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Q11599644
_START_ARTICLE_ 笑福亭晃瓶 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 笑福亭鶴瓶の二番弟子で、1984年4月21日入門。_NEWLINE_蒲生4丁目で生まれ、生まれてすぐ長吉に引っ越す。父は燃料会社の会社員、母は料理店やブティックを経営。2人兄弟で、4歳下の弟(一男七女の子だくさん)がいる。長吉東小学校に入学、長吉南小学校開校に伴い転校。小学校3年で家族がばらばらになり、寝屋川市萱島のおじ宅に預けられ、寝屋川南小学校に通った。小学校6年から平野に戻り、父と弟と暮らし長吉中学校に通った。_NEWLINE_長吉高校(1期生)卒業後、家具やガスの仕事、劇団員を経て、同じ長吉生まれであった鶴瓶が好きで鶴瓶のような漫談がしたくて、人気者になって女性にもてたくて、鶴瓶に弟子入り。スタジオの外で出待ちし「弟子にして下さい」と言ったら、「ほなまたいっぺん手紙書いといで」と言われて、手紙を書いて、それを師匠が読んで、電話がかかってきて、面接が実施され「ほな早いほうがいいわ」とその週に入門した。入門を請うたのは達瓶の方が早かったが、親の説得に時間がかかったため、その間に晃瓶と純瓶が入門。結果、年齢順での入門になる。「達瓶が先に入門していたら、落語家晃瓶はなかったと思う」と語っていた。_NEWLINE_通いで西宮市で3年間修行し、修行中は主に料理と車の運転を担当。初舞台は十三の鰻屋の2階。元々漫談志向だったが、師匠鶴瓶が2002年頃から落語に力を入れ始めたため、晃瓶含め鶴瓶の弟子全員が落語に熱心に取り組む。スパゲッティ屋(イタリアン)に集まって、「これからはやっぱり落語や。俺がお前らを落語で食えようにしたる。俺がやるからお前らもやれ。稽古はお前ら勝手に自分らでやれ、テープで覚えなさい」と命を受ける。_NEWLINE_蒲生、長吉、萱島、長吉(噺家になるまで)、門戸厄神(修行中)、高安、住之江、門真の順に在住し、その後は大阪を離れ、堀川今出川を経て、2014年2月から中京区在住。_NEWLINE_現在は『笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ』を中村薫と共に担当している。開始当初1年半はKBS京都近くのホテルから通っていた(週末は門真に帰っていた)。放送のある月曜から金曜は4時に起きる。_NEWLINE_自らの落語会「洛楽寄席」を春に、「洛楽笑会」を秋冬に、京都を中心に催す。「晃瓶のわかやぐ会」を3月と9月に帝塚山無学で催す。繁昌亭にも助っ人で年数回は出演する。彦八まつりにも毎年参加する。_NEWLINE_生きる原動力は女性。女性がいなければ働かない。_NEWLINE_2018年10月25日に女性と後述のチョロQでは、恥ずかしいとのことで、温泉と唐揚げを追加するよう自身のラジオ番組でリスナーに呼びかけた。_NEWLINE_趣味はウォーキング、チョロQ収集など。チョロQは300台ほど所有していてケースに入れて大事に保管している。料理好きでパン教室に通ったこともある。高校卒業後は専門学校に通い調理師になるつもりで入学資金もちゃんと用意していた(中学生の時の夢は吉本新喜劇)。小学校4年の時、学級委員をした。中学では、マジッククラブで、バスケットボールもしていた。バスケットはさぼってばかりいたので全然上達しなかった。中学や高校では「シュークリーム」、「みえこ」などと呼ばれていた。社会人になって一時期、職場で卓球をしていた。_NEWLINE_175cm。78kg(2014年10月現在)。体重は90kg台の時もあったが、2006年秋の「ほっかほか北海道ツアー」の時には、67,8kg位まで痩せた。股下76cm。靴のサイズ27〜27.5cm。足元と股間は特にきれいにしていて、中村薫が臭いだ時も全然くさくなかった。_NEWLINE_2011年5月13日には「ほっかほかラジオ」終了後、1人で新幹線とレンタカーを乗り継ぎ、宮城県石巻市のRQ河北ボランティアセンターまで駆けつけ、落語を2席披露。翌14日にはKBS京都のスタッフと合流し、気仙沼市の小泉中学校、南三陸町の歌津中学校で落語会を開いた。2012年3月には、自ら企画して「東北応援ツアー」を実施した。
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Q1171720
_START_ARTICLE_ 第四の核 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 1987年冬、ソ連時代。タカ派のKGB議長ゴボルシンは、西欧とアメリカを分断させる“オーロラ計画”を実行に移すことを決断する。それはイギリスで反核運動を刺激し、総選挙の期間中に英国内の米軍基地で核爆弾を爆発させ、それによって選挙で反核を強く訴えていた労働党に浮動票を取り込ませて親ソ政権を樹立させ、西欧とアメリカを分断させるというものであった。_NEWLINE_KGBは工作員のアレクセイ・ペトロフスキーを実行役としてロンドンに送り込む。彼はスーツケースサイズの核爆弾を数回に分けて英国内に持ち込み組み立てるミッションを帯びていた。_NEWLINE_一方、かつてはMI5のエージェントだったが、度重なる上司との衝突から港湾担当に左遷されていたジョン・プレストンは、東側船籍の船員の事故死の捜査の過程で恐るべき物を発見する。それは核爆弾の起爆装置となるポロニウムで、ペトロフスキーに渡る予定の物であった。これでソ連側の企みに気付いたプレストンは、ペトロフスキーの追跡を開始する。
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Q206682
_START_ARTICLE_ 第四インターナショナル _START_SECTION_ 結成の経緯 _START_PARAGRAPH_ レーニンとともにロシア革命を指導したトロツキーは、1924年のレーニンの死後、ソビエト連邦共産党書記長となったスターリンが打ち出した「一国社会主義建設」(それまでのレーニンらの主張する「革命がロシアからヨーロッパ、そして世界に波及しないかぎり革命ロシアは生き残れない」という方針に対してスターリンは「革命が波及しなくてもロシア一国で社会主義は建設できる」と主張した)論に対して「世界革命路線の堅持」と永続革命論を対置し「左翼反対派」を結成して激しく反対した。この「左翼反対派」が第四インターナショナルの源流とされる。_NEWLINE_スターリンは書記長という権力を利用して党内で多数派を形成し、トロツキーを政府・党の閑職に追いやり、1927年には「ロシア大革命十周年記念式典」に際しての「左翼反対派」の「スターリン打倒」を掲げたデモ行進を「反党活動」であるとしてトロツキーを共産党から除名し、1929年にはソビエト連邦国外に追放する。この間スターリンのイギリスの労働運動への指導や中国革命の方針などをめぐって、スターリン派とトロツキーら「左翼反対派」のあいだで激しい論争が繰り広げられていた。トロツキーは、スターリンの指導を「日和見主義と冒険主義のジグザグ」などと批判したが、国外追放された時点においても「共産党を割って出るのではなく、内部に留まって改革するべき」と主張していた。_NEWLINE_当時ドイツでは、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が急速に勢力を伸ばしていた。トロツキーは、ドイツの事態に対して「ドイツ社会民主党とドイツ共産党の統一戦線の形成によってナチスに対抗するべき」と主張したが、スターリンとドイツ共産党指導部は「社会民主党もファシズムの一種でありナチスの双生児」といういわゆる「社会ファシズム論」によってトロツキーの主張を一顧だにしなかった。そして、1933年のナチスによる権力掌握によって、ドイツ共産党がほとんど抵抗できないまま暴力的に弾圧され急速に解体されるという事態に際して、トロツキーは「コミンテルンは死んだ。もはや誰にも生き返らせることは出来ない」として、はじめて「新しいインターナショナルの創設」を提起する。_NEWLINE_1936年に「大粛清」を開始したスターリンは、自らに反対する者、あるいは抹殺してしまいたい者に対して「トロツキスト」というレッテルを多用した。ここで言う「トロツキスト」とは「ソビエト連邦の破壊を目論むトロツキーを頭目とする反革命分子で帝国主義の手先の群れ」と定義されたが、実際は粛清された多くの者はトロツキーあるいは「左翼反対派」の組織とは無関係であった。このレッテルとしての「トロツキスト」という用語は、「スパイ挑発者」あるいは「左翼を装った反革命」を意味するものとして、世界各国の共産党によって第二次世界大戦後も長らく使用されることになる。_NEWLINE_1938年にフランス、ベルギー、アメリカ合衆国、オランダなど、各国のスターリニズム化した共産党内から派生した「左翼反対派」を源流とするトロツキスト・グループが参加した「第四インターナショナル創設国際会議」によって、第四インターナショナルは結成を宣言し「スターリニズムの党に代わって世界革命を目指す新しい共産党の建設」を訴える「過渡的綱領」を採択した。トロツキーは「戦争が第四インターナショナルを急速に押し上げる」と考えたが、既成の各国共産党の「トロツキスト=裏切り者」キャンペーンと各国政府の弾圧、とりわけナチス占領下の各国における過酷な弾圧のなかで、小グループに留まり続けることになった。アジアでもいくつかの支部が日本の占領下で弾圧を受け、ヨーロッパとアジアの多くのメンバーが第四インターから脱落した。しかし、第二次世界大戦のさなかにおいて第四インターナショナルの組織は、フランス、ベルギー、オランダなどではナチス占領下でレジスタンス運動の一翼を担い、アメリカ海軍に徴兵された船員によってマルセイユ経由でニューヨークの本部とヨーロッパのメンバーとの間で接触が保たれた。後の第四インターナショナルの指導者の一人となるベルギー人のエルネスト・マンデル(1923-1995)は15歳で第四インター系の反ナチ・レジスタンス組織に参加、ナチスの捕虜となるも強制収容所から脱出するという経験を持つ。一方で、ナチス占領下のギリシャではトロツキスト派のレジスタンス戦士が共産党系の民族解放戦線(EAM)のメンバーに殺害される事件も発生している。 _START_SECTION_ 第四インターナショナル内部の論争と分裂 _START_PARAGRAPH_ 第四インターナショナルの政治的特徴として「プロレタリア革命による帝国主義の打倒」とともに「ソ連邦は、官僚を追放する政治革命は必要ではあるが、依然としてブルジョワジーによる生産手段の所有を廃した労働者国家であることから帝国主義の包囲・攻撃からは世界の労働者階級はソ連邦を防衛しなければならない」(「官僚によって歪められ、堕落した労働者国家」論)という原則が挙げられる。第四インターナショナルは、様々な局面でこの「原則」をめぐって、あるいは各国に存在する社会民主主義政党や共産党などの大組織に組織的・目的意識的に加入して大組織構成員を自陣営に獲得する「加入戦術」の是非などをめぐって、分裂を繰り返すことになる。_NEWLINE_1939年に、スターリンによる独ソ不可侵条約締結とバルト三国への侵攻をめぐって、アメリカ支部である社会主義労働者党(SWP)内部で、トロツキーが定式化した「ソ連=官僚によって歪められ、堕落した労働者国家」論を否定する部分が発生する。「ソ連=官僚主義集産国家」論を唱えたマックス・シャハトマンやジェームズ・バーナムらは1940年にSWPから分裂してアメリカ労働者党(WP)を結成する。WPは直後に「シャーマン派」という分派と再分裂する。ちなみに「ネオコンのルーツはトロツキズム」として例に挙げられるネオコンの総帥でイデオローグと言われるアーヴィング・クリストルが一時期所属したのは、この「シャーマン派」である。_NEWLINE_1953~54年にかけて、主にスターリン死去とそれに伴うニキータ・フルシチョフによる「非スターリン化」の評価をめぐって、アメリカSWPやアルゼンチン・ペルー・スイス・中華人民共和国等の組織が多数派から分裂。独自の国際組織「第四インターナショナル国際委員会」を形成する(アメリカSWPは1963年にマンデル派と再統一して統一書記局派を形成する)。_NEWLINE_1952年にフランス支部:国際主義共産党(ICP)内において、主流派によって提起された「加入戦術」に反対するランベール派が脱退。国際組織として「国際共産主義組織-OCI」を形成する。後にフランスの首相となるリオネル・ジョスパンが一時期所属したのはこのランベール派で、現在のフランス労働党である。_NEWLINE_1983年、アメリカSWP内部でジャック・バーンズらキューバ共産党およびサンディニスタ民族解放戦線を強く支持するグループが主導権を掌握し、SWPは統一書記局派を離脱した。統一書記局派は1959年のキューバ革命以来一貫してキューバを支持しつつ、ソ連への接近やプラハの春に対するソ連の介入への支持には反対していた。現在、SWPを離党した党員が結成した社会主義行動(SA)や第四インターナショナル執行委員会が統一書記局のアメリカにおけるシンパ組織として活動している。 _START_SECTION_ 第四インタナショナル中央書記局 _START_PARAGRAPH_ 日本の統一書記局派組織である「日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)」の「日本社会主義青年同盟への加入戦術」に反発した「青年インター」の一部により結成された。1966年の国際委員会派第3回大会に参加したが、「第四インターナショナル国際委員会のシンパ組織とみなす」という通達を拒否。英国社会主義労働同盟(Socialist Labour League、現在の英国労働者革命党)による「労働党批判的支持」などに反発したためとされている。福岡県を中心に、東京都と大阪府にも組織を持って活動していた。機関紙には東京都および大阪府の連絡先のみ記されている。 _START_SECTION_ 国際ボリシェヴィキ潮流 _START_PARAGRAPH_ International Bolshevik Tendency (IBT) (ウェブサイト)_NEWLINE_国際共産主義者同盟(第四インターナショナリスト)の前身の「国際スパルタシスト潮流」から1978年以降に分裂した潮流「Bolshevik Tendency」と、ニュージーランドのPermanent Revolution Group (PRG)が合同して結成された潮流。イギリスにはもともとメンバーはいなかったが、他国からメンバーを移住させ、英国の地にも根を下ろした。社会主義労働党 (イギリス)(Socialist Labour Party)への加入戦術で一定の支持を得たが、同党がスターリン主義化したため離脱した。英国とニュージーランドのほかにはドイツ・アメリカ合衆国・カナダ・韓国にメンバーがいる。かつてウクライナの組織と合同したが、このウクライナの組織は「労働者インターナショナルのための委員会(Committee for a Workers' International/CWI)」のウクライナ支部が偽装したものであったことが発覚。CWIにたいして、ウクライナの偽装組織に対して支払った金を返還するよう要求している。 _START_SECTION_ 第四インターナショナル系団体の現状 _START_PARAGRAPH_ 第四インターナショナルの系譜をひく政治団体や政党は、2013年現在、従来のトロツキズムの枠内にとらわれず、代わって「反資本主義」や「エコロジー」、「フェミニズム」などを掲げた大衆政党に衣替えする動きが強まっている。例えば、フランスの「反資本主義新党」、スペインの「Red Roja(es:Red_Roja)」、ロシアの「ロシア社会主義者運動」、ギリシャの「ギリシャ反資本主義左翼戦線(en:Front of the Greek Anticapitalist Left)」など、これらの新興左翼政党は全てもともとは第四インターナショナルの系譜に属するトロツキスト政党であった。日本でも、JRCLが中心となって「反資本主義連合」という新左翼団体を結成しようという動きがある。
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Q11600267
_START_ARTICLE_ 第15回国会 _START_PARAGRAPH_ 第15回国会(だい15かいこっかい)は、1952年10月24日から1953年3月14日まで開かれた日本の国会である。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1952年に行われた第25回衆議院議員総選挙の後で召集された特別国会。1953年度予算の審議をするために開かれた。_NEWLINE_当時の国会法2条の規定に照らせば、例年12月に通常国会を開いて翌年度の予算審議に入り、年をまたいで5月から6月頃までを当初会期とする恒例であったが、議員任期満了などを勘案して8月に開会を前倒しした前回の第14回国会が開会後数日で突如、上記の通り解散総選挙となった。憲法52条に従えば年に1度しか開くことができない通常国会をすでに消化してしまったことから、特別国会として本予算や関連法案の審議を行うことになった(「常会に代わる特別会」)。慣例では、次の会期で開かれるべき通常国会の直前に臨時国会ないし特別国会が開かれていた場合、一旦閉会し、閉会翌日以降、間を空けずに会期を改め、通常国会を開会させて予算審議等を行うことになっているが、このときは前記の憲法規定のため、そのまま会期が続き、日程が通常国会開会時には予定しなかった1953年2月以降にかかることになった(なお、国会法は1991年に改正され、通常国会の召集は1月と定められた)。_NEWLINE_1952年12月22日の衆議院議決では99日間の会期延長が可決された。これは日本国憲法下では最長の会期延長議決である。しかし、1953年3月14日の衆議院解散のため実質的な会期延長は82日間に留まった。
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Q1667135
_START_ARTICLE_ 第2次橋本内閣 (改造) _START_SECTION_ 特徴 _START_PARAGRAPH_ 前の第2次橋本内閣の改造内閣である。_NEWLINE_橋本の自由民主党総裁の再選に伴う内閣改造。幹事長の加藤紘一、政調会長山崎拓は続投したが、梶山静六の内閣官房長官の辞任を認め、同じ小渕派の村岡兼造を後任に充てた。ロッキード事件で有罪が確定していた佐藤孝行を総務庁長官とした事に非難が集中、佐藤は9月22日に辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘の強硬な推薦に抗し切れず起用した。この一件で内閣支持率は改造前の50%前後から30%台に急落する。_NEWLINE_小渕派の会長で橋本と同期の小渕恵三が外務大臣に起用され、外務省の事務当局が米国への配慮から難色を示していた対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)の署名を決断、「日本は米国に気兼ねせず、独自の判断をすればよい」と平然と語るなど、存在感を見せていた。_NEWLINE_この内閣の時に北海道拓殖銀行、三洋証券、山一證券などが経営破綻に追い込まれて金融不安が発生する。_NEWLINE_大蔵省接待汚職事件の責任を取り、大蔵大臣の三塚博が1998年(平成10年)1月28日に辞任した。_NEWLINE_1998年(平成10年)5月には衆議院において復党や無所属議員の入党などにより自民党が単独過半数を回復する。これらの情勢の変化もあり6月1日、社会民主党、新党さきがけとの閣外協力を解消した。_NEWLINE_1998年(平成10年)7月に行われた第18回参議院議員通常選挙での自民党大敗により内閣総辞職する。同選挙では環境庁長官の大木浩は落選した。_NEWLINE_ちなみに、宮澤内閣(1991年(平成3年)11月5日~1992年(平成4年)12月12日)以来の、女性閣僚が一人も居ない内閣であった。
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Q931709
_START_ARTICLE_ 第21回参議院議員通常選挙 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 郵政造反組復党問題や年金問題、相次ぐ閣僚の不祥事等が重なったことを主要因として、自由民主党の獲得議席数は37議席と第15回参議院議員通常選挙(1989年)以来の歴史的大敗を喫し、1955年結党以来初めて他党に参議院第1党の座を譲った。改選議席数の確保を目指していた公明党は神奈川県・埼玉県・愛知県の各選挙区で現職議員が落選、比例でも票が伸びず議席を減らした。_NEWLINE_一方、野党第1党の民主党は追い風を受け60議席を獲得し、参議院で第1党となった。自民・民主の二大政党の争いに埋没した共産・社民両党は苦戦し、議席を減らした。国民新党は現有議席数を維持し、新党日本は1議席を確保した。非改選議席と合計すると137議席となり、野党は参議院における安定多数を確保した。 _START_SECTION_ 内閣 _START_PARAGRAPH_ 第1次安倍内閣(第90代) _START_SECTION_ 選挙区選挙 _START_PARAGRAPH_ 全国で29ある1人区の内、野党が23選挙区で勝利した。2人区は全ての選挙区で与党と野党が1議席ずつ確保した。3人区は大阪府のみ与党が2議席を確保、その他は野党が2議席を得た。東京選挙区(5人区)は自民党が1議席、公明党が1議席、民主党が2議席を獲得。1議席は無所属候補が得た。_NEWLINE_自民党は1人区など従来の保守地盤で大きく後退。東北地区の1人区及び四国全県で全敗した他、佐賀で51年振りに敗北した。尚、民主党は青森、岩手、三重等8つの1人区で前回参議院選挙に続き、勝利を収めた。_NEWLINE_岡山選挙区では、自民党の参院幹事長である片山虎之助が地元に張り付いて選挙活動を続け、平沼赳夫衆院議員(郵政造反組として自民党を離党、岡山県選出)から支持も得たものの、民主党の新人候補に約48,000票の差をつけられ落選した。各メディアは当選者の苗字に「姫」が使われていたことから「姫の虎退治」と報じた。_NEWLINE_島根選挙区では、自民党の参院副幹事長景山俊太郎が国民新党新人候補に敗北。青木幹雄自民党参議院議員会長(当時)の地元であり、2度の地元入りを行うなどの支援を行った(3年前の自身の選挙では一度も地元入りせず)が18年ぶりに同選挙区での議席を失った。_NEWLINE_2005年の郵政解散に伴う第44回衆議院議員総選挙にて、造反し自民党を離党し落選した衛藤晟一(自民党)・藤井孝男(無所属)・川上義博(民主党)・自見庄三郎(国民新党)が当選を果たした。藤井孝男は選挙後に自民党に復党した。 _START_SECTION_ 与野党で差がつかなかった選挙区 _START_PARAGRAPH_ 北海道、宮城県、福島県、茨城県、新潟県、長野県、岐阜県、静岡県、京都府、兵庫県、広島県、福岡県(以上2人区) _START_SECTION_ 比例区選挙 _START_PARAGRAPH_ 比例区では、民主党が20、自民党が14、公明党が7、共産党が3、社民党が2、新党日本が1、国民新党が1の議席を獲得した。_NEWLINE_自民党は、参院政審会長舛添要一がトップ当選、元内閣官房参与の中山恭子、テレビ出演により知名度のあった弁護士の丸山和也、前教育再生会議委員でヤンキー先生こと義家弘介らが当選。一方、業界団体擁立候補については、農協推薦の山田俊男ら5人の当選に留まった。公明党は1議席減の7議席となった。_NEWLINE_民主党は、自治労出身の相原久美子が50万票を集めトップ当選、労働組合関係者や元衆議院議員からの鞍替え組を中心に20議席を獲得、プロゴルファー・横峯さくらの父である横峯良郎も民主党から当選した。共産党は1議席減の3議席、社民党は党幹事長の又市征治ら前回選挙と同様2議席に留まった。国民新党は1議席、新党日本も1議席を得た。_NEWLINE_結果として、比例区では野党が6議席リードした。 _START_SECTION_ 政府による日程変更 _START_PARAGRAPH_ 当初は7月5日公示、7月22日投開票という予定だった。これは、公職選挙法32条2項で参議院議員通常選挙は「参議院開会中又は参議院閉会の日から23日以内にかかる場合においては、通常選挙は、参議院閉会の日から24日以後30日以内に行う」と規定されており、第166回国会の会期末である6月23日から設定された日程であるためである。_NEWLINE_しかし、「年金時効撤廃法」「公務員改革法」などを会期中に成立させたいという安倍晋三首相の意向により、政府与党内で会期を(選挙日程の延期が発生しない)5日間から1〜2週間程度延長することが検討された。最終的に12日の会期延長が政府与党内で決定され、6月22日に衆議院本会議で12日間の会期延長が可決された。これにより、公示日と投開票日はそれぞれ1週間遅れ、7月12日公示、同29日投票という日程で、6月26日に閣議決定された。_NEWLINE_7月22日投開票という予定で投開票所確保や人員確保を進めてきた全国各地域の市町村選挙管理委員会は対応に追われた。全国でそれ以前からこの28日からの週末に予定されていた夏祭りや花火大会と選挙日がぶつかり、夏祭りの日程を急遽変更するといった事例が多数報告された。7月28日に実施された隅田川花火大会では、29日が予備日(28日荒天時の順延日)となっていたが、選挙の日程変更により警備上などの理由から予備日が設けられないこととなった(本年や同日が投票日であった2001年には、選挙前日に大勢の人出が見込まれる格好の舞台ということもあり、この周辺にて選挙活動を行った候補者もおり、一時混乱に陥った)。また、群馬県では22日に県知事選挙を実施するため2週連続選挙が実施され、これに関して立候補予定者などより遊説などのスケジュールの混乱が出るとして、批判があった。また、佐賀県では28日から高校総体が開催されるため、投票所に予定していた一部会場が使えなくなるというトラブルもあった。会期延長・選挙遅滞に抗議して引退を決めた議員も現れた。 _START_SECTION_ 自民党 _START_PARAGRAPH_ 幹事長の中川秀直と参議院議員会長の青木幹雄が引責辞任。安倍晋三は続投を表明した。8月1日、金銭処理疑惑で批判を浴びた赤城徳彦を農水大臣から更迭、8月27日に内閣改造を行う。9月10日には臨時国会で所信表明したものの、9月12日に内閣総辞職を表明した。 _START_SECTION_ 民主党 _START_PARAGRAPH_ 選挙での大勝を受け、8月31日に新しい党役員人事を発表。小沢一郎代表、菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長のトロイカ体制を維持した上、参議院側からの役員登用を大幅に増やして参議院重視のスタンスを明確化した。
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Q15241224
_START_ARTICLE_ 第29回インディペンデント・スピリット賞 _START_PARAGRAPH_ 第29回インディペンデント・スピリット賞は、2013年11月27日にノミネートが発表された。受賞者は2014年3月1日に発表された。 _START_SECTION_ 受賞・ノミネート一覧 _START_PARAGRAPH_ 太字は受賞。
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Q4635082
_START_ARTICLE_ 第32回日本アカデミー賞 _START_PARAGRAPH_ 第32回日本アカデミー賞は、2009年2月20日に発表・授賞式が行われた。司会は関口宏と樹木希林。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 対象となるのは2007年12月から2008年11月までに1週間以上商業公開が行われた映画。_NEWLINE_授賞式の開催場所はグランドプリンスホテル新高輪、中継は日本テレビ。_NEWLINE_候補は2008年12月18日に発表された。
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Q11601404
_START_ARTICLE_ 第54回皐月賞 _START_SECTION_ レース施行時の状況 _START_PARAGRAPH_ 共同通信杯4歳ステークス・スプリングステークスを優秀な内容で優勝した前年の最優秀3歳牡馬・ナリタブライアンがクラシックの最有力候補と目され、その対抗馬としてデビューから3連勝したエアチャリオット、弥生賞でエアチャリオットを破ったサクラエイコウオー、ステートジャガー産駒の重賞馬として話題を集めたメルシーステージなどが有力馬として挙げられた。中でもナリタブライアンの評価は高く、皐月賞出走前からすでに三冠馬候補と評価する者もいた。なお、ラジオたんぱ杯3歳ステークス、シンザン記念と重賞を2連勝したナムラコクオーも有力馬の一頭であったが、故障により出走することができなかった。 _START_SECTION_ レース展開 _START_PARAGRAPH_ サクラエイコウオーが逃げ、非常に速いペースで推移した。1番人気のナリタブライアンは先行策から第4コーナーで先頭に並びかけると後方から追い込んだサクラスーパーオーおよびフジノマッケンオーの追撃をかわし中山競馬場芝2000mのコースレコードで優勝した。
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Q48745743
_START_ARTICLE_ 第60回オールスター競輪 _START_SECTION_ レース概略 _START_PARAGRAPH_ 青板周回の2角で深谷が上昇してバック過ぎで先頭に立った際、番手の竹内が深谷の後輪に接触して落車。そのまま深谷は先行。2角から新田が仕掛けて中部勢を飲み込み、渡邉との一騎打ちに。インコースを踏んで交わした渡邉がGI2勝目。新田が2着で地元福島勢のワンツー決着。踏み出しで離れた山崎は7着。_NEWLINE_なお、竹内は落車再乗で9位に入線したが、過失走行で失格となった。 _START_SECTION_ 最終日、第6Rの周回板めくり忘れ _START_PARAGRAPH_ 最終日の15日。第6R(S級特選)が、周回通告員の周回板めくり忘れ(JKAによると周回錯誤の同例は1963年4月27日の花月園以来)によってレース不成立となった(競技規則第73条3)。雨天のレース中、赤板ホームで後方位置の1人の選手が接触により右方向へ落車してイエローライン内の1コーナー付近までスリップ、その救護退避による混乱があったとされる。_NEWLINE_残り半周で競走中止を告げる笛の音や放送が流される中、残り8名は競走を続行するも、結果的に発売金額2億2130万2400円が全返還された(重勝式「ドカント7」の152万2000円と「チャリロトセレクト」も全返還)。なお、出走した9選手は第6Rの賞金総額を9等分して渡されるという(着順も発表されず)。_NEWLINE_この事象を受けてJKAは9月6日、昨年10月のGI寛仁親王牌から導入した特別競輪等における審判長団3人体制を、開催場の審判長を加えて4人にすると発表した(同月のGII共同通信社杯から導入)。_NEWLINE_さらに、競輪では初となる電子周回告知板(オートレースでは全場で導入済)を、2018年3月24日初日のいわき平FIナイターから導入予定とした。
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Q60986809
_START_ARTICLE_ 箭田珠勝大兄皇子 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 「大兄」の称号を有するところから、欽明天皇の皇嗣であったと思われる。しかし、政治的事績は何も伝わっておらず、『日本書紀』巻十九、欽明天皇13年4月(552年)に_NEWLINE_箭田珠勝皇子薨(みう)せぬ_NEWLINE_とあるだけで、死因などは不明である。欽明天皇は任那復興のために朝鮮半島に軍を派遣しており、その甲斐もなく、欽明天皇23年(562年)には任那の日本府が新羅によって滅亡させられている。そのことと何か関係があるのだろうとも想像される。_NEWLINE_皇子の薨去した年に百済の聖明王が釈迦仏の金銅像一体と、幡蓋若干、経論若干巻を献上したと『書紀』にはあり、蘇我稲目が向原の家を浄めはらって寺として仏像を崇めたところ、(『元興寺縁起』によると1年後に)「疫病」が大流行し、夭折するものが数多く出て、治療することが叶わなかったために、物部尾輿と中臣鎌子が天皇の承諾を得て、向原寺に放火して伽藍を灰燼と化し、仏像を難波の堀江に流して廃棄している。_NEWLINE_皇子が八田皇女の矢田部を継承していたとする説もある。
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Q11604041
_START_ARTICLE_ 米原綱寛 _START_SECTION_ 出自 _START_PARAGRAPH_ 米原氏は、佐々木六角氏の流れを汲み、14代当主・六角定頼の甥である六角治綱が養子となり近江国米原郷を領し、米原氏を称したのが始まりとされている。また、三善湯原氏の一族から派生したと伝わる。近江では「よねばら」でなく「まいばら」と読む。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 米原氏居城である高瀬城は、出雲国原手郡の平野部を領し、東には大西氏居城大西城、揖斐伊川上流の三刀屋城・三沢城、揖斐伊川下流にある鳶ヶ巣城・平田手崎城等の城と共に、尼子十旗として名を連ねる強固な城であった。綱寛は幼くして眉目秀麗であり、主君・尼子晴久に寵愛されており、幼少から晴久の側近として重用されていたという。天文9年(1540年)には安芸国の毛利氏攻め(吉田郡山城の戦い)に参加している。_NEWLINE_ところが、永禄3年(1560年)に晴久が急死し、これにより勢力を衰退させた尼子氏は尼子義久の時には逆に毛利氏の侵攻を受けるようになる。永禄5年(1562年)、高瀬城主となった綱寛は、出雲侵攻を開始した毛利氏へと下っている。永禄8年(1565年)の月山富田城攻め(月山富田城の戦い)には、小早川隆景に属している。綱寛は使者として立原久綱と交渉している。_NEWLINE_永禄9年(1569年)、尼子新宮党出身の尼子勝久を擁する尼子再興軍が挙兵。北九州を巡って毛利氏と対決していた豊後国の大友宗麟は綱寛に「勝久を援助せよ」と密使を使わし、毛利元就は再興軍討伐の為に綱寛を出雲へ帰国させている。これに対し綱寛は居城である高瀬城へと籠城し再興軍に参加した。_NEWLINE_元亀元年(1570年)、布部山の戦いに敗走。綱寛は高瀬城にて籠城したまま抵抗した。翌年、吉川元春に対し開城、新山城へと逃亡した。その後、綱寛は剃髪して可春斎と号して隠居している。_NEWLINE_子・綱俊は津和野藩士となった。また、他の子孫が名字を前原に変えて長州藩に仕えた。この系統から前原一誠が出る。 _START_SECTION_ その他 _START_PARAGRAPH_ 永禄5年6月18日の毛利元就・隆元が連署した文書には「伯州之儀日野本城之事…雲州在番中井平三兵衛尉・米原平内罷退候」とあり、毛利氏が西伯耆尼子方の日野衆に寝返った為、亀井山城に在番していた中井綱家・米原綱寛が、亀井山城から退却したことを指している。_NEWLINE_自身はもちろん、配下にも剛勇の者が多かったと伝えられ、高瀬城籠城戦の際は城外にも出撃して、宍道湖の湖上や平田城の周辺で毛利勢と激しく戦い、毛利軍に前線基地の狼山城を一時放棄させるほどの頑強な抵抗ぶりを見せている。
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Q56350386
_START_ARTICLE_ 粕毛川 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 秋田・青森県境の白神山地の1高峰二ツ森(標高1,086m)に源を発する三蓋沢(さんがいざわ)・善知鳥沢(うとうざわ)が合して東流し、下沢・小東又沢・東又沢を合わせて粕毛川となる。さらに当川は、長場内岳(おさばないだけ)(標高946m)に源を発する多くの沢と川を集めて南流し、粕毛付近で藤琴川と合流する。川名は流域中の主要集落粕毛に由来する。粕毛川源流部は、世界遺産の核心地域となっている。 上流の素波里峡に昭和45年素波里ダムが完成し、素波里湖ができた。素波里峡は藤里峡のひとつとなっている。。_NEWLINE_上流の素波里ダムの素波里湖には、国民休養地素波里園地がある。更に上流の沢沿いの林道へ向かうと、藤里駒ケ岳、小岳の各登山口に至る。
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Q957696
_START_ARTICLE_ 糠 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ イネ科植物の果実は穎果と呼ばれる形態で、表面を一体化した果皮と種皮で硬く覆われている。これを除去する過程が精白で、この際得られる穎果の表層部分が糠である。日本では、歴史的に米から出るものが身近であったため、単に糠といえば「米糠」を指す場合が多い。他に、大麦の糠は「麦糠」、小麦の糠は「ふすま(麬)」という。燕麦の糠は、オートブランOat branという。多くの穀物では穎果の外層が胚乳よりももろいため、精白に際して杵や棒で搗くなどして表面に衝撃を与える(搗精)ことで糠だけが砕けて胚乳から剥がれる。これをふるいわけて分離する。小麦の場合は胚乳のほうが穎果の外層よりももろいため、穎果全体を丸ごと砕いて製粉するときに細かく砕けず粗大片として残るふすまをふるいわけて分離する。_NEWLINE_同じイネ科のトウモロコシは、大きな胚乳の回りの果皮が厚く、収穫から日数が経過したものは乾燥・硬化して除去がさらに困難となるため、そのまま挽いて糠ごと粉にして食用とする(コーンフレークなど)。グルテンを含まず粘性がないので、中南米ではニシュタマリゼーションと呼ばれるアルカリ処理を行ってパン生地のような粘性とナイアシン吸収性をもたせ、これを挽いて糠ごと粉にしたマサを作って食用(トルティーヤなどが知られる)とする。
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Q468288
_START_ARTICLE_ 紀貫之 _START_SECTION_ 概略 _START_PARAGRAPH_ 幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。_NEWLINE_延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。_NEWLINE_日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人として『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌作品が入集しているのは歌人の中で最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。_NEWLINE_散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。_NEWLINE_貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」と称されたという。その遺址は現在の京都御所富小路広場に当たる。 _START_SECTION_ 逸話・説話 _START_PARAGRAPH_ 『大鏡』によると、その和歌の腕前は非常に尊重されていたらしく、天慶6年(943年)正月に大納言・藤原師輔が、正月用の魚袋を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するために、わざわざ貫之の家を訪れたという。_NEWLINE_『袋草紙』などでは、貫之の詠んだ歌の力によって幸運がもたらされたという「歌徳説話」も数多く伝わっている。 _START_SECTION_ 墓所 _START_PARAGRAPH_ 滋賀県大津市、比叡山中腹の裳立山にある。比叡山鉄道坂本ケーブルのもたて山駅から徒歩10分ほどあり、道標も完備されている。
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Q11605909
_START_ARTICLE_ 細川斉樹 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 寛政9年(1797年)1月13日、熊本藩第8代藩主・細川斉茲の三男として生まれる(斉茲は元は宇土藩主であったが、斉樹の出生以前に本家を継いでいる)。幼名は六之助、のち父・斉茲の1字を受けて初名の茲樹(しげたつ)を名乗っていた。長兄・立之は生家の宇土藩主家を継ぎ、次兄・斉詮は廃嫡されたため、熊本藩世子となり、文化7年(1810年)11月10日、父の隠居により家督を継ぎ、父や次兄と同じく将軍・徳川家斉より偏諱を授与されて斉樹と改名する(家斉は斉樹の義兄(正室・紀姫の兄)にあたる)。_NEWLINE_藩政においては、島田嘉津次を大奉行として登用し、倹約を主とする藩財政再建を目指した。これにより一時は10万石にも及ぶ蓄えを築いたが、斉樹が文政9年(1826年)2月12日に30歳で死去し、結局、藩財政再建は失敗に終わった。死後、宇土藩主であった甥(長兄・立之の子)の立政(のち斉護と改名)が養子となって跡を継いだ。
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Q11606544
_START_ARTICLE_ 結城ゆかり _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ アリスJAPAN専属女優として、1988年12月に『レモン哀歌』でデビュー。バスト78センチのスレンダーボディと、繊細な美少女イメージで人気を呼んだ。女優志向が強かったことから、ドラマ仕立ての出演作が多く、カラミはソフトなものが殆どだった。グラビア活動は少なかったが、写真集2冊を残している。1990年4月発売の『好奇心』(宇宙企画)を最後に引退した。
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Q22129053
_START_ARTICLE_ 統合的湖沼流域管理 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 湖沼は、河川や地下水などの水資源と異なる3つの特徴、1)長い滞留時間、2)複雑な湖内の相互作用、3)流域の自然や人間活動との統合性、を有している。「統合的湖沼流域管理」では、湖沼を持続的に保存していくために、これらの3つの特徴に注意を払いながら、中・長期的な視点に立って、6つの要素(組織・体制、政策、参加、技術、情報、財政)を統合して湖沼流域を管理していく点に特徴がある。
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Q11607372
_START_ARTICLE_ 綾部利右衛門 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 綾部家は元禄13年(1700年)以来、武蔵国川越(埼玉県川越市)喜多町で、屋号を「麻利」と称し塩・油・肥料を業としてきた豪商である。川越藩御用達として活躍していた家系であり、代々が綾部利右衛門を踏襲してきた。その十代目として万延元年(1860年)に生誕したのが峯太郎である。宝暦14年(1764年)の織部家の記録で、織部家は新河岸川の川越五河岸に出店し、舟運で江戸との物資の交易にあたっていた巨商であったことが分かる。また先代(九代)の当主は新河岸川の運河の開削に巨費を投じたひとりで、川越中心部に仙波河岸が完成すると回漕店を経営した。こうした経緯から歴代当主は江戸の文化を吸収し、全国の経済活動に通暁し膨大な文化的資産(蔵書)を所有していた。_NEWLINE_第十代の利右衛門もそうした文化的土壌から、川越の経済的発展や文化振興に貢献した。 明治11年(1878年)、横田五郎兵衛、黒須喜兵衛、西村半右衛門、山崎豊ら川越藩御用商人衆の豪商とともに埼玉県唯一の国立銀行である第八十五国立銀行(埼玉銀行 - 埼玉りそな銀行の前身)の創設に参画、明治31年(1898年)、国立銀行営業満期前特別処分法に基づき株式銀行・第八十五銀行となると後に頭取として業務を統括した。また、川越貯蓄銀行や飯能銀行創立に携わった。明治33年(1900年)、国が商業会議所条例を施行すると、埼玉県初の商工会議所である川越商業会議所(現在の川越商工会議所)を設立、明治36年(1903年)から約30年間、その会頭の職に就いた。明治35年(1902年)には川越馬車鉄道を設立、翌年には埼玉県内で最初に電力供給事業に進出し川越電灯を設立、それらの社長に就任した。明治37年(1904年)には埼玉県で初の川越火力発電所を建設し、翌年、川越は県内で最初に電灯が灯った町となる。その電力を元に川越馬車鉄道は川越電気鉄道に改称され、明治39年(1939年)、川越 - 大宮間に埼玉県初の電車が開業した。また大正2年(1913年)には武蔵水電を創立して水力発電事業にも進出、武蔵水電は大正9年(1920年)に川越鉄道(現在の西武国分寺線・西武新宿線)を合併する。武蔵水電は帝国電灯に吸収合併されるが、鉄軌道部門を分離することになり利右衛門は西武鉄道(旧)を発足させた(「西武」の社名は武蔵水電が吸収した西武軌道から取った。西武鉄道(旧)は武蔵野鉄道と昭和20年に合併し、現在の西武鉄道が誕生することになる)。利右衛門はまた、川越 - 池袋を結ぶ京越鉄道の発起人ともなった(これは後に東武東上本線として実現する)。_NEWLINE_明治35年(1902年)には利右衛門が土地を提供し集会場として川越会館(現在の川越市民会館の前身)が完成するなど川越の発展に寄与してきた利右衛門であるが、政治への関与は避けてきた。しかし、大正デモクラシーで川越町政が混乱を極めると、町民からの要請に応じる形で、大正6年(1917年)に名誉川越町長に就任する。紛糾して遅れていた市制施行も大正11年(1922年)に仙波村を編入して果たすと、埼玉県で最初に市になった川越市の初代市長を努め、翌年、その職を辞した。_NEWLINE_昭和7年(1932年)、川越市のみならず埼玉県の発展に多大な貢献をした利右衛門は惜しまれながらこの世を去った。享年72。
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Q11607748
_START_ARTICLE_ 緑のヘルシーロード _START_PARAGRAPH_ 緑のヘルシーロード(みどりのヘルシーロード)は、埼玉県にある見沼代用水に沿いに設けられた自転車歩行者専用道路である。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 見沼代用水沿いに設けられた自転車歩行者専用道路であるが、一般道路を共用区間としている部分がある。また、自転車での通行が困難な狭い箇所がある。 埼玉県加須市(旧北埼玉郡騎西町)外田ヶ谷および埼玉県久喜市菖蒲町菖蒲において、水と緑のふれあいロードが分岐する。
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Q7081554
_START_ARTICLE_ 置賜駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 島式ホーム1面2線を有する地上駅。かつては2面3線であり、使用されなくなった単式ホームが残っている(跨線橋は当該部分が封鎖されている)。一線スルーとなっており、列車の行き違いがない場合は両方向の列車とも、1番線から発着する。駅舎とホームは跨線橋で連絡している。_NEWLINE_米沢駅管理の無人駅で、簡易駅舎を備える。乗車駅証明書発行機が設置されている。かつては簡易委託駅で、駅舎内で近距離の乗車券を販売していたが、簡易委託廃止後は出札口は閉鎖されている。
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Q11608582
_START_ARTICLE_ 羅従彦 _START_PARAGRAPH_ 羅 従彦(ら じゅうげん、1072年 - 1135年)は、中国北宋末から南宋初の儒学者。字は仲素。豫章先生と号する。 _START_SECTION_ 略伝 _START_PARAGRAPH_ 南剣州剣浦県(現在の福建省南平市延平区)の出身。初めは仕官して恵州博羅県の主簿となったが、その地の学者・楊時が二程(程顥・程頤)の学に通じていることを聞き、その門下となった。しばらくして同門千人中第一と称せられるようになった。後に程頤の学風を慕い、財産を売り払いその下で学問を続けることにした。学業が成就して故郷に帰ると、仕官をやめ羅浮山中に一室を築いて学問に精進した。紹興年間に没する。学者たちは羅従彦を豫章先生と称し、さらに淳祐年間に文質と諡された。潛思力行、其学一世に冠たりといわれる。かつて祖宗の故事を編纂して『遵堯録』を著し、靖康年間中に朝廷に献呈しようとしていたが、金国が来襲してきたために果たせなかったという。その他の著として『豫章文集』『春秋毛詩語解』『中庸説』『春秋指揮』がある。
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Q5957387
_START_ARTICLE_ 羅文藻 _START_SECTION_ 入信と叙階 _START_PARAGRAPH_ 1633年(崇禎3年)、ドミニコ会宣教師ホアン・モラレス(P.Juan B.Morales, 中国名:黎玉範)神父とフランシスコ会アントニオ・デ・サンタマリア・カバレロ(Antonio de Santa Maria Caballero, OFM, 1602年-1669年, 中国名:利安当)神父が福安で布教活動を行っていた時点で、羅文藻はすでに教会の求道者であった。1633年から1634年(18歲から24歳)の間に、カバレロ神父は羅に洗礼を授けた。洗礼名の「グレゴリウス」その修道会が属する省名である「聖グレゴリウス」省を記念して命名された。その後羅はカバレロ神父に従って伝道師となり、南京での布教活動を目指すが失敗し、再び福建省に戻った。1636年(崇禎8年)に、カバレロ神父に従い台湾で布教活動に従事、1637年(崇禎10年)6月20日にはガスパル・アレンダ(P.Gaspar Alenda, 中国名:雅蘭達)とホアン・デ・サン・マルコス(P.Juan de San Marcos, 中国名:馬若望)の2人の神父に従って福建省から北京へ出発し、そこでイエズス会士アダム・シャール(中国名:湯若望)は彼等を朝鮮への宣教派遣を計画した。だが北京では迫害に遭遇し、3人は護送されて福安に戻り、寧徳で23日間拘留され、その後流刑によりマカオに流された。1639年(崇徳4年)には中国各省で迫害が発生、羅はカバレロ神父に従いフィリピンのマニラに赴いた。1650年にマニラでドミニコ会に入会する。その後、1652年のまでの間に中国とフィリピンを往来して教務を助け、並びにマニラの聖トマス学院で神学と哲学を学習する。1654年5月29日から6月30日までに相次いで剃髪式、侍者、副助祭と助祭叙階の秘跡を受け、同年7月4日にマニラのポブレーテ(Mons. Poblete)司教によって司祭に叙階される。翌年に福建省の故郷に戻った。 _START_SECTION_ 迫害と司牧 _START_PARAGRAPH_ 1664年(康熙3年)に、楊光先は迫害を発動し、翌年には全国の数十名のヨーロッパの宣教師が広州に監禁され、ただ羅文藻神父一人が自由に行動出来た。そのため、1665年から後の3年間、羅文藻は一人で中国全土の教務を支え、福建、浙江、江西、広東、山西、河北、山東、江蘇、安徽、湖南、四川の諸省に赴いた。功績は著しく、およそ五千人の成人に洗礼を授けた。当時の安南、マカオ、フィリピン等の各地の司教や神父は教皇に意見書を出して羅文藻を司教に推薦した。1673年7月30日に教皇庁福音宣教省は中国に関する特別会議を開き、その内容は羅文藻をバチカンの代牧の列に加える決定をするかどうかであった。同年10月2日に別の会議を開き、最後に教皇に中国人ドミニコ会士羅文藻を司教にし、直接教皇庁に所属する代牧として任命し派遣すること請求する決議をした。1674年1月4日に教皇クレメンス10世は羅文藻を南京代牧に委任し、河北、河南、陝西、山東、山西および朝鮮の教務を兼務させた。そして、司教が胸に付ける十字架、司教のリングを送ることで羅神父への愛護を示した。_NEWLINE_委任の初めには、羅神父は辞退し、1677年初めに本来はシャム(タイ)に行って司教叙階を受ける時に、辞退する手紙を書いて中国とシャムの司教に教皇への転送を托したが、航路は遠いので、上述した司教の返信は福安まで届く術がなかった。最終的に辞退は教皇庁の認可を得られず、司教叙階も様々な原因によりますます困難になっていった。1679年に教皇インノケンティウス11世は再び聖座の意向を表明し,この時には羅神父は委任を受託したが、教皇の任命状は遅れに遅れて届かなかった。1685年にフランシスコ会のベルナルディヌス・デ・ラ・キエザ(Bernardinus della Chiesa,中国名:伊大任)司教が中国に来て、同年の4月8日に羅神父は広州で司教叙階を受けた。 _START_SECTION_ 晩年 _START_PARAGRAPH_ 羅司教は1688年8月1日に、南京で3人の中国人(呉漁山、劉蘊徳、万其淵)を司祭に叙階し、彼等は全てイエズス会士であった。1688年3月29日に教皇庁福音宣教省は、羅司教に継承権のある司教を自由に選択して良いという指示を与えたが、この権利を中国人神父を後継者にするのに使わずに、イタリア人のジュアン・フランシスコ・デ・レオニッサ神父(Juan Francisco de Leonissa)を後任に推挙した。1690年に教皇庁は、北京と南京にそれぞれ独立した司教区を置くことを宣布し、羅文藻は南京教区司教の任に就いた。1691年2月27日に南京で世を去った。
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Q1331458
_START_ARTICLE_ 義県 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 義県は錦州市の北部に位置する農村部であり、国家級貧困県に指定されている。慢性的な旱魃と過度な地下水利用により井戸水位が低下し水の供給に問題が発生していた。近年日本の援助により、井戸の掘削や上下水道の整備を行っている。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 遼代に現在の県域北東部に宣州の州治として設置された弘政県を前身とする。金代になると県治は現在地に遷され義州の州治とされた。元代になると弘政県は廃止となり、その管轄区域は義州直轄とされている。中華民国が成立すると1913年(民国2年)に義県と改称され現在に至る。
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Q11610003
_START_ARTICLE_ 義肢装具士養成所 _START_PARAGRAPH_ 義肢装具士養成所(ぎしそうぐしようせいじょ)とは、義肢装具士の養成施設。義肢装具士学校とも呼ばれる。_NEWLINE_多くは3年制の専門学校、4年制大学である。3年間でおよそ400万から500万円の学費が必要である。現在は10校が文部科学大臣、厚生労働大臣の指定を受けて義肢装具士の養成を行っている。_NEWLINE_義肢装具士国家試験の受験資格にもあるように学歴によっても修業年限が異なるので注意をされたい。高校等から養成施設に入った場合は3年以上、大学、短大等で1年以上修業・指定科目履修し養成施設に入った場合は2年以上、高専等で4年以上修業・指定科目履修し養成施設に入った場合は2年以上、義肢・装具製作技能士の技能検定合格者は養成施設で1年以上の修業年限となる。
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Q11610087
_START_ARTICLE_ 羽山紀代美 _START_PARAGRAPH_ 羽山 紀代美(はやま きよみ、1945年1月11日 - )は、宝塚歌劇団の元星組娘役で、現在は歌劇団振付家。大阪市出身。
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Q319595
_START_ARTICLE_ 老視 _START_SECTION_ 矯正 _START_PARAGRAPH_ 矯正は老眼鏡(老視鏡)で行う。凸レンズでできていて、原理は遠視の眼鏡と同じ。調節力の減退に応じて、必要となる凸レンズの度数も強くする必要がある(若い人ほど度数が弱くて済む)。ただし使用時は遠くが見えづらくなるので、近くのものを見る際に限定的に使用される。_NEWLINE_老視になる以前から近視・遠視・乱視などで眼鏡を用いていた場合は、原理としては遠くを見るための度数に適切な凸レンズの度数を加えたものを近くを見るために用いるが、強度近視では上述の見かけの調節効果が強いので、加える度数が弱くなる。元が近視で凹レンズを用いていた場合は、その分、凹レンズの度数を弱める。弱い近視では、遠方視用に凹レンズ、近方視用に凸レンズが用いられる。-10Dを超えるような最強度近視の場合、眼自体は老眼になっていても、マイナスレンズの見かけの調節により遠用眼鏡をかけたまま近くを明視できる場合があるので、遠近両用眼鏡が不要な場合もある。_NEWLINE_遠近両用眼鏡は、遠くと近くで眼鏡をかけ外ししたり交換したりする不便さを解消した眼鏡。レンズ全体は遠方視に度数を合わせ、レンズの下側の一部に近方視用度数のレンズを組み込んだタイプが多い。かつては境目がハッキリしており、境目の部分でものが重なって見えるなどの欠点が目立っていたが、近年は、レンズの下へ行くにしたがって度数が徐々に変化する多重累進焦点タイプが一般的である。長所は一つの眼鏡で遠近が見えることで便利という点。欠点は慣れるまでは視野が揺れて感じたり、階段を踏み外しやすくなったり、目が疲れやすく感じたり、視野が狭くなるという点である。_NEWLINE_2018年2月、三井化学が発売した老眼鏡は、フレームに電子回路を内蔵しておりツルのセンサーに触れると液晶を埋め込んだレンズの遠近が切り替わる。
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Q1294341
_START_ARTICLE_ 聖エドワード王冠 _START_PARAGRAPH_ 聖エドワード王冠(せいエドワードおうかん、英: St. Edward's Crown)はかつてのイングランド王室祭具であり、イギリス王室祭具のうちでも古いもののひとつである。これはまずイングランドの、次いでイギリスの、最終的に英連邦王国の戴冠式で使われるようになった正式の戴冠用王冠(en)である。その役割から英連邦王国のあらゆる場所において、この王冠を図版で表現したものは、統治者たる王の権威を示すものとして紋章、記章、その他様々な印で使われている。 _START_SECTION_ 現在の王冠 _START_PARAGRAPH_ 現在の聖エドワード王冠は、チャールズ2世の戴冠式のため1661年に制作された王冠と、エリザベス1世が所有していた真珠からその多くが構成されている。純金で制作され、王冠のデザインは交互に配置された4個のクロスパティーと4個のフルール・ド・リスを基調としている。内側は白貂の毛皮で縁取ったベルベット帽になっており、その上に2本のアーチが十字形に組まれ載せられている。全体で444個の貴重な宝石が据えられている。かつて宝石は戴冠式の度に賃借し、のち取り外されてフレームだけにされていた。しかし1911年に宝石は恒久的に据えられるようになった。_NEWLINE_ヴィクトリア女王とエドワード7世は(戴冠式で)聖エドワード王冠を敢えて用いなかった。約2kg(2155g)という重さが理由で、代わりとしてより軽い大英帝国王冠を用いた。 _START_SECTION_ かつての王冠 _START_PARAGRAPH_ (現在の王冠の名の由来となった)エドワード懺悔王のオリジナルの王冠は、1065年のクリスマスに彼が用いたものである。この王冠には、アルフレッド大王の王冠の一部が使われた可能性がある。伝えるところでは1066年のクリスマスの日、ウィリアム1世の戴冠式でも聖エドワード王冠は用いられた。すなわち王位継承が征服でなく正当な資格に拠ることを示すためである。その後続けて、ウィリアム2世(1087年)、ヘンリー1世(1100年)、スティーブン(1135年)、ヘンリー2世(1154年)、リチャード1世(1189年、1194年)、ジョン(1199年)の戴冠式でこの冠は用いられた。_NEWLINE_1216年、ヘンリー3世の最初の戴冠式では、この王冠ではなく、花で編んだ冠 (chaplet) が用いられた。ドイツの歴史家 Reinhold Pauli (en) はこの点から、ジョン王によって失われた王室祭具の内にオリジナルの聖エドワード王冠も含まれていたと推測している。しかし Arthur Penrhyn Stanley (en) が主張するところでは、オリジナルの王冠やその他の祭具は1642年まで失われず、ヘンリー8世の時代までウェストミンスターの宝物庫に保管されていたとしている。同じ王冠は1533年にアン・ブーリンの戴冠式でも用いられたと伝えられる。イングランド内戦の際オリバー・クロムウェルによってこの王冠は破壊されたが、1661年にチャールズ2世の戴冠式のため再作成された。 _START_SECTION_ 図版としての王冠 _START_PARAGRAPH_ 実物の聖エドワード王冠はイギリス女王の財産だが、その図版表現は英連邦王国のあらゆる場所において、各国それぞれにおける王権を示すため使われるようになった。具体的には紋章、軍隊や警察組織の記章、政府機関や王室関係の非政府組織のロゴで使われている。この用途では、以前はチューダ朝の王冠が使われていたが、1953年にエリザベス2世の命により変更された。またこの用途で図版を使うためには、女王自身による許可が必須である。
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Q11611012
_START_ARTICLE_ 聖心学園中等教育学校 _START_SECTION_ 施設・設備 _START_PARAGRAPH_ 校舎は2003年の開校時に新築され、鉄筋4階建ての校舎にはエレベーターがある。2007年に、本校専用の第二体育館(冷暖房完備)も建設された。なお、中等6年生は、本館ではなく道路を挟んだところにある奈良芸術短期大学の校舎を使用している。隣接する奈良芸術短期大学の1部の校舎も北館として使われている。
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Q1845
_START_ARTICLE_ 聖書 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ ユダヤ教およびキリスト教関連の宗教ではもっとも重要な宗教文書とされる。もっとも、旧約聖書と新約聖書の両者を聖書と呼ぶのはキリスト教の立場に基づくものである。ユダヤ教ではいわゆる新約聖書は教典ではなく、イスラム教では両聖書(に相当するもので現在読まれているものとは異なる。アラビア語で、旧約聖書に収められているモーゼ五書は「タウラー」、詩篇は「ザブール」、新約聖書に収められている福音書は「インジール」と呼ばれる。)とクルアーンとはいずれも教典(またはそれに準じて尊重される文書)である(ただし、クルアーンが優越すると考えられており、内容に𪗱𪘚がある場合はクルアーンの記述が優先される)。_NEWLINE_2017年現在、聖書は全部または一部が世界3200以上の言語で翻訳されている。 _START_SECTION_ ユダヤ教の聖書 _START_PARAGRAPH_ ユダヤ教において、聖書とは、紀元前4世紀までに書かれたヘブライ語およびアラム語の文書群。全24巻から成り立ち、律法(トーラー : Torah ヘブル語 תּוֹרָה )、 預言者(ネビイーム : Nevi'im ヘブル語 נְבִיאִים)、諸書(ケトゥビーム : Ketuvim ヘブル語 כְּתוּבִים)に分類され、3つの頭文字TNKをとり、タナハ (Tanakh ヘブル語 תַּנַךְ)と呼ばれる。_NEWLINE_律法と呼ばれる文書(モーセ五書)を核に、預言書(神からの啓示である預言の記述)および歴史書、諸書と呼ばれる詩や知恵文学を加えたものをさす。キリスト教でいう旧約聖書と内容は同一であるが書簡の並び順は異なる。紀元前4世紀ごろには、この文書群が、「聖書」つまり統一された1つの書物として認識されるようになった。現存する最古の写本は紀元前1世紀頃書かれたとされる死海写本に含まれている。_NEWLINE_紀元前4世紀頃から、ギリシア語訳が作られるようになった。有名なものにアレクサンドリアで編纂された七十人訳聖書がある。_NEWLINE_現在、正典とされるものの範囲は1世紀末のヤムニア会議で確定された。正典とされる書物の範囲は本来慣習により多くは固定されていなかったが、エルサレム神殿崩壊ののち、ユダヤ教のキリスト教に対する民族的、宗教的結束を図る動きがあり、ヘブライ語・アラム語(アラマイ語)の原典の存在が知られていたもののみを聖書正典と定めた。正典から除外されたものを、外典・偽典と呼ぶ。16世紀にキリスト教プロテスタント諸派が、このときユダヤ教が聖典としていた文書群の範囲を採用しキリスト教にとっての旧約聖書であるとしている。 _START_SECTION_ 構成 _START_PARAGRAPH_ 聖書はキリスト教の聖典であり(ただし位置付けは教派により異なる、詳細後述)、旧約聖書 (Old Testament) と新約聖書 (New Testament) からなる。キリスト教では、イエス・キリスト以前の預言者と神の契約を旧約と言い、キリスト以降のキリストの言葉や奇蹟を弟子たちがキリストの死後書いたものを新約聖書と称している。_NEWLINE_英語の音訳から、バイブル (the Bible) とも言うが、この語はギリシア語: βιβλία(biblía、ギリシャ語で書物の意、中性複数)が、ラテン語: biblia(ビブリア、単数女性)に転写されたものが元になっている(西方教会圏では、英語に限らず様々な言語に「ビブリア」系の語彙がみられる)。_NEWLINE_「旧約」「新約」の「約」とは、神との契約のことで、2世紀頃からキリスト教徒の間で呼ばれ始めた。「『新約』はユダヤ教での神との契約を反古にして、神と新たに契約したということであり、旧約聖書は教典の役割を果たさないものである」と捉えるのは誤りであり、例えば新約聖書マタイ伝の一節「天と地が消え失せるまで、すべてが成し遂げられるまでは、律法から一点一画も消えることは無い」(5:18)に見るように、キリスト教においても旧約聖書は決して無視できない書であり、正典に数えられている。_NEWLINE_一方で、旧約聖書のうち「第二正典」「旧約聖書続編」などと呼ばれる部分の捉え方は、教派により異なる。七十人訳聖書の範囲を基本とする正教会およびカトリック教会は正典に数えるが、プロテスタントでは正典から外されている(ただし「正典ではないものの、読むのは有用」とされる場合もある)。 _START_SECTION_ 位置付け _START_PARAGRAPH_ 聖書は全てのキリスト教において聖典とされるが、その位置付け、範囲などは教派によって異なる。ここではそれぞれの教派の主な特徴を挙げる。 _START_SECTION_ カトリック教会 _START_PARAGRAPH_ カトリック教会では「聖伝の中に聖書が含まれる」とする正教会と異なり、「聖書と聖伝を同じく尊敬すべき」として、聖書と聖伝を並列させている。トリエント公会議において聖伝は「(聖書と)同じ畏敬を以て認むべきもの」(ラテン語: pari pietatis affectu)と位置づけられた。 _START_SECTION_ 聖公会 _START_PARAGRAPH_ 旧約聖書と新約聖書には「救いに必要なすべてのことが記されている」とされる。第二正典等とも呼ばれるアポクリファについては、旧約の民が書いた教会で使われる諸書である(正典には数えないが使う)と位置付けられる。 _START_SECTION_ プロテスタント _START_PARAGRAPH_ プロテスタントにおいては、「聖書のみ」が重要な教理と位置付けられ、五つのソラ(聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ、キリストのみ、神の栄光のみ)の一つをなしている。_NEWLINE_第二正典ともよばれるアポクリファについては、マルティン・ルターは「正典ではないが読むのは有用」としたが、正典に数えないだけでなく読む事も勧められない場合もある。_NEWLINE_日本では、エキュメニズムを旨とする教会派や社会派は新共同訳を用いる傾向にあり、2018年に上梓されようとしている聖書協会共同訳に移行してゆくものと思われる。同様に、エヴァンジェリズムの福音派であれば新改訳を用いる傾向にあるといえるが、あくまで傾向であって、逆にしてはならないきまりはない。むしろ個別には、諸事情により傾向に添わない例もしばしば見受けられる。ほかにも口語訳などが用いられており、キリスト教会のふつうの聖書であれば、実際には訳が問題となることはさほどない。_NEWLINE_逆に、エホバの証人の訳による新世界訳は、ほぼ決して礼拝には用いられることはないが、問題となるのはプロテスタントやキリスト教会の訳といえないことよりも、本人たち以外から指摘されている重要部分の改ざんである。 _START_SECTION_ 正教会 _START_PARAGRAPH_ 正教会では、聖書は聖伝のうち、書かれたものの中で最も重要なものであると位置づけられる。聖書は聖伝の一部であり、「聖伝」という一本の柱の中に聖書は含まれていると理解される。「正教会の聖伝を生きる人は、聖書を「自分のことが書いてある書」として読むことができる」とされ、「聖伝の中に聖書がある」ことが強調される。 _START_SECTION_ イスラム教 _START_PARAGRAPH_ イスラム教においても新旧約の聖書は啓典とされる。ただし、新約・旧約という分け方はせず、正典に含まれない書もある。また、聖書よりもクルアーンが優越すると考えられており、内容に齟齬がある場合はクルアーンの記述が優先される。これは現行の聖書は、預言者たちに下された元の形から、ユダヤ教徒、キリスト教徒の手で歪められたとされるためである。イスラム教においてはクルアーンは啓典を確証すると同時に現行の聖書の誤りを糾す啓示でもある。_NEWLINE_ムスリムのあいだでは聖書のうちのある章句をムハンマドの出現を予言したもの、とする解釈もなされる。代表的なものは申命記18章18節-19節の「イスラエルの兄弟(同胞)から立てられるモーセのような預言者」をムハンマドとする説である。なお『ヨハネによる福音書』5章46節ではイエスがモーセは自分について書いている、と語ったとある。『使徒行伝』3章20節以下ではペトロが申命記の一節をひいてこれがイエスのことであると語ったという記載がある。ただし、学者たちは人々の必要に対して出現する一連の預言者たちを指すと考えている。 _START_SECTION_ 他宗教における聖書 _START_PARAGRAPH_ イスラム教以外にも、イエスなど聖書に登場する人物や天使の存在を教義内に持つ後発宗教(スピリチュアリズムなど)が存在しているが、イスラム教における解釈と同様、肯定的な扱いと否定的な扱いとが同居している。 _START_SECTION_ その他 _START_PARAGRAPH_ イギリス・ケンブリッジの聖書研究所「ティンダルハウス」が2017年11月15日、最新版のギリシャ語新約聖書を出版した。現存する英語の新約聖書のほとんどは、1975年版のギリシャ語本文が使われており、当時入手可能だった写本を編さんしたものが底本になっている。しかし、ティンダルハウスによる最新版のギリシャ語新約聖書では、1975年以降に発見された複数の古代写本の断片も取り入れられている。
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Q11611766
_START_ARTICLE_ 胡屋中継局 _START_PARAGRAPH_ 胡屋中継局(ごやちゅうけいきょく)は沖縄県沖縄市仲宗根町の沖縄市役所屋上にあるテレビの中継局および同市のコミュニティ放送であるFMコザの送信所である。ここでは、胡屋局の前身である嘉間良テレビ中継局についても記す。また、胡屋局は通称“コザ”とよばれる市街地周辺を放送エリアとしているが、地形の問題から近くに設置されている高原テレビ中継局についてもあわせて記す。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ もともと1970年代末に嘉間良テレビ中継局が現中継局の近くに開局。沖縄市街地周辺をエリアとしていたが、この付近は地形的に高低差があり親局の送信所がある豊見城市からも直接受信しにくく、かつ0.1Wと弱いため、より放送エリアを広範囲にする必要があったことに加え、米軍放送であるAFNのテレビ放送(US8ch、周波数帯で日本式の場合は5chと6chの間に相当しており一般家庭では6chにあわすところが多い)が40kWと膨大な電波を近くの米軍基地から送信しておりその電波障害が少なからずあったのだと思われ、1992年に沖縄市役所の現庁舎完成と同時に嘉間良中継局を移転する形で現在の胡屋中継局が完成した。出力は10Wと嘉間良中継局時代の100倍に増力した。これにより嘉間良中継局は廃止となった。_NEWLINE_その後1995年に琉球朝日放送開局と同時に同局の中継局が開局、1997年には沖縄県で最初のコミュニティFM局である沖縄市コミュニティFM放送(FMチャンプラ)が開局し、送信所を当中継局内に併設した。FMチャンプラは2004年に現在のFMコザに改称された。 _START_SECTION_ 高原テレビ中継局 _START_PARAGRAPH_ 1980年代初めに沖縄市照屋5丁目の県立コザ高校敷地内(弓道場横)に設置(ただし、QABは1999年に設置)。
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Q233296
_START_ARTICLE_ 胸を広げる (クルアーン) _START_SECTION_ 内容 _START_PARAGRAPH_ 冒頭の「われは,あなたの胸を広げなかったか。」に因んでこの題名が採られている。_NEWLINE_アッラーフの救いについて述べられる。
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Q11612097
_START_ARTICLE_ 脇元地区テレビ中継局 _START_PARAGRAPH_ 脇元地区テレビ中継局(わきもとちくてれびちゅうけいきょく)は、青森県五所川原市の旧北津軽郡市浦村域に置かれている受信障害対策中継放送局(ギャップフィラー)である市浦上脇元テレビ中継局と市浦下脇元テレビ中継局の総称。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 脇元地区では青森送信所を受信していたが、2009年冬に開設された風力発電施設の影響で受信環境が悪化する恐れがあり、それを改善するため、風力発電施設を設置したくろしお風力発電を免許人とするデジタルテレビ中継局が開設された。
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Q506652
_START_ARTICLE_ 腎盂腎炎 _START_PARAGRAPH_ 腎盂腎炎(じんうじんえん、羅: pyelonephritis)は、細菌感染を原因とする腎盂ならびに腎実質の炎症。臨床症状として血尿、混濁尿、膿尿、細菌尿、発熱を特徴とする。病理学的には腎杯の炎症、壊死、変性が認められる。ウシではCorynebacterium属菌(特にCorynebacterium renale)による感染が重要である。 _START_SECTION_ 治療 _START_PARAGRAPH_ 多くの場合、先天性尿路異常、慢性尿路感染、結石・腫瘍等による尿路狭窄・閉塞など、基礎となる尿路系疾患を有しているため、原疾患の検索・治療がまず必要である。_NEWLINE_悪寒・戦慄を伴う場合は敗血症に陥っている可能性が高く、緊急で血液培養、尿培養を採取し、経験に基づいた抗生剤投与を行う。一般に起炎菌として大腸菌が多いとされるが、近年耐性菌が増加していることから、確実性を求めて広域抗生剤(カルバペネム系やニューキノロン系)の投与を行う傾向にある。また、既に抗生剤治療を受けていた人が発症した場合にはバンコマイシンの投与も考慮される。腎臓は血液が豊富であるため菌血症、敗血症をきたしやすい。敗血症のマーカーとしてプロカルシトニンを測定する場合がある。_NEWLINE_CTなどの画像診断によって水腎症が著明である場合は、緊急処置として腎瘻造設(経皮的に腎盂を穿刺して排膿)を行う事がある。_NEWLINE_慢性腎盂腎炎に対してはST合剤などの内服療法がおこなわれるが、再燃・再発を来しやすく、長期的な経過で間質性腎炎から腎不全に至ることがある。_NEWLINE_消化器症状が強い場合は内服不可能であるため入院が必要となる。腎盂腎炎は顕微鏡学的には小膿瘍の集合体とされており3日程解熱しないことが多い。培養を繰り返し行い、抗菌薬の使用が適正であるかを確認する。また腎実質膿瘍や腎周囲膿瘍の検索のためCTや超音波検査を行う。点滴ではセフトリアキソン1-2gの使用が多い。治療期間は基本的には2週間であり経口摂取が可能になったら内服薬に切り替える。再発例では4-6週間かかることもある。
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Q3476509
_START_ARTICLE_ 膾 _START_SECTION_ 古代中国における膾について _START_PARAGRAPH_ もともと膾は細切りの生肉・生魚のことを指す。春秋時代においては、これら細切りの生肉・生魚に葱やからし菜などの薬味や酢をつけて食べていた。孔子は肉の膾を好んだという。_NEWLINE_当時は炙と共に著名な料理法として知られた。孟子では「おいしい物」の例として「膾炙」をあげている。_NEWLINE_秦や漢の時代になると、牛や羊などの家畜や野獣を膾にする事は少なくなり、もっぱら魚肉が具材として使われるようになった。本来魚肉を使った膾は「鱠」の字を使うべきだが、しばしば混同され「膾」が使われた。この頃も膾は一般的な料理として知られており、膾(生魚)を食べない村が「奇異な風俗習慣」として記録に残るほどであった。_NEWLINE_南北朝時代になると「金齏玉膾」という料理が登場する。これは「八和齏」という調味料を魚の膾にかけた料理で隋の煬帝も好んだ料理であった。_NEWLINE_以降の時代も膾を食べる習慣は続いたが、明代になると次第にその習慣が失われるようになり、清代には一部の地域を除き生肉を膾にして食べる習慣は失われた。現代では中国東北地区にある満州族やナナイ族の一部村落や、南方に住む漢族の一部が魚の膾を食べる習慣を残すのみとなっている。 _START_SECTION_ 日本の膾(なます)について _START_PARAGRAPH_ 膾の文字は古事記や日本書紀の時代から見られ、生肉を細かく刻んだものを指した。「なます」の語源は「なましし(生肉)」とも「なますき(生切)」が転じたとも言われている。なお、膾に酢を用いるようになったのは後世のことなので、「生酢」を語源とするのは誤りである。江戸時代まで「膾」は膳におけるメインディッシュとしての扱いを受けており、膳の中央より向こう側に置かれることから「向付」(むこうづけ)と呼ばれるようになった。_NEWLINE_現在「なます」の調味料として用いられるものとしては、甘酢、二杯酢、三杯酢、ゆず酢、たで酢などがあるが、古くは煎り酒(鰹節、梅干、酒、水、溜まりを合わせて煮詰めたもの)なども用いられた。_NEWLINE_膾の原義に忠実な料理としては、鮭の氷頭を用いた「氷頭なます」や、千葉県の房総に見られる漁師料理の「水なます」などがあげられる。水なますは鯵などの小魚を細かく叩いて味噌で調味し、薬味となる香味野菜と共に氷水に取ったものである。_NEWLINE_また魚介類を酢締めにした酢蛸や〆鯖などの「酢の物」、刺身やかまぼこなどを酢味噌で和えた「酢味噌和え」「ぬた」なども膾の一種である。_NEWLINE_室町時代の院政期以降は、魚介類や獣肉に限らず酢を用いた和え物全般を指すようになり、野菜や果物だけを用いる「精進なます」が生じた。根菜類を油揚げや椎茸などと炒ってから酢で和える「焼きなます」は現在も家庭の惣菜として作られる。_NEWLINE_正月のおせち調理として、レンコンを使った「酢蓮(酢れんこん)」や、繊切りにしたダイコンとニンジン(あるいは干し柿)を用いた「紅白なます」が作られる。赤と白を源氏と平家の旗に見立てて「源平なます」とも呼ばれる。 _START_SECTION_ そのほかの国の膾 _START_PARAGRAPH_ 朝鮮半島では、「膾」または「鱠」を「フェ」と呼ぶ。三国時代に中国より伝わり、明清代に膾の消費が衰えた中国とは異なり、李氏朝鮮時代にも膾(フェ)は孔子の祭礼などに供され、一般でも食べられた。現在でもフェは盛んに食べられている。例えばユッケは「肉膾」と書き、膾の一種とされる(「肉」を「ユッグ」、膾を「フェ」と発音するが、リエゾンによって「ユッケ」と発音される)。また、日本統治時代に日本から朝鮮半島に入った刺身をもとにした料理もフェと表現される。また素材は生肉や生魚とは限らず、家畜の内臓に火を通して野菜類と和えたフェもある。
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Q4304916
_START_ARTICLE_ 自動車化狙撃兵 (ロシア陸軍) _START_PARAGRAPH_ ロシア陸軍における自動車化狙撃兵(じどうしゃかそげきへい、ロシア語: Мотострелковые войска)は、兵科(ロシア語: рода войск)の一つで、軍隊における歩兵(機械化歩兵)相当の呼称である。_NEWLINE_旅団等の基幹部隊となり、各種戦術行動において主として近接戦闘により、敵を撃破又は捕捉し、あるいは必要な地域を占領確保するのが使命である。通常、AK-74Mか旧型のAK-74、AKS-74、AKM、AKMSを装備する。完全に機械化されており、通常、歩兵戦闘車(BMP-1、BMP-2、BMP-3)か、装甲兵員輸送車(BTR-60、MT-LBV)で行動する。_NEWLINE_ロシア陸軍の中では最も基本となる兵科で、人員も多い。他国の歩兵と同様、他兵科の行動も調整する地位にあるため、軍事教育施設では、諸兵科共通又は諸兵科連合(ロシア語: общевойсковое)の用語も用いられる。_NEWLINE_なお、「狙撃兵」という名称は、ロシア軍は帝政以来一貫して一発必中の狙撃を重視する軍隊であり、「雑兵とは一線を画する特に精強な歩兵」のことを「狙撃兵」と称する伝統があるためで、所属する兵士全員が実際に狙撃兵や選抜射手だというわけではない(同様の伝統名として、現ドイツ連邦軍の「擲弾兵」がある)。 _START_SECTION_ 自動車化狙撃旅団 _START_PARAGRAPH_ 自動車化狙撃大隊(機械化歩兵)を3個大隊、自走榴弾砲大隊を2個大隊、戦車大隊を1個大隊、その他いくつかの戦闘支援/後方支援部隊(大隊から小隊規模)を保有する諸兵科連合部隊であり、ロシア陸軍の基本的な展開部隊である。
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Q221722
_START_ARTICLE_ 自転車道 _START_SECTION_ イギリス _START_PARAGRAPH_ イギリスでは、19世紀後半に自転車愛好家たちが団体を組織するなどの運動を展開し、1888年にイギリスの議会は彼らの求めていた「荒廃した道路の整備」に着手することと自転車を交通手段として公認を決めた。_NEWLINE_イギリスで車道併設型の自転車道が初めて整備されたのは1934年、ロンドンのWestern Avenueで、コンクリート舗装、幅員 2.5 m という仕様だった。1935年に実施された調査では沿道の自転車利用者の80%がこの自転車道に満足していたが、自転車愛好家たちは車道を走れなくなる不満から、自転車道を無視して大人数で車道を走るデモ行為を繰り返したり、近隣の別の自転車道で始終端に杭を打って他の自転車利用者を車道に誘導したり、交通省を頻繁に訪れて反対意見を述べるなどの抵抗を続けた。戦後になると、自転車愛好家たちからの反対に加え、道路予算を高速道路網の整備に優先投入したこと、緊縮財政が続いたことから、イギリスにおける自転車道の整備は停滞した。_NEWLINE_1950年代にはニュータウンの一つ、スティーブニッジで自動車の道路網から独立した質の高い自転車道のネットワークが計画的に整備されたが、その自転車道は徐々に利用されなくなり、現在は住民の2.7%にしか使われていない。1960年代にも別のニュータウン、ミルトン・キーンズで同じく自動車の道路網から独立した自転車道のネットワークが整備されたが、自転車の交通分担率は3%に留まっている。_NEWLINE_自転車道の整備が再び本格的に動き出すのは2010年代に入ってからで、ロンドンではサイクル・スーパーハイウェイの一部路線が、車道から縁石で分離された構造で整備(CS2は当初の自転車レーンから改修)された。他の都市でも、マンチェスターのOxford Road、ケンブリッジのHills RoadとHuntingdon Roadに自転車道が整備されている。 _START_SECTION_ ドイツ _START_PARAGRAPH_ オランダと同様に「西ドイツでもアウトバーンの改修・新設には、りっぱな自転車道路を併設することが義務づけられた」 。_NEWLINE_2015年12月にはドイツ初となる自転車専用高速道路が開通した。 _START_SECTION_ アメリカ _START_PARAGRAPH_ アメリカでは1967年、初めての本格的な自転車レーンがカリフォルニア州デイビスの3路線に整備されたが、このうちの1本は停車帯によって自動車の流れから保護された、事実上の自転車道(“separated bikeway”)だった。ところが1970年代に Vehicular cycling と呼ばれる運動が興り、「自転車は車両の運転者として振る舞い、扱われることで最大の能力を発揮できる(“cyclists fare best when they act and are treated as drivers of vehicles”)」との思想に共鳴した自転車愛好家たちが各地の住民説明会で自転車道の整備に強く反対した。_NEWLINE_当時、自転車利用者を対象に実施された、自転車インフラの安全性についてのアンケート(“ratings of protection from cars afforded by the bikeway”)では、自転車道(“Separated bikeways”)が自転車レーン(“Bike lanes”)や自転車推奨ルート(“Signed Routes”)の2倍以上の高い評価を得ており、自転車インフラの設計指針を作成していた連邦道路局(FHWA)も自転車道の反対者たちがノイジー・マイノリティーであることを認識していた。しかし1976年版の設計指針は、自動車からの構造的な分離を求める圧倒的多数の自転車利用者と、一切の自転車インフラ整備に反対する僅かな数の自転車愛好家の要望の中間をとって、自動車の通行帯と停車帯に挟まれた自転車レーンを推奨する内容となった。この結果、アメリカでは自転車道の整備が進まない状況が長年続いた。_NEWLINE_アメリカで自転車道(構造的に分離された自転車レーン; protected bike lane)が再び日の目を見るのは2000年代に入ってからである。2007年、ニューヨーク市は車道の一部を樹脂製ボラードなどで簡易的に分離した自転車道を試験的に導入した。市交通局は従来型の自転車レーンを採用しなかった理由として、二重駐車で塞がれることや安心感が低いことなどの問題があったと指摘している。自転車道が導入された路線では、交通事故の減少や自転車交通量の増加、沿道店舗の売上増加などの効果が見られた。ニューヨーク市ではその後も毎年数マイルずつ整備が進められており、合計整備延長は2018年現在で100マイル(約160km)を超えている。_NEWLINE_他の都市もニューヨークのような自転車道の整備を検討していたが、当時の設計指針にはそれが掲載されていなかったため、都市の交通担当者からなるNACTO(National Association of City Transportation Officials)が世界各地の自転車インフラの設計を調査し、2011年にUrban Bikeway Design Guideとして発表した。このような条件が整ったこともあり、自転車道は現在、オースティン、ボストン、シカゴ、ロサンゼルス、ポートランド、サンフランシスコ、シアトルなど合衆国の他の都市にも広がっている。 _START_SECTION_ 自転車レーン _START_PARAGRAPH_ オランダやドイツなどでは、車道から構造的に分離された自転車道の設置に早くから取り組んできたが、自転車の通行空間に占める割合は必ずしも高くない。費用や空間上の制約、安全観の変化などの要因によって、かつてはこうした自転車道の代用として考えられた自転車レーンの整備が現実的と判断されるようになっている。 _START_SECTION_ バス自転車共用レーン _START_PARAGRAPH_ 「バスレーン#自転車通行空間としてのバスレーン」を参照。 _START_SECTION_ 定義 _START_PARAGRAPH_ 日本では、道路法令(道路法と道路構造令)に規定された自転車の通行に供される自動車から分離された各種の道路または道路の部分を指す。一般的な用法としてはこのほかに、道路交通法に基づく交通規制による「自転車専用通行帯」(自転車レーン)や自転車以外の通行禁止規制が実施された道路、自転車が通行することのできる「歩行者用道路」、道路法上の道路ではない道路(施設扱いのサイクリング道路や河川管理道路など)を含む場合がある。日本国外の自転車走行空間については、国・地域によって定義が異なる場合があるが、それにかかわらず「自転車道」と呼ぶことがある。_NEWLINE_日本における各種の「自転車道」については、道路行政当局や関係団体において、機能面から大きく2種類に分類されている。自転車道設計指針では、次の通りA種、B種に区分されている。_NEWLINE_A種の自転車道は、交通の安全と円滑を主目的とし、日常生活で利用される自転車交通を対象としたものであり、多くの場合それ自体独立した道路ではなく、道路の一部として自動車等のための車道に併設される。道路構造令と道路交通法に定められた自転車道は、工作物によって区画され、車道だけでなく歩行者のための歩道からも分離されたもので、道路交通法により自転車以外の通行は認められていない。自転車道の設置されている道路において、普通自転車は自転車道を通行することが原則として義務づけられている。_NEWLINE_B種の自転車道は、スポーツやレクリエーションとして自転車を利用すること(サイクリング)を主な目的とした道路を指す。この場合道路法にいう自転車専用道路等として整備されることがあり、一般にサイクリングロードと呼ばれる。ただし日本においては自転車専用である場合はごくわずかな例外に過ぎず、歩行者の通行も認められていることが圧倒的に多い。自転車道という用語は、こういった道路の路線名の一部として使用される場合もある。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 日本では、1951年、日本自転車産業協議会の事業計画が、自転車道路の必要性に言及するが、自転車道の法制化機運が高まるのは本格的なモータリゼーションを経た1960年代後半のことで、実際に法制化されるのは1970年である。_NEWLINE_外国の自転車道について言及した記述としては、新渡戸稲造の『修養』(明治44年刊)第十三章「道」内の「人の履む道は広いか狭いか」の項にみられ、馬車道、乗馬道、歩道の他、「近頃では自転車の道もあり」と外国の道路事情について紹介している。 _START_SECTION_ 法制化以前 _START_PARAGRAPH_ 自転車道法制化以前は1958年に制定された道路構造令(旧令)に見られるように、自転車は車道・緩速車道を通行する自動車との混合交通を前提とした。1964年には、徳島市左古町に自転車道(併設型、後のA種相当)が設置され、これが日本初の自転車道と考えられている。翌1965年には、高知市電車通りに歩道を改造した自転車道が設置された。これら法制化前に出現した短い距離の自転車道は、所轄警察署の要請により国道事務所が事故多発地点に設置したものである。一方、1967年10月には、神奈川県青少年サイクリングコース(金目川サイクリングコース)が開通する。専用道路型、B種相当、つまりサイクリングロードと呼ばれるタイプのさきがけとなるが、道路法上の道路とは認められず、「施設」扱いとされた。1965年には、国会に自転車専用道路の建設や法制化を求める請願が寄せられ始めた。 _START_SECTION_ 自転車道路協会の発足とその活動 _START_PARAGRAPH_ 1967年4月、自転車道路建設促進協議会が発足した。1968年8月には、協議会が自転車道のサンプルと位置づけた東京・神宮外苑サイクリングセンターが実現する。これは、警視庁・明治神宮など関係各方面に働き掛け、休日の公道で自動車等の通行を禁止する交通規制を実施し、サイクリングに開放したもので、初の「自転車公園」とされた。1970年には常設の代々木公園サイクリングコース、1975年には休日の交通規制によるパレスサイクリングが開設されたほか、東京以外の各地にも広がった。協議会は1968年9月に改組して財団法人自転車道路協会となった。この月、協会は太平洋岸自転車道構想を含む全国一周自転車道路網構想を建設大臣に陳情した。 _START_SECTION_ 法制化と制度改正 _START_PARAGRAPH_ 自転車道法制化の動きは国会でも具体化し、超党派の「自転車道路建設推進議員連盟」が結成され、1969年7月に議員立法による「自転車道の整備等に関する法律案」の提出に漕ぎ着けた。その審議過程では、特にオランダ、デンマーク、スウェーデンでは自転車道は完備に近く、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツといった諸国でも自転車道の整備が進んでいるとの認識が示された。この法案は、自衛隊法・防衛庁設置法改正案や大学臨時措置法などの上程による影響で、ほかの20あまりの生活関連法案とともに審議未了となるといった紆余曲折を経て、翌1970年の3月に成立、4月に公布された。_NEWLINE_1970年には、「交通戦争」ともいわれた交通事故多発の対策として、道路・交通関連の法令の新規制定や改正が相次いだ。まず前述のように「自転車道の整備等に関する法律」が成立した。また道路交通法と道路構造令に「自転車道」などの規定が加わり、「交通安全施設等整備事業に関する緊急措置法」に自転車道の整備に関する規定が盛り込まれた。これらの新規定により自転車を自動車交通から分離する方向性が固まった。道交法改正に伴い「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」が改正され、「自転車専用」(325の2)と「自転車及び歩行者専用」(325の3)の道路標識が定められた。翌1971年には道路法改正により自転車専用道路、自転車歩行者専用道路の規定が加わる。1980年には、「自転車の安全利用の促進及び自転車駐車場の整備に関する法律」(旧自転車法)が公布され、自転車道・自転車歩行者道の整備、自転車専用車両通行帯の設置など「良好な自転車交通網の形成」を図る規定が盛り込まれた。 _START_SECTION_ 整備事業 _START_PARAGRAPH_ 1973年に大規模自転車道整備事業が始まり、一般にサイクリングロードと呼ばれる道路の建設が緒につく。翌1974年には、建設省都市局長・道路局長通達「自転車道等の設計基準」が出され、詳しい仕様が固まる。_NEWLINE_道路交通法の1970年と1978年の改正で自転車の歩道通行が認められ、うやむやのうちに一般化する一方、歩行者との共用でない自転車道などの通行空間の整備は、「我が国の道路状況において……容易ではない」ことを理由に「十分とは言い難い」状況が今日まで続いている。 _START_SECTION_ 自転車道の要件 _START_PARAGRAPH_ 自転車道は、縁石線、さく(柵)などの工作物や植樹帯といった分離施設によって区画されていることが要件である。また道路交通法上、「自転車専用(325の2)」の道路標識が設置され自転車道であることが示されている必要がある。_NEWLINE_道路交通法第20条第2項の規定による車道上の車両通行帯のうち、「車両通行区分(327)」「専用通行帯(327の4)」「普通自転車専用通行帯(327の4の2)」の道路標識や「車両通行区分(109の3)」「専用通行帯(109の6)」の道路標示により「自転車専用」と指定されたものは、工作物ではなく区画線や道路鋲によって区画されているため、自転車道には該当しない。「自転車の安全利用の促進及び自転車等の駐車対策の総合的推進に関する法律(自転車法)」で自転車専用車両通行帯と称され、一般に「自転車レーン」と呼ばれるが、この部分は依然、車道の一部分であるため、自転車道の場合とは異なり、車道全体で見た左側通行の規制を受ける。_NEWLINE_道路交通法第63条の4第1項により普通自転車が通行することができるとされた歩道に、「普通自転車の歩道通行部分」の道路標示(114の2)がある場合、この部分は「歩道の自転車レーン」と俗称されることがあるが、自転車道には該当しない。また従来歩道とされていた部分を工作物で分離したものであっても、車道上に設けられたものではないので自転車道とはいえない。 _START_SECTION_ サイクリングロード _START_PARAGRAPH_ 一般に「サイクリングロード」と呼ばれるものは、B種の自転車道に分類され、道路法の自転車専用道路等として整備されることが多い。自転車(または「自転車および歩行者」)の通行のために設けられる独立した道路である。整備法の第6条第1項では、道路管理者としての市町村に自転車専用道路等の設置について努力義務を課し、同第2項では河川や国有林野の管理者が協力するものとし、同第3項では国が財政支援の努力義務を負うこととしている。国の支援策としては、大規模自転車道整備事業が知られている。このほかに道路法にいう道路には該当しない施設扱いの“いわゆる自転車道”なども、サイクリングロード(あるいはサイクリング道路など)と呼ばれる。日本以外の諸外国においても、同様の道路の整備例が見られる。 _START_SECTION_ 設計基準 _START_PARAGRAPH_ 各種の自転車道の幅員は、道路構造令により定められている。自転車道は2メートル以上を原則とし、やむを得ない場合1.5メートルまで縮小できるとされる(第10条)。自転車専用道路は3メートル以上を原則とし、やむを得ない場合2.5メートルとされ、自転車歩行者専用道路は1993年以降自転車専用道路より広い4メートル以上とされる(いずれも第39条第1項)。_NEWLINE_設計速度は、A種・B種の違いに応じて差異がある。まちなかの道路に併設される環境からスピードが制限されるA種の自転車道では、通常の自転車の速度と考えられた時速15キロメートル、専用道路で快適な走行が目的となるB種の自転車道では時速30キロメートルとされた。これらの規定速度を確保する設計が不経済とされる場合には、双方とも時速10キロメートルとされた。 _START_SECTION_ 日本における現状と問題 _START_PARAGRAPH_ 自動車交通から構造的に分離された自転車の通行空間の総延長は7万8638キロメートルとされるが、このうちの91.7%にあたる7万2119キロメートルは「自転車歩行者道」である。設計の上で自転車の通行を意識したことになっているとはいえ、運用の上では自転車には歩行者を優先するために徐行や一時停止をする義務が課せられる「自転車通行可の歩道」にすぎない。自転車歩行者道については該当項目に譲り、本項では自転車道とサイクリングロード(自転車専用道路等とそれに類似したもの)の現状について述べる。 _START_SECTION_ 自転車道の現状 _START_PARAGRAPH_ 都市交通の中での自転車専用の通行空間とされる自転車道の延長は、2004年現在、1199kmに過ぎず、歩道延長15万5786kmの100分の1にも満たない。自転車道の設置に際しては、自動車交通から自転車を分離し、混合交通による自動車の速度低下を防ぐことも意識されてきた。半面、設置・管理が高コストであり、自転車道の存在自体が自動車交通の処理能力の低下を招くとも考えられた。車道の幅員確保や歩道の設置・拡幅(幅員2メートル以上の歩道では、普通自転車を歩道に上げることも可能とされる)が優先され、自転車道の設置は進まなかった。_NEWLINE_また自転車道は車道の付帯施設と認識されたため、独自の連続したネットワークを形成していないという問題も指摘されている。_NEWLINE_自転車の歩道通行については、双方向通行が認められていることと、車道との間の分離施設によって、自転車が右左折する自動車からの死角に入り、自動車対自転車の交通事故を誘発する危険性が指摘されている。自転車道は事故防止を図ることを目的として導入されたものの、歩行者と構造的に分離されていることを除いて歩道との共通点が多いことから、自転車道にも同じ問題が存在するとの見解がある。ただし、現実に整備された自転車道の事故リスクについては日本国内では研究が見当たらない。カナダとオランダの研究では、自転車道が最も安全な自転車インフラであるとの結果が出ている。_NEWLINE_歩行者と自転車の分離という面では、自転車道の整備は大きな成果を上げている。東京都三鷹市のかえで通りでは、自転車道の整備前に80.9%だった自転車の歩道通行率が整備後は6.1%に激減した。東京都江東区亀戸の国道14号でも、自転車道の整備前に71.0%だった歩道通行率が整備後は25%に低下した。一方、車道端をペイントによって視覚的に区分した自転車レーンなどでは、路上駐車に塞がれる、横を通る車が怖いなどの問題から、自転車の歩道通行率はあまり下がらない傾向がある。東京都渋谷区の旧玉川水道道路では、自転車レーンの整備前に84%だった歩道通行率は整備後も68%までしか低下していない。京都府京都市の河原町通と丸太町通では、車道の端に矢羽根型路面表示を試験整備したが、整備前に74.7〜92.4%だった歩道通行率は整備後も73.7〜88.9%と高止まりしている。この京都市の実験では住民アンケートで「横を車が通り過ぎると怖い」「駐車中の車の横を走るのがこわい」などの意見が寄せられている。 _START_SECTION_ サイクリングロードの現状 _START_PARAGRAPH_ サイクリングロードの設置場所は、河川敷がほとんどで、このほかに湖沼の沿岸、海岸、鉄道廃線跡が挙げられる。_NEWLINE_自転車専用道路等の総延長は5113kmになるが、そのうちの90.8%は自転車歩行者専用道路が占める。このほか、河川敷や堤防上に設置された河川管理道路や緊急用道路は、一般の自動車・原動機付自転車による通行を禁じていることから、サイクリングコースとして使用されている例が多い。東京都内の荒川緊急用河川敷道路など、自転車愛好者にはサイクリングロードとして認識されているものが、実はあくまで河川管理道路であるということもある。_NEWLINE_サイクリングロードは、設計上自転車の高速走行の快適性を重視し、ほかの道路と平面交差する箇所が市街地の一般道路に比べて少ないため、自転車の走行速度が速くなる傾向が強い。一方でこの構造的条件はランニングやウォーキングといった運動や散歩にも適している。またサイクリングロードや自転車道などと呼ばれていても、大部分で歩行者は排除されていない。このため歩行者の利用も多い。高速な自転車と大勢の歩行者が混在している状況で、両者の間にトラブルが多発し、主に歩行者から苦情が管理者に寄せられ、管理者としては対策として自転車に対して何らかの規制・措置を行う方向で動きが見られる。このことからサイクリングロードでは、自転車に対してスピードを落として歩行者に注意し優先するよう呼び掛ける標示や掲示物が目立つようになった。自転車歩行者専用道路に代表される自転車と歩行者が混在する状況に対しては、古くから自転車愛好者らによる批判がある。しかし両者を分離して自転車専用道路と歩行者専用道路を設置しようとする動きは、ほとんど見られない。
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Q11613164
_START_ARTICLE_ 至信 _START_PARAGRAPH_ 至信(ししん、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 師系・経歴不明。画風は鈴木春信風または川又派風、作画期は明和の頃とされ肉筆美人画を残す。「至信」の読み方については従来「ししん」とされているが、これを「のりのぶ」、「みちのぶ」などと読む可能性も示されている。なお『風俗画と肉筆浮世絵』巻末の作品リストと『氏家浮世絵コレクション』(2014年刊)は、名を「田中至信」とする。
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Q11613222
_START_ARTICLE_ 臼井城 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 永久2年(1114年)、平常兼の子の常康が臼井に居を築き臼井六郎を称したと伝えられるが、その居館がこの臼井城であったかどうかは定かではなく、臼井氏の中興の祖といわれる臼井興胤の代(14世紀中頃)に城としての基礎が置かれたといわれている。 _START_SECTION_ 歴史・沿革 _START_PARAGRAPH_ 享徳の乱の折、文明10年(1478年)12月10日の境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城した。7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11年(1479年)7月15日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられる(鎌倉大草紙)。その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されている。_NEWLINE_その後、足利政氏の次男足利義明が小弓城を征圧し小弓公方を自称した際には、臼井城主の臼井景胤は小弓公方側に立ち、千葉孝胤の嫡男勝胤とは立場を異にした。だが天文7年(1538年)10月第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にした後は千葉氏の影響下に復した。_NEWLINE_永禄4年(1561年)臼井久胤の時、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主正木信茂に攻められ臼井城は落城し、久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡した。なお一説によれば、その時城は後見していた久胤の母方の祖父に当たるとされる原胤貞に乗っ取られた状態で、まだ10代だった久胤は軟禁状態にあったともされ、正木信茂の攻撃による混乱を好機ととらえ、原胤貞の娘とされる母とともに城を脱出し結城氏に臣従したとも言われており、結局、臼井城は原氏の手中に収まったとのことである。_NEWLINE_永禄9年(1566年)には、上杉謙信と里見義弘に攻められ原胤貞らが臼井城に立て籠り、3月20日には落城寸前となったものの、原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井浄三の知謀とその指示に基づいた北条氏側の松田康郷らの戦ばたらきにより謙信を大敗させている(詳細は「臼井城の戦い」参照)。_NEWLINE_天正2年(1574年)に原胤栄(胤貞の子)は里見勢に生実城を追われたため、その後原氏が臼井城を本拠とする。_NEWLINE_戦国時代末期には原氏が城主であったが、天正18年(1590年)の小田原征伐で徳川氏に敗れ、酒井家次が3万石で入封する。文禄2年(1593年)に城内より出火し灰燼に帰し、その後酒井家次は慶長9年(1604年)12月、上野国高崎藩に加増移封、臼井藩は廃藩となり臼井城は廃城となった。_NEWLINE_室町時代後期以降の戦乱の時代において、後期千葉氏の拠る本佐倉城と比べて歴史的により重要な役割を果たしたが、戦乱の時代が終わり、土井利勝により慶長15年(1610年)に佐倉城が完成するに至ってその役目を終えた。_NEWLINE_現在は臼井城址公園として整備されている。
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Q2921458
_START_ARTICLE_ 臼杵磨崖仏 _START_PARAGRAPH_ 臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)は、大分県臼杵市にある磨崖仏である。一般には臼杵石仏(うすきせきぶつ)の名で知られている。1952年(昭和27年)に国の特別史跡に指定され、1995年(平成7年)には、磨崖仏として日本初、彫刻として九州初の国宝に指定された。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 磨崖仏造営の時期や事情を証する史料は一切残っていない。地元に伝わる「真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)」では、この磨崖仏は亡くなった娘の菩提を弔うために長者が彫らせたとされており、用明天皇が登場することから、この伝説の舞台は6世紀後半と考えられる。しかし、実際の磨崖仏は、仏像の様式などから大部分は平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定されている。_NEWLINE_その後、磨崖仏は山岳仏教の衰退と共に忘れ去られ、1000年の風雨に曝され続けることとなった。元々阿蘇山からの火砕流が溶結した凝灰岩に掘られた石仏は脆く、また参拝者によって自然にできた道が大雨の際は川に変わり石仏を削り取った。現在、多くの石仏の下半身が切り取られたように無くなっているのはそのためである。_NEWLINE_劣悪な環境の中で仏頭の多くが剥落した。中でも、最も有名な古園石仏群の大日如来像の仏頭は、1993年(平成5年)に保存修復が完了するまでの間、仏体下の台座に置かれたままであった。修復にあたっては、元の姿に戻すべきという意見と、臼杵のシンボルともなっている像の姿を大きく変えることを憂慮する意見との間で激しい論争が起きたが、仏頭の元の位置への修復が国宝指定の条件として文部省(当時)から提示されたため、最終的に元の位置へ復元されることとなった。臼杵駅のプラットホームにある仏頭のレプリカは修復前に作られたもので、仏頭が足下に置かれていた時期の状態をよく表している。一方、駅前にはこの像が彫られた当初の姿を復元したレプリカが設置されている。仏頭が再び体とつながったことで、参拝すると首がつながる、会社でリストラ(解雇)されないという俗説が生まれた。_NEWLINE_なお、V字型の谷になっていた周辺の地形は、保存修復工事の際に、石仏が彫られていない方の壁が切り崩されて麓の里まで水を止めるものがなくなった上、石仏の周囲には排水設備が導入されたため、現在は石仏の下に水流ができるということは無くなった。しかし、岩陰の湿潤した条件では苔が繁殖しているため、その対策が行われている。 _START_SECTION_ 磨崖仏の概要 _START_PARAGRAPH_ 磨崖仏は4か所に分かれて所在し、それぞれ古園石仏群、山王山石仏群、ホキ石仏第一群(堂ヶ迫石仏とも)、ホキ石仏第二群と称される。いずれも溶結凝灰岩の岩壁に高肉彫とし、像表面には彩色を施している。磨崖仏の造立年代を示す史料は皆無であるが、作風から大部分の像は平安時代後期の作、ホキ石仏第一群の向かって右側の第三龕・第四龕は鎌倉時代に追刻されたものと推定されている。 _START_SECTION_ 古園石仏群 _START_PARAGRAPH_ 古園石仏群は全13躯で、金剛界大日如来坐像を中心に、その左右にそれぞれ如来像2躯、菩薩像2躯、明王像1躯、天部像1躯を配する。尊像構成の意図には諸説あり、金剛界曼荼羅を表したものとする説もある。 _START_SECTION_ 山王山石仏群 _START_PARAGRAPH_ 山王山石仏群は全3躯で、丈六の如来坐像を中心に、その左右に小さめの如来坐像1躯ずつを配する。 _START_SECTION_ ホキ石仏第一群 _START_PARAGRAPH_ ホキ石仏第一群(堂ヶ迫石仏)は、4つの龕に分かれる(向かって左より第一・二・三・四龕)。第一龕と第二龕はともに如来坐像3躯を配し、第一龕はさらに脇侍菩薩立像2躯を配す。第三龕は金剛界大日如来坐像を中心に、その左右に1躯ずつの如来坐像、さらに左右に1躯ずつの菩薩立像を配す。第四龕は左脚を踏み下げて坐す地蔵菩薩像を中心に、その左右に十王像を配す。以上のうち、第三・四龕は鎌倉時代の追刻とみられる。他に、第一・二龕間に愛染明王坐像がある。 _START_SECTION_ ホキ石仏第二群 _START_PARAGRAPH_ ホキ石仏第二群は、向かって左の第一龕と右の第二龕からなる。第一龕は定印の阿弥陀如来坐像を中心に、左右に脇侍菩薩立像を配す。中尊像については弥勒仏像とする説もある。これらの向かって左にほとんど原形をとどめない菩薩形立像2躯がある。第二龕は九体阿弥陀如来像を中心とする。中央に阿弥陀如来坐像、その左右に4躯ずつの阿弥陀如来立像を配す。これらの左右に1躯ずつの菩薩立像を配するが、向かって左の菩薩像は原形をとどめていない。
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Q6274399
_START_ARTICLE_ 臼淵磐 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1923年(大正12年)8月22日、臼淵清忠・海軍機関中佐の長男として東京府東京市青山(現:東京都青山)に生まれる。翌年、妹・汎子が誕生。横須賀の山崎小学校、横浜一中を経て、1942年(昭和17年)11月、海軍兵学校(71期)を卒業し、戦艦「扶桑」、重巡洋艦「鈴谷」乗組を経て、1943年(昭和18年)6月、海軍少尉任官。海軍砲術学校普通科で学び、軽巡洋艦「北上」砲術士を経て、1944年(昭和19年)10月、戦艦「大和」副砲分隊長となった。同年11月、海軍大尉に昇進。_NEWLINE_1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)時、戦艦「大和」の哨戒長として乗艦。配置場所に近い、後部指揮所電探室に米軍の直撃弾が命中し即死する。享年21。妹の佳子は歌を詠み兄の死を悼んだ。戦死後、海軍少佐に進級。
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Q22131085
_START_ARTICLE_ 航洋丸 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1967年竣工の初代航洋丸の代船として三菱重工業下関造船所で建造され、1998年に就航した。日本国内で最大の曳航能力を持つ曳船で、海難救助船として日本国内の海難事案に出動している。同社の門司支社のある門司港を定係港としている。 _START_SECTION_ 船体 _START_PARAGRAPH_ 長船首楼型で後部は乾舷の低い作業甲板となっている。船体中央に4層の上部構造物が配置されており、その前後にはクレーンが設置されている。故障船の曳航、消火活動、油流出事故への対応など様々な状況の海難事故に対応する設備、資材を備えている。
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Q11614222
_START_ARTICLE_ 船橋市立飯山満小学校 _START_SECTION_ 教育目標 _START_PARAGRAPH_ 自立した生き方ができる児童の育成
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Q4700858
_START_ARTICLE_ 芝田安希 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 和歌山県御坊市出身。漁業を営む一家に生まれる。スポーツが大好きで楽しそうだったという理由で、小学3年よりバレーボールを始める。名田中学でもバレーボール部に所属し、近畿大会まで出場経験がある。合宿で訪れた京都成安高校(現:京都産業大学附属高校)のレベルの高い練習風景を目の当たりにして、同校出身だった佐伯美香へのあこがれもあって、同校からユニチカへ進みたいとの強い希望を持つようになる。幸い同校からも芝田にオファーがあり進学が決定した。_NEWLINE_1999年、京都成安高校卒業後は希望が叶いユニチカに入社。2000年、ユニチカ休部に伴い東レへ移籍。若手選手の多いチームを副主将として牽引した。_NEWLINE_2008年、天皇杯・皇后杯全日本選手権優勝、2007-08プレミアリーグ初優勝の2冠に貢献。キャプテンであった向井久子の現役引退に伴い、同年6月よりキャプテンに就任した。_NEWLINE_2010年、日本代表候補に選出されるが、辞退。同年5月27日、チームより現役引退が発表された。芝田の引退により、東レからユニチカでプレーした選手がいなくなった。_NEWLINE_引退後は社業に専念していたが、2011年11月に東レ・アローズのマネージャーに就任した。_NEWLINE_2013年9月に行われた国民体育大会で、滋賀県チームの一員として出場した。_NEWLINE_東レを離れたのち、御坊市役所に勤務する傍ら2016年8月から和歌山県の国民体育大会バレーボールチームの監督に就任した。 _START_SECTION_ エピソード _START_PARAGRAPH_ 愛称はタクト。高校入学時に先輩から名付けられたニックネームで指揮棒のこと。「チームの指揮を執れるような選手になれ」との思いがこめられているという。
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Q63131326
_START_ARTICLE_ 花井その子 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 子役「菅 照美」として、『ぼくら野球探偵団』にアリス役で出演。_NEWLINE_1982年に歌手デビュー。キャッチコピーは「その子は、ヘルシーな光源体」_NEWLINE_円谷プロダクション専属であり、『COSMIC★LOVE』ではバルタン星人、レッドキング、ピグモンが後ろで一緒に踊っていた。
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Q18459556
_START_ARTICLE_ 芸人同棲 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 毎週火曜日18時に更新される無料動画。_NEWLINE_訳あって解散してしまったピン芸人たちがコンビを組みたいという意志のもと7泊8日のお笑い合宿形式にてコンビもしくはトリオが結成される過程を追うリアルドキュメント番組。その際、司会であるライセンスが合宿初日までの間に参加するピン芸人の紹介などを行い、最終日にコンビ結成する瞬間を見届けている。_NEWLINE_スタジオメンバーは当初ライセンスのみだったが、シーズン2からは大谷澪がアシスタントで参加。シーズン3からアシスタントが大谷澪から菊地亜美(元アイドリング!!!)に交代した。VTR中に度々、演出を担当している両角誠がディレクターの声として出演しているのが特徴。_NEWLINE_2016年時点では、テレ朝動画だけでなくCSテレ朝チャンネル1、GYAO!、AbemaTV、YNNでも配信されていた。_NEWLINE_シーズン5のみエディオンが一社提供としてスポンサード。_NEWLINE_シーズン1からシーズン8までで計12組のコンビが結成されたが、2018年5月のおばけザウルスの解散を最後に、その全てのコンビが活動を終了した。
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Q17216120
_START_ARTICLE_ 若尾祐司 _START_PARAGRAPH_ 若尾 祐司(わかお ゆうじ、1945年11月22日 - )は、日本の西洋史学者、名古屋大学名誉教授。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 岐阜県生まれ。岐阜県立岐阜高等学校を経て、1968年京都大学文学部史学科卒、1972年名古屋大学大学院法学研究科博士課程中退。1986年「ドイツ奉公人の社会史 近代家族の成立」で名大法学博士。1972年琉球大学法文学部講師、76年助教授、87年教授、88-89年法学研究科長、1989年名古屋大学文学部助教授、92年教授、文学研究科教授、99-2001年文学部長・文学研究科長。2004年理事・副総長。2009年定年退任、名誉教授、放送大学愛知学習センター所長。_NEWLINE_妻は若尾典子・県立広島大学教授。
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Q7960765
_START_ARTICLE_ 若栗駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 単式1面1線のホームを持つ地上駅。無人駅である。_NEWLINE_かつての貨物側線が残存している。
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Q11616834
_START_ARTICLE_ 苫小牧発電所 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 北海道電力初の石油火力発電所として、1973年11月に1号機が運転を開始した。_NEWLINE_2009年11月には原油価格上昇と環境問題への対応を考慮し、天然ガス混焼のための改良工事を実施、天ガス混焼運転を開始した。なお、天然ガスは北海道産エネルギーである勇払天然ガスを使用しており、石油資源開発と売買契約を締結、同社敷設のパイプラインにて供給を受けている。_NEWLINE_同じ敷地内に苫小牧共同火力発電所があり、両発電所とも北海道パワーエンジニアリングが運営管理を行っている。_NEWLINE_北本連系線の30万㎾増強(2019年3月運転開始)や、石狩湾新港発電所1号機運転開始(2019年2月)により、需給のひっ迫が緩和されることに伴い、2019年2月に緊急設置電源は廃止される予定である。_NEWLINE_その後需要の低迷で、廃止が1年半前倒しされることになった。
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Q11618523
_START_ARTICLE_ 荒川亮 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 1982年にテレビドラマ『3年B組貫八先生』で、デビューする。その後は、映画、舞台、テレビドラマなどで活躍する。また、声優として『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の海パン刑事を演じた。_NEWLINE_シングル、アルバムも1枚出している。
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Q38278356
_START_ARTICLE_ 荻原貢 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 北海道芦別町(現・芦別市新城町)出身。1974年(昭和49年)3月、駒澤大学経営学部卒業。同年、芦別市役所に入庁。_NEWLINE_2002年(平成14年)4月、市民部長に就任。2005年(平成17年)7月、総務部長に就任。2009年(平成21年)6月23日、芦別市副市長に就任。2015年(平成27年)5月、副市長退任。_NEWLINE_芦別市長の今野宏が芦別温泉スターライトホテルなどを運営する芦別振興公社の経営悪化の責任を取るとして、2017年(平成29年)1月20日付で辞職。同年2月19日告示、2月26日執行の市長選挙に立候補し無投票で初当選した。
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Q7080068
_START_ARTICLE_ 荻野駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 単式ホーム1面1線を有する地上駅。以前は島式ホーム1面2線であったが、駅舎寄りの旧下り線の線路が撤去された。_NEWLINE_新津駅管理の簡易委託駅となっており、発券業務が喜多方市に委託されている。駅舎内には切符売り場の他、待合室、自動販売機等がある。水洗式便所がある。
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Q11619326
_START_ARTICLE_ 菅牟田駅 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 歴史上、菅牟田駅を称した駅は2つ存在する。いずれも宮田線磯光駅あるいは同じ位置にあった信号場から分岐する貨物支線にあった駅で、貝島炭礦から産出される石炭を搬出する専用鉄道との接続のために設けられ、貝島炭礦の閉山とともにその役目を終えた。_NEWLINE_初代の菅牟田駅は1904年(明治37年)に、後に磯光駅が設置された場所に存在した信号場(菅牟田分岐点)から分岐する支線の終点に設けられた。営業上の起点は勝野駅で、営業マイルは2.7マイル、分岐点からは1.1マイルの位置である。_NEWLINE_1910年(明治43年)には、菅牟田分岐点から1.0マイルの位置に分岐点(第二菅牟田分岐点)が設けられ、第二菅牟田駅に向かう支線(0.4マイル)がさらに分岐した。1911年(明治44年)には、第二菅牟田分岐点と菅牟田駅(初代)の路線が廃止され、同日、第二菅牟田駅が2代目の菅牟田駅に改称された。磯光駅からの営業キロは2.2kmであった。
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Q6606717
_START_ARTICLE_ 菅舜英 _START_PARAGRAPH_ 菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19日- 昭和31年(1956年)5月27日)は石川県羽咋郡生まれの僧侶、大正、昭和時代の社会主義者、後に国家社会主義に転向。 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 井上円了の東京哲学館、東京神学院で学び、西本願寺北海道開教の僧侶として渡道。本山特命布教使として各地で布教講演を行う。_NEWLINE_日露戦争で従軍布教使として従軍し、乃木希典大将に講話を披露。以後、シベリア出兵などで中国、ロシアへ度々渡る。勇払郡安平村(現・安平町)安立寺住職に就いてからは、言論出版に精を出す。個人雑誌「同志」「浄土」「他力」などを発行し、新聞雑誌への論文投稿も数多い。_NEWLINE_交友関係は広く、本願寺の改革運動で知り合った赤松克麿とも親しく、赤松のすすめで社会民衆党公認で衆議院議員選挙に戦前だけで3度立候補している。当初はロシア革命に共鳴して社会主義を唱えたが、赤松と行動を共にするなかで次第に右傾化し、日本国家社会党、国民協会、日本革新党の結党などに参画している。1937年(昭和12年)の国政選挙では、赤松が北海道から出馬する手引きをし、選挙事務長を務めた。_NEWLINE_若きアイヌ活動家辺泥和郎は菅の思想に影響を受けたという。
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Q31749
_START_ARTICLE_ 華佗 _START_SECTION_ 『三国志演義』における華佗 _START_PARAGRAPH_ 小説『三国志演義』では、第15回から登場する。董襲の提案と虞翻の仲立ちにより孫策の元に現れ、宣城にて孫権を救い出すため重傷を負った周泰を治療したり、斬殺した許貢の食客に襲われた孫策を治療したりしている。_NEWLINE_また第75回では、曹仁との戦闘で毒矢の傷を受けた関羽を治療するため、荊州に自らの意思で出向き、右腕の肘の骨を削ってトリカブトの毒を除いている。この時、関羽は治療中には腕を柱に固定した方がよいとの華佗の提案を断り、酒を飲みながら平然と馬良を相手に碁を打っていたと描写されている。華佗は関羽の強靭さに多いに驚き、関羽もまた黄金百両の礼を申し出たが、華佗は「私がここに来たのは将軍の仁義を慕っての事」と告げ、それを断り去っていった。正史の「関羽伝」にも同様の逸話があるものの、治療した医者が華佗とは書かれていない。また実際の年代から言うと、この事件は既に華佗が没した後の、建安24年(219年)にあたる。_NEWLINE_その後の第78回で、神木を切った後に頭痛に苦しむようになった曹操に召し出される。華佗は病根が脳中にあるため、薬の治療は効かないと診断し「まず麻肺湯を飲み、その後に斧をもって脳を切り開き、風涎を取り出して根を除きます」と治療法を告げる。このため、曹操が華佗に対し「お前はわしを殺す気か」と怒るが、華佗は関羽が肘の骨を削られても動じなかった事を引合いに出す。しかし曹操は「脳を切り開く治療法など聞いたことがない。お前は関羽と親しかったな。これを機に関羽の仇を討つつもりであろう」とさらに怒り、華佗を投獄して拷問にかけた末に殺してしまう。この時、荀彧が既に死んでいたため、命乞いした人物は賈詡に代えられている。_NEWLINE_華佗は医書である「青嚢書」を残し、毎日華佗の世話をしていた呉という姓の獄吏(周囲から「呉押獄」と呼ばれている)に死の直前に渡している。しかし獄吏の妻は「たとえ華佗のように医術を極めても、結局は獄死するのでは何もならない」といい、夫の身を案じて焼き捨ててしまう。僅かに焼け残った箇所は、鶏や豚の去勢術などという有り様になっている。_NEWLINE_華陀の手術については、『三国志』と『後漢書』に記載がある。彼は腹部を開いて患部を切除し、腹腔を洗浄し、切開部を縫合し、薬草の軟膏を塗って傷口の治癒を促した。また、麻沸散とよばれる粉末の麻酔薬を考案し、手術の前にブドウ酒とともに投与して、患者の意識を失わせたとある。その処方の詳細は現代に残っていないが、チョウセンアサガオ・アコニット根・シャクナゲ・ジャスミン根を含んでいたと考えられる。著書は多かったが残っていない。中国では近代までにおいて、手術は儒教の教えに反するとされたため、西洋の医師により考えが導入されるまで行われなかった。
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Q11620931
_START_ARTICLE_ 葛山二郎 _START_PARAGRAPH_ 葛山 二郎(くずやま じろう、1902年3月28日 - 1994年5月16日)は日本の小説家。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 大阪府出身。神戸高等工業学校中退、東京自動車学校卒業。_NEWLINE_中学を卒業後、1923年に「噂と真相」が雑誌『新趣味』の懸賞で1等に入選する。_NEWLINE_1927年に「股から覗く」が雑誌『新青年』の懸賞に入選する。_NEWLINE_代表作は、陪審裁判を扱った法廷ミステリの「赤いペンキを買った女」(『新青年』1929年12月号)。同作で、刑事弁護士の花堂琢磨をシリーズキャラクターとしてデビューさせている。 _START_SECTION_ エピソード _START_PARAGRAPH_ 帝銀事件の際、たまたま犯人のモンタージュ写真と似ていたため、容疑者として密告されたことがある。その話を横溝正史に話したところ、それがのちに『悪魔が来りて笛を吹く』の構想へとつながったという。
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Q26723651
_START_ARTICLE_ 葦 (駆逐艦) _START_SECTION_ 艦歴 _START_PARAGRAPH_ 1920年(大正9年)11月15日、神戸川崎造船所で起工。1921年(大正10年)9月3日午前7時30分進水。同年10月29日竣工。_NEWLINE_1927年(昭和2年)の美保関事件において、軽巡洋艦「那珂」と衝突事故を起こし大破。1928年(昭和3年)3月、舞鶴工作部で修理完成。1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)まで、日中戦争において華北沿岸の作戦に参加した。_NEWLINE_1940年(昭和15年)2月1日に除籍。同年10月15日、雑役船に編入され海軍航海学校付属の練習船となる。1944年(昭和15年)12月15日、葦 (橘型駆逐艦)(のち建造中止)との区別のため、第二泊浦(だいにとまりうら)に改称。1945年(昭和20年)7月11日、横須賀突撃隊の母艦となるが、後に東京湾第二海堡に擱座。1947年(昭和22年)に解体された。
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Q59779594
_START_ARTICLE_ 葵蜜柑 _START_PARAGRAPH_ 葵 蜜柑(あおい みかん、1981年8月9日 - )は日本の男性漫画家。A型。 _START_SECTION_ 経歴・特徴 _START_PARAGRAPH_ 当初はイラストレーターを目指していた。漫画は素人の状態から始めた、という。競馬のファンで、登場人物の名前を競走馬に因んでつけることが多い。
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Q2083390
_START_ARTICLE_ 蒔絵 _START_PARAGRAPH_ 蒔絵(まきえ)は、漆工芸技法の一つである。_NEWLINE_漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法である。金銀の薄板を定着させる「平文(ひょうもん)または、平脱(へいだつ)」や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む「沈金(ちんきん)」、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「螺鈿(らでん)」などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つである。_NEWLINE_日本国内に現存する最古の蒔絵資料は正倉院宝物の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)」の鞘に施された「末金鏤作(まっきんるさく)」であり、これは2009~2010年に行われた宮内庁正倉院事務所の科学的な調査研究によって、研出蒔絵であることが確認されている。 _START_SECTION_ 蒔絵の起源 _START_PARAGRAPH_ 蒔絵の起源は、常に国内最古の資料である「金銀鈿荘唐大刀」と合わせて論じられてきた。_NEWLINE_1878年、黒川真頼は「金銀鈿荘唐大刀」は渡来のものであるが、その技法「末金鏤」は「平塵」であって蒔絵ではないとし、蒔絵の起源を平安時代の日本の資料に求めた。_NEWLINE_1932年、六角紫水は「末金鏤」を金属粉と漆をあらかじめ練り合わせたもので絵を描いた「練描」であって蒔絵ではないとし、黒川と同じく平安時代の日本の資料にその起源を求め、吉野富雄、松田権六らもこの説を支持した。_NEWLINE_同じく1932年、吉野富雄はこれまで一般に「末金鏤」と技法名のように称されて使われていた、正倉院の献物帳「国家珍宝帳」に記載してある「鞘上末金鏤作」の表記を紐解いて、これは完成品を観察して「末金(金粉)を以って鏤して(散りばめて)作られたもの」という意味で記載したものであって、その製作技法を規定したものではないとし、「末金鏤」という技法はそもそも存在せず、渡来した「金銀鈿荘唐大刀」の装飾を実態のまま文字に起こした記号的な意味合いのものであるとした。また、正倉院の献物帳以外には「末金鏤」という現物も他の文献記述もないことから、勝手に「末金鏤」と略さず、原文のまま「末金鏤作」と用いるが正しいとしている。 _NEWLINE_このように明治から戦後頃までの論考では、「末金鏤作」が渡来品であることを認めつつも、「末金鏤作」が「蒔絵」ではないことを論拠として蒔絵の日本起源説が唱えられてきた。_NEWLINE_1953~1955年の正倉院事務所の調査によって、吉野らとともに「金銀鈿荘唐大刀」の実物を目にした松田権六は1964年、「末金鏤はまさしく後のいわゆる蒔絵の技法になるもの」と判定し、これまで支持してきた六角の「末金鏤=練描」説を否定した。_NEWLINE_その一方で、交流があり松田自身「蒔絵界の先覚」と尊敬していた吉野の「末金鏤という技法名は存在せず、末金鏤作とするが正しい」という説をも否定し、「末金鏤」を初期蒔絵の技法名とした。さらに、「末金鏤と中国ふうによばれているのは奈良時代には蒔絵という言葉が、まだ、できていなかった一証拠としてよい」として、「金銀鈿荘唐大刀」が日本で作られたものであることを示唆した。_NEWLINE_その上で「この末金鏤すなわち蒔絵の技法は中国には今までのところみられないので、わが国でこのころ創始されて発達した」とし、日本起源説を維持した。_NEWLINE_この松田による発表は、著書「うるしの話」が漆工芸界のベストセラーであったことも相まって、その後「末金鏤という初期の技法で作られた金銀鈿荘唐大刀が蒔絵の最初のもの」という説が広く浸透していくこととなる。_NEWLINE_しかし、翌1965年に松田は中国を訪問。同年末に淡交新社より発刊された荒川浩和らとの共著『日本の工芸2 漆』の技法解説の「蒔絵」の項では、「それ(蒔絵)が日本独特のものだという説もあるが、最近の中国での発掘調査では、その説は訂正されなければならないであろう」として、蒔絵日本起源説の見直しを示唆した。また、発行は松田の没後であるが、1993年に再版された著書「うるしの話」の付記には「蒔絵らしいものを中国の戦国時代(紀元前403~紀元前221年)の遺品に見た」と補足されている。_NEWLINE_2002年、田川真千子は東大寺献物帳に記載されている単語やその類例を広く比較検証し、「金銀鈿荘唐大刀」の「末金鏤作」について、「末金鏤という技法名は存在せず、現物から観察的に記述したもの」として、吉野富雄と同様の結論に達している。
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Q11621286
_START_ARTICLE_ 蒲原鉄道線 _START_SECTION_ 計画立案から開業まで _START_PARAGRAPH_ 村松藩3万石の藩庁・村松城の城下町で、また大日本帝国陸軍歩兵第30連隊の駐屯地を擁する軍都でもあった中蒲原郡村松町は、蒲原地方における政治・物流の中心地として古くより繁栄した地域であった。しかし、村松町は近隣に敷設された北越鉄道(現・信越本線の一部)および岩越鉄道(現・磐越西線)のルート選定に際して、いずれの敷設ルートからも外れ、さらに歩兵第30連隊が設立された明治29年に出願された蒲原鉄道、村松鉄道も却下されてしまった。時代はながれ大正時代になると同町内にも鉄道路線を敷設したいとする地元有志の要請が高まり、また陸軍側からも物資輸送に供する目的で鉄道敷設を要望された。それらを受ける形で、中蒲原郡川内村において白滝鉱山を保有する日本電気製鉄の社長職にあった元鉄道省運輸局長の朝比奈林之助を中心とした発起人40名で、磐越西線五泉駅より村松町を経由して川内村に至る路線を第一期開業区間、ならびに村松町より分岐して信越本線加茂に至る路線を第二期開業区間として、1919年(大正8年)7月に第一期開業区間について敷設免許を申請し、翌1920年(大正9年)1月29日付で免許された。資本金は40万円(8000株)でその1/3を日本電気製鉄もしくは朝比奈が引き受けることであったが、地方鉄道補助法による補助金を得られることから50万円に変更し同年3月から株式の募集を始めた。_NEWLINE_しかし、敷設免許が下りた同時期には、第一次世界大戦終戦に伴う戦後恐慌によって鉄価格が暴落したことから、鉄鉱石を産出する白滝鉱山も事業縮小を余儀なくされた。また五泉町や村松町、近郷の資本家からの株式応募も芳しくなく鉄道計画は停滞していた。ようやく2年後の1922年(大正11年)に資本金28万円(5600株)として会社設立にむけて動き出した。この時に朝比奈は創立委員から抜け、村松町、菅名村、川内村、十全村の有力者が中心となった。定款を作成しなおし、第一期開業予定区間のうち、白滝鉱山から産出される鉄鉱石輸送を主眼として計画された村松町 - 川内村間については建設計画を白紙化し、五泉 - 村松間を第一期開業区間とするよう計画を変更した。その後、村松駅の設置箇所を巡って発起人間で対立が生じ、会社設立に伴う株式募集に際して証拠金払込を拒否する発起人も現れる事態を招いたが、最終的に証拠金払込を拒否した発起人を除名することで事態の収拾を図り、1922年(大正11年)9月22日に蒲原鉄道株式会社(資本金25万円)が設立された。_NEWLINE_翌1923年(大正12年)3月18日より建設が開始され、同年10月20日に五泉 - 村松間 (4.2km) が開業した。軌間1,067mmの電化路線(直流600V・架空電車線方式)として開業した蒲原鉄道線は、新潟県下における初の電化路線であった。村松町 - 川内村間の建設はその後断念され、1927年(昭和2年)3月31日に村松 - 加茂間の第二期開業区間の敷設免許を取得、しかし昭和金融恐慌の時期でもあり資金調達に苦労したが金津村の石油王中野忠太郎の助力により解決できた。1930年(昭和5年)7月22日に村松 - 東加茂間 (15.2km) が、同年10月20日には東加茂 - 加茂間 (2.5km) がそれぞれ開通し、五泉 - 加茂間 (21.9km) の全線が開通した。 _START_SECTION_ 開業後 _START_PARAGRAPH_ 開業当初の停車場は五泉・村松・西村松・大蒲原・七谷・東加茂の6箇所で、西村松を除く5駅はいずれも列車交換設備を有した。また、加茂駅は鉄道省の管理駅(停車場)であった。その他停留所が今泉・寺田・高松・土倉・冬鳥越・狭口・駒岡・陣ヶ峰の8箇所開設され、駅(停車場・停留所)の改廃は路線廃止時以外においては行われなかった。貨物列車の省線への受け渡しは五泉駅を介して行われ、蒲原鉄道線内を発着する貨物・小荷物類は、蒲原鉄道線(会社線)を表す「社」の文字を付した「(社)五泉」発着扱いで運行された。_NEWLINE_第一期開業区間である五泉 - 村松間は通勤・通学需要が高く、輸送密度も高水準で推移したものの、第二期開業区間である村松 - 加茂間については沿線人口が希薄であったことから開業当初より苦しい運営を強いられた。また、路線敷設目的の一つであった五泉 - 加茂間の連絡用途については期待されたほどの需要がなかったことから、運行系統は村松を境に事実上分断された。五泉 - 加茂間直通列車の設定はあったものの、村松において時間調整のため30分以上の停車を強いられるなど、直通列車として機能しているとは言い難い状態であった。また貨物輸送については、主な出荷物が米穀であったことから、米穀の出荷時期である秋季を除いて需要は低迷した。年間輸送量は最盛期においても10万t程度に留まり、1957年(昭和32年)以降定期貨物列車の運用は消滅した。_NEWLINE_1961年(昭和36年)8月当時における運行ダイヤは、五泉 - 村松間28往復、村松 - 加茂間14往復で、加えて東加茂発村松行の不定期列車が1本設定されていた。所要時分は五泉 - 村松間が8分(表定速度31.5km/h)、村松 - 加茂間17.7kmが42分30秒(表定速度25km/h)であった。その他、不定期の貨物列車が設定されていた。_NEWLINE_また蒲原鉄道線は自然災害とも無縁ではなく、1963年(昭和38年)1月の「三八豪雪」においては全線が約1ヶ月間にわたって不通となり、また1967年(昭和42年)8月の「羽越豪雨」と1969年(昭和44年)8月の「加茂市水害」の二度にわたって水害に見舞われ、道床流出など全線で甚大な被害を蒙ったものの、その都度復旧工事が行われた。 _START_SECTION_ 路線縮小 _START_PARAGRAPH_ 1960年代後半以降の日本国内において、自家用車の普及に伴う車社会化(モータリゼーション)の進展から利用客が急激に減少し、経営が困難となる地方私鉄路線が数多く現れたが、蒲原鉄道線もまたその例外ではなく、1967年(昭和42年)度をピークに利用客数が減少に転じた。特に元より沿線人口が希薄であった村松 - 加茂間のいわゆる「加茂線」区間においてそれが顕著に現れ、経営的に負担となりつつあったことから、蒲原鉄道線においては一部停車場における交換設備の撤去や、駅員の常駐廃止・無人駅化など、人員ならびにコスト削減を実施した。さらに1978年(昭和53年)10月1日より、朝夕ラッシュ時間帯に運行される列車を除く全列車について、新潟県下の鉄道路線においては初となるワンマン運転方式を導入するなど経営合理化に努めた。_NEWLINE_1978年10月1日からのダイヤでは、全線通し列車のほか、五泉 - 村松間に多数の区間列車、早朝に東加茂発村松行が1本(加茂発五泉行の初列車のうち1両を東加茂駅で分割し、分割した車両が後続の東加茂始発村松行の列車となった)、大蒲原発五泉行が1本(往路の村松 → 大蒲原間は回送列車)、全線通し運転の貨物列車が2往復設定されていた。列車交換は主に村松、七谷で行われ、朝夕ラッシュ時は大蒲原でも行われていた。_NEWLINE_しかし、利用客の減少は止まらず、1981年(昭和56年)度における利用者数はピーク時の約3割にまで激減した。前述「加茂線」区間については、路線延長は蒲原鉄道線全体の約8割を占めるにも関わらず、利用者数は全体の約3割程度であったことから、同区間については鉄道線としての存続を断念し、バスへの転換が決定された。同区間と併行する国道290号の拡幅改良工事完了を機に、1985年(昭和60年)4月1日付で村松 - 加茂間 (17.7km) が廃止され、蒲原鉄道線は第一期開業区間に相当する五泉 - 村松間 (4.2km) のみに縮小された。_NEWLINE_なお、末期においては五泉 - 村松間に1往復の不定期運用が設定されているに過ぎなかった貨物輸送については、1984年(昭和59年)2月1日に実施された日本国有鉄道(国鉄)のダイヤ改正に際して五泉駅の貨物取り扱いが廃止されたことに伴って、同日付で廃止となった。 _START_SECTION_ 全線廃止 _START_PARAGRAPH_ 路線縮小後の蒲原鉄道線は、五泉 - 村松間に1日26往復(平日)の列車が設定され、朝の通勤・通学時間帯に1往復運行される2両編成の車掌乗務列車を除いて、全列車とも単行列車によるワンマン運転が行われた。_NEWLINE_閑散区間であった村松 - 加茂間を廃止したことで、一時的に輸送密度・営業係数とも改善した蒲原鉄道線であったが、利用客の自家用車ならびにミニバイクへのシフトは止まらず、年間輸送人員は1990年(平成元年)度・1991年(平成2年)度の2年間のみわずかに微増傾向を示したものの、以降年々減少の一途を辿った。1996年(平成7年)度の輸送密度は860人/日で、路線縮小初年度の1985年(昭和60年)度の1,554人/日と比較して4割以上減少した。加えて同時期には軌道・施設や運行車両の老朽化が深刻な状況となった。特に全車とも主要機器の経年が70年を超過した運行車両については物理的な寿命を迎えつつあり、各種施設の改修ならびに運行車両の早急な代替を実施する必要に迫られた。_NEWLINE_以上の状況を鑑み、蒲原鉄道は蒲原鉄道線の存続断念ならびにバス転換を決定し、1999年(平成11年)3月31日限りでの路線廃止を沿線自治体である五泉市側に通告した。しかし五泉市は廃止に反対の立場を表明し、合意に至らなかったことから存廃は一旦宙に浮いた状態となった。その後五泉市が廃止を了承、1999年(平成11年)6月に代行バスの概要が決定し、同年9月には運輸省(現・国土交通省)の運輸審議会において蒲原鉄道線の廃止が許可され、同年10月4日付で全線廃止となった。_NEWLINE_この鉄道線の廃止に伴い、新潟県の私鉄事業者は蒲原鉄道廃止から2015年までの間、当時開業して間もなかった第三セクターの北越急行のみとなったが、2015年よりえちごトキめき鉄道が参入して再び複数の社が路線を運営することとなった。_NEWLINE_なお、区間縮小ならびに全線廃止に際しての代替交通機関については「蒲原鉄道#路線」を参照されたい。 _START_SECTION_ 廃線跡 _START_PARAGRAPH_ 部分廃止区間については、高松 - 村松間の廃線跡が農地改良によってうしなわれた他は、おおむね農道に転用もしくは軌条・架線・架線柱を撤去した状態でそのまま存置されている。加茂 - 東加茂間の加茂川橋梁はJR信越本線と共有されていたため、複線の信越本線と併せて三線分の幅員があり、廃止後も蒲原鉄道の架線・レールが撤去された他は枕木などもそのまま残っている。また、JR信越本線加茂 - 羽生田間には蒲原鉄道線が信越本線を乗り越していた線路橋の橋桁と築堤が残されており、新潟方面に向かって右手の築堤上には陣ヶ峰駅のホーム・階段が残存する。その他、七谷駅は駅舎・ホームとも残存し、土倉・高松両駅はホーム跡が残るほか、冬鳥越 - 土倉間に存在した土倉隧道が廃線当時そのままの状態で放置されている。_NEWLINE_残存区間の廃止後については、村松・今泉・五泉の各駅ともホームなどの撤去が廃止後間もなく実施され、一部区間に路盤跡が残るのみである。
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Q10311280
_START_ARTICLE_ 薛篤弼 _START_SECTION_ 北京政府時代の活動 _START_PARAGRAPH_ 公立山西法政学校を卒業し、1911年(宣統3年)に中国同盟会に加入した。1912年(民国元年)の中華民国成立直後は、山西省で審判庁の役職を歴任する。_NEWLINE_1914年(民国3年)、馮玉祥率いる陸軍第16混成旅で秘書長兼軍法処処長に任ぜられ、以後、薛篤弼は馮配下として活動する。馮が陝西督軍になると、薛は陝西省内で県長を歴任する。1922年(民国11年)4月、署理陝西省財政庁庁長に任ぜられた。翌月、馮が河南督軍に転じたため、薛もそのまま署理河南省財政庁庁長に横滑りしている。_NEWLINE_1923年(民国12年)1月、薛篤弼は北京政府中央に召還され、署理司法部次長に任命された。3月、蒙疆善後委員会委員に任ぜられている。5月に国務院秘書長暫定代理、7月に京師税務監督暫定代理も兼ねた。翌年9月、内務部次長となっている。馮玉祥による北京政変(首都革命)勃発後、薛は王芝祥の後任として京兆尹に起用された。1926年(民国15年)9月、五原誓師により国民軍が国民聯軍に改組されると、薛は国民聯軍総司令部財政委員会委員長の要職に就いている。 _START_SECTION_ 国民政府時代の活動 _START_PARAGRAPH_ 1927年(民国16年)6月、河南省政府委員兼財政庁庁長に任ぜられ、同年8月、国民政府の初代内政部部長に抜擢された。翌年1月、河南省民政庁庁長(国民政府内政部長と兼任)に転じている。10月には初代の国民政府衛生部部長となった。1929年(民国18年)3月、中国国民党第3期中央候補執行委員に選出された。1930年(民国19年)、北平で反蒋介石派の中央党部拡大会議が開催されると、薛篤弼もこれに参加し、宣伝部委員に任ぜられた。_NEWLINE_反蒋介石戦争終結後、薛篤弼は中国国民党の主流派に復帰した。以後も中央候補執行委員に選出され、第5期途中の1936年(民国25年)7月に中央執行委員に昇格している。1941年(民国29年)7月、行政院全国水利委員会主任委員に任命された(1946年(民国35年)6月、水利委員会委員長に改組)。1947年(民国36年)4月、水利委員会の水利部改組に伴い、そのまま部長となっている。1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に選出された。_NEWLINE_中華人民共和国成立後、薛篤弼は大陸に留まった。中国人民政治協商会議全国委員会委員、上海法学会理事、上海律師協会副主任、中国国民党革命委員会(民革)中央委員などを歴任している。_NEWLINE_1973年7月9日、上海市で死去。享年82。
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Q11622445
_START_ARTICLE_ 薬師寺 (掛川市) _START_SECTION_ 由来 _START_PARAGRAPH_ 本寺の本尊は薬師瑠璃光如来だが、脇仏として月光菩薩、十二神将の各木像も祭る。_NEWLINE_元正天皇の養老7年(724年)に行基菩薩が作ったという像を安置した。その後、正保4年(1647年)、横須賀城主の本多利長の信仰が厚く諸堂が多く建立された。第36代了栄和尚の時代に、天台宗普門寺の末寺となった。延享2年(1745年)時の住職元栄は、旧西大渕村の住人、土屋孫六なる者の信仰によって堂宇を再興したが、文政6年(1823年)8月の火災によって堂宇ことごとく焼失した。其後は仮堂であった。_NEWLINE_明治維新後は寺門が哀微し、寺禄も他の者へ移譲され非常に困窮であった。_NEWLINE_しかし住職の順澄が上野輪王寺境内を給わったといい伝えられている。_NEWLINE_1882年(明治15年)より田中行清は当山に住み、日夜勤勉誠実専ら農業に励み、或は各所に托鉢して教化に勉めたので、その功徳により、一時所有地が他に移っていた田畑をことごとく取戻して寺のものとし、本尊を安んずることができた。行清は1888年(明治21年)4月当寺に於て没した。行年70歳であった。_NEWLINE_1900年(明治33年)田中良願の代に本堂が建替えられ現在に至っている。 _START_SECTION_ 境内堂宇 _START_PARAGRAPH_ 地蔵堂
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Q56353554
_START_ARTICLE_ 藤井監物俊怕 _START_PARAGRAPH_ 藤井監物俊怕とは、幕末の秋田藩の藩士。_NEWLINE_佐竹義堯の時代の安政4年(1857年)6月11日に副役、その後に評定奉行、町奉行などを勤めた。書などの趣味人で、名は俊怕、称は監物、号は松窓や此面(しめん)。_NEWLINE_『秋田人名大事典・第二版』(秋田魁新報社、2000年)のP486には、絵島生島事件(1714年1月12日)で八丈島に流罪になった幕臣・小普請方の金井六右衛門の妻は藤井の姉と書かれている。
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Q47499928
_START_ARTICLE_ 藤前 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 名古屋市港区南西部に位置する。東は南陽町七島新田、西から南は海部郡飛島村、北は藤高に接する。 _START_SECTION_ 町名の由来 _START_PARAGRAPH_ 藤前の名は藤高前新田の通称に由来する。
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Q11623133
_START_ARTICLE_ 藤原大継 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 光仁朝において、従五位下に叙爵したのち、宝亀8年(777年)少納言、宝亀10年(779年)伊予介に任ぜられる。_NEWLINE_桓武朝に入り、天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱に伴い父・浜成が連座して参議を解任されると、大継もその影響を受けたらしく、桓武朝の前半は官職に就いた記録がない。延暦8年(789年)大判事に任ぜられ官界に復帰すると、のち宮内少輔・備前介を歴任する。延暦11年(792年)後宮に仕えていた娘の河子が桓武天皇の皇子・仲野親王を儲けたのちは順調に昇進し、延暦25年(806年)迄に従四位下に至った。またこの間、下総守・大蔵大輔・伊勢守を歴任している。_NEWLINE_平城朝では左京大夫・典薬頭・神祇伯を歴任し、大同3年(808年)には従四位上に至る。大同5年(810年)1月4日卒去。
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Q11623437
_START_ARTICLE_ 藤原秀康 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 和田義盛の弟・宗実(宗妙)の子で、藤原北家秀郷流の養子となった藤原秀宗の子として誕生。_NEWLINE_北面武士、西面武士として院に仕える畿内近国の武士の一族で、下野守、河内守、備前守、能登守など国司を歴任し、富裕並びなき者とされた。後鳥羽上皇の討幕計画に参与し、有力御家人の三浦義村の弟・胤義を説得して味方に引き入れた。_NEWLINE_承久3年(1221年)の承久の乱では挙兵の際に京都守護・伊賀光季を攻め殺す。所従の押松に有力御家人へ宛てた義時討伐の院宣を持たせ使者として鎌倉へ送るが、押松は幕府方に捕らえられてしまう。_NEWLINE_『吾妻鏡』によれば、北条政子が御家人を説得するために鎌倉で行った演説で秀康は胤義と共に上皇に讒言した逆臣として名を挙げられており、幕府からは京方の中心人物と目されていたことがうかがえる。京方の大将軍として弟・秀澄と共に美濃国と宇治川で幕府軍と戦うが敗北。後鳥羽上皇は秀康らを見捨てて、乱を引き起こした謀臣として逮捕の院宣を出した。秀康は奈良に潜伏するが、10月に河内国で捕らえられ、秀澄と共に京で斬られた。_NEWLINE_優れた歌人であった弟・秀能は出家して許され、後に遠島された後鳥羽法皇を慕い隠岐島へ渡っている。
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Q21654468
_START_ARTICLE_ 藤沢市立湘南台中学校 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 昭和の後期に藤沢市立六会中学校と藤沢市立長後中学校のマンモス化解消のために、両校の学区の一部を変更して、藤沢市北部の湘南台に開校した。
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Q11624751
_START_ARTICLE_ 藤田太寅 _START_SECTION_ 人物・来歴 _START_PARAGRAPH_ 東京都出身。寅年に生まれたことから「太寅」と命名された。 _START_SECTION_ NHK時代 _START_PARAGRAPH_ 東京大学文学部社会学科を卒業後、1963年NHKに記者として入局。初任地は新潟局。東京に異動後は報道局経済部で当時の大蔵省、経済企画庁などを担当。その後大阪局報道デスクを経て報道局記者に復帰。「NHK特集」等の制作・演出を担当。1990年に解説委員となり、経済番組の進行役などを務め分かりやすい解説でお茶の間に親しまれた。1999年に定年退職。 _START_SECTION_ 大学教授に _START_PARAGRAPH_ 1999年4月、関西学院大学総合政策学部教授就任。日本経済論・メディア社会論を担当。ゼミ生を始め多くの学部生から親しまれ、人気教授となる。2005年3月、同大学客員教授。その後、日本たばこ産業(JT)監査役に就任。_NEWLINE_2006年3月、第52回前島賞受賞。 _START_SECTION_ 突然の脳出血・リハビリ _START_PARAGRAPH_ 2007年5月、石川県内で講演中に脳出血を発症。処置は早かったものの左半身が麻痺し、歩行が困難になる等の後遺症に苦しむ。医師からの教えで体を動かすことで逆に脳を刺激し、再建する「CI療法」というリハビリを行い3~4か月でまっすぐに歩けるようになった。_NEWLINE_2008年2月10日、NHKスペシャル『闘うリハビリ』に黒崎めぐみとMCとして出演、久々に古巣NHKの番組に登場。そこで自身の脳出血とリハビリの過程の一端を明らかにし、現代のリハビリ事情についてゲストの綾戸智恵らと考察した。
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Q11624974
_START_ARTICLE_ 藤谷俊雄 _START_PARAGRAPH_ 藤谷 俊雄(ふじたに としお、1912年7月2日 - 1995年2月11日)は、日本の歴史学者、部落問題研究家である。_NEWLINE_京都府京都市出身。生家は真宗大谷派の即現寺。京都府立第二中学校、1934年に高知高等学校文科甲類、1937年に京都帝国大学文学部史学科を卒業。1938年、治安維持法違反で検挙。その後、生家の住職、また京都市史編纂に参加。_NEWLINE_戦後、日本史研究会創設に参加。また1966年には部落問題研究所理事長兼所長に就任し、文化厚生会館問題によって奈良本辰也・林屋辰三郎・原田伴彦らが去った後の研究所再建に尽力。
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Q23947315
_START_ARTICLE_ 蜂谷由梨奈 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 群馬県前橋市上小出町出身。身長162㎝。共愛学園高等学校、慶應義塾大学総合政策学部卒業。 _NEWLINE_高校時代(2・3年時)は弁論大会全国2連覇している。_NEWLINE_大学時代はミス慶應コンテスト2011に出場しファイナリストに選出されたほか、テレビ朝日アスクに通っていた(2015年度合格者)。_NEWLINE_2015年、ミヤギテレビに入社。_NEWLINE_2017年1月4日から2018年12月28日までOH!バンデス第4部『ミヤギnews every.』のキャスターを務めた。_NEWLINE_2019年1月9日より『OH!バンデス』の水曜・木曜・金曜MCを務める。_NEWLINE_高校の同級生に元ファッションモデル、女優の柳田衣里佳がいる。
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Q17177074
_START_ARTICLE_ 蝉堰 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 鳴瀬川に取水部を構え、隧道(トンネル)による導水部分約1kmとそれ以外の開水路約7kmからなり、大崎平野を潤して土手川に注ぐ。蝉堰の開削は17世紀中ごろで、大崎周辺を治めていた石母田氏の指示により、万治3年(1660年)から約10年をかけ、海老田新蔵人良安を現場責任者とし、桧野二郎右衛門(肝入)・佐藤惣兵衛(検断)らによって造られた。当時まだ開発が進んでいなかった大崎平野は、鳴瀬川から標高60メートルの大地「台の原」を越したこの水道により新田開発が進み、永頼時代には6,500石となる石母田氏の知行高のうち、約40%を宮崎村と隣村で生産するまでになった。 _START_SECTION_ 人柱 _START_PARAGRAPH_ 台の原丘陵の通水は難工事で、現在と異なる場所から通水を試みたが、隧道の崩壊が激しく、失敗に終わった。その後、今の場所から水路と隧道を掘り進めたが、これも水が台の原を越えることはできなかった。そこで、当時13歳だった新蔵人の次男喜七郎を人柱にたて、通水を祈願したところ、豪雨となり、その勢いで水は台の原を越えていったと言われる。現在、舌状台地の先端に喜七郎を祭った「縁切り地蔵尊」がある。この地蔵尊は贅沢を遠慮するようにと「遠慮地蔵」、また若くして死んだ喜七郎の霊前を婚礼の行列が通れば縁が切れるということから「縁切り地蔵」とも呼ばれている。
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Q11626369
_START_ARTICLE_ 衣川孔雀 _START_PARAGRAPH_ 衣川 孔雀(きぬがわ くじゃく、1896年5月28日 - 1982年10月18日)は、日本の女優。_NEWLINE_スペイン公使館一等書記官牛円競一の娘で、本名を牛円貞子という。横浜市出身。実践女学校卒。1913年カフェで働くところを上山草人に見出されて衣川孔雀の芸名を与えられ、草人の「ファウスト」のグレートヒェン役でデビュー。松井須磨子に並ぶ女優との評価を受ける。妻・山川浦路のある草人の公然たる愛人となり、ヘンリック・イプセンの「ノラ」で主演したりする。1914年に草人との子である女児を生み、農家に里子に出すが病死、翌年にも女児を生むが病死。1915年頃草人を捨てて泉鏡花の弟子の歯科医寺木定芳と結婚。幼い頃より盗癖があり、1919年に万引きめいた事件を起こして演劇界を去る。1923年関東大震災の時鎌倉にあって寺木との間に生まれた二児を失う。草人はこの事件を小説『蛇酒』に書き谷崎潤一郎の推薦で刊行された。
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Q11626412
_START_ARTICLE_ 衣笠隆幸 _START_SECTION_ 著書 _START_PARAGRAPH_ ・衣笠隆幸選集1: 対象関係論の理論と臨床:クライン派の視点を中心に、岩崎学術出版、2017年
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Q1183543
_START_ARTICLE_ 装置 _START_PARAGRAPH_ 装置(そうち)とは、ある一定の機能を持った機構のひとまとまりのこと。また装置するという形で動詞としてそのような機構を、備え附ける事を指す。_NEWLINE_装置という言葉は、その物単体である程度定まった用途を持つ比較的規模の大きな構造を指す場合に用いられる。装置が土木・建築構造物や車輌や船舶などの大規模な機械類の構成要素となるとき、設備と呼ばれる。_NEWLINE_もともとは、apparatusの訳語として、明治期に考案されたものである。
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Q11626977
_START_ARTICLE_ 複合感覚 _START_PARAGRAPH_ 複合感覚(ふくごうかんかく)とは、二点識別感覚、皮膚書字覚、立体認知、二点同時刺激識別感覚といった知覚を含む高度な感覚である。触覚、痛覚といった感覚が正常であるのもかかわらず複合感覚が障害されている場合、皮質障害など視床より上位の障害が疑われる。
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Q1197358
_START_ARTICLE_ 襄汾県 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 1954年に襄陵県、汾城県が合併し成立した。県名は襄陵、汾城の漢字を組み合わせたものである。旧襄陵県は晋襄公の陵墓の所在地であり、旧汾城県は晋の国都が置かれた場所である。_NEWLINE_陶寺郷で発見された陶寺遺跡は、紀元前2500年から紀元前1900年の新石器時代後期の集落(都市)遺跡である。広大な集落は土壁で囲まれ、周囲には多数の墳墓があった。龍山文化の中でも現在のところ最大の都市遺跡である。
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Q1575941
_START_ARTICLE_ 西・ローゼン協定 _START_PARAGRAPH_ 西・ローゼン協定(にし・ろーぜんきょうてい、英語: Nishi-Rosen Agreement)とは、1898年4月25日に日本とロシアの間で結ばれた、韓国についての紛争に関する協定のこと。_NEWLINE_日清戦争における日本の勝利と、韓国国内政治への影響力の増大により、朝鮮半島への主導権に関する日露の緊張は増大し続けていた。特に、ロシアは公使がカール・イバノビッチ・ヴェーバーからアレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルに交代し、朝鮮の財政権を握ろうと、朝鮮に英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンを解職し露国人キリル・アレキセーフ (Kiril A. Alexeev)に代えることを強要したため、英国側は東洋艦隊を仁川に寄越して抗議する事件が起きた (度支顧問事件)。そのため、排露派の勢力が増していた。協定は東京において、日本の外務大臣西徳二郎男爵と駐日ロシア公使ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼン男爵の間で交わされた。協定文では、両国は韓国の国内政治への干渉を差し控え、かつ韓国政府の依頼で軍事または財政顧問を送る前に、互いに事前承認を求めることで合意した。_NEWLINE_ロシアは、韓国の商用・経済発展への日本の投資を妨害しないことを誓約し、それにより韓国が日本の勢力範囲になることを明確に認めた。代わりに、日本は満州におけるロシアの勢力範囲を暗黙に認めた。
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Q11628173
_START_ARTICLE_ 西川虎次郎 _START_PARAGRAPH_ 西川 虎次郎(にしかわ とらじろう、1867年9月28日(慶応3年9月1日) - 1944年8月18日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 福岡県出身。西川与一の二男として生れる。1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となる。1891年(明治24年)1月、陸軍戸山学校を卒業。1897年(明治30年)12月、陸軍大学校(11期)を卒業した。日清戦争出征のため、陸大を一時中退し戦後に復校している。1899年(明治32年)6月、参謀本部員となり、1900年(明治33年)には2月から5月、10月から12月と二度清国に派遣された。1902年(明治35年)2月、陸大教官を兼務。同年3月、イギリスに派遣された。_NEWLINE_日露戦争では、大本営兵站監部参謀となり、1905年(明治38年)1月、鴨緑江軍参謀として出征。さらに遼東兵站監部参謀長を務めた。同年11月、関東総督府参謀となり、陸大教官、第3師団参謀長などを経て、1913年(大正2年)3月、陸軍少将に進級。歩兵第19旅団長、関東都督府参謀長、参謀本部第4部長を歴任。1917年(大正6年)8月、陸軍中将となり、陸軍歩兵学校長を経て、1918年(大正7年)7月、第13師団長に親補されシベリア出兵に従軍。次いで第1師団長に就任。1922年(大正11年)8月、待命となり、翌年3月、予備役に編入された。
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Q7040336
_START_ARTICLE_ 西御坊駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 単式ホーム1面1線を持つ地上駅である。便所はホームの御坊方面側の端にあり、仮設タイプで男女共用の汲取式がある。夜間滞泊はなく、紀伊御坊駅まで回送される。_NEWLINE_かつては、駅の西側にあるダイワボウプログレス(当時は大和紡績)和歌山工場へ至る専用線(延長0.85km)が分岐していた。西川を渡る鉄橋があったほか、工場内に大きな貨物上屋があり、神戸港で陸揚げされた綿花などが貨車で到着していた。_NEWLINE_駅入口には長い間駅名表示がなかったが再塗装と共に「西御坊駅」の表示もされるようになった。現行の駅名標の左上に、「西御坊駅」と書かれた木製の古い駅名標が残されている。以前は配置された駅員から入場券および乗車券を購入できたが、2018年8月27日からの駅の完全無人化により、購入できなくなった。_NEWLINE_また、2003年7月まで当駅で使われていた「回転式乗車券箱」が、鉄道博物館の収蔵資料となっている。
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Q11628303
_START_ARTICLE_ 西新井町 (所沢市) _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 所沢市内の中央南部に位置し、松井地区に所属する。町域の中心を東川が東西に流れる。_NEWLINE_所沢航空記念公園の南側に隣接する町域で、同公園敷地を含む並木ほか、近隣の東新井町、旭町、御幸町、北有楽町と隣接する。_NEWLINE_町域北端の同公園との境に国道463号が東西に通り、特に「西新井町」交差点より東に並ぶケヤキ並木は北浦和駅入口交差点まで全長約17km続いており、「日本一のけやき並木」とされている。 _START_SECTION_ 地価 _START_PARAGRAPH_ 住宅地の地価は、2015年(平成27年)1月1日の公示地価によれば、西新井町6-25の地点で17万2000円/m²となっている。 _START_SECTION_ 鉄道 _START_PARAGRAPH_ 町内に鉄道は無く、最寄駅は西武新宿線航空公園駅(約700m北西)。また南側からは(同新宿線・池袋線)所沢駅が同程度の距離にある。
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Q11628481
_START_ARTICLE_ 西本豊弘 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 1971年、早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。1981年、北海道大学文学研究科日本史学専攻博士課程単位取得退学。1981年、北海道立札幌医科大学助手。1985年、国立歴史民俗博物館助教授を経て1998年より現職。
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Q11628889
_START_ARTICLE_ 西武バス練馬営業所 _START_SECTION_ 路線網の強化と営業所の移転 _START_PARAGRAPH_ 1960年代に入ると練馬区内では宅地化の進行と同時に道路も整備されていき、練馬駅とこれらを結ぶ路線が数多く新設される。北町の都営住宅には北町線(練馬駅 - 練馬北町)が、南部の豊玉・中村地区でも練馬鷺宮線(練馬駅 - 鷺宮二丁目)、練馬循環線(練馬駅 - 豊玉南一丁目循環)が開通、谷原地区には練馬と成増を結ぶ二番目の路線として「谷原線」が運行を開始した。1965年には東京都道318号環状七号線(環七通り)の開通に伴う路線免許の競願に対して、今度は数社に免許が下り、西武は高円寺線の運行を開始した。これについて社史には高円寺駅 - 練馬駅線が開業したとあるが、1969年の路線図によればこの路線は出入庫で、本線は池袋駅 - 高円寺駅となっている。このように新路線の開通が相次ぎ、営業所が手狭になったことから、1968年に営業所を現在の南田中に移転した。移転に伴い、新橋線が大泉営業所に移管されるなど、若干の路線調整があった。 _START_SECTION_ 一般路線の再編成と高速バス _START_PARAGRAPH_ この時代になると、交通量の増加によってバスは定時運行が出来なくなり、路線の整理も行われるようになった。特に練馬営業所は、他社が営業基盤を持つ地域に後から参入した路線が多かったため、運行が維持できずに路線単位で廃止されたものも少なくない。_NEWLINE_都心直通路線は最終的に丸山線と大久保線を担当していたが、前者は1969年、後者は1971年に廃止された。また、1960年代半ばころから1970年代後半にかけて、新宿線、成池線、練馬鷺宮線、練馬循環線、池袋線、高円寺線などの路線が次々に廃止され、西武バスは中野区内に路線をほとんど持たなくなった。井荻線は井荻駅 - 豊島園が短縮され、成増線と北町線は練馬駅西側の踏切渋滞を避けるために豊島園発着となり、さらに北町線は平和台駅が開業したことによって乗客が減少し、1984年に廃止された。この年にはグランドハイツ跡地に光が丘団地が完成したのに伴い、団地と成増・豊島園を結ぶ「光が丘団地線」の運行が開始され、街が成熟するにつれ主力路線となった。_NEWLINE_翌年には他社に先駆けて高速バス「東京 - 新潟線」が開業され、想定以上の収益をあげたことから路線網が拡張、練馬営業所はその運行を担うこととなった。1990年代は、都営地下鉄12号線の開通で路線の整理も実施されたが、2000年には都営地下鉄大江戸線に接続する土支田循環線のような新路線も開業している。_NEWLINE_2011年5月16日には高野台営業所が統合され、石神井循環線、石神井成増線、石神井荻窪線(上井草経由)が移管された。一方、西武観光バス練馬営業所の機能は高野台営業所跡に移転する。また時期を同じくして、路線バスのLED行先表示器(前面・後面)の系統番号表示が、四角枠内に頭文字と番号が上下均等に表示する書式から、系統番号と行先を縦棒で区切り番号を大きく表示(後面表示器では頭文字を縮小)する書式へ変更された。尚、2015年3月下旬からは、従来のLEDを改造して、新たに路線バス用に開発された「カラーLED」方向表示(前面・側面・後面いずれもカラーLED)車が、上石神井・滝山・新座等と共に出場、運用に入っている。 _START_SECTION_ 現行一般路線 _START_PARAGRAPH_ 路線名称は西武バスでの呼称によった。 _START_SECTION_ 一般路線車 _START_PARAGRAPH_ 一部を除き、日産ディーゼル→UDトラックスエンジンに富士重工製または西日本車体工業(西工)製車体、近年は三菱ふそう製エンジン純正車体の車輌が配属されている。音声機器はクラリオンからレゾナント・システムズ製に変更している。_NEWLINE_中型車はノンステップバスが上井草循環線、石神井循環線、石神井成増線、土支田循環線のほぼ全便を担当するが、2018年夏ごろから大型車による中型車の置き換えが始まると、これらの路線にも悪天候時や土休日を中心に大型車が充当されるようになった。_NEWLINE_大型車は、ノンステップ車が主に光が丘団地線、谷原線、成増線、ワンステップ車が主に石神井荻窪線(上井草駅経由)荻14で運行されている。CNGノンステップ車(A5-41) は谷原線専用で、2007年2月には練馬で大型ワンステップ車としては最初に投入されたKL-UA452MAN(A1-743)が高野台営業所へ転属したが、車両の補充はされていない。2008年3月、実に30年ぶりとなる日野自動車の大型車(日野・ブルーリボンシティハイブリッド・BJG-HU8JLFP)が導入された。_NEWLINE_高野台営業所の統合で、練馬営業所には在籍していなかった日産ディーゼルの富士重工業製7Eボディのフルフラットノンステップ車のKC-UA460KAMが転入して来て運行に付いたが、約1年で排ガス規制の影響により廃車された。転入時に練42系統、練高02系統等従来運行されなかった路線に運用に着いた記事が書籍に書かれていた。現在これらは除籍されている。同形式の西武バスの車両と関東バスの車両はディーゼル車であったので、スモークバスターの取り付けを行わないと使用できず、12年経ったので、地方に払い下げたりした。この日産ディーゼル+富士重工7EフルフラットノンステップバスKC-UA460KAM導入時には、西武バス初の本格フルフラットノンステップバス導入記念として京商に依頼し、同車のオリジナル模型を限定作成し、西武バスの営業所で販売した。_NEWLINE_土支田循環と練高03は日野・リエッセで運用されていたが廃車となったので、現在は日産ディーゼル+西工の中型車スペースランナーが使用されている。_NEWLINE_2017年8月、西工の中型車(A6-150)の代替としていすゞ自動車製の中型車・エルガミオ(A7-135)が右タンク仕様で導入された。 _START_SECTION_ 高速車 _START_PARAGRAPH_ 在籍車のほとんどが日産ディーゼル・スペースウィングで、製造年次により富士重工車体と西日本車体工業車体の車両が在籍している。2006年からはいすゞ2代目ガーラもが導入されている。金沢・氷見・富山線は3列シート車29人乗り(計12台)、高田・新潟・長野線は4列シート車34人乗りが使用される。ガーラのうち3台は、大泉学園駅 - 羽田空港・成田空港間の西武バス担当便新設に合わせて、所沢営業所から移籍している。42人乗りは石神井公園駅 - 羽田空港線、深夜急行に兼用で使用されている。_NEWLINE_近年、車体更新や新車導入の際に、従来のライオンズカラーからレジェンドブルー一色塗装に変更された車両も存在する。
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Q11628934
_START_ARTICLE_ 西武観光バス _START_SECTION_ 沿革 _START_PARAGRAPH_ 西武観光バスは、西武バスが1989年に秩父営業所を分社化するにあたり、1988年に西武秩父バスとして設立された会社である。秩父地域の路線は、戦前に秩父自動車によってその骨格が築かれ、これを現・西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が買収し、西武バスへと移行したものである。_NEWLINE_西武秩父バスの設立後は、西武バスより順次秩父市周辺路線の移管を受け、その後、西武バスが貸切バス部門の分社化を進めるにあたり、この受け皿として1996年に西武バスの埼玉県内における貸切バス事業も譲渡された。これに伴い、同年4月1日に社名を現在の西武観光バスに変更した。さらに、都内の貸切バス及び高速バスの一部も移管され、2017年4月1日には西武高原バスを吸収合併し、現在に至る。 _START_SECTION_ 現行一般路線 _START_PARAGRAPH_ 一般路線は、埼玉県秩父市野坂町にある秩父営業所と長野県北佐久郡軽井沢町長倉にある軽井沢営業所が担当する。なお、埼玉県小鹿野町に小鹿野車庫が、秩父市荒川贄川に分車庫として贄川車庫が存在する。_NEWLINE_PASMO・SuicaによるICカード乗車システムは、2008年10月10日から秩父営業所管内全線で導入された。 _START_SECTION_ 秩父営業所 _START_PARAGRAPH_ 2012年12月、秩父営業所管内の全路線で一斉に系統番号が導入されたが、西武バスと異なりアルファベットと数字を組み合わせた方式を採用している。_NEWLINE_以下の路線のうち、志賀坂・倉尾・横瀬・定峰・三沢・秩父吉田・三峰口・中津川の8路線は埼玉県より地域乗合バス路線確保対策費補助金の交付を受けて運行している。 _START_SECTION_ 現行高速路線 _START_PARAGRAPH_ 高速路線は原則大宮営業所で担当。千曲線、渋谷 - 軽井沢・草津線については、軽井沢営業所で担当。現在運行されているのは以下の路線である。 _START_SECTION_ 千曲線 _START_PARAGRAPH_ 東京都の新宿・池袋と長野県東信地方を結ぶ、4系統の昼行高速バス(千曲線)を千曲バスと共同で運行している。これらの路線は、軽井沢線の一部を除き、当初西武バスが運行していたものが西武高原バスに移管され、さらに同社の西武観光バスへの吸収合併により再移管された。 _START_SECTION_ 長岡新潟線 _START_PARAGRAPH_ 関東地方と新潟県を結ぶ高速バスを西武バス・越後交通・新潟交通と共同で運行していた。西武観光バスでは大宮駅発着便を担当していたが、2019年9月30日出発便をもって運行を終了した。 _START_SECTION_ 車両 _START_PARAGRAPH_ 貸切車および高速車は西武バスに準じている。日産ディーゼルがバス製造から撤退するまでは同社製の車両が中心だったが、現在は主にいすゞ自動車および日野自動車製の車両を投入している。_NEWLINE_秩父営業所の一般路線車は中型車(日産ディーゼルRM/いすゞ・エルガミオ)の割合が多く、閑散路線へ運用に入る。また、急行三峰神社線には用途外車が運用に入る。ちちぶ巡礼バスにはレトロバスを2台使用しており、その内の1台は「あの花」のラッピング車両となっている。_NEWLINE_軽井沢営業所の一般路線車は、都市部で一般的な路線タイプの車両はごく一部にとどまり、「用途外車両」と呼ばれるハイグレードな車両が多い。車両の最前部から最後部まで、2人がけの座席(ロマンスシート)が並んでいる。そのほかに、観光バスタイプの車両も導入されており、路線タイプと混合で使用されている。浅間白根火山線には、観光バスタイプが多く運用されていたが、2015年頃から一般路線タイプの車両も運用に入ることが増えてきた。山間部の道路が多く、起伏がある地形上、また、冬期の積雪等によりノンステップバスは導入しなかったが、2016年に西武バスから転入してきた車両はワンステップ車で、車高を嵩上げする改造を行い、運用に就いている。車両の塗装は、一部の車両を除き、ライオンズカラーで統一されていたが、2015年に転入した車両からは笹カラーの乗合車両が増えてきた。町内循環バス・塩沢湖線に使用される車両は、それ以前から西武バス特有の笹カラーであった。2017年7月16日より、一般路線バス車両のLED行先表示に系統別アルファベット表示が導入された。
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Q11629229
_START_ARTICLE_ 西田孝宏 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 福岡県大牟田市の出身。小学校2年生の時に周囲の友人が漫画『暗闇五段』の影響で市内にある角道場に通い始めた事が羨ましく、自ずと興味が湧いて父親に入門を乞うたのが斯道に入るきかっけとなった。最初は入門を拒んでいた父親も3日間泣きながら頼み込む孝宏に根負けし、「絶対に辞めんか?」との問いに孝宏が「絶対に辞めん」と返すと、最後は「わかった、柔道衣を買ってやる」と許可してくれという。_NEWLINE_角道場での週6回の道場通いも苦にせず稽古に打ち込んだ西田はメキメキと実力を磨き、「辞めたいと思った事は1度も無かった」と西田。道場内の昇級審査等では5~6人抜く事もしばしばであったという。_NEWLINE_なお、角道場は年齢に関係無く大人も子供も一緒に稽古を行うために自然と体格差に物怖じしない度胸が鍛えられ、後に高校や大学で自分より体格で勝る大柄な部員達と互角以上に渡り歩く礎が築かれていき、中学生になる頃には界隈でも西田の名を知らない者はいない程の存在になっていた。_NEWLINE_その後、市立甘木中学校を経て大牟田高校へ進学。同級生には角道場時代からの旧知の仲である杉野光雄(のち東海大学)らがいた。入部に際して西田は顧問の前原勝彦(のち大牟田市体育協会会長)から身長と体重を問われ、正直に「170cm・65kgです」と答えると、前原がポツリ「使えるかな…」と漏らしたのに衝撃を受けた。_NEWLINE_悔しさから、“1年でレギュラー獲得”を心に誓った西田は遮二無二稽古に励んで、2年生で迎える1974年のインターハイ(中量級)で優勝し、大牟田高校史上初の全国制覇を果たした。本人曰く、「“九州を制すれば全国を制する”と言われた時代だったから、全国大会でも不安は無かった」「一戦一戦を一生懸命に戦ったら優勝してしまった」との事。その上で、「エラい事をしてしまった」「これで来年負けたら笑われるんだろうなと、気持ちを引き締めながら帰った」と続ける。結果的に、翌75年にインターハイへ出た時には同じ中量級で一本勝を積み重ね2連覇を成し遂げた。_NEWLINE_一方、高校2年次に父親が脳溢血で倒れて職を失い、孝宏自身が父の入浴時の介護等を担っていた事や経済的な事情から大学への進学に二の足を踏んでいた頃、周りの親戚から「大学に行って頑張ってこい」とエールを送られたのがキッカケとなり、師・前原の母校でもある東京の国士舘大学体育学部へ進学し柔道をとことんまで極める決心をした。_NEWLINE_そのような事情もあり、国士舘大学時代の西田は遊びや女性に走る事も無く、わき目も振らず柔道に精進・邁進。代表合宿や国際大会出場の関係で部活動を一時的に離れる事もあったが、先輩から「お前が生意気だったら潰してやろうと思ったけど、真面目で一生懸命に練習するし、中々いい奴だな」と声を掛けられた事すらあったという。_NEWLINE_大学1年生の時に世界ジュニア選手権大会の中量級で優勝を飾り、西田は世界に通じる力を蓄えつつある事を自覚した。事実、1976年11月と77年11月の全日本新人体重別選手権大会では軽中量級にて連覇を果たし、約70kgの小柄な体格ながら大学では自分より大きい相手と相見えても負ける事はなかったという。_NEWLINE_大学3年次と4年次にはシニアの全日本選抜体重別選手権大会を連覇したほか、講道館杯で2年連続2位となって、同階級の第一人者に数えられた。_NEWLINE_1980年に国士舘大学を卒業後は同校に助手(選手兼コーチ)として残り、講道館杯を同年から1983年まで4連覇したものの、全日本選抜体重別選手権大会では4年連続2位に甘んじ、香月清人や中西英敏ら強豪が鎬を削る同階級において、五輪や世界選手権大会で代表の座を射止める決定打に欠けた。_NEWLINE_また、1981年にジャカルタで開催されたアジア選手権大会でも順当に勝ち上がって優勝したものの、現地では生水を飲まず食事にも配慮していたが、減量によって体力が衰えた所にチフス菌が重なったのが仇となって帰国後に腸チフスを患い、これが結果的に西田の柔道人生における転換点となってしまった。入院期間の1ヵ月半の間は生死の境を彷徨い、体重は10kg近く落ちて体力も以前より劣り、以後スタミナに不安を覚えた西田は持ち前であった攻撃的柔道が鳴りを潜めていった。_NEWLINE_それでも1984年と翌85年に全日本選抜体重別選手権大会を連覇し、講道館杯でも85年大会を制して、同年6月にソウルで開催された第14回世界選手権大会に日本代表として選抜された。ようやく掴んだ世界選本大会では、3回戦で相対した前年ロサンゼルス五輪覇者である安柄根との試合で中盤まで優位に進めたものの、試合途中で左足の十字靭帯と外側靭帯を断裂するアクシデントに遭い、結果7位で西田は大会を終えた。選手としてのピークを過ぎた28歳の西田にとっては精一杯の健闘であった。日本に帰国後は左足の大怪我の手術を受け、西田の足には今も手術痕がクッキリと残る。結果的にこの怪我が原因となって現役生活へのピリオドを余儀なくされた。_NEWLINE_同世代の好敵手に1歳年下で東海大学出身の中西英敏がおり、両者は国際大会出場を賭けて永年覇を競い合った。特に1984年のロサンゼルス五輪では、選考会となる全日本選抜体重別選手権大会で西田が優勝しながら全日本柔道連盟の選考で中西が選ばれたため、西田は終に五輪に出場する事は無かった。本人は「全日本選抜体重別選手権で4回、講道館杯で5回優勝して、世界選手権の代表に1度しか選ばれなかったのは私くらいでしょう」と前置きした上で、「山下泰裕や谷亮子のように断トツに強く、誰が見ても選ばれるような成績を残せていれば…」と述懐する。_NEWLINE_西田は現役を引退後、1987年に鹿屋体育大学の教員に着任した。東京都心部にあった母校・国士舘大学とは打って変わり九州のほぼ最南端に位置する鹿屋体育大学では、西田自ら7~8時間ハンドルを握って福岡県での試合へ遠征に出掛ける事もしばしばであったという。また、現役時代は自らの努力が試合での成績に直結したが、指導者となると、自分が頑張っても教え子の学生達に結果が付いてくるとは限らず、そのジレンマにも大いに悩まされた。それでも粘り強い熱心な指導の甲斐もあり、鹿屋体育大学時代には学生王者となった乙部将彦(のちアジア選手権大会3位)や原田堅一(のちフランス国際大会優勝)を筆頭に、全日本学生体重別選手権大会で上位に食い込む選手を輩出している。_NEWLINE_一方、山梨学院大学を訪問した際にスポーツへの理解の深さに感銘を受けた西田は、いつしか同大で柔道指導をしたいと思うようにもなっていった。_NEWLINE_山梨学院大学では当初、職員採用の予定は無かったものの、学長に熱意を直接伝える機会を得た西田は1996年1月に38歳の若さで柔道部を任される事となった。_NEWLINE_西田の指導の元で地力を着実に蓄えていった山梨学院大学は、2003年には全日本学生優勝大会で伝統ある名門校・明治大学に敗れはしたものの2-2の内容差に追い込む程に。この大会後に部員達に反省文を書かせたところ、「もう気後れしない」「勝てたんじゃないか」と前向きな感想が多く、西田は学生のメンタル面での成長も肌で感じたという。_NEWLINE_なお、その後2010年と11年には2年連続で3位入賞を果たしており、明治大学や東海大学、国士舘大学、天理大学、日本大学、筑波大学等と並んでいわゆる強豪校の1つに数えられるようになった。_NEWLINE_また、女子柔道部では2006年に全日本学生優勝大会(5人制)で初優勝したのを皮切りに、08年・10年・11年にも優勝し、2014年からは4連覇を果たしている。この間、浅見八瑠奈、山部佳苗ら後に世界で活躍する選手達を育成した。_NEWLINE_一方、西田はその卓越した指導力を買われ、全日本柔道連盟の日本代表コーチやユニバーシアード男子代表監督も務めている。_NEWLINE_現在は山梨学院大学にて、法学部政治行政学科の教授として教鞭を執る一方、同校の柔道部総監督として後進の指導に当たる。鹿屋体育大学時代の嘗(かつ)ての教え子達が“西柔会”と称すOB会を結成して定期的に西田の元に集い、その中には学生を山梨学院大学へ送り込んでいる者も現れた。西田は「教え子の教え子だから孫みたいなもの」と笑う。また全日本柔道連盟では、強化委員会や審判委員会の特別委員といった重責も担い、永く柔道界の運営にも携わっている。_NEWLINE_この他、理路整然とした分かりやすい説明と語り口から、五輪や世界選手権大会等の大規模大会では新聞ほかマスコミ媒体で試合解説を務める事もある。
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Q1416521
_START_ARTICLE_ 西遼河 _START_PARAGRAPH_ 西遼河(せいりょうが、Xiliao River、拼音: Xīliáohé)は、中華人民共和国の内モンゴル自治区東南部から遼寧省北部へ流れる河川。遼河水系に属する。_NEWLINE_内モンゴルの赤峰市に属するオンニュド旗とナイマン旗の境界で、遼河の源流・老哈河(ラオハムレン)と、その北を流れる西拉木倫河(シラムレン)が合流して西遼河が形成される。_NEWLINE_西遼河は赤峰市から通遼市へと東へ流れホルチン砂漠を通り、内モンゴル・遼寧・吉林の三省が交わる付近で、吉林省から流れてきた東遼河と合流し遼河となる。途中の主な支流には教来河、新開河などがある。
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Q282764
_START_ARTICLE_ 西郷県 _START_SECTION_ 事件 _START_PARAGRAPH_ 2019年、中央から派遣された汚職(掃黒除悪)の捜査チームが西郷県の警察、検察、政府幹部らの賭博を摘発。3人が免職や停職となった。
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Q11627034
_START_ARTICLE_ 西15丁目停留場 _START_SECTION_ 停留場構造 _START_PARAGRAPH_ 内回り電車は南1条通を西進し、西14丁目と西15丁目の交差点から大きく南にカーブする。この直後(南1条西15丁目)に当停留場が設けられている。_NEWLINE_2面2線の対向式。ほぼ真正面に内回り(西線6条方面)と外回り(中央区役所前方面)の安全地帯が向きあっている。安全地帯にはロードヒーティングが施され、上屋が設置されている。
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Q11630894
_START_ARTICLE_ 角館中継局 _START_PARAGRAPH_ 角館中継局(かくのだてちゅうけいきょく)は、秋田県仙北市(旧角館町域)に置かれているテレビとFMラジオ放送の中継局である。
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_START_ARTICLE_ 託す者へ〜My Dear〜 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ シングル作品としては前作「地球ぎ」以来3年振りの発表となる。_NEWLINE_タイアップ先オープニングテーマとなるMarina del rayの「女神の戦士〜Pegasus Forever〜」とのカップリング収録。_NEWLINE_前作では自作曲でのリリースとなったが、今作は歌唱のみを担当。
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Q233861
_START_ARTICLE_ 記譜法 _START_SECTION_ 五線記譜法 _START_PARAGRAPH_ 現在最も一般的な、水平に引かれた五本の線を用いる記譜法である。配置された各種の音符は5本の水平線によって音高が相対的に示される。垂直線は普通小節線だけであり、水平線のようには細かく書かれないので、音符や休符を順次並べ、それの持つ音価によって時間要素を示す。_NEWLINE_音高を絶対的に表すために普通音部記号を五線の左端などに置く。また、調を示し、その調の表記に便利なように、音部記号の次位に調号を置くことが多い。拍子記号はその次に置かれる。これらは五線の途中で変わるときには、そこに置かれる。音高の小さな半音単位の変化を示すためには、臨時記号を音符の左に置く。_NEWLINE_音楽の要素は音高と時間の2要素ではないし、この2要素ですら五線と音符だけでは十分に表しきれないので、さまざまな補助的な記号を用いる。それらは演奏記号と総称するのが普通である。演奏記号には、文字を用いて言葉によって示すものと、それ以外のマークやシンボルによるものとがある。(どちらも記号と呼ばれる。)_NEWLINE_声楽曲では歌詞が加えられる。_NEWLINE_また、合奏練習などのために、練習番号、小節番号といった楽譜上の位置を知るための記号を加えることがある。これらの記号は音符の下または上に書かれる。 _START_SECTION_ 博士 _START_PARAGRAPH_ 博士(はかせ)は声明(しょうみょう)の記譜法である。漢字で書かれた歌詞の一字一字の回りにその節回しを屈折した直線ないし曲線で書くもので、線は歌詞の近くから始まり、時間を追うごとにだんだん遠ざかる。おおむね、線の角度が音の高さを示す。 _START_SECTION_ 三味線や箏における記譜法 _START_PARAGRAPH_ 三味線や箏の楽譜は、一般に、楽器の演奏の仕方を書き記したタブラチュアに分類される楽譜で書かれる。弦名や勘所名、奏法、口三味線などの唱歌(しょうが)によって示される。極簡単な例は例えば篠笛#楽譜参照。
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Q28837492
_START_ARTICLE_ 許光達故居 _START_PARAGRAPH_ 許光達故居は、元中国人民解放軍大将・許光達の生家である。湖南省長沙市の東南、長沙市の長沙県黄興鎮に位置する。建築面積は184m2。土木構造。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 1908年(清代光緒三十四年)、故居は建立された。11月9日、許光達はこの地で誕生した。_NEWLINE_1954年、大洪水で故居を破壊した。_NEWLINE_2015年3月、元国家副主席の曽慶紅は長沙県を視察する、彼は地元政府に旧居を修復するよう要求した。_NEWLINE_2011年、湖南省人民政府は故居を省級文物保護単位に認定した。
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Q11631397
_START_ARTICLE_ 詫間電波工業高等専門学校 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1学年160名、5学年で約800名の学生が在籍していた。卒業後、大学に編入する学生の割合が高い。_NEWLINE_旧国立電波高等学校を母体に創設された電波高専は、本校を含め、全国に3校(宮城県仙台市及び熊本県合志市)存在する。電子・情報系の専門技術者を育成する高等専門学校という位置付けになっている。 _START_SECTION_ 学生生活 _START_PARAGRAPH_ 全国高専ロボットコンテスト(ロボコン)の出場常連校である。特に、高専ロボコン2006 ふるさと自慢特急便では「ARK/あーく」で大会史上初めてトーナメントの優勝と優れたロボット技術に対して贈呈される名誉賞「ロボコン大賞」の二冠を達成した。_NEWLINE_第19回全国高専プログラミングコンテストにおいて、自由部門で「写動-シャドウ-」というテーマで詫間高専初の、文部科学大臣賞・最優秀賞・情報処理学会若手奨励賞というW受賞をした。また、課題部門では「さんぽでまんぽ-88っとうぉーく-」で特別賞を受賞した。2008年現在、7年連続受賞している。 _START_SECTION_ 学園祭 _START_PARAGRAPH_ 「電波祭」と呼ばれ毎年秋に行われる。 _START_SECTION_ 同窓会 _START_PARAGRAPH_ 「七宝会」と呼ばれる。
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Q11631932
_START_ARTICLE_ 諏訪神社 (白井市) _START_PARAGRAPH_ 諏訪神社(すわじんじゃ)は、千葉県白井市根にある神社である。旧社格は村社。 _START_SECTION_ 由緒 _START_PARAGRAPH_ 1734年(享保19年)に創建され、1910年(明治43年)に近隣の市杵島神社(祭神:田心姫命・市杵姫命・湍津姫命)が合祀された。
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Q11631984
_START_ARTICLE_ 論理少女 _START_SECTION_ 1巻あらすじ _START_PARAGRAPH_ 東京から津隠中学校へやって来た転校生、若野祐は次々と奇妙な出来事に見舞われていた。自動販売機で飲み物を買おうとすると見知らぬ少女に「私が何を飲みたいのか論理的に当てなさい」と問いかけられ、そして登校初日に山崎という先輩にパズル勝負で全財産を巻き上げられる。この津隠中学校では「津隠問答」と呼ばれる知恵比べが全てを決めるのだ。途方に暮れていた若野の前に自販機の前で出会った少女、芝いつきが現れる。奪われたお金を取り返すため、いつきと若野は山崎のもとへ向かう。
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Q11632434
_START_ARTICLE_ 警護源集令 _START_SECTION_ 概要・特徴 _START_PARAGRAPH_ 2011年11月に警護源集令が策定される。
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Q40283
_START_ARTICLE_ 護身術 _START_PARAGRAPH_ 護身術(ごしんじゅつ)とは、周囲の犯罪や災害などから自分や他人の生命・身体を守るための知識や技術、方法などの総称。広義には危険に近づかない知識や技術なども含まれるが、狭義では暴漢撃退法のみを指す。ただし、武道・武術・格闘技などの専門家が護身術の指導も行っている場合も「相手を打ち倒すこと」ではなく「自分が安全に逃れる方法」を指導することを重視しており、いわゆる格闘技や逮捕術のような制圧や逮捕を目的とした術技ではない。 _START_SECTION_ 概説 _START_PARAGRAPH_ 護身術は、相手を打ち負かすことが目的ではなく、あくまでも自分(もしくは他人)の生命・身体を守ることが最優先事項とされる。そのため、相手を倒すことを前提としている格闘技のテクニックやセオリーとは、似ている部分もあるが、違う部分も多い。_NEWLINE_格闘技とは違い、相手にダメージを与えるよりも自分にダメージが無いことが重要視されるために相手の間合いに踏み込まず、自分に有利な間合いで戦い、常に「逃げる」ことを念頭におく。_NEWLINE_護身術では、実践的な技術以前の問題として、日頃から危険な状況に身を置かないようにする心構えと行動が第一としている。つまり「夜間に出歩かない」「人通りの多い場所を歩く」「治安の悪い場所は避ける」といった良識的に危険を避けることを考える。_NEWLINE_「危険な人物と向かい合う」状況を「どうすれば回避できるか」をまず考え、対処方法などは「使わないで済むのが最上」である。また、危機的状況が回避できなくなった場合でも、次善策として「最小限の被害にとどめ安全に窮地を脱する方法」として、相手が要求する金銭を与えてしまうことも含む。また「とにかく危機から逃れること」を最優先として一種の攻撃的手段に訴える場合もあるが、そういった手段の知識や実際の技能も、護身術の範疇には含まれている。_NEWLINE_伝統武術系護身術としては、截拳道系、戸隠流系、EBMAS系、システマ (格闘技)系、シラット系、ハプキドー系、カジュケンポ系等が有名である。 _START_SECTION_ 具体的な護身方法の例 _START_PARAGRAPH_ 格闘技の修練などは、護身術に通じるものがある。しかし相手が拳銃を所持していたりすると、達人でも対処が難しい。_NEWLINE_狭義の護身術としては、「相手に手首を捕まれた」「後ろから羽交い絞めにされた」「路地などに追い詰められた」「いきなり飛びかかってきた」といった状況において、どのような体さばきでそれを振り払い逃れるかといった訓練がみられる。この中では先に挙げた急所攻撃など、非力な者が相手に一時的な苦痛を与えてその状況を脱する方法も様々なものが見られ、思い切り向こうずねを蹴飛ばしたりハイヒールのかかとで相手の足を踏みつけるといったような方法も提案されている。「護身術教室」などでは、そういった状況をロールプレイすることが多い。_NEWLINE_また、昨今においては相手の攻撃そのものを封鎖するために襲撃者に密着する近接格闘術を取り入れたEBMAS、システマ (格闘技)、クラヴ・マガなどもある。
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Q3297129
_START_ARTICLE_ 貞永方久 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 旧満州長春の生まれ。_NEWLINE_敗戦と同時に無一文のまま日本に引き上げ、戦後の動乱を身いっぱいに受けて育つ。_NEWLINE_大分県立別府鶴見丘高等学校から九州大学法学部を1956年に卒業。_NEWLINE_大学時代は演劇活動に熱中し、木下惠介、黒澤明らを通じて日本映画に強い関心を抱いており、卒業後、松竹京都撮影所演出部に入社。大曾根辰保、五所平之助、篠田正浩、野村芳太郎の作品の助監督を務めた。1961年からはテレビのドキュメンタリー番組の演出も手がけ始めた。1965年、京都撮影所の閉鎖に伴い大船に移籍。1968年、助監督職のまま山根成之との共同監督で、原田芳雄主演のハードボイルド作品『復讐の歌が聞える』で監督デビュー。1971年9月、『黒の斜面』で監督に昇進。その後も『嫉妬』(1971年)『影の爪』(1972年)『夜が崩れた』(1978年)と、女の情念を描いたサスペンス・ドラマを得意とし、その一方で『流れの譜』(1974年)『海嶺』(1983年)『良寛』(1997年)などの大作も手がけた。_NEWLINE_テレビ映画の演出も多数あり、『ジョン万次郎』(1968年)、『坊っちゃん』(1970年、ともに日本テレビ)は原作をほとんど生かして撮影し自信作とする。他に『はやと』(毎日放送、1969年)などがあるが、特にABCテレビの「必殺シリーズ」では第2作『必殺仕置人』から参加した。松竹での劇場版『必殺仕掛人 春雪仕掛針』(1974年)、『必殺! THE HISSATSU』(1984年)、完結作『必殺! 主水死す』(1996年)でもメガホンをとった。_NEWLINE_1958年結婚、二男があり、長男の敏は俳優として1990年代後半まで活動していた。_NEWLINE_国政選挙で日本共産党への支持を表明していた。_NEWLINE_2011年7月14日、心不全のため横浜市の病院で死去。79歳没。
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Q11634822
_START_ARTICLE_ 貴陽駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 単式ホーム2面、島式ホーム4面を持つ地上駅である。南西方向に車輌基地を持つ。 _START_SECTION_ 利用状況 _START_PARAGRAPH_ 本駅は黔桂線、川黔線、滬昆線の旅客を扱う一等駅である。1日当たり約130本の旅客列車が発着する。
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Q11635197
_START_ARTICLE_ 赤い氷河期 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 近未来のヨーロッパを舞台に、エイズ・ウイルス(HIV)を利用した新型兵器の策謀を描く予見的長編。_NEWLINE_ソビエト連邦での改革が失敗し独裁政治が復活、ヨーロッパ諸国はこれに対抗して連邦を結成しつつある、という世界設定になっている。 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ ドイツ・ミュンヘンの南に位置するシュタルンベルク湖で、首のない人間の死体が発見された。事件をめぐり、ネオナチによる生贄殺人、ヒトラーの金塊をめぐる仲間割れ、などの説が広まる。だが、犯人はなぜ首を切断したのか?_NEWLINE_スイス・チューリッヒを拠点にエイズを研究する山上爾策は、ひょんな縁で謎の男・福光福太郎と出会った。事件に疑問を持った福光は、バイエルン州からバーデン=ヴュルテンベルク州を探索し、山上には不思議な示唆を与える。徐々に山上の前に、エイズ・ウイルスをめぐる策動の存在が浮上してきた。
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Q65367
_START_ARTICLE_ 赤水市 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 明代に懐仁県が設置され、1908年(光緒34年)に赤水庁に改編された。1913年に赤水県、1990年に赤水市となり現在に至る。
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