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都シティ 大阪天王寺 概要 近鉄南大阪線・大阪阿部野橋駅に隣接する「阿部野橋ターミナルビル東館」に設置されたホテルで、JR西日本・天王寺駅東口の向かいに位置する。 近畿日本鉄道(近鉄)が所有、子会社の近鉄ホテルシステムズが運営し、客室数は200室。会議室・宴会場、レストラン、ラウンジを有する16階建ての白亜の建物である。 沿革 前身は1962年に国鉄天王寺駅の天王寺ステーションビル(同天王寺区悲田院町)の開業と同時に上層階にオープンした大阪都ホテルである。当初は客室95室と6つの宴会場、結婚式場を設けた施設であった。その後、1964年と1968年に増築が行われたことで151室となった。天王寺ステーションビルに大阪都ホテルを開設するに当たっては、近鉄もステーションビルへ出資したほか(現在は撤退)、運営会社として近鉄と都ホテルの共同で「株式会社大阪都ホテル」を設立している。 1983年に上本町駅ターミナル整備に伴い、近鉄は同駅に隣接して高層ホテル「都ホテル大阪」を建設することになったのに伴い、当ホテルは大阪都ホテルから「天王寺都ホテル」に改称、運営会社名も「株式会社天王寺都ホテル」と改められた。 近鉄は、阿部野橋ターミナル整備事業によりターミナルビルの増築工事が完成した(1988年)のに続き、新宿ごちそうビルを挟んだ東側にホテル棟となる東館を建設、1992年に現在の建物となる「天王寺都ホテル新館」が開業した。 以後、天王寺ステーションビルの旧館(営業時は本館)と新館の2館体制であったが、2001年8月に旧館は閉鎖し、新館に集約した。2006年1月1日にスカイラウンジ「エトワール」のランチバイキングが全席禁煙となる。 運営会社の株式会社天王寺都ホテルは1999年に近鉄ホテルシステムズ(初代)に営業譲渡し、天王寺都ホテル社はアール・イー・エム天王寺に称号を変更し2003年に清算した。近鉄ホテルシステムズ(初代)は2005年に吸収分割により近鉄に合併、ホテル営業は近鉄ホテルシステムズ(2代目・2015年4月に近鉄・都ホテルズに社名変更)。 2019年4月のブランド再編で、名称を「天王寺都ホテル」から「都シティ 大阪天王寺」に変更した。
1961年ウィンブルドン選手権 1961年 ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon 1961)に関する記事。イギリス・ロンドン郊外にある「オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ」にて開催。
英記茶荘 参考記事 新浪網(中国語)「英記茶荘-変化をしながら老舗を守る」
マーチン・パール 略歴 ニューヨーク出身。両親はロシアのポーランド人居住区からのユダヤ人移民。 1948年にブルックリンのポリテクニック大学(NYU タンドン・スクール・オブ・エンジニアリング)を卒業し、1955年にコロンビア大学で博士号を取得した。その後、ミシガン大学とSLAC国立加速器研究所(スタンフォード線形加速器センター)で働いた。 現在は米国のための科学者と技術者のアドバイザリー委員を務めている。
TOHOシネマズ渋谷 渋東シネタワー 1991年(平成3年)7月6日、渋谷東宝会館は『渋東シネタワー』と改称し、4スクリーンに増設して再オープンした。「渋東」の名称は、かつてこの地にあった「渋谷東宝」に由来する。 2006年(平成18年)9月30日までは、シネタワー1・2・4は東宝が、シネタワー3は2007年2月28日まで渋谷文化劇場が所有していたが、2007年(平成19年)3月1日よりTOHOシネマズに合併統合された。 TOHOシネマズ渋谷 2011年(平成23年)、開館から20周年を迎えた渋東シネタワーは大幅なリニューアル工事を実施。まず同年2月より上層階にあったシネタワー1と2を閉鎖・改装し、同年7月15日、TOHOシネマズ渋谷スクリーン1・2・3・4がオープン。次いで下層階のシネタワー3・4を改装し、同年11月30日にTOHOシネマズ渋谷スクリーン5・6がオープン。同時に全スクリーンの上映方式も長らく続いた35mmフィルム上映からデジタル上映へと移行した。これにより映画館としての渋東シネタワーは消滅することになったが、建物自体は引き続き渋東シネタワーの名称が使用されている。 TOHOシネマズになってからは、東宝系の邦画・洋画のみならず、丸の内ピカデリー1・2・3で上映される松竹映画やワーナー・ブラザース映画も一部上映するようになった。
堺市立陵南中学校 沿革 学制改革と同時の1947年に、堺市(当時の市域)で最初の中学校9校のうちの1校「堺市立第八中学校」として開校した。 開設当初は堺市立工業高等学校に本校を置き、堺市立深井小学校と堺市立東百舌鳥小学校の2ヶ所に分校を設置した。翌1948年には旧制堺市立百舌鳥高等女学校(現在の大阪府立堺西高等学校の前身校の一つ)跡に移転したが、1954年に元大阪府立大学教育学部跡の現在地に移転している。 地域の人口増加に伴って生徒規模が過大化したため、当校から堺市立東百舌鳥中学校・堺市立中百舌鳥中学校・堺市立深井中学校・堺市立深井中央中学校の4中学校が分離開校している。
関東バス阿佐谷営業所 車両 関東バスで唯一、国産4メーカー全ての車両が揃っている。日産ディーゼル(現:UDトラックス)製の車両が主体だが、いすゞ自動車製の車両の割合も多く、エルガとエルガミオが所属している。いすゞ自動車製の車両は、以前は阿佐谷営業所のみに配置されていたが、現在は武蔵野営業所にも配置されている。その他、ごくわずかに日野自動車製のブルーリボンⅡも所属する。 三菱ふそう製大型車は、日産ディーゼルのバス製造・販売が終了した2011年からエアロスターが導入されるようになり、当初は大型ワンステップバス1台(A1431号車)のみだったが、2017年7月に初めて大型ノンステップバス(2400番台)が配置されて以降徐々に数を増やしている。 以前は関東バスの他の営業所と同様に3扉車が多く、1995年には日産ディーゼル車に混じり、いすゞ自動車製の3扉車として1500番台が2台導入されていた。1996年から1997年に同じく富士重工7EボディのキュービックLTも導入され、廃車まで他の営業所に転属することなく活躍していた。 旧中野区コミュニティバス「なかのん」には、三菱ふそう製小型車であるエアロミディMEを使用していたが、現在は中型車との共通運用である。なかのん専用車はデザインも既存の関東バスのものと異なり、なかのんの愛称をデザインした専用塗装となっていたが、2012年に実施されたボディ更新に合わせ、既存の関東バスと同様のカラーに変更となった。旧なかのん専用車の中には他の営業所に転属して、狭隘路線用として使用されている車両もある。 2014年11月17日より、ご当地ナンバー第2弾のうちの一つとして杉並ナンバーが発足したのにともない、同日以降の新車および他営業所からの転入車は、これまでの練馬ナンバーから杉並ナンバーでの登録となる。
伊藤伸 略歴 1978年生まれ。北海道本別町出身。北海道帯広柏葉高等学校、同志社大学法学部卒業。同志社大学在学中より、衆議院議員秘書を務め、卒業後に参議院議員秘書を歴任。2005年より日本に真に必要な政策を「民」の立場から立案・提言、そして実現するため、非営利独立のシンクタンクとして活動を行う構想日本に政策スタッフとして参加し、2008年より政策担当ディレクターとなる。2009年より内閣府行政刷新会議事務局参事官として入府し行政改革全般や行政刷新事務局のとりまとめ等を担当。2013年2月、内閣府を退職し構想日本に帰任(総括ディレクター)。2013年9月より法政大学非常勤講師(NPO論)を務める。2015年7月よりNPO法人「NPOサポートセンター」理事就任
北条氏邸・円成寺跡 北条氏邸跡(円成寺跡)(ほうじょうしていあと(えんじょうじあと))は、静岡県伊豆の国市にある国指定の史跡である。 概要 鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の本貫地(平安時代 - 鎌倉時代)の居館跡である。北条氏滅亡後(室町時代初期)は北条高時の母である覚海円成が一族の女性たちと共に韮山の地に移り住み、一族の菩提を弔う寺院「円成寺」を建立した。室町時代には関東管領の上杉氏の娘などが尼僧としてこの寺に入っていたが、寛正元年(1460年)にそれまで御所としていた国清寺を火災で失った堀越公方足利政知が円成寺を接収して御所とした。この時、大幅に寺域が縮小したとみられる。その後、廃寺となった。 伊豆の国市教育委員会により、史跡整備のための発掘調査により、非公開である。入口は狩野川沿いにあるが、調査中のため立ち入り禁止となっている。入口の南側にある守山登山道を途中まで登ると、林越しに中の様子を見ることができる。2007年現在、発掘調査は休止しており、調査地区は砂で埋め戻されている。2007年春に守山登山道入口脇に案内看板が設置され、調査の概要や全景写真などが掲載され、紹介されている。 円成寺の遺構 いくつかの建物の跡と、それぞれを区切る区画溝、池の跡などが検出されている。 北条氏邸の遺構 現在、調査中のため詳細は不明。
エフオン 概要 企業等の省エネルギー支援サービス事業を行うほか、グループ会社で木質バイオマスや太陽光をエネルギー源とする発電事業を行っている。 社名の由来 旧社名ファーストエスコのFとEの2文字と、事業継続のONを合わせたもの
総販 (システム) 概説 総販は、JR北海道のみどりの窓口やツインクルプラザ(旅行センター)を支えるオンラインシステムで、JR各社で使用されるマルスシステムとは別の、JR北海道独自のシステムである。発券に係わるシステム部分がマルス端末内の一部として、コンピュータのメインメニューに組み込まれている。JR北海道のマルス端末で発券した乗車券類のデータは、全て総販のホストコンピュータに登録され、乗車券類の券番号からデータの照会等を行える仕組みになっており、マルスシステムのホストコンピュータに接続する必要のない、自社(JR北海道)完結商品の発売の際に利用される(後述)。 販売端末 通常、みどりの窓口に置かれている端末は「販売端末」と呼称されるものである。マルス端末のメインメニュー内にある「個別業務」という項目が総販に当たる(それ以外はマルスシステム)。その「個別業務」という項目はさらに「鉄道業」「共通業務」と二つに分別される。また、これとは別に旅行業を取扱う画面を持っている。 鉄道業 鉄道業画面は、乗車券類を発券するのに使用する。乗車券、自由席特急券、定期券、回数券、特別企画乗車券、イベントチケット(イベント券)、契約乗車票(JR各社では「マル契」と呼称)等、自社(JR北海道)完結商品は総販を使用し発券されるが、マルスシステムのホストコンピュータに接続する必要が生じる他社関連の乗車券類、また自社完結であっても指定券の発券は総販では取扱っていないので、マルスシステムからの発券になる。総販では他に、東京モノレール等の船車券の発券もできる。総販で発券された乗車券類は、JR他社において正式に認められているものではないので、自社完結商品しか発売することができない。他社関連の契約乗車票は、東日本旅客鉄道(JR東日本)に係わるものはマルスシステムから発券できるが、それ以外の他社に係わるものに関しては手書きで発売された契約乗車票が使われる。なお、マルスシステムから自社完結商品を発券することもできる。 共通業務 共通業務画面では、端末を操作する係員が誤って発券した乗車券類、また乗車券類の変更(乗車変更)によって使われなくなった旧券を処理する「控除」や、払戻しに係わる操作に使用する。 旅行業 旅行業画面では、旅行のパッケージ商品(JR券、宿泊券がセットになった商品等)や、エスコート(添乗員同行)商品の発売が行われる。東京モノレールを除く船車券を発券する際にも使用する。旅館券(宿泊券)、観光券や航空券の発券にも使用するが、マルスシステムのホストコンピュータに接続する必要が生じるものは旅行業画面を使用しない。 後方端末・情報端末 総販はマルス端末(販売端末)の他、PC端末を用いた「後方端末」「情報端末」から構成されている。 後方端末 後方端末では、販売端末や自動券売機等の収入を精算(締切)した際に必要になる帳票類の印刷等に使用する。エスコート商品(旅行業)での旅行人員管理等も後方=端末を使用する。 情報端末 情報端末では、営業成績の閲覧や、そのデータの印刷等に使用する。 乗車券類の券面表示 総販で発券された乗車券類券面の左下部分には、四角形で囲まれた「総販」という文字が印字される。券番号は、マルスシステムで発券した乗車券類は数字が7桁(5桁-2桁)に対し、総販は10桁(4桁-4桁-2桁)である。総販では、券番号の最初の1桁にチェックディジット(乗車券番号を7で割った余りが表示される)、次の3桁が総販端末番号、次の4桁が乗車券番号(操作通番)、最後の2桁が乗車券番号の枝番号になっている。なお、マルスシステムでは最初の1桁がチェックディジット、次の4桁が乗車券番号、最後の2桁が乗車券番号の枝番号である。 また、総販で発券された乗車券類券面の右下部分には「N」の文字と、それに続き3桁の数字が印字されている。これは「N符号」と呼ばれるもので、総販の収入管理日を示すものである。日中にその日の収入の精算を行う場合、精算後に発券される乗車券類は、精算前に発券された乗車券類と日付は同日であっても、N符号は異なる。また、次の日に精算を行うまでは日付が変わっても、N符号は同じということになる。 簡易委託駅発行 総販では、簡易委託駅で販売する乗車券類の発券も可能である(発券できる駅は限定されている)。この場合、券面に表示される駅名の前に、丸で囲まれた「ム」という表示が付加される。また、発券した駅(発行箇所)の駅名印字部分には、丸で囲まれた「簡」という表示が付加される。 発券に際しては、簡易委託駅を管理する駅(管理駅)に受託者が必要枚数を頼んだ上で発券される。この券面には、発行日の部分は管理駅における発券日が印字されているが、乗車券類の使用開始日は空欄にされている。使用開始日欄は、受託者がゴム印(日付印)を押印して使用開始日を表示する。乗車券においては、通常の乗車区間表記の他に金額式表記(「-円区間」と表示)のものもある。 クレジットカード決済 マルスシステムでは、販売端末の画面上部にある「クレジット」ボタンを押下することによって、乗車券類を発券したと同時に旅客のクレジットカードで決済できる機能が備わっているが、総販に同様の機能はない。クレジットカードの決済で総販の乗車券類を販売する場合、係員は総販の乗車券類を発券した後、マルスシステムに備わっている「CS金額入力」(「CS」とはJR各社で呼称するクレジットカードの意)画面から、販売する金額を手入力で打ち込み、旅客のクレジットカードで決済の操作を行う必要がある。この際、係員は旅客がクレジットカードで乗車券類を購入したことを券面に明示する必要があるので、券面に「C制R---」と印された判子を押捺する。「C制」とは旅客がクレジットカードで乗車券類を購入したことを表し、変更や払戻しに一定の制限があることを示している。「R---」とは、乗車券類を払戻す操作を行う際に必要な3桁の数字が入る通番のことである。 なお、ツインクルプラザ(旅行センター)ではマルスシステムの機能を使わず、G-CATやCATT端末が使用される。
新港東口駅 概要 富山新港の建設により射水線が東西に分断され、西側が加越能鉄道に譲渡された後、射水線の新しい終着駅として開業した(旧・堀切駅の復活)。駅名は富山新港の東側に位置したことに由来する。対岸の加越能鉄道(当時。現・万葉線)新湊港線越ノ潟駅との間は富山県営渡船により結ばれていた(渡船は現在も運航中)。 駅構造 廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する地上駅で、同線の終端駅であった。ホームは線路の南側(新港東口方面に向かって左手側)に存在した。かつては島式ホーム1面2線を有した。使われなくなったホーム南側の2番線は廃止され、線路は撤去されていた。稼働線の1番線の番線表示は継続使用されていた。 業務委託駅となっていた。駅舎はホームの南西側に位置しホーム西側に接していた。ホームは上屋を有した。 駅跡 線路跡は四方駅跡南方附近から当駅附近までサイクリングロードとなっている。1997年(平成9年)時点では、線路跡地はそのサイクリングロードであった。2006年(平成18年)時点、2010年(平成22年)時点でも同様であった。 駅跡地は1997年(平成9年)時点では縫製工場、サイクリングロード、並木のある緑地となっていた。2006年(平成18年)時点、2010年(平成22年)時点でも同様であった。尚、駅舎跡地が縫製工場、旧2番線及びホーム跡地がサイクリングロード、線路跡地が並木のある緑地という位置関係であった。 また、2006年(平成18年)時点では、駅跡の西側、海岸附近に「堀切鉄橋」の橋台が残存し、防波堤を越えた海中にも鉄橋の橋脚が1基残存していた、2010年(平成22年)時点でも同様であったが2013年7月に隣接する堀切橋跡とともに撤去された。。
ヘムスリンゲン 位置 ヘムスリンゲンはローテンブルク (ヴュンメ)の南東約14kmに位置する。この町を構成する2つの集落の間をブルーフヴィーゼンバッハ川が流れている。この町の最高地点は海抜52.8mのホラーベルクである。 町の構成 ヘムスリンゲンの町はヘムスリンゲンとゼーリンゲンの2つの集落からなる。 議会 この町の町議会は11議席からなる。 紋章 銀の斜め波帯で二分割。向かって右上は緑地に白黒で描かれたヨシ葺き屋根の2階建ての寄棟造の木組み建築。向かって左下は、赤地に白黒で描かれた切妻屋根と互いに垂直に並んだ小窓を持つ4階建て木組み建築。 経済と社会資本 この町の地中に天然ガスがある。ヘムスリンゲン周辺地域はドイツ最大の天然ガス田である。
明石家ウケんねん物語 番組概要 2001年9月まで放送されていた明石家さんま司会の『明石家マンション物語』をリニューアルした番組。番組の方向性自体は受け継いだものの、コーナーは総入れ替えとなったためタイトルを変更した。しかし視聴率が1桁台に低迷し半年で終了することとなった。 後番組は、同じ水曜日の23時台に放送されていた『ココリコミラクルタイプ』を内包した『水10!』。
復興特別税 概要 東日本大震災からの復興に当てる財源の確保を目的として所得税、住民税、法人税に上乗せするという形で徴収される。所得税は2013年(平成25年)1月1日からの25年間、税額に2.1%を上乗せするという形で徴収される。法人税は2012年(平成24年)4月1日以降から始まる事業年度からの2年間、減税をいったん実施した上で、税額の10%を追加徴収する。住民税は2014年度(平成26年度)から10年間、年間(給与から天引きの特別徴収では6月から翌年5月)1,000円引き上げる。個人所得税が25年間であるのに対し法人税はわずか2年間である。 税の使途は被災地に限定しており、政府はこれらの増税で10.5兆円を捻出する予定。 なお、復興特別たばこ税の導入が検討されたが、結果取り止めになった。 復興特別法人税 2012年(平成24年)4月1日から2014年(平成26年)3月31日までの2年間の事業に対し課税される。 当初は3年間の予定であったが、2013年(平成25年)12月2日、自民党・公明党の両党は与党税制協議会で、復興特別法人税の1年前倒し廃止を正式決定し、平成26年の税制改正法(所得税法等の一部を改正する法律(平成26年法律第10号))の成立により短縮が法的に確定した。 住民税 2014年(平成26年度)から2023年(令和5年度)まで10年間にわたり、住民税の均等割に対し、道府県民税、市町村民税を各500円(総合計1,000円)を加算する。 問題点 成人書籍の電子化や地方アイドル、無人島への防潮堤工事など復興とは関係の無いまたは薄い事業や自治体などに税金が流用されていることが発覚している。
兒玉怜 活動履歴 baroque、kannivalismとしての活動は、それぞれの記事を参照。
トモコトラフシジミ 形態 前翅長は17-19mm。翅表は R. zamona に似るが、翅裏は多少とも緑色がかる。 生態 一年を通じて見られるので、発生は多化性と思われる。飛翔は活発だが、しばしば葉上に飛来し休止する。
ロベルト・ラデッケ 略歴 現在のポーランド・ドルヌィ・シロンスク県ジェチュモロヴィチェ(Dziećmorowice、ドイツ語名:ディトマンスドルフ・バイ・ヴァルデンブルク)に生まれる。兄は高名な作曲家ルドルフ・ラデッケ。シュテルン音楽院院長、またベルリン宮廷歌劇場総監督としてドイツ楽壇に重きをなす。指揮者ブルーノ・ワルター、作曲家ゲオルク・フォラートゥーン、同じく作曲家カミッロ・シューマンの師である。ヴェルニゲローデに没した。
サムピック サムピックとは、親指につける主にギターやバンジョーの演奏に使用するピックのこと。親指を包む形で装着する。
フラー・キョール 歴史 最初のアイルランド伝統音楽の全国規模のフェスティバルは1951年にマリンガー(Mullingar)で開催された。1951年9月に開かれた最初の会議で、CCÉはこのフェスティバルが全国的な伝統音楽イベントになることを目指してフラー・キョールという名を命名した。フラーはこれまでアイルランド島内の様々な土地で開催されてきている。 年々出演志望者の数が膨らんでいったことに伴って、州(county)や地方の単位で適切なステージが整えられている。さらに、フラー・ヌア(Fleadh Nua (「新しいフラー」の意味。毎年5月にエニスで開催される))、Fleadh na Breataine (All-Britain fleadh) とグレートブリテン島内地域本部毎のフラー、アメリカでの2つの主要なフラーは、どれもCCÉの毎年恒例の行事になっている。 始まった当初より、フラー・キョールの目的はコンクールを通じてアイルランド伝統音楽の標準を設けることにあった。フラーは主にコンクールとして発展したが、多くのコンサート、ケイリー、パレード、そしてセッションも同時に開かれている。 50年近く経過した今日、フラーは各々のレベルで伝統を受け継ぐ何千もの 音楽家、歌手、ダンサーへ舞台と出会いの場を提供している。2万前後の出演者が毎年フラーで競い合っている。 最大のフラーは2013年デリーであり、43万人が楽しんだ。 開催地の申請 フラー・キョールの開催を希望する町や都市は数種類の申請書類をArdchomhairle an Chomaltais (CCÉ.内部の最高委員)へ提出する。Ardchomhairleは申請された町とその立地条件を精査する。その後、前回のフラーの数週間後、通常は9月に最終決定が行われる。 一度フラー・キョールのホストに選ばれた町は、2年続けてホストの役割を引き受ける。しかしながら、CCÉ はどんなフラーの成功した町についても2年目の開催に対する拒否権を有する。たとえばその町の開催1年目に土地の貧弱さや組織的な問題などが明らかになった場合がそのようになりうる。 北アイルランドでは、2013年にデリーで初めてフラーが開催された。なお、デリーでフラーが開催された大きな理由の1つに、 イギリス文化都市2013に選ばれていたことが挙げられる。
ジェームズ・C・コリンズ 経歴 コリンズはスタンフォード大学で数理科学の学士号を取得したのち、同大学にて経営学修士号を取得。その後は18カ月にわたってマッキンゼー・アンド・カンパニー社でコンサルタントを務め、次いでヒューレット・パッカード社のプロダクトマネージャーとして働いた。 コリンズは研究と教育の仕事をスタンフォード大学経営大学院の学部にて始め、1992年にはそこで最優秀教員賞を受賞した。1995年、コリンズはコロラド州ボルダーにマネジメント研究所を設立し、現在はそこで企業と社会セクター(social sector)の幹部らに研究と教育を指導している。その間、コリンズはCNNインターナショナルの上級執行役員を務め、またジョンズ・ホプキンス大学医学部、ガールスカウトアメリカ連盟、the Leadership Network of Churches、the American Association of K-12 School Superintendents、アメリカ海兵隊といった社会セクター組織で働いた。 コリンズの配偶者であるジョアン・アーンストは1985年のアイアンマン世界選手権大会の優勝者である。 文筆業 コリンズは彼の研究に基づく6冊の本の著者あるいは共著者である。その中には古典となった『ビジョナリー・カンパニー 時代を超える生存の原則』もあり、この本はビジネス・ウィーク誌のベストセラー・リストに6年以上留まり、25の言語に翻訳された。また『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則』は、ニューヨーク・タイムズ誌、ウォール・ストリート・ジャーナル誌、ビジネス・ウィーク誌のベストセラー・リストに長期にわたって留まり、ハードカバー版の販売は250万部を上回り、32の言語に翻訳された。 コリンズはしばしば、ハーバード・ビジネス・レビュー誌、ビジネス・ウィーク誌、フォーチュン誌その他の出版物に寄稿している。 第5水準の指導者 コリンズはしばしば著作の中で「第5水準の指導者」(Level 5 leader)について議論している。これは彼の著作の中で説明されている、リーダーシップ特性の5段階において頂点にある指導者である。第5水準の指導者は、個人としての謙虚さと職業人としての意志の強さという矛盾した組み合わせを有する。 『テスト・パイロット』 コリンズは、祖父であり彼の名前の由来にもなったジミー・コリンズによって書かれた自伝『テスト・パイロット』(Test Pilot, Doubleday, Doran & Co., 1935年)を再出版した。ジミー・コリンズは1930年代にグラマン社(Grumman military aircraft company)のチーフ・テスト・パイロットを務めており、1938年に公開されたこの書籍の映画版『テスト・パイロット』ではクラーク・ゲーブルが彼を演じた。ジミー・コリンズはF3複葉機のテストにおけるクラッシュで死去した。この事故の前、彼は死を予見し、それを説明していた。
小田中古墳群 概要 石川県北部で能登半島基部、邑知地溝帯の中央部の石動山系西麓部に位置する、古墳時代前期の古墳2基からなる古墳群である。両古墳は約40メートル離れて築造されている。そのうち親王塚古墳については『平家物語』巻7に「木曾殿(木曽義仲)は、志保の山打ちこえて、能登の小田中、新王の塚の前に陣をとる」と見え、古くから知られた古墳になる(比定には異説もある)。現在は両古墳とも宮内庁の管理下にあり、近年では2011-2012年度(平成23-24年度)に宮内庁書陵部により測量調査が実施されている。 親王塚古墳・亀塚古墳の古墳域は、1875年(明治8年)に宮内省(現・宮内庁)により皇族墓およびその陪冢(陪塚)に治定されたほか、1958年(昭和33年)に中能登町指定史跡(当時は鹿島町指定史跡)に指定されている。なお、邑知地溝帯を挟んだ位置では、同じく古墳時代前期の古墳群として雨の宮古墳群(中能登町西馬場・能登部)の立地が知られる。 概要 古墳名については、古く『平家物語』や近世文書では「新王塚」とも見えることから、「新王塚」を正しい表記とする指摘がある。墳頂には「親王社(新王社)」と称される社があったが、陵墓治定を受けて撤去されている。 墳形は円形。直径は約65メートルを測り、北陸地方では最大級の円墳である。墳丘は3段築成。墳丘表面では、花崗岩や輝石安山岩板石(一部)による葺石が認められる。墳丘周囲には、北側を除く部分で周溝が認められている。主体部の埋葬施設としては、かつて描かれた絵図から石槨であったことが知られる(現在までに埋め戻し)。現在は親王社跡の前方に窪みと石材が残るが、石材については親王社の建材の可能性もあり詳らかでない。この石槨から出土したとされる三角縁神獣鏡・管玉が、現在は近隣の白久志山御祖神社に伝世されている。そのほかに、古墳域から埴輪等は検出されていない。 この親王塚古墳は、4世紀後半-末期頃(古墳時代前期後半)の築造と推定されている。なお墳頂には、後世に据えられたものとして、風化した簡素な浮彫の石仏1体と五輪塔1基が残されている。 概要 古墳名については、かつては「亀塚」のほか「亀山」とも称された。墳形は前方後方形で、前方部を南西方に向ける。段築はない。主体部の埋葬施設は明らかでないが、墳頂部では縦長の窪みが認められている。 出土品 親王塚古墳からの出土品としては、三角縁波紋帯三神三獣鏡・管玉(白久志山御祖神社蔵)、鍬形石・石棒(宮内庁蔵)が伝わる。ただし前者2物については石槨から出土したと伝承する文書が存在するのに対して、後者2物について鍬形石は本古墳の出土遺物とする根拠に欠け、石棒も実際には本古墳からの出土品ではないとされる。三角縁波紋帯三神三獣鏡(三角縁神獣鏡の1種)については、舶載鏡(中国製)と仿製鏡(国産)の両方の特徴を有する点が注目されている。この鏡の存在を元に、従来区別されてきた舶載鏡・仿製鏡が、実際には一連の変遷上にある可能性が指摘されている。 また1990年(平成2年)の発掘調査では、陶器、瓦、灯明皿、磁器、原形不明石製品、寛永通宝、原形不明銅製品・鉄製品など、いずれも後世の17-18世紀頃の出土品が検出されている。 伝説 親王塚古墳については、椀貸伝説がある。その中で、貧しい村人たちが小田中の親王塚の頂上にある小穴に膳椀衣装などの借用を頼めば、翌朝揃えてあった。しかし借りたまま返さない者がいたため、それからは貸してくれなくなったと伝える。
善能寺 (鶴ヶ島市) 歴史 開山時期は不明である。1596年(慶長元年)栄慶によって中興開山された。本堂はたびたび焼失し、現在のものは1843年(天保14年)に建てられたものである。 境内にある薬師堂は享保年間(1716年 – 1735年)の建造である。堂内に安置されている薬師瑠璃光如来は有名で12年に一度、寅年の年に御開帳される。また中武蔵七十二薬師の11番にあたる。 本堂は1872年(明治5年)に学制が制定されたとき鶴ヶ島学校の初代校舎にもなった。当時の生徒は22人(男19人、女3人)であった。 交通アクセス 東武東上線坂戸駅から車で5分
サスイクコリ湖 サスイクコリ湖(カザフ語: Сасықкөл)は、カザフスタン東部、46°35′0″N 81°0′0″E付近にある湖。 面積600 km²(高水位時)、水深平均3.3m、最大4.7m。 漁業が行われている。 コブハクチョウ、オオハクチョウ、ヘラサギが生息する。 湖はアラコル生物圏保護区の一部となっている。
武蔵増戸駅 駅構造 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを有する地上駅だが、うち1線はホームに柵が設置され客扱いはできない。駅舎側が単式ホームの1番線で、島式ホームの内側が2番線である。島式ホームの外側に柵で仕切られた線路がある(上り1番線)。ホーム間はエレベーターつき跨線橋で結ばれている。ホームは最長6両対応に対して、屋根は約3両分に留まる。 JR東日本ステーションサービスが業務を受託する業務委託駅で、拝島駅が当駅を管理している。駅舎内部には自動券売機や自動改札機が設置されている。2006年にみどりの窓口が廃止され、その代替として「もしもし券売機Kaeruくん」が設置されたが、2012年1月30日をもって営業終了し撤去された。
アバディーン (メリーランド州) 地理 アバディーンは、北緯39度30分37秒 西経76度10分9秒 (39.510310, -76.169178)に位置する。アメリカ国勢調査局によると、都市の総面積は16.5 km²(6.4 mi²)であり、すべて陸地である。 アバディーンから最も近い都市は、58.4km離れたボルチモアである。 アバディーン性能試験場 アバディーンには、アメリカ陸軍のアバディーン性能試験場 (Aberdeen Proving Ground, APG) がある。実験場は議会の法によって確立され、1918年1月に施行された。APGは、ハーフォード郡の72,500 ac以上の面積を占める。アメリカ陸軍試験評価コマンド (Army Test and Evaluation Command, ATEC) の司令部やアメリカ陸軍武器科の武器科長官房局がある。APGには7,500人以上の民間人と5,000人の軍人が勤務している。2005年に発表された基地再編閉鎖プログラム (Base Realignment and Closure, BRAC) によって、APGは軍人3,862人分と民間人290人分の職とともに武器学校及び関連研究開発施設を失うことになっており、これらはバージニア州フォート・リーへ移転することが計画されている。逆に、ニュージャージー州フォート・モンマスから軍人451人分と民間人5,661人分の職を得るため、アバディーン性能試験場はBRACプログラムで差し引き軍人3,411人分の仕事の減少が、民間人5,371人分の仕事の増加が生じることになる。
破門 ユダヤ教 ユダヤ教の破門は、呪いおよび共同体からの追放という形を取る。呪いの対象は追放者のみならず、今後追放者とかかわった場合の共同体の成員を含むため、破門は追放者のみならず他の共同体成員への禁止効果をも持つ。ユダヤ教からの破門者として有名なのはスピノザである。アムステルダムのユダヤ人共同体におけるスピノザの破門状には、「…かれの昼にのろわれてあれ、夜にのろわれてあれ、かれの臥すにのろわれてあれ、起くるにのろわれてあれ、かれの外出するにのろわれてあれ、帰り来たるにのろわれてあれ、主はかれを許したまわじ、主の憤怒はこの者に対して燃え盛り、掟の書に記されし一切ののろいをかれにもたらさん…何人もかれと同じ屋根の下にも、4エルムン以内にも留まることなかれ」「今後、彼から1メートルの距離に近寄るものは呪われよ」とある(原文で使われていた当時の単位系を置き換えた)。 キリスト教 キリスト教における破門も、原義においては強い呪い(アナテマ)の意を持つ。具体的には領聖や秘跡(機密)に与るなど、信者に与えられている教会内での宗教的権利を無期限に停止することを意味する。また破門された者と交流を持つことは基本的に禁止される。この結果、単に宗教的意味でだけではなく、中世のアジール権など教会が信者に与えた世俗的保護も一切受けられなくなるため、中世から近世にかけて破門は社会からの追放に等しい意味を持った。また破門者は教会の墓地に葬られることができない。破門は教会の決定事項であり、破門を行うものは教会に属する聖職者に限られる。 古代の公会議では、異端とされた神学者が教会から破門された。教義の違いをめぐる争いがおこるときには、論争の当事者双方が互いを異端として告発することがまま起こるが、これが聖職者同士のとき、時に相互破門と呼ばれる状態が起こる。11世紀のローマ・カトリック教会と東方正教会の分裂は、双方の最高責任者であるローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教の相互破門である。 ローマ・カトリック教会では破門にも幾つかの段階があり、もっとも大きな処分は大破門と呼ばれ、聖職者が公衆の目前で破門宣告を行った。近代における有名な破門の例にはマルティン・ルターやジョルダーノ・ブルーノの破門がある。東方正教会ではトルストイが、晩年の著作が無神論的であるとの理由でロシア正教会から破門されている。 中世における破門は、教皇の対立者に対する対抗、攻撃としての色を持つ。その最たるものがカノッサの屈辱(1077年)と呼ばれる神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世を破門した事例であり、これにより教皇権の優位性が示された。当時においては破門されること自体が権威に影を落とす大きな要因となりえたのである。そして、権威の失墜は諸侯の力が強かった当時、破門されるということは諸侯を従わせることが難しくなる非常に大きな問題であった。 しかし14世紀に入り王権が強化され、さらに十字軍の失敗により教皇権に陰りが出るようになる。フランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立において、ボニファティウス8世は破門をもってフィリップ4世に抵抗しようとしたが逆にフランス側に襲撃され、解放されるもその直後に憤死した(アナーニ事件)。さらにアヴィニョン捕囚により教皇がフランス王の傀儡となると、その権威はさらに失墜した。ただし、これ以後破門が効力をなさなくなったかといえばそうではなく、ある程度の力は有しており、1526年には教皇クレメンス7世が対立関係にあった神聖ローマ帝国皇帝カール5世に与するフェラーラ公アルフォンソ1世を破門し幽閉する(ただしこれはローマ略奪を招くこととなった)など、対抗措置として行われた事例は存在し、一定の効果をあげている。 現在のローマ・カトリック教会法にも破門の規定はあるが、実際に信者に行われることはほとんどない。まれに聖職者に対して破門処分が行われることがあるに留まる。 教皇ヨハネ・パウロ二世が1995年に出した回勅いのちの福音は、いのちの福音がイエス・キリストの教えの中核であり、神の永遠の律法は「殺してはならない」と命じていると教える。人工妊娠中絶は殺人であり、1917年の教会法典は、中絶の罪に対し自動破門とされる伴事的破門制裁を定めているが、改定された教会法典でもこの規定は有効であり、中絶した者と、手助けした者が破門されることを確認している。 中国政府公認の宗教団体中国カトリック愛国会がローマ教皇の意向を無視して任命した司教2名を、ローマ教皇庁が2006年5月4日に破門した。 教皇フランシスコは犯罪組織、特にマフィアに対して強い姿勢で臨んでおり、神を冒涜する存在だと非難している。2014年には「マフィアのように悪の道を歩む者たちは、神に属すことはない。彼らは破門される。」と言及している。 プロテスタントで破門に相当するのは戒規である。 イスラム教 イスラム教では信仰を捨てることが禁止されているが、これは裏を返せばイスラム教徒を破門することも禁止されているということになる。このため、イスラム教には破門は存在しない。 武道 武道の世界では、門弟が流派から追放されることを破門と呼ぶ。破門になると、師匠との師弟関係は解消され、それまで門弟に授与された免許や段位も剥奪されるのが一般的である。一度破門になると、通常は二度とその流派に戻ることはできないが、師匠から許しが出ると復帰を認められる場合もある。 例えば、柔道家がアメリカのプロレスラーと対決した1921年(大正10年)のサンテル事件では、柔道開祖・嘉納治五郎は出場した柔道家を破門にして段位も剥奪したが、のちに許して復帰を認めた例などがある。また、柔道家・徳三宝も嘉納より破門になったが、のちに許されて復帰している。 剣道(全日本剣道連盟)では、破門に相当する処置として、会員の除名や資格停止処分がある(一般財団法人全日本剣道連盟定款)。その場合、綱紀委員会の決定により、称号・段級位の返上もしくは剥奪が行われる可能性がある。 角界 大相撲の世界では師匠より破門された力士はほぼ全てが引退及び公益財団法人日本相撲協会からの離脱(かつての廃業)を余儀なくされる(例:第60代横綱双羽黒光司)。一方で現役を引退し親方となった元力士に対する破門は必ずしもそうなるとは言えない。これには部屋または一門からの破門と協会からの破門、即ち解雇や除名といった賞罰規定に基づく懲戒処分により協会を去らなければならなくなるケースの2つがある。 部屋からの破門としては12代阿武松親方(元関脇益荒雄)が師匠の押尾川(元大関大麒麟)に無断で独立を画策したとして押尾川部屋から破門され、同じ二所ノ関一門の大鵬部屋に移籍後独立した例がある。 一門からの破門としては過去には九重が後継者争いに敗れ独立を申し出て出羽海一門から破門され高砂一門に移籍、最近では高田川部屋の先代師匠(前の山)が高砂一門の推薦を受けることなく理事に立候補(当選)して破門され、2011年1月に現師匠(元関脇安芸乃島)が現役時に所属していた二所ノ関一門に加入するまで無所属となっていた例がある(なお、現高田川も千田川親方時代に師匠の貴乃花(元横綱)と指導方針を巡り対立して貴乃花部屋を事実上破門され、無所属である高田川部屋に移籍していた経験がある。その後貴乃花部屋が後述の理由により二所ノ関一門を離脱した為、師匠自身の二所ノ関一門復帰が可能となった)。 2010年(平成22年)1月の理事選挙を巡っては二所ノ関一門の総意に反して理事選挙への出馬を明言した貴乃花(元横綱)が一門を「離脱」したが、その後、貴乃花親方を支持する間垣(元横綱2代目若乃花)、音羽山(元大関貴ノ浪)、大嶽(元関脇貴闘力)、阿武松、常盤山(元小結隆三杉)、二子山(元十両大竜)の6人の親方が事実上の一門からの破門となった。但し、二所ノ関一門の幹部自らは「破門」という言葉は使ってはおらず、総意に従わないものが一門を「離脱」したというのが表向きの格好である。しかし、6人の親方は自ら望んで一門を離脱したわけではないので、一門からの事実上の「破門」として当人たちは受け止め、世間でもそう解釈された。 一方相撲協会からの破門としては15代時津風(元小結双津竜)が弟子の死亡に関与したとして事実上の破門となった(相撲協会からは解雇)。 芸道 芸道の世界において、門弟が家元や師匠の意思により流派から追放されることを破門と呼び、同時に信頼関係が破綻したことによる意味も兼ねる。茶道、華道など芸道には記述が見られるが、落語界にも記述がしばしば見られ、家伝の場合、破門と勘当を同時に行うことがある。 能楽 能楽の世界では、1921年(大正10年)、観世流宗家24世・観世元滋が梅若一門(梅若六郎家、梅若吉之丞家、観世鐵之丞家)を破門にした事件がある(いわゆる観梅問題)。能楽はもともと武家の式楽だったので、江戸時代には幕府や各地の大名家の庇護を受け、各流派はそれぞれ扶持をもらっていた。観世流は江戸幕府の庇護を受けていたので、明治維新後、徳川宗家が駿府に隠棲すると、観世宗家の22世・観世清孝はこれに義理立てして静岡へ移住し、東京は分家の観世銕之丞家の5代目・観世紅雪と初世・梅若実(52世・六郎)が預かる形になった。その間、観世銕之丞家と梅若家は独自に免状を発行するなどの家元同然の活動を行い、観世宗家が東京に戻ってくると、免状発行権の返還を巡って両者は対立するようになる。この問題がこじれて、上述のように破門となった。破門後、梅若一門は新たに梅若流を興したが、その後梅若流も分裂して、最終的には昭和29年(1954年)、能楽協会の斡旋により梅若流は観世流に復帰してこの問題は収束した。 歌舞伎 歌舞伎の世界では、市川段四郎 (2代目)(初代市川猿之助)が、師に無断で『勧進帳』の弁慶を演じたことが勘気にふれ破門となったが、のちに努力が認められて破門を解かれた例がある。近年の例では、坂東薪車(4代目)が師匠の坂東竹三郎(5代目)より破門となり名跡を失ったが、その後市川海老蔵 (11代目)に弟子入りして市川九團次 (4代目)の名跡のもと再出発した例がある。 芸能界 師弟間でのその芸事についての考え方が違う場合に異端として破門されることが多いが、ただ単に芸事や生活に対して怠惰であり、流派を名乗るにふさわしくない場合にも破門の適用が考えられる。マネージャーと芸人の仲で交際していた正司敏江・玲児が、師匠の正司歌江から破門された例がこれに該当するが、敏江・玲児は数年で許され元の鞘に納まっている。 また笑福亭鶴光の弟子だった嘉門達夫の場合は、師匠へ一切報告せず落語以外の新しい仕事を増やし、自身がやりたい事と落語家の弟子と言う立場が乖離し、師匠と仕事観を巡って対立して反旗を翻して破門を言い渡された。 また稀有なケースとして、落語立川流のように「上納金未納」が破門理由として制度化されていたり、8代目林家正藏(のち彦六)に至っては、弟子の初代林家照蔵(のち5代目春風亭柳朝)に対し、破門を言い渡すことが日常茶飯事であったという。 伊集院光の場合は6代目三遊亭圓楽(入門当時・三遊亭楽太郎)の門下時代に「三遊亭楽大」として活躍中に、伊集院光の名でラジオ番組出演する一方、それが一門に露呈し問題となり、表向きは「破門」と言う形で自主廃業した。しかし当時から伊集院を擁護していた圓楽は現在も身内として扱っており、師弟関係も継続している。 宗教的な破門とは異なり、破門されたものの活動が致命的に阻害されないケースも多く、破門された弟子が他の流派に鞍替えしたり、場合によっては独自に活動を再開できることも多い。太平サブロー・シローの場合、松竹芸能から吉本興業への移籍をスムーズにするため表面上破門という形にしただけで、レツゴー三匹との師弟関係は継続している。 他方で、弟子が犯罪を起こし逮捕や書類送検された場合などに見られるが、師匠が破門するのと前後して所属していた芸能団体が除名などの形で処分した場合には、移籍や独立という形での第一線での芸能活動を継続できなくなり、芸を披露する舞台はもとより稽古の場所や同業者間の交遊関係も絶たれる事で、弟子が廃業に追い込まれたり、いわゆる第一線の場に長期間戻れなくなる事も多い。 ヤクザの破門 ヤクザ世界における懲罰の一つで、「絶縁」に次いで重い処罰。組に対する迷惑に対してなされ、組は破門した旨を義理回状により、関係の組に通知する。この義理回状(破門状)を受けた組織は、破門をされた者を客分としたり、結縁したり、商談、交際など一切のことについて相手としたりしてはならないこととされ、これを破ることは敵対行為とみなされる。 なお、組長個人が破門処分を受けることで、その組長が率いている組全体が破門されたとみなされることもある。 破門と絶縁の違い 破門と絶縁の差異は、破門には復縁の可能性があるのに対して、絶縁には建前上それがないという点にある。破門であれば交流のない他の組に移るなどしてヤクザ渡世を続けることもできる。このため義理回状の見出しである「破門」の文字を赤色で書く「赤字破門」(あかじはもん)が行われることがある。赤字破門は表面的には破門であるが、効果としては絶縁と同じになる。ただし、近年では赤字破門を受けた者が偽名を使って別の組に入ったり、初めから承知で赤字破門された者を受け入れる組も出てきている。 なお、対象者が破門と同時にヤクザの世界から去る場合は義理回状の見出しを『破門引退』と書くこともある。 しかし、捜査機関から目を付けられる恐れのある構成員を、組織防衛のため表面的に破門処分とする「偽装破門」がなされる場合もある。 抗争への発展 親組織から子組織に対して、又は組織間相互において破門ないし絶縁の処分が行われることは、ヤクザの世界においては一種の宣戦布告であり、そのまま抗争へと至ることが多い。 実際に起こった例として、1984年(昭和59年)から1989年(平成元年)まで続いた山口組と一和会の抗争(山一抗争)は、山口組総本部が一和会に対して出した義絶状と呼ばれる文書に端を発する。 また、山一抗争の終結直後に起こった五代目山口組総本部と竹中組の抗争(山竹抗争)は、総本部が竹中組組長ら4人について幹部一同の名義で「今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする事実上破門の義理回状を出したことがきっかけとなっている。 近年では、六代目山口組総本部から分裂した初代神戸山口組に対して総本部が、また神戸山口組からさらに分裂した任侠山口組に対して総本部と神戸山口組が、それぞれ参加した組や幹部らを絶縁や破門などとする措置をとっている。
アーサー・タンズリー アーサー・ジョージ・タンズリー(Sir Arthur George Tansley,FLS, FRS、1871年8月15日 - 1955年11月25日)は、イギリスの植物生態学者、植物地理学者である。1935年の論文、『植生の概念や用語の使用と乱用』("The Use and Abuse of Vegetational Concepts and Terms")で、生態系("ecosystem" )という用語を提唱した。 略歴 ロンドンに生まれた。父親は成功したビジネスマンで、ボランティアとして教育のために熱心に働いた人物である。1889年にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学び、動物学者のレイ・ランケスターや植物学者のフランシス・ウォール・オリヴァーの影響を受けた。1890年からケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学んだ。1894年に学位を得た。1900年から、セイロン、マレーの調査を行い、1902年に学術誌、"The New Phytologist"(Phytologistは「植物学者」)を創刊し、1931年まで編集・発行を続けた。1907年にケンブリッジ大学の植物学の教授となり、1911年に、"Types of British Vegetation"を出版した。1913年にイギリス生態学会(British Ecological Society)を設立し、初代の会長を務めた。1917年に"Journal of Ecology"を創刊した。1927年から1937年の間、オックスフォード大学の植物学の教授を務めた。1929年にニューヨークで開かれた、国際植物科学会議を組織した。 1915年に王立協会のフェローに選ばれ、1923年に英国科学振興協会の植物学部門の長に選ばれた。1936年にドイツの科学アカデミーレオポルディーナの会員に選ばれた。1941年にロンドン・リンネ協会からリンネ・メダルを受賞した。 タンズリーは生態学を、外部環境との関係および生物どうしの関係を研究対象とし、擬人的な"community"という用語にかわって、生態系("ecosystem" )という用語を使うことを提唱した。生物群集の遷移の最終段階で見られる平衡状態の極相に関して、フレデリック・クレメンツの同一の気候帯であれば、最終的には単一の極相に至るとする単極相説に対して、タンズリーは地形等の条件によって異なった植生が成立とするを多極相説を主張した。
会者定離  会者定離(えしゃじょうり)は、日本の諺。出典は遺教経。 由来 仏典のひとつである遺教経の文章が原典。日本では四字熟語として有名だが、本来は「生者必滅会者定離」でひとつの意味をなしている。命あるものは必ず死に、出会った者は必ず別れることになるという意味。
京阪石山坂本線 概要 当線は地元大津市民の生活の足になっているほか、沿線には豊富な観光資源を有することから(後述)、観光客の移動手段としても利用されている。 びわ湖浜大津 - 三井寺間は併用軌道となっている。三井寺 - 坂本比叡山口間は、山麓をほぼ直線で通り起伏が多い。一方で京阪膳所以南は市街地を縫うように路線が敷設されている。 当初、京津線と2線あわせて年間15億円程度の赤字が出ていたため、地元自治体(大津市など)との間で今後の運営のあり方についての協議の場が持たれた。京阪は同線の経営を本社から分離し、独立採算制をとる分社化を検討しており、当初2004年秋に分社化を予定していたが、この時は分社化しても収支改善が見込めずすぐに経営に行き詰まるとして見送られ、経費削減を図り収支が均衡した時点で分社化することになっている。 その後の経営合理化と、沿線の人口増加、昼間の電車の増発(発車間隔の短縮化)、ラッピング車両の運行、おでん電車やビール電車などのイベント列車(詳細後述)の運行などのサービス向上により、2013年時点で収支は大幅に改善している。 また2013年にNHK大津放送局が制作した、当線を舞台にした3部オムニバス形式の地域密着ドラマ『石坂線物語』が近畿地区で放送され、元々ローカル電車であった当線及び沿線の地域資源に改めて注目が当たり、関西地域での認知度が上昇した。その後、このドラマ『石坂線物語』は2014年2月にNHKで全国放送された。 大津線では1997年の京津線の京都市営地下鉄東西線直通開始に合わせてラインカラーが採用されており、石山坂本線のラインカラーは600系・700系のカラーでもある緑色が使われていた。しかし、2017年からの京阪線系統との車両カラー統一に伴い、これに代わって水色の路線マークが設定された。路線マークのコンセプトは「湖のほとりを南北へ」とされている。 運行形態 電車は2両編成で、2018年3月17日改正ダイヤでは石山寺駅 - 坂本比叡山口駅間の電車が昼間時間帯は10分間隔で運行されている(全線7 - 8分間隔となる時間帯もある)ほか、一部石山寺駅 - 近江神宮前駅間、近江神宮前駅 - 坂本比叡山口駅間区間運転の電車がある。ワンマン運転を行っているが、朝ラッシュ時には車掌(列車防護要員)も乗務している。これらの関係で20分間隔で運転している京津線とは1本おきにびわ湖浜大津駅で相互接続を取る形になる。 また、駅での業務を行うステーションスタッフも、無人駅の多い近江神宮前駅 - 坂本駅(現在の坂本比叡山口駅)間で電車に添乗し、集改札業務を行っていたが、2017年5月1日より朝のラッシュ時を除いて添乗は廃止された。列車内で運賃を収受せず、有人駅では改札口を利用、無人駅では乗車券・差額運賃とも集札箱に投入する。車掌が乗務するツーマン運転を行っていた頃は、浜大津駅(現在のびわ湖浜大津駅)・京阪石山駅など一部の駅を除いて、使用済み乗車券は原則として車掌または運転士が回収する手法をとっていた。 かつては急行・準急を中心に京津線との直通列車もあったが、浜大津駅統合の際に廃止された。駅統合により、両線相互間が同一ホーム上で乗り換えできるようになり、所要時間の短縮が可能となったが、京津線から坂本方面(あるいはその逆)へは駅統合を機に若干短縮されたのに対し、京津線から石山寺方面(あるいはその逆)へは、浜大津駅2番線に到着した京津線電車をいったん引き上げてから、改めて同駅1番線に転線し終わるのとほぼ同じタイミングで2番線に石山寺行き電車が到着するダイヤであったため、駅統合後も所要時間は直通列車とほぼ変わらなかった。 さらに浜大津駅統合(1981年4月12日ダイヤ改正)前における浜大津駅 - 坂本駅間では、同区間折り返し列車と全線直通を日中1時間あたり2往復ずつ設定していたが、これは前者の場合、石山寺駅 - 浜大津駅間では京津線直通準急または急行がその代替を担っていたためである。しかし浜大津駅統合に伴うダイヤ改正で日中1時間あたり4往復とも全線直通に揃えられ、石山坂本線の浜大津発着列車は廃止となった。 このほか毎年、冬季に「おでんde電車」、夏季に「ビールde電車」などのイベント列車が運行されている。 歴史 石山坂本線は大津電車軌道によって開業した。最初の開業区間は大津(現:びわ湖浜大津) - 膳所(現:膳所本町)間で1913年3月1日のことだった。これは官設鉄道東海道線として建設され、前日まで国鉄が大津線として旅客営業をしていた大津 - 馬場(現:膳所)間を電化および三線軌条化したものである。国鉄大津線当時の途中駅は石場駅・紺屋関駅の2つであったが、大津電車軌道開業時には大津・紺屋ヶ関・島ノ関・石場・馬場駅構内・馬場駅前・錦・膳所の8つの停留所が設置された。以降、膳所から順次延伸され、1914年には浜大津 - 石山(現:石山寺)間が開通した。石山から先、南郷まで特許を取得していたが風致上の関係で着工は難航し1915年に失効。京阪電気鉄道に合併されるまで螢谷 - 石山寺間にモーターボートを運航して連絡していた。 大津電車軌道は1927年に太湖汽船と合併して琵琶湖鉄道汽船となり、同年に石山 - 坂本(現:坂本比叡山口)間が開通した。またこの年、後に近江鉄道八日市線となる湖南鉄道を合併している。これらは琵琶湖に勢力を拡大していた京阪電気鉄道への対抗策として行われたものであった。三井寺 - 坂本間の路線は高速電気鉄道を指向した設計で、将来は堅田から草津まで琵琶湖南岸を半周する路線とすることをめざしていた。車両も路面電車規格ではなく郊外電車規格の100形が用意された。 しかし、期待に反して坂本延長線は乗客がきわめて少なく、投資が回収できなかったことから、1929年に湖南汽船の仲介もあり京阪電気鉄道の傘下に入ることになり、旧・湖南鉄道の鉄道路線を八日市鉄道に、汽船部門を京阪系の湖南汽船から改称した太湖汽船(現:琵琶湖汽船、前出の太湖汽船とは別)に譲渡して京阪電気鉄道に合併、同社の石山坂本線となった(坂本駅からの堅田方向への未成区間0.4kmは1930年6月25日付けで事業廃止された)。 合併後は石山方面と直通し、持て余していた100形は京阪本線に転属し800型(初代)となった。800型は京阪最後の木造車として京阪本線や晩年は交野線で使われ続け、廃車されるまで大津の地に戻ることはなかった。廃車後機器類が石山坂本線用に新造された350形へ流用され、復帰を果たした。 1997年、京津線の京都市営地下鉄東西線乗り入れ開始に伴い、石山坂本線も架線電圧を1500Vに昇圧した。
松田治 松田 治(まつだ おさむ、1940年 - 2006年)は、日本の古典古代文学者。 奄美大島生まれ。東京教育大学文学部卒業。東京大学大学院西洋古典学修士課程修了。流通経済大学教授、つくば国際大学教授。
小笠原瑛作 来歴 小学校5年生の時、クロスポイント吉祥寺に入会。 アマチュアデビュー10連敗を記録するも、サウスポースタイルに変えてから連勝街道、アマチュアキックの複数のタイトルを獲得。 2011年、プロデビュー。 デビュー戦は判定勝利、2戦目はムエタイの本場タイに遠征し判定勝利。その後、デビュー8連勝。 9戦目、山野寛之とREBELS-MUAYTHAIフライ級王者決定戦を行い判定勝利。無敗でプロのベルトを巻く。 10戦目、4冠王の加藤竜二と対戦し、上段回し蹴りで失神KO負け、プロ初黒星を喫する。 続くカンボジア遠征の試合でも現地選手にKO負け、連敗を喫するが、すぐに復帰戦を行いKO勝利、2つの国内タイトルを奪いながらの9連勝を記録。 2015年3月22日 貴センチャイジムと対戦2R1分47秒でKO勝利。 Muay thai open スーパーフライ級王座決定戦で初代王者に。 2015年1月、藤原あらしと対戦。ローから回転の速いパンチを見せ衝撃のKO勝利で10連勝。 2016年6月、那須川天心との対戦を賭けたRISEバンタム級挑戦者決定トーナメントに出場。SB王者内藤大樹に僅差で競り勝ち、7月の決勝で村越優汰と対戦。2Rに村越得意のボディー攻めでダウンを奪われ、3Rに三日月蹴りでTKO負け。2014年1月から続いた連勝が12でストップ。 2016年10月23日、REBELS.46で工藤政英と対戦。1階級上のREBELS55㎏級王者である工藤に対し、1Rに精度の高いパンチでKO勝利。 2016年12月5日、KNOCK OUT vol.0で宮元啓介に3R KO勝利。 2017年2月12日、KNOCK OUT vol.1で波賀宙也に2R KO勝利。 2017年4月1日、KNOCK OUT vol.2でビョン・ソンジに1R TKO勝利。 2017年6月17日、KNOCK OUT vol.3でワンチャローン・PKセンチャイジムに5R TKO勝利。 2017年8月20日、KNOCK OUT vol.4でファン・ヒョシクに2R TKO勝利。 2017年12月10日、KING OF KNOCK OUT 2017 in 両国で高橋亮と5R引き分け。 2018年6月8日、KNOCK OUT SURVIVAL DAYSで江幡塁に3R KO負け。
ハイクビジョン ハイクビジョン(漢字略称: 海康威視数字技術、簡体字: 海康威视、は、中華人民共和国浙江省杭州市に本社を置く防犯カメラ及びレコーダー企業。 概要 2001年に創立。当初はハネウェルなどの外国製品を製造するも2007年から海外進出を始め、アメリカ同時多発テロによって高まった治安対策の需要を取り込み、2011年から2017年にかけて世界最大の監視カメラメーカーとなり、2017年時点の世界シェアは38%ともされた。2010年代からアメリカ合衆国でもシェアを伸ばし、アメリカ合衆国の警察やアメリカ国防兵站局も導入し、カリフォルニア州職員退職年金基金などのアメリカの公的年金基金も投資を行っていた。 2018年に米中貿易戦争を受けて成立した2019年度国防権限法によって同じ中国企業で監視カメラ世界シェア2位のダーファや通信機器世界最大手のファーウェイなどとともにアメリカ合衆国の政府調達から排除されたが、政府調達の禁止後も米フロリダ州の海軍基地が購入し、ピーターソン空軍基地など複数の米軍基地では撤去されていなかったことが問題となった。 2019年10月にはアメリカ合衆国商務省産業安全保障局が新疆ウイグル自治区の人権侵害(天網)への関与を理由にハイクビジョンやAI企業のセンスタイムなど28法人への米国製品の輸出をエンティティ・リスト(禁輸措置対象リスト, EL)によって禁止した。 中国政府直轄の中国電子技科集団(zh:中国电子科技集团、通称:CETC)の子会社が所有する企業である。 役職 会長の陳宗年(zh:陈宗年)は中国共産党員で、全国人民代表大会にも参加。
アマダレガイ 分布 インド太平洋:パラオの海底洞窟内(北緯07度07分 東経134度14分)。 形態 ホロタイプは殻高3.93mm、殻幅2.70mm、知られている最大個体でも殻高4.35mm、殻幅3.56mmと微小。全体に白色で斑紋などは全くない。上層部はほとんど平坦か極めて低いドーム型、続く中層部は膨大し、下層部が殻口側に向かって急激にすぼまるため、全形はイチジクの実型、もしくは熱気球型。 巻き始めの胎殻はわずかに乳頭状に突出し、それ以降の後成殻は、しばらくは平たく巻いて6層目付近まで殻径を増大しつつ成長し、螺管の断面は丸みのある四角形で、大きな臍孔をそなえたクルマガイのような形態をとる。しかし7層目付近からは螺菅が急激に中心寄りに巻き始め、下方に向かって成長するため、下層の方が上層よりも殻径が小さくなるとともに、それまで広かった臍孔も螺管によって塞がれてしまう。最終的には殻口は殻の下端の中心付近に開口し、全体がイチジク型になる。 殻口はやや管状で開口部は楕円形、内唇側は弱く反転して僅かに隔壁状を呈し、そこに低く弱い2歯がある。外唇と底唇は鋭い。ただし図示された写真では、殻口の最外縁は必ずしも滑らかではなく、むしろ破断しているようにも見えるため、本来の形態の一部が破損して失われている可能性もある。 殻表の大部分には彫刻がなく、縫合(螺層どうしの接着線)も滑らかに接合するため全体に平滑だが、次体層から体層(=最終螺層)にかけては弱い縦脈が連続的に現れる。殻体構造は、最外層には非常に薄い均質構造をもち、その下の内層は第一次薄板をもつ交差板構造からなる。交差板構造の外層寄りには3層ほどの非常に薄い稜柱状構造の層を挟む。 蓋や軟体部は不明。 生態 パラオにある、ダイバーらがシアーズトンネル(Siaes Tunnel)と呼ぶ暗黒海底洞窟内から複数の死貝が得られたのみで、詳しい生態は不明である。死殻は洞窟内の水深25mから53.5mまでにあるいくつかの枝分かれした凹所内に溜まった石灰泥中から発見されたが、当初は海産貝類には全く似たものが知られていなかったことから、何らかの理由で陸産貝類の死んだ殻が海底洞窟内に溜まった可能性も考察された。しかし他に陸上由来のものが全く見当たらなかったことや、殻が比較的新鮮だったことから、近い過去にこの海底洞窟内に生息していた、あるいは現在も生息している可能性があると結論された。また殻の形態から、おそらくは洞窟内の壁などに殻口側を上にして着生し、殻頂を下にして水滴がぶら下がったような姿勢で生活していた(いる)のではないかと推定されている。 人との関係 特に知られていない。
水口大地 独立リーグ時代 長崎県立大村工業高等学校を卒業後の2008年、四国・九州アイランドリーグの長崎セインツに入団。セインツに入ったのは、土田瑞起がトライアウトを受ける際に「一人はいやだ」という理由で一緒に行くことになったのがきっかけだったという。1年目は主に遊撃手として起用され、2009年はコーチの古屋剛に守備についての指導を受けたほか、二遊間を組んでいた二塁手の松井宏次の技術を参考にしていた。2010年限りでチームが経営難で解散、救済ドラフトにおいて香川オリーブガイナーズに指名され移籍した。香川のコーチだった前田忠節は長崎時代から水口を評価し、球団首脳に救済ドラフトでの獲得を要望したと述べている。 2011年は左肘を痛め、療養のために5月15日に選手契約を解除され練習生となり、ホームゲームでマスコットの着ぐるみを着たり、スコアボードを操作するなど裏方の仕事を担った。その後怪我の完治により、7月1日付で再度支配下選手契約された。2012年は1番・二塁手のレギュラーに定着、9月度の成績が打率.455、出塁率.538で同月の月間MVPを受賞し、シーズン通算37盗塁を記録して最多盗塁のタイトルを獲得した。 2012年10月25日に行われたプロ野球ドラフト会議で埼玉西武ライオンズに育成1巡目で指名され、支度金300万円、年俸300万円(金額は推定)で仮契約を結んだ。背番号は「123」に決まった。 西武時代 2013年は二軍で二塁手、遊撃手として出場。 2014年には三塁手としても出場している。 2015年7月23日に支配下選手登録され、背番号が「00」へと変更された。7月度、二軍戦で9試合に出場し、29打数12安打、打率.414の成績でイースタン・リーグの月間MVPを受賞した。 2016年は開幕を一軍で迎え、3月30日の対福岡ソフトバンクホークス戦の9回に代走でプロ初出場した。6月27日の対北海道日本ハムファイターズ戦では9番・二塁手で初先発出場、1回表に初打席に立ち、結果は二塁手へのゴロだった。8月23日の対オリックスバファローズ戦では、代走で途中出場後そのまま守備につき、7回表に回ってきた打席で初安打(中前安打)を放った。9月1日の対ソフトバンク戦では8回裏、無死2,3塁の場面で二塁内野安打を放ち、プロ初打点を記録した。二軍公式戦には54試合に出場し、外崎修汰と並んでチーム最多の16盗塁を記録した。 2017年は開幕一軍とはならなかったが、4月29日に一軍に昇格する。同日の対千葉ロッテマリーンズ戦では「9番・二塁手」としてシーズン初の先発出場を果たす。しかし、西武の内野陣は浅村栄斗、源田壮亮、中村剛也がおり、なかなか先発出場をする機会がなかった。そのため、5月から外野の守備練習を始め、7月11日にはプロ入り後初めて左翼の守備に就いた。 選手としての特徴・人物 独立リーグ時代で50メートル走のタイムは5秒8。 長崎セインツ時代から香川オリーブガイナーズ入団時には打席を両打ちとしていたが、その後左打ちに専念し、香川2年目および西武入団時は左打ちとして登録されている。 憧れの選手は、俊足の二塁手という共通点がある片岡易之。 非常に小さい体つきだが力強い打撃も持ち味としている。 身長を高校時代は171cm、西武入団時は165cmとサバを読んで登録していたが、3年目開幕前には実際の高さである163cmに修正した。
福井県道103号福井三国線 福井県道103号福井三国線(ふくいけんどう103ごう ふくいみくにせん)は福井県福井市と坂井市を結ぶ一般県道である。 路線概要 福井市の国道416号と坂井市の福井県道101号を結ぶ路線であるが、福井県道101号はすぐ先で国道305号と接続するので、実質的には国道416号と国道305号を結ぶ役割を担う県道といえるだろう。坂井市西部に多く指定されている南北に走る路線の一本であり、周囲の県道と合わせて地域の交通を包括的に担っている。 道路状況 起点付近および終点付近は片側1車線の確保されだが、途中2か所九頭竜川の堤防上を走る区間があり、ここでは1.6車線程度の若干の狭路となる。離合に困るほどではないが、ワンボックスカーなど車体の大きい車と普通車が離合しようとすると道幅いっぱいになってしまう。また堤防上の区間は増水の際には通行止めとなってしまうため、その際は並行する福井県道106号を利用するのが望ましい。
ブラチスラヴァ空港 概要 空港名は第一次世界大戦時のスロバキア人軍人で、1919年にブラチスラヴァ近郊で搭乗のイタリア軍機が墜落して死亡したミラン・ラスチスラウ・シュテファーニクにちなむ。空港ターミナルはブラチスラヴァ中心部から北東9キロメートルのブラチスラヴァ2区ルジノフ街区にある。空港区域はルジノフ街区、ウラクニャ街区および両街区に隣接するセネツ郡イヴァンカ・プリ・ドゥナイ村、モスト・プリ・ブラチスラヴェ村にまたがり、区域面積は4.77平方キロメートル。M・R・シュテファーニク空港=エアポート・ブラチスラヴァ株式会社(BTS, Letisko M. R. Štefánika - Airport Bratislava, a.s.)が運営する。空港から1時間圏内にウィーン(オーストリア)、ブルノ(チェコ)、ジェール(ハンガリー)の各都市を擁する。 現空港から3キロ北方のヴァイノリ街区にあった旧ブラチスラヴァ・ヴァイノリ飛行場(Letisko Bratislava-Vajnory)を前身とし、1923年10月29日にチェコスロバキア国営航空(ČSA)のアエロA-14型機によるチェコスロバキア初の民間定期航空路線(プラハ - ブラチスラヴァ)が就航した。プラハ発の初便はČSAのカレル・ブラベネツ(Karel Brabenec)が操縦し、乗客は新聞記者のヴァーツラフ・ケーニッヒ(Václav König)1人だった。ヴァイノリ飛行場にはのちウィーンやクルージュ=ナポカ(ルーマニア)、ブカレストへの国際線も就航した。 第二次世界大戦後の1947年、ヴァイノリ飛行場に代わる現空港の建設が計画され、1948年に着工。04-22番滑走路(長さ1,900メートル)と13-31番滑走路(同1,500メートル)の直交する2本の滑走路を持つブラチスラヴァ・イヴァンカ空港(Letisko Bratislava - Ivanka)として1951年に完成した。1970年に新しいAターミナルが完成し、同年5月にはイリューシンIl-62型機によるČSAのブラチスラヴァ - プラハ - アムステルダム - ニューヨーク線が就航した。さらに1980年代末に拡張工事が行われ、04-22番滑走路を2,900メートルに、13-31番滑走路を2,950メートルに延長した。 チェコスロバキアの連邦制解消後はスロバキア空港公社(Slovenská správa letísk)が運営し、1993年7月21日に現名称のミラン・ラスチスラウ・シュテファーニク空港に改称。1994年にBターミナルの運用を開始した。1997年には13-31番滑走路をICAOのILSカテゴリーIIIAに適合させる改修が行われ、同滑走路を3,190メートルに延長。1998年3月に新管制塔の運用を開始した。 運営機関のスロバキア空港公社は2004年5月5日に株式会社化され、M・R・シュテファーニク空港=エアポート・ブラチスラヴァ株式会社に改組された。スロバキアのシェンゲン協定加盟にともない、2006年6月にシェンゲン圏諸国発の国際線用に設けられた到着専用Cターミナルの運用を開始した。 空港利用客数は、1990年代にはわずか55キロしか離れていないウィーン国際空港との競合で減少したが、その後スカイヨーロッパ航空など国内航空各社の路線網拡大にともない、2007年には年間200万人を突破し、2008年には221万8545人に達した。老朽化と利用客の急増に対応するため、旧Aターミナルに代わる新Aターミナルが建設され、2012年に全面供用を開始した。 空港会社は新Aターミナルの完成で年間500万人の利用が可能になると見込んだが、世界的な不況の影響で、本空港を拠点空港とするスカイヨーロッパ航空、シーグル・エアー、エア・スロバキアの国内航空大手が2009年以降相次いで倒産したことから、年間利用客数は100万人台にとどまっていて、当初構想と異なり空港ターミナル機能のほとんどをAターミナルに集約して運用している。
ディエゴ・コリャード ディエゴ・コリャード(Diego de Collado、ラテン語: Didacus Colladus、1589年? - 1641年8月)は、ドミニコ会に所属するスペインの宣教師。
太子町 (兵庫県) 檀特山 太子町と姫路市にまたがる標高165.1mの山。 山頂にある大きな岩には伝説があり、岩のくぼみは応神天皇の御沓・御杖の跡、または聖徳太子が馬に乗って登り修行をした時についた蹄の跡と言われる。詳細は檀特山を参照。 鉄道路線 西日本旅客鉄道(JR西日本)の山陽新幹線・山陽本線が町内を通るが、駅はない。最寄り駅は網干駅。 2008年3月、同様に駅がなかった山口県玖珂郡和木町に和木駅が開業したため、同線が通っているのに駅がない唯一の市町となった。 金融 指定金融機関:兵庫西農業協同組合
2003年のバロンドール 2003年のバロンドールは、欧州各国のスポーツジャーナリストの投票によってサッカーの欧州年間最優秀選手を決める賞で、ユヴェントスのパベル・ネドベド(チェコ)が受賞した。授賞式は2003年12月23日に行われた。 概要 ネドベドはチェコ国籍として初めての受賞者である(チェコスロバキア国籍としては1962年のヨゼフ・マソプストがいる)。ユヴェントス所属の受賞者は1961年のオマール・シボリ、1982年のパオロ・ロッシ、1983年と1984年と1985年のミシェル・プラティニ、1993年のロベルト・バッジョ、1998年のジネディーヌ・ジダンがおり、ネドベドは6人目の受賞者である。
エジプト末期王朝 第26王朝 サイス王朝としても知られる第26王朝は、紀元前672年から紀元前525年まで続いた。ナイル川から紅海への運河建設が始まった。 第27王朝 第1アケメネス朝(紀元前525年-紀元前404年)、この王朝は拡大するカンビュセス2世のアケメネス朝に支配されたエジプトと見られている。 第28王朝から第30王朝まで 第28王朝はサイスの王子であるアミルタエウス一人で成り立った王朝で、この王はペルシアに抵抗した。名前を刻んだ記念碑を建造せずに世を去った。この王朝は紀元前404年から紀元前398年の6年で終わった。 第29王朝は紀元前398年から紀元前380年にかけてメンデスに支配された。 第30王朝はエジプト第26王朝から芸術様式を取り入れた。3人のファラオが、紀元前380年からペルシアの再占領につながる紀元前343年の最後の敗戦まで支配した。 第31王朝 第31王朝の第2アケメネス朝があった。(紀元前343年-紀元前332年)
スペシャル・ブロードキャスティング・サービス 多言語放送 ラジオ放送は68言語で行っている。1週間に1時間、オーストラリア内での使用者数の多い言語にはさらに多くの放送枠が与えられる。ラジオ番組はシドニーとメルボルンからそれぞれ半数の言語の番組を制作・生放送する。時差で遅れる地域には現地時間に合わせ、録音放送する。 テレビ放送はシドニーで制作・送出されている。連邦首都キャンベラと各州都にはスタジオがある。 テレビニュース "Worldwatch" は日本、香港特別行政区、中華人民共和国、フィリピン、イタリア、ドイツ、スペイン、フランス、ロシア、ギリシャ、ドバイ、インドネシア、アメリカ合衆国、ハンガリー、韓国、チリ、マルタ、ポーランド、ウクライナなどからのニュース番組を録画放送する。英語字幕はついていない。 英語圏以外からのテレビ番組、映画を購入し、英語字幕または吹き替えて放送する。英語版を共同制作して放送することもある。
酒井了明 人物 1865年6月、庄内藩の家老になるも、翌年に藩政改革の陰謀に兄の酒井右京が加担していたことに関連して、謹慎処分となり、1867年9月に家老を免職となる。 戊辰戦争で名を馳せた酒井了恒(長男)、庄内柿の生みの親として有名な酒井調良(次男)、庄内婦人会会長の白井久井(長女)、書家の黒崎研堂(三男)の父である。
門田守人 門田 守人(もんでん もりと、1945年〈昭和20年〉8月8日 - )は、日本の医学者。大阪大学名誉教授。日本医学会 会長。元日本外科学会会長。元大阪大学理事・副学長。広島大学附属福山高等学校を経て大阪大学医学部卒業。
サンクル州 経済 米、バナナ、パイナップル、芋、砂糖黍、ソルガム等の農業が中心である。 ダイアモンドや錫石等の鉱物資源も豊富である。 国内大都市からの輸入に大きく依存している。
1954年のロードレース世界選手権 シーズン概要 1954年シーズンは前年同様の全9戦となったが、フランスGPの開催地がルーアンからランス・グーに変更になり、前年コースの安全性を巡ってボイコット騒動が起きたドイツGPはショッテンリンクから一昨年までのソリチュードに戻った。また第3戦アルスターGPの500ccクラスは悪天候のために179kmを走ったところで中断され、レース成立に必要な最低走行距離200kmに満たなかったために選手権ポイントの対象から除外された。各クラスの勢力図は前年からほとんど変化がなく、全クラスで前年と同じメーカーのマシンが、そして250ccから500ccまでの3クラスで前年と同じライダーがチャンピオンとなっている。伝統的にマン島にはワークスとして出場してこなかったジレラは、この年初めてマン島にワークス・チームを送り込んだ。 前年にデビューしたBMWのストリームライナーに端を発し、各メーカーがオートバイの空力に関する試行錯誤を始めたのがこの年である。この流れをリードしたのはファクトリーに風洞を持っていたモト・グッツィで、前年の終わりにデビューした新型4気筒マシンはダストビン・フェアリングと呼ばれるカウリングでフロントホイールまで包み込まれていた。カウリングを使用することに無関心だったAJSを除くMVアグスタやNSU、ジレラ、ノートンといった他のメーカーもこの流れに追従して様々な形状のカウリングをテストし、NSUのイルカのくちばしが突き出たような形状のカウリングはドルフィン・フェアリングの異名をとった。タイトルを獲得したジレラの500ccマシンは、ダストビン・フェアリングの効果もあって最高速度240km/hに達していた。 まだまだレーシングマシンとしてのスタンダードと言えるようなメカニズムは確立されておらず、各社は空力以外でも様々な試みを繰り返していた。モト・グッツィは2レースで4気筒の500ccマシンを走らせたが、やがて単気筒に戻していた。ノートンはそのモト・グッツィが350ccで成功していた水平単気筒エンジンを試作したが日の目を見ることはなかった。NSUの単気筒125ccや2気筒250ccは12,000rpm以上の回転数を実現している。その一方でシーズン中に主任設計者を失ったノートンとAJS、そしてエースライダーを事故で失ったNSUがこの年限りでワークス活動を中止したが、市販レーサーの開発と販売は翌年以降も継続している。 この年、ホンダの本田宗一郎が初めてマン島TTに視察に訪れた。この年の3月にマン島に出場して勝利を目指すという「TT宣言」を発表した本田だったが、本場のグランプリやGPマシン、中でもこの頃小排気量クラスで圧倒的な強さを誇っていたNSUチームにショックを受け、日本では手に入らないヨーロッパ製の最新パーツを山ほど日本に持ち帰った。ホンダが今度はヨーロッパのメーカーのライバルとしてマン島に戻ってくるのは、この時から5年後の1959年のことである。 500ccクラス 500ccクラスは前年に引き続いてジレラのジェフ・デュークが席巻した。第4戦のベルギーがシーズン初優勝となったデュークだが、そこから5連勝を飾って第7戦のスイスGPで2年連続となる最高峰クラスのタイトルを手中にした。デュークの500ccクラスタイトル獲得は3度目であり、同一クラスで3度チャンピオンになった最初のライダーとなった。有効ポイント制が採用されていたこの頃は高ポイントを獲得したチームが終盤のレースを欠場するということは日常的に行われており、早々にタイトルを決めたジレラとデュークが欠場した最終戦のスペインではディッキー・デイルが乗るMVアグスタが今シーズン唯一の500ccクラス勝利を挙げている。 350ccクラス 緒戦のフランスでは地元のピエール・モネレがフランス人初のグランプリ優勝を飾り、第2戦マン島TTではロッド・コールマンがAJSにとってのグランプリ最後の勝利を記録した。前年チャンピオンのファーガス・アンダーソンとモト・グッツィがシーズン初勝利を飾ったのは第5戦のダッチTTだったが、シーズン後半だけで4勝を挙げたアンダーソンはこのクラスの2年連続タイトルを決めた。 250ccクラス 前年同様に小排気量クラスを支配したNSUだったが、特に250ccクラスではランキング上位6人のうちNSUに乗るライダーが5人を占めるという圧倒的な強さを見せた。特に前年のチャンピオンのヴェルナー・ハースは、開幕戦のフランスで162.59km/hという250ccとしては初めてとなる100mph(約161km/h)以上の平均速度で優勝するとそのまま好調さを維持して連勝を続け、4連勝目となった第4戦ダッチTTで早くもタイトル防衛を決めた。そしてタイトルが決定したにもかかわらず次戦の地元ドイツGPに出場したハースはここでも優勝し、このクラスでは初となる開幕からの5連勝を達成した。さらに連勝記録を伸ばすべくスイスGPに出場したハースは、しかし1周目で転倒を演じて連勝はストップ、NSUのチームメイトであるルパート・ホラースがこのクラスでは唯一となる勝利を飾った。ホラースにとっては、この勝利が生涯最後のグランプリ優勝となってしまった。 125ccクラス 250ccクラス同様、このクラスもNSUがシーズンを支配した。ただし、シーズンをリードしたライダーはディフェンディングチャンピオンのヴェルナー・ハースではなく、前年デビューしたばかりのルパート・ホラースだった。ホラースは125ccクラスの開幕戦となったマン島でグランプリ初優勝を飾るとそのままの勢いで4連勝、第4戦のドイツGPでタイトルを決めた。しかし、第5戦イタリアGPの予選中のクラッシュで頭蓋骨骨折の重傷を負ったホラースは、手術の甲斐もなく帰らぬ人となった。モーターサイクルレースにおいて、死後にワールドチャンピオンとなったのはホラースのみである(2010年現在)。ホラースへの追悼の意を表し、NSUはグランプリにおけるワークス活動から撤退した。
FUTURE WAR 198X年 概要 制作時期に国際的な問題となっていた米ソの冷戦激化を題材にして制作された劇場アニメ。プロデューサーの吉田のコメントによれば、近未来戦争の恐怖を訴えつつ、『地獄の黙示録』や『復活の日』の面白さを取り入れて完成させた作品。 ほぼ同時期に制作された劇場版『宇宙戦艦ヤマト』シリーズで実績のあった舛田利雄や勝間田具治を監督として起用、また制作に際して『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』のポスターのイラストなどでも知られていた生頼範義にイメージイラストを依頼している。 当初制作主体として予定されていた東映動画は、労働組合が「内容が好戦的である」として制作をボイコットし、これはマスコミでも取り上げられた。このため作画などの実制作は大半が外注スタッフによって行われている。 あらすじ 198X年、宇宙探査機ボイジャー2号が人類の平和と友好のメッセージを発信しながら宇宙を旅している頃――。 ソビエト連邦の潜水艦基地からは、戦略原潜「リューリック」が出航していった。東西ドイツ国境ではNATO軍兵士のマイケルが地元の少女マリーネと出会い、互いに惹かれあう。そして宇宙空間では、アメリカ合衆国対戦略核ミサイル用のレーザー砲搭載衛星の射撃テストが行われていた。テストは成功し、計画の主任であるバート・ゲイン博士と三雲渡、そしてバードの妹のローラは喜ぶが、翌日ゲイン博士がソ連のスパイに拉致されてしまう。秘密保持を最優先課題としたギブスン大統領は、博士が乗せられていた原子力潜水艦をミッドウェー沖で核魚雷によって撃沈した。ソ連の主戦派の筆頭であるブガーリン国防相は、これを好機と考えオルロフ書記長に開戦を提案したが、書記長はこれを退けた。 だがその後、東西ドイツの国境付近でソ連の最新鋭戦闘機「ブラック・ドラゴン」が亡命を求めて西ドイツの空軍基地に不時着。オルロフは機密保持のためにこの空軍基地の攻撃を指示したが、これによってNATO軍とワルシャワ条約機構軍の機甲部隊が戦闘状態に陥った。そのさ中、戦火でマリーネを失ったマイケルは、錯乱して戦術核ミサイルでワルシャワ軍を攻撃。これによって戦火は世界中に拡大。穏健派のオルロフが病床にあったことから、ブガーリンが政府の実権を握り、撤兵条件に北緯38度線以北の中近東の割譲を要求。ブガーリンに抵抗するクツーゾフ外相らも逮捕されてしまう。リューリックでは政治将校が艦長を殺害して戦略核ミサイルを発射。アメリカ各地に核弾頭が降り注ぎ、ギブスンは戦略核ミサイルによる報復攻撃を決意する。一方、病状が回復したオルロフは、「名誉ある敗北」を望みホットラインによる会談に挑むが、その最中に射殺され、ブガーリンは西側主要都市への核ミサイルの発射スイッチを押し、ついに米ソ双方が戦略核ミサイルを打ち合う事態に発展した。 ギブスンは、レーザー搭載戦闘衛星「スペース・レンジャー」4基に核ミサイル迎撃を指示する一方、ソ連訪問による講和を考える。しかし、打ち上げられた「スペース・レンジャー」も、全てキラー衛星に破壊されてしまう。折りしも、世界各地で厭戦ムードが広がり、ソ連ではクツーゾフ外相らが解放され主戦派を拘束し、ブガーリンは射殺される。だが、ブガーリンは死の間際にさらに核ミサイルを発射した。支援スペースシャトルに乗り込んでいた三雲は、2時間分の携行空気だけで半壊した「スペース・レンジャー」に乗り込み、核ミサイルを阻止しようとする。そしてローラは宇宙船に乗り込み、三雲を救出に向かった。 反対運動とその反響 制作準備段階だった1981年2月、東映動画の労働組合は本作の準備台本1冊を入手し、これがコピーされて職場で回覧される。現場の従業員からは「戦争がカッコよくしかもリアルに描かれ危険」という意見が出され、組合は教職員組合やPTAにも呼びかける形で反対運動を開始した。この運動は同年4月3日付朝日新聞に「組合が本作の一切の製作協力拒否を会社側に通告」という形で掲載され、この記事に関心を寄せた団体「日本母親大会」が反対運動に参加。5月15日には日本母親大会や東京都教職員組合、「日本子どもを守る会」など38団体が日本教育会館で集会を開いて「戦争アニメを作らせないようにしよう」というアピールを採択し、7月17日に「『198X』に反対する会」が結成された。 アニメ雑誌『アニメージュ』は本作の完成が近づいた1982年4月号で「FUTURE WAR198X年をきみたちはどう見るか!?」という記事を掲載した。その内容は、本作の最高責任者(製作総指揮)である東映の渡邊亮徳常務に芸能評論家の加東康一が質問する形での対談と、アニメ監督の勝間田具治や東映動画労組の副委員長、子ども調査研究所長の高山英男、日本母親大会事務局長の談話を並べた「私はこう思う!」と題したコメント集からなっていた。対談の中で渡邊は「”動くゲルニカ”を作ってやろうと思った」「第三次世界大戦が起こったらどうなるのかを観客に提示することが、ほんとうの意味で平和への示唆になる」と製作理由を述べている。また、アニメでリアリティが出るのかという加東の質問には「生頼範義のイラストへの起用とコンピューター・アニメ(原文ママ)でリアリティを出そうとした」と答えている。渡邊はそれらも含めた総制作費を6億円と明かし、フルオーケストラ音楽の使用やフランスの有名デザイナーへの衣装デザイン発注などもおこなったと述べている。当時の「右傾化」傾向の延長ではないか、現実の世界大戦を想定した作品を中高生という「子ども」に見せるのは危険ではないかという加東の問いに対して、渡邊は戦争映画即右傾化ではない、悲劇も描いており、なぜ未来を描いて「右傾化」になるのかと答え、「絶対、好戦映画にはしてありません」と述べた。 「私はこう思う!」では勝間田が自分にも戦争体験があり好戦的作品は絶対に作らないと発言する一方、組合の副委員長は作品に平和への尊厳がない、スタッフの中にも生活のために「いやいややっている」人がたくさんいると述べ、高山英男は「台本には平和の志がないが、組合側も平和を望むなら実力行使でもして止めるべき」と両者を批判するとともに作ること自体には反対ではないが自分の子どもには見せないとコメントした。 監督の舛田利雄は、組合のボイコットを受けて作品内容をより平和を希求する方向に修正したと後年回想しており、上記記事で「日本母親大会」の事務局長も自分たちが反対の声を上げたことで、シナリオの内容がどんどん変わったと述べている。 当時、『アニメージュ』にエッセイ「月づきの雑記帳」を連載していた安彦良和は、次の5月号でこの話題に触れ、「まじめな反戦映画になるだろうなどとは全然思わない。そういうものを目指して企画されたとも思っていない」と述べた上で、「大変月並みで通俗でマトを得ていない(原文ママ)政治認識をあたかも最もシビアな現実であるかのように錯覚して、その上に物語を築いてしまったこと」を「(本作が)犯してしまった最大の間違い」と批判した。さらに、アニメのリアリズムは「ウソのかたまり」であるアニメをそれらしく見せるための手段に過ぎず、戦争を真剣に考えるためのフィルムとしてはアニメは不適であると指摘している。また、衣装デザイナーや生頼範義のイラストの起用などを「大ゲサ趣味」と評し、「百歩譲って、現実政治を素材としてリアリズムで反戦を謳うというモチーフがありえたとしても、その作品は多分6億円などという法外な製作費は必要とはしないはずだ」と述べている。渡邊の「アニメでゲルニカ」発言には「偽善のニオイ」を嗅ぎつけて反感をおぼえたという。安彦はこのエッセイの最終回で、この回の内容に対する反響の多くが「あなたの言うことはわかったからそれが正しいかどうかは自分で考えてみる」という真摯なものだったことが嬉しかったと記した。
茶木ひろみ 茶木 ひろみ(さき ひろみ、本名非公開、1956年4月16日 - )は、日本の漫画家。兵庫県神戸市出身。血液型はA型。 集英社の『週刊マーガレット』にて活躍していた。ペンネームを「茶木宏実」としていた時期がある。 現在はどの出版社にも属さず、個人で本をAmazonにて販売。電子版はKindle独占契約で配信中。 概要 1977年、『デラックスマーガレット』(集英社)に掲載された、「委員長が変です!?」にて正式デビュー。 代表作は『銀の鬼』など。 初期の作風は『かのこ』に代表されるロマコメが中心だったが、『真珠姫』・『姫-クラシックガール-』など日本史(桃山時代・江戸時代初期)が絡む伝奇小説的な作品もある。『銀の鬼』以後、『お幻さま』などホラー・ミステリー色の濃い作品が多くなった。 主人公は『銀の鬼』の主人公を代表とする、気が強く凛とした感じの女性像が多く、作中では白髪で描かれるが、『姫-クラシックガール-』や『お幻さま』の主人公など、黒髪で描かれる大人しくて芯の強いタイプも見られる。 作中には設定や場面、ネーミングなどを含め、菓子と雪が多く登場する。主人公のペットとして猫の登場も多い。 茶木は1989年8月に刊行された『悪徳の栄え』以後作品の発表を停止していたが、2004年春、新作『変な探偵』を自費出版(300部)し復帰を果たした。 2006年6月に茶木の公式サイトが開設され、WEB上のみで新作のDL販売を開始したが、2007年6月13日に予告無しで突然閉鎖となり、DL販売も中止された。同年8月に公式サイトが再開され作品のDLも復活したが、2009年4月にサイトが再び閉鎖された。 2009年6月19日、ブッキングから発売された『銀の鬼 目覚め』3巻の続編として、デジタルコミックとして新作発表がなされた。PC版では『銀の鬼 ―目覚め―(11)副題:秘密』としてチーコチーカ扱いで買う事が出来るが(ブッキングからの新作発行は『変な探偵』が最後となっているため)、デジタルコミックではなく紙の書籍として読むことは当分出来ないと作者ブログにも説明があった。 2009年7月28日には茶木としては初めて、日本国外である韓国でもデジタルコミックとして作品の発売が開始された。 ブッキングから発売された『銀の鬼目覚め』3巻の続編として、茶木の自費出版本がAmazonにて販売中。 銀の鬼11~14巻 銀の鬼15~17巻 銀の鬼18~21巻 銀の鬼22~23巻 銀の鬼24~27巻(2019年9月発売予定) 銀の鬼外伝(全1巻) 絹のヒーロー4巻 おれはバラ・母なる男ミックス 電子版はKindle独占契約で配信中。 銀の鬼1~27巻 銀の鬼外伝1~5巻 変な探偵1、2巻 母なる男1、2巻 マダム・ソレイユ1、2巻 おれはバラ1、2巻 おれはバラ・母なる男ミックス ごはんだよ! 桃ノ花の疾走/熱くなれ! 真珠姫1、2巻 かのこ びわとオハギとカレーライス(カレーライスの王子さま改題)/くちづけどろぼう 絹のヒーロー1~4巻 幻の少女1、2巻(姫・クラシックガール改題) お幻さま 悪徳皇帝との恋(悪徳の栄え改題) あなたのプロフィール ももいろ宝石(2019年9月配信予定) 純恋夜(2019年9月配信予定) 翻訳版銀の鬼The silver demon1~6
アーサー・ニコルソン (初代カーノック男爵) 略歴 第10代准男爵、サー・フレデリック・ニコルソン提督とその妻メアリー・ロッチの間に長男として生まれる。ラグビー校を経てオックスフォード大学ブレイズノーズ・カレッジに進学したが、学位を取得せずに退学。1899年、准男爵位を継ぐ。1907年、サンクトペテルブルクにて英露協商に調印した。 著書 「the History of the German Constitution」(1873年)
アジア冬季競技大会スノーボード競技 アジア冬季競技大会スノーボード競技は、2003年の第5回大会より開催されている。
ラファイエット郡 (ウィスコンシン州) 地理 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は635平方マイル (1,644.6 km²)であり、このうち陸地634平方マイル (1,642.1 km²)、水域は1平方マイル (2.6 km²)で水域率は0.16%である。
ミショーテ ミショーテ(Misiote)は、メキシコ中央部、特にメキシコ盆地で伝統的に食べられるピットバーベキューの肉料理である。オーブンで調理することもできる。マトンかウサギを用いるが、鶏肉、ラム、豚肉を用いることもある。肉は骨付きの角切りにし、パシーヤ、ワヒーヨ、クミン、タイム、マジョラム、ベイリーフ、クローブ、ニンニクで味付けする。これを小分けにして、アオノリュウゼツランの葉の半透明で硬い外皮で包むじょとにより、独特の香りが付く。包む前に肉に角切りのノパール(サボテン)を加える場合もある。
フリクション (バンド) 結成まで 1971年頃、後に村八分に参加するカント(渡辺作郎)を中心にマルチ・アート集団「○△□(まるさんかくしかく)」が活動し始め、これにレック、チコヒゲも参加。即興演奏中心のアバンギャルド音楽のバンドだった。1973年に○△□のバンド名がそのままタイトルになったアルバムが限定盤として発売。 1975年、レック(当時はギター)、チコ・ヒゲ(ドラムス)、ヒゴ・ヒロシ(ベース)の3人で結成した「3/3」のアルバムを10枚のみ制作。1977年、レックはNYへ。コントーションズ、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ザ・ジャークスに参加。また、レックの後を追ってNYへ渡ったチコ・ヒゲもコントーションズに参加し、2人でノー・ウェーブ・ムーブメントを肌で実感した。 結成、メンバーの変遷、活動休止 1978年、日本へ帰国したレック(ベース)、チコ・ヒゲ(ドラムス)と元ブロンクスのラピス(ギター)と3人で「フリクション」を結成。秋より、貸スタジオ「S-KENスタジオ」を中心として活動していたバンドであるLIZARD、ミラーズ、ミスター・カイト、S-KENとともに、「東京ロッカーズ」と称し、シリーズ・ライブを開始。また11月にラピスが脱退し、元はぐれ雲のツネマツマサトシ(恒松正敏)が加入。 1979年、オムニバス・アルバム『東京ROCKERS』に2曲参加。パス・レコードより1st.シングル「Crazy Dream」を発売。 1980年、坂本龍一のプロデュースによる1st.アルバム『軋轢』、シングル「I Can Tell」でメジャーデビュー。また12月に、前年に京都・磔磔で行ったライブをアルバム『'ed 79 Live』として発売したが、ツネマツマサトシが脱退し、E.D.P.S(エディプス)を結成。 1981年、茂木恵美子(ギター)、Scher-Z Haruna(パーカッション)が加入して4人編成となる。 1982年、アルバム『Skin Deep』を発売。 1985年、1984年にローマで行われた「Japan Japan Festival」にゲスト参加した際のライブをアルバム『Live at "Ex Mattatoio" in Roma』として発売。 1986年、Scher-Z Haruna、茂木恵美子が脱退し、セリガノ(キーボード)、ヒゴ・ヒロシ(ギター)が加入。 1987年、チコ・ヒゲが脱退し、サトウミノル(ドラムス)が加入。 1988年、ゲストにジョン・ゾーン(サックス)を迎え、アルバム『Replicant Walk』を発売。 1989年、セリガノが脱退し、ラピスが再加入しギタリストが2名になる。また、渋谷クラブ・クアトロでのライブをビデオ『Dumb Numb Video』(監督・石井聰互)として発売。 1990年、ビデオと同日のライブを収録したアルバム『Dumb Numb CD』を発売。同時期、ヒゴ・ヒロシが脱退。 1993年、再びラピスが脱退し、サイトウ・ゴウ(ギター)が加入。 1994年、サイトウ・ゴウが脱退し、イマイアキノブ(ギター)が加入。 1995年、アルバム『Zone Tripper』を発売。 1996年、audio active、小野誠彦、田中フミヤによるリミックス・アルバム『Remixxx+One』を発売。また、レック、チコ・ヒゲ、ツネマツ時代の1980年神奈川大学でのライブを収録したアルバム『Live 1980』を発売。同年11月のライブを最後に活動を休止。 再始動 2006年、レックと中村達也(ドラムス)の2人編成で復活。同年8月にライジング・サン・ロックフェスティバルに出演し、2007年にはフジ・ロック・フェスティバルの最終日に出演。また、初のベスト・アルバム『Maniacs』、研究書『FRICTION The Book』を発売。2009年、2人編成での初の作品となるミニ・アルバム『Deepers』を発売。2010年には2枚組ライブ・アルバム『2013-Live Friction』を発売。
立正大学付属立正中学校・高等学校 概要 立正大学付属立正中学校・高等学校は、日蓮教学の1つ「行学二道」を建学の精神として、勉学に対する積極的な情熱と質実剛健の気風を養うとともに、豊かな人間性を形成することを目指している。 高等学校においては、特別進学クラスと進学クラスがある。特別進学クラスは国公立大、難関私立大の現役合格を目指す。進学クラスは大学進学を含め多様な進路に対応。両クラスとも2年次から文系・理系に分かれる。また中学校から入学した内部進学の生徒と高等学校から入学した外部進学の生徒との間では、第2学年から混合してクラスを編成する併設型中高一貫校である。
ピーエリス ピーエリス(古希: Πιερίς, Pieris)またはピエリスは、ギリシア神話に登場する9人の姉妹。複数形はピーエリデス(古希: Πιεριδες, Pīerides)。 最も古い時代にはムーサイの別称であり、マケドニアのピーエリアとボイオーティアのヘリコーン山という崇拝の中心地を有している。 神話 ピーエリア王・ピーエロスとパイオニア王国のエウイッペーとの間に生まれた9人の娘である。ムーサたちと全く同じ名前の9人の姉妹で、ムーサたちと同一視されることもある。 ピーエリスたちを描いた神話原典は古代ローマの詩人・オウィディウスによる『変身物語』第5巻が有名。ピーエリアから自信と傲慢を持つピーエリスたちはムーサたちの長姉・カリオペーに歌勝負を挑んで、強い負けてカササギという鳥に姿を変えられた。
Dear Friends IV 解説 歌手・岩崎宏美の「Dear Friends」シリーズ第4弾となる、約2年ぶりのカバー・アルバム。本シリーズ恒例の、岩崎良美との姉妹デュエットは本作品でも収録されている。 多くの歌手にカバーされているスタンダード・ナンバー「夢で逢えたら」「上を向いて歩こう」が収録された。ほか、中島みゆきのカバーは、『Dear Friends』(2003年3月21日)の「時代」・『Dear Friends II』(2003年11月26日)の「恋文」に続き、3曲目となった。なお2005年3月24日には、初めて中島みゆきから提供を受けたオリジナル楽曲「ただ・愛のためにだけ」をシングルリリースしている。 なお、「夢で逢えたら」はビクター所属だった1981年に発売したアルバムの「すみれ色の涙から…」に萩田光雄編曲で収録されており、今回のカバーは2度目である。 本アルバムは「思秋期」を除いて他アーティストのカバー集であるが、前年の9月には、自身のオリジナル楽曲をチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏でセルフカバーした『PRAHA』(2007年9月27日)というアルバムが発表された。本アルバム収録の「思秋期」は、再度プラハを訪れてドヴォルザークホールで新録音されたバージョンで、『PRAHA』収録のものとアレンジは同一であるが、テンポはずっと遅くなっている。
クアラ・クブ・バル駅 概要 KTMコミューターの運行区間拡大にともない駅が移転、新築された。移転以前は、クアラ・クブ・ロード駅 (Kuala Kubu Road Railway Station) と称していた。 KTMインターシティの一部の列車が停車する。
ディック・マーティン 略歴 ミシガン州立大学卒業。キャリアの初期にはラジオのシットコム『ダフィーズ・タヴァーン』の構成作家として働く。1952年、コメディアンのダン・ローワンと共にコメディ・チーム「ローワン&マーティン」を結成、国内外のナイトクラブを回り始める。このコンビは最初のコントでマーティンが酔いどれのシェイクスピア俳優を演じてローワンのせりふにたびたび野次を入れ、そのままマーティンの役回りとして定着するなどそのときどきにパンチのきいたアイデアをつけ加えていく点が特徴だった。またNBC放送のお笑い番組『コルゲート・コメディー・アワー』は底抜けコンビなど有名コンビが持ち回りの出演者兼進行役を務め、ローワン&マーティンも何度かその役目を引き受けている。喜劇映画の初出演は1958年の西部劇『ワンス・アポン・ア・ホース』 (ハル・カンター監督) だったものの興行は振るわなかった。NBCとの契約は話し合いの上、4年繰り上げて1960年に終了。 1962年からソロとして活動、1964年まで主演ルシル・ボールのカムバック第1弾のシットコム『ザ・ルーシー・ショー』で隣人の航空パイロットのハリー・コナーズを演じた。続いてローワン&マーティンのコンビで再びクラブ回りを始めると1966年の夏、『ディーン・マーティン・ショー』が休むあいだの番組に出演。マーティンは 1966 年の映画『マーメイド作戦』でドリス・デイ、ロッド・テイラーと共演する。 テレビ・シリーズ 『ラフ・イン』 ローワン&マーティンの活躍はやがてテレビ・プロデューサーのエド・フレンドリーとジョージ・シュラッターに見出され、NBC で『ラフ・イン』 (1968年–1973年) の放送が始まると、2ヶ月でたちまち全米1位の人気シリーズとなって2シーズンその人気が続く。この番組は速いペースでつぎつぎにギャグを演じては照明を落として場面を切り替える構成が目新しく、笑いを誘う性的な話題や風刺、名ぜりふをところどころに意図的に差し込んでいた。キャストには無名時代のゴールディ・ホーンやリリー・トムリン、アーテ・ジョンソン他を起用している。 大いに笑いが盛り上がるとベテランのローワンとマーティンが登場して観客の興奮を高めていく。後年「おかしな事ばかり言うコメディアンが入れ替わり立ち代り出演するなか、まともなのはわれわれ二人だけでおろおろしている設定にした」とマーティンは語っている。また喜劇役者マーティンの設定は「まぬけで好色な男」として笑われ、同時に観客の共感を引き出すところにあったという。実生活でも1960年代は女性に囲まれるパーティーの花形で、豪華さにふけり気ままに遊び楽しんだ。パートナーのローワンは落ち着いたマイホーム型である。 ローワンがショービジネスから引退すると、マーティンは『マッチゲーム』や『パスワード・プラス』ほかのクイズ番組にしばしば出演、またクイズ番組のパロディー版『チープ・ショー』 (1978年)と『マインドリーダー』(1979年)で司会を務めた。 監督、客演 コメディー番組の監督として力を発揮し、デビュー作『ボブ・ニューハート・ショー』を皮切りに10作を超える番組を監督する。1980年代には『ニューハート』でチーフ監督の座に着いた。 1998年、人気を集めたシットコム『ナニー』にゲスト出演したマーティンは、フラン・ファインが公園で出会うホームレス役 (実はニューヨークで指折りの富豪プレストン・コリアー) を演じる。 『サード・ロック・フロム・サン』 (1996年) に社会学者のベン・リットメイヤー博士役で客演した 家庭 1971年8月22日にPLAYBOYのプレイメイトで『ワイルド・パーティー』のスター女優ドリー・リードと結婚、1974年6月に離婚するものの、1978年に再婚し生涯を共に過ごす。初婚は女優で歌手のペギー・コネリー。子どもは息子2人、リチャード・マーティン (映画監督)とキャリー・マーティン。
安岡重明 安岡 重明(やすおか しげあき、1928年 - 2017年6月12日)は、日本の経済学者、経営学者、歴史学者。同志社大学名誉教授。 専門は日本経済史・経営史。経済学博士(大阪大学、1959年) 近世経済史研究を皮切りに、主に近現代経済史・経営史特に三井財閥に関する研究で知られる。 略歴 大阪府大阪市出身。1953年大阪大学経済学部卒業。59年同大学院博士課程修了、経済学博士号を授与される。同年同志社大学助手。1967年同大学教授。1980年同大学商学部長。86年同大学教務部長を経て1999年同大学名誉教授。
ウランバートル駅 駅構造 単式ホーム1面、島式ホーム1面を持つ地上駅である。駅舎内にはレストランがある。ホームへは駅舎を通らずに出入り出来る。 利用状況 当駅はモンゴル鉄道の旅客、貨物を扱う中核で最大の駅である。モンゴル縦貫線はモンゴル国内の列車だけでなく、モスクワ、北京、フフホトへの国際列車が発着する。ナライフ支線は貨物専用線である。なお、駅内での写真撮影は基本的に禁止されている。 駅周辺 当駅はウランバートル市街の西よりにある。駅の外れにはモンゴル鉄道博物館があるが、建物は無く車輌が6輌ほど展示されている。
黒の女教師 概要 学校内外にはびこるさまざまな問題を、「課外授業」と称して法外な金額と引き換えに法を犯すこともいとわず解決していく3人の女性教師の姿を描くアクションサスペンス活劇である。従来の学校教師ドラマとは対極をなす『女王の教室』(2005年7月期、日本テレビ)にも通じる内容 となっており、主演の榮倉奈々は初の教師役で、かつ初めてダークヒロインを演じた。また、トリンドル玲奈は本作が連続テレビドラマ初出演となった。 本作は第1回TBS連ドラ・シナリオ大賞で佳作を受賞した山下友弘の『夜の女教師組』で のドラマ化であり、山下は企画・脚本を手がける、TBS連ドラ・シナリオ大賞受賞作品のドラマ化は初となる。 また、都立國文館高校のシーンは埼玉県の山村国際高等学校でロケ撮影が行われている。 キャスト 「*」の人物は夕子たちによる「課外授業」で制裁を受けた者(ただし、ゲスト内の「*」の人物は鉄拳制裁を受けた容疑者。)。
カリ・アルナソン クラブ経歴 スウェーデンのヨーテボリで生まれ、5歳の時にアイスランドの首都レイキャヴィークに移住。1999年から5シーズンヴィキングル・レイキャヴィークでプレー。その間、大学のサッカー部でもプレーした。 ヴィキングルでの活躍が評価され、2004年にアルスヴェンスカンのユールゴーデンIFに移籍。 2007年、デンマークのオーフスGFと2年契約を結んだ。 2009年夏、フットボールリーグ・チャンピオンシップに所属するプリマス・アーガイルFCのトライアルに参加した。最終的に単年契約を勝ちとった。 2011年6月、プリマス退団後にイタリアで行われていたハート・オブ・ミドロシアンFCのプレシーズンツアーに参加した。ハーツからはオファーがなかったが、7月に同じスコティッシュ・プレミアリーグのアバディーンFCに加入した。 2012年6月、ロザラム・ユナイテッドFCに移籍。 2015年6月、マルメFFと2年契約を結んだ 2017年1月、オモニア・ニコシアに移籍。 2017年6月、古巣アバディーンに復帰。 2018年5月15日、1年契約でヴィキングルに復帰した。 代表歴 2005年3月に代表初招集、イタリア戦に出場し代表デビュー。2005年10月のスウェーデン戦で初ゴール。 UEFA EURO 2016のメンバーにも選ばれた。初戦のポルトガル戦では、クリスティアーノ・ロナウドを徹底マークしスコアレスドローに持ち込んだ。グループステージ最終戦のオーストリア戦ではアシストを決めマンオブザマッチに選ばれた。ラウンド16のイングランド戦でも再びアシストを決め、歴史的番狂わせに貢献した。
向麻山公園 地理 向麻山一帯を整備した総合公園で、山麓には児童公園やテニスコート・ゲートボール場、散策の小径などが設置されている。山頂は芝生広場が広がっており、竜眼神社と御嶽神社が鎮座する。 山内には桜が200本、つつじが500本、さつきが300本、それぞれ植えられており、花見の名所となっている。
2017年最高裁判所裁判官国民審査 2017年最高裁判所裁判官国民審査(2017ねん さいこうさいばんしょ さいばんかん こくみんしんさ)は、2017年(平成29年)10月22日に第48回衆議院議員総選挙と共に執行された最高裁判所裁判官国民審査。 概要 7人の最高裁判所裁判官に対して国民審査が行われ、全員罷免しないとされた。投票率は53.34%(前回審査と比べて+2.44%)。 前回の国民審査まで、期日前投票制度では衆議院総選挙の期日前投票は公示日の翌日から可能であるのに対して、国民審査の期日前投票は投票日の7日前からとされており、衆議院総選挙は公職選挙法第31条により投票日より12日以上前に公示することが定められているため、少なくとも4日間のタイムラグが生じることになっていた。2016年12月に最高裁判所裁判官国民審査法が改正され(2017年1月1日施行)、今回の国民審査からは衆議院総選挙と同じく公示日の翌日から期日前投票ができるようになった。 18歳選挙権が認められた初めての国民審査であり、初めて18歳・19歳に国民審査権が付与された。
神戸市立駒ケ林小学校 その他 旧長楽小学校には最晩年の渋沢栄一が「共存共栄」と書いた額が保存されていたが、統合により現在は当校の校長室に飾られているという。
病気 定義 病気は曖昧な概念であるが、個人で定義していいものではない 分布の数で判断しようとする試み ひとつには、自然科学的な習慣をそのまま持ち込んで、「定量的な分析」を志向し、数的な側面に着目する考え方、別の言い方をすると「正常 / 異常」という概念で分けようとする見解がある。 ある性質の集団の中での数的な分布で線引きしてしまおうとする考え方であり、統計分析の正規分布の母集団の分析における習慣を持ち込むものである。本当はどこまでが「正常」どこまでを「異常」とするかは統計学でも定義は無く、正式の統計学では、線引きの値は任意であり様々に設定可能、とされている。だが、そうした任意の値の中から便宜的・習慣的にしばしば用いられている設定「2×D」を(あまり確かな理由もなく、半ば強引に)採用しておいて、「標準値からプラスマイナス2×SDまでの差を正常、それ以上のずれは異常(なので疾患)」として、「疾患とは全体の5%未満に見られる形質・状態で、正常とは残りの約95%こと」と一律に定義してしまおうとする例がある。 しかしこのように「集団内での数的な分布」を「病気」の定義として流用してしまうと、日本で約1000万人が難儀している糖尿病や、数多くの合併症をもたらす肥満までも「正常」とすることになってしまい、また一方で、特に基礎疾患がなく偶然的に高身長となった人で元気に生活している人までが 「病気」に分類されてしまうという問題が生じる。すなわち、異常(統計的に数が少ない状態)であれば病気であるとも言えないし、病気であれば異常である、などとも言い切れず、統計的手法によって病気を定義しようとする試みには無理があるのである。 定性的に定義しようとする立場 逆に、質的な記述あるいは定性的な記述で病気を一般化して定義しようとする試み・立場がある。 ひとつには本人の認識している状態(あるいは本人の主観的経験内容)を重視し、病気の定義を「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」、あるいは「本人あるいは周囲 が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」とすることがある。 医師が疾患だと診断した人であっても、本人は生活上の問題を感じないことなどを理由に「自分は病気ではない。健康である」と述べていることがあり、あるいは「身体障害は障害(広い意味で疾病の一種)ではなく個性である」と言われることがあり、これらはその意味でも一理あることともいえる。また、医療従事者の立場でも、本人または周囲が治療の必要性を感じなければ病院を受診に来ることも無いので、このような定義でも実際上の問題は生じにくい。 ただし、これも突き詰めて考えてみると、医師が依存症・嗜癖や骨粗鬆症などと診断するようなケースでも上記のような認識のズレが生じていることがあり、医学研究の立場では本人や周囲の判断・価値観に関わらずに病気を定義し診断できるようにすることへの要求は存在する。 医療関係者の主観を織り込もうとする試み 医師など医療産業に従事しそれで収入を得ている者の中には「病気とは心身に不調あるいは不都合がある状態のことであって、いわゆる医療による改善が望まれるもの」などと、“医療”という言葉を手前味噌的に、半ば強引に定義に盛り込んでしまう例も無いわけではない。(だが、医療とは病気を治すものであるから、病気の定義に「医療」を用いるのは一種の循環論法となりうる。また、病気には医療を必要とせず治癒するものも多いので、その意味でもかなり問題のある定義である(後述)) 医療人類学での見解 医療の領域で起きていることを、医療関係者の立場からも患者の立場からも離れて、客観的そして学問的に研究する医療人類学では、「病気(sickness)とは疾患(disease)と病い(illness)をあわせたもの」とする定義も提出されている。疾患(disease)を"生物学的なもの"とし、病い(illness)は"主観的な経験のこと"、とする説明である。この説明方法を採用した場合、例えば、上記の糖尿病の例では、疾患の定義に当てはまる者は1000万人いるかもしれないが、慢性疾患で自覚症状が少ない初期では本人が「病い」と捉える人はごく少ない、という理屈になる。 社会的状況 冒頭に説明したように、何が病気であるのか病気でないのかを決めるのは、容易なことではなく、各立場なりの見解があり、一般の人々は多くは自分が感じている感覚内容で病気か病気でないか判断していて、ちょうど「本人が心身に不都合を感じ、改善を望むような状態」といった定義がそのまま当たるようなことが日常的には行われているが、医師の集団は医師の集団で医師なりの立場で生物学寄りの見方をしてみたり統計を見たりし、臨床医師では、一般論は脇に置いておいて、目前に現れた患者の個別的な症状と医学書に書かれている慣習的な判断基準を見比べて便宜的に判断する 等々等々、さまざまなことが行われている。それらの見解は様々に複雑に相互影響しあう。 現実の社会では病気に対する見解は立場ごと・文脈ごとに異なり、さまざまな見解が複雑にせめぎ合う。実際、臨床の現場では医師と患者の見解はしばしばずれたり対立することがある。上では周囲は病気と判定しているが本人は病気とは思っていない例をいくつか挙げたが、逆に本人が病気だと感じているのに医師の側がそう認識しない、しようとしない、というケースもある。たとえば本人が身体に激痛や異常な感覚などを感じ明らかに何らかの病気だと直感しそれを訴えているにもかかわらず、医師の側ではCTやMRIなどの画像を見て、そのその検査とその医師の技量との組み合わせではたまたま何も見つけられなかったことを根拠に、「("客観的に見て" あるいは"生物学的に見て")疾患ではないでしょう。気のせいでしょう」などと告げて放置し、すっかり悪化したり死亡してから、事後的に他の医師によって誤診だったと判定されるようなケースもある。またステロイド皮膚症や各種の公害病、乳幼児突然死症候群の例に見られるように、その病気が存在するかどうか自体が学問的のみならず政治的にも問題となることもある。 病気と健康 病気の対義語は、一般に健康であると考えられている。 WHO(世界保健機関)は健康を次のように定義している。 身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない 西洋医学風の用語で言えば、健康というのは恒常性が健全に保たれている状態、と言い換えることも可能であろう。そういう観点からは、病気(疾病)というのは、恒常性が崩れてしまって元に戻らなくなっているか戻りづらくなっている状態だと考えると理解しやすい。 さらに恒常性という概念を中国伝統医学の「未病」という用語で把握しなおしてみると、病気や健康という概念がより分かりやすくなる。 周辺の語の概念 しばしば病気は、「症候群」「疾患」「疾病(しっぺい)」「障害」「怪我」「変異」等の語との概念上のオーバーラップがある。 病気の存在を前提として、その患者に共通する特徴のことを病態(びょうたい)あるいは病像(びょうぞう)という。病状(びょうじょう)は、ある特定の患者についてその臨床経過を指すことが多い。これらの単語はしばしば混合されて使われる。 病気と「疾患」・「疾病」 医学では、「病気」という単語はあまり使用されず、代わりにより厳密な疾患(しっかん)、疾病(しっぺい)を使うことが多い。病気という語では内因性の疾患しか含まないような印象を受けることがあるためである(事故による骨折は、一般的には病気とは言わないことが多い)。なお、精神医学の用語の精神疾患は「障害(disorder)という概念であり、医学用語の「疾患」(disease)とは異なる概念である。 英語の disease(疾患、疾病)は sickness(軽い病気)、illness(病気)の原因を示す語で、病名と症状が明らかな具体的な病気に用いられる。sickness、illness は"病気になっている状態"を指し、disease は感染などによる体内機能の異常を意味する。一般には、熱や風邪など生活上の病気には用いられず、伝染病や癌など深刻な病気に用いられ、命に関わるようなニュアンスがある。 疾患・疾病・病気と「症候群」 症候群(しょうこうぐん)とは、原因不明ながら共通の病態(自他覚症状・検査所見・画像所見など)を示す患者が多い場合に、そのような症状の集まりにとりあえず名をつけ、扱いやすくしたものである。 人名を冠した症候群の名前も数多く、原因が判明した場合にはその名前が変更されたり、時には他の病名と統合されたりすることがある。一方で原因判明後も長い間そのまま慣用的に使われている「症候群」は多く、逆に「〜病」の名を冠する原因不明の疾患も多くあり、実際には明確な区別がなされていないことが多い。 精神科領域においては、扱う疾患のほぼ全てが症候群と呼ぶべき疾患であるため、利便性の問題から症候群とは呼ばず○◯病・○○症と言った語を用いる。 疾患・疾病・病気と「症状」 症状(しょうじょう、symptom)は、病気によって患者の心身に現れる様々な個別の状態変化、あるいは正常からの変異のことである。病気にかかることを罹患(りかん)、症状が現れることを発症(はっしょう)または発病(はつびょう)という。患者本人によって主観的に感じられるものを自覚症状(じかくしょうじょう)、周囲によって客観的に感じ取られるものを他覚症状と呼んで区別する。単に「症状」といった場合、自覚症状のことのみを指す場合があり、この際は他覚症状のことを所見(しょけん)、徴候(ちょうこう)と呼んで区別する。 通常、「疾患」と「症状」は本来大きく違う概念だと考えられている。つまり、疾患が先にあって、それを受けて「症状」が生じる、というものである。しかし日常診療の場では、症状が確認されても、その症状を来たす原因がよく分からない場合が多く、この場合「症候群」での例と同様に、症状名と病名との境目が曖昧になることがある。 例えば、脱水という病名はないが、脱水が見られたら原疾患はさておき脱水の診断の元に治療を行うことがある。近視は症状の名前としても病名としても使われる。本態性高血圧という病名は、別の基礎疾患があって二次的に高血圧となっているものを除いて、原因不明で高血圧という「症状」を起こしているものをまとめて含めるための「病名」である。 ある臨床像が、原疾患に見られる症状のひとつであるのか、あるいは合併症として出現した別の独立した疾患なのかについては、医学の教科書を執筆する際の問題となるだけではなく、保険診療報酬や統計にも関わるため、軽視できない問題となる。 症状を研究する医学の一分野に、症候学がある。 病気と年中行事 日本では古くは病気は鬼のせいだとか、キツネの魂が人間に宿るためだとかと考えられていた。そのため病人が出ると、病気を治癒させるために祈祷師を呼んでお祓いをしてもらうということがあった。 現代の日本でも年中行事として、病気をしないように(鬼が来ないように)節分に豆まきをする、端午の節句に菖蒲湯に入るなどといった習慣が残っている。
菫青石 産出地 高温低圧型の広域変成岩や接触変成岩、特に泥岩を起源とするホルンフェルスに見られるほか、花崗岩にも含まれることがある。 桜石 菫青石の六角柱状結晶が分解すると、その形を残したまま白雲母や緑泥石に変化する(仮晶)。そして岩石が風化すると結晶が分離し、その断面が花びらのように見えることから桜石(cerasite)とよばれる。 京都府亀岡市薭田野町の「稗田野の菫青石仮晶」は1922年3月8日に国の天然記念物に指定されている。 サイド・ストーリー 英名のコーディアライト(コーディエライト、cordierite)は、フランスの地質学者ルイ・コルディエ(1777 - 1861)の名に由来している。
ビアフラ戦争 概要 厳しい飢餓と、栄養不足から来る病気、北部州における虐殺により、少なくとも150万人を超えるイボ人が死亡した。 ナイジェリアには北部のイスラム教徒主体のハウサ人、西部のイスラム/キリスト教混合のヨルバ人、東部のキリスト教主体のイボ人の三大民族が、その他の多くの少数民族ともに存在した。イギリス植民地時代には、イボ人は比較的教育レベルが高く、下級の官吏や軍人を多く輩出し、また商才もあり「黒いユダヤ人」と呼ばれることもあった。 1960年にナイジェリア連邦として独立後は、東部に原油が発見され、イボ人地域は工業化が進み他地域との経済格差は広がっていた。北部のハウサ人政治家はヨルバ人の一部政治家と連携し、連邦を支配しようとした。 1966年、軍のイボ人主体の中堅将校が、クーデターを起こし、北部系の政治家、高級軍人を殺害したが、同じイボ人出身の軍司令官であるジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍に鎮圧された。イロンシ将軍は、臨時政府を作り、イボ人を多く登用した。しかし、臨時政府が連邦制廃止を打ち出した後、北部ではイボ人に対する反発が強まり、数千人のイボ人が殺害され、イロンシ将軍も、ハウサ人の下級将校の襲撃を受けて殺害された。北部出身のゴウォン中佐が軍事政権を握り、イボ人出身の軍人を殺害・追放した。北部におけるイボ人への迫害は一層強くなり、1万を越えるイボ人が殺害され、100万人近い難民が東部州に逃れてきた。東部州の軍政知事だったチュクエメカ・オドゥメグ・オジュク中佐は、州内の連邦資産を接収し、税収を全て東部州で管理することにし、独立性を強めた。これに対し、連邦は東部州の分割を狙ったため、1967年5月30日オジュク中佐は、「ビアフラ共和国」として東部州の独立を宣言した。 直ちに、連邦軍は攻撃を開始したが、ビアフラ軍の士気も高く、戦況は膠着状態を示した。ビアフラにはフランスと南アフリカ等が支援したが、大部分の国はビアフラに同情する一方で消極的ながら正規政府である連邦を支持。特に旧植民地の分割化を望まないイギリスと、アフリカへの影響力強化を狙うソ連は、積極的に連邦を支援した。また、少数の白人傭兵がビアフラ側で戦った。 1968年に入ると、連邦軍がビアフラを包囲し、食料、物資の供給を遮断したため、ビアフラは飢餓に苦しむことになった。各国の記者がさかんに報道したため、赤十字などの支援は行われたが、早期決着を目指す連邦側が、それらの救援も妨害するようになったため、ビアフラの飢餓は危機的な状況に陥った。 弾薬、装備の不足も深刻になり、1970年1月9日、ついにオジュク将軍はコートジボワールに亡命し、ビアフラは降伏し、そのまま崩壊に向かった。 他のアフリカの内戦の例から見ると、意外にもハウサ人による極端な報復や虐殺は行われず、国民和解の方針が採られた。しかし、少なくとも150万人以上の人間が、飢餓、病気、戦闘によって死亡したとされている。当時、各国の新聞に掲載された「骨と皮にやせ細っているが、お腹だけが異様に膨らんでいる子供達」の姿は世界中に衝撃を与え、ビアフラという言葉は飢餓と同義語として使われるようになった。
都 (姓) 都(みやこ・と)は、日本の姓、あるいは漢姓(中国・朝鮮の姓)の一つ。
営山県 歴史 秦代には巴郡、漢代には宕渠県に属していた。魏晋南北朝時代には県域は安固県、綏安県、宕渠県が設置されている。621年(武徳4年)、唐朝により朗池県が設置、1012年(大中祥符5年)に宋朝により営山県と改称された。
九二式艦上攻撃機 九二式艦上攻撃機(きゅうにしきかんじょうこうげきき)は日本海軍の艦上攻撃機である。試作機の設計・製造は海軍航空廠。八九式艦上攻撃機の後継機として開発されたが、中味は旧式の一三式艦上攻撃機の各部を大幅に改良したものだった。昭和8年(1933年)に制式採用され、生産機数は左程多くはないものの、支那事変においてそれなりに活躍した。海軍における記号はB3Y。 概要 昭和7年(1932年)に日本海軍は、この年に制式採用された八九式艦上攻撃機の後継機作成を中島、三菱の両社に指示した。しかし、少しでも早く後継機を実用化したかったため、これと並行して海軍航空廠でも独自に後継機の開発を行うことにした。海軍航空廠では開発失敗のリスクを軽減させるために、既に旧式になっていた一三式艦上攻撃機の機体各部を改修した試作機を開発し、中島、三菱製の試作機との比較審査に臨んだ。その結果、性能面では大差はなかったが、操縦性、安定性で本機が一番優れていることが判明した。早急に八九式艦上攻撃機の後継機を必要としていた海軍は、愛知航空機に機体の改修・設計を依頼し、昭和8年(1933年)に本機を九二式艦上攻撃機として制式採用した。 本機は一三式艦上攻撃機をベースにしていたが、機体の骨組みを鋼管化したりエンジンも広工廠で開発した強力なものを搭載しており、機体各部も再設計されたことによってより洗練されたものになっていた。ただし、広工廠製の新型エンジンはトラブルが多く、部隊配備後もエンジンの不調に悩まされることとなった。 制式採用後は航空母艦鳳翔や龍驤に搭載されるなど、支那事変(日中戦争)中の主力機の一部として活躍した。 生産は主に愛知航空機で行われたが、後期には広工廠や渡辺鉄工所でも少数機生産された。初期の生産型は2枚翅のプロペラだったが、途中から4翅に変更された。また後期に生産されたものには、垂直尾翼や排気管の改設計を施された機体もあった。生産機体数は128機である。
UFC 230 大会概要 本大会では王者ダニエル・コーミエと挑戦者デリック・ルイスによるUFC世界ヘビー級タイトルマッチが組まれた。 カード変更 負傷などによるカードの変更は以下の通り。
東葉高等学校 歴史 この正門は明治中期に上飯山満村(現在の飯山満町)の旧家近藤四郎左衛門家の屋敷の長屋門として造られたもので、桁行11巻2尺(約20.6m)・梁間2間半(約4.5m)ある。現在では、東葉高等学校が近藤家の屋敷跡に移転するのにあたり修復され、「東葉門」の名称で同校の正門として活用されている。 また、この門は国の登録有形文化財に登録されており、日々通学門として親しまれている。 旧家近藤四郎左衛門家 近藤四郎左衛門家は、江戸時代において上飯山満村の名主総代を務めていた豪農で、苗字・帯刀を許され、江戸時代末期には同村に接していた小金下野牧と呼ばれた幕府管轄の牧場の管理(牧士)を命じられた家柄だった。1849年(嘉仁2年)の12代将軍徳川家慶の獅子狩りの功績で、中野牧の牧士を兼任し、帯刀・乗馬・鉄砲の所持を許され、村人は近藤四郎左衛門家のことを大近藤(おおこんどう)と呼び「水戸の黄門か、飯山満の四郎左衛門か」と云われたが、昭和の初期に行われた農地改革によって没落してしまった。農地改革で手放した田畑は120町歩にも及んだとされる。なお、この門は歌舞伎役者の阪東妻三郎が無声映画「野火の兄妹」を製作した際に、撮影に使われている。 飯山満地区に「近藤」という姓の旧家が多いのは、この近藤四郎左衛門家に由来する。
熊飛 クラブ 2010年、南京有有から上海申花へ完全移籍した。 2018年1月17日、遼寧宏運足球倶楽部へ移籍した。
遠藤優也 略歴 1991年、東京都大田区に次男として生まれる。小学生の頃はドッジボールクラブに所属し、全国大会に3回出場した。当時のドッジボールスピードガンコンテストでは全国2位の実績を誇る。学生時代にはバスケットボールの選抜チームに抜擢される。雑誌「stereet JACK」の読者モデルとして活動していたが、2014年に某大手企業に就職した後はタレント活動を休止。2017年、ライブ配信やDJ、YouTubeやクリエイター業など多彩なスキルを活かしながら再始動する。2018年、ジョーブログジョー創立のオンザロードに所属。
汽笛が響く! 内容 九州・島原を中心に展開する小私鉄「有明鉄道」を、大資本の横暴から守るため立ち向かう屋代由之を中心に、彼とその周りの人々の様々な人生模様を描く。物語は昭和23年から始まる。 主人公のモデルは「まぼろしの邪馬台国」著者の宮崎康平。
シャルル3世 (西フランク王) 生涯 2代目の西フランク王ルイ2世吃音王の3男として父王の死後に生まれた。母は吃音王の2人目の妻、アデライード。吃音王はシャルルの誕生前に没して、2人の異母兄が共同で王位を継いでいたが、共に早逝し、885年に東フランク王国のカール3世が西フランク王を兼務し、シャルルはカール3世に後見された。 当時西フランク王国は、ノルマン人・サラセン人・マジャール人の侵入に苦しんでいた。887年にカール3世が失脚した次の王には、885年 - 886年のノルマン人の包囲からパリを護った英雄、ロベール家のウードが選ばれた。聖俗諸侯が力を付け、王を世襲でなく選挙で決める時代になっていた。 ウードの治世下の893年1月28日、シャルルはランスのサン=レミ聖堂で、カロリング派のフルク司教(Foulques le Vénérable)により聖別され戴冠した。 両派が3年争って後、ウードはシャルルにセーヌ北部を渡し、シャルルを次の王に指名して、898年1月に没した。19歳のシャルルは、漸く西フランク全体の王になった。 911年シャルルは、侵入するノルマン人の長ロロとサン=クレール=シュール=エプト条約(le traité de Saint-Clair-sur-Epte)を結び、ノルマンディー地方を与えてロロをノルマンディー公に封じた。ロロは洗礼を受け、シャルルの娘ジゼルを妻とした。 同じ911年、東フランク王国ではルートヴィヒ4世が没してカロリング家の世襲が絶えると、ロタリンギア(当時のロレーヌの呼び名)には親西フランクの派閥が形成され、シャルルはロタリンギア貴族の臣従を受け、ロタリンギア王となった。 しかし、ロタリンギアへの執着と部下の処遇の不公平などから、シャルルはロレーヌ公ジルベール(のちハインリヒ1世を支持)と不仲になり、西フランク王国の諸侯にも嫌われた。そして922年に叛かれて廃位され、その反乱を指揮したロベール(ウードの弟)が王に選ばれ、シャルルはロレーヌへ逃げた。 923年、シャルルはノルマンの兵を率いてロベール1世とソワソンで戦って討ち取ったものの、ロベールの息子ユーグ大公と娘婿のラウールとに敗れ、ヴェルマンドワ伯エルベール2世(Herbert II)にティエリ城(Château-Thierry)へ囚われ、翌年ペロンヌ城の塔に移された。 ラウールが西フランク王になった。エドギフはのちのルイ4世を連れ、イングランドの実家へ亡命した。ロタリンギアは925年、ハインリヒ1世がドイツに取り戻した。 シャルルは929年10月7日獄死し、ペロンヌ城に近いサン=フルシー教会(l’église Saint-Fursy)に埋葬された。
武装闘争 武装闘争(ぶそうとうそう)とは、合法的手段によらず、暴力で敵(大抵は政府)を打倒することを指す。略して武闘ともいう。また、ある組織内で強硬意見を持ったり、強硬手段を好む人たちを武闘派とも呼ぶ。 日本共産党の武装闘争 日本共産党では1951年の第4回全国協議会(四全協)より山村工作隊などの武装闘争路線が採用された。更に同年10月に開催された第5回全国協議会(五全協)で「51年綱領」が採択され、火炎瓶等を用いた武装闘争が各地で繰り広げられた。 しかし1955年の日本共産党第6回全国協議会(六全協)では武装闘争路線を転換し、権力が暴力で革命運動を抑圧しない限り、革命運動も暴力を行使しない、という「敵の出方論」を採用した。権力奪取が、武装闘争になるか否かは、状況次第、ということになる。 この協議会で当初の「農村から都市部を包囲」という中国共産党型の暴力革命路線を放棄した日本共産党の当時の国会議員・地方議員の大部分は暴力路線を支持して暴力活動に参加した徳田派だったのにも関わらず、暴力路線で日本国内でテロをしていたのを「党の一部」だとして責任を徳田球一にのみ押し付けたことは無責任だと批判されている。 山村工作隊などの活動に参加していた学生党員は、突然の路線転換に衝撃を受け、党を去った者も少なくない。あるいは、失意のうちに自殺した党員もいる。また、日本共産党が戦後から再開した「武装闘争」路線を信奉する急進的な学生党員は、新指導部への不信・不満を募らせ、のちの共産主義者同盟結成や新左翼や過激派ら誕生へと向かう種が、この六全協によって蒔かれた。日本社会党だけでなく、日本共産党も既成左翼政党が武装闘争路線を事実上放棄したとして反発した学生を中心に、当初の日本共産党の武装路線を継続する新左翼と呼ばれる過激派が誕生した。そのため、武装革命に賛同して戦後に日本で暴力行為を扇動・参加していた多数の日本共産党の党員はその後の新左翼誕生の責任を負うべきだと元党員からも批判されている。 海外の武装闘争 海外では非合法組織が合法化する代わりに、武装闘争中止を求める政治的取引もある。 左翼武装組織コロンビア4月19日運動は、上記の提案をコロンビア政府からなされ、4月19日運動民主連合と改称し、国政選挙に参加している。
ハイリゲンクロイツ修道院 ハイリゲンクロイツ修道院(Stift Heiligenkreuz)は、オーストリアのウィーン近郊、ハイリゲンクロイツに現存するシトー会修道院である。建築は基本的にロマネスクとゴシックの様式を見せる。中断なく継続されているシトー会修道院としては最古の修道院である。「ハイリゲンクロイツ」とは聖十字架を意味する。 歴史 1133年、レオポルト3世は、当時モリモン修道院に所属していた息子オットーのために本項の修道院を設立した。1188年にレオポルト5世が聖十字架をもたらすと、この一帯を含め聖十字架を意味する「ハイリゲンクロイツ」と呼ばれるようになった。バーベンベルク家のバックアップもあり、多くの子院を設立した。ハイリゲンクロイツ修道院の内部においても自給自足のための養魚池のみならず、13世紀には製鉄業も営んだ。 18世紀末の1780年から1790年、啓蒙主義に影響を受けたヨーゼフ2世により修道院解体の危機に陥ったが、これを乗り越え1802年には哲学と神学の大学を設立した。第二次世界大戦の余波も受けた。ナチス・ドイツにより修道院の財物は没収され、修道士も抑留された。戦後、開放されてからは修道院の改革が行われ、折からの第2バチカン公会議の趣旨が反映された。1988年にはルール地方のボーフムに新たな子院も設立している。 21世紀、ハイリゲンクロイツ修道院は「ヨーロッパのシトー会修道院では最大規模」としており、観光客も受け入れる、開かれた修道院として現役である。 建築 当初ロマネスク様式で建設されたハイリゲンクロイツ修道院は幾度も改修が施され、改修時代ごとの様式が各部に混在する状態となっている。ゴシック様式の明るく高い内陣は当初は1288年 - 1295年に改装された。17 - 18世紀ごろには一部バロック様式が取り入れられたが、19世紀末にはこれを用いた内装はネオゴシック様式に置き換えられた。 西正面には前庭が配されておりその奥に、ファサードがロマネスク様式をとどめる教会堂の入口がある。教会堂内部の身廊は1187年に整えられたもので、この1187年に完成とされるファサードと身廊はロマネスク様式である。その奥、上述した東端の内陣をはじめとした1295年完成としている箇所はゴシック様式で、そこに配された祭壇天蓋などの装飾はネオゴシック様式である。身廊南側の内陣近くから出られる回廊は1220 - 1240年に完成したもので、内部に噴水を備えた小屋が付属している。この小屋は噴泉室といい、シトー会修道院によく見られるもので、ハイリゲンクロイツの噴泉室は幅の大きなトレーサリーとステンドグラスで構成され、外光が多く取り入れられ明るい。回廊の南には修道士たちの居住区が、東には作業室、集会室などが配されている。集会室はバーベンベルク家当主であった4人の墓所ともなっている(後述『修道院に埋葬された人物の例』を参照)。 オーストリアのワイン この地方はローマ帝国の時代にブドウを移入したものの、その後ワイン作りもブドウ栽培もマジャール人の侵攻があってより、一時期途絶えていた。しかしハイリゲンクロイツ修道院はシトー会というキリスト教の信仰だけでなく、ワイン作りとブドウ栽培もブルゴーニュからオーストリアへ再移入した。 2012年現在、ハイリゲンクロイツ修道院のあるニーダーエステライヒ州は、ドナウ川沿岸の地域で最大のワイン生産地となっている。土壌と気候が栽培に適しているのだという。 修道院に埋葬された人物の例 集会室にはレオポルト4世、レオポルト5世、フリードリヒ1世、フリードリヒ2世という歴代のバーベンベルク家当主が埋葬されている。このうち、フリードリヒ2世はハイリゲンクロイツ修道院へ多くの支援をしたため、石棺に収められた状態で床上に安置されている。 なお、ハイリゲンクロイツ修道院を設立したレオポルト3世は、ここではなくクロスターノイブルク修道院 (en) に埋葬されている。
宮城県知事公館 概要 仙台市都心部の北西、広瀬川中流の胡桃淵に面した左岸の仙台中町段丘面にある。藩政期、広瀬川左岸の仙台中町段丘と仙台下町段丘との間の段丘崖崖上には、対岸の仙台城を囲むように上級家臣の邸宅が延々と連なっていたが、当館もその一部に建つ。 現在の公館の建物は1921年(大正10年)に建てられたもので、外観は青色瓦、フランス式マンサード屋根の洋館となっている。洋室2つ、和室、休憩室、貴賓室などがある。 正門は、切妻造で本瓦葺きの四脚門。大正時代に仙台城にあった門を移築したものと伝えられる。宮城県指定有形文化財。 歴史 江戸時代の1695年(元禄8年)、広瀬川に澱橋が架けられると、北二番丁西端から澱橋北詰に下りる新坂が整備され、伊達家の家臣田村顕行がこの地に屋敷を賜った。 明治維新後の1868年(明治元年)、後に仙台市長となる山田揆一が購入し、米国バプテスト同盟の女性宣教師が設立した塾(学校法人尚絅学院の前身)として貸与、さらに仙台衛戍病院長邸宅を経て、大正時代、陸軍第二師団長官舎となる。終戦後は、進駐軍に接収され東北地方司令官官舎となる。 1958年(昭和33年)に東北財務局に返還されると宮城県に譲渡され、県の児童会館となる。1965年(昭和40年)に児童館が向山に移ったため知事公館に転用され、宮城県を訪問した諸外国の大公使、皇族など賓客を接遇する施設として利用されている。一般公開も行われている他、結婚式などイベントにも貸し出しされている。
師木野村 道路 現在は旧村域を山陽自動車道が通過するが、当時は未開通。
埼玉県道362号上中条斎条線 埼玉県道362号上中条斎条線(埼玉県道362号上中条斉条線とも表記する:さいたまけんどう362ごう かみちゅうじょうさいじょうせん)は、埼玉県熊谷市の北東部と行田市の北部を結ぶ一般県道である。 終点に当たる部分が、「斎条」と「斉条」で各所で混在している。地名は「斎条」で、交差点名は「斉条」である。埼玉県の埼玉県道路管内図では「斉条」表記のため、「斉条」表記が正しいと思われる。
ホイットフィールド・ディフィー 経歴 1965年、マサチューセッツ工科大学から数学の学士号を取得。 ディフィーはマーティン・ヘルマンと共に1976年、New Directions in Cryptography という論文を発表した。これは革新的な暗号鍵配布方法を示したもので、暗号における基本的問題とされていた鍵配布の問題解決に迫るものだった。これは今日、Diffie-Hellman鍵共有として知られている。この論文によって、公開鍵暗号のアルゴリズムの研究開発が公然と行われるようになった。 ディフィーはノーテルネットワークスの Secure Systems Research のマネージャとして勤務し、X.25ネットワークのPDSDセキュリティシステムの鍵管理アーキテクチャを設計した。 1991年、サン・マイクロシステムズの研究所(カリフォルニア州メンローパーク)に移り、暗号の公的側面を主に研究している。2007年5月現在もサンに在籍しており、Chief Security Officer、副社長、サン・フェローなどの肩書きを持つ。 1992年、スイス連邦工科大学から名誉博士号を授与された。マルコーニ財団のフェローでもあり、アイザック・ニュートン研究所の客員フェローでもある。2010年ハミングメダル、2015年チューリング賞をヘルマンと共同受賞している。 1998年の Susan Landau との共著 Provacy on the Line では、盗聴と暗号化の政治学を扱っている。その改訂版が2007年に出版された。 ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校にある情報セキュリティ部門の客員教授も務めている。2017年王立協会外国人会員選出。
ジョン・スペンサー (第5代スペンサー伯爵) 経歴 1835年に第4代スペンサー伯爵フレデリック・スペンサーの長男としてロンドンで誕生。母はその妻ジョージアナ・ポインツ。 ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。 1857年3月に南ノーザンプトンシャー選挙区の自由党庶民院議員に当選するも、同年12月にスペンサー伯爵位を継承し、貴族院議員に転じる。 1858年にフレデリック・チャールズ・ウィリアム・シーモア(Frederick Charles William Seymour)の娘であるシャーロットと結婚した。 ストール宮内官として1859年から1861年までヴィクトリア女王の王配アルバートに仕え、ついで1862年から1866年まで皇太子エドワードに仕えた。1865年にガーター勲章を受勲する。 1869年から1874年まで第1次グラッドストン内閣のアイルランド総督を務める。第2次グラッドストン内閣では1880年から1883年まで枢密院議長を務め、1882年から1885年までアイルランド総督に再任する。 この後の短期間の野党時代に自由党党首ウィリアム・グラッドストンはアイルランド自治の方針を固めた。これに党内ホイッグ貴族派の領袖ハーティントン侯爵が強く反発し、彼は1886年1月末に成立した第3次グラッドストン内閣への入閣を拒否した。スペンサー卿もホイッグ派だが、彼はグラッドストンを支持して入閣を了承した。 第3次グラッドストン内閣には枢密院議長として入閣した。自由党はアイルランド自治法案をめぐって自治賛成派と反対派に分裂したが、スペンサー卿は「総督としての経験から言って、アイルランドには自治を与える以外に解決策がない」として法案を支持した。しかし自由党議員が多く造反した結果、法案は否決され、解散総選挙にも敗れた結果、第3次グラッドストン内閣は短命政権に終わった。 1892年6月末に成立した第4次グラッドストン内閣には海軍大臣として入閣した。グラッドストンはスペンサー卿に第2代グランヴィル伯爵のような穏健派としての役割を期待していたが、この時期に閣内で起こった海軍軍拡論争では軍拡に反対するグラッドストンに協力しなかった。孤立したグラッドストンは1893年3月に辞職した。退任にあたってグラッドストンはスペンサー卿を後任の首相に推そうと考えていたというが、女王は慣例に反して退任する首相への次期首相への下問をせず、独断で外相第5代ローズベリー伯爵に組閣の大命を下したため、スペンサー卿の首相就任は沙汰やみとなった。 ローズベリー伯爵内閣でも引き続き海軍大臣に在職した。中国分割をめぐってロシアとフランスが極東における海軍力を急速に増強していることを念頭に、極東にも二国基準(露仏両国の海軍力よりも上の海軍力を目指す)を導入することを決定した。これについてスペンサー卿は「イギリスは極東でも露仏の海軍共同を恐れる理由はない。イギリス駐中国艦隊は露仏両国の海軍力の合計よりも相対的に強力である」と自負した。 1901年から1907年までコーンウォール公領会議議員、コーンウォール公璽尚書(Keeper of the Privy Seal of the Duke of Cornwall)を務める。 1910年に死去。子がなかったため、異母弟のチャールズが爵位と家督を相続した。
府中市立府中第三中学校 概要 1960年(昭和22年)4月1日に開校した。著名な卒業生として、女優でタレントの安めぐみがいる。
原博実 選手時代 小学5年生時からサッカーに傾倒し、黒磯中学校時代にはすでに長身を活かしたヘディングを得意としていた。1974年に矢板東高校へ進学し、栃木県選抜として国体でベスト4入り。当時は西ドイツのFWウーヴェ・ゼーラーのプレーを参考にしていた。 1977年に早稲田大学教育学部へ進学。1978年の総理大臣杯では法政大学を相手に得点を重ねて優勝を果たした。大学選抜として参加した1979年のユニバーシアードでは、ゼーラーに影響されて身に付けた相手よりも早く跳ぶヘディングで海外の190cmクラスのセンターバックを相手にしても競り負けず8試合で7得点を挙げた。A代表に選出されても偉ぶらず真剣に練習に取り組む姿勢は周囲からの信頼を集め、大学4年時には主将を務めた。このように「ストライカーたるものエゴイストであるべき」と言われる中で、彼の言動や振る舞いはその正反対でとても利他的であり、誰からも尊敬される人物であった。大学時代の同期には木村孝洋、一学年上には岡田武史、唐井直、二学年上には加藤久、三学年上には西野朗、松浦敏夫、下條佳明、さらに二学年下には城福浩、吉田靖、三学年下には神戸清雄ら錚々たるメンバーがいた。 1981年に三菱重工業に入社し(勤労管理課)、日本サッカーリーグ(JSL)の同社サッカー部(のちに三菱自動車サッカー部。現在の浦和レッドダイヤモンズの前身)に所属。ポジションはフォワード(FW)で、エースストライカーとして活躍した。中盤の構成力に欠ける三菱では、田口光久らが原を目掛けてフィード、原が頭で落とし、川添孝一らがゴールを狙うというシンプルなカウンター攻撃も多用された。1982年には尾崎加寿夫と共に得点源となりJSL優勝を達成。 社員選手としてプレーを続けていたが、31歳の時にJリーグ参入を控えるクラブからの呼び掛けに「サラリーマンやるために三菱に入ったわけじゃないから」と応じてプロ契約を結び 三菱重工業を退社した。Jリーグでのプレーを望んでいたが、コーチ就任を要請されたため、1992年5月に現役を引退。臆せず真っ向から競り合いに臨んでいたため、鼻骨骨折は現役通算で9度に及んだ。 大学在学中に日本代表に初選出され、通算で国際Aマッチ75試合に出場。釜本邦茂に次いで歴代2位 となる37得点を記録した(国際Aマッチ以外にも日本サッカー協会が認定した日本代表の試合を含めると171試合出場72得点。)。当時の日本代表はアジアの中でもまだまだ弱小国ではあったが、そういった背景がありながらも2試合に1得点という驚異的なペースでゴールを決めていたことになる。森孝慈監督の下、尾崎や柱谷幸一と共にセンターフォワードの候補ともなったが、持ち前の体力・運動量からサイドで守備にも貢献することを求められたため、左ウイングに配された。中央へ切れ込んで放つヘディングシュートを武器とし(ただし、本人はヘディングよりも左足シュートの方が得意だったと回想している)、その圧倒的な得点力で「アジアの核弾頭」の異名を取った。代表チームがアウェーゲームの際に敵国に行くと、最も警戒すべき選手として常に大写しになるのは原だったと言われている。特に1986年ワールドカップ予選・ホーム北朝鮮戦で水溜りに入ったボールを足先で浮かせてDFをかわし決めた「雨中ゴール」、1987年のソウルオリンピック予選・アウェー中国戦での強烈な決勝ヘディングシュート が有名である。 浦和レッドダイヤモンズ 1992年5月に引退後、浦和レッドダイヤモンズのコーチ・ユース監督を務めた。 1998年にトップチーム監督に就任。主軸FWの福田正博が負傷離脱する中、新人の小野伸二をトップ下に抜擢し、変則的な中盤を菱型にした4-4-2(左MFのチキ・ベギリスタインを攻撃的、右MFの石井俊也を守備的にプレーさせることで、バランスを取った。)を形成してチームを躍進させる。セカンドステージでは過去最高順位の3位に入った。また、怪我が多かった福田に替えて、若手の山田暢久を「一皮向ければ」と主将に据えている。 翌1999年ファーストステージは負傷者が続出した影響もあって13位と振るわず、解任。原は守備の人材不足を感じていたためシーズン途中に補強がなされたものの、その補強が活かされる前の解任だった。この年浦和はJ2降格を喫するが、後にGMの横山謙三は、降格の主要因について「原監督を途中で替えたということが大きい」「(原を留任させていれば)後半盛り返せただろうと思っている」と語っている。原自身は後に雑誌のインタビューで「弱いといわれた時期も、誰もが誇りは持っていた。ある意味王者のスピリットを持っているチームだった」と浦和を評する。また、2000年1月に発売された本『浦和レッズは負けない』にも寄稿している。 2000年以降は浦和の育成担当としてクラブに残留するという選択肢も有ったが、監督として再び勝負する機会が遠のきかねないと判断し、浦和を退団。 その後スペインへ渡りリーガ・エスパニョーラの数チームを視察。ベギリスタインを通じて紹介を得たこともあった。帰国後はサッカー解説者としてスカイパーフェクTV!の欧州サッカー中継を中心に活動。多くのファンを得た(後述)。 FC東京 2002年からFC東京の監督に就任。新興クラブであるFC東京は、J2降格を避けるべく負けないサッカーを志向してチーム作りを行っていたが、「攻撃サッカー」を掲げる原の招聘によって、勝つためのサッカー、面白いサッカーを標榜するように転換。原によれば、チームには大熊清前監督が築いたひたむきに守備をこなす姿勢が残っていたので、攻撃重視で指揮を執っても守備が疎かになることは無いだろうという目算があったという。 初采配となった2002年Jリーグ開幕戦では、前年度リーグ優勝の鹿島アントラーズを相手に、前がかりに走り続ける積極的なサイドアタックを繰り返し、4得点を挙げて圧勝。後の語り草となった。4-2-3-1の布陣を基本としつつ、同年獲得したMF石川直宏、DF加地亮のコンビで右サイドから打開し、左サイドには戸田光洋らFWタイプの選手を置いて中央へ走りこませるという左右非対称の斬新な攻撃 で上位進出に成功。2004年ナビスコカップでは延長PK戦の末に古巣浦和を下して、チームに初のJリーグタイトルをもたらした。 解説者時代同様に親しみやすいコメントと、自チームの得点時には何度もジャンプして体全体で喜びを表現する姿でチーム成績とは別の部分でもサポーターから慕われ、人気を集めた。古巣・浦和をライバル視する発言が多かったが、2003年に行われた福田の引退試合では、テレ玉での中継解説者を務め、2004年のナビスコカップ優勝後の場内インタビューでは「浦和も非常に素晴らしいチーム。是非リーグ戦で頑張ってもらって優勝して欲しい」とエールを送っている。 2005年は出だしこそ首位に浮上したものの、4月以降主力を次々と負傷で欠いたことなどから J2降格圏まで成績を低迷させたが、シーズン終盤は12戦負けなしと持ち直した。しかし4・5月の躓きによってクラブ首脳は次期監督候補の選定を本格化しており、契約期間終了と共に退任することとなった。退任報告の集会には5000人近くのファンが詰め掛けた。 2007年、監督に再任。身上としているリスクをかけて攻撃に比重を置くサッカー を続けたが、大量失点での敗戦も多く1年限りで退任となった。 日本サッカー協会 2009年2月、日本サッカー協会(JFA)は技術委員会を強化・育成の2部門に分割再編。原のJリーグでの指導実績や欧州サッカーへの精通が評価され、JFA技術委員長(強化担当)に就任した。グラつきの見られた岡田体制を支えた他、JFA特任理事及び国際マッチメイク委員にも任ぜられ、Jリーグ各クラブとの調整や戦術分析、マッチメイクを統括した。 また、霜田正浩と共に2010 FIFAワールドカップ終了後の日本代表新監督選定の中心としても奔走。2010年8月、新監督はアルベルト・ザッケローニに決定したが、ザッケローニの就労ビザ取得が間に合わなかったため、同年9月に行われたキリンチャレンジカップにおいて代行監督を務め、2試合を指揮しいずれも勝利を収めた。ロンドンオリンピックではU-23日本代表の団長を務めた。 2013年12月より、JFA専務理事を兼務。激務が続く中でも公式戦・合宿を問わずに現場視察を欠かさず、ザッケローニとの戦略擦り合わせに腐心した。2014年9月、同年6月開催のFIFAワールドカップ総括とザッケローニの後任であるハビエル・アギーレの就任決定をもって 技術委員長を退任し、以後は専務理事に専念。日本代表やJリーグだけでなく各種サッカー大会を精力的に視察し、日本サッカー界の底上げに注力した。 2015年2月のJFA理事会において、大仁邦彌JFA会長や霜田と共にアギーレの解任に伴う処分が提議されたが、3名とも任命責任は認められなかったため、給与を自主返納することで 収拾を図った。 2015年6月、日本体育協会常務理事に選定され、国体委員長として 冬季国体の開催地選定や、2020年東京五輪に向けた女子種目の拡充を担った。 2016年1月、JFAは史上初となる会長選挙を行った。当時JFAのNo.3でもあった原は「自分も出ないと(選挙戦にならず制度が)変わらない」 と立候補を表明。原とNo.2の田嶋幸三副会長が争う構図になるのは「規定路線」であり、原は劣勢が確実視されていたが、秋春制の導入に慎重なJリーグクラブや、JFAとJリーグの関係強化を推進した実績により支持を集め、45%の評議員票を獲得、僅差での敗退となった。 Jリーグ役員 2016年2月、田嶋は自分と会長の座を争った原を二階級ほどの降格になる理事職に降格させる人事案を決めた。その話を田嶋から直接聞いた村井満Jリーグチェアマンは 各クラブの強化部門に影響を及ぼせる人物として、すぐさま原にJリーグ副理事長就任を打診。原もこれに快諾し、3月より同職に就任。JFAを離職し、自身の「専門とするところ」であるクラブ目線での日本サッカー強化を担うこととなった。翌3月、Jリーグからの選出で、JFA常務理事に就任。彼の功績や人柄を表すエピソードと言える。 同年4月の熊本地震に際しては、自ら現地入りして活動休止中のロアッソ熊本と協議し、リーグ戦再開に向けての調整に当たった。 2018年4月、日本サッカー協会技術委員会強化部会員に就任。 監督としての戦術・若手育成 指導者としての評価に際しては、特に若手の積極起用に注目して語られることが多い。自身も「監督をやっていて楽しいのは、(チームの勝利よりも)選手がみるみる伸びていき、顔を輝かせているのを見ているとき」「タイトルをとれれば楽しいけど、人がぐんぐん伸びていく時期を見るのがうれしい。それが一番好き」と語る。 浦和でも小野、山田を抜擢し、大きく成長させているが、小野は元々注目度の高い期待株であること、盛田剛平ら新人選手を重用してチームを低迷させたこともあったことから、原の評価を低く見る者もある。原の下でもプレーした浦和OB福田正博は「サテライト・ユースの指導経験しかなかった原にいきなりトップチーム、しかも浦和レッズという独特の雰囲気を持つチームの監督を任せるのは非常にプレッシャーのかかることだったのではないか」という趣旨のコメントを、雑誌に寄せた原稿で述べている。 その後に就任したFC東京でも若手登用の傾向は強く、石川、加地、茂庭照幸、今野泰幸を獲得してレギュラーに据え、日本代表に選出されるまでに成長させた。横浜F・マリノスで出場機会のなかった石川に対しては「(故障者が出ている)今なら使っちゃうよ」という口説き文句で移籍を決断させた。 選手として原と4年間(2002-2005)過ごした戸田は、原と選手との距離感・信頼関係の構築について「“試合に出てくるんじゃないか”と思わせるくらい選手と一緒の目線で戦っている」「顔色を伺ったってどうこうなる人じゃない」とコメント。原の下で5年間(2002-2005, 2007)コーチを務めた長澤徹は、原は選手の短所を包み隠さず指摘し、時に敗因として名指しするが、それでも選手からの信頼を損ねることはなかったという。選手と真摯に向き合うことができるコミュニケーションの天才だと評している。 4バックシステムを好み、『ニュースステーション』がJリーグ全クラブの監督に対して行った、3バックと4バックに関するアンケートに対し(このアンケートが行われた当時は3バックシステムを採用するクラブが多く、このようなテーマが議題となった)、回答の理由を「4バックが好きだから」とだけ説明した。原曰く、布陣を決める時にまず考えることは、選手個々の長所を出せるかどうか である。しかし、選手の個性・特徴を最大限発揮させることを理想としていることから、2007年には、不安定ながら新たなプレースタイルの模索を始めた石川と、石川には元来の能力を発揮してほしいと原点回帰を求める原との間で、微妙な溝が生じたこともあった。 解説・評論 原はテレビ解説者としても、多くのファンを得ている。解説者としての原のファンのことを「ヒロミスタ」と呼ぶことがある。ゴールが決まった時に、それが開始1分であろうが後半ロスタイムであろうが、あるいはVゴールであったとしても「いい時間帯 に得点しましたね」と発言したり、選手がまだシュート態勢であり、実際にそのシュートがゴールインするか否かがわからない状態にもかかわらず「あ、入った」などと発言したことが、そのきっかけとなった。 試合に熱中するあまり解説を忘れることもしばしばだが、広い視野からの的確な指摘を分かりやすく視聴者に伝えるという解説者としての技量がある、さらに選手への批判も臆せず口にする。解説者を辞する時はスカパー!で特別番組が何本も作られた。コラムニストのえのきどいちろうもヒロミスタの一人である。 試合中に感極まって泣きながら解説をしたこともある。その試合はUEFAカップ史上最高の決勝と呼び名の高い2000-01シーズンの決勝戦、リヴァプールFC vs デポルティーボ・アラベスである。アラベスはリヴァプールとは比較にならないほどの中小クラブであったが、ヨハン・クライフの息子であるジョルディ・クライフらをはじめとする魅力的な選手は少なくなかった。その決勝ではリヴァプールに2-0、3-1、4-3と3度もリードを奪われながら決して諦めることなく戦い、88分にクライフが同点ゴールを決めて4-4、延長戦に持ち込む。しかし、最後は5-4でリヴァプールに敗れ、アラベスは準優勝に終わった(このシーズン、リヴァプールは他にもFAカップとリーグカップも制し、最終的に三冠を達成している)。この激闘を解説していた原は「涙がでてきてしまいましたよ。」と話した。 また、浦和レッズ監督時に指導したベギリスタイン(後にFCバルセロナ技術部長など)と親交を深めたことを機に日常会話に支障が無い程にスペイン語を習得。スペイン語に近いとされるポルトガル語を話すブラジル人選手とも通訳を介さずに会話している。料理をはじめとするスペイン文化全般にも造詣が深い。FC東京の監督時にも、チームのラ・コルーニャ遠征やポストシーズンの視察に合わせて、原がスペインを紹介する番組が作成された。
二神範蔵 二神 範蔵(ふたかみ のりぞう、明治28年(1895年)6月29日 - 没年不明)は日本の実業家。元山下近海汽船社長。 二神は、東京都知事石原慎太郎の父潔の死後、慎太郎に一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめた 経歴 愛媛県南宇和郡城辺町(現在の愛南町)出身。二神彦一の男。 大正7年(1918年)東京高商(現在の一橋大学)を卒業し三井物産を経て、昭和6年(1931年)6月山下汽船に入社し日濠定航事務所長、紐育支店副長、名古屋支店長を歴任。 昭和18年(1943年)山下近海機船常務に転じ、昭和22年(1947年)3月同社社長に挙げられ、昭和24年(1949年)4月第二会社山下近海汽船を設立し社長に就任した。 人物像 趣味はゴルフ、囲碁。 家族・親族 一男四女あり。
フランス2 歴史 1963年に当時唯一の放送組織であったフランス国営放送「RTF」の第2チャンネル(La deuxième chaîne)として開局。直後にRTFはフランス放送協会「ORTF」 へ改組された後、1974年8月8日にORTFの分割によりアンテンヌ2(アンテーヌ2、Antenne 2、A2)という独立した公共テレビ会社となる。ただ、同じく公共テレビ局であったTF1に大きく視聴率で水を開けられた上、1987年にTF1が民営化を果たすと経営難に陥る。 1992年9月7日、公共テレビ局の再編によるフランス・テレビジョン発足に伴い、フランス2とチャンネル名を変更する。放送内容は総合編成で、全国同一プログラムである。 2012年4月5日(JST)、日本のNHK総合テレビジョンにてフランス2の「Tout le monde veut prendre sa place」をベースとした「連続クイズ ホールドオン!」の放送が開始された。
小西良幸 略歴・人物 父方の親族は医者が多く、母は呉服屋を営む。 三重大学教育学部附属小学校、三重大学教育学部附属中学校、佼成学園高校卒業後、芝浦工業大学を目指したが落ち、明星大学理工学部中退。在学時にはロンドンに短期留学する。文化服装学院卒業後、アパレルメーカー「GRASS」(本社は広尾、店舗は原宿)に就職。同僚に舘ひろしや永田友純もいた。 1981年に独立し、小西良幸デザインオフィスを設立。自身のファッションブランド「FICCE(FICCE UOMO)」を立ち上げる(FICCEという言葉には意味はない)。当初は苦戦するも、業者からただで仕入れた端切れを使うなどして、アバンギャルドなファッションスタイルを提案しヒット。80年代後半から90年代前半にはビートたけしがテレビ出演時に「FICCE」を着用。ほかにも谷村新司やエルトン・ジョンらが愛用したことで、ブランドが知られるようになる。小西の名はファッション界にとどろき、税関(当時の大蔵省)、東武鉄道の制服などもデザインしている。 しかし、バブル崩壊に加え、シンプルな服装を好むファストファッションが台頭するようになり、売り上げが低迷。スタッフにも見放され、ショップはすべて閉店に追い込まれ、負債15億円を抱えるまでに至る。 ブランドを売却するなどして負債を圧縮するも債務は残り、テレビ出演を開始。フジテレビ「とくダネ!」でのファッションチェックコーナーに「ドン小西」の芸名で出演、人気を博す。「とくダネ!」のディレクターが命名した この芸名を、以後使用するようになる。 のちに自身のブランドを再設立(「YOSHIYUKI KONISHI」「d.k.f - Produced by Don Konishi」)。一時期Gacktをブランドのイメージキャラクターに起用していた。「FICCE」は山本寛斎が保有しているが、2016年には小西が参加し、自身の創り出したブランドに復帰を果たしている。 テレビ出演開始で本人の知名度が上がったことをきっかけに、名古屋学芸大学メディア造形学部ファッション造形学科特別講師を務めたり、2007年には出身地三重県の観光大使である「みえの国観光大使」に就任している。 2012年11月、テレビ東京系「主治医が見つかる診療所」に出演。心臓ドッグを受診する企画に参加した際、心臓弁膜症であることが判明した。同年12月22日に手術を行ったことが2013年2月13日、明らかになった。術後の経過は良好であるという。 低迷後に離婚した妻との間に娘がいる。プロ野球・読売ジャイアンツファン。
山田規三生 経歴 小学1年生の時に東大阪囲碁教室に通い始め、2年生の時に関西総本部の院生となる。4年生から6年生までは2人の兄とともに山下順源六段の内弟子となる。1989年入段。1年目23勝6敗、2年目39勝5敗で、2年連続勝率トップ。17歳、二段時に「囲碁クラブ」誌のアマチュア強豪と若手プロ対抗の勝ち抜き戦に出場し、力で圧倒する碁形で連勝して「ブンブン丸」と名付けられた。 1993年、六段で天元戦の挑戦者決定戦に進出し、片岡聡に敗れるも大型新人として注目される。 1997年、新人王戦優勝。第45期王座戦本戦で片岡聡九段・武宮正樹九段・中野寛也九段そして決勝で王立誠九段に4目半勝ちし七大タイトル初挑戦者となる。柳時熏王座を3-1で破り初タイトル獲得、関西総本部所属棋士では初の七大タイトルともなった。次に関西総本部の棋士が七大タイトルを取るのは井山裕太の14年後のことである。賞金ランキングで自身初のトップ10入り(8位)。 1998年、のちの七冠王となる井山裕太(当時小学3年生・小学生チャンピオン)と週刊碁の企画で3子で記念対局をしている。 2000年、三星火災杯世界オープン戦で、決勝五番勝負で劉昌赫に1-3で敗れ準優勝。 2006年、八段で200勝により九段昇段。本因坊リーグ戦で依田紀基、羽根直樹の3者が5勝2敗の同率プレーオフとなり、羽根、依田に連勝して挑戦者となったが、初の七番勝負では高尾紳路本因坊に2-4で敗退。賞金ランキングでは平成四天王に次ぐ自己最高の5位。 2007年、賞金ランキング7位。 名人戦リーグでは2007年、2008年、2009年と3年連続2位、本因坊戦リーグでも2008年、2009年と連続2位。 2008年第1回ワールドマインドスポーツゲームズでは、男子個人戦に出場してベスト8進出するが、李喆に敗れる。賞金ランキング9位。 「碁ワールド」誌1998年8月号から2000年6月号までエッセイ「とんぼり交友録」を連載。2006年10月から2007年3月までNHK囲碁講座「山田規三生の超攻撃法」の講師。詰碁作りを得意として「詰碁といえば山田」と言われるほどで、「碁ワールド」誌2007年1月号から2008年12月号で「詰碁のエッセンス」を連載した他、著作多数。通算成績は778勝330敗(2010年4月時点)。 2009年、2010年、共に賞金ランキング7位 2011年3月27日、第58回NHK杯テレビ囲碁トーナメントで、依田紀基九段を破り初優勝。賞金ランキング9位。 2016年5月6日、日本棋院史上23人目となる公式戦通算900勝達成(407敗)。達成時勝率 .689は史上2位タイ。入段から27年1ヶ月での達成は史上3位。43歳7ヶ月での達成は史上5番目の年少記録。
金色のコルダ 概要 2003年9月19日にWindows98/Me/2000/XP用に発売されたのを皮切りに、2004年3月18日にPlayStation 2用の移植版が、2005年11月10日にPlayStation Portable用の移植版が発売された。また、キャラクターデザインを担当した呉由姫による同名の漫画が『LaLa』(白泉社)にて連載。2006年10月からは『金色のコルダ〜primo passo〜』としてテレビアニメ化され、2007年3月に放送を終了した。2009年3月と6月にスペシャルアニメとして『金色のコルダ〜secondo passo〜』が放送された。2010年3月には『金色のコルダ ステラ・ミュージカル』としてミュージカルの公演が行われた。 題名のコルダとは、イタリア語で「弦」「絆」という意味。 横浜が舞台になっており、実在する場所が作中に多く描かれている。 キャラクターを引き継いだ続編として、『金色のコルダ2』、『金色のコルダ2 アンコール』。新キャラクターを追加したPSP移植版『金色のコルダ2 f』、『金色のコルダ2 f アンコール』、PlayStation Vita版『金色のコルダ2 ff』が発売された。 2011年8月16日にソーシャルゲームサイトMobageより『100万人の金色のコルダ』のサービスが提供開始され、順次スマートフォンに対応している。2012年3月30日より配信元のディー・エヌ・エーが提携しているゲームサイトYahoo!モバゲーでの同ゲームの提供が開始された。コーエーテクモゲームスが運営するコミュニティサイト「my GAMECITY」でも2013年10月24日からサービスが開始された(スマートフォン用「my GAMECITY」では2014年3月24日より配信)。後にGREEで2014年8月27日からも配信されている。これらすべてのプラットフォームで2018年3月30日に配信終了した。 ストーリー 普通科と音楽科が併設された星奏学院(せいそうがくいん)が舞台。高等部の普通科に在籍する主人公は、音楽に関しては素人だった。だが、リリという音楽を司る妖精に選ばれ、学内音楽コンクールに出場することになる。 サブキャラクター 漫画およびTVアニメ版に登場する人物を紹介する。 テレビアニメ 『金色のコルダ〜primo passo〜』のタイトルで、テレビ東京系6局にて2006年10月から2007年3月まで放送された。副題には必ず音楽関連単語が含まれている。DVD最終巻には、TV未放映の第26話「ひと夏のアンコール」も収録。 2009年3月26日と6月5日にキッズステーションにおいて、スペシャルアニメ『金色のコルダ〜secondo passo〜』が前後編に分けて放送。『金色のコルダ2』や『金色のコルダ2 f』の新キャラクターも登場した。 Webラジオ 『金色のコルダ〜放課後のエチュード〜』は、ラジオ大阪とTBSラジオにて放送された女性向け恋愛シミュレーションゲーム「金色のコルダ」に関連したラジオ番組。パーソナリティは、谷山紀章(月森蓮役)と小西克幸(王崎信武役)。 番組内での名前の云い間違いにより、パーソナリティの二人を合わせて「こにやま30's(さーてぃーず)」と称することになった。 放送終了後ランティスウェブラジオにて再配信されていた。後にインターネットラジオへと移行し、ランティスウェブラジオのみでの配信となった。 概要 同アニメのために特別に結成され、エンディングテーマ「CRESCENDO」を歌った。レーベルはSony Music Japan International。 「stella quintet」とはイタリア語で「星の五重奏」という意味。 2009年に『金色のコルダ〜secondo passo〜』が放送された際には加地葵役の宮野真守が追加されたstella quintet+(ステラクインテット プラス)というユニットが結成され、テーマソングCDを発売した。
ショーン・マーフィー (野球) 経歴 2016年のMLBドラフト3巡目(全体83位)でオークランド・アスレチックスから指名され、プロ入り。契約後、傘下のルーキー級アリゾナリーグ・アスレチックスでプロデビュー。A-級バーモント・レイクモンスターズでもプレーし、2球団合計で23試合に出場して打率.228、2本塁打、7打点、1盗塁を記録した。 2017年はA+級ストックトン・ポーツとAA級ミッドランド・ロックハウンズでプレーし、2球団合計で98試合に出場して打率.250、13本塁打、48打点を記録した。 オフにはアリゾナ・フォールリーグに参加し、メサ・ソーラーソックスに所属した。 2018年にMLB.comが発表したプロスペクトランキングでは、アスレチックスの組織内で8位にランクインした。シーズンではルーキー級アリゾナリーグ・アスレチックス、AA級ミッドランド、AAA級ナッシュビル・サウンズでプレーし、3球団合計で78試合に出場して打率.285、8本塁打、43打点、3盗塁を記録した。また、7月にはオールスター・フューチャーズゲームのアメリカ合衆国選抜に選出された。 2019年、マイナーでは主にAAA級ラスベガス・アビエイターズでプレーし、41試合に出場して打率.293、11本塁打、31打点を記録した。9月1日にメジャー契約を結んでアクティブ・ロースター入りし、4日のロサンゼルス・エンゼルス戦にて「8番・捕手」で先発出場すると、5回裏にメジャー初安打となる本塁打を放った(この試合は3打数1安打)。 プレースタイル 肩、ボールブロック、キャッチングに優れる守備型の捕手である。打撃では今後、長打力が増せば面白い存在になると言われている。
横浜市立鶴見中学校 関連項目 神奈川県中学校一覧
木庭顕 木庭 顕(こば あきら、1951年 - )は、日本の法学者。東京大学名誉教授。専攻はローマ法。東京都三鷹市出身。 日本の法学者としては珍しく、フェルディナン・ド・ソシュール、クロード・レヴィ=ストロースなどの構造主義、マルセル・モースらのフランス人類学などに造詣が深く、これらの方法を批判的に使用しながら政治、デモクラシーおよびローマ法の成立過程を分析し、それらの成果を元に現代の政治学および法学が抱える問題点に対する解決案を提示することを課題としている。
トロリーバス 概要 トロリーバスは路面電車とバスの長所をもった交通機関で、排気ガスを出さない、軌道を敷設する必要がない、などの長所を持つ。しかし、稀にトロリーポール(集電装置)が架線から外れるトラブルが起こる。架線が分岐・交差する個所ではトラブルが起こりやすく、その手前では減速する必要があり、後続車列で充分な車間距離が保たれていないと交通渋滞を招く。現在は自動車交通量の増加に加え、性能が良いディーゼルエンジンやハイブリッド方式の大型路線バスの出現とともに廃止が進んでおり、日本では市街地を走るトロリーバス路線は全て廃止されている。しかし、道幅が広く、車が比較的少ない社会主義国・旧社会主義国の都市には今も多く残されている。また、カナダなどの水力発電による豊富で安価な電力が安定して供給される地域でも利用されている。 給電用の架線が張れない場所で走行するための小排気量の補助エンジンを持つものもある。このエンジンは発電用ではなく、車両を直接推進するために用いられ、日本でもかつて都営トロリーバスで、電化された鉄道の踏切を渡るために使用するものがあった。最近では、ディーゼル 発電機を搭載したハイブリッド方式や蓄電池を搭載した車両が開発され、架線がない道路でより長距離を走行できるようなものもある。中国 北京市では、王府井の繁華街の景観対策や長安街の横断対策(建国記念日である国慶節や節目の年には大規模な軍事パレードがあるため、架線を張ることができない)に利用されている。 構造 道路上の架線(トロリーワイヤ = trolley wire)から棹状の集電装置(トロリーポール = trolley pole)を用いて集電して電動機を回し、動力とする。このトロリーから給電を受け走ることから「トロリーバス」と呼ばれる。トロリーポール先端部の架線と接触する部分は、ごく初期においては路面電車と同様な滑車(トロリーホイール = Trolley wheel)が用いられたが、トロリーバスは道路状況によっては架線の直下を大きく外れて走る必要があるため、滑車では架線との角度が大きくなった場合の追従性が不十分であり、U字断面で自由に回転できるスライダー(摺り板)式が開発され、普及した。 タイヤは普通の自動車と同じゴムタイヤである。外観も屋根上のトロリーポール以外は普通のバスとほぼ同じだが、動力源や主制御器は電車に等しい。ただ、普通の電車と違って線路にアースさせることができないため、架線は+/-の2本で、2本のトロリーポールをそれぞれ並行する架線に当てている。 トロリーポールと架線のそれぞれの剛性やトロリーポールの遠心力の問題から、カーブを曲がる時などに速度を出しすぎたり、急カーブを切ろうとすると、しばしばトロリーポールが架線から外れてしまうことがあり、その場合は一旦車両を停止させ、乗務員(運転士や車掌)が車両の後ろに回り、トロリーポールのケーブルを引っぱって、架線にトロリーポールを掛け直す必要がある。架線を外れたポールが跳ね上がって吊線(スパン ワイヤー)を切断することを防止するため、離線時のポールの上昇を防止するキャッチャーや、ぜんまいばねの働きで引きひもを巻き取り、ポールを下降させるリトリーバー(レトリーバー)が車体後部に設けられている。また離線をしなかった場合でも、車線を間違えた場合や、わずかなトロリーポールの揺れ等で、行くべき方向と異なる側の架線に繋がってしまった場合も、手動でトロリーポールを下ろして正規の架線に繋ぎ戻す必要がある。 なお、前述の理由で離線した時に安全で交通の妨げにならない場所まで車両を移動するとき、部分的に架線を取り付けることのできない区間(鉄道の電化区間にある踏切など)を走行するとき、道路工事、事故、火災、災害などで本来の路線の道路が通行止めになった際、一時的に路線外の道路を使用して迂回するときなどのため、補助エンジンやバッテリーを搭載している車両が主流になっている。また、かつては車体の絶縁が不十分であったことから、しばしば漏電を起こして乗客や運転士が感電することもあった。 ヨーロッパ諸国 1882年4月29日に、ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンスがベルリンで540メートルの区間で運行を開始したのが世界初のトロリーバスとされる("エレクトロモト"の試験運行)。開放式馬車をそのまま用いた形態となっていた。この実験は同年6月13日まで続けられた。この実験の後、ヨーロッパ各地で実験が行われ、アメリカ合衆国などにも伝わった。 1900年代初めにはフランスのリヨンでトロリーポールを使用したトロリーバスが営業を開始した。その後各国で実用化された。このときは路面電車に準じた車体スタイルであった。 ドイツ ドイツはトロリーバスの発祥の国でありポツダムなどでは都市交通として活躍している。 イギリス イギリスではかつてはロンドン市内にも2階建てトロリーバスが見られた。イギリスのトロリーバスは2階建て仕様車が多いのが特徴であった。しかし、都市交通でのトロリーバスは全廃している。 アメリカ合衆国 アメリカ国内には観光地を中心にトロリーバスまたはトロリーと称するバス(en:Tourist trolley)が多く運行されているが、これらはレトロ調の車体を使用したディーゼルエンジンまたはガソリンエンジンの通常のバスである。 また、これらの都市での営業運転だけでなく、イリノイ鉄道博物館などのように旧型のトロリーバスの動態保存に取り組んでいる団体もある。 ロシア ロシアの首都モスクワは路線延長1251キロメートル、保有車両1,851両で、年間6億5千万人を輸送する世界最大のトロリーバス都市である。 旧ソビエト連邦などでは貨物運送目的のトロリートラックが採用されている例がある。 歴史 日本においては、1928年(昭和3年)に阪神急行電鉄(現、阪急電鉄)花屋敷駅(現在は雲雀丘駅と統合されて雲雀丘花屋敷駅)と新花屋敷(現在の川西市満願寺町あたり)の間1.3キロメートルを結ぶ区間で運行を開始した日本無軌道電車が初とされる。当時この付近では温泉が湧いており、それを開発した温泉宿・遊園地へのアクセス路線として、当時のバス(ガソリンエンジン)では登坂不可能な急勾配を越えるためのものだった。しかし営業は思わしくなく、開業わずか4年で廃線となった。 都市交通機関として初めて開業したのは、1932年の京都市電気局(後、京都市交通局)である。その後しばらくこの路線が日本唯一のトロリーバス路線となったが、戦後になっていくつかの大都市にトロリーバス路線が開業した。その背景には、当時の内燃機関バスは大型化には対応していたが、依然として出力性能が低く、頻繁な整備が必要なうえ、騒音や振動にも改善の必用がある状況であったことから、電車の技術を応用して車体の大型化に対応できるトロリーバスに期待が集まったことと、路面電車に比べて建設費が1/3ですむことなどがあったとされる。 しかし架線下しか走れないこと、モータリゼーションによる自動車の増加で道路混雑が激化したため定時運行が困難になったこと、また性能の良いエンジンを持った大型のバスの開発が進んだことなどから、順次廃止されていった。都市トロリーバスで最後に開業・廃止されたのは横浜市交通局の横浜市営トロリーバスで、1959年開業、1972年廃止である。横浜市交通局のトロリーバス事業は最後まで黒字運営であったが、他都市のほとんどのトロリーバスが廃止されたため車両の新造や車両部品の調達に支障をきたすこと、横浜市交通局が財政再建団体に指定されたことにより廃止される横浜市電と共用の変電所を単独で維持することが難しいことなどの理由で廃止された。 一方、1964年には関西電力が黒部峡谷(富山県)に建設した関電トンネルで関電トンネルトロリーバス(黒部ダム駅 - 扇沢駅)の運行を開始。日本から都市交通としてのトロリーバスが消滅したあとも運行を継続し、長きにわたり日本唯一のトロリーバスとして知られた。そして1996年には関電トンネルトロリーバスと同じく立山黒部アルペンルートを構成する立山黒部貫光がそれまでのディーゼルバスから転換し立山トンネルトロリーバス(室堂駅 - 大観峰駅)の運行を開始した。これは同路線の全区間がトンネルであるため換気に困難を伴うことと、周辺が国立公園内であることによる自然環境への配慮から、関電トンネルトロリーバスに倣って排気ガスを出さないトロリーバスに置き換えられたものである。その後、関電トンネルトロリーバスは2018年11月30日にて運行を終了して電気バスに置き換えられ、2018年12月以降は立山トンネルトロリーバスが日本における唯一のトロリーバスである。 法規上の扱い 日本の法令上は無軌条電車(むきじょうでんしゃ)とされ鉄道として扱われている。かつては無軌道電車(むきどうでんしゃ)と呼ばれていたが、「無軌道」には「常軌を逸した」という意味もあり悪い印象を与えるとして「無軌条電車」に改められた。1947年(昭和22年)以降無軌条電車という鉄道に分類され、軌道法または鉄道事業法が適用される。無軌条電車運転規則のほか、道路交通法に則って運行される。運転士は大型二種免許に加え、動力車操縦者運転免許(無軌条電車運転免許)も取得しなければならない。大型二種運転免許を保持している者に対しては、無軌条電車運転免許の技能試験以外の試験が免除される(かつては試験すべてが免除されたが、2009年(平成21年)の省令改正により技能試験は免除対象外となった)。なお2001年に開業したバス車両を利用した案内軌条式鉄道(ガイドウェイバス)である名古屋ガイドウェイバスも、「電気車」ではないが、法規上はこれらに分類されている。 トロリーバス技術の最新動向 現在はバス低床化が進んでおり、イリスバス社のCristalisなどのようにインホイールモーターを用いたノンステップ車が開発されている。 また、景観上の問題その他で架線の張れない区間用に新しいデュアルモード車も開発されている。ディーゼル 発電機を搭載したトロリー給電とのハイブリッド型やバッテリー技術の向上による蓄電池を搭載した車両が開発され、架線のない道路でより長距離を走行できるようになった。ディーゼル発電機を搭載したハイブリッドトロリーバスは、ニュージーランドやアメリカ ボストンのシルバーラインで採用されているネオプラン社製のものや、主にフランスで採用されているイリスバス社製のCristalisがある。中国ではバス停に併設された給電軌条にパンタグラフを押しつけてバス停で電池に充電する車両が実用化されている。イタリアでは一時期磁力ピックアップ方式による路面給電式のトロリーバス (Stream) が試験運転されたが、こちらは成績が芳しくなく本格採用には至っていない。ローマのトロリーバスは、終端のテルミニ駅付近の往復3キロメートルに架線が張られておらずバッテリーで走行している。 もう一つの技術革新は、ハンドル操作が不要のガイドウェイ技術の導入である。ドイツで一時期運行されていたローラー式に代わって、21世紀初頭には非接触のガイドウェイ式トロリーバスが試作されている。代表的なものは、光学式と磁力式である。光学式は地面にペイントされた白線をカメラで読み取って操舵するものである。磁力式は地面に埋め込んだ磁石を頼りに操舵するものである。前者はイリスバスのCIVISなど、後者はオランダのPhileasで採用されている。CIVIS・Phileasともに電気駆動のハイブリッドバスとして設計されており、トロリー給電のほか、ディーゼル発電のバスとして走行することも可能である。なお、CIVISはディーゼル発電のみのバス仕様のものしか採用されていない。 フランスのナンシーではボンバルディア・トランスポーテーションが開発した“TVR”というシステムのゴムタイヤトラムが採用されている。これは一本の案内レールに沿ってゴムタイヤで走行する路面電車に近いものだが、一部区間は案内レールがなくトロリーバスのような走行をしている。ただし、案内レールへの接続トラブルが頻発したため、TVRはナンシーとカーンの2都市のみの採用に留まっている。また、ガイドレールのカーブ区間で脱輪する事故が相次ぐなど、高速走行ができないという欠点も指摘されている。 また、近年普及しているハイブリッドバスの技術開発はトロリーバスにも大きな影響を与えているが、特にトロリーバスへのディーゼル発電機やバッテリーの搭載は、ハイブリッドバスや非接触充電式のバッテリーのみで走行するバスに比べ、頻繁な充放電による電池の劣化が少なく電池交換のコストが低い点で評価できる。 アジア 東南アジアでは唯一シンガポールで運行されていたが、1962年に廃止された。韓国には(狭義の)トロリーバスはないが、ソウル近郊のソウル大公園に(走行中に外部から給電するという点でトロリーバスと類似する)オンライン電気自動車の「ぞう列車」が運行されている。アジア太平洋では(狭義の)トロリーバスが廃止傾向にある。その一方で、変種に当たる電磁走行カートやオンライン電気自動車の運行が始まっている。
制阿難 生涯 元々はチャンパに服属する一介の土酋であった。1318年にチャンパは陳朝大越の侵攻を受け、国王のジャヤ・シンハヴァルマン5世がジャワへ救援を求めて逃亡すると、大越によってパタルトールが効誠亜王に擁立された。ジャヤ・アーナンダの治世中にポルデノーネのオドリコがチャンパを訪問している。 1323年8月4日に弟の保佑八剌を元に遣使してその後ろ盾を得て、1326年に恵粛王陳年率いる大越軍を破ったことで大越の支配下から脱することに成功した。1328年2月26日にも朝貢して大越の侵略を訴え、泰定帝は両者に和解するよう詔を下した。1331年4月2日に高暗都剌を、1332年4月14日には阿南那那裏沙ら4人を元に遣使して朝貢し、金書表を奉った。1335年5月27日にも剌忒納瓦児撒を元に遣使して大越に道を遮られたことを訴え、恵宗は詔を下して大越を宣諭した。 ジャヤ・アーナンダは子のジャモを布田(大王)、娘婿のマハー・サーヴァをポティー(宰相)に任じていたが、ジャヤ・アーナンダの死後にマハー・サーヴァがジャモを追放して即位した。
埼玉県道128号熊谷羽生線 概要 国道125号行田バイパスと並行している。起点は熊谷市筑波交差点であるが、のちに筑波交差点 - 末広交差点間が主要地方道の埼玉県道83号熊谷館林線の新道に当てられて重複となり、番号の若い埼玉県道83号熊谷館林線を優先し、「83」単独表記となっている。ちなみに、都市計画道路上のこの区間は熊谷羽生線に相当する3.3.4 熊谷谷郷線になっている。なお、その埼玉県道83号熊谷館林線との分岐点である末広交差点は市道3本も交わって6叉路となっており、信号機には珍しい斜めの矢印表示がある。なお、2019年上期中には熊谷館林線の更なる新道が別途整備され、それに伴い再び当該区間が熊谷羽生線単独となる見通しである。 熊谷市街においては歩道が整備されていなかったり、渋滞が激しいため対面4車線化事業およびバイパス建設事業を展開中である。行田市内においては大型車両が通れない狭い区間があるため、対面2車線化事業を展開中である。 別線 2018年(平成30年)春から夏にかけて、旧国道125号の熊谷市佐谷田北交差点から加須市志多見交差点までの間、及び国道122号の志多見交差点から羽生市下岩瀬交差点までの間が熊谷羽生線として指定された(国道125号区間は指定解除の上で熊谷羽生線単独区間化、国道122号区間は重複)。これにより、熊谷羽生線は、国道125号行田バイパスの南北を挟む形で並行するそれぞれ独立した2ルートの路線となった。
ティーサージ・パラダイス 概要 当番組の柱となっているコーナー「アンケー島(トー)」をはじめとした、リスナー参加型の番組である。沖縄方言が放送中に多く発言され、放送内の投稿部分のみを抜粋したものが、ポッドキャストで放送局のラジオ沖縄から毎日配信されている。radikoプレミアムやポッドキャスト、ラジオクラウドなどを通して県外や国外にもリスナーが多い。番組への投稿用メールアドレスの覚え方として、「おしり、あっと驚く(為五郎)、あーら沖縄、こんなジャポン」という文句が、冒頭のCM前やジングルのなかで読み上げられている。慰霊の日である毎年6月23日には、正午に1分間の黙祷が行われるため、放送開始が12:10前後になる。 放送終了時間も2017年いっぱいまで13:50だったが、『チャットステーションL』が終了したことを受けて、2018年1月1日から放送時間が30分拡大され、14:20まで放送されることとなった。この際、2時台はEX枠となった。 それと同時に、CM後のジングルも全面変更された。なお、この日からラジオ沖縄の午後から夕方の番組において、後続の番組も含めて大幅に改編された。 かつて、当番組と、その後に放送されていた『チャットステーションL』をまとめて「TEA茶(ティーチャ)」と表記し、公式掲示板もこの名前を採用していた(TEA茶掲示板)。リスナーからの公募により、毎年12月3日をTEA茶の日と定め、2008年にはチャリティーボウリング大会などの合同イベントが開催された。
キャノン・ストリート駅 ナショナル・レール この駅は、テムズ川の南岸からキャノン・ストリート鉄道橋を渡りシティの南端に達したところにある終着駅で、頭端式ホーム4面7線のプラットホームを持つ高架駅である。元々は8番線まであったが、1990年代後半の改装により元の1番線が撤去されている。 鉄道橋を渡ったテムズ川南側において線路は東西にあるロンドン・ブリッジ駅・ウォータールー・イースト駅の両方向へ分岐し、東西に両駅を結ぶ線路に合流するデルタ線の形になっている。 駅はキャノン・ストリートとDowgate Hillに出入口を有する。 キャノン・ストリート駅はネットワーク・レールが所有のみならず管理も行う17の駅のひとつである。 初期の建築物 この駅は1866年9月1日にサウス・イースタン鉄道により開業した。初期の駅舎はJohn Hawkshaw卿およびJ.W. Barryにより設計されたもので、テムズ川に面する高さ135フィート・面積23平方フィートのWren-styleの2本のタワーが特徴的であった。この塔は、鉄とガラスでできたほぼ半円形の高い天蓋がかけられた、700フィートの長さを持つ鉄製の駅の屋根を支えた。1867年には、これに街路への印象的な建物の正面と同様に駅の旅客設備の多くを提供したE.M. Barryにより設計されたItalianateスタイルのホテルおよび前庭が接合された。この配置はチャリング・クロス駅における配置にとてもよく似ている。駅はレンガ造の陸橋でアッパー・テムズ・ストリートを越えて続いている。この陸橋の下には多くのローマ時代の建築物が残されている(これらは計画された遺跡を形作っている)。 バリーの5階建ての「City Terminus Hotel」は名称を二回変更された。一度目は「Cannon Street Hotel」であり、後にオフィスビルとして「Southern House」とされた。 大戦期 1926年6月5日~28日から、サザン鉄道は、ホームの建て替え、線路の取り替えおよび電気信号の新しいシステム(4色の発光信号)の導入を含む、様々な工事を続けた。 また、駅の改装およびガラスの天蓋の清掃も行われた。新しい電車用の5本の側線(留置線、five set aside)とともに、ホームの数は9から8に削減された。鉄道橋の幅に架かっていた信号扱所は撤去された。 第二次世界大戦の前には構造的な問題を無視されていた駅は、爆弾の被害を大きく被り、屋根を破壊したいくつかの焼夷弾が命中した。高性能爆弾も8番ホームに命中した。初期のガラスの天蓋は戦前にそれを保存する試みで撤去されていたが、その天蓋を格納していた工場が酷い爆撃を受け、天蓋は破壊されてしまった。 再建 1950年代、戦争の被害を受けたキャノン・ストリート駅は、不動産開発業者にとり重要なターゲットになった。1950年代の不動産ブームの際に一等地にある駅が注目され、またイギリス国鉄には代替的な収入源を模索する必要があったからである。 様々な計画がキャノン・ストリート駅の再建のために提案された(イギリス国鉄の近代化計画の一部としての1955年にはSouthern Houseの下への新しいticket hallとコンコースの設置から、駐車場やさらにはヘリポートの建設.まで)。1962年、イギリス運輸委員会はTown & Country Properties Ltdと、駅の上に総計154,000平方フィートとなる多階建てのオフィスビルを建設する契約を交わした。開発費用は230万ポンド、また1965年6月の完成と見込まれた。 再開発の準備のため、かつての壮大な駅の天蓋の残部は1958年に撤去された。また、Barryのホテル(1931年からはオフィスビルとして使用されていた)もすぐ後の1960年に撤去された。 新しいビルの設計に選ばれた建築家は、イギリス国鉄総裁Graham Tunbridgeが大戦中に出会い、親友であったJohn Poulsonであった。Poulsonは様々なBritish Rail terminiの再開発につき契約を得るため、この友情を利用した。彼はTunbridgeに週あたり£25を支払い、そしてビルの契約(ウォータールー駅、イースト・クロイドン駅を含む)という反対給付を受けた。1974年、彼の裁判において、彼はキャノン・ストリート駅舎の契約の少し前に、Tunbridgeに200ポンドの小切手と80ポンドの財物を供与したことを認めた。Poulsonは後に贈賄の罪で有罪とされ、7年のconcurrent判決を受けた。Tunbridgeは15ヶ月の執行猶予判決と彼の事務における役職につき (for his role in the affair) 4000ポンドの罰金を受けた。Poulsonのビルはイギリスの全ての駅舎の中でも最も醜いもののひとつとされ、酷い異形のご立派な建物と注目される (turning once a fine building into a hideous monstrosity) 。 現在残る初期の駅構造物はcountry endにある120フィートの赤レンガのツインタワーと低い側壁のみである (the twin 120-ft red-brick towers at the country end and parts of the low flanking walls) 。 近年 1974年の8月2日-9月9日までの5週間、駅は線路およびresignalledされるロンドン・ブリッジ駅へのアプローチの設置の変更を可能にするため、閉鎖された。列車はロンドン・ブリッジ駅、チャリング・クロス駅およびブラックフライアーズ駅に振り分けられた。 1976年3月4日、IRAの爆弾およそ10lb (4.5kg) がキャノン・ストリート駅を発車した回送の通勤列車内で爆発し、隣を走っていた別の列車内の8人が負傷した。爆弾が、列車がセブンオークスから7時49分に通勤客を乗せていた13分前に爆発していたら、大惨事となっていただろう。 1984年2月15日、タイム紙はキャノン・ストリート駅が廃止されると報じた。当時、駅は週末・午後は休業しており、またイギリス国鉄の1984-85年新ダイヤの発表は、南東方面からの全てのオフピーク時間帯の列車の発着が廃止されることを明らかにした。ラッシュ時を除き、イギリス南東部からの列車は、代わりにひとつ手前のロンドン・ブリッジ駅を終点とするとされた。鉄道橋の架け替えに1000万ポンドの投資が必要で、またオフピーク時間帯に南東方面から来た乗客はほとんどがシティではなくウェスト・ロンドンに向かうだろう、という指摘についてはイギリス国鉄は否定した。 1986年、1972年に第2種指定建造物に指定されていた (Grade II listed) 駅のツインタワーは24万2000ポンドの計画で修復された。この工事の際に、東のタワーが、蒸気機関車の時代に機関車に水を補給し駅の水力システムを動かすのに使用された、大きな水槽をいまだ内包していることが明らかになった。レンガ積みは修復・清掃および目地の塗り直しをされ、また近隣のセント・ポール大聖堂のドームの補完となるweathervanes guildedであった (weathervanes guilded to complement) 。この工事はRailway Heritage Trustの最初の工事のひとつであり、また同年の8月には駅開業150周年の到達と抑えられた駅の公開が符合した。 1980年代には別の不動産ブームがあり、イギリス国鉄は再びキャノン・ストリート駅の敷地の将来の商業利用を模索しはじめた。Poulsonのオフィスビルの裏にあたるホーム上の空中利用権は、駅のホームの上および(キャノン・ストリートのアーチの下に1981年にオープンしたスポーツクラブである)キャノン・スポーツ・センターの上に建設する6000トンの鉄製の人工地盤上に、2棟のオフィス棟を含む自立構造物を建設するため、Bovis Constructionを指定するSpeyhawkに売却された。 この工事では、450本の三角形の杭 (tripod pile) が、鉄製の人工地盤を支える必要から駅の地下30mの深さに打ち込まれることによる、複雑な基礎工事を行った。 大きい方のオフィス棟である「Atrium building」は6フロアに19万平方フィートのオフィス・スペースを有し、また小さい方の「River building」へは(中央のガラス張りのアトリウム-吹き抜け)を通して上げられたglazed link(ガラス張りの通路)を経由して通じている。2フロアからなるThe River buildingは、鉄製の人工地盤の上に立てられ、再築された駅の2つの側壁に収められており、9万5千平方フィートのオフィス・スペースを有している。このビルは、開発に対し川岸の限界線を形作っていた、修復されたツインタワーよりわずかに出っ張っている。Atrium buildingは後にLiffeに賃貸された。River buildingはおよそ50万ポンドの費用がかかった、屋上の1エーカーを覆う屋上庭園を持ち、またセント・ポール大聖堂からタワー・ブリッジまで景観を維持するために低く平らであるようにビルを要求するという計画の制限に従うために低くされた。 キャノン・ストリート駅は、列車が車止めに衝突し2名が死亡し248名が負傷した、1991年1月8日のキャノン・ストリート鉄道事故の現場である。 将来 2007年3月、Poulsonのビルを建て替え、Foggo Associatesによる設計の空中利用権建築物を建てる計画免許が認可された。アメリカのディベロッパーであるHinesは、Poulsonのオフィス棟の撤去と1万7千平方フィートの駅小売りスペースとともに40万平方フィート以上のオフィス・スペースを含めた複合開発ビルへの建て替えを含む、3億6千万ポンドのプロジェクトを導いた。 この再開発はネットワーク・レールにより着手されたより広い近代化及びロンドンの主要ターミナル駅についての「unlock the commercial potential」への再生プログラムの一部である(ユーストン駅及びロンドン・ブリッジ駅の両方もまた再開発される予定)。 キャノン・ストリート駅の計画について、ネットワーク・レールの商業用不動産の担当者は「the finished station will be less congested and more accessible for passengers(完成した駅は乗客にとりより混雑せず、よりアクセスしやすくなる)」と語った。 歴史 1876年までには、メトロポリタン鉄道 (MR) およびメトロポリタン・ディストリクト鉄道 (MDR) はインナー・サークル(現在のサークル線)の大部分を建設していた(サウス・ケンジントン駅を境にそれぞれがオルドゲート駅とマンション・ハウス駅まで達し、円環のほとんどが完成していた)。しかし路線の完成を前にして、MDRは財政難に直面し、MRは完成がシティ地域でのMDRとの競争の激化を通してMRの収入に影響することを心配することから、両社は論争中であった。路線の完成を切望するシティの資産家は、1874年にマンション・ハウス駅とオルドゲート駅を結ぶためにMetropolitan Inner Circle Completion Railwayを設立した。この行動に動かされてMRはこの会社を買い取り、そしてMDRは1879年にインナー・サークルの最後の区間の建設を始めた。 1884年10月6日、インナー・サークルの最後の区間が開業し、完全な円環が完成した。この際にこの区間のひと駅としてキャノン・ストリート駅も開業した。当初は駅は両社の列車により、環状運転するインナー・サークル系統の一部として運行されていたが、駅の歴史上様々な運行パターンが用いられている。インナー・サークルは1949年にディストリクト線・メトロポリタン線の一部としての運行から、サークル線として独立した。 この駅は上にあるナショナル・レールの駅と同時に建て替えられた。 バス路線 ロンドンバスの15、17、521系統とヘリテージルートの15H、ナイトバスのN15、N199系統が当駅を経由する。
東領家出口 周辺 川口市東領家は市南東部にある町である。町は新芝川の下流、荒川河口近くに位置し、新芝川によって東西に分断されている。東領家出口がある五丁目と加賀出口がある四丁目は新芝川の東岸に位置し、陸続きで隣接する東京都足立区鹿浜に都市農業公園がある。 公共交通ではJR川口駅から国際興業バス・川21系統で20分ほど、東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線の赤羽岩淵駅(東京都北区)から同バス・赤23系統で15分、JR赤羽駅(北区)や東武伊勢崎線西新井駅(足立区)から同系統で20分ほどを要し、川口駅と赤羽岩淵駅とは直線約3kmでほぼ等距離。バス便は川口駅へは毎時1~2本ほど、赤羽岩淵駅・赤羽駅・西新井駅へ毎時3~4本ほど運行されているものの、公共交通機関でのアクセスがやや不便な地域である。周辺は町工場が多く、住宅は比較的少ない。