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[ [ "洪水だ。ダムが壊れたらしい", "上へあがらねば、溺死をするぞ", "ばか。上へあがれば、あの爆風で吹きとばされる。今ちょっと上へあがってみたが、全市は暗闇で、大建築物がクリスマス・ケーキのように、ばらばら崩壊して行くのを見た。この世の地獄だ", "いや、洪水の方がひどい。ノアの洪水だよ、バイブルは真実を語っている", "なにが原因か", "大地震か、それとも噴火か", "いや違う。テイラー博士のテイクロトロンの実験が原因だ", "どうして、それが……", "原子崩壊で、あまりに大きいエネルギーが出たんだ。多分助手がボロンの分量を誤ったのに違いない", "ああそうか。それで……それでどうした", "ものすごい破壊が起ったんだ。おそらく実験室は瞬間に人諸共吹きとんだであろう。エネルギーはあれから一哩距ったカルバニーの大堰堤に激しい振動をあたえた結果、ダムの破壊となったんだ。そのために、この洪水だ", "あっ、たいへんだ。どんどん水嵩が増しはじめた。耳がぴーと鳴っている。地下室の空気が強圧されているのだ。ケーソン病になる虞れがある", "それより、机を積んで、もっと足場を高くしよう。ここで溺死するのはいやだからな", "しかしテイラー博士の研究は実を結んだじゃないか。テイクロトロンで、あのとおりの巨大なエネルギーを出し、よって日本軍にぶっつければ、その殲滅はわけなしだ。そうだ、それに違いない。われわれは遂に勝利の女神の手を握ったぞ。万歳、テイラー博士", "ちょっと待った。しかしだ。テイラー博士の研究室は全壊だぞ。研究数値も、肝腎のテイクロトロンの設計図も、みんななくなったんだ。だから折角研究に成功したが、テイラー博士はもう一度始めから研究をやり直さなければならないことになった。そうじゃないか", "なるほど。そういえばそうだな。惜しいことをした", "もしもし、惜しいといえば、テイラー博士がさっき死去されましたよ", "ええっ。テイラー博士が死去? ど、どうしたんですか", "溺死です。あの奔流に流され、便所の脇で水中に没しました。気の毒な博士……", "なんだ。それじゃテイクロトロンの研究は完全に台なしじゃないか。わが国の巨大なる損害!", "ちぇっ、折角日本軍を叩きのめすに足る新兵器が出現したのになあ……" ], [ "ようよう、これは皆さん。お洗濯にせいが出ますな", "おや、ジム爺さん。いい御機嫌だね。ああ分った。すてきな靴をはいて来たね、今日は……。どこで手に入れたんだい", "うへへ。これかね。実はおれが二週間かかって手縫いで作上げたのさ", "ジム爺さんに靴が縫えるかね", "こうなれば何でもやらあね。この皮が問題だて。実はな、古椅子に貼ってあった皮を引剥して、三日間脂を喰わせてよ、それから縫いに懸ったてえわけよ。底皮はな、古トランクよ。これは二足目だがね、どうもうまく恰好がつかない", "なるほど、そういえばちと不恰好だね。でもいいよ、ちゃんと役に立つんだから", "ところが、この前に作った靴は二日で駄目さ", "なぜ", "なぜったって、靴の皮と、古椅子古トランクの皮じゃ強さがまるっきり違うんだ。靴の裏は木にする方がいいかもしれねえな", "ふうん。爺さん。あたしにも一足作って来ておくれなね。お礼をするよ、本当に……", "へえ。何を礼に呉れるかね", "すばらしいものだよ。耳をお貸し" ], [ "へえっ。とんでもない。わしをからかう気かね", "からかやしないよ。本当の話だよ。代用品と違って、まじり気なしのぱりぱりだよ", "ううん……", "頼んだよ", "ふうん。とにかく作っては来るがね", "しっかりおしよジム爺さん。予約の印に、コーヒーを出してやるよ。うちへ寄んな", "コーヒーがあるのかい", "うちの亭主が、この間戦地から帰って来たときに置いていったのよ。純正コーヒーなの。軍隊にはうんとあるんだとさ", "砂糖があればいいんだが……", "砂糖も、とって置きのがある。しかもサイパン島の砂糖だよ、ジム爺さん", "お前のところには何でもあるんだな。お前心得違いをしてやしないか、ギャングの連中と取引があるのなら、おれは逃げるよ", "ばかおいいでない。サイパン島の砂糖をギャングが持っている筈がないじゃないか。これもこの間うちの亭主が持って帰ったんだよ", "へえ、いろんなものを持って帰るんだな", "ニューギニヤの胡椒もあるよ。それからこの次帰ってくるときには、マニラの葉巻と布とを持ってくるとさ", "ええっ。お前の亭主は、いつ帰ってくるんだって", "いつのことだか分りゃしないよ。籤引きで、うまく当ると帰って来られるんだとさ", "ふうん。籤に外れた奴は可哀想だな。町には帰省兵がぞろぞろ歩いているが、実際に町を調べてみると、出掛けたまんまのものばかりだ", "そうなんだよ。それは帰って来られるわけがないさ", "それはそうかもしれないが……", "ジム爺さん。本当は、戦場でうんと死んでいるんだってよ。太平洋に於ける損害はすごいもんだそうだよ。戦死する者と病気で斃れる者とを引けば、いくらも残っていないんだって。だから本当はこの近所も遺族だらけなわけさ", "ふうん。でも、ちゃんと手紙が来るといっていたぜ", "それは、日附なしの手紙を死ぬ前にうんと書かして置いて、それを順番に送ってくるんだよ。インキの古さ加減を見れば、ちゃんと分るよ", "だってお前、政府の発表によると、太平洋でこれこれの空母が沈没した。しかし艦長以下士官が百何十名、水兵が千何百名救助されたって、いつでもそういう具合に艦は沈んでも人命は殆んど救助されているんだぜ", "うちの人がいったよ。あれはインチキなんだって。皆とくの昔に藻屑になったり煙になったり雨になったりしているってさ。つまりそういう具合に生きているとか救われたとかいって置かないと、そんな危険な商売は御免だといって後から来る兵隊がいなくなる。だから救われたの何のとごま化し連発なんだって。うちの人はちゃんと戦場を見て来ているんだから、これくらい確かなことはないわけよ", "ふうん。するとわが国には幽霊軍隊がうんといるんだな", "そうなんだよ。それを知らさないでいる政府は、山賊の大将みたいに惨酷だよ", "お前の亭主も、この先どうなるか分らないなあ", "うちの人は大丈夫だよ。死ぬなんて、そんなへまはしないといっているよ", "出来るもんか、そんなことが", "いや出来ないことはないんだって。これは内緒だけれどね、うちの人はユダヤ人の前線視察員附になっているんだってよ。ユダヤ人についていれば、絶対に生命のところは安全なんだってさ。おれはこれからずっとユダヤ人の腰にぶらさがっているんだといっていたよ", "ちぇっ、それは汚ねえや、ユダヤ人附になるなんて。ユダヤ人と来たら鼻持ちならないぜ。彼等は戦争を起しておきやがって、弾丸の来るところへは出やがらない。戦死するのは非ユダヤのアメリカ兵ばかりだ。そしてユダヤ人めらは、専ら儲け商売に夢中になっていやがる。しかも物凄い儲けなんだとよ", "物価があがったり、物が姿を消したのは、ユダヤ人と日本軍とのおかげだよ。ああ、それで思い出した。靴を作ってくれるって本当だろうね", "おれはユダヤ人じゃないよ。生粋のアメリカ人だ。きっと作ってやる", "本当? じゃあ、さっきいったあれをあげるよ。ちょっと家へお寄りな" ] ]
底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房    1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1944(昭和19)年12月 ※「白堊館」と「白亜館」の混在は、底本通りです。 ※表題は底本では、「諜報中継局《ちょうほうちゅうけいきょく》」となっています。 入力:矢野重藤 校正:門田裕志 2014年12月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "いや、ここにいます。どうか僕にはお構いなく、大きな音を出して闘っていただきたい。一体、敵は何者ですか", "英国の重巡エクセターです", "エクセターなら、平気じゃないですか。向うは八吋砲、こっちは十一吋砲……" ], [ "おい、ヴォード少尉、すぐ二番砲塔へ", "よし来た。だが、僕は補充隊員だぜ", "所が、急に敵が殖えたのだ。軽巡アキレスとエジャクとの二隻が加わろうとしている" ] ]
底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房    1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003359", "作品名": "沈没男", "作品名読み": "ちんぼつおとこ", "ソート用読み": "ちんほつおとこ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-12-21T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3359.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月31日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "小林繁雄、門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3359_ruby_20400.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3359_20562.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ああ猿田さん。いいところへ来て下すったわ。……貴方この宇宙艇を操縦して月世界へ行って下さらない", "ああミドリさん、ちょっと……" ], [ "ね、猿田さん。行って下さるでしょうネ。貴方が操縦して下さらないと、あたしたちは十年目に一度くる絶好のチャンスを逃がしてしまうんですもの。ぜひ行って下さいナ。……貴方は前からこの宇宙艇を操縦したいといってらしたわネ", "ええ、お嬢さん。僕は決心しましたよ。僕がこの艇を操縦してあげましょう", "まあ待ちたまえ" ], [ "……まア蜂谷さん。まさか貴方はこれから十年して、あたしがお婆さんになるのを待って、月の世界にゆけとおっしゃるのではないでしょうネ", "……" ], [ "ねえ、ミドリさん……", "アラ、どうかなすって?" ], [ "どうも可笑しいんですよ。もう丸三日になるので、十二万キロは来ていなきゃならないのに、たいへん遅れているんです。始め試験をしたときのような全速度が出ないのです。よもや貴方の計算に間違いはないでしょうネ", "いえ、計算は三つの方法ともチャンと合っていますわ。間違いなしよ", "間違いなし。……するとこれは、何か別に重大なるわけがなければならんですなア" ], [ "密航者だ。……この男がいるせいで、この艇が一向計算どおり進行しなかったんだ。なぜ君はわれわれの邪魔をするんだ。君は一体誰だい", "まあそう怒らないで、連れていって下さいよ、僕は新聞記者の佐々砲弾てぇんです。僕一人ぐらい、なんでもないじゃないですか" ], [ "艇長さん、それは可哀想だなア。……じゃいいから、僕の食物を、この佐々のおじさんと半分ずつ食べるということにするから、このままにしてあげてよね、いいでしょう", "おれの食物の分量さえ減らなきゃ、あとはどうでも構わないよ" ], [ "やはり貴女の電子望遠鏡にうつった白点を真先に探険するつもりですよ。途中いろいろと観測しましたが、あれは大きな孔なんですネ。しかも地球にある階段に似たものが見えるんですよ。ひょっとすると、人間が作ったものかも知れませんネ", "ああ、もしや六角博士や兄が生きていて、その階段を築いたのではないでしょうか" ], [ "オイどうした。なにか階段のある穴のところまで行ったかネ", "ああ行って来ましたよ。素晴らしいところです。私は道傍で、こんな黄金の塊を拾った。まだ沢山落ちているが、とても拾いつくせやしません。早く行ってごらんなさい" ], [ "あッ、これが白い点に見えたところだ。ごらんなさい。附近の砂地とは違って、大穴が明いている。ホラ見えるでしょう。幅の広い階段が、ずッと地下まで続いている", "あら、随分たいへんだわ。……ねえ、蜂谷さん。あの階段は黄金でできているのですわ。猿田さんが持っていったのは、その階段の破片なんですわ。ホラそこのところに、破片が散らばっていますわ。ぶっかいたんだわ、まあひどい方……" ], [ "呀ッ、大変だ。艇が動きだしたぞ。これは一大事……。ま待てッ", "アラどうしましょう。……" ], [ "猿田飛行士が、艇にひとり乗って逃げだしたのです。はじめ猿田さんは、金塊を持って艇内に入って来ましたが、もう一度取りにゆくから一緒にゆけといって、私を先に地上に下ろすと、私の隙をうかがってドンとピストルで撃ったのです。今だから云いますが、あの人は恐ろしい殺人犯ですよ。私が砧村にある艇内に忍びこむ前のことでしたが、小屋の前に立っていた人(羽沢飛行士のこと)をピストルで撃ち、待たせてあった自動車にのって逃げるのをハッキリ見て知っているのです。全く恐ろしい人です", "ああ、それで分ったわ。猿田は月世界の黄金目あてに是非この探険隊に加わりたくて、羽沢さんを殺したんですわ。そして何喰わぬ顔をして、参加を申し出たのよ。それとも知らず、あたしが参加を許したりして……ああどうしましょう。もう地球へは戻れなくなったわ。ああ……" ], [ "おじさん。僕の父はどこに居ます。早く教えて下さい", "おお、あなたのお父さんとは……", "それ六角博士ですよ。僕は六角進なんです!", "ナニ六角進君。ああそうでしたか。隊長の坊ちゃんでしたか。まあよく月の世界まで尋ねて来られましたネ", "早く父に会わせて下さい。どこにいるのですか" ], [ "あらマア、不思議なことネ", "全く貴女がたの場合と同じような事件だったので。そのときも一行中に犬吠という慾の深い男がいて、月の世界の黄金塊をギッシリ積むと、隊長と私とを残して置いて、単身飛びだしたんです。私は犬吠が地球にかえったとばかり思っていたのに、これは実に不思議だ。どれ内部を調べてみれば何か分るだろう" ], [ "さあ、月世界よ、さよなら", "さよなら、また訪問しますわ" ], [ "おじさん、今度は大威張りで帰れるネ", "そうでもないよ、進君" ], [ "おう、ミドリさん、どうも困ったことができた", "まアいやですわ、艇長さん。何うしたのですの", "この旧型の宇宙艇は、スピードの割にとても燃料を喰うんです。このままで行くと、三十万キロは行けますが、あと八万キロが全く動けない勘定です。これは地球へ帰れないことになった。ああ……" ], [ "こう考えればいいのだ。――最初犬吠が乗り逃げした宇宙艇は、誤ってこの無引力空間に陥って、ここを漂っていたのだ。そこへまた今度、猿田の操縦した新宇宙艇が通りかかって、図らずもドーンと衝突した。そのときパイプが裂けて、動かなくなり、そのままこの無引力空間に漂い始めたんだ。一方、旧型の宇宙艇はこの衝突で跳ねとばされて、その勢いで月世界へ墜落していったものだろう", "実にうまく出来ている。悪人の末路は皆こんなものだ" ] ]
底本:「海野十三全集 第8巻 火星兵団」三一書房    1989(平成元)年12月31日第1版第1刷発行 初出:不詳 入力:tatsuki 校正:土屋隆 2005年11月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003373", "作品名": "月世界探険記", "作品名読み": "つきのせかいたんけんき", "ソート用読み": "つきのせかいたんけんき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-12-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3373.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年12月31日", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年12月31日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1989(平成元)年12月31日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3373_ruby_20108.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-11-23T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3373_20507.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-11-23T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ふみ子の首の万創膏をとって見たが、穴が相当深くあいていた。沃度丁幾をつけてあるが、おできのあとともすこしちがうような気がするんだが、大学の鑑定事項の中へ、穴ぼこが意味する病名を指摘するように書き加えて置いて呉れ給え", "不思議ですな、前の春江の場合にも、やっぱり首のところに万創膏が小さく貼ってあったじゃありませんか?" ], [ "すうちゃん。けさ、ふうちゃんが殺された時間は、いつ頃だったの", "さあ、よくはわからないけど、二時と三時との間だという話よ。どうしてサ" ], [ "オーさん。あんた知ってんの、言ってごらんなさい。言ってよ、なにもかも、さ早く", "いや、怖ろしいことだ。君、このカフェ・ネオンの三階に懸かっている電気看板は、ただの電気看板じゃないんだぜ。あいつは生きてる! 本当だ、生きてる。あの電気看板には人間の魂がのりうつっているのに違いないんだ。きっと、あいつだ", "なにを寝言みたいなことを言ってんのよ。早くおきかせなさいな、けさがた、あんたの見たということを……もしかしたら、オーさんは、けさがた此処の家へ……", "あの電気看板は、早く壊してしまうがいいぞ。おい、すうちゃん、あの電気看板はいつも桃色の線でカフェ・ネオンという文字を画いている。あれは普通の仁丹広告塔のように、点いたり消えたり出来ない式のネオン・サインなのだ。そしてあの電気看板は毎晩、あのようにして点けっぱなしになっている。僕んちはここから十三丁も離れているが、高台に在るせいか、家の屋上からあのネオン・サインがよく見える。それは朱色の入墨のように、無気味で、ちっとも動かない。また動くわけがないのだ、それだのに、けさ方、二時二十分にあの電気看板が、ほんの一秒間ほどパッと消えちまったのだ。そのあとは又元のように点いていたが……。停電なら、外に点っている沢山の電燈も一緒に消えるはずじゃないか。ところが、パッと消えたのはここの電気看板だけさ。二時二十分にふみちゃんが殺される。電気看板がビクリと瞬く――気味がわるいじゃないか。僕は、はっきり言う。あの電気看板には神経があって、人間の殺されるのが判っていたのだ。そして僕にその変事を知らせたのに違いないんだ。あんな怖ろしい電気看板は、今日のうちに壊してしまわなくちゃいけない" ], [ "春ちゃんを殺したのは、僕じゃない。ふうちゃんを殺したのも、亦僕じゃないんだ", "そんなことを訊いているんじゃないじゃないの。いやあなひとね。ここの中にはそりゃとても怖ろしい人が居るのよ。人間の生血でも啜りかねない人がネ。今にわかるわ、畜生", "すうちゃんは、人殺しをやった奴を知っているのかい" ] ]
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房    1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行 初出:「新青年」博文館    1930(昭和5)年4月号 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年6月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "オヤ、へんな鳩がいるぞ", "うちの鳩じゃないわ。どこのでしょう" ], [ "おや、あの鳩は、ちっともにげないぜ", "かわいそうに、いまにはねとばされるぞ" ], [ "ねえ、兄ちゃん。どっかのお家の鳩が、うちの鳩とあそびたいって、それでおりてきたのよ、ねえ", "うん――" ], [ "かわいそうに。お前はどうして死んだの", "これはきっと、あの電気鳩のせいだよ", "えっ電気鳩? 電気鳩ってなあに?" ], [ "お父さまがいるはずです。はやく助けて……", "ばんざあい" ], [ "なにがへんなのですか", "だって、電気鳩が、このほら穴にとびこむところをみたのに、いまこうしてさがしてみてもいないじゃないか", "おかしいね。これはどうやら、ほかにぬけ道があるらしいぞ" ], [ "ねえ、見世物のほうにいってみようよ", "兄ちゃん、あれがおもしろそうよ" ], [ "さあ、これからこの鳩にお嬢さんのおとしや、名前までもあてさせましょう。お嬢さん、どうぞこちらへあがって下さい", "だめだよ、ミドリ" ], [ "青子はおかしい。もっと、はっきりおしえて下さい。なに、青ではない緑だというのですか。なるほど、ミドリさん。ミドリさんとは、じつにかわいいお名前ですね", "あたったわ" ], [ "あなた、なぜ見世物のじゃまをしますか", "だって、ミドリをかくしたりして……", "まだ、じゃまをしますね" ], [ "いやだ。それよりもぼくの妹をどうしたんだ。はやく、ぼくをミドリにあわせてくれ", "ミドリはお前より一足さきに船にのりこんでらあ。むこうへいってからあわせてやる", "うむ、さては、妹もたるづめにされたのか", "いや、たるにいれるのは、お前みたいなあばれん坊だけなんだ。さあはいれ" ], [ "おや、あの犬は、この車をおっかけてくるんじゃないか", "うん、小僧がいるのをかぎつけたんだ", "めんどうだ。ピストルでうってしまえ", "まてっ、ピストルの音をきかれたらどうするのだ。石ころをなげつけてやれ" ], [ "石ころじゃだめだ。電気鳩をだそう", "よし、電気鳩だ" ], [ "おい、早くさがせさがせ。早くしないと、沖に見はっている日本の軍艦にしずめられちゃこまる", "だって、電気鳩がまさかこんな船ぞこまでとんでくるものですか", "やかましいやい。お前がぼんやりしているから、こんなことになるんだ" ], [ "あっ、電気鳩がいたぞ", "しめた。さあ、はやくつかまえろ" ], [ "電気鳩は、海のそこにしずんでしまったんだよ。うごかすきかいばかりのこっていても、なにも役にたたんじゃないか。あっはっはっ", "そうだ、それもそうだな。じゃ、こんなかばんを大事にしておくんじゃなかった" ], [ "兄ちゃん、どこへにげるの", "船にのって、すこしでも早く、この島からにげだすのだよ。海へ出れば、きっとどこかの船にであい、たすけてくれるよ" ], [ "兄ちゃん、もうひとつのボートはいらないのでしょう。おいてくればよかったのにねえ", "いや、のこしておけば、わる者どもが、それにのっておっかけてくるじゃないか" ], [ "ああ、そうだ。いいことがある", "いいことって、どんなこと", "電気鳩をつかってみよう" ], [ "ああすてきだ。ばんざあい", "ああよかったわ。電気鳩さん、ばんざあい" ], [ "それがねえ、たいへんなところなのだよ", "たいへんなところというと――" ], [ "この中の島なんだよ。あなたがたのお父さまがとりこになっているところは――", "えっ、とりこですって", "そうだ、敵のため、ここにつれこまれたのだ。敵はお父さまの発明した『地底戦車』のひみつをしりたくて、こんなひどいことをしたのだよ", "なぜ、助けださないのです" ], [ "ああ、これはトーチカだ", "えっトーチカ。トーチカって、あの――" ], [ "さあお父さま。すぐここをにげましょう", "ああ高一、それはだめだよ。敵兵にみつかってころされるばかりだ", "お父さま、大丈夫ですよ。ぼくは電気鳩をもっているんですから", "えっ、電気鳩……", "そうです。電気鳩さえあれば、どんな大敵がきてもだいじょうぶです。さあはやくにげましょう" ] ]
底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房    1989(平成元)年7月15日第1版第1刷発行 初出:「幼年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1937(昭和12)年8月~1938(昭和13)年4月 ※「羽ばたき!」と「海岸だ!」の二箇所のみでは、「!」は斜体となっています。 入力:tatsuki 校正:まや 2005年5月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003534", "作品名": "電気鳩", "作品名読み": "でんきばと", "ソート用読み": "てんきはと", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「幼年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1937(昭和12)年8月~1938(昭和13)年4月", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-05-26T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3534.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年7月15日", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年7月15日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1989(平成元)年7月15日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "まや", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3534_ruby_18299.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-05-06T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3534_18457.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-05-06T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "おい。兄弟、手を、手を貸した", "よし来た!" ], [ "危い! 待った待った。感電らしい。飛び込んだら、今度は君達がやられちまうぜ!", "あッ、然うだった。危い危い! しかし此儘見殺しが出来るもんじゃない。何とか、おい番頭さん、何とかしなければ――", "電気の元を切るんだ。おい番頭君、早く電流を断つんだよ!" ], [ "さあ、電気は切りました", "大丈夫だな。じゃ、早く――" ], [ "おい、早く蒲団を持って来ないか。由蔵はどうしたんだ、いったいあ奴は何処へ行っちまったんだ?", "あたしゃ知らないよ。交番へでも駆けてったんじゃ、ないかね?", "そんな筈はない。もう交番の旦那は夙くに見えてるんだ。由蔵に訊きたいことがあるって、待ってるんじゃないか。ええ、それより早く蒲団を持って来いというに――" ], [ "みなさん、お客様はもう死んでしまったんですか?", "助かるだろうというんですがね、まあ早く蒲団を持ってってやんなさい!" ], [ "……しかし、変だこと!", "何? 何処が変だね?" ], [ "今、変だこと! って云ったじゃないか?", "ええ、でもそれは――" ], [ "いえね、先刻男湯で沈んだお客の体が見つかったとき、それがわたしの鼻の先なんでしょ。わたし、びっくりしちゃって奥へ逃げ出そうとしたんです。すると、ちょうどその時、女の人が一人、裸のまんま、わたしと衝突ったんです。思わず、いけません、早くお帰んなさい――って、わたしが云いますと、その方、この女湯の方へ帰ってしまいましたが、その時もしやと思ったもんですから、私は、女湯の方は何ともありませんか、って訊ねましたんです。すると、いいえ、何事もありません、と云って、そのまま此方へ来た筈なんですのに――それで、今思い出したもんですから、ひょいと呟いたんですわ", "ほほう、では君の見たという女は、此の死んでいる女客じゃなかったかね? よく見て御覧!" ], [ "うむ、人が死んでいたろう? 男か女か?", "男です! しかも裸体です。どうも由蔵らしいと思われますが、足裏が白く爛れていました", "よしッ! 直ぐ行こう、案内をたのむ!" ], [ "御苦労さまで、どうも。所で赤羽さん、あの感電騒ぎをやった井神陽吉という男ですな。大分意識も恢復して来たようですが、先生頻りに帰りたい帰りたいと言うのです。言ってきかせても解らないので閉口してますが、どうでしょうな、あんまりあの男の意志に逆らうと、心臓が昂進して悪いのですが、お差支えなかったら、あの男を一応帰らしたらと思うんですが――。ええ、もうそりゃ決して逃げられるような身体じゃありませんよ", "じゃあ帰してやりましょう。警察の者を二三人附き添わしてやって下さい。然し一応身元調べをすましたんでしょうな?", "身元調べでは先刻注射の後で、前の交番の村山巡査にやって貰っときましたよ。村山君、ちょっと先刻の調査を見せて呉れませんか?" ], [ "これだ、犯人は判った!", "えッ、犯人が判りましたか? あの、井神陽吉が、では、犯人なのですか?" ], [ "……束髪の女装をした奴で、名は樫田武平とね、然うだろう?", "おお、よく御存じで。此間一度、軟派の事件で始末書を取った奴です" ] ]
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房    1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行 初出:「新青年」博文館    1928(昭和3)年4月号 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年6月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001229", "作品名": "電気風呂の怪死事件", "作品名読み": "でんきぶろのかいしじけん", "ソート用読み": "てんきふろのかいししけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1928(昭和3)年4月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-08-05T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1229.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第1巻 遺言状放送", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年10月15日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年10月15日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年10月15日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "小林繁雄、門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1229_ruby_18729.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-06-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1229_18846.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-06-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "おい、来たぞ", "来たか。通行人はどうだろう", "あっ、向うの屋上から青灯をたてに振っている。幸い通行人は一人もないというのだ", "うむ、うまくいったな" ], [ "おう、どうしたどうした", "いや、酔払いが、この堀の中に落っこって、もうすこしで土左衛門になるところだったよ。だいぶ傷をしているらしいから、その辺の病院まで搬んでくれないか", "うん、よしきた" ], [ "やあ、どうも御苦労さま。署へかえって、熱いものでも一杯喰べようじゃないか", "じっとしていたんで、風を引いてしまったよ。はっくしょい" ], [ "おお、お前さんでしたね、わしのところへ知らせて下すったのは。そして吉も助けてもらって、どうも今度は、たいへん御厄介になって済みませんです", "いや、なんでもありゃしません", "いずれ後から、御礼はいたします", "その御心配には及びませんよ" ], [ "お礼には及びませんよ。それに、私は名刺なんか持っていないんです。月島二丁目に住んでいる正木正太という左官なんです", "ええっ、左官。するとお前さんは、近頃のコンクリート工事なんかやったことがあるのかね", "ええ、すこしは覚えがあるんですが、大した腕でもありませんよ。なにしろ仕事がなくて、毎日、あっちこっちをうろついているのですからね", "ふふーン、そうかい。そういうことなら、正太さんとやら、わしは一つお前さんに相談があるんだがね。いや、もちろんうちの者を助けてくれたお礼心から、ちとばかりお前さんに儲けさせようというんだ。実はね、ま、こっちへ来なさい" ], [ "幸いお前さんが、左官をやれるというから、これはもっけのことだ。これも因縁だと思うから、一つやって見ては", "でも、なんだか気味がわるいですね。秘密の工事なんて", "いや、そう思うだけのことで、やっていることは普通の工事なんだ。ただ行くときと、帰るときに、目隠しをされるというだけのことさ。手間賃は一日七円だ。普通の倍だぜ", "だって、いくら吉治さんが怪我でゆけないとしても、全然新顔の私が行ったんじゃ、先方で入れないでしょう" ], [ "あれで見ると、某大国もやっぱり日本に敬意をもっていないわけじゃないんだね", "うん、僕も平生すこし悪口をいいすぎたよ。あの記念塔は写真で見たが、高さが五十メートルもあるというから、とてもでっかいものだよ。塔下の一番太いところの直径が二メートル近くもあるそうだからね", "ほほう、そうか。たいへんな物だね。そんな大きなものをどんな風にして日本まで持ってくるつもりだろうか", "さあ。もちろん塔の途中からいくつかに小さく折って持ってきて、こっちで、接ぎあわすんだろうよ。そのままじゃ、とても船にも載せられないし、陸へあげても列車にも積めないし、町を引張りまわすことも出来やしないからね" ], [ "これはどうも変だね。某大国はこの頃になって急に日本を好意攻めにするじゃないか。忠魂記念塔を新調して贈ってくれるというのさえ大変なことだのに、その上、昨年建造したばかりの精鋭マール号をその荷船として派遣するなんて、ちと大袈裟すぎると思わないか", "時局がら新造艦マール号の性能試験をやる意味もあるんじゃないかね", "そんなことなら、なにも極東まで来なくてもよさそうなものだ。これは何か、日本近海の測量を目的にしているのじゃないかな", "そんなら何もマール号を煩わさずとも、中国艦隊にやらせばいいことじゃないか", "どうも分らん。しかしマール号の極東派遣をうっかり喜んでいられないということだけは分る" ], [ "なんとかしてその漆喰の見本を、せめて定性分析の出来るくらいの少量でも持ってこようと思いましたが、監視が厳重なので控えました", "爪の間に入れるとか、頭髪の中にこぼすとか、なんとかいい方法がありそうなものじゃないか", "そんなことは向うで百も承知ですよ。いよいよ仕事が終ったというときには、僕たちは強制的に風呂の中に入れられてしまうのです。その風呂には、女がいましてね。僕たちの頭のてっぺんから足の爪まですっかり洗ってくれるのです。爪はきれいに截った上、御丁寧にブラッシュをかけるという始末です。外へ出ると、服はすっかり着がえさせられます。履物やマットまで変るのです。恐らく厳重を極めていますよ", "ふーむ、莫迦に細心にやっているんだね" ], [ "ねえ帆村君。これはあまり大きな声でいえないことだが、君がいま行っている仕事場は、ひょっとすると何かわが警備関係の防空室とかいう筋合のものではないのかね", "ええ、それは――", "もしそうだとすると、君は自国の機密建物を調べていることになって、大損をするよ", "そうです。貴官の仰有るとおりの疑問を、僕も持ちました。僕も実は最初からそれを考えていたんです。しかし僕はあの建物のが、すくなくとも我が警備関係のものではない証拠をつきとめたのです", "ほほう、それはよかった。で、その証拠というのは、一体どんなものだ" ], [ "その証拠というのは、臭いなんです", "えっ、臭いとは", "臭いというものについて、一般の人はわりあい不注意ですよ。しかし臭いの研究というものは莫迦にならぬものです。日本人が寄れば、なんとなく沢庵くさいといわれます。これはつまり日本人の身体からは、食物の特殊性からくる独特の臭いが発散しているのです。日本人同士では、お互に同じ沢庵臭をもっているのでそれと分りませんが、外国人にはそれがたいへんよく匂う", "うむ、なるほど。で、君は例の仕事場でもって、何か特別の臭いを嗅ぎつけたのかね", "そうです。僕はトラックを下りて、廊下をひったてられてゆくときに、早くもその独得の臭いに気がつきました。浴場で着物を着がえたりするときにも気がつきました。それから監督の傍によってもその臭いが感ぜられました。断じてあの場所は、日本人の経営している場所ではありません", "それは大変だ。でもその監督は日本人じゃないのかい", "中国人ですよ。浴場にいる女も、やはり中国人だと思います", "じゃ、それは中国人の工場でもあるのかね", "いや、臭いというやつは、もっともっと複雑です。あの場所の匂いというのがあります。それはどうも、あのチョコレート色の塗料のせいだと思いますが、これは些か僕の自信のある研究なんですが、あの建物は某大国関係のものだと思いますよ" ], [ "それは偉大な発見だが、しかし惜しいことに、この場所が分らない", "場所は分らぬことはないと思います。明日僕の後を誰かにつけさせ、箱自動車の後を追跡すればいいではありませんか", "なるほど、そうやればいいわけだね" ], [ "なんだ。今ごろになって、そんなことを聞くのか。分っているじゃないか。これは日本の大砲じゃないよ", "ふむ、するとどこかの国の大砲だな。家の中にこんな秘密の砲台を拵えて、一体どうする気だ", "そんなことを俺が知るものかい。俺もお前と同じように、傭われている身分だよ。なんでもいいから、お金を下さる御主人さまのいいつけ通りにしていれば間違いはないんだ", "うむ、やっぱりそうか。じゃ、貴様も使われているんだな。俺はもう今から仕事をしないぞ。日本の国内にこんな物騒なものを据えつけるような卑怯な国の人間に、いい具合にこきつかわれてたまるものか", "なんでもいいから早くやれ、さもないとお前の生命は無いぞ。ぐずぐずすればこっちの生命まで危いわ" ], [ "貴方、なぜ早くやりませぬか。云うとおりしないと、この大砲を撃ちますよ。この砲口はどこを狙っていると思いますか。これを撃つと、大きな砲弾がとんでいって、或る重要な官庁を爆破してしまいます。そうすると、日本の動員計画も作戦計画も、なにもかも灰になってしまって、日本は戦争することが出来なくなります。どうです、撃った方がよいですか", "卑怯者。日本人には、そんな卑劣な陰謀をたくらむ奴なんかいないぞ", "――それとも平和的に解決しますか。わたくしの政府は、いま日本政府に平和的条約を申込んであります。それが聞きとどけられるようなら、これを撃たないで済むのです。貴方がいま乱暴して、わたくしたちの云うことを聞かないと、やむを得ずこの大砲を撃たねばなりません。どっちにしますか" ], [ "大佐どの、大変であります。いま九機から成る日本の重爆が現れて上空を旋回しています。どうやらこの攻城堡塁が気づかれたようですぞ", "なに、重爆が旋回飛行をやっているって? それは本当のことか", "本当ですとも。ああ、あのとおり聞えるではありませんか、敵機の爆音が……", "うむ、なるほど。これはいけない。東京要塞長はどこにいられるだろう。すぐ指揮を仰がねばならぬ" ] ]
底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房    1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行 初出:「サンデー毎日」毎日新聞社    1938(昭和13)年1月 入力:tatsuki 校正:花田泰治郎 2005年5月6日作成 2009年7月31日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003525", "作品名": "東京要塞", "作品名読み": "とうきょうようさい", "ソート用読み": "とうきようようさい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「サンデー毎日」毎日新聞社、1938(昭和13)年1月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-05-31T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3525.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年4月15日", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年4月15日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "花田泰治郎", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3525_ruby_18322.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-07-31T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3525_18465.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-07-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "にゃーお。う、う、う", "これがほしいんだろう。さあ、おたべ" ], [ "お母さんは、あんなことをいっているよ。お母さんの目の方が、今日はどうかしているんでしょう。目がかすんでいるんじゃない", "あら、そうかしら。もっとも、もう春になりかけているんだから、のぼせるかもしれないからね" ], [ "なるほど、たしかにこの中に、猫みたいなものがはいっているぞ", "そこで、ふろしきの中をのぞいてごらん" ], [ "現代世界のふしぎ、透明猫あらわる", "これを見ないで、世界のふしぎを語るなかれ", "シー・エッチ・プルボンドンケン博士曰く、“透明猫は一万年間に一ぴきあらわれるものであるんである”と" ], [ "いやです。ぼくはいやです", "ばかだねえ、お前さんは。こんなすばらしい儲け口は又とないよ。どうやすく見つもっても億円のけたのもうけ仕事だ。それをにがす法はない。さあ、透明人間でやってください" ] ]
底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房    1992(平成4)年2月29日第1版第1刷発行 入力:海美 校正:もりみつじゅんじ 2000年1月22日公開 2006年7月25日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000879", "作品名": "透明猫", "作品名読み": "とうめいねこ", "ソート用読み": "とうめいねこ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「少年読物」1948(昭和23)年6月", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-01-22T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card879.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第13巻 少年探偵長", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1992(平成4)年2月29日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "海美", "校正者": "もりみつじゅんじ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/879_ruby_23880.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-07-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/879_23881.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-07-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "やあ、そのとおり、それが図星でございますよ。余――いや小生はこのたびぜひとも博士にお願いをして、毒瓦斯をマスターいたしたいと決心しまして、そのことで遥々南海の孤島からやって参りました", "毒瓦斯の研究か。そんなむずかしい金のかかるものは、お前の柄じゃないぞ", "いえ博士、そう仰有らないで、是非にお願いいたします。今こそ孤島に小さくなっていますが、昔日の太陽を呼び戻すには、猛毒瓦斯を発明し、その力によってやるのでないと全く見込みなしとの結論に達し、博士にお縋りに参りました。ぜひともこの醤を哀れと思召し……その代り、お礼の方はうんときばり、博士のお好みのものなれば、ウィスキーであろうとペパミントであろうと……", "そうか。それは本当じゃな。男の言葉に二言はないな――というて相手がお前じゃ仕様がないが……" ], [ "おい醤買石、今すぐわしは、お前の居る屋上へ上っていくから、すこし待って居てくれ。しかしお前も、こんどというこんどは余程懲りたと見え、屋上から、蜘蛛に見まがうような擬装のマイクと高声器をつり下げて、わしに話しかけるなんて、中々機械化してきたじゃないか、はははは", "いや、ちとばかりソノ……", "しかし、この無細工な蜘蛛を屋上からこの人通りの多い通りに吊り下ろすなんて、やっぱりお前は、垢ぬけのしないこと夥しい。この次からは、もっといい智慧を働かすがいい" ], [ "や、それはもう大丈夫です。御承知のとおり、昔からイギリスと深い関係がありますものですから、武力こそ瘠せ細っていますが、黄金であろうとダイヤモンドであろうとウィスキーであろうと、そんなものは、うんとストックがあります", "ほ、ん、と、ですか", "もちろん本当です。国破れて洋酒ありです。尤も早いところストックにして置いたのですがね……しかし博士、毒瓦斯の方のことですが……", "うん、毒瓦斯なんて、他愛もないものじゃ。ウィスキーになると、そうはいかん", "いや博士、ウィスキーなんて浴びるほどあります。毒瓦斯の研究となると、そうはいかん", "よろしい、バーター・システムで取引しよう。一体どんな毒瓦斯が入用か。フォスゲン、ピクリンサン、ジフェニルクロルアルシン、イペリット、カーボンモノキサイド、どれが欲しいかね" ], [ "ほう、これじゃ気に入らんのか", "博士。余――いや私の欲しいものは、そんな従来から知れている毒瓦斯ではありません。そんな毒瓦斯は、吸着剤の活性炭と中和剤の曹達石灰とを通せば遮られるし、ゴム衣ゴム手袋ゴム靴で結構避けられます。そういう防毒手段のわかっている毒瓦斯は、今じゃどこへ持っていって撒いても、効目がありません。もっとよく効く、目新らしいものがいいですなあ" ], [ "わしのところには、どんなものでもあるよ。今お前のいった防毒面をどんどん通して、今までの防毒面じゃ役に立たない毒瓦斯があるがこれはどうじゃ", "それはいいですなあ。しかしそれは○○○、○○○○○じゃないのですか", "ほう、それを知っているか。この種のものはドイツと○○だけが持っているので、従来の防毒面ではまるで防ぐ力がない", "しかし博士、それも駄目ですよ。なぜといって、他の国には無いかもしれないが、ドイツなどには、その超毒瓦斯を防ぐ仕掛をちゃんと持っている。そういう防ぐ手段のあるものは全然駄目です。私は、全然防ぐ用意のない毒瓦斯が欲しいのです。博士、ぜひお力をお貸しねがいたい" ], [ "ほうほう、だいぶん熱心じゃが、それもあるにはある。しかしこれを教えるには、大分高価につくが、いいかね。まずウィスキーならダース入の函単位でないと取引が出来ないが……", "ダース函でも何でも提供しますとも", "ほい、お前にも似合わん、えらく気が大きいじゃないかい", "博士、わしの報復成るかどうかという瀬戸際なんです。あに真剣にならざるを得んやです", "そうか。なら、よろしい。ちょっとここに出してみようか", "あ、待ってください。それはあぶない。ここで出されたんでは、私が死んでしまうじゃないですか。そればかりは遠慮します", "なにをうろたえとるか。出すといっても、本当の毒瓦斯を出すとはいっておらん。こういう毒瓦斯があるという話をしようかという意味でいったのじゃ", "ああ、そうでしたか。やれやれ安心しました。とにかく博士と来たら、興が乗れば、敵と味方との区別なんかもう滅茶苦茶で、科学の力を残酷に発揮せられますからなあ。これまでに私は、博士のそのやり方で、ずいぶんにがい体験を経て来たもんです", "醤よ、科学は残酷なものじゃよ。わしはそう思っとる。だから人間は出来るだけ早く科学を征服しなければならないのじゃ。ドイツに於ては――", "博士、ドイツの話はもう沢山です。それで私のお願いは、ここに立っている腹心の部下で、新たに毒瓦斯発明官に任じました燻精を一週間だけお預けいたしますから、その期間にこの男に対し、新毒瓦斯研究の方針とか企画とか設備とか経費とか、ありとあらゆることを吹きこんでいただきたい。私は、この男の帰還を待って、早速全世界覆滅の毒瓦斯を発明する鬼と化して、全力をあげ全財産を抛げうって発明官と一緒にやるつもりです" ], [ "……ふーん、どうもおかしい。燻精、お前のんでみろ", "はい" ], [ "はい、のみました。実にこたえられない、いい酒ですなあ", "そうかね。わしには、それほどに感じないが……", "博士、それは先生のお身体の工合ですよ。どこかどうかしていられるのです。糖分が出ているとか、熱があるとかでしょう。私には、十分うまいですよ。やっぱりイギリス製のウィスキーだけありますねえ。これは英帝国盛んなりし時代の生一本ですよ。間違いなしです", "相当にうるさいね、君は", "いや、酔払ったんです。これもこの酒の芳醇なる故です。そこで先生、酒の実験はこのくらいにして、お約束ですから、かねがねお願いしてありました毒瓦斯研究の指導を早速お始めいただきたいのですが……", "ふん、毒瓦斯研究の件か" ], [ "では醤との契約に基き、正しく履行するであろう。神経瓦斯について講義をする", "あ、その神経瓦斯というものなら、既にドイツ軍がエベンエマエル要塞戦に使ったということを聞いています。それはもう陳腐な毒瓦斯で……", "ドイツ軍が使ったという話のある神経瓦斯は、一時性の神経麻痺瓦斯だ。それを嗅いだベルギー兵は、恍惚となって、しばらく何も彼もわからなくなった。もちろん、機関銃の引金を引くことも忘れて、とろんとしておった。気がついたときには、傍にドイツ兵がいたというのだ。これは一時性の神経瓦斯だ。一時性では効力がうすい。これに対してわしが考えたのは、持久性の神経瓦斯だ。これをちょっと嗅ぐと、まず短くても一年間は麻痺している。人によっては三年も五年もつづく。そうなると、その患者はもはや常人として責任ある任務をまかせて置けなくなる。どうだ、すごいだろう" ], [ "それは、生理学からいうと、どんな作用をするのですか", "つまり、脳細胞を電気分解し、その歪みを持続させるのじゃな", "はあはあ、脳細胞を電解して歪みを持続させる……、それはおそろしいことだ。しかし電解させるというのなら、それは怪力線の一種ではありませんか。毒瓦斯とはいえないでしょう" ], [ "怪力線の如きものでは、ぴりぴりちかちかと来て、相手に知れるから、よろしくない。もっと緩慢なる麻痺性のものでないといけぬ。わしの作った神経瓦斯は、全然当人に自覚がないような性質のものだ。臭気はない、色もなくて透明だ、もちろん味もない、刺戟もない。もちろん極く緩慢な麻痺作用を起すものだから、はじめから刺戟を殺してあるのだ。しかもその後いつまでたっても当人は、瓦斯中毒になっているという自覚が起らないのだ。つまり常人と殆んど変りない精神状態におかれてあって、しかも脳の或る部分が日と共に完全麻痺に陥る。そうなると、たとえば、にこにこ笑って人と話をしていながら、手に握ったナイフで相手の心臓の真上をぐさりと刺すといったようなことを、一向昂奮もせず周章てもせず、平気でやる。まあ、そういう最も常人らしい狂人に変質させるのが、わしのいう持久性神経瓦斯の効果じゃ。どうじゃな。君もそういう方向のものを考えてみてはどうかな", "す、すばらしいですなあ" ], [ "さあ、もうそれだけのヒントを与えてやれば、お前は醤のところへ帰って、早速発明研究を始めていいじゃろう。さあさあ、とくとく醤の陣営へ戻れ", "はい。では、引揚げましょう。永々と御配慮ありがとうございました", "いやなに、たった十分間の講義だけじゃ。しかしあのウィスキーにペパミント百四十函は、授業料としては至極やすいものじゃ", "あれだけの夥しい洋酒を捧げても、まだ先生の方が御損をなさいますか", "それはそうじゃ。甚だわしの方が損じゃ。帰ったら醤に、そういっていたと伝えてくれ。しかし神聖なるバーター・システムの誓いの手前、こっちでもぬかりなく按配しておいたと、あの醤めにいってくれ。さあ、引取るがよろしかろう", "はいはい承知いたしました" ], [ "ああそれはどうも。こっちに通路があるとは、全く存知ませんでした", "こっちは特別の客だけしか通さないんだ。暫く誰も通さなかったから、顔に蜘蛛の巣がかかるかもしれない。手で払いのけながら、そろそろ歩いていきたまえ", "いや、御親切に、ありがとう", "どういたしまして。はい、さようなら" ], [ "おお帰ってきたか。して、金博士から、すばらしいネタを引き出したか", "はい、持久性の神経瓦斯……", "叱ッ。これ、声が高い!" ], [ "あれは何ですか、あの煙突は", "試作の毒瓦斯が空高く飛び去るためだ", "毒瓦斯は元来空気より重きをよしとするのでありまするぞ。煙突から飛び立つような軽い毒瓦斯てぇのはありません", "いや、その重い毒瓦斯の逃げ路も作っておいた。向うに見える太い鉄管は、海面すれすれまで下りている。重い毒瓦斯は、あの方へ排気するんだ。風下はベンガル湾だ。海亀とインド鰐とが、ちかごろ身体の調子がへんだわいといいだすかもしれんが……" ], [ "おい燻精。まだ例の神経瓦斯は出来ないか。出来たら、余に早く見せてくれ", "醤委員長よ。今度こそすばらしいものが出来ますぞ。瓦斯密度が一・六〇〇〇四です。理想的な密度です。おどろいたでしょう", "一・六〇〇〇四? よくわからないねえ", "精密なること、金博士の製品を凌駕しています。かかる精密なる毒瓦斯は……", "精密よりも、効目の方が大切だぞ", "いや、この精密度なくして、あの忍耐力のつよい敵兵を斃すことは出来ん。あ、また霊感が湧いた。おおそうか、この毒瓦斯に芳香をつけるのだ。鰻のかば焼のような芳香をつけるのだ。無臭瓦斯よりもこの方がいい。敵は鼻をくんくんならして、この瓦斯を余計に吸い込むだろう。ああなんというすばらしい着想点だろう! 鰻のかば焼の外に焼き鳥の匂い、天ぷらの匂い、それからライスカレーの匂い等々、およそ敵兵のすきな香を、この毒瓦斯につけてやろう。なんと醤委員長、すばらしい発明ではないですか", "なるほど、積極的吸入性のある毒瓦斯じゃな" ] ]
底本:「海野十三全集 第10巻」三一書房    1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1941(昭和16)年9月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:まや 2005年5月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003346", "作品名": "毒瓦斯発明官", "作品名読み": "どくガスはつめいかん", "ソート用読み": "とくかすはつめいかん", "副題": "――金博士シリーズ・5――", "副題読み": "――きんはかせシリーズ・ご――", "原題": "", "初出": "「新青年」1941(昭和16)年9月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-06-23T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3346.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月31日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "まや", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3346_ruby_18546.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-05-15T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3346_18552.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-05-15T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ああカーボン卿、ドイツ空軍のために、こんなに行き亘って爆撃されたのでは、借間が高くなって、さぞかし市民はたいへんであろう", "おお金博士。仰有るとおりです。借間の払底をはじめ、そのほかわれわれイギリス国民を困らせることが実に夥しいのです。このときわれわれは、はるばる東洋から博士を迎え得て、千万トンのジャガ芋を得たような気がいたしまする", "ジャガ芋とは失礼なことをいう、この玉蜀黍め" ], [ "この空爆の惨害を、余にどうしろというのかね", "いやいや、余は何とも申したわけではない。博士どの。イギリス上陸のとたんに、ぜひとも御注意ねがわねばならぬことが二つありまする", "二つ? 何と何とかね", "一つは、さっき申し遅れましたが、味方の撃ちだす高射砲弾の害。もう一つは、おそろしきスパイの害。――とにかく街上でもホテルでも寝床の中でも、おそるべきスパイが耳を澄して聞かんとしていると思召して、一切語りたもうなよ", "本当かね。まるでわが上海そっくりじゃ", "故に、物事を、スパイや敵国人のため妨害されないで、うまく搬ぼうと欲すれば、それ、決して何人にも機密を洩らすことなく、自分おひとりの胸に畳んで、黙々として実行なさることである", "お前さんのいうことは、むずかしくて、余には分らんよ", "いや、つい騎士倶楽部風の言葉になりましたが、要するに、自分の思ったとおり仕事をやりとげるためには、機密事項は一切お喋りなさるなという忠言です", "なるほど、壁に耳あり、後にスパイありというわけじゃね。よろしい。今日只今より、大いに気をつける。尤も、わしはスパイ禍をさけることなら、上海でもって、相当修業して来ておりますわい", "それを伺って、安心しましたわい" ], [ "さあ、今のうちに急いで参りましょう", "はて、余はどこへ連れていかれるのじゃな", "行先は、今も申したように、スパイを警戒いたして申せませぬ。しかし、向うへ到着すれば、そこが何処だかお分りになりましょう。グローブ・リーダーの巻三には、『ロンドン見物』という標題の下に、写真入りでちゃんと詳しく出て居ります場所です", "ありゃ、行先はロンドンですかい", "ロンドン? あっ、それをどうして御存知ですか。博士は、読心術を心得て居らるるか、それともスパイ学校を卒業せられたかの、どっちかですなあ", "あほらしい。お前さんが今、ロンドン見物の標題で云々といったじゃないか。お前さんがたのここんところは、連日連夜のドイツ軍の空爆で、だいぶん焼きが廻っていると見える" ], [ "さあ、ぼつぼつ始めましょう", "各自、お好きなように、セルフ・サーヴィスをして頂きましょう" ], [ "独本土上陸作戦、それは英本土上陸作戦の誤植――いや誤言ではないか", "否、断じて、独本土上陸作戦である", "ほほっ、ゴンゴラ総指揮官の精神状態を医師に鑑定せしめる必要ありと思うが、如何に", "いや、もう一つその前に、全国の空軍基地に対し、単座戦闘機にゴンゴラ将軍を搭乗せしめざるよう厳重命令すべきである", "その必要はあるまい。なぜといって、ゴンゴラ将軍は、幸いにして飛行機の操縦が出来ないから、安心してよろしい" ], [ "なにも、そんな危い芸当をやらないでも、もっと確実に、しかも安全にドイツをやっつける方法があるんだ", "そんなことはないでしょう。自分は総指揮官の作戦に同意する", "それは愚劣きわまる。よろしいか。わしの考え出した作戦というのは、至極簡単明瞭である。それは、ドイツに対して『わがイギリスは貴国を援助するぞ』と申入れれば、それでよろしいのじゃ", "なんだ、それは。敵国ドイツを助ければ、わがイギリスはいよいよ負けるばかりだ", "それだから貴公は、駄目だというんだ。ちと歴史を勉強しなされ、歴史を。今度の世界戦争以来、わがイギリスが援助をすると申入れた先の国で、滅びなかった国があるかね。ベルギーを見よ、和蘭を見よ、チェッコを見よ、ポーランドを見よ、それからユーゴを見よ。ギリシヤを見よ、蒋介石を見よ。だから、われわれイギリスが、『ドイツよ、お前を助ける』と申入れただけで、ドイツも亦、滅びざるを得ないであろう。これ、歴史上の事実から帰納した最も正確にして且つ安全な作戦じゃ" ], [ "ああ、それくらいのことなら、至極簡単にやって見せるよ", "えっ、本当に出来る見込みがありますか", "ありますとも。そんなことは、人造人間戦車の設計などに較べれば訳なしじゃ", "おお、それが真実なれば、吾輩は天にものぼる悦び――いや、とにかく大きな悦びです", "しかしのう、ゴンゴラ大将。それについて、余は、篤と貴公と打合わせをしたいのじゃが、この席ではなあ。つまり、こう沢山の人々の耳に入れては、それスパイに買収せられた耳も交っているかもしれない。二人切りになれないものかな", "ああ、そのことなら、吾輩としても、願ってもないことです。よろしい。では他の将軍たちを退場させましょう。おい諸君。君たちは一時別室へ遠慮せよ" ], [ "さあ、もう一杯、いきましょう", "すこし廻りすぎたが、もう一杯頂戴するか" ], [ "どっちでも結構ですが、一つ早いところ上陸して貰いたいですねえ。ドイツ兵のいる陸地へ、こっちからいって上陸したということになれば、そのニュースは、ビッグ・ニュースとして全世界を震駭し、奮わざること久しきイギリス軍も勇気百倍、狂喜乱舞いたしますよ", "狂喜乱舞するかな。それはどうかと思う", "いや、狂喜乱舞することは請合いです", "そうかね。そこのところは、余にはよく呑みこめないが、とにかく、上陸作戦をやるについて、予め種々、貰うものは貰って置きたい", "ああ、これは申し遅れて失礼をしました。成功の暁は、博士の測り知られざるその勲功に対し、いかなる褒賞でも上奏いたしましょう。いかなる勲章がお望みかな。ダイヤモンド十字章はいかがですな。また、何もイギリスの勲章に限ったことはない。和蘭の勲章はいかが、それともポーランドの勲章は。エチオピヤの勲章でもいいですぞ。それともフランスの勲章にしますか", "勲章など貰っても、持って帰るのに面倒だから、いやじゃ。それよりも、当国逗留中は、イギリス製のウィスキーを思う存分呑ませてくれればそれでよろしい。今のうちに呑んでおかないと、きっとドイツ兵に呑まれてしまうからね", "縁起でもありませんよ", "しかしのう、ゴンゴラ将軍。さっき余が、貰うものは貰って置きたいといったのは、そんなものではないのじゃ", "え、勲章の話ではなかったのですか", "東洋人というものは、お主のように、左様に貪慾ではない。余の欲しいのは、白紙命令書だ。それを百枚ばかり貰いたい" ], [ "金博士は、本日午前十時、セバスチァン料理店に現れ、午後二時まで四時間に亘り昼酒をやり、大いに酩酊せり", "ふん、大いにやっとるな" ], [ "金博士は、本日午後二時十五分より、カセイ・ホテルに現れ、飲酒三時間に及べり。午後五時三十分、退出す", "よく飲むなあ。身体をこわさなきゃいいが……" ], [ "金博士は、本日午後五時四十五分、ピカデリー街に於て、数名の東洋人に襲撃せられ……", "おや、これはニュースらしいニュースだ" ], [ "おお、お主はゴンゴン独楽のゴン将軍じゃったな。今聞いてりゃ、聞いちゃいられねえことを余に向っていったな", "吾輩は、三週間、いらいらして暮した。その間博士は酒ばかり飲んで暮した。例の仕事には、すこしも手がついていないではないか" ], [ "これは、素晴らしい新兵器だ。一人乗りの豆潜水艇のようだが……", "将軍よ。これは初めて貴官と会見した日、宿に帰ってすぐさま設計した渡洋潜波艇だ", "ああ実に素晴らしい。さすがは金博士だ。これを如何に使うのですかな", "これはつまり、一種の潜水艇だが、深くは沈まない。海面から、この艇の背中が漸く没する位、つまり数字でいえば、波面から二三十センチ下に潜り、それ以上は潜らない一人乗りの潜波艇だ", "ふむ、ふむ", "これを作ったわけは、如何なる防潜網も海面下二メートル乃至十数メートル下に張ってあるから、普通の潜水艦艇では、突破は困難だ。また普通の潜水艦艇では、機雷にぶっつけるかもしれないし、警報装置に引懸って所在が知れるし、どうもよくない。そこでこの渡洋潜波艇は、海面とすれすれの浅い水中を快速で安全に突破するもので、つまり水上と防潜網との隙間を狙うものである", "ほう、素晴らしいですなあ", "しかし、これは試作しただけで、余は取り捨てたよ", "おや、勿体ない。使わないのですか", "駄目じゃ。やっぱり相手方に知れていけないのじゃ。つまり海面と防潜網との隙間を行くものではあるが、こいつを何千何万隻とぶっ放すと、彼岸に達するまでに、彼我の水上艦艇に突き当るから、直ちに警報を発せられてしまう。従ってドイツ本土上陸以前に、殲滅のおそれがある。これはやめたよ", "惜しいですなあ。すると、これは取りやめて、以来自暴酒というわけですか", "とんでもない。余はイギリス人とは違うよ。余は既に、ちゃんと自信たっぶりの新兵器を作った", "それは、どういう……", "莫迦。現行兵器の機密が、他人に洩らせるものか", "でも、吾輩は総指揮官……", "総指揮官とて信用は出来ない。とにかく余は貴官と約束したところに従い、現実に独本土上陸をやって見せた上で帰国しようと思う。百の議論よりも、一の実行だ。実績を見せれば、文句はないじゃろう", "なるほど。すると博士御発明の独本土上陸用の新兵器は、目下続々と建造されつつあるのですな" ], [ "その建造は、二週間前に終った。それから、搭乗員の募集にちょっと手間どったが、これも一週間前に片づき、目下わが独本土上陸の決死隊二百名は、刻々独本土に近づきつつあるところじゃ。これだけは話をしてやってもええじゃろう", "人員二百名は少いが、とにかく刻々独本土に近づきつつあるとは快報です。大いに期待をかけますが、果してうまくいくですかな", "なにしろ、独本土へ上陸しようというイギリス軍人の無いのには愕いた。折角作ったわが新兵器も、無駄に終るかと思って、一時は酒壜の底に一滴の酒もなくなったときのような暗澹たる気持に襲われたよ", "しかしまあ、二百名にしろ、決死隊員の頭数が揃ったは何よりであります。本官の名誉はともかくも保たれました", "さあ、どうかなあ" ], [ "総指揮官。只今ドイツ側がビッグ・ニュースの放送をやって居ります。事重大ですが、お聴きになりますか", "重大事件? ははあ、あれだな。スイッチを入れなさい" ] ]
底本:「海野十三全集 第10巻」三一書房    1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1941(昭和16)年7月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:まや 2005年5月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003344", "作品名": "独本土上陸作戦", "作品名読み": "どくほんどじょうりくさくせん", "ソート用読み": "とくほんとしようりくさくせん", "副題": "――金博士シリーズ・3――", "副題読み": "――きんはかせシリーズ・さん――", "原題": "", "初出": "「新青年」1941(昭和16)年7月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-06-21T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3344.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月31日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "まや", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3344_ruby_18544.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-05-15T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3344_18550.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-05-15T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "時計屋敷はおっかねえところだから、お前たちいっちゃなんねえぞ", "お父うのいうとおりだ。時計屋敷へはいったがさいご、生きて二度とは出てこられねえぞ。おっかねえ化け物がいて、お前たちを頭からがりがりと、とってくうぞ", "化け物ではねえ、幽霊だ", "いや、化け物だということだよ" ], [ "はははは、時計屋敷の怪談かね。三年前にも、幽霊が窓から顔を出していたのを見たという話も聞いたが、今どき、そんなばかばかしいことがあってたまるか。第一によ、県から役人がきて、あの建物はなんだ、空いているようだねと聞かれたときは、どういって返事をするね、いえ、あれは幽霊屋敷でございまして、人間が住めませんでございますなんて、そんなばかくさい返事がぶてるものか、ぶてないものか考えてみりゃ分る", "北岸さんの意見に、僕も賛成だね。幽霊屋敷だとか、お化けのうなる声がしただのというばかげた話は、まじめになって出来ないですからね。あちらの人に聞かれても、日本人はなんという科学性の低い国民だろうと、けいべつされるばかりだ。だから、これからみんなであの屋敷へいって窓をひらき、掃除をし、そしてどこを修繕すると住めるか、それもしらべて県へ報告しようじゃないですか、そうすれば、あの屋敷一軒だけで、県からこの村へ割当てしてきた部屋の広さは十分にあると思う" ], [ "聞いたかよ、おそろしいこんだ。時計屋敷を掃除して、あそこに人が住むんだとよ", "これは困ったことだ。今にみんな、おそろしいたたりに泣き面をして暮らすようになるだべ", "子供たちによくいいきかしとけよ、子供は、こわいもの知らずだから、新興班について、幽霊屋敷の中へはいるかも知れんからな", "そうじゃ、うちの音松なんか、よろこんで時計屋敷の探険に行くちゅうだろう。はて、これは又気がかりなことがふえたわい" ], [ "も、誰も時計屋敷に近づけるんじゃないよ", "あの屋敷に一足ふみこめば、地獄の血の池地獄までさかおとしじゃ" ], [ "いや、ぼくのいっていることはちっともむずかしくないよ。つまりここに一人の幽霊がまっすぐに立っているとなると、その幽霊は、やはり重力の作用を受けているにちがいないし、また空気の中に立っているんだから、幽霊の体積にひとしい空気の重さだけ幽霊のからだが軽くなっているはずだ。つまり浮力に関するアルキメデスの原理は、この幽霊にもあてはめられなくてはならない", "おもしろいことをいうね、ははは" ], [ "二宮は、ぼくのいうことをしまいまで聞かないで怒るから困るよ、つまりね――", "つまり――はもうたくさんだよ、四本君", "いいや。ここはどうしてもつまりといわなくちゃね、つまりぼくのいいたいことは、幽霊でもお化けでもすこしもこわいことはない。奴らも、物象学にしたがわなくてはならないのだから、物象学をよく勉強しているぼくたちは、少しもこわいことはない。すなわち幽霊にあったら、幽霊の浮力を観察すればいいんだし、鬼火が出れば、それは空中から酸素をとって燃えているにちがいないんだし、こういう風に、おちついて幽霊をだんだん観察していくと、幽霊がどんなことをする能力があるかが分る", "むずかしいね" ], [ "むずかしいことはないさ、そういうわけだから、ぼくたちは幽霊をおそれずに、時計屋敷の幽霊に会って、はたして幽霊が北岸のおじさんたちをかくしたかどうか、それを推理すればいいじゃないか。さあ、みんなで、時計屋敷へ行こう", "さんせい!", "ぼくも、行くよ", "なあんだ、行くなら行くと、それを先にいえば、ぼくは文句なんかいやしなかったんだ" ], [ "第一に、みんなのまもらなくてはならないことは、幽霊や化け物をおそれないで、四本君のいったように、おちついて観察し、その正体を見きわめることです。第二に、ぼくたちは協力し、団結しましょう。捜査にあたってばらばらになって、自分の好き勝手をすると、成績があがらないでしょう", "そうだ、そうだ" ], [ "それから第三に、ぼくらが探偵となって時計屋敷の捜査を始めたということを、ぜったいに他の誰にも知られないようにすること", "あら、いやだ。すっかり聞いてしまったわよ" ], [ "ええ、あたしは秘密をまもりますわ、そしてお礼を申しますわ、お父さまたちを探し出してちょうだいね。また、あたしたち女の子に手つだうことがあったら、喜んで手つだいますわ", "うん、またたのむかもしれないけれどね、とにかくぼくたちのことは、だまっているんだよ" ], [ "いや、そうしないで、あまり屋敷の中で、ながいことをやると、北岸のおじさんみたいに、おとし穴かなんかに落ちてしまうんだ", "おとし穴だって、音ちゃんは、おじさんたちが、おとし穴へおちたと思っているのかい" ], [ "そうかもしれないと、ぼくは思っているんだがね、とにかく、屋敷の中へはいってから出るまでに、あやしいことを見たり、あやしい音を聞いたら、よくおぼえておいて、外へ出てからあとで、よく話しあって、研究をしようや", "そういう用心ぶかいやり方は、たいへんいいと思うね" ], [ "おや、八木君はどこへいったんだろう、先へおりた音ちゃんが見えないじゃないか", "あれッ、へんだね、もう八木君は、時計屋敷の幽霊につかまっちゃったのかな", "いやだねえ" ], [ "困ったねえ、八木君がいないと、あとの探偵はできやしない", "そんなことよりも、早く八木君を助けてやろうよ、きっと時計屋敷の幽霊につかまったんだよ、早く助けないと、八木君は殺されてしまう", "困ったね、しかしへんだね、ぼくたちより、たった一足先へとびおりたのに、もう姿がみえないんだからね" ], [ "だって……だって、君は幽霊じゃないのかい", "なんだって、ぼくが幽霊だって……", "だってさ、先に一人、君と同じ姿をした少年が塀を内側へ下りたんだ。つづいてぼくたちが下りてみるとね、その少年はいないのさ、ふしぎに思っていると、今君が塀の上から声をかけて下りてきた", "うふ、わははは" ], [ "なにがおかしい", "だって、はじめの八木少年も、あとから塀をのぼって来た少年も、どっちもぼくだもの、顔を見れば分るじゃないか", "だってさ、はじめの八木少年は姿を消してしまったんだもの、あやしいじゃないか", "ああ、それはこういうわけだ。ぼくは、一番先に塀を下りた。すると、そこに小さな洞穴があいていた、ほら、見えるだろう、あれだ" ], [ "あの洞穴へはいって見たんだ、するとね、だんだん奥がふかくなって、道がまがってついている。その道のとおり歩いていると、ぽっかりと塀の外へ出たんだ", "へえーッ、塀の外へね", "そうなのさ、だからもう一度、塀をよじのぼって、こっちへ下りて来たんだ", "なあんだ、そんなことかい、ちょっともふしぎでも怪事件でもないや", "ぼくたちは、時計屋敷がおそろしいところだと思いこんでいたので、こわいこわいが、今みたいに、二人の八木君を考えることになったんだよ", "そんな風に、ぼくたちの頭がへんになるということは、もう時計屋敷の怪魔のためにぼくたちがとりこになっていたしょうこだよ、いやだね", "そうじゃないよ、ぼくらの神経がちょっとへんになっただけのことさ、こんな塀なんか普通のくずれた古塀だよ", "いや、へんなことがあるのさ" ], [ "へえーッ、なんだろうね、そのから井戸は……。あやしい井戸だ。調べてみようじゃないか", "その井戸の中へ下りて行けるのじゃないかしら、きっと抜け道かなんかあるんだよ", "じゃあ、これからみんなで行って、調べてみよう" ], [ "中はまっくらで、何も見えない", "何の音もしてないね。地獄の穴みたいだ", "いや、地獄なら鬼や亡者がわいわいさわいでいるから、にぎやかなんだろ", "そうじゃないよ、地獄といっても、いろいろ種類があるなかに、無限地獄というのは、底がない、つまりずっと深いのだ。そして一度落ちると出てこられない。あたりは、しーンとしている。このから井戸は、無限地獄によく似ているよ", "まあ、そんな話はどうでもいい、こういうものを発見した以上は、ぼくたちはこの井戸を下りていって、中を探偵しようじゃないか", "うん、それがいい", "よし、やるか。やるなら、下へ綱を下ろそう。その綱の端を、どこかしっかりしたところへ結びつける必要がある。ああ、これがいい、ここに鉄の棒が出ているから" ], [ "下へついたか", "うん、まだまだ。……あっ、今、綱の端が下についたらしい、ずいぶん深いね。十五メートルぐらいある", "深い井戸だなあ", "さあ、誰が先に下りるか", "よし、ぼくが下りる" ], [ "大丈夫かい、入る前に、よく中を見た方がいいんだが、懐中電灯を紐にぶら下げて、中を見ようか", "いや、そんなことをしたら、悪いやつに見つかるかもしれないよ。どうせ下りるなら、くらがり井戸をそっと下りて行く方がいいと思う" ], [ "よし、君の好きなようにしたがいい、そのかわり、もし危険を感じたら、この綱をゆすぶるんだよ。それが信号さ、SOSの危険信号さ。するとぼくたち四人は力をあわせて、すぐこの綱を引張りあげるからね、君はしっかり綱につかまっているんだよ", "うん、分ったよ、それじゃ頼むよ、では、ぼくは井戸の中へはいってみるよ" ], [ "どうしたんだろう、八木君は、おそいじゃないか", "もう引返してこなければならないのに、へんだねえ。呼んでみようか", "うん、呼んでみよう" ], [ "あの音は、なんだろう", "時計屋敷の玄関の戸がひらいたんじゃないかしらん", "笑ったようだね、誰だろう", "村の衆かもしれない、早く行ってみよう", "よし、みんな走れ" ], [ "あッ", "うわッ" ], [ "おい、けがをしなかったか", "ぼくは大丈夫、君はどうだ", "ぼくは腰の骨をいやというほど打って、涙が出たよ、ぼくたちは、落とし穴へ落ちたんだね", "そうらしい、やっぱり時計屋敷はすごいところだね", "早く穴から出ようじゃないか", "いや、だめだ。あれを見たまえ、大きな鉄の格子戸が穴の上をふさいでいるよ" ], [ "困ったね。どうしたらいいだろう", "八木君が助けに来てくれるといいんだが、八木君はどうしたろう", "さあ、どうしたかなあ、また声を合わせて、呼んでみようか", "叫ぶのはよしたまえ、こうしてぼくたちが落とし穴に落ちたのも、さっきぼくたちが、あんまり大きな声を出したから、それで落とし穴を用意されたように思うんだ" ], [ "ああ、そうか、で、誰が落とし穴を用意したというの", "ぼくらの敵だよ", "時計屋敷の幽霊のことをいっているの", "幽霊だか何だか知らないけど、とにかく時計屋敷に住んでいる怪しい奴が、ぼくたちの敵さ" ], [ "しようがないね、その敵のため、ぼくたちははじめから捕虜になってしまって……おや、へんだね、足許がゆらいでいるじゃないか", "あっ、動いている。地震らしい", "地震じゃないだろう。ぼくたちは、なんか動くものの上に乗っているんだ", "あ、そうか、どこかへはこばれていくんだな" ], [ "ところが、あそこなんか、襖がついている。奥には障子のはいっているところもある。これはきっと、この屋敷を左東左平が買ったあとで、手入れしたものらしいね", "なるほど、イスパニア式では、日本人は住みにくくてしかたがなかったんだろう" ], [ "すると、塔へあがる階段を見つけるんだ。行こうぜ、いいかい", "いいとも" ], [ "うん、大丈夫だよ", "心配するな", "ほんとに、おちついて、しっかりしてくれよ、どんなお化けが出たって、こわがってはだめだよ", "こわがるくらいなら、ここまで来やしないよ", "そうだ、そうだ" ], [ "あッ", "出たぞ" ], [ "まあ、多分そうだろう。しかし五井君の方を注意していた方がいいよ", "ああ、そうだ" ], [ "おい二宮君、このいきおいで、早く上まであがってしまおうよ。のぼりたまえ", "え。いいじゃないか、上には何にもないと、五井君がいっているもの", "じゃあ、君はここにいたまえ、ぼくは上までのぼる、ロープはといてしまうからね", "う、待った。ロープをといちゃいけないよ、ぼくも上へのぼる" ], [ "じゃあ、手分けをしてやればいいよ。君たち二人は天井を調べ、ぼくと二宮君は時計の機械を調べる", "さんせい、ぼくは時計の方だ" ], [ "あ、地震らしいぞ", "うん、これは大きな地震だ", "あ、こんなところにいては、あぶないね" ], [ "どうしたんだろう。ここはどこかな", "居間の一つらしい、暗くてよく分らないが、あそこからあかりがもれる。雨戸か窓か、とにかくあれをあけてみよう" ], [ "もうロープの用はない、とこうや", "よし" ], [ "あやしい音がするって", "あれは時計の音だよ、さっきからしているんだ" ], [ "時計は停っていたはずなのに……", "さっきの地震のせいで、久しぶりに、動きだしたんだろう", "ああ、そうか" ], [ "あれを、叩きやぶろうじゃないか、するとあかりがはいって来るかもしれないよ", "よろしい。それでは、元の場所まで行って、階段のこわれたところから、材木でも見つけてこよう" ], [ "なあんだ、あれは、時計が鳴りだしたんだ", "えッ、時計か、ほんとか", "時計だよ、時計はさっきから動いていた、だからちょうどいいところへ来れば、音をたてて鳴りひびくはずだ", "三つうったね、三時だ", "そうだ、三時だ、ほんとうの時間は、今何時ごろだろうか", "やっぱり三時ごろじゃないかな", "気味のわるい音だね、この時計台の時計のひびきは……" ], [ "あ、あの窓があいたよ", "だれが、あけたんだろうか", "みんな警戒するんだ、きっと、このあと、なにか起るぞ" ], [ "え、壁が動いているって", "そうだ、窓の左手の壁だ、壁全体が上へあがって行く", "あ、そうだ。みんな、うしろへ下れ、危険だぞ" ], [ "あッ", "なんだ、あれは……" ], [ "ああ、そうだった、ぼくが地下道の中で溺死するとき、あなたはぼくを助けてくだすったのですね。ありがとう、ありがとう", "そうです。私、君を助けました。君はかわいそうでありました。私は自分のためにこしらえてあった、脱走の穴を利用して、きみを救いました", "えっ、脱走ですって、あなたは誰です" ], [ "すみません、あなたは、ぼくの生命の恩人です。その恩人に対し、ちょっとの間でも、ぼくがおそろしそうに、後へ身をひいたことはおわびします", "その心配、いりません。私、おそろしい仮面をつけています。私の姿、おそろしいです。君がにげようとしたこと、むりではありません。しかし、私、悪者ではありません。不幸にして、悪人のためにとらわれ、ここに永い間つながれているのです", "ああ、そうでしたか、いったい、どうしてそんなことになったのですか、あなたは、どこの何という方ですか", "くわしい話、あとでいたします", "今、話して下さい", "今、話すこと、よろしくありません。そのわけは、たいへん急ぐ仕事があります。そしてその仕事は、きみの力でないと、できないのです" ], [ "おどろいてはいけません。この屋敷は、このままでは、あと一時間とたたないうちに、大爆発をして、あとかたもなくなってしまいます", "えっ、この時計屋敷が、あと一時間とたたないうちに大爆発をするんですって、それはたいへんだ。この屋敷には、たくさんの人たちがまよいこんでいるのです。ぼくの友だちも四人、この屋敷にはいっています。そういう人たちを助けてやらねばなりません。ああ、そうだ、その前に、ぼくはあなたを助けます", "お待ちなさい、その人たちを助けること、なかなか困難と思います。それよりも、君に急いでしてもらいたいことは、その大爆発が起らないようにすることです", "なんですって、この屋敷の爆発が起らないようにすることも、まだ出来るんですか。それはどうすればいいのですか", "それは、今動いている大時計をとめることです", "えッ、あの大時計をとめるって……あ、大時計は動いているんですね。いつ、あんなに動きだしたんだろう" ], [ "大時計は、すこし前に鉦を三つうちました。このままでは、あと一時間ばかりして、四つうつでしょう。四つうてば、この屋敷は、こなみじんになるのです", "それはどうしたわけですか", "わけを説明しているひまはありません。君は早く大時計をとめて来るのです", "いったい、どうすれば、あの大時計をとめることが出来るのですか", "子供の力では、出来ないかもしれぬ。いや今、君に行ってもらう外に、方法はないのだ。もっとこっちへよりなさい。大時計の仕掛はこうなっている……" ], [ "知らないね。いったい、それは何だ", "これは、昔から日本にもあるといわれてたが、そのありかはなかなか知れていない水鉛鉛鉱だよ", "すいえんえんこう、だって。それは何だ" ], [ "これは昔たいへん貴重なものとして扱われた鉱石なんだ。つまりこの中には、モリプデン――水鉛ともいったことがあるね――そのモリプデンが含有されているんだ。ここまでいえばもう分ったろう。モリプデンの微量を鋼にまぜると、普通の鋼よりもずっと硬いものが出来るんだ", "ああ、モリプデン鋼のことか", "大昔は、刀鍛冶たちが、行先を知らせず、ひとりで山の中へはいりこみ、一ヶ月も二ヶ月も家へかえらないことがあった。それは刀鍛冶が、この水鉛の鉱石を探すために山の中へ深くはいりこむのだ。そしてその場所を見つけても誰にも知らせないで、自分だけの用に使っていた。しかしその刀鍛冶が年をとって死にそうになると、ひそかに自分のあとつぎの者におしえたこともあったそうだ。とにかく、この水鉛鉛鉱が、この部屋には、あっちにもこっちにもおいてあるんだ。この謎を君たちはどう解くかね" ], [ "そのヤリウスが、うまい商売を捨てて、なぜどこかへ行ってしまったんだろう", "そのことなんだ。ぼくの想像では、ヤリウスは、水鉛鉛鉱がかなりたくさん出る場所を知っていたんだと思う。その証拠には、この部屋だけにでも、あっちにもこっちにも、たくさん標本や見本の鉱石が、無造作においてあるからね。ほら、そこの隅には、樽にいっぱいはいっている" ], [ "やあ、八木君だ", "ほんとだ、八木君が時計の振子にぶら下っている" ], [ "おや、骸骨だよ。骸骨が洋服を着ている", "手も、白骨になっている" ], [ "どうも分らないね", "とにかくふしぎなことだ", "世の中のことは、なんでもみんな答が出るというわけにはいかないよ", "水鉛鉛鉱の鉱脈が見つかったのは、思いがけない大手柄だったね" ] ]
底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房    1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行 初出:「東北小国民」    1948(昭和23)年5月~10月    「AOBA」(「東北小国民」改題)    1948(昭和23)年11月~12月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:kazuishi 2005年12月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003054", "作品名": "時計屋敷の秘密", "作品名読み": "とけいやしきのひみつ", "ソート用読み": "とけいやしきのひみつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「東北小国民」1948(昭和23)年5月~10月、「AOBA」(「東北小国民」改題)1948(昭和23)年11月~12月", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-01-26T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3054.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第11巻 四次元漂流", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年12月15日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "kazuishi", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3054_ruby_20535.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-12-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3054_20672.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "はい、私は加古ですが……", "いや、待ちましたぞ、八時からここに来て待っておった。先生、出勤が遅すぎるじゃないですか", "ああ、いやソノ、出願事件ですかな", "もう三十分も遅ければ、先生のお宅へ伺おうと考えていたところです。まあ、これでよかった" ], [ "早速じゃが、一件大至急で、出願して頂きたいものがあるのですが、その前に、念を押して置きたいが、あんたは、秘密をまもるでしょうな", "それは、もうおっしゃるまでもなく、弁理士というものは、弁理士法第二十二条に規定せられてある如く、弁理士が、出願者発明の秘密を漏泄し、または窃用したるときは六月以下の懲役又は五百円以下の罰金に処すとの……", "いや、もうそのへんにてよろしい。では、一つ、重大なる発明の特許出願を、あんたに頼むことにするから、一つ身命を拗げうってやってもらいたいです。いいですかな" ], [ "承知いたしました。それでは、早速ながらそのご発明というのを伺いましょう", "待った。発明は極秘である。お人払いが願いたい", "お人払い? 給仕の外に、誰もいませんが……" ], [ "先生、雨が降っていますよ", "雨が降っている? そうだったな。じゃあ、ニュースでも見てこい" ], [ "では、どうぞ", "入口の扉に、鍵をかけられましたか", "鍵?", "そうです。重大なる話の途中に、人が入って来ては、困るじゃないですか", "はあ、なるほど" ], [ "これで、どうぞ", "ふん、まだどうも安心ならんが、まあ仕方がない" ], [ "どうぞ、もうご安心なすって、発明の内容を……", "ああ、そのことじゃが" ], [ "実は先生、拙者は大発明をしたのですぞ。その発明の要旨というのは、いいですか、人間の……人間のデス、人間の腕をもう一本殖やすことである。どうです、すごいでしょう", "はあ、人間の腕をもう一本……" ], [ "ちょっとお待ち下さい。人間の腕を、もう一本殖やすということが、果して出来ましょうか。どうも解せませんが……", "出来なくてどうします。実現できないことは、発明としては無価値だ" ], [ "しかし、そんなことが出来ますかなあ。まず、どういう具合にそれを行うのか実施様態をご説明願いたいもので……。つまり腕を、もう一本殖やすについては、どういうことをして、それを仕遂げるか", "それは、いえませんよ。実施の様態をいえば、せっかくの秘密が、すっかり洩れてしまう。それは出来ない", "しかし、特許出願するからには、実施の様態についてお示し下さらなければ、発明の説明に困ります。特許出願するについては、明細書というものを書かなければならんのですからね", "秘密なことはいえない", "つまり、どこにどういうふうに、その新規の腕を取り付けるかということについて、実際的な内容を説明しないと……", "そんなことは、書かんでもいいです。ただあんたは、拙者のいったとおり、従来の人間は、ただ二本の腕だけを持っていた。そこへもう一本、腕を殖やすというのが、この発明である――それでいいじゃありませんか。このアイデアだけで、結構書ける筈だ", "ですが、いくらアイデアがあっても、発明なるものは、特許法第一条の条文にもあるごとく、工業的価値がなければ、取れないのです。夢みたいなことだが、人間の欲望そのものだとかを特許に取ることはできません", "そんなことは、拙者もよく心得ている。今いった私のアイデアは、もちろん工業的価値があるじゃないですか。つまり、人間にもう一本、腕が殖えれば、仕事がはかどるのです。拙者の発明を実現した職工を使えば、従来の職工の一人半の仕事が出来る。してみれば、三百人の職工を使っている工場では、二百人に減らしても、同じ分量の製品が出来る" ], [ "いいえ、工業的価値というものは、そんなことをいうのではありません。つまり、発明の内容が、工業的でなければならないのです。もともと人間は、原則として腕が二本しか無いのに――それはもちろん、腕が三本あれば重宝なことは分っていますが、生れつき二本のものを、いくら三本に殖やしたいといっても、それは神様にでも相談するか、それとも百年後或いは千年後になって、外科手術というものがよほど進歩して、人間の腕の移殖が出来るようになる日を待つしかないと、出来ない相談じゃありませんか", "ばかな!" ], [ "あんたは、弁理土じゃないか。誰が、あんたに、外科手術のことを相談しました", "しかし、腕をもう一本殖やすなんて、あまり非常識なお話ですからなあ、いや、あなたの発明に対する熱情はよく分りますが……", "実に、愚劣きわまる話だ" ], [ "外科手術を使うなら、それは医学ではないか。拙者の相談しているのは、発明だ。拙者が、もう一本殖やすといっているのは血の通った腕ではないのだ。機械的な腕だ", "機械的な腕?", "そうさ。そんなことは、最初から分っとる話だ。生まな腕を手術で植えるのならあんたのところへは来ない。大学病院へいって相談しますよ。大学病院へいって……。拙者のいうのは、機械的な腕の話だ。今までにも、ちゃんとそういう機械的な腕なら、出来ているじゃないか。義足とか義手とかいっているあれだ", "ああ、あれのことですか、義手ですね" ], [ "厳密にいえば、いわゆる義手というのは、手が、一本無くなったとか二本無くなったとかいう場合に、代わりにつけるのが義手である。拙者の発明のは、そうじゃない。二本の腕は、ちゃんと満足に揃っているが、その上にもう一本、機械的な腕をつけて、都合三本の腕を人間に持たせようというのだ。これまでに、世界のどこに人間に三本の腕を持たせようと考えたものがいるか。そんな話を聞いたことがない。公知文献があるなら、ここへ出してごらんなさい。そんなものは無いでしょうがね", "なるほど、なるほど" ], [ "本願の、発表の名称は、どうしますかね", "そうですわね、三本腕方式は、いかがでしょうかしら", "三本腕方式ですか。いいですねえ。ええと。三本腕方式と" ], [ "さて、その次は、その三本腕を、どこに取り付けるか、つまり取り付けの場所のことですが、なにか名案はありませんか", "そうですね、まず、あなたから、先におっしゃってください", "そうですね、臍の上はいかがでしょう。臍の上に、第三の腕を取りつけるのです。臍は、身体の中心ですからね。釣合の上では、そこへ取り付けるのが、一等いいと思います、かなり重い荷物をもつにも、そこにあるのが便利だと思います", "あたくしは、臍の上に植えるのは、反対でございますわ。お嬢さんがたに植えた場合を、ちょっとご想像なさいませ、あまり美的ではございませんわ", "もちろん、美的ではありませんが、一つは見慣れないせいですよ。見慣れると、それほどおかしくないと思いますが……", "感心しませんねえ。それよりも、あたしくは、背中に取り付けてはいかがと思いますの。いったい人間は、背中の方に目がございませんためか、背中の方をいっこう使えませんが、それはどうも無駄をしているように思います。そこで、背中に第三の腕を取り付けまして、背面を活用いたします。そして、その第三の腕のつけ根は、他の二本の腕と同じ水平的高さに選ぶのが、力学的になっていいと思いますわ。荷物を持つのには、たいへん便利でいいと思いますのよ", "それよりも、第三案として、両脚のつけ根のところは、どうでしょうか。ちょっと三本脚になったように見えますが、カンガルーや、尾長猿などは、太い尻尾をたいへん巧みにつかえますねえ、あのように活用するといいと思いますよ。両手に荷物をもって、夜道などするときは第三の腕で、懐中電灯をもちます", "まあ、このへんのところでございましょうね。とにかく、第一案乃至第三案の、どれもが実現出来るように最小公倍数的な『特許請求範囲』をお書きになったら、いいじゃありませんか", "そうですねえ。では、そうしましょう。どうも、ありがとうございました" ], [ "いえ、からかうなんて、そんな不真面目な考えはありません。ぜひ、本気でもって、ご審査願いたいのです。早く審査をやっていただいてありがとうございました", "なんだ、君は本気なのか。いや、それは呆れたものだ。で、今日の用件は、そのことで来たのかね、それとも他の事件で……", "いえ、あの『多腕人間方式』のことについて、審査官に、もっと認識を深くしていただこうと思いまして、参りました。あれは、義手とは違います。ぜんぜん違うのです" ], [ "あの人には、厄介な病気があるんですわ", "病気? それは、どんな病気?", "発明気違いなのですの。この間も、なにやら世界的の発明をして、何とかいう弁理士に頼んで、特許出願してもらったといっていました。田方さんは、そのときその弁理士へ百円置いて来たそうですのよ。うちのアパート代を七カ月分も滞らせているのにね。あきれかえってものがいえませんのよ", "はあ、そうですかな。じゃ、また伺います" ], [ "その前に、あの特許で作った実物の腕を見せて頂こうじゃありませんか。それを拝見した上でのことに……", "いや、そんなことを、言っている場合じゃありませんよ。ぐずぐずしていると、他所へ取られてしまう。もし外国人などに買われてしまったら、どうしますか。国防上、由々しき問題だ。すぐ決めましょう", "しかし。三本目の腕をつける場所が、ちょっと心配になるのでしてナ、背嚢を背負うのに邪魔になったり、駈け足に邪魔になったりするのでは困るですからなあ" ], [ "……ご他言は絶対なさらないように願いますが、実は、あれを作ったうえで新兵器に採用願う計画なのです。要するに、三本目の腕を、兵隊さんに取付けるのです。兵隊さんの腕が、三本にふえると、とても強くなりますよ。たとえば、射撃をする場合を例にとりますとね、一本の手は銃身を先の方で握り、他の一本の手は、遊底をうごかし、そしてもう一本の特許の腕は引金を引く。そうなると、小銃の射撃速度は、たいへん速くなります。また、白兵戦の場合でもそうです。敵と渡りあうとき、敵の二本腕に対して、こっちの二本の腕で五分五分の対抗ができます。そうして、敵の二本腕の活用を阻止しておき、こっちは特許の三本目の腕を、そろそろ繰り出して軍刀を引っこぬき、ぶすりと敵の背中を刺して倒します。そうなれば、三本腕の兵の方が、絶対優勢です。そうじゃありませんか", "ああ、なるほどなるほど" ], [ "今の話は、どうかこの場かぎりに願いたいのです。しかし私どもは、あの特許の実物が、いま申しましたような働きをするに充分だと認めれば、特許の買い取り価格をそうですねえ、まず二百万円までは出します", "二百万円、あの『多腕人間方式』の特許権が二百万円になるのですか" ], [ "しかし、三本目の腕を、頭に取り付けるんだとは、考えつきませんでした", "寒いときは、三木目の腕を使うに限るですぞ。なにしろ機械腕のことだから、出し放しにしておいても、寒くなしさ。首の運動次第で、こいつがどうでも自由に動くのです。なかなか具合がよろしい。あまり具合がいいものだから、だんだんものぐさくなって、どちらへも失礼していたというわけだが、借金ばかり殖えてね" ], [ "そして、あなたの発明を、ぜひ売ってくれという人が来ているのです。二百万円で買おうといっていますが……", "ええッ、二百万円? 本当ですか、売れるにちがいないとは思っていたが、二百万円とは……" ] ]
底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房    1976(昭和51)年1月15日発行    1990(平成2)年4月30日2刷 入力:大野晋 校正:福地博文 2000年3月8日公開 2006年7月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000878", "作品名": "特許多腕人間方式", "作品名読み": "とっきょたわんにんげんほうしき", "ソート用読み": "とつきよたわんにんけんほうしき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-03-08T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card878.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "十八時の音楽浴", "底本出版社名1": "早川文庫、早川書房", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年1月15日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年4月30日第2刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "大野晋", "校正者": "福地博文", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/878_ruby_23847.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-07-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/878_23848.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-07-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "おじいさん。おじいさァん。どうして死んだんです。しっかりして下さァい。もう一遍生きて下さい。冷くなっちゃいやだなァ。よォ、おじいさん、しっかりして下さァい!", "オイ君、止さないかッ" ], [ "でも、僕は……", "ダ、ダ、黙れ! 他人は帰ってもらいたい。それでも入って来ると、法律で警察へつき出すから、そう思え" ] ]
底本:「「探偵」傑作選 幻の探偵雑誌9」光文社文庫、光文社    2002(平成14)年1月20日初版1刷発行 初出:「探偵」駿南社    1931(昭和6)年7月号 入力:川山隆 校正:伊藤時也 2008年11月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047760", "作品名": "仲々死なぬ彼奴", "作品名読み": "なかなかしなぬあいつ", "ソート用読み": "なかなかしなぬあいつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「探偵」駿南社、1931(昭和6)年7月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-12-06T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card47760.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "「探偵」傑作選 幻の探偵雑誌9", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2002(平成14)年1月20日", "入力に使用した版1": "2002(平成14)年1月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2002(平成14)年1月20日初版1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/47760_ruby_32678.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-11-12T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/47760_33423.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-11-12T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "あっちだ、あっちだ。なにが始まったんだろうな、あの音楽は……", "お前、ぼけちゃいけないね。じゃあ、こっちから聞くが、なぜお前はきょうこうしてぬけぬけと遊んでいられるんだい", "そんなことを聞いて、おれを験そうというのだな" ], [ "はははは、験したきゃ、験すがいい。おれは近頃ぼやけているにゃ、ちがいないよ。とにかく、明日は労働は休みだといわれたから、今日はこうして、ぶらぶらやっているわけけだ。理屈もなんにも考えない", "無気力な奴だ。無性者だ。お前はたしかに長生するだろうよ。全くあきれて物がいえないとは、お前のことだ", "いい加減にしろ、ひとを小ばかにすることは……", "だって、今日はイネ国滅亡の日だ。だからアカグマ国をあげての祝勝日だということぐらい、知らないわけでもあるまい", "ああ、そうだったか。イネ国滅亡の日か。すると、われわれの脈搏にも、今日ばかりはなにかしら、人間くさい涙が、胸の底からこみあげてくるというわけだね", "ふふん、国破れて山河あり、城春にして草木深しというわけだ。だが、そんなことをいつまでも胸の中においていると、また督働委員から、ひどい目にあうぜ。さあ、なにも考えないであの音楽のしているところへ、いってみよう", "ああ、そうしよう。現在、われわれ旧イネ国の亡民には、人間味なんて、むしろ無い方が、生活しよいのだ。一匹の甲虫が、大きな岩に押し潰されりゃ、もうどうすることも出来ないのだからな、アカグマ国はその大きな岩でわれわれの祖国イネ国は、所詮甲虫にしか過ぎなかったんだ", "もう、なんにもいうな。さあ、いこうぜ。皆も、あのとおり、街を急いでいらあ。こんなゆっくりした休日なんて、われわれのうえにもう二度と来るかどうか、わからないのだ", "よせやい。なんにもいうなというお前が、その口の下から、愚痴をこぼしているじゃないか。身勝手な奴だ", "ふん、その身勝手という奴が、イネ国を亡ぼしたようなものだ。ああ" ], [ "アカグマ国、万歳!", "スターベア大総督、万歳!" ], [ "ああ大総督閣下。今日の御招待を、心から、感謝します。そしてアカグマ国の大発展、とりわけこのイネ州の統治三十周年をお祝いいたします", "いやあ、ありがとう。キンギン国の使臣から、そういっていただくのは、このうえもない喜びです。つつしんで、貴国の大統領閣下へよろしく仰有ってください" ], [ "えっ、なんですって。このわしが、善隣キンギン連邦の神経を刺戟するようなことをいったと、仰有るのですか。その御推察はとんでもないことです", "そうとばかりは、聞きのがせません。もし閣下が、妾の位置においでだったら、やはり、同じ抗議を発しないでいられますまいと存じます", "ほう、そうですか。そんなに大使閣下を刺戟する暴言をはいたとは、思いませんが……はてどんなことでしたかな" ], [ "イネ人を、みなごろしにしろ", "アカグマ国、万々歳!" ], [ "おお、秘密警察隊の司令官ハヤブサじゃないか。どうした、何か事件か", "はい、一大事勃発で……", "一大事とは、何事だ", "第一岬要塞の南方洋上十キロのところにおいて、折からの闇夜を利用してか怪しき花火をうちあげた者がございます", "なんじゃ、闇夜? はて、もう日は暮れていたのか", "直に、現場を空と海との両方より大捜査いたしてございまするが、何者も居りません、結局、残りましたのは、あの怪しい花火が、前後三回にわたってうちあげられ、附近を昼間のごとく明るく照らしたばかりにございます", "ふーん。はてな……" ], [ "はい、そのとおりでございます。小官はあらゆる捜索機関に命令を下しまして、念入りに取調べさせたのでございますが話のとおり、全く猫の仔一匹どころか、鼠一匹いないのでございます", "ほほほほ、それはあたり前の話だわ" ], [ "だって、お父さま。海には、鴎だの、飛魚はいても、猫だの、鼠だのはいないでしょう。お父さまたちのお話は、ずいぶんおかしいのね", "あっ、そうか" ], [ "おい、トマト姫。お前はいい子だから、あっちへいって、レビュウを見ていらっしゃい。お父さんは、今、ハヤブサ司令官と大事なご相談をしているときだから、あっちへいらっしゃい", "いいのよ、お父さま。あたし、もう黙っているからいいでしょう。猫のお話が出ても、鼠のお話が出ても、なんともいいませんわ" ], [ "おい、それはキンギン国の仕業にちがいないと思うぞ。お前は、直に秘密警察隊を動員してキンギン国の大使ゴールド女史をはじめ、向うの要人の身辺を警戒しろ", "はい。かしこまりました", "わしは、すぐさま戦争大臣に命令を発して、問題の第一岬要塞の南方十キロの洋上を中心として、附近一帯を警備させるから", "ははっ、それは結構でございます", "わかったら、早く行け", "はっ", "ちょっとお待ち、ハヤブサ司令官" ], [ "はい、なにごとでございますか、お姫さま", "あのう、ゴールド大使の左の眼が、義眼だということを、あなたは知っているの" ], [ "おい、これは演習だろうか、それとも、いよいよ本当の戦闘だろうか", "さあ、よくはわからないけれど、どうやら、本当の戦闘が始まるらしいぞ。衛生隊では、たくさんのガーゼを消毒薬液の中へ、どんどん放りこんでいる", "じゃあ、いよいよ本当の戦闘だな。しかし相手国は、どこだろうか", "さあ、それがよく分らないんだ。イネ帝国の暴民たちが、蜂起したのではあるまいか", "そうじゃあるまい。それにしては、われわれの用意があまりものものしすぎるよ。第一旧イネ帝国の暴民たちが、海上方面から攻めよせることはあるまい", "さあ、それは保証のかぎりでない。旧イネ国の敗走兵が、南の方の小さい島々へ上陸して、再挙をはかっているという噂を聞いたことがあるぞ", "それにしてもだ、この第一岬要塞を攻めるには、十万トン以上の主力艦かさもなければ、五百機以上の重編隊の爆撃機隊でなければ、てんで戦争にならないのだからね。旧イネ帝国の敗走兵どもに、そのような尨大な軍備が整いそうもないじゃないか", "じゃあ、一体敵は、どこのどいつだろうかしらん", "それは、おれの方で、たずねているのじゃないか" ], [ "隊長。本営からの命令です", "なにッ、早くいえ!" ], [ "中尉どの。これを全軍に伝えますか", "うむ。敵はキンギン国なり。わが軍は、全力をあげて、守備を固くし、敵を撃退すべし――というところだけを、放送せい", "はい" ], [ "おお、モグラ下士か、どうした、お前は", "はい、今、落ちてきたのはロケット爆弾だということを知りました。それで、そのことを本営へ報告しようと思うのですが、通信兵が見つかりません", "通信兵なら、さっきまで、おれの傍にいたんだが……" ], [ "中尉どの、仕方がありませんから私が連絡所まで行ってまいります", "よし、行ってこい" ], [ "おい、ちょっと待て、今のがロケット爆弾だということを、お前はどうして知ったのか", "いや、それは、ちゃんとこの眼で、見たんです。あそこへいけば、まだ残っているはずですが、後の方になって、眼の前へどーんと一つ落ちてきた奴が、不発弾でしてね、トーチカの斜面を、ごろごろと転がりおちてきましたよ。それではっきり見たんです。なにしろ、あの奇妙な形ですから、ははあロケット爆弾だなと、すぐ気がつきました", "ふん、じゃあ、たしかだな", "たしかもたしかも、大たしかです。しかし、いくら敵の爆弾にしろ、不発弾があるなんて、みっともないですね", "ばかをいえ。不発弾でなかったら、お前の生命は、とっくの昔になくなっているわけじゃないか。不発弾であったのが、どのくらい倖だか、わかりゃしない", "そういえば、そうですな。とにかく、この上に、まだ転がっていますから、なんならちょっとごらんなすって。私は、すぐ連絡所へ一走りいってまいります" ], [ "中尉どの。わしのマイクの調整釦が、変になっていて、これ以上、小さい声が出ないのであります。もう喋るのを、よして、退却しましょうか", "こら、にげちゃいかん。もっと、こっちへよれ" ], [ "おい、見たか、あれを", "見ました。あの潜水夫の幽霊隊みたいな奴どものことでしょう", "彼奴らは、一体、何者じゃろうか", "ゆ、幽霊じゃないのですかなあ。第一岬の沖合で、外国船がたくさん沈没していますが、その船員どもの幽的ではないでしょうか", "ばかなことをいうな。彼奴らは、ちゃんとしっかりした足どりで歩いている。幽霊なら、もっと、ゆっくり歩くはずだ", "そうです、そうです。自分もいつか、芝居で見ました", "くだらんことをいうな。ところで、われわれが今見ている敵情を、至急司令部へ報告しなければならないが、附近に、通信兵はいないか", "見えませんねえ。警笛を鳴らしてみましょうか", "ばかな。そんなことをすれば、あの怪物どもに、すぐ感付かれてしまう。仕方がない、お前の携帯用無電機を使って、秘密電話を司令部へ打て", "はあ、司令部へ打電しますか。救援隊は、どのくらい、こっちへ急派してもらえばいいでしょうか", "救援部隊などを請求しろとは、おれはまだいわんぞ。要するにわれわれが今見ている敵情をなるべく詳しく、要領よく、至急司令部へ打電しろ", "はあ。わかりました" ], [ "おいおい、モグラ下士。司令部は、まだ出ないのか。生死の境に、秘密無電を打って喧嘩をしちゃいかんじゃないか", "はい。そうでありましたナ。どうやら司令部の有名な怒り上戸のアカザル通信兵が出ているようです。司令部であることに、まちがいはないようです。なにしろ、こういう重大報告は、念には念を入れないと、いけませんからなあ", "そうと決まったら、はやく打電しろ。ぐずぐずしていると、敵の怪物隊はこっちへ攻めてくるかもしれないぞ", "はい、はい。――おや、司令部が引込んでしまった。どうも気の短い奴だ。あのアカザル通信兵という男は" ], [ "おい、報告に、議論は不用だ。見て明かな事実だけを、簡潔に打電するのだ。――怪物どもが、こっちの方を透かして見ているぞ。早く無電を切り上げないと、危険だ", "はい、わかりました" ], [ "おい、あれを見ろ。第一要塞は、とくの昔に敵に、占領されていたんだ", "えっ、占領されましたか", "ああ、あれを見ろ。要塞の上に、敵の旗が、ひらひらと、はためいているぞ", "どこです。闇夜に、要塞の上にたった旗が見えるのですか", "見えるじゃないか。もっと、こっちへ寄ってみろ" ], [ "あっ、骸骨の旗! あれは、アカグマ軍には見当らない旗印ですね。一体どこの国の旗ですかねえ", "さあ、おれにも分らない" ], [ "だが、あの旗が、怪物隊のものであることは、はっきりわかるじゃないか", "そうですかねえ。なぜですか、それは……", "なぜって、あの旗も、蛍光を放っているじゃないか。怪物の身体も、あのとおり、蛍光を放っている。だから、あの旗は、あの怪物どもの旗だということが、すぐ諒解できるじゃないか", "な、なるほど" ], [ "貴官を頼みにしていたばかりに、作戦計画は根柢から、ひっくりかえった。第一岬要塞が奪還できなければ、貴官は当然死刑だ。どうするつもりじゃ", "はあ、もう一戦、やってみます。が、なにしろ、敵は何国の軍隊ともしれず、それに中々手剛いのであります", "あの、骸骨の旗印からして、何国軍だか、見当がつかないのか", "はあ、骸骨軍という軍隊は、いかなる軍事年鑑にも出ていませんので……", "そりゃ分っとる。しかし、何かの節から、何処の軍隊ぐらいの推定はつくであろうが……", "はあ" ], [ "大総督閣下。では、小官から一つのお願いをいたします", "願い? 誰が今、貴官の願いなどを、聞いてやろうといったか", "いえ、いえ。閣下のおたずねの件を、小官のお願いの形式によって、申し述べます。でないと、万一、間違った意見を述べましたため、銃殺にあいましては、小官は迷惑をいたしますので……", "ふん、小心な奴じゃ。じゃあ、よろしい。貴官の希望するところを申し述べてみろ", "はい、ありがとうございます" ], [ "では、早速申上げます。小官のお願いの件は、こういうことでございます。どうか、閣下の御命令によりまして、キンギン国の女大使ゴールド女史の身辺を御探偵ねがいたいのであります", "なに、ゴールド大使の身辺を探れというのか。それはまた、妙なことをいい出したものじゃ" ], [ "ああ閣下。ゴールド大使の身辺は、只今、隊員をして監視中でございます。なにしろ、この前のお叱りもありましたので、あれから直ぐ、ゴールド大使に、わが腕利きの憲兵をつけてこざいます", "そうか、それは出来が悪くないぞ。では、すぐ報告ができるだろうな", "はい、それは勿論、出来ます。では、直ちに、かの憲兵の持っている携帯テレビジョンからの電流を、閣下の方へ切りかえます", "そうしてくれ。早くやるんだぞ", "はあ" ], [ "えへへへ。女大使が手に持っていますのは、彼女の例の義眼でございますよ", "なに、義眼? ああ、そうか。義眼を手に持って何をしているのかね" ], [ "長官。では、幕僚会議の準備ができましたから、どうぞ", "おお、そうか" ], [ "一体、今は、何時かね", "ちょうど、十三時でございます" ], [ "うむ、あと一時間すると、わしは家内と食事をすることになっているから、それまでに、会議を片づけてしまわないと困るんだ。じゃあ、早く階上へやってくれ", "はい、では会議のあります第十九階へ、移動いたします", "うむ、早くやれ!" ], [ "長官に申上げます。只今、第四参謀が盲腸炎で入院し、直ちに開腹手術をいたしますそうです", "なに、第四参謀が……", "そうであります。それで、第四参謀は会議を失礼したいと、申して参りましたがどういたしましょう", "盲腸炎なら、仕方がない。会議から退いてよろしいが、彼に、よくいって置け、盲腸などは、子供のとき取って置くものじゃ。つけて置くから、折角の重要会議に役に立たんじゃないかといっておけ", "はい。そう申します", "第四参謀は、下ってよろしい" ], [ "ああ、もしもし。こっちは、ゴールド大使です。スターベア大総督は、ついに第一次から第十六次までの動員を完了しました。渡洋連合艦隊は、あと三時間たてば、軍港を離れるそうです……", "一体、彼奴らは、どこの国と戦うつもりなのですかね。本当に、われわれを対手にするつもりですかね" ], [ "それは、もちろん、そうなのです。この無電は、秘密方式のものですから、なにをいっても大丈夫でしょうから、いいますが、この前もスターベア大総督は、太青洋の彼方――といいますと、わが祖国、キンギン国のことなんですが、その太青洋の彼方に、別荘を作りたい。そして、一週間はこっちで暮し、次の一週間は、そっちで暮し、太青洋を、わが植民地の湖水として、眺めたいなどと、申して居りましたわよ", "そうですか。そいつは、聞き捨てならぬ話ですわい。太青洋の伝統を無視して、湖水にするつもりだなんて、許しておけない暴言だ。よろしい。スターベアが、そういう気なら、戦争の責任は、悉く彼等にあるものというべきです。そういうことなら、こっちも遠慮なく、戦うことができて、勝手がよろしい" ], [ "さあ、それではゴールド大使。キンギン国内における軍隊の動きについて、貴下の集められた情勢を、われわれに詳しく話していただきたい", "はい、では申上げましょう。まずわが密偵の一人は……" ], [ "あっ、たいへん。長官が死んでしまわれた", "おお、やっぱり。いけなかったか" ], [ "ひどいことをやりやがったな。かねて、こういう危険があるかもしれないと思い、余は、注意を願うよう、上申しておいたのに", "私も、たびたび長官に、申上げたんですがなあ" ], [ "そうだ。あれに違いない。つまり、アカグマ国軍の電波隊が、ゴールド女史の秘密無電を利用し、女史の電波のうえに、恐るべき殺人電気を載せたのだ。それにちがいない。だから、女史からの無電をきいていた者は、長官をはじめとし、遠方で聞いていた幕僚の悉くが、その怪電気にあたって即死してしまったのだ", "女史からの電波に、殺人電気を載せるなんて、アカグマ国の奴等は、人か鬼かですねえ", "人か鬼かといっても、今更仕方がない。敵となれば、已むを得ないことだ。とにかく、今重態のリウサン参謀が、もし一命を助かれば、何もかも分るだろう" ], [ "はてな。あの怪潜水艦は、なにを考えているのであろうか", "いや、考えているのじゃない。あの怪潜水艦は、居睡りをしているんだ" ], [ "あっ、無茶なことをやる!", "まるで、自殺をはかったような恰好だ!" ], [ "あっ、怪艦は、損傷したぞ", "早く、傍へいってみろ" ], [ "どうしましたッ", "冗談じゃない。これは、わが軍の潜水艦だ", "えっ、それは、たいへん" ], [ "わが、第一岬要塞は、依然として、敵に占領されている。しかるに敵キンギン国の参謀首脳部は悉く何者かのために、殺されてしまったというし、またわが国を目標に、渡洋進攻してきた敵の大潜水艦隊は、太青洋の中で、とつぜん消えてしまったという。わしは、そのような敵の潜水艦隊を爆破しろという命令を出したこともないし、またキンギン国の参謀首脳部を全滅させろ、と命令したこともないのだ。一体、何者が、そのような命令を下し、そしてまた、何者が、そのような素晴らしい戦果をあげたのであろうか。ああ、わしは、じっとしていられない気持だ。――こら、ハヤブサ", "は、はい", "お前は、なぜ、その不可解な謎を、解こうとはしないのか。永年わしがお前に対して信頼していたことは、ここへ来て根柢から崩れてしまったぞ。お前こそ、ぼんくら中の大ぼんくらだ", "は、はい" ], [ "おい、ハヤブサ。このことについて、お前に、なにか思いあたることはないか", "思いあたることと申しますと……" ], [ "つまり、誰か、このわしを蹴落そうという不逞の部下が居て、わしに相談もしないで敵を攻めているのではなかろうか。そいつは、恐るべき梟雄である!", "さあ……" ], [ "まことに重々恐れ入りますが、これ以上、私は、何も申上げられません。私は、免官にしていただきたいと思います", "いや、それは許さん。お前は、あくまでこの問題を解決せよ。解決しない限り、お前はどこまでも、わしがこき使うぞ", "困りましたな" ], [ "では、やむを得ません。思い切りまして、一つだけ、申上げたいことがあります。しかし、大総督閣下は、とても私の言葉を、お信じにならないと思います", "なんじゃ。いいたいことがあるというか。それみろ、お前は知っているのじゃ。知っていながらわしにいわないのじゃ。なんでもいい、わしはお前を信ずる。早くそれをいってみよ" ], [ "では、申上げます。これから私の申しますことは、とても御信用にならないと思いますが、申上げねばなりません。じつは、トマト姫さまのことでございますが……", "何、トマト姫。姫がどうしたというのじゃ" ], [ "姫が、どうしたというのじゃ。早く、それをいえ!", "は、はい" ], [ "どうも、申上げにくいことでございますが、トマト姫さまこそ、まことに奇々怪々なる御力を持たれたお姫さまのように、存じ上げます。はい", "なんじゃ、奇々怪々? あっはっはっはっ" ], [ "冗談にも程がある。わしの娘をとらえて、奇々怪々とは、なにごとじゃ。お前は血迷ったか", "では、やはり、私は、それを申上げない方が、よろしゅうございました", "な、なんという" ], [ "おい、ハヤブサ、早くいえ。なぜ、早く、その先を説明しないか", "はい、申上げます。失礼ながら、トマト姫さまは、実に恐るべき魔力をお持ちであります。この前、キンギン国の女大使ゴールド女史が、精巧な秘密無電機を仕掛けた偽眼を嵌めて居ることを発見なされたのも、そのトマト姫さまでございました。そのとき以来、私は、トマト姫さまの御行動を、それとなく監視――いや御注意申上げていましたところ、かずかずのふしぎなことがございました", "ふしぎ? そのふしぎとは、何だ。早く、先をいえ", "或る日のこと、姫のお後について、州立科学研究所の廊下を歩いていますと……", "おいおい、わしの姫が、そんなところを歩くものか、いい加減なことをいうな", "いえ、事実でございます。――ところが、部屋の中で、所員の愕くこえを耳にいたしました。“あっ、計器の指針がとんでしまった、なぜだろう”", "なんだ、それは……", "つまり、とつぜん計器に、大きな電流が流れたため、指針がつよく廻って折れてしまったのであります。そういう出来事が、姫のお通りになる道で四、五回も起りました。全く、ふしぎなことでございますなあ" ], [ "一体、敵は、どこまで攻めて来たのかね", "もう十哩向うまで来ているそうだ。もの凄い戦闘部隊だということだぞ" ], [ "この望遠鏡で見ても、なんにも見えないではないか", "望遠鏡で見ても、見える道理がないよ。敵軍は、空中を飛んでいるのじゃないのだ", "えっ、空襲じゃないのか", "うむ、潜水艦隊らしい。太青洋の水面下を、まっしぐらに、こっちへ進んでくる様子だ", "潜水艦なんぞ、おそれることはないじゃないか", "それはそうだ。だが、そいつは、潜水艦にはちがいないが妙な形をしている奴ばかりで、姿を見たばかりで、気持がわるくなると、さっき、将校が、わが隊長に話をしていたぜ", "で、こっちは、どうするのか。わがキンギン国の潜水艦隊は全滅だそうだし、他の水上艦隊は、みんなイネ州の海岸へいってしまったし、一体、どうするつもりかね", "さあ、おいらは司令官じゃないから、どうするか、知らないや。多分、海中電気砲で、敵を撃退するのじゃないかなあ", "ふん、海中電気砲か。あれは、このキンギン国軍の御自慢ものだが、こうなってみると、なんだか心細いなあ", "くだらんことをいわないで、さあ、交代だ。あとを頼むよ" ], [ "おい、高射砲部隊は、いい気になって、撃墜報告をよこしたが、それにしては敵機の様子がどうもへんではないか", "はあ、閣下には、御不審な点がありますか", "うん。なぜといって、敵機は、火焔に包まれているわけでもなく、むしろ悠々と地上へ降下姿勢をとっているといった方が、相応わしいではないか", "なるほど", "第一、わしには、このような強力なる空襲部隊が、急にどこから現われたのか、その辺の謎が解なくて、気持がわるいのだ。太青洋上に配置したわが監視哨は、いずれも優秀を誇る近代警備をもって、これまで、いかなる時にも、ちゃんと仮装敵機の発見に成功している。これがわがマイカ要塞空襲のわずか二分前まで、敵機襲来を報告してきた者は只一人もいないのだからなあ" ], [ "閣下。監視哨からの電話報告が入りました。敵機は、いよいよ着陸を始めたそうであります。その地点は、八四二区です。その真下には、このマイカ大要塞の発電所があるのですが、敵は、それを考えに入れているのであるかどうか、判明しませんが、とにかく気がかりでなりません", "なに、八四二区か。ふむ、それは本当に油断がならないぞ。敵機が着陸したら、直に毒瓦斯部隊で取り囲んで、敵を殲滅してしまえ", "は" ] ]
底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房    1990(平成2)年4月30日初版発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:浅原庸子 ファイル作成: 2003年6月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "はい、多分ベッドに寝ていることと思いました。しかしベッドはキチンとしていまして別に入った様子もありません", "灯りは点いていたかネ", "いいえ、点いていませんでした", "お手伝いさんかなんかは居ないのかネ", "一人いたのですが、前々日に親類に不幸があるというので、暇を取って宿下りをしていました。だから当夜は家内一人きりの筈です", "何という名かネ。もっと詳しく云いたまえ", "峰花子といいます。別に特徴もありませんが、この右足湖を東に渡った湖口に親類があって、そこの従姉が死んだということでした", "君は夜中に夫人の失踪に気付きながら、なぜ人を呼ばなかったのだ", "わしは青谷技師以外の者を頼みにしていません。それでこれを呼びたかったのですが、技師の家は湖水の南岸を一キロあまり、つまり湖口なのですからたいへんです。昼間なら一台トラックがあるのですが、いつも技師が自宅まで乗って帰るので、その便もありません。それで夜が明けて出勤してくるのを待つことにしたのです。第一、わしはもう十年以上も、この工場から一歩も外へ出たことがありませんでナ" ], [ "君は昨日、何時ごろ帰っていったのかネ", "八時ごろです", "トラックに乗ってかネ", "そうです", "どこかへ寄ったかネ", "どこへも寄りません。家へ真直に帰りました", "夫人の失踪について心あたりは?", "一向にありません" ], [ "手帖を展げるなら、こんなくだらんことを見せるのは止して、犯人の名を書いてあるところでも見せたがいいよ", "オイ貴様、盗人みたいなやつだナ。そんな暇があるなら職務執行妨害罪というのを研究しておけよ" ], [ "報告に参りました", "ああ、君か。いや御苦労だった。あれはどうだったネ" ], [ "第二の、湖尻で村尾某の乗りました舟を探しましたが見当りませんので", "舟が見当らぬ? そうか。湖水の中を探ってみるんだネ", "それからトラックの跡で、墓場から青谷二郎の家までついていたという話でしたが、これはハッキリ見えませんでした。誰かが地均しをしたような形跡は見ました" ], [ "もうそれきりです", "うん、これは御苦労だった。では適宜に引取ってよろしい" ], [ "オイ何時まで懸るのだ", "もう直ぐです……" ], [ "君は誰だ。名乗り給え", "ああ、近づいて来る。妻の幽霊だ。助けて呉れッ。ああ、殺されるーッ" ], [ "赤沢氏が幽霊に襲われ、救いを求めている。赤沢氏の室へ案内し給え、早く早く", "えッ、先生がッ。――" ], [ "さあもう欺されんぞ。君を殺人犯の容疑者として逮捕する!", "これは怪しからん" ], [ "ウン、まだそんなことを云うか。……夫人殺害のことでも、君のやったことはよく判っているぞ。君はあの夜八時に帰ったということだが、それは確かとしても、工場の門は一度六時に出ているじゃないか。わしが知るまいと思ってもこれは門衛が証明している。そうしたと思ったら、忘れ物をしたというので、七時半ごろ再びトラックに乗って引返してきた。そしてまた八時ごろになって、本当に帰ってしまった。君が引返してきたときには、工場の中には自室で読書に夢中の博士と、別館には婦人が居ることだけで外に誰も居ないと知っていたのだ。そして約三十分の間に、実に器用な夫人殺害と、屍体の空中散華とをやって、八時頃なに食わぬ顔で帰ったのだ。どうだ恐れ入ったか!", "それはこじつけです。私はそんなことをしません", "夫人を殺害しないと云っても、それを証明することができんじゃないか。君に味方するものはおらん", "そんなに云うなら、私は云いたいことがあります。これは貴下の恥になると思って云わなかったことですが……" ], [ "恥に違いありませんよ。貴下方はあの晩湖水の上空から撒かれた人間灰が、珠江夫人のだと思いこんでいるようですが、それは大間違いですよ。湖畔で採取した人肉の血型検査によるとO型だったというじゃありませんか。しかし夫人の血型はAB型です。これは先年夫人が大病のとき、輸血の必要があって医者が調べて行った結果です。O型とAB型――一人の人間が同時に二つの血型を持つことは絶対に出来ません。人肉の主と夫人とは全く別人です。貴下はこんな杜撰な捜索をしていながら、なぜ僕を夫人殺しなどとハッキリ呼ぶのですか", "ウム。――" ], [ "僕こそ無罪ですよ。署長さんの云ったように貴下には手錠が懸るのが本当です。しかしすこし事実の違っている点がありましたから、訂正して置きましょう。この話の方が青谷君の腑に落ちるでしょうから", "君は誰です?", "私ですか。人間灰が湖上へ降り注いでいる真下を舟で渡った男です。やがて帽子から顔から肩先から、融けた血で血達磨のようになった男です。なるほどこの肉も血も、珠江夫人のではなかった。貴下の言うとおりにネ。血型O型の人肉は誰だったのでしょう。それは貴下の家から程近い墓場の下に睡っていた女のものでした。峰雪乃――ご存知ですか、この名前を。たった今、その土饅頭を崩して棺桶の中を開いて来ましたが、中は全く空っぽです。貴下はあの晩、一度工場の門を出て墓場へゆき、闇に紛れてこの仏を掘りだし、工場へ引返したのです。そして人肉散華をやりました。墓の方は時間が無かったために、壊した土饅頭を作り直す暇がなく、上に土だけ被せておいたところを、はからずも通りかかった一人の男が見ました。つまりこの僕がネ" ] ]
底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房    1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷発行 初出:「新青年」博文館    1934(昭和9)年12月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:たまどん。 校正:土屋隆 2007年8月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001223", "作品名": "人間灰", "作品名読み": "にんげんかい", "ソート用読み": "にんけんかい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1934(昭和9)年12月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-11-06T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1223.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第3巻 深夜の市長", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年6月30日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "たまどん。", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1223_ruby_28096.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-08-29T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1223_28152.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-08-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "僕は……", "文句があるなら後でいえ。サッサと降りて来ないと、ぶっ放すぞ" ], [ "この部屋には寝床が二つとってあるが、一つはお前さんの分で、もう一つは誰の分なんだい", "ハイ。それはアノ……", "はっきり言いなさい", "ハ、それは、なんでございます、うちのナンバー・ワンの女給、ゆかりの寝床なんです", "ウンそうか。で、そのゆかりさんは見えないようだが、どうしたんだい", "それがちょっと、アノ、昨夜出たっきり帰ってまいりませんので……", "なァ、おみねさん。胡麻化しちゃいけないよ。敷っぱなしの寝床か、人が寝ていた寝床か、ぐらいは、警視庁のおまわりさんにも見分けがつくんだよ" ], [ "じゃ別のことを訊くが、大将は誰かに恨みを買っていたようなことは無かったかね", "それはございます。妾の口から申しますのも何でございますが、ここから四軒目のカフェ・オソメの旦那、女坂染吉がたいへんいけないんでございますよ。このネオン横丁で、毎日のように啀み合っているのは、うちの人と女坂の旦那なんです。いつだかも、脅迫状なんかよこしましてね", "脅迫状を――。そいつは何処にある" ], [ "なんだか、おかしな文句だな。さむい日と断ってあるが、こいつは当っている。おしゃかになるというのは『毀す』という隠語だがこれは工場なんかで使われる言葉だ。――おみねさん、この脅迫状には名前がないが、どうして女坂染吉とやらが出したとわかるんだい", "だって、外には、そんな手紙をよこす人なんて、ありませんわ" ], [ "ああ、あいつかも知れません。ネオン・サイン屋の一平です。あれはこの横丁の地廻りで、元職工をしてたので、ネオンをやってるんです。うちのネオンも、一平が直しに来ます", "ふうん。一平と虫尾とはどんな交際だい", "さあ、別にききませんけれど……" ], [ "その一平というのはどんな身体の男なんですか", "ネオン屋の一平は、背が高くて、ガニ股でいつも青い顔をしていますよ" ], [ "おみねさん、君が先刻返事をしてくれなかったことがあったね。この二つの寝床の一つは君が寝ていたが、今一つには誰が寝ていたか。それはナンバー・ワンの女給ゆかりの布団なんだろうが、入ってたのは別人だった。いいかね。この帆村君は、さっき四時前に、ここから長身の男が逃げてゆくのを発見したんだ。つづいてライターをこの家のうちで拾った。すると、こっちの布団(と、一方の寝床を指しながら)には、その背の高い、そのライターの持ち主が寝ていたのだ。もしそのライターがネオン屋の一平のだったら、お前さんはここで一平と寝てたことになるよ、それでいいかい", "まァ、誰が一平なんかと……", "もう一つお前さんに見せたいものがある" ], [ "このピストルを知らないかい", "ああ、これは……。これこそ一平のもってたピストルです。あいつは、これでいつかあたしのことを……。あたしのことを……" ], [ "やっぱし、あいつだ。あいつだ。一平が主人を撃ったのです。その外に犯人はありません。そうなんですよオ、そうなんです", "これ、おみねさん、しっかりしないか。おい外山君、この婦人を階下へ連れてって休ませてやれ" ], [ "うん、そいつはこう考えてはどうか。すこし穿ちすぎるが、あの夜、おみねは虫尾の寝床で彼の用事を果すと、この部屋に退いた。爺さん便所に立つときに、隣りの布団をみて(ゆかりの奴、寒がりだから頭から布団をかぶって寝てやがる)と思った。それから再び自分の室に入ると、脅迫状が恐いものだから、厳重に錠をおろして寝た。そこでおみねは、先客の一平が寝ているゆかりの布団へもぐりこんで、午前三時半までいた。それから頃合よしというのであの犯行が始まった。――", "それにしても午前四時近くの犯行は、すこし遅すぎますよ", "なあに、一平が脅迫状に寒い日にやっつけると書いた。一日のうちでも一番寒い時刻というのは午前四時ごろだ。で、合っているよ", "えらいことを課長さんは御存知ですね、一日のうちで午前四時近くが、一番気温が低いなんて。それはそれとして、僕にはどうもぴったりしませんね。もう一つ気になるのは、ドーンとピストルが鳴ってから犯人が逃げだすまでの時間が、十分間ちかくもありましたが、これは犯罪をやった者の行動としては、すこし機敏を欠いていると思うです。タップリみても三分間あれば充分の筈です。しかも犯人は十分もかかりながら遽てくさってライターを落とし、おみねさんは胡麻化すにことかいて、ゆかりの寝床を直すことさえ気がつかなかった。これから見ても両人は余程あわてていたんです。計画的な殺人なら、なにもそんなに泡を食う筈はないのです", "うむ、すると君の結論は、どうなのだ" ], [ "だが、この事件を解くにはもっと沢山の関係者がでてこないかぎり、三次方程式の答えを、たった二つの方程式から求めるのと同じに、不可能のことです", "ほほう、すると、君は、ゆかりのことなんかも怪しいと見るかね" ], [ "課長どの、唯今、女給のゆかりが、こっそり帰ってきたのを、ここへひっぱりあげて参りました", "なに、ゆかりというナンバー・ワンが……" ], [ "おみねさんが教えてくれたんだがね", "まあ、もう白状しちゃったんですか。そいじゃ私が言うまでも、これは銀さんのよ" ], [ "銀さんって誰のことかい", "おや、マダムは銀さんのだと言わなかったの、まァ悪いことをした。でも、こうなったらしょうがないわ、銀さんッて、マダムのいい人よ、木村銀太といって、ゲリー・クーパーみたいな、のっぽさんよ" ], [ "いよいよ足りなかった最後の方程式がみつかったようだね、帆村君", "そうですね", "おみねと、その情夫の木村銀太との共謀なんだ。さっき一平が寝ていたと思ったのはあれは銀太なんだ。君が見た人影ってのもネ、ありゃ銀太なんだよ。こうなるとピストルも誰のものだか判ったもんじゃないよ。一平からピストルを盗むことだって出来る", "僕はそうは思いませんね。今の話で、おみねと、こっちの寝床に忍びこんでいた情夫の銀太とが犯行に関係のないということが判ったんです" ], [ "おみねと銀太が一緒に寝ているところに、思いがけなくあのピストルの音がしたので、二人は吃驚して遽てだしたのですよ。銀太が居てはかかり合いになるから、おみねは銀太を逃がしたのです、銀太は裸の上に着物を着直して、いろんな持ちものを懐にねじこんで逃げるうちに、あのライターを落としたんです。銀太が相当の道程を逃げたころを見はからって、マダムのおみねが『人殺しッ』と怒鳴ったんです", "すると、あのピストルは、誰が射ったことになるんだい", "調べてみなければわかりませんが、多分ネオン屋の一平が射ったんでしょう。カフェ・オソメの女坂も怪しいですがね", "そうかね。僕はさっき言ったように、情夫とおみねの実演だと思うよ。とにかく、他の連中の動静も多田刑事に調べにやったからもう直ぐ判るだろう" ], [ "ゆかりのことはH風呂にきいて午前四時半まで、Nという男と滞在していたことが判りました。それから大久保一平、あのネオン屋ですね、あいつについちゃ意外なことがあるです", "ほほう、どうしたというんだ", "あいつの家を叩きおこしてみましたが、昨夜は夕から出たっきり、朝方まで、とうとう帰って来なかったんです", "それで……", "それでこいつは怪しいと思って、帰りがけに淀橋署に、ちょっと寄って、偶然一平のことを聞いてみましたところ、意外にも一平は上野署に留置されていることが判ったんです" ], [ "実は一平さん、昨夜十二時ごろから、山下のおでん屋の屋台に噛りついて、徳利を十何本とか倒して、くだをまいたんだそうです。揚句の果、午前二時近くになって、店をしまうから帰って来れと、屋台の親爺が言うと、なにを生意気な、というので、おでん屋の屋台をゆすぶって、到頭そいつを往来に、ぶっ倒しちまったんです。そこで上野署へ一晩留置ということになったんですが、身柄は今朝五時半釈放されました", "そうか、こいつは又、素晴らしい現場不在証明だ。ねえ帆村君、あのピストルが屋根裏でズドンと鳴った頃には、一平の奴上野署の豚箱のなかで、虱に噛まれていたらしいよ" ], [ "こないだ預けた銘仙の羽織をちょっと出して貰いたいんだが", "ああ、その羽織なら、今うけだして持ってお帰りになりましたよ" ], [ "羽織をかえして下さい。あれは私のだから", "羽織は返しますよ、ほら。だが、その襟に縫いこんであった、この契約書は、僕に貸して下さい。僕は素人探偵の帆村荘六というものです" ] ]
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房    1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行 初出:「アサヒグラフ」    1931(昭和6)年10月号 ※「山下のおでん屋の屋台に噛《かじ》りついて」の「噛」には底本では※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]が使われています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年6月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001236", "作品名": "ネオン横丁殺人事件", "作品名読み": "ネオンよこちょうさつじんじけん", "ソート用読み": "ねおんよこちようさつしんしけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「アサヒグラフ」1931(昭和6)年10月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-08-05T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1236.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第1巻 遺言状放送", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年10月15日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年10月15日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年10月15日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "小林繁雄、門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1236_ruby_18730.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-06-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1236_18847.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-06-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ねえ、博士。宮川さんは、いよいよ明日、退院させるのでございますか", "そうだ、明日退院だ。それがどうかしたというのかね、婦長", "あんな状態で、退院させてもいいものでございましょうかしら", "どうも仕方がないさ。いつまで病院にいても、おなじことだよ。とにかく傷も癒ったし、元気もついたし、それにあのとおり退院したがって暴れたりするくらいだから、退院させてやった方がいいと思う", "そうでしょうか。わたくしは気がかりでなりませんのよ", "婦長。君は儂のやった大脳移植手術を信用しないというのかね", "いえ、そんなことはございませんけれど……", "ございませんけれど? ございませんが、どうしたというのかね", "いいえ、どうもいたしませんが、ただなんとなく、宮川さんを病院の外に出すことが心配なんですの。なにかこう、予想もしなかったような恐ろしい事が起りそうで", "じゃやっぱり君は、儂の手術を信用しとらんのじゃないか。まあそれはそれとしておいて、とにかく儂は宮川氏を退院させたからといって、後は知らないというのじゃない。一週間に一度は、宮川氏を診察することになっているのだ", "まあ、そうでございましたか。博士が今後も診察をおつづけになるのなら、わたくしの心配もたいへん減ります。ですけれど、いまお話の今後の診察の件については、わたくし、まだちっとも伺っておりませんでした", "それはそのはずだ。診察をするといっても、患者を診察室によびいれて診察するのではない。宮川氏は、診察されるのは大きらいなんだ。逆らえば、せっかく手術した大脳に、よくない影響を与えるだろう。逆らうことが、あの手術の予後を一等わるくするのだ。だから儂は、すくなくとも毎週一度は、宮川氏の様子を遠方から、それとなく観察するつもりだ。それが儂のいまいった診察なんだ。このことは当人宮川氏にも、また病院内の誰彼にも話してない秘密なんだから、そのつもりでいるように" ], [ "知らないよ。人まちがいだ。早く向うへいってくれたまえ", "そんなことをいうものじゃありませんよ。僕は矢部というものです。あなたはご存知ないかもしれないが、僕の方はよく知っています" ], [ "とにかく、僕は君に見覚えがない。たのむから、早く向うへいってくれたまえ", "よろしい、向うへいきましょうが、ここまでついて来たには、こっちにすこし用事があるんです。金を五十円ばかり貸してください", "なんだ、金のことか。五十円ぐらい、ないでもないが、見ず知らずの君に、なぜ貸さねばならないか、その訳がわからない" ], [ "一本、あなたにあげましょうかね", "じゃ、もらおう" ], [ "どうです。煙草はうまいでしょうが。ところで僕は質問しますけれど、あなたは手術前には煙草が大きらいだったじゃありませんか。それを思い出してごらんなさい", "あっ――" ], [ "いくら暴力をふるおうと、脳の手術の出来るのは、自慢でいうじゃないが、この儂一人なんだから、儂がいやだといえば、矢部がいくら騒いでも何にもならんではないですか", "そうですね。それでは、本当に安心していて、いいわけですね" ], [ "えっ、そんなものがあったかね", "ありますとも。ここに持ってきました" ], [ "ああ、これは儂のところの助手で谷口という男の手帖ですよ", "でも、その手帖は、私の机の中にあったんです", "そ、それですよ。じつは、谷口を、君のアパートの引越のとき、手伝いにつれていったんです。そのときポケットからとりおとしたのを、他の誰かが拾って、宮川さんのものだと思って、机の中に入れたのでしょう。いや、それにちがいありません", "それはおかしいですね。筆蹟が、私のにそっくりなんです", "こういう字体は、よくあるですよ。なんなら谷口をよんでもいいが、いま生憎郷里へかえっているのでね", "私は、そのYという女に会いたくてしかたがないのです" ], [ "駄目です、駄目です。他人の女にかかりあってはいけない", "本当に、そのYというのは、谷口さんの愛人なんですかね", "そうです。それにちがいありません" ], [ "よく来たね。矢部君。きょうは君に八十円ばかり用達をしてもいいと思っていたところだ", "ほんとですか" ], [ "ほんとだとも。そのかわり、僕のどんな質問に対しても、君は正直にこたえるんだよ。いいかね", "ははあ、交換条件ですか。ようございます。八十円いただけますなら、当分栄養をとるのに事かきませんから。なんですか、質問というのは" ], [ "大いによろしい。いや、質問といっても、大したことじゃないんだ。君はちかごろ、美枝子さんというひとに会うかね", "美枝子にですか。いや、会いません。こんなあさましい窶れ方で会えば、愛想をつかされるだけのことですからねえ", "それはへんだね。そんなに永く美枝子さんに会わないでいられるとは、おかしいじゃないか。君の愛情が冷えたのではないか", "そういわれると、すこしへんですがね。第一ちかごろ健康状態もよくないことも、原因しているのでしょう。質問というのはそんなことですか", "いや、もう一つあるんだ。その美枝子さんというのは、丸顔のひとで、唇が小さく、そして両頬に笑くぼのふかいひとじゃないかね", "ああ、そのとおりです。あなたは、どうしてそれを知っているんですか", "いや、この前いつだか君から話をきいたことがあったじゃないか" ], [ "どうだい、矢部君。これから二人して、美枝子さんがどうしているか、その様子をそっと見にいってみようじゃないか", "そ、そんなことを……" ], [ "おい、あの女だろう。空色のジャンバーを着て、赤い細いリボンをまいた黒い帽子をかぶっているあの女――ほら、いまハンドバッグを持ちかえた女だ", "そうです、美枝子ですよ。宮川さん、放してください。僕は美枝子に会うのはいやだ", "そんな気の弱いことでどうするんだ。ほら、美枝子さんは、こっちへ来る" ], [ "ああ、矢部君のことですか。彼はあなたに会うのが恥しいといって逃げたんです。だが、私にまかせて置きなさい。わるいようにはしない", "まあ、あなたは一体どなたですの。矢部さんのお友だち? ――ちょっと、皆がみていますわ。手をはなしてくださらない" ], [ "それはまたどうしたのですか", "いや、女の問題です。じつはこういうわけです" ], [ "それはつまり、私の心が冷たいといって、彼女が口惜しがりだしたんです", "あんたはなにか冷淡な仕打をしたのですか", "そこなんですよ博士、はじめは私も熱情を迸らせたようですが、あるところまでゆくと、急にその熱情が中断してしまったのです。そして俄に不安と不快とに襲われたのです。そのとき頭の中に、別の一人の女の顔が現れました。それは日本髪を結った白粉やけのした年増の女なんです。その女が、髷の根をがっくりと傾け、いやな目付をして私に迫ってくるのです。払えども払えども、その怪しい年増女が迫ってきます。そういう不快な心のうちを、どうして美枝子に話せましょう。彼女にとって私が冷淡らしく見えたというのは、まだよほど遠慮した言葉づかいでしょう。きっとそのとき私は、塩を嘗めた木乃伊のように、まずい顔をしていて、しゃちこばっていたに相違ありません", "それで、なぜあなたは矢部氏の脳をほしがるのですか", "わかっているじゃありませんか。矢部君の脳室の中には、美枝子を慕う情熱を出す部分がまだ残っているのにちがいありません。それを切り取って、私にうつし植えてください。私の持っている金は、いくらでも矢部君にあげてください" ], [ "それからもう一つおねがいです。あのいやな日本髪の年増女の幻が出るところの脳の部分を切り取って捨ててください。そうだ。もし矢部君が欲しいというのなら、その部分を、彼に植えてやってください", "それはたいへんなことだ", "博士、ぜひ早いところ、また手術をしてください。一体あの白粉やけのした年増女は、どこのだれなんですか" ], [ "おい婦長。いよいよ宮川氏は明日退院させるが、君になにか意見はないかね", "まあ、黒木博士。わたくしになんの意見がございましょう。この前は、宮川さんがたいへんな外傷を負っていらしったせいで、あのように手術後の恢復も長引き、精神状態も危かしかったのでございましょうね", "まあ、そんなところだろうよ" ], [ "まあ、宮川さん。ずいぶん待ってたわよ", "おお美枝子さん。こんどこそ僕は、君を失望させないよ" ], [ "警部さん、連れの女はどうしました", "ああ、黒木博士、連れの女は、逃げてしまいました。行方を厳探中です", "犯人の方はどうしましたか", "ああ、八形八重という年増女ですか。これはその場で取押えて、一時本庁へつれてゆきました", "精神病院から逃げだしたんだそうですね", "そうです。ですが、この八形八重という女は、どうも正気らしいですぜ。この前の事件で、刑務所に入るのがいやで、装っていたんじゃないですかなあ。被害者宮川のうしろから忍びよって兇器をふるったことを、こんどははっきりした語調でのべました", "ふーん、そうですか", "こんどまた被害者宮川が博士の手で生きかえれば、きっとまた殺さないでおくべきかといっていましたよ。まるで芝居のせりふもどきですよ、ははは", "いや、この傷では宮川氏はもう二度と生きかえらないでしょう" ] ]
底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房    1990(平2)年4月30日初版発行 初出:「日の出」    1939(昭和14)年8月号 ※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫) 入力:tatsuki 校正:浅原庸子 2003年2月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003237", "作品名": "脳の中の麗人", "作品名読み": "のうのなかのれいじん", "ソート用読み": "のうのなかのれいしん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「日の出」1939(昭和14)年8月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2003-03-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3237.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第7巻 地球要塞", "底本出版社名1": "株式会社三一書房", "底本初版発行年1": "", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年4月30日発行", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "浅原庸子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3237_ruby_8617.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-02-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3237_9301.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-02-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "やあ金博士。とつぜんでしたが、ロッセ氏を案内して、お邪魔に参りました", "ほう、その人は、英国人じゃないだろうな。英国人なら、ここには無用だから、さっさと帰ってもらおう" ], [ "ああ博士。ロッセ氏は日本人です", "本当か、綿貫君。氏は、日本人にしては色が黒すぎるではないか" ], [ "氏は、帰化日本人です。その前は、印度に籍がありました", "どうぞよろしく" ], [ "だが、ロッセ君。そんなに初速の早い電気砲をこしらえて、どうするつもりなんかね", "これはしたり、そのような御たずねでは恐れ入ります。初速の大きいことは、すなわち射程が長いことである。しからば、われは敵の砲兵陣地乃至は軍艦の射程外にあって、敵を砲撃することが出来るのです。こんなことは常識だと思いますが……" ], [ "ですが、金博士。僕はぜひともいい大砲を作りたいと思って、そのような初速の大きい電気砲を設計したのです。一発撃ってみて、命中しなければ、二発目、三発目と、修整を加えていきます。十発のうち、二発でも一発でも命中すれば、しめたものです", "そういう公算的射撃作戦は、どうも感心できないねえ。なぜ、そんなに焦せるのであるか。もっと落着いて、命中しやすい方針をとってはどうか。ロッセ君、あなたの話を聞いていると、聞いているわしまで、なんだかいらいらしてくる。それでは、戦闘に勝てない。ロッセ君、あなたは日本人だというけれども、あなたの電気砲設計の方針は、日本人的ではないですぞ。それとも、近代の日本人は、そんなにいらいらして来たのかな" ], [ "ねえ、ロッセ君", "はあ", "わしは君に、一つのヒントを与える。砲弾の速度を、うんと低下させたら、どんなことになるか", "射程が短縮されます。技術の退歩です。ナンセンスです", "いや、わしのいっているのは、射程は、うんと長くとるのだ。ただ砲弾の速度を、極めて遅くするのだ。そして命中率を、百パーセントに上げることが出来る。それについて、一つ考えてみたまえ。解答が出来たら、また訪ねてきなさい、わしは相談に乗ろうから", "砲弾の速度を下げるのは、ナンセンスですが……とにかく折角のおすすめですから、一つ考えて来ましょう", "そうだ。そうしたまえ。それが、うまくいくようなら、あなたの企図している英国艦隊一挙撃滅戦も、うまくいくだろう", "えっ、なんですって", "いや、あなたの懐中から掏った財布をお返しするよ。これは上から届けて来たものだが、いくら暗号で書いてあるにしても、英艦隊撃滅作戦の書類を中に挟んでおくなんて、不注意にも、程がある" ], [ "ふう、これでやっと落着いた。金博士も、ひどいところを素破ぬいて、悦んでいるんだねえ。宿敵艦隊の一件が、あそこで曝露するとは、思っていなかった", "まあいいよ。私も、すこし独断だったけれど、あなたを早く、博士に紹介しておいた方がいいと思ったもんだから、黙って連れていったんだ", "ああ、金博士は、驚異に値する人物だ。一体あの人は、中国人かね、それとも日本人かね", "そのことだよ" ], [ "一体、金という名前は、中国にもあるし、日本人にもある。それから朝鮮にもあるんだ。もちろん満洲にもあることは、君も知っているだろう。ところで博士は、その中の、どこの人間だか知らないといっている。博士は捨児だったんだ。たしかに東洋人にはちがいないが、両親がわからないから、日本人だか中国人だか分らないといっている", "赤ちゃんのときは、何語を話していたのかね", "それは広東語だ。もっとも、博士がまだ片言もいえないときに、広東人の金氏が拾い上げて、博士を育てたんだからねえ、赤ちゃんのときに広東語を喋ったのは、あたり前だ", "ふしぎな人物だ。そして、あの穴倉の中でなにをしているのかね", "博士は、科学者だ。いや、もっと説明語を入れると、国籍のない科学者だ。国籍のない人といっても、ユダヤ系というわけではない。博士は曰く、わしは国籍こそ無けれ、あくまで東洋人だといっている", "で、博士は一体、毎日どんなことをやっているのか", "博士は、なんでも、気に入った科学をとりあげて、どんどん研究を進めている。今は、宇宙線と重力との関係を研究しているが、今までにも、たくさんの発明がある。その中で、かなり古臭くなった発明を、方々の国に売って、莫大な金を得ている。博士の資産は、何百億円だか見当がつかない。が、それよりも驚異に値するのは、博士の自主的研究は独得なる発展を遂げ、今世界中で一等科学の進んだアメリカや、次位のドイツなどに較べると、少くとも四五十年先に進んでいると、或る学者が高く評価している。だから、博士は、科学に関しては、世界の人間宝庫であるともいわれている" ], [ "だから、博士がうんといえば、あなたの設計した電気砲も、博士の秘密工場の手で実際に作ってくれるだろう。そうすれば、あなたの念願している英艦隊の撃滅のことも――", "いや、博士は、初速の速い電気砲が気に入らないらしい。むしろ、速度の遅い、そして射程の長い砲弾を考え出せといわれたが、僕には、何のことだか分らないのだ。なぜなら、速度を遅くすることと、射程を長く伸ばすこととは、互いに相傷つける条件なんだからねえ", "うむ、まるで謎々だね", "そうだ、謎々だ。それも解答のない謎々を出題されたような気がする。博士は、ひょっとしたら、僕をからかったのかもしれない", "そんなことはないよ。博士は、からかうなんて、そんな人のわるいことはしない。ああまで真剣で、大真面目なんだ。謎々をかけたにしても、博士は必ずその解答のあることを確めてあるのだと思う", "そうかなあ。速度の遅くて、射程の長い、そして命中率百パーセントの砲弾! そんなおそろしいものが、この世の中にあるとは、どうしても思われないが……いや、僕たちは、既成科学に対し、すっかり囚人になっているのがいけないのかもしれない" ], [ "おい、ロッセ君。一体、どうしたのか", "うん。やっぱり、われわれは、金博士に騙されたんだ。あんなばかばかしいことが出来てたまるものか。砲弾が低速で走れば、たちまち落ちるばかりではないか。高速であればこそ、遠いところへも届く", "それはそうだね", "あの金博士の意地悪め。僕は、英艦隊を一挙にして撃沈したいため、うまうまと博士の見え透いた悪戯に乗せられてしまったんだ。ちくしょう、ひどいことをしやがる", "……" ], [ "なるほど、反対条件だねえ", "博士よ、豚に喰われて死んでしまえ", "まあ、そういうな。背後をふりかえってから、ものをいって貰おうかい" ], [ "誰だ?", "あっ!" ], [ "ロッセ君、しっかりしたまえ", "見ました、たしかに見ました。しかし、僕は気が変になったのではないだろうか。大きなまっ黒な砲弾が、通行人のように、落着きはらって、向うへいったのを見たんだからね", "それは、私も見た", "砲弾が、ものをいったでしょう。あの声は、たしかに金博士の声だった。金博士が、砲弾に化けて通ったんだろうか。わが印度では、聖者が、一団の鬼火に化けて空を飛んだという伝説はあるが、人間が砲弾になるなんて……", "ほう、なるほど。あの声は、金博士の声に似ていた。それは本当だ" ], [ "博士、もっと、例の反重力弾のことについて、話をしていただきましょう", "ああ、あなた方を愕かしたあのものをいう、のろのろ砲弾のからくりのことかね。印度洋へ入ったら、いう約束だったから、それでは話をしようかね。からくりをぶちまければ、他愛もないことなのさ。砲弾が、ものをいったのは、砲弾の中に、小型の受信機がついていて、わしの声を放送したんだ", "それは、もう分っています。それよりも、なぜ、あのように低速で飛ぶのですか。落ちそうで、一向落ちないのが、ふしぎだ", "それは、大したからくりではない。重力を打消す仕掛が、あの砲弾の中にあるのだ。これはわしの発明ではなく、もう十年も前になるが、アメリカの学者が、ピエゾ水晶片を振動させて、油の中に超音波を伝えたのだ。すると重力が打消され、油の中に放りこんだ金属の棒が、いつまでたっても、下に沈んでこないのであった。その話は、知っているだろう", "ええ、その話なら、知っています", "そのアメリカ人の着想に基いて、わしが低速砲弾に応用したんだ。つまり、砲弾の中に、それと似た重力打消装置がある。もし重力を完全に打消すことができたら、砲弾は、地球と同じ速さで、地球の廻転と反対の方向に飛び去るわけだが、それはわかるだろう", "なるほど、なるほど" ], [ "しかし、重力をそれほど完全に打消さず、或る程度打消せば、それに相当した速度が得られる。低速砲弾においては、ほんのわずか重力をうち消してあるばかりだ。それでも、途中で地面に落ちるようなことはない", "それはいいが、砲弾の飛ぶ方向は、どうするのですか" ], [ "それは飛行機や艦船と同じだ。舵というか帆というか、そんなものをつけて置けば、いいのだ。操縦は遠くから電波でやってもいいし、砲弾の中に、時計仕掛の運動制御器をつけておいてもいい。――それはまあ大したことがないが、わしの自慢したいのは、この砲弾は、はじめに目標を示したら、その目標がどっちへ曲ろうが、どこまでもその目標を追いかけていくことだ。だから、百発百中だ", "ほう、おどろきましたな。目標を必ず追いかけて、外さないなんて、そんなことが出来ますか", "くわしいことは、ちょっといえないが、軍艦でも人間でも、目標物には特殊な固有振動数というものがあって、これは皆違っている。最初にそれを測っておいて、それから砲弾の方を合わせて置けば、砲弾は、どこまでも、目標を追いかける。先夜、あなたがたを追いかけていったのも、その仕掛けのせいだ。尤も、君たちに会えば、用がないから、わしのところへ戻ってくるように調整しておいたのだ。これはわしの自慢にしているからくりじゃ", "なるほど。そんなことになりますかな" ] ]
底本:「海野十三全集 第10巻」三一書房    1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1941(昭和16)年4月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:まや 2005年5月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003342", "作品名": "のろのろ砲弾の驚異", "作品名読み": "のろのろほうだんのきょうい", "ソート用読み": "のろのろほうたんのきようい", "副題": "――金博士シリーズ・1――", "副題読み": "――きんはかせシリーズ・いち――", "原題": "", "初出": "「新青年」1941(昭和16)年4月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-06-21T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3342.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月31日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "まや", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3342_ruby_18542.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-05-15T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3342_18548.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-05-15T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "あのウ、先生", "む。――", "あの卵は、どこかにお仕舞いでしょうか", "卵というと……", "先日、あちらからお持ちかえりになりました、アノ駝鳥の卵ほどある卵でございますが……" ], [ "あれは――、あれは恒温室へ仕舞って置いたぞオ", "あ、恒温室……。ありがとうございました。お邪魔をしまして……", "どうするのか", "はい。午後から、いよいよ手をつけてみようと存じまして", "ああ、そうか、フンフン" ], [ "あのウ、先生", "む。――" ], [ "あのウ、恒温室の温度保持のことでございますが、唯今摂氏五十五度になって居りますが、先生がスイッチをお入れになったのでございましょうか", "五十五度だネ。……それでよろしい、あのタンガニカ地方の砂地の温度が、ちょうどそのくらいなのだ。持って来た動物資料は、その温度に保って置かねば保存に適当でない", "さよですか。しかし恒温室内からピシピシという音が聞えて参りますので、五十五度はあの恒温室の温度としては、すこし無理過ぎはしまいかと思いますが……", "なーに、そりゃ大丈夫だ。あれは七十度まで騰げていい設計になっているのだからネ" ], [ "ど、どうしたのだッ", "せ、せんせい、あ、あれを御覧なさい" ], [ "先生。恒温室の壁を破って、あいつが飛び出したんです", "君は見たのか", "はい、見ました。あのお持ちかえりになった卵を取りにゆこうとして、見てしまいました。しかし先生、あの卵は二つに割れて、中は空でした" ], [ "……だから、こいつはどうしても犯罪だと思うのですよ、課長さん", "そういう考えも、悪いとは云わない。しかし考えすぎとりゃせんかナ", "それは先刻から何度も云っていますとおり、私の自信から来ているのです。なにしろ、病人の出た場所を順序だてて調べてごらんなさい。それが普通の伝染病か、そうでないかということが、すぐ解りますよ。普通の伝染病なら、あんな風に、一つ町内に出ると、あとはもう出ないということはありません", "しかし伝染地区が拡がってゆくところは、伝染病の特性がよく出ていると思う", "伝染病であることは勿論ですが、ただ普通じゃないというところが面白いのですよ" ], [ "それが――それがどうも、珍らしい菌ばかりでしてナ", "珍らしい黴菌ですって", "そうです。似ているものといえば、まずマラリア菌ですかね。とにかく、まだ日本で発見されたことがない" ], [ "いいのがあるワ。あたしの遠縁の娘だけれど。丸ぽちゃで、色が白くって、そりゃ綺麗な子よ", "へえ! それを僕にくれますか", "まあ、くれるなんて。貰っていただくんだわ。ほほほほ" ], [ "こッこれだッ。怪しいのは……", "なんだ其の箱は", "爆弾が仕掛けてあるのじゃないかナ", "イヤ短波の機械で、われ等の喋っていることが、そいつをとおして、真直に敵の本営へ聞えているのじゃないか", "それとも、殺人音波が出てくる仕掛けがあるのじゃないか" ], [ "あッはッはッ。それア弁当屋の出前持の函なんだ。多分お昼に食った俺の皿が入っているだろう", "なんだって、弁当の空か?", "どうして、それがこんなところにあるのか" ], [ "忘れてゆくとは可笑しい、中を検べてみろ", "早くやれ、早くやれッ" ], [ "よォし、明けろッ", "明けるぞオ" ], [ "ぷーッ。ずいぶん汚い", "見ないがよかった。新兵器だなんていうものだから、つい見ちまった" ], [ "おや、貴様は何者かッ", "誰の許しを得て入って来たか" ], [ "なにッ", "そりゃ、弁当屋の小僧だよ", "弁当屋の小僧にしても……", "オイ小僧、ブローニングで脅されないうちに、早く帰れよ" ], [ "たとえば、ああ、そこをごらんなさい。一匹の蠅が壁の上に止まっている。そいつを怪しいことはないかどうかと一応疑ってみるのがわれわれの任務ではないか", "蠅が一匹、壁に止まっているって? フン、あれは……あれは先刻弁当屋の小僧が持って来た弁当の函から逃げた蠅一匹じゃないか。すこしも怪しくない", "それだけのことでは、怪しくないという証明にはならない。それは蠅があの黒い函の中から逃げだせるという可能性について論及したに過ぎない。あの蠅を捕獲して、六本の脚と一個の口吻とに異物が附着しているかいないかを、顕微鏡の下に調べる。もし何物か附著していることを発見したらば、それを化学分析する。その結果があの黒函の中の内容である豚料理の一部分であればいいけれど、それが違っているか、或いは全然附着物が無いときには、どういうことになるか。あの蠅は弁当屋の出前の函にいたものではないという証明ができる。さアそうなれば、あの蠅は一体どこからやって来たのだろうか。もしやそれは一種の新兵器ではないかと……" ], [ "イヤ参謀、それは粗笨な考え方だと思う。一体この室に蠅などが止まっているというのが極めて不思議なことではないか。ここは軍団長の居らるる室だ。ことに季節は秋だ。蠅がいるなんて、わが国では珍らしい現象だ", "弁当屋が持って来たのなら、怪しくはあるまいが……", "ことに新兵器なるものは、敵がまったく思いもかけなかったような性能と怪奇な外観をもつのを佳とする。もし蠅の形に似せた新兵器があったとしたら……。そしてあの弁当屋の小僧が実は白軍のスパイだったとしたら……" ], [ "参謀は神経が鈍すぎるッ", "いいや、君は……", "鈍物参謀", "やめいッ!" ], [ "もうやめいッ、論議は無駄だ。喋っている遑があったら、なぜあの蠅を手にとって検べんのじゃ", "はッ" ] ]
底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房    1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行 初出:「ぷろふいる」    1934(昭和9)年2月号~9月号 入力:tatsuki 校正:花田泰治郎 2005年5月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001249", "作品名": "蠅", "作品名読み": "はえ", "ソート用読み": "はえ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「ぷろふいる」1934(昭和9)年2月号~9月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-07-15T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1249.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第2巻 俘囚", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年2月28日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年2月28日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "花田泰治郎", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1249_ruby_18620.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-05-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1249_18627.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-05-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "なんやら。――怪ったいな臭がしとる", "怪ったいな臭?――やっぱりそうやった。今朝からうちの鼻が、どうかしてしもたんやろと思とったんやしイ。――ほんまに怪ったいな臭やなア", "ほんまに、怪ったいな臭や。何を焼いてんねやろ" ], [ "この臭は、ちょっとアレに似とるやないか", "えッ、アレいうたら何のことや", "アレいうたら――そら、焼場の臭や" ], [ "お客さん。怪ったいな臭がしとりますやろ", "おう。これは何処でやっているのかネ。ひどいネ", "さあ何処やろかしらんいうて、いま相談してまんねけれど、ハッキリ何処やら分らしめへん。――お客さん、これ何の臭や、分ってですか", "さあ、こいつは――" ], [ "ああ、この辺はいつもこんな臭いがするところなのかネ", "いいえイナ。こないな妙な臭は、今朝が初めてだす", "そうかい。――で、この辺から一番近い火葬場は何処で、何町ぐらいあるネ", "さあ、焼場で一番ちかいところ云うたら――天草だすな。ここから西南に当ってまっしゃろな、道のりは小一里ありますな", "ウム小一里、あまくさですか", "これ、天草の焼場の臭いでっしゃろか", "さあ、そいつはどうも何ともいえないネ" ], [ "おお、このへんな臭いだ。ここでもよく臭いますね。この臭いはいつから臭っていましたか", "ああこの怪ったいな臭いですかいな。これ昨夜からしてましたがな。さよう、十時ごろでしたな。おう今、えらいプンプンしますな" ], [ "一体どの辺から匂ってくるのでしょう", "さあ?" ], [ "風は昨夜から、どんな風に変りましたか", "ああ風だすか。風は、そうですなア、今も昨夜も、ちっとも変ってえしまへん。北西の風だす" ], [ "いかがです。なにか見えるでしょう", "さあ――ちょっと待っとくなはれ" ], [ "――な、見えますやろ。どえらい不細工な倉庫か病院かというような灰色の建物が見えまっしゃろ", "ああ、これだな", "見えましたやろ。そしたら、その屋根の上から突き出しとる幅の広い煙突をごらん。なんやしらん、セメンが一部剥がれて、赤煉瓦が出てるようだすな", "ウン、見える見える", "見えてでしたら、その煙突の上をごらん。煙が薄く出ていまっしゃろ、茶色の煙が……", "おお出ている出ている、茶色の煙がねえ" ], [ "あの建物は、なんですかねえ", "さあ詳しいことは知りまへんけど、この辺の人は、あれを『奇人館』というてます。あの家には、年齢のハッキリせん男が一人住んでいるそうやと云うことだす", "ほう、それはあの家の主人ですか", "そうだっしゃろな。なんでも元は由緒あるドクトルかなんかやったということだす", "外に同居人はいないのですか、お手伝いさんとか", "そんなものは一人も居らへんということだす。尤も出入の米屋さんとか酒屋さんとかがおますけれど、家の中のことは、とんと分らへんと云うとります", "そのドクトルとかいう人物とは顔を合わさないのですか", "そらもう合わすどころやあれへん。まず注文はすべて電話でしますのや。商人は品物をもっていって、裏口の外から開く押入のようなところに置いてくるだけや云うてました。するとそこに代金が現金で置いてありますのや。それを黙って拾うてくるんやと、こないな話だすな。そやさかい向うの家の仁に顔を合わさしまへん", "ずいぶん変った家ですね。――とにかくこれから一つ行ってみましょう" ], [ "中は、ひっそり閑としてまっせ", "そうか。――油断はでけへんぞ。カーテンの蔭かどこかに隠れていて、ばアというつもりかもしれへん。さあ皆入った。さしあたり煙突に続いている台所とかストーブとかいう見当を確かめてみい" ], [ "ここ病院の古手と違うか", "あほぬかせ。ここの大将が、なんでも洋行を永くしていた医者や云う話や", "ああそうかそうか。それで鴨下ドクトルちゅうのやな。こんなところに診察室を作っておいて、誰を診るのやろ", "コラ、ちと静かにせんか" ], [ "ほほう、こらおかしい。傍へよると、妙な臭がしよる――", "えッ。――" ], [ "何でっしゃろな", "さあ――こいつが臭うのやぜ" ], [ "これア大変なものが見える。大川さん。火床の中に、人骨らしいものが散らばっていますぜ?", "ええッ、人骨が――。どこに?", "ホラ、今燃えている一等大きい石炭の向う側に――。見えるでしょう", "おお、あれか。なるほど肋骨みたいや。これはえらいこっちゃ。いま出して見まっさ" ], [ "フーン。これはどう見たって、大人の肋骨や。どうも右の第二真肋骨らしいナ", "こんなものがあるようでは、もっとその辺に落ちてやしませんか", "そうやな。こら、えらいこっちゃ。――おお鎖骨があった。まだあるぜ。――" ], [ "どうでしょう、僕の傷の具合は――", "たいして御心配も要らないと、先生が仰有っていましたわ。でも暫く我慢して、安静にしていらっしゃるようにとのことですわ", "暫くというと――", "一週間ほどでございましょう" ], [ "オヤ、帆村さんはどうなすったのでしょう。ウンウン唸っていらっして、起きあがれそうもなかったのに……", "ウン、これは変だな" ], [ "もし看護婦さん、この窓は、さっきから開いていたのかね?", "ええ、なんでございますって。窓、ああこの窓ですか。さあ――変でございますわネ。たしかに閉まっていた筈なんですが" ], [ "どうも困ったネ", "あたし、どうしましょう。婦長さんに叱られ、それから院長さんに叱られ、そして馘になりますわ" ], [ "あの犯人は、一体何者です", "皆目わかっていない。――君には見当がついているかネ" ], [ "うん、大体わかった――", "それはいい。あの焼屍体の性別や年齢はどうでした", "ああ性別は男子さ。身長が五尺七寸ある。――というから、つまり帆村荘六が屍体になったのだと思えばいい", "検事さんも、このごろ大分修業して、テキセツな言葉を使いますね", "いやこれでもまだ迚も君には敵わないと思っている。――年齢は不明だ", "歯から区別がつかなかったんですか", "自分の歯があれば分るんだが、総入歯なんだ。総入歯の人間だから老人と決めてもよさそうだが、この頃は三十ぐらいで総入歯の人間もあるからネ。現にアメリカでは二十歳になるかならずの映画女優で、歯列びをよく見せるため総入歯にしているのが沢山ある", "その入歯を作った歯医者を調べてみれば、焼死者の身許が分るでしょうに", "ところが生憎と、入歯は暖炉のなかで焼け壊れてバラバラになっているのだ", "頭蓋骨の縫合とか、肋軟骨化骨の有無とか、焼け残りの皮膚の皺などから、年齢が推定できませんか", "左様、頭蓋骨も肋骨も焼けすぎている上に、硬いものに当ってバラバラに砕けているので、全体についてハッキリ見わけがつかないが、まあ三十歳から五十歳の間の人間であることだけは分る", "まあ、それだけでも、何かの材料になりますね。――外に、何か屍体に特徴はないのですか", "それはやっと一つ見つかった", "ほう、それはどんなものですか", "それは半焼けになった右足なんだ。その右足は骨の上に、僅かに肉の焼けこげがついているだけで、まるで骨つきの痩せた、鶏の股を炮り焼きにしたようなものだが、それに二つの特徴がついている", "ほほう、――", "一つは右足の拇指がすこし短いのだ。よく見ると、それは破傷風かなんかを患って、それで指を半分ほど切断した痕だと思う", "なるほど、それはどの位の古さの傷ですか", "そうだネ、裁判医の鑑定によると、まず二十年は経っているということだ" ], [ "――で、もう一つの傷は?", "もう一つの傷が、また妙なんだ。そいつは同じ右足の甲の上にある。非常に深い傷で、足の骨に切りこんでいる。もし足の甲の上にたいへんよく切れる鉞を落としたとしたら、あんな傷が出来やしないかと思う。傷跡は癒着しているが、たいへん手当がよかったと見えて、実に見事に癒っている。一旦切れた骨が接合しているところを解剖で発見しなかったら、こうも大変な傷だとは思わなかったろう", "その第二の傷は、いつ頃できたんでしょう", "それはずっと近頃できたものらしいんだがハッキリしない。ハッキリしないわけは、手術があまりにうまく行っているからだ。そんなに見事な手術の腕を持っているのは、一体何処の誰だろうというので、問題になっておる" ], [ "モシ、地方裁判所の村松さんと仰有るのは貴方さまですか", "ああ、そうですよ。何ですか", "いま住吉警察署からお電話でございます" ], [ "糸子か。すこし気を落ちつけたら、ええやないか", "落ちつけいうたかて、これが落ちついていられますかいな。とにかく早よどないかしてやないと、うち気が変になってしまいますがな", "なにを云うとるんや。嬰児みたよに、そないにギャアつきなや" ], [ "新聞は分ってるけど、只の新聞と違うといいましたやろ。よう御覧。赤鉛筆で丸を入れてある文字を拾うてお読みやす", "なに、この赤鉛筆で丸をつけたある字を拾い読みするのんか" ], [ "そら、どうや。お父つぁんかて、やっぱり愕いてでっしゃろ", "うむ、こら脅迫状や。二十四時間以ないニ、ナんじの生命ヲ取ル。ユイ言状を用意シテ置け。蠅男。――へえ、蠅男?", "蠅男いうたら、お父つぁん、一体誰のことをいうとりまんの", "そ、そんなこと、俺が知っとるもんか。全然知らんわ", "お父つぁん。その新聞の中に、蠅の死骸が一匹入っとるの見やはった?", "うえッ、蠅の死骸――そ、そんなもの見やへんがナ", "そんなら封筒の中を見てちょうだい。はじめはなア、その『蠅男』とサインの下に、その蠅の死骸が貼りつけてあったんやしイ" ], [ "お父つぁん。きっと心当りがおますのやろ。隠さんと、うちに聞かせて――", "阿呆いうな。蠅男――なんて一向知らへんし、第一、お父さんはナ、人様から恨みを受けるようなことはちょっともしたことないわ。ことに殺されるような、そんな仰山な恨みを、誰からも買うてえへんわ", "本当やな。――本当ならええけれど", "本当は本当やが、とにかくこれは脅迫状やから、警察へ届けとこう", "ああ、それがよろしまんな。うち電話をかけまひょか", "電話より、誰かに警察へ持たせてやろう。会社へ電話かけて、庶務の田辺に山ノ井に小松を、すぐ家へこい云うてんか" ], [ "どうです、旦那はん。これでよろしまっしゃろか", "うん、まあその辺やな", "あとは、明いとるところ云うたら、天井にある空気孔だすが、あれはどないしまひょうか" ], [ "さようですナ、あの格子の隙から入ってくるものやったら、まあ鼠か蚊か――それから蠅ぐらいなものだっしゃろナ", "なに、蠅が入ってくる。ブルブルブル。蠅は鬼門や。なんでもええ、あの空気孔に下から蓋をはめてくれ", "下から蓋をはめますんで……", "出来んちゅうのか", "いえ、まだ出来んいうとりまへん。いま考えます。ええ、こうっと、――" ], [ "お前は鴨下ドクトルの娘やいうが、名はなんというのか", "カオルと申します" ], [ "それから連れの男。お前は何者や", "僕は上原山治といいます", "上原山治か。そしてこの女との関係はどういう具合になっとるねん", "フィアンセです", "ええッ、フィなんとやらいったな。それァ何のこっちゃ", "フィアンセ――これはフランス語ですが、つまり婚約者です", "婚約者やいうのんか。なんや、つまり情夫のことやな" ], [ "まあ、そう怒らんかて、ええやないか。のう娘さん", "警官だといっても、あまりに失礼だわ。それよか早く父に会わせて下さい。一体何事です。父のうちを、こんなに警官で固めて、なにかあったんですか。それなら早く云って下さい" ], [ "――娘さん。鴨下ドクトルから、二、三日うちに当地へ来いという手紙が来たという話やが、それは何日の日附やったか、覚えているか", "覚えていますとも。それは十一月二十九日の日附です" ], [ "まあひどい方。わたしが嘘を云ったなどと――", "そんなら、なんで手紙を持って来なんだんや。この邸へ入りこもうと思うて、警官に見つかり、ドクトルの娘でございますなどと嘘をついて本官等をたぶらかそうと思うたのやろが、どうや、図星やろ、恐れいったか。――" ], [ "――警官たちも、取調べるのが役目なんだろうが、もっと素直に物を云ったらどうです", "なにをッ――" ], [ "いいえ、物心ついて、今夜が初めてなんですのよ", "ふうむ。それは又どういうわけです", "父はあたくしの幼いときに、東京へ預けたのです。はじめは音信も不通でしたが、この二、三年来、手紙を呉れるようになり、そしてこんどはいよいよ会いたいから大阪へ来るようにと申してまいりました。父はどうしたのでしょう。あたくし気がかりでなりませんわ" ], [ "まあ、父が留守中に、そんなことが出来ていたんですか。ああそれで解りましたわ。警官の方が集っていらっしゃるのが……", "貴女はお父さんがこの家に帰ってくると思いますか", "ええ勿論、そう思いますわ。――なぜそんなことをお聞きになるの", "いや、私はそうは思わない。お父さんはもう帰って来ないでしょうネ", "あら、どうしてそんな――", "だって解るでしょう。お父さんには、貴女との固い約束を破って旅に出るような特殊事情があったのです。そして留守の屋内の暖炉の中に一個の焼屍体が残っていた" ], [ "まだそうは云いきっていません。――一体お父さんは、この家でどんな仕事をしていたか御存じですか", "わたくしもよくは存じません。ただ手紙のなかには、(自分の研究もやっと一段落つきそうだ)という簡単な文句がありました", "研究というと、どういう風な研究ですか", "さあ、それは存じませんわ", "この家を調べてみると、医書だの、手術の道具などが多いのですよ", "ああそれで皆さんは父のことをドクトルと仰有るのですね" ], [ "ええ、……緊急の事件で、ちょっとお耳に入れて置きたいことがありますんですが、いま先方から電話がありましたんで……", "なんだい、それは――" ], [ "ああ帆村さん。この怪ったいな人物が――", "うむ怪しむのも無理はない。彼は病院から脱走するのが得意な男でネ" ], [ "あッ、これは玉屋氏に出した蠅男の脅迫状や。あんた、どこでそれを――", "まあ待ってください。こっちが玉屋氏宛のもので、そこの絨毯の上で拾った。もう一通こっちの黄色い封筒は、この暖炉の上の、マントルピースの上にあった。その天馬の飾りがついている大きな置時計の下に隠してあったのです", "ほう、それはお手柄だ" ], [ "フーム、蠅男? 何だい、その蠅男てえのは", "さあ誰のことだか分りませんが――ホラこのとおり、蠅の死骸が貼りつけてあるのですよ" ], [ "――それは極めて明瞭だから、書く必要がなかったんだろう", "極めて明瞭とは?" ], [ "なんだ、君はそれくらいのことを知らなかったのか。あの燃える白骨はドクトルの身体だったぐらい、すぐに分っているよ", "では、あれはどうします。三十日から旅行するぞというドクトルの掲示は?" ], [ "ウフ、名探偵帆村荘六さえ、そう思っていてくれると知ったら、蠅男は後から灘の生一本かなんかを贈ってくるだろうよ", "灘の生一本? 僕は甘党なんですがねえ" ], [ "じゃ検事さん。ドクトルを殺したのは誰です", "きまっているじゃないか。蠅男が『殺すぞ』と説明書を置いていった", "じゃあ、あの機関銃を射った奴は何者です", "うん、どうも彼奴の素性がよく解せないんで、憂鬱なんだ。彼奴が蠅男であってくれれば、ことは簡単にきまるんだが", "さすがの検事さんも、悲鳴をあげましたね。あの機関銃の射手と蠅男とは別ものですよ。蠅男が機関銃を持っていれば、パラパラと相手の胸もとを蜂の巣のようにして抛って逃げます。なにも痴情の果ではあるまいし、屍体を素裸にして、ストーブの中に逆さ釣りにして燃やすなんて手数のかかることをするものですか", "オヤ、君は、あの犯人を痴情の果だというのかい。するとドクトルの情婦かなんかが殺ったと云うんだネ。そうなると、話は俄然おもしろいが、まさか君も、流行のお定宗でもあるまいネ" ], [ "だが検事さん。あのドクトル邸は、ドクトル一人しかいなかったと仰有っていますが、事件前後に、若い女があの邸内にいたことを御存じですか", "ナニ若い女が居た――若い女が居たというのかネ。それは君、本当か。――" ], [ "なにがそんなに可笑しいのです", "だって君、脅迫状の主は、蠅男だよ。いいかネ。蠅男であって、あくまで蠅女ではないんだよ。若い女がいてもいい。これがドクトル殺しの犯人だとは思えないさ", "でも検事さん。さっき仰有ったように、この蠅男なる人物は、偽りの旅行中の看板をかけるような悧巧な人間なんですよ。女だから蠅男でないとは云い切らぬ方がよくはありませんか。それよりも、早くそのフランス製の白粉の女を探しだして、それが蠅男ではないという証明をする方が近道ですよ", "ウム、なるほど、なるほど" ], [ "――東京は、わりあいに暖いようですね", "――はア暖こうございましたが" ], [ "今朝早く、鴨下さんを迎えにゆかれたんですね", "はア――そうです", "雨のところを、大変でしたネ", "ええッ――そうでございます", "あの、板橋区の長崎町も、随分開けましたネ", "あッ、御存じですか、鴨下さんの住んでいらっしゃる辺を――", "いや、こうしてお目に懸るまで、存じませんでしたが" ], [ "おう、帆村君、正木署長の電話によると、いま玉屋総一郎の邸に、怪しき男が現われて邸内をウロウロしているそうだよ。いよいよチャンバラが始まるかもしれないということだ。これから一緒に行ってみようじゃないか", "ほう、また怪しき男ですか。どうも怪しき男が多すぎますね" ], [ "呆れたものだ。早く着換えとけばいいのに――", "そうはゆきませんよ。事件の方が大切ですからネ。洋服なんか、必ず着換える時機が来るものですよ" ], [ "――もし帆村はん。ちょっと勉強になりますさかい、教えていただけませんか", "ええ、何のことです", "そら、さっきの二人に帆村はんが云やはりましたやろ、東京は暖いとか、雨が降っていたやろとか、燕で来たやろ、娘はんの家は板橋区の何処やろとかナ。二人とも、顔が青なってしもうて、えろう吃驚しとりましたナ、痛快でやしたなア。あの透視術を教えとくんなはれ、勉強になりますさかい" ], [ "あれは、上原君なんかの靴を見たんです。かなりに泥にまみれていました。ご承知のように、わが大阪は上天気です。しからば、あの靴の泥は東京で附着したのに違いないでしょう。それも雨です。もし雪だったら、ああは念入りに附着しませんよ。今年は十一月からずっと寒い。東京は何度も雪が降った。それだのに昨日は雨が降ったというのですから、これは暖かったに違いないでしょう", "はあ、そういうところから分りよったんやな、なるほど種は種やが、鋭い観察だすな。それはそれでええとして、青年の方が令嬢を朝早く迎えに行ったいうんは?", "それは、上原君の靴だけではなく、カオルさんの靴にも同等程度の泥がついていたからです。つまり二人は同じ程度の泥濘を歩いたことになります。それから燕号は、東京駅を午前九時に発車するのですから、朝早く迎えに行ったんでしょう", "そうなりまっか。ちょっと腑に落ちまへんな。もし二人が駅で待合わしたんやってもよろしいやないか。そして、令嬢も上原も郊外に住んで居ったら、靴の泥も、同じように附着しよりますがな" ], [ "ところがですネ、もっと大事な観察があるのです。二人の靴についている泥が、どっちも同質なんです", "同質の泥というと――貴下さんは、地質にも明るいのやな", "ナニそれほどでもないが、二人の靴の泥を後でよく見てごらんなさい、どっちも泥が乾いているのに赤土らしくならないで、非常に青味がかっていましょう。染めたように真青です。だから、どっちも同質の土です。二人は同じ場所を歩いたと考えていいでしょう", "へえーッ、さよか。そんなに青い泥がついとりましたか、気がつきまへなんだ。それはええとして、最後に、家が板橋区のどこやらとズバリと云うてだしたのは、これはまたどういう訳だんネ。令嬢を前から知っとってだすのか", "いえ、さっきこの家で始めて会ったばかりです。だがチャンと分るのです。あのような青いインキで染めたような泥は、板橋区の長崎町の外にないんです。もっと愕かすつもりなら、通った通りの丁目まで云いあてられるんですよ", "へえ、驚きましたな。しかしまた、あんな青い泥がその長崎町だけにあって、外の土地には無いというのは、ちと特殊すぎますな。長崎町にあったら、その隣り町にもありまっしゃろ。そもそも地質ちゅうもんは――", "ああ、あなたの地質の造詣の深いのには敬意を表しますが――", "あれ、まだ地質学について何も喋っていまへんがナ", "いや喋らんでも僕にはよく分っています。それにこの問題は地質学の力を借りんでもいいのです。つまりちょっと待って下さい、あれは地質上、あんなに青いのではないのですからネ", "ほほン、地質で青いのかとおもいましたのに、地質以外の性質で青いちゅうのは信じられまへんな", "いや信じられますよ。あなたはきょう東京から来た東京タイムスの朝刊をお読みになりましたか。読まない、そうでしょう。新聞を見るとあの長崎町二丁目七番地先に今掘りかえしていてたいへん道悪のところがあります。その地先で昨夜、極東染料会社の移転でもって、アニリン染料の真青な液が一ぱい大樽に入っているのを積んだトラックがハンドルを道悪に取られ、呀っという間に太い電柱にぶつかって電柱は折れ、トラックは転覆し、附近はたちまち停電の真暗やみになった。そしてあたり一杯に、その染料が流れだして、泥濘が真青になったと出ています。何もしらないで、現場へ飛びだした弥次馬たちが、後刻自宅へ引取ってみると、誰の身体も下半分が真青に染っていて、洗っても洗っても取れないというので、会社に向け珍な損害賠償を請求しようという二重の騒ぎになったとか、面白可笑しく記事が出ているんです。カオル嬢と上原君の泥靴の青い色からして、二人が今朝そこの泥濘を歩いたに違いないという推理を立てたのです", "な、な、なるほど、なるほど、さよか。特殊も特殊、まるで軽業のような推理だすな", "全くそのとおりです。運よく、特殊事情をうまく捉えただけのことです。しかしこれは笑いごとじゃないのです。あなたがたは官権というもので捜査なさるからたいへん楽ですが、われわれ私立探偵となると、表からも乗り込めず、万事小さくなって、貧弱な材料に頼って探偵をしなきゃならない辛さがあるんです。そこであなたがたよりは、小さいことも気にしなきゃならんのです。目につくものなら、何なりと逃がさんというのが、私立探偵の生命線なんでして――", "もう止せ、帆村君。手品の種明かしの後でながなが演説までされちゃ、折角保護している玉屋総一郎氏が蠅男の餌食になってしまうよ。そうなれば、今度は、こっちの生命線の問題だて" ], [ "それは御苦労。すっかり邸宅を取巻いているのかネ", "へえ、それはもう完全やと申上げたいくらいだす。塀外、門内、邸宅の周囲と、都合三重に取巻いていますさかい、これこそ本当の蟻の匍いでる隙間もない――というやつでござります", "たいへんな警戒ぶりだネ", "へえ、こっちも意地だす。こんど蠅男にやられてしもたら、それこそ警察の威信地に墜つだす。完全包囲をやらんことには、良かれ悪しかれ、どっちゃにしても寝覚がわるおます" ], [ "おお正木君か。――君、蠅男というのは何十人ぐらいで、隊をなしてくるのかネ", "隊をなして? ――ハッハッハッ。検事さんのお口には敵いまへん。ともかくも屋内のどこからどこまで、私のとこで完全に指揮がとれるようになっとります", "ウム、完全完全の看板流行だわい", "え、何でございます", "いや、革の袋からも水が漏るというてネ、油断はできないよ。――主人公の居るところは何処かネ", "ああ、それはこちらだす。どうぞ、こちらへ――" ], [ "中から鍵を――すると警官も中へは入れないのかネ", "警官まで、蠅男の一味やないか思うとるようですなア", "ちょっと会ってみたいが――", "そんなら、扉を叩いてみまっさ" ], [ "ああ署長さんでっか。えろう失礼しましたな。今のところ、何も変りはあらしまへん。しかし署長さん。殺人予告の二十四時間目というと午後十二時やさかい、もうあと三十分ほどだすなア", "そう――ちょっと待ちなはれ。ウム、今は十一時三十五分やから――ええ御主人、もうあと二十五分の辛抱だす", "あと二十五分でも、危いさかい、すぐには警戒を解いて貰うたらあきまへんぜ。私もこの室から、朝まで出てゆかんつもりや、よろしまっしゃろな", "承知しました。――すると朝まで、御主人はどうしてはります", "十二時すぎたら、此処に用意してあるベッドにもぐりこんで朝方まで睡りますわ", "さよか。そんならお大事に、なにかあったら、すぐあの信号の紐を引張るのだっせ" ], [ "その池谷与之助ですがな。さっき怪しい奴が居るいうてお知らせしましたのんは。夜になって、この邸にやってきよりましたが、主人の室へズカズカ入ったり、令嬢糸子さんを隅へ引張って耳のところで囁いたり、そうかと思うと、会社の傭人を集めてコソコソと話をしているちゅう挙動不審の男だすがな", "フーム、何者だネ、彼は", "主治医や云うてます。なんでも宝塚に医院を開いとる新療法の医者やいうことだす。さっき邸を出てゆっきよったが、どうも好かん面や" ], [ "なんだ、怪しいというのは、たったそれだけのことかネ", "いいえいな、まだまだ怪しいことがおますわ。さっきもナ、――" ], [ "どうしたどうした", "どちらが蠅男や", "蠅女も居るがナ", "あまりパッとせん蠅男やな" ], [ "へえ、私は怪しい者ではござりまへん。会社の庶務にいます山ノ井という者で、今日社長の命令で手伝いに参りましたわけで……", "それでどうしたというのや。殺されるとか死んでしまうと喚きよったは――", "いや、それがモシ、私が階段の下に居りますと上でドシドシとえらい跫音だす。ひょっと上を見る途端に、なにやら白いものがスーッと飛んできて、この眉間にあたったかと思うとバッサリ!", "なにがバッサリや。上から飛んで来たというのは、そらそこに滅茶滅茶に壊れとる金魚鉢やないか。なにを慌てているねん。二階から転げ落ちてきたのやないか", "ああ金魚鉢? ああさよか。――背中でピリピリするところがおますが、これは金魚が入ってピチピチ跳ねとるのやな" ], [ "へへ、わ、わたくしはお松云いまして令嬢はんのお世話をして居りますものでございます", "ウム、お松か。――なんでお前は金魚鉢を二階から落としたんや。人騒がせな奴じゃ", "金魚鉢をわざと落としたわけやおまへん。走って居る拍子に、つい身体が障りましてん", "なんでそんなに夢中で走っとったんや", "それはアノ――蠅男が、ゴソゴソ匍ってゆく音を聞きましたものやから、吃驚して走りだしましたので――", "ナニ蠅男? 蠅男の匍うていっきょる音を聞いたいうのんか。ええオイ、それは本当か――" ], [ "本当でっせ。たしかに蠅男に違いあらへん。ゴソゴソゴソと、重いものを引きずるような音を出して、二階の廊下の下を匍うとりました", "二階の廊下の下を――" ], [ "オイ異状はないか。ずっとお前は、ここに頑張っていたんやろな", "はア、さっきガチャンのときに、ちょっと動きましたが、すぐ引返して来て、此処に立ち続けて居ります" ], [ "なんや、やっぱり動いたのか", "はア、ほんの一寸です。一分か二分です", "一分でも二分でも、そらあかんがな" ], [ "おお、これは――", "うむ、これはえらいこっちゃ" ], [ "おお血や、血や", "ナニ血だって? 縊死に出血は変だネ" ], [ "うむ、頭だ頭だ。後頭部に穴が明いていて、そこから出血しているようだ", "なんですって" ], [ "――貴郎、なんで書斎へ入ってやったン、ええ?", "ええッ、書斎へ――何時、誰が――" ], [ "――正木君。これを見給え、頭部の出血の個所は、なにか鋭い錐のようなものを突込んで出来たんだよ。しかも一旦突込んだ兇器を、後で抜いた形跡が見える。ちょっと珍らしい殺人法だネ", "そうだすな、検事さん。兇器を抜いてゆくというのは実に落ついたやり方だすな、それにしても余程力の強い人間やないと、こうは抜けまへんな", "うん、とにかくこれは尋常な殺人法ではない" ], [ "ねえ、検事さん。一体この被害者は、頸を締められたのが先だっしゃろか、それとも鋭器を突込んだ方が先だっしゃろか", "それは正木君、もちろん鋭器による刺殺の方が先だよ。何故って、まず出血の量が多いことを見ても、これは頸部を締めない先の傷だということが分るし、それから――" ], [ "何だす、検事さん。何かおましたか", "うむ、正木君。さっきからどうも変なことがあるんだ。血痕の上に触った綱に二種あるんだ。つまり綱の跡にしても、これとこれとは違っている。だから二種類の綱を使ったことになるんだが、現在屍体の頸に懸っているのは一本きりだ" ], [ "なんです、検事さん", "うむ帆村君、ちょっとここへ上って見てくれたまえ。ここに君が面白がるものがあるんだ" ], [ "――これは綱の痕じゃありませんよ", "綱の痕じゃないって? じゃ何の痕だい", "さあハッキリは分らないが、これは綱ではなくて、何か金具の痕ですよ。ハンドルだのペンチだの、金具の手で握るところには、よくこうした網目の溝が切りこんであるじゃありませんか", "なるほど――網目の溝が切りこんである金具か。うむ、君のいうとおりだ。じゃもう一本の綱を探さなくてもいいことになったが、その代りに金具を探さにゃならんこととなった。金具って、どんなものだろうネ。どうしてこんなに綱と一緒に、こんな場所に附いているのだろうネ" ], [ "もし――。父はこういう風に下っていたところを発見されたんでっしゃろか", "もちろん、そうですよ。それがどうかしましたか" ], [ "いや別に何でもあれしまへんけれど――よもや父は、自殺をするために自分で首をくくったのやあれしまへんやろな", "それは検事さんの調べたところによってよく分っています。犯人は鋭い兇器をもってお父さまの後頭部に致命傷を負わせて即死させ、それから後にこのように屍体を吊り下げたということになっているんですよ。僕もそれに同感しています" ], [ "犯行に費した時間はというと、そうですね、まず少くとも二分は懸るでしょうね。手際が悪いとなると、五分も十分も懸るでしょう", "ああそうでっか。二分より早うはやれまへんか" ], [ "二分より早くやるには余程人数が揃っているとか、或いはまた道具が揃っていないと駄目ですね", "ああそうでっか。――二分、ああ二分はかかりまっかなア" ], [ "イヤ、そやないねン。あの『人造犬』のフィルムを売ったんや", "へえ、売った。――この遊戯室の活動のフィルムは誰にでもすぐ売るのかネ", "すぐは売られへん。本社へ行って、あの人のように掛合って来てくれんと、あかんがな", "そうかい。――で、あの『人造犬』のフィルムは、もう外に持ち合わせがないのかネ", "うわーッ、今日はけったいな日や。今日にかぎって、この一銭活動のフィルムが、なんでそないに希望者が多いのやろう。――もう本社にも有らしまへんやろ。本社に有るのんなら、あの人も本社で買うて帰りよるがな" ], [ "もう外へ出てもいいのですか。何処へお出でなんです", "ええ、ちょっと池谷さんのところまで" ], [ "貴女、池谷さんに来いと呼ばれたんですか", "はあ、午前中に来いいうて、電話が懸ってきましてん。そしてナ、誰にもうちへ来る云わんと来い、そやないと後で取返しのつかんことが出来ても知らへんと……", "うむうむうむ" ], [ "こら、無茶するな、泥棒泥棒", "そうだそうだ。もっと大きな声で呶鳴るんだ" ], [ "うむ、有馬温泉へ出るのか。――あと何里ぐらいあるかネ", "そうやなア。二里半ぐらいはありまっせ", "二里半。よオし、なんとしても追いついてやるんだ" ], [ "なんや、俺のことか", "君、何か書くものを持っているだろう", "持ってえへんがな", "嘘をつくな、手帳かなんか持っているだろう。それを破いて、二十枚ぐらいの紙切をこしらえるんだ" ], [ "その紙片をどないするねン", "ううン。――その紙片にネ、字を書いてくれ。なるべくペンがいい", "誰が字を書くねン", "あんちゃんが書いておくれよ", "あほらしい。こんなガタガタ車の上で、書けるかちゅんや", "なんでもいい。是非書いてくれ。そして書いたやつはドンドン道傍に捨ててくれ。誰か拾ってくれるだろう", "書けといったって無理や。片手離すと、車の上から落ちてしまうがな", "ちえッ、もう問答はしない。書けといったら書かんか。書かなきゃ、この車ごと、崖の上から飛び下りるぞ。生命が惜しくないか。僕はもう気が変になりそうなんだ。ああア、わわア" ], [ "君の名は何という", "丸徳商店の長吉だす", "では長どん。いいかネ、こう書いてくれたまえ。――蠅男ラシキ人物ガ三五六六五号ノ自動車デ宝塚ヨリ有馬方面へ逃ゲル。警察手配タノム、午後二時探偵帆村", "なんや、ハエオトコて、どう書くんや", "ハエは夏になると出る蚊や蠅の蠅だ。オトコは男女の男だ。片仮名で書いた方が書きやすい", "うへーッ、蠅男! するとこれはあの新聞に出ている殺人魔の蠅男のことだすか", "そうだ。その蠅男らしいのが、向うに行く自動車のなかに乗っているんだ", "うへッ。そんなら今あんたと私とで、蠅男を追いかけよるのだすか。うわーッ、えらいこっちゃ。蠅男に殺されてしまうがな。字やかて書けまへん。お断りや", "また断るのかネ。じゃ、崖から車ごと飛び下りてもいいんだネ", "うわーッ、それも一寸待った。こら弱ってしもたなア。どっちへ行っても生命がないわ。こんなんやったら、あの子の匂いを嗅ぎたいばっかりにフルーツポンチ一杯で利太郎から宝塚まわりを譲ってもらうんやなかった。天王寺の占師が、お前は近いうち女の子で失敗するというとったがこら正しくほんまやナ", "さあ長どん。ぐずぐず云わんで早く書いた。向うに人家が見える。紙片を落とすのに都合がいいところだ。――さあ、ペンを持ってハエオトコとやった。――", "うわーッ、か、書きます。踊っている樽の上でもかまへん。書くというたら書きますがな。しかし飛び下りたらあかんでえ" ], [ "うわーッ、えらいこっちゃ", "うむ、天命だな。あんなに転げ落ちてはもう生命はあるまい" ], [ "さあ、すぐ下りていってみよう。自動車のなかには、誰が入っているか、そいつを早く調べなきゃならない。長どん、一つ力を貸してくれたまえ", "大丈夫だすやろか。近づくなり蠅男が飛びだして来やしまへんか", "いいや大丈夫だろう。死んでいるか、または気絶しているかどっちかだよ。しかし何か得物をもってゆくに越したことはないだろう" ], [ "帆村はん。この自動車を運転していた蠅男はどうしましたんやろ", "さあ、たしかに乗っていなきゃならないんだがなア、ハテナ……" ], [ "呀ッ、あれは誰だす", "うむ、今はじめて見たんだが、あれこそ蠅男に違いない", "ええッ、蠅男! あれがそうだすか", "残念ながら一杯うまく嵌められた。自動車があの山の端を曲ったところで、蠅男はヒラリと飛び下りて叢に身をひそめたんだ。あとは下り坂の道だ。自動車はゴロゴロとひとりで下っていったのだ。ああそこへ考えがつかなかった。とにかく一本参った。しかし蠅男の姿をこんなにアリアリと見たのは、近頃で一番の大手柄だ" ], [ "呀ッ、帆村はん。あいつは味噌樽を下ろしていまっせ", "うん、蠅男はあの三輪車に乗って逃げるつもりなんだ。僕たちが崖へ匍いのぼるまでには、すくなくとも三、四十分は懸ることをチャンと勘定にいれているんだ。その上、うまく崖の上に匍いあがっても、僕たちに乗り物のないことを知っているんだ。まるで、ジゴマのように奸智にたけた奴……" ], [ "えろうごゆっくりでしたな、お案じ申しとりました。へへへ", "いや、全く思わないところまで遠っ走りしたものでネ、なにしろ知合いに会ったものだから", "はアはア、そうでっか、お惚け筋で、へへへ、どちらまで行きはりました", "ウフン。大分遠方だ。……部屋の鍵を呉れたまえ" ], [ "ハアけさ、お客さんが外出なさいまして、その後でボーイが室内をお片づけしただけでっせ。その外に、誰も一度も入れしまへん", "ふうむ。ボーイ君の入ったのは何時かネ" ], [ "嘘をついてはいけない。その後にも、この部屋を開けたにちがいない。さもなければ鍵を誰かに貸したろう", "いいえ滅相もない。鍵は一つしか出ていまへん。そしてボーイに使わせるんやっても、時間は厳格にやっとりまんが、ことに昼からこっちずっと、お部屋の鍵はこの帳場で番をしていましたさかい、部屋を開けるなどということはあらしまへん" ], [ "さあ、それを云ってくれたまえ。誰があの手紙を持ってきたのだ", "――そのことだすがな、お客さん。ちょっと妙なところがおまんね。実はナ、あの手紙は私が拾いに出ましてん", "手紙を拾いに出たとは?" ], [ "その電話の相手は、どこから懸けたのだか分ったかネ", "いや、分りまへん", "もしやこのホテル内から懸けたのではなかったかネ", "いえ、そら違います。ホテルの中やったらもっともっと大きな声だすわ。そしてもっと癖のある音をたてますがな。ホテルの外から懸って来た電話に違いあらしまへん" ], [ "なにか荷物を持っていなかった?", "さよう、持っていましたな。大きなトランクだす。洋行する人が持って歩くあの重いやつでしたな。自動車から下ろすときも、ボーイたちを叱りつけて、ソッと三階へ持ってあがりましたがな", "ほう、大きなトランク?" ], [ "なにがそいつだんネ", "そいつが恐るべき蠅男なんだ。僕にはすっかり分ってしまった。早くそいつの部屋へ案内したまえ", "へえ、あの蠅、蠅男! あの殺人魔の蠅男だっか。ああそういわれると、どうも奇体な風体をしとったな。気がつかんでもなかったんやけれど、まさかそれが蠅男だとは……", "愕くのは後でもいい。さあ早くその井上一夫の部屋へ――" ], [ "ああ、その人やったら、今はお留守だっせ", "ナニ留守だッ。どうしたんだ、その男は", "いえーな。ちょっと宝塚の新温泉へ行ってくるいうて出やはりました", "それは何時だ", "来て間もなくだっせ。ちょうどあの西洋封筒を拾ったすぐ後やったから、あれで午後の四時十分か十五分ごろだしたやろな", "うーむ、そいつだ。いよいよ蠅男に極った。分ったぞ分ったぞ", "あンさんにはよう分ってだすやろが、こっちには一向腑に落ちまへんが", "いや、よく分っているのだ。僕の云うことに間違いはない。さあ早く、その井上氏の部屋へゆこう、部屋の鍵を持ちたまえ" ], [ "ああピザンチノだ。南欧の菫草からとれるという有名な高級香水の匂いだ、全く僕の思った通りだ。糸子さんはこの香水をつけている。するとこのトランクに糸子さんが入っていたと推定してもいいだろう。糸子さんはこのトランクのなかに入れられてこのホテルに搬びこまれたのだ", "えッ、あの糸子はんが――へえ、そら愕いたなア" ], [ "そのことなら、さっきやっとのことで謎を解いたんです。蠅男はホテルのなかに居るのを知られないために、電話にも奇略をつかったんです", "へえ、どんな奇略を――", "それはホテルの交換台からすぐに帳場をつながないで、一旦部屋から外線につないで貰い、電話局から再び別の電話番号でこのホテルに懸け、一度交換台を経て帳場につないで貰ったんですなア。そうすれば、同じホテル内の部屋にかけたにしろ、電話局まで大廻りして来たから、電話の声がホテル内同士でかけるよりはずっと小さくなったんです。実に巧みな奇略だ" ], [ "しかし、なんでそんなややこしい事をしましたんやろ。糸子さんの胸の上にでも、その脅迫状をのせといたらええのになア", "いやそれはつまり、今ホテルに蠅男が入っていることを知られたくはなかったんです。あくまで自分は井上一夫で、蠅男ではないという現場不在証明を作って置きたかったんです", "なるほどなるほど。それにしても蠅男ほどの大悪漢のくせに、小さいことをビクビクしてまんな", "いやそこですよ" ], [ "蠅男は今にもう一度このホテルに帰ってくるつもりなんですよ。普通の泊り客らしい顔をしてネ", "えッ、蠅男がもう一度ここへ帰ってくるというのでっか。さあ、そいつは――そいつは豪いこっちゃ。どないしまほ" ], [ "探偵の帆村荘六君だネ。こっちは蠅男だ", "えッ、電話がすこし遠いのでよく聞えませんが、ハヤイトコどうするんですか", "ハヤイトコではない、蠅男だッ", "えッ、早床さんですか。すると散髪屋ですね" ], [ "オイ帆村君。君は美しい令嬢糸子さんと、俺の手紙とをたしかに受取ったろうネ", "ええどっちとも、確かに", "ではあのとおりだぞ。貴様はすぐにこの事件から手を引くんだ。俺を探偵したり、俺と張り合おうと思っても駄目だからよせ。糸子さんは美しい。そして貴様が約束を守れば、俺はけっして糸子さんに手をかけない。いいか分ったろうな", "仰有ることはよく分りましたよ、蠅男さん。しかし貴下は人殺しの罪を犯したんですよ。早く自首をなさい。自首をなされば、僕は安心をしますがネ", "自首? ハッハッハッ。誰が自首なんかするものか。――とにかく下手に手を出すと、きっと後悔しなければならないぞ", "貴方も注意なさい。警察では、どうしても貴方をつかまえて絞首台へ送るんだといっていますよ", "俺をつかまえる? ヘン、莫迦にするな。蠅男は絶対につかまらん。俺は警察の奴輩に一泡ふかせてやるつもりだ。そして俺をつかまえることを断念させてやるんだ", "ほう、一泡ふかせるんですって。すると貴方はまだ人を殺すつもりなんですね", "そうだ、見ていろ、今夜また素晴らしい殺人事件が起って、警察の者どもは腰をぬかすんだ。誰が殺されるか。それが貴様に分れば、いよいよ本当に手を引く気になるだろう", "一体これから殺されるのは誰なんです", "莫迦! そんなことは殺される人間だけが知ってりゃいいんだ", "ええッ。――", "そうだ、帆村君に一言いいたいという女がいるんだ。電話を代るからちょっと待っとれ", "な、なんですって。女の方から用があるというんですか――" ], [ "ねえ、帆村さん", "貴女は誰です。名前をいって下さい", "名前なんか、どうでもいいわ。けさからあたしたちをつけたりしてさ。早く宝塚から……" ], [ "――し、失敗ったッ。オイお竜、警官の自動車だッ", "えッ、――" ], [ "大川さん。どうです、分った?", "分った。――" ], [ "どう分ったんです?", "天王寺の新世界のわきだす", "え、新世界のそば?", "はア、そや。天王寺公園南口の停留場の前に、一つ公衆電話がおまんね。その中に、蠅男が入りよったんや。あんさんの命令どおり、すぐ電話局へかけてみて、あんさんの話し相手が今どこから電話をかけているか調べてもろうてな、それから直ぐ署の方へ連絡しましたんや。蠅男が今これこれのところから電話を懸けているねン、はよ手配たのみまっせいうたら、署長さんが愕いてしもうて、へえ蠅男いう奴はやっぱり人間の声だして話しているかと問いかえしよるんや。――しかしすぐ手配するいうとりました" ], [ "糸子さん、静かにしていらっしゃい。こんどはもう大丈夫、十分信頼していい警官の方が保護して下さっていますから、何も考えないで、今夜はここで泊っていらっしゃい。ばあやさんか誰か呼んであげましょうか", "そんなら、家へ電話かけてお松をよんで頂戴", "医者も呼んであげましょう", "いいえ、お医者はんはもう結構だす。すぐなおりますさかい、お医者さんはいりまへん。池谷さんにも、うちのこと知らせたらあきまへんし" ], [ "署長さん。蠅男はどうしました", "さてその蠅男やが、折角知らせてくれはったあんたにはどうも云いにくい話やが――実は蠅男をとり逃がしてしもうたんや", "はア、逃げましたか", "逃げたというても、逃げこんだところが分ってるよって、いま見てのとおり新世界と公園とをグルッと取巻いて警戒線をつくっとるのやが――", "ああなるほど、そのための非常警戒ですか。女の方はどうしました、あのお竜とかいう……", "ああ、あれも一緒に、そこの軍艦町に逃げこんでしもて、あと行方知れずや", "え、軍艦町?", "はア、軍艦町には、狭い関東煮やが沢山並んでて、どの店にも女の子が三味線をひいとる、えろう賑やかな横丁や。そこへ逃げこんだが最後、どこへ行ったかわかれへん", "じゃあ、どっちも捕える見込み薄ですね", "しかし儂の考えでは、二人ともまだこの一画のなかにひそんどる。それは確かや。この一画ぐらい隠れやすいところはないんや。そしていずれ隙を見て、チョロチョロと逃げ出すつもりやと睨んどる。もっと待たんと、ハッキリしたところが分れしまへんな" ], [ "面白い話は、こっちから伺いたいくらいですよ。蠅男がアメリカのギャングのように機関銃を小脇にかかえてダダダッとやったときの光景はいかがでした", "ウン、なかなか勇壮なものだったそうだ。味方はたちまち蜘蛛の子を散らすように四散して、電柱のかげや共同便所のうしろを利用してしまったというわけさ" ], [ "え、もう一度いって下さい", "つまり、蠅男は機関銃を鳴らしとるのに違いないのに、その肝腎の銃身がどこにも見えしまへんねん", "それはおかしな話ですね。蠅男はどんな風に構えていたんですか" ], [ "透明機関銃? まさか、そんなのがあろう筈がない。何か見ちがえではないのですか", "いや、蠅男に向うた誰もが、云いあわしたようにそういいよったんで……", "フーム" ], [ "そうそう、そういえば先刻の蠅男の電話では、蠅男は今夜のうちにまた誰かを殺すといっていましたよ", "なに今夜のうちに、また殺すって" ], [ "誰だろう、こんどの犠牲は?", "さあ、蠅男から死の脅迫状をうけとったいう訴えはどこからも来てえしまへんぜ", "フーム、変だな" ], [ "儂を知らんか、知っとる奴が居るはずやぞ。もっと豪い人間を出せ", "おお鴨下ドクトル!", "おお儂の名を呼んだな。――呼んだのはお前じゃな。うむ、これは署長じゃ。この間会って知っている。お前は感心じゃが、お前の部下は実に没常識ぞろいじゃぞ。儂のことを蠅男と呼ばわりおったッ" ], [ "なにをしようと、儂の勝手じゃ。儂の研究の話をしたって、お前たちに分るものか", "それでもドクトル、一応お話下さらないとかえってお為になりませんよ", "ナニ為にならん。お前は脅迫するか。儂は云わん、知りたければ塩田律之進に聞け", "えッ、塩田律之進というと、アノ鬼検事といわれた元の検事正塩田先生のことですか" ], [ "じゃあドクトル、塩田先生にはしばらく御無沙汰していましたので、これから一緒にお伴をしてもいいのですかネ", "なんじゃ、貴公がついて来るというのか。ついて来たけりゃついてくるがいい。しかし今もいうとおり、邪魔にならぬようにしないと、この洋杖でなぐりつけるぞ" ], [ "それから正木さん。ドクトルの娘のカオルさんたちはどうしました。いまの話では行き違いになったらしいが、今どこにいるのですか", "ああそのことや。実はドクトルからも尋ねられたことやけれど、娘はんとあの上原山治という許婚は、ドクトルが居らへんもんやさかい、こっちへ来たついでやいうて、いま九州の方かどっかへ旅行に出とるのんや。帰りにきっと本署へ寄るという約束をしたんやさかい、そのうち寄るやろ思うてるねん", "ほほう、そうですか" ], [ "いや、行きちがいの話だんね", "ははァ、行きちがいの話ですか。じゃあそこまで行ってどうも御苦労さまというわけですか", "まあそんなものや。つまり村松検事さんのところへ、塩田先生からの速達が来たという話やねん。今夜十時までに、堂島さんの法曹クラブに訪ねてきてくれというハガキや", "村松さんはもう行ったじゃないですか", "そうや。そやさかい、行きちがいや云うとるねん", "しかし速達はギリギリに着いたですね。もうかれこれ九時ですよ" ], [ "おお正木さん。ねえ、冗談じゃないよ。君たち、こんなところで非常警戒していても何にもならせんよ。蠅男はすでにさっき現われて、儂の大切な友人を殺し居ったぞ", "えッ、蠅男が現われたと……" ], [ "殺された者か。それは儂の友人、塩田律之進じゃ。それはまだいいとして、殺したのは誰じゃと思う", "蠅男ではないんですか" ], [ "とにかく捕ったその蠅男は、さっき儂と一緒の車に乗っていた村松という検事なんじゃ", "ええッ、村松検事が……", "塩田先生を殺したというのですか", "そして検事が蠅男だとは、まさか……" ], [ "おおそうか。鴨下ドクトルに、村松も一緒について来たのか。たしかに二人連れなんだネ", "左様でございます" ], [ "それから、ちょっと村松氏の指紋を取ってくれ", "えッ、村松はんのをでっか" ], [ "どうだネ。指紋は合っているか、合わないか", "……同一人の指紋でおます" ], [ "帆村君かネ", "そうです。貴方は誰?" ], [ "こっちはお馴染の蠅男さ", "なに、蠅男?" ], [ "どうだネ、帆村君。今夜の殺人事件は、君の気に入ったかネ", "貴様が殺ったんだナ。塩田先生をどういう方法で殺したんだ。村松検事は貴様のために、手錠を嵌められているんだぞ" ], [ "まあ、どないしはったんや。えろう御恩になっとる帆村はんに、そんな口を利いては、すみまへんで――", "御恩やいうたかて、あんないやらしい人から恩をうけとうもない。一刻もこんなところに居るのはいやや。さあ、すぐ帰るしい。お松はよ仕度をしとくれや" ], [ "お嬢はん。なんの御用だっか", "なんの用でも、かまへんやないか。懸けていうたら、はよ電話を懸けてくれたらええのや" ], [ "宝塚ホテル? そう、こっちは玉屋糸子だすがなア。帆村荘六はんに大至急接いどくなはれ", "ええ、帆村はんだっか。いまちょっとお出かけだんね。十二時までには帰ると、いうてだしたが……" ], [ "まあ、仕様がない人やなア。どこへ行ったんでっしゃろ", "さあ、何とも分りまへんなア" ], [ "うふ。――いいところへ来たな。俺の正体を見たからには、最早一刻も貴様を活かしては置けねえ。覚悟しろッ", "なにをッ。――" ], [ "ははあ、くくり付けの機関銃とお出でなすったね。そんなインチキ銃に撃たれてたまるものか", "よオし、これを喰って往生しろッ" ], [ "やあ、貴女ももうお目醒めですか。昨夜は若し貴女が居なかったら、僕はこうして夜明けの空気など吸っていられなかったでしょう。うんと恩に着ますよ", "まあ、なに言うてだんね。帆村はんこそうちのため何度も危ない目におうてでして、どないにか済まんことやといつも手を合わせて居ります。こないに帆村はんを苦しめるくらいやったら、うちが蠅男に殺されてしもうた方がどのくらいましやか知れへんと思うて居ります", "何を仰有るのです。まだ蠅男との戦いは終って居ないではありませんか。そんな弱気を出しては、貴女のお父さんの仇敵はとても打てませんよ" ], [ "さっきチラリと廊下を歩いている父の後姿を見たばかりですわ", "そうですか。幼いときお別れになったきりだそうですが、お父さまの姿には何か見覚えがありましたか" ], [ "どうもハッキリ覚えていませんのですけれど、幼いときあたくしの見た父は、右足がわるくて、かなりひどく足をひいていたようですが、今日廊下で見た父は、それほど足が悪くも見えなかったので、ちょっと不思議な気がいたしましたわ", "ほうそうですか。ふうむ" ], [ "きょうは一つ貴方に教えていただきたいことがあって参ったのです", "ナニ儂に教えて貰いたいというのか。ほう、君も老人の役に立つことが、きょう始めて分ったのかな" ], [ "つまり鴨下老ドクトルを階下のストーブの中で焼き殺した犯人は誰か? それを教えて貰いたい", "何を冗談いうのじゃ。鴨下ドクトルは、こうして君の前に居るじゃないか。血迷うな。ハッハッハッ" ], [ "――その蠅男は、僕たちが階下の応接室で喋っていたことを、マイクロフォン仕掛で、すっかりこっちで聞いていたんだって云っていましたよ", "そうなんですのよ。あたくしが父の身体の特徴について、貴方に申上げようとしたので、それを喋られては大変と愕いてこの階上に呼びあげたのですわ。あたくしも、もうすっかり覚悟をしてしまいました。父は蠅男のためにストーブの中で焼き殺されたに違いありませんわ", "なるほど、あの焼屍体の半焼けの右足の拇指が半分ないのは、お父さまの特徴と一致するというわけですね" ], [ "さあそれが、あたくしには一向心当りがございませんのです", "うむ、貴方にもやはり分りませんか" ], [ "これだこれだ。ドクトルの日記だ。塩田検事正の名が出ている!", "ええッ", "まだある。玉屋総一郎の名もあるんだ" ], [ "どうした", "どうしたんや" ], [ "呀ッ、――", "ば、爆弾やあれへんか" ], [ "なんちゅう悪たれの市民やろ。断然取締らんとあかん", "いや、これは市民といっても、普通の市民じゃありません", "普通の市民でないちゅうと、――", "つまり、これは蠅男が差出した小包なんですよ", "うむ、な、なるほど" ], [ "爆弾の危難は助かりましたから、それはいいとして、ここで考えてみなければならぬのは、蠅男がどうしてこんな精巧な爆弾を手に入れたかということです。こんなものは、どこでも作れるというものではありません。僕の考えでは、蠅男はかねてこんな爆弾を用意してあったのだと思います", "そうだ。そのとおりだろう。蠅男は孤立した殺人魔だ。ギャング組織ではないと思う" ], [ "いや、この爆弾を見ては、僕はどうしても蠅男が、ドクトル邸の秘密倉庫なんかに出入しているとしか考えられんです", "秘密倉庫? そんなものが、どこかに拵えてありますのか", "もちろん僕の想像なんです。なお僕は、この小包を見て考えました。蠅男は、あまり遠くへいっていないということです", "それはまた、なんです", "小包の消印を見ましたか。あれは郵便局で押したものではなく、手製の胡魔化しものですよ。だからあの小包を持って来た郵便局の配達夫というのは、恐らく蠅男の変装だったにちがいありません。蠅男に対する監視は厳重なんですから、蠅男がここへ出てくるようでは、その辺に潜伏しているのに違いありません", "そんなら、この小包を持って本署に来た配達夫が蠅男やったんか。そら、えらいこっちゃ。追跡させんならん", "署長さん、もう遅いですよ。いまごろ蠅男は、どっかその辺の屋上に逃げついて、そこからこっちの窓を見てニヤッと笑っているでしょう", "そうか、残念やなア" ], [ "いや、その田鶴子という派出婦は、蠅男の情婦のお竜が化けこんでいたに違いありません。蠅男では、到底入りこめないから、そこでお竜が化けこんで、秘密倉庫のなかのものを持ち出していたんです。丸顔といいましたネ。お竜を見た人間は、そう沢山いないのです。僕は宝塚で二度も見かけて、よく知っています。正にお竜にちがいありません", "な、なんという大胆な女だろう", "さあ皆さん、これによっても、蠅男はいよいよこの附近に潜伏していることが明白になったじゃありませんか。一つ元気をだして、蠅男を探しだして下さい" ], [ "帆村はん。これだけは誓うとくれやす。必要以上に、危険なことをしやはらへんことと、それからもう一つは、――", "それからもう一つは?", "それからもう一つはなア、一日に一度だけは、うちへ電話をかけとくんなはらんか。そうしたら、うち安心れて睡られます。よろしまんな", "はッはッ、まるで坊やとのお約束みたいですが、たしかに承知しました。ではこれで、僕はかえります", "あら、もう帰ってだすの。まあ、気の早い人だんな。いま貴郎のお好きな宇治羊羹を松が切っとりまんがな。拝みまっさかい、どうぞもう一遍だけ、お蒲団の上へ坐って頂戴な" ], [ "ああ、おらあ新入りなんだ。こっちの親分さんに紹介してくれりゃ、失礼ながらこいつをお礼にお前さんにあげるぜ", "な、なんやと。お前、東京者やな。おれに何を呉れるちゅうのや" ], [ "へえ、どうもこれは、――", "今夜入ってきたらええやないか。そこは十日ほど前に建った大浴場兼娯楽場や。もちろんぬかりはあらへんやろが、わし等の行く時間は、午後十二時を廻ってからでやぜ。忘れんようにな。楢平にも、これを一枚やる" ], [ "まだ、やるのか", "まだまだやっつける奴がいる。さしあたりお前をやっつけてやる", "いつも脅迫状につけてあった、あの気味のわるい手足を捥がれた蠅の死骸は?", "分っているじゃないか。手足のない俺のサインだ" ], [ "あの巧妙な手や足はずいぶん巧妙にできているが、一体何と何との働きをするんだ", "あれはこうだ。まず右手の腕には……" ], [ "どうした帆村君。いよいよ蠅男を捕えよったかッ", "はア、ここに抱いて居ります" ], [ "蠅男は死んどりまっせ", "ええッ、――", "こっちへ取りまっさかい、帆村はん、手を放してもよろしまっせ", "そオれ、――" ], [ "では、お大事に", "新家庭は、いよいよ新しい年とともに始まるというわけだすな", "まあ近いうち、お二人揃って大阪へ里帰りするのでっせ" ], [ "帆村探偵、ばんざーい", "花嫁糸子さん、ばんざーい" ] ]
底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房    1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行 初出:「講談雑誌」    1937(昭和12)年1月号~10月号 入力:tatsuki 校正:花田泰治郎 2005年5月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "トーキーどころじゃないんだ。僕はとうとう昨夜徹夜をしてしまったのだよ", "ほほう、また事件で引張り出されたね", "そうじゃないんだ。うちで考えごとをしていたんだ。ちょっと上って呉れないか" ], [ "一体これは何所で手に入れたのかネ", "そんなことを訊かれては、まるで事件を説明してやるために君を引張りあげたようなものじゃないか" ], [ "そうでもあるまい。最近ネス湖の怪物というのが新聞にも出たじゃないか", "怪物の正体が確かめられないうちは、ネス湖の怪物もナンセンスだ。君は頭部が獏で、胴から下が鸚鵡の動物が、銀座通りをのこのこ歩いている姿を想像できるかい" ], [ "正にあの絵のとおりだとすると、実に滑稽じゃないか。しかしこの密書の断片は冗談じゃないんだよ。厳然として獏鸚なるものは存在するのだ。しかも、つい二三日前の日附でこの奇獣――だか奇鳥だか知らぬが――存在するのだ。ただいくら『奇蹟的幸運によった』としても、そんな獣類と鳥類の結婚は考えられない", "手術なら、どうだ" ], [ "なに手術? そりゃどんな名外科医があって気紛れにやらないとも限らないが、獏の方は身長二メートル半だし、鸚鵡は大きいものでもその五分の一に達しない。それではどこで接合するのだろう。もし接合できたとしても何の目的で獏と鸚鵡とを接合させるのだろう", "目的だって? それは密書事件の状況から推して考え出せないこともなかろうと思うんだが……" ], [ "やっぱり駄目だね。なんという六ヶ敷い連立方程式だろう。もっとも方程式の数が、まだ足りないのかも知れない", "おい、帆村君。君は獏とか鸚鵡についても研究してみたかい" ], [ "うん。それから……", "それから?……獏は性怯にして、深林に孤棲し、夜間出でて草木の芽などを食す。いやまだ食うものがある。人間が夜見る夢を食うことを忘れちゃいけない。産地は馬来地方……" ], [ "では鸚鵡は鳥類の杜鵑目に属し、鸚鵡科である。鸚鵡と呼ぶ名の鳥はいないけれど、その種類はセキセイインコ、カルカヤインコ、サトウチョウ、オオキボウシインコ、アオボウシインコ、コンゴウインコ、オカメインコ、キバタン、コバタン、オオバタン、モモイロインコなどがある。この中でよく人語を解し、物真似をするのはオオキボウシインコ、アオボウシインコ、コバタン、オオバタン、モモイロインコである。おのおの形態を比較するに、まずセキセイインコについて云えば、頭及び翕は黄色で……", "わ、判ったよ。君の動物学についての造詣は百二十点と認める――" ], [ "なアに、まだ三十五点くらいしか喋りはしないのに……", "もう沢山だ。……しかし動物学の造詣で探偵学の試験は通らない。獏といえば夢を喰うことと鸚鵡といえば人語を真似ることだけ知っていれば、充分だよ" ], [ "お連れさんは?", "これは俺の大の親友だ。帆村という……", "よろしゅうございます。……ところで貴方に御注意しときますがな、どうも余り深入りするとよくありませんぜ" ], [ "三原玲子がどうかしたかい", "この間、刑事がここへずかずかと入ってきましてね。あの娘を裸にして調べていったのですよ", "そりゃ越権だナ。裸にするなんて……", "尤も是非署へ引張ってゆくといったんですが、所長が今離せないからと頼みこんだのです。その代り、桐花カスミさんなどの女連が立ち合って裸の検査ですよ", "ど、何うしたというんだ", "よくは判りませんが、何か探すものがあったらしいのですよ。でも、まア三原さんの体からは発見されないで済んだようですが外に二人ほど男優とライト係とが拘引されちまって、まだ帰ってこないのです。とにかくあっしは三原玲子さんばかりはお止しなさいと云いますよ", "変なことを云うなよ、はっはっはっ" ], [ "興奮してはいけないよ。あの三原玲子という女は、例の暁団の一味なんだ。何を隠そう、ギロンで僕に密書を渡そうとしたのは正しくあの女なんだ", "何だって? 玲子が暁団員……" ], [ "さあ、――", "とてものことに、動いているやつ――つまり活動写真で見たいね。試写室はどうだろう" ], [ "そんなにいい場面が映っていたのですか", "そんなんじゃないんです。酔っぱらいをがやがや云って女給が送りだすところですから、何のいいところがありましょう", "可怪しいじゃありませんか", "ええ、可怪しいと云えば、可怪しくないこともないのですが……", "なんですって?", "木戸君、この人は探偵趣味があってね、そういう変なことを面白がるのだよ、訳を話してやり給え" ], [ "江東のアイス王、田代金兵衛が失踪したんだよ、今日解ったんだがね", "あッ、あの田代がですか" ], [ "旅行でもないんでしょうネ", "どうして、旅行じゃない。表の締りもないしさ、居間も寝室も、それから地下道への入口も開いていて、彼が其処に居なければならない家の中の様子だのに、姿が見えない", "例の地下にある田代自慢の巨人金庫は如何です" ], [ "俺かい。俺は暁団の一味として、三原玲子を捕えにやって来たんだが……", "三原玲子がどうかしましたか", "先刻まで居ったそうだが、どこかへ隠れてしまったよ。はっはっ、なっちゃいない、全く" ], [ "うん『獏鸚』か。あれならもう判っている……", "ナニ『獏鸚』が判ったって、そいつは素敵だ。早く話したまえ" ], [ "だが、玲子の台辞が解けない前には云えないのだ。間違っているかも知れんからね", "連絡があるのなら、いいじゃないか。早く云って訊かせ給え" ], [ "おい君、あの巨人金庫の中に、何が入ってると思うかね", "そりゃ判っているよ。もちろん江東のアイス王の一億何がしという目も眩むような財宝だろう", "目も眩むような財宝? そんなものはもう入ってないさ。江戸昌が暁団を総動員して、すっかり持っていったよ", "じゃ、何が入っているんだろう?……金兵衛の屍体かな?", "そうかも知れない" ], [ "そこで何故これに気がついたかというと、暗号の源は、例の三原玲子の間違えて吹きこんだ台辞であるという点だ。暗号といえば文字ばかりと思っていたのが大間違いで、言葉の暗号も考えなくちゃいけないと気がついたのさ。ことに今の場合は立派に台辞なんだからネ。……三原玲子は、あの貴重な暗号を江戸昌からリレーされて、その保管に任じたのだよ。江戸昌が二十三日の夜錨健次を殺したのも暗号を手に入れたいためだったが、既に転向している健次は知らないと突張ったのだ。そこで秘密漏洩を恐れ已むなく彼を殺すと、江戸昌は二十九日に直接に田代金兵衛を捕虜にしたのだ。そして暗号を奪ったが、足がつきそうになって、確かり者の三原玲子にまで暗号をリレーしたのだ。ところがやはり刑事が怪しんで追跡した。玲子は暗号を受取ったが、さあ始末に困ってしまった。追手は迫っている。そのままで居ると、きっと暗号の紙片を探し出される。――そうだった。彼女はあとで本当に裸に剥かれて調べられたのだ。――そこで一策を案じて、トーキーのフィルムに暗号を喋りこんだのだ。この言葉として完全な暗号は、もともと彼女と一緒にいた錨健次がつくったものだから、非常にうまく出来ていたのだ。要するに玲子は非常の際、暗号をトーキーに喰べさせて危機を脱したのだよ。実にそいつが『獏鸚』なのさ。獏鸚はトーキーのことで、獏は人間の夢を喰うのさ、巨億の富の夢をね", "なんだ、『獏鸚』というのはトーキーに暗号を喰わせることだったのか", "あとからトーキーのフィルムを盗んだのももちろん玲子さ。あの一節を盗んで置かないと、簡単に暗号が判ってしまうからだ。何故って、あのトーキーフィルムを逆廻しさえすれば、僕のやったような面倒なことをやらなくても、自然に解読文が言葉に出てくるからだ。僕の手に入ろうとした密書の方には(獏鸚したから安心しろ)というような報告が認められてあったのだろう。たとえばだね……" ] ]
底本:「海野十三全集 第3巻 深夜の市長」三一書房    1988(昭和63)年6月30日第1版第1刷発行 初出:「新青年」博文館    1935(昭和10)年5月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "うわーっ、腹がへった。食堂のボーイは、なにをしているんだろうな", "三等船客だと思って、いつも、一番あとにまわすのだ。けしからん" ], [ "ほら、ソースのびんは、その花籠のかげに、あるじゃないか", "なるほど" ], [ "おう、防空無電局からの警報だ。なんだって。国籍不明の爆撃機一機が一直線に北進中。その針路は、午後八時において、雷洋丸の針路と合う。雷洋丸は直ちに警戒せよ", "ほう、これはたいへんだ" ], [ "すぐ灯火管制にうつらねばなりませんが、こうだしぬけの警報では、ちょっと時間がかかりますが、いかが?", "ただちに、電源の主幹を切って、消灯だ!" ], [ "あっ、どうした。電灯をつけろ", "停電で、飯がたべられるか", "電灯料の支払いが、たまっているのだろう。ざまをみやがれ" ], [ "もういいか", "一番、二番もよろしい" ], [ "いや、どうでもよくないことはない。なぜってお前、あの血は、トラ十が坐っていた席に流れているんだぜ", "えっ、あの席には、トラ十が坐っていたのか。そいつはたいへんだ! 早く、それをいえばよかったんだ" ], [ "つまり、まさか、トラ十は、だれかに殺されたんじゃないでしょうか。そして、殺した犯人は、暗闇を幸い、死体をひっかついで、海の中へ放りこむなんか、したんじゃありませんかね", "ほう、探偵小説には、よく、そんな筋のものがありますがねえ" ], [ "じゃあ、その丁野十助さんが、花籠を抱えて、どっかへ出かけたんじゃありませんかね。たとえば、水をさすためだとか、あるいは、どこかへ持っていって、飾るために", "じゃあ、なぜ、そこに、人の血が流れて、のこっているのですか。わしには、わけがわからない" ], [ "あっ、あの物音はなんだ", "今の音は、爆弾でも落ちたのかな。この船は、しずめられちまう! おい、どうしよう", "どうしようたって、仕方がないじゃないか。そのときは、この汽船につかまってりゃ、それこそ海の底まで、ひっぱりこまれる", "おい、じょうだんじゃないぞ。われわれは、どうすればいいんだ", "どうにも仕方がないさ。いずれそのうち、鼻の穴と口とに海水がぱしゃぱしゃあたるようになるだろう。そのときはなるべく早く、泳ぎ出すことだねえ", "泳げといっても、お前がいうように、そうかんたんにいくものか。ここから何百キロ先の横浜まで、泳いでわたるのはたいへんだ" ], [ "ああ、そうだ。じゃあ、大冒険だが、ちょっといって、見てこよう", "待て、おれもついていってやる" ], [ "おや、爆撃は一発でおしまいで、もう怪飛行機はにげていったか", "ちがうよ。爆弾なんか落しやしない。あの飛行機は、ただこの船の上を飛んで、われわれをおどかしていっただけだ" ], [ "あたりまえだなんて、そんなことを、かるがるしく、いってはいけません。へんなうたがいが房枝さんにかかってくるかもしれません", "でもあたし、トラ十を殺した犯人じゃないから、いいわ" ], [ "え? 飛行機のことですの", "うむ、それもありますが、それはまた別にして、僕のいうあやしいことというのは、われわれミマツ曲馬団の中のことです", "まあ。あたしたちの中に、まだ、あやしい事件が起っているとおっしゃるの。それは、なんですの。曾呂利さん、早くおしえてよ" ], [ "いやなに、僕は、べつに団長の船室へいって、それをたしかめたわけではないのですが、ただそういう気がするのです", "うそ、うそ。曾呂利さんは、ずるいわ。ほんとうのことを、おっしゃらないのね" ], [ "ねえ、いいですか。トラ十のことで、これだけ、皆がさわいでいるのに、かんじんの松ヶ谷団長がちっともあらわれないではありませんか。あの耳の早い、そして人一倍に口やかましい団長が、なぜ、ここへとんでこないのでしょう", "あら、そうね", "ね、わかるでしょう。ミマツ曲馬団の中に起ったトラ十事件のさわぎをよそにして、ここへかけつけないところを思うと、これはどうも、団長も、行方不明になっているのじゃないかと思うのです", "まあ、曾呂利さん。あなたはこれまで、青い顔をした、いくじのない方だと思っていたけれど、今日は、とても、すばらしいのね。まるで名探偵そっくりだわ", "房枝さんは口が上手だね。そんなに僕をひやかすのは、よしにしてください" ], [ "おい皆、船は大丈夫だから、安心しろ", "えっ、大丈夫か。沈没するような心配はないか", "うん、沈没なんかしやせんよ。さっきの爆弾は、左舷の横、五、六メートルの海中で炸裂したんだそうだ、それだけはなれていりゃ、大丈夫だ", "へえ、そうかね。こっちの船体に異状がないと聞いて、大安心だ", "なにしろ、灯火管制中だから、明りをつけて検査するわけにはいかないが、船腹の鉄板が、爆発のときのひどい水圧で、すこしへこんだらしい。しかし、大したことはないそうだ" ], [ "爆発は、もう、それっきりなんだろう", "そうだ", "じゃあ、あとはもう心配なしだな" ], [ "それから、もう一つ、へんな話をきいたぞ。甲板に立っていた船員の一人が、あの爆発のときに、たおれたんだそうだ。ほかの者が、それを見つけて抱きおこした。爆発の破片で、からだのどこかを、やられたんだろうと思ってしらべてみた。すると、別にどこもやられていない。そのとき、へんだなあと思うことが一つあった。お前たちは、それが分かるか、そのへんだなあという一件が", "そんなこと、分かるものか。早くしゃべれ", "それは、奴さんのたおれた場所に、きれいな花が、ばらばらと落ちていたんだ。だから、奴さん、爆弾にやられたんじゃなくて、花束でもって、なぐられたんじゃないかって、誰かそういっていたよ", "へーえ、花束でなぐられて目をまわしたというわけか。まさか、はははは" ], [ "ごめんなさい。ごめんなさい。わたくし、たいへん、あやまりました", "……?" ], [ "やっぱり、こっちじゃないかな", "どうも、こう暗くては、探せやしない" ], [ "やあ、船長。赤石君は、奥に寝かせてあるが、もうすこし様子を見ないと、なんともいえませんねえ", "うむ、そうすると、会って、こっちが聞きたいことを聞くわけには、いかんですかな", "まあちょっと待ってください。もう三十分ぐらいは", "そんなに、容体があぶないのかね" ], [ "じつは、本船の上を、怪しい飛行機が飛んだことについて、赤石に聞いてみないと、事実がはっきりしない点があるのでね", "赤石君にきかないでも、外の人だけで、わからないのですかね、私も聞いたが、あれだけはっきりした爆発音だから、それでも分かりそうなものだが", "いや、ドクトル。どうも、それだけのことじゃないらしいんでね、それで困っとる" ], [ "第一、空襲らしいというのに、本船の者で、誰も飛行機の近づく爆音を聞いたものがないのが、おかしい。もちろん、飛行機の姿も見えなかった", "船長。爆弾がふってきたんだから、それでもう、飛行機の襲来だということは、たしかではありませんか", "いや、それが、そうかんたんにきめられないのだ。それに、赤石のたおれていたとこに、ばらばらと落ちていたうつくしいきり花だが、こんなものがどうして、あんなところにあったか、これは赤石に聞かないと、わからないことなんだ" ], [ "たったこれだけの花ぐらいのことを、そう気にすることはないでしょう", "いや、これは、その一部なんだ。もっとたくさんある" ], [ "もっと、困ったことがある。今しらべてみてわかったんだが、あの爆発事件の最中に、この船内から、二人の船客が、姿を消したんだ。二人ともミマツ曲馬団の人たちで、一人は団長の松ヶ谷さん、もう一人は、トラとよばれている丁野十助という曲芸師だ。船内を大捜査したが、たしかにこの二人の姿が見あたらない。それから、三等食堂の血染のテーブル・クロスの事件ね", "ああ、あの血染事件の血液検査を、やることになっているが、こういう次第で、手が一ぱいですから、あとで、なるべく早くやります", "とにかく、わしの直感では、この船は、横浜へ入るまでに、どうかなってしまうのじゃないかと思う。単なる空襲事件ではない。もっと何かあるのだ。今、手わけして、探してはいるがね。ねえ、ドクトル、あんたも、なにかいい智恵をひねりだしてくださいよ" ], [ "あたし、こんなおどろいたこと、はじめてですわ。松ヶ谷団長さんの顔ったら、たいへんよ。顔中すっかり火傷をしてしまって、それに眼が、ああ、もうよしましょう、こんなことをいうのは", "眼が、どうしたのですか" ], [ "それが、たいへんなのよ。石炭の中に、団長さんが埋まっていたのよ。火夫が、石炭をとりに来て、石炭の山にのぼると、真暗な奥から、うめきごえがきこえたんですって、びっくりして、仲間をよびあつめ、もう一度いって、奥をしらべてみると、誰だかわからない人間が、石炭の間から顔を出して歌をうたっていたんですって", "歌をうたっていた?", "そうなのよ、へんでしょう。顔がすっかり焼けただれているのに、歌をうたっているのよ。診察に行かれた先生もおどろいていらしたわ。普通の人間なら、もう死んでいるところですって", "ひどいことをやったものですね。一体、誰が、そんなことをやったのでしょうね", "さあ、あたし、そんなことは知らないわ。誰かにうらまれたのじゃないかしら、曲馬団の団長なんて、団員を、とてもいじめるのでしょう。ライオンや虎を打つ鞭でもってぴゅうぴゅうとたたくのでしょう", "さあ、どうですかなあ" ], [ "すると、本船の左舷横、五、六メートルのところに落ちたあの爆弾のことは、どう考えるかね", "さあ、それですよ。船長" ], [ "どうも私は、あのミマツ曲馬団というやつが怪しいと思うのですが、団員の中に、わるい者がまじっていて、ダイナマイトかなんかをもってて、甲板から海中へなげたのではないでしょうか", "甲板から海中へダイナマイトをなげた? ふふん、なるほどね" ], [ "しかし、ダイナマイトを、なぜ海中へなげたのかな。まさか、魚を捕るためじゃあるまい", "船長、あの曲馬団の連中を、片っ端から、しらべて見てはどうでしょうか。そうすれば、松ヶ谷団長をやっつけたり、丁野十助を血痕だらけにしてしまった悪い奴が、見つかるかもしれません", "そうだなあ。しかし、一人一人、しらべていたのでは、なかなからちがあかない。怪しい奴を見当つけて、それから先へしらべてみたら、どうか", "さんせいですね。それについて、船長。私は、あの団員の中にいる曾呂利本馬という背の高くて、右足を繃帯でまいている男が、特に怪しいと思うのですがねえ。まず、あいつを引っぱってきてはどうでしょうか", "曾呂利本馬? ふふん、ああこの船客か" ], [ "曾呂利などとは、ふざけた名前だ。こいつから先しらべることはさんせいだ。さっそく、ここへ引っぱって来たまえ", "はあ、承知しました" ], [ "いや、この人は、どうしても来ないといって足のわるいくせに、あばれるもんですから、つい、こうなるのですよ", "いけない、いけない。まあ、曾呂利さんとやら、ゆるしてください" ], [ "船長。これは失敗でしたよ。私をあのように、にぎやかにここへ引っぱりこむなんて、よくありませんでしたよ", "あなたが、船員に反抗せられたのが、いけなかったのでしょう", "いや、反抗はしませんでしたよ。船員のいったことは、うそです。おかげをもって、私は、たいへん危険に、さらされることになりました" ], [ "まあ、おちついて、この椅子にかけてください。わしは船長として、ぜひあなたからききたいことがあるのです。正直に答えてくれますか", "船長さん。私をおしらべになるのは、むだですよ。それよりも、すぐさま、船内大捜査をなさることです。殊に、貨物をいちいちしらべるのです。それと同時に、無電をうって、東京の検察局の援助を乞われるのがよろしい", "なにを、ばかなことを", "いや、その方が、いそぎます。『本船ハ危機ニ瀕ス、至急救援ヲ乞ウ』と、無電を" ], [ "おうい。船長はここにいる", "おお、船長。無事ですか。いま、灯をつけます", "天井の電灯は、こわれた。卓子のうえのスタンドをつけてくれ", "はい" ], [ "あ、船長、どうされました", "うん、ピストルでうたれたのだ。おお、ここに一等運転士がたおれている。誰か手をかせ", "やあ、一等運転士" ], [ "おや、船長、いませんよ", "いないとは、誰が!", "訊問中の曾呂利が", "おお、曾呂利君が、銃声がきこえたとたんに、あっと叫んでたおれたのを見たよ。どこか、そのへんに、たおれていないか", "さあ" ], [ "へんだなあ。どこへいってしまったんだろう", "うん、たしかに、弾があたって、たおれたのを見たのじゃが" ], [ "ああ、一等運転士。この女です。ピストルをうったのは", "なにっ", "窓から、中をのぞいていたのです。私が、懐中電灯でてらしつけると、にげだしました。やっと、捕えたのですが、附近に、このピストルが落ちていました" ], [ "ちがいます。あたくしじゃありません。ピストルをうつなんて、そんなことのできるあたしではありません", "そうでもなかろう。曲馬団の娘なら、ピストルなんか、いつもぽんぽんとうっているではないか", "いいえ、ちがいます。ピストルのことは、なにも知らないのです。ただ", "ただ?", "ただ、曾呂利さんが、船長室へ引っぱりこまれたので、心配になって、ここへ上ってきたのです", "それから、ピストルを出して、あたしの肩をうったのだろう" ], [ "ピストルをうったのは、その娘さんではない。別の女です", "おや、誰です、あなたは、見かけない方だが" ], [ "あなたは、まるで探偵みたいな口をききますねえ。われわれも、ほんとうの証拠があるのに耳をかさないというわけではないのです。あなたに自信があるなら、いってごらんなさい", "では、いいましょう。なあに、かんたんなことなんです" ], [ "どうです、皆さん。これでは、室内の人物を狙いうつことはできません。弾は天井へあたるだけです", "なるほど、これは明らかな証明だ。いや、よくわかりました。この女の方がやったのではないことだけは、はっきりしました" ], [ "おや、僕の本名をよびましたね。化けの皮がはがれては、もう仕方がありませんね。とにかく、いろいろと話がありますが、いつも房枝さんに、かばってもらったことについて、たんとお礼をいいますよ", "あたしこそ、今日は救っていただいて、すみませんわ", "なあに、あれくらいのことがなんですか。いつも房枝さんに、かばってもらった御恩がえしをするのは、これからだと思っています。僕は、いそがしいからだですから、間もなく房枝さんの傍をはなれるようになるかもしれませんが、僕の力が入用のときは、いつでも、何なりといってきてください" ], [ "おい、なんだ", "今、無電室から、報告がありました。今夜はどういうものか、ひっきりなしに、本船へ無電がかかってくるそうです。非番のものまでたたき起して、送受信にとてもいそがしいと、並河技師からいって来ました", "うーん、そうか。横浜入港が明日だから、それで無電連絡がいそがしいのだろう", "いえ、いつものいそがしさではないのです。ひっきりなしに、本船を呼びだし、あまり重要でもなさそうな長文の無線電信をうってくるのだそうです。たしかにへんです", "そうか。でも、無電で呼びだされりゃそれを、受信しないわけにもいかないじゃないか。万国郵便条約に反するようなことは、できないからな" ], [ "船長。そういう意味のない長文の無電は、切った方がよろしいですよ", "おやおや、あなたも、そういう意見ですか。しかし万国郵便条約", "お待ちなさい。本船はみえざる敵に狙われているのですよ。へんな長文の無電をうってくるのは、そのみえざる敵が、今夜のうちに、本船をどうかしようと思って、本船に働きかけている証拠なのだと思います。条約違反の罰金をはらってもいい、はやく無電連絡を切るのがいいです", "ほう、なかなか過激な説ですなあ" ], [ "でも、あなたはピストルでうたれようとした。あなたを狙っている者が、船中にいるのではありませんか。どうかえんりょをなさらぬように", "えんりょではありません。わたし自身のことよりも、私は本船の運命を心配しているのです。さっきもいいましたが、はやく附近航行の他の汽船に応援を求められたがいいですぞ。そして直ちに、船内大捜査をはじめるのです。しかし間に合うかどうかわかりません。船長さん、本船は明日、ぶじ横浜入港ができるかどうか、私は疑問に思うのです", "そ、そんなばかなことがあってたまるものですか" ], [ "船長。この船には、ねらわれている者と、ねらっている者とが乗りこんでいるにちがいありませんよ", "えっ、なんと", "船長を、おどかすつもりはありませんが、たしかにそうです。しかも、どっちがねらわれているのか、ねらっているのか分かりませんが、とにかくそのどっちかがおそろしいこと世界一といってもいい者だと思います", "そんなことが、どうして分かります", "あの爆発事件のとき、どんな爆薬が使われたかを、私は調べてみましたが、それはどうやらメキシコで発明された極秘のBB火薬らしいのです。この火薬の秘密が、何者かの手によって外へ洩れて大問題になっているのです", "ほう、BB火薬? どうしてそれと分かったのですか" ], [ "ミマツ曲馬団のトラ十の行方が知れるか、それとも松ヶ谷団長が正気にかえるかすれば、かなり事件の内容は明らかになり、誰が、そのおそるべき怪物であるかはっきりしましょう。また船員赤石も、何か参考になることを知っているでしょう", "すると、このおそるべき怪物というのは、この船に今もちゃんとのっているわけですね", "たぶん、そうでしょうね", "え、たぶんですか。それはいったいどんな人間でしょう。外国人ですかねえ", "さあ、外国人だろうと思うが日本人だか分かりませんが、とにかくここに一つ、はっきり名前を申し上げていい容疑者がある!", "それが分かっているのですか。早くおしえてください", "お待ちなさい" ], [ "船長。ゆだんがならぬといったのは、このことです。もうちょっとで私たちの話を、すっかり盗みぎきされるところでした", "ええっ。それは、盗み聞きの仕掛だというのですか", "そうです。ここへ来て、よくごらんなさい。花活の中には、マイクが入っています。ほら、このとおりです" ], [ "船長。そんなことを、今さら調べていては、もうおそいのです。きっき私の申した手配を、すぐされるように", "うむ、手配はやりましょう。が、おそるべき人物というのはだれですか。早くそれをいってください。すぐ取りおさえますから" ], [ "はたして、それが怪人物であるかどうか、まだ私には、はっきりしませんが、とにかくこの船の特別一等の船客で、ニーナ嬢という美しい婦人は、十分に怪しい節があります", "ニーナ嬢? ああ、ニーナ嬢ですか。こいつは意外だ。あれは、メキシコの実業界の巨頭の令嬢です。そしてニーナ嬢自身は、慈善団体の会長という身分になっている", "慈善団体であろうが、なんであろうが、とにかく、嬢については怪しむべき節が、いろいろある。さっき、私をピストルでうったのは、ニーナ嬢なんですからねえ", "え、ニーナ嬢が、あなたや、私たちをうったのですか。これはまた、意外中の意外だ", "ニーナ嬢は、ある事からして、私を生かしておけないと思ったのでしょう。もうあれ以上、私は曾呂利本馬の姿をしていることは危険なので、こうして、服装を改めたのです" ], [ "まだ、大丈夫ですから、さわいじゃいけません。老人と子供とを先に", "おい君、老人をつきのけて、ボートへはいりこむなんて、ずるいぞ", "もしもし、あなたは、あとです。若い人だから", "わたくしは、特別一等の船客であります。ボートへのりこむけんりが、あるのです" ], [ "ニーナ嬢は、子供さんでもないし、お婆さんでもないでしょう", "気高い淑女です", "男であろうが、女であろうが、若い人は、あとにしてもらいます。もう、これ以上、問答無用です。あなたは、うしろへさがってください" ], [ "師父、ボートは、だめなの", "うん、だめだ。われわれは、別の道をひらくしかない", "困ったわねえ。とにかく、このままでは、汽船とともに沈んでしまうわよ。なんとかして、船をはなれなければ。あの連中は、来てくれるはずだというのに、なにをしているのでしょうね", "たしか、もうそのへんに、来ているはずなんだがねえ。仕方がない。マストのうえへよじのぼって、懐中電灯で信号をしてみよう。ニーナ、おいで" ], [ "なにをいう。首領だなどと、でたらめをいうな。わしは神に仕える身だ", "神につかえる身だって。へへん、笑わせやがる。神につかえる身でいながら、さっきはなんだって、おれを爆死させようとしたのかい", "なにをいいますか。あなたは気が変になっている", "気が変なのはお前たちの方だ。知っているぞ。花籠の中に、おそろしい爆薬をしかけて、おれの前へおいたじゃないか。あの停電のときだよ。ぷーんと、いい匂いのするやつがおれの前へ持って来やがったから、多分それは若い女にちがいない。どうだ。これでも知らないと白ばっくれるか", "おどろいたでたらめをいう人だ", "とにかくお気の毒さまだ。こっちはそれとかんづいたから、おれが死んだと見せるために、かねて用意の血のはいった袋の口をあけて、おれの席のまわりを血だらけにしてやった。それからおれはすぐ花籠をつかんで甲板に出て、それを海の中へ捨てたとたんに、どかンと爆発よ。おれは無事だったが、かわいそうにおれのあとを追ってきた松ヶ谷団長と船員がひとり、ひどい傷をうけたよ。お前たちはおどろいて、暗闇の中で松ヶ谷団長を更になぐりつけ、死にそうになったやつを石炭庫へかくした" ], [ "あははは、ターネフ首領。この汽船は、もうあと四、五分で沈みますよ。取引は、早い方がいい。信号をさせてもいいが、あなたがポケットに持っている重要書類を、そっくりこっちへ渡してもらいましょう", "なに、重要書類。そ、そんなものを持っておらん", "おい、ターネフ首領。お前さんは、ものわかりのわるい人だねえ" ], [ "あの重要書類のことを、おれが、知らないと思うのかね。お前さんは、なにをするために、師父などに化けて、日本へのりこむのかね。そのわけを、ちゃんと書いてある重要書類袋を、こっちへ早く渡しなせえ。青い封筒に入って、世界骸骨化本部の大司令のシールがぽんとおしてあるやつさ", "……?" ], [ "しかたがない。われわれの命にかえられないから、青い封筒入の重要書類を君に渡そう。だから、この手をはなしてくれ", "おっと、おっと。その手には乗るものか。もう一方の手で、青い封筒を出せよ", "そんなことをすれば、縄梯子から、おちる", "大丈夫だ。お前さんの右手は、こうしておれがしっかり持っているから、大丈夫さ" ], [ "これでよし。さあ、手をはなしてやる", "いったい、君は何者だ。名前をきかせてくれ", "おれのことなら、これまで君がやって来た、かずかずの残虐行為について、静かに胸に手をあてて思出したら、分るよ。それで分らなきゃ、世界骸骨化本部へ、問いあわせたがいいだろう。お前たちの仕事のじゃまをするこんな面がまえの東洋人といえば、多分わかるだろうよ" ], [ "ふん、お前までが、トラ十トラ十といいやがる。これからは丁野船長とよべ。そういわなきゃ、おれはお前に、船から下りてもらうぜ", "いや、わるかった。船長、どうか一つたのむ。たすけてくれ", "ふん、じゃあ、のれ" ], [ "おい、曾呂利よ", "へーい" ], [ "お前、艫の方をむいて船がとおらないかみていてくれ。おれが、よしというまで、こっちを向いちゃならねえぞ。いいか", "へーい。しょうちしました" ], [ "やい、やい、やい。いいつけたとおり、艫の方へまっ直に向いていねえか。こっちを向いたら面を叩きわるぞ", "へーい" ], [ "あ、ピストル!", "そうだ。お前の命はおれが助けた。この船に、助けてやったからなあ。ところで、お前は、おれのいうことを聞かない。そういう恩知らずのお前なんぞを、これ以上、だれが助けておくものか" ], [ "おれが、あけてやろう", "これ、お前は動くな。動くと、これがものをいうぞ" ], [ "えーッ!", "しまった。うーん" ], [ "小僧め、ひねりつぶすぞ", "なにをッ" ], [ "これでもかッ!", "ぎゃッ" ], [ "まことに、遺憾です。私は、長官に、面をあわせる資格がありません", "うむ、君の骨折は感謝するが、せっかく、手に入れながら、失うとはのう" ], [ "はい、これだけであります。これは、塗料の棒を包んであった油紙を、よく注意して、羽根箒ではき、やっとこれだけの粉を得たのです", "実に、微量だなあ。これじゃ、分析もなにもできまい", "はあ" ], [ "とにかく、工場の方と連絡をしてみよう。彦田博士に、ここへ来てもらおう", "彦田博士?", "君は、彦田博士を知らないのか。博士は、篤学なる化学者だ。そして極東薬品工業株式会社の社長だ。今、呼ぼう" ], [ "彦田博士を、ここへ案内してくれ", "は" ], [ "ところで、彦田博士。例のX塗料が手に入ったのです", "えっ、X塗料が、ほんとうですか。いや、失礼を申しました。でも、あまりに意外なお話をうかがったものですから、あれが、まさか手に入るとは", "そこに立っている帆村君が、大苦心をして、とってきてくれたのだが、惜しいところで、大きいのを紛失して、残ったのは、そこにある紙にのっているわずかばかりだけですわい" ], [ "彦田博士、どうですかのう", "長官。これでは、微量すぎます。残念ながら、定量分析は不可能です", "出来ないのですな" ], [ "長官。何しろこの外に品物がないのですから、困難だと思いますが、私はこれを持ちかえった上で、出来るかぎりの手はつくしてみます", "そうして、もらいましょう。われわれの一方的な希望としては、この資料により、一日も早く博士の会社で、X塗料を多量に生産してもらいたいのです。このX塗料を一日も早く多量に用意しておかないと、われわれは心配で夜の目もねむられませんからねえ" ], [ "原籍をいいなさい", "原籍は存じません。あたくし、あたくしは、捨子なんです", "捨子だって、君がかい" ], [ "団長さんと、別れ別れになってしまったものですから、よく覚えていないのですわ", "それじゃ、君が日本人たることの証明が出来ないじゃないか。え、そうだろう", "まあ、あたくしが、日本人じゃないとおっしゃるのですか。ひどいことをおっしゃいますわねえ", "その証明がつかなければ、ここは通せない", "では、あたくしたち、ミマツ曲馬団の仲間の人に、証明していただきますわ" ], [ "さあ、それでは、俺と、もう一人、女がいいなあ、そうだ房枝嬢がいい。二人で、これからすぐ城南へ出かけて、借地の交渉をしてこよう。それから、何とかして、衣裳の方も東京で算段してこよう", "おい、黒川、いや黒川団長、城南には、お前、心あたりの空地があるのか。今は、空地がほとんどないという噂だぞ", "なあに、大丈夫。俺は、いいところを知っているんだ。極東薬品工業という工場の前に、興行向きの地所があるんだ" ], [ "奥さま。しっかりなさいまし。おけがはありません?", "まあ、あたくし" ], [ "でも、たいへんでございますわ", "いいえ、わたくしが、不注意なのでございました。あなたのお姿につい見とれていましたものでございますから", "あら、いやですわ、ほほほほ" ], [ "いえ、それが、ほんとうなのでございますの。お嬢さまは、しつれいですが、今年おいくつにおなり遊ばしたのでございますか。お教え、ねがえません?", "まあ、はずかしい", "ぜひ、お聞かせ、いただきとうございますの。おいくつでいらっしゃいます" ], [ "あのう、あたくし、こんなに柄が大きいんですけれど、まだ十五なんですのよ", "え、十五。ほんとうに十五でいらっしゃるの。じゃあ" ], [ "あら、たいへん。鼻緒がこんなに切れていますわ。これじゃ、お歩きになることもできませんわ。あたくしが、今ちょっと間にあわせに、おすげいたしましょう", "あら、もうどうぞ、おかまいなく", "いいえ、だって、それでは、お歩きになれませんもの" ], [ "困りましたわねえ。穴をあけるものが、ないので", "いいえ、もう御心配なく、あたくしがいたしますから" ], [ "奥さん。それはそうでしょうけれど、早くこの車へお乗りになった方がいいですよ。第一、泥がお顔にまではねかかっていて、たいへんなことになっていますよ", "あら、まあ。そうですか" ], [ "おい、お前たち二人でこれからすぐに、電灯会社へいってこい。夕方までに電灯をひいてもらって、今日から、夜間興行をやることにしよう。工事料は現金でもっていけ", "はいはい。行ってきましょう" ], [ "おい、房枝。今日、お前のところへ、すばらしく大きな花環の贈物がとどいたよ。天幕の正面の柱に高くあげておいたよ", "まあ、ほんとう? だれからかしら" ], [ "さあ、その贈主のことだが『一婦人より』としてあるだけで、名前はない", "一婦人より、ですって。だれなんでしょうね", "まあ、その幕の間から、ちょっとのぞいてごらん。実にすばらしい花環だ" ], [ "どうだ、りっぱなものだろうがな。わしはちかごろ、あんな見事な大花環を見たことがない。房枝、お前は、今はおしもおされもせぬ一座の大花形だよ", "だれが、贈ってくださったのでしょうね" ], [ "ちょっと、あれを、あたしの大花環の横にならんで、気味のわるい花籠が", "ええっ、気味のわるい花籠が?" ], [ "いいえ、あの花籠には、あたし見おぼえがあるのよ。あの雷洋丸事件の、そもそもはじまりは、あの花籠だったのよ", "ええ、なんだって" ], [ "団長さん。あの事件のとき、あたしたちの食卓に、あのとおりの花籠がのっていたのよ。そして、一度停電して、二度目に電灯がついたときには、その花籠はなくなっていたのよ。そして、卓上には、あのおそろしい血が", "ああ、それから先は、もういうな。わしは、それを思うと、身ぶるいが出るのだ", "あたしは、あの花籠を見たとたんに、身ぶるいがおこりましたわ。あんな気味のわるい花籠は、すぐ下してくださらない。あたし、芸もなにも、できなくなりましたわ", "まあ、そういうな。しかし、わしも、やっと思い出したぞ。そうだ。たしかあのとき、わしの目の前に、あのような花籠がおいてあったねえ", "団長さん。あの花籠は、一たい、どなたが贈ってくださったのですか", "ああ、あの花籠か。あれは、だれから贈られたのだったかなあ。そうそう、なにしろ大入満員でいそがしいものだから忘れていたが、さっき、お届物屋さんが持ってきたといっていたが、そのとき手紙がついていたのを、読もうと思って、すっかり忘れていた", "手紙がついていたんですか", "そうなんじゃ、いそがしくて、すっかり忘れていたよ。あれは、どこへしまったかなあ" ], [ "だめだよ。そんなことをして、相手にさからうと、この小屋もわたしたちの体も、めちゃめちゃに空中へふきとんでしまう。いやだよ、そんなあぶないことは", "だって、わたしたちが、直接警察へ電話をかけないでも、警察へしらせる方法はあってよ。団員のだれかにそっといいつけて、しらせる方法があると思うわ", "房枝、お前は、わしより気がつよいねえ", "だって、バラオバラコって、どんな人だかしらないけれど、こんなわるいことをする人を、そのまま、ほっておけませんわ", "命があぶない。およしよ。わしはもうこりているんだ", "警察への手紙をかいて、それを、出入りのおそば屋さんかだれかに、そっと持っていってもらったら", "なるほど、それならいいかもしれないが、やっぱり、後が気味がわるいねえ", "でも、こんなわるいやつが、いるのをしっていて、だまっていられませんわ。そうすることが、たくさんの人のためになるんです。あたし、あとで一人になったとき、手紙を書きますわ" ], [ "房枝、きいているぞ。この小屋を、爆発させていいのだな", "えっ!" ], [ "ほら、みなさい、房枝。お前が、女のくせに、そんなむちゃなことをやろうとするからいけないのじゃ。もう、そんなことは、しませんと申し上げろ。さあ早く、申し上げんか", "はい、じゃあ、やめます" ], [ "おい房枝、あんまりしおれていると、他の団員にあやしまれて、あのことが外へ知れてしまうぞ。すると、とたんに、どかーんだから、わしはいやだよ。ここはひとつ元気を出して、興行中は、あの花籠事件のことを忘れていておくれ。おい、房枝", "はい、団長さん。あたし、大丈夫よ" ], [ "あら、房枝さん。こんなところにいたの。ずいぶんさがしたわ。おや団長さんもここにいらしったの", "どうしたの、スミ枝さん", "なんじゃ、スミ枝。えらく、はあはあいっているじゃないか" ], [ "あのう、御面会なのよ、房枝さんに", "なんじゃ、面会じゃ。面会なんて、もう、どしどしことわることにしなさい", "どんな人なの、スミ枝さん" ], [ "上品な奥様なのよ", "上品な奥様? ああ、すると、あの方じゃないかしら。そしてスミ枝さん、大花環のことをなんとかおっしゃってなかった", "ああ、大花環のことね。そういってらしたわ。まあ、あんないいところへ、あげていただいて、といって、その奥様あんたのところへ来た大花環を、ほれぼれと見上げていたわ。房枝さん、いい御ひいきさんあって、しあわせね", "あら、そうでもないわ", "なあんだ、そうか。あの大花環を房枝へ贈ってくだすった奥様か。そういう御面会の方なら、おい房枝、お前お目にかかって、よくお礼を申せ", "ええ" ], [ "あたし、お目にかからないわ。熱があって寝ています。舞台へは、やっとむりをして出ていますと、奥様にいってくれない", "あら、そんなうそをいうの、あたしいやだわ", "おい房枝、なにをいっているのだ。にせ病気なんかつかわないで、お目にかかったらいいじゃないか" ], [ "おいスミ枝、房枝のいうとおりにしなさい", "え、ことわってしまうんですか。あら、おかしいわね。御祝儀がいただけるのに、房枝さんは慾がないわねえ", "こら、なにをいう。スミ枝、早くそういってくるんだ" ], [ "団長さん、あたし、もうこの仕事を、やめたくなりましたわ", "なにをいうんだ。気のよわい。このミマツ曲馬団は" ], [ "あ、房枝さん。たいへん、たいへん", "まあ、どうしたの、スミ枝さん。たいへんだなんて", "だって、たいへんよ。あの奥様に、あんたが病気で楽屋で寝ていると、あたし、いわれたとおりいったのよ。すると、あの奥様はそれはたいへん、そういうことなら、ぜひお見舞いしないでいられません、楽屋はどっちでしょうかとおっしゃるのよ。あたし困っちゃったわ。あんた、ちょっとあってあげてよ", "あら、困ったわねえ", "こらスミ枝、お前のいい方がわるいから、そんなことになったんだぞ", "いいえ、その奥様が、とても、房枝さんに熱心なんですよ。あたしでなくても、だれでも、負けてしまうわ" ], [ "いいえ、たいしたことはございませんの。それよりも奥様、りっぱなお花環をいただきましておそれ入りました", "なんの、あれほどのことを、ごあいさつでかえっておそれ入りますわ。でも、もうお目にかかれないかと思って悲しんでおりましたのに、昨日、ちょうどこの曲馬団の前を通りかかりまして、房枝さんのお姿をちらりと見たものでございますから、そのときは、とび立つように、うれしくておなつかしくて" ], [ "おいおい、第一場は、いきなりお涙ちょうだいとおいでなすったね", "だまっていろ。お二人さま、どっちもしんけんだ。こうやってみていると、あれは、まるで親子がめぐり会った場面みたいだな", "ほう、そういえば、房枝とあの奥様とは、どこか似ているじゃないか。似ているどころじゃない、そっくり瓜二つだよ", "まさかね。お前のいうことは、大げさでいけないよ" ], [ "なんでもないのでございます。ただ、どこでも、こういうところはよくないところでございますの", "わかりました、房枝さん。もうわたくしは、なんにも申さないで失礼いたしますわ。どうぞ、早くおなおりになるよう、わたくしは、毎日毎日お祈りしていますわ" ], [ "やあ、おそくなったぞ。一電車おくれてしまったので、これはもう十一時をすぎてしまった。ねえ房枝、大丈夫だろうか", "そうねえ" ], [ "うん。ビル街が、こんなにおそろしいところだとは、今夜歩いてみて、はじめて知ったよ。さっきから、こうして歩いているが、まだ一人の通行人にも会わないねえ", "ああ、そうね" ], [ "ふふふふ。さっきからこっちは待ちくたびれていたぞ", "あっ!" ], [ "ああ、トラ十さんなのね", "そうだトラ十さまだ。お久しゅうござんしたね。雷洋丸がやられたときは、あなたさんたちと、こうしてふたたび娑婆でお目にかかれようとは思っていなかったよ。ふふふ、お互さまに、悪運がつよいというわけだね。なあ黒川ニセ団長" ], [ "えっ、持って来たものを出せというが、なにを出すのかね。わしはなにも持ってこないよ", "なんだ、なにも持ってないって、この野郎、かくすと承知しないぞ。たしかに持って来たものがあるはずだ", "そんなものはありません。持ってきたというなら、その品物の名をいってください" ], [ "トラ十さん。あんたはなにか思いちがいをしているわ。あたしたちは、ここへ来いと命ぜられたから、からだ一つで来たわけよ。なんにも持ってなんか来ませんわ", "なんだ、お前までおれにかくす気か", "おい丁野さん。房枝をいじめるんじゃないよ。いい加減にしなさい" ], [ "トラ十、こんなところで君にあえるなんて、こんなうれしいことはないよ", "そこを放せ。お前はだれだ" ], [ "そうです、帆村です。あぶないところでしたね", "なんだ、きさまは帆村荘六か。ふーん、帆村なんぞに、ひねられてたまるものか" ], [ "あっ、トラ十がにげた", "帆村さん。しっかり" ], [ "あっ、あぶない", "あれっ" ], [ "おい、房枝。早く下してくれ", "まあ、あなた、興奮してはいけません。しずかになさい" ], [ "ええ、どうか、一刻も早く、医師にみせていただきたいのです。これは、あたくしたちの大事な主人ですから", "わかります。よくわかります" ], [ "じゃあ、あの花壇のあるところへいってみません? いろいろとうつくしい花や、香のいい花が、たくさんあるのです。あなた、花おきらいですか", "いいえ、花はだいすきですの", "ああそう。では、これからいって、あなたの好きな花を剪ってあげましょう。あなた、どんな花、好みますか", "さあ、好きな花は、たくさんございますわ" ], [ "ここにある花の種類は、七百種ぐらいあります", "え、七百種。ずいぶん、種類が多いのですわねえ", "その中に、メキシコにあって、日本にない花が、三百種ぐらいもまじっています。なかなか苦心して持ってきました", "そういえば、あたくしがメキシコでお馴染になった花、名前はなんというのかしりませんけれど、その花があそこに咲いていますわ", "じゃあ、あれをさしあげましょう", "いいえ、花はあのままにしておいた方がいいんですの。きっていただかない方がいいわ" ], [ "えんりょなさらないでよ", "いいえ、その方がいいのです" ], [ "ニーナさんは、バラの花が、おきらい", "えっ" ], [ "あのう、ニーナさん。しばらく黒川さんのことを、おねがいしますわ", "ええ、いいです。しかし、どうかしましたか", "いいえ、べつにどうもしませんけれど、あたし、ちょっと曲馬団へかえってきますわ。ゆうべから、団長とあたしが団の方へかえってこないので、皆が心配しているでしょうから", "ああ、そうですか。あのう、それ、もっとあとになさいませ。食事の用意できたころです。一しょに食事して、それからになさい", "でも、皆が心配しているといけませんから", "まあ、待ってください。とにかく、食堂へいってみましょう。あたくし、十分ごちそう、用意させました。メキシコから来たよいバタあります。チーズ、おいしいです" ], [ "おお房枝さん。あたくし、あなたの帰るのをとめて、いいことをしました", "え。まあ、どうして" ], [ "この新聞、ごらんください。たいへんです", "えっ、たいへんとは、どうしたんでしょう" ], [ "この記事、ごらんなさい。けさミマツ曲馬団、火災をおこして焼けてしまいました", "まあ" ], [ "いいえ、もうすこし、ここにいます。あたくし、房枝さんのこと、心配です", "では、ここに自動車をおいておくのはまずいから、例のホテルへ車をまわしておきますよ" ], [ "お前の名は、なんというのか", "房枝ですわ", "房枝? そしてこっちの西洋人は?", "あたくし、ミマツ曲馬団に関係ありません。房枝さんを車にのせて、ここまでとどけたのです" ], [ "おや、帆村さん。この女を知っているのですか", "知っていますとも、これはこのミマツ曲馬団の花形で、房枝さんという模範少女ですよ", "ほ、やっぱりほんとうでしたか。私は、こいつはあやしい奴だと思いましてね。しかし、団員とあれば、他の団員も全部、警察におさえてあるのですから、やっぱりこの女、房枝といいましたかな、この房枝嬢も、連れていかなければなりません" ], [ "その手紙を今持っていますか", "いいえ、持っていません", "どこにあるのですか。ぜひ見たいものだが。ねえ、部長さん" ], [ "そうだ、手紙を見れば、また手がかりもあるはずだ。その手紙はどうしたのですか", "黒川団長が持っているはずです。団長さんは、ゆうべ重傷を負い、いまニーナさんのお邸でやすませていただいているのですわ", "えっ、ニーナさんの邸?" ], [ "そうです。あたくし、房枝さんと黒川さんとを助けました。ゆうべからけさまで、あたくし、いろいろ介抱しました。黒川さん、だいぶん元気づきましたが、まだうごかすことなりません", "ほう、すると、ニーナさんは、ゆうべ黒川氏を助けてからのちは、一歩も外に出なかったのですか", "そのとおりです。なぜ、そんなことを、たずねますか", "いや、ちょっとうかがってみたのです。では、師父のターネフさんは、やはり邸にずっといられましたか。もちろん、ゆうべ、あなたがたが、房枝さんたちを助けて、邸に戻られてからのちのことをいっているのですが", "ああ、師父ターネフですか。ターネフは、どこへも出ません。ゆうべは、ずっと邸にいました", "あらっ、そうかしら" ], [ "房枝さんは、師父ターネフが邸にいなかったことを知っているようだな", "いえ、そんなこと絶対にありません。ターネフは、ずっと邸にいました" ], [ "房枝さん。警官たちは、あなたを不必要にくるしめています", "な、なにをいう" ], [ "なにッ!", "あたくし、よく知っています。トラ十というあやしい東洋人が、あなたがたの手に捕らえられたはずです", "えっ、それを知っているのか。どうして", "そのあやしい東洋人トラ十は、ミマツ曲馬団の爆破が起って間もなく、三丁目の交番を走りぬけるところを、警官にとらえられましたのです" ], [ "ニーナさん。あなたは、なぜそんなことを御存じなんですか。どこから知ったか、こたえてもらいましょう", "ほほほほ。あたくし、公使館の人から聞きました。日本中のこと、なんでも、すぐわかります", "えっ、公使館の人? とにかく、向こうへいって、もっとくわしく聞きましょう。さあニーナさんも、向こうへ歩いてください", "いやです" ], [ "あたくしは、もうかえります", "いや、かえることはなりません", "いいえ、あたくし、あなたのような警官に自由をしばられるような、わるいこと、しません。あなた、たいへん無礼です。そんなことをすると、わが公使館は、だまっていません。むずかしい国際問題になります。それでもよろしいですか", "うむ", "ほほほ、あたくし、邸にいます。逃げかくれしません。話あれば、公使館を通じて、お話なさい。ほほほほ" ], [ "あたくしばかりお責めになっては、不服ですわ。あなただって、ずいぶんまずいことをなさいましたわ", "そうでもない", "だって、そうですわ。けさ、現場からこの邸へおかえりになったところを、房枝に見つけられたことに気がついていらっしゃいませんの。現場で房枝を訊問した帆村探偵は、それをちゃんと悟ってしまったようですわ", "えっ、そんなことがあるものか。探偵は、わしが、爆発事件の犯人だといったのかね", "そこまで、はっきりいいませんが、部長の警官が『ターネフはあやしい、よくしらべなければ』といおうとするのを、あの探偵は、すばやくとめたんです。あなたにゆだんをさせておいたところを、ぴったりとおさえるつもりだと、あたしにらんだのですけれど。あなたは現場で、なにかまずいことをおやりになったのではないのですか", "うむ" ], [ "じつは、ちょっとまずいことをやってきたんだ", "ああ、やっぱり、そうなのね", "それを、ごまかそうと、いろいろやっているうちに、時間をとってしまったんだ。だが、まず警官たちに気づかれることはないと思うが", "思うが、どうしたんですか", "うむ、万一、気がつかれたら、わしは日本の警察官に対し、あらためて敬意を表するよ。とにかく、トラ十をあそこへひっぱり出したところまでは、実にうまく筋書どおりにいったんだがなあ" ], [ "万一、ここで分かってしまったら、かんじんの大仕事が出来なくなるではありませんか", "ああ、そのこと、そのこと。じゃあ仕方がない。もう猶予はできないから、わしは荒療治をやることにしよう。お前はわしとは別に、房枝をうまく丸めて、例の計画をすすめるのだ", "ええ、あの子のことなら大丈夫、ワイコフさんも、手を貸してくれることになっていますわ" ], [ "いいえ、そんなことを聞いたことはございませんわ。トラ十さんは、雷洋丸にのっているとき会ったきりで、こんど内地へかえってきてからは、丸ノ内のくらやみで会うまでは、まだ一度も会ったことがございません", "ふーん。それは本当かね。まちがいないかね。トラ十は、ミマツ曲馬団へもう一度雇われたいと思って、いくどもたずねていったといっている。そのために、トラ十は、郊外のある安宿に、もう一週間もとまっているといっているぞ。本当に、トラ十が曲馬団をたずねていったことはないか", "さあ、ほかの方ならどうか存じませんけれど、あたしにはおぼえがございません", "それなら、もう一つたずねるが、トラ十以外の者で、誰かこのミマツ曲馬団に対して恨を抱いていた者はないか", "あのう、バラオバラコの脅迫状のことがありますけれど", "バラオバラコのことは、別にしておいてよろしい。そのほかにないか", "ございません。ミマツ曲馬団は、皆さんにたいへん喜ばれていましたし、団員も、収入がふえましたので、大喜びでございました。ですから、ほかに恨をうけるような先は、ございませんと存じます", "そうか。取りしらべはそのくらいにしておきましょう" ], [ "どうだ。もうこのくらいでいいだろう。トラ十をもっとしらべあげることにしよう", "それがいいですね。そして、山下巡査が見つけた沼地についた大きな足あとが、トラ十の足あとであるという証明がつけばいいんですがねえ。あそこのところが合うように持ってきたいものですなあ", "まあ、そのことは、後にするがいい" ], [ "おい帆村君。君は何かこの娘に聞きたいことはないか。許すから何でも聞いておきたまえ", "はあ、それでは、ちょっと" ], [ "あなたは、ミマツ曲馬団の誰かを殺害しようという計画をもっていたのではないですか", "えっ、なんとおっしゃいます?" ], [ "じゃあ、もう一度いいます。あなたは、ミマツ曲馬団の誰かを殺害する考えがあったのではないですか", "まあ、帆村さん、あまりですわ。と、とんでもない" ], [ "あなたは、そういう考えのもとに、爆発物を、曲馬団のどこかに仕掛けておき、そしてあなたは、自分の体を安全なところへ移すため、丸ノ内へ出掛けていったのではないですか。一人でいくのは工合がわるいから、黒川新団長をさそっていった", "まあ、待ってください。帆村さん。あたくしが、そんな人間に見えまして、ざんねんですわ" ], [ "だから、バラオバラコの脅迫状も、実は、あなたが自分で作ったものであると、いえないこともない。あなたが安全な場所へ出かける口実を作るため、自分で脅迫状を出したのではないのですか", "あ、あんまりです。あんまりです" ], [ "おい帆村君。その点は、われわれももちろん考えてみたが、この娘は、それほどの悪人ではなさそうだ。われわれもそのことについてはうたがっていないのだから、それでいいではないか", "はい、それではどうぞ" ], [ "房枝さん、どうぞ、あたしを残していってしまわないでよ、ねえ", "大丈夫よ。これから、一しょに働き口をさがしましょうよ", "ほんとう? うれしいわ、あたし" ], [ "ああ房枝さん。あたしの持っているこの包の中にね、あなたの持物も、すこしばかり入っているのよ", "あら、そう", "うちの曲馬団の向かいに、大きな工場があるでしょう", "ええ、あるわ", "あそこの工場の中へ、曲馬団の衣裳や道具なんかが、ばらばらと落ちたんですって、あたしあの翌朝、浅草の小母さんところを早く出て、曲馬団へかけつけたんだけれど、工場の前でうろうろしていると、工場の守衛さんが、あたしのことをおぼえていて、こっちに、お前のところのものがたくさん落ちてきたよといって見せてくれたのよ。話をきいて、びっくりしたけれど、あたし、欲ばりだもので、早速その品物を見せてもらって、自分のものを選って持ってきたのよ。ついでに、房枝さんのものも持ってきたわ", "あら、スミ枝さんは親切ね", "そういわれると、あたしはずかしいわ。だって、正直にいうと、房枝さんも死んでしまったろうから、房枝さんの形見をもらうつもりで、持ってきたんだわ。ごめんなさいね", "形見だって、ほほほほ。本当に、もうすこしで、形見になるところだったわねえ", "ごめんなさい。あとで見せるわね。あの、いつかの奥様みたいな方が持ってきた手箱もあるのよ", "あら、そう、あのよせぎれ細工の手箱が" ], [ "あら、ニーナさん", "あたくし、待っていました。黒川さん、あなたに会いたがっています。すぐ来てください", "あら、そうですか。どうしたのでしょう、容態でもわるくなったんじゃありません?", "ええ、そうです、そうです。黒川さん、至急、あなたに会いたがっています。それからね、房枝さん。あたくし、あなたのために、しんせつなことを考えました", "親切なことって", "あなたを、あたしのところで、よい給料で働いてもらおうと思います。仕事は、むずかしくありません", "そうですか。でも、あたし、この方と一しょに働こうって、約束したばかりなんですのよ" ], [ "ええ、午後四時でしたな。トラ十へ、これをさしいれたいから頼みますと、にぎりずしが一折と、鼻紙一帖とをもってきたのです。そこへ出たのが、この間、拝命したばかりの若い巡査だったが、『トラ十へ』という声に気がついて、その巡査を押しのけて前へ出て応接したのが、ここにいる甲野巡査です。甲野巡査の第六感の手柄ですよ。ははは", "署長さん、第六感なんて、そんなものじゃないのです。そうもちあげないで下さい" ], [ "じゃあ、これから後のことを、甲野巡査から聞こう。話したまえ", "は、検事さん。トラ十へ差し入れ、というので、私はぎくんときました。だって、これは秘密になっていますが、トラ十は五日前に、ここの留置場を破って逃げ出して、今はここにいないんです。だからうっかりしていると、トラ十なんか、ここにはいやしないぞといいたくなる。しかしそういっては、トラ十の逃げ出したことがばれる。私は前へとび出していくと、受付の巡査に代って『よろしい、ここへおいてゆけ』といったのです。そしてすしをもちこんだ当人の住所姓名をたずねると、トラ十の従弟で、この先のこれこれの工場に働いている者ですといって、すらすらと答えたんです。そこで私は、すしをうけとって『よろしい』というと、その男は帰っていきました", "なるほど" ], [ "さあ、そこですしの始末ですが、これには困りました。なにしろ、トラ十はここにはいないのですからねえ。もったいないが、われわれが代りに食べるというわけにもいかない。すしは、机の上においたなりになっていました。がそのうちに、思いがけない事件がもちあがったのです", "ほう、猫の一件だな", "そうなんです。私たちが、うっかりしている間に、警察署の小使が飼っている玉ちゃんという猫が、昨今腹が減っていると見え、いつの間にか机の上のすしを見つけ、紙包の横を食い破ると、中のすしを盗んで食っているのです。『ああ猫がすしを食べている!』と、誰かがいったときには、もう二つ三つは、玉ちゃんの腹の中に入っていたのでしょうが、皆がさわぎだして、玉ちゃんのところへ飛んでいったのですが、そのときどうしたわけか、猫は逃げもせず、そこにうずくまっているのです。そしてだらだらよだれをたらしている。『変だな』と思ったときには、猫は、とつぜん大きなしゃっくりをはじめ、それからさわぎのうちに、冷たくなって死んでしまったのです。すしの中には、毒が入っていたのですなあ", "うむ、そうらしい。毒物は検定にまわしたろうね", "もちろん、すぐまわしました" ], [ "今日は、帆村君の気にしていた花の慰問隊の大会日ですから、もうそろそろどこからか、帆村君が現われなければならぬ筈ですがねえ", "昨夜、ここで起った毒ずし事件のことを、帆村荘六に早く知らせてやりたいものだが、連絡がないのじゃ、どうにもしようがないね。ええと、時刻は今、午前八時か" ], [ "毒ずし事件は、よほど考えてやらないと、せっかくの大魚をにがすことになる。そこで、さっきから考えていたわけだが、ここで一つ、大芝居をうとうと思うんだが", "大芝居?" ], [ "大芝居というほどのものでもないが、さっそく棺桶を一つ、署内へ持ってこさせるのだ", "はあ、棺桶を。棺桶をどうするのですか" ], [ "その棺桶には、人間と同じくらいの重さのものを入れ、そのうえで、蓋には釘をうち、封印をしてトラ十の泊っていた、あの安宿へ持っていくのだ", "ははあ", "つまり、トラ十は署内で死んだから、屍体を下げ渡す。だから知合の者が集まり、通夜回向をして、手篤く葬ってやれとむりにでも、宿の主人に押しつけてしまうんだ", "なるほど。毒ずしをトラ十が食べて死んでしまったという事実の証明をやるわけですね", "そのとおりだ。すると、犯人の方じゃ、うまくいったと安心をし、そして、油断をするだろう。それから後のことは、いうまでもあるまい", "なるほど、なるほど。それは名案の芝居ですなあ。しかし、その棺桶をそのまま焼場へ持っていかれては、芝居だということが分かってしまいますねえ。なにしろ、棺の中には、トラ十の身代りに、沢庵石か何かを入れておくわけですから、火葬炉の中でいくら油をかけて焼いてみたところが石は焼けませんからね。あとで、うそだということがばれてしまいます", "なあに、問題は、今夜だけしずかにお通夜をさせればいいのさ。明日になれば、トラ十の死因について、すこし疑わしいことがあるから、改めて警察署へ引取るからとか、何とかそのへんはよろしくやればいいじゃないか", "わかりました。それなら、きっとうまくいきます。じゃあ、早速芝居にかかりましょう" ], [ "あら、スミ枝さん。あたし、泣いてなんかいないわよ", "あんなことをいっているわ。ああ、よくねちゃった。ここは天国みたいね" ], [ "あら、そんなことがあるかしら。スミ枝さん、それはどこなの", "ちょっと、ここへ持ってきてごらんなさい" ], [ "ほーら、ここよ。ここのところだけ、色がちがうでしょう", "ああ、ここね。これは昔の安いメリンスの古ぎれね。ほかのところのよせぎれが、ちりめんだの、紬だの、黄八丈だののりっぱなきれで、ここだけがメリンスなのねえ。でも、これは爆発で色がかわったのではなくて、もともと、これはこんな色なのよ", "そうかしら、でも、へんね", "なぜ", "でも、へんじゃないの。そこのところだけ、安っぽいメリンスのきれを使ってあるなんて、どうもへんだわよ。きれが足りなかったんだとは、思われないわ" ], [ "なによ。房枝さん。どうしたの", "いえ、このメリンスの模様ね、梅の花に、鶯がとんでいる模様なんだけど、あたし、この模様に何だか見覚があるわ", "あら、いやだわ" ], [ "スミ枝さん。なぜ、おかしいの?", "だって、梅の花に鶯の模様なんて、どこにもあるめずらしくない模様よ。それをさ、房枝さんたら、何だか見覚があるわなんて、いやにもったいをつけていうんですもの", "ほほほほ。そうだったわねえ。梅に鶯なんて、ほんとうにめずらしくない模様だわ。ほほほほ。でも" ], [ "あーら、いやな房枝さん。まだ、はっきりしないの", "でも、あたし、この模様、たしかに見覚があるのよ。もうこのへんまで思い出しているんだけど、そのあとが出てこないのよ" ], [ "ふん、まあ、これはいいとして、例の方は、手ぬかりないだろうな", "ええ、準備は、もうすっかりついています。今回同時爆発をとげる工場の数は、全部で五十六ということになっています" ], [ "同時爆発というが、まちがいないだろうかねえ。時刻がきちんとあわないと、どじをふむからなあ", "その点は、大丈夫です。ものの五分と、くいちがいはないはずです。すっかり試験をしてありますから、まちがいなしです", "銅板を酸がおかして、穴をあけるまでの時間だけ、もつというわけじゃな", "そうです。つまり、時計仕掛よりも、この方が場所もとらないうえに、発見される心配がないのです。銅板の厚さと酸の濃度からして、発火時刻は、今夜の九時ということになっています", "えっ、九時か、九時は、いけないよ。午後四時に爆発させなきゃ効目がうすい", "九時にするようにと、御命令がありましたが", "うん、はじめはそういった。しかし九時はいけないよ。どうにかして、四時爆発ということにならないか", "困りましたな。全部やりかえるとなると、今からやっても、もう間に合いません", "ふん、ちょっと、ぬかったな。いや、わしも注意が足りなかったのじゃ、じゃあ、仕方がない、午後九時の爆発で我慢をするか", "九時でも、相当きき目があると思います。つまり工場には番人だけしかおりませんから、爆発が起れば、貴重な機械は完全に壊れるうえに、火災が起っても、人手が足りないから、どんどん延焼していきます", "だがなあ、ワイコフ。午後四時の作業中に爆発をやった方がもっと効目があるぞ", "そうですかしら。私は反対のように、考えますが", "お前は、あたまがまだよくないぞ。いいか、作業中にやれば、五十六箇所の工場の機械が壊れるうえに、そのそばにいた何千人何万人という熟練職工がやられてしまうじゃないか。機械と職工とこの両方をやっつけてしまえば、ここで日本の生産力というものはどんと落ちる。機械と職工との両方を狙うのが、うまいやり方なんだ、どうだ、これでわかったろう", "なるほど、一石二鳥という、あれですね", "機械だけで、いいじゃありませんか。職工まで殺すなんて、ちと野蛮ね" ], [ "まあ、きれいな花籠だこと", "こんなに沢山もらっていいんですか。これはどうも、すみませんですなあ", "いいえ。皆さんの御奮闘に対して、ほんのわずかの贈物なんですの。それを、たいへん喜んでいただいて、あたくしたち花の慰問隊一同、こんなうれしいことはございませんわ" ], [ "ああ、そのことですの。実は、この工場は、私の主人が建てて、社長をしていますのよ", "御主人?", "そうですの。彦田と申します", "あ、彦田博士! まあ、そうでしたか。すると奥様は、彦田博士の御夫人でいらっしゃつたのですねえ。まあ、目と鼻にいましたのに、すこしも気がつきませんでしたわ。こんないい工場、そしてあんなにりっぱな御主人! 奥様は日本一御幸福ですわねえ", "そうでもありませんわ、第一、私たち二人きりで子供がありませんもの。こんな不幸なことはありませんわ。まあとにかく、皆さんこっちへお入りになって、しばらく、休んでいってくださいまし。お茶の用意をしてございますから" ], [ "房枝さん。いつも私が、お話したいと思いますが、むかし、主人との間には、一人のかわいい女の子がいましたのよ", "そのようなお話を伺いました。で、そのお嬢さまは、どうなすったのでございます", "おはずかしい身の上ばなしになりますが、その当時、研究狂といわれた主人と私はその日の食べものにも困り、そのうえ私が病気になってしまい、一家はどん底の暗黒におちました。まだ始めての誕生日もこない娘は、私の乳が出ないために、昼も夜も私のそばで泣きつづけてやせていきますの。ついに主人と私とは死を決心しました。しかし娘は死なせたくない。なんとか助かるものなら人のおなさけにすがっても、助けてやりたいと思い、心を鬼にして、ある露地に棄ててしまったのです", "まあ", "しかし、私たちは、すぐそれがまちがっていたと気がつきました。そこで、息せききって、娘を棄てた露地へ引返したのですが、そのときはもうおそかったのです。ほんの十分か十五分しかたちませんのに、娘の姿はもう見当りません。私たちは、必死になって娘をさがしまわりました。いいえ、今もなお、私たちはあらゆる手をつくして、娘をさがしつづけているのです、しかしわが子を棄てた罪を、神様はまだお許し下さらないものと見え、娘は未だに私たちのもとへ帰ってこないのです" ], [ "あのう、娘の名は、小雪と申しますの", "小雪? 小雪ですか。それにまちがいありませんの" ], [ "いいえ、とんでもない、あたくしの名は、小さいときからただ一つ、房枝なんですわ", "まあ、でも", "あたくしは、生れてからずっと曲馬団の娘なんですわ。どうして、奥様のようないい方を、母親にもてるものですか。ごめんあそばせ" ], [ "そうそう、房枝さん。あのいい奥様が、あたしかえろうとすると、それを引止めて、こんなことをいったわよ。あの、いつだか、あの奥様があんたにくれたあの手箱ね、あの手箱に張ってあるメリンスのきれがあるでしょう。あのメリンスのきれに、あんたがおぼえがないか、きいてほしいといってたわよ。あのきれは、奥様が自分の棄子に着せてやった袷の共ぎれなんだってよ", "えっ、スミ枝ちゃん、何だって" ], [ "どうしたのよう、房枝さん", "あ、たしかに、あれにちがいないわ。ねえスミ枝さん。あたしのお守袋の中に、あの手箱と同じ梅に鶯の模様のメリンスのきれで作った小さい袋が入っているのを思いだしたのよ", "それ、ほんとう。じゃ、見せてごらんなさい", "あ、そのお守袋は、ここにはないのよ", "じゃ、しょうがないじゃないの。どこへやってしまったの", "黒川団長の胸にかけてあんのよ", "あーら、なぜそんなことを", "だって、黒川団長が、あのとおりの大怪我で重態でしょう。なんとか持ち直すようにと、あのお守袋を胸にかけてあげたのよ。じゃ、これからすぐ、黒川団長のところにいってみましょう。あたし、それが同じだかどうだか、早くしらべてみたいわ" ], [ "ああ、房枝か、もう一人は、スミ枝だな。ここはどこだろうね", "ターネフさんのお邸ですわ", "なに、ターネフさんのお邸? はてな、ターネフさんが何か重大な事件が起るといっていたのを、おれは耳にしたんだが、あれはどんな事件だったかしらんか", "え、重大事件とは", "ええと、待てよ。そうそう爆薬を仕掛けた花籠を、都下各生産工場へくばって、今夜何時だかに、一せいに爆発させるとか", "ええっ、黒川団長。もっとくわしく聞かせてください" ], [ "あら、房枝さん", "この花籠は、あと二、三十秒で爆発するのです" ], [ "お名残りおしゅうございますが、これが小雪の最後の孝行ですの。お父さま、お母さま、おたっしゃに", "えっ、小雪。ああお待ちなさい。あなた、あの娘は、自分で小雪だと申しましたよ", "ふーん、そういえば成程。おい、よびかえさなければ、おれにつづけ" ], [ "何度でも申しますが、大丈夫ですとも。彦田博士の発明した新X塗料は、十分信用してもいいのです。私は、この実験にも度々立ち合い、それが爆薬にはたらいて、無力にしてしまうところを、十分に見て知っています。だから心配なしです。今度こそ、彦田博士の新発明の爆発防止塗料が、いかにすばらしい力をもっているかを証明する大がかりな実験日ですよ", "そうね、とにかく、もうすぐ午後九時がくる。しかし万一博士の塗料が効目がなくて、都下の生産工場が一せいに爆発したとしたら、僕たちは申訳に切腹しても、追いつかないよ", "大丈夫ですよ。科学の力を信じてください。ほら、もう九時を過ぎましたよ。一分過ぎになりました。どこからも、爆発の音がきこえてこないではありませんか", "なるほど、定刻を一分以上すぎた。これは妙だ。君のいうとおりだ" ], [ "今のも、やっぱり爆発でしょうね", "すると、君の予想は、見事にはずれた", "いいえ、はずれてはいません。今のは番外です。他の工場は、どこもみんな、林のように静まりかえっています", "なるほど、それはそうだ。だが、番外とは、どういうことかね", "あれは、あれは多分、トラ十のやった仕事じゃないでしょうか", "トラ十? トラ十といえば、さっきから見えないが", "僕も、ちと油断をしておりました。トラ十はすっかり改心して、僕と一緒にターネフ邸にしのびこみ、僕に手伝って、あのとおり、おそるべきBB火薬を新X塗料ですっかり無力にしてしまったのです。だから、僕はつい目を放していたのがいけなかったのです。トラ十が、われわれのそばから姿を消したことに気がついたのは、三十分ほど前でした", "それで、番外の爆発事件というのはどういうことかね", "今に、報告が入ってくるでしょうが、あれはターネフ邸が爆発したのではないでしょうか。あの火の見当といい、あの爆裂のものすごさといい、あれはどうしても、ターネフ邸の花園の下にあったBB火薬庫に火が入ったとしか考えられません。きっと、そうですよ。トラ十がターネフに、ついに復讐をしたのですよ。トラ十は、悪いやつですから、なかなか執念ぶかいのです。それにターネフも、トラ十に対して、これまでずいぶんひどいことをやりましたからね" ], [ "おお、房枝さん、いや、あたしの可愛いい小雪", "お母さん", "お父さんの方も、よんでおくれ" ] ]
底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房    1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行 初出:「少女倶楽部」    1940(昭和15)年6月~1941(昭和16)年6月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:kazuishi 2006年6月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "十分間お待ちねがうように申上げて呉れ", "はッ。畏まりました" ], [ "動物園では大いに騒いで探したようですか", "それはもう丁寧に探して下すったそうでございます。今朝、園にゆきまして、副園長の西郷さんにお目に懸りましたときのお話でも、念のためと云うので行方不明になった三十日の閉門後、手分けして園内を一通り調べて下すったそうです。今朝も、また更に繰返して探して下さるそうです" ], [ "はァ、今朝なんかは、非常に心配して居て下さいました", "西郷さんのお家とご家族は?", "浅草の今戸です。まだお独身で、下宿していらっしゃいます。しかし西郷さんは、立派な方でございますよ。仮りにも疑うようなことを云って戴きますと、あたくしお恨み申上げますわ", "いえ、そんなことを唯今考えているわけではありません" ], [ "それから、園長はときどき夜中の一時や二時にお帰宅のことがあるそうですが、それまでどこで過していらっしゃるのですか", "さァそれは私もよく存じませんが、母の話によりますと、古いお友達を訪ねて一緒にお酒を呑んで廻るのだそうです。それが父の唯一の道楽でもあり楽しみなんですが、それというのもそのお友達は、日露戦役に生き残った戦友で、逢えばその当時のことが思い出されて、ちょっとやそっとでは別れられなくなるんだということです", "すると園長は日露戦役に出征されたのですね", "は、沙河の大会戦で身に数弾をうけ、それから内地へ送還されましたが、それまでは勇敢に闘いましたそうです", "では金鵄勲章組ですね" ], [ "園長はそんなとき、帽子も上衣も着ないでお自宅にも云わず、ブラリと出掛けるのですか", "そんなことは先ずございません。自宅に云わなくとも、帽子や上衣は暖いときならば兎に角、もう十一月の声を聞き、どっちかと云えば、オーヴァーが欲しい時節です。帽子や洋服は着てゆくだろうと思いますの", "その上衣はどこにありましょうか。鳥渡拝見したいのですが……", "上衣はうちにございますから、どうかいらしって下さい", "ではこれから直ぐに伺いましょう。みちみち古い戦友のことも、もっと話して戴こうと思います" ], [ "園長は午前中なにをしていられたのです", "八時半に出勤せられると、直ぐに園内を一巡せられますが、先ず一時間懸ります。それから十一時前ぐらい迄は事務を執って、それから再び園内を廻られますが、そのときは何処ということなしに、朝のうちに気がつかれた檻へ行って、動物の面倒をごらんになります。失踪されたあの日も、このプログラムに別に大した変化は無かったようです", "その日は、どの動物の面倒を見られるか、それについてお話はありませんでしたか", "ありませんでしたね", "園長を最後に見たという人は、誰でした", "さあ、それは先刻警察の方が来られて調べてゆかれたので、私も聞いていましたが、一人は爬虫館の研究員の鴨田兎三夫という理学士医学士、もう一人は小禽暖室の畜養主任の椋島二郎という者、この二人です。ところが両人が園長を見掛けたという時刻が、殆んど同じことで、いずれも十一時二十分頃だというのです。どっちも、園長は入って来られて二三分、注意を与えて行かれたそうですが、其の儘出てゆかれたそうです", "その爬虫館と小禽暖室との距離は?", "あとで御案内いたしますが、二十間ほど距った隣り同士です。もっとも其の間に挟ってずっと奥に引込んだところに、調餌室という建物がありますが、これは動物に与える食物を調理したり蔵って置いたりするところなんです。鳥渡図面を描いてみますと、こんな工合です" ], [ "この二十間の空地には何もありませんか", "いえ、桐の木が十二本ほど植っています", "その調理室へ園長は顔を出されなかったんでしょうか", "今朝の調べのときには、園長は入って来られなかったと云っていました", "それは誰方が云ったんです", "畜養員の北外星吉という主任です", "園長がいよいよ行方不明と判った前後のことを話していただけませんか", "よろしゅうございます。閉園近い時刻になっても園長は帰って来られません。見ると帽子と上衣は其儘で、お自宅から届いたお弁当もそっくり其儘です。黙って帰るわけにも行きませんので、畜養員と園丁とを総動員して園内の隅から隅まで探させました。私は園丁の比留間というのを連て、猛獣の檻を精しく調べて廻りましたが異状なしです", "素人考えですがね、例えば河馬の居る水槽の底深く死体が隠れていないかお検べになりましたか" ], [ "お嬢さんはまだ独身です。探偵さんは、いろんなことが気に懸るらしいですね", "私も若い人間として気になりますのでね" ], [ "鴨田さんは、主任では無いのですか", "主任は病気で永いこと休んでいるのです。鴨田君はもともと研究の方ばかりだったのが、気の毒にもそんなことで主任の仕事も見ていますよ", "研究といいますと――", "爬虫類の大家です。医学士と理学士との肩書をもっていますが、理学の方は近々学位論文を出すことになっているので、間もなく博士でしょう", "変った人ですね", "いや豪い人ですよ。スマトラに三年も居て蟒と交際いをしていたんです。資産もあるので、あの爬虫館を建てたとき半分は自分の金を出したんです。今も表に出ているニシキヘビは二頭ですが、あの裏手には大きな奴が六七頭も飼ってあるのです" ], [ "それは此の室だけへ入って来られたのですか、それとも", "今の話は奥でしました。私は別にお送りもしませんでしたが、園長は確かにこの潜り戸をぬけて此の室へ入られたようです", "表へ出られた物音でも聞かれましたか", "いえ、別に気に止めていなかったものですから", "なにか様子に変ったことでもありましたでしょうか", "ありません", "園長が表へ出られたと思う時刻から正午までに、戸外に何か異様な叫び声でもしませんでしたか", "そうですね。裏の調餌室へトラックが到着して、何だかガタガタと、動物の餌を運びこんでいたようですがね、その位です" ], [ "さあ、園長が出てゆかれて十五分かそこらですかね", "すると十一時三十五分前後ですね。動物の食うものというと、随分嵩張ったものでしょうね" ], [ "そうです、私のです", "随分大きいですね", "私達は動物のスケッチを入れるので、こんな特製のものじゃないと間に合わないのです", "こっちの方に、同じような形をした大きなタンクみたいなものが三つも横になっていますが、これは何ですか", "それは私の学位論文に使った装置なんです。いまは使っていませんので、空も同様です", "前は何が入っていたのですか", "いろいろな目的に使いますが、ヘビが風邪をひいたときには、此の中に入れて蒸気で蒸してやったりします", "それにしては、何だか液体でも入っていそうなタンクですね", "ときには湯を入れたりすることもあります", "だが蟒の呼吸ぬけもないし、それに厳重な錠がかかっていますね", "これは兎に角、論文通過まで、内部を見せたくない装置なんです", "論文の標題は?", "ニシキヘビの内分泌腺について――というのです" ], [ "それでは其の時間前後は、何をしておいででした?", "先ず時間前は、当日も六人の畜養員が、庖丁を研いだり、籠を明けたり、これでなかなか忙しく立ち働きました。そのうちにいつもの時間になると、トラックに満載された材料がドッと搬ばれて来ます。するともう戦場のような騒ぎで、この寒さに襯衣一枚でもって全身水を浴たように、汗をかきます。それが済むと早速調理です。煮るものは大してありませんが、それぞれのけだものに頃合いの大きさに切ったり、分けて容物に入れたりするのが大変です。肉類の方は、生きている兎だの鶏だのには、冥途ゆきの赤札をぶら下げるだけですが、その外のは必ず頭のある魚を揃えたり馬肉の目方をはかって適当の大きさに截断し、中には必ず骨つきでないといけないものもあって、それを拵えるやら、なかなか忙しくて、おひるの弁当が、キチンと正午にいただけることは殆んど稀で、いつも一時近くですね。その忙しさの間に、園長を掴えてきて、これも料理しスペシァルの御馳走として象や河馬などにやらなきゃならんそうで、いやはや大変な騒ぎですよ" ], [ "先刻の御返事をしに参りました", "先刻の返事とは?" ], [ "しかし人間の生命には代えることは出来ません", "なに人間の生命? はッはッ、君は此のタンクの中に、三日前に行方不明になった園長が隠されているのだと思っているのですね", "そうです。園長はそのタンクの中に入っているのです!" ], [ "君は僕を侮辱するのですね", "そんなことは今考えていません。それよりも一分間でも早く、このタンクを開いていただきたいのです" ], [ "呀ッ!", "これも空虚っぽだッ!" ], [ "――これは露兵の射った小銃弾です。そして、これは三十日から行方不明になられた河内園長の体内に二十八年この方、潜っていたものです。云わば河内園長の認識標なんです。しかも園長の身体を焼くとか、溶かすかしなければ出て来ない終身の認識標なんです", "そんな出鱈目は、よせ!" ] ]
底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房    1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1932(昭和7)年10月号 入力:tatsuki 校正:花田泰治郎 2005年5月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ああ、入ってみておくれな、源ちゃん。せっかくここまで来たんだもの、せめて焼灰でもみておかないと、わたしゃ御先祖さまに申しわけないからね", "ええ、ようがす。おかみさん、上から電線がたれていますから、頭をさげて下さい", "あいよ、わたしゃ大丈夫だよ。源ちゃん、お前気をおつけよ" ], [ "おかみさん、そこがお宅のあとですよ", "まあ、きれいさっぱり焼けたこと" ], [ "しようがないよ。矢口家一軒だけじゃない、よそさまもみんな同じだからね", "それはそうですけれど……", "わたしなんか、しあわせの方だよ。だってさ、源ちゃんのおかげで三輪車にのせてもらって生命は助かるし、大事な御先祖さまのお位牌や、重要書類だの着がえだのは、こうして蒲団にくるんでわたしのお尻の下に無事なんだからね。だから大したしあわせさ", "ほんとうに私たち運がよかったんですね。行手を火の手でふさがれて、もうこんどは焼け死ぬかと思ったことが四度もあったんですがねえ", "みんな源ちゃんのお手柄だよ。あわてないで、正しいと思ったことをやりぬいたから、急場をのがれたんだよ。しかし源ちゃんは気の毒ね。わたしをすくってくれたのはいいが、そのかわり源ちゃんの持ち物はみんな焼いちまったんだろう", "ええ、そうです。着たっきり雀というのになりました。もっともお店のためには、この車一台をたすけたわけですが、店の連中はどこへ行ったんだか、誰も見かけないんで、私は気がかりでなりません", "どうしたのかね、ひょっとすると、逃げ場所が悪かったんじゃないかね。濠の中にずいぶん死んでいるというからね" ], [ "そうそう、おかみさん、これからどうなさいます", "わたしゃね、これから弟のいる樺太へ帰ろうと思う。すまないけれど源ちゃん、この車で、上野駅まで送っておくれなね", "はい、承知しました。しかし樺太ですって。ずいぶん遠いですね" ], [ "そうです。七丁目の交番です", "うへえ、やっぱりそうか。もうすこしで戸まどいするところだった。なんしろこうきれいに焼けちまっちゃ見当がつきやしない。じゃあ、アバよ" ], [ "おう、待ってくれよ、おじさん", "なんだい、待てというのは……", "ちょっとおじさんの意見をきかしてもらいたいんだ。ぼくはね、これからここに店を開くんだけれど、何の店を始めたらいいだろうね", "なんだって" ], [ "だがね、理屈に合ったことをやるのが一番だよ、つまりでたらめのことはやらないがいいってことだ。おれの着ているこのさしこの頭巾や、はっぴを見なよ。これは昔の人が工夫してこしらえたもので、これを水にずぶりとぬらせば、どんな焔の中へとびこんでも大丈夫なんだ。そういう工合に理屈のあるものは、今でもすたらないんだ。だからよ、坊やも考えて、これは理屈に合うなと思ったら、それをどんどん実行にうつすんだ。おれなら何を売るかな。そうだ、花を売っちゃどうだい", "花? 花ですか、あのきれいな花を?", "そうだ、その花だ。切花でもいい。鉢植えでもいい。これは理窟に合っているぜ", "へえッ、どこが理窟に合っています", "だってそうじゃないか、このとおりの焼野原だ。殺風景この上なしだ。これをながめるおれたち市民の心も焼土のようにざらざらしている。そこへ花を売ってみねえ。みんなとびついて来るぜ。やってみりゃ、それはわかる。……先をいそぐから、これであばよ" ], [ "おまわりさん、花がいっぱい咲いている野原へ行きたいんですが、どこへ行けばいいでしょう", "ええッ、花だって。この腹ぺこ時代に、花なんかみても腹のたしになるまいぜ。それとも、主食の代用に花でも食べるつもりかね" ], [ "多摩川だね、多摩川なら、これをずんずん行けば一本道で二子の大橋へ出るよ", "ありがとう", "買出し行くんかね、あっちは高いことをいって、なかなか売ってくれないよ", "そうですか、困りますね" ], [ "なあんだ。花を売っていると思えば、れんげ草じゃないか。人を笑わせやがらあ", "誰がそんなものを買うものか" ], [ "あれッ。自分でおかしいといっているよ、この小僧は……", "誰も買わなきゃ、あんちゃんたち、買ってくださいよ", "しんぞうだよ、この虻小僧は。みそ汁で顔を洗って出直せ", "ああ、みそ汁がほしい", "そらみろ。だからよ、食いものはみな買いたくなるんだ。花はだめだ。店をひらくだけ損だよ", "でも、ぼくはれんげ草を売るです。だんぜん売ってみせるです", "ごうじょうだよ、お前は……", "バカだよ、きさまは……", "損だよ。今に泣き出すだろうよ" ], [ "さあ、おいしい芋だ。ほし芋だ", "ふかし芋もある。いらっしゃい、いらっしゃい", "腹がへってはしょうがない。さあお買いなさい、あまいあまいほし芋だ" ], [ "おい虻小僧。れんげ草の原っぱはまだ売切れにならないかい。うふッ。まだ一つも売れてねえじゃねえか。どうするんだ、そんなことで……", "ぼく、だんぜん花を売ります。誰がなんといっても売るです" ], [ "なんとしますかね、犬山さん", "さあね。すっきりした名がほしいね", "あっ、そうだ。一坪花店というのはどうでしょう", "なに、ヒトツボ花店というと……", "ここの地所が、一坪の広さだから、それで一坪花店ですよ", "な、なあるほど。よし、それがいいや" ], [ "でも、僕だって、このごろそうとう儲かるんですよ。とって下さい", "今に僕が展覧会をひらいたら、そのときには源ちゃんに買ってもらおうや" ], [ "そうだってね。今日は、行ってみようと思ってたところだ、そんなに復興したかい", "君はまだ行ってないのか。じゃあ早く行ってみたまえ、びっくりするから。品物も、なんでもならんでいるね。そのかわり、目の玉がとびだすほど高いけれどね" ], [ "ヘーイさんだったのか。こんなところであうなんて……", "ぼくは日本がすきだったから、志願をしてやって来たのさ", "将校でしょう。見ちがえちゃったな", "そうだろう。むかし、夜おそく君んところの店をたたきおこして、時間外に、酒やかんづめを出してもらったときの、のんべえのヘーイさんとは、すこし服装がかわっているからね。しかしねえゲンドン、中身はやっぱりあのときと同じヘーイさんだよ。安心してつきあっておくれ。おもしろい話が、うんとあるよ" ], [ "足はどうですか。まだ痛みますか", "すっかりなおった。君があのとき、すばやくかけつけて、すぐ病院につれていってくれたから、わるいばいきんも入らなかったんだ。だからこんなに早くよくなった。ありがとう、ありがとう", "それはよかったですね。とにかく神さまがぼくをヘーイさんにひきあわせてくだすったのだと思って、かんしゃしています", "ほんとだ。ふしぎなえんだね、ゲンドン", "ヘーイさんの好きなお酒でも一ぱいあげたいけれど、今は何もないんでね", "いらない、いらない、酒はぼくの方にうんとある。持って来てあげてもいい", "ぼくは、酒をのみません" ], [ "じゃあ、このとおり、ぼくはここへこの店を建てることにしよう", "えっ、なんですって……" ], [ "心配しなくてもいい。ぼくが家をつくり、君に番をしてもらうんだから", "ほんとにヘーイさんは三階に住むんですか", "ベッドを一つおきたいね", "それは、いいですけれど、全部でたった一坪ですよ。ヘーイさんのそんな長いからだが、のるようなベッドがおけるかしら", "心配しないでいいよ、君は……" ], [ "すばらしい塔をこしらえたもんだ。あの塔は何だね", "さあ、何だかね。今どき、ごうせいなことをやったもんだ。ちょっとそばへいってみようよ" ], [ "あ、花屋だ", "やあ、きれいだなあ。花ってものは、こんなに美しかったかしらん", "うれしいね。焼夷弾におわれて、こんな美しい草花のあることなんかすっかり忘れていたよ。一鉢買っていこう。うちの女房や子供に見せてよろこばしてやるんだ" ], [ "すばらしい繁昌、おめでとう", "ありがとう、ヘーイさん。なにもかも、あなたのおかげです", "なあに、ぼくは君に、ちょっぴりお礼をしただけだよ。ぼくは君のために、もっともっと力を出すつもりだ", "すみません" ], [ "今、上にあげよう", "あ、そうですか。ベッドはもうトラックで持って来たんですか", "いや、ジープにのせて来た", "え、ジープに、まさか、ジープにベッドがのるもんですか。そして三階にあげるにはどうするんですか。人足を十人ぐらい集めるのでしょう", "いや、ぼく一人でたくさんだ", "あんなことをいっている。ヘーイさんはお茶目さんだからなあ", "うそじゃないよ。いっしょに来てみたまえ" ], [ "これだよ、ゲンドン。これがベッドだ", "え、それですか。……なあんだ。それはハンモックじゃないですか", "そう。ハンモックだ。われわれ軍人のベッドはハンモックでたくさんだ" ], [ "やあ、すごい店ができたね。ははあ、花やだな", "あ、二階に絵画展覧会場があるって、ポスターが出ているぜ", "こんなせまい家で、展覧会ができるのかなあ。どうしてそんなことができるのか、ちょっと上って見てこようや" ], [ "ほう。やったね", "ふーン、壁という壁にのこりなく絵をはりつけたね。こんな能率のいい展覧会場は、はじめて見たよ" ], [ "ああ、これはたのしいね。画なんて、こんなきれいな、いいもんかな", "戦争に夢中になっていて、こういう世界をすっかり忘れていたよ", "こうして画を見ていると、敗戦のくるしさを忘れるね", "おいおい、見るだけじゃ悪いよ。僕とちがって君は金を持っているんだろう。一枚買っていけよ", "あんなことをいっているよ。ぼくだって金はあまり……この画は非売品だよ。売らない画なんだ。見たまえ、ねだんの札がついていないじゃないか", "いや、おのぞみでございましたら、お売りもいたします。ねだんは、こっちに分っておりますから……" ], [ "おかみさん。どうしてかえって来たのですか。樺太へいっていたんでしょう", "いいえ、それが源どん。あたしが途中で病気になったもんだから、樺太へは渡れなくて、仙台の妹の家に今までやっかいになっていたのさ", "へえーッ、それはかえってよかったですね。で、まだ病気はなおらないのですか", "もういいんだよ。このごろは元気で働いているくらいだから大丈夫よ。そればかりか、妹のつれあいにすすめられて山を買ってね、それがセメントの原料になるんで、あたしゃ大もうけをしちまったよ。病人どころじゃないやね", "へえーッ、大したもんだな。じゃあ、このお店もおかみさんにかえしましょう" ], [ "その新しい商売ですがね、じつは、私も考え中なんですが、ひとつ私の方の仕事へのってくれませんかね", "どんな仕事だい、お前さんのもくろんでいるのは……", "じつは、この一坪館を建てなおして、もっと上へのばしたいのですがね。つまり十階か二十階ぐらい高いものにしたいのです。そして各階に、いろいろ楽しい店を開くのです。どうです、おもしろいでしょう", "でも大丈夫かね、そんなにひよろ高い煙突みたいな建物がつくれるかしらん", "きっと出来ますよ、大丈夫です。二十階の一坪館ができてごらんなさい。銀座の新名物になりますよ。どうです、おかみさん。これをいっしょにやりませんか", "おもしろそうだけれどね、台風が来たら吹きとびやしないかね。あたしゃ心配だよ", "たぶん大丈夫です。このことはいずれ、よくしらべておきます" ], [ "英語の本ですね。ぼく、はずかしいけれど、きっぱり英語は読めないんです", "心配いらない。本をひらいてごらん" ], [ "なるほど。画なら分りますよ", "それ、みたまえ。はははは" ], [ "できるね。つまり鉄のビームを組んで、横にはりだせばいい。鉄橋や無線局の鉄塔で、そうなっているものが少くない。ほら、ここに出ている", "よし、これ式の一坪館をつくろうや" ], [ "いよう、すごいものを建てたね。いったい、何階あるんだ", "地上が十二階だとさ。地階が五階あるから、これもあわせると十七階だあね", "ほう、すごいすごい。むかし浅草に十二階の塔があったがね、これは最新式の十二階だ。しかし、なんだかあぶないね、頭でっかちだからね", "ところが、あれで安定度も強度もいいんだそうだ。ちゃんと試験がすんで、大丈夫だと折紙つきなんだ", "よく君は、知っているね", "昨日あの上までのぼったのさ。十二階に、今いったようなことの証明書や設計図面などが並べてあるんだ。君もひとつ、てっぺんまでのぼってみたまえ", "のぼっても、いいのかい", "いいとも。各階とも全部店なんだ。ただ十二階だけは展覧会場に今つかっているがね", "そうか。じゃあ今からのぼってみよう。早くのぼっておかないと、時代おくれになる" ], [ "そうです。よく見て下さい。ヒトツボカンと、ネオンサインがついているでしょう", "はははは、ゆかいだ。こんな大きな飛行場を上にかつぐようになっても、一坪館は、やはりあるんだね", "そうですとも、この一坪館をみんなに見せて、あと百四十三軒の一坪館をこしらえるんです。それからその上に飛行場をこんな工合につくるんです", "すばらしい考えだ", "これで儲かったら、こんどはもっと飛行場をひろげて、大型の旅客機が発着できるようにしたいです。そのときには、銀座はもちろん木挽町から明石町の方まで、すっかり飛行場の下になってしまうはずです。どうですか、おもしろいでしょう、ヘーイさん", "下のビルディングの人たちが怒りはしないだろうか。うちの頭の上に飛行場をつくったので、日光がはいらなくなったといってね", "その頃になると、建築物はアメリカ式になって、もう窓のない家ばかりになるでしょうから、日光の方の心配はないと思います", "なるほど。それでは下のビルディングが、飛行場よりもっと高いビルを作るから、飛行場に穴をあけるぞといって来たらどうする", "さあ、そのときは、またヘーイさんに来てもらって、相手をうまく説きふせてもらいましょう。はははは", "おやおや、まだぼくを使う気かね。いったいこの図のとおりになるのはいつのことかね", "まあ二十年後でしょうね", "二十年後か。よろしい二十年後に、ぼくはかならず源どんのところへ飛んで来るよ。はははは" ] ]
底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房    1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行 ※底本に見る矢口家に対するルビの不統一(《やぐちや》、《やぐちけ》)はママとした。 入力:tatsuki 校正:原田頌子 2001年11月12日公開 2006年7月31日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "写真で見た北極の氷原とは、だいぶんちがったけしきですね", "それは、ちがうよ。北極の氷原は、こんなにでこぼこしていない。もっとも氷山はあるが、山脈の感じとはちがうよ。おおあそこに最高峰のエベレストの頭が見えるな", "どれです。エベレストは……", "ほら、あそこだ。あそこに灰色がかった雲があるが、あの雲から頭を出している" ], [ "先生、すると、空はあれますか", "うむ、一あれ、きそうだ。大吹雪がやってくるぞ。おお、機はいよいよ高度をあげだしたぞ" ], [ "あっ、先生、ぼくは、大丈夫です。しかし、からだがうごきません", "そうか。お前のからだが冷えないように、ありったけの毛布でくるんであるんだ", "ああ、そうですか。――飛行機は、ついらくしたんですね", "うむ、山の斜面にのりあげたんだ", "みなさんは、どうしました", "……む" ], [ "わしか。わしは、氷の中から出てきた人間だ", "氷の中から出てきた人間?", "そうだ。あのおそろしい氷河期とたたかって、ついにうちかった人間だ。生きのこったのは、わしひとりだ" ], [ "石器時代の人間だって、うそだろう。二十万年も前の人間が生きているはずはないよ", "いや、ちゃんとこうして生きているから、たしかではないか。――それよりも、ききたいのは、お前は、どこの人間か", "ぼくたちかい。ぼくたちは、日本人さ", "日本人? きいたことがないなあ" ], [ "あれは一体なんだ。大きな音をたてて、空から落ちたが、お前たちの国は、空の上にあるのか", "日本は、やはりこの地球のうえにあるが、ずっと東の方だ" ], [ "しかし、われわれは空をとぶことができるのだ", "空をとぶのは、鳥だ。鳥にのって、空をとぶとは、おどろいた", "鳥ではない。飛行機という器械だ。われわれ人間が発明した器械だ" ], [ "あれは、まったくおそろしかったよ。大空から、月が下がってきたのだ。月が下がってきてだんだん大きくなった", "月が大きくなるって、どんなこと", "あの小さい月のことだよ。それがだんだん下におりてきて、大きい月よりも、ずっと大きくなったのさ", "ちょっと待った。話をきいていると、それは火星のことじゃないの。火星には、月が二つあるが、われらの地球には、月が一つしかないじゃないか", "あれっ、あんなことをいってらあ" ], [ "その小さい月が、だんだん下に下りてきてよ、とうとうしまいには、海の水にたたかれるようになったのさ。わしも、それは見たがね。すごい光景だったねえ。月が近づくと、海は大あれにあれて、浪は大空へむけて、山よりも高くもちあがるのさ", "え、ほんとうかね", "知らない者には、そのものすごさが、わからないよ。そして下がってきた月は、浪に洗われるんだ。そして、そんなことがくりかえされているうちに、小さい月は、浪のため、けずりとられ、こなごなの灰となって、空中にとびちった。その灰がたいへんな量だ。空は、その灰のためまっ赤になり、やがてだんだんまっ黒になっていった" ], [ "そうだ。そんなに用心していたが、だんだんと、寒さが上から下にさがってきて、地下水がこおりだしたのだ。穴が浅いために、多くの人間は、水びたしになったまま、氷の中に閉じこめられた。わしもその一人だった。しかし、この間、ふと気がついたら、顔の上の氷がとけていたんだ。おどろいたねえ", "まさかねえ", "君は、わしのいうことを信用しないと見える。じゃあ、わしが氷に閉じこめられていたところへあんないしてやろう。そこには、まだわしのからだのかっこうがついているくぼんだ氷があるから、それを見ればほんとうにするだろう。さあ、行ってみよう" ], [ "ほら、もう、ここからだって、見えるのだ。あの谷底を見たまえ。わしのからだの形がのこっているじゃないか", "どこ?", "ほら、この指の先を見たまえ" ], [ "先生、これは何号ですか", "何号? ヤヨイ号じゃないか", "ああ、やっぱりヤヨイ号か。――ああ、よかった", "なにが、よかったって" ] ]
底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房    1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行 ※「石期時代」と「石器時代」の混在は、底本通りにしました。 入力:tatsuki 校正:浅原庸子 2002年10月21日作成 2003年5月11日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003229", "作品名": "氷河期の怪人", "作品名読み": "ひょうがきのかいじん", "ソート用読み": "ひようかきのかいしん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-10-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3229.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第7巻 地球要塞", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年4月30日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年4月30日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "浅原庸子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3229_ruby_7215.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-05-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3229_7216.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-05-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "お気に召しましたか。ねえ旦那", "ああ、気に入ったね", "――あれですよ『ヒルミ夫人の冷蔵鞄』というのは――", "え、ヒルミ夫人の冷蔵鞄?" ], [ "面白くないこともないが、もっと話してくれりゃ素敵に面白いだろうに", "だって話はこれだけですよ。これが私の知っている全部です", "嘘をつきたまえ。まだ重大な話が残っている", "なんですって", "僕から質問をしようかネ。それはネ、この話の語り手はなぜこうも詳しく秘事を知っているのだろうかということだ。彼はまるでプライベイトの室に、ヒルミ夫人と二人でいたような話っぷりだからネ。一体君は誰なんだ。それを名乗って貰いたいんだよ", "……" ] ]
底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房    1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行 初出:「科学ペン」三省堂    1937(昭和12)年7月 ※初出時の署名は、丘丘十郎です。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:花田泰治郎 2005年5月6日作成 2011年9月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "いや、だめ、だめ。もっとがんばって、さがしだすんだよ。これだけ草がはえているんだから、きっとどこかにあるよ", "そうかしら。だって東助さんも、まだとんぼがつかまらないんでしょう", "とんぼのかずが少いんだよ。それに、みんな空の上をとんでいて下へおりてこないんだ", "やけ野原でさがすことが無理なんじゃないかしら", "だってしようがないよ。この近所で、やけ野原じゃないところはないんだから", "それはそうね" ], [ "理科の宿題論文? それはね、『ユークリッドの幾何学について』というのよ", "ユークリッドの幾何学についてだって。むずかしいんだね", "それほどでもないのよ。東助さんの方の宿題論文はなんというの", "僕のはね、『空飛ぶ円盤と人魂の関係について』というんだ", "空飛ぶ円盤と人魂の関係? まあ、おもしろいのね", "おもしろいけれど、僕はまだどっちも見たことがないんだもの。だから書けやしないや", "あたしね、人魂の方なら一度だけ見たことがあるの", "へえーッ、本当? ヒトミちゃんは本当に人魂を見たことがあるの。その人魂は、どんな形をしていたの、そして人魂の色は……", "あれは五年前の八月の晩だったわ。お母さまとお風呂へいったのよ。その帰り路、竹藪のそばを通っているとね――あら、あれなんでしょう、ねえ東助さん。あそこに、へんなものが飛んでいるわ。あ、こっちへくる" ], [ "あそこよ、あそこよ。ほら、空をなんだか丸いものがとんでいるわ。お尻からうすく煙の尾をひいて――", "あッ、あれか。あ、飛んでいる、飛んでいる。飛行機じゃあない。へんなものだ。へんなものが空を飛んでいく" ], [ "そうかしらん。僕も今そう思ったんだけれど、『空飛ぶ円盤』ともすこしちがうようだね。だってあれは円盤じゃないものね。ラグビーのボールを、すこし角ばらせたようなかっこうをしているもの", "西洋のお伽噺の本で、あんなかっこうの樽を見たことがあったわ" ], [ "へんだねえ。たしかにここんところへ落ちたんだがね。ねえヒトミちゃん", "そうよ。むこうから見ると、あの太い焼棒くいと、こっちの鉄の扉との間だったから、どうしてもこのへんにちがいないと思うわ", "でも、見つからないね、まさか消えてしまうはずもなし、どうしたのかしらん" ], [ "東助さん。ここに穴があいているわ。この穴の中へころげこんだんじゃあない", "なるほど、穴があるね。これかしらん" ], [ "あれが空を飛んでいたんだ", "そうよ。やっぱりこの穴へ落ちこんだのね。なんでしょう、樽みたいだけれど……", "そばへよって、よく見てみよう。だけれど時限爆弾じゃないかなあ", "そんなものが今空をとんでいるはずはないわ。きっと樽よ。中にお酒か、金貨が入っているんじゃない", "よくばっているよ、ヒトミちゃんは。そばへよってから、どかんと爆発して、死んでしまっても知らないよ", "だって、ただの樽の形をしているわ。きっとぶどう酒が入っているのよ", "ぶどう酒が入っている樽が、どうして空をとぶんだい。へんじゃないか" ], [ "あッ", "東助さん" ], [ "わたくし、ポーデル博士です。ポーデル博士という名前、よびにくいですか。それならば、ポー博士でもかまいましぇん", "どこの国の方ですか", "わたくしの国? ははは、それは今いいません。しかしやがて自然に分りましょう。けっしてあやしい者ではありましぇん。安心して、ついてくるよろしいです", "いや、あなたを信用することなんかできません。あなた――ポー博士と名乗るあなたはいろいろ、あやしいことだらけです。第一、さっきから見ていれば、あなたは白い煙の中から姿をあらわしました。その白い煙は、この小さな樽の中からでてきました。この樽は、あなたの身体の四分の一の大きさもありません。その中から、そんな大きな身体がでてくるなんて理屈にあわないことです。ですから僕たちは、あなたをお化けか、それとも魔法使いだと思います。そういうあやしい人のいうことなんか聞いて、ついていけません。ふしぎな国は見たいですけれど……", "ははは。あなたがた、つまらない心配しています。わたくし、決してあやしくない。お化けでもありましぇん、魔法使いでもありましぇん。あなたがたがあやしいと思うこと、本当は決してあやしくありましぇん。あなたがた理科の勉強が足りないから、そう思うのです", "お待ちなさい、ポーデル博士。僕の問いをごまかしてもだめです。なぜ博士の大きな身体が、小きな樽からでてきたかをわかるように説明して下さらない間は、何一つ信用しません" ], [ "だって、こんな小さい穴の中へ、ぼくの大きなからだがはいるはずはないです", "まだ、あなた、そんなこといってますか。私のことば信じなされ。その小さな樽の中にきっとはいれると思いなさい。そうしてとびこむ、よろしいです。ふしぎに、はいれます。うそ、いいましぇん", "そうかなあ", "平行線は、どこまでいっても交わらない。そうきめたのはユークリッド空間です。しかし私のご案内する非ユークリッド空間では、平行線もやがて交ります。だから大きいものも、先へすすめば小さくなります。あなたのからだも小さくなってはいります。うたがうことありましぇん。さあ早くおはいりなさい" ], [ "ここは樽の中ですか。それとも、別の場所ですか", "もちろん樽の中です" ], [ "世界には、だれが住んでいますか", "世界にですか。人間が住んでいます" ], [ "人間だけですか。蟻はどうですか。桜の木はどうですか", "ああそうか。さっきの答を訂正します。世界にはたくさんの動物が住んでいます。人間もふくめて動物の世界です" ], [ "その外ありましぇんか", "動物の外、うごいているものはありません。動物とは、動くものと書くんですから、動くものは動物です" ], [ "ではもう一つだけたずねます。地球の上で、感覚をもっているものは何でしょうか。いきたいと思った方へいったり、寒くなれば寒さにたえるように用心したり、おいしい空気をすったり、のみたければどんどん水をのんだりもする。それは何でしょうか", "それは動物です", "あたしもそう思います。動物です" ], [ "ここはどこですか。どこに、おもしろいものがあるんですか", "まだ気がつきましぇんか。あそこをごらんなさい" ], [ "なんでしょう、あれは……", "こっちへくるわ。いやあねえ", "なんですか、あれは。ええと、ポーデル博士" ], [ "あれ、何なの。あんな生きもの見たことないわ", "あれで動いていないと、熱帯の林のようなんだけれどね。しかし林ではない。林はしずかなところだ。彼らは、それとはちがって、気が変になったように踊っている。いや、こっちへおしよせてくる。気持が悪いね" ], [ "ヒトミちゃん。あれは木だよ、蔓草だよ。みんな植物だ。植物が、あんなに踊っているんだ。いや、ぼくたちを見つけて、突撃してくるんだ。おお、これはたいへんだ", "ああ、気味がわるい。なんだって植物がうごきまわるんでしょう。あれは椰子の木だわ。あッ、マングローブの木も交っているわ。あの青い蛇のようにはってくるのは蔓草だわ。まあ、こわい", "ふしぎだ、ふしぎだ。今までにあんな植物を見たことがない。話に聞いたこともありゃしない。ふしぎな植物だ。動物になった植物とでもいうのかしら" ], [ "た、助けてくれ……", "助けて下さい。ポーデル先生", "はっはっはっ。ほんとうに悲鳴をあげましたね。助けてあげましょう。しかし分ったでしょう。植物も動くということを。そして地球は動物の世界だというよりも、むしろ植物の世界だということを、植物にも感覚があるということ――三つとも分かりましたね", "ええ。でも、彼らは特別の植物です。お化けの植物です", "そうではありましぇん。ふつうの植物です。いまあなたがたに注射をすれば分ります" ], [ "これからわしが案内しようという先は、ちょっとかわった人物なんでねえ。君たちは気持わるがって、もう帰ろうといいだすかもしれんよ", "大丈夫ですよ。ぼくは、いつもこわいものが見たくて、探しまわっているんですよ", "あたしだって、こわいもの平気よ。ポーデル先生、そのかわった人物というのは一つ目小僧ですか、それともろくろッ首ですか", "うわはは、二人とも気の強いことをいうわい。いや、一つ目小僧やろくろッ首なのではない。また幽霊でもない。それはたしかに生きている人物なんだ。彼はすばらしく頭のいい学者でのう、大学教授といえども彼の専門の学問についてはかなわない。かなわないどころか、さっぱり歯が立たないのじゃ", "先生、その方はどんな学問を専攻していられるんですか", "オプティックス――つまり光学、ひかりの学問なんだ。光の反射とか、光の屈折とか、光の吸収とか、そういう学問の最高権威だ", "じゃあ、あたり前の学問ですわ。別にかわっていないと思いますわ", "いや、大いにかわっている。それは君たちが実際ケンプ君――ドクター・ケンプというのが彼の名前さ。そのドクター・ケンプにじっさい会ってみりゃ、ただちにわかる。一目見れば分るのだ", "ドクター・ケンプですね。はてな、その名前ならどこかで聞いたような気がするが……" ], [ "幽霊屋敷……", "目に見えない幽霊がいるんですね。何者の幽霊ですか" ], [ "ドクター・ケンプは透明人間なんでしょう。ねえポーデル先生", "ドクター・ケンプといえば、透明人間にきまっているさ" ], [ "こんどは、なかなか深刻なところへ案内いたします", "深刻なところって、どんなところですの" ], [ "蠅の社会へ案内いたします", "あら、蠅の社会が深刻なんですか", "蠅の考えていること、人類にとってはなかなか深刻あります。これから私案内するところは、蠅が作り、そして蠅が演ずるテレビジョン劇であります。それをごらんにいれます", "まあ、すてき。蠅でも劇をするんですの。しかもテレビジョン劇なんて、あたらしいものを", "人類は、人類のこととなるとわりあいによく知っていますが、その他のこと、たとえば馬のこと、犬のこと、兎のこと、毛虫のこと、蠅のことなどについては、あまりに知りません。それ、よくありません。蠅が何を考えているか、それらのこと、よく知っておく、はなはだよろしいです" ], [ "その蠅のテレビ劇を見るには、どこへいけばいいんですか", "ヒマラヤ山の上へのぼります。そして山の上から下界に住む蠅の世界がだすその電波を受信しましょう。ああ、きました。ヒマラヤのいただきです。しずかに着陸します" ], [ "外へでるのですか", "いや、外はなかなか寒い。今でも氷点下三十度ぐらいあります。蠅のテレビ劇は、この樽の中で見られます。この器械がそれを受けてこの四角い幕に劇をうつします。また蠅のいうことばを日本語になおしてだします", "蠅のことばが、日本語になるんですの。そんなことができるんですか", "できます。ものをいうとき、何をいうか、まず自分が心の中で考えます。考えるということ、脳のはたらきです。脳がはたらくと、一種の電波をだします。その電波を増幅して放送します。それを受信して、復語器を使って日本語にも英語にも、好きなことばになおします。わかりましたか" ], [ "アナウンスをいたします。これは『原子弾戦争の果』の第二幕です。あまいかぼちゃ酒がたらふくのめる、ごみ箱酒場で、大学教授たちが雑談に花を咲かしています", "とにかく人類は横暴である。かれらの数は、せいぜい十五億人ぐらいだ。この地球の上では、人類は象と鯨につづいて、数のすくない生物だ。それでいて、かれら人類は、地球はおれたちのものだ、とばかりに横暴なことをやりおる。まことにけしからん", "まったくそのとおりだ", "そうでしょう。数からいうと、人類なんか、われわれ蠅族にくらべて一億分の一の発言権もないはずだ。ところが人類のすることはどうだ。蠅叩きという道具でわれわれを叩き殺す。石油乳剤をぶっかけて息の根をとめる", "まだある。蠅取紙という、ざんこくなとりもち地獄がある", "ディ・ディ・ティーときたら、もっとすごい。あれをまかれたら、まず助かる者はない", "あれは、まだ値段が高くて、あまりたくさん製造できないから、人類は思い切ってわれわれにふりかけることができない。まあそれでわれわれは皆殺しにあわなくて助かっているんだが、考えるとあぶないねえ", "人類は、どこにわれわれ蠅族を殺す権利を持っているんだ。けしからん。天地創造の神は、人類だけを作りたもうたのではない。象を作り、ライオンを作り、馬を作り、犬、猫、魚、それから蛇、蛙、蝶、それからそのわれわれ蠅族、その他細菌とか木とか草とか、いろいろなものを作りたもうた。われわれは神の子であるが故に、平等の権利を持って生れたのだ", "そうだ。そのとおりだ。人類をのけたすべての生物は、人類に会議をひらくことを申込み、その会議の席でもって平等の権利を、人類にもう一度みとめさせるんだ。そして人類を、小さいせまい場所へ追いこんでしまわなくてはならぬ", "大さんせいだ。蚊族、蝶族、蜂族などをさそいあわして、さっそく人類へ会議をひらくことをしょうちさせよう", "それがいい。そうでないと、われわれはほろびる", "やあ、諸君は、何をそんなに赤くなって怒っているのか", "おお、君か。おそかったね。さあ、ここに席がある", "ありがとう。……ちょっと聞いたが、また人類の横暴を攻撃していたようだね", "そうなんだ。だからひとつ地球生物会議をひらかせ、人類をひっこませようと思うが、どうだ", "もうそんなことをするには及ばないよ。人類はもうしばらくしたら亡んでしまう。人類は自分で自分を亡ぼしかかっている", "ほんとかい。そんなことを、どこで聞いてきたのか", "これは私の推論だ。いいかね、人類は最近原子弾というものを発明した。それは今までにないすごい爆発力を持ったもので、たった一発で、何十万何百万という人間を殺す力がある。そういうすごい原子弾を、人類は競争でたくさんこしらえている", "ふーん、それはすごい。われわれはもちろん殺されてしまうね", "それはそうだが、まあ待て。人類は亡びるが、われわれは亡びないんだ。というわけはやがて人類同士でこの次の戦争を始めるとなると、こんどはもっぱらこの原子弾を使う戦争となるわけだ。これはすごいものだぞ。戦う国と国とが、たがいに相手の国へ原子弾の雨を降らせる" ], [ "すごいじゃないか。おやおや、さっきまであった大都市が、影も形もないぜ。見わたすかぎり焼野原だ", "今の爆撃で、五百万の人間が死んだね。生きのこっているのはたった二十万人だ。しかしこの人間どもも、あと三週間でみんな死んでしまうだろう", "われわれ蠅族も、そば杖をくらって、かなりたくさん殺されたね", "しかしわれわれの全体の数からいえば、いくらでもない。ところが今殺された五百万の人類は、人類にとっては大損失なのだ", "なぜだい。人類はもともと数が少いからかい", "いや、そうじゃない。今殺された五百万人の中には、あの国の知識階級の大部分がふくまれていたんだ。一度に、知識階級の大部分を失ったことは、たいへんな痛手だ。この国は、もう一度立直れるかどうか、あやしくなった" ], [ "やられた、やられた。この国はもう実力を失った。おしまいだ", "どうしたんだね。どこだい、今の爆撃された場所は……", "あれはね、この国の秘密の原子弾製造都市だったんだよ。ほら、見える。すごいね。原子弾が地中にもぐって炸裂したんだ、あのとおりどこもここも掘りかえされたようになっている。製造機械も、原子弾研究の学者も製造技師もみんな死んでしまった。この国は、もう二度と原子弾を製造することはできない。おしまいだ", "没落だね。するとこの国にかわって敵国がいばりだすわけかな", "さあ、どうかね。この国だって、おとなしく原子弾にやられ放しになっていたわけじゃあるまい。きっと敵国へも攻撃をするにちがいない" ], [ "ああ、もしもし", "ああ、もしもし。ああ君だね。えらいことが起ったよ。こっちの首都は、さっき原子弾の攻撃をうけて全滅となった。それからね、原子弾工場地帯が十カ所あったが、それが一つ残らず攻撃を受けて、器械も技師もみんな煙になって消えてしまったよ。もうこの国はだめだ。生き残っているのは、知識のない人間ばかりだ", "そうだったか。やっぱりね", "やっぱりね、とは?", "こっちの国もそのとおりなんだ。ああ、今ぞくぞく情報が集ってくるがね。こっちのあらゆる都市や地方が、無人機にのっけた原子弾で攻撃を受けているよ。人類の持っていた科学力はことごとく破壊された。知識のある人類は、みんな殺されてしまった。ああ、人類の没落が始った。人類の没落だ。ざまァみやがれ", "やーい、人類。ざまァみろ。さあ、この機をはずさず、われわれ全生物は人類に向って談判をはじめるんだ", "そうだ。さしあたり、蠅叩きや蠅取紙を全部焼きすてること。石油乳剤やディ・ディ・ティー製造工場を全部叩きこわすこと。それを人類に要求するのだ", "窓の網戸をてっぱいさせるんだ。われわれの交通を妨害することはなはだしいからね", "これから、われわれの仲間を一匹たりとも殺した人間は死刑に処する", "死刑だけでは手ぬるい。死刑にした人間の死体を、われわれ蠅族だけで喰いつくすんだ。それゆけ" ], [ "アナウンスいたします。このところ一千年たちました", "はっはっはっはっ", "うわッは、はッはッ", "ほほほほ。ほほほほ", "ははは、愉快だ。もう満腹だ。のめや、うたえや。われらの春だ", "愉快、愉快。人類も滅亡したし、ライオンも虎も、牛も馬も羊も犬も、みんな死に絶えた。みんな原子弾の影響だ。そしてわれわれ蠅族だけが生き残り、そして今やこの地球全土はわれわれの安全なる住居となった。ラランララ、ラランララ", "うわーイ。ラランララ、ラランララ。ひゅーッ", "わが蠅族の地球だ。世界だ。はっはっはっはっ。人間なんかもう一人もいやしない" ], [ "アナウンサーです。劇『原子弾戦争の果』は終りました", "どうでしたか、東助君、ヒトミさん。蠅のテレビ劇はおもしろかったですか" ], [ "今の蠅の劇は、あんまりですよ。人類を意地悪くとりあつかっていますよ。人類は、そんなに愚か者ではありません。原子弾を叩きつけあって、人類を全滅させるなんて、そんなことないと思うのです", "しかし、原子弾の力、なかなかすごいです。人類や生物、全滅するおそれあります。地球がこわれるおそれもあります。安心なりましぇん", "しかし、原子弾の破壊力をふせぐ方法も研究されているから、人類が全滅することはないと思います" ], [ "しかし、ヒトミさん。地球こわれますと、人類も全滅のほかありません。原子弾の偉力とその進歩、はなはだおそろしいこと、世の人々あまりに知りません", "ああ、そうだ。今の蠅のテレビ劇ですね。あれをみんなに見せたいですね。するとわれわれ人間は、蠅に笑れたり、ざまをみろといわれたくないと思うでしょう。だからもう人類同士戦というようなおろかなことはしなくなると思います", "そうです。人類はたがいに助けあわねばなりません。深く大きい愛がすべてを解決し、そして救います。人類は力をあわせて、自由な正しいりっぱな道に進まねばなりません。人類の責任と義務は重いのです", "博士がそういって下さるので、やっと元気がでてきましたわ", "そうだ。僕もだ。けっして、蠅だけの住む地球にしてはならない。僕はみんなに、今の蠅の劇の話をしてやろう" ], [ "そうです。また新しい目的地へでかけます", "こんどは、どんな『ふしぎ国』へ案内して下さいますの" ], [ "こんどはね、ある宇宙艇の中に案内いたします", "宇宙艇ですって", "そうです。地球を後に、月世界へ向かう宇宙艇の中へ、あなたがた二人を連れてはいります。その宇宙艇は、だんだん宇宙を進んでいくうちに、だんだん重力がへってきます。――重力とは何か、あなたがた、知っていますね。どうですか、ヒトミさん", "重力というと、あれでしょう。ニュートンが、リンゴが頭の上から地上へごつんと落ちたのを見て、重力を発見したというあれでしょう", "そのあれです。しかしそれはどういうことなのでしょう。どんな法則ですか", "ぼくがいいます。重力とは、物と物とがひきあう力です。そしてその力は、その二つの物の重さをかけあわしたものが大きいほど、重力は大きいです。それからその二つの物がはなれている距離が、近ければ近いほど、重力は大きいのです。もっとくわしくいうと、『距離の自乗』に反比例するのです", "そうです、そうです。東助君、なかなかよく知っていますね。……ところで、さっきお話した宇宙艇ですが、はじめは地球に近いから地球の重力にひっぱられていますが、だんだん月の表面に近くなると、こんどは月の重力の方が大きくなります。そしてその途中のあるところでは、地球からの重力と、月からの重力とが、ほとんど同じに働きます。さあ、そうなると妙なことが起ります", "妙なことというと、どんなことですの。またこわいお話ですか", "いや、こわくはありませんが、じつに妙なのです。つまりそのところでは、地球からの重力と月からの重力が同じであるが、この二つの重力は、方向があべこべなんです。地球の重力が、ま下の方へひくと、お月さまの重力は反対にま上へひくのです。下へと上へと両方へ、同じ力でひっぱられると、さてどんなことになると思いますか" ], [ "そのとおり。つまり、そのところでは、両方の重力が釣合って重力がないのと同じことになります。さあ、そういう重力のないところでは、どんなことが起るか", "どんなことが起るでしょうね", "物は、重さというものがなくなったように見えるでしょう。重さがなくなると、どんなことになりますか", "大きな岩でも鉄の金庫でも、指一本でもちあげられるでしょうね" ], [ "そうです。もっと外のことも考えられますか", "ああ、そうだわ。鉄でこしらえてある金庫に腰をかけて、お尻にうんと力をいれると、その金庫がまるで紙製の箱のようにめりめりといって、こわれてしまうでしょう", "いや、ヒトミさん。それはちがいます。重力がなくなっても、そんなことにはなりません。なぜといって、重力がなくなっても、鉄の強さとか紙のやわらかさとかには変りはないのです。鉄はやっぱりかたいし、紙はそれにくらべるとやわらかいです", "地球とか月とかの方へ引きつけている力がなくなるだけなんですねえ", "まあ、そうです。そのほか、そこらにある物同士がおたがいに引きあっている重力もなくなるわけですが、この方は、地球又は月の重力にくらべると小さいから、はじめからないのと同じようなものです。地球とか月とかは、他の物――たとえば建築物や大汽船にくらべてみても、とてもくらべものにならないほど大きいから、重力も大きく作用するのです。さあ、それでは今から宇宙艇ギンガ号の中へ案内しますよ", "ポーデル先生は、どうなさるんですか", "わしもいっています", "いっていますとは……", "わしはその宇宙艇ギンガ号の乗組員の一人に変装していますから、どの人がわしであるか、向うへいったら、ぜひ探してごらんなさい" ], [ "もう五分もすれば交替時間ですから、みなさんいらっしゃると思うわ", "ああ、そうか。僕は修理で時間外に働いたから早く終ってでてきたんだ", "どこを直していらっしたの", "超音波の発生機だ。困ったよ。こんど故障を起すと、人工重力装置がきかなくなると思うね。そうしたら一大事だよ", "そうすると、どうなりますの", "そうするとね、今ちょうど地球の引力と月の引力が釣合っている重力平衡圏をわがギンガ号は飛んでいるんだが、もし人工装置がきかなくなると、艇内に重力というものがなくなって、皿がとんだり、天井に足がついたり、たいへんなことになるよ", "まあ、たいへんね。そんなことになっては困りますわ。なぜもっと安全なように艇をこしらえておかなかったんでしょう", "人工重力装置はぜったいに故障を起さないものとしてあったんだが、昨日大きな隕石が艇の機関室の外側へぶつかったことを知っているね。あれ以来、どうも調子がよくないんだよ", "困ったわねえ。重力は停電のように、ぴしゃりと消えちまうものなの", "いや、じわじわと重力がへってくるだろう。しかし七八分たてば重力は完全に消えるだろうね" ], [ "どうなすったの、三等機関士さん", "からだが急にふわっと軽くなった。あんたはどう。そう感じない", "あらッ、へんよ。あたしも、からだがふわっと軽くなりました。どうしたんでしょうか", "いよいよ、おいでなすったんだ", "えっ、何がおいでなすったのですの", "人工重力装置が故障になったにちがいない、重力がだんだん消えていく。あッからだが浮きあがってくる", "あら、まあ。どうしましょう", "なあに心配することはない。大丈夫。ただ、いろんなものが動きだすからね。……あッ、ほら、缶詰の中からパイナップルの輪切になったのが、ぞろぞろと外へせりだしてきた" ], [ "おや、おや", "あいたッ" ], [ "おい。おいしいものを早くだしてくれたまえ", "おや、ウェイトレスのヒトミさんやコック長がこんなところで、まごまごしているよ。パイ缶を一つとミルクセーキ一ぱい、早いところ頼むぜ" ], [ "ああ、コック長だ。博士はコック長に変装していたんですね", "ははは。見つけられましたね", "髭だらけのコック長なんて、見たことがありませんわ", "ははは、髭はとった方がよかったですね。さて君たちにたずねます。今訪問した世界は、宇宙艇の中の出来事でありました。ところが、もし、ああいうことが、地球の上で起ったとしたら、どんな現象が起るでしょうか", "地球の上で生活しているとき、急に重力がなくなったら、どうなるかというんですか", "そうです。どんなことが起りますか", "分りました。私たちは鳥のように高い空をとぶこともできるし、ハンモックもないのに空中で昼寝をすることができますわ。たのしいですこと", "海の水が陸へあがってくると思う。その海の水が雲のようになって空を飛ぶんだ。すごいなあ。アフリカのライオンが、いつの間にか空を流れて日本へやってくるようになる。そうですね、ポーデル先生", "いや、もっとすごいことになります。あれをごらんなさい。地球に重力がなくなったときの光景が、航時機の映写幕の上にうつしだされています。ほら、丸い地球の表面に、たいへんなことが起りはじめましたよ" ], [ "見えましょう。大都会が、今こわれていくところです。市民たちは、ずんずん地面から離れていくでしょう", "なぜ人間や建物なんかが、あのように、どんどんとんでいくのですか。はげしすぎるではありませんか", "はげしすぎることはありません。そのわけはこうです。地球は一秒間に三十キロメートルの速さで、空間を走っているのです。重力があれば、建物も人間も、地球の表面にすいつけたまま、このすごい速さで公転していくのですが、重力がなくなると、あのとおり、建物も人間も、あとへ取残されてしまいます。そして人間もけだものも植物も、みんな死んだり枯れたりしてしまいます", "それはたいへんですね。重力がなくなることを願ってはいけませんね", "ははは。ほんとうは重力はなくなる心配はありません。しかしやがて、人間が発明するであろうところの重力を減らす装置を、うんと使いすぎると、あのような大椿事がもちあがるでしょう。そのことはあらかじめ、十分注意しておかねばなりません" ], [ "先生こんにちは。この羽織や袴をどうなさるのですか", "やあ、君たち、きましたね。この着物を、わたし、着ます。そして日本人に化けるのです。見ていて下さい", "日本人に化けてどうするのですか", "あなたがたを、ふしぎな国へ案内するためです。今日は心霊実験会へつれていきます", "心霊実験会とは、どんなことをするのですか", "待って下さい。先に変装をすませますから" ], [ "さあ、これでいい。日本人と見えましょう。わたくしは今日は、松永さんという老人に化けました。松永さんは、心霊実験会の会員として知られています。松永老人がいくと、その心霊実験会の方では安心して会場へ入れてくれます。会員でない人がいくと、なかなか入れてくれません。それでわたくし、松永老人に化けました", "ああ、なるほど", "私たち子供はいいんですかしら", "あなたがた二人は、松永老人の孫あります。それなら大丈夫、入場許されます", "なかなかやかましい会なんですね", "そうです。心霊が霊媒の身体にのりうつって、ふしぎなことをいたします", "心霊とは何ですか。霊媒とは何でしょうか", "心霊とは人間の霊魂のことです。たましい、ともいいます", "ああ、たましいのことですか。先生、人間が死んでも、たましいは残るのでしょうか", "さあ、それが問題です。今夜の実験をごらんになれば、それについて一つの答を知ることができましょう", "たましいなんて、人間が死ねば、一しょになくなってしまうもんだ。たましいがあるなんて、うそだと思うよ" ], [ "でも、あたし本当に、人魂がとぶところを見たことがあってよ。あれは四年前の夏だったかしら", "あれは火の玉で、人間のたましいじゃないよ。ねえ、先生", "さあ、どうでしょうか" ], [ "先生。霊媒というのは、どんなものですの", "おお、その霊媒です。霊媒は特別の人間であります。そして心霊と人間との間にいて、連絡をいたします。つまり、じっさいには、心霊が霊媒の身体にのりうつるのです。心霊だけでは、声を発することもできません。ものをいうこともできません。そこで心霊は、霊媒の身体にのりうつり、霊媒ののどと、口とをかりて言葉をつづるのです。ですから霊媒がいてくれないと、わたくしたちは心霊と話をすることができないのです。どうです。お分りになりましたか", "すると、霊媒人間が、心霊に自分の身体を貸すんですね", "そうです", "人間は、誰でも霊媒になれますの", "いいえ。さっきもいいましたが、特別の人間でないと霊媒になれません。霊媒になれる人は、ごくわずかです。霊媒にも、すぐれた霊媒と、おとった霊媒とがあります。すぐれた霊媒は、心霊がらくにのりうつることができます。のり心地がいいのです", "特別の人間というと、どんな人でしょう", "心霊実験会のえらい人は申します。霊媒になれる人は、心霊というもののあることを信じる人、自分の身体から自分のたましいをおいだして、たましいのない空家にすることができる人、それが完全にできる人ほど、上等の霊媒だそうです。さあ、それではそろそろでかけましょう" ], [ "おや松永さん。久しぶりですね", "おお、これは金光会長さん。今日は孫を二人連れてきましたわい", "ほう、それはようございました。お孫さんたち、ふしぎなおもしろいことが今日見られますよ" ], [ "霊媒の、今日の身体の調子はどうですか", "調子はいいそうですよ。もっとも岩竹さんは、今日は身体の調子が悪いといったことは今までに一度もないですなあ", "おっしゃるとおりです。岩竹女史ほどのいい霊媒は、ちょっと今までに例がありませんね" ], [ "これ位でいいでしょう。岩竹先生、痛くありませんか", "今日はずいぶん、きつくしばりましたねえ", "すこしゆるめましょうか", "いや、いいです。もう二三本しばってみて下さい" ], [ "もう、おいでになっていましたか。それでは何か見せていただきたいですね", "よろしい。ラッパをとりよせて、吹いてきかせよう" ], [ "今日のふしぎ国探検は、インチキのふしぎ国探検でありました。あれを、会員のみなさんは、ほんとのふしぎだと思って信じているのです。困ったものですね", "あんなに霊媒の身体をよく椅子にしばりつけておいたのに、どうして綱をはずして抜けでていたのでしょうか", "あれは綱ぬけ術という奇術なんです。インチキなしばり方をしてあるのですから、かんたんにぬけたり、またしばられたようなかたちになります", "あの蘭は、熱帯産のものではなかったのですか", "あれは本ものです。しかし温室に栽培してあるものを利用したのですよ。やっぱりインチキなやり方です" ], [ "でも、博士の樽ロケットはすごいスピードをだすんだから、どんなに遠くへいっても、すぐ引返してこられるはずだものねえ", "大宇宙のはてへいっていらっしゃるんじゃないかしら。一度あたしたちが、大宇宙のはてはどんなになっているか見たいなあ、といったことがあるでしょう", "そうだったね。それでもあの樽ロケットに乗って走れば一と月とかからないはずなんだがね" ], [ "こんにちは。ヒトミさん。東助さん。おやおや、びっくりしていますね", "先生。よくきて下さいましたね。ずいぶんおそかったですね", "先生、ご病気だったんですの", "ははは。わたくし、病気すること、決してありません。ほほほッ", "じゃあ、どこか、うんと遠いところへいっておられたのですか", "大宇宙のはてへいってらしたんですか" ], [ "ああ、四次元世界ですか。あのふしぎな高級な四次元空間の世界ですね。あんなところにいっておられたのですか", "その何とかの世界は、ここから遠いのですか", "遠いこともあり、近いこともあります。目の前に、その世界が、この世界と重なりあっている事もあります。とにかくなかなかつかまえるのにむずかしい世界です。わたくし、ここへくるのがおそくなったわけは、四次元世界と、この世界の連絡が切れてしまって、なかなかつながらないため、四次元世界にとり残されていました。ちょうど、海峡をわたるときに、連絡船がなかなかこないために、船つき場で何日も何日も待たされるようなものです", "ははあ。すると海が荒れて交通が杜絶したようなものですね", "まあ、そうもいえますね。しかし四次元の世界とこの三次元世界の間には、天候が悪くなってしけになるというようなことはないのです。それはこれからあなたがたがいってみれば、よく分ります", "あ、先生。あたしたちを、これから四次元世界とかいうところへ連れていって下さるのですか", "そうですとも。しかし四次元世界だけではなく、二次元世界へも一次元世界へもご案内いたしましょう", "四次元世界に、二次元世界に、一次元世界ですの。先生、三次元世界へは案内して下さらないのですか", "ヒトミちゃん。ぼんやりしているね。三次元世界ならポーデル博士に連れていってもらわなくても、ぼくらが勝手にゆける世界なんだもの" ], [ "あら、ちがうわよ。あたし、まだ三次元世界なんかへいったことはないわ。また、三次元世界へ遠足したという話も聞いたことがないわよ", "あははは。ヒトミちゃん、あんなことをいっているよ。君はいったことがあるよ", "ないわよ。ぜったいにないわよ", "あるともさ。だって三次元世界といえば、横と縦と高さの三つがある世界のことさ。人間のからだでも、木でも、マッチ箱でも、みんな横の寸法と縦の寸法と高さとを測ることができるじゃないか。つまり、ぼくたちの住んでいるこの世界は、三次元世界なのさ", "あーら、そうかしら。ほんとですか、ポーデル先生", "そうですとも、ヒトミさん。東助君のいうとおりです。でありますから、ヒトミさんも東助さんも三次元世界に生れた三次元の生物でありまして、今、三次元世界の中に暮しているのであります", "まあ、おどろきましたわ。あたし三次元世界に住んでいるなんて、始めて気がつきましたわ", "では、樽の中にはいりましょう。そしておもしろい旅行を始めましょう" ], [ "横と縦と高さとがある世界が三次元の世界だと分っていますが、もう一つの元は何だか、さっぱり分りませんね。それは時間をいうのだと説いている人もありますね。つまり立体の物が、時間的にどうかわるかということと、むすびついて考えるのだといいますね。ここに大きな岩がある。それが何万年たって小石となる。そういうものをひっくるめて考えたものが四次元世界だといいますが、それなら、ぼくたちの住んでいる世界は、三次元の世界でもあると同時に、四次元の世界だといえるというのです。しかしぼくはこの説は、四次元世界をほんとに説明していないと思います。四次元世界は、もっとはっきりした寸法のある世界じゃないでしょうか", "まあ、東助さん。むずかしいことをおっしゃるわね。誰に教わったの", "その説にも、じつはいろいろ根拠があるのですが、とにかく四次元空間を考えるには、時間のことは考えに入れない方がいいでしょう。もっと分りやすい方法をとって、四次元世界を考えましょう" ], [ "それから、どうなりますか", "今、横と縦とだけしか見えない物があったとします。つまりその物には高さがないのです。これが二次元の物です。その中は二次元世界です。たとえば、うすい紙は、この部類に入れていいですね。それから水の上にうすく流した油の膜もそれに近いものだと思います。ほんとは、いくらか高さがあるんですから、やかましくいうと、やっぱり紙も油の膜も三次元なんですが、まあおまけをして二次元の物といってもいいと思います。先生、この外にも二次元世界をもったものは、たくさんありますね", "はい。あります。紙の上に書いた画も、その部類だといってもいいですね。それからみなさんが好きで、よくごらんになる映画、あれもそうです。つまりあれは、映写幕の上にうつっている横と縦とがあるもので、高さはありません。ですから二次元の物です。それでは一次元の物には、どんなものがありますか", "一次元というと、横だけの寸法があって、縦の寸法も高さもないものですね。それは紙の上に書いた線のことだといえます。まだあるかしら", "たくさんあります。四角な箱には六つの面がありますね。その面と面との境は、どうなってますか", "ああ、そうだ。それは角になっています。いや、とがった線になっている。とにかく箱の角は一次元の物ですね", "そうです。西瓜を二つに切ります。ふちが丸いですね。そのふちも一次元です", "かんたんですね。しかし四次元の物というと分りませんね。横と縦と高さのほかに、何が考えられるかしら。もうほかに何にもないように思いますが……", "もう一つ元をふやせばいいことが分っています。三を四に考えればいいのです。それはかんたんですが、さて一つふやす元は、どんなものにしたらいいかと考えると、分らなくなりますね", "影でもないし、匂いでもないし……", "それはあなたがたには分らないのが、あたりまえなのです。なぜなれば、あなたがたは三次元世界に住んでいる三次元生物なんだから、一次元、二次元、三次元までの世界のことは分っても、もう一ついりくんだ四次元世界のことは、分らないのは、もっともなのであります", "分らないのがあたりまえなんですか。しかし、ぜひ四次元の世界をのぞいてみたいですね", "平面の上に住んでいる人間がいたとしましょう。つまり紙の表面だけの世界に、その人間は住んでいるのです。さあ、そうすると、その平面の人間には、高さという考えが、分りっこないのです。そうでしょう。その世界には高さというものが、ぜんぜんないのですから。あなたがたには三次元は分る。二次元より一級上の世界の生物だから分るのです。だからあなたがたは、四次元の世界の構造を見ることはできないのです。ただしあなたがたが、どうにかして四次元生物になれたら、そのときは分るでしょう", "先生。では、これから四次元世界をめがけてとんでいっても、その世界が見えないのなら、いってもむだじゃございません" ], [ "あッ", "あ、お化け……" ], [ "ああ、こわかった。あの化けものは、何ですの", "あれが、さっきもいった、四次元生物の切り口であります", "生物ですか", "そうです。あれはモルネリウスという四次元生物の切り口だけが見えたのです。つまりあのモルネリウスは、さっきあなたがたの三次元世界の中へはいってきて、ずんずん通りすぎたのです。ですから、あの生物が三次元世界と交ったときの切り口だけが、あなたがたに見えたのです。もちろん本当の姿は見えません", "あれが切り口ですか。切り口が立体になっているのですか", "へんなようだが、すこし考えると、わけが分ります。ほら、またあらわれましたよ。こんどは長椅子の上のところだ" ], [ "ポーデル博士。またきました", "おう、東助君にヒトミさん。よく日をまちがえずにきましたね" ], [ "毎月ふしぎの国探検の日のくるのを、待ちかねているんです", "そうですか。わたくし、へんなところばかり、君たちに見せます。いやになりませんか", "いいえ。ぼくは、もっともっとふしぎな国を見たいです", "あたしも、そうよ。先生が案内して下さるふしぎの国は、今まで話にきいたこともないし、本で読んだこともない所ばかりで、ほんとにふしぎな国ばかりなんですもの。今日はどんなところへつれていって下さるかと、ほんとに待ちかねてますわ", "ほッほッ。そうですか。じつは、君たちには、すこしむずかしすぎはしないかと、わたくし心配しています。しかし新しい日本の子供さんがたには、ぜひ見ておいてもらいたいものばかりです", "ポーデル博士。ぼくたちが腰をぬかすほどの大ふしぎ国へつれていって下さい", "今日は、どこですの", "ほッほッ。君たち、今日はたいへん先を急いでいますね。それでは、すぐでかけましょう。今日は、のぞき窓をあけますから、その窓から外を見ているとよろしいです" ], [ "まあ、きれいだこと。顕微鏡で見た世界の中へはいっていくのね", "そうです。物質の中へはいっていくのです。今に分子が見え、それから原子が見え、それからついに原子核と、そのまわりをまわっている自由電子の群が見えます。それは今の世の中において、一番小さな世界ですよ" ], [ "おや、これはなにかしらん", "それは水素の原子です。まん中のが水素の原子核です。陽子ともいいます。そのまわりをまわっているのが電子です。電子は世の中でいちばん軽いものです", "ずいぶん小さい世界へきたものだなあ", "そのお隣りに、すこしちがった原子がありますよ。これがそうです" ], [ "これはなんという原子ですか", "酸素の原子です", "おやおや、これが酸素ですか", "ウラニウムの原子は見えませんか", "ウラニウムは、ここにはないから、見えません。ウラニウムは、外をまわっている電子が九十二個あって、それが十七の軌道に分れてまわっています。もちろんウラニウムの原子核はずっと重いです。水素の核の二百倍ぐらいあります", "ポーデル博士。これより小さい世界はないのですか", "ありませんね。これが極微の世界でございましょうね", "もっと、いろいろの原子をのぞいてみたいわ", "ああ、それはこの次にしましょう。じつは、これからたいへん遠いところへ旅行にでかけるのです。早くいかないと間にあわないかもしれません" ], [ "たいへん遠いところというと、どこですか", "先へおしえましょうか。これから、大宇宙のはてまでいってみましょう", "えっ、大宇宙のはてですって。なるほど、これは遠いや。一番遠いところだ", "どのくらい遠いのかしら", "ここからはかった距離が二億五千万光年――というと、光の早さで走って二億五千万年かからないと、いきつかないところです。たいへん遠いですね", "光はずいぶん早く走るんでしたわね", "一秒間に、地球のまわりを七回半ぐらい走ります。数字でいうと、一秒間に三億メートルです", "まあ、たいへん。そんな遠くまで、いけますの。あたしたち、途中で死んでしまいますわ", "そうだ。人間は長生きをしても八十年か九十年だ。だから二億五千万年も走りたくても、生命がつづかないや", "それは心配いりません。わたくしの樽ロケットは、光よりも早く走ります。一億光年を一分間で走ることもできます。よく見ておいでなさい" ], [ "では、ぼくたちの生命は大丈夫ですね。また帰ってくるまで、大丈夫ありますね", "東助君、生命のこと、たいへん心配しますね", "だって途中で生命がなくなっては、来月から『ふしぎ国探検』ができなくなりますからねえ", "ほう、そうですか。では、あと十五分で、もとの原へもどしてあげます。だから心配いりません。さあ、それでは極微の世界にお別れして、逆の方向へとびますよ" ], [ "なぜ、水素原子の原子核と電子の関係と、地球と月の関係がそっくり似ているのかしら。東助さん、分って", "ぼくには、分らないね。ふしぎだねえ", "博士におたずねしようかしら", "やあやあ、ヒトミちゃん。左の方から太陽がでてきたよ。明るい大きな太陽だ。ぼくたちは、今太陽のすぐそばをとんでいるんだぜ" ], [ "あれは何かしら。大きな星だ", "あれは木星です。反対の側をごらんなさい。大きな光る輪をもった星が見えるでしょう", "ああ、見えますわ。あれは土星ね", "そうです。気味のわるい星ですね。もうすこし先へいくと、かわった星が見えますよ。ああ、見えてきました。左の前方をごらんなさい。ぼーっと、光の尾をひいた星が見えますでしょう", "ああ、見えます、見えます。彗星ではないのですか", "そのとおりです。ハレー彗星です。かなり大きな彗星です。だんだん大きく見えてきますでしょう", "ああ、すごいなあ。いつだか、あのハレー彗星は地球に衝突しそうになったのでしょう", "千九百十年でした、あれは。今から三十八年前のことです。おう、海王星が見えてきました。その右側に冥王星も見えます。冥王星は太陽系の九つの大きな遊星のうち、一番外側にある星です。どうですか、東助君、ヒトミさん。こうして太陽系を見わたした感じは……", "すごいという外、いいようがありませんねえ", "背中が寒くなりますわ。広い大きな空間ですわねえ", "おどろくことは、まだ早いです。こんどは太陽系をはなれて、もっと外へでてみましょう" ], [ "あの、ダイヤモンドをちりばめたようなきらきらした長い帯が、上から下へ、長くつづいていますね。あれは何か知っていますね", "知っています。天の川です、銀河ともいいます", "そうです。銀河です。銀河はどんなものか知っていますか", "銀河は星の集っているところでしょう", "それにちがいありませんが、どのくらい星が集っているか、分りますか", "さあ。ずいぶんたくさんのきらきらした星が輝いていますね。ええと、一万――いや十万ぐらいかな", "もっとたくさんよ。百万はあるでしょう。ねえ、ポーデル先生", "もっともっとたくさんです。約二千億もあります", "二千億ですって。まあ、おどろいた", "あの一つ一つの星が、太陽と同じように光っているのです。つまり二千億の太陽があのとおり輝いているのです", "ふーン。すると銀河というのは、ずいぶん大きいものですね", "直径が十万光年あるのです。銀河の端からはしへいくのに、光とおなじ早さでとんでも、十万年かかるというわけです", "すごいなあ。ぼくは銀河の大きさを考えると、頭がへんになります。そしてあの光っている二千億の太陽には、それぞれいくつかの遊星がまわっているんでしょう。考えてみると地球なんて小さなものですね" ], [ "ポーデル先生。銀河でないところに光っている星は、どういう星ですの", "銀河からはなれている星でも、じつは銀河系に属する星があります。そのほかに、銀河系でない星や星団もあります。それがよく見えるように、銀河をはなれて遠くへ、この樽ロケットをとばしましょう。すると銀河の形がよく見えます" ], [ "そうです。皿の形をした銀河は、皿をまわすように、ぐるぐるまわっているのです。中心のところは、星がたくさんあつまって、すこしふくれてみえるでしょう", "ああ、そうね", "ぼくらの太陽も、銀河といっしょに、まわっているようですね", "そうです。だから太陽も、銀河系の星にちがいないのです。太陽がまわって元のところへ戻るには二億二千万年かかるのです", "長い年月ですね。人生五十年にくらべて、なんという長い年月でしょう", "この大宇宙ができてから、何年たったか、知っていますか", "いいえ", "無限に長い時間がたっているのでしょう", "無限大ではないのです。約二十億年たっていることが分っています", "二十億年ですか。大宇宙にも年齢があるというのは始めて知りましたが、おもしろいですね", "ポーデル先生。大宇宙が二十億年の年齢をとっているものなら、大宇宙が生れたばかりの赤ちゃんのときと、今とは、どうちがっていますの", "さあ、そのことですよ。では、時間器械をかけて、二十億年前の大昔へ戻してみましょう。それから今の時代へ、時間器械を走らせてみましょう。それを私たちの目では、たった一分間で見えるように器械をあわせておきますよ。いいですか。よく見ていて下さい" ], [ "一分間たちますよ。はーい、一分間たちました。さっきと同じ時代になったのです。見たでしょう、星は二十億年の昔に、一つにかたまっていたということを。それが爆発して四方八方へとんでいることも分りましたね。銀河系もその一つですが、わりあいゆっくりとんでいます。銀河系のような星雲が、すくなくとも一億はかぞえられます", "宇宙って、なんてひろいのでしょう", "大宇宙は、今でもどんどん外へひろがっていきます。どこまでひろがるのか果は分りません", "ひろがっていって、大宇宙は最後にはどうなるのですか", "それはまだとけない謎です。あははは、わたくしもそこまでは知りません" ], [ "先生。こんにちは", "やあやあ、君たち、きましたね。やれやれ、私の仕事、やっと間に合いました", "ペンキを樽ロケットに塗ってどうなさるんですか", "これはね、今日は君たちを海の底へつれていこうと思うのです。私の樽ロケット、今日は海の中へもぐります。海水などにおかされないように、安全のため塗料をぬりました。さあ、これでよろしい。さきへおはいりなさい" ], [ "さあ、おあがりなさい", "先生、ありがとう。で、今日は海底へもぐって、なにを見るのですか", "君は、海底ふかく下りていくと、なにがあると思いますか", "そうですね、こんぶの林がゆらいでいて、その間を魚の大群がおよいでいます", "もっと下へさがると、どんなになっていますか。こんどはヒトミさん、話して下さい", "だんだんあたりが暗くなります。そしてふつうの魚はいなくなって深海魚ばかりになります。いろんな深海魚は気味のわるい形をしたお魚です。中には自分のからだから青い光を発している魚もいます", "なかなか、よく知っていますね。もっと下へさがると、なにがありますか", "まださがるんですか。ええと、するともう魚はいなくなります。やわらかい泥が、ふかくよどんでいるだけです", "もっと下へおりると、どうなりますか", "もうそこでいきどまりです。おしまいです", "いや、もっとさがるのです。どうなりますか", "困ったなあ。泥の中を分けて中へはいっていくと岩がありますね。岩の下をどんどんおりていくと、地球の下にもえているあついどろどろにとけた岩にぶつかります。そうすると死んでしまいます", "そうです、そうです。そこまで考えないとおもしろくない。つまり海の底には、岩が大きくひろがっている――というか、それとも海の底には陸地があるといった方がいいかもしれませんね。そしてその中にあるのは、岩ばかりですか", "そうでしょうね", "生物はいませんか", "さあ、どうかしら。たぶん、いないと思います。だってそこには空気がないのですもの", "なかなかいいことをいいますね", "それに、下へいくほど暑いから、生物なんか生きていけません。上から海水がしみこんでくることもあるだろうし、どっちみち、だめですね", "よく分りました。あなたがたの知識は正しいです。正しいが、しかしこれからそこへ私が案内したら、きっとおどろきますよ。さあ出発します。そこの窓へ顔をあてておいでなさい。さっきあなたがいったとおりの海中風景が見られますよ" ], [ "もうついたのです。海底国へついたのですよ。あとはむこうが樽ロケットごと、うまく中へいれてくれます", "海底国ですって" ], [ "五重の扉ですか。それは何ですか", "海水を中へ入れないために、扉を五重にしてあるのです。またおそろしい水圧から海底国内の気圧にまで、順番に下げていくのです。そうしないと、乗り物も人間も、圧力のかわりかたがはげしいために壊れたり、からだが破れたり内出血したりします" ], [ "海底国見物ですね", "海底国はどんなところかしら。どんな人が住んでいるんでしょう", "まあ、おちついて、よくごらんになれば分ります" ], [ "こんなところに川が流れているわ", "いや、それは川ではありません。『動く道路』です", "動く道路というと、なんですの", "道路が走っているのです。九本の道路が並んでいますが、両側とも外のが白。それから青、橙色、藍、赤となって、まん中が赤です。白が一番おそく走っている道路で、となりへいくほど速くなり、まん中の赤の道路が一番速く、時速百キロで動いています" ], [ "すると、動く道路というのは、ふつうの土やコンクリートじゃないのですね", "そうです。一種のゴムです。適当な摩擦をもっていて、弾力も頃あい、そして丈夫なことにかけては、巨人やブルトーザがのっても平気で、きめられたスピードで走るのです。さあ、私たちもあれにのりましょう。はじめの外側の一番ゆっくり動いている白い道路へのり移るのです。のり移るときは、両足をそろえて兎のようにぴょんととびのるのです。またいではいけません" ], [ "先生、ぼくたちは、これからどこへいくんですか。こんな動く道路にのっていると、しまいには海の中へ放りだされるのじゃないでしょうか", "大じょうぶです。この動く道路は、海底国の広場へつづいているのです。まもなく、広場につきます。そろそろ、おそく動く道路の方へのりかえましょう" ], [ "ああ、きれいだこと。りっぱな広場ですわねえ", "広いなあ。こんなりっぱな広場を見たことがない" ], [ "はてな。ここは海の底でしょう。それだのに、なぜあんなに空が青くかがやいているのですか", "もっともな疑問です。あれはね、東助君。ほんとうの空ではなく、青と同じ色のガラスが天井にはりつめてあるのです。そしてその上に太陽と同じ光をだす電灯がついているのです。しかし海底国にいながら、よく晴れた空が見えるようで、この国の人々はこの広場に集り、いい気持になるのです", "なるほど。でもほんとうの太陽でないと、からだに必要な紫外線なんかが含まれていないから、よくありませんね", "そんなことは、ちゃんと衛生官がしらべてあります。そしてあの光の中には高原に近いほどの紫外線がふくまれているのです。ですから陸上の都会に住んでいる人たちよりは、ずっと強い紫外線にあたっているわけで、そのしょうこには、海底国では病人がひじょうに少いのです。陸上の三分の一ぐらいです" ], [ "先生、この海底国の人たちは、どんな仕事をして、生活をささえていますの", "いろいろな仕事があります。物を売る店の商売なんか大したものではありません。主な仕事は、海底を掘って、貴重な鉱物をとること、いろんな深さの海でお魚をとること、海水の中から金をとったり、貴い薬品をつくったりすること、地熱を利用して、発電したり、物を温めたりすること、建築用の水成岩を掘りだして切って石材にすること……かぞえていくと、きりがありません", "まあ、ずいぶんたくさん仕事があるのですね。陸上よりは忙しいぐらいね", "そうです。なかなか利益をあげています。さあそれでは海底採鉱場を先に見て、それから海底漁場の方へ案内してあげましょう" ], [ "あそこに電車がとまっていますが、東京行きと書いた札をぶら下げていますよ", "そうです。本土との間を、あの地底列車が連絡しているのです。帰りはあれに乗りましょう" ], [ "先生、こんにちは", "先生。今日は花束をさしあげようと思って持ってまいりました", "ほう、ほう。なかなかきれいな花です。たくさんの花です。ありがとう、ありがとう" ], [ "先生。今日はどんなにふしぎな国へ連れていって下さるのですか", "今日はですね、ふしぎな力の国へご案内いたします", "ふしぎな力の国って、どんなところですの", "みなさんは、ここにAとBと、二つの物があるとき、この二つの間に、引力という力がはたらいて、たがいにひっぱりっこをしていることを知っていますか", "引力なら、知っています", "よろしい。その引力の法則を知っていますか。ニュートンが発見したその法則です。どうですか、東助君", "引力の法則は、だれでも知っていなくてはならない法則だから、ぼくもよくおぼえていますよ。――二ツノ物体ノ間ノ引力ハ、ソノ二ツノ物体ノ質量ノ積ニ比例シ、二ツノ物体ノ距離ノ自乗ニ反比例スル。――これでいいのでしょう", "それでよろしいです。つまり、ここに物体Aと物体Bの二つだけがあったとします。物体の間には引力がはたらくのです。その引力の大きさは、今も東助君がいったとおり、AとBの質量――これは重さのことだと考えていいのですが、大きければ大きいほど、引力は大きい。また、AとBとがどのくらいはなれているか、その距離が近ければ近いほど、引力はずっと大きい。距離が遠くなると、引力はずっと小さくなる。この距離と力の関係のことを、今日はとりあげて、おもしろい光景をお見せしますが、これはなかなか人類にとって、ありがたい法則なのであります", "先生。今日はお話がむずかしくて、よく分りませんわ。もう一度いって下さい", "ほう、ほう。そんなにむずかしいことありません。引力の法則などというから、むずかしく聞えますが、そんなに頭をかたくしないで、私のいうことだけ、考えてみて下さい", "はい。そうします", "いいですか、ヒトミさん。引力はね、物体Aと物体Bの距離の自乗に反比例するのです。ははは、それ、むずかしい顔になりました。それ、いけません――。AとBの距離が一メートルの場合と二メートルの場合と、引力は、どんなにちがうか。それを今申した法則をあてはめて、考えてみましょう。ヒトミさん、あなた計算してごらんなさい。わけなく、できます" ], [ "二つの物体の距離に――いや、距離の自乗に反比例するのですから、距離が一メートルの場合は一の自乗はやはり一です。この一に反比例するんだから、分数にして、一分の一。一分の一はやはり一です", "それから距離二メートルの場合は、どうなりますか", "二メートルの場合は、二の自乗というと、二に二をかけることだから、二二が四で、四です。反比例だから、この四の逆数は、四分の一。小数にして〇・二五です。これでいいでしょうか", "計算はいいですが、その意味はどうなりますか", "さあ……", "ABの距錐が一メートルのときは、引力は一。二メートルはなれていると〇・二五。ですから、距離が二倍になると、引力は四分の一になるのです。もし距離が三メートルになって、三倍になると、引力の方は九分の一、つまり、〇・一一に弱まります。分りますか", "ええ。分ったような、分らないような……", "それでは、図にかいてみましょう。そうすると、よく分るでしょう" ], [ "この(イ)の図が、今考えた距離の自乗に反比例する場合です。太い曲線が、がけのように下りていますね。その曲線の高さが引力をあらわしています。距離が一メートルのところでは引力が一。二メートルでは〇・二五。三メートルでは〇・一一と、急に引力が小さくなっていきます。そのことがこの図で分るでしょう", "ええ、分りますわ", "(イ)の場合は、距離の自乗に反比例しましたが、(ロ)の場合は、距離に反比例するとしたら、どうなるだろうか、それを図にしてみたのです", "自乗に反比例ではなく、ただ『反比例』する場合のことですか", "そうです。ですから、(ロ)の場合は、ABの距離が一メートルなら、その逆数は一。距離が二メートルなら、その逆数で二分の一。つまり〇・五ですね。距離が三メートルなら、その逆数で三分の一。つまり〇・三三。(ロ)の場合の曲線と、前の(イ)の場合の曲線とをくらべてみますと、(ロ)の方がずっと、いつまでも力が減りませんね", "ええ", "そうでしょう。距離一メートルのところでは、どっちも同じですが、距離三メートルになると(イ)の場合は〇・一一に減るのに、(ロ)の場合は〇・三三にしか減らない", "ポーデル先生。そんな計算ばかりしていて、それがどうなるのですか。早くふしぎの国へ連れていって下さい" ], [ "この計算がね、ふしぎの国の案内書でありますよ。われわれは、(イ)の法則の世界に住んでいるから幸福なので、もし(ロ)の法則の世界に住んでいるとしたら、とてもそうぞうしくて、胸がどきどき、頭がぴんぴん、神経衰弱になるでしょう。それからまた(ハ)の法則の世界に住むならば、神経衰弱どころではなくて、けがばかりしていなければならないでありましょう。われわれは(イ)の法則の世界に住んでいるから、たいへんしずかで、安全であります", "その(ハ)の法則の世界というと、どんな法則なんですの", "おお、まだ説明しませんでしたね。(ハ)の場合は、AB間の引力が距離に無関係な場合であります。つまり距離が近くても遠くても、引力は同じにはたらくのです。すると、距離に無関係で、ただABとの質量の大きさだけで、引力がきまります。そうなると、うるさいですよ", "どんなにうるさいですか。そのような世界があったら、早く連れていって見せてください", "それでは、その世界へいってみましょう。(ハ)の場合ですよ。引力が、距離に無関係である世界です。重ければ重いほど、引力が大きいという世界です。ほら。私が、ワン、ツー、スリーというと、その世界へ、みなさんがたは、はいってしまいますよ" ], [ "ややッ、たいへんだ。どうしたんだね", "隕石のでかいのが落ちてきたんだ。めずらしいできごとだ" ], [ "おお、えらいことだ。五十五階の摩天ビルが半分に折れて、あれあれ、あのようにこっちへ倒れてくるぞ。早くにげろ", "どうしたんだ。あんな丈夫なビルが、二つに折れるなんて", "とても大きい隕石が、ビルにぶつかったんだ。あたご山ぐらいの大きい隕石だったぜ。あんな大きなものにぶつかっては、どんなビルだってたまりゃしない。ああ、いけねえ、早くにげろ" ], [ "どうしたんでしょうね、東助さん", "あのことだよ。(ハ)の場合だよ。つまり引力は距離に無関係になったんだ。だから、どんな遠いところにあるものも近いところにあるものも、同じに引力がはたらくんだ。引力の大きさは、ただ、そのものの質量だけに関係するんだ。ということはね、軽い物は重いものにひきつけられるということなのさ", "で、どうしたの、それが", "だから、地球は大きいし、空をとんでいる隕石は小さいだろう、地球が隕石をみんなひきよせているんだよ", "だって、今まででも流星というものがあって、隕石も落ちたでしょう。しかしこんなにたくさん落ちなかったわねえ", "今までは、空の遠くをとんでいる隕石は、少しは地球の方へは引かれるけれど、遠くにあるものだから、結局、距離の自乗に反比例するという引力の法則によって、地球にはそれほど引きつけられず、他の方向へはずれていったんだよ。ところがね、(ハ)の場合だから、引力は距離関係がなくなり、重いものはどんどん軽いものを引張りつけることになったので、隕石はみんなこの地球へ引きよせられるのさ。まだまだ、たくさんの大きな隕石が降ってくるよ。地下室へはいらないと、あぶない", "あれは何でしょう。空に大きな丸いものが見えますわ。あ、だんだん大きくなる。お月さまのようだけれど、お月さまにしては大きすぎるし……", "たいへんだ。お月さまも、地球へ引張られて、こっちへ落ちてくるんだよ。これはたいへん、地球と月が、衝突する。地球がこわれてしまう。ぼくたちは死んじまうよ", "ああ、困った。ポーデル先生" ], [ "先生、こわかったですよ。引力は、やはり距離の自乗に反比例していてくれた方がいいですね", "はじめて分りましたね。距離の自乗に反比例するということが、どんなにありがたいかということを" ], [ "先生、距離の自乗に反比例ではなく、きっきの(ロ)の場合のように、距離に反比例するのなら、ぼくらの生活にさしつかえないのではありませんか", "東助君がそういうだろうと思っていました。しかしねえ、東助君。(ロ)の場合になると、さっきもいったように、人間の身体に、他の大きな物体の引力が強くあたりすぎますから、人間は今よりもずっとからだが不自由になるし、おもしろくない力を外から受けなくてはならないのですよ。そういう世界へ、これからちょっと、案内してあげましょう", "待って下さい、ポーデル先生。さっきの隕石で、もうこりごりですわ。とうぞ、そんないやな世界へお連れにならないで下さい", "おやおや、ヒトミさんは、たいへんこりましたね。よろしいです。それでは、この窓から、(ロ)の場合の世界をのぞいていただくことにしましょう。どうぞごらんなさい。もう見えていますよ", "えっ。もう見えていますか" ], [ "ああ、痛い!", "あなた。ほらごらんなさい。だから庭へ寝椅子をだして、おやすみなさってはいけませんと申したのに。これからは地下室でおやすみになるんですよ", "分った、分った。これからそうするよ、ハックショ!" ], [ "どうしたのですか、あの男の人は", "あれは、庭で寝ていたところへ、月がでたのです。月の引力で、あの主人は百メートルも上空へ引張りあげられていたのです。さっき月がかくれたから、また下へ落ちてきたというわけ。どうやら風邪をひいたようですね。お気の毒、あります" ], [ "下には水車があります。さっきの水は、この水車がうけます。そこで水車がまわります。よくわかりますね", "はい。わかります" ], [ "あのヨーロッパ人も、永久機関の時計を考えているのです。ゼンマイ針がまわります。針がまわれば、コイルに電気を誘導します。その電気で、小さいモートルをまわし、ゼンマイをまくのです。すると、時計は永久にひとりでまわっているはずだと、あの人は考えているのです", "それはうまくいきますか", "どうして、どうして。やっぱり永久機関ですから、うまくいきません" ], [ "あの人は、なにをしているのですか", "金属のベルトの内側に海綿がはりつけてあるものを作っておきます。これを1と2の二つの滑車にかけて、あのように一部分は水に浸します。このままで、しばらく放っておくと、海綿は水を吸ってふくらみまして図のようになります。ことに、イハのところは、毛管現象で水を吸いあげてふくれ、この部分は重くなります。それとちがい、イロの間の海綿は滑車と金属ベルトではさまれて水気をふくみませんから軽いのです。つまりイハが重く、イロが軽い。すると、このベルトは矢の方向へ動くでしょう。そうですね" ], [ "そうです", "一度動くことがわかれば、あとは動きつづけることがわかりましょう。つまりこの装置は永久運動をする装置だというので、コングレープ卿は一生けんめいに研究したのですが、結局失敗しました", "どのように失敗したのですか", "つまり、実際に作ってみたが、卿が考えたようには動いてくれなかったのです", "ああ。すると、永久運動は、どうしてもうまくいかないのですか", "そうなのです。もう一つ見せましょう。ちょっととびますよ" ], [ "これも永久機関です。ものはちがっているが、原理はいずれも同じく永久運動なのです。ですから、いくら苦しんでも、実験は成功しません", "先生。なぜ、永久機関は、成功しないのですか。なぜ、実物につくりあげることができないのですか", "さあ、そのことです。世の中に、エネルギーなしで動くものはないのです。動けば、かならずエネルギーがいるのです。エネルギーなしで動くものは、この世の中にあってはならないのです", "でも、もしそういうものがあったら仕方ないでしょう", "それは無茶ないい方です。『エネルギー恒存の法則』というのがあります。これは、宇宙にあるエネルギーを合わせたものは、いつも同じ量であって、ふえたり、へったりしない。だから、かりに、エネルギーを全く使わないで動くものができたら、そのときには宇宙のエネルギーはどんどんふえていきます。すると、これは今お話した『エネルギー恒存の法則』に反するわけです。ですからエネルギーなしで動くものは、けっしてできないのです。わかりましたか", "さあ。わかったような、わからないような", "わからないのは、今の法則のあることを第一に考えないからなのです。出発点がまちがっているのです。考え直してごらんなさい", "まだ、わかりません", "困りましたね。では、自転車に潤滑油をさしますね。ところが、ある人があって、油のかわりに水をさしてもいいのだと思いちがいをし、いくらほかの人がおしえても、考えをなおしません。そして油のかわりに自転車に水ばかりをさしています。すると、この自転車はどうなるでしょうか", "その自転車は、軸うけがさびてだめになるだけです", "そのとおりです。水は油のかわりにはならない。そういう法則を、その人ははじめから信じなかった。だから、やがてその自転車がだめになることが、理解できなかった。そうですね", "そうです", "君たちは、『エネルギー恒存の法則』というのがあるのを、まずおぼえて下さい。そしたら、無から有を生ずるなどという永久機関は、けっしてできるものではないということがわからなくてはならないはずです", "ああ、そうか。今、やっとわかりました" ], [ "永久機関には、もう一つの種類があります。それは、熱を低いところから高いところへ移して、永久機関をこしらえるというのです", "なんですか、それは", "摂氏十五度のものを摂氏十四度に下げ、他の摂氏十五度のものを摂氏十六度にあげるのです。こうして、一方をどんどん下げていって、他方の温度をあげていく。そういうことができるなら、燃料問題も困らないわけで、永久無尽蔵に燃料はあり、永久機関もできるのですが、ほんとはできない", "なあんだ。できないのですか", "『熱力学第二の法則』というのがあります。それによると低温のものから高温のものへ熱を移すことはできないのです。ですからこの法則を知らない人が、今いったような永久機関を考えて、やはり失敗するのです", "すると、永久機関は、どんなものでも、全部だめなんですね", "そうです。どうか、それを忘れないでいてください" ], [ "東助さん、ヒトミさん。いよいよ、お別れのときがきました。あなたがたの、ふしぎ国探検も、今日で終りになりましたよ", "まあ。ほんとですか、先生", "先生。だめですよ。もっとふしぎの国はたくさんあるのでしょう。いつまでも、ぼくたちをふしぎな国へ案内して下さい", "いや、まあ、第一期はこのくらいでいいでしょう。そのうちに何年かたって、いいときがきたらまた案内してあげましょう。なかなかむずかしい国もありましたが、よく辛鞄して、わたくしについてきましたね。今までに探検したところは、みんななかなか大切なところなんですから、よく復習して、よく考えて下さい。今に、これまでの探検のおもしろさが、しみじみと分るようにおなりでしょう。では、さよなら", "あっ、先生、待って下さい", "ポーデル先生。いってはいやです" ] ]
底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房    1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行 初出:「ラジオ仲よしクラブ」    1947(昭和22)年9月号~1948(昭和23)年7月号 入力:tatsuki 校正:原田頌子 図版:小林徹 2002年5月10日作成 2014年8月21日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ねエ、すこし外へ出てみない!", "うん。――" ], [ "逃げちゃいやーよ。……タバコ!", "あ、タバコかい" ], [ "大丈夫よオ。これッくらい……", "もう十一時に間もないよ。今夜は早く帰った方がいいんだがなア、奥さん" ], [ "いくら冷血の博士だって、こう毎晩続けて奥さんが遅くっちゃ、きっと感づくよ", "もう感づいているわよオ、感づいちゃ悪い?", "勿論、よかないよ。しかし僕は懼れるとは云やしない", "へん、どうだか。――懼れていますって声よ", "とにかく、博士を怒らせることはよくないと思うよ。事を荒立てちゃ損だ。平和工作を十分にして置いて、その下で吾々は楽しい時間を送りたいんだ。今夜あたり早く帰って、博士の首玉に君のその白い腕を捲きつけるといいんだがナ" ], [ "?", "あたしがこれから云うことを聴いて、大きな声を出しちゃいやアよ" ], [ "だッ黙れ。……明日になったら、見てやる", "明日では困ります。只今、ちょっとお探りなすって下さいませんか。さもないと、あたくしはこれから警察に参り、あの井戸まで出張して頂くようにお願いいたしますわ" ], [ "居ないことはございませんわ。あの井戸の辺でございますよ", "居ないものは居ない。お前の臆病から起った錯覚だ! どこに光っている。どこに呻っている。……", "呀ッ! あなた、変でございますよ", "ナニ?", "ごらん遊ばせ。井戸の蓋が……", "井戸の蓋? おお、井戸の蓋が開いている。どッどうしたんだろう" ], [ "マーさん、お這入り――", "どうして昨夜は来なかったのさア" ], [ "昨夜は心配させたネ。でもどうしても来られなかったのだ、エライことが起ってネ", "エライことッて、若い女のひとと飯事をすることなの", "そッそんな呑気なことじゃないよ。僕は昨夜、警視庁に留められていたんだ。そして、いまから三十分ほど前に、釈放になったばかりだよ", "ああ、警視庁なの!" ], [ "現金は沢山盗まれたの?", "うん、三万円ばかりさ。――こんな可笑しなことはないというので、記事は禁止で、われわれ行員が全部疑われていたんだ。僕もお蔭で禁足を喰ったばかりか、とうとう一泊させられてしまった。ひどい目に遭ったよ" ], [ "変な事件ネ", "全く変だ。探偵でなくとも、あの現場の光景は考えさせられるよ。入口のない部屋で、白昼のうちに巨額の金が盗まれたり、人が殺されたりしている", "その番人は、どんな風に殺されているんでしょ", "胸から腹へかけて、長く続いた細いメスの跡がある、それが変な風に灼けている。一見古疵のようだが、古疵ではない", "まア、――どうしたんでしょうネ", "ところが解剖の結果、もっとエライことが判ったんだよ。駭くべきことは、その奇妙な古疵よりも、むしろその疵の下にあった。というわけは、腹を裂いてみると、駭くじゃあないか、あの番人の肺臓もなければ、心臓も胃袋も腸も無い。臓器という臓器が、すっかり紛失していたのだ。そんな意外なことが又とあるだろうか" ], [ "しかし、その奇妙な臓器紛失が、検束されていた僕たち社員を救ってくれることになった、僕たちが手を下したものでないことが、その奇妙な犯罪から、逆に証明されたのだ", "というと……", "つまり、人間の這入るべき入口の無い金庫室に忍びこんだ奴が、三万円を奪った揚句、番人の臓器まで盗んで行ったに違いないということになったのさ。無論、どっちを先にやったのかは知らないが……", "思い切った結論じゃないの。そんなこと、有り得るかしら", "なんとかいう名探偵が、その結論を出したのだ。捜査課の連中も、それを取った。尤も結論が出たって、事件は急には解けまいと思うけれどネ。ああ併し、恐ろしいことをやる人間が有るものだ", "もう止しましょう、そんな話は……。あんたがあたしのところへ帰って来てくれれば、外に云うことはないわ。……縁起直しに、いま古い葡萄酒でも持ってくるわ" ], [ "なッなにをするのです?", "……" ], [ "アレーッ。誰か来て下さアい!", "イッヒッヒッヒッ" ], [ "な、なんという惨らしいことをする悪魔! どこもかも、切っちまって……", "切っちまっても、痛味は感じないようにしてあげてあるよ", "痛みが無くても、腕も脚も切ってしまったのネ。ひどいひと! 悪魔! 畜生!", "切ったところもあるが、殖えているところもあるぜ。ひッひッひッ" ], [ "イヤ、イヤ、イヤ、よして下さい。鏡を向うへやって……", "ふッふッふッ。気に入ったと見えるネ。顔の真中に殖えたもう一つの鼻は、そりゃあの男のだよ。それから、鎧戸のようになった二重の唇は、それもあの男のだよ。みんなお前の好きなものばかりだ。お礼を云ってもらいたいものだナ、ひッひッひッ", "どうして殺さないんです。殺された方がましだ。……サア殺して!", "待て待て。そうムザムザ殺すわけにはゆかないよ。さア、もっと横に寝ているのだ。いま流動食を飲ませてやるぞ。これからは、三度三度、おれが手をとって食事をさせてやる", "誰が飲むもんですか", "飲まなきゃ、滋養浣腸をしよう。注射でもいいが", "ひと思いに殺して下さい", "どうして、どうして。おれはこれから、お前を教育しなければならないのだ。さア、横になったところで、一つの楽しみを教えてやろう。そこに一つの穴が明いている。それから下を覗いてみるがいい" ], [ "では、あたしに何を感じさせようというのです", "それは、妻というものの道だ、妻というものの運命だ! よく考えて置けッ" ], [ "こんなものがある!", "なんだろう。……オッ、明かないぞ" ], [ "ではいまその滑稽をお取消し願うために、博士の身体を皆さんの前にお目にかけましょう", "ナニ博士の在所が判っているのか。一体どこに居るのだ", "この中ですよ" ] ]
底本:「海野十三全集第2巻・俘囚」三一書房    1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1934(昭和9)年2月号 入力:田浦亜矢子 校正:もりみつじゅんじ 2000年1月10日公開 2011年2月24日修正 青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "大爆発大いに結構。その前に一言でもいいから博士直々の談を伺いたいのです。すばらしい探訪ニュースに、やっと取りついたのですからな。さあ白状なさい", "なにを白状しろというのか、困った新聞記者じゃ", "いや私は、録音器持参の放送局員です。博士から一言うかがえばよろしい。あの赫々たる日本海軍のハワイ海戦と、それからあのマレイ沖海戦のことなんです", "そんなことをわしに聞いて何になる。日本へいって聞いて来い。おお、ええ加減に離せ。わしは死にそうじゃ", "死ぬ前に、一言にして白状せられよ。つまり金博士よ。あの未曾有の超々大戦果こそ、金博士が日本軍に対し、博士の発明になる驚異兵器を融通されたる結果であろうという巷間の評判ですが、どうですそれに違いないと一言いってください", "と、とんでもない" ], [ "と、とんでもないことじゃ。あの大戦果は、わしには全然無関係じゃ。わしが力を貸した覚えはない", "金博士、そんなにお隠しにならんでも……", "莫迦。わしは正直者じゃ。やったことはやったというが、いくら訊いても、やらんことはやらぬわい。これ、もう我慢が出来ぬぞ、この殺人訪問者め!" ], [ "そのことはまた別の機会にゆっくり弁明することにいたしまして、ねえ金博士、わが大統領は、博士において今回お願いの一件さえお聴届け下されば、次のアメリカ大統領として、金博士を迎えるに吝ならぬといわれるのです。どうです、すばらしいではありませんか、あの巨大なる弗の国の大統領に金博士が就任されるというのは……", "この上海では、弗は依然として惨落の一途を辿っているよ。今日の相場では……", "ああ、もうし、ちょっとお待ち下さい。この件を御承諾下さいますならば、シカゴの大屠殺場に、新に大燻製工場をつけて、博士にプレゼントするとも申されて居りますぞ", "あほらしい。シカゴは既に日本軍の手に落ちて、自治委員会が出来ているというじゃないか。お前さんは、わしを偽瞞しに来なすったか", "と、とんでもない。ええとソノ、私の今申しましたシカゴというは、元のシカゴではなくて、今回ユータ州に出来ましたるヌー・シカゴのことです。そのヌー・シカゴの大屠殺場に……", "これこれ、空虚なる条件をもって、わしをたぶらかそうと思っても駄目じゃ。もう帰って貰いましょう", "空虚というわけではありませんぞ。わが大統領も、全く以て真剣なんです。その証拠には、ここに持って参りましたる燻製見本を一つ御風味ねがいたい。これはわがアメリカ大陸にしか産しないという奇獣ノクトミカ・レラティビアの燻製でありまして、まあ試みにこの一片を一つ……" ], [ "そんなにお気に召すなら、見本として、もっと持参してまいりましたものを", "そうじゃったなあ。君も特使のくせに、気の利かぬことじゃ。尤もアメリカの軍人というやつは……", "おっと、皆まで仰有いますな。それよりもさっき申上げた不沈軍艦の件ですが、博士のお力で、左様なものが出来るでございましょうか。それとも覚束のうございますかな" ], [ "本当でございますか、それは……あのう、十六吋の砲弾、いや十八吋の砲弾、二十吋の砲弾をうちこまれても沈まないのですぞ", "砲弾をいくらうちこんでも、一つだって穴が明きはしない", "えええッ。そいつは豪勢ですね。いや砲弾ばかりではない。空中からして、日本空軍のまきちらす重爆弾が雨下命中したらば、どうなりますか", "たとえ幾十発幾百発の重爆弾が落ちてこようとも、あとに一つの穴だって明かない。絶対に大丈夫だ", "しかし、このとき空中魚雷を抱きたる日本の攻撃機数十台が押し寄せ、どどどっと、空中魚雷を命中させ……", "穴は明きません", "続いて、果敢なる日本潜水艦隊が肉薄して、数十本の魚雷を本艦の横腹目がけて猛然と発射するときは……", "大丈夫だといったら、大丈夫だ。しかし大統領にこういいなさい。たしかに不沈軍艦一隻――しかも排水量九万九千トンというでかいやつを造ってお渡しする。しかしわしは、これを金銭づくで作ってやろうというのではない……", "わかっています。燻製肉の一件……", "いや、燻製肉の代償を欲しているわけでもない。慾心で、それを造ってあげようというのではない", "すると全面的に、わがアメリカを援助せられて……", "自惚れてはいかん。とにかくこの代償として、わしはルーズベルト大統領がいつも鼻の上にかけている眼鏡を貰いたい。と、そういって伝えてくれ", "えっ、不沈軍艦一隻と大統領の眼鏡との交換だと仰有るのですか。それは又、慾のない話です。ああわかりました。絵に描いた不沈軍艦を渡してやろうというのでしょう", "ちがう。わしは嘘をいわん。真正真銘の九万九千トンの巨艦だ。立派に大砲も備え、重油を燃やして時速三十五ノットで走りもする。見本とはいいながら、立派なものじゃ。あとはそれを真似て、それと同じものをアメリカでどんどん建造すればよろしい。わしを信用せよ", "ほ、本当でございますか。ほほほっ、それはまた夢のようだ。すると、やがてわがアメリカは九万九千トンの不沈軍艦を百隻作って、太平洋に押し出すのだ。こいつは素晴らしいぞ。では博士、早速ですがお暇乞いをして、急遽帰国の上、神経衰弱症の大統領を喜ばしてやりましょう" ], [ "ああ大統領閣下。何もかも一どきに到着いたしました", "え、何もかも一どきにとは?", "はあ、待ちに待ったる新軍艦ホノルル号が突如ニューヨーク沖に現れました。九万九千トンの巨艦ですぞ。いやもう見ただけでびっくりします。全く浮城とはこのことです。金博士の実力は大したものですねえ" ], [ "ふむ、そんなに大したものかのう。で、さっきお前のいった何もかも到着というのは、何を指すのか", "ああそれは、巨艦ホノルル号も到着しましたし、それからもう一つ思いがけなく金博士も到着したことをお話しようと思ったのです", "なに、金博士も来たか。わざわざ来てくれたとは、いやどうも全く嬉しいじゃないか。早速大歓迎の夜会を準備してくれ。燻製肉の方も特に念をいれて、よろしいところを皿に盛り上げて出すようにな" ], [ "ルーズベルト君。この艦はもっと速度が出るのじゃないかね", "うむ、それはその何だ、むにゃむにゃ。あああれか。あれが博士の率いてきた驚異軍艦ホノルル号か。うむ、すばらしい。全く浮かべるくろがねの城塞じゃ", "うふふん、そうでもないよ", "いや、謙遜に及ばん。余は、ああいう世界一のものに対して、最も愛好力が強い" ], [ "さあ、どうか御遠慮なく、あのホノルル号を砲撃せられよ", "やってもいいのか。しかし……" ], [ "どうぞ御遠慮なく", "でも、実弾をうちこむと乗組員に死傷が出来るが、いいだろうか。尤も死亡一人につき一万弗の割で出してもいいが……", "弗は下がっているから、一万弗といっても大した金じゃないね。とにかくそれは心配をしないでよろしい。早速砲撃でも何でも始めたまえ。早くキンメル提督に命令したがいいじゃないか", "キンメル提督? ああ神よ、彼の上に冥福あれ。おい、ヤーネル提督、砲撃方始め", "オーケー、フランキー" ], [ "ふーん、命中弾は、たちまち艦内を通り抜けて、艦底から海底へ突入、そこで爆発したのだというのか。こいつは驚異じゃ", "何ですって?" ], [ "ああ大統領閣下。金博士ごとき東洋人にたぶらかされてはなりませぬ。第一おかしいではありませんか。命中したら必ず艦に穴が明くはず、穴が明けば必ずそこから海水が入って、たちまち轟沈及至撃沈となるはず。ですから、あんなに厳然としているはずはありませんぞ", "わっはっはっ" ], [ "これ金博士。あなたは司令官を侮辱なさるか", "わっはっはっ、ヤーネル君。さっき君は、たしかに五弾命中と自らいったではないか。それにも拘らず、今さら一弾も命中せざるごとくいうのは何事だ。それとも、たった五千メートルの距離から、静止せる巨艦を射撃して、二十門の砲手が、悉く中り外れたとでも仰有るのかね。なんという拙劣な砲手ども揃いじゃろう", "ああ、うーむ、それは……" ], [ "おい、君たちにも分るだろうな。よく覚えておくんだぞ。後でこのとおり作るのだから……", "はい、大統領閣下", "そこでこの爆弾の通過時間の長さじゃが、もちろん時限以内のすこぶる短時間で艦外へ抜け出るようになっていること、それからこのゴムは爆弾で初めに穴は明くが、爆弾が通り抜けると直ちに収縮して穴をふさぐから水を吸い込む余裕のないこと、この二点についてわしはちょっと苦心をしたよ" ], [ "いや、そんなものに愕かなくてもよろしい。これ、わしの大事な説明を聞くんだ、ルーズベルト君", "そうだ。ここが重要な個所だ。建艦委員、よく見、よく聞け", "これがすなわち、さっき話をしたように……" ], [ "うむ、大したものだ。これを真似て、早速百隻の不沈軍艦をつくれば、日本海軍に太刀打出来ないこともあるまい", "どうだ、気に入ったかね、ルーズ君", "いや、大気に入りだ。余は金博士を今日只今、名誉大統領に推薦することを全世界に宣言する", "大きなことをいうな", "そして金博士に贈るに、ナイアガラ瀑布一帯の……いや、瀑布のように水が入ってくるわい。おや、艦がひどく傾いて沈下してきたが、まさかこの不沈軍艦が沈むのではあるまいな", "この見本軍艦の用もすんだから、わしはもうこの辺で沈めて置こうと思うのじゃ。さあルーズベルト君。ぐずぐずしていると、艦もろとも沈んでしまうよ。いそいで本艦を退去したまえ", "え、それはたいへん。おい急ぎ引揚げろ。して、金博士、君は", "わしのことは心配するな。艦載機にのって引揚げる。すっかり自動式のこのホノルル号に、水兵一人乗っていないから、わしが引揚げさえすれば、それでよいのじゃ。さらば、さらば" ], [ "不沈軍艦建造案は、たいへんよろしいですが、大統領閣下、それに使うゴムはどこから手に入れるのでございましょうか", "なにゴム? ゴムは蘭印マレイから……いや失敗った" ] ]
底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房    1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1942(昭和17)年2月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2009年10月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003351", "作品名": "不沈軍艦の見本", "作品名読み": "ふちんぐんかんのみほん", "ソート用読み": "ふちんくんかんのみほん", "副題": "――金博士シリーズ・10――", "副題読み": "――きんはかせシリーズ・じゅう――", "原題": "", "初出": "「新青年」1942(昭和17)年2月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-11-17T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3351.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月31日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年5月31日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3351_ruby_36098.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-10-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3351_36912.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-10-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "豊ちゃん、さよなら", "さよなら、センセ――じゃなかったホーさん" ], [ "お嬢さんに、園部さんにシンチャンは、今帰るからって帰ったばかりよ。松山さんだけ奥に寝ている筈よ", "ナニ、松山さんは本当に病気だったのか" ], [ "あら、どうして? 気分がとても悪いんですって。お医者を呼びましょうかって、先刻きいたんだけど、いらないって仰有ったのよ。シンチャン達、しばらく見ていなすったんですけれど、もう遅くなったし、帰るからあとを頼むって帰っちゃったんですわ", "そりゃ、すこし薄情だな", "だってシンチャン達、遠いのよ。松山さんだけは、直ぐそこだから、そいでもいいのよウ" ], [ "松山さんは、みどりさんのお家に沢山の補助をしているんですって。それは何でも松山さんのところへ、みどりさんがお嫁にゆくという話合いが、松山さんとみどりさんのお父様の間についているそうです。しかし、みどりさんは松山さんが余り好きではないらしいのです", "じゃ、みどりさんは、誰が好きなんだね" ], [ "早速当ってみました。が、白状しません", "そりゃそうだろう。星尾には松山を殺す動機がすこし薄弱すぎる", "そうでもありませんよ、雁金さん。星尾は理科の先生です。科学的なことはお得意の筈です。それに星尾の父親というのが神戸に居ますが、これは香料問屋をやって、熱帯地方からいろいろな香水の原料を買いあつめては捌いているのです。阿弗利加の薬種を仕入れる便利が充分あります。それから星尾は、すこし変態性欲者だという評判です。それから湯呑み茶碗をひっくりかえしたのも、兎に角、彼でした。彼の犯行現場が帆村さんの眼に入らなかったのは先生背後を向けていたからです" ], [ "あなたは、電車の中で、どこに坐っていましたか", "そうですね、あの時はあまり蒸し暑くて苦しかったものですから、となりの電車の箱との通路になっているところの窓をあけて涼んでいました。あそこは、電車の速力が加わるととても強い風が吹きこんできて、あたし、やっと気分が直ってきましたのよ" ] ]
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房    1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行 初出:「新青年」博文館    1931(昭和6)年5月号 入力:taku 校正:土屋隆 2007年8月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001220", "作品名": "麻雀殺人事件", "作品名読み": "マージャンさつじんじけん", "ソート用読み": "まあしやんさつしんしけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1931(昭和6)年5月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-10-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1220.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第1巻 遺言状放送", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年10月15日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年10月15日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年10月15日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "taku", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1220_ruby_28097.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-08-29T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1220_28149.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-08-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "おい春夫君。君は、この潜水艇のことを、ジャガイモ艇などとわる口をいうが、なぜ、ぼくがいうとおり、豆艇とよばないのかね", "だって、青木さん。豆というものは、だいたい丸いですよ。ところが、青木さんのつくった潜水艇は、でこぼこしているから豆じゃなくて、ジャガイモですよ", "でこぼこしているって。なるほど、それはそうだ。舵がついていたり、潜望鏡といって潜水艇の目の役をするものをとりつける台があったり、それから長い鎖のついたうきがとりつけてあったり、すこしはでこぼこしているよ。しかしとにかく、海軍の潜水艦にくらべると、たいへん小さい。豆潜水艇の中のひろさは、バスぐらいしかないから、ずいぶん小さいではないか。だから、豆のように小さい潜水艇、つまり豆潜水艇といっていいじゃないか", "だって、青木さん。ぼくには、でこぼこしているところが、気になるんですよ。どう考えてみても、やっぱりジャガイモ艇だなあ", "いや、豆潜水艇だよ" ], [ "はい。部長のおっしゃるとおりです。命令ですから、やるほかありません。早く、どうしてそれをぬすみだすか、その方法をごそうだんしようじゃありませんか", "いや、トニーの言葉だけれど、いくらぬすむといっても、かりにも潜水艇一隻だ。あんな大きなものをぬすめると思っては、まちがいだ" ], [ "はははは、これなら、きっとうまくいく", "なかなかおもしろい方法ですね", "いや、考えてみれば、やっぱり方法があるものですねえ" ], [ "あ、部長。あれが潜水艇ですよ。青木学士の発明した世界一小さい潜水艇は、あれなんです", "おお、あれか。あのぼーっとあかるいのは、なにかね", "あれは、潜水艇の出入口の蓋があいているのです。艇内にはだれかがいて、電灯をつけているから、それが出入口のところから外にもれて、あのように、ぼーっとあかるいのです", "ああ、そうかね、トニー。しかし、中に人がいるのでは、ぬすむのに、つごうがわるいじゃないか。なぜといって、そうなると、きっと相手がさわぎだすにちがいないからね", "しかたがありません。すこし荒っぽいが、あいつらを、ねむらせてやりましょう", "ねむらせるといって、どうするのか", "毒ガスを使うのです。みていてください" ], [ "トニーの旦那、ちょっとうしろを、みてください", "なんだって、うしろをみろというのかね", "なんだか、うしろでごとんごとんといっているが、大丈夫ですかい", "なに、ごとんごとんといっているって。あ、そうか。ひょっとしたら、豆潜水艇が、車の上からすべりおちそうになったのかもしれない。まてよ、いましらべてやる" ], [ "そうですかねえ。しかし、ごとんごとんと、いっていますよ。ふしぎだなあ", "それは、お前の気のせいだろう", "そうですかなあ" ], [ "あ、またきこえた。トニーの旦那、いままた、大きくごっとんと、うごきましたよ。ああ気持がわるい。そのうちに、豆潜水艇が、道のうえに、ころがりおちてしまいますよ。もういちど、よくしらべてください", "大丈夫だというのになあ" ], [ "トニーの旦那、針路は真南でいいのですかね", "まあ、しばらく真南へやってくれ。そのうちに、無電がはいってくるだろうから、そうしたら、本船の位置がはっきりする" ], [ "エデン号かね。こっちはタムソン部長の命令で、豆潜水艇をつんできたトニーだよ", "おう、まっていた。トニー君。大へんな手がらをたてたものだな。わが海軍でねらっていた青木学士の豆潜水艇を、そっくり手に入れるなんて、この時局がら、きつい手がらだ。あとでうんと懸賞金が下るだろうぜ", "その懸賞金が、目あてさ。その金がはいれば、おれは飛行機工場をたてるつもりさ", "はははは、もう金のつかいみちまで、考えてあるのか。手まわしのいいことだ、はははは" ], [ "さあ、その大したえものを、こっちの船へ起重機でつりあげるから、お前たち、下にいて、ぬかるなよ", "おい来た。大丈夫だい。まずこのバスがめんどうだから、そら、みんな手をかせ。こいつを海の中へ、たたきこんでしまうんだ", "よし、みんな手をかせ", "うんとこ、よいしょ" ], [ "困ったなあ。この潜水艇は、丸いうえにすべっこくて、くさりをかけるところがありゃしないよ。トニーの旦那、どうしましょう", "どうしましょうといって、どんなにしてもつりあげなくちゃ、せっかくのえものが、役に立たんじゃないか", "でも、こいつをくさりでつりあげるのは、ちょいと大へんですぜ", "ずるをきめこまないで、さあ、くさりをこういうぐあいにかけて、むすんだむすんだ", "こういうぐあいにですかい。そんなぐあいにいくかな。なんだか、あぶないと思うが……", "やれ。やるんだといったら、やるんだ" ], [ "もうすぐだ。よし、起重機のくさりをまけ", "おいきた" ], [ "青木さん。海のそこは、きれいですね", "ああ、きれいだよ。しかし春夫君。今は、きれいだなあなんて、かんしんしていてはこまるよ。できるだけ早く、ここをはなれないといけないのだ。これで、あたりの海のそこのようすは、だいたいわかったから、すぐに艇をうごかそう。さあ、君も手つだいたまえ", "ええ、こうなったら、どんなことでもやりますよ", "では、もう外のあかりをけすよ" ], [ "右舷メインタンク、排水用意!", "用意よろしい", "ほんとかね。弁は開いてあるかね", "大丈夫ですよ、青木さん。もっとしっかり号令をかけてよ", "よし。それじゃ、やるよ。……圧搾空気送り方、用意。用意、よろしい。圧搾空気送り方、はじめ! はじめ! 傾度四十五……" ], [ "青木さん。うまくなおってきましたね", "ああ、この分なら、あと十六七分のうちに、ちゃんとなるだろう" ], [ "どうして、左舷のメインタンクが開かなかったんだろうなあ", "だって、いきなり艇が海の中へおちたから、故障がおきたのでしょう", "さあ、どうかね。とにかくそんなことはないようにつくったつもりだったがねえ" ], [ "いつまでも、がまんできますよ", "しかし、あのときは、あぶなかったねえ。悪い奴が、毒ガス弾をなげこんだとき、あわてないで、すぐ用意の防毒面をかぶったからよかったが、うっかりしていれば、今ごろは冷たくなって死んでいるよ", "それよりも、ぼくは、青木さんが、艇内に防毒面をそなえておいた、その用意のよいのに、かんしんするなあ", "そんなことは、べつにかんしんすることはないさ。コレラのはやる土地へいくには、かならず、水を水筒に入れてもっていくのと同じことだ。これからは、防毒面なしでは、外があるけないよ" ], [ "よし、このくらいで、ここをさよならしよう", "青木さん、これからどっちの方へいくのですか", "これから、ずっと沖の方へ出てみよう。その方が安全だし、ちょうど試運転にもいいからねえ", "じゃあ、このまま外洋に出るのですね。ゆかいだなあ。青木さん、艇には、いる品ものはみんなそろっているのですか" ], [ "うん、ちょっと入れのこした品ものがあるんだ。しかし今さら、とりにかえるのも、めんどうなのでね", "その足りない品ものというのは、一たいなんですか。たべものとか、水とかが足りないのではないのですか", "あははは。君はくいしんぼうなんだね。だから、たべものだの、水だののことを、しんぱいするんだね。安心したまえ。その方はじゅうぶんとはいかないが、せつやくすれば、二人で三十日ぐらいくらしていけるだけはある", "へえ、そんなにあるのですか" ], [ "それで、なにが足りないのですか、青木さん", "その足りない品ものというのはね、当局からもらった機関銃だよ", "へえ、機関銃ですって? そんなものを、どうしてもらったのですか", "だって、太平洋は、いま武装しないでは、あぶなくて航海できないじゃないか。おねがいしてやっともらったんだけれど、大切なものだから、一番あとでのせるつもりでいたから、つめなかったんだよ" ], [ "そんなものをわすれてきては、こまりますね。ほかに、武器はあるんですか", "かくべつ武器と名のつくものはないよ。しかし、敵が向ってきても、またなんとかうまくあしらってやるよ", "銃も刀ももたないで、敵に向うなんて、らんぼうじゃありませんか", "そうだ。ちょっとらんぼうらしいね。あははは" ], [ "じゃあねますが、この豆潜水艇に、なにかかわったことがあれば、すぐおこしてくださいね。ぼくだって、これでなかなか役にたちますよ。航海のことは、海洋少年団にいたとき、一通りならったのですからね", "わかったわかった。早くねたまえ" ], [ "青木さん、どうしたのですか", "ああ、春夫君か。どうもへんなんだ。潜望鏡が上らなくなったんだ", "故障ですか", "故障にはちがいないが、ふつうの故障とはちがう。三センチばかりは、楽にあがるが、あとはどうしてもあがらないのだ", "ふしぎですねえ" ], [ "だって青木さん。夜中に潜望鏡を出しても、仕方がないでしょう。なんにも見えないじゃありませんか", "なにをねぼけているんだ、君は……時計を見たまえ。今は夜じゃないよ。朝の五時ごろなんだぜ", "えっ、もうそんな時刻ですか。こいつはしまった" ], [ "よくねむったもんだなあ。まだ夜中だと思っていましたよ", "ねぼけちゃ、こまるねえ。しかし、こいつはよわった。外が見えないでは、こまるなあ" ], [ "青木さん。そんなら、海面へうかんで、昇降口をあけたら、どうですか", "そんなことをしては、危険だよ。先に潜望鏡を出して、あたりに敵のすがたのないことをたしかめた上で、うきあがるようにしなければなあ", "なるほど、それはそうですね" ], [ "青木さん。この潜水艇は、もう海面へうきあがっているのじゃないのですか", "そんなことはない", "だって、これをごらんなさい。深度計の針は、零をさしていますよ", "そんなはずはない" ], [ "からまわりって?", "からまわりというのは、推進器が、水の中でまわっていないで、空気の中でまわっているという意味だ", "え、空気の中で? すると、この豆潜水艇は、飛行機になって空中をとんでいるというわけですか。すごいなあ、この潜水艇は……", "おだまり" ], [ "え", "いくらなんでも、豆潜水艇が飛行機になったりするものか", "あ、そうでしたね。この艇はジャガイモみたいな形をしているから、とても空中をとべないや" ], [ "えっ", "空中に推進器がでているものとすれば、昇降口をあけても、水ははいってこないわけだ。少しは危険かもしれないが、とにかく外の様子がわからないことには、なにもできやしない" ], [ "春夫君。君に重大な用をいいつけるよ。昇降口を、用心しながら、そっとひらいてくれたまえ。そしてぼくが、しめろ! といったら、大いそぎでしめるのだよ", "青木さんは、どうするのですか", "ぼくか。ぼくは昇降口のわずかの隙間から外をのぞくのだ。なにが見えるか、のぞいてみよう", "ああ、あるほど、ぼくは大役ですね" ], [ "よろしい、口蓋開き方、はじめ", "はーい" ], [ "ねえ、青木さん。早く話をしてよ。いま、ぼくに口蓋をあけさせて、青木さんは、いったい、なにを見たの?", "し、島だ……", "島を見ただけなら、なにもそんなにおどろくことはないじゃありませんか", "と、ところが、あたり前じゃないんだ" ], [ "あたり前の島でないというと、どんな島?", "それが、どうもへんなのだ。外国の水兵が立って番をしているんだ。しかも服装から見ると、アメリカの水兵なんだ。おどろくのもむりではないじゃないか" ], [ "なんです、アメリカの水兵ぐらい。ちっとも、こわいことはないや", "それはそうだけれど、その水兵はものものしく武装をしているのだよ。つけ剣をした銃をもっていた。防毒面をかぶっていた。おかしいではないか。日本の領土から、それほどとおくないところに、アメリカの水兵が、こんなものものしい姿をして番に立っている島があるのは、ふしぎすぎる話じゃないか" ], [ "あれはモールス符号だよ。国際通信の符号によって、あの音をとくと、『ここを、すぐあけろ。あけないと、外から焼き切るぞ』といっているのだ。焼き切られては困るぞ", "焼き切るぞなんて、けしからんアメリカの水兵ですね", "しかし、本当に焼き切られてしまっては、とりかえしがつかない。なぜといって、口蓋に大孔があくわけだから、そうなると、この豆潜水艇は、二度と水の中へもぐれなくなるわけだ。だから、しかたがない。しゃくにさわるが、艇を傷つけられてしまってもこまるから、口蓋をあけることにしよう", "でも、口蓋をあけて外に出ると、アメリカ水兵のために、捕虜みたいな目にあわされるのじゃない? そんなの、いやだなあ" ], [ "ははあ、交換条件というやつだな", "まあ、そうですね。これはアメリカでもやることでしょう。承知してくれますね" ], [ "これは、ぜひ知っておきたいことですが――僕たちの命はないものだと知っているから、死に土産にきいておきたいと思うのだが、一体ここは、どこですか。島ですか、地下街ですか、それとも船ですか", "ふーん、そんなことを知りたいというのか。そいつは、困ったね", "さあ、答えてください。約束です", "うむ、約束は約束だが……" ], [ "よろしい。では話をしよう", "それはありがとう", "これは、わがアメリカが秘密に作った動く島なんだ", "えっ、動く島ですか" ], [ "いや、むにゃむにゃむにゃ。もうこのへんでいいだろう", "ありがとう" ] ]
底本:「海野十三全集 第9巻 怪鳥艇」三一書房    1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷発行 初出:「家の光」家の光協会    1941(昭和16)年8月~1942(昭和17)年1月号 入力:tatsuki 校正:土屋隆 2005年5月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003378", "作品名": "豆潜水艇の行方", "作品名読み": "まめせんすいていのゆくえ", "ソート用読み": "まめせんすいていのゆくえ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「家の光」家の光協会、1941(昭和16)年8月~1942(昭和17)年1月号", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-05-15T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3378.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第9巻 怪鳥艇", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年10月30日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3378_ruby_18255.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-05-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3378_18411.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-05-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "先生、強い道具でとおっしゃっても、それを見ていた人間の話によると、道具はおろか、現場には犬一匹いなかったそうです", "何をいうのだ。儂のいうことに間違いはないのじゃ。たしかに強い道具で、これを壊したにちがいない。やがてそれがハッキリするときが来るにきまっている", "そうですかねえ。だがどうも変だなア。見ていた連中は、誰も彼も、いいあわしたように、傍には何にも見えないのに、ビルだけがボロボロ壊れていったといっているんだが……" ], [ "敬坊、てへッ、やられたじゃねえか。ふふふふッ", "なんだ、ドン助か。こんなところにいたのか" ], [ "ずいぶんよく働くネ。いつものドン助みたいじゃないや", "ふン、これは内緒だがナ、この真下に、おれの作っておいた別製の林檎パイがあるんだ。腹が減ったから、そいつを掘り出して喰べようというわけだ。お前も手伝ってくれれば、一切れ呉れてやるよ" ], [ "泥まみれのパイなんか、僕は好きじゃないんだよ。ねえドン助さん。それよか、もっと重大なことがあるんだ", "重大? 重大だなんて、心臓の弱いおれを愕かすなよ。重大てえのは何事だ" ], [ "ははア、そういうことなら分ったよ。つまりそのグルグル鬼ごっこをする大怪球――どうも大怪球なんて云いにくい言葉だネ、○○獣といおうじゃないか。――その○○獣を見たのは、お前一人なんだ。新聞記者も知らないんだ。もちろん何とかいった髯博士も知らないんだ。これはつまり特ダネ記事になるよ。特ダネは売れるんだ。よオし、おれに委せろよ。○○獣の特ダネを何処かの新聞記者に売りつけて、お金儲けをしようや", "特ダネて、そんなに売れるものかい" ], [ "えッ、あなたが買うんですか", "買います。これだけお金、あげます。ではワタクシ買いましたよ。外の人に話すこと、なりません。きっと話すことなりません" ], [ "ほほう、二十円――", "ドン助さん。これ偽せ札じゃないのかい" ], [ "あなた、ひどい人ありますね。なぜ約束、破りました", "えッ、約束なんて――", "破りました。ニュースを二十円で、ワタクシ買いました。外の人にきっと話すことなりません、約束しました。ところが今日の新聞、みな○○獣のこと書いています。大々的に書いています。それでもあなた大嘘つきありませんか", "ま、待って下さい。ぼ、僕はなにも知らないのです。喋ったとすれば、ドン助が喋ったのかもしれません。僕は喋らない", "ドン助? ああ、あの太った人ですね。ドン助どこにいます。ワタクシ会います。彼にきびしく云うことあります。すぐつれて来てください" ], [ "ああ博士。僕はドン助を探しているのです", "ドン助? はて、そのドン助というのは、誰のことじゃ", "ドン助というのは、僕の親友ですよ。コックなんです。すっかり酔払って、ここに積んであった空箱のなかに寝ていたはずなんですがねえ" ], [ "これはひょっとすると、たいへんなことになったかもしれないぞ", "えッ、たいへんとは何です。早くいって下さい", "実はな、さっき○○獣が、この空箱の山をカリカリ音をさせて喰いあらしたのじゃ。空箱はつぎからつぎへと下へ崩れおちてくる。そこをカリカリカリと○○獣は喰いつづけたのじゃ。ひょっとすると、そのドン助というのは、そのときこの○○獣に喰われてしまったかもしれないよ", "ええっ、ドン助が○○獣に喰べられてしまいましたか" ], [ "博士、○○獣に喰べられて、どうなっちまったんでしょうか", "さあ、そこがどうも分らんので、いま研究中なのじゃ" ], [ "おお、これじゃ、これじゃ。儂の想像していたとおりじゃった。二つの球体が互いにぐるぐる廻っているのがよく分る。はて、こういうわけなら、○○獣を生擒に出来ないこともないぞ", "○○獣を生擒にするんですか" ], [ "いいかね。このとおりやってくれたまえ", "ずいぶん大きな穴ですね。もっと人数を増さなきゃ駄目です" ], [ "博士。こんなに穴をあけてどうするんですか", "おう、敬二君か。これは陥穽なんだよ。○○獣をこの穴の中におとしこむんだよ", "へえ、陥穽ですか。なるほど、ホテルの周囲にうんと穴を掘って置けば、どの穴かに○○獣が墜落するというわけなんですね", "そのとおりそのとおり", "博士、穴の中に落っこっただけでは駄目じゃありませんか。なぜって、穴の中で○○獣が暴れれば、穴がますます大きくなり、やがて東京市の地底に大穴が出来るだけのことじゃないんですか" ], [ "うわーッ、あれが○○獣だ", "危いぞ。皆下がれ下がれ" ], [ "あなた、分りませんか。この木屑の中に、あなたの友達の身体が粉々になってありますのです。おお、可哀そうな人であります。わたくし、こうして置いて、後で手篤く葬ってやります。たいへんたいへん、気の毒な人です。みな、あの○○獣のせいです", "すると、ドン助は○○獣に殺されて、身体はこの木屑と一緒に粉々になっているというのですか。本当ですか、それは――", "本当です。わたくし、あなたたちのように嘘つきません", "僕だって嘘なんかつきやしない" ], [ "わたくしはメアリー・クリスという英国人です。タイムスという新聞社の特派員です。この○○獣の事件なかなか面白い、わたくし、本国へ通信をどんどん送っています。いや本国だけではない、世界中へ送っています", "ははあ、女流新聞記者なのですか" ], [ "いや、とうとう○○獣が穴の中に墜ちたんだとよ", "えっ、○○獣が……" ], [ "博士。○○獣が墜っこったって本当ですか", "おお敬二君か。本当だとも", "穴の中へセメントを入れてどうするんですか", "これか。これはつまり、○○獣をセメントで固めて、動けないようにするためじゃ", "なるほど――" ], [ "そんなセメントがあるのは知らなかった。これも博士の発明品なのですか", "そうじゃない。この早乾きのセメントは前からあるものだよ。歯医者へ行ったことがあるかね。歯医者がむし歯につめてくれるセメントは五、六分もあれば乾くじゃないか。一時間で乾くセメントなんて、まだまだ乾きが遅い方なんだよ" ], [ "ほほ、敬二君。いよいよ○○獣がセメントの中に動かなくなったらしいぞ。見えるだろう。さっきまで穴の中から白い煙のようなセメントの粉が立ちのぼっていたのが、今はもう見えなくなったから", "えっ、いよいよ○○獣が捕虜になったんですか" ], [ "博士。○○獣はセメントで固めたまま抛って置くのですか", "うん、分っているよ、敬二君。こいつは用心をして扱わないと、飛んだことになるのだ。まあ儂のすることを見ているがよい" ], [ "博士、なぜ○○獣を別々に離して置かないと危いのですか", "うん。これは○○獣の運動ぶりから推して、そういう理屈になるんだよ。つまり○○獣というのは二つの球が互いに相手のまわりに廻っているんだ。丁度二つの指環を噛みあわしたような恰好に廻っているんだ。こういう風に廻ると、二つの球は互いに相手に廻転力を与えることになるから、二つの球はいつまでも廻っているんだ。だから二つの球を静止させるには、二つの球の距離を遠くへ離すより外ないのだ。見ていたまえ。もうすぐ○獣と○獣とが切り離せるから" ], [ "これは駄目だ。中々動きそうもない", "そんなに強いかね。じゃあ、もっと皆さんこっちへ来て手を貸して下さい" ] ]
底本:「海野十三全集 第5巻 浮かぶ飛行島」三一書房    1989(平成元)年4月15日第1版第1刷発行 初出:「ラヂオ子供のテキスト」日本放送出版協会    1937(昭和12)年9月 入力:tatsuki 校正:浅原庸子 2003年11月24日作成 2011年9月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "じゃあ、実験をして見せりゃ、必ず返すというんだナ", "そうだ。待たせないで早くやらないか" ], [ "なにか起ったかナ", "うむ。蠅が二匹とも、どこかに行ってしまった", "蠅の姿が見えなくなったというわけだナ。どこへも行けやせんじゃないか。密閉した壜の中だ。どこへ行けよう。第一壜に耳をあてて、よく聞いてみるがいい。蠅はたしかに壜の中を飛んでいるのだ。翅の音が聞えるにちがいない" ], [ "なにを喧しいことをいうんだ。黄金の環はちゃんとお前の手に返っているじゃないか", "金環が宝物だといってはいないじゃないか。この環の中に入れてあったものを返せ", "なにも入っていなかったじゃないか", "嘘をつけ。たしかに入っていた", "なにをいうんだ。それじゃ一体何が入っていたというんだ", "毛だ。毛が一本入っていた", "毛だって? はッはッはッ。そうだ、ちぢれた毛が一本入ってたナ。その毛が何だ。毛なんてものは掃くほどあるじゃないか", "その毛を返せ。あれは世界の宝物なのだ。十萬メートルの高空で採取した珍らしい毛なんだ。それを材料にして調べると、他の遊星の生物のことがよく分るはずなんだ。世界に只一本の毛なんだ。これ、冗談はあとにして、その毛をかえせ", "この『消身法』の実験装置ととりかえならネ" ], [ "おいワーニャ。なんだって、あれほど大切な壜を床の上に落したんだ。大きな苦心を積んで、やっと手に入れたと思ったのに、手前の腕も鈍ったな", "鈍ったといわれちゃ、俺も腹が立ちまさあ。なアに、あの壜には長紐がついていて、その元を卓子にくくりつけてあったんです。その紐てやつが、やっぱり目に見えないやつだったんで、俺だって化物じゃないから、見えやしません。腕からスポンとぬけて、足の下でガチャンといったときに、ハハア目に見えない紐がついてたんだなと、気がついてたってえわけです。化物でもなけりゃ、はじめから気がつく筈がない。――", "ワーニャ、愚痴をいうのはよせ。いまさらグズグズいったって、元にかえりゃしない" ], [ "なにを臆病なことをいいだすんだ。こんな素晴らしいチャンスを逃がすなんてえことが出来ると思うかい。引込んでいろ", "だって首領。あの楊博士と来た日にゃ……", "うるさい。黙ってろ" ], [ "ウルランド氏の姿が、貸切りの休憩室に見えなくなっているんです。部屋には内側からチャンと鍵がかかっているのに、どうされたんでしょうか。これから警務部へ電話をして、警官に来て貰おうと思っていたところです", "なんでもいいから早く社長を探してくれ。急ぎの原稿があるんだ。社長に早く見せないと、乃公は馘になるんだ" ], [ "大東新報社長、白昼レーキス・ホテルの密室内に行方不明となる!", "ウルランド氏の失踪。ギャング団ウルスキー一味の仕業と見て、目下手配中!" ], [ "はッはッはッ。今ぞ知ったか。消身法の偉力を", "なにッ", "汝の手に触れる板硝子と、往来から見える板硝子との間には、五十センチの間隙がある。その間隙に、儂の発明になる電気廻折鏡をつかった消身装置が廻っているのだ。汝の方から見れば外が見えるが、外から見ると何も見えないのだ。どうだ分ったか" ] ]
底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房    1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行 入力:tatsuki 校正:浅原庸子 2002年10月21日作成 2003年5月11日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003231", "作品名": "見えざる敵", "作品名読み": "みえざるてき", "ソート用読み": "みえさるてき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-10-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3231.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第7巻 地球要塞", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年4月30日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年4月30日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "浅原庸子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3231_ruby_7213.zip", "テキストファイル最終更新日": "2003-05-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3231_7214.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-05-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "なるほど。それで密林荘というのは、どんなところですか", "県境にある森林地帯の奥にあるのです。有名な××湖を傍にひかえていますが、湖岸から奥へ約十町ほど、昼なお暗き曲りくねった小径を入って行くと、突然密林荘の前に出るわけです。ここはいわゆる××の原始林といわれています。ものの半町と見通しがきかない位曲っています。そこへ入ると夏でもひやりと寒くなります", "避暑には持って来いの場所ですね", "ええ、ですから彼を誘ったわけです。たしかに彼は日増しに元気づきました。丁度三日目の朝のこと、僕たちは山荘を一緒に出て、羊腸の小径を湖岸へ抜け、そこで右へ行き、小瀬川を少し川上へ歩いたところで釣を始めました。ところが僕の針にはかなり獲物が引懸りましたが、熊井君の方はさっぱり駄目です。そこで彼は場所を換えるといい出しました。僕はそこを動くことには不賛成でしたから、二人は別れることになり、昼飯前には山荘へ戻ることを申合わせました。彼は元の道を引返し、湖岸の左の方へ行った釣場所へ糸を下ろすのだといっていました", "ああ、そう。それで……" ], [ "よく分りました。で、その日、誰か来客がありましたか", "いいえ、ありません。二日間というものは、誰も来なかったです", "その死んだ熊井君は煙草をすいましたか", "いや、彼は全く煙草をやりません", "なるほど。それから、貴方が山荘へ戻られたとき、玄関の扉は空いていましたか、それとも閉っていましたか", "ええと、たしかに閉っていました", "部屋の窓はどうでしたか", "部屋の窓も全部閉っていました" ] ]
底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房    1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行 初出:「宝石」    1946(昭和21)年4月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:kazuishi、柳原わたる 2005年12月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "そんなに、かんたんに、出来やしないよ。しかし、工夫すれば、きっと出来ると思うんだ。それに、地下戦車が日本にあれば、すてきじゃないか。どこの国にだって、負けないよ。僕は、なんとかして、地下戦車を作るんだ", "だめだよ。そんなむずかしいものは……", "いや、作るよ。作ってみせる。きっと作って、亮二君を、びっくりさせるよ。いいかい", "だめだめ。出来やしないよ。そんな夢みたいなこと" ], [ "あれッ。どうした。どこがいたい", "係長さん、ひどいや。僕の頭に、いたい瘤があるのに、それを上から、ぎゅッとおすんだもの", "ははあ、瘤か。そんなところに瘤があるとは知らなかった。地下戦車長岡部一郎大将は、はやもう地下をもぐって、そして、そんなでかい瘤を、こしらえてしまったのかね" ], [ "そうかい、これはおどろいた。君は、本気で、地下戦車を作るつもりなんだね", "そうですとも", "それで、なにか、やってみたのかね", "え、やってみたとは……", "なにか、模型でも、つくってみたのかね。それとも、本当に、穴を掘って、地下へもぐってみたのかね。頭に瘤をこしらえているところを見ると、さては、昨日あたり、もぐらもちの真似をやったことがあるね" ], [ "係長さん。僕は今のところ、こうやって、毎日手習いをしているのです。そして、神様に祈っているのです", "なんだ、たった、それだけかい", "ええ、今のところ、それだけです", "それじゃ、しようがないねえ" ], [ "手習いしていちゃ、いけないのですか", "いや、手習いは、わるくはないさ。しかし、われわれ技術者たるものはダネ、何か考えついたことがあったら、すぐ実物をつくってみることが必要だ。技術者は、すぐ技術を物にしてみせる。そこが技術者の技術者たるところでもあり、誇りでもある。――いや、むつかしい演説になっちまったなあ。くだいていえば、早く実物をつくりなさいということだ。考えているだけで、実物に手を出さないのでは、技術者じゃないよ。実物に手をだせば、机のうえでは気のつかなかった改良すべき点が見つかりもするのだ。おい、未来の地下戦車長どの。こいつは一つ、しっかり考え直して、出直すんだな。私は、たのしみにしているよ" ], [ "あははは。これは、うっかりしていた。あははは", "あははは" ], [ "おーい、岡部。通のそば屋さんから、電話があったんだ", "おそばなんか、だれも註文しませんよ", "註文じゃないよ。コンセントのところから火が出て、停電しちゃったとさ。早く来て、直してくれというんだ。ぐずぐずしていると、代用食を作るのがおそくなって、会社へも、おそばをもっていけないから、早く来て、直してくれだとさ。だから、お前、すぐ行ってくれ", "へえ、ばかに、長いことばを使って、修理請求をしてきたものだね", "それは、そのはずだよ", "えっ", "あたまが悪いなあ。電話をかけてきたのは、おそば屋さんだもの。おそばは、長いや。あははは", "なあんだ。ふふふふ" ], [ "そうだ。真似をすることなら、猿まわしのお猿だって、うまくする。よし、自分で考えよう!", "なにを、ひとりごとをいっているの、兄ちゃん" ], [ "二郎、だまっておいでよ", "いやだい。兄ちゃん、いくよ。お面!" ], [ "兄ちゃん。そこを掘ってどうするの。畑をこしらえて、お芋を植えるの", "ちがうよ", "じゃあ、ううッ、西瓜を植えるの。玉蜀黍植えるの" ], [ "ちがうよ、ちがうよ", "じゃ、なにを植えるの。僕に教えてくれてもいいじゃないか。あ、分った。南京豆だい。そうだよ、南京豆だい", "ちがうちがうちがう。ああ、くるしい" ], [ "ほらね、お母ちゃん。兄ちゃんの顔、あんなに、泥んこだよ", "一郎、朝っぱらから、なにをしているのです" ], [ "ちょっと、いえないの。国防上、秘密のことをやってやるんですからねえ", "え、国防上秘密のこと?" ], [ "一郎。もう三十分前だよ。会社へ出かけないと、遅くなりますよ", "はい。もう、よします" ], [ "人間地下戦車ですよ", "人間地下戦車? なんだい、それは……" ], [ "だが、岡部。ほんのぽっちりしか掘れなくても、もしもこれを毎日つづけて一年三百六十五日つづけたとしたら、どうだろう。計算してみたまえ", "計算? 計算するのですか", "そうだ。技術者というものは、すぐ計算をやってみなければいけない。多分このくらいだろうと、かんだけで見当をつけるのは、よくないことだよ。技術者は、必ず数値のうえに立たなくちゃ" ], [ "数値のうえに立つとかいうのは、なんのことですか。石段の上でも、のぼるのですか", "冗談じゃないよ。数値の上に立つというのが、わからないかね。岡部は森蘭丸という人を知っているかね", "森蘭丸? 森蘭丸というのは、織田信長の家来でしょう。そして、明智光秀が本能寺に夜討をかけたとき、槍をもって奮戦し、そして、信長と一緒に討死した小姓かなんかのことでしょう", "そうだ、よく知っているね。どこで、そんなことおぼえたのかね。ははあ分った。浪花節をきいて、おぼえたね", "ちがいますよ。子供の絵本でみたんですよ", "子供の絵本か。僕は浪花節で、おぼえたのだよ。あははは。――まあ、そんなことは、どうでもよい。その森蘭丸が、なかなか数値の上に立つ行いがあったことを知っているか", "知りませんねえ", "じゃあ、話をしてやろう。信長が、或る日、小姓を集めていうには、お前たちの中で、もしも余の佩いているこの脇差のつかに、幾本の紐が巻いてあるか、その本数をあてたものには、褒美として、この脇差をつかわそう。さあ、誰でも早く申してみい。『はい』と答えて力丸ゥ……", "係長さん、へんなこえを出さないでくださいよ。今、所長さんが、戸口から、じろっとこっちを睨んで通りましたよ", "なあにかまやしないよ。別に悪いことをやっているんじゃない。これで三味線がはいると、わしゃ、なかなか浪花節をうまく語るんだがなあ", "係長さん、どうぞ、その先をいってください", "うむ、よしきた。『二十五本でございます』と、力丸はいった。『あはは、ちがうちがう、お前は落第だ。さあ、他の者!』こんどは坊丸が、『お殿さま、四十二本でござります』『ああそんな不吉の数じゃない。駄目駄目、さあ、お次』と、だんだん小姓たちに答えさせてみるが、一人として、これを当てるものがない。すると、残ったのが、森蘭丸、只一人じゃ。『蘭丸、お前はさっきから、黙っているが、あとはお前一人じゃ、早くこの脇差のつかをまいてある紐の本数をこたえろ』と信長の御催促があった。そのとき森蘭丸は、へへッと頭を下げ、『わたくしは、その答を仕りません』という。信長、声をあららげ、『答えぬとは、無礼者。なぜに答えぬ。そちはこの脇差が欲しゅうないか』蘭丸つづいて平身低頭いたし『おそれながら、申上げます。御脇差は、欲しゅうござれど、私はお答えいたしませぬ』『なぜじゃ、わけをいえ』『はい私は、その紐の本数を、存じ居ります。実を申せば、お殿さま、厠に入らせられましたとき、私はお出を待つ間に、紐の本数を数え置きました。されば、私は存じ居るがゆえに、お答えすることをば憚ります』蘭丸は、仔細を物語って、平伏した。――どうだ、聞いているかね" ], [ "ええ、聞いております。なかなか面白い浪花節的お話ですね", "これからがいいところだ。よく聞いていなさい。――そこで信長公は、蘭丸の正直を非常にほめて、脇差を下し置かれた。実は信長公は、先ごろ厠に入っていて、蘭丸が脇差の紐の本数を数えているのを隙間から御覧になっていたのだ、そこで、わざとこういう質問を発して蘭丸の正直さをたしかめてごらんになったという話さ。どうだ、感心したか", "感心しましたが、数値の上に立つというのは……", "そこだよ。信長公は蘭丸が正直なのを褒めて、脇差を下し置かれたと、浪花節ではいっているが、それは嘘だと思う", "嘘ですか。では……", "僕は、嘘じゃないかと思う。信長公は、こういって褒められた。『蘭丸、お前は数値の観念があって、感心な奴じゃ。何でも、物の数は、数えておぼえておけば、必ず役に立つ。大きくなって、軍勢を戦場に出してかけひきをするについても、まず必要なのは、作戦は常に数の上に立っていることじゃ。数を心得ないで、かんばかりで物事を決めるような非科学的なでたらめな奴は、頼母しくない』と、信長公は蘭丸を褒められたのが真相じゃろうと、僕はそう思うんだ", "なあんだ。係長さんが、そう思うのですか", "いや、本当は、きっとそうだろうと思うのだ。信長公は、科学的なえらい大将だったからね。つまり、数というものを土台にして、物事を考えるという事が、たいへん大事なことなのさ", "いや、面白いお話を、ありがとうございました" ], [ "おいおい、岡部。お前は話の途中で向うへいっては、いけないじゃないか", "はあ、まだ話のつづきがあるのですか", "続があるのですかじゃないよ。ほら、あのことはどうした、君の家の防空壕のことは……いや防空壕じゃない、人間地下戦車のことは……", "ああ、そうでしたね。こいつは、しまった。係長さんのお話が、あまりに面白かったもので、話の本筋を忘れてしまったんです", "つまり、いいかね、一日で掘った壕の長さを三百六十五倍すると、一年間に、どのくらいの壕が掘れるかという答えが出てくるだろう。さあ、計算してみたまえ" ], [ "さあ、けさ、掘ってきたのは、ほんのわずかです", "わずかでもいい。これを三百六十五倍するのだ", "ええと、まだ穴になっていないのですけれど、あの調子で毎朝掘るとして、三日に、一メートル半位ですかね", "じゃあ、一日につき半メートルだね。その三百六十五倍は?", "半メートルの三百六十五倍ですから、百八十二メートル半ですね", "そら、見たまえ、百八十二メートルもの穴といえば、相当長い穴じゃないか", "そうですね。ちょっと長いですね", "朝だけ、掘っても、一年には約二百メートルの穴が出来る。これを十人が掘れば、二千メートル。また二百メートルの穴でよいのなら、十人あれば、三十六七日で掘れる。明治三十七八年戦役のとき、旅順の戦において、敵の砲台を爆破するため、こうした坑道を掘ったことがあるそうだ", "はあ、人間地下戦車は、そんな昔に、あったのですか", "うむ。いくら、わが軍が、肉弾でもって、わーっと突撃していっても、敵のうち出す機関銃で、すっかりやられてしまって、敵の陣地も砲台も一向に抜けないのだ。仕方がないから、敵の陣地や砲台の下まで坑道を掘った。そして、ちょうどこの真下に、爆薬を仕かけてきて、導火線を長く引張り、そしてどかーんと爆発させたのだ。こいつが、なかなか効き目があって、それからというものは敵の陣地や砲台が、どんどん落ちるようになった。わが工兵隊のお手柄だ", "はあ、なるほど。昔の兵隊さんは、えらいことをやったものですね", "あまり効き目があるものだから、敵の方でも、この戦法を利用して、わが軍の方へ穴を掘ってきた。とんかちとんかちと、穴の中でつるはしをふるって土を掘っているのが、お互いに聞えることさえあった。早く気がついた方が、爆薬をしかけて、後方へ下がる、知らない方は土を掘りながら、爆死したものだ", "ずいぶん、すごい話ですね。係長さん、これもやっぱり、浪花節でおぼえたのですか", "ばかをいえ。そういつも浪花節ばかり聞いていたわけじゃない。これは、その戦争に出た、僕のお父さんから聞いた話だ" ], [ "ああ、お隣りの御隠居さんですね。井戸ではないのですけれど……", "じゃあ、防空壕かね。防空壕が出来たら、わしも入れてもらいますよ", "防空壕でもないんだけれど……", "じゃあ、何だね", "さあ、ちょっといえないんですよ" ], [ "わかっているよ、一郎さん。防空壕だよ。防空壕が出来ても、わしを入れまいとして、そういうんだろう。わかっていますよ", "いえ、御隠居さん、決してそうじゃありませんよ", "いや、わかっています。わしには何でもわかっているんだ。しかしね、一郎さん。土を掘るのもいいが、地質のことを考えてみなくちゃ駄目だよ", "地質ですって", "今、掘っているのは、どういう土か、またその下には、どんな土があるかということを心得ていないと、穴は掘れないよ" ], [ "じゃあ、教えてくださいよ", "わしも、くわしいことは知らんが、お前さんが今掘っているその土は、赤土さ", "赤土ぐらい知っていますよ", "その赤土は、火山の灰だよ。大昔、多分富士山が爆発したとき、この辺に降って来た灰だろうという話だよ。大体、関東一円、この赤土があるようだ", "はあ、そうですか。御隠居さんも、なかなか数値のうえに立っているようだな", "え、なんだって" ], [ "赤土が二三十尺もあって、それを掘ると、下から、青くて固い地盤が出て来るよ。まるで燧石のやわらかいやつみたいだ。こいつは掘るのに、なかなか手間がかかる。しかし、そこまで掘れば、大体いい水が出るね", "水なんか、どうでもいいのですよ", "いや、こいつを心得ていないと、とんだ失敗をする。わしが若いころ井戸掘りやっていたときには……" ], [ "おい、一郎さん。シャベルだけじゃ、穴は掘れないよ。うちに、つるはしがあるから、それをお使い", "はい、すみません", "そのうちに、わしも、腰の痛いのがなおったら、手伝うよ。昔とった杵づかだからねえ", "いえ、もうたくさんです。御隠居さん" ], [ "ほらネ、防空壕だろう。うちの兄ちゃんが、ひとりで、こしらえているのだよ。どうだい、すげえだろう", "二郎ちゃん。この防空壕には何人はいれるの", "それは……それは、ずいぶんはいれるだろうよ", "じゃあ、僕もいれておくれよ", "だめだめ、信ちゃんなんか。信ちゃんは、ねぐるいの名人で、ひとの腹でも何でも、ぽんぽん蹴るというから、おれはいやだよ", "そんなこと、うそだい。その代り、僕、二郎ちゃんの兄ちゃんの手伝いをするぜ。うんと働くぜ", "でも、そんなこと、だめだい", "おい、二郎" ], [ "なんだい、兄ちゃん", "お前たちで、土をはこべよ。防空壕が出来たら、土をはこんだ人は、みんな中にはいってもいいということにするから。その代り、土をはこばない人は、ぜったいに、いれてやらないよ", "そうかい。おい、みんな聞いたね。じゃあ、みんなで土をはこぼうや", "あたいも、やるよ", "僕もやる。うちのお母ちゃんがいったよ。防空壕ならうちでつくってもいいからよく見ておいでとさ。僕ここで手伝って、家でもつくるよ" ], [ "ぜひ僕は、いきたいんです。小田さん、僕は、雪がそんなに降ったところを見たことがないから、ぜひみせてください。それから僕は、もう一つ、ぜひみたいものがあるんです", "もう一つみたいものって、なにかね", "それはねえ、ラッセル車です", "ラッセル車?", "つまり、鉄道線路に積っている雪をのける機関車のことです。いつだか、雑誌でみたのですよ。雪の中を、そのラッセル車が、まるい大きな盤のようなものをまわして、雪を高くはねとばしていくのです。すばらしい光景が、写真になって出ていた", "ああ、そうか。それなら、ロータリー式の除雪車のことだな。そんなものをみて、どうするのかね" ], [ "それは、いわなくても、わかっているじゃありませんか。僕、このロータリーとかいうのを見て、地下戦車をこしらえる参考にしたいのです。だから、ぜひつれていってください", "ははあ、そうか。やっぱり、そうだったのか。よし、そういうわけなら、所長に頼んで、なんとかしてやろう" ], [ "あれッ。ぼくが来ちゃ、いけないんですかね", "なに? 来ちゃいけないというわけじゃねえが、今日はなにもお払いものがないということさ" ], [ "ああ、そうですか。おじさん、ぼくは、屑やお払いものを、うかがいに来たわけじゃありませんよ", "へえ、お払いをききに来たのじゃないのか。じゃあ、葱でも、分けてくれというのかね", "ちがいますよ。そのもぐらのことですよ" ], [ "このもぐらに、用があるのかね。ははあ、商売ぬけ目なしだ。もぐらの毛皮を売ってくれというのだろう", "ああそうか。もぐらの毛皮は貴重な資源だな" ], [ "なんじゃ、もぐらが、どうやって、土を掘るか、知りたいというのか。なるほど、お前さんは、まだ子供だから、なんでもめずらしくて、そんなことが知りたいのだな", "そうじゃありませんよ。ぼくは、今、地下戦車をこしらえようと思って、一生けんめいになっているんです。だから、土掘りの名人のもぐらのことを、ぜひ勉強して、出来れば、もぐら式の地下戦車をこしらえてみたいなあ" ], [ "このもぐらは、死んでいるの", "うん、もぐらは、すぐ死ぬるよ。お陽さまにあたれば、すぐに死んでしまうのだよ。だから、昼間はじっと土の中に息をころしていて、夜になると、ごそごそうごきだして、作物をあらすわるい奴じゃ" ], [ "はあ、本当に来たね。お前さんは、本当に、五十銭ずつで買ってくれるのかね", "大丈夫、本当です" ], [ "皆、買うかね", "それはもちろん。皆買います。多いほど、うまくいくと思うから", "よし。じゃあ家へ来なせえ。納屋に入れてあるから" ], [ "この箱の中にはいっているよ。中へ、光がさしこまないように、よく目ばりをしてあるが、これだけ頭数をそろえるのに、わしは、ずいぶんくろうしたよ", "へえ、そうですか。それで、皆で、幾頭はいっているのですか" ], [ "そうだなあ。数えちがいがあるかもしれんが、すくなくとも、二十六頭は、はいっているよ", "へえ、二十六頭。あの、もぐらが………" ], [ "二十六頭とは、ずいぶんな数ですね", "そうだよ。わしは、こんな骨折ったことはない。おかげで、このあたり一帯のもぐら退治ができたよ。どれ、はっきりした数を、かぞえてみようか" ], [ "ああ、わかったよ。二十六頭じゃなかった", "はあ。少なくても、やむを得ません", "いや、もっとたくさんだ。皆で、ちょうど三十頭ある", "えっ、三十頭? 一頭五十銭として、皆で、ええと十五円か", "にいさん。どうも、すみませんね", "いや、どういたしまして……" ], [ "お前さん、三十頭ものもぐらを、どうするつもりかね。やっぱり、毛皮をとるのだろうが……", "いや、毛皮のことは、考えていないのです。ところで、おじさん。どこか、ひろびろとしたところは、ありませんかね。もちろん、畑みたいなところは、だめです。なるべく、木のすくない、そして土がやわらかで、草は生えていてもいいが、あまり草がながくのびていないところはないでしょうか", "さあ、どこだろうなあ。一体、そこで、何をしなさるつもりじゃな", "ええと、それは、まあ、こっちの話なんですが、とにかく、そんな場所があったらおしえて下さい", "そうじゃなあ。ひろびろとして、木がなく、土がやわらかで、草がみじかいところというと……" ], [ "あるよ、あるよ。この道を、むこうへ、一キロばかりいって、左を見ると丘がある。まわりには松の木が生えているが、その丘の上は、三十万坪もあって、たいへんひろびろとしている。そこがいいだろう", "そんなところがあるのですか", "いってみなさい。あまり人がいないよ" ], [ "岡部伍長。今日は、お前に、問題をあたえる。相当困難な問題ではあるが、全力をあげて、やってみろ", "はい", "その問題というのは、一、最も実現の可能性ある地下戦車を設計せよ――というのだ", "はい、わかりました。一、最も実現の可能性ある地下戦車を設計せよ", "そうだ。一つ、やってみろ。今から一週間の猶予をあたえる。その間、加瀬谷部隊本部附勤務を命ずる", "はい" ], [ "では、引取ってよろしい。明日から、早速はじめるのだぞ", "はい。自分の全力をかたむけて、問題をやりとげます" ], [ "おい岡部。わしのところへ、このような投書が廻ってきたよ。民間にも、地下戦車をつくることに熱心な者があると見えて、これを見よ、田方松造という少年から、地下戦車の設計図を送ってよこした。よく見て参考になるようだったら、使うがよろしい。", "はい", "こういう図面だが、どうじゃ、うまくいくと思うか" ], [ "はい。これは、前進しないと思います", "前進しない。なぜか", "たとえば、これを山の中腹に突進させたといたします。なるほど、この廻転鋸がまわれば、周囲の土をけずりますが、しかし前方の土をけずりません。ですから、この車体で前方へ押しても、前方から押しかえされますから、前進出来ません", "なるほど。では、これを如何に改良せばよろしいか", "自分の考えとしましては、この先の廻転鋸は力がありませんから、鋸でなく、錐にかえた方が有効だと思います", "錐か。どんな形の錐を用いるのか。ちょっと、これへ描いてみよ", "はい" ], [ "どういうのかね。説明をきこう", "はい。この大きな部分が、車体であります。エンジン、乗員、その他武装もついているのであります。この前方の三角形は、実は円錐形の廻転錐を横から見たところでありまして、これが廻転するのであります。自分の最も苦心しましたところは、この回転錐であります", "ほう、ここを苦心したか。どういう具合に苦心したのか", "はい" ], [ "……ええ、要するに、この円錐形の廻転錐はふかく土に喰い入り、土をけずりながら、車体を前進させます", "なるほど、ぎりぎりと、ふかく喰いこみそうだな。車体が、大根の尻尾のように、完全な流線型になっているようだが、これはどうしたのか", "はい。これは、錐のためけずりとられた土が車体のまわりを滑って後方へ送られますが、送られやすいためであります", "そうなるかなあ" ], [ "少佐どの。けずられた土は、どんどん後方へ送られますが、そこに或る程度の真空が出来ます。ために、土は、とぶようにますます後方へ送り出されると考えます", "ふむ。これだけかね。ほかに何か、附属品はつかないのか", "いいえ、つきません。これだけでたくさんであります", "それはすこし乱暴だぞ", "自分は、そうは思いません。これで大丈夫だと思います", "そうかなあ" ], [ "ふむ、なにごとも勉強になることじゃから、大至急、それを実物に作らせてみよう。そして、その上でお前は、運転してみるのだ", "は、承知しました" ], [ "なにごとも、体験じゃ。とはいうものの、この地下戦車を目的物にあてがってやるまでに、いやに世話がやけるねえ", "はあ。やっぱり、これは車輪が入用ですなあ", "岡部伍長は、この次には、車輪をつけるといいだすだろう", "いや、少佐どの。この次には、岡部は、砲弾みたいに、火薬の力でこの地下戦車を斜面へうちこんでくれなどといい出すのじゃありませんかなあ", "うむ、いいだしかねないなあ、岡部のことだから……" ], [ "萱原准尉。工藤は、命令をうけて、別にいやな顔をしなかったか", "いや、大悦びでありました。工藤上等兵と来たら、生命を投げだすようなことは、真先に志願する兵でありまして……", "ははは、まさか、今日のところは、一命には別条はあるまい", "そうですかなあ。私は、心配であります" ], [ "おや、進まなくなったぞ", "エンジンは、かかっているのですが……", "そばへいって、車体を叩いて、聞いてやれ", "はい" ], [ "おや、これは、へんだぞ", "どうしたのか、萱原", "ああ、そうか。車体が廻っているのです。車体が左に廻っております", "なに、車体が左へ廻っている。それはたいへんだ。それじゃ、宙返りをやっているのじゃないか。飛行機じゃあるまいし、戦車の宙返りは、感心しないぞ。岡部伍長、なにしとる!" ], [ "はい", "もし、ここでお前の志がくじけることあらば、わしは、お前の御奉公の精神をうたがう。つまり、お前は、自分一個の慾心で、これまで地下戦車の研究をつづけていたのだと思い、わしはお前を新に叱るぞ", "は", "地下戦車の研究は、お前一個の慾望を充たすために、命ぜられているものではない。おそれおおくも、皇軍の高度機械化を一日も速かに達成するため、特に地下戦車の設計製作の重責をお前が担っているのである。お前は、それを忘れてはならぬ。一日も速かに地下戦車が欲しいこの時局に、多大の物資を使って、而もついに失敗したということは、もちろん感心できないことである。しかしながら、失敗を失敗として、そのまま終らせてはならぬ。失敗はすなわち、かがやかしい成功への一種の発条であると思い、このたびの失敗に奮起して、次回には、更にりっぱな地下戦車を作り出せ。そのときこそ、今日の不面目がつぐなわれ、それと同時に、皇軍の機械化兵力が大きな飛躍をするのだ。泣いているときじゃない。失敗を発条として、つよくはねかえせ。どうだ、わしのいうことがわかるか" ], [ "……岡部伍長は、只今より、あらためて粉骨砕身、生命にかけて、皇軍のため、優秀なる地下戦車を作ることを誓います", "よろしい。その意気だ。しかし、機械化兵器の設計にあたって、いたずらに気ばかり、はやってはいかん。機械化には、あくまで、冷静透徹、用意周到、綿密にやらんけりゃいかんぞ。新戦車をもって敵に向ったときに、あっけなく敵のためにひっくりかえされるようじゃ、役に立たん。おもちゃをこしらえるのでない。あくまで実戦に偉力を発揮するものを作り出すのだ", "はい。わかりました", "よろしい。では、本日の試験は、これで終了した。――おい、岡部伍長と工藤上等兵は、大分疲労しておるようじゃから、皆で、よくいたわってやれ" ], [ "おい工藤。そう、お前の頭を前に出してくれるな。そして、しばらくだまっていてくれ", "は。邪魔をして、わるかったでありますね", "いや、邪魔というのではないが、お前がこえを出すと、とたんに、そこまで出かかったいい考えが、ひっこんでしまうのだ", "そうでありますか。では、だまっております" ], [ "工藤。お前がいつも手に持っているその函には、何がはいっているのか。ばかに、大事にしているじゃないか。中には、菓子でもしのばせてあるのではないか", "ちがいますよ。伍長どの。自分は、御存知のように、酒はすきですが、甘いものは、きらいであります", "じゃあ、中には何がはいっているのか", "は、この中には、ソノ、ええと、自分の身のまわりの品がはいっているのであります。あやしいものではありません", "そうか。それならいいが……" ], [ "伍長どの。邪魔だとは思いますが、どうぞ自分にも、こんど作る地下戦車のことを、話してください。自分は、気が気ではありません", "ああそうか。また、この前のように失敗すると困るというのだろう", "いや、そうではありません。あの失敗――いや、あの日以来、自分は、地下戦車というものに、たいへん興味をもつようになりました。このごろでは、夢に地下戦車のことを見ることが多くなって、自分でもおどろいているのであります。で、どう改良されるのでありますか、こんどの地下戦車は――" ], [ "まあ、やっと、ここまで出来たんだが、いや、こんどは深く考えさせられたよ。なにしろ、前回にこりているからね", "前回は、自分の身体が、地下戦車の――胴の中でくるくる転がりだしたのには、おどろいたであります。まさか、戦車の胴が、ぐるぐる廻転をはじめたとは思わなかったものですからなあ。こんどは、大丈夫ですか", "ああ、そのことは、第一番に考えた。こんどはもう、大丈夫だ。胴は決して廻らない。そのために、こういう具合に、地下戦車の腹に、キャタビラ(履帯)をつけた" ], [ "ああ、なるほど。おや、こんどの地下戦車は、錐のところが、ずいぶんかわっておりますね", "そうだ。この前の地下戦車は、直進する一方で、方向を曲げることができない。それでは困るから、こうして、廻転錐を三つに分けた", "なるほど。この算盤玉のようなのが、新式の廻転錐でありますか。これが、どうなるのでしょうか", "つまり、この三つの廻転錐は、それぞれ一種の電動機を持って直結されているんだ。そして、電動機の中心を中心点として、廻転錐は約九十度、どっちへも首をふることができるのだ。そして、いいところでぴったり電動機の台をとめる。そうすると、廻転錐の首は、もうぐらぐらしない。そして、この首は、多少、前へ伸びたり、また戦車の胴へ引込むようにもなっているんだ", "なかなか考えられましたね" ], [ "こうしておけば、三つの廻転錐の軸を平行にしておいて廻すと、地下戦車は前進するのに一等便利だ。しかしどっちかへ曲る必要のあるときは、三つの廻転錐の軸を外向きにひろげるのだ。すると大きな穴があく。大きな穴があけば、地下戦車は、ぐっと全体を曲げても、穴につかえない。まずこれで、十五度乃至三十度のカーヴは切れるつもりだ", "はあ、いいですなあ" ], [ "第三の改良点は、掘りとった土を、後へ送る仕掛だ。これはなかなかむずかしい問題なんだが、どうやらこれで、うまくいきそうに思う", "ほう、それはどういう仕掛になっていますか", "つまり、廻転錐でもって削られた土は、まず錐のうしろへ送られる。すると土は、地下戦車の胴にあたるが、戦車の胴の前方は、深い溝のついた緩やかな廻転式のコンベヤーになっていて、土を後へ搬ぶのだ。そして土は、戦車の側面に出るが、ここは、蛇の腹のような別のコンベヤーになっていて、どしどし土を後方へ送る", "なるほど。ここでありますか" ], [ "そうだ。地下戦車の胴は、後へいくほど細くなっているから、土は具合よく、後へ送られるのだ。それからもう一つ重要なことは、この戦車が腹の下のキャタピラで前進すると戦車の後方には隙が出来る。最初うまくやれば、このところは、真空になる。だからその隙間へ、前から送られてくる土を吸いこむ働きもする。まるで、真空掃除器のようなものだ。どうだ、わかったかね", "はあ、大体わかったように思いますが、これは前回の地下戦車第一号とちがって、ずいぶん進歩したものですなあ。いや、これで自分の祈願も、ききめがあらわれたというものであります" ], [ "で、この戦車第二号は、いつから試作にとりかかるのでありますか", "さあ、この設計を、もう一度よくしらべ直した上で、加瀬谷部隊長殿へ報告しようと思っとる。あと半年はかかるだろうな", "そんなにかかりますか。それは待ちどおしいですね", "いや、試作伺いのこともあるし、予算のこともあるし、工場や資材の関係もあって、おれの思うようにはいかないんだ。なにしろ、まだわが国は貧乏国で、資材は足りないし、製作機械もずいぶん足りないし、技術者の数も少ない。うんと整備しなければ、アメリカやソ連やドイツについていけない", "なるほど。すると、まだまだ祈願をしなければ、日本はりっぱになりませんね", "そのとおりだ。――そうだ、今日は、一度この設計図を部隊長殿にごらんに入れることにしよう。おい工藤。部隊長殿は御在室か、ちょっと見てきてくれ", "はい" ], [ "どうしたのでしょう", "さあ、丘の向うから顔を出すのじゃないかなあ。まっすぐ進めば、そうなる筈だが……" ], [ "加瀬谷少佐、地下戦車は、行方不明になってしまったじゃないか。またこの前のように、土中でえんこして救助を求めているのじゃないか", "いや、大丈夫でしょう。あと三十分ぐらいたつと、予定どおり、きっと諸君をおどろかすだろう", "三十分? そうかね" ], [ "岡部伍長外三名、地下戦車第二号を操縦して、地下七百メートルを踏破、只今帰着しました。戦車及び人員、異状なし、おわり", "おお、よくやった。おれは満足じゃ" ], [ "おい岡部、お前も満足じゃろう。とうとう地下戦車長として成功を収めたんだからなあ", "いや、まだ成功はして居りません", "なに、成功をしとらんというのか", "はい。操縦してみまして、まだまだ気に入らないところを沢山発見しました。自分は、さらに改良の第三号を作りたいと思います。それが完成すれば、どうやらこうやら、皇軍機械化部隊のお役に立つことと思います" ] ]
底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房    1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行 ※図版は、初収単行本の「未来の地下戦車長」山海堂出版部、1941(昭和16)年10月1日発行からとり、文字のみ新字にあらためました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:kazuishi 2006年10月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "やあ佐野さん。毎日御出勤だそうで、なかなか勤勉ですねえ。", "いやどうも、海野先生。なにしろこの出勤簿が私の出勤を待っていると思いますと、休みたくても休めないのです。開所以来、無欠勤ですよ。", "それはたいへんですね。ここでのお仕事はどんな塩梅ですか。", "いやそれがですよ、まだ開業御披露も済んでいないのに千客万来で、休息の遑もありません。", "ほう。そんなに特許をたのまれますか。", "これは内緒ですが、今のところもう出願が八つと異議申立が一つ来ています。この景気では、事務所をもっと拡げ、所員も殖やさねばなりません。", "すると本当に仕事を頼まれているのですね。失礼ながら意外ですねえ。すると特許料など、他よりやすくしているのですか。", "ああ礼金のことですね。あれは弁理士会の規則があって、最低料金が定められています。私のところは他の特許事務所よりも可也たかいのです。", "えっ、やすいのではないのですか。", "どういたしまして。なかなか高い料金をいただくことにしています。", "それで流行るとは、一体どういうわけかな。どうも分らない。" ], [ "高い高いなどと自分でいっていては、お客さまが来なくなりますよ。大いに勉強しますといった方がいいでしょうに。", "勉強の方は、料金以外の方面でやるからいいではありませんか。とにかく電気特許のことなら、どちら様よりも自信をもってひきうけます。但し私としてはあまり仕事を持ちこまれない方がいい。" ] ]
底本:「海野十三全集 別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房    1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行 初出:「ラヂオの日本」日本ラヂオ協会    1939(昭和14)年3月号 ※初出時の表題は、「無線界名士訪問記 佐野昌一氏訪問記」です。 入力:田中哲郎 校正:土屋隆 2005年1月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043590", "作品名": "名士訪問記", "作品名読み": "めいしほうもんき", "ソート用読み": "めいしほうもんき", "副題": "――佐野昌一氏訪問記――", "副題読み": "さのしょういちしほうもんき", "原題": "", "初出": "「ラヂオの日本」1939(昭和14)年3月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-01-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card43590.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 別巻2 日記・書簡・雑纂", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1993(平成5)年1月31日", "入力に使用した版1": "1993(平成5)年1月31日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1993(平成5)年1月31日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "田中哲郎", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/43590_ruby_16807.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-01-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/43590_17443.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-01-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "じゃ貰っていくよ。伝票はさっきそこに置いたよ", "あいよ。ここにある" ], [ "大丈夫ですよ。倉庫で受取ったときちゃんと調べてきましたから", "待て待て。お前はこのごろふわふわしていて、よく間違いをやらかすから、あてにならんよ。それに間違っていれば、すぐ取替えて来てもらわないと、折角ここまで急いだ仕事が、また後れるよ。急がば廻れ。念には念を入れということがある", "ちぇっ。十分念を入れてきたのになあ", "まあそう怒るな。どれ、そこへ明けてみよう" ], [ "あははは。銃剣術でお前が張切っている話は聞いたぞ。いつでも相手になってやるが、油を売るのはそのへんにして、早く向うへいけ", "ちぇっ。木田さんはあんまり勝手だよ。油なんか一滴も売ってはいませんよ、だ" ], [ "いや、優級品のもくねじだから安心していたんだ。ところがこんな出来損いのが交っていやがる。見掛けは綺麗なんだけれど、螺旋の切込み方が滅茶苦茶だ。どうしてこんなものが出来たのかなあ", "どれどれ" ], [ "よせよ、大きなこえを出すない。木田さんに聞かれたら、怒られるよ", "大丈夫だい。木田さんは呼ばれて主任のところへ行っちまった。おい、どうする。行くか、行かないか", "おれはいやだよ", "ばか。いくじなし" ], [ "まあ、きたないねじ釘ね。その青いものは毒なのよ。そんなものを持っていると手が腐るから捨てちゃいなさい", "まあ……" ] ]
底本:底本:「海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊」三一書房    1991(平成3)年5月31日第1版第1刷発行 初出:「譚海」    1943(昭和18)年1月 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "あの帆村荘六という奴は、わしと同郷でな、ちょっと或る縁故でつながっている者だが、すこし変り者だ。その帆村から、若い女探偵の助力を得たいことがあるから、誰か融通してくれといってきたんだ。どうだ、君ひとつ、行ってくれんか", "はあ。どんな事件でございましょうか", "いや、どんな事件か、わしはなんにも知らん。ただはっきり言えるのは、彼奴はなかなかのしっかり者で、婦人に対してもすこぶる潔癖だから、その点は心配しないように" ], [ "さあどうぞ。どうぞ、その椅子に掛けて、ちょっとお待ちください。ちょっといま手が放せないことをやっていますから、掛けてお待ちください", "はあ、どうも。では失礼いたします" ], [ "やあ、どうも。たいへん早く来てくだすってありがとう。星野先生は、ちかごろずっと元気ですか", "はあ。さようでございます" ], [ "えっ、所員ですって。そんな者はいませんよ。きょうは僕一人なんです", "でも、さっきあの衝立の向うから……", "あっはっはっ、あの声ですか。あれは所員がいて、声を出したわけではなく、録音の発声器なんです。自動式に、訪問客に対して挨拶をする器械なんですよ。嘘だと思ったら、こっちへ来て衝立の蔭をごらんなさい" ], [ "えっ、まあそんな……", "でも、こいつばかりは話だけでも信用がなりません。やっぱり実験してみなくちゃね。さあ、そこへもう一度掛けてください" ], [ "コーヒー茶碗とか、花瓶とか、灰皿とか、スタンドとか、そういったものを、あれっとか、あらっとかいいながら、じゃんじゃん下に墜として壊してください", "そんなことをすれば、私はすぐ馘になってしまいますわ", "なあに大丈夫。貴女なら馘の心配はないから、どしどし壊してください", "弁償しなくていいのですか", "弁償なんか、心配無用です。ただ心懸けておいてもらいたいのは、行ってから二三日以内に、本棚のうえにおいてある青磁色の大花瓶を必ず壊すこと、これはぜひやってください。そしてその翌朝、貴女は自分でハガキを入れにポストまで持って出るんです。いいですか", "大花瓶を壊すことは分りましたが、翌朝ハガキを投函にいくといって、なんのハガキをもって出るのですか" ], [ "まあ、たいへん骨が折れますのねえ", "まあ、そういわないで、やってください。主人公が何をいっても何をしても、例のすこしにぶい小間使の要領でいくんですよ", "そんなことをして、どうしようというんですの。一体どんな事件なんですか。あたしにすこしぐらいお明かしになったっていいでしょう" ], [ "へえ、どうも相済みませんでございました。じつはこちらさまにきっとお気に入ること大うけあいという上玉がありましたもんで、それを迎えに行っておりましたような次第で――ところがこれが埼玉の在でございまして、たいへん手間どれました。ここに控えておりますのが、その一件でございまして、在には珍らしい近代的感覚をもちました娘でげして……", "こら、大木屋。こんどだけは特に大目に見てやるが、この次から容赦せんぞ。この次は絶対出入差止めだ。特にこんどだけは――おい、なにをぐずぐずしとる。早くその――ええソノ阿魔っ児を上へあげろちゅうに" ], [ "わーあ、な、な、なにごとじゃ", "どうもすみませんでございます" ], [ "病気なんてありませんけれど、あたし、そそっかしいのですわ。これから気をつけます", "そそっかしいのも、病気の一つだよ。子供じゃあるまいし、十六七にもなって――ちょいとお前さん、年齢はいくつだっけね、わたしゃ洋装の女の子の年齢がさっぱり分らなくってね", "あら、いやですわ。あたし、もっと上ですわ", "じゃあ十八てえとこ?" ], [ "あのう、うちの旦那様の御商売は、なんでいらっしゃいますの", "ああら、あんたそれを知らないで来たの", "ええ", "ずいぶん呑気な娘ね。知らなきゃ、いってきかせるが、うちの旦那様はやまを持っていらっしゃるのよ", "え、やま? 鉱山のことですの" ], [ "おう、えらい怪我をやったな。そりゃ早く手当をせんといかん。ほら、この莨をもんで傷口につけろ。このハンカチでおさえて、そして医者を呼べ", "あらまあ、オギンさん、怪我をしたの。天罰覿面よ" ], [ "さあ早いところ伺いましょう。もう大花瓶を壊したんですか", "あら、早すぎたかしら", "そんなことはありません。大いに結構です。ところで貴女は探偵だから分るでしょうが、あの大花瓶を壊されてから主人公は、なにか室内の什器の配置をかえたということはありませんか" ], [ "なんです、その位置の変ったものは?", "木彫の日光の陽明門の額が、心持ち曲っていただけです", "ふむ、やっぱりそうか。その外に変ったものがもう一つあるでしょう", "いいえ、他にはなんにもありませんわ", "いや、そんなことはない。きっと有る筈ですよ。それとも貴女の鈍い探偵眼には映らないのかもしれない" ], [ "だって大花瓶は、きょう壊してしまったんじゃありませんか", "だから、至急あとの品を補充するといっているじゃありませんか", "ああ、また新しい花瓶がくるのですか", "貴女も案外噂ほどじゃないなあ" ], [ "そして先生が持っていらっしゃるの", "そんなことは、貴女が心配しなくてもいいです", "先生、それから……" ], [ "ギンヤ、そこでなにをしているのじゃ", "はい。この額がすこし曲って居りますので", "なに、曲っていたか。はっはっはっ、曲っていてもいい。そのままにしておけ", "でも、すぐでございますから", "いや、手をふれることならん。すこしの曲りを直すつもりで、とたんに下に落されて、額がめちゃめちゃに壊れてしまっては大損じゃからな。わしはもういい加減懲りとるでな", "どうもすみません" ], [ "旦那様、御入浴をどうぞ", "いや、きょうはわしは、はいらんぞ" ], [ "まだ悲観するのは早い。もう一つ、取って置きのタネがあるんだ", "まあ、それはほんとですの。そのタネは、なあに", "それはあの新しい大花瓶の中にあるんだ", "えっ", "つまりあの大花瓶の中に、君をいつか愕かせた録音の集音器が入っているんだ。昨夜一晩、あの集音器はこの居間にいて、主人公の寝言を喰べていたんだ。僕はその寝言の録音に期待をもっているんだよ", "まあ、そんなことをなすったの" ] ]
底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房    1990(平成2)年4月30日第1版第1刷発行 初出:「大洋」    1939(昭和14)年9月号 ※底本は表題に「什器破壊業《ものをこわすのがしょうばい》事件」とルビを付しています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:土屋隆 2007年7月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003235", "作品名": "什器破壊業事件", "作品名読み": "ものをこわすのがしょうばいじけん", "ソート用読み": "ものをこわすのかしようはいしけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「大洋」1939(昭和14)年9月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-08-12T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3235.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第7巻 地球要塞", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年4月30日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年4月30日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年4月30日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3235_ruby_26937.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-07-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3235_27731.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-07-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "編集長、ではもう外に伺ってゆくことは御座いませんネ", "まアそんなところだね。とにかく相手は学界でも特に有名な変り者なんだから、君の美貌と、例のサービスとを武器として、なんとか記事にしてきて貰いたい。その成績によっては、君の常々欲しいと云っておったロードスターを購ってやらんものでもない", "アラ、きっと御約束しましたワ。ロードスターを買って下されば、あの人との結婚式を半年も早めることができるんですの、まア嬉しい", "嬉しがるのは後にして、一刻も早くぶつかって来給え。はイ、円タク代が五十銭!" ], [ "ゴーゴンゾラ博士の研究室は何階ですの", "第三十八階!", "そこまで、やって頂戴", "はい、上へ参ります。御用の階数を早く仰有って下さいまし、二階御用の方はございませんか。化粧品靴鞄ネクタイ御座います。三階木綿類御座います。お降りございませんか。次は四階絹織物銘仙羽二重御座います。五階食堂ございます。ええ、六階、七階、あとは終点まで急行で御座います。途中お降りの方は御乗換えをねがいます。ありませんか。では三十八階でございます。どなたもこれまでで御座います。お忘れもののないように、毎度ありがとう御座い", "まア、ここは屋上。博士の研究室なんてありゃしないわ。あら、あすこにネーム・プレートが下っている。まるで、エッフェル塔の天辺に鵠が巣をかけたようね。では、下界で待っているあの人のために、第二にはロードスターのために、第三は原稿料のために、第四は編集長のために、勇気を出して、この鉄梯子に掴まって登りましょう。誰も、梯子の下に、タカリやしないでしょうね。エッサ、エッサ、エッサラエッサ" ], [ "ゴーゴンゾラ博士!", "……", "ゴーゴンゾラ博士ったらサ! ご返辞なさらないと、ペンチで高圧電源線を切断ってしまいますよ、アリャ、リャ、リャ、リャ……", "これ、乱暴なことをするのは、何処の何奴じゃ", "博士ね、ここに紹介状を持って参りましたワ", "おお、なんと貴女は、美女であることよ! 紹介状なんか見なくとも宜しい。さあ、早く入った、入った", "オヤオヤ、あたしのイットが、それほど偉大なる攻撃力があるとは、今の今まで知らなかった。では、御免遊ばせ。まア博士の研究室の此の異様なる感覚は、どうでしょう! まるでユークリッドの立体幾何室を培養し、それにクロム鍍金を被せたようですワ。博士、宇宙はユークリッドで解けると御考えですか", "近ければ解け、遠ければ解けぬサ", "博士の御近業は、一体どのくらい遠くまでを、問題になさっています", "近業とは?", "判っているじゃありませんの。謂うだけ野暮の『遊星植民説』!", "ははア、そんなことで来なすったか。だが遊星植民には、欠くべからざる必要条件が一つあるのを御存じかな", "存じませんワ、博士。それは、どんなことですの", "いや、段々と判って来ることじゃろう", "それでは、そのことは後廻しとして、博士。遊星植民説の生れた理由は?", "とかく浮世は狭いもの――ソレじゃ", "満洲国があっても、狭いと仰有るの", "人間の数が殖えて、この地球の上には載りきらないのも一つじゃ。だが、それだけではない。人間の漂泊性じゃ。人間の猟奇趣味じゃ。満員電車を止めて二三台あとの空いた車に載りたいと思う心じゃ。わかるかな。それが人間を、地球以外の遊星へ植民を計画させる", "まア。必要よりも慾望で、遊星植民が行われると、おっしゃるのネ", "そうじゃ。能力さえあるなら、人間はどんな慾望でも遂げたい。すべての達せられる程度の慾望が達せられると、この上は能力をまず開拓して、それによって次なる新しい慾望を覘う。慾望の無くなることは無い。科学はオール・マイティーにして、同時にオール・マイティーではない。もっと明瞭に云うと、科学はレラティヴリーにオール・マイティーであるが、アブソリュートリーにオール・マイティーではない。初等数学で現わすと、『オールマイティーじゃ』と云って誤りでない", "どうも、あたしには哲学が判りませんのよ", "高等数学だから判らんのじゃよ", "そんなことより、遊星植民の実際はどうするんです?", "いろんな方法があって、一々述べきれないが、素人に判りよい方法を三つ四つ、数えてみよう。まずお月様を征服することじゃ", "まア!", "ロケットという砲弾みたいな形の、箆棒に速い航空機に、テレヴィジョン送影装置を積んで月の周囲を盛んに飛行させ、月の表面の様子を地球の上のテレヴィジョン受影機にうつして、地理を研究する。これは月以外の、どの遊星へ植民するときも同じ手じゃ", "偵察飛行みたいだワ", "そうして、上陸地点を決定し、又上陸後はどのような方法で、地球の人間が衣食住をすべきかを計画する。計画が出来たら、地球の上から、人間がロケットに乗って飛び出し、兼ねて探して置いた地点に上陸する", "随分日数がかかるでしょうネ", "まア一週間で行けるようになる", "それからどうなりますの", "第一に大切なことは、エネルギーを得ることだ。これは太陽から来る輻射熱を掴まえて、発電所を作る。そのエネルギーで、温めたり、明るくしたり、物を製造したりする。段々と品物は大きくなり、軈て月世界は、この大発電所だらけになって、温かくなり、水蒸気も水も出来、空気も地表に漂いはじめるだろうし、果ては地球と全く同じ状態になる", "なるほど、うまく行きそうですのネ", "地球が古くなると、もっと太陽に近い他の遊星、たとえば金星などへ移住を開始する。場合によると、この地球も、金星のそばへ、一緒に持っていってもいい", "そんなことが出来ますの", "出来るとも、引力打消器を完成すればよい。ピエゾ水晶板を使って、これの小さいのが出来る今日だから、明日にも大きいのが出来て、地球自由航路が開けるかも知れない", "地球自由航路て、なんですの", "地球自由航路というのは、地球が同じオービットに従って太陽の周囲を公転しなくてもいいことになるのだ。地球は宇宙のうちならどこへでも、恰度円タクを操るように、思うところへ動いてゆけるようになるだろう", "まア!", "その途中で、地球に愛想をつかした奴は、近づく他の遊星へ、どんどん移住してゆく", "他の遊星に、また人間がいて、喰いつきやしませんか", "一応それは心配だ。だが吾輩の説によると、まず大丈夫と思う。第一に、地球へ他の遊星から来る電磁波を、十年この方、世界の学者が研究しているが、その中には符号らしいものが一つも発見せられない。これは地球がどこからも呼びかけられていない証明になる。然るに、わが地球からは、今日既にヘビサイド・ケネリーの電離層を透過して、宇宙の奥深く撒きちらしている符号は日々非常に多い、短波の或るもの、それから超短波、極超短波の通信は地球内を目的としているが、地球外へも洩れている。これから考えても、地球の人類が、一番高等な生物だということが判る", "あたしにも判りますワ", "第二は地球の人類が他の遊星の生物から攻められたことがない点だ。人間の頭は今日、もし他の遊星へ行くんだったら、その生物を殺すつもりでいる。だのに、地球の人間の方は、まだ他の遊星から攻められたことがない。これから見ても、この宇宙には、われわれ人間以上に発達した生物がいないことが知れる。人間は、広い意味に於いて万物の霊長だと云えるのじゃ", "まア、博士は、なんて豪い方なんでしょ", "よいかな、お嬢さん。いまは大丈夫だ。しかし今から二万年位経ったあとでは、果して人間が宇宙に於てお職を張りとおすかどうかは疑問なのじゃ。そのころには、優秀な生物がどこかの遊星の上に出来て、本格的に地球征服を実行するかも知れない", "困ったわネ" ], [ "手をつけるッてどうするんですの", "いまでも全世界で、遊星へ飛ばすロケットを考えている学者が十五人、本当にロケットを建造したものが二人ある", "まア、もうそんなに進んでいるのですか。駭いた、あたし", "そんなロケットに乗ってみたいとは思わないかネ", "思いますワ、博士", "そうかい、では此の窓から、外を覗いて御覧", "アラ、博士。パノラマが見えますワ。宇宙の一角から、フットボール位の大きさに地球を見たところが……", "よく御覧、その地球は、見る見る小さくなってゆく!", "ああ、恐ろしいこと。ああ、あたしは気持が変になった!", "耳を澄ましてごらん。エンジンの音がきこえるだろう。ロケットの機尾から、瓦斯を出している音もするだろう", "では、もしや……", "ロケットは、地球を離れること九十五万キロメートル", "博士、冗談はよして、元の地球へ帰して下さい!", "わしは、君のような、若くて美しい女性がこの室に入ってくれるのを待っていた", "博士、あたしには許婚が……", "わしのロケットはあの第三十八階ですべての出発準備を整えていたのだ。唯、欠けていたのは遊星植民に大事な一対の男女――男はこのわし。その相手の女さえ来てくれると、それで準備は完了したのだ。さあオリオン星座附近で、新しい遊星を見付けて降下しよう。そこでお前は、幾人もの仔を産むのだ。今は淋しいが、もう二十万年も経てば、地球位には賑やかになるよ。おお、なんと愉快な旅ではないか", "ああ、あの人。編集長め! そして、ああ、地球よ……" ] ]
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房    1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1932(昭和7)年6月号 ※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫) 入力:tatsuki 校正:ペガサス ファイル作成: 2002年12月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001238", "作品名": "遊星植民説", "作品名読み": "ゆうせいしょくみんせつ", "ソート用読み": "ゆうせいしよくみんせつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-12-08T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card1238.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第1巻 遺言状放送", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年10月15日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年10月15日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "ペガサス", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1238_ruby_1836.zip", "テキストファイル最終更新日": "2002-12-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/1238_7901.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2002-12-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "じゃあ局長、警急受信機の方へ切りかえることにいたします", "ああ、そうしたまえ。僕も、すこし睡くなったよ" ], [ "おい、丸尾、すぐ方向を測りたまえ", "はあ、方向を測ります" ], [ "どうだい、方向はとれたか", "はい、とれました。ほぼ南南東微東です", "なに、南南東微東か" ], [ "船長が出ました", "おうそうか" ], [ "船長、ただ今SOSを受信いたしました。遺憾ながら電文の前の方は聞きもらしましたので途中からでありますが、こんなことを打ってきました。“――船底ガ大破シ、浸水ハナハダシ。沈没マデ後数十分ノ余裕シカナシ。至急救助ヲ乞ウ”というのです", "どこの汽船かね。そして船名はなんというのかね" ], [ "ひょっとすると、どこかの軍艦かもしれない。さもなければ海賊船か。――で、その遭難の位置は、一体どこなのか", "その位置は不明です。もっともSOSの電文のはじめに打ったのかもしれませんが、聞きのがしました。なにしろ電源がよわっているらしく、電信はたいへん微弱で、とうとう途中で聞えなくなってしまったのです", "位置が分らんでは、救いにいけないじゃないか", "はあ、そうです。そこでさっき、丸尾にSOSを発信している船の方向を測らせました", "ほう、それはいい。で方向は出たかね" ], [ "どうした。なにか入ったかね", "はい、今また、きれぎれの信号がはいりました。しかし今度は遭難地点をついに聞きとることができました。“本船ノ位置ハ、略北緯百六十五度、東経三十二度ノ附近卜思ワレル”とありました", "なに、北緯百六十五度、東経三十二度の附近だというのか? それじゃこの辺じゃないか" ], [ "おい局長、こんどは、信号の方向を測ってみなかったかね", "はあ、測りました。方向は大体同じに出ましたが、前に測ったときほど明瞭ではありません。その点からいっても、たしかに本船は遭難地点に近づいているにちがいないのですが――", "そうか。じゃきっとそのへんに何かあるにちがいない。もっと念入りに探してみよう" ], [ "さあ、甲板へかけあがれ", "おい、こっちは機関室へいそぐんだ" ], [ "本船の救難信号は、無電で出したろうね", "はあ、最後まで正味三分間はありましたろう。その間、頑張って打電しました", "どこからか応答はなかったかね", "それが残念にも、一つもないので――", "こっちの無電は、たしかに電波を出しているのだろうね", "それは心配ありません。なにしろ打電している時間が短いものですからそれで返事が得られなかったものと思われます", "ふーむ" ], [ "はあ、ここに居ります", "さっき本船から無電したとき、本船が魚雷に見舞われたことを打電したかね", "はあ、それは本社宛の電報に、とりあえず報告しておきました。銚子局を経て、本社へ届くことでしょう", "そうか。それはよかった" ], [ "あっ、船が! 大きな船が通る", "えっ、大きな船が通るって、それはどこだ?", "あそこだ。あそこといっても見えないかもしれないが、左舷前方だ", "えっ、左舷前方か" ], [ "あっ、あれか。かなり大きな船じゃないか。呼ぼうや", "待て。うっかりしたことはするな。第一あの船を見ろ。無灯で通っているじゃないか。あれじゃないかなあ。和島丸へ魚雷をぶっぱなしたのは", "ふん、そうかもしれない。すると、うっかり呼べないや" ], [ "船長、第二号艇から信号です", "おお、なんだ", "無電技士の丸尾からの報告です。さっき彼は檣のうえから探照灯で洋上をさがしたところ、附近海上に一艘の貨物船らし無灯の船を発見した。その船が今左舷向こうを通るというのです", "そうか。分かったと返事をしろ" ], [ "おい、小銃を持っているのは貝谷だったな", "はい、貝谷です", "よし貝谷。かまうことはないからあの船へ一発だけ小銃をうってみろ。吃水よりすこし上の船腹を狙うんだ", "はい、心得ました" ], [ "おい、貝谷居るか", "はい、居りますよ。もっと撃ちますか", "うん、撃て。私が号令をかけるごとに一発ずつ撃って見ろ。狙いどころは、さっきとおなじところだ", "よし。ではいいか。一発撃て!" ], [ "船長、風浪がはげしくなってきて、他のボートがだんだん離れてゆくようです。このままでは、ばらばらになるかもしれません", "おおそうか" ], [ "おい、とうとう他のボートとはぐれてしまったらしい、それとも君には見えるかね", "えっ、他のボートが見えないのですか。三隻とも見えませんか" ], [ "はあ、持って来たことには来たんですけれど、駄目なんです。ゆうべ、ボートの中が水浸しになって、絶縁がすっかり駄目になりました。はなはだ残念です", "ふうむ、そいつは惜しいことをした" ], [ "船長、漕がなくてもいいのですか", "うむ、二三日はこのまま漂流をつづける覚悟でいこう。そのうちに、なにかいいことが向こうからやってくるだろう" ], [ "船長、水を呑ませていいですか", "うん、水は一番大切なものだ。とにかく今朝は、小さいニュームのコップに一杯ずつ呑むことにしよう。あとは夕方まではいけない", "えっ、あとは夕方までいけないのですか" ], [ "おい、そこにあるのは缶詰じゃないか", "おおそうだ。俺は手近にあった缶詰を卓子掛にくるんで持ちこんだのだった。こんな大事なものを、すっかり忘れていた" ], [ "おい、三つばかり、すぐあけようじゃないか", "待て、船長に伺ってみよう" ], [ "あけるのは、一個だけでたくさんだ。このうえ幾日かかって救助されるかわからないのだから、できるだけ食料を貯えておくのが勝ちだ。一個だけあけて、皆に廻すがいい", "たった一個ですか。それじゃ、皆の口に一口ずつも入らない" ], [ "水だ、飯よりも水が呑みたい。船長、もう一杯水を呑ませてください", "うん、いずれ呑ませてやる。もうすこし辛抱せい" ], [ "もうすこし布があれば帆が作れるんだがなあ", "だめだよ、どっちへいっていいかわからないのに、帆を作ったって仕様がないじゃないか" ], [ "おい、ボートだ! あそこにボートが浮いている", "えっ、ボートか", "和島丸のボートだろうか。どこだ、どこに見える" ], [ "おーい、和島丸のボート", "おーい、一号艇はここにいるぞ" ], [ "なるほど、これはおかしい。ボートのうえには櫂が見えない。櫂ばかりではない、人らしいものも見えないぞ。だが、あれはたしかに二号艇だ", "えっ、二号艇ですか。本当に人影がないのですか。どうしたんでしょう" ], [ "船長、ボートの中になにが見えます?", "うむ" ], [ "で、なにが二号艇内に見えるのですか。船長、はやくいってください", "血だ、血だ! 二号艇のなかは、血だらけなんだ", "えっ!" ], [ "あっ。ひでえことになっていらあ", "おお、これは一体どうしたというわけだろう?", "あ、あんなところに千切れた腕が" ], [ "いや、ちがう。それはちがうだろう", "でも、そうとしか考えられませんね", "たしかにそれはちがう。第一、われわれの仲間がこんなひどい殺人合戦をやるとは考えられない。第二に、もしそんなことがあったとしても、人骨ばかりにするというようなひどい殺し方をやる者が、われわれ仲間にあろうとは信じられない。しかも昨日の今日のことだからね" ], [ "船長、これを見てください。この手首は、なにか手紙らしいものをしっかと握っています", "おおそうか。こっちへよこせ" ], [ "おいおい、あれを見ろ。あのとおり、腕をひき裂きやがった。一度斬りつけただけでは足りないで、三筋も四筋も斬りつけてある", "うん、まるでフォークをつきこんで、ひき裂いたようだなあ", "ああ、猛獣の爪にひき裂かれたようではないか" ], [ "おい、一雨やってくるぜ。いまぴかりと光ったよ", "おう、入道雲の中で光ったね。うむ、風が出てきたぞ。これはまたやられるか" ], [ "おい離れるな", "おう、舵をとられるな" ], [ "あっ、幽霊船が通る!", "えっ、幽霊船!" ], [ "船長、私をあの幽霊船へやってください。私は仲間が、どうして殺されたかをよく調べてくるつもりです。きっと秘密は、あの船の中にあるのです", "わしもやってくだせえよ。船長さん。丸尾はいい青年で、わしに親切にしてくれた。ここでわしは丸尾のために仇をうたなくちゃ、生きながらえているのがつらい" ], [ "おい、はやく漕ぎよせろ。局長を見殺しにしちゃ、おれたちの顔にかかわる", "ほら、いまだ。とびうつれ" ], [ "雨に洗われて、うすくしか見えませんが、血の固まりを叩きつけたようなものが、点々としているのではないですか", "そうです。もしここが陸上なら、いやジャングルなら、猛獣の足跡とでもいうところでしょうな", "ふん、冗談じゃないよ。ここは海の上じゃないか" ], [ "局長、舷側のところで、みんなが局長の信号を待っていますぜ", "ああ、そうか。じゃあ、いよいよ船内を探してみることにしよう" ], [ "一体ここの船客たちは、どうしたんだろうね", "幽霊に喰い殺されちまったんですよ", "そうかなあ、それにしてはあまりに惨状がひどすぎるよ。ふん、ひょっとすると、この汽船の中に、恐ろしい流行病がはやりだして、全員みんなそれに斃れてしまったのではないかな" ], [ "そうだ、そうかもしれない。たとえば、ペストとか、或いはまた、まだ人間が知らないような細菌がこの船内にとびこんでさ、薬もなにも役に立たないから、皆死んでしまったというのはどうだ", "しかし局長、人骨だけ残っていて、満足な人体が残っていないのはどういうわけですかな" ], [ "局長、あれをごらんなさい。光る物は二つならんでいます。あれは動物の眼ですよ", "どこだい。よく見えないが……" ], [ "局長、一発撃たせてください。そうしないと、こっちがやられてしまいます", "じゃあ、……" ], [ "どうしたんだろうなあ、貝谷", "局長。うまく仕とめたんです。そばへいってみましょう" ], [ "ああ、もうすこしで、こいつに喰われてしまうところだった", "貝谷。お前の腕前には、感心したよ。いや、感心したばかりではない。危いところで生命を助けてもらったことを感謝するぞ。だが――" ], [ "おい貝谷。これで幽霊船の秘密が解けたではないか", "えっ、幽霊船の秘密だといいますと……", "ほら、甲板だの船橋だのに、人骨がちらばっていたことさ。つまりこの幽霊船には、檻を破った猛獣が暴れていたんだ。そして船員を片っ端から喰いあらしていたのにちがいない", "ああ、なるほど。猛獣だから、人間の肉をすっかり綺麗に喰べつくし、骨だけ残していたというわけですか。そうかもしれませんねえ" ], [ "じゃあ、外の奴を警戒しなければなりませんね", "そうだ、どっかその辺に潜んでいる奴があるかもしれない" ], [ "あっ、誰かが……", "うむ、猛獣が出たのかもしれない。すぐいってやろう。貝谷、続け!" ], [ "あっ、局長。いますいます、猛獣が五六頭います", "えっ、どこにいる?" ], [ "とにかく、このままでは、猛獣の餌食になるばかりだ。おい、貝谷。おれはこれから、船内へ入って、銃かピストルかを探してくるから、お前はここで頑張っていてくれ", "なんですって、局長。あなたひとりで船内へ入っては危い!" ], [ "ありがとう、ありがとう", "そんな挨拶はあとだ。さあ早くこの銃を持て。そしてもう一度船内へひっかえして、持てるだけ、銃だの弾丸だのを持て" ], [ "さあ、いよいよ猛獣狩といくか", "待て待て。皆がいくまでのこともなかろう。ここからこっち半分は猛獣狩にいくとして、あとの半分は船内捜索をやるから、俺についてこい" ], [ "なにを探しているんですか", "無電を打ったその記録書を探しているのさ。はたして例のSOS信号をうったのが、この幽霊船か、どうかをしらべておく必要があるのだ" ], [ "これだけ集ったが、SOS信号のものは一枚もない。そればかりか、この汽船は、今日でもう二十日間も一本の無電も打っていないのだ", "二十日間も、一本の無電も打っていないというと……", "つまり、無電技士がこの部屋からいなくなってからこっち、もう二十日になるのだ。すると、この汽船内に大事件が突発してから二十日間は経ったという勘定になる", "無電技士も、やっぱり猛獣に喰われてしまったというわけですかね" ], [ "局長、あれをごらんなさい。赤い豆電灯が点いたり消えたりしています", "どれ、どこだ" ], [ "こら、いのちが惜しければ、出てこいというんだ。出てこなければ、鉄砲をぶっぱなすぞ!", "おいおい貝谷。日本語が、外国人にわかるものか", "いや、私は大きな声を出すときには、日本語でなくちゃあ、だめなんです" ], [ "だ、だれだッ", "丸尾です!", "えっ、丸尾?" ], [ "幽霊? ばかをいうな。おれは、ちゃんと生きているぞ。生きている丸尾だ", "ははあ、幽霊ではなかったかな、なるほど" ], [ "丸尾、よく生きていた。わしは、漂流していると無人のボートの中でお前の片手を拾ったんだ。その手は、お前の書いた手紙を握っていた。だから、お前は、てっきり死んでしまったものと思って、あきらめていた。本当に、よく生きていたね。一体、これはどうしたのか", "いや、これには、たいへんな話があるのです。しかし、猛獣は、どうしました。ライオンだの豹だのが、この船には、たくさんいるのです", "それはもう皆、やっつけてしまった", "えっ、やっつけてしまった。本当ですか。じゃ安心していいですね。ああ、よかった" ], [ "猛獣狩は、もうすんだから、心配なしだ。それよりも、お前の方の話というのは……", "ああ、そのことです。和島丸の同僚が、三名、いるのです。それから、この汽船ボルク号の生き残り船員が七八名いますが、こいつらは、かなり重態です", "ほう、ボルク号。この汽船は、ボルク号というのか。どこの船か", "ノールウェイ船です", "うん、話をききたいけれど、それより前に、和島丸の仲間をよんできてやれ。心配しているだろう。私もよく顔をみたい。一体だれが生きのこっているのか", "はい、矢島に、川崎に、そして藤原です", "ほう、そうか。よくいってやれ。そして、あとでゆっくり、話をきこう" ], [ "船長、丸尾の話によって、なにもかも、すっかり分りましたぜ", "なにもかもというと、この幽霊船のことかね", "船のことはもちろん、例の怪しいSOSの無電信号のことまで、大体分りました", "ほほう、あのことまで、分ったか", "丸尾、船長に、今の話をもう一度報告しなさい" ], [ "そうです。あそこは、機関室へ通ずる廊下の出口だったのです。機関室へとびこんでみると、私は、そこに思いがけない、このボルク号の生残りの船員を七名、発見しました。彼等は、負傷と空腹とで、いずれもひどく弱っていました。そうでしょう。彼等は、この機関室へもぐりこんだばかりに、野獣に喰われる生命を助かったのです。しかし、その代り、食料品を取りにいくことも出来ず、もし出れば、すぐさま眼を光らせ鼻をうごめかせている獣に飛びつかれるものですから、やむを得ず、ここに空き腹を抱えて、我慢をしていたのです。そのうちに、すっかり疲労と衰弱とが来てしまって、もう一歩もたてなくなったといいます。何しろもうあれから、三週間近くになるそうですからね", "三週間。そうだろう。その位になるはずだ。無電日記を見て、私は知っている" ], [ "そのことです。私は、ボルク号の船員にたずねて、はじめて事情を知ったのです。この汽船は、ノールウェイに国籍があるのですが、アフリカで、たくさんの猛獣を仕入れ、これから南米に寄港して、本国にかえるところだったんだそうです。アフリカと南米では、かなりたくさんの金属材料や食料品をつむことになっていたそうですが、これらは、どうやら、ドイツへ入るものだと知れていました。ところで、この船に、イギリスのスパイと思われる一組の客が乗っていたのです。船が、南米へ向う途中、そのスパイどもは、下級船員に金をやって、猛獣の檻をやぶらせたのです。はじめは、一さわがせやるだけのつもりのところ、その結果、とんでもないことが起りました。猛獣は、人間の血を味わうと、たいへんに、いきり立ったのです。そして、檻の中におとなしくしていた猛獣たちも、ついには檻を破って一しょにあばれだしたのです。全く手がつけられなくなりました。殊に、猛獣対人間の最初の戦闘において、かなり腕ぷしのつよい連中がやられ、高級船員も相当たおれ、それからボートを出して船を捨てて逃げだすなど、たいへんなさわぎになったそうです。しかも運わるく、そこへ台風がやってくるし、さんざんの目にあって、ついにこの汽船の中には、機関室に閉じこもった少数の乗組員の外には、誰もいなくなったのです", "なるほど、そうかね。聞けば聞くほど、たいへんな事情だなあ", "ボルク号の船員をいたわっているところへ、どこからはいこんできたのか、矢島がはじめに、機関室へ辿りつき、ついで、川崎と藤原とが一緒に、とびこんできました。そして機関室には、にわかに人が殖えたのです。それだけに、食うものに困ってしまいました" ], [ "ところで、あのSOSの筏は、何者が仕掛けたのかね。あの黒いリボンのついた花環をつけて筏にのって流れていた無電機のことさ", "ああ、あれですか。あれは、どうもよくわからないのです" ], [ "船長、あれについて、私は一つの考えをもっているのですが……", "そうかね、どういう考えか", "あれは、わが和島丸を雷撃した怪潜水艦がつかった囮だと思います" ], [ "その怪潜水艦は、ボルク号を狙っていたのだと、私は想像しています", "え、ボルク号を……", "そうです。ボルク号が、その附近を通りかかるのを狙っていたところ、その前にボルク号は、あの猛獣さわぎをひきおこしたわけです。そしてボルク号の機関は停るわ、折からの台風に翻弄されたわけで、幽霊船とばけてしまい、怪潜水艦が仕掛けたあの怪電もボルク号には伝わらず、かえって、わが和島丸がその怪無電を傍受して、現場にかけつけたためボルク号に代って、こっちが魚雷を喰ったというわけではないかと考えますが、いかがでしょう" ], [ "船長。その怪潜水艦というのは、どこの国の潜水艦なんでしょうか", "さあ、わからないね", "イギリスの潜水艦じゃないですかな。アメリカを参戦させようというので、わざと南太平洋などで、あばれてみせたのではないでしょうか" ], [ "私は、どこかで、その潜水艦をみつけてやりたい。そして、大いに恨みをいってやらなきゃ、気がすまない。いや、こうしているうちに、今にも、怪潜水艦は、附近の海面に浮び上がってくるかもしれないぞ", "貝谷。お前は、その潜水艦に、ついにめぐりあえないかもしれない", "え、なぜですか、古谷局長", "私は、この船をしらべているうちに、こういう考えが出た。それは、かの怪潜水艦はわれわれの和島丸を沈没させた前後に、かの潜水艦も沈没したのだと想像している", "局長。君はなかなか想像力がつよい。しかしまさかね", "いや、船長、このボルク号の艦首は、ひどく壊れているのです。舳のところに何物かをぶっつけた痕があります。私は、怪潜水艦が和島丸を沈没させたのち、海面にうきあがって、面白そうにこっちの遭難ぶりを見物しているとき、いきなり横合から、機関の停っているこのボルク号が、音もなく潜水艦のうえにのりあげた――と、考えているのです。そんなことがあれば、潜水艦は直ちに沈没してしまいます。ボルク号の舳は、そのときに、大破したのではないでしょうか。なにしろ、その後、一度も怪潜水艦の姿は、現われないのですからねえ" ] ]
底本:「海野十三全集 第9巻 怪鳥艇」三一書房    1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷発行 初出:不詳 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:原田頌子 2004年3月5日作成 2009年7月31日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "お母さん。どうしたの、お隣の木見さんの前に、警視庁なんかの自動車がとまっていますよ", "ああ、そうかい。さっき自動車の音がしたと思ったが、そうだったのね", "どうしたのよ、お母さん。木見さんのお家では……" ], [ "それがね、よく分らないけれど、木見さんの雪子さんが、どこへいかれたか、行方不明なんですってよ", "へえ、雪子姉さんが……" ], [ "さあ、それがね道夫さん、どうも変てこなのよ", "変てこって", "つまり、雪子さんはお家からでていったように思われないんですって、お家には、雪子さんの靴を始め履物全部がちゃんとしているの。だのに、家中どこを探しても雪子さんの姿が見えないの。変てこでしょう" ], [ "じゃあ、雪子姉さんは、はだしで家をでたんでしょう", "ところが、そうとも思われないのよ。なぜってね、雪子さんは昨夜おそくまで自分の研究室で仕事をしていらしたの。そして研究室には内側からちゃんと鍵がかかっていたんですって、今朝木見さんのお父さんが雪子さんの部屋をおしらべになったときにはね。だから雪子さんは、研究室の中に必ずいなさらなければならないはずなのに、実際は、扉をうち破って調べてみても、雪子さんの姿がないのですってよ", "へえ、それはふしぎだなあ" ], [ "ああ分った。窓からでていったんでしょう", "いいえ、窓も皆、内側から錠が下りていたのよ", "じゃあ、研究室の外から鍵をかけて、でていったんじゃないかしら", "ところがね、研究室の扉の鍵は、内側からさしこんだまんまになっているんだから、外から別の鍵をつかうわけにはいかないんですって", "ふうん。それじゃ雪子さんは、煙になって煙突からでていったとしか思われませんね" ], [ "そうよ。裏手へまわって、あの空地のあたりから、雪子さんの研究室の方を、のびあがって見ていたわ", "怪しい浮浪者だわね。そうそうあの人はよくあの裏手の空地にある大きな銀杏の樹の上にのぼって昼寝していることがあったわよ。あたし、それを見て、きゃっといって飛んで帰ったことがあるわ", "いよいよ怪しいわね。あの浮浪者、どこへいってしまったんでしょうか。雪子さんの事件以来、二度と姿を見かけないわね", "どこへいってしまったんでしょう。まさか雪子さんをつれて逃げたんじゃないでしょうね", "まさか、あんな年寄りに", "でも、分らないわよ。変に気味のわるい人なんですものね", "ひょっとしたら、あの浮浪者、そのへんにかくれているんじゃない", "いやあ、そ、そんなことをいっておどかしては……" ], [ "あの入口の扉は、いつもちゃんとしめてありますの。なんだか気味がわるくてね", "はあ、そうですか。そして、鍵はどうでしょう。昨夜研究室の扉の鍵はかけてありましたか。どうなんですか", "鍵? ええ鍵はちゃんとかけてありましたよ。まあ、なぜそんなことをお聞きなさるの", "ええ、それは……それはちょっと考えてみたいことがあったからです" ], [ "君の力では解けない問題だって、代数かね、それとも力学の問題かね", "いえ、そうじゃないんです。行方不明事件とお化け問題なんです", "えっ、何だって。行方不明事件にお化けだって", "そうなんです。先生も新聞でごらんになってご存じかと思いますが……" ], [ "そうですか。そういう名探偵がいるでしょうか。うまくたのめましょうか。そして雪子姉さん――いや木見学士をうまく取りもどして下さるでしょうか", "さあ、そのことだがね。……心当りの人がひとりないでもないのだが、あいにく不在なんだ。よく旅行にでかける人でね", "じゃあ今お頼みできないわけですね。困ったなあ", "まあ三田君。そう悲観しないでもいいよ" ], [ "ですが先生、僕のような力のない者がひとりで事件の解決に当って見ても、とても駄目だと分ったんですからね", "ああ、それはそうだが……" ], [ "よし、三田君、じゃあ私ができるだけ君に力をかそうじゃないか。もちろん二人だけの力ではだめだと思うが、君ひとりよりもましだし、それに私は君の話によって、ある特別の興味もおこったので、私の方からむしろ君の仕事に参加させてもらおうや。そのうちに私の心当りの人が帰ってくるだろうと思うんだ", "先生、どうも有難う。僕は千人力をえた気持です", "そうでもないが……", "で、その心当りの人というのは、誰方なんですか", "それはね、私の同郷の先輩でね、蜂矢十六という人なんだ", "蜂矢十六? ああ、するとあの有名な大探偵蜂矢十六氏のことですね。空魔事件、宝石環事件、百万円金塊事件などを迷宮の中から解決したあの大探偵のことですね" ], [ "暗いですね、電灯をつけましょう。はてどこにあったかな、スイッチは……", "小父さん、ここにありますよ" ], [ "いえ、もっと丸卓子の方へよっているように思いました", "するとここらだね" ], [ "おい、どうしたんだ、そんな頓狂な声をあげて。……おい、落着きなさい", "ああ貴郎。雪子ですよ、雪子が今、ここへ入ってきたでしょう", "なに、雪子が……" ], [ "いえ、たしかに見ましたですよ。廊下をこっちへ歩いていくのを……", "変だね。でもたしかに入ってこないよ", "じゃあ、あれは幽霊だったでしょうか", "幽霊? そんなものが今時あるものか", "いや、幽霊ですよ。幽霊にちがいないと思うわけは、後姿は雪子に違いないんですが、背がね、いやに低いんですよ" ], [ "あの怪しい老浮浪者です。あいつを捕えましょう。あいつは、この窓の下から中の様子を見ていたか、それともこの部屋へ出入したかもしれないんです", "この部屋へ出入りができるとも思われんが、とにかく捕えて詰問しよう。家宅侵入をおかしたことは確かだろう" ], [ "やっ", "いたぞ" ], [ "それにあの怪しい老人の浮浪者も見たらしいからね。しかもあの研究ノート第九冊を、雪子さんが持去るところを見たといったようだ。とにかく三人も見た人があるんだから、昨日ここへ雪子さんが姿を現わしたことは間違いなしだと思う", "じゃあ、やっぱりそれは雪子姉さんの幽霊ですね", "問題はそこだ。果して幽霊かどうか。もう一度現われてくれれば、きっとそれをはっきり確めることができると思うんだが……" ], [ "窓をあけて、追いかけましょう。間にあうかもしれないです", "そうだ、窓をあけろ" ], [ "どういうわけでしょうね。幽霊が消えるのはわかっているが、生きている人間まで消えてなくなるというのは、さっぱり訳がわからない", "その川北先生は、幽霊を追いかけて、遠くまでいってしまったんじゃないですか。そのうち先生は、ふうふういいながら、ここへもどってこられるのではないですかな" ], [ "われわれの手に負えませんなあ。どうです。やっぱりできるだけ早くその筋へ申告して、警視庁の手で調べて貰うことにしてはどうですか", "そうだ。そうする外、道がありませんねえ" ], [ "ああ、木見さんの奥さんの声……", "さあ、皆いってみましょう" ], [ "わたしは、お父さんが外から家へ上って廊下を歩いていなさるのだと思っていたんです。でも、何だか変だから、立っていって廊下の方をすかして見たんですの。廊下はうすぐらくて、よく見分けがつかなかったんですけれど、たしかに黒い人影が向うへ動いていきます。背の低い、熊のようにまっくろな者が離家の方へ。……ああ、こわかった", "雪子の幽霊なのか、幽霊じゃないのか", "さあ、どうでしょうか、でも雪子の幽霊なら、その後姿はありありと見える筈なんですがね、ところが今見たのはただまっくろでしたよ", "よし、そうか。離れの方へいったんだな。皆さん、手を貸して頂きましょう" ], [ "いないぞ、どうしたんだろう", "たしかに誰かこの部屋にいたんだが……" ], [ "いないぞ、変だなあ", "でも、この部屋でたしかに人のいる気配と物音がした", "あれはすぐ消えて見えなくなるのじゃないですか" ], [ "あれが、あんな大きな物音をたてるというのはふしぎだ。あれは元来静かなもので、ただ自分がかぼそい声をだして、『恨めしや』とかなんとか……", "よしたまえ、そんな変な声をだすのは" ], [ "えっ。わかったとは何が……", "この硝子窓があいているのです", "硝子窓は閉っているじゃないか", "いや、この窓は一旦あけられた上で閉められたんです", "どういうのですって", "つまり、何物かがこの部屋にいて、この窓を明けたんです。ああ、そうだ。それから彼は外へ飛び下りた、庭へですよ。そして外からこの硝子戸を元のように閉めた。だからこの硝子戸には、内側にかけ金がありながら、ほらこのようにかけ金が外れているのです。ねえ、木見さんの小父さん。この窓のかけ金は、いつもちゃんとかけてあるんですね", "そうだ。いつもかけてある。厳重に戸締りしてありました", "すると、その窓を明けて、誰か外へ逃げだしたんだな", "幽霊が外へ逃げだしたんですか", "幽霊じゃないですよ。これはかけ金を外すくらいだから、生きている人間ですよ。まだその辺に隠れているかもしれない。皆さん、早く外へでて、見つけて下さい" ], [ "いたぞ", "こら、待てッ", "逃がすな。皆、こい" ], [ "暗いものだからね、とうとう見失ってしまった", "相手が幽霊じゃ、もともとぼんやりしか見えないものですからねえ", "やっぱり幽霊ですかね。私は、足音を聞いたように思いますよ。幽霊に足音はおかしいですからねえ。かねて幽霊には足がないと聞いていますからねえ", "いや、私は足音を聞かなかった。そして幽霊を今田さんの塀のところまで追いつめたんだが、とたんに私は足を滑らせて、はっとしたんですがね、それでおしまいでした。もう幽霊の姿はどこにも見えなかった", "この眼鏡は、どなたの眼鏡でしょうか" ], [ "さあおあがり、お腹がすいたろう", "あなたは、いったいどなたですか。そしてここはどこです。僕はどうしてこんなところへきたのでしょうか" ], [ "元気になったところで、われわれの仕事を急ごうね", "……", "道夫君。この際つまらんことは一切考えたり、迷ったりしないことだ。われわれは一直線に木見学士を救いだすことに進まねばならない。君は僕のさしずするとおりにやってくれるね", "はあ、でも……", "でもそれがよくない。疑ったり迷ったりしていると、もう間に合わないかもしれない" ], [ "それではカーテンをしめるよ", "待って下さい。どうするのですか、僕は……" ], [ "君は何にも考えないのがいいのだ。カーテンを引けばこの部屋は暗黒になる。君はそのままじっと椅子に腰をかけていればいいのだ。なにごとも予期してはいけない。しかしなにごとかが起ったら君はおどろかずさわがず、つとめて心を平静に保って、向き合っていればよい。君から決して自分から働きかけては駄目だ。相手が何かいったら、それにこたえればいいのだ", "相手というと誰ですか。あなたですか", "いや、なにごとも予期してはいけないのだ……そしてもういい頃になったら、僕がもういいというからね、それまでは君は椅子から立上ってはいけないよ。分ったね", "分りました。でも、いや、やりましょう" ], [ "はい。それがどうも……生きているというだけのことで、重態ですな", "負傷しているのかね", "いや、大した負傷ではありませんが、なにぶんにも意識が回復しません。こんこんとねむっているかと思うと、ときどき大きいこえでうわごとをいうのです。よほどここの所をやられているようですな" ], [ "なに、ハチヤ!", "ええハチヤさん。課長とご懇意だということでしたが", "わしは――" ], [ "あの川北君は、僕と同郷の者で古くから親しくしていたのです。この間中から、しきりに僕に会いたがっていましたが、まさかこうなるとは思わず、もっと早く連絡をしてやればよかったですよ", "本人はここで、君に何かしゃべったかね" ], [ "は。ときどきいいます", "蜂矢さんが手帳に書きとめて居られましたです。蜂矢さんをお呼びしましょうか", "いや、よろしい" ], [ "これは駄目じゃね。ねえ黒川君", "重態ですな。注射と滋養浣腸をやってみましょう。明日の朝までに勝負がつくでしょうな", "どっちだい、君の見込みは……" ], [ "どうです。課長さん。その道夫君というのをすぐここへ呼んでやったらどうでしょうかね", "なに、道夫を呼ぶ" ], [ "正気に戻るのはいつのことかね", "さあ、それは全く不明です。もっと経過をみませんことには何ともいえませんな" ], [ "二三日様子を見てからにしましょう。すぐ動かすのは危険です", "二三日後だね。よろしい。適当に宿直員をふやして懸命に保護を加えてくれたまえ。そしてもし変ったことがあったら、すぐわしのところへ報告するように", "は、わかりました。で、課長は今日はお引きあげですか", "うん、こんなところにいつまでも居るわけにいかん。それに、昨日ここへ呼んだ少年の話も興味があるから、この事件は従来の方針を改めて徹底的にしらべることにする。幽霊事件なんてものが、今どきこの東京にひろがっては困るからね。あの川北が発見されたのがきっかけとなって、昨日の夕刊今朝の朝刊、新聞社は大々的文字でこの事件を書きたてているじゃないか。幽霊が今どきこの世の中を大手をふって歩きまわるなんてことを本気になって都民が信ずるようになっては困るからなあ", "それはそうですな。そういえば幽霊の存在を信ぜざる者は、この怪事件を解く資格なしなどという社説をだしている新聞もありましたね", "けしからん記事だ。あの社説内容のでどころは、わしにはちゃんと分っている。誰があんな社説を流布したか、わしは知っている", "あははは。あの蜂矢探偵のことですか" ], [ "いや、僕は総監室からこっちへきたものですからね、貴官の部下には失策はないのですよ", "総監だって誰だって、君をのこのこ、この部屋へ入らせることはできない。さあ、あっちの応接室へきたまえ" ], [ "連絡はすぐとるようにと、注意をしおいたのに、なぜ君の旅行先へ連絡しなかったのか", "留守の者には、僕の行先を知らせておかなかったものですからね。もっとも短波放送で貴官が僕に御用のあることは了解したのですが、何分にも遠いところにいたものですから、ちょっくらかんたんに帰ってこられなくて", "どこに居たのかね、君は", "ロンドンですよ", "なに、ロンドン? イギリスのロンドンのことかね", "そうです", "何用あって……", "幽霊の研究のために……", "よさんか。わしを馬鹿にする気か", "そうお思いになれば仕方がありませんから、そういうことにして置きましょう。しかしですな、御参考のために申上げますと、幽霊の研究はイギリスが本場なんです。殊にケンブリッジ大学のオリバー・ロッジ研究室が大したものですね。それからこれは法人ですがコーナン・ドイル財団の心霊研究所もなかなかやっていますがね", "もうたくさんだ。君のかんちがいで見当ちがいを調べるのは勝手だが、わしの担任している木見、川北事件は幽霊なんかに関係はありゃしない。純粋の刑事事件だ", "それは失礼ながら違うですぞ。もっとも幽霊がでる刑事事件もないではないでしょうが", "わしは断言する。この事件に幽霊なんてものは関係なしだ。幽霊をかつぎだすのは世間をさわがせて、何かをたくらんでいる者の仕業だ。わしは確証をつかんでいる", "困りましたね。僕の考えは課長さんのお考えと正反対です。この事件において、幽霊の真相を解かないかぎり、事件は解決しません", "君はずいぶん強情だね。ここのところはたしかなのかい" ], [ "ねえ、課長さん。貴官はまだ幽霊をごらんになったことがないからそうおっしゃるのでしょう。だから一度ごらんになったら、そんな風にはおっしゃらないでしょう", "とんだことをいう、君は……", "いや、ほんとうですよ。では貴官に幽霊を見せる機会をつくりやしょう", "なんて馬鹿げたことを君はいうのか", "よろしい。そのことは引受けやした。多分成功するでしょう。しかしかなり忍耐もしていただきたくそれに僕のいう条件をまもっていただかねばなりません。そして幽霊は、さしあたりこの警視庁の中へだすことにしましょう。それも貴官の課の部屋へでてもらいましょう", "君は冗談をいってるんだ。もう帰ってもらおう", "いや、僕はまちがいなく本気です", "阿呆は、きっとそういうものだ、自分は阿呆じゃないとね" ], [ "魚を釣るにはえさが要るように、幽霊をつりだすにも、やはりえさが必要なのです。僕は今日の午後そのえさを持ってきて貴官の机の上に置きます。但しこのえさは絶対に貴官たちの手によって没収しないようにねがいます。たとえそれがどんなに貴官たちをほしがらせても。約束して下さいますか", "約束はいくらでもするがね、だが……", "幽霊のでる時刻は夕方になってあたりが薄暗くなりかけてから始まり翌日の夜明けまでの間です。こんなことは御存じでしょうが……", "そんな講義はもうたくさんだよ", "うまくいけば今夜のうちにもでるでしょう、うまくいかなくても二三日中にはきっとでます", "もしでなかったときは、どうする", "そのときは僕を逮捕なさるもいいでしょう。木見雪子学士殺害の容疑者としてでも何でもいいですがね", "よし、その言葉を忘れるな", "忘れるものですか" ], [ "仕事を妨害? とんでもない。木見雪子事件を解くことは、あなたがたにとって最も重要な仕事じゃありませんか。少くとも都民はこの事件の解決ぶりを非常に熱心に注目しているのですからね。なんなら今朝の新聞をごらんにいれましょうか、そこには都民の声として……", "それは知っているよ。しかしこの部屋へ幽霊を招く?そんな非科学的なばかばかしい興行に関係している暇はないからね", "その問題はすでに昨日解決している。今日になって改めてむしかえすのは面白くない。僕はちゃんと賭けているのですからね。賭けている限り僕はこの試合場に準備を施す権利がある。そうでしょう。――もっとも幽霊学士を迎えるのは夕刻から早暁までの暗い時刻に限るわけだから、僕の註文する仕度は、今日の夕刻までに完成して頂けばいいのです。窓のカーテンは皆おろしてもらいましょう。電灯はつけないこと。諸官はこの部屋にいてもよろしいが、なるべく静粛にしていて、さわがないこと。いいですね、覚えていて下さい", "おい古島刑事、お前に幽霊係を命ずるから、蜂矢君のいうだんどりをよく覚えていて、まちがいなく舞台装置の手配をたのむよ" ], [ "はっ。だけど課長さん。これは一つ、誰か他へ命じて貰いたいですね。わしは昔からなめくじと幽霊は鬼門なんで……", "笑わせるなよ、古島君。お前の年齢で幽霊がこわいもなにもあるものかね", "いえ。それが駄目なんです。はっきり駄目なんで。……課長が無理やりにわしにおしつけるのはいいが、さあ幽霊が花道へ現われたら、とたんに幽霊接待係のわしが白眼をむいてひっくりかえったじゃ、ごめいわくはわしよりも課長さんの方に大きく響きますぜ。願い下げです。全くの話が、こればかりは……" ], [ "私が命令した以上、ぜいたくをいうことは許されない。ひっくりかえろうと何をしようと幽霊係を命ずる", "わしの職掌は犯人と取組あいをすることで、幽霊の世話をすることは職掌にないですぞ", "あってもなくても幽霊係をつとめるんだ。もっとももう一人補助者として金庫番の山形君をつけてやろう", "課長。よろこんで引受けます" ], [ "それではよろしく用意をととのえておいて頂くとして、僕はいったん引揚げ、夕刻にまたやってきます。それから課長さん。僕がここに持ってきた『幽霊の餌』は大切な品物ですから、盗難にかからないように保管しておいて下さい", "盗難にかからないようにだって? 冗談じゃないよ、ここは捜査課長室だよ、君……" ], [ "もちろん幽霊なんてものを捜査課長が信ずるものかい。そんなことをすれば、たちまち権威がなくなってしまう。しかし蜂矢と約束した以上、一応その幽霊実験をやらねばならない。どうせ幽霊はでやせんよ。その上で蜂矢を一つぎゅっとしぼってやるのだ、ちょうどいい機会だからな", "すると、やっぱり幽霊をこの部屋へ案内しなけりゃならないのですね。いやだねえ", "でやしないというのに……", "いや、わしは幽霊がでてくるような気がしてなりませんや。課長、その気味の悪い紙包の中には一体何が入っているんですか", "さあ何が入っているかな、調べてみよう" ], [ "このパンフレットを金庫の中にしまってくれ。他の重要証拠品といっしょにしてね、奥へ入れておくんだ", "はい。金庫の一番奥へ入れておきます。三つ鍵を使わなければあかない引出へ入れます" ], [ "いや、とつぜん原子力時代がきてわれわれをおどろかせた如く、今日こそ幽霊というものを科学的に見直す必要があると――或る人がいっているんですがね", "そんなことをいう奴は、よろしく箱根山を駕籠で越す時代へかえれだよ。蜂矢君、もし幽霊がでなかったら、君にはいいたいことがたくさんあるよ", "そのときつつしんで拝聴しましょう。しかしその反対に幽霊がこの部屋にでてきたら、賭は僕の勝ですよ。そのときは課長ご秘蔵の河童の煙管を頂きたいものですがね" ], [ "河童の煙管でも何でもあげるよ、君が勝ったときにはね", "それは有難い。課長あなたの河童の煙管の雁首のあたりまでがもう僕の所有物にかわったですよ", "なに、煙管の雁首がどうしたと……" ], [ "ところが、とりもどしたいにも、大金庫はどこへいったか分らんのです", "そこの壁の中へ、すうっと入っていったがねえ。幽霊が、こんな手つきをして引っぱっていったが……" ], [ "そんなばかばかしいことがあってたまるか、大金庫は硬くて大きいんだぞ。それが壁の中へ入るなんて、そんなことは考えられん", "いや、課長、たしかにすっと壁の中へ入っていったです。私はそれを追いかけていって、このとおり壁で鼻をいやというほどつぶしてしまいました" ], [ "ですが課長。あの重い大金庫がそうやすやすと動くはずがないんです。移動するにはいつも十人ぐらいの手がかかるんですからね。――ところが、ごらんのとおり、大金庫のあったところはぽっかりと空いています。わけが分らんですなあ", "なるほど、たしかにさっきまでここに大金庫があったわけだが、今は無い!", "課長! 重要なことを思いだしました" ], [ "なんだ。早くいえ", "この前、木見の家の研究室で私が聞いたことですが、あの女の幽霊は、あつい壁でも塀でも平気ですうすう通りぬけていったそうですぞ。だから今もあの幽霊は、この壁を通りぬけて外へでていったのじゃないかと思うんです", "しかしあの大金庫が壁を通るかよ", "通るかもしれませんよ。この前のときは、あの幽霊は本をさらって小脇に抱えこんだまま、壁をすうっと向うへ通りぬけましたからね。だから、あの幽霊の手にかかった物は何でも壁を通りぬけちまうんではないでしょうかね" ], [ "だめです。幽霊のゆの字も見えません", "壁を通りぬければたしかにこっちへでてこなければならんのですがね" ], [ "幽霊も大金庫も壁の中に入ったまま、まだ外へでてこないんじゃないかな", "おい気味のわるいことをいうな。そんなら僕の立っている壁ぎわから幽霊のお嬢さんが顔をだすという段取になるぜ" ], [ "おい蜂矢君、君が幽霊なんか引っぱりこむもんだから、たいへんなさわぎになったよ。大金庫まで持っていっちまったよ、あの幽霊に役所の重要物件まで持っていかせては困るじゃないか、君", "待って下さい課長さん。お話をうかがっていると、まるで僕が幽霊使いのように聞えるじゃないですか" ], [ "正に君は幽霊使いだとみとめる。君のお膳立にしたがって、あのとおりちゃんと現われた幽霊だからね。なぜ君は幽霊を使って役所の大切な大金庫を盗ませたのか", "冗談じゃありませんよ、課長さん。幽霊使いなんてものがあってたまるものですか。はははは" ], [ "とにかく壁をぶちぬいてみるんですね", "いやそれはだめだ。それより全国へ手配してあの大金庫を探しださせるのがいい", "そんなことよりも、さっき幽霊が大金庫を持ってどっちへいったか、その目撃者はないか、それを大急ぎで調べる事ですよ", "そんなものを見たという者は、ただ一人も現われないよ、怪しげな雲をつかむような話だから、頼みにはならないよ", "困ったねえ。これじゃ全く手のつけようがありゃしない" ], [ "おや。へんなものがあるぞ", "あっ、そうだ。窓から飛びこんできたんだ", "窓からとびこんできたって、ああそうか。あの通り硝子窓が破れているからねえ" ], [ "やっぱり、うちの課の大金庫だ", "ふうん。蜂矢のいったとおりだったね。蜂矢は大金庫がきっと戻ってくるといっていたが……" ], [ "さあ、こんどは中身をしらべることだ。重要物件はどうなったかな", "課長。大金庫の鍵はちゃんとかかっていますよ。この分なら大丈夫です", "そうか。なるほど、ちゃんと鍵がかかっているな。よし、あけてみよう" ], [ "幽霊が相手じゃ、全くやりきれないよ", "仕方がない。われわれのやり方を、このへんでかえるんだな、今の調子じゃ、この事件はいつまでたっても解決しない", "やり方を変えるというと、どうするんだ", "幽霊の存在を認めて、それが何故に存在するかという研究から出発するんだ", "そんなむずかしいことができるもんか", "そうでもないよ。蜂矢探偵を講師によんで、彼から教わるんだ。彼はなかなか幽霊学にはくわしいらしい", "われわれとしては、蜂矢に教えをこうなんてことはできないよ", "でもそれではいつまでたっても解決の日がこない。どうしたら幽霊を逮捕することができるだろうか、誰か大学へいって相談してきたらどうだろうかね" ], [ "あたしのことでみなさんがさわいでいるのでしょう", "ええ、そうですよ。雪子姉さんの幽霊がでるといっています。ほんとうに雪子姉さんは幽霊なんですか。それとも生きているんですか", "道夫さんはどっちと思いますか", "ぼくは……ぼくは、雪子姉さんは幽霊じゃない。ちゃんと生きていると思うんだけれど……" ], [ "あたしが生きているかどうか、幽霊か幽霊でないか、そのことは今に道夫さんにくわしくお話をしますわ。それよりも今はとても大事なことがあるのよ。道夫さん。あたしをたすけて下さらない。あたしのお願いするところへいって、お願いすることをして下さらない", "なんでもしますよ、雪子姉さんのためなら。……それに姉さんがそんなに困っているんなら、ほくの生命をなげだしても助けますよ" ], [ "いいですよ。大丈夫。苦しくても、ぼく泣かないよ。しかしどこへいくの", "いけば分るの。そしてお願いだけれど、これからあたしと行動を共にすると、ずいぶんふしぎなことが次々に起るんだけれど、なるべくそれについて、いちいちわけをきかないようにしてね。でないと、いちいちそれをあたしが説明していると、かんじんの仕事ができなくなるんですものね。くわしいことは、あたしが救われて安全になった上で十分お話することにして、それまでだまって、あたしのさしずに従って下さいね。いいこと" ], [ "さあ、それではいきましょう。道夫さん、目をつぶっていて。そしてちょっとの間、苦しいでしょうけれど、がまんしていてね、あんまり苦しければ、そういってもいいことよ。でもなるべくがまんして下さるのよ。そして眼をあけていいわといったら、眼をお開きなさいね", "分ったよ", "そしてその間、あたしは道夫さんの身体を抱えているんだけれど、おどろいちゃだめよ。なんだか気味のわるい振動を感じるかもしれないけれど。……それからもう一つ、道夫さんの方から、あたしの身体にすがりついてはだめよ。これはきっと守ってね", "面倒くさいんだなあ。ぼく、いちいちそんなことおぼえていられないや" ], [ "そうよ。ですから、道夫さんは、ただあたしの命令にしたがってさえいればいいの、分るでしょう", "はあん", "じゃあ、眼をとじていますね。これからでかけるのよ。ちょっとの間、苦しいでしょうが、がまんしてね" ], [ "なに? それは……", "四次元の世界のことよ。知っていますか、道夫さんは、四次元世界がどんなものであるかということを", "ぼく、知らない" ], [ "分らないね", "だって三次元よ。つまり、その世界にあるあらゆる物は、横と縦と高さがある。たとえばマッチの箱をとって考えると、横が五センチ、縦が四センチ、高さが二センチ位ね。つまり横、縦、高さという三つの寸法ではかられるものでしょう。人間でもそうだわ。横も縦も高さもあるわね。つまり三次元というと、立体のことなの。道夫さんの住んでいる世界は立体の世界なの。わかります?", "わかるような気がするけれど……", "まあ、わかるような気がするなんて、心細いのね。――二次元世界というとこれは平面の世界なの。そこには高さというものがなくて、横と縦とだけがあるの。ちょうど、紙の表面がそれね。これが二次元世界", "立体が三次元、平面が二次元というわけだね。じゃあ一次元というのがあるかしら", "もちろん有るわよ。それは長さだけがある世界のこと。高さはないし、横、縦の区別がなく、ただ長さだけがある世界。これが一次元世界。――そこで四次元世界というものを考えることができるでしょう", "ああ、四次元世界!" ], [ "一次元世界は長さだけの世界なの。二次元世界では横の長さと縦の長さがある世界ですから平面の世界。その次は三次元世界となって、平面の世界に高さが加わり、横と縦と高さのある世界、つまり立体の世界だわね。分るでしょう", "さっきから同じことばかりいっているよ", "では四次元の世界はどんなものでしょうか。今まで考えたことから、次元が一つ増すごとに、新しい軸が加わっていく。立体の世界に、もし一つの軸が加われば、すなわち四次元世界となるわけ。さあ考えて下さい。想像して下さい。四次元の世界は、どんな形をもった世界でしょう", "そんなむつかしいこと、わからないや" ], [ "四次元世界なんて、どんな形だか、てんでわからないや", "そうなのね。四次元世界はどんな形のところだか、それをいいあらわすことはちょっとむずかしいわけね。なぜむずかしいかというと、人間は三次元の世界に住んでいるからなの。三次元世界の者には、それよりも一つ上の次元の世界のことはわからないわけですものね。たとえば、いま平面の世界があったとして、それに住んでいる生物は、どう考えても立体世界というものが分りかねるの。それは平面世界には、高さというものがないから――高さがあれば平面ではなくなりますものね――だから立体というものを想像することができないの。無理はないわね" ], [ "それと同じように、立体世界、すなわち三次元世界に住んでいる者は、それより一つ高次の四次元世界を考えることができないわけなのね。どこまでかけだしていっても、要するに横と縦の高さの三つでできている世界であって、その上にもう一つの軸を考えることができないんですものね。別のことばでいうと、三次元世界の者は、三次元世界からぬけだすことができないために、もう一つの元がどんなものであるか、それを感ずることができない", "もういいよ、その話は……", "しかし、一次元世界があり、二次元世界があり、三次元世界があるものなら、四次元世界があってもいいし、さらに五次元、六次元もあっていい。つまり算数の理からいえば、そういえるわけね", "算数は、考えるだけのことでしょう。それより、ほんとうにその四次元世界というのがあるのかどうか、それを知りたいなあ", "それはあるのよ。ちゃんとあるのよ、四次元世界というものがね。それについてあたしは、ぜひ幽霊のお話をしなければならないの。あの幽霊というものは、四次元世界の者が、三次元世界に重なって、そしてできるところの『切口』であるという結論をお話しなければならないの。その方が、早わかりがしますからね", "むずかしいお話はごめんだ。ぼくは雪子姉さんのように勉強もしていないし、あたまもよくないんだからね" ], [ "道夫さん。しっかりしてよ。そんなに気が弱くてはだめね", "だって、仕方がないや", "幽霊なんかこわがっていてはだめよ、何でもないんだから……", "だって……", "さあ、これをごらんなさい" ], [ "お芋の尻尾が、はじめて水の表面についたときは、二次元世界では、お芋を小さな点と感じます。分るわねえ。――お芋はだんだん下におち、小さな点だと思ったものはだんだんひろがってきます。つまりお芋と水の交わったところを考えればいいのよ。――別なことばでいえばお芋がはじめて水にぬれた部分のことを考えればいいのよ――二次元の世界の生物は大きくなる円を感じます。お芋の一番胴中の太いところが水の表面についたとき、二次元世界では、最も大きくなった円を感じるわけね。それから先は、お芋のまわりはでこぼこしているので、その円が妙にうごくように感じます。そうでしょう", "うん" ], [ "ねえ、道夫さん。今のお話がわかると、こんどは次元を一つあげて考えてみたいのよ。今あたしたち三次元世界をつらぬいて四次元世界の物体が通過したとすると、あたしたち三次元世界の生物は、それをどんな風に感じるでしょうか", "さあ!", "四次元の物体はどんな形のものだか、あたしたち三次元生物には、どんなに首をひねったってわかりっこないんです。しかしその四次元の物体が、あたしたちの三次元世界に交わると、その切口はあたしたちにも見えるわけね。ちょうど前のお話で、水の平面の世界にすんでいる生物が、お芋を一つの円と見たと同じように。――だからあたしたち三次元世界においては、四次元物体の切口が立体に見えるわけなのよ。ここが重要な点ですよ", "何もない空間に、とつぜんあらわれたぼんやりした影のような形。それがだんだんはっきりしてきて、やがて人形か何かになる。が、それがいつしかぼんやりかすんでいって、おしまいにはふっと消えてなくなる。そういうものを、この世の人は幽霊だといっています。ところが、今のべた理屈でそれを説くならば、幽霊トハ四次元世界ノ物体ガ三次元世界ニ交ワリタルトキニ生ズル立体的切口ナリといえるわけでしょう。このお話がわかって、道夫さん" ], [ "じゃあ、僕たちが幽霊だと思っているものは、死んだ人の魂でもなんでもなく、四次元世界のものが、僕たち三次元世界にひっかかって、その切口が見える――その切口を幽霊と呼んでいるんだ。そういうんでしょう", "まあ、大体そうですわ。道夫さんのことばをすこし訂正するなら、幽霊の中にはそういう幽霊もあるといった方が正しいでしょう", "すると雪子姉さんはいったいどうしたわけなの。雪子姉さんは今幽霊でしょう。すると雪子姉さんは四次元世界の生物ですか。そんなはずはないや。僕たちは三次元世界の生物なんだから、四次元生物ではない。そうでしょう" ], [ "そうですわ。あたしは三次元世界の生物であって、決して四次元世界の生物ではありませんわ。でもあたしは、今、四次元世界に住んでいるんです", "でも、三次元世界の僕にも、雪子姉さんの姿がちゃんと見えますよ", "それは見えるでしょう。あたしは四次元世界を漂流している身の上だけれど、一生けんめいに三次元世界の方へ泳ぎついて、今それにつかまっているところなのよ", "ああ、それで僕たちの眼に雪子姉さんの姿――いや姉さんの幽霊の姿が時々ぼやけながらも見えているわけね", "そうなの。そしてあたしは三次元世界につかまっているんだけれど、とても苦しくて、この上いつまでもつかまっていられそうもないわ。あたしの体力がつきてしまったら、ああそのときはあたしは完全に四次元世界の中へ吹き流されてしまって、再び三次元世界に近づくことはできなくなるでしょう。道夫さん、どうかこの哀れなあたしを救ってよ" ], [ "ええ、僕にできることなら、何でもしますよ。どうしたら雪子姉さんを救えるのでしょうか", "ありがたいわ、道夫さん。ようやく薬品の配合比も計算したし、その薬品を集めることもできたの。あとはそれを使って、貴重な薬品を合成すればいいの。あたしは早速この部屋でその仕事を始めたいのよ。さあ、手伝ってちょうだい", "どうすればいいの", "そのブンゼン灯に火をつけてみてよ", "はい。つけましたよ。それから……", "ああ、とうとう火がついた。まあ、よかった。四次元世界に漂う者にとっては、どうしてみても三次元世界に火をつけることができなかったのよ。道夫さんあなたはその大困難を解決して下さった。あたしの生命の恩人だわ。ああブンゼン灯に火がついた。こっちのブンゼン灯にも火をつけてよ。ああ、救われる。貴重な薬が今こそ作られるのだ" ], [ "そうなのよ", "のむとどうなるの。四次元世界をはなれて三次元世界へもどれるというの", "ええ、そうなの", "すると今こしらえている薬は、いったいどんな働きをするの" ], [ "話してくれないのだね。じゃあ雪子姉さん。姉さんはどういう方法で、四次元世界へはいっていったの", "あたしが三次元世界へもどったら、何もかもくわしくお話をしてあげるわ。それはあたしがたいへんな苦労をして見つけた方法なのよ", "要点をいえば、どんなこと?", "いやいや。今はいわないの。あとでゆっくりお話をしてあげる", "四次元の第四の軸って、時間の軸じゃない", "そんなもんではなくてよ。……ほら道夫さん。液がなくなったわ。新しい液を注がなくては……" ] ]
底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房    1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行 初出:「子供の科学」    1946(昭和21)年3月~1947(昭和22)年2月 入力:tatsuki 校正:浅原庸子 2005年1月16日作成 2014年11月24日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房    1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行 初出:「新青年」    1932(昭和7)年8月号 ※底本の「c.c.」は「※[#全角CC、1-13-53]」で入力しました。 ※「わし達の周《まわ》りには、」の「わし」にのみ、傍点がないのは底本通りです。 入力:tatsuki 校正:花田泰治郎 2005年5月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "おお……死んでいる!", "たいへんだ。若い女が倒れた", "自殺したんだそうだ。桃色の享楽が過ぎて、とうとう思い出の古戦場でやっつけたんだ", "イヤそうじゃない。誰かに殺されたんだ。恐ろしい復讐なんだ!" ], [ "他殺? どうして? 解せんね", "なァに、何でもないことですよ。あの女の靴下に大きな継布の当っているのを見ましたか。もし自殺する気なら、あのモダンさでは靴下ぐらい新しいのを買って履きますよ。なぜならあの女は手提の中に五十何円もお小遣いを持っているのですからネ", "つまり自殺でないから、他殺だというんだネ。いや、そうはいえない。頓死かも知れない――さっき僕が指摘したように" ], [ "課長の頓死といわれるのは図らずして自分だけで偶然の死を招いたという意味でしょうが、しかしそれに死ぬような原因を他から与えた者があれば、それはやはり他殺なんですからネ", "すると君は、まだ何か知っているというんだネ", "もう一つだけですが、知っていますよ。それはあの手提の中にある一つの燐寸です。それは時計印のごく普通のものですがネ。たいへん似あわしからぬことがあるんです", "なに、燐寸が……" ], [ "しかし利用したかどうかはまだ分らない。なにしろ燐寸は一度も擦った痕がない位だからな", "いや立派に利用していますよ。擦ってないから可笑しいのです。擦ってあるんだったら軸木が半分なくなっても別に不思議もないのです" ], [ "ねえ大江山君。その燐寸をバッグから出して帆村君に委せてもいいだろう", "ええ、ようござんすとも。……では、出して来ましょう" ], [ "ああ……誰かこの手提の中から時計印の燐寸を持って行きやしないか", "燐寸ですって?……いいえ", "燐寸は先刻収ったままですよ", "誰も持っていった者がない!……さては……やられたッ" ], [ "やっぱり、そうでしたか", "そうだったとは……。君は何か心当りがあるのかネ", "イヤさっき向うの飾窓のところに、一人の身体の大きな上品な紳士が、一匹のポケット猿を抱いて立ってみていましたがネ。そのうちにどうした機勢かそのポケット猿がヒラリと下に飛び下りて逃げだしたんです。そしてそこにある婦人の屍体の上をチョロチョロと渡ってゆくので警官が驚いて追払おうとすると、そこへ紳士が飛び出していって素早く捕えて鄭重に詫言をいって猿を連れてゆきました。その紳士が曲者だったんですね" ], [ "そんならそうと、何故君は云わないんだ。そいつが掏摸の名人かなんかで、猿を抱きあげるとみせて、手提から問題の燐寸を掏っていったに違いない――", "でも大江山さん、沢山の貴方の部下が警戒していなさるのですものネ。私が申したんじゃお気に障ることは分っていますからネ" ], [ "とにかく怪しい奴を逃がしてしまっては何にもならんじゃないか。気をつけてくれなきゃあ、――", "ああ、その怪紳士の行方なら分りますよ" ], [ "どうも君は意地が悪い。その方を早くいって呉れなくちゃ困るね。一体どこへ逃げたんだネ", "さあ、私はまだ知らないんですが、間もなくハッキリ分りますよ", "え、え、え、え?――" ], [ "イヤ課長さん。そうは懸らないつもりですよ。まず早ければ三十分、遅くても今夜一杯でしょう", "そんなに懸るのかネ。では一応本庁に引上げて、君にビールでも出そうと思うよ" ], [ "姙娠四箇月とは気がつかなんだねえ", "中毒死とすると、誰に薬を呑まされたんだろう", "自殺じゃないかネ", "それは違う。帆村探偵も云っていたが、自殺とは認められん", "須永という男は名前のように気が永いと見える。早く帰って来んかなァ。もう七時だぜ" ], [ "ナニ嚥み下した。嚥み下すと死ぬのは分っているが、ではかの婦人はあのマッチの尖端が何で出来ているのか知っていたと思うか", "それは知らなかったと思います。あの婦人は何かの身体の異状によって、マッチの軸を喰べないでいられなかったのです。つまり赤燐喰い症です。あの黒い薬をゴリゴリと噛みくだいて嚥んだので、マッチで火を点けたのではないから、箱には擦った痕跡がついていないのです", "するとその婦人は、あのマッチの不足分は全部胃の中に送ったというのだな", "そうです。私は確信しています。だから日本人の手に、あのマッチ一本だに渡っていないのです。ですから本員の除名は許していただきたいと思います", "イヤ宣告に容喙することは許さぬ。――とにかくマッチが日本人の手に残らなかったのは何よりである。それがもし調べられたりすると、われわれが重大使命を果す上に一頓挫を来たすことになる。不幸中の幸だったといわなければならん。――では『赤毛のゴリラ』に宣告を与える。一同起立――" ], [ "曲者! 偽団員だ!", "遁がすな、殺してしまえ!" ], [ "誰でもいい。君に防弾衣を恵んだ男だ。――それよりも危険が迫っている。この部屋から早く逃げ出さねば、生命が危い。さあ、云いたまえ。どこから逃げられるのだ", "あッ。――貴方は団員ではないのだネ。イヤ、そんなことはどうでもよい。僕はもう死んでいる筈だったのだ。逃げよう、逃げよう。貴方と逃げよう。さあ、そこの床にあるスペードの印のあるところを押すんだ。早く、早く", "なにスペードの印! アッ、これだナ" ], [ "マッチの棒? それがなぜ怪しい", "函の中に半分くらいしか残っていなかった。その癖、擦った痕が一つもない……", "そんなことは分っている。それ以上のことを云いたまえ", "だから云ってるではないか。残りの半分のマッチの棒は、あの銀座の鋪道に斃れた川村秋子という懐姙婦人が喰べてしまったのだ", "ナニ、あの女が喰べた?……" ], [ "ところが――どうしたというのだ", "ところが、そのマッチは特別に作ったもので、燐の外に、喰べるといけない劇薬が混和されていたのだ。イヤ喰べるとは予期されなかったので劇薬が入っていたのだといった方がよいだろう。その成分というのは……", "うん。その成分というのは――" ], [ "嘲弄する気かネ。では已むを得ん。さあ天帝に祈りをあげろ", "あッ、ちょっと待て!", "待てというのか。じゃ素直に云え" ], [ "マッチが日本官憲の手に渡るというのか。そんな莫迦なことがあってたまるか。残りのマッチ函は『赤毛のゴリラ』の働きで取りかえしてあることは知っているではないか", "そうでない。川村秋子の胃液に交っているのを分析すれば分る", "そんな事なら心配いらない。胃酸に逢えば化学変化を起して分らなくなる。はッはッ", "まだ有る。安心するのは早いぞ。――実は僕があのマッチ函から数本失敬して某所に秘蔵している。僕がここ数日間帰らないと、先刻云ったようにそのマッチと僕の意見書とが、陸軍大臣のところへ提出されることになる。そうなれば後はどんなことになるか君にも容易に想像がつくだろう", "ウーム、貴様という貴様は……" ], [ "さあ、撃つなら撃つがいい……どうして撃たないのだ", "ウム――" ], [ "さあ、まず右の眼を圧してみてくれ給え", "いやだ。乃公は圧さない", "圧さなければ、貴様こそ地獄へゆかせてやるぞ。この短刀の切れ味を知らせてやろう", "待て。では圧そう", "どうせ圧すなら、早くすればいいのに……" ], [ "大変なことが起ったのだよ。『折れた紫陽花』君、例のマッチ箱が日本人の手に渡ったため、わが第A密偵区は遂に解散にまで来てしまった", "ほう、マッチ箱がねえ" ], [ "それは君のところだけの問題でなく全区の大問題だ", "しかし心配はいらぬ。すぐマッチ箱はマッチの棒とも全部回収した", "それは本当か", "まず完全だ。ただマッチの棒の頭を噛んで死んだ婦人の屍体の問題だが、これも今日のうちに盗み出す手筈になっているから、これさえ処分してしまえば、後は何にも残っていない", "それならよいが……だが日本人はマッチの棒の使い方を感付きやしなかったかナ" ], [ "マッチの棒は、もう心配はいらぬよ", "そうあってくれないと困るがネ、ときに早速仕事を始めたいと思うが、僕は何を担当して何を始めようかネ", "そうだ、もう愚図愚図はしていられないのだ。こんなに停頓することは、われわれの予定にはなかったことだ。そうだ、先刻本国の参謀局から指令が来ていた。それを早速君に扱ってもらおうかなァ" ], [ "ほう、本国の指令とあれば、誰よりも先に見たいと思う位だ。どれどれ見せ給え", "ちょっと待ち給え。――おや、これはおかしいぞ。封筒があるのに、中身が見えない……" ], [ "どうしたというのだネ。指令書は……", "全く不思議だ。見当らない。この部屋には僕の外、誰も入って来ない筈なのだが……", "もし指令書が紛失したものなら、これは重大なる責任問題だよ", "そうだ。紛失したのならネ……。ウム、これはひょっとすると……" ], [ "折れた紫陽花――早く射撃するのだ。この日本人を生きて出してはいかぬ。構わぬから僕を撃つつもりで猛射したまえ", "そいつは……", "いいから撃て! 祖国のためだ、われわれの名誉のためだ、早く撃て!" ], [ "さあ、それでは私はお暇しますよ。では", "待って下さい" ], [ "き、君は誰です、僕を助けて下すって……", "いいえ、お礼はいりませんよ。私は貴方に助けてもらったことがあるので、ちょっと御恩がえしをしただけです。そういえばお分りでしょう", "分らない、誰!", "誰でもいいじゃありませんか。私はすぐ姿を隠さねばなりません。――", "ちょ、ちょっと待って" ], [ "ええ、今日ですか。今日は四日ですよ", "なに四日? そうか、……そうなる、今日はたしかに十月四日だ。すると四日というのは今日のことかも知れない。うむ、これはこうしていられないぞ" ], [ "大佐どの、北樺太のボゴビと沿海県のラザレフ岬との間に、近頃何か異状はありませんか", "なに、ボゴビとラザレフ岬との間? おお君はどうしてそれを知っているのだ、真逆……", "僕は、何も知らないのです。しかし僕の推理は、そこに何か異状のあるのを教えるのです。大佐どの、貴官にはそこに異状のあることがお分りになっているのですね", "まあ、それは説明しまい。その代り君に見せてやるものがある。こっちへ来給え……" ], [ "この左の岬が、ラザレフ岬だ。この右の山蔭に見えるところがボゴビだ。さあ、日附を追って、この海峡の水面にいかなる変化が起っているかそれを見たまえ", "なんですって? これが問題の両地点の写真なのですか。どうしてこんな写真を撮すことが出来たのです", "そんなことは訳はない。空中から赤外線写真を撮ればいいのだ。わが領土内にいてもこれ位のことは見えるのだ" ], [ "ああ、分るです。これはボゴビ町とラザレフ岬との間に大きな堰堤を作っているんじゃありませんか", "その通りだ。海峡の水を止めてしまおうというのだ。その規模の大きなことは、いまだかつて聞いたことはない。昔エジプトで、スフィンクスやピラミッドを作ったのが人間のやった土木工事で一番大きなものだったが、そのレコードはこのボゴビ町とラザレフ岬とを連ねる堰堤工事で破ってしまったわけだ。もっとも現代の科学力をもってすれば、こんなことなんかピラミッドの工事よりもやさしいのかも知れない", "大佐どの。なぜこんなところを埋めるのでしょう。軍事上どんな役に立つのです" ], [ "もちろん知っている。あの男と机を並べて勉強したこともあったよ。×国きっての逸材だ。恐るべき頭脳と手腕の持ち主だ。かねて大警戒はしていたが、どうしてもその尻尾をつかまえることが出来なかったのだ。こんど君が奪ってきてくれた密書こそ、実はわれわれがどんなにか待ちわびていた証拠書類でもあり、かつまた彼の使命の全貌を知らせてくれたこの上ない宝物だったのだ。イヤもっと話をしていたいが、先刻もいったように、いまは愚図愚図している場合ではない。僕はちょっと出掛けるから、君はここに待っていたまえ", "大佐どの、お出掛けなら、私も連れていっていただけませんか", "いや、それは出来ない。しかしこれだけは約束をして置こう。なにか面白い行動を起すようなときには、君を必ず一緒に連れだってゆくから……" ], [ "ああ、牧山さん。どうも待たせるじゃありませんか……", "まあ我慢してくれたまえ。いずれ後から何もかも分るよ……。さあその代り、直ぐ出発だよ。行先は乗った上でないと云えないが、よかったら君も一緒に行かんか", "なに出発ですか。……連れていって下さい。どこでも構いません。地獄の際涯でもどこでも恐れやしません。ぜひ連れてって下さい" ] ]
底本:「海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴」三一書房    1989(平成元)年7月15日第1版第1刷発行 初出:「つはもの」    1934(昭和9)年~1935(昭和10)年頃 ※底本は、表題の「間諜」に「スパイ」とルビをふっています。 入力:tatsuki 校正:まや 2005年5月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003529", "作品名": "流線間諜", "作品名読み": "りゅうせんスパイ", "ソート用読み": "りゆうせんすはい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「つはもの」1934(昭和9)年~1935(昭和10)年頃", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-05-26T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/card3529.html", "人物ID": "000160", "姓": "海野", "名": "十三", "姓読み": "うんの", "名読み": "じゅうざ", "姓読みソート用": "うんの", "名読みソート用": "しゆうさ", "姓ローマ字": "Unno", "名ローマ字": "Juza", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-26", "没年月日": "1949-05-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "海野十三全集 第4巻 十八時の音楽浴", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年7月15日", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年7月15日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1989(平成元)年7月15日第1版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "まや", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3529_ruby_18300.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-05-06T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/3529_18458.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-05-06T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "この雑音ね、どの波長のところでも聞えることは聞えるけれど、この目盛盤で5から70ぐらいの間が強く聞えて、その両側ではすこし低くなるね", "それはそうだね。その5と70の外では、急に回路のインピーダンスがふえるから、それで雑音も弱くなるのじゃないかなあ" ], [ "でもこれは雑音のようだぜ", "ぼくもそう思う" ], [ "どうしたの、お母さん", "お前の研究室がたいへんなんだよ。さっきひどい物音がしたから、なんだろうと思っていってのぞいてみるとね……" ], [ "どうしたんですか。早くいって下さい", "中がめちゃめちゃになっているんだよ。なんでもご近所のドラ猫がとびこんだらしいんだがね、金網の中であばれて、たいへんなことになっているよ", "えっ、金網の中? それはたいへん" ], [ "困ったなあ。こんなにこわされたんでは、もう一度こしらえ直すことが出来るかどうか……", "まあ、そうがっかりしないで、元気を出して、またつくってみるんだね。およそ研究というものは、辛棒くらべみたいなものだ。忍耐心がないと成功はおぼつかない。……とにかく、装置の再建ができたら、また来て、見てあげよう。しかし君は、なかなかむずかしいことに手を染めたようだね。どれ、接続図と設計図とがあるなら出してごらん" ], [ "……さあ、君はそういうが、万一失敗したときには、どうするんだね", "失敗したときは、失敗したときのことですわ。たとえ失敗しても、今のようなおもしろくない境遇にくらべて、この上大した苦痛が加わるわけでもありませんものね" ], [ "……そういう冒険は、よした方がいいと思うね。君は、僕がひっこみ思案だと軽蔑するだろう。しかしね、僕は今までに君のような冒険を試みて、それに失敗して、ひどい目に会った連中のことをたくさん知っているのだ。彼らは、失敗してこっちへ戻ってくるともうすっかり気力がなくなってね、そのうえにあの世界でいろいろな邪悪に染まって、それを洗いおとすために、それはそれはひどい苦しみをくりかえすのだ。僕はとても長くはそれを見守っていられなかった……", "もう、たくさんよ、そのお話は。そのようなことは、あたくしも知っていますし、そしていくども考えても見ましたの。その結果、あたくしの心は決ったんです。どうしても、行って見たい。肉体を自分のものにしたい。二度以上はともかくも、一度はぜひそうなってみたい。あなたがあたくしのために親切にながながといって下さったのはうれしいのですけれど、あたくしは、今目の前に流れて来ている絶好の機会をつかまないでいられないのです", "ああ、それがあぶないんだ。僕は何十ぺんでも何百ぺんでも、君をひきとめる", "どういったら、あなたはあたくしの気持を分って下さるでしょうか。じれったいわ", "僕はどうあっても――", "あ、ちょっと黙って……あ、そうだ。ええ、行きますとも。あたくしも。誰がこの絶好の機会をのがすものですか", "お待ちなさい。あなたは、だまされているんだ。苦しみだけが待っている世界へ、あなたはなぜ行くのですか。……ああ、とうとう行ってしまった" ], [ "ああ、そうか。また風邪をひいたのか", "そうじゃない。病人が出来たといっていた", "うちに病人? 誰が病気になったんだろう。彼が休むというからには、相当重い病気なんだろうね", "ぼくも聞いてみたんだ。するとね、あまり外へ喋ってくれるなとことわって、ちょっと話しがね、彼の姉さんのお名津ちゃんがね、とつぜん気が変になったので、困っているんだそうな", "へえーッ、あのお名津ちゃんがね", "午前三時過ぎからさわいでいるんだって", "午前三時過ぎだって" ], [ "うん。ちょっと、或ることを考えていたのでね", "何を考えこんでいたんだい", "気が変になった人を治療する方法は、これまでに医学者によって、いろいろと考え出された。しかしだ、実際にこの病気は、あまりなおりにくい。それから、今までとは違った治療法を考えだす必要があると思うんだ。そうだろう", "それはわかり切ったことだ" ], [ "そこでぼくは考えたんだが、そういうときに、病人の脳から出る電波をキャッチしてみるんだ。そしてあとで、その脳波を分析するんだ。それと、常人の脳波と比較してみれば、一層なにかはっきり分るのではないかと思う。この考えは、どうだ", "それはおもしろい。きっと成功するよ", "いや、ちょっと待った。脳波なんて、本当に存在するものかしらん。かりに存在するものとしてもだ、それをキャッチできるだろうか。どうしてキャッチする。脳波の波長はどの位なんだ" ], [ "脳波が存在するかどうか、本当のことは、ぼくは知らない。しかし脳波の話は、この頃よくとび出してくるじゃないか。でね、脳波はいかなる理論の上に立脚して存在するか、そんなことは今ぼくたちには直接必要のない問題だ。それよりも、とにかく短い微弱な電波を受信できる機械を三木君の姉さんのそばへ持っていって、録音してみたらどうかと思うんだ。もしその録音に成功したら、新しい治療法発見の手がかりになるよ", "それはぜひやってくれたまえ、隆夫君" ], [ "おい、四方君。君はどう思う", "脳波の存在が理論によって証明されることの方が、先決問題だと思うね。なんだかわけのわからないものを測定したって、しようがないじゃないか" ], [ "元来日本人はむずかしい理屈をこねることに溺れすぎている。だから、太平洋戦争のときに、わが国の技術の欠陥をいかんなく曝露してしまったのだ。ああいうよくないやり方は、この際さらりと捨てた方がいい。分らない分らないで一年も二年も机の前で悩むよりは、すぐ実験を一週間でもいいからやってみることだ。机の前では、思いもつかなかったようなことが、わずかの実験で“おやおや、こんなこともあったのか”と分っちまうんだ。頭より手の方を早く働かせたがいいよ", "まあ、とにかく、その実験をやることにして、ぼくはその準備にかかるよ。隆夫君、手つだってくれるね" ], [ "いや出ない", "だめなのかな", "そうともいえない、とにかくいろいろやってみた上でないと、断定はできない" ], [ "波長帯は、一等長いところで十センチメートル、一等短いところでは一センチの千分の一あたりだ", "そうとうな感度を持っているねえ", "いや、その感度が一様にいってないので、困っていることもあるんだ" ], [ "人間のからだが生きているということはね。からだをこしらえている細胞の間は、放電現象が起ったり、またそれを充電したり、そういう電気的の営みが行われていることなんだとさ。だから三木の姉さんみたいな人を治療するのには、感電をさせるのがいいんじゃないかな。つまり電撃作戦だ", "それは電撃作戦じゃなくて、電撃療法だろう", "ああ、そうか。とにかく高圧電気を神経系統へぴりっと刺すと、とたんに癒っちまうんじゃないかな", "それは反対だよ" ], [ "なぜだい、なにが反対だい", "だって、そうじゃないか。神経細胞は電線と同じように、導電体だ。しかも弱い電流を通す電路なんだ。そこへ高圧電気をかけるとその神経細胞の中に大きな電流が流れて、神経が焼け切れてしまう。そうなれば、人間は即座に死ぬさ", "いや、電流は流されないようにするんだ。そうすれば神経細胞は焼け切れやしないよ。ねえ、隆夫君、そうだろう", "さあ、どっちかなあ。ぼくは、そのことをよく知らないから、答えられない" ], [ "僕のことかい。僕は大した者ではない。単に一箇の霊魂に過ぎん", "れ、い、こ、ん?", "れいこん、すなわち魂だ", "えッ、たましいの霊魂か。それは本当のことか" ], [ "僕は霊魂第十号と名乗っておく。いいかね。おぼえていてくれたまえ", "霊魂の第十号か第十一号か知らないが、なぜ今夜、ぼくの実験室へやって来たのか" ], [ "冗談をいうのはよしたまえ。ぼくは一度だって君をここへ呼んだおぼえはない", "まあ、いいよ、そのことは……。いずれあとで君にもはっきり分ることなんだから。それよりも早速君に相談があるんだ。君は僕の希望をかなえてくれることを望む" ], [ "話によっては、ぼくも君に協力してあげないこともないが、しかしとにかく、君の礼儀を失した図々しいやり方には好意がもてないよ", "うん。それは僕がわるかった。大いに謝る。そして後で、いくらでも君につぐないをする、許してくれたまえ" ], [ "いいにくいことなのかね", "いや、どうしても、今、いってしまわねばならない。隆夫君、僕は君に、しばらく霊魂だけの生活を経験してもらいたいんだ。承知してくれるだろうね", "なに、ぼくが霊魂だけの生活をするって、どんなことをするのかね", "つまり、君は今、肉体と霊魂との両方を持っている。それでだ、僕の希望をききいれて、君の霊魂が、君の肉体から抜けだしてもらえばいいんだ。それも永い間のことではない。三カ月か四カ月、うんと永くてせいぜい半年もそうしていてもらえばいいんだ。なんとやさしいことではないか" ], [ "だめだ。第一、ぼくの霊魂をぼくの肉体から抜けといっても、ぼくにはそんなむずかしいことはできない。それにぼくは現在ちゃんと生きているんだから、霊魂が肉体をはなれることは不可能だ", "ところが、そうでなく、それが可能なんだ。そして又、君の霊魂に抜けてもらう作業については、すこしも君をわずらわさないでいいんだ。僕がすべて引き受ける。君はただそれを承知しさえすればいいんだ。めったにないふしぎな経験だから、後で君はきっと僕に感謝してくれることと思う。承知してくれるね" ], [ "はははは。もうすこしの辛棒だ", "なにを。この野郎" ], [ "お早ようございます。名津子さんの御容態はいかがですか。お見舞にあがりました", "はッはッはッ。よしてくれよ、そんな大時代な芝居がかりは……" ], [ "うん。それじゃ今母に知らせてくるからね。ちょっと待っていてくれ", "いや、待てない。すぐ会いたい" ], [ "でも、病人だからね、様子を見た上でないと、かえって病気にさわると悪いから", "じゃあ早くしてくれたまえ", "よしよし" ], [ "昨夜、電波収録装置に取っていった、あれはどうしたね。結果は分ったかい", "あれか。あれはよく取れていたよ", "そうか。するとあれを使って、これからどうするのか" ], [ "どうするって、とにかくあれは参考になるね", "君は、もしあの中に、電波が収録されていたら大発見だ。そしてそうであれば姉の病気についても、新しい電波治療が行えることになろうといっていたが、それはどうだね" ], [ "いや、そんなことはでたらめだ。病人を電波の力で癒すなんて、そんなことは出来るものではない", "おかしいね。さっき君のいったことともくいちがっているし、君が日頃語っていたところともちがう。いったいどれが本当なんだ", "断じて、僕はいう。君の姉さんの病気はきっと僕がなおして見せる。そのかわり、昨日僕がいったことは、一時忘れていてくれたまえ。今日から僕は、新しい方法によって、名津子さんの病気を完全になおしてみせる。もし不成功に終ったら、僕はこの首を切って、君に進呈するよ" ], [ "とにかくカッタロの町へはいったら、海岸通のヘクタ貿易商会はどこだと聞けば、すぐに道を教えてくれるからね", "あいよ。うまくやってくるよ" ], [ "港外まで出ないと、ごちそうを捨ててくれないよ", "早く捨ててくれるといいなあ。ぼくは腹がへっているんだ" ], [ "普通に、たましいというとね、肉体にぴったりついているものだが、ある場合には、肉体をはなれることもあるんだ。肉体のないたましいというものも、実際はたくさんごろごろしている。そういうたましいが、肉体を持っている別のたましいに、とりつくことがよく起る。お前がさっき、わしに話をして聞かせた名津子さんの場合なんか、それにちがいない。つまり、名津子さんの肉体といっしょに居る名津子さんのたましいの上に、あやしい女のたましいが馬乗りにのっているんだと考えていい。二つのたましいは、同じ肉体の中で、たえず格闘をつづけているんだ。だから名津子さんが、たえず苦しみ、好きなことを口走るわけだ", "なるほど、そうですかね", "名津子さんの場合は、普通よくあるやつだ。しかしお前の場合は、非常にかわっている。お前を襲撃した男のたましいは、お前の肉体からお前のたましいを完全に追い出したのだ。そういうことは、普通、できることではないのだ。だから、さっきもいったように、その男のたましいなるものは、非常にすごい奴にちがいない。いったい、何奴だろう" ], [ "たましいというものはね。たましいの力次第で、いろいろな形になることが出来る。実は、本当は、たましいには形がないものだ。まるで透明なガス体か、電波のように。が、しかし、たましいには個性があるので、なにか一つの姿に、自分をまとめあげたくなるものだよ。これはなかなかむずかしい問題で、お前にはよく分らないかも知れないが、お前は、自分で知っているかどうかしらんが、お前はおたまじゃくしのような姿をしているよ。つまり日本の昔の絵草紙なんかに出ていた人間と同じような姿なんだ。これはお前が、たましいとは、そんな形のものだと前から思っていたので、今はそういう形にまとまっているのだ", "へえーッ、そうですかね" ], [ "ああ、聖者……", "分っている。わしについて来れ" ], [ "わが弟子たりしロザレの遺骸である。これを汝にしばらく貸し与える", "えっ、この人を――この遺骸をお貸し下さるとは……" ], [ "今、ロザレの霊魂は他出している。されば後、ロザレの遺骸に汝の子の隆夫のたましいを住まわせるがよい", "あ、なるほど。すると、どうなりますか……", "生きかえりたるロザレを伴い、汝は帰国するのだ。それから先のことは、汝の胸中に自ら策がわいて来るであろう。とにかくわれは、汝ら三名の平安のために、今より呪文を結ぶであろう。しばらく、それに控えていよ", "ははッ" ], [ "よくまあ、無事に帰って来られたものだ", "やってみれば、機会をつかむ運にも出会うわけですね" ], [ "まあ、わたし、夢を見ているのではないかしら……", "夢ではないよ。ほら、わしはこのとおりぴんぴんしている。苦労を重ねて、やっと戻ってきたよ", "ほんとですね。あなたは、ほんとに生きていらっしゃる。ああ、なんというありがたいことでしょう。神さまのお護りです", "隆夫は、どうしているね" ], [ "しっかりおしなさい。隆夫はどうかしたのですか", "それが、あなた……", "まさか隆夫は死にやすまいな" ], [ "……死にはいたしませぬが、少々不始末があるのでございます", "不始末とは", "ああ、こんなところで立ち話はなりませぬ。さ、うちへおはいりになって……", "待って下さい。わしにはひとりの連れがある。その方はわしの恩人です。わしをこうして無事にここまで送って来て下すった大恩人なんだ。その方をうちへお泊め申さねばならない" ], [ "どうしたのですか、お父さん", "わしはお前を救うために、こうして日本へ帰って来たんだ。ところが、わしが帰って来たことが広く報道されたため、わしは今方々から講演をしてくれと責められて断るのによわっている", "断れば、ぜひ講演しろとはいわないでしょう", "それはそうだが、中にはどうにも断り切れないのがある。心霊学会のがそれだ。あそこからは洋行の費用ももらっている。それにお前のことがもう大した評判なんだ。いや、お前というよりも、聖者レザール氏をわしが連れて来たということが大評判なんだ。ぜひその講演会で、術をやってみせてくれとの頼みだ。これにはよわっちまった", "それは困りましたね。ぼくには何の術も出来ませんしねえ" ], [ "どうだろうなあ、心霊学会だけに出るということに譲歩して、一つ出てもらえないかしらん", "出てくれって、ぼくに何をしろとおっしゃるのですか、お父さん" ], [ "何もしなくていいんだ。ただ、舞台に出て目を閉じてじっとしていてもらえばいい。何をいわれても、はじめからしまいまで黙っていてもらえばいいんだ。それならお前にもできるだろう", "それならやれますが、しかしそれでは聴衆が承知しないでしょう。ぼくばかりか、お父さんもひどい攻撃をうけるにきまっていますよ", "うん。しかしそのところはうまくやるつもりだ。お父さんもやりたくないんだが、心霊学会ばかりは義理があってね、どうにも断りきれないのだ。お前もがまんしておくれ" ], [ "お父さん。ぼくは元の身体に帰ることができましたよ。よろこんで下さい", "ほんとにお前は元の身体へ帰って来たのか", "ほんとですとも。よく見て下さい。何でも聞いてみて下さい", "ほんとらしいね。アクチニオ四十五世にお前も感謝の祈りをささげなさい" ], [ "もしもし。こっちは三木ですが、もしやそちらに、隆夫君が帰っていませんかしら", "えッ、隆夫ですって。あのウ、少々お待ち下さいまし" ], [ "ぼくは、ほんとに困り切っているのです。とにかく隆夫君はずっとうちに泊っているのです。しかし今夜にかぎって、まだ戻って来ないので心配しているのです。もしや、そちらへ帰ったのではないかと思ったものですから、お電話したんです", "なんだか事情はよくのみこめませんが、君のご心労は深く察します。名津子さんは、どうですか。おたっしゃですか", "そのことも、ちょっと心配なんです。今夜姉は卒倒しましてね、ぼくたちおどろきました。それから姉は、昏々と睡りつづけているのです。お医者さんも呼びましたが、手当をしても覚醒しないのです。昼間は、たいへん元気でしたがね" ], [ "卒倒されたというんですか。それは今夜の幾時ごろでしたか", "姉が卒倒した時刻は、そうですね、たしか八時半ごろでした", "今夜の八時半ごろ。なるほど", "どうかしましたか", "いや、どうもしません。とにかくそのまま静かに寝かしておいておあげになるがいいでしょう。四五日たてば、きっとよくなられるでしょう。多分、今までよりも、もっと元気におなりでしょう" ] ]
底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房    1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行 底本の親本:「海野十三全集 第七巻」東光出版社    1951(昭和26)年5月5日 入力:tatsuki 校正:原田頌子 2001年11月12日公開 2006年7月31日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "井東さん。こんばんワ", "こんばんは、劉夫人", "劉夫人と仰有らないで……。いじわるサン。絹子と、なぜ呼んでくださらないの!" ], [ "貴方は、すこしも妾の気持を察して下さらない。貴方と同じ国に生まれたこの妾の気持がどうして貴方に汲んでもらえないのでしょうかしら。こんな遠い異国に来て、毎日泪で暮している妾を、可哀想だと思っては下さらないのですか。妾は恥を忍んでまで、祖国のためになることをしようと思っているのですのに", "そいつは言わないのがいいでしょう。情痴の世界に、祖国も、名誉もありますまい", "貴方は、今晩はどうしてそう不機嫌なのです。さあ機嫌を直して、今夜こそは、妾のうちへ来て下さい。主人は今朝、北の方へ立ちました。一週間はかえってきますまい。さあこれから行きましょう。ネ、いいでしょう井東さん。絹子の命をかけてお願いしてよ" ], [ "多分、人造人間かも知れませんね", "人造人間! 人造人間って、ほんとにあるのですか", "ありますとも。このごろ噂が出ないのは各国で秘密に建造を研究しているからです", "いまのは、どこの人造人間でしょう", "さあ、どこでしょうか、もしかすると……", "もしかすると……" ], [ "時間を間違えるな。すべていつもの通りにやってくれるんだぞ", "畏りました" ], [ "おお、井東君。いよいよ×国と中国とが露骨な同盟を結ぶことになるらしいぞ。その盟約の調印を長びかせろとの指令が来た。いま鳥渡×国大使の車を三十一番街に追いこんだのさ。同志の仕掛けた爆弾を喰ってあのさわぎだ", "人造人間は、よく働くかい", "思ったより工合がいいなア、あの爆発さわぎの中で誰も怪我をせんかったからなア。充分人造人間を活躍させてみせて奴等の恐怖心を養って置いた。劉夫人も驚いてたろう", "劉夫人と言えば、オイ林田、計画は全部、建て直しだよ。チャンスは、今だ。正確に言うと、このところ十五分間だ。この間に、うまく頑張って呉れるなら、あとは僕たちの勝利だ。下手に行けば、明朝といわず、今夜のうちに僕たちの呼吸の根は止ってしまうことだろう。おい林田、もっと近くによれ!" ], [ "人造人間の血はおかしい", "早く内部をしらべてみろ" ] ]
底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房    1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行 初出:「新青年」博文館    1931(昭和6)年1月号 ※表題は底本では、「人造人間《ロボット》殺害《さつがい》事件」となっています。 入力:田浦亜矢子 校正:もりみつじゅんじ 2000年1月1日公開 2011年10月19日修正 青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "あらっ、あれはおばけやしきよ。", "まあ、こわい。どうしましょう。" ], [ "あっ、それじゃ、あのときの……。", "わははは……。こんどもきみたちは、まんまとわしのけいりゃくにかかったね。" ], [ "ああ、そうだ。鉄のふたが下までおりたら、ぼくたちがしんでしまうから、下までおりないうちに、にげ出せるしかけになっているのだ。", "鉄のふたが、このぼっちのところをとおると、ぼっちがおされる。そうすると、ひみつの戸が外へひらくようになっているのだ。" ], [ "あいつ、赤いカブトムシを口に入れたまま、とんでいってしまったよ。早く追っかけなけりゃあ。", "よしっ。なわばしごだっ。" ] ]
底本:「新宝島」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年11月8日第1版発行 初出:「たのしい三年生」講談社    1958(昭和33)年4月~1959(昭和34)年3月 入力:sogo 校正:岡村和彦 2016年6月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057105", "作品名": "赤いカブトムシ", "作品名読み": "あかいカブトムシ", "ソート用読み": "あかいかふとむし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「たのしい三年生」講談社、1958(昭和33)年4月~1959(昭和34)年3月", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-09-30T00:00:00", "最終更新日": "2016-09-06T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57105.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "新宝島", "底本出版社名1": "江戸川乱歩推理文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年11月8日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年11月8日第1版", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年11月8日第1版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57105_ruby_59617.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-06-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57105_59659.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-06-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "アア、小池君か。せ、先生は? ……早く会いたい。……重大事件だ。……ひ、人が殺される。……今夜だ。今夜殺人が行われる。アア、恐ろしい。……せ、先生に……", "ナニ、殺人事件だって? 今夜だって? 君はどうしてそれが分ったのだ。一体、誰が殺されるんだ" ], [ "先生は今御不在だよ。三十分もすればお帰りになる筈だ。それよりも、君はひどく苦しそうじゃないか。どうしたというんだ", "あいつに、やられたんだ。毒薬だ。アア、苦しい。水を、水を……", "よし、今取って来てやるから、待ってろ" ], [ "電報を打ちました。やがて駈けつけて来るでしょう。それから警視庁へも電話しました。中村さん驚いてました。すぐ来るということでした", "ウン、中村君も僕も、川手の事件が、こんなことになろうとは、想像もしていなかったからね。中村君なんか、被害妄想だろうって、取り合わなかったくらいだ。それが、木島君がこんな目に合う程では、余程大物らしいね", "木島君は、何だか非常に怖がっていました。恐ろしい、恐ろしいと言いつづけて死んで行きました", "ウン、そうだろう。予告して殺人をするくらいの奴だから、余程兇悪な犯人に違いない。小池君、外の事件は放って置いて、今日からこの事件に全力を尽そう。木島君の敵討ちをしなけりゃならないからね" ], [ "こんなことになろうとは思いもよらなかった。油断でした。あなたの部下をこんな目に合わせて、実に何とも申訳ありません", "イヤ、それはお互です。僕だって、これ程の相手と思えば、木島君一人に任せてなんぞ置かなかったでしょうからね", "電話の話では、木島君は何か犯人の手掛りを持って帰ったということでしたが" ], [ "イイエ、僕は一歩もこの部屋を出ませんでした。誰も来たものなぞありません。どうかしたのですか。その封筒は確かに木島君が内ポケットから出して、そこへ置いたままなんです", "見給え、これだ" ], [ "小池君、すぐアトランチスへ行って、木島君が用紙と封筒を借りたあとで、誰かと話をしなかったか、同じテーブルに胡乱な奴がいなかったか調べてくれ給え。そいつが犯人か、少くとも犯人の相棒に違いない。木島君の油断している隙に、報告書の入った封筒と、この白紙の封筒とすり換えたんだ。毒を飲ませたのも、同じ奴かも知れない。出来るだけ詳細に調べてくれ給え", "承知しました。しかし、もう一つ、木島君が持って来たものがあるんです。死体の右手をごらん下さい。そこに掴んでいるものは、余程大切な証拠品らしいんです。……では、僕失礼します" ], [ "外側の指紋は皆重なり合っていて、はっきりしないが、内側に一つだけ、非常に明瞭な奴がある。拇指の指紋らしい。オヤ、これは不思議だ。中村君、実に妙な指紋ですよ。僕はこんな不思議な指紋を見たことがない。まるでお化けだ。それとも僕の目がどうかしているのかしら", "どれです" ], [ "ホラ、こいつですよ。すかしてごらんなさい。完全な指紋でしょう。別に重なり合ってはいない。しかし、ホラ、渦が三つもあるじゃありませんか", "そういえば、なる程、妙な指紋らしいが、このままじゃ、よく見分けられませんね", "拡大して見ましょう。こちらへ来て下さい" ], [ "ありませんね。僕も相当色々な指紋を見ていますが、こんな変な奴には出くわしたことがありません。指紋の分類では変態紋に属するのでしょうね。渦巻が二つ抱き合っているのは、たまに出くわしますが、渦巻が三つもあって、こんなお化みたいな顔をしている奴は、全く例がありません。三重渦状紋とでも云うのでしょうか", "如何にも、三重渦状紋に違いない。これはもう隆線を数えるまでもありませんよ。一目で分る。広い世間に、こんな妙な指紋を持った人間は、二人とあるまいからね", "拵えたものじゃないでしょうね", "イヤ、拵えたものでは、こんなにうまく行きませんよ。この位に拡大して見れば、拵えものなれば、どこか不自然なところがあって、じき見破ることが出来るのですが、これには少しも不自然な点がない" ], [ "それにしても、木島君は、この妙な指紋をどうして手に入れたのでしょう。この靴箆が犯人の持物とすれば、木島君は犯人に会っている訳ですね。直接犯人から掠めて来たものじゃないでしょうか", "そうとしか考えられません", "残念なことをしたなア。木島君さえ生きていてくれたら、易々と犯人を捉えることが出来たかも知れないのに", "犯人はそれを恐れたから、先手を打って毒を呑ませ、その上、報告書まで抜き取ってしまったのです。実に抜け目のない奴だ。中村君、これは余程大物ですよ", "あの強情な木島君が、恐ろしい恐ろしいと云いつづけていたそうですからね", "そうです。木島君は、そんな弱音を吐くような男じゃなかった。それだけに、僕らは余程用心しなけりゃいけない。……川手の家は、あなたの方から手配がしてありますか" ], [ "イヤ、何もして居りません。今日までは川手の訴えを本気に受取っていなかったのです。しかし、こうなれば、捨てては置けません", "すぐ手配をして下さい。木島君をこんな目に合せたからは、犯人の方でも事を急ぐに違いない。一刻を争う問題です", "おっしゃるまでもありません。今からすぐ帰って手配をします。今夜は川手の家へ三人ばかり私服をやって、厳重に警戒させましょう", "是非そうして下さい。僕も行くといいんだけれど、死骸を抛って置く訳に行きません。僕は明日の朝、川手氏を訪問して見ることにしましょう", "じゃ、急ぎますから、これで" ], [ "それが全く心当りがないのです。指紋などという奴は、いくら親しくつき合っていても、気のつかぬ場合が多いものですからね", "しかし、これ程の復讐を企てているのですから、あなたに余程深い恨みを持っている奴に違いありません。そういう点で、何かお心当りがなければならないと思うのですが" ], [ "ですがね、恨みという奴は、恨まれる方では左程に思わなくても、恨む側には何層倍も強く感じられる場合が、往々あるものですからね", "なる程、そういうこともあるでしょうね。さすが御商売柄、犯罪者の気持はよく御承知でいらっしゃる。しかし、わたしには、どう考えて見ても、そんな心当りはありませんね" ], [ "あなたの方にお心当りがないとしますと、例の指紋が、今のところ、唯一の手掛りですね。実は昨夜のうちに、警視庁の指紋原紙を十分調べさせたのですが、十五年勤続の指紋主任も、三重の渦状紋なんて見たことも聞いたこともない。指紋原紙の内には、無論そんなものはないということでした", "化け物だ" ], [ "イイエ、アノ、わたくし、十分注意して掃除しましたけれど、何も落ちてなんかいませんでございました", "確かかね", "エエ、本当に何も……" ], [ "犯人の手紙ですって、それじゃこれは……", "中村君、行って見よう。これからすぐ行って見よう" ], [ "行くって、どこへです", "極っているじゃないか。衛生展覧会へですよ", "しかし、衛生展覧会なんて、どこに開かれているんです", "U公園の科学陳列館さ。僕は、あすこの役員になっているので、それを知っているんだが、今衛生展覧会というのが開かれている筈なんです。サア、すぐに行って見ましょう" ], [ "助手の小池君がやって来たのですよ。例のカフェ・アトランチスの件で至急に会いたいというのです。態々こんなところまで追っかけてくる程だから、恐らく何か大きな手掛りを掴んだのでしょう。別室を借りて報告を聞こうと思いますが、あなたも来ませんか", "アトランチスというと、木島君が手紙を書いたカフェですね", "そうです。あの手紙を白紙とすり換えた奴が分ったかも知れません", "それは耳よりだ。是非僕も立合わせて下さい" ], [ "先生、又大変なことが起ったらしいですね。……川手さんのお宅ではないかと思って、電話をかけますと、川手さんは先生に呼ばれてここへ来られたという返事でしょう。それで、先生のお出先がやっと分ったのです", "ウン、突然ここへ来るようなことになったものだからね。事務所へ知らせて置く暇がなくて……ところで、用件は?" ], [ "ウン、どうやらそいつが疑わしいね。しかし女給の漠然とした話だけでは、そのまま信じる訳にも行かぬが……", "イヤ、女給の話だけじゃありません。僕は動かすことの出来ない証拠品を手に入れたのです", "エッ、証拠品だって?" ], [ "指紋だね", "そうです。消えないように、十分用心して来ました" ], [ "このステッキは?", "その黒眼鏡の男が忘れて行ったのです", "そいつはアトランチスの定連かね", "イイエ、全く初めての客だったそうです。木島君が帰ると、間もなくそいつも店を出て行ったそうですが、今朝になっても、ステッキを取りに来ないということです。多分永久に取りに来ないかも知れません" ], [ "とりあえず、それだけ御報告しようと思って。それから、このステッキを先生にお調べ願いたいと思いまして、急いでやって来たのです。もう風采が分ったからには、何としてでも、そいつの足取りを調べて見ます。そして、悪魔の巣窟を突きとめないで置くものですか。では、僕、これで失礼します", "ウン、抜け目なくやってくれ給え" ], [ "先生、なんだかあれらしいじゃありませんか。渦巻きが三つあるようですぜ", "僕にもそう見えるんだ。一つ調べて見よう" ], [ "そうかも知れない。だが、あいつがこの中に混っているとしても、僕等には迚も見分けられやしないよ。まさかあの目印になる黒眼鏡なんかかけてはいないだろうからね。それに、この指紋は、車がここへ来るまでに着いたと考える方が自然だ。そうだとすると、迚も調べはつきやしないよ。街路で信号待ちの停車をしている間に、自転車乗りの小僧が、うしろから手を触れることだって、度々あるだろうし、誰にも見とがめられぬように、ここへ指紋をつけることなど、訳はないんだからね", "そう云えばそうですね。しかし、あいつ何の為に、こんなところへ指紋をつけたんでしょう。まさかもう一度死体を盗み出そうというんじゃないでしょうね", "そんなことが出来るもんか。僕達がこうして見張っているじゃないか。そうじゃないよ。犯人の目的は、ただ僕への挑戦さ。僕が葬儀車の扉に目をつけるだろうと察して、僕に見せつける為に、指紋を捺して置いたのさ。なんて芝居気たっぷりな奴だろう" ], [ "御主人、決して御心配には及びませんよ。お嬢さんは、謂わば二重の鉄の箱に包まれているのも同然ですからね。お邸のまわりには事に慣れた六人の刑事が見張っています。その目をごまかして、ここまで入って来るなんて殆んど不可能なことですよ。若し仮りにあいつが邸内に入り得たとしてもですね、ここに第二の関門があります。たった一つのドアの外には、こうして僕が頑張っていますし、窓の外には、小池君が見張りをしている。しかも窓は全部内側から掛金がかけてあるのです。このドアもそのうち僕が鍵をかけてしまう積りですよ", "併し、若し隠れた通路があるとすれば……" ], [ "イヤ、そんなものはありやしません。さい前僕と小池君とで、お嬢さんの部屋を隅から隅まで調べましたが、壁にも天井にも床板にも、少しの異状もなかったのです。ここはあなたのお建てになった家じゃありませんか。抜穴なんかあってたまるものですか", "アア、それも調べて下すったのですか。流石に抜目がありませんね。イヤ、あなたのお話を聞いて、いくらか気分が落ちつきましたよ。しかし、わたしは、今夜だけはどうしても娘の傍を離れる気になれません。この部屋の長椅子で夜を明かす積りです", "それはいいお考えです。そうなされば、お嬢さんには三重の守りがつく訳ですからね。あなたがこの部屋の中にいて下されば、僕達も一層心丈夫ですよ" ], [ "小池君、小池君", "ハア、お早うございます" ], [ "君は眠りやしなかったか", "イイエ、一睡も", "それで、何も見なかったのか", "何もって、何をですか", "馬鹿ッ、妙子さんが攫われてしまったんだ" ], [ "それじゃ、あの賊の秘密の出入口がおわかりになったのですか", "イヤ、賊は出もしなければ、入りもしなかったということを気附いたのさ。あいつは、妙子さんと一緒にちゃんと僕達の目の前にいたんだ。アア、俺は、今までそこに気がつかないなんて、実にひどい盲点に引っかかったもんだ" ], [ "目の前にいたといいますと?", "今に分る。ひょっとしたら僕の思い違いかも知れない。しかし、どう考えてもその外に手品の種はないのだ。小池君、世の中には、すぐ目の前に在りながら、どうしても気の附かないような場所があるものだよ。習慣の力だ。一つの道具が全く別の用途に使われると、我々は忽ち盲目になってしまうのだ" ], [ "つい最近ですよ。以前に使っていたのが、急にいたんだものですから、四日程前に、家具屋にあり合せのものを据えつけさせたのです", "ウン、そうでしょう。で、それを持込んで来た人夫をごらんでしたかね。たしかにその家具屋の店のものでしたか", "サア、そいつは……。わしは丁度居合せて、据えつける場所を指図したのですが、何でも左の目にガーゼの眼帯を当てた髭面の男が、しきりと何か云っていたようです。無論見知らぬ男ですよ" ], [ "どこですか", "ここだ、ここだ。ベッドをもっと壁から離してくれ給え。ここに仕掛けがあるんだ" ], [ "そして、あいつは真夜中に、そこから忍び出し、あなたをあんな目にあわせた上、お嬢さんをこの箱の中へ押し込み、自分もここへ入って、逃げ出す時刻の来るのを、我慢強く待っていたのです", "では、今朝になってから……", "そうです。僕達は非常な失策をしました。まさか賊とお嬢さんとが、この部屋の中に隠れているとは思わないものですから、ここは開けっ放しにして、庭の捜索などやっていたのです。賊はその間に、廊下や玄関に誰もいない折を見すまして、お嬢さんを抱いて、ここから逃げ出したのに違いありません", "しかし、逃げ出すと云って、どこへですか。一歩この邸を出れば、人通りがあります。まさか明るい町を、女を抱いて走ることは出来ますまい。それに、刑事さん達も、まだ門の外に見張りをつづけていたんだし――" ], [ "妙子はわしと同じように猿轡をはめられていたのでしょうか。それとも……", "何とも申せません。しかし、少くとも無残な兇行が演じられなかったことは確かですよ。どこにも、血痕などは見当らないのですから。しかし、お嬢さんの生死は保証出来ません。ただ御無事を祈るばかりです" ], [ "若し邸の中に隠れているとすれば、もう一度捜索して下さる訳には……", "僕もそれを考えているのです。しかし、念の為めに、門前に見張りをしている刑事に、よく訊ねて見ましょう。まだ二人だけ私服が居残っている筈です" ], [ "例えば新聞配達とか、郵便配達とかいうようなものは?", "エ、何ですって? そういう連中まで疑わなければならないのですか。それは、郵便配達も、新聞配達も通りました。しかし、犯人がそういうものに変装して逃げ出すことは出来ませんよ。彼等は皆外から入って来て、用事をすませると、すぐ出て行ったのですからね", "しかし、念の為めに思い出して下さい。その他に外から入ったものはなかったですか" ], [ "オオ、そういえば、まだありましたよ。ハハハハハハハ、掃除人夫です。塵芥車を引っぱって、塵芥箱の掃除に来ましたよ。ハハハハハハハ、掃除人夫のことまで申上げなければならないのですか", "イヤ、大変参考になります" ], [ "で、その塵芥箱というのは、ここから見えるところにあるのですか", "イヤ、ここからは見えません。掃除人夫は門を入って右の方へ曲って行きましたから、多分勝手元の近くに置いてあるのでしょう", "それじゃ、君は、そこで掃除人夫が何をしていたか、少しも知らない訳ですね", "エエ、知りません。僕は掃除人夫の監督は命じられていませんからね" ], [ "無論出て行きました。塵芥を運び出すのが仕事ですからね", "その塵芥車には蓋がしてあったのですか", "サア、どうですかね。多分蓋がしてあったと思います", "人夫は一人でしたか", "二人でした", "どんな男でしたか。何か特徴はなかったですか" ], [ "そ、それは聞いていました。アトランチス・カフェへ現われた奴は、黒眼鏡をかけた小柄な男だったということは、聞いていました。しかし……", "それから、衛生展覧会へ蝋人形を持込んだ男の風体は?", "そ、それも、今、思い出しました。左の目に眼帯を当てた奴です", "すると、二人の掃除人夫は、犯人と犯人の相棒とにソックリじゃありませんか", "しかし、しかし、まさか掃除人夫が犯人だなんて、……それに、あいつらは外から入って来たのです。僕は中から逃げ出す奴ばかり見張っていたものですから。……偶然の一致じゃないでしょうか" ], [ "偶然の一致かも知れない。そうでないかも知れない。我々は急いでそれを確かめて見なければならないのです。犯人は妙子さんの自由を奪って、どこかへ隠して置いて、独りでここを逃げ出し、改めて妙子さんを運び出す為に戻って来た、と考えられないこともない。今朝あなた方が邸内を捜索している間に、犯人がひとりで逃げ出すような隙は、いくらもあったのですからね", "隠して置いたといって、お嬢さんを塵芥箱の中へですか", "突飛な想像です。しかし、あいつはいつも、思い切って突飛なことを考える奴です。それに、我々は今朝の捜索の時、塵芥箱の塵芥の中までは探さなかったのですからね。サア、一緒に行って、調べて見ましょう" ], [ "警視庁の中村警部から聞いてやって来たのです。中村君もじきあとから、ここへ来ると云っていました", "ア、そうですか。お名前はよく承知して居ります。今度の事件には御関係になっているんだそうですね" ], [ "で、塵芥車の外に何か発見はありませんでしたか", "さい前から、一通りこの森の中を捜索したのですが、全く何の手掛りもありません。ごらんの通りの石ころ道で、足跡は分りませんし、被害者をどこかへ隠したのではないかということですが、そういう様子も見えません。狭い境内のことですから、土を掘ったりすれば、すぐ分る筈ですし、社殿の中や縁の下なども調べたのですが、これという発見もありませんでした", "君一人でお調べになったのですか", "イイエ、署の者が五人程で手分けをして、調べたのです", "イヤ、有難う。僕はこの辺を少しぶらついて見ますから、中村君が来られたら、そうお伝え下さい" ], [ "エエ、そうのようですね。のぼりが立ってますよ。アア、お化け大会と書いてあります。例の化物屋敷の見世物でしょう", "ホウ、妙なものが出ているね。行って見ようじゃないか。化物屋敷なんて随分久し振りだ。東京にもこんな見世物がかかるのかねえ", "近頃なかなか流行しているんです。昔は化物屋敷とか八幡の藪知らずとか云ったようですが、この頃はお化け大会と改称して、色々新工夫をこらしているそうです" ], [ "先生、つまらないじゃありませんか。ちっとも怖くなんかありゃしない。どうしてこんなものを見て逃げ出すんでしょうね", "マア、終りまで見なければ分らないよ。それに僕達はただ慰みに入って来たんじゃない。大事な探しものがあるんだ。人形一つでも見逃す訳には行かないよ" ], [ "君、少し凄くなって来たじゃないか。真暗な中で戸を開けて入るというのは、何だか気味の悪いものだね", "そうですね。一人きりだったら、一寸いやな気持がするかも知れませんね" ], [ "変だね、あとへ戻るのかしら", "その辺に、又戸があるんじゃないでしょうか。やっぱり黒い板塀のようじゃありませんか", "そうかも知れない" ], [ "どうしても開かないんです。さっきから押しつづけているんですけれど", "小池君、君ここへ入っても驚いちゃいけないよ。僕は何も知らずに飛び込んだものだから、ひどく面喰ってしまった。どこもかも鏡ばかりなんだ。この部屋には僕と同じ奴が千人以上もウヨウヨしているんだぜ。そして、僕と同じように、今物を云っているんだ。ハハハハハハハハ、アア、僕が笑うと、奴らも口を開いて笑うんだ", "ヘエ、気味が悪いですね。そして、出口が分らないのですか。この戸はどっか狂ったのじゃないでしょうか。入口へ戻って、人を呼んで来ましょうか", "アッ、開いた。開いた。君、やっと鏡の壁が口を開いたよ。じゃ僕は先に出て待っているからね" ], [ "先生、どこにいらっしゃるのです。開きましたよ。ドアが開きましたよ", "出口はここだ。しかし、自然に開くのを待つ外はないのだ。仕方がない、暫くそこに我慢していたまえ" ], [ "驚きました。実にいやな気持ですね。僕は半分は目をつむってましたよ。そうでないと、今にも気が変になるような気がして", "なる程。これじゃ、みんなが逃げて帰る筈だ。進めば進む程、物凄くなるんだからね" ], [ "ハハハハハハ、ひどくおどかすねえ。それに、帰れ帰れっていうのは、すこし卑怯じゃないか", "そうですね。人を喰ったものですね" ], [ "先生、早く通りましょう。これでは見物が逃げ戻る筈ですよ。なんてひどい見世物でしょう", "管轄の警察の手落ちだね。こんなものを許すなんて。多分いつものお化け大会だぐらいに思って、よく調べなかったのじゃないかな" ], [ "妙子さんではないかというのだろう。僕もそれに注意しているんだが、少しも似ていないよ。生顔と死顔とは相好が変るものだと云っても、こんなに違う筈はないよ", "そういえば、そうですね。しかし、僕はなんだか、本当の人間の首のような気がして……" ], [ "なる程考えたものだねえ。これ一つでも入場料だけの値打はありそうだぜ", "僕はこんな気味の悪い見世物は始めてですよ。この興行主はよっぽど変り者に違いありませんね" ], [ "なんだろう。蚊帳の中に何かいるようじゃないか", "いますよ。よく見えないけれど、何だか裸体の女のようですぜ。アア、真裸体です。それでこんなに暗くしてあるんですよ", "なにをしているんだろう", "殺されているんですよ。顎から胸にかけて、黒いものが一杯流れています。血です。裸体に剥がれて、惨殺された女ですよ", "五体は揃っているようだね", "エエ、そうのようです", "髪は断髪じゃないかい", "断髪ですよ", "肉づきのいい、若い女だね" ], [ "調べて見ましょうか", "ウン、調べて見よう" ], [ "どうもそうらしいね", "エエ、この顔は妙子さんにそっくりです" ], [ "昨夜、寝室で絞殺されたのでしょうか", "そうらしい。でなければ、あんなに易々とベッドの中へ隠したり、塵芥箱の中へ隠したり出来ない筈だからね。……犯人は、今朝まだ薄暗い内に、これを塵芥車にのせて、そこの神社の森の中へ引っぱって来た。それから、死体を担いで、化物屋敷のテントに忍び込み、この蚊帳の中の生人形と置き換えたのだ。心臓を抉ったのは、ここへ来てからに違いない。無論、最初からここへ死体を隠すつもりで、見当をつけて置いたのだろう。この場面を選んだのは、電燈も薄暗いし、蚊帳の中といううまい条件が揃っていたからだ。この中へ置けば、我々のように蚊帳をまくって見る見物なんかありやしないから、急に発見される心配はないと思ったのだ", "それに、大抵の見物は、ここまで来ないで、逃げ帰ってしまうのですからね。……でも、見世物小屋の人達に、よく見つからなかったものですね", "犯人がここへ来た頃は、まだ夜が明けたばかりで、みんな寝ていたのだろう。それに、何も正面の入口から入らなくても、この場面のすぐうしろから、テントの裾をまくって忍び込めば、訳はないんだからね", "早速、川手さんと中村係長に知らせなければなりませんね", "ウン、電話をかけることにしよう。……だが、小池君、ちょっと待ち給え。さい前渡された二枚の紙札が何だか気になるんだ。懐中電燈をつけた序に調べて置こう" ], [ "三重渦状紋だ、悪魔の紋章だ", "例のいたずらですね", "我々を嘲笑しているのだよ", "しかし、あの骸骨や、人形の腕が、これを持っていたのは変ですね。丁度僕らの受取った札に、あいつの指紋が捺してあるというのは。……若しや、あいつ、まだこの中にウロウロしているんじゃないでしょうか" ], [ "エッ、黒いものですって?", "ホラ、あすこだ。海坊主のような真黒な奴だ、まさか、こんな人の目につかぬところに、化物の人形が置いてある筈はない" ], [ "どちらへ逃げました?", "分らない。君はそちらを探して見てくれたまえ" ], [ "どうだった。あいつに出会わなかったか", "一度声を聞いたばかりです。確かにこの迷路のどこかにいるには違いないのですが", "僕も声は聞いた。竹藪のすぐ向側に立っているのも見た。しかし、こちらがそこまで行く間に、先方はどっかへ隠れてしまうんだ" ], [ "あなたのお連れの方が、曲者の為に撃たれたのです", "エッ、小池君が?" ], [ "ウヌ、待てッ", "逃がすもんか、畜生" ], [ "オオ、宗像先生、あなたはその部屋で、曲者をごらんにならなかったのですか。つい今し方まで、そのドアの隙間から、我々にピストルを突きつけていたんですぜ", "僕もここにあいつが隠れていると聞いたものだから、はさみ撃ちにする積りで、入って来たのだが、入って見ると誰もいないのです。ただ、このピストルがドアの把手にぶら下っていたばかりでね" ], [ "あなたの替玉を作るのですよ。影武者ですね、丁度持って来いの人物があるのです。相当の報酬を出して下されば、命を的に引受けてもいいという男があるのです。柔道三段という豪のものですよ。その男をこのお邸へ、あなたの身代りに置いて、謂わば囮にする訳です。そして、近づいて来る賊を待伏せしようというのです", "そんな男が本当にあるのですか" ], [ "不思議とあなたにそっくりなのです。マア一度会ってごらんなされば分ります。うまくやれば召使の方達も、替玉とは気がつかないかも知れません", "それにしても、わしが身を隠す場所というのが、第一、問題じゃありませんか" ], [ "マア、私の腕前を見ていて下さい。青年時代には舞台に立ったこともある男です。お芝居はお手のものですよ", "これは不思議だ。声までわしとそっくりじゃありませんか。これなら女中共だって、なかなか見分けはつきませんよ" ], [ "怪しい奴は見なかったか", "別にそんなものはいないようです" ], [ "ウフフフ……、大変若返りましたよ。サア、これでよし、今度は僕の番です", "エッ、あなたもその髭を剃るのですか。惜しいじゃありませんか。君まで何もそんなことをしなくっても" ], [ "大丈夫ですか", "大丈夫です。飛び降りなんて、存外訳のないものですね" ], [ "あれですよ", "なる程、山の中の一軒家ですね" ], [ "変った建物ですね", "お気に召しましたか" ], [ "お父ちゃんとお母ちゃんが……", "エ、お父ちゃんとお母ちゃんが、どうかしたの?", "あっちで、怖い小父ちゃんに叩かれているの……" ], [ "イイエ、あれは私の金じゃない。大切な預りものだ。あれだけは、どうあっても渡すことは出来ない", "そうら見ろ。とうとう白状してしまったじゃねえか。預りものであろうと、なかろうと、こっちの知ったことか。サア、鍵を出しねえ。俺はあれをすっかり貰って行くのだ。エ、出さねえか。出さねえというなら、どうだ、これでもか。エ、これでもか" ], [ "ハハハ……、そう気附かれちゃ仕様がない。如何にも俺はその川手さ。貴様の義理のお父つあんに使われた川手さ。だが何もそんなに威張るこたあなかろうぜ。元は貴様も俺と同じ山本商会の使用人じゃないか。それを、貴様はそののっぺりとした面で、御主人の一人娘、この満代さんをうまくたらし込み、まんまと跡取り養子に入りこんだまでじゃないか。財産といったところで、元々死んだ山本の親爺さんのもの、貴様が我が物顔に振舞っているのが、無体癪に触ってかなわねえのだ", "ハハア、すると何だな、川手、貴様はこの満代が俺のものになったのを、いまだに恨んでいるんだな。その意趣返しにこんな無茶な真似をするんだな" ], [ "ハハハハハハ、その心配はご無用だ。女中達はみんな縛りつけて猿轡をかましてあるし、それに淋しい郊外の一軒家、貴様達がいくらわめいたって、誰が助けに来るものか。お巡りの巡回の時間まで、俺アちゃんと調べてあるんだ。サア渡せ、渡さねえと……", "どうするんだ?", "こうするのさ" ], [ "鍵を渡す。大切な預り金だけれど、満代の身には換えられぬ。鍵はこの次の間の、金庫の隣の箪笥にある。上から三つ目の小抽斗の、宝石入れの銀の小匣の中だ", "ウン、よく云った。で、組合せ文字は?", "…………", "オイ、組合せ文字はと聞いているんだ", "ウーン、仕方がない。ミツヨの三字だ" ], [ "確かに貰った。久しぶりにお目にかかる大金だ。悪くねえなあ。……ところで、これで用事もすんだから、おさらばといいたいんだが、そうはいかねえ。まだ大切な御用が残っておいで遊ばすのだ", "エッ、まだ用事があるとは?" ], [ "俺ア、今夜は貴様達二人に恨みをはらしに来たんだ。その方の用事が、まだすんでいないというのさ", "じゃあ、貴様は、金を取った上にまだ……", "ウン、先きに殺したんじゃ、金庫を開くことが出来ねえからね", "エツ、殺す?", "ウフフフフ、怖いかね", "俺を殺すというのか", "オオサ、貴様をよ。それから、貴様の大じの大じの満代さんをよ", "なぜだ。なぜ俺達を殺さなければならないんだ。君はそうして、大金を手に入れたじゃないか。それだけで満足が出来ないのか" ], [ "川手君、君もまさか鬼ではあるまい。僕の気持ちを察してくれ。僕は果報者だ。満代はよくしてくれるし、二人の小さい子供は可愛い盛りだ。商売の方も順調に行っている。僕は幸福の真只中にいるのだ。まだこの世に未練がある。死に切れない。あの可愛い子供達や、この事業を残しては、死んでも死に切れない。川手君、察してくれ。そして、昔の朋輩甲斐に、俺を助けてくれ。ねえ、お願いだ。その代り、君の事は悪くはしない。これからも出来るだけの援助はするつもりだ。もう一度、昔の朋輩の気持になってくれ", "フフン、相変らず貴様は口先がうまいなあ。女を横取りして置いて、一人いい子になって置いて、昔の朋輩が聞いてあきれらあ。そんな甘口に乗る俺じゃねえ。マア、そんな無駄口を叩く暇があったら、念仏でも唱えるがいい", "それじゃ、どうあっても許しちゃくれないのか", "くどいよ。許すか許さねえか、論より証拠だ。これを見るがいい" ], [ "俺は父の罪を知らぬのだ。今聞くのが初めてだ。証拠を見せろ。俺は信じることが出来ない", "ハハハハ、証拠か。それは、この俺が、山本始が、四十年を費して貴様に復讐を企てたことが何よりの証拠ではないか。ちっとやそっとの恨みで、人間がこれ程の辛苦に堪えられると思うのか", "今のは、お芝居をして見せたのだな" ], [ "だが、若し俺が貴様の復讐に応じないといったら、どうするのだ", "逃げるのか", "逃げるのではない。立ち去るのだ。俺にはここを立ち去る自由がある", "ハハハハハ、オイ、川手、それじゃ一つ君のうしろを振返って見たまえ" ], [ "それ程でもないわ。でも、ひどいことをするわね。あたし、まだ胸がドキドキしている。誰かがいたずらしたんじゃないかしら", "まさか。それに、あの時、ボートは橋の下から半分も出ていなかったから、きっと、こんな所に舟なんかないと思って投げたんだよ。川の中へ捨てたつもりで行ってしまったんだよ", "そうかしら、でも危いわねえ。軽いものなら構わないけど、これ随分重そうなものよ。アラ、ごらんなさい。何だかいやに御丁寧に縛ってあるようよ" ], [ "慾ばっている! そんなお話みたいなことがあるもんですか", "だが、つまらないものを、こんなに丁寧に包んだり縛ったりする奴はないぜ。兎も角開けて見よう。まさか爆弾じゃあるまい。君、この行燈を持っていてくれよ" ], [ "ホーラごらん。やっぱり捨てたもんじゃないぜ。錫の小函だ。重い筈だよ。ウン、分った。この函は重しに使ったんだ。中のものが浮いたり流れたりしないように、こんな重い函の中へ入れて捨てたんだ。して見ると、この中には、ひょっとしたら、ラヴ・レターかなんか入っているのかも知れないぜ。こりゃ面白くなって来た", "およしなさいよ。何だか気味が悪いわ。いやなものが入っているんじゃない? こんなにまでして捨てるくらいだから、よっぽど人に見られては困るものに違いないわ", "だから、面白いというんだよ。マア、見ててごらん" ], [ "ホウ、そうでしたか。じゃ、何か新しい手掛りでも……", "そうですよ。マアお掛け下さい。色々重大な御報告があるのです。無論例の三重渦状紋の怪物についてですよ" ], [ "そうです。僕が来る少し前、この事務所へ妙な品物が届けられたのですが、それを見て、僕は川手氏の行方を急いで探す必要はないと思いました。あの人はもう生きてはいないのです。その品物が川手氏の死をはっきりと語っているのです", "それは一体何です。どうして、そんな事がお分りになるのです", "これですよ" ], [ "フーム、吾妻橋の下で拾ったというのですね。すると、誰かがこの品を隅田川へ投げ捨てたという訳ですか。綺麗な小函じゃありませんか。中に一体何が入っているのです", "実に驚くべきものが入っているのです。マア開けてごらんなさい" ], [ "僕もそう思うのですが、しかし女と極めてしまう訳にも行きますまい。華奢な男の指かもしれません", "しかし、この指が川手氏の死を語っているというのは? これが川手氏の指だとでもおっしゃるのですか" ], [ "見覚えがありましょう", "見覚えがあるどころか。渦巻が三つ重なっているじゃありませんか。三重渦状紋だ。例の奴とそっくりです。これは一体……", "僕は今、その隆線の数も算えて見ましたが、例の殺人鬼の指紋と寸分違いません", "すると……", "すると、この指は犯人の手から斬り取られたのです。恐らく犯人自身が斬り取って、隅田川の底へ沈めようとしたのでしょう。重い錫の小函を使ったのも、その目的に違いありません", "なぜです。あいつは、なぜ自分の指を斬り取ったりしたのです" ], [ "ハハハ……、イヤ別に深い考えがあった訳じゃないでしょう。世間では三重渦巻の事件といえば、すぐ僕の名を思い出すような具合になっているのです。新聞があんなに書き立てるのですからね。佐藤という男も、それを知っていて、態と僕の所へ持って来たのでしょう。これを拾って指紋に気附いたところなどは、なかなか隅に置けない。例の街の探偵といった型の男ですね", "それにしても、その男がもう一度ここへやって来るのを待って、詳しく聞き糺して見る外はありませんね。この指や小函だけでは、犯人が何者だか、どこに隠れているか、全く見当もつかないのですから", "イヤ、僕の想像では、佐藤という男も多くを知ってはいまいと思うのです。ただ橋の上から投げ込まれたのが、偶然ボートの中へ落ちたというような事でしょうからね。それよりも、我々は手に入ったこれらの品を、綿密に研究して見なければなりません。一本の紐も、一枚の古新聞も、ましてハンカチなどというものは、証拠品として非常に重大な意味を持っていることがあるものです", "しかし、見たところ、別にこれという手掛りもなさそうじゃありませんか。手掛りといえば、この指紋そのものが何より重大な手掛りですが、こうして犯人の身体から切り放されてしまっては、全く意味がない訳だし、この錫の小函にしても、どこにでも売っているような、ありふれた品ですからね", "如何にも、指と小函に関しては、おっしゃる通りです。しかし、ここにはまだ紐と新聞紙とハンカチがあるじゃありませんか" ], [ "僕には分りませんが、これらの品に、何か手掛りになるような点があるとおっしゃるのですか", "もっと念を入れて調べてごらんなさい。僕はこの品々によって、犯人の所在を突きとめることが出来るとさえ考えているのですよ", "エッ、犯人の所在を?" ], [ "なる程、RとKのようですね", "そうです。犯人はR・Kという人物ですよ。偽名かも知れないが、いずれにしても、これは犯人のハンカチでしょう。川の底へ沈めてしまうものに、まさか作為をこらす筈もありませんからね", "しかし、広い東京には、R・Kという頭字の人間が、無数にいるでしょうから、この持主を探し出すのは容易のことではありませんね", "ところが、よくしたもので、その無数の中からたった一人を探し出す別の手掛りが、ちゃんと揃っているのですよ。この頭字をクロスワードの縦の鍵とすれば、もう一つ横の鍵に当るものを、我々は手に入れているのです" ], [ "そうですよ。東京でこんな田舎新聞を取っている人は、そんなに沢山ある筈はない。精々百人か二百人でしょう。その中からR・Kの頭字の人物を探せばいいのですから、何の面倒もありません。あなた方警察の手でやれば、数時間の間に、このR・Kの住所をつきとめることが出来るでしょう", "有難う。何だか目の前がパッと明るくなったような気がします。では、僕はすぐ捜査課に帰って手配をします。ナアニ、電話で静岡警察署に依頼すれば、R・Kの住所姓名はすぐ分りますよ" ], [ "じゃ、この証拠品はあなたの方へ保管して置いて下さい。そして、犯人の住所が分ったら、僕の方へも一寸お知らせ願えれば有難いのだが", "無論お知らせしますよ。では、急ぎますからこれで……" ], [ "北園竜子、キタゾノ、リュウコ、アアやっぱり女でしたね。それがあのR・K本人ですね", "そうです。今まで調べた所では、そうとしか考えられません。しかし、残念なことに、その家は、昨日引越しをしてしまって、空家になっているのです。……イヤ、詳しいことはお会いしてからお話しましょう。ではなるべく早くお出でをお待ちします" ], [ "フーム、それで、あんたは、今でもその男に出会えば、これがそうだったと顔を見分けることが出来るかね", "ハイ、きっと見分けられるでございましょう。たった一度でしたが、奥様があんなに隠していらっしゃる方かと思うと、いくら年寄りでも、やっぱり気を附けて、胸に刻み込んで置くものでございますよ" ], [ "で、その男は泊って行くこともあったのかね", "イイエ、一度もそんなことはございません。わたしがお使いから戻るまでには、きっとお帰りになりました。ですが、その代り、奥様の方が……", "エ、奥様の方が、どうしたというの?", "イイエね、奥様の方がよく外でお泊りになったのでございますよ", "ホウ、そいつは変っているね。で、どんな口実で留守にしたの?", "遠方のお友達の所へ遊びにいらっしゃるのだと申してね。一晩も二晩もお留守になることが、ちょくちょくございました。どんなお友達だか知れたものじゃございませんよ" ], [ "そういえば妙なことがあるんですよ。一昨日の夕方、こちらへ御用を聞きに来ますと、奥さん自身で勝手口へ出ていらしって、今夜中に届けてくれって、妙な註文をなすったのです", "フム、妙な註文とは" ], [ "で、君はそれを届けたのか", "エエ、夜になってからお届けしました。すると、婆やさんはいないと見えて、やっぱり奥さん自身で受取りに出ていらっしゃいました" ], [ "それはどういう意味でしょうか。まさか、先生が幽霊なんかを信じていらっしゃる訳ではないでしょうが……", "ハハハ……、幽霊そのものは存在しないにしても、幽霊を怖がる恐怖心だけは、不思議と誰にもあるものだよ。君はそういう恐怖心が強いかどうかと訊ねるのさ", "アア、そうですか。それなら、僕は怖がらない方です。真夜中に墓地を歩き廻ったりするのは大好きな方です", "ホウ、そいつは頼もしいね。それじゃ、これから一つ僕と一緒に、夜の冒険に出かけるのだ。うまく行けば、すばらしい手柄が立てられるぜ", "夜の冒険といって、一体どこへ行くのでしょうか", "北園竜子の住んでいた空家へ、これから二人で忍び込むのだ。そして、空家の中で夜明かしをするのだ", "では、あの空家に何か怪しいことでもあるとおっしゃるのですか", "怪しいことがあるかも知れない。ないかも知れない。それを二人で試して見るのだ" ], [ "分らないかね", "何だか、分っているような気がします。でも、今の奴は黒い洋服を着ているように見えましたぜ。男のようでしたぜ", "それでいいのだよ。あれがあいつのもう一つの姿なのだ", "捉えるのですか", "イヤ、もう少し様子を見よう。相手をびっくりさせてはいけない。もう袋の鼠も同じことだからね" ], [ "僕この上へ上って、確かめて見ましょう。先生はここにいて下さい。若し相手が手強いようでしたら、声をかけますから、加勢に来て下さい", "じゃ、捉えなくてもいいから、ただあいつがいるかいないかだけを確かめてくれ給え。あとは警察の方に任せてしまえばいいのだから" ], [ "アア、もう駄目です。どんなに弁解して見ても、あなた方が納得して下さる筈はありません。わたしは呪われているのです。あんないまわしい指を持って生れて来たのが、わたしの業だったのです", "フフン、実にうまいもんだ。流石に君は名優だよ。そういうと、何だか、君は例の三重渦巻の指紋の持主ではあるけれど、殺人罪は犯さない。真犯人は外にあるのだとでもいうように聞えるね" ], [ "ハハハ……、益々辻褄が合わなくなって来た。そんな永い時間、一人で歩き廻る奴もないものだ", "イイエ、一人ではありません。あの、お友達と……", "エ、お友達? それじゃちゃんとアリバイがあるじゃないか。その友達を証人にすればいい筈じゃないか", "でも、それが、……", "それが?", "それが、普通のお友達ではなかったのです", "ウン、分った。君の家の婆やが云っていたが、君には男の友達があったそうだね。だが、そんな事を恥しがって、殺人の嫌疑を甘んじて受ける奴もないものだ。その男の友達に証言させればいいじゃないか", "でも……", "でも、どうしたんだね" ], [ "その人には、もう二度と逢うことが出来ないのです", "どうしてだね" ], [ "アア、もう駄目です。……わたしは呪われているのです。……あなたはきっと、そうおっしゃるだろうと思いました", "気の毒だが、君のお芝居は無駄骨折りばかりだったよ。サア、それではわしと一緒に出かけようか" ], [ "何を云っているのだ。わしは宗像だよ。私立探偵の宗像だよ", "本当ですの? でも、何だか……、ねえ、すみませんが、その懐中電燈で、あなたの顔を照らして見て下さいませんか" ], [ "君はあの事件を注意していたのかい", "ウン、京城の新聞の簡単な記事で初めて見たんだが、それでも僕はすっかり惹きつけられてしまったよ。何とも云えない一種の匂いがあるんだ。僕の鼻は猟犬のように鋭敏だからね。ハハハ……、だから帰る途中大阪で、事件の最初からの新聞をすっかり揃えて貰って、汽車の中で読み耽って来たのさ" ], [ "ウン、新聞に出ただけは分っている。だが、君の口から詳しい話が聞きたいもんだね", "無論話すがね。それよりも、ここにいいものがあるんだ。僕個人の捜査日記だよ。君に読んで貰おうと思って持って来たのだ。口で云うよりも、これを一読してくれれば、一切がよく分ると思う" ], [ "この北園竜子という女のやり口が、又実に面白い。引越しの前晩に、沢山の罐詰とパンを買入れた点など、興味津々としてつきないものがあるよ。君の手帳には、その記事の横に赤い線が引いてあるが、これはどういう意味だね", "僕には全く見当がつかない。多分犯人は人里離れた山奥へでも身を隠す用意をしたのだと思うが、何だかそれも信じられないような気がする。ただ、僕はその事実を聞いた時に、ゾーッとしたのだよ。なぜか分らないが、胸の中を冷い風が吹き過ぎたような、変てこな気持がしたんだ。それで赤線など引いたのだろう", "ハハハ……、なる程渦中にあると盲目になるもんだね。だが、君の潜在意識はちゃんと真相を感づいていたのだよ。君がゾーッとしたというのは、その口の利けない潜在意識が、非常信号を発したのさ。ハハ……、僕には犯人の隠れ場所は大方想像がついているよ", "エッ、隠れ場所が? 冗談じゃあるまいね。ど、どこだい? それは" ], [ "なにも慌てることはない。お望みとあれば、君をその場所へ御案内してもいいよ。だが、宗像君程のものが、そこへ気のつかぬ筈はない。ひょっとしたら、今晩あたり、宗像君単独で、その場所へ犯人を捉えに行っているかも知れないよ", "そんな近い所なのか", "ウン、北園というのはなかなか利口な女だよ。君達を錯覚に陥れようとしたのだ。引越しをして、家を空家にしてしまえば、その家はもう捜査網から除外されるわけだからね。その日から、一番安全な隠れ場所に一変する", "エッ、するとあいつは、あの空家に隠れているというのか", "若しその女が、僕の想像しているような賢い奴だったらね", "ウーン、そうか。成程、あの手品使いの考えつきそうな事だ。よしッ、兎も角も確めて見なくっちゃ。明智君、僕はこれで失敬するよ", "まア、待ち給え。君が構わなければ、僕も一緒に行ってもいい。……ア、電話だ。一寸待って呉れ給え" ], [ "やっぱり君の推察の通りだった。あの女は空家の屋根裏に隠れていたんだって。そこから屋根を破って逃げ出したのを、宗像博士が追いつめて、近くの神社の境内で捉えたらしい。博士から今電話で知らせて来たというのだ。僕はすぐ出かけるが、君は……", "無論お供するよ。北園という女の顔も見たいし、久し振で宗像君にも会いたいからね" ], [ "他殺ではないかと思うのです。誰かがこの女の心臓を抉って、その短刀を死人の手に握らせた上、自殺と見せかける為めに、あとから繩を解いて置いたとも考えられますからね", "しかし、誰が何の為めにそんな真似をしたのでしょう。犯人に恨みを含むものが、この森の中に忍んでいたとでもいうのですか" ], [ "しかし、彼としては、我々の常識では判断の出来ない深い事情があったのかも知れませんよ。宗像さん、僕はこの事件の全体の経過を、静かに考えて見て、どうもそんな気がするのです。なぜ眼帯の男は、共犯者を救わないで、その命を絶たなければならなかったか。そこにこの事件の恐ろしい謎があるのじゃないかと、そんな風に感じているのです", "感じですか?" ], [ "僕はこの事件にすっかり惹きつけられてしまった。一つ僕は僕で、宗像君の邪魔をしないように、調査をして見ようかと思うのだよ", "調べると云って、もう主犯が死んでしまって、あとは共犯の眼帯の男を探すばかりだが、君は何か心当りでもあるのかい" ], [ "それじゃ、後には何も調べることがないじゃないか。犯人は川手氏一家への復讐の目的を完全に果してしまったのだから、これ以上事件の起りようはないし、その犯人の一人は自殺か他殺か、兎も角死んでしまった。残っているのは眼帯の男ただ一人だ。あの男を探さないで、君は何を調べようというんだい", "君は忘れているよ。川手氏一家がみなごろしになったといっても、川手庄太郎氏だけは、山梨県の例の山の家で行方不明になったことが分っているばかりで、まだその死骸も現われないじゃないか", "ウン、それはそうだ。しかし、今まで行方が分らないところを見ると、川手氏も無論殺されているに違いない。でなくて、犯人があの怪指紋の指を切ったりする筈がない。あの指を切って、隅田川へ捨てたのは、奴らの復讐事業が全く終ったことを意味すると考える外はないじゃないか" ], [ "無論、遺書を認めない理由ははっきりしていますよ。あの自殺した男が、果して犯人の一人であったかどうかを疑うからです", "エッ、なんですって? 君は、犯人でもない男が、あんな遺書を書いて飛降り自殺をしたというのですか" ], [ "川手氏の死骸をですか。一体どこに隠してあったのです。当時あの地方の警察が、山狩りまでして捜索しても、とうとう発見出来なかったのですが", "イヤ、死骸ではありません。僕は生きている川手さんを発見したのです" ], [ "エッ、生きていた? それは本当ですか。じゃあ犯人は肝腎の川手氏に復讐をとげなかったわけですか", "イヤ、そうではありません。犯人は犯罪史上に前例もないような、残酷極まる方法で、川手氏に復讐したのです。若し僕の発見が、もう一日おくれたならば、恐らくこの世の人ではなかったでしょう", "一体、それはどんな方法です" ], [ "生き埋めです。川手氏は棺桶ようの木箱の中へ入れられて、あの家の庭の林の中に埋められていたのです", "で、あなたはそれを救い出したのですか。一体どうして今日まで生き永らえていたのです" ], [ "イヤ、まだ健康体とは云えません。僕の家の一間にとじこもったきり、寝たり起きたりという状態です", "そうですか。何としてもお手柄でした。それを聞いて僕も心が軽くなりましたよ" ], [ "それじゃ、百貨店の屋上から飛降り自殺をした男の遺言と全く一致しているじゃありませんか。あなたが、北園竜子や、あの自殺をした男が真犯人でないとおっしゃる論拠は?", "それは論理の問題です。中村君から詳しいことを聞いて見ますと、この事件は初めから終りまで、あらゆる不可能の連続と云ってもいいくらいです。彼等が魔術師と云われた所以もそこにありました。僕はそれらの不可能について静かに考えて見たのです。真実の不可能事が行われ得る筈はありません。それが行われたように見えたのは、何かその裏に、何人も気附かぬ手品の種が隠されていたと考える外はないのです。その秘密さえ解き得たならば、この事件はこれ迄とは全く違った相貌を呈して来るかも知れませんからね", "で、君はその秘密を解いたというのですか" ], [ "ワハハハ……、明智君、夢物語はいい加減にして貰いたいね。黙って聞いていれば、君の空想はどこまで突走るか、分りやしない。だが、いくら何でも、君はまさか、北園竜子がその川手氏の妹だなんて云い出すのではあるまいね", "ところが僕はそれを云おうとしていたのですよ。北園は犯人ではなくて被害者だったということをね" ], [ "ハハハ……、またしても想像ですか。僕は君の空想を訊ねているのじゃない。確証のある事実が聞きたいのだ", "その答は簡単ですよ。僕は真犯人の眼帯の男が、まだ生きてピンピンしていることを、よく知っているからです", "ナニ、生きている? それじゃ君は、その犯人がどこにいるかも知っているのだね", "無論知っていますよ", "では、なぜ捉えないのだ。犯人のありかを知りながら、こんな所で無駄なお喋舌りをしていることはないじゃないか", "なぜ捉えないというのですか", "そうだよ", "それは、もう捉えてしまったからです" ], [ "犯人を捉えたって? オイオイ、冗談はよしたまえ。一体いつどこで捉えたというのだ", "犯人はいつもそこにいたのです" ], [ "明智君、君は何を云っているのです。ここには我々五人の外に誰もいないじゃありませんか。それとも、我々の中に犯人がいるとでもいうのですか", "そうです。我々の中に犯人がいるのです", "エ、エ、それは一体誰です", "この事件での数々の不可能事が起った時、いつもその現場に居合わせた人物です。被害者川手氏を除くと、そういう条件にあてはまる人物は、たった一人しかありません。……それは宗像隆一郎氏です" ], [ "弁明せよとおっしゃるのですか。ハハハ……、夢物語を真面目に反駁せよとおっしゃるのですか。僕はそういう大人げない真似は不得手ですが、強いてとおっしゃるならば申しましょう。……確証がほしいのです。明智君、確かな証拠を見せて貰おう。君もこれ程僕を侮辱したからには、まさか証拠がない筈はなかろう。それを見せたまえ、サア、それを見せたまえ", "証拠ですか。よろしい、今お目にかけましょう" ], [ "エエ、廊下に待たせてあります", "じゃ、ここへ呼んで来たまえ" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第12巻 悪魔の紋章」光文社文庫、光文社    2003(平成15)年12月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩選集 第二巻」新潮社    1938(昭和13)年10月 底本の親本:「日の出」新潮社    1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:北川松生 2017年1月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "あたし何だか気味が悪くって、ほんとうのことを云うと、こんな心霊学の会なんか始めたのがいけないと思いますわ。えたいの知れない魂達が、この家の暗い所にウジャウジャしている様な気がして。あたし、主人に御願いして、もう本当に止して頂こうかと思うんですの", "今夜はどうしてそんな事おっしゃるのです。何かあったのですか", "何かって、あたし姉崎さんがおなくなりなすってから、怖くなってしまいましたの。あんまりよく当ったのですもの" ], [ "アラ、御存知ありませんの。家の龍ちゃんがピッタリ予言しましたのよ。事件の二日前の晩でした。突然トランスになって、誰か女の人がむごたらしい死に方をするって。日も時間もピッタリ合っていますのよ。主人お話ししませんでして", "驚いたなあ、そんな事があったんですか。僕ちっとも聞いてません。姉崎さんということも分っていたのですか", "それが分れば何とか予防出来たんでしょうけれど、主人がどんなに責めても、龍ちゃんには名前が云えなかったのです。ただ繰返して美しい女の人がって云うばかりなんです" ], [ "では、今夜の会はお休みにした方がよくはないのですか", "イイエ、主人は是非いつもの様に実験をやって見たいと申していますの。もう部屋の用意もちゃんと出来てますのよ" ], [ "それはどういう意味なんですか。先生はあの紫矢絣の女が生きた人間ではなかったとでもおっしゃるのですか", "イヤ、そうじゃない。そういう意味じゃないんだけれど" ], [ "君は探偵好きだったね。コナン・ドイルの影響を受けて心霊学に入って来た程だからね。何か考えているの", "あの現場に落ちていた紙切れの符号の意味を解こうとして考えて見たことは見たんですけれど、分りません。その外には今の所全く手掛りがないのですから", "符号って、どんな符号だったの。その紙切れのことは僕も聞いているが", "全く無意味ないたずら書きの様でもあり、何かしら象徴している様にも見える、変な悪魔の符号みたいなものです" ], [ "ご存知なのですか、この符号を", "イヤ、無論知らない。いつか気違いの書いた模様を見た中に、こんなのがあったのを思出したのさ" ], [ "躄車に乗っていたのでしょう。躄車……ねえ、これ躄車の形じゃないこと。この四角なのが箱で、両方の角が車で、斜の線は車を漕ぐ棒じゃないこと", "ハハ……、子供の絵探しじゃあるまいし" ], [ "あの乞食を一目でも見たものには、そんなことは考えられないのです。あいつは血腥い人殺しなどをやるには年を取り過ぎています。力のない老いぼれなんです。それに手は片方しかないし、足は両方とも膝っ切りの躄ですから、あいつが土蔵の二階へ上って行くなんて全く不可能なんです。僕は外に達者な相棒がいて、躄は見張り役を勤めたのではないかと空想したのですが、それも非常に不自然です。そんな乞食などがどうして蔵の合鍵を拵えることが出来たかということ、犯人が乞食とすれば、何か盗んで行かなかった筈はないということ、躄が何の必要があって危険な現場附近にいつまでもぐずぐずしていたかと云う事などを考えると、この空想は全く成立たないのです", "それじゃ、この符号は躄車やなんかじゃないのですわね" ], [ "本当だよ。僕が歩いていると、ヒョッコリ、社殿の、横の、暗闇から、飛び出して、来たんだ。常夜燈の電気で、ボンヤリ、庇髪と、矢絣が見えた。だが、僕が、オヤッと、気がついた時には、そいつは、もう、非常な勢で駈け出していたんだよ。わしは、足が、悪いもんだから、到底、かなわん。追っかけたけれど、じきに、見失った。恐ろしく、早い奴だったよ。女の癖に、まるで、風の様に走りよった。あとで、境内を、念入りに、歩き廻って見たが、もうどこにも、いなかったがね", "ですが、その変な女は、案外犯罪には何の関係もない、気違いかなんかじゃないでしょうか。気違いなら知合でなくったって、どこの家へでも入って行くでしょうし、夜中に森の中をさまよう事もあるでしょうからね。僕達は少し矢絣に拘泥し過ぎてるんじゃないかしら。犯罪者が態々、そんな人目に立ち易い風俗をする謂れがないじゃありませんか" ], [ "餅は、餅屋か。それも、そうだな。ところで、祖父江君、君は、死体解剖の、結果を、聞かなかったかね", "綿貫検事から聞きました。内臓には別状なかった相です。姉崎さんはあの日十時頃に、遅い朝食を採られた切りだそうですが、胃袋は空っぽで、腸内の消化の程度では、絶命されたのは、一時から二時半頃までの間ではないか、という程度の、やっぱり漠然としたことしか分らなかった相です", "精虫は?", "それは、全く発見出来なかったというのです", "ホホウ、それは、どうも" ], [ "知っています。その人も、今私の前にいるのです", "この部屋にいると、云うのですか。我々の中に、その、下手人が、いるとでも、云うのですか", "ハイ、そうです。殺す人も、殺される人も", "誰です、誰です、それは" ], [ "訳のない、ことです。アリバイを、証明すれば、いいのだ。あの、殺人事件の、起った時間に、諸君がどこに、いたかということを、ハッキリ、させれば、いいのです", "それはうまい思いつきですね。じゃ、ここで順番にアリバイを申立てようじゃありませんか" ], [ "イヤ、決してそういう意味じゃないのですけれど、矢絣の女があんなに問題になっていたものだから。つい女性を聯想したのです", "ウン、矢絣の、女怪か。少くとも、今の場合、あいつは、濃厚な嫌疑者だね" ], [ "エエ、間違いはない積りです。ですが、あなたは、それに見覚えでもあるのですか", "待って下さい。そして、その紙切れはどんなものでした。紙質や大きさは", "丁度端書位の長方形で、厚い洋紙でした。警察の人は上質紙だと云っていました" ], [ "ここでは、云えないのですか", "エエ、ここでは、どうしても、云えないのです", "さしさわりが、あるのですか", "エエ、イヤ、そういう訳でもないのですが、兎も角、もう少し考えさせて下さい。いくらお尋ねになっても、今夜は云えません" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年6月20日初版1刷発行 底本の親本:「新青年」博文館    1933(昭和8)年11月~1934(昭和9)年1月 初出:「新青年」博文館    1933(昭和8)年11月~1934(昭和9)年1月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「唇」と「脣」の混在は、底本通りです。 ※「博士」に対するルビの「はかせ」と「せんせい」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:まつもこ 2019年9月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "マネキン人形は鋸屑と紙を型にはめて、そとがわにビニールを塗るのですか", "そういうのもあります。いろいろありますよ。しかし、わたしは、ショーウィンドウのマネキンなんか造りません。そんなものは、弟子たちにやらせます。わたしは本職の人形師です。子供の時分に、安本亀八に弟子入りしたこともある。日本式の生人形ですよ。桐の木に彫るのです。上から胡粉を塗ってみがくのです。これは今でもやりますがね。しかし、なんといっても蝋人形ですね。ロンドンのチュソー夫人の蝋人形館のあれです。わたしは今から二十年ほど前に、ロンドンへ行って、あの人形を見て来ました。日本の生人形も名人が造ったやつは生きてますが、チュソー夫人の蝋人形と来たら、まるで人間ですね。生きているのですよ。死体人形なら、ほんとうに死んでいるのですよ。大江先生はロンドンへおいでになったことは……?", "ありません。しかし、チュソー夫人のことは本を読んで知ってますよ。僕もあの蝋人形は好きですね。皮膚がすき通って、血が通っているようでしょう", "そうです、そうです。血が通っています。死体人形なら、脈がとまったようです", "で、あなたは、蝋人形を造っておられるのですか", "そうです。今は蝋人形がおもです。医学校や博物館の生理模型ですよ。病気の模型が多いのです。だが、それはただ金儲けのためです。美術とは云えません。わたしは模型人形で暮らしを立てて、一方で美術人形の研究をしているのですよ。大江先生はむろんご承知でしょうが、ホフマンの『砂男』に出て来る美しい娘人形、オリンピア嬢でしたかね。あれがわたしの念願ですよ。おわかりでしょう。世の中の青年たちが真剣に恋をするような人形ですね" ], [ "蝋人形はどうして造るのですか。やはり型にはめるのですか", "粘土で原型を造ることもありますが、直接実物からとる場合もあるのです", "実物からとは?", "食堂のショーウィンドウに並んでいる蝋製の料理見本をごらんになったことがあるでしょう。あれは実物に石膏をぶっかけて、女型をつくることが多いのですよ。そこへ蝋を流しこんで固め、彩色するのです。人間でも同じことです。ただ石膏がたくさんいるだけですよ", "じゃあ、人間の肌に石膏をぬるのですね", "そうです。ごらんなさい。ここに見本がありますよ。ホラ、これがわたしの手です。実物と見くらべてごらんなさい" ], [ "これは、わたしの手に石膏をぬって、女型をとったのです。全身をとるのも、りくつは同じですよ", "では、ほんとうの人間からとった全身人形も造ったことがあるのですね", "ありますとも、画家がモデルを使うように、人形師もモデルを使うのです。モデルはドロドロの石膏にうずまるのですから、あまり気持がよくありませんがね。顔をとるときは、鼻の穴にゴム管を通して、息ができるようにしておくのです。たいていの娘はいやがりますが、なかには、石膏にとじこめられ、抱きしめられるような気持が好きだといって、進んでモデルになる娘もいますよ" ], [ "そのアトリエを見せていただきたいものですね", "むろん、お見せしますよ。では、これをすっかり飲んでから、アトリエへ行きましょう、今晩はうすら寒いですから、からだをあたためてからね" ], [ "これが蝋人形ですか。なにかカラクリ仕掛けでもあるのですか。ああ、目だけじゃない。唇が動いている。息をしている……", "生きているでしょう。あなた、わたしのトリックにかかりましたね。これはほんとうに生きているのですよ。人造人間じゃありません。さわってごらんなさい" ], [ "このモデルの娘さんは、なんとおっしゃるのですか", "最上令子と云います。これをモデルにして、寸分ちがわない美人人形を造りたいのです。いま、からだの調子を見ているのですよ。最良の状態のときに、石膏をぬりつけるのです" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第17巻 化人幻戯」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年4月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十六巻」春陽堂    1955(昭和30)年12月 初出:「講談倶楽部」講談社    1954(昭和29)年9月増刊 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:入江幹夫 校正:植松健伍 2019年6月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "058699", "作品名": "悪霊物語", "作品名読み": "あくりょうものがたり", "ソート用読み": "あくりようものかたり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「講談倶楽部」講談社、1954(昭和29)年9月増刊", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2019-07-02T00:00:00", "最終更新日": "2019-06-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card58699.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第17巻 化人幻戯", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2005(平成17)年4月20日", "入力に使用した版1": "2005(平成17)年4月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2005(平成17)年4月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第十六巻", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1955(昭和30)年12月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "入江幹夫", "校正者": "植松健伍", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/58699_ruby_68422.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-06-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/58699_68471.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-06-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "恐ろしい夢です。僕は今まで誰にも言わなかったけれど、それは口に出すさえ恐ろしかったからです", "よしなさい。お前は本を読み過ぎたのだ。神秘宗教だとか、心霊学だとか、妙な本ばかり読みふけるものだから、つまらない夢を見るのだ。さあ、もういいから、みんなあちらの居間へ行こう" ], [ "いいえ、僕はしゃべってしまいたいんです。みんなに聞いてもらいたいのです", "あんなに言うんだから、話させるがいいじゃないか。夢というものは、ばかにできませんよ" ], [ "あたしの部屋では、机の引出しがいつもあべこべに差してあるのよ。右の引出しが左に、左の引出しが右に、別に中のものはなくならないの。鞠ちゃんのいたずらかと思ったけれど、聞いてみるとそうじゃないというし、ほかの人も誰も知らないっていうのよ。あたし、一郎さんのように、気になんかしていなかったのだけれど、あなたの部屋もそうだっていうと、おかしいわね", "お父さま、これでも僕の読書のせいだっておっしゃるのですか", "なるほど。それは妙だね。お前たちの思い違いじゃないのかい。自分で物の位置を変えておいて、ヒョッと胴忘れしてしまうというようなこともあるもんだよ。化物屋敷じゃあるまいし、独りで物が動くなんて、ばかなことがあるもんか。ハハハハハ" ], [ "先生ですか。いま父も母も皆不在なのです。僕は父の書斎に一人ぼっちで留守番しているのです。先生、聞こえますか。もっと声を低くします。あいつに聞こえるといけないからです", "えっ、あいつって、誰かそこにいるんですか" ], [ "実はちょっと外出していましたので。いま帰ったところなのです。何がなんだかさっぱりわけがわかりません", "女中さんは?", "女中はいるはずです。それに御隠居さまもいらっしゃるのですが、一郎さんの部屋とはずっと離れていますので、まだお気づきになっていないのでしょう。ちょっとお知らせして参ります", "いや、それはあとにした方がいいでしょう。怪我人の介抱が第一だ" ], [ "苦しいでしょうけれど、これは捜査上どうしてもお聞きしなければならないのです。なるべく正確に答えてください。あなたは犯人を知っていますか", "わかりません。僕は犯人の顔を見なかったのです", "覆面をしていたのですね。しかし声だとかからだの恰好だとかに、何か心当たりはなかったですか", "少しも心当たりがありません。まったく聞いたこともない声でした", "誰かに恨みを受けているようなことはないのですか。少しでも疑わしい人物はないのですか", "ありません。僕はなぜこんな目に遭ったのか、まるで見当もつかないのです", "そうですか、それで犯人は不意に書斎へはいってきたのですね", "ええ、まったく不意でした。もっとも、僕はなんだか恐ろしい予感がしていたのです。すると、廊下を聞き覚えのない足音が近づいてきたのです。それで、明智さんにあんな電話をかけたのです", "犯人は口をききましたか。なぜあなたを殺そうとするのか、そのわけを言わなかったですか", "何も言いません。一と口も物を言わないで、いきなり短刀で突きかかってきたのです", "あなたは防ぎましたか", "ええ、死にもの狂いで防ぎました。しかし、とてもかなわなかったのです。僕はあまりの恐ろしさに、力も抜けてしまったようになって……", "なぜそんなに恐ろしかったのです", "あいつの姿が怖かったのです。黒い覆面の中から覗いている二つの眼が、無性に恐ろしかったのです。それに、僕の眼です。組み合っているうちに、あいつの短刀の先が、僕の右の眼ばかり狙っていることを知って、ゾーッとしたのです", "そんなに眼ばかり狙ったのですか" ], [ "ええ、僕も先生に聞いてほしいことがあるんです。お訊ねになりたいというのは、もしや僕の家庭のことではありませんか", "そうだよ、僕はあの事件が起こった時から、それを一度よく聞きたいと思っていたのだ", "じゃあ、先生は、今度のことは、僕の家庭の内部に、何か原因があるとでもお考えなのですか" ], [ "で、君たち三人の兄妹は皆その先のお母さんの子なの?", "そうです。僕の知っている限りでは、そうです。しかし、僕たち三人は顔も気質も少しも似てないでしょう。まるでみんな別々の母のお腹から生れてきたようじゃありませんか" ], [ "何かそんな疑いでもあるの?", "別に何もありません。でも、父はそういうことはまるで非常識なんです。どんな秘密があるかしれたものではありません。なくなったお母さんは、気の毒な人だったのです", "それで、今のお母さんと、君たちとはうまく行っているの?" ], [ "あれをごらんなさい。僕はゆうべもあれを見たのです。なんだか恐ろしいのです。僕の幻覚じゃないでしょうか", "あれって、なに? どこを見ているの?", "塔の頂上の窓です。じっと見ていてごらんなさい……ほら、あれです。先生、あの光です。先生には見えませんか" ], [ "懐中電燈のようだね", "ええ、僕もそう思うのです" ], [ "誰かが、ああして外部の者と秘密の通信をしているのじゃないでしょうか", "ウン、そうかもしれない", "このあいだ、家捜しをした時には、あの塔の中もむろん調べたのでしょうね", "調べたのだよ。別に異状はなかった。人の隠れているようなけはいは少しもなかった" ], [ "見たのです。まことに不作法なことですが、職務上いたしかたがなかったのです。僕はあなたが塔の三階でなすっていたことを、闇の中からすっかり見てしまったのです", "まあ、三階で? あたし何をしていましたの?", "手提げ電燈をつけたり消したりして、窓のそとの誰かへ通信をしていらっしたのです", "まあ、思いもよらないことですわ。あたし、今晩はずっと、お部屋で本を読んでいて、どこへも出ませんでした。何かの間違いですわ。明智先生、誰かほかの人とお見違えなすったのじゃありません?", "いいえ、僕はハッキリあなたの姿を見たのです。服装もその通りでした。そして、その人は塔を出てから、確かにあなたの部屋へはいって行ったのです", "まあ、あたしの部屋へ?" ], [ "でも、あたしの部屋へは誰もはいってきませんでしたし、あたしは本をよんでいたのですから、何かの間違いですわ。そんなことがあるわけがありませんわ", "あなたがそれほどにおっしゃるのでしたら、僕の見違いだったかもしれません。しかし、この家に、あなたと同じ服装をした、同じ背恰好の、しかも顔まで同じ人が、ほかにいるとも思えませんし、また僕が起きながら夢を見ていたとも考えられませんからね" ], [ "何も泣く事はない。もういい。もういい。お父さんは、お前が犯罪に関係があるなんて考えたわけじゃないよ。そんなことがあるはずはない。ただ、お前がどうして、塔の中などへはいったか、訊ねてみただけさ。さあ、もう泣くんじゃない", "だから、だから、あたし、塔なんかへ、はいった覚えはないと言っているのに……" ], [ "どうしたんだ。何事が起こったんだ", "有本先生が大変です。ピストルで打たれたので", "えっ、有本先生が?" ], [ "下のようですね", "ウン、見てきてごらん" ], [ "鞠子さんが……", "エッ、鞠子が? 撃たれたのか", "部屋に倒れていらっしゃるのです" ], [ "君はあいつを見たのか", "いいえ、誰も見ません。廊下を見まわっていますと、突然この部屋の中でピストルの音が聞こえたのです。すぐドアをあけてはいってみましたが、鞠子さんが倒れていらっしゃるばかりで、ほかには誰もいませんでした" ], [ "変だなあ。窓は中から閉まってるぜ。君は、その音を聞いた時、このドアの見える場所にいたのかい", "ええ、つい一間ほど向こうを歩いていたのです。逃げ出すやつがあれば、私の眼にはいらぬはずはなかったのです", "ドアは閉まっていたのかい", "そうです。ちゃんと閉まったままでした。私がここへはいるまで誰もひらいたものはないのです" ], [ "それですよ。先生、僕は実に驚くべきものを発見したんです。あいつの犯罪手段がわかったのです", "えっ、君が発見したって?", "そうです。警視庁の刑事さんではなくて、この僕が発見したんです" ], [ "フーン、面白いね。秘密の覗き穴というわけだね。君の家はそういう仕掛けのありそうな建物だよ。綾子さんや鞠子さんはその穴のあることを知っていたのかね", "知っていたらしいのです。姉に聞いてみると、二人はそこの蓋をあけて、電話でもかけるように、両側から話し合って遊んだことがあるというのです", "なるほど。で、君はその穴について、どういう考え方をしたんだね" ], [ "やっぱり密室の犯罪だね。で君はそれをどう解釈したの?", "僕は恐ろしいことを想像したのです。口に出していうのも恐ろしいことなんです。それで、きょうここへきたのも、その僕の想像を先生に聞いていただいて、正しい判断をくだしてほしいと思ったからなのです", "言ってごらん。君はその壁の穴の中に、何かの痕跡を発見したんじゃないのかい", "そうです。僕はそれを見つけたのです。穴の内側に太い釘を幾つも打ちつけた痕があるんです。その痕の様子では何か小さなものを、穴の中へしっかり取りつけるために、釘を打ったとしか思えないのです。釘を打って針金を巻きつけて、何かを取りつけたのです", "小型のピストルを?" ], [ "鞠子さんの倒れていた位置は", "ちょうどその隠し穴の前なのです", "フーン、君の想像が当たっているかもしれないね。そういう手段で人を殺した例は、外国にもあるんだからね。で、君は誰がそれを仕掛けたかという想像を組み立てて、その想像の恐ろしさに悩まされているというのだろうね" ], [ "えっ、ほかにもいろいろって、それはどんなことですか", "君にはまだ言わなかったけれど、お父さんはもうご存知のことなんだ。隠しておいても仕方がない。それよりもすっかり話し合って君の考えも聞く方がいいかも知れない。いつかの晩、君があの塔の窓に妙な光りものを見つけて、僕が塔へ調べに行ったことがあるね" ], [ "ええ、覚えています。あのとき先生のお帰りが大へん手間どったので、何があったのかと、僕はうるさくおたずねしたのだけれど、先生はなぜかあいまいにしかお答えにならなかったのです", "君に聞かせて興奮させては、からだにさわると思ったからだよ。実はあの時、塔の三階の窓から、屋敷のそとにいる誰かに懐中電燈で合図をしていたのは、綾子さんだった。僕は顔もみたし、その人が綾子さんの居間へはいったのも見届けた。綾子さんの愛用しているヘリオトロープの匂いが、なぜかふだんよりも強く匂っていた" ], [ "そうですか。姉さんがそんなことをしたんですか。でもそれは怪しい行動をしたというだけで、直接の証拠ではありませんね", "ウン、その晩の出来事だけを言えばね" ], [ "えっ、じゃあ、まだほかにも何かあるんですか", "湯殿の事件の時にね、僕はあの覆面のやつを空き部屋の中へ追いつめて、面と向き合ったのだが、その時、またヘリオトロープの匂いが烈しく僕の鼻を打ったのだよ" ], [ "二重人格だね", "ええ、そうとでも考えなければ、この謎は解けないような気がするのです" ], [ "それじゃお大事に", "ウン、君もよく気をつけてね" ], [ "ヤ、失敬失敬、なあに、夢じゃないのだよ。考えごとをしていたのさ。そしてね、大発見をしたものだから、つい口に出してしまったのさ", "あら、そうでしたの? でも、あまり考えごとなすっちゃ、おからだにさわりますわ。少しお寝りになっては……" ], [ "それはあとで言います。それよりも、この人が撃たれたんです。傷をしらべてください", "えっ、撃たれた? じゃあ、今のはやっぱりピストルの音だったのか。おやっ、これは誰だ。見たこともない青年だが、どうしてここへはいってきたんだろう" ], [ "この子供が知らせてくれたのですが、この子供もご存知ありませんか", "フーン、これはいったい、どうしたことだ。君はどこからはいってきたんだ。この男の仲間なのかね" ], [ "一郎さんもお嬢さんも、どこを探してもいらっしゃいません。ベッドは空っぽなんです。女中たちも知らないっていうんです", "何を言っているんだ。そんなばかなことがあるもんか。それじゃ、ここは誰か一人見張り番に残って、みんな部屋へ引き上げよう。そして、警察に電話をかけるんだ。それから、一郎や綾子をもっとよく探すんだ。さあ、小林君も一緒に来たまえ" ], [ "ここは物置きになっているのです。不用の机や椅子などがほうり込んであるのです", "そうでしたね。ゆうべも確かここは調べたのですが、何ぶん懐中電燈の光ですから、充分というわけにはいきませんでした" ], [ "このかたが一郎さんですか", "そうです。やられているのかもしれない。見てやってください" ], [ "じゃあ、何かあったのですか……綾子姉さんはどうしました", "なぜそんなことを聞くのだ。綾子がどうかしたのか。お前はそれを知っているのか" ], [ "いいえ、なんでもないのです。でも、姉さんに変ったことは起こらなかったのですか。今どこにいるんですか", "それはあとで話そう。それよりも、お前はどうして、そんな妙な所に倒れていたんだ。先ずそれを思い出してごらん", "どうしてここにいるのか、僕にもよくわからないのです。なんだか永いあいだ睡っていたような気がしますが、きょうは何日なんですか", "何日といって、お前ゆうべの食事はわしと一緒にたべたじゃないか", "そうですか。じゃあ今はあの翌日なんですね。すると僕は一と晩ここに睡っていたわけです。ゆうべの十一時少し前までのことは覚えているんだから", "ホウ、十一時といえば、ちょうどあの事件の頃ですね" ], [ "えっ、あの事件って? じゃ、やっぱり何か事件があったんですね。それを聞かせてください。誰がやられたのです", "ともかくもあちらの部屋へ行こう、そして、ゆっくり話そう。お前歩けるかい" ], [ "いずれにしても、お嬢さんの行方を探さなければなりません。犯人がお嬢さんをどこかへ連れ去ったとすれば、一刻もぐずぐずしてはいられないわけですし、もしそうでないとしても、お嬢さんさえ探し出せば、おそらくあの荒川という不思議な青年のことも、何かわかるかもしれません。この際なにはおいても、お嬢さんの行方を突きとめるのが、第一の急務です", "しかし、綾子がどこへ連れ去られたのか、まったく手掛りもないのですからねえ" ], [ "やっぱり僕の考えた通りでした。自動車が見つかったのですよ", "えっ、自動車が?" ], [ "綾子を乗せたというんですか", "ええ、それらしい洋装の若い女をこの付近で乗せたというんだそうです。服装もよく合っていますし、時間もちょうど十一時少し過ぎだったというのです", "犯人に連れられていたのですか", "それが妙なんです。その女は一人きりで、誰も連れてはいなかったと言っているのです。この点が少し腑に落ちませんが、しかし、ほかのことはよく符号しています", "で、どこへ行ったのです。行く先は?" ], [ "さあ、それがわからないのですよ。なんでもあちらへ歩いて行ったように思うのですが、僕はガレージへ帰る時間が迫って、急いでいたものですから", "そのころ、この辺の商店はまだ店をあけていたかね", "おおかた閉めていました。でも、いくらかまだ戸締まりをしない店もあったようです", "ともかく、降りてみよう。君はここで待っていてくれたまえ" ], [ "君、女はここで何をしたと思うね。一つ逃亡した娘の気持になって、考えてみようじゃないか", "友だちの家がこの辺にあるんじゃないでしょうか。それとも宿屋かな" ], [ "少し訊ねたいことがあるんですが、あなたのところはゆうべ十二時ごろ、まだ店をあけていましたか", "へえ、その頃まであけていたように思いますが……" ], [ "たぶん十一時半から十二時までのあいだだと思うが、若い女の客はなかったでしょうか。洋装をした二十歳ぐらいのお嬢さん風の娘なんだが", "ああ、あれですか。お見えになりました。わたくしも、なんだか変だと思いましたが、お客様ですから、お断わりするわけにもいきませんので……", "その娘は何を買ったのです", "銘仙の袷と帯と、それに襦袢から足袋まで一と揃い売りました", "ここで着更えをしたのではありませんか" ], [ "じゃ品川だ。駅の近くの旅人宿を片っぱしから調べるんだ。運転手君、迷惑ついでに品川駅までもう一と走りしてくれないか", "ようござんす。こうなったからには、どこまでもご用をつとめますよ" ], [ "へえ、二階でお寝みでございます。お加減が悪いとおっしゃって", "君、間違いないだろうね。確かにいま言った着物を着ていたかい", "へえ、着物も帯もおっしゃる通りでございます", "宿帳は?" ], [ "寝ているんだね", "へえ", "それじゃ、一つその部屋へ案内してくれないか。少し調べたいことがあるんだ", "へえ、それではどうぞ" ], [ "そうです。先生もお聞きになったのですか", "ウン、北森君が知らせてくれた。だが、知らせてくれなくても、僕にはわかっていたのだよ。なぜといって、あいつは僕の所へも電話をかけてきたんだからね", "えっ、先生に電話を?", "ウン、例の老人とも、若者とも判断のつかない変な声でね。いよいよ悪魔の事業の最後の段階にはいったのだと知らせてきたよ", "最後の段階ですって? それは……", "それは多分、一家の中心である君のお父さんと、それから君自身への危害を意味するのだろうと思う", "そうです。そうに違いないのです。先生、助けてください。あなたはいつ退院なさるのですか", "あさってあたりお許しが出そうだよ。そうすれば、すぐ君のところへ行ってあげる", "あさってですって。そんなに待てるでしょうか。僕はなんだか、あしたまでも生きていられないような気がします", "充分用心していたまえ。きょうとあすと二日間、君が自分で身を守りさえすれば、その次の日には、僕が必ず犯人を捕えてみせる。君に約束しておいてもいい、今度こそ間違いないよ" ], [ "それはどういう意味でしょうか。なにかお考えがあるのですか", "ウン、少し考えていることがあるんだよ", "しかし、先生、僕は犯人が捕えられることを喜んでいいんだか、悲しんでいいんだかわからないのです。犯人が誰だかということは、もう間違いないのですからね", "君はそれを少しも疑わないのかい。確信しているのかい", "ええ、できるなら信じたくないのですけれど、こんなに不利な証拠が揃っちゃ、もう疑うわけにはいかなくなりました" ], [ "しかし、僕はまだ信じてやしないんだよ。そんなことは人間の世界には起こり得ないと思うんだ。神が許さないと思うんだ。どこかに非常な錯誤がある。僕は必ずその錯誤を発見してみせるつもりだよ。ああ、早く病院を出たいもんだなあ", "先生、それを聞いて僕はなんだか、少し明かるくなったような気がします。でも、あさってというのは待ち遠しいですね。僕たちはそれまで無事でいられるでしょうか", "多分大丈夫だろうと思うよ。なぜといって、今度は、あいつはただ姿を見せるだけで、少しも危害を加えようとしないじゃないか。あいつはしばらくのあいだ、君たちの恐怖を楽しむつもりなんだよ", "そういえば、そうですね。しかし、いつ気が変らないとも限りませんし……", "だから、充分用心するんだ。書生たちのほかに、警視庁からも人が行っているんだろう", "ええ、それは、物々しすぎるくらいです", "じゃ、君たちはいつもその人たちをそばへおくようにするんだ。お父さんにしろ、君にしろ、一分間も一人きりにならないようにするんだ。なあに心配することはないよ。僕の考えが間違っていなければ、きょうあすのうちには、何事も起こらないはずだ。僕が請合って上げてもいい" ], [ "おい、君、大丈夫かい。ご主人は別状ないのか", "変だな。頭がズキズキ痛むんだ。どうしたんだろう。君すまないが、ご主人の様子を見てくれ。なんだか、おかしなあんばいなんだ" ], [ "おい、ベッドは空っぽだぜ", "えっ、ご主人がいないのか" ], [ "おい、どうしたんだ", "シーッ、静かにしたまえ……君、あれが聞こえないか。ほら、なんだか人の声のようじゃないか" ], [ "誰かきてくれって言ってるようだね。救いを求めているのだ。だが、いったいどこだろう。ひどく遠いようだが、塀のそとじゃないだろうか", "いや、塀のそとじゃない。どこかこの辺だ。地の底から聞こえてくるような気がする", "えっ、地の底だって?" ], [ "隠しておくわけにもいくまいから、お話ししますがね。お父さんも同じような目に遭われたのです", "えっ、父も? で、どこにいたのです", "いや、まだそれがわからないのです。一同で充分探したらしいのですが、どこにも姿が見えないというのです。しかし、あなたの落ちていた古井戸を見逃がしていたくらいですから、もっとよく探せば、どこかお屋敷の中にいらっしゃるかもしれません。もう一度、捜索させてみることにします", "ええ、是非そうさしてください。しかし、父は生きているでしょうか。もしや……" ], [ "あっ、君は……", "明智です。びっくりさせて申しわけありません" ], [ "それなら何も覆面なんかしないでも、ソッと僕に言ってくれればいいじゃありませんか", "いや、それができない事情があったのです。ここのうちのものに、僕がきたことを知られたくなかったのです。僕はまだ病院にいると思いこませておく必要があったのです", "それにしても、君は一体、その覆面や外套をどこで手に入れたのですか。まさかわざわざ新しく作らせたのではありますまい" ], [ "そうです。同類がいるかどうかはわかりませんが、なにしろ犯人自身がこのうちのものですからね", "じゃあ、やっぱりあの綾子という娘が……", "いや、その事はあとでゆっくりお話ししましょう。今はそれよりも、もっと急を要することがあるのです", "エッ、急を要するとは?", "ちょっと、その懐中電燈をお貸しください" ], [ "いったいそれは誰です", "ごらんなさい。この家の主人です" ], [ "いや、瓦斯よりももっと恐ろしいものです", "えっ、瓦斯よりも恐ろしい?", "僕は負傷する前に、この穴蔵を発見して、よく調べておいたのですが、この鉛管はその時からここに取りつけてあったのです。昔からこんなものがあったわけではありません。犯人が、わざわざとりつけたのです。ごらんなさい。この鉛管はまだ新しく、ピカピカ光っています。僕も最初は殺人の瓦斯を送る仕掛けではないかと疑いましたが、調べてみると、この鉛管の向こうの端は瓦斯管につながっているのではなくて、この家の庭にある撤水車の水道管につながっていることがわかりました。その水道管は真夏のほかは使用しないもので、雑草に蔽われて、ちょっと誰も気のつかないような場所にあるのです", "フーン、すると水責めにしようと考えたのですか" ], [ "これはつまり、二人の被害者の絶命する時間を、同時でなくするために違いないのです。伊志田さんの方が、水面が二尺高まるあいだだけ、あとで絶命するように、高い場所に縛りつけておいたのです", "フーン、そうか。恐ろしいことを考えついたものですね。つまり、娘の苦しむ有様を父親に見せつけようというわけですね" ], [ "では、あなたは、この犯罪の動機は復讐だというのですか", "そうです。そのことはあとでゆっくりお話しします、何もかも。しかし、今は先ずこの二人をそとに運び出さなければなりません" ], [ "まだ寝つづけているんですよ。どうしたんでしょう。いくら疲れているといっても、少し変じゃありませんか", "いや、心配したことはないでしょう。僕が起こしてやりますよ" ], [ "おやっ、明智先生じゃありませんか。いついらっしたのです。僕すっかり寝すごしちゃって、失礼しました。きょうは幾日なんだろう。変だな。僕、先生は病院にいらっしゃるとばかり思っていたのですよ。退院はあすじゃなかったのですか", "一日繰り上げて、けさ退院させてもらったのだよ。君のことが気になったものだからね", "えっ、僕のことが?", "君は井戸へほうりこまれていたっていうじゃないか。僕が病院に寝ているあいだに、いろいろなことが起こったね。でも、怪我がなくってよかった。起きられるかい。実は君を喜ばせることがあるんだよ", "ええ、起きられます。でも、僕を喜ばせることって?" ], [ "お父さんがご無事だったのだよ", "えっ、父が?", "そればかりじゃない。綾子さんも見つかったんだ", "えっ、姉さんも?" ], [ "お察しの通りです。僕は実に非常な材料を握っているのです。病院のベッドの中でそれを手に入れたのです", "えっ、ベッドの中?" ], [ "もしそれがほんとうとすれば、われわれはこんな雑談に時をついやしている場合ではないじゃありませんか。君は、その犯人の居所を知っているのですか", "むろん知っています。そして、犯人はもう逃亡できないような手配がしてあるのです。少しもご心配には及びません" ], [ "外形ばかりじゃない。実質的にも似ているんだよ", "えっ、それじゃ……ハハハハハ、何をおっしゃるのです。こんな際につまらない冗談はよしてください" ], [ "君が考えている通りさ", "えっ、僕が考えている?", "ウン、君が一ばんよく知っていると思うんだ。君自身のことだからね", "えっ、それじゃ。やっぱり先生は、僕が犯人だと……", "何か異議があるのかい" ], [ "では、この僕が、あの可愛い血を分けた妹を、殺したとおっしゃるのですか", "ところが、君は鞠子さんの兄ではないのだ。伊志田さんの子でもなければ、綾子さんの弟でもないのだ" ], [ "いや、お父さんや綾子さんは、そのことを少しもご存知ないのだ", "えっ、父が知らないんですって。ハハハハハ、僕が父の子でないことを、父自身が知らないのですって? ハハハハハ、これはおかしい。いったいそんなことが世の中にあるもんでしょうか", "それでは、いま君に確かな証拠を見せて上げよう" ], [ "わたくし、ほんとうに申しわけないことをいたしました。今ではどんなにか後悔いたしておりますが、そのころはまだ、はたちを越したばかりの世間知らずで、ついお金に眼がくれまして……", "で、その、あんたに頼んだ人というのは?", "はい、瀬下……瀬下良一とかいうかたでございました。ちょうどそのかたの奥さんが、同じ病院でお産をなさいまして、その赤ちゃんを伊志田さんの奥さんの赤ちゃんと、こっそり取りかえてくれたら、これこれのお礼をするからとおっしゃって、莫大な金を見せられたものですから、つい魔がさしまして……" ] ]
底本:「暗黒星」角川ホラー文庫、角川書店    1994(平成6)年4月10日改訂初版発行 底本の親本:「暗黒星」角川文庫、角川書店    1975(昭和50)年11月 初出:「講談倶楽部」    1939(昭和14)年1月号~12月号 入力:入江幹夫 校正:大久保ゆう 2022年9月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"日本の航空科学が予想以上に進歩していたことは、われわれの一驚するところですが、今日の暗号電報はさらに驚くべき事実を報じてまいりました。民間科学者の中から恐るべき人物があらわれたのです。その男の数年間にわたる苦心の考案が日本陸軍に採用され、彼は陸軍の数名の科学者と共に山中にこもって、設計図を作製しつつあります。試作機の着工も遠くないというのです", "性能は?" ], [ "東京ワシントン間を五時間で飛ぶというのです", "五時間?" ], [ "そうです。少くともF3号の電文はそれを確言しております。F3号がどういう人物であるかは、閣下も御存じのことと思います。彼はかつて嘘を書いたことがありません。われわれが成層圏爆撃機を完成しない間に、日本人の魔法使いめが、それ以上のものを考え出したのです。発明の要点は動力にあるのだと書いてあります。詳しいことはむろん分りません。私の機密局にいる若い科学者は、ロケットの外にそういうものはあり得ないと云っていますが、ロケットかどうかは分りません。何にしても驚くべき速力です", "その電報の経路は?" ], [ "いつもの通り、中立国経由の暗号電報です。S市駐在のH三十二号が中継しております。F3号の発信に間違いありません", "フーン、それで、長官はこれをどう考えられるのですか" ], [ "ウム、よろしい、あらゆる手段を講じて、その設計図をワシントンに送る。もしそれが不可能ならば、設計図その他の関係文書をことごとく灰にしてしまう。むろん考案者およびその秘密に関与した人間は天国に行かなければならない。地上から抹殺されなければならない。長官、これがわたしの考えです", "同感です。しかし、大任ですね。F3号は今度こそ命がけの任務を授かったわけです" ], [ "新一さん、あなたおからだが悪いのじゃありませんの。気のせいかも知れませんが、あなたは、初めてここでお会いした頃から見ると、なんだかお痩せになったようよ。元気にはなすっているけれど、どこかしらお顔の色がすぐれませんわ。御病気か、そうでなければ何か御心配があるのじゃないかと、あたし、心がかりなものですから……", "エエ、あなたがそれを気にしていて下さることは、僕にも分っていました。京子さん、これにはわけがあるのです。まだ父にも打開けていない不安があるのです。母も知りません。母は二三日前から別荘に来ていますが、父の世話で手一杯なものですから、僕の顔色など気にしている余裕がないのです。京子さん、あなただけですよ。僕のことをそれ程気にしていて下さるのは。……ありがとう。……だから、そのあなたの好意にむくいる意味で、僕はこの秘密を先ずあなたにうちあけます。ここなら誰も聴く者はありません。安心してお話ができるのです", "マア、やっぱりそうでしたの" ], [ "エッ、足跡ですって", "そうです。われわれ別荘にいる者は誰も穿いていない型の靴跡です。それが設計室の窓の外についていたのです。僕はその靴跡の紙型を採って保存してあります。別荘には塀があり門があるのですから、温泉客や村人がむやみに入って来る筈はありません。何か目的があって忍び込んだ奴の足跡です" ], [ "アア、あなたは気づきませんでしたか。今し方怪しい男が屋根から逃げたのです。見晴し台からそれが見えたのです", "え、屋根から……", "そいつは煙突から這い出して、屋根伝いに逃げたのです。設計室の煖炉の煙突です", "アッ、煖炉の煙突。で、そいつはどちらへ逃げました" ], [ "あなたはこいつを追って下さい。恐らく温泉村の方へ逃げたに違いありません。僕はみんなにこのことを伝え、設計室を調べて見ます", "承知しました。では後のことは頼みますよ" ], [ "ところが、曲者は廊下を通らなかったのです。煙突から忍び込んだのです", "馬鹿なッ、設計室の暖炉はちゃんと板で塞いである。忍び込める筈はない", "とも角、行って調べて見ましょう" ], [ "え、スパイだって。それじゃお前は、これをスパイの仕業だというのか", "そうとしか考えられません。この建物の持主はお金持でしょうが、今ここを占領しているのは、金に縁の遠い学者ばかりです。その学者が持ち込んだ古金庫の中に、これほどの冒険に値する大金が入っていよう筈はありません。それに遣り口が普通の盗賊とは違っています。曲者はお父さんの設計事業を妨害しようとしているのです。発明を盗もうとしているのです", "だが、どうしてそれが分る。この発明のことを知っている者は、日本中に数人しかいない。しかもれっきとした高官ばかりだ。スパイの嗅ぎつける隙は少しもなかった筈だ", "だから、猶更ら恐ろしいのです。奴のやり口には、何だか途方もない、桁はずれなところがあります。決して尋常の敵ではありません" ], [ "別荘の中に秘密の隠れ場所でもあるというのですか", "イヤ、そうじゃありません。この別荘は何だか秘密の地下道でもあり相な感じですが、それとは別のことです。僕のいう意味は、われわれ一行の内か雇人の中に当の相手が何食わぬ顔をして混っているんじゃないかという考えです", "ホウ、妙なことを考えていますね。すると、僕等設計の仕事をしている五人、その中にはあなたのお父さんも入っている、それから憲兵が七人、私の妹と村の娘が二人、別荘番の爺や、それからあなた、今はあなたのお母さんも滞在していられる。都合十八人ですね。この中の誰かが敵国の間諜を勤めているというわけですか。ハハハハハハ、みんな日本人ですよ", "日本人でないものがいるかも知れません。日本語を使い、日本人の作法を心得ている者が、必ず日本人とは極まっていませんからね", "ウン、成程、途方もない着想だ。あなたは本気でそう考えているのですか", "イヤ、考えているのではありません。そういうこともあり得るというのです。外部をこれ程捜索しても何物も発見できないとすると、こんな風にでも考える外はないじゃありませんか", "で、あなたはその十八人の人達を一人一人研究しているのですか", "エエ、研究しているのです" ], [ "マア、新一さん、あなたも眠れませんの", "妙に目が冴えて寝つけないので、少しその辺を歩いて見ようかと思って", "あたしもですわ。何だか胸騒ぎがして、床の中に入る気になれませんのよ", "怖いような月夜ですね" ], [ "あすこに憲兵さんがいます。裏の方にもう一人見張り番をしている筈です。何も怖いことはありません", "エエ、それは分っていますわ。でも……" ], [ "あなたは、明日の朝早く、憲兵隊司令部の望月少佐がここへ来られるのを知っていますか", "いいえ、ちっとも。……やっぱりあのことについてですの", "そうですよ。あなたの兄さんと相談して、一昨日電話をかけたのです。父の仕事は今一息で完成するところまで漕ぎつけました。ここ十日ばかりが最も大切な時期です。敵がこの時期を失すれば、もう万事終るのです。それだけにわれわれとしては、この十日が非常に心配なのですよ。そこで、こういうことについては一番ハッキリした考えを持っておられる兄さんと御相談して、望月少佐の出張を願うことにしたのです。僕が警視庁にいた頃、少佐とはよくお会いして懇意にしていたので、打ちとけて相談ができたわけです。少佐の方でも父の仕事がこの戦争についてどういう意味を持っているかということを大方は知っておられるので、実は自分も一度出かけたいと思っていた所だというので、すぐに話が纒まったのです。望月少佐は天才的な憲兵です。日本の憲兵隊で偉大な推理家を求めるとすれば、望月少佐をおいて他にはありません。これまで大陸方面で数々の素晴しい手柄を立てています。その大憲兵が愈々出向いてくれることとなったのです", "マア、そうでしたの。じゃ、あすはその方にお目にかかれるわけね" ], [ "お父さんは絶命せられたのではない。幽かに脈がある", "えッ、脈が……" ], [ "感じるだろう、幽かに", "ウン、ある、ある。……医者を、早く医者を" ], [ "母はどこへ行ったのでしょう", "え、お母さんが", "さっきから一度も見かけないのですよ。この騒ぎに、母が一度も顔を見せないのは変です", "まさか寝んでおられるのじゃあるまいね" ], [ "きっとあいつですね。折鞄を狙っている奴ですね。あれは大丈夫ですか。盗まれやしなかった?", "盗まれたのです。その男の顔を見ましたか" ], [ "アア、やっぱりね。そいつの顔は見えません。電燈が消してあったんだもの。月明りで大入道のような影をチラッと見たばかり、そのあとは何が何だか夢中でしたよ。気を失ってしまったのかも知れません。箪笥の中に入れられたということが分ったのは、随分たってからですものね。それから、どうかして人に知らせようと思って、膝で箪笥の戸を叩いたのだけれど、あの狭い中に海老のようになって押し込められていたのだから、思うように戸を叩くことさえ出来なかったのですよ", "お母さん、その男はこれまで一度も会ったことのない奴ですか、それともどこかで会ったことがあるというような気はしませんでしたか" ], [ "設計室の金庫の中です", "エッ、金庫の中だって。……アア、君は何という大胆なことを" ], [ "僕が昨日来れば、相手は一昨日このことを決行していたに違いない", "じゃ、犯人はあなたの来られるのを知っていたとおっしゃるのですか", "無論知っていた。こいつは何もかも知っている奴です", "敵国の間諜と考える外ありませんね" ], [ "そうです。私もそう思います。犯行直後のことだけを考えても、犯人の逃げる隙は全くなかったのです。それほど敏速に警戒網が張られたのです。蟻の這い出る隙も無かったのです。それにも拘らず犯人は消えてしまった。私はふと妙なことを考えることがあります。犯人は若しや我々の中にいるのではないかと……", "僕の部下達も同じ考えを持っている。ある者は固くその説を執って譲らないほどです。しかしね、五十嵐君、それには一つの重大な反証があるんだ。犯人はここに住んでいる人々の中にはいないという確かな証拠がある", "え、証拠が" ], [ "ありましたよ。これです。お持ちになった写真の指紋とピッタリ一致しています", "エッ、ありましたか" ], [ "どんな前科があるのですか", "ところが、前科というほどの前科はないのです。こいつは僕が指紋を採った男で、よく覚えているのですが、変な奴ですよ。マア途方もない変り種ですね" ], [ "変り種というと。一つ詳しく話して下さいませんか", "エエ、ようござんす。自分で指紋を採ったからといって、一々その人間を覚えていられるものではありませんが、こいつは、ひどく変っているので、幸い、よく記憶しているのです。僕はこいつの住いも知っているのですよ" ], [ "殺人未遂事件です。長野県の山奥で、計画的に行われたのです。一昨晩の出来事です", "ヘエ、あいつがね。フーン、そうですか。で、憲兵隊でお取扱いになっているのは、無論……", "そうです。間諜の疑いがあるのです。戦争と密接な関係のある非常に重大な犯罪です。すぐその男を調べて見たいのですが……", "分りました。幸、その男を手がけた刑事が居りますから、所轄警察署まで御案内させましょう。ちょっと課長に相談して見ますから、暫らくお待ち下さい" ], [ "手品使いといいますと", "奇術師ですね。実に手品がうまいのです。留置中に、私達の前でやって見せたことがあるのですよ。小手先の手品でしたが、実に玄人はだしのうまさです。あいつなら、どんな大仕掛けの手品だってやり兼ねませんよ。あなたは今隠れ簑とおっしゃいましたね。そういう手品だって、あいつならやれるかも知れません" ], [ "支那語がうまいのだそうですね", "エエ、それは手に入ったものです", "日本人であることは確かなのですか" ], [ "韮崎をお調べになるのでしたら、余程うまくやらないと、あいつ、突拍子もない男ですからね。そうですね、ああいいことがあります。あの町会は今夜八時から防空訓練をやることになっているのですよ。韮崎は群員です。必ず出て訓練に参加します。何しろ変り者ですからね、気が向けば何を始めるか分ったものじゃありません。今までまるで交際をしなかった隣組とも、近頃はよろしくやっているらしいのです。まるで軽業師みたいに身軽な男ですから、防空活動には最適任ですよ", "ヘエ、あの男が防空訓練を。こりゃ驚いた、大変な心境の変化ですね" ], [ "ですから、訓練に夢中になっている不意を襲われるのがいいじゃないかと思います。でないと、あいつを捉えるのはなかなかむずかしいですよ。第一、家にいるかどうか怪しいですし、たとえ家にいても、訪問者が気に入らないと、裏口から逃げ出してしまうという男ですからね。出没自在で、普通のやり方では、とても手におえませんよ", "そうですか。それじゃ僕は今夜平服に着更えて、その男を訪問することにしましょう。いきなり逮捕しないで、一応おとなしく様子を探って見たいと思うのです。ところで、今度の事件は今もいう通り、一昨夜長野県で起ったのですが、万一韮崎がその晩東京にいたということが確認されれば、捜査方針は一変するわけです。つまり現場不在証明ですね。この点について何かお気づきのことはないでしょうか" ], [ "どなたですか", "三好というものです。憲兵隊のものです" ], [ "どういう御用ですか", "少しこみ入った話があるのです。立話も何ですから、差支えなかったら、あなたのお宅で", "アア、そうですか。ではどうか" ], [ "実はある事情があって、一昨夜あなたがお宅におられたという、何か確実な証拠がほしいのですが、誰かが訪ねて来たとか、又は誰かを訪問されたとか、道で出会ったとかいう御記憶はないでしょうか", "私は一昨日は昼も夜も家にとじこもって、一度も外出しなかったのです。訪ねて来たものもありません", "食事はどうなさったのですか", "この頃は自炊ですよ", "外に何か証拠になるようなことは……", "ありません。全く証拠絶無です。ハハハハハ、お気に入りませんか。イヤ、近所をおたずねなさっても無駄です。私の居間の窓は、いつも閉め切ってあります。厚いカーテンがあるので電燈の光も外からは見えません。防空上の言葉でいうと完全遮光室という奴ですね。ハハハハハハハ、不思議ですね。一昨夜私がこの家にいたかいなかったか。それを証明する道が一つもないなんて、これは実に不思議という外はありませんね。エ、如何です。こういうお答えではお気に入りませんか。オヤッ、あなたはひどく何かを見つめていますね。アア、あれですね。あの額ですね。あの写真の男ですね", "そうです。僕は憲兵として、あなたがどういう意味で、あんなものを恭しく飾っておくのか、詰問しなければなりません", "意味ですか。それは至極明瞭な意味があるのですよ。ええと、ああそうだ。ちょっとお待ち下さい。今その意味をお目にかけましょう" ], [ "お芝居はもうたくさんです。サア一緒に行きましょう。君にはまだいろいろ聞きたいことがあるのです", "一緒に。どこへです", "憲兵隊へです" ], [ "君は僕を虜にしたというわけだね", "まあそうですね、苦しいですか。一つあなたの力で、それを抜け出して見ては如何です" ], [ "抜け出せないこともあるまい。一つやって見ようかね", "ホホウ、やってごらんになる。そいつは面白いですね。拝見しましょう" ], [ "異状ありませんでした", "御苦労、引取ってよろしい" ], [ "エッ、犯人が。あの指紋の男ですか。一体何者です", "警視庁の指紋カードにあったのです。芝区に住んでいる韮崎庄平という人物です。三好の報告によると、こいつが実に奇妙な男ですよ", "で、自白したのですか", "イヤ、なかなか自白はしません。しかし、指紋が明瞭に一致している上に、現場不在証明がないのです。あの日にどこにいたかという確証を示すことが出来ないのです" ], [ "イヤ、帰らないつもりです", "エ、お帰りにならないのですって", "犯人の真偽を確めるよりも、もっと重大な仕事があるからです。我々の目的は犯人を罰するという事よりも、あなたのお父さんの偉大なる発明を中途で挫折せしめないことです。一刻も早くそれを完成して、敵の本国大空襲を決行するというのが最大の眼目です。それにはお父さんの恢復が何よりも必要です。若しお父さんに万一のことがあれば、この事業は全く挫折してしまうということは、君もよく知っている通りです。だから、私はあくまでお父さんの身辺を守らなければなりません", "でも、犯人が捉えられたとすれば、その必要がなくなるのではありませんか", "イヤイヤ、その逆ですよ。犯人が捉えられたからこそ、却ってお父さんの身辺を守らなければならないのです。これは普通の殺人事件ではない、一国の運命を賭けた国際間諜団の陰謀です。一人の犯人を挙げたからといって、それで事件が終るものではありません。却ってこういう時が一番危険なのですよ", "アア、そうでした。よく分りました" ], [ "例の犯人が持ち去った父の設計ノートは発見されたのでしょうか。そのことの報告はありませんでしたか", "一応韮崎という男の住居を捜索したそうですが、今の所まだ発見されていないのです。韮崎は盗んだ覚えはないと云い張っているのですからね。それにしても、この韮崎という男は非常な変りものです。精神病者ではないかと思われるほどです。電話だから詳しいことは聞けなかったが、彼は錬金術師と自称して、地下室に不思議な工場を持っているというのですからね" ], [ "君はどうしてそれを知っているのです", "僕をここへとじこめた奴がそういいました。恐らくそいつが父を殺したのです", "それは何者です", "分りません。けだものみたいな鬚むじゃの奴です。人間よりも動物に近いような奴です。この穴を住いにしていたのですからね", "では、そいつはまたこの穴へ帰ってくるのですか", 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[ "アア、そうだ。こいつは君の方が専門だったね。あのジャップ・キッドを発明したのは、ひょっとしたら君の方の宣伝部じゃないのかね。こいつはいい思いつきだ。あの醜悪な猿めの芝居は、全国の興行街の人気をさらっているというじゃないか。実に傑作だ。これを発案した男には勲章をやってもいいくらいだね", "閣下、あれを思いついたのは、決して私の部下ではございません。ブロード・ウェイの猿智恵興行師が考え出したものです。全く金儲けのために考案せられたものです。閣下、わたくしはあの興行を禁じた方がよいと考えております。ジャップ・キッドの演劇も人形芝居も映画も、一切厳禁すべきだと考えております", "フフン、君はそう思うのだね。その理由は" ], [ "それは聞いている。通信の内容は", "例の高速度飛行機の設計ノートを盗み出して焼き捨てたのです", "こちらへ送る手だてはなかったのだね", "そうです。焼き捨てる外に方法がなかったのです。それから……", "ウン、それから", "発明者を天国へ送ったと報じて来ました", "民間の老科学者だったね", "そうです。一度刺殺しようとして失敗し、二度目には毒薬で成功したといっております。この男の脳髄と一緒に、高速度飛行機の構想がほうむられたのです。日本の陸軍省が非常な期待をかけて援助していた発明がまったく無に帰したのです。F3号の大功績です。見方によっては太平洋の島嶼いくつかを占領したよりも大きな手柄です。F3号の愛国心に報いるところがなくてはなりません", "無論、十分の論功行賞をしなければならぬ。差当ってわたしの名で感謝の意を表しておいて下さい。そういう通報をしておいて下さい。ところで、今夜の君の話はそれだけかね", "イヤ、まだ外にございます。やはりF3号とその同僚の活動に関する御報告です", "ウン、東京における活動だね" ], [ "で、その成果は", "やがて報告に接することと思います。F3号は高速度飛行機設計者を天国に送り、その設計ノートを灰にして、ここに重要任務に一段落を告げたので、本来の思想謀略、生産力破壊謀略に全力を注ぎはじめたのであります。そしてその活動は相当広範囲にわたり、F3号独特の執拗さで継続せられることと信じます", "よろしい。それではF3号にわたしの名で感謝の意を表するとともに、新しい使命の成功を祈ると伝えてくれ給え" ], [ "毎朝、ここへ来るのですか", "エエ", "何を祈るためにです" ], [ "ウン、それは僕も信じている。僕は出来る限り、あの人のお手伝いをする決心でいるのですよ。しかし、今のところ状態は悪くなるばかりです。君はまだ聞いていないでしょうね、韮崎という被疑者が獄中で変死したことを", "アラ、そんなことがありましたの" ], [ "僕は東京の母のところにいても、そのことの外は考えられなかったのです。もうじっとしていられなくなったのです。あなたに逢って、それをお話ししないではいられなくなったのです。不思議なことに、いつか滝にうたれているあなたを見た時から、僕のこの感情は一層烈しくなったのです。僕はあなたを尊敬したのです。敬慕したのです。むろんあなたもそれはお分りになっているでしょう", "エエ、わたし……" ], [ "エ、何ですの", "あいつです。ホラ、あなた覚えているでしょう。僕らがまだ温泉村の山にいた頃、僕を山の上の洞穴へとじこめた奴、草の中を蛇のように這っていたとあなたがいった、あの男です。あいつが又この工場へ忍び込んだのです" ], [ "どこをやられたのです", "右の眉の上です。三針ほど縫ったばかりですよ", "そうですか。それぐらいで済んだのは仕合せでした。今工場長と技師長に会って、昨日のことは一通り聞いたのですが、曲者はいつか××温泉村の山の洞穴に隠れていた奴と同一人だというじゃありませんか", "そうです。確かにあいつでした。けだもののような大男です。今度も又逃げられてしまいました。実に申訳ないと思っています" ], [ "イヤ、申訳ないどころか、大手柄ですよ。工場の爆破を未然に防いだのですからね。工場では君と京子さんに非常な感謝をしておる。工場ばかりではない。国としてもあなた方に感謝しなければなりません。この新鋭工場が暫くでも機能を停止すれば、戦局に重大な影響を及ぼすわけですからね", "それはそうかも知れませんが、相手はいつ又攻撃を加えて来るかも知れません。禍の根元を絶つことが出来なかったのを、実に残念に思うのです。韮崎が不思議な自殺をとげた今、この曲者を取逃がしてしまっては、我々の手には何一つ残らなくなるのですからね。僕としては父の仇を討つ見込みが一応絶えてしまったわけですからね", "イヤ、そのことについては……君のお父さんの仇を討つということについては、わたしも一半の責任を持っている。お父さんが亡くなられて以来、わたしは随分苦労をした。そして、事件の真相に向かって、歩一歩研究を進めているつもりです。何も握っていないのではない。握っているものが余りに大きく、余りに奇怪なので、それに圧倒せられ、持て余しているぐらいです。韮崎だとか今度の男などは物の影に過ぎない。そういう影を写すところの本体が別にあるのです。信じ難い程の巨大なる実在が、それらの影の奥に在るのです" ], [ "望月さん、僕は今妙なことを思い出しました。妙なことです。あの時は怪我をして、血が目に流れ込んで、何も見えなかったように考えていたのですが、今、そうでなかったことが分りました。僕は見ていたのです。あいつが逃げて行く後姿を、この目の隅で見ていたのです", "ウン、それで……" ], [ "すると、曲者は逃げ出す機会を失ったかも知れない。遠藤さん、見張員から何も報告はなかったのでしょうね。怪しい奴を見つけたというような", "そういうことはなかったようです。今もそこを通りかかって、見張りの者と話をして来たのですが。昨夜から何の異状もないということでした", "そうですか。それじゃ行って見る値打ちがありそうです。望月さん、無駄足を踏むつもりで御同行下さいませんか。僕は何だか曲者がまだそこにいるような気がするのです" ], [ "死んでいる", "自殺したのじゃありませんか" ], [ "京子さん、今僕がどんなことを考えているか。この頭の中にどんな複雑な思想があるか、あなたが分ってくれたらなあ。イヤ、とてもとても、あなたには分らない。わかるはずがない", "でも、どうしてあんなひどいことをなさったの、御自分の手を" ], [ "さいぜん、お母さまがあなたに何かおっしゃった、あのことなんですの", "そうです。京子さん、いつかあなたにお話しする時があると思います。恐ろしいことです。心臓の血が凍ってしまうほど恐ろしいことです。アア、あなたにこれが分ったらなあ。しかし、しかし、今はいえません。いうことができないのです。決していうことが出来ないのです" ], [ "彼等を一人も傷つけないで捕縛できたのは奇蹟といってもよい程ですね。イヤ、そればかりではない。君の周到綿密な用意のお蔭で、我々一同命拾いをしたわけです。その意味でも君には非常に感謝しなければなりません", "お褒めに預って恐縮です。苦心の甲斐があったというものです。何しろ僕に取っては父と母との仇討ちですからね。一月余りというもの殆んど夜も寝ないで走り廻り、やっとここまで漕ぎつけました。そして、奴らの全員がここに集まっている好機会を捉えることが出来たのは全く幸運でした。父母の霊が導いてくれたのかも知れません。これで僕もいささかお国の為に尽すことができたというものです。少くとも僕の調べたところでは、今夜ここに集まっていたのが、内地に潜入している敵国間諜団員の全部です。もう心配はありません。工場爆破計画も、思想攪乱工作も、これでおしまいです" ], [ "エ、あの椅子とは", "分りませんか。あの椅子だけに主がなかったのですよ。椅子は七つ、人間は六人、つまり椅子が一つだけ多いのです。来るべき人がまだ来ていなかったのではないでしょうかね。それについて思い出すのは、この上の地下室で耳に受話器をあてていた時、ここから聞えて来た話の内に、彼等の首領ともいうべき人を待っている、やがて来るのを待ちながら話しているという感じがハッキリ出ていたことです", "アア、あなたはそれをお気附きになったのですね、そうです。我々はあの椅子の主を捉えなければなりません。お考えの通りそいつが首領なのです", "エッ、君はそこまで知っていたのですか。それじゃ我々は少し早まったのではないかな。首領を逃がしてしまっては……", "イヤ、逃がしたのではありません。僕はそんなへマはしなかったつもりです", "エッ、では、それはどこにいるのです。君は居所を知っているのですか", "待っているのです。ここに待っていれば、今にそいつの方からここへやって来るのです" ], [ "五十嵐さんに会いたいという女の人が来ています。一応お断りしたのですが、どうしても会わせてくれといって聞きません", "どんな女だ、名前は" ], [ "南という人です", "アア、京子さんが来たのです。ここへ連れて来て下さい。私が呼んだのです。待っていたのです" ], [ "知っている。だが、わたしは今までそれを発表することを恐れていたのです。わたしの推論は殆んど常識をはずれている。日本人の心持をもってしては想像だも許されない奇怪な心理を肯定しなければ、わたしの推論は成り立たないのです。そういう突飛な推論を迂濶に発表することはできない。時期を待っていたのです", "で、その時期が来たとおっしゃるのですか、今こそその時期だとお考えになるのですか" ], [ "五十嵐博士と結婚して間もなく、幸子は男児を生み落した。五十嵐はその子供を新一と名づけ、自分の子供として届出でたのです。それから二十余年の間、夫婦の間には一人の子供も生れず、新一は両親の寵愛を独占して成長した。新一君、それが君なのです。わたしは二月かかってやっとここまで調べ上げた。新一君、君はこのことをもう知っていたのでしょうね", "ええ、知っていました" ], [ "あなたは悪夢にうなされていらっしゃるのですよ。僕がアメリカ人の血をひいているということは母から聞いています。また僕が父の本当の子でなかったことも知っています。しかしこの僕が四代がかりで造り上げられた間諜だなんて、恐らくあなたの夢ですよ。悪夢ですよ。あらゆる事実がそれを証明しています", "証明だって、一体何を証明しているというんだね", "例えば、僕は父を殺し得なかったということをです。子が父を殺すということがあり得ないばかりでなく、それは物理的に不可能だったではありませんか。あなたはこれをどうして証明しようというのです" ], [ "では、殺害事件そのものについて、わたしの推論を試みよう。君がそれを望むならば", "エエ、聞かせて下さい。僕はそれを待っていたのです" ], [ "アア、そうです。京子さん、あなたのおっしゃる通りです。さっき新一君もちょっと漏らしたように、それは物理的に不可能だったのです。完全無欠のアリバイというやつですね。しかも新一君はその不可能をなしとげた。祖父から曾孫に至る四代の執念を見事に成就して見せたのです", "信じられません。わたし、信じられません" ], [ "そう、一応そういう事になる。そこに犯人の恐るべき幻術があったのです。京子さん、あなたは月の光にまどわされたのですよ。若し昼間だったら、この幻術は到底成功しなかった。淡い月光の中だったからこそ、あなたの目をあざむくことが出来たのです。あの時窓から半身を乗り出して救いを求めたのは、本当の五十嵐博士ではなかった。博士はすでに意識を失って部屋の中に倒れていたのです", "でも、でも、あれは確かに……" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第14巻 新宝島」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年1月20日初版1刷発行 底本の親本:「日の出」新潮社    1943(昭和18)年11月~1944(昭和19)年12月 初出:「日の出」新潮社    1943(昭和18)年11月~1944(昭和19)年12月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「暖炉」と「煖炉」、「聞こえ」と「聞え」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、「江戸川乱歩全集 第14巻 新宝島」光文社文庫、光文社、2015(平成16)年6月25日初版2刷発行の表記にそって、あらためました。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:入江幹夫 2021年9月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "現場を見た興味があったとはいえ、よくそれ丈け詳しく調べたね。だがその黒田という刑事は、警察官にも似合わない頭のいい男だね", "マア、一種の小説家だね", "エ、アア左様だ。絶好の小説家だ。寧ろ小説以上の興味を創作したといってもいい", "だが、僕は、彼は小説家以上の何者でもないと思うね" ], [ "黒田氏は小説家であるかも知れないが探偵ではないという事さ", "どうして?" ], [ "そうさ。三等急行列車の貸し枕の代金四十銭也の受取切符だ。これは僕が轢死事件の現場で、計らずも拾ったものだがね、僕はこれによって博士の無罪を主張するのだ", "馬鹿云い給え、冗談だろう" ], [ "然し、君がこれ程優れた探偵であろうとは思わなかったよ", "その探偵という言葉を、空想家と訂正して呉れ給え。実際僕の空想はどこまでとっ馳るか分らないんだ。例えば、若しあの嫌疑者が、僕の崇拝する大学者でなかったとしたら、富田博士その人が夫人を殺した罪人であるということですらも、空想したかも知れないんだ。そして、僕自身が最も有力な証拠として提供した所のものを、片ッ端から否定してしまったかも知れないんだ。君、これが分るかい、僕が誠しやかに並べ立てた証拠というのは、よく考えて見ると、悉くそうでない、他の場合をも想像することが出来る様な、曖昧なものばかりだぜ。唯だ一つ確実性を持っているのは、例のPL商会の切符だが、あれだってだ、例えば、問題の石塊の下から拾ったのではなく、その石のそばから拾ったとしたらどうだ" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年7月20日初版1刷発行    2012(平成24)年8月15日7刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第二巻」平凡社    1931(昭和6)年10月 初出:「新青年」博文館    1923(大正12)年7月 ※「賛美」と「讃美」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2016年9月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057182", "作品名": "一枚の切符", "作品名読み": "いちまいのきっぷ", "ソート用読み": "いちまいのきつふ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1923(大正12)年7月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-10-31T00:00:00", "最終更新日": "2016-09-09T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57182.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年7月20日", "入力に使用した版1": "2012(平成24)年8月15日7刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年7月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第二巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1931(昭和6)年10月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57182_ruby_60006.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-09-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57182_60051.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-09-09T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ソレ、何です", "エヘヘヘ……御存知の癖に。決してゴマカしものじゃあありませんよ、そらね" ], [ "御免下さい", "ハイ、どなたですな" ], [ "一寸伺いますが、こちらに、あのう、身体の不自由な方が住まっていらっしゃるでしょうか", "エ、何ですって、身体が不自由と申しますと?" ], [ "それは、お門違いじゃありませんかな。ここには人を置いたりしませんですよ。脊の低い身体の不自由な者なんて、一向心当りがございませんな", "確このお寺だと思うのですが、附近に外にお寺はありませんね" ], [ "この前のお寺ね、和尚さんのほかにどんな人が住んでいるのだい", "アア、養源寺ですか。あすこはあなた妙なお寺でございましてね、お住持お一人切りなんですよ。ついこの間まで小僧さんが一人いましたけれど、それも暇をお出しなすったとかで見えなくなってしまいました。ほんに変くつなお方でございます。何かの時には私のつれ合がお手伝いに上りますので、よく存じておりますが" ], [ "エエ有難う。丁度いい所で逢いましたわ、私少し伺いたいことがありますのよ。お差支なかったら、この次は広小路でしょうか。今度止ったら私と一緒に降りて下さいません?", "ハ、承知しました" ], [ "ハア、明智小五郎じゃありませんか。あの男なら、友達という程ではありませんけれど、知っているには知っています。長い間上海に行っていて、半年ばかり前に帰ったのですが、その当時逢った切り久しく訪ねもしません。帰ってからは余り事件を引受けないということです。ですが、奥さんはあの男に何か御用でもおありなんですか", "エエ、あなたにはまだお知らせしませんでしたけれど、大変なことが出来ましてね。実はあの三千子が家出しましたの", "エ、三千子さんが、ちっとも存じませんでした。で、いつの事なんです" ], [ "そうですか。ちっとも知りません。僕は昨夜から狐につままれた様な気持なんです。実際どうかしているのですね、奥さんにお逢いして知らずにいるなんて。この頃何だか頭が変なのです", "そういえば妙に考え込んでいらっしゃるわね。何かありましたの?", "奥さんはお読みになりませんでしたか。今朝の新聞に千住の溝川から若い女の片足が出て来たという記事がのっていましたが", "アアあれ読みました。三千さんのことがあるものですから、私一時はハッとしましたわ。でも、まさかねえ" ], [ "ハア、本当に不思議でございますわ。先程も申します通り、三千子の寝室は洋館の二階にあるのですが、その洋館には出入口が一つしかございませんし、出入口のすぐ前には私共のやすむ部屋がありまして、洋館から出て来ればじき分るはずなのでございます。よし又私共が気づきませんでも、玄関を始めすっかり内側から締りがしてありますので、抜け出る道はないはずですの", "洋館の方の窓なんかも締りが出来ていたのですか", "ハア、皆内側からネジが締てありました。それに窓の外の地面には、丁度雨のあとで柔かくなっていましたけれど、別に足痕もないのでございます", "もっともお嬢さんが窓から出られるはずもありませんね。……、その前晩には何か変ったことでもなかったのですか", "これということもございませんでした。よいの内はピアノなど鳴している様でございましたが、九時頃私が見廻りました時には、もうよく寐入っておりました。それに、丁度私の見廻ります少し前に、主人が店から帰りまして、三千子の部屋のすぐ下の書斎で、長い間調べ物をしていたのでございますから、三千子が部屋から降りて来るとか、何者かが忍び込むとかすれば、主人が気のつかないはずはございません。そして、主人がやすみます時分には、もう召使なども寝てしまいますし、すっかり戸締りが出来て、抜け出す道はなくなっていたのでございます", "妙ですね。まさかお嬢さんが消えてしまわれた訳でもありますまい。きっとどこかに手抜かりがあったのですよ", "でも、戸締りの方はもう間違いないのでございますが。警察でも色々調べて下すったのですけれど、刑事さんなんかも、どうも不思議だとおっしゃるばかりでございますの", "朝の間に出て行かれた様なことはありませんか", "それは、小間使の小松と申しますのが、朝の郵便を持って参りまして、三千子のベッドの空なことが分ったのですが、その時分はまだ表の門を開けないで、書生が玄関の所を掃いていましたし、勝手口の方もまだ締りをはずしたばかりで、女中共がずっと勝手許にいたのでございますから、とても知れぬ様に出て行くことは出来ません", "お嬢さんが家出をされる様な原因も、別にないとおっしゃるのですね" ], [ "御縁談とか、外に何か恋愛という様なことはなかったのですか", "縁談は二三あるにはあったのですけれど、どれも本人が気に染まないとか申しまして、まだ取極めてはおりませんし、外にも別に……" ], [ "アア、それなれば、粗末な不断にはきますのが見えないのでございます。それと、ショールと小さい網の手提がなくなっております", "着物はどんなのを……", "常着のままでございます。黒っぽい銘仙なのです" ], [ "イイエ、私は一向無調法でございますの", "じゃ、お嬢さんの外には弾かれる方はないのですね" ], [ "ハア、それは三千さんのかも知れません", "これが、ピアノの中のスプリングに引かかっていたのです。それであんな音がしたのでしょう。それから、お嬢さんの髪は細くって、いくらか赤い方ではありませんか" ], [ "三千子は誘拐されたとおっしゃるのですか。それとも、もしやもっと恐しい事では……", "それはまだ何ともいえませんが。この様子では楽観は出来ませんね", "でも、三千子の身体をここへ隠したとしましても、どうしてそれを外へ運び出すことが出来たのでございましょう。昼間は私共始め大勢の目がありますし、夜分は戸締りをしてしまいますから、忍び込むにしても、外へ出るにしても、私共が気づかぬはずはございませんわ。朝になって戸締りがはずれていた様なことは一度もないのですから", "そうです。僕も今それを考えていたのです。ここのガラス窓なんかも、毎朝締りをお調べになりますか", "エエ、それはもう、主人が用心深いたちだものですから、女中達もよく気をつける様にいいつかってますし、それにあんなことのあったあとですから、皆一層注意しているのでございます" ], [ "だが、そんなことは不可能です。何か見逃しているものがある。現にあなた方はこのピアノを見逃していた。もっとあなた方が注意深かったなら、運び出されない内に、お嬢さんを見つけていたかも知れないのです。何かしら分り切ったものです。ごくつまらないことを見落しているのです。今おっしゃった外に、何かいい残しているものはありませんか。例えば書生さんは郵便配達が門を出入したことをいわなかった。もっとも郵便配達がお嬢さんを運び出すことは出来ないけれど、そんな風なごくつまらないものが省かれていはしないでしょうか", "掃除屋、衛生人夫なんかもありますね" ], [ "いつもと変ったところはなかったですか", "いいえ、別に……、でも、何だか日取りが早い様でございました。いつもは十日目くらいなのに、今度は二三日前に来たばかりのところへ、また来たのでございます", "ゴミ箱は勝手口にあるのですね", "ハア、通用門の内側に置いてございます", "その男はどんな風でした。見覚えがありましたか" ], [ "いいえ、別に見覚えはございませんが、やっぱりいつもの様に印半纒を着た汚ない男でございました", "その男が通用門から入ったのですね。で、ゴミを持って行く所を見ましたか", "いいえ、ただ門の所で行違いましたばかりで、私お使があったものでございますから。お君ちゃんはどう?" ], [ "エエ、随分大きいのですわ", "人間が入れる位?", "エエ、大丈夫入られますわ" ], [ "三千子さんの指紋が欲しいのですが、もう一度御部屋を見せて頂けないでしょうか", "サア、どうか" ], [ "この瓶を拝借して行って差支ありませんか", "ハア、どうか。お役に立ちましたら" ], [ "イヤ、僕はもうさっき調べて見て、この両方の指紋が同じものだってことを知っているのですが、奥さんにも一度、見て置いて頂く方がいいのです", "あなたが御覧なすって、同じものなれば、それで十分ではございませんか。私などが見ました所で、どうせよくは分らないのですから", "そうですか……ではお話しますが、奥さん、びっくりしてはいけません。お嬢さんは何者かに殺されなすったのです。こちらのはその死骸の片手から取った指紋なのです" ], [ "で、その死骸というのは一体どこにあったのでございますか", "銀座の――百貨店の呉服売場なんです。実にこの事件は変な、常軌を逸した事柄ばかりです。そこの呉服売場の飾り人形の片手が、昨夜の間に、本物の死人の手首とすげ換えられていたというのです。警務係をやっている者に知合がありまして、早速知らせてくれたものですから、序にそっと指紋を取ってもらった訳なのですが。それから、これは手首と一緒に警察の方へ行っているのですが、その手首には大きなルビイ入の指環がはめてあったのだ相です。これも多分御心当りがありましょうね", "ハア、ルビイの指環をはめていましたのも本当でございますが、でも三千さんの手首が百貨店の売場にあったなんて。まるで夢の様で、私一寸本当な気が致しませんわ", "御もっともですが、これは少しも間違いのない事実です。やがて今日の夕刊には、この事件が詳しく報道されるでしょうし、警察でもいずれこれをお嬢さんの事件と結びつけて考える様になるでしょう。御宅にとっては、お悲しみの上に、非常に御迷惑な色々の問題が起って来るかも知れません", "マア、明智さん、どうすればいいのでございましょう" ], [ "早く犯人を探し出して、お嬢さんの死骸を取戻すほかはありません。こうなれば警察の方でも十分捜索してくれるでしょうし、案外早く解決がつくかも知れません。その後、御主人は御帰りないのですか", "ハア、主人はこちらから電報を打ちまして一昨日帰ってもらったのでございますが、ひどく子煩悩の方だものですから、あのピアノのことなんか申しますと、もうとても生きてはいないだろうと気落をしてしまいまして、まるで病人の様になって、人様にお逢いするのもいやだと申して、寝間に引こもっているのでございます。そんな訳でございますから、今のお話も主人に知らせましたものかどうかと先程から迷っている様な訳でございますの", "それはいけませんね。だが、御主人も余り御気落がひどい様ですね。じゃ、今日は御目にかかれませんかしら" ], [ "奥様から、御調べがすみましたら失礼ですが御随意に御引取り下さいますように申上げてくれということでした。それから警察の方への届けなんかも、よろしく御計らい下さいます様に", "アア、そうですか。それは御心配のない様に御伝え下さい。ですが、一寸でいいから御主人に御目にかかれないでしょうか", "イエ、それも大変失礼ですが、主人はお嬢さんのことで、非常に神経過敏になっておりますので、出来るだけは、色々なことを耳に入れないで置きたいとおっしゃって、凡て秘密にしてありますので、この際なるべくならお会い下さいません様にということでした", "そうですか。じゃ僕は帰ることにしますが、この箱は君がどこかへ大切に保存して置いて下さい。いずれ警察から人が来るでしょうから、それまでなるべく手をつけない様にね" ], [ "どうも失礼、いくら呼んでも返事がないものだから、こちらに山野の奥さんが見えているでしょう。実は急な用事が出来てお迎いに来たのですよ", "どなた様で、今旦那はお留守でございますが" ], [ "いつから?", "エ?" ], [ "昨夜から御帰りがないのだろう", "いいえ、今し方明智さんの所へお出でなすったばかりです" ], [ "で、何時頃お帰りになった?", "九時ごろでしたよ" ], [ "じゃ、まだ明智さんとこにいらっしゃるだろうね", "エエ、つい今し方お出かけだったのですから" ], [ "どうもよくない様です。熱が高くって、今朝から看護婦が二人来る様になったのですが、何だかどうも、内の中が滅茶苦茶ですよ。そこへ、小間使の小松が、昨夜医者へ行くといって出た切り帰らないのです", "小松といえば、頭痛がするとかいって寝ていたあれだね", "エエ、心当りへ電話をかけたり、使をやったりしたのですが、今の所行方不明です。それに又、今朝は早くから警察の人達がやって来る始末でしょう。奥さん一人で大変なんです", "警察では、何か手がかりでもついたのかい" ], [ "関係のあることは明白だ。併しなぜ夫人が自ら進んで僕なんかに探偵を依頼したか、そして今になってそれを後悔し始めたか、この点がよく分らない。大体あの女自身が一つの疑問だよ。非常に貞淑の様でもあり、どうかすると馬鹿にコケットな所も見える。一寸とらえ所がない。だから、ひょっとしたら彼女は、態と僕の前にこの事件をなげ出して見せて、大胆なお芝居を打とうとしたのかも知れない。秘密がバレるおそれはないと信じ切って、たかを括っていたのかも知れない。女の犯罪者には、そういう突飛なのがあるものだ", "もしそうだとすると、最近にその自信を失う様な事件が起った訳ですね", "僕だって、これで中々働いているんだよ。彼女にもしうしろ暗い点があれば、心配し出すのは無理ではない。君なんか、僕が手をつかねて遊んでいた様に思っているだろうが、どうして、そんなものじゃないよ。現に君の昨夜の行動だって、すっかり分っているのだからね", "昨夜の行動っていいますと?", "ハハハハハ、しらばくれても駄目だ。自動車の番号まで調べがついているんだから。君が昨夜助手に変装して夫人ともう一人の男をのせて行った車は、君だって知るまいけれど、二九三六という番号なんだ", "じゃ昨夜、あなたもどっかに隠れていたんですか", "ソラごらん。とうとう白状してしまった。想像なんだよ。多分君だと思ったものだから、鎌をかけて見たんだよ。種をあかすとね。山野の内のお雪という小間使が僕の腹心なんだ。二度目にあすこへ行って雇人達を一人一人調べた時、適当なのを選り出したのだ。無論報酬も約束したけれど、あのお雪というのは雇人の内でも一番忠義者で、お邸の為だというと、進んで僕の頼みを聞いてくれた。中々役に立つ女だよ。それが昨夜夫人のあとを尾行して、自動車の番号を覚えていてくれたのだ。それから先はお雪からの電話で、僕自身が出動して取調べた。車の番号が分っているのだから、その帳場を探し出すのは訳はない。帳場が分って運転手が分れば、今度は五円札一枚ですっかり調べがつく。君らしい男に頼まれて運転台にのせたことも、その男が二人の乗客のあとを追ったことも明白になった。だが夫人をつれ出した男は随分用心深くやったね。悪事には慣れた奴だ。目的の家の前まで車にのる様なことはしなかった。だから僕には君達の行った内までは分らないけれど、自動車を止めたのが本所中之郷T町だから、僕の想像では、同じ中之郷O町の小さな門のある無商家じゃないかと思うのだが、どうだね", "その通りです。どうして分りました" ], [ "それだけ証拠がそろっていても夫人が下手人でないというのですか", "ないとはいわない。断言するのは少し早計だと思うのだ。この事件は見かけは簡単の様だけれど、その実かなりこみ入っている。先にいった怪物が関係しているだけでも、かなり特異な事件だ。一寸法師が生々しい片腕を持歩いたり、百貨店の飾り人形に死人の腕が生えたり、妙に常軌を逸した、人間らしくない所がある。それは兎も角、今もいう様に兇器が石膏像であったこと、死体をピアノの中へ隠したことなどから考えると、この殺人は決して準備されたものではない。恐らく犯人にとっても思いがけない出来事なんだ。まさか殺すつもりではなかったのが、ついこんな大事件になってしまった形だ。だが、それだから一層探偵の方は面倒なんだ。準備された犯罪は、どこかに計画の跡がある。その跡をたどって行けば、何かをつかむことが出来る。今度のはそれがまるでないのだからね", "でも証拠という証拠が皆山野夫人を指さしているじゃありませんか" ], [ "小松がいなくなったことは知っているのですか", "山野の奥さんから聞いた。僕は今それについて一つの考えが浮んで来たのだ。ひょっとしたら、この事件の中心人物はあの女かも知れないのだ" ], [ "僕もそれを考えたのだが、ひょっとしたら山野さんには打開けてあったかも知れない。僕は実はまだ一度も山野さんに逢っていないのだよ、熱がひどいらしいので。だが警察の保護なんか願っていないことは確だ。それをやるのは随分恥さらしだからね。三千子さんも蕗屋を憚って打開け兼ねていたのかも知れない。恋人にそういう前科を知られるのはつらいことだから", "それだと、今度の事件は、この執念深い失恋者の復讐だったかも知れない訳ですね" ], [ "三千子さんは血色のいい方だったかい。写真ではよく分らないが、どっちかといえば赤味がかったつやつやした顔じゃなかったの?", "イヤ、その正反対ですよ。別に身体が弱かった様にも聞きませんが、どっか病的なすさんだ感じで、顔なんかも青白い方でした。それをお化粧と表情の技巧で巧に隠していました。僕は以前から、何だか処女という感じがしなかったのですよ" ], [ "遅いじゃねえか。餓鬼共がよ。どじを踏みやしめえな", "大丈夫、慣れてらあな。まあ寝ているがいい" ], [ "因果な病さね。……それはそうと、例の片腕の一件はおさまりがついたのかね", "ウフフ、覚えていやあがる。お前だから何もかも話すがね。今世間じゃ大騒ぎさ。今日の新聞なんか、おれのまいた種で、三面記事が埋まってるんだ。今度こそ、いくらか溜飲が下ったてえものだ。だが、断るまでもねえ、人になんかこれから先もいうんじゃねえぜ。おらあな、一本の足を千住の溝の中へ、一本の足を公園の瓢箪池の中へ、一本の手を――呉服店の陳列場へ、一本の手をある家へ小包にして送ってやったあ。ウフフフフフ、そいつが今世間じゃ大評判なんだぜ。こんな心持のいいこたあねえ" ], [ "とんでもねえ、お前とおれの仲じゃあねえか。口が腐ってもいうもんじゃあねえ。それに、いつも兄貴にゃあ、厄介をかけてるんだからな", "だろうな。そうなくちゃならねえ。おらあな、定公、自分でも分ってる。因果な身体に生れついたひがみで気狂いになっているんだ。こう、世間の満足な奴らがにくくてたまらねえんだ。奴らあ、おれに取っちゃ敵も同然なんだ。お前だからいうんだぜ。たれも聞いてるものはねえ。おれはこれからまだまだ悪事を働くつもりだ。運が悪くてふんづかまるまでは、おれの力で出来るだけのことはやっつけるんだ" ], [ "定公、だれもいめえな", "大丈夫だ" ], [ "実はね、三千子さんの事件が大体形がついたのだよ。君にも知らせようと思っていた所なんだ", "じゃ、犯人が分ったのですか" ], [ "それはとっくに分っていたさ。ただね、今日まで発表出来ない訳があったのだよ。それについて、実はこれから捕物に出かけるのだ、今に警視庁の連中が僕を迎えにくることになっている。僕が指揮官という訳でね。それに今日は珍しく刑事部長御自身出馬なんだ。心易いものだからね。僕が引っぱりだしたんだよ。だが、この捕物は十分それだけの値打がある。相手が前例のない悪党だからね。実際世の中には想像も出来ない恐しい奴がいるものだね", "例の一寸法師じゃありませんか", "そうだよ。だが、あいつはただの不具者じゃない。畸形児なんてものは、多くは白痴か低能児だが、あいつに限って、低能児どころか、実に恐しい智慧者なんだ。希代の悪党なんだ。君はスチブンソンのジーキル博士とハイド氏という小説を読んだことがあるかい。丁度あれだね。昼間は行いすました善人を装っていて、夜になると、悪魔の形相すさまじく、町から町をうろつきまわって悪事という悪事をし尽していたんだ。執念深い不具者の呪いだ。人殺し、泥坊、火つけ、その他ありとあらゆる害毒を暗の世界にふりまいていた。驚くべきことは、それが彼奴の唯一の道楽だったのだ", "ではやっぱり、あの不具者が三千子さんの下手人だったのですか", "いや、下手人じゃない。この間もいった様に下手人は別の所にいる。だが、あいつは下手人よりも幾層倍の悪党だ。我々はまず何をおいてもあいつを亡ぼさなければならない。それを今まで待っていたのは、もう一人の直接の下手人を逃さないためだったが、その方ももう逃亡の心配がなくなったのだ", "それは一体だれです" ], [ "だが、感づいて逃げ出しゃしまいね。見張りは大丈夫かね", "大丈夫、僕の部下が三人で三方からかためている。皆信用の出来る男だ" ], [ "例の中之郷O町の家だね。君はその後あの家を調べて見たかね。あすこは以前長い間一種の淫売窟だったんだよ。非常に秘密な素人の娘や奥さんなんかを世話する家だった。その方の通人達にはかなり有名なんだけれども、近所の人達はまるで知らない。そのあとをあの怪物が借りたんだ。だから、よくそんな家にある様に、あの家には二階から秘密の抜道が出来ている。万一警察の手入のあった時の逃場だね。それが、押入の中から隣家との壁と壁の間を通って、飛んでもない所へ抜けているんだ。君があんなに見張っていて逃げられたのも無理ではないのだよ", "そうとは知らなかった。馬鹿馬鹿しい訳ですね。一体どこへ抜けているんです" ], [ "養源寺の裏手へ抜けているんだ。君は気づいていたかどうか。養源寺は中之郷A町にある。そのA町とO町とは背中合せじゃないか。つまりA町の養源寺から入ってO町へ抜けることも出来れば、O町の例の家から養源寺の寺内を通ってA町へ抜けることも出来るんだ。表通りを廻れば二三町もあるけれど、抜道からでは隣同志だ。ところが、養源寺といえば、いつか君が一寸法師の入るのを見た寺だ。ね、大体見当がつくだろう。これが彼奴の手品の種なんだよ", "なる程背中合せに当りますね。ちっとも気がつかなんだ", "だが彼奴の逃道はもう一つあるんだ。同じA町の養源寺の墓場の裏手に、これも背中合せだが、妙な人形師の店がある。あの不具者はここの家からも出入りしていたことが分った。つまり彼奴の住家は、三つの違った町に出入口を持っている訳だ。彼奴があれだけの悪事を働いて、今日まで秘密を保つことが出来たのは、全くこの出没自在な出入口のお蔭といってもいい", "すると、あの寺の和尚や、その人形師なんかも仲間なんですね" ], [ "その男は跛だったね", "エエ、跛でした", "じゃ、それがあの一寸法師なんだよ。顔に見覚えはなかったかい", "鳥打帽子と大きな眼鏡で隠していて、それに暗かったのでよく分りませんが、だって、一寸法師がどうしてあんな大男になれるのです", "そこだよ。その点が又、奴の悪事の露顕しなかった理由だよ。奴は暗の世界でだけ一寸法師で、昼間は普通の人間なんだ。恐しい手品だ", "でも、どうしてそんなことが出来たのです", "奴は子供の時分怪我をして両足に大手術をやったというのだ。つまり義足をはめている体なのだ。小人というものは首や胴体は普通の人間と変りはない。ただ足だけが不自然に短いものだということを考えて見給え", "義足ですって、そんな馬鹿げたことで、うまく分らないでいたのですか", "馬鹿馬鹿しいだけに、却て安全なのだ。ただ義足といったのでは、本当に思えないだろうが、僕はその実物を見たのだ。詳しいことは今に分るがね。それに、一寸法師を見たのは君一人で、山野家の人達にしろ一寸法師なんて特殊な人間は頭にない。最初から一人の義足をはめた不具者で通っていたのだよ", "じゃ、その義足をはめた男というのは一体だれです", "養源寺の和尚さ" ], [ "ヘエ、おいでになりますよ。どなた様で", "忘れたのかい。二三日前に君の店で買物をしたんだが。実は今日は警察の御用で来たんだが、一寸お住持をここへ呼んでくれ給え" ], [ "どうも見えないんですよ。ちっとも気がつきませなんだが、いつの間にお出ましなすったのか", "そうかい。兎も角一度上らせてもらうよ。警察の御用なんだからね" ], [ "すると衛生夫に化けたのもやっぱり彼奴だったのですか", "いやあの不具者には重い車なんかひけない。それは彼奴じゃないよ" ], [ "早く、家へつれて行って", "僕と、僕と一緒に、逃げましょう" ], [ "そちらへ行くんじゃありません、今家へ行ったらつかまるばかりです。サア、もっと走るんです", "イイエ、私はどうしても、一度家へ帰らなければならない。離して、離して" ], [ "マア、あなたは……どうして死ぬことなんかおっしゃるのです", "だって、あなたは絞首台が怖くないのですか。無論僕だって逃げられるだけは逃げた方がいいと思うのだけれど、でもいよいよ逃げられなくなった時は、死ぬ外ないじゃありませんか", "それはそうですけど。……" ], [ "あなた、どこまでも私の味方になって下さるわね", "どうしてそんなこと聞くのです。分りませんか", "分ってますわ。でも、私が今まで通り山野の貞淑な妻であっても", "エエ", "どんなことがあっても?", "誓います", "じゃいいますが、三千子を殺したのは私ではないのです。外に下手人がいるのです", "エ、それは一体だれです" ], [ "山野です。私の夫の山野です。ですから、私は一刻も早く家に帰って、あの人を逃さなければなりません", "だって、山野さんは三千子さんの実の親じゃありませんか。そんな馬鹿なことがあるもんですか。よし又そうとした所で、逃すなんて、あの大病人をどうしようというのです。それに、お邸には今頃はもう警察の手が廻っているに相違ないのですよ", "アア、やっぱり駄目ですわね。でもひょっとしてあの不具者がうまく逃げてくれたら、そうすれば秘密がばれないで済むかも知れないのです", "あいつですか。あいつが秘密の鍵を握っているのですか。それで、あなたはあんな奴の命令に従っていたのですね。御主人の罪を隠したいばかりに" ], [ "マア、そんなものが私の部屋にあったなんて、ちっとも知りません。明智さんが見つけなすったのですか", "イイエ、小間使のお雪です。あれが明智さんに買収されていたのですよ" ], [ "それがうそでないことは、丁度三千子がいなくなってから、主人は店のお金を随分持ちだしているのです。支配人が心配して私に話してくれたのですが、主人にそんな大金の入用があったとは思えないのです。私はあの手紙を見ると、すぐそこへ気がつきましたの。そしてそのお金はもしかしたら、半分は運転手にやったのかも知れません。主人があの男を態々大阪まで追っかけて行ったのは、三千子を誘拐したのを、取戻すためだといってましたけれど、あとでは秘密を口外させないために、お金をやりにいったのだと分りました。でも私は主人を疑う様な素振は、これっぽっちも見せないでいました。ああして病気までしているのを見ると、気の毒で仕様がなかったのです", "蕗屋がどうかして秘密を知ったのですね", "エエ、はっきりしたことはいえないんだけれど、あのゴミ車を挽いたのが蕗屋じゃなかったかと思うのです。だって、まさか山野自身がそんな真似はしまいし、養源寺さんは、あの不具者でしょう。外に三千子の死骸を搬ぶ様な人がありませんもの。しかし、そんなことを今更詮索して見たって始まらないわ。小林さん、あたしどうすればいいんでしょうね" ], [ "ですが、分らないのは山野さんの心持です。全体どうして、実の娘さんを殺す気になったのでしょう", "山野は商売人にも似合わない堅苦しい男ですの、そしてカッとなると、随分思い切ったことをやるたちですから、多分三千子のふしだらを感づいて折檻でもするつもりだったのがつい激した余り、あんなことになったのではないかと思いますわ。それにはね、また色々な事情がありますの、召使たちにも隠してあったのですが、あの逃げて行った小間使の小松というのは、本当は主人の隠し子なんですの。堅い人ですけれど若い時分にはやっぱりしくじりがあったのですわ。それを普通なら娘として家へ入れる所を、主人が今いう頑固者だものですから、娘のしつけや、親戚の手前不都合だといって、それは蔭になって目はかけていましたけれど、表面は小間使ということにしていましたの", "それじゃ、三千子さんと小松とは姉妹なんですね" ], [ "なぜ自首して了われなかったのでしょうね。そんな過失だったら、大した罪にもならないでしょうに", "だって、人一人殺したんですもの、仮令罪は軽くても、世間に顔向けが出来ませんわ。人一倍世間を気にする主人が、何とかして隠してしまおうとしたのは、ちっとも無理ではないのです。山野自身の安全だけでなくて、家名という様なものを心配したのですわ。なぜといって、もしこのことがパッとすれば、山野のふしだらから、娘達の醜い争いがすっかり知れ渡ってしまうのですから", "三千子さんだけを折檻なすったのは、どういう訳でしょうか", "それは公然の娘ですもの、主人はそんなことまで、几帳面に考える様なたちですの。それに、主人の愛が、どっちかといえば、不幸な小松の方へ傾いていたことも考えて見なければなりません。おてんば娘は主人の気風に合わないのですわ" ], [ "何だってあとを尾けたんです", "ごめん下さい。明智さんのいいつけなんです。私はあのO町の家の前に、あなた方の出ていらっしゃるのを、待っている役目だったのです", "すると、僕等が逃げ出すことが、ちゃんと分っていたのですか", "そうの様です。あなた方のあとを尾けて、もしお邸へお入りになればいいけれど、そうでなかったら、どこまでも尾行して、お二人の話なんかも詳しく聴取れということでした。そして、もしお二人の身に危い様なことが起ったら、お救い申せと……", "じゃなんだね。明智さんはあの家に奥さんのいることを知っていて、態と僕をつれ込んだ訳だね。そして、二人が逃げ出して、色々なことを話し合うのを立聞きさせようという手はずだったのだね", "万一の場合なんですよ、万一そんなことが起ったら、こうしろという命令だったのですよ。何でも奥さんが飛んだ誤解をしていらっしゃるから、もしものことがあってはいけないということでした" ], [ "そうだよ。三千子のものではなかったのだよ", "そんなことをいえば、この事件は根本からくつがえって来る訳だが", "くつがえって来る。出発点から間違っている" ], [ "では、明智君、三千子は死んでいないというのか", "そうだ。三千子は死んではいないのだ", "じゃあ、君は……" ], [ "被害者ではなくて……", "加害者なのだ。三千子こそ犯人なのだ", "すると、被害者はどこにいる。三千子は一体だれを殺したのだ" ], [ "だが、この人形の中へ塗りこめたのは", "それは三千子じゃない。やっぱり一寸法師だ。そして、この安川という男も共犯者だ。僕が人形師を怪しいとにらんだのは、一寸法師が昨夜ここへ入るのを見届けたからでもあるが、もう一つは、一寸法師が普通の人間に化けていた、その継足があたり前の義足ではなくて、木でこしらえた人形の足だった。特別の考案をこらして、折れ曲りの所なんか実に具合よく出来ている。彼奴が、しょっちゅう靴をはいていたのはそのためなのだよ。そんな物を作るのは先ず人形師より外にないからね。つまり、この安川と一寸法師とは十年来の腐れ縁に相違ないのだ" ], [ "だが、事件のあった翌日から、小松は病気になった。そして人に顔を見られることを恐れる様な所があった。僕が彼女の病床を見舞った時にも、枕に顔をうずめて、僕の方を正視出来なかった。そればかりではない。彼女の不用意に投出された指には、マニキュアが施してあったのだよ。まるで令嬢の指の様に", "では若しや、アアそんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。……", "僕も最初はまさかと思っていた。だがこれを見給え。この写真に気づいた時から僕の意見は確定したのだ" ], [ "似ているでしょう。三千子の眉をとって、眼鏡をかけさせ、技巧たっぷりの表情を、もっと静にすれば、小松と見分けがつきません。それも道理です。小松というのは実は山野氏の隠し子で、三千子とは姉妹なのだから。ただ、一方はおとなしやかな無表情、一方は技巧たっぷりのおてんば娘なのと、それに髪の形だとか眼鏡や眉の相違があるので、一寸気がつかないだけです。分りますか。つまり三千子はあの晩、恋敵の異母妹といい争った末、激情のあまり、ついあんなことをしてしまった。石膏像をなげつけて過って相手を殺してしまったのです。そして、咄嗟の場合、小松に化けるという妙案を思いついた訳です", "それはどういう意味だね。小間使に化けて見たところで、罪が消える訳でもあるまいが", "さっきもお話した北島春雄という命知らずがいたのだ。丁度その前日彼は牢を出て三千子に不気味な予告の葉書を出している。失恋に目のくらんだ狂人だ。殺されるかも知れない。三千子はその日も、この命知らずのことで頭が一杯になっていた。丁度その時あの変事が起ったものだから、一つは北島の復讐をのがれるために、一つは小松殺しの嫌疑を避けるために、又一つには、山野夫人に、継子殺しの嫌疑をかけるために、どちらから考えても、都合のよい変装という妙案を思いついたのだ。三千子が探偵小説の愛読者だったことを考え合せると、彼女の心持なり遣り口なりがよく分るのだよ。さっきもいった様に三千子の書棚は、内外の探偵小説で殆ど埋まっていたのだからね。死体をピアノに隠したのもゴミ箱のトリックも夫人の部屋へ偽証を作ったのも、皆彼女の智恵なんだ。例のゴミ車をひいた衛生夫は、情夫の蕗屋が化けたのだ", "それを家内中が知らなかったというのは、おかしいね", "いや、たった一人知っていた人がある。それは三千子の父親の山野氏だ。丁度事件の起った時分に洋館にいたのだからね。山野氏は家名を重んずる厳格な人だけに、却て三千子の計画に同意した。そして、三千子と一緒になって凡てを秘密の内に葬り去ろうとした。小松に化けた三千子に金を与えて家出させたのも、養源寺の和尚や蕗屋を買収したのも山野氏だった。山野氏のそんなやり方が、夫人の疑いを招くことになり、結局事件を面倒にしてしまった形なんだ", "すると、例の不具者は、小松の死体を埋ることを引受けて、その立場を利用して山野氏からは金をしぼり、一方夫人を脅迫していた訳だね", "そうだ。山野氏にしては、あの坊主がまさかあんな悪党だとは知らないからね。なぜか非常に心易い仲だった。不具者奴うまく取入っていたのだろう。それにこれまでずっと援助を与えていた関係があるので、事情をあかして頼めば、万々裏切る様なことはあるまいと思ったのだ", "実に複雑な事件だね。だが、君の説明で大体の筋道は分った。それでは、約束通り犯人を引渡してくれるだろうね。一体三千子はどこに隠れているのだ" ], [ "分った分った。なるべく君の希望に添うことにしよう。兎も角早く犯人の在家を教えてくれ給え", "なに、三千子さんはここの家にいるのだよ" ], [ "いいえ。私、そんなこと致しません", "本当に?", "エエ" ], [ "いや、それが少々間違っていたかも知れないのだ", "間違っていたって?", "この被害者の首の指の痕だね。三千子さんの指にしては、黯痣が大き過ぎる様な気がするのだ。今そこへ気がついたのだ。それに三千子さんは首を絞めた覚えがないといっている", "すると?", "若しや、これは……" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年8月20日初版1刷発行 底本の親本:「創作探偵小説集第七巻」春陽堂    1927(昭和2)年3月20日発行 初出:「東京朝日新聞」朝日新聞社    1926(大正15)年12月8日~1927(昭和2)年2月20日    「大阪朝日新聞」朝日新聞社    1926(大正15)年12月8日~1927(昭和2)年2月21日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「キューピー人形」と「キューピイ人形」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。 ※底本巻末の編者による註釈は省略しましたが、「安来節《やすきぶし》」「御園《みその》館」「吾妻橋《あづまばし》」「中《なか》の郷《ごう》」「千住町《せんじゅまち》中組《なかぐみ》」「精養軒《せいようけん》」「上海《シャンハイ》」「伯龍《はくりゅう》」「小梅町《こうめちょう》」「厩橋《うまやばし》」「片町《かたまち》」「三囲《みめぐり》」「仁王門《におうもん》」「瓢箪池《ひょうたんいけ》」「合羽橋《かっぱばし》」「原庭署《はらにわしょ》」「曳舟《ひきふね》」「花屋敷《はなやしき》」「浅草《あさくさ》」「生《いき》人形」のルビは註釈より入力者が追加しました。 入力:nami 校正:まつもこ 2017年9月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "058053", "作品名": "一寸法師", "作品名読み": "いっすんぼうし", "ソート用読み": "いつすんほうし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「東京朝日新聞」朝日新聞社、1926(大正15)年12月8日~1927(昭和2)年2月20日<br>「大阪朝日新聞」朝日新聞社、1926(大正15)年12月8日~1927(昭和2)年2月21日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-10-28T00:00:00", "最終更新日": "2017-09-24T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card58053.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年8月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年8月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2015(平成27)年8月15日6刷", "底本の親本名1": "創作探偵小説集第七巻", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1927(昭和2)年3月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "nami", "校正者": "まつもこ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/58053_ruby_62788.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-09-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/58053_62875.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-09-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ところがね、寒川さん、ついこの間のことですが、僕、あの行衛不明の大江春泥に会ったのですよ。余り様子が変っていたので挨拶もしなかったけれど、確かに春泥に相違ないのです", "どこで、どこで" ], [ "いいえ、私どうしていいか分らなかったものですから", "まだ云わなかったのですね", "ええ、先生に御相談しようと思って" ], [ "あなたも無論、あの男の仕業だと思っているのでしょう", "ええ、それに、昨夜妙なことがありましたの", "妙なことって", "先生の御注意で、寝室を洋館の二階に移しましたでしょう。これで、もう覗かれる心配はないと安心していたのですけれど、やっぱりあの人、覗いていた様ですの", "どこからです" ], [ "幻影じゃなかったのですか", "少しの間で、直ぐ消えてしまいましたけれど、今でも私、見違いやなんかではなかったと思っていますわ。モジャモジャした髪の毛をガラスにピッタリくっつけて、うつむき気味になって、上目使いにじっと私の方を睨んでいたのが、まだ見える様ですわ", "平田でしたか", "ええ、でも、外にそんな真似をする人なんて、ある筈がないのですもの" ], [ "エエ、そうです。あの旦那が生きている時分には、会社への送り迎いは、大抵私がやっていたんで、御ひいきになったもんですよ", "それ、いつからはめているの?", "もらったのは寒い時分だったけれど、上等の手袋で勿体ないので、大事にしていたんですが、古いのが破けてしまって、今日初めて運転用におろしたのです。これをはめていないとハンドルが辷るもんですからね。どうしてそんなことを御聞きなさるんです", "いや、一寸訳があるんだ。君、それを僕に譲って呉れないだろうか" ], [ "エエ、本当でございます。灰汁洗いではなく、ただ水で洗わせたのですけれど、灰汁洗い屋が来たことは来たのです。あれは暮れの二十五日でございました", "どの部屋の天井も?", "エエ、どの部屋の天井も" ], [ "いつも洋髪に結っていたのだね", "エエ、そうでしたよ", "近眼鏡をかけていたのだね", "エエ、そうですよ", "金歯を入れていたのだね", "エエ、そうですよ", "歯が悪かったのだね。そして、よく頬に歯痛止めの貼り薬をしていたと云うじゃないか", "よく知ってますね、春泥の細君に逢ったのですか", "いいや、桜木町の近所の人に聞いたのだよ。だが、君の逢った時も、やっぱり歯痛をやっていたのかね", "エエ、いつもですよ。よっぽど歯の性が悪いのでしょう", "それは右の頬だったかね", "よく覚えないけれど、右の様でしたね", "併し、洋髪の若い女が、古風な歯痛止めの貼り薬は少しおかしいね。今時そんなもの貼る人はないからね", "そうですね。だが、一体どうしたんです。例の事件、何か手掛りが見つかったのですか", "まあ、そうだよ。詳しいことはその内話そうよ" ], [ "とれた釦が、小山田さんの服のポケットにでも入っていて、それが一月のちに偶然天井裏へ落ちたとすれば、説明がつかぬことはないけれど、それにしても、小山田さんは去年の十一月に着ていた服で、春を越したのかい", "いいえ。あの人おしゃれさんだから、年末には、ずっと厚手の温かい服に替えていましたわ", "それごらんなさい。だから、変でしょう" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年11月20日初版1刷発行 底本の親本:「陰獣」博文館    1930(昭和5)年8月第15版 初出:「新青年」博文館    1928(昭和3)年8月増刊~10月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「纏」と「纒」、「背」と「脊」、「鼓動」と「皷動」、「合わせ」と「合せ」、「嘗つて」と「甞つて」、「惨虐」と「残虐」、「気持ち」と「気持」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:まつもこ 2021年9月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057503", "作品名": "陰獣", "作品名読み": "いんじゅう", "ソート用読み": "いんしゆう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1928(昭和3)年8月増刊~10月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-10-21T00:00:00", "最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57503.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2005(平成17)年11月20日", "入力に使用した版1": "2005(平成17)年11月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2005(平成17)年11月20日初版1刷", "底本の親本名1": "陰獣", "底本の親本出版社名1": "博文館", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年11月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "金城学院大学 電子書籍制作", "校正者": "まつもこ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57503_ruby_74186.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57503_74223.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "つまり地球のそとの世界さ。宇宙には地球よりも大きい世界が、かずかぎりなく、あるんだからね。", "アア、それじゃ、火星ですか。あれは火星から飛んでくるのですか。" ], [ "火星かもしれない。もっと、ほかの星かもしれない。いずれにしても、宇宙の、どこか、べつの世界から、われわれの地球を偵察にやってくるということは、考えられないことじゃないからね。", "それじゃ、あの円盤の中には、どこかの星の世界の人間が、はいっているのでしょうか。", "はいっているかもしれない。いないかもしれない。だれも、はいっていなくても、機械のちからで、偵察できるからね。われわれ地球の人間が発明した、無線操縦飛行機のことを考えてみたまえ。どこかの星の世界には、あれよりもっと進歩した機械があるかもしれない。そうすれば、中に人間がはいっていなくても、じゆうに円盤を飛ばすことができるし、地球のありさまを、写真にとることもできるわけだからね。" ], [ "でも、星の世界の人間って、いったい、どんなかたちをしているでしょうね。火星人はタコみたいなグニャグニャした足が、たくさんある、おそろしい怪物ですね。", "あれはウエルズという、イギリスの小説家が考えだしたものだよ。ほんとうは、どんなかたちだか、だれもしらない。だいいち、火星に、生きものがすんでいるかどうかさえ、わかっていない。だから、円盤を飛ばしているのは、火星とはかぎらないのだよ。もっと遠い、大きな星かもしれない。", "じゃ、タコよりも、もっとおそろしい、かたちをしているのでしょうか。", "それはなんともいえないね。グニャグニャしたクラゲみたいなやつかもしれない。それとも、ゴツゴツした機械みたいな、かたちをしているかもしれない。また、ひょっとしたら、あんがい、地球の人間に、似ているかもしれない。", "こわいなあ、もし、そんなやつに、道で出くわしたらどうしよう。", "ハハハ……、わからないよ。出くわすかも、わからないよ。あの円盤の中に、星の人間がはいっていて、円盤が、地球のどこかへ着陸したとすればね。" ], [ "どうしたんだい、平野君。そんなこわい顔して、ぼくをにらみつけて。", "いえ、なんでもないんです。もういいんです。" ], [ "おじさんのうちへ、いきましょう。ばあやさんが、心配しているんですよ。", "イヤ、ぼくのうちへは、いけない。あぶないんだ。それより、いいところへいこう。通りへ出て、自動車をひろおう。", "エ、いいとこって、どこです。", "どこでもいい、だまってついて来たまえ。車にのってから話す。" ], [ "どうしたんです。わけを話してください", "それは、いまにわかる。むこうへついてから、話す。", "むこうって、どこなんです。", "それはいってもいい。きみも名まえは知ってるだろう。明智小五郎先生のうちさ。", "え、じゃあ、あの名探偵の……。", "そうだよ。警察にも知らせなければならないが、まず明智探偵だ。ぼくは明智さんには、まえに二、三どあって、よく知っているんだよ。こういうときには、あの人に相談するのが、いちばんいい。" ], [ "明智先生、ぼくは一月のあいだ、空とぶ円盤の中にとじこめられていたのです。けさ、やっと、すきをみつけて、逃げだしてきたのです", "エッ。" ], [ "やっぱり丹沢山の、もっとおくのほうの、ふかい森の中へ、位置をかえたのです。きこりも、猟師も通らないような、おそろしい山おくです。", "では、なぜ、ふもとの警察に知らせて、山狩りをさせなかったのです?", "それはむだですよ。円盤は、自由自在に飛べるのです。ぼくが逃げだしたことは、とっくに気づいてますから、同じ場所に、じっとしているはずがない。どこか、ずっとはなれたところへ、飛んでいますよ。それが、どこだかは、だれにもわからないのです。" ], [ "北村さん、その怪人は、はねをもっているのだから、逃げだしたきみを、空からさがすのは、わけのないことですね。そして、きみを円盤の中へ、つれもどすのは、わけのないことですね。どうして、そうしなかったのでしょう。", "もう、日本語をおぼえてしまったから、ぼくがいらなくなったからだと思います。ひょっとしたら、円盤のふたを、あけたままにしておいたのも、わざと、ぼくを逃がすためだったかもしれません。それからね、明智先生、あいつは、ぼくの口から、あいつのことをしゃべらせ、それが新聞にのって日本じゅうのうわさになることを、のぞんでいたのかもしれませんよ。サア、おれは人間に変装して、おまえたちの町の中へはいっていくんだぞ。つかまえられるものなら、つかまえてみるがいいと、宇宙人のえらさを、見せびらかしたいのかもしれませんよ。", "フーム、その考えはおもしろい。見せびらかしたいというのはね。しかし、もし、そいつが、星の世界から、地球のようすを、さぐりにきたスパイだとすると、人間に変装することなんかは、かくしておかなければ、ならないはずですね。ここがおもしろいのですよ。ここに、ひじょうに、だいじな意味がかくされているのですよ。" ], [ "あんな高いところへ、どうして、のぼったんだろう。なにをしているんだろう。", "へんね。きみが悪いわ、はやく行きましょう。", "アッ、ねえさん、まって。あいつの顔、ピカピカ光ったよ。ごらん、銀色の顔をしているよ。" ], [ "ピストルで殺してしまっては、なにもたずねることができません。それよりも、いけどりにして、いったい、どの星からやってきたのか、地球へ、なにをしにきたのか、また、その星の世界には、どんな動植物があるのか、科学はどれほど進歩しているのか、などのことを、オリの中の怪人にたずねて、地球の人間の知恵をひろくするほうが、どれほど、ためになるかわかりません。それには、怪人を殺さないで、いけどるほかはないのです。", "それについては、ぼくたちも、いろいろ相談しているのだが、大きなわなをしかけるというのは、たしかにおもしろいね。だが、あいては星の世界のやつだから、われわれには、想像もできないような、知恵と力をもっている。どんな、がんじょうなわなをこしらえても、あいつは、逃げてしまうかもしれないがね。" ], [ "いや、ところが名案があるのです。コンクリートのくらは、どこにでもあるでしょう。そのくらの中のものを取りだして、からっぽにして、イスとテーブルをおくのです。つまり、くらの中を、ふつうの部屋のようにするのです。そして、ゆりかさんに、しばらく、そこに住んでもらうのです。", "フン、なるほど、きみは、なんだか、とほうもないことを、考えだしたようだね。それで、そのくらがわなになるとでも言うのかね。" ], [ "まだだよ。いくら、やっこさんでも、昼間はこられないだろう。今夜は、きっと、やってくるよ。うまく、わなにかかってくれればいいがね。", "夜でも、だいじょうぶ、見えますか。", "見えるよ、くらの入り口のそとに、電灯をつけたからね。それに、この双眼鏡のレンズは、明かるいのだから、手にとるように見える。" ], [ "あのボタンはなんだね。", "ねむりガスさ。", "え、ねむりガスだって?" ], [ "ああ、きみは、まだなにも聞いていなかったんだね。あれは一種の毒ガスを、くらの中へおくりこむボタンだよ。くらのゆか下に、毒ガスのしかけがしてある。このボタンを押すと、そのガスが、鉛管をつたって、くらの中へ、おそろしい、いきおいで、ふきだすのだ。", "あいつを、殺すんじゃないだろうね。", "むろん、殺しては、なんにもならない。ただ、ねむらせるのだ。つまり睡眠ガスというわけだね。", "それじゃあ、おとりにつかったおじょうさんも、いっしょに、ねむらせてしまうのかい。いや、ねむりガスが、きくまでに、おじょうさんは、あいつに、ひどいめにあうかもしれないじゃないか。", "ハハハ……、きみは、それも知らなかったのか、おじょうさんは、だいじょうぶだよ。けっして、ひどいめにあうようなことはない。" ], [ "きみは魚つりがすきだったね、魚つりには、ほんとうのえさではなくて、虫のかたちをした、つくりもののえさをつかうことがあるだろう。あれだよ、くらの中にいるのは、ほんとうのゆりかさんじゃないのさ。", "だが、かえだまにしても、やっぱり生きた人間なら……。", "いや、生きた人間じゃない。人形なんだよ。電気じかけで、手と首だけが動くようになっている、つまり自動人形なのさ。ホラ見たまえ、あのスイッチのボタンの上に『音楽』とか『電灯』とか書いてあるだろう。『音楽』というのは、人形にバイオリンをひかせるしかけのスイッチなんだ。むろん、ほんとうにひくのではないから、音は、でない。音のほうは、レコードで、聞かせるのだ。くらの机の下に電蓄がかくしてある。それにゆりかさんのバイオリンのレコードがかけてあって、ボタンをおすと、まわるようになっているんだ。そういう、しかけの電線は、みな地面の下を、はわせてあるので、だれにも気づかれない。『電灯』というボタンは、むろん、くらの中の電灯をつけたり、消したりするスイッチだよ。", "フーン、そうだったのか。どうりで、みんな、へいきな顔をしていると思った。それにしても、うまいことを、考えたもんだね。" ], [ "どうしたんです。なにかおこったのですか。", "いま、怪人が、このえんがわまで、あがってきたのです。庭へ逃げました。さがしてください。" ], [ "オイ、いま、笛の音がしたね。なんだろう。ゆりかさんのうちの中らしいぜ。いってみようか。", "バカ、持ち場をはなれるなって、あれほど団長が言ったじゃないか。", "ウン、だが、もし宇宙怪人があらわれたとすると、おれたち、ここに、じっとしてていいのかい。", "いいんだよ。呼びこがなれば、刑事さんがかけつけるんだ。おれたちは、持ち場を、はなれちゃいけないんだ。ひょっとして、怪人が、ここへ、逃げてくるかもしれないんだからね。そうしたら、とびかかっていくんだ。わかったか。" ], [ "りこうなきみは、ぼくの名を、ちゃんと知っているはずだ。きみにとっては、いちばん、おそろしい敵なんだからね。", "アケチ、シッテル、アケチ、ナゼ、キノウエニ、イルカ。", "きみがくるのを、まっていたのさ。きみは、このカシの木の上から、飛びたつにきまっているのだからね。ぼくは、ここにがんばって、きみの神通力のじゃまをしているんだよ。わかったかね。" ], [ "コウモリみたいだね。", "そうじゃない。よく見たまえ、はねはコウモリとそっくりだが、からだが、ちがうよ。アレッ、へんだな、あの鳥、洋服をきているよ。" ], [ "オイ、とくだねだぜ、こいつは……。八ぴきいたね。宇宙怪人が、八ぴきも東京にいるなんて、だれも知らないんだからね。", "そうだよ。しかも写真入りの特大記事だ。", "エッ、きみ、写真とったのか。", "ウン、むがむちゅうで、シャッターを切ったよ。あいつらに、さとられないようにね。そこは、おれの本職だからね。宇宙怪人の写真をとったのは、おれが世界でさいしょだろうぜ。" ], [ "ぼく小林です。どういうご用件でしょうか。", "宇宙怪人の件じゃ。どうやら、こんどは、わしがあぶなくなった。警察には、保護をたのんでおるが、それだけでは安心がならん。明智さんに来てほしいのじゃ。だが、おるすなら、あんたでもいい。子どもながら、先生におとらぬ名探偵だ。明智さんにも来てほしいが、あんたにも、来てもらいたいのだ。どうじゃね。今すぐ、わしのうちへ来てくださらんかな。" ], [ "ハイ、それでは、先生に電話で、相談してから、まいります。", "そうか。わしのうちは、ごぞんじだろうな。まってますぞ。" ], [ "どうして、そんなふうをしているの。まるで軍人みたいだね。それがきみのふだんの服ですか。", "そう。うちの老先生は、こんなピカピカした服がすきなんだよ。その服が、おまえに、いちばんよく似合うって。" ], [ "きみの先生は、ずいぶんかわってるんだねえ。ロボットの黒んぼうに、玄関番をさせたりして……。", "ハハハ……、かわっているよ。なんでもかわっているんだ。きみは、これから、たくさんおどろくことがあるよ。しかし、うちの先生は、えらい学者だよ。先生の発明を見たら、きみはきっと、びっくりしてしまうよ。" ], [ "ねえきみ、ぼくは、さっき、ここでひとりでまっていたとき、だれかが、すぐ近くにいるような気がしたんだよ。へんだねえ。この部屋には、かくし戸でもあるんじゃないかい。", "かくし戸もあるよ。しかし、きみがさっき、だれかいると思ったのは、ぼくだったのさ。", "エッ、きみだって。きみ、どこにかくれていたの?" ], [ "この中だよ。", "エッ、鏡の中だって?", "そうじゃない。この鏡の、むこうがわの部屋にいたんだよ。この鏡は、こちらから見れば、ふつうの鏡だけれど、うらから見ると、この部屋の中が、すっかり見すかせるんだよ。あちらの部屋にいれば、この鏡は、大きなガラス窓と、おんなじなんだ。それで、ぼくは、この鏡のむこうがわから、しばらく、きみのようすを、ながめていたんだよ。だもんだから、きみは、近くに人がいるような気がしたんだ。", "すると、客をこの部屋にいれておいてまず、鏡のうちから、のぞいて見るんだね。まるで探偵のうちみたいだね。", "そうだよ。うちの老先生は、探偵がすきなんだよ。だから、ここには、いろんなしかけがある。そして、明智先生のこともよく知っているんだ。うちの先生は、いつも、きみをほめているよ。子どもにしては、えらいもんだって。ぼく、そのたびに、きみが、うらやましくなっちまう。" ], [ "さっき電話で聞いたんだけど、宇宙怪人があらわれたんだってね。きみもそれを知っているの?", "ウン、ぼくもあいつを見たよ。それで、先生は、明智先生にあいたいっておっしゃるのさ。", "明智先生も、じきここへくるよ。で、きみは、いつ、どこで、宇宙怪人を見たの?", "ゆうべ、ここで。", "エッ、ここで。" ], [ "あのガラスのそとから、のぞいていたんだよ。ホラ、あの銀の仮面さ。ぼく、ゾーッとして、気をうしないそうだった。いやな仮面だねえ。", "それで、どうしたの?", "先生に知らせたのさ。そして、みんなで庭をさがしたけれど、もう、どこにもいなかった。きっと、空へ飛んでいったのだよ。それから、つい一時間ほどまえに、また、へんなことがあった。ホラ、これだよ。これがうちの玄関のドアにささっていたんだ。" ], [ "日本に、むかし白羽の矢っていうのがあったんだってね。白羽の矢が屋根にささったうちが、悪ものにねらわれるんだって。先生は、それとおなじ意味だろうと、おっしゃるのだよ。つまり、宇宙怪人はしゅうねんぶかく、うちの先生を、さらっていこうとしているのさ。", "フーン、それで、明智先生に電話をかけたんだね。", "そうだよ。うちのまわりには、いま、たくさんの刑事が見はりをしているけれど、それでも、安心ができないんだ。", "で、きみの先生は、どこにいらっしゃるの? ぼく、あえるかしら。", "ウン、きみをまっていらっしゃる。いま、つれてってあげるよ。先生は、だれも近よれないところにいらっしゃる。ふかいところだよ。", "エッ、ふかいところって、地下室なの。", "そうじゃない。いまにわかるよ。さあ、行こう。" ], [ "まだ、おりるのかい。もう、地面より、ずっと下に来ているとおもうが、いったい、どこまでおりるの?", "まだだよ。もっとふかいんだ。先生が発明した、かくれがだからね。きみは、いまに、びっくりするよ。いくら宇宙怪人だって、とても、あすこまでは来られやしない。ほんとうは、先生は、ちっとも心配することはないのさ。こんな安全なかくれ場所なんて、どこをさがしたって、ありゃしないからね。" ], [ "どこだって? やっぱり地下室なんだろう。のぼった階段は、七、八段だし、おりた階段は三十段もあったんだからね。", "ところが、地下室じゃないんだよ。そのしょうこを見せてあげよう。ホラ、ここへきて、そとをのぞいてごらん。" ], [ "きみ、こわくないの? あんなおそろしいものを見て、へいきで、笑っているなんて。", "ちっとも、こわくなんか、ありゃあしないよ。ぼくは、見なれているんだもの。", "ヘエー、見なれているの? じゃあ、このへんには、あんな大きな、クジラの子どもみたいなさかながすんでいるの?" ], [ "きみ、ここは隅田川の入り口だよ。あんな大きなさかなが、すんでいてたまるもんか。", "じゃあ、いまの、なんだったの? あれ、さかなじゃないの?", "さかなじゃないさ。いまにわかるよ。きみは名探偵じゃないか。あててごらんよ。" ], [ "おもしろいものって、なんですか。", "海の底のとり物だよ。みんなで、宇宙怪人を追っかけるのさ。", "海の中をですか。" ], [ "ウン、わしは、特殊の潜航艇を発明して、持っているのだ。三人が、それにのりこんで、あいつを、おっかけるのだよ。", "潜航艇ですって?" ], [ "ああ、びっくりした。なにがわかったの?", "さっき、ガラス窓から見た、クジラの子どものような、大きなさかなの正体が、わかったよ。あのお化けさかなは、この潜航艇だったのさ。そうだろう。二つのヘッド・ライトが、光った目に見えたんだ。それから、せなかの、すきとおったコブは、この展望ガラスだったのさ。だから、ガラスのコブの中に人間の顔が見えた。あれは、虎井先生の顔にきまっている。だって、先生はあのとき、まだ部屋の中に来ていなかったものね。あとで潜航艇をおりて、あの丸い、かくし戸から、部屋にはいってきたんだよ。" ], [ "そうです。かくれがを見つけたところではありません。宇宙怪人は、もう二どと、すがたをあらわさないのです。", "ホウ、それはまた、どういうわけで?" ], [ "おやおや、すると、とうとう、逃がしてしまったというわけですか。さすがの名探偵も、星の世界の怪物には、かなわなかったというわけですか。", "いや、逃がしたのじゃありません。ぼくは、宇宙怪人を、とりこにしたのです。", "え、とりこにした。どこに、どこに?", "それは、へやにはいって、ゆっくりお話しましょう。怪人の魔法のたねも、いろいろ、お目にかけますよ。" ], [ "きみは、丹沢山のきこりの松下君だね。", "そうでがす。", "きみが、警察ではくじょうしたことを、もういちど、ここでいってごらん。", "もうしわけねえ。おらあ、金に目がくれて、大うそついたでがす。丹沢山の中へ空とぶ円盤なんか、おっこちたんじゃねえ。その中からコウモリのはねをもったばけものが、出てきたわけでもねえ。村の人や新聞記者にいったのは、みんなうそでがす。作田というだんなが、そういえといって、おらに十万円くれただ。そのうえ、もし、このことをだれかにつげ口したら殺してしまうと、おどかされたんだ。", "その作田というだんなは、どこの人だね。", "知らねえ。ひょっくら、おらの小屋へやってきて、金をくれただ。そして、これから、たえまなく、おまえを見はっているから、つげ口したら、すぐわかるぞと、おどかしただ。あのだんなは、大どろぼうにちげえねえでがす。", "よし、きみはさがっていたまえ。つぎは、山根君だ。ここへ来たまえ。" ], [ "では、空とぶ円盤はどうしたのです。あれは東京じゅうの人が見ている。あの円盤も、なにかのキカイじかけだったというのですか。", "ハハハ……、その質問を、じつは待っていたのですよ。ぼくはあの円盤のひみつをとくのに、ずいぶん苦しみました。無線操縦と考えればなんでもないが、悪ものに、それだけの大きなしかけが、できるわけはないと思っていました。そこで、いろいろ考えているうちに、ふっと、ひとつの名案を思いついたのです。そして、それを実験して見ました。すると、その実験が、うまくいったのですよ。", "はてな。それは、どんな実験です。", "さっき、ここの空を、五つの円盤が千葉のほうへ飛んでいくのを、ごらんになったでしょう。あれがぼくの実験です。" ], [ "えらいっ。さすがに明智先生だ。よくも、そこまでやりましたね。しかし、まだまだ、わからないことがありますよ。円盤がにせものだったとすると、北村という青年が、怪人に日本語をおしえた一件は、どうなるのですかね。それから、怪人は海の底を、自由自在に、およぎまわったが、人間にあんなまねができるものですかね。", "よろしい。それでは、さいごのふたりの証人を、よび出しましょう。" ], [ "そうです。ある人にたのまれて、うそをいったのです。しかし、お礼の金に目がくらんだのではありません。わけがあって、ぼくは、すすんで、うそをついたのです。そのわけは、あとでいいます。宇宙怪人にさらわれて、丹沢山へつれていかれたことも、そこの円盤の中でくらしたことも、怪人に日本語をおしえたことも、魔法の鏡で怪人の思っていることがわかったのも、スポイトのようなピストルから、殺人ガスが発射されて、一ぴきのサルが、たちまち灰になったというのも、みんな、つくり話です。", "それから、怪人をコンクリートのくらの中へ、とじこめたとき、怪人が消えうせたのも、きみの手品だったね。", "そうです。窓の鉄棒をゆるめておいたのです。怪人はその鉄棒をはずして、窓から逃げたのです。逃げたあとで、ぼくはソッと、くらのうしろへ行って、鉄棒をもとのとおりにし、コンクリートのこわれたところへ、セメントを水にとかして、ぬっておきました。そして、上からゴミをかけて、新しいセメントに見えないようにしておいたのです。まさか、ぼくが怪人のみかただとは、だれも知らないものですから、この手品が、うまくいったのですよ。", "よろしい。それでは、こんどはきみだ。きみは千葉県の保田の漁師だったね。ゆうべ、海の中で、なにをやったかいってごらん。" ], [ "で、証拠は?", "ここにいるモグリの名人の漁師は、たしかに、きみにたのまれたといっている。", "そうです。この人に五万円もらって、たのまれたです。その五万円はここに持っている。いつでもかえしますだ。" ], [ "知っています。", "その名をいってみたまえ。" ] ]
底本:「怪奇四十面相/宇宙怪人」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年1月8日第1刷発行 初出:「少年」光文社    1953(昭和28)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2017年4月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "そうじゃない。あたしお爺さんのオメカケよ。それを聞いて、もうあたしと遊ばなくなる?", "遊ぶことは遊ぶけれど、君、あんな豚爺さん好きなのかい", "嫌いでもないわ、でも、あんた程好きでもないわ", "うまく云ってら。僕はお金がないからね", "じゃ証拠を見せたげましょうか。あんたの方が好きだって云う", "ウン" ], [ "苦いね", "エエ、苦いわ", "誰に呑ませるのだい", "お爺さん!", "ホウ……" ], [ "早くしないと、今にお爺さんがやって来るわ", "止そうよ。こんないたずら", "あんた、恐いの" ], [ "オイ、ラン子さん、いいのかい。いいのかい", "いいのよ。サア、邪魔物はいなくなってしまった。思う存分遊べてよ" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第7巻 黄金仮面」光文社文庫、光文社    2003(平成15)年9月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第四巻」平凡社    1931(昭和6)年8月 初出:「新青年」博文館    1930(昭和5)年9月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:入江幹夫 校正:A.K. 2019年6月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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あなたは正気でそんなことおっしゃるのですか。あのドアには鍵がかけてありますのよ。そして、青山さんが、あの柔道二段の腕前の青山さんが、廊下に頑張っていますのよ", "マア、精々厳重にして置く方がいいわ。難しければ難しい程、あの人のすばらしい腕前が引立つ訳なのだから。お前、金色のお化けとお云いだね。そうお化けかも知れないわ。超人はいつだって、神様でなければお化けと間違われるのですもの。でも、なんて素敵なお化けでしょう。黄金仮面! 其の名を聞いた丈けでも、胸がワクワクする様だわ" ], [ "お紅茶を二つってお云い。お前だって喉が乾いたでしょう", "エエエ、お相伴いたしますとも" ], [ "そうだよ。お前にも似合わぬことではないか。お前、あの黄金仮面の賊が、この部屋に忍び込んだのを、何も知らないでいたのだね", "エッ、何でございますって? あの化け物がこの部屋に。それは本当のことでございますか" ], [ "アア、一足おくれました。幸、明智先生の御快諾を得て、御一緒にお出でを願ったのですが、少しの所で間に合いませなんだ。実に残念なことを致しました。併し、お嬢さまには別状もございません様子で", "アア、不二子はよっぽど疲れていたと見えて、ああしてよく眠っています" ], [ "すると、黄金仮面が、お嬢さんの声を真似て、青山君にこのドアを開けさせた、という訳ですね", "マア、そうとしか考えられません" ], [ "そんな馬鹿げた真似をするでしょうか。目的も達しない先に、青山君に一目で分る自分の姿を見せて、いきなり逃出すというのは、何だか変ではありませんか。彼はただ逃げ出す為に、苦心をしてこの部屋へ忍び込む様な愚かものでしょうか", "併し、不思議と云えば、もっと不思議なことがあります。賊はこの全く入口のない部屋へ、どうして忍び込むことが出来たのでしょう" ], [ "で、何も見なかったのですか", "それが、迂闊なことに、居眠りをしていて、少しも知らぬというのです", "エッ、居眠りを" ], [ "あの人って、黄金仮面のことですか。僕は人殺ではありません。あの人はピンピンしています。今頃は家に帰ってすやすやと眠っている時分ですよ", "では、あの人は……", "エエ、逃げられてしまったのです。……併し僕は決して失望しません。あなたにお願いすれば、あの人は誰であるか、どこに住んでいるか、すっかり教えて下さると信じていますから" ], [ "アア、俺は何という馬鹿者だろう。屋根に気がつかぬとは。庭ばかり探し廻って、上の方を見もしなかったとは。君、あいつは庭へ飛び出すと見せかけて、窓枠に手をかけ、一振り振った反動で、足の先で屋根のひさしへ昇りついたんだぜ。そして、僕が庭を探している間、屋根の斜面に平べったくなって隠れていたんだぜ", "それから、旦那の先廻りをして、表の方へ飛降りたという訳ですね。併し、あいつは一体何者です。旦那は御存じなんですか", "オヤオヤ、君はまだ気づかないのかね。外に金色の化物があるものか。あいつだよ。あれが黄金仮面だよ", "エッ、黄金仮面?" ], [ "いやな趣味ではありませんか。一体あのいまわしい仮装をして来たのは誰でしょう", "サア、たった今まで、あんな金色の衣裳をつけた人は、一人もいなかった筈ですがね" ], [ "お茶番だって。何を云っているのだ。君は、これをお茶番だと思うのですか。……君は一体どなたです。覆面をとって下さい", "アルセーヌ・ルパンは、こんな男じゃありませんよ" ], [ "明智君、御挨拶は抜きにして、君がどうして生き返って来たかもあとでゆっくり聞くとして、……今云った妙なことは、あれは一体どういう意味だね", "黄金仮面はアルセーヌ・ルパンだ。突飛に聞えるかも知れない。僕も長い間迷っていた。だが、二三日以前、やっと思違いでないことが判明した。ルパンは今この東京にいるのだ" ], [ "では、ここに倒れているのは?", "真赤な偽物だ。ルパンの常套手段の、お茶番に過ぎない" ], [ "議論を聞いているのではない。わしは証拠がほしいのだ。動かし難い証拠が見せて貰い度いのだ", "証拠がなくて、こんなことを云いだす僕ではありません。例えば、ここに倒れている男が、僕の質問に答え得るとしたら。それ丈でも、充分閣下に御満足を与えることが出来ましょう", "よろしい。この男に質問をして見給え" ], [ "ウン、聞えるんだね。では、今僕が尋ねることに答えるのだぜ。非常に重大な問題だ。たった二言か三言丈け、どうか答えてくれ給え", "ハヤク、ハヤク、コロシテクレ" ], [ "よし、よし、すぐに楽にしてやる。その代りに答えるのだよ、いいか。君は黄金仮面の部下だね。同類だね。もう死んで行くのだ、嘘をつくのではないぜ", "ウン", "部下なんだね", "ウン", "それから、これが一番大切な点だ。君の口から云ってくれ給え。黄金仮面の正体は? あれは日本人ではないね", "ウン", "名前は? その名前を云うのだ。サア、早く", "ルパン……ア、ア、アル、セーヌ、ルパン" ], [ "それで、アルセーヌ・ルパンはどこにいるのだ。君はそのありかを知っているだろうね", "ウン", "知っているね。サア、たった一言、云ってくれ給え。あいつは今、どこにいるのだ" ], [ "ルパンはどこにいる?", "コ、コ、コ、コ、……", "何だって? もっとハッキリ、もっとハッキリ", "コ、コ、コ……" ], [ "此処だね。此処にいるというのだね", "ウン、ウン", "この部屋にいるんだね。サア、どこに、指さしてくれ給え。それが出来なければ、眼で知らせてくれ給え" ], [ "証人? バカな。こいつは伯爵に射殺された恨みがある。それに瀕死の苦しまぎれ、血迷った奴が何を云うか分ったものではない。一秘書官の言葉を信ずるか、F国大統領の信任厚き全権大使を信ずるか、一考の余地もないことだ", "では、これをごらん下さい。僕は何の証拠もなくて、迂闊にこの様な一大事を口にするものではありません" ], [ "手紙の様だが、それはどこから来たのかね", "巴里からです", "フン、巴里の何人から?", "お聞き及びでしょうと存じますが、元巴里警視庁刑事部長のエベール君からです", "エベール?", "そうです。ルパンが関係した、二つの最も重大な犯罪事件、ルドルフ・スケルバッハ陰謀事件と、コスモ・モーニングトン遺産相続事件で、ルパンと一騎打をした、勇敢な警察官として、よく知られている男です。当時の警視総監デマリオン氏の片腕となって働いた男です", "成程、して?", "今では職を退いて、巴里郊外に引退していますが、僕は、先年巴里へ行きました時、同君を訪ねて、一日話し込んだことがあります。彼は警察事務にはもう飽き飽きしたといっていましたが、談一度ルパンに及ぶと、額に癇癪筋を出して、息を引取るまで、あいつの事は忘れないだろうと、非常な見幕でした。なにしろ、ルパンの化けた刑事部長の下で、散々こき使われ、愚弄された男ですからね", "で、そのエベール君から、何を云って来たのだね", "僕は電報で、ルージェール伯爵の身元調査を頼んでやったのです。伯爵はシャンパーニュの大戦で一度死を伝えられた人物です。そして、彼が巴里の政界でメキメキと売出して来たのは、大戦の後でした。ここに恐ろしい疑いがあるのです。大戦以前のル伯と、戦後のル伯とが、全く同一人であるかどうか。万一別人であったならば、それはアルセーヌ・ルパンではないか。ということを尋ねてやったのです。ルパンと聞くとエベール君、異常な熱心で調査を始めてくれました。戦友を探し出し、伯爵の幼馴染を探し出し、写真を蒐集し、あらゆる方面を調査した結果、大統領を初め戦友達の一大錯誤を発見したのです。ル伯はシャンパーニュで、本当に戦死したらしいことが分ったのです。併し、事は余りに重大です。迂闊に一退職警察官の進言を採用することは出来ません。盗賊に大統領の親書を与え、国家の代表者として、日本皇帝陛下に謁見せしめたとあっては、巴里政界に大動揺を来すは勿論、由々しき国際問題です。一通の電報によって、犯人引渡しを要求するが如き、軽挙に出でることは出来ません。そこで、ルパンを最も熟知せるエベール君をひそかに日本に派遣して、ル伯の首実検をさせた上、適宜の処置をとらしめることになったのです。エベール君は、この手紙を書くと同時に本国を出発しました。恐らく数日中には到着することと思われます" ], [ "あらゆる事実が、それを物語っているとしたら、仮令大使閣下であろうとも、御疑い申上げる外はないのです", "あらゆる事実? それを云ってごらんなさい" ], [ "黄金仮面は滅多に口を利きません。止むを得ない場合には、ごく簡単な言葉を喋りますが、それは非常に曖昧な、日本人らしくない発音です。これは、黄金仮面が外国人であることを語っています。奇妙な金色のお面も、一目で分る異国人の容貌を隠す為に考案されたものです", "それで?", "黄金仮面は、日本に一つしかない様な、古美術品ばかり狙っていますが、並々の盗賊には、そういう有名な品を処分する力がありません。ルパンの様に私設の博物館を所有するものでなくては出来ない芸当です", "それで?", "大鳥不二子さんは、なぜ恐ろしい黄金仮面に恋をしたか。それは彼がアルセーヌ・ルパンだからです。あの気高い令嬢が、若し盗賊に恋をするとしたら、世界中に、ルパン一人しかありません。ルパンはどんな女性をも惹きつける、恐ろしい魔力を持っているのです", "ルパンがそれを聞いたら、さぞかし光栄に思いましょう。併し、わしには何の関係もないことです", "鷲尾侯爵家の如来像が偽物と変っていました。その偽物の像の裏にA・Lの記号が記してありました。日本人にLの頭字を持った人名はありません。アルセーヌ・ルパンでなくて誰でしょう。頭字が一致するばかりでなく、犯罪の現場に自分の名札を残して行く盗賊は、恐らくルパンの外にはありますまい。彼は欧洲各国の博物館の宝物を、にせものと置き替え、そのにせものの人目につかぬ場所へ、悉く署名を残して置いた先例があります", "…………", "そして、あの盗難のあった頃、鷲尾侯爵邸を訪れた外国人と云えば、閣下、あなたの外にはなかったのです。僕は当時已に、黄金仮面がアルセーヌ・ルパンであり、ルパンは即ちルージェール大使であることを、薄々感づいていたのです", "ハハハ……、愉快ですね。このわしが世界の侠盗アルセーヌ・ルパンか。で、証拠は? 空想でない証拠物は?", "浦瀬の証言です", "こいつは気狂いだ", "エベールの調査です", "ナニ、エベール?" ], [ "アハハハ……、日本の名探偵明智小五郎君、よくもやったね。イヤ、感心感心、アルセーヌ・ルパン、生涯覚えて置くよ", "で、君は白状した訳だね" ], [ "フフン、君に軽蔑されようが、尊敬されようが、俺は少しも痛痒を感じぬよ", "アア、アルセーヌ・ルパンというのは、君みたいな男だったのか。僕は失望しない訳には行かぬ。第一君は、何の為にこの浦瀬に黄金仮面の扮装をさせたのだ。人々にこれこそあの怪賊だと思い込ませて、一思いに射殺してしまう積りではなかったのか。それが、狙いをあやまり、即死させることが出来ず、瀕死の部下の為に、君自身の正体をあばかれる様なヘマをやるとは。ルパンも耄碌したものだなあ", "フフフ……、耄碌したかしないか、決めてしまうのは、まだちっと早かろうぜ" ], [ "という意味は?", "という意味は……これだッ! 手を上げろ!" ], [ "ア、貴様、エベール!", "そうだ。嘗つて君の部下であったエベール副長だ。よもや見忘れはしまい。俺の方でもよく覚えていたよ。明智さん、こいつこそ、ルパンに相違ありません", "アア、ではあなたは、あの手紙と同じ船で……", "そうです。上陸すると直様、ここへやって来たのです。丁度夜会に間に合って仕合せでした", "エベール、君は特命全権大使を捕縛する権能を持っているのか" ], [ "天変地異が起らぬ限り? フフン、ではその天変地異が起ったらどうするのだ", "ホオ、貴様、それを起せるとでも云うのか", "云うのだ", "ナニ、なんと云うのだ", "俺の力で天変地異を起して見せるというのさ" ], [ "波越さん。波越さん", "総監閣下" ], [ "アラッ、これはおかしい。誰もいやしないぜ", "いないって? 一人もか?", "猫の子一匹いやしない" ], [ "約束? ハテナ、何を約束したのだね", "ハハ……、空とぼけても駄目だ。君はさっきから、それを非常に心配しているじゃないか。ホラ、俺は決して君に捕縛されないという約束さ", "アア、あの引かれ者の小唄のことか。ナアニ、少しも心配なんかしないさ。捕縛されないと云ったところで、現に捕縛されたも同然じゃないか。君はピストルを取上げられてしまった。我々の方には三挺のピストルがある。それにドアの外には、日本の警官達が山の様にひしめき合っている。如何にルパンの約束でも、こればっかりは信用しないよ。この重囲を逃がれるなんて、神様だって不可能なことだ" ], [ "馬鹿なッ。俺は断言する。アルセーヌ・ルパンは確実に逮捕されたのだ", "ところが、俺は今この部屋を出て行こうとしているのだ" ], [ "ハハハ……、つまらないお芝居はよせ。そのドアを開けば、貴様の自滅を早めるばかりだ。ルージェール大使の面目を失うばかりだ。その外には、警官ばかりではない、夜会のお客様がウヨウヨしているのだぜ。それとも、たって開きたければ、貴様自身で開いて見るがいい", "よし、では我輩自身で開くぞ。異存はないのだな" ], [ "これは失礼しました。我々は黄金仮面逮捕の為に出張を命ぜられた警視庁のものです。大使閣下とは知らず、誰何などしまして申訳ございません。どうかお通り下さい", "アア、そうでしたか。それは御苦労です" ], [ "何ですって?", "ごらんなさい。あの薄絹の向の光が、何となく変です。若しや……" ], [ "実に驚くべき機械仕掛けです。たった三ヶ月程の間に、誰にも気づかれず、これ丈けの細工をしたとは、やっぱりルパンでなくては出来ない芸当です。彼奴は驚天動地の夢想を、易々と実行してのける怪物です", "機械仕掛けとは?" ], [ "さっき、ルパンの奴、天変地異を起して見せると豪語したではありませんか。そして、事実天変地異が起ったのです。彼奴は自から起した天変地異に隠れて、易々と警官の包囲を脱がれたのです。ごらんなさい。この小さな白い押釦。これの一押しで、彼奴の所謂天変地異が起るのです。これがあればこそ、彼奴は最後の土壇場になっても、平気で笑っていることが出来たのです", "すると、我々は今、実際二階にいるのだと云うのかね" ], [ "サア、もういい、もう何にもいなくなったよ。お前、さぞ怖い思いをしただろうね。併し、飛んでもないいたずらをする奴がある。黄金仮面なんて、いやなものがはやるね", "いいえ、お父さま、いたずらではありませんわ。本当の泥棒ですのよ。早くアトリエを検べて下さい。何か盗んで行ったに違いありませんわ" ], [ "不思議ですわ。いいえ、決して夢なんかじゃありません。確かにひどい物音が続いていたのです。でも、何も盗まれたものがなければ、幸ですわ。何が何だか、まるで狐につままれた様ですけど", "何も盗まれたものはない。だが……", "アラ、どうなさいましたの? お父さまの顔真青ですわ。何か分りましたの?" ], [ "ほんとうに、どうかなすったのじゃありません? 大丈夫?", "ウン、大丈夫だ。サア、早くあっちへ行ってくれ" ], [ "鉄砲の音じゃございませんか", "エエ、アトリエの様だわね" ], [ "いいえ、父は外国語は少しも出来ませんでした", "あなたは?", "あのフランス語でございますか", "そうです", "いいえ、ちっとも存じません", "召使の方に出来る人はありませんか", "そんな教育のある者は、一人もございません" ], [ "それが、ちっとも分らないのだ。気違いの文章か、おみくじの文句みたいに、不得要領なことが書いてある。こっちの隅の数字と渦巻も分らない。分らない丈けに興味がある。ひょっとしたら何かの暗号ではないかと思うのだよ", "それが賊の落して行ったもので、本当に暗号文だとすると、非常な手掛りだが……", "イヤ、確かに暗号だ。僕は殆ど確信している。あとはためして見る丈けだ" ], [ "オイ、明智君、どうしたのだ。何か分ったのか", "ウン、僕は今恐ろしいことを考えたのだ。非常に恐ろしいことだ" ], [ "その小さなものは一体何だ。何か分ったのかね", "ウン、分った様な気がするのだ。……アア、お嬢さん、電話室はどちらでしょうか" ], [ "盗まれた品物が分ったのだ。皆さん、驚いてはいけません。ルパンはアトリエから、国宝を盗み去ったのです。それも並々の国宝ではありません。国宝中の国宝、小学生でも知っている程有名な宝物です", "なんだって? 君は何を云っているのだ。こんな一私人のアトリエに国宝が置いてある筈がないじゃないか" ], [ "ところが、法隆寺の金堂には、別に異状はないのです。玉虫厨子はそこにちゃんとあるのです", "ホホウ、すると君は……", "そうです。偽物です。何ヶ月かの間、法隆寺には巧みに出来た偽の玉虫厨子が安置してあったのです", "偽物? ああ云う古代美術の偽物を拵えるなんて、不可能です。信じ難いことです" ], [ "法隆寺事務所の管理者もそう云いました。あれが偽物だなんて、そんな馬鹿なことがあるものか。つまらないいたずらは止し給えってね。僕が電話でいたずらをしていると思ったのです", "そうでしょう。で、どうして偽物であることを確めたのです", "僕は管理者に、厨子の底を調べてくれる様に頼みました。若しやそこに、ルパンの例の虚栄心たっぷりの署名がしてないかと思ったのですから", "それで、その署名があったのですか", "管理者は暫くすると電話口へ帰って来ましたが、まるで声が変っているのです。ブルブル震えて何を云っているのだか聞取れぬ程でした。『A・L』の署名があったのです。しかも御叮嚀に『川村雲山氏に代りてA・L』と日本語で刻み込んであったのです" ], [ "そうです。恐らく彼奴は余程以前から、雲山氏の秘密を嗅ぎ出していたに相違ありません。でなければ、遠い法隆寺の偽物に署名なんかしている暇はありませんからね", "で偽物の作者は、無論雲山氏自身ということになりますね", "そうでしょう。あの精巧な美術品を作る為には、この密室で数ヶ月、或は数年の間、コツコツと仕事をしていたことでしょう。雲山氏の如き天才的美術家にしてはじめて企て得る悪事です", "だが、偽物と本物と置き換えるのが大変です。監視人のついている中で、どうしてそんな手品が出来たのでしょう", "大犯罪者は一見不可能な事柄を、何の苦もなくやって見せるものです。彼等は一種の手品師です。ところで、手品という奴は種を割って見ると実にあっけないものですが、今度の場合もその通りです。僕はあの国宝が時たま修理の為に外部へ持出されることを聞いていました。で、若しやと思って電話で、そのことを尋ねて見ますと、案の定、今から四ヶ月程前に、一度修理をした事があるというのです。それが手品の種です。川村氏は職業柄前以てその時期を知っていて、凡ての準備を整え、易々とすり替えをやったのでしょう。ご存じの通り十人や二十人の口止め料には事欠かぬ資産家ですからね" ], [ "アア明智君、吉報だ。すぐ外出の用意をしてくれ給え。例の謎の白い大男が見つかったのだ", "エ、白い大男って?" ], [ "ホラ、例の暗号紙片の文句さ。白き巨人という奴さ。あいつがやっと見つかったのだ", "もっと詳しく話してくれ給え。よく分らないが" ], [ "部下の刑事が今電話をかけて来たのだ。戸山ヶ原の空屋ね、まさか忘れやしまい。君が黄金仮面と一騎打ちをした怪屋だ。僕は念の為にあの家のそばへ、刑事を一人張り込ませて置いた所が、その刑事から今電話なのだ。刑事が云うのには、三十分程前、あの空屋から一人の西洋人が出て来るのを見た。無論怪しいと思って跡をつけた所、その西洋人は自動車で銀座へ出て、今カフェ・ディックへ這入った所だ。表に見張りをしているからすぐ来てくれという電話だ。君もそちらから直接行ってくれないか", "ウン、行ってもいいが、それがどうして白き巨人なんだね", "そいつが頭から足の先まで真白なんだって。白いソフト、白い顔、白い服、白いステッキ、白い手袋、白い靴とね。僕はそれを聞いてギョッとしたよ。こいつこそ問題の白き巨人なのだ、背も非常に高く、馬鹿に太った奴だという話だ", "よし、行って見よう。カフェ・ディックだね" ], [ "変だぜ、あいつ尾行を悟ったのじゃないかしら。呑気らしく百貨店なんかへ入るのは", "感づいたにしても、尾行をやめる訳には行かぬ。どこまでも執念深くつき纏って、あいつの隠れ家をつきとめなきゃ" ], [ "君、日本にはこんな大仏様がいくつあるか知っているかい", "そんなことを知るもんか。サア、ポスターなんかあとにして、尾行だ。ここまで追跡して、今見失ったら、取返しがつかんじゃないか" ], [ "困るなあ。そんなことを云い出しちゃ。君、本当に気分が悪いのかい", "ウン、本当だ。迚も歩けない。あとはよろしく頼む。僕は車で帰るから" ], [ "お客様は?", "さっきご出立になりました", "御出立になった? そんな馬鹿なことはない。今朝お着きなすったばかりじゃないか" ], [ "手ぶらで? 車も呼ばないで? じゃ、荷物はどうしたんだ。大きなトランクがいくつもあった筈だが", "それは部屋に残していらっしゃいました。アア、そうそうお云い置きがあるのです。エエと、間もなく波越さんとおっしゃる方がお出でなさるから、荷物はその方にお渡し申してくれって", "エ、エ、何だって?" ], [ "君はひどいよ。仮病を使って逃げ出すなんて。あれから僕は散々な目にあってしまった", "やっぱりそうだったかい。あいつは偽物なんだね。僕は何だか虫が知らせたんだ。最初から気乗りがしなかった。でも、君がひどく真剣だものだから、ついよせとも云えなくなってね。僕だって、別に確信があったのではないし" ], [ "まあそれはいいさ。だが君はどうしてO町なんかにいるの? 無論例の一件についてだろうね", "ウン、吉報だよ。今度は僕の方から君を呼ぶことになったが、一昨日の様な偽物じゃない。正真正銘の白き巨人をつきとめたんだ。昨夜はその為に徹夜をしてしまった。だがとうとう確証を掴んだよ", "その巨人というのは、O町にいるのかい", "ウン、そうだよ。すぐ来てくれ給え。君が着く時分には、停車場へ行って待っているから。やっぱり変装して来た方がいいよ" ], [ "ウン、贓品は勿論、恐らくルパンも、大鳥不二子さんも、同じ隠れ家に潜伏しているのだ", "エ、ルパンだって? そいつは大手柄だ。こんなに早く見つかろうとは思わなかった。それで一体どんな家にいるんだね。君はどうしてそれを探り出したんだね", "マア、僕について来たまえ。今にすっかり分るよ" ], [ "オイ、明智君、一体どこまで行くんだね。こんな方角には町も村もない筈だが、その巨人というのはどこに住んでいるんだい", "もう僕等はそいつを見ているんだよ。暗いから分らぬ丈けさ" ], [ "エ、どこに? どこに?", "ホラ、星明りに透かして見たまえ。君の前にとてつもない巨人が立っているじゃないか" ], [ "もう大分以前からこの林の中に黄金仮面が出没するという噂があったのだ。近頃は関東地方一帯、そこにもここにも黄金仮面の怪談が転がっている。子供達がおもちゃの黄金仮面を被って飛び廻っている。誰も殊更らこの丘の怪談を注意するものはなかった。だが僕はその怪談を聞きのがさなかったのだ。なぜと云って、この丘にはコンクリートの大仏が聳えていることを知っていたからだ。僕は我ながら、余りに奇怪な着想に震え上った。だが、ルパンは世界一の魔術師だ。その着想が信じ難ければ、信じ難い程、却ってそれが事の真相に触れているのだ。僕はそこで、殆んど一昼夜、この丘の林の中をさまよった。そして、とうとう奴の尻尾を掴んだ", "ルパンを見たのか" ], [ "僕はルパンのズバ抜けた智慮が恐ろしくなった。あいつはひょっとしたら、この日本の大仏丈でなく、世界至る所に贓品美術館を持っているのではあるまいかと思うと、ゾッとしないではいられなかった。例えばね。有名な緬甸の大涅槃像だとか、ニューヨーク湾の自由の女神像だとか、そういう巨像の空洞は、ルパンの様な世界的巨盗の倉庫として、何とふさわしくはないだろうか", "信じられん。まるでお伽噺だ" ], [ "大犯罪者はいつもお伽噺を実行するのだよ。まさか『自由の女神』などがルパンの倉庫になっているとは思わぬけれど、ふとそんなことを考えさせる程、奴の魔術は奇怪千万なのだ", "で、その銀杏の空ろというのは、一体どこにあるのだね" ], [ "明智の奴はどうしましょう", "その辺の鉄骨へ縛りつけて置け。俺は血を見るのは嫌いだ。併しこの黄色い悪魔丈は我慢がならん。荷物を運び出したら爆発薬の口火に点火して置くのだ" ], [ "負けた。明智君、俺の負けだ。世界の大賊アルセーヌ・ルパン、謹んで日本の名探偵に敬意を表するぜ。だが、そこで君は、一体俺をどうしようというのだね", "飛行機を元の飛行場へ着陸させるのだ。そして、不二子さんを大鳥家に返し、君はエベール君の縛につくのだ", "アハハハ……、オイオイ、明智君、そんなごたくは陸上で並べるがよかろう。ここは君、一つ間違えば敵も味方も命はない、何百メートルの雲の上だぜ。ピストルなんてけちな武器は何の力もありゃしない。若し君がそれを発砲すれば、飛行機は操縦者を失って、忽ち墜落するばかりさ。ハハハ……、雲の上では、どうも俺の方に歩がある様だね" ], [ "では、君の方では、一体僕をどうする積りなのだ", "知れたこと、北の海の無人島へでも連れて行って、俺の腹がいえる様にするのだ" ], [ "ではルパン君、君の逮捕はあきらめよう。その代り、君の計画は最後の一つまで、すっかり放棄しなければならぬ。君は我々の国から、一物をも奪い去ることは出来ないのだ", "エ、何だって?", "僕はね、君の唯一の収獲であった不二子さんを、君の魔の手から取戻そうというのさ" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第7巻 黄金仮面」光文社文庫、光文社    2003(平成15)年9月20日初版1刷発行    2013(平成25)年11月15日3刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十巻」平凡社    1931(昭和6)年9月 初出:作者――江戸川乱歩氏曰く「キング」大日本雄弁会講談社    1930(昭和5)年8月号    黄金仮面「キング」大日本雄弁会講談社    1930(昭和5)年9月~1931(昭和6)年10月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「這入る」と「は入る」、「玉虫厨子」と「玉虫の厨子」、「眼鏡」と「目鏡」、「嘗つて」と「嘗て」、「変挺」と「変梃」、「ありやしません」と「ありゃしない」、「一人ぽっち」と「一人ぼっち」、「さうです」と「そうです」の混在は、底本通りです。 ※「A」に対するルビの「アー」と「ア」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、「亂歩傑作選集 第一卷」平凡社、1935(昭和10)年1月20日発行の表記にそって、あらためました。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しましたが、「山内両大師」「鬼熊」「波越」「小桜縅」「開化」「戸山ヶ原」「紫式部日記絵巻」「天一坊」「玉虫厨子」のルビは註釈よりファイル作成時に追加しました。 入力:門田裕志 校正:nami 2021年6月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057241", "作品名": "黄金仮面", "作品名読み": "おうごんかめん", "ソート用読み": "おうこんかめん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "作者――江戸川乱歩氏曰く「キング」大日本雄弁会講談社、1930(昭和5)年8月号<br>黄金仮面「キング」大日本雄弁会講談社、1930(昭和5)年9月~1931(昭和6)年10月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-07-28T00:00:00", "最終更新日": "2021-06-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57241.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第7巻 黄金仮面", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2003(平成15)年9月20日", "入力に使用した版1": "2013(平成25)年11月15日3刷", "校正に使用した版1": "2003(平成15)年9月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第十巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1931(昭和6)年9月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "nami", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57241_ruby_73666.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-06-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57241_73705.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-06-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "なんだって? きみは夢でも見たのか……こんなところに豹なんかいるもんか。", "いいえ、ほんとうです。しかも、金色のふしぎな豹です。あの角をまがりました。まだ、そのへんを歩いているにちがいないのです。", "よし、そんなら、ぼくがたしかめてくる。そんなばかなことがあるもんか。" ], [ "わあ、こいつはりっぱだなあ、まるで生きてるようだ。", "見たまえ、目が青く光っているぜ。今にも、とびかかってきそうだね。" ], [ "どこって、ほら、あすこに、おおぜい人が集まっているでしょう。仏像のならんでいるそばですよ。", "へえ、そうですか。へんだな、うちに豹のおきものなんてないのですがね。" ], [ "その豹は、金色をしていましたかね。", "そうです。全身、金色の、ふしぎな豹です。" ], [ "うん、ぼくも、ネコじいさんがあやしいと思う。しかし、あのじいさんと、金色の豹とどういう関係があるんだろう。まさか、あのじいさんが、金色の毛がわをかぶって、豹に化けるんじゃあるまいね。", "ぼくも、それを考えてみた。しかし、そんなことはできっこないよ。人間の足は、豹の足よりも長いし、それに、まがりかたがちがっているからね。人間が四つんばいになると、ひざで歩くだろう。そうすると、ひざから足のさきまでが、余分になって、うしろへひきずるわけだね。だから、とてもごまかせるもんじゃない。まっ暗な夜なら、どうかわからないが、美術商のときも、銀行のときも、まだ明るい夕がただったからね。そして、長い時間、おおぜいの人に見られているんだから、とてもごまかせやしない。あれは、やっぱり豹にちがいないよ。金色に光っているのは、金のこなをにかわでといて、ぬったのかもしれない。黄金の豹なんて、いかにも、きみが悪いからね。みんなを、おどかすために、そんなことをやったのかもしれない。", "だが、あの豹は、どうして、煙のように消えてしまうんだろう。そこがわからないよ。じいさんが毛がわをきて、化けているのなら、消えたりあらわれたりするのも、わけはないけれども、そうじゃないとすると、じつにふしぎだね。やっぱり、お化けの、まぼろしの豹かしら。" ], [ "だれもいないよ。へんだなあ。たしかに、笑い声だったねえ。", "うん、廊下でないとすると、もしかしたら、この窓の外じゃないかしら。" ], [ "あと三分。", "あと二分。", "あと一分。" ], [ "こちらは園田ですが、あなたは?", "ウフフフ……、わからないかね。いま十時をうったところだ。きっちり十時に電話をかけるのは、だれだろうね。ウフフ……、わかるだろう。" ], [ "わしの寝室の床下だよ。土の中にうずめてあるのだよ。ハハハ。さすがの怪物もそこに気がつかなかったようだね。", "ウフフフ、きみもいい気なもんだな。そんなことを知らないおれだと思っているのか。まあ、ためしにあけてごらん。え、あの箱だよ。土にうずめてある箱をあけて、中をしらべてみるがいい。" ], [ "小林君、きみのいうことは、よくわからないね。このじいさんが盗むなんて、そんなことはできるはずがないよ。なぜといって、箱をうずめるときには、ちゃんと、わたしが見はっていたのだし、それから、今夜まで、じいさんは、一ども、この部屋にはいったことがない。わたしが、ずっと、ここにいたのだから、あやしいことがあれば、すぐわかるはずだ。小林君は、なんの証拠があって、そんなことをいうのだね?", "証拠は、箱の中がからっぽになっていたことです。からっぽになっていたとすれば、だれかが盗んだと、考えるほかはありません。そうすると、あれを盗みだせる人は、じいさんのほかにないからです。" ], [ "それは、いつ? どうして?", "今夜です。黄金豹は、今夜十時に、盗みだすと、約束しました。それをちゃんと、実行したのです。", "すると、この助造と、黄金豹と、関係があるとでも、いうのかね。" ], [ "じゃあ、ネコじいさんのうちを、しらべてみてください。ひょっとしたら、あのじいさんは、長いあいだ、うちへ帰っていないかもしれませんよ。", "うん、それは、わけのないことだ。築地警察署へ電話をして、ちょっと、たしかめてもらえば、わかることだ。では、ぼくが電話をかけてみよう。" ], [ "それは、こういうわけですよ。まえにいた庭ばんのじいやが、くにへ帰ることになって、友だちの助造じいやを、せわしてくれたのですが、助造は、わたしのごくしたしい友だちのうちに、ながく、つとめていたことがあるといって、その友だちからも口ぞえがあったものですから、わたしも、すっかり、信用していたのです。", "で、助造が、おたくへきてから、そのお友だちが、こられたことがありますか。そして、助造と顔をあわせたことがありますか?", "それはありません。わたしは、そとでその友だちと、あっていますが、助造をやとってから、ここへきたことはありません。", "それじゃ、お友だちのやとっておられた助造と、この助造とは、べつの人間かもしれませんね。こいつは、そのお友だちのところにいた、助造というじいさんをしっていて、助造になりすまして、おたくへ、はいりこんだのかもしれませんよ。むろん、まえにいた庭ばんのじいさんも、うまくだまされたのでしょう。", "そうかもしれません。なににしても助造は、げんに、いま逃げだそうとしたのですから、あやしいやつにちがいありません。しかし、わたしは、まだわからないのですが、助造が盗んだにしても、いったい、いつ盗んだのでしょう。そして、盗んだものを、どこへかくしたのでしょう。そこが、どうにも、まだ、ふにおちないのですよ。" ], [ "こんなに大ぜいの見ているまえでかね。", "そうです。園田のおじさんが、助造さんに盗めといわぬばかりの命令を、くだされたからです。", "エッ、なんだって? わたしが、命令をしたって?" ], [ "どうしたんだ。まっ青な顔をして。", "黄金豹よ。", "エッ、黄金豹だって? なにをいってるんだ。夢でも見たんじゃないか。", "そうじゃないわ。お湯やの煙突を登っているの。きてごらんなさい。二階の窓から見えるから。" ], [ "この部屋に、黄金豹が……。", "エッ、なんだって? 黄金豹は、ゆうべ、このうちから逃げだしていったばかりじゃないか。きみ、夢でも見たんだろう。" ], [ "きみ、なにもいないじゃないか。いったい、どこにいるんだ?", "人間のように、デスクのむこうのイスにかけて、こちらを見ていたんです。", "デスクには、なんにもいないよ。ほら見てごらん。" ], [ "どっかに、かくれているのですよ。用心してくださいよ。", "よしッ、ぼくがはいってみる。" ], [ "なにもいないじゃないか。きみはやっぱり、夢を見たんだろう。", "夢なもんですか。ぼくはたしかに、あいつを見たんです。そしてあいつが、人間のことばでしゃべるのを聞いたんです。" ], [ "なあに、だいじょうぶ。わしは、こう見えても、若いものに負けませんよ。ところで、あの化けものは、どうしましたね。金色の豹は、どこへいきましたね。", "ふしぎなことに、どこにもいないのです。かき消すように、見えなくなってしまいました。", "ふふん、また魔法をつかったな。あいつは、あぶなくなると、忍術つかいみたいに、パッと、消えうせる術を、心得ておるのじゃ。しかし、ゆだんはなりませんぞ。あいつは化けものだからね。なににでも化ける。思いもよらないものに化けて、ちゃんとこの汽車に乗っているかもしれない。そして、いまにまた、みんなの、どぎもをぬくようなことを、はじめるかもしれませんぞ。" ], [ "なにも、いないじゃないか。", "いいえ、たしかにいます。いま、はいったばかりです。" ], [ "アッ、きみ、いま、ここへ豹がはいってきたのを見なかったか。", "エッ、豹ですって? こんなところへ豹なんか、くるはずがないじゃありませんか。そんなもの見ませんよ。" ], [ "どうしたんだ? しっかりしたまえ。", "豹だ。しかも、金色のやつだ。あの雑誌の売店の中だ。" ], [ "どこだ。どの店だ。", "あれです、あの雑誌売場です。" ], [ "それは、どんなやつだった。顔を見なかったか。", "いきなりうしろから、組みつかれたので、顔なんか見えません。" ], [ "あれは黄金豹と一心同体のやつだよ。きみは、ネコじいさんをおぼえているかい。ほら最初、黄金豹がとびこんだまま、消えてしまったあのうちに、へんなじいさんがいた。ネコを十六ぴきも飼っているネコじいさんがいた。あのじいさんと東京駅にあらわれたじいさんとは、同じかもしれない。いやまだあるよ。園田さんのうちに、助造じいさんに化けて住みこんでいたのが、やっぱり、ネコじいさんの変装かもしれない。いずれにしても、あのネコじいさんさえ、つかまえれば、黄金豹の秘密がわかるだろう。ぼくは、警視庁の中村警部に、そのことを話しておいたから、警視庁でも、一生けんめいに、ネコじいさんを捜しているのだよ。", "でも、まだ見つからないのですね。", "うん、なにしろ魔法つかいみたいなやつだからね。あいつをつかまえるのには、こちらも魔法をつかわなければ、だめだよ。", "エッ、魔法をですか?", "うん、魔法をだよ。ぼくはその魔法を考えている。ぼくだって魔法くらい、つかえるからね。" ], [ "先生なら、きっと、あいつを、つかまえられますね。", "うん、つかまえられると思っている。……小林君、見ていたまえ、いまにきっと、あいつのほうから、ぼくに近づいてくるようなことがおこるよ。ぼくは、それを待ちかまえているのだ。" ], [ "明智先生はおいでですか。", "ぼくが明智ですよ。まあ、おかけなさい。" ], [ "ああ、あなたは明智さんにちがいありません。新聞でよくお写真を拝見しています。それから、そこにいるのは、先生の有名な少年助手の小林君でしょう。", "そうです。ほかにだれもいませんから、安心してお話ください。", "じつは、悪者に脅迫されていまして、そいつは恐ろしいやつですから、どこに先まわりしているかわかりません。明智さんにだって化けるかもしれないのです。それで、あなたのお顔をたしかめるまでは、安心できなかったのですよ。", "松枝さん、あなたは宝石とゴルフがおすきのようですね。" ], [ "エッ、あなたはどうして、わたしの名をごぞんじです。一度も、お目にかかったことはないはずですが。", "ははは……、名をかくしたければ、帽子をテーブルの上に上むきにおおきになってはいけませんね。その帽子のびんがわ(裏のかわ)に、ローマ字で Matsueda と金文字が、おしてあるじゃありませんか。", "アッ、そうでしたか。わたしは、びっくりしましたよ。しかし、宝石とゴルフのことは、どうしておわかりになりました?", "あなたの指輪のオパールは、ひじょうに質のいいものです。それから、ネクタイどめの真珠も、すばらしい品です。それだけでも、あなたが宝石を見る目のあるかただと、いうことがわかります。好きでなくては、それほど目がこえるものではありませんからね。それからゴルフのことですが、あなたは上流の紳士でいらっしゃるのに、ひどく日にやけて、色が黒くなっている。そう太っておられては、山のぼりや、ハイキングではありますまい。また、いまは海水浴の季節でもありません。そこで、あなたのご年配では、近ごろの流行のゴルフに、こっていらっしゃるのだと、想像したのですよ。あたりましたか?", "あたりました。すっかりあたりましたよ。一目みて、そこまで、お察しになるとは、さすがに名探偵ですね。かぶとをぬぎました。ところで、お願いしたいのは、そのわたしの好きな、宝石のことなのですよ。" ], [ "どうして、盗まれそうだということが、おわかりになったのです。", "電話です。あいつから電話が、かかってきたのですよ。", "あいつとは?" ], [ "わかりました。およばずながら、お力になりましょう。しかし、そのインドの宝石というのは、いまどこにおいてあるのですか。", "じつは、ここに持っているのです。" ], [ "アッ、ピカピカと光ってますね。黄金豹でしょうか。", "そうだよ。ほら、屋根のとっぱしにうずくまった豹のかたちが、はっきり見えるだろう。", "アッ、ほんとだ。でも、屋根なんかに登って、どうするつもりでしょうね。", "入口に鍵がかかっているので、窓からしのびこむつもりだよ。見ててごらん。いまに、あそこから、縄をさげて、それをつたって、おりるにちがいない。" ], [ "ちがう。おれは明智先生の弟子だ。今夜、きさまがしのびこんでくるから、金庫の中で待ちぶせしていろと、たのまれたんだ。そして、きさまの化けの皮を、はいでやれといってな。", "ちくしょう! たくらみやがったな。だが、きさまなんかに負けるもんか。おれは、千年のこうをへた、黄金豹だぞッ!", "なにをッ! 人間のくせに、ほらをふくな。人間と人間なら、きさまなんかに負けるもんかッ。", "ウフフフ……。おおきなことを、ほざいたなッ。見ろ、こうだッ!" ], [ "しまった! とうとう、逃がしてしまった。ぼくたちも、この綱をつたって追っかけようか。", "いや、そんなことをしなくても、だいじょうぶだ。おもてには明智先生と小林君が見はっている。けっして、逃がすようなことはないよ。ほら、見たまえ。自動車が、豹のあとから走りだした。あの中には、明智先生と小林君がいるんだよ。" ], [ "あいつは、もう、この自動車に追跡されていることを、知っているでしょうか。", "知っているかもしれない。なんでもいいから、どこまでも尾行するんだ。もし、せまい道へまがったら、ぼくらも車をおりて追っかけるんだ。今夜こそは、あいつのすみかを、つきとめなければならない。" ], [ "そうでもないらしいよ。なにか、たくらんでいるのかもしれない。", "じゃ、黄金豹が、車からとびおりて、あの森の中へ、逃げこむつもりでしょうか。", "そうでもないね。見たまえ、うしろの窓から、あいつの頭が見えている。じっとしているよ。" ], [ "きみ、ここのうちの子なの?", "ええ、そうよ。" ], [ "いまね、あやしい男が、このうちへ、しのびこむのを見たんだよ。おとうさんか、おかあさんがいたら、ぼくにあわせてくれない?", "ええ、いいわ。こちらへいらっしゃい。" ], [ "それじゃ、きみのおかあさんに、あいたいが、おかあさんは、うちにいらっしゃるの?", "ええ、いるわ、いま、ここへいらっしゃるのよ。ほら、足音が聞こえるでしょう。" ], [ "なにもはいってきませんよ。あなたのまちがいじゃありませんか。", "いいえ、まちがいじゃありません。よくしらべてみてください。広いおうちですから、どこにかくれているか、わかりませんよ。" ] ]
底本:「黄金豹/妖人ゴング」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年4月8日第1刷発行 初出:「少年クラブ」大日本雄辯會講談社    1956(昭和31)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:茅宮君子 2017年7月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056678", "作品名": "黄金豹", "作品名読み": "おうごんひょう", "ソート用読み": "おうこんひよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「少年クラブ」大日本雄辯會講談社、1956(昭和31)年1月号~12月号", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-08-10T00:00:00", "最終更新日": "2017-07-23T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card56678.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "黄金豹/妖人ゴング", "底本出版社名1": "江戸川乱歩推理文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年4月8日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年4月8日第1刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年4月8日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "茅宮君子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56678_ruby_62113.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-07-23T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56678_62114.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-07-23T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ハイ、あれが二十五歳の時のお話でございますよ", "是非うかがいたいものですね" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第5巻 押絵と旅する男」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年1月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第三巻」平凡社    1932(昭和7)年1月 初出:「新青年」博文館    1929(昭和4)年6月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:砂場清隆 校正:門田裕志 2016年1月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056645", "作品名": "押絵と旅する男", "作品名読み": "おしえとたびするおとこ", "ソート用読み": "おしえとたひするおとこ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1929(昭和4)年6月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-02-01T00:00:00", "最終更新日": "2016-01-01T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card56645.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第5巻 押絵と旅する男", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2005(平成17)年1月20日", "入力に使用した版1": "2005(平成17)年1月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2013(平成25)年5月5日3刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第三巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年1月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "砂場清隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56645_ruby_58194.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-01-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56645_58203.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "坊や、そんなにあばれるのはよしにして、パパが面白いお噺をして上げるから、皆を呼んどいで", "やあ、嬉しい" ], [ "おじさんどこへ隠れたんだろう", "おじさあん、もう出ておいでよ" ], [ "アラッ、いないよ", "だって、さっき音がしていたよ、ねえ何々ちゃん", "あれは、きっと鼠だよ" ], [ "あの、お竹どんは裏で洗濯をしているのでございます", "で、檀那様は", "お部屋でございましょう", "だっていらっしゃらないじゃないか", "あら、そうでございますか", "なんだね。お前きっと昼寝をしてたんでしょう。困るじゃないか。そして坊やは", "さあ、さい前まで、お家で遊んでいらしったのですが、あの、檀那様も御一緒で隠れん坊をなすっていたのでございますよ" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年11月20日初版1刷発行 底本の親本:「創作探偵小説集第四巻 湖畔亭事件」春陽堂    1926(大正15)年9月 初出:「大衆文藝」    1926(大正15)年7月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:門田裕志 2017年8月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057504", "作品名": "お勢登場", "作品名読み": "おせいとうじょう", "ソート用読み": "おせいとうしよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「大衆文藝」1926(大正15)年7月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-09-01T00:00:00", "最終更新日": "2017-08-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57504.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2005(平成17)年11月20日", "入力に使用した版1": "2005(平成17)年11月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年7月20日2刷", "底本の親本名1": "創作探偵小説集第四巻 湖畔亭事件", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年9月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "金城学院大学 電子書籍制作", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57504_ruby_62502.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-08-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57504_62544.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-08-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "奥さんはどうなすったのでしょうね、ねえ、あなた", "そうだ、大分時間もたったのに、おかしいな" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年7月20日初版1刷発行    2012(平成24)年8月15日7刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第八巻」平凡社    1931(昭和6)年5月 初出:「新青年」博文館    1923(大正12)年11月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「とびこんで」と「飛込んで」と「飛び込んで」、「誰」と「誰れ」、「仮令」に対するルビの「たとえ」と「よし」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2016年9月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "お花さん、歌うといいわ。騒ぎましょうよ。今晩は一つ、思いきり騒ぎましょうよ", "よし、俺が騒ぎ道具を持って来よう" ], [ "ね、豆ちゃんは、あたいに惚れてるんだね。だから、あたいのいいつけなら、何んだって聞くだろ。あたいがあの箱の中へ這入ってあげるわ。それでもいやかい", "ヨウヨウ、一寸法師の色男!" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年11月20日初版1刷発行 底本の親本:「創作探偵小説集第二巻 屋根裏の散歩者」春陽堂    1926(大正15)年1月 初出:「新青年」博文館    1926(大正15)年1月 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:門田裕志 2017年4月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057505", "作品名": "踊る一寸法師", "作品名読み": "おどるいっすんぼうし", "ソート用読み": "おとるいつすんほうし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1926(大正15)年1月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-04-29T00:00:00", "最終更新日": "2017-04-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57505.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2005(平成17)年11月20日", "入力に使用した版1": "2005(平成17)年11月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年7月20日2刷", "底本の親本名1": "創作探偵小説集第二巻 屋根裏の散歩者", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年1月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "金城学院大学 電子書籍制作", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57505_ruby_61213.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-04-04T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57505_61256.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-04-04T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "僕は十二時頃まで、君のお母さんの話を聞いていた。お母さん心配していたぜ", "ウン、自動車がなくってね。テクテク歩いて来たものだから" ], [ "道理で顔色がよくないよ。寝不足なんだろう", "ウン、イヤ、それ程でもないよ" ], [ "どうも気味が悪いね。引返そうか", "ウン、だが、ちょっとあれを見給え。又もう一匹やって来るぜ" ], [ "オイ、あいつ何だか銜えているぜ。血まみれの白いものだ", "ウン、銜えている。何だろう" ], [ "どっかの娘さんが喰い殺されたのじゃあるまいか。それとも餓えた山犬が墓をあばいたのか", "イヤ、この村には若い女の新仏はない筈だ。といって、山犬共が生きている人間を喰い殺すなんて、そんな馬鹿なことは考えられないし、オイ昌ちゃん、やっぱり君の云った通り、こいつは少し変な具合だね" ], [ "それ見給え。土竜やなんかで、あんな全身血まみれになる筈はないよ", "兎も角調べて見よう。片腕があるからには、その腕のついていた身体がどっかになければならない。君、行って見よう" ], [ "すると……", "すると、これは恐るべき殺人事件だよ。誰かがこの女を殺害して、例えば毒殺するなり、絞め殺すなりしてだね。それからこの淋しい場所へ運んで来て、ソッと叢の中へ隠して置いたという考え方だ", "ウン、どうもそうとしか考えられないね", "服装が田舎めいているから、多分この附近の女だろう。停車場もないこの村へ、旅人がさまよって来る訳はないからね。君この女のどっかに見覚はないか。多分S村の住人だろうと思うが" ], [ "イヤ、着物とか帯とか", "ウン、それはどうも見覚えがないよ。僕は一体女の服装なんか注意しないたちだからね", "じゃ、兎も角、仁兵衛爺さんに尋ねて見よう。あいつ近くにいて、ちっとも気附かないらしいね" ], [ "それやそうかも知れないね。いくら人通りがないといって、あんなに犬がたかっているのを、一日中気附かない筈はないからね。ところで、爺さん、君、この着物に見覚えはないかね。村の娘だと思うのだが", "こうっと、こんな柔か物を着る娘と云や、村でも四五人しかないのだが、……アアそうだ、わしの家のお花に聞いて見ましょう。あれは若いもんのこったから、同じ年頃の娘の着物は、気をつけて見覚えてるに違えねえ。オーイ、お花やあ……" ], [ "ハイ、それはもう充分調べたのでございますが、妙なことに、誰も知らないと申すのでございます。ひょっとしたら、娘が門の所に出ていた時、直接手渡して行ったのかも知れませんでございます", "フム、そんなことだろうね。ところで、あなたは、この手紙の主に心当りでもありますか", "イイエ、親の口から申すのも何でございますが、あれに限って、そんなみだらなことは、これっぱかりもございません。この手紙の男も、決して前々から知っていたのではなく、上手な呼出文句に、ついのせられたのではないかと存じます" ], [ "この筆蹟に見覚はありませんか", "一向心当りがございません", "鶴子さんは、大宅村長の息子の幸吉君と許婚になっていた相ですね" ], [ "では、買物にでも出掛けたのですか。それなら、その店の番頭なり主人なりが覚ているかも知れない", "イイエ、そうでもなかったのです。ただ町へ出たくなって、Nの本町通りをブラブラ歩いて帰ったのです。買物と云えば、通りがかりの煙草屋でバットを買った位のものです", "フム、そいつは拙いな" ], [ "僕が嘘をついている様に聞えましょうね。併し本当なんです。偶然にも、僕は昨夜に限って乗合自動車に乗らなかったのです。村の発着所へ行った時、丁度N市行きの最終の乗合が出たあとで、外に車もないものですから、僕はテクテク歩いて行ったのです。汽車と違って近道をすれば一里半程のみちのりですから", "君はさっき、N市へは何の目的もなく、ただ賑やかな町を散歩する為に出掛けた様に云ってましたね。何の目的もないのに、一里半にもせよ、態々歩いてまでN市へ行かなければならなかったのですか" ], [ "では、帰りはどうしました。まさか往復とも歩いた訳ではないでしょう", "それが歩いたのです。おそかったものですから、乗合はなく、賃自動車を探しましたが、折悪しく皆出払っていたので、思い切って歩きました" ], [ "君の筆蹟と似ていないからといって、故意に字体を変えて書くことも出来る訳ですからね", "そんな馬鹿な。何の必要があって字体を変えたでしょう、僕が", "イヤ、変えたとは云いません。変えることも出来るといったまでです。……よろしい。では引取って下さい。併し、家へ帰ったらなるべく外出しない様にして下さい。又お尋ねしたいことが出来るかも知れませんから" ], [ "おしまいだって? そんなことを云って、僕を追払おうというのかい。おしまいどころか、これからじゃないか", "ハハハ……、イヤ、そういう訳じゃないが、今日はもう調べることもあるまい。あす解剖の結果が分る筈だから、何もかもそれからだよ。僕はN市に宿を取っているから、二三日はそこから村へ通うつもりだよ", "仲々熱心だね。誰でもそんな風にするのかい。署長に任せて置いてもいいのだろう", "ウン、だが、この事件はちょっと面白そうなのでね。少しおせっかいをして見る積りだ", "君は大宅君を疑っている様だが……" ], [ "仁兵衛爺さんの番小屋かい。一体あすこに何があるの", "藁人形があるんだ", "エ、何だって" ], [ "現場を検べている時、君にそのことを云ったのだけれど、耳にも入れて呉れなかった。藁人形なんぞあとでいいと云った", "そうだったかい。僕はちっとも記憶しないが、で、その藁人形がどうかしたのかい", "マア、何でもいいから、一度見て置き給え。ひょっとしたら、今度の事件を解決する鍵になるかも知れない" ], [ "で、この藁人形が、今度の殺人事件にどんな関係があるというの?", "どんな関係だか、僕にも分らない。併し無関係でないこと丈けは確だよ。……小父さん、この人形を見つけた時のことを、もう一度、この人に話して上げてくれないだろうか" ], [ "丁度五日前の朝でございました。村へ用達しがあって、あの大曲り……ホラ、鶴子さんの死骸が倒れていた線路のカーヴのところを、わしら『大曲り』と申しますだが、そこを通りかかりますと、線路わきの原っぱに、この藁人形がころがっていましただ", "丁度鶴子さんの倒れていた辺だね" ], [ "ヘエ、だが、鶴子さんの死骸は線路の土手のすぐ下でしたが、この人形は、線路から十間も離れた、原っぱの中にころがっていました", "胸を刺されてね", "ヘエ、これでございますよ。藁人形の胸の辺に、こんな小刀が突きささって居りましただ" ], [ "呪いの人型だ。……しかもそれが、丁度殺人事件の四日前、殺人現場の附近に捨ててあったというのは、何か意味があり相じゃないか", "フーム、なる程" ], [ "それで、君はどうしたの?", "ヘエ、わしは、村の子供達がいたずらをしたのだろうと、別に気にもとめないで、たきつけにする積りで、この小屋へ放り込んで置きましただ。短刀も抜くのを忘れて、ついそのままになっていたのでございます", "で、この藁人形のことは、誰にも話さなかったのだね", "ヘエ、まさかこれが今度の事件の前兆になろうとは思わなかったもんでね。アア、そうそう、一人丈けこれを見た人がありますよ。外でもねえ山北の鶴子さんだ。あの方が丁度藁人形を拾った翌日、ひょっくり番小屋へ遊びにござらっしてね、わしの娘がそれを話したもんだから、じゃア見せてくれってね、この小屋を開けて中を覗いて見なすったですよ。因縁ごとだね。お嬢さんも、まさかこの人形と同じ目に会おうとは知らなかったでございますべえ", "ホウ、鶴子さんがね、君の家へ。……よく遊びに来たのかね", "イイエ、滅多にないことでございます。あの日は、娘のお花に何か呉れるものがあると云って、それを持って、久しぶりでお出でなさったのですよ" ], [ "そんな風に考えれば、犯罪事件とは無関係の様に見えるかも知れない。併し、もっと別な考え方がないとは云い切れまい。僕は何かしら分りかけて来た様な気がする。殊に、鶴子さんが藁人形を見に来たという点が非常に面白い", "見に来た訳じゃないだろう", "イヤ、見に来たのかも知れない。爺さんの口ぶりから考えても、これという用事があったのではないらしいから、鶴子さんがお花を訪ねた本当の目的は、案外藁人形を見る為だったかも知れない", "何か突飛な空想をやっているんだね。併し、実際問題は、そんな手品みたいなもんじゃないよ" ], [ "鶴子さんは細身の刃物で心臓をやられていたのです。多分短刀でしょう。つい先程、解剖の結果が分ったのです。で、つまりですね。この犯罪には血がある。被害者は血を流して斃れた。従って、加害者の衣服などに、血痕が附着したかも知れないと考えるのは極めて自然なことですね", "そ、そうでしたか。やっぱり他殺でしたか" ], [ "ところで、加害者は、若し衣服などに血痕が附着したとすれば、それをどんな風に処分するでしょう。君だったら、どうしますか", "よして下さい" ], [ "そんな問い方はよして下さい。僕は知っているのです。刑事が僕の部屋の縁の下から這い出して行くのを見たのです。僕は少しも覚がないけれど、縁の下に何かがあったのでしょう。それを云って下さい。それを見せて下さい", "ハハハ……、君はお芝居が上手ですね。君の部屋の縁の下に隠してあった物を、君は知らないと云うのですか。よろしい。見せて上げよう。これだ。これが君の常用していた浴衣であることは、ちゃんと調べが届いているのだよ。サア、この血痕は何だ。これが鶴子さんの血でないとでも云うのか" ], [ "それで、雪子は当夜ずっと在宅していたかどうかは?", "それは雪子が二階借りをしている家の婆さんを取調べた結果、確に在宅していたことが分ったということです" ], [ "サア、これで君の為に出来る丈けのことをした訳だ。もう異存はあるまいね。君の情婦さえアリバイを申立てては呉れなかったのだ。観念した方がいいだろう", "嘘だ。雪子がそんなことを言う筈がない。会わせて下さい。僕を雪子に会わせて下さい。あれがそんな馬鹿なことを云う道理がない。君達はいい加減のことを云って、僕を陥れようとしているのだ。サア、僕をN市へ連れて行って下さい。そして雪子と対決させて下さい" ], [ "本当にいないのです。婆さんに尋ねても不得要領なので、二階へ上って見たんですが、猫の子一匹いやしない。じゃ、裏口からでも外出したのかも知れませんね", "サア、裏口といって、裏は停車場の構内になっているのだが。……兎も角僕も引返して調べて見ましょう。いない筈はないのだがなあ" ], [ "よろしい。じゃあ君はすぐ帰って、国枝君に僕が行くまで待っている様に伝えて下さい。殺人事件の犯人を引渡すからといってね", "エ、犯人ですって。犯人は大宅幸吉じゃありませんか。あなたは何を馬鹿なことをおっしゃるのです" ], [ "積んでました。材木を積んだ無蓋貨車が、確か三台あった筈です", "で、その貨物列車は、次のU駅には停車することになっているのですか" ], [ "ウン、マア病人なんだ。本人は仮病を使っている積りだろうが、その実救い難い精神病者なのだ。気違いなのだ。そうでなくて、こんな恐ろしい殺人罪が考え出せるものか。探偵小説家の僕が、これ程驚いているのでも分るだろう", "僕には何が何だかサッパリ分らないが、……" ], [ "そうです。今朝九時半頃でしたか", "で、病状はどんな風なのですか", "マア、神経衰弱でしょうね。何かショックを受けて、ひどく昂奮している様です。別に入院しなければならない程の症状ではありませんが、御承知の通り、ここは病院と云うよりは一種の温泉宿なんですから、本人の希望次第で入院を許すことになっているのです。……あの人が何か悪いことでもしたのですか" ], [ "エ、殺人犯人ですって?", "そうです。御承知のS村の殺人事件の下手人です" ], [ "被害者が山北鶴子ではないって? じゃ一体誰が殺されたのだ", "あの死骸は犬に食い荒される以前、恐らく顔面を滅茶滅茶に傷つけてあったに違いない。そうして人相を分らなくした死骸に、鶴子の着物や装身具をつけて、あすこへ捨てて置いたのだ", "だが君、それじゃ鶴子の行方不明をどう解釈すればいいのだ。田舎娘が親に無断で、三日も四日も帰らないなんて、常識では考えられないことだ", "鶴子さんは絶対に家に帰る訳には行かなかったのだ。僕はね、大宅君から聞いているのだが、鶴子さんは非常な探偵小説好きで、英米の犯罪学の書物まで集めていたそうだ。僕の小説なんかも残らず読んでいたそうだ。あの人は君が考えている様な、単純な田舎娘ではないのだよ" ], [ "非難だって? 非難どころか、あいつは人殺しなんだ。極悪非道の殺人鬼なんだ", "エ、エ、すると……", "そうだよ。山北鶴子は君が信じている様に被害者ではなくて加害者なんだ。殺されたのではなくて殺したのだ", "誰を、誰を" ], [ "絹川雪子をさ", "オイオイ、殿村君、君は何を云っているのだ。絹川雪子は、現に僕等の目の前に泣き伏ているじゃないか。だが、アア、それとも、若しや君は……", "ハハハ……、分ったかい。ここにいるのは絹川雪子の仮面を冠った山北鶴子その人なんだ。鶴子は大宅君を熱愛していた。両親を責めて結婚をせき立てたのも鶴子だ。この人が大宅君の心を占めている絹川雪子の存在を、どんなに呪ったか、全く自分からそむき去った大宅君をどれ程恨んだか。想像に難くはない。そこでその二人に対して恐ろしい復讎を思い立ったのだ。恋の敵の雪子を殺し、その死骸に自分の着物を着せて、大宅君に殺人の嫌疑がかかる様に仕組んだのだ。一人は殺し、一人には殺人犯人として恐ろしい刑罰を与える。実に完全な復讎ではないか。しかもその手段の複雑巧妙を極めていたこと、流石は探偵小説や犯罪学の研究家だよ" ], [ "実に奇想天外のトリックなんだ。殺人狂ででもなければ考え出せない様な、驚くべき方法なんだ。この間僕は仁兵衛爺さんが拾って置いた藁人形に関して、君の注意を促して置いた筈だね。ホラ、あの短刀で胸を刺されていた奴さ。あれは何だと思う。犯人がね、その突飛千万な思いつきを試験する為に使用したものだよ。つまり、あの藁人形をね、貨物列車にのせて置いたなら、一体どの辺で車上から振り落されるものだかを試験して見たのだよ", "エ、何だって? 貨物列車だって?" ], [ "それは午前九時発の貨物列車が、丁度療養所の前で、操車の都合上ちょっと停車することを知っていたからだよ。材木の間に隠れたままU駅まで行ったのでは、貨物積卸しの人夫に発見されるおそれがある。鶴子さんはどうしてもU駅に着く前に貨車から飛び降りる必要があった。それには療養所の前で停車した折が絶好の機会ではなかろうか。しかも、降りた所には、高原療養所が建っている。病院というものは、犯罪者にとって、実に屈強の隠れがなんだよ。探偵小説狂の鶴子さんがそこへ気のつかぬ筈はない。僕はこんな風に考えたんだ", "なる程、聞いて見ると、実に何でもない事だね。併し、その何でもない事が、僕や警察の人達には分らなかったのだ。エーと、それからもう一つ疑問がある。鶴子が自宅の机の抽斗に残して置いた、Kの署名のある呼出状は、無論鶴子自身が偽造したものに違いないが、もう一つの証拠品、例の大宅君の居間の縁の下から発見された血染めの浴衣の方は、一寸解釈が難しいと思うが", "それも、なんでもないことだよ。鶴子さんは大宅君の両親とは親しい間柄だから、大宅君の留守中にも、自由に遊びに来たに違いない。そうして遊びに来ている間に、機会を見て大宅君の着古しの浴衣を盗み出すのは造作もないことだ。その浴衣に血を塗って、丸めて、犯罪の前日あたりに、あの縁の下へ放り込んで置くというのも、少しも難しいことではない", "成程、成程、犯罪のあとではなくて、その前に、予め証拠品を作って置いたという訳だね。成程、成程。しかし、あの夥しい血のりはどこから取ったものだろう。僕は念の為にあれを分析して貰ったが、確に人間の血なんだよ", "それは僕も正確には答えられない。併しあの位の血をとることは、さして困難ではないのだよ。例えば一本の注射器さえあれば、自分の腕の静脈からだって、茶呑茶碗に一杯位の血は取れる。それをうまく塗り拡げたら、あの浴衣の血痕なぞ造作なく拵えられるよ。鶴子さんの腕を検べて見れば、その注射針のあとが、まだ残っているかも知れない。まさか他人の血を盗む訳にも行くまいから、恐らくそんなことだろうよ。この方法は探偵小説なんかにもよく使われているんだからね" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年6月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第九巻」平凡社    1932(昭和7)年3月 初出:「キング」大日本雄弁会講談社    1931(昭和6)年11月、1932(昭和7)年1月~2月 ※「許婚」と「許嫁」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:入江幹夫 2020年9月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057516", "作品名": "鬼", "作品名読み": "おに", "ソート用読み": "おに", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「キング」大日本雄弁会講談社、1931(昭和6)年11月、1932(昭和7)年1月~2月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-10-21T00:00:00", "最終更新日": "2020-09-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57516.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年6月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年6月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年6月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第九巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年3月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "金城学院大学 電子書籍制作", "校正者": "入江幹夫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57516_ruby_71884.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-09-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57516_71931.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-09-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "いや、そんなことはできません。赤井という、年よりの小使が、ちゃんと見はり番をしていたのですからね。赤井君は、たった一つのドアの外に立っていて、一度も、動かなかったのです。", "窓から出ることはできませんか。", "窓は五つありますが、みんな、げんじゅうに、鉄ごうしがはまっていて、ぜったいに出られません。そのほか、部屋の中には、どこにも、かくし戸なんかないのです。ぬけ出すすきまはぜんぜんないのです。", "そのエジプトの部屋には、いろいろなものがおいてあるのでしょう。そういうものの中に、かくれることはできませんか。たとえば、ミイラの棺なんか、人間がかくれようとおもえば、かくれられるのでしょう。", "むろん、ふたをあけてしらべました。しかし、棺の中にはミイラのほか、なにもはいっていなかったのです。", "これは密室のなぞですね。まったく出入り口のない部屋から、どうして人間が消えてしまったかというなぞですね。エジプトの巻き物ののろいなんてことは、しんじられません。これにはなにか、秘密のわけがあるのです。その赤井という小使さんは、うそをいっているのではないでしょうね。", "いや、うそはいえないのです。", "えっ、それはどうしてですか。", "わたしが、この目で見ていたからです。", "と、言いますと?" ], [ "その大学生は、金ボタンの制服を着ていましたか。", "いや、黒っぽい背広でした。", "赤井さんは、どんな服を着ていましたか。", "やっぱり、黒っぽい古い背広です。", "時間は何時ごろでしたか。", "四時ごろでした。もう、うすぐらくなっていました。", "警察にも、おしらせになったのでしょうね。", "しらせました。警官がきて、ねんいりにしらべてくれましたが、なんの手がかりもありません。人間が消えてしまうなんて、そんなばかなことがあるものかと、わたしたちのいうことを、うたがってさえいるようでした。" ], [ "松波さん、わたしは、巻き物ののろいなんて信じることができません。ひとつ、こんばん、実験をやってみたいと思いますが、どうでしょうか。", "実験といいますと?", "ここにいる小林君が、エジプトの部屋で、夜あかしをして、ためしてみたいというのです。小林君まで消えてしまってはたいへんですが、けっして、そんなことはおこらないとおもいます。ひとつ実験をさせてみようではありませんか。" ], [ "それは、きけんではありませんか。わたしは、小林君の身の上をうけあうことはできませんよ。", "いや、わたしが責任をもちます。この小林君は、これまでにいろいろな事件で、いのちがけの冒険をやっていますから、だいじょうぶです。知恵もすばやくはたらきますし、力も強いのです。それに、わたしには、ちょっと、考えていることもありますから、けっして、あぶなくないようにします。" ], [ "おお、小林君、何ごとです。どろぼうとは、何者です。", "わかりません。明智先生が、どこかからあらわれて、どろぼうをつかまえたらしいのです。……元のほうのスイッチがきってあります。先生、それをいれてください。", "よし、待っていたまえ。" ], [ "それは、わかっていました。昼間、この部屋をしらべたときに、その秘密を発見したのです。しかし、それをいってしまうと、犯人が用心して、経文をぬすみにこなくなるので、わざとだまっていたのです。そして、犯人をゆだんさせて、こんや、しのびこんでくるのを、まちぶせしたのです。こいつは、まんまと、そのわなにかかったわけですよ。", "しかし、わたしには、まったくけんとうもつきませんなあ。いったい、どんな秘密があったのです。さしつかえなかったら、おしえてくださらんか。", "かんたんなトリックですよ。こいつはもうにげられっこありませんから、警察を呼ぶ前に、その秘密をお見せしましょう。それでは、先生は、廊下のつきあたりの、あなたの研究室にはいって、ガラス窓から、このドアを見ていてください。小林君も先生といっしょに、見ていなさい。" ], [ "そうじゃありません。いくら手ばやくやっても、あのほそびきをといて、またもとのようにしばる時間はなかったですよ。赤井ではない人間が、あらわれたのです。", "そして、その人はどこへいったのです。", "消えてしまったのです。きのうの大学生のようにね。", "わかりませんなあ。じつにふしぎだ。こんなばかなことがあるはずはない。" ], [ "そういえば、十日ほどまえに、ドアをとりかえたのです。どういうわけか、このドアは、わくがゆがんでしまって、うまくしまらなくなったので、べつのドアをつくらせてとりかえたのです。", "そのドアのちゅうもんは、だれがやったのですか。", "赤井です。そういうことは、みんな赤井のしごとになっています。", "それじゃ、赤井君が、こんなしかけのあるドアをつくらせたのです。それには、かなり金をつかったことでしょう。人間を消してしまう手品の種ですからね。", "あっ、すると、この鏡に……。", "そうですよ。きのうは、廊下に立っている赤井君の姿が、この鏡にうつったのです。赤井君も大学生も黒い服をきていたし、廊下がうすぐらいので、あなたの研究室の窓からは、顔なんかハッキリ見えません。ですから、鏡にうつった赤井君を、大学生とおもいこんでしまったのですよ。先生は、エジプト室に大学生がいるものと信じておられたのですからね。" ], [ "先生、それじゃ先生は、昼間ここをしらべたとき、ちゃんと、このしかけに気づいていらしったのですか。", "そうだよ。しかし、松波先生にも、きみにも、だまっていた。このしかけがわかったとなると、犯人がにげてしまうからね。" ], [ "だれだっ、きみはだれだっ。", "ウフフフ……、赤井だよ。おれはもう、自由の身だよ。さっきのパトカーのおまわりは、にせものだったのさ。ハハハハ……、明智君ともあろうものが、とんだ手ぬかりだったねえ。いや、まて、もうひとつきみをびっくりさせることがある。赤井なんて、おれのほんとうの名まえじゃない。え、わかるかい。おれは二十の顔をもつ男さ。ウフフフ……、きみたちが怪人二十面相とよんでいる大どろぼうさ。" ], [ "わたしも、それを考えていたところです。わたしは世田谷区の静かな町に、自分のすまいを新築して、それができあがったばかりなのです。この巻き物を、なんでもない木の箱に入れて、毎日そのすまいのほうへ、持って帰ることにしようと思います。", "そうなさったほうがいいでしょう。なるべく目だたない、つまらない木の箱に入れてね。" ], [ "いいえ、まぼろしじゃありません。確かに見たのです。おとうさん、二十面相かもしれませんよ。", "えっ、二十面相だって?" ], [ "それじゃ、これから、おとなりへおまえといっしょに行って、おまえの見たことを、お知らせしてあげようか。", "ええ、それがいいと思います。" ], [ "ああ、そうでしたか。それでわかりました。じつは、わたしも、箱をつかんでいる手首を見たのです。けっして正一君はまぼろしを見たのではありません。", "じゃ、先生も、あのとき、ドアの外から見ていたんですか。" ], [ "怪人二十面相さ。", "えっ、なんだって?" ], [ "じつはね、いま明智先生と、恩田君のおとうさんと、電話で打ち合わせてね、ぼくが女の子にばけて、きみのうちの女中さんになることになったんだよ。どうです。だれが見たって、男の子がばけているとは思わないでしょう。", "それで、ぼくのうちの女中さんになって、二十面相をつかまえるんですか。", "そうです。たぶん、うまくいくだろうと思います。先生がきみのおとうさんと話したことは、きみのうちの人はだれも知らないのですよ。電話口へ呼びだすときには、明智だなんて言わなかったのですからね。ぼくが女中さんになることは、おとうさんと、おかあさんのほかは、知らないのです。まえから、頼んであった女中さんが、きょう来たということにするんです。きみもそのつもりでいてください。", "どうして、女中さんなんかに、ばけるのですか。" ], [ "ついでに、裏口も、だれかにかぎをかけてもらってください。それから、窓はみんなしめて、外からあかないようにするんです。", "わかりました。" ], [ "地下室が心配です。おい、山口君、うちの外を回っている刑事さんを、呼んでくるのだ。そしてみんなが力を合わせて、地下室を守るほかはない。早く呼んできたまえ。", "こうなったら、わたしも帰るわけにはいきません。十時までおたくにいて、お手助けをしますよ。" ], [ "まちがいありません。わたしがここへ入れて、暗号錠をかけたのですからね。", "それはいつのことです。", "ゆうべです。きのうは、わたしの誕生日だったので、友だちをよんで、真珠のゾウを見せていると、透明怪人があらわれたので、いそいで、ここへしまったのです。", "それでは、そのときから一日たっていますね。一日の間、ぶじにここにおさまっていたでしょうか。わたしは、あいつにはひどいめにあっているので、なんだか心配なのですよ。あいつは魔法つかいですからね。" ], [ "用心してください。あいつは、もう、この地下室へしのびこんでいるかもしれません。さっきから、なんだか、そんな気がするのです。目には見えないけれど、わたしたちのほかに、だれか部屋の中にいるような気がします。", "えっ、なんだって? きみは、あいつがここにいると言うのか。" ], [ "パチンコ、見せてください。", "えっ、パチンコだって?" ], [ "えっ、それは章太郎の家庭教師の山口君だよ。透明人間とは、たびたびとっ組みあったことがあるくらいだ……。", "だから、あやしいのです。あれは、こいつのひとりしばいですよ。さも透明人間ととっ組みあっているように、ひとりずもうをとって、投げとばされて見せたりしたのです。" ], [ "えっ、二十面相だって?", "刑事さんたち、こいつをつかまえてください。こいつが怪人二十面相です。" ], [ "それは、午後十時に盗んだのではありません。もっと、ずっと前に盗んでしまったのです。", "そんなはずはない。わたしは十時すこし前に、金庫のとびらを細目に開いて、ゾウがこの中にあることを、たしかめたのだよ。", "なぜ、細目に開いたのですか。", "それは、透明人間がこの部屋にいるかもしれないというので、あけたときに盗まれないように二―三センチしかひらかなかった。しかし、ゾウは、ハッキリ見えた。", "それは、にせものだったのです。", "えっ、にせものだって?", "そうです。これをごらんなさい。" ], [ "そうです。あいつは、昼間のうちにここへしのび込んで本物のゾウを盗み、この風船のにせものと入れかえておいたのです。恩田さんはこの金庫へなにか入れるときに、山口をつれて地下室へはいったことはありませんか。", "それはたびたびあるよ。" ], [ "金庫のとびらをあけるとき、まだぜんぶひらかない前に、山口がこれで風船のゾウを撃ったのです。そのとき、風船の破れる音がしたはずです。しかし、とびらをぜんぶひらいてみると、もうゾウの姿はなくなっていたので、そのほうに気をとられて、音のことなど考えているひまがなかったのです。きわどいはやわざです。恩田さん、金庫をひらくときすこしひらいて、しばらくためらっていたのではありませんか。", "そう言われれば、いっぺんにはひらかなかった。もし、なくなっていたらと思うと、こわくてね。" ], [ "腹話術ですよ。", "えっ、腹話術?", "ひざのうえに人形をのせて、人形と話をする芸があるでしょう。人間のほうは口を少しも動かさないでしゃべるので、人形がしゃべっているように見える、あれですよ。二十面相は腹話術の名人です。部屋のあっちこっちから、声が聞こえるように見せかけるなんて、わけもないことです。" ], [ "あのとき、章太郎君の部屋のてんじょうなどを調べましたか。", "むろん調べた。花びんやタバコを、上から細い糸でつっていたのではないかと思って、よく調べたが、そんなしかけはなにもなかった。だいいち、庭のツバキの花は、上からつるわけにはいかない。上にはなにもない空中に、浮いていたんだからね。", "そうです。だれでも、ものがひとりで浮きあがれば、上からつっていると考えるのがふつうです。二十面相は、そのすきをねらったのです。上からではなくて、横からつりあげたのです。" ], [ "だいじょうぶですよ。こんなに刑事さんがいるんだもの。それよりね、おとうさん、小林さんは真珠のゾウを取り返して、おかあさんに渡してくれたのですよ。", "えっ、それはほんとうかね、小林君。", "ええ、お話しするのを忘れてましたけれど、ぼく、あれを捜し出したのです。山口の部屋のおしいれのてんじょうの上に、かくしてありました。これを捜すのが、いちばんほねがおれましたよ。", "ああ、ありがとう。きみはじつにえらい子どもだねえ。きみの手がら話は、新聞で読んでいたけれども、これほどのうでまえとは、思わなかった。お礼を言いますよ。" ], [ "あっ、明智先生。", "おお、明智さん。" ], [ "そのとおりです。山口が二十面相だということは、わたしははじめから察していました。小林君にも、そのつもりで探偵するように、いっておいたのです。", "二十面相君、しばらくだったなあ。" ], [ "小林のなぞときを、感心して聞いていたところさ。しかしね、明智君。おれはまだ負けてしまったのじゃない。だいいち、小林には、まだとけないなぞが残っているのだ。", "うん、そうだろう。ぼくは、それをときにやって来たのだ。とけないなぞとは、松波博士が見た手首と、それから、足跡だろう。その前に、西村正一という少年が、松波博士のうちの二階のテーブルの上へ、手首だけがあらわれたのを見ている。ぼくはそれを新聞で読んで、すぐなぞがとけた。小林君も知っているはずだ。話してごらん。", "ええ、それはわかっているのです。" ], [ "あれは、鏡を使った手品です。二十面相のとくいな手品です。テーブルの足と足の間に二枚の鏡が斜めに張ってあったのです。犯人はそのうしろにかくれて、手首だけをテーブルの上に出し、巻き物の箱をつかんだのです。となりのうちの窓から、西村という子どもが、こちらをのぞくのを待って、それをやって見せたのです。テーブルの下の鏡には、部屋の左右の壁紙が写って、それがテーブルのうしろの壁紙と同じ模様ですから、テーブルの下は、すいているように見えるのです。そのうしろに、人間がかくれていることは、少しもわからないのです。ですから、手首だけがテーブルの上を、はい回ったように見えたのですよ。", "そのとおりだ。しかし、この話には、なんだかおかしいところがあるね。テーブルの足に鏡を張るなんて、急にできることではない。そうすると、あらかじめ、ちゃんと鏡が張ってあったことになるが、そうだとすれば、松波博士がそれに気づかれなかったはずはない。ここが、どうもおかしいのですよ。" ], [ "うん、おれの負けだ。もう手向かいはしないよ。さすがに明智先生の腕まえは、見あげたものだな。それにしても、おれのうちがどうしてわかったのだ。参考のために、聞かせてもらえないかね。", "よし、種あかしをしよう。ポケット君、ここへ来たまえ。" ], [ "や、きさまポケット小僧だなっ。また、このチンピラにしてやられたのかっ!", "そうだよ。ポケット君が、きみの逃げ出す自動車のトランクにかくれていたのさ。そして、この家の場所や、美術品のことをぼくに知らせてきたのだよ。そこで、美術品のよろいの中にかくれて、いたずらをやってみたというわけさ。ハハハハ……。" ] ]
底本:「おれは二十面相だ/妖星人R」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年9月8日第1刷発行 初出:「小学六年生」    1960(昭和35)年4月~1961(昭和36)年3月 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2018年9月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "では、しばらく、あいつと、さしむかいで話したいとおもいますから、看守のかたたちを、すこし、はなれたところへ、遠ざけてくれませんか。", "しょうちしました。では、われわれは、廊下のむこうのほうで、おまちしていますから。" ], [ "フーン、弁護士の帽子とは、考えたな。よろしい、さっそく、このことを鈴木君に知らせます。そして、書生に化けている部下を、ひっくくってしまいます。しかし、明智さん、あなたは、よくそこまでおわかりになりましたね。あいつが、うちあけたのですか。", "そうです。あいつの口から、きいたのです。四十面相とは、ながいあいだの、つきあいですからね。あいつのやりくちは、たいてい、わかっているのです。ぼくは、ルパンのまねじゃないか、と思ったので、『弁護士の帽子だね。』と、言ってやりました。すると、あいつはニヤリと笑って、うなずいてみせたものですよ。悪人も四十面相ほどのやつになると、みれんらしく、かくしだてなんか、しないものです。" ], [ "ありがとう。おかげで、あいつの通信のみちをたつことができます。ですが、明智さん、脱獄のほうはだいじょうぶでしょうか。あいつには、われわれの思いもよらない、牢やぶりの手があるのじゃないでしょうか。", "それは、わかりませんね。ルパンも脱獄したことがあります。あいつは、その手をもちいるかもしれませんよ。", "それはどんな方法です。参考のために、きかせてください。なんとしても、脱獄だけはふせがなくてはなりません。", "それでは、あとから、怪盗ルパンの伝記を、おとどけしましょう。その伝記のなかの『ルパンの脱獄』というのをお読みになれば、わかりますよ。" ], [ "あと十分です。", "よし、服装はこのままでいいね。ちょっと、明智役の書きぬきを見せてくれ。すこし、せりふを、かえたいところがあるんだ。" ], [ "フーン、それじゃあ、おれの正体もか。", "そうだよ。きみは村上時雄じゃない。いま、拘置所から、脱獄してきたばかりの、二十面相、いや、四十面相だッ。" ], [ "どうもしないよ。もう、この劇場は、警官隊に、とりかこまれているんだよ。きみは、いまに、つかまるばかりだよ。", "ウヌッ、それじゃ、きさまは。" ], [ "警官隊が、この劇場をとりまいているというのかい。ハハハ……、ゆかいだねえ。おれは、こういう冒険が三度のめしよりも、すきなんだよ。小林君、見ててごらん。おれは、かならず、逃げてみせる。みごとに、やってのけるよ。まあ、ゆっくり見物したまえ。", "で、どうするの?", "これから舞台へ出て、芝居をやるのさ。" ], [ "きさま、よくも、化けたな。", "なに、化けたとは?" ], [ "われわれは、あいつを、つかまえにきたのです。ぼくは警視庁捜査一課の中村です。", "アッ、あなたが中村さん……。" ], [ "しかし、なぜですか? あの男は、わたしどもの座長の村上時雄という俳優です。村上が、なにか悪いことでもしたのでしょうか。", "いや、あの男は村上じゃない。拘置所からぬけだしてきたばかりの四十面相だ。われわれは確証をにぎっている。説明はあとでします。そこを、どいてください。", "エッ、この男が、あの、四十面相……。" ], [ "へんだなあ。あれ、空とぶ円盤かもしれないよ。", "まさか。でも、だんだん大きくなるね。こっちへ、とんでくるんだよ。" ], [ "やあ、なんだか、さがっているよ。赤い字だよ。", "ふうせんだ。やあ、銀色に光ってらあ、あれ、広告ふうせんだよ。" ], [ "ほんとだ。死んでるのかもしれないね。", "わあ、たいへんだ。ふうせんは、ここへ落ちてくるよ。" ], [ "アッ、これは人間じゃない。", "エッ、人間じゃないって?", "さわってみたまえ、ゴツゴツしている。こんなかたい人間って、あるもんか。" ], [ "なあんだ。こりゃあ人形じゃないか。よくショウウインドウにかざってある、マネキン人形だよ。", "どうりで、なんだか、かたいとおもった。やっぱり人間じゃなかったのだね。" ], [ "ぼくは警視庁のものですよ。中村係長さんの命令で、しょうこ品を、持ってかえるのです。", "みょうなかたちのものですね。それは、いったい、なんですか。", "ぼくにもわかりませんよ。ふろしきに、つつんだまま、渡されたのです。係長さんは、なにか、お考えがあるのでしょう……。じゃあ、しっけいします。" ], [ "どうして、こんなところに、いるの?", "あたしこわいの。" ], [ "こわいって、なにがさ。", "地下室にいるの。お化けがいるの。" ], [ "きみのおとうさんは、おうちにいないの?", "いないの。さがしても、いないの。", "おかあさんは?", "死んだの。もうせん、死んじゃったの。", "女中さんは?", "ばあやでしょう。ばあやは、おつかいに行ったの。", "じゃあ、きみのうちは、おとうさんと、きみと、ばあやと、三人きりなの?", "ウン。", "すると、きみは、ひとりぼっちなんだね。", "ウン。" ], [ "きみのおとうさんは、どんな人なの? おつとめがあるの?", "博士なの。", "エ、博士だって? じゃあ、学者なんだね。", "そうよ、えらい博士なのよ。", "なんの博士なの?", "ご本の博士なの。ご本がどっさりあるの。" ], [ "きみ、いつから、この庭にいるの。", "いまよ。いま逃げてきたのよ。", "どこから?", "地下室から。", "きみのお部屋は、地下室にあるの?", "ううん、あたしのお部屋は、あすこよ。" ], [ "じゃあ、どうして地下室へ、いったの?", "音がしたからよ。", "で、地下室に、何がいたの?", "お化けよ。お化けが三びきいるの。" ], [ "こわいもんか。ぼくは、強いんだよ。お化けなんか、ひどいめに、あわせてやる。", "ほんとう? 大きなお化けが、三びきもいるのよ。", "三びきだろうが、五ひきだろうが、へいきだよ。さあ、行ってみよう。" ], [ "ウン、いくら考えても、わからん。", "いくら、となえても、わからん。", "よし、それじゃあ、今夜は、これだけにしておこう。おたがいに、もっとよく考えるんだね……。では、つぎの金曜日、夜の八時、また、ここであうことにしよう。" ], [ "ウン、それがいい。毎日、毎日、考えるんだ。そして、また、金曜日に相談するんだ。どんなことがあっても、この秘密は、とかねばならぬ。", "そうだ。どんなことがあっても。" ], [ "きみのおとうさんのお部屋は、二階にあるんだろう?", "ええ、そうよ。" ], [ "だって、おとうさまは、まだおかえりにならないわ。", "いや、きっと、もうおかえりになっているよ。二階のお部屋へ、いってごらん。ぼくも部屋のそとまで、ついていってあげるよ。でもね、おとうさんに、ぼくのこと言うんじゃないよ。骸骨を見たことも、言うんじゃないよ。いいかい。", "どうして? どうして言っちゃいけないの?", "もし、きみがおとうさんに話すと、骸骨が、きみをひどいめに、あわせに来るからさ。", "ほんと? ほんとに来るの? じゃあ、あたし、話さないわ。" ], [ "いけない。二階へいっちゃいけない。二階に、さっきのお化けがいるわ。まだ、きっと、いるわ。", "だいじょうぶだよ。もういやしないよ。二階には、お化けでなくて、きみのおとうさんがいるばかりだよ。" ], [ "おとうさま、どこへいらしったの? あたし、こわかったわ。ひとりぼっちなんですもの。", "おお、ごめん、ごめん。おとうさまはね、だいじなご用があったんだよ。それに、ばあやが、もっとはやく、かえると思ったんだよ。さびしかったかい。ごめんね。だが、こわいことなんか、ありゃしないよ。なにも、こわいものなんか、いやしないよ。", "いたわ、お化けが……。", "エッ、お化けが? どこにさ。", "地下室よ。", "なんだって? おまえ、地下室へ行ったのか。地下室で、なんか見たのか。" ], [ "地下室で、なんだか音がしたの。", "それだけかい。おまえ、地下室へ行ったんじゃないのかい。", "行ったんじゃないわ。こわいんですもの。" ], [ "いい子だ、いい子だ。もう、けっして、ひとりぼっちにしないからね。ごめんよ。さあ、おとうさまが、おもしろいお話をしてあげよう。ひざの上におのり。", "ええ、おもしろいのよ。こわいお話はいやよ。" ], [ "ぼくも、きみのはやわざには、ほんとうに、感心したよ。巡査に化けたかと思うと、郵便ポストになり、こんどは、骸骨にまで、化けるんだからねえ。ぼくなんか、はじめから、乞食の子のままで、はずかしいくらいだよ。", "ウフフフ……、それじゃあ、ひとつ、おたがいに、なかよくしようじゃないか。おれは、ほんとうに、きみがすきなんだからね。ところで、きみは、おれのはやわざの秘密が、わかるかね。", "わかっているよ。きみは、今夜、この家の地下室に、三人の骸骨があつまって、相談することを、知っていたんだ。それで、劇場を逃げだすときから、おまわりさんの服の下に、ちゃんと、骸骨のシャツを着ていた。だから、おまわりさんの服をぬぎさえすれば、すぐに骸骨に化けられたんだよ。" ], [ "えらい、ますます感心だねえ。すると、きみは、さっきの地下室のようすを、のぞいていたんだね。そして、あの三人の変装を、見やぶってしまったんだね。", "そうだよ。そして、あの三人のうちのひとりが、ここの主人の博士だったことも、知っているよ。そして、きみは、あの三人の秘密を、ぬすみだすために、同じような変装をして、ここへ、しのんできたということもね。", "ホホウ、そこまで、気がついたかい。ところで、その秘密というのは、なんだろうね。三人の男が、金色の骸骨の変装をして、地下室にあつまるのは、いったい、なんのためだろうね。え、きみには、それがわかるかね。", "それはね、黄金どくろの秘密。ね。そうだろう。その秘密を、ぬすみだすのが、きみの大事業なんだろう。いつか『日本新聞』に、きみ自身で公表したじゃないか。" ], [ "で、きさま、その黄金どくろの秘密が、なんだか、知っているのか。", "それは知らない。だが、いまに発見してみせるよ。", "フフン、えらいねえ。きみは、おれと知恵くらべをする気なんだね。ひとつ、お手なみをはいけんしようかねえ……。で、きみ、こわくないのかい。" ], [ "ハハハ……、やっぱりこわいんじゃないか。だが、安心したまえ。なにもしやしないよ。きみはかわいいからね。きみがおれを尾行したり、ふいにおれの前に、あらわれたりするのが、じつにたのしいのだよ。きみはおれの秘密を、なんでも見やぶってしまうからね。あいてにとって、じつにゆかいなんだよ。", "フフン、それで、きみは、これからどうするつもりなの。ぼくは、どこまでも、しゅうねんぶかく、きみにつきまとってやるよ", "おもしろい。そこがすきなんだよ。だが、今夜は、これでおわかれだ。きみは、もう、おれを尾行することは、できないのだよ。", "じゃあ、逃げるのかい。", "フフフフ……、まあ、逃げるのだろうね。しかし、また、じきにあえるよ。きみはきっと、おれの前にあらわれるからね。", "で、どうして、逃げるの?", "きいてごらん。なんだか音がしているねえ。エンジンの音のようだね。遠くのほうから、だんだん近づいてくる。ホラね。" ], [ "ながるだのおくへと、これはむずかしい。ながるは流るという意味でしょうね。そのつぎのだのはわからないが、おくへとは、奥へと、奥のほうへと、という意味じゃないでしょうかね。", "さいごの第四行めにも、意味がありますよ。ゆんでとすすむべし。このゆんでとはわからないが、すすむべしは進むべしで、進みなさいというわけでしょう。", "ウン、だんだん、わかってくるようですね。ひとつ、いま読んだとおり、紙に書いてみましょう。" ], [ "わかった、三つでなくて、四つなんですよ。われわれは、いままで、この黄金どくろを、三つしかないものと、思いこんでいた。しかし、この文句がうまくつづかないのは、黄金どくろがもう一つあるしょうこです。ごらんなさい。きのもき、どくろん、ながるだ、つづきぐあいがわるいのは、このもき、ろん、るだのところですよ。だから、もとき、ろとん、るとだのあいだに、三字ずつひらがながぬけているとしか考えられない。つまり、われわれの知らない黄金どくろが、もうひとつ、どこかにあるのですよ。", "ウン、そうだ。そのほかに、考えようがありませんね。", "だが、その、もうひとつの黄金どくろが、どこにかくれているか、こいつをさがすのは、たいへんなしごとですよ。われわれ三人が、どくろクラブをつくって、こんな骸骨の着物をきて、ここに、あつまるようになるまででも、なみたいていの苦心ではなかったのですからね。わしはもう、ウンザリしましたよ。", "いや、われわれの大目的を、たっするまでには、まだまだ、いろいろな、苦労をしなければなりません。いまから、よわねを、はいちゃいけませんね……。では、これからは、三人が力をあわせて、そのもうひとつの黄金どくろを、さがすのです。どんなことがあっても、さがしださなければなりません。なにしろ、何百億、何千億ともしれない、大宝庫を発見するためですからね。" ], [ "ぼくは四十面相を追っかけているのです。明智探偵の助手の小林っていうのです。", "フーン、そうか。明智探偵の名はよく知っている。小林という、すばしっこい少年助手がいることも、話にきいている。しかし、その小林君が、どうして、わしのうちへ、はいってきたのかね。ここには四十面相なんて、いやしないじゃないか。", "いたのですよ。いましがた、ここを出ていったばかりです。", "ばかなことを言いなさい。ここには、わしのほかに、ふたりの骸骨がいたばかりだ。ふたりとも、わしの親戚のものだ……。わしたちは、ある秘密の相談をするために、こんな骸骨のシャツを着て、会議をひらいているが、けっして、悪事をはたらいているのではない。四十面相などとは、なんのかんけいもない。", "ところが、あの骸骨のひとりに、四十面相が化けていたのですよ。あいつは、そうして、あなたがたの秘密を、さぐりだしにきたのです。", "いや、そんなことはない。にせものなれば、黄金どくろを持っているはずがない。わたしたちは、みんな一つずつ、黄金どくろを持っている。それがなによりのしょうこなのだ。", "じゃあ、ぼくもしょうこを見せてあげましょう。それはたぶん、一階のどこかの部屋に、ころがっているはずですよ。" ], [ "小林君、きみは、わしたちの味方だろうね。つまり、四十面相の怪人は、おたがいの敵というわけだね。", "もちろんです。ぼくは四十面相のやつには、ふかいうらみがあるのです。ですから、四十面相が、あなたがたの秘密を、ぬすんだとすれば、ぼくは、あなたがたの味方になって、四十面相のじゃまをしてやりますよ。それにしても、黄金どくろの秘密というのが、なんのことだか、ぼくには、すこしもわかりません。それを話してください。" ], [ "そうなんだ。そのほかに、考えようが、ないのだ。", "ああ、きっとそうです。四十面相のやつが、そのもうひとつの黄金どくろの、ありかを知っているのですよ。でなければ、あんな苦労をして、あなたがたの会議の席へしのびこむわけがありません。" ], [ "ウーン、そうか。しまった。すると、あいつは、もう、すっかり暗号をといてしまったかもしれない。小林君、なぜ、もっとはやく、わしにおしえてくれないのだ。あいつを逃がしては、とりかえしがつかないじゃないか。", "いいえ、逃がしゃあしません。ちゃんと、つかまえています。", "エッ、つかまえているって? どこに……。", "ぼくには、チンピラ別働隊という、たくさんの部下があります。今夜、ぼくが、ここへしのびこむまえに、そのうちの、二十人のすばしっこい少年たちを、おたくのまわりへ、配置しておきました。けっして、四十面相を逃がすようなことはありません。いまに、なにか知らせがあります。ぼくは、チンピラどもの腕まえを、信じています。" ], [ "おかえりなさい。", "ウン、おそくなった。かわったことはなかったかな。" ], [ "ハイ、だんなが出ていってから、ひとりも客はきません。", "そうか。よしよし、おまえはもう、奥へいって寝なさい。戸じまりはわしがするから。" ], [ "まさか、あの老人の道具屋が、有名な四十面相とは、思いもよりませんでした。じつにおどろくべき変装術ですね。あなたがたが、おいでくださらなかったら、わたしは、この黄金どくろを、あいつに、売りわたしてしまうところでした。これは十年もまえに、ある道具屋から手に入れたのですが、そんなふかいいわれがあろうとは、すこしも知らなかったのですよ。", "そうでしょう。四十面相は、そこへ、つけこんだのです。これは、金のねうちとしても、たいへんなものですが、それよりも、どくろのあごのうしろに、小さな字できざんである文句に、おそろしいねうちがあるのです。何百億、何千億という、ねうちがあるのです。四十面相は、このかなの文句を、見たことは見たのでしょうな。" ], [ "むろん、見ております。しかし、わざわざ買いとろうというのを見ると、まだ、この文句をおぼえていないのかもしれません。それとも、その三人のかたに買いとられては、たいへんだと、先手をうったのでしょうかね。", "おそらく、その、両方でしょう。この文句は、すこしも意味がわからないのですから、紙にうつしでもしなければ、そらでは、ちょっとおぼえにくいでしょうね……。それにしても、これは、じつにふしぎな文句ですね。" ], [ "ゆるのり、んなさと、でんがざ。なんのことか、まるでわかりませんね。宮永さんは、この文句について、考えてごらんになったことがありますか。", "なにしろ、たいせつな美術品のことですから、いちおうは考えてみました。友だちにも見せました。しかし、だれにもわからないのです。なにかの暗号かもしれないとは思いましたが、お話のような、おそろしいねうちのある暗号だなんて、想像もしませんでした。", "フーン、たくさんのお友だちに、見せられたのですね。すると、そのなかに、四十面相か、四十面相の手下のやつが、お友だちに化けて、まじっていたかもしれませんね。でなければ、とつぜん、古道具屋に変装して、買いにくるはずがありませんよ。" ], [ "あなたは、ほんとうに、明智先生ですか。", "ほんとうだとも。なにか、あやしいと思うわけがあるのですか。", "それがあるのですよ。わたしたちは、十分ほどまえに、ここへついたのですが、ここのうちの女中にきいてみると、明智先生と小林君とが、いま客間で、ご主人と話しているところだということでした。ですから、明智先生は、このうちのなかに、おいでになるとばかり思っていたのですよ。そこへ、いまごろになって、また先生がこられるというのは……。", "エッ、ぼくが、うちのなかにいるって? まちたまえ。それじゃあ、きみたちがここへ来てから、だれか、この門を出ていったやつがあるね。あるだろう?", "出ていったといえば、ついいましがた、電灯のメーター調べの男が、出ていったばかりですが……。", "どのくらいまえだね。", "五分ほどまえです。", "それじゃ、もうおっかけても、しかたがないね。たぶん、もうひとりのぼくが、メーター調べに化けて、きみたちの目をくらましたのだよ。", "エッ、もうひとりの明智先生ですって?" ], [ "たぶん、それが四十面相だ。きわどいところで、ぼくに先手をうって、黄金どくろの文句を、ぬすみに来たんだ。あいつは、変装の名人だよ。これまでにも、たびたび、このぼくに化けたことがある。そして、もくてきをはたすと、こんどはメーター調べに変装して、きみたちをだしぬいたのさ。あいつのやりそうなことだ。たぶん、この、ぼくの想像は、まちがいないよ。宮永さんにあって、聞いてみればわかることだが……。", "先生、もうしわけありません。つい、ゆだんしてしまいました。それじゃ、宮永さんに、たしかめてから、非常線をはります。風体はハッキリわかっているのですから。", "だめだよ。いまごろは、もう、メーター調べの服装をぬいで、まったくちがったものに、化けてしまっているよ。あいつは魔法使いのような、変装の名人だからね。" ], [ "たぶん、あいつも、いまごろは、暗号をといたでしょう。わたしと四十面相とは、ものを考える力が、ほとんど同じぐらいなのです。わたしに、とける暗号なら、あいつにも、とけるはずです。", "すると、あいつは、もう和歌山県へ、出発したかもしれませんね。", "そうです。わたしも、それを心配しているのです。しかし、わたしには、ひとつ、うまい考えがあります。それについては、あなたがたの、しょうだくをえなければなりませんが、この大金塊のことが、世間に知れわたることは、ごめいわくでしょうか。", "いや、めいわくということはありません。なにも他人のものをとるわけではなく、先祖がかくしておいた金塊を、その子孫が、さがすのですから、だれにもはじることはありません。しかし、この秘密が、世間にひろがって、わるものに、先手をうたれるのが、こわいのです。そのために、いままでは、ごく秘密に、事をはこんできたのです。", "わかりました。それならば、だいじょうぶです。わたしの考えというのは、あなたがたが、だれよりもはやく、どくろ島へ行ける方法なのですから。たとえ、四十面相が、もう東京を出発したとしても、あいつを追いこして、ずっとはやく、せんぽうにつけるという方法なのです。", "ホウ、そんな、うまい方法があるのでしょうか。" ], [ "新聞社の飛行機ですよ。わたしはH新聞の重役とこんいなので、じつは、さっき電話で、相談してみたのです。ひじょうにおもしろいニュースを、きみの社で、ひとりじめにすることができるのだから、数時間、飛行機を使わしてくれぬかと、たのんだのです。くわしいことは、なにも言わなかったのですが、あいては、ぼくを信用して、しょうちしてくれました。社でもいちばん、しっかりした操縦士をつけて、貸してやろうというのです。", "フーン、そいつは、おもしろいですね。しかし、その飛行機には、おおぜいは乗れないでしょうね。", "操縦士のほかに三人しか乗れません。それで、あなたがた三人のうち、ふたりと、ここにいるわたしの助手の小林とが、飛行機に乗って、先発されては、いかがですか。わたしが行けるといいのですが、人のいのちにかかわる大事件を引きうけていますので、どうしても、手がはなせません。小林はまだ子どもですが、いままでの働きでもわかるように、じゅうぶん、わたしの代理がつとまると思います。", "ああ、なにからなにまで、明智さんの知恵には感じいりました。おっしゃるとおりにしましょう。" ], [ "知っているとも。あの、四十もべつの顔をもっているという、大どろぼうでしょう。新聞やラジオでおれたちも、みんな知っている。その四十面相が、どうかしたのかね。", "その四十面相が、ここへやってくるかもしれないのだ。", "エッ、ここへ?" ], [ "あれが、ほらあなだって? ほらあなから、あんな音がでるのかね。", "そうじゃない。滝ですよ。滝が流れだしている音さ。" ], [ "フーン、すると、ひきしおまで、またなければ、ほらあなの中へ、はいれないわけだね。きょうはいつごろ、ひきしおになるんだろう。", "まだ二時間はあるだろうね。これからだんだん、滝のいきおいが、よわくなるが、すっかり水がひくのは二時間あとだね。" ], [ "おれは、大作ってんだよ。五郎とは親友さ。いのち知らずの大作って、あだなをされているんだよ。", "フーン、いさましいあだなだね。それじゃあ、きみは、こわいものなんか、ないんだろう。わたしたちと、いっしょに、ほらあなの中を、探検する気はないかね。", "そりゃあ、はいってもいいが、まあ、よしとこう。人間ならこわくないが、化けものは、にがてだからね。" ], [ "ゆうべ、宿の主人から、あのほらあなで、化けものを見て、死んだ男の話を聞いたが、そのとき、きみも、ほらあなのそとにいたんじゃないかね。", "そうだよ。みんなで、あいつをまっていたんです。すると、あの熊吉のやろう、人を人とも思わねえやつだったが、それが、まるで、ゆうれいのように青ざめて、穴から、ころがりだしてきた。こっちのほうが、ゾーッとしたよ。だから、おれは、化けものだけは、にがてなんだ。だんながたは、化けものが、こわくないのかね。", "そのまえから、ここに魔ものがすんでいるという、うわさがあったんだね。", "そうとも。ずうっと、むかしから、おそろしい主が、すんでいるという、言いつたえがあるんだよ。だから、だれも、ここへ、ちかよらなかったが、熊吉のやろう、よこぐるまをおして、おれが見とどけてやるなんて言って、とうとう、あんなめにあったのさ。" ], [ "いま、わしのからだに、ぶっつかったやつがある。サルのように立って歩く動物だ。人間とすれば、小人のような、小さなやつだ。", "気のせいじゃありませんか。ここには、立って歩く動物なんか、いるはずがないんだが。" ], [ "まっ黒な目でにらみつけた。", "斧のような歯で、かみつこうとした。" ], [ "この何千枚という、金の板をはがすのは、大しごとですね。道具も、持ってこなかったし、われわれ六人の力では、ちょっと、むりかもしれませんね。", "そうですよ。われわれは、いったん陸にかえって、てきとうな技師をたのんで、おおぜいの人をつれて、もう一度、出なおしてくるほかはないでしょうね。それに、土地の警察にも、とどけでて、保護をねがう必要があります。なにしろ、この宝ものは、怪人四十面相が、ねらっているのですからね。" ], [ "だれだッ、いま、笑ったのは、だれだッ。", "ぼくだよ。きみのひとりごとが、あんまりおもしろかったので、つい目がさめてしまったのだよ。" ], [ "さては、きみは、さっきのコーヒーを、のまなかったな。", "のまなかったよ。なんだか、すこし、にがすぎたのでね。" ], [ "で、きみはどうするつもりです。わしの味方になりますか、それとも、敵にまわりますか。", "味方になれば、この黄金を、ふたりで山わけにしよう、と言うのですか。", "マア、そんなことですね。山わけでは、これだけの計画をたてた、わしのほうが、ちと、ひきあわないがね。", "しかし、山わけでは、ぼくは、ふしょうちですよ。", "エッ、ふしょうちだって? それじゃ、どうすればいいのだ。", "みんなもらいたい。きみはこの黄金について、なんの権利も、持っていないのだ。" ], [ "ナニッ、この黒井博士が、なんの権利も、持っていないというのかッ。", "黒井博士は権利を持っている。だが、きみは黒井博士じゃない。まっかな、にせものだッ。" ], [ "しょうこがあるか。", "しょうこは、これだッ。" ], [ "そこをのけッ。でないと、ぶっぱなすぞ。", "気のどくだが、逃がすことは、できない。うつなら、うってみるがいい。" ], [ "すると、あの小人は……。", "ごぞんじの小林少年さ。まっ暗ななかで、きびんに、はたらいたので、だれも、それとは気づかなかった。こういうときは、あのリスのように、すばしっこい少年が、いちばん、やくにたつのだよ。", "ちくしょう。また、あのチンピラに、してやられたのかッ。" ] ]
底本:「怪奇四十面相/宇宙怪人」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年1月8日第1刷発行 初出:「少年」光文社    1952(昭和27)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:岡山勝美 2016年3月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ねえ、井上さん、ひょっとしたら、あいつ人形怪人じゃないだろうか", "うん。しかし、町をあるくときに、人形にばけているのは、へんだね", "なにか、わけがあるのかもしれないよ。ねえ、あいつを、尾行してみようじゃないか", "うん、そうしよう" ], [ "おじょうさん、あんた野村みち子さんでしょう", "ええ、そうよ" ], [ "えっ、マンホールの中かい", "うん、悪者は、よくこれを使うんだよ。あの中へ、かくれていれば、だれも気がつかないからね。きっと、ぼくらに尾行されていることを知って、かくれたんだよ", "じゃあ、あの鉄のふたをあけてみようか。ふたりであけられるかしら", "だいじょうぶだよ。きみの力なら、あけられるよ" ], [ "だれもいないよ", "おかしいな。ここのほかに、かくれるところはないんだがなあ", "あっ、あれ本だよ。さっき女の子が読んでいた本にちがいないよ" ], [ "あれっ、へんだね。これは水道や下水やガスのマンホールじゃないよ。鉄管なんかどこにもないんだもの", "うん、ひょっとしたら、悪者が、かってに造ったマンホールかもしれないね。そして、ここを、秘密の出入り口に使っているんだよ", "それなら、どこかに、奥へ行ける道があるはずだね" ], [ "ここへ、人形みたいな顔の男の人が、小さい女の子を連れて、はいってきたでしょう", "うふふふふ……はいってきたよ。だが、きみたちは、それをどうしようというのだね。女の子を助けにきたのかね", "そうです。女の子は、かどわかされたのです。ぼくたちは、それをたしかめて、警察に知らせるのです" ], [ "ひろったんだよ。あっちのマンホールのそばにおちてたんだよ", "ふうん、それみんな、そこにおちてたの? いくつあった?", "六つだよ", "ちょっと、見せてごらん" ], [ "たしかに、ここにおちていたんだね", "そうだよ。マンホールのまわりに、ばらまいてあったよ" ], [ "そんな手あらいことをしては、あい手がにげてしまうよ。そのマンホールから、ちかくの、どっかのやしきの中へ、ひみつの通路ができているにちがいない。君たちふたりで、一けん一けん、しらべてみるんだ。あいてにさとられぬようにね。見つかったら、野球のボールが、おたくのへいの中へおちましたから、ひろわせてくださいと、言えばいいんだ。こういうしらべは、君たちのような少年のほうが、うまくいくんだよ", "じゃあ、やってみます" ], [ "きみたちは、じつに勇気があるねえ。こどもばかりで、マンホールから、このおそろしいうちへしのびこむなんて、いのちしらずだよ。いったい、しのびこんで、どうするつもりだったんだね", "きみが、あの女の子をどうするのか、見とどけて、たすけ出すためさ。ぼくらは少年探偵団だからね" ], [ "ふうん、かんしん、かんしん。だが、きみたちふたりきりで、そんなことができると思っているのかね", "ぼくたちのうしろには、明智小五郎先生がついているんだ。小林団長がいるんだ、それから警視庁の中村警部が、おおぜいのおまわりさんをつれて、やってくるのだ" ], [ "だが、どうして、れんらくするんだい。きみたちは、もう、おれのとりこになっているんじゃないか", "ぼくたちには、いろいろな方法があるよ。きっとにげ出して、明智先生や小林団長に、れんらくしてみせるよ" ], [ "ぼくたち、冒険をやりすぎたかもしれないね", "うん、この穴からは、とてもにげだせない。あいつは、ぼくたちを、どうするつもりだろう。なんだか、こころぼそくなってきたね" ], [ "えっ、水ぜめって?", "ぼくらは、水におぼれて、死んでしまうのだよ。あの穴は、ぼくらの背の倍もある。水がいっぱいになれば、おぼれてしまうよ", "きみはおよげるかい" ], [ "およげるよ。きみは?", "ぼくのクラスで、いちばんおよぎがうまいんだよ" ], [ "これは、のぞき板っていうんだよ。七つ道具には、はいっていないけれども、夜の探偵には、役にたつときがある。ぼくが発明したんだ", "どうやって使うの?", "いまにわかるから、見ててごらん。ほうら、一階のまどにあかりがついた。外はすっかり夜だからね" ], [ "あごまできたよ。もうじき、口までくるよ。そうすると、ものも言えないし、いきもできなくなるよ", "じゃあ、およぐんだよ。ぼくのからだにつかまってれば、らくだからね。さあ" ], [ "なにが?", "ほら、足音だよ。上をだれかがあるいているよ。ひとりじゃない。おおぜいの足音だ", "あっ、そうだね。BDバッジがとどいて、ぼくらをたすけにきてくれたのじゃないかしら", "うん、きっとそうだよ" ], [ "ぼく井上だよう……", "ぼくポケット小僧だよう……", "水の中にいるんだよう。死んじまうよう……" ], [ "人形怪人が、どこにかくれているか、きみには、わからないかい?", "地下道はさがしたの?", "地下道って?", "マンホールへ出る地下道だよ。あすこはいりくんでいるから、いいかくれ場所だよ", "よし、それじゃ、そこをさがそう" ], [ "つかまったら、もう見はりにもおよばないな", "いや、いちど、つかまっても、またにげだすことだってある。やっぱり、ゆだんをしないで、見はっていよう" ], [ "いま、ここから、警官がひとり、出ていかなかったかね", "出ていきました。中村警部さんのいいつけだといっていました", "きみたちの知らない顔だったね", "はい、わたしたちはパトロール・カーのものですが、出ていったのは警部さんといっしょにきた人で、顔見知りではありません" ], [ "えっ、あれが怪人ですって。じゃあ、どうして警官の服を着ていたのです", "それはね、こういうわけなんだ。うまい手だよ" ], [ "ぼくは、野村さんのうちへ、みち子ちゃんを送っていく。そして、そこに、しばらくいるつもりだ。もしも、ということがあるからね。車は中村君のをかりることにするから、きみはアケチ一号を使うがいい。ぬかりなくやるんだよ", "ええ、わかりました。もし、あいつが、いつもの魔法をつかって、逃げだしでもしたら、けっして見のがしません" ], [ "いま、ここへ、あいつが、とびこんできたはずですが……", "あいつとは、だれですか", "人形の顔をもって、まっかな服をきたやつです。くれないの宝冠を、もらいにきたといいました", "人形怪人ですか", "そうです。じぶんで、そう名のりました", "おかしいですね。ここへはだれも、はいってきませんでしたよ" ], [ "わたしの書斎の金庫の中です", "そこへ行ってみましょう。あいつは魔法つかいみたいなやつですから、金庫なんか、わけなくあけるでしょう。ひょっとしたら、もうぬすまれているかもしれませんよ" ], [ "えっ、腹話術ですって? その腹話術をだれがやったというのです", "むろん、わたしではありません", "すると、ぼくが……" ], [ "たまははいっていません。このピストルはおもちゃです", "やっぱり、そうだったか。ぼくの思ったとおりだ。おい、人形怪人君、きみは血を見るのがきらいなんだね。だから、ほんとうのピストルは、持たないことにしているんだね" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第23巻 怪人と少年探偵」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年7月20日初版1刷発行 底本の親本:「こども家の光」家の光協会    1960(昭和35)年9月~1961(昭和36)年9月 初出:「こども家の光」家の光協会    1960(昭和35)年9月~1961(昭和36)年9月 ※「電灯」と「電燈」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正:北川松生 2016年3月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057225", "作品名": "怪人と少年探偵", "作品名読み": "かいじんとしょうねんたんてい", "ソート用読み": "かいしんとしようねんたんてい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「こども家の光」家の光協会、1960(昭和35)年9月~1961(昭和36)年9月", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-06-30T00:00:00", "最終更新日": "2016-03-04T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57225.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第23巻 怪人と少年探偵", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2005(平成17)年7月20日", "入力に使用した版1": "2005(平成17)年7月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2005(平成17)年7月20日初版1刷", "底本の親本名1": "こども家の光", "底本の親本出版社名1": "家の光協会", "底本の親本初版発行年1": "1960(昭和35)年9月~1961(昭和36)年9月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "北川松生", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57225_ruby_58894.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-03-04T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57225_58936.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-03-04T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "あっ、おじさんが、らいおんのかわをきていたんだな", "そうだよ。おれは、どんなにんげんにでも、どんなどうぶつにでもばけることのできるせかい一のめいじんだよ", "それじゃ、おじさんは、かいじん二十めんそうだな", "うふふふ……、そのとおりだ。ぽけっとこぞう、よくきがついたな", "で、ぼくをどうしようというの", "きみのほかに、こばやしくんも、ここへとじこめるのだ。さっき、きみのぽけっとから、しょうねんたんていだんのばっじをだして、みちにまいておいたから、いまに、こばやしくんが、きみをたすけにやってくるからな" ], [ "こばやしさん、あいつ、へんだね。ロボットみたいだよ", "あっ、そうだ。二十めんそうのロボットだ" ], [ "ねえ、こばやしさん。二十めんそうは、ふねに、アクアラングをよういしておいて、それをつけて、とびこんだのかもしれませんね", "うん、きっとそうだ。アクアラングなら、いつまでもうみの中にかくれていられるからね。よしっ、だんいんをあつめて、ぼくたちもうみにもぐって、二十めんそうをさがすのだ" ], [ "みずのくん、あそこにあやしいほらあながあるよ。いってみよう", "うん、いってみよう" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第21巻 ふしぎな人」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年3月20日初版1刷発行 底本の親本:「たのしい一年生」講談社    1959(昭和34)年11月~1960(昭和35)年3月    「たのしい二年生」講談社    1960(昭和35)年4月~1960(昭和35)年12月 初出:「たのしい一年生」講談社    1959(昭和34)年11月~1960(昭和35)年3月    「たのしい二年生」講談社    1960(昭和35)年4月~1960(昭和35)年12月 ※底本は、連載の回数を見出しとしています。 入力:sogo 校正:北川松生 2016年3月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057226", "作品名": "かいじん二十めんそう", "作品名読み": "かいじんにじゅうめんそう", "ソート用読み": "かいしんにしゆうめんそう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「たのしい一年生」講談社、1959(昭和34)年11月~1960(昭和35)年3月<br>「たのしい二年生」講談社、1960(昭和35)年4月~1960(昭和35)年12月", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-06-09T00:00:00", "最終更新日": "2016-03-04T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57226.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第21巻 ふしぎな人", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2005(平成17)年3月20日", "入力に使用した版1": "2005(平成17)年3月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2005(平成17)年3月20日初版1刷", "底本の親本名1": "たのしい一年生", "底本の親本出版社名1": "講談社", "底本の親本初版発行年1": "1959(昭和34)年11月~1960(昭和35)年3月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "たのしい二年生", "底本の親本出版社名2": "講談社", "底本の親本初版発行年2": "1960(昭和35)年4月~1960(昭和35)年12月", "入力者": "sogo", "校正者": "北川松生", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57226_ruby_58864.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-03-04T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57226_58906.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-03-04T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "そうだよ。おまえよく知っているね。", "下関上陸以来、たびたびそのうわさを聞きました。飛行機の中で新聞も読みました。とうとう、うちをねらったのですね。しかし、あいつは何をほしがっているのです。", "わしは、おまえがいなくなってから、旧ロシア皇帝の宝冠をかざっていたダイヤモンドを、手に入れたのだよ。賊はそれをぬすんでみせるというのだ。" ], [ "しかし、今夜はおまえがいてくれるので、心じょうぶだ。ひとつ、おまえとふたりで、宝石の前で、寝ずの番でもするかな。", "ええ、それがよろしいでしょう。ぼくは腕力にかけては自信があります。帰宅そうそうお役にたてばうれしいと思います。" ], [ "少し用心が大げさすぎたかもしれないね。", "いや、あいつにかかっては、どんな用心だって、大げさすぎることはありますまい。ぼくはさっきから、新聞のとじこみで、『二十面相』の事件を、すっかり研究してみましたが、読めば読むほど、おそろしいやつです。" ], [ "では、おまえは、これほどげんじゅうな防備をしても、まだ、賊がやってくるかもしれないというのかね。", "ええ、おくびょうのようですけれど、なんだかそんな気がするのです。", "だが、いったいどこから? ……賊が宝石を手に入れるためには、まず、高い塀を乗りこえなければならない。それから、大ぜいの人の目をかすめて、たとえここまで来たとしても、ドアを打ちやぶらなくてはならない。そして、わたしたちふたりとたたかわなければならない。しかも、それでおしまいじゃないのだ。宝石は、ダイヤルの文字のくみあわせを知らなくては、ひらくことのできない金庫の中にはいっているのだよ。いくら二十面相が魔法使いだって、この四重五重の関門を、どうしてくぐりぬけられるものか。ハハハ……。" ], [ "この箱は、ここへおくことにしよう。金庫なんかよりは、おまえとわしと、四つの目でにらんでいるほうが、たしかだからね。", "ええ、そのほうがいいでしょう。" ], [ "何時だね。", "十一時四十三分です。あと、十七分……。" ], [ "もう何分だね。", "あと十分です。" ], [ "おかしいですね。壮二君が、そのへんの棚の上におきわすれておいたのが、何かのはずみで落ちたのじゃありませんか。", "そうかもしれない……。だが時間は?" ], [ "おとうさん、どうかなすったのですか。", "いや、いや、なんでもない。わしは二十面相なんかに負けやしない。" ], [ "十二時一分すぎです。", "なに、一分すぎた? ……アハハハ……、どうだ壮一、二十面相の予告状も、あてにならんじゃないか。宝石はここにちゃんとあるぞ。なんの異状もないぞ。" ], [ "ぼくは信じられません。宝石には、はたして異状がないでしょうか。二十面相は違約なんかする男でしょうか。", "なにをいっているんだ。宝石は目の前にあるじゃないか。", "でも、それは箱です。", "すると、おまえは、箱だけがあって、中身のダイヤモンドがどうかしたとでもいうのか。", "たしかめてみたいのです。たしかめるまでは安心できません。" ], [ "戸じまりに異状はないし、それに、だれかがはいってくれば、このわしの目にうつらぬはずはない。まさか、賊は幽霊のように、ドアのかぎ穴から出はいりしたわけではなかろうからね。", "そうですとも、いくら二十面相でも、幽霊に化けることはできますまい。", "すると、この部屋にいて、ダイヤモンドに手をふれることができたものは、わしとおまえのほかにはないのだ。" ], [ "ぼくは賊の手なみに感心しているのですよ。彼はやっぱりえらいですなあ。ちゃんと約束を守ったじゃありませんか。十重二十重の警戒を、もののみごとに突破したじゃありませんか。", "こら、よさんか。おまえはまた賊をほめあげている。つまり、賊に出しぬかれたわしの顔がおかしいとでもいうのか。", "そうですよ。あなたがそうして、うろたえているようすが、じつにゆかいなんですよ。" ], [ "人を呼んではいけません。声をおたてになれば、ぼくは、かまわず引き金をひきますよ。", "きさまはいったい何者だ。もしや……。", "ハハハ……、やっとおわかりになったようですね。ご安心なさい。ぼくは、あなたのむすこの壮一君じゃありません。お察しのとおり、あなた方が二十面相と呼んでいる盗賊です。" ], [ "すると、賊はまだ邸内に潜伏しているというのですね。", "そうです。そうとしか考えられません。しかし、けさ夜明けから、また捜索をはじめさせているのですが、今までのところ、なんの発見もありません。ただ、犬の死がいのほかには……。", "エ、犬の死がいだって?", "ここの家では、賊にそなえるために、ジョンという犬を飼っていたのですが、それがゆうべのうちに毒死していました。しらべてみますと、ここのむすこさんに化けた二十面相のやつが、きのうの夕方、庭に出てその犬に何かたべさせていたということがわかりました。じつに用意周到なやり方です。もしここの坊ちゃんが、わなをしかけておかなかったら、やつは、やすやすと逃げさっていたにちがいありません。", "では、もう一度庭をさがしてみましょう。ずいぶん広い庭だから、どこに、どんなかくれ場所があるかもしれない。" ], [ "ウン、壮二をとりもどすのはむろんのことだが、しかし、ダイヤを取られたうえに、あのかけがえのない美術品まで、おめおめ賊にわたすのかと思うと、ざんねんでたまらないのだ。近藤君、何か方法はないものだろうか。", "そうでございますね。警察に知らせたら、たちまち事があらだってしまいましょうから、賊の手紙のことは今晩十時までは、外へもれないようにしておかねばなりません。しかし、私立探偵ならば……。" ], [ "ウン、私立探偵というものがあるね。しかし、個人の探偵などにこの大事件がこなせるかしらん。", "聞くところによりますと、なんでも東京にひとり、えらい探偵がいると申すことでございますが。" ], [ "おとうさま、それは明智小五郎探偵よ。あの人ならば、警察でさじを投げた事件を、いくつも解決したっていうほどの名探偵ですわ。", "そうそう、その明智小五郎という人物でした。じつにえらい男だそうで、二十面相とはかっこうの取り組みでございましょうて。", "ウン、その名はわしも聞いたことがある。では、その探偵をそっと呼んで、ひとつ相談してみることにしようか。専門家には、われわれに想像のおよばない名案があるかもしれん。" ], [ "先生はいま、ある重大な事件のために、外国へ出張中ですから、いつお帰りともわかりません。しかし、先生の代理をつとめている小林という助手がおりますから、その人でよければ、すぐおうかがいいたします。", "ああ、そうですか。だが、ひじょうな難事件ですからねえ。助手の方ではどうも……。" ], [ "助手といっても、先生におとらぬ腕ききなんです。じゅうぶんご信頼なすっていいと思います。ともかく、一度おうかがいしてみることにいたしましょう。", "そうですか。では、すぐにひとつご足労くださるようにお伝えください。ただ、おことわりしておきますが、事件をご依頼したことが、相手方に知れてはたいへんなのです。人の生命に関することなのです。じゅうぶんご注意のうえ、だれにもさとられぬよう、こっそりとおたずねください。", "それは、おっしゃるまでもなく、よくこころえております。" ], [ "いえ、ぼくがその小林芳雄です。ほかに助手はいないのです。", "ホホウ、きみがご本人ですか。" ], [ "さっき、電話口で腕ききの名探偵といったのは、きみ自身のことだったのですか。", "ええ、そうです。ぼくは先生から、るす中の事件をすっかりまかされているのです。" ], [ "今、きみは、壮二の友だちだっていったそうですね。どうして壮二の名を知っていました。", "それくらいのことがわからないでは、探偵の仕事はできません。実業雑誌にあなたのご家族のことが出ていたのを、切りぬき帳でしらべてきたのです。電話で、人の一命にかかわるというお話があったので、早苗さんか、壮二君か、どちらかがゆくえ不明にでもなったのではないかと想像してきました。どうやら、その想像があたったようですね。それから、この事件には、例の二十面相の賊が、関係しているのではありませんか。" ], [ "ぼくはひとつうまい手段を考えついたのです。相手が魔法使いなら、こっちも魔法使いになるのです。ひじょうに危険な手段です。でも、危険をおかさないで、手がらをたてることはできませんからね。ぼくはまえに、もっとあぶないことさえやった経験があります。", "ホウ、それはたのもしい。だがいったいどういう手段ですね。", "それはね。" ], [ "そうです。ちょっと考えると、むずかしそうですが、ぼくたちには、この方法は試験ずみなんです。先年、フランスの怪盗アルセーヌ=ルパンのやつを、先生がこの手で、ひどいめにあわせてやったことがあるんです。", "壮二の身に危険がおよぶようなことはありませんか。", "それは大じょうぶです。相手が小さな泥棒ですと、かえって危険ですが、二十面相ともあろうものが、約束をたがえたりはしないでしょう。壮二君は仏像とひきかえにお返しするというのですから、危険がおこるまえにちゃんとここへもどっていらっしゃるにちがいありません。もしそうでなかったら、そのときには、またそのときの方法があります。大じょうぶですよ。ぼくは子どもだけれど、けっしてむちゃなことは考えません。", "明智さんの不在中に、きみにそういう危険なことをさせて、まんいちのことがあってはこまるが。", "ハハハ……、あなたはぼくたちの生活をごぞんじないのですよ。探偵なんて警察官と同じことで、犯罪捜査のためにたおれたら本望なんです。しかし、こんなことはなんでもありませんよ。危険というほどの仕事じゃありません。あなたは見て見ぬふりをしてくださればいいんです。ぼくは、たとえおゆるしがなくても、もうあとへは引きませんよ。かってに計画を実行するばかりです。" ], [ "ハハハ……、感心、感心、さすがの二十面相も、やっぱり命はおしいとみえるね。", "ウム、ざんねんながら、かぶとをぬいだよ。" ], [ "ところで、いったいきみは何者だね。この二十面相をこんなめにあわせるやつがあろうとは、おれも意外だったよ。後学のために名まえを教えてくれないか。", "ハハハ……、おほめにあずかって、光栄のいたりだね。名まえかい。それはきみが牢屋へはいってからのおたのしみに残しておこう。おまわりさんが教えてくれることだろうよ。" ], [ "坊や、かわいいねえ……。きさま、それで、この二十面相に勝ったつもりでいるのか。", "負けおしみは、よしたまえ。せっかくぬすみだした仏像は生きて動きだすし、ダイヤモンドはとりかえされるし、それでもまだ負けないっていうのかい。", "そうだよ。おれはけっして負けないよ。", "で、どうしようっていうんだ!", "こうしようというのさ!" ], [ "あたしは、木下虎吉っていうもんです。職業はコックです。", "だまれ! そんなばかみたいな口をきいて、ごまかそうとしたって、だめだぞ。ほんとうのことをいえ。二十面相といえば世間に聞こえた大盗賊じゃないか。ひきょうなまねをするなっ。" ], [ "だまれッ、でたらめもいいかげんにしろ。そんなばかなことがあるものか。きさまが二十面相だということは、小林少年がちゃんと証明しているじゃないか。", "ワハハハ……、それがまちがっているんだから、お笑いぐさでさあ。あたしはね、べつになんにも悪いことをしたおぼえはねえ、ただのコックですよ。二十面相だかなんだか知らないが、十日ばかりまえ、あの家へやとわれたコックの虎吉ってもんですよ。なんなら、コックの親方のほうをしらべてくださりゃ、すぐわかることです。", "その、なんでもないコックが、どうしてこんな老人の変装をしているんだ。" ], [ "警官ならばひとり出ていきましたよ。賊がつかまったから早く二階へ行けと、どなっておいて、ぼくらがあわてて階段のほうへかけだすのと反対に、その男は外へ走っていきました。", "なぜ、それを今までだまっているんだ。だいいち、きみはその男の顔を見なかったのかね。いくら警官の制服を着ていたからって、顔を見れば、にせ者かどうかすぐわかるはずじゃないか。" ], [ "はい、そうです。あの古名画類は、わしの命にもかえがたい宝物です。明智先生、どうかこの老人を助けてください。おねがいです。", "で、ぼくにどうしろとおっしゃるのですか。", "すぐに、わたしの宅までおこしねがいたいのです。そして、わしの宝物を守っていただきたいのです。", "警察へおとどけになりましたか。ぼくなんかにお話になるよりも、まず、警察の保護をねがうのが順序だと思いますが。" ], [ "見はり番の刑事さんも、さぞねむいでしょう。もう大じょうぶですから、ご飯でもさしあげて、ゆっくりやすんでいただこうじゃありませんか。", "そうですね。では、この戸をあけてください。" ], [ "いや、なんとも申しあげようもありません。二十面相がこれほどの腕まえとは知りませんでした。相手をみくびっていたのが失策でした。", "失策? 明智さん、あんたは失策ですむじゃろうが、このわしは、いったいどうすればよいのです。……名探偵、名探偵と評判ばかりで、なんだこのざまは……。" ], [ "明智さん、あんた何がおかしいのじゃ。これ、何がおかしいのじゃというに。", "ワハハハ……、おかしいですよ。名探偵明智小五郎、ざまはないですね。まるで赤子の手をねじるように、やすやすとやられてしまったじゃありませんか。二十面相というやつはえらいですねえ。ぼくはあいつを尊敬しますよ。" ], [ "何をじょうだんをいっているのじゃ。明智さん、あんた、まさか自分の名をわすれたのではあるまい。", "このぼくがですか。このぼくが明智小五郎だとおっしゃるのですか。" ], [ "きまっておるじゃないか。何をばかなことを……。", "ハハハ……、ご老人、あなたこそ、どうかなすったんじゃありませんか。ここには明智なんて人間はいやしませんぜ。" ], [ "ご老人、あなたは以前に明智小五郎とお会いになったことがあるのですか。", "会ったことはない。じゃが、写真を見てよく知っておりますわい。", "写真? 写真ではちと心ぼそいですねえ。その写真にぼくが似ているとでもおっしゃるのですか。", "…………", "ご老人、あなたは、二十面相がどんな人物かということを、おわすれになっていたのですね。二十面相、ほら、あいつは変装の名人だったじゃありませんか。", "そ、それじゃ、き、きさまは……。" ], [ "ハハハ……、おわかりになりましたかね。", "いや、いや、そんなばかなことがあるはずはない。わしは新聞を見たのじゃ。『伊豆日報』にちゃんと『明智探偵来修』と書いてあった。それから、富士屋の女中がこの人だと教えてくれた。どこにもまちがいはないはずじゃ。", "ところが大まちがいがあったのですよ。なぜって、明智小五郎は、まだ、外国から帰りゃしないのですからね。", "新聞がうそを書くはずはない。", "ところが、うそを書いたのですよ。社会部のひとりの記者が、こちらの計略にかかってね、編集長にうその原稿をわたしたってわけですよ。", "フン、それじゃ刑事はどうしたんじゃ。まさか警察がにせの明智探偵にごまかされるはずはあるまい。" ], [ "二十面相といえば、修善寺では明智さんの名まえをかたったりして、ずいぶん思いきったまねをするね。それに、けさの新聞では、いよいよ国立博物館をおそうのだっていうじゃないか。じつに警察をばかにしきった、あきれた態度だ。けっしてうっちゃってはおけませんよ。あいつをたたきつぶすためだけでも、明智さんが帰ってこられるのを、ぼくは待ちかねていたんだ。", "ええ、ぼくもそうなんです。ぼく、いっしょうけんめいやってみましたけれど、とても、ぼくの力にはおよばないのです。先生にかたき討ちをしてほしいと思って、待ちかねていたんです。", "きみが持っている新聞は、けさの?", "ええ、そうです。博物館をおそうっていう予告状ののっている新聞です。" ], [ "ああ、辻野さん、そうですか。お名まえはよくぞんじています。じつは、ぼくも一度帰宅して、着がえをしてから、すぐに、外務省のほうへまいるつもりだったのですが、わざわざ、お出むかえを受けて恐縮でした。", "おつかれのところをなんですが、もしおさしつかえなければ、ここの鉄道ホテルで、お茶を飲みながらお話したいのですが、けっしておてまはとらせません。", "鉄道ホテルですか。ホウ、鉄道ホテルでね。" ], [ "ぼくこそ、きみに会いたくてしかたがなかったのです。汽車の中で、ちょうどこんなことを考えていたところでしたよ。ひょっとしたら、きみが駅へ迎えに来ていてくれるんじゃないかとね。", "さすがですねえ。すると、きみは、ぼくのほんとうの名まえもごぞんじでしょうねえ。" ], [ "博物館の所蔵品は、予告の日には、かならずうばいとってお目にかけます。それから、日下部家の宝物……、ハハハ……、あれが返せるものですか。なぜって、明智君、あの事件では、きみも共犯者だったじゃありませんか。", "共犯者? ああ、なるほどねえ。きみはなかなかしゃれがうまいねえ。ハハハ……。" ], [ "きみ、なにもそうビクビクすることはありゃしない。きみの正体を知りながら、ノコノコここまでやってきたぼくだもの、今、きみをとらえる気なんか少しもないのだよ。ぼくはただ、有名な二十面相君と、ちょっと話をしてみたかっただけさ。なあに、きみをとらえることなんか、急ぐことはありゃしない。博物館の襲撃まで、まだ九日間もあるじゃないか。まあ、ゆっくり、きみのむだ骨折りを拝見するつもりだよ。", "ああ、さすがは名探偵だねえ。太っぱらだねえ。ぼくは、きみにほれこんでしまったよ……。ところでと、きみのほうでぼくをとらえないとすれば、どうやら、ぼくのほうで、きみをとりこにすることになりそうだねえ。" ], [ "明智君、こわくはないかね。それともきみは、ぼくが無意味にきみをここへつれこんだとでも思っているのかい。ぼくのほうに、なんの用意もないと思っているのかね。ぼくがだまって、きみをこの部屋から外へ出すとでも、かんちがいしているのじゃないのかね。", "さあ、どうだかねえ。きみがいくら出さないといっても、ぼくはむろんここを出ていくよ。これから外務省へ行かなければならない。いそがしいからだだからね。" ], [ "いや、しっけい、しっけい、つい、きみたちの大まじめなお芝居がおもしろかったものだからね。だが、ちょっときみ、ここへ来てごらん。そして、窓の外をのぞいてごらん。みょうなものが見えるんだから。", "何が見えるもんか。そちらはプラットホームの屋根ばかりじゃないか。へんなことをいって一寸のがれをしようなんて、明智小五郎も、もうろくしたもんだねえ。" ], [ "あ、小林の小僧だな。じゃ、あいつは家へ帰らなかったのか。", "そうだよ。ぼくがどの部屋へはいるか、ホテルの玄関で問いあわせて、その部屋の窓を、注意して見はっているようにいいつけているのだよ。" ], [ "で、もしぼくのほうで手をひいて、きみをぶじに帰すばあいには、そのハンカチは落とさないですますつもりだろうね。つまり、きみの自由とぼくの自由との、交換というわけだからね。", "むろんだよ。さっきからいうとおり、ぼくのほうには今君をとらえる考えは少しもないのだ。もしとらえるつもりなら、何もこんなまわりくどいハンカチのあいずなんかいりゃしない。小林君に、すぐ警察へうったえさせるよ。そうすれば、いまごろはきみは警察のおりの中にいたはずだぜ。ハハハ……。", "だが、きみもふしぎな男じゃないか。そうまでして、このおれを逃がしたいのか。", "ウン、今やすやすととらえるのは、少しおしいような気がするのさ。いずれ、きみをとらえるときには、大ぜいの部下も、ぬすみためた美術品の数々も、すっかり一網に手に入れてしまうつもりだよ。少し欲ばりすぎているだろうかねえ。ハハハ……。" ], [ "どうしたんだ。", "すみません。機械に故障ができたようです。少しお待ちください。じきなおりましょうから。" ], [ "ごあいさつはあとにして、辻野と自称する男はどうしました。まさか逃がしておしまいになったのじゃありますまいね。", "きみは、どうしてそれを知っているんです。", "小林君がプラットホームでへんなことをしているのを見つけたのです。あの子どもは、じつに強情ですねえ。いくらたずねてもなかなか言わないのです。しかし、手をかえ品をかえて、とうとう白状させてしまいましたよ。あなたが外務省の辻野という男といっしょに、鉄道ホテルへはいられたこと、その辻野がどうやら二十面相の変装らしいことなどをね。さっそく外務省へ電話をかけてみましたが、辻野さんはちゃんと省にいるんです。そいつはにせものにちがいありません。そこで、あなたに応援するために、かけつけてきたというわけですよ。", "それはご苦労さま、だが、あの男はもう帰ってしまいましたよ。", "エッ、帰ってしまった? それじゃ、そいつは二十面相ではなかったのですか?", "二十面相でした。なかなかおもしろい男ですねえ。", "明智さん、明智さん、あなた何をじょうだん言っているんです。二十面相とわかっていながら、警察へ知らせもしないで、逃がしてやったとおっしゃるのですか。" ], [ "きみが追跡するというなら、それはご自由ですが、おそらくむだでしょうよ。", "あなたのおさしずは受けません。ホテルへ行って自動車番号をしらべて、手配をします。", "ああ、車の番号なら、ホテルへ行かなくても、ぼくが知ってますよ。一三八八七番です。", "え、あなたは車の番号まで知っているんですか。そして、あとを追おうともなさらないのですか。" ], [ "二十面相がつかまった!", "なんて、ふてぶてしいつらをしているんだろう。", "でも、あのおまわりさん、えらいわねえ。", "おまわりさん、ばんざーい。" ], [ "なんだって? きみのいうことは、ちっともわけがわからないじゃないか。", "わしもわけがわからんのです。すると、あいつがわしに化けてわしを替え玉に使ったんだな。", "おいおい、いいかげんにしたまえ。いくらそらとぼけたって、もうその手には乗らんよ。", "いやいや、そうじゃないんです。まあ、落ちついて、わしの説明を聞いてください。わしは、こういうものです。けっして、二十面相なんかじゃありません。" ], [ "じゃ、あいつ二十面相の部下ですね。先生のようすをさぐりに来ているんですね。", "そうだよ。それごらん。べつに苦労をしてさがしまわらなくても、先方からちゃんと近づいてくるだろう。あいつについていけば、しぜんと、二十面相のかくれがもわかるわけじゃないか。", "じゃ、ぼく、姿をかえて尾行してみましょうか。" ], [ "先生、何かあぶないことでしたら、ぼくにやらせてください。先生に、もしものことがあってはたいへんですから。", "ありがとう。" ], [ "いや、そんなことじゃない。少しきみにききたいことがあるんだ。", "なんだって?" ], [ "名まえはなんていうんだ。", "赤井寅三ってもんだ。", "どこの身うちだ。", "親分なんてねえ。一本立ちよ。", "フン、そうか。" ], [ "二十面相という親分の名まえを知っているか。", "そりゃあ聞いているさ。すげえ腕まえだってね。", "すごいどころか、まるで魔法使いだよ。こんどなんか、博物館の国宝を、すっかりぬすみだそうという勢いだからね……。ところで、二十面相の親分にとっちゃ、この明智小五郎って野郎は、敵も同然なんだ。明智にうらみのあるきみとは、おなじ立ち場なんだ。きみ、二十面相の親分の手下になる気はないか。そうすりゃあ、うんとうらみが返せようというもんだぜ。" ], [ "今夜だよ。", "え、え、今夜だって。そいつあすてきだ。だが、どうしてひっさらおうというんだね。" ], [ "こんなもの、おらあうったことがねえよ。どうすりゃいいんだい。", "なあに、弾丸ははいってやしない。引き金に指をあててうつようなかっこうをすりゃいいんだ。二十面相の親分はね、人殺しが大きらいなんだ。このピストルはただおどかしだよ。" ], [ "おそいね。第一、こうしていると寒くってたまらねえ。", "いや、もうじきだよ。さっき墓地の入り口のところの店屋の時計を見たら七時二十分だった。あれからもう十分以上、たしかにたっているから、今にやってくるぜ。" ], [ "きみは、あっちへまわれ。", "よしきた。" ], [ "このうちのしかけにはおどろきましたぜ。これなら警察なんかこわくないはずですねえ。だが、どうもまだふにおちねえことがある。さっき玄関へきたばっかりの時に、どうして、おかしらにあっしの姿が見えたんですかい。", "ハハハ……、それかい。それはね。ほら、ここをのぞいてみたまえ。" ], [ "ええ、そうしましょう。そんなことわけないや。じゃ、探偵団のみんなを門の中へ呼んでもいいですか。", "ええ、どうぞ、ぼくもいっしょに外へ出ましょう。" ], [ "しかし、もうあますところ二十分ほどですよ。え、北小路さん、まさか二十分のあいだに、このげんじゅうな警戒をやぶって、たくさんの美術品をぬすみだすなんて、いくら魔法使いでも、少しむずかしい芸当じゃありますまいか。", "わかりません。わしには魔法使いのことはわかりません。ただ一刻も早く四時がすぎさってくれればよいと思うばかりです。" ], [ "きみたちは、明智明智と、まるであの男を崇拝でもしているようなことをいうが、ぼくは不賛成だね。いくらえらいといっても、たかが一民間探偵じゃないか。どれほどのことができるものか。ひとりの力で二十面相をとらえてみせるなどといっていたそうだが、広言がすぎるよ。こんどの失敗は、あの男にはよい薬じゃろう。", "ですが、明智君のこれまでの功績を考えますと、いちがいにそうもいいきれないのです。今も外で中村君と話したことですが、こんなさい、あの男がいてくれたらと思いますよ。" ], [ "明智君、きみはどうして……。", "それはあとでお話します。今は、もっとたいせつなことがあるのです。", "むろん、美術品の盗難はふせがなくてはならんが。", "いや、それはもうおそいのです。ごらんなさい。約束の時間は過ぎました。" ], [ "おやおや、すると二十面相は、うそをついたわけかな。館内には、べつに異状もないようだが……。", "ああ、そうです。約束の四時はすぎたのです。あいつ、やっぱり手出しができなかったのです。" ], [ "すると、きみは、この仏像がにせものだというのか。", "そうですとも、あなた方に、もう少し美術眼がありさえすれば、こんな傷口をこしらえてみるまでもなく、ひと目でにせものとわかったはずです。新しい木で模造品を作って、外から塗料をぬって古い仏像のように見せかけたのですよ。模造品専門の職人の手にかけさえすれば、わけなくできるのです。" ], [ "アッ、これはみんな模造品だ。しかし、へんですね。きのうまでは、たしかにほんものがここにおいてあったのですよ。わたしはきのうの午後、この陳列棚の中へはいったのですから、まちがいありません。", "すると、きのうまでほんものだったのが、きょうとつぜん、にせものとかわったというのだね。へんだな、いったい、これはどうしたというのだ。" ], [ "アッ、これも、これも、あれも、館長、館長、この中の絵は、みんなにせものです。一つ残らずにせものです。", "ほかの棚をしらべてくれたまえ。早く、早く。" ], [ "すると、おそらくゆうべの夜中あたりに、どうかして二十面相一味のものが、ここへしのびこんだのかもしれんね。", "いや、そんなことは、できるはずがございません。表門も裏門も塀のまわりも、大ぜいのおまわりさんが、徹夜で見はっていてくだすったのです。館内にも、ゆうべは館長さんと三人の宿直員が、ずっとつめきっていたのです。そのげんじゅうな見はりの中をくぐって、あのおびただしい美術品を、どうして持ちこんだり、運びだしたりできるものですか。まったく人間わざではできないことです。" ], [ "では、きょう正午から一時ごろまでのあいだに、トラックが一台、裏門を出ていくのを見たでしょう。", "はあ、おたずねになっているのは、あのとりこわし家屋の古材木をつんだトラックのことではありませんか。", "そうです。", "それならば、たしかに通りました。" ], [ "賊の部下が化けた人夫たちは、毎日ここへ仕事へ来るときに、にせものの美術品を少しずつ運びいれました。絵は細く巻いて、仏像は分解して手、足、首、胴とべつべつにむしろ包みにして、大工道具といっしょに持ちこめば、うたがわれる気づかいはありません。みな、ぬすみだされることばかり警戒しているのですから、持ちこむものに注意なんかしませんからね。そして、贋造品はぜんぶ、古材木の山におおいかくされて、ゆうべの夜ふけを待っていたのです。", "だが、それをだれが陳列室へおきかえたのです。人夫たちは、みな夕方帰ってしまうじゃありませんか。たとえそのうち何人かが、こっそり構内にのこっていたとしても、どうして陳列室へはいることができます。夜はすっかり出入り口がとざされてしまうのです。館内には、館長さんや三人の宿直員が、一睡もしないで見はっていました。その人たちに知れぬように、あのたくさんの品物をおきかえるなんて、まったく不可能じゃありませんか。" ], [ "ほかでもありません。三人は、二十面相一味のために誘かいされたのです。", "え、誘かいされた? それはいつのことです。" ], [ "きのうの夕方、三人がそれぞれ夜勤をつとめるために、自宅を出たところをです。", "え、え、きのうの夕方ですって? じゃあ、ゆうべここにいた三人は……。" ], [ "きみはまるで、きみ自身が二十面相ででもあるように、美術品盗奪の順序をくわしく説明されたが、それはみんな、きみの想像なのかね。それとも、何かたしかなこんきょでもあるのかね。", "もちろん、想像ではありません。ぼくはこの耳で、二十面相の部下から、いっさいの秘密を聞き知ったのです。今、聞いてきたばかりなのです。", "え、え、なんだって? きみは二十面相の部下に会ったのか。いったい、どこで? どうして?" ], [ "ここで? じゃあ、今はどこにいるんだ。", "ここにいるよ。" ], [ "なぞみたいないい方はよしたまえ。ここには、われわれが知っている人ばかりじゃないか。それともきみは、この部屋の中に、二十面相がかくれているとでもいうのかね。", "まあ、そうだよ。ひとつ、そのしょうこをお目にかけようか……。どなたか、たびたびごめんどうですが、下の応接間に四人のお客さまが待たせてあるんですが、その人たちをここへ呼んでくださいませんか。" ], [ "明智先生、ばんざーい。", "小林団長、ばんざーい。" ] ]
底本:「怪人二十面相/少年探偵団」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1987(昭和62)年9月25日第1刷発行 初出:「少年倶楽部」大日本雄辯會講談社    1936(昭和11)年1月号~12月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2016年3月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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底本:「江戸川乱歩全集 第21巻 ふしぎな人」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年3月20日初版1刷発行 底本の親本:「たのしい二年生」講談社    1959(昭和34)年10月~1960(昭和35)年3月 初出:「たのしい二年生」講談社    1959(昭和34)年10月~1960(昭和35)年3月 ※底本は、連載の回数を見出しとしています。 入力:sogo 校正:北川松生 2016年3月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "きみ、さきにはいれ。", "いや、きみの方が、穴に近いじゃないか。きみ、さきにはいれ。" ], [ "それじゃ、手をつないで、いっしょにはいろう。", "うん、それがいい。" ], [ "ここへ、はいってみようか。", "うん、よかろう。" ], [ "ぼくにですか。", "うん、そうだ。おれは、いま、悪ものにおっかけられているんだ。これをあずかってくれ。おれの命よりもだいじなものだ。きみのうちはこの近くか?", "ええ、すぐ近くです。", "それじゃ、これをきみのうちに持って帰って、うちの中のだれにもわからぬ場所へ、かくしておくのだ。この箱の中には、おそろしい秘密がふうじこんである。悪ものどもが、その秘密をぬすみだそうとして、おれを殺すかもしれない。もし、おれが死んだら、この箱は川の中へでもすててくれ。だが、おれが生きているあいだは、けっしてすてるんじゃない。きっとかえしてもらいにいくから、それまで、だれにも気づかれない場所へ、かくしておいてくれ。わかったな。おれにとっちゃ、命よりもだいじな品物だからね。いいか。" ], [ "おい、戸田君、このきずを見たまえ。なんだか動物のツメのあとのようじゃないか。", "そうですね。けさまで、こんなあとはついていませんでした。ひょっとしたら、ほんとうに、あやしいやつが、はいってきたのかもしれませんね。" ], [ "きみはいったい、なにを見たんだ。", "ばけものです。" ], [ "そのマンホールっていうのは、どこだ。", "あそこです。この町のかどをまがったところです。" ], [ "それです。そのふたがスーッともちあがって、中からおそろしいばけものが出てきたのです。", "おそろしいばけものって、どんなやつだった?", "牙がはえていました。それからウロコがはえていました。目がリンのように光っていました。" ], [ "いいことがあります。ぼく、その箱を明智探偵事務所へ持っていって、ぼくらの少年探偵団の小林団長に見せましょう。そして、明智先生の知恵をかりれば、きっとこの箱の秘密がわかりますよ。", "うん、それはいい思いつきだ。戸田君に送ってもらって、いつもよびつけのハイヤーに乗って行ってくるがいい。運転手と戸田君と、ふたりもごえいがついてれば、だいじょうぶだろう。それに昼間のことだしね。" ], [ "あっ、きみはさっきの運転手とちがうじゃないか。いつのまに、いれかわったんだ。そして、きみはいったい、だれだっ!", "こういうもんさ。" ], [ "明智さんの事務所の前に、車をとめてうっかりしていると、いきなり、うしろから、ここをガンとやられ、さるぐつわをはめられてしまいました。おそろしく力のつよいやつで、どうすることもできませんでした。もうしわけありません。それじゃ、やつがわたしにばけて、ここまで運転してきたのですね。", "そうだよ。きみとおなじような上着をきていたので、うしろ姿では、見わけがつかなかった。まさか、ひるまから、こんなだいたんなまねをするとは思いもよらないのでね。さあ、いそいで運転してくれ。もううちに近いんだから、帰ってから警察に電話をかけよう。ぼくらは、だいじなものを、ぬすまれてしまったんだよ。" ], [ "え、それは、いったい、どういうわけですか。鉄の小箱は、悪ものにとられてしまったのですよ。", "いや、ご心配にはおよびません。とられたのは、箱だけです。なかみは、ちゃんとここにありますよ。" ], [ "あっ、それじゃ、先生は……。", "そうですよ。こんなこともあろうかと思って、小箱のなかみを、すりかえておいたのです。悪ものが盗んでいった鉄の小箱には、白い紙がはいっているばかりですよ。" ], [ "あなたは、だれですか。", "アケチノ、トモダチダ、ハヤク、ヨンデクレ。" ], [ "ぼくは明智だが、きみはどなたです。", "シッテルダロ、オマエノテキダ。ヨクモテツノハコノナカノモノヲ、カクシタナ。オボエテイロ、キット、トリカエシテヤルゾ。アケチ、オボエテイロ。" ], [ "それにしても、時間がかかりますね。怪物はもう金塊のありかを、さがしだしたかもしれませんよ。そして、ぬすみだされてしまったら、もうおしまいです。……船長、あれをつかってみたら、どうでしょう。", "ダイビング=ベルかね。", "そうです。あれにぼくがはいって、怪物を見まもっているんです。いくら鉄の人魚でも、あの機械なら、どうすることもできないでしょう。", "うん、そうでもするほかはないね、じゃあ、きみがはいってくれるか。" ], [ "はやく引きあげてくれえ……。おそろしい潜航艇がやってきた。その背中に、鉄の人魚がのっている……。", "なに、潜航艇だって? それはほんとうかっ。" ], [ "小林さん、さすがは明智先生だねえ。きのう、この船から、きみがうった無電で、鉄の人魚がついてきたことを知って、先生はすぐに大阪へこられたんだね。きっと飛行機だよ。そしてけさはやく、大阪港を出発されたんだね。それにしても、有力な武器って、なんだろう?", "ぼくもしらないよ。先生はいつも、ぼくたちよりも、ずっとさきのことを考えていらっしゃる。だから、この事件をひきうけられたときに、ちゃんと武器の用意ができていたのかもしれないよ。もうだいじょうぶだ。先生がきてくだされば、もうしめたもんだよ。" ], [ "賢ちゃん、あれペリスコープだよ。潜航艇の中から海の上を見る潜望鏡だよ。だから、あれは潜航艇なんだ。ワーッ、すてき。ぼくたちの潜航艇がきたんだよ。", "ほんとだ。もうだいじょうぶだね。あれで、敵の魚形潜航艇をやっつけちゃうんだ。ねえ小林さん、明智先生はえらいねえ。" ], [ "そんな大きなカニが、このへんにいるはずはない。ひょっとしたら、悪人の手品かもしれないぞ。カニのいしょうをかぶって、逃げだしたのかもしれないぞ。そのいしょうは、うすい金属かビニールで、できているのかもしれない。そして、それを小さくおりたたんで、岩の穴の中に、かくしておいたのかもしれない。", "えっ、すると、あのカニの中に、金塊どろぼうが、はいっていたのでしょうか。" ], [ "あれ、なんです? 自動車のヘッドライトみたいなもの。", "潜航艇だよ。ああして、大洋丸のまわりを、ぐるぐるまわっているんだ。いつ、敵の魚形潜航艇があらわれるかもしれないからね。" ], [ "うまくいったか。", "うん、子どもはタルの中にいる。このロープを、しっぽの方へ、くくりつけてくれ。" ], [ "はい、ハヤブサ丸の水夫にばけて、こいつをタルにつめて、それから潜航艇にしばりつけて、ここまでひっぱってきたのです。船のやつらは潜水作業にむちゅうで、だれも気づいたものはありません。", "よし、よし、うまくやった。もうこれで、だいじょうぶだ。……おい、賢吉君、なにも、そんなにこわがることはない。きみは、だいじな人じちだからね。ここであそんでいてくれればいいのだ。きみのおとうさんが、わしのいうことを、しょうちしたら、きみをかえしてやるよ。" ], [ "いいかい。これでうまくやるんだよ。わたしは、じきに帰ってくるからね。それまで、きみのうでまえで、うまく敵をあやつっておくのだよ。", "はい、だいじょうぶです。きっとうまくやります。" ], [ "村へ行って、漁師のうちで、ごちそうになったもんだから、つい、おそくなって……。", "なんだと? 村へあそびにいった? ようじをすませたら、すぐ帰れと、あれほどいってあるじゃないか。漁師なんかとつきあって、このかくれがを感づかれたら、どうするんだ。", "へえ、もうしわけありません。これから、気をつけます。" ], [ "あ、首領、たいへんだ。機械がメチャメチャにこわれています。", "えっ、機械が?" ], [ "えっ、さいごの逃げ場所とは?", "このむこうに、おれだけが知っている洞窟の枝道がある。そこへ、逃げこむんだ。" ], [ "なんだって? それじゃ、おまえには、わかっているのか。", "わかってますよ。あの子どもは賢吉じゃないのです。", "えっ、賢吉じゃない。それじゃ、あれは何者だっ。そして、賢吉はどこへ行ったのだ。", "賢吉は、おきのハヤブサ丸へ帰りましたよ。", "どうして、帰ったのだ、まさか、泳いでいったわけじゃなかろう。", "小船にのって行きました。", "その小船はどこにあったのだ。そして、だれが、こいだのだ。", "明智小五郎が、こぎました。船は漁師から、かりたのですよ。明智と賢吉は、親子の漁師のようなふうをして、われわれの目をくらましたのです。" ], [ "きさま、それを知っていて、なぜ、いままで、だまっていたのだ。なぜ、おれに、知らせなかったのだっ。", "これには、わけがあるのです。あとで説明します。それより、ここはどうも、きゅうくつですね。もっと広いところへ出ましょう。", "うん、すこしおくへ行けば、また広くなる。こっちへ、くるがいい。" ], [ "さあ、ここなら、いいだろう。で、賢吉がハヤブサ丸へ逃げたとすると、さっき、おれが追っかけた子どもは、いったい何者だ?", "明智小五郎の少年助手の小林です。", "えっ、あれが小林だって?", "そうですよ。賢吉では、とても、あんなに、すばしっこく働けませんからね。つまり、こういうわけです。明智小五郎は、小林と、マネキンの首と、ワラたばを持って、洞窟にしのびこんだのです。そして、ワラたばに賢吉の服をきせ、人形の首をすげて、ろうやのすみにすわらせておき、賢吉には漁師の子どもの着物を着せて、ハヤブサ丸へつれて帰った。そのあとで、小林が洞窟の中を走りまわって、賢吉がふたりになったように、見せかけたというわけです。", "だが、待てよ。いったい明智は、どうして、ろうやの戸をひらいたんだ。こわれていないのを見るとかぎでひらいたとしか考えられないが。そのかぎはおまえのほかには持っていないはずだ。おまえ、まさか、明智にかぎを、かしたわけじゃあるまいな。", "そうですよ。かしたおぼえはありませんよ。", "それじゃ、明智はどうして、ろうやの戸をひらいたんだ。", "首領、なぞですよ。ちょっと、おもしろいなぞですよ、とけませんかね。" ], [ "それじゃあ、きさまは……。", "ハハハ……、わかったようだね。そのこたえは、ジャックと明智とが、おなじ人間だったというのさ。おなじ人間だから、かぎをかりなくても、よかったのさ。" ], [ "ウフフフ……、明智先生、しばらくだったなあ。で、きみはこれから、どうするつもりだね。", "きまっているじゃないか。きみを警察にひきわたすのさ。", "ウフフフ……、いい気なもんだねえ。おれが、おとなしく、きみにつかまるとでも思っているのかい。", "こうするのさ!" ] ]
底本:「鉄塔の怪人/海底の魔術師」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年2月8日第1刷発行 初出:「少年」光文社    1955(昭和30)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2016年9月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "大へんです。奥様が、すぐにおいでくださいますようにとおっしゃいました", "大へん? どうしたのだ", "私どもにはわかりませんのです。ともかく、大急ぎでいらしっていただけませんでしょうか" ] ]
底本:「江戸川乱歩傑作選」新潮文庫、新潮社    1960(昭和35)年12月24日発行    1989(平成元)年10月15日48刷改版    2013(平成25)年6月10日99刷 初出:「大衆文芸」    1926(大正15)年10月 ※「みがき」と「磨き」、「ところ」と「所」、「もって」と「持って」、「きわめよう」と「極めよう」の混在は、底本通りです。 入力:isizuka 校正:岡村和彦 2016年9月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057343", "作品名": "鏡地獄", "作品名読み": "かがみじごく", "ソート用読み": "かかみしこく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「大衆文芸」1926(大正15)年10月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-10-10T00:00:00", "最終更新日": "2016-09-09T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57343.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩傑作選", "底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社", "底本初版発行年1": "1960(昭和35)年12月24日", "入力に使用した版1": "2013(平成25)年6月10日99刷", "校正に使用した版1": "2012(平成24)年6月10日98刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "isizuka", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57343_ruby_59977.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-09-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57343_60022.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-09-09T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "うん、来ている。もう始まっているころだよ", "じゃあ、あのへやへ行くよ", "いいとも、見つかりっこはないが、せいぜい用心してね" ], [ "何か飲むか", "チューといこう。チューだ、チューだ" ], [ "うん、いくらでもおごるよ。きみはかわいそうな男らしいからね", "ああ、こんな親切な若い衆に出会うのは久しいこった。おらあアル中の人外だからね。だれも相手にしちゃくれねえんだ" ], [ "軍人だろう。それも将校だ。大尉かね", "えらい。おまえさん、人相見かね。そのとおりだよ。おれは陛下の忠勇なる陸軍大尉だった。生涯、軍に身をささげるつもりだった" ], [ "あたし、かわいそうな子じゃないわ。楽しいことだってあるわ", "その楽しいことというのは、ハトのように空を飛ぶことだろう。おじさんはちゃんと知ってるよ。空から神様が、きみをお迎えに来るんだね。金色の神様よ。そして、きみをかわいがってくださるんだ。いまにきっと空へ行けるよ。そして、おかあさんにも会えるだろうよ" ], [ "首領――といっちゃおかしいけれど、その婦人団の団長みたいな人ね、それはもと侯爵夫人で、たいそうお金持ちなの。春木夫人っていうのよ。団員は十五、六人らしいわ。みんなお金持ちの猟奇マダムよ。はじめは競馬の仲間だったらしいのね。それがマージャンやトランプのパーティーをひらいているうちに、だんだん秘密の楽しみにふけりだしたわけよ。いまではほんものの秘密結社だわ。みんな黒いガウンを着て、黒い覆面ずきんをかぶって、そのために借り入れてある秘密の家で密会するのよ。そして、悪事をたくらむのだわ", "たとえば?", "不倫のエロ遊びよ。ずいぶん思いきったことをやっているらしいわ", "それじゃきみは会員じゃないんだね", "どういたしまして。地位と財産がなくっちゃあ、その結社にははいれないのよ。それでね、十万円の値うちっていうのは、その会合の場所と時間だわ。どう? 買ってくれる?" ], [ "で、その場所と時間", "代々木の原っぱの中の一軒家。広い地下室があるんですって。団員はガウンの上にオーバーを着ていって、門の前でオーバーをぬぎ、覆面をかぶるのよ。そして、門に番をしている人にサインをすると、入れてくれるんです。サインはこうよ" ], [ "どう? よく探ったでしょう。その会合が、あすの晩十時から開かれるのよ", "うん。それで、きみに教えてくれたのは、団員のひとりなんだろう", "教えてくれたんじゃない。あたしのほうで、鮎沢さん直伝の手でもって、吐かしたんだわ。相手は、あたしなら危険はないと思って、安心しているのよ。でも、けっして他言しちゃいけないって、青い顔になって、念をおしていた。よほどこわい制裁があるんだわ", "その人の名", "琴平咲子。新興実業家の奥さまよ。まだ三十になっていない美しい人よ" ], [ "背は高いかい?", "あたしより五センチぐらい。でも、鮎沢さんよりはずっと低いわ", "そのくらいならなんとかなる。背を低くしたり高くしたりするのも一つの忍術だからね。もうわかっているだろう。ぼくがその女に化けるのだ。そのあいだ、咲子さんのおもりはきみの役目だ。でなきゃ十万円の値うちはないよ。で、ぼくと咲子さんと会うのは、このホテルのグリルということにしよう。わかったね" ], [ "まったく死んでいます。頭がわれているのです。息もしなければ、心臓も完全にとまってます", "でも、まったくだめということが、あなたにおわかりになって?" ], [ "あたし、そのほうの経験がありますの。どんな名医だって、もうこの人を生きかえらせることはできません", "でも、あなたは今、医者を呼ぶからといって、皆さんを遠ざけるようにおっしゃったじゃありませんか", "ええ、呼ぶのです。そして、この人が命をとりとめたように皆さんに発表して、おうちへ帰っていただくのです。そうしないと、おおぜいの会員のことですから、だれの口から秘密がもれるかもしれません。むろん、相手の青年にも、この人が死んだなんていうことは伏せておくのです。安心して引きとらせるのです" ], [ "で、あなたはこの死体をどうしようとおっしゃるの?", "隠すのです。今夜のできごとはまったくなかったことにするのです。そうしなければ、皆さんの破滅じゃありませんか。それで、幹事のCさんに伺いたいのですが、ふたりの青年はどこから連れていらしったのですか。どういう身もとの人ですか" ], [ "この人は浅草で拾ったのです。バーを流して歩く艶歌師です。むろん、知り合いではありません。偶然に見つけて、体格がよくて強そうなので、当たってみたのです。すると、報酬に目がくれて、この人はすぐ承知しました", "ここへ来たことを、この人の仲間は知っているのですか", "いいえ、知りません。ひとりだけのとき話したのです。そして、ここへ来ることはだれにもいってはいけないと、かたく口どめしておきました。さっき戦いがはじまるまえにも、念をおして尋ねてみましたが、だれにもいわなかったと、はっきり答えていました", "なんという名で、どこに住んでいるのです", "小林昌二というのです。九州の出身ですが、両親とも死んでしまって、東京にはひとりの身寄りもない独身の青年です。浅草の向こうの山谷の旭屋という簡易旅館に、仲間といっしょに泊まっているのだといっていました", "もうひとりの白いほうの青年も艶歌師ですか", "いいえ、ふたりはお互いにまったく知らないのです。あの青年は、銀座に出ているサンドイッチマンです。張り子の顔をかぶって、プラカードを持って歩いているのを、あたしの友だちが喫茶店に誘いこんで話をつけたのです。これも即座に承知しました。井上というのです。名のほうはちょっと忘れました。身の上も詳しいことは知りません。でも、それは本人にきけばわかることですわ", "あなたすみにおけませんわね。あんな魅力のある青年をふたりも手に入れるなんて。いつも、ああいうのを物色して歩いていらっしゃるのでしょう" ], [ "身代わりですの", "エッ、身代わりって?" ], [ "あたしは、そうですね、シルエットと呼んでいただきましょう。影のような男です", "エッ、男ですって?" ], [ "まずあなたがた全部のアリバイを作らなければなりません。この会合場所はだれも知らないとしても、あなたがたが今夜お宅におられなかったことは知れ渡っているのですから、それを隠すのです", "まあ、そんなことができるのでしょうか" ], [ "事件をあすに移すって、そんなうまいことができるのでしょうか", "ぼくにならできるのです。いまその手並みをお目にかけますよ。上に電話があるのでしょうね。皆さんの集まっているへやですか。いや、それでもかまいません。ぼくはそのへやへ行って、電話で医者を呼んできます。みんなには知り合いの医者を呼んでいるような口をきいて、じつはぼくの腹心の部下を呼びよせるのです。そんなおしばいぐらい朝めしまえですよ。その部下が、手品の種になるのです。かれが必要な道具なども持ってくるのです……いや、ご案内には及びません。あなたがたはそれまでここに残っていてください。ぼくはどんな建物でも、自分の住まいと同じことです。けっしてへやをまちがえるようなことはありませんよ" ], [ "まず最初に、上にいる人たちを、うちへ帰さなければいけません。この医者の診察の結果、小林青年は命をとりとめることが明らかになったといって、安心させて帰すのです。むろんうそですが、会員たちや、相手の井上青年が、小林が死んだことを知っていては、事の破れるもとだからです。そうしておいて、われわれだけが残って、第二段の手段に着手するのです。いや、けっしてこわがることはありません。あなたたちも、いまに『なるほど』と得心します。さあ、春木さん、上に行って、小林はだいじょうぶだということを皆に告げて引きとらせてください。そして、会員たちには、あすは公然の用事のほかは、外出しないで、うちにいるように言いふくめてください。しかし、アリバイのことなど、うちあけてはいけませんよ。小林の容体がわるくなったような際には、連絡の必要があるからだといっておけばいいでしょう。さあ、早くしてください", "あたしにはまだよくわかりませんが、あなたのおっしゃるとおりにするほかはありません。じゃあ行ってきますが、今夜の『闘人』の賞金は、やっぱりやらなければなりますまいね。それから、みんなの賭け金も", "やってください。でないと疑いを起こさせます。お金の用意はしてあるのでしょうね", "むろん、用意してあります。あたしたちは後日払いなんて危険なことはしないのですよ" ], [ "では、これから第二段の仕事をはじめます。上に化粧室というようなへやはないでしょうか", "鏡と洗面台のあるへやがあります", "ぼくとこの男とふたりは、しばらくそのへやへはいります。そのまえに、ふたりで小林の死体を上にあげましょう。それから、小林の着ていた服は、どこか上のへやに置いてあるのでしょうね。その服が入り用ですから、二宮さんは、それをわれわれの閉じ込もる化粧室へ入れておいてください。帽子やくつもですよ" ], [ "まあ、そっくりよ。聞きもしないで、どうしてそんなにまねられるのでしょう。すばらしい才能だわ", "いえ、まぐれ当たりですよ。ぼくの友人に九州出の男がいるので、その口調をまねてみたのですよ" ], [ "なるほど、うまいやり方です。この人の変装の手ぎわから考えても、そのやり方はきっと成功するでしょう。しかし、もう一つ心配なことがあります。小林の死骸をどうすればいいのでしょう。人間ひとりのからだを、完全に隠すなんてことができるでしょうか。死骸が見つかれば、何もかもだめになってしまうじゃありませんか", "それは実に簡単ですよ" ], [ "え、死骸を隠すのが、簡単だとおっしゃるのですか", "そうです。絶対に発見される心配のない、しかも至極簡単な方法があります。しかし、それに着手するまえに、ひとつご相談があるのですが、まずこの男を早く山谷の簡易旅館へやらなければいけません。きみ、それでは、すぐに出発してくれたまえ。ぬかりなくやるんだよ。そして、連絡はいつものところだ" ], [ "親方、この先のわたしの土地だがね、いろいろお世話になったけれど、こんど事情があって売りに出すことにした。それでまあ、少し整地をしてから買い手に見せたいのだが、至急にひとつ地盛りをやってもらえないだろうか。できるなら、きょうからでも始めてもらいたいのだが", "ようがす。ちょうどいま手すきの若い者が二、三人おりますから、すぐにかかりましょう。地盛りをするとなれば、あの古井戸もお埋めになるのでしょうね", "それだよ。埋めようと思って、土だけは運んでおいたのだが、ついそのままになっていた。むろん、埋めてもらいたいね。どうせ水の出ない井戸だからね", "承知しました。それじゃ、ごいっしょに現場へ行って、地盛りの見積もりをして、すぐにじゃり屋に土を運ばせましょう" ], [ "だんな、おはようございます。親方がだんなに聞いて、古井戸を埋めてこいといいましたので……あの井戸ですね。土はちゃんと用意してあるんだから、わけはありませんや。さっそく埋めてしまいましょう。この辺はあまり子どもが遊びに来ないからいいようなものの、あぶない落とし穴ですよ", "そうだよ。わたしもそれが気になってね。まわりのかきねは破れているし、だれかここへはいって、落ちでもしたら申しわけないと思ってね。もっと早く埋めてもらえばよかったんだが", "ほんとにそうですよ。じゃあ、ひとつ早いとこやっちゃいましょう" ], [ "ぼく、佐川春泥です。お会いしてもいいが、場所はどこにします?", "銀座裏にルコックという小さな暗いバーがあります。そこにちょっと仕切りをした、別室のようになったへやがあるのです。時間はきょうの九時としましょう。九時といえば、バーのにぎわうさいちゅうですが、かえってそのほうが安全なのです", "承知しました。じゃあ、九時に、そこへ行きましょう。道順は?" ], [ "須原さんですか", "そうです。佐川先生ですね" ], [ "ここなら普通の声で話してもだれにも聞こえませんね", "だいじょうぶです。それを確かめてから、ここにきめたのです", "それじゃ、お話を伺いましょう" ], [ "三人の仲間です。会社のようなものを作っているのです。そのうちひとりは女です。いずれお引き合わせしますよ", "ここにおられるのですか", "いや、ここはぼくひとりです。ここのマスターも別に知り合いじゃありません。ご心配には及びません", "で、用件は?", "われわれは、あなたの秘密も多少知っているのですから、こちらの秘密もある程度うちあけます。秘密はお互いに厳守するという約束でね", "わかりました", "実は、おり入ってお願いがあるのです。それについては、ぼくたちの会社の性質を説明しないとわかりませんが、これはぼくたちは妻にも恋人にもうちあけない、三人だけの絶対の秘密ですから、そのおつもりで。あなたに話せば、世界じゅうで四人だけが知っていることになります。もし、これっぽっちでも漏らせば、その人の命はたちどころに失われます。わかりましたか" ], [ "秘密結社のたぐいですね", "まあそうです。しかし、結社といわないで、会社といっております。また、思想的な組合でもありません。実は、営利会社なのです。むろん、登録した会社ではありません。営利を目的とするものですから、まあかってに会社と呼んでいるわけです。その会社の名をいえば、秘密のほとんど全部がわかってしまいます。それが最大の秘密なのです。しかし、こうしてお呼びたてした以上、それをいわなければ、お話ができません。あなたは犯罪小説家ですから、たいして驚かれることもないでしょうが、気をおちつけて聞いてください" ], [ "さすがは佐川さんですね。少しも驚かないところが気に入りました。営業方法とおっしゃるのですか。ウフフフ、こいつは宣伝するわけにいきませんからね。といって、だまってっちゃあ、おとくいはやって来ません。それで、われわれ三人の重役の仕事は、おとくいさまを捜し歩くことなんです。いわば探偵みたいな仕事ですね。しかし、犯人を捜すのでなくて、金持ちで人を殺したがっているやつを捜すのです。そして、いくらいくらという値段をきめて、代理殺人をやるのです", "なるほど、おもしろい商売ですね。しかし、それで営業になりますか。命がけでしょうからね。よほどの利潤がないと……" ], [ "フフフ、さすがにすばやいですね。実は汽車でした。場所は申しませんが、高いがけの下を通って、急カーブを切る、そのかどのところへ、がけの上から、列車の来るのを見すまして、岩をころがしたのです。岩はレールに落ち、列車は見通しがきかないために、それにのり上げて、客車の一部が反対側の谷底に転落しました。二十五人というのは、死者だけの数ですよ", "それで、うまく目的を達したのですか", "偶然、目的の人物が死者の中にはいっていました。やりそこなえば、また別の手段をとるつもりでしたがね", "だれが岩を落としたのです", "むろん、ぼくらじゃありません。罪のない子どもです。その子どもに、ちょうどその時間に岩を落とさせるようにしたのは、ぼくらのひとりでしたがね。子どもは岩がレールに落ちるなんて少しも考えないで、ただいたずらをやってみたにすぎません。こうすれば、こんな大きな岩が動くという暗示を受けて、おもしろがってやってみたのにすぎません。それを教えたのは、どこから来て、どこへ行ったとも知れぬ旅の男です。しかも、少しも悪意はなかったように見えたのです。ですから、この事件は犯罪にはなりませんでした", "おもしろい。ぼくもそういう小説を書いたことがある", "そうですよ。そのあなたの小説から思いついたのですよ", "え、ぼくの小説から?", "だから、愛読者だといったじゃありませんか。普通の愛読者じゃないというのは、ここのことですよ" ], [ "ハハハハハ、あれは小説ですよ。実際と混同されては困る", "その言いぐさは、だれかほかの人に使ってください。ぼくらにはだめです。だから、最初に、あなたの秘密はいくらか握っていると申し上げたじゃありませんか" ], [ "死体をほうり出しておいても安全な場合もありますが、そうでない場合も多いのです。そこで、これは将来の話ですが、必要なときにはそのあなたの古井戸つきの地所を利用させてもらいたいのですよ。土地に対しては時価の十倍をお払いします", "それは、ぼくがそういう土地を持ってればという仮定で、承諾しておきましょう。要するに、ぼくとしてはアイディアだけを出資すればいいのですか", "そうです、そうです。出資とはうまいことをおっしゃった。そのとおりです。命まで出資してくださいとは申しません。あなたは取締役ではないのですからね", "で、顧問料は?", "奮発します。四人で山分けです。つまり、会社の全収入の二十五パーセントですね。配当はあなたも取締役なみというわけです", "で、もしぼくが不承知だといったら?", "まさか殺しゃしませんよ。秘密を漏らしたら消してしまうというのは、契約を取り結んでからです。それまではお互いに自由ですよ。もし、あなたが今夜の話をその筋に告げるようなことがあっても、ぼくは平気です。今夜話したことは、全部荒唐無稽の作り話で、小説家佐川春泥のごきげんをとりむすんだばかりだと答えます。常識人には、殺人会社なんてとっぴな話は、なかなか信じられるものではありませんよ。それに、こんなに客のいるバーの中で、まじめに人殺しの話をしたなんて、だれも本気にするはずがありませんからね。その意味でも、バーは最適の場所だったのですよ" ], [ "ありがとう。では、約束しましたよ。契約書も取りかわさなければ、血をすすり合うわけでもありません。何も証拠は残らないのです。それは、われわれの場合は、違約をしても、法廷に持ちこむことはできないからです。もし違約すれば、ただ死あるのみです。今日ただいまから、あなたは責任を持たなければなりません。もし、われわれの秘密をこれっぽっちでも漏らしたら、あなたはこの世から消されてしまうのです。わかりましたか", "いや、きみたちのほうで消すつもりでも、ぼくは消されやしないが、そのスリルはおもしろいですね。けっして秘密なんか漏らしませんよ。秘密はお互いさまですからね。そのうち、だんだんぼくの正体も、きみたちにわかるでしょうよ。で、さしあたって、ぼくはどういう知恵をお貸しすればいいのです?", "それはここでは話せません。あす、別の場所で話しましょう。あす午前中に、きょうのところへ電話をかけます。あすも、あのアパートにおいでですか", "実は忙しいのだが、一日ぐらい、きみたちのために延ばしてもいいです。あすこにいますよ", "速水荘吉という名でね。あなたにはそのほかに鮎沢賢一郎という名もおありですね。ウフフフフフ、どうです。ぼくたちの調査力もバカになりますまい", "ますます気に入った。きみのような友だちができて、ぼくもしあわせです。じゃあ、あす、お電話を待ちますよ" ], [ "どうです、秘密話にはもってこいの場所でしょう。目の下に東京の市街をながめながら、はるかに品川の海を見ながら、だれに立ち聞きされる心配もなく、ゆっくり相談ができるというものです", "きみのやり口は、いちいち気に入りました。すばらしい密談の場所ですね。では、聞かせてください。さしあたって、ぼくにどういう知恵を貸せというのですか", "いま話します。こういうわけです" ], [ "そのX氏は、どこに住んでいるのです", "世田谷の高台の広壮な邸宅です", "高台ですね", "見はらしのいい高台です", "二階建てでしょうね", "そうです", "そこの窓から見えるところにあき地がありますか", "あき地だらけですよ。あの辺はまだ畑が多いのです", "その二階から見えるあき地……なるべくX氏の家から遠いほうがいいのですが……そういうあき地を百坪か二百坪、手に入れることはできませんか。そのあき地の付近には、なるべく人家がないほうがいいのです", "そういうあき地は、むろんありますよ。また、値さえ奮発すれば、たやすく手にはいるでしょう" ], [ "はてな、それだけの準備で、X氏の条件のとおりのことができるのですか", "条件とぴったり一致するのです", "おびき出しの役を勤めるわれわれの女重役に危険はありませんか。絶対に安全でなくちゃ困るのですが", "X氏の女以外の人に顔さえ見られなければよろしい。だから、女の家ではなくて、どこかほかの場所で知り合いになるのですね。変装はしたほうがよろしい。また、現場へ来るまでにたびたび自動車を乗りかえ、最後の自動車は、男重役のひとりが運転するのです。きみか、もうひとりの重役に運転ができますか", "ふたりとも、いちおうはできますよ", "それですべてそろいました。もう成功したも同然です" ], [ "さすがに春泥先生だ。これは名案です。X氏は思うぞんぶんふくしゅう心を満足させることができますね", "きみにはもうわかったのですか。えらいもんだな", "いや、こまかいことはわからないが、大筋は想像できますよ。これは恐ろしいふくしゅうだ。きみはずいぶん残酷なことを考えたもんですね" ], [ "東京ですよ。自動車で一時間もかかりません", "きみが案内するというのかい?" ], [ "今は持っていないが、いつでも、そのくらいなら出せるよ", "そうですか。では、ご相談にのりましょう。しかし、女たちは帰してください。あなたおひとりでないと困るのです", "ここに待たせておいてもいいが、時間はどのくらいかかるんだね", "いや、とても待たせておくわけには行きません。一日かかるか、二日かかるか、あなたのお気持ちによっては、一週間でも、一カ月でも、ひょっとしたら一年でも……" ], [ "それじゃあ、女たちは帰してもいい。しかし、金は今夜はまにあわないが……", "わかってます。わかってます。ほんとうにそこへ行くのは、あすのことです。それまでに、よくご相談をしなければなりません。あなたも、内容も聞かないで五十万円は投げ出さないでしょうからね。これからそのご相談がしたいのですよ", "どこで?", "静かな別室のあるバーがあります。すぐ近くです。そこへご案内しましょう" ], [ "これは絶対に秘密ですよ。わかりましたか。わしは、三日というもの、あんたのあとをつけて、じゅうぶん観察した。そして、この人ならばだいじょうぶと考えて、話しかけたのです。わしは高級客引きを専門にやっている者です。名まえは申しません。あんたのお名まえも聞きません。この取り引きには、名まえなど必要がないのです。あんたのほうでは五十万円の現金を出せばいいのだし、わしのほうではその場所へご案内すればいいのですからね", "それはどこです?", "中央線の沿線で、荻窪の少し向こうです", "そこにそういうものがあることは、だれも知らないのですね", "もちろんです。五十万を出して、そこを見た人が幾人かありますが、その人たちも、堅く秘密を守ることになっています。それから、そこに住んでいる人たちと、このわしのほかには、だれも知りません", "そこに住んでいる人たちというと?", "それが秘密です。いまにあんたの目でごらんになれば、わかりますよ。そこは、われわれの世界とはまったく別の場所なのです。天国といってもいいし、地獄といってもいいでしょう。ともかく、この世のものではないのです", "しかし、やっぱり一種の見せ物でしょうね。いくら変わった見せ物でも、五十万円という入場料は、桁はずれじゃありませんか", "その場所が桁はずれだからです。それに、めったな人には見せられない場所です。五十万円さえ出せば、だれにでも見せるというわけではないのです", "それにしても、ばくだいな見物料を払うからには、何かの歓楽が得られるのでしょうね", "むろんです。驚愕と、恐怖と、歓楽とです。この世のほかのものです。想像を絶したものです", "危険も伴いますか", "あるいは危険があるかもしれません。つまり、冒険の快味ですね。多少の危険をおかさなくては、最上の歓楽は得られません。あんたは、そういうことがわかるおかただと見て、お誘いするのです。もし、わしの見ちがいでしたら、これでお別れにしましょう" ], [ "よろしい。あすの晩、五十万円を持ってきましょう。何時にどこへ行けばいいのですか", "ふうん、さすがにわかりが早いですね。こんなに早く決心をしたお客さんははじめてです……場所はこのバーにしましょう。時間は午後の九時です" ], [ "あれは潜望鏡ですよ。ペリスコープですね", "潜航艇の中から、海の上をながめるあれですか", "そうです", "じゃあ、あの池の中から、だれかが潜望鏡でのぞいているのですか", "まあそうですね。もっとも、こんなに暗くちゃ見えません。のぞくのは昼間だけですがね" ], [ "ほんものの潜航艇ですか", "いや、そうじゃありません。これだけのものです。あの太い円筒形のシリンダーが、出たりはいったりするだけですよ。そして、これが目的地への、たった一つの出入り口になっているのです", "目的地というと", "あんたに見せるもののある場所です。天国と地獄です" ], [ "これからは、この人が案内係です。お金は、あとで、この人に渡してください。わしはここで失礼します", "この人はだれですか" ], [ "まずそのようなものです。名まえはわざと申し上げません。お客さまのお名まえも、伺わないことになっております", "それはわかっています。しかし、この目くらましの秘密について、少しおたずねしてもいいでしょうか。東京の地下に、こんな恐ろしい別世界を現わすのは、いったいどこの国の幻術なのですか" ], [ "それを伺って安堵しました。あなたさまはひょっとしたら、目くらましの種を見破っていらっしゃるのではないかと心配しておりましたが……", "やっぱり、種があるのですね。ぼくは夢を見せられたのでも、催眠術にかかったのでもありませんね", "種あかしは、かえって興ざめかもしれません。しかし、わたくしは、あれをごらん願ったあとで、必ずこのへやで種あかしをすることにしております。まやかしの暴利をむさぼらないことを知っていただきたいからです。わたくしとしましては、いまごらん願ったものが自慢なのですが、五十万円の売りものは、実はもっとほかにあるのです。これまでのまやかしの世界は、いわばお景物にすぎません。そのほんとうの売りものについては、あとでお話しいたします。そのまえに、わたくしの発明について、ちょっと自慢話をさせていただきたいのですが……", "それはぼくも望むところですよ。あれが夢ではなくて、現実だったとすれば、どうしても種明かしが聞きたい。それでこそ満足するわけです。どうか、じゅうぶん自慢話をしてください" ], [ "一口に申せば、パノラマの原理です。お客さまは日本でも明治時代に流行したパノラマ館というものをご存じでしょうか", "残念ながら、見たことがありません。話に聞いているばかりです" ], [ "ここをひらいてから、まだ半年にしかなりませんが、あなたさまが十六人めのお客さまでございます。ポンピキじいさんのことばを信用して、五十万円を投げ出すかたが、半年に十六人もあるというのは、わたくしにとっても驚異でございました", "それにしても、二つのパノラマに百人に近い娘が働いているわけでしょうが、どういうふうにしてお集めになったのです。なみなみの給料では引きとめておくことはできないでしょうが", "そこにまた、わたくしどもの秘密があるのです。あれらにはじゅうぶんうまいものを食わせ、好きなようにさせていますが、この地下からは一歩も外へ出ることを許しません。親兄弟とも絶縁です。給料も払いません。いわば牢獄にとじこめられているわけですが、不思議なもので、最初はいやがっていますけれど、だんだん慣れるにしたがって、これほど楽しい仕事はないように感じてくるのですね。親を捨て、恋人さえも捨てて、地下の住人になりきってしまうのです。もっとも、ここには何人かの若い男がおります。彼女たちを引きとめておくためのえさなのです。たくましく、美しく、あらゆる愛欲の技巧を会得した不良青年どもです。ひとりで彼女たち五、六人を、なかには十人以上をあやつっているものもあります。ですから、そういう青年は十五、六人でじゅうぶんです。この青年どもは、わたくしの命令には絶対に服従する子分なのです", "すると、その青年たちが、手分けをして、地上の娘を誘拐してくるというわけですね", "アハハハハ、その辺はご想像におまかせいたします" ], [ "最後に見た血の踊りの男役も、そういう青年のひとりなのですか", "さようです。あれもなかなか美青年でございましょう", "で、あのふたりは、ほんとうに血を流したのですか。これもパノラマ式の目くらましだったのですか", "いや、ほんとうに血を流しました。深く切るわけではありませんから、命には別状はありませんが、あれだけの傷が癒えるのには相当の日数がいります。でも、あのふたりは、傷つけたり、傷つけられたりすることが、心から好きなのです。報酬によってやっているのではございません" ], [ "なるほど、そこに五十万円のねうちがあるというわけですね。むろん、誘拐でしょうね", "誘拐にはちがいありませんが、けっして手荒なことはいたしません。また、けっして人に気づかれる心配もありません。そこが、わたくしどもの秘密の技術なのです", "つまり、恋人誘拐引き受け業ですか", "さよう、恋人誘拐引き受け業でございます。殺人請負業よりはおだやかでもあり、いろっぽくもございますね" ], [ "これは驚きましたな。わたくしは、あなたさまのお名まえも存じあげませんが、それほどにおっしゃるところをみますと、あなたさまは、その道の大先達でいらっしゃる。もうお話し申しあげるまでもありますまい。とっくにお察しでございましょう", "なるほど、これはあなたの秘密かもしれませんね。秘密をしゃべってしまっては、五十万円のねうちがなくなる", "いや、いや、けっして話しおしみするわけではございません。なにごともあけすけに申し上げて、赤心を人の腹中におくというのがわたくしのやり方で、悪事はこれにかぎりますよ。コソコソとないしょごとをやるのは、いわばしろうとでございますからね", "えらい。やっぱり、あなたとは友だちになりたい。どうです、友だちになってくれますか", "光栄のいたりです。わたくしのほうからお願いしたいと考えていたところでございます。先生、お手を、ね、お手を!" ], [ "では、ぼくからいってみましょうか。あなたの恋人誘拐の秘密を", "エッ、あなたさまから?", "いや、具体的にではありません。その骨法をですね", "はい、伺いましょう。これは聞きものです", "西洋にこういうおとぎばなしがあります。万能の知恵者がありましてね、王様がお出しになる難題を、次々とやってのけるのです。まったく不可能なことをやってみせるのです。そこで、王様は、ご自分がその上に寝ておられるベッドのシーツを一晩のうちに盗み出してみよ、と仰せになった。すると、知恵者は、女官をぐるにして、お台所でカレーのような黄色いどろどろの液体を作らせ、それをそっと王様のシーツの上にたらさせておいたのです。王様は夜中に目をさまして、腰のあたりがべっとりしているので、驚いてお調べになると、黄色いどろどろです。や、とんだしくじりをやった、臭い臭いと、鼻をつまんで、そのシーツを丸め、窓の外へほうり出された。知恵者はそれを拾って、翌朝、はい、このとおりと、王様にお目にかけるというわけです。すべてこの手ですね。つまり、先方の弱点をつくのです。恋人誘拐の場合は、主として相手の好奇心に訴えるのです。こちらを主人公にしないで、先方を主人公にして、先方から謝礼さえ取れる場合もあるわけですね" ], [ "いや、恐れいりました。それです、それです。先方を主人公にして、先方の好奇心に訴える。一つ一つの細かい手法はいろいろですが、帰するところはそれでございますよ。女優とか芸能人は、いくら有名なかたでも、わけはありません。有名なかたほど好奇心が強いものですからね。ぐっと上流の家庭の奥さまでも、箱入りのお嬢さまでも、好奇心の強いかたは、なんとでも手段があります。苦手は好奇心の乏しいおかたです。そういうおかたは、この地底世界へおつれすることさえむずかしい。これにはまた、まったく別の手段がいるのですが", "その場合は、お客の男のほうに細工をする", "エッ、なんとおっしゃいました?", "たぶんそうだろうと思ったのです。ぼくならぼくをですね、その女の人のご主人なり、恋人なりに化けさせる", "いや、驚きました。あなたさまはほんとうにわたくしの親友です。カムレードです。さあ、もう一度お手を、お手を" ], [ "なにごとも原理は簡単ですね。しかし、実行がむずかしい。一分一厘の狂いがあっても、たいへんなことになるのですからね。つまりは、まったくすきのない注意力と、才能ですね。あなたにはその才能がおありになる。やはり、天才を要する事業です", "いや、おほめで恐れ入ります。まったくさようでございますね。大軍を指揮する注意力と才能がいります。そこが楽しいところでございます", "ここへは、女のお客はありませんか", "一度だけございました。お金持ちの未亡人で、まだ四十に間のある美しいおかたでした", "その注文は?" ], [ "いや、名まえしか知らない", "千代ちゃんに聞くと、なんだか気味のわるい人よ。おそろしく執念深い、ヘビみたいな人らしいのよ", "金もうけの天才には、変わり者が多いね", "それが並みたいていじゃないらしいのよ。じっと見られると身がすくむような目をしているっていうし、うちの中を歩くのもヘビのような感じで、足音がしないんですって", "それで何かあったの?", "なんだかゾーッとするようなことらしいのよ。千代ちゃん、お話ししてあげて" ], [ "奥さまが、行くえ不明になったんです。でも、だんなさまは捜そうともなさらないのです", "奥さまって、どんなかた? いくつぐらい?" ], [ "お若いのですわ。山際さんぐらいに見えますわ、美しい、弱々しいかたです。あたしどもにも、それは優しいかたですわ", "まあ、あたしぐらいなの? そんなに若いの?" ], [ "すると、不意に、そこへだんなさまの姿があらわれたのです。そして、じっと、わたしをにらみつけていらっしゃるのです。そのお顔! ほんとうに、人間のヘビのようでしたわ。何もおっしゃらないで、じっとわたしの顔をみつめていらっしゃるのです。青ざめた顔に、目だけがウサギのようにまっかでした。口が半分ひらいて、牙のような白い歯が出ていました", "ご主人には、そんな牙のような歯があるの?" ], [ "店もあるだろうし、工場もあるんだろう? そのほうはどうしたのかしら?", "よく知りませんけど、店や工場はそのままだろうと思います。両方とも主任のかたがいて、だんながおるすでも、ちゃんとやっていけるのですもの", "よし、わかった。あんたは、ともかくうちへお帰りなさい。きみもひとまず引き揚げてくれたまえ。あとはぼくにまかせておけばいい。あ、それから、川波さんのうちの見取り図をここへ書いておいてください" ], [ "あんたとは一度も会ったことはない。見ず知らずの他人だが、これはほうっておけなかった。いくら不義を働いたからといって、あんまりかわいそうですよ。まあ、助けてやることにしましょう。それについてね、あんたに相談があるんだが、このふたりに当座のこづかいと、ぼくに口止め料がいただきたい。あんたの小切手帳と実印のあるところを教えてください。ぼくが取ってきますよ", "いやだ。きさまなどに金をやるような義理はないッ" ], [ "もちろんですよ。小切手帳に適当な金額さえ書いてくださればね。さあ、小切手帳のありかです", "小切手帳も実印も、書斎の金庫の中だ", "書斎は知ってます。で、金庫の暗号は?", "み、よ、こ、だ", "み、よ、こ、ああ、ここに埋められているあんたの奥さんの名ですね。それほど愛していたのですね。いや、無理はない。無理はないが、これほどにすることはないでしょう。それに、このふたりを殺せば、いつかは発覚する。あんた自身が死刑にされる。そんなバカな取り引きはおよしなさい。日がたてば忘れますよ。奥さんは好きな男にやってしまいなさい。あんたの金力なら、かわりの女は思うままじゃありませんか。では、しばらく待っていてください。なわをかけさせてもらいますよ。絹糸だけでは、逃げられる心配がありますからね" ], [ "もう一つ、わたしはあなたのご存じないことまで知っています。それは、あのとき、あなたをひどいめに会わせたまっくろな怪物の正体です……", "エッ、きみはそれを知っているのですか?" ], [ "そんなにやすやすとやれますか", "相手によって、むろん難易はあります。しかし、わたしどもの会社は、いまだかつて、途中で手を引いたことはありません。必ずなしとげるのです。しくじれば、われわれ自身のいのちにかかわるのですからね。また、万一われわれが逮捕せられるようなことがありましても、そして、たとえ死刑の宣告を受けようとも、けっして依頼人の名は出しません。その保証がなければ、この商売はなりたちません。大枚の報酬をいただくのですから、それは当然のことですよ", "大枚の報酬というのは、いったいどれほど……" ], [ "それも場合によります。仕事の難易と、依頼者の資産から割り出すのです", "すると、わたしの場合は?" ], [ "篠田ですか、美与子夫人ですか", "両方です。そのほかにもうひとりあります", "あのまっくろな怪物ですか", "そうです。あいつは、いったい、なんという名まえなんです", "わたしにもわかりません。わたしが会ったときには佐川春泥という小説のほうのペン・ネームを使っていましたが、そのほかに速水荘吉、鮎沢賢一郎、綿貫清二など、いろいろの名を持っています。住所もそれぞれ違いますし、名によって、顔つきまで変わってしまうのです。変装の名人です", "そんなやつが、きみの手におえますか。それに、その男はきみの会社の顧問のようなことまでやった関係がある。それでもやっつけることができるのですか。商売上の徳義というものもあるでしょう" ], [ "あいつは、先方からわれわれを捨てて逃げたのです。今は何の縁故もありません。ああいうやつを敵に回せば、おおいに張り合いがあるというものですよ", "それで、報酬は?", "三人ともこの世から消せばいいのでしょうね。そして、それがあなたにはっきりわかればいいのでしょうね。消し方についての特別のご注文はないのでしょうね。それによって報酬がちがってくるのです", "注文をつけないとしたら?", "あの黒い怪物だけは別です。普通の場合の数倍いただかなければなりません。最低二千万ですね。ほかのふたりは、三百万円ずつでよろしい。むろん、仕事が成功して、その結果をあなたが確認したあとで、お払いになるのです。着手金などはいただきません", "あとになって支払わない場合はどうなさる?", "ハハハ、それは少しも心配しません。依頼者その人を消してしまうからです。つまり、いのちが担保ですよ。どんなばくだいな報酬でも、いのちには替えられませんから、けっきょくは支払うことになるのです。今までにもそういう例がいくつかあります。この事業は、けっして報酬を取りはぐる心配がないのです" ], [ "目がないほうです。しかし、このグラスなら三杯ですね。それ以上はやりません。酔うからです。酔っては商談にまちがいがおこります", "じゃ、乾杯しましょう" ], [ "ご依頼しました。三人とも消してください。そして、その確証を見せてください。幾日ほどかかりますか", "ふたりは一カ月もあればじゅうぶんです。しかし、あの黒いやつは、その倍も見ておかなければなりません。まず全体で二カ月というところでしょうね", "よろしい。それじゃ約束しましたよ" ], [ "ちょっとのちがいで助かった。もしあれが頭に当たっていたら、死んでしまったかもしれない", "で、それを落とした人は、わからなかったの?" ], [ "へんだわねえ。あなたが外へ出るたんびに、あぶないことが起こるのだわ。ねえ、もしかしたら……", "エッ、もしかしたら?", "川波が、あたしたちがここに住んでいることを気づいたのじゃないかしら。そして、だれかにたのんで、あなたのいのちをつけねらっているんじゃないかしら。あの人、まるで気ちがいなんだから、何をするかわかりゃしないわ", "まさか、このアパートを気づくはずはないよ。あの人にはまるで縁のない方角だもの。それに、もとのぼくのアパートにも、会社にも、ここのことは何もいってないんだからね", "でも、あたし、なんだか不安でしかたがない。この二、三日、買い物に出るたびに、だれかに尾行されているような気がするのよ。ですから、ときどき、ひょいと突然ふり返ってやるんだけど、べつに怪しい人は見当たらない。それでいて、絶えずだれかに監視されているように思われるの。あたしこわいわ" ], [ "それも気のせいかもしれないぜ。ぼくの場合と同じで、はっきりしたことは何もないじゃないか", "だからこわいのよ。相手がはっきりわかってれば、速水さんに相談もできるんだけど。まるで幽霊みたいに正体を現わさないでしょう" ], [ "ハハハハハ、きみはほんとうに、どうかしているよ。速水さんはぼくらを助けてくれた人じゃないか。その速水さんが、ぼくらを殺そうとするはずがないよ", "だから、速水さんの名をかたって、あたしたちをゆだんさせようとしたのかもわからないわ", "じゃあ、これを送ったのは速水さんじゃないというの?" ], [ "でも、速水さんて人、よくわからないわね。わたしたちを助けてはくれたけれど、やっぱり悪人にはちがいないわ。良斎をゆすって、お金を取るために助けたようなもんだわ", "そうだよ。ぼくもなんだか安心ができないような気がする。このチョコレートは、ほんとうは警察に届けたほうがいいんだがね", "でも、そんなことしちゃ、速水さんが迷惑するでしょう。困ったわね。いのちを助けてくれた人が、まともな世渡りをしていないなんて", "それに、ぼくたちのほうにも弱みがあるんだしね", "あたし、このあいだから考えていることがあるのよ" ], [ "明智小五郎っていう私立探偵知ってるでしょう? あの人ならば、警察じゃないんだから……", "相談してみるというの?", "ええ、このチョコレートも、あの人のところへ持っていって、分析してもらえばいいと思うわ", "ぼくが行ってみようか", "そうしてくださる? でも、尾行される心配があるわ。よほど注意しないと", "タクシーをいくつも乗りかえるんだよ。逆の方角へ行って、別の車に乗って、また別の方角へ行くというふうに、何度も乗りかえて、尾行をまけばいい", "そうね。じゃ、あなた行ってくれる?" ], [ "尾行のことかい?", "ええ", "タクシーを乗りかえるたびに、じゅうぶんあたりを見まわして、ほかに車のいないことを確かめたから、絶対にその心配はないと思う。だが、タクシー代はずいぶんかかったよ" ], [ "あのチョコレートには、やっぱり青酸化合物がはいっていた。明智さんが簡単な反応試験をやってくれた", "まあ、やっぱり……", "きみが注意してくれたので、いのち拾いをしたよ" ], [ "で、明智さんは、なんておっしゃるの?", "アパートを変わるのもわるくはないが、相手に見つからないように変わるのは、ちょっとむずかしいだろうというんだ。明智さんは速水さんのことも知ってたよ。あれは不思議な男だといってた。なんだか速水さんのことを、まえから調べてるらしいんだよ。あの人は、やっぱり相当悪いことをしているんだね。それからね、明智さんは、毒チョコレートを送ったり、ぼくに自動車をぶっつけようとしたのは、川波良斎自身じゃない。第三者が介在しているというんだよ。その第三者というのが、なんだか恐ろしいやつらしい。明智さんは、そいつに非常に興味を持っているように見えた", "良斎がその男に頼んだのね", "うん。明智さんはそうらしいというんだ。なにかいろいろ知っている様子だが、ぼくにははっきりしたことはいわなかった", "で、あたしたちはどうすればいいの?", "なるべく外出しないようにしていろっていうんだ。速水さんがアパートをかわれというなら、かわってもいいが、引っ越しのときは、じゅうぶん気をつけるようにというんだ", "それで?", "どういう方法か知らないが、明智さんがぼくらを守ってくれるというんだ。報酬なんかいらない。速水という男も、良斎が頼んだもうひとりの男も、非常に興味のある人物だから、進んで調べてみるというんだよ", "それだけでだいじょうぶかしら?", "ぼくが不安な顔をしているとね、明智さんは、絶えずあなたがたの身辺を見守っているから、わたしに任せておけばいい。少しも心配することはないと、請け合ってくれた" ], [ "速水さんはいらっしゃるのでしょうね", "はい、あちらでお待ちになっています" ], [ "そっちに用がなくても、こっちにだいじな用があるんだ。苦労をしておびきよせたきみたちを、帰してたまるものか", "ぼくたちになんの用事があるんだ。そして、きみはいったい何者だ" ], [ "おれは人殺しのブローカーだよ", "エッ、なんだって?", "人殺し請負業さ。わかったかね", "それじゃ、きさま、川波良斎に頼まれたというのか", "だれに頼まれたかはいえない。営業上の秘密だよ。いま川波良斎とかいったな。そんな人は知らないよ。聞いたこともないよ" ], [ "さっきの電話は、たしかに速水さんの声だったのかい?", "ええ、速水さんとそっくりだったわ。でも、そうじゃなかったのね。だれかが速水さんの声をまねてたんだわ" ], [ "おれもてつだうよ。きみはコテのほうをやってくれ。おれはレンガを並べるから", "オッケー" ], [ "だが、中のやつら、どうしてる。ばかに静かじゃないか", "さっき専務さんがのぞいたあとでね、やつら、すっかり壁紙をはがして、あれを読んじゃったんですよ。まるで幽霊みたいな顔してましたぜ。ふたりが抱き合って、すみっこにうずくまってまさあ", "壁の落書きというやつは、なかなかききめがあるね。やつら、耳をすましてレンガ積みの音を聞いてるだろうな。落書きでちゃんと暗示があたえてあるんだから、まさか聞き漏らすことはあるまい", "ウフフ、地獄ですねえ。ネズミとりにかかったネズミみたいに、心臓をドキドキさせてるこってしょう。ですが、専務さん、依頼者はもう来ているんですかい?", "うん、さっきから応接間に来ている。今までぼくが応対していたんだ。これができ上がったら呼ぶつもりだよ", "ずいぶん執念深いもんですねえ。だが、ああいうお客がなくちゃ、会社の経営はなりたちませんからね" ], [ "いよいよ密閉されました。まるで金庫の中へ閉じこめたようなもんですよ", "で、そののぞき窓というのはどれです", "このキャタツにおのりください。ほら、あの窓です。ふたを上にひらくと、中に厚いガラスがはめこんであります。八分も厚みのある防弾ガラスですから、中からピストルをうっても、突きぬけるようなことはありません。少しも危険はありませんよ" ], [ "もうネジをあけました。ガスは吹き出していますよ", "そうか。もう吹き出しているのか。うん、うん、黄色い毒蛇が床をはいだした。美与子、こわいか。今こそおまえの断末魔だぞ。ウフフフフフ、ブルブルふるえているな。ざまあ見ろ、いくら篠田にとりすがったって、そいつはおまえを助ける力なんぞありゃしない。わあ、ガラスの前まで黄色い煙がはい上がってきたぞ。もうへやの中は毒ガスでいっぱいだ。はっきり見えなくなった。美与子、篠田、どこにいるんだ。気ちがい踊りをはじめたか。アッ、ちらちら見える。踊っている。踊っている。ワハハハハハ、わしは二度ふくしゅうをとげたんだぞ。一度は土の中にうずめて獄門のさらし首にしてやった。こんどは黄色い毒蛇だ。ガスの中の気ちがい踊りだ。速水とかいうやつのおかげで、わしは二度の楽しみを味わったというもんだ。ワハハハハハ、ワハハハハハ" ], [ "ふうん、おそれいった。さすがはその道の専門家だね。死骸を隠すために一軒の邸宅を買い入れて、その中の一室を消してしまうとは、思いきった手段だ。ずいぶん資本もかかるわけだね。しかし、まだひとり残ってますぞ。速水とかいう怪人物だ。あれはきょうのふたりとはちがって、よほど手ごわいだろうからね", "手ごわいだけにおもしろいですよ。いよいよ次はあいつの番です。まあ、見ていてください。斬新な手口をお目にかけますよ……ごらんなさい。これでもう、あとかたもなく、一つのへやが消えうせました" ], [ "できますとも、三里ぐらいは平気ですよ。あなたは?", "青年時代に東京湾を横断したことがあります。すると、お互いに溺死させられる心配は、まずないわけですね?", "次に凶器ですか?", "そう。なにかお持ちですか", "これを持ってますよ" ], [ "そこで、凶器でも五分五分というわけですね", "実に公平です。撃ち合えば、どちらが早く火を吹くかだが、すばやさではひけはとりませんよ", "では、こんなものは、ポケットに収めておきましょう。きょうは決闘をやりに来たのではありませんからね" ], [ "ぼくの名案というのは、密室ですよ", "え、密室?", "探偵小説のほうで有名な、あの秘密の殺人というやつです", "ふん、ふん、わかります。わかります。それで?", "つまり、そのへやの内部から完全な締まりができていて、犯人の逃げ出すすきまが絶対にない。それにもかかわらず、そのへやには、被害者の死体だけが残されて、犯人の姿は見えないというやつですね。古来いろいろな犯人が、この密室の新手を考えた。百種に近い方法がある。しかし、ぼくの秘蔵しているのは、いまだかつてだれも考えたことのない新手です。五百万円では安いもんだ。しかし、教えてあげますよ。なんとなく、あんたが好きになったからだ", "ありがとう、ありがとう。ぜひ、教えてください。恩に着ますよ" ], [ "それにはね、ちょうど今、ぼくはレンガ建ての書斎を建てている。これがもう二、三日でできる。それを提供しますよ。むろん、一時お貸しするだけだが、殺人の現場となっては、あとは使えない。この建築費が三百万円かかっている。これは実費として別途支出ですよ。いいでしょうね", "三百万円! すると、合わせて八百万円のお礼ということになりますね。それはちと高い。もっと安い建物はありませんか", "アハハハハハ、家を買う話じゃない。そのぼくの書斎でなければ、うまくいかないのです。説明すればすぐわかるんだが、まず報酬をさきにもらわなくてはね。ぼくの売り物は形のない知恵なんだから、それをさきに話してしまっては、取り引きにならない。きょうでなくてもよろしい。報酬の用意をしていただきたい", "それはもう、ちゃんと用意しております。あなたがそういわれることは、わかっていましたのでね。しかし、こちらは五百万ときめていたのだから、それだけの小切手しかありませんが" ], [ "もう建物はでき上がっているんです。早いほうがよろしい", "で、そのあなたのレンガ建ての書斎はどこにあるのです", "世田谷区のはずれの蘆花公園のそばですよ", "一度、下検分をしておきたいものですね", "よろしい。それでは明後日の夜八時ごろがいいな。世田谷のぼくのうちをたずねてください。そのころには、書斎の家具などもはいっているでしょう" ], [ "え、なんです。なんとおっしゃった?", "その人は、いったい、どういう人物なんだね", "その人って?", "きみの会社が依頼されている人物、つまり殺される人物さ", "ああ、そのことですか。わしもいうのを忘れてましたがね、実に恐ろしい相手です。悪知恵にかけては、まず天下無敵でしょうね。その男は、いくつも名まえを持ってましてね、まるで想像もつかないような別人に化けて、悪事を働いている。まあ悪質なゆすりですね。不正な金もうけがうまいこと驚くばかりです。それに、実にすばしっこくてね、まだ一度もつかまったことがないというやつです。あんた、そいつは小説家にさえ化けるんですよ" ], [ "そういえば、なるほど、そっくりですね。不思議なこともあるもんだ", "で、名まえはなんというんだ", "いろんな名があるんですよ。速水荘吉、綿貫清二……それから佐川春泥……" ], [ "それが、きみが殺そうとしている男か", "そうですよ。こんどの事件の被害者というのは、おまえさんなのさ" ], [ "きみはここの主人に長く使われているのかね", "はい、十年の余になります。わしの主人は不思議な人で、いくつも名を持っておりましてね、住まいもほうぼうにあるのです", "主人の職業は?", "それが、わしにもとんとわかりませんのじゃ。まあ、お金持ちのぼっちゃんですからね。ずいぶんぜいたくな暮らしをして、遊びまわっている。そうかと思うと、何か書きものをするとみえて、そのためにこんな書斎を建てましたのじゃ", "ふん、よほど変わった人だね。この建物だってそうだ。窓はあんな小さいのが一つしかなくて、へやの中はまっくらだし、入り口のドアのこの厳重な締まりはどうだ。いったい、どういうわけで、こんな用心をするのだ。この中には、何かよほどだいじなものでも置いてあるのかね", "わしもよくは知らんが、だいじなものなんて、何もありゃしない。本が少しばかり置いてあるだけです。この戸締まりを厳重にしたのは、そういうことではない。主人は勉強しているときにだれかがはいってくるのが、おそろしくきらいじゃった。だから、カギをかけただけでは気がすまないので、でっかいかんぬきまでつけさせたのです。わしには主人の気持ちはわかりません。何かをこわがっていたようでもある。主人には敵が多かったらしいからね。いや、わしは知らんが、主人がときどきそんなことをいっていた。敵が多いから用心しなくちゃ、とね", "窓の鉄ごうしも、そのためにとりつけたというわけだね", "そんなこってしょう" ], [ "どなたですか。今、重大な事件がおこって、ごらんのとおり、とりこんでいるのですが", "わたしはこの近所に住んでいる松下東作というものです。職業は弁護士です。ここのご主人とは知り合いでもなんでもありません。実はさっき、作蔵という出入りの仕事師が、わしのうちへやって来て、殺人事件のことを話していったのです。あなたがたに頼まれて、掛け矢でドアを破ったあの男ですよ。あれの話によると、被害者の倒れていたへやが、内側から完全に締まりができていて、犯人の逃げた方法がわからないということですね。つまり、密室事件というわけでしょう。それについて、ちょっとわたしの考えをお耳に入れたいと思いましたのでね" ], [ "おや、あなたはさっきのおかた", "しらばっくれてもだめだよ。せっかくの密室トリックも、すっかり種が割れてしまったんだからね" ], [ "ハハハハハ、おしばいはうまいもんだね。だがね、さっきの死体がにせものだってことは、もう今ごろ、病院でばれてるころだぜ", "え、え、なんとおっしゃる。あの死体がにせもの……" ], [ "ハハハハハ、おどろいているな。おい、じいさん、もうそのひげを取ったらどうだ", "え、このひげを?" ], [ "東京港のボートの中で、お互いにピストルを見せあったね。きみが二五口径のコルトを持っていることは、まえから知っていた。それで、おれも同じコルトを手に入れたが、それがまったく同じ型かどうかを、あのとき確かめたのだよ。そして、このあいだの晩、きみがたずねてきたとき、そっときみのポケットのピストルとすり替えておいたのだ", "エッ、すりかえた? いつのまに? これはおどろいた。きみは奇術師だ", "奇術師だよ。おれのような世渡りには、奇術が何よりたいせつだからね。専門家について習ったものだ。そういうわけで、きみのポケットへすべりこませておいたピストルの最初の一発はから玉だった。あとは実弾だが、おれは一発で死ぬつもりだったから、それでよかったのだ。きみがあとになってピストルを調べても、残っているのは皆実弾だから、まさか最初の一発だけがから玉だったとは気がつくまいからね" ], [ "ちょっと待ってくれ。それはおかしいよ。わしの目の前で倒れたのは、たしかにきみだった。ところが、わしはあのとき、心臓にさわってみたし、手首の脈もとったが、どちらも完全にとまっていた。わしはぬかりなく確かめたつもりだ。それが生き返るなんて、考えられないことだ", "あれも奇術さ", "エッ、奇術で脈がとまるのか", "心臓をとめるのはむずかしい。だから、おれはシャツの中に、胸の形をしたプラスチックの板を当てておいたのだ。そうすれば、さわっても鼓動は感じない。手首のほうはプラスチックをかぶせるわけにはいかない。これは昔から奇術師のやっている方法を用いた。わきの下にピンポンの玉より少し大きいぐらいの堅いゴム玉をはさんで、腕の内側の動脈にあてがって、グッとしめつけているんだ。そうすると、そこから先の手の脈はとまってしまう。ちょっとのあいだ脈をとめてみせるなんて、わけのないことだよ", "うーん、そんな手があるとは知らなかった。さすがにきみは『影男』だよ。で、わしがきみの死骸にむしろをかぶせておいて、仲間へ電話をかけているあいだに、きみはのこのこ起き上がって、別のほんものの死体と入れかわったってわけか", "きみのたくらみは、海の上でピストルを見せあったときからちゃんとわかっていたので、医科大学の実験用の死体のなかから、おれに近い年配、背かっこうのものを盗み出させ、レンガの書斎のそばの木の茂みの中へ隠しておいた。この死体のほうは、ほんとうに顔に傷つけて、血だらけにして、それにおれの服を着せておいたので、きみはうまくごまかされたのだよ" ], [ "専務さん。実はちょっと心配なことがあるんです。こいつを車にのせるのを急いだので、今までだまっていましたが、大敵が現われたのですよ", "エッ、大敵とは?" ], [ "こいつに聞かれてもかまわないでしょうね。さるぐつわははめたけれど、耳は聞こえるんだから", "かまわないとも、こいつはもうのがしっこないからね。まもなく、この世をおさらばするやつだ。何を聞かせたってかまやしない" ], [ "それじゃいいますがね、明智小五郎のやつが、われわれの事業を感づきゃがったのですよ", "エッ、明智小五郎が?", "ぼくはここへ来るまで、六本木の事務所にいたんですが、専務さんが出かけられてまもなく、変な電話がかかってきたんです。相手はだれだかわかりません。明智小五郎が感づいたから注意しろという警告です。からかいかもしれません。しかし、用心に越したことはありませんからね。六本木のうちへはいるのは、よくあたりを調べてからにしたほうがいいでしょう", "そうか。それがほんとうだとすると、薄気味のわるい話だな。明智が動きだせば、そのうしろには警視庁がいる。そんなことになったら一大事だぞ。で、ほかのふたりの重役は、それを知っているのか", "符丁電話で知らせておきました。おふたりさんは、もう今ごろは安全地帯へ逃げ出していますぜ" ], [ "いけません。うちの裏表に、五、六人はりこんでいやあがる。刑事かどうかわかりませんが、とにかく、われわれの帰るのを待ち伏せしているのはたしかですよ", "そうか。それじゃ、品川の事務所へやれ。御殿山の家だ" ], [ "だめだ。ここにも張りこんでいやあがる。こんどはどこにしましょう", "尾久だ" ], [ "うん、しかたがない。お互いの利害が一致すれば、一時休戦だ。とにかく、今はきみもわしも、身の安全を図らなければならない。こういう場合、いつも名案を持っているのは、きみのほうだ。お互いのために、ひとつ知恵をしぼってくれ", "窮余の講和というわけか。きみもずいぶんかってなやつだな。まあいい、それほどにいうなら、ひとつ名案をさずけてやろう。影男は融通むげ、窮するということを知らない人間だからな", "たのむ、たのむ。こうなれば、きみの知恵にすがるばかりだ", "それじゃあ、この細引きを解いてくれ。からだの自由がきかなきゃ、名案も浮かばないよ", "うん、解いてやる。だが、だいじょうぶだろうな。わしを裏切って、逃げ出す気じゃないだろうな", "そんなに疑うなら、よしたらいいだろう。おれのほうから頼んだわけじゃない", "わかった、わかった。それじゃあ、解いてやる。そのかわり、もし逃げようとすれば、わしもやけくそだ。ピストルをぶっぱなすよ。ほら、これだ。こんどはから玉じゃないぞ" ], [ "ここはどこだ", "下高井戸の近くだよ" ], [ "荻窪まで、どれほどかかる?", "十五、六分だな", "よし、荻窪だ。荻窪から青梅街道を少し行ったところだ。そのまえに電話をかける。公衆電話があったら止めてくれ" ], [ "エッ、なんだって? この池へはいるのかい", "うん、はいるのだよ。水の中へもぐるんだよ。ウフフフフフ。だが、安心したまえ、直接もぐるんじゃない。それにはうまい方法があるんだ。いまにわかるよ。まあ、見ていたまえ" ], [ "ところで、規則に従って、まず観覧料をお支払いします。まえのとおりでよろしいですね", "はい、さようで" ], [ "ぼくの小切手ですが、まちがいはありません。もうおなじみになっているんだから、ご信用願えるでしょうね", "もちろんでございます。あなたさまのばくだいなご収入については、わたくしどものほうでも、よく承知いたしておりますので" ], [ "では、三人いっしょに奥へ行ってもよろしいですか", "もちろんでございます。ですが、ちょっとお断わりしておきますが、あなたさまがこのまえご覧になりましたけしきは、がらり一変いたしておりますよ。このまえは海でございましたが、こんどは森でございます。艶樹の森と申しまして、別様の風景を作り上げたのでございます。それから、第二のパノラマ世界もまた、すっかり変わっております。それは荒涼たるこの世のはてでございます。そこへ行く通路は……いや、これは説明いたしますまい。艶樹の森をさまよっておいでになれば、自然とそのもう一つの別世界に出られるようになっております……では、どうか廊下を奥へお進みいただきます。案内のものは、このまえと同じように、途中までお出迎えしておりますから" ], [ "や、あすこにも!", "おや、こちらからも!" ], [ "これはどうしたことだ。おれの目が酔っぱらっているのか。それとも、またしても何か地底の魔術がはじまったのか", "わしの目もどうかしている。鏡の影が倍になった。いや、三倍、四倍になった。見ろ、木の幹のすきまというすきまは黒い人間でいっぱいじゃないか。おかしいぞ。ほら、わしはいま手をあげた。だが、手をあげないやつがいっぱいいる。わしらの影じゃない。別の人間がはいってきたのか?" ], [ "きみたちは、いったいだれです", "ぼくは警視庁捜査一課第一係長の中村警部だ。逮捕状もちゃんと用意している" ], [ "ぼくを斎木だと思いこんでいたのがさ", "エッ、それじゃ、きみは斎木じゃないのか" ], [ "アッ、きみはもしや……", "私立探偵の明智というものだよ" ], [ "ふん、あんたが音に聞く明智先生ですかい。お見それしました。だが、いったい、いつのまに……? 変装の名人とは聞いていたが", "六本木の毒ガスと塗りこめ事件の少しまえからね。斎木がどこかぼくと似ているのをさいわい、ぼくは斎木をある場所に監禁して、こっちが斎木になりすまし、きみの忠実な部下となった。そして、たった今まで、忠勤をぬきんでていたというわけだよ" ], [ "ハハハハハ、これはおかしい。すると、きみは人殺しのてつだいをしたわけだね。篠田昌吉と川波美与子を毒ガスで殺して、へやの中へ塗りこめたとき、きみはレンガ積みまでやったじゃないか。ガスのネジをあけたのもきみだ", "それがたいへんな思いちがいだというのさ", "エッ、なんだって?", "ガスのネジをひらいたり、レンガを積んだりしたときには、ふたりはもう、あのへやにはいなかったのだよ", "バカなことを。おれたちは、絶えずドアの外で見はっていた。出入り口は、あのドアのほかには絶対になかった", "見張ってはいたさ。きみとぼくと代わりあってね", "エッ、代わりあって?", "ふたりをあのへやに閉じこめて、きみはのぞき窓からしばらくからかっていた。いやがらせをいっていた。それから、川波良斎を迎えに行った。あとの見張りは、このぼくに任せておいてね" ], [ "あのすきに、ぼくはへやにはいって、ふたりを逃がした。ふたりは廊下の窓から出て、木のかげを伝って裏口へまわった。そこにぼくの部下が待ちうけていた", "いや、ちがう。そんなはずはない。良斎をつれてきて、のぞき窓からのぞかせたとき、良斎がふたりの姿を見ている。見なければ、あいつが承知するはずはない", "そこに、ちょっとからくりがあったんだよ。まあ手品だね。ぼくはズボンとスカートと二足のくつを、新聞紙に包んで、あの廊下の物置きべやに隠しておいた。それと同じ物置きべやにあった古服なんかを持ってあのへやにはいった。そして、ふたりにズボンと、スカートと、くつをぬがせ、ぼくの用意しておいたのとはきかえさせて、逃がしたのだ。残ったふたりのズボンと、スカートと、くつで、古服なんかを芯に入れて、人間の下半身をこしらえた。それを、のぞき窓の下の壁ぎわにならべて置いた。真上の窓からのぞくと、壁ぎわの上半身は見えないから、ふたりが絶望して、壁にもたれて、足をなげ出していると信じてしまったのだ", "ちくしょう! やりやがったな" ], [ "それにしても、明智先生は、この地底の世界へははじめて来られたのでしょう。それで、どうしてこんなに手早く警察と連絡できたのでしょうか。これにも何か手品の種があるのですかね", "それは種があるんだよ" ], [ "きみはさっき、その別の世界は、この世の果てだといったね。そこはどんなけしきなのだね", "まったくのこの世の果てですよ。荒涼たる岩ばかりの無限の大渓谷です。地球の果てです", "ここには、その二つの世界のほかに、まだ何かあるんじゃないか", "ありません。二つの世界で、わたしの地底王国はいっぱいですよ", "で、そこから外への抜け道はないだろうね", "あるものですか。外への出口は、池の中のシリンダーただ一つですよ。ですから、あなたがたは、ここにがんばってれば、絶対にふたりを逃がす心配はありません", "ぼくもそうにちがいないと思って、わざとふたりを見のがしておいたんだがね。それで、この世の果ての世界では、どんなことが起こるんだね", "美しい天女の雲が、舞いさがってくるのです。しかし、だれかが機械を動かさなければ、そういうことは起こりませんよ", "そして、最後に、やはり麻酔ガスで眠らせるのかね", "そうですよ。一つの世界ごとに、一度ずつ眠らせるのです。それも、機械を動かさなければ、ガスは吹き出しません", "で、きみはその機械を動かせるだろうね", "もちろんですよ。わたしが設計した機械ですもの", "よろしい。それじゃ、なわをといてやるから、その機械を動かしてくれたまえ。もっとも、ぼくが絶えずきみにつきそっているという条件だよ", "承知しました。それじゃ、早くなわをといてください……ところで、このわたしは、いったいどうなるのですかね。やっぱり、ひっぱられるのですか。わたしは何も悪いことはしていないのですよ。人を殺したわけじゃなし、物を盗んだわけじゃなし、自分の財産で、自分の地所の下に穴を掘らせて、その中に雄大な別世界を造りあげたというばかりですよ。もし罪があるとすれば、無届け営業ぐらいのものだとおもいますがね", "たぶん、たいした罪にはならないだろう。しかし、いちおう取り調べられることは、まぬがれまいよ。きみが少しも悪事を働いていないかどうかは、調べてみなければわからないのだからね" ], [ "アッ、あれは雲じゃない。美しいはだかの女だ。数人の女たちが、手を組み、足を組んで、一団の白い雲となって、横ざまに流れているのだ", "羽衣をぬいだ天女のむれだ。女神の一団が天空を漂っているのだ" ], [ "で、ぼくたちは、これから警視庁へ行くんですか", "そうだよ。きみたちも、もう年貢の納めどきだからね" ] ]
底本:「影男」江戸川乱歩文庫、春陽堂書店    1988(昭和63)年3月10日新装第1刷発行    1993(平成5)年11月20日新装第3刷発行 初出:「面白倶楽部」    1955(昭和30)年1月号~12月号 ※「自動的」と「自働的」の混在は、底本通りです。 入力:入江幹夫 校正:高橋直樹 2019年7月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "まあ、びっしょり、汗だわ。…………怖い夢だったの", "怖い夢だった" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年11月20日初版1刷発行 底本の親本:「創作探偵小説集第四巻 湖畔亭事件」春陽堂    1926(大正15)年9月 初出:「新青年」博文館    1926(大正15)年4月 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:門田裕志 2017年3月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057506", "作品名": "火星の運河", "作品名読み": "かせいのうんが", "ソート用読み": "かせいのうんか", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1926(大正15)年4月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-04-29T00:00:00", "最終更新日": "2017-03-11T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57506.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2005(平成17)年11月20日", "入力に使用した版1": "2005(平成17)年11月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年7月20日2刷", "底本の親本名1": "創作探偵小説集第四巻 湖畔亭事件", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年9月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "金城学院大学 電子書籍制作", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57506_ruby_61212.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-03-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57506_61255.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-03-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "あっ、小林さん。", "あっ、明智先生。" ], [ "鉄仮面って、いったい、だれだったのだろうね。", "王さまの兄弟だったともいうし、大臣だったともいうし、僧正だったともいうし、まだいろいろの説があるんだよ。とにかく、顔をかくしておかなければならないというのは、世間によく知られた、えらい人だったにちがいないよ。" ], [ "あの鉄仮面の中に、どんな顔があるんだろうね。", "これは人形だから、鉄仮面の中は、からっぽだよ。それとも……。" ], [ "鉄仮面が逃げだしたんです。", "裏口から出て、自動車にのって、どっかへいってしまいました。", "え、なんですって?" ], [ "あなたがた、ゆめでも見たのですか。ロウ人形が歩きだすなんて、そんなばかなことがあるもんですか。", "いいえ、ほんとうです。うそだと思うなら、鉄仮面の場面を見てください。あそこには牢番が残っているばかりです。", "よろしい。では、見にいきましょう。あなたがたも、いっしょに来てください。" ], [ "ぼく、あの人形にさわってみてもいいでしょうか。", "ええ、よろしいとも、ふたりとも、中にはいって、さわってごらんなさい。" ], [ "あなたを、おたすけしたひとのうちですわ。あたしは、そのうちのむすめです。", "そうでしたか。ぼくは悪者のために自動車におしこまれ、麻酔薬をかがされて気をうしなってしまったのですが、あれから、どのくらい時間がたったのでしょう。そして、ここは、やっぱり東京なのでしょうか。", "ええ、まあ、そうですの。でも、あなたは、まだ、いろいろなこと、お考えにならないほうがよろしいですわ。", "なあに、もう、だいじょうぶですよ。どこも、なんともありません。すこし、頭がフラフラするぐらいのものです。" ], [ "まだ、だめです。めまいがします。なんだか、この部屋がフワフワと、宙にういているような気持です。", "ほら、ごらんなさい。むりをしてはいけませんわ。", "しかし気分はなんともないのです。どうか、ご主人にあわせてください。おれいをいわなければなりません。", "そんなことはいいんですの。それに、いま主人はおりませんし……。" ], [ "おやっ、この部屋には窓がひとつもありませんね。だから、昼間でも、こうして電灯をつけておくのですか。みょうな部屋ですね。いったい、いまは昼ですか、夜ですか。", "夜ですの。いま八時ですわ。", "いく日の?", "十六日。" ], [ "この部屋は、いったい、何階にあるのです。なんだか、いつもユラユラしていて、高い塔の上にでも、いるような気持ですね。", "そうかもしれませんわ。" ], [ "ほんとうですか。ほんとうに、お手洗いにいらっしゃるのですか。", "ほんとうです。どうか、くさりをといてください。" ], [ "いや、じつは、きみにたのみがあるんだよ。", "たのみ? ずうずうしいやつだな。まあ、いってみるがいい。どんなたのみだ。", "タバコがすいたいんだ。", "フフン、タバコがすいたいから、なわをとけというのか。そうはいかない。", "いや、なわはとかなくてもいい。ぼくのポケットのシガレットケースから、タバコを一本だして、ぼくの口にくわえさせ、火をつけてくれればいいんだ。まる一日タバコをすっていないので、食事よりなにより、まずタバコがほしいのだよ。", "アハハハ……、そうか。おれもタバコずきだから、その気持はわかるよ。よし、それじゃ、そこへいって、タバコをすわせてやろう。" ], [ "シガレットケースは、どこにはいっているのだ。", "ここだよ。右の内ポケットだよ。" ], [ "なんだ、一本しかないじゃないか。", "一本でもいいよ。ともかく、すわせてくれ。", "さあ、それじゃ、これをくわえるがいい。ライターをつけてやるからな。" ], [ "いや、おれはむろん知っているよ。だが、おまえが知っているかどうか、ためしてみるんだ。さあ、どこだ。いってみろ。", "きまってるじゃありませんか。いつも、かしらが、いちばんだいじなものをしまっておく、その戸棚ですよ。", "うん、そうか、ここだな。だが、かぎがかかっている。おまえはかぎがどこにあるか知っているか。", "つくえのひきだしですよ。右がわのいちばん上のひきだしの、手帳の間にはさんであるのを、かしらは忘れたんですかい。", "忘れるもんか。ちょっと、おまえを、ためしてみたんだよ。よしっ、それじゃあ、もう用はない。あっちへいってよろしい。" ], [ "どうした、どうした。", "なに、明智のやろうが、しばられているって?", "すると、かしらが明智をしばったのかな。" ], [ "おやっ、これは明智じゃないよ、明智は、もっとモジャモジャの頭をしていたはずだぜ。", "なんだとう。これが明智でなけりゃ、いったい、だれだっていうんだ。", "それが、わからねえんだよ。へんだなあ。" ], [ "ひゃあっ、かしらだっ。かしらだぜ、こりゃあ。", "はやく、なわをとかねえか。みんな、なにをぐずぐずしてやがるんだ。" ], [ "ばかやろう。なんてドジなやろうどもだっ。明智のやつは、おれの道化仮面をかぶって、おれとそっくりの姿になって、どっかにかくれているんだ。手わけをして、あいつをさがしだせっ。", "ところが、かしら、船の中は、もうすっかり、さがしちゃったんです。しかし、あいつの姿はどこにもありませんよ。", "おやっ、おかしいぞっ。" ], [ "かしら、かしら。かしらはさっき、甲板から、ボートにのっているおれたちに、もういいから、あがってこいって、よびかけましたかい。", "そんなこといやあしない。それは、おれじゃあないよ。", "するってえと、あれが明智だったかな。たしかに、道化仮面をかぶってましたよ。", "いや、まてまて。かしら、たいへんなことになりましたぜ。" ], [ "なんだ、なにがたいへんだ。", "かしらは、さっき、かしらの部屋へおれをよんで、『星の宝冠』はどこにはいっているかって、聞きゃあしないでしょうね。", "そんなこときくもんか。おれは『星の宝冠』をしまったところを忘れやしねえ。", "あっ、それじゃあ、あいつだ。あれが明智のやろうだったんだ。", "おいっ、なにをいっているんだ。明智にそんなこと聞かれたのかっ。", "へえ、あれが、まさか明智だとは知らねえもんだから、かしらは、へんなことを聞きなさると思ってね。", "き、きさまっ、それじゃあ、もしや……。", "かしら、すみません。『星の宝冠』は、あいつが持っていったんです。", "おれにばけた明智のやろうがか?", "へえ。" ], [ "おい、のぞいてみろよ。ひょっとしたら、あのボートで。", "うん、おれも、そんなことじゃないかとおもうんだ。" ], [ "ハハハハ、電話で挑戦というわけだね。よろしい。いつでも挑戦におうずるよ。このあいだの汽船では、きみの部下がおおぜいいたので、『星の宝冠』を取りもどすだけでがまんしたが、こんどこそ、きみをとらえてみせるぞ。きみこそ、ようじんするがいい。", "ウフフフフ……、おもしろくなってきたね。明智大探偵対仮面の恐怖王か。巨人対怪人というやつだね。それじゃ、そのときまで、明智先生、からだをだいじにしたまえ。じゃあ、あばよ。" ], [ "あいつ、見たかい。仏像じゃないよ。生きているんだよ。身動きしたじゃないか。そして、ぼくらのほうを見て笑ったじゃないか。", "うん、そうだよ。あやしいやつだねえ。おばけかしら?", "おばけなんて、この世にいるはずないよ。あいつ、悪者にちがいないよ。金色の姿をして仏像の中にかくれて、なにか、わるだくみをしているんだよ。ぼくたち、ここから、のぞいていよう。あいつ、もっと動くかもしれないからね。" ], [ "あらっ、なんでしょう。", "うん、へんだね。なんだか、ピカッとひかったね。" ], [ "パパ、たいへんです。黄金仮面が……。", "えっ、黄金仮面だって。", "ぼくたちの勉強部屋の窓の外から、のぞいていたのです。はやく、警察へ……。" ], [ "マユミさん、先生からだ。黄金仮面のいるところがわかったんだって。", "え、いつのまに帰っていらしったの。", "きょうの昼ごろだって。それから、いままでのあいだに、もう黄金仮面のゆくえを、つきとめておしまいになったんだよ。" ], [ "ウフフフ……、わからないかね。", "えっ、わからないかって?", "きみは、いま、おれを先生ってよんだね。なぜ、おれが先生なんだね。" ], [ "ウフフフ……、へんな顔をしているね。やっとわかったかね。そうだよ。おれは明智探偵じゃない。あいつは、いまごろは、まだ福井県で、まごまごしているころだよ。", "じゃあ、さっきの電話も……。", "そうさ、あれも、おれが明智の声をまねた、にせ電話だよ。", "えっ、それじゃあ、きみは……。", "恐怖王というどろぼうだよ。このごろは黄金仮面ともよばれている。こん夜、片桐のもっている国宝の仏像をぬすみだすので、ひょっとして、片桐が明智の事務所へ電話でもかけて、きみたちにじゃまされるといけないので、こうして先手をうって、とじこめておくのだよ。ハハハハ、おれも、なかなか用心ぶかいだろう。じゃあ、きみたちは、ここで、ゆっくりやすんでいたまえ。……あばよ。" ], [ "持っています。", "持っています。" ], [ "よし、それじゃ、そのなわばしごを三本もつなぎあわせれば、地面までとどくだろう。みんなが、じゅんばんに、それをつたって、おりればいいんだ。あの窓からなわばしごをさげるんだよ。", "うん、そうだ。それがいいや……。" ], [ "うん、そうか。よし、どっちへ逃げた。", "こっちですよ。" ], [ "ハハハ……、おれは、とび道具のような、やばんなものは持っていないよ。血を見るのは大きらいだからな。それより、知恵だよ。おれの武器はおくそこの知れない知恵なのだ。", "フフン、まけおしみをいってらあ。で、どんな知恵があるんだっ。" ], [ "いや、あやしいやつには、であいません。あいつが逃げたのは、いつごろのことですか。", "たったいまです。門から出たとすれば、あなたがたと、すれちがったはずです。", "それなら、門から逃げたのではありません。ぼくたちは、だれにもであわなかったのです。", "それじゃあ、まだ庭の木の間に、かくれているのかな。", "さがしてみましょう。みんなで、てわけをして、さがしてみましょう。" ], [ "ねえ、おまわりさん。恐怖王は変装の名人ですねえ。だから、ひょっとしたら……。", "えっ、それじゃあ、いまの庭番のじいさんが、あやしいというのか。", "ええ、ひょっとしたら、あいつ、恐怖王が、ばけていたのかもしれませんよ。ああ、いいことがある。たしかめてみるんですよ。", "えっ、たしかめてみるって?" ], [ "あっ、それじゃあ、いまのじいさんが……。", "そうですよ。ここに、じいさんのつけひげや服をかくしておいて、きかえたのです。金色の仏像から庭番のじいさんに、早がわりしてしまったのです。", "しまった。それじゃあ、とうとう、逃げられたか。", "いや、だいじょうぶです。へいのまわりには少年探偵団が見はっています。もし逃げだしたら、よびこの笛をふきならすはずです。だから、あいつは外へは出られないのですよ。まだ庭の中にいるにちがいありません。", "よしっ、それじゃ、ほかのれんじゅうにもいって、もう一度、さがすんだっ。" ], [ "きみのいちばん、おそれている人間さ。ハハハ……、わからないかね。ぼくは明智小五郎だよ。", "えっ、明智だって……。" ], [ "まいったよ。ここまでさきまわりしているとは知らなかった。で、どうしようっていうんだ。", "きみを、びっくりさせようというのさ。", "びっくりさせる? まだ、このうえにか。", "うん、このうえにだよ。", "いったい、なんだ?", "きみの正体さ。", "えっ、正体?", "きみの正体は、怪人二十面相だっ!" ], [ "だって、ひかったんだよ。金色に、ひかったんだよ。", "なにが、ひかったのさ。ぼく、気がつかなかった。", "顔が、ひかったんだよ。自動車を運転しているやつの顔が、金色だったよ。", "えっ、それじゃ、黄金仮面……。", "そうかもしれないぜ。あっ、自動車がとまった。見なよ。あいつおりてくるよ。" ], [ "いや、ごうもんなんかしない。いたいめにはあわせない。ただ、おそろしいめに、あわせてやるのだ。", "だが、ぼくたちを、ながくここに、とじこめておけば、明智先生がたすけに来てくださる。明智先生には、なんでもわかるのだからね。そうすれば、きみははめつだよ。せっかくつくった美術館もだめになってしまうんだよ。" ], [ "あっ、ぼく、気をうしなっていたのかい。", "うん、そうだよ。けがはしなかった?" ], [ "なんともないよ。なにかで頭をうったのかな。", "おやっ、ひたいから血が出ているよ。", "うん、そうだ。ここをうったんだ。それで、気がとおくなったんだよ。" ], [ "ぼく、どのくらい気をうしなっていた?", "ちょっとだよ。一分ぐらいだよ。", "それじゃあ、落盤があってから、時間はたっていないのだね。で、あいつはどうしたんだい。", "あいつって?", "きまってるじゃあないか。ゴリラだよ。", "ああ、あいつかあ。あいつね、土がおちたとき、すごいさけび声をたてたよ。でも、ぼくたちのかくれていた土の山より、ずっとむこうにいたから、うまく逃げたかもしれないよ。あっ、小林さん、ぼくたち、たすかったね。土がくずれて、道がとまってしまって、あいつ、こっちへこられなくなったからね。" ], [ "おれたち、この土をほって、外へもぐりでるよりないね。", "うん、だが、いまの落盤は、だめだよ。水でグショグショになっているから、いくらほっても、上から土がおちてくるばかりだからね。うっかりすると、第二の落盤がおこるかもしれない。そして、こんどこそ、ぼくたち、うずまってしまうかもしれないんだぜ。", "そうだなあ。こまったなあ。" ], [ "じゃあ、あっちのほうの土を、ほってみようか。ずっとまえにおちたんだから、もう、かわいているかもしれない。", "うん。やってみよう。そのほかに、たすかるみちはないよ。" ], [ "うん、そりゃあ、そうさ。", "もし、これからさきのあなが、ぜんぶうずまってたら、どうする? ほっても、ほっても、どこへも出られないじゃないか。", "そりゃあ、そうだよ。", "もし、むこうのあなが、ふさがっていないとしてもね、そのあなを歩いていくと、つきあたりになってしまうんじゃないだろうか。おれたちは、どっちにしたって、たすからないのかもしれないぜ。" ], [ "ぼくがいけなかったんだよ。ほっていくと、土の中に木の棒がじゃましていたので、力まかせに、ひっぱりだそうとしたんだ。そのはずみに、上から土がおちてきたんだよ。落盤というほど大きな土くずれじゃないけどね。これからは、気をつけてほるよ。", "じゃあ、まだ、ほるつもりかい、こんなことがあっても。" ], [ "こんなあながあるもんだから、おれたち、ひどいめにあったじゃないか。", "おいおい、ポケット君、きみは、このあなのおかげで、ゴリラからたすかったことを、わすれたのかい。", "うん、そりゃそうだけどさ。" ], [ "おら、はらがペコペコだよ。もう、歩けないよ。", "ぼくだってそうさ。がまんしなきゃ、しかたがないよ。はらがへるどころか、じっとしてたら、死んでしまうんだからね。歩くほかに、たすかるみちはないんだよ。" ], [ "あっ、枝道だ。どっちへいったらいいだろう。", "ほんとだ。このあなは長いんだなあ。左のほうが、すこしひろいよ。", "うん、そうだね。じゃあ左のほうへいくことにしよう。" ], [ "ポケット君、わかったよ。これは、さっき、ぼくらが落盤にであった場所の、はんたいがわなんだ。ゴリラは、ぼくらをおいかけて、ここまで来ていたんだよ。そこへ、落盤がおこったものだから、下じきになってしまったんだ。あいつけがしていたので、逃げることができなかったんだよ。", "だが、へんだね。どうして、おれたち、はんたいがわへ出られたんだろう。", "枝道が三つもあったし、道がぐっと、まがっているので、いつのまにか、もとのところへ、もどってきたんだよ。", "じゃあ、小林さん、おれたち、さっきの枝道を、左へまがらないで、右へまがれば、あなの外へ出られたんだね。" ], [ "た、たすけて、くれるか?", "きっと、たすけてやる。そのかわり、ほんとうのことをいいたまえ。きみは二十面相だね。", "うん、そ、そうだ。", "よし、わかった。だが、ぼくたちの力では、どうすることもできない。いま、おとなの人を、よんでくるからね、すこしのあいだ、がまんしているんだ。" ], [ "だけど、これはぼくたちのものには、ならないね。", "むろんだよ。このあなをほらせた人の子どもか孫が、きっとまだ権利を持っているよ。とにかく、はやく、このことを警察に知らせなければ……。" ], [ "明智先生は、あのお金を、なににつかうつもりだろうね。", "それはまだわからないよ。探偵の仕事に、いちばんためになることに、つかおうといっていらっしゃるんだ。", "じゃ、小林団長なら、なににつかいますか。", "ぼくなら、けいたい無線電話機がほしいね。五つでも六つでもいい、ぼくらがそれをもって、探偵事務所と話ができるようになれば、どんなにべんりかしれないよ。わるものにつかまって、とじこめられても、そこから、平気で事務所の先生と話ができるんだからね。", "わあっ、すてきだ。それにしよう。明智先生に、それをそなえてくださるように、たのもうよ。", "それがいい、それがいい。", "わあい、少年探偵団、ばんざあい。" ] ]
底本:「仮面の恐怖王/電人M」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年8月8日第1刷発行 初出:「少年」光文社    1959(昭和34)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:茅宮君子 2017年12月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ところが、やつは、とっくに牢やぶりをしていたのです。", "それはおかしい。あいつが牢やぶりをすれば、すぐにわたしの耳にはいるはずです。また、新聞にものるはずです。わたしは、まったく、そういうことを聞いておりません。" ], [ "知っています。あれは、日本人のもっている洋画のうちで、最高のものでしょう。その油絵は、どこにおいてあるのですか。", "わたしのうちの洋館の二階の美術室にかけてあります。その部屋には、いろいろな西洋画がならべてあるのですが、みなレンブラントの足もとにもおよばないものばかりです。四十面相がレンブラントだけをねらったのは、さすがに目がたかいというものです。" ], [ "で、まだ、ぬすまれたわけでは、ないのですね?", "まだです。しかし、ここ四、五日があぶないと思います。じつは、きのうの朝、寝室で目をさましますと、ベッドのそばの机に、こんな手紙がのせてありました。うちのものをしらべても、だれも知らないといいます。どこから、どうしてはいってきたか、まったくわからないのです。" ], [ "それをうかがって、わたしも安心しました。わたしのためばかりではありません。四十面相をのばなしにしておいたなら、どんな恐ろしいことをはじめるかしれませんからね。世間のためですよ。どうか、お力をおかしください。", "よくわかりました。では、これからごいっしょに行って、おたくを拝見することにしましょう。ことに美術室は、よく見ておかなければなりません。それには、わたしひとりでなく、少年助手の小林をつれて行きたいのですが、かまいませんでしょうね。小林は、よくあたまのはたらく、すばしっこい少年で、たいへん手だすけになるのです。", "かまいませんとも。小林少年のことは、わたしもよく知っていますよ。わたしのすえの男の子どもが、小学校六年生ですが、これが小林君の大ファンなのですよ。小林君がきてくださったら、大よろこびでしょう。", "ハハハハ……、小林は、少年諸君に、すっかり有名になってしまいましたからね。小林が町を歩いていると、小学生の男の子や女の子が集まってきて、サインをもとめるのですよ。そんなとき、小林ははずかしがって、顔をまっ赤にしていますがね。", "そうでしょう。うちの子どもなんかも、小林少年に夢中ですからね。" ], [ "小林君、四十面相が脱獄したんだ。そして、この神山さんのおうちにあるレンブラントの油絵を、ぬすみだすという予告をしたんだ。いつものやりくちだよ。で、いまから神山さんのおたくへいくのだが、きみもいっしょにきてくれないか。", "ええ、つれてってください。でも、四十面相のやつ、どうして脱獄したのですか。", "それは、車の中でゆっくり話す。かえだまをつかったんだよ。", "あ、それじゃあ、いつかの手ですね。", "うん、あいつのとくいのやりくちだ。……どうだ、小林君、むしゃぶるいが出ないかね。こんどは、きみに大役をつとめてもらうつもりだよ。", "ええ、ぼく、なんでもやります。あいつには、ずいぶん、ひどいめにあっているのですからね。かたきうちです。" ], [ "いや、知っていたわけじゃない。あいつのことだから、魔法つかいのようにどこからかしのびこんで、いまごろは、もう、ぬすんでしまったかもしれないと、想像してるんだよ。", "なんだって? それじゃ、きみにもあいつのしのびこむのを、ふせぐことができなかったというのか。", "いや、ちゃんとふせいである。これには、ちょっと、わけがあるんだ。くわしいことはあとで話すがね。ともかく、美術室をしらべてみよう。もし油絵がぬすまれていたら、あいつが屋根へ逃げたというのは、ほんとうにちがいない。", "うん、すぐにいってみよう。" ], [ "エッ、中からだって? それは、どういういみだ。", "この石膏像の中に、四十面相がかくれていたのさ。", "エッ、あいつが? かくれていた? おい、明智君、きみはそれを知っていたのか? 知っていながら、どうしていままで……。", "いや、いや、知っていたわけじゃないよ。いまここへきて、やっと気がついたのだ。このわれかたでわかったのだ。ぼくも、うかつだった。あいつのやりそうな手だからね。それを考えなかったのはぼくの手おちだった。" ], [ "アッ、ぬすまれたッ。見たまえ、レンブラントのがくぶちがおろしてある。中はからっぽだッ。", "うん、ぼくの思ったとおりだ。あいつは、やっぱり、ぬすんでいった。しかしね、中村君、これは心配しないでもいい。ぼくが、きっと、取りかえしてみせるよ。" ], [ "それじゃあ、あいつは、レンブラントのカンバスだけを取りはずして、それを持って屋根の上へ逃げたというのだね。", "うん、そうにちがいない。屋根のほかに逃げる場所はないからね。", "四方をかこまれているんだから、屋根へのぼったって、逃げられるわけはない。いったい、あいつは、どうするつもりなんだろう。" ], [ "あいては魔法つかいだ。どんな手があるかもしれない。ともかく屋根の上を、見はるひつようがあるね。それには、ふつうの電灯なんかでは、暗くてよく見えないだろう。消防自動車を呼ぶんだね。そうすれば、探照灯もあるし、長い自動ばしごもある。それがいちばんいいよ。", "うん、それがよさそうだね。じゃ、ぼくが消防署へ電話をかけることにしよう。" ], [ "アッ、黒いものが動いた。たしかに、あいつだよ。", "うん、屋根の上にひらべったくなっているけれども、ボーッと黒く見えるね。あれが四十面相にちがいない。警部さんに、報告しよう。" ], [ "やってみましょうか。消火栓をひらいてホースをつなげばいいのです。ホースの水は、ひじょうな力ですから、あいつはきっと、すべりますよ。", "うん。それをやるほかはないと思うね。だが、うまくうけとめられるかな。やりそこなったら、あいつは死んでしまうからね。あいつを殺してはいけないのだ。なかなか、むずかしい仕事だよ。" ], [ "もうひとりは、だれだ?", "しんまいの、あっしの助手ですよ。" ], [ "どちらだって? ばかッ、きまってるじゃないか。きめんじょうだ。", "きめんじょうですか。", "うん、きめんじょうだよ。きみはなにをぼんやりしているんだ。へんだぞ。どうかしたのかッ。", "いや、なんでもないんです。ちょっと、ほかのことを考えていたので……。", "なにッ、ほかのことを? おいおい、しっかりしてくれ。操縦しながら、ほかのことなんか考えるやつがあるか。ここは空の上だよ。落ちたら命がないんだぜ。", "すみません。" ], [ "きみ、その声はどうしたんだ。かぜでもひいたのか。", "ええ、ちょっとね。なに、たいしたこたあありませんよ。" ], [ "松下でないとすると、だれだと思うね。", "なにッ、さては、きさまッ。", "おっと、身うごきしちゃいけない。ぼくの手がくるったら、みんなおだぶつだからね。それに、きみの背中にかたいものがあたっているのが、わかるかね。ピストルのつつ先だよ。きみのうしろに、ぼくの助手の小男がうずくまって、ピストルをつきつけているんだよ。手むかいをすれば、きみの命はないんだぜ。", "ちきしょうッ! きさま、いったいなにものだッ? 敵か味方か。まさか味方じゃあないだろう。すると、さっき、屋根の上から、おれを助けてくれたのは、どういうわけだ。", "助けたんじゃあない。つかまえたんだよ。そして、いまきみを警視庁へつれていくところさ。", "それじゃあ、きさま、警視庁のやろうかッ。", "そうでもないよ。おい、四十面相、ぼくをわすれたのかね。" ], [ "アッ、きさま、明智小五郎だなッ。", "ウフフフフフ……、やっとわかったかね。そして、きみのうしろからピストルをつきつけているのは、ぼくの少年助手の小林だよ。おとなの服をきて、小男にばけていたのさ。" ], [ "きみは魔法つかいのくせに、あれがわからなかったのかい? きみの背中にピストルをあてているのは、おとなのオーバーを着ているけれども、じつは、ぼくの少年助手の小林なんだよ。この小林がその風景画のカンバスのまるめたのを持って、神山さんの美術室にかくれていたのさ。本だなのうしろにね。そして、きみが石膏像をやぶってあらわれ、レンブラントの絵をわくからはがして、棒のようにまるめて、ちょっと床においたときに、本だなのかげから、手をのばしてすりかえてしまったのだよ。小林君も、なかなか手品はうまいからね。ハハハハハ……。", "ふうん、そうだったのか。これはいちばん、やられたね。きみのちんぴら助手も、すみにおけないよ……。ところできみは、これから、おれをどうしようというのだね。", "わかっているじゃないか。さっき警視庁と無電で話したとおりだよ。日比谷公園の広っぱに、大ぜいの警官が待ちかまえている。そのなかへ、このヘリコプターを着陸させて、きみをひきわたすのさ。" ], [ "そんなことをいってごまかそうとしたってその手にはのらないぞ。きさまが四十面相じゃないとでもいうのかッ。", "アッ、そうだ。これを見ておくんなさい。その三人のやつが、しらべ室へいったら、これを見せるがいいといって、こんなものを……。" ], [ "おまえ、源こうっていうのかッ。", "へえ、あっしゃ、源こうですよ。" ], [ "あの黒山の人だかりだから、ほんものの四十面相は、どこかへ身をかくしてしまったんだ。記者にばけた部下たちが、オーバーかマントを用意していて、四十面相の黒シャツの上から着せてしまえば、夜のことだから、もうわかりっこないのだからね。", "アッ、そうかッ。おい、新聞記者をよんできたまえ。みんなよんでくるんだ。" ], [ "いや、あれは新聞社のものじゃありませんよ。だれだかわからないが、ぼくたちのあいだに、六、七人、へんなやつがまじっていたのです。その連中が、こいつをつきだしたのです。", "ふうん、ちゃんと用意をしていたんだな。それで、ほんものの四十面相が、どこへ逃げたか、きみたち気づきませんでしたか。" ], [ "エッ、じゃあ、こいつは四十面相じゃないのですか。", "うん、すっかり黒星で、もうしわけないが、やられたんだ。あいつらは、この源こうというすりに、黒シャツを着せて、上からオーバーかなにかはおらせて、あそこへつれてきていたんだね。そして、とっさに人間のすりかえをやったんだ。" ], [ "子どもだとおもって、ばかにしてるんだな。そうじゃないよ、からかってるんじゃないよ。ほんとうだよ。あいつ四十面相だよ。はやく……はやくしないと、逃げちゃうよ。", "くどいやつだな。あっちへいけというのに。" ], [ "アッ、小林さん!", "アッ、ポケット小僧!" ], [ "課長、総監がお呼びです。", "え、総監が? 総監室にきておられるのか。", "四十面相のことをきかれて、いま公舎からおいでになったところです。", "そうか。すぐいく。", "課長、それから、中村係長もいっしょにくるようにとのことでした。呼んでまいりましょうか。", "うん、呼んでくれたまえ。ぼくはさきにいっているから。" ], [ "ふうん、すると、また、あいつにしてやられたわけだね。明智君が、ヘリコプターでつれてきたまでは、おおできだが、それからあとがいけない。いくら変装の名人だからといって、にせものをつかまされたり、警官にばけて庁内にはいりこまれたりしたのでは、警視庁の名おれだ。しっかりしてくれなくちゃこまりますね。これはいったい、だれの責任なんだね。", "わたしの責任です。わたしの部下が、あやまちをしでかしたのですから。" ], [ "総監、ちょっとお話があります。", "え、わたしにかね。", "そうです。きゅうにお話しなければならないことができたのです。", "ながい話なら、部屋にもどるが……。", "いや、ここでけっこうです。総監、ふしぎなことがおこりました。警視総監がふたりになったのです。", "え、なんだって? きみがなにをいっているのか、わたしにはよくわからないが……。", "ぼくにも、さっぱりわかりません。じつは、いま総監の公舎へ電話をかけて、たずねたのです。すると、山本総監は、公舎の寝室でよく眠っておられるということでした。いったい、これはどうしたわけでしょうか。", "そ、そんなばかなことが……。", "いや、ぼくは、それだけでは信用できないので、総監をおこしてもらって、電話口に出てもらいました。ぼくは、いま総監と話してきたばかりです。", "ば、ばかなッ。でたらめもいいかげんにしたまえ!" ], [ "でたらめではありません。あなたにはおわかりになっているはずです。", "わたしに、なにがわかっているというのだ。", "ふたりの総監のうちひとりは、にせものだということがです。", "にせものだって?" ], [ "それじゃ、きみは、わたしが四十面相だというのか。", "そうだ。きみは四十面相だッ! ついちかごろ、警視総監の背広が一着ぬすまれている。それはきみが、部下にぬすませたのだ。そして、その背広を警官の服といっしょに、あの大かばんに入れさせておいたのだ。きみは警官に化けてここへやってきた。そして、どこかのあき部屋で、その背広と着かえ、総監になりすまして、総監室へはいったのだ。" ], [ "うぬッ、つかまえたぞッ。おい、手をかしてくれ。手錠だ、手錠だッ!", "なにを、これでもかッ!" ], [ "アッ、逃げたぞッ。追っかけろ!", "ちくしょう、逃がすものか。つかまえたぞッ。ここだ、ここだ。" ], [ "またやられた。あいつが、そこまで用意していようとは思わなかった。", "エッ、すると、いまの警官たちは?" ], [ "かしら、うまくいったようですね。で、ゆくさきは?", "きめんじょうだ。" ], [ "先生、ゆくさきはきめんじょうですね。", "うん、警視庁と明智のやつを、アッといわせてやったから、一週間ばかりやすむつもりだ。きめんじょうは、いいからな。", "きめんじょうのかくれ家は、世間はまだちっとも知らないのですね。", "うん、知るはずがない。だが、おれは、きめんじょうということばを、すこしばらまいてやろうかと思うんだ。いかにも恐ろしげな名まえだからね。世間のやつはきみわるがるだろうて。名まえだけわかって、それがどこにあるかは、ぜったいにわからない神秘のなぞというやつだよ。ウフフフフ……。" ], [ "おい、はやく朝めしをださないか。もう九時だよ。おかしらの散歩の時間がおくれるぞ。おかしらは、朝めしのあとで、山の中を歩きまわるくせがあることを知らないのか!", "そうがみがみ、いうもんじゃねえ。もうできたんだよ。すぐ持っていくって、おかしらにそういっといてくんな。", "よし、はやくするんだぞ。" ], [ "たしかに、人間の声だったな。", "うん、おれもそう思った。だが、鳥がないたのかもしれない。この山には、人間みたいななき声をだすお化け鳥がいるからね。聞きちがいだよ。こんなところへ人間がくるはずがないからね。" ], [ "おい、呼んでるぜ。なんか聞きわすれたことでもあるのかな。めんどうだけれど、いってみよう。", "うん、そうしよう。ひゅう、ひゅう、ひゅう……。" ], [ "あぶないところだったね。ぼくは、きみがここへ逃げこむのを、むこうから見たので、いそいで麻酔薬をしませたハンカチを持ってきて、こいつを眠らせたのだ。もうだいじょうぶだよ。", "すみません。おれ、ゆだんしちゃって、すみません。" ], [ "およびですか。", "うん、非常ベルがなったのだ。ふもとに配置してある見はり番からの知らせだ。なにか一大事がおこったらしい。ひょっとしたら、警察の手がまわったかもしれない。いまに、ふもとから知らせにかけつけてくるだろうが、そのまえに、巨人の目からのぞいてみよう。きみもいっしょにくるがいい。" ], [ "かしら、だめです。こしょうです。", "エッ、こしょうだって。どこがこしょうか、わかっているのか。", "わかってますが、きゅうにはなおりません。", "どのくらいかかるんだ。", "三時間はかかりますね。", "ちくしょうッ。しかたがない。おりよう。そして、べつのてだてを考えるんだ。" ], [ "こら、なにをするんだ。ジャッキー、おまえはまさか……。", "そうです。じゃまをするのです。" ], [ "やっ、きさま、ジャッキーではないのだな。だれだッ。……もしや、もしや……。", "ハハハハ……、やっと気がついたね。そうだよ。ぼくは明智小五郎だ。四十面相、とうとう、ほんとうのかくれ家を見つけられてしまったねえ。", "おいッ、五郎。そのほかのやつらも、なにをぼんやりしているのだ。こいつは明智小五郎だぞ。なぜ、つかまえないのだッ。" ], [ "アッ、それじゃあ、五郎もにせものだなッ。きさまと五郎とで、ヘリコプターを飛ばせて、ふもとの町から、かえだまをつれてきたんだなッ。", "そのとおり。きょう、ヘリコプターを飛べないようにしておいたのもぼくだし、二ひきの虎を眠らせたのもぼくだよ。そうして、きみをつかまえる用意がすっかりできていたのだ。……おお、見たまえ。警官隊が、橋をかけて、こちらへわたってきた。四十面相! きみはもう、どうすることもできないのだッ。" ], [ "ちくしょう。よくも、おれをだましたな。だが、ほんとうの、おれの部下はどこにいるんだ。おれの味方は、どこにいるんだッ。", "ハハハハ……。ぼくたち、にせものは七人。ほんものは、たったふたりしかのこっていないのだ。とても、かないっこないと、そこのすみで、ぶるぶるふるえているよ。" ], [ "やい、そこで笑っているのは、だれだッ? なにがおかしいのだッ。", "ぼくだよ、明智だよ。きみのいきごみがあんまりおおげさなので、ついおかしくなったのさ。おい、ポケット君、もういいから、出てきたまえ。" ], [ "おお、ポケット小僧君。きみはあの三つのたるに、どういうことをしたか、いってごらん。", "先生、もう明智先生といってもいいのですね。ぼくは先生の命令で、ばけつに水をいっぱいいれてなんどもここへはこびました。そしてその水を、いっぱいになるまで、三つのたるにいれました。" ] ]
底本:「奇面城の秘密/夜光人間」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年6月8日第1刷発行 初出:「少年クラブ」講談社    1958(昭和33)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:茅宮君子 2017年10月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "あの男はふところの中で短刀を握っていたのですよ", "マア!" ], [ "あの男が可哀相だとは思いませんか", "卑怯ですわ。あの人は危い命を、あなたの、本当に男らしい、御心持から、助けて頂いたのではありませんか。それに……" ], [ "あの人、幾つ位だと思って!", "そうね、勿論六十上だわ", "イイエ、それが本当は、ずっと若いらしいのよ", "だって、あんな真白な頭をしているじゃないの?", "エエ、だから、猶更おかしいのよ。あの白髪だって、本当に自分の髪だかどうだか。それから色眼鏡で目を隠しているでしょう。部屋の中でもマスクをかけて、口の辺を隠しているでしょう", "その上、義手と義足ね", "そうそう、左の手と右の足が、自分のではないのよ。ご飯をたべるのだって、それや不自由なの", "あのマスク、ご飯の時には取ったでしょう", "エエ、取ったわ。マア、あたし、ゾーッとしてしまった。マスクの下に何があったと思って?", "何があったの?" ], [ "君の前身が何であろうと、そんなことで、僕の気持は変りやしない。それよりも、今の状態では、僕は君のおもちゃにされている様な気がするのだ", "マア" ], [ "あたし、未亡人なのよ", "そんなことは、とっくに想像している", "それから、百万長者なのよ", "……", "それから、六つになる子供があるのよ", "…………", "ホラね、いやあな気持になったでしょう" ], [ "あたしその人にだまされたのです。初めはうまいことをいって、あたしを仕合せにしてやると約束して置きながら、ちっとも仕合せになんかならなかったのです。その人は貧しかったばかりでなく、ゾッとする様な、いやあな性質があったのです。でも、あたしを愛してはいたのですけれど、そうされればされる程、虫酸が走る程いやでいやで仕方がなかったのです", "その人が今どうしているか、どこにいるか、あなたは、ちっとも知らないのですね", "エエ、八年も前の昔話ですもの。それに、あたしまだほんの子供でしたから" ], [ "どうして、そんなことおっしゃいますの。ただ、あたし、あなたにあたしの本当の境遇を隠しているのが、苦しくなったからですわ。子供まである、獄死をした罪人の妻が、あなたとこうしているのが、恐ろしくなったからですわ", "そういうことで、今更、僕達が離れられると思っているのですか" ], [ "子供と同じ様に、あなたにも罪はないのです。僕はそういうことで、あなたに対する心持が、変りはしない。それよりも、僕にはあなたの富が恐ろしい。あなたの最初の人と同じ様に、僕も貧乏な書生っぽでしかないのですから", "マア" ], [ "確に聞き覚がある。贋物ではありません。あなたのお子さんが、自身で電話口に出ていらっしゃるのです。だが……", "エ、何ですって? 茂が電話口へ? あの子はまだ電話のかけ方もよく知りませんのに。……でも聞いて見ますわ、あの子の声は、あたしが一番よく知っているのです" ], [ "エエ、あたし、聞こえて? 母さまよ。お前茂ちゃんなの? どこにいるの?", "ボク、ドコダカ、ワカラナイノ。ワカラナイシ、ヨソノオジサンガ、ソバニイテ、コワイカオシテ、ナニモイッテハ……" ], [ "カアサマ、ボクヲ、カイモドシテクダサイ。ボクハ、アサッテ、ヨルノ十二ジニ、ウエノコウエンノ、トショカンノウラニ、イマス", "マア、お前、何をいっているの、お前の側に悪者がいて、お前にそんなことを喋らせているのね。茂ちゃん。たった一言、たった一言でいいから、今いる場所をおっしゃい。サア、どこにいるの?" ], [ "ソコヘ、十マンエン、オサツデ、カアサマガ、モッテイラッシャレバ、ボクカエレルノ。十マンエンオサツデ。カアサマデナクチャ、イケナイノ", "アア、分った分った。茂ちゃん安心おし、きっと助けてあげるからね", "ケイサツヘ、イイツケルト、オマエノコドモヲ、コロシテシマウゾ" ], [ "約束のものは、忘れやしめえね", "エエ", "じゃ、渡してもらおう", "アノ、そこにいるのは茂でしょうか。茂ちゃん、こちらへいらっしゃい", "オッと、そいつはいけねえ、例のものと引換だ。サア、早く出しな" ], [ "インヤ、金を受取れなんて、いやしねえ。ただ、女の人が四角な包を持って来るから、それをもらって、どっかへ捨っちまえ、といったばかりで", "ホウ、そいつは妙だね。すると、賊の方では、金包が新聞紙だということを、チャンと知っていたんだな" ], [ "フン、合トンビを着ていたのか", "ヘエ、新しい上等の奴を着て居りました", "年配は?", "ハッキリ分らねえが、六十位の爺さんでがした" ], [ "血、血、血だ。血が流れている", "何をいっているのだ。怪我をしたのか" ], [ "アア、わたし、思出してもゾッとします。生れてから、一度も見たことのない様な、恐ろしいものが、そこにいたのです", "人間だね", "エエ、でも、人間でないかも知れません。絵で見た骸骨の様に、長い歯が丸出しになって、鼻も唇もないのっぺらぼうで、目はまん丸に飛出しているのです", "ハハハハハ、馬鹿なことを、君は怖い怖いと思っているものだから、幻でも見たんだろう。そんなお化があってたまるものか" ], [ "アア、三谷さんでしたか。あなたはこの辺にお住いなんですか", "エエ、ついこの先の青山アパートにいるんです", "この人なら、畑柳家の知合の人ですよ、ホラ、先だって、上野公園の事件のとき、畑柳夫人に化けて、子供を取り戻しに行った、あの三谷さんです" ], [ "今日も夕方まで畑柳にいて、さっき帰って食事と入浴をすませたばかりです。それにしても、あなた方は、やっぱり畑柳の事件で……", "そうです。また奇妙な殺人事件があって、その犯人と覚しき怪物をここまで追いつめたのですが……" ], [ "アア、その化物なら、倭文子さんが、一度鹽原温泉で姿を見たことがありますよ。すると、あれはやっぱり幻ではなかったのだ。今度の事件には、最初から、そいつが関係していたに違いありません", "ホウ、そんなことがあったのですか。それでは猶更、あの化物を引捕えなければならん。しかし、一体どうして消失せてしまったのか、少しも見当がつかぬのです", "イヤ。それについて、思い当ることがあります" ], [ "あの骸骨みたいな奴だ。君はすれ違わなかったか", "イイエ、こちらの部屋へは誰も来ませんよ" ], [ "今度の犯人は、茂を誘拐して、身代金を要求した所を見ると、金銭が目的の様ですが、実は金銭などは従であって、茂の母を手に入れるのが、第一の目的ではなかったかと思うのです。それが証拠に、あの時も、身代金は必ず倭文子自身で持参せよという、条件がついていました", "成程、成程" ], [ "だが、その岡田は滝壺に身を投げて、失恋の自殺を遂げたのではありませんか", "と、世間は信じているのです。ところが、岡田の死体が発見されたのは、死後十日以上たっていて、ただ、着物や持物、年配、背格好などの一致で、単純に、それを極められてしまったに過ぎません", "ホウ、すると、顔などは、もう皮膚がくずれていたのですね" ], [ "そうです。川を流れて来る間に、岩角に当ったという風に、顔はほとんど赤はげになっていました", "するとつまり、あなたのお考えは、川を流れて来たのは、岡田の着物を着た別人の死体であって、本物の岡田は、硫酸か何かをあびて、化物みたいな面相になって、生き残っているというのですね", "その上、完全な手足を義手義足と見せかけて、この世に籍のない、謂わば仮空の人物になりすましたのです。失恋の鬼となって、悪魔の恋を成就したのです", "常識では考え得ない心理だ" ], [ "だが、奴の目的は、倭文子さんを手に入れるだけではありますまい。態々贋の死骸を拵え、苦しい思いをして、顔を焼いてまでもこの世から姿をくらますというのには、もっと深い企らみがなくてはなりません", "例えば、復讎という様な?", "そうです。私はそれを考えると、身体中にあぶら汗がにじみ出す程、恐ろしいのです。奴は僕に復讎しようとしているのです。理由のない復讎をとげ様としているのです" ], [ "あなたに、御相談に伺ったのも、倭文子さんに加えられた、極度の侮蔑を恨む外に、一つはその復讎が恐ろしかったからです。彼奴は悪魔の化身です。あなたはお笑いなさるか知れませんが、私はこの目で見たのです。彼奴のあの不可解な消失は、妖術とでも考える外考え様がないではありませんか。あいつは全く別の世界から、この世に迷い出して来た、非常に不気味な、一種の生物みたいに思われるのです", "岡田の元の住所を御存知ですか" ], [ "温泉で名刺を貰っていました。何でも渋谷辺の、ずっと郊外の様に記憶しています", "まだ、そこを調べて見ないのですね" ], [ "併し、先ず第一に、現在の賊の巣窟を見たいと思います。あなたの所謂妖術が、どんな風にして行われたか。そいつを調べたら、自然賊の正体も分って来る訳です", "ではお差支えなければ、これから直ぐ青山へ御出かけ下さいませんでしょうか" ], [ "立聞きなんて出来ませんよ、僕はドアの外へ聞える様な声では、決して話をしませんし、あなたも、非常に低い声でした。賊は多分、あなたを尾行して、ここへはいられたのを見届け、僕がこの事件をお引受することを、見抜いてしまったのです", "では、奴はまだこの辺にウロウロしているかも知れませんね。そして、また私達のあとをつけて来るのではありますまいか" ], [ "でも、裏の方からは迚も這入れませんよ。裏門なんてありませんし、それに塀がとても高いのです", "併し、賊はそこから這入ったのです。我々も這入れぬという訳はありませんよ" ], [ "ここですね", "そうです。ごらんの通り、梯子を掛けて乗り越す外には、ここから邸内へ這入る方法がないのです。どんな高飛びの名人だって、この高い塀に飛びつくことは出来ません。それに、上には一杯ガラスのかけらが植えつけてあるのですから", "あの晩は月夜でしたね", "昼の様な月夜でした。それに、繩梯子をかける余裕なんて、絶対になかったのです" ], [ "賊がここから這入ったとすれば、仮令我々の目に見えなくても、どこかに出入口がある筈です、例えば、余り変てこな出入口である為に、我々はマザマザとそれを見ながら、少しも気がつかぬ様な。……", "まさか、この塀に隠し戸があるとおっしゃるのじゃありますまいね" ], [ "隠し戸なんかは、警察で十分調べたでしょうし、こう見た所、そんなものがあるとは思えませんね", "すると、外にどんな方法があるのでしょう" ], [ "アア、それですか", "マンホールとは考えたものですね。我々はこの鉄の蓋の上を踏んで歩きながら、一向意識しないのです。復興道路には、到る所にこれがあります。田舎から出て来たばかりの人は、存外これが目につく相です。併し東京人の我々は、慣れてしまって、道に落ちている石塊程にも注意しません。いわば盲点に入ってしまっているのです" ], [ "この下に例の穴蔵があるのです。併し、何か明りがないと……", "僕がライターを持っています。兎に角降りて見ましょう" ], [ "あの家は訳があって、ちっと高くつくのですがね", "高いといいますと?" ], [ "それがね、どうも変な奴でね。わたしも、なるべくなれば、あなた方に買って頂き度いと思うのですよ", "変な奴というと?", "ひどい片輪者でね、手も足も片方ずつ不自由で、目が悪いのか、大きな黒眼鏡をかけ、その上、鼻と口はマスクで隠しているのですよ。言葉がひどく曖昧で、鼻へ抜ける所を見ると、鼻欠けさんかも知れやしません" ], [ "これが出来上ったのは、いつ頃でした", "サア、それが分らないのですよ。一体岡田さんは、ひどい変り者で私共に道で会っても、物もいわない様な人でしたが、家にいる時でも、窓という窓を締切て、入口の戸も中から鍵をかけて、昼間でも電燈をつけているといった、そりゃ風変りな人でした。仕事の方もきっと電燈の光でなすったのでござんしょう。私共はこの家の窓が開いていたのを見たことがない位でした" ], [ "僕は、こんなやくざな塑像に、どうして数千円の値打ちがあるかそれが知りたかったのです。こんなものに、常識では考えられない高価な買手がついたとすれば、その値打ちは、石膏像そのものではなくて、像の中に隠されている品物にあるのだと、考える外はないじゃありませんか。ところで、隠されている品物は、さっきもいった様に、本当に値打ちのある宝石などの場合もあれば、また反対に一文の値打ちもないけれど、他人の目に触れてはならぬ、何か非常な秘密の品物の場合もあります", "ホウ、すると、この中には、一体何が入っているとおっしゃるんです" ], [ "分りましたか、なぜこんなものに、高価な買手がついたかということが。あなたは、そのマスクを掛けた奇妙な商人が、この恐ろしい殺人罪を犯した男、即ち岡田道彦であったのを、気づきませんでしたか。どこかに見覚がなかったですか", "エッ、なんですって。すると、岡田さんは、鹽原で死んだんじゃないので……", "恐らく、死んだと見せかけて、官憲の目をあざむこうとしたのです。これ程の大罪を犯していれば、死を装わねばならなかったのも、無理ではありませんよ", "わたしゃ、余りのことに、何が何だか、訳が分りません。すると、その死んだと見せかけた岡田さんが、変装をして、自分の作ったこの彫刻を、買いに来たというのですね" ], [ "そうとしか考えられない、色々な事情があるのです", "で、一体全体この中には、何が入っているのです。あの妙な匂いのする、グニャグニャしたものは、やっぱり……" ], [ "女の死骸です。しかも三人もの死骸が隠してあるのです", "嘘だ、嘘だ。なんぼなんでも、そんな馬鹿なことが……" ], [ "岡田という男は、どういう考えで、あんなに沢山の女を殺して、石膏像に隠して置いたのでしょう。想像も出来ない心持です。気違いでしょうか。それとも、話に聞く殺人淫楽者という奴でしょうか", "恐らく、そうでしょう。しかし、僕がこの事件を恐ろしく思うのはもっと別の意味もあるのです。現われた事件の裏に、何だかえたいの知れぬ、影の様なものがチラチラ見える様な気がします。僕はそれが掴めないのです。唇のない男や、死骸の石膏像なんかよりも、僕は、その目に見えぬ変てこなものが、正直にいうと、怖くて仕方がないのです" ], [ "そうです。僕には、この金仏の目が瞬く様に見えたのですが。あなた方も見ましたか", "イイエ……ですが、その仏様は、ひょっとしたら、瞬きをするかも知れませんので" ], [ "以前から、そんないい伝えみたいな、迷信みたいなものがあるのです。なくなった主人は、夜おそくこの部屋にいると、よく、瞬きなさるのを見ることがあると申して居りました。私などは年寄りの癖に、どうもそんな迷信じみたことは信じられんのですが、主人は非常な信心家でして、あらたかな仏様だと、有難がって居りました", "妙なことがあるものですね。で、それをご主人の外に見たものはなかったのですか" ], [ "召使の者なども、たまさか、そんなことを訴えましたが、つまらぬことをいいふらしてはならぬと口止めをして居ります。化物屋敷の様な噂が立つのは好ましくはありませんからね", "すると、僕の気のせいでもなかったのですね" ], [ "お怪我はありませんか", "イヤ、大丈夫です" ], [ "一体、どうなすったのですか。私共には、ちっとも訳が分りませんが", "三谷さん、あなたも、何も見なかったですか" ], [ "僕、明智の事務所のものですが、早く先生を呼んで下さい。大変なことが起ったのです", "アア、君は、あの子供さんですか" ], [ "そうです。明智先生はね、どこへ行かれたのか、探して見ても、姿が見えぬのです。だが、大変って、何事が起ったの?", "僕、今自働電話からかけているんです。文代さんが誰かに誘拐されたんです。きっと昼間脅迫状をよこした奴だと思うんです", "エ、文代さんていうと?", "あなたも御逢いになった、先生の助手の方です" ], [ "アアそうですか。どうか", "アノ、すみませんけれど、これ持ってて下さいませんでしょうか" ], [ "すると。あなたは、若しや……", "フフフフフフフ、気がついた様だね、だが、もう手おくれだよ。……如何にも御推察の通り、俺はお前さん達が探している男なんだ。お前さんの旦那の明智小五郎というおせっかいものが、血眼になって探し廻っている男なんだ", "では、昼間、ドアの下から、あの恐ろしい手紙を入れて行ったのは……", "俺だよ。……今、あの手紙に書いて置いた約束を、果しているのさ。俺は約束は必ず守る男だからね", "で、どうしようというのです" ], [ "貴様、笑っているな。どうして笑えるのだ。誰かが救いに来るとでもいうのか", "エエ、多分……", "畜生、誰かと約束がしてあったのか、手筈が出来ていたのか" ], [ "あたしを、配電室なんかへ、連れ込んだのが、失策だったわね", "何ぜだ", "あたし、電信記号を知っているのよ", "畜生め、すると、今のあれが?", "そうよS・O・Sよ。何千人という見物の中に、あの簡単な非常信号を読める人が、一人もいないって訳はないと思うのよ" ], [ "この舞台の照明係はどこにいるのです。その人に会わせて下さい", "仕事中は面会させないことになっています" ], [ "そうです。あの丸い孔から、外へ這い出したのです", "誰か、あすこへ昇って、婦人を助けるものはないか" ], [ "あなた、生きていたんですね", "エエ、生きていますとも", "僕もそう思っていたのだ。あなたが、あんな奴にやられる筈はないと思っていたのだ" ], [ "右手をしきりに動かしている。何だかキラキラ光っている", "ナイフだ。ナイフで繩を切っているのだ", "いけない。早く、早く、あいつが繩を切り離さぬ内に……" ], [ "風船男", "唇のない殺人鬼", "石膏像に包まれた娘達の死骸" ], [ "申訳ありません。あいつには、これまで度々、今ちょっとの所で、うまく逃げられていますので、今度こそはと、ついあせったのです", "だが、賊はかえって、君に飛びかかって来た", "そうです。僕は自分の腕力を頼みすぎたのです。あいつが、あれ程強いとは思いませんでした。僕はたちまち、あいつの一撃を食って、ボートの中にぶっ倒れてしまいました。それ切り、何も知りません。ボートが爆発したというのも、今聞くのが初めてです", "それが、君の仕合せだったかも知れません。何も知らず、ボートの顛覆と共に、水の中へもぐったまま、もがき廻らなかったので、焼けどもせず、大して水も飲まなんだのです、賊の方はきっと大怪我をしているでしょう" ], [ "で、この男が、その岡田道彦ですか", "イヤ、違います。僕は岡田だと信じ切って、明智さんと彼のアトリエを調べに行ったりしたのです。岡田が薬で顔を焼いて、あの恐ろしい変装をしていたのだと思い込んでいたのです。ところが、この男は、岡田ではありません。全く見知らぬ人物です" ], [ "分りましたか、一体何者でした", "非常に変った男です。医学上、一種の変質者なのでしょう。あまり有名でない探偵小説家で、園田黒虹という奴です", "ホウ、探偵小説家でしたか", "新聞に出た死人の写真を見て、そこの家主が知らせて来たので、早速彼の住いをしらべて見ましたが、実に恐ろしい奴です" ], [ "それは、池袋の非常に淋しい場所にある、一軒建ての小住宅なんですが、家の中を検べて見ると、まるで化物屋敷です。押入れの中に、骸骨がぶら下っている。机の上には、人形の首が転がっている。その首に、赤インキがベタベタ塗ってある。壁という壁には、血みどろの錦絵が張りつけてある。といった具合です", "ホウ、面白いですね" ], [ "本棚の書物はといえば、内外の犯罪学、犯罪史、犯罪実話といったもので埋まっている。……机の抽斗には、書きかけの原稿紙が沢山入っていましたが、その原稿の署名で、黒虹という変なペンネームが分ったのですよ", "僕は黒虹の小説を読んだことがあります。非常に変った作家だとは思っていました", "あいつは、生れつきの犯罪者なんです。その慾望を満たすために、恐ろしい小説を書いたのです。それが、小説では満足出来なくなって、本当の犯罪を犯す様になったのでしょう。国技館の生人形に化けて見たり、風船に乗って空中へ逃げ出すなんて、小説家ででもなければ、ちょっと考えつかないことです。今度の事件はすべて、如何にも、小説家の空想が嵩じたという、突飛千万なものでした", "賊がつけていたという蝋面の製造者をお検べになりましたか" ], [ "検べました。東京には、蝋細工の専門工場は四五軒しかありませんが、それを残らず調べさせました。しかし、どこにも、あんなものを作った家はないのです", "蝋細工は、別に大仕掛けな道具がいる訳でもないのでしょう", "エエ、型さえあれば、あとは、原料と鍋と、それから染料だけで出来るのです。多分あいつは、専門の職人に頼み込んで、自宅で秘密に作らせたものでしょう。僕は蝋細工の工場へ行って見ましたが、少し骨を飲込みさえすれば、素人にだって出来相な、ごく簡単な仕事です。それで、出来上ったものは、まるでセルロイドのように薄くって、いくらか弾力もあって、その上、人間の生顔にソックリなんだから、考えて見れば、恐ろしい変装道具ですよ。それを、額の生え際から耳のうしろまで、スッポリかぶっていたのです。色眼鏡やマスクで隠さずとも、一寸見たのでは、面と気付かぬ程よく出来ていました" ], [ "すると、あなたは、まだ……アア、共犯者のことをいっていらっしゃるのですか", "イヤ、共犯者なぞではありません。今度の事件の恐るべき首魁のことを考えているのです", "しかし、その首魁は、死んでしまったではありませんか", "僕には、何んだか、それが信じられないのです" ], [ "この事件は、一小説家の死によって、解決してしまうには、余りに複雑に見えるのです。例の岡田道彦のアトリエで発見された、死体石膏像について考えただけでも", "しかし、あれは全然別の犯罪です。そして、その犯人である岡田は、とっくに死んでしまいました。岡田が生きていて、唇のない男に化けていたという、ちょっと誘惑的な考え方を、やめてしまえば、問題はないのです", "それは、あなた方にとって、非常に好都合な解釈ですが、果してそんな単純にかたづけてしまって差支えないでしょうか。たとえば、こういう事を考えて見ただけでも、既に大きな矛盾が生じて来るのです。それは、……岡田があの死体の石膏像の犯人であったとすれば、彼は非常に残虐な一種の変質者ですが、そういう男が、ただ畑柳夫人に失恋した為に、純情な少年のように自殺するというのは、ちょっと考えられないことではありませんか", "では、あなたは、やっぱり、岡田と唇のない男と、同一人だとおっしゃるのですか" ], [ "たとえば、畑柳家の密閉された書斎で殺された小川正一と名乗る男の謎があります。犯人はどこから出入りしたか。何の為に殺したのか、また被害者の死体が、どうして消え失せてしまったのか。それから、あんなに苦心して誘拐した倭文子さんを、あの殺人鬼が、傷一つつけないで、なぜやすやすと我々の手に戻したか。あの時、連れて逃げようと思えば、訳はなかったのです。イヤ、もっと変なことがある。僕は鹽原の温泉宿へ電話をかけて、女中から聞き出したのですが、温泉場で倭文子さんを驚かせた怪物は、本当に唇がなかった。ご飯のお給仕をした女中が、確かに見たというのだから、間違いはありません。ところが、今度風船に乗って逃げた奴は、仮面をつけていたとすると、この二人は、全く別人なのでしょうか。数え上げると、説明の出来ない点が、まだ沢山あります。それでも、事件が落着したといえましょうか", "すると、君は、岡田道彦が、どこかに生き残っていて、それが本当の犯人だとおっしゃるのですね", "恐らく……、イヤ、想像は禁物です。我々は決定的な証拠品によって、判断しなければなりません。その証拠品が、多分今に……アア、来ました。さい前から、僕はこれを待ち兼ねていたのですよ" ], [ "今、小林君が持って来たのは、岡田道彦の歯型です。小林君が二日がかりで、岡田が歯医者に通っていたことを探り出し、その医者を探して、やっと手に入れたものです", "で、あと一つは?", "それが、真犯人の歯型です", "エ、真犯人の歯型? あなたは、真犯人を知っていたのですか。一体どうして手に入れたのです" ], [ "それは聞いてますが、……", "その時、あの空家の戸棚の中で、たべあましのビスケットとチーズを発見したのです。ビスケットの上にチーズを重ねて、かじったもので、それにハッキリ歯型が残っていたのを、ソッと持帰って、石膏の型にこしらえたのです", "しかし、それが賊の歯型というのは……", "あの家は、二ヶ月以上も空家になっていたのですから、他にそんな所へ食べ物を持込むものはありません。倭文子さんも茂君も、賊にビスケットとチーズを、度々勧められたけれど、幽閉されている間、何ものも口にしなかったといっています。その言葉によっても、賊のたべあましであることは確かです。それが彼等の食料だったのです" ], [ "誰から?", "差出人の名前がありません" ], [ "この手紙の着く頃には、どこかで、また別の殺人が行われる、と予告をしている", "それが侮辱です。我々はそれを予防する力がない。殺人は間違いなく起るでしょう" ], [ "そうです。その手紙を読んでいる所へ、申合わせたように、あなたからの電話でした", "賊というのは、例の唇のない奴のことでしょうね", "無論、あいつです。風船で逃げた奴は換玉だったと考える外はありません", "イヤ、そんな筈はない" ], [ "あの人とは?……ではもう下手人が分っているのですか", "分っているのです。全く過失の殺人なのです" ], [ "誰です。そして、その犯人はもう逮捕されたのですか", "逃げたのです。併し、子供を連れた女の身で、逃げおおせるものではありません。あの人は間もなくつかまるでしょう。そして恐ろしい法廷に立たなければならないのです", "子供を連れた、女ですって? では若しや……", "そうです。ここの女主人の倭文子さんです。倭文子さんが、過って斎藤執事を殺したのです" ], [ "実に意外です。僕にしたって、あの畑柳夫人が、人殺しをしようなどとは信じられません。しかし部屋の中に、外には誰もいなかった。しかも、あの人が兇器を握っていたというのは、残念ながら、動かし難い証拠ですね", "そうです。証拠といえば、もっと悪いことがあるのです" ], [ "僕もそう思うのです。あれが倭文子さんの歯型だという証拠は?", "三谷君の証言です。キッパリいい切ったのです", "三谷君がね" ], [ "今朝鎖を解いたのだ相です。しかし、その犬は、いつの間にか、誰とも知れず、殺されているのです", "エッ、殺された。どこで?" ], [ "庭の隅にころがっているのを、今僕が発見した所です", "アア、恐ろしい奴だ。そいつを殺した奴が真犯人ですよ。なぜって、犯人を本当に知っているのは、広い世界に、その犬の外にはないからです。人間の目は、仮面や変装でごまかされても、犬の嗅覚は、滅多にごまかせませんからね。……僕の気づきようが、少し遅かった" ], [ "飛んでもないことをしてしまったのよ。茂ちゃん、お前はね、可哀相に、可哀相に、もうこれっきり、母さまとお別れなのよ。一人ぼっちで暮らさなければならないのよ", "母さま、行っちゃいや。どこへいくの? エ、なぜ泣くの?" ], [ "お前、人殺しの母さまと一緒に逃げてくれるの? マア、逃げてくれるの?……でもね駄目なのよ。逃げても逃げても、逃げられはしないの。日本中の何千何万という人が、みんな母さまを、つかまえようとして、四方八方から、目をギョロギョロさせているんだもの", "可哀相ね。……でも、茂ちゃんが、母さま助けてやるよ。その人ひどい目に合わせてやるよ" ], [ "僕は信じませんよ。君がやったなんて、決して信じませんよ", "あたし、どうしましょう。どうしましょう" ], [ "マア、こんな物の中へ?", "イヤ、縁起などをいっている場合ではありません。サア、お入りなさい。この外に、無事に邸の外へ出る方法は絶対にないのです。葬式は明日のお午過ぎです。それまでの辛抱です。死んだ気になって、隠れていて下さい" ], [ "坊や、堪忍してね。苦しいでしょ", "母さま、泣いてるの? 怖いの?" ], [ "イイエ、泣いてやしません。もうなんともないのよ。今に三谷の小父さんが助けて下さるのよ", "いつ?", "もうじきよ" ], [ "サ、茂ちゃん、構わないから、手足をバタバタやって、ありったけの声で呶鳴るのです。助けて下さいって", "母さま、いいの?" ], [ "母さまと一緒に、雲の上の美しい国へ行くのよ。しっかり抱き合って、離れないでね", "ウン、僕いいよ。母さまと一緒なら死ぬよ" ], [ "ほしいといっても、ここにはなんにもありはしないわ。いい子ですわね。今に、今に、天国へ行けば、どんなおいしいお菓子だって、果物だって、どっさりありますわ。もう少しの我慢よ", "そんなものじゃないの" ], [ "でもお腹が減ったのでしょう。喉が渇いたのでしょう", "ウン、あのね、母さまのお乳のみたいの" ], [ "神様、どこにいるの?", "ホラ、聞こえるでしょう。ボーッという音、アレ神様のはねの音なのよ" ], [ "母さま、怖い! 逃げようよ", "イイエ、ちっとも怖くはないのよ。ちょっとの間よ。ほんの少し苦しいのを我慢すれば、私達は天国へ行かれるのよ。ネ、いい子だから" ], [ "母さま、熱い", "エエ、でも、もっともっと熱くならなければ、天国へは行けないのよ" ], [ "警察の見張りがきびしくて、今の今まで、抜け出して来る機会がなかったのです。僕はどんなに、イライラしたでしょう。でも、やっと間に合って仕合わせでした", "マア、三谷さん!" ], [ "事件というと?", "無論畑柳事件ですよ。唇のない悪魔の一件です", "エエ、それじゃ、何か犯人の行方について手懸りでもあったのですか。僕等の方では、斎藤老人殺しの下手人の畑柳夫人捜索に全力を尽しているのです。歯型の一件といい、あの夫人を探し出してたたいたら、唇のない奴の方も種が割れ相な気がしますからね。しかし、女の身で、しかも子供づれで、よくもこんなにうまく逃げられたものです。いまだに何の手懸かりもありません" ], [ "例の代々木のアトリエにあった三人の女の死体ですね。あれの身元は分りましたか", "アア、それなれば、僕の方でも手を尽して調べているのですが、不思議なことに今以てあれに相当する様な、家出娘を発見しないのです", "あの三人の娘は、みなひどく腐らんして、顔も何も分らなくなっていましたね" ], [ "だが、どうして、こんな人形を作らせたのです。君のおもちゃにしては、少し変だし", "どうして、おもちゃなんかじゃ、ありませんよ。これでも立派な使い道があるのです", "西洋の探偵小説じゃあるまいし、人形の換玉が、何か役に立ちますかね" ], [ "ホウ、大したもんですね。余程手間がかかったでしょう", "イヤ、三日間で出来上ったのです。胴体は、工場にあり合わせのものを使い、首だけを、幾枚もの写真によって、彫刻し、それを型にして作りつけたものです。彫刻は友人のK君に頼んだのですが、弟子に手伝わせて、一昼夜で仕上げましたよ。こんな仕事は初めてだとこぼしていました" ], [ "ところで恒川さん、一つお願いがあるのですが、ちょっと、民間探偵の手に合わない事柄なのです", "君のことだから、出来る限りは便宜を計りますよ。イヤ、捜査に関することなら、僕の方でその衝に当りますよ。だが、一体何です", "実は墓地を掘返して、死体を調べたいのです", "墓地ですって?" ], [ "四つ? 一体何を調べようというのです。誰の死骸です", "第一は、例の鹽原で入水自殺をした岡田道彦です", "なるほど、あの死骸は、鹽原の妙雲寺の墓地に、土葬にしてある筈ですから、調べられぬことはありません。しかし、もう原形をとどめてはいないだろうと思いますが", "でも、骸骨にだって、歯丈けは残っている筈です" ], [ "アア、そうでしたか。その死骸の歯と、小林君が歯医者でもらって来た、生前の岡田道彦の歯型とを、くらべて見ようという訳ですね", "エエ、念の為に。それを確めないでは、どうも安心出来ぬのです。その二つの歯型の一致を見るまでは、岡田が唇のない怪物と同一人物でないという、確信がつかぬのです", "よろしい。それは決して無駄な仕事でないようです。墓地発掘の手続きは、僕が引受けますよ。……だが、君はさっき、墓地を四つといいましたね。岡田の外に、まだ見なければならぬ、死骸があるのですか", "死骸というよりは、寧ろ、……" ], [ "死骸のないことを確めるのです。つまり、埋葬された棺桶が、からっぽになっていることをです", "エ、エ、では、死骸が盗まれた事実でもあるとおっしゃるのですか。それはどこです。誰の死骸です", "誰のだか分りません。あてずっぽうに、発掘して見るのです" ], [ "あてずっぼうといって、どの墓とも分らないで、どうして発掘出来るのです", "イヤ、それは僕も知っています。この節、東京附近で死骸を土葬にする例は、非常に珍らしいのですから、探し出すのに、大して手間はかかりませんでしょう", "すると、もうその墓を探してあるのですね。だが、一体何者の墓なのです", "三人の娘さんの墓です。ホラ、あのアトリエで、石膏につつまれていた、可哀相な娘さん達の棺です", "棺といっても、あれらは、もう役場の手で、火葬にしてしまったではありませんか", "イヤ、それは僕も知っています。発掘したいのは火葬になる前のもう一つの墓地なのです", "エ、なんですって、では、あの娘達は、二度埋葬されたとおっしゃるのですか。……アア、成程、成程今までそこへ気がつかぬとは、僕は何という迂かつ者だ。……つまり、アトリエの死骸は、殺したのでなくて、どこかの墓地から、既に死んだ娘達を、盗み出して来て、あの奇妙な石膏像を作ったのだ。という考え方ですね" ], [ "二人? イヤ、三人ですよ。それも君のお考えになっている人物とは、まるで違っているかも知れません", "いずれにもせよ。殺人が行われたのではありませんか" ], [ "では、墓地発掘のことを承知しました。それぞれ手続きをとって、僕の方でやりましょう。無論、君が立会って下さるのは御自由です", "どうかお願いします。併し、恒川さん。これはただ念のために、動かし難い証拠を蒐集して置くというまでのことで、外に緊急な仕事がないのではありません。僕はそれを済ませて置いて、墓地の方へ行くことにしましょう" ], [ "ハハハハハハハ、君は何をいい出すのです", "君とあの賊とが気を合せて、僕達を飜弄している。というような感じがするのです。君の想像は、まるで神様のように的中する。しかも賊の方では、その上を越して墓地が発掘されることを予言し、空っぼの棺の中へ君に宛て手紙を残しておくなんて、君と賊とが、あらかじめ打合せでもしているのでなけれや、不可能なことです" ], [ "小説といえば、この犯罪は非常に小説的ですね。僕達にはちっと苦手ですよ。登場人物も、唇のない怪物を初めとして、画家だとか、小説家だとか、非実際的な連中ばかりですからね", "それですよ。いつもすぐれた犯罪者は小説家です。たとえば今の棺の中の手紙の一件にしても、今度の犯人が、非常な小説家であることを証しています。第一、相手の探偵に脅迫状を書くなんて、決して実際的の人間のやる仕草ではありませんよ。僕は第一回の脅迫状を受取った時に、この犯人の性格を見てとったものだから、その心持で、こちらも小説的になって、推理を働かせて見たのです" ], [ "イヤ、それは、僕の方でもあらかじめ、用意しています。今度はもう、あんなヘマはやらぬ積りです。……ところで、お差支えなければ、これから、畑柳家へ、お出になりませんか。多分三谷君がいるでしょうから、その後の様子を聞いて見ようではありませんか", "アア、僕も今、それを考えていた所です" ], [ "ありません。僕の方こそ、それを御聞きしたいと思っていたのです。警察の捜索は、どうなっているのでしょう", "警察でも、まだ手懸かりさえありません。実にうまく逃げたものです。とても、か弱い女の智恵とは考えられません" ], [ "そうでなければ小川正一と名乗る男の死体紛失といい、倭文子さんの不思議な逃亡といい、解釈のしようがないではありませんか", "しかし、警察では、小川の事件の折、邸内の隅から隅まで、一寸もあまさず、念に念を入れて検べ上げたではありませんか", "サア、それが素人の検べ方であったかも知れませんね。手品師の秘密は、やっぱり手品師でなければ分らぬものですよ", "というと、何だか、君にはその秘密が分っているような風に聞こえますね" ], [ "イヤ、時期を待っていたのです。迂かつにしゃべっては、却て相手に用心させるばかりですからね", "成程、で、その時期は一体いつ来るとおっしゃるのですか" ], [ "これで、全くあの時と同じ状態です。人々は三十分程、この部屋から遠ざかっていました。その間に、全く不可能なことが起ったのです。どこにも出入口のない部屋の中で、小川の死体が消えてなくなったのです。恒川さん、君がこの事件に関係なすったのは、あの日が最初でしたね", "そうです。あの日から僕は悪魔にみ入られているのです。あれから僅か十日余りの間に、国技館の活劇、風船男の惨死、斎藤老人殺し、畑柳夫人の家出と、事件は目まぐるしく発展しました。しかも、それが、どれもこれも前例もない突飛千万な、あるいは気違いめいた、不思議な出来事ばかりです" ], [ "君、あの穴の中に、一体何があるのです。この匂いは何です。君はそれを知っているのでしょう。サア、いってくれ給え、あれは一体何です", "シッ…………" ], [ "こうして、小川正一の死体が紛失したのです。あの黒い奴が、これだけの仕事を終ったあとへ、恒川さん、あなた方警察の一行が、ここへ来られたという順序です", "すると、小川をたおした短剣は?" ], [ "短剣はさっきの一寸法師が天井から投げつけたのです", "それは分ってます。しかし、その短剣がどうして消えてなくなったのです" ], [ "あいつが、今度の事件の真犯人だとおっしゃるのですね", "真犯人、……そうです。ある意味では" ], [ "第二幕目ですって。じゃ、今の続きが、まだあるのですか", "エエ、そして、今度の実演こそ、あなた方にお見せしたい、ごく肝要な場面なのです", "ホホウ、それは" ], [ "で、今度は、今の出来事、即ち小川正一死体紛失事件があってから、二三日の内に起った出来事をお目にかける訳です。実に奇怪千万な殺人事件です。しかし、これは全く蔭の出来事で、警察でも、畑柳家の人達さえも、まるで知らなかった犯罪です", "斎藤老人の事件とは別にですか" ], [ "エエ、三幕目があります。しかし、ご退屈でしたら、三幕目は口でいっても分るのです", "それがいい" ], [ "そうですよ。この男こそ、この家のあるじなのですよ", "エ、エ、何ですって?" ], [ "この唇のない男が、外ならぬ、倭文子さんの夫、畑柳庄蔵氏なのです", "そんな、そんな馬鹿なことがあるものですか。畑柳庄蔵は二ヶ月以前刑務所内で病死した筈です", "と信じられています。しかし、彼はよみがえったのです。土葬された墓の下で、蘇生したのです" ], [ "それは本当ですか。まさか冗談ではありますまいね", "意外に思われるのはごもっともです。彼は蘇生しました。だが、自然の蘇生ではないのです。すべて彼の同類がたくらんだ仕事です" ], [ "くわしいことは、いずれお話しする機会があるでしょう。今は、お芝居の第三幕目もまだ残っていることですから、ごく簡単に申しますと、つまり、刑務所内の医局の人々と、看守と、二三の病囚人が、ぐるになって畑柳庄蔵を死人にしてしまったのです。彼はやや重態の病人には相違なかった。しかし、まだ死んではいなかったのです。死骸と寸分違わぬ、一種の麻痺状態にあったに過ぎません。南洋の植物から製せられた、クラーレという劇薬を御存じでしょう。恐らくその様な薬品が使用されたのかも知れません。兎も角、畑柳庄蔵は、彼の同類のはからいで、生きながら、無事に刑務所の門を出ることが出来ました。そして、その後、土葬された墓場から、よみがえったのです。よみがえって、彼の盗みためた宝を守護する鬼となったのです", "小説ではあるまいし、日本の刑務所で、そういうことが行われるとは信じられません" ], [ "畑柳家は大金持です。数人の人々の生涯を保証する位の金銭は、何でもありません。生涯安楽に暮らせる程の大金をさしつけられて、目のくらまぬものがありましょうか。……墓場からよみがえった畑柳は、その儘の容貌では、すぐ捕まってしまうので、非常な苦痛を忍んで、硫酸か何かで、顔を焼きくずしてしまったのです。そして、全く別人となって、即ち唇のない怪物となって再びこの世に現われて来ました", "だが、変ですね。畑柳の刑期は、たしか七年だったと思いますが、なぜそれを待たなかったのでしょう。何も顔を焼く様なことをしなくても、……" ], [ "エ、杉村宝石店の……覚えていますとも、しかし、それがどうかしたのですか", "去年の三月でしたね。杉村宝石店の金庫が破られ、二名の店員が惨殺されていたのは", "そうです。非常に巧妙な犯罪でした。残念ながら、今以て何の手懸かりもつかみ得ないのです", "それから、早瀬時計店の盗難、小倉男爵家の有名なダイヤモンド事件、北小路侯爵夫人の首飾り盗難事件、……", "アア、君もやっぱり、そこへ気づいていたのですね。そうです。皆同じ手口でした。僕等も犯人は同一人物とにらんで、捜査を続けていたのです" ], [ "そこです。今夜のお芝居の第二幕目は、その点をハッキリさせるために、実演してお目にかけたのです。ごらんになった通り、畑柳は、もう一人の奴に殺されました。あの男を、一体何者だとお思いですか", "分りません。ただ、そいつが、眼鏡をかけ、マスクをはめていた奴らしいという外には" ], [ "そうです。唇のない奴が、唇のない畑柳庄蔵を殺したのです。つまり、今度の事件には、二人の唇のない人物がいて、全く別の目的で、別の罪を犯していたのです。我々は今までそれを混同していた為めに、事件の真相をつかむことが出来なかったのです", "そんなことが、こんなによく似た片輪者が、同じ事件に関係するなんて、余り馬鹿馬鹿しい偶然です" ], [ "例の人形と一緒に、これを作らせておいたのです。ちゃんと型が残っていましたからね。エ、あのお面の最初の依頼者を調べて見たかとおっしゃるのですか。調べて見ました。妙なことには、その依頼者は、園田黒虹ではなかったのですよ", "誰でした。名前が分っているんですか" ], [ "無論変名で注文したのでしょうから、名前が分ったところで、仕方がありません。人相風体は聞き出しておきました。併し、それも非常にあいまいなのです", "で、そのろう面を、あなたの前に、もう一つ注文した奴があるのですか。つまり、同じ唇のないお面が三つ製作されたのですか" ], [ "ところが、僕の注文の外には、たった一つ作ったばかりなのです。僕もその点に気づいたものですから、全部のろう細工人を調べて見ましたが、外に同じようなお面を作った者は一人もありません", "すると、僕が品川湾ではぎ取った、園田黒虹のかぶっていた、あの仮面が、即ち犯人の注文したものだということになりますね" ], [ "でも、奥様は、一体どこへ隠れていらっしゃるのでございましょうね。若しや、取返しのつかない様なことが……", "それも大丈夫です。奥さん達の行方はわかっている。二人とも決して自殺する様なことはありませんよ" ], [ "だが、どうも辻つまの合わぬ点がありますよ。ろう仮面の犯人は、一体何のために、そんな廻りくどいことをやっているのでしょう。彼奴の真意はどこにあるのでしょう。畑柳庄蔵を殺して宝石を奪った所を見ると、それが目的であった様にも思われるが、それなら、何も斎藤老人まで殺さなくてもよいではありませんか", "イヤ、畑柳を殺したのも、斎藤を殺したのも彼の真意ではありません。先日も申上げた通り彼奴はまだ目的を果していないのです。本当に奴が殺そうと企らんでいる人物は、もっと外にあるのです", "誰です。その人物というのは" ], [ "ここから抜け出すのは訳はなかったのです。棺桶ですよ。斎藤老人の死骸を納めた棺桶が、手品の種に使われたのですよ", "エ、エ、棺桶ですって?" ], [ "その外に考え様がないではありませんか。邸は隙間もなく警官や家人によって見張られていたのです。あの日邸を出入りした人物はハッキリ分っています。その外邸を出たものといっては、棺桶があったばかりです。とすれば、倭文子さんと茂少年は、あの棺に隠れて、ここを抜け出したと考える外ないではありませんか。簡単な算術の問題ですよ", "しかし、あの棺桶に、三人も人が入れますか" ], [ "三人は入れなくても、女と子供が入る程の広さはあります", "すると、斎藤老人の死体は?", "お目にかけましょう" ], [ "あたしが? イイエ、そんなもの存じますものですか", "知らないって? そんな筈はないよ。ホラ、奥座敷に並んでいる棺桶さ", "アア、あれでございますか。あれなら三つとも、からっぽですよ。さっき葬儀社から届けて来たばかりですもの。明智さんのお指図だっていってましたが、みんなで、一体何になさるのだろう。気味が悪いといって、不審がっていたのでございますよ" ], [ "イヤ、犯人はとっくに、倭文子さん達を手に入れているのです。第一、あの人達をここから逃がしたのも、隠れ場所を作ってやったのも、みんな犯人の仕業なのですよ", "エ、何ですって" ], [ "それなら、なお更急がなくては、倭文子さんが殺されてしまうではありませんか。君は一体どうしようというお考えなのです", "無論、犯人の逮捕に向うつもりです。しかし、何も慌てることはないのですよ" ], [ "で、君は犯人をすでに知っているのですか", "エエ、よく知っています", "倭文子さんを、棺に入れて、ここから逃がしてやったのも、その犯人の仕わざだといいましたね。それが第一、僕にはよく呑みこめないのだが、すると、犯人は、この邸内のものだとおっしゃるのですか", "倭文子さんを逃がした奴といえば、あの人が最も信頼していた人に違いありません。その様な人物は、恐らく倭文子さんの恋人の外にはないで、よう。つまり、この事件の犯人は、倭文子さんの恋人だったのです。三谷房夫だったのです", "ウムムムムム" ], [ "では、なぜ三谷君を捕えないのです。彼はさっきから、我々と同席していたではありませんか。それにしても、当の犯人である三谷君が、自分の犯した罪をあばかれるあの芝居を、平気で見物しているなんて、僕には、何が何だか、さっぱり訳が分りません", "イヤ、あいつは、決して平気でいたのではありません。君は気づかなかったですか。物置で種明しをしている折など、あいつは、真青になって、額ぎわに玉の汗を浮かべて、ブルブルふるえていたではありませんか", "ウン、そういえば、変な挙動がないでもなかった。君の推理はあとで聞くとして、兎も角、三谷君を問い正して見るのが早道だ。あの人はまだここにいる筈です", "とっくに逃げてしまいました。さい前、物置からこの部屋へ来る途中で、姿をくらましてしまいました。恐らく廊下の窓から、庭へ出たのだと思います" ], [ "ご安心なさい。僕はちゃんと、あいつの行先を知っているのです。その上念のために、三谷のあとを尾行までさせてあります", "尾行ですって、いつの間に? 誰が?" ], [ "外にそんなことを頼む人はありません。文代さんと小林君ですよ。あの二人は、女や子供だけれど、なまじっか、大人よりは敏捷で、頭も働きます。滅多にあいつを見失う気遣いはありません", "で、君の知っているという、あいつの行先というのは?", "目黒の工場街にある、一軒の小さな工場です。三谷が、果してそこへ入ったかどうか、文代さんから電話をかけて来る手筈です。アア、若しかしたら、あれがそうかも知れません" ], [ "あたし、文代です。あの人、やっぱりあすこへ入って行きました。大急ぎで来て下さいまし", "有難う。だが、大急ぎというのは?", "でも、あの人、何だか、私達のつけて来たのを、感づいたらしい様子ですの", "よろしい。それではすぐに、恒川さんと行きます。小林君をそこへ残して、あなたは、例のことを運んで下さい。じゃあ" ], [ "お聞きの通りです。やっぱり目黒の工場街へ帰った相です。すぐお伴しましょう", "では、僕は応援の巡査を、そこへ集める手配をしておきましょう" ], [ "エ、殺人犯人ですって、何をいっていらっしゃるのです。僕が一体誰を殺しました", "貴様、さっきの明智さんのお芝居を見ながら、まだそんなことをいっているのか。貴様こそ、唇のない男だ。ろう製の面をかぶって、畑柳庄蔵を殺し、斎藤老人に短剣を投げつけた犯人だ" ], [ "畑柳と斎藤の外に、君自身の助手の園田黒虹という文士を殺したのも君だ。それはわかっている。だが、岡田道彦は? 鹽原の滝壺で死んだあの岡田は? これも恐らく君の仕業だと思うのだが", "ヘエ、驚きましたね。飛んでもないことですよ。僕は何も知りませんよ" ], [ "岡田は自殺をしたのではない。あの男が滝の落口へ昇って行ったのを見すまして、これ幸いと、君がうしろからつき落としたのだ。つき落としておいて、死体が下流に浮かび上るのを待ち、その顔を石でたたきつぶして、岡田と分らぬ様にしてしまったのだ", "オヤオヤ、僕も酔興な真似をしたものですね", "ハハハハハ、如何にも酔興だったよ。折角そうして、岡田の顔を分らぬ様にして、岡田自身が、替玉の死骸に彼の着物を着せて滝壺へ投げ込み、死んだと見せかけて、その実恋敵の君や倭文子さんに復讐をしている様に思わせる、あの念入りなトリックが、僕には何の効果もなかったのだからね。岡田が生きていて、倭文子さんを苦しめているのだと、わざわざ僕の事務所へ教えに来たのは、君ではなかったかね。僕がそれを信じた様に見せかけて、実は君の様子を注意していたとも知らないで。ハハハハハハ如何にも酔興なお茶番に相違なかったよ", "フフン。で、証拠は? 架空の想像なら、誰にだって出来ますからね。まさか裁判官は、それでは承知しますまいよ" ], [ "証拠がほしいのかね", "エエ、あれば見せてほしいものですね", "よし今それを見せてあげる。ちょっとの辛抱だ。おとなしくしているのだよ" ], [ "ホラ、君達兄弟が仲よく並んで写っている。右のが兄さんの谷山二郎君だ。左が君だ。僕はこれを君達の郷里の信州S町の写真屋から探し出して来たんだよ", "すると、あなたは……" ], [ "だが、その前に、僕は何もかも白状しましょう。僕がなぜ倭文子さんをこんな目に会わせたかその訳を聞いて下さい", "イヤ、それは、あとでゆっくり聞こう。まず倭文子さんを出し給え" ], [ "で、それが一体どうしたというのですね。僕がちっとばかりこの部屋を留守にしたからといって、まさか倭文子達が、逃げ出した訳じゃあるまいし。僕の目的には何のさしさわりもないことだ", "果してそうかね。君は、僕がここへ来るのに、何のお土産も持って来なかったと思っているのかね" ], [ "いってくれ。本当のことをいってくれ。君は一体何をしたのだ。君の土産というのは何だ", "僕の口からいうまでもなく、君がちょっと、その花氷へ近づいて、中の人間を調べて見ればいいのだ", "それじゃあ君は、あれが、倭文子と茂でないというのか" ], [ "ワハハハハ、探偵さん。君は気が違ったのか。夢でも見ているのか。これが倭文子と茂でなくて、一体誰だというのだ", "誰でもない", "エ、誰でもない?", "人間でないというのさ", "エ、エ、人間……", "蝋人形だよ。君は唇のない仮面を作らせた位だから、蝋細工がどんなに真に迫って出来るものだか、よく知っている筈ではないか。僕はあらかじめ君の計画を察したものだから、二人の蝋人形を作らせて、君の留守の間に、本物と入替えておいたのだ。あの時の妙な呼笛は、僕の部下の小林君が、君をおびき出す為に吹いたのだよ" ], [ "畜生ッ、さては貴様、ピストルの丸まで抜き取っておいたのだな", "御推察の通り。僕はこういう事には、非常に用心深いたちだからね" ], [ "快活に?", "そうです。困った人です。あれに懲りて謹慎していなければならない倭文子さんが、半月たつかたたぬに、若い男友達をこしらえて、毎日の様に逢っているということです。谷山二郎が悶死したというのも、無理ではないのかも知れません。あんな事件をひき起した元は、やっぱりあの人です。あの人にもいやな弱点があるのです" ], [ "明智さん、君の予言は的中しました", "エ、何ですって?", "倭文子さんが、殺されたのです" ], [ "僕は兎も角畑柳家へ行って見ます。その上でくわしい事情をお知らせしましょう", "電話を下さい。僕も現場へ行けないのが残念です。しかしここの電話室位なら歩けますから是非模様を知らせて下さい" ], [ "お化けだって。何かそんなことでもあったのかね", "エエ、奥様が、それを御覧になったのです。四五日前のことでございます。奥様は、婆あや夢かも知れないけれどといって、私にお話しなさいました。真夜中に、妙な影の様な人間が、奥様の寝台の枕もとにションボリ立って、じっと奥様の寝顔をのぞき込んでいたのだそうでございます", "フン、そいつはどんな風体をしていたとおっしゃったね" ], [ "それがあなた。着物は何だか黒っぽいもので、ハッキリ分らなかったけれど、顔は、確かにあの三谷のやつに相違なかったと、おっしゃるのでございます", "で、奥様は、どうなすったのだね", "どうにもこうにも、ただもう夢中で、蒲団を頭からかぶったまま、ふるえていらしったと申します。そして、しばらくたって、怖々蒲団の中からのぞいて見ると、その時は、もうおばけは、どっかへ姿を消してしまって、何も見えなかったそうでございます。だから、やっぱり夢だったかも知れない。こんなこと誰にもいっちゃいけないよと、私だけにお打あけなさいました", "お前は、そのいいつけを守って、誰にも話さなかったのだね" ], [ "ところが、あなた。それもつい今朝になって分ったのでございますが、奥様のごらんなすったのは、満更夢ではなかったのです", "ほう、すると、やっぱり谷山が、生きてここへ忍び込んだ証拠でもあるというのかね" ], [ "それはいつ頃からだね", "やっぱり四五日前、丁度奥様がおばけをごらんなすった時分からだと申しますの" ], [ "しかし、縁の下にもせよ、天井にもせよ、そこからこの部屋へ、どうして入ったか、又どうして出て行ったかということが問題です。それは婆あやさん、あなたが証人じゃありませんか", "エエ、それがわたしも不思議で不思議で仕様がないのですよ" ], [ "この婆あやさんが、被害者と話していて、子供をつれてちょっとの間廊下へ出ている隙に、犯罪が起ったのです。悲鳴を聞きつけて、ドアを開いて見ると、被害者はこの通り倒れていて犯人は影も形もなかったというのです。そうだったね、婆あやさん", "エエ、その通りでございます。茂ちゃんを廊下で遊ばせていたのは、僅か五分かそこいらです。その間、わたし、このドアのそばを一度も離れませんから、悪者はどこか、もっと別の所から入ったに違いございません" ], [ "すっかり取替えたのだそうです。家具屋が運んで来たのは五日前だそうです。しかし、それが何か……", "五日前……谷山のお化が現れたのも、台所の食べものがなくなったのも、丁度その頃からですね", "アア、そういえば、そうですね" ], [ "倭文子さんは、長椅子の前に倒れていたのですね。……それで、婆やがその部屋を出る時には、被害者はどこにいたのです。長椅子に掛けていたのではありませんか", "そうです。その通りです", "すると、長椅子の上にも血が流れてはいませんか", "流れています。可成の量です" ], [ "絶対に犯人の出入する個所はなかったのですね", "絶対になかったのです", "それから、犯罪が発見されてから、その部屋が少しでもからっぽになった時はありませんか。死骸だけ残して、みんな出てしまったことはありませんか" ], [ "ありません。絶えず誰かが、部屋の中にいたそうです", "ではやっぱりそうです。僕は、犯人は多分、まだその部屋の中にいると思うのです" ], [ "その外には乳母のお波さんだけです", "イヤ、まさか犯人が、あなた方の目につく場所にいるとは思いません。隠れているのです。若し僕の想像が間違っていなければ、奴は非常に変てこな、誰も探しても見ない様な所に隠れているのです", "そんな場所は絶対にありません。僕はあらゆる部分を調べました。まさか僕が、人間一人見落としたとは考えられません" ], [ "ところが、あなたも調べなかった部分があるのです", "どこです。それは一体どこなのです", "恒川さん、あなた、園田黒虹という小説家を覚えていますか" ], [ "知ってます", "あの男が『椅子になった男』という小説を書いているのを、ごぞんじですか", "椅子になった男……ですって?", "そうです。ね、園田は谷山の助手を勤めて非業の最後をとげた男です。彼等は一度は友達だったのです。で、谷山があの小説を読んでいない筈はありません。読めば、あいつのことだ。小説家の考え出した奇抜な空想的犯罪を、そのまま実際に行って見る気にならなかったとはいえません。……なぜって、ホラ、丁度五日前には、新調の家具が、その部屋に運びこまれたのですからね", "家具ですって?" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第6巻 魔術師」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年11月20日初版1刷発行    2013(平成25)年2月20日2刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十二巻」平凡社    1932(昭和7)年2月発行 初出:「報知新聞夕刊」    1930(昭和5)9月30日~1931(昭和6)3月12日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:大久保ゆう 2017年10月10日作成 2018年12月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ウフフフフフ、ご苦労ご苦労。で、仏様は確かにのっかっているんだろうね", "それや大丈夫。奴等、まさか金ピカ自動車が二台も来ようとは知らぬものだから、まんまと思う壺にはまりましたぜ。いまごろは空っぽの偽の棺が、焼場の竈でクスクス燃えてることでしょうよ" ], [ "話はあとにして、棺を家の中へ運んでくれ給え。人でも来ると面倒だ", "オット合点だ。じゃ、手を貸して下さい" ], [ "ウフフフフ、うまい、うまい。君達にはたんまりお礼をしなくっちゃなるまいね。……ところで、もうここはいいから、帰って花婿の支度をしてくれ給え。明日の朝は、写真屋を忘れない様にね。判は四つ切りだよ", "飲み込んでますよ。どんな立派な花婿姿になって来るか見てて下さい。あっしゃこんな別嬪と結婚式を上げようとは、夢にも思いませんでしたぜ。一目、花嫁御の顔が見たいな", "よし給え。今見ちゃ興ざめだ。すっかり御化粧の出来上るまで辛抱すること。僕の腕前を見せるよ。一晩の我慢だ", "じゃあまあ、我慢して置きますかね。待遠しいことだ。精々あでやかにお頼み申しますぜ", "ウフフフフ、いいとも。心得た" ], [ "すてきだ。一分の隙もない花婿様だ。ところで、写真屋の方は?", "もう来る時分です。やっぱり十時と云って置きましたから。……" ], [ "よく出来ただろう", "全くどうも、驚きましたね。これが死骸ですかい。あっしゃ、こんな美しい死骸なら、本当に女房にしたい位のもんですよ", "だから婚礼をするんじゃないか", "だって、並んで写真を写す丈けじゃ物足りないね。何とかならないもんですかね", "ハハハハ、何とかといって、死骸を何とする訳にも行くまいじゃないか" ], [ "サア、これでいい。花婿さま御用ずみだ。着物を着換て来るがいい", "だが、あっしゃ、どうも腑に落ないね。こんなことをして一体どうなるんですい。あの写真が何かの種にでもなるのですかい", "それは俺に任せて置けばいいのだ。君達は、黙って俺の指図に従っていればいいのだ。二三日の内に、俺のすばらしい目論見が、君達にも分るだろう", "それから、この娘さんの死骸は? まさかここへうっちゃらかしても置かれますまい", "それも俺に考えがある。まあ見ててごらん。世間の奴等が、どんな顔して驚くか。君は俺の日頃の腕前をよく知っているじゃないか", "ウフフフフフ、何だかあっしにも、薄々分らないでもないがね。定めし例によって、物凄いところを演じる訳でしょうね。だから、かしらの側は離れられねえんですよ。ウフフフフフ" ], [ "馬鹿なことを云い給え、君がよく知っている通り、照子は少しも汚れのない処女であった。あとにも先にも君がたった一人の許嫁なのだ、なぜそんなことを聞くんだね", "これをごらん下さい。知らぬ人から、今朝これを郵送して来たのです" ], [ "誰だか分りません。差出人の名がないのです", "フム、わしにもさっぱり訳が分らん、こんな男は見たこともない。又、わしの娘が、いくら酔狂でも、こんなゴリラみたいな醜い奴と結婚などする訳がないじゃないか。いたずらだ。誰かのいたずらに極まっている" ], [ "併し、写真のトリックがこんなにうまく行く筈はありません。盛装した女の胴体に、お嬢さんの顔丈けを貼りつけたのかと思って、よく調べて見ましたが、そんな細工のあとは少しもないのです。確かに本物です。それに、この台紙には写真館の名が印刷してあります。電話番号まで書いてあります。この写真屋を呼んで聞けばすぐ分ります", "ハハハ……。写真屋を呼ぶまでもない。わしが断言する。娘は決してこんな男と婚礼なんかした事はない", "でも、念のためです。若しいたずらだとしたら、そいつを見つけだして、こらしめてやらねばなりません。それにつけても、一応写真屋に問い訊す必要があると思います" ], [ "何だって? 四五日前だって? そんな馬鹿な、どうして写真なぞとれるものか。だが、一体どこで写したのだね", "牛込区S町の古いお屋敷でございました。エエと、あれは……そうそう、思い出しました。この前の日曜日でございます。子供達の学校が休みであったのを、よく覚えて居ります", "エ、日曜日だって?" ], [ "それは君、本当かね", "ハア決して間違いはございません。午後になって小雨がふり出しました、あの日でございます" ], [ "君、冗談を云っているのじゃあるまいね。この写真の女はわしの娘なのだ。急病でなくなって、今日が八日目だ。分ったかね。ここに写っている花嫁は、先週の木曜日になくなって、土曜日に火葬にしたのだ。その死人が、火葬になった翌日の日曜日に、こんな盛装をして、お嫁入りをするということが、あり得るだろうか", "エ、エ、何でございますって?" ], [ "アノ、お電話でございます。是非とも旦那様に出て頂き度いとおっしゃって……", "うるさいね。明日にして下さいって云え。一体どこからだ" ], [ "どうしたんだ。電話は誰からだ", "アノ、照子だとおっしゃいました。確かにおなくなりなすったお嬢さまのお声でございます" ], [ "照子だ? オイ、何をつまらんことを云っているのだ。死人から電話が掛ってくる筈がないじゃないか", "でも、是非お父さまにとおっしゃいまして、何度伺い直しても、照子よ、照子よとおっしゃるばかりでございますの" ], [ "わたし、布引だが、あなたはどなた?", "アア、お父さま! あたし照子です。お分りになりまして? 照子は生きていますのよ", "オイ、照子! お前、本当に照子なのか。どこにいるのだ。一体どうしたというのだ" ], [ "お父さま! あたし何も云えないのです。アノ、側に人がいるんです。命じられたことの外は何も云えないのです。でないと殺されてしまいます", "よし、分った。安心おし、きっと救い出して上げる。で、その命じられたことを云ってごらん" ], [ "お父さま! すみません。あたしお父さまにこんなひどいことをお願いしなければならないなんて。……アノ、ここにいる人が、お父さまにあたしを買い戻す様にお頼みしろと云いますの", "分った、早く云ってごらん。一体どれ程の身代金を要求するのだ", "五万円……それも現金で、お父さまご自身で持って来て下さらなければいけないと申しますの", "よしよし、心配することはない。お父さまはその身代金を払って上げる。で、どこへ持って行けばよいのだね", "それはアノ、お父さま今日写真屋さんをお呼びになったでしょう。その時牛込S町の空屋のことお聞きになりませんでした?", "ウン、聞いた。お前今そこにいるのかい", "イイエ、今は違います。でも、明日の朝、十時にはそこへつれて行かれるのです。そしてお父さまのお金と引換えに帰してやると申しているのです。分りまして? あのS町の空屋へ朝十時に……ね、分りまして?", "分った、分った。安心して待ってお出で、お父さまがきっと迎えに行って上げるからね", "そして、アノ、このことを警察へ云ったりなんかすると、あたし殺されてしまいますのよ。アノ、今なんにも云えませんけど、相手の人は多勢いて、それは想像もつかない程恐ろしい団体なのですから、用心して下さいましね。……アラ、何も云やしませんわ。エエ、切ります、切ります。――ではお父さま、本当に……" ], [ "イヤ、上ることはありません。すぐにここへ娘をつれて来て下さい。金はこの通り持っているんです", "でも、お嬢さんは今着替えをしていらっしゃいますから、ちょっとお上りなすって", "そうですか。じゃ娘のいる部屋へ案内して下さい" ], [ "馬鹿に薄暗いじゃないか。雨戸がしめてあるのですか", "ヘヘヘヘヘヘヘ、空屋だものですからね" ], [ "君が今度のことを企らんだ本人かね。あの写真を見たが、君はまさか本当にわしの娘と結婚した訳ではないだろうね", "ヘヘヘヘヘヘ、どういたしまして。お嬢さんは大切な売物ですからね。買手のあなたを怒らせる様なことは致しませんですよ。あの写真は、ナニホンの、私共のやっている仕事が嘘でない証拠までに撮ったのですよ" ], [ "で、娘はどこにいるのだね", "ここでございます。この襖の向うでございます" ], [ "ヘヘヘヘヘヘヘ、そこに抜かりがあるものですか。私一人の様に見えて決して一人じゃありませんからね。その襖の中には、お嬢さんの外に、よく御存知の男もいるのですよ。ヘヘヘヘヘ、それにあなたが警察には内密で、紳士らしくたった一人で、ここへ御出でになったことも、ちゃんと偵察してあるのですよ", "フフン、流石に悪党だね。だがわしの方にも、いささか用意があるぜ。若しわしをペテンにかけて娘を渡さない様なことがあれば、ホラ、これを見給え。わしは射撃にかけては、これで仲々名人だからね" ], [ "妙なことって?", "今朝早く、お友達をお見送りして、東京駅の待合室にいる時、変な男が、突然あたしに話しかけたのよ", "それで?", "この紙包みを、ソッとあたしに渡すんじゃありませんか。そして、『お約束の薬です。これを召上れば、あなたの声はもっともっとよくなります』って云ったかと思うと、サッサとどこかへ行ってしまったのです", "君は、そんな約束なんかしなかったの?", "エエ、ちっとも覚えがないの", "で、その男というのは?", "無論知らない人よ。こう髪を長く、おかっぱみたいにして、黒い服を着た、昔の美術家みたいな風をしていましたわ" ], [ "で、この中には、本当に薬が入っていたの?", "エエ、でも、何だか薄黒い米粒みたいな気味の悪いものよ", "無論、呑みやしないね", "エエ、毒薬だったら大変だわ" ], [ "京子さん、これはやっぱりあたり前の米粒だよ。だが、なぜこんなに薄黒いのだろう。君はこれをよくも検べて見なかったのだね", "エエ、気味が悪くて……", "この薄黒いのはね、字が書いてあるんだよ。米粒の表面に、虫眼鏡でも読めない程小さな字が、一杯書いてあるんだよ", "マア、本当?", "見てごらん。ホラ、ね、同じ三字の組合せが、何十となく、ビッシリと並んでいるだろう" ], [ "僕の友達の鳥井君に、恐ろしい情死をさせた奴です。あいつ、又こんないたずらをしたんだな。この間は布引照子さんの死骸に『恐怖王』と刻みつけて見せたかと思うと、今度はこれだ。奴め、ひょっとしたら、僕がこの事件に興味を持っているのを感づいたんじゃないかしら", "マア、怖い! あたしどうしたらいいでしょう。あいつに見込まれたのじゃないでしょうか。そして、若しやあなたと……" ], [ "あれ字だよ。伯父さん達字を描いているんだよ。君、読めるかい", "読めらい、あれ、英語のKって字だい" ], [ "マア、お入り下さいませ。今出掛けようとしていたのですけど、構いませんわ。サア、お入り下さいませ。本当によくいらしって下さいましたわね", "イヤ、そうしてはいられないのです。裏庭を見せて頂き度いのです。それから、書生さんか何か男の人は居ないでしょうか", "イイエ、あいにく書生は居りませんが、裏庭って、裏庭がどうかしましたの" ], [ "芝生だもんだから、足跡がないのです。やっぱり塀を越して逃げたかな", "誰かが庭へ這入りましたの? マア、気味の悪い。誰ですの?" ], [ "そんなものございませんわ。本当にこの部屋へ逃げましたの", "それは間違いありません。一足違いで、僕が飛び込んだのです。ホンの五六秒の差です。それに、あいつは影も形もなくなっていたのです" ], [ "マア、どうしましょう。わたくし、あんな恥かしい様子をお目にかけて。……でも、ああでもしなければ、先生が危なかったのですもの", "そうですとも、危なかったのです。あいつ本気で僕を殺そうとしていたのです", "お互っこですわね。先生はあたしを助けて下さるし、あたしは先生をお救い申上げた訳ですわね。あたし何だか偶然でない様な気が致しますわ。こんな事がいつかあるのだという妙な予感を持って居りましたわ" ], [ "僕はこの指に見覚えがあるのです", "エ、なんでございますって?", "アア、恐ろしい。僕はこの腕の持主を知っているのです。思違いであってくれればいい。だが、よもや……" ], [ "その方、どなたですの? あなたの親しい女の方って", "花園伯爵のお嬢さんです。僕はそれを確めて見なければ安心が出来ないのです" ], [ "それから、君はもう一度お嬢さんの部屋へ行かなかったのですか", "エエ、そのまま玄関わきの書生部屋に這入って本を読んでいました", "すると、女中さんが中食を知らせに行って、お嬢さんの部屋が空っぽになっていることが分るまで、君はずっと書生部屋にいたのですか", "そうです。書生部屋からは玄関は勿論、門の所までが見通しになっているのに、お嬢さんは一度もそこを通られなかったのです。僕は読書しながらも、絶えず門を通る人は注意していたのですからね", "間違いはないでしょうね", "エエ、決して。お嬢さんが庭から塀でものり越して外出されない以上、お嬢さんの姿が見えないというのは、全く考えられない事です。実に不思議です" ], [ "イヤ、僕もすっかりは知らないのです。ただ……", "ただ、どうだとおっしゃるのです", "ただ、ある所で京子さんの右の腕を見たんです。確に見覚のある、お嬢さんの手首を見たんです。肘の所から切落された腕丈けを", "マア!" ], [ "僕の思違いであってくれればいいがと、心も空にお邸へかけつけたのです。併し、この血の様子ではあれはやっぱりそうなんだ。京子さんは『恐怖王』にやられたんだ", "エ、エ、君は今何と云ったのです。誰にやられたんです", "恐怖王。御存知でしょう。今世間で騒いでいる殺人鬼恐怖王です。そのお嬢さんの腕には『恐怖王』と入墨がしてあったのです" ], [ "そんなこと、どうだっていいじゃありませんか", "イヤ、そうでないのです。どうもおかしいですよ。こんな変な音を出すピアノなんて、聞いたことがない" ], [ "イヤ、この中にです", "エ、エ、ピアノの中に?", "多分僕等の探している人です" ], [ "奥さん、ごらんなさい。京子さんの寝顔を。余り静かじゃありませんか。それにあの青さはどうでしょう", "エ、何とおっしゃいます" ], [ "それがどうも本当にしまっていない様なのです。開けて見ても構いませんか", "エエ、どうか" ], [ "アッ、何をする。離せ。離さないと", "ワハハ……、離さないと、飛道具でもお見舞するというのかね。だが、このお嬢さんが守って下さるよ。サア、蘭堂、貴様こそ其処をどけ。そして、俺の帰り道をあけてくれ。いやか。いやだと云えば、ホラ、見ろ、こうだぞ、こうだぞ" ], [ "では、あの京子も……", "エエ、京子さんの死骸もです。僕はとりあえず附近の交番に立寄って、非常線の手配を、電話で本署に頼んでくれる様に云って来ましたが。もう手遅れかも知れません", "見失ったのですか", "そうです。……僕は駈けっこでは人にひけを取らない積りなんだけれど、あいつにかかっては敵いません。あいつは全くゴリラです。人間ではありません。あんな重いものを抱えながら、まるで黒い風の様に走るのです。町角を三つばかり曲ったと思うと、もう影も形も見えませんでした。実に恐ろしい魔物です。今頃非常線の手配をした所で、恐らく無駄でしょう" ], [ "して、金額は? 余程沢山ですか", "エエ、十万円。額面で十万円なんです。それが帰らなかったら、私共はすっかり貧乏になってしまいますわ" ], [ "違いない。この服装の様子では、確に伯爵令嬢だぜ", "ヤ、美しい顔をしている。まるで人形みたいだぜ" ], [ "どうしたんだ", "人形みたいな美しいお嬢さんだと思ったら、これは君、本当に人形だぜ。ホラ見給え、顔を叩くとコチコチ音がする" ], [ "マア、人形に京子さんの服を着せて持歩いていたんですって。変ですわね。一体何の為にそんな真似をしたのでしょう", "それが誰にも分らないのです。ゴリラは何にも云わないのです。イヤ、不思議はそればかりではありません。ごらんなさい。今こんな招待状が舞込んだところです" ], [ "何が分ったとおっしゃるのです", "この招待状の意味がです。なぜD百貨店を式場に選んだのか、ゴリラ男がどうしてマネキン人形なんか持ち歩いていたのか、ということがですわ" ], [ "エエ、そう思いますわ。雑沓すればする程、賊の思う壺なのよ。恐怖王のこれまでのやり方を見れば分りますわ。あいつは、悪事を見せびらかすのが大好きなんです。死人との結婚式を、大百貨店で挙行するなんて、如何にも恐怖王の思いつき相なことじゃありませんか", "それは僕も同感だけれど……", "先生、ゴリラ男がつかまったのは上野公園の近くでしたわね", "エエ、……そして、D百貨店も上野公園の近くだというのでしょう。そこまでは分るけれど" ], [ "六階催し物", "婚礼儀式の生人形と婚礼衣裳の陳列会" ], [ "ウン、少しおかしいですね。それに、あの顔はどこやら見覚がある", "エエ、あたしもそう思うのよ。死顔に厚化粧ですもの、少しは相好が変る筈ですわ。一寸見たのでは京子さんに見えないけれど、でも、どっか似てやしないこと", "そうです。見ている内に段々京子さんの俤が出て来た。それに、あの姿勢が人形にしては少しおかしいですね。店員を呼んで検べさせて見ましょう" ], [ "そんなにあばれるんですか。あいつが", "本当のゴリラみたいに、食いついたり、引かいたりするんだそうです。巡査が腕に食いつかれて、ひどい怪我をしたということです", "そうですか、じゃ、やっぱりあいつかも知れない" ], [ "それはよくこそ。御承知の通り、僕はあいつにはひどい目に合っているのですから、恐怖王の正体をあばくのに参考になることでしたら、喜んで伺いますよ", "あなたは、あのゴリラ男の外に、恐怖王と名乗る元兇がいるのだとお考えですか", "無論そうだと思います。あの野獣みたいな男の智恵では、こんな真似は出来っこはありません", "そうでしょうね。僕もそう思うのです。ゴリラというのが僕の知っている奴だとすると、そいつは子供程の智恵もないのですからね", "あなたはどんな関係であいつを御存じなのです", "僕の親父が、香具師の手から買取ったのです。そして、十何年というもの、僕の家で飼っていたのです", "飼っていたんですって?" ], [ "今度警察へとらえられても、檻の必要があるというのは、つまりあいつが人間ではないからです。香具師というものは、お金儲けの為には、どんな真似だってしますからね。あの半獣半人がこの世に生れて来たのには、何か恐ろしい秘密があるのではないかと思います。僕の親父はあいつの子供の時分、香具師があんまり残酷に扱うのを見兼ねて、物好半分に買取ったのですが、一年二年とたつに従って、後悔しはじめたのです。大人になるにつれて、あいつが恐ろしい野獣であることが分って来たからです。あいつは本当の猿の様に、どんな高い所へでも昇ります。天井をさかさまに這うことさえ出来ます。力は大人が三人でかかっても負ける程です。僕はあいつと一緒に育ったので、よく知っています。あいつが来てからというもの、僕の家は魔物のすみかになったのです。家中の者が気が違った様になってしまったのです", "すると、あいつは、あなたの家から逃げ出した訳ですか", "そうです。もう六年ばかり以前のことです。僕の家に居候をしていた男が、あいつを盗み出したのです。何の為にか少しも分りませんが、二人は――いや、一人と一匹とは、まるで駈落でもする様に、手に手をとって逃出してしまったのです。僕の家では結句厄介払いをしたと喜んだことですが……", "なんだかゾッとする様なお話ですね。で、あいつは何という名前だったのです", "三吉と云うんです。以前の飼主の香具師がそう呼んでいたんです。つまり戸籍面は黒瀬三吉という事になっているんです", "それから三吉を盗んで行った奴は?", "イヤ、それはあとにして下さい。それが若しあの恐怖王だとすると、迂濶には云えない様な気がします。その前に僕は一度ゴリラ男を見たいのです。果して三吉だかどうだか確めたいのです。あなたのお口添えで、ゴリラ男を一見する訳には行きませんでしょうか", "無論見せてくれると思います。警察ではゴリラの素性が分らなくて困っているのですからね。その上あなたが共犯者を見知っていられるとすれば、こんな耳寄りな話はありません。喜こんで見せてくれるでしょうよ" ], [ "腕に注射針の痕があります", "毒薬ですか" ], [ "それで生命は?", "分りません。至急に手当てをして見ましょう。こんな頑強な男ですから、うまく命をとりとめるかも知れません" ], [ "でも、恐怖王にして見れば、外に仕方がなかったのかも知れませんわ", "併し、あいつはもともと、俺は恐怖王だぞと広告しているんじゃありませんか。仮令ゴリラが本当のことを白状した所で、その為に捉えられる様なへまな真似はしない筈です。助手に使う為にゴリラを救い出す必要はあったかも知れないが、何も殺すことはなかったでしょう", "でも、恐怖王の方には、何かそうしなければならない様な、特別の事情があったのかも知れませんわ" ], [ "ホホウ、あなたは、あの殺人鬼が、我々と同じ様な善良な社交生活を営んでいるとおっしゃるのですか", "エエ、そうでなければ、あんな危険を冒して、ゴリラを殺しに行く筈がありませんもの。若しかしたら、恐怖王は恋をしているんじゃないかと思いますわ。恋人に身の素性を知らせたくない為ばかりに、あんな冒険をやったのではないかと思いますわ" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年6月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十三巻」平凡社    1932(昭和7)年5月 初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社    1931(昭和6)年6月~7月、9月~10月、1932(昭和7)年1月~5月 ※「向うの」と「向《むこう》の」、「群衆」と「群集」、「気持」と「気持ち」、「押さえて」と「押えて」、「確かに」と「確に」、「落ちて」と「落て」、「見舞い」と「見舞」、「残酷」と「惨酷」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:入江幹夫 2020年6月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057517", "作品名": "恐怖王", "作品名読み": "きょうふおう", "ソート用読み": "きようふおう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社、1931(昭和6)年6月~7月、9月~10月、1932(昭和7)年1月~5月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-07-28T00:00:00", "最終更新日": "2020-06-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57517.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年6月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年6月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年6月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第十三巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年5月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "金城学院大学 電子書籍制作", "校正者": "入江幹夫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57517_ruby_71257.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-06-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57517_71306.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-06-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "お父さんが、なくなられたと、いうじゃないか", "ウン" ], [ "…………", "オイ、しっかりしろよ。心配して聞いているのだ。何とかいえよ", "ウン、有難う。……別にいうことはないんだよ。あの新聞記事が正しいのだ、昨日の朝、目を覚ましたら、家の庭で、親父が頭を破られて倒れていたのだ。それだけのことなんだ", "それで、昨日、学校へ来なかったのだね。……そして、犯人はつかまったのかい", "ウン、嫌疑者は二三人あげられた様だ。しかしまだ、どれが本当の犯人だか分らない", "お父さんはそんな、恨を受ける様な事をしていたのかい。新聞には遺恨の殺人らしいと出ていたが", "それは、していたかも知れない", "商売上の……", "そんな気のきいたんじゃないよ。親父のことなら、どうせ酒の上の喧嘩が元だろうよ", "酒の上って、お父さんは酒くせでも悪かったのかい", "…………", "オイ、君は、どうかしたんじゃないかい。……アア、泣いているね", "…………", "運が悪かったのだよ。運が悪かったのだよ", "……おれはくやしいのだ。生きている間は、さんざんお袋やおれ達を苦しめておいて、それ丈けでは足らないで、あんな恥さらしな死に方をするなんて、……おれは悲しくなんぞ、ちっともないんだよ。くやしくて仕様がないのだ", "本当に、君は、今日は、どうかしている", "君に分らないのは尤もだよ。いくら何でも、自分の親の悪口をいうのは、いやだったから、おれは今日まで、君にさえ、これっぱかりも、そのことを話さなかったのだ", "…………", "おれは、昨日から、何ともいえない変てこな気持なんだ。親身の父親が死んだのを悲しむことが出来ない。……いくらあんな父親でも、死んだとなれば、定めし悲しかろう。おれはそう思っていた。ところが、おれは今、少しも悲しくないんだよ。若しも、あんな不名誉な死に方でさえなかったなら、死んで呉れて助かった位のものだよ", "本当の息子から、そんな風に思われるお父さんは、しかし、不幸な人だね", "そうだ、あれがどうすることも出来ない親父の運命だったとしたら、考えて見れば、気の毒な人だ。だが、今、おれにはそんな風に考える余裕なんかない。ただ、いまいましいばかりだ", "そんなに……", "親父は、じいさんが残して行った、僅ばかりの財産を、酒と女に使い果す為に生れて来た様な男なんだ。みじめなのは母親だった。母が、どんなに堪え難い辛抱をし通して来たか、それを見て、子供のおれ達が、どんなに親父をにくんだか。……こんなことをいうのはおかしいが、おれの母は実際驚くべき女だ。二十余年の間、あの暴虐を堪え忍んで来たかと思うとおれは涙がこぼれる。今おれがこうして学校へ通っていられるのも、一家の者が路頭に迷わないで、ちゃんと先祖からの屋敷に住んでいられるのも、みんな母親の力なんだ", "そんなに、ひどかったのかい", "そりゃ君達には、とても想像も出来やしないよ。この頃では、殊にそれがひどくなって、毎日毎日あさましい親子げんかだ。年がいもなく、だらしなく酔っぱらった親父が、どこからか、ひょっこり帰って来る。――親父はもう、酒の中毒で、朝から晩まで、酒なしには生きていられないのだ。――そして、母親が出迎えなかったとか、変な顔つきをしたとか、実にくだらない理由で、すぐに手を上げるんだ。この半年ばかりというもの、母親はからだに生傷が絶えないのだ。それを見ると、兄貴がかんしゃくもちだからね――歯ぎしりをして、親父に飛びかかって行くのだ……", "お父さんは、いくつなんだい", "五十だ、君はきっと、その年でと審しく思うだろうね。実際親父はもう、半分位気が違っていたのかも知れない。若い時分からの女と酒の毒でね。……夜など、何の気なしに家に帰って、玄関の格子を開けると、そこの障子に、箒を振り上げて、仁王立ちになっている兄貴の影がうつっていたりするのだ。ハッとして立ちすくんでいると、ガラガラというひどい音がして、提燈の箱が、障子をつき抜けて飛んで来る。親父が投げつけたんだ。こんなあさましい親子が、どこの世界にある……", "…………", "兄貴は、君も知っていた通り、毎日横浜へ通って、○○会社の通訳係をやっているんだが、気の毒だよ、縁談があっても、親父の為にまとまらないのだ。そうかといって、別居する勇気もない、みじめな母親を見捨てて行く気には、どうしてもなれないというのだ。三十近い兄貴が、親父ととっ組あったりするといったら、君にはおかしく聞えるかも知れないが、兄貴の心持になって見ると、実際無理もないんだよ", "ひどいんだねえ", "おとといの晩だったて、そうだ。親父は珍しくどこへも出ないで、その代りに朝起きるとから、もう酒だ。一日中ぐずぐず管をまいていたらしいのだが、夜十時頃になって、母親が余りのことに、少しおかんをおくらすと、それからあばれ出してね。とうとう、母親の顔へ茶わんをぶっつけたんだよ。それが、丁度鼻柱へ当って、母親は暫く気を失った程だ。すると、兄貴がいきなり親父に飛びついて胸ぐらをとる、妹が泣きわめいて、それを止める、君、こんな景色が想像出来るかい。地獄だよ、地獄だよ", "…………", "若しこの先、何年もああいう状態が続くのだったら、おれ達は到底堪え切れなかったかも知れない。母親なんか、その為に死んで了ったかも知れない。あるいはそうなるまでにおれ達兄弟のたれかが、親父を殺して了ったかも知れない。だから、本当のことをいえば、おれの一家は、今度の事件で救われた様なものなんだよ", "お父さんがなくなったのは、昨日の朝なんだね", "発見したのが五時頃だったよ、妹が一番早く目を覚したんだ。そして、気がつくと、縁側の戸が一枚開いている。親父の寝床がからっぽだったので、てっきり親父が起きて庭へ出ているのだろうと思った相だ", "じゃ、そこからお父さんを殺した男が、はいったんだね", "そうじゃないよ。親父は庭でやられたんだよ。その前の晩に、母親が気絶する様な騒ぎがあったので、さすがの親父も眠れなかったと見えて、夜中に起きて、庭へ涼みに出たらしいのだ。次の部屋に寝ていた母親や妹は、ちっとも気がつかなかった相だけれど、そういう風に、夜中に庭へ出て、そこにおいてある、大きな切石の上に腰かけて涼むのが親父のくせだったから、そうしている所をうしろから、やられたに相違ない", "突いたのかい", "後頭部を、余り鋭くない刄物で、なぐりつけたんだ、斧とかなたとかいう種類のものらしいのだ、そういう警察の鑑定なんだ", "それじゃ兇器が、まだ見つからないのだね", "妹が母親を起して、二人が声をそろえて、二階に寝ていた兄貴とおれを呼んだよ。うわずった、その声の調子で、おれは、親父の死がいを見ない先に、すっかり事件がわかったような気がした。妙な予感というようなものが、ずっと以前からあった。それで、とうとう来たなと思った。兄貴と二人で、大急ぎで降りて行って見ると、一枚開いた雨戸の隙間から、活人画の様に、明い庭の一部が見え、そこに、親父が非常に不自然な恰好をしてうずくまっていた。妙なものだね、ああいう時は。おれは暫く、お芝居を見ている様な、まるで傍観的な気持になっていたよ", "……それで、いつ頃だろう、実際兇行の演じられたのは", "一時頃っていうんだよ", "真夜中だね。で、嫌疑者というのは", "親父をにくんでいたものは沢山ある。だが、殺す程もにくんでいたかどうか。強いて疑えば、今あげられている内に一人、これではないかと思うのがある。ある小料理屋で、親父になぐられて、大怪我をした男なんだがね、療治代を出せとか、何とかいって度々やって来たのを、親父はその都度怒鳴りつけて追い返したばかりか、最後には、母親なんかの留めるのを聞かないで、巡査を呼んで引渡しさえしたんだよ。こっちは零落はしていても、町での古顔だし、先方はみすぼらしい、労働者みたいな男だから、そうなると、もう喧嘩にならないんだ。……おれは、どうもそいつでないかと思うのだ", "しかし、おかしいね。夜中に、大勢家族のある所へ、忍び込むなんて、可なりむつかしい仕事だからね。ただ、なぐられた位の事でそれ程の危険を冒してまで、相手を殺す気持になるものかしら。それに、殺そうと思えば、家の外でいくらも機会があり相なものじゃないか、……一体、曲者が外から忍び込んだという、確な証拠でもあったのかい", "表の戸締りが開いていたのだ。かんぬきがかかっていなかったのだ、そして、そこから、庭へ通ずる枝折戸には錠前がないのだ", "足跡は", "それは駄目だよ。このお天気で、地面がすっかりかわいているんだから", "……君の所には、やとい人はいなかった様だね", "いないよ……ア、では、君は、犯人は外部からはいったのではないと。……そんな、そんなことが、いくらなんでも、そんな恐ろしいことが。きっとあいつだよ。その親父になぐられた男だよ。労働者の、命知らずなら、危険なんか考えてやしないよ", "それは分らないね、でも……", "ああ君、もうこんな話は止そう。何といって見た所で、済んでしまったことだ、今更どうなるものじゃない。それに、もう時間だよ。ぽつぽつ教室へはいろうじゃないか" ], [ "それじゃ、君は、お父さんを殺した者が、君の家族の中にあるとでもいうのかい", "君は、この間、犯人は外からはいったのではないという様な口ふんを漏らしていたね。あの時は、そんなことを聞くのが嫌だったので――というのが、いくらかおれもそれを感じていて、痛い所へさわられた様な気がしたんだね――君の話を中途で止めさせて終ったが、今、おれは、その同じ疑いに悩まされているのだ。……こんなことは無論他人に話す事柄じゃない。出来るならだれにもいわないでおこうと思っていた。だが、おれはもう苦しくってたまらないのだ。せめて、君だけには相談に乗ってもらいたくなった", "で、つまり、だれを疑っているのだ", "兄貴だよ。おれにとっては血を分けた兄弟で、死んだ親父にとっては、真実の息子である、兄貴を疑っているのだ", "嫌疑者は白状したのか", "白状しないのみか、次から次へと、反証が現れて来るのだ。裁判所でも手こずっているというのだ。よく刑事がたずねて来ては、そんな話をして帰る。それが矢張り、考え様によっては、その筋でも、おれの家のものを疑っていて、様子を探りに来るのかも知れないのだ", "だが、君は少し神経が鋭敏になり過ぎてやしないのかい", "神経だけの問題なら、おれはこんなに悩まされやしない。事実があるんだ。……この間は、そんなものが事件に関係を持っていようとは思わず、殆ど忘れていた位で、君にも話さなかったが、おれはあの朝、親父の死がいのそばで、クチャクチャに丸めた麻のハンカチを拾ったのだよ。随分よごれていたけれど、丁度、印を縫いつけた所が、外側に出ていたので、一目で分った。それは兄貴とおれの外には、だれも持っているはずのない品物だった。親父は古風に、ハンカチを嫌って、手ぬぐいをたたんで懐に入れているくせだったし、母親や妹は、ハンカチは持つけれど、無論女持の小さい奴で、まるで違っていた。だから、そのハンカチを落したのは、兄貴かおれかどちらかに相違ないのだ。ところが、おれは親父の殺される日まで、ずっと四五日の間も、その庭へ出たことはないし、最近にハンカチをなくした覚えもない。とすると、その親父の死がいのそばに落ちていたハンカチは、兄貴の持物だったと考える外はないのだ", "だが、お父さんが、どうかしてそれを持っていられたという様な……", "そんなことはない。親父は、外のことではずぼらだけど、そういう持物なんかには、なかなか几帳面な男だった。これまで、一度だって、他人のハンカチを持っていたりしたのを見たことがない", "……しかし、若しそれが兄さんのハンカチだったとしても、必ずしもお父さんの殺された時に落したものとは限るまい。前日に落したのかも知れない。もっと前から落ちていたのかも知れない", "ところが、その庭は、一日おき位に、妹が綺麗に掃除することになっていて、ちょうど、事件の前日の夕方も、その掃除をしたのだ。それから、皆が寝るまで、兄貴が一度も庭へ下りなかったことも分っている", "じゃ、そのハンカチを細に調べて見たら、何か分るかも知れないね。例えば……", "それは駄目だ。おれはその時だれにも見せないで、すぐ便所へほうり込んでしまった。何だかけがらわしい様な気がしたものだから。……だが、兄貴を疑う理由はそれだけじゃないんだよ。まだまだ色々な事実があるんだ。兄貴とおれとは、部屋が違うけれど、同じ二階に寝ているのだが、あの晩一時頃には、どういう訳だったかおれは寝床の中で目を覚していて、丁度その時、兄貴が階段を下りて行く音を聞いたのだ。当時は便所へ行ったのだろう位に思って、別段気にとめなかったが、それから階段を上る跫音を聞くまでには大分時間があったから、疑えば疑えないことはない。それと、もう一つ、こんなこともあるんだ。親父の変死が発見された時、兄貴もおれもまだ寝ていたのを、母親と妹のあわただしい呼声に、驚いて飛起きて、大急ぎで下におりたんだが、兄貴は、寝間着をぬいで、着物をはおったまま、帯も締めないで、それを片手につかんで、縁側の方へ走って行った。ところがね、縁側の靴ぬぎ石の上へ、はだしでおりたかと思うと、どういう訳だか、そこへピッタリ立止って了ったんだ、考え様によっては、親父の死骸を見て、余りの事にためらったのかとも思われるが、しかし、それにしては、なぜ、手に持っていた兵児帯を、沓脱石の上へ落したのだ。兄貴はそれ程驚いたのだろうか。これは兄の日頃の気性から考えて、どうも受とれないことだ。落したばかりならいい。落したかと思うと、大急ぎで拾い上げた。それがね、おれの気のせいかも知れないけれど、拾い上げたのは、どうやら、帯丈けではなかったらしいのだ。何だか黒い小さな物が(それは一目で持主のわかる、たとえば財布という様なものだったかも知れない)石の上に落ちていたのを、咄嗟の場合、先ず帯を落して隠しておいて、拾う時には帯の上から、その品物も一緒につかみとった様に思われるのだ。それは、おれの方でも気が転倒している際だし、本当に一しゅん間の出来事だったから、ひょっとすると、おれの思い違いかも知れない。しかし、ハンカチのことや、丁度その時分に階下へおりたことや、何よりも、この頃の兄貴のそぶりを考え合せると、もう疑わない訳には行かぬ。親父が死んでからというもの、家中の者が、何だか変なんだ。それは単に家長の死を悲しむという様なものではない。それ以上に、何だかえたいの知れぬ、不愉快な、薄気味の悪い、一種の空気が漂っている。食事の時なんか、四人の者が顔を合せても、だれも物をいわない。変にじろじろ顔を見合せている。その様子が、どうやら、母親にしろ、妹にしろ、おれと同じ様に兄貴を疑っている鹽梅なのだ。兄貴は兄貴で、妙に青い顔をして黙り込んでいる。実に何とも形容の出来ない。いやあないやあな感じだ。おれはもう、あんな家の中にいるのは堪まらない。学校から帰って、一歩家の敷居をまたぐと、ゾーッと陰気な風が身にしみる。家長を失って、たださえさびしい家の中に、母親と三人の子供が、黙り込んで、てんでに何かを考えて、顔を見合せてばかりいるのだ。……ああ堪まらない堪まらない", "君に話しを聞いていると怖くなる。だが、そんなことはないだろう。まさか兄さんが……君は実際鋭敏過ぎるよ。取こし苦労だよ", "いや、決してそうじゃない。おれの気のせいばかりではない。もし理由がなければだが、兄貴には、親父を殺すだけの、ちゃんと理由がある。兄貴が親父の為にどれ程苦しめられていたか、随って親父をどんなににくんでいたか。……殊にあの晩は、母親が怪我までさせられているのだ。母親思いの兄貴が、激こうの余り、ふと飛んでもない事を考えつかなかったとはいえない", "…………", "…………", "恐しいことだ、だが、まだ断定は出来ないね", "だからね、おれは一層堪まらないのだ。どちらかに、たとえ悪い方にでも、きまって呉れれば、まだいい、こんな、あやふやな、恐しい疑惑にとじ込められているのは、本当に堪まらないことだ", "…………" ], [ "オイ、Sじゃないか。どこへ行くの", "アア……別に……", "馬鹿にしょうすいしているじゃないか。例のこと、まだ解決しないの?", "ウン……", "あんまり学校へ来ないものだから、今日はこれから、君の所をたずねようと思っていたのさ。どっかへ行く所かい", "イヤ……そうでもない", "じゃ、散歩っていう訳かい。それにしても、妙にフラフラしているじゃないか", "…………", "丁度いい。その辺までつきあわないか。歩きながら話そう。……で、君はまだ何か煩悶しているんだね。学校へも出ないで", "おれはもう、どうしたらいいのか、考える力も何も、なくなってしまった。まるで地獄だ。家に居るのが恐しい……", "まだ犯人がきまらないのだね。そして、やっぱり兄さんを疑っているの", "もう、その話は止してくれ給え、何だか息が詰まる様な気がする", "だって、一人でくよくよしてたってつまらないよ。話して見給え、僕にだってまたいい智慧がないとも限らない", "話せといっても、話せるような事柄じゃない。家中の者が、お互同志疑いあっているのだ。四人の者が一つ家にいて、口もきかないで、にらみあっているのだ。そして、たまに口をきけば、刑事か、裁判官のように、相手の秘密を、さぐり出そう、としているのだ。それが、みんな血を分けた肉親同志なんだ。そして、その内のだれか一人が、人殺し――親殺しか、夫殺し――なんだ", "それはひどい。そんな馬鹿なことがあるものじゃない。きっと君はどうかしているんだ。神経衰弱の妄想かも知れない", "イイヤ、決して妄想じゃない、そうであって呉れると助かるのだが", "…………", "君が信じないのは無理もない。こんな地獄が、この世にあろうとは、たれにしたって想像も出来ないことだからな。おれ自身も、何だか悪夢にうなされているような気がする。このおれが、親殺しの嫌疑で、刑事に尾行されるなんて。……シッ、うしろを向いちゃいけない。すぐそこにいるんだ。この二三日、おれが外に出れば、きっとあとをつけている", "……どうしたというのだ。君が嫌疑を受けているのだって?", "おればかりじゃない。兄きでも妹でも、みんな尾行がつくのだ。家中が疑われているのだ。そして、家の中でもお互が疑いあっているのだ", "そいつは……だが、そんな疑いあう様な新しい事情でも出来たのかい", "確証というものは一つもない。ただ疑いなんだ。嫌疑者がみんな放免になってしまったのだ。あとには、家内の者でも疑う外に方法がないのだ。警察からは毎日の様にやって来る。そして、家中の隅から隅まで調べ廻る。この間も、タンスの中から血のついた母親の浴衣が出た時なんか、警察の騒ぎ様ったらなかった。ナアニ、何でもないのだ。事件の前晩に、親父から茶碗を投げつけられた時の血が、洗ってなかったのだ。俺がそれを説明してやると、その場は一時収まったが、それ以来、警察の考えが一変してしまった。親父がそんな乱暴者だったとすると、なお更家内の者が疑わしいという論法らしいのだ", "この間は、君はひどく兄さんを疑っていた様だが……", "もっと低い声でいってくれ給え、うしろの奴に聞えるといけない。……ところが、その兄きは兄きで、たれかを疑っている。それがどうも、母親らしいのだ。兄きがさも何気ない風で、母親に聞いていたことがある。お母さん櫛をなくしやしないかって。すると母親がびっくりした様に、息を呑んで、お前どうしてそんなことを聞くのだと反問した。それっ切りのことだ。取様によっては、なんでもない会話だ。だが、あれにはギックリと来た。さては、この間兄きが帯で隠したのは、母親の櫛だったのかと……", "…………", "それ以来、おれは母親の一挙一動に注意する様になった。何という浅ましいことだろう。息子が母親を探偵するなんて。おれはまる二日の間というもの、蛇のように目を光らせて、隅の方から母親を監視していた。恐しいことだ。母親のそぶりは、どう考えて見てもおかしいのだ。何となくソワソワと落ちつかないのだ。君、この気持が想像出来るか。自分の母親が自分の親父を殺したかも知れないという疑い。それがどんなに恐しいものだか。……おれはよっぽど兄きに聞いて見ようかと思った。兄きはもっと外のことを知っているかも知れないのだから。だが、どうにも、そんなことを聞く気にはなれない。それに、兄きの方でも、何だかおれの質問を恐れでもするように、近頃はおれから逃げているのだ", "何だか耳にふたしたい様な話しだ。聞いている僕がそうなんだから、話している君の方は、どんなにか不愉快だろう", "不愉快という様な感じは、もう通り越して終った。近頃では、世の中が、何かこう、まるで違った物に見える。ああして、往来を歩いている人達の暢気相な、楽天的な顔を見ると、いつも不思議な気がする。あいつらだって、あんな平気な顔をしているけれど、きっと親父やお袋を殺しているのだ、なんて考えることがある。……大分離れた。尾行の奴、人通りが少くなったものだから、一町もあとからやって来る", "だが君、たしかお父さんの殺された場所には、兄さんのハンカチが落ちていたのではないか", "そうだ。だから、まるきり兄きに対する疑いがはれた訳ではないのだ。それに、母親にしたって、疑っていいのか、どうか、はっきりは分らない。妙なことには、母親は母親で、また、たれかを疑っているのだ。まるで、いたちごっこだ。滑けいな意味でではなく、何ともいえぬ物すごい意味で。……昨日の夕方のことだ。もう大分暗くなっていた。何の気なしに、二階から降りて来ると、そこの縁側に母親が立っているのだ。何かをソッと伺っているという様子だ。いやに眼を光らせているのだ。そして、おれが降りて来たのを見ると、ハッとした様に、去り気なく部屋の中へはいってしまった。その様子が如何にも変だったので、おれは母親の立っていた場所へ行って、母親の見つめていた方角を見た", "…………", "君、そこに何があったと思う。その方角には、若い杉の樹立が茂っていて、葉と葉の間から、稲荷を祭った小さなほこらがすいて見えるのだが、そのほこらの後に、何だかチラチラと赤いものが見えたり隠れたりしているのだ。よく見ると、それは妹の帯なんだ。何をしているのか、こちらからは、帯の端しか見えないから、少しも分らないけれど、そんなほこらのうしろなんかに、用事のあろうはずはない。おれはもう一寸で、声を出して、妹の名前を呼ぶ所だった。が、ふと思い出したのは、さっきの母親の妙なそぶりだ。それと、おれがほこらの方を見ている間中、背中に感じた、母親の凝視だ、これはただ事でないと思った。若しかしたら、凡ての秘密があのほこらの後に隠されているのではないか、そして、その秘密を妹が握っているのではないか、直覚的にそんなことを感じた", "…………" ], [ "…………", "つまらないことをいっている間に、妙な所へ来て終ったね、ここは一体何という町だろう。ボツボツあと戻りをしようじゃないか", "…………" ], [ "おれはとうとう見た。例のほこらのうしろを見た……", "何があった?" ], [ "斧が?", "うん、斧が", "それを、君の妹さんが、そこへ隠しておいたというのか", "そうとしか考えられない", "でも、まさか妹さんが下手人だとは思えないね", "それは分らない。たれだって疑えば疑えるのだ。母親でも、兄でも、妹でも、またおれ自身でも、みんなが親父には恨を抱いていたのだ。そして、恐らくみんなが親父の死を願っていたのだ", "君のいい方は、あんまりひどい。君や兄さんは兎も角、お母さんまでが、長年つれ添った夫の死を願っているなんて、どんなにひどい人だったか知らないが、肉親の情というものはそうしたものじゃないと思う。君にしたって、お父さんがなくなった今では、やっぱり悲しいはずだ……", "それが、おれの場合は例外なんだ。ちっとも悲しくないんだ。母にしろ、兄にしろ、妹にしろ、たれ一人悲しんでやしないんだ。非常に恥しいことだが、実際だ。悲しむよりも恐れているのだ。自分達の肉親から、夫殺しなり親殺しなりの、重罪人を出さねばならぬことを恐れているのだ。外の事を考える余裕なんかはないのだ", "その点は、本当に同情するけれど、……", "だが、兇器は見つかったけれど、下手人がだれであるかは少しも分らない。やっぱり真暗だ。おれは斧を元の通り土に埋めておいて、屋根伝いに自分の部屋へ帰った。それから一晩中、まんじりともしなかった。さまざまな幻が、モヤモヤと目先に現れるのだ。お袋が般若の様な恐ろしい形相をして、両手で斧をふり上げている所や、兄きが顔に石狩川の様なかんしゃく筋を立てて、何とも知れぬおめき声を上げながら、兇器をふり下している所や、妹が何かを後手に隠しながら、ソロリソロリと親父の背後へ迫って行く光景や", "じゃ君は昨夜寝なかったのだね。道理で何だかこう奮していると思った。君は平常から少し神経過敏の方だ。それがそうこう奮しちゃ身体に触るね。ちっと落ついたらどうだ。君の話しを聞いていると、あんまり生々しいので、気持が悪くなる", "おれは平気な顔をしている方がいいのかも知れない。妹が兇器を土に埋めた様に、この発見を、心の底へ埋めてしまった方がいいのかも知れない。だが、どうしても、そんな気になれないのだ。無論、世間に対しては絶対に秘密にしておかねばならぬけれど、少くともおれ丈けは、事の真相を知りたいのだ。知らねばどうしても安心が出来ないのだ。毎日毎日家中のものが、お互がお互を探りあっている様な生活は堪まらないのだ", "今更いっても無駄だけれど、君は一体、そんな恐しい事柄を、他人のおれに打開けてもいいのかい。最初はおれの方から聞き出したのだが、この頃では、君の話を聞いていると恐しくなる", "君は構わない。君がおれを裏切ろうとは思ない。それに、だれかに打開けでもしないと、おれはとても堪まらないのだ。不愉快かも知れないけれど、相談相手になってくれ", "そうか、それならいいけれど。で、君はこれから、どうしようというのだい", "分らない。何もかも分らない、妹自身が下手人かも知れない。それとも、母親か、兄きか、どっちかをかばう為に兇器を隠したのかも知れない。それから、分らないのは妹がおれを疑っている様なそぶりだ。どういう訳で、奴はおれを疑うのだろう。あいつの目つきを思い出すと、おれはゾーッとする。若い丈けに敏感な妹は、何かの空気を感じているのかも知れない", "…………", "どうも、そうらしい。だが、それが何だか少しも分らないのだ。おれの心の奥の奥で、ブツブツブツブツつぶやいている奴がある。その声を聞くと不安で堪まらない。おれ自身には分らないけれど、妹丈けには何かが分っているのかも知れない", "いよいよ君は変だ。なぞみたいなことをいっている。さっき君もいった通り、お父さんの殺されなすった時刻に、君自身がチャンと目をさましていたとすれば、そして、君の部屋に寝ていたとすれば、君が疑われる理由は少しだってないはずではないか", "理窟ではそういうことになるね。だが、どうした訳か、おれは、兄や妹を疑う一方では、自分自身までが、妙に不安になり出した。全然父の死に関係がないとはいい切れない様な気がする。そんな気がどっかでする" ], [ "どうした。何度見舞に行っても、あわないというものだから、随分心配した。気でも変になったのじゃないかと思ってね。ハハハハハ。だが、やせたもんだな。君の家の人も妙で、くわしいことを教えてくれなかったが、一体どこが悪かったのだい", "フフフフフフ。まるでゆうれいみたいだろう。今日も鏡を見ていて恐しくなったよ。精神的の苦痛というものが、こうも人間をいたいたしくするものかと思ってね、おれはもう長くないよ。こうして君の家へ歩いて来るのがやっとだ。妙に体に力がなくて、まるで雲にでも乗っている様な気持だ", "そして病名は?", "何だかしらない。医者はいい加減のことをいっている。神経衰弱のひどいのだって。妙なせきが出るのだよ。ひょっとしたら肺病かも知れない。いやひょっとしたらじゃない。九分九厘そうだと思っている", "お株を始めた。君の様に神経をやんでいたんではたまらないね。きっとまた例のお父さんの問題で考え過ぎたんだろう。あんなこと、もういい加減に忘れてしまったらどうだ", "イヤ、あれはもういい。すっかり解決した。それについて、実は君の所へ報告に来た訳なんだが……", "ああ、そうか。それはよかった。うっかり新聞も注意していなかったが、つまり犯人が分ったのだね", "そうだよ。ところが、その犯人というのが、驚いちゃいけない、このおれだったのだよ", "エッ、君がお父さんを殺したのだって。……君、もうその話は止そう。それよりも、どうだい、その辺をブラブラ散歩でもしようじゃないか。そして、もっと陽気な話をしようじゃないか", "イヤ、イヤ、君、まあすわってくれたまえ。兎に角筋道丈け話してしまおう。おれはその為にわざわざ出かけて来たんだから。君は何だかおれの精神状態を危んでいる様子だが、その点は心配しなくてもいい。決して気が変になった訳でも、何でもない", "だって、君自身が親殺しの犯人だなんて、あんまり馬鹿馬鹿しいことをいうからさ。そんなことは色々な事情を考え合せて、全然不可能じゃないか", "不可能? 君はそう思うかい", "そうだろう、お父さんの死なれた時間には君は自分の部屋の蒲団の中で、目をさましていたというじゃないか。一人の人間が、同時に二ヶ所にいるということは、どうしたって不可能じゃないか", "それは不可能だね", "じゃ、それでいいだろう。君が犯人であるはずはない", "だが、部屋の中の蒲団の上に寝ていたって、戸外の人が殺せないとはきまらない。これは、一寸だれでも気付かない事だ、おれも最近まで、まるでそんなことは考えていなかった。ところが、つい二三日前の晩のことだ。ふっとそこへ気がついた。というのは、やっぱり親父の殺された時刻の一時頃だったがね、二階の窓の外で、いやに猫が騒ぐのだ。二匹の猫が長い間、まるで天地のひっくり返る様なひどい騒ぎをやっているんだ。あんまりやかましいので、窓を開けておっ払らうつもりで、おき上ったのだが、そのとたんハッと気づいた。人間の心理作用なんて、実に妙なものだね。非常に重大なことを、すっかり忘れて平気でいる。それがどうかした偶然の機会に、ふっとよみがえって来る、墓場の中からゆう霊が現れる様に恐しく大きな、物すごい形になってうかび上って来る。考えて見ると、人間が日々の生活をいとなんで行くということは、何とまああぶなっかしい軽業だろう。一寸足をふみはずしたら、もう命がけの大怪我だ。よく世の中の人達はあんなのん気相な顔をして、生きていられたものだね", "それで、結局どうしたというのだ", "まあ聞きたまえ。その時おれは、親父の殺された晩、一時頃に、なぜおれが目をさましていたかという理由を思出したのだ。今度の事件で、これが最も重大な点だ。一体おれは、一度寝ついたら朝まで目をさまさないたちだ。それが夜半の一時頃、ハッキリ目をさましていたというには、何か理由がなくてはならない。おれは、その時まで、少しもそこへ気がつかなんだが、猫の鳴声で、すっかり思出した。あの晩にもやっぱり、同じ様に猫が鳴いていたのだ。それで目をさまされたのだった", "猫に何か関係でもあったのかい" ], [ "どうも、学問のある奴の妄想にはこまるね。世にも馬鹿馬鹿しい事柄を、さも仔細らしく、やかましい学説入りで説明するんだからな、そんな君、人殺しを胴忘れするなんて、間抜けた話が、どこの世界にあるものか。ハハハハハハ。しっかりしろ。君は実際、少しどうかしているぜ", "まあまて、話をしまい迄聞いてから何とでもいうがいい。おれは決して君の所へ冗談をいいに来たのではない。ところで、猫の鳴声を聞いておれが思出したというのは、あの晩に、同じ様に猫が騒いだ時、すぐ屋根の向うにある松の木に飛びつかなかったか、きっと飛びついたに相違ない、そういえば、何だがバサッという音を聞いた様にも思う、ということだった……", "いよいよ変だなあ。猫が松の木に飛びついたのが、死因の本筋とどんな関係があるんだい。どうも僕は心配だよ。君の正気がさ……", "松の木というのは、君も知っているだろう。おれの家の目印になるような、あの馬鹿に背の高い大樹なんだ。そして、その根許の所に親父の腰かけていた、切石がおいてあるのだ。……こういえば、大概君にも、話の筋が分っただろう……つまり、その松の木に猫が飛びついた拍子に、偶然枝の上にのっかっていたあるものにふれて、それが親父の頭の上へ落ちたのではないかということだ", "じゃ、そこに斧がのっかっていたとでもいうのか", "そうだ。正にのっかっていたのだ。非常な偶然だ。が、あり得ないことではない", "だって、それじゃ偶然の変事という丈けで、別に君の罪でも何でもないではないか" ], [ "どうもむずかしくてよくわからないが、何だか故意に悪人になりたがっている様な気がするな", "いや。そうじゃない。若し君がフロイドの説を知っていたら決してそんな事は云わないだろう。第一、斧のことを半年の間も、どうして忘れ切っていたか。現に血のついた同じ斧を目撃さえしているじゃないか。これは普通の人間としてあり得ないことだ。第二に、何故、そんな場所へ、しかも危いことを知りながら、斧を忘れて来たか。第三に、何故、殊更にその危い場所をえらんで斧をおいたか。三つの不自然なことがそろっている。これでも悪意がなかったといえるだろうか。ただ忘却していたという丈けで、その悪意が帳消しになるだろうか", "それで、君はこれからどうしようというのだ", "無論自首して出るつもりだ", "それもよかろう。だが、どんな裁判官だって、君を有罪にするはずはあるまい。その点はまあ安心だけれど。で、この間から、君のいっていた、色々な証拠物はどうなったのだい。ハンカチだとか、お母さんの櫛だとか", "ハンカチはおれ自身の物だった。松の枝を切る時に、斧の柄にまきつけたのを、そのままおき忘れた。それがあの晩斧と一緒に落ちたのだ。櫛は、はっきりしたことは分らないけれど、多分、母親が最初親父の死体を見つけた時に落したのだろう。それを兄貴がかばいだてに隠してやったものに相違ない", "それから妹さんが斧を隠したのは", "妹が最初の発見者だったから、十分隠すひまがあったのだ。一目で自分の家の斧だと分ったので、きっと家内のだれかが下手人だと思い込み、兎も角、第一の証拠物を隠す気になったのだろう。一寸気転の利く娘だからね。それから、刑事の家宅捜索などがはじまったので、並の隠し場所では安心が出来なくなり、例のほこらの裏を選んで隠しかえたものに相違ない", "家内中の者を疑った末、結局、犯人は自分だということがわかった訳だね。盗人をとらえて見れば何とかだね。何だか喜劇じみているじゃないか。こんな際だけれど、僕は妙に同情というような気持が起らないよ。つまり、君が罪人だということがまだよくのみ込めないんだね", "その馬鹿馬鹿しい思違いだ。それが恐しいのだ。ほんとうに喜劇だ。だが、喜劇と見える程間が抜けている所が、単純な物忘れなどでない証拠なんだ", "いって見れば、そんなものかも知れない。しかし、おれは、君の告白を悲しむというよりも、数日の疑雲がはれたことを祝い度い様な気がしているよ", "その点は、おれもせいせいした。皆が疑い合ったのは、実はかばい合っていたので、だれもあんな親父をさえ殺す程の悪人はいなかったのだ。そろいもそろって無類の善人ばかりだった。その中で、たった一人の悪人は、皆を疑っていたこのおれだ。その疑惑の心の強い点だけでも、おれは正に悪党だった" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年7月20日初版1刷発行    2012(平成24)年8月15日7刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十巻」平凡社    1931(昭和6)年9月 初出:「写真報知」報知新聞社    1925(大正14)年9月15日、25日、10月15日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「兄貴」と「兄き」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:門田裕志 校正:江村秀之 2017年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057184", "作品名": "疑惑", "作品名読み": "ぎわく", "ソート用読み": "きわく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「写真報知」報知新聞社、1925(大正14)年9月15日、25日、10月15日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-12-22T00:00:00", "最終更新日": "2017-11-24T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57184.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年7月20日", "入力に使用した版1": "2012(平成24)年8月15日7刷", "校正に使用した版1": "2007(平成19)年1月30日5刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第十巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1931(昭和6)年9月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "江村秀之", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57184_ruby_63217.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-11-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57184_63359.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-11-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "事の起りは、左様、今日から六日前、つまり十三日でした。その日の丁度昼頃、娘の富美が一寸友達の所までといって、着換えをして家を出たまま晩になっても帰らない。我々始め『黒手組』の噂に脅されている際でしたから、先ずこの家内が心配を始めましてね、その友達の家へ電話で問合せた処が、娘は今日は一度も行っていないという返事です。さあ驚いてね。判っている丈の友達の所へはすっかり電話をかけさせて見たが、どこへも寄っていない。それから、書生や出入りの車夫などを狩集めて八方捜索に尽しました。その晩はとうとう我々始め一睡もせずでしたよ", "一寸御話中ですが、その時、お嬢さんがお出ましになる所を実際に見られた方がありましたでしょうか" ], [ "はあ、それはもう女共や書生などが確かに見たのだそうで御座います。殊に梅と申す女中などは、あれが門を出る後姿を見送ってよく覚えていると申して居りますので……", "それから後は一切不明なのですね。御近所の人とか通行人などで、お嬢さんのお姿を見かけたものもないのですね" ], [ "それがね、まるで手懸りがないというのです。紙はありふれた半紙だし、封筒も茶色の一重の安物で、目印もなにもない。刑事は、手跡なども一向特徴がないといっていました", "警視庁にはそういう事を検べる設備はよく整っていますから、先ず間違いはありますまい。で、消印はどこの局になっていましたでしょう", "いや、消印はありません。というのは、郵便で送ったのではなく、誰かが表の郵便受函へ投込んで行ったらしいのです", "それを函から御出しになったのはどなたでしょう" ], [ "あのT原の四五町手前で自動車を降りると、わしは懐中電燈で道を照しながらやっと一本松の下までたどりつきました。牧田は、闇のことで見つかる心配はなかったけれど、なるべく樹蔭を伝う様にして、五六間の間隔でわしのあとからついて来ました。御承知の通り一本松のまわりは一帯の灌木林で、どこに賊が隠れているやら判らぬので、可也気味が悪い。が、わしはじっと辛抱してそこに立っていました。さあ三十分も待ったでしょうかな。牧田、お前はあの間どうしていたっけかなあ", "はあ、御主人の所から十間位もありましたかと思いますが、繁みの中に腹這いになって、ピストルの引金に指をかけて、じっと御主人の懐中電燈の光を見詰めて居りました。随分長うございました。私は二三時間も待った様な気がいたします", "で、賊はどの方角から参りました" ], [ "賊は原っぱの方から来た様です。つまり我々が通って行った路とは反対の側から現れたのです", "どんな風をしていました", "よくは判らなかったが、何でも真黒な着物を着ていた様です。頭から足の先まで真黒で、ただ顔の一部分丈が、闇の中にほの白く見えていました。それというのが、わしはその時賊に遠慮して懐中電燈を消して了ったのでね。だが、非常に背の高い男だったこと丈けは間違いない。わしはこれで五尺五寸あるのですが、その男はわしよりも二三寸も高かった様です", "何か云いましたか", "だんまりですよ。わしの前まで来ると、一方の手にピストルをさしむけながら、もう一方の手をぐっと突出したもんです。で、わしも無言で金の包みを手渡ししました。そして、娘の事を云おうとして、口をききかけると、賊の奴矢庭に人差指を口の前に立てて、底力の籠った声でシッと云うのです。わしは黙ってろという合図だと思って何も云いませんでした", "それからどうしました", "それっ限りですよ。賊はピストルをわしの方に向けたまま、後じさりに段々遠ざかって行って林の中に見えなくなって了ったのです。わしは暫く身動きも出来ないで立ちすくんでいましたが、そうしていても際限がないので、後の方を振向いて小声で牧田を呼びました。すると、牧田は繁みからごそごそ出て来て、もう行きましたかとびくびくもので聞くのです", "牧田さんの隠れていた所からも賊の姿は見えましたか", "はあ、暗いのと樹が茂っていた為に、姿は見えませんでしたが、何かこう賊の跫音のようなものを聞いたと思いますので", "それからどうしました", "で、わしはもう帰ろうというと、牧田が賊の足跡を検べて見ようというのです。つまりあとになって警察に教えてやれば非常な手懸りになるだろうという意見でね。そうだったね牧田", "はあ", "足跡が見つかりましたか" ], [ "ほう、それは非常に面白いですね。もう少し詳しく御話願えませんでしょうか", "地面の現れているのは、あの一本松の真下の所丈けで、そのまわりには落葉が溜っていたり、草が生えていたりして、足跡はつかない訳ですが、その地面の現れている部分には、わしの下駄と牧田の靴の跡しか残っていないのです。ところが、わしの立っていた所へ来て金包を受取る為には、どうしたって賊はその足跡の残る様な部分へ立入っていなければならないのに、それがない。わしの立っていた地面から草の生えている所までは、一番短いので二間は十分あったのですからね", "そこには何か動物の足跡の様なものはありませんでしたか" ], [ "さあ、そこまではわしも気がつかなかったが、牧田お前覚えていないかね", "はあ、どうもよく覚えませんですが、多分そんなものはなかった様でございます" ], [ "私共では娘の所へ参りました手紙類は必ず一応私が目を通すことにして居りますので、怪しいものがあればじきに解る筈でございますが、左様でございますね、近頃別段これといって……", "いや、極くつまらない様な事でも結構です。どうか御気附きの点を御遠慮なく御話し願い度いのですが" ], [ "でも、今度の事件には多分関係のないことでしょうと存じますが――", "兎も角御話なすって見て下さい。そういう所に往々思わぬ手懸りがあるものです。どうか", "では申上げますが、一月ばかり前から娘の所へ、私共の一向聞覚えのないお名前の方からちょくちょく葉書が参るのでございますよ。いつでしたか、一度私は娘に、これは学校時代の御友達ですかって聞いて見たことがございましたが、娘はええと答えはいたしましたものの、どうやら何か隠している様子なのでございます。私も妙に存じまして、一度よく訊して見ようと考えています内に今度の出来事でございましょう。もうそんな些細なことはすっかり忘れて居りましたのですが、お言葉でふと想出したことがございます。と申しますのは、娘がかどわかされます丁度前日に、その変な葉書が参っているのでございますよ", "では、それを一度拝見願えませんでしょうか", "よろしゅうございます。多分娘の手文庫の中にございましょうから" ], [ "例えばどうでしょう。私の友人のある男が、お嬢さんに大変こがれているのですが、その男にお嬢さんを頂戴するという様な望みでも構いませんでしょうか", "ハハ……、あんたも却々隅へ置けない。いや、あんたが先の人物さえ保証して下さりゃ、娘をさし上げまいものでもありませんよ" ], [ "よろしい。わしは一体耶蘇教は大嫌いですが、外ならんあんたのお頼みとあれば、一つ考えて見ましょう", "いや有難う。きっといつかお願いに上りますよ。どうか今のお言葉をお忘れない様に願います" ], [ "第一伯父は賊が大男の彼よりも二三寸も背が高かったと云っている。そうすると五尺七八寸はあった筈だ。ところが牧田は反対にあんな小っぽけな男じゃないか", "反対もこう極端になると一寸疑って見る必要があるよ。一方は日本人としては珍しい大男で、一方は畸形に近い小男だね。これは、如何にもあざやかな対照だ。惜しいことに少しあざやか過ぎたよ。若し牧田がもう少し短い竹馬を使ったら、却って僕は迷わされたかも知れない。ハハハハハハ分るだろう。彼はね。竹馬を短くした様なものを予め現場に隠して置いてそれを手で持つ代りに両足に縛りつけて用を弁じたんだよ。闇夜で而も伯父さんからは十間も離れていたんだから、何をしたって判りゃしない。そして、賊の役目を勤めた後で、今度は竹馬の跡を消す為に、賊の足跡を調べ廻ったりなんかしたのさ", "そんな子供瞞し見たいなことを、どうして伯父が観破出来なかったのだろう。第一賊は黒い着物だったというのに、牧田はいつも白っぽい田舎縞を着ているじゃあないか", "それが例のメリンスの兵児帯なんだ。実にうまい考えだろう。あの大幅の黒いメリンスをグルグルと頭から足の先まで捲きつけりゃ、牧田の小さな身体位訳なく隠れて了うからね" ], [ "それじゃ、あの牧田が『黒手組』の手先を勤めていたとでも云うのかい。どうもおかしいね。黒手……", "おや、まだそんな事を考えているのか、君にも似合わない、ちと今日は頭が鈍っている様だね。伯父さんにしろ、警察にしろ果ては君までも、すっかり、『黒手組』恐怖症にとッつかれているんだからね。まあ、それも時節柄無理もない話だけれど、若し君がいつもの様に冷静でいたら、何も僕を待つまでもなく、君の手で十分今度の事件は解決出来ただろうよ。これには『黒手組』なんてまるで関係ないんだ" ], [ "じゃ、先刻君は、『黒手組』と約束したなんて、なぜあんな出鱈目を云ったのだい。第一分らないのは、若し牧田の仕業とすれば、彼を黙って抛って置くのも変じゃないか。それから、牧田はあんな男で、富美子を誘拐したり、それを、数日の間も隠して置いたりする力がありそうにも思われぬし。現に富美子が家を出た日には、彼は終日伯父の邸にいて一歩も外へ出なかったというではないか。一体牧田見たいな男に、こんな大仕事が出来るものだろうか。それから……", "疑問百出の態だね。だがね、若し君がこの葉書の暗号文を解いていたら、少くともこれが暗号文だということを観破していたら、そんなに不思議がらないで済んだろうよ" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年7月20日初版1刷発行    2012(平成24)年8月15日7刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第四巻」平凡社    1931(昭和6)年8月 初出:「新青年」博文館    1925(大正14)年3月 ※「届出」と「届け出」、「富美」と「富美子」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2016年9月9日作成 2016年11月10日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057185", "作品名": "黒手組", "作品名読み": "くろてぐみ", "ソート用読み": "くろてくみ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1925(大正14)年3月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-11-10T00:00:00", "最終更新日": "2016-11-12T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57185.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年7月20日", "入力に使用した版1": "2012(平成24)年8月15日7刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年7月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第四巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1931(昭和6)年8月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57185_ruby_60071.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-11-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57185_60117.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-11-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "やあ、ダーク・エンジェルだ。ダーク・エンジェルだ", "黒天使の御入来だぞ", "ブラボー、女王様ばんざい!" ], [ "飲みましょう。そして、踊りましょう。ダーク・エンジェルばんざい!", "オーイ、ボーイさん、シャンパンだ、シャンパンだ" ], [ "オイ、見ろ、黒トカゲが這い始めたぜ。なんてすばらしいんだろ", "ウン、ほんとうに、あの小さな虫が、生きて動きだすんだからね" ], [ "人に聞かれると悪いから?", "ええ", "クライム?", "ええ", "傷つけでもしたの", "いいや、そんなことならいいんだが" ], [ "じゃ外でね。G街は地下鉄工事の人夫のほかには、人っ子一人通ってやしないわ。あすこを歩きながら聞きましょう", "ええ" ], [ "色敵をです。北島の野郎と咲子のあまをです。", "まあ、とうとうやってしまったの……どこで?", "やつらのアパートで。死骸は押入れの中に突ッこんであるんです。あすの朝になったら、ばれるにきまってます。三人のいきさつは、みんなが知っているんだし、今夜あいつたちの部屋へはいったのは僕だということが、アパートの番人やなんかに知れているんだから、捕まったらおしまいです……僕はもう少ししゃばにいたいんです", "高飛びでもしようっていうの", "ええ……マダム、あんたはいつも、僕を恩人だといってくれますね", "そうよ。あの危ない場合を救ってもらったのだもの。あれからあたし、潤ちゃんの腕っぷしにほれこんでいるのよ", "だから、恩返しをしてください。高飛びの費用を、千円ばかり僕に貸してください", "それは、千円ぽっちわけないことだけれど、あんた、逃げおおせると思っているの。だめよ。横浜か神戸の波止場でマゴマゴしているうちに、捕まってしまうのが落ちだわ。こんな場合に、あわを食って逃げ出すなんて愚の骨頂よ" ], [ "じゃあ、この東京にかくれていろっていうんですか", "ああ、まだしもその方がましだと思うわ。しかし、それでもあぶないことはあぶないのだから、もっとうまい方法があるといいんだけれど……" ], [ "潤ちゃんのアパートの部屋は、五階だったわね", "ええ、だが、それがどうしたというんです" ], [ "あなたが死んでしまうのよ。雨宮潤一という人間を殺してしまうのよ", "え、え、なんですって?" ], [ "なんだかへんだなア。一体これからどこへ、何をしに行くんです。僕、少し気味がわるくなってきた", "G街の英雄が弱音をはくわね。なんにも聞かないって約束じゃないか。僕を信用しないとでもいうの?", "いや、そういうわけじゃないけど" ], [ "マダム、ここT大学の構内じゃありませんか", "シッ、物をいっちゃいけない" ], [ "この若い男は、K精神病院の施療患者で、きのう死んだばかりなのよ。K精神病院とこの学校とのあいだに特約が結んであるもんだから、死ぬとすぐ、死骸をここへ運ばれたの。この死体室の事務員はあたしの友だち……まあ子分といったような関係になっているのさ。だから、あたし、この若者の死骸があることを、ちゃんと知っていたっていうわけよ。どう? この死体では", "どうって?" ], [ "ああ、たまらねえ。まだこの手ににおいがついているようだ。僕はあんなむごたらしいこと、生れてはじめてですよ。マダム", "ホホホホホ、言ったわね。二人も生きた人間を殺したくせに", "シッ、困るなあ、そんなことズバズバいわれちゃ。廊下へ聞こえやしませんか", "大丈夫、こんな低い声が聞こえるもんですか" ], [ "弱虫ね、もうすんでしまったことは、考えっこなしよ。あんたはあのとき死んでしまったんだわ。ここにいるのは、山川健作という、れっきとした学者先生じゃないの。しっかりしなきゃだめよ", "しかし大丈夫ですか。大学の死体が紛失したことがバレやしませんか", "なにいってるのよ。僕がそれに気がつかないとでも思っているのかい。あすこの事務員は、僕の手下だといったじゃないか。僕の子分がそんなヘマをする気づかいがあるもんか。今、学校は休みで、先生も学生もいやしない。係りの事務員が帳簿をちょっとごまかしておけば、小使いなんか一々死骸の顔をおぼえているわけじゃなし、あんなにたくさんの中から一つくらいなくなったって、当の係員のほかには気づく者はありゃしないよ", "じゃあ、その事務員に、今夜のことを知らせておかなければいけませんね", "ウン、それは朝になったら、ちょっと電話をかけさえすればいいんだよ……ところでねえ、潤ちゃん、あんたに聞いてもらいたいことがあるのよ。まあ、ここへおかけなさいな" ], [ "僕、このうるさいつけひげと目がね、取っちゃってもいいですか", "ええ、いいわ。ドアに鍵がかけてあるんだから、大丈夫" ], [ "潤ちゃん、あんたは死んでしまったのよ。それがどういうことだかわかる? つまり、今ここにいる、あんたという新らしい人間は、あたしが産んであげたも同じことよ。だから、あんたは、あたしのどんな命令にだってそむくことができないのよ", "もしそむいたら?", "殺してしまうまでよ。あんた、あたしが恐ろしい魔法使いってこと、知りすぎるほど知ってるわね。それに、山川健作なんて人間は、あたしのお人形さんも同じことで、この世に籍がないのだから、突然消えてなくなったところで、だれも文句をいうものはありやしないわ。警察だってどうもできやしないわ。あたし、きょうからあんたという、腕っぷしの強いお人形さんを手に入れたのよ、お人形さんていう意味は、つまり奴隷、ね、奴隷よ" ], [ "あんた、あたしを何者だと思う? わからないでしょう", "なんだっていいんです。たとえあなたが女泥棒だって、人殺しだってかまいません。僕はあなたの奴隷です", "ホホホホホ、あてちゃったわね。その通りよ、あたしは女泥棒。それから、人殺しもしたかもしれないわ", "え、あなたが?", "ホホホホホ、やっぱりびっくりしたでしょ。でも、あんたには何をいったって、命をあずかっているんだから大丈夫。まさか逃げ出しゃしないわね。それとも逃げ出す?", "僕はあなたの奴隷です" ], [ "まあ、可愛いことをいうわね。きょうからあんた、あたしの、一の子分よ。ずいぶん働いてもらわなくちゃならないわ。ところで、あたしがなぜ、こんなホテルなんかに泊っていると思う? 四、五日前から、緑川夫人という名で、この部屋を借りているのよ。それはね、ねらった鳥が同じホテルに滞在しているからなの。それが大へんな大物で、あたし一人じゃ、ちょっと心細かったところへ、うまいぐあいにあんたがきてくれて心丈夫だわ", "金持ちですか", "ああ、金持ちも金持ちだけれど、あたしの目的はお金ではないの。この世の美しいものという美しいものを、すっかり集めてみたいのがあたしの念願なのよ。宝石や美術品や美しい人や……", "え、人間までも?", "そうよ。美しい人間は、美術品以上だわ。このホテルにいる鳥っていうのはね、お父さんに連れられた、それはそれは美しい大阪のいとはんなの", "じゃ、そのお嬢さんを盗もうというのですか" ], [ "そうなの。でも、ただの少女誘拐ともちがうのよ。その娘さんを種に、お父さんの持っている日本一のダイヤモンドを頂戴しようってわけなの。お父さんていうのは、大阪の大きな宝石商なのよ", "じゃ、あの岩瀬商会じゃありませんか", "よく知ってるわね。その岩瀬庄兵衛さんがここに泊っているの。ところが少し面倒なのは、先方には明智小五郎っていう私立探偵がついていることです", "ああ、明智小五郎が", "ちょっと手ごわい相手でしょう。幸い、あいつはあたしを少しも知らないからいいようなものの、明智って、虫のすかないやつだわ", "どうして、私立探偵なんかやとったのでしょう。先方は感づいてでもいるのですか", "あたしが感づかせたのさ。あたしはね、潤ちゃん、不意打ちなんて卑怯なまねはしたくないのよ。だから、いつだって、予告なしに泥棒をしたことはないわ。ちゃんと予告して、先方に充分警戒させておいて、対等に戦うのでなくっちゃ、おもしろくない。物をとるということよりも、その戦いに値打ちがあるんだもの", "じゃ、こんども予告をしたのですね", "ええ、大阪でちゃんと予告してあるのよ。ああ、なんだか胸がドキドキするようだわ。明智小五郎なら相手にとって不足はない。あいつと一騎打ちの勝負をするのかと思うと、あたし愉快だわ。ね、潤ちゃん、すばらしいとは思わない?" ], [ "僕のお召しかえがはいっているんでしょう。山川健作先生ともあろうものが、着のみ着のままじゃ変だからね", "フフ、そうかもしれないわ" ], [ "なあんだ、石ころじゃありませんか。大事そうに布にくるんだりして、ほかのもみんな石ころなんですか", "そうよ、お召しかえでなくってお気の毒さま。みんな石ころなの。少しトランクに重みをつける必要があったものだからね", "重みですって?", "ああ、ちょうど人間一人の重味をね。石ころをつめるなんて気がきかないようだけれど、おぼえて、おきなさい、これだとあとの始末が楽なのよ。石ころは窓のそとの地面へほうり出しておけばいいし、ボロ布はベッドのクッションと敷蒲団のあいだへ敷きこんでしまえば、トランクをからっぽにしても、あとになんにも残らないっていうわけさ。ここいらが魔法使いのコツだわ", "へええ、なるほどねえ。だが、トランクをからっぽにして、何を入れようっていうんです", "ホホホホホ、天勝だって、トランクに入れるものはたいていきまっているじゃないの。まあいいから、石ころの始末を手伝いなさいよ" ], [ "マダム、へんだね。昼日中、例の踊りをはじめようってわけじゃないでしょうね", "ホホホホホ、びっくりしてるわね" ], [ "マダム、トランク詰めの美人ってわけですか", "ホホホホホ、まあ、そうよ。このトランクには、そとからはわからないように、方々に小さい息ぬきの穴があけてあるのよ。だから、こうして蓋をしめてしまっても、窒息するような心配はないんだわ" ], [ "ええ……すると、つまり、あの宝石屋さんの娘さんを、このトランク詰めにして誘拐しようってわけですかい", "そうよ。もちろんよ。やっと察しがついたの? あたしはただちょっと見本をごらんに入れたっていうわけなのさ" ], [ "ウン、おもしろいにはおもしろいですね。だが、そんな人をくったまねをして大丈夫かしら。僕一人じゃ、ちょっとばかり心細いな", "ホホホホホ、人殺しまでしたくせに、まるでお坊っちゃんみたいに物おじをして見せるわね。大丈夫よ。悪事というのはね、コソコソしないで、思い切って大っぴらにやっつけるのが、一ばん安全なんだわ。それに、万一バレたら、荷物をほうり出してズラカっちまえばいいじゃないの。人殺しにくらべればなんでもありゃしないわ", "だがね、マダムも一しょに行っちゃいけないのですかい", "あたしは、例の明智小五郎と四つに組んでなけりゃいけないのよ。あんたが先方へ着くまでに、あいつから眼をはなしたら、どんなことになるかわかりゃしない。あたしは邪魔者の探偵さんの引きとめ役なのさ。この方がトランクをはこぶより、ずっとむずかしいかもしれないわ", "ああ、そうか。その方が僕も安心というもんですね。だが……あすの朝はきっとMホテルへ来てくれるでしょうね。もしそのあいだに、娘さんが眼をさまして、トランクの中であばれ出しでもしたら、眼もあてられないからね", "まあ、この人はこまかいことまで気にやんでいるのね。そこに抜かりがあるものかね。娘には猿ぐつわをかませた上、手足を厳重にしばっておくのよ。眠り薬がさめたところで、声をたてることはもちろん、身動きだってできやしないわ", "ウフ、僕はきょうは頭がどうかしているんだね。それというのも、マダムがあんなことをして見せるからですよ。こんどから、あれだけはかんべんしてもらいたいね。僕は若いんですぜ。まだ胸がドキドキしている、ハハハハハ。ところで、Mホテルで落ちあったあとは、どういうことになるんですい?", "それから先は、秘中の秘よ。子分はそんなこと聞くもんじゃなくってよ。ただおかしらの命令に、だまって従ってればいいのよ" ], [ "でも、あなたは大へん熱心に探偵の仕事をしていらっしゃるじゃありませんか。夜中に廊下をお歩きなすったり、ホテルのボーイたちにいろいろなことをおたずねなすったり、わたくしよく存じていますわ", "あなたは、そんなことまで、注意していらっしゃるのですか、隅におけませんね" ], [ "いや、ありがとう。しかし御安心ください。僕がついているからにはお嬢さんは安全です。どんな兇賊でも、僕の眼をかすめることは全く不可能です", "ええ、それは、あなたのお力はよく存じていますわ。でも、あの、こんどだけは、なんだか別なように思われてなりませんの。相手が飛びはなれた魔力を持っている、恐ろしいやつだというような……" ], [ "まあ、賭けでございますって? すてきですわ、明智さんと賭けをするなんて。わたくし、この一ばん大切にしている首飾りを賭けましょうか", "ハハハハハ、奥さんは本気のようですね。じゃあ、もし僕が失敗してお嬢さんが誘拐されるようなことがあれば、そうですね、僕は何を賭けましょうか", "探偵という職業をお賭けになりませんこと? そうすれば、わたくし、持っているかぎりの宝石類を、全部賭けてもいいと思いますわ" ], [ "ホホホホホ、ではお約束しましてよ。わたくし、明智さんを廃業させてみとうございますわ", "ええ、約束しました。僕もあなたのおびただしい宝石がころがり込んでくるのを楽しみにしていましょうよ。ハハハハハ" ], [ "お嬢さん、ちょっとあたしの部屋へお寄りになりません? きのうお話ししたお人形を、お見せしますわ", "まあ、ここにもってきていらっしゃいますの。拝見したいわ", "いつも、離したことがありませんの。可愛いあたしの奴隷ですもの" ], [ "お呼びでございましたか", "ええ、あの、下の広間にお父さまがいらっしゃるからね。もうおやすみになりませんかって、呼んでくださいませんか" ], [ "ええ、あたし気分がわるくなったものですから、さっき階段のところで、あの方とお別れして一人で帰ってきましたの。あたしもうやすみますわ。お父さまもおやすみにならない", "困るねえお前は、一人ぼっちになっちゃいけないって、あれほど言いきかしてあるじゃないか。もしものことがあったらどうするんだ" ], [ "お嬢さんはおやすみですか", "ええ、今着がえをしているようです。なんだか気分がわるいと言いましてね", "じゃあ僕も部屋へ引き取りましょう。では" ], [ "ええ、いいのよ。もういいのよ。あたしねむいんですから", "ハハハハハ、お前、なんだかきょうはへんだね。おこっているのかね" ], [ "なんだ、なんだ、そうぞうしい", "ちょっとあけてください。電報がきたんです" ], [ "早苗はこのごろ、わしと同じように毎晩カルモチンを呑むので、よく寝入ってます。それに、今夜は気分がすぐれぬといっていましたから、かわいそうです、起こさないでおきましょう", "窓はしめてありますか", "それも大丈夫、昼間から、すっかり掛け金がかけてあります" ], [ "ああ、奥さんですか。電報がきたにはきたんですが、こうしていれば大丈夫ですよ。僕はばかばかしい見張り役です", "では、やっぱりこのホテルへまで、おどかしの電報がきたんですか" ], [ "お父さんもあちらに、ごいっしょにおやすみですの?", "ええ" ], [ "あら、いやですわ。岩瀬さんの御不幸を願っているなんて。ただ、あたし御心配申しあげていますのよ。で、その電報にはなんと書いてございまして?", "今夜十二時を用心しろというのです" ], [ "まだあと一時間あまりございますわね。あなたはずっとここに起きていらっしゃるんでしょう。退屈じゃございません", "いいえ、ちっとも。僕は楽しいのですよ。探偵稼業でもしていなければ、こういう劇的な瞬間が、人生に幾度味わえるでしょう。奥さんこそお眠いでしょう。どうかおやすみください", "まあ、ずいぶん御勝手ですこと。あたしだって、あなた以上に楽しゅうございますのよ。女は賭けには眼のないものですわ。おじゃまでしょうけど、おつき合いさせてくださいません?", "また賭けのことですか。では、どうか御随意に" ], [ "二人とも毎晩睡眠剤を呑んで寝るのだそうです。恐ろしい予告状で、神経衰弱になっているのですね", "あら、もう一分しかありませんわ。明智さん大丈夫でしょうか" ], [ "奥さん、ごらんなさい。あなたがそんな中世紀の架空談をやっていらっしゃるあいだに、時計はもう十二時を過ぎてしまいましたよ。やっぱり賭けは僕の勝ちでしたね。では、あなたの宝石を頂きましょうか。ハハハハハ", "明智さん、あなたはほんとうに賭けにお勝ちになったとお思いになりまして?" ], [ "ちゃんとベッドにおやすみになっているとおっしゃるのでしょう。でも、あすこに寝ているのがほんとうに早苗さんでしょうかしら。もしやだれか全く別の娘さんではないでしょうかしら", "そんな、そんなばかなことが……" ], [ "だれです。そこに寝ているのは、お嬢さんではないのですか", "これを見てください、人間じゃないのです。わしらは実に飛んでもないペテンにかかったのです" ], [ "僕がこの部屋で見張りをしているあいだには、何事も起こらなかったことを断言します。犯罪はあの電報が配達される前に行なわれたと考えるほかはありません。つまりあの電報の真意は、犯罪の予告ではなくて、すでに行なわれた犯罪をこれから起こるもののように見せかけ、十二時までわれわれの注意をこの部屋に集めておくことにあったのです。そして、そのあいだに賊は充分安全な場所へ逃亡しようという計画だったのです", "ホホホホホ……あら、ごめんなさい。つい笑ってしまって。でも、名探偵といわれる明智さんが、二時間も、一所懸命にお人形の首の番をしていらしったかと思うと、おかしくって……" ], [ "岩瀬さん、明智さんはあたしと賭けをなさいましたの。素人探偵という職業をお賭けなさいましたのよ。そして、とうとう明智さんの負けときまったものですから、あんなにうなだれて考えこんでいらっしゃるのですわ。ね、そうでしょう、明智さん", "いや、奥さん、そうではないのです。僕がうなだれていたのは、あなたをお気の毒に思ったからです" ], [ "まあ、なにをおっしゃいますの。そんな負け惜しみなんか……", "負け惜しみでしょうか" ], [ "ええ、負け惜しみですとも。賊をとらえもしないで、そんなことおっしゃったって", "ああ、では奥さんは、僕が賊を逃がしてしまったとでも思っていらっしゃるのですか。決して決して。僕はちゃんとその曲者をとらえたのですよ" ], [ "ホホホホホ、おもしろうございますこと。ご冗談がお上手ですわね", "冗談だと思いますか", "ええ、そうとしか……", "では、冗談でない証拠をお眼にかけましょうか。そうですね、たとえば……あなたのお友だちの山川健作氏が、このホテルを出てどこへ行かれたか、その行く先を僕が知っていたら、あなたはどう思います" ], [ "山川氏が名古屋までの切符を買いながら、どうして途中下車したか。そして、同じ市内のMホテルへ宿を取ったか。また、同氏の大型トランクの中には、一体なにがはいっていたのか。それを僕が知っていたら、あなたはどう思います", "うそです。うそです" ], [ "ホウ、眼の前に、だが、ここにはあんたとわたしと緑川さんのほかには、だれもいないようじゃが……", "その緑川夫人こそ恐ろしい女賊です。早苗さんを誘拐した張本人です" ], [ "まあ、知ってらしたの? あなた、どなたでしょうか", "フフフフフフ、あんたのちっともご存知ない老人じゃ。だが、わしの方では、あんたのことを少しばかり知っているのですよ。いってみようかね。あんたの名前は桜山葉子、関西商事株式会社のタイピスト嬢であったが、上役と喧嘩して、きょう首になったばかりじゃ。ハハハハハハ、どうだね、当たったでしょう", "ええ、そうよ。あなたは探偵さんみたいなかたね" ], [ "あんたはその若さで不眠症かね。まさかそうじゃあるまい。それに、アダリン二た函というのは……", "あたしが自殺するとおっしゃるの?", "ウン、わしは若い女性の気持が、まんざらわからぬ男じゃない。おとなたちには想像もできない青春の心理じゃ。死が美しいものに見えるのじゃ。けがれぬからだで死んで行きたいという処女の純情じゃ。そしてお隣には、やけっぱちな、われとわが肉体を泥沼へ落としこもうとするマゾヒズムがいる。ホンの紙一重のお隣同士じゃ。あんたがストリート・ガールなんて言葉を口ばしるのも、アダリンを買ったのも、みんな青春のさせるわざじゃよ。", "で、つまり、あたしに意見をしてくださろうってわけですの?" ], [ "いや、どうしまして、意見なんて野暮ったいことはしませんよ。意見じゃない。あんたの窮境を救ってあげようというのじゃ", "ホホホホホホ、まあそんなことだろうと思ってましたわ。ありがと。救って頂いてもよくってよ" ], [ "いや、そういう品のわるい口をきいてはいけません。わしはまじめに相談しているのじゃ。あんたをお囲いものにしようなんて、へんな意味は少しもない。だが、あんたはわしに雇われてくれますか", "ごめんなさい。それ、ほんとうですの?" ], [ "ほんとうですとも。ところで、あんたは関西商事で、失礼じゃが、いくら俸給をもらっていましたね", "四十円ばかり……", "ウン、よろしい。ではわしの方は、月給二百円ということにきめましょう。そのほかに、宿所も、食事も、服装もわしの方の負担です。それから、仕事はというと、ただ遊んでいればいいのじゃ", "ホホホホホホ、まあすてきですわね", "いや、冗談だと思われては困る。これには少しこみ入った仔細があって、雇い主の方ではそれでも足りないくらいに思っているの。それはそうと、あんた両親は?", "ありませんの。生きていてくれたら、こんなみじめな思いをしなくってもよかったのでしょうけれど", "すると、今は……", "アパートに一人ぼっちですの", "ウン、よしよし、万事好都合じゃ。それでは、あんたはこのまますぐ、わしと同道してくださらんか。アパートへは、あとからわしの方でよろしく話しておくことにするから" ], [ "おい、長いね。いいかげんに部屋へ帰ってくれればいいのに", "それにしてもばかに静かになってしまったじゃないか。へんだぜ、なんだか" ], [ "いや、ご主人はさっき、店から電話がかかって、大阪へ出かけられましたよ", "おやおや、じゃあ、あすこにお嬢さん一人ぼっちなの。いけないねえ、そんなことしちゃあ" ], [ "だから、僕らが見張りをしているんだけれど、さっきからだいぶ時間がたつのに、いっこう出ていらっしゃらない。それにあまり静かなので、少しへんに思っているのですよ", "じゃあ、わたしが行って見ましょう" ], [ "馬鹿っ、ここをどこだと思っている。それに、貴様、一体どうしてここへはいってきたんだ", "え、ウン、どうしてはいってきたっていうのか。そりゃおめえ、蛇の道はへびだあな。どこにうめえ酒がかくしてあるくれえのことあ、ちゃあんと、ご存知だってことよ。ヘッヘッヘッヘッヘ", "それよりも君、お嬢さんの姿が見えないんだぜ。こいつが、どうかしたんじゃないかい" ], [ "おやおやヘドばかりじゃありませんよ。大へんなかぎ裂きだ。まあ気味のわるい。あいつ刃物でも持っていたのでしょうか。長椅子のきれがひどく破けてますよ", "いやだねえ、せっかく綺麗になったばかりなのに。そんなもの応接間に置けやしない。だれか家具屋へ電話をかけてね、取りにくるようにそういってください。張りかえなくっちゃ仕方がない" ], [ "いやいや、あなたの失策じゃない。これは全くわしがわるかったのです。娘があまり沈みこんでいるものだから、ついかわいそうになって、応接間などへ連れ出したのがわるかったのです。油断といえば、わしこそ、全く油断をしておりましたよ", "わたくしたちも不注意でございました。書生にまかせておいて安心していたのがいけませんでした" ], [ "いや、断じてそんなことはありません。僕らは、ちゃんとドアの方を見張りつづけていたのです。それに、お嬢さんが応接間からほかの部屋へいらっしゃるためには、どうしても僕らの立っている廊下を通らなければならないのです。いくらなんでも、お嬢さんが眼の前をお通りなさるのを、僕らが見のがしたはずはありません", "フン、お前たちはそんな生意気なことをいうが、それじゃ、どうしてお嬢さんがいなくなったのだ。それとも、お嬢さんはあの頑丈な鉄格子を破って飛び出して行ったとでもいうのか。え、どうだね。鉄格子がはずれてでもいたかね" ], [ "いえ、鉄格子どころか、ガラス窓さえも、掛け金をはずした形跡はありませんでした", "それ見ろ、それじゃ、つまりお前たちが見逃がしたことになるじゃないか", "まあお待ちください。どうもこの人たちが見逃がしたようにも思われません。見逃がしたといえば、お嬢さんだけではなくて、あの酔っぱらいが応接間へはいるところも見逃がしているわけです。いくら不注意でも、二人もの人間が出たりはいったりするのを気づかないでいるというのは、どうもありそうもないことですな" ], [ "鉄格子も破れていない。書生さんたちも見逃がしていないとすると、結論はたった一つ、あの応接室へはいったものも、出たものもなかったということになります", "フフン、すると、早苗がその酔っぱらいに化けたのだとでもおっしゃるのですね。冗談じゃない、わしの娘は役者じゃありませんぜ", "御主人、あなたはお嬢さんに、新らしくできた椅子をお見せなすったのですね。その椅子はきょう届けられたのですか", "そうです。あんたが出かけられて間もなく届いたのです", "妙ですね。あなたは、その椅子が届いたのと、お嬢さんの誘拐とのあいだに、何か偶然でないつながりがあるようには思われませんか。僕にはなんだか……" ], [ "長椅子をどこへやったのです。応接間に見えないじゃありませんか", "まあ、明智さん、落ちついてください。椅子なんかどうだっていい、わしたちはいま娘のことを心配しているのだ" ], [ "あれは、つい今しがた、家具屋の職人が受取りにきたので、渡してやりました。張りかえさせるようにという、奥様の言いつけだったものですから", "奥さん、それはほんとうですか", "ええ、酔っぱらいが破いたり、よごしたりして、あんまりむさいものですから、急いで取りにこさせましたの" ], [ "ああ、N家具店ですか。こちらは岩瀬の屋敷です。さいぜん長椅子を取りによこしてくれたのだが、あれはもう君の方へ着きましたか", "へえ、へえ、長椅子を、かしこまりました。どうもおそくなってすみません。実はいま店のものを伺わせようと思っておりましたところでございます" ], [ "へええ、そんなはずはございませんがな。手前どもではだれもまだお屋敷へ伺っておりませんのですが", "君は御主人かね。しっかり調べてくれたまえ。もしや君の知らぬ間に、だれかこちらへきたんじゃありませんか", "いいえ、そんなことはございません。まだわたくしは、お屋敷へ伺うことを、店の者に伝えておりませんので、伺う道理がありません" ], [ "ウン、わしもそうとは思いますがね……それから、正気を失った娘を、今まで自分のひそんでいた長椅子の内部のうつろの中へ入れて、蓋をしめる。そして、あいつめ長椅子の上に寝そべって酔っぱらいのまねをはじめたのですね。しかし、あのよごれもの", "ああ、お見事です。御主人も『黒トカゲ』にまけない空想家ですね。僕の考えもその通りなのです……あいつの恐ろしさは、こういうズバぬけた考え方によって、ばかばかしいトリックを、平然として実行する肝っ玉にあるのです。今度の着想などは全くおとぎ話ですよ。或る小説家の作品に『人間椅子』というのがあります。やっぱり悪人が椅子の中へかくれて、いたずらをする話ですが、その小説家の荒唐無稽を、『黒トカゲ』はまんまと実行して見せました。今お話しのよごれものにしてもそうですよ。あらかじめそういう液体を用意しておいて、口からではなく瓶から長椅子の上にぶちまけたのです。ええ、瓶ですよ。ほら、あのウイスキーの大瓶、あの中に残っている液体を調べたら、きっとヘドの匂いがすることでしょう。それとても、実は昔々の西洋のおとぎ話にある手なのです。そのおとぎ話の方は、ヘドではなくて、もっときたないものでしたがね", "で、あの酔っぱらいは、警察の留置場から逃げ出してしまったとか……" ], [ "フン、じゃ、なぜそこへ取り戻しに行ってはくださらんのかね。見ていると、あんたは、きのうからまるで警察まかせで、何もしないで手をつかねていなさるようじゃが、そんなにわかっていれば、早く適当な処置を講じてほしいものですね", "僕は待っているのですよ", "え、待っているとは?", "『黒トカゲ』からの通知をです", "通知を? それはおかしい。賊が通知をよこすとでもおっしゃるのかね。どうかお嬢さんを受取りにきてくださいといって" ], [ "そうです。困ったことになりました。あれはわしの私有にはなっているが、国宝ともいうべき品物で、いまわしい賊の手などに渡したくはないのです", "非常に高価なものと聞いていますが", "時価二十万円です。だが、二十万円には替えられない宝です。あんたは、あの宝石の歴史をご存知ですか", "ええ、聞き及んでいます" ], [ "由緒の深い宝石じゃ。わしはあれを命から二番目ぐらいに大切に思っております。盗難についても用心に用心をかさね、その宝石を納めてある場所は、わし自身のほかに、店員はもちろん家内さえ知らないのです", "すると、つまり、賊にしては、一個の宝石を盗むよりも、生きた人間を盗み出す方が、たやすかったというわけですね" ], [ "いやいや、あの恐ろしい悪党は、何を仕でかすか知れたものではない。いくら高価とはいえ、たかが鉱物です。鉱物などを惜しんで、娘に万一のことがあっては取り返しがつきません。わしはやっぱり賊の申し出に応ずることにしましょう", "それほどの御決心なれば、僕はお止めしません。一応敵のたくらみにかかったと見せかけて、宝石を手渡すのも一策でしょう。僕の探偵技術からいえば、むしろその方が便宜なのです。しかし岩瀬さん、決してご心配なさることはありません。僕はハッキリお約束しておきます。お嬢さんもその宝石も、必らず僕の手で取り戻してお眼にかけますよ。ただちょっとのあいだ、あいつにぬか喜びをさせてやるだけです" ], [ "ええ。それはもう間違いなく……お嬢さん大へんお元気でいらっしゃいます。どうかご安心あそばして……そして、あの、お約束のものはお持ちくださいましたでしょうか", "ウム、持ってきました。さあ、これです。しらべて見るがいい" ], [ "さあ、これで代金の支払いはすんだ。あとは君の方から品物がとどくのを待つばかりだが、わしは君をこんなに信用していいのかしらん。相手は泥棒なんだからね。泥棒と前金取引をするなんて、実に危険千万な話だ", "ホホホホホ、それはもう間違いなく……では、お先にお引き取りを、わたくし、一と足あとから帰らせていただきます。" ], [ "フフン、品物を受取ってしまえば、御用はないとおっしゃるのだね……だが、君もいっしょに帰ったらいいじゃないか。わしといっしょにエレベーターに乗るのはいやかね", "ええ、わたくしもごいっしょしたいのは山々なんですけれど、何を申すにも、お尋ね者のからだでございますから、あなたが無事にお帰りなさるのを、よく見届けました上でなくては……", "危険だというのだね。わしが尾行でもすると思っていなさるのか。ハハハハハ、これはおかしい、君はわしが怖いのかね。それでよく、こんなさびしい場所で、わしと二人きりで会見しなすったね。わしは男だよ。もし、もしだね、わしが娘の一命を犠牲にして、天下に害毒を流す女賊を捕えようと思えば、なんのわけもないことだぜ" ], [ "物干台に洋服を着た男がおりますでしょう", "ウン、いるいる。あれがどうかしたのかね", "よくごらんくださいまし。その男が何をしていますか", "や、これは不思議じゃ。先方でも双眼鏡を持って、こちらを眺めているわい", "それから、片方の手に何か持っておりませんですか", "ウンウン、持っている。赤い布のようなものじゃ。あの男はわしたちを見ているようだね", "ええ、そうですの。あれはわたくしの部下でございますのよ。ああしてわたくしたちの一挙一動を見張っていて、もしわたくしに危険なことでも起こりました場合には、赤い布を振って、別の場所からあの大屋根を見つめているもう一人の部下に通信します。すると、その部下が、お嬢さんのいらっしゃる遠方の家へ電話で知らせます。その電話と一しょに早苗さんのお命がなくなるという仕かけなのでございます。ホホホホホ、賊などと申すものは、ちょっとした仕事にも、これだけの用意をしてかからなければならないのでございますわ" ], [ "ホホホホホ、うまいわね。どう? 似合って?", "飛んだことになったもんだね。かかあのやつ、貴婦人みたいにすましこんでいやあがる。奥さんの方はきたなくなっちまいましたね。上出来ですよ。それなら旦那様にだって、わかりっこはありゃあしない" ], [ "ええ、中耳炎をやってしまいましてね。もう大分いいのですけれど", "まあ、中耳炎なの。大切にしなければいけませんわ。でも、あなたいいおかみさんを持ってお仕合わせですわね。ああして二人で商売をしていたら、さぞ楽しみなことでしょうね", "ヘヘヘヘヘ、なあにね、あんなやつ、しようがありませんや" ], [ "あの船の明かりのついている障子があるだろう。一度ヘッド・ライトを消してね、今度スイッチを入れた時には、ちょうどあの障子のあたりを照らすように、自動車の向きをかえてくれたまえ。それから、こいつは少しむずかしい注文だが、君に悲鳴をあげてもらいたいんだ。助けてくれっといってね。できるだけ大きな声を出すんだ。そして、ヘッド・ライトをパッとつけてほしいんだがね。できるかい", "へえ、妙な芸当を演じるんですね……ああ、そうですかい。わかりました。よござんす。やってみましょう" ], [ "なんだ、なんだ", "喧嘩じゃないか。やられたんじゃないか", "へんな水の音がしたぜ" ], [ "一体どんなことがあったっていうの? くわしく話してごらんなさい。そのお化けをだれが見たの?", "だれも姿を見たものはありません。しかし、そいつの声は、北村と合田の二人が、別々の時間に、たしかに聞いたっていうんです。一人ならともかく、二人まで、同じ声に出っくわしたんですからね", "どこで?", "例のお客さんの部屋です", "まあ、早苗さんの部屋で", "そうですよ。きょうお昼頃に、北村がドアの前を通りかかると、部屋の中で、低い声でボソボソ物をいっているやつがあったんです。あんたも僕も、みんな食堂にいた時ですよ。早苗さんは例の猿ぐつわをはめてあるんだから、物をいうはずはない。ひょっとしたら水夫か何かがいたずらをしているんじゃないかと思って、ドアをあけようとすると、そとから錠がかかったままになっている。北村はへんに思って、大急ぎで鍵を取ってきて、ドアをあけて見たというのです", "猿ぐつわがとれていたんじゃない? そして、あのお嬢さん、また呪いの言葉でもつぶやいていたんじゃない?", "ところが、猿ぐつわはちゃんとはめてあったのです。両手を縛った縄もべつにゆるんでなんかいなかったのです。むろん部屋の中には、早苗さんのほかにだれもいやあしない。北村はそれを見て、なんだかゾーッとしたって言います", "早苗さんに尋ねてみたんだろうね", "ええ、猿ぐつわを取ってやって、尋ねてみると、かえって先方がびっくりして、少しも知らないと答えたそうです", "へんな話ね。ほんとうかしら", "僕もそう思った。北村の耳がどうかしていたのだと、軽く考えて、そのままにしておいたのです。ところが、つい一時間ほどまえ、妙なことに、今度も、みんなが食堂にいたあいだの出来事ですが、合田がまた、その声を聞いちゃったんです。合田も鍵を取ってきて、ドアをあけて見たといいます。すると、北村の場合と全く同じで、早苗さんのほかには人の影もなく、猿ぐつわにも別状はなかったそうです。この二度の奇妙な出来事が、いつとなく船員に知れ渡って、先生たちお得意の怪談ばなしができあがっちまったというわけですよ", "どんなことをいっているの?", "みんなうしろ暗い罪を背負っている連中ですからね。人殺しの前科者だって二人や三人じゃありませんからね。怨霊というようなものを感じるのですよ。この船には死霊がたたっているんだなんていわれると、僕にしたってなんだかいやあな気持になりますぜ" ], [ "またへんなことがおっぱじまりそうですぜ。化物のやつ炊事室にまで忍びこんできやあがる。鶏が丸のまま一羽見えなくなっちまったんです", "鶏って?" ], [ "なあに、生きちゃいねえんです。毛をむしって、丸ゆでにしたやつが、七羽ばかり戸棚の中にぶら下げてあったのですが、昼食の料理をする時には、たしかに七つあったやつが、今見ると、一羽足りなくなっているんです。六羽しきゃねえんです", "夕食には鶏は出なかったわね", "ええ、だからおかしいんです。この船には、一人だって食いものにガツガツしている者はいねえんですからね。お化けでもなけりゃあんなものを盗むやつはありゃしません", "思い違いじゃないの", "そんなこたアありません。あっしはこれでごく物覚えがいい方ですからね", "へんだわねえ、潤ちゃん、みんなで手分けして船の中をしらべて見てはどう? ひょっとしたら何かいるのかもしれない" ], [ "え、早苗さんがかい", "そうですよ。つい今しがた、食事を持って行ったんですがね。縄を解いて猿ぐつわをはずしてやると、あの娘さんきょうはどうしたことか、さもおいしそうに、すっかり御馳走を平らげちゃいましたよ。そして、もうあばれたり、叫んだりしないから、縛らないでくれっていうんです", "素直にするっていうの?" ], [ "ええ、そういうんです。すっかり考えなおしたからって、とてもほがらかなんです。きのうまでのあの娘さんとは思えないほどの変り方ですぜ", "おかしいわね。じゃ、あの人を一度ここへ連れてくるように、北村にいってくれない" ], [ "とうとう、あなた観念なすったのね。それがいいわ。もうこうなったら、素直にしているほうが、あなたのおためなのよ……でも不思議ねえ、きのうまであれほど反抗していた早苗さんが、急に、こんなにおとなしくなるなんて、何かあるの? 何かわけがあるの?", "いいえ、別に……" ], [ "北村と合田から聞いたんですがね。あなたの部屋で人の声がしたっていうのよ。だれかあなたの部屋へはいった者があるんじゃないの? ほんとうのことをいってくださらない?", "いいえ、あたしちっとも気がつきませんでしたわ。何も聞きませんでしたわ", "早苗さん、うそいってるんじゃないの?", "いいえ、決して……", "…………" ], [ "…………", "汽車に乗れば、そりゃ早いにきまっているけれど、あなたという生きたお荷物があっては、あぶなくって陸路をとることができなかったのよ。船なれば、少し遅いけれど、まったく安全ですからね。早苗さん、これあたしの持ち船なのよ。『黒トカゲ』のお姐さんは、ちゃんと蒸汽船まで用意しているのさ。驚いたでしょう。でも、あたしにだって、こんな船の一艘ぐらい自由にする資力はあるのよ。あたしたち、陸路をとれない時は、いつもこの船を利用していますの。こういううまい道具がなくっちゃ、その筋の眼を、長いあいだのがれていることなんぞ、思いもおよばないわね", "でも、あたし……" ], [ "でも、どうだとおっしゃるの?", "あたし、そんな所へ行くの、いやですわ", "そりゃ、あたしだって、あんたがすき好んで行くなんて思ってやしない。いやでしょうけど、あたしはつれて行くのよ", "いいえ、あたし、行きません、決して……", "まあ、大へん自信がありそうね。あんたはこの船から逃げ出せるとでも思っているの?", "あたし信じていますわ。きっと救ってくださいますわ。あたしちっとも怖くはありませんわ" ], [ "信じているって、だれをなの? だれがあんたを救ってくれるの?", "おわかりになりません?" ], [ "ええ、わからないこともありませんわ。言ってみましょうか……明智小五郎!", "まあ……" ], [ "ね、当たったでしょう。あなたの部屋でこっそりあなたをなぐさめてくれた人。みんなはお化けだなんて言っているけれど、お化けが物をいうはずはない。明智小五郎でしょう。あの探偵さんがあんたを助けてやると約束したんでしょう", "いいえ、そんなこと", "ごまかしたってだめよ。さあ、もうあんたから聞くことは、何もないわ" ], [ "北村、この娘を元の通り縛って、猿ぐつわをはめて、あの部屋へとじこめておしまい。そして、お前もその部屋へはいって、内側から鍵をかけて、もういいというまで見張りをしているんです。ピストルの用意はいいだろうね。どんなことがあっても、逃がしたりしたら、承知しないよ", "よごさんす。たしかに引き受けました" ], [ "明智さん、怖くはないのですか。ここはあたしの味方ばかりですよ。警察の手のとどかない海の上ですよ。怖くはないのですか", "怖がっているのは、君の方じゃないのかい……フフフフフフフ" ], [ "怖くはないけど、感心しているのよ。あなたに、どうしてこの船がわかりましたの", "船は知らなかったけれど、君のそばにくっついていたら、自然とここへくることになったのだよ", "あたしのそばに? わかりませんわ", "通天閣の上から君に尾行することのできた男は、たった一人しかなかったはずだぜ", "まあ、そうだったの? すてきだわ。ほめてあげますわ。売店の主人が明智小五郎だったのね。あたし、なんて間抜けだったのでしょう。あの繃帯を中耳炎といわれて信用してしまうなんて、おかしかったでしょうね" ], [ "お察しの通りだよ。あの時君が油障子から顔を出しさえしなければ、こんなことにはならなかったかもしれないぜ", "やっぱりそうだったの。で、それから、どうして尾行なすったの?" ], [ "自転車を借りてね、君の船を見失わぬように、河岸から河岸と、陸上を尾行して行ったのさ。そして、夜がふけるのを待って、小舟を頼んでこの本船に漕ぎつけ、暗闇の中で曲芸のようなまねをして、やっと甲板の上まで登りついたのだよ", "でも、甲板には見張りの者がいたでしょう", "いたよ。だから、船室へ降りるのにひどく手間取ってしまった。それから、早苗さんの監禁されている部屋を見つけるのが大へんだった。やっと見つかったかと思うと、ハハハハハ、ざまを見ろ、船はもう出帆していたんだ", "どうして早く逃げ出さなかったの? こんな所にかくれていたら、見つかるにきまっているじゃありませんか", "ブルブルブル、この寒さに水の中はごめんだ。僕はそんなに泳ぎがうまくないんだ。それよりは、この暖かいクッションの下に寝ころんでいた方が、どんなにか楽だからね" ], [ "シッ、いけません。そこを出ちゃいけません。男たちに見つかったら、あなたの命がありません。もう少しじっとしていらっしゃい", "ヘエー、君は僕をかばってくれるのかい", "ええ、好敵手を失いたくないのよ" ], [ "ロープだって?", "ええそうよ。名探偵を簀巻きにしているところよ。ホホホホホ" ], [ "どんなことだか、あなた、わかって?", "…………", "ホホホホホ、明智小五郎、あんたの守護神の明智小五郎が、死んじまったのよ。あの長椅子の中へはいったまま、簀巻きにされて、海んなかへ沈められてしまったのよ。たった今、たった今、甲板からドブンと水葬礼にされちゃったのよ。ホホホホホ" ], [ "それ、ほんとうですの?", "うそにあたしがこんなに喜ぶと思って? あたしの顔をごらんなさい。嬉しくってしようがないんですもの。でも、あんたはさぞガッカリしたでしょうね。たった一人の味方が、頼みの綱が、切れてしまったのだから。もう、あんたを救ってくれる人は、広い世界にだあれもいないのよ。未来永劫あたしの美術館にとじこめられたまま、二度と日の目を拝むことはできやしないのよ" ], [ "え、なんだって? K子さんが人形になったって? 畜生め、それじゃ、とうとうあの人を殺したんだな。そして剥製人形にしたんだな……だれが、だれが人形なんぞになるもんか。おれは貴様のおもちゃじゃないんだ。ちっとでもおれに近づいてみろ、どいつこいつの容赦はない、片っぱしから噛み殺してやるぞ。喉笛に噛みついて息の根をとめてやるぞ", "ホホホホホ、まあ今のうちに、せいぜいあばれておくといいわ。お人形にされちまったら、石のように動けなくなるんだから。それに、あたしは、そうして美しい男の子のあばれているのを見るのが、この上もない楽しみなのよ。ホホホホホ" ], [ "へんなことって、何?", "船の火夫をやらせてある松公ですね。あいつが、ゆうべのうちにいなくなっちゃったんです。船じゅう探してみましたけれど、どこにもいねえ。まさかズラカルはずはねえんだから、もしや、陸で捕まったんじゃないかと思いましてね。それが心配だものだから", "フーン、じゃ松公を上陸させたのかい", "いや、決してそうじゃねえんで。ゆうべ一度船へ帰った潤ちゃんが、もう一度こちらへもどってきたでしょう。その時のボートの漕手の中に、松公がまじっていたんですが、ボートが本船へ帰ってみると松公だけいねえんです。みんなの思い違いじゃないかと船じゅうを探した上、こっちへきてたずねてみると、松公なんかきていねえというじゃありませんか。やつはどっかそのへんの町をウロウロしてて、おまわりにでもとっ捕まったんじゃねえでしょうか", "そいつは困ったねえ。松公はいやに薄のろで、これという役に立たないもんだから、火夫なんかやらせておいたんだが、あいつのこった、捕まりでもしたら、どうせヘマをいうにきまっているわねえ" ], [ "マダム、ちょっときてごらんなさい。へんなことがあるんだから。人形がね、着物を着てるんですぜ。それから、からだじゅうが宝石でもって、ギラギラ光りかがやいているんですぜ。一体だれがあんなふざけたまねをしやがったんだと、仲間しらべをしてみたんですが、だあれも知らねえっていうんです。まさかマダムじゃねえんでしょうね", "ほんとうかい", "ほんとうですとも、潤ちゃんなんか、びっくりしちゃって、まだボンヤリとあすこに立っているくらいです" ], [ "だれがこんなばかばかしいまねしたんでしょう", "それがまるでわからないのですよ。今ここには、男は僕のほかに五人きゃいないんですが、みんな信用のおけるやつばかりですからね。一人一人聞いてみたんだけれど、だれも全くおぼえがないというんです", "入り口の寝ずの番は大丈夫だったの?", "ええ、へんなことは少しもなかったそうです。それに、仲間以外のものがはいろうとしたって、あすこの揚げ蓋は中からでなきゃ、ひらかないんですからね。いたずら者が外部から侵入することは、まったく不可能ですよ" ], [ "なぜ、返事をしないの。お前だろう人形に着物を着せたのは", "ばかなことをいえ、おれは檻の中にとじこめられているんじゃないか、貴様は気でも違ったのか" ], [ "お前たち、檻の中を見なかった? 早苗さんはまだ檻の中にいたかい", "いいえ、男一人っきりですぜ。早苗さんといやあ、潤ちゃんがそのタンクの中へほうりこんだんじゃありませんかい", "ああ、ほうりこんだにはほうりこんだけれど、早苗さんでなくて、よくごらん、お前たちが探している剥製人形なんだよ" ], [ "はあてね、こいつあ面妖だわい。だれが一体こんなまねをしたんですい?", "潤ちゃんよ。お前たち潤ちゃんを見かけなかったかい。今ここにいたばかりなんだが", "見かけませんでしたよ。先生きょうはなんだかひどく怒りっぽいんですぜ。僕たちを何か邪魔者みたいに、あっちへ行け、あっちへ行けって、追いまくるんですからね", "フーン、それは妙ね。でもどこへ行ったんでしょう。そとへ出るはずはないんだから、お前たちよく探してごらん。そして、いたら、すぐくるようにってね" ], [ "北村ですよ、だれも通らないっていうんです。あの男にかぎって間違いはありませんからね", "じゃあ、この中にいるはずじゃないか。まさか、煙みたいに消えてなくなるはずはありやしない。もう一度よく探してごらん。それから、早苗さんもよ。このタンクの中のがそうじゃないとすると、あの娘もどこかに隠れているはずなんだから" ], [ "早苗さんはどこにいるの? それとも、お前知らないとでもいうのかい", "そうです。僕はちっとも知らないのですよ。檻の中にでもいるんじゃありませんか" ], [ "檻の中って、お前が檻の中から出したんじゃないの", "そこがどうもよくわからないのですよ。一度調べてみましょう" ], [ "顔を上げて見せてごらん", "こうですかい" ], [ "ホホホホホ、味をやるわね。松公がそんな隅におけない悪党とは知らなかった。ほめて上げるよ。するとさいぜんからのへんてこな出来事は、みんなお前の仕業だったのね。タンクの中へ人形をほうりこんだのも、剥製人形どもに妙な着物を着せたのも。だが、一体なんのためにあんなまねをしたんだい。かまわないからいってごらん。ねえ、ニヤニヤ笑ってないで返事をしたらどう?", "返事をしなかったらどうするつもりだい?" ], [ "いのちを貰うのさ。お前は、お前の御主人の気質をまだ知らないと見えるわね。御主人が、血を見ることが何よりも好物だってことをさ", "つまり、そのピストルを、ぶっぱなすというわけなんだね。ハハハハハ" ], [ "畜生め、それじゃあ、お前がたまを抜いておいたんだな", "ハハハハハ、やっと合点がいきましたね。いかにも仰せの通り、ほら、これですよ" ], [ "マダム、大へんだ。入り口の見張り番をしていた北村が縛られているんです", "縛られた上に気絶しているんです" ], [ "それじゃあ、あなたは……", "遠慮することはない。何をためらっているのです。言ってごらんなさい、その先を" ], [ "でも、どうして……そんなことがあり得るのでしょうか", "あの遠州灘のまっただ中に、ほうりこまれた僕が、どうして助かったかというのでしょう。ハハハハ、君はあの時、この僕を、ほうりこんだつもりでいるのですか。そこに、根本的な錯覚があるのだ。僕はあの椅子の中にはいなかったのですよ。椅子の中へとじこめられていたのは、かわいそうな松公です。まさかあんなことになろうとは思わなかったので、僕は火夫に変装して探偵の仕事をつづけるために、松公を縛って、猿ぐつわをはめて、絶好の隠し場所、あの人間椅子の中へとじこめておいたのです。そのため、松公がああいう最期をとげたのは、実に申しわけないことだと思っています", "まあ、それじゃあ、あれが松公でしたの? そして、あなたは松公に化けて、ずっと機関室にいらしったの?" ], [ "それはほんとうでしょうか。でも、猿ぐつわをはめられていた松公が、どうしてあんなに物を言ったのでしょう。あの時、あたしたちは、クッションをへだてて椅子のそとと中とで、いろいろ話し合ったじゃありませんか", "話をしたのは僕でしたよ", "まあ、それじゃあ……", "あの船室には、大きな衣裳戸棚がおいてありますね。僕はあの中にかくれて物をいっていたのだ。それが、君には椅子の中からのように聞こえたのですよ。現に椅子の中でモゴモゴしているやつがあるんだから、君が勘違いしたのも無理はないのです", "すると、すると、早苗さんをどっかへ隠したのも、あの大阪の新聞を椅子の上へのせておいたのも、あんたの仕業だったのね", "その通りです", "まあ御念の入ったことだわね。新聞の偽造までして、あたしをいじめようとなすったの?", "偽造? ばかなことを言いたまえ。あんな新聞が急に偽造なんかできるものか。あの記事もあの写真も、正真正銘の事実ですよ", "ホホホホホ、いくらなんでも、早苗さんが二人になるなんて、そんなばかばかしい……", "二人になったんじゃない。ここに誘拐されてきた早苗さんはにせものなんだよ。早苗さんの替玉を探すのに僕はどれほど骨を折ったろう。むろん無事に助け出す自信はあった。だが、親友の一粒種を、そんな危険にさらす気にはなれなかったのでね。君が早苗さんと信じ切っていたあの娘はね、桜山葉子という、親も身寄りもない孤児なんだよ。しかも少々不良性をおびたモダン・ガールなんだよ。不良娘なればこそ、この大芝居をまんまと仕こなすことができたし、あれほどの目にあってもがんばり通す胆っ玉があったのさ。葉子はあんなに泣いたりわめいたりしながらも、僕を信じ切っていた。僕が必らず救い出しにくるということを、確信していたのだよ。" ], [ "明智さん、あなたお一人だけならば……", "ウン、僕一人だよ。早くあけてくれたまえ" ], [ "早苗さん? ああ、桜山葉子のことだね。安心したまえ。香川君と一しょに、もうこの穴蔵を出て、警察の保護を受けている。あの娘にも苦労をかけた。今度大阪へ帰ったら、岩瀬さんから充分謝礼をしてもらうつもりだよ", "あたし、あなたに負けましたわ。なにもかも" ] ]
底本:「黒蜥蜴」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1987(昭和62)年9月25日第1刷発行 初出:「日の出 第三巻第一号―第十二号」    1934(昭和9)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2016年9月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "慣れっちまいましたね。封筒を見れば、これは脅迫状だなんて、直ぐに分る様になりました", "ウン" ], [ "無智な奴って、仕様がないものだね。個人としての社長を恨むなんて、飛んでもない見当違いじゃありませんか。恨むなら会社全体を恨むがいい、会社をして事業縮少を余儀なくさせた経済界を恨むがいい。何も社長の御存知のことじゃないのですからね", "理窟はそんなものだがね。まあ奴等にしちゃ無理もないさ。明日から路頭に迷うのだ。世迷事も云い度くなる。だが、何が出来るものか。脅かしだよ。こんなことをして涙金をせしめようという、さもしい根性だよ", "残った連中を煽動して、同盟罷業をやらせようと、盛に説き廻っているということですが", "それよ。お極りだあな。そこに手抜りがあるものか。こっちには桝本のおやじが抱き込んである。あいつにたんまりくらわせてあるからね。あれの人望で圧えつけりゃ、ナアニ、びくともするこっちゃない。解雇された奴等の脅迫よりは、桝本職工長の眼玉が怖いさ", "それにしても、此際社長のおからだに万一のことがあっては、それこそ大変ですから、充分御注意が肝要だと思います", "有難う。だが、僕はこう見えても、まだ職工なんかにやっつけられる程耄碌はしないつもりだ。そんなことより、大分手紙がたまっている。タイピストを呼んで呉れ給え。瀬川だよ。あの子供は感心に速記がうまい" ], [ "だって、何の御用でしょう", "極っているじゃないか、手紙の速記さ。兎角美しい人は御用が多いのさ", "アラ、覚えてらっしゃい。この間のこと社長さんに云いつけて上げるから", "コラッ" ], [ "ナアニ、妙な所をあいつに見られちゃったのさ。二人づれで歩いてる所を", "赤坂かい。お安くないね", "どうして、そんなんじゃないよ。お安くないといえば、君の方がよっぽどお安くないや", "何が" ], [ "何が", "白を切るない。野田と瀬川艶子の語らいがよ", "馬鹿ッ。いい加減にしろ", "だが、用心するがいいぜ。社長は馬鹿に御気に入りなんだからね。あの子供はなかなか速記が上手だなんて、目を細くしているよ、おやじ", "そうかい", "なんて、平気相な顔をするなよ。お察し申しますよ。御心配なことだ", "いいじゃないか。社長がどうしようと、僕に関係したことじゃない" ], [ "地下室だとか非常梯子だとか、そんなものを見ると、益々異国という感じだね。探偵小説の世界だよ。何かしら、恐ろしい犯罪でも起り相な気がする", "小説家らしいことを云うね。そりゃ犯罪は盛んに行われているさ。だが、活動写真や探偵小説にある様な、激情的な奴は一寸ないね。住んでいるのがやっぱり日本人だから", "そうかなあ。その辺の曲り角から、覆面のホールダップでも出そうな気がするがなあ", "ハハハハハハ、そんなものが出て呉れれば、面白いのだけれど" ], [ "電話って、ビルディングの事務所は五階にあるのですが", "じゃ大いそぎで五階だ", "誰が死んだのです", "誰だか分らない。どうも五階からおちたらしいのだ。兎も角警察へ知らせなきゃ" ], [ "部屋は密閉しているものですから、少し位の物音は聞えないのです。皆に尋ねて見ましたが誰も気のついたものはない様です", "社長室に最後に入ったのは誰でしょう", "それは私です。ほんの今しがたのことです、書類に判を貰うものがあったものですから、それを持って、社長室へ行って見ますと、誰もいないのです。帽子や外套は残っているし、ドアに鍵もかかっていませんので、一寸その辺に出られたのだと思って、そのまま事務所へ引かえしたのです", "その前に社長室へ入ったのは", "多分タイピストの瀬川だと思います、もう先程帰宅しましたが、瀬川艶子という娘です。これが手紙を速記する為に社長の所へ呼ばれていました。三十分程で事務室へ帰り、それから又三十分もすると、規定の時間が来たものですから、帰宅致しました", "変った様子はありませんでしたか", "イイエ、別段", "そのタイピストが社長室を出たのは何時頃でした", "ハッキリは覚えませんが、三時半頃だと思います", "すると、三時半から死体の発見された四時半頃まで、約一時間の間に事件が起った訳ですね。ところで、この裏通りは人の余り通らない所ですか", "御覧の通り向うの倉庫の裏と、ビルディングの裏との、ほんの空地といってもいい場所で、滅多に人通りはありません", "そうでしょう。でなければ、もっと早く死体が発見されていたかも知れません。そこで、何か御心当りはありませんか。もし他殺だとすればですね", "別に心当りと云う程でもありませんけれど、最近社長の所へは、沢山脅迫状が来ているのです。御入用でしたら纒めて差出しますが", "誰からです", "工場を解雇された職工達からです。尤も匿名ですから、差出人は分り兼ねますけれど", "危険なのがありますか", "そりゃ解雇された内には、随分乱暴者もいますから", "あとで、解雇職工の名簿と、その脅迫状を拝借しましょう" ], [ "併し、職工などが、いきなり社長室へ入ることが出来ますか、廊下に受附なんかいないのですか", "受附けはいませんけれど、来客は皆事務室の方へ来る様になっています。そこに商会の看板も出ていますし、エレベーターから来ればとっつきの部屋ですから", "では、すぐ社長室へ行くことが出来るのですね", "出来ないことはありません", "事務室の中から廊下は見えないのですか", "窓はスリガラスになってますから、この頃ですと見えません", "すると、事務室の前を通り抜けて社長室に闖入したものがないとも限りませんね", "でも、社長の卓上にはベルもあるのですから", "ベルがあった所で、押す余裕のないこともあるでしょう。それから社長室ですね、我々としては多少検べた所もありますが、あなた方が見て、何か変った所はないでしょうか", "キチンと片づいていて、格闘の跡なんかありませんし、別にこれといって", "社長の折鞄がなくなったといいますね", "ハア、それは確かに私が見たのですが、どう探してもありません", "何が入っていたのです", "詳しいことは分りませんが、今朝現金二千円を御渡ししてあります。財布にない所を見ると、どうもそれが折鞄に入れてあった様です", "どうした金です", "費い路は分りません。社長の命令で会計から渡したのです。私共の店では、社長の個人用の金も、命令次第で名目をつけて会計から支出することになっています。株式会社と云い条、実は個人商店みたいなものですから" ], [ "他殺に相違ないが、あの調子では一寸犯人は出まいね。一つも証拠がないのだから", "刑事がいたね、私服の", "いたよ", "あいつが、大分熱心に調べていたようだが、何か見つけたかも知れないね", "それは分らない。併し検事の口調では、大した発見もなさそうだった", "嫌疑者は", "ない。まあ強いて云えば、工場を解雇された職工なんだが、それも何十人とあるのだから、なかなか分るまい", "脅迫状が来てるとか云ったね。その筆蹟で見当がつくかも知れない", "さあどうだか。それよりも、君はあの訊問の間どこへ行っていたのだい。姿を見せなかったじゃないか", "四階三階屋上などをぶらついていた", "どうして", "何か手掛りはないかと空想しながら", "どうして、四階や三階に手掛りがあるのだい", "皆五階から墜落したと極めている様だが、それが少し独断ではないかと思ったのさ", "だって、五階の窓が開いていた", "窓はあとから閉めることが出来るよ。死体の垂直線上には一階から五階までの五つの窓と、屋上の広場のあることを考えて見る必要がある。一階二階は余り低く過ぎるから除くとしても、三階以上四つの落ち場がある。それを一応調べて見るのは、決して無駄ではないよ", "それで、何か手掛りがあったのかい", "いや、何もない。分ったことは、あの社長室の直下の四階は、石垣という建築師の事務所、その下の三階は空き部屋だ。両方とももう戸が閉っていて、調べようにも方法がない", "君も物好きだな。それ丈けのことで、どうしてあんなに長くかかっていたのだ", "エレベーター・ボーイだとか、小使の親爺だとか、色々なものを捉らえて、話を聞いていたのさ、お蔭であのビルディングのことは大分詳しくなった", "何か得る所があったかい", "まあ、あった様な、なかった様な。これからの僕の腕次第だな", "じゃ君は、もっとあの事件に深入りして見る気なんだね", "出来ればね。併し案外つまらない事件かも知れない", "面白い。危険のない程度でやって見給え。僕も応援するよ、こっちは商売だからね", "あの最初エレベーターで出会った男ね。あれは確かに嫌疑者の一人だよ。ひょっとしたら解雇された職工かも知れない。誰も知らないのだ。上る時は階段から行ったらしい。あのエレベーター・ボーイが四階から乗るのを見た切り、他には一人も出会った人がないのだよ。よっぽどこっそりと上って行ったものに相違ない", "なる程、そう云えばあいつは確かに怪しい。大あわてで逃げ出して行ったからね" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣」光文社文庫、光文社    2005(平成17)年11月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第六巻」平凡社    1931(昭和6)年11月 初出:「新青年」博文館    1926(大正15)年5月 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 ※副題は合作すべてが収録されている「五階の窓」春陽文庫、春陽堂書店によりました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:門田裕志 2017年8月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057508", "作品名": "五階の窓", "作品名読み": "ごかいのまど", "ソート用読み": "こかいのまと", "副題": "01 合作の一(発端)", "副題読み": "01 がっさくのいち(ほったん)", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1926(大正15)年5月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-09-01T00:00:00", "最終更新日": "2019-05-07T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57508.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第3巻 陰獣", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2005(平成17)年11月20日", "入力に使用した版1": "2005(平成17)年11月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年7月20日2刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第六巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1931(昭和6)年11月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "金城学院大学 電子書籍制作", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57508_ruby_62501.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-08-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57508_62543.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-08-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "マア、あたしうっかりして。……木崎ですのよ", "じゃあ、樋口っていうのは?" ], [ "恋、ね、そうでしょう。恋をしている目だ。それに、近頃とんと僕の方へは御無沙汰だからね", "恋、エエ、マア、……その人が死んじまったんです。殺されちまったんです" ], [ "おかしな男だね。いやにソワソワしている。何か話したの?", "イイエ、何だか解らないんです", "妙だな。今木崎の家の人に聞くとね。あの諸戸君は初代さんが死んでから、三度目なんだって、訪ねて来るのが。そして妙に色々なことを尋ねたり、家の中を見て廻ったりするんだって。何かあるね。だが、かしこ相な美しい男だね" ], [ "ヘエ、ございましたよ。ですが、売れちまいましてね", "惜しいことをした。欲しかったんだが、いつ売れたんです。二つとも同じ人が買ってったんですか", "対になっていたんですがね。買手は別々でした。こんなやくざな店には勿体ない様な、いい出物でしたよ。相当お値段も張っていましたがね", "いつ売れたの?", "一つは、惜しいことでございました。昨夜でした。遠方のお方が買って行かれましたよ。もう一つは、あれはたしか先月の、そうそう二十五日でした。丁度お隣に騒動のあった日で、覚えて居りますよ" ], [ "あれは確かに揚羽の蝶の模様でしたね", "エ、エエその通りですよ。黄色い地に沢山の揚羽の蝶が散らし模様になっていましたよ" ], [ "どこから出たもんなんです", "何ね、仲間から引受けたものですが、出は、何でもある実業家の破産処分品だって云いましたよ" ], [ "そのあとで買いに来た客は、三十位で、色が白くて、髭がなく、右の頬に一寸目立つ黒子のある人ではなかったですか", "そうそう、その通りの方でしたよ。優しい上品なお方でした" ], [ "だって、こんな子供のいたずらみたいなもの、馬鹿馬鹿しいですよ。それに正午限り命をとるなんて、まるで活動写真みたいじゃありませんか", "いや、君は知らないのだよ。俺はね、恐ろしいものを見てしまったんだ。俺の想像がすっかり適中してね。悪人の本拠を確めることは出来たんだけれど、その代り変なものを見たんだ。それがいけなかった。俺は意気地がなくて、逃出してしまった。君はまるで何も知らないのだよ", "いや、僕だって、少し分ったことがありますよ。七宝の花瓶ね。何を意味するのだか分らないけれど、あれをね諸戸道雄が買って行ったんです", "諸戸が? 変だね" ], [ "七宝の花瓶には、一体どんな意味があるんです", "俺の想像が間違っていなかったら、まだ確めた訳ではないけれど、実に恐ろしい事だ。前例のない犯罪だ。だがね、恐ろしいのは花瓶丈けじゃない、もっともっと驚くべき事がある。悪魔の呪いといった様なものなんだ。想像も出来ない邪悪だ", "一体、あなたには、もう初代の下手人が分っているのですか", "俺は、少くとも彼等の巣窟をつき止めることは出来た積りだ。もう暫く待ち給え。併し俺はやられてしまうかも知れない" ], [ "変ですね。併し、万一にもそんな心配があるんだったら、警察に話したらいいじゃありませんか。あなた一人の力で足りなかったら、警察の助力を求めたらいいじゃありませんか", "警察に話せば、敵を逃がしてしまう丈けだよ。それに、相手は分っていても、そいつを上げる丈けの確かな証拠を掴んでいないのだ。今警察が入って来ては、却って邪魔になるばかりだ", "この手紙にある例の品物というのは、あなたには分っているのですか。一体何なのです", "分っているよ、分っているから怖いのだよ", "これを先方の申出通り送ってやる訳には行かぬのですか" ], [ "あなたは、知っている丈けのことを、僕に話して下さる訳には行かぬのですか。一体この事件は、僕からあなたにお願いしたので、僕の方が当事者じゃありませんか", "だが、必らずしもそれがそうでなくなっている事情があるんだ。併し、話すよ。無論話す積りなんだけれど、では、今夜ね、夕飯でもたべながら話すとしよう" ], [ "十一時五十二分。あと八分ですよ。ハハハ……", "こうしていれば安全だね。君、君を初め近所に沢山人が見ていてくれるし、手元にこう、四人の少年軍が護衛してらあ。その上砂のとりでだ。どんな悪魔だってこれじゃ近寄れないね。ウフフ" ], [ "おじさん、起きてごらんよ。重いかい", "おじさん、滑稽な顔をしてらあ。起きられないのかい。助けて上げようか" ], [ "エ、鎌倉? アア、あの時君は気がついていたのですか、あんな騒動の際だったので、態と遠慮して声をかけなかったのだが、あの殺された人、深山木さんとか云いましたね。君、あの人とは余程懇意だったのですか", "エエ、実は木崎初代さんの殺人事件を、あの人に研究して貰っていたんです。あの人はホームズみたいな優れた素人探偵だったのですよ。それが、やっと犯人が分りかけた時に、あの騒動なんです。僕、本当にがっかりしちゃいました", "僕も大方そうだとは想像していたが、惜しい人を殺したものですね。それはそうと、君食事は? 丁度今食堂を開いた所で、珍らしいお客さんもいるんだが、何だったら、一緒にたべて行きませんか" ], [ "イイエ、食事は済ませました。お待ちしますからどうか御遠慮なく。ですが、お客さんと云うのは、若しやひどく腰の曲ったお爺さんの人じゃありませんか", "エ、お爺さんですって。大違い、小さな子供なんですよ。ちっとも遠慮のいらないお客だから、一寸食堂へ行く丈けでも行きませんか", "そうですか。でも、僕来る時、そんなお爺さんがここの門を這入るのを見かけたのですが", "ヘエ、おかしいな。腰の曲ったお爺さんなんて、僕はお近づきがないんだが、本当にそんな人が這入って来ましたか" ], [ "そうだと思うのです。若し僕の考え通りだったら、実に前代未聞の奇怪事です。この世の出来事とは思えない位です", "では聞かせて下さい。そいつはどうしてあの出入口のない密閉された家の中へ忍込むことが出来たのです。どうしてあの群衆の中で、誰にも姿を見とがめられず、人を殺すことが出来たのです", "アア、本当に恐ろしいことです。常識で考えては全く不可能な犯罪が、易々と犯されたという事が、この事件の最も戦慄すべき点なのです。一見不可能に見えることが、どうして可能であったか。この事件を研究する者は、先ずこの点に着眼すべきであったのです。それが凡ての出発点なのです" ], [ "一体下手人は何者です。我々の知っている奴ですか", "多分君は知っているでしょう。だが、一寸想像がつき兼ねるでしょう" ], [ "ええ、聞きます", "この二つの殺人事件は、どちらも一見不可能に見える。一つは密閉された屋内で行われ犯人の出入が不可能だったし、一つは白昼群集の面前で行われて、しかも何人も犯人を目撃しなかったというのだから、これも殆ど不可能な事柄です。だが、不可能なことが行われる筈はないのだから、この二つの事件は、一応その『不可能』そのものについて吟味して見ることが最も必要でしょう。不可能の裏側を覗いて見ると、案外つまらない手品の種がかくされているものだから" ], [ "君の云う通りですよ。僕もそんな風に考えた", "それから、もっと確かなことは、天井裏を通抜けたとすれば、そこのちりの上に足跡か何か残っている筈なのに、警察で調べて何の痕跡もなかったではありませんか。又縁の下にしても、皆金網張りなんかで通れない様になっていたではありませんか。まさか犯人が根太板を破り、畳を上げて這入ったとも考えられませんからね", "その通りです。だが、もっといい通路があるのです。まるでここから御這入りなさいと云わぬばかりの、極く極くありふれた、それ故に却って人の気づかぬ大きな通路があるのです", "天井と縁の下以外にですか。まさか壁からではないでしょう", "いや、そんな風に考えてはいけない。壁を破ったり、根太をはがしたり、小細工をしないで、何の痕跡も残さず、堂々と出入り出来る箇所があるのです。エドガア・ポオの小説にね、『盗まれた手紙』というのがある。読んだことがありますか。あるかしこい男が手紙を隠すのだが、最もかしこい隠し方は隠さぬことだという考えから、無雑作に壁の状差しへ投込んで置いた所、警察が家探しをしても発見することが出来なんだ話です。これを一方から云うと、誰も知っている様な極く極くあからさまな場所は、犯罪などの真剣な場合には、却って閑却され気附かれぬものだということになります。僕の云い方にすれば、一種の盲点の作用なのです。初代さんの事件でも、云って了えば、どうしてそんな簡単なことを見逃したのかと馬鹿馬鹿しくなる位だが、それが先に云った賊は『外から』という観念に禍された為ですよ。一度『中から』とさえ考えたなら、直ちに気づく筈なんだから", "分りませんね。一体どこから出入りしたのですか" ], [ "ホラ、どこの家でも、長屋なんかには、台所の板の間に、三尺四方位、上げ板になった所がある。ね、炭や薪なんかを入れて置く場所です。あの上げ板の下は、大抵仕切りがなくて、ずっと縁の下へ続いているでしょう。まさか内部から賊が這入るとは考えぬので、外に面した所には金網を張る程用心深い人でも、あすこ丈けは一向戸締りをしないものですよ", "じゃ、その上げ板から初代さんを殺した男が出入りしたというのですか", "僕は度々あの家へ行って見て、台所に上げ板のあること、その下には仕切りがなくて全体の縁の下と共通になっていることを確めたのです。つまり、犯人はお隣の道具屋の台所の上げ板から這入って、縁の下を通り、初代さんの家の上げ板から忍込み、同じ方法で逃去ったと考えることが出来ます" ], [ "僕も無論その点は、あとから近所の人に聞合わせてよく知っている。古道具屋の主人なり弥次馬なりの目をかすめて犯人が逃去ったと考えることは出来ない様な状態でした。古道具屋の戸締りが開けられた時には、已に近所の人達が往来に集っていた。だから、仮令犯人が縁の下を通って古道具屋の台所の上げ板から、そこの店の間なり裏口なりへ達したとしても、主人夫妻や弥次馬達に見とがめられずに戸外へ出ることは、全く不可能だったのです。彼はこの難関をどうして通過することが出来たか。僕の素人探偵はそこでハタと行詰ってしまった。何かトリックがある。台所の上げ板に類した、人の気づかぬ偽瞞があるに相違ない。で、多分御存じだろうが、僕は度々初代さんの家の附近をうろついて、近所の人の話などを聞廻ったのです。そして、ふと気がついたのは、事件の後、例の古道具屋から、何か品物が持出されなかったか。商売柄、店先には色々な品物も陳列してある。その内何か持出されたものはないかと云うことです。そこで、調べて見ると、事件の発見された朝、警察の取調べなどでゴタゴタしている最中に、ここにあるこれと一対の花瓶ですね、あれを買って行った者があることが分った。その外には何も大きな品物は売れていない。僕はこの花瓶が怪しいと睨んだのです", "深山木さんも、同じことを云いましたよ。だが、その意味が僕には少しも分らないのです" ], [ "左様、僕にも分らなんだ。併し、何となく疑わしい気がしたのです。何故かと云うと、その花瓶は、丁度事件の前夜、一人の客が来て代金を払い、品物はちゃんと風呂敷包みにして帰り、次の朝使いの者が取りに来て担いで行ったというのが、時間的にうまく一致している。何か意味がありそうです", "まさか、花瓶の中に犯人が隠れていた訳じゃありますまいね", "イヤ、所が意外にも、あの中に人が隠れていたと想像すべき理由があるのです", "エ、この中に、冗談を云ってはいけません。高さはせいぜい二尺四五寸、さし渡しも広い所で一尺余りでしょう。それに第一この口を御覧なさい。僕の頭丈けでも通りやしない。この中に大きな人間が這入っていたなんて、御伽噺の魔法の壺じゃあるまいし" ], [ "この花瓶の大きさと、海岸で見た四人の子供の背丈とを比べて見ると、どうも無理ですよ。二尺四五寸の壺の中へ、三尺以上の子供が隠れるということは、不可能です。中でしゃがむとしては、幅が狭すぎるし、第一この小さな口から、いくら痩せた子供にもしろ、一寸這入れ相に見えぬではありませんか", "僕も一度は同じ事を考えた。そして実際同じ年頃の子供を連れて来て、試して見さえした。すると、予想の通り、その子供にはうまく這入れなんだが、子供の身体の容積と、壺の容積とを比べて見ると、若し子供がゴムみたいに自由になる物質だとしたら、充分這入れることが確められた。ただ人間の手足や胴体が、ゴムみたいに自由に押曲げられぬ為に完全に隠れてしまうことが出来ぬのです。そして、子供が色々にやっているのを見ている内に、僕は妙なことを聯想した。それはずっと前に、誰かから聞いた話なんですが、牢破りの名人と云うものがあって、頭だけ出し入れする隙間さえあれば、身体を色々に曲げて、無論それには特別の秘術があるらしいのだが、とも角もその穴から全身抜け出すことが出来るのだ相です。そんなことが出来るものとすれば、この花瓶の口は、十歳の子供の頭よりは大きいのだし、中の容積も充分あるのだから、ある種の子供にはこの中へ隠れてしまうことも、全く不可能ではあるまいと考えた。では、どんな種類の子供にそれが出来るかと云うと、直ちに聯想するのは、小さい時から毎日酢を飲ませられて、身体の節々が、水母みたいに自由自在になっている、軽業師の子供です。軽業師と云えば、妙にこの事件と一致する曲芸がある。それはね、足芸で、足の上に大きな壺をのせ、その中へ子供を入れて、クルクル廻す芸当です。見たことがありましょう。あの壺の中へ這入る子供は、壺の中で、色々に身体を曲げて、まるで鞠みたいにまんまるになってしまう。腰の所から二つに折れて、両膝の間へ頭を入れている。あんな芸当の出来る子供なら、この花瓶の中へ隠れることも、さして困難ではあるまい。ひょっとしたら、犯人は、丁度そんな子供があったので、この花瓶のトリックを考えついたのかもしれない。僕はそこへ気づいたもんだから、友達に軽業の非常に好きな男があるので、早速聞会わせて見ると、丁度鶯谷の近くに曲馬団がかかっていて、そこで同じ足芸もやっていることが分った" ], [ "君、この間鎌倉の海水浴へ行っていたね。あの時伯父さんは君のすぐ側にいたのだよ。知らなかった?", "知らねえよ。おいら、海水浴なんか行ったことねえよ" ], [ "知らないことがあるもんか。ホラ、君達が砂の中へ埋めていた、肥った伯父さんが殺されて、大騒ぎがあったじゃないか。知っているだろう", "知るもんか。おいら、もう帰るよ" ], [ "馬鹿をお云い、こんな遠い所から一人でなんか帰れやしないよ。君は道を知らないじゃないの", "道なんか知ってらい。分らなかったら大人に聞くばかりだい。おいら、十里位歩いたことがあるんだから" ], [ "もう少しいておくれ、伯父さんがいいものをやろう。君は何が一番好き?", "チョコレート" ], [ "それ見たまえ、君は欲しいのだろう。じゃあ上げるからね、伯父さんの云うことを聞かなければ駄目だよ。一寸この花瓶を御覧。綺麗だろう。君はこれと同じ花瓶を見たことがあるね", "ウウン", "見たことがないって。どうも君は強情だね。じゃあ、それはあとにしよう。ところで、この花瓶と、君がいつも這入る足芸の壺とどちらが大きいと思う? この花瓶の方が小さいだろう。この中へ這入れるかい。いくら君が芸がうまくっても、まさかこの中へは這入れまいね。どうだね" ], [ "どうだね、一つやってみないかね。御褒美をつけよう。君がその中へうまく這入れたら、チョコレートの函を一つ上げよう。ここで食べていいんだよ。だが、気の毒だけれど、君には迚も這入れ相もないね", "這入れらい。きっとそれを呉れるかい" ], [ "この花瓶はいつかの晩、巣鴨の古道具屋にあったのと、形も模様も同じでしょう。君は忘れはしないね。その晩にこの中へ隠れていて、真夜中時分、そっとそこから抜け出し、縁の下を通ってお隣の家へ行ったことを。そこで君は何をしたんだっけな。よく寝ている人の胸の所へ、短刀を突きさしたんだね。ホラ、忘れたかい。その人の枕下に、やっぱり美しい罐入りのチョコレートがあったじゃないか。そいつを君は持って来たじゃあないか。あの時君が突きさしたのは、どんな人だったか覚えているかい。さあ答えて御覧", "美しい姉やだったよ。おいら、その人の顔を忘れちゃいけないて、おどかされたんだ", "感心感心、そういう風に答えるものだよ。それから、君はさっき鎌倉の海岸なんか行ったことがないと云ったけれど、あれは嘘だね。砂の中の伯父さんの胸へも、短刀をつき刺したんだね" ], [ "親方じゃない、『お父つぁん』だぜ。お前も『お父つぁん』の仲間なんかい。おいら、『お父つぁん』が怖わくってしようがねえんだ。内密にしといとくれよ。ね", "心配しないだって、大丈夫だよ。さあ、もう一つ丈けでいい、伯父さんの尋ねることに答えておくれ。その『お父つぁん』は今どこにいるんだね。そして、名前は何とかいったね。君は忘れちまったんじゃあるまいね", "馬鹿云ってら。『お父つぁん』の名前を忘れるもんか", "じゃ云って御覧。何といったっけな。伯父さんは胴忘れしてしまったんだよ。さあ云って御覧。ホラ、そうすれば、このお陽さまの様に美しいチョコレートの罐がお前のものになるんだよ" ], [ "ですが、僕には、少し分らない所がありますよ。初代にしろ、深山木さんにしろ、何故殺さなければならなかったのでしょう。殺人罪まで犯さなくても、うまく系図帳を盗み出す方法があったでしょう", "それは、今の所僕にも分らない。多分別に殺さねばならぬ事情があったのでしょう。そういう所に、この事件の単純なものでないことが現われている。だが、空論はよして、実物を検べて見ようじゃないか" ], [ "九代、春延、幼名又四郎、享和三年家督、賜二百石、文政十二年三月二十一日没、か。この前はちぎれていて分らない。藩主の名も初めの方に書いてあったのだろうが、あとは略して禄高丈けになっている。二百石の微禄じゃ、姓名が分ったところで、何藩の臣下だか容易に調べはつくまいね。こんな小身者の系図に、どうしてそんな値打があるのかしら。遺産相続にしたって、別に系図の必要もあるまいし、仮令必要があったところで、盗み出すというのは変だからね。盗まないまでも、系図が証拠になることなら、堂々と表だって要求出来る訳だから", "変だな。ごらんなさい。この表紙の所が、態とはがしたみたいになっている" ], [ "これは何の文句でしょうね。和讃かしら", "おかしいね。和讃の一部分でもなし、まさかこの時分お筆先でもあるまいし。物ありげな文句だね" ], [ "何だか辻褄の合わぬまずい文句だし、書風もお家流まがいの下手な手だね。昔の余り教養のないお爺さんでも書いたものだろう。だが、神と仏が会ったり、巽の鬼を打やぶったり、何となく意味ありげでさっぱり分らないね。併し、云うまでもなく、この変な文句が曲者だよ。深山木氏が、態々はがして検べた程だからね", "呪文みたいですね", "そう、呪文の様でもあるが、僕は暗号文じゃないかと思うよ。命がけで欲しがる程値打のある暗号文だね。若しそうだとすると、この変な文句に、莫大な金銭的価値がなくてはならぬ。金銭的価値のある暗号文と云えば、すぐ思いつくのは、例の宝の隠し場所を暗示したものだが、そう思ってこの文句を読んで見ると、『弥陀の利益を探るべし』とあるのが、何となく『宝のありかを探せ』という意味らしくも取れるじゃないか。隠された金銀財宝は、如何にも弥陀の利益に相違ないからね", "アア、そう云えばそうも取れますね" ], [ "いたずら書き? いや、恐らくそうじゃあるまいよ。深山木氏がこうして大切にしていた所を見ると、これには深い意味があるに違いない。僕はふと考えたのだが、この終りの方に書いてある、窓の下へ来たという人物は、よく肥えた、洋服姿だったらしいから、深山木氏のことじゃあるまいか", "アア、僕も一寸そんな気がしましたよ", "そうだとすると、深山木氏が殺される前に旅行した先というのは、この双児のとじこめられている土蔵のある地方だったに相違ない。そして、土蔵の窓の下へ深山木氏が現われたのは、一度ではなかった。なぜと云って、深山木氏が二度目に窓の下へ行かなんだら、双児はこの雑記帳を窓から投げなかっただろうからね", "そう云えば、深山木さんは、旅行から帰った時、何だか恐ろしいものを見たと云っていましたが、それはこの双児のことだったのですね", "アア、そんなことを云っていたの? じゃ愈々そうだ。深山木氏は僕達の知らない事実を握っていたのだ。そうでなければ、こんな所へ見当をつけて、旅行をする筈がないからね", "それにしても、この可哀想な不具者を見て、何故救出そうとしなかったのでしょう", "それは分らないけれど、直ぐぶっつかって行くには、手強い敵だと思ったかも知れぬ。それで一度帰って、準備をととのえてから、引返す積りだったかも知れぬ" ], [ "あの日足芸があって、友之助ね、ホラ池袋で殺された子供ね、あの子が甕の中へ入ってグルグル廻されるのを見たよ、あの子は本当に気の毒なことだったね", "ウン、友之助かい。可哀想なはあの子でございよ、とうとうやられちゃった。ブルブルブルブル。だがね、兄貴、その日に友之助の足芸があったてえな、おまはんの思い違いだっせ。俺はこう見えても、物覚えがいいんだからな。あの日はね、友之助は小屋にいなかったのさ" ], [ "一両賭けてもいい。俺は確かに見た", "駄目駄目、兄貴そりゃ日が違うんだぜ。七月五日は、特別の訳があって、俺ぁちゃんと覚えているんだ", "日が違うもんか。七月の第一日曜じゃないか。お前こそ日が違うんだろ", "駄目駄目" ], [ "じゃあ、友之助は病気だったのかね", "あの野郎、病気なんぞするものかね。親方の友達が来てね、どっかへ連れてかれたんだよ" ], [ "知らなくってさ。八十ばかりの、腰の曲ったよぼよぼのお爺さんだろ。お前達の親方ってな、そのお爺さんのことさ", "違う違う。親方はそんなお爺じゃありゃしない。腰なんぞ曲っているものか。お前見たことがないんだね。尤も小屋へは余り顔出しをしないけど、親方ってのは、こう、ひどい傴僂のまだ三十位の若い人さ" ], [ "それがお父つぁんかい", "違う違う。お父つぁんが、こんな所へ来ているものか、ずっと遠くにいらあね。親方とお父つぁんとは、別々の人なんだよ", "別々の人だって。するとお父つぁんてのは、一体全体何者だね。お前達の何に当る人なんだね", "何だか知らないけど、お父つぁんはお父つぁんさ。親方と同じ様な顔で、やっぱり傴僂だから、親方と親子かも知れない。だが、俺ぁ止すよ。お父つぁんのことを話しちゃいけないんだ。お前は大丈夫だと思うけど、若しお父つぁんに知れたら、俺はひどい目に合わされるからね。又箱ん中へ入れられてしまうからね" ], [ "で、つまり何だね。七月五日に友之助を連れてったのは、お父つぁんでなくて、親方の知合なんだね。どこへ行ったね、お前聞かなかったかね", "友のやつ、俺と仲よしだったから、俺丈けにそっと教えてくれたよ。景色のいい海へ行って、砂遊びをしたり泳いだりしたんだって", "鎌倉じゃないの", "そうそう、鎌倉とかいったっけ。友のやつ親方の秘蔵っ子だったからね。ちょくちょく、いい目を見せて貰ったよ" ], [ "お前さっき、箱の中へ入れられるって云ったね。箱って一体何だね。そんなに恐ろしいものかい", "ブルブルブルブル、お前達の知らない地獄だよ。人間の箱詰めを見た事があるかい。手も足もしびれちまって、俺みたいな片輪者は、みんなあの箱詰めで出来るんだよ。アハハ……" ], [ "お父つぁんが怖いんだな。意気地なし。だが、そのお父つぁんてな、どこにいるんだい。遠い所って", "遠い所さ。俺ぁどこだか忘れちまった。海の向うの、ずっと遠い所だよ。地獄だよ。鬼ヶ島だよ。俺ぁ思い出してもゾッとするよ。ブルブルブルブル" ], [ "想像は想像だけれど、外に考え様がないのだ。僕の父は何故僕と初代さんと結婚させようとしたのだろう。それは初代さんのものが、夫である僕のものになるからだ。つまり例の系図帳が我が子のものになるからだ。そればかりではない。もっと邪推することが出来る。父は系図帳の表紙裏の暗号文を手に入れる丈けでは満足しなかったのだ。若しあの暗号文が、財宝のありかを示すものだとしたら、それ丈けを手に入れた所で、本当の所有者である初代さんはまだ生きているのだから、どんなことで、それが分って取戻されないものでもない。そこで、僕と初代さんと結婚させれば、そんな心配がなくなってしまう。財宝も、その所有権も父の家のものになる。僕の父はそんな風に考えたのではないだろうか。あの熱心な求婚運動は、そうとでも考える外に、解釈の下しようがないじゃないか", "でも、初代さんが、そんな暗号を持っていることが、どうして分ったのでしょう" ], [ "あなたと同じ理由です。初代さんの敵を確める為です。それから、初代さんの身内を探出して系図帳を渡す為です", "それで、若し初代さんの敵が僕の父親だと分ったら君はどうする積り?" ], [ "そうなれば、あなたともお別れです。そして……", "古風な復讐がしたいとでも云うの?", "ハッキリ考えている訳じゃないけれど、僕の今の心持では、そいつの肉を啖ってもあきたりないのです" ], [ "だが、暗号文が敵の手に渡っては、一刻も猶予出来ませんね", "愈々明日立つ事に極めた。もうこうなっては、逆にこちらからぶっつかって行く外に手段はないよ" ], [ "その諸戸屋敷の旦那が、近頃東京へ行ったという噂を聞かないかね", "聞かんな。諸戸屋敷の傴僂さんが、ここから汽船に乗りなしたら、じき分るさかいに、滅多に見逃しやしませんがのんし。そやけど、傴僂さんとこには、帆前船があるさかいにのんし。勝手にどこへでも舟を着けて、わしらの知らん内に、東京へ行ったかも知れんな。あんた方、諸戸屋敷の旦那を御存知かな", "いや、そういう訳じゃないが、一寸岩屋島まで行って見たいと思うのでね。あすこまで舟を渡してくれる人はないだろうかね", "サア、天気がええのでのんし、生憎皆漁に行ってるさかいになあ" ], [ "この辺の者は、あの洞穴の所を、魔の淵と云いますがのんし、昔からちょいちょい人が呑まれるので、何やらの祟りや云うてのんし、漁師共が恐れて近寄りませんのじゃ", "渦でもあるの", "渦という訳でもないが、何やらありますのじゃ。一番近くでは、十年ばかり前にのんし、こんなことがありましたげな" ], [ "オヤ、道かえ。よくまあお前帰って来たね。あたしゃもう、一生帰らないのかと思っていたよ。そして、そこの人はえ", "これ、僕の友達です。久し振りで家の様子が見たくなったものですから、友達と一緒に、はるばるやって来たんですよ。丈五郎さんは?", "マアお前、丈五郎さんだなんて。お父つぁんじゃないか。お父つぁんとお云いよ" ], [ "フン、じゃあ貴様は約束を反古にした訳だな", "そういう訳じゃないけれど、あなたに是非尋ねたいことがあったものだから", "そうか。実は俺の方にも、ちと貴様に話したい事がある。マア、いいから逗留して行け。本当を云うと、俺も一度貴様の成人した顔が見たかったのだよ" ], [ "東京でね、あなたとそっくりの人を見かけたんですよ。若しかしたら、私に知らせないで、こっそり東京へ出られたのかと思って", "馬鹿な。そんな、この年で、不自由な身体で、東京なんぞへ出て行くものかな" ], [ "知ってますとも、わしはな、昔諸戸屋敷に奉公して居って、道雄さんの小さい時分抱いたり負んぶしたりした程じゃもの、知らいでか。じゃが、わしも年をとりましたでな。道雄さんはすっかり見忘れておいでの様じゃ", "そうですか。じゃ、なぜ諸戸屋敷へ来て、道雄さんに逢わないのです。道雄さんもきっと懐かしがるでしょうに", "わしは御免じゃ。いくら道雄さんに逢い度うても、あの人畜生の屋敷の敷居を跨ぐのは御免じゃ。お前さんは知りなさるまいが、諸戸の傴僂夫婦は、人間の姿をした鬼、けだものやぞ", "そんなにひどい人ですか。何か悪いことでもしているのですかね", "いやいや、それは聞いて下さるな、同じ島に住んでいる間は、迂闊なことを云おうものなら、我身が危い、あの傴僂さんにかかっては、人間の命は、塵芥やでな。ただ、用心をすることや、旦那方はこれから出世する尊い身体や。こんな離れ島の老人に構って、危い目を見ぬ様に、用心が肝腎やな", "でも丈五郎さんと道雄さんは親子の間柄だし、私にしても、その道雄さんの友達なんだから、いくら悪い人だと云って、危いということはありますまい", "いや、それがそうでないのじゃ。現に今から十年ばかり前に、似た様なことがありました。その人も都から遥々諸戸屋敷を尋ねて来た。聞けば丈五郎の従兄弟とかいうことであったが、まだ若い老先の長い身で、可哀想に、見なされ、あの洞穴の側の魔の淵という所へ、死骸になって浮上りました。わしはそれが丈五郎さんの仕業だとは云わぬ。じゃが、その人は諸戸屋敷に逗留していられたのや。屋敷の外へ出たり、舟に乗ったりしたのを見たものは、誰もないのや。分ったかな。老人の云うことに間違いはない。用心しなさるがよい" ], [ "アア、恐ろしい。まさかまさかと思っていたことが本当だったのだ。もう愈々おしまいだ", "やっぱり、僕達が疑っていた通りだったの" ], [ "帰れとおっしゃれば帰りますが、道雄さんはどこにいるのです。道雄さんも一緒でなければ", "息子は都合があって逢わせる訳には行かぬ。が、あれも無論承知の上じゃ。サア、用意をするのだ" ], [ "徳さん。おるかな。諸戸の旦那の云いつけだ。舟を出しておくれ。この人をKまで渡すのや", "この客人が一人で帰るのかな" ], [ "この人達は", "片輪者さ", "だが、どうして、こんなに片輪者を養って置くのでしょう", "同類だからだろう、詳しいことはあとで話そうよ。それより僕達は急がなければならない。三人の奴等が帰るまでにこの島を出発したいのだ。一度出て行ったら五六日は大丈夫帰らない。その間に、例の宝探しをやるのだ。そして、この連中をこの恐ろしい島から救い出すのだ", "あの人達はどうするのです", "丈五郎かい。どうしていいか分らない。卑怯だけれど、僕は逃げ出す積りだ。財産を奪い、この片輪の連中を連れ去ったらどうすることも出来ないだろう。自然悪事を止すかも知れない。兎も角僕にはあの人達を訴えたり、あの人達の命を縮めたりする力はない。卑怯だけれど、置去りにして逃げるのだ。これ丈けは見逃してくれ給え" ], [ "僕は宝そのものよりも、暗号を解いて、それを探し出すことに、非常な興味を感じているのです。だが、僕にはまだよく分りません。あなたはすっかり、あの暗号を解いてしまったのですか", "やって見なければ分らないけれど、何だか解けた様に思うのだが、君にも、僕の考えていることが大体分っているでしょう", "そうですね。呪文の『神と仏がおうたなら』というのは、烏帽子岩の鳥居の影と石地蔵とが一つになる時という意味だ。という位のことしか分らない", "そんなら、分っているんじゃないか", "でも、巽の鬼を打破りってのが、見当がつかないのです", "巽の鬼というのは、無論、土蔵の鬼瓦の事さ。それは君が僕に教えて呉れたんじゃありませんか", "すると、あの鬼瓦を打破れば、中に宝が隠されているのですか。まさか、そうじゃないでしょう", "鳥居と石地蔵の場合と同じ考え方をすればいいのさ。つまり、鬼瓦そのものでなくて、鬼瓦の影を考えるのだ。そうでなければ、第一句が無意味になるからね。それを丈五郎は、鬼瓦そのものだと思って、屋根へ上ってとりはずしたりしたんだ。僕は蔵の窓からあの人が鬼瓦を割っているのを見たよ。無論何も出やしなかった。併し、そのお蔭で僕は、暗号を解く手がかりが出来たんだけれど" ], [ "成程、本当に僕達はどうかしていましたね。すると、宝探しの機会も一年に二度しかないということでしょうか", "隠した人はそう思ったかも知れない。そして、それが宝を掘出しにくくする屈強の方法だと誤解したかも知れない。だが、果してこの鳥居と石地蔵が、宝探しの目印なら、何も実際影の重なるのを待たなくても、いくらも手段はあるよ", "三角形を書けばいい訳ですね。鳥居の影と石地蔵を頂点にして", "そうだ。そして、鳥居の影と石地蔵との開きの角度を見つけて、鬼瓦の影を計る時にも、同じ角度丈け離れた場所に見当をつければいいのだ" ], [ "そうですね。五時二十分。あと五分です。だが、一体こんな岩で出来た地面に、そんなものが隠してあるんでしょうか。何だか嘘みたいですね", "併し、あすこに、一寸した林があるね。どうも、僕の目分量では、あの辺に当りやしないかと思うのだが", "アア、あれですか。あの林の中には、大きな古井戸があるんですよ。僕はここへ来た最初の日に、あすこを通って覗いて見たことがあります" ], [ "ホウ、古井戸、妙な所にあるんだね。水はあるの", "すっかり涸れている様です。随分深いですよ", "以前あすこに別に邸があったのだろうか。それとも、昔はあの辺もこの邸内だったのかも知れないね" ], [ "さあそこだよ。単純に井戸の中では、あんまり曲がなさ過ぎる。あの用意周到な人物が、そんなたやすい場所へ隠して置く筈がない。君は呪文の最後の文句を覚えているでしょう。ホラ、六道の辻に迷うなよ。この井戸の底には横穴があるんじゃないかしら。その横穴が所謂『六道の辻』で、迷路みたいに曲りくねっているのかも知れない", "あんまりお話みたいですね", "いや、そうじゃない。こんな岩で出来た島には、よくそんな洞穴があるものだよ。現に魔の淵の洞穴だってそうだが、地中の石灰岩の層を、雨水が浸蝕して、とんでもない地下の通路が出来て、この井戸の底は、その地下道への入口になっているんじゃないかしら", "その自然の迷路を、宝の隠し場所に利用したという訳ですね。若しそうだとすれば、実際念に念を入れたやり方ですね", "それ程にして隠したとすれば、宝というのは、非常に貴重なものに相違ないね。だが、それにしても、僕はあの呪文にたった一つ分らない点があるのだが", "そうですか。僕は、今のあなたの説明で全体が分った様に思うのだけれど", "ほんの一寸したことだがね。ホラ、巽の鬼を打破りとあっただろう。この『打破り』なんだ。地面を掘って探すのだったら、打破ることになるけれど、井戸から這入るのでは、何も打破りやしないんだからね。それが変なんだよ。あの呪文は一寸見ると幼稚の様で、その実仲々よく考えてあるからね。あの作者が不必要な文句などを書く筈がない。打破る必要のない所へ、『打破り』なんて書く筈がない" ], [ "変だな。確かに這入った奴がある。まさか呪文を書いた人が、態々石畳を破って這入る訳はないから、別の人物だ。無論丈五郎ではない。これはひょっとすると、僕達より以前に、あの呪文を解いた奴があるんだよ。そして、横穴まで発見したとすると、宝はもう奪い出されてしまったのではあるまいか", "でも、こんな小さな島で、そんなことがあればすぐ分るでしょうがね。船着場だって一箇所しかないんだし、他国者が入り込めば、諸戸屋敷の人達だって、見逃す筈はないでしょうからね", "そうだ。第一丈五郎程の悪者が、ありもしない宝の為に、あんな危い人殺しまでする筈がないよ。あの人には、きっと宝のある事丈けは、ハッキリ分っていたに相違ない。何にしても、僕にはどうも宝が取出されたとは思えない" ], [ "やっぱり、仲々深そうだよ", "息がつまる様ですね" ], [ "もう麻縄が残少なですよ。これが尽きるまでに行止まりへ出るでしょうか", "駄目かも知れない。仕方がないから、縄が尽きたらもう一度引返して、もっと長いのを持って来るんだね。だが、その縄を離さない様にし給えよ。大切の道しるべをなくしたら、僕等はこの地の底で迷子になってしまうからね" ], [ "怪我しなかった?", "大丈夫です" ], [ "縄を見失ったの?", "エエ" ], [ "降った方が、ずっと多いじゃありませんか", "僕もそんなに感じる。地上と海面との距離を差引いても、まだ降った方が多い様な気がする", "すると、もう助かりませんね" ], [ "泳げることは泳げるけれど、もう僕は駄目ですよ。僕はもう早く一思いに死んでしまいたい", "何を弱いことを云っているんだ。何でもないんだよ。暗闇が、人間を臆病にするんだ。しっかりし給え。生きられる丈け生きるんだ" ], [ "水が増さなくなったのだよ。水が止まったのだよ", "引潮になったの" ], [ "理論では、百に一つは出られる可能性はある。まぐれ当りで一番外側の大きな糸の輪にぶつかればいいのだからね。併し、僕達はもうそんな根気がありゃしない。これ以上一足だって歩けやしない。愈々絶望だよ。君一緒に死んじまおうよ", "アア死のう。それが一番いいよ" ], [ "じゃ、あれも見世物に売る為に作ったのだね", "そうさ。ああして三味線を習わせて、一番高く売れる時期を待っていたのだよ。君は秀ちゃんが片輪でないことが判って嬉しいだろうね。嬉しいかい", "君は嫉妬しているの" ], [ "アア、そうだ。お前さん蓑浦さんだね。もう一人は、道雄さんだろうね。わしは徳だよ。丈五郎に殺された徳だよ", "アア、徳さんだ。君、どうしてこんな所に" ], [ "で、息子さんは? 私の影武者を勤めてくれた息子さんは?", "分らないよ、大方鮫にでも食われてしまったのだろうよ" ], [ "わしは残念なことをしたよ。命がけで、元の穴から海へ泳ぎ出せばよかったのだ。それを、渦巻に巻き込まれて、迚も命がないと思ったものだから、海へ出ないで、穴の中へ泳ぎ込んでしまったのだよ。まさかこの穴が、渦巻よりも恐ろしい、八幡の藪知らずだとは思わなかったからね。あとで気がついて引返して見たが、路に迷うばかりで、迚も元の穴へ出られやしない。だが、何が幸になるか、そうしてわしが、さ迷い歩いたお蔭で、お前さん達に逢えた訳だね", "こうして食物が出来たからには、僕達は何も絶望してしまうことはないよ。百に一つ、まぐれ当りで外に出られるものなら、九十九へんまで、無駄に歩いて見ようじゃないか、何日かかろうとも、何月かかろうとも" ], [ "オオ、若しやそれが秀ちゃんでは?", "そうだよ。あの秀ちゃんが緑さんのなれの果ですよ" ], [ "すると、僕達の外にも、誰かしるべの紐を使って、この穴へ這入ったものがあるのだろうか", "そうとしか考えられないね。しかも、僕達のあとからだ。なぜと云って、僕達が這入った時には、あの井戸の入口に、こんな麻縄なんて括りつけてなかったからね" ] ]
底本:「孤島の鬼 江戸川乱歩ベストセレクション※[#丸7、1-13-7]」角川ホラー文庫、角川書店    2009(平成21)年7月25日初版発行    2011(平成23)年6月5日4版発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第4巻 孤島の鬼」光文社文庫、光文社    2003(平成15)年8月20日初版1刷発行 初出:「朝日」博文館    1929(昭和4)年1月号~1930(昭和5)年2月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「痕《あと》」と「跡《あと》」、「嘗て」と「嘗つて」、「却《かえ》って」と「却《かえっ》て」、「甚《はなはだ》しい」と「甚《はなは》だしい」、「恰好」と「格好」、「気持ち」と「気持」、「巾」と「幅」、「船着場」と「舟着場」、「お伽噺」と「御伽噺」、「邸」と「屋敷」、「手提《てさ》げ」と「手提《てさげ》」、「まん更《ざら》」と「満更《まんざ》ら」、「現れ」と「現われ」、「打開け」と「打あけ」、「心持」と「心持ち」、「暫く」と「暫らく」、「浅間しい」と「あさましい」、「不気味」と「無気味」、「昂奮」と「興奮」、「枕元」と「枕下」、「成程」と「なる程」と「成る程」、「叫声」と「叫び声」、「用心」と「要心」、「雑作」と「造作」、「這入る」と「入る」、「手掛り」と「手懸り」、「俄《にわ》か」と「俄《にわか》」、「ぶっつかって」と「ぶつかって」、「明かず」と「開かず」、「行方」と「行衛」、「檻禁」と「監禁」、「引汐」と「引潮」、「懐かしい」と「懐しい」、「助る」と「助かる」、「書《かき》つけ」と「書きつけ」、「傷《きずつ》け」と「傷つけ」、「以《もっ》て」と「以《も》って」、「僅《わずか》」と「僅《わず》か」、「愚《おろか》」と「愚か」、「独《ひとり》」と「独《ひと》り」、「取交《とりかわ》し」と「取交《とりか》わし」、「赤坊《あかんぼう》」と「赤ん坊」、「思立《おもいた》った」と「思い立った」、「極め」と「極《き》わめ」、「風呂敷包《ふろしきづつみ》」と「風呂敷包み」、「探出して」と「探し出して」、「我子」と「我が子」、「引ぱられ」と「引っぱられ」、「見逃す」と「見逃がす」、「美しく」と「美くしく」、「殆ど」と「殆んど」、「確め」と「確かめ」、「転り」と「転がり」、「怖く」と「怖わく」、「必ずしも」と「必らずしも」、「見交し」と「見交わし」、「忍込み」と「忍び込み」、「逃去った」と「逃げ去った」、「聞返し」と「聞き返し」、「掘返し」と「掘り返し」、「一突」と「一突き」、「突き刺され」と「突刺され」、「撰《えら》んだ」と「選んだ」、「臥《ね》た」と「寝た」、「双児《ふたご》」と「双生児《ふたご》」、「云い」と「言い」、「そっと」と「ソッと」、「可成」と「可也」、「群衆」と「群集」、「転覆」と「顛覆」、「調べ」と「検べ」、「捨て子」と「捨て児」、「八幡の藪不知」と「八幡の藪知らず」、「何故」と「なぜ」と「何ぜ」、「可哀相」と「可哀想」と「可愛想」、「乃木大将」と「乃木将軍」、「凹凸」と「凸凹」、「彼《か》の」と「彼《あ》の」、「背」と「脊」、「移殖」と「移植」、「系図書」と「系図書き」、「思い出し」と「思出し」、「御飯」と「ご飯」と「ごはん」、「不審に堪え」と「不審に耐え」、「見るに堪え」と「見るに耐え」の混在は、底本通りです。 ※「何人」に対するルビの「なんぴと」と「なんびと」、「身体」に対するルビの「からだ」と「しんたい」、「彼奴」に対するルビの「きゃつ」と「あいつ」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。 入力:岡村和彦 校正:きりんの手紙 2020年9月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "いや、必ずしも不可能ではありませんよ。もし被害者が怪我をしただけだとするとおかしいけれど、その女が死んでしまったとすれば、死骸を隠して、あとの血潮などは拭きとることも出来ますからね", "でも、私がそれを見たのが、十時三十五分で、それから湯殿へ行くまでに、五六分しかたっていないのですよ。その僅の間に死体を隠したり掃除をしたり出来るものでしょうか" ], [ "だって、あれは重大な手掛りですよ。例えば、被害者が女だったことだとか、短刀の形だとか", "でも、どうかそれだけはいわないで下さい。恥しいばかりじゃありません。あんな犯罪じみた仕掛けをしていたとなると、何だか僕自身が疑われそうで、それも心配なのですよ。手掛りはこの血痕だけで十分じゃありませんか。それから先は僕の証言なんかなくっても警察の人がうまくやってくれるでしょう。どうかそれだけは勘弁して下さい", "そうですか、そんなにおっしゃるのなら、まあいわないで置きましょう。では、兎も角知らせて来ますから" ], [ "三造さんでございます", "じゃ、三造をここへ呼んでおいで、静にするんだよ" ], [ "ヘエ、一向に", "掃除はお前がしたんだろう", "ヘエ", "じゃ、気がつかぬはずはないじゃないか。きっとなんだろう。ここにあった敷物をのけて見なかったのだろう。そんな掃除のしようがあるか。どうしてそう骨惜しみをするのだ。……まあそれはいいが、お前は昨夜、ここで何か変な物音でも聞かなかったかね。ずっとその焚き場にいたんだろう。叫び声でもすれば聞えたはずだ", "ヘエ、別にこれといって……", "聞かないというのか", "ヘエ" ], [ "その十一番さんというのは、もしや洋服を着た二人連で、大きなトランクを持っている人ではないかい。そしてゆうべおそくここを立った", "エエ、そうですの。大きなトランクを一つずつ持っていらっしゃいましたわ" ], [ "もうその話は、止そうじゃありませんか。まだ誰が殺したとも、いや殺人があったということさえ極っていないのですから", "そうはいっても、あなたもやっぱり私と同じことを考えているのでしょう" ], [ "いや影にしては色が濃いのです。傷痕ではなくても、何かそれに似たものでしょう。決して見違いではありません", "そうだとすると、これは非常に重大な手がかりですね。その代りに、事件はますます分らなくなって来る", "こんなことがありますと、僕は例の秘密の仕掛が心配でなりません。今の内に取りはずしてしまいたいのですが、何だかまだ、その辺に人殺しが潜伏している様な気がして、気味が悪いのですよ", "やっぱり秘密にして置くのですか。非常にいい手掛りですがね。しかしまあ、僕だけにでも教えて下すってよかったですよ。実はね、僕はこの事件を自分で探偵して見ようと思っているのです。突然こんなことをいうと変に聞えるかも知れませんが、僕は以前から犯罪というものに、一種の興味を持っているのですよ" ], [ "曲者の姿形は少しも分りませんでしたか", "エエ、アッと思う間に逃げ出したのですからね。暗闇の中を蝙蝠かなんかが飛んで行った感じでした。そんな感じを受けたというのが、つまり和服を着ていたからではないかと思います。帽子は冠っていなかった様です。脊恰好は、馬鹿に大男の様でもあり、そうかと思うと、非常に小さな男の様でもあり、不思議に覚えていません。湖水の岸を伝って庭の外へ出ると、向うの森の中へ逃げ込んだ様でした。あの深い森ですからね。追駈て見た所で、とても分るものではありませんよ", "トランクの男は(松永とかいいましたね)肥え太った男でしたが、そんな感じはしませんでしたか", "はっきりは分りませんが、どうも違うらしいのです。これは僕の直覚ですが、この事件には我々の知らない第三者がいるのではないかと思いますよ" ], [ "足跡が残っているかも知れませんね", "駄目ですよ。この二三日天気続きで土が乾いてますし、それに庭から外の方は一杯草が生えてますから、とても見分けられませんよ", "それでは、今の所、この財布が唯一の手掛りですね。これの所有者さえつきとめればいい訳ですね", "そうです。夜があけたら、早速皆に聞いて見ましょう。誰か見覚えているかも知れません" ], [ "湯が立たないので、ひまだろう。しかし大変なことになったものだね", "ヘエ、困ったことで", "君はちっとも気がつかなかったのかい、人殺しを", "ヘエ、一向に", "一昨日の晩、湯殿の中で何か物音でもしなかったのかい。焚場とは壁一重だし、中を覗ける様な隙間も拵えてある位だから、何か気がつきそうなものだね", "ヘエ、ついうっかりしておりましたので" ], [ "昨夜もあすこで寝たんだね", "ヘエ", "じゃ、夜なかの二時頃に何か変ったことはなかったかい。僕は妙な音がした様に思うのだが", "ヘエ、別に", "眼を覚さなかったの", "ヘエ" ], [ "しかし、食事といったって、大した時間でもあるまいが、その僅の間に、あれだけの兇行を演じることが出来るだろうかね。もし君が注意していたなら、食事の前かあとかに、何か物音を聞いているはずだよ", "ヘエ、それが一向に", "じゃね、君が台所へ行くすぐ前か、台所から帰ったあとかに、湯の中に人のいる様な気はいはなかったかい", "ヘエ、そういえば、台所から帰った時に、誰か入っている様でございましたよ", "覗いて見なかったのだね", "ヘエ", "で、それはいつ頃だったろう、十時半頃ではないかね", "よくは分りませんですが、十時半よりはおそくだと思います", "どんな音がしていたの、湯を流す様な音だったの", "ヘエ、馬鹿に湯を使っている様でございました。あんなにふんだんに湯を流すのは、うちの旦那の外にはありませんです", "じゃその時のはここの旦那だったのかい", "ヘエ、どうも、そうでもない様で", "そうでもないって、それがどうして分ったの", "咳払いの音が、どうも旦那らしくなかったので", "じゃ、その声は君の知らない人のだったの", "ヘエ、いいえ、何だか河野の旦那の声の様に思いましたですが", "エ、河野って、あの二十六番の部屋の河野さんかい", "ヘエ", "それは君、本当かい。大事な事だよ。確に河野さんの声だったのかい", "ヘエ、そりゃもう、確でございます" ], [ "エエ、ゆうべの奴の足跡をさがしに来たのですよ。しかし何も残っていません。それで、丁度ここに風呂焚の三造がいたものですから、あれに色々と聞いていた所なのです", "そうですか、何かいいましたか、あの男" ], [ "じゃ、それをゆうべの奴が盗んでいた訳ですね", "まあそうでしょうね", "そうして、それがあのトランクの男と同一人物なのでしょうか", "サア、もしそうだとすると、一度逃げ出したあの男が、なぜゆうべここへ立戻ったか、……どうしてそんな必要があったのか、まるで分らなくなりますね" ], [ "あの十一番さんは、長吉さんに極ってましたわ。しょっちゅう呼ばれてた様ですの", "泊って行ったことなんかは", "それは一度もないんですって。私は長吉さんの口から、よくあの人達の噂を聞きましたが、殺される様な深い関係なんて、ちっともありはしないのです。第一あの人達はここへは始めての客で、それに来てから一週間になるかならないでしょう。そんな関係の出来よう道理がありませんわ", "僕は一寸顔を見た切りだが、どんな風な男だろうね、あの二人は。何か長吉から聞いたことはないの", "別にこれといって、まああたりまえのお客さまですわね。でも大変なお金持らしいということでした。きっと財布でも見たのでしょう。お金がザクザクあるって、長吉さんびっくりしてましたわ", "ホウ、そんな金持だったのか。それにしては、大して贅沢な遊びもしていなかった様だが", "そうですわね。いつも長吉さん一人切りで、それに、三味線も弾かせないで、陰気らしく、お話ばかりしていたのですって。毎日部屋にとじ籠っていて、散歩一つしない変なお客だって、番頭さんがいってましたわ" ], [ "そんなことがあったのかい", "エエ、あの晩にも、長吉さんの殺された晩ね。二階の大一座のお客様の中に、その松村さんがいて、平常はおとなしい人なんですが、お酒が悪くって、皆の前で長吉さんをひどい目に合せたりしたのです", "ひどい目って", "そりゃもう、田舎の人は乱暴ですからね。ぶったり叩いたりしましたの" ], [ "いい湯だね", "エヘヘヘヘヘヘ" ], [ "この間の男でしょう", "そうかも知れません。森の中で懐中電燈をつけて、何だか探していたのです", "顔を見ましたか", "どうしても分らないのです。まだその辺にうろうろしているかも知れません。一寸出て見ませんか", "君は前の街道の方へ出たのですか", "そうです。外に逃げ道はありませんからね", "じゃ、今から行って見ても無駄でしょうよ。曲者は街道の方へ逃げる筈はありませんから" ], [ "範囲をせばめたというのは", "今度の事件の犯人は、決して外から来たものでないということです", "というと、宿の人の中に犯人がいるとでも……", "まあそうですね。宿の者だとすると、森から裏口へ廻ることが出来ますから、街道の方なんかへは逃げないと思うのです", "どうしてそんなことが分りました。それは一体誰です。主人ですか、傭人ですか", "もう少しですから待って下さい。僕は今朝からそのことで夢中になっていたのです。そして、大体目星をつけることが出来ました。だが、軽率に指名することは控えましょう。もう少し待って下さい" ], [ "それに、例の手の甲の傷痕です。僕は注意して見ているのですが、宿の人達にも、泊り客にも、誰の手にもそれがないのです", "傷痕のことは、僕はある解釈をつけています。多分あたっていると思うのですが、でもまだハッキリしたことは分りません", "それから、トランクの男についてはどう考えます。今の所誰よりもあの二人が疑わしくはないでしょうか。長吉が彼等の部屋から逃げ出したことといい、トランクの男が長吉の所在を探し廻っていたことといい、彼等の不意の出立といい、そして二つの大型トランクというものがあります", "いや、あれはどうも偶然の一致じゃないかと思いますよ。僕は今朝その事に気づいたのですが、君が殺人の光景を見たのが十時三十五分頃でしたね。それから、階段の下で彼等にあった時まで、どの位時間が経過していたでしょう。君の話しでは五分か十分の様ですが", "そうです。長くて十分位でしょう", "ソレ、そこが間違いの元ですよ。僕は念のために、彼等の出立した時間を番頭に聞いて見ましたが、番頭の答えもやはり同じことで、その間には五六分しかたっていないのです。その僅の時間で、死体を処分して、トランクにつめるなんて芸当が出来るでしょうか。たとえトランクにつめないでも、人殺しをして、血のりを拭き取り、死体を隠し、出立の用意をする、それだけのことが五分や十分で出来る筈がありません。トランクの男を疑うなんて実に馬鹿馬鹿しいことですよ" ], [ "どうしてです", "その匂のした村というのは、丁度この村の南に当りはしませんか", "丁度南です", "では、この村で人を焼けば、それは烈しい南風のために、湖水を渡って、向うの村まで匂って行く筈ですね", "でも、それなら、向うの村よりは、ここでひどい匂がしそうなものですね", "いや、必ずしもそうではありませんよ。たとえば湖水の岸で焼いたとすれば、風が激しいのですから、匂は皆湖水の方へ吹き飛ばされてしまって、この村では却て気がつかないかも知れません、風上ですからね", "それにしても、誰にも気づかれない様に人を焼くなんて、そんなことが出来るとは考えられませんが", "ある条件によっては出来ますよ。例えば湯殿の竈の中などでやれば……", "エ、湯殿ですって", "エエ、湯殿の竈ですよ。……僕は今日まであなた方とは別に、僕だけでこの事件を探偵していたのです。そして殆ど犯人をつき止めたのですが、ただ一つ死体の仕末が分らないために、その筋に申出でることを控えていた訳でした。それが今のお話しですっかり分った様な気がします" ], [ "死体の処理に最も便利な地位に居ること、手の甲の煤跡、血のついた短刀、数々の贓品、つまり彼が見かけによらぬ悪人であること、これだけ証拠が揃えば、もう彼を犯人と見る外はないでしょう。あの朝脱衣場を掃除しながら、マットの位置のちがっているのを直さなかった点なども、数えることが出来ます。ただ殺人の原因は、私にもよく分りませんが、ああした白痴に近い男のことですから、我々の想像も及ばない様な動機がなかったとは限りません。酒にみだれた女を見て、咄嗟の衝動を圧え兼ねたかも知れない。それとも例の悪事を長吉に知られて、彼女の口から発覚することを恐れた余りの無分別かも知れない。それは想像の限りではありませんが、動機の如何に拘らず、彼が犯人であることは、疑う余地がない様に見えます", "それで、彼は長吉の死体を、浴場の竈で焼いてしまったとおっしゃるのですか" ], [ "そうとより外には考えられません。普通の人には想像も及ばぬ残酷ですが、ああした男にはわれわれの祖先の残忍性が多量に残っていないとはいえません。その上発覚を危む理智において欠けています。存外やりかねないことです。彼は風呂焚きですからね。死体を隠す必要に迫られた場合、考えがそこへ行くのはごく自然ですよ。それに犯人が死体隠蔽の手段として、それを焼却した例は乏しくないのです。有名なウエブスター教授が友人を殺して実験室のストーヴで焼いた話、青髭のランドルーが多数の被害者をガラス工場の炉や田舎の別荘のストーヴで焼いた話などは、あなた方も多分御聞き及びでしょう。ここの浴場の竈は本式のボイラーですから、十分の火力があります。一度に焼くことは出来なくても、三日も四日もかかって、手は手、足は足、頭は頭と少しずつ焼いて行けば不可能なことではありません。幸いに強い南風が吹いていました。(白痴の彼はそんなことさえ考えなかったかも知れません)時は皆の寐静まった真夜中です。彼は滅多に人の来ない彼自身の部屋にとじ籠って、少しの不自然もなくそれをやってのけることが出来たのです。この考えは余りに突飛過ぎるでしょうか。では、あの対岸の村人が感じた火葬場の匂を何と解釈したらいいのでしょう", "だが、ここで少しも匂のしなかったのが変ですね" ], [ "不審に思いましたか", "不審に思いました" ], [ "君は恋というもののねうちを御存じですか", "多分知っていると思います" ], [ "それでは、恋のためのある過失、それはひょっとしたら犯罪であるかも知れません、少しも悪意のない男のそういう過失を、君は許すことが出来るでしょうか", "多分出来ます" ], [ "じゃ直接の下手人は", "下手人なんてありません。あいつは自分自身の過失で死んだのですから" ], [ "じゃ、君が殺した殺したといっているのは、あの三造のことだったのですか", "そうですよ。誰だと思っていたのです", "いうまでもない、芸妓の長吉です。この事件には長吉の外に殺されたものはないじゃありませんか", "ああ、そうそう、そうでしたね" ], [ "長吉が死んでいないというのは、どうも不合理な気がして仕様がありません。あの脱衣場の夥しい血潮は誰のものなんです。人間の血液だということは医科大学の博士が証明しているじゃありませんか。あれ程の血潮を一体全体どこから持って来たというのです", "まあそうあせらないで下さい、順序を追ってお話ししないと、僕の方がこんぐらかってしまうのです。その血のことも直に御話しますから" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年8月20日初版1刷発行 底本の親本:「創作探偵小説集第四巻『湖畔亭事件』」春陽堂    1926(大正15)年9月 初出:「サンデー毎日」大阪毎日新聞社    1926(大正15)年1月3日~5月2日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「旦那」と「檀那」の混在は、底本通りです。 入力:nami 校正:北川松生 2017年5月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "058039", "作品名": "湖畔亭事件", "作品名読み": "こはんていじけん", "ソート用読み": "こはんていしけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「サンデー毎日」大阪毎日新聞社、1926(大正15)年1月3日~5月2日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-06-03T00:00:00", "最終更新日": "2017-05-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card58039.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第2巻 パノラマ島綺譚", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年8月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年8月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年8月20日初版1刷", "底本の親本名1": "創作探偵小説集第四巻『湖畔亭事件』", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年9月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "nami", "校正者": "北川松生", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/58039_ruby_61534.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-05-14T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/58039_61573.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-05-14T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "あら、木村さん、バスの中に、あの骸骨がいたのよ。追っかけてきやしない? ちょっと、そとをのぞいてみて。", "エッ? あいつがバスの中にかくれていたんですって。" ], [ "なんにも、いやしませんよ。あんた、気のせいじゃないのですか? こわいこわいと思っているもんだから……。", "いいえ、たしかにいたのよ。バスの中の鏡の前で、じっと、じぶんの顔を見ていたのよ。それがあの骸骨だったのよ。" ], [ "アッ、団長さん、三号のバスに、さっきの骸骨がかくれているんです。それで、あたし、むちゅうで逃げてきたんです。", "なにッ、骸骨が? よしッ、みんなを集めろッ。そして、三号バスをとりかこんで、あいつを、ひっとらえるんだッ!" ], [ "ううん、ぼく、こんなこと、へいきだよ。そうじゃないんだよ。いま、へんなものが見えたんだ。ちょっと、とめて……。", "なに、へんなものだって?" ], [ "なんにもありゃしないじゃないか。ぐるぐる回されて目が回ったので、そんな気がしたんだよ。あのたるの中には、丈吉君が、すわって、なまけているばかりさ。", "ううん、そうじゃない。ぼく、たしかに見たんだよ。あの中には、へんなやつがかくれている。お化けみたいなやつだよ。" ], [ "ぬけ穴をぬければ、バスの下へおりてくるはずだね。", "うん、そうだよ。", "ところが、あのとき、バスの下へは、だれも出てこなかったのだよ。", "え、どうして、それがわかるの?", "ぼくが、ずっと、バスの下にかくれていたからさ、きみがおまわりさんの肩にのって、窓をやぶるまえからだよ。", "へえ、団長は、ずっとバスの下に、かくれていたの? どうりで、みんながさわいでいるのに、団長のすがたが見えなかったんだね。", "そうだよ。だれかひとりは、バスの下を見まもっていたほうがいいと思ったのさ。だから、ぬけ穴から、あいつが出てくれば、ぼくが、見のがすはずはなかったんだよ。", "ふうん、へんだなあ。やっぱり、あいつは忍術つかいかしら?", "そうかもしれない。そうでないかもしれない。明智先生にきかなければわからないよ。でも、ぼく、なんだかこわくなってきた。ほんとうにこわいんだよ。" ], [ "アッ、わかった。あいつ、黒いシャツを着ているんだよ。シャツに白い絵のぐで、骸骨の形がかいてあるんだよ。", "なあんだ。じゃあ、やっぱり人間なんだね。", "そうだよ。でも人間だとすると、骸骨よりも恐ろしいよ。化けものや幽霊よりも、もっと恐ろしいのだよ。" ], [ "いま、骸骨男から電話がかかってきた。もうここへひっこしたことをしっている。ゆだんはできないぞ。しっかり、番をしてくれ。だが、子どもたちは、だいじょうぶだろうな。", "だいじょうぶです。窓には鉄ごうしがはまってますから、そとからは、はいれません。入口はこのドアひとつです。ほら、聞こえるでしょう。歌の声が。正一ちゃんも、ミヨ子ちゃんも、元気に歌をうたっていますよ。", "うん、そうか。" ], [ "だが、わしはこれから、サーカスのほうへ出かけるから、あとは、くれぐれもたのんだぞ。いいか。", "はい、三人でかわりあって、じゅうぶん見はっていますから、ご心配なく。" ], [ "こちらは、近ごろ、ひっこしをされた笠原さんでしょう。みの屋から、これをおとどけにきました。", "エッ、みの屋だって? 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正一君が? それじゃあ、骸骨男のいったとおりになるかもしれないのですね。", "そうだよ。だから大いそぎだ。すぐに車を呼びたまえ。" ], [ "すこし、わけがあるのです。すみませんが、十分ほどお待ちください。事務所でおやすみねがいたいのです。", "十分ぐらいなら待ってもいいが、わけをきかせてもらいたいね。わしも、いそがしいからだだからね。", "二十分ほど前に電話がありまして、いまから三十分もしたら、そこへいくから、それまで、ぜったいに射撃をやってはいけないというのです。", "ふうん、いったい、だれがそんな電話をかけてきたんだね。", "有名な私立探偵の明智さんです。人の命にかかわることだから、かならず待っているようにと、たびたび、念をおされました。", "エッ、明智探偵がそんなことをいったのか。おかしいな。こんなところで、人の命にかかわるような事件が起こるはずはないのだが……しかし、明智さんがそういったとすれば、待ったほうがいいだろうな。よろしい。事務所で、しばらくやすんでいることにしよう。" ], [ "小林君から聞きますと、お子さんがゆくえ不明になられたそうで、ご心配でしょう。これからはわたしも、およばずながら、おてつだいするつもりですよ。", "ありがとうございます。名探偵といわれるあなたが力をかしてくだされば、こんな心じょうぶなことはありません。それにしても、あなたは、電話で、射撃の練習をしてはいけないと、おいいつけになったそうですが、それは、どういうわけでしょうか。", "ちょっと心配なことがあるのです。……わたしの思いちがいかもしれませんが、しらべてみるまでは安心できません。", "しらべるといいますと?", "この射撃場のまとをしらべるのです。……だれか、シャベルを持って、わたしについてきてくれませんか。" ], [ "おかしいな。ひょっとしたら……。", "たしかに、あれは、正一さんの叫び声でした。くずくずしてはいられません。やぶりましょう! このドアをやぶって、中へはいりましょう!" ], [ "骸骨のやつです。わしがこの洗面室へはいったかと思うと、あいつが、うしろから組みついてきたのです。あいつの腕は鉄のように強くて、とてもかないません。またたくまに、しばられてしまいました。……しかし、正一は? あいつは正一を盗みだしにきたにちがいないのだが、正一は、ぶじですか。どこにいます。", "いや、それが……正一さんは、どこかへいなくなってしまったのです。むろん、骸骨男のすがたも見えません。", "そんなばかなことはない。正一はちゃんと、むこうのベッドに寝ていたのです。それに、あんなひめいをあげたじゃありませんか。骸骨男に、ひどいめにあわされたのです。そのふたりが、消えてなくなるなんて、そんなはずはない。ドアは、きみたちが、やぶらなければならなかったほど、ちゃんと、しまりがしてあった。窓には鉄ごうしがはまっている。この部屋には、天井にも、壁にも、床にも、ぬけ穴なんて一つもない。骸骨男と正一は、いったいどうして出ていったのです?", "わたしたちも、それがわからないので、とほうにくれているのですよ。まるで、空気の中へとけこんでしまったとしか考えられません。" ], [ "あの子は、お昼すぎに、まっ青な顔をして、からだのぐあいがわるいから、ちょっと、うちへ帰らせてもらいますといって、出ていったまま、まだ帰らないのでございます。", "ああ、そうか。あの子は、なんだかへんな子だね。" ], [ "ああ、おまえか。やっこさんは、あいかわらずよ。だまりこんで、考えごとをしている。もうひところのように、あれなくなったよ。", "めしは食わしてるだろうな。", "うん、そりゃあ、だいじょうぶだ。うえ死になんかさせやしないよ。", "よし、それじゃあ、やっこさんに、おめにかかることにしよう。" ], [ "わしには、それが、まったくわからないのだ。おまえたちの親分は、いったい何者だ。わしにはすこしも心あたりがない。わしを、こんなところへ閉じこめておいて、グランド=サーカスの団長になりすました男が、何者だか、まったくわからないのだ。そのうえ、こんどは、わしの子どもまで、こんなひどいめにあわせるとは……。", "べつに、ひどいめにあわせたわけじゃない。おまえさんと、親子いっしょに住ませてやるために、この子を、ここへつれてきたんだよ。そのうちに、妹のミヨ子も、ここへつれてきてやるよ。ハハハハ……。" ], [ "アッ、それは……。", "骸骨男のかぶっていたどくろ仮面です。わたしは、とうとう、これを手に入れました。いや、そればかりではありません。骸骨男の秘密が、すっかり、わかってしまったのです。" ], [ "で、その秘密のしかけをつかって、逃げるというのかね。ハハハハハ……、まあ、やってみるがいい。", "え? 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底本:「魔法人形/サーカスの怪人」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年5月6日第1刷発行 初出:「少年クラブ」大日本雄辯會講談社    1957(昭和32)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:茅宮君子 2017年9月24日作成 2017年10月13日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "触っちゃいけない。実にハッキリした指紋がついているんだ。これはもう一つの指紋と一緒に写真に撮って、今頃は署の方で現像が出来ている時分です", "つまりその眼鏡の玉が、この部屋に落ちていたという訳ですね。近眼鏡らしいね。で、もう一つの指紋っていうのは、一体どこにあったんです" ], [ "ホウ、すると犯人は、その裏口から出入りしたって訳だね。……無論戸締りはしてあったんでしょうね", "家主はそう断言している。併し、こんな借家のドアの合鍵を造る位、造作はないですからね。それから正岡君、もっと確かなものがあるんだ。犯人の足跡らしいものがね" ], [ "足跡って、どこにです", "その指紋のあるドアの内側にも外側でも。マア来てごらんなさい。それを見ると、犯人の行動が手にとるように分るんだから" ], [ "ホウ、足跡以上のもの? 一体何です", "マア、君の目で見てくれ給え。表口から靴をはいて外側へ廻ることにしよう" ], [ "型を取って較べて見たが、無論これはドアの内側のものと寸分違わないのです。犯人はここから入って、ここから帰って行ったのです。ところで、我々はこの靴跡を追って、半丁ばかり歩いて見なければなりません", "そこに靴跡以上のものがあるって訳だね" ], [ "だって、あれだけ証拠が残っていて、完全な犯罪って云うのはおかしいじゃないか。それとも君は、何か警察の連中の気附かない、全く別な考え方でもしているのかい", "そうなんだ。あの連中は、まんまと一杯喰わされているんだ" ], [ "だが、君には相談相手になって貰い度いのだよ。で、打明けるがね。実は僕はあの殺された女を知っているのだ", "エ、エ、知っていたのか、道理で、さっき正岡氏に聞かれた時、君はどこかで見たような顔だと答えたんだね", "ウン、あの時はまだハッキリ思い出せなかったのだよ。死顔っていうものは、変に違って見えるものだね。それに、いつも日本髪に結って、地味な着物ばかり着ていた京子が、あんな女給みたいな派手ななりをして、断髪になっていようとは、まるで想像もしなかったからね。それに、第一、今度の事件の被害者が、僕のよく知っている京子だなんて、あんまり意外じゃないか。最初それと気附かなかったのは当り前だよ", "オオ、京子さんと云えば、あの……" ], [ "僕もそう思って、云おうとしていたんだ。ところが、丁度その時、あの眼鏡の玉を見せつけられたのでね", "エ、なんだって? 眼鏡の玉が、それとどう関係があるんだ" ], [ "フム、それで、君自身が疑われることを恐れて、京子さんだと云うのを差控えたんだね", "まさかそう迄は考えなかったけれど、悪人の恐ろしい陰謀の一端を見せつけられたような気がして、ハッとして、こいつは迂濶に喋れないと思ったんだよ。そこへ持って来て、更に第二の証拠だ", "第二の証拠だって?", "ウン、そうだよ。僕は例の犯人の靴跡を見た時には、黙って逃げ出したいような気がした。あの足跡を追って歩いて行く僕自身の靴の跡が、犯人のと寸分違わない形で、一つずつ地面に残って行くんだからね。全く居たたまらない気がしたよ。幸い誰も気がつかなかったけれど……見給え、この靴は別誂えなんだ。不恰好を構わず、出来るだけ楽なように、足の形のままに作らせたんだ。だから、僕にはあの靴跡を一目見ただけで分ってしまったんだよ", "フーム、考えやがったな。なる程こいつはインパーフェクト・クライムどころではなさそうだね。併し、いくら証拠が揃っていたって、君にはアリバイがあるだろう。この頃は締切に追われてズッと家にいたんじゃないか", "ところが、昨夜に限って、一晩中家をあけたんだ。例の癖で、原稿書きに行きつまったものだから、深夜の浅草公園をうろつき廻って、夜を明かしたんだ。実に何から何まで、申分なくお膳立てが揃っているんだよ。流石の僕もゾッとしないではいられなかった" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年6月20日初版1刷発行 底本の親本:「探偵クラブ」    1932(昭和7)年10月 初出:「探偵クラブ」    1932(昭和7)年10月 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 ※「三日月形」と「三日月型」の混在は、底本通りです。 ※リレー連作の一回分であることから、「「探偵クラブ」傑作選 幻の探偵雑誌8」光文社文庫、光文社により副題「(連作探偵小説第五回)」を追加しました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:noriko saito 2018年9月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057518", "作品名": "殺人迷路", "作品名読み": "さつじんめいろ", "ソート用読み": "さつしんめいろ", "副題": "05 (連作探偵小説第五回)", "副題読み": "05 (れんさくたんていしょうせつだいごかい)", "原題": "", "初出": "「探偵クラブ」1932(昭和7)年10月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2018-10-09T00:00:00", "最終更新日": "2018-09-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57518.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年6月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年6月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年6月20日初版1刷", "底本の親本名1": "探偵クラブ", "底本の親本出版社名1": " ", "底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年10月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "金城学院大学 電子書籍制作", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57518_ruby_65931.zip", "テキストファイル最終更新日": "2018-09-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57518_66083.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-09-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "エエ、そうよ。あたし道に迷っちゃって", "ウン、僕もさっきから、何だか同じ所をグルグル廻っている様な鹽梅だよ。……君こちらへ来られない?", "駄目よ、行こうと思えば、却って離れてしまうばかりだわ" ], [ "ここよ", "今の、聞いたかい!" ], [ "エエ", "どうも変だぜ。あれはただの唸り声ではなかったぜ", "そうよ。あたしも、そう思うのよ", "オーイ、そこにいるのは誰だ" ], [ "イイエ、でもどうして?", "犯人さ。ちま子さんを殺した奴が、まだこの迷路の中にウロウロしているかも知れないのだ" ], [ "それよりも、早くみんなに、このことを知らせなきゃ、……君も一生懸命に出口を探し給え。僕もそうするから。ただ……", "エ、なんておっしゃったの?", "ただね、ちま子さんを殺した奴を用心し給え、姿は見えなくても、足音でも聞いたら、大きな声で、怒鳴るんだ。いいかい", "あたし怖くって歩けないわ。早くこちらへ来て下さいな", "ウン。だが、うまく行けるかどうだか" ], [ "何がさ", "何がって、あんたあたしに何か隠してやしない? 今気がつくと、此短剣があんまり似ているんだもの" ], [ "似ているって何に?", "マア、気がつかないの? ホラ、ちま子さんの背中に刺さっていた、あの短剣とそっくりじゃないの" ], [ "だって、ちま子さんの殺されていたのは、この短剣とそっくりの兇器だったじゃないの。あんたの外に、こんな物騒なもの持ってる人はありゃしないわ", "馬鹿っ。君は恋人を人殺しの罪人にしたいのか", "だからよ。恋人だから、あたしにだけ、ソッとお話しよ。人になんか云やしないから", "まだ云うかッ。畜生ッ" ], [ "本当? 本当に怒ってやしない? あたし今のことは冗談よ", "いいんだよ。何もしないから、こちらへお出で、可愛がってやるから" ], [ "本当? 可愛がるって、どうするの", "こうするのさ" ], [ "だがね、この短剣のことや、俺が怪しいなんて、人に云うと承知しないぞ。無論俺はあの殺人事件に、これっぱかりも関係はない。併し、つまらない疑いを受けるのはいやだからね。分ったかい。少しでも変なことを口走ったら、承知しないよ。殺してしまうよ", "エエ、いいわ。決して云やしないわ" ], [ "喧嘩って、どうしたの? なぜ喧嘩したの?", "何でもないのよ", "何でもなくはないよ。湯本さんも、麗子さんも、口を利かないじゃないか。変な青い顔をしてるじゃないか。どうしたのさ" ], [ "ひょっとしたら、どうなの", "ひょっとしたら、あたし、殺されるかも分らないのよ", "エッ、誰に?", "人に云っちゃ、いやよ。大変なことになるんだから", "ウン、云わない", "若しあたしが死んだら、万一よ、万一殺されたら、その下手人は譲次なんだから、あんたそれをよく覚といて、あたしがそう言ったと刑事さんに告げて下さいね。頼んで置くわ", "本当かい。じゃ、湯本さんが麗子さんを殺すかも知れないんだね。どうしてなの", "それからね。若しあたしが殺されたら、譲次こそちま子さんを殺した犯人に違いないのよ。これもよく覚て置いてね", "じゃ、そのことを、早く刑事さんに云えばいいじゃないか。なぜ黙っているの", "本当のことが分らないからよ。うっかりそれを云って、譲次が無実の罪におちたら可哀相だもの。でね、あんたも、万一、万々一あたしが殺されるという様なことがない限りは、こんなこと人に喋っちゃ駄目よ。分って?", "ウン、そりゃ分っているけれど" ], [ "マア、あたし、うっかりして、つまらないことを云ってしまったわね。あたし今夜はどうかしているのよ。今のはみんな嘘よ。誰にも云っちゃいやよ。きっとよ", "ウン、大丈夫だよ。云やしないよ", "マア、こんなに暗くなってしまった。あちらへ行きましょうよ" ], [ "イヤ、それをおっしゃられると、恐縮に耐えません。併し、自邸内に起った出来事で、被害者は僕の親友なのですから、僕も探偵になった気で、充分穿鑿します。必ず罪人をお引渡しする積りです", "そう行けば、うまいですが" ], [ "犯人は園内のものに相違ありません。凡てが容疑者です。そして凡てが僕の親友です。実に困った立場です", "まさかあなたのお友達を、ひっぱたいて、身体に聞くという訳にも行きませんしね。と云って証拠は皆無なのだから、実に面倒です。それもこれも、この迷路のお蔭ですよ。これさえなければ、犯人は大野さんに見られている筈ですからね。それにしても、あなたには、誰か疑わしい人物があり相なものですが", "それが先日からも云う通り、不思議にないのです。ちま子は大人しい女で、敵があろうとは考えられません。強て考えるならば、好かれたからこそ殺されたのです。恋の叶わぬ恨みですね。併し、そうだとすると、園内でちま子を恋していなかったものは一人もないと云って差支えないのです。又ちま子が私以外の何人の愛をも拒絶したことも確です。随って園内の男は凡て容疑者ということになります" ], [ "痛くないことがあるもんか。可哀相じゃないか。止したまえ。このサジストにも困ったものだ", "痛い筈がないよ。麗子さんをよく見てくれ給え" ], [ "うまいッ、益々うまいですよ。被害者の死骸を写生して嫌疑を免れ様というのは、実にズバ抜けた新考案です", "オヤッ、すると、僕が、この女を殺して置いて、その嫌疑を免れる為に、こんな真似をしているとでもおっしゃるのですか" ], [ "ハハハハハハハ、いやなに、必ずしもそういう訳ではありませんがね。併し、……", "併し、どうしたんです。アア分った。君は僕が下手人だと極めて、拘引する積りでいるんだね。だが、刑事さん、僕を牢屋へブチ込むには、確な証拠がなくてはなるまいぜ。君はそれを持っているのかね。証拠だ。証拠を見せ給え" ], [ "坊やです。可哀相に、ピストルで胸をうたれて、虫の息だ。イヤ、今時分は、その息も絶えてしまったべえ", "坊やだって、三谷二郎か", "ヘエ、そうです", "木島さん。湯本君も、争いは後にして一緒に行って見よう。三谷少年が殺されているんだ" ], [ "どこだ。坊やが殺されているのは", "メリー・ゴー・ラウンドのとこです。木馬に乗っかっててやられたです" ], [ "折枝さんよ。折枝さんが風船から落て死んでしまったのよ。その方へは大野さんが行っていらっしゃるのよ", "エ、エ、折枝さんが?" ], [ "エエ知ってます。二郎さんの寝室の机の抽斗にしまってある筈です", "じゃ、すぐそこへ案内して下さいませんか。早く調べて見たいと思いますから。……喜多川さん、あなたは先へもう一人の死人を見て上げて下さい。僕もじき行きますから" ], [ "オヤ、この人は双眼鏡を握っているね", "ウン、それで何かを見ていたんだ。そして、風船から降り様として、繩梯子に足をかけるかかけないに、突然弾丸の様に墜落してしまったんだ", "すると、君は見ていたのかい", "イヤ、僕が見たら、今までうっちゃって置きゃあしない。子供が見たんだ。炊事場の婆さんの小せがれが見たというんだ。この子だよ" ], [ "坊や、いい子だね。この姉ちゃんが、風船の上で、遠眼鏡を見ていたのかい", "ウン、そうだよ。一生懸命に見ていたよ" ], [ "どっちの方を見ていたの?", "あっちの方" ], [ "あっちだね。間違いないね", "ウン、あっちばかり見ていたよ", "大野君、折枝さんは風船の上から、ラビリンズを研究していたのかも知れない。上から覗けば、迷路の地図が、ハッキリ分るからね", "だが、朝っぱらから、何を酔狂にそんなことを", "イヤ、ひょっとしたら、この風船の上からは、麗子さんの殺される光景が、手に取る様に見えたかも知れないぜ。おばさん、それは一体何時だったの", "この子が、落た落たと云って帰って来たのは、あれは確か六時頃でございました", "六時、……やっぱりそうかも知れないね", "坊や、それでどうしたの。この姉ちゃんは、何かびっくりした様な風はしなかったかい", "ウン、何だか大きな口を開いて喋舌っていたよ。それから、いそいで降りて来たよ", "喋舌っていたって、風船には外に誰もいなかったのだろう", "ウン、誰もいなかったよ", "じゃ、なぜ喋舌ったりするんだろう。アア、分った。坊や、姉ちゃんは、大きい口をあいて、叫んだのだね。アレエとか、助けてくれエとかいって" ], [ "それから、綱が切れたんだよ", "どうして?", "知らないや。でも、プツッと切れちゃったんだよ。それから、姉ちゃんが、さかとんぼになって、スーッと落て行ったんだよ。早かったよ。見えない位早かったよ" ], [ "君は六時前後に、何か怪しい人物を認めなかったかね。君の花火の筒は丁度迷路の裏側にあった筈だね", "私の持場へは誰も来ませんでした。怪しい人物にも何にも朝の間は人の影さえ見ませんでした", "迷路の中から人の叫び声は聞えなかったかね", "ヘエ、それも、少しも気がつきませんでした。丁度花火の音に消されて、私の耳に入らなかったのかも知れませんが" ], [ "誰です、そこにいるのは", "僕、喜多川ですよ" ], [ "イヤ、必ずしもそうではありませんが、……木島さん、あなたは湯本譲次が四つの殺人事件の真犯人だと信じていらっしゃるのですか", "無論その外に考え様がないではありませんか" ], [ "なる程あいつは前科者です。併し、意味もなく人間の命を奪う様な殺人鬼ではありません", "意味もなくですって? 意味があるじゃありませんか。あなたはそれが分らないとおっしゃるのですか" ], [ "湯本君は諸口ちま子さんをあなたから奪おうとした。そしてちま子さんの為に手ひどくはねつけられた。これが殺人の動機にならないでしょうか", "ホウ、あなたはそれを知っていたのですか", "僕は探偵です" ], [ "イヤ、失礼。如何にもその点はあなたのおっしゃる通りです。併し、……", "又麗子さんが殺されたのも二郎君の日記で説明がつきます。湯本君と夫婦の様にしていた麗子さんが、その夫の犯罪を気附くというのは、さもありそうなことです。殊に麗子さんは湯本君の短剣投げの的になっていたという事実さえあるのです。あの人は誰よりも早く、ちま子さんを斃した短剣が湯本君の所持品であることを悟ったに違いない。それで、二郎君にあんなことを云い残して置いたのでしょう。案の定麗子さんは同じ短剣でやられている", "成程、よく筋道が立っていますね。では、三谷二郎殺害の動機は?" ], [ "二郎君は麗子さんの秘密を聞いた唯一の証人です。その証人を沈黙させる最も簡便な方法は彼を殺すことです", "すると、譲次は麗子さんと二郎との秘密の会話を立聞きでもしていたという訳ですか", "或はそうかも知れません。そうでなくても、恋人である麗子さんの挙動や言葉の端でそれを察し得たのかも知れません" ], [ "では、人見折枝さんは? 朝っぱらから風船に乗っていた気まぐれは、楽園の住人にしては別に珍らしい事でもありませんが、事件に何の関係もないあの人が、何ぜ殺されたか。又犯人はどうしてあの高い空中の繩梯子を切断することが出来たか。あの時風船には折枝さんの外には誰も乗っていなかったのですよ", "あなたは繩梯子の切口をよくごらんになりましたか" ], [ "見ましたが……", "鋭い切口でしたね、刄物で切ったのか、そうでなければ", "エッ、そうでなければ?", "弾丸です。非常な名射撃手があって、あの細い繩を的にして、弾丸を命中させ得たとすれば、丁度あんな切口が出来たかも知れません", "どこから?" ], [ "迷路の中心からと云い度いのですが、それは誰が考えても不可能です。もっと近い所、例えば風船の繋留所の真下からでも発射したとすれば、そして誰にも気づかれぬ間に森の中へ逃込んだとすれば、満更出来ないことでもありますまい", "併し、銃声が聞えましょう。炊事の婆さんは鉄砲の音については何も言わなかった様ですが", "花火です。あの気違いめいた朝っぱらからの花火の音が銃声を消したと考えることは出来ないでしょうか。僕が今朝花火係のK君を呼出したのは、その点を検事に知らせて置きたかったからですよ", "成程、成程、花火とはうまく考えましたね。あなたは恐ろしい人だ。併し、動機は? 譲次はなぜ折枝さんを殺さなければならなかったのです", "折枝さんが双眼鏡を握っていたことを御記憶でしょう。あの人は風船の上から園内を眺めていたのです。そして偶然にも、迷路の中心の不思議な光景を目撃したのです。殺人の現場を", "成程、成程" ], [ "下手人は目的を果してから、誰か見ていたものはないかと四方を見廻したに違いない。すると、風船の上の人影が、しかも双眼鏡を手にして恐怖におののいている人影が、目についたのです。そこで下手人は迷路を走り出て、風船の下へやって行ったと考えるのは無理でしょうか。折枝さんは、早く風船を降りればよかったのだが、脅え切ってしまって、その決心もつき兼ねたのでしょう。そして、やっとオズオズ繩梯子を降りかけた時、弾丸が発射された。無論折枝さんを狙ったのでしょうが、その丸がそれて、偶然にも、細い繩に命中した。まさか湯本君が空にゆれている細い繩を的に発射する程の名射撃手とも考えられませんからね", "成程あなたの推理は一通り筋道が立っている様ですね。で、三谷二郎は、折枝をやッつけた帰り道で、その同じ銃器を使用して射殺したという訳ですか", "多分そうでしょう。メリー・ゴー・ラウンドは風船と迷路の中間にあるのですからね", "で、その譲次の使用したという銃器は? あなたはそれを発見したのですか", "残念ながらまだです。それさえ発見すれば湯本君の有罪は確定的になる訳ですが、どこへ隠したのか、いくら探しても見つからないのです。併し、間もなく私はそれを発見して見せるつもりです" ], [ "たった一つ、まだあなたの知らない事実があるのです", "何です。それは一体何です", "諸口ちま子の死体を発見したのは、大野雷蔵と人見折枝の両人でしたね。その時、折枝さんが犯人の姿を見ているのです。うかつに喋べっては大変なことになるので、折枝さんは大野君の外には誰にもそれを云わないで死んでしまったのです。大野君も実はある人の迷惑を思って、今日までそのことを口外しないでいるのです", "見たのですか、犯人を。アア何ということだ。そんな重大な手掛りを秘密にして置くなんて。で、それは誰だったのです", "誰とも分らないのです。咄嗟の場合、ただ洋服を着た非常に背の低い男であったことしか見分けられなかったのです" ], [ "我々の仲間で背の低い男といえば、子供の三谷二郎か、背むしの餌差宗助の外にありません。折枝さんはこの二人に嫌疑のかかることを恐れたのです", "併し、二郎は殺されてしまった" ], [ "二郎少年は殺されてしまった。すると", "すると、あの背の低い男が残る訳です" ], [ "動いたでしょう", "動いた。あなたの仕掛けたカラクリですか", "イイエ、ちっとも知らないのです。あの胃袋は作りつけの張りボテなんです。動く筈がない", "では若しや" ], [ "あなたも、あれが背むしの餌差宗助だったことを否定は出来ないでしょう", "エエ、外にあんな格好の奴はいないから。併し、どうも不思議だ", "これを見れば分るかも知れません。僕はさっきあいつがこんな紙切れを落したのを拾ったのですよ" ], [ "この、ジロ楽園カーニバル祭っていうのは本当ですか", "本当です。こんな殺人騒ぎが起らない前、同好の紳士淑女百人余りに招待状が出してあるのです。この騒ぎでは中止しなければならないかと思っていたのです", "フン、それにしても、そんな賑かな夜を選ぶなんて、犯人の気が知れませんね" ], [ "讃美? エエ、ある意味では。僕は闇夜に打上げられる赤い花火が好きなんです。併し、僕が殺人狂の仲間だなんて誤解しないで下さいよ", "だが片輪者のあの宗助に、そんな気持が分るでしょうか。あなたのおっしゃる様な", "僕も意外なんです。併し畸形児というものは、心までも、我々とは全く違った曲り方をしていないとは云えません。彼奴あんなお人好しな顔をしていて、心ではどんな血みどろな美しい悪事を企らんでいまいものでもありません", "では、あなたは、この変な紙切れの文句をお信じなさるのですか", "信じますね。ジロ楽園のカーニバル祭。なんてすばらしい舞台でしょう。真赤な殺人舞踏には……" ], [ "探すと云って、どこをです。僕達はもう探し尽したじゃありませんか", "僕に少し心当りがあるのです。あすこじゃないかと思う場所があるのです", "どこです", "地の底の水族館です", "アア、あすこなら、十度も見たじゃありませんか" ], [ "見方がいけないのです。これは僕もたった今気づいたのですが、あすこには誰にも分らぬすばらしい隠れ場所があるんです。あの恐ろしい片輪者はそれを知っていたかも知れません", "じゃ、そこへ案内して下さい" ], [ "ガラス張りの向側ですって? そこは水の中じゃありませんか。いくらなんでも……", "イヤ、水の中といっても、水面の上に広い隙間があるのです。そこの空気を呼吸して生きていることが出来ます" ], [ "すると、あなたは、あのせむし男が、水族館のタンクに身を沈めて、顔丈けを水面に出して、じっとしているとおっしゃるのですか", "その外に、もう探す場所がないではありませんか" ], [ "イヤ、びっくりなさることはありません。戦争を始めるのではないのです。ホラ、御存知でしょう。いつか『人間大砲』という見世物が来ましたね。あんな風な謂わばおもちゃの大砲なんです。口径は十二吋もありますけれど、弾丸はでっかいキルク玉で、しかも一丁位しか飛びやしないのです", "だが、そんなものを一体どうするのですか", "カーニバルの余興です。巨人の射的場を作ろうという訳です。都会の盛り場によく見かける例の射的場です。敷島やバットを積重ねて、射落したら景品に貰えるあれです" ], [ "これを?", "ハイ、それをでございます", "シャツの上から?", "イイエ、シャツも何も、今お召になっていますものは、すっかり私の方へお預かり致します", "だって、君", "イイエ、園主の申しつけでございます" ], [ "ハハハハハハ、お気に召ましたか。カーニバル祭にふさわしい様にと、これでも智恵を絞ったのです。……併し、喜多川さん、あなたの扮装も、仲々思い切っているではありませんか。僕のお株をとってしまいましたね", "サア、お逃げなさい。僕追っかけますから。捕り物ごっこをしましょう。ハハハハハハ" ], [ "サア、撃ちますよ。右の端の奥さんから", "エエ、いいことよ。あたし、うけてみせてよ" ], [ "こめてあるかも知れません。併し、ご安心なさい。お上の方々に手向いは致しませんよ", "フン、手向いしようたって、させるものか。神妙にしろ" ], [ "僕は人殺しをする為に、この楽園を作ったのですよ。刑事さん。そして、最初の間は一人ずつ、今日は一まとめにという訳です。人殺しというものが、どんなに美しい遊戯であるか、あなたにもお分りでしたろう。これは僕等の先祖のネロが考え出した世にもすばらしいページェントなのですよ", "話したいことと云うのは何だ" ], [ "外でもありません。この間から僕が仲間の人達を、一人一人殺して行った方法です。あなたはその秘密がお分りですか", "そんなことはどうだっていい。君が下手人に極り切っているのだから", "ハハハハハハ、お分りにならないと見えますね。では種明かしをしましょうか", "あとでゆっくり聞こうよ。今はそんなこと云っている場合じゃないからね" ], [ "ウヌ、逃がすものかッ", "畜生めッ", "馬鹿ッ! ご用だッ" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年6月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十一巻」平凡社    1932(昭和7)年4月10日 初出:「江戸川乱歩全集付録冊子 探偵趣味」平凡社    1931(昭和6)年5月10日~7月10日、9月10日~1932(昭和7)年1月8日、3月10日    メリー・ゴー・ラウンド以下「江戸川乱歩全集 第十一巻」平凡社    1932(昭和7)年4月10日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「係り」と「係」、「手掛り」と「手掛かり」、「提燈」と「提灯」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 ※本文中の罫囲みには、底本では波罫が用いられています。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:入江幹夫 2021年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057519", "作品名": "地獄風景", "作品名読み": "じごくふうけい", "ソート用読み": "しこくふうけい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「江戸川乱歩全集付録冊子 探偵趣味」平凡社、1931(昭和6)年5月10日~7月10日、9月10日~1932(昭和7)年1月8日、3月10日<br>メリー・ゴー・ラウンド以下「江戸川乱歩全集 第十一巻」平凡社、1932(昭和7)年4月10日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-08-29T00:00:00", "最終更新日": "2021-07-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57519.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年6月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年6月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年6月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第十一巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年4月10日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "金城学院大学 電子書籍制作", "校正者": "入江幹夫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57519_ruby_73853.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-07-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57519_73889.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-07-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
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警察の人に話さなかったの?", "それは桂君が中村さんに話したのだそうです。でも、中村さんは信用しないのですよ。ふたりのインド人が逃げだすのさえ見のがしたのだから、春木さんのはいってくるのを気づかなかったのはむりもないって。子どもたちのいうことなんか、あてにならないと思っているのですよ。" ], [ "ところでね、きみは春木さんに地下室から助けだされたんだね。むろん、春木さんをよく見ただろうね。まさかインド人が変装していたんじゃあるまいね。", "ええ、むろんそんなことはありません。しんから日本人の皮膚の色でした。おしろいやなんかで、あんなふうになるものじゃありません。長いあいだいっしょの部屋にいたんですから、ぼく、それは断言してもいいんです。", "警察でも、その後、春木さんの身がらをしらべただろうね。", "ええ、しらべたそうです。そして、べつに疑いのないことがわかりました。春木さんは、あの洋館にもう三月も住んでいて、近所の交番のおまわりさんとも顔なじみなんですって。", "ほう、おまわりさんともね。それはますますおもしろい。" ], [ "さあ、そのつぎは第三の疑問だ。それはね、きみが篠崎家の門前で、緑ちゃんをつれて自動車に乗ろうとしたとき、秘書の今井というのがドアをあけてくれたんだね。そのとき、きみは今井君の顔をはっきり見たのかね。", "ああ、そうだった。ぼく、先生にいわれるまで、うっかりしていましたよ。そうです、そうです。ぼく、今井さんの顔をはっきり見たんです。たしかに、今井さんでした。それが、自動車が動きだすとまもなく、あんな黒ん坊になってしまうなんて、へんだなあ。ぼく、なによりも、それがいちばんふしぎですよ。", "ところが、いっぽうでは、その今井君が、養源寺の墓地にしばられていたんだね。とすると、今井君がふたりになったわけじゃないか。いや、三人といったほうがいいかもしれない。墓地にころがっていた今井君と、自動車のドアをあけて、それから助手席に乗りこんだ今井君と、自動車の走っているあいだに黒ん坊になった今井君と、合わせて三人だからね。", "ええ、そうです。ぼく、さっぱりわけがわかりません。なんだか夢をみているようです。" ], [ "そうだよ。そのへんの皮膚の色を見なかったかね。", "さあ、ぼく、それは気がつきませんでした。ああ、そうそう、ふたりとも鳥打ち帽をひどくあみだにかぶっていて、耳のうしろなんかちっとも見えませんでした。", "うまい、うまい、きみはなかなかよく注意していたね。それでいいんだよ。さあ、つぎは第四の疑問だ。それはね、犯人は緑ちゃんをなぜ殺さなかったか、ということだよ。", "え、なんですって。やつらはむろん殺すつもりだったのですよ。ぼくまでいっしょにおぼれさせてしまうつもりだったのですよ。", "ところが、そうじゃなかったのさ。" ], [ "ところが、もう一つ、みょうなことがあるのですよ。あなたがお帰りになったのは、子どもたちがインド人がいることをたしかめてから、警官がくるまでのあいだでしたね。すると、そのときはもう、子どもたちは、ちゃんと見はりの部署についていたはずなのですが……、あなたは、むろん表門からおはいりになったのでしょうね。", "ええ、表門からはいりました。", "そのとき、表門には、ふたりの子どもが番をしていたのですよ。その子どもたちを、ごらんになりましたか。門柱のところに、番兵のように立っていたっていうのですが。", "ほう、そうですか。わたしはちっとも気がつきませんでしたよ。ちょうどそのとき、子どもたちがわきへ行っていたのかもしれませんね。げんじゅうな見はりといったところで、なにしろ年はもいかない小学生のことですから、あてにはなりませんでしょう。" ], [ "で、その子どもは、わたしの姿を見たといいましたか。", "いいえ、見なかったというのです。門をはいったものも、出たものも、ひとりもなかったと断言するのです。" ], [ "ああ、さすがは名探偵だ。あなたはそこまでお考えになっていたのですか。そして、そのふしぎはとけましたか。", "ええ、とけましたよ。", "ほんとうですか。", "ほんとうですとも。" ], [ "それは?", "二十面相です。" ], [ "こりゃなんだ。人形じゃないか。", "人形が風船に乗ってとんでいたのか。" ], [ "じつは、きみにひとつたのみたいことがあるんだよ。なかなか大役だ。きみでなければできない仕事なんだ。", "ええ、やらせてください。ぼく、先生のおっしゃることなら、なんだってやります。いったい、それはどんな仕事なんです。" ], [ "え? 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それはいったいなんのことです。黄金塔はもう、ぬすまれてしまったじゃありませんか。", "ハハハ……、何をいっているのです。黄金塔はちゃんとここにあるじゃありませんか。ここにピカピカ光ってるじゃありませんか。" ], [ "エッ、エッ、なんですって? じょうだんはいいかげんにしてください。その床の間の塔がほんものなら、なにもこんなにさわぎやしません。これは、門野君が苦心をして作らせたにせものなんですよ。いくらピカピカ光っていたって、めっきなんですよ。", "めっきかめっきでないか、ひとつよくしらべてごらんなさい。" ], [ "明智さん、おっしゃるとおり、これはほんものです。ああ、助かった。二十面相はにせものをぬすんでいった。しかし、だれが、いつのまに、ほんものとにせものとを置きかえたのでしょう。家にはこの秘密を知っているものはひとりもいないはずだし、それに、この部屋には、たえず、わしががんばっていましたから、置きかえるなんてすきはなかったはずですが……。", "それは、ぼくが命じて置きかえさせたのですよ。" ], [ "おたくには、つい近ごろ、やといいれたお手伝いさんがいるでしょう。", "ええ、います。あなたのご紹介でやとった千代という娘のことでしょう。", "そうです。あの娘をちょっとここへよんでくださいませんか。", "千代に、何かご用なのですか。", "ええ、たいせつな用事があるのです。すぐ来るようにおっしゃってください。" ], [ "大鳥さん、あなたがたが、ほんものの塔を、床の下へうめようとしていらしたとき、裏の物置きに火事がおこりましたね。", "ええ、そうですよ。よくごぞんじですね。しかし、それがどうしたのですか。", "あの火事も、じつはぼくが、ある人に命じて、つけ火をさせたのですよ。", "エッ、なんですって? あなたがつけ火を? ああ、わしは何がなんだか、さっぱりわからなくなってしまいました。", "いや、それには、ある目的があったのです。あなたがたが火事に気をとられて、この部屋をるすになすっていたあいだに、すばやく黄金塔の置きかえをさせたのですよ。床下にかくしてあったのを、もとどおり床の間につみあげ、床の間のにせものを、床下へ入れておいたのです。火事場から帰ってこられたあなたがたは、まさか、あのあいだに、そんな入れかえがおこなわれたとは、思いもよらぬものですから、そのまま、にせもののほうを床下にうずめ、床の間のほんものをにせものと思いこんでしまったのです。", "へえー、なるほどねえ、あの火事は、わたしたちを、この部屋から立ちさらせるトリックだったのですかい。しかし、それならそうと、ちょっとわしに言ってくださればよかったじゃありませんか。何も火事までおこさなくても、わし自身で、ほんものとにせものとを置きかえましたものを。" ], [ "ところが、そうできない理由があったのです。そのことはあとで説明しますよ。", "で、その塔の置きかえをやったというのは、いったいだれなのですね。まさかあなたご自身でなすったわけじゃありますまい。", "それは、このお手伝いさんがやったのです。この人は、ぼくの助手をつとめてくれたのですよ。", "へえー、千代がですかい。こんなおとなしい女の子に、よくまあそんなことができましたねえ。" ], [ "へえ、この部屋に? だって、この部屋にはごらんのとおり、わしたち四人のほかにはだれもいないじゃありませんか。それとも、どっかにかくれてでもいるんですかい。", "いいえ、かくれてなんぞいませんよ。二十面相は、ほら、そこにいるじゃありませんか。" ], [ "そうです。ここには、われわれ四人だけです。しかし、二十面相はやっぱりこの部屋にいるのです。", "先生、あなたのおことばは、わたくしどもにはさっぱりわけがわかりません。もっとくわしくおっしゃっていただけませんでございましょうか。" ], [ "ハハハ……、おい、二十面相、よくも化けたねえ。まるで六十の老人そっくりじゃないか。だが、ぼくの目をごまかすことはできない。きみだ! きみが二十面相だ!", "と、とんでもない。そ、そんなばかなことが……。" ], [ "わたくしでございます。門野でございます。ちょっと、ここをおあけくださいませ。", "エッ、門野だって? きみは、ほんとうに門野君か。" ], [ "土の中に秘密のぬけ穴が掘ってあったのです。", "エッ、ぬけ穴が?", "そうですよ。二十面相は黄金塔をぬすみだすために、あらかじめ、ここの床下へぬけ穴を掘っておいて、支配人に化けて、さも忠義顔に、あなたにほんものの塔を、この床下へうずめることをすすめたのです。そして、部下のものがぬけ穴からしのんできて、ちょうどその穴の入り口にある塔を、なんのぞうさもなく持ちさったというわけですよ。賊の足あとが見あたらなかったのはあたりまえです。土の上を歩いたのではなく、土の中をはってきたのですからね。", "しかし、わたしはあれを床下へうずめるのを見ておりましたが、べつにぬけ穴らしいものはなかったようですが。", "それはふたがしてあったからですよ。ま、ま、ここへ来てよくごらんなさい。大きな鉄板で穴の上をふたして、土がかぶせてあったのです。今、二十面相はその鉄板をひらいて、穴の中にとびこんだのです。かき消すように見えなくなったのは、そのためですよ。" ], [ "この裏手にあき家があるでしょう。ぬけ穴はそのあき家の床へぬけているのです。", "では早く追いかけないと、逃げてしまうじゃありませんか。先生、早くそのあき家のほうへまわってください。" ], [ "ハハハ……。そこにぬかりがあるものですか。そのあき家のぬけ穴の出口のところには、中村捜査係長の部下が、五人も見はりをしていますよ。今ごろあいつをひっとらえている時分です。", "ああ、そうでしたか。よくそこまで準備ができましたねえ、ありがとう、ありがとう、おかげで、私も今夜からまくらを高くして寝られるというものです。" ], [ "おい、何か音がしたようだぜ。", "エッ、どこに?" ], [ "おい、へんだぜ。あの男、ぬけ穴の調査を命じられたといいながら、報告もしないで、署に帰るなんて、少しつじつまがあわないじゃないか。", "そういえば、おかしいね。あいつ穴の中をしらべるのに、懐中電燈もつけていなかったじゃないか。" ], [ "おい、二十面相というやつは、なんにだって化けるんだぜ。いつかは国立博物館長にさえ化けたんだ。もしや今のは……。", "エッ、なんだって、それじゃ、あいつが二十面相だっていうのか。", "おい、追っかけてみよう。もしそうだったら、ぼくらは係長にあわす顔がないぜ。", "よしッ、追っかけろ。ちくしょう逃がすものか。" ], [ "アッ、やっぱりそうだ。あいつだ。あいつが二十面相だっ。", "ちくしょう、逃がすものか。" ], [ "向こうのまがりかどまでは百メートル以上もあるんだから、そんなに早く姿が見えなくなるはずはない。塀を乗りこして、公園の中へかくれたんじゃないか。", "それとも、川へとびこんだのかもしれんぜ。" ], [ "だって、黄金塔はちゃんと手にはいったじゃござんせんか。", "黄金塔か、あんなもの、どっかへうっちゃっちまえ。おれたちは、にせものをつかまされたんだよ。またしても、明智のやつのおせっかいさ、それに、こにくらしいのは、あの小林という小僧だ。お手伝いに化けたりして、チビのくせに、いやに知恵のまわる野郎だ。" ], [ "エッ、なんだって?", "天罰だといっているんですよ。とうとう二十面相の運のつきが来たといっているんですよ。" ], [ "アッ、きさま、明智小五郎!", "そうだよ、ぼくも変装はまずくはないようだね。本家本元のきみをごまかすことができたんだからね。もっとも、けさは夜が明けたばかりで、まだうす暗かったし、この地下室も、ひどく暗いのだから、そんなにいばれたわけでもないがね。" ], [ "ばあいによりけりとは?", "たとえばさ……。今のようなばあいさ。つまり、おれはここでいくらじたばたしたって、もうのがれられっこはない。しかも、その頭の上には、知恵でも腕力でもとてもかなわない敵がいるんだ。やつざきにしてもあきたりないやつがいるんだ。", "ハハハ……、そこできみとぼくと、真剣勝負をしようとでもいうのか。", "今になって、そんなことがなんになる。この家はおまわりにかこまれているんだ。いや、そういううちにも、ここへおれをひっとらえに来るんだ。おれのいうのは、勝負をあらそうのじゃない。まあ早くいえばさしちがえだね。" ] ]
底本:「怪人二十面相/少年探偵団」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1987(昭和62)年9月25日第1刷発行 初出:「少年倶楽部」大日本雄辯會講談社    1937(昭和12)年1月号~12月号 ※「燈」と「灯」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2016年3月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056669", "作品名": "少年探偵団", "作品名読み": "しょうねんたんていだん", "ソート用読み": "しようねんたんていたん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「少年倶楽部」大日本雄辯會講談社、1937(昭和12)年1月号~12月号", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-04-23T00:00:00", "最終更新日": "2016-03-04T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card56669.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "怪人二十面相/少年探偵団", "底本出版社名1": "江戸川乱歩推理文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1987(昭和62)年9月25日", "入力に使用した版1": "1987(昭和62)年9月25日第1刷", "校正に使用した版1": "1987(昭和62)年9月25日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "大久保ゆう", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56669_ruby_58718.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-03-04T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56669_58756.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-03-04T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "どろぼうです。盗んだんです", "まあ……" ], [ "そして、その金を遣いはたしてしまったんです", "じゃあ、せっぱつまってるのね。それで、そんな目をしているのね。あなた自殺しそうだわ。ね、ここじゃ駄目だから、あたしのうちへいらっしゃい。ゆっくり相談しましょう。いいでしょ。今のあなたは、どこへでもついて来る心境だわ。そうでしょう", "でも、ほかの人に会いたくないんです" ], [ "ぼくは、親も兄弟もないんです。伯父の世話で大きくなったのですが、その伯父も独り者なんです。伯母は早くなくなったのです。この伯父とぼくは、全く気が合わないのです。ぼくは自転車の卸しをする店に勤めていたのですが、その店も、ゾッとするほどいやなんです。それで、やけくそになったんです", "それで、お金を盗んだの?", "伯父のへそくりです。伯父の全財産です。伯父は紙袋を貼る機械を一台持っていて、やっと暮らしているのです。コツコツ貯めた、伯父にとっては命よりもだいじな金です。ぼくは、伯父が隠していた銀行の通帳とハンコを探し出したのです。十万円ほどありました", "それを遣いはたしたのね。楽しかって?", "いつも自殺する一歩前でした。これがなくなったら自殺するという考えは、甘い楽しいものですね" ], [ "盗んでからどのくらいになるの", "二十日ほどです", "よく、つかまらなかったのね", "伯父は警察に云わなかったのかも知れません。でも、伯父は全財産をとられて、病気になるほど驚いたでしょう。ほんとうに病気になって寝ているかも知れません", "可哀そに思うの?", "可哀そうです。しかし、ぼくは、あの人の顔を二度と見たくありません。ゾッとするほどきらいなのです", "かわってるのね。いっとう親しい人が、いっとう嫌いなのね。……お友達は?", "ありません。みんなぼくとは違う人間です。ぼくの気持のわかるやつなんて、一人もいません。奥さん、あなただって、ぼくの気持、わかりっこありませんよ", "まあ、奥さんだなんて。あたし、奥さんに見えて?", "じゃあ、なんです", "あなたと同じ、ひとりぼっちの女よ。まだ名前を云わなかったわね。あたし相川ヒトミっていうの。親から譲られたお金で、勝手な暮しをしている変りものよ。あなたのお友達になってあげるわ。あんまり独りぼっちで、可哀そうだから" ], [ "ほんとうのことを云いましょうか", "ええ、云ってごらんなさい", "ぼくは子供のときから、あなたのことを夢に見ていたんです。起きていても見ることがあります。今日も見ました。浜離宮で海を眺めていたんです。すると、空いっぱいに、あなたの、はだかのからだが現われたのです。オーロラのように美しかった。それがぼくの神様です。子供のときからの神様です。ねえ、ヒトミさん――そう云ってもいい?――ぼく、あなたのからだの中へはいりたい", "まあ、どうしてはいるの?", "ぼくが小さくなればいい。そして、あなたが、いつもの幻のように大きくなればいい。そうすれば、あなたの美しい口から、おなかの中へはいって行く", "可愛いのね。ほんとうに、可愛いのね" ], [ "男の友達でしょう", "まあ、やけるのね。うれしい。でも、そうじゃないの。女よ。女のうちではいっとう好きな人。その人の身の上に関係のある急ぎの用件なの。のばすわけには行かない" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第16巻 透明怪人」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年4月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集第十六巻」春陽堂    1955(昭和30)年12月 初出:「探偵実話」世文社    1954(昭和29)年1月 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:きゅうり 校正:入江幹夫 2022年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059305", "作品名": "女妖", "作品名読み": "じょよう", "ソート用読み": "しよよう", "副題": "01 前篇", "副題読み": "01 ぜんぺん", "原題": "", "初出": "「探偵実話」世文社、1954(昭和29)年1月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2022-03-28T00:00:00", "最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card59305.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第16巻 透明怪人", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年4月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年4月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年4月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集第十六巻", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1955(昭和30)年12月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "きゅうり", "校正者": "入江幹夫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/59305_ruby_75148.zip", "テキストファイル最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/59305_75186.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ヤア、すてき、トラファルガルの海戦の絵にあるような船だねえ", "ウン、ほんとだ。いつか見た商船学校の練習船もこんな形だったぜ", "ワア、ごらんよ、ごらんよ。恐しい怪物がいるよ", "どこに? どこに?", "舳だよ。舳のかざりだよ" ], [ "じゃ、小父さんこの船の人かい", "ウン、こう見えても、小父さんはこの船の水夫長なんだぜ。この船のことなら、船長よりもよく知っているんだ", "じゃ、この船日本の船なんだね", "そうとも。日本の船とも" ], [ "これからどこへ行くの?", "南洋だよ。南洋貿易をやっているのさ", "ねえ、小父さん、この船の中も、やっぱり普通の汽船みたいになっているの?", "ウン、まあそうだがね。しかし、ちっとは変ったところもあるよ。なにしろ今時めずらしい三檣スクーナーだからな。君たちが聞いたこともないような妙なものも、いくらかあろうっていうもんだ" ], [ "ねえ、小父さん、僕たちに船の中を見せてくれない? ちょっとでいいんだから、ねえ、小父さん", "ワハハハハハハ、そう来るだろうと思ったよ。ウン、よしよし、見せてやるよ。じゃ、君たち、小父さんのあとからついて来な" ], [ "ワハハハハハハハ、帰るって、どこへさ。海の中へかい?", "エ、海の中ですって?" ], [ "ハハハハハハハ、今さらいくらわめいたって、泣いたってだめだよ。お前たちは今日からこの船のボーイをつとめるんだ。コックの手伝をして皿を洗ったり、御馳走を運んだり、それから、そっちの一番小さい可愛いの、お前は船長さまの部屋つきボーイにしてやろうとおっしゃるのだ。ありがたく思うがいい", "いやです。僕たちは東京の小学生です。ボーイなんかになるのはいやです。船をもどして下さい", "ハハハハハハハ、感心感心、お前はなかなか負けん気の小僧だねえ。だが、もう東京へは二度と帰れないんだ。支那にはね、お前たちぐらいの子供を買いたがっている親分がたくさんいるんだぜ。そして、立派な泥棒や、軽業師なんかに仕立てて下さるんだ。しばらくこの船で働いた上、お前たちはその親分に売られるんだよ。チンピラだってばかにはならねえ。なかなかいい値に売れるんだからねえ" ], [ "エ、逃げるって?", "ウン、逃げるんだよ。僕は今甲板へ上って見て来たんだけどね。甲板には舵手一人っきりしかいないんだ。それにね、うまいことがあるんだよ。ボートが船尾につなぎっぱなしになっているんだ。オールもちゃんとついている。あいつたち、酒に酔っていて、面倒くさいものだから、ボートを船に上げなかったんだよ", "エ、ほんとうかい。じゃ、行って見よう" ], [ "綱渡をするんだね", "ウン、でも、ぐっとたぐりよせれば、三メートルぐらいの長さだよ。わけないよ。ただ、決心さえすればいいんだ" ], [ "その袋はなに?", "いいんだよ。なんでもないんだよ" ], [ "エ、どうしたの?", "オールを流しちゃった。ア、あすこだ" ], [ "でも、まだ助からないときまったわけじゃないよ。どこかの汽船が通りかかりさえすればいいんだ。そして、僕達を見つけてくれさえすればいいんだ", "だって、いつになったら、汽船に出くわすかわかりやしないよ。それに、ここが汽船の航路からずっと遠くだったらどうするの?" ], [ "エ、食料だって? 何いっているんだい。からかうんじゃないよ", "へへへ……、そうくるだろうと思った。ところがちゃんとここに食料がかくしてあるんだよ。ほしくないのかい。僕一人でたべてもいいのかい。エヘン、僕さまはやっぱりえらいなあ" ], [ "そうだとえらいんだけどね、ハハハ……、ほんとうは、僕が食いしんぼうなのさ。あの時、メナド港につくまでの間に、おなかがすきそうな気がしたので、賊の料理場から失敬して来たのだよ", "どうして、それを今までかくしていたのさ", "だって、君達はいつでも、僕を食いしんぼう、食いしんぼうっていうんだもの。はずかしかったんだよ" ], [ "ウン、僕も。椰子の実って、こんなにおいしいものとは知らなかったよ", "まるで舌がとけるようだね" ], [ "ゴリラはどうかしらないけど、オラン・ウータンがいるんだよ。ゴリラと同じような、あの恐しい類人猿さ。ホラ、いつか先生から、南洋の動物っていうお話を聞いたじゃないか。大蛇や大蜥蜴や鰐も南洋の名物だし、それから、猪だとか虎なんかもいるんだって", "ア、そうだったね。思い出したよ、大蛇や大蜥蜴の絵を見せてもらったんだね。それからオラン・ウータンも" ], [ "エ、人間だって?", "ウン、人間だよ、人喰人種だよ。やっぱりあの時、先生がおっしゃったじゃないか。南洋の島の開けない地方には、まだ今でも首狩をする野蛮人がすんでいるって。首狩人種がいるとすれば、人喰人種だっているかも知れないよ", "ア、そうだ。南洋の野蛮人は、毒矢の名人だね" ], [ "エ、花が動くって?", "ホラ、あれだよ。ピクピク動いている。ア、ごらん、あの花、みんな動いているよ。生きているみたいだねえ", "ほんとだ。生きている。ア、飛んだよ、空へ飛び上ったよ" ], [ "オーイ、早くおいでよ。すばらしいお家を見つけた。僕らはこの穴をお家にするといいよ", "なんにもいないの?" ], [ "今夜はここで寝ることにしようよ。ここなら大丈夫だよ。あの入口の穴を何かでふさいでおけば、どんな猛獣だって、野蛮人だって、僕たちをどうすることも出来やしないよ。それに、雨が降っても大丈夫だし", "ウン、そうだ。これは僕たちの岩のお城だね", "歩哨にはポパイという強い奴がいるしね" ], [ "君たちは野蛮人、野蛮人っていうけどね、ここには野蛮人だっていないかも知れないと思うんだよ", "野蛮人がいなけりゃ、なおいいじゃないか", "そうじゃないよ。野蛮人でもなんでも、人間がいてくれれば、僕たちは何とか工夫して助かる見込があるんだけど、人間が一人もいないとすると、僕たちは、ホラあのロビンソン・クルーソーのお話とおんなじになってしまうじゃないか。ロビンソン・クルーソーはあの淋しい無人島に二十五年も一人ぼっちでいたんだよ。二十五年目にやっとフライデーという野蛮人を手下にして、やっと二人になったんだ。そして、助けられてイギリスの本国へ帰ったのは三十五年目なんだぜ", "それじゃ君は、ここが無人島だっていうの?", "ウン、そうじゃないかと思うんだ。あれだけ歩きまわって一人の人間にも出あわなかったし、砂の上に人の足あともなかった。どちらを見ても、家らしいものはないし、煙も立っていないし、まるで死んだように静まりかえっているじゃないか。無人島でないにしても、人間の住んでいるところからは、ずいぶん遠いんだよ", "もし無人島とすれば、僕らはどうなるんだろう", "三人のロビンソン・クルーソーになるんだよ" ], [ "エ、船だって?", "ウン、帆前船だよ。メチャメチャにこわれている。マア、早く来てごらん" ], [ "帆前船だというので、僕はあの海賊船かと思ったが、そうじゃないね", "ウン、まるでちがうよ。海賊船はもっと大きいし、色もちがうよ" ], [ "僕たち、あの船へ行ってみようじゃないか。もしあの中に、まだ生きている人があったら、助けてあげなければ", "でも、どうして行くの? このけわしい断崖をおりることなんか、とても出来やしないよ", "ボートで行けばいい。僕たちのボートは砂に埋まっているけれど、まだこわれてやしないんだから", "アア、そうだね。でも、オールがないぜ。一本は君が流してしまったし、あとの一本もあらしで、どっかへなくなってしまったから", "一郎君のよく切れるジャック・ナイフがあるじゃないか。あれで、手頃の木を切って、オールを作ればいいよ", "ヤア、たいへんだなあ。そんなことしてたら、一日も二日もかかってしまうぜ", "そりゃそうだよ。でも、二日かかっても、三日かかっても、僕たちにはそのほかに手だてがないんだから、やっぱりオールをつくるほかはないよ。ロビンソンをごらん、四箇月もかかって、丸木舟を造ったんだぜ" ], [ "誰もいないのだろうか", "みんな死んでしまったのかも知れないね", "気味がわるいね" ], [ "マッチが手に入らなかったことさ。君たちも知っているとおり、あの料理場にあったマッチは皆、波にぬれて役に立たなくなっていただろう。だから僕は、ほかの部屋をずいぶん探したんだけれど、どこにもマッチはなかったのさ", "ア、そうだね。マッチがないのは残念だね。僕たちは又毎晩、まっくらな中でくらさなければならないんだね" ], [ "ア、そうだっけ。困ったなあ。オイ、哲雄君、君の智恵で考えておくれよ。火がなくってごはんのたける法か、それとも、マッチがなくて火の燃える法でもいいや", "ウン、僕もそれを考えているんだよ" ], [ "だが、まだたりないものがある。火だけじゃだめだよ。水がなけりゃごはんは焚けやしない", "ア、そうだ。水もないんだねえ" ], [ "そうだ。もっと探せばいいんだ。じゃ、僕たち今から川を探しに行こうよ。あの銃を持ってね。猛獣に出くわすと大へんだから。……一郎君、君はよくお父さんの銃猟について行っていたから、銃のうちかた知ってるだろう", "ウン、知ってるよ。銃を持って行こう", "それじゃ、君たち二人で行って来たまえ。僕はその間に、火をこしらえておくよ" ], [ "エ、火を? 君何か考えがあるのかい", "ウン、ちょっと思いついたことがあるんだ。きっと君たちが帰るまでに、火を燃やして見せるよ" ], [ "このテーブル掛の白麻で、国旗をつくろうじゃないか。そして、僕たちのけずったオールにむすびつけて、あの岩山のてっぺんに立てるんだよ。そうすれば、遠くを通る船にだって、国旗が見えるにちがいないよ。ここに日本人がいるというしるしなのさ。こんな無人島に日本の旗が立っているなんておかしいと思って、きっとボートをこぎつけて調べるよ。そうすれば、僕たちは助かるじゃないか", "ウン、それはいい考えだね。この海を汽船が通るかどうかわからないけど、万一通った時に、気づかないで行きすぎてしまったら、残念だからね" ], [ "だって、国旗っていえば、日の丸なんだろう。こんな真白なテーブル掛じゃ変じゃないか", "むろん、日の丸をかくのさ", "絵の具は?", "オヤ、君は忘れたのかい。難破船から赤インキの壺を持って来たじゃないか", "ア、そうか。でも、筆がないぜ", "筆はつくるのさ" ], [ "エ、パンの木だって?", "そうだよ。写真で見たことがあるんだよ。もしパンの木ならね、土人達はこの実を土の中に埋めて、蒸焼きにしてたべるんだって書いてあったよ。一つためして見ようじゃないか" ], [ "ア、そうだったね。じゃ、僕らも鹿の脂身から、油を作れないかしら", "そうだね。でも、なんだかむつかしそうだよ。……" ], [ "ア、いいことがある。椰子の実の白い肉ね、あれを干して、油を絞るんだって、本に書いてあったよ。椰子油っていうのさ。動物の脂なんかより、あれを絞る方がらくらしいぜ", "ア、そうだ。君はえらいねえ。何でも知っているんだねえ。そういえば、椰子油のこと学校で教わったの思い出したよ。エエと、何だっけなア、そうそう、コプラっていうんだろ。その椰子の実の干したの", "ウン、そうだよ。だが、絞り方がむつかしいね。手なんかではだめだし、一つその道具を考え出さなくっちゃ" ], [ "やまと島か、すてきだなあ。僕達はやまと島の国民なんだねえ", "そして僕たちはこの島の王様だよ", "ア、そうだ三人も王様がいるなんて、おかしいけれど、この島はマア僕達のものなんだからねえ" ], [ "僕達はもう、ちっともさびしくないねえ。こんなに大ぜい、なかまが出来たんだもの", "そうだね。けど、どっかの汽船が、この島のそばを通りかかって、あの日の丸の国旗を見つけて、助けに来てくれれば、なおいいんだがねえ", "ハハハハハ……、慾ばってらあ。そんなうまいわけには行かないよ。一月の間毎日海を見ているんだけど、船の煙さえ見えないじゃないか。もう船のことなんか、あきらめた方がいいよ。僕達はこんなりっぱな島の持主になったんだもの、ちっとも悲しいことなんかないじゃないか", "でも、なんだか変だねえ", "何がさ?", "あんまり平和すぎると思うんだよ。僕達は少ししあわせすぎやしないだろうか。無人島って、こんな平和なもんだろうか。そのうちに何か恐しいことが起るんじゃないかしら。僕はねえ、あの森の奥がこわいんだよ。あの中に何があるか、僕達にはまだちっともわかっていないんだからねえ" ], [ "どうしたんだろうね、変だなあ", "森の中に迷って、困っているんじゃないだろうか", "そうだね、アア、いいことがある。鉄砲をうって、方角を知らせてやろうよ。そうすれば、もし道に迷っているとすれば、こちらがお家だっていう事がわかるわけだからね", "ウン、それがいい。じゃ僕が銃をうつよ" ], [ "オヤ、ポパイの奴、保君の匂をかぎつけたのかも知れないぜ", "ウン、そうだね、ついて行って見よう" ], [ "呼んでみようか", "ウン、呼んでみよう" ], [ "へんだなあ、どこにいるんだろう", "なんだか、地の底からきこえて来るような気がするね" ], [ "保君、君じゃないのかい。君は自分でつくったおとし穴へ落ちたんじゃないの", "ウウン、僕じゃないよ。僕一人で、こんな深い穴なんか掘れやしないよ", "じゃ誰だろう。哲雄君も知らないんだね。おかしいなあ" ], [ "だって変だなあ、人間がいれば、海岸の方へも出て来るはずだし、それに火を焚くこともあるだろうから、その煙が見えないわけはないよ", "そりゃ、そうだけれど……" ], [ "オヤ、どうしたの? 何をそんなに見ているの?", "あれをごらん。あの木の幹に何だか妙なものが……" ], [ "やっぱり人間がいるんだぜ。動物にこんなこと出来るはずはないからね", "野蛮人だろうか", "そうかも知れないよ" ], [ "野蛮人はこんな靴はかないね", "ウン、野蛮人じゃないよ。文明国の人だよ。すると、おとし穴は、この靴をはいている人がつくったのかも知れないね。それから、矢の印も……" ], [ "この人が、もし文明人だとしたら、なにもこわがることはないわけだね", "ウン、そうだよ。探し出して、僕たちの仲間になってもらえばいいんだよ。大人だから、僕たちの知らないいろいろな事を知ってるだろうからね", "じゃ、早く、その人を探し出そうじゃないか" ], [ "行って見ようか", "ウン、行って見よう" ], [ "バンザーイ! いよいよ探検隊の出発だ。サア、早く用意をして、出かけようよ", "マアお待ちよ。僕たちはいったいどの方角へ進んだらいいのか、まずそれを極めなけりゃあ。湖水の岸はすっかり岩山でかこまれているんだから、なるべく通りやすい所をさがして、ちゃんと見込みを立ててから出発するんだよ" ], [ "ア、櫂がない。流れちゃったよ。君の方は?", "僕も流しちゃった。櫂があれば、岩にぶつからないように、用心が出来るんだけどなあ" ], [ "エ、それは何さ?", "この流の先が滝になってやしないかということだよ", "エ、滝?", "ア、そうだ、そうかもしれない" ], [ "どうしたの? 哲雄君じゃないか", "ウン、一郎君、水の中へ手を入れてごらん。あついんだよ。お湯みたいだよ" ], [ "あつかったはずだよ。僕たちはわき立っている湯の中を流されていたんだもの。でも、どうしたんだろうね。気味が悪いね", "今さっきまで、つめたい水だったよ。急にあつくなったんだよ。何だか進むほどだんだんあつくなるような気がするね" ], [ "アラ、一郎君、君の顔が見えるよ。ホラ、ボーッと白く見えているよ", "ア、ほんとだ。君の顔も見える", "どっかから、かすかな光がさしているんじゃないかしら" ], [ "じゃ、どうしてこんなに水が動かないんだろう。まるで沼みたいじゃないか", "それは、ここがちょうど淵のようになっているんだよ。川にだって、ちっとも水の流れない淵というものがあるだろう。あれだよ。ここは洞穴の中の淵にちがいないよ", "まっ暗でわからないけれど、ここは広いのだろうか", "どうも広そうだよ。僕はさっきから、銃を持って、岩にあたらないかと思って、さぐってみたんだけど、どこにもさわるものがないんだよ" ], [ "とても、広そうだねえ", "僕たち、いつになったら、ここを出られるんだろう" ], [ "漕ぐといって、櫂を流してしまったじゃないか。漕ぐものがないよ", "なくはないさ。ホラさっき僕は箱の蓋で水を掻いたっていったろう。その蓋の板は流してしまったけれど、まだ箱がのこっているよ。あれをこわして、その板で漕げばいいんだ。早くは進まないけれど、一生懸命に漕げば、どっかへ出られるかも知れないじゃないか", "あ、そうだね。じゃ、やってみようか" ], [ "だって、変だなあ。いくら広いったって、僕たちはもう七八時間も漕ぎつづけたんだぜ。どっちかの岩の壁につきあたりそうなものじゃないか。壁の方で逃げて行くとしか思えないよ", "いやだなあ、そんなこと言っちゃあ。僕こわいよ。まるで、その辺に魔物でもいるようなこと言うんだもの" ], [ "魔物なんていやしないよ。そんなばかなことあるはずがないよ。でもね、僕、今ひょいと思いついたんだけど、僕たちの筏は同じところを、グルグルまわっていたのかも知れないと思うのだよ", "エ、グルグルまわっていたって? どうしてさ" ], [ "ア、そうだ。僕そんな話を聞いたことがあるよ。曇った日に沙漠を旅している人が、向こうに何も目じるしがないものだから、知らず知らず同じところをグルグルまわっている話だよ。右の足と左の足と、少しずつ歩く力がちがうからだって", "そうだよ。僕もその話を思い出したのさ。ここも真暗闇で何も見えないんだからね。その沙漠と同じわけだよ", "それじゃ、どうすればいいんだい。右側と左側と、少しもちがわない力で漕ぐなんて、できっこないじゃないか" ], [ "アア、もう大丈夫だよ。この谷底をぬけてしまえば、きっと平地に出るんだ。ごらん、空の星がだんだんふえて来るじゃないか。それだけ谷間が広くなって行くんだよ", "ほんとだ。夜があける頃には、どっかの岸へあがれるかもしれないね。よかったねえ。僕はもう、ほんとうに死ぬんだと思ったよ。助った、助った、神様にお礼を言わなくっちゃ" ], [ "オヤ、なんだろう。ア、人間だ、人間だ", "子供らしいね。土人の子供だよ" ], [ "ア、子供のうしろに何か泳いでいる。変なものが泳いでいる", "あれ鰐じゃない?", "エ、鰐だって?" ], [ "僕たちをあすこへつれて行って、しらべるつもりかもしれないぜ", "ウン、そうらしいね。でも、今さら逃げ出すわけには行かないから、ともかく行ってみようよ" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第14巻 新宝島」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年1月20日初版1刷発行 底本の親本:「新宝島」大元社    1942(昭和17)年7月25日 初出:「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1940(昭和15)年4月~1941(昭和16)年3月 ※「持上げられる」「持ちあげ」、「洞窟」と「洞穴」、「助かる」と「助る」、「助かった」と「助った」、「オラン・ウータン」と「オランウータン」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、「江戸川乱歩全集 第14巻 新宝島」光文社文庫、光文社、2015(平成16)年6月25日初版2刷発行の表記にそって、あらためました。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:入江幹夫 2021年8月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "併し、その悪い場合が、存外手近かにないとも限りませんからね。こういうことは云えないでしょうか。例えば、非常に神経過敏な、無辜の男が、ある犯罪の嫌疑を受けたと仮定しますね。その男は犯罪の現場を捕えられ、犯罪事実もよく知っているのです。この場合、彼は果して心理試験に対して平気でいることが出来るでしょうか。『ア、これは俺を試すのだな、どう答えたら疑われないだろう』などという風に亢奮するのが当然ではないでしょうか。ですから、そういう事情の下に行われた心理試験はデ・キロスの所謂『無辜のものを罪に陥れる』ことになりはしないでしょうか", "君は斎藤勇のことを云っているのですね。イヤ、それは、僕も何となくそう感じたものだから、今も云った様に、まだ迷っているのじゃありませんか" ], [ "併し、その屏風なら覚えてますよ。僕の見た時には確か傷なんかありませんでした", "そうですか。間違いないでしょうね。あの小野の小町の顔の所に、ほんの一寸した傷がある丈けなんですが" ], [ "あれは六歌仙の絵でしたね。小野の小町も覚えてますよ。併し、もしその時傷がついていたとすれば、見落した筈がありません。だって、極彩色の小町の顔に傷があれば、一目で分りますからね", "じゃ御迷惑でも、証言をして頂く訳には行きませんかしら、屏風の持主というのが、実に慾の深い奴で始末にいけないのですよ", "エエ、よござんすとも、いつでも御都合のいい時に" ], [ "犯罪事件の前日ですよ。つまり先月の四日です", "エ、前日ですって、それは本当ですか。妙じゃありませんか、今蕗屋君は、事件の前々日即ち三日に、それをあの部屋で見たと、ハッキリ云っているじゃありませんか。どうも不合理ですね。あなた方のどちらかが間違っていないとしたら" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年7月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第八巻」平凡社    1931(昭和6)年5月 初出:「新青年」博文館    1925(大正14)年2月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※初出時の表題は「連続短篇探偵小説(一)」です。 ※聯想診断の記録の表は、入力者が底本をもとに作成しました。 ※「泥棒」「泥坊」の混在は、底本通りです。 入力:砂場清隆 校正:湖山ルル 2016年1月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056646", "作品名": "心理試験", "作品名読み": "しんりしけん", "ソート用読み": "しんりしけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1925(大正14)年2月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-03-06T00:00:00", "最終更新日": "2016-01-01T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card56646.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年7月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年7月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年7月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第八巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1931(昭和6)年5月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "砂場清隆", "校正者": "湖山ルル", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56646_ruby_58227.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-01-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56646_58241.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "バカ、おまえ、ねぼけてたんだろ。人造人間に、時計を盗むなんて、器用なまねができるもんか。", "だって、たしかに見たんだよ。指がちょうつがいになっていて、キューッと、こんなふうに、展覧会のロボットそっくりの曲がりかたをしたんだもの。", "ウン、そういえば、僕も見た。はじめは皮手袋をはめているのかと思ったが、そうじゃない。きみのいうとおりだよ。たしかに指がちょうつがいになっていた。" ], [ "へんだね、たったあれだけのあいだに、どこへかくれやがったんだろうね。ばけものみたいなやつだね。", "ねえ、きみ、あいつは人間じゃないよ。僕はどうもそんな気がするんだ。ひょっとしたら、あれは腕だけだったかもしれない。胴体はなくて、鉄の腕だけが、ショーウインドウの中へはいこんで来たという感じだったぜ。腕だけが宙をとんで逃げたとすると、いくらさがしたって、見つかりっこないからね。", "オイオイ、おどかすんじゃないよ。いやだな。きみはいつも、へんな怪談の本ばかり読んでいるから、そんなとほうもないことを考えるんだよ。ここは銀座のまん中なんだぜ。", "ウン、だが銀座の真夜中って、いやにさびしいもんだね。まるで砂漠みたいじゃないか。あの青いイモムシのような腕が、そのへんを、はいまわっているかもしれないぜ。", "オイ、よせったら。" ], [ "懐中時計を盗んだんだね。たくさんかね。", "エエ、ショーウインドウにあるだけ全部です。すっかりさらって行ったのです。", "そして、そいつは青い服を着ていたというんだね。" ], [ "おかしいな。たしかに、こっちへまがったね。", "エエ、まちがいありません。" ], [ "全身、鉄か銅でできてるんだってね。このあいだの晩は、はだかで現われたっていうじゃないか。", "ウン、そうだって。お巡りさんが、うしろからピストルをうったら、カーンといって弾がはねかえったっていうぜ。", "不死身だね。まるで装甲車みたいなばけものだね。" ], [ "中に人間がはいっているのかもしれないが、どうもそうじゃないらしいね。あいつはきっと、中身まで機械なんだよ。からだの中は歯車ばかりなのさ。その証拠に、あいつが現われると、ギリギリと歯車のすれあう音がするっていうじゃないか。", "自動機械だっていうのかい。だが、そんなにうまく活動する機械人間ができるものだろうか。ひょっとしたら、犯人がどっかにかくれて無線操縦をしているんじゃないかな。", "ウン、そうかもしれない。なんにしても、おそろしい機械を発明しやがったな。しかも、せっかくの大発明をけちなどろぼうに使うなんて、じつにけしからんばか者だ。早くひっとらえて、機械の秘密をあばいてやりたいな。" ], [ "だがね、あいつは金属でできているというが、かたい金属がどうして煙のように消えてしまうのかね。どうもりくつに合わないところがあるよ。だから、ぼくはあいつは幽霊だっていうんだ。青銅のおばけだよ。", "時計ばかり盗む幽霊か。", "ウン、それだよ。ぼくはね、あいつは時計を食って生きているんじゃないかと思うんだ。時計はあいつの食糧なんだ。歯車で生きている怪物だから、時計の歯車を、毎日いくつか飲みこまないと、命がたもてないのだよ。" ], [ "事件の二三日前からね、毎日、日のくれじぶんに、あの銅像のばけものみたいな機械人間が、時計塔の上に、つっ立って、ニヤニヤ笑っていたというんだよ。近所の農家の若いものがハッキリそれを見ているんだ。", "ほんとうかい。じゃあ、なぜそれを家の人にいってやらなかったんだ。警察へ知らせなかったんだ。", "駐在所のお巡りさんに知らせたけれど、まぼろしでも見たんだろうといって相手にしてくれなかったそうだ。時計塔の文字盤の前に、銅像みたいなやつがつっ立っているなんて、ちょっとほんきにできないからね。", "それにしても、あんな大きなものを、どうして盗みだすことができたかね。", "それには、こういう話があるんだよ。これも近所の農家のものが見たというんだがね、事件の晩おそく、町からの帰りに、塔の丘のそばを通りかかった人があって、遠くから、暗やみの中にうごめいている、へんなものを見たというんだ。", "やっぱり、あの機械人間かい。", "ウン、それがひとりやふたりじゃなかったというのだ。十人ほども同じ形のやつが、長いはしごを、のぼったりおりたりしていたそうだ。", "ヘエ、はしごをね。", "ウン、そのはしごというのが、またへんなんだよ。消防自動車みたいなものが、建物の前にとまっていて、あの空へグングン伸びて行く機械じかけのはしごね、あれが時計塔のところまで伸びて、その空中ばしごを、機械人間が幾人も、のぼったりおりたりしていたというんだ。" ], [ "ねぇ、おとうさん、うちの夜光の時計はだいじょうぶでしょうか。", "青銅の機械人間のことだろう。" ], [ "ほんとうにだいじょうぶでしょうか。ふつうのどろぼうじゃないのですよ。いつでも追っかけられると、煙のように消えてしまうじゃありませんか。あいつは、どんなせまいすきまからでも、幽霊みたいにスーッとはいりこむかもしれませんよ。", "そんなばかなことがあるもんか。しかし、おまえがそれほど心配なら、蔵の外に見はり番をおくぐらいのことはしてもいいがね。" ], [ "先生、あいつは機械じかけで動く青銅の人形でしょうか。ピストルでうたれても平気だっていいますね。でも、その機械じかけの人形が、煙のように消えてしまうのはなぜでしょう。ぼくにはそれがどうしてもわからないんです。", "それにはいろいろ考えかたがあるんだがね。いずれにしても幽霊ではないし、また火星の人類というようなものではないことはたしかだ。人間だよ。非常に悪がしこいやつが、とんでもないことを考えだしたんだ。その悪知恵に勝てばいいんだ。知恵の戦いだよ。", "そうですね。でも、この戦いに勝つためには、まず、あいつの秘密を見やぶらなくちゃなりませんね。" ], [ "そうでしょう。まるできちがいが書いたようなうす気味のわるい字です。ちょっと見たのでは字だか絵だかわかりませんね。しかし、よく見ていると、カタカナらしいことがわかって来ます。", "アスノバン十ジですかね。それからヤコウノトケイですね。", "あすの晩十時と書いてあるだけで、よくわかりませんが、あの時計きちがいのような魔人のことですから、むろん、十時に時計を取りに行くぞという意味でしょう。そのほかに考えかたがありません。", "あすの晩というのは、つまり今夜のことですね。それで、警察にはおとどけになりましたか。", "ゆうべとどけました。警視庁の捜査課の中村係長とはちょっと知りあいだものですから、お会いしてお願いしたのですが、その時先生のことを申しましたところが、中村係長も、明智さんなら立ちあっていただいてもさしつかえないといっておられました。", "そうでしょう。中村君とはずっと懇意にしていますからね。ところで手塚さん、その問題の夜光の時計は、どこに置いてあるのですか。", "コンクリートの蔵の中の金庫の中です。", "ホウ、厳重な場所ですね。", "あれを盗むためには、コンクリートの蔵のかべを破って、それからまた、金庫を破らなければなりません。いくら魔人だって、そうやすやす盗みだせるものではありません。夜光の時計をどこか銀行の地下金庫へでもあずけようかと考えましたが、持って行く道があぶないと思いましてね、やっぱり元の場所へおくことにして、そのかわりに、ゆうべから十人に近いお巡りさんが、蔵のまわりや庭の要所要所に見はり番をしていてくださるのです。あたりまえの賊なれば、こんな大さわぎをするにもおよばないのですが、なにしろ相手が魔物のことですから、警察でも特別にはからってくださったわけです。", "わかりました。それでは小林君をつれてお宅へうかがうことにしましょう。二三用意しておきたいこともありますし、いくら魔物でも明かるいうちにやって来ることはないでしょうから、きょう日がくれてからおじゃまします。" ], [ "いいえ、気のせいじゃありません。たしかに銅像みたいなやつが動いていました。", "そうです。ぼくも昌一君といっしょに見たんです。それから、あの歯車の音も聞こえました。ギリギリ、ギリギリ、いつまでもつづいていました。" ], [ "そんなことがあったものですから、たびたび先生の所へお電話したのですが、もうお出ましになったあとでした。", "それは失礼しました。じつは中村君と打ちあわせて、さそいだして来たものですから、おそくなりました。ところで、品物はまだ蔵の中にあるのでしょうね。", "それはもうたしかですよ。さっきからたびたび、しらべてみたのですが、すこしも異状はありません。", "それから、この蔵には床下のぬけ穴などないのでしょうね。", "それもたしかです。私もよくしらべましたし、警官がたも、きょう昼間、じゅうぶんおしらべになったのですから。", "すると、人間以上の力を持ったやつでなくては、この蔵へはいることはできないわけですね。", "そうです。しかし、相手は人間以上の力を持っているかもしれません。なにしろ、さっきみたいな不思議な消えかたをするばけものですからね。" ], [ "外から見て異状はないか?", "異状ありません。" ], [ "諸君――おまえたちのことだぞ、諸君は親方の命令をうけて、モクひろい(たばこひろいのこと)を商売にしている。そこまではいいんだよ。ところがきみたちは、ときどきカッパライもやっている。ごまかしたってだめだ。ぼくはちゃんと知っているんだよ。しかし、諸君はけっして、カッパライなんか、やりたくてやってるんじゃない。しかたがないからやっているんだね。ね、そうだね。それはね、きみたちには、おとうさんやおかあさんがいないからだ。やしなってくれる人がないからだ。だがね、それだからといって、こんなことをいつまでもつづけていちゃあ、ろくなもんにならない。そこで、諸君にそうだんがあるんだよ。どうだい、みんな、ぼくたちのやっている少年探偵団のなかまにならないか。", "少年探偵団ってなんだい?" ], [ "まてまて、いま、説明するよ。きみたちは名探偵明智小五郎を知ってるかい?", "アケチなんてやろう、知らねえな。", "ウン、知ってる、知ってる。いつか、三ちゃんのあにいがいってた。すげえ私立探偵だってね。" ], [ "知ってる。", "知ってる。" ], [ "敵はあの青銅の魔人なんだ。こわいか。", "おっかねえもんか。オラ、あいつと話したことがあるぜ。" ], [ "チンピラ探偵さん、びっくりしてるね。オイ、ここをどこだと思う。ここはね、地の底の青銅魔人国だぜ。かくいうおいらは、魔人さまの秘書官と通訳とボーイをつとめているたったひとりの人間。この国には肉でできた人間は、おれのほかにはいないのさ。", "それじゃあ、青銅の魔人はひとりではなかったんだね。" ], [ "エヘヘヽヽヽヽ、そこが、それ、魔人国の魔法というやつさ。名探偵の明智にもとけない謎だよ。チンピラのおまえなんかにわかってたまるものか。", "フーン、それじゃあ、魔人が煙のように消えるのもやっぱり魔法なのかい?" ], [ "あいつは、私の手をとって、どこかへつれて行こうとしました。ギリギリ歯車の音をさせるだけで、ものをいわないから、わけがわからぬけれども、サァ、おれといっしょにこい。こんどはきさまを盗みだすのだ、といっているように思われたのです。私はいっしょうけんめいに、抵抗しました。魔物にだきしめられ、今にもどこかへつれて行かれそうになったのを、やっとのことでふみこたえていました。そこへ、あなたがたがドアーを破る音がきこえて来たものですから、魔人はビックリして私をはなし、消えるように逃げさってしまったのです。", "あいつは、どこから逃げました。どこにもぬけだす個所はなかったと思いますが。" ], [ "あいつは手塚さんまで、さらって行ってしまった。だから、きみもひょっとしたら、あいつにやられたんじゃないかと、しんぱいしていたんだ。だが、きみは二日ほどうちへ帰らなかったようだが、いったいどこへ行っていたんだ。", "ウン、それは今にわかるよ。それよりも手塚さんの行くえをつきとめなくちゃあ……サア、大いそぎだ。" ], [ "きみはいったいどこをさがそうというのだ。庭のうちそとは、ゆうべから何度となくさがしまわったが、なんの手がかりもつかめなかったんだよ。", "イヤ、ぼくにはだいたいけんとうがついているんだ。きみもいっしょに来てくれたまえ。それから刑事さんもひとり。" ], [ "むろん、いっしょに行くが、どこへ行くんだね。", "庭の林の中さ。", "林の中なら、すっかりしらべたが、すこしも、うたがわしい個所はなかったよ。", "ところが、たった一つ、きみたちが見のがしているものがあるんだ。" ], [ "その井戸もじゅうぶんしらべたんだよ。中は石がけになっているが、べつに、ぬけ穴はないようだぜ。", "シッ、大きな声をしちゃいけない。あいつはこの下にいるんだ。きみはピストルは持っているだろうね。" ], [ "オヤッ、すっかり水がなくなっている。ゆうべのぞいた時も、その前に見た時も、この井戸の底にはドス黒い水が、いっぱいたまっていたんだが……。", "そこが魔法なんだよ。あいつが呪文をとなえると、井戸の水がスーッとなくなってしまう。そして、ここが地下の密室への出入口になるというわけだよ。", "じゃあ、この地の下に魔人のすみかがあるというのか。", "そのとおり、手塚さんも、昌一君も、雪子ちゃんも、小林君も、みなこの地の底へつれこまれているのさ。", "フーン、おどろいたなぁ。手塚さんの庭の井戸の中が賊のすみかだなんて、なんという大胆不敵なやつだろう。", "そこが魔法使いの物の考えかたなんだ。すべてふつうの人間の逆を行くのさ。だから、あたりまえの考えかたでは、あいつの秘密をつかむことはできない。こっちも逆の手を使わなくてはだめなんだよ。サァ、ぼくはこの縄ばしごで先におりるから、きみたちはあとからついて来たまえ。そして、いざとなったら、かまわないから、ピストルをぶっぱなしてくれたまえ。", "三人ぐらいで、だいじょうぶかい。相手はたくさんいるんじゃないのかい。", "だいじょうぶ、ぼくは敵の秘密はだいたい、さぐってあるんだ。三人でも多すぎるほどだよ。" ], [ "ワッハハハヽヽヽヽ、どうだね、この早わざは。一分間におしろいをぬって、べにをつけて、道化服を着た手ぎわは、ハハハ……、まだわからないかね。ぼくだよ、明智だよ。ちょっと、魔神の弟子の道化師に化けて見たのさ。", "なあんだ、きみだったのか。びっくりさせるじゃないか。そんな変装をして、いったい、どうしようというのだ。" ], [ "イヤ、ゆうべ、真夜中にね、ぼくはこういうふうをして、あるところで、大はたらきをしたんだよ。道化師になりすまして、敵のうらをかいたのだよ。手塚さん、わかりますか、ぼくのやりかたが。探偵というものは、こういう早わざの変装もするのですよ。", "じゃあきみは、その道化師の服をとりあげたわけだね。すると、ほんものの道化師は、いったい、どうしたんだ。まさか、きみは……。" ], [ "ハハハヽヽヽヽ、わかりましたか。こいつは二日も前から、ここにとじこめてあるのですよ。そして、その二日のあいだ、ぼくが道化師の身がわりをつとめていたのですよ。むろん、こいつには、時々たべものを、やっておきましたがね。おわかりになりましたか手塚さん。この厨子の中には、魔人がどこかのお寺から盗みだした仏像が、安置してあった。ぼくはそれを、別の場所におきかえて、仏像のかわりに、道化師を入れておいたというわけですよ。", "じゃあ、そいつも魔人のなかまだなッ。" ], [ "なあんだ、きみはそれを知っていたのかい。それじゃあ何も、道化師に変装したりして、グズグズしていないで、早くそこへ行けばいいのに。", "イヤ、ものには順序がある。手塚さんに、ぼくも変装の名人だということを、ちょっと見せておきたかったのだよ。じゃあ、手塚さんといっしょに、ぼくのあとから、ついて来たまえ。" ], [ "ウン、さすがは明智君だ。で、その犯人はどこにいるんだね。", "ここにいる。" ], [ "またきみのくせがはじまった。じらさないで、ハッキリいいたまえ。あいつは、いったい、どこにいるんだ。", "ここにいるんだよ。", "こことは?" ], [ "魔人の秘密は、なにもかもわかってしまったのだ。このへんで、かぶとをぬいではどうです。", "エッ、かぶとをぬぐとは?" ], [ "青銅の魔人はきみのほかにはない。", "エッ、私が青銅の魔人? ハハハヽヽヽ、何をおっしゃる。ふたりのかわいい子供をさらわれたうえ、自分もここへつれこまれて、さっきまで、しばられていたのです。その私が、青銅の魔人だなんて、ソ、そんなバカなことが……。" ], [ "じゃあ、この昌一と雪子はどうしたのだ。自分の子供を、そんなひどいめにあわす親があると思うのか。", "そのふたりはきみの子供じゃない。" ], [ "エ、エッ、なんだって? これが私の子供じゃない?", "手塚さんは戦争の時召集せられて、五年あまりも帰らなかった。戦場で行くえ不明になってしまったのだ。おくさんはいつまでまっても手塚さんが帰ってこないし、戦死の知らせもないので、心配のあまり病気になって、もう物もいえないほどわるくなっていた。そこへきみが手塚さんだといつわって、帰って来たのだ。おくさんは重態のことだから、きみを見わけることができなかった。十三と八つのふたりの子供に、五年前にわかれたおとうさんの顔が、ハッキリわかるはずがない。そのうえ、きみは日本一の変装の名人だった。きみはそこをねらったのだ。そして、みごとに手塚さんになりおおせたのだ。" ], [ "フフン、そんなことはきみのでたらめだ。わずか夜光の時計一つとるために、そんな苦労をするやつがあるものか。", "ところが、きみの目的はほかにあった。それはな、きみは世間の人をアッといわせたかったのだ。イヤ、それよりも、この明智小五郎を、アッといわせたかったのだ。きみとしては、ぼくにはずいぶん、うらみがあるはずだからね。", "なんだって、きみにうらみだって?", "そうさ。奥多摩の鍾乳洞で会ってから、もう何年になるかな。あの時きみはすぐ刑務所に入れられたが、一年もしないうちに、刑務所を脱走して、どこかへ姿をくらましてしまった。さすがに戦争中は悪事をはたらかなかったようだが、戦争がすむと、またしても昔のくせをだしたね。", "ナ、なんのことだか、さっぱりわからないが……。", "ハハハヽヽヽ、しらばくれるのも、いいかげんにしろ。きみがどんなに変装したって、ぼくの目をごまかすことはできない。きみは怪人二十面相だっ。" ], [ "二十面相君、気のどくだが、この勝負も、どうやらぼくの勝ちらしいね。", "エッ、なんだって?", "ホーラ、きみはもうビクビクしている。そのとおり、きみの負けだよ。いいかい、たとえばだね、ぼくのうしろに立っている小魔人を、きみはだれだと思っているのだい。きみがさいしょ、このよろいを着せた時には、たしかに、ぼくの助手の小林がはいっていた。だが、今でもそのまま小林がはいっているのだろうか。もしや、ほかの子供と入れかわってやしないだろうか。ハハハヽヽヽヽ、きみは顔色をかえたね。察しがついたかい。では、一つあらためて見ることにしよう。" ], [ "アッ、これは手塚さんのたんぜんだ。まだあたたかい。二十面相はこの穴の中に、変装の衣類などを、チャンと用意しておいたのだ。そして、今逃げだす時に、たんぜんをぬいで、まったく別の姿に変装して行ったものにちがいない。", "ウーン、じつに用心ぶかいやつだね。しかし、あいつはどんな人物に変装して逃げたのだろう?" ], [ "そうです、古井戸をはいった、すぐのところです。二十面相は、ぬけ穴の中にはいなかったのですか?", "いない。きみたちも出あわなかったんだね。", "エエ、どうやら、逃げだしてしまったらしいのです。今しらべてみましたが、ぼくたちがはいってくる時、井戸にさげておいた縄ばしごが、なくなっているのです。やつはぼくらに追っかけられることを、おそれて、あの縄ばしごを持ちさったのではないでしょうか。" ], [ "明智君、縄ばしごのかわりはないだろうね。", "いくらぼくだって、縄ばしごを二本は持っていないよ。しかたがない。むこうの部屋のドアーをこわして、はしごを造るんだ。二三十分もあればできるよ。" ], [ "中村君、心配しなくてもいい、ぼくがのんきにしているわけはね、ぼくのほうにも、まだ奥の手があるからだよ。", "エ、奥の手だって。", "ウン、二十面相に奥の手があれば、ぼくにだって奥の手があるさ。ここにいるノッポの松公が、小林の身がわりをつとめていた。すると、その小林は、今どこにいるだろう。エ、わからないかね。ぼくは、こういうこともあろうかと思ったので、けさから井戸の外に、小林を団長とするチンピラ隊の連中を見はらせてあるんだよ。チンピラ隊は、ここにいる三人をのけても、まだ十三人もいるんだからね。このあいだの煙突さわぎの時の働きぶりでもわかるとおり、神出鬼没のチンピラ諸君は、おとなもおよばぬ腕がある。それに、小林と来ては、ぼくの片腕なんだからね。いかな二十面相も、そうやすやすとは逃げおおせまいよ。", "フーン、そうだったか。いつもながら、一言もないよ。しかし、相手は音にきこえた二十面相だ。子供ばかりでは心もとない、大いそぎで、はしごを造ろう。さいわい、道化師のやつが、とりこにしてあるから、あいつをしらべたらいろいろわかることがあるだろう。" ], [ "先生、うまくいきましたか。", "アッ、小林君か。" ], [ "ア、すっかり忘れるとこだった。きみ、すまないがね、応接間のテーブルの上に、ハトロン紙の四角な包みがあるから、取って来てくれたまえ。十文字に細引きでしばってあるから、すぐわかるよ。", "ハ、しょうちしました。" ], [ "ウーム、きさま、どうしてここを……。", "それはね、小林君を団長とするチンピラ別働隊の手がらだよ。その押入れの中にいるのは小林ではなくて、チンピラ隊員のひとりだ。ほんとうの小林はここにいるよ。" ], [ "きみはつかまったのだ、ぼくひとりではない。この建物は、すっかり警官にとりまかれている。きみはもう、逃げられないのだ。", "フン、きみはそう信じているのか。", "むろんだ。", "だが、おれは逃げてみせる。さあ、こうすればどうだッ。" ] ]
底本:「妖怪博士/青銅の魔人」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1987(昭和62)年11月6日第1刷発行 初出:「少年」光文社    1949(昭和24)年1月号~12月号 ※「お巡りさん」と「お巡さん」の混在は、底本通りです。 入力:sogo 校正:岡村和彦 2016年9月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年7月20日初版1刷発行    2012(平成24)年8月15日7刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十巻」平凡社    1931(昭和6)年9月 初出:「映画と探偵」映画と探偵社    1925(大正14)年12月 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:門田裕志 校正:A.K. 2016年9月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "え、なんですって。じゃ、客間の家具を――。", "そうだよ。あんなひどい音をたてていたんだから、きっと、何もかも持っていったにきまっているよ。", "じゃ、行ってしらべてみましょう。ぼっちゃんもいらっしゃい。" ], [ "おや、ぼっちゃん、へんですよ、あなた夢をみたんじゃないの?", "エッ、なんだって? 夢なもんか。あんなにはっきり聞いたんだもの。でも、どうかしたの、へんな顔して。", "へんですとも、見てごらんなさい。客間のものは、なんにも、なくなってやしないじゃありませんか。", "おや、そうかい。" ], [ "そうですよ。だから、ぼくもふしぎでしようがないのですよ。ぼっちゃん、こりゃなんだかへんな事件ですね。探偵小説にでもありそうな、えたいのしれない怪事件ですね。", "ぼく、さっきから考えているんだけど、これは名探偵の明智小五郎さんにでもたのまなくちゃ、解決できないような事件だね。" ], [ "ね、おとうさま、いったいどうしたっていうんでしょう。ぼく、ふしぎでしようがないんです。", "うん、わしにもわけがわからないよ。だがね、ひょっとすると……。" ], [ "え、ひょっとするとって?", "わしの家にとっては、何よりもたいせつなものをぬすまれたかもしれないのだよ。", "たいせつなものって、なんです。", "ある書類なのだ。", "じゃ、その書類をしらべてみたらいいじゃありませんか。なくなっているかどうか。", "ところがね、おとうさまも、その書類が、どこにしまってあったか知らないのだよ。", "え、おとうさまも知らないんですって? おわすれになったのですか?" ], [ "いや、わすれたんじゃない。はじめから知らないのだよ。しかし、この家のどこかに、その書類がかくしてあることはわかっていたのだ。この家を建てたおじさんが、そのかくし場所をわしにいわないで亡くなってしまわれたのでね。あんなふうに急な病気で、遺言をするひまがなかったものだからね。", "じゃ、そんなたいせつなものが、この客間のどこかにかくしてあったのですね。それを、どろぼうがさぐりだしてぬすんでいったのでしょうか。", "どうもそうとしか考えられない。そんな大さわぎをして、何もぬすんでいかなかったはずはないからね。" ], [ "おい、喜多村君、きみは明智小五郎っていう名探偵を知っているだろうね。", "ええ、名まえは聞いています。さっきぼっちゃんと、その明智探偵のことを話していたのです。" ], [ "うん、不二夫も知っていたのか。不二夫、おまえはどう考えるね。おとうさまは、このわけのわからない事件を、あの明智探偵にたのんだらと思うのだが。", "ええ、ぼくもそう思っていたのです。明智さんならきっと、なぞをといてくださると思います。" ], [ "不二夫、おまえじゃないか、こんなものを落としておいたのは。", "いいえ、ぼくじゃありません。ぼくの字とまるでちがいます。" ], [ "みなさんが、だれもごぞんじないとすると、これはゆうべの賊が、うっかり落としていったものと考えるほかはありませんね。", "そうかもしれません。しかし、そんな紙きれなんか、べつに賊の手がかりになりそうもないじゃありませんか。" ], [ "いや、わたしはそう思いません。もし賊が落としていったものとすると、ここに書いてある数字に何か意味があるのかもしれません。", "数字といっても、小学生の一年生にでもわかるような、つまらない、たし算とひき算じゃありませんか。そんな数字にどんな意味があるとおっしゃるのです。", "まあ、待ってください。ええと、五に三たす八ですね。十三から二ひく十一ですね。八と十一と……アッ、そうかもしれない。" ], [ "からっぽです。何もありません。", "おお、それじゃ、やっぱり賊は、その中のものをぬすんでいったのですね。" ], [ "それはわかっています。むろんその紙きれが手がかりになったことはわかっていますが、どうして暖炉の彫刻にお気づきになったのか、まるで手品のようで、わたしなどには、さっぱりわけがわかりません。", "いや、なんでもないことなのですよ。" ], [ "しかし、わたしはまだ、あの獅子の口の中に、何がはいっていたかということを知らないのですが、それほどにして、賊がぬすんでいったところをみますと、よほどたいせつなものだったのでしょうね。", "そうです。ばくだいな金額のものです。今のねうちにすれば、おそらく一億円をくだるまいと思います。" ], [ "かなばかりですね。なんだか意味がよくわかりませんが……。", "わたしは何度も見ているので、文句は読めますよ。『獅子が烏帽子をかぶる時』でしょう。それから『カラスの頭の』でしょう。まあ、そうでも読むよりほかに読み方がないのです。しかし、むろんなんのことだかわけがわかりません。それに、これは暗号の半分なのですから、ぜんぶ合わせてみないことには、どうにも、ときようがないのです。", "ふうん、なるほど、『獅子が烏帽子をかぶる時』ですか。みょうな文句ですね。" ], [ "名まえはいわないでも、わかっているとおっしゃるのです。ご用をうかがっても、ひじょうに重大な用件だから、ご主人でなければ話せないとおっしゃるのです。", "へんだねえ。ともかく、この卓上電話へつないでごらん。わしが聞いてみるから。" ], [ "ほんとうに宮瀬さんでしょうね。まちがいありますまいね。", "宮瀬ですよ。早く用件をおっしゃってください。いったいあなたはだれです。" ], [ "ハハハ……、だめだめ、そんなねだんで売れるものか。それよりも、きみのぬすんでいった半分を買いもどしたいくらいだ。どうだね、きみのほうこそ、暗号文の半分をわしに売る気はないかね。", "フフフ、おいでなすったな。よろしい。売ってあげましょう。そのかわり、わたしのほうのは少し高いですよ。一千万円です。一千万円がびた一文かけてもだめです。どうです。買う気がありますか。フフフ……、買えますまい。だいいち、あなたの家には一千万円なんてお金はありゃしない。それよりも、悪いことはいわない。わたしにお売りなさい。二百万円でいやなら、三百万円出しましょう。え、まだ安いというのですか。じゃ、もうひとふんぱつしましょう。五百万円だ。さあ、五百万円で売りますか、売りませんか。" ], [ "フフン、それがあなたの最後の返事ですか。せっかくしんせつにいってやっているのに、それじゃあなたは、元も子もなくなってしまいますよ。売らないといえば買わぬまでです。そのかわりに、こんどは少し手荒らいことをはじめるかもしれませんよ。あなたこそ用心するがいいのだ。わたしは、どんなことをしても、あなたの持っている暗号の半分を手に入れてみせますからね。", "とれるものなら、とってみるがいい。わしのほうには、きみたち盗賊が鬼のようにおそれている名探偵がついているのだからね。" ], [ "明智さん、その妙案というのは、どんなことなんです。わたしには、聞かせてくださってもいいでしょう。", "それは、こういうわけなのです。" ], [ "へえ、うちの不二夫のかえ玉ですって? で、いったいそれは、どういうお考えなのです。", "小林を不二夫君に変装させて、不二夫君の部屋に住まわせるのです。夜も不二夫君のベッドに寝させるのです。まさか、そのかえ玉を学校へ通わせることはできませんが、かぜをひいたていにして、休ませておけばいいのです。そして、賊のやってくるのを待つのです。小林はまだ子どもですが、探偵の仕事にかけては、じゅうぶん、ぼくのかわりがつとまるほどの腕まえを持っています。けっしてへまをやるようなことはありません。", "なるほど、そういうわけですか。しかし、それじゃほんとうの不二夫のほうはどうするのです。不二夫がふたりもいては、おかしいじゃありませんか。" ], [ "なあんだ、宮田さんだったのか。道理でどうもへんだと思ったよ。ご主人がイスを注文しておいて、ぼくにだまっていられるはずはないんだからね。宮田さんなら、きみ、この裏手のほうだよ。", "そうですか。へへへ……、とんだおさわがせをして、どうもすみません。" ], [ "うん、一つしかない。おまえのつれられてきた入り口一つきりだよ。", "そこには番人がいるんだろうね。", "ハハハ、こいつへんなことをききだしたな。おまえ、牢やぶりをして、逃げだすつもりかい。ハハハ、だめだめ、むろん番人がいるよ。地下室の入り口には、昼でも夜でも、こわいおじさんが大きな目をむいてがんばっているんだ。おまえが逃げだそうとでもしたら、その番人にひどいめにあうぜ。そんなつまらないことは考えるんじゃない。だいいち、逃げだそうといったって、その鉄ごうしが、おまえなんかの力でやぶれるものかね。ハハハ。" ], [ "そりゃお出かけになるさ。首領はここに一日いることなんて、めったにないんだよ。いろいろな仕事があってね、とてもいそがしいからだなんだ。今夜もだいじな用件があって、あるところへ出かけるんだよ。", "やっぱり、あんな覆面のまま出かけるのかい。", "ハハハ、おまえ、いろんなことをきくんだねえ。いくら夜だって、覆面のまま外へ出ては、かえって人にあやしまれるじゃないか。むろん、あたりまえの身なりにかえて出かけるんだよ。", "じゃ、そのとき、おじさんたち、首領の顔が見られるじゃないか。どうして、首領の顔を知らないなんていうの?", "ところが、見られないんだよ。首領は魔法使いなんだ。おれたちのちっとも知らないうちに、どこかへ出かけたと思うと、いつのまにか、また、ちゃんと帰っているんだ。首領は変装の名人でね、いつもまるでちがった身なりをして出かけるということだが、おれたちは、その姿を一度も見たことがないんだ。", "へんだねえ、じゃ、どっかに秘密の出入り口があるんじゃないの? 首領は、そこからこっそり出入りしているんじゃないの?" ], [ "ええ、書きました。明智探偵の助手の小林って書きました。あいつらが、ぼくを不二夫君と思いこんでいるので、びっくりさせてやろうと思ったのです。", "しまった。そいつはまずかったね。きみにも似あわない、つまらないまねをしたじゃないか。", "どうしてですか。" ], [ "その女首領は、きみが逃げだすときには、まだ帰っていなかったんだね。", "ええ、そうです。", "じゃ、まだ、まにあうかもしれない。ぼくはこれからすぐ、警視庁へ電話をかけて、中村君に犯人逮捕の手はずをしてもらっておくから、きみは急いで帰ってくれたまえ。" ], [ "きみが、暗号を取りもどしたことは、いま宮瀬さんに電話で報告しておいたよ。宮瀬さんもたいへん喜んでおられた。それから中村警部に電話したが、夜中だけれども、そういう大事件ならば、すぐに部下のものをつれて、賊の逮捕にむかうからということだった。ちょうど、ここは上目黒への通り道だから、中村君たちはここへ立ちよることになっている。", "じゃ、ぼくがご案内しましょうか。", "うん、そうしてくれたまえ。むろん、ぼくもいっしょに行くよ。だが、賊が逃げだしたあとでなければいいがなあ。" ], [ "うん、なるほど、そうですね。すると……。", "すると、この二つの動物は、方角をしめしているのじゃないかと思うのです。", "アッ、そうだ。いかにもおっしゃるとおり、これは方角です。" ], [ "では、この三十と六十は長さのことですね。", "そうです。昔のことですから、むろんメートルではなく、尺か間ですが、間にすると、六十間は百メートル以上ですから、これは少し遠すぎるような気がします。やはり尺でしょう。つまり卯の方角の東のほうへ三十尺(九・一メートル)へだたり、そこからまた子の方角の北のほうへ六十尺(十八・二メートル)へだたったところに、この岩の戸があるという意味じゃないかと思います。" ], [ "それじゃ、このまえのほうの獅子やカラスはどういう意味でしょうか。これもあなたはおわかりになっているのですか。", "ええ、だいたい見当がついています。" ], [ "そこでぼくは、山岳会員の名簿をくって、有名な登山家十人ほどに、そういう岩のある山をごぞんじないかと、電話や手紙で問いあわせてみたのです。", "うん、すると。" ], [ "ところが、ふしぎなことに、そういう三つの岩のかたまっているような山を、だれも知らないのですよ。", "それじゃ、だめだったのですか。", "いや、山の中にはありませんでしたが、ひとりの登山家が、そういう名の三つの岩のある島を知っているといって、教えてくれたのです。その人は山登りばかりでなく、ひじょうな旅行家で、日本のすみからすみまで知っている人です。", "島ですって?", "そうです。ところで、宮瀬さん、金塊をかくされた、あなたのおじいさんが東京のかたということはわかっていますが、それよりもっとまえのご先祖はどこのかたですか、もしや三重県のかたではありませんか。" ], [ "なるほど、先祖の土地へ宝ものをかくすというのは、ありそうなことですね。", "あなたはごぞんじなくても、あなたのおとうさんなどは、ときどきは故郷へ行かれたこともあるでしょうし、岩屋島にそういう三つの岩のあることも知っておられたかもしれません。ですから、おじいさんは、この暗号は、ほかの者にはわからなくても、あなたのご一家のかたにはよくわかるだろうと、お考えになったのではないでしょうか。", "ああ、そうです。そうにちがいありません。明智さん、ありがとう。このむずかしい暗号が、そんなにやすやすと、とけようとは、夢にも思いませんでした。とにかく、わたしは、きゅうにその島へいってみたくなりました。もしおさしつかえなければ、明智さん、あなたもいっしょに行ってくださいませんか。" ], [ "おお、そうでした。わたしは、それをおききしたいと思っていたのです。獅子と烏帽子とカラスが岩の名だということはわかりましたが、その獅子岩が烏帽子をかぶるということは、いったいなんのことでしょう。それに、三つの岩はわかっていても、そのどこから、東へ三十尺(九・一メートル)はかるのだが、まるでけんとうがつかないじゃありませんか。", "そうですよ。そこがぼくにもまだ、よくわからないのです。獅子が烏帽子をかぶった時に、カラス岩の頭から、東のほうへ三十尺はかるというのでしょうが、その獅子が烏帽子をかぶるというわけが、ぼくにもわかりません。どうしても島へ行って、三つの岩を見なければ、わからないのです。" ], [ "わたしたちのるすちゅうに、賊のやつがまた、不二夫をひどいめにあわすことはないでしょうか。小林君が身がわりになって、暗号をぬすみだしたり、警察が賊のすみかをおそったりしたのですから、賊は、そのしかえしをしようと、待ちかまえているにちがいありません。そこへ、わたしたちが旅行してしまったら、あいつらは、また不二夫をどうかするのじゃないでしょうか。", "そうですね。そういうことが起こらないとはいえませんね。どうでしょう。不二夫君も岩屋島へつれていってあげては。そして、ぼくも小林をつれていくことにしたら、お友だちもあるわけですし。" ], [ "ええ、ぼくだいじょうぶです。小林君といっしょに、きっとおとうさんの手助けをします。鬼ガ島探検隊っていうんでしょう。ぼく、そういう旅行はだいすきですよ。", "ハハハ……、鬼ガ島探検隊はよかったねえ。すると、おまえと小林君とが、桃太郎っていうわけかい、ハハハ……、よし、それじゃ、つれていってあげるとしよう。" ], [ "はあ、あの島は鬼ガ島と申しまして、ここの名所になっております。お客さんがたは、よく船で見物においでになります。", "その鬼ガ島に、烏帽子岩と、獅子岩と、カラス岩という三つの大きな岩があるそうだね。", "ええ、ございます。みょうな岩でね、一つは烏帽子にそっくりだし、もう一つは獅子の頭にそっくりだし、それから、カラス岩と申しますのは、まるでカラスがくちばしを開いて、カァカァと鳴いているようなかっこうをしております。いかがでございます。船をやとって、見物なされては。ぼっちゃんがたは、きっとお喜びでございますよ。", "それじゃ、ひとつ船をやとってください。ことによったら、島へあがってしばらく遊ぶかもしれないから、晩がたまでかかるつもりで、来てくれるようにいってください。" ], [ "漁師がいやがるというのは、何かわけがあるのですか。", "なあに、つまらない迷信でございますがね。あの島には、むかし鬼が住んでいたので、その鬼のたましいが今でも島の中にのこっていて、あの島へあがったものは、おそろしいめにあうというのでございます。ハハハ……、このへんの漁師なんて、まるで子どもみたいなもので、それをすっかりほんきにしているものですから……。" ], [ "やあ、すてきだなあ。鎌倉の海なんかよりずっといいや。あ、見たまえ、小林君、あんな遠くを汽船が走っている、まるでおもちゃみたいだねえ。", "不二夫君、ほら、下を見てごらん。底まで見えるようだよ。ぼく、こんなきれいな海、見たことがないよ。あら、なんだか大きな魚がおよいでいった。サメかしら。" ], [ "そうじゃ、ぼっちゃん。あれが鬼ガ島だよ。", "やあ、そっくりだね。鬼の面を海にうかしたようだって、ほんとうだね。あれが角、あれが鼻、あれが口、あ、口からきばが出てらあ。" ], [ "あ、あれだ、あれが獅子岩だ。", "そうだね、神社においてある石の獅子とそっくりだね。" ], [ "見たところ、烏帽子岩と獅子岩とは五十メートルもはなれているようですが、この獅子がどうして、あの烏帽子をかぶることができるのでしょう。暗号には『獅子が烏帽子をかぶる時』とありますが、大地震でも起こらないかぎり、この二つの岩がかさなりあうことなんて、思いもおよばないじゃありませんか。明智さん。あの暗号をどうお考えになります。", "ぼくも今それを考えていたところです。あの暗号は、この獅子岩がほんとうにあの烏帽子岩をかぶるという意味じゃなく、何かもっと別のことだと思うのです。もう少ししらべてみましょう。" ], [ "宮瀬さん、わかりました。暗号のなぞがとけたのです。不二夫君のおかげですよ。今の不二夫君のことばで、すっかりなぞがとけたのです。", "エッ、不二夫のことばで? わたしにはさっぱりわかりませんが……。" ], [ "ここが三十尺です。", "よし。それじゃ、そこに動かないで立っているんだよ。" ], [ "なるほど、そうらしいですね。すると、この岩の奥に深い穴があるのでしょうか。", "たぶんそうだと思います。ひとりではとても動かせませんが、みんなで力を合わせたら、この岩を取りのけることができるかもしれません。ひとつやってみようじゃありませんか。" ], [ "このままはいっていくのは、危険ですよ。このほら穴は枝道がいくつもあって、迷路のようになっているのです。あまり奥へ進んで、帰れなくなってはたいへんです。それに、もう日も暮れるでしょうし、だいいちみんな、おなかがすいてきたでしょう。一度、宿へ帰って、あしたゆっくり出なおしてくるほうがいいでしょう。こんどはおべんとうなんかも、じゅうぶん用意してくるんですね。", "ええ、わたしもそのほうがいいと思います。それにあの漁師のじいさんも、海岸で待ちかねているでしょうからね。しかし、わたしの先祖は、じつに用心ぶかいかくし方をしたものですね。岩の戸を開けば、すぐにも金塊が手にはいるのかと思ったら、まだその奥があるんですからね。しかもそれが地の底の迷路というのでは、これからがたいへんですよ。" ], [ "おとうさあん!", "明智せんせえい!" ], [ "へんだね、道をとりちがえたのかしら。うしろへもどってみようか。", "うん、そうしよう。" ], [ "おとうさあん!", "せんせえい!" ], [ "きみ、おばけみたいな顔だよ。", "きみだって、そうだよ。" ], [ "地震じゃないかしら?", "いや、地震なら、ぼくたちのからだがゆれるはずだよ。地震じゃないよ。", "それじゃ、なんだろう。あ、だんだんひどくなってくる。ぼくこわい!" ], [ "ねえ、まだ水がふえているんだろうか。", "うん、まだ引き潮にはならないだろうね。ぼく、もぐって、しらべてみようか。" ], [ "わあ、深い。とてもふかいよ。だいじょうぶ二メートル以上あるよ。まだぐんぐん水が流れこんでいる。", "え、まだ流れこんでいる?" ], [ "あ、なんだかあるよ。きみ、あすこにへんなものがあるよ。", "え、どこに?" ], [ "きれいだね。金だから、ちっともさびないんだね。", "そうだよ。明治維新といえば、今から七十何年も昔のことだろう。こんなにたくさんの金が、七十年のあいだ、だれにも知られないで、ここにかくしてあったんだね。", "この箱の中に、小判が何枚はいっているんだろう。千両箱だから、千枚かしら。", "もっと多いよ。見たまえ、こんなにいっぱいつまっているんだもの、二千枚だってはいるよ。それから、小判ばかりじゃなくて、ほかの箱には、きっと、もっと大きい形のもはいっているんだよ。金の棒やかたまりもはいっているんだよ。", "いったい、この箱いくつあるんだろう。", "かぞえてみようか。" ], [ "へへへへへへ、うまくいったね。四人のやつら、今ごろは道にまよって、べそをかいているだろうぜ。", "そうよ。運の悪いやつらだ。宝ものが、こんな手ぢかなところに、かくしてあるとは知らないで、別の穴へまよいこんでしまったんだからね。さすがの名探偵も、こんどこそは運のつきだろうぜ。道しるべのひもを切られてしまっちゃ、とてもあの穴を出られっこはないんだからね。フフフフフフ、ざまあ見るがいい。", "だが、こんなにうまくいこうとは思わなかったね。やつらのあとをつけて、このほら穴へしのびこんで、ひょいと別の枝道へはいってみると、たちまち千両箱の山にぶつかったんだからねえ。神さまが、おれたちのほうに味方していてくださるんだね。", "ハハハハハハハ、神さまでなくって、この岩屋島に住んでいる鬼のご利益かもしれない。なんにしても首領の運のつよいのにはおどろくよ。" ], [ "フフフフフフ、おれたちが、みんな百万長者か。なんだか夢みたいだね。", "夢ならばさめてくれるな。フフ、世の中がおもしろくなってきたぞ。ねえ、首領、おれたちはずいぶん悪いこともはたらいてきたが、こんなでかい仕事は、あとにもさきにもはじめてですね。", "おいおい、喜んでいないで、早く運ぶんだ。これをすっかりかたづけてしまうまでは、安心ができない。どんなじゃまがはいらないともかぎらないからね。" ], [ "でも、ここにじっとしていたってしかたがないよ。あいつらのあとをつけて、ようすを見てやろうじゃないか。そうすれば、何かいい知恵がうかぶかもしれないよ。", "うん、そうしよう。さっきの話では、ほら穴の入り口は、じき近くにあるらしいね。" ], [ "きみ、見たまえ、ここで道が二つにわかれている。ここが最初の枝道なんだよ。ぼくたちは、あっちのほうの広い道へはいっていったものだから、あんなめにあったんだよ。あのときもし、こちらのせまい道へ進んでいたら、賊よりもさきに、ぼくたちが金貨を発見したんだぜ。ざんねんなことをしたなあ。", "あ、そうだ。それじゃ、ぼくたちは、ぐるっとひとまわりして、もとにもどったんだね。" ], [ "おお、不二夫、不二夫じゃないか。", "あ、やっぱりそうだ。小林君だね。" ] ]
底本:「超人ニコラ/大金塊」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年10月8日第1刷発行 初出:「少年倶楽部 第二十六巻第一号―第二十七巻第二号」大日本雄弁会講談社    1939(昭和14)年1月~1940(昭和15)年2月 ※図は、「大金塊」大日本雄弁会講談社、1940(昭和15)年6月第2版を底本とした「江戸川乱歩全集 第13巻 地獄の道化師」光文社からとりました。 入力:sogo 校正:茅宮君子 2018年3月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "あれはね、銀座なんかを歩いているサンドイッチマンだよ。ほら、いつか銀座で、あいつに広告ビラをもらったじゃないか。ロボットのサンドイッチマンだよ。あれは鉄でなく木でできてるんだよ。", "あっ、そうか。なあんだ。板ばりのロボットか。", "だが、へんだねえ。サンドイッチマンが、こんな大きなやしきばかりの町に、すんでいるんだろうか。それに、あんな姿のままで、こんなにとおくまで、やってくるのは、おかしいね。" ], [ "そうじゃ、うそをついたのじゃ。きみたちを、この部屋に、おびきよせるためにね。", "なぜ、ぼくたちを、この部屋へ、おびきよせたんですか。" ], [ "うん、感心、感心。ノロちゃんは、おくびょうものかと思っていたが、なかなか勇気があるね。小林君、団長のきみは、このもうしこみを、うけるかね。", "明智先生に相談してから、きめます。" ], [ "井上君のうちがいいよ。井上君のおとうさんは、もとボクシングの選手だから、安心だし、それにほかのうちでは、おとうさんか、おかあさんが、ゆるしてくれないだろうからね。", "うん、井上君のおとうさんは、冒険ずきだからね。それがいいよ。" ], [ "あと一分間ですね。", "うん、一分たてば、こっちの勝ちだ。もうだいじょうぶだよ。" ], [ "いま四時をうったのが、聞こえましたか。どうやら、一郎のほうが勝ったようですね。あんたは、約束をまもらなかった。黄金のトラは、ちゃんとここにありますよ。", "ワハハ……、こいつはおもしろい。わしが約束をまもらなかったといわれるのか? ワハハハ……。" ], [ "おまえは、なにをいってるんだ、白犬は、さっき、こわしてしまったじゃないか。", "えっ、こわした。それじゃあ、もしや、あれを、盗まれたんじゃありませんか。" ], [ "おまえ、学校のカバンをさげたりして、いったい、どこへいってたんだ?", "ぼく、学校から帰るとちゅうで、むりに自動車にのせられ、さるぐつわをはめられて、へんなうちへつれていかれたのです。そして、いま、自動車で、うちの近くまできて、目かくしをはずされたんだけど、そのときには、もう自動車はどっかへいってしまって、かげも見えなかったのです。" ], [ "いまごろ、一郎君が自動車にのって、どっかへいくなんて、なんだか、おかしいね。", "うん、あいつ、一郎君のにせものかもしれないぜ。" ], [ "ぼく、友だちと、はぐれてしまって、道がわからなくなったんです。ここは、いったい、どこですか?", "ここかね、ここは西多摩郡のはずれの山のなかだよ。なだかい鍾乳洞の近くだ。昼間はバスも通るところだよ。" ], [ "やあ、おめえら、鍾乳洞を見物にきただか。気いつけるがええだぞ。あんなかには、枝道があって、まよったら、出られなくなるだからな。", "だいじょうぶですよ。ぼくたち、ちゃんと用意してきたんです。百メートルもある強いひもの玉を、三つも持ってるんです。このひもを、入口にくくりつけて、それをつたって、はいりますから、道にまよう心配はないのです。" ], [ "クマの子どもじゃない?", "うん、そうかもしれない。ぼくにとびかかって、サッと、あっちのしげみに、かくれてしまったよ。" ], [ "なんだい、弱虫だなあ。あれはウサギだよ。茶色のウサギが、道をよこぎったんだよ。", "なあんだ、ウサギかあ!", "ノロちゃんはクマが出やしないかと、ビクビクしてるもんだから、クマの子に見えたんだよ。ねえ、ノロちゃん、ぼくがついてるから、だいじょうぶだよ。クマが出たら、金太郎みたいに、ぼくがねじふせてやるからね。" ], [ "さあ、井上君、きみがいちばん力が強いんだから、このひもの玉を持つんだよ。まず、ひものはじを、その岩へ……。", "よし、ここへ、しっかり結びつけるよ。" ], [ "ワーッ、怪物だあ……。", "ワーッ、怪物だあ……。" ], [ "なあんだ、水じゃないか。上から水がしたたり落ちたんだよ。ノロちゃんの弱虫!", "そうかあ。いやにつめたいと思ったよ。" ], [ "あっ、枝道だよ。ふたつにわかれている。どっちへ、いったらいいのだろう。", "さきに、広いほうへ、いってみよう。" ], [ "だって、この岩のさけめは、とても、とびこせないよ。底が見えないほど、深いんだもの。", "とびこさなくてもいいよ。よくごらん。ここに橋がかけてあるじゃないか。" ], [ "だいじょうぶかい? けがはしなかった?", "うん、だいじょうぶ。岩につまずいたんだよ。" ], [ "どうしたの? また、ころんだのかい?", "そうじゃないよ。たいへんなことを、しちゃった!", "えっ、たいへんなことって?", "さっき、ころんだとき、道しるべのひもが、切れちゃったんだよ。", "えっ、きみの持ってるひもが?", "うん、ひっぱると、てごたえがなくて、ズルズルたぐりよせられるんだ。とちゅうで切れたんだよ。ほら、こんなにみじかくなってるよ。" ], [ "それじゃ、道しるべが、なくなってしまったんだね。", "ぼくらは、もう帰れなくなったんだね。" ], [ "あっ、わかった。魔法博士だよ、きっと。", "魔法博士が、どっかに、かくれていて、ぼくらを、このどうくつから、出られなくしたんだよ。" ], [ "おやっ、あれ、なんだろう?", "人間の声じゃないよ。水のながれる音でもないよ。", "ずっと、おくのほうだね。ぼく、いって見てくるよ。" ], [ "グルルルル……、ウォーッ。", "ワーッ、トラだあ! ほんとうのトラが出たあ!" ], [ "ぼっちゃん、だいじょうぶですか。もうじき四時ですよ。", "うん、だいじょうぶだ。でも、ゆだんはできないよ。このまえは、魔法博士の弟子の少年が、井上君にばけて、やってきたんだからね。" ], [ "魔法博士は、ほんとうに、こなかったのでしょうかね?", "だって、だれも来ていないじゃないか。" ], [ "えっ、来ているって、どこに?", "ここに来ていますよ。" ], [ "あっ、それじゃ、きみは……。", "そうだよ。わしは魔法博士だよ。どうだ、おどろいたか。" ], [ "ワハハハ……、いまさら、金庫をまもったって手おくれだよ。黄金のトラは、とっくに魔法の力で、わしが盗みだした。うそだとおもうなら、きみたち、金庫を開いて、あらためてみるがいい。", "だって、金庫のとびらは、一度も、あかなかったよ。ぼくたちが、ちゃんと見ていた。とびらを開かないで、なかのものが取りだせるはずはないっ。", "ハハハ……、そこが魔法だよ。ともかく、金庫を開いてみるがいい。" ], [ "なあんだ、ちゃんと、ここにあるじゃないか。", "ウフフフ……、それが黄金のトラかね。見せてごらん。" ], [ "うん、じいさんのくせに、かけだしていったぜ。あっちのほうへね。", "ありがとう。" ], [ "あれだっ。あれが魔法博士のランチだよ。", "よしっ、ランチと自動車のきょうそうだっ。" ], [ "むこうに、小さく見える白いランチです。", "見なれないランチだが、ずいぶん速力がありますね。しかし、このカモメ号は、隅田川第一の快速艇ですから、すぐに追いついてみせますよ。" ], [ "だが、きみは、いったい、どうして、このうちを、探しあてたんだね。", "ぼくはずっと、おじさんのあとに、くっついていたのです。あのランチにしのびこみ、おじさんが潜水服をきると、ぼくも、あの箱のなかにあった、べつの潜水服をきて、海にとびこんだのです。それから……おじさんが、お台場にあがって、ゆだんをして、タバコをすっているひまに、ぼくはヘリコプターを見つけ、さきまわりをして、ズックをかぶって、そうじゅう席のうしろに、かくれていたんです。" ], [ "腕だめしって、どんなことですか?", "いまに、わかるよ。まあ、こっちへ来たまえ。" ], [ "どうだ、やってみるかね。", "ええ、ぼく、やってみます。五日のあいだに、黄金のトラを、盗みだせばいいのでしょう。", "うん、そうだよ。だが、このろうやにとじこめられていて、あれが、盗みだせるかね。いくらきみがりこうでも、こればかりは、むずかしいだろうね。が、まあ、やってみるがいい。" ], [ "えっ、なんだって?", "ぼくが勝ったのですよ。黄金のトラを盗みだしてしまったのですよ。", "おい、おい、でたらめも、いいかげんにしたまえ。きみは、このろうやから、一歩も出られなかったじゃないか。ろうやにいて、どうして、トラが盗みだせるんだ?", "それじゃ、おじさんが、かくした場所をあらためてごらんなさい。黄金のトラがあるか、ないか。" ], [ "ネズミですよ。", "えっ? ネズミとは?" ] ]
底本:「おれは二十面相だ/妖星人R」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年9月8日第1刷発行 初出:「読売新聞」    1955(昭和30)年9月12日~12月29日 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2018年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056686", "作品名": "探偵少年", "作品名読み": "たんていしょうねん", "ソート用読み": "たんていしようねん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「読売新聞」1955(昭和30)年9月12日~12月26日", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2018-08-12T00:00:00", "最終更新日": "2018-07-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card56686.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "おれは二十面相だ/妖星人R", "底本出版社名1": "江戸川乱歩推理文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年9月8日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年9月8日第1刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年9月8日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "大久保ゆう", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56686_ruby_65429.zip", "テキストファイル最終更新日": "2018-07-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56686_65473.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-07-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "だれかおとなの人に取ってもらったのじゃない", "君が行ってから、だれもここを通りやしないよ", "じゃ、どうして取ったのさ。へんだなあ。ほんとうかい、君。ほんとうに君が取ったのかい?" ], [ "あのね、僕、動物園の象の鼻のことを思いついたんだよ。君、知ってるかい。象におせんべいを投げてやるだろう。そのおせんべいが、象の鼻のとどかない所へおちると、象はどうしておせんべいを取るか知ってるかい。僕、いつか見たんだ。象はね、おせんべいの向こうの壁に、鼻でフーッと息をふきつけるんだよ。そうすると、その息の風が壁にあたって、こちらへかえってくるだろう。象の鼻の息ってすごいよ。だから、おせんべいがこちらの方へ、コロコロところがるのさ。象のやつすました顔でころがって来たおせんべいを、鼻でつまんで、口の中へ入れるんだよ", "そうかい、さすがは智恵の一太郎だね。僕、知らなかったよ。で、それがどうしたのさ。ここには象なんていないじゃないか", "だから、象の鼻のかわりになるものを考えてみたのさ。なんでもないんだよ。ホラこれさ" ], [ "なんにもないじゃないか。石がころがっているばかりじゃないか", "だから、この石なんだよ。見ててごらん。君はきっと、なーんだ、そんなことかっていうにきまっているよ。ほら、あすこに木ぎれが浮いてるだろう。あれを取ってみるからね" ], [ "ね、わかったかい。この石のたてる水しぶきが、象の鼻息のかわりなのさ", "なーんだ。そんなことか" ], [ "へえ、歩いて行ったんだって? でも、足あとがないじゃないか", "足あとはないけれども、歩いて行ったんだよ。君、あすこをごらん。雪の上にポツポツと小さな穴があいているだろう。あれはなんだと思う?" ], [ "北川君、君の方がまちがっているよ。あれは、やっぱり棒でつついた穴なんだよ", "えっ、なんだって? それじゃ君は、棒がひとりで動きまわったっていうのかい" ], [ "お父さん、何かおもしろい謎の題を出して下さいよ。今日は、うんとむずかしいのをね", "そうら、また一太郎のいつものおねだりがはじまったね、よしよし、それじゃあ今夜は、お父さんも頭をしぼって、うんとむずかしい問題を出してやるぞ" ], [ "お父さん、それ頓智の問題じゃないのですか。ほんとうに火がもえなくても、ただ口さきの頓智でうまく答えればいいのじゃないのですか", "いや、そんな頓智の問題じゃない。ほんとうに火がもえなくてはいけないのだよ。だから、この問題は謎というよりは、理科の智恵だめしといった方が正しいのだ", "だって、お父さん、そんなこと、ほんとうにできるのですか", "できるとも。お父さんができない問題なんか出すはずがないじゃないか。すじみちを立てて、よく考えてみるんだ。そうすれば、なあんだ、そんなことかと、びっくりするくらいやさしい問題なんだよ。ではね、少しばかり、考え方の手びきをしてあげよう。いいかい、こういう問題にぶっつかった時にはね、世の中に火をもやすやり方が幾つあるか、一つ一つ思い出してみるんだよ。さあ、お前の知っているだけ、それをいってごらん", "ええ、じゃあ言いますよ。マッチ、ライター、ええと、それから火打石――", "ああ、火打石をよく知っていたね。明治以前にはマッチというものがなくて、みな火打石を使っていたのだ。石と鉄と打ちあわせてね、その火花を、お灸のもぐさのようなものにもえうつらせて、火をつくっていたのだよ。この火打石というものは、日本でも西洋でも、ずっと大昔から使われていたのだが、それよりもっと昔、歴史の本にものっていないころの人間は、どうして火をつくっていたか、お前知っているかね", "ええ、いつか先生からききました。かたい木をきりのようにけずって、そのとがった先を別の板にあてがって、きりをもむように、もむんでしょう。そうして長いあいだもんでいると、すれあっているところが、だんだん熱くなって、おしまいには火がもえ出すんですって。今でも野蛮人の中には、そうして火をつくっているものがあるんですってね", "そうだ。なかなかよく覚えていたね。大昔から今までに、私たち人間が火をつくる道具に使ったのは、まあ、そんなものだが、その外にもまだ、いろいろのやり方がある。お前も知っているだろう", "ええ、知っています。老眼鏡の玉を太陽の光にあてて、もえやすい物に焦点を作れば、火がとれるんです。僕、いくどもやってみたことがあります" ], [ "一太郎、えらいぞ。うまく謎をといたね", "ええ、これで火をもやしつけたんですよ" ], [ "一太郎さん、今日たいへんなことがあったのですよ。妙子ちゃんが、幼稚園から帰りに、そこの大通りでころんで、今にも自動車にひかれそうになったんですって", "え、自動車に?" ], [ "そうですね。……でもね、お母さん、もしその生徒が、僕のなかよしの友だちだとすると、なかなかさがし出せないかも知れませんよ", "なぜなの?" ], [ "まあ、そんな約束をしているの。感心ね。でも、今日のは特別にいいことなんだから、いっても零にならないことにして、その生徒さんを白状させなさいよ。わかったら、お母さんもお礼を言いたいのですから", "じゃ、僕、やってみます" ], [ "ほんとだ。僕、今までうっかりしていたけれど、考えてみると、不思議ですね。蜘蛛っていうやつは、僕らの思いもおよばない力を持っているんですね", "じゃ、一つ蜘蛛と智恵くらべをしてごらん。どうしてあの糸をはるんだか、お前の智恵で考えだしてごらん" ], [ "よめるようにといって、お前がよんで聞かせてくれるのかね", "いいえ、そうじゃありません。お祖父さんがおよみになるんです。眼鏡の代りになるものを、僕が作ってあげましょうかっていうのですよ", "眼鏡の代りになるものだって。ハハハハハハハ、ほんとうにそんな便利なものがあればいいんだがね" ], [ "おやおや、ただの厚紙じゃないか。そんなものが眼鏡の代りになるのかい", "ええ、そうなんです。不思議でしょう。こうして見るんですよ" ], [ "ちょうど、目のところに小さい穴をあけてあるんです。両方の目に合うように二つ穴があけてあるんですよ。その穴からのぞくんです", "ほほう、そうすると、新聞がよめるというのかね", "ええ、よめるんです。明かるいところでなくちゃだめですよ。縁がわに出て、やってごらんなさい。きっとよめますから" ], [ "何を感心していらっしゃるのです。又、一太郎が何かやったのですか", "いや、この子には、時々おどろかされるよ。こんな厚紙に穴をあけただけで、老眼鏡で見るように、新聞の字がよく見えるのだ", "どれどれ、私にも一つ見せて下さい" ], [ "ええ、僕が考えたんです", "どうして考えついたか話してごらん。お父さんも、こんな手軽な眼鏡があろうとは、思いもつかなかったからね" ], [ "え、セメントの壺ですって", "そうだよ。口のところが徳利のような形をした、まんまるな壺だよ", "とても一人でなんかできっこありませんよ。まず型をつくらなければならないし、第一僕はセメントと砂のまぜ方さえ知らないんですもの", "そうだろう。大人だって、そんな大きな壺を、一人でつくるのはちょっとむずかしいからね。ところがね、一太郎、そういう大きな壺を、たった一人で、なんの道具も使わなくて、やすやすとつくるやつがいるんだよ。しかも、その壺が実にいい形をしているんだ", "へえ、それ、どこの人ですか", "いや、人間じゃないんだ。今のはたとえ話だよ。いつかの蜘蛛と同じで、やっぱり虫なんだ。そういう壺つくりの名人の虫があるんだよ" ], [ "この蜂はからだの長さが一センチあまりしかない小さなやつで、この巣の徳利の中へ二匹も三匹も入れるくらいなんだよ。ほらね、だから、こいつは自分のからだの二三倍もある大きなセメントの壺をつくるわけじゃないか。それも一つじゃないんだよ。いくつでもつくるんだ。そして、一つの巣に一つずつ卵を生みつけていくんだよ", "じゃあ、蜜蜂なんかとちがって、こいつは一人ぼっちで巣をつくるんですか" ], [ "じゃ、燕なんかの巣をつくるやり方と似ているんですね", "そうだ。ただ材料がちがうのだね。そして、できあがった形がすばらしいのだ。鳥も昆虫にも、いろいろ美しい巣をつくるのがあるけれど、壺つくりにかけては、トックリバチにかなうものはないね。この壺の口のところが、なんともいえないじゃないか。口が何かの首のように、スーッと細くなって、それがもう一度ひらいて丸いつばのようになっている。ここは紙のようにうすいのだよ。この口のところはよほど念入りにつくるのにちがいないね。土も一番いいのをつかって、唾で十分こねてね" ], [ "君、今夜遊びにこないかい。おもしろいものを見せてあげるよ。君がびっくりするようなものなんだ", "びっくりするようなものですって? いったい何ですか", "いや、今は言えない。今夜、ごはんがすんで、暗くなってから、やって来たまえ。あっと驚くようなものなんだよ" ], [ "あ、わかった。旗に夜光塗料がぬってあるんですね", "まあ、そんなものだよ", "僕をびっくりさせるっていうのは、それなんですか", "いや、これだけじゃない。もっとおもしろいものがあるんだ。こちらへ来てごらん" ], [ "やっぱり夜光塗料ですか", "いや、そうじゃない。これは虫なんだよ", "え、虫ですって?" ], [ "じゃ、さっきの旗や矢印も、やっぱり発光バクテリヤだったんですか", "そうだよ。闇夜にお客さんが来ても、まごつかないように、目印を作っておいたんだよ。このバクテリヤの青白い光は遠くからよく見えないけれども、そばによると、かなり明かるいのだ。ここに雑誌があるから、バクテリヤの光で読んでごらん。ね。よく読めるだろう" ], [ "それで、その発光バクテリヤはどこにいるんですか。どこで手に入れるのですか", "海の水の中なんかに一等たくさんいるんだが、海まで行かなくても、たやすく手に入れる法があるんだよ。君にだって実験ができるんだよ。そのやり方を教えてあげようか", "ええ、教えて下さい。僕やってみたいなあ" ], [ "ほんとうはそんなでっかいものだけれど、非常に遠くにあるので、こんなに小さく見えるんだね。で、こうして月を見ていてね、君は、あれを、どのくらいの大きさに感じるね。お盆ぐらいか、洋食皿ぐらいか、それとも御飯をたべるお茶碗ぐらいか", "お盆なんて大きくはないや。洋食皿よりも小さいや。僕、洋食皿とお茶碗の間ぐらいだと思いますよ", "うん、そうだね。僕にもそのくらいに見えるよ。ある学者が大勢の人に、今のような問を出して、答を集めてみたところが、一等多い答は、さしわたし十四糎ぐらいというのだったそうだ。だから、まあ洋食皿とお茶碗の間の大きさなんだね。さあ、それじゃ一つ、おもしろい実験をしてみよう" ], [ "妙ですね。この筒で見ると、一ぺんに月が小さくなっちゃうんですよ", "どのくらい小さくなったの、五十銭銀貨ぐらいかい", "え、そのくらいです", "まちがいないね。ほんとうに五十銭玉ぐらいに見えるんだね", "え、まちがいありません", "ようし、それじゃもう一度びっくりさせてあげるよ。さあ、それを貸してごらん" ], [ "あれっ、へんですね、また月が小さくなっちゃった。五銭玉ぐらいですよ", "ふしぎだろう。それじゃね、今度は自分で、紙筒の先の方をだんだん細くまきこんでごらん。そして、月がちょうどその穴と同じになるまで、月で穴が一ぱいになるまで、細くしていってごらん" ], [ "はははは、驚いたかい。洋食皿と茶碗の間ぐらいだった月が、五十銭玉になり、五銭玉になって、おしまいには米つぶほどに小さくなってしまった。この画用紙の筒は魔法の眼鏡だね", "へんだなあ。画用紙に何か仕掛があるのですか" ], [ "わあ、でっかい月だなあ。まるで赤いお盆のようですね", "大きいだろう。この間ここで見た月とは、まったく別もののように見えるね。なぜだろう。なぜ、こんなに大きく見えるのだろう", "それは、出はじめだからでしょう。月でも太陽でも、出はじめには、みんな大きく見えるのでしょう", "そうだね。出はじめは大きく見える。それから西の方へかくれる時にも、また大きくなる。なぜ空の上の方では小さくて、出る時と入る時には、あんなに大きく見えるのだろうね。さあ、今日の問題はこれだよ。答えられるかい" ], [ "おや、ゴム風船ですね。めずらしいなあ。今こんなもの、どこにも売っていないのですよ", "僕の友だちで、前にこういうものの製造をしていた人があってね、そこの棚のすみに残っていたのを、手に入れてきたのさ", "あれ、あんな高い所にもありますね", "うん、二つなくては実験ができないのだよ。両方とも水素瓦斯を入れて、一ぱいにふくらませてあるんだ" ], [ "むこうの風船の方が、ずっと大きく見えます", "そうだろう。さて、今度は空に上っている風船の糸をたぐって、だんだん引きおろすからね。君はたえず、両方の風船を見くらべていて、ちょうど同じぐらいの大きさに見えた時に、『よし』といって合図をするんだよ。さあいいかい、はじめるよ" ], [ "まだ同じ大きさにならない?", "うん、もう少し", "まだかい?", "よし、そこでいい。ちょうど同じぐらいに見えます" ], [ "いいかい、この風船が空に上っていた時も、こうして横に引っぱった時も、糸の長さは同じなんだから、君の目と風船のへだたりも同じわけだね。ところが、その同じへだたりのものが、頭の上にあった時には、むこうの風船と同じ大きさに見え、引きおろして横に引っぱって見ると、今度はむこうの風船よりもずっと大きく見える。そうだろう", "え、そうです。ふしぎだなあ" ], [ "同じです。ちっともちがいません", "ハハハ、わかったかい" ], [ "月もちょうどこれと同じなんだ。横の方にいる時は大きく見え、頭の上にのぼると小さく見える。目には同じ大きさにうつっているのだけれど、それがちがうように感じられるのだ。それから、月は風船なんかとくらべものにならぬほど遠くにあるので、大きく見える度合もずっと強いのだよ", "わかりました。ほんとうにふしぎですねえ。でも、高橋さん、それはなぜでしょう。どうして頭の上にある時は小さく見え、横にある時は大きく見えるのでしょう", "うん、いい質問だ。さすがは君だよ。だがね。それは僕にもわからないのだ。世界中の誰も、まだそのわけを知らないのだ", "へえー、誰も知らないのですって?" ], [ "汽車はずいぶん早いが、その汽車よりも早いものが、まだいろいろあるね", "ええ、あります。自動車、飛行機、ロケット、それから……", "それから?", "あ、そうだ。それから、大砲のたまです", "うん、大砲のたまは、飛行機よりも早いね。それから?", "えーと、それから……" ], [ "思い出せないかい。形のないもので、もっと早いものがあるはずなんだがねえ", "あ、そうか。風でしょう。暴風は汽車より早いんでしょう", "うん、暴風も早いだろうね。だが、まだほかにあるよ。風は木の葉を吹き飛ばしたりするので、目に見えるといえば見えるが、もっと全く見えないものがあるんだ" ], [ "そんなものがあるんですか。へんだなあ。僕、どうしても思い出せないんです", "そうか。それじゃ教えてあげよう。それはね、音なんだよ", "え、音ですって?", "うん、耳にきこえるいろいろな物音だよ。こうして話してる僕の声も、やっぱり音の一つだね", "あ、そうか。音は空気を伝わって、耳の鼓膜にひびくのですね。その空気を伝わる早さが、汽車よりも早いのですね", "そうだよ。思い出したかい。音の早さがどのくらいか、先生に教わったことがあるんだろう", "え、教わったんです。でも、僕、忘れちゃった", "音の早さは、一秒間に三百四十メートル。もっとも、これは空気の温度が摂氏十五度の時の早さで、それよりも熱くなれば、音の伝わり方はもっと早くなり、寒くなれば、おそくなるんだよ。だから、冬よりも夏の方が、音は早くきこえるというわけだね。早いとかおそいとか言っても、耳では感じられないくらいのちがいだがね", "へえ、温度でちがうんですか" ], [ "え、実験ですって? お家へ帰ってですか", "いや、ここでやるんだよ", "だって、ここには何も道具がないじゃありませんか", "ないことはない。ほら、そこに立派な道具があるじゃないか" ], [ "ははは……わからないかい。ほら、それだよ。むこうがわの土手の上のレールだよ", "へえ、レールが実験の道具なんですか" ], [ "ええ、大きい音と小さい音と、重なりあうようにしてきこえました。でも、伯父さんは、一度ずつしかたたかなかったんですねえ", "うん、そうだよ。たたいたのは一度ずつだが、音は二度ずつきこえたんだよ。さあ、考えてごらん。これはいったいどういうわけだろうね" ], [ "八分の一秒ほどです", "その通り、空気を伝わる音の方は、僕がたたいてから、わずか一秒の八分の一ほどの時間で君の耳にとどいた。だが、鉄をつたわる音の方はこれより十五倍も早かったのだよ。およそ一秒に五千メートル走るんだ。だから鉄の方は四十メートルを五千メートルで割れば答が出る。さあ、やってごらん", "わかりました。〇・〇〇八秒です。分数にすれば百二十五分の一秒です", "その通り、一秒の八分の一と、一秒の百二十五分の一とだから、たいへんなちがいだね。いくら短い時間でも、そのくらいちがうと、耳にも別々になってきこえるのだよ", "音って早いんですねえ。じゃ、伯父さん、この世の中に、音より早いものはないのですか" ], [ "ところが、そうではないのだよ。上には上があるのだ。今では大砲のたまの早さは、音が空気を伝わる早さよりも、少し早くなっているし、飛行機もそれにまけないようにさかんに研究がつづけられているが、大砲でも飛行機でも、鉄を伝わる音の早さには、とてもおいつけるものじゃない。それじゃ鉄をつたわる音の早さが、世の中で一番早いものかというと、けっしてそうではない。鉄をつたわる音の早さは、今もいう通り一秒間におよそ五千メートルだが、それよりも六万倍も早いものがあるんだよ", "え、六万倍ですって?" ], [ "はは……びっくりしているね。だが、その証拠はすぐ目の前にある。ほら、あすこをごらん。二百メートルほどむこうで鉄道工夫が大きな槌で杭を打ちこんでいるだろう。ほら、今槌が杭の頭をたたいた。聞いてごらん。ね、しばらくしてから音がきこえた。一秒ほどでもないが、一秒の半分ぐらいは、音の方がおくれて来るじゃないか", "ええ、それは前から知っています。いなづまが光ってから、雷がなるまでに、五、六秒もかかることがありますね。あれと同じわけでしょう" ], [ "ところで、さっきの実験を見せる前に、君たちにたずねたいことがある。智恵だめしだよ。君たちは、僕が雪の上に白と黒と二枚の紙をおいたのを見たね。そして、その紙の上に日があたっていたのをおぼえているだろうね", "ええ、日があたっていました" ], [ "太陽に照らされて、雪がとけたのでしょう。つもっている雪がうすくなったのでしょう", "うん、そうだ。けさは十五センチもつもっていた雪が、今はかって見ると、十センチほどになっている。太陽がそれだけ雪をとかしたのだ。さあ、そこで君たちにたずねるがね、さっき僕がならべておいた白い紙と黒い紙の下の雪は、どうなっているだろう。両方とも同じようにとけているだろうか、それとも、どちらかの方がよけいにとけているだろうか。一つ考えてごらん。これは理科の問題だよ。よく考えてこたえてごらん" ], [ "僕、白い紙の下が、黒い紙の下よりも、よけいにとけていると思います", "ほほう、白の方がよけいにとけて、雪が少くなっているというのだね。それはなぜだね", "それはね、白い色はあたたかくて、黒い色はつめたいからです。つめたい黒い紙の下は、とけるのがおそいでしょう", "うーん、なるほどね。それじゃ一太郎君はどう考える? 君も白い紙の下が、よけいにとけていると思うのかい", "僕はそうじゃないと思います" ], [ "僕は黒い紙の下の方が、よけいにとけていると思います", "なぜだね", "黒い紙の下の方があたたかいからです", "ほう、北川君とまるであべこべの考え方だね。それじゃ、なぜ黒の下があたたかいか、そのわけを言ってごらん" ], [ "うん、もういいんです。僕、起きたくってしようがないんだけど", "お医者さんと、お母さんが、いけないっておっしゃるんだろう。ははは……、まあ、今日一日だけがまんするんだね" ], [ "ねえ、高橋さん。何か問題を出してくれない", "ほーら、はじまった。君は病気で休んでいても科学少年なんだね。よし、それじゃ一つむずかしい問題を出すよ" ], [ "君は、さきおとといの晩、お湯にはいったあとで、北村君のところへ、模型飛行機の設計の相談に行ったんだってね。その時、道で寒い風にふかれたのがもとで、風をひいたんだってね", "うん、そう。あの晩は、とても風がひどかったもんだから", "さあ、それが今日の問題だよ。風にふかれると、なぜ寒いんだろうね。わかるかい", "え、風にふかれるとなぜ寒いかって" ], [ "さあ、手を出してごらん", "え、手をどうするの", "まあ、いいから出してごらん" ], [ "どうだ、寒いだろう、……わかったかい", "え、何が", "つめたい空気でなくっても、風は寒いということがさ。僕の息は体の中であたたまっているから、この部屋の空気よりは暖いのだよ。その暖い息をふきつけても、君は寒いっていったじゃないか。どういうわけだか、わかったかい", "だって、それは、息が長いくだの中を通って外に出ると、この部屋の空気よりひえてしまうんでしょう。でなけりゃ、寒いはずがないや", "ふん、そうかね。それじゃ、もう一つ実験をして見せてやる" ], [ "下るんでしょう", "どうして", "だって、息をふきつければ寒いんでしょう。だから、寒ければ寒暖計は下るにきまっているもの", "よし。それじゃ、やってみるよ" ], [ "へんだなあ。この部屋の空気より暖い息がかかれば、そこだけ暖く感じそうなものなのに、どうして寒く感じられるのだろう。高橋さん、どうしてなの", "それはね、人間の皮膚には、いつでも水分があるからだよ" ], [ "え、水分って", "夏は汗をかくだろう。あの汗はどこから出るか知っているかい。僕らの皮膚には、目に見えない汗やあぶらの出る穴が、数かぎりなくあるからだよ。これは先生に教わったことがあるだろう。冬だってやっぱり、そこから水分やあぶらが出ているんだよ。あんまり少くて目には見えないけれどね。だから、皮膚に強く息があたると、そこの水分が一ぺんにかわいてしまう。急にかわくものだから寒いというわけさ", "急にかわくと、どうして寒いの", "かわくというのは、水が水蒸気になって蒸発することだ。これも君は教わったことがあるだろう。庭に洗濯物がほしてあると、かすかな煙のようなものが、洗濯物から、もやもや立ちのぼっていることがあるだろう。あれは水蒸気だ。つまり太陽の熱のために水が水蒸気になって飛んで行ってしまうから、洗濯物がかわくのさ", "それぐらいのこと知ってますよ、僕だって", "ところで、水が水蒸気になるためには、かならず熱がいるのだよ。熱がなくては水はかわかないのだ。これも知っているだろう。ぬれ布にアイロンをあてると、ジュンといって水分が蒸発してしまうね、つまり、かわいてしまうね。だから水が蒸発するためには熱がいるということがわかるだろう", "うん" ], [ "すると、どういうことになるね。手に息をふきつけると、そこの水分が急にかわく。ところが、そのかわかすためには――つまり、水分が蒸発するためには熱がいる。その熱はどこから出ると思うね", "あ、わかった。体からでしょう。人間の体には熱があるから" ], [ "ところで、君が風をひいたほんとのわけを教えてあげようか", "それは、お湯から出て、すぐ風にふかれたからでしょう", "そうかい。それじゃ君はこれまで、お湯から出て寒い風にふかれたことは、一度もなかったのかい" ], [ "シャベルなんか使わなくても、いいことがあるよ。バケツに一ぱいの水があれば、このマリは、わけなく取出せるんだよ", "エッ、バケツに一ぱいの水だって?" ], [ "やっぱりえらいや。ねえ、広ちゃん", "ウン、智恵の一太郎だもの" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第14巻 新宝島」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年1月20日初版1刷発行 底本の親本:象の鼻~幼虫の曲芸「智惠の一太郎」京橋書房    1947(昭和22)年12月5日    冷たい火~ゴムマリとミシン針「魔法の眼鏡」京橋書房    1947(昭和22)年12月5日    飛行機を生み出すたのもしい力「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1943(昭和18)年7月 初出:象の鼻「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年1月    消えた足跡「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年2月    智恵の火「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年3月    名探偵「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年4月    空中曲芸師「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年5月    針の穴「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年6月    お雛様の花びん「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年7月    幼虫の曲芸「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年8月    冷たい火「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年9月    魔法眼鏡「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年10月    月とゴム風船「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年11月    兎とカタツムリ「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1942(昭和17)年12月    白と黒「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1943(昭和18)年1月    風のふしぎ「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1943(昭和18)年4月    飛行機を生み出すたのもしい力「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社    1943(昭和18)年7月 ※「生まれつき」と「生れつき」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、「江戸川乱歩全集 第14巻 新宝島」光文社文庫、光文社、2015(平成16)年6月25日初版2刷発行の表記にそって、あらためました。 ※「消えた足跡」の初出時の表題は「消えた足あと」です。 ※「お雛様の花びん」の初出時の表題は「お雛様の花瓶」です。 ※初出時の署名は「小松龍之介」です。 ※「月とゴム風船」の挿絵は初出から採録しました。 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:金城学院大学 電子書籍制作 校正:入江幹夫 2021年8月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057533", "作品名": "智恵の一太郎", "作品名読み": "ちえのいちたろう", "ソート用読み": "ちえのいちたろう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "象の鼻「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年1月<br>消えた足跡「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年2月<br>智恵の火「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年3月<br>名探偵「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年4月<br>空中曲芸師「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年5月<br>針の穴「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年6月<br>お雛様の花びん「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年7月<br>幼虫の曲芸「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年8月<br>冷たい火「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年9月<br>魔法眼鏡「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年10月<br>月とゴム風船「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年11月<br>兎とカタツムリ「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1942(昭和17)年12月<br>白と黒「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1943(昭和18)年1月<br>風のふしぎ「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1943(昭和18)年4月<br>飛行機を生み出すたのもしい力「少年倶楽部」大日本雄弁会講談社、1943(昭和18)年7月", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-09-27T00:00:00", "最終更新日": "2021-08-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card57533.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第14巻 新宝島", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年1月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年1月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年1月20日初版1刷", "底本の親本名1": "少年倶楽部", "底本の親本出版社名1": "大日本雄弁会講談社", "底本の親本初版発行年1": "1943(昭和18)年7月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "智惠の一太郎", "底本の親本出版社名2": "京橋書房", "底本の親本初版発行年2": "1947(昭和22)年12月5日", "入力者": "金城学院大学 電子書籍制作", "校正者": "入江幹夫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57533_ruby_74035.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-08-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/57533_74073.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-08-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "玉村君、ぼく、すっかり見ちゃったよ。きみは秘密をもっているだろう。", "秘密なんかないよ。どうしてさ。" ], [ "えっ、スリだって?", "そうだよ。ぼくはすっかり見ちゃったんだよ。", "ぼくがかい? ぼくがスリをやったって?" ], [ "ほら、八幡さまの石がき……。あの石がきの石が、一つだけ、ぬけるようになっているんだ。きみはその石のうしろに、からの紙入れを、たくさん、かくしたじゃないか。", "なにをいっているんだ。ぼくにはちっともわからないね。もっとくわしく話してごらん。" ], [ "あらっ、またかえってきたの?", "えっ、またって?", "だって、もうさっき学校からかえって、お部屋でおやつをたべたじゃありませんか。わたしがコーヒーとお菓子をもってってあげたら、うまいうまいって、たべたじゃないの。いつのまに、外へ出ていったのよ。そして、学校の道具なんかもって、またかえってくるなんて、どうかしてるわ。" ], [ "分身って、なんですか?", "きみが、ふたりになったのじゃ。ひとりの子どもが、ふたりにわかれたんじゃよ。", "どうして、そんなことができるのですか。", "わしがそうしたのじゃよ。ハハハハハハ。" ], [ "おじいさんはだれですか。", "わしはニコラ博士というものじゃ。", "ニコラ博士? じゃあ、日本人ではないのですか。", "わしは十九世紀のなかごろに、ドイツで生まれた。だが、わしはドイツ人ではない。世界人じゃ。イギリスにも、フランスにも、ロシアにも、中国にも、アメリカにもいたことがある。そして、いたるところで、ふしぎをあらわして歩くのじゃ。わしは大魔術師じゃ、スーパーマンじゃ。わしにできないことはなにもない。神通力をもっているのじゃ。わしひとりの力で、この世界を、まったくちがったものにすることができる。そういう神通力をな。ウフフフフフ。" ], [ "おい、きみ、わかるかい。ぼくだよ。きみもぼくと、おんなじめに、あったらしいね。きみのかえ玉が、きみのうちにはいり、ほんもののきみは、ここにとじこめられたんだろう。", "そうですよ。きみもそうなんですか。", "うん、ぼくのうちには、いま、ぼくのかえ玉がいるんだ。おとうさんも、おかあさんも、かえ玉とは気がつかない。それほど、ぼくとそっくりなんだ。ニコラ博士は、おそろしいスーパーマンだよ。人間の顔を、どんなにでも、かえることができるんだ。ぼくとそっくりの人間をつくることもできるし、また、ぼくを、まるでちがった顔に、かえてしまうことだってできるんだ。で、きみは、なんていうの? きみのうちは、なにをやってるの?", "ぼく、玉村銀一。おとうさんは玉村宝石店をやっているのです。", "あっ、そうか。あの有名な宝石王だね。ぼくは白井保。ぼくのうちは、銀座の白井美術店だよ。", "知ってます。あの大きな美術店でしょう、仏像やなんか、たくさんおいてある。", "そうだよ。きみ、わかるかい。ニコラ博士は、宝石や美術品をねらっているんだぜ。そして、まず、ぼくたちのかえ玉をつくって、人間の入れかえをやったんだ。このつぎに、あいつがなにをやるか、ぼくには、わかっているよ。ああ、おそろしいことだ。はやくだれかに知らせなければ、とりかえしのつかないことになる。" ], [ "あんた、どこから、はいってきたの?", "門からよ。だって、ねるところがなければ、どこにだって、はいるわ。ゆうべは、お庭のすみの物置小屋でねたの。" ], [ "おなかがすいているんでしょう。あんた、おとうさんや、おかあさんは?", "なんにもないの。みなし子よ。そして、おなかのほうは、おさっしのとおり、ペコペコだわ。", "じゃあね。人に知れるといけないから、この窓から、はいっていらっしゃい。いま、わたしが、なにか、たべるもの、さがしてきてあげるわ。", "だれも、きやしない?", "だいじょうぶよ。このうちには、いま、わたしと弟きりで、あとは書生や女中さんばかりよ。この部屋には、だれもこないわ。" ], [ "ああ、いいことを思いついたわ。まあ、すてきだわ。ねえ、あんた、わたし、いま、それはおもしろい遊びを考えついたのよ。", "あら、おじょうさんと、あたしとが、なにかしてあそぶんですの?" ], [ "どう、さっきまでのわたしと、そっくりでしょう。", "ワーッ、これがあたし? ほんとかしら……。" ], [ "あらっ、あんた、あたしとそっくりだわ。そして、あたしは、あんたとそっくりね。だれにも見わけられないわ。", "わたし、うれしいですわ。こんなきれいなおじょうさんになれたんですもの。でも、いけませんわ。だれかに見られるとたいへんですわ。はやく服をとりかえましょうよ。", "なあに、いいのよ。みんなをびっくりさせてやりたいわ。ね、あんた、もっとぐっとおすまししてね、あちらへいって、書生や女中に、なにかいってごらん。お紅茶をもってくるようにいいつけてもいいわ。そして、だれにもうたがわれないで、ここにかえってきたら、そうね、なにかごほうびをあげるわ。おこづかいをあげてもいいわ。" ], [ "なんだって? 光子さんだって? おじょうさんが、そんなきたない服をきられるわけがないじゃないか。おどかさないでくれよ。さあ、出ていった、出ていった。", "いいえ、どうしても、おとうさんにあいます。じゃましないで、おくにとおしておくれ。", "いけない。いけないったら。こいつ気ちがいだな。さあ、出ていけ。出ていかないと、なぐるぞっ。" ], [ "きみ、それじゃあ、少年探偵団のバッジをもってるかい?", "きょうはもってないよ。うちにあるよ。" ], [ "じゃあ、七つ道具は?", "えっ、七つ道具って?" ], [ "それももってないんだね。", "うん。きょうはもってないよ。", "じゃあ、なにとなにだかいってごらん。" ], [ "そうだよ。縄ばしごだよ。二本の縄に、足をかける木の棒が、たくさんくくりつけてある。", "ちがうよ。黒いきぬ糸を、よりあわせたひもだよ。二本じゃない。一本きりだよ。そのきぬひもに、三十センチおきに、足の指をかける、むすび玉がついているんだよ。", "あっ、そうだ。ぼく、うっかりしてたよ。黒いきぬ糸だったねえ。" ], [ "だから、ひょっとすると、玉村君は、にせものといれかわっているんじゃないかと思うのです。そんなによくにた人間がいるなんて、ふしぎでしょうがないけれど、ほんとうなんです。ぼくは、そいつがスリをはたらいているところを、ちゃんと見たんですからね。", "へんな話だねえ。ふたごでもないのに、そっくりの人間が、ふたりいるなんて、ちょっと、考えられないことだねえ。" ], [ "だから、ふしぎなんですよ。しかし、たしかに、ふたご以上に、よくにたやつがいるんです。そいつが、玉村君のまわりに、ウロウロしていたんですからね。ぼくはどうもあやしいと思うんです。バッジももっていないし、七つ道具のことも知らないのは、ほんとうの玉村君でないしょうこですよ。", "なにか、たくらんでいるのかもしれないね。", "玉村君のおとうさんは、宝石王でしょう。宝石を手に入れるための陰謀かもしれません。玉村君のおとうさんに、このことを知らせてあげなくてもいいでしょうか。", "うん、そうだね。明智先生がいらっしゃるといいんだが、一週間ぐらいはお帰りにならない。しかし、きみの話だと、ほってもおけないようだから、ぼくが玉村君のおとうさんにあって、このことをお話ししておいたほうがいいかもしれないね。", "ええ、ぼくもそう思うんです。にせものといれかわった玉村君が、どこかで、ひどいめにあっていると、たいへんですからね。", "じゃあ、電話をかけて、玉村さんのつごうを聞いてみよう。いまは銀座の店におられるだろうね。店をたずねるのがいい。すまいのほうにはにせの銀一君がいるんだからね。" ], [ "そうすると、あのこじきむすめも、ほんとうの光子だったかもしれないぞ。", "えっ、こじきむすめですって?" ], [ "玉村銀一君とそっくりの少年をつれてきて、人間の入れかえをやったのは、きみだなっ。いったい玉村君をどこへかくしたのだ。", "銀一君はここのうちにいるよ。いや、銀一君だけじゃない。いろいろな人間が、とりこにしてある。銀一君のねえさんもいるし、そのほかにも、きみの知らない人間がたくさんいる。", "みんな、かえだまと、いれかえたんだな。" ], [ "見たか。", "ええ、見ました。" ], [ "この窓からトラの顔が見えたというんですが、まさか、トラといっしょにのっていたのではないでしょうね。", "ハハハハ……、なにをおっしゃる。そんなばかなことが、あるはずはないじゃありませんか。だれが、そんなことをいったのですか。", "この人ですよ。" ], [ "ハハハハ……、あなた、夢でも見たんでしょう。車の中でうたたねしていたんじゃありませんか。", "いや、たしかに、金色のトラが……。" ], [ "そのトラがね、わたしの顔を見て、用心するがいい、いまに、おそろしいことがおこる、といったのだよ。", "えっ、トラがですか。" ], [ "そうだよ。トラがしゃべるなんて、信じられないことだ。しかし、ほんとうにしゃべったんだよ。", "人間がトラにばけていたのでしょうか。" ], [ "でも、おそろしいことがおこるぞと、予告をしたのですから、ゆだんはできませんね。", "うん、それで、きみにきてもらったのだよ。この店には、たくさんの店員がいるけれども、あいてはおばけみたいなやつだからね。やっぱり名探偵のきみの知恵をかりたほうがいいとおもってね。", "ありがとうございます。なによりも渋谷のおうちのほうが心配ですね。警察の力をかりるほかないでしょう。ぼくから警視庁の中村警部に電話でたのみましょう。そして、おうちのまわりを、まもってもらうようにしましょう。" ], [ "れいの大時計をトラックではこんできましたが、ごらんになりますか。", "うん、ここにはこんで、ここでひらいてもらおう。なにしろ、いまではめったに手にはいらない美術品だからね。" ], [ "はい、じつにりっぱな美術品でございますよ。", "機械もくるっていないですね。", "ふしぎと、くるっておりません。ただしい時を知らせてくれますよ。", "それはめずらしい。じゃあ、店のものもここによぶことにしましょうか。", "いや、まず社長おひとりで、ごらんください。もったいぶるわけではありませんが、ひじょうにめずらしい品ですから。", "わたしひとりでね。それもいいでしょう。しかし、この小林君は、ここにいてもかまいませんね。こんな小さいからだをしているが、じつは、わたしのボディーガードなんですよ。", "かまいませんとも。そのかたがボディーガードですか。" ], [ "民間探偵明智小五郎さんの助手の小林君です。", "ああ、あの有名な小林少年ですか。そういえば新聞の写真で、よくお目にかかってますよ。なるほど小林さんなら、たのもしいガードですね。" ], [ "えっ、金色のものだって?", "ええ、きっとあいつですよ。ね、あの金色のトラですよ。" ], [ "ふーん、うまい考えですね。そうして展覧会の宝石をすりかえたあとは、わたしたちは、この世から消えうせてしまうのでしょうね。", "そうだよ。そこで、われわれにせものの役目は、おわるのだ。" ], [ "うん、そうだね。わしも、このブドウ酒が、いつもよりもうまいようだ。それにしても宝石展覧会を、はやくひらきたいものだね。", "ぼくたちも、その展覧会が、はやく見たいよ。ねえ、ねえさん。", "ええ、日本中の有名な宝石が、ぜんぶあつまったら、どんなにきれいでしょうね。" ], [ "玉村さん、銀一君の友だちの松井君が、へんなことをいってきたので、ぼくも一度は光子さんや銀一君をうたがいましたが、みんな松井君のひとりがてんだとわかりました。同じ顔の人間が、この世にふたりいるなんて考えられないことですからね。", "そうですよ、小林さん。そんなばかなこと、あるはずがないやね。おかげで、わしもすっかり安心しましたよ。" ], [ "あ、超人ニコラ……。", "ニコラ博士……。" ], [ "まっかな顔をしていました。かみの毛も、まゆ毛も白くて白いひげをはやしていました。むかしの絵にあるテングにそっくりでした。", "そうだ、日本のテングも空を飛ぶことができた。だから、博士はテングの姿になって、飛んでみせるのだよ。" ], [ "そうだよ。きみたちは少年探偵団だね。", "そうです。ここへおりてきませんか。" ], [ "きみは、小林君だね。", "そうです。", "じゃあ、そこへいくよ。" ], [ "小林君、少年名探偵も、いくじがないねえ。まんまと、つかまってしまったじゃないか。しばらく、ここにいてもらうよ。ひもじいおもいなんかさせないから、ゆっくり、とまっていくがいい。", "なぜ、ぼくをとじこめたのですか。" ], [ "きみが、じゃまだからさ。わしが、おもうぞんぶんのことをやるのには、きみはじゃまものだ。いや、きみばかりじゃない。きみの先生の明智小五郎も、むろん、じゃまものだ。だから明智が北海道から、かえってきたら、やっぱり、ここに、とじこめてしまうつもりだよ。", "えっ、明智先生を?" ], [ "そうとも、わしは日本にきて、まもないが、明智小五郎のことは、よく知っている。日本で、なにかわるいことをするためには、まず、明智をやっつけなければならない。そうしなければ、こっちが、あいつにやられてしまうのだからね。ウフフフフ……。", "明智先生が、きみなんかに、つかまるもんか。" ], [ 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"ええ、これまで一度も手がけたことのない、ふしぎな事件です。事務所へかえってから、ご報告します。" ], [ "ニコラ博士が電話をかけてきたのです。そして、ダイヤは、とっくにぬすんでしまったというのです。明智さん、しらべてください。ダイヤがかくし場所にあるかないか、しらべてみてください。", "そんなばかなことがあるものですか。ぼくはお堂の入口をずっと見はっていました。お堂のとびらは、一度もひらかなかったのです。だから、ダイヤをぬすみだせるはずがありません。", "ともかく、しらべてみましょう。いっしょにきてください。" ], [ "おかしいですね。ニコラ博士は、このかくし場所を、知らないはずじゃありませんか。それをどうして……。", "だから、はじめから、もうしあげておきました。あいつは魔法つかいです。どんなことだってできるのです。それをふせいでくださるのが、あなたの役目ではありませんか。しかも、あんなにかたく、おひきうけになったではありませんか。" ], [ "ないねえ。", "ないよ。", "先生、どこにもダイヤなんて、かくしていません。" ], [ "わかるかね。さいごの手段とは、なんだと思う。爆発だっ。なにもかも、こなみじんになって、ふっとんでしまうのだ。おれの地下室の牢屋には、宝石王玉村一家のものと、白井美術店の人たちが、とじこめてある。おれに自由をあたえなければ、それらの人たちが、みな殺しになってしまうのだ。おれは人殺しは大きらいだ。しかし、おれの自由にはかえられない。おれに人殺しをさせるのも、明智君、みんなきみのせいだぞっ。", "アハハハハ……。" ], [ "先生、そんなことよりも、このあいだ、ぼくにおしえてくださったように、そっくりおなじ人間をつくり出す方法を、みなさんに話してあげてください。このかたは警視庁捜査課の中村警部さんです。それから、こちらは、ぼくの先生の明智探偵です。今夜はみんなで、あなたのお話をききにきたのですよ。", "おお、きみが名探偵明智小五郎君か。わしは、一度あいたいと思っていたよ。ちょうどいい。さあ、シャンパンをぬいて乾杯しよう。そして、きみとおどろう。バンド・マスター、うまくたのむぜ。" ], [ "明智先生、ばんざあい……。", "小林団長、ばんざあい……。" ] ]
底本:「超人ニコラ/大金塊」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年10月8日第1刷発行 初出:「少年」光文社    1962(昭和37)年1月~12月 入力:sogo 校正:茅宮君子 2018年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "姉やはどうしたの?", "あなたが食事に来ないとわかったものだから、夕方から泊りがけで、うちへ帰らせたの。今夜は二人きりよ", "彼は二階? いよいよあのことを切り出すつもりかな", "わからない。でも、正直に云っちゃうほうがいいわ。そして、かたをつけるのよ", "ウン、僕もそう思う" ], [ "やあ、おそくなって", "待っていたよ。さあ、あがりたまえ" ], [ "待ってくれ。百万円なんて、僕にはとても出来ない。まして五百万円なんて、思いもよらないことだ。せめてその半額にしてくれ。それでも僕には大変なことだ。食うものも食わないで、働かなけりゃならない。だが、やって見る。半額にしてくれ", "だめだ。そういう相談には応じられない。あらゆる角度から考えて、これが正しいときめた額だ。いやなら訴訟をする。そして、君の過去の秘密を洗いざらい曝露してやる。映画界にいたたまれないようにしてやる。それでもいいのかね。それじゃあ困るだろう。困るなら、おれの要求する金額を払うほかはないね" ], [ "君はあけみさんをどうするのだ。あけみさんまで罰する気か", "それは君の知ったことじゃない。あれもこらしめる。おれの思うようにこらしめる", "ねえ、君の条件は全部容れる。あの人を苦しめることだけはやめてくれ。罪はおれにあるんだ", "エヘヘヘヘ、つまらないことを云うもんじゃない。そういう君の犠牲的愛情は、おれの嫉妬を、よけい燃えたたせるばかりじゃないか", "それじゃ、おれはどうすればいいんだ。おれはあけみさんを愛している。君には申訳ない。申訳ないが、この愛情はどうすることもできないんだ", "フフン、よくもおれの前でほざいたな。それじゃ、おれの第三の条件を云ってやる。それはきさまに肉体の制裁を加えることだ" ], [ "死んだのね", "ウン、死んじまった" ], [ "今夜は明るい月夜だ。今から三四十分たって、この前の通りを、誰かが通りかかってくれなければ……おお、おれは冷静だぞ。こんなことを思い出すなんて。あけみ、この前をパトロールの巡査が通るのは、あれはたしか八時よりあとだったね。いつか、君がそのことを話したじゃないか", "八時半ごろよ、毎晩" ], [ "あけみ、僕らが幸福になるか、不幸のどん底におちいるか、それは今から一時間ほどのあいだの、君と僕との冷静にかかっている。殊に君の演戯が必要だ。命がけの大役だよ。君には大丈夫それがやれる。わけもないことだ。怖がりさえしなければいいのだ。舞台に立ったときのように、ほかの一切のことを忘れてしまうんだ。わかったね", "きっとできるわ。あなたが教えてさえくれれば" ], [ "あけみ、これと同じ色のジャンパーがもう一着ないか。着がえがあるだろう", "あるわ", "どこに?", "となりの寝室のタンスのひきだし", "よし、それを持ってくるんだ。いや、まだある。白い手袋が必要だ。革ではいけない。ほんとうは軍手がいいんだが、ないだろうね", "あるわ。股野が戦時中に、畑仕事をするのに買ったんですって。新らしいのがたくさん残ってるわ。台所のひき出しよ", "よし、それをもってくるんだ。まだある。長い丈夫な紐が二本ほしい。遠くから持って来ちゃいけない。隣の寝室に何かないか", "さア、あれば洋服ダンスの中だわ。でも丈夫な紐って……ア、股野のレーンコートのベルトがはずせるわ。それから……ネクタイではだめ?", "もっと長い丈夫なものだ", "そうね。ア、股野のガウンのベルトがある。あれならネクタイの倍も長くて丈夫だわ", "よし、それを持ってくるんだ。それから、……ウン、そうだ。おれはいつか、ちゃんと考えておいたんだ。君のうちには、何かの草で作った箒のような形の洋服ブラシがあったね。おれは見たことがある。あれが、入用だ。あるか", "あるわ。洋服ダンスのそばに、かけてあるわ", "いいか、忘れちゃいけないぞ。全部そろえるんだ。もう一度云う。軍手、ベルトが二本、箒型のブラシ、ジャンパー、そして、ここにベレ帽と目がねがある。それで全部か? いや待て、そうだ、ネクタイでいい。洋服ダンスから柔かいネクタイを三本抜いてくるんだ。それからあとは、洋服ダンスの鍵と、この書斎の入口、隣の寝室の入口、二つの部屋のあいだのドアと、三つのドアの鍵、それと、玄関のドアの鍵が入用だ" ], [ "よしその通り。ア、ちょっと待った。三つの鍵はいつもどこに置いてあるんだ", "洋服ダンスの鍵なんて、かけたことないから、把手にぶらさがってるわ。玄関と部屋の鍵は股野のズボンのポケットと、下のあたしの部屋の小ダンスのひき出しに一つずつ", "それじゃあ、股野のポケットのを使おう。これは僕がとり出す。君はほかの品を全部集めるんだ。時間がない。大急ぎだッ" ], [ "わかったわ。そうして、あなたのアリバイを作るのね。股野が殺されたときに、あなたはまだ門をはいろうとしていたのだということを、証人に見せるのね。だから、その証人にはパトロールのお巡りさんが一番いいというわけね。そうすると、あたしはここにいたことになるけれど、かよわい女だからどうにもできなかった。……あら、それじゃ、あたし犯人を見たことになるのね。どんな男だったと聞かれたら……", "覆面の強盗だ", "どんな覆面? 服装は?", "黒い服を着ていた。こまかいことはわからなかったというんだ。覆面は目だけでなく、顔全体の隠れるやつだ。ヴェールのように、黒い布を鳥打帽からさげていたと云うんだ。両手に軍手をはめていたのはもちろんだ。だから指紋は一つも残っていない", "わかった。あとは出まかせにやればいいのね。でも、あたし自身が犯人だと疑われることはないの? かよわい女だから、股野に勝てるはずがないっていう理窟? それで大丈夫かしら" ], [ "うまい。それでいい。ぬかりなくやるんだよ。それから、ここに残った玄関の鍵と洋服ダンスの鍵は、僕がポケットに入れてそとに出る。それはこういうわけだ。君は犯人のために洋服ダンスにとじこめられた。だから、犯人は洋服ダンスにも鍵をかけて行ったはずだ。しかし、君は中にはいっているんだから、自分で鍵をかけることはできない。それで僕が持って出て、今度誰かと一緒にはいって来たとき、相手のすきをうかがって、洋服ダンスに鍵をかけておく、という順序だ。それから、玄関に鍵をかけておく意味は云うまでもない。僕たちがあとでこのうちにはいる時間をおくらせるためだ", "まあ、そこまで! あなたの頭は恐ろしく緻密なのね。それで、あたしが洋服ダンスにとじこめられる意味は?" ], [ "これで演戯の方はすんだ。だが、もう一つやる事がある。君はあすこの金庫のひらき方を知っているね", "股野はあたしにさえないしょにしていたけれど、自然にわかったの。ひらきましょうか", "ウン、早くやってくれ" ], [ "その中に借用証書の束があるはずだ", "ええ、あるわ。それから現金も", "どれほど?", "十万円の束が一つと、あと少し", "貯金通帳や株券なんかはそのままにして、証文の束と現金だけ、ここへ持って来るんだ。金庫はあけっぱなしにしておく方がいい" ], [ "それ、どうなさるの?", "ストーヴで焼いてしまうのさ。現金もいっしょだ", "人助けね", "ウン、犯人が人助けのために、証文を全部焼いて行ったと思わせるのだ。むろん犯人自身の証文もこの中にあるというわけだよ。股野は担保もとらなかったし、公正証書も作らなかったので、この証文さえなくしてしまえば、一応返済の責任はなくなるのだ。しかし、帳簿が残っている。帳簿を見れば、債務者がわかる。そこで警察は、帳簿の債務者を虱つぶしに調べることになる。しかし、永久に犯人はあがらない。というわけさ。証文を焼いた犯人が現金を見れば、残してはおかないだろう。それが自然だ。しかし、僕らが持っていては危ない。股野のことだからどこかへ紙幣の番号を控えていなかったとはきめられない。だから、現金もここで焼いてしまうのだ。まず先に紙幣を焼こう" ], [ "ここは僕の友人の家です。いま訪ねて来たところです。僕は映画に関係している北村克彦というものです", "じゃ、いま窓から叫んだ人をご存知ですか", "今のは僕の友人らしいです。股野重郎という元男爵ですよ", "じゃ、はいって見ましょう。どうも、ただごとではないですよ" ], [ "妙ですね、家族は誰もいないのでしょうか", "さア、主人と細君と女中の三人暮らしですが、主人だけというのはおかしい。細君も女中もあまり外出しない方ですから" ], [ "仕方がない。裏口へ廻って見ましょう。裏口もしまっていたら、窓からでもはいるんですね", "あなた裏口への道を知ってますか", "知ってます。こちらです。もっとも、あいだに板塀の仕切りがあって、そこの戸を開かなければなりませんがね" ], [ "玄関のドアを破るのですか", "いや、破る必要はありません。見ててごらんなさい" ], [ "もしもし、だれかいませんか", "股野君、奥さん、姉やもいないのか" ], [ "誰もいないのでしょうか", "構いません、二階へ上がって見ましょう。ぐずぐずしている場合じゃありません" ], [ "だめだ。鍵がかかっている", "ほかに入口は?", "隣の寝室からもはいれます。あのドアです" ], [ "仕方がない。また錠前破りですね", "やって見ましょう" ], [ "だれです、この人は", "股野君の奥さんですよ" ], [ "奥さんもよかったですね。北村さんのようなうしろ楯ができて、かえってお仕合せでしょう", "なくなった主人には悪いのですけれど、あたし、あの人と一緒にいるのが、なんとも云えないほど苦しかったのです。ご存知のような憎まれものでしたから" ], [ "そういう話は、しばらくお預けにしましょう。それよりも、犯人はまだあがりませんか。あれからずいぶん日がたちましたが", "それを云われると、今度は僕が恐縮する番ですよ。いやな言葉ですが、これはもう迷宮入りですね。あらゆる手段をつくしたのですが、結局、容疑者皆無です", "と云いますと", "股野さんの帳簿にあった債務者を、全部調べ終ったからです。そして、一人も疑わしい人物がなかったからです。大部分は確実なアリバイがありました。アリバイのない人たちも、あらゆる角度から調べて、全部『白』ときまったのです", "債務者以外にも、股野君には敵が多かったと思いますが……", "それも出来るだけ調べました。あなたや奥さんからお聞きしたり、そのほかの映画界の人たちから聞いた股野さんの交友関係は、すっかり当って見ました。こちらも容疑者皆無です。こんなきれいな結果は、実に珍らしいのですよ。どこかに奥歯に物のはさまったような感じが残るのが普通です。今度の事件にはそれが全くありません。実にきれいなものです。不思議なくらいです" ], [ "それでね、今日はもう一度、あなた方に考えていただきたいと思って、やって来たのです。前にお聞きしたほかに、うっかり忘れていたような、股野さんの知人、多少でも恨みをもっていそうな知人はないでしょうか。これは、殊に奥さんに思い出していただきたいのですが", "さア、そういう心当りは、いっこうございませんわ。あたし股野と結婚してから三年にしかなりませんので、それ以前の事は、全くわからないと云ってもいいのですし……" ], [ "股野君は、誰にも本心をうちあけない、孤独な秘密好きの性格でしたから、僕だけではない、誰にも深いことはわかっていないと思います。別に日記をつけるではなし、遺言状さえ書いていなかったのですからね", "そう、そこが僕らの方でも、悩みの種ですよ。こういう場合に、本心をうちあけた友人がないということは、捜査には何よりも困るのです" ], [ "犯人を隠す映画はどうもうまく行きませんね。僕の書いたのはその方なんだが、大体失敗でした。やっぱりスリラーがいい。それか倒叙探偵小説ですね。犯人が最初からわかっていて、しかもサスペンスとスリルのあるやつに限ります", "どうです、股野の事件は映画になりませんか" ], [ "花田さんも、なかなか詩人ですね。血なまぐさい犯罪捜査の中にも、時には詩があるでしょうね。物の哀れもあるでしょうね", "物の哀れはふんだんですよ。僕はどうも犯人の気持に同情するたちでしてね。わるいくせです。捜査活動に詩人的感情は大禁物です" ], [ "この犯罪は手掛りが皆無のようだから、物質的証拠ではどうにもなるまいという意見です。心理的捜査のほかはないだろうという意見です", "で、その相手は?", "それはたくさんありますよ。一応白くなった連中が全部相手です。とても僕一人の力には及びません。ほかに二人の課のものが、これにかかりきっていますが、心理捜査なんて、全く慣れていませんからね。むずかしい仕事ですよ", "警視庁も、次々と大犯罪が起っているので、忙しいでしょうしね", "忙しいです。今の人員ではとてもさばききれません。しかし、迷宮入りの事件については、われわれは執念深いのです。全員を動かすことはできませんが、ごく一部のものが、執拗に何本かの筋を、日夜追及しています。われわれの字引きには『諦め』という言葉がないのですよ" ], [ "どうしたんだ。なにかあったのか", "あたし、もう持ちこらえられないかも知れない。ズーッと尾行されて来たの。のぞいてごらんなさい。まだ門の前にウロウロしてるでしょう" ], [ "あいつかい? 黒いオーバーを着て、鼠色のソフトをかぶった", "そうよ。花田さんの部下だわ。気がついたのは渋谷の駅なの。あたしと同じ電車に乗っていて、いっしょに降りたのよ。そして、姉さんのうちまでズーッと。あたし、あすこに三時間もいたでしょう。だからもう大丈夫だろうと思って、姉さんのうちを出ると、いつのまにか、あとからコツコツやってくるの。ウンザリしちゃったわ。こんなふうに毎日尾行されるんじゃ、やりきれないわ", "神経戦術だよ。証拠は一つもありやしないんだ。こういういやがらせをして、僕たちが尻尾を出すのを待ちかまえているんだ。その手に乗っちゃいけない。相手の戦術なんだからね。こっちさえ平然としてれば、向うの方で参ってしまうよ", "あなたはいつもそんなこと云うけれど、嘘を隠し通すって、ほんとに苦しいことね。もうたくさんだわ。あたし、多勢の前で、大きな声でわめいてやりたくなった。股野を殺したのは北村克彦です。その共犯者はあたしですって" ], [ "ねえ、あけみ、君は女だから、ふっと弱気になることがあるんだ。思い直してくれ。若し僕らが参ってしまったら、ふたりの生涯は台なしなんだぜ。僕だけじゃない、君も共犯として裁判をうける。そして、恐ろしい牢屋に入れられるんだ。そればかりじゃない。たとい刑期が終っても、金は一文もないし、世間は相手にしてくれない。それを考えたら、どんな我慢でも出来るじゃないか。ね、しっかりしてくれ", "そんなこと、あたしだって知ってるわ。でも、理窟じゃだめ。このいやあな、いやあな、地獄の底へ沈んで行くような気持は、どうにもならないんですもの", "君はヒステリーだ。睡眠不足だよ。アドルムをのんで、グッスリ寝たまえ。少しでも苦しみを忘れることだよ。僕はウィスキーだ。あの懐かしいジョニー・ウォーカーだ" ], [ "黒い外套に、鼠色のソフトをかぶった男?", "いいえ、茶色のオーバーに鳥打帽です。人相のわるいやつです" ], [ "どうかしたのかい? 加減でもわるいの?", "いいえ" ], [ "あなた、どうしましょう。もうおしまいだわ。あたし、もう精も根もつきはてた", "おれもウンザリした。だが、まだ負けられない。こうなれば、どこまでも根くらべだ。相手には確証というものが一つもないのだからね。われわれが白状さえしなければ、決して負けることはないんだ", "だって、花田さんでさえあれでしょう。手袋とベルトの手品を見せつけられたとき、あたし、もうだめだと思った。相手はすっかり知り抜いているんだもの。股野が死んだあとで、あたしが替玉になって、窓から助けてくれと云ったことも、軍手のトリックも、そうして、あなたのアリバイを作ったことも、それから、あたしが自分で自分を縛って、洋服ダンスにとじこめられたように見せかけたことも、何から何まで、すっかりバレてしまっているじゃありませんか。この上、明智さんが乗り込んで来たら、ひとたまりもないわ", "ばかだな。知っているといっても、それは想像にすぎないんだ。なるほど明智の想像力は怖いほどだが、あくまで想像にすぎない。だからこそ、あんな手品なんかで、僕らに神経戦を仕掛けているんだ。ここでへこたれたら、先方の思う壺じゃないか。おれは明智と会うよ。会って堂々と智恵比べをやって見るんだ。蔭にいるから、変に恐ろしく感じるけれど、面と向かったら、あいつだって人間だ。おれは決して尻尾をつかまれるような、へまはしない" ], [ "あなた、怖くない? あたし、その辺に何だかいるような気がする。いつかの晩も、廊下のくらがりに、幽霊が隠れているような気がした。それとおんなじ気持よ", "また変なことを云い出した。君のヒステリーだよ" ], [ "あなた、どうしてあの晩、股野ととっ組みあいなんかしたの? どうして頸なんかしめたの? どうして殺してしまったの。あなたが殺しさえしなければ、こんなことにはならなかったんだわ", "ばかッ、何を云うのだ。あいつが死んだからこそ、君は金持ちになったんじゃないか。おれとこうしていられるんじゃないか。それに、おれは別に計画して股野を殺したわけじゃない。あいつの方で、おれの頸をしめて来たから、おれもあいつの頸をしめたばかりだ。若しあいつの方が力が強かったら、おれが殺されていたんだぜ。だから、正当防衛だ。しかし、それを名乗って出たら、君と一緒になれなかった。君も証人として裁判所に呼び出されただろう。遺産相続だって、出来たかどうかわからないぜ。そういうことにならないために、おれがあのトリックを考え出したんじゃないか。そして、お互に幸福になれたんじゃないか。どんなことがあっても、この幸福は守らなければならない。おれはまだ戦うよ。明智小五郎と一騎打ちをやるよ" ], [ "君は何の権利があって、人のうちへ無断ではいって来たんだ。出て行きたまえ。すぐに出て行ってもらおう", "ひどいことを云いますねえ。僕は君のマージャン友達、トランプ友達、そして、呑み仲間じゃありませんか。だまってはいって来たって、そんなに他人行儀に怒られるはずはないのですがねえ。それよりも、北村さん、今いう通り、楽になられてはどうですか" ], [ "楽になるとは、どういう意味だ", "つまり、告白をしてしまうんですよ。あなた即ち北村克彦が股野重郎を扼殺した犯人で、そのにせアリバイを作るために、元の股野夫人あけみさんが、股野さんの替玉になって、窓から顔を見せ、助けを呼ぶというお芝居をやったことをね" ], [ "ばかな、そんなことは君たちの空想にすぎない。僕は白状なんかしないよ", "ハハハ、なにを云ってるんです。たった今、君とあけみさんとで、白状したばかりじゃありませんか。あれだけ喋べったら、もう取り返しがつきませんよ", "証拠は? 君が立ち聞きしたというのかい。そんなこと証拠にならないよ。君は嘘をいうかも知れないのだからねえ。僕があくまで否定したら、どうするんだ", "否定はできそうもありませんねえ", "なんだって?", "ちょっと、そこをごらんなさい。ベッドの枕の方の壁ですよ。電燈がとりつけてある腕金の根もとですよ" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第18巻 月と手袋」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年10月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十五巻」春陽堂    1955(昭和30)年11月 初出:「オール讀物」文藝春秋新社    1955(昭和30)年4月 ※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。 入力:nami 校正:ニオブ 2019年10月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "058463", "作品名": "月と手袋", "作品名読み": "つきとてぶくろ", "ソート用読み": "つきとてふくろ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「オール讀物」文藝春秋新社、1955(昭和30)年4月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2019-11-12T00:00:00", "最終更新日": "2019-10-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card58463.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第18巻 月と手袋", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年10月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年10月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年10月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第十五巻", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1955(昭和30)年11月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "nami", "校正者": "ニオブ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/58463_ruby_69515.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-10-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/58463_69566.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-10-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "本泥坊でしょう。どうも変ですね。僕も此処へ入って来た時から、見ていたんですよ。これで四人目ですね", "君が来てからまだ三十分にもなりませんが、三十分に四人も、少しおかしいですね。僕は君の来る前からあすこを見ていたんですよ。一時間程前にね、あの障子があるでしょう。あれの格子の様になった所が、閉るのを見たんですが、それからずっと注意していたのです", "家の人が出て行ったのじゃないのですか", "それが、あの障子は一度も開かなかったのですよ。出て行ったとすれば裏口からでしょうが、……三十分も人がいないなんて確かに変ですよ。どうです。行って見ようじゃありませんか", "そうですね。家の中に別状ないとしても、外で何かあったのかも知れませんからね" ], [ "主人はどこへ行ったのかね", "ここの主人は、毎晩古本の夜店を出しに参りますんで、いつも十二時頃でなきゃ帰って参りません。ヘイ", "どこへ夜店を出すんだね", "よく上野の広小路へ参ります様ですが。今晩はどこへ出ましたか、どうも手前には分り兼ねますんで。ヘイ", "一時間ばかり前に、何か物音を聞かなかったかね", "物音と申しますと", "極っているじゃないか。この女が殺される時の叫び声とか、格闘の音とか……", "別段これという物音を聞きません様でございましたが" ], [ "私は長らくここへ店を出させて貰ってますが、あすこは、この長屋のお上さん達も、夜分は滅多に通りませんので、何分あの足場の悪い所へ持って来て、真暗なんですから", "君の店のお客で路地の中へ入ったものはないかね", "それも御座いません。皆さん私の目の前でアイスクリームを食べて、すぐ元の方へ御帰りになりました。それはもう間違いはありません" ], [ "僕は丁度八時頃に、この古本屋の前に立って、そこの台にある雑誌を開いて見ていたのです。すると、奥の方で何だか物音がしたもんですから、ふと目を上げてこの障子の方を見ますと、障子は閉まっていましたけれど、この格子の様になった所が開いてましたので、そのすき間に一人の男の立っているのが見えました。しかし、私が目を上げるのと、その男が、この格子を閉めるのと殆ど同時でしたから、詳しいことは無論分りませんが、でも、帯の工合で男だったことは確かです", "で、男だったという外に何か気附いた点はありませんか、背恰好とか、着物の柄とか", "見えたのは腰から下ですから、背恰好は一寸分りませんが、着物は黒いものでした。ひょっとしたら、細い縞か絣であったかも知れませんけれど。私の目には黒無地に見えました" ], [ "それは変ではありませんか。君達の内どちらかが間違いでなけりゃ", "決して間違いではありません", "僕も嘘は云いません" ], [ "僕はあれから、種々考えて見たんですよ。考えたばかりでなく、探偵の様に実地の取調べもやったのですよ。そして、実は一つの結論に達したのです。それを君に御報告しようと思って……", "ホウ。そいつはすてきですね。詳しく聞き度いものですね" ], [ "では、例えば指紋のことはどういう風に考えたらいいのですか?", "君は、僕があれから何もしないでいたと思うのですか。僕もこれで却々やったのですよ。D坂は毎日の様にうろついていましたよ。殊に古本屋へはよく行きました。そして主人をつかまえて色々探ったのです。――細君を知っていたことはその時打明けたのですが、それが却って便宜になりましたよ――君が新聞記者を通じて警察の模様を知った様に、僕はあの古本屋の主人から、それを聞出していたんです。今の指紋のことも、じきに分りましたから、僕も妙に思って検べて見たのですが、ハハ……、笑い話ですよ。電球の線が切れていたのです。誰も消しやしなかったのですよ。僕がスイッチをひねった為に燈がついたと思ったのは間違で、あの時、慌てて電燈を動かしたので、一度切れたタングステンが、つながったのですよ。スイッチに僕の指紋丈けしかなかったのは、当りまえなのです。あの晩、君は障子のすき間から電燈のついているのを見たと云いましたね。とすれば、電球の切れたのは、その後ですよ。古い電球は、どうもしないでも、独りでに切れることがありますからね。それから、犯人の着物の色のことですが、これは僕が説明するよりも……" ] ]
底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社    2004(平成16)年7月20日初版1刷発行 底本の親本:「江戸川乱歩全集 第三巻」平凡社    1932(昭和7)年1月 初出:「新青年」博文館    1925(大正14)年1月増刊 入力:砂場清隆 校正:湖山ルル 2016年1月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056650", "作品名": "D坂の殺人事件", "作品名読み": "ディーざかのさつじんじけん", "ソート用読み": "ていいさかのさつしんしけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1925(大正14)年1月増刊", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-02-21T00:00:00", "最終更新日": "2016-01-01T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/card56650.html", "人物ID": "001779", "姓": "江戸川", "名": "乱歩", "姓読み": "えどがわ", "名読み": "らんぽ", "姓読みソート用": "えとかわ", "名読みソート用": "らんほ", "姓ローマ字": "Edogawa", "名ローマ字": "Ranpo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-10-21", "没年月日": "1965-07-28", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年7月20日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年7月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年7月20日初版1刷", "底本の親本名1": "江戸川乱歩全集 第三巻", "底本の親本出版社名1": "平凡社", "底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年1月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "砂場清隆", "校正者": "湖山ルル", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56650_ruby_58200.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-01-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56650_58209.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
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おうちへ帰りたいわ。", "もう、じきに帰れます。ここにいると、パパがくるのです。それまでおじさんとふたりでいるのです。", "ほんとに、パパくるの?", "ええ、ほんとです。" ], [ "ミドリちゃん、さびしいですか。", "ううん、さびしくないわ。おじちゃんがいるんだもの。", "わたしも、ミドリちゃんがいるからさびしくない。おじさんは、ひとりも友だちがなくて、さびしいから、ミドリちゃんを連れてきたのです。友だちになってくださいね。ね、ね。", "ええ、なってあげるわ。でも、暗いわね。顔が見えないわね。電気つかないの?", "ここは電気つきません。朝になったら、明るくなります。ミドリちゃん、つかれたでしょう。そこに、ワラがたくさんあるから、その上で、ねなさい。わたし、番をしてあげるから、安心してねなさい。" ], [ "あ、これは正木君だぜ。", "うん、そうだ。正木巡査だ。いったい、どうしたというのだろう。" ], [ "おい、どうしたんだ。鉄人Qに出会わなかったのか。", "なんだか、わけがわからない。いきなり、がくんときて、気が遠くなったんだ。うしろからなぐられたらしい。" ], [ "だれがなぐったんだ。", "ほかにだれもいるはずがない。あの人造人間のやつにきまっている。鉄の腕で、なぐりやがった。おそろしい力だった。", "そして、服をぬがされたのか。" ], [ "あっ、服がない。あいつが持っていったのかな。", "きみを、はだかにしたのは、どういう意味かわかるか。", "うん。それは……、あっ、そうだ。あいつ、巡査にばけて逃げやがったなっ。", "人造人間にしては、おそろしく悪知恵のあるやつだな。あいつは、でっかいからだをしているから、大男のきみの服が、ちょうどよかったのにちがいない。", "ウーン、ちくしょうめっ。" ], [ "鉄人Qと人形じいさんは、秘密の通路から川の方へおりていったにちがいないよ。この西洋館の下には川の水がはいりこんでいるんだぜ。だから、そこに船がつないであって、あいつらは、船に乗って逃げるかもしれないよ。", "あっ、そうだね。いいことを教えてくれた。すぐ中村さんに話して、その方の見はりをすることにしよう。" ], [ "そりゃ、だれも鉄人Qを見た人がいないからだよ。まさか、広告ビラをくばっているサンドイッチマンが、あの大怪物鉄人Qだとは、思わないからね。", "それじゃあ、あいつが鉄人Qに、まちがいないね。", "うん、まちがいないよ。ね、きみ、どうすればいいだろう。おまわりさんに、知らせようか。", "うん、それもいいけど、もうすこし、見はっていて、あいつがどこへ帰るか、あとをつけてみようじゃないか。" ], [ "ええ、おばけのまねをしていただけよ。", "きみは、ここのうちの子かい。", "そうじゃないわ。ロボットに、さらわれてきたのよ。", "へえ、さらわれたの? 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底本:「塔上の奇術師/鉄人Q」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年7月8日第1刷発行 初出:「小学四年生」講談社    1958(昭和33)年4月号~1959(昭和34)年3月号    「小学五年生」講談社    1959(昭和34)年4月号~1960(昭和35)年3月号 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2017年3月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ぼくは、じつは木村さんのつかいではありませんよ。", "え、それじゃ、さっきの電話は?", "あれは、ちょっと木村さんの名をかりてぼくがかけたのです。ぼくは、こわいろがうまいでしょう。" ], [ "さあ、返事はどうだね。", "ハハハ……、そんな金は出せないよ。この日本の中に、べつの王国ができたなんて、だれが信じるものか。それに、一千万円という大金は、わしには、きゅうにどうすることもできないよ。" ], [ "なんだい、まっさおな顔をして。どうかしたのかい。", "カブトムシ、がい骨のもようのあるカブトムシが、ぼくの机の上に……。" ], [ "どこに? 廊下には、なにもいないじゃないか。", "ほかへ行くひまはありません。ぼくはすぐあとから、おっかけたのですから。みょうだなあ、たしかに、この廊下に、いるはずなんだが。そちらの茶の間のほうへは行かなかったでしょうね。", "くるはずがないよ。わたしたちがいたんだからね。", "すると、どこにも、にげみちはないはずですね。ふしぎだなあ。", "おまえ、夢でも見たんじゃないのか。", "いいえ、けっして、夢なんかじゃありません。" ], [ "いいえ、この部屋にはなにもいません。", "きみは、まっ暗な書斎で、なにをしていたんだ。", "本だなの本をおかりしに、はいったのです。いつでも、かってに読んでいいとおっしゃったものですから。本をさがして、電灯を消して、出ようとすると、廊下がさわがしくなったので、ちょっと、出そびれていたのです。" ], [ "わたしじゃない。そこには白い用紙がおいてあったばかりだ。", "それじゃ、やっぱりそうです。あいつが、書きのこしていったのです。" ], [ "ちがいます。ぼくでも賢ちゃんでも、そんなもの書きません。", "青木はどうした。まさか青木が書いたのでもあるまいが……。" ], [ "青木君、どこへ行ってたんだ。", "はい、ぼく、自分の部屋で、寝ていました。", "なに、寝ていたって? バカをいいなさい。いましがた、この書だなから、本をさがして、出ていったばかりじゃないか。", "いいえ、ぼくは書斎へはいったおぼえはありません。たしかに、自分の部屋で、寝ていたのです。", "まさか、きみは、ねむったまま、歩きまわる夢遊病者じゃあるまいな。", "そんなことは、一度もありません。" ], [ "どうでしょうか。先生、ぜひ、ごしょうちねがいたいのですが……。", "きみは、ぼくに、それをたのみたいというのかね。" ], [ "きみにきくがね。きみはいったい、だれと話をしていると思っているんだね。", "むろん、先生とです。先生に、事件のごいらいに来たのです。", "先生って、だれだね。", "明智小五郎先生です。" ], [ "あなたは、明智先生じゃないのですか。", "わしが明智に見えるかね。", "え、なんですって。", "おれが明智に見えるかと、きいたのさ。ハハハハ……。おれも変装がうまくなったものだなあ。アハハハ……。" ], [ "さては、きみは、おばけカブトムシの同類だなっ。", "ハハハ……、そのとおり。きみは、なかなか頭がいいよ。", "で、ぼくをどうしようというのだ。", "ちょっと、とりこにしておくのさ。おっと、にげようったって、にげられやしないよ。そうそう、そこに立っていなさい。いま、明智探偵の発明したカラクリじかけをお目にかけるからね。名探偵さん、いいものを発明しておいてくれたよ……。" ], [ "高橋さんのうちの広田さんでしょう。ぼくですよ、ぼくですよ。", "ぼくって、だれだ。" ], [ "にせものじゃありませんよ。にせものだったら、こんな地下室にとじこめられているはずが、ないじゃありませんか。", "ふーん、すると、きみも、悪人のために、ここへ落とされたのか。", "そうですよ。あいつ、なんて変装がうまいんだろう。ぼくも、ほんとうの明智先生だとおもって、ゆだんしたのです。そして、落とし穴へ、落とされてしまったのです。", "明智探偵事務所には、もとからこんな落とし穴があったの?", "ええ、あったのです。先生は、悪人をとらえるために、この落とし穴をつくっておかれたのです。それを、あべこべに、敵に利用されたのですよ。", "それじゃ、ほんとうの明智さんはどこにおられるのだろう。まさか、明智探偵まで、敵のとりこになったのじゃあるまいね。", "二―三日、旅行中なのです。べつの事件で、大阪のほうへいかれたのです。きょうか、あす、お帰りになるはずだったので、ぼくは、にせものにだまされたのですよ。あいつが、先生とそっくりの顔と、そっくりの服で、いま帰ったよって、はいってきたものですから。", "ふーん、きみまでだますとは、よくよく変装のうまいやつだね。だが、この落とし穴には、ぬけみちでもないのかね。なんとかして、ここを出るくふうはないのかね。", "ぬけみちなんてありませんよ。ここへ落ちたら、もうおしまいですね。てんじょうまで四メートルもありますよ。はしらもなんにもないから、人間わざでは、のぼりつくこともできません。" ], [ "いいこころもちだよ。ヒヤヒヤとすずしくってね。それに、広田さんという話しあいてを、おくってくれたので、とうぶん、たいくつしないよ。", "ハハハ……、まけおしみをいってるな。だが、安心したまえ。きみたちを殺しやしない。こっちの仕事のすむまで、二―三日のしんぼうだよ。二―三日で、うえ死にするわけもないからね。", "ぼくたちは、だいじょうぶだよ。それより、きみこそ、用心するがいい。いまに明智先生が帰ってくるからね。そうすれば、きみはすぐ、つかまってしまうんだからね。" ], [ "アッ、きみ、懐中電灯もってたの?", "探偵七つ道具のうちには、むろん、懐中電灯がはいっています。ごらんなさい。これがぼくの七つ道具です。ほらね、ぼくはどんなときでも、胴巻きのように、この袋を腹にまいているのですよ。" ], [ "やあ、よくおいでくださいました。新聞などの写真で、お顔はよく知っています。つかいのものからおききくださったでしょうが、わたしの次男の小学校四年生の子どもが、カブトムシにねらわれているのです。先生のお知恵で、なんとか、子どもを助けていただきたいと思いまして。", "それは、うかがいました。ぼくのところへ、つかいにみえた書生さんは、もう帰っているのでしょうね。ちょっと、ここへよんでくれませんか。" ], [ "いいえ、書生の広田は、まだ帰りません。先生といっしょじゃなかったのですか。", "いや、書生さんは、ぼくが、じきにおうかがいするというと、よろこんで、いそいで帰ったのです。自動車で帰るといっていましたから、まだつかぬというのは、へんですね。" ], [ "へんだなあ。まさか、こんなさいに、より道なんかしているはずはないが。先生よりも、よほどまえに、おたくを出たのですか。", "そうですね。ぼくよりも三十分ほどまえにです。電車にのったとしても、とっくに、ついているはずです。これは、ひょっとしたら……。", "え、なんとおっしゃるのです?", "カブトムシの怪物団のために、さらわれたのかもしれませんよ。大カブトムシが、賢二君の部屋へしのびこむのを、さいしょに発見して、さわぎたてたのは広田君でしたね。そのふくしゅうかもしれませんよ。" ], [ "先生、広田がさらわれたとすると、いよいよ、すててはおけません。賢二をたすけてください。なんとか、うまい方法はないでしょうか。", "そうですね。ともかく、賢二君を、ここへよんでみてくれませんか。" ], [ "いかがですか、その味は? ぼくはタバコだけは、ぜいたくをしているのですよ。", "いや、けっこうです。ひさしぶりに、うまいタバコを吸いました。ありがとう。" ], [ "葉巻きをのんだからさ。あの葉巻きにはね、麻酔薬が、しこんであったのだよ。ハハハハハ。", "だれです? おじさんは、だれです?" ], [ "これは魔法のつえですよ。たった三十センチの筒が、たちまち、三メートルにのびるのですよ。", "へー、ほんとうかい?" ], [ "あいつは、どこへでかけたんだろう?", "きまってますよ。明智先生になりすまして、高橋さんのうちへのりこんだのです。そして、なんとかうまくごまかして、賢二君をつれだすつもりです。さあ、いきましょう。グズグズしていると、賢二君が、どんなめにあうかもしれませんよ。" ], [ "どうも、わからないのですよ。タイヤが四つとも、パンクしちゃったんです。", "なんだって、四つともパンクした? そんなバカなことがあるもんか。よくしらべてみろ。夢でも見たんじゃないか。" ], [ "そういえば、なんだかこびとみたいなやつが、あっちへ走っていきました。暗くてよくわからなかったけれど……。", "なにっ、こびとだって? それじゃ、もしかすると……。" ], [ "だが、すぐつぶれちまいますぜ。とても遠くまでは、いけませんよ。", "かまわん。ともかく、出発するんだっ。" ], [ "いたずらじゃありませんよ。ぼくは、わるもののために、カブトムシの中へとじこめられたのです。", "わるものだって?", "ええ、鉄塔王国の怪人です。" ], [ "それじゃ、夜中に銀座通りを歩いていた大カブトムシは、こんなこしらえものだったのか。なかに人間がはいって、動いていたのか。", "そうかもしれません。そうでないかもしれません。あいつらは魔法つかいですから、なにをやるかわかりません。ぼくを、こんなものにいれて、ビルの中へ、ころがしておいたのも、なにかわけがあるのです。カブトムシなんて、こしらえものだと思わせて、ゆだんさせるためかもしれません。", "それにしても、きみはどうして、こんなめにあったんだ?" ], [ "ところが、ぼくには、大きなしかえしになるのですよ。ぼくの名誉がメチャメチャになってしまうのですよ。", "きみの名誉だって? そんなにきみは、名誉の高い子どもなのかい?", "そうです。ぼくは、少年名探偵として、わるものどもに、おそれられているんです。それが、こんなはずかしいめにあっちゃ、ぼくは先生にだって、あわせる顔がありません。" ], [ "先生だって? 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それはいったい、どういういみです。", "手品ですよ。じつにうまいことを考えたものだ。にせ警官がカブトムシのぬけがらを、ふたりでかかえて出たといいますね。さっきのお話では、ビニールでできた、そのカブトムシのからだは、こうもりがさのように、小さくおりたためたというじゃありませんか。そうすれば、なにもふたりでかかえなくても、ひとりで持てるはずです。それをおりたたみもしないで、もとのかたちのままで、ふたりでかかえていったというのは、へんではありませんか。" ], [ "あっ、それじゃ、あの中へ賢二を……。", "そうです。そのほかに考えようがないのです。賢二君をしばって、さるぐつわをして、カブトムシのぬけがらの中に、とじこめたのです。だから、おりたたむことが、できなかったのです。ふたりがかりでなくては、はこべなかったのです。", "ああ、そうだったのか、そこへ気がつかないとは、わたしはなんというバカだったのでしょう。カブトムシが小さくおりたためることは、書生にきいて知っていました。しかし、あいてを警官だと信じていたので、そこまでうたがわなかったのです。まんまと手品にひっかかりました。じつに、とりかえしのつかない失敗でした。" ], [ "もしもし、きみはだれだね。……うん、わしは賢二の父の高橋太一郎だ。", "おれはカブトムシだよ。わかるかね。ウフフフフ……。おい、高橋さん、さっそくだが、とりひきの相談だ。賢二君と、このまま一生わかれてしまうか、一千万円か、どちらかだ。きみの身分で、一千万円はたいした金額じゃない。かわいい賢二君を買いもどしたらどうだね。", "わしは、いま手もとに、そんな大金はない。", "あした一日でできるだろう。きみが、銀行にどれほど預金があるか、株券をどれほど持っているか、おれはちゃんとしらべているのだ。あすの夕方までに一千万円をつくるのはわけはない。", "賢二はいま、どこにいるのだ。", "東京にいる。おれは手あらいことはしないから、心配しないでもよろしい。しかし、身のしろ金を持ってこなければ、きみはかわいい賢二君と、一生あうことができなくなるのだ。", "身のしろ金を、どこへ持っていけばいいのだ。", "いまくわしく教える。紙とえんぴつを用意したまえ。……いいかね、あすの晩、九時だ。ちょっきり九時にくるのだ。場所は、新宿駅から八王子街道を、西へ一キロ半ほど行くと、右に常楽寺という大きな寺がある。その寺のうしろの墓地のうらに、戦災でやられたままになっている大きなやしきのあとがある。コンクリートのへいがこわれて、中は草ぼうぼうのばけものやしきだ。建物は焼けてしまったが、洋館のレンガの壁だけが、少しのこっている。その壁の中へはいって、よくさがすと、地下室への階段が見つかる。それをおりて、地下室へはいるのだ。おれはそこで待っている。", "賢二を、そこでひきわたすのか。", "そうだ。一千万円の札たばとひきかえだ。現金でなくちゃいけない。ちょっとかさばるし、重いけれども、ふろしきづつみを二つにして、両手でさげれば持てないことはない。……常楽寺の前まで自動車できてもかまわない。だが、そこでおりて自動車を帰し、きみひとりになるのだ。そして、ふろしきづつみをさげて、墓場のうらてまでくればいい。おれはまちがいなく地下室で待っている。暗いから懐中電灯を持ってきたほうがよろしい。" ], [ "よろしい。あすの晩九時までに、一千万円の現金を持って、その地下室へ行くことにする。きみのほうも、賢二をかならずつれてくるのだぞ。", "だいじょうぶだ。いまきみは、だれかと相談したね。中村警部がそこにいるんじゃないかね。よろしくいってくれたまえ。……警察は、われわれの出合いの場所を知ったわけだね。だから、おおぜいで、おれを待ちぶせして、つかまえようとするだろうね。しかし、それはよすようにいってくれたまえ。おれのほうには、あらゆる準備ができているのだ。つかまるようなへまはけっしてしない。それよりも、そんなことをすれば、きみは永久に賢二君にあえなくなる。わかったね。中村君にも、よくいっておくんだ。じゃあ、まちがいなく、九時だよ。" ], [ "ジンタンなんて持ってないね。そんなにいたいのかい。", "なあに、たいしたこたねえんです。じきによくなります。" ], [ "賢二君はここにいる。きみはひとりだろうね。", "ひとりだ。やくそくにはそむかないよ。", "よし、おりてきたまえ。" ], [ "賢二は? 賢二はどこにいるんだ。", "よく見たまえ。おれのうしろの部屋のすみっこにいる。泣き声をたてられると、うるさいから、さるぐつわがはめてある。きみにひきわたすまでは、このままにしておくよ。" ], [ "さあ、ここに、やくそくの一千万円をもってきた。これをやるから、はやく、賢二の縄をといてくれ。", "よし、金はたしかに、うけとった。まさかにせ札ではなかろう。きみは、そんなこざいくをする人とはおもわない。しかしもしにせ札だったら、おれのほうには、ちゃんと、しかえしのてだてがあるんだからな。……それじゃ、賢二君はかえしてやる。おれは、こんな不自由なからだだから、きみがここへ来て、縄をといて、かってに、つれていくがいい。" ], [ "どうして、賢二のかえだまになったんだ。わたしは、きみを賢二だとおもいこんでいたんだよ。", "ぼく、学校の帰りに、変なやつにつかまって、ここへ、つれてこられたのです。そして、口と手をしばられたんです。でも、がまんしていれば、いまに高橋さんという人が来て、その人につれられていけば、おうちへ帰れるし、それから、エンジンで動く大きな船のオモチャを、くれるっていうやくそくだったんです。おじさんは高橋さんだから、ぼくに船をくれるんでしょう。" ], [ "そうだったか。それにしても、きみはあのカブトムシのおばけが、こわくなかったのかね。", "こわかったよ。でも、しばられてるので、にげだせなかった。それに、ぼくをここへつれてきた変なやつが、にげると殺してしまうといったんです。" ], [ "あっ、それじゃ、あなたは……。", "明智小五郎です。おわかりになりましたか。" ], [ "そうです。怪人団の首領が、のっていただろうとおもいます。", "それを、あなたは、にがしてしまったのですか。自動車に気づいていながら、なにもしなかったのですか。", "いや、なにもしなかったのではありません。そこにいるご用ききにばけた刑事さんは、女こじきが、ひとりの子どもこじきをつれていたことを、しっているでしょう。あの子どもこじきは、どこへいったと思います。怪人の自動車のどこかにかくれて、尾行しているのです。ひじょうな冒険です。しかし、あの少年ならだいじょうぶですよ。", "あっ、それじゃあ、あの子どもこじきは、先生の助手の小林君だったのですか。" ], [ "ぼく、道にまよってね、このへんの山んなかを歩きまわったんだよ。そうすると、このむこうの方に大きな鉄のお城があったよ。おじさん知ってる?", "知ってるとも。", "あれ、だれのお城なの? だれがすんでいるの?", "ばけものがすんでいるさ。", "えっ、ばけものだって?", "カブトムシのばけものだ。この山んなかに、イノシシほどもあるカブトムシのばけものが、ウジャウジャすんでるだ。ふもとの村でも、それを知ってるから、だれもこの山へのぼらねえ。おれたちのなかまの猟師や木こりも、みんなにげだしてしまった。おれはごうじょうもんだからな、にげねえ。いまじゃ、この山んなかに、すんでるのは、おれひとりになっちまった。ワハハハ……。" ], [ "おじさん、そのカブトムシに、であったことあるの?", "なんどもあるよ。だが、おらあ、カブトムシのばけものだけは、うたねえ。たたりがおっかねえからな。カブトムシがあらわれたら、こっちでにげだすのよ。", "そのカブトムシが、あの鉄の城にすんでるの?", "そうだ。城の中にゃ、カブトムシの王さまがいるだ。ほかのカブトムシは、みんなその王さまのけらいだっていうことだ。", "鉄の門がピッタリしまっているね。あの門がひらくことがあるの?", "おらあ、ひらいているのを、見たことがねえ。いつでもピッタリしまってるんだ。おれは、いっぺん、おっかねえ音をきいたことがあるぞ。城の中が見たいとおもってね、あの鉄のへいのまわりを、グルグルまわってみたが、どこにもすきまがねえ。それで、おら、鉄の門に耳をおっつけて、中の音でも聞いてやろうとおもっただ。すると、なあ、小僧、おっかねえ音がきこえただ。何百というカブトムシがはいまわってる音だ。ゴジョ、ゴジョ、ゴジョ、ゴジョ、何千人の人が、ないしょ話をしているような、いやあな音だった。おら、ゾーッとして、いちもくさんに、にげだしただ。それからというもの、いくら命しらずのおらでも、気味がわるくて、あの城にゃ、近よる気がしねえ。遠くから、チラッとあの鉄の塔のてっぺんが見えても、おら、おじけをふるって、にげだすだよ。" ], [ "アハハハ……、カブトムシ大王っていうのは、きみのことだったのか。それにしても、まずい変装だね。変装の名人にも、にあわないじゃないか。", "なに、変装の名人だと?" ], [ "明智先生には、はじめからわかっていたんだよ。ただ、いわなかっただけさ……。", "なんだと……。" ], [ "小林さん、ぼくたち、どうして、ここをにげるの?", "待つんだよ。", "え、待つって?", "こんばんか、おそくても、あすの朝までに、おもしろいことが、おこるんだ。それまでの、しんぼうだよ。……ごらん、空がまっさおに、よく晴れているじゃないか。歌でもうたおうよ。" ], [ "小林さん、どうしたの? なにをしているの?", "電灯の光で、モールス信号を、やっているんだよ。ほら、よくごらん、ずっとむこうの方に、ホタルのような光が、見えるだろう。あれは懐中電灯だよ。むこうでも、信号をしっているんだ。", "えっ、じゃあ、あすこに人がいるんだね。いったい、あれは、だれなの?", "みかただよ。待ちに待った明智先生さ。", "えっ、明智先生?", "賢二君、ぼくはね、ここへくるときに、明智先生の事務所にかっている伝書バトをつれてきたんだよ。そのハトの足に、この鉄の城のある場所を、くわしく書いた通信をくくりつけて、ゆうべ、はなしてやったのさ。その通信がとどいて明智先生が助けにきてくださったのだよ。先生ひとりじゃない。長野県の警察から、おおぜいの警官隊もきているんだって。いまの懐中電灯の信号で、それがわかったんだよ。もうだいじょうぶだ。ねえ、賢二君、ぼくたちは助かったよ。", "わあ、すてき。伝書バトをとばすなんて、やっぱり小林さんは、えらいねえ。" ] ]
底本:「鉄塔の怪人/海底の魔術師」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年2月8日第1刷発行 初出:「少年」光文社    1954(昭和29)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2016年9月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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