じ木材で板絵の『自画像』を制作したことが判明している。
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4,759,032
94,624,009
6
ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
来歴
完成した2点の肖像画はそれぞれの邸宅で別々に飾られた。1641年に先に死去したのはデ・ヘインであり、彼の所有する肖像画は死後ホイヘンスに遺贈された。しかしホイヘンスもそれから1年も経たない翌1642年に死去し、弟のコンスタンティンは深く悲嘆に暮れたため長い間執筆をやめてしまった。ちなみにコンスタンティンは詩の中で肖像画がデ・ヘインとほとんど似ていないと批判している。
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4759032-94624009-7
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94,624,009
7
ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
来歴
その後、ホイヘンス家が肖像画を手放した時期についてはよく分かっていない。マウリッツ・ホイヘンスの死から100年以上経た1764年には、肖像画はユトレヒトの美術収集家アラード・ルドルフ・ファン・ワイ(Allard Rudolph van Waay)のコレクションに含まれており、ホイヘンス家に由来する作品として売却されている。その後の来歴も不透明であるが、確かなことはパリの宝石商アンジュ・ジョゼフ・オベール(Ange-Joseph Aubert)のコレクションとなっていた肖像画は、所有者の死後の1786年の競売で売却されたことである。このときモナコ大公が肖像画を購入したという記録が残されているが、早くもその数か月後にはフランス出身の美術商・美術収集家ノエル・デゼンファン(英語版)によって売却されている。デゼンファンは共同経営者の風景画家フランシス・ブルジョワ(英語版)とともに、ダリッジ・ピクチャー・ギャラリーの基礎を築いた人物である。その後、肖像画はライデン男爵ピーテル・コルネリス(Pieter Cornelis baron van Leyden)の手に渡ったようである。デゼンファンは自身のコレクションを販売する習慣があり、一部の研究者は1786年に肖像画を売却して、1804年にピーテル・コルネリスのコレクションが売却された際に買い戻したと考えている。ただしレンブラント研究プロジェクト(英語版)は1786年に売却された作品は『マウリッツ・ホイヘンスの肖像』だけであり、本作品はデゼンファンの手元に残されたとしている。いずれにせよ、1807年の時点で本作品はデゼンファンのコレクションに含まれており、1811年にデゼンファンが死去すると、他のコレクションとともにフランシス・ブルジョワに遺贈された。同年、フランシス・ブルジョワはデゼンファンのコレクションをダリッジ・カレッジに寄贈し、ダリッジ・ピクチャー・ギャラリーの創設とともに同美術館に収蔵された。
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4759032-94624009-8
4,759,032
94,624,009
8
ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
盗難
本作品は1966年以来、どの絵画作品よりも多い4度もの盗難に遭遇しているため、「お持ち帰りのできるレンブラント」(takeaway Rembrandt)というニックネームで呼ばれている。
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ヤーコブ・デ・ヘイン3世の肖像
盗難
1981年8月14日から1981年9月3日にかけて、肖像画はダリッジ・ピクチャー・ギャラリーから持ち出され、絵画を持ったままタクシーに乗っていた4人の男たちが警察に逮捕された際に回収された。それから約2年弱後、窃盗犯が天窓を壊してそこから美術館に侵入し、バールを使って壁から肖像画を取り外した。警察は3分以内に到着したが窃盗犯を逮捕するには遅すぎた 。肖像画は3年間行方不明だったが、1986年10月8日、ドイツのミュンスターにあるイギリス陸軍駐屯地の鉄道駅の荷物棚で発見された。
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