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201 | 11 | 88,871,170 | 幕末には義門が『活語指南』(1844年)を著し、これで日本語の活用は、全貌がほぼ明らかになった。このほか、江戸時代で注目すべき研究としては、石塚龍麿の『仮字用格奥山路(かなづかいおくのやまみち)』がある。万葉集の仮名に2種の書き分けが存在することを示したものであったが、長らく正当な扱いを受けなかった。後に橋本進吉が上代特殊仮名遣いの先駆的研究として再評価した。江戸時代後期から明治時代にかけて、西洋の言語学が紹介され、日本語研究は新たな段階を迎えた。もっとも、西洋の言語に当てはまる理論を無批判に日本語に応用することで、かえってこれまでの蓄積を損なうような研究も少なくなかった。こうした中で、古来の日本語研究と西洋言語学とを吟味して文法をまとめたのが大槻文彦であった。 | 歴史 | 日本語 |
202 | 11 | 88,871,170 | 大槻は、日本語辞書『言海』の中で文法論「語法指南」を記し(1889年)、後にこれを独立、増補して『広日本文典』(1897年)とした。その後、高等教育の普及とともに、日本語研究者の数は増大した。東京帝国大学には国語研究室が置かれ(1897年)、ドイツ帰りの上田万年が初代主任教授として指導的役割を果たした。以下、第二次世界大戦後に至るまで、重要な役割を果たした主な日本語学者を挙げる。近代以降、台湾や朝鮮半島などを併合・統治した日本は、現地民の台湾人・朝鮮民族への皇民化政策を推進するため、学校教育で日本語を国語として採用した。満州国(現在の中国東北部)にも日本人が数多く移住した結果、日本語が広く使用され、また、日本語は中国語とともに公用語とされた。日本語を解さない主に漢民族や満州族には簡易的な日本語である協和語が用いられていたこともあった。 | 歴史 | 日本語 |
203 | 11 | 88,871,170 | 現在の台湾(中華民国)や朝鮮半島(北朝鮮・韓国)などでは、現在でも高齢者の中に日本語を解する人もいる。一方、明治・大正から昭和戦前期にかけて、日本人がアメリカ・カナダ・メキシコ・ブラジル・ペルーなどに多数移民し、日系人社会が築かれた。これらの地域コミュニティでは日本語が使用されたが、世代が若年になるにしたがって、日本語を解さない人が増えている。1990年代以降、日本国外から日本への渡航者数が増加し、かつまた、日本企業で勤務する外国人労働者(日本の外国人)も飛躍的に増大しているため、国内外に日本語教育が広がっている。国・地域によっては、日本語を第2外国語など選択教科の一つとしている国もあり、日本国外で日本語が学習される機会は増えつつある。 | 歴史 | 日本語 |
204 | 11 | 88,871,170 | とりわけ、1990年代以降、「クールジャパン」といわれるように日本国外でアニメーションやゲーム、小説、ライトノベル、映画、テレビドラマ、J-POP(邦楽)に代表される音楽、漫画などに代表させる日本の現代サブカルチャーを「カッコいい」と感じる若者が増え、その結果、彼らの日本語に触れる機会が増えつつあるという。2021年9月に、単語検索ツールWordtipsが世界各国で語学学習をするに当たり、どの言語が最も人気があるかをGoogleキーワードプランナーを利用し調査したところ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった英語圏を中心に、日本語が最も学びたい言語に選ばれた。日本人が訪問することの多い日本国外の観光地などでは、現地の広告や商業施設店舗の従業員との会話に日本語が使用されることもある。 | 歴史 | 日本語 |
205 | 11 | 88,871,170 | このような場で目に触れる日本語のうち、新奇で注意を引く例は、雑誌・書籍などで紹介されることも多い。 | 歴史 | 日本語 |
206 | 11 | 88,871,170 | 日本語が時と共に変化することは、しばしば批判の対象となる。この種の批判は、『枕草子』や『徒然草』などの古典文学の中にも見られる。また、歴史上、言語変化について注意する記述は、仮名遣い書や、『俊頼髄脳』などの歌論書、『音曲玉淵集』などの音曲指南書をはじめ、諸種の資料に見られる。なかでも、江戸時代の俳人安原貞室が、なまった言葉の批正を目的に編んだ『片言(かたこと)』(1650年)は、800にわたる項目を取り上げており、当時の言語実態を示す資料として価値が高い。近代以降も、芥川龍之介が「澄江堂雑記」で、「とても」は従来否定を伴っていたとして、「とても安い」など肯定形になることに疑問を呈するなど、言語変化についての指摘が散見する。研究者の立場から同時代の気になる言葉を収集した例としては、浅野信『巷間の言語省察』(1933年)などがある。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
207 | 11 | 88,871,170 | 第二次世界大戦後は、1951年に雑誌『言語生活』(当初は国立国語研究所が監修)が創刊されるなど、日本語への関心が高まった。そのような風潮の中で、多くの人々により言語変化に対する批判や擁護が活発に交わされるようになった。典型的な議論の例としては、金田一春彦「日本語は乱れていない」および宇野義方の反論が挙げられる。「日本語の乱れ」論議において、話題になりやすい言葉もある。1955年の国立国語研究所の有識者調査の項目には「ニッポン・ニホン(日本)」「ジッセン・ジュッセン(十銭)」「見られなかった・見れなかった」「御研究されました・御研究になりました」など、今日でもしばしば取り上げられる語形・語法が多く含まれている。とりわけ「見られる」を「見れる」とする語法は、1979年のNHK放送文化研究所「現代人の言語環境調査」で可否の意見が二分するなど、人々の言語習慣の違いを如実に示す典型例となっている。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
208 | 11 | 88,871,170 | この語法は1980年代には「ら抜き言葉」と称され、盛んに取り上げられるようになった。「言葉の乱れ」を指摘する声は、新聞・雑誌の投書にも多い。文化庁の「国語に関する世論調査」では、「言葉遣いが乱れている」と考える人が1977年に7割近くになり、2002年11月から12月の調査では8割となっている。若者特有の用法は批判の的となってきた。例えば、小説家・尾崎紅葉が1888年に女性徒の間で流行していた「てよだわ体」を批判するなど、1900年前後に「てよだわ体」は批判の的となった。 1980年代ごろから単なる言葉の乱れとしてではなく、研究者の記述の対象としても扱われるようにもなった。体系化を試みる本格的な著作としては米川明彦『若者語を科学する』(1998)などがある。いわゆる「若者言葉」は種々の意味で用いられ、必ずしも定義は一定していない。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
209 | 11 | 88,871,170 | 井上史雄の分類に即して述べると、若者言葉と称されるものは以下のように分類される。上記は、いずれも批判にさらされうるという点では同様であるが、1 - 4の順で、次第に言葉の定着率は高くなるため、それだけ「言葉の乱れ」の例として意識されやすくなる。上記の分類のうち「一時的流行語」ないし「若者世代語」に相当する言葉の発生要因に関し、米川明彦は心理・社会・歴史の面に分けて指摘している。その指摘は、およそ以下のように総合できる。すなわち、成長期にある若者は、自己や他者への興味が強まるだけでなく、従来の言葉の規範からの自由を求める。日本経済の成熟とともに「まじめ」という価値観が崩壊し、若者が「ノリ」によって会話するようになった。とりわけ、1990年代以降は「ノリ」を楽しむ世代が低年齢化し、消費・娯楽社会の産物として若者言葉が生産されているというものである。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
210 | 11 | 88,871,170 | また、2007年頃からマスメディアが「場の空気」の文化を取り上げるようになってきてから、言葉で伝えるより、察し合って心を通わせることを重んじる者が増えた。これに対し、文化庁は、空気読めない (KY) と言われることを恐れ、場の空気に合わせようとする風潮の現れではないかと指摘している。若者の日本語は、表記の面でも独自性を持つ。年代によりさまざまな日本語の表記が行われている。1970年代から1980年代にかけて、少女の間で、丸みを帯びた書き文字が「かわいい」と意識されて流行し、「丸文字」「まんが文字」「変体少女文字(=書体の変わった少女文字の意)」などと呼ばれた。山根一眞の調査によれば、この文字は1974年までには誕生し、1978年に急激に普及を開始したという。1990年頃から、丸文字に代わり、少女の間で、金釘流に似た縦長の書き文字が流行し始めた。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
211 | 11 | 88,871,170 | 平仮名の「に」を「レこ」のように書いたり、長音符の「ー」を「→」と書いたりする特徴があった。一見下手に見えるため、「長体ヘタウマ文字」などとも呼ばれた。マスコミでは「チョベリバ世代が楽しむヘタウマ文字」「女高生に広まる変なとんがり文字」などと紹介されたが、必ずしも大人世代の話題にはならないまま、確実に広まった。この文字を練習するための本も出版された。携帯メールやインターネットの普及に伴い、ギャルと呼ばれる少女たちを中心に、デジタル文字の表記に独特の文字や記号を用いるようになった。「さようなら」を「±∋ぅTょら」と書く類で、「ギャル文字」としてマスコミにも取り上げられた。このギャル文字を練習するための本も現れた。コンピュータの普及と、コンピュータを使用したパソコン通信などの始まりにより、日本語の約物に似た扱いとして顔文字が用いられるようになった。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
212 | 11 | 88,871,170 | これは、コンピュータの文字としてコミュニケーションを行うときに、文章の後や単独で記号などを組み合わせた「(^_^)」のような顔文字を入れることにより感情などを表現する手法である。1980年代後半に使用が開始された顔文字は、若者へのコンピュータの普及により広く使用されるようになった。携帯電話に絵文字が実装されたことにより、絵文字文化と呼ばれるさまざまな絵文字を利用したコミュニケーションが行われるようになった。漢字や仮名と同じように日本語の文字として扱われ、約物のような利用方法にとどまらず、単語や文章の置き換えとしても用いられるようになった。すでに普及した顔文字や絵文字に加え、2006年頃には「小文字」と称される独特の表記法が登場した。「ゎたしゎ、きょぅゎ部活がなぃの」のように特定文字を小字で表記するもので、マスコミでも紹介されるようになった。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
213 | 11 | 88,871,170 | 人々の日本語に寄せる関心は、第二次世界大戦後に特に顕著になったといえる。1947年10月からNHKラジオで「ことばの研究室」が始まり、1951年には雑誌『言語生活』が創刊された。日本語関係書籍の出版点数も増大した。敬語をテーマとした本の場合、1960年代以前は解説書5点、実用書2点であったものが、1970年代から1994年の25年間に解説書約10点、実用書約40点が出たという。戦後、最初の日本語ブームが起こったのは1957年のことで、金田一春彦『日本語』(岩波新書、旧版)が77万部、大野晋『日本語の起源』(岩波新書、旧版)が36万部出版された。1974年には丸谷才一『日本語のために』(新潮社)が50万部、大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書)が50万部出版された。その後、1999年の大野晋『日本語練習帳』(岩波新書)は190万部を超えるベストセラーとなった(2008年時点)。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
214 | 11 | 88,871,170 | さらに、2001年に齋藤孝『声に出して読みたい日本語』(草思社)が140万部出版された頃から、出版界では空前の日本語ブームという状況になり、おびただしい種類と数の一般向けの日本語関係書籍が出た。2004年には北原保雄編『問題な日本語』(大修館書店)が、当時よく問題にされた語彙・語法を一般向けに説明した。翌2005年から2006年にかけては、テレビでも日本語をテーマとした番組が多く放送され、大半の番組で日本語学者がコメンテーターや監修に迎えられた。「タモリのジャポニカロゴス」(フジテレビ 2005〜2008)、「クイズ!日本語王」(TBS 2005〜2006)、「三宅式こくごドリル」(テレビ東京 2005〜2006)、「Matthew's Best Hit TV+・なまり亭」(テレビ朝日2005〜2006。方言を扱う)、「合格! | 日本語話者の意識 | 日本語 |
215 | 11 | 88,871,170 | 日本語ボーダーライン」(テレビ朝日 2005)、「ことばおじさんのナットク日本語塾」(NHK 2006〜2010)など種々の番組があった。「複雑な表記体系」「SOV構造」「音節文字」「敬語」「男言葉と女言葉」「擬態語が豊富」「曖昧表現が多い」「母音の数が少ない」などを根拠に日本語特殊論がとなえられることがある。もっとも、日本語が印欧語との相違点を多く持つことは事実である。そのため、対照言語学の上では、印欧語とのよい比較対象となる。また、日本語成立由来という観点からの研究も存在する(『日本語の起源』を参照)。日本語特殊論は、近代以降しばしば提起されている。極端な例ではあるが、戦後、志賀直哉が「日本の国語程、不完全で不便なものはないと思ふ」として、フランス語を国語に採用することを主張した(国語外国語化論)。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
216 | 11 | 88,871,170 | また、1988年には、国立国語研究所所長・野元菊雄が、外国人への日本語教育のため、文法を単純化した「簡約日本語」の必要性を説き、論議を呼んだ。動詞が最後に来ることを理由に日本語を曖昧、不合理と断ずる議論もある。例えばかつてジャーナリスト森恭三は、日本語の語順では「思想を表現するのに一番大切な動詞は、文章の最後にくる」ため、文末の動詞の部分に行くまでに疲れて、「もはや動詞〔部分で〕の議論などはできない」と記している。複雑な文字体系を理由に、日本語を特殊とする議論もある。計算機科学者の村島定行は、古くから日本人が文字文化に親しみ、庶民階級の識字率も比較的高水準であったのは、日本語は表意文字(漢字)と表音文字(仮名)の2つの文字体系を使用していたからだと主張する。ただし、表意・表音文字の二重使用は、他に漢字文化圏では韓文漢字や女真文字など、漢字文化圏以外でもマヤ文字やヒエログリフなどの例がある。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
217 | 11 | 88,871,170 | 一方で、カナモジカイのように、数種類の文字体系を使い分けることの不便さを主張する意見も存在する。日本語における語順や音韻論、もしくは表記体系などを取り上げて、それらを日本人の文化や思想的背景と関連付け、日本語の特殊性を論じる例は多い。しかし、大体においてそれらの説は、手近な英語や中国語などの言語との差異を牧歌的に列挙するにとどまり、言語学的根拠に乏しいものが多い(サピア=ウォーフの仮説も参照)。一方、近年では日本文化の特殊性を論する文脈であっても、出来るだけ多くの文化圏を俯瞰し、総合的な視点に立った主張が多く見られるという。日本語を劣等もしくは難解、非合理的とする考え方の背景として、近代化の過程で広まった欧米中心主義があると指摘される。戦後は、消極的な見方ばかりでなく、「日本語は個性的である」と積極的に評価する見方も多くなった。その変化の時期はおよそ1980年代であるという。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
218 | 11 | 88,871,170 | いずれにしても、日本語は特殊であるとの前提に立っている点で両者の見方は共通する。日本語特殊論は日本国外でも論じられる。E. ライシャワーによれば、日本語の知識が乏しいまま、日本語は明晰でも論理的でもないと不満を漏らす外国人は多いという。ライシャワー自身はこれに反論し、あらゆる言語には曖昧・不明晰になる余地があり、日本語も同様だが、簡潔・明晰・論理的に述べることを阻む要素は日本語にないという。共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しいとされ、学習に関わる様々なジョークが存在するバスク語について、フランスのバイヨンヌにあるバスク博物館では、「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と挿絵入りの歴史が描かれているものが飾られている。これは同じく印欧系言語話者からみて習得の難しいバスク語と日本語を重ね合わせているとされる。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
219 | 11 | 88,871,170 | 今日の言語学において、日本語が特殊であるという見方自体が否定的である。例えば、日本語に5母音しかないことが特殊だと言われることがあるが、クラザーズの研究によれば、209の言語のうち、日本語のように5母音を持つ言語は55あり、類型として最も多いという。また語順に関しては、日本語のように SOV構造を採る言語が約45%であって最も多いのに対して、英語のようにSVO構造を採る言語は30%強である(ウルタン、スティール、グリーンバーグらの調査結果より)。この点から、日本語はごく普通の言語であるという結論が導かれるとされる。また言語学者の角田太作は語順を含め19の特徴について130の言語を比較し、「日本語は特殊な言語ではない。しかし、英語は特殊な言語だ」と結論している。村山七郎は、「外国語を知ることが少ないほど日本語の特色が多くなる」という「反比例法則」を主張したという。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
220 | 11 | 88,871,170 | 日本人自らが日本語を特殊と考える原因としては、身近な他言語(英語など)が少ないことも挙げられる。 | 日本語話者の意識 | 日本語 |
221 | 11 | 88,871,170 | 日本では古く漢籍を読むための辞書が多く編纂された。国内における辞書編纂の記録としては、天武11年(682年)の『新字』44巻が最古であるが(『日本書紀』)、伝本はおろか逸文すらも存在しないため、書名から漢字字書の類であろうと推測される以外は、いかなる内容の辞書であったかも不明である。奈良時代には『楊氏漢語抄』や『弁色立成(べんしきりゅうじょう)』という辞書が編纂された。それぞれ逸文として残るのみであるが、和訓を有する漢和辞書であったらしい。現存する最古の辞書は空海編と伝えられる『篆隷万象名義』(9世紀)であるが、中国の『玉篇』を模した部首配列の漢字字書であり、和訓は一切ない。10世紀初頭に編纂された『新撰字鏡』は伝本が存する最古の漢和辞書であり、漢字を部首配列した上で、和訓を万葉仮名で記している。 | 辞書 | 日本語 |
222 | 11 | 88,871,170 | 平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』は、意味で分類した漢語におおむね和訳を万葉仮名で付したもので、漢和辞書ではあるが百科辞書的色彩が強い。院政期には過去の漢和辞書の集大成とも言える『類聚名義抄』が編纂された。同書の和訓に付された豊富な声点により院政期のアクセント体系はほぼ解明されている。鎌倉時代には百科辞書『二中歴』や詩作のための実用的韻書『平他字類抄』、語源辞書ともいうべき『塵袋』や『名語記(みょうごき)』なども編まれるようになった。室町時代には、読み書きが広い階層へ普及し始めたことを背景に、漢詩を作るための韻書『聚分韻略』、漢和辞書『倭玉篇(わごくへん)』、和訳に通俗語も含めた国語辞書『下学集』、日常語の単語をいろは順に並べた通俗的百科辞書『節用集』などの辞書が編まれた。安土桃山時代最末期には、イエズス会のキリスト教宣教師によって、日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』が作成された。 | 辞書 | 日本語 |
223 | 11 | 88,871,170 | 江戸時代には、室町期の『節用集』を元にして多数の辞書が編集・刊行された。易林本『節用集』『書言字考節用集』などが主なものである。そのほか、俳諧用語辞書を含む『世話尽』、語源辞書『日本釈名』、俗語辞書『志布可起(しぶがき)』、枕詞辞書『冠辞考』なども編纂された。明治時代に入り、1889年から大槻文彦編の小型辞書『言海』が刊行された。これは、古典語・日常語を網羅し、五十音順に見出しを並べて、品詞・漢字表記・語釈を付した初の近代的な日本語辞書であった。『言海』は、後の辞書の模範的存在となり、後に増補版の『大言海』も刊行された。その後、広く使われた小型の日本語辞書としては、金沢庄三郎編『辞林』、新村出編『辞苑』などがある。第二次世界大戦中から戦後にかけては金田一京助編(見坊豪紀執筆)『明解国語辞典』がよく用いられ、今日の『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』に引き継がれている。 | 辞書 | 日本語 |
224 | 11 | 88,871,170 | 中型辞書としては、第二次世界大戦前は『大言海』のほか松井簡治・上田万年編『大日本国語辞典』などが、戦後は新村出編『広辞苑』などが広く受け入れられている。現在では林大編『言泉』、松村明編『大辞林』をはじめ、数種の中型辞書が加わっている他、唯一にして最大の大型辞書『日本国語大辞典』(約50万語)がある。 | 辞書 | 日本語 |
225 | 12 | 86,673,772 | 地理学(ちりがく、英: geography、仏: géographie、伊:geografia、独: Geographie (-fie) または Erdkunde)は、空間ならびに自然と、経済・社会・文化等との関係を対象とする学問の分野。地域や空間、場所、自然環境という物理的存在を対象の中に含むことから、人文科学、社会科学、自然科学のいずれの性格も有する。広範な領域を網羅する。また「地理学と哲学は諸科学の母」と称される。元来は農耕や戦争、統治のため、各地の情報を調査しまとめるための研究領域として成立した。 | __LEAD__ | 地理学 |
226 | 12 | 86,673,772 | 地理学誕生の地は、古代ギリシアである。学問としては、博物学の部門に属した。その源流は、各地の様子を記載する地誌学的なものと、気候や海洋について研究する地球科学的なものとに見ることができる。中世では停滞していたものの、ルネサンス期における地誌の拡大や、18世紀以降、産業革命後の自然科学の発達と観測機器の発達は近代地理学の成立へと導いた。現在見ることのできる科学的な地理学の源流は19世紀初頭のドイツでおこり、アレクサンダー・フォン・フンボルトとカール・リッターにより成立した。彼らは「近代地理学の父」とされている。彼らは地誌的な記述ばかりではなく、様々な地理的な現象に内的連関を認め、地理学においてその解明の重要性を説いた。19世紀後半には、地理学者らによって各種系統地理学が整備され、日本など世界各国に地理学が移入された。 | 地理学の歴史 | 地理学 |
227 | 12 | 86,673,772 | 1950年以降、アメリカ合衆国が中心になってコンピュータや統計データなどを用いて、計量的な地理学が世界中に急速に普及したが、1970年代後半以降、この様な研究は他の分野との競争に敗れ、北米を中心に一旦は衰退したが、地理情報システム (GIS) や地球環境に関連した応用的な研究が盛んになった。 | 地理学の歴史 | 地理学 |
228 | 12 | 86,673,772 | 地理学は、大きく系統地理学と地誌学に分類され、系統地理学はさらに自然地理学と人文地理学に分けられ、それぞれがまた細かく分類される。ただし、自然地理学の諸分野は地球科学の影響を受け、その中でも時に生態学や気象学、地質学などと連携されることが多い。人文地理学は歴史学・社会学・経済学などの近隣分野の影響を受け、それらの知識ならびに隣接分野の理論の十分な理解が要求される学問である。また、自然地理学・人文地理学ともに現地調査(フィールドワーク)やエクスカーション(巡検とも呼ぶ)を実施し、実地調査に基づく観察を重視する傾向があるのが特徴である。自然地理学に該当するもの。ほとんどの場合、これらの学問成果をあげるには、現地調査(フィールドワーク)が要求される。いずれの場合も、学問上で厳格な線引きは存在せず、例えば気候地形学のような自然地理学の中でも分野のまたがった研究も往々にされている。 | 地理学の諸分野 | 地理学 |
229 | 12 | 86,673,772 | 人文地理学に該当するもの。これらもほとんどの場合、学問成果をあげるには、現地調査(フィールドワーク)が要求される。いずれの場合も、学問上で完全に独立しているわけではなく、例えば都市地理学と経済地理学の複合分野を研究対象にするということも可能である。他分野においても、生物学の生物地理学など地理学という名をもつ学問がある。地誌学(地域地理学)は、ある特定された地域内における地理学的事象を自然地理・人文地理両方の見地から研究する学問である。自然地理・人文地理にかかわらず、実際に研究する際は、具体的な地域を選定しなくてはならないため、ひとつの専門分野というよりは地理学の共通基礎部分と認識されている。文学や国際関係学方面の地域研究(学)との共通点もある。 | 地理学の諸分野 | 地理学 |
230 | 12 | 86,673,772 | 地理学では地域差があるものを取り扱うため、地図が必須であるとともに、地図を用いて事象の分析や原因の考察を行うことができる。事物の分布を考察するにあたって、分布図の作成が挙げられる。分布図では、事物の位置や多寡、偏りの程度が表現されるため、分布について深く考察するうえで有効であり、このことによって地理的事象の地域性や一般性の解明につながる。分布の性質を分析してきた研究の代表例として、高橋伸夫は『地理学への招待』にてチューネンの孤立国とクリスタラーの中心地理論を提示している。 | 研究方法 | 地理学 |
231 | 12 | 86,673,772 | 日本では文学部に設置されている大学が多いが、東日本の国公立大学では理学部に設置されていることも多い。この他教育学部に設置されている大学もある。ただし、文学部設置の大学でも自然地理学の研究も行われているうえ、理学部設置の大学でも研究や教育が自然地理学に限定されているわけでもない。また、この他の学部でも地理学に関するコースが存在する大学もある。 | 地理学を学べる日本国内の大学 | 地理学 |
232 | 12 | 86,673,772 | 現在の日本の高等学校においては、1989年告示の学習指導要領以降、「地理」が必修でなくなり、「世界史」が必修になった影響で「地理」を選択する生徒が減少し、地理学へ興味・関心を持つ機会が減少している。しかし、「大都市圏への一極集中と地方の過疎化」「農業のグローバル化」「新興国(中国やインド)の発展による世界情勢の変化」「地球温暖化による異常気象・ヒートアイランド現象」「自然災害(地震や津波、洪水)」など地理学がカバーする範囲は極めて広く、大学において「地理学科」や「地学科」という名称でなくても改称したり分野別に再編したりして実質的に地理学教育を行っている学科・専攻は少なくない。地理学の特徴は「時空間的かつ学際的に地域を理解すること」であり、大学院生や大学教員レベルになると複数の学会に所属している者が多い。 | 教育上の問題点 | 地理学 |
233 | 12 | 86,673,772 | 近年は GIS を用いた解析や一部モデリングが盛んに行われているほか、社会的課題が複雑化する中において地域を多角的・総合的に理解する学問分野として注目されている。 | 教育上の問題点 | 地理学 |
234 | 23 | 88,636,899 | 国の一覧(くにのいちらん)は、世界の独立国の一覧。 | __LEAD__ | 国の一覧 |
235 | 23 | 88,636,899 | 国際法上国家と言えるか否かについて、モンテビデオ条約第1条には以下のように定められた。この条約は米州諸国によって締結されたものであったが、その第1条に規定された「国家の資格要件」に関する規定は広く一般的に適用されるものと考えられている。これにより、国際法上国家の言うためには「永続的住民」、「明確な領域」、「政府」、「他国と関係を取り結ぶ能力」という4つの要件が必要とされる。本項目ではこれらの要件を満たしていると評価されているものを掲載対象とする。 | 対象 | 国の一覧 |
236 | 23 | 88,636,899 | 国連憲章4条1項により国連に加盟するためにはその要件の一つとして国家であることが求められており、国家のみが加盟資格を持つとされている。そのためここでは国連加盟国を193ヵ国をすべて国として扱い以下に列挙する。国連総会オブザーバーの制度は国連事務局や国連総会の実践を通じて形成されてきた制度であり、オブザーバーとしての資格は非加盟国だけではなく国ではないものに対しても認められてきたものである。ここではその中で国である可能性があるものを列挙する。 | 一覧 | 国の一覧 |
237 | 31 | 88,597,904 | パリ(仏: Paris、巴里)は、フランスの首都。イル=ド=フランス地域圏の首府。県にしてコミューンでもある。フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心地。ロンドンと共に欧州を代表する世界都市。ルーヴル美術館を含む1区を中心として時計回りに20の行政区が並び、エスカルゴと形容される。 | __LEAD__ | パリ |
238 | 31 | 88,597,904 | 市域はティエールの城壁跡に造られた環状高速道路の内側の市街地(面積は86.99km。参考:東京都・山手線の内側は63km、ニューヨーク市・マンハッタンは59km)、および、その外側西部のブローニュの森と外側東部のヴァンセンヌの森を併せた形となっており、面積は105.40km。ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。この川の中州であるシテ島を中心に発達した。市内の地形は比較的平坦であるが、標高は最低でセーヌ川沿いの35メートル、最高でモンマルトルの丘の130メートルである。北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい北大西洋海流と偏西風によって1年を通して比較的温暖となっており、西岸海洋性気候の代表的な都市である。 | 概要 | パリ |
239 | 31 | 88,597,904 | EUを代表する大都市として君臨し、アメリカのシンクタンクが2020年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、ロンドン、ニューヨークに次ぐ世界3位の都市と評価された。日本の民間シンクタンクによる2017年発表の「世界の都市総合力ランキング」では、ロンドン、ニューヨーク、東京に次ぐ世界4位の都市と評価された。世界500大企業の本社数では、ニューヨークやロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である。2021年のイギリスのシンクタンクの調査によると、世界10位の金融センターと評価されており、EU圏内では首位である。パリは世界屈指の観光都市である。歴史的な建物を観ることができ、ルーヴル美術館、ポンピドゥーセンターなどをはじめとした一流の美術館で膨大な数の一流の美術品を観賞できる。また世界最古のバレエ団や、世界でもっとも古くから存在している劇団などの公演を楽しむこともできる。 | 概要 | パリ |
240 | 31 | 88,597,904 | パリ出身者・居住者は男性がパリジャン(仏: Parisien、フランス語発音: [parizjɛ̃] パリズィヤン)、女性がパリジェンヌ(仏: Parisienne、フランス語発音: [parizjɛn] パリズィエンヌ)と呼ばれる。1960年代以降、旧植民地であったアフリカ中部・北部やインドシナ半島、さらに近年は中近東や東欧、中国などからの移民も増え、パリジャン・パリジェンヌも多民族・多人種化している。市域人口は1950年代の約290万人を絶頂に減少し続けたが、ここ数年は微増傾向に転じており、2011年現在で約225万人である(INSEEによる)。2011年の近郊を含む都市的地域の人口では1,200万人を超えており、EU最大の都市部を形成している。 | 概要 | パリ |
241 | 31 | 88,597,904 | パリ市の標語は「たゆたえども沈まず(ラテン語: Fluctuat nec mergitur, フランス語: il est battu par les flots mais ne sombre pas) であり、これはパリの紋章の下部に書かれている。もともと水運の中心地だったパリで、水上商人組合の船乗りの言葉だったが、やがて戦乱、革命など歴史の荒波を生き抜いてきたパリ市民の象徴となっていった。この標語は特に2015年のパリ同時多発テロ事件の直後、パリの街角に多数掲げられた。 | 概要 | パリ |
242 | 31 | 88,597,904 | 語源はParisii(パリシイ、パリースィイとも。複数形。単数形はParisius「田舎者、乱暴者」)で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリージ)と発音される。フィンランド語で Pariisi(パリースィ)と発音されるのはこれに由来しているという説がある。ルーテティア(・パリースィオールム)Lutetia(Parisiorum)、 「パリシイ族の、水の中の居住地」(シテ島のこと)とも呼ばれていた。パリ盆地を流れるセーヌ川の中洲シテ島は古くから同川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。 | 歴史 | パリ |
243 | 31 | 88,597,904 | ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場・闘技場の遺跡(アレーヌ・ド・リュテス)や浴場跡が残っている。しかし、ローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。5世紀末にフランク族の王クローヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。 | 歴史 | パリ |
244 | 31 | 88,597,904 | このとき、フランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代わってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(のちにルーヴル宮殿に発展する)が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心のひとつでもあり、11世紀ごろからパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学は特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル(Les Halles)」が作られたもこのころである。 | 歴史 | パリ |
245 | 31 | 88,597,904 | こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。12世紀にはパリ水運商人組合が結成され、のちにパリ商人頭は事実上の市長として市政を司るようになる。13世紀になると、ルイ9世によってサント・シャペルが建築されたほか、ノートルダム大聖堂も一応の完成を見る。パリは成長を続け、セーヌ左岸も再び人口を増やしていた。王たちは次第にヴァンセンヌ城を居城とするようになったが、行政機構はシテ宮に残った。14世紀初頭のパリの人口は約20万人と推定され、ヨーロッパ随一の都市であった。1328年にカペー朝が断絶したことなどを契機とする百年戦争の最中、パリ商人頭となったエティエンヌ・マルセルは王に匹敵する権力を持ち、王と対立した。 | 歴史 | パリ |
246 | 31 | 88,597,904 | シャルル5世は、1356年から1383年にかけて新たな城壁(シャルル5世の城壁)を築いて市域を拡大させ、1370年にサン=タントワーヌ要塞(のちのバスティーユ牢獄)を築いた。また、ルーヴル宮殿を王宮とした。15世紀初めにおいても、パリの支配権と王および王族の確保をめぐって、オルレアン派(のちにアルマニャック伯を頼って同盟した後アルマニャック派)とブルゴーニュ派との対立である百年戦争が、イングランドをも巻き込んで続いていた。ジャンヌ・ダルクの活躍などもあり、1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派と和解して勢力を伸ばしたシャルル7世率いるフランス軍は1436年にパリを奪還し、翌1437年に改めてパリが首都と定められた。その後、1453年にフランスにおけるイングランド領の大半が陥落したことにより、百年戦争は終結した。百年戦争後のパリの人口は10万人程度にまで減少していた。 | 歴史 | パリ |
247 | 31 | 88,597,904 | この後もフランス王はパリには住まず、ブロワ城やアンボワーズ城などのロワール渓谷の城を好んだ。特にフランソワ1世は、ロワールにシャンボール城を築いたほか、パリ近郊にフォンテーヌブロー宮殿を発展させた。もっともフランソワ1世は、公式的には1528年にパリを居城と定めた。パリでは学術が発展し、コレージュ・ド・フランスにおいて、大学教育課程(理論とリベラルアーツ)が近代教育課程に加えられ、王が望んだ人文主義や正確な科学が研究されるようになった。16世紀後半、ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こってプロテスタントが殺害されるなどした。シャルル9世を継いだアンリ3世は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる1588年5月12日にアンリ3世を強制追放した。 | 歴史 | パリ |
248 | 31 | 88,597,904 | このときからパリは、16区総代会(Seize)という組織によって統治されるようになった。その後、カトリック派からの反発を招いたアンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。1594年、アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。ヴァロワ朝後期の王と異なり、アンリ4世はパリをおもな居住場所とし、都市での多くの公共事業を行った。ルーブル宮殿の拡張、ポンヌフ、ヴォージュ広場、ドフィーヌ広場、サン・ルイ病院の建設がなされた。フォンテーヌブロー宮殿もよく用いられ、次のルイ13世はこの宮殿で生まれている。ほかにもサン=ジェルマン=アン=レーにも居城があった。ルイ13世の治世下にパリは大きく変化した。その母のマリー・ド・メディシスによるテュイルリー宮殿やリュクサンブール宮殿、リシュリューによるパレ・ロワイヤルが建設され、ソルボンヌ大学の改築も行われた。 | 歴史 | パリ |
249 | 31 | 88,597,904 | 太陽王ルイ14世の即位後まもなくフロンドの乱が起こり、反動的に貴族勢力が打倒された結果、絶対王政の確立が促された。ルイ14世は、1677年に居城をヴェルサイユに移した。財務総監のジャン=バティスト・コルベールはパリでの豪華な建設事業を行い、太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。廃兵院などはこのころの建築である。しかし王自身はパリを好まず、パリ郊外の広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリは中世の市域を大きく越えて成長し、17世紀半ばには人口約50万人、建物約2万5,000棟に達していた。以降、政治の中心地は、ルイ16世の治世末期までヴェルサイユに移ることとなる。ルイ15世は1715年に居城をいったんパリに戻したが、1722年にはヴェルサイユに居城を再度移してしまう。 | 歴史 | パリ |
250 | 31 | 88,597,904 | 1752年にはエコール・ミリテールが創設され、1754年にはサント・ジュヌヴィエーヴの丘に教会(現在のパンテオン)が建設された。ルイ16世治世下の1784年から1790年にかけて、新たな城壁であるフェルミエー・ジェネローの城壁が建設される。18世紀は、やはり経済的成長の世紀で、人口が増大した。フランス革命直前のパリの人口は64万人を数えた。啓蒙主義、啓蒙思想が発展し、ヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、『百科全書』のドゥニ・ディドロ、シャルル・ド・モンテスキューらが活躍した。宮廷がヴェルサイユに置かれたのに対抗し、王族のオルレアン公がパレ・ロワイヤルを増築改修すると、この地はパリ随一の繁華街を形成し、啓蒙思想家のみならずあらゆる階層の人々を引きつけ、とりわけ急進的な革命家の根拠地ともなった。1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。 | 歴史 | パリ |
251 | 31 | 88,597,904 | ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。1790年にパリ県が成立し、1795年にセーヌ県へと改称される。パリ市は県庁所在地とされていた。混乱を経た1800年当時の人口は、54万7,756人であった。ナポレオン1世は、パリを新しいローマとすべく、帝都と定め、カルーゼル凱旋門やエトワール凱旋門を建て、ウルク運河(en)を開削するなどした。第一帝政後の19世紀のパリは、復古王政期および1848年革命(二月革命)を経て、第二共和政、第二帝政さらに第三共和政へと、王政ないし帝政と共和政が交錯し、政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来により経済的・文化的には繁栄した。 | 歴史 | パリ |
252 | 31 | 88,597,904 | 文化面では、ヴィクトル・ユーゴー、オノレ・ド・バルザック、エミール・ゾラ、スタンダールといった文豪に加え、19世紀後半にはエドゥアール・マネやモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾ、ギヨマン、シスレーといった印象派の画家が活躍し始めた。スーラ、ゴッホ、ポール・ゴーギャンなどのポスト印象派、新印象派へと続くものとなった。1837年にはパリ・サン=ジェルマン鉄道のサン・ラザール駅、1840年にヴェルサイユ・左岸鉄道のモンパルナス駅、1840年にパリ・オルレアン鉄道のオステルリッツ駅、1846年に北部鉄道 (フランス)のパリ北駅、1846年にソー鉄道のアンフェール城門駅(ダンフェール=ロシュロー駅)、1849年にパリ・リヨン鉄道のリヨン駅およびパリ・ストラスブール鉄道のストラスブール駅(パリ東駅)がそれぞれ建設された。 | 歴史 | パリ |
253 | 31 | 88,597,904 | 他方、1841年から1844年にかけてティエールの城壁が築かれ、こららの放射状路線をつなぎ、城壁内の補給路を確保するために、プティト・サンチュールが1852年から建設され始めた。第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュ・オスマンによってパリ改造が行われた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか、上下水道の設置など都心部の再開発や社会基盤の整備が行われた。水道の水はジェネラル・デゾーが供給するようになった。これらによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこのときの状態をとどめている。1860年、ティエールの城壁内のコミューンがパリに併合された。併合後である1861年当時の人口は169万6,141人だった。普仏戦争でナポレオン3世の主力軍が敗北すると、パリは1870年9月からプロイセン軍に包囲された。 | 歴史 | パリ |
254 | 31 | 88,597,904 | 翌1871年1月に第三共和政の政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権パリ・コミューンが発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2か月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での市街戦となり、大きな被害を出した。クレディ・リヨネのパリ支店支配人Mazeratがリヨン本店支配人Letourneurに書き送ったところによると、普仏戦争以後に企てられた全事業でロスチャイルドとその庇護下のオートバンクが独占的役割を果たした。パリ市はロスチャイルドらより2億フランを借り受け、ドイツへ占領税を支払った。20億フランのパリ市公債もロスチャイルドらが引き受けた。19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数回の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポック(よき時代)と呼ぶ。 | 歴史 | パリ |
255 | 31 | 88,597,904 | パリは「光の都」と呼ばれ、ロンドンに匹敵する経済都市に成長した。20世紀にはさらに工業が進展し、このころまだまとまった敷地が残っていたパリ郊外にルノーやシトロエンの工場ができた。パリで働くための移民が集まり、赤いバンリューの起源となった。1904年6月、1,000万フランのロスチャイルド財団が一族6人 と北部鉄道 (フランス)の役員3人を発起人として設立された。この財団は建築家を直接雇用して財団所有の事務所に集め、低廉住宅の建築様式を共同作成させた。優秀作の意匠権は賞金と引き換えに財団が所有した。 1912年12月23日のボンヌヴェ法は全会一致で可決され、パリ市が低廉住宅を建設するために要請していた2億フランの借款を認めた。第一次世界大戦の緒戦ではドイツ軍がパリの目前にまで迫り、政府が一時ボルドーに避難するほどであったが、マルヌ会戦の勝利により辛くも陥落を免れた。 | 歴史 | パリ |
256 | 31 | 88,597,904 | 大戦後半にはパリ砲による砲撃を受けた。戦間期にはパリは芸術の都としての地位を回復し、アメリカやヨーロッパなどから多くのボヘミアンたちを惹きつけた。しかし第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス侵攻開始から1か月で政府はパリを放棄せざるを得なくなり、1940年6月14日にはドイツ軍がパリをほぼ無血で占領した。 パリが外国軍の手に落ちるのは4度目(過去3回は百年戦争、ナポレオン戦争による敗北、普仏戦争)であった。 6月23日にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。占領下のパリではレジスタンス運動に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者はのちに対独協力者(コラボラトゥール)として糾弾されることになる。ノルマンディー上陸作戦から2か月半後の1944年8月24日、アメリカ軍がパリ郊外に達しドイツ軍と交戦。 | 歴史 | パリ |
257 | 31 | 88,597,904 | 翌25日にはアメリカ軍と自由フランス軍が市内中心部に達し、連合国による解放が実現した。このときドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していたディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍は、ヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォン・コルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市民号を贈られている。20世紀のパリは文化的にも成熟し、アルベール・カミュやジャン=ポール・サルトルらが実存主義を生み出し、マルセル・プルーストやアンドレ・ジッドなどの小説家が輩出された。1960年に創刊された前衛雑誌『テル・ケル』にはロラン・バルト、ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジュリア・クリステヴァらが名を連ね、構造主義とポスト構造主義は世界的な影響力を持ち、フランス現代思想が隆盛を極めた。 | 歴史 | パリ |
258 | 31 | 88,597,904 | 映画界では、1950年代末から1960年代中盤にかけて、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらヌーヴェルヴァーグが台頭した。人民戦線の頃以降のフランス共産党の党勢拡大などを背景として、1968年1月1日、セーヌ県が廃止され、パリは特別市となった。このような政治的や文化的状況下で、五月革命が起こった。1950年代以降のパリでは、おもに郊外(バンリュー)で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめとする高速道路網や、郊外と都心を直結する鉄道RERなどが整備され、ラ・デファンス地区がオフィス街として開発された。一方で豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ、失業や治安の悪化が社会問題となった。2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。2015年11月にはパリ同時多発テロ事件が発生した。 | 歴史 | パリ |
259 | 31 | 88,597,904 | フランス革命後の地方自治制度では、パリ市はセーヌ県(当初の名称はパリ県)に属する一コミューンであり、同県の県庁所在地であった。当時の市域は現在より狭く、フェルミエー・ジェネローの城壁(現在は、ほぼその跡に沿ってメトロ2号線・6号線が走っている)の内側のみであった。当初は、48の地区に細分化されていたが、各地区を統合する形で12の行政区が設けられるに至った。1860年に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり、同時に新たな20の行政区が設けられた。これらの行政区は、1795年10月11日以降存在していた12の旧行政区から置き換えられたものである。1968年1月1日に完全施行された「パリ地域の再編に関する1964年7月10日法」による再編以降、セーヌ県が廃止され、パリは県とコミューンの地位を併せ持つこととなった。県でもあるパリは、県を構成する唯一のコミューン以外に下位機構を有しない唯一の県である。 | 政治 | パリ |
260 | 31 | 88,597,904 | コミューンとしてのパリは、1860年のパリ拡張の際に創設された20の行政区と18の選挙区に分けられている。1976年にイル=ド=フランス地域圏が発足すると、パリはその首府となった。市内20の区(arrondissement)は、パリ市街地の1区から、右回りの渦巻状に番号がつけられている。1 - 4、8 - 12、16 - 20区は右岸に、5 - 7、13 - 15区は左岸に位置する。この街の行政的地位は何度も変更されている。1871年3月26日から5月22日まで、パリには、蜂起勢力である代表制普通選挙による議会をともなうパリ・コミューンによる政府が置かれた。1870年に成立した第三共和政は、この出来事への恐怖心を持つ保守主義者たちによって運営されていた。 | 政治 | パリ |
261 | 31 | 88,597,904 | 彼らは、パリの行政権をセーヌ県知事(préfet de la Seine)に、パリの警察権を警視総監(préfet de police)にそれぞれ与えることを内容とする1884年4月5日法を制定した。他方、市町村選挙で議員が選出されるパリの議会は、毎年、主として代表者としての機能を有する「議長」を選出していた。すなわち、パリには市長がいなかった。また街の予算は、国の同意を得る必要があった。1975年12月31日法(1977年の市町村選挙の際に施行された)は、109人の議員で構成される市議会かつ県議会であるパリの議会を創設し、議員によってパリ市長を選出することにした。区の委員会は、諮問と推進の役割を有していた。委員会の構成員は、選挙人・パリ市長・パリの議会によって選出された。警視総監は国家により任命され、警察権を行使する。 | 政治 | パリ |
262 | 31 | 88,597,904 | パリ・リヨン・マルセイユおよびコミューン間の協力による公共機関に関する1982年12月31日法が、パリには1983年の市町村選挙の際に施行され、163人の議員を選出することになったほか、特に予算に関する議会の権限が拡大し、委員会を廃して区議会が創設された。2002年5月2日の2002-810号デクレ以降、行政警察権がパリ市長と警視総監に共有されることとなり、その実現のために、両者は互いの活動方法を相互に承認することとなった。承認手続に関しては、パリ議会が審議したうえ、毎年その予算および決算を承認する必要がある (この予算は国家によって決められたものである)。パリ市長はこれ以降、生活安全分野に関する限り、たとえ警視総監の手中にある権限に関するものであっても関与することになった。 | 政治 | パリ |
263 | 31 | 88,597,904 | パリの議会の活動は、パリ県/コミューンが資本を保有する会社の仲介人やパリの混合経済会社(SEM)によっても実現される。ほかの主要都市とは異なり、パリとその郊外のコミューンとの間、« 大パリ » 内には、固有の予算をともなうコミューン間の連携が存在しない。もっとも、パリとその郊外の県との間では、下水道組合(SIAAP, Syndicat interdépartemental pour l’assainissement de l’agglomération parisienne)の再編を行った。また、イル=ド=フランス交通組合(STIF)は、イル=ド=フランス地域圏の公共機関であり、パリとその郊外の総合的な交通網整備を行う組織である。ほかの国際的な大都市と異なり、おおよそ環状のペリフェリックで区切られる中心市街のみを範囲とするパリの街については、その実際的な範囲を明確にする必要がある。 | 政治 | パリ |
264 | 31 | 88,597,904 | 上述各城壁の変遷で見るように歴史的かつ政治的な配慮が障害となって、« 大パリ » を管理する行政機関が存在しないことは、パリ都市圏の現在の主要な問題のひとつである。現在のパリの領域は、上述概要の項で指摘されているように日本の山手線内よりやや広い程度である。その市域の境界線は歴史的で時代錯誤な経緯の産物、あるいは現在はパリ都市圏に取り込まれ、消えてしまった地形に適合していたにすぎないものであるにもかかわらず、市域の内外を問わず、パリ都市圏の人々には共通の行政的需要ならびに経済的・社会的関心がある。ところが、各コミューンは行政的・税制的に独立しており、コミューンや県の枠を超えて存在する集団的需要(交通や住宅など)に関する組織については、都市圏規模のまとめ役となる機構が存在しない。 | 政治 | パリ |
265 | 31 | 88,597,904 | イル=ド=フランス地域圏となると、地域の約80パーセントに農村部が残っており、パリ都市圏のための枠としては大き過ぎ、« 大パリ » たるパリ都市圏内の適切な連携に適っていない現状がある。初代市長はジャン=シルヴァン・バイイ(在任:1789年7月15日 - 1791年11月18日)。1795年 - 1848年の2月革命まで、12の区に分割され各区にConseil municipal(議会)が置かれ自治が行われたため、パリ市長は置かれなくなった。1795年 - 1977年の間、わずかな例外(2月革命後の4人の市長)を除いて市長は置かれず、各区のConseil municipalの議長が実質上は市長のような務めを果たした。1977年以降はパリ県知事(Préfet)と併存だが、市長が市と県を兼ねた議会の議長として県の長とされる。 | 政治 | パリ |
266 | 31 | 88,597,904 | 2011年の当初予算(街および県としてのもの)は約85億8,200万ユーロで、うち69億600万ユーロが行政活動に、16億7,600万ユーロが投資に充てられている。債務残高は約26億9,600万ユーロである。2008年の県債は266億ユーロにのぼる。パリ大審裁判所がシテ島のパレ・ド・ジュスティス (パリ)に置かれている。この裁判所は、フランスの大部分の訴訟事件を取り扱う巨大司法機関である。各区には小審裁判所が置かれている。パリ商事裁判所は、やはりシテ島(コルス河岸)に置かれている。パリ違警罪裁判所は19区(rue de Cambrai)、パリ労働審判所は10区(rue Louis-Blanc)にそれぞれ置かれている。パリのみを管轄する裁判所以外に、複数の県を管轄するパリ控訴院もパレ・ド・ジュスティスに置かれている。 | 政治 | パリ |
267 | 31 | 88,597,904 | その管轄は、セーヌ=エ=マルヌ県、エソンヌ県、セーヌ=サン=ドニ県、ヴァル=ド=マルヌ県、ヨンヌ県である。パリ控訴院の管轄区域には、フランス全人口の12.6パーセントが暮らしている。なお、ほかのイル=ド=フランス地域圏内の各県およびウール=エ=ロワール県は、ヴェルサイユ控訴院の管轄となる。パリは、4区所在のパリ地方行政裁判所の管轄に属する。控訴は、パリ行政控訴院に対して行うことになる(ほかに、マタ・ウトゥ、ムラン、ヌーヴェル・カレドニー、フランス領ポリネシアの各地方行政裁判所からの控訴を受ける)。パリ(1区)には、司法と行政それぞれの最高裁判所である破毀院と国務院(コンセイユ・デタ) に加え、憲法評議会(憲法院)も置かれている。セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県と同様にパリ警視庁の管轄下にある。 | 政治 | パリ |
268 | 31 | 88,597,904 | イル=ド=フランス地域圏で犯される重罪および軽罪は、フランス全土での4分の1を占める。パリ市内、その外側の「小さな王冠」(セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県)、さらにその外側の「大きな王冠」は、それぞれイル=ド=フランス地域圏内の全認知件犯罪のおおむね3分の1ずつが発生している。パリでみられる犯罪類型としては窃盗が大部分で、全重罪および軽罪の3分の2を占める。2006年には、25万5,238件が認知され、犯罪発生率としては人口1,000人あたり118.58件であった。これは、全国平均61.03‰の約2倍であるが、大都市のみに限ってみれば平均的な数値である(リヨン109.22件、リール118.93件、ニース119.52件、マルセイユ120.62件)。女性被告人の割合は15パーセントを下回り(全国平均をわずかに下回る程度)、未成年の割合は11. | 政治 | パリ |
269 | 31 | 88,597,904 | 02パーセント(全国平均18.33パーセントを7ポイント下回る)である。他方、外国人(有効な滞在許可証を所持しフランスに住居を有する者)の割合は、全国平均を上回る20.73パーセントである。パリでは、2008年の強姦事件数1,413件で発生率が0.6‰とフランス国内で2番目の高率であった。身体的暴行に関しては、2万7,857件であった。暴行を行うとの脅迫に関しては、2008年において、パリでは5,165件認知された。2008年の財産犯(窃盗、器物汚損、器物破壊)に関して、ブーシュ=デュ=ローヌ県に次ぐ件数が認知された。パリの中央集権主義はまた、この街がテロの犠牲者であることをも物語る。よく知られるナポレオン1世に対するサン・ニケーズ街テロ事件や、最近では、RER B線サン=ミッシェル=ノートルダム駅での爆弾テロがある。パリの歴史はこれらの象徴的価値の高い事件が刻まれたものである。 | 政治 | パリ |
270 | 31 | 88,597,904 | これらは、この街での日常生活にとって取るに足りないというものではない。特に、ヴィジピラート計画(Plan Vigipirate) の実施により、観光地や首都の戦略的要衝地の近くに武装した警察、憲兵および兵士が警備しているのを目にすることになる。パリのいくつかの刑務所は今日でも有名である。右岸のグラン・シャトレは、王の刑務所を内部に置き、その別館(左岸のプティ・ポンにあるプティ・シャトレ)とともに、14世紀から破壊される1782年まで投獄所および拘置場所とされていた。コンシェルジュリー、バスティーユ牢獄、ヴァンセンヌ城の3つの刑務所は、歴史的なシンボルとなっている。コンシェルジュリーはパリの裁判所固有の刑務所であったが、フランス革命の間にマリー・アントワネットやほかのギロチン犠牲者を迎えたあとも、1914年まで拘置所として機能し続けた。 | 政治 | パリ |
271 | 31 | 88,597,904 | バスティーユ牢獄は1370年から構築され、リシュリューが権力を振るっていたころに国の刑務所となった。 ヴァンセンヌ牢獄は、やはり1784年まで国会の刑務所であったが、その名の通りの投獄の場というよりもむしろ軟禁場所であり、第二帝政下までしばしばそのように使われていた。1830年から1947年まで11区にロケット刑務所があったが、パリで唯一残存する刑務所(兼拘置所)は1867年に開設されたサンテ刑務所のみである。イル=ド=フランス地域圏の主要な刑務所兼拘置所(Maison d'arrêt、メゾン・ダレ)は、フレンヌ (ヴァル=ド=マルヌ県)とフルリー=メロジ(エソンヌ県)にある。ほかに、ポワシーにある困難受刑者が収容されるメゾン・サントラルがある。 | 政治 | パリ |
272 | 31 | 88,597,904 | 西岸海洋性気候に属し、暖流である北大西洋海流の影響で高緯度の割には温暖である。夏(6月 - 8月)は気温が15度から25度までの範囲で、冷涼で乾燥しており過ごしやすいが、年間数日程度は32度を超える暑さとなる。しかし、2003年夏には30度以上の気温が数週間も続き、40度近い気温が観測され1万人以上の死者を出した。春(3月 - 5月)と秋(9月 - 10月)は天候は不安定で、暖かい時期と寒い時期が同居し、10月でも真冬並みの寒さとなることもある。冬(11 - 2月)は、もともと高緯度で昼間の時間が短いうえ、曇りや雨の日が多いため日照時間が少ないが、降雪・積雪はあまり見られない。年間数日程度は気温が氷点下5度以下まで下がる。しかしながら近年の冬は寒さが厳しく、2009年 - 2010年の冬にはパリ郊外では気温が-10度から-20度前後まで下がっているなど、寒気の影響を受けやすくなっている。 | 気候 | パリ |
273 | 31 | 88,597,904 | 年間降水量は652ミリほどであり、それほど多くはない。今までの最高気温は40.4°C(1948年7月28日)、最低気温は−23.9°C(1879年12月10日)である。パリの気象観測は中心部から離れた14区にあるモンスーリ公園で行われている。 | 気候 | パリ |
274 | 31 | 88,597,904 | パリの郊外にはヴェルサイユなど有名な観光地がいくつかあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できる。16区 - 17区につながるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっている。逆に18区 - 20区からつながる北東方面は低所得層の集まる地価の安い郊外となっており、近年は犯罪増加などの問題を抱えている。フランスで単に「郊外(バンリュー)」という場合、こうした地域を婉曲的に指すことが多い。その他の方面の郊外は一般的な住宅衛星都市となっている。パリより電車で各30分ほど離れた郊外にはいくつかの衛星都市があり、近代建築によって町の機能が整えられている。中でもラ・デファンス地区には「新凱旋門グランダルシュ」をはじめ高層ビル群が集中しており、多数の企業の支店を抱える新都心となっている。公園はパルク(Parc)、庭園はジャルダン(Jardin)と呼ばれ区別されている。 | 地理 | パリ |
275 | 31 | 88,597,904 | パリには東西2つの大きな森があり、パリ市民の憩いの地となっている。現在はこの森もパリ市の敷地に含まれる。パリは東西南北に4つの主要な墓地があり、多くの著名人が眠っている。この他、パリ中心部に位置するパンテオンにもルソーやヴォルテール、ヴィクトル・ユーゴー、デカルトといった偉人たちが埋葬されている。 | 地理 | パリ |
276 | 31 | 88,597,904 | パリは世界屈指の観光都市である。「芸術の都」などのイメージを前面に出す戦略をとっている。おもな集客装置は、歴史的な建造物の数々(世界遺産「パリのセーヌ河岸」に入っている建物など)、数々の美術館に収められた著名な美術品、有名料理店で提供されるフランス料理、高級銘柄を扱う店舗などである。建造物は、中世以前のものも残るが、第三共和政期のパリ改造やベル・エポックの建造物、あるいはフランス革命200周年期のグラン・プロジェの建造物など、各時代の世界の最先端のものが多い。美術館には、フランスで活躍した著名な芸術家の美術品の他、戦利品や購買によって収集された世界一級の収蔵物が並ぶ。 | 観光 | パリ |
277 | 31 | 88,597,904 | 「芸術の都」という異名が言い表すように、パリは美術・音楽・演劇・バレエ・食文化・ファッションなど、さまざまな芸術の世界的な中心地として名を馳せている。1989年には欧州文化首都に選ばれた。ルーヴル美術館やオルセー美術館、ポンピドゥーセンター(国立近代美術館)などの美術館に世界一級の美術品が多数収蔵され、ざっくりと時代ごとに美術館が割り振られている。古代から19世紀半ばまでの美術品はルーブル美術館で観ることができ、モナ・リザ、サモトラケのニケ、ミロのヴィーナスなど世界中の誰もが知っている名作をはじめとして、ナポレオンがエジプト遠征時に集めた古代エジプトの考古学品なども含めて常設展示数はおよそ2万6,000点で(展示しきれない総所蔵作品数は30万点以上)、ざっと観ても数日かかり、全部じっくり観ると1か月ほどかかるとも言われる。 | 文化 | パリ |
278 | 31 | 88,597,904 | ルーヴルは建物自体もかつての王宮であり、入場者数は年間800万人以上である。19世紀以降の絵画、つまり印象派、象徴主義、アール・ヌーボーの絵画などはオルセー美術館に展示されている。パリ市が運営する公共の美術館・博物館は市内に14あり、パリ・ミュゼ(fr:Paris Musées)という市の組織が管轄している。これらパリ市所蔵の美術コレクションは国のコレクションに次ぐ規模を誇る。2020年1月、パリ・ミュゼはパリ市立美術館・博物館が所蔵する約10万点の作品の無料ダウンロードを許可すると発表した。パリ・ミュゼは、この他に下水道博物館、野外彫刻美術館、パビリオン・デザール(展示会場)も管轄している。世界で一番歴史の長い劇団、1680年創設のコメディ・フランセーズがあり、同名の劇場でその舞台を観ることができる。 | 文化 | パリ |
279 | 31 | 88,597,904 | パリには1661年に王立舞踏アカデミーとして創設された世界最古のバレエ団「パリ国立オペラ」があり、旧オペラ座のガルニエ宮や新しいオペラ・バスティーユでその公演を観ることができる。パリは音楽都市のひとつである。シャンソンを聞かせるライブハウスがいくつもある。パリには管弦楽団が多数あり、コンサートが頻繁に行われている(一時期は世界一流のレベルだったが近年はいくらか厳しい評価も聞かれる)。毎年夏至の日6月21日にはFête de la musique(音楽祭)がフランス全土で開かれ、パリでもさまざまな場所でさまざまなジャンル(ジャズやブルースなども含めてさまざまなジャンル)の音楽の演奏が行われる。Conservatoire de Paris コンセルヴァトワール・ドゥ・パリ(パリ国立高等音楽・舞踊学校)があり、世界から才能のある若者が一流のバレエや音楽を学びにやってきている。 | 文化 | パリ |
280 | 31 | 88,597,904 | パリはガストロノミー(食によるおもてなし、食文化、一流の料理作り)の中心地でもあり、有名なレストランがいくつもあり(ギッド・ミシュランでは三ツ星が例年10店前後)、世界で最高レベルのシェフの料理を堪能することができる。2つ星の店も多数。またフランス料理を習得しようとしている若い料理人(の卵)たちがそれら有名店で修行に励んでいる場所でもある。料理競技会も開催されている。16世紀前半の神聖ローマ皇帝カール5世は、フランス国王フランソワ1世の生涯の宿敵でありながら、フランス文化を、それ以上にパリの文化をこよなく愛し、18世紀の啓蒙時代には、プロイセン王国中興の祖であるフリードリヒ2世はヴォルテールと交流しパリから招き、また、ロシア帝国女帝エカチェリーナ2世はヴォルテールやドニ・ディドロと交流し、ディドロをパリから呼び寄せた。 | 文化 | パリ |
281 | 31 | 88,597,904 | フランスにおける経済の中心地であり、世界屈指の経済都市でもある。2014年のパリ都市圏の総生産は6,798億ドルであり、東京都市圏、ニューヨーク都市圏、ロサンゼルス都市圏、ソウル都市圏、ロンドン都市圏に次ぐ世界6位の経済規模を有する。多国籍企業の本社数や資本市場の規模などビジネス分野を総合評価した都市ランキングでは、ロンドンとともにヨーロッパでトップクラスである。BNPパリバ、トタル、アクサなど世界有数の大企業の本社が所在しており、世界500大企業の本社数では、ニューヨークやロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である。工芸品や贅沢品や服飾品などの、ビジネスの集積地でもある。 | 経済 | パリ |
282 | 31 | 88,597,904 | アンシャン・レジームの時代では、貴族は服をたった1着手に入れるにも、まずは布地を扱う商人のところへ行って気にいる布地を苦労して見つけ、次にその布を裁断する職人のところへそれを持っていって、次にそれを縫いあげる職人、と何軒もの店・職人をかけずりまわらなければならず、おまけに訪ねる店は(現代からは想像もつかないような)まるで倉庫のようなありさまで、価格の表示もなく、客は顔色をうかがわれてとんでもない高値を吹っかけられ、支払いも高利の掛け売りというありさまで、皆、服を手に入れることにうんざりしていた。だがアンシャン・レジーム末期のパリに、新しい経営方法を導入した服飾品の小売業者やモード商人が登場した。 | 経済 | パリ |
283 | 31 | 88,597,904 | それまで注文を受ける側であった商人が、主導権を握って王妃などに着る服を提案することを始めたのであり、王族を宣伝塔として巧みに利用し流行を意図的・恣意的に作りだし、貴族たちを煽って金儲けをするようになった。19世紀にはさらにオートクチュール(オーダーメイド服)への道を開き、ファッションショーなどを開催し、メディアも活用し巧みにイメージを作りだし、新興の富裕層(=ブルジョワジー)の欲望を掻きたて金儲けを行った。しかしオートクチュールのビジネスは20世紀後半には衰退し、現在では主としてプレタポルテを扱うようになった。ショーの華やかな見た目に惑わされている一般人には見えないが、ファッションウィーク期間中のパリというのは、デザイナー側とバイヤー側が直接に会してビジネス上の冷徹でしたたかな交渉が行われる商業(ビジネス)の空間でもある。 | 経済 | パリ |
284 | 31 | 88,597,904 | 若い女性の中には、商人によって(金儲けのために)ビジネスのツールとして作りだされ、雑誌などの各種メディアで流されている虚像を本当の像だと信じ、その像に近づこうとパリにフワフワとやってきてしまう事例が言われている。日本の若い女性でも、パリに来てある期間その実態を自分の目で見るうちに、自分が虚像を信じていたにすぎないことに気づかされ、やがて鬱状態になったり責められているように感じ苦しんで帰国していく事例も指摘されている(→パリ症候群を参照のこと)。各節とも日本語での五十音順。パリ近郊に本社を置く企業も含める。 | 経済 | パリ |
285 | 31 | 88,597,904 | パリ市の人口は2011年現在、約225万人で、近年は微増傾向にある。特に、再開発が進む南部や移民流入の著しい東部での人口増加が目立っている。この間、郊外(市域外)の人口は増加している。20世紀以降、かつて城壁に囲まれていた市域外にも市街地が大きく拡大し続け、現在、イル=ド=フランス地域圏(パリ地域圏)全体の人口は1,198万人にのぼる。パリ市域内もおおむね商業・業務・住宅地としての活気と威信を維持しており、アメリカの大都市などで見られる都心部の荒廃や郊外への人口流出(インナーシティ問題)はさほど見られない。むしろ、移民の多い一部の郊外での治安の悪化が顕著である(バンリュー参照)。パリはほかの大都市同様、学生、若者、老人が多い一方、子供を有するカップルの割合は低い。1999年、パリ市の世帯数の22パーセント、人口数の40. | 社会情勢 | パリ |
286 | 31 | 88,597,904 | 7パーセントは1人以上の子供を有するカップルであったが、単身世帯数の割合は27パーセント、カップルのみの世帯数の割合は19パーセントであった。パリ市では47パーセント(フランス全体の平均は35パーセント)の人々が独身で、37パーセント(同50パーセント以上)が結婚している。また片親世帯の割合が26パーセント(同17パーセント)と高い。離婚率ももっとも高く、婚姻100件のうち55件は離婚に至っており、パリ市民の7.7パーセントを占めている。出生率は1,000人中14.8人であり、国平均の13.2パーセントより高い。一方、子どもの数は世帯あたり1.75人で、国平均の1.86人より少ない。半分の世帯において子どもは1人である。パリ市では住居が狭く高額であることが、その主因である。高所得者層はおもに西部に、低所得者層や移民はおもに北東部に居住している。 | 社会情勢 | パリ |
287 | 31 | 88,597,904 | パリ市の平均世帯所得はフランス全体の平均より高く、隣接する郊外のオー=ド=セーヌ県、イヴリーヌ県、エソンヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県の4地域の平均所得も国内で最高水準であり、イル・ド・フランス地域圏に高所得者層が集中している。しかしパリ市内の社会的格差の状況は、さらに複雑である。伝統的には豊かなパリ市西部と、貧しいパリ市東部という構図がみられる。実際、7区の平均世帯所得(2001年)は3万1,521ユーロにのぼり、19区の1万3,759ユーロの2倍以上となっている。イル・ド・フランス地域圏において、パリ6区、7区、8区、16区はもっとも高所得の地域、10区、18区、19区、20区はもっとも低所得の地域に分類される。さらに、市内の19区の状況はそのまま所得が低い北東部郊外のセーヌ=サン=ドニ県に連なる一方、16区の外縁は西部の豊かな郊外に続く。 | 社会情勢 | パリ |
288 | 31 | 88,597,904 | 18区、19区、20区にはパリの貧困層の4割が集中し、学校の中退、失業、健康問題などが集中している。EU域外からの移民は、フランス国内の出身者に比べて、貧困な状況に置かれていることが多い。18区はマグリブや、最近はサブサハラ地域のアフリカからの移民が多い。フランスの国勢調査では法律上、民族や宗教の属性を問うことができないが、出身地の情報は得ることができる。1999年の国勢調査によると、パリ都市圏はヨーロッパでもっとも多民族化が進んでいる地域のひとつであり、人口の19.4パーセントがフランス本国外の出身である。また、パリ都市圏の人口の4.2パーセントは1990年から1999年の間にフランスにやってきた新しい移民であり、その大半は中国またはアフリカ出身である。さらにパリ都市圏の人口の15パーセントはイスラム教徒である。 | 社会情勢 | パリ |
289 | 31 | 88,597,904 | パリへの大量の移民の第一波は1820年代、ドイツの農民が、農業危機とナポレオン・ボナパルトの侵攻にともなって移住してきたことによる。その後、今日に至るまで、何度か移民の波が続いている。19世紀はイタリア人と中央ヨーロッパのユダヤ人、1917年のロシア革命後はロシア人、第1次世界大戦中は植民地の国々から、大戦間期はポーランド人、1950年代から70年代はスペイン人、イタリア人、ポルトガル人、北アメリカ人、またアフリカ・アジア地域の独立後はユダヤ人が移民してきた。移民の居住区域は、それぞれ出身地ごとに異なっている。 | 社会情勢 | パリ |
290 | 31 | 88,597,904 | 2005年から2006年の学校年度における公立学校の児童・生徒数は、26万3,812人であった。うち13万5,570人が初等教育、12万8,242人が中等教育を受けていた。同年度の私立学校の児童・生徒数は13万8,527人で、うち9万1,818人が契約に基づく就学であった。パリには、優先的教育地域(ZEP)または優先的教育組織(REP)の施設(小学校214校、コレージュ32校。5人に1人の割合)がある。2007年現在、881校の公立学校があり、うち323校が幼稚園、334校が小学校(日本の5年生までに相当)、6校が病院内学校、110校がコレージュ(日本の小学6年生および中学生に相当)、72校がリセ(普通および科学技術とも含む)、34校が職業リセおよび2校が公的実験リセである。 | 教育 | パリ |
291 | 31 | 88,597,904 | 他方、契約に基づき入学する私立学校は256校であり、うち110校が幼稚園・小学校・特別学校、67校がコレージュ、73校がリセ(普通および科学技術)および5校が職業リセであった。中等教育については、5区にそれぞれ所在するリセ・ルイ=ル=グランやリセ・アンリ=キャトルが全国的かつ国際的にも有名である。2007年現在、イル=ド=フランス地域圏では約58万5,000人が高等教育を受けており、フランス全土の4分の1強にあたる。特に1990年代のフランス国立行政学院(ENA)のストラスブール移転や高等師範学校のリヨン校などの脱中央化の動きもみられるが、大部分の名高い国立学校は常にパリ地方に設置されている。12世紀以降、パリはヨーロッパにおける知識の大集積地のひとつで、特に科学技術と哲学分野に秀でていた。 | 教育 | パリ |
292 | 31 | 88,597,904 | フィリップ2世が大学の構成員に対して特権与えた西暦1200年はパリ大学の設立の年とされ、人々に象徴的に記憶されている。そこでは教育が行われた場所である寄宿舎(寄宿学校)が学部を構成した。ソルボンヌ寮の創設は1257年を起源とする。大学は、サント=ジュヌヴィエーヴの丘を中心として、カルチエ・ラタンに発展した。カルチエ・ラタンは、現在でも、パリ大学を含む高等教育機関の重要な中心地である。18世紀以降、いくつかの専門職のために専門化された高等教育機関が創設され、現在のグランゼコールの起源となった。エコール・ポリテクニークおよび高等師範学校はともにフランス革命期に創設された。近代のパリ大学は、19世紀、法・医・薬・文・神・理の6学部に組織化された。20世紀、五月革命後には多くの学生が強く社会問題を考えたが、ソルボンヌはその震源地となった。 | 教育 | パリ |
293 | 31 | 88,597,904 | その結果、パリ大学は、それぞれ専門分野を相対的に限定された13の個別の大学へと分割再編された。パリ市内は、現在も大学の中心地であり続けている。パリ第1からパリ第7までの各大学は再編されて左岸の3つの区(5区、6区、13区)に存在している。カルチエ・ラタンには、パリ・ソルボンヌ(パリ第4)大学、高等師範学校、コレージュ・ド・フランスといった歴史的施設が残り、重要な地位を今も保ち続けている。また、ほかの高等教育機関もこの地区に存在する。 | 教育 | パリ |
294 | 31 | 88,597,904 | パリ政治学院、パリ第1大学、パリ第2大学、ジュシュー・キャンパス(Campus de Jussieu:パリ第6大学とパリ地球物理研究所による複合研究施設)、パリ第3大学、社会科学高等研究院、古文書学校、美術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学(EPCI)、応用美術研究所(LISAA)、パリ国立高等鉱業学校(ENSMP)、パリ高等化学学校(Chimie ParisTech)、生活工業・環境科学研究所(AgroParisTech)、パリ高等電子工学研究所(ISEP)、パリ企業経営学院(IAE de Paris)などである。なお、パリ第9大学、エコール・ポリテクニーク、エセック経済商科大学院大学などは、いずれも郊外に移転している。大学街は東部に広がり、かつて5区にあったパリ第7大学は、フランス国立図書館が移転した13区において、複数の大学施設を一般公開している。 | 教育 | パリ |
295 | 31 | 88,597,904 | 国立高等工芸学校が1912年からイタリア広場近くに迎え入れられている。1960年代以降、バンリューに大学が作られ始めたが、その先鞭となったのは1964年にナンテールに作られたパリ第10大学である。同時期には複数のグランゼコールが、特に広大な敷地を求めて、同様にパリの中心部を去っている。パリの南にあるサクレー台地は重要な研究拠点となっている。その広大な大地には、パリ第9大学やグランゼコール(HEC経営大学院は1964年、高等電子学校は1975年、エコール・ポリテクニークは1976年にそれぞれ移転してきた)のほか、サクレー研究所などの公的研究所や民間の研究施設が多数存する。パリ市は、7つの高等専門学校を有している。4つは応用芸術に関するもので、エコール・ブール(家具修理)、エコール・エティエンヌ(グラフィック・アート。特に装丁)が有名である。 | 教育 | パリ |
296 | 31 | 88,597,904 | 2つは科学技術に関するもので、パリ市立技術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学である。園芸に関するものは、エコール・デュ・ブルーユである。 | 教育 | パリ |
297 | 31 | 88,597,904 | 数多くの病院がパリに設置されている。そのうちいくつかは特に古く、医療の伝統は中世にまでさかのぼる。651年にパリ司教だった聖ランドリーによって設立されたシテ島のオテル・デューは、パリでもっとも古い医療施設である。慈愛ともてなしの象徴であり、12世紀まではパリで唯一の病院であった。大部分の医療施設は、1849年1月10日法によって創設された公的医療施設であるAP-HP(Assistance publique - Hôpitaux de Paris、公的支援-パリ病院連合)に名を連ね、パリ市の後方支援をしている。地域圏およびパリの医療センターの役割も果たし、多くの医師や公務員を含む9万人以上が業務に従事している。5区にあるミラミオン館は、かつて病院の施設として使用されていたが、現在はAP-HPの博物館となっており、パリの医療の歴史を想起させている。 | 医療・衛生 | パリ |
298 | 31 | 88,597,904 | AP-HPのパリ市内主要病院としては、ネッケル小児病院、コシャン病院、サルペトリエール病院、サン・タントワーヌ病院、サン・ルイ病院、ビシャ=クロード・ベルナール病院、ジョルジュ・ポンピドゥー欧州病院を挙げることができる。他方、アンヴァリッド・軍病院はAP-HPに属していないが、保健大臣の監督のもと国防大臣に権限が委任されており、退役軍人などの治療を行っている。同様に、国立アンヴァリッド研究所 では、現役および退役軍人(その家族などの被保険者を含む)などが医療看護や外科的治療を受けられる。 | 医療・衛生 | パリ |
299 | 31 | 88,597,904 | パリの近郊「小さな王冠」では、パリ東・クレテイユ・ヴァル=ド=マルヌ大学(パリ第12大学)附属アンリ・モンドール大学病院センター(クレテイユ)、パリ南大学附属クレムラン・ビセートル大学病院センター(ル・クレムラン=ビセートル)、ル・ランシー=モンフェルメイユ・コミューン連携医療センター、ボジョン病院(クリシー)が有名な医療機関である。「大きな王冠」においても、AP-HPに属してはいないが、いくつかのコミューン連携の総合病院が存在する。たとえば、アルジャントゥイユのビクトル・デュプイ病院やヴェルサイユ医療センターを挙げることができる。また、医療研究機関としては、1260年にルイ9世によってパリの視覚障害者救済を目的として設立されたキャンズ・ヴァン病院、いずれも軍の衛生部に属するヴァル=ド=グラース軍研究病院、ペルシー軍研究病院、ベガン軍研究病院を挙げることができる。 | 医療・衛生 | パリ |
300 | 31 | 88,597,904 | さらに、ヌイイ=シュル=セーヌには、1906年に設立された社会保障非受益者のための非営利・認可私立病院であるパリ・アメリカン・ホスピタルも特筆される。パリは、フランス全土でも医師の密度がもっとも高い街のひとつである。たとえば、2005年現在、パリの一般医は5,840人を下らないが、セーヌ=サン=ドニ県とヴァル=ドワーズ県には両県を合わせても3,349人の一般医しかいない。パリでは、公衆衛生を保証・保持するため、特に貧困層向けに、16の市立入浴施設が9つの区に分散設置されている。これらの入浴施設は個室を有するが、洗面具は利用者が用意することになっている。 | 医療・衛生 | パリ |