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アメリカ合衆国51番目の州と例えられた国家はどこですか?
アメリカ合衆国
japanese
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アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、English: United States of America)、通称<b data-parsoid='{"dsr":[3646,3656,3,3]}'>アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である[1][2]。 アメリカ本土の48州および同国首都ワシントンD.C.(コロンビア特別区)は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。 アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。 同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。 同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多数の国からの大規模な移住の産物とされている[3]。 また同国の広大な国土における地理および気候も極めて多様であり、多種多様な野生生物が存在する。 米国は先進国かつ世界最大級の国民経済を有する[4]。同国経済は、豊富な天然資源と高度な労働者の生産性により支えられている[5]。同国経済は脱工業化社会だとされている一方、世界最大の製造国のうちの1つであり続けている[6]。同国は世界の軍事支出の37%を占め[7]、世界最高位の経済・軍事大国であり、多大な影響を及ぼす政治・文化的勢力であり、科学研究・技術革新におけるリーダー的存在とされている[8]。 概要 約1万5千年前、パレオ・インディアンはユーラシア大陸から現在の北アメリカ大陸本土に移住し、ヨーロッパ諸国による植民地化は16世紀に始まった。 現在の米国は、大西洋沿岸に沿って位置する13植民地が発祥である。英国及び同植民地間の紛争により、米国は独立した。 1776年7月4日、アメリカ独立戦争における英国との交戦時、同植民地の代表はアメリカ独立宣言を全会一致で発布した。1783年、同戦争は英国からの米国独立の承認により終結し、ヨーロッパの植民地帝国を相手に成功した世界初の独立戦争となった[9][10]。 1787年9月17日、現在のアメリカ合衆国憲法が起草された。集合的に権利章典と名付けられた最初の10の修正案は1791年に批准され、多数の基本的な市民の権利及び自由を保証することを目的として策定された。 マニフェスト・デスティニーの教義に駆られることにより、19世紀を通して米国は北米を横断する頑強な拡大に着手した。これは、先住民の強制退去、新たな領土取得、次第に承認した新たな州を含む[11]。 同国史上唯一の内戦である南北戦争は、同国における合法的な奴隷制を終焉に至らせた[12]。 19世紀末までに、同国は太平洋まで拡大し[13]、同国経済は成長し始めた[14]。 米西戦争及び第一次世界大戦は、世界的な軍事大国としての同国の地位を裏付けた。 第二次世界大戦から同国は世界的な超大国として浮上し、世界初の核兵器を開発した国で、日本への原子爆弾投下により戦争において核兵器を使用した唯一の国であり、国際連合安全保障理事会常任理事国でもある。 冷戦及びソビエト連邦崩壊は、米国を唯一の超大国とした[15]。 国名 1507年、ドイツ人地図製作者のマルティン・ヴァルトゼーミュラーは、イタリア人探検家及び地図製作者のアメリゴ・ヴェスプッチの名をとって西半球の陸地をアメリカ州と名付けた世界地図を作成した[16]。「United States of America」という言葉の最初の文書証拠は、大陸軍ジョージ・ワシントンの副官および検閲官の大将であるスティーブン・モイランにより書かれた1776年1月2日付けの手紙である。手紙はジョセフ・リード中佐宛で、革命戦争において「アメリカ合衆国の大量で十分な力」でスペインを支援する嘆願をモイランは記した[17]。 「United States of America」という言葉が最初に公開出版された証拠は、1776年4月6日にバージニア州・ウィリアムズバーグのザ・バージニア・ガゼット紙面に匿名で書かれたエッセイである[18][19]。1776年6月、トーマス・ジェファーソンは独立宣言の「原草稿」の見出しに全て大文字で書かれた「UNITED STATES OF AMERICA」という言葉を加えた[20][21]。独立宣言の7月4日の最終版において、表題の該当する部分は「アメリカ合衆国13州一致の宣言」に変更された[22]。1777年に連合規約が発布され、「連合の名称を『United States of America』と定める」と規定した[23]。 短縮形は"United States"が標準的であり、他の一般的な形式は、"U.S."、"USA"および"America"である。ほかに口語での名称として"U.S. of A."があり、国際的には"States"がある。18世紀後半の詩歌において人気な名称である「コロンビア」は、クリストファー・コロンブスが起源であり、コロンビア特別区の名に見られる[24]。英語以外の言語において、アメリカの名称は"United States"又は"United States of America"のいずれかの、口語では"America"の翻訳であることが多い。加えて、USAのような略称は時々用いられる[25]。東アジアでも、"America"を「亜米利加」「米利堅」「美利堅」などと音訳し、"United States"を「合衆国」と翻訳することで、日本語では「アメリカ合衆国」「米国」、中国語や韓国語では「美利堅合衆國」「美国」と漢字表記する。この漢字表記は歴史上一定していたわけではなく、「亜墨利加」「亜国」などの表記が用いられたことがあった[26]。一方、英語名称の翻訳を由来としない名称としては、ベトナム語でのアメリカの名称である「Hoa Kỳ」があり、これは中国南部でのアメリカ合衆国の国旗の古称「花旗」およびアメリカの古称「花旗国」に由来する。 "United States"という言葉は、1865年批准のアメリカ合衆国憲法修正第13条にみられる、"the United States are"のように、本来は独立州の集合体を表現した複数形として扱われていた。南北戦争終結後には、"the United States is"のように単数形として扱うことが一般的になった。現在は単数形が標準的であり、複数形は"these United States"のような慣用句にその形を留める[27]。その違いは州の集合体および単一体の間の違いを反映しており、慣用以上の重要なものとされている[28]。 アメリカ合衆国国民の標準的な言及方法は、"Americans"である。"United States"、"American"および"U.S."は、"American values"および"U.S. forces"のように形容詞的に国を言及するのに用いられる。Americanは、アメリカ合衆国と関連のないものへの言及には英語ではほとんど用いられない[29]。 「米国」の由来 日本語での漢字表記は「亜米利加」で、通称「米国」「米」と略される。 「アメリカン」のアクセントが「ア」ではなく「メ」にあったため、幕末期の人たちは最初の発音を聞き取ることが出来ず、聞き取った「メリケン」を漢字で「米利堅」と表記。日米和親条約でも「米利堅」の表記が採用された。当て字の最初の一文字から、「米国」「米」という通称が定着したと言われている。 歴史 新大陸の到達 イタリア(ジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブスはスペイン女王イサベル1世の承諾を受け、大西洋周りによるアジア諸国への到達を志したが、1492年に現在の西インド諸島にたどり着いた。当初は、東アジアの一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの主張を元に新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーがアメリカ大陸と命名。その名が定着していった。 これをきっかけに、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への入植が始まった。イタリアのジョン・カボットが北アメリカ大陸の東海岸を探検し、イギリスがニューイングランド植民地の領有を宣言し、フランスもジャック・カルティエがセントローレンス川を探検した後、その一帯をヌーベルフランス植民地とするなど、南北アメリカ大陸の探検と開拓の歴史がはじまった。 後にアメリカ人は「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」をスローガンに奥地への開拓を進め、たとえ貧民でも自らの労働で土地を得て豊かな暮らしを手に出来るという文化を形成して「自由と民主主義」理念の源流を形作っていった。その成功が誇張も含めて旧大陸に伝わり、さらに各地からの移民を誘発する事ともなった。それは同時に先住民であるネイティブ・アメリカンと協調・交易したこともあったが、虐殺、追放して彼らの土地を奪っていったことも伴っていた[30]。 アメリカ合衆国の独立 北米大陸がヨーロッパ諸国の植民地支配を受ける中、イギリスと13植民地との間で経済・租税措置をめぐり、対立が生じた。1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると、1776年7月4日に独立宣言を発表し、イギリス優位を崩すためにフランスと同盟を締結した。なお、この7月4日("Fourth of July")は現在も「独立記念日」(Independence Day)として、クリスマス、感謝祭と並び、米国の代表的な祝日となっている。13植民地が勝利すると1783年にパリ条約が結ばれ、「アメリカ合衆国」として正式に独立し、独立した13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南をイギリスから割譲された。 1787年9月17日には、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定される。1789年3月4日に発効され、同年に初代大統領として大陸軍司令官であったジョージ・ワシントンが就任した。 アメリカは、「自由」と「民主主義」を掲げたことから、近代の世界史上初の共和制国家としても、当時としては珍しい民主主義国家であった。しかし、女性やアフリカ大陸から強制的に連行させられた黒人奴隷、アメリカ先住民の権利はほとんど保障されることはなかった。結果、奴隷制度と人種差別が独立後のアメリカに長く残ることとなる。 西部開拓と南北戦争 北西インディアン戦争勝利により、1795年に北西部を手に入れる。未開の地であった西部の勢力拡大を目指し、1803年のフランス領ルイジアナ買収を行ったが、イギリスが西部開拓を阻んだため、1812年に米英戦争が勃発するも1814年にガン条約を締結して事態は収拾し、西部進出を進めていった。入植時から続いていた先住民との戦争を続けながらも、1819年のスペイン領フロリダ買収、1830年のインディアン移住法によりインディアンを西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立と1845年のアメリカへの併合、1846年のオレゴン条約、および米墨戦争によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達した。現在のアメリカ本土と呼ばれる北米大陸エリアを確立したのである。 この頃から遠洋捕鯨が盛んになり、太平洋にも進出を始めた。1850年代、鎖国状態だった日本へ食料や燃料調達のために開国させることを目的に米軍艦を派遣。二つの不平等条約を締結し、開国させた。以後、アジア外交にも力を入れるようになっていく。 1861年、奴隷制廃止に異を唱えて独立宣言を発した南部の連合国と北部の合衆国の間で南北戦争が勃発し、国家分裂の危機を迎えた。これを受けて1862年にエイブラハム・リンカーン大統領によって奴隷解放宣言が発表され、1865年に南北戦争は合衆国の勝利で終結し、連合国は解体された。だが、法の上でのアフリカ系アメリカ人や先住民など、その他の少数民族に対する人種差別はその後も続くことになる。 南北戦争後、鉄道網の発達と共に本格的な西部開拓時代に突入した。19世紀後半には、鉄鋼業や石油業が繁栄し、アメリカ経済が大きく躍進した(金ぴか時代)。エジソンなどの発明家によって、白熱電球や電話など、現代文明に欠かせない発明が次々に行われ黄金時代を迎える基礎を築いた。 海外進出と世界恐慌 南北戦争後も諸外国との戦争などを通して、海外領土の拡大が続けられた。1867年には、アラスカをロシアから購入し、1898年にはハワイ王国が併合され、スペインとの米西戦争に勝利してグアム、フィリピン、プエルトリコを植民地にし、キューバを保護国に指定した。これにより、現在の北米・太平洋圏でのアメリカ領土が確立した。1899年-1913年にかけてフィリピンを侵略。米比戦争を行い数十万人のフィリピン人を虐殺し独立を鎮圧する。1900年には義和団の乱平定に連合軍として清に派兵する。1910年代から外国人土地法を徐々に施行し、有色人種に対する締め付けを強化した。1914年7月28日にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦では当初中立を守る一方、1915年にハイチ、1916年にドミニカ共和国に出兵して占領し、軍政を敷くなどの西半球における権益確保政策を採った。ルシタニア号事件などの影響もあり、次第に連合国(イギリス、フランス、イタリア、日本など)に傾き、1917年には連合国側として参戦した。1918年には共産主義の拡大を警戒してシベリア出兵を行った。 1918年11月11日に終結した第一次世界大戦後は、1919年のパリ講和会議でウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟設立と人種差別撤廃案阻止[31]に大きな役目を担ったが、モンロー主義を唱えてヨーロッパへの不干渉およびラテンアメリカに対する権益の維持をしようとするアメリカ合衆国上院の反対により連盟への加盟はしなかった。しかし、他の戦勝国とともに5大国の一員として注目されることになる。国内では首都ワシントンを始めとする多くの都市で「赤い夏」などの人種暴動により数万人が死傷した[32]。1924年には排日移民法を施行するなど人種差別政策を強めていった。1927年に出兵していたニカラグアでサンディーノ将軍に率いられたゲリラが海兵隊を攻撃したため、1933年にアメリカ軍はニカラグアから撤退し、従来の政策から善隣外交(Good Neighbor policy)に外交政策をシフトした。 続く1920年代のバブル経済に基づく空前の繁栄「轟く20年代」(Roaring Twenties)が起こるが、1929年10月29日ウォール街・ニューヨーク証券取引所で起った株の大暴落「暗黒の木曜日」がきっかけとなり、1939年まで続く世界恐慌が始まった。この世界恐慌によって、労働者や失業者による暴動が頻発するなど大きな社会的不安を招いた。フランクリン・ルーズベルト大統領が行ったニューディール政策により経済と雇用の回復をめざしたが、1930年代末期まで経済も雇用も世界恐慌以前の水準には回復せず、第二次世界大戦の戦時経済によって世界恐慌以前の水準を上回る、著しい経済の拡大と雇用の回復が実現された。一方でドイツ、イタリア、日本などでナチズム、ファシズム、軍国主義が台頭し始め、後に起こる第二次世界大戦の引き金になっていった。 第二次世界大戦 1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、中立政策は維持していたものの、1941年にはレンドリース法の施行により、イギリス・ソビエト連邦・自由フランス・中華民国に大規模な軍需物資の支援を行い、日本のアジア進出に対してABCD包囲網を形成した。1941年12月7日(日本時間:12月8日)には、日本による真珠湾攻撃が行われ、イギリスやソ連などが中心となって構成された連合国の一員として参戦した。開戦後まもなく、日系アメリカ人や南米諸国の日系人のみを強制収容所に連行した(日系人の強制収容)。日系人男性はアメリカ兵として忠誠を示すために戦った。日本海軍機によるアメリカ本土空襲などの、数回に亘る西海岸への攻撃はあったものの、本土への被害はほとんどなく、事実上の連合諸国への軍事物資の供給工場として機能し、併せて日本やナチス・ドイツ、イタリア王国などの枢軸国との戦闘でも大きな役割を果たした。1943年頃からは、ヨーロッパ戦線や南太平洋戦線において本格的な反攻作戦を開始し、ドイツや日本に対する戦略爆撃・無差別爆撃を実施した。日本本土空襲の中でも1945年3月10日の東京大空襲では推定約14万人が死傷した。 1945年5月8日にはドイツが連合国に対し無条件降伏した。1945年8月には、イタリアやドイツなど枢軸国からの亡命科学者の協力を得て原子爆弾を完成。同年、世界で初めて一般市民を標的に日本の広島(8月6日)と長崎(8月9日)に投下し、人類史上初めての核兵器による攻撃で推定約29万人が死傷した。続いて同年8月15日には日本もポツダム宣言受諾により降伏し、同年9月2日の日本全権による降伏文書調印をもって第二次世界大戦は終戦となった。GHQ参謀第2部(G2)部長であったチャールズ・ウィロビーアメリカ陸軍少将は「日本を"征服"した」と述べている[33]。 第二次世界大戦以前は非戦争時にはGDPに対する軍事費の比率は1%未満〜1%台で、GDPに対する軍事費の比率が低い国だったが、第二次世界大戦で史上最大の軍拡(後述)を行い、著しい軍事偏重状態になり、軍産複合体が政治に影響力を行使するおそれがあると批判されるようになった。 連合国の戦勝国の1国となった上に、主な戦場から本土が地理的には離れていたことから国土にほとんど戦災被害を受けなかった。戦勝国として日本の委任統治領であったマーシャル諸島、マリアナ諸島、カロリン諸島などの太平洋の島々を新たな信託統治領として手に入れるとともに、敗戦後の日本やドイツをはじめ占領国や進駐国に大規模なアメリカ軍基地を造設し、共産圏を除く世界を影響下に置くこととなった。1946年からマーシャル諸島でクロスロード作戦などの大規模な原水爆実験を繰り返して核大国としての地位を固める。核拡散防止条約(NPT)はアメリカを核兵器国と定義し、原子力平和利用の権利(第4条)と核不拡散(第1条)・核軍縮交渉(第6条)義務を定めている[34]。 以後、世界最強の経済力と軍事力を保持する超大国として、「自由と民主主義」の理念を目的もしくは大義名分として冷戦期及びそれ以後の外交をリードする事になる。 ソ連との冷戦 第二次大戦後は、連合国として共に戦ったソ連との冷たい戦争が始まった。一時、ジョセフ・マッカーシー上院議員らに主導された赤狩り旋風(マッカーシズム)が起きるなど、世論を巻き込んで共産主義の打倒を掲げた。 冷戦においては、ソ連を盟主とした東側諸国の共産主義・社会主義陣営に対抗する西側諸国の資本主義・自由主義陣営の盟主として、西ヨーロッパ諸国や日本、韓国、台湾(中華民国)などに経済支援や軍事同盟締結などで支援した。朝鮮戦争、ベトナム戦争、グレナダ侵攻など世界各地の紛争に介入している。グレナダ侵攻の際は宣戦布告を行わなかった。ベトナム戦争ではトンキン湾事件で事実を一部捏造し本格的介入に踏み込んで行った。核兵器の製造競争などもあり、ジョン・F・ケネディ大統領の時にソ連との間でキューバ危機が起こるなど、核戦争の危機も度々発生した。 冷戦中に「自由と民主主義の保護」の理念を掲げたが、国益追求も一つの目的でもあった。実力行使で理念と矛盾する事態すら引き起こし、ベトナムへの介入は西側、東側諸国を問わずに大きな非難を呼び、国内世論の分裂を招いた。「反共産主義」であるという理由だけでアジアやラテンアメリカ諸国をはじめとする世界の右派軍事独裁政府への支援や軍人に対してもパナマの米州学校で「死の部隊」の訓練を行った。こうして育てられた各国の軍人は母国でクーデターを起こし、母国民に対して政治的不安定と貧困をもたらす結果となっていった。 同時に、大戦の後遺症に苦しむ西欧諸国や日本、韓国、台湾(中華民国政府)など同盟国への支援と安全保障の提供は、経済成長をもたらす一因ともなって東側との大きな生活水準格差を生み出し、後に東欧革命の原動力の一つになった。 人種差別と公民権運動 「民主主義国家」を標榜するアメリカであったが、1862年の奴隷解放宣言以降や第二次世界大戦後に至っても南部を中心に白人による人種差別が法律で認められ、一部の州では結婚も禁止する人種差別国家でもあった。1967年まで16州で白人が非白人と結婚するのを禁じていたが、アメリカ最高裁判所が異人種間結婚を否定する法律を憲法違反と判断した[35]。1960年代にはこの様な状態に抗議するキング牧師を中心としたアフリカ系アメリカ人などが、法の上での差別撤廃を訴える公民権運動を行った結果、1964年7月にリンドン・ジョンソン大統領の下で公民権法(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)が制定された。 しかしその後も差別撤廃のための法的制度の整備は進んだものの、現在に至るまでヨーロッパ系移民およびその子孫が人口の大半を占め、社会的少数者の先住民やユダヤ系移民、非白人系移民とその子孫(アフリカ系、ヒスパニック、アジア系など)などの少数民族に対する人種差別問題は解消していない(アメリカ合衆国の人種差別)。それは就職の際の格差等から、警察官が人種の相違を理由に不公平な扱いをしたといった問題としてロス暴動のような大きな事件の原因となる事すらある。アフリカ人への奴隷貿易や先住民虐殺の国家的行為に基づく歴史的事実については、連邦政府としては未だに謝罪をしていない。 人権擁護団体「南部貧困法律センター」によると、2009年にバラク・オバマという初のアフリカ系黒人大統領が誕生して以降、ヨーロッパ系白人の非白人種に対する反発が強くなり、人種偏見に基づくとみられる事件が増加および過激化しており[36][37][38]、南部では共和党員の約半数が異人種間結婚(白人と非白人の結婚)は違法にするべきと世論調査会社「パブリック・ポリシー」の調査に回答している[39]。 貿易赤字と単独主義 石油ショック以降の原油の値上がりによって基幹産業の1つである自動車産業などが大きな影響を受け、1970年代以降は日本などの先進工業国との貿易赤字に悩ませられることとなる。 1980年代に入ると、日本との貿易摩擦が表面化し、議員がハンマーで日本製品を壊すという現象(ジャパンバッシング)も生まれた。近年は、中華人民共和国に対する貿易赤字が膨張している他[40]、インドなどへの技能職の流出が問題となっている。 1989年の冷戦終結と1991年のソ連崩壊によって、唯一の超大国として「世界の警察」(globocop)と呼ばれ[41][42][43][44][45][46][47]、冷戦後の世界はパクス・アメリカーナとも呼ばれるようになった。冷戦時代から引き続いて、日本、韓国、サウジアラビア、ドイツなど国外の戦略的に重要な地域に米軍基地を維持し続け、1989年にはパナマ侵攻、1990年には湾岸戦争と各国の紛争や戦争に介入した。パナマ侵攻は国連での手続きもないアメリカ単独の武力侵攻のため、国連総会は軍事介入を強く遺憾とする決議を採択した[48]。 経済がグローバル化し冷戦時代に軍事用として開発されたインターネット・ITが民間に開放され、流行した。1992年からの民主党のビル・クリントン大統領政権下では、ITバブルと呼ばれる程の空前の好景気を謳歌した。 テロとの戦い 21世紀に入って間もなく、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を境に「テロとの戦い」を宣言して世界の情勢は劇的に変化し、各国間の関係にも大きな変化がおこるきっかけとなった。同年、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、テロを引き起こしたアルカーイダをかくまったタリバーン政権を攻撃するため、10月にアフガニスタン侵攻を開始した。 イラク侵略戦争 2002年にはイラン、イラク、北朝鮮を悪の枢軸と呼び、2003年3月には、イラクを大量破壊兵器保有を理由にイラク戦争に踏み切ったが、大量破壊兵器は見つからず「石油を狙った侵略行為」と批判する声があがった。ジョージ・W・ブッシュ大統領はイラクの大量破壊兵器保有の情報が誤りであったことを認めた。 2005年には、テロ対策を目的に連邦情報機関が大統領令に基づき、具体的な法令的根拠・令状なしに国内での盗聴・検閲等の監視が可能となり、アメリカで事業展開する通信機器メーカーは全て製品にこれを実現する機能を具備することが義務付けられている(詳しくはCALEA)。 ノーベル平和賞を受賞した南アフリカ共和国のデズモンド・ムピロ・ツツ元南アフリカ聖公会大主教は、イラク戦争開戦の責任を問い、ジョージ・W・ブッシュ大統領とトニー・ブレア元英国首相をアフリカとアジアの指導者たちと同様に裁くため国際刑事裁判所に提訴するよう呼び掛けている[49]。 一極支配の弱まりと現在 2009年に「変革」と「国際協調」を訴えたバラク・オバマ大統領が就任した。オバマは人種差別のさらなる解決や国民皆保険の整備、グリーン・ニューディール等の政策を通じた金融危機、環境問題、国際情勢の改善に積極的に取り組むことを表明した。オバマが「アメリカは世界の警察をやめる」と宣言してからは[50][51]、中華人民共和国やロシアとの新冷戦などといった問題が起きている。 2017年、ラストベルト地帯における、従来は民主党の支持層であった白人労働者の支持を受けるなどして、「AMERICA FIRST(アメリカ第一)」、「Make America Great Again(アメリカを再び大国に)」といったスローガンを掲げて、その並外れた言動から「暴言王」とも称された、実業家出身で政治経歴のないドナルド・トランプ大統領が就任した。 トランプ政権は、環太平洋パートナーシップ協定(通称:TPP)からの撤退表明、駐イスラエル米国大使館のエルサレムへの移転および同国首都としてのエルサレムの承認、シリアへの空爆、メキシコからの不法移民規制、気候変動抑制に関する多国間協定(通称:パリ協定)からの米国離脱宣言、イラン核合意からの離脱、国連人権理事会からの離脱、ホワイトハウス報道官やCIA(中央情報局)長官、国務長官などの相次ぐ政府高官人事の交代、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の第3代最高指導者である金正恩朝鮮労働党委員長との史上初の米朝首脳会談の開催など、内政・外交面ともにさまざまな課題に直面している。 政治 政治体制は50州とコロンビア特別区で構成される連邦共和制国家である。それぞれの州は高度な自治権を持っているが、連邦政府の有する権限は非常に強大である。連邦政府は、立法、行政、司法の三権分立制をとるが、その分立の程度が徹底しているのが大きな特徴である。 元首であり、行政府のトップである大統領は、間接選挙で大統領選挙人を介し、選出される。任期は4年で3選は禁止。行政府は、大統領と各省長官が率いる。 立法府は上院と下院から構成される両院制(二院制)の議会である。上院は、各州から2議席ずつの計100議席、任期は6年で2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、各州の人口を考慮した定数の合計435議席(その他に投票権のない海外領土の代表など5人)からなり、任期は2年。一般的に、上院は上流層の意見を反映し、下院は中流層、下流層の意見を反映しているとされている。大統領は上下両院のバランスをとる役割を期待されている。 議席は歴史背景から共和党と民主党による二大政党制が確立している。基本的に東西両海岸沿いに民主党支持者が多く、中部に共和党支持者が多いと言う地域的特色があると言う調査結果が出ている(赤い州・青い州)。他にも少数政党はいくつか存在するが二大政党を覆す程には至らず、時折選挙戦で注目を浴びる程度である。 法律 イギリスから独立した経緯から、アメリカ法にはイギリスの法思想の影響が大きい。 憲法 アメリカ合衆国はイギリスの不文憲法の伝統から離れて、成文憲法を成立させた。アメリカ合衆国憲法は合衆国に連邦の構造を与え、立法、行政、司法の三権分立とその相互抑制均衡を成文で制度化している。また基本権のカタログでもある。 州法 各州が独自の立法機関を設置し独自の州憲法と州法を有する。連邦法は全州にわたって効力を有するものとして上位に位置するものではあるが、連邦主義により各州の自治が歴史的に尊重されていたこともあり、日本における地方自治体の条例に比べると、各州法の地位はかなり高く、United Statesの名のとおり、独立国にも比する強大な自治権を認められている。 アメリカ合衆国憲法により、連邦法を制定することができる分野は、国家としての対外的な規律に関わる問題や、州を跨ぐ通商に関連する事項等に限定されていることから、会社法や刑法などの一般的法律も州法において規定されている。これらの影響により現在も禁酒法がところにより残っている。 訴訟社会 訴訟社会としても知られ、国内に弁護士が100万人もおり[52]、人口比では日本の25倍になる。アメリカ人自身からも行き過ぎによる弊害がたびたび指摘され、いわゆるマクドナルド・コーヒー事件はその代表例として有名になった。これは国民が多文化・多宗教の混合であるため、共通する価値判断基準が法律以外にないからだという意見がある。日本では制限されている弁護士の宣伝広告活動が認められていることから、弁護士本人が出演するCMがテレビで放送されることもある。営業活動に熱心な弁護士を揶揄するアンビュランス・チェイサー(事故で負傷者が出ると、搬送先の病院で賠償請求訴訟を起こすよう勧めるため救急車を追いかける弁護士の意)というスラングがある。 法の下の平等 独立宣言には『すべての人民は法のもとに平等である』と謳われており、全ての国民は国家との法的権利義務において等しく扱われ、人種、信条、性別によって不当な扱いを受けないという原則を示している。この原則はアメリカ合衆国憲法修正第14条に端的に現れている。しかし実際のところ、女性、黒人奴隷および先住民が真の法の下の平等を勝ち取ったのは建国から200年近くも後のことである。アメリカ合衆国で女性参政権が認められたのは1920年であり、アフリカ系アメリカ人と先住民族が法のもとに他の人種と同等の権利を保証されるようになるまでには20世紀半ばの公民権運動の勃興を待たねばならなかった。 19世紀後半以降にアメリカ合衆国への移民が増加するに従い、アングロ・サクソン系以外の移民を制限するための法律が連邦議会で次々に可決された。1882年に中国人(当時の国名は清)の移民を禁止する中国人排斥法が制定され、1924年には日本で「排日移民法」として知られているジョンソン・リード移民法が制定されて、新たに移民できる外国人の数を合衆国内にすでに居住している同じ人種の人口によって決めることで実質的にアジアと東欧および南欧からの移民を制限した。連邦レベルで移民の人種的制限が完全に撤廃されたのは1965年のハート・セラー移民帰化法においてである。 第二次世界大戦が勃発すると、米国西海岸に居住する日系アメリカ人は米国の市民権を持つアメリカ人であるにもかかわらず「敵性外国人」として市民権を剥奪され、強制収容所に送られた(詳しくは日系人の強制収容を参照)。同じ理由から、アメリカの影響下にあったラテンアメリカ13カ国の日系人もアメリカに強制連行された。この一連の強制収容により多くの日系人が財産や生活の基盤を失い、戦後7年が過ぎた1952年の移民国籍法の施行まで市民権は回復されなかった。 「自由の国」を自称しているとはいえ、上記のように法の上での人種差別が近年まで残っていた上、現在も人種差別はあらゆる場面にみられる。ピューリタニズム・キリスト教右派の考えの影響から性に関する問題には厳しいところもあり、州によっては婚前交渉や同棲が認められておらず、刑罰の対象となる場合もある。妊娠中絶を合法化すべきかどうか、死刑制度を認めるかどうかなどの点で宗教的価値観などの多様性を背景とした国家レベルでの議論が繰り返されている。 警察 軍事 アメリカ軍はアメリカ陸軍、アメリカ海軍、アメリカ海兵隊、アメリカ空軍、アメリカ沿岸警備隊の五軍から成り、陸海空軍と海兵隊はアメリカ国防総省の、沿岸警備隊はアメリカ合衆国国土安全保障省の管轄下にある。また、統合軍として地域別、機能別に編成されており、アメリカ合衆国国内以外にも、イギリス、イタリア、ドイツ、日本(在日米軍)、大韓民国(在韓米軍)、カタール、キューバ(グァンタナモ米軍基地)、クウェート、サウジアラビア、ジブチ、スペイン、トルコ、バーレーン、ベルギーなどに在外米軍基地が存在する。 また、核兵器をはじめとする大量破壊兵器を保有しており、第二次世界大戦では核兵器が、ベトナム戦争では化学兵器(枯葉剤)が実戦に使用された。 アメリカ合衆国の経済において、軍需産業は最大の産業または基幹産業または主要な産業であるとの、検証可能性を示さない伝聞情報が広く流布されているが、アメリカ合衆国政府が公開している経済統計や財政統計を検証すると事実ではない。軍需産業は他の産業と異なり、軍隊が唯一の消費者であり、社会全体を消費者とする産業と比較すると市場規模は限定される。軍需産業は高度な付加価値の素材や部品や機器やシステムを統合する産業であり、科学技術と素材や部品や機器やシステム産業の基盤が無いと成り立たない産業である。軍需産業に対する発注はアメリカ合衆国の経済や社会の状況と国際情勢と軍事政策に影響され、軍が望む予算や武器の購入は連邦議会で審議され、連邦議会が承認して可決し大統領が署名した予算分だけしか発注されない。 アメリカ合衆国のGDPに対する軍事費の比率は、1901年〜1917年は1%未満で推移していた。第一次世界大戦に参戦して大規模な軍拡をして、GDPに対する軍事費の比率は、1918年は8.0%、1919年は13.9%に増大し、20世紀以後では三番目に大きな比率になった[54]。 第一次世界大戦終結後は大規模な軍縮が行われ、GDPに対する軍事費の比率は、1920年〜1921年は2%台、1922年は1%台、1923年〜1931年は1%未満、1932年〜1933年は1%台、1934年〜1935年は1%未満、1936年〜1940年は1%台で推移し[55]、第二次世界大戦以前は平時にはGDPに対する軍事費の比率が小さい国だった。 第二次世界大戦への参戦を想定しイギリスとソ連に武器を供給した1941年はGDPに対する軍事費の比率は5.6%、第二次世界大戦中に参戦して20世紀以後では史上最大の軍拡が行われ、GDPに対する軍事費の比率は1942年は17.8%、1943年は37.0%、1944年は37.8%、1945年は37.5%に増大し、20世紀以後では最大の比率になり[56]、著しい軍事偏重体制になり、軍産複合体が政治に影響力を行使する恐れがあると批判されるようになった。 第二次世界大戦終結後は大規模な軍縮をしたが、冷戦体制になり、GDPに対する軍事費の比率は第二次世界大戦以前の状態には減少せず、軍事費の比率が大きい状態が継続した。朝鮮戦争に介入して軍拡をして、1953年のGDPに対する軍事費の比率は14.2%になり、20世紀以後では二番目に大きくなった。朝鮮戦争停戦後の1954年〜1960年は軍縮をしたが、冷戦初期の軍拡競争が激しい時代で、GDPに対する軍事費の比率は13.1%〜9.3%で推移し、20世紀以後では四番目に大きな比率になった。ベトナム戦争に介入して軍拡して、GDPに対する軍事費の比率は1961年〜1968年は9.4%〜7.4%で推移し、20世紀以後では五番目に大きな比率になったが、1960年代は経済成長率が高く経済成長率が軍事費の増加率より大きかったので1950年代よりは比率は減少した。1969年以後はベトナムからの軍の撤退が進み大規模な軍縮をして、ベトナムから全軍撤退した1974年にはGDPに対する軍事費の比率は5.8%に減少し、冷戦の軍事対立緩和により軍縮が進んだ1979年には4.6%に減少した。1980年代は冷戦時代最後の米ソ軍拡競争になり、1986年にはGDPに対する軍事費の比率は6.2%に増大した。 冷戦終結後は大規模な軍縮をして、GDPに対する軍事費の比率は著しく減少した。1998年〜2000年のGDPに対する軍事費の比率は第二次世界大戦後では最小の3.0%になり、1999年〜2001年のGDP[57]に対する軍事費のうちの武器購入費(=軍需産業の市場規模)の比率は0.5%であり、軍需産業は最大の産業でも基幹産業でも主要な産業でもなくマイナーな産業である[58]。 2002年以後はアフガニスタンとイラクでの戦争のために軍拡をして、GDPに対する軍事費の比率は2008年には4.3%に増大したが、アフガニスタンとイラクでの戦争終結後は軍縮をすると予想され、GDPに対する軍事費の比率は冷戦終結後の1990年〜2001年までの比率よりもさらに減少すると予測されている。 第二次世界大戦後から2009年現在にいたるまで、アメリカ合衆国の経済を構成する産業の多様化と、政府の行政サービスの多様化の結果、GDPと連邦政府支出に対する軍事費の比率と、経済に対する軍需産業の比率は、単年度や数年間の増減はあっても、第二次世界大戦時をピークとして長期的には減少傾向が継続し、今後も継続すると予想されている。 ストックホルム国際平和研究所の統計によると、2007年の世界の総軍事費に対して、アメリカ合衆国の軍事費は45%を占め[59]、世界最大の軍事力大国・軍事費大国・軍需産業大国・武器輸出大国である。 国際関係 アメリカは経済、政治、軍事において膨大な影響力を保持しており、その外交方針は世界的な関心を集める。国際連合本部はニューヨークに置かれ、国連における議決機関安全保障理事会の常任理事国として強い権限を握る。他に主な加盟機関として、北大西洋条約機構、太平洋共同体、米州機構があり、主要国首脳会議構成国でもある。親密な関係を有する国としてはイギリスやオーストラリア、ニュージーランド、イスラエル、日本、韓国、中華民国(台湾)、およびNATO加盟国があり、中でもイギリスとは「特別な関係」と呼ばれる強固な絆で結ばれ、軍事上や核兵器の情報、技術共有も行われている。 米西戦争以前は、モンロー主義に代表されるような孤立主義政策だったが、米西戦争以後は、後発帝国主義国として外国への軍事介入や傀儡政権を樹立して間接支配する外交政策を繰り返した。20世紀初期から第二次世界大戦までの期間に、キューバ、パナマ、ニカラグア、ドミニカ共和国、ハイチ、メキシコに軍事介入し、メキシコ以外の前記の諸国に傀儡政権を樹立した。 第二次世界大戦後は戦勝国となった上に国土にほとんど被害を受けなかったこともあり、大戦後に起きた冷戦において、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営に対抗する、日本やイギリスなどの資本主義陣営の事実上の盟主的存在として、「自由と民主主義の保護」の名の下、朝鮮戦争やベトナム戦争など世界各地の紛争に介入している。冷戦中は「反共」またはアメリカ合衆国の外交に協力的という理由で、キューバ、パナマ、ニカラグア、ドミニカ共和国、ハイチ、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア、ベネズエラ、韓国、フィリピン、南ベトナム、カンボジア、イラン、イラク、ザイールなどの各国に傀儡政権を樹立または軍政や王政やその他の独裁政権を支援した。アメリカ合衆国が樹立し間接支配していた傀儡政権は、革命や民主化運動により崩壊が続き、1990年のチリのピノチェト大統領の辞職を最後に全て崩壊した。 中東においては、1947年のパレスチナ分割決議と1948年のイスラエル建国以後、ユダヤ系アメリカ人やイスラエル系ロビイストの影響力からイスラエルの戦争や武力行使による民間人殺傷や占領を正当化または黙認し、中東のイスラム文化圏の国民から反米感情をもたれるようになった。 1989年の冷戦終結と1991年のソ連崩壊後は、唯一の「超大国」となり、強大な軍事力を背景にパナマ侵攻やソマリア内戦、イラク戦争など、各国の紛争や戦争に積極的に派兵し、その当事国となった。1979年のイスラム革命後のイラン、1991年の湾岸戦争後のイラクなどの中東のイスラム系国家を対立視することが多いことから、イスラム系国家の国民から多くの反発を買うことになった。 テロ支援国家 一般に、テロ支援国家と言えばアメリカ国務省により発表されている「Patterns of Global Terrorism」に記されているイラン、シリア、スーダンを指す。その他には大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国や朝鮮民主主義人民共和国、キューバ共和国がかつてテロ支援国家に指定されていたが、リビアは2006年に、北朝鮮は2008年に、キューバは2015年にそれぞれ指定を解除された。 実はアメリカ自身も積極的にテロリストを支援している国家と言われる。アメリカによるテロ支援は、主にアメリカ中央情報局(CIA)により秘密裏に実施されていると言われ、実際にCIAによりテロ活動の教育を受けたと言う報告もある。冷戦時代のアメリカはラオス、アフガニスタン、キューバ、ニカラグアなどで主に反共闘争を行う軍事組織に対しての直接的または間接的な支援を実施していた。特にニカラグア内戦でのコントラ支援は有名であり、1986年にイラン・コントラ事件のスキャンダルが発覚した。また、皮肉にも1980年代にアフガニスタン紛争にて合衆国のCIAがアフガニスタンに侵攻したソビエト連邦との戦いを支援していたムジャーヒディーンの一人が、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件を実行したテロ組織アルカーイダの司令官、ウサーマ・ビン・ラーディンであった。 冷戦終結後もアメリカの経済的な利益を目的としてフィリピン、パナマ、ハイチ、ベネズエラ、イランなどで、反米政権に対するクーデターの支援などが行われたという説がある。クーデターではないが旧東欧圏の「色の革命」には米国が積極的に関与したと言われる。 日本との関係 いわゆる「黒船来航」で始まった日米関係は日本が鎖国から脱する端緒ともなった。明治維新を経た日本は生糸の輸出を中心に米国との経済関係を深めたが、20世紀に入ると黄禍論の高まりや中国大陸での権益を巡って日米関係は次第に冷え込み、最終的に太平洋戦争で総力戦を戦った。日本の敗戦後、米ソ冷戦を背景に日米同盟が結ばれ、政治・経済・軍事・文化など多方面で主に米国主導の密接な関係を築いている。 日米交流の始まり 1797年(寛政9年)にオランダ東インド会社とバタヴィアで傭船契約を結んだアメリカの船の多くは、セイラムから日本に向けて出航した。そして、1799年にオランダ東インド会社が解散してもなお、日米貿易は1808年(文化6年)まで続いた。ただし、その日米貿易は日本とオランダ商館との関係に配慮した特殊なものであった。アメリカ船が長崎に入港する際は、1795年に滅亡したオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の国旗を掲げてオランダ船を装うよう、すでに雇い主を失っていたオランダ商館から要請された。日本に向けられたアメリカ船は次の通り[60]。 1797年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のイライザ号。 1798年、同上。 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。 1800年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のエンペラー・オブ・ジャパン号。 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス。 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。 1809年、ジェームズ・マクニール船長のアメリカレベッカ号。 黒船来航と国交樹立 19世紀に日本で明治維新を起こすきっかけの一つとなった、1854年2月のアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督率いる「黒船」の来航を経て、同年3月に日米和親条約を締結し正式な国交を樹立した。その後1859年6月に日米修好通商条約を結んだことにより、両国間の本格的な通商関係も開始された。 1871年12月から翌年7月まで特命全権大使・「岩倉使節団」が、アメリカ大陸を「ユニオン・パシフィック鉄道」、「ペンシルバニア鉄道」を使って横断している。その主なルートはサンフランシスコ港-サクラメント-ソルトレイク・シティ-シカゴ-ワシントン-フィラデルフィア-ニューヨーク-ボストン港であり、当時の様子が、「米欧回覧実記」に克明に記されている[61]。(一部イラスト有)。 緊密化と開戦 その後20世紀に入り、日露戦争の後の1905年9月に行われたポーツマス条約締結時の仲介などを経て、両国間においての貿易、投資や人事的交流が急増するなどその関係を深める。第一次世界大戦時には、イギリスなどとともに連合国同士としてドイツに対して共に戦った。 しかしその後アメリカでは、急速にその存在感を増す日本に対しての、黄色人種に対する人種差別的感情を元にした警戒感が強まった。1930年代に行われた日本の中国大陸進出政策に対するフランクリン・D・ルーズヴェルト政権による反発や、第二次世界大戦勃発後の1940年6月にフランスのヴィシー政権がドイツと休戦したことに伴い、日本軍が仏領インドシナに進出したことに対して不快感を示し、同政権が対日禁輸政策を取るなどその関係は急速に冷え込んだ。アメリカ国務省のスタンリー・クール・ホーンベックは日中が泥沼の戦いを続ける事がアメリカの利益だと述べている[62]。 アメリカもフィリピンを武力で植民地化していたが、日本に対して中国大陸に保有する全ての権益放棄と最終的な撤兵を要求するハル・ノートによって両国関係は修復不能になり、1941年12月7日に日本海軍により行われたハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する攻撃、いわゆる「真珠湾攻撃」以降、日米両国は枢軸国と連合国に別かれ敵対関係になり、太平洋戦争において戦火を交えることになった。 日米安全保障体制の構築 1945年8月の日本の連合国に対する敗戦に伴い連合国の主要な占領国として参加し、1951年9月に交わされたサンフランシスコ講和条約の発効までの間、イギリスやフランスなどの連合国とともに日本の占領統治を行った。 以降2国間で日米安全保障条約を締結して旧ソ連や中華人民共和国などの軍事的脅威に対して共同歩調をとり続けるなど、友好的な関係を築いている。日本にとって、アメリカは安全保障条約を正式に結んでいる唯一の国でもある(アジアには集団安全保障体制が存在せず、中華民国や大韓民国などの中華人民共和国と北朝鮮を除く各国が個別に、アメリカと安全保障条約関係を締結している)。 冷戦後の日米関係 冷戦が終結した現在も日米関係は国際政治や経済活動において米国の強い主導化のもとに、両国間の貿易や投資活動はその規模の大きさから両国経済だけでなく世界経済に大きな影響力を持つ。2006年10月に発生した北朝鮮の核実験における対応や、同国による日本人拉致事件でもある程度共同歩調をとっているが、アメリカの北朝鮮への援助が北朝鮮の核保有後も繰り返されている。2007年7月30日、アメリカ合衆国議会は、日本政府によって慰安婦にされたとする者への謝罪や歴史的責任などを要求するとしたアメリカ合衆国下院121号決議を出している。日本は韓国や中国に対する賠償問題は全て解決済みとの立場であり、応じていない。 日本の常任理事国入り ジャーナリストの手嶋龍一は麻生太郎元首相との対談の中で、ブッシュ政権が日本の常任理事国入りを可能にする案を提示しなかったため、事実上これによって日本の常任理事国入りは潰されたと述べた[63]。一方で国際問題評論家の古森義久は、アメリカは日本一国だけの常任理事国入りを支持していたが日本に加えドイツ、ブラジル、インドも常任理事国入りするG4案は安保理全体の大幅拡大が前提となるため、これに否定的なアメリカが反対したのは明白だったはずで、この小泉内閣の誤算がアメリカの支援を失ったと指摘している[64]。 日本への100兆円規模の拠出要求 福田康夫総理大臣はアメリカ政府から、サブプライム住宅ローン危機による資金不足に対応するため、日本がアメリカのために100兆円規模の資金を拠出するように要求されていたが、理不尽な要求として拒否した[65]。 在沖縄海兵隊のグアム移転 米軍海兵隊のグアム移転経費の日本側負担額について、アメリカは2006年に合意した28億ドルの1.5倍にあたる42億ドルを要求[66]。また、アメリカが負担することで合意していた米軍関連施設の一部の建設費約820億円を日本が負担するよう要求している[67]。 移転経費について日本側は、移転する海兵隊が8千人から4千人に半減することから難色を示していたが、2012年4月に両政府は条件付きながら28億ドルとすることで合意した[68]。 原発ゼロ政策への圧力 2012年9月5日、2030年代に原発ゼロを目指す政府方針を説明した藤崎一郎駐米大使に対し、エネルギー省のポネマン副長官は「日本の主権を尊重する」としながらも「くれぐれも外圧と取られないように注意してほしい。この協議は極めて機密性の高いものだ」と発言。翌6日にはアメリカ国家安全保障会議(NSC)のフロマン補佐官が藤崎大使に対し、「エネルギー政策をどのように変えるかは、日本の主権的な判断の問題だ」としながらも「プルトニウムの蓄積は、国際安全保障のリスクにつながる」と強い懸念を表明するなど、アメリカ側は原発ゼロ政策の閣議決定回避へ圧力を強めた。19日、政府は原発ゼロ政策の閣議決定を見送った[69]。日本共産党はアメリカの日本の原発政策に対する各種言動を内政干渉と強く批判している[70]。 問題点 日米安全保障体制の下で日本が自主外交に消極的であったことや、冷戦時代にアメリカが起こしたベトナム戦争や、存在しないイラクの大量破壊兵器保有を理由に開戦したイラク戦争などにおいて、嘉手納基地や横田基地などの日本国内のアメリカ軍基地が出撃基地として利用されてきたこと、日本国内のアメリカ軍基地周辺において在日アメリカ軍兵士による日本人女性に対するレイプや強盗、殺人事件が多発しているが、日米地位協定により日本側に被疑者の身柄の拘束を最初に行うことが拒否されるケースがあることなどから、日米関係に対する批判も存在する。現在、地位協定の改善に向けて協議が進んでいる。外務事務次官・駐米大使を歴任した村田良平はアメリカの日本に対する在日米軍負担要求について、米軍の沖縄駐留はすべてアメリカ側都合で決定したものであるため筋違いであると述べている[71]。 地理 アメリカ合衆国は本土の48州と、飛び州のアラスカとハワイの2州、連邦直属の首都ワシントンD.C.から構成される。さらに、海外領土としてプエルトリコ、アメリカ領サモア、グアム、ヴァージン諸島などがある。 国土面積は、およそ930〜960万 km2とされ、日本(37.8万 km2)の約25倍の規模である。統計によって数値に揺らぎがあるのは、おおむね五大湖水域の処理の仕方に起因するものである。その他の大国と比較すると、ロシア、カナダに次ぐ面積であり、中華人民共和国とは拮抗している。すなわち世界で第3位もしくは第4位の面積を有するということになる。 本土は北アメリカ大陸の中央部と北西にあり、東側は大西洋、南側をメキシコ湾とメキシコ合衆国、西側を太平洋、そして北側をカナダで囲まれる。北側に隣接するカナダとは、北緯49度線、五大湖とセントローレンス川で国境線が引かれ、カナダを挟んで北西にさらに進むと飛び地としてアラスカがある。南側はリオグランデ川を介してメキシコと接する。大陸の東側に南北にアパラチア山脈、大陸の西寄りには南北にロッキー山脈があり、山岳地帯となっている。アパラチア山脈とロッキー山脈の間は大平原になっており、農業や牧畜業が盛んである。大陸の南東端にはフロリダ半島がある。北西部のカナダとの国境地域には五大湖と呼ばれる湖がある。 アパラチア山脈の東側はニューヨーク、ワシントンD.C.、ボストンなどの都市があり人口集中地帯になっている。ロッキー山脈の西側の太平洋沿岸にもロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルなどの大都市がある。五大湖沿岸にはシカゴやデトロイトなどの大都市があるが、大陸の中西部には大都市が比較的少ない。 気候 アメリカの気候は広い国土のために極めて多様である。最北部が北極圏に属するアラスカは、年間を通じて冷涼な気候である。ほぼ全域が亜寒帯に属し、北極圏には寒帯のツンドラ気候が分布するが、南岸部は暖流の影響で西岸海洋性気候も見られる。一方、太平洋上の諸島であるハワイは温暖な気候で、ビーチリゾートとして人気がある。本土では、北東部から北にかけて湿潤大陸性気候が占め、冬は寒いが、夏はかなり暑い。東部から中央部は亜寒帯湿潤気候だが、グレートプレーンズ周辺や、カナダとの国境部では暑くなる日も多い。エリー湖やオンタリオ湖南岸はアメリカの平野部で最も降雪量が多いが、日本の日本海側と比べるとかなり少ない。南東部から南部は温暖湿潤気候で、フロリダ南端ではサバナ気候が見られる。西部は一般的に乾燥していてステップ気候が広く見られ、メキシコ国境付近では砂漠気候が確認できる。さらに、太平洋岸南部は地中海性気候だが、太平洋岸北部へ進むとアラスカ南東端と同じく西岸海洋性気候となる。 自然災害には、メキシコ湾岸の集中豪雨、メキシコ湾岸と大西洋岸南部のハリケーン、中央部の平原に多い竜巻、カリフォルニア州の地震、南カリフォルニアの夏の終わりのスモッグと山火事、五大湖や東海岸の大雪などがある。 アメリカ中西部〜南部からメキシコ湾沿岸にかけての地域は、北極からの寒気を遮る山脈が無いため、緯度のわりに猛烈な冷え込みを記録することがあり、普段は温暖なフロリダ半島北部やメキシコ湾沿岸地域でも氷点下まで下がることも珍しくない。 自然環境 アメリカ合衆国では、在来種だけで約17,000種の植物が確認されており、カリフォルニア州だけで5,000種の植物が現存する。 世界で最も高い木(セコイア)、最も大きな木(セコイアデンドロン)、最も古い木(ブリッスルコーンマツ)は同州に存在する[73]。動物界では400種以上の哺乳類、700種以上の鳥類、500種以上の爬虫両生類、90,000種以上の昆虫が確認されている[74]。 ベーリング海峡でユーラシア大陸と、パナマ地峡で南アメリカ大陸とつながっているため、旧北区と新熱帯区とは同じ種や近縁の種を共有している。ロッキー山脈は低地の生物にとって遺伝子流動の障害となっており、ロッキー山脈の東と西では異なる種の動植物が分布する。熱帯から北極圏にまたがる国土のため、アメリカは多様な動植物相を持つ。ハワイ諸島とカリフォルニア州は世界的な生物多様性のホットスポットである。 しかし、西部開拓期以降には農場開発など人間の営為の障害となる生物を駆除していったためにアメリカバイソンやオオカミなど多くの種が絶滅の危機に瀕することなった。リョコウバト、カロライナインコは駆除の結果絶滅した。約6,500種の外来種が作為的あるいは非作為的に持ち込まれて帰化しており[75]、少数の侵略的外来種が固有の動植物の生存を脅かし、甚大な経済的被害をもたらしている。 自然保護 アメリカにおける動植物の保護の歴史は長い。1872年にイエローストーン国立公園が世界初の国立公園に制定されて以来、連邦政府は57の国立公園とその他の国有地を保護してきた[76]。一部の地域では、人の影響を受けていない環境を長期的に保存するために保護区としての原生地域が指定されている。連邦政府は国土の28.8%にあたる総面積1,020,779マイル(2,643,807km2)を保護しており[77]、大部分は国立公園や国定森林として保護されているが、一部は原油や天然ガス、その他の鉱産資源の採掘や牛の放牧のために賃貸されている。1973年には固有の動植物と生息地を保護するために絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律が制定された。この法律に従って絶滅危惧種と絶滅危機種の現状を観察し、種の存続に不可欠な生息地を保護する機関が魚類野生生物局(The U.S. Fish and Wildlife Service)である。個々の州も独自に種と生態系の保全を行っており、連邦と州の協力を促す制度も存在する。魚類野生生物局や国立公園局、森林局などを統括する内務長官は大統領に任命されるため、生態系の保全も行政の他の部門と同じく政権の優先事項に大きく左右される。 2007年現在、アメリカ合衆国の化石燃料の消費による二酸化炭素の排出量は中華人民共和国に次いで世界第2位である[78]が、国民一人あたりの排出量は依然として世界第1位である。 地方行政区分 アメリカ合衆国は、50の州(state、Commonwealth)と1の地区(district)で構成されるが、その他に、プエルトリコなどの海外領土(事実上の植民地)を有する。 独立当時、13の植民地にそれぞれ州が置かれた。1959年にハワイ州が州に昇格されるまでの間、各地方の割譲、侵略、買収、併合を経て、現在では50州を持つ。星条旗の帯は独立当時の13州を、星は現在の50州を示している。 経済 大きな経済規模を持ち、その技術開発力と生産力、消費力で世界経済を引っ張る存在である反面、アメリカ文化が資本主義社会の基本である「大量生産・大量消費」の側面を強く持っており、他の先進国と比べても1人当たりの資源消費量が格段に大きいこともあり、「地球環境問題や健康問題の深刻化をもたらした」などと批判されることも多い。アメリカの環境問題と環境状況と環境政策と歴史についてはアメリカの環境と環境政策を参照。 自動車や航空機、コンピュータなど主な工業品の生産、販売数で長年世界一を保っており、その消費量の多さのため世界中の企業が進出している。これらの企業が上場するニューヨーク証券取引所は世界最大の取引高を誇っている。その為世界経済に与える影響力は非常に大きいものがある。アメリカの経済問題と経済状況と経済政策と歴史についてはアメリカの経済と経済政策を参照。 アメリカ合衆国の軍需産業・軍需経済・軍事政策の関連性と歴史と国の経済に対する比率や影響力についてはアメリカの軍需経済と軍事政策を参照。 1981年に大統領となったレーガンは、インフレの抑制、減税による投資促進、規制緩和の促進などにより、経済の供給サイドの強化を図る「レーガノミックス」を行った。インフレ抑制は前政権から続いていたマネーサプライに照準を合わせた金融政策により成果をあげたものの、国防費の増大と大幅減税により財政収支が悪化、そして高金利からドルレートが上昇し、経常収支の赤字が拡大した(双子の赤字)。金融が緩和する過程で株価は上昇をはじめM&Aがブームとなったが、ブラックマンデーにより株高経済は一旦調整した。 1990年代は、日本の経済が長期低迷に陥り、「失われた10年」と呼ばれたのとは対照的に、アメリカ経済は非常に良好なパフォーマンスを示すようになり、「ニューエコノミー」と呼ばれた。低インフレと高成長を両立し、労働生産性も上昇したことから、アメリカ経済は新たな局面に入った、と言われた。1991年3月の景気の谷の後、2001年3月まで10年にわたって景気拡大を続け、世界経済の牽引役となった。 2000年代の初期に入ると、ITバブルの崩壊によって、好調だったアメリカ経済は減速する。2001年9月11日には同時多発テロが発生し、アメリカ経済の減速に拍車をかけた。1980年代から続いている資産膨張を背景にした消費増大はアメリカ経済の根幹となり2007年夏頃まで安定した成長を続けていたが、サブプライムローン問題を発端に、不動産価格の下落から深刻な世界金融危機が起きている。アメリカ国内の経済も深刻な打撃を受けており、2009年にはゼネラルモーターズが経営破綻し、失業率が10パーセントを記録するなど依然厳しい経済状況が続いている。 交通 国民 アメリカ合衆国は元々先住民族であるネイティブ・アメリカンが住んでいた土地に、16世紀からはヨーロッパからの植民者が、17〜19世紀には奴隷貿易によりアフリカからの黒人奴隷が、19世紀からはアジアからの移民が入って来て、さらに人種間で混血が起ったため、「人種のるつぼ」と呼ばれてきたが、実際には異人種が融け合って生活する社会が形成されるよりも、「ゲットー」と称されるアフリカ系アメリカ人居住地域やチャイナタウンが代表するように、むしろ人種による住み分けが起きていることから、近年ではアメリカ合衆国を色々な野菜が入ったサラダに例えて「人種のサラダボウル」と呼ぶことが多くなった。 こうした中で人種差別問題、特にヘイトクライムと呼ばれる人種差別主義者による凶悪犯罪が頻繁に発生し、大きな社会問題となっている他、南部や中西部を中心にKKKなどの人種差別的な団体が未だ半ば公然と活動している地域も存在する。アフリカ系の死刑執行率がヨーロッパ系に比べて極端に高いなど、裁判制度の不公平性も問題となっている。 現在も合法違法を問わず移民が多いことに加え、アメリカの合計特殊出生率は2.0〜2.1前後で横ばいに推移しており非常に安定している。2005年度の合計特殊出生率は2.05と先進国の中ではトップクラスである(移民層の出生率が2.71と高いが、アメリカ合衆国で生まれた女性の出生率も1.98、白人女性に限っても1.85と先進国の中では高い[80])。以上のことから、人口は自然増、社会増双方の要因により増加し続けている。2006年には総人口が3億人を超えたと公式に発表された。 人種 世界でも有数の多民族国家である。2010年の人口統計によると、白人(ヨーロッパ系、北アフリカ系、中東系、中央アジア系、ラテン系)72.4%(2億2355万人)、サハラ以南のアフリカ系(黒人)12.6%(3892万人)、アジア系(東アジア、東南アジア、南アジア系)4.8%(1467万人)、アメリカン・インディアン0.9%(293万人)、太平洋地域の先住民系0.2%(54万人)、2つ以上の人種を祖先とする国民(Multiracial American)2.9%(900万人)、その他6.2%(1910万人)である。 アメリカは英語圏であるためにイギリス系が多いと思われがちだが、最も多いのはドイツ系(17.1%)で、その次がアイルランド系(12.1%)、3番目にイングランド系(9.0%)となっている。スコットランド系やウェールズ系なども含めたイギリス系アメリカ人は13.0%を数え、ドイツ系、アイルランド系、イギリス系で全人口の4割以上を占めている。歴代大統領にはイギリス系以外にアイルランド系やドイツ系とオランダ系とギリシャ系が就任しており、そして2009年時点の現職はアフリカ系である[82]。 また、以前のヒスパニック系は14.5%(4190万人)だったが、2007年のアメリカの国勢調査による人口統計学では、新たに中南米諸国から移住したヒスパニックが18.5%(4527万人)と増加傾向にあり、アフリカ系と減少傾向にあるドイツ系を超える人口構成となっている。 言語 英語(アメリカ英語)82.1%、スペイン語10.7%、その他、ハワイ語やアメリカ・インディアン諸語など アメリカ合衆国には法で定められた公用語はないが、建国の歴史から英語(アメリカ英語)が事実上の国語となっている。2003年には、約2億1500万人(5歳以上の全国民の82%)が家庭で英語のみを使用している[83]。 英語を母語としない国民でもたいていは英語を日常的に使用している。高齢者を除き、基本的な英語の知識は市民権取得の必須条件である。長年にわたる先住民の同化政策の結果、先住民の言語を話せる人口は非常に少なくなっており、十分な保護政策も取られておらず、多くが消滅の危機に瀕している。 アメリカ人の中には英語を連邦の正式な公用語とすることを希望する者が多く、現在30州が英語を公用語に指定している[84]。ニューメキシコ、ルイジアナ、メイン、ハワイの4州では行政上英語以外の言語が事実上の第二言語とされている。ハワイ州では州憲法によりハワイ語と英語が公用語とされており、ルイジアナ州とメイン州ではフランス語が行政上の第二言語である。合衆国加入当時からスペイン(メキシコ)系住民の多いニューメキシコ州は常にスペイン語を非公式な第二公用語としてきた [85][86][87]。 スペイン語の話者は英語についで多く、特にカリフォルニア州、ニューメキシコ州、アリゾナ州、テキサス州などメキシコと隣接する地域やニューヨークやシカゴなどの大都市では日常的に用いられており、国内でもっとも学習者の多い外国語でもある[88][89]。 近年増加傾向にある中南米スペイン語諸国からの移民であるヒスパニックには、英語を不自由なく喋ることのできない者も多いため、銀行のATMやスーパーマーケットのセルフレジなどではスペイン語が選択できるようになっているものも多い。2008年のセンサス[90]による人口予測では、2050年にはヒスパニックの人口は1億3300万人となり、全人口の3割に達する見込みである。 英語以外の言語を州の公用語として認めるかどうかは、単に文化的問題に留まらず州の公文書をその言語で作成する必要があるかどうかという財政的側面があり、選挙でしばしば取り上げられる問題である スペイン語話者が多い州 ( )内は州人口比 アメリカセンサス2004年による[91] ニューメキシコ州(43.27%)、カリフォルニア州(34.72%)、テキサス州(34.63%)、アリゾナ州(28.03%)、ネバダ州(19.27%)、フロリダ州(19.01%)、ニューヨーク州(15.96%)、ニュージャージー州(13.89%)、イリノイ州(12.70%)、コロラド州(12.35%) 宗教 プロテスタント58%、カトリック21%、など(2003年現在)。キリスト教信仰者の比率は、1990年調査時の86.2%から2003年調査時の79%へと年々減少傾向にある。2001年の宗教分布は、プロテスタント 52%、カトリック 24.5%、ユダヤ教 1.3%、その他、イスラム教、仏教、不可知論、無神論、ヒンドゥー教、ユニテリアン (Unitarian Universalist) がそれぞれ0.5%から0.3%である。無宗教は13.2%。 福音派は全人口の4分の1ぐらい[92]。 アメリカ合衆国の現代キリスト教も参照。 米国憲法修正条項第1条は国教の制定を禁じている。しかし、大統領就任式の際に聖書を手に宣誓を行うなど(これまでの大統領が全てキリスト教徒だったからであるが)、米国社会ではキリスト教、特にプロテスタントの存在が非常に大きい。宗教的な理由から進化論を否定する者が多く、「公立校で進化論を教えるなら創造科学も合わせて教えるべき」とするキリスト教系宗教団体が州の教育委員会を相手取り論争を起こした例が数件ある。 ギャラップ調査2007年5月の調査によると、アメリカ人は、「神を信じる」と答えた人が86%、「天国を信じる」と答えた人が81%という結果が出た。 教育 アメリカの教育の特徴は、個人の尊重とプラグマティズムである。 治安 合衆国の犯罪発生率は、地域、州によって大きく異なる。例えば、凶暴犯罪(殺人、強姦、強盗、加重暴行)の2002年時点の発生件数<!-- U.S. Census Bureau -->をみると、人口10万人あたりの合衆国平均は495人だが、州ごとの分布はノースダコタ州の78人から、コロンビア特別区の1633人まで、20倍以上のばらつきがある。日本やイギリス、ドイツなどの他の先進諸国と比べて、都市部、地方にかかわらず銃や麻薬による犯罪が蔓延しているイメージがあるが、統計的にこれは誤りである。 アメリカ合衆国憲法修正条項第2条により民間人も自衛のために銃の使用が許可されている国(ただし、この条項は民兵の武装を認めているだけで、ごく普通の一般市民の武装について言及しているわけではない、という学説もあることに留意)とはいえ、街中に銃砲店が普通にあり比較的簡単に銃を、そしてスーパーマーケットでも実弾が購入出来るという現実は「銃社会」を助長させている。 歴史的な経緯から全米ライフル協会(NRA)は強力な政治的発言力を持つ事実上の圧力団体であり、銃規制につながる立法を再三阻止している。過去数度に亘り何人もの大統領が銃によって暗殺されているほか、銃犯罪による死者の数が、2000年以降に限っても毎年年間10,000人を大きく超えるなど、世界でも例を見ない「銃犯罪大国」である。 成年者による銃犯罪だけでなく、中学校や高等学校において生徒が銃を乱射し死傷者を出す事件が毎年のように発生する事態を招いている。このため銃を購入できる年齢を18歳から21歳に引き上げたり、一部の学校では校舎に入る際に金属探知機による保安検査を行ったりしている。しかし、それでもコロンバイン高校銃乱射事件やバージニア工科大学銃乱射事件など学内における銃乱射事件は防ぎきれていない。幼い子供が家族の所有する、安全装置を解除された銃で遊んでいるうちに誤って自分や友人、家族を撃ち殺してしまう事故も後を絶たない。 ギャングの抗争による殺人事件や人種差別を元にした殺人事件も多く発生する他、外国人観光客や駐在員、留学生などが犯罪に巻き込まれ死亡するケースが毎年のように起きているなど、銃による脅威を受けるのは一時滞在の外国人も例外ではないため、観光客の誘致にも悪影響を与えている。 近年では家庭内における暴力的・性的な過激シーンを含む映画・漫画・ゲームなどが未成年の子供に悪影響を与えているとして規制しようという動きもある。2008年現在、同国は武器貿易条約を採択していない。 保健 米国人の平均寿命は2011年では78.7歳であった[93]。人口一人あたりの保健支出、医薬品消費額はOECD各国中で一位であった[93]。 低所得者層を中心に、ファーストフードの過剰摂取や運動不足、栄養学の知識の欠如により肥満になっている国民が先進国の中で最も多く(2003-2004年度には未成年の17.1%が太り気味で、成年の32.2%が肥満という調査結果が出ている[94])。 また米国ではプエルトリコ自治連邦区を除いて、ユニバーサルヘルスケア制度が実現されていない[93](クリントン政権時代にヒラリー・クリントンによって提案されたが立ち消えになった)。国民の31.6%は公的保険、53.1%は民間保険に加入しているが[93]、近年は民間保険の保険料が高騰しているため、米国国勢調査局は2010年では499万人の市民(人口の16.3%)が保険未加入であると報告した。高額の保険料は米国の国際競争力にも悪影響を及ぼしている。しかし、オバマ大統領はユニバーサルヘルスケアを目指し、2010年に医療制度改革法案(オバマケア)が賛成多数で可決された。これにより、アメリカの医療保険制度は歴史的転換点を迎えた[95]。 所得格差・資産格差 他の先進国と比べて、所得税、贈与税、相続税(遺産税)率の累進性やキャピタルゲインへの税率が低く、資産格差を拡大させている。等価可処分所得を基にしたジニ係数は0.372(2004年、ルクセンブルク所得研究所調べ)で、主要先進国中最高である[96]。 クレジットカード会社による入会審査の基準が緩く、しばしば大学生などを対象に強引な勧誘が行われていることもあり、クレジットカードを入手するのが非常に簡単である。その結果、恒常的にカードローンに依存するワーキングプアが増えている。逆に然るべき期間のカード利用歴(クレジット・ヒストリー、信用情報)がないと商取引で信用されず、いくら現金を持っていても住宅を購入する際などに融資を受けられないことがある。日本と異なり、100ドル札といった高額紙幣の信用が低いため、現金決済よりもクレジットカード決済が好まれる傾向がある。よって、信用が低い層は即時払いのデビットカードを持つことが多い。 高度な学歴社会であり、アメリカン・ドリームを達成できるごく少数の個人を除いて職業や収入、社会的地位は学歴に大きく依存する。自治体の教育関係の予算は学区の税収と予算案に対する住民投票によって決定され、質の高い教育を提供できる教師の確保にも影響するため、公立学校の教育レベルは学区により大きな違いがあり、公立学校で良好な初・中等教育を受けるためには、都市圏の教育に関心が高い裕福層が住む地区に居住する必要がある。私立学校の入学金・授業料は非常に高額で、入学には親の社会的地位や学歴、家柄、寄付金も選考要件となる。低所得層の子女が私立学校に通学できるように教育バウチャーを支給している自治体もあるが、その効果は激しく議論されている。このように、良好な教育を受ける機会は親の収入・資産に依存しており、所得・資産格差が学歴社会を通して次の世代の所得格差に受け継がれることになる。 アメリカ合衆国に対する批判 大量消費、拝金主義、物質主義 第二次世界大戦以前より今日まで、世界を席巻する主要な大衆消費"文化"の母国としてより強く認識されている。大量に供給され短期間に消費される音楽、テレビ番組、ハリウッド映画などの娯楽、自動車、あるいはファストフードやコカ・コーラ等の食品、等々に代表される<b data-parsoid='{"dsr":[79407,79419,3,3]}'>大量消費文化</b>が、世界のどの国よりも支配的である。 すでに1830年代から、アメリカ合衆国は拝金主義的、物質主義的な風潮が蔓延している、と指摘されていた。例えば、アレクシス・ド・トクヴィルは、アメリカ合衆国について、ヨーロッパ諸国と比較しつつ、この国(=アメリカ合衆国)ほど金銭欲が人々の心に大きな場所を占めている国は無いと指摘した。アメリカ人が高等教育まで進む場合、「金になる特別の対象にしか向かわない。仕事で儲けるのと同じ態度で学問を研究し、しかもすぐ役に立つことが分かる応用しか学問に求めない。」と、合衆国に拝金主義、物質主義が蔓延していることを指摘した。(De la démocratie, 1835[97]) ニューヨーク連銀によると、2017年3月末の家計の債務残高は12兆7250億ドルで、金融危機時の2008年9月末に記録した過去最高水準(12兆6750億ドル)を500億ドル上回った。学生ローン残高は3月末時点で1.34兆ドルに達し、2008年から2倍に膨らんだ。この事実はアメリカ合衆国の大量消費文化に全く無関係であるという訳ではなく、良くも悪くもアメリカ合衆国は借金文化の定着した国である[98]。 エルマー・ライス(1892年 – 1967年)は、『The Left Bank』(1931年)において、米国の物質主義から逃避するために国外移住をはかる物語を描いた。 アーネスト・カレンバックは1975年に『エコトピア』を出版したが、この本は「アメリカ人の生活にある諸相の中でも消費者主義と物質主義に対する抗議」だったと評されている[99]。 アメリカ合衆国において1980年代以降、かつてないほどに低俗な商業主義(物質主義)が蔓延していることを、ジョン・カーペンターは1988年の映画『ゼイリブ』において戯画的に描いて批判した。 米国の物質主義、拝金主義、利己主義は、他国にも様々な悪影響を及ぼしている。 例えば、近年においては、国内において禁煙運動が進みタバコの消費量が減ったことから、アメリカのタバコ製造会社が、タバコ規制が緩かった東欧の旧社会主義国や、中南米、中華人民共和国等の発展途上国を中心とした市場開拓を積極的に行っていることや、ナイキなどの大手衣類メーカーが製造コスト低減のために、同じく発展途上国において未成年の労働者を安価に大量に酷使していたことなどが大きな批判を浴びている。 米国の大衆消費文化、拝金主義、物質主義は、世界中の多くの国でしばしば「低俗」あるいは「画一的」として嫌悪されている。例えば、ウルグアイ文学の作家、は『』(1900)において、キャリバンによって象徴される物質主義的なアメリカ合衆国文明を批判し、アリエルによって象徴される精神主義的なラテンアメリカ文明を対置して描いてみせた。ロドーの「アリエル主義」は瞬く間にラテンアメリカの青年層の広い支持を集めた。 ただし、他国でも、やはり拝金主義や物質主義的な考え方に染まった者も多く、そういった論者は「米国の大量消費文化は、良くも悪くも経済活動と密接に繋がっているため、各国において消費意欲を喚起し、その結果アメリカ経済ひいては各国の経済を牽引する存在となっている」などと、もっぱら経済面・金銭面にだけ着目し、好意的な論調で語ることも多かった。ただし、2000年を過ぎ、サブプライムローン問題、リーマンショックなどによって米国流の資本主義、拝金主義がその内部に根本的な欺瞞や問題を抱えていたことが露見したり、それが他国民にも深刻な被害をもたらすことが明らかになって以降は、米国流の拝金主義・物質主義を手放しに好意的に扱う論調はかなり減った。 グローバル化の指導役 アメリカ合衆国は、冷戦終結以降急速に進んだグローバリゼーションをけん引した国としても知られている。このことに対する批判として、他国の持っていた独自の良いとされる文化や高いモラルをアメリカ型の資本主義システムが駆逐してしまった、それまで貧富の差が少なかった国に貧富の差が拡大した、文化面やテクノロジーの面などで画一化が進んだなどがある。 また、グローバル化の一種の到達点ともいえる環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の問題は、関係国に大きな波紋を呼んでいる。 しかし、2017年1月23日にアメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプは、TPPから離脱する大統領令に署名した[100]。 文化 先住民の文化 先住民はしばしば開拓者や建国初期のアメリカ人が新大陸で生き延びるのに多大な貢献をしてきた。ポカホンタス、スクァント(Squanto)、マサソイト酋長、サカガウィアらはアメリカの建国神話に欠かせない存在である。初期の開拓者の男性たちは、未知の土地で生存するためにしばしば先住民のサバイバルの知恵を身につけた。彼らの中には先住民の女性を妻とした者が少なくなく、結果として多くのアメリカ人が先住民の血を引いている。 アメリカの重要な作物であるトウモロコシ、カボチャやウリ、インゲンマメは先住民族が昔から栽培していたものである。現代の防寒着アノラックやパーカは北極圏のイヌイットやエスキモーの防寒着を元にしており、カヤックやカヌーは現在でも先住民族の使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。大平原の先住民族の伝統的な携帯保存食のペミカンは世界各国の南極探検隊にも採用された。 ニューヨーク州立大学バッファロー校のドナルド・A・グリンド・ジュニア博士(Donald A. Grinde Jr.)をはじめとする歴史学者らは、アメリカ合衆国の民主制度はイロコイ連邦の民主制度がモデルとなっていると主張している。 先住民族はしばしばアメリカのロマンティックなシンボルとして用いられてきた。先住民族に由来する名前は、アメリカの地名や野生動物の名称によく見られる。ニューヨークのタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党マシーンは先住民の言葉を政治に好んで用いた。近年になって差別的という意見が大多数を占めるまでは、大学や高校などがスポーツチームのマスコットに先住民族のキャラクターを採用することも珍しくなかった。 しかし先住民族の存在が国家の利益の障害であると見なされると、彼らの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。1960年代に入り、公民権運動を通して人種差別に対する国民の意識が高まり、心霊主義や環境主義に対する関心が高まってようやく、先住民族の文化が再評価されるようになった。 食文化 世界の料理 アメリカの国民は先住民の他、世界各国からの移民とその子孫によって構成されているため、都市部では世界各国の料理やそれらをアメリカ風にアレンジしたものを気軽に楽しむことが可能である。イタリア料理や中華料理、メキシコ料理(テクス・メクス料理)などが非常にポピュラーなものとして日常的に楽しまれている他、1980年代以降は寿司や照り焼きをはじめとする日本料理が都市部を中心に人気を博しており、日本料理のレストランで食すことができるだけでなく、スーパーマーケットなどで豆腐や醤油、麺類などの食材を調達することも可能である。 ファストフード 高度にマニュアル化されたファストフードチェーンにより提供されるハンバーガーやホットドッグ、タコスなどのファストフードや、冷凍食品などのインスタント食品が安価かつ手軽な事実上の「国民食」として広く食されているものの、脂肪分や塩分、糖分の多さなどから上記のように低所得者層を中心に肥満や心臓病などの原因となっており、これらのチェーン店の従業員の低賃金と合わせて深刻な社会問題となっている。 菜食主義 社会的、宗教的および心霊主義的な理由から菜食主義を奨励する運動は19世紀から存在したが、1960年代に環境主義や東洋思想への関心が国内で高まるのと同時に菜食主義への関心もかつてない高まりを見せた。現在、1%から2.8%のアメリカ人が肉、家禽、魚を全く食べないと回答している[101][102][103][104]。普通米国でベジタリアンというと卵と乳製品は摂るオボ・ラクト・ベジタリアンを指すことが多いが、中には動物性の食品を一切摂らないヴィーガンもいる。ベジタリアンは西海岸と東海岸に比較的多く、中西部や南部には比較的少ない。ベジタリアンの人口は都市部に集中している。ベジタリアンが多い地域では、ベジタリアン向けの料理をメニューに明記しているレストランやベジタリアン料理専門のレストランも見られる。 有機食品 近年、他の先進国と同じくアメリカ合衆国でも有機食品への関心が高まっている。アメリカ合衆国で生産される食料の約2%は有機農法に従って生産されている。アメリカ国内での過去10年間の有機食品の売り上げは年率20%の成長率を見せている。2005年の有機食品の総売上は128億ドルを計上した[105]。 有機農法を用いている農地の増加率はアメリカが世界一である[106]。 文学 ワシントン・アーヴィング - 『スケッチ・ブック』(1819年-1820年) ジェイムズ・フェニモア・クーパー - 『モヒカン族の最後』(1826年) エドガー・アラン・ポー - 『モルグ街の殺人』(1841年) フレデリック・ダグラス - 『フレデリック・ダグラス自叙伝;アメリカの奴隷』(1845年) ナサニエル・ホーソーン - 『緋文字』(1850年) ハーマン・メルヴィル - 『白鯨』(1851年) ハリエット・ビーチャー・ストウ - 『アンクル・トムの小屋』(1852年) ルイーザ・メイ・オルコット - 『若草物語』(1868)、『続・若草物語』(1869)、『第三若草物語』(1871)、『第四若草物語』(1886) フランシス・ホジソン・バーネット - 『小公子』(1886)、『小公女(セーラ・クルー)』(1888) ジーン・ウェブスター - 『あしながおじさん』(1912年)、『続あしながおじさん』「1915年) エレナ・ホグマン・ポーター - 『少女パレアナ(少女ポリアンナ)』(1913)、『パレアナの青春(ポリアンナの青春)』(1915) スターリング・ノース - 『はるかなるわがラスカル』(1963年) マーク・トウェイン - 『トム・ソーヤーの冒険』(1876年)、『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885年) F・スコット・フィッツジェラルド - 『グレート・ギャツビー』(1925年) ウィリアム・フォークナー - 『響きと怒り』(1929年)、『アブサロム、アブサロム!』(1936年) アーネスト・ヘミングウェイ - 『武器よさらば』(1929年)、『老人と海』(1954年) ダシール・ハメット - 『マルタの鷹』(1930年) エズラ・パウンド ラングストン・ヒューズ ジョン・スタインベック - 『怒りの葡萄』(1939年) トルーマン・カポーティ - 『遠い声 遠い部屋』(1948年) マリア・フォン・トラップ - 『トラップ・ファミリー合唱団物語』(1949) アイザック・アシモフ - 『宇宙の小石』(1950年) J・D・サリンジャー - 『ライ麦畑でつかまえて』(1951年) レイ・ブラッドベリ - 『華氏451度』(1953年) アレン・ギンズバーグ - 『吠える』(1956年) ジェイムズ・ボールドウィン - 『ジョヴァンニの部屋』(1956年) ジャック・ケルアック - 『路上』(1957年) レイモンド・チャンドラー - 『プレイバック』(1958年) ロバート・A・ハインライン - 『宇宙の戦士』(1959年)、『月は無慈悲な夜の女王』(1966年) ウィリアム・S・バロウズ - 『裸のランチ』(1959年) フィリップ・ロス - 『さようならコロンバス』(1959年) ジョン・アップダイク - 『走れウサギ』(1960年) トマス・ピンチョン - 『競売ナンバー49の叫び』(1966年) スーザン・ソンタグ - 『反解釈』(1966年) リチャード・ブローティガン - 『アメリカの鱒釣り』(1967年) フィリップ・K・ディック - 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年) カート・ヴォネガット - 『スローターハウス5』(1969年) トニ・モリスン - 『青い眼が欲しい』(1970年) スティーヴン・キング - 『キャリー』(1974年)、『シャイニング』(1977年)、『スタンド・バイ・ミー』(1982年) アレックス・ヘイリー - 『ルーツ(en:Roots:The Saga of an American Family)』(1976年) ジョン・アーヴィング - 『ガープの世界』(1978年) グスタフ・ハスフォード - 『フルメタル・ジャケット』(1979年) レイモンド・カーヴァー - 『愛について語るときに我々の語ること』(1981年) ジェイ・マキナニー - 『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(1984年) ブレット・イーストン・エリス - 『レス・ザン・ゼロ』(1985年) ティム・オブライエン - 『本当の戦争の話をしよう』(1990年) 漫画 哲学 植民地時代に於いては清教徒が多く入植したためピューリタニズムの伝統が強く、また建国に際してジョン・ロックの社会契約説などのヨーロッパの啓蒙思想が理論的背景となったため、哲学に於いてもこの両潮流の影響を強く受けている。独立運動時代の18世紀にはトマス・ペインの『コモン・センス』(1776年)や『人間の権利』(1791年)など自由主義的な社会思想が発達した。19世紀に於いてはラルフ・ワルド・エマーソンや隠遁者ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ウォルト・ホイットマンらの超越論哲学と、チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズ、ジョン・デューイらのプラグマティズム哲学が主な潮流となり、特にウィリアム・ジェームズの純粋経験論は日本の西田幾多郎の初期西田哲学(『善の研究』)に大きな影響を与えている。 20世紀以降はアメリカ合衆国の世界的地位向上と共に多種多様な現代思想が発達したが、とりわけ20世紀後半には『正義論』(1971年)で社会契約を再び基礎づけたリベラル派のジョン・ロールズや、ロールズらリベラル派に対抗して共同体主義を唱えたコミュニタリアン派のアラスデア・マッキンタイアらがリベラル・コミュニタリアン論争を繰り広げた。その他にも、『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)でロールズの『正義論』を批判したロバート・ノージックらのリバタリアニズム(自由至上主義)の伝統もある。 音楽 様々な国から来た移民たちが持ち寄った楽器やリズムを組み合わせ発生した、古くはカントリー・ミュージックやジャズ、近年ではロックンロールやヒップホップなどの様々なジャンルの音楽の発祥地、本場として知られており、世界的に著名なアーティストを多数輩出している。これらの音楽と踊りを組み合わせたショーであるミュージカルの本場としても有名である。 これらの音楽を楽しむためにレコードやジュークボックス、ドルビーやiPodなどの様々な音響機器、技術を生み出している他、MTVやクラシックチャンネルなどの音楽専用ケーブルテレビチャンネルも生み出すなど、音楽とその関連業種は現在においても大きな外貨獲得元となっている。 美術 映画 アニメーション ウォルト・ディズニーが創始したウォルト・ディズニー・カンパニーによる長編アニメーション映画が世界的に有名で、過去には世界のアニメーターの多くに影響を与えた。他にも、米国製テレビアニメーションザ・シンプソンズやファミリー・ガイ、サウスパークは日本でもテレビ放映されている。 ケーブルテレビにアニメーション専用のチャンネルがあり、日本製アニメも頻繁に放映されている。特に1998年に放映が開始されたポケットモンスターは低年齢の子どもを中心として非常に人気が高く、社会的にも受け入れられている。ただし、サスペンス要素の高いものは、テレビ放映前に差し替えられたりカットされたりしている。日本のアニメは若年層を中心にファンが多く、ファンが字幕(ファンサブ)をつけた米国未発表の作品の海賊版もネット上に出回っている。最近では、アニメを通して日本文化に興味を持つ若者も出てきている。 世界遺産 アメリカ合衆国国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が9件、自然遺産が12件、複合遺産が1件存在する。 祝祭日 アメリカ合衆国の祝祭日は、州によって異なる。下記は最も一般的な祝祭日を記載したものである。日本における祝祭日と比べると必ずしも全ての祝祭日が休日となるとは限らない傾向にある。 スポーツ スポーツマンをアメリカ社会のメインストリーム(花形)と捉える国民性(ジョックも参照)もさることながら、多くの地域で学生スポーツにおいて季節ごとに行うスポーツを変えるシーズン制が定着していることなどから、国民が様々なスポーツに触れる機会が非常に多くなっており、アメリカ合衆国は世界最大のスポーツ大国となっている。娯楽産業に占めるスポーツ観戦の割合も高いため、複数の大規模なプロスポーツリーグが共存・繁栄している世界的にも稀な国である。アメリカ国内発祥のスポーツが大衆的人気を得ているのが特徴で、アメリカンフットボール、野球、バスケットボール、アイスホッケーは伝統的に4大スポーツと呼ばれている。ただ、サッカーの人気はアイスホッケーを既に逆転しており[110]、アイスホッケーに取って代わり、サッカーを4大スポーツの一つという意見も主流になりつつある[111]。FIFAワールドカップはアメリカンフットボール以外のスポーツをテレビ視聴者数で上回るなど、大いに盛り上がる[112]。主要なプロリーグは観客動員・収益共に莫大な数字であり、スター選手は高額の年俸を手にしている。日程上、常に少なくとも1つのリーグがオンシーズンになっているため、年間を通してスポーツ熱が高い。カレッジスポーツ(特にカレッジフットボールとカレッジバスケットボール)もプロリーグに勝るとも劣らない人気がある。 アメリカンフットボール アメリカでは単にフットボールと呼称するのが一般的である。野球やバスケットボールなどを大きく引き離し、全米で圧倒的な人気を得ているスポーツである[113][110][113]。今日では野球を凌ぐ「国民的娯楽」として認知されている[114]。プロリーグであるNFLは、レギュラーシーズンの1試合平均観客動員数が6万7000人を超えており[115]、世界のあらゆるプロスポーツリーグの中で最も収益が多い。リーグ優勝決定戦であるスーパーボウルはアメリカ最大のスポーツイベントであり、毎年テレビ番組の年間最高視聴率を記録している。大学リーグであるカレッジフットボールも非常に人気が高い。2012年のギャラップの世論調査によると、カレッジフットボールのファンと回答した者の割合は、プロ野球やプロバスケットボールを上回る[116]。アメリカ社会では、スポーツマンを主とした「人気者の男性」を総称するジョックの象徴たるスポーツである。 野球 伝統的に「国民的娯楽」と称されており、1970年頃にアメリカンフットボールに一番人気スポーツの座を譲ったものの[117]、バスケットボールと共に高い人気を得ている競技である[113]。プロリーグとして最上位に位置するメジャーリーグベースボール(MLB)は、レギュラーシーズンの観客動員数が約7500万人であり[118]、世界のあらゆるプロスポーツリーグの中で最も多い。下部組織が発展しており、MLBの傘下にあるマイナーリーグ、更には約8つに分かれている独立リーグの2種類の野球リーグが存在する。近年はシアトル・マリナーズのイチローやニューヨーク・ヤンキースの田中将大、かつてメジャーリーガーであった野茂英雄や松井秀喜など日本人選手の活躍も見受けられる。 バスケットボール プロリーグであるNBAは、1980年代にマジック・ジョンソンやラリー・バードなどの活躍もあり急速に人気が高まり、その後のマイケル・ジョーダンの時代に全盛期を迎えた。ジョーダンの引退後はやや停滞している時期はあったものの、アメリカンフットボールに次いで2番目に人気のあるスポーツである[113]。大学スポーツであるカレッジバスケットボールもNBAに勝るとも劣らない人気がある。3月から開催されるNCAA男子バスケットボールトーナメントは全米中の注目を集め、いわゆる「3月の狂乱」(March Madness)と呼ばれている。 サッカー かつてはサッカー不毛の地と揶揄されることもあったが、2017年のギャラップやワシントン・ポストの世論調査によると[113][110]、アメリカンフットボール、バスケットボール、野球に次いで、4番目に人気のあるスポーツである。若年層や中年層の間では既に野球を超えており[113]、近い将来に3番目の人気スポーツになることが予測されている[119]。競技人口は2400万人を超えており、中国に次いで、世界で2番目に多い国である[120]。1994年にFIFAワールドカップを開催しており、大会史上最高の観客動員数を記録した。1996年からプロリーグであるメジャーリーグサッカー(MLS)を開始し、徐々に規模を拡大している。FIFAワールドカップの人気は非常に高いものがあり、アメリカ戦のテレビ視聴者数はワールドシリーズやNBAファイナルを大幅に上回ることもある[121]。女子サッカーは強豪国の一つであり、FIFA女子ワールドカップの優勝回数は史上最多の3回、FIFA女子ランキングでは首位を維持していることが多い。また2026年にはカナダ、メキシコとともに2026 FIFAワールドカップの共同開催国となる。 アイスホッケー プロリーグであるNHLは、カナダやアメリカの一部の州では人気が高いものの、全米規模で他のメジャー競技と比較した場合、人気の面で大きく劣るのが現状である[113]。NHLの選手に占めるアメリカ人の割合は2割程度と非常に低く、カナダ人や欧州出身者が大半を占める。リーグ優勝決定戦であるスタンレー・カップ・ファイナルの視聴率も2012年には最高3%台に留まっており、モータースポーツのNASCARやゴルフ、テニスの大会より低い水準である[122]。 その他 オリンピックは歴史的に夏季と冬季のどちらも人気が高い。2012年のロンドンオリンピックは、NFLと共に最も視聴率の高いコンテンツであった[122]。プロレス(WWE)や総合格闘技(UFC・Strikeforce[123])、モータースポーツ(NASCARやインディカー)、ゴルフ、テニスなども人気が高い。反面、フォーミュラ1、ラリーなど、欧州を中心に世界の広い地域で人気の高いスポーツが大衆的人気を得ていないのが特徴である。ラグビーやクリケットといったイギリス発祥のチームスポーツは全般的にマイナースポーツの地位に甘んじている。競馬も非常に盛んでサラブレッドの生産頭数は世界一である。とくにケンタッキーダービーやブリーダーズカップ(BC)は有名である(詳しくはアメリカ合衆国の競馬を参照)。ハワイ州と西海岸を中心にサーフィンの人気も高い。特にカリフォルニアには良質の波がたつポイントも多く、多くのサーフィンインダストリーが点在している。 メディア マスコミ 新聞は約1500紙が発行されている。一般的には地方紙が好まれるが、地方紙の地元記事以外の内容は大手新聞から購入したものが多い。全国紙としてはUSAトゥデイ(227万部)、ウォール・ストリート・ジャーナル(206万部)が部数競争をおこなっている。影響力の大きい新聞としてはニューヨーク・タイムズ(112万部)、ワシントン・ポスト(69万部)、ウォール・ストリート・ジャーナルの3紙があげられる。1985年の総発行部数は約6000万部、2006年が5000万部である。人口1000人当たりの普及率は約270部で、これは先進国では最低レベルである。 ABC、NBC、CBSの三大ネットワークはそれぞれニュース制作に特化した子会社を有し、プライムタイムに放送されるニュース番組に非常に力を入れている。現在は視聴率の高い順にNBCナイトリー・ニュース、ABCワールド・ニュース、CBSイブニング・ニュースとなっている。60ミニッツなどの報道特集番組も人気がある。 インターネット 科学技術 軍や軍需産業による先端技術開発への投資が活発な他、大学などの研究機関が行う各種研究に対しての企業による寄付なども盛んに行われていることから、先端技術や種々の学問においては世界的に見て1、2を争うものが多い。 第二次世界大戦前後、ユダヤ人であるためナチスに迫害を受けた(アルベルト・アインシュタインなど)、あるいは祖国が戦火で荒廃した(フォン・ブラウン等)などの理由でヨーロッパの科学者や技術者が多くアメリカに移住したため、戦後はアメリカがヨーロッパに取って代わり世界の先端的な科学技術や学問の中心になった面もある。 アメリカの大衆・大量消費文化や、先端的な医療、軍事、航空宇宙、情報・通信(IT)などのテクノロジーは、保有する基礎科学・応用科学の力に支えられて実現しているものであり、現代の科学技術文明を牽引する主要な国家であることは特筆すべきことであろう。 アメリカはメートル条約に加盟しているが、自然科学の分野以外ではヤード・ポンド法(米国慣用単位)が広く用いられている。ヤード・ポンド法を現在も使用している国はリベリア、ミャンマーとアメリカだけである。ジェラルド・フォード政権下の1975年にメートル法移行法()が可決されたが、ロナルド・レーガン政権が発足すると移行政策は頓挫した。市販される商品のパッケージなどには、ヤード・ポンド法とメートル法の並記が普通に行われている。航空分野などのアメリカが強い力を持つ産業分野では、国際的にもヤード・ポンド法を用いて計量することが多い。また温度に関しても摂氏ではなく華氏を用いることが一般的である。 脚注 関連項目 アメリカ合衆国関係記事の一覧 外部リンク 政府 (in English)(in Spanish) (in English) (in English) (in English) (in English) (in Japanese)(in English) (在日米国大使館)(in Japanese)(in English) 日本政府 (in Japanese) (in Japanese)(in English) 観光 (in Japanese)(in English)(in French) (in Japanese)(in English)(in French)(in Spanish)(in German) その他 (in Japanese) Wikimedia Atlas of the United States (in English) Taiwan People's Party
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ミンストレルはどこで生まれた
スティーブン・フォスター
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スティーブン・コリンズ・フォスター(Stephen Collins Foster、1826年7月4日 - 1864年1月13日)は、ヘンリ・クレイ・ワークと並んで、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。20年間に約200曲を作曲し、その内訳は135曲のパーラーソングと28曲のミンストレルソングである。多くはメロディの親しみやすい黒人歌、農園歌、ラブソングや郷愁歌である。「アメリカ音楽の父」とも称される。 生涯 青年期まで ペンシルベニア州ピッツバーグの隣町ルイスヴィルで、アイルランド移民の曽祖父の家系を引く比較的裕福な家庭に10人兄弟の末っ子として育つ。彼の生まれた家は「白壁の家」(White Cottage)と呼ばれていた。父のウィリアムは、ヴァイオリンを演奏するほどの音楽趣味を持ち、母のエリーザ・トムリンスンも詩情豊かな教養に富む女性であった。フォスター自身も幼児期より並ならぬ音楽的才能を見せ、7歳からは横笛を、9歳からはギターを独学で習得し、後にはクラリネットも修め、1841年、15歳の時にはアゼンス・アカデミー卒業式の際に自作の「ティオガ円舞曲」をアテネ・アカデミーの教会でフルートで奏した(この作品はピアノ独奏曲として現存する)。作曲に興味を持ったフォスターはモーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバーらの作品を寝る間も惜しみ研究していたという。このようにアカデミックな音楽教育はほとんど受けなかったにもかかわらず、二十歳になるまでにすでにいくつか歌曲を出版していた。姉2人もピアノをよく演奏したという。 作曲家 最初の歌曲は1844年に出版された「窓を開け、恋人よ」(Open Thy Lattice, Love)で16歳のときの作品である。翌1845年には弟と友人からなるセーヴル・ハーモニスツ重唱団のために「ルイジアナの美人」、「ネッド叔父さん」などを作曲する。1845年4月にピッツバーグは大火に見舞われ、町の3分の1にもあたる約1000棟の建物を焼失する。 1846年にオハイオ州シンシナティに転居し、兄の蒸気船海運会社・アーウィン・フォスター商会(Irwin & Foster)で簿記係を務める。当時のシンシナティは、ピッツバーグをしのぐ勢いの多文化社会であり、彼の働く会社の窓の外にはオハイオ川に蒸気船がひっきりなしに行き交い、南部の黒人音楽や荷揚げ作業人夫の労働歌に満ち溢れていた。このシンシナティ在住中に、当時独立戦争後の新大陸で流行した黒人霊歌風である最初のヒット曲「おおスザンナ」を発表。これは1848年〜1849年のカリフォルニアのゴールド・ラッシュの賛歌となった。当時、白人が顔を黒く塗り大げさに歌うミンストレル・ショーやエチオピア風の喜劇役者の魅力に強く引きつけられていたが、その結果が1849年に出版された曲集『フォスターのミンストレル・ソング集』(Foster's Ethiopian Melodies)に結実し、クリスティ・ミンストレルズによってヒットした「やさしいネリー」(Nelly Was A Lady)が収録されている。 貧困 同年フォスターはペンシルベニアに戻ってコンサートを開き、クリスティ・ミンストレルズと共演、最も有名な歌曲が書かれる時代の始まりとなった。1850年に、ピッツバーグの名医の長女であるジェーン・マクダウェルと結婚、翌年には娘マリオンをもうけるが、この後に音楽的円熟を見せ「ケンタッキーの我が家」、「主人は冷たい土の中に」、「故郷の人々」(「スワニー河」)の傑作を次々に生む。1853年にフォスターはニューヨークに出てファース・ポンド社と契約を結び、自作・他者の歌曲などをアンサンブル用に編曲した「ソーシャル・オーケストラ」(The Social Orchestra)を発表。翌1854年には「金髪のジェニー」を発表。この年に妻子もニューヨークに移り住む。が、翌年にはフォスターは単身ピッツバーグに戻り、続いて妻子も追うが、1855年の両親の死と翌1856年の兄ダニングの死はフォスター一家に打撃を与え、借金暮らしに陥る。1857年、ファース・ポンド社との先払い契約によって辛うじて金銭を得るが困窮生活は続く。1860年にニューヨーク市に再び転出し「オールド・ブラック・ジョー」を発表。が、翌年には全曲の版権を売却、出版社との契約も切れ、作曲しては売るものの夜には金がなくなるというひどい困窮状況に陥り、やがて妻子も去っていく。次第に飲酒に溺れ、孤独に苛まれてゆく。 死去 1864年1月10日、マンハッタンのノース・アメリカン・ホテルに滞在中であったフォスターは、粉々に割れた洗面台のそばで頭部および頚部から大量に出血した状態で倒れているところを作詞家ジョージ・クーパーによって発見され、ベレビュー病院に搬送されたものの13日に発熱と出血多量で死亡した。数日前から発熱しており、意識朦朧の状態でベッドから起き出し、洗面所に入ったところで平衡感覚を失って転倒、その際に頭部を洗面台にぶつけて割ってしまい、その破片で頚動脈を切断されたことが致命傷になったものと推測されている。37歳没。この時のフォスターの所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけであった。フォスターの死を知らされた妻ジェニーは遺体と対面するやその場で泣き崩れたと伝えられている。1862年の作品「夢見る人」(「夢路より」)が発表されたのは死後2か月後のことである。亡骸はペンシルベニア州ピッツバーグのアレゲーニー墓地に埋葬されている。 特徴 フォスター歌曲の多くは、ミンストレル・ショーの伝統に則り、時流に乗ったが、アフロ・アメリカンの音楽を単にカリカチュアしてみせたというよりも、白人向けに書かれた当時の楽曲には珍しく、黒人奴隷の苦しみに共感を示している。白人作曲家として最初に、睦み合う黒人夫婦を描き出したのがフォスターである。これにより、活動家・フレデリック・ダグラスの称賛を得ることとなる。フォスターの歌曲の多くが南部における日常を扱っているにもかかわらず、フォスター自身は1852年に新婚旅行でニューオーリンズを訪れたのを別とすれば、南部で直接的な経験をしていない。 フォスターはプロの歌曲作家として生計を立てようとしており、実際にプロの作曲家と見なしてよいのだが、当時は現代的な意味で「作曲家」という職業分野は確立されてはいなかった。その結果、音楽著作権や作曲家の印税に対する配給の乏しさのため、フォスターは自分の出版譜がもたらした利潤をほとんど受け取ることができなかった。複数の出版社がしばしば競合してフォスター作品の独自の版を出しながら、フォスターにはろくに報酬を与えなかったのである。例えば「おおスザンナ」は、1848年〜1851年の3年間で16もの出版社が30種以上の楽譜を出版し、当時、最高販売部数がせいぜい5000部という時代に10万部の大ヒットとなったにもかかわらず、フォスターの収入はわずか100ドルに過ぎなかったといわれる。1862年初頭にフォスターの活動は下降線をたどり始め、新作曲の質も落ち始めた。作詞家クーパーとのチームワークもうまくいかず、折からの南北戦争による戦時経済も災いした。 後世への影響 フォスター自身はクラシックの器楽曲をほとんど作曲していないが、後にフォスターの歌曲は、ドヴォルザークによって編曲されたり、チャドウィックやアイヴズ、NHK室内管弦楽団らの管弦楽曲に引用されるなど、クラシック音楽の作曲家にも影響を及ぼした。 生家「白壁の家」は今でも解体されずに残っている。 1966年11月2日に§ 140としてスティーブンフォスターメモリアルデー()が制定され、翌1967年1月13日より毎年1月13日が記念日となっている。 主な作品 「おおスザンナ」(Oh, Susanna、1848年) 「草競馬」(Camptown Races、1850年) 「ネリー・ブライ」(Nelly Bly、1850年) 「故郷の人々」(「スワニー河」、Old Folks at Home(Swanee River)、1851年) 「主人は冷たい土の中に(あるじはつめたいつちのなかに)」(Massa's in De Cold Ground、1852年) 「ケンタッキーの我が家」(My Old Kentucky Home、1853年) 「金髪のジェニー」(Jeannie With the Light Brown Hair、1854年) 「すべては終わりぬ」(「厳しい時代はもうやって来ない」、Hard Times Come Again No More、1854年) 「オールド・ブラック・ジョー」(Old Black Joe、1860年) 「夢見る人」(「夢路より」、Beautiful Dreamer、1862年) 「恋人よ窓を開け」(「君の窓を開けて 恋人よ」、Open Thy Lattice,Love) 「お眠りなさい いとしい子」(Slumber My Darling) 関連文献 書籍 津川主一『アメリカ民謡の父フォスターの生涯』トッパン、1948年 津川主一『フォスターの生涯』音楽之友社〈音楽文庫〉、1951年 竹山敏郎『フォスター』音楽之友社〈少年音楽文庫〉、1959年 河内紀/文、松浦直彦/絵『アメリカの心フォスター』音楽之友社〈ジュニア音楽図書館作曲家シリーズ〉、1981年 杉本皆子『フォスターの音楽:アメリカ文化と日本文化』近代文芸社、1995年 藤野幸雄『夢みる人:作曲家フォスターの一生』勉誠出版、2005年 論文 宮下和子「スティーヴン・フォスターとミンストレルショーに見るアメリカの夢」『南九州大学園芸学部研究報告 自然科学・人文社会科学』第19号、1989年 宮下和子「」『学術研究紀要』第14号、鹿屋体育大学、1995年 宮下和子「音楽:アメリカを歌い続けるフォスター」鵜木奎治郎編著『新版 アメリカ新研究』北樹出版、1997年 宮下和子「」『九州コミュニケーション研究』第3号、日本コミュニケーション学会九州支部、2005年 関連項目 スティーブンフォスターハンデキャップ - フォスターの名前が由来の競馬の競走 風の中の少女 金髪のジェニー - フォスターと妻ジェニーの幼少期を描いたアニメ 山本周五郎 - 長編『虚空遍歴』はフォスターの伝記を下敷きに江戸時代の人間を描いたもの 外部リンク Free scores by Stephen Foster at the International Music Score Library Project (IMSLP) on IMDb at Find a Grave Sheet music for , Macon, GA: John C. Schreiner & Son. From . Sheet music for , Macon, GA: John C. Schreiner & Son. From .
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC
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シャンルウルファの主要産業は何
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Part of a series onKurdish history and Kurdish culture People List of Kurds Population Homeland Kurdistan Turkey (Northern Kurdistan) Iran (Eastern Kurdistan) Iraq (Southern Kurdistan) Syria (Western Kurdistan) Diaspora Armenia Australia Azerbaijan Canada France Georgia Germany Israel Japan Jordan Kazakhstan Lebanon Netherlands New Zealand Pakistan Russia Sweden Turkmenistan United Kingdom United States History History of the Kurds Culture Kurdish culture Clothing Cuisine Celebrations Dance Flag Historical sites Language Folklore Literature Music Kurdish philosophers Ancient history Karduchian dynasties Corduene Zabdicene Cyrtians Moxoene Kayusids Medieval history Shahrizor Sadakiyans Mir Jafar Dasni Aishanids Daisam Shaddadids Rawadids Hasanwayhids Annazids Marwanids Hadhabani Hazaraspids Ayyubids Zands Badlis Ardalan Badinan Soran Mokryan Baban Modern history Simko Shikak revolt Koçgiri Rebellion Ararat rebellion Dersim Rebellion Kingdom of Kurdistan Kurdish Republic of Ararat Republic of Mahabad Al-Anfal campaign Iraqi Kurdistan (KRG) Iranian Kurdistan Turkish Kurdistan Syrian Kurdistan Kurds in Iraq Kurds in Iran Kurds in Turkey Kurds in Syria Languages Kurmanci Sorani Zazaki Pehlewani Gorani Religion Islam Christianity Judaism Yarsanism Yazdânism Yazidism Zoroastrianismvt 北クルディスタン</b>あるいは<b data-parsoid='{"dsr":[28,47,3,3]}'>トルコ領内のクルディスタン(トルコ語:Türkiye Kürdistanı、Kuzey Kürdistan、Kuzeybatı Kürdistan[1]、クルド語:Kurdistana Tirkiyê [2]、Bakurê Kurdistanê [3]、英:Northern Kurdistan、Turkish Kurdistan)は、クルド人が多く居住しているトルコの南東部および東部の一部の非公式な名前である。この領域は地理的にはクルディスタンの一部であり、 地理及び経済 イスラーム百科事典はトルコのクルディスタンは、トルコ全体のうち、少なくとも17の県を含んでいると記載している。これらの県には、エルズィンジャン県、エルズルム県、スィヴァス県、カルス県、マラティヤ県、トゥンジェリ県、エラズー県、ビンギョル県、ムシュ県、アール県、アドゥヤマン県、ディヤルバクル県、スィイルト県、ビトリス県、ヴァン県、シャンルウルファ県、マルディン県、ハッキャリ県があり、同時に、「クルディスタンの境界は不正確で、どの地域まで含むか正確に判断することが困難である」と強調されている[4]。 1987年に、4つの新しい県、シュルナク県、バトマン県、ウードゥル県、アルダハン県が上記諸県の領域からトルコ行政区画に新設された。これらの領域に関して統一的な行政的区分は設けられておらず、またトルコ国家は同領域に対し「クルディスタン」の語を用いることを拒絶している。加えて、上述地域に関しては、より広域な地理区分南東アナトリア地域(Güneydoğu Anadolu Bölgesi)および東アナトリア地域(Doğu Anadolu Bölgesi)を形成する一部としている。 この領域は、アナトリアの南東の隅に存在する。この領域は3700mを越える山々と、乾燥した山岳高原から形成され、トロス山脈弧の一部をなす。この地域は極度の大陸性気候であり、夏は暑く、冬はひどく寒い。それにもかかわらず、この地域は肥えた土地であり、伝統的に穀物と家畜を平原部の都市に供給していた。地方経済は、畜産と小規模農業が主要産業で、国境地域では密輸(特に石油)が主要な収入源としてこれに加わる。大規模な農業と工業活動は、地域における最大のクルド人口をもつ都市ディヤルバクル周辺の低地において主要な経済活動となっている。しかし、何十年もの抗争や、高い失業率は同地域からトルコ国内各所および外国への移住を引き起こしている[5]。 歴史 中世にあっては、中東のクルド人の居住地域においては統一民族国家が樹立されたことはないが、クルド人の部族長らにより統治されていた。10世紀及び11世紀には、クルド人王朝が支配し、14世紀以降ほとんどの領域がオスマン帝国に組み込まれた。 オスマン朝下のクルド領域 1527年まで遡る税務記録(デフテル)では、同領域をウィラーヤティ・クルディスターンと呼んでおり、そこには7個の大規模、11個の小規模のアミール領が存在していた。文書によると、クルドの諸アミール領はエヤーレット(州)として言及されており、これは諸アミール領が自治を享受したことを示唆している。1533年頃、スレイマン1世により出されたファルマーン(勅令)において、「クルディスターンの諸ベイ」すなわちクルドの貴族に、その相続と継承の原則について概略を示している。世襲相続権はオスマン朝に忠実なクルド・アミール領に許され、アミールらは帝国内における自治を与えられた。これらの首長国の自治の程度はその地政学的重要性に依存して大きく異なっていた。弱小のクルド族はより強い部族に加わるか、オスマン帝国のサンジャク (県)の一部となることを強要された。 しかし、強力で交流が取りにくい部族、特にイラン国境に存在していた部族は、高度の自治権を享受した。エヴリヤ・チェレビーの『カーヌーンナーメ(法の書)』によると、通常のサンジャクと異なり2つの行政単位が存在した。第一がクルドのサンジャク(エクラード・ベイリク)で、これはクルド貴族によって世襲相続される。第二がクルド政府(ヒュキュメト)。クルドサンジャクは通常のサンジャクと同じく、軍役義務と若干の税納義務が存在していた。一方、ヒュキュメトは税納もオスマン軍への軍役提供も行わなかった。オスマン帝国は彼らの相続や内政事情に干渉することを好まなかった。 エブリヤ・チェレビーが報告したように、17世紀までにクルド人の首長国の自治の程度は減少していった。その時期、ディヤルバクルの19のサンジャクは、12の通常のオスマン帝国サンジャクが存在し、残りがクルド人のサンジャクと呼ばれていた。クルド人のサンジャクとしては、サーマン、クルプ、ミフラーニイェ、テルチル、アタク、ペルテク、チャパクチュルが報告されている。また、クルドの政権 (ヒュクーメト)として、ジェズィーレ (ジズレ)、エーイル、ゲンチ、パル、ハゾの存在が確認できる。18世紀終わりから19世紀初めに、オスマン帝国の衰退で、クルド人のアミール領は事実上の独立状態となった[6]。 近代 オスマン帝国政府は、19世紀初めにその地域における権益を主張しはじめた。クルド諸領の独立志向を懸念してオスマン朝はその影響を抑え、イスタンブールの中央政府の管理下に置こうとした。しかし、これらの世襲領からの権限回収は、1840年代からその地域を不安定な状態にした。それらの地域ではスーフィー教団とそのシャイフ(長)の影響力は突出したものとなり、領域至る所に浸透した。ナクシュバンディー教団の指導者シェイフ・ウベイドゥッラー・ネフリーはヴァン湖とオルーミーイェ湖のあいだの地域で反乱をおこした。彼の支配した領域は、オスマン帝国領とガージャール朝領双方に及んだ。シェイフ・ウベイドゥッラーはクルド人のなかで近代的ナショナリズム思想を追求した最初期の指導者の1人とされる。イギリスの副領事への手紙で、彼は以下のように宣言した。「クルドの国家は人々がばらばらになっている……我々は我々のものごとを我々の手のうちにおきたい」[7]。 第一次世界大戦の敗北後オスマン帝国の崩壊は、帝国の分割と、現在の国境を形成しクルド人の居住地域を分割する新たな諸国家の形成につながった。新しい国境の形成とその執行はクルド人に重大な影響を与えた。彼らは伝統的な遊牧生活を捨て、村での農業を行うため定住生活を行わなくてはならなくなったのである[8]。 対立と論争 東アナトリアのクルド人居住区のトルコへの編入は多数のクルド人により反対され、長期にわたる分離独立紛争が生じ、何千人もの命が失われた。この地域では、1920年から1930年に何度かの大きなクルド人による反乱が生じた。大きなものには、オスマン時代のクルド人による軽騎兵隊ハミディエの出身者らが結成した「」(自由)が組織し、ナクシュバンディー教団のを擁立して起こした1925年の、アール県の住民らが起こした1927年から1930年のがある。これらは、トルコ政府により武力制圧され、この地域は1925年から1965年の間、軍により封鎖された外国人立ち入り禁止地域とされた。クルド人による文化的、政治的な活動の制限により分離独立者の考えを根絶すると言う政策が、トルコの初代大統領ケマル・アタチュルクにより実行され、その後の後継者の下でもその酷さを変えながらも継続されてきていた。 1983年に、いくつかの県では、好戦的な分離独立主義者のクルディスタン労働者党(PKK)の活動に対して、戒厳令をしいた[9]。激しいゲリラ闘争が1980年代の残りと1990年代に行なわれた。1993年には、トルコ南東部で治安維持活動を行なっていた治安部隊の数は、約20万人となり、この対立は中東で最大規模の内戦となった[10]。そこでは、地方から人がいなくなり、何千ものクルド人の村が破壊され、たくさんの略式の裁判による処刑が両陣営により行なわれた[5]。3万7千人以上の人々がその内戦で殺され、何十万もの人々が家を捨てることを余儀なくされた[11]。その地域の状況は1999年にPKKのリーダーアブドゥッラー・オジャランの逮捕と、欧州連合により推奨されていた[8]、クルド人の文化的活動に対する大規模な緩和措置の導入により、沈静化の方向へ向かった。しかし、一部の政治的な迫害は継続中であり、トルコ・イラン国境は緊張状態にある[12]。 2015年6月クルド民兵組織はシリアの要衝都市をISから奪還したと発表した。シリアからの避難民がシリアトルコ国境に集結し、トルコは苦慮している。シリアのクルド民兵組織は、トルコやイラクのクルド民兵組織ペシュメルガとも連携をとり、米軍の空爆の支援も受けてISと戦っている。各国に分散しているクルド人はISとの戦いに勝利することがクルド人の国を作る機会ととらえているが、このことがシリア、イラク、トルコと微妙な関係の原因になっている。[13] 2015年のトルコ総選挙で野党のクルド党は79議席を獲得し大躍進した。大統領権限を強める憲法改正を狙うエルドアン大統領与党は第1党にはなったものの過半数は獲得できなかった。[14] 関連項目 トルコ・クルド紛争における犠牲 (Casualties of the Turkish-Kurdish conflict) トルコ・クルド紛争 クルド人 クルディスタン クルディスタン労働者党 (PKK) 脚注 外部リンク (2007年9月27日時点のアーカイブ) 、イスラーム百科事典 by GlobalSecurity.org by GlobalSecurity.org
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
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文化財保護法は有形のものだけに適応されますか?
登録有形文化財
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登録有形文化財(とうろくゆうけいぶんかざい)は、1996年(平成8年)の文化財保護法改正により創設された文化財登録制度に基づき、文化財登録原簿に登録された有形文化財のことである。登録対象は当初は建造物に限られていたが、2004年(平成16年)の文化財保護法改正により建造物以外の有形文化財も登録対象となっている。登録物件は近代(明治以降)に建造・製作されたものが主であるが、江戸時代のものも登録対象になっている。 概要 登録制度創設の背景 1996年の文化財保護法改正により、従来の文化財「指定」制度に加えて、文化財「登録」制度が創設された。第二次大戦以降の日本においては、急激な都市化の進展などにより、近世末期や近代以降の多種多様な建造物が、その建築史的・文化的意義や価値を十分認識されないまま破壊される事例が相次いだ。このような反省に立ち、昭和40年代頃から、近世の民家建築、近代の洋風建築などが国の重要文化財や、地方公共団体の文化財に指定される例が漸増していった。 しかし、急激に消滅しつつある近代の建造物の保護にあたっては、国レベルで重要なものを厳選する重要文化財指定制度のみでは不十分であり、より緩やかな規制のもとで、幅広く保護の網をかけることの必要性が議論された。こうして、重要文化財指定制度を補うものとして創設されたのが、文化財登録制度であり、登録された物件を<b data-parsoid='{"dsr":[1746,1759,3,3]}'>登録有形文化財</b>と称する。 登録の対象 1996年の文化財保護法改正の時点では、登録の対象は当面建造物のみとされ、美術工芸品、歴史資料などは登録対象となっていなかった。この理由は、建造物に関しては、都市化や開発の進展、生活・居住形態の変化などにより、取り壊される可能性があり、緊急に保護措置をとる必要があるためであった。 2004年の同法改正により、建造物以外の有形文化財も登録の対象となった。また、有形民俗文化財、記念物(史跡・名勝・天然記念物関係)についても、従来の「指定」制度を補完するものとして「登録」制度が導入された。登録された有形民俗文化財および記念物はそれぞれ登録有形民俗文化財、登録記念物と呼ばれる。 この登録制度は指定制度を補完するものであるため、登録対象となる有形文化財は、国や地方公共団体の指定を受けていないものに限られる。登録有形文化財として登録された後、国または地方公共団体の文化財として指定を受けた場合は、登録有形文化財としての登録は抹消される。ただし、地方公共団体の文化財として指定を受けた場合において、その登録有形文化財について、その保存及び活用のための措置を講ずる必要があり、かつ、その所有者の同意がある場合は、例外的に登録を抹消しないことができる。 指定と登録 ウェブサイト、観光案内書等で「登録有形文化財に<b data-parsoid='{"dsr":[2371,2379,3,3]}'>指定</b>されている」という表現をしばしば見かけるが、文化財保護法の規定上、文化財の「指定」と「登録」とは明確に区別されており、「登録有形文化財として<b data-parsoid='{"dsr":[2449,2457,3,3]}'>登録</b>されている」と表記するのが正確である。官報告示においても「文化財を登録有形文化財に登録する」という表現が用いられている。 登録有形文化財(建造物) 2016年1月1日現在、建造物の登録件数は10,382件である。登録されている物件には、以下のような多様な分野の建造物がある。 役所、図書館、学校、駅舎などの公共建築 軍隊関連施設 伝統産業施設 店舗、銀行、旅館、ホテルなどの商業建築 工場などの産業関連施設 トンネル、橋梁、灯台などの交通関係建造物 ダム、水門などの近代化遺産 社寺、教会などの宗教建築 民家、泉(飲料用水、生活用水) これらの登録物件には、現役の商店、ホテルなどとして活用しつつ保存されているもの、博物館・資料館などとして公開活用されているものが多い。 統計 都道府県別 2016年3月1日現在、都道府県別の建造物の登録件数は以下の通りである。登録有形文化財一覧を参照。 分類別 2011年7月1日現在、分類別の建造物の登録件数は以下の通りになっている。 登録有形文化財(美術工芸品) 建造物以外の有形文化財(美術工芸品)の登録有形文化財についてどのようなものが該当するかは、改正された「登録有形文化財登録基準」(文部科学省告示)に定められている。これによると、製作後50年を経過したものであって、歴史的・系統的にまとまって伝存したもの、系統的・網羅的に収集されたもの、すなわちコレクション等の一括資料になっているものあり、かつ、文化史的意義、学術的価値および歴史上の意義を有するものが登録対象となっている。 第1回登録 2006年3月30日付けで行われ(官報告示は翌3月31日)、次の4件が登録された。 工芸品の部 有田磁器(柴田夫婦コレクション) 10,311点(佐賀県立九州陶磁文化館) 考古資料の部 飛騨地域考古資料(江馬修蒐集品) 9,524点(岐阜県高山市風土記の丘学習センター) 歴史資料の部 建築教育資料(京都帝国大学工学部建築学教室旧蔵)2,653点(京都大学) 紙芝居資料 5,652点(宮城県図書館) 第2回登録 2008年3月7日付けで行われ、次の2件が登録された。 書跡・典籍の部 松原文庫(松原恭譲蒐集仏書資料) 1,090点(東大寺) 歴史資料の部 工業技術資料(日本工業大学収集)178点(日本工業大学) 第3回登録 2008年7月10日付けで行われ、次の3件が登録された。 工芸品の部 並河靖之七宝資料 1,662点(財団法人並河靖之有線七宝記念財団) 考古資料の部 越中地域考古資料(早川荘作蒐集品) 1,699点(富山県) 歴史資料の部 工藤利三郎撮影写真ガラス原板 1,025点(奈良県奈良市(入江泰吉記念奈良市写真美術館保管)) 第 4回登録 2009年7月10日付けで行われ、次の1件が登録された。 歴史資料の部 ボードイン収集紙焼付写真 528点(国立大学法人長崎大学) 第5回登録 2010年6月29日付けで行われ、次の1件が登録された。 工芸品の部 福井県陶磁器資料(水野九右衛門コレクション) 1,642点(福井県) 第6回登録 2011年6月27日付けで行われ、次の2件が登録された。 考古資料の部 本山彦一蒐集考古資料 18,945点(学校法人関西大学(関西大学博物館保管)) 歴史資料の部 彩色設計図集 632点(清水建設株式会社) 第7回登録 2012年9月6日付けで行われ、次の1件が登録された。 考古資料の部 諏訪地域考古資料(藤森栄一蒐集品)59,628点(諏訪市(諏訪市博物館保管)) 1998年登録(宗教)/彌彦神社本殿・拝殿(新潟県) 2000年登録(交通)/四国村鍋島燈台退息所(香川県) 2000年登録(学校)/近江兄弟社中学校・高等学校ハイド記念館・教育会館(滋賀県) 2008年登録(交通)/若桜駅 機関車転車台(鳥取県) 2009年登録(学校)/関西学院大学時計台(兵庫県) 2011年登録(学校)/松商学園高等学校本館(長野県) その他 横浜市登録地域文化財:神奈川県横浜市が1988年(昭和63年)に独自に制定した一種の登録文化財制度。 参考文献 『月刊文化財』402号(1997年3月)「特集 文化財登録制度」、第一法規 『月刊文化財』492号(2004年9月)「特集 登録有形文化財建造物 八年の軌跡と今後の展望」、第一法規 『月刊文化財』500号(2005年5月)「特集 新たな文化財保護行政の展開」、第一法規 関連項目 登録有形文化財一覧 国宝 重要文化財 重要美術品 文化財 リビングヘリテージ アダプティブユース 横浜市登録地域文化財 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E9%8C%B2%E6%9C%89%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1
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ギリシア語はいつ誕生した
ギリシア語
japanese
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ギリシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά [eliniˈka], または Ελληνική γλώσσα [eliniˈci ˈɣlosa](listen))はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人[1][2]。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は<b data-parsoid='{"dsr":[1454,1462,3,3]}'>希語[3]。 概要 ギリシア語は、インド・ヨーロッパ語族の中で最も古くから記録されている言語であり、その歴史は3400年にわたる[4]。ギリシア文字で記されるようになったのは、ギリシアでは紀元前9世紀、キプロスでは紀元前4世紀以後のことである。それ以前では、紀元前2千年紀半ばには線文字Bが、紀元前1千年紀前半にはキプロス文字が、それぞれ使われていた。 ギリシア語は今日においても、人類史上最も強い影響力を持った文明の言語、あるいは3千年間継承されてきた史上最も偉大な文学を生んだ言語のひとつとみなされ、広く尊敬の念を集めている。その語彙は学術用語として英語をはじめとする欧米諸言語に多数借用されており、英語の語彙のうちの12%がギリシア語由来であると推定される[2]。ギリシア語はまた、『新約聖書』原典を記すのに用いられた言語でもある。ヘレニズム時代には東地中海世界の通商語として広まり、中世には東ローマ帝国領の大半にあたる広大な地域(中東・北アフリカ・東南ヨーロッパ・アナトリア半島)に波及した。 使用地域 公用語として使用している国 Greece Cyprus(トルコ語と併用) その他に使用されている地域 イスタンブールのギリシア人居住区 Albania南部 南イタリア(マグナ・グラエキア)の一部の特定の村落 North Macedonia南部 Bulgaria中央・南部 欧米諸言語への影響 ギリシア語の語彙はヨーロッパの諸言語に広く借用されている。特に英語においては、数学(mathematics)・天文学(astronomy)・民主主義(democracy)・哲学(philosophy)・修辞学(rhetoric)・俳優(thespian)・陸上競技(athletics)・劇場(theater)などのほか、ギリシア語の単語やその要素は新たな造語の元にもなっている。人類学(anthropology)・写真(photography)・異性体(isomer)・生体力学(biomechanics)・映画(cinema)・物理学(physics)などがそれに当たる。また、ラテン語とともに国際的な学術用語の拠り所ともなっている。たとえば -logy(談話)で終わる語はすべてギリシア語由来である。ギリシア単語の多くが英語の派生語を有する一方、ギリシア語に起源を持つと推測される英語の語彙はその内の12%である[2]。 歴史 前近代 ギリシア語は、おおよそ紀元前3千年紀後半にはバルカン半島で話されていた。最も古い痕跡は、クレタ島のクノッソス宮殿内の「2頭立て馬車の粘土板の部屋」にある線文字Bの粘土板(LM IIIA, 紀元前1400年頃)に見出せる。ギリシア語が現在使用されている言語の中で世界最古に記録されたもののひとつとされる所以である。インド・ヨーロッパ語族の中で、記録を確認できる年代がギリシア語に匹敵する言語は、ヴェーダ語とヒッタイト語(死語)のみである。 後年のギリシア文字(線文字Bとの関連はない)はフェニキア文字に由来する。フェニキア文字はアブジャド(単子音文字)であったため多少手が加えられ、これが今日でも使用されている。ギリシア語は慣例的に以下のように区分される。 ギリシア祖語Template:Enlink 確認されているすべてのギリシア語の、想定上の原型。実際の記録には残されていない。ギリシア祖語の話者は、おそらく紀元前2千年紀前半にギリシアへ移住してきた。以来、ギリシアでは絶え間なくギリシア語が話されてきた。 ミケーネ語 ミケーネ文明の言語。線文字Bで粘土板に書かれており、紀元前15世紀ないし14世紀にまで遡れる。 古代ギリシア語() 古代ギリシア語に含まれる様々な方言は、古代ギリシア文明のアルカイック期と古典期の言語に分かれる。古代ギリシア語はローマ帝国中に広く知れ渡っていた。 コイネー 様々な古代ギリシア語方言と、古典期のアッティカ方言(アテナイの方言)の融合体。初の共通ギリシア語方言であり、東地中海と近東全域の通商語となった。コイネーはまず、マケドニア軍とアレクサンドロス大王の征服地にその足跡を辿ることができる。ヘレニズム時代に各地に植民都市が建設されたのちは、エジプトからインド周辺にまで到る地域で話されるようになった。共和政ローマによるギリシア征服後は、ローマ市内ではラテン語とギリシア語のダイグロシア(二言語併存)が定着し、ローマの領域全体でも第一言語または第二言語の地位を獲得した。しかしながら、中世になると西ヨーロッパでは廃れていった。 キリスト教の起源を明かにできるのもコイネーである。使徒の伝道が、ギリシアやギリシア語圏で行われていたからであり、このときに用いられたコイネーは、『新約聖書』原典にも使用されたことから<b data-parsoid='{"dsr":[4326,4341,3,3]}'>新約聖書ギリシア語</b>と呼ばれるほか、アレクサンドリア方言</b>や<b data-parsoid='{"dsr":[4370,4384,3,3]}'>後古典ギリシア語</b>としても知られる。 中世ギリシア語Template:Enlink 東ローマ帝国で用いられた、コイネーの後継。とはいえ、すでに多くの点で現代ギリシア語に近づいていた日常の話し言葉から、古典期のアッティカ方言に倣った高度に学問的な文語までが含まれており、その意味するところは多岐にわたっている。「中世ギリシア語」とは、15世紀に帝国が終焉を迎えるまでのギリシア語全体を包括する用語と言える。帝国の公用語となった文語の多くは、文語コイネーの伝統に基づいて生まれた折衷的・中立的なものであった。コンスタンティノープルの陥落に伴ってギリシア人がイタリアに移住すると、ギリシア語は再び他のヨーロッパに紹介された。 現代ギリシア語Template:Enlink 中世ギリシア語から派生しているため、語法の起源は東ローマ帝国時代(早ければ11世紀)に求めることができる。現代ギリシア語は、その名のとおり現代のギリシア人によって話されている言語である。標準語とは別にいくつかの方言が存在し、東ローマ帝国の時代から伝わる民間人の口語(デモティキ)と、公文書や文学・神学書等で用いられてきた古典ギリシア語に近い文語(擬古典語)を元にした「カサレヴサ」の間を揺れ動きながら成立してきた。 現代ギリシア語の成立 まず口語では、ソフィアノスのギリシアの文法書が初出である。しかし18世紀のヴルガリスは、擬古典語を堅持した。ミシオダクスは新しい共通語を基礎にと主張。カタルジスは学者として初めて口語民衆語を支持した。一方、アダマンティス・コライスは、コイネーを規範とし、口語を純化(カサレヴサ化)した古典的ギリシア語に基づく新しい規範的ギリシア語を作ることを最初に訴えた。 1833年にギリシャ王国が成立すると、新国王オソン1世とともに故国に帰った官僚は、コイネーを規範とする古典的カサレヴサを標準とすべきと主張した。一方では、口語に基づいた民衆語をギリシア語にするべきだという文学者ディオニシオス・ソロモスの主張[5]も存在した。 その後、永くフランスのパリで活躍したプシハリスが、民衆口語が通時言語学的に公用語として適切であり、現代ギリシア語は口語によるべきであることを国際的な学者・作家として初めて言語学的根拠をもって主張した。当時行政言語に主流であったカサレヴサは、通時言語学に反した復古的・人工的なもので、公用語でも文学語においても失当である旨を『わが旅』等で文学作品の中で実践してもいる。 しかしその「口語」は、数ある方言のうち「アテネ方言」のみを指称するもので、当時の方言をまとめるには、かつてのコイネーを基盤とするカサレヴサの方が、ギリシア全体の共通語として(方言をまとめるために)より一般化しやすい言語であった[6]。方言学者はどちらの陣営にも属さず、地域方言をその地域の「口語」として、教育言語に使用することを折衷案として唱えた。エーゲ海のサモス島やスミルナで女子校の運営にあたったレオンディアス・サッフォーは、学校教育においても方言を推奨し、言語論争に「方言」の重要性を提起した。「カサレヴサ」の長所と、アテネ方言の「デモティキ」との折衷言語よりも「民衆語である方言」の重要性を強調した。 20世紀後半に入ると、首相のエレフテリオス・ヴェニゼロスは新憲法にカサレヴサを公用語にすることを記載した。ただし初等教育については、トリアンダフィリデスの主宰する教育学会が文法書をデモティキで出版し、民衆口語(アテネ方言)化が公的に行われた。やがて、イオアニス・メタクサスの独裁政権の下ではカサレヴサではなくデモティキが正式な国語と制定され、またその後の政変で再度カサレヴサに戻された。1964年、ゲオルギオス・パパンドレウ政府がカサレヴサとデモティキとをともに公用語(併用)とするも、軍政下ではカサレヴサが公用語に再度戻された。1974年7月24日の民主政回復を経て、最終的にコンスタンディノス・カラマンリス政府の下、1976年にデモティキが正式な公用語と定められ今に至る。 しかし、司法用語(たとえば民法)は依然カサレヴサのままで存続している。判例などもカサレヴサで起草・公示されており、大学学位論文、公的公報等でも用いられ続けている。このほか、正教会の奉神礼用語もカサレヴサが正式な権威ある言語として依然と使用され続け、デモティキと並存しているのが現状である。 現代語話者と古典 「教養ある」現代語話者は古典を解することができる。その背景には古典と現代語の類似性だけでなく、教育が機能していることが挙げられる。『新約聖書』原典や七十人訳聖書に書かれたギリシア語であるコイネーは、現代の話者でも比較的理解しやすい。イギリスの歴史家ロバート・ブラウニングが言ったように「現代ギリシア語の話者にとって、紀元前7世紀に書かれたホメーロスの叙事詩は決して外国文学ではない。ギリシア語は、その最古の時代より現在に至るまで、連綿と受け継がれ、親しまれているのである」[7]。 文法概要 文字と発音 大文字、小文字、現代の音価、慣用(古典期)の呼び名、現代の呼び名(慣用と同じ場合省略)、現代の綴りの順で記載。 Α α=a(アルファ)άλφα Β β=v(ベータ;ヴィタ)βήτα 紀元後数百年に b から変異。 Γ γ=ɣ(ガンマ;ガマ)γάμμα, γάμα x の有声音。ただし前舌母音の直前では ʝ と発音される。 Δ δ=ð(デルタ;ゼルタかデルテ)δέλτα θ の有声音。閉鎖音から摩擦音に紀元後数百年に変異。 Ε ε=e(エプシロン)έψιλον 「単純なε」の意。 Ζ ζ=z(ゼータ;ズィタ)ζήτα Η η=i(イータ;イタ)ήτα 後1世紀より ɛː から変異。 Θ θ=θ(シータ;シタかティタ)θήτα 英語の無声 th に同じ。 Ι ι=i(イオタ;ヨタ)ιώτα, γιώτα 母音の直前では硬口蓋化し j と発音される。 Κ κ=k(カッパ;カパ)κάππα i, e の直前では c と発音される。 Λ λ=l(ラムダ;ラムザ)λάμδα, λάμβδα Μ μ=m(ミュー;ミ)μυ Ν ν=n(ニュー;ニ)νυ Ξ ξ=ks(クシー;クシ)ξι Ο ο=o(オミクロン)όμικρον 「小さなο」の意。 Π π=p(ピー;ピ)πι m の直後では b と発音される。 Ρ ρ=r(ロー;ロ)ρω, ρο Σ σ, ς=s(シグマ)σίγμα 有声子音の前で z と発音される。ς は語末のみ。 Τ τ=t(タウ;タフ)ταυ n の直後では d と発音される。 Υ υ=i(ウプシロン;イプシロン)ύψιλον 「単純なυ」の意。後5世紀〜10世紀に y から変異。 Φ φ=f(フィ)φι 紀元後数百年に pʰ から変異。 Χ χ=x(キー;ヒ)χι 前舌母音の直前では ç と発音される。紀元後数百年に kʰ から変異。 Ψ ψ=ps(プスィ)ψι Ω ω=o(オメガ)ωμέγα 「大きなο」の意。 カナ転写と発音の問題 カタカナに現代ギリシア語を転写するとき、θ は主にサ行で表記・発音(θα を「サ」、θι を「シ」など)されている。 同様に、δ は主にザ行で表記されている。 現代ギリシア語では同じ子音字が2度綴られても発音が変わらない(長子音とならない)ので、そこに日本語の「ッ」や「ン」を使う必要はない。たとえば、τέσσερα は「テセラ」であり、「テッセラ」とは読まれない。κόμμαは「コマ」であり、「コンマ」とは読まれない[8]。 多くの場合、現代ギリシャ語のアクセントは長音記号「ー」で表されているが、ギリシア語のアクセントは強勢を示すものであり、長母音を示さない。たとえば、Μαρία は「マリーア」のように伸ばすより「マ<b data-parsoid='{"dsr":[9378,9385,3,3]}'>リ</b>ア(マリッア)」のように強く読むほうがいい。「マリーア」では、 Μαρίια に近くなってしまう。 記号 デモティキ(民衆口語)では、いわゆる「トーノス(τόνος)」の記号類は ΄ のみにモノトニコス(単強勢)化されている。気息記号の ῾(音韻上で無標である有気音 h を表す)や ᾿ などは廃され、` や ῀ などは、΄ に統合され、有強勢(文法的に有標)の際にのみ記される。またこの強勢記号は語末から3番目の音節のうちに置かれる。カサレヴサでは古典語のテキスト表記に倣った古典式の記号・符号を維持している。 疑問符にはいわゆるセミコロン ; を用いる。Unicode ではこの記号に、U+003B の SEMICOLON とは別に U+037E に GREEK QUESTION MARK が割り当てられてはいるがU+003Bの方が好ましいとされる[9]。Windows のギリシア語 IME でもU+003B が出てくる。 現代ギリシア語の発音 母音 Φωνήεντα 単母音 便宜上、音価別に並べる。 a - α e (e, ɛ) - ε, αι i - η, ι, υ, ει, οι, υι u - ου 日本語のウより口をとがらして発音 o - ο, ω 現代ギリシャ語では母音の長短の区別がない。 母音+子音 以下の3つは υ の発音が無声子音の前で無声音 f に、有声子音・母音の前で有声音 v になる。 αυ - af, av ευ - ef, ev ηυ, ιυ - if, iv (現代語ではほとんど使われていない) 子音 Σύμφωνα 二重子音字 γγ - ŋ, i, e, ɛ の前なら口蓋化する(ンギ、ンギェとなる)。 γκ - 語頭で g、それ以外で ŋg。i, e, ɛ の前なら口蓋化する(ンギ、ンギェとなる)。また、外来語では g, ŋk の音も表される。 μπ - 語頭で b、それ以外で mb(外来語では b, mp の音も表される)。たとえば Ολυμπία の場合、国際的には「オリンピア」の発音で知られているが、外来語ではなくギリシアの固有語であるため、「オリンビア」と発音される。 ντ - 語頭で d、それ以外で nd(外来語では d, nt の音も表される)。 比較的古い外来語では b は β、d は δ、g は γ と転写された。外国の地名のギリシア語表記も原音の b, d, g をそれぞれ β, δ, γ と表記する例がかなり多い。 古典式発音との違い 同じ単語でも、古代ギリシア語と現代ギリシア語の発音は異なる。以下にその例を挙げる。なお、ここでいう「古典式発音」とは古代ギリシア語の諸方言中の古典期アッティカ方言(再建音)を指す。ギリシア語綴りに用いる記号は現代語のものである。 ギリシア語綴り古典式発音現代式発音βάρβαροιバルバロイヴァルヴァリΒάκχοςバッコスヴァクホスβασιλείαバシレイアーヴァシリアΔήλοςデーロスズィロスΕυρώπηエウローペーエヴロピΗρακλήςヘーラクレースイラクリスΘεσσαλονίκηテッサロニーケーセサロニキΚρήτηクレーテークリティΜουσικήムーシケームシキΟδύσσειαオデュッセイアオディシアπολλοίポッロイポリφιλοσοφίαピロソピアーフィロソフィアφύσιςピュシスフィシス 現代ギリシア語文法 名詞は男性・女性・中性の3つの性と、単数・複数の2つの数と、主格・呼格・属格・対格の4つの格によって語尾が変化する。 動詞は単数・複数の2つの数と、一人称・二人称・三人称の3つの人称と、完結相・非完結相・完了相の3つの相と、過去・現在・未来の3つの時制と、能動態・受動態の2つの態と、直説法・接続法・命令法の3つの法から成る。また、他のバルカン言語連合と同様に不定詞が廃れている。辞書の見出し語は古代ギリシア語同様に直説法能動態一人称単数現在である。 古代ギリシャ語からの変化として与格が消滅し、完結相と非完結相の分化が進み、迂言形が発達した。また語順に規制的な拘束性が増した。 定冠詞 不定冠詞 複数形は無標 名詞 男性名詞 女性名詞 中性名詞 形容詞の活用語尾 1:幹母音式曲用 2:無幹母音式曲用 動詞組織 アオリスト語幹による、非完結相のアオリスト未来、アオリスト命令形が発達し、アオリストと同様頻繁に使用されコイネーの語幹がそのままの形で現在も存続している。 また、希求法は接続法に合流した。 未来時制はθα(tha)を動詞に前置させて表現し、掛かる動詞の幹によって完結相と非完結相を区別する。未来時制の語尾はどちらの相も本時制語尾が使用される。 過去時制には現在語幹に副時制語尾を接尾した未完了過去と、アオリスト語幹に副時制語尾を接尾したアオリストが存在する。この用法の体系はロマンス諸語の「半過去と点過去の対立」と類似する。 完了相である未来完了、現在完了、過去完了は、έχω(echo)+アオリスト語幹に-ει(-i)を接尾させた迂言形で表現される。 接続法は、να(na)を前置した迂言形で表現され、語幹は現在語幹+本時制語尾の非完結相とアオリスト語幹+本時制語尾の完結相が存在する。 条件法はθα(tha)を附した迂言形で語幹は現在語幹+第2次人称語尾形(継時相):アオリスト語幹+第2次人称語尾形(瞬時相)である。 本時制語尾 副時制称形 動詞活用の基本形 命令法 中受動態 注:中・受動態の命令形の使用は極めて稀である。 その他の文法形態素 人称名詞 関係代名詞 カサレヴサの(冠詞)+οποίος(opoios);ο οποίος(o opoios): η οποία(i opoia): το οποίο(to opoio) (数・格・性は先行詞と一致)を用いるのが商業文・行政文・公的文書では普通である。民衆口語体のπουも口語では用いられるが、どこに係るのか不明な為教養人はこれを用いない。 前置詞 与格の代わりに、σε(se)+対格が用いられる。 ανά(ana)+対格 = の上で、によって(カサレヴサ) από(apo)+対格 = から(受動態の行為者も示す) άνευ(anef)+属格=無しに、以外に(カサレヴサ) αντί(andi)+属格=代わりに(カサレヴサ) δια(dia)+属格=を通じて、経由して(カサレヴサ) δια(dia)+対格=の為に εις(is)+対格=の中に(カサレヴサ) έξω(exo)+対格=外に έξω(exo)+σε)/(από))+対格=外に κατά(kata)+属格=に対して κατά(kata)+対格=によって、を通って(カサレヴサ) κοντά(konda)+対格=近くに κοντά(konda)+((σε)(se)/(από))(apo)+対格=近くに μπροστά(brosta)+対格=対面に、向かいに μπροστά(brosta)+σε(se)/(από(apo)+対格=対面に、向かいに μέσα(mesa)+対格=内に μέσα(mesa)+σε(se)/(από(apo)+対格=内に μετά(meta)+属格=と共に μετά(meta)+対格=の後に πάνω(pano)+対格 πάνω(pano)+σε(se)/(από(apo)+対格=上に、上部に πίσω(piso)+対格=後ろに、後に πίσω(piso)+σε(se)/(από(apo)+対格=後ろに、後に περί(peri)+属格=に関して περί(peri)+対格=のまわりで προ(pro)+属格=の前に(カサレヴサ) υπέρ(uper)+属格=の為に υπέρ(uper)+対格=の上に υπό(upo)+属格=によって υπό(upo)+対格=の下に προς(pros)+属格=によって προς(pros)+対格=に対して、向かって (注:口語の前置詞は、全てAcc.支配である) 疑問詞 「何が」は口語ではτι(ti)、カサレヴサでは τίς(tis)が用いられ、また、方言では ίντα(inda) が広く用いられる。 「誰が」はποιος(poios)、ποια(poia)、ποιο(poio)が用いられる。 「いつ」は(πότε(pote) 「どこ」はπού(pou) 否定 δεν(den) 語順 固定された語順 小辞(前置詞)+(被制辞となる)名詞句。 限定詞(冠詞)+名詞。 (直接目的語の)人称代名詞(人称名詞)+動詞(但し、命令法と分詞の場合は転置)。 数詞+名詞群。 否定詞+動詞。 (関係詞・接続詞)+(名詞句または動詞句)。(注:3は方言では転置される) SVOが基本語順であるも、VSO、OVS(受動的な表現で)、VOS、OSV、SOV(格言の言いまわしにみられる)の全てが可能であり、許容される。 語彙形態素 ほとんどが、コイネーからの承継である。ギリシアの各地における方言に、その残渣がみられる。トルコ語の語彙素もかなりの頻度で用いられることが現代ギリシア語の特徴である。 文法形態素 カサレヴサの文法形態素は、古典ギリシア語と同一または類似(擬古形)である。口語については、上記・下掲を参照されたい。 方言 ツアコニア方言は、迂言法による動詞活用をおこなう。 εμι ορου,εσι ορου,ενι ορου,εμμε ορουντε,εττε ορουντε,εισι ορουντε(現在形「見る」の活用(3性変化:ορου,-α,-ντα))。 キプロス方言の文法要覧 活用例 a'kuo(1p/sg/praes), a'kuis(2p/sg/praes), a'kui(3p/sg/praes), a'kumen(1p/pl/praes), a'kuete(2p/pl/praes), a'kusin/a'kun(3p/pl/praes)(聞くの現在形) 同中受動態形:IMPERFECTUM e'kuumun(1p/sg/praesIMPERFECTUM), e'kuesun(2p/sg/praesIMPERFECTUM), e'kuetun(3p/sg/praesIMPERFECTUM), eku'umastin(1p/pl/praesIMPERFECTUM), e'kuestun(2p/pl/praesIMPERFECTUM), e'kuuntan(3p/pl/praesIMPERFECTUM)(聞いていた) 能動態アオリスト:Aoristus a'kuso(1p/sg/aor), a'kusis(2p/sg/aor), a'kusi(3p/sg/aor), a'kusumen(1p/pl/pl), a'kusete(2p/pl/aor), a'kusin/a'kusun(3p/pl/aor) 能動態第2次人称語尾接尾の未完了過去:IMPERFECTUM 'ekua(1p/sg/imperfectum), 'ekues(2p/sg/imperfectum), 'ekuen(3p/sg/imperfectum), e'kuamen(1p/pl/imperfectum), e'kuete(2p/pl/imperfectum), e'kuasin(3p/pl/imperfectum) 「アオリスト」能動態 (「聞いた」)'ekusa(1p/sg/aoristus), 'ekuses(2p/sg/aoristus), 'ekusen(3p/sg/aoristus), e'kusamen(1p/pl/aoristus), e'kusete(2p/pl/aoristus), e'kusasin(3p/pl/aoristus) 中・受動態 現在形 基本形(第1次人称語尾形) a'kuume(1p/sg/praesens), a'kuese(2p/sg/praesens), a'kuete(3p/sg/praesens), aku'umastin(1p/pl/praesens), a'kueste(2p/pl/praesens), a'kuunte(3p/pl/praesens) 命令形:(現在)'aku(2p/sg/praesens), a'kute(2p/pl/praesens):(アオリスト) 'akuse(2p/sg/aoristus), a'kuste(2p/pl/aoristus) 語彙形態素(文法形態素)代用語(「誰、何」(pi'os)) Nominativus;(m.)'pcos (f.)'pca (n.)'inta Accusativus;(m.)'pcon (f.)'pcan (n.)'inta 人称代名詞 Sg:Accsativus;(m.)ton (f.)tin (n.)to Sg:Genetivus; (m.)tu (f.)tis (n.)tu Pl:Accusativus;(m.)tus (f.)tes (n.)ta Pl;Genetivus; (m)tus (f.)tus (n.)tus 人称名詞 有強勢形;1人称;Nom/sg; e'jo(ni) Acc & Gen/sg; e'menan Nom/pl; e'mis Acc & Gen/pl;e'mas 2人称;Nom/sg; e'su(ni) Acc & Gen/sg;e'senan Nom/pl; e'sis Acc & Gen/pl;e'sas 無強勢形;1人称;Acc/sg;me Gen/sg;mu Acc & Gen/pl;mas 2人称;Acc/sg;se Gen/sg;s Acc & Gen/pl;sas 南イタリアのギリシア方言 プッリャのオトラントと南カラブリアのBovaの方言 破擦音/t∫/、イタリア語と同様の重子音、子音連続の硬口蓋化、連続する子音の同化、喉音の発達、動詞中・受動態の未完了過去3人称単数人称語尾-ενο、アオリスト命令形-σο、アオリスト分詞の存続:-γραφοντας, φονασοντας、不定形の名詞的用法の保持;το κλαφει σου=το κλαμα σου, το απεσαει =το αποθανειν その他の方言でも、音韻変化において閉鎖音から摩擦音への遷移過程(通時言語学的現象)、前舌化、上昇・閉音化、中音化(centralisation)の現象・シュー(/∫/)音化・/t∬/音化・躁音化・無声軟口蓋閉鎖音の硬口蓋閉鎖音化等さまざまの音韻変化が諸方言に分散し、古代ギリシア語からコイネーの時代を経て現代の各地域の方言・またコイネーからアテネ方言への推移をも通時言語学・共時言語学において論証することができる。 特に如上のキプロス方言、またクレタ方言等は現在も遡及の可能な多量の文献が存在するので、現代語の通時的推移・共時的視野を論証させてくれる。また、母音交替・子音交替・語中音(γ)添加.語尾音(ν)の添加、ふるえ音化等のさまざまな音韻変化または交替現象・古典語からの伝統である音便νの保持など、現代の諸方言は、古典からコイネーを経て分散した各方言の通時・共時言語学上の貴重な音韻変化を現在も維持している。現代の現用言語(langue vivante)である「ギリシア語」は、古代からの継続言語であり、「現用言語のギリシア語」の完全な理解には古典ギリシア語の素養も不可欠である。 表現 カナ表記では<b data-parsoid='{"dsr":[37792,37800,3,3]}'>太字</b>を強く発音する。 こんにちは=καλημέρα σας カリ<b data-parsoid='{"dsr":[37843,37850,3,3]}'>メ</b>ラ サス こんばんは(午後の挨拶)=καλησπέρα σας カリス<b data-parsoid='{"dsr":[37898,37905,3,3]}'>ペ</b>ラ サス お元気ですか=Πώς είστε; ポス イ</b>ステ? または Τι κάνετε; ティ カ</b>ネテ?(; は疑問符) はい=μάλιστα マ</b>リスタ またはくだけた表現で ναι ネ いいえ=Όχι オ</b>ヒ いつ(何時)=πότε; ポ</b>テ どこ(何処)=πού είναι; プ イ</b>ネ? だれ(何人)=(男性形:ποιός;)ピョス?(女性形:ποιά;)ピャ? はい、元気です。で、あなたはいかがですか=Καλά, ευχαριστώ. Και εσείς; カ<b data-parsoid='{"dsr":[38302,38309,3,3]}'>ラ、エフハリス<b data-parsoid='{"dsr":[38315,38322,3,3]}'>ト。ケ エ<b data-parsoid='{"dsr":[38326,38333,3,3]}'>シ</b>ス? ようこそお越しくださいました=καλώς ήρθατε カ<b data-parsoid='{"dsr":[38378,38385,3,3]}'>ロ</b>ス イ</b>ルサテ お目にかかれて恐悦至極です=καλώς σας βρήκα カ<b data-parsoid='{"dsr":[38442,38449,3,3]}'>ロ</b>ス サス ヴ<b data-parsoid='{"dsr":[38455,38462,3,3]}'>リ</b>カ または χαίρομαι που σας βλέπω ヘ</b>ロメ プ サス ヴ<b data-parsoid='{"dsr":[38519,38526,3,3]}'>レ</b>ポ どうぞおはいりください=περάστε παρακαλώ ペ<b data-parsoid='{"dsr":[38571,38578,3,3]}'>ラ</b>ステ パラカ<b data-parsoid='{"dsr":[38584,38591,3,3]}'>ロ どうもありがとうございます=ευχαριστώ πολύ エフハリス<b data-parsoid='{"dsr":[38639,38646,3,3]}'>ト ポ<b data-parsoid='{"dsr":[38648,38655,3,3]}'>リ どういたしまして=παρακαλώ パラカ<b data-parsoid='{"dsr":[38690,38697,3,3]}'>ロ ほんとうにすみません=λυπάμαι πολύ リ<b data-parsoid='{"dsr":[38736,38743,3,3]}'>パ</b>メ ポ<b data-parsoid='{"dsr":[38746,38753,3,3]}'>リ どうなさられたのですか=τι συμβαίνει; ティ シン<b data-parsoid='{"dsr":[38798,38806,3,3]}'>ヴェ</b>ニ? なんでもございません=τίποτε ティ</b>ポテ または τίποτα ティ</b>ポタ ほんとうですか=αλήθεια; ア<b data-parsoid='{"dsr":[38916,38923,3,3]}'>リ</b>シア? ちょっと手をかしてくれませんか=μπορείτε να με βοηθήσετε λίγο ; ボ<b data-parsoid='{"dsr":[38989,38996,3,3]}'>リ</b>テ ナ メ ヴォイ<b data-parsoid='{"dsr":[39005,39013,3,3]}'>ティ</b>シセテ リ</b>ゴ なにをお望みですか=τι θα θέλατε; ティ サ セ</b>ラテ? ちょっと待っていてください=περιμένετε λιγάκι παρακαλώ ペリ<b data-parsoid='{"dsr":[39135,39142,3,3]}'>メ</b>ネテ リ<b data-parsoid='{"dsr":[39146,39153,3,3]}'>ガ</b>キ パラカ<b data-parsoid='{"dsr":[39158,39165,3,3]}'>ロ または περιμένετε ένα λέπτο παρακαλώ ペリ<b data-parsoid='{"dsr":[39214,39221,3,3]}'>メ</b>ネテ エ</b>ナ レプ<b data-parsoid='{"dsr":[39235,39242,3,3]}'>ト お会いできて嬉しい=χαίρω πολύ ヒェ</b>ロ ポ<b data-parsoid='{"dsr":[39288,39295,3,3]}'>リ 知り合えて嬉しい=χαίρομαι που σας γνωρίζω ヒェ</b>ロメ ポ<b data-parsoid='{"dsr":[39355,39362,3,3]}'>リ プ サス グノ<b data-parsoid='{"dsr":[39370,39377,3,3]}'>リ</b>ゾ 楽しいときをすごさせていただきました=περάσαμε ωραία ペ<b data-parsoid='{"dsr":[39427,39434,3,3]}'>ラ</b>サメ ポ<b data-parsoid='{"dsr":[39438,39445,3,3]}'>リ オ<b data-parsoid='{"dsr":[39447,39454,3,3]}'>レ</b>ア ごちそうさま<特に決まったギリシア語の言い方はないが>=καλή χώνεψη!<が相当> カ<b data-parsoid='{"dsr":[39516,39523,3,3]}'>リ ホ</b>ネプシ いつでも来てください=ελάτε όποτε θέλετε エ<b data-parsoid='{"dsr":[39579,39586,3,3]}'>ラ</b>テ オ</b>ポテ セ</b>レテ おいとまします(ごめんください)=Να με συγχωρείτε ナ メ シンホ<b data-parsoid='{"dsr":[39662,39669,3,3]}'>リ</b>テ または αντίο σας! ア<b data-parsoid='{"dsr":[39699,39707,3,3]}'>ディ</b>オ サス またお会いしましょう=καλή αντάμωση カ<b data-parsoid='{"dsr":[39751,39758,3,3]}'>リ アン<b data-parsoid='{"dsr":[39761,39768,3,3]}'>ダ</b>モシ よい旅をお祈りします=καλό ταξίδι カ<b data-parsoid='{"dsr":[39808,39815,3,3]}'>ロ タク<b data-parsoid='{"dsr":[39818,39825,3,3]}'>シ</b>ディ すみませんここを通してください=παρακαλώ, αφήστε με να περάσω パラカ<b data-parsoid='{"dsr":[39890,39897,3,3]}'>ロ ア<b data-parsoid='{"dsr":[39899,39907,3,3]}'>フィ</b>ステ メ ナ ペ<b data-parsoid='{"dsr":[39915,39922,3,3]}'>ラ</b>ソ 早く医者を呼んでください=καλέστε γρήγορα ένα γιατρό カ<b data-parsoid='{"dsr":[39978,39985,3,3]}'>レ</b>ステ グ<b data-parsoid='{"dsr":[39989,39996,3,3]}'>リ</b>ゴラ エ</b>ナ イァト<b data-parsoid='{"dsr":[40011,40018,3,3]}'>ロ どうしたのですか=τι έχετε; ティ エ</b>ヘテ? 早く良くなってください=ελπίζω να γίνετε καλά σύντομα エル<b data-parsoid='{"dsr":[40122,40129,3,3]}'>ピ</b>ゾ ナ ギ</b>ネテ カ<b data-parsoid='{"dsr":[40144,40151,3,3]}'>ラ シ</b>ンドマ または περαστικά! ペラスティ<b data-parsoid='{"dsr":[40195,40202,3,3]}'>カ ここに来てください!=ελάτε εδώ! エ<b data-parsoid='{"dsr":[40239,40246,3,3]}'>ラ</b>テ エ<b data-parsoid='{"dsr":[40249,40256,3,3]}'>ド! これはおいくらですか=ποσο κάνει αυτό; ポ</b>ソ カ</b>ニ アフ<b data-parsoid='{"dsr":[40319,40326,3,3]}'>ト? または πόσο κοστίζει αυτό; ポ</b>ソ コス<b data-parsoid='{"dsr":[40375,40383,3,3]}'>ティ</b>ズィ アフ<b data-parsoid='{"dsr":[40388,40395,3,3]}'>ト? (我々は)とてもたのしかった=Περάσαμε ωραία! ペ<b data-parsoid='{"dsr":[40442,40449,3,3]}'>ラ</b>サメ オ<b data-parsoid='{"dsr":[40453,40460,3,3]}'>レ</b>ア! (私は)とてもたのしかった=χάρηκα πολύ! ハ</b>リカ ポ<b data-parsoid='{"dsr":[40514,40521,3,3]}'>リ! 同慶の至りです=συγχαρητήρια! シンハリ<b data-parsoid='{"dsr":[40562,40570,3,3]}'>ティ</b>リア! (年に1度のお祝い用の決まり文句)「御誕生日おめでとう:メリークリスマス:新年おめでとう」=Χρόνια Πολλά! フ<b data-parsoid='{"dsr":[40648,40655,3,3]}'>ロ</b>ニャ ポ<b data-parsoid='{"dsr":[40659,40666,3,3]}'>ラ 新年おめでとう!=Ευτυχισμένος ο καινούργιος χρόνος! エフティヒズ<b data-parsoid='{"dsr":[40730,40737,3,3]}'>メ</b>ノス オ ケ<b data-parsoid='{"dsr":[40743,40750,3,3]}'>ヌ</b>リョス フ<b data-parsoid='{"dsr":[40755,40762,3,3]}'>ロ</b>ノス! 感謝をこめて!(ありがとうを感謝を込めて述べるとき)=Στα δυο χέρια σας! スタ ディョ ヘ</b>リャ サス! 乾杯!=Στην υγειά μας! スティン イ<b data-parsoid='{"dsr":[40885,40892,3,3]}'>ヤ マス! または形式的表現では Στην υγειά σου! スティン イ<b data-parsoid='{"dsr":[40942,40949,3,3]}'>ヤ ス! 御成功を祈ります=Καλη επιτυχία! カ<b data-parsoid='{"dsr":[40991,40998,3,3]}'>リ エピティ<b data-parsoid='{"dsr":[41003,41010,3,3]}'>ヒ</b>ア 貴方のおかげです=σας είμαι υπόχρεος サス イ</b>メ イ<b data-parsoid='{"dsr":[41066,41073,3,3]}'>ポ</b>フレオス 1時にあの場所でお会いしましょう=Θα συναντηθούμε εκεί στη μία! サ シナンディ<b data-parsoid='{"dsr":[41145,41152,3,3]}'>ス</b>メ エ<b data-parsoid='{"dsr":[41155,41162,3,3]}'>キ スティ ミ</b>ア 脚注 参考文献 Albert Thumb, Handbuch der neugriechischen Volkssprache: Grammatik, Texte, Glossar, W. de Gruyter, 1974, ISBN 9783110033403 - 口語民衆語文法・方言を記載した記述文法。 Cite uses deprecated parameter |deadurl= (help) Robert Browning, Medieval and Modern Greek, Cambridge University Press, 2nd edition, 1983, ISBN 0521299780 - 古代から現代語への発展の歴史を簡潔に記した文献。 関本至『現代ギリシア語文法』泉屋書店、1968年 - 現代ギリシア語デモティキの規範文法書。 関本至『現代ギリシアの言語と文学』渓水社、1987年 水谷智洋『古典ギリシア語初歩』岩波書店、1990年、ISBN 9784000008297 八木橋正雄「現代ギリシャ語キプロス方言のアウトライン」日本ギリシア語ギリシア文学会『プロピレア』4号、1992年、49–55頁、および11号、1999年、40–46頁 - キプロス方言の文法を記した論文。 八木橋正雄『現代ギリシャ語の基礎』大学書林、1984年、ISBN 9784475017626 - カサレヴサとデモティキの比較についても記述し、方言にも配慮した唯一の現代ギリシア語記述文法の日本語文献。 八木橋正雄『現代ギリシャ民衆口語ハンドブック』私家版、1992年 - Albert (1974) の日本語訳 関連項目 ギリシャ 古代ギリシア語 コイネー デモティキ カサレヴサ 古代ギリシア ギリシア文学 バルカン言語連合 ラテン語 トルコ語 鼻音のガンマ ヘレニスト 外部リンク - 英語サイト。膨大な数の古典ギリシア語テキスト、文法書、辞書、画像などを収集。 - 英語サイト。オンライン版『ブリタニカ百科事典』に収録されている項目。 at the Wayback Machine(archived 2008-04-06) - 英語サイト。オンライン版『コロンビア百科事典』に収録されている項目。 - ギリシア語サイト。ギリシア語に関する総合ポータルサイト。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AA%9E
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アドミラル・クズネツォフが初めに使われた戦争はなに
航空母艦
japanese
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航空母艦(こうくうぼかん、)は、航空機を多数搭載し、海上における航空基地の役割を果たす軍艦[1]。略称は<b data-parsoid='{"dsr":[611,619,3,3]}'>空母(くうぼ)。 1921年のワシントン軍縮会議では、「水上艦船であって専ら航空機を搭載する目的を以って計画され、航空機はその艦上から出発し、又その艦上に降着し得るように整備され、基本排水量が1万トンを超えるものを航空母艦という」と空母を定義している[2]。1930年のロンドン海軍軍縮条約で基本排水量1万トン未満も空母に含まれることになった[3]。 種類 満載排水量による分類 大型空母 (large aircraft carrier, CVB) 満載排水量5万トン以上の空母[4]。 軽空母 (light aircraft carrier , CVL) 満載排水量2万トン以下の空母[5]。 設計による分類 正規空母 (aircraft carrier, multi-purpose aircraft carrier , CV) 最初から空母として設計、建造された空母。日本海軍で用いられた分類。 改造空母(特設空母) 空母以外の艦船を改造して空母にしたもの。 MACシップ(Merchant aircraft carrier 商船空母)、護衛空母 商船に飛行甲板を設けた艦船。日本海軍では護衛空母という名前で分類した[6]。日本陸軍でも全通式の飛行甲板を備えたタンカーの特TL型がある。 原子力空母 (nuclear-powered aircraft carrier, multi-purpose aircraft carrier (Nuclear-Propulsion) , CVN) 原子力船の空母。 役割による分類 護衛空母 (escort aircraft carrier , CVE) 商船を敵潜水艦から護衛するための小型空母[7]。 対潜空母 対潜機を主に搭載する空母[8]。 攻撃空母 攻撃機を主力として搭載する空母[9]。 ヘリ空母(helicopter carrier , CVH)、ヘリコプター搭載護衛艦 複数のヘリコプターを搭載し、それを離着させられる飛行甲板や格納庫などを備えた航空母艦[10]。ヘリ空母という名前は強襲揚陸艦や複数のヘリコプターを搭載する艦を指して使われることもあるが、これは新聞社やテレビ局が便宜上使用している名称である[11]。 類似する艦船 航空巡洋艦、重航空巡洋艦 空母の航行を禁止している海峡を通行するためにロシアが使用している空母の艦種名[12]。1936年締結されたボスポラス海峡とダーダネルス海峡の航空母艦通過禁止を定めたモントルー条約に対する政治的処置である。ソビエト連邦のキエフ級および「アドミラル・クズネツォフ」の公式分類。 また、後半分を水上機母艦に部分改装された日本海軍の重巡洋艦「最上」も航空巡洋艦と呼ばれることがある。 水上機母艦 水上機を搭載し、その行動基地としての役割を持つ軍艦。水上機以外を搭載する航空母艦が登場する前の第一次世界大戦当時、航空母艦とは水上機母艦を指すのが一般的であった[13]。 強襲揚陸艦 (amphibious assault ship , Landing Helicopter Assault, LHA) 全通飛行甲板を持ち、航空機を運用できる揚陸艦。搭載する主力が航空機ではなく、上陸する兵員であるため、空母とは呼ばない[14]。 航空戦艦 航空機の発艦を可能した戦艦。日本海軍の「伊勢」、「日向」がこれに改装された。艦尾の主砲2基を撤去して、その跡に格納庫とカタパルト2機を装備したが飛行甲板は持たず、攻撃機の発艦のみを行い着艦は行なわず、他の空母か陸上基地への着艦・着陸が前提であった。 潜水空母 日本海軍の伊四百型潜水艦の俗称。特殊攻撃機「晴嵐」3機を搭載できる潜水艦。 特徴 戦略 空母は第二次世界大戦で艦隊の主力艦としての地位を確立し、機動部隊等の中枢として活躍した。大戦後の核兵器、ミサイル、原子力潜水艦等の出現で空母の脆弱性、存在価値が議論されたが、海上作戦の実施には依然として各種航空兵力が必須であり、海洋のどこにでも進出できる機動性、通常戦や核戦争から平時におけるプレゼンスに至る様々な場面に対処できる柔軟性と、空母の防御力強化などによって海軍力の中心的存在の地位を保持している[15]。 空母の攻撃力の大半は空母そのものの性能ではなく、搭載する航空戦力の規模や力量に左右される[16]。攻撃の目的は主に、自国軍の陸上兵力の支援と攻撃してきた勢力の軍事施設などに爆撃する報復攻撃がある[17]。高度な電子頭脳を持ち、自動航行装置で長距離を飛行し、正確に目標に命中する小型高速ジェット機の「トマホーク巡航ミサイル」の出現によって、空母とその艦載機の戦術は、最初に巡航ミサイルで敵防空施設、対空装備を破壊し、対空脅威のなくなった後、艦載機が命中精度の優れた大威力の高性能爆弾を投下し、敵の重要施設や拠点を破壊する方法に変わった。これは偵察衛星、無人航空機による偵察活動と連携して行われる[18]。 アメリカが運用する空母打撃群の最大の役目は、制海権の獲得と保持にあり、その任務は、経済航路・軍事航路の防護、海兵水陸両用部隊の防護(進出から作戦地域内まで)、国家的関心地域におけるプレゼンスの構築の3点に集約される[19]。空母打撃群内での大型空母の任務は、示威行動、空中・海上・陸地に対する広域の攻撃力にある[20]。 空母打撃群の搭載機の役割には次のようなものがある。地上・対艦攻撃のため、防御システムを有する敵地や敵艦隊へ接近・侵攻し攻撃する能力を有するF/A-18C/D ホーネットまたはF/A-18E/F スーパーホーネット戦闘攻撃機。これらは対空戦のため、自部隊に接近する敵航空機を捕捉し撃墜する能力も有する。地上・対艦攻撃を効果的に行うために敵のレーダーや通信を無力化する能力を有するEA-6B プラウラー電子戦機。上空警戒・航空管制のため、高性能レーダーを有する航空機を艦隊上空や攻撃部隊の後方に飛ばして、空域の警戒と航空管制を行うE-2C ホークアイ早期警戒機。自艦の周囲に存在する潜水艦を探索して攻撃するためのSH-60F シーホーク哨戒ヘリコプター。救難活動や人員輸送に当たるHH-60H レスキューホーク、人員や荷物の輸送を担当するC-2A グレイハウンド輸送機及び後継機のCMV-22B オスプレイ(艦上輸送機型)。 アメリカ海軍では、1952年10月の艦種種別変更で、「攻撃目的任務の艦:CVA(攻撃型空母, attack aircraft carrier)」、「対潜目的任務の艦:CVS(対潜空母, anti-submarine warfare support aircraft carrier)」と名称を分類し、1961年の「エンタープライズ(CVN-65)」就役に伴い「CVAN(攻撃型原子力空母, nuclear-powered attack aircraft carrier)」が追加されたが、その後、1975年6月に、「多目的空母(正規空母):CV」、「多目的原子力空母(原子力空母):CVN」の2種類に統合している。 アメリカ海軍とカナダ海軍では、類別略号として「CV」を用いる。「CV」が何の略であるかは諸説ある。C=Cruiserとして「V」は、aViationのVという説、艦上機の主翼を前から見た姿がVの字だからという説、特に意味はなくCruiserのCで始める略号は既に多くの文字が使われており、あいていたのがたまたまVであったという説。CV=Carrier Vesselとする説もある[21]。ドイツにおいては正規空母はRB、軽空母はRLに類別されている。またポルトガル語圏のブラジルにおいては正規空母はNAe、軽空母はNAeLに類別されている。 構造 飛行甲板 空母の最大の特徴は、舷側に寄せられたアイランド以外にさえぎるものの無い平らな甲板である。飛行甲板の面積は、着艦・離艦・エレベーターへの移動などを考えるとできるだけ広いことが重要である。空母黎明期は、イギリス式の多数の飛行甲板を持つ空母(「フューリアス」とグローリアス級が二段、竣工時の「赤城」および「加賀」が三段甲板)もあったが、アメリカやフランスは当初から広い一枚甲板を採用しており、後にイギリスや日本も航空機の大型化に伴い一段甲板に統一された。ハリアーを運用する空母やカタパルトを持たないロシア空母は、甲板の先端を上に反らせてスキージャンプ甲板としている。 飛行甲板には、艦の後部から左舷に向けて斜めに設けた<b data-parsoid='{"dsr":[5846,5861,3,3]}'>アングルド・デッキ</b>がある。直線の甲板では発艦と着艦の動線軸が重なっているため、着艦の際に発艦待機中の搭載機と衝突する危険もあり、発着作業を同時に行うことができなかった。アングルド・デッキは空母の軸線から約9度ずらして設計されており、エレベーターや駐機スペースは着艦動線から外れた部分に設置されるため、事故も起こりにくく、デッキの先も海であるため、着艦に失敗した場合の緊急再離陸、緊急停止装置の使用、オーバーランも危険が少なく、発着艦作業も同時に行える(ただし、同時に行うことはほぼない)。 1950年代にイギリスが考案し、1952年にアメリカがエセックス級空母「アンティータム」を改造してから装備が始まった[22]。ソ連のキエフ級空母にも斜め甲板が採用されたが、これは艦橋の前部にミサイルや砲塔などの固定武装を搭載したためで、発着を重視したアングルド・デッキとは意図が異なる[23]。 アングルドデッキは垂直離着陸機を使用する軽空母では特に必要とされないため基本的には採用されない。 「カール・ヴィンソン」に離着艦するF/A-18E/F F-35Bの映像(「ワスプ」への着艦) カタパルト カタパルトとは艦船から航空機を発艦させる射出機のことで、空母の艦載機の大型化とともに発達してきた。空母にカタパルトが装備されたのは、アメリカで飛行甲板の限られたスペースを有効活用するため、圧縮空気と油圧装置を介して航空機が加速する仕組みの<b data-parsoid='{"dsr":[6949,6963,3,3]}'>油圧式カタパルト</b>で、第二次世界大戦中、1934年就役の「レンジャー」や「ヨークタウン」級に初期型が装備され、エセックス級や護衛空母に使用された[24]。 第二次世界大戦後、レシプロ機に代わりジェット機が台頭してきた。推進力を得るために長時間を要するジェット機を艦載機として使用するには、滑走距離が長くなる問題があった。そこで短距離で飛び出させるためにカタパルト技術の開発が進み、力量不足であった油圧カタパルトに代わり、蒸気カタパルト</b>が登場した[25]。燃料や武器を搭載したジェット機を発艦させられる強力な蒸気カタパルトはイギリスで開発され、1955年に完成したアメリカの「フォレスタル」から実用化された[26]。 次世代用に電磁式カタパルトが開発され、米中露の次世代艦より艤装が予定されている。 アイランド 英語で島を意味するアイランドは、艦橋・マスト・煙突類が一体となった構造物。航空機の運用だけを考えれば無いほうが良いので、極力小型化して甲板の右舷側に寄せて設置される。現在まで左舷側にアイランドを設けたのは日本の「赤城」と「飛龍」のみ。 太平洋戦争までの小型空母にはアイランドを設けない艦もあった(「アーガス」、「龍驤」など)。 格納庫 航空機を安全に保管し整備する場所。過去格納庫は1層式(アメリカとフランス)、2層式(日本とイギリス)、3層式(「赤城」と「加賀」)があったが、高さのあるジェット機を運用する現在は1層式が一般的。格納庫内では機体の整備ができる設備が整っている。 航空燃料タンク 空母は、揮発しやすく燃えやすい航空燃料を大量に搭載している。太平洋戦争では、「レキシントン」と「大鳳」の2隻が、航空燃料の引火爆発が原因で沈没した艦として有名。現在のジェット燃料はガソリンよりも引火しにくいが、一旦火がつけば大事故になる。そこで空母の航空燃料タンクとその配管は厳重な防火・防漏・消火対策が施されている。 弾薬庫 航空燃料タンクと同様、万全の防火・消火対策が施されている。航空燃料タンクと弾薬庫は、両方とも艦中央部の艦底付近(敵の攻撃による火災から最も遠い場所)に設置されている。 艦船用燃料タンク 原子力空母では自艦用の燃料タンクが不要になった事で、航空燃料や弾薬を多く積む事で継戦能力が高まった上に、随伴する水上戦闘艦艇へ補給する為の燃料を積載する事も可能となっている。 着艦誘導装置 電波誘導・光学式誘導・着艦誘導員のパドルによる合図等さまざまな装備が設置されている。アメリカでは1950年代ごろまでLSO(着艦信号士官)が両手にパドルを持ちそれによって誘導を行っていたほか、日本やフランスは後述する光学着艦装置の原型ともいえる着艦指導灯を使用していた。 アメリカやイギリスでも艦載機のジェット化に伴う着艦速度の高速化により、より遠くから正確に誘導する必要が出てきたため遠くからでも視認しやすいミラー・ランディング・システムが開発され、後にそれを発展させたFLOLS(フレネルレンズ光学着艦装置)が開発された。 また各種の電子兵装が充実した正規空母であれば電波誘導により自動的に着艦させることも可能である。 油圧式着艦制動装置 甲板上に浮かせた状態で数本張られたアレスティング・ワイヤーを、着艦する機体のアレスティング・フックで引っ掛けて、強力なブレーキ力を発生させる。開発当時は縦索式と横索式の二通りがあり、縦索式はイギリスと日本が、横索式はフランスとアメリカが採用し研究していた。 縦索式は首尾線方向に百本ものワイヤーを張り、着艦機が主脚間に装備する櫛形フックに引っ掛けて摩擦力を利用する形式で開発が容易だったが制動力に著しく劣り事故が絶えなかった。そのため、イギリスでは1926年から1931年までは着艦制動装置禁止令を出してしまった。 一方、横索式は飛行甲板の左右方向に張られた数本のワイヤーを着艦機の後部に装備したフックに引っ掛けて停止する方式である。1911年1月18日に装甲巡洋艦「ペンシルベニア」に設置された仮設飛行甲板への世界初の着艦において既にこの仕組みは考案済みであったが、実用化には16年と長い年月が必要でフランスが実用化したのが1927年の「ベアルン」であった。後に日本、イギリスもフランスより技術導入して1931年までに横索式に切り替えることとなった。今日の空母が採用しているのも横索式である。 他に非常時に使う、機体全体を受け止めるバリケード(滑走制止装置)もある。 F/A-18の着艦 ブライドル・レトリーバー カタパルト延長線上の飛行甲板前縁斜め下方に角のように突き出した構造。初期のカタパルトはシャトルと艦載機の接続に、射出と同時に分離して前方へ投棄されるブライドル・ワイヤーと呼ばれる鋼索を使用していた。当初は発艦ごとの使い捨てだったこのワイヤーを回収するための装備である。現在では艦上機の脚部にカタパルトのシャトルと直接接続できる機構が備わっているものがほとんどとなったのでブライドル・ワイヤーが不要となり、新型・近代化改修を受けた最近の空母には見られないことが多い(またブライドル・ワイヤーが使い捨てだった時代の空母にも見られない)。 エレベーター 下層にある格納庫甲板から最上甲板である飛行甲板に艦上機を上げるための装置である。通常は四角形だが、イギリスでは飛行機の形に合わせた十字型のものもあった。アメリカのエセックス級にもアングルド・デッキを備えるSCB-125近代化の際に第一エレベーターが長方形に前方をすぼませた六角形となったものがあった。第二次大戦期の多くの空母ではエレベーターは艦の中心線上にあったが、強度と航空機運用に問題があったため現在の大型空母は飛行甲板の両外側に舷側エレベーターを設置している。 小型の軽空母では舷側にエレベーターを設けると悪天候時に海水が格納庫に浸入する恐れがあるため、艦の中心線上にエレベーターを設けている。 中心線上へのエレベーター設置は格納庫面積を圧迫してしまう事になり、格納可能な機数が減少するデメリットでもある。なおイギリスでは「リフト」と呼ぶ。 歴史 第二次世界大戦以前 洋上航空兵器を運用する艦船は、気球母艦が始まりである。1849年7月12日、オーストリア海軍は気球母艦から熱気球を発艦させ、爆弾の投下を試みたが、失敗した。南北戦争ではガス気球が使用され、ガス発生装置を備えた艦が建造された。 1912年、フランス海軍が機雷敷設艦の「ラ・フードル」を改装し、水上機8機の収容設備と滑走台を設置し、世界初の水上機母艦を就役させた。 1914年7月、第一次世界大戦が勃発。日本海軍では、1914年8月に運送船の若宮丸を改装して特設水上機母艦とした。9月、若宮丸は青島攻略戦に参加。ファルマン水上機を搭載し、偵察行動を行う[27]。 第一次世界大戦当時、「航空母艦」とは水上機母艦のことであり、「航空母艦」と称するのが一般的であった[28]。水上機はフロートという飛行中には役に立たない重量物がある分、陸上機より性能が劣っていた。そのため、列強海軍で陸上機を運用できる母艦の研究が進められ、日本海軍のように「山城」の主砲の上に滑走路を設けて飛行機を発進させる方法やイギリス海軍のように「フューリアス」の前甲板の主砲を撤去して飛行甲板を設ける方法で実験が行われたが、これらは発艦させることはできても着艦させることはできなかった[29]。1910年11月14日、アメリカでは、軽巡洋艦「バーミンガム」に仮設した滑走台から陸上機の離艦に成功した。翌1911年1月18日には装甲巡洋艦「ペンシルベニア」の後部に着艦用甲板を仮設し、離着艦に成功した。 第一次世界大戦では陸上機を発着させられる軍艦(後の航空母艦)は出現しなかったが、戦後の1920年代初頭、日米英海軍は航空母艦と艦載機を開発した[30]。1918年9月、世界初の全通飛行甲板を採用した英海軍の「アーガス」が竣工した。第一次世界大戦終結の直前の時期であり、実戦には参加しなかった[31]。1918年1月、最初から空母として設計された「ハーミーズ」がイギリスで起工される(完成は1924年)。ハーミーズに遅れて起工したものの、世界初の新造空母になったのは、1922年12月27日に完成した日本の「鳳翔」だった[32]。 1921年、ワシントン軍縮会議において、「水上艦船であって専ら航空機を搭載する目的を以って計画され、航空機はその艦上から出発し、又その艦上に降着し得るように整備され、基本排水量が1万トンを超えるものを航空母艦という」とされ[33]、そこで締結されたワシントン海軍条約では、戦艦の保有比率が米英に対し日本はその6割と規定されたのと同じく、空母も米英が排水量13万5,000トンで日本は8万1,000トンと6割に当たる量であり、また、各国とも建造中止となる戦艦を二隻まで空母に改造することが認められた[34]。ワシントン海軍軍縮条約を受けた各国の空母建造状況は、以下の通り。 Japan - 「赤城」、「加賀」 - 最初は「赤城」と「天城」の予定であったが、「天城」は関東大震災で破損したため、代わりに解体予定だった加賀を空母に改装した[35]。 United States - 「レキシントン」、「サラトガ」 United Kingdom - 「フューリアス」、「カレイジャス」、「グローリアス」 France - 「ベアルン」 1930年、ロンドン海軍条約が締結され、基本排水量1万トン未満も空母に含まれることになった[36]。ワシントン海軍条約では基準排水量1万トン未満は空母の保有排水量の合計に含まれないとされたため、日本は基準排水量8,000トンの水平甲板型の小型空母「龍驤」を建造しようとしたが、ロンドン海軍条約で1万トン未満も空母にカウントされるようになると、設計変更をして飛行機の搭載可能数をできるだけ増加させた[37]。また、「蒼龍」、「飛龍」も当初は巡洋艦としての砲撃能力を持たせようとしていたが、この条約の影響で、島型艦橋を持つ空母として建造されることになった。さらに、水雷艇が転覆した友鶴事件や暴風雨による船体破損が起こった第四艦隊事件の影響で、武装による復元力低下、船体強度不足など基本性能の見直しがあり、「蒼龍」は基準排水量が増加した。「飛龍」は建造中にロンドン海軍条約の失効が確実となり(1936年に日本脱退)、「蒼龍」より無理のない設計となった[38]。同時期に、アメリカは排水量制限に余裕があり、無理のない設計で、「レンジャー」、「ヨークタウン」、「エンタープライズ」、「ホーネット」、「ワスプ」を建造している[39]。 1936年、ワシントン・ロンドンの両海軍条約が破棄され、自由な設計が可能になった。日本海軍は巨砲を持つ戦艦「大和」「武蔵」の建造とともに、基準排水量2万5,000トン、バルバス・バウ採用による高速化、炸薬量450キロの魚雷直撃に耐える防御力を図った「翔鶴」「瑞鶴」の建造に入り、1942年初頭に完成の予定だったが、アメリカとの情勢が緊迫し、工期を半年以上短縮した[40]。アメリカでは、基準排水量2万7,100トン、格納庫甲板65ミリ・機関室上部38ミリ、両舷102ミリの装甲、サイドエレベーター装備のエセックス級空母の建造に着手し、1942年末に竣工する[41]。 第二次世界大戦前、空母とその艦載機に期待されたのは、主戦力と見なされていた戦艦の補助戦力として、艦隊防空や戦艦同士の決戦の間に巡洋艦などと協同し機を見て雷爆撃を加えることだった[42]。 第二次世界大戦 1939年9月、第二次世界大戦が開戦。1940年11月、タラント空襲においてイギリス軍の戦艦を中心とした艦隊に所属していた空母イラストリアスの雷撃機がイタリアの戦艦を撃沈した。 1941年4月、日本は空母を主体とした第一航空艦隊を編制し、さらに、真珠湾攻撃のため、軍隊区分で他艦隊の補助戦力をこれに加え、史上初の用兵思想である「機動部隊」を編成した[43]。12月、太平洋戦争の開戦時、日本が真珠湾攻撃でアメリカ艦隊の戦艦の撃沈に成功すると、空母航空戦力の地位は一気に上がった。戦艦を失ったアメリカは、戦艦部隊の防空兵力として行動していた空母を空母部隊にして「ヒットアンドラン作戦」で日本の拠点に空襲を開始した。その後、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦で日本の機動部隊と交戦し、日本の進攻を阻止した[44]。 日本は戦前のワシントン海軍条約によって空母保有量を制限されていたとき、有事の際に短期間で空母に改造できるように設計された潜水母艦やタンカーを建造していた。それらは太平洋戦争が始まる前後から空母に改造され、潜水母艦「大鯨」は「龍鳳」として、給油艦の「剣埼」と「高崎」は「祥鳳」と「瑞鳳」として就役した。また、水上機母艦の「千歳」「千代田」も有事の際に空母に改造できるように造られていた[45](千歳、千代田はミッドウェー海戦後に改造が決定する)。 アメリカでは空母化を目的に特務艦艇を設計することはなかったが、太平洋戦争の開戦後、空母兵力の増強が必要になると、基準排水量一万トン以下のクリーブランド級軽巡洋艦の船体を利用して、インディペンデンス級空母9隻を建造している[46]。 1942年4月、セイロン沖海戦で日本がトリンコマリー攻撃中に、イギリス東洋艦隊の空母「ハーミーズ」を撃沈する。5月、珊瑚海海戦で、日本は軽空母一隻を撃沈され、アメリカは正規空母1隻及び駆逐艦1隻を撃沈された。史上初の機動部隊同士の海戦と言われる。この海戦によって日本の作戦は初めて中止された。6月、ミッドウェー海戦で、日本は空母4隻を失い、アメリカは空母1隻を失った。1942年7月、日本はミッドウェー海戦で壊滅した第一航空艦隊の後継として第三艦隊を編制する。 1944年3月1日、第二艦隊(戦艦を中心とした部隊)と編合して第一機動艦隊が編制された。航空主兵思想に切り替わったという見方もあるが、実態は2つの艦隊を編合したに過ぎないという見方もある。ただ、前衛部隊を軍隊区分によらずに指揮下の部隊から充当できるようになった[47]。アメリカで本格的な空母機動部隊が編成されたのは1943年の秋に始まる反攻作戦が開始された時期からだった[48]。アメリカ海軍は兵力を艦型別に編成するタイプ編成と臨時に作戦任務部隊を編成するタスク編成を導入し[49]、1943年8月、空母を中心とした艦隊であるタスクフォース38が編成される。 1944年6月、マリアナ沖海戦で、日本はアウトレンジ戦法を実施し、アメリカは日本の攻撃隊を迎撃。日本は空母三隻を撃沈され、艦載機のほとんどを失った。「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されたこの敗北は、アメリカ海軍がレーダー、無線電話など電子技術を活用した艦艇戦闘中枢CIC活動で、攻撃防御両面で艦載機が空母CICの管制を受けながら戦闘可能だったことも要因であった[50]。11月、レイテ沖海戦では、日本は機動部隊の空母4隻全てを失う。11月15日、日本は第一機動艦隊及び第三艦隊を解体した[51]。1945年8月15日、日本が降伏し、第二次世界大戦は終結。 開戦後に日本が建造に着手した空母は、雲龍型6隻、軍艦や商船からの改造着手は8隻であるが、完成したのは、雲龍型3隻、千歳型2隻、「信濃」、「雲鷹」、「冲鷹」、「海鷹」、「神鷹」であった[52]。 この大戦では商船を改造した空母が使用された。アメリカは輸送船団をドイツ軍のUボートから守るために、貨物船やタンカーの船体を流用した護衛空母が建造された。商船を改造したものは55隻、商船とほぼ同じ設計の船体を使用したものが69隻であった。滑走路が短いため、カタパルトを装備搭載し、本来の船団護衛、対潜攻撃だけではなく、太平洋方面の上陸作戦にも使用された。日本での商船を改造した空母は、飛鷹、隼鷹など「鷹」の文字が艦名に使われた7隻であったが、建造数も少なく、速力不足を補うカタパルトも開発できなかったので運用する飛行機を制限された[53]。 冷戦 アメリカ 1945年以降、冷戦が始まり、アメリカはソビエト本土への核攻撃能力を重要視し、比較的小型の航空機しか運用できない航空母艦の価値が低下したと考えられていた。海軍は海軍長官出身のジェームズ・フォレスタル国防長官の助けにより、核搭載可能な大型艦載機A3Dの運用を前提とした排水量65,000トンの大型空母「ユナイテッド・ステーツ」の建造を計画するが、この大きさでもジェット機の運用は困難とされ、空軍のB-36戦略爆撃機との比較の結果B-36に軍配があがり、「ユナイテッド・ステーツ」は起工から5日目に建造中止されてしまう。 1950年6月25日、北朝鮮が韓国へ侵攻し、朝鮮戦争が勃発する。韓国は総崩れとなり北朝鮮はさらに南へ侵攻、急遽アメリカは西太平洋に展開していたエセックス級「ヴァリー・フォージ」を朝鮮半島近海に進出させることを決定する。途中「ヴァリー・フォージ」はイギリス海軍コロッサス級「トライアンフ」と合流し北朝鮮近海に進出、開戦8日後の7月3日から作戦に入った。空軍機の展開により対空戦闘の中心は空軍機に譲るが、停戦までの間に11隻のエセックス級空母が参戦し、主に対地攻撃を担当した。このうち1951年以後に参加したエセックスを含む4隻はジェット機対応の改装を済ませており、ジェット機による攻撃を行った(他の7艦はプロペラ機を搭載)。朝鮮戦争の戦訓から、空母の任務として対地攻撃が重視されるようになった。空母は即時展開可能な航空基地として有効であると認識されるようになり、空母不要論は一応の終結を見ることとなった。しかし、依然としてジェット機運用には問題が多く、着艦速度が速くても正確に着艦させることができる誘導システムと、重い機体を十分に加速させることができるパワーのあるカタパルトが必要であった。従来の空母は甲板上から艦載機をすべて取り除かない限り、着艦のやり直しがきかなかったため、これも改善する必要があった。 1950年代、イギリスが発着を安全に行えるアングルドデッキを考案し、1952年にアメリカがエセックス級空母「アンティータム」を改造して最初に装備した[54]。燃料や武器を搭載したジェット機を発艦させられる強力な蒸気カタパルトがイギリスで開発され、1955年に完成したアメリカの「フォレスタル」から実用化された[55]。「フォレスタル」(6万トン)は、戦略核攻撃任務航空機を搭載し、アメリカ海軍はフォレスタル級の改善・就役を行いながら1968年までに8隻の通常推進型空母を建造した。 1955年、アメリカは艦船の原子力推進搭載第一号となる原子力潜水艦「ノーチラス」を完成させる。通常推進に比べて原子力推進の利点は下記の通り。 核燃料は1回補給すると少なくとも20年以上使えるため、航続距離が非常に大きくなる。通常動力型では大容量の燃料タンクが必要であったが、原子力推進艦ではその必要が無い。 機関運転に際し大気中の酸素を必要とせず、排気も無い。潜水艦としては潜航し続けたまま長期の航海が可能。 この二点は隠密裏に長期の行動を要求される潜水艦にとって非常に有利であるが、原子力化は航空母艦にとっても大きな利点がある。 燃料消費を気にせずに長期間の高速航行が可能。また蒸気発生量に余裕があるので蒸気カタパルトの連続使用にも支障が無い。 自艦の燃料タンクが必要なくなるのでその分航空機の燃料などを多く積載でき、補給までの継続戦闘期間が長くできる。例えば通常動力推進のキティホーク級では自艦用の燃料7,828トンと航空機用燃料5,882トンを積載しているが[56]、原子力推進では自艦用燃料約8,000トンの積載量を航空燃料などの他の用途に回すことができる。 主機関に空気を送る送風システムと排気を煙突まで送る煙路が必要なくなるので、艦内配置に余裕ができる。更に通常推進艦では十分解決できなかった煙突からの高温排気による気流の乱れ(着艦機にとって重要な問題)の問題が解消される。 マイナス面として、開発と建造・維持の費用が通常推進艦より高価であることが挙げられる。 1961年、就役させた3隻の空母のうち1隻を初の原子力空母(「エンタープライズ」)とした。また 同時に建造した原子力ミサイル巡洋艦「ロング・ビーチ」(15,111トン)、「ベインブリッジ」(7,982トン)と協同して原子力艦隊を作ろうとした。しかし「エンタープライズ」は建造費があまりにも高くなったため、次に建造された空母2隻は一旦通常推進型に戻された。 1964年から始まったベトナム戦争では「エンタープライズ」やほぼ同じ大きさの通常推進型のフォレスタル級やキティホーク級、より旧型で小さいエセックス級やミッドウェイ級など多数の空母が参戦し、その中で原子力空母のメリットが改めて確認された。その結果 1975年から「エンタープライズ」を更に改良したニミッツ級の量産建造が始まり、計10隻が建造された。ニミッツの建造に合わせてカリフォルニア級(10,150トン、2隻)やバージニア級(11,000トン、4隻)の原子力ミサイル巡洋艦が建造されたが、この種の艦の建造は1980年完成のバージニア級の4番艦で終了し、その後建造されたミサイル巡洋艦は全て通常推進のタイコンデロガ級(9,400トン、27隻)となった(原子力巡洋艦9隻は全て退役済み)。 1960年代後半には、アメリカ海軍の戦略核攻撃任務は弾道ミサイル潜水艦に任され、同任務に就いていた空母上のA-5超音速攻撃機は偵察機に改造されたが、A-4やA-6といった戦術攻撃機は1990年頃まで核攻撃能力を有していた。 アメリカ以外 イギリスでは、1950年代、ジェット機でも運用できる強力な蒸気カタパルト、ミラーランディングシステム、アングルド・デッキという現代空母の基礎となるものが開発され、空母の運用能力は大幅に向上した。しかし、イギリスでは、第二次世界大戦後に完成した4万トン級の「イーグル」や「アークロイヤル」等の正規空母の後継艦の建造を1960年代に計画するものの予算の面で断念、1970年代にはすべての正規空母は退役してしまった。 一時期、空母保有をあきらめたイギリス海軍は、哨戒ヘリコプター多数を運用する全通甲板型指揮巡洋艦を計画したが、この計画中に空軍で使用されていたホーカー・シドレー ハリアーに目をつけ艦上機型のシーハリアーを開発、これにより満載排水量20,000トン程のインヴィンシブル級軽空母でも固定翼機を運用することが可能となった。これを軽空母として定義づけした。 イギリスで建造されたコロッサス級とマジェスティック級は小型の軽空母であったが、蒸気カタパルトとアングルド・デッキの装備などの改装・改設計により最低限のジェット艦上機運用能力を持っていたため、1960年前後にカナダ・オーストラリア・インドなどのイギリス連邦諸国やオランダ・ブラジル・アルゼンチンに売却または貸与されたので、これらの国でも空母を運用している時期があった。1970年代終わりにこれらの小型空母が老朽化した際に大半の国では後継空母の取得を諦めたが、インドはイギリス軽空母「ハーミーズ」を購入し「ヴィラート」として空母戦力を維持、ブラジルはフランスより「フォッシュ」を購入して「サン・パウロ」として戦力を維持している。 1982年、アルゼンチンとイギリスとの間で行われたフォークランド紛争が発生。軽空母とシーハリアーの組み合わせで艦隊防空において「空戦での損失ゼロに対し撃墜23機」という予想以上の成果を上げたため、スペイン・イタリア・インド・タイなど他の多くの国で採用されることになったが、艦載機に早期警戒能力が無かったため、アルゼンチン攻撃機の低空攻撃を許した。後にSH-3 シーキングを改修し、現在までヘリコプターを早期警戒機として運用している。フォークランド紛争以後、ヘリコプターとV/STOL機(シーハリアー)の組み合わせでの運用が確立され、以後建造される軽空母の方向性を決定した。S/VTOL機を搭載する軽空母や強襲揚陸艦は、ハリアーの旧式化による退役で、第5世代機のF-35Bの搭載が主軸になる。 フランスでは、1961年以後自国技術により、3万トン級のクレマンソー級2隻を建造した。フランスは政治的にアメリカ追随ではなく独自の歩み方をすることを選択し(対米自立外交)、ド・ゴールが大統領時代の1966年に北大西洋条約機構から脱退した。以後フランスはアメリカに頼らない独自の空母戦力維持に力を注いでおり、現在は4万トンの原子力空母「シャルル・ド・ゴール」1隻を運用中である。 ソビエト連邦では、海上航空勢力の整備を目指し、まず垂直離着陸機とヘリコプターを運用する4万トン級のキエフ級航空母艦を1975年から4隻作った後、1991年に6万トンの重航空巡洋艦「アドミラル・クズネツォフ」を建造した。 冷戦後 1989年のマルタ会談での冷戦終結を受け、1991年に戦術核兵器の撤去が始まり、1992年7月には当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が航空母艦から戦術核兵器の撤去が完了したと発表した。 2000年以降、4万~6万トン級でCTOL機を運用する中型正規空母が各国で建造され、イギリスでは、ハリアー自体が旧式化したこともあり、このクラスの空母も次第に退役するか、空母自体は運用されていてもハリアーの運用を終了もしくは凍結して実質的にヘリ空母として運用されている。インヴィンシブル級でのハリアーの運用を2010年いっぱいで終了し、代わりに6万5,000トンクラスのクイーン・エリザベス級を建造。また、インドも軽空母にかわり4万トン級中型正規空母を建造するなど、軽空母保有国から脱却しつつある。一方、軽空母保有国でもイタリアの「カヴール」のような多目的空母としての運用や、スペインの「フアン・カルロス1世」など強襲揚陸艦での固定翼機の運用を行う国も現れている。 2006年、沖縄近海で護衛艦隊を伴った米空母「キティホーク」の8キロメートル範囲内に中国の宋級潜水艦が急浮上したが、このとき米軍は浮上まで同艦の存在にまったく気が付かなかった[57]。2009年、アメリカ海軍では最後の通常推進空母であった「キティホーク」が退役し、空母は全て原子力推進艦となった。 2015年、大型ジェット機も離着陸できるメガフロート空母という構想も出ているが、速力と防御力の面で問題がある為に実用化には至っていない。 空母への攻撃手段としては通常の対艦ミサイルの他、内陸から直接攻撃する対艦弾道ミサイルが登場している。 現役の空母 空母あるいは空母に準ずる艦を保有し、もしくは保有を計画する諸国の近況を、以下に記す(あいうえお順)。 United States 第二次世界大戦後に建造されたフォレスタル級を皮切りに、キティホーク級/「エンタープライズ」/ニミッツ級/フォード級と運用してきた空母は全て、超大型航空母艦(スーパー・キャリアーen:Supercarrier)である。さらに、2009年に最後の通常動力空母「キティホーク」が退役したことで、保有する空母は全て原子力空母となった。現在は11隻の空母が現役である。最新鋭艦の排水量は10万トンを超え、1隻で中小国の空軍以上の攻撃力を持つといわれる。原子力機関を搭載するため建造・維持・運用に莫大なコストを要求されるが、軍事上・外交上の切り札に位置づけられている。 また、タラワ級以降の強襲揚陸艦にはV/STOL機の運用能力が始めから付加されており、ハリアー II攻撃機により、必要に応じて補助空母的任務を遂行可能である。現在保有する強襲揚陸艦にはF-35戦闘機のSTOVLタイプであるF-35Bへの対応改修も進められている。 アメリカ空母の運用については2001年に報告された防衛方針QDR-2001に基づいた艦隊即応計画によると「6個空母打撃群が30日以内にあらゆる紛争地域に展開できる態勢を維持している」[58]。このような長距離即応体制には、航続力の長い大型の原子力空母が非常に有利である。将来的には予算の大幅削減に伴い、空母の運用状況にも大きな影響が出ると予想されている。 今後、就役中のニミッツ級をジェラルド・R・フォード級に順次置き換えていく予定であるが、2017年に第45代アメリカ合衆国大統領に就任したドナルド・トランプは現役空母を1隻純増し、12隻体制とすることを含めた海軍の拡張計画を協議していると表明した[注 1]。 ニミッツ級 - 10隻(内1隻は炉心交換作業のため戦列を離れている) ジェラルド・R・フォード級 - 1隻、1隻建造中、1隻計画中 ワスプ級 - 8隻 アメリカ級 - 1隻、1隻建造中、4隻計画中 United Kingdom 艦載機がジェット機に代わって以降も、第二次世界大戦中に起工した空母に各種改装を行い運用していたが、財政難により維持するのは不可能となった。海洋国家であるイギリスにとって対潜航空兵力は依然として重要であり、代案としてペリコプターを運用する飛行甲板を備えた小型艦が計画された。そんな中で空軍で開発中の垂直離着陸機ハリアーに着目、通常機に劣り、搭載数も少ないが、戦力として有望と考えられた。結果、艦載機版シーハリアー に対応したスキージャンプ等の運用設備が追加されたインヴィンシブル級となり、ソ連のキエフ級と共に現代的な軽空母として高い評価を受ける。 しかし、続く財政難により2010年に発展型のハリアーIIが運用終了、STOVL空母からヘリ空母へ変更して使用していたインヴィンシブル級も2014年に全て退役した。減少した攻撃戦力を補うため、陸軍が新たに導入したWAH-64 アパッチをヘリコプター揚陸艦「オーシャン」に搭載することで対応している。 インヴィンシブル級3隻の代替として、6万トンクラスのクイーン・エリザベス級2隻を建造、建造計画は搭載予定のF-35シリーズの開発遅延により幾度かの計画変更を余儀なくされたが[注 2]、1番艦が2014年7月に進水、2017年12月7日に就役。イギリス分のF-35Bはアメリカでの訓練に使用されているため、当面はヘリ空母として運用される。2番艦は2017年9月8日に進水式、12月21日に出渠した。入れ替わりに「オーシャン」が2018年3月27日に退役した。 クイーン・エリザベス級 - 1隻、1隻艤装中 Italy ヘリコプター巡洋艦の代替として建造したV/STOL空母2隻を運用している。「カヴール」は近年のトレンドとして、多任務艦の能力を盛り込まれている。 また、全通甲板を有するサン・ジョルジョ級強襲揚陸艦(準同型艦の「サン・ジュスト」を含む)と「ジュゼッペ・ガリバルディ」の代替として、2017年から3万トン級強襲揚陸艦1隻の建造中である。 ジュゼッペ・ガリバルディ カヴール トリエステ - 建造中 Iran 2011年、イラン海軍副司令官が戦闘機とヘリコプターを搭載した空母の建造を明らかにしたことが報じられた[59][60]。 2015年2月25日に、ホルムズ海峡近くで行われたイラン軍の演習「偉大な予言者9」において、イラン海軍はアメリカ海軍のニミッツ級を模した空母の大型模型を、対艦ミサイルや小型高速艇からの攻撃で爆破するデモンストレーションを行った。この演習の様子はイランニュースネットワーク(IRINN)やテヘランのFARSニュースエージェンシーで放映・公開されている[61]。 India イギリスよりマジェスティック級「ハーキュリーズ」とセントー級「ハーミーズ」を購入し、V/STOL空母「ヴィクラントI」、「ヴィラート」として運用していたが2017年3月6日時点で両艦とも退役している。 空母3隻保有を目指しており、まずヴィクラントIの代替として、旧ソ連のキエフ級を購入・改装の上MiG-29Kを搭載したSTOBAR空母ヴィクラマーディティヤを就役させている。続いてヴィラートの代替として、純国産のSTOBAR空母ヴィクラントII1隻を建造中である。さらにもう1隻、アメリカの技術協力を受けたスーパーキャリアクラスの国産空母の建造計画を構想している[62]。 ヴィクラマーディティヤ ヴィクラント - 艤装中 ヴィシャル - 計画中 Egypt ロシアへの引渡しが中止となった下記のミストラル級強襲揚陸艦2隻を購入。 ガマール・アブドゥル・ナセル級(ミストラル級) - 2隻 Australia イギリスよりマジェスティック級「テリブル」、「マジェスティック」を「シドニー」、「メルボルン」として運用したが両艦とも退役している。「メルボルン」代替として、インヴィンシブル級を購入する計画もあったが頓挫している。現在はスペインの強襲揚陸艦「フアン・カルロス1世」の準同型艦2隻を運用している。V/STOL機の搭載は当面考えられていないが、スキー・ジャンプを備え、UAVの運用が考慮されている。 キャンベラ級 - 2隻 Spain アメリカのインディペンデンス級「カボット」を購入、「デダロ」として運用後、その代替に制海艦構想の流れを汲んだV/STOL空母「プリンシペ・デ・アストゥリアス」1隻を運用していたが、両艦とも退役している。現在は2010年より、空母任務を考慮した強襲揚陸艦「フアン・カルロス1世」を運用しており、他国への準同型艦の販売も行っている。 フアン・カルロス1世 Thailand スペインに発注して建造された世界最小のV/STOL空母(「プリンシペ・デ・アストゥリアス」の縮小発展型)を1隻保有している。財政難の折、活動は不活発の模様。ハリアーは全機が保管状態にあり、実質的にヘリ空母としての運用下にある。 チャクリ・ナルエベト South Korea 機動艦隊創設の一環として、本格的な全通甲板を採用した強襲揚陸艦「独島」を2007年に就役させた。3隻体制を目指しており、拡大発展型の韓国航空母艦(KCVX)等も構想されていたが、予算上の問題から3番艦及び空母の建造計画は破棄された。2番艦も予算や1番艦で発生した欠陥・事故から先送りされていたが、改良の上で2018年に進水、艤装が進められている。また、取り消しとなった3番艦についても建造事業再開が検討されている。 独島級 - 1隻、1隻艤装中、1隻計画中 China スクラップとして他国の退役空母を数隻購入していたが、その中で1998年に購入した旧ソ連が建造中止した「ヴァリャーグ」を、練習空母として建造再開、2012年9月25日に就役させた。 本格的な空母艦隊建設構想を固めており、2020年頃には通常動力空母2隻と、原子力空母2隻を整備する構想とされる。また、中国は将来的に強襲揚陸艦や軽空母の建造も視野に入れていると言われている。[63][64] 国産空母は性質の異なるタイプが平行建造されている。2013年に大連造船廠にて1隻目の002型(遼寧(001型)の改良型であるため、一時001A型と呼ばれた)が起工、2017年進水し、早ければ年中に就役予定である。2隻目は江南造船所にて2015年に起工、こちらは排水量が拡大、カタパルト(蒸気式又は電磁式)を装備するとされている。また、2017年には滬東中華造船にて軽空母任務も考慮した強襲揚陸艦075型が2隻起工した[65]。さらに、大連造船廠では002型1隻、075型1隻の建造が始まっているのではないかとされている。 遼寧 002型 - 1隻公試中 003型 - 1隻建造中 075型 - 2隻建造中 Turkey 将来的にV/STOL機運用を検討しており、2016年よりイスタンブールの造船所でスペインの強襲揚陸艦「フアン・カルロス1世」の2万トン級準同型のを建造している。 アナドル - 建造中 Japan ほぼ全通飛行甲板を採用したおおすみ型が建造されたが、本型にはヘリコプター搭載能力はなかった。対潜ヘリコプター3機を搭載・運用するヘリコプター搭載護衛艦 (DDH)のはるな型、 しらね型の代替として、それぞれヘリコプター11機を搭載可能なひゅうが型2隻とヘリコプター14機を搭載可能ないずも型2隻が2017年3月22日時点で就役している。 本格的な強襲揚陸艦の導入の調査予算の計上や視察調査が行われたが、平成29年度時点で防衛大綱や建造費の予算化などの建造に向けた動きはなかった。 2018年11月27日の記者会見で、岩屋毅防衛相は「せっかくある装備なので、できるだけ多用途に使っていけることが望ましい」と延べ、いずも型護衛艦の空母への改修に前向きな考えを示している。また、航空自衛隊のF-35B導入も防衛大綱に明記されると報じられた[66]。 ひゅうが型 - 2隻 いずも型 - 2隻 Brazil 第二次大戦直後にイギリスから購入したコロッサス級「ヴェンジャンス」を「ミナス・ジェライス」して長らく運用。次いでフランスから購入したクレマンソー級「フォッシュ」を「サン・パウロ」として、空母も艦載機も旧式ながらCTOL空母を運用していた。しかし、2017年2月14日にサン・パウロの運用終了、運用空母はなくなった。 2018年にイギリスから退役した「オーシャン」を購入することが決まり、イギリスにて改装が行われた後に「アトランティコ」として就役予定である。 France アメリカやイギリスから購入した旧型空母を運用後、国産のクレマンソー級を2隻建造したが、退役済みである。現在はアメリカ以外で唯一の原子力空母シャルル・ド・ゴールを1隻運用している。空母2隻体制を目標としているが、シャルル・ド・ゴール級の2番艦は財政難や設計ミスのため中止されており、その後にイギリスのクイーン・エリザベス級の準同型艦をフランス次期空母として2隻目の空母とする計画が持ち上がるが、こちらも 2013年に中止となった。なお、フランス海軍は現在も引続き空母による核戦略を中心に置いており、空母シャルル・ド・ゴールとその艦載機ともに戦術核兵器の搭載・運用能力を維持している。 また、非空母型のフードル級を代替するため、全通飛行甲板を採用したミストラル級の建造を進めている。 シャルル・ド・ゴール(原子力空母) ミストラル級 - 3隻、1隻計画中 Russia ソビエト連邦崩壊まではV/STOL空母キエフ級を4隻保有し、STOBAR空母アドミラル・クズネツォフ級2隻、カタパルトを備えた原子力空母ウリヤノフスク級2隻の建造を進めていたが、冷戦終結間際に就役したアドミラル・クズネツォフ1隻を除き、全て退役又は建造破棄されている。さらに、ソビエト連邦の空母を建造してきた黒海造船工場がウクライナの独立により接収されてしまい、空母の建造能力も失われてしまう事態となった。ロシアで維持・運用されたアドミラル・クズネツォフは財政難から2000年代初頭は極めて活動状況が鈍かったが、2007年頃から再び活発に外洋行動を繰り返すようになった。また、空母機能を強化する近代化改装がいくつか予定されており、そのための国内造船所の設備拡張、改修も進められている。また、比較的状態の良かったキエフ級の一隻はロシアのセヴマシュ造船所でSTOBAR空母へ改修を受けインドへ売却、アドミラル・クズネツォフ級の1隻はウクライナへ移管後に中国へ売却され、再建造されている。 2005年初頭、ロシア海軍総司令官ウラジーミル・クロエドフ上級大将は、2010年までに新空母設計案をまとめて建造開始、北方艦隊配備の1番艦を2016年竣工、続いて太平洋艦隊配備2番艦を建造開始するという内容の新空母建造計画を発表した。2006年2月に後任のロシア海軍総司令官であるウラジーミル・マソリン大将が将来、5、6隻以上の航空母艦を展開させる計画を発表。さらに2008年、ドミートリー・メドヴェージェフ大統領は2015年までに2隻以上の新規原子力空母建造計画に着手すると表明した。新型空母の建造は近日中の予定はないが、2030年頃の就役を見込んでいるとされており、電磁カタパルトと新型原子炉RITM-200を備えた将来原子力航空母艦プロジェクト23000E「シトルム」のコンセプトが発表されている。 また、強襲揚陸艦2隻以上の調達が決定され、フランスのミストラル級強襲揚陸艦が選定される。引き渡し直前まで建造が進むが、2014年ウクライナ騒乱により西側からの経済制裁が行われたことで資金調達が難航、建造を行ったフランスも制裁の一環として引渡しを無期限延期した。最終的にミストラル級のロシアへの受領は中止・返金補償(詳しくは該当項目)となり、完成していた艦はエジプトへの売却された。このため、ロシアは国内造船所でロシア版ミストラル級とも言える2万4千トンクラスの「ラヴィーナ」、規模縮小した1万4千トンクラスの「プリボイ」等の汎用揚陸艦の設計を進めており、2022年頃の就役を目指している。 アドミラル・クズネツォフ 脚注 注釈 出典 参考文献 福井静夫『世界空母物語』 1993年3月 光人社 江畑謙介・堀元美共著『新・現代の軍艦』 1980年 原書房 江畑謙介『最新・アメリカの軍事力』 2002年 講談社現代新書 梅林宏道『在日米軍』 2002年 岩波新書 柿谷哲也『世界の空母』 2005年 イカロス出版 『世界の空母 ハンドブック』 世界の艦船別冊 海人社 『世界の艦船』 1991年4月号 「特集 アメリカの空母」 海人社 『世界の艦船』 1998年3月号 「特集 アメリカ空母の全容」 海人社 森本敏『米軍再編と在日米軍』2006年 文春新書 関連項目 航空母艦一覧 水上機母艦 機動部隊 タスクフォース 航空艦隊 空母打撃群 海上自衛隊の航空母艦建造構想 気球母艦 歴史上初めて航空機を運用した艦船。19世紀後半から20世紀初頭にかけて運用された気球を運用するための艦船。 アクロン・メイコン 軍用機の移動基地として建造された飛行船。専用の軍用機をトラピーズと呼ばれる空中ブランコで発着させる。第一次世界大戦後、アメリカ海軍が全長240mほどの巨大飛行船として開発したが、悪天候下の事故で失われ、以後は飛行船を航空基地として運用することはなくなった。
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オリコンチャート</b>は、オリコングループのデータサービス事業会社であるオリコンリサーチ株式会社が発表する音楽・映像ソフトなどの売り上げを集計したランキング。 概要 歴史 業界誌『コンフィデンス』の前身である『総合芸能市場調査』創刊号(1967年5月4日号)から既にレコード売上をはじめとしたランキングは掲載されていた。創刊号のレコード売上1位は、水原弘の『君こそわが命』(銀座ヤマハ調べ)[1]、ジュークボックスの全国リクエスト1位は同じく『君こそわが命』[1]、ブロマイドの全国売上1位は男性が舟木一夫、女性が吉永小百合[1]。 1967年11月2日付から実験的にオリコンチャートが制作された。正式スタートは1968年1月4日付から。シングルチャート第1回の1位は、黒沢明とロス・プリモスの『ラブユー東京』(ただし、それ以前にジャッキー吉川とブルーコメッツの『北国の二人』が実験的なチャートで2週連続1位を記録しており、「幻の1位」と呼ばれる)、LPチャート第1回の1位は、森進一の『花と涙/森進一のすべて』、CTチャートの第1回の1位は、井上陽水の『二色の独楽』、CDチャートの第1回の1位は中森明菜の『BEST AKINA メモワール』、合算アルバムチャートの第1回の1位はマイケル・ジャクソンの『BAD』。 集計方法 オリコンチャートは、原則毎週月曜からの7日間の集計期間中に、CD・DVD・書籍等の売り上げを集計するものである。日曜日に集計を締め切り、月曜日にはチャートが発表される。(ただし、月曜日に閲覧できるのは法人向け有料サイトであり、閲覧可能者は限られている。チャートの一般公表日は火曜日) ただし、発表される数値は集計サンプルからの推定売上げ枚数である(レコード会社の出荷枚数とも異なる)。 年末年始のみ2週分の合算で集計が行われていたが、2011年1月分以降は各週ごとに集計されている。(なお、2週分合算週の場合、登場回数は2回とカウントする。) 年間チャートの集計期間 各種の年間チャートは、前年の12月第4週日付から12月第3週日付までの期間を対象として集計する。 2005年までは前年の12月第1週日付から11月最終週日付が対象期間だったため、前年の12月に発売される人気作品が年間チャートの上位に入る傾向が顕著だった。[2] なお、2006年の年間チャートは両者の移行期間のため、2005年12月第1週日付から2006年12月第3週日付を対象とし、実質1年1か月間の集計となった。 POSシステム 集計方法は、あらかじめ決められた販売店から売り上げデータを受け取るもの[3]。最初期にはアルバイトを雇い、販売店に電話で売り上げデータを確認していた[4]。その後FAXなどに頼っていた時代を経て、最近では販売店にPOSシステムが普及したこともあり、POSの売り上げデータによってデイリーチャートを集計している。2007年3月より、デイリーチャートでは3位まで指数(2009年3月以降は推定売上枚数)を一般公表している。対象となる販売店は、ここ数年でAmazon.co.jpなどのオンライン店舗やアニメイト・ゲーマーズ・コミックとらのあななどの大手アニメショップも一部は対象に入っているが、それらに含まれない特殊なルートでの販売しかない楽曲にはオリコンチャートにランクインしないものもある。 例として、NEWSのデビューシングル『NEWSニッポン』はセブン-イレブン限定販売だったため、オリコンチャートにランクインしなかった。また、DVDでは、代表的な例として「水曜どうでしょうDVD全集」が挙げられる。これはローソンやオンラインショップのみが販売ルートなので、特殊ルートで販売されたソフトのランクインを認めていた時期には上位にランクインしていたが、この方式が採られてから販売されたタイトルはオリコンに掲載されなかった(「幻の1位」としてあげられることが多い)。なお、2009年から大手コンビニエンスストアが集計対象に加わったため、それ以降発売のタイトルは掲載されている。 累計売り上げ枚数 オリコンチャートによる累計売り上げ枚数と称されるものは、チャート圏内(CDの場合、かつては週間チャート100位以内、2002年12月以降はシングルは週間チャート200位以内、アルバムは週間チャート300位以内)の売り上げのみを単純に加算したものであり、圏外に落ちてからの売り上げは含まれていない。同業他社のプラネット・サウンドスキャンジャパン等は一週間に1枚の売り上げでも累計売り上げ枚数に加算される。 影響度 音楽チャート業界では、日刊レコード特信、ミュージック・ラボ(休刊)→電波新聞、ミュージック・リサーチ(休刊)、プラネット、サウンドスキャンジャパンといった同業他社がいる(いた)ものの、オリコンチャートの影響力は大きく、アメリカの「ビルボード」誌と同様、音楽界での評価指標として真っ先に用いられる。 また、チャートが毎週月曜日から日曜日の集計であることから、CDの納品日の関係上水曜日を発売日に選定するレコード会社が多く出現した[5][6]。これを受けて、HMVでは水曜日の取得ポイントを倍にするサービスを行っている。以前は月曜日が祝日の週は、入荷が先週末になることを避けるため木曜日を発売に設定されたが、現在では水曜発売火曜入荷が可能となっている。こうした流通事情の変化から、近年では一部火曜日を発売日に設定して月曜日を入荷日とする作品もあるが、一般化はしていない。 オリコンチャートが権威をもつようになったのは、オリコン創業者の小池聰行の尽力によるところが大きい。小池は多くの音楽メディアにオリコンチャートを掲載するよう依頼し、知名度を高めてきた[7]。 しかし2000年代後半より、特にシングルCD市場の急激な規模縮小(一方でそれを補う形での音楽配信市場の拡大)[8]に伴い、件数ベースで音楽フル配信の1/4程度、金額ベースで同6割程度まで落ち込んだシングルCDの売上件数表示だけでは、 具体的には、 単品音楽市場の一般的消費の大部分が、(価格の圧倒的安さ・利便性を背景に)音楽フル配信へと移行したため、シングルCDという商品の役割も、配信にマッチしない低・高年齢層需要や、外装に重きを置くコアファン向けなど、補助的・ニッチ的なものへと変質した。そうした中で、特に低年齢層をターゲットとしたシングルCDのキャラクターズアイテム化・おまけ等の高付加価値化や、時にはチャートインそれ自体を目的化したマーケティング[9]も推進されるようになった。その結果、CDランキング上位曲とは言っても、世間一般の認知が薄い(従前、コアファンにのみ愛好されてきた分野の)楽曲が当チャートの上位を占めるに至り、前世紀のような「一般消費者にとって、最も音楽の流行がわかる資料」という意味合いとは必ずしもイコールではなくなりつつある。  送り手(アーティストおよび事業者)の販売戦略による影響。CD限定の作品(音楽フル配信に消極的なジャニーズ事務所系等)が当チャートの上位を占める一方で、シングルCDによらないフル配信中心の戦略を採るアーティストのほうが近年むしろ実需をつかんでいるため、当チャートと音楽配信チャートでは全く別の結果となることも多い。加えて、シングルCDの発売時期がフル配信よりも劣後する場合には(例:Prisoner Of Love)需要期を過ぎた後のCD発売となるため、フル配信ではミリオンヒットでも、オリコンでは年間50 - 90位以下という事例もある。参考に、2009年発売分における日本レコード協会認定の音楽配信ミリオン作品(着うたフル)は5曲存在したが[10]、同オリコン年間ランキングでは全て10位圏外であり、件数で上回る音楽配信チャートとの乖離が顕著となった。 2位以下 - 中位の権威の希薄化。当チャート1位となる一部のトップアイドルが30万 - 100万枚超の週間売上となる一方、2位以下は1 - 2万枚前後の推移が常態化しており[11]、10位で5千枚を切ることもある(ワーストの項に後述)。こうして、チャート上位に入るハードルが下がったことにより、事業者による宣伝色が強まりチャートの信頼性や価値が揺らいでしまうのではないかとの指摘もある。[12] こうした音楽消費動向の大幅な変動もあり、オリコンとしても実態を反映すべく、従来の売り上げ単独のチャートだけでなく<b data-parsoid='{"dsr":[6023,6036,3,3]}'>複合ランキング</b>を新設する旨の方針が2018年1月に新聞報道され[13]、同年8月29日付けリリースにて、「1.CDシングル、2.ダウンロード単曲、3.ダウンロードシングルバンドル、4.ストリーミング」を「換算売上ポイント」で数値化した「週間合算シングルランキング」を同年12月19日から新設することが発表された。[14]ただし、当初報じられていたspotify売上の算入は見送られた。なお、従来形式の枚数チャートを平行運用するかどうかは明示されていない。 集計対象 (正式スタート - 終了) シングルチャート 1968年1月4日付 - 現在 合算シングルチャート 2018年12月24日 - 現在 CDシングルの売り上げ枚数、ダウンロード配信における収録曲単曲または作品をまとめて(バンドル)の購入数、ストリーミング配信における再生数をそれぞれポイント化し、それを合算。 LPチャート 1970年1月5日付 - 1989年11月27日付 CTチャート 1974年12月2日付 - 1995年11月27日付 カートリッジチャート 1974年12月2日付 - 1978年4月24日付 CDチャート 1984年2月6日付 - 1997年4月21日付 アルバムチャート 1987年10月5日付 - 現在 合算アルバムチャート 2018年12月24日 - 現在 CDシングルの売り上げ枚数、ダウンロード配信における作品購入数(バンドルのみ)、ストリーミング配信における再生数をそれぞれポイント化し、それを合算。 MDチャート 1994年ごろ(枚数非公表) ロングヒット・アルバム・カタログチャート 2001年4月2日付 - 現在 発売から2年を経過したアルバムのみのチャート。ただし、ビルボードとは異なり、カタログチャートにランクインされたアルバムが通常のアルバムチャートの集計対象外になることはない。 カラオケチャート 1994年12月26日付 - 現在 カラオケチャートの首位獲得記録はカラオケ#一覧を参照。 レンタルCDシングルチャート 1998年12月7日付(試験的に開始[15]) - 現在 レンタルCDアルバムチャート 1998年12月7日付(試験的に開始[16]) - 現在 トラックスチャート 2004年9月6日付 - 2008年3月31日付 シングル・アルバムの売上やオンエア、着信メロディのダウンロード件数などを総合的に集計し算出した「楽曲」の総合チャート。ビルボードのHOT 100に相当する。 PC音楽配信チャート 2006年10月 - 現在 着うたチャート 2006年10月 - 現在 着うたフルチャート 2006年10月 - 現在  ダウンロードチャートは、当初はネットレイティングスとの業務提携により作成していたが、現在ではレコチョク社作成のものを掲載している。また、グループ内「オリコンスタイルフル」サイトにて別途、自社の配信サービスにおける売上順位を発表している。 デジタルアルバムチャート 2016年11月14日付[17] - 現在 デジタルシングルチャート 2017年12月25日付 - 現在 iTunes Store、mora、mu-mo、music.jp、レコチョク、LINE MUSIC、オリコンミュージックストアの7サービスにおける、シングル作品(単曲)の有料ダウンロード数を集計。 ストリーミングチャート 2018年12月24日付 - 現在 Apple Music、AWA、KKBOX、dミュージック月額コース、LINE MUSIC、レコチョク Bestの6サービスにおける、定額制ストリーミングサービスの有料利用者による再生数を集計。 LDチャート 1984年2月6日付 - 2000年1月31日付 セルビデオチャート 1984年2月6日付 - 2005年5月30日付 DVDチャート 1999年4月5日付 - 現在 Blu-ray Discチャート 2008年7月7日付 - 現在 音楽DVD・BDチャートに関しては、DVD版とBD版とでヒット傾向に大きな差が出ている事から、映像の人気をより明確に可視化できるよう、2013年10月14日付チャートよりDVDとBDの売り上げを合算し一本化したチャートに変更されている[18]。 VHDチャート 1984年2月6日 - 1989年11月27日付 本(書籍総合・コミック・文庫)チャート 1995年2月6日付 - 2001年3月26日付、2008年4月3日付 - 現在 ゲームソフトチャート 1995年2月20日付 - 2005年11月28日付 ニューメディア(SACD・DVD-Audio)チャート 2004年1月 - 2005年ごろ スマートフォンアプリ(iPhone用・Android用)チャート 2010年12月 - 現在 全ジャンル(CD(シングル・アルバム)・コミック・ビデオ・DVD・ゲーム・LD)のランキング 1999年5月24日付 - 2001年4月2日付 ALL MEDIA RANKING BEST30 1999年5月24日付 - 7月12日付 CROSS MEDIA RANKING BEST30 1999年7月19日付 - 2000年2月28日付 レインボーランキング 30(CROSS MEDIA RANKING BEST)2000年3月13日付 - 2001年4月2日付 全ジャンルのランキングは、オリコン誌が合併号となった場合、ランキングが発表されないこともあった(2000年3月3日付など)。 1995年1月16日号では、シングル・アルバムの両方のチャートの掲載がなかった(CD以外のビデオ・LD・視聴率のランキングなどは掲載された)。 合併号の翌週号では、シングル・アルバムのチャートは2週分掲載される。 集計方法の変移 LPチャートについては、販売枚数の減少から1988年12月5日付より50位まで、さらに翌年の1989年6月5日付より20位までの発表となったが、同年の最終週となる1989年11月27日に終了した。LPチャート最後の1位作品は、光GENJIの『Hello…I Love You』。CTチャートも同じ理由で1993年1月11日付より50位までの発表となり、1995年の最終週となる1995年11月27日に終了した。CTチャート最後の1位作品は、藤あや子の『ヒット全曲集'96』。CDチャートは開始当時は30位まで、1985年4月1日付より50位まで、1986年4月7日付より100位までの発表となった。 2001年5月7日付から同内容で型番が異なる媒体が合算されるようになった。(累計売上ではそれ以前から合算されることも多い) 2002年12月2日付からシングルチャート200位、アルバムチャート300位までの売上を集計するようになった。それ以前も101位 - 200位の順位は発表されていた<!--(シングルチャートの場合、洋邦混合の総合チャート(1970? - 1986.3.31付、2001.9.3付 - 現在)、邦楽のみの国内盤チャート(1970? - 2001.8.27付)の順位が発表された。アルバムチャートの場合、1997.4.21付以前は個別チャートの順位が、1997.4.28付以降は合算チャートの順位が発表された)-->が、売上枚数は発表されていなかった。 2002年12月2日付からシングルチャート、アルバムチャートの集計単位が10枚単位から1枚単位に変更された。なお1984年2月6日付 - 1987年4月27日付のCDチャートも1枚単位の集計だった。 2003年2月10日付からは、シングルチャートにおいて過去に8cm盤で発売されたシングルが12cm盤で再発された場合も、すべて合算されるようになった。適用第1号はB'zの『BE THERE』 - 『裸足の女神』の再発。 2003年12月1日付からアルバムチャートに輸入盤の売上が加算されるようになった。それ以前も通常のアルバムチャートとは別個に外資系ショップチャート(1994年1月10日付 - 2001年4月23日付)、輸入盤チャート(2001年4月30日付 - )が集計されていた。 2009年3月2日付デイリー集計データ以降、CDデイリーランキングでの指数表示を推定売上枚数表示とした。 2009年9月1日からイベントにおける売上施策への措置として「一般小売店頭での消化枚数に対し週間で3割、もしくは3,000枚までを上限」とすることとした。 2012年12月5日付からミュージック・カードをシングルの集計対象に算入していたが、2015年4月6日付より不算入とした。(「ランキングの妥当性及び一般的な社会通念に照らして、相当ではないと考えざるを得ない」ためと説明[19]。) 2017年1月20日リリースにおいて、「販売施策イベントに基づく売上」について、算入に一定の制限を行うことを再度表明。[20] 2017年9月8日リリースにおいて、イベント売上について「購入者数×2枚」としていたチャート算入上限を「購入者数×3枚」に上限変更する旨を表明。[21] チャート用語 初動 「初動」とは、発売日からの1週間もしくは発売した日から最初のオリコン結果発表する月曜日までの間の売上のこと。1週目での売上は「初動売上枚数」と呼ばれる。マスコミなどでも「初動売上○万枚を記録」といった言葉で喧伝される。 赤丸 オリコンチャートでは、初登場や売上が伸びている作品を赤字で表記しており、これを「赤丸急上昇」と呼んでいる。これらはチャート順位の浮き沈みで付けられているのではなく、前週よりも多くの枚数を売り上げた作品に付けられるもので、ごくまれにチャート順位が下がっているにも関わらず、この現象が起きることがある。英語では同様の現象を「with a bullet」と呼ぶ。 左ページ 2004年7月まで『Weekly Oricon』(後の『オリ★スタ』)誌ではCDチャートページにおいて、見開き2ページを用いて、左ページの上から下までに1位 - 50位を並べ、右ページの上から下までに51位から100位まで並べていたため、「(『Weekly Oricon』の)左ページ」という言葉がオリコンチャート50位以内を指す隠語として使われていた。新人アーティストなどが新曲が発売される際に、「オリコンの左ページを目指します」と発言することもあった。 フラゲ 「フライングゲット」の略称で、通常CD・DVDなどの作品は水曜日に発売されることが多いが、1日早く入荷されたものを火曜日に入手することを指す。実際、オリコンのデイリーチャートでも火曜日の売上に集計されている。また、フラゲ日にあたる火曜日が祝日の場合は、月曜日に店頭発売されることがあり、この場合はウィークリーチャートの集計期間が月曜日から日曜日までの丸1週間となる。 オリコン アーティストシングル・アルバム総売上 ※2017年6月現在[22][23] 1位 B'z/8233.9万枚 2位 Mr.Children/5953.5万枚 3位 AKB48/5129.8万枚 4位 浜崎あゆみ/5067.5万枚 5位 サザンオールスターズ/4897.0万枚 オリコンシングルチャートの各種記録 シングル各ランキング シングル1位獲得数ランキング (2018年12月31日付現在) シングル連続1位獲得数ランキング (2017年10月30日付現在) ※太字</b>は継続中のアーティスト。 シングルTOP10獲得数ランキング (2017年10月30日付現在) [ ]:コラボレーションを含んだ場合 シングル1位獲得作品 集計期間:1968年1月4日付 - (2018年2月19日付までで、1555作が1位を獲得。) オリコンシングルの売上枚数ベスト20 (2018年11月12日付現在) オリコンシングルの初動売上ベスト20 (2018年6月11日付現在) シングルによる各種の記録 枚数記録 売上最高枚数曲:およげ!たいやきくん(売上枚数:457.7万枚、歌手:子門真人) 最も売れたデビューシングル:女のみち(売上枚数:325.6万枚、歌手:宮史郎とぴんからトリオ) ソロ歌手では:黒ネコのタンゴ(売上枚数:223.6万枚、歌手:皆川おさむ) 初動週間売上最高枚数で首位を獲得した曲:さよならクロール(週間売上枚数:176.3万枚・2013年6月3日付、歌手:AKB48) 初動週間史上最低枚数による後の週で首位を達成した曲:千の風になって(初動週間売上枚数513枚・2006年6月5日チャート付け→週間売上枚数29094枚・2007年1月22日付けチャート1位、歌手:秋川雅史) 最少週間枚数での1位獲得曲:トイレの神様(売上枚数:11327枚、歌手:植村花菜、2011年1月10日付1位) 最少週間枚数での10位以内獲得曲:旅路の果ての…(売上枚数:3364枚、歌手:山本譲二、2011年4月11日付10位) 時間記録 首位獲得最高週数曲:恋の季節(首位獲得週数:17週・1968年9月23日 - 12月9日付、1968年12月23日 - 1969年1月20日、歌手:ピンキーとキラーズ) 首位獲得最高連続週数曲:女のみち(首位獲得連続週数:16週・1972年10月30日付 - 1973年2月12日付 、歌手:宮史郎とぴんからトリオ) 2曲以上での首位獲得最高連続週数曲:2曲(女のブルース・圭子の夢は夜ひらく)(総合首位獲得連続週数:18週・1970年3月30日付 - 7月27日付、歌手:藤圭子) 初のトップ100達成から滞在のまま首位達成まで時間が一番かかった曲:地上の星/ヘッドライト・テールライト(130週・2000年7月31日付 - 2003年1月20日付、歌手:中島みゆき) 発売から首位達成まで時間が一番掛った曲(再発売を含めて):勝手にシンドバッド(1306週・1978年6月25日付 - 2003年7月7日付、歌手:サザンオールスターズ) 同曲による首位再獲得するまでの週数が最も長かった曲:世界に一つだけの花(39週・2003年4月14日付 - 2004年1月12日付、歌手:SMAP) 再発売を含めると(オリジナル盤からリミックス盤):CAN YOU CELEBRATE?(43週・1997年3月10日付 - 1998年1月5日付、歌手:安室奈美恵) 別曲による首位再獲得するまでの年月が最も長かった歌手:小田和正(Oh! Yeah! / ラブ・ストーリーは突然に - こころ)(16年4か月・1991年4月17日付 - 2007年8月27日付) 別曲による10位以内を再獲得するまでの年月が最も長かった歌手:北島三郎(仁義、チャート順位10位) - (夫婦一生、チャート順位10位)(40年5か月・1969年7月21日付 - 2010年1月11日付) トップ10滞在最高週数:北の宿から(35週・1976年5月24日付 - 9月20日付、1976年10月11日付 - 1977年1月31日付、歌手:都はるみ) トップ10連続滞在最高週数:おもいで酒(32週・1979年6月18日付 - 1980年1月21日付、歌手:小林幸子) 2曲以上でのトップ10での連続最高週数:9曲(ペッパー警部 - 透明人間)(総合連続週数:102週・1976年11月29日付 -1978年12月4日付、歌手:ピンク・レディー) 首位獲得最多週数歌手:B'z(64週) ソロ歌手では浜崎あゆみ(51週) 10位内獲得最多週数歌手:サザンオールスターズ(253週) ソロ歌手では山口百恵(239週) トップ100滞在最高週数:地上の星(202週、歌手:中島みゆき) トップ200滞在最高週数:世界に一つだけの花(233週、歌手:SMAP) 発売からミリオン達成まで最も長く時間がかかった曲:WINTER SONG(4年11か月・1994年1月7日発売・1998年12月14日付達成、歌手:DREAMS COME TRUE) デビューから首位達成までに最も長く時間がかかった歌手とその曲:歌手(石原裕次郎・31年0か月)・北の旅人(1987年8月24日付) 没後、最長の期間経過後の首位獲得歌手:(尾崎豊・1年9か月)・OH MY LITTLE GIRL(1994年2月7日付) トップ100位以内獲得連続年数最長作品:クリスマス・イブ(33年(1986年 - 2018年)、歌手:山下達郎) 年齢記録 首位獲得した最年少歌手とその曲:歌手(皆川おさむ・6歳9か月)・黒ネコのタンゴ(1969年11月10日付) 女性メンバーでは:フィンガー5(メンバーの玉元妙子・11歳5か月)・個人授業(1973年12月3日付) 女性ソロでは:歌手(後藤真希・15歳6か月)・愛のバカやろう(2001年4月9日付) 首位獲得した最年長歌手とその曲:Re:Japan(メンバーの花紀京・64歳3か月)・明日があるさ(2001年4月16日付) 女性ソロでは:歌手(秋元順子・61歳7か月)・愛のままで…(2009年1月24日付) 男性ソロでは:歌手(桑田佳祐・62歳11か月)・レッツゴーボウリング(2019年1月14日付) 10位以内を獲得した最年少歌手とその曲(ソロのみ) 男性ソロでは:歌手(皆川おさむ・6歳9か月)・黒ネコのタンゴ(1969年11月10日付でオリコンチャート順位1位) 女性ソロでは:歌手(芦田愛菜・7歳4か月)・ステキな日曜日〜Gyu Gyu グッデイ!〜(2011年11月4日付でオリコンチャート順位4位) 10位以内を獲得した最年長歌手とその曲:左卜全とひまわりキティーズ(メンバーの左卜全・76歳2か月)・老人と子供のポルカ(1970年5月4日付でチャート順位10位) 男性ソロでは:歌手(北島三郎・73歳3か月)・夫婦一生(2010年1月18日付でチャート順位10位) 女性メンバーでは:DREAMS COME TRUE&ONE PIECEの声優陣(メンバーの野沢雅子・71歳4か月)・またね featuring ルフィ、ナミ、ゾロ、ウソップ、サンジ、チョッパー、ロビン、フランキー、ヒルルク、くれは(2008年3月11日付でチャート順位8位) 女性ソロでは:歌手(和田アキ子・68歳1か月)・愛を頑張って(2018年6月4日付でチャート順位2位) デビューで初動週間首位を獲得した平均年齢最年少グループとその曲:Sexy Zone(平均年齢14.4歳)・Sexy Zone(2011年11月28日付) メンバー内では:マリウス葉(11歳7か月) デビューで初動週間首位を獲得した最年少歌手とその曲:Sexy Zone(メンバーのマリウス葉・11歳7か月)・Sexy Zone(2011年11月28日付) 女性メンバーでは:NMB48(メンバーの與儀ケイラ・12歳0か月)・オーマイガー!(2011年10月31日付) 女性ソロでは:歌手(高橋瞳・16歳0か月)・僕たちの行方(2005年4月24日付) 男性ソロでは:歌手(近藤真彦・16歳5か月)・スニーカーぶる〜す(1980年12月22日付) 数記録 各名義を含めて首位を作品別で最多獲得した歌手:稲葉浩志(54作品) B'z:太陽のKomachi Angel(1990年)など(計49作品) 稲葉浩志(ソロ):遠くまで(1998年)など(計5作品) トップ10同時滞在最多歌手:B'z(9作品・2003年3月31日付) トップ100同時滞在最多歌手:サザンオールスターズ(44作品・2005年7月4日付) 年間首位最多歌手:AKB48(9回)(2010年 - 2018年、9年連続) 年間トップ10同時滞在最多歌手:嵐(6作品)(2010年) 年間トップ10最多獲得歌手:AKB48(39作品) ソロ歌手では:中森明菜(13作品) 年間トップからの独占最多歌手:AKB48(1位 - 5位)(2011年・2012年・2014年) 年間10位以内獲得連続最長歌手:嵐(11年)(2007年 - 2017年) 週間首位獲得数最多の海外アーティスト:東方神起(12作品) ソロ歌手では:欧陽菲菲(2作品)・キム・ヒョンジュン(2作品) 連続初登場首位歌手:B'z(48作品・2015年6月22日付) デビュー曲からの連続首位歌手:KinKi Kids(37作品・2016年11月14日付) ソロ歌手では:清水健太郎・薬師丸ひろ子・沢尻エリカ[30](2作品) ソロでの再デビューでは:渡辺美奈代・堂本剛・山下智久(5作品) 最多ミリオン獲得歌手:AKB48(36作品) 連続ミリオン獲得歌手:AKB48(35作品) デビュー曲から連続10位以内を最多歌手:モーニング娘。(51作品・2012年10月26日付) トップ100同時滞在同名曲:心拍数(山崎まさよし、10作品「通常盤、北海道編、東北編、関東編、信越・北陸編、東海編、近畿編、中国編、四国編、九州・沖縄編」、2002年6月10日付、6月17日付の2週連続) グループでは:天使のわけまえ/ピーク果てしなく ソウル限りなく(GLAY、9作品「通常盤、北海道盤、東北盤、北陸盤、関東盤、東海盤、関西盤、中国盤、九州盤」、2004年6月7日付) 1年間で週間1位最多獲得歌手:嵐(6作品・2010年) コラボ等を含む獲得最多歌手:浜崎あゆみ(浜崎あゆみ&KEIKOを含む6作品、2001年)、AKB48(チームドラゴン from AKB48を含む6作品、2010年) 4つの年代(西暦)で首位獲得歌手:中島みゆき(1970年代 - 2000年代)、サザンオールスターズ(1980年代 - 2010年代) 中島みゆき:わかれうた(1977年)、悪女(1981年)、空と君のあいだに(1994年)・旅人のうた(1995年)、地上の星(2003年) サザンオールスターズ:さよならベイビー(1989年)、ネオ・ブラボー!!(1991年)他5作、TSUNAMI(2000年)他8作、ピースとハイライト(2013年)他1作 4つの年代(西暦)で首位獲得歌手:松任谷由実(コラボを含む、1970年代 - 2000年代) あの日にかえりたい(1975年)、今だから(1985年)、愛のWAVE(1992年)・真夏の夜の夢(1993年)・Hello, my friend(1994年)・春よ、来い(1994年)、ミュージック(2007年) ランキング記録 前週から翌週の首位獲得までに最大上昇した曲:THE REVOLUTION(129位→1位、2014年9月22日付→9月29日付、歌手:EXILE TRIBE) トップ20が全て入れ替わった週:2016年3月7日付(つまり前週2月29日付の1~20位曲は、全て21位以下に順位を下げた。) ※但し15位と18位には、前年にチャート入り実績のある『今、話したい誰かがいる』と『コップの中の木漏れ日』を含む。 上位ランクが全て初登場曲で占められた例としては、2016年8月8日付(1~19位までが全て初登場曲)がある。 単独記録 現在もう一度、新たな達成者が現れていない記録 2年連続年間首位を達成した曲:女のみち(歌手:宮史郎とぴんからトリオ)(1972年、1973年) 親子でデビュー初動首位を獲得した歌手 父:岡本健一(男闘呼組のメンバーとして)・DAYBREAK (1988年9月6日付) 子:岡本圭人(Hey! Say! JUMPのメンバーとして)・Ultra Music Power(2007年11月26日付) 初記録 初の初登場1位曲:およげ!たいやきくん(1976年1月12日付、歌手:子門真人) 初の平成生まれで首位を獲得した歌手とその曲:高橋瞳(1989年(平成元年)4月8日生まれ)・僕たちの行方(2005年4月24日付) 男性では:Hey! Say! 7(Hey! Say!・2007年8月13日付) メンバーの高木雄也(1990年(平成2年)3月26日生まれ)、有岡大貴(1991年(平成3年)4月15日生まれ)、山田涼介(1993年(平成5年)5月9日生まれ)、中島裕翔(1993年(平成5年)8月10日生まれ)、知念侑李(1993年(平成5年)11月30日生まれ) 初の首位を獲得したインストゥルメンタル曲:ウラBTTB(1999年6月28日付、演奏者:坂本龍一) 声優史上初のシングル首位を獲得した声優アーティストとその曲:水樹奈々(PHANTOM MINDS・2010年1月25日付) アニメキャラクター名義での歌手史上初のシングル首位を獲得したキャラクターとその曲:放課後ティータイム(GO! GO! MANIAC・2010年5月10日付) 同日付チャートで「Listen!!」も2位に入り、同時にアニメキャラクター名義での歌手史上初の1位・2位独占も達成。 初の週間最高2位以下で年間首位を達成した曲:夢追い酒(渥美二郎・1979年)※その後、1983年「さざんかの宿」(大川栄策)、1987年「命くれない」(瀬川瑛子)、2004年「瞳をとじて」(平井堅)の3例がある。 オリコンアルバムチャートの各種記録 アルバム1位獲得数ランキング (2018年10月15日付現在) アルバム10位内獲得数ランキング (2012年12月現在) アルバム1位獲得作品 集計期間:1970年1月5日付 - (2016年7月4日付までで、1374作が1位を獲得。)※ ※集計期間詳細 1970年1月5日付 - 1986年3月31日付 LP 1986年4月7日付 - 1987年9月28日付 LP&CT(カセット) 1987年10月5日付 - アルバム(合算) アルバム連続1位獲得年数ランキング 2018年12月現在。 オリコンアルバムの売上枚数ベスト20 (2018年11月26日付現在) アルバムに関する各種の記録 枚数記録 売上最高枚数アルバム:First Love(売上枚数:767.2万枚、歌手:宇多田ヒカル) 週間売上最高枚数アルバム:Distance(週間売上枚数:300.3万枚・2001年3月28日付、歌手:宇多田ヒカル) 週間売上最高枚数デビューアルバム:delicious way(週間売上枚数:221.9万枚・2000年7月10日付、歌手:倉木麻衣) アルバム連続ミリオン記録:ZARD(HOLD ME - ZARD BEST 〜Request Memorial〜、9作連続) 最少週間枚数での1位獲得作品:Just LOVE(週間売上枚数:9829枚・2016年8月29日付1位、歌手:西野カナ) 最少週間枚数での10位以内獲得作品:already(週間売上枚数:3850枚・2014年5月19日付10位、歌手:Not yet) 時間記録 首位獲得最高週数アルバム:氷の世界(首位獲得週数:35週、歌手:井上陽水) 1973年12月17日付 - 1974年3月11日付(13週連続)、1974年3月25日付、1974年4月8日付 - 4月22日付(3週連続)、1974年9月2日付 - 9月23日付(4週連続)、1975年2月3日付 - 3月10日付(6週連続)、1975年4月7日付 - 5月19日付(7週連続)、1975年6月2日付 首位獲得最高連続週数アルバム:新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて(首位獲得連続週数:20週・1970年3月30日付 - 1970年8月10日付、歌手:藤圭子) 発売からミリオン達成まで最も時間がかかったアルバム:十七歳の地図(10年3か月・1983年12月1日発売・1994年3月14日付達成、歌手・尾崎豊) 初のトップ100達成から滞在のまま首位達成まで最も時間がかかったアルバム:スリラー(64週・1982年12月20日付 - 1984年3月12日付、歌手:マイケル・ジャクソン) トップ10滞在最高週数:氷の世界(113週、歌手:井上陽水) トップ100滞在最高週数:レット・イット・ビー(327週、歌手:ビートルズ) 没後、最長の期間経過後の首位獲得歌手:ビートルズ(メンバーのジョン・レノン・没後19年11か月)・ザ・ビートルズ1(2000年11月27日付) ソロでは:(hide・没後1年10か月)・hide BEST 〜PSYCHOMMUNITY〜(2000年3月13日付) 年齢記録 最年少で首位を獲得した歌手とそのアルバム:NMB48(メンバーの嶋崎百萌香・12歳0か月)・てっぺんとったんで!(2013年3月11日付) 男性メンバーでは:Sexy Zone(メンバーのマリウス葉・12歳7か月)・One Sexy Zone(2012年11月26日付) 女性ソロでは:伊藤つかさ(14歳8か月)・つかさ(1981年10月12日付) 男性ソロでは:近藤真彦(16歳6か月)・Thank 愛 You(1981年3月23日付) 最年長で首位を獲得した歌手とそのアルバム:小田和正(68歳8か月)・あの日 あの時(2016年5月16日付) 女性ソロでは:松任谷由実(64歳3か月)・ユーミンからの、恋のうた。(2018年4月23日付) 10位以内を獲得した最年少歌手とそのアルバム:芦田愛菜(7歳5か月)・Happy Smile!(2011年12月5日付でオリコンチャート順位/8位) 男性メンバーでは:Sexy Zone(メンバーのマリウス葉・12歳7か月)・One Sexy Zone(2012年11月26日付でオリコンチャート順位/1位) 男性ソロでは:ルネ・シマール(13歳8か月)・ルネ・ファースト・アルバム(1974年10月14日付けでオリコンチャート順位/10位) 10位以内を獲得した最年長歌手とそのアルバム:ザ・ビートルズ(メンバーのリンゴ・スター(78歳4か月)・ ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム) (2018年11月19日付でオリコンチャート順位/6位) 男性ソロでは:ポール・マッカートニー(76歳2か月)・エジプト・ステーション(2018年9月17日付でオリコンチャート順位/6位) 前週に吉田拓郎(72歳5か月)・From T(2018年9月10日付でオリコンチャート順位/10位)が記録したが1週で更新された 女性ソロでは:髙橋真梨子(66歳2か月)・ClaChic -クラシック-(2015年6月8日付でチャート順位/10位) 週間首位を獲得した平均年齢最年少グループとその曲:Sexy Zone(平均年齢15.4歳)・One Sexy Zone(2012年11月26日付) 全年代(年齢)で首位を獲得した歌手:安室奈美恵(10代・20代・30代・40代)(2017年11月14日付) 10代:SWEET 19 BLUESなど 20代:181920など 30代:BEST FICTIONなど 40代:Finallyなど 数記録 首位獲得最多歌手:井上陽水(68週) ミリオンセラーアルバム獲得最多歌手:B'z(19作品) 連続ミリオンセラーアルバム獲得歌手:ZARD(9作品) 年間首位最多歌手:嵐(6回)(2009年・2010年・2011年・2013年・2015年・2016年) トップ100同時滞在最多歌手 AKB48(19作品・2013年1月14日付) スピッツ(19作品・2017年7月17日付) 同一の歌手が1位と2位を独占した回数:TM NETWORK、ポルノグラフィティ、Mr.Children、ゆず(ともに二回ずつ) デビュー作からの連続TOP10入りアーティスト:スガシカオ(14作、2010年5月24日付) 5つの10年代連続で首位を獲得した歌手:松任谷由実(1970年代 - 2010年代) オリジナルアルバムでは:竹内まりや・サザンオールスターズ(1980年代 - 2010年代)、松任谷由実(1970年代 - 1990年代、2010年代)の4つ[31] ランキング記録 翌週の首位獲得から最多上昇したアルバム:storytelling(58位→1位・1997年12月29日付→1998年1月5日付、歌手:華原朋美) 初記録 初の初登場1位アルバム:かぐや姫フォーエバー(1975年3月17日付、歌手:かぐや姫) 初の首位を獲得したサウンドトラック:ビー・ジーズ他(小さな恋のメロディ・1971年9月20日付) 初の首位を獲得したアニメ・サウンドトラック:ささきいさお(宇宙戦艦ヤマト・1977年8月29日 - 1977年10月3日付) 初の首位を獲得した映画キャラクター名義での歌手とそのアルバム:YEN TOWN BAND(MONTAGE・1996年9月30日付、10月7日付) 初の首位を獲得したインディーズ歌手とそのアルバム:モンゴル800(MESSAGE・2002年4月29日付) 初の首位を獲得したアニメの主題歌集:オムニバスアルバム(鋼の錬金術師 COMPLETE BEST・2004年10月25日付) 初の首位を獲得した声優アーティストとそのアルバム:水樹奈々(ULTIMATE DIAMOND・2009年6月15日付) 初の首位を獲得したアニメキャラクター名義での歌手とそのアルバム:放課後ティータイム(放課後ティータイム・2009年8月3日付) 初の1位・2位独占を達成したアニメのアルバム:けものフレンズ(TVアニメ「けものフレンズ」ドラマ&キャラクターソングアルバム「Japari Cafe」、TVアニメ「けものフレンズ」オリジナルサウンドトラック・2017年6月19日付[32]) 初の首位を獲得した音声合成ソフトをボーカルに用いたアルバム:オムニバスアルバム(EXIT TUNES PRESENTS Vocalogenesis feat.初音ミク・2010年5月31日付)[33] 初の親子での年間アルバム首位を獲得した歌手:(親)藤圭子:新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて(1970年)、(子)宇多田ヒカル:First Love(1999年)、Distance(2001年)、DEEP RIVER(2002年)、Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1(2004年) 初めてオリジナル版と再ミックス版の双方で週間1位を獲得したアーティストとそのアルバム:ザ・ビートルズ(ザ・ビートルズ1、オリジナル版・2000年11月27日付、最新ミックス版・2015年11月16日付)[34] オリコン音楽DVDチャートの各種記録 音楽DVDの売上枚数ベスト20 (2018年8月現在) 音楽DVDに関する各種の記録 記録はすべて「オリコン総合DVDチャート」による。「オリコン音楽DVDチャート」の記録は対象外。 枚数記録 売上枚数記録DVD:namie amuro Final Tour 2018 〜Finally〜(売上枚数:94.0万枚、歌手:安室奈美恵) 海外アーティスト売上枚数記録DVD:ライヴ・イン・ブカレスト(売上枚数:30.2万枚、歌手:マイケル・ジャクソン) 初動週間売上最高枚数DVD:ARASHI 10-11 TOUR "Scene"〜君と僕の見ている風景〜 STADIUM(売上枚数:61.8万枚、歌手:嵐) 年齢記録 首位獲得した最年長歌手とそのDVD:浜田省吾(59歳9ヶ月)、ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"(2012年10月1日付) 首位獲得した最年少歌手とそのDVD:Sexy Zone(平均年齢15.2歳)、Sexy Zone アリーナコンサート 2012(2012年8月27日付) 数記録 首位獲得数最多歌手:KinKi Kids(10作品) 連続初登場首位歌手:B'z(8作品) デビューからの連続首位歌手:ABC-Z(3作品) 海外アーティスト最多首位記録:東方神起(4作品) トップ50同時滞在最多歌手:マイケル・ジャクソン(6作品、2009年7月20日付) オリコンチャートへの疑惑 『噂の眞相』1983年7月号の特集「ヒット・チャートに操作あり!の疑惑で揺れる『オリジナル・コンフィデンス』」で、レコード会社の広告出稿量がヒットチャートの順位に反映されていると疑惑が報じられた。記事中、日本音楽事業者協会の水谷淳専務理事(当時)は、1982年秋頃から『オリコン』『ミュージック・リサーチ』『ミュージック・ラボ』の音楽業界誌3誌へのレコード会社の広告出稿を制限していることを明かした。 『サイゾー』2006年4月号の記事「ジャニーズはVIP待遇!?オリコンとジャニーズの蜜月関係」で、オリコンチャートがジャニーズ事務所所属タレントに甘いのではないかと疑惑を報じた。この記事にコメントしたジャーナリストの烏賀陽弘道がオリコンに訴えられ、大きな事件となった(→オリコン・烏賀陽裁判)。 政治ジャーナリストの渡辺正次郎は、2007年に「My News Japan」で受けたインタビュー[35]で、オリコンが1960年代に発行していた業界紙『総合芸能市場調査』のランキング売上枚数データについて「あのランキングだって、ぼくがみんな適当につくったんだから」と語った。ただし、『噂の眞相』1983年8月号で小池聰行は「彼が幹部だったことは一度もないし、創刊にも参画していない」「彼がいっていることは、みんな口から出まかせですよ」と否定している。 脚注 関連項目 オリコン年間ランキング 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%88
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マリリン・モンローと結婚していたことがある野球選手はだれですか?
マリリン・モンロー
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マリリン・モンロー(Marilyn Monroe、1926年6月1日 - 1962年8月5日)は、アメリカ合衆国の女優、モデルである。典型的な「ブロンド・」("Blonde bombshell", 「金髪美女」)」役を演じたことで有名な彼女は、1950年代で最も人気のあるセックスシンボルの1人であり、セクシャリティに対する時代の態度を象徴していた。彼女は1962年にを迎えるまで、わずか10年ほどのだったが、彼女の映画は2億ドルの収入を得た[1]。彼女は引き続き大衆文化のアイコンとみなされている[2]。 ロサンゼルスで生まれ育ったモンローは、幼少期のほとんどを里親と孤児院で過ごし、16歳で結婚した。戦時中、1944年に工場で働いていたが、第1映画部隊の写真家に紹介され、としてキャリアに成功した。その後、20世紀フォックス(1946年 - 47年)とコロンビア映画(1948年)と短期間の映画契約を結んだ。マイナー映画での役割を果たした後、1951年にフォックスと新たな契約を結んだ。次の2年間、彼女は『』と『モンキー・ビジネス』を含むいくつかの喜劇、そして『』『ノックは無用』といったドラマ映画に出演。モンローは、スターになる前にヌード写真を撮っていたことが判明したが、彼女の経歴にダメージを与えることはなく、むしろ彼女の映画に対する関心が高まった。 1953年までに、モンローは、彼女の性的魅力に焦点を当てたノワール『ナイアガラ』と、『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』の3つの映画で主役を演じ、「」("Dumb blonde")というスターイメージを確立。ハリウッドの最も有名なスターの1人となった。彼女は彼女のキャリアを通じてパブリックイメージの創造と管理に重要な役割を果たしてきたが、十分な賃金を支払わないスタジオに不満を抱いていた。彼女は映画プロジェクトを拒否して1954年に一時的に休業したが、彼女のキャリア最大の興行収入を上げた映画の1つ『七年目の浮気』でスターの地位を取り戻した。 スタジオが依然として契約変更を嫌がっていたとき、モンローは1954年後半に映画制作会社を設立した。彼女はそれをマリリン・モンロー・プロダクション(MMP)と名付けた。彼女は1955年に、アクターズ・スタジオでメソッド演技法を学び始めた。1955年後半、フォックスは彼女と新しい契約を結び、彼女に多くの支配権とより多くの給料を与えた。1956年、『バス停留所』は批評家に称賛され、MMP最初の独立企画である『王子と踊子』の演技でゴールデン・グローブ賞主演女優賞の候補となった。1961年公開の『荒馬と女』が遺作となった。 モンローの悩ましい私生活は大きな注目を集め、ハリウッド女優になってから野球のスター選手だったジョー・ディマジオと劇作家のアーサー・ミラーと二度の結婚をしている。一方で、彼女は薬物乱用、うつ病、不安に悩まされていた。1962年8月5日、彼女はロサンゼルスの自宅でバルビタールの過剰投与により36歳で死亡。モンローの死には、陰謀論が提唱されている。 経歴 生い立ち モンローは片親家庭に生まれた。アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医師が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:エドワード・モーテンソン、母:グラディス・モンロー、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンソンと記載されており、彼女の本名がノーマ・ジーン・モーテンソンであることに異論はないが、母と同じアパートに住んでいたスタンリー・ギフォードという男性が本当の父親であるという説もある[3]。両親は1928年に離婚している[4][5]。後年大人になったノーマがギフォードに電話したことがあるが、会うことは拒否されている。なお、母グラディスはノーマが出生後ほどなくして、ノーマの姓をモーテンソンからベイカーへ届出変更をしており[6]、モンローは自己紹介するときは自分の名はノーマ・ジーン・ベイカーだと名乗っている。またモンローは、1956年2月23日ニューヨーク州裁判所から、本名をマリリン・モンローへ変えてよいとの決定を得た[6]。そのため、アーサー・ミラーと結婚したときの本名はマリリン・モンロー・ミラーであった。 ノーマという本名の由来は、映画好きな母グラディスが当時好きだった女優ノーマ・タルマッジからとったとされる。ジーンは1930年代のセックス・シンボル、ジーン・ハーロウに由来する。母グラディス・ベイカー(旧姓モンロー)は「モンロー宣言」で知られるジェームズ・モンロー大統領が先祖であると周囲にもらしていたが、娘のモンロー自身は一笑に付したとされる。 日本語訳されている評伝のなかには、マリリンは孤児だったと記されているが、母親がいたのだから日本語では孤児と呼ぶことは出来ない。これは彼女が孤児院(orphanage)や養子として育てられたために受けた誤解である。またマリリンには父親違いの7つ年上の姉が居る。姉とは女優になってからも気にかけていて、手紙をやりとりし互いに訪ね合うほど親交があった。その姉はマリリンの葬儀に参列している。ジョー・ディマジオと共に葬儀の準備にあたり、マリリンの死装束を選んだのも他ならぬこの姉であった[7]。 マリリンの母親は大手映画製作会社のRKOでフィルムカッターの仕事をしていたが、精神病を患ったため、母親の親友であったグレース・マッキー(後に結婚してGoddard「ゴダード」)がマリリンの保護者になった。マッキーが1935年に結婚した後、モンローはロサンゼルスの孤児院へ、その後伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られ、そのせいか吃音症を患うようになってしまった。当時の大統領の政策で、里親には支給された援助金目当てで子供を引き取る家もあったとされ、モンローもいくつもの家をたらい回しにされるなど大事に扱われたとは言えなかった。 最初の結婚 第二次世界大戦下の1942年、16歳のときに半年で高校を中退しグレース・ゴダードの叔母で母の友人アナ・ロウアーのすすめで、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。ジムはロッキード航空機製造会社に整備工として勤務していたが、その後海軍に徴兵され輸送船団に乗り組むことになった。独りになったノーマは航空機部品工場レイディオ・プレーン社に就職し、自活の道を歩き始めた。 ハリウッドへ 第二次世界大戦末期の1945年の19歳の誕生日を迎えて間もなくのこと、工場で働いていた時に陸軍から取材に派遣された報道部員デビッド・コノバー一等兵に見出され、写真を撮られる。この写真が陸軍の機関誌『ヤンク』に掲載されたことを機にハリウッドへの道をたどることになる。 コノバーにそのネガを見せられた商業写真家のポッター・ヒューズにカバーガールになることをすすめられ、モンローは工場を辞めてハリウッドのモデルクラブ「ブルーブックス・モデルズ・エージェンシー」の専属モデルに応募した。モデルの基礎教程を終えたノーマの初仕事は、ロサンゼルス博覧会場でのイベントコンパニオンであった。 やがて新進の写真家アンドレ・ド・ディーンズと知り合い、モデルとしての才能を発見される。この年、二人で長い撮影旅行に出かけている。ド・ディーンズはマリリン・モンローになる前のノーマ・ジーンの初々しい姿をカメラに収めた。その後、髪をゴールデン・ブロンドに染めたセクシーなピンナップが売りものの雑誌に写真が掲載されるようになる。 女優になる 1946年、20世紀フォックスのスクリーン・テストに合格し「マリリン・モンロー」という芸名で契約を結んだ。マリリンの名は1920年代のブロードウェイの美貌の舞台女優マリリン・ミラーに由来している。なお夫のジムはモデル業に理解を示さず結婚から4年で離婚。 1947年に20世紀フォックスの『嵐の園』という映画に端役で初出演するが、あまりぱっとせずに契約を切られてしまった。しかし、彼女は女優への夢を諦めきれずコロムビア映画に移籍、『コーラスのレディたち』で準主役となる。コロムビア映画とはその映画一本のみで終わってしまったために、その後は再びヌードモデルなどをしながら演技の勉強をし、エージェント(交渉代理業者)を探し続けた。生活が苦しく家賃や車の月賦が払えなかったためにカレンダーのヌードモデルになった(写真家トム・ケリー撮影の『ゴールデン・ドリーム』と呼ばれる作品で有名)。しかしこのことが後にスキャンダルを巻き起こすことになる。 トップスターになる 1951年にエージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演、注目される。以後、数本の映画に脇役で出、1952年の『ノックは無用』で準主役。1953年『ナイアガラ』では不倫相手と夫の殺害を計画する悪女を主演し、腰を振って歩く仕草(モンロー・ウォーク)で世の男性の注目を集める。続く『紳士は金髪がお好き』、『百万長者と結婚する方法』や『七年目の浮気』が大ヒットして一躍トップスターとなった。 1954年1月14日、かつてメジャーリーグベースボールのニューヨーク・ヤンキースに所属し、最も知名度の高いプロ野球選手だったジョー・ディマジオとサンフランシスコ市庁舎で結婚。2月1日、読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねてパンアメリカン航空のボーイング377で日本を訪れ、東京国際空港で大歓迎を受けた。 夫妻は3週間日本に滞在[8][9]。東京、静岡、福岡、広島、大阪とまわり、ディマジオが福岡で松竹と国鉄の選抜選手[8]、広島で広島カープ、大阪で阪神タイガースの野球指導を行った[8][9][10][11]。福岡までは二人は仲睦まじかったが、広島県総合球場でディマジオがカープ選手に打撃指導を行った際、球場には絶対に来てはいけないと念を押していたモンローが同球場を訪れ、ディマジオそっちのけでファンが殺到した[8][10][12]。ディマジオがモンローを叱責したことが離婚の原因ともいわれる[8][10]。 新婚旅行中に朝鮮戦争で駐留していた在韓米軍を慰問してほしいという依頼が舞い込む。暇を持て余していたモンローに断る理由はなかった。行くなと反対するディマジオと喧嘩するようにして韓国へ向かった。モンローはヘリコプターに乗り、ジープや戦車を乗り継いで駐屯地を回り、多くの兵士たちを前にして歌った。 1955年に、関係が悪化していたディマジオと離婚した。結婚生活は9か月しか続かなかった。その後、セックスシンボルを脱したかった彼女は、ニューヨークに移りリー・ストラスバーグが主催するアクターズ・スタジオで演技の指導を受けている。『アンナ・クリスティ』、『欲望という名の電車』を演じ好評を博したことは彼女に自信を取り戻させた。 1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授のラルフ・グリーンソンによる精神分析を受け続けた。また、アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には境界性パーソナリティ障害と診断されたが、正確なところは分からない。この頃流産を経験した。 ケネディ兄弟との不倫 1961年にミラーと離婚したが、この離婚に先立つ1959年頃から、ケネディの妹の夫で俳優のピーター・ローフォードやフランク・シナトラの紹介で、前年に大統領となったジョン・F・ケネディと肉体関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどの多数の証言により明らかにされている[13]。また、ジョンの弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディとも関係があったとも囁かれたことがある[14]。 同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演したクラーク・ゲーブルが撮影終了後に急死したことも重なり、不安定になり再び精神病院に入院。この時、よりを戻した元夫ディマジオが彼女を支えた。翌1962年に、映画『女房は生きていた』の主演になるが、たびたび撮影をすっぽかすため制作はほとんど進まなかった。『女房は生きていた』の主役は結局降ろされた(『女房は生きていた』は、翌1963年にドリス・デイ主演で公開された)。 なおジョン・F・ケネディとモンローとの関係は、ケネディがサム・ジアンカーナらマフィアと関係の深いシナトラを介してモンローと知り合った上に、ジアンカーナが2人の関係を知っており、このことをマフィアの取り締まりを強化しようとしていたケネディ政権に対する取引に使おうとしていたことを憂慮したFBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官が、ロバートに忠告したことでこの年に終焉を迎えた[15]。 しかしながらモンローは、その関係が終焉を迎えた直後の1962年5月19日に、ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンで行われたケネディの45歳の誕生日パーティ(司会はローフォード)に、体の線が露わになったドレス姿で赴き、「ハッピーバースデートゥーユー」を歌い、「いつ引退しても悔いはない」とケネディに言わしめた(ハッピーバースデー・ミスタープレジデントも参照)。 なお、この際にケネディとモンローの性的関係を快く思っていなかったジャクリーン夫人は、誕生日パーティーにモンローが来ると知ってあえて欠席した[16]。なお、ケネディはモンローの死の1年3ヶ月後の翌年11月に凶弾に倒れている。 死と波紋 1962年8月5日、ロサンゼルス郊外のブレントウッドにある自宅の寝室で全裸で死亡している所をメイドが発見した。36歳だった。死の直後、マスコミでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡った。 ドラッグ・オーバードースであるとの声もある[17] 上、「『女房は生きていた』の主役を降ろされたことを悲観して」との根拠に欠ける仮説も唱えられたが、2000年代に入りFOXニュースが20世紀フォックスの倉庫から発見した資料によると、FOX首脳部との会談で、モンローとそりの合わなかった監督を降板させ、モンローを復帰させる契約が交わされていたことが分かった。さらに、「何という行き方!」というミュージカル大作への出演も決まっており、「モンローが配給会社から見捨てられ、失意の中で死んでいった」という仮説は成立しなくなることが分かった。 1980年前後以降は自殺説は影を潜め、モンローの死後間もない時期から存在していた何者かによる謀殺説が根強く叫ばれ続けている。現場からは自殺に使うはずのコップは発見されておらず、またモンローが遺体で発見されたとき、手には受話器が握られていたものの、FBIが押収したモンローが死亡した前日と死亡した夜の電話の通話記録[18] には電話局からは同時刻の通話記録はなく、部屋からはモンローの日記(赤い手帳)が消えていた。そのため電話の通話記録の改ざん・隠蔽を行うことができる政治力の持ち主がモンローの死に関わっていたとする主張がある[19]。「急性バルビツール中毒による体の不調を受けて救急車を自ら呼ぶために受話器を取ったものの、ダイヤルする前にこと切れた」という説もある。 なお、ケネディ大統領と1950年代より不倫関係にあったこと、さらにケネディ大統領の弟であり当時の司法長官だったロバートとも不倫関係にあったことが上記のように死後複数の証言から暴露された[20] 上に、お互いを紹介したのが、ケネディの大統領選挙の際の支援者でマフィアの大ボスのサム・ジアンカーナと関係の深いシナトラであったことや、これらの関係を知ったFBIのジョン・エドガー・フーヴァー長官が、ケネディとモンローのみならず、ケネディとマフィアの関係についても度々忠告していたことが、この謀殺説を後押ししている。またこれらの不倫の事実が死後に公にならないように、モンローが常に会話の内容をメモしていた赤い手帳が表に出るのを避けるために謀殺後に密かに処分したという説もある。 葬儀 葬儀はモンローの死の3日後、8月8日にハリウッドにあるウエストウッド教会にて執り行われた。式はディマジオが取り仕切り、参列者は生前にモンローの世話などをしていたごく一部の関係者など約30名の小規模な葬儀であった。マスコミは一切シャットアウトされ、ハリウッドの映画関係者は1名も呼出しはなかった。 その後、モンローの遺体は故郷へ搬送された。墓所は故郷ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアルパークにある。 モンローを司法解剖した監察医は、トーマス野口こと野口恒富である。 ディマジオは離婚後もモンローを一途に愛し、変わらぬ友情で彼女を支え続けた。モンローの晩年は2人は多くの時間を過ごし、亡くなる数日前には2人が再婚の約束をしていたという双方の関係者からの複数証言が残っている[21][22]。そして、モンローの葬儀時には彼女の遺体を前に「愛している」と声をかけ続け、涙を流したと伝えられている[21][22]。ディマジオは自身が亡くなるまでモンローについてのコメントは控えた。「ある女性誌が、貴方が話してくれたら5万ドル払うと言っているが」と尋ねられた時も「世の中には金にかえられないものがある。それは愛の思い出だ」と即座に答えた。また、モンローの死後20年にわたって週3回、彼女の墓に赤いバラ(品種:アメリカン・ビューティー)を送り続けた[23]。これはディマジオの亡き後もファンクラブなどのボランティアの手で続けられている。1978年のMLBオールスターゲームの日本向け衛星中継で一緒にマイクの前に並んだ伊東一雄は「マリリンほど素晴らしい女性はいなかった…」とディマジオがポツリと漏らしていたのを耳にしている[24]。1999年3月8日に肺がんで亡くなる数日前に友人に語った最期の言葉は「死んだら、マリリンのところへいける」だった[25]。 ゴールデングローブ賞 受賞 1954年 ヘンリエッタ賞: 1960年 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門):『お熱いのがお好き』 1962年 ヘンリエッタ賞: ノミネート 1957年 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門):『バス停留所』 エピソード 最初の夫ジム・ドハティが、ロッキード航空の製造会社で整備工をしていたとき、同僚に、後に俳優になったロバート・ミッチャムがいた[26]。ミッチャムは映画『帰らざる河』でモンローと共演。ドハティがノーマ・ジーンの作った愛妻弁当を職場に持ってきたことがある、とミッチャムは2人の新婚当時の様子を証言している。 陸軍報道部員デビッド・コノバーを取材に派遣した当時の上司は、ロナルド・レーガンであった。後年モンローは、ディナーの席でたまたま隣に座った俳優レーガンと言葉を交わしている[27]。 モンローのデビューにあたり20世紀フォックスは、モンローのプロフィールで年齢を2歳サバを読んで発表していた。そのため映画解説者の淀川長治も、「彼女は34歳で亡くなりました」と、『日曜洋画劇場』の解説で言ったことがある。 グローマンズ・チャイニーズ・シアターの前庭に、『紳士は金髪がお好き』で共演したジェーン・ラッセルと共に、手型・靴型・サインを残したのは、1953年6月26日のことであった。ジェーンがうつぶせになって胸を、モンローが座ってお尻の跡をつけようとのモンローの提案は受け入れられなかった。サインの「Marilyn」の「i」の点にダイヤモンドを使ったらどうかとの提案には、結局模造ダイヤを使うことになったが、観光客が削っていってしまった[28]。 1954年2月1日、新婚旅行で来日したモンローであったが体調をくずしてしまう。予定されていた記者会見も顔見せ程度でキャンセルされ(翌日に延期された)、早々と帝国ホテル2階244号室にひきこもった。長旅で疲労困憊、胃痙攣もおこしていた。医者が呼ばれ、痛み止めの注射をしようとしたがモンローはこれを拒否。それではと治療のために呼ばれたのが、「指圧の心は母心」で有名な浪越徳治郎であった[29]。浪越は全裸のモンローに指圧を施した[30]。指圧のおかげで生気を取り戻したモンローは、ホテルの外で、顔を一目みるまでは帰らないぞと待っている群衆の期待にこたえ、バルコニーから手を振った。 記者の「夜は何を着て寝るのか」との質問に「シャネルの5番よ」と答えたエピソードはあまりにも有名で、後にシャネルのテレビコマーシャルでも使用された。 モンローに戒名をつけた人がいる。1973年8月5日に東京都世田谷区の大吉寺本堂でモンロー13回忌の法要が営まれ、住職で作家の寺内大吉が経をあげ、モンローに「鞠利院不滅美色悶浪大姉(まりりいんふめつびしょくもんろうだいし)」という戒名を捧げた[31]。 モンローが眠る墓所ウエストウッド・メモリアルパークには、モンローと関係のあった人たちも眠っている。モンローの葬儀を取り仕切っていたジョー・ディマジオが、ノーマ・ジーンの育ての親であるグレース・ゴダードとアナ・ロウアーがこの墓地に埋葬されていることを知って、モンローの墓所にこの墓地を選んだといわれている。これを機にこれ以降多くの芸能人の墓所としてこの墓地が選ばれるようになった。 1985年9月23日ロサンゼルス市警は、当時の捜査資料を公表した。この中で、他殺説を裏付ける証拠はなく、ダリル・ゲイツ署長も記者会見で「明らかに自殺といえる」と述べた。この日、公表された捜査資料は全132ページ、厚さにして1cm強。モンローの関係捜査資料は死亡時から約10年間、非公開書類として保管された後、1973年に廃棄されたが、当時の捜査担当官故タッド・ブラウンが個人的にその写しを保管していた。今回の公表資料はそれをコピーしたものという。資料はトーマス・ノグチ・ロサンゼルス郡検視局検視官(当時)による解剖所見のほか、関係者の事情聴取記録やモンローの死亡前後の電話通話記録など。モンローの死については一時、他殺説が流れたことから、同市警も再捜査した。この再捜査記録も今回含まれているが、他殺説を証拠立てる資料は見当たらない、と結論づけた[32]。 イギリスの大衆紙『ピープル』は、1990年7月2日の紙面で、モンローに隠し子がいたと報じた。同紙は1面に「マリリン・モンローに英国育ちの隠された子がいた!」と大見出し、中面の1ページ全体を使ってこの情報を伝えた。同紙によれば、モンローの元恋人で米国人作家のテッド・ジョーダンが出版する著書『マリリン・モンローの秘められた生活』の中で記しているもので、モンローが1947年、21歳のときに生んだ子で、相手は当時交際のあったミュージシャンとのこと。子どもの名はナンシーといい、すぐ養女にだされ、養父が英国人だったため、イギリスのサウサンプトンに移され育てられた。虐待を受けたため17歳で家出。豪州に渡り、南太平洋の島々を転々とし、現在は豪州タスマニア島で、地道に宗教活動をしていて、苦心の末ナンシーに会ったというジョーダンによれば、唇と脚線美は母親そっくりだという[33]。(モンローは、「十代のときに子どもを産んだことがある」と親しかった友人ジーン・カーメンに打ち明けている)[34]。一方で、検死を行ったトーマス野口は、モンローが「出産した痕跡はない」と証言している[35])。 「生まれつき左足が6本指で、手術で治した」という俗説があるが、これは誤りである。詳細は多指症#多指(趾)症の人物の項を参照。 モンローと親交のあった作家トルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』のヒロインは、カポーティがモンローをイメージして書いたものといわれる。しかしオードリー・ヘプバーンを主役に映画化された。 2004年には希少万年筆ブランドとして知られるクローネから、彼女をモチーフとした万年筆『マリリン・モンロー』が世界限定288本、税込808,000円で発売された。 2008年3月31日ロサンゼルス連邦地方裁判所は、マリリン・モンローの写真を使用したTシャツを製造販売した企業と、彼女の遺産管理団体の間で争われていた彼女の肖像権についての裁判で、マリリン・モンローはカリフォルニア州民ではなくニューヨーク州民であり、同州の法律によって1962年の死亡と同時に彼女の肖像権は消滅したと判決を下した。彼女はニューヨーク市内にアパートを所有しており、そこを永住先としていたのが判決の理由となった。なお彼女の出生地であるカリフォルニア州の法律では肖像権は本人の死後100年は残る。その後アメリカの上訴裁判所は、2012年8月末、モンローのパブリシティ権は存在しないとの判決を下した[36]。 モンローの埋葬室の真上の区画が2009年8月24日にオークションにかけられ、一旦は460万2,100ドル(約4億3,000万円)で落札されたが、落札者(日本人)がすぐに辞退を申し出たため、新たにインターネットオークションにかけられたが、入札者なしで、現在も買い手は見つかっていない[37]。2009年時点で、モンローの「上にいる」のは、23年前に81歳で亡くなった実業家リチャード・ポンチャー(Richard Poncher)だが、夫人のエルシー・ポンチャー(Elsie Poncher)が夫を別の区画に移すためオークションに出した。理由は、ビバリーヒルズにある160万ドル(約1億5,000万円)相当の自宅のローンを完済したいからだという。この墓は、実業家として成功していたリチャードが、モンローの夫だったジョー・ディマジオから1954年に買い取ったもので、リチャードはもうひとつ上の区画も購入してあったため、エルシーはそこに夫を移すという。成人向け娯楽雑誌『PLAYBOY』の創始者ヒュー・ヘフナーは「モンローのそばで永眠したい」と1992年に7万5,000ドル(約710万円)でモンローの左真横の区画を購入している。その上の区画もまだ空いており、25万ドル(約2,400万円)で販売中だという[38]。 モンローの胸部を含むエックス線写真3枚が、2010年6月27日、ラスベガスのホテル「プラネット・ハリウッド・リゾート・アンド・カジノ」でオークションにかけられ、胸部エックス線写真は2万5,000ドル、横から写したものなど2枚はそれぞれ1万ドルで落札された。写真はモンローが1954年11月に、カリフォルニア州ロサンゼルスのシーダーズ・オブ・レバノン病院で診察を受けた際に撮影されたもので、担当した医師の夫人が保管していたもの。モンローは当時、子宮内膜症に苦しんでおり、この治療のために通っていた。子宮の状態を検査するため、胸部や骨盤を撮影した際のもの。またこの時期は、夫のジョー・ディマジオと離婚して2週間後の時期でもあった[39] 2011年6月18日ハリウッドスターゆかりの品々を一堂に集めたオークションが、アメリカ・ロサンゼルスで開かれ、映画『七年目の浮気』で地下鉄の通風口の上に立ったモンローのスカートが大きくめくれる有名なシーンで使われた白いホルターネックのドレスが、460万ドル(約3億7,000万円)の高値で落札された。このドレスは女優のデビー・レイノルズが所有していたもので、ドレスの価格は事前予想の180~200万ドルを大きく上回った。他に『紳士は金髪がお好き』の真っ赤なスパンコールのドレスが120万ドル(約9,600万円)、『帰らざる河』の酒場の衣装が51万ドル(約4,000万円)で落札された。 2011年7月15日アメリカ・イリノイ州シカゴの目抜き通りに、高さ約8メートルの巨大マリリン像が出現した。制作したのはアメリカで著名な彫刻家セワード・ジョンソン(アメリカの大企業ジョンソン・エンド・ジョンソンの創業者の孫)。像はその後移設され、現在はカリフォルニア州パームスプリングスに設置されている。 出演作品 歌手として 映画の中で歌ったもの 『Ladies of the Chorus』より Every Baby Needs a Da-Da-Daddy(ベビーにはパパが必要) Anyone Can See I Love You(私の恋はどなたにもお見通し) 『ナイアガラ』より Kiss(キス) 『紳士は金髪がお好き』より Diamonds Are a Girl's Best Friend(ダイヤは女の最良の友) Two Little Girls from Little Rock(リトルロックから来た娘) When Love Goes Wrong(恋にしくじったら) Bye Bye Baby(バイ・バイ・ベイビー) 『帰らざる河』より The River of No Return(帰らざる河) I'm Gonna File My Claim(請求書にためとくわ ※素訳 登記しとくわ) One Silver Dollar(一枚の銀貨) Down in the Meadow(牧場で) 『ショウほど素敵な商売はない』より After You Get What You Want, You Don't Want It(気ままなあなた) Heat Wave(ヒート・ウェーブ) Lazy(もの憂さ) A Man Chases a Girl(男は女を追いかける) 『バス停留所』より That Old Black Magic(恋という魔術) 『お熱いのがお好き』より I'm Through with Love(恋はおしまい) I Wanna Be Loved by You(あなたに愛されたいの) Running Wild(ランニング・ワイルド) 『恋をしましょう』より Let's Make Love(恋をしましょう) Incurably Romantic(とってもロマンティック) Specialization(スペシャリゼイション) My Heart Belongs to Daddy(私の心はパパのもの) その他の歌 Do It Again(ドゥ・イット・アゲイン) A Fine Romance(ファイン・ロマンス) You'd be Surprised(驚かないでね) She Acts Like a Woman Should(女のお手本) Some Like It Hot(お熱いのがお好き) 映画の中ではインストルメント・バージョンが使われていて歌はない。これは同映画公開時にPR用に歌ったもの。 Happy Birthday,Mr.President(ハッピーバースデー・ミスタープレジデント) 1962年5月19日、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたジョン・F・ケネディ大統領誕生パーティで歌ったもの。 関連作品 映画『マリリンとアインシュタイン』(Insignificance、1985、米):監督 ニコラス・ローグ、出演:テレサ・ラッセル、ゲイリー・ビジー、トニー・カーティス 映画『ノーマ・ジーンとマリリン』(Norma Jean and Marilyn、1996、米):監督 ティム・フェイウェル、出演:アシュレイ・ジャッド、ミラ・ソルヴィノ、ジョシュ・チャールズ、ピーター・ドブソン 映画『マリリン 7日間の恋』(My Week with Marilyn、2011、米)監督 サイモン・カーティス、出演:ミシェル・ウィリアムズ、ケネス・ブラナー 映画『マリリン・モンロー 瞳の中の秘密』(Love, Marilyn、2013、米・仏)監督リズ・ガルバス ノンフィクション『マリリン・モンローの真実』(アンソニー・サマーズ) マリリン・モンローの再来といわれている人物 セクシーなブロンド美女が現れるとその人物を「マリリン・モンローの再来」ということがある。 マドンナ(口元のホクロの位置が同じだったためによく言われていた)[40] アンナ・ニコル・スミス(マリリン・モンローの人生そのものに憧れて「マリリン・モンローの様な死に方をしたい」と発言しており、実際に謎の多い最期を迎えている)[41] スカーレット・ヨハンソン[42] エヴァ・ハーツィゴヴァ(『1990年代のマリリン・モンロー』と称された)[43] 脚注・出典 参考文献 亀井俊介 『マリリン・モンロー』 岩波新書、初版1987年7月。ISBN 4004203813 亀井俊介 『アメリカでいちばん美しい人-マリリン・モンローの文化史』 岩波書店、2004年12月。ISBN 400022025X 亀井俊介編 『「セックス・シンボル」から「女神」へ-マリリン・モンローの世界』 昭和堂、2010年1月。ISBN 4812209560、写真多数 アンソニー・サマーズ 『マリリン・モンローの真実 (上下)』 中田耕治訳、扶桑社<扶桑社ミステリー>、1988年7月 『中田耕治コレクション1. マリリン・モンロー論考』、青弓社、1991年 ドナルド・スポト 『マリリン・モンロー最後の真実』 小沢瑞穂・真崎義博訳、光文社 1993年10月。ISBN 4334960707&ISBN 4334960715 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) 田村千穂『マリリン・モンローと原節子』(筑摩選書)、2015年 髙野てるみ『マリリン・モンロー 魅せる女の言葉』PHP文庫、2017年11月、ISBN 978-4569767765 ミシェル・シュネデール『マリリン・モンローの最期を知る男』(長島良三訳)河出書房新社刊 関連項目 向井真理子 - 日本語吹き替えにおけるマリリン・モンローの専属声優 モンロー (小惑星) 外部リンク (in English) on IMDb discography at Discogs at the TCM Movie Database
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勝山城の高さは?
勝山城博物館
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勝山城博物館 (かつやまじょうはくぶつかん) は、福井県勝山市平泉寺町にある天守風建築物の博物館。天守風の建物の高さは57.8mあり、日本一の高さである。姫路城天守に似せたコンクリート製模擬天守であり、二の丸、三の丸、馬出などの曲輪は存在しないが、堀や城門は重厚な造りになっている。石垣には勝山市を流れる九頭竜川と、勝山市から発見される恐竜化石にちなんで9匹の龍が彫り込まれており、通常の城郭建築ではないことを強調している。 江戸時代に勝山市域を治めた勝山藩の勝山城には、天守台は存在したものの最後まで天守が造営されることはなく、その城跡も昭和40年代にはほぼ完全に消滅してしまった。博物館はこういった歴史遺産の記憶を留めるための象徴であり、模擬天守としてではなく、あくまで博物館としての側面が強調されている[1]。 勝山出身の実業家、相互タクシーの創業者である多田清の手により建築され、1992年(平成4年)7月19日に開館した。江戸時代の大名武具や染織品、合戦図屏風、清代の中原地域の民間刺繍、日本の近代書などを収集展示している。現在は公益財団法人多田清文化教育記念財団が博物館を運営している。平成26年度からは、市立の博物館施設を持たない勝山市と連携を結び、収蔵庫の共同利用を行うほか、共催展覧会を開催している[2]。 天守風建物の周囲は数千本の植栽がある日本庭園となっている。毎年4月には館内及びこの日本庭園を利用した大規模な茶会が催されている。 コレクション 川中島合戦図屏風 賤ヶ岳合戦図屏風 中国清代民間刺繍コレクション 西脇呉石書画コレクション 障壁画「日本の四季」今井俊満作 利用情報 休館日 - 水曜日、12月28日 - 12月31日 開館時間 - 9時30分 - 16時30分(入場は16時まで) 交通アクセス JR福井駅からえちぜん鉄道勝山永平寺線で勝山駅下車<br data-parsoid='{"stx":"html","noClose":true,"dsr":[1582,1586,4,null]}'/> 勝山駅からは市内循環バスか「大矢谷」行きバスで「勝山城博物館」下車<br data-parsoid='{"stx":"html","noClose":true,"dsr":[1620,1624,4,null]}'/> 駐車場無料(駐車台数75台) 脚注 参考図書 勝山城博物館 『勝山城博物館館蔵品図録』 勝山城博物館 2002年 勝山城博物館 『西脇呉石乃世界』勝山城博物館、2008年 日本博物館協会 『博物館研究』Vol.50 No.9 日本博物館協会 2015年 林淳 『天爵大神福井をゆく―元尾張藩士水谷忠厚の道路開鑿―』勝山城博物館 2015年 外部リンク on Twitter
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小林一三の父親の職業は何?
小林一三
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小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の実業家、政治家。阪急電鉄・宝塚歌劇団・阪急百貨店・東宝をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。号は<b data-parsoid='{"dsr":[1464,1472,3,3]}'>逸翁、別号に<b data-parsoid='{"dsr":[1476,1486,3,3]}'>靄渓学人、靄渓山人。旧邸雅俗山荘は逸翁美術館。 日露戦争後に大阪に出て、鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、学校法人関西学院等の高等教育機関の沿線誘致など、日本最初の田園都市構想実現と共に、それらを電鉄に連動させ相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げた。 概要 阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道をはじめ、交通、住宅地経営の不動産業、阪急百貨店の小売業、東宝・宝塚歌劇団・阪急ブレーブスの興行業など、阪急東宝グループを成す数多くの事業を興したことで知られる。 小林は「乗客は電車が創造する」との言葉を遺しており、沿線の地域開発により人口が増加し、その住民の需要を満たすことに商機を見出していた。彼が起こした事業は多岐に及ぶがいずれもこの動線を捉えたものであり、これは日本の私鉄経営モデルの祖として後に他が倣うところとなった。また小林は事業に取り組むに当たっては実に細かい点にまで顧客志向の注意と配慮を行っており、商品開発に独特の才覚があったことが著作や評伝から窺われる。 小林は阪急東宝グループの各事業での成功により財界で重きをなすに至り、グループ以外にも東京電燈の経営に参画、日本軽金属の初代社長などを務め、国政で商工大臣、無任所の国務大臣を務めるなど、財界の重鎮としても活躍した。 明治時代には若尾逸平、根津嘉一郎ら山梨県出身の実業家が郷土意識に基づく緩やかな資本提携により経済界や東京府政に影響力を持ち甲州財閥と呼ばれているが、小林は関西を中心に活動した地方財閥と見なされているため、甲州財閥とは区別される[注 1]。 実業界屈指の美術蒐集家、また茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、彼の雅号をとって「逸翁(いつおう)コレクション」と呼ばれている。これらを集めた「逸翁美術館」が、彼の旧邸・雅俗山荘があった大阪府池田市にあり、美術館は以前は雅俗山荘の建物が使用されていた。雅俗山荘は小林一三記念館として一般公開されている。 近代日本料理の創始者とも言われる湯木貞一と親交が深く、彼が開いた料亭吉兆の初期の頃からの客であった。上客でもあったため、当時の料亭内では小林を「神様」と呼んでいた。 来歴・人物 thumbnail|200px|小林一三像(花の道) thumbnail|200px|小林一三像(宝塚大劇場) 山梨県巨摩郡河原部村(北巨摩郡韮崎町を経て、現在の韮崎市)の商家に生まれた。生まれてすぐ母が死去、父とも生き別れたため、おじ夫婦に引き取られた[1]。 高等小学校から東八代郡南八代村(笛吹市八代町南)の加賀美平八郎が経営する私塾・成器舎[注 2] を経て後に上京し、1888年(明治21年)2月に福澤諭吉が塾長の慶應義塾に入る。その日から塾の構内にある、塾監・益田英次の家に寄宿。在学中には山梨日日新聞において小説「練絲痕(れんしこん)」を連載している[2]。 そして、明治25年(1892年)慶應義塾正科(現在の慶應義塾大学)卒業後の1892年(明治25年)には三井銀行(三井住友銀行の前身)に勤務。34歳まで勤め、東京本店調査課主任にまで昇進した。日露戦争終結後、三井物産の大物である飯田義一や、かつての上司で北浜銀行(三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ)を設立した岩下清周に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する証券会社の支配人になるために1907年(明治40年)、大阪へ赴任[3]。 しかし、恐慌に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えてしまい、妻子を抱えて早速失業することになった。その頃に小林は箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業の同社には有望性があるとして、岩下を説得し北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功。1907年(明治40年)6月に「箕面有馬電気軌道」と社名を改めて同年10月に設立されると、小林は同社の専務となった[4]。 もともと阪急電鉄の前身となる箕面有馬電気軌道は、鉄道国有法によって国有化された阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)の関係者が福知山線に並行する電気鉄道路線を敷設し、大阪の梅田から箕面・宝塚・有馬方面へ頻発運転を行うことを目的として設立されようとしていたが、恐慌に見舞われて全株式の半分も引き受け手がないといった苦境に追い込まれていた[5]。 しかし社長は不在であったため、小林が経営の実権を握ることになった[6]。そして1910年(明治43年)に開業しているが、有馬までの開業ではなく、現在の宝塚本線・箕面線に相当する区間にとどまっている[7][注 3]。これに先立って線路通過予定地の沿線土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、1910年(明治43年)に分譲を開始した。小林には、この時すでに「大衆向け」住宅の発想があったのか、サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった割賦販売による分譲販売を行い成功を収めた。 同年11月には箕面に動物園、翌年には宝塚に大浴場「宝塚新温泉」(宝塚温泉の武庫川対岸であったことからの命名)、そして1914年(大正3年)4月には、当時人気を得ていた三越の少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊、後の宝塚歌劇団を創り上げ、沿線を阪急グループの聖地といわせるほどに発展させていく[8]。 沿線開発は、そのまま乗客の増加につながり、続いて神戸方面への路線開業に動き出すのを機に、会社名を阪神急行電鉄と改め(「阪急」の略称はこの時より始まる)、神戸本線などを建設し、大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図った。これらの経営が現在の阪急を創り上げる支えとなった。1927年(昭和2年)に小林は社長に就任した[9]。 また1920年(大正9年)には、日本ではじめてのターミナル・デパートを設ける計画をすすめる。路線の起点となる梅田駅にビルを建設し、1階に東京から白木屋を誘致し開店、2階に阪急直営食堂を入れた。次いで「阪急マーケット」と称した日用品販売店を2・3階に入れ、1929年(昭和4年)3月にはついに「阪急百貨店」という直営百貨店を、新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させた[10]。 鉄道会社が直営で百貨店を経営するなどといった事例は日本国外にもなく、その前途に疑問を持つものも少なくなかったが、小林は「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」、「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まるはず」などと言って事業を推し進め、世界恐慌のさなか多くの客を集めることに成功する。 さらに、客のことを考えた事業姿勢があったといわれ、阪急百貨店における「ソーライス」の逸話などが、現在にも伝わっている。なお、阪急百貨店は1947年に分離独立し直営ではなくなったが、以後も文化的なつながりを保ち、ブランドとも言える「阪急」のイメージを確立し続けている。 この百貨店事業の成功は、1929年(昭和4年)に六甲山ホテルの建設・開業といったホテル事業など派生事業の拡充、1932年(昭和7年)の東京宝塚劇場、1937年(昭和12年)の東宝映画の設立(1943年に両者は合併し、現在の「東宝」となった)といった興業・娯楽事業、1938年(昭和13年)の第一ホテル(東京・新橋)の開設とさらなる弾みを付ける契機となり、阪急東宝グループの規模は年々拡大の一途を辿った。 ここであまり知られていないが、小林は東京急行電鉄の始祖である田園都市株式会社[11] を実質的に経営していた。1918年(大正7年)に渋沢栄一らが創設し、田園調布[12] を開発した事でも名高い田園都市株式会社の経営を小林は、名前を出さず、報酬も受け取らず、日曜日のみ、という約束で引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めたという[13][14]。 つまり、田園都市株式会社から鉄道部門を分離した目黒蒲田電鉄、及びその姉妹会社である東京横浜電鉄は、五島慶太に経営を引き継いだ後、小林の手法を用い東横線沿線に、娯楽施設やデパートを作ったのである[15]。 その一方で、日本で3番目のプロ野球球団である宝塚運動協会(1929年解散)のように、先進が過ぎて失敗した事業もある。しかし小林の野球への情熱は深く、1934年(昭和9年)に大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)が、翌1935年(昭和10年)に大阪タイガースが、1936年(昭和11年)に名古屋軍が結成されるなど企業による球団設立が相次ぐと、小林は同じ年に「大阪阪急野球協会」を設立した。これが阪急職業野球団、のちの阪急ブレーブスである[注 4]。小林が遺した娯楽事業は数多くあるが、小林は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスだけは売るな」と言い残したと言われている[注 5]。 これらの施策は多くの私鉄に影響を与え、その中でも目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)の総帥五島慶太、駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)・多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)・近江鉄道の堤康次郎は、小林の影響を強く受けている。 1934年(昭和9年)阪急社長を辞任後、同社グループの会長に就任し(1936年辞任)、さらに東京電燈に招かれて副社長・社長を歴任。電力戦で設備が余剰気味になり放漫経営に陥っていた東京電燈の経営を立て直し、財団法人東電電気実験所(現在の公益法人東電記念財団、東電記念科学技術研究所)、昭和肥料(現在の昭和電工)の設立にも関わった。また一時期、大谷竹次郎が東宝の社外取締役になったのと引き替えに松竹の社外取締役に就任していた。 小林は近衛文麿に接近し、第2次近衛内閣で商工大臣となった。近衛は当初岸信介を商工大臣に考えていたが、岸は財界の人間を大臣として自らは次官にとどまることを希望したため小林が大臣となった。しかし統制経済もしくは計画経済論者の革新官僚の代表格である岸と資本主義的財界人である小林は強く対立し、小林は岸をアカであると批判した。企画院事件で企画院の革新官僚ら数人が共産主義者として逮捕されると岸は辞職せざるをえなくなる。しかし岸は軍部と結託し、小林が軍事機密を漏洩したとして反撃、小林も辞職、雑誌に『大臣落第記』を寄稿した[16]。 終戦後は幣原内閣で国務大臣を務めたが、第2次近衛内閣で商工大臣だったことで公職追放となった。1951年(昭和26年)に追放解除となった後は東宝の社長になるが、1957年(昭和32年)1月25日、大阪府池田市の自邸にて急性心臓性喘息で死去した。84歳没。晩年は慶應義塾評議員も務めた。 私鉄主導による沿線開発を提言した小林であったが、当時から経営の自主性の不在など問題点が指摘されていた日本国有鉄道(国鉄)に関しても、すでにこの段階で「民営にすれば開発事業も可能で、資金調達も自由に行え、創意と責任のもと積極的な経営ができる」と民営化すべきとの発言を行うなど、生涯、論客としても知られた[注 6]。 「われ関せず」 親友で同じ慶應出身者であり、東京電燈とも関係がある「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門によると、小林の性格は「腹が決まってからのことには、何事も動じない」というものだった。また、自分に直接関知しないことには無関心であったとも言われている。 1930年代、福澤諭吉が作った時事新報が経営危機に陥った際、慶應卒業生の有力者が挙って時事新報を救うために出資や負債の引き受けなどを行った。鐘紡元社長の武藤山治や松永もその一人であり、松永は小林に時事新報救済のための協力を要請したところ、小林は「慶應と縁があっても私と縁のない時事新報にわざわざ金を出すのか?」とばかりに拒絶。松永こそ苦笑で済ませたものの、他の慶應OBから批判が殺到した。小林は時事新報の先行きがどう転んでも好転しないことを見通していたと言われ、先行きのない企業に投資は出来ないと言うことで拒絶したのだったが、そうと理解する慶應OBは少なかった。事実、時事新報は1936年(昭和11年)に東京日日新聞と合同した。 宝塚少女歌劇の担当作品 9景 少女歌劇、pp.243,254,264,280。より 『紅葉狩』(1914年) 『兎の春』『雛祭』『御田植』『日本武尊』(1915年) 『竹取物語』『松風村雨』『夕陽ヶ丘』『ダマスクスの三人娘』(1916年) 『案山子』『桃色鸚鵡』『大江山』『リザール博士』『夜の巷』(1917年) 『厩戸王子』『一寸法師』『クレオパトラ』『江の島物語』『青葉の笛』『出征軍』(1918年) 『戀に破れたるサムライ』(1937年) 家族・一族 長男・冨佐雄 1901年(明治34年)1月に生まれ、東宝代表取締役社長を務めた。1957年(昭和32年)10月死去。尾崎紅葉・泉鏡花・永井荷風ら近代文学の書物収集が趣味で、コレクションが池田文庫の「小林家文庫」に収蔵されている。 次男・辰郎 卒業と同時に松岡家に養子入りし、義理の父が松岡汽船創業者で呉羽紡績役員発起人の松岡潤吉となる。後に東宝代表取締役社長を務めた。1974年(昭和49年)8月死去。辰郎の子が現在の東宝会長・松岡功で、その息子で一三の曾孫にあたるのが、元プロテニスプレイヤーの松岡修造で、その娘(玄孫)が、宝塚音楽学校に105期生として合格した。 三男・米三 京都帝国大学卒。京阪神急行電鉄(1973年までの阪急電鉄の社名)社長を務めたが、在職のまま1969年(昭和44年)2月に死去した。阪急電鉄元会長・社長・名誉顧問、宝塚音楽学校名誉校長を務めた小林公平(2010年5月死去)は、辰郎の長女で米三の養子となった小林喜美の夫で、戦前からの三菱グループ幹部の家系であった三村家から小林家に婿入りした。また、公平の長男が元・宝塚歌劇団理事長の小林公一である。 次女・春子 サントリー創業者鳥井信治郎の長男・吉太郎に嫁ぐが、吉太郎は33歳で亡くなる。息子に3代目サントリー社長・鳥井信一郎がいる。 親戚 小林の異母弟には山梨県選出の衆議院議員で「カミソリ」と謳われた田邊七六、興行界のドンとして関八州の顔役達を膝下に置いた田邊宗英(日本ボクシングコミッションの初代コミッショナー。後楽園スタヂアム社長)がいる。宗英の後に後楽園スタヂアム社長、ボクシングコミッショナーを務めた真鍋八千代は一三と田邊兄弟の義従弟にあたる。なお、宗英と一三は同じ一三の死後11年目となる1968年に兄弟揃って野球殿堂入りをしている。田邊兄弟、真鍋八千代は読売新聞社社主の正力松太郎と関係が深かったとされ、戦前から戦後にかけて噂も多い。 姪は日夏耿之介のいとこ(叔父の長男)の樋口正美に嫁いだ。 著作 『小林一三全集』全7巻、ダイヤモンド社、1961-62 『歌劇十曲』玄文社 1917 『日本歌劇概論』寳塚叢書 宝塚少女歌劇団出版部 1923 『奈良のはたごや 随筆感想集』岡倉書房 1933 『私の行き方』斗南書院 1935 新版『私の行き方』創業者を読む:大和出版 1992。阪急コミュニケーションズ 2000。PHP文庫 2006 『産業は国営にすべきか』今日の問題社 組合せパンフレツト 1936 『次に来るもの』斗南書院 1936/阪急コミュニケーションズ 1999 『私の見たソビエット・ロシヤ』東寳書店 1936 『戰時國債發行解決案 五十億圓?百億圓?』ダイヤモンド社 1937 『努力すれば偉くなれる 欧米の教育と日本の教育!』今日の問題社 1937 『日本はどうなる? 天佑!北支事変』ニユウ・トピック社 1937 『北支経済は如何に建設すべきか 附・戦時国債は五十億か、百億か』今日の問題社 1937 『戦後はどうなるか』青年書房 1938 『事変はどう片づくか』実業之日本社 1939 『電力問題はどうしたらばうまくゆくか』電気日日新聞社 1940 『蘭印を斯く見たり』斗南書院 1941 『芝居ざんげ』三田文学出版部 1942 『曾根崎艶話』芙蓉書房 1948/展望社 2016 『逸翁らく書』梅田書房 1949 『新茶道』文藝春秋新社 1952/熊倉功夫解説 講談社・シリーズ茶の湯 1986 『私の人生観』要書房 1952 『逸翁自叙伝』産業経済新聞社 1953 新版『逸翁自叙伝』経済人叢書:図書出版社 1990。人間の記録:日本図書センター 1997。阪急コミュニケーションズ 2000。 『逸翁自叙伝 阪急創業者・小林一三の回想』講談社学術文庫 2016 『小林一三対談十二題』実業之日本社 1953 『私の見たアメリカ・ヨーロッパ』要書房 1953 『私の事業観』要書房 1954 『宝塚漫筆』実業之日本社 1955。阪急電鉄 1980 『小林一三翁の追想』小林一三翁追想録編纂委員会 1961 『逸翁鶏鳴集 日記抄・拾遺』逸翁美術館 1963 『大乗茶道記』逸翁美術館編 浪速社 1976 『小林一三日記』阪急電鉄 1991 『おもひつ記』阪急コミュニケーションズ 2008。戦後の演劇記 関連書籍 三宅晴輝『小林一三伝』東洋書館 日本財界人物伝全集 1954 清水雅『小林一三翁に教えられるもの』梅田書房 1957 同『夢のたわごと』梅田書房 1966 『小林一三翁の追想』小林一三翁追想録編纂委員会 1961 邱永漢『財界の鉱脈 小林一三と大屋晋三』南北社 1964 同『日本で最もユニークな経営者小林一三伝』日本経済新聞社 1983 岩堀安三『偉才小林一三の商法 その大衆志向のレジャー経営手法』評言社 1972 国頭義正『原点の商法 トヨタ・松下も実践している小林流経営哲学』ごま書房 ゴマブックス 1978 片山又一郎『小林一三と松下幸之助 強運の"事業家"その経営哲学』評言社 1979 三神良三『アイデア商法の天才小林一三に学ぶ』実業之日本社 1981 同『小林一三・独創の経営 常識を打ち破った男の全研究』PHP研究所 1983 同『いまの人は商売を知らない 「阪急」の創始者小林一三の発想』経済界 1988 丸尾長顕『回想小林一三 素顔の人間像』山猫書房 1981 小島直記『鬼才縦横 小林一三の生涯』PHP研究所 1983、PHP文庫 1986、日経ビジネス人文庫 2012 阪田寛夫『わが小林一三 清く正しく美しく』河出書房新社 1983、河出文庫 1991 大原由紀夫『小林一三の昭和演劇史』演劇出版社 1987 小堺昭三『天才実業家小林一三・価千金の言葉』ロングセラーズ 1988、同新書 2017 津金沢聡広『宝塚戦略 小林一三の生活文化論』講談社現代新書 1991、吉川弘文館<読みなおす日本史> 2018 宮徹『小林一三夢なき経済に明日はない 阪急・東宝グループ創始者』Wave出版 1995 同『DREAMER 阪急・宝塚を創り、日本に夢の花を咲かせた男』WAVE出版 2014 逸翁美術館編 岡田彰子監修『茶の湯文化と小林一三』逸翁美術館 2009 北康利『小林一三 時代の十歩先が見えた男』PHP研究所 2014 伊井春樹『小林一三の知的冒険 宝塚歌劇を生み出した男』本阿弥書店 2015 同『小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか』ミネルヴァ書房 2017 老川慶喜『小林一三 都市型第三次産業の先駆的創造者』PHP研究所<日本の企業家> 2017 鹿島茂『小林一三 日本が生んだ偉大なる経営イノベーター』中央公論新社 2018 『別冊宝島 宝塚を作った男 小林一三の一生』宝島社、2016。ISBN 978-4800252555 脚注 注釈 出典 出典・参考文献 Text "和書" ignored (help); Check date values in: |year= (help) Text "和書" ignored (help) 演じた俳優 阿部サダヲ・経世済民の男第二部 2015年9月5日 - 9月12日 関連項目 川崎千春 宝塚歌劇団 阪神間モダニズム 高級邸宅街 西宮七園 逸翁美術館 田園調布 西武グループ セゾングループ 東急グループ 日蘭会商 西宮競輪場 経世済民の男 小林一三 - 2015年放送のNHK放送開始90周年記念ドラマシリーズ「経世済民の男」。大阪放送局制作の第2部で小林一三を取り上げた(第1部は高橋是清、第3部は松永安左エ門)。小林役は阿部サダヲが担当。(2015年9月5日(前編)と12日(後編)の2回で放送)url=<>。 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%B8%80%E4%B8%89
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ビルバオ・グッゲンハイム美術館は彫刻も所有する?
ビルバオ・グッゲンハイム美術館
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ビルバオ・グッゲンハイム美術館(Spanish: Museo Guggenheim Bilbao, Basque: Guggenheim Bilbao Museoa, English: Guggenheim Museum Bilbao)は、スペイン・ビルバオにある美術館。近現代美術が専門であり、1997年10月18日に開館した。アメリカのソロモン・R・グッゲンハイム財団が設立したグッゲンハイム美術館の分館のひとつであり、建築家のフランク・ゲーリーが設計を担当した[1]。 ビルバオ市中心部のアバンド地区にあり、ビルバオ市内を流れるネルビオン川に隣接している。国内外の作家による常設展示や特別展示が行われている。ビルバオ・グッゲンハイム美術館の建物は現代建築でもっとも称賛される作品のひとつであり、「この建物についての評価で批評家・学者・公衆が完全に一体となる稀な瞬間」があるとして、「建築文化における注目に値する瞬間」(signal moment in the architectural culture)として称えられている[2]。2010年に世界建築調査機関が建築家に対して行った調査では、1980年以降の30年間でもっとも重要な建築物のひとつとして頻繁に名前を挙げられる[2]。 歴史 1991年、バスク州政府はソロモン・R・グッゲンハイム財団に対して、ビルバオの老朽化した港湾地区にグッゲンハイム美術館を建設することを提案した[3][4][5]。バスク州政府は1億USドルの建設費用を負担すること、5,000万USドルを作品の新規購入費用に充てること、グッゲンハイム財団に対して展示会1回あたり2,000万USドルを支払うこと、美術館の年間予算1,200万USドルを補助することなどを承諾した。これらの代わりにグッゲンハイム財団は美術館を管理し、財団が所蔵する作品の一部を回して特別展を開催することを承諾した[6]。グッゲンハイム財団は世界分館構想を持ち、ニューヨークのグッゲンハイム美術館、ヴェネツィアのペギー・グッゲンハイム・コレクションのほか、グッゲンハイム・ラスベガス、ドイツ・グッゲンハイム・ベルリンなど、世界各地に美術館を持つ拡大路線を志向している。 クライアントのグッゲンハイム財団は、誰も見たことがないようなユニークなデザインとソロモン・R・グッゲンハイム美術館(ニューヨーク)の吹き抜け空間のような劇的な効果を美術館に求めた[7]。建築家を選出するコンペはドイツのフランクフルト・アム・マインで少人数によって行われ、スペインで人気があった[8]日本人建築家の磯崎新、オーストリアの設計会社ヒンメルブラウ、数年前にプリツカー賞を受賞していたアメリカ人建築家のフランク・ゲーリーなどが参加した[9]。最終的にコンペを勝ち抜いたのはゲーリーだったが、ゲーリーが美術館を設計するのは初めてだった[9]。ゲーリーは1993年初頭にデザインを提出し、10月22日に起工式が行われた[10]。 建物はフェロビアル社によって建設され[11]、1997年秋に落成式が行われた[12]。建設費用は8,900万USドルだった[13]。建物は日程面でも予算面でも予定通りに建設され、この種の建築物の中では稀な部類である。KLMオランダ航空は建築費として100万USドルを寄付した。1997年10月17日、正式開館日の前夜に屋外で行われたプレオープンイベントには5,000人のビルバオ市民が出席し、ライトショーやコンサートなどを楽しんだ。10月18日、フアン・カルロス1世によって開館が宣言された[5]。グッゲンハイム美術館の設計などが評価され、ゲーリーは1998年に第1回フレデリック・キースラー建築芸術賞を受賞した。 建物 建物の構造 ソロモン・R・グッゲンハイム財団はアメリカ人建築家のフランク・ゲーリーを建物の設計に、トーマス・クレンスを美術館のディレクターに選出し、大胆かつ革新的な美術館であることを求めた[14]。建物外壁の曲面は無規則性が意図され、ゲーリーは「曲面の無規則性が光を集めるように設計した」と述べた[15]。戦闘機の設計などに使用されるCADシステムを用いて構造計算されるなど、時代の最先端の技術を利用して設計されている。内部は大規模で明るいアトリウムを中心に設計され、アトリウムからはビルバオ河口とビルバオ周辺の山地が見渡せる[16]。美術館の中央部をまとめている形状から、ゲーリーはこのアトリウムをフラワー(The Flower)と名付けた[6]。 建物の評価 1997年に美術館が開館すると、ゲーリー本人が建築上の運動と自分自身を関連付けているわけではないが[17]、すぐに脱構築主義建築(デコンストラクティビズム)でもっとも壮観な建築物のひとつ、20世紀の傑作として称賛を集めた[18]。建築家のフィリップ・ジョンソンは「我々の時代で最高の建築物」と表現し[19]、 評論家のカルヴァン・トムキンスは「ザ・ニューヨーカー」で、魚の鱗を連想させてきらきらと反射するパネルについて、「チタニウムの外套をまとい、うねるような形状の、幻想的な夢の船」と表現した[18]。建築批評家のハーバート・ムシャンプは「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」で「機転を利かせる才気」(mercurial brilliance)と称賛した[20]。インデペンデント紙は美術館を「驚くべき建築の偉業」と呼んだ[16]。この美術館に触発された似たようなデザインの建築物には、アメリカ・カリフォルニア州にあるセリトス・ミレニアム図書館などがある。 美術館はネルビオン川に沿った旧工業地区の32,500m2の面積に建てられ、石、ガラス、チタニウムによって構成された美術館の建物は市街地の文脈に違和感なく溶け込んでいる。通りから見ると地味だが、川沿いから見ると印象的である[3][20]。11,000 m2が展示空間であり、ニューヨークやヴェネツィアのグッゲンハイム美術館よりも大きな展示空間を持つ[5]。19の展示室のうち10の展示室は壁が直行した古典的な長方形の形状であり、石材の磨き方によって他と区別することができる。残りの9の展示室は不規則な形状であり、その有機的な渦巻形状やチタニウムの板材の貼り方で他と区別することができる。最大の展示室は幅30m×長さ130mである[4][20]。2005年にはリチャード・セラの記念碑的なインスタレーション展示「The Matter of Time」が開催され、美術批評家のロバート・ヒューズは「勇敢で崇高」と評した[21]。 展示 グッゲンハイム財団の現代美術コレクションの中から選ばれた作品に加え、長さ102メートルにも及ぶリチャード・セラの『Snake』(蛇)など、サイト・スペシフィックな(場所特定的な)大規模な作品や現代芸術家のインスタレーションや、バスク人芸術家の作品などを特徴としている[16]。1997年の開館時には、キュビズムから新しいメディアアートまでの20世紀の300作品を概観する企画展示を行った。多くの作品はグッゲンハイムの所蔵作品だが、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、クリフォード・スティルなどの絵画を新規購入し、フランチェスコ・クレメンテ、アンゼルム・キーファー、ジェニー・ホルツァー、リチャード・セラなどには新作の製作を依頼した[6]。 常設展示作品は何度か変更されており、特別展以外の期間中は中国芸術やロシア芸術などのテーマ展示を開催している。伝統的な絵画や彫刻はインスタレーションや電子媒体による展示に比べて少数派である。収蔵作品や常設展示の主役はリチャード・セラの『The Matter of Time』や耐候性鋼による彫刻作品群などであり、長さ130メートルのアルセロール・ギャラリー[22]内に展示されている[23]。常設展示作品の約3割がバスク人芸術家の作品だが、その多くは活動拠点を北アメリカに置いている芸術家である[24]。収蔵作品は前衛芸術、20世紀の抽象芸術、非具象芸術的な面が強調されている。2011年には、美術館の理事であるギリシャの実業家ディミトリス・ダスカロプーロスが所有する作品で『The Luminous Interval』という特別展示を開催したが、美術館の大規模支援者に対して作品選択などキュレーション上の権力を与えすぎているとして批判を呼んだ[25]。2012年に行われたデイヴィッド・ホックニーの特別展は29万人の来館者を集めた。 ジェフ・クーンズ - 『パピー』 経済とメディアへの影響 ビルバオはスペイン屈指の工業都市だったが、1990年代以降に産業が衰退した。美術館はビルバオの経済活性化の一環として開館した[26]。その開館後すぐに人気観光地となり、世界中から観光客を集めた[17]。多数の来館者を集める美術館の開館によってアバンドイバラ地区全体の整備が進み、リカルド・ビルチスが設計したメリア・ビルバオ(ホテル)や、ロベルト・ステルンが設計したスビアルテ・ショッピングモールなどが建設された[27]。周辺のレストランは食事内容や営業時間で観光客の便宜を図るようになり、それまでは休業することが多かった土曜日午後や日曜日に営業するようになったショップが増えた[27]。美術館の開館は観光客の増加という直接の経済効果だけでなく、バスク地方全体の象徴となり都市のイメージアップにもつながったため、「グッゲンハイム効果」または「ビルバオ効果」という言葉が生まれた[28]。最初の3年間に400万人を集め、約5億ユーロの経済効果を得たとされる。バスク州政府は、観光客がホテル、レストラン、ショップ、交通機関に落とす金額は1億ユーロに上り、支払った建設費用を上回っていると見積もっている[29]。しかしこの一方で、「-効果」という用語はジェントリフィケーションや文化的帝国主義の象徴として美術館を非難するためにも使用されている[30]。 作品中の登場 1999年の映画『007 ワールド・イズ・ノット・イナフ』ではビルバオの市街地が舞台となり、冒頭で美術館が登場している。2007年のタミル映画『Sivaji: The Boss』では美術館でStyleという歌が歌われる[31]。ハイプ・ウィリアムズが撮影したマライア・キャリーの『スウィート・ハート』のミュージックビデオでは、ジャーメイン・デュプリとキャリーが美術館の様々な場所で歌っている。コンピュータ・ゲームのシムシティ4ではこの美術館が建設可能な設定となっている。 批判 バスク人彫刻家のホルヘ・オテイサはゲーリーの建物がバスク芸術の伝統を侮辱するものだと考え、建設開始前から美術館の建設に反対した[32]。オテイサは自身の作品が美術館に展示されることを拒否し、自身の全作品群をナバーラ州政府に寄贈した上に[24]、グッゲンハイム財団と契約を結んだバスク民族主義党(バスク州議会与党)党首のシャビエル・アルサリュスに対して告訴状を作成した[33]。オテイサに同調するバスク人芸術家は多く、現代美術家のアグスティン・イバロラは事前に「地元の芸術家たちに相談がなされなかった」と批判し、著作家のフリオ・オチョアは「バスク文化における広島・グッゲンハイム危機である」「フランコでさえもそんなひどい事はしなかった」と述べた[34]。一方で、オテイサと並ぶ彫刻家のエドゥアルド・チリーダはバスク民族主義党と親密な関係にあり[35]、「美術館がバスク文化界に好影響をもたらす」と評価した[34]。建設工事が進むにつれて反対派の意気は静まっていった[9]。 主張の激しい壁や天井の形状・形態とは対照的に、床はほぼ平面であり一般的な素材が用いられている。「展覧会のプログラムは凡庸であり、この建築は単なる見世物である」とする意見も存在する[36]。 管理運営 2007年の横領事件 2007年にバスク会計監査裁判所が発表した報告書によれば、2002年から2005年までの間に、美術館は2700万USドル以上を作品の新規購入に充て、アルセロール・ギャラリー内に展示されているリチャード・セラの『The Matter of Time』などを購入した[37]。2008年の別の会計監査では、作品購入用の資金が銀行口座から失われていたことが明らかにされた[38]。グッゲンハイム財団は「財政面・会計面の不規則性の問題があり、1998年からディレクターのロベルト・セアルソロ・バレネチェアが、美術館の建設・作品の購入用に設立された2つの会社から彼自身の口座に資金を流用していた」と主張し、バレネチェアに対する訴訟を提起した[39]。 脚注 参考文献 京都外国語大学イスパニア語学科『スペイン語世界のことばと文化』行路社、2003年 萩尾生・吉田浩美『現代バスクを知るための50章』明石書店、2012年 本田昌昭・末包伸吾編著『建築の20世紀』学芸出版社、2009年 渡部哲郎『バスクとバスク人』平凡社、2004年 外部リンク (in Spanish)(in Basque)(in English)(in French) on Facebook(in Spanish) on Twitter(in Spanish) on Instagram(in Spanish) (英語) (英語) (日本語)
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コラーゲンを発見した科学者は誰ですか?
福岡伸一
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福岡 伸一(ふくおか しんいち、1959年9月29日 - )は、日本の生物学者。青山学院大学教授。専攻は分子生物学。農学博士(京都大学、1987年)。東京都出身。 略歴 1982年3月 京都大学農学部食品工学科卒業 1987年3月 京都大学大学院農学研究科食品工学専攻博士後期課程修了 1988年7月 ロックフェラー大学ポストドクトラル・フェロー(分子細胞生物学研究室 1989年2月まで) 1989年3月 ハーバード大学医学部ポストドクトラル・フェロー(1991年7月まで) 1991年8月 京都大学食糧科学研究所講師 1994年4月 京都大学食糧科学研究所助教授 2001年4月 京都大学大学院農学研究科助教授 2004年4月 青山学院大学理工学部化学・生命科学科教授 2011年4月 青山学院大学総合文化政策学部教授 活動 狂牛病問題などで新聞・雑誌に頻繁に登場している。雑誌の随筆や新聞の文化面、読書面の常連筆者でもある[1]。また、有限責任中間法人ロハスクラブ理事も務めている。また、一般に向けた科学書の翻訳・執筆を行っている。2007年の「生物と無生物のあいだ」は65万部を超えるベストセラーとなった[1]。 美術ではヨハネス・フェルメールの熱心なファン。現存画は必ず所蔵されている場で鑑賞することをポリシーとしており[2]、著書の発表や絵画展の企画にも携わっている。 主張 生命観 。 動的平衡 。 プリオンについて コッホの三原則を満たしていないなどの理由から、現在の世の中では主流となっているBSEのプリオン原因説に懐疑論を投げかけている。著書『プリオン説はほんとうか?』ではBSEのウイルス原因説を提示した。 進化論 チャールズ・ダーウィンの進化論に対して、完全ではないという考えを持っている。文學界2008年8月号で、川上未映子との対談において、進化を説明するための一つの説としてジャン=バティスト・ラマルクの用不用説を持ち出している。 。 人物 愛用している時計は、シチズン社のカンパノラ。 スキーが趣味である。 独特の風貌を持ち、友人の小黒一三からは「世に二人といない不思議な顔」と評され、爆笑問題からはNHKの教養番組で「くいだおれ人形そっくり」といじられている[1]。 受賞歴 朝日学術奨励金(1987年度) 2006年 第1回科学ジャーナリスト賞 2006年 『プリオン説はほんとうか?』で講談社出版文化賞科学出版賞(平成18年度) 2007年 『生物と無生物のあいだ』で第29回サントリー学芸賞<社会・風俗部門> 2008年 『生物と無生物のあいだ』で第1回新書大賞[3] 著書 単著 『もう牛を食べても安心か』(文春新書、2004年) 『プリオン説はほんとうか? タンパク質病原体説をめぐるミステリー』(講談社・ブルーバックス、2005年) 『ロハスの思考』(木楽舎・ソトコト新書、2006年) 『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年) 『生命と食』(岩波ブックレット、2008年)  『できそこないの男たち』(光文社新書、2008年) 『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』(木楽舎、2009年) 『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書、2009年) 『ルリボシカミキリの青』(文藝春秋、2010年) 『フェルメール 光の王国』(木楽舎、2011年) 共著 生物が生物である理由 分子生物学 太田光,田中裕二 (講談社 2008年、 爆笑問題のニッポンの教養) 盛山正仁(著), 福岡伸一(編) 『生物多様性100問』 (木楽舎、2010年 ) 池田善昭, 福岡伸一 『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』 (明石書店、2017年) ISBN 4750345334 翻訳 ヒューマンボディショップ 臓器売買と生命操作の裏側 A.キンブレル 化学同人 1995.7 七つの科学事件ファイル 科学論争の顛末 H.コリンズ,T.ピンチ 化学同人 1997.2 キャリー・マリス『マリス博士の奇想天外な人生』早川書房、2000 のちハヤカワ文庫 リチャード・ドーキンス『虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか』早川書房、2001  マッキー生化学 分子から解き明かす生命 Trudy McKee,James R.McKee 市川厚監修 監訳 化学同人 2003.10 Yの真実 危うい男たちの進化論 スティーヴ・ジョーンズ 岸本紀子共訳 化学同人 2004.8 モッタイナイで地球は緑になる ワンガリ・マータイ 木楽舎 2005.6 築地 テオドル・ベスター 和波雅子共訳 木楽舎 2007.1 エレファントム 象はなぜ遠い記憶を語るのか ライアル・ワトソン 高橋紀子共訳 木楽舎 2009.6 思考する豚 ライアル・ワトソン 木楽舎 2009.11 対談集 『エッジエフェクト 界面作用』(朝日新聞出版、2010年) 出演 テレビ スタジオパークからこんにちは(2010年5月17日、NHK総合)ゲスト出演。 歌うコンシェルジュ(2011年1月24日、NHK総合)ゲスト出演。 カズオ・イシグロを探して(2011年4月17日、NHK教育) ワイルドライフ 第119回 (2013年1月1日、BSプレミアム) いのちドラマチック(NHK-BS)レギュラー出演。 ラジオ 上柳昌彦・山瀬まみ ごごばん!フライデースペシャル(2012年1月13日、ニッポン放送)ゲスト出演。 ANA WORLD AIR CURRENT(2013年2月16日、J-WAVE)ゲスト出演。 中嶋朋子 ふんわりの時間(2011年3月20日・27日、2012年6月17日・24日、2016年3月13日・20日、TOKYO FM)ゲスト出演。 CM 日本エイサー「AS1410シリーズ」 脚注 参考文献 朝日新聞2010年4月3日付b1面「フロントランナー 美を愛でる遺伝子ハンター」 外部リンク
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速水 柳平の出身はどこ
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速水 柳平(はやみ りょうへい、1864年12月2日 - 1933年1月)は、実業家。二松學舎大学初代副幹事・理事[1]。株式会社取締役兼経営者・高島嘉右衛門番頭。妻・山川トキ、長女・速水淑子、婿・篠田熊蔵。後妻・石黒宗子、娘・石黒初子、長男・速水恕久。越後村上藩・速水藤右衛門(織部正)を祖とする速水藤右衛門9代目当。速水守久(加治田衆)の子孫である。 生涯 江戸末期元治元年甲子年1864年12月2日生誕。清和源氏の末裔。豊臣大名速水守久三男(速水藤右衛門)を祖とする9代目。幼い時分に、豊臣時代以来続く家来引き連れ、江戸時代最後の武士として元服の義を行う。 明治4年、明治政府により「士族」を申し渡される。 明治9年、「秩禄処分」が行われ華族・士族の家禄支給が停止される。 明治12年、中条西町小学校を卒業し、授業生となる。 明治13年より柴橋小学校にて授業生となる。 明治17年、柳平は分家筋である速水理右衛門を相続し分家する。 明治18年、越後築地村肥田野竹塢翁に從い漢學を専修する。 明治21年、長女淑子が誕生。この年、兄(正久)の作った膨大な借財の肩代わりのため、柳平が相続した分家をたたみ土地・財産を整理し、本家速水藤右衛門を出生間もない一人娘淑子に家督を相続させ、妻山川トキに離縁を申し渡す。 明治24年、東京に赴き二松學舎に入塾、三島家の家人(玄關番)となる。同郷隣村出身の野口多内も同じく玄關番として出会う。 明治26年、中洲翁の信を得て三島家家人として、3月【私】二松學舎會計となる。 明治27年、7月中洲翁が越後で脳出血を患った時に実家から速水紋という者が越後赤倉へやってきて看病したと北越新聞に掲載されている。9月中洲が東京へ戻るとすぐに12月三島家の家産を三子(桂・廣・復)に分ける段取りをしている。 明治28年、三島廣が【私】二松學舎初の幹事に就任し、速水が副幹事・助教・会計監査の三役を兼任。この年中洲翁より字(紋)・号(西水)を正式に賜わる。西水が教壇で教えた科目は詩(席上)復文、譯文、日本外史。 明治29年、副幹事として3月【私】二松學舎初の『学友會』を擧行し『二松學舎學友會規則』を定める。中洲先生の詩文を掲げ各先生始め生徒の漢詩文を掲げたこの雑誌は当時の社会においても群を抜いたものだったいう(二松學舎六十年史小豆沢英男回顧録より)。5月『學友會誌』第一號が発行されている。発行責任者及び印刷人は速水柳平。11月創立二十年祝賀が神田錦輝館で開催。この時の事務弁理一切は速水に委嘱されている。【私】二松學舎で時折『易の講演』をしに来ていた高島嘉右衛門に見初められる(スカウトされる)。 明治30年、副幹事兼助教を辞職し、高島嘉右衛門の招きに応じ、高島翁の右腕となり商業(実業)に従事するようになる。この年、11月高島翁の命に依り名古屋愛知セメント(熱田セメント)に入り、経営・會計・購買・販売の4役を兼務し事実上の愛知セメント株式会社の経営者となる。愛知セメントは明治政府がセメント国産化を容認した3大セメント会社の一つである。速水は高島翁の商業に身を寄せながら高島翁の横浜の別荘大綱荘を舞台に時の内閣総理大臣伊藤博文らと家族レベルで公私ともに親交を重ねている。【私】二松學舎入學同期の野口多内が(中国)大陸で伊藤博文直属の一等通訳官となり10数年間仕えたのも速水推薦(口利き)があったためである。 明治37年、10月愛知セメント東京支店長となり三十間堀(今の銀座、高島翁がもともと持っていた家であろう)に仮住まいし、傍ら二松學舎理事を再び兼務するようになる。この年、高島翁の薦めで陸軍軍医石黒忠悳の姪にあたる石黒宗子と結婚。この結婚で石黒の朋友・大倉喜八郎と親しくなる。この年、日露戦争が始まる(38年に終結)。 明治39年、【私】二松學舎理事の傍ら、6月二松義會の評議員に選任されると同時に二松義會理事にも当選する。 明治41年、7月10日越後に残している一人娘淑子が初孫の敏子を出産。伊藤博文・野口多内らより越後速水家に祝いの品が届けられる。 明治42年、6年前の36年発起人細田謙藏が【私】本舎の補助の目的で二松義會を設立したとあるが寄付を全く集めることができなかったため初動すらしない状態であったのだが、7月ようやく【私】二松學舎の補助として財団法人設置の許可を得ることができた。この時の二松義會財団登記簿・筆頭者名は速水柳平であり(東京都公文書館所蔵)、速水が廃業寸前の【私】二松學舎を補助すべく、二松義會を法人化した証明となりうるものである。法人化したのち速水は独り寄付調達(中洲書簡参照)に奔走する。これは二松學舎史において速水柳平が二松學舎草創期を支え続けた初代理事として再評価されるべき事項として明記する。この年、易占高島翁が止めるのをきかず伊藤博文は満州へ赴きハルピン駅で暗殺される。この年、三島中洲(三島毅)を【私】二松學舎の督學に推戴し【財】二松義會では顧問とした。追って二松學舎史初めて15名もの層々たる外部からの人物が【財】二松義會顧問に囑託された。今後の存続がままらななかった【私】二松學舎を【財】二松義會所有の傘下に置くための準備である。 明治43年、1月11日財団法人二松義會は三島復より、【私】二松學舎・舎長三島復所有の【私】二松學舎校舎を購入しその宅地の寄付を受けた。この登記によって【私】二松學舎は【財】二松義會の傘下となり、二松學舎再建に向けての道がついたといえよう。 明治44年、12月3日二松學舎35周年祝賀が執り行われ、速水が1人この祝賀会場にて中洲翁より東宮殿下垢附御紋夏羽織壹枚、御垢附袴一具を賜わる。ひとえに速水紋が尽くした功労に対する心からの褒美である。それは二松義會を財団法人化と、複数の外部顧問の招聘と、漢學二松學舎に新たな生き残りの道を築いたことへの礼であると考えられる。 明治45年、【財】二松義會の理事をしながら高島翁の体調悪化のため速水は愛知セメント本社へ還り本社営業部長を兼任。 大正3年、7月【財】二松義會へ大倉喜八郎が新たに加わり顧問に嘱託される。この頃の大倉は(明治後期から)澁澤榮一と2人で組んで始めた会社の合併・合同・企業合理化・財界の世話役に力を入れ始めていた時期であり、新潟県人会を主催し新発田出身である大倉喜八郎は、速水の声掛けに応じ顧問に名を連ねたのだと考えられる。12月24日高島翁82才が亡くなる。 大正4年、9月愛知セメントを辞職した速水は東京市京橋區(本材木町3丁目25番地、場所は東京駅八重洲口ヤンマービルとブリジストン美術館の間のブロック)においてセメント販売業を起業し合資会社を設立。たいそう儲けたようである。 大正5年、4月30日二松學舎四十周年記念式典が築地の海軍水交社で行われる。民間がこの会場を使うには軍との親密なコネクションが無ければ使用不可である。大倉喜八郎が長年軍と直接商いを続けてきたので顔を利かせ会場使用ができたのである。この式典の一ヶ月前の5月入江爲守子爵(東宮殿下侍従長)が公務を理由に【財】二松義會の会長及び理事を辞任し、この式典以後をもって澁澤榮一が【財】二松義會の会長及び理事に就任。 大正7年、8月【財】二松義會の寄付金一つ集められず且性格傲慢な理事細田謙藏・細田の言いなりの理事尾崎嘉太郎の両人は二松義會から孤立し、とうとう評議員会の理事選抜で落選、狂気な振る舞いをして評議員らを困惑させ、速水柳平が亡くなるまで二松學舎を立ち去っている。長きに渡り理事を務めて事の顛末を細かに知っている速水理事とその朋友であった池田四郎次郎理事両人が偶然にも同じ69才の同じ月に亡くなっているため、その後にまとめられた『二松學舎六十年史要』はその當時生き残った者たちの思惑と当事者不在の不運が重なり、真実に沿わない歴史記述と表現が見受けられる。その最たる箇所が細田謙藏自身の回顧録である。それによると、二松義會は自分が創設し財団法人化し、自分が苦労して寄付金を集めることができたので私はあの時二松學舎を去ったのだと、細田謙藏自身に都合の良い嘘の思い出話を書き連ねている。 大正8年、8月三島中洲89才が死去すると、澁澤・速水らの理事は、中洲の志をより良く引き継ぐため、同月8月二松學舎本舎取り壊し改築工事を始め、【財】二松義會という名稱を『【財】二松學舎』と改め直し創立記念日の10月10日をもって施行。本舎改築工事を請け負ったのは清水組で澁澤・速水の共通するコンクリート事業の取引先である。これらを済ませた後、11月澁澤榮一会長理事だったものを初代舎長理事に選任し直し、三島復を初代二松學舎学長に選任し、新体制をととのえた。 大正9年、6月15日学生寄宿舎・小使住宅・物置・便所が建築落成。明治29年の第一號から速水理事が手掛けてきた二松學友會発行(有志ら発行)の『學友會誌』を、【財】二松學舎に帰属させ『學報』と呼び換え、編輯編纂をしてきた自分たちを『出版部員』と呼び換え、【財】二松學舎の会則29条に明記している。ここにも速水の仕事の丁寧さと正確さを十分垣間見ることができる。9月【財】二松學舎が直接編纂する『二松學報』の発行を開始。9月4日澁澤榮一は男爵から『子爵』となられ、益々二松學舎経営陣の士気が高まったことであろう。 大正11年、9月1日関東大震災がおきた直後の9月29日にも評議員會を開催し、子爵澁澤舎長理事、尾立維孝・佐倉孫三・池田四郎次郎・速水柳平の4理事、監事に大倉喜八郎・男爵古河虎之助の再選重任を確認し合い、震災後も二松學舎運営基盤が揺らぐことが無いよう協力体制ができていた。 大正12年、2月15日理事4名が出版部員となり正式に『出版部』を開設し、『漢學講義録』/『二松學舎講義録』/三島中洲著『解段賛論記史・新刊』/尾立維孝著『立志實傳大倉喜八郎』/漢學專門二松學舎生徒募集の広告/謹賀新年広告・・など、書籍販売と広報を精力的に活発に行った。 大正13年、2月1日初代学長三島復46歳が亡くなる。この11月より澁澤は持病の喘息がひどくなり湯河原に2か月間こもり静養、その間の速水と澁澤との申し合わせで大正14年、1月には愛知セメント(速水経営)は小野田セメント(澁澤経営)に合併・買収される。同月1月速水の東京屋敷の長男恕久は、韓国へ向かう船上から玄界灘に飛び降り自殺。遺体はあがらず、しかし速水は必ず生還すると信じていたようで死亡届を出したのはそれから10年も後である。東京の跡継ぎを失っても失意泰然と振る舞う速水の悲しみは心身のバランスを崩し体を静かに蝕んでいく。 大正15年、10月10日の評議員会では創立50周年記念事業として『專門學校の設立案』が提案され、國語漢文中等教員を養成する目的をもって專門學校を設立するという内容が決議される。この評議員会の夜、澁澤舎長の飛鳥山私邸にて財界有力者を招いてパーティを開き專門學校設立の募金を仰ぐ段取りをしている。 昭和2年、6月尾立維孝理事68才が亡くなる。8月には募金額が13万円余りに達し、校舎(專門學校用)・書庫の増築工事を清水組と締結。速水が澁澤舎長との申し合わせの上で、專門學校設置案から募金調達・工事施行契約一切の段取りを執り行った。評議員会議事録の出席署名をつぶさに見ていくと、いつも澁澤・速水の出席他、票を一任された役員数名のわずかな出席で協議決議されており、一貫して熱心に評議員会に出席する者が二松學舎には誰もいなかったことが伺える。その中でも、若手の濱隆一郎が毎回熱心に評議員会に参加し署名をのこしていることは記しておこう。 昭和3年、3月9日清水組から(專門學校)校舎新築工事落成の届出あり。4月21日二松學舎專門學校開校式が行われる。翌日22日に監事の大倉喜八郎92才が亡くなる。 昭和4年、妻の石黒宗子48歳が亡くなる。立て続けに長男と妻を失った速水は、家業である京橋のセメント合資会社とそこにあった自宅を、娘(初子)の婿(日本橋商家の息子・斎藤八郎)に相続させ、自分は東京市外(落合町字葛ヶ谷東24)に家を買いひっそりと暮らすようになる。そして毎日二松學舎の図書に勤務するのを日課にするようになる。昭和2年に作られたコンクリート建築の書庫は、速水が寄贈し作ったものである。この年から二松學舎本舎は陸軍将校配属を受けて軍事教練も始めるようになる。7月本舎背隣の敷地も買収し、武道道場・銃器庫・教練将校室・生徒控室を増新築。一方で專門學校は漢學專門の中等教育育成のための学校で在り続けた。これは中洲翁の志を受け継いだ速水柳平の願いに他ならなかったであろう。 昭和6年、3月專門學校から第一回卒業生が誕生し、卒業生の親睦を固めるための『松苓會』が誕生。7月生徒からの募集で作られた專門學校の『学生歌』が誕生。9月2日速水の同期朋友・奉天民園長の野口多内、東亜同文書院教授の山田謙吉が上海より帰朝し国際文化会館(舊富士見軒)に迎え舊情を温めている。10月10日創立55回記念式が執り行われ、二松學舎の順調な発展を見ながら11月11日舎長澁澤榮一子爵92才が亡くなる。12月24日の評議員会で速水は会則改訂を段取りし提案。『理事は評議員会の同意を経て舎長1名を推戴してもよい』と変更。 そして昭和7年、4月8日理事(速水)は子爵金子堅太郎を舎長に推戴。金子堅太郎は高島嘉右衛門・伊藤博文を通じて長きに渡る速水理事と親しい間柄である。5月15日囑託顧問である犬養毅77才暗殺。11月26日速水は二松學舎を辞職、この時、金子堅太郎舎長から感謝状を手渡される。 昭和8年(1933年)、1月郷里越後に戻った速水69才は、0才の時に越後の家督を継がせた一人娘淑子と孫10名に囲まれて永眠。[2]。 人物・逸話・資料 二松學舎理事であった速水柳平君は、病氣になってしまったので、彼の郷里に戻り亡くなりました。ああ、心が痛みます。速水君は北越出身で、その先祖は大阪の役で活躍した七騎将、速水甲斐守守久の血筋です。守久は戦死しました。その子、勝丸は農村に隠居しました。家系は綿々として続いています。速水君は若くして郷里を旅立ちました。上京して吾が中洲先生に師事しました。中洲先生は、彼の勉強熱心な姿勢を可愛がり、教授(都講)に抜擢して教壇にたたせました。その後に、高島呑象翁に知られました。彼は商店を東京都内に開業し、建築資材を販売しました。とても儲かりました。その商売の傍らで我が學舎の財務を管理していました。不幸にして大震災に遭い、その後一人息子を失いました。速水君は何かを悟ったように家を郊外に移しました。花に水くれし、竹を洗って、その一生を終わりたいと思うようになりました。そして、(息子を失った悲しみで)妻も亡くなってしまいました。困難に合い行悩み、志を持てない状態となりました。普通の人なら耐えることができない状態です。しかし速水君は常にその心を動かされません。客人として身を寄せ、(漸く自分も)病氣になったので郷里に帰りますと皆さんにお伝えしました。何日もたっていないのに、たちまち死んでしまいました。ああ、同情してしまいます。私は、速水君の一生を通して観察してみると、状況の変化に喜んだり心配したり、いろいろな変化にとんだ一生でした。言わないでおきましょう。そうとは言えども、速水君の生きた年数は、もうじき古稀になろうとしています。短かったとは言わないでおきましょう。郷里には田地と財産があります。困窮しているとは言えません。お嬢さんも孫もいます。孤独とは言えません。同窓の友人がいます。助けがないとは言えません。竹の箱の中には詩文があります。伝える物がないとは言えません。もともと、この世の中は夢に似ています。その夢に似ている現世が、ある時は発展し、ある時は発展しないのは、天の定めです。もともと気にするほどの事ではありません。私は独り、速水君が亡くなってしまったことを残念に思います。中洲先生の銅像を鋳造しようと発議し導いてくれました。(その)計画に基づいてその運営が上手くいくようにたいそう力を尽くしました。なのにまだ完成しないうちに死んでしまいました。ああ、(死んでしまったのは)宿命なのか、天の意志なのか、まさか自分で命を絶ったのではあるまいか、ああ、心が痛みます[3]。 貴殿、明治27年、初めに自ら二松學舎會計となり、すぐに幹事を兼ね、後に二松義會及び財団法人二松學舎の理事に就任し、前後ほぼ40年、初めから終わりまで全部を一筋に貫き通し、まごころ尽くして二松學舎の経営に、あらん限りの力を出し切っておられました。學舎の今日あるのは貴殿のおかげを受ける所が大きいです。今病氣のために辞任なさるので、この場に於いて謹んで短い感謝状をお贈りして感謝のささやかな真心の気持ちを示します。昭和7年11月 財団法人二松學舎舎長 金子堅太郎 速水柳平殿[4]。 速水紋さんは熱田セメント会社の東京支店長に昇任なさいました。仲間がその四十間堀(誤:三十間堀の間違い)の仮住まいを訪ねたとき、読書書き物をする長方形の机の上に、慎み深くへりくだった様子で中洲先生先生の肖像を安らかに置いてありました。それで、その敬い慕う思いの厚さを知るに十分な(たとえ)話が一つ二つあります。次のようなことです。 実業界も近頃はようやく人の踏まねばならない道德の噂を聴く様になりましたが、これはまことに喜ばしい事です。西洋実業家にとって信用が非常に大きいことは羨ましいことで、お金の信用を失うと一生その人は世間ののけ者にされます。だから(速水紋さんは)決してお金の信用を失うような愚かな行動はしませんし、その上無駄な手数を省くので(彼の)仕事は機敏快活で驚くほどです。実業家には漢学者がもっとも良いです。(なぜなら)漢學の素養のある者は、たとえ仕事のやり方がゆっくりであろうとも、真心があり誠実であることはだいたい確かだからです。今の世にはすばやく立ち回る者は余るほどいるけれど、このような人は道德の上では欠点が多く途中で失敗し大いに危険です。これに反して(速水紋さんのように)真心があり誠実な人はなかなか見当たらないものです[5]。 『細田(細田謙藏)は理事でありながら寄付金ひとつ集められない上に、性格傲慢、学門優秀である故自分自身を過信しすぎて人を軽蔑する癖あり、尾崎(尾崎嘉太郎)に関しては検査院の下級事務官で會計をしていた経験があるから會計をさせているが学門の才覚はなく独断の細田の言いなりである、池田(池田四郎次郎)に関しては細田に次いで学門文章力があるが世間の事に疎くて役立たないけれど性質は誠実謙虚である。・・・・・・・(だが)細田は今日まで義會(二松義會)に関係して世話してくれていたし(頭を下げて寄付を集めなかったが)義會を創業した功臣とも言えます。・・・・・・(しかしながら、これまで二松義會については)細田の独断に任せておりましたけれど、評議員の間では横柄な細田を(これから)解任しようという意見もあるように聞いていますから(澁澤さん今しばらく辞任なさらないでください)どうぞご理解ください。・・・・・初めは(囑託顧問らは)どなたも寄付などしてくれなかったけれど、幾度となく説明を繰り返し精力的に関係各位に哀願悲願し、募金を乞い願ったのは(私の家人である)速水柳平でありました。』[6]。 大正7年8月2日 (二松義會の)評議員会における理事及び会長改選で、從来理事であった細田謙藏と尾崎嘉太郎は辞(落選)し、下のように選任された。理事:澁澤榮一、池田四郎次郎、速水柳平(以上再選)、尾立維孝、佐倉孫三、会長:澁澤榮一二松義會から孤立した細田謙藏・尾崎嘉太郎の2名は理事選において落選し、評議員会にて狂気な振る舞いをして皆が困惑したことが書かれている。』[7]。 『二松義會の事について、しかるに、御承知のように私は別に漢學の素養がある者ではありません。ただ、日頃中洲翁には親しくしてもらっているので会長に当選したのでしょう。ただ今は困ったことがあります。特に、學舎の経営・調和もとかく不十分の点が見られます。つい先日の事ですが、幹事の方(細田謙藏)が変な行動に出て、理事一同幾分迷惑したところですが、今日は、前から勤めていた理事(細田謙藏・尾崎嘉太郎)が落選となったことは、将来の寄付金募集にもいろいろと障害があるであろうということは心が痛いのでございます。いずれ、今月下旬には東京に入りますので、山田先生にはじっくりお話して、私の決意を申し上げたいと思います。』   ※この後の面談で、澁澤会長はこの職を辞職したい決意を山田準と三島中洲に話した。』[8]。 『初めはどれだけ(囑託顧問らに)出金の割り当てを定めようとも(誰も寄付等してくれる者はなく)、その後、速水理事(速水柳平)が五度も十度も身をかがめ頭を下げ、嘆き声をあげやってくる食べ物を乞う乞食のように懇願して、初めて出金(寄付)してもらえました。中には、わたくし(中洲)自ら出掛けて行ってようやく出金(寄付)してくれる人もいました。』   ※大正7年9月21日 中洲の嘆願によって澁澤榮一は会長辞任を見送り、前向きな発展で(二松義會存続の)解決しようと考える様になる。』[9]。 中洲翁銅像を作りましょうと皆を導き、いろいろと世話をやいて駆け回ってくれたのは速水君であったのに、完成を見ないでなくなってしまった』とある。 ※二松學舎エントランスホール内に現在据置されている三島中洲銅像のことである。』[10]。 朋友・実業界仲間 伊藤博文、野口多内、小川運平、山田謙吉、池田四郎次郎、佐倉孫三。 益田孝、馬越恭平、犬養毅。 脚注 参考文献 速水氏 加治田衆 実業家 参考文献 二松學舎学友會誌 二松學舎百年史 中洲會誌 外部リンク
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上野 裕一郎の1万メートルの最速記録は?
10000メートル競走
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10000メートル競走(いちまんメートルきょうそう English: 10,000 metres)は、10000メートルを走るタイムを競う陸上競技のトラック種目で、長距離走に分類される。競技会や関係者の間では10000m(10000メートル)や10000と略される場合がほとんどである。400mトラックを25周する。持久力だけではなくスピードも要求され、日本国内では、男女マラソンに次ぐ注目を集める長距離種目である。 距離の長い種目なので、予選・決勝とラウンドを分けずに1つのラウンドで決着がつけられることがほとんどである。その場合、参加選手が多いときは複数の組をタイムで比較して順位付けされ(タイムレース)、参加選手がおおむね50名未満の場合は出場選手全員を一斉にスタートさせること(一発決勝)が多い。1組あたりの出場人数が多い場合はスタート時の混雑を避けるため、コースを4レーンより内側と5レーンより外側に分けて全体の約3分の1を外側前寄りからスタートさせてコーナーの出口で合流させる<b data-parsoid='{"dsr":[504,517,3,3]}'>二段階スタート</b>という方法が採られる。ちなみに陸上競技においては10000mと10kmは別物(前者はトラックレース、後者はロードレース)であり、年間ランキングなどでも別々に集計される。 現在の競技状況 世界的には男子はエチオピアやケニアといったアフリカ勢が圧倒的に強く、米国や欧州勢がそれを追う展開となっている。近年までアフリカ系選手の独壇場といっても過言ではない様相を呈しており、それ以外の選手がオリンピックで上位入賞するケースは稀で、2012年ロンドンオリンピックでゲーレン・ラップが銀メダルを獲得したのは、白人選手としては1988年ソウルオリンピックのサルヴァトーレ・アンティボ以来、アメリカの選手に限ってみれば1964年東京オリンピックのビリー・ミルズ以来であった。日本人男子選手は比較的に健闘しており、1936年ベルリンオリンピックで村社講平が4位、1964年東京オリンピックで円谷幸吉が6位、1984年ロサンゼルスオリンピックで金井豊と2000年シドニーオリンピックで高岡寿成がそれぞれ7位で、過去4人が入賞を果たしている。 世界的に女子は男子同様にエチオピアやケニアといったアフリカ勢が強く、欧米勢がそれを追う展開で、中国勢も(ドーピングの疑惑がありながらも)上位入賞ができる力量をもっている。日本は1990年代半~90年代後半までは、女子トラックの個人種目の中では日本が最も世界のトップレベルの選手と戦えた種目で、多くの選手が五輪と世界選手権で入賞を果たし、1997年世界陸上アテネ大会では千葉真子が銅メダルを獲得するなど、当時は世界大会で上位入賞も比較的見られ、有望選手も多かった。しかし、2000年以降は停滞期を迎え世界大会で上位入賞は見られなくなったが、2009年世界陸上ベルリン大会で中村友梨香が10年ぶりに7位入賞を果たし、2013年世界陸上モスクワ大会で新谷仁美が5位とメダル圏内に肉薄するなど、以前と比べれば復調の兆しが見えつつある。 この種目でかつてのように日本選手の活躍が多くないのは、日本の長距離界が駅伝などのロードレースに傾倒しすぎであるからとも言われている。 世界歴代10傑 エリア記録 ジュニア世界歴代10傑 ユース世界最高記録 アジア歴代10傑 ジュニアアジア歴代10傑 ユースアジア最高記録 日本歴代10傑 日本学生歴代10傑 日本人学生歴代10傑 ジュニア日本歴代10傑 樹立年の12月31日時点で年齢が20歳未満であるジュニア選手のみが対象となる。 ユース日本最高記録 高校歴代10傑 高校生に関する各種記録 2002年より日本国籍のない高校生の記録は日本高校国内国際記録とされ、遡って留学生による日本高校記録も抹消された。 中学歴代 五輪・世界選手権における日本人入賞者 五輪・世界選手権における日本人男子入賞者 1936年ベルリンオリンピックで村社講平が4位入賞を果たした。なお、村社の4位入賞という成績は、ベルリン五輪から三四半世紀経った現在でもこの種目における日本人男子選手の最高成績となっている。 五輪・世界選手権における日本人女子入賞者 1995年世界陸上競技選手権大会で鈴木博美が8位入賞を果たし、この種目で日本人女子選手最初の入賞者となった。1997年世界陸上競技選手権で千葉真子が3位となり、この種目で初のメダリストとなった。 オリンピックでは、1996年アトランタオリンピックでの千葉真子の5位入賞が最高位の成績となっている。 関連項目 陸上競技の世界記録一覧 陸上競技のオリンピック記録一覧 世界陸上競技選手権大会 大会記録 陸上競技の日本記録一覧 日本陸上競技選手権大会の記録一覧 (男子) 日本陸上競技選手権大会の記録一覧 (女子) オリンピックの陸上競技・男子メダリスト一覧 オリンピックの陸上競技・女子メダリスト一覧 外部リンク (IAAF) (JAAF)
https://ja.wikipedia.org/wiki/10000%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E7%AB%B6%E8%B5%B0
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ロータス・カーズが最初に設立した工場はどこ?
ロータス・カーズ
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ロータス・カーズ(Lotus Cars)は、中国吉利汽車(ジーリー、Geely Automobile、簡体字: 吉利汽车)傘下のイギリス・ノーフォークのヘセル(Hethel)を拠点とするスポーツカーメーカーである。軽量スポーツモデル(ライトウェイトスポーツ)を主力車種としている。 会社組織の本体はグループ・ロータス(Group Lotus plc)であり、乗用車の製造・販売を行うロータス・カーズ(Lotus Cars Ltd.)のもとには、自動車技術に関するコンサルタント業を行うロータス・エンジニアリング(Lotus Engineering)部門がある[1]。 1996年より、マレーシアの国有自動車会社プロトンの子会社となり、 2017年5月に中国吉利汽車がロータス・カーズの株式の51%を取得した。 沿革 創業まで 1947年、当時ロンドン大学の学生であったコーリン・チャップマンは副業として中古車販売業を営んでおり、そこであまりに旧式なため売れ残った1928年型オースチン・7(セブン)[注釈 1]を自分用のレーシングカーに改造することを思いついた。 彼は事業パートナーであったコーリン・デア、ディレック・ウェットン、そしてガールフレンドであったヘイゼル・ウィリアムズらとともに旧式のシャシを初めとする大部分を作り直し別の車と言ってよいほどの大幅な改造を施した。この作業はロンドンのミューセル・ヒルにあったウィリアムズの実家のガレージで行われたという。 完成した車は別の車として登録[注釈 2]され、翌1948年にはマイナーレースに参戦する。しかしチャップマンはこの車のベースとなったオースチン・7のエンジンパワーでは本格的なレースに参戦するのは不充分と考えており、すぐにより強力なフォード製「フォード8」エンジンを搭載した次モデルの構想に着手する。この次期モデルは「ロータス」と名付けられ、1949年に完成した。これが最初にロータスと呼ばれた車である。 ロータスはチャップマンが完成させた2番目の車であることからマーク2と呼ばれ、それに伴って最初の車はマーク1と呼ばれることになった。マーク2は完成してすぐさらに強力な「フォード10」エンジンへと換装され、レースに参戦するのは翌1950年からとなった。マーク2は高い戦闘力を発揮し、チャップマンとヘイゼルの手で総合優勝4回、クラス優勝4回と好成績を挙げる。特に同年6月3日にシルバーストン・サーキットで開催されたエイトクラブ主催のレースでは、現在のF1マシンに当たるグランプリレーサーのブガッティ・タイプ37と競り合い、優勝してしまう。 相手が型落ち[注釈 3]のGPレーサーとはいえ、無名のガレージ作成のレーシングカーが勝利したことは驚異であり、チャップマンは大いに注目されることとなる。マーク2は初の顧客となるマイク・ローソンに売却され、その後も好成績を挙げた。 チャップマンはより本格的なレーシングカーの開発に着手し、新たな協力者としてマイケルとナイジェルのアレン兄弟を迎え、彼らが所有していた郊外のガレージで販売を目的としたレーシングカー、マーク3、マーク4を完成させる。特にマーク3は当時のイギリスで人気のあったフォーミュラ750カテゴリで無類の強さを発揮し、ロータスの名は着実に高まっていった。本格的なレーシングカー製造販売を目指していたチャップマンは、マーク3の成功により、いよいよ市販モデルの構想に着手する。 それまでのワンオフに近いモデルとは異なり、最初から量産を想定したモデルはマーク6と呼ばれ、その実現のためチャップマンはマイケル・アレンとともに1952年1月1日、ロンドンのホーンジー、トテナム通りにロータス・エンジニアリングを設立した。 レーシングカー製造販売 マーク6はそれまでの市販車ベースの改造ではなく、専用設計されたシャシを持つ最初のロータスとなった。プロトタイプは順調に完成し、テストを兼ねて1952年7月からレースにエントリーするが、その年の8月アレンが公道で運転中にクラッシュ、これがきっかけとなりアレン兄弟はロータスを離れることになった[2]。 創業メンバーの半数を失い、スタート間もないロータスは危機を迎えるが、チャップマンとその婚約者であるヘイゼルを取締役とし、そしてエンジニアとして新たにマイク・コスティン[注釈 4]を迎え1954年1月1日に株式会社として再出発することとなる。マイク・コスティンは生産技術者として非凡な才能を発揮し、生産型マーク6はその年の前半には顧客に渡された。 元々レーシングカーであるマーク6は様々なエンジンを搭載することを前提としており、また基本コンポーネントに様々なオプションを組み合わせる形でキットフォームとして販売された[2]。軽量なスペースフレームを持つマーク6はその高性能とは裏腹に、同レベルのライバル車に比べて安価であり、プライベートレーサー達に好評をもって受け入れられた。マーク6は1955年まで製造され、100台から110台が出荷されたが、その間ロータスの工場はほぼフル生産であったという[2]。 マーク6の成功で充分な資金を調達できたロータスは、マーク6を元に、より軽いシャシ、より洗練されたボディを持つ新しいレーシングカーの開発に着手する。本格的に空力を考慮したボディは、マイク・コスティンの兄であるフランク・コスティンの手によって開発された。この後コスティン兄弟は開発、生産エンジニアとして創成期のロータスを支えることとなる。 マーク8と呼ばれるこのモデルは1954年4月には完成、そのシーズンのレースにエントリーしている。1955年、ロータスはマーク6の成功によって自動車製造販売組合に加入し、正式に自動車メーカーとして認知された。これにより同年のアールズ・コート・モーターショーに出品が認められ、ロータスはこのショーにマーク8の発展型、マーク9のベアシャシを出品する。マーク9はその後、発展系としてマーク10そしてイレブンまで開発される。イレブンは1956年のシリーズ1、1957年のシリーズ2と総計して270台が製造された。 GP参戦と市販車開発 イレブンまでのレーシングカー販売によって充分な資金を調達したロータスは、次のステップである国際格式レースへ参戦と本格的な市販車の製造販売に歩みを進める。そして1957年10月のアールズ・コート・モータショーにて市販スポーツカーのセブン、ロータス初のクーペボディを持つタイプ14エリート、そしてフォーミュラ2レーシングカーのタイプ12を同時に発表、2つの目標を公に発表する。 タイプ12はGP参戦までを視野に入れた本格的シングルシータレーシングカーであり、ロータス・カーズはそれまでチャップマンらのクラブチーム的存在であったチーム・ロータスを本格的なワークス・チームとして再編し、1957年から国際格式として開催されたフォーミュラ2へ参戦、そして翌1958年5月のモナコグランプリでチーム・ロータスはついにGPへと参戦する。 一方、タイプ14エリートはFRPフルモノコックフレーム(日本のフジキャビンに続き史上2番目のFRPモノコック市販車)とタイプ12ゆずりの前後サスペンション、世界最速の消防ポンプと詠われたエンジン、コヴェントリー・クライマックス製FWA型[注釈 5]を搭載する高級GTとして発表、市販がアナウンスされると同時に驚愕と絶賛の声を浴びる。そしてマーク6のデザインを受け継ぐ安価な量産スポーツカーとしてセブンも従来の顧客層から好評をもって受け入れられた。 ファクトリー移転とグループの再編 ロータスは同時に3種のニューモデルに着手したこともあり、エリートの開発だけでホーンジーでは手狭となってしまい、機密保持の目的もあってロンドン側のエドモントンに新たなデザイン拠点を構える。しかしホーンジー、エドモントンともに本格的な量産車の製造工場としてはキャパシティが不足していることは明白であった。 チャップマンは当初ホーンジー近辺に工場を構えようと考えていたが、イギリスにおける法律上の規制から諦めざるをえず、代わりにハートフォードシャーのチェスハントに生産開発の拠点を移すことになる。この移転とほぼ同時、量産車の開発生産を受け持つ「ロータス・カーズ」、レーシングカーの開発生産を受け持つ「ロータス・コンポーネンツ」、そして全体を統括する「ロータス・エンジニアリング」とグループ体制に再編される。 GP勝利と財政危機 セブンは1958年の春より、エリートは多少開発を手間取りはしたものの、12月にはリリースが開始された。レーシングカーではタイプ12の後継であるタイプ16を経て、新たにミッドシップレイアウトを導入したタイプ18が名門チームであるロブ・ウォーカー・レーシングチームに販売され、1960年5月29日、スターリング・モスの手によって記念すべきGP初勝利を達成する。 順風満帆に見えたロータスグループであったが、実際には経営状況が悪化の一途をたどっていた。GPマシンの開発とGP参戦は、それまでとは桁の違う費用が必要とされ、ロータスの財政を圧迫した。一方で、収入をまかなうはずのセブンとエリートの利益は、決して充分なものではなかったのである。 クラブマン向けレーサーであったセブンは安価ゆえに人気となったが、シャシ生産に多くのハンドワーク工程を必要とし、そのシンプルさとは裏腹に高コストな商品で、利益は限られていた。一方高級GTとして販売され、高い利益をもたらすはずであったエリートは、注文こそ順調であったが、複雑で類をみない製造工程で思うように生産台数を伸ばせず、さらにFRPモノコックとレーシングカーのサスペンションはともに信頼性に乏しく、ロータスはクレーム対応に追われ、さらに利益率は低下した。1959年の時点では、エリートは販売するたびに利益どころか赤字になるような状態であった。 エランの成功 ロータス・カーズは確実に利益をもたらす商品を一刻も早く開発する必要に迫られた。このような状況下、新たに市販モデルのエンジニアとしてロータスに入ったロン・ヒックマンにより、タイプ26エランが生み出される。 当初ロータス・カーズはセブンの置き換えを想定しており、その新型スポーツカーとエリートとのラインナップを予定していたのである。シャシデザインもエリートのFRPモノコックの流用を予定していたが、開発を急ぐ必要があったこと、エリートでのトラブル状況から断念を余儀なくされた。 ヒックマンはFRPフルモノコックに変わる新しいシャシデザインとして、プレス鋼板を溶接によって組み立てたバックボーンフレームにエンジン、トランスミッション、サスペンションなどの主要ASSYをレイアウトし、それらの応力を負担しないFRPのボディをかぶせるデザインを考案した[注釈 6]。 バックボーンフレームシャシは、セブンのスペースフレームに比較して圧倒的に製作時間を短縮でき、なによりも精度を容易に確保することができた。この生産性の向上こそ、この時ロータス・カーズに最も求められていた要素である。バックボーンフレームの採用により開発は順調に進み、本格的な開発開始からわずか2年後の1962年には量産がスタートしている。 1962年のアールズ・コート・モーターショーに出品されたエランは、完成車で1,495ポンド、キットカーフォームで1,095ポンドと発表され、そのセブン並の価格は大いに話題となり、オーダーは順調に延びていった。エランはシリーズ4まで発展し、1973年まで12年に渡って販売され、総数12,000台以上がデリバリーされた。 エランで確立したバックボーンシャシデザインは、この後35年に渡って全ロータスプロダクションモデルの基本デザインとして採用されることになる。 エランは北米にも多数が輸出され、ロータスは国際的に認知度を高めた。また、その生産性の高さは製造コストを抑え、安定した利益をロータスにもたらした。 コーティナの成功と新たなビジネス エリートの商業的失敗は大きく、ロータスの財政的回復はまだ充分とは言えなかったが、この危機をロータスはまったく新しいビジネスにより克服する。 1960年の前半、アメリカのフォードはモータースポーツによる企業イメージの向上を目的として、当時隆盛であったサルーンカーレースに参戦することを計画していた。しかし、自社で充分なノウハウを持ち合わせていなかったフォードは、自社の車をベースに大幅なチューンを施したレース用の専用モデルの開発と生産をロータスに依頼したのである。 ベースとなる車両にはコンサル・コーティナが選ばれ、その高性能バージョンであるコーティナGTをさらにチューンし、1,000台の生産規定台数で所得できた、当時のFIAグループ2のホモロゲーションを受けるプランがスタートした。 最終的にロータスはコーティナのチューンはもちろん、レーシングバージョンの開発、さらにはプロダクションモデルの生産までを請け負ったのである。 正式にロータスのナンバー、タイプ28が与えられたコーティナ・ロータス[注釈 7]はチェスハントの工場で組み立てが行われ、1966年までの3年間で2,800台あまりをラインアウトさせた。コーティナ・ロータスは、当初の目的であったレースでも実力をいかんなく発揮し、そのおとなしいサルーンの外観に似つかわしくない高性能ぶりから、「羊の皮を着た(または被った)狼」と例えられた[注釈 8]。 この成功は、実質的にエランしか収入源がなかったロータスに大きな財政的安定をもたらし、「レーシングエンジニアリングのコンサルタント」という新たなビジネスをも開拓したのである。またレースフィールドに留まらず、あらゆる分野におけるエンジニアリングコンサルティングというロータスの3番目のビジネスを後に確立する礎ともなった。 GP制覇とヨーロッパ発売 エランとコーティナ・ロータスの成功により経済的な余裕を得たロータスは、GPにおいても快進撃を見せる。初参戦から5年後の1963年、革新的な軽量モノコックシャシを採用したタイプ25と名手ジム・クラークを擁してコンストラクタ・タイトルを獲得。その後、インディ500を制覇し、コスワースと組んで名基DFVエンジンを開発するなど、モータースポーツ界を象徴する名門チームのひとつに成長した。 1966年、ロータスは自身が本格的にGPに持ち込み、その後レーシングフィールドではセオリーとして定着しつつあった、ミッドシップレイアウトを採用した量産スポーツカーを発表した。イギリス以外のヨーロッパ大陸をメインターゲットとして、当初左ハンドル仕様のみとされたタイプ46ヨーロッパは、かつてのセブン同様、レーシングカーの技術をロードカーに持ち込んだ安価なスポーツカーというコンセプトの元に開発された。 ヨーロッパはヨーロッパ大陸と北米をメインターゲットとして、エランで成し遂げられなかったセブンの後継モデルとして位置づけがなされたのである。軽量で優れたハンドリングを発揮したヨーロッパは人気を博し、1968年からのシリーズ2ではイギリス国内向けの右ハンドルもデリバリーが開始された。 GT構想の復活 ヨーロッパのデビューに先立つ1965年、ロータス・カーズはモーターショーに、エランのシャシをストレッチしてクーペボディを架装した2+2のショーモデルを発表、委託生産のコーティナ以外は全て2シーターモデルのみであったロータスにとって、初の4シーターモデルであった。 メティエと呼ばれたこのプロトタイプは2年の開発期間を経て、1967年、タイプ50エラン+2として発売された。エリートの商業的失敗により途絶えていたGTを、エランのシャシをベースに復活させ、新たな顧客層をも開拓したのである。エラン+2はエランよりも長く1974年まで生産され、約5,000台がデリバリーされた。 ヘセルウイッチ移転の成功 ヨーロッパ、エラン、エラン+2と、小規模ながらラインナップを整備したロータス・カーズは、生産台数の増加からチェスハントの工場では手狭となり、新たな根拠地を求めることになる。 チャップマンの目に止まったのはノーフォーク、ヘセルノリッチで、第二次世界大戦時に使用されていたイギリス空軍の飛行場であった。ロータスは飛行場跡の半分を譲り受け[注釈 9]、滑走路と周辺路をテストコースとして流用し、新たな設備を整備した。 そして1966年、工場、チーム・ロータスを含む、ロータスの全ての機能をチェスハント、ホーンジーからヘセルウイッチに移転させる。この移転においてロータスは、スタッフの喪失を極力抑え、半数以上を連れて行くことに成功した。これは、100km以上離れた地に全面移転するようなケースでは記録的と言われている。また移転に先立ってフォードからデニス・オースチンをマネージャーとして迎え、彼をチーフとして周到な計画と準備が進められた。その結果、週末に実施された全面移転の後、ヘセル工場で組み立てられた最初の車両が工場を出たのは次の月曜日であったと言われている。新たな根拠地を得て、生産力、開発力を高めたロータス・カーズは順調に業績を延ばし、1968年には株式公開を果たした。名実ともに自動車メーカーとして認められたのである。 チャップマン時代の終焉 1970年代後半に入ると、タイプ75エリート、タイプ76エクラ、タイプ79エスプリの3Eと呼ばれるモデルを中心に、従来とは異なる高級路線をとる。 技術協力では1972年発表のジェンセン・ヒーレー用のエンジン開発、グループ4ホモロゲーションモデルのタルボット・サンビーム・ロータスの開発、デロリアン・DMC-12の開発、セリカXXの開発協力や、ランドクルーザーとハイラックスサーフ用ハードトップの真空成形FRPに関する技術供与を行う。特にトヨタとは資本関係を持ち、チャップマン自らセリカXXのテレビCMに出演していた。 しかし、チャップマンは1982年の末に心臓発作でこの世を去ってしまう。デロリアンの生産立ち上げに難航し、英国政府との板挟みとなったことが大きいと言われている。 オーナーの交代 1982年にチャップマンが54歳で急逝した後は経営難が深刻化し、経営はチャップマン家から事業家のデビッド・ウィッケンスに移った。この時期にエンブレムが変更され、チャップマンのイニシャルであるACBCの文字は削除された。トヨタは株主として関係を深めていき、エクラ・エクセルにはトヨタ製の部品が供給された。1984年のバーミンガムショーでは、新開発のV8エンジンを搭載し、ジョルジェット・ジウジアーロのデザインによるコンセプトカー「エトナ」を発表したが、市販化にはいたらなかった。 1986年にはゼネラルモーターズ (GM) の傘下に入り、カーエンブレム及び社章にACBCのイニシャルが復活。グループ内のスポーツカーメーカーとしてシボレー・コルベットZR-1のエンジン設計や、オペル・オメガ、いすゞ・ピアッツァ、いすゞ・ジェミニ、いすゞ・ビッグホーンなどのチューニングを担当した。1989年に発売された2代目エラン(タイプM100)では、GMグループ内のメーカーからエンジン&トランスミッション(いすゞ)、パーツ(ACデルコなど)を調達していた。 1993年に高級スポーツカーブランドのブガッティを所有するロマーノ・アルティオーリに売却されその傘下に入ったがブガッティは1995年に破産し、1996年よりマレーシアの国営自動車メーカー、プロトンの傘下となる。 エリーゼの成功 1995年に登場したタイプ111エリーゼは大成功となり、ロータス・カーズは経営危機から脱した。エリーゼは当初のローバーエンジンからトヨタエンジンへ変更しつつ、クーペボディのエキシージ、GM製のターボエンジンを搭載したヨーロッパSなどの派生車種を展開した。2009年には上級車種として、14年ぶりのブランニューモデルとなるエヴォーラを発売するまでに至った。 ダニー・バハーの拡張路線 2009年、フェラーリの副社長だったダニー・バハーがCEOに就任し、シトロエン・C3やフェラーリ・458イタリアを手掛けたドナート・ココをデザインディレクターに迎えた[3]。2010年のパリ・モーターショーでは、エスプリ、エラン、エリート、エリーゼ、エテルネ(Eterne)の5モデルものコンセプトカーを発表。ライトウェイト・スポーツから高級スポーツカーまで車種を揃える意欲を見せた。 2012年、プロトンがDRB-ハイコム傘下に買収されると、赤字を計上し続けるロータスの売却が噂されるようになり[4][5]、6月にはバハーがCEOを解任された[6]。今後は事業計画を縮小し、5モデルのうちエスプリ以外は計画中止になるのではないかと見られる[7]。2017年5月には中華人民共和国の吉利汽車がプロトンのDRB-ハイコムに次ぐ株主となり、ロータスの株も51%を取得して筆頭株主となった[8]。 車種一覧 現行車種 現在はシャシとボディのみを自社で製造し、エンジンはトヨタから供給されたものをチューニングして搭載している。 エリーゼ(1995年) - 2座ロードスター。2018年現在、トヨタ製1ZR-FAE(1.6リッター直4)エンジンを搭載する。 エキシージ(2000年) - エリーゼの近代化・高性能仕様。現行はトヨタ製2GR-FE(3.5リッターV6)エンジンを搭載する。 エヴォーラ(2009年) - 2+2のミッドシップ・スポーツカー。トヨタ製2GR-FE(3.5リッターV6)エンジンを搭載する。 イクオス・タイプ125 - シングルシーター、オープンホイールボディでサーキットのみ走行可能。コスワース製3.5リッターV8エンジンを搭載する。 3−イレブン(2015年)- 2−イレブンの後継車。トヨタ製2GR-FE(3.5リッターV6)エンジンを搭載し、パワーウェイトレシオは2.0Kg/PSを誇る。 過去の主な車種 ロータス・イレブン - レーシングカー。 セブン(1957年) - オープンホイールの純然たるスポーツカー。シリーズ3の生産設備を受け継いだケーターハムや、レプリカであるドンカーブート、バーキン、ウエストフィールドなど、様々な会社によって製造されている。 エリート(1957年) - ロータス初の高級指向の2/4座スポーツカー。初代は1950年代後半に登場。FRPの一体構造ボディを採用した。2代目は1974年登場。 エラン(1962年) - バックボーン(背骨)フレームはトヨタ・2000GTが手本としたとされる。1989年の2代目エランはいすゞ製4XE1型エンジンを搭載している。その後、この車の生産設備を韓国の起亜自動車へ売却した。キア・ビガートも参照のこと。 ヨーロッパ(1966年) - 漫画『サーキットの狼』にて日本でも知られる。極めて低いシルエットを持つ。S1、S2、TC、SPの4タイプがある。 エクラ(1975年) - 2代目エリートのファストバック版。 エスプリ(1975年) - ジョルジェット・ジウジアーロのデザイン代表作の1つ。007シリーズ『007 私を愛したスパイ』にて水陸両用車が登場したことでも知られる。 エクセル(1982年) - エクラの後継車種。当初は「エクラ・エクセル」と呼ばれた。 ヨーロッパS(2006年) - 上述のヨーロッパとは異なり、「ビジネスクラスGT」を謳う。 2-イレブン(2007年) - エリーゼをベースにしたエアコン・ヒーターなしのロードカー。レーシングカーとほぼ同じ外装だがナンバー取得が可能。トヨタ製2ZZ-GE(1.8リッター直4)エンジンを搭載。この車種のみPowered by TOYOTAの表示がある。 社名と車名 車名のほとんど(セブンを除く)にEから始まる名前が付けられている。 ロータス (Lotus) とは、英語で「蓮」を意味する。グループエンブレムの中にも角の丸い三角として描かれており、創業者のコーリン・チャップマンが仏教思想を取り入れ、「俗世の苦しみから解放されて夢がかなう実」とされる蓮にちなんで名付けたとの説が有力である。エンブレムの"A・C・B・C"は、アンソニー・コーリン・ブルース・チャップマンのイニシャルである。 レーシングカー、スポーツカー、サルーンカーなどを含めて、すべてに通し番号(タイプナンバー)が与えられている。初期は「マーク#」という呼び方だったが、イレブン以降は「タイプ#」となっている。なお、セブンは数字的にはイレブンより前だが、発表時期はイレブンが1956年、セブンが1957年という逆の関係になっている。 レーシングカーの場合はタイプナンバーのまま「ロータス#」と呼ばれ、市販車の場合はこれにペットネームも加えられる。ペットネームは伝統的にイニシャルが"E"で始まる。 タイプ76(76とエクラ)、タイプ79(79とエスプリ)、タイプ100(100Tとエラン(M100系)のように、チーム・ロータスのF1マシンとロータス・カーズの市販車でナンバーが重複するケースもある。 自動車以外の乗り物にもタイプナンバーが付けられている。 タイプ108 - カーボン製フレームのトラックレーサー(競技用自転車)。バルセロナオリンピックの4,000m個人追い抜き種目でクリス・ボードマンが金メダルを獲得した。市販型はタイプ110。 タイプ119 - ソープボックス(動力なし競技車両)。グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードのタイムトライアルで優勝した。 日本での販売 東京・新橋の商社でメッサーシュミットも扱っていた芙蓉貿易がセブンや初代エリートを輸入していた。1960年代半ばには東急商事(東京・大田区)が輸入代理店となり、エランや初期のヨーロッパを輸入した。1972年からはアトランテック商事が正規の輸入者となったが、1990年代中盤には取り扱いをやめてしまい、そのため初期型の111エリーゼのほとんどは並行輸入となった。1999年から2002年まではケイアンドエムが輸入権を有していた。 2003年2月、オートトレーディングルフトジャパンが、子会社「エルシーアイ」を設立し、輸入販売を開始した。エルシーアイは2005年4月、株式の51%を取得したVTホールディングスの傘下となった。 1975年に設立された自動車整備業者の全国組織「ロータスクラブ」(LOTAS CLUB )があるが、商号の綴りも異なり、ロータス・カーズとは無関係である。 モータースポーツ ロータスのレース活動は1954年に発足したチーム・ロータスが行っていたが、グループ・ロータスの中でもチャップマンの家族経営的な組織に位置づけられていた。グループ内でレーシングカー開発・製造を行っていたロータス・コンポーネンツは1971年に閉鎖され、スタッフはシャシーコンストラクターの「グループ・レーシング・デベロップメント (GRD) 」を設立した。 1982年のコーリン・チャップマンの死後、遺族はグループ・ロータスを売却したが、チーム・ロータスは手元に残した。その後、チャップマン家はチーム運営からも手を引き、1992年に長男のクライブ・チャップマンがヒストリックレーサーのメンテナンス事業を行う「クラシック・チーム・ロータス[9]」を設立した。チーム・ロータスは資金難により1994年に消滅した。 グループ・ロータス(ロータス・カーズ)のレース活動としては、1997〜1998年のFIA GT選手権にエリーゼGT1が参戦し、ル・マン24時間レースにも出場した(チーム名は「ロータス・レーシング」)。 2009年にダニー・バハーが新CEOに就任すると、積極的にモータースポーツに関与するようになった。バハーは以前レッドブルのF1計画に関わり、フェラーリでブランドイメージ戦略を担当した経験を持つ。また、モータースポーツディレクターにはスクーデリア・フェラーリの元広報部長だったクラウディオ・ベロが就任した。 活動としては、既存チーム(メーカー)への支援もしくは提携という形で、レース分野を幅広くカバーしているのが特徴である。車体は1960年代のブリディッシュ・グリーン&イエローのワークスカラーか、1970〜1980年代のJPSカラーを思わせるブラック&ゴールドにペイントされ、名門ロータスの再生をアピールしている。 インディカー 2010〜2011年にはインディカー・シリーズのKVレーシング・テクノロジーのスポンサーとなり、佐藤琢磨のマシンがブリティッシュ・グリーンに塗られた。2012年にはジャッドと提携してインディカーにエンジンサプライヤーとして参入し、ブランド大使を務めるジャン・アレジがインディ500にスポット参戦した[10]。しかし、エンジンが競争レベルになく、1年限りで撤退した。 F1 F1では2011年にルノーのメインスポンサーになり、チーム名は「ロータス・ルノーGP」とされた。その一方で、新生チーム・ロータス(翌2012年からケータハムF1チームに変更)に対して「ロータス」の名称使用停止を求める訴訟を起こした。 ロータス・ルノーGPは2012年よりロータスF1チームへ改称したが、同年4月にグループ・ロータスがスポンサーを降りることが決まった。ただし、少なくとも2017年まではロータスの名を用いるとされていた[11]ものの、資金難により2015年のシーズン終了後にルノーに買収されたため、「ロータス」の名称は再びF1から消滅した。 GP2・GP3 ARTグランプリと協力し、2011年より「ロータス・ART」の名でGP2とGP3に参戦している。 スポーツカー 2011年のインターコンチネンタル・ル・マン・カップ (ILMC) のLM-GTE Proクラスに「ロータス・ジェットアライアンス」のエヴォーラが参戦。2012年はコリン・コレス率いるコデワと組んでFIA 世界耐久選手権 (WEC) のLMP2クラスに参戦(シャシーはローラB12/80、エンジンはBMWベース[12])。2013年にオリジナルシャシーT128[13]を出走させた。 注釈 出典 参考文献 『ワールド・カー・ガイド8ロータス』ネコ・パブリッシング ISBN 4-87366-098-X 関連項目 チーム・ロータス キットカー TopGearテストトラック - 元はロータスのテストトラックだったが、現在はイギリスの自動車番組トップ・ギアが使用している。 プロトン (自動車) トヨタ自動車 ケーターハム サーキットの狼 コーリン鉛筆 - コーリン繋がりということからか、1970年代から1980年代に掛けてロータスのライセンシーを受けて主に児童向けの鉛筆や鉛筆削りを製造・販売していた。 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BA
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クイーンが初来日したのはいつ
クイーン (バンド)
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クイーン (Queen) は、イギリス・ロンドン出身の男性4人組ロックバンド。 1973年にデビュー。イギリス、アメリカ、日本をはじめ、世界中で成功したバンドの一つである。これまでに15枚のスタジオ・アルバム、その他多くのライブ・アルバムやベスト・アルバムを発表。アルバムとシングルのトータルセールスは1億7000万枚以上とされており、「史上最も売れたアーティスト」で11位。[3]ウォール・ストリートジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて3位。[4] 1991年にリードボーカルのフレディ・マーキュリーが死去してからも、残されたメンバーによるクイーン名義での活動は断続的に続いており、ギターのブライアン・メイとドラマーのロジャー・テイラーの2人が、2005年から2009年までポール・ロジャースと組んで「クイーン+ポール・ロジャース」として活動を行った。その後はアダム・ランバートを迎えた「クイーン+アダム・ランバート」としての編成での活動も行なっている。 2001年には、マイケル・ジャクソン、エアロスミスらと共にロックの殿堂入りをした。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第52位。 よく知られたヒット曲として炎のロックンロール、輝ける7つの海、キラー・クイーン、ナウ・アイム・ヒア、ボヘミアン・ラプソディ、タイ・ユア・マザー・ダウン、ウィ・ウィル・ロック・ユー、伝説のチャンピオン、ドント・ストップ・ミー・ナウ、バイシクル・レース、地獄へ道づれ、愛という名の欲望、レディオ・ガ・ガ、ボーン・トゥ・ラヴ・ユーなどがある。 メンバーと主な担当楽器 フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury, 1946年9月5日 - 1991年11月24日):リードボーカル 、ピアノ ブライアン・メイ(Brian May, 1947年7月19日 - ):ギター ジョン・ディーコン(John Deacon, 1951年8月19日 - ):ベース ロジャー・テイラー(Roger Taylor, 1949年7月26日 - ):ドラム 全員が作詞作曲を行い、ギター・キーボード(ピアノ・シンセサイザー・チェレスタも含む)が演奏できるため、上記に当てはまらないケースも多い。各メンバーのページを参照のこと。 サウンドの特徴 エレクトリックギターをダビングすることによって作られる「ギター・オーケストレーション」と、マーキュリー、メイ、テイラーの3人のメンバーが声のパートを重ねることによって作られる重厚な「コーラス」が、特に初期に目立ったサウンド上の特徴といわれている。 そのギター・オーケストレーションを生み出す源であるメイのハンドメイドギター「レッド・スペシャル」は、机のオークや暖炉のマホガニーを素材にし父親と作ったハンドメイドのギターであり、当時ではまだ珍しかった位相で音を変えるフェイズスイッチ、ローラーブリッジなどの斬新なアイデアが盛り込まれた。また、6ペンスコインをピックの代わりに使用していたのも音に影響を与えたといえる。 フィードバック奏法をやりやすくするための空洞なども、独自のサウンド作りに貢献している。ジョン・ディーコンが作った(あるいは既存の製品を改造した)とされるギターアンプも、随所で使用されている。 シンセサイザーを用いずにギター・オーケストレーションで重厚なサウンドを生み出していることを明示するため、初期のレコードには「ノー・シンセサイザー」というクレジットがなされている。 クイーンのコーラスの録音方法については、最上パートはテイラーが担当することが多い。特にオペラ風コーラスに際しては、BS−TBS番組「SONG TO SOUL ボヘミアン・ラプソディ」において当時のエンジニアら制作関係者の証言で、マルチトラックテープの磁性体が摺り減りテープのベース部分が透けるほど繰り返しコーラス部分のダビングを行った経緯が細かく説明されていた。 また、メンバー全員が作曲をして、作風もそれぞれ異なっているため、バリエーションの多様さがクイーンの強みとなっている。 来歴 レコードデビューまでの経緯 ブライアン・メイとロジャー・テイラーの在籍していたバンド「スマイル」がクイーンの母体となった。スマイルは、1969年9月にシングル「Earth」(B面は「Step On Me」)をリリース[5]。これはまったく成功せず、ボーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退[6]。その後任として、加入したのがスタッフェルの同級生でバンドとも知り合いだったフレディ・マーキュリーであった[7]。1970年7月12日のライブより「クイーン」と名乗り始める。何人かのベーシストが加入と脱退を繰り返し[8]、最終的にオーディションで加入したのが、ジョン・ディーコンであった。1971年2月のことである。クイーンの英公式サイトでは、4人が揃った1971年を正式なバンド結成の年としている[9]。 初期(1973年) 最初のアルバム『戦慄の王女』リリース当時、母国イギリスでは「ロックなのに曲構成が複雑で、サウンドに小細工が多い」「ディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、イエス[10]の亜流」などとメディアから酷評され、遅れてきたグラムロックバンドと見られることもあった。また、彼らは、このアルバム制作から発売までに2年近くももたつき、結果、後にマーキュリーがインタビューで述べていたように、レコード契約から1年以上待機させられたため「発売時にはあらゆる意味で、時代遅れになっていた」という。 黄金期(1974年-1979年) 1974年3月、2ndアルバム『クイーン II』をリリース。イギリスのメディアの評価はいっこうに変わらなかったが、シングル曲「輝ける7つの海」のヒットもあり、アルバムは全英5位まで上がるヒット作になった。このアルバムをきっかけに本格的なブレイクにつながるようになる。 1974年、3rdアルバム『シアー・ハート・アタック』からの先行シングル「キラー・クイーン」が全英2位のヒットとなる(後にマーキュリーは作曲者としてアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する)。また同年、ディープ・パープル、モット・ザ・フープルの前座として初のアメリカツアーを行うが、メイが肝炎にかかってしまいツアーの途中でクイーンは降板を余儀なくされる。 1975年2月にカンサス、スティクスらの前座として再びアメリカツアーを開始する。ツアーは各地で大盛況を得て、「キラー・クイーン」は全米12位まで上昇する。しかしツアーの途中、今度はマーキュリーが喉を痛めてしまう。マーキュリーはしばらく安静状態を強いられたが、その後、回復してツアーを無事終了させる。当時日本ではルックスや煌びやかなサウンドから若い女性を中心に人気を集めており、同年4月に初来日した際には、空港に約1200人のファンが押し寄せ、武道館ライブは成功を収めた。 10月には、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』からの先行シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が全英9週連続1位の大ヒットを記録。当初「6分を超える長い曲などラジオで流してくれない」とレコード会社側は曲のカットを指示したが、マーキュリーとテイラーは知り合いのラジオDJであるケニー・エヴェレットに意見を求めた。エヴェレットはこの曲を気に入り、自身のラジオ番組で2日間で14回も流したという。「ボヘミアン・ラプソディ」はチャリティーでない曲としてはイギリス史上最高の売り上げを記録し、マーキュリーは同曲の世界的ヒットにより2度目のアイヴァー・ノヴェロ賞を受賞する。その結果、4枚目のアルバム『オペラ座の夜』は初の全英1位を獲得、アルバムはクイーンに批判的だったメディアからも非常に高い評価を得た。 1976年、軌道に乗ったクイーンはアメリカ、日本、オーストラリアなどで次々とツアーを敢行する。 1977年、自身のレコーディングスタジオで創作活動に専念し、初のセルフ・プロデュースである5枚目のアルバム『華麗なるレース』を発表。これまで以上に分厚いサウンドになっているものの、基本的には『オペラ座の夜』の路線をさらに推し進めた作風となっている。全英2位、全米13位のヒットとなった先行シングル「愛にすべてを」や「懐かしのラヴァー・ボーイ」のほかに、歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」が収録され、アルバムはイギリスや日本で1位を獲得するヒット作となった。 再びセルフ・プロデュースで臨んだ6枚目のアルバム『世界に捧ぐ』では、パンク・ロックが流行しつつあった当時の音楽シーンの流れを意識し、サウンド的にはシンプルな方向へ向かい、トレードマークの一つであったコーラス・パートの全くない曲(「永遠の翼」など)も収録された。アルバムは日本とイギリスで4位止まりだったが、「伝説のチャンピオン」や「ウィ・ウィル・ロック・ユー」がヒットしたアメリカではこれまでの最高位である3位を記録。またヨーロッパの中で唯一、クイーンが苦手としていたフランスで「ウィ・ウィル・ロック・ユー」が12週連続1位となり、13週目には「伝説のチャンピオン」が1位となった。 1978年にはヨーロッパ9カ国でツアーを開催。6年目にして初のフランスでのコンサートも成功を収めた。 7枚目のアルバム『ジャズ』では再びロイ・トーマス・ベイカーを迎え、バラエティに富んだサウンドと楽曲を展開している。「バイシクル・レース」プロモーション用に制作された、全裸の女性が自転車レースをするというポスターとプロモーションビデオは物議をかもした。「バイシクル・レース」の影響もあり、このアルバムの発売直後にはマスコミは一斉にクイーンを批判したがアルバムは全英2位の大ヒットとなった。このアルバム発売と同年、クイーンはカナダを皮切りに北米ツアーを開催。マーキュリーはステージに上半身ヌード姿で自転車に乗って登場した。 1979年にはヨーロッパツアーを開催。東西冷戦状態であったユーゴスラビアもツアーのプログラムに入っていたことで話題を呼んだ。また、マーキュリーがバレエ好きであったことから国立バレエ団の知的障害者への義援金チャリティ特別公演に出演、マーキュリー自身もバレエを踊った。カンボジア救済チャリティコンサートにも出演し、初日に単独コンサートを開いた。さらに、マーキュリー作の「愛という名の欲望」が全米1位と、アメリカを始め全世界で好成績を収め、ライブ・アルバム『ライヴ・キラーズ』で1970年代を締めくくる。 第2次黄金期(1980-1986年) エルヴィス・プレスリー風の「愛という名の欲望」の大ヒットに続いて、1980年のアルバム『ザ・ゲーム』 も全英・全米ともに1位を記録。またアルバムからシングルカットされ全米1位を記録したディーコン作の「地獄へ道づれ」は、アメリカでの「ファンク」「ソウル」など、ブラックミュージックのチャートでも上位にランクインし、アメリカでのクイーン最大のヒット曲となった。 また、その他のサウンド上の特色として、このアルバムから、シンセサイザーが導入されていることが挙げられる。これは『ザ・ゲーム』制作途中で、同名映画のサウンドトラック『フラッシュ・ゴードン』の録音が挟まった形となったことが、大きな要因となっている。 1981年、初の南米進出となる、ブエノスアイレスでのライブをはじめ、サンパウロではたった2日で観客動員数の記録を更新した。南米でのツアーを終えたメンバーはスイスでレコーディング中に親交を深めていたデヴィッド・ボウイとの共作による「アンダー・プレッシャー」はイギリスやアルゼンチンで1位を獲得するなど世界的にヒットした。さらに、この年発表された『グレイテスト・ヒッツ』は、イギリス史上最も売れたアルバムである。 1982年発表されたアルバム『ホット・スペース』は、「地獄へ道づれ」などがアメリカで成功したことから、マーキュリーとディーコンを中心にファンク、ダンスミュージックの要素をアルバム全編にわたって突き詰めた内容だった。しかしこの方向転換はファンや評論家らから強い反発を受けた。 1983年にはバンドを小休止し、各自ソロ活動に専念した。 その結果、1984年のアルバム『ザ・ワークス』では軌道修正を図り、ファンが待ち望んでいたような楽曲が集まった保守的ともいえる作品に仕上がった。この頃になるとアメリカや日本での人気は落ち着く一方で、テイラー作の「RADIO GA GA」が19ヵ国1位と大ヒットし、またディーコンの「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」が、南米などで「自由へのシンボルとしての曲」と位置づけられるなど、ヨーロッパ圏だけではなく南アメリカやアフリカといった地域でも人気を集めるようになっていった。しかしこの頃から、前述にもあるように各メンバーのソロ活動も盛んとなり、加えてメンバー間の仲も険悪になっていく。 「1985年7月13日のライヴエイド出演がなければ、そのまま、本当に解散していたかもしれない」と、後にメンバーも振り返っている。 1985年、リオデジャネイロで行われたライブでは、2日で観客動員数60万人という驚異的な記録をつくった。 1985年に行われた20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」では出演アーティスト中最多の6曲を披露、そのパフォーマンスの質の高さにロンドン会場のヘッドライナーを務めたエルトン・ジョンがバックステージで悔しさを顕にし地団駄を踏んだとされる。クイーンの圧倒的なライブは、スタジアムの観客やライブが中継された国々のファンからも絶大な反響があり、世界各国でクイーンのアルバムがチャートを急上昇した。この思わぬ反響を受けてクイーンは新曲のレコーディングを開始し、同年11月にシングル「ワン・ヴィジョン」を発表。メディアはこぞって「ライヴエイドの便乗商売だ」とこれを批判したが、イギリスではチャート7位にランクインした。 1986年、アルバム『カインド・オブ・マジック』を発表し、イギリスを中心に世界中で大ヒットを記録。またアルバム発表後の「マジック・ツアー」では、ヨーロッパ諸国の全26公演で200万人以上の観客を動員。中でもウェンブリー・スタジアムで行われたコンサートは2日間で15万人の観客動員を記録し、8月9日にはイギリスのネブワースパークで観客30万人を記録。ツアーは大成功を収めた。しかし、マーキュリーの容態の悪化に伴い、クイーンの4人が揃ってツアーを行ったのは、これが最後となった。 後期、フレディ・マーキュリーの死(1987年-1991年) 書籍「フレディ・マーキュリー 華やかな孤独」によれば、ライブ後のパーティーでレズビアン・ショーや、約10人のダンサーによるストリップ・ショーがおこなわれたこともあったという。フレディーの誕生パーティーでは、総額20万ポンド(当時約8千万円)が浪費された。「マジック・ツアー」の成功以来、メンバーは各自ソロ活動を行っていた。 1988年1月にはスタジオに再集結し、アルバムの制作を開始。 1989年5月に、約2年ぶりのアルバム『ザ・ミラクル』を発表。先行シングル「アイ・ウォント・イット・オール」共々、本国イギリスやヨーロッパ各国でビッグ・ヒットを記録し、人気が健在であることを証明。しかし、アルバムにともなうツアーについては、マーキュリーはあっさり否定。一方以前からマーキュリーには「エイズに感染しているのではないか」との噂が飛び交っていたが、当時本人はこれを否定し続けていた。実際にはマーキュリーがエイズに感染していることは1987年頃に判明したといわれているが、その真相は長年ベールに包まれていた。 1991年初頭に、前作からわずか1年あまりで14作目のアルバム『イニュエンドウ』をリリース。サウンド的にはやや初期に戻ったか、ブリティッシュ系ロックバンドをさらに自覚したようなサウンドとなった。タイトル・ナンバーではスティーヴ・ハウによるアコースティック・ギターソロがフィーチャーされた。メンバー以外のミュージシャンがクイーンのスタジオアルバムでギターを演奏したのはこれが最初で最後である。アルバム『イニュエンドゥ』からシングルカットされた「イニュエンドゥ」は全英1位、「ショウ・マスト・ゴー・オン」は全仏2位とシングル面でも大健闘した。しかし、この頃すでにマーキュリーの体は病魔に侵されていた。 「輝ける日々」は、マーキュリーの生前最後のミュージックビデオ出演になった。映像では、マーキュリーが見る影もなくやせ衰えていることがわかる。 1991年11月23日、マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、スポークスマンを通じて以下の声明文を発表している。 「私はHIVテストで陽性と診断され、AIDS患者であることが確認されました。しかし私の身の回りの人々のプライバシーを守るため、この事実を隠しておくことが適当だと考えておりました。 しかし今、世界中の友人たちとファンの皆様に真実をお伝えする時が来ました。これからはこの恐ろしい病気に対して、私と私の医師団と世界中で私と同じように苦しんでいる人々と一緒に戦って下さい。」 そして翌24日、フレディ・マーキュリーはHIVによる免疫不全が原因となって引き起こされたニューモシスチス肺炎により45歳という若さで死去。亡くなった1991年は、奇しくもクイーン結成20年目だった。マーキュリーが死んだことによって世界中に衝撃が走り、葬儀会場は世界中から駆けつけたファンの花束で埋め尽くされた。 マーキュリーの死の直後、クイーンのアルバムが世界中でチャートインし、イギリスでは「ボヘミアン・ラプソディ」がイギリス史上初の同一曲2度目の1位という記録を打ち立てた。また、マーキュリーの遺言により初登場1位を獲得した作品の収益金はすべてエイズ基金に寄付された。 また、1992年にバルセロナオリンピックの開会式でオペラ歌手のモンセラート・カバリェとマーキュリーがデュエットする予定だったが、マーキュリーの急死によりホセ・カレーラスが代役を務めた。 フレディ・マーキュリー死後の活動 クイーンは正式に解散したことはなく、テイラーとメイがそれぞれソロ活動を行ったり、残されたメンバーでクイーン名義でたびたび活動したりしている。ソロ活動においては、メイは、クイーン時代の延長線上に当たる音楽を、一方、テイラーは、クイーンとは異なったアプローチで、それぞれ音楽活動を断続的に続けていた。ディーコンは、あまり目立った活動は行っておらず、後述するように2011年現在は音楽業界から完全に引退している。 マーキュリー死後から活動再開までの、クイーン名義での主な活動は以下の通り。 1992年-イギリスの首都ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートを開催。様々な大物アーティストと「クイーン+」名義で共演した。さらに日本でもNHKでライヴの様子が放送された。 1995年-マーキュリー、ディーコン在籍時クイーンのラストアルバム『メイド・イン・ヘヴン』発表。マーキュリーの死の直前にレコーディングしたアルバムであり、全世界で2000万枚を売り上げる大ヒットとなった。 1997年-パリのナショナル・シアターで開催された「スペシャル・バレエ」プレミア公演で、エルトン・ジョンと「ショウ・マスト・ゴー・オン」を演奏した。 1997年-クイーンとしては久々の新曲「ノー・ワン・バット・ユー」を発表した。 2000年-ボーイズグループの5iveによる「ウイ・ウィル・ロック・ユー」のカヴァーにメイとテイラーが参加。 2002年-オランダ女王の誕生日祝賀式典コンサートに参加、45分あまりのライヴを行った。 2002年-エリザベス2世女王即位50周年記念コンサートに参加、「ボヘミアン・ラプソディ」を初めてフルコーラスで演奏する。ちなみに、開会式にギターでGod Save the Queenを演奏したのはブライアン・メイである。 2002年からはクイーンの曲全27曲を使用した『ウィ・ウィル・ロック・ユー』も初演され、ロングランを続けている。 2003年-ネルソン・マンデラのエイズ撲滅運動である46664のライヴに参加。また46664のためにクイーンとしては久々の新曲「Invincible Hope」、「The Call」、「Say It's Not True」などを書き下ろす(2003年の46664コンサートではメイとユーリズミックスのデイヴ・スチュワートがギターを担当。「Say It's Not True」は、後述のクイーン+ポール・ロジャース名義のコンサートでも演奏されている)。 2004年-ペプシ・コーラのCMで、ローマの闘技場でブリトニー・スピアーズ、ビヨンセ、ピンクが「ウィー・ウィル・ロック・ユー」歌うCMが話題になった。また、CMには観客に扮したメイとテイラーも出演した。 2004年-元フリーのヴォーカリストであるポール・ロジャースと共に、「クイーン+ポール・ロジャース」の活動を開始。 2005年-ロンドンでクイーン+ポール・ロジャースとしてのライヴを開催。8万人を動員する大規模なライヴだった。さらに3人は、同時期にロンドンで起こった同時多発テロで救助活動を行った5000人をライヴに無料招待した。 2006年-クイーン+ポール・ロジャースとして初の全米ツアーを行った。 2006年-クイーンとパチスロがコラボした「ロックユークイーン」が登場。海外の大物アーティストがパチスロと完全コラボしたのは世界初。 2007年-クイーン+ポール・ロジャースとしての初のシングル「セイ・イッツ・ノット・トゥルー」が発売された。 2008年-ウクライナで反エイズ・キャンペーンを支持するチャリティーコンサートに参加した。 2009年-DVD『ビッグ・ライヴ 2008〜ライヴ・イン・ウクライナ』が発売された。 2009年-クイーン+ポール・ロジャースとしての活動を終了。バッド・カンパニーとしての活動再開へ移行した。 2010年-『クイーン シングル・コレクション Vol.1〜4』が発売された。 2010年-それまで40年近く契約していたEMIからアイランド・レコードに移籍することを発表(日本ではユニバーサルミュージック)。 2011年-クイーン結成40周年、フレディ・マーキュリー没後20周年を迎える。 2011年-クイーンの楽曲の音源を最新機器でクリアにした、リマスター盤のアルバムが随時発売予定。 2011年-9月5日、マーキュリーの誕生日に合わせてGoogleのロゴがマーキュリーのデザインに変わった。 フレディ・マーキュリー追悼コンサート(1992年) マーキュリーが死去した翌年の1992年2月12日、メンバーからマーキュリーの追悼コンサートが4月20日に開催されることが発表された。出演者は未定だったもののチケットは2時間で完売した。そして同年4月20日に行われたフレディ・マーキュリー追悼コンサートにはロバート・プラント、エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、メタリカといった大物アーティストが集結し、会場となったウェンブリー・スタジアムには7万人を超えるファンが集まった。世界でも生中継され、元祖クイーン大国・日本でも、NHKでクイーンの歴史を紹介するVTRと共にライブの様子が放送された。 メイド・イン・ヘヴン(1995年) フレディ・マーキュリーの死から4年後、マーキュリーが生前最後に残したスタジオレコーディング曲が収録されたアルバム『メイド・イン・ヘヴン』が発売された。クイーンとしてのオリジナルアルバムはこれがラストとなる。「ヘヴン・フォー・エブリワン」や「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」などの各メンバーのソロ曲のリメイク版と、「マザー・ラヴ」や「イッツ・ア・ビューティフル・デイ」などの新曲、合計11曲が収録されている。また、最後にはCDには記されていない22分間のボーナストラックが出現し、マーキュリーへの追悼または天国をイメージさせるような音声が収録されている。アルバムは全世界で1,000万枚近くを売り上げるヒットを記録した。 ジョン・ディーコンの引退(1997年) ジョン・ディーコンは、1997年の「ノー・ワン・バット・ユー」の発表を最後に、クイーンとしての活動には一切参加しなくなった。2004年にはテイラーが「ジョンは事実上引退している」と発言したほか、クイーンと付き合いの長い東郷かおる子が寄稿したクイーン+ポール・ロジャース日本公演(2005年)のパンフレットには「音楽業界から引退」と記載された。しかし2002年の「エリザベス女王在位50周年式典」(The Queen's Golden Jubilee)の一環であるロックコンサート以降は、メイとテイラーの二人が「クイーン」名義で出演したため、最低この2人のメンバーが揃うと、「クイーン」のバンド名が使えると解釈しうる。最近のインタビューによると、ディーコンは荒波の音楽業界を嫌い、家族と共に暮らしているとのこと。メイとテイラーがイベントに誘ってもディーコンは一切参加しようとしないが「彼は今でもクイーンの一員だよ」と2人は述べている。 クイーン+ポール・ロジャース(2004年-2009年) 2004年後半、テイラーとメイ(前述のとおり、ディーコンは音楽業界から引退)は、英国音楽殿堂の授賞式での共演をきっかけにして、2005年1月、元フリーやバッド・カンパニーのヴォーカリストであったポール・ロジャースと組んで、「クイーン+ポール・ロジャース」として活動することを正式に決定した(メイは、それ以前にもロイヤル・アルバート・ホールでの公演など、数回ロジャースと共演していた)。 フレディ・マーキュリーという超個性派ヴォーカリストの後任としてマーキュリーとは似ても似つかない男、ロジャースが選出されたことは世界中から疑問の声が挙がったが、メイは「僕は誰かをフレディの代役に立てるという意見にはずっと反対だった。でもフレディの代わりを務めようなんてこれっぽっちも思っていない男に出会ったんだ。ポールは彼だけの色を持ったフレディには似ても似つかない男さ」と述べた。『愛にすべてを』をカヴァーしたジョージ・マイケル、『伝説のチャンピオン』をカヴァーしたロビー・ウィリアムズなどがクイーンの新ヴォーカルに相応しいのではないかという意見があった。実際、メンバーもウィリアムズをクイーンの新ヴォーカルとして迎え入れる話はしていたそうだが「やはり違う気がする」ということでロジャースを選出した。 ヨーロッパツアーのチケットはソールドアウト、来日公演は、さいたま、横浜、名古屋、福岡で行われ、10万人を動員するなど、各地で大成功を収めた。2006年にはクイーン名義では24年ぶりの全米ツアーも成功させる。10月には「クイーン+ポール・ロジャース」としてスタジオ入りするとメイのホームページで宣言され、2008年にはニューアルバム『ザ・コスモス・ロックス』(The Cosmos Rocks)が発売され、それに伴うヨーロッパ・南米ツアーを行っていたのだが、2009年、ロジャースは「クイーン+ポール・ロジャース」としての活動に終止符を打ちバッド・カンパニーの再始動に移行した[11]。 その後の活動(2010年-2012年) この時期クイーンとしての表立った活動はなかったが、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの2人によって今もバンドは存続しており、日刊スポーツの取材に対してテイラーは「クイーンは永久に続ける」と誓っている[12]。 2011年にクイーン結成40周年を記念して、音源をクリアにしたリマスター盤のオリジナルアルバムおよびベストアルバムが随時発売されているが、7月現在まだ3分の1ほどしかリリースしていないにも関わらず、日本円にして56億7600万円以上もの売上を記録し、改めて未だ人気が衰えていないことを証明した。 さらにメイとテイラーによると「今、フレディとマイケル・ジャクソンが共同制作した大量の未発表音源をいじっているんだけど、近いうちに2人のコラボアルバムが発売できたらいいなと思うんだ」と述べており、世紀のスーパースターであるフレディ・マーキュリーとマイケル・ジャクソンのコラボアルバム発表間近かと世界中で注目されている。ちなみに先日行われたNMEの「世界最高のヴォーカリストは?」という1000万人以上を対象とした大規模アンケートで1位にジャクソン、2位にマーキュリーが輝き、この2人が他のアーティストを大きく離していたことが発表された。 メイはイギリスの女性ミュージカル歌手ケリー・エリスとアルバムを制作したり、全英ツアーを行ったりと相変わらず積極的な音楽活動を続けている。 また、2011年5月23日に発売された世界的ポップスシンガーであるレディー・ガガの3rdアルバム『ボーン・ディス・ウェイ』にメイとのコラボ曲「ユー・アンド・アイ」が収録された[13]。 メイはバックボーカルとリードギターで参加している。2011 MTV Video Music Awardsでは、男装したガガとメイがステージ上で「ユー・アンド・アイ」を披露し、ガガの受賞が発表された際には2人が抱擁する場面が映し出された。 このことをきっかけにガガの実力を確信したメイは、NMEのインタヴューでクイーンの新ヴォーカル候補として彼女の名前を挙げている。この提案には、熱烈なクイーンファンであるガガの方も乗り気なようで、近いうちにガガがクイーンのメンバーに加入する可能性がある。しかし唯一無二のヴォーカリスト、マーキュリーの存在は大きく、抜群の歌唱力を誇るポールが加入した時でさえファンから複雑な反応を受けたため、メイは「テレビの特番でいろんなアーティストをヴォーカルに迎えて演奏してみたい」と付け加えており、新ヴォーカリスト選びには慎重な姿勢を見せている。一方、テイラーの方は「2012年のロンドンオリンピックに合わせてポールともう一度組む可能性がある」と発言しており、今後どのような形でクイーンとしての活動を進めていくのかが注目されている。さらにテイラーは2012年に一般応募から選考した若い才能のある歌手を迎えて、クイーンのトリビュートツアー Queen Extravaganza を北米で行っている。また、前述のようにクイーンがロンドンオリンピック関係でメディアに露出することが確認されており、メイもインタヴューで五輪の閉会式にクイーンが参加するという趣旨の内容をほのめかしていた。2012年8月12日に行われたロンドンオリンピック閉会式にジェシー・Jと共に参加した。 クイーン+アダム・ランバート(2012年-) 2009年、ブライアン・メイとロジャー・テイラーはアメリカのオーディション番組『アメリカン・アイドル』にゲスト出演する。シーズン8の結果発表の前にふたりの演奏で最終候補者のクリス・アレンとアダム・ランバートが「伝説のチャンピオン」を熱唱する。ブライアン・メイとロジャー・テイラーがアダム・ランバートのボーカルに惚れこみ、その場でクイーンへの参加を打診したと伝えられている。その件に関してその気があるのかとAP通信がランバートに聞いたところ「それは難しい質問だね。だって、正直クイーンにならないかっていう申し出をどう断ったらいいんだ?そんなの信じられないよ!でも、今、自分でやりたいこともあって、それが僕の目標でもあるんだ。だから、できることなら両方やってみたいね」と述べている。 2011年、クイーンがMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードでグローバル・アイコン賞を受賞。ブライアン・メイとロジャー・テイラーはアダム・ランバートと再共演し「ショウ・マスト・ゴー・オン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」の3曲をメドレーで披露した。 2012年、6月から7月にかけてウクライナ、ロシア、ポーランド、イギリスの4都市で6公演を行った。2013年の活動は「iHeartRadio Music Festival 2013」への出演だけだったが、2014年には6月から7月にかけて24公演の北米ツアーを行い、8月には「SUMMER SONIC 2014」のヘッドライナーとして来日公演を行った。 アダム・ランバートはクイーンとの共演について「僕の見方としては僕はフレディの代わりを演じるつもりも、フレディの上を行くつもりも、フレディと競うつもりもまったくないし、そんなことはまるで考えてないんだ。フレディとバンドとで書いた音楽を歌って、それをステージに持っていっていいショーをやるように請われたってことはすごく光栄なことだと、そう思ってるんだ。でも、観てるみんなが比較することばかりに気を取られると、きっとライヴを楽しめなくなるとも思うよ」と語っている。 アダム・ランバートをフロントマンに迎え活動を継続することに不満を持つファンについては、メンバーは「フレディ・マーキュリーも承認したと思う」とアダムの起用を擁護している[14]。 クイーンの関連人物 クイーンと交友のあったアーティスト エルトン・ジョン イギリスを代表するアーティストで、クイーンとは同期。かつて、クイーンと同じ人物からマネジメントを受けていた。マーキュリーの死後、長年バンドとしての活動を行っていなかったクイーンを、エルトンは「車庫に入ったフェラーリ」と評した。1992年のマーキュリーの追悼コンサートでは「ボヘミアン・ラプソディ」を、1997年には「ショウ・マスト・ゴー・オン」をクイーンと演奏した。「ショウ・マスト・ゴー・オン」に関してはエルトンも気に入っているらしく、自身のライブで度々カバーしている。 マイケル・ジャクソン ジャクソンがフレディマーキュリーのファンであり、度々クイーンのライブを見に来ていたことから、メンバーとの交友が始まった。1980年前後からマーキュリーとジャクソンの互いの声質や衣装に影響が見られる。クイーンの楽曲「地獄へ道づれ」は、もともとジャクソンに提供した曲であったが、ジャクソンのプロデューサーのクインシー・ジョーンズが難色を示したため、結局クイーンが歌うことになった[15]。しかし、メンバー内ではマーキュリーと曲を制作したディーコンの「シングルカット派」と、メイとテイラーの「アルバムのトラック派」で意見が割れていた。ジャクソンは「この曲は絶対に出すべきだ」と助言をしたが、クイーンのイメージに合わないディスコ調に違和感を覚えていたテイラーは「あの曲は絶対にヒットになんかならないんだから。どこまで勘違いしたら気が済むんだ!」と反論したという。結局、シングル発売された「地獄へ道づれ」は世界中でヒットナンバーとなり、これを受けてジャクソンはアルバム『スリラー』以降、ジョーンズに対する発言力が強くなったと言われる(しかし「地獄へ道連れ」はその後、一時期クイーンを低迷期に導く火種となってしまったため、テイラーの推測も当たっていたことになる)。ジャクソンのアルバム『スリラー』は6500万枚以上売れる超ヒット作となったが、マーキュリーがインタビューでの「あのアルバムに俺とマイケルの曲が入っていれば大金持ちになれたのに」という冗談を、ジャクソンが真に受けてショックを受けてしまったというエピソードがある。なおジャクソンとミック・ジャガーのコラボ曲「ステイト・オブ・ショック」は元々、マーキュリーとのコラボレーションアルバムに収録させる予定であったが、ジャクソンがスタジオにラマを連れてきたことに憤慨したマーキュリーが帰国してしまったことで完成せず頓挫した。この一連の出来事ののち、クイーンとの交友は絶たれることとなった(それに加え、1986年から1989年にかけてジャクソンはアルバム制作やワールド・ツアーを行っていたため、単に多忙で交友できる時間がなかったとも考えられる)。しかし、1997年にリリースされたジャクソンの楽曲「ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス」は、クイーンの楽曲「ウィ・ウィル・ロック・ユー」からヒントを得て制作されたという秘話が残っている。 デヴィッド・ボウイ イギリスのグラム・ロッカー。モントルーでクイーンのメンバーと親しくなり、1981年にクイーンと「アンダー・プレッシャー」を共作・レコーディングし、全英1位を獲得した。マーキュリーの追悼コンサートではユーリズミックスのアニー・レノックスと「アンダー・プレッシャー」を披露した。また、ボウイはテイラーが尊敬しているシンガーの1人でもある。 ジョージ・マイケル イギリスの人気グループ、ワム!でヴォーカリストで、ソロでも成功したシンガー。かつて、マーキュリーと同じ人物からボイストレーニングを受けていたことがある。マーキュリーの追悼コンサートでは、クイーンと「愛にすべてを」を披露し、あまりの完成度の高さに「ジョージを加えて新生クイーンが誕生するのではないか」とまで噂が立った。そのあと、クイーンとマイケルによる「愛にすべてを」のライヴ演奏はシングル発売され、全英1位を獲得した。 ポール・ロジャース/Paul Rodgers フリーのボーカリストで、フリーの解散後にレッド・ツェッペリンのメンバーとバンドを組んだこともあった。2004年〜2009年にかけてメイ&テイラーと共に「クイーン+」名義で活動した。現在はバッド・カンパニーで活動中。 クイーンが影響を受けたバンドやアーティスト 好んでいた ビートルズ 世界で最も成功したロックバンド。特にジョン・レノンからの影響は大きかった。レノンが暗殺された翌日のコンサートで、彼の代表曲「イマジン」をカヴァーしたり、アルバム「ホット・スペース」にレノンの追悼曲を収録している。また、70年代後半に、レノンがクイーンの楽曲「愛という名の欲望」を聴いて再び創作意欲が湧いたという秘話が残っている。 ジミ・ヘンドリックス 27歳という若さで夭折した伝説のギタリスト。右利き用のギターを逆さまにして左利きの構えで演奏するスタイルで知られる。ギターを歯や背中で弾いたり、火を放ったり破壊したりするパフォーマンスで有名。彼の個性的なギターの演奏法やステージパフォーマンスは、マーキュリーやメイが影響を大きく受けている。特にマーキュリーは、ライブに足を運ぶほどの熱狂的なファンであり、14日連続でヘンドリックスのライブを観たこともある。 エルヴィス・プレスリー 1977年に42歳という若さで亡くなったプレスリーも、クイーンに大きな影響をもたらしている。1974年〜1985年ほどまでは、プレスリーの楽曲「監獄ロック」をカバーしている。 嫌っていた カーペンターズ/The Carpenters アメリカの兄妹ポップスデュオであり、クイーンのプロフィールに「嫌いなアーティスト」として彼らの名前が挙げられていた。 シド・ヴィシャス/Sid Vicious イギリスのパンクロックバンド、セックス・ピストルズの2代目ベーシストであり、かつてクイーンと同じスタジオでアルバムを制作していた。この当時、事務所を通さず雑誌取材に応じたマーキュリーの写真をタブロイド紙が悪意のあるキャプション付きで記事にしたのを読んだヴィシャスが、クイーンがレコーディングをしている最中のスタジオの調整室に乱入。マーキュリーに対し「バレエを大衆に広めるのに成功したか?」と絡んだため、マーキュリーは「シドの名前をサイモン・フェロシアスとワザと間違えて呼びながら襟首を掴んでスタジオから追い出した」と、本人及びスタジオ関係者の証言がドキュメンタリー番組に残されている(クイーン デイズ・オブ・アワー・ライブス) クイーンと日本の関係 欧米で本格的に人気が出るよりも先に、日本で女性ファンを中心にクイーンの人気が高まっていった。1970年代半ば、日本で最も大きな影響力をもっていたロック雑誌「ミュージック・ライフ」が最大限のプッシュをしたこともあり、若い女性の間で人気が爆発し、アイドル的人気を博した。 初来日した1975年4月の時点で、クイーンは「キラー・クイーン」や『シアー・ハート・アタック』の大ヒットなどもあり、必ずしも本国に先駆けて日本で最初に人気が出たというわけではなかった。ただ相変わらず本国の音楽評論家からは酷評されていた上に、当時のマネージメント会社とのトラブルやメインアクトとして臨んだ初の全米・カナダツアーがフレディの喉が悪化して途中でキャンセルされるなど、バンドにとっては非常に厳しい状態が続いていた。そんな中での遠い異国・日本での人気は衝撃だったと後にメンバーも語っている。初来日の際は空港にファン1200人が集結しパンク状態になった。そしてメンバーは会見を行い芸子らから茶を提供されたり、ファンからもらったけん玉で遊んだりするなどして日本文化を満喫し、日本武道館公演では着物を着て演奏し見事成功を収めた。初来日の際、ロジャーとブライアンは2人だけで東京タワーへ観光に行ったところ多くの子供に「クイーン!クイーン!」とサインをせがまれながら囲まれ、その後結局ホテルで缶詰状態だったという。 日本の歓迎以来、メンバーは親日家となり、5枚目のアルバム『華麗なるレース』には、歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」を収録した。メンバーはツアー以外にも何度かプライベートで来日しており、とくに日本文化に関心があり、美術学校で学んだ経験もあったフレディは伊万里焼や九谷焼等を趣味で収集しており、それらの目利きもできたという。また、自宅の庭に日本庭園を造らせたりしていた。ブライアンは来日した際、日本の畳が気に入ったが、大きすぎて持ち帰れないことに非常に残念がっていたという。また、新宿にはフレディの行きつけのゲイバーがあり、度々通っていたと思われる[16]。 2004年にはフジテレビのドラマ『プライド』の主題歌にクイーンの楽曲「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」が使用され、日本独自のベストアルバム『ジュエルズ』がオリコンチャート1位を獲得し、180万枚を売り上げる大ヒットを記録、「第2次クイーンブーム」が起こった。クイーンはその年の日本ゴールド・ディスク大賞海外部門を受賞する。これによりクイーンを知らなかった若年層のファンも増え、日本でのクイーン人気はさらに上昇した。これについてメイは「クイーンのベストアルバムが日本で売れていることを聞いてとても驚いています。クイーンが日本にとって外国アーティストの中では大きな存在だということは知っていましたが、日本の音楽史の中ではクイーンは小さい存在だと思っていました。けれども今回のヒットで日本の大物アーティストと肩を並べられてとてもうれしいです。」と語っている。 2011年、日本で東北地方太平洋沖地震が起きた際、ブライアンは「朝起きてテレビを付けたら津波の様子が映っていて涙が出た。僕たちと日本は強い絆で結ばれている。みなさんが一日でも早くこれまでの生活を取り戻し、この悲劇を記憶のはるか彼方へ追いやられるよう愛のメッセージと同情の気持ちを送りたい」と語った[17]。 また、震災支援のために発売されたチャリティーアルバム『ソングス・フォー・ジャパン』にレディー・ガガやボブ・ディラン、ビヨンセ、ボン・ジョヴィ、マドンナ、エルトン・ジョンといった世界のトップアーティスト38組の楽曲と共にクイーンの楽曲で歌詞の一部が日本語で歌われている「手をとりあって」が収録された。アルバムはiTunesで配信され、世界18ヵ国で1位を獲得した[18]。 現在でも、ベストアルバムに<b data-parsoid='{"dsr":[25392,25411,3,3]}'>日本限定のボーナストラック</b>を収録したり、クイーン+ポール・ロジャースやクイーン+アダム・ランバートの来日公演の際に「手をとりあって」や「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」等の日本で特に人気のある曲を特別にセットリストに加えたりもしている。TV番組の主題歌やCM等にクイーン自身の音源を使用する許可が下りる頻度も、日本は他の国と比べてかなり高く、使用料も「破格」と言っていいほど安かったという。また、日本の音楽メディアからのインタビューや取材等のオファーをクイーンのメンバーが断ることは殆どなく、フレディは1986年にプライベートで来日した際に、日本の「ミュージック・ライフ」誌の取材を受けている(プライベートでの来日時にメディアの取材を受けるのは、他のアーティストを含めても極めて異例)。 記録 ギネス・ワールド・レコーズによると、2005年時点で、クイーンのアルバムは、全英アルバムチャートで合計1,422週、つまり27年間チャートインしている。これはビートルズ、エルヴィス・プレスリーといったアーティストを200週近く上回って歴代第1位であり、世界で最も英国チャートにランクインし続けたアーティストに認定された。 前期のベストアルバムである『グレイテスト・ヒッツ』は、2018年までに英国内だけで約610万枚を、後期のベストアルバムである『グレイテスト・ヒッツII』も英国のみで約390万枚を売り上げているなど、国内セールスだけをとっても破格のチャート・アクションをみせている。ちなみに『グレイテスト・ヒッツ』は英国アルバムチャートで562週(約10年間)に渡りチャートインし、全世界では2500万枚以上を売り上げた。英国での『グレイテスト・ヒッツ』の売り上げは、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』やオアシスの『モーニング・グローリー』、アデルの『21』などの英国を代表するアーティストのアルバムを抑えて歴代1位を記録している[19]。 クイーンは全世界の異なる国で、ナンバーワンのアルバムとナンバーワンのシングルをそれぞれ18枚、またトップテンのアルバムを26枚、トップテンのシングルを36枚、ナンバーワンのビデオを10枚保持している。 2007年1月に、クイーンの『グレイテスト・ヒッツI&II』が、北米のiTunesダウンロードチャートで第1位を獲得した。 クイーンを代表する楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」は1975年に英国で9週連続1位となり、その後数週間に渡ってトップ10にランクイン。世界中の国々でも1位を連発した。さらに、マーキュリーの死後の1991年には、英国史上初の「同一曲2度目の第1位」を獲得した(5週連続1位)。英国で現在までに約254万枚のセールスを記録しており、エルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウインド〜ダイアナ元英皇太子妃に捧ぐ」(493.5万枚)、バンド・エイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(380.2万枚)に次いで、英国史上三番目に売れたシングルとなっている。2002年にギネス・ワールド・レコーズが調査した「英国史上最高のシングルは?」というアンケートでは、「イマジン」(ジョン・レノン)、「ヘイ・ジュード」(ビートルズ)を抑えて「ボヘミアン・ラプソディ」が第1位となり、イギリスで最も愛される曲に認定された。ギネスの授賞式ではメイとテイラーが出席し、ファンに感謝の言葉を述べた。また、この曲は世界で初めてプロモーションビデオを制作した曲であると認識されている。 1980年に発表したシングル「地獄へ道づれ」は全世界で700万枚以上売り上げ、アメリカの『キャッシュボックス』誌の年間チャートでは1位に輝いた。 2004年、「クイーン+ポールロジャース」名義で再始動したクイーンがさらに売り上げを伸ばし、2005年にイギリスで最も売れたアーティスト第3位にランクアップした。これにより、それまで長年の間不動の地位を保ち続けたビートルズを4位に落としたことになる[20] 2002年、イギリス国民の投票によって決定した「100名の最も偉大な英国人」にフレディ・マーキュリーが選出された。 クイーンは中東や南米などの発展途上国でも著しい人気を誇っており、世界で最も海賊版が出回っているアーティストとされる。2012年現在、クイーンの海賊版ウェブサイトを12225個確認。 クイーンはメンバー全員が作詞作曲能力に優れており、世界で唯一メンバー全員がチャート1位を獲得した作品を持っているロックバンドである。 1973年から運営されているクイーンのオフィシャルファンクラブは、数々のロックバンドのファンクラブの中でも最も長く続いているファンクラブである。 1986年のウェンブリースタジアムで行われたカインド・オブ・マジックのツアーのコンサートでは、世界中から50万人ものチケットを求める要望があり、2日間で15万人を動員した。また、1981年ブラジルのモルンビースタジアムで行ったライブでは13万人を動員。1組のバンドが1回の公演で動員した観客数でギネス記録を樹立した。(当時) 1985年に出演したブラジルのロックフェス「ロック・イン・リオ」では2日で60万人を動員。1969年に開催された「ウッドストック・フェスティバル」の40万人を2日で打ち破った。 ディスコグラフィ オリジナル・アルバム 戦慄の王女 - Queen (1973年) 英24位 ゴールド、米83位 ゴールド、世界総売り上げ250万枚 クイーン II - Queen II (1974年) 英5位 ゴールド、米49位 ゴールド、世界総売り上げ250万枚 シアー・ハート・アタック - Sheer Heart Attack (1974年) 英2位 プラチナム、米12位 ゴールド、世界総売り上げ350万枚 オペラ座の夜 - A Night at the Opera (1975年) 英1位 プラチナム、米4位 3xプラチナム、世界総売り上げ1,000万枚 華麗なるレース - A Day at the Races (1976年) 英1位 ゴールド、米5位 プラチナム、世界総売り上げ400万枚 世界に捧ぐ - News of the World (1977年) 英2位 ゴールド、米3位 4xプラチナム、世界総売り上げ900万枚 ジャズ - Jazz (1978年) 英2位 プラチナム、米6位 プラチナム、世界総売り上げ450万枚 ザ・ゲーム - The Game (1980年) 英1位 ゴールド、米1位 4xプラチナム、世界総売り上げ800万枚 フラッシュ・ゴードン - Flash Gordon (1980年) 英10位 プラチナム、米23位、世界総売り上げ250万枚 ホット・スペース - Hot Space (1982年) 英3位 プラチナム、米22位 ゴールド、世界総売り上げ300万枚 ザ・ワークス - The Works (1984年) 英1位 2xプラチナム、米23位 ゴールド、世界総売り上げ450万枚 カインド・オブ・マジック - A Kind of Magic (1986年) 英1位 2xプラチナム、米46位 ゴールド、世界総売り上げ550万枚 ザ・ミラクル - The Miracle (1989年) 英1位 プラチナム、米24位、世界総売り上げ450万枚 イニュエンドウ - Innuendo (1991年) 英1位 プラチナム、米30位 ゴールド、世界総売り上げ550万枚 メイド・イン・ヘヴン - Made in Heaven (1995年) 英1位 4xプラチナム、米58位 ゴールド、世界総売り上げ950万枚 ライブ・アルバム ライヴ・キラーズ - Live Killers (1979年) 英3位 ゴールド、米16位 2Xプラチナム、世界総売り上げ350万枚 ライヴ・マジック - Live Magic (1986年) 英3位 プラチナム、米未発売、世界総売り上げ300万枚 女王凱旋! 〜戦慄のライヴ・クイーン〜 - Queen at the Beeb (1989年) 英67位、※英国のみ発売 クイーン・ライヴ!!ウェンブリー1986 - Live at Wembley '86 (1992年) 英2位 プラチナム、米53位 プラチナム、世界総売り上げ450万枚 オン・ファイアー/クイーン1982 - Queen on Fire – Live at the Bowl (2004年) 英20位 ゴールド、世界総売り上げ100万枚 伝説の証/クイーン1981 - Queen Rock Montreal (2007年) 英20位 ハンガリアン・ラプソディ〜クイーン・ライヴ・イン・ブダペスト‘86 - Hungarian Rhapsody: Queen Live in Budapest (2012年) ライヴ・アット・ザ・レインボー‘74 - Live at the Rainbow '74 (2014年) 英11位 オデオン座の夜〜ハマースミス1975 - A Night at the Odeon – Hammersmith 1975 (2015年) 英40位 オン・エア〜BBCセッションズ - On Air (2016年) 英25位 コンピレーション・アルバム グレイテスト・ヒッツ - Greatest Hits (1981年) 英1位 20xプラチナム、米14位 8xプラチナム、世界総売り上げ2,750万枚 グレイテスト・ヒッツII - Greatest Hits II (1991年) 英1位 13xプラチナム、世界総売り上げ2,200万枚 クイーン・ロックス - Queen Rocks (1997年) 英7位 プラチナム、世界総売り上げ200万枚 グレイテスト・カラオケ・ヒッツ(1998年) グレイテスト・ヒッツIII 〜フレディー・マーキュリーに捧ぐ〜 - Greatest Hits III (1999年) 英5位 2xプラチナム、世界総売り上げ300万枚 クイーン・イン・ヴィジョン(2000年) ※日本限定発売、16.7万枚 クイーン・プラチナム・コレクション - The Platinum Collection: Greatest Hits I, II & III (2000年) 英2位 6xプラチナム、米9位 2xプラチナム、世界総売り上げ450万枚 ジュエルズ(2004年) ※日本限定発売、134.4万枚 ジュエルズII(2005年) ※日本限定発売、6.8万枚 伝説のチャンピオン〜アブソリュート・グレイテスト - Absolute Greatest (2009年) 英3位 2xプラチナム、米195位、世界総売り上げ90万枚 アイコン - Icon ※日本未発売 クイーン・フォーエヴァー - Queen Forever (2014年) 英5位 ゴールド、米38位 ボヘミアン・ラプソディ (オリジナル・サウンドトラック) - Bohemian Rhapsody: The Original Soundtrack (2018年) 英3位、米3位、世界総売り上げ144.3万枚 映像作品 グレイテスト・ビデオ・ヒッツ1 グレイテスト・ビデオ・ヒッツ2 ジュエルズ グレイテスト・カラオケ・ヒッツ フレディ・マーキュリー追悼コンサート ライブ・イン・モントリオール 1981 オン・ファイアー/クイーン1982 WE ARE THE CHAMPIONS FINAL LIVE IN JAPAN 1985 ラストツアー/クイーン1986 リターンズ・オブ・ザ・チャンピオンズ クラシック・アルバムス オペラ座の夜 スーパーライヴ・イン・ジャパン ビッグ・ライヴ 2008 〜ライヴ・イン・ウクライナ ボヘミアン・ラプソディ - 2018年の伝記映画。 関連項目 ウェンブリースタジアム - イングランドにあるサッカースタジアム。クイーンにとっては特別な場所であり、ファンからはサッカーの聖地になぞらえてクイーンの聖地と呼ばれている。フレディ・マーキュリーの追悼コンサートも行われている。 レディー・ガガ - クイーンファンを公言しているアメリカの女性ミュージシャン。『レディー・ガガ』という名前は、クイーンの楽曲であるRADIO GA GA(レディオ・ガガ)からとられた[21]。 脚注・出典 外部リンク on YouTube (in English) on Twitter (in Japanese) (in Japanese) on Twitter (in English) on Facebook (in English)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%B3%20%28%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89%29
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MLBで初めて完全試合を達成したのは誰
完全試合
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完全試合(かんぜんじあい、かんぜんしあい)とは、野球やソフトボールの試合における記録のひとつで、相手チームの打者を一度も出塁させずに勝利することである[† 1]。パーフェクトゲーム([† 2])や<b data-parsoid='{"dsr":[572,584,3,3]}'>パーフェクト([1][2][† 3][† 4])とも呼ばれる。 少なくとも野球では9イニング27人、ソフトボールでは7イニング21人の打者を全て凡退させる必要がある。安打はもちろんのこと、四死球や失策なども許されない。延長戦[† 5]に突入した場合は、試合に勝つまで継続して走者を出さないことが達成条件となる。コールドゲームによる勝利や、完全を継続したまま引き分けた場合は公式の記録とは認められず、参考記録として扱われる。四死球や失策などで出塁を許しながらも無安打無失点に抑えた場合はノーヒットノーラン、安打で出塁を許しても一人も生還させなかった場合は完封となる。 本項目では、主に野球で達成された完全試合について述べる。 メジャーリーグベースボール メジャーリーグベースボール(MLB)は、完全試合を以下のように定義している。 An official perfect game occurs when a pitcher (or pitchers) retires each batter on the opposing team during the entire course of a game, which consists of at least nine innings. In a perfect game, no batter reaches any base during the course of the game.[3] 訳:完全試合は、9イニング以上の試合を通して一人(あるいは複数)の投手が、相手チームの打者を凡退させ続けることで公式に認められる。完全試合においては、試合の開始から終了まで打者は一人も出塁できない。 この条件を満たした完全試合は19世紀に2度、20世紀に14度、21世紀に7度の計23度が記録されている。1876年に最初のメジャーリーグとしてナショナルリーグが創設されて以来137シーズンで23度ということは、単純計算では6年ほどに一度の割合ということになる。ただし1980年代に入ってからは、それ以前より達成頻度が上がっている[4]。1922年にチャーリー・ロバートソンが達成してから30年以上完全試合が出なかった時期がある一方で、2009年から2012年にかけての4年間で6度も達成されたこともある。特に2012年には1年で3度の完全試合があり、これは史上最多である。完全試合数が達成されやすくなってきている原因としては、三振数が増加傾向にあるため打球がインプレイになりにくくなり、守備のミスによる出塁の機会が減っていることや、1961年以降のエクスパンションによって球団数が16から30まで増えたことで試合数も増加する一方、優れた実力を持つ選手が1球団に集中しにくくなったことなどが挙げられる[5]。 上記の定義のとおり継投による完全試合も認められるが、これまでMLBで達成されたものはいずれも一人の投手によるものであり、継投によるものはない。達成者の顔ぶれを見ても、アメリカ野球殿堂入りした投手もいれば、通算勝利数が50に満たないうえに負け越してる投手もいて、彼らの実績は一定していない[4]。2010年にはニュージャージー工科大学准教授のBruce Bukietが数理モデルを用いた分析をしており、その結果によれば通算311勝で殿堂入りのトム・シーバーは完全試合達成の可能性が史上7番目に高かったというが、シーバーも彼より上の6投手も実際には達成できていない[5]。史上唯一となるポストシーズンでの完全試合を1956年のワールドシリーズ第5戦で成し遂げたドン・ラーセンも、殿堂入りはおろかオールスター選出経験すら一度もない投手である[6]。また、同じ投手が複数回達成したこともない。審判員ではが、完全試合での球審を2度(1999年のデビッド・コーンによるものと、2012年のマット・ケインによるもの)務めたことがある[7]。 2010年に完全試合を成し遂げたダラス・ブレイデンは、自分の前に達成したマーク・バーリーから「これがしきたりかどうかは分からないんだけど、ようこそ(完全試合)クラブへ」と祝福の電話をもらったという[8]。 その他 さまざまな理由で完全試合を逃した例がある。 一度は完全試合として認定されながら後に取り消された例 以前は完全試合として認められていながら、条件を満たしていなかったとして後に認定取り消しになった事例が2つある。 1917年6月23日のボストン・レッドソックスとワシントン・セネターズとの試合で、レッドソックスの先発投手ベーブ・ルースがセネターズの先頭打者を与四球で出塁させたあと、判定への不満から球審に抗議して退場処分となった。その後、2番手として登板したが、モーガンの盗塁死のあと試合終了まで26打者を全て凡退させた。これは当初はショアによる完全試合と認定されていたが、1991年にルースとショアの継投によるノーヒットノーランに訂正された[9]。 1959年5月26日のピッツバーグ・パイレーツとミルウォーキー・ブレーブスとの試合で、パイレーツの先発投手はブレーブス打線を9回終了まで完全に抑えたものの、味方打線も無得点だったためそのまま延長戦に入った。ハディックスはその後も後続を完全に抑え続け、延長12回終了まで36打者を連続して凡退させたが、延長13回に先頭打者を三塁手 の送球エラーで出塁させ、この回でサヨナラ負けを喫した。この試合は当初、最初の9イニングを完全に抑えたため完全試合と認定されていたが、完全試合の要件が変更された1991年に取り消された[10]。 9回終了まで完全に抑えながら延長で完全試合を逃した例 9回2死まで完全に抑えながら完全試合を逃した例 日本野球 プロ野球 日本プロ野球では、これまで15度記録されている[11]。 チーム名・球場名は達成当時のもの。 備考 ファウルフライ落球による失策を含む試合を完全試合とするかどうかについて、日本において完全試合はチームの記録ではなく投手の記録であると考えている面もあり、日本プロ野球のルール上では曖昧になっているが、1981年のセ・パ記録部申し合わせ事項でファウルフライの失策があっても完全試合は成立することが確認されている。メジャーリーグでは「チームの記録」との側面もあり、失策が記録されれば完全試合とは見なされなかったが、1991年以降は定義が緩和されて完全試合として認められている。 継投による記録 日本プロ野球(NPB)では継投による完全試合の達成例が1例ある[12]。ただし日本では先発投手1人による記録のみが完全試合と定義されているため、完全試合の記録対象とはなっていない。 参考 以上の他、さまざまな理由で完全試合を逃した例がある。 無四死球のノーヒットノーラン達成ながら失策で完全試合を逃した例 9回終了まで完全に抑えながら延長で完全試合を逃した例 9回2死まで完全に抑えながら完全試合を逃した例 初回先頭打者に出塁を許し、その後を完全に抑えた例 連続27人以上をパーフェクトに抑えながらも敗戦投手になった例 二軍 日本プロ野球の二軍(イースタン・リーグ、ウエスタン・リーグ)では、4度記録されている[15]。 参考記録 1998年、ヤクルトは9月26日のロッテ戦(ロッテ浦和球場)に勝利しイースタン・リーグで優勝したが、この試合で6回参考記録ながらヤクルトの五十嵐亮太が完全試合を記録している。 9回二死まで完全試合も、危険球退場処分で達成を逃す 2007年5月2日、サーパスの近藤一樹はウエスタン・リーグの対広島戦で9回二死まで走者を一人も出さずに抑えていたが、27人目の打者の會澤翼に対し、頭部へ死球を与えたために危険球退場処分となった。試合はこの後登板した山口和男が28人目の打者の中東直己を二ゴロに抑え、近藤と山口による継投での無安打無得点試合(チーム記録)となった[17]。 社会人野球 社会人野球の全国大会では都市対抗野球大会で2度、社会人野球日本選手権大会で1度記録されている[18][19]。 都市対抗野球 日本選手権 大学野球 全日本大学野球選手権 全日本大学野球選手権大会では、これまで4度記録されている[20]。 東京六大学野球 東京六大学野球では、これまで3度記録されている[22]。 東都大学野球 東都大学野球では、1部リーグ・2部リーグ・3部リーグでそれぞれ2回ずつ記録されている[21]。 1部リーグ戦 2部リーグ戦 3部リーグ戦 首都大学野球 首都大学野球リーグ戦では、これまで2度記録されている。 関西学生野球連盟 関西学生野球連盟のリーグ戦では、2度記録されている[26]。 高校野球 甲子園球場で行われる高校野球(硬式)の全国大会では選抜高等学校野球大会で2度記録されているが、全国高等学校野球選手権大会ではいまだ達成者がいない[27]。 このほか、軟式の全国大会でも2度記録されている[28]。 選抜高等学校野球大会 全国高等学校軟式野球選手権大会 リトルリーグ 6回制で行われるリトルリーグでは、ザバスカップ第46回全日本リトルリーグ野球選手権大会で1度記録されているのが確認できる[30][31]。ただし、これ以外にも達成者がいる可能性はある。 台湾野球 中華職業棒球大聯盟では、ライアン・バーダゴが唯一の完全試合を達成している。 キューバの野球 国内リーグ"セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル"では、マエルス・ロドリゲスが唯一の完全試合を達成している。 準完全試合 安打・四死球・失策にかかわらず、走者を1人だけ出した完封試合は「準完全試合」と呼ばれる。2018年7月末現在、日本プロ野球の公式戦では完投によるものが46人によって49回[34]、継投によるものが2回記録されている。そのうち、ノーヒットノーランは14回(うち無四球で1失策の試合が2回)である。 日本プロ野球 2012年以降 選抜高校野球 全国高等学校野球選手権 社会人野球日本選手権大会 他競技での用法 本来は野球用語であるが、「完全なる勝利」という意味合いで他のスポーツでも使用されることがある。 サッカーにおいて相手にシュートを1本も撃たせず勝利した試合を完全試合と呼ぶ場合もある。2009年11月8日のJ1リーグ鹿島アントラーズVSモンテディオ山形戦で鹿島がJリーグ史上初となる被シュートゼロで2-0勝利を挙げた試合を日刊スポーツが「完全試合」と表現した[35]。 プロボクシングにおいても、3人のジャッジがいずれもフルマーク(全ラウンド10点。12回戦なら120点)の判定勝利だった場合に、完全試合と表現することもある[36]。 脚注 注釈 出典 関連項目 ノーヒットノーラン ノーヒットノーラン達成者一覧 無四球試合 野球の各種記録 外部リンク 動画共有サイト "YouTube" にMLB公式アカウントが投稿した完全試合の映像
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ハンガリー人民共和国が建国したのはいつ
ハンガリーの歴史
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ハンガリーの歴史</b>を記述する。ハンガリーはヨーロッパのほぼ中央、東ヨーロッパの山岳地帯の中でドナウ川中流に盆地状に開けた平原を国土とする。この盆地は冷涼で乾燥した草原が広がり、遊牧に適した地理的条件を有するため、中央ユーラシアのステップ地帯から繰り返しヨーロッパに侵入した多くのアジア系遊牧民集団の多くは、ここに根拠地を置いた。彼らはやがてキリスト教世界の一員になり、スラブ人などの周辺民族や、オーストリア・オスマン帝国などの周辺諸国の影響を受けつつ盛衰を経た。冷戦の時代には、社会主義圏にあっていち早く民主化を進め、東欧革命の芽を蒔いた。 概史 建国まで この地域は、1世紀にはローマ帝国が属州パンノニアを置いた。4世紀にローマ帝国が衰退し、ゲルマン人の移動が始まると、この地にゴート族が到来した。その後、ドナウ川中流の良質の平原に着目して、5世紀にフン族、6世紀にアヴァール人などテュルク系と見られる遊牧民の勢力がそれぞれ到来し定着した。 5世紀あたりからウラル山脈の中南部~アゾフ海北岸周辺からウゴル系遊牧民であるマジャル人が、テュルク系のオグール(ブルガール人)と混合を繰り返して、9世紀になると黒海北岸~ロシア南部のヴォルガ川南岸付近の広大な草原地帯に到達した。その後、大首長(ジュラ)アールパードは共同統治者の名誉最高首長(ケンデ)クルサーンとともにバルカン半島を経由して、ハンガリー平野この地に移住してきた。アールパードはパンノニア平原を根拠とし、アールパード家の祖となり、ドイツ南東部のバイエルンなど東・中部ヨーロッパ各地を騎馬で蹂躙し、同時期の海のヴァイキングとともに怖れられた。 しかし、955年にアールパードの孫タクショニュはレッヒフェルトの戦いでオットー1世に敗れると、今までの部族の風習であるシャーマニズムによる自然崇拝を放棄し、カトリックによるキリスト教に改宗して、パンノニア平原に統一王国建設を開始した。同時に現地のスラヴ人(南スラヴ人・西スラヴ人)やラテン人やドイツ人(オーストリア人)と上記のテュルク系など多くの民族と混血して、現地に同化した。 ハンガリー王国 1000年にタクショニュの孫であるアールパード家のイシュトヴァーン1世が本格的にキリスト教に改宗すると、ローマ教皇からハンガリー国王として聖別をうけ戴冠し、ヨーロッパ世界の一員となった。それからのハンガリー王国は北部のスロヴァキア(モラヴィア)、南部のクロアチアのスラヴ人を支配下に入れ、さらにルーマニアトランシルヴァニアにも勢力を伸ばした。この頃がハンガリーの絶頂期であり、中欧の強国として君臨していた。この時代の領域は聖イシュトヴァーンの王冠の地と呼ばれ、以後ハンガリーの歴史観において重要な位置を占めた。このためハンガリー王となるものは聖イシュトヴァーンの王冠を頂く者であるという概念が生まれた。 1240年にはモンゴル帝国のバトゥによる侵略を受け、甚大な被害をうけた(モンゴルのポーランド侵攻)。この経験を経たことでハンガリー国王は防衛体制を整える必要に迫られ、貴族層に土地を与えて彼らの主導で堅固な城塞を築かせていった。同じく防衛上の観点からも城壁を持つ都市の発展が求められ、従来までの都市のほか、新たにドイツ人の入植を契機とした都市も形成・発展した。その例として、シビウ、ブラショフ、ビストリツァ、コシツェなどが挙げられる。 その後1301年にアールパート朝が断絶すると選挙王制となり、1308年にナポリ王国のアンジュー家から王が出た(ハンガリー・アンジュー朝)。以後世襲王朝が続き、その間ハンガリー王だけでなくポーランド王も兼ねるようになったが1395年に断絶した。15世紀にはトランシルヴァニア貴族のフニャディ家のマーチャーシュ1世の頃に強盛を極めた。 ハプスブルク帝国とオスマン帝国 14世紀になると東方からオスマン帝国が興隆し、コソボの戦い以後バルカン半島に進出してきた。神聖ローマ皇帝でハンガリー王のジキスムントは連合十字軍を組織し、対抗したが1396年ニコポリスの戦いで敗北した。ハンガリーはオスマン帝国の脅威にさらされ、1526年のモハーチの戦いでは国王ラヨシュ2世が戦死する大敗を喫し、ヤギェウォ王家は断絶した。王冠は姻戚関係にあったオーストリア大公のハプスブルク家が継承することになった。 ハンガリーを征服したオスマン帝国のスレイマン1世はハンガリーを直轄地(オスマン帝国領ハンガリー)とし、トランシルヴァニアを保護領とした(トランシルヴァニア公国)。ハプスブルク家はハンガリーの北部と西部を支配し(王領ハンガリー)、ハンガリーは150年近くにわたり分割支配され、両国の係争地とした。 1683年の第二次ウィーン包囲以後の大トルコ戦争を経て1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約で、ハンガリーのほぼ全域がハプスブルク家のものとなった。これに反発したハンガリー人貴族ラーコーツィ・フェレンツ2世との間で民族解放運動が戦われることとなったが、1711年には鎮圧された。 オーストリア=ハンガリー二重帝国 19世紀が中盤にさしかかるとハプスブルク帝国のヨーロッパでの影響力は相対的に低下し始めた。 1848年の2月革命でオーストリアが混乱すると、3月にコシュート・ラヨシュはペシュトで武装蜂起し(ペシュト蜂起)、自治政府を設立した。しかし国内の安定を取り戻したオーストリア軍に鎮圧されると、コシュートはハンガリーの独立を宣言して再びブダペストを奪回した。しかしオーストリア軍とロシア軍の前に敗れ、独立は失敗した(ハンガリー革命)。 しかし1866年にプロイセン王国との普墺戦争に敗北してドイツでの覇権を喪失するなど弱体化した帝国内部では、ハンガリー人や他の被支配民族の独立運動はなおも活発化した。 これを危惧したフランツ・ヨーゼフ1世はハンガリー人とともに帝国の支配の強化を図り、1867年にハンガリー王国の自治権拡大を認めた。そして自らがオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねることで、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。これは帝国を維持したいオーストリア政府と、自治権の一層の強化を求めるハンガリー貴族の両者の利害が一致してできた融和と妥協の産物で、「アウスグライヒ」(和協)と呼ばれる。しかしハンガリー王国内には独自の内閣や議会も置かれ、帝国に対するハンガリーの影響力は強まった。 19世紀末のハンガリーでは資本主義が勃興し、民族主義が高揚した。首都ブダペストは地下鉄が整備されるなどヨーロッパ有数の近代都市としての装いを調え、繁栄した。 2つの世界大戦 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア=ハンガリー帝国は中央同盟の一翼を担い戦ったが、1918年に敗北した。11月16日にカーロイ・ミハーイの主導によりハンガリー民主共和国が二重帝国から独立した。しかし共和国の軍事力は弱体であり、東部のトランシルヴァニアをルーマニア王国に、北部ハンガリー(スロバキア・カルパティア・ルテニア)をチェコスロバキアに占領された。 1919年3月21日、クン・ベーラを首班とするハンガリー共産党が革命を起こし、ハンガリー・ソビエト共和国が成立した(ハンガリー革命)。しかしルーマニアの介入と海軍提督ホルティ・ミクローシュのハンガリー国民軍の蜂起により8月6日にソビエト共和国は崩壊した(ハンガリー・ルーマニア戦争)。 1920年3月1日、ホルティはハンガリー王国の成立を宣言した。しかし国王候補が定まらなかったため、ホルティが摂政として支配を行うことになった。6月4日、ハンガリーの領域を確定するため、パリにおいてトリアノン条約が結ばれた。この条約によりハンガリーは北部ハンガリー、トランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、ブルゲンラント、ガリツィアなど領域の大半を失い、さらに莫大な賠償金も支払うことになった。このためハンガリーは右傾化し、領土回復を狙うようになった。 ホルティはナチス・ドイツと協調し、ドイツの軍事力を背景にミュンヘン協定やウィーン裁定で北部ハンガリーの一部と北トランシルヴァニアを回復することに成功した。このため1941年に、ドイツによるユーゴスラビア侵攻が発生すると侵攻に参加した。ハンガリー軍はユーゴスラビアからヴォイヴォディナを奪回し、占領を続けた。その後の独ソ戦においてもドイツ側につき、第二次世界大戦を枢軸国の一員として戦うことになった。 ドイツの敗色が濃くなると、ホルティは単独講和に乗り出したため、1944年10月15日にドイツの支援を受けた矢十字党のクーデターが発生した(パンツァーファウスト作戦)。矢十字党のサーラシ・フェレンツが首相となり、ホルティは摂政を退位し亡命した。矢十字党はユダヤ人の移送などドイツの政策に協力し、また連合軍との戦闘の継続を宣言した。 しかし、既にソ連軍が国土の大半を奪取する中で、翌1945年2月13日には首都ブダペストも陥落し(ブダペストの戦い)、矢十字党の政権も短命に終わった。 この戦闘でドイツ、ソ連両軍により街は徹底的に破壊され、またソ連軍により市民の女性の多くが強姦された。 矢十字党の政府はハンガリー・ドイツ国境付近で戦いを続けたが、ドイツの降伏により消滅した。 ハンガリー人民共和国 第二次世界大戦後の1946年に王制は廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立した。しかしハンガリーはスターリン指導のソビエト連邦の影響下に置かれ、共産主義政党ハンガリー勤労者党の影響が拡大した。1949年には社会主義国家ハンガリー人民共和国が成立し、東側諸国に組み込まれた一党独裁制国家となった。勤労者党の書記長ラーコシ・マーチャーシュは忠実なスターリン主義者であり、反対勢力の粛清を行った。 ハンガリー動乱 しかし1956年にソ連のフルシチョフが「スターリン批判」を行い非スターリン化を始めると、ラーコシは失脚した。しかし後継のゲレー・エルネーもスターリン主義者であったため、反発した市民は大規模なデモを起こした。また、圧制の象徴であった秘密警察ハンガリー国家保衛庁の建物が襲撃され、職員が市民の私刑を受けることになった。 これを押さえきれなかった政府は、国民に人気のあった前首相ナジ・イムレを首相に就任させ事態の収拾を図った。しかし事態を重く見たソ連は介入を決定し、ソビエト連邦軍とワルシャワ条約機構軍がハンガリーに侵攻した。この結果、市民およそ約2万人が殺害され、ナジを始めとした多数の幹部が処刑された。また20万人以上の難民がハンガリーから逃れた[1]。 グヤーシュ・コミュニズム 動乱によりハンガリー勤労者党が崩壊したため、ハンガリー社会主義労働者党が新たに樹立された。新首相となったカーダール・ヤーノシュはナジの路線を断ち切り、ソ連との友好を協調することで動乱後の混乱をおさめた。 1961年、カーダールは融和的新路線を打ち出し穏健な政治路線を踏み出した。1968年には新経済メカニズムと称する経済改革が行われ、市場経済が導入された。これ以降のハンガリーの政治体制はグヤーシュ・コミュニズム(en:Goulash Communism)[2]と呼ばれている。ハンガリーは他の東欧諸国に比べて経済状態は良好であったが、カーダール政権が長く続くにつれ、徐々に停滞していった。 社会主義政権の終焉 1980年代、ソ連のゴルバチョフ書記長がペレストロイカを推進すると、社会主義労働者党政権は改革派が主導するようになり、急速な民主化を進めた(ハンガリー民主化運動)。憲法改正が行われ、社会主義労働者党は一党独裁制を放棄して西欧流の社会民主主義を志向するハンガリー社会党へ改組し、国名も「ハンガリー共和国」に変更された(第一共和国(ハンガリー民主共和国)、第二共和国に次ぐ共和政体として「第三共和国」と称される)。 1989年にはハンガリーはオーストリアとの間の「鉄のカーテン」を撤去し、いわゆる「汎ヨーロッパ・ピクニック事件」を起こした。これらは他の東欧の共産主義諸国にも影響を与え、東欧革命を急速に促し、ベルリンの壁崩壊および1990年のドイツ再統一、1991年のソ連崩壊など一連の冷戦終焉に向かう流れを生んだ。 現在のハンガリー 1990年には複数政党による選挙が行われ、民主フォーラムが第1党となり社会主義政権に終止符が打たれたが、政権運営の行き詰まりから1994年社会党が政権に復帰した。1997年から経済が好転し、「旧東欧の優等生」と呼ばれるようになった。 1996年には経済協力開発機構、1999年に北大西洋条約機構、2004年にヨーロッパ連合に加盟した。 関連項目 ハンガリー王国 オーストリア帝国 ハンガリー国王一覧 オーストリア=ハンガリー帝国 ハンガリー王国 (1920年-1946年) 脚注 参考文献 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
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小田急電鉄の湘南台駅はいつ開設した?
湘南台駅
japanese
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湘南台駅(しょうなんだいえき)は、神奈川県藤沢市湘南台にある、小田急電鉄・相模鉄道・横浜市営地下鉄の駅である。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)、文教大学湘南キャンパス、湘南ライフタウンへの玄関口でもあり、多数のバス路線が乗り入れている。 概要 小田急江ノ島線、相鉄いずみ野線、横浜市営地下鉄ブルーラインともに、線内で最も新しい駅である。最初に開業したのは小田急電鉄で、1966年(昭和41年)11月7日に開業したが、当時は駅周辺は閑散としていて、長らく各駅停車のみの停車であった。その後、駅周辺の開発に伴い利用客も増加していった。1999年3月に相鉄いずみ野線、同年8月に横浜市営地下鉄1号線が当駅に乗り入れ、乗換駅になったこともあり、小田急江ノ島線は2000年には急行、2002年には湘南急行(現・快速急行)の停車駅となった。2009年時点では、藤沢市内の駅としては藤沢駅に次いで2番目に利用者数が多い。相模鉄道、横浜市営地下鉄としては、ともに藤沢市内にある唯一の駅である。なお湘南台という駅名は開業当初からのものであるが、当時の所在地の住所は「円行」であり、後に土地区画整理事業による町名変更により湘南台となった。 利用可能な鉄道路線 小田急電鉄 江ノ島線 - 駅番号「OE 09」 相模鉄道 いずみ野線 - 駅番号「SO37」 横浜市交通局(横浜市営地下鉄) ブルーライン(1号線) - 駅番号「B01」 年表 小田急江ノ島線 1966年(昭和41年)11月7日 - 小田急江ノ島線の駅として開業。各駅停車と準急の停車駅となる。 1974年(昭和49年)12月26日 - 駅舎が橋上化される。 [1] 1999年(平成11年)10月10日 - 地下駅舎および東西自由通路の供用開始。 2000年(平成12年) 1月28日 - 太陽光発電システムの使用を開始。 3月31日 - 駅改良工事が完成。 12月2日 - 小田急線の急行停車駅となる。 2002年(平成14年)3月23日 - 湘南急行が設定され、停車駅となる。 2004年(平成16年)12月11日 - 湘南急行が廃止され、快速急行に変更される。 2015年(平成27年)3月 - 行先案内表示装置がフルカラーのLED式に更新される。 相鉄いずみ野線 1999年(平成11年)3月10日 - 相鉄いずみ野線がいずみ中央駅から延伸開業。快速始発着駅となる[2]。 2006年(平成18年)5月20日 - ダイヤ改正で夕方にも新たに快速が新設される。 2012年(平成24年)4月29日 - ダイヤ改正で朝ラッシュ時の快速の運転を廃止。 2014年(平成26年)4月27日 - ダイヤ改正で特急が新設され、始発着駅となったほか、快速の日中運転を廃止。 2015年(平成27年)5月31日 - ダイヤ改正で快速の日中運転を復活。 横浜市営地下鉄ブルーライン 1999年(平成11年)8月29日 - 横浜市営地下鉄1号線が戸塚駅から延伸開業[3]。 2007年(平成19年)9月15日 - 駅ホームでホームドアの使用を開始。 2012年(平成24年)5月1日 - docomo Wi-Fiによる、無線LANサービス開始。 2015年(平成27年)7月18日 - ダイヤ改正により運転を開始した快速の始発着駅となる。 駅構造 改札口・切符売場などは3社局<!--横浜市交通局は「株式会社」ではない-->ともすべて地下1階にある。地下1階にはコンビニエンスストアなどの商業店舗や駐輪場なども設けられているほか、駅の東側および西側ともつながっており、自由通路として24時間行き来することができる。地下自由通路は幅が広く、広場のようなスペースもあって余裕のある構造である。そのため、ホームレスの溜まり場となるなどの問題もあるが、一方で、空きスペースを利用したイベント(イルミネーション湘南台によるクリスマスツリーの設置、横浜市営地下鉄主催のコンサートなど)開催にも活用されている。また、地下1階にはエスカレーターやエレベーターも設置されており、小田急江ノ島線の線路によって駅の東西が分断されていることを全く感じさせない構造となっている。 小田急電鉄 相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。自動改札機設置駅。2000年の改良工事後に、小田急の駅としては初めてソーラーパネルを設置し、太陽光発電を導入した。 ホームから改札間には階段のほかにエスカレーターやエレベーターが設置されている。このエスカレーターは、一定時間人が乗らなかった場合、自動的に停止するようになっている。 また、改良工事前は現在地より長後寄り数m程の位置に橋上駅舎があった。 のりば のりばは東側を1番ホームとして、下表の通りとなる。 当初は各駅停車と準急のみの停車駅であり、ホーム有効長は6両分であった。改良工事時に10両分に延伸された。 各ホームにそれぞれ冷暖房完備の待合室や自動販売機が設置されている。また2番ホームではOdakyu SHOP(売店)も営業している。 2015年3月頃、行先案内表示装置が、フルカラーのLED式に更新された。 小田急線ホーム(2004年11月27日) 太陽光発電システムを説明する看板(2004年11月27日) - 小田急線の改札内にある 相模鉄道 島式ホーム1面2線を有する地下駅である。自動改札機設置駅。 現状では終着駅であるが、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス周辺や相模新駅構想のある倉見を経て、平塚方面へ延伸計画がある。いずみ野線ホームが小田急江ノ島線の下をくぐって西口側まで伸びているのはこのためである。 かつて終着駅であったいずみ野やいずみ中央と同様に駅自動放送が設置され、列車接近・到着・発車時に流している。列車発車時には電子電鈴から発車ベルやブザーが鳴動する。 ホーム有効長はいずれも10両編成分である。足元にはLEDランプが設置されており、接近案内表示器と発車合図表示に連動して点滅する。ホームにある発車標は、開業時は番線別に設置されていたが、2009年7月頃の交換時に1・2番線共用のものが設置された。改札口にある発車標は開業時から1・2番線共用のものである。 改札は1か所、階段とエスカレーターは2か所に設置されている。このほかに、ホーム中ほどにはエレベーターが設置されている。 湘南台管区として、いずみ中央 - 当駅間を管理している。当駅の最終電車は次の日の始発電車になるため8両編成1本を当駅に深夜配置を行っている。 また、相鉄のマスコットキャラ「そうにゃん」にかけた駄洒落で、構内改札前に「そうにゃんだい駅」と名づけた駅名標を模したブースが設けられている。この駅名標には「SO28」の駅番号が表示されているが、28は「にゃ」の意であり、営業線内に20番代の駅番号は存在しない。 のりば 相鉄線ホーム(2009年4月22日) 横浜市交通局 横浜市営地下鉄ブルーラインの運行系統上の起点。島式ホーム1面2線を有する地下駅である。横浜市営地下鉄において唯一横浜市外に存在する駅である。 駅長所在駅。湘南台管区駅として当駅 - 踊場間を管理している[4]。 2007年9月15日にホームドアの使用を開始した。かつては定期券発売窓口が設置されていたが、その後窓口を廃止し、自動券売機で購入する形態に変更された。 のりば 当駅は藤沢市にあるが、横浜市福祉特別乗車券・敬老乗車証は当駅まで有効である。 上記のように当駅は藤沢市のため、それ以外の地下鉄駅構内でBGMとしてかかっている横浜市歌は当駅では流れない。 横浜市営地下鉄ホーム(2008年3月27日) 利用状況 駅開設以後、どの路線においても乗降人員は増加傾向にある。 小田急電鉄 - 2017年度の1日平均乗降人員は91,150人</b>である[利用客数 1]。 同社の全70駅の中では中央林間駅に続き第13位である。 相模鉄道 - 2017年度の1日平均乗降人員は28,367人</b>である[利用客数 2]。 相模鉄道全25駅の中では星川駅に次ぐ第11位であり、いずみ野線内では二俣川駅に続き第2位である。 横浜市営地下鉄 - 2017年度の1日平均乗降人員は48,799人(乗車人員:24,640人、降車人員:24,159人)である[乗降データ 1]。 年度別1日平均乗降人員 近年の1日平均<b data-parsoid='{"dsr":[8843,8853,3,3]}'>乗降人員</b>は下表の通りである。 年度別1日平均乗車人員 近年の1日平均<b data-parsoid='{"dsr":[10785,10795,3,3]}'>乗車人員</b>は下表の通りである。 備考 駅周辺 駅周辺は多くの居酒屋とパチンコ店が立地する。駅ロータリーにおいては、毎日朝の時間帯、バスやタクシーなどの交通機関の通り道も確保する目的で一般車両は立ち入り禁止となっている。また、少し駅から離れると市内最高層マンションの「エスタテラ湘南台」がある。 駅の東には湘南台文化センター(写真)があり、さまざまなイベントに活用されている。その隣を国道467号が走っている。さらに東進すると境川に当たり横浜市泉区となる。 相鉄線と横浜市営地下鉄は地下駅だが、国道467号東の住宅街の端から両線とも地上区間に入り、境川の上を走る形となっている。 公的施設など 湘南台文化センター 藤沢市湘南台市民センター 藤沢市湘南台公民館 藤沢市秋葉台文化体育館 湘南台公園 円行公園 藤沢市総合市民図書館 藤沢北警察署 藤沢北警察署湘南台駅西口交番 藤沢北警察署湘南台駅東口交番 北消防署 保育園・幼稚園・学校 しぶやがはら保育園 湘南台保育園 すくすく保育園 ときわぎ保育園 青木幼稚園 湘南台幼稚園 広田幼稚園 藤沢市立湘南台小学校 藤沢市立湘南台中学校 神奈川県立湘南台高等学校 神奈川県立藤沢工科高等学校 文教大学湘南キャンパス 多摩大学湘南キャンパス 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス 神奈川県立湘南台高等学校 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス 郵便局・銀行・金融機関など ■西口 湘南台駅前郵便局 みずほ銀行湘南台支店 三井住友銀行湘南台支店 静岡銀行湘南台支店 横浜信用金庫湘南台支店 城南信用金庫湘南台支店 ■東口 藤沢今田郵便局 三菱UFJ銀行湘南台支店 スルガ銀行湘南台支店 横浜銀行湘南台支店 きらぼし銀行湘南台支店 第一生命湘南台支部 スーパー・専門店 ダイエー湘南台店 そうてつローゼン湘南台店 イトーヨーカドー湘南台店 オーケーストア湘南台店 事業所 いすゞ自動車藤沢工場 いすゞ自動車 いすゞミュージアム 日本アイ・ビー・エム藤沢北事業所(株式会社サン・エキスプレス内) HGSTジャパン藤沢事業所 日本精工桐原事業所 その他 引地川 境川 国道467号 湘南第一病院  相鉄フレッサイン藤沢湘南台 湘南台第一ホテル バス路線 以下の路線が神奈川中央交通により運行されている。なお、西口発着路線の詳細は「神奈川中央交通綾瀬営業所」(東口発着の湘13・14・15を含む)・「神奈川中央交通東・藤沢営業所」(藤34・藤39、東口発着の藤51)・「神奈川中央交通茅ヶ崎営業所」(湘11のみ)を、藤51を除く東口発着路線の詳細は「神奈川中央交通戸塚営業所」をそれぞれ参照。 西口 東口 ※東京駅、新宿駅から深夜急行バスも東口に到着する。 駅名の由来 湘南地方を一望できる高<b data-parsoid='{"dsr":[17038,17045,3,3]}'>台</b>であったことから「湘南台」と名付けられる。 隣の駅 小田急電鉄 江ノ島線 ■快速急行 大和駅 (OE 05) - 湘南台駅 (OE 09) - 藤沢駅 (OE 13) ■急行 長後駅 (OE 08) - 湘南台駅 (OE 09) - 藤沢駅 (OE 13) ■各駅停車 長後駅 (OE 08) - 湘南台駅 (OE 09) - 六会日大前駅 (OE 10) 相模鉄道 いずみ野線 ■特急 いずみ野駅(SO34) - 湘南台駅(SO37) ■快速・■各駅停車(快速は本線の鶴ヶ峰まで各駅に止まる) ゆめが丘駅(SO36) - 湘南台駅(SO37) 横浜市交通局 横浜市営地下鉄ブルーライン(1号線) ■快速・■普通(快速は戸塚まで各駅に停車) 湘南台駅 (B01) - 下飯田駅 (B02) 映像作品 相模鉄道がロケーションサービスに積極的であることから、当駅が登場する場合は相鉄駅構内で撮影されることが多い。以下に一例を示す。 ももいろクローバーZ - ももクリ2015 CM [7] 星野源 - 「時よ」PV[7] Google - AndroidアプリCM[7] 呪怨 -ザ・ファイナル- - 映画[7] S -最後の警官- - テレビドラマ[7] 脚注 私鉄・地下鉄の1日平均利用客数 私鉄・地下鉄の統計データ 神奈川県県勢要覧 関連項目 日本の鉄道駅一覧 外部リンク - 相鉄沿線口コミ情報サイト えのぽ - 地上駅舎時代の写真など
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%98%E5%8D%97%E5%8F%B0%E9%A7%85
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振戦せん妄を初めて文献へ記載したのは誰
パーキンソン病
japanese
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パーキンソン病(パーキンソンびょう、)は、手の震え・動作や歩行の困難など、運動障害を示す、進行性の神経変性疾患である。進行すると自力歩行も困難となり、車椅子や寝たきりになる場合がある。40歳以上の中高年の発症が多く、特に65歳以上の割合が高い。 錐体外路症状を呈し、アルツハイマー病と並んで頻度の高い神経変性疾患と考えられている[1]。日本では難病(特定疾患)に指定されている。本症以外の変性疾患などによりパーキンソン様症状が見られるものをパーキンソン症候群と呼ぶ。 歴史 1817年にイングランドのジェームズ・パーキンソンにより初めて報告された。ジェームズは、現代でいうパーキンソン病の症状を呈した6症例を、振戦麻痺 (shaking palsy) という名で紹介したが、記載した症状は、寡動・安静時振戦・姿勢保持障害・前傾姿勢・小字症などで、筋強剛については記載していない。 ジェームズの報告は長い間評価されなかったが、1888年になってフランスのジャン=マルタン・シャルコーによって再評価された。シャルコーは筋強剛についても記載し、彼の提唱により本疾患はパーキンソン病と呼ばれるようになった[2]。シャルコーが改名を提唱した理由は、本当の意味での「麻痺」は見られないためと、すべての患者に必ずしも振戦が見られるわけではないためであった[3]。もう一つの主要症候である無動・動作緩慢については、サミュエル・アレクサンダー・キニア・ウィルソンがその教科書の中で提唱している[3]。 パーキンソン病の病理に関しては、1913年にフレデリック・レビーが神経細胞内の封入体 (レビー小体) を初めて記載、またロシアの神経病理学者コンスタンティン・トレティアコフは1919年、パーキンソン病の責任病変が中脳の黒質にあると発表した[4]。 パーキンソン病の治療は19世紀末までにベラドンナアルカロイドが効果のあることがわかり、20世紀に入ってスコポラミンによる治療が、1949年にはの治療報告が行われている。L-ドパ (レボドパ) は1913年にはすでに精製単離されていたが、1950年代後半から脳内、特に線条体でのドパミンの存在と、その低下がパーキンソン病で見られることが報告されると、1960年代にレボドパを使った実験・試験が始まり、その効果が明らかとなった[4]。 1987年にスウェーデンのルンド大学のオーレ・リンドヴァールたちが、中絶胎児からとった中脳の一部の細胞を、パーキンソン病患者の線条体へ移植する臨床研究を行った。彼らは細胞移植によりパーキンソン病の脳機能の回復が起こったと報告している。数体の中絶された胎児から細胞を採取する必要があるため、その倫理的な問題性と中絶された胎児を数体同時に入手するのが困難なため治療法としては確立していない。しかし、近年進められているiPS細胞の開発が細胞の確保を可能にしつつある[5]。 病理 肉眼的には中脳の黒質・青斑核の色素脱失がみられ、組織学的には、黒質や青斑、迷走神経背側核、視床下部、交感神経節などの神経細胞脱落が生じていて、典型的には残存神経細胞やその突起の一部にレビー小体(Lewy body)という特徴的な封入体が認められる。近年ではレビー小体は自律神経節など末梢レベルでも蓄積していることが明らかになってきた。レビー小体には、リン酸化α-シヌクレインの異常な蓄積が認められる。このα-シヌクレインに対して、EBウイルスの潜伏感染Ⅲ型遺伝子抗原のLMP1が交叉反応性を持つことが報告されている[6]。 病態 中脳黒質のドパミン神経細胞減少により、これが投射する線条体(被殻と尾状核)においてドパミン不足と相対的なアセチルコリンの増加がおこり、機能がアンバランスとなることが原因と考えられている。しかしその原因は解明には至っていない。このため、パーキンソン病は本態性パーキンソニズムとして、症状の原因が明らかでないパーキンソニズムに分類される。また腸管におけるアウエルバッハ神経叢(Auerbach plexas)の変性も病初期から認められており、この病気は全身性疾患であると再認識されはじめている。 病因 病理および病態で詳述するように、中脳黒質緻密質のドパミン分泌細胞の変性が主な原因である。ほとんどの症例 (90-95%) が孤発性であり、神経変性の原因は不明(特発性)である。メンデル遺伝による家族性発症もあり2012年現在いくつかの病因遺伝子が同定されている。その他毒素、頭部外傷、低酸素脳症、薬剤誘発性パーキンソン病もわずかながら存在する。 MPTPを用いてパーキンソン病のモデル動物を作成する。 疫学 10歳代〜80歳代まで幅広く発症するが、中年以降の発症が多く、高齢になるほど発症率および有病率は増加する[8]。20歳代の発症はまれである。40歳以下で発症した場合を<b data-parsoid='{"dsr":[5659,5675,3,3]}'>若年性パーキンソン病</b>と呼ぶが、症状に差はない。日本における有病率は10万人当たり100〜150人といわれる[9][10]。欧米では10万人当たり300人と見積もられている[11]。 明らかな人種差や地域差があるかは不明であるが、白人と比べてアフリカ系アメリカ人の発症率は4分の1程度、アジア人の場合は3分の1から2分の1程度とする資料もある[12]。日本での有病率は増加傾向にあり、これを1) 高齢化に伴うパーキンソン病そのものの増加、2) 診断率の向上、3) 治療の進歩による患者の寿命の延長によるものとする説がある[1]。一方、年齢調整後の発症率・有病率は以前とほぼ変化がないとする報告もある[13][14]。性差については、アメリカのテキスト[12]、オランダからの報告[15]など欧米では男性が多いとされている。一方日本ではどの調査でも女性が多いとする報告がなされているが、この違いの理由は未解明である[1]。 厚生労働省の2012年(平成24年)患者調査では、パーキンソン病患者は約12万人となっている[16]。また厚生労働省特定疾患医療受給件数の統計によれば、2011年(平成23年)度の受給件数は116,536件であり、全特定疾患中潰瘍性大腸炎に次いで多い[17]。 なお、2003年10月よりパーキンソン病関連疾患として本疾患に進行性核上性麻痺と大脳皮質基底核変性症を併せたものになったため、現在では本疾患の正確な人数を反映する数値ではなくなっている。また特定疾患受給の要件として、のステージ3以上が目安となっているため、。 危険因子と保護因子 危険因子・保護因子として報告されたものには、以下のものがあるがあるが十分な知見が蓄積されているとはいえない[1][18][19]。これらは疫学的な研究報告であり、パーキンソン病発症との因果関係があるのかはわかっていないものも多く、また相反する結果の報告も少なくない。因果関係が疑われるものに関しては、原因仮説節の環境因子を参照。 危険因子 加齢: ほぼすべての研究で高齢になるほど有病率は高くなり、発症率も60から70代が最も高いとされる[1]。 性: 上記のとおり、男女どちらが発症しやすいかは報告が分かれており断定されていない。 居住場所: 都市部に比べて農村部に多いとする報告と、差がないという報告があり断定されていない。 除草剤・殺虫剤への曝露: パラコート・ロテノン・有機塩素剤などが報告されている。 金属への曝露: マンガン、銅、鉛、鉄など[10]。 ライフスタイル: 偏食、飲酒・喫煙をしない、無趣味、仕事中心、無口・内向的で几帳面、など[18]。 食事: 動物脂肪、飽和脂肪酸の摂取。総脂肪や総コレステロールについては意見が分かれている。 井戸水摂取: 危険因子とする報告が多いが、保護因子とするものもある。 頭部外傷・その他の合併症: 頭部外傷は危険因子とする報告がある一方、否定的なものが多い。 保護因子 食事: ビタミンC[20]、ビタミンE[21]、ナイアシン[20]など抗酸化作用を持ったビタミン類。ビタミンD (食事摂取量ではなく、血清ビタミンD濃度の差による報告[22])。 喫煙: 批判はあるが、喫煙が保護作用を持つとする報告は古くから多数ある[23]。 コーヒー(カフェイン): 喫煙同様多くの報告がある[23]。カフェインに保護効果があると考えられる[24][25]。 非ステロイド性抗炎症薬: イブプロフェンが効果的だという報告が多く、アセチルサリチル酸(アスピリン)とアセトアミノフェンの効果については否定的とされる[26]。 盲腸(虫垂)とパーキンソン病 盲腸(虫垂)を切除した人は、神経疾患のパーキンソン病にかかりにくいという分析を米国などの研究チームが米科学誌サイエンス・トランスレーショナル・メディスンに論文を発表した。スウェーデンの160万人以上のデータからは、盲腸手術を受けた人は、そうでない人に比べて、生涯の発症リスクが約19.3%低下。10万人あたりの発症者数で比べると、年間約0.4人少なかった。特に、農村部では盲腸がない人は、ある人に比べて25.4%も発症リスクが下がっていたため農薬に触れる機会が多いことが影響している可能性がある。なお、現時点で、発症予防のための盲腸切除までは勧めていない。[27] 症状 運動症状 主要症状は以下の4つである。安静時振戦、アキネジア(無動)、筋強剛が特に3主徴として知られて、これらの神経学的症候をパーキンソニズムと呼ぶ。 安静時振戦(resting tremor) 指にみられることが多いが、上肢全体や下肢、顎などにもみられる。安静にしているときにふるえが起こることが本症の特徴である。精神的な緊張で増強する。動かそうとすると、少なくとも一瞬は止まる。また、「タッピング様振戦」(Finger-tapping movement)や薬を包んだ紙を丸める動作に似ている「ピル・ローリング・トレマー」(Pill Rolling Tremor)も見られる。 アキネジア(akinesia、無動)、寡動 (bradykinesia) 動作の開始が困難となる。また動作が全体にゆっくりとして、小さくなる。仮面様顔貌(瞬目(まばたき)が少なく大きく見開いた眼や、表情に乏しい顔貌)、書字障害(小字症)、構音障害などが特徴的である。ただし床に目印となる線などを引き、それを目標にして歩かせたり、障害物をまたがせたりすると、普通に大またで歩くことが可能である(kinésie paradoxale、逆説性歩行、矛盾性運動)。 筋強剛(筋固縮) (rigidity) 力を抜いた状態で関節を他動させた際に抵抗がみられる現象。強剛(固縮)には一定の抵抗が持続する鉛管様強剛(鉛管様固縮、lead pipe rigidity)と抵抗が断続する歯車様強剛(歯車様固縮、cogwheel rigidity)があるが、歯車様強剛が特徴的に現れ、とくに手関節(手首)で認めやすい。純粋なパーキンソン病では錐体路障害がないことが特徴である。すなわち四肢の麻痺やバビンスキー反射などは認められないのが普通である。 仮面様顔貌は、顔面筋の筋強剛によるとされる説もある[28]。 姿勢保持反射障害 (postural instability) バランスを崩しそうになったときに倒れないようにするための反射が弱くなる。すくみ足(歩行開始時に第一歩を踏み出せない)、小刻み歩行、前傾姿勢、突進歩行などが挙げられる。 多くの症例で、特に病初期に症状の左右差がみられる(一側性)。進行すると両側性に症状が現れ、左右差はなくなることが多い。マイヤーソン徴候(Myerson symptom)なども診断の参考になる。また、レボドパ投与が奏効する(症状が顕著に改善する)ことが特徴であり、これは他のパーキンソン症候群と本疾患を鑑別する上で重要な事実である。 嚥下障害を認めることがある。質問票では18.5%に、200mL飲水テストでは81%に嚥下障害がみられる。パーキンソン病患者の死因の1位は肺炎で22%を占めている。これは嚥下障害による誤嚥性肺炎によるところが大きい。 非運動症状 自律神経症状として便秘、嘔吐、流涎などの消化器症状、起立性低血圧、食後性低血圧、発汗過多、あぶら顔、排尿障害 (神経因性膀胱)、勃起不全などがある。 精神症状としては、感情鈍麻、、不安、うつ症状、幻視・幻聴、認知障害などが挙げられる[29]。感情鈍麻はパーキンソン病のうつ症状に合併することが多い[30]が、単独でも現れる[31]。うつ症状はパーキンソン病の精神症候の中で最も頻度の高い症候とされてきたが、実際の頻度については定説がない[29]。最も用いられている数値は約40%である[32]。幻視も頻度の高い精神症候である。この症候は抗パーキンソン薬による副作用と考えられてきたが、近年ではそれだけでなく、内因性・外因性の様々な要素によって引き起こされるとする考え方が有力になっている[33]。以前は特殊な例を除き認知障害は合併しないといわれていたが、近年では後述のように認知障害を伴うパーキンソン病の例が多いとみなされるようになっている。 無動のため言動が鈍くなるため、一見して認知症またはその他の精神疾患のようにみえることもあるが、実際に認知症やうつ病を合併する疾患もあるため鑑別を要する。また、病的賭博、性欲亢進、強迫的買い物、強迫的過食、反復常同行動、薬剤の強迫的使用などのいわゆる衝動制御障害がパーキンソン病やむずむず脚症候群に合併することもある[34]。 流涎は特に構音障害、嚥下障害、あるいは物品呼称の低下と関連している。[35] 認知症を伴うパーキンソン病 パーキンソン病は、高い確率で認知症を合併する。27の研究のメタアナリシスによると、パーキンソン病の約40%に認知症が合併していた[32]。約30%というメタ解析データもあり[36]、その研究では全認知症症例の3.6%がパーキンソン病であった。パーキンソン病患者は、認知症を発症するリスクは、健常者の約5-6倍と見積もられており、パーキンソン病患者を8年間追跡調査した研究では、78%が認知症を発症した。 診断 確定診断は病理所見を待たなければならないが、上記の症状を呈する緩徐な進行性の疾患であること(他の神経変性疾患では病勢が亜急性に進むものもある)、コンピュータ断層撮影(CT)や核磁気共鳴画像法(MRI)の画像所見で特異的な異常が認められないこと(特徴的な所見を示す神経変性疾患や脳血管障害性パーキンソニズムを除外する)、レボドパ投与で症状が改善することがあれば、臨床的にはパーキンソン病と診断できる[37]。パーキンソン症状を示す類縁の疾患との区別のためにはMIBG心筋シンチグラフィーも診断に使われる[38]。 では1から5までの病期(ステージ)に分類される[39] ステージ1 一側性のパーキンソニズム ステージ2 両側性パーキンソニズム ステージ3 軽度〜中等度のパーキンソニズム。姿勢反射障害あり。日常生活に介助不要 ステージ4 重篤な障害を示すが、歩行は介助なしにどうにか可能 ステージ5 介助が無ければベッド又は車椅子での生活、歩行は不能 運動症状・非運動症状を含めた各症状を総合的に評価する方法としては、パーキンソン病統一スケール (Unified Parkinson's disease rating scale, UPDRS)[40]がある。 鑑別診断 パーキンソニズムを呈するすべての疾患。その中にはパーキンソニズムを合併する他の神経変性疾患(多系統萎縮症、進行性核上性麻痺、シャイ・ドレーガー症候群、大脳皮質基底核変性症など)、症候性パーキンソニズム(脳血管障害性パーキンソニズム、薬剤性パーキンソニズム、中毒性パーキンソニズム、感染後パーキンソニズムなど)などが挙げられる[37]。特に薬剤性パーキンソニズムは原因薬物の投与中止によって完治することのできる疾患なので、鑑別が重要である。 治療 2011年現在、パーキンソン病に対する根本的な治療法は無い。日常生活動作(ADL)を向上させたり生命予後を延長し、運動症状や精神症状、自律神経症状などの非運動症状に対する治療がほとんどである。しかしながら、神経変性の機序が明らかになるにつれ、変性すなわち症状の進行を遅らせるための治療法(神経保護薬による治療法)が試みられるようになってきた。また、変性した神経を再生させる遺伝子治療や幹細胞移植などの根本治療も現実的なものとして視野に入っている[41]。ここではまず現実的な治療について概説し、さらに新しい治療についても現在の到達点と将来的な見通しを記す。 日本では1978年10月1日に特定疾患治療研究事業対象疾患に指定され、公費受給が可能となった(のステージ3以上が認定の目安となるため、病初期の治療は健康保険の範囲内で自己負担となる)。 運動症状に対する治療 薬物療法 1960年代のレボドパ(L-ドパ)大量投与療法の開始以来、運動症状を改善させる種々の薬物が開発・発見され、パーキンソン病は神経変性疾患の中では唯一効果的な (対症療法ではあるが) 治療の選択肢が多い疾患である[42]。また、早期パーキンソン病と運動合併症の現れる進行期でも治療法は異なっている (後述参照)。 抗パーキンソン病薬には副作用 (有害事象) があり、例えばレボドパは長期服用によって運動合併症を引き起こす。また多くの抗パーキンソン病薬治療下で、悪性症候群が起こりうる。幻覚・妄想の出現も主な合併症の一つである。なお、ドパおよびドパミンは、それぞれドーパ・ドーパミンと同じものだが医学・医療における一般的な呼称なので[43][44]、本項ではドパ・ドパミンを用いる。 ドパミン補充療法 レボドパ ドパミンの前駆物質であるドパ(レボドパ、L-ドパ) を投与する。ドパミンを直接投与しないのは、ドパミンが血液脳関門を通過できないためである[45]。ドパミン脱炭酸酵素阻害薬であるまたはとの合剤を用いることが多い。 1960年代に臨床応用されて以来、薬物治療のゴールデンスタンダードであり、主に運動症状 (3主徴) に対し極めて有効に働く。振戦の改善はその他の抗パーキンソン病薬に比べるとマイルドである。十分な量の投与で、運動機能が長期間良好に維持され、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)の改善や生存期間の延長につながる。日本ではレボドパに対する重量比で10%のカルビドパが配合されたL-DOPA/カルビドパとしてメネシットやネオドパストンとレボドパに対する重量比で25%のベンセラジドが配合されたL-DOPA/ベンセラジドとしてイーシードパールやマドパー、ネオドパゾールが知られておりL-DOPA/DCIと総称される。さらにL-DOPA/カルビドパ/エンタカポンとしてスタレボが知られている。L-DOPA/DCIは中枢刺激回数をできるだけ均一にする意味において150mg分3で開始することが多く、維持量は300mg分3から600mg分3程度になることが多い。導入時に嘔気、眠気、だるさをうったえることがある。一般的にベンセラジド製剤のほうがDCIの含有が多いため血中濃度のピークが上昇しやすく、導入時の副作用出現率がやや高い。しかし1日量300mg程度の低容量ではベンセラジド製剤の方がカルビドパ製剤よりも優れた臨床効果を示すことがある。 発症早期のパーキンソン病において、レボドパはドパミンアゴニスト(ドパミン受容体刺激薬)やモノアミン酸化酵素阻害薬(MAO阻害薬)と遜色が無い効果を示す[46]。長期にわたる服用により日内変動(オン・オフ現象(突然薬の効果がきれ体が動かなくなる)やウェアリング・オフ現象(内服直後や時間がたった時に効果が突然切れる))、ジスキネジアといった副作用(運動合併症)が表出する。 レボドパやドパミン受容体刺激薬を投与すると悪心・嘔吐の副作用が出ることが多いが、これに対する治療としての制吐剤には、パーキンソニズムを悪化させるものが多い。メトクロプラミドはこの用途には用いず、ドンペリドンを用いるのが一般的である。消化器症状の既往がある場合は開始時に限定してドンペリドン30mg分3をL-DOPA/DCIに併用する場合もある。 運動合併症を改善できるよう新たな剤型や誘導体が開発・製品化されている (後述)。 ドパミンアゴニスト ドパミン受容体刺激薬とも呼ばれる。麦角系として(商品名カバサール)、(商品名ペルマックス)、(商品名パーロデルなど)、非麦角系としてプラミペキソール(商品名ビ・シフロール)、ロピニロール(商品名レキップ)、(商品名ドミン)などがある。レボドパ製剤と比較してウェアリングオフやジスキネジアを起こしにくいことから、認知症を伴わない70歳未満の患者については、レボドパではなくこちらを第一選択とすることが推奨されている[47]。幻覚(幻視が主である)などの精神症状が強く出やすいため、認知障害のある患者では投与を避ける。 また麦角系ドパミンアゴニストでは重篤な副作用(心臓弁膜症や間質性肺炎など)を起こすことがわかり[48]、新たに投与を開始する場合はまず非麦角系薬を選択し、治療効果が不充分であったり忍容性に問題があるときのみ麦角系薬を使用する[49]ことになっている(その場合、投与開始前および開始後定期的に心臓超音波検査をはじめとするフォローが必要である)。ただし、非麦角系薬にも突発的睡眠などの副作用がある。また、急に内服を中止すると悪性症候群などの重篤な副作用を引き起こすことがある[50]。 アポモルヒネはドパミン受容体のうちD1およびD2受容体の作動薬で、即効性がある。すでに1950年代からパーキンソン病への適応が検討されていたが[51]、初回通過効果を受けやすいため経口薬としては使えなかった。その後、皮下注射薬が開発されて即効性と半減期の短さから、進行期のオフ症状に対するレスキュー役として使われるようになった (日本では2012年3月承認)。さらに持続的に皮下注射を行っている国もある[52]。 モノアミン酸化酵素B阻害薬 選択的不可逆的モノアミン酸化酵素B (MAO-B) 阻害薬である。中枢内に多く存在し、ドパミンの代謝経路として働くモノアミン酸化酵素(MAO-B)を選択的に阻害することで、ドパミン濃度を高める働きがある。 が日本のパーキンソン病の薬として初めて使用されるようになったMAO-B阻害薬である(商品名:エフピー-OD。アンフェタミン骨格を有するため覚醒剤原料に該当[53])。セレギリンは治療量内ではMAO-Bに対して選択的に働くが、高用量になるとMAO-AおよびMAO-Bに対して非選択的に阻害することがある。また、進行期パーキンソン病の運動合併症であるジスキネジアの発現を増強するため、ジスキネジアが出現した場合には投与を中止する。 セレギリンは神経保護作用もあるといわれているが、その効果については報告によって違いが見られ、議論が分かれている。カテコール-O-メチルトランスフェラーゼ(COMT)阻害薬と異なり、MAO-B阻害薬単独でも効果はあるといわれている (NHS <英国国立医療技術評価機構によるガイドラインNICE[54]> あるいは国際運動障害学会によるレビュー[55]などの推奨) が、日本ではレボドパとの併用のみが認められている。 は代謝されアンフェタミン、メタンフェタミンが産出され、覚醒方向に働き不安、不眠の副作用が生じることがあり夕方の内服は避けられる傾向がある。ウェアリングオフやすくみ足といった他の抗パーキンソン病薬では効果が低い症状に有効である。しかしピークドーズジスキネジアは出現しやすくなる。そのため早期パーキンソン病ではレボドパの開始と同時期に開始し、病気の進行を遅らせたり後期パーキンソン病で幻覚や認知症のない例でウェアリングオフが認められジスキネジアが認められない例で用いられる場合が多い。ペチジン、三環系抗うつ薬、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)とは急性の中毒性相互作用(セロトニン症候群)が知られている。また血圧を下げる作用があるため起立性低血圧が認められる場合は増悪する可能性がある。またシンチグラフィーの検査に影響を与えることが知られている。 は、セレギリン同様に選択的MAO-B阻害薬だが、セレギリンと異なり代謝されてアミノインダンとなる。セレギリンの代謝産物であるアンフェタミン・メタンフェタミンが神経毒性を持つのに対して、アミノインダンは神経保護作用を持つ可能性がある[56][57]。早期パーキンソン病に対して単独投与での運動症状改善が示されており[58][59][60]、また進行期のオフ時間を減少させることも明らかになった[61]。先行してヨーロッパ (2005年) やアメリカ (2006年) では発売され、日本では2014年3月にイスラエルの製薬会社と製品化に関する契約を締結[62]した日本の製薬会社が2018年3月に国内製造販売の承認を受けた[63] (商品名:アジレクト。劇薬に指定[64]。同年5月22日、薬価基準に収載され[65]、6月11日に販売を開始[66])。 その他の抗パーキンソン病薬 COMT阻害薬 中枢外に存在するドパミン代謝経路の酵素であるカテコール-O-メチル基転移酵素 (COMT) を阻害する薬剤である。末梢でのレボドパ分解を抑制して中枢への移行性を高めるための薬剤であり、レボドパとの併用のみで用いられる。エンタカポン(商品名:コムタン)およびトルカポンが開発されているが、トルカポンは致死的な肝障害の副作用が見られたため、現在米国以外では使用されていない。日本ではエンタカポンが2007年1月に承認されている。ウェアリングオフ現象の改善に有効であるが、ジスキネジア、精神症状の増悪が認められることがある。 ドパミン放出促進薬 アマンタジン(商品名:シンメトレルなど)は、もともとインフルエンザ治療薬として開発されたが、本剤を投与されたパーキンソン病患者の運動症状が改善されたことから、抗パーキンソン病薬としても認められるようになった。NMDA型グルタミン酸受容体に対する拮抗作用があり、これが抗パーキンソン作用の原因となっているという考えがある。アマンタジンはセレギリンと同様に覚醒させる方向に働くとされており、朝、昼に内服する場合が多い。初期パーキンソン病の運動障害の改善の他、運動障害を悪化させずにジスキネジアを改善させる作用がある。運動障害の改善のためには100〜200mg/dayの投与で十分であるが抗ジスキネジア作用を期待するには300mg/day以上の投与が必要である。腎排泄性の薬物であり高齢者の投与の場合は減量が必要である。血液透析で除去されにくいのも特徴である。また高齢者、腎機能障害者に投与した場合、副作用である幻覚やミオクローヌスが出現しやすい。ミオクローヌスと振戦の区別が難しい場合もある。その他の副作用としては網状皮膚斑などが知られている。 抗コリン薬 アセチルコリン受容体のうち、ムスカリン受容体をブロックしてアセチルコリンを減少させる薬剤である。最も古くから使用されている抗パーキンソン病薬であり、19世紀から天然アルカロイドが用いられていた。1949年に合成薬が開発されて以来、様々な薬剤が使われている。主な抗コリン薬としては他にビペリデン、、などがある。2002年のガイドラインではあくまで補助的な薬物として位置づけられている。前立腺肥大症、緑内障の患者では禁忌であり、幻覚、妄想、せん妄、認知症の増悪も認められるため認知症が認められる患者や高齢者ではあまり用いられない。少量から開始し、中止する場合もゆっくりと減量をする。 フェノチアジン系抗ヒスタミン薬であるプロメタジン(商品名ピレチアなど)は安静時振戦の緩和作用が知られている。中枢性抗コリン作用を持つためである。鎮静作用が強く、不眠改善の作用もある。 ノルアドレナリン作動薬 ドロキシドパは日本で開発されたノルアドレナリンの非生理的な前駆物質である。すくみ足やアキネジア(無動)、起立性低血圧に効果があるとされる。 ゾニサミド 元来は日本で開発された抗てんかん薬である。てんかんを合併したパーキンソン病患者の治療過程で、偶然にパーキンソン病の運動症状に対する効果のあることが示唆された[67]。その後の大規模二重盲検試験では進行期パーキンソン病の運動症状を改善し、特に進行期のウェアリングオフ現象のオフ時間を短縮する効果が明らかにされた[68]。その作用機序は、線条体でのチロシン水酸化酵素 (チロシンからドパミンを生成する反応の律速酵素) 産生を高めてドパミン合成量を増やすこと、ある程度のMAO-B阻害作用を持つことなどが考えられている[69]。 新しい抗パーキンソン病薬 すでに実用化されている、もしくは臨床試験の段階にあるもの。新薬ではないが、新しい概念・目的で作られた剤型のものも解説する。 持続性ドパミン刺激 CDS (continuous dopaminergic stimulation) の訳語。レボドパの長期間投与の副作用であるウェアリングオフ・ジスキネジアなどの出現を遅らせたり抑止すること、あるいは出現した症状を軽減することが長年課題となってきた。この目的のために、ドパミン受容体を持続的に刺激する方法が指向されている (運動合併症の機序は後述)。 レボドパ/カルビドパの持続的空腸内投与(商品名:デュオドーパ) レボドパとの合剤をゲル状にしたものを、造設した胃瘻を通じて空腸内に留置したチューブから持続的に投与する方法 、薬液はポンプにいれて携帯する[52]。進行期パーキンソン病において、既存の多剤内服療法に比べてオン時間の延長を認め、ジスキネジアの増悪もなくQOLの向上が見られる[70]。また安全性も高く、そのためアポモルヒネ持続注射法や (視床下核脳深部刺激に代表される) 外科的治療が無効だったり、もともと適応がない場合には最後の砦となる治療法である[71]。2016年に日本でも承認された。 レボドパ徐放剤 IPX066は経口のレボドパ/カルビドパ合剤で、導入が検討されている。 エチレボドパ レボドパのエチル化誘導体である[72]やメチル化誘導体のメレボドパ[73]。水溶性でレボドパに比べて吸収が早くなること、それによってno on、delayed onの改善が予想され、レボドパに代わるという期待がかけられている。 ロチゴチン(商品名:ニュープロパッチ) 非麦角系ドパミンアゴニストの貼付剤 (皮下投与薬)。経口の徐放剤に同じく1日1回貼付となる。早期・進行期でともに有意な運動症状の改善を認め、進行期でのオフ時間の短縮もプラミペキソールと同等である[52]。 ドパミンアゴニスト徐放剤 プラミペキソール徐放剤、ロピニロール徐放剤が開発され製品化されている。いずれも1日1回の内服となり、ドパミン受容体への持続的な刺激が期待できるだけでなく、患者にとっても利便性が向上する。 アデノシン受容体拮抗薬 アデノシンA2a受容体に対する選択的拮抗薬である は、低容量のレボドパとの併用で抗パーキンソン効果をあらわした。さらに維持量のレボドパ投与に比べてジスキネジアを軽減し、レボドパの半減期を延長した[74]。アデノシンA2a受容体は線条体から淡蒼球に投射するニューロン上で多く発現しており、ドパミンD2受容体・代謝型グルタミン酸受容体などと機能的な2量体を形成することもある。この受容体への刺激はドパミンD2受容体の働きに拮抗している。そのためA2a受容体を遮断することは、ドパミン刺激を介さずに抗パーキンソン作用を示すことになる[75]。2013年に日本でイストラデフィリンが発売された(商品名:ノウリアスト)。一方で2013年にメルクはは臨床試験で効果なしとして中断された。 グルタミン酸受容体作動薬 ドパミン放出効果を持つアマンタジンはグルタミン酸受容体のうちNMDA型の拮抗薬である。その他の受容体ではAMPA型の拮抗薬の抗パーキンソン効果が期待された[76]。AMPA受容体拮抗薬であるペランパネルは臨床試験で安全性は認められたもののパーキンソン病の運動症状を改善する効果は認められなかった[77]。このような状況で、エーザイはペランパネルの抗パーキンソン病薬としての開発を断念した[78]。 新薬開発 イギリスのキュー王立植物園の2017年の年次報告書によれば、医療に利用できる植物は全世界に2万8000種以上存在し、それにはパーキンソン病治療に利用されるツル植物9種も含まれるが、規制当局による文書化が進んでおらず大半が未活用のままであると指摘している[79]。 外科療法 パーキンソン病に対する外科的アプローチは20世紀前半から行われていた。1950年代に視床VL,Vim核、淡蒼球内節、視床下核破壊術が確立したが、その後にこれらの部位に電極を埋め込む脳深部刺激療法 (Deep brain stimulation therapy, DBS) が開発され、現在はこの方法が一般的である。 外科療法の適応となるのは、レボドパによる治療効果があり、治療が十分に行われたがADL(日常生活で行う活動)に障害をきたしている場合である。ただし認知障害があったり著しい精神症状がある場合、重篤な全身疾患がある場合には適応除外となる。年齢による適応の制限はない。 視床の手術 視床Vim核の刺激術は振戦の改善に有効であり、本態性振戦で用いられることもある。VL核の刺激術は筋固縮やジストニアのような筋緊張の亢進は改善するものの無動に対しては効果が薄い。 淡蒼球内節の手術 GPiの刺激術は全てのパーキンソン病の症状を改善させる。特にオン時のジスキネジアの改善に効果的である。しかし振戦の改善は視床Vim核の手術ほどの改善は見込めない。レボドパの減量効果も視床下核の手術ほどではない。ジストニアの治療のターゲットとしても注目されている。 腹側視床後部、不確帯尾側部の手術 振戦や筋固縮を強く抑制し、小字症、アキネジア(無動)、姿勢保持反射や歩行障害に有効である。ジスキネジアに対する抑制効果も報告されている。 視床下核の手術 効果がレボドパに類似しておりレボドパの減量が期待できる。しかし長期的には認知機能の低下や歩行障害、うつの発生などが認められる。 脚橋被蓋の手術 十分なデータが蓄積されていない。 リハビリテーション 運動療法 患者は進行性に運動が困難になり、長期間の不使用により二次性の筋力低下や関節拘縮をきたすことがある。 音楽療法 運動療法と組み合わせて音楽を用いたリハビリテーションを行うだけでなく、音楽の持つリラクゼーション効果やヒーリング効果に期待する。歩行訓練を伴わない音リズムだけによる刺激によっても、パーキンソン病の歩行障害(小刻み歩行や歩行速度の低下)が改善したとする報告がある[80]。 非運動症状に対する治療薬 自律神経症状や精神症状に対しては、それぞれの症状に対する治療薬を用いる。抗精神病薬は、フェノチアジン系やブチロフェノン系などの定型抗精神病薬にパーキンソニズムを誘発する副作用があるためほとんど用いられない。現在推奨されているのは、クロザピン、クエチアピン、オランザピン、リスペリドンなどの非定型抗精神病薬である。 早期パーキンソン病の治療 まず最初になされることは、パーキンソン病がどのようなものか (経過と治療法、予後など)をきちんと説明されること。次には薬物治療開始のタイミングを観察すること、さらにリハビリテーションを開始することなどである。 診断がついた時点ですぐに始めるべきとする意見 ある程度日常生活に支障が出た時点で始めるべきという意見 できるだけ開始を遅らせるべきとする意見 上記3つの内の第2の意見がコンセンサスとなっていた。レボドパの長期服用による運動合併症の発現をできるだけ遅らせるため、またレボドパ自体が神経毒であるという説があった[81]ためである。しかしいくつかのランダム化比較試験 (たとえば[82])でレボドパがプラセボ群に対して有意に運動症状の改善を認め、レボドパ投与によるパーキンソン病の進行ではなく、逆に早期からのレボドパ投与で運動機能がよく保たれる可能性が認められた。また (レボドパの投与期間を短縮する目的でも) 治療開始を遅らせることは、それによって神経変性が予防されて病気の進行が遅くなるわけではない。 何から始めるか 運動症状に対する薬物療法は、ドパミン補充療法で開始する点は確立しており以下のようになる[83][84]。 非高齢者 (70-75歳を境界として) で認知症のない場合は、基本的にはドパミンアゴニストから開始し、改善が不十分なときにはレボドパ/合剤を追加する 同じ条件でも、現在の運動症状の改善を優先したい事情がある場合は、ただちにレボドパ/カルビドパ合剤から開始して、改善不十分な場合にドパミンアゴニストを追加する。 認知症がなく、運動症状が軽度の場合は、MAO-B阻害薬から開始する。 高齢者の場合、または認知症のある場合は、初めからレボドパ/カルビドパ合剤を使う。 進行期パーキンソン病の治療 レボドパ長期内服で生じる運動障害の対応 パーキンソン病が進行すると、いずれはほぼレボドパ治療が必須となるが、レボドパの長期服用は 日内変動や運動合併症という問題を引き起こす。 ウェアリングオフ レボドパ製剤の半減期は60〜90分であるが早期パーキンソン病ではその効果が切れることを体感することはほとんどない。しかし進行期パーキンソン病では次の内服時間の前に運動障害が悪化するウェアリングオフが認められることがある。この場合はやで症状の変動、オフ期の有無を評価する。そしてジスキネジアが増悪しないように内服調節を行う。具体的には、オフの時間帯に合わせてレボドパを追加する、COMT阻害薬を追加する、ドパミンアゴニストを追加、変更、増量しオフ時状態の改善(底上げ)を行う、MAO-B阻害薬を追加するといった方法がある。内服調節でコントロールが困難な場合は脳深部刺激療法も考慮する。 不随意運動 振戦以外にパーキンソン病治療薬によって不随意運動が生じることがある。ジスキネジアが一般的であるが、ジストニア、バリズムが起こることも知られている。レボドパの血中濃度が最大の時に生じるピークドーズジスキネジア、急激な濃度変化でおこる二相性ジスキネジア、薬効が切れた時に生じるオフジストニアがよく知られている。内服調節で改善することもあるが治療は難渋する場合が多い。定位脳手術が施行されることもある。 先端的な治療 遺伝子治療 パーキンソン病に対する遺伝子治療では、3 種類の戦略に基づく臨床試験が実施されている。第 1 はドパミン合成に必要な酵素遺伝子を被殻に導入してドパミン産生をおこなう方法、第 2 は神経栄養因子neurturin の遺伝子を被殻で持続的に発現させることにより黒質緻密部ドパミン神経細胞の変性を抑制する方法、第 3 は抑制性神経伝達物質 GABAの合成に必要なグルタミン酸脱炭酸酵素(GAD-65,GAD-67)の遺伝子を視床下核に導入して神経活動の調整をおこなう方法である。[85] パーキンソン病や、全身の筋肉が衰える難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の患者に、正常な遺伝子を投与する遺伝子治療の臨床試験(治験)を、2019年にも自治医科大などのチームがそれぞれ始める予定で、1回の治療で長期間、症状改善や病気の進行を抑えられる可能性があり、数年後の治療薬の実用化を目指している。[86] 細胞移植治療 2008年4月、人工多能性幹細胞(iPS細胞)から作り出した神経細胞を使い、パーキンソン病のラットを治療することに、マサチューセッツ工科大学のルドルフ・ヤニッシュ教授らのグループが成功した[87]。研究グループはマウスの皮膚からiPS細胞を作り、神経伝達物質のドパミンを分泌する細胞に分化させた。パーキンソン病を人工的に発症させたラット9匹の脳に移植したところ、8匹の症状が改善、特有の異常動作がなくなった。移植した細胞がラットの脳内に定着し、ドパミンを正常に分泌したとしている。2017年8月30日、京都大学iPS細胞研究所が人間のiPS細胞から作ったドーパミン神経細胞をパーキンソン病のサル11頭に移植し経過を観察した結果を発表した。その結果、運動能力の低下や手足の震えなどの症状が軽減し、運動量が増えた[88][89][90][91]。人工多能性幹細胞#パーキンソン病の治療も参照。 2014年2月、京都大学iPS細胞研究所の高橋淳らのグループがドーパミンを分泌する神経細胞を大量に作製する方法に成功[92][93]。研究グループは同年6月に、パーキンソン病の臨床研究のための安全性の審査手続きを厚労省に申請した[92]。同申請は2013年11月に成立した再生医療安全性確保法に基づいた初めての臨床研究になる見込みとなった[92]。 2018年11月9日、京都大学の高橋淳らのグループは、iPS細胞から育てたドーパミンを分泌する神経細胞を作製し、2018年10月に患者の脳の左側に約240万個の細胞を、特殊な注射針で移植したと発表した[94][95][96][97]。iPS細胞から作った神経細胞をパーキンソン病患者に移植した手術は世界初の成果となり、日本国内でのiPS細胞の移植は加齢黄斑変性に続いて2番目となる[94][95][96][97]。また本研究は「臨床研究」ではなく、保険収載を念頭においた「臨床試験(治験)」であり、iPS細胞の移植の臨床試験は日本国内において初となる[94][95][96][97]。研究チームは今後2年をかけて安全性と治療効果を評価するとしている[94][95][96][97]。 経頭蓋磁気刺激(TMS)療法 経頭蓋磁気刺激(TMS)療法ならびに、反復経頭蓋磁気刺激(rTMS)療法がパーキンソン病に効果があることが示されている。[98] その他の知見 タンパク質のが、パーキンソン病の原因物質と考えられるα-シヌクレインの蓄積を抑える性質を持っていることが確認された[99]。 東洋医学的な治療 漢方薬や鍼灸では、証を見分け個別に治療を変えるため人によって治療方針が大きく変わるため、下記は症例、治療例となる。[100] 漢方薬 パーキンソン病に対して、基礎体力をつけることを目的とし柴胡桂枝湯、五苓散、八味丸などを処方する。その後、小承気湯と芍薬甘草湯を処方した。個別事例では、手の震えがほとんど止まるという効果が出た。[101][102]茨城県内における2007年の調査ではパーキンソン病患者で漢方薬治療を受けた経験があるのは11.7%である。[103] パーキンソン病に伴う幻覚等の精神症状は頻度の高い症状であるが、抑肝散が時に有効である。また、胃排出能低下はL-ドパの吸収を遅延させ運動症状を悪化させる。これに対しては六君子湯が推奨される。排便障害も代表的な非運動症状である。多系統萎縮症およびパーキンソン病に対して大建中湯を用いた報告では、大建中湯は大腸通過時間を短縮させることが示された。患者20例に対する六君子湯の3カ月連続投与での検討では、67%の症例で改善を認めている。[104] 麻子仁丸でも患者の便秘に対する報告があり、便秘のある患者23例に対する1カ月後の評価では、有効率は78.8%であった[105][106]。食欲について評価するため、六君子湯投与前後の食欲スコア(食欲に対するVisualAnalog Scale:VAS)の変化、副次評価項目は胃排出時間、血漿中アシルグレリン濃度、抑うつ(Self-rating Depression Scale:SDS)、消化器症状QOL(Gastrointestinal Symptom Rating Scale:GSRS)の変化についてオープンクロスオーバー比較試験を行い、4週間投与後においてSDSとGSRSにおける腹痛スコアで改善が認められている[107]。 鍼灸治療 明治国際医療大学の調査では、パーキンソン病そのものの完治は見られなかったもののパーキンソン症状や運動機能の改善が見られた。[108]茨城県内における2007年の調査ではパーキンソン病患者で鍼灸治療を受けた経験があるのは10%以下である。[109] 予後 パーキンソン病は、それ自体で生命を落とす疾患ではない。パーキンソン病患者の死因としては、臥床生活となった後の身体機能低下による感染症(気道感染や尿路感染症)、転落による外傷などが原因となることが多い。運動症状を改善させる治療法が進んだために、生命予後は改善しているとみられるが、総合的な検討はまだなされていない[110]。 遺伝子異常 近年、少なからぬ数の特定遺伝子の突然変異がパーキンソン病の原因となることが発見されている。この中には相当数の患者が存在する地域(イタリア、コントゥルシ・テルメ)もある。遺伝子の変異で、パーキンソン病患者のごくわずかについては説明がつく。患者の中には、血縁者の中にやはりパーキンソン病患者がいることがある。 家族性パーキンソン病の原因として同定されている遺伝子には以下のものがある[111][112]。 遺伝子異常と家族性パーキンソン病 孤発性パーキンソン病の原因仮説 孤発性パーキンソン病は、多くの遺伝子と環境因子が原因となる多因子疾患だと考えられている。上記の家族性パーキンソン病の研究などからさまざまな原因やその機序の仮説がたてられ、ほぼ一致をみているものも多い。以下に説明する仮説も競合・排他的なものではなく、これらの要因が積み重なることで発病に至ると考えられる。 ミトコンドリア機能障害仮説 MPTPやロテノン[140]、アンノナシン[141]といったミトコンドリアに機能障害を起こす薬物により、ヒトや実験動物においてパーキンソン病様の病態が起こること、孤発性のパーキンソン病においてミトコンドリアの呼吸鎖の機能障害が観察されることから、パーキンソン病原因の1つの仮説としてミトコンドリアの機能障害が想定されている。 ミトコンドリアは外膜と内膜の二重の膜からなり、好気的呼吸が行われる場所である。特に内膜上には酸化的リン酸化を行い、最終的にATP産生にかかわるタンパク複合体およびATP合成酵素が存在する。タンパク複合体は4種類あって、順にIからIVと呼ばれる。このタンパク複合体が電子伝達を行いながらH+ (プロトン) を内膜の内側 (マトリックス側) から外側に輸送することでプロトン勾配を形成、その結果生じる膜電位によって、ATPが産生される。このプロトン勾配=膜電位は、さらに細胞質内のCa2+濃度維持、TCAサイクルなどの代謝反応、ミトコンドリアと細胞質相互間の物質輸送などのもととなる[142]。(詳細はミトコンドリアの項を参照) MPTPは1970年代にデザイナードラッグとして合成されたMPPPという物質に混入していた[143]。MPTPは脳内 (主にアストロサイトとセロトニン作動神経)に存在するモノアミン酸化酵素 (MAO, 主としてMAO-B) に代謝されてMPP+となり、これが毒性を持つ。ロテノンは農薬として長く使用されている。またカリブ海諸島で常食されるトゲバンレイシ (サワーソップ) 中にアンノナシンが含まれている。これらの物質はいずれもミトコンドリア複合体Iの阻害薬である。また一酸化炭素 (CO) 中毒でもパーキンソニズムを呈し、淡蒼球の壊死が見られた[144]、COは複合体IVの阻害薬である。 遺伝子異常の項でも説明したように、ミトコンドリアが傷害されて内膜の膜電位が低下するとまずピンク1タンパクがミトコンドリアに蓄積しこのピンク1がパーキンタンパクをミトコンドリア外膜上に移動させる[145]。パーキンは膜タンパクをユビキチン化し[124]、オートファジー機構を介して傷害ミトコンドリアを選択的に除去する[146]。パーキンソン病ではこのシステムが破綻していると考えられる。 酸化ストレス仮説 好気的呼吸における電子伝達系の過程では、必然的に活性酸素種 (reactive oxygen species, ROS) や活性窒素種 (reactive nitrogen species, RNS) が生成する。ROSにはスーパーオキシド、過酸化水素、ヒドロキシルラジカル、一重項酸素などがあるが、これらは生成されるとすぐに生体内の抗酸化酵素・抗酸化物によって取り除かれる。抗酸化酵素にはスーパーオキシドジスムターゼ (SOD)、カタラーゼ、グルタチオンペルオキシダーゼなどが、抗酸化物にはビタミンA、C、E、尿酸、ユビキノンなどがある。もし何らかの理由で抗酸化作用が不十分になると、活性酸素種は脂質過酸化を起こし、さらにタンパク・DNAを酸化し細胞を傷害する。これが酸化ストレスである[147]。 ドパミンがモノアミン酸化酵素で代謝される際に過酸化水素が生じる。過酸化水素は2価の鉄イオンと反応して非常に反応性の高いヒドロキシラジカルを生じる (フェントン反応)。ドパミンの酸化物ドパミン合成の律速段階であるチロシン水酸化酵素の活性には補因子として鉄が必要であり、ドパミン作動性細胞内には鉄が豊富に含まれている。抗酸化作用が不十分になると、これらの活性酸素種はドパミン作動性細胞の変性につながる可能性がある[148]。さらにドパミンの酸化による中間代謝産物そのものが、酸化ストレスの原因となる (ドパミンは最終的に神経メラニンとなって細胞内に沈着し、黒質の「黒さ」の原因となる)。 酸化ストレスはユビキチン化を阻害し、酸化されたタンパクによってプロテアソームも損傷を受ける。そしてプロテアソームの障害は活性酸素種を生じてさらなる酸化ストレスを生み出すという悪循環となる[149]。 抗酸化作用をもつDJ-1タンパクをコードするDJ-1遺伝子の変異が家族性パーキン病の原因 (PINK7) となることから、酸化ストレスがパーキンソン病の原因となる。 感受性遺伝子 一般にある疾患にかかるリスクを高める遺伝因子を疾患感受性遺伝子と呼ぶ。パーキンソン病患者と非患者 (対照) のゲノムワイド関連解析 (多数の遺伝子の一塩基多型を比較することで感受性の高い遺伝子を選び出す解析) によって、α-synuclein (これについてはすでに症例対照研究でも明らかにされている[150]) および LRRK2 が白人と日本人に共通な感受性遺伝子、Tau はヨーロッパだけで感受性が見られた。さらに日本では新たな遺伝子 PARK16 (推定責任遺伝子NUCKS1)、BST1 が感受性を持つことが分かった[151][152][153]。 また稀な遺伝疾患であるゴーシェ病のユダヤ人家系に、有意にパーキンソン病患者が多い[154]ことから、さまざまな国でゴーシェ病の原因遺伝子 GBA 変異を調べたところ、孤発性パーキンソン病患者で有意に GBA 保因者が多いことが分かった[155][156]。ただしその機序は不明である。 罹患した著名人 アーサー・ケストラー アドルフ・ヒトラー E・H・エリック 石母田正 梅原達也(44MAGNUM) 永六輔 江戸川乱歩 岡本太郎 オトマール・スウィトナー 萱野茂 金槿泰 キャサリン・ヘプバーン クラウス・フォン・アムスベルク 小森和子 春風亭栄橋 薄田泣菫 佃公彦 神部和夫 デボラ・カー 鄧小平 樋口了一 はしだのりひこ パット・トーピー ビリー・グラハム フィデル・カストロ フィル・ヒル フランシスコ・フランコ フレディ・ローチ ペーター・ホーフマン マイケル・J・フォックス マサ斎藤 松村厚久 マンフレート・ロンメル モーリス・ホワイト モハメド・アリ 三浦綾子 山田風太郎 横井庄一 ヨハネ・パウロ2世 レアルコ・グエッラ リンダ・ロンシュタット 西川鯉三郎 グレン・ティプトン 出典 参考文献 日本神経学会 水野美邦「Parkinson病」杉本・小俣編『内科学』第7版、朝倉書店、1999年、pp.1864-1868、ISBN 4254321864 村上史織・野口拓也・一條秀憲「神経変性疾患とASK1のシグナル伝達」高橋良輔編『神経変性疾患のサイエンス』、南山堂、2007年、pp.80-90、ISBN 9784525130916 山本光利編著『パーキンソン病 病因病態と治療、うつ・衝動制御障害』、中外医学社、2008年、ISBN 9784498128422 パーキンソン病Q&A 日本醫亊新報社 ISBN 9784784964031 岩田誠『神経症候学を学ぶ人のために』、医学書院、1994年 ISBN 4260117866 ※ 作成:厚生労働科学研究費補助金難治疾患克服研究事業、神経変性疾患に関する調査研究班。 関連項目 神経学 認知症を伴うパーキンソン病(PDD) レビー小体 病身舞 抗精神病薬 パーキンソン症候群 アルツハイマー型認知症 ピック病 レナードの朝 永六輔 外部リンク - 特定疾患情報 パーキンソン病 池田正行教授による総説 - 抗パーキンソン病薬 - Parkinson's Disease: symptoms, diagnosis, biochemistry, causes, treatments, history, prevalence, organisations, toxic causes, genetic causes] 研究、治療に関する最新情報(英文)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E7%97%85
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環境保護活動家のアーヴィング・ストウはどこの出身?
グリーンピース (NGO)
japanese
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グリーンピース</b>は、39か国以上に拠点を置く非政府の自然保護団体。オランダのアムステルダムに国際統制機関を置く[1][2]。1971年、カナダと米国の環境保護活動家のアーヴィング・ストウとドロシー・ストウにより設立された。「地球が多様性の中で生命を育む能力を確保する」 ("ensure the ability of the Earth to nurture life in all its diversity"[3]) を目的として標榜し、気候変動、森林伐採、乱獲、商業捕鯨、遺伝子工学、反核問題といった国際問題のキャンペーンに取り組む。グリーンピースは自らの目的を達成するため、直接行動、ロビー活動、研究、エコタージュを行う[4]。この国際的な組織は290万の個人の支援者と財団からの寄贈に頼っており、政府や企業、政治政党からの資金の受け入れを行っていない[5][6]。グリーンピースは国際連合経済社会理事会の一般協議資格を有しており[7]、非政府組織の説明責任と透明性の確保を目的とした国際的な非政府組織 INGO Accountability Charter を創設した[8]。 グリーンピースは、その直接行動で知られており、世界で最も注目されている環境団体とされてきた[9][10]。グリーンピースは環境問題を公衆に提起し[11][12][13]民間と公共の両方に影響を与えてきた[14][15]。その一方で、グリーンピースは論争の対象にもなってきた[16]。遺伝子組換え生物 (GMO) に対するグリーンピースのキャンペーンを終了するよう求める100人以上のノーベル賞受賞者からの公開書簡がグリーンピースに対して提出されるなど[17]、グリーンピースの意図ややり方(後者の一部には違法なものもある)が批判を受けてきた[18][19]。グリーンピースによる直接行動は、グリーンピースの活動家に対する法的措置を引き起こしてきた[20][21]。例えば、グリーンピースの活動家らが遺伝子組み換え小麦の試験用地を破壊したり[22][23][24]、ナスカの地上絵(ペルーの国連世界遺産)に損害を加えたりした[25]ことに対して、活動家らに対して罰金刑や執行猶予付きの有罪判決が下された。 組織概要 環境保全・自然保護の分野において、世界的に有名な団体である。 1979年10月14日に、各国のグループを統合するかたちで、グリーンピース・インターナショナルが設立され、本部はオランダのアムステルダムに置かれた。[注 1] その過剰な運動に対してエコテロリズムとして批判されることもある[26]。2005年、アメリカ自由人権協会(ACLU)が情報公開法に基づいて入手した米国連邦捜査局(FBI)の資料から、FBIがACLUと並んでグリーンピースや動物の倫理的扱いを求める人々の会(PETA)を監視対象にしていたことが分かり、ACLUは、通常の政治活動に携わっている人々にまで国内テロリズムの定義を拡大していると抗議した[27]。2010年、アメリカ合衆国司法省は、2001年から2006年まで続いたFBIによるグリーンピースやPETAなどの環境保護団体メンバーの監視は正当ではなかったとする文書を公表し、FBIを批判した[28]。日本国内でも、捕鯨問題を告発すると称してグリーンピースが組織的に運送会社の倉庫から宅配物を窃盗したとして幹部2名が逮捕される事件があり、その組織的な非合法活動について批判がある[29]。なおこの事件の捜査や逮捕には青森県警察に加えて警視庁公安部が関わったことから国内でも公安警察の監視対象にあるとみられる。 ※本文中の原語表記部のリンクは英語版へのリンク。 活動分野と主張 グリーンピースが展開する活動分野を以下に列挙する。 海洋生態系問題 日本で有名な事案は捕鯨問題だが、基本的には海洋生態系全体をまとめて扱っている。過剰漁獲や漁業手段の問題、海洋汚染の問題、オゾン層破壊による生態ピラミッドの崩壊の問題などに分かれており、捕鯨問題は漁業問題のひとつという位置づけである。なお、あくまで近代捕鯨への反対であり、生存捕鯨は持続可能として認める立場も示している(反捕鯨#生存捕鯨も参照)。2005年からは日本の沖縄におけるジュゴン保護にも参加。 オゾン層破壊 特定フロンをはじめとするオゾン層破壊物質の抑制。フロンを使わない炭化水素冷媒による冷蔵庫「グリーンフリーズ」の開発・普及。炭化水素冷媒のグリーンフリーズ型冷蔵庫は、グリーンピースの開発委託を受けたドイツのDKK社(その後フォロン社に名称変更)が、1992年に世界に先駆けて発表。1993年中にはドイツの他企業も追従し、また同時に断熱材に使われていたフロンも炭化水素などに置き換えられた。他国の大手家電企業へのグリーンフリーズ型冷蔵庫の生産要請なども行ってきた。 森林問題 森林伐採による生態系破壊の問題。紙の原料となるパルプ材としての森林管理問題やマホガニーなどの希少樹種の貿易問題など。 原子力問題 核兵器に対する反対運動は継続している。1993年には、ロシア海軍による核廃棄物の日本海への海洋投棄を摘発し日本に衝撃を与えた。また、原子力発電をはじめとするいわゆる「平和利用」に関する反対運動、つまり原子力撤廃運動も展開(高速増殖炉や核燃料再処理、それに伴う放射能汚染問題・プルトニウム管理問題など)。1995年と1997年には、フランスから日本まで航路や輸送スケジュールが発表されていなかった核物質輸送船を追跡するプロジェクトを展開(前者はチャーター船の「スミット・ニューヨーク」、後者はキャンペーン船「ソロ M.V.Solo」が追跡船)。 化学物質汚染問題 塩素系化合物などを含む化学物質汚染問題や、その一部の原因となっているごみ処理・ごみ焼却処理の問題。日本では、ほかに瀬戸内海の豊島におけるシュレッダーダストの投棄問題などにもかかわっている。 エネルギー問題 太陽発電をはじめとする再生可能エネルギーの普及。 気候変動問題 いわゆる「地球温暖化」。二酸化炭素をはじめとする温暖化ガスの排出抑制を目指している。エネルギー問題とも密接に関係するほか、特定フロンのかわりに導入された、オゾン層破壊係数が低いかわりに強い温室効果をもたらす代替フロンの使用抑制についても活動している。2007年には、地球温暖化に抗議するためにスイスの氷河で全裸パフォーマンスの撮影が行われ、「緊急事態にある人類は、社会常識、礼儀作法、容認可能な行為の規範を捨て、いかなる方法を使ってでも警告を発するだろう」と主張している[30]。 遺伝子組み換え作物への反対アピール 遺伝子組み換えトウモロコシの賛成派の政治家事務所の前に、トウモロコシをばら撒くという抗議行動を行っている。2014年4月、中国の大学から、遺伝子組み換え作物のサンプルが盗まれた事件があり、この容疑者としてグリーンピースが挙げられた。グリーンピース側は否定している[31]。 共謀罪創設に対する反対アピール 主に日本国内での活動。2006年、日本政府の共謀罪関連法案(組織犯罪処罰法の改正案)の審議に対する反対運動や抗議の呼びかけ。 批判 資金問題 収入源 グリーンピースは政府や企業からの支援を一切受けず、個人からの寄付金のみで活動している、と公式に説明している[32][33]。これに対し、以下のような異論がある。 グリーンピース創設メンバーの一人で、15年間も会長をつとめた[34]パトリック・ムーアは、のちに団体と袂を分かち、別の団体「グリーンスピリット」を興して原子力発電に賛同する立場になっている。ムーアによれば、ロックフェラー財団など50の基金が、原子力発電に賛同する一方で“環境保護に関心あり”というポーズのためにグリーンピース本部に資金援助しているとして団体の資金源について内部告発を行った[35] アイスランドのジャーナリスト、マグヌス・グドムンドソンは「グリーンピースは環境保護団体のような顔をしているが、実は政治的権力と金を追求する多国籍企業である」と述べている[36][注 2]。 またバチカン教皇庁レジーナ・アポストロルム大学大学院教授のリッカルド・カショーリとアントニオ・ガスパリによれば、グリーンピース・インターナショナルの2000年度予算は3400万ドルにのぼり、団体全体の同年度予算は1億4300万ドル(147億2900万円[注 3])にものぼるほどで、「巨大資金団体」としたうえで[37]、同団体は税控除が適用される寄付金を集め、さらにそれを会計上異なる関連団体に分配しているグリーンピースのやり方を批判している。 ドイツの週刊誌デア・シュピーゲルによれば、グリーンピースは「世界で最も資金力のある環境団体」で、年間に二億ドルの収入があり[38]、ドイツ国内でも1000万マルクの売り上げがありながら、申告されることがないとして批判した。 資金の使途 さらに、資金の使途については、一般の会員から「年次会計報告がなされず、使途が不明」との疑問が呈されることもある[39]。 グリーンピース・ジャパンの年次報告書によれば、2014年の収入は2億6千万円(うち99.8%が寄付収入及び補助金)であった。それに対し、支出の内訳は、1億5千万円(約6割)が「活動費」、6千万円(24%)が「会員管理・資金調達費」、4千万円(16%)が「活動管理費」であった。 1億5千万円の「活動費」の内訳は報告されておらず、実態は不明である。なお、30人の有給職員の給与(仮に日本のサラリーマンの平均給与400万円を掛けると、1億2千万円に相当)がどのように支払われているかについても、一切報告されていない[40]。 組織内部の意思決定 ドイツの週刊誌デア・シュピーゲルは、グリーンピースの意思決定が、「グリーンピース世界会議」の12人の大選挙人に握られており、一般メンバーは運営の意思決定に関わることはできず、収入の24%以上を上納できる資金力を持つ支部代表のみが意思決定を行っていると報道した[41]。 グリーンピースの元会長ウテ・ベリオンは「グリーンピースの賛同者たちに投票権はない」「どのような仕事をするかをこちら(執行部)が指示し、それに同意するなら資金提供という形で賛意を示してもらうシステムである」と述べている[42]。グリーンピース・オランダの会計責任者フランツ・コッターは「理事たちはメンバーに影響されるのを好まない。メンバーたちは黙って金を払うためだけに存在する」と明言している[37]。 またグリーンピース・ノルウェーの会長を二年間務めた後、1993年に団体の運営方法を会議の議題にしょうとしたところ、追放されたビヨルン・オカーンは「グリーンピースに民主主義は存在しえない。ピラミッド構造になっていて、すべてが頂上の一握りの人間によって決定される」と証言している[37]。またオカーンは「グリーンピースの金が環境のために使われていると考えるのは間違っています。幹部たちはファーストクラスに乗って旅行し、最高級のレストランで食事をし、優雅なエコ・セレブの生活をしている。クジラで大騒ぎをするのは、それが儲かるからにほかならない」と主張している[37]。 人種平等会議による批判 ニューヨークに本部を持つ人種平等会議(en:Congress of Racial Equality:略称CORE) は、2003年5月11日に、アメリカのジャージーシティにおいて「Africa,YES,Greenpeace,NO!」とするスローガンを、グリーンピースのイベントに対して投げつけた。COREによれば、グリーンピースが発展途上国の発展を妨害するからで[43]、グリーンピースは遺伝子組み換え植物の導入に反対し、DDTをいかなる目的であっても使用禁止にすべきとして反対し、その結果、マラリア対策をとることができないとして批判している。COREの報道担当官ナイジェル・イニスによれば、1972年に環境保護ファンドという団体の理事チャールズ・ウースターは、DDTによるマラリア予防について質問された際、「だから、どうした? 人口はすべての問題だ。人間は多すぎる。人間はもっと少なくしたほうがいい」と人口爆発を懸念する内容の発言を行ったが、前述のカショーリとガスパリによれば、環境保護運動と優生学運動は、人口と資源のコントロールという共通の目的をもつと独自の論理を披露し、20世紀初頭には両者は連携していたと指摘し[37]、優生学的な考えであるという見方を示した[37]。 日本での批判 (詳しくは捕鯨問題を参照) 2001年12月、南極海で、日本の調査捕鯨船団と、グリーンピースの船「アークティック・サンライズ号」が遭遇した。この際、日本の調査捕鯨を委託されている日本鯨類研究所の理事長である大隅清治がグリーンピースを『エコ・テロリスト』だと批判するプレスリリースを発表[44]すると、即座にグリーンピースは抗議声明を出した。また、船のスクリューに鎖を巻く等、違法な直接行動に対しては、一部の日本政府関係者などに「テロリズムである」と称された。 なお鯨類捕獲調査は、ミンククジラのような鯨類資源と海洋生態系を保全し、その持続可能な利用を目的としており、国際捕鯨取締条約第8条第1項の締約国の権利として、日本政府が日本鯨類研究所に特別採捕許可を発給し、日本鯨類研究所が実施主体となって行っている法的に正当な調査活動である[45]。 高原明生は、中国が南シナ海に7か所の人工島を作ったことを、「人工島の建設というのはたいへんな自然環境の破壊」としたうえで、「サンゴ礁を掘って、人工的な島を作っているわけで、グリーンピースは何をしているんだ、日本の捕鯨船を追いかけるのが得意なシーシェパードは、と思うんですが、国際的なNGOから声は上がっていない。こういうことを知り合いから言われて、10日ばかり前にグリーンピースのホームページを見たら、英語のブログがたくさんならんでいるわけですが、サンゴ礁を壊して軍事基地をつくるとは許せない、という見出しのついている記事があったので、おっ、と思って見たら、中身は沖縄の辺野古のことでした。サウス・チャイナ・シーで検索をかけても一つも出てこない。これはやはりよろしくない、一貫性が大事だと思います」と批判している[46]。 世界での批判 広報(パフォーマンス)重視のボランティア活動に対する懐疑的見方など、しばしば逆効果になっているという批判がある。 例えば、2014年ペルーの世界遺産であるナスカの地上絵において、同年12月9日ペルーの首都リマで、温暖化対策の新たな枠組みを協議する国連の会議「COP20」が開催されることに合わせて、グリーンピースの複数の活動家が無断で立ち入り"Time for change"などと大きな布で文字を書いたことが問題になった。同遺産に無断進入のうえ売名行為を行ったことに加え、土足で踏み込んだために復旧が困難な地上絵付近の石の破壊があったと不快感をあらわにし、ペルー側は「深刻な影響を与えた。活動家の出国前に身柄を拘束したい」と憤慨した。グリーンピースは後日「希望と可能性の緊急メッセージを届けることよりもむしろ、不注意と下品な印象を与えた」などと謝罪の文書を出している[47]。ペルー文化庁のカスティージョ副長官は、このグリーンピースの謝罪を受け入れないと述べ、ナスカ地方の検察は、当局が特定した複数の活動家を告訴した[48]。 さらに非欧米の国の文化、国民性を無視しているとの批判もある。 歴史 1971年 アメリカ合衆国の核実験に反対 アメリカ合衆国がアリューシャン列島のアムチトカ島で行おうとしている地下核実験に反対するために、1969年、カナダのバンクーバーに「波を立てるな委員会(Don't Make a Wave Committee)」という組織が誕生した。この組織は、のちに「名前がわかりにくい」という内部批判から、「環境」を意味する「グリーン(green)」と「平和」を意味する「ピース(peace)」をくっつけた「グリーンピース(Greenpeace)」という造語をつくり、改名した。 グリーンピースは、1971年、核実験を阻止することを目指し、アムチトカ島沖合いの公海に船を居座らせて監視をするという方法で圧力をかけるために、底引き網漁船「フィリス・コーマック(Phyllis Cormack)」をチャーターして船出した。これがグリーンピースの最初の直接行動である。なお、「フィリス・コーマック」が「グリーンピース1号」、その航海への反響で新たに雇って追加派遣した元王室カナダ海軍の退役掃海艇をチャーターした「エッジウォーターフォーチュン(Edgewater Fortune)」が「グリーンピース2号」と呼ばれている。 この航海は、アムチトカ沖の目標地点まで行き着くことはできなかったものの、あまりの反対の強さ・反響の大きさに、アメリカ合衆国は、結局その後のアムチトカでの核実験を断念、同地は自然保護区(バードサンクチュアリ)と宣言された。 この航海を通じて、「目撃者となること」「目撃したことを広く伝えること」などのその後の路線がある程度確立された。また、翌1972年5月4日には、グリーンピース財団(Greenpeace Foundation)に組織を変更した[注 4]。 なお、この航海の際にメンバーのひとりがネイティヴ・アメリカンの伝承本を持参していた。その中に記載されていた「炎の目(Eyes of Fire)」という老婆が語った物語に、「虹の戦士(Rainbow Warrior)」という登場人物がいた。これは、世界が滅亡の危機に瀕したときに立ち上がる伝説の勇者の称号であるとされる。そこから「虹の戦士」はグリーンピースの活動家の自称となり、またグリーンピースを象徴するキャンペーン船の名称ともなった。この当時のグリーンピースのメンバーの多くは既存の生き方に疑問を呈しカウンターカルチャーやサブカルチャーにも理解を示していた[注 5]。 1972年 フランスの核実験に反対 1972年には、フランスが南太平洋のムルロア環礁で行おうとしていた核実験に反対する航海を企画した。 この航海は、この時からグリーンピースに参加し、のちに代表となるデビット・マクタガート(David McTaggart)が指揮を執り、1973年にマクタガート自身の38フィート・2本マストの小さなヨット「ヴェガ S.V.Vega」を「グリーンピース3号」として核実験エリアの風下につけることで核実験を阻止しようとした。「グリーンピース3号」がそこにいる限り核実験が行えないため、フランス軍は軍艦を派遣して拿捕し排除した。しかしこのキャンペーンはイギリスなどでの大きな動きにつながり、グリーンピースの旗をエッフェル塔やノートルダム大聖堂に掲げるなどの行動が行われた。グリーンピースの行動方針のひとつである「非暴力直接行動(主義)」は、この時にはじまっている。 さらに翌1974年にもムルロア沖に船を出しての同様の抗議行動を行った。この時には、マクタガートらが拿捕しにきたフランス軍の兵士から過酷な暴行を受け重傷を負ったが、その暴行の写真の撮影と秘匿に成功し、直後にキャンペーンを行った。南太平洋における核実験反対運動は、のちにフランス国家によるグリーンピースに対するテロを引き起こすほどの衝撃を与えた。 なお、この行動の際に、フランス軍は、マクタガートらが乗船する「グリーンピース3号」を襲うために高速ゴムボート(ゾディアック Zodiac)を使った。その機動性に感動したことから、グリーンピースもゾディアックを導入し、海上での抗議行動に使うようになったと言い伝えられている。ゾディアックを使っての海上での抗議行動は、その後のグリーンピースの象徴ともなり、日本国内でも1997年に高レベル核廃棄物輸送船「パシフィック・ピンテール」の迎撃行動の際に青森県は六ヶ所村の東方海上で展開された。 注釈 捕鯨問題などに関してはフランスと共同歩調を取ることが多いが、原子力問題では、フランス政府と対立している。 捕鯨問題と環境問題への接近 同じ頃、ニュージーランド出身で、後に国際的な鯨類学者となるポール・スポング (Paul Spong)が、バンクーバーのグリーンピースに接近し、クジラをめぐる問題について注意喚起を行った。このスポングの接近は、グリーンピースが捕鯨問題に進出するきっかけとなった。 またこのことは、グリーンピースが「もっぱら反核を主張する組織」から「広くさまざまな自然保護問題について行動する組織」へと脱皮することにもつながった。1971年から参加していたポール・ワトソン Paul Watson らが主力となり、1975年から捕鯨船の目の前に高速ゴムボート(ゾディアック)を繰り出して捕鯨に反対するというキャンペーンが開始された。なお、ポール・ワトソンは、1977年に「グリーンピースは軟弱に過ぎる」として袂を分かち、エコテロリストの筆頭格とされる組織・シーシェパードを設立する。[注 6] 注釈 1972年にストックホルムで行われた国連人間環境会議が反捕鯨の潮流の原点であるとした上で、その背後にグリーンピースがいたとする説があるが、1972年の時点でまだグリーンピースは反捕鯨を主張していなかった。ストックホルム会議での鯨類保護決議はグリーンピースとは無関係である。 さらにその後、毛皮を目的とするアザラシの乱獲問題などにも手を広げた。1977年には、世界中に15ないし20程度の支部(グループ)が誕生しており、国際的な環境保護団体となっていった。 レインボー・ウォーリア号事件 1985年7月10日、グリーンピースの帆走キャンペーン船「虹の戦士 S.V.Rainbow Warrior」は、ムルロア環礁におけるフランスの核実験に抗議・反対する航海のためにニュージーランドのオークランド港で出港準備をしていたが、この船が同日夜、爆破・撃沈された。この際、ボランティアとして乗船していたポルトガル人フォトグラファーのフェルナンド・ペレイラ Fernando Pereira が死亡した。爆破が衝撃的だっただけではなく、このとき「虹の戦士」は、小さなヨットなどから構成される抗議船団のための物資供給などを担当する母船として位置づけられていたために、核実験に反対する側の陣容にも大きな悪影響を与えた。 この爆破事件は、ニュージーランド警察当局の捜査によってフランス情報機関(対外治安総局 DGSE)によるテロであることが突き止められ、ニュージーランドから逃げ遅れたフランス軍士官のテロ作戦指揮官2名が逮捕された。実行犯4名はヨットによって逃亡し、その後の消息は不明である。他にも逃亡に成功したフランス軍人はいるものと考えられている。フランスの国家による犯罪であったため、旅券などはすべて偽造のものであった。逮捕された指揮官2名は偽造のスイス国籍の旅券を所持していた。この事件は、派生的にニュージーランドとフランスの国際問題にも発展した[注 7]。 1995年、フランス核実験への抗議行動 虹の戦士号爆破事件から10年後の1995年、フランスは再びムルロア環礁での核実験を計画した。この際には、グリーンピースは大規模な抗議行動を行った。撃沈された船の名を受け継いだ「虹の戦士2 S.V.Rainbow Warrior II」のほか、旗艦「グリーンピース M.V.Greenpeace」、最初のムルロア核実験反対行動から参加している「ヴェガ S.V.Vega」、チャーター船の「マニティア」、ゾディアック十数隻、グリーンピース号搭載のヘリコプターなどがムルロア環礁に集結して激しい抗議行動を繰り広げ、また呼びかけに応え各国から駆けつけた百隻を越える「平和船団」がムルロア環礁を取り囲んだ。 この抗議行動を受け、フランス政府はムルロア環礁での核実験を中止しなかったが、それ以後の核実験を行わないことを確約した。 日本との摩擦 接触事故 1992年11月にフランス沖合いで、グリーンピースのキャンペーン船「ソロ」と、核物質を搭載して日本に向かっていた輸送船「あかつき丸」を護衛していた海上保安庁の巡視船「しきしま」の接触事故が生じている。 この事故について日本政府は、護衛船の「しきしま」の右舷後方から、追い越し船の立場にあったソロが異常に接近し、急に左転したことが事故発生の原因であるとしている。また、実際に国際海事機関からも同様の見解が出されていると主張している[49]。 この件でグリーンピースは海上保安庁に賠償と修理費を請求したが、拒絶された。 グリーンピースの抗議行動のエスカレート 2005年12月に、南極海で調査捕鯨をしていた日本の捕鯨船の周辺で、グリーンピースの船が抗議行動を行って双方の船が接触する事件が発生した。双方にけが人は出なかったが、この時、グリーンピース側は今後も抗議活動を続けるという声明を発表している。 それを裏付けるように、その翌月には、捕鯨船団に対しての抗議中にグリーンピースの活動家1人が海に転落する事件が発生した。グリーンピース側は、「捕鯨船が狙っていたミンク鯨を守ろうとしていたボートから活動家が転落した」と主張しているが、それに対し、日本鯨類研究所は、捕鯨船の陰に隠れていたボートが突然出現した画像を公開し反論、グリーンピースの行動について、「報道機関の関心を維持するため、だんだん危険な行動をとっている」と批判した。 なお、この件に関して反捕鯨国であるオーストラリアの環境相が「人命を危険にさらすような戦術を人々が尊敬するとは思わない」とグリーンピースに対し自制を求めた。 2006年1月8日、南極海で日本船の調査捕鯨を監視していたグリーンピースの監視船「アークティック・サンライズ」が、日本の捕鯨母船「日新丸」にぶつけられたと発表した。一方、捕鯨船団を派遣した日本鯨類研究所は、他船に貨物を移し替える為停船していた日新丸に意図的にグリーンピースが追突してきと発表し、その時のビデオを発表しグリーピースからの意図的な衝突を証明している[50][51]。 2006年1月18日、捕殺調査名目での捕鯨に対して、死亡したナガスクジラの博物館への輸送の途上で、ベルリン市のデモ許可を取得してドイツの日本大使館前で公開するとともに、「ストランディング(漂着・座礁のこと)した鯨の調査で十分である」という意図を伝えるという抗議行動を行った。[注 8] 2006年2月17日には青森県六ケ所村に存在する日本原燃の使用済み核燃料再処理工場で2006年4月に開始される試験運転に反対する抗議行動として、原子力安全・保安院などが入る経済産業省別館の壁面に『STOP! 再処理』と書かれたメッセージを投影した。 2006年2月21日夕方には青森県庁本館の壁一面に『放射能汚染、立入禁止』の文字と放射能マークが入った貼り紙の映像を投影している。この行動についてグリーンピースは、青森県議会の全員協議会で討議された六ヶ所再処理工場のアクティブ試験安全協定素案に問題があったためと主張している。 グリーンピース・ジャパン グリーンピースの日本事務所(グリーンピース・ジャパン(GPJ))が設立されたのは1989年4月。それ以前にも日本にグリーンピースを名乗っていた人々がいることは確認できているが(たとえば太田竜[52]など)、それらはグリーンピース・インターナショナルとは無関係である。2012年現在の理事長はアイリーン・美緒子・スミス(ユージン・スミスの元妻)、2012年現在の理事長には佐藤潤一が就いている。過去には理事長に海渡雄一、事務局長に星川淳が就いていた。2008年時点でのサポーターは約6000人、有給専従職員は15人である。 商業捕鯨に関しては一貫して反対の立場にあるが、生存捕鯨については原則として判断を示すことはなく、本部同様に概ね認める傾向がある。インターネットテレビでは捕鯨文化尊重と保護を両立するという趣旨で出演者が鯨肉を食べるところを放映することもある。 なお、日本国内における活動としては、国内企業へのアンケート[53]や経済界へのキャンペーン[54]、反原子力発電運動も行っている。また一般寄付金も募っている[55]。 グリーンピース・ジャパンによる宅配便窃盗事件 グリーンピース・ジャパンによる捕鯨関係者の告発と不起訴 グリーンピース・ジャパンは、日本の調査捕鯨船「日新丸」の乗組員が調査捕鯨で捕獲したクジラ肉(鯨肉)を大量に自宅に送っていたとして、2008年5月15日に業務上横領の疑いで証拠品である鯨肉および梱包箱とともに告発状を東京地方検察庁へ提出した。同時に、農林水産省などに対しては、日本鯨類研究所による調査捕鯨活動の停止、および水産庁からの補助金の支給停止を求めた。これを受けて水産庁は実態を調査する方針であることを明らかにした。 グリーンピース・ジャパンは、2008年5月8日付けで水産庁に対して「船員が鯨肉を土産として持ち帰ることが基本的にないのかと」と問い合わせをした結果、水産庁遠洋課課長・成子隆英から「ないです。極めて(流通が)限られていますから」と回答されたと主張している [56] 。また、グリーンピース・ジャパンは、「船員が無断で畝須(うねす)などを塩漬け処理し冷凍せずに西濃運輸の宅配便で自宅に配送されている」「無断で持ち帰るものとは別に、土産や船員向けに販売される鯨肉がある」という元船員とされる人物の証言を紹介している。 またグリーンピース・ジャパンは、告発対象となった2008年4月15日の日新丸帰港に際しての乗組員私物手荷物発送について、「合計90箱程度」のうち「鯨の解体・鯨肉製造に携わる乗組員12人から、最低でも47箱」を確認し、「この全てが鯨肉であったとすると、合計1.1tになる」としている[57][58]。グリーンピース・ジャパンは5月16日記者会見を開いて、「告発の証拠品として提出した鯨肉(畝須)は23.5kgで塩漬け処理されて常温保存の状態」だったと主張し、この鯨肉が「『数kg程度の冷凍品である土産』ではない鯨肉」であり横領されたものであると主張した[59]。 2008年6月20日、東京地検は「グリーンピース・ジャパン」から業務上横領容疑で告発されていた「日新丸」乗組員12人全員を不起訴処分(嫌疑なし)とした(同日には窃盗容疑でグリーンピース・ジャパンメンバー2名が逮捕され、本部が家宅捜索されている(下記参照))。これに対してグリーンピース側は上記不起訴処分を不服として検察審査会を申し立てていたが、2010年4月22日に東京第一検察審査会が「不起訴は相当」とする議決を下した[60]。 グリーンピース・ジャパンメンバーの逮捕・起訴と有罪判決 捕鯨関係者を告発するあたってグリーンピース・ジャパンが提示した証拠のクジラ肉は上掲の「告発レポート[61]」やYouTube投稿映像[62]にあるとおり、「日新丸」乗組員が送った個人の荷物のひとつを、グリーンピース・ジャパン関係者が宅配便運送会社の西濃運輸の配送所から盗み出したものである。 グリーンピース・ジャパンは、この調査方法を認めた上で「重大な横領行為の証拠を入手するためであり、違法性は無い」と主張している(グリーン・ピース側は正当性を主張しているが、グリーンピース・ジャパンは捜査機関ではなく、令状もないため、独自判断で物品を押収する事は盗取となるし、西濃運輸の車両を追跡し、伝票を確認した上で倉庫に侵入し窃盗を行っていう事から、「不法領得の意思」があるといえ、正当性および違法性阻却事由は皆無と言える)。 法曹関係者の間では本件について西濃運輸青森支店への不法侵入・荷物の窃盗・西濃運輸に対する業務妨害などの犯罪に問われる可能性もあることが指摘され、2008年5月15日に放送された『スーパーモーニング』に出演した弁護士は「窃盗に当たる」と断言した。番組では、アメリカ合衆国において人工中絶に反対する団体が人工中絶を実施しているクリニックを襲撃している事例を引き合いに、窃盗という違法行為を正当化するグリーンピースの悪質な姿勢を「非常に危険である」とした。 2008年5月16日に西濃運輸は青森県警に対して被害届を提出した[63]。これを受けて青森県警は窃盗容疑で捜査を開始した[64]。調査捕鯨船運航会社の共同船舶も、早ければ5月19日にも窃盗容疑でグリーンピース・ジャパンを告発することを検討していると報じられた[65]。これらの動きに対して、同日にグリーンピース・ジャパンは記者会見を開いて、西濃運輸に対しては「迷惑を掛けたならお詫びしたい」と謝罪した[59]。 2008年6月20日、青森県警と警視庁公安部はグリーンピース・ジャパンが組織的に計画し肉を盗み出したとみて、実行に関与した東京都と神奈川県に住む同団体幹部2人(1人は後に事務局長となる佐藤潤一である)を窃盗および建造物侵入の容疑にて逮捕し、東京の事務所など関係先数カ所の家宅捜索を行った。なお同日にはグリーンピース・ジャパンが捕鯨関係者を業務上横領で告発したことに対して東京地検から不起訴処分が下されている。 2008年7月11日、青森地検が同年6月20日に逮捕されたグリーンピース・ジャパンの幹部ら2人を窃盗と建造物侵入の罪で青森地裁に起訴した。 同年7月15日にグリーンピース・ジャパンは保証保釈金400万円を払い両被告は保釈された。 2010年9月6日、青森地裁は窃盗などの罪で、2名のグリーンピースメンバーの被告に対して、懲役1年、執行猶予3年(求刑・懲役1年6ヶ月)の有罪判決を言い渡した[66]。これに対して被告側は仙台高裁に控訴したが2011年7月12日に棄却されたため最高裁への上告は断念し、2011年7月27日に被告2名の懲役1年・執行猶予3年の有罪判決が確定した。 脚注 注釈 出典 参考文献 Text "和書" ignored (help) 関連項目 国際捕鯨委員会(IWC) シーシェパード アムチトカ (アルバム) ルトガー・ハウアー 外部リンク 公式サイト (in English) - グリーンピースの公式ウェブサイト。英語。 (in Japanese) - グリーンピース・ジャパンの公式ウェブサイト。日本語。 on YouTube(in Japanese) - 活動報告のビデオや環境問題を解説したビデオなどが投稿されている。 批判的立場から Coordinates:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B9%20%28NGO%29
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ユダヤ教で禁じられている食べ物は何?
カーシェールの食べ物
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カーシェールの食べ物</b>はカシュルート(ユダヤ教の食のタブー)の規則に従う食品。ユダヤ法ハラーハーに従い消費される食べ物は<b data-parsoid='{"dsr":[169,181,3,3]}'>カーシェール</b>と呼ばれる。コーシェール、コシェル、コーシェル、コーシャ、カシェル</i>とも表記され、ヘブライ語では<style about="#mwt1" data-mw='{"parts":[{"template":{"target":{"wt":"Hebrew","href":"./Template:Hebrew"},"params":{"1":{"wt":"כָּשֵׁר"}},"i":0}}]}' data-mw-deduplicate="TemplateStyles:r886049626" data-parsoid='{"pi":[[{"k":"1"}]],"dsr":[252,270]}' typeof="mw:Extension/templatestyles mw:Transclusion">.mw-parser-output .script-hebrew,.mw-parser-output .script-Hebr{font-size:1.15em;font-family:"Ezra SIL","Ezra SIL SR","Keter Aram Tsova","Taamey Ashkenaz","Taamey David CLM","Taamey Frank CLM","Frank Ruehl CLM","Keter YG","Shofar","David CLM","Hadasim CLM","Simple CLM","Nachlieli","SBL BibLit","SBL Hebrew",Cardo,Alef,"Noto Serif Hebrew","Noto Sans Hebrew","David Libre",David,"Times New Roman",Gisha,Arial,FreeSerif,FreeSans}כָּשֵׁרと表記され「適する」意味する。ユダヤ法に従わない食べ物はテレファと呼ばれる(ヘブライ語では טְרֵפָהと表記)。 カーシェールの食べ物とその規則はレビ記11:1-47と申命記14:3-20に挙げられている。ある食品がカーシェールにならない場合とは、材料にカーシェールでない動物、カーシェールだが儀式に則って屠殺されていない動物、監督下で処理されていない肉、牛乳、ワイン、グレープジュース(その加工品)、もしくは十分の一税が支払われていないイスラエルからの産物が使われている時、またはカーシェールではない器具や機械により調理された時である。 全てのカシュルートの規律は、人命に関わる場合は破られても良いとされる。タルムードの中で何度も言及されているPikuach Nefesh(命を救うことは何よりも優先される)という教えがある。「魂を救うため、死を逃れ、彼の目が光を得るまで、彼は(医師により)不浄な食べ物でさえ与えられてもよいと我々は承諾している」(ヨマー83a)。 清浄な生き物と不浄な生き物 申命記(14:6-7)とレビ記(11:3-4)には「反芻し蹄の分かれている動物はすべて清浄であり、反芻するのみ、もしくは蹄が分かれているのみの動物は不浄である」と書かれている。これらの書には、特にウサギ、イワダヌキ、ラクダ、ブタの4種の動物が上記の理由から不浄な動物として挙げられている(実際は、ラクダは反芻し蹄が2つに分かれており、ウサギとイワダヌキは反芻動物というよりは後腸発酵動物である)。トーラには食用にすべきでない翼を持つ動物として、猛禽類、魚を食べる水鳥、コウモリが挙げられている。レビ記と申命記では、海と川から取れる動物のうち、ひれと鱗の両方を持つもののみが清浄な動物であるとされている(申命記14:9、レビ記11:9)。 全ての地をはう生物は不浄な生き物とされている(レビ記11:41)が、果実の中で生まれ、地面を這ったことがない虫は食することができるとされている(申命記14:19、レビ記11:20)。レビ記にはワタリバッタを含む4つの例外が挙げられている。 畜産物 タルムードでは不健康な動物や不浄な生き物から作られた食肉とその他の畜産物を食べることを禁じている[1]。 畜産物には、卵(魚の卵を含む)や乳、チーズやゼラチンのような加工品は含まれるが、動物によって作られたり集められたもの、例えばハチミツのようなものは含まれない(ただし、ミツバチ以外の動物が集めた蜜の場合については、タルムードの作者間でも意見が分かれる)[2][3][4][5][6][7]。卵が食に適しているかどうかの指針として、清浄な動物から生まれた卵は常に一端が長球(尖った形)で他端が扁球(丸くなった形)である、と ラビは説いている[8][9][10]。 乳製品 古典的ラビは、肉がカーシェールな動物から得られた乳はカーシェールであると暗示している。屠殺された後で病気であったことが判明し、カーシェールでなくなった動物から得た乳は、後づけでカーシェールでないとなりえる。しかし、多くの実例は一部の例外を無効にするという一般論に則り、ユダヤ教では伝統的にそのような乳であってもカーシェールとみなす。同様の原理は、病気の検査を受けていない動物の肉を食べる可能性には適用されない。イェシーバー大学の高名なrosh yeshivaであるHershel Schachterは、現代の乳製品加工装置にはっきりと苦言を呈している。少数のカーシェールでない牛の乳が、大多数のカーシェールな牛乳と必ず混合されているため、大規模畜産農家で生産された牛乳はカーシェールと認められないとしている。しかし、正統派連合(Orthodox Union)は寛容さを示して、大量生産された牛乳の消費を許可する宣言をしている。 人乳 人乳を摂取することは厳しく禁じられているが、現代のラビによれば母乳はその禁止に該当しないとされている[6][11][12][13][14] 。 チーズ ハードチーズには通常乳をカードと乳清に分離させる酵素レンネットが含まれるため、チーズにまつわる事情は複雑である。以前はほとんどのレンネットは動物の胃壁から作られていたが、現在では遺伝子組換え微生物によって作られている。レンネットは動物から作られているかもしれないので、カーシェールでない可能性がある。遺伝子組換え微生物から作られた、もしくはカシュルートに沿って屠殺されたカーシェールな動物の胃から採れたレンネットのみがカーシェールである。カーシェールな動物であってもハラーハーに沿って屠殺されていなければ、レンネットはカーシェールではない。レンネットは食用肉の一種とはみなされておらず、肉と乳製品の混合を禁ずる規則に抵触しない[15]。 中世のラビの中でも有名なヤコブ・ベン・メイールは、当時ナルボンヌとイタリアの社会で認められていたように、全てのチーズはカーシェールであるとの考えを支持した。現代の正統派指導者はこの指針に追従せず、チーズがカーシェールとなるためには、正式なカシュルート認定が必要であるとしている。一部には、非動物性レンネットが使用されたチーズもカシュルート認定が必要との議論さえある。事実、カシュルートの規律を順守する正統派と保守派の一部は、レンネットがカーシェールであることが明確な時だけチーズを食べる。しかし、Isaac Kleinのテシュバではカーシェールでないレンネットから作られたチーズの正当性を認めており、広い範囲で保守派信者と保守派団体がその教えに従っている[16]。 卵 卵は動物の産物であるがpareve(肉や牛乳と同時に食べられる)とされている。マヨネーズは卵を含むため通常「pareve」と表示されている。ヨーレ・デーアーでは、黄身の中に血が混じっていた場合、孵化の過程が既に始まっているので食べてはならないと説かれている[17]。現代正統派は基本的にその教えに沿っているが、アシュケナジムは卵のどの部分にでも血が混じっている場合その卵はカーシェールではないとする一方で、セファルディムは黄身の中の血だけが問題であるとしている。セファルディムは卵白中の血が調理前に取り除かれていればカーシェールであるとしている。バタリー飼育で育てられた卵が大多数となっている今日では、市販の卵は生存能力のある胚を形成しないため、少量の血は取り除かれれば問題ないとされている[18]。 ゼラチン ゼラチンは動物の結合組織の主要なタンパク質であるコラーゲンを加熱、変性したものであるため、ブタの皮膚のようなカーシェールでない原料から作られている可能性がある。ゼラチンは歴史的に膠の良質な原料であり、楽器、刺繍、乳濁液の形で化粧品と写真フィルム、医薬品カプセルのコーティング材、またゼリー、トライフル、マシュマロを含む様々な食品に至るまで、幅広く使われており、カシュルートにおけるゼラチンの立場は結果としてかなり議論の的になっている。 多くの正統派のラビは、ゼラチンを含む製品は原材料の出自が不確であることを理由に、カーシェールでないとしている。しかし、 Chaim Ozer Grodzinski、Ovadia Yosefなどのセファルディム系指導者を含む一部有力な正統派のラビと保守派のラビは、ゼラチンは化学変化と加工を経ているので、もはや肉とは分類されず、カーシェールであるとしている。科学的には、コラーゲンを熱湯で処理することで三量体ヘリックス構造を解離させてゼラチンとしている。 「Gelatin in Jewish Law (ユダヤの法におけるゼラチン)」(1982年)と「Issues in Jewish Dietary Laws (ユダヤの食の法における問題)」(1998年)の著者 David Sheinkopf師は、ゼラチン、カルミン酸色素、キトニーヨートへのカーシェールの適用について、徹底した研究を行っている。  カーシェールでないゼラチンを避ける主な方法はゼラチンの代用品を使用することである。同様な化学的性質を示す代用品として、タピオカ(キャッサバから作られるデンプン)、化学変性されたペクチン、植物性ゴム(グアーガム、ローカストビーンガム、キサンタンガム、アカシア樹脂、寒天)とカラギーナンを混合させたもの、などが挙げられる。ゼラチンは多くの異なる製造業者によって、多岐に渡る用途に使われてるが、ヴィーガニズム、菜食主義への強い関心から、上に挙げたような代用品に置き換わりつつある。以上のような様々な問題を避けるため、今日ではゼラチンはカーシェールな魚の皮から作られている[19]。 血液 「血は命である」(申命記12:23)という聖書の記述のため、血を食べることは禁じられており、食べ物についての戒律のなかでも重要なものとなっている。この禁止とその理由についてはノアの法(創世記9:4)、レビ記(レビ記3:17、17:11)、申命記(申命記12:16)に示されている。聖職者の法典も生贄にされる牛、羊、ヤギのChelevと呼ばれる脂肪を食べることを禁じている。なぜなら、脂肪は燃やされることで捧げられる、神のみに割り当てられた肉の一部だからである(レビ記7:23-25)。昔のラビは、血を最後の一滴まで除くことが実質不可能で、血を摂取する禁則が現実的でないときは、例外が許されると論じた。例えば、肉の表面の血、滴った血、血管内の血の摂取は禁じられているが、肉の内部に残った血は摂取しても良いとされ、また、魚やワタリバッタの血も許容されている[20][21][22][23]。この禁則に従うために、伝統的ユダヤ教では数々の技術が熟達された。Melihahとして知られる重要な技術では、まず肉を約30分間水につけ毛穴を開く[24] 。その後、肉を傾けた板もしくはざるに置き、厚く塩で覆い20分から1時間置く[24] 。浸透作用により塩が肉から血を吸い出した後、塩を取り除いて(まずほとんどの塩を払い落とし、水で2回洗う[24])血抜きを完了する。 肝臓、肺、心臓などの内臓はかなりの血液を含み、Melihahだけでは十分な血抜きができないので、通常は残りの肉を塩で処理する前に内臓を取り除く。一方、ローストは調理しながら血を除く方法として全ての肉について認められており、内臓の一般的な調理方法となっている。[24]。 儀式的屠殺 食事規定についてほとんど書かれていない出エジプト記において、数少ない食物規定の記述の一つは、野獣によって引き裂かれた肉を食べることの禁止である(出エジプト記22:30)。申命記では、自然死した生き物の消費を完全に禁じており、他者に譲ることも、売ることさえも禁じている(申命記14;21)。エゼキエル書では、自然に死んだにせよ、他の獣に殺されたにせよ、動物に関するルールは僧侶の判断のみに依存し(エゼキエル書4:14)、そのルールは僧侶のためにだけあると暗示している(エゼキエル書44:31)。古代のラビは、この記述が一般のユダヤ人には適用も支持もされないことについて、「預言者エリヤが、いつの日かこの厄介な一節を説明したまう。」と言及している(メナホット45a)。 伝統的なユダヤ教の考えでは、全ての食用肉はユダヤの法に沿って屠殺された動物のものでなければならないとしている。厳密なガイドラインによると、一回で正確に喉を切り、出血により絶命させなければならないので、その深さは、両側の頸動脈、頸静脈、迷走神経、気管、食道を断つ程度、位置は、喉頭蓋より高くなく、気管の中に繊毛が生えている位置より低くない場所でなければならない。正統派ユダヤではこの屠殺方法が苦しみを与えず、早く確実であるとしているが、多くの動物愛護運動家からは、残酷であり、必ずしもこの方法で動物は即座に意識を失っておらず、禁止すべきであると言われている[25][26]。 引き裂きを避け、切り込みを完璧にするために、屠殺は、毎回事前に欠けやくぼみなどの異常がないことが確認された大きなカミソリ型ナイフを用いて、訓練された職人が行う。もしも異常が発見された場合、または切り込みが浅すぎた場合は、その肉はカーシェールとはみなされない。ラビは屠殺人(ユダヤ教ではショーヘートとして知られている)に敬虔な信者であると共に、安息日(シャバット)を順守することを求める。比較的小さな集落では、ショーヘートはその集落、またはその地域のシナゴーグのラビであることが多いが、大きな屠殺場では専門職のショーヘートを雇っている。 タルムードとそれ以後のユダヤの権威者たちはまた、病気で死にかけているにもかかわらず屠殺された動物の肉の消費を禁じている。これは食べる人の健康の懸念からではなく、野獣により引き裂かれた動物と自然死した動物の食肉を禁ずるルールの延長である[27][28]。病気の動物を食べることを禁じる、タルムードによる禁止命令を遵守するため、正統派では、通常屠殺された死体をすぐさま完全に検査するよう求められている。伝統的には70のチェック項目がある。例えば、肺の検査では炎症によって生じた可能性がある傷跡がないかが調べられる。全ての検査に合格すると、イディッシュ語で「滑らかな」を意味するglatt גלאַטと名付けられる。ユダヤ式の屠殺を禁じるような動物虐待禁止法がある国での妥協案として、動物を気絶させ、流血している間の苦しみを軽減させる方法がある。しかしながら、電気ショックで意識を朦朧とさせる方法を使った場合、市場でカシュルートな肉として受け入れられないことがある[25]。 前足、頬、胃 カーシェールとして屠殺された動物の前足、頬、胃 (זְּרועַ לְּחָיַיִם וְקֵּיבָה) を僧侶へ贈ることは、ヘブライ語聖書においてミツヴォット・アセー(「積極的戒律」行動を促す命令)とされる。ラビYosef Karoの「Shulchan Aruch」ではショーヘート(正式な屠殺人)が動物を屠殺した時、僧侶が祈りや何らかの儀式を行わなくとも無償で前足、頬、胃を与えるべきであると定めている[29]。さらに、この肉は金銭その他の対価なしで分け与えるべきであるとされている(ベホロット 27a)。この供物は完全に日常的なもの(chullin) であり、エルサレム神殿の中央祭壇に捧げられる生贄とは性質が異なる。いくつかのハザルの見解では、僧侶への供物が捧げられる前の肉の消費を禁じている。しかし、ハラーハーでは、供物が捧げられる前に肉を消費してもよいが、消費より前の供物が好ましい、と定められている。更に、カーシェールとして屠殺されていても牛の前足、頬、胃は、僧侶の許可がない限り僧侶以外は消費することができない[30]。 ユダヤ教徒以外による調理 古代のラビは、いかなる食物も神像へ捧げたり、神像に対する儀式で使用することを禁じていた[31] 。タルムードでは、ユダヤ教信者以外は全て潜在的な偶像崇拝者とみなし、また異宗婚対する懸念があったため、ユダヤ教信者以外により調理された食べ物は禁忌とされていた(ただしパンはこの禁忌に含まれない)[32][33] 。また、ヤコブ・ベン・アシェルの考えには反するが、多くのユダヤ著作家たちは、非ユダヤ信者である奴隷がユダヤ信者のために調理した食べ物は、潜在的偶像崇拝者によって調理された食べ物とみなされないと信じていた[34]。結果的に現代の正統派ユダヤ教徒は一般的に、ワイン、ある種の調理された食べ物、ある場合には乳製品でさえもユダヤ教徒にのみ調理されるべきであると信じている。 古来ヤイン・ネセフ(yayin nesekh、「神に捧げるワイン」の意)と呼ばれた、ユダヤ教徒以外により醸造されたワインの使用禁止は絶対的ではなくなった。調理されたワイン(加熱されたワイン)は、歴史的に儀式での献酒に使われなかったので飲んでも良いとされている。したがって、カーシェールなワインには製造者に関わらずグリューワインと、低温殺菌されたワインが含まれる。しかし、正統派ユダヤ教では、調理されたワインもユダヤ教徒により調理された場合のみカーシェールとみなしている。 あるユダヤ教徒らはこれらの禁じられた食べ物を「星々と惑星の崇拝者」を意味するObhde Kokhabkim U Mazzaloth (עובדי כוכבים ומזלות)、の頭字語akumと称している。Akumはユダヤ教信者にとって偶像崇拝の行為を指す言葉となり、Shulchan Aruchに代表のようなポスト・クラシカルとされるユダヤ文書の多くにおいては、特にキリスト教信者を指すために使われていた。しかし、古典的のラビの中には、キリスト教信者を偶像崇拝者として扱うことを拒否する者も多くおり、結果としてキリスト教信者により作られた食べ物はカーシェールとされた。この経緯の詳細は、ラビ、イスラエル・シルバーマン、エリオット・ドーフなど保守派ユダヤ教の宗教的権威者により記録され、支持された。保守派は更に寛大であり1960年代に、イスラエル・シルバーマンは、Committee on Jewish Law and Standardsにより正式に認められた回答書を発表した、この中でシルバーマンは、自動化されたシステムで作られたワインは、異教徒により作られたものではなく、従ってカーシェールとしてよいと述べた。後のエリオット・ドーフの回答書では、15から19世紀の回答書の前例に基づき、かつて、ユダヤ教徒以外に作られた時、禁じられていた小麦や油など多くの食品は実質的にはカーシェールと宣言されたと述べている。これを根拠にドーフは、ユダヤ教徒以外に作られたワインとブドウ製品は許容されうると結論した。 汚染された食品 自明の理由から、タルムードには汚染された動物の消費を禁じる規則がある[35]。同様に、ヨーレ・デーアでは、もし水が蛇がいるような場所に一晩蓋をせずにおかれた場合は、蛇が毒を残す可能性があるため、その水を飲むことを禁じている[36] 。確実にヘビがいない場所ではこの禁則は当てはまらない。 乳と肉 子ヤギの肉をその母ヤギの乳で煮ることを特に禁じる記述は、トーラの中で3回現れる(出エジプト記 23:19、34:26、申命記 14:21)。タルムードではこの記述を、肉と乳製品を一緒に調理すること、食べることに対する一般的な禁則と解釈している。この規則を偶発的に破ってしまうことを防ぐために、近代の一般的正統派は、食品を「肉または乳製品」もしくは「どちらでもない」(parev)に分類している。Parev (פארעוו)はイディッシュ語で「中立の」を意味し、parve、pareveとも綴られる。魚や昆虫はparevとみなされる一方で、家畜哺乳類の肉は全て「肉」として分類される。鳥はハラーハーによって2000年以上もの間「肉」とみなされてきたにも関わらず、ラビの法令によりparevとされている。 魚と肉 タルムードとヨーレ・デーアでは肉と魚を同時に食べるとらい病になる可能性があるとしている[37][38]。従って厳格な正統派ユダヤ信者は肉と魚を合わせないが、一方で保守派は肉と魚を合わせることがある[39][40]。 関連項目 ハラール ハラーム 食のタブー カシュルート 参考文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%A3%9F%E3%81%B9%E7%89%A9
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フョードル・ドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟を完成させた?
カラマーゾフの兄弟
japanese
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『カラマーゾフの兄弟』(カラマーゾフのきょうだい、)は、フョードル・ドストエフスキーの最後の長編小説。1879年に文芸雑誌『』()に連載が開始され、翌1880年に単行本として出版された。『罪と罰』と並ぶドストエフスキーの最高傑作とされ、『白痴』、『悪霊』、『未成年』と併せ後期五大作品と呼ばれる。 複雑な4部構成(1〜3編、4〜6編、7〜9編、10〜12編)の長大な作品であるが、序文によれば、続編が考えられていた。信仰や死、国家と教会、貧困、児童虐待、父子・兄弟・異性関係などさまざまなテーマを含んでおり、「思想小説」「宗教小説」「推理小説」「裁判小説」「家庭小説」「恋愛小説」としても読むことができる。 三兄弟を軸に親子・兄弟・異性など複雑な人間関係が絡む中で、父親殺しの嫌疑をかけられた子の刑事裁判について三兄弟の立場で向き合うことが本筋と目されているが、この本筋からやや離れたサイドストーリーも多く盛り込まれている。無神論者のイヴァンと修道僧のアリョーシャが神と信仰をめぐって論争した際に、イヴァンがアリョーシャに語る「」(Russian: Великий инквизитор、第2部5編5章)は、イヴァンのセリフ «Если Бога нет, все позволено»(神がいなければ、全てが許される) によって文学史的に特に有名な部分である。 この作品に題をとった映画や劇が数多く作られている。サマセット・モームは『世界の十大小説』の一つに挙げている。 あらすじ 第1部(1~3編) 強欲かつ好色な成り上がり地主フョードル・カラマーゾフは、直情的な長男のドミートリイとそりが合わず、遺産相続や、グルーシェンカという女の奪い合いで、いがみ合っていた。ある日、三男の修道僧アレクセイの師、高僧ゾシマの仲介で、ばらばらに育ったカラマーゾフの兄弟3人が一堂に会すこととなった。しかし、顔を合わせるや、フョードルとドミートリイは大喧嘩を始め、物別れに終わる。 ドミートリイは、父がグルーシェンカをものにしたら父を殺すと言い、実際フョードルを殴ったことがあったが、彼にはカチェリーナという婚約者がいた。ドミートリイは、カチェリーナに対し、君を真剣に愛している次男のイヴァンのほうが君にふさわしいとの伝言を、末弟のアレクセイに頼む。アレクセイがそれを伝えにカチェリーナの元に行くと、そこにはグルーシェンカが来ていた。グルーシェンカはカチェリーナに、ドミートリイとは結婚しないと言っておきながら、ドミートリイの伝言を聞くとカチェリーナをあざ笑ったため、女二人も対立することとなる。 第2部(4~6編) カチェリーナはイヴァンと接近しつつあったが、ドミートリイをまだ愛しているのか、酒場でドミートリイに乱暴をされたスネギリョフなる男がそのことで訴えないようスネリギョフに見舞金を送ることをアレクセイに頼む。スネギリョフの息子イリューシャは、父親を侮辱したドミートリイを憎んでいたため、級友たちとの喧嘩を止めようとしたアレクセイに石をぶつけた少年だった。スネギリョフもこれをもらったら息子に向ける顔がないと見舞金を踏みつけにする。 師ゾシマの容態も悪化し、凶兆を感じるアレクセイは、今度はイヴァンから無神論の持説を聞かされる。虐げられている子供たちのために神は何かしているか? 続く「大審問官」なる創作物語は、イエスを思わせる人物が、異端審問官から「おまえこそ異端だ」と火刑にされかけるというもので、アレクセイはイヴァンの神経を心配する。事実イヴァンは、フョードルの私生児と噂されているカラマーゾフ家の料理人スメルジャコフの「フョードルが再婚したら財産は後妻に行くからフョードルは殺されていい」という囁きを肯定する気持ちがあり動揺していた。そんな夜、スメルジャコフがてんかんの発作で倒れ、ドミートリイ来襲の監視役を失ったフョードルは不安に陥っていた。 第3部(7~9編) 高僧ゾシマは、ドミートリイにかつて跪いた理由であるところの自分の経験談を語った後死すが、その死体の激しい腐臭のため、還俗したアレクセイも神への疑念を抱きだす。 ドミートリイはカチェリーナと縁を切るため、カチェリーナに返す金を工面しようと奔走するも果たせず、父の金を盗もうとカラマーゾフ家に忍び込む。しかし使用人のグリゴーリに見つかり逃走、次にはグルーシェンカが昔の愛人と会っていると知って、その現場へ急行する。そこで恋敵を追い払い、グルーシェンカからついに愛の告白を受けるが、その直後、警察に逮捕される。容疑は父フョードル殺し。証言はドミートリイに不利なものばかりであった。 第4部(10~12編) 病床に臥す少年イリューシャを、アレクセイの尽力で仲直りした級友たちが見舞いに来る。イリューシャもその父スネギリョフも素直に歓迎する。ただアレクセイは、イヴァンの無神論にも似た考えを口にするリーダー格の少年コーリャの将来が心配になる。 犯人をドミートリイとするイヴァンは、スメルジャコフだと見るアレクセイと絶交してしまうが、不安になってスメルジャコフを問い質す。スメルジャコフは犯行を自白するが、殺人を許可したのはイヴァンだと言う。怒ったイヴァンは明日の裁判で真実を言えと言うが、その直後自室に悪魔が現れ、我に返るとアレクセイがスメルジャコフの自殺を告げた。 注目の裁判。関係者が次々と証言していく中、裁判はドミートリイに有利に傾いていくかに見えだすが、最後にイヴァンが事件当日盗まれた金を示して、犯人はスメルジャコフであり、それをそそのかしたのは自分であると喚きだすと、カチェリーナが一転、父を殺すと書いたドミートリイの手紙を示して、ドミートリイが犯人だと喚きだす。法廷内を感動させた名弁護士の最終弁論も及ばず、ドミートリイは有罪、シベリア流刑懲役20年を言い渡される。 エピローグ  判決が出た後の登場人物それぞれの様相。病床に臥したイヴァンは自分にもしものことがあったら、カチェリーナがドミートリイの脱獄を助けてほしいと言い残す。少年イリューシャの葬式で少年コーリャは尊敬するアレクセイに、ドミートリイのように何かのために犠牲になって生きたいと語る。 主要登場人物 カラマーゾフ家 フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフ カラマーゾフ家の家長。強欲で好色な成り上がりの地主。前妻のアデライーダ・イワーノヴナ・ミウーソワとの間に長男のドミートリイをもうけたが、その後に駆け落ちされた。後妻はヴォロホフ将軍の未亡人に養育されていたソフィヤ・イワーノヴナであり、次男のイヴァンと三男のアレクセイをもうけた。しかし、子をろくに養育しようとしなかった挙句ソフィヤには先立たれ、今は独身である。直情的かつ暴力的なドミートリイを恐れているものの、本当に怖いのはイヴァンだと言う。グルーシェンカを巡ってドミートリイと争っている。 ドミートリイ・フョードロウィチ・カラマーゾフ(ミーチャ、ミーチカ) フョードルの長男。28歳。フョードルと前妻の子。退役軍人。放埒で堕落した生活から抜けきれない、直情型の人物。しかし野生的な魅力があり女性に結構好意を寄せられてもいる。フョードルの企みによって、自分の全財産がどれほどなのか知らぬままありったけの金を使い込み、それによって婚約者のカチェリーナに借金をしてしまう。さらにグルーシェンカをめぐってフョードルと醜悪な争いを繰り広げ、それが最悪の結果を呼び起こす。 (ワーニャ、ワーネチカ) フョードルの次男。24歳。フョードルと後妻の子。幼い頃は、母の養育者の筆頭相続人で他の県の貴族会長を務めていたエフィム・ペトローウィチ・ポレノフに養育されていた。理科大を出たインテリで、合理主義・無神論を標榜しているが、自分を完全に信じ込むまでは至っていない。「神がいるのであれば、どうして虐待に苦しむ子供たちを神は救わないのか?」とアレクセイに言い放ち、純朴なアレクセイの中にも悪魔が宿っていることを確信する。カチェリーナを愛している。 (アリョーシャ、リューシェチカ) フョードルの三男でこの物語の主人公(続編があるという前提で書かれた序文ではそう述べられているが、実際に書かれた当作だけではドミートリイを主人公とする意見もある[1])。フョードルと後妻の子。イヴァン同様、エフィム・ペトローウィチ・ポレノフに養育されていた。中学校を中退して修道院に身を預けた修道僧であり、純情で真面目な美青年。神の愛によって肉親を和解させようとする。ゾシマ長老の命で、彼の死後は還俗する。 スメルジャコフ(パーヴェル・フョードロウィチ) カラマーゾフ家の使用人(コック)。「神がいなければ、全てが許される」というイヴァン独特の無神論に心酔している。てんかんの発作という持病を抱えている。幼い頃は猫を縛り首にする等の動物虐待をしていた。母は町の乞食女で神がかり行者と言われたイリヤー・リザヴェータ・スメルジャチシャヤで、彼女はスメルジャコフをカラマーゾフ家の風呂場で産んだ直後に死亡した。父親はフョードルだと町の人々は思っており、フョードル自身も積極的に否定しておらず、彼をカラマーゾフ家の使用人グリゴーリイとマルファ夫妻の手によって育てさせた。 その他 カチェリーナ・イワーノヴナ(カーチャ、カチェーニカ) ドミートリイの元上司(中佐)の令嬢。ドミートリイの婚約者。かつてドミートリイに助けられたことがある。長身で優れた容姿をもつとともに高慢で自尊心が非常に高い一方、体調不全に陥ることが多く、資産家であるホフラコワ夫人の庇護を受けている。イヴァンの求愛を受け、ホフラコワ夫人には、ドミートリイよりイヴァンを愛しているのだと指摘される。 アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ(グルーシェンカ) 妖艶な美貌を持つ奔放な女性。ドミートリイとフョードルのどちらともが夢中になっているが、どっちつかずの態度を崩さない。かつては清純な娘で、婚約者に捨てられた過去がある。商人の未亡人であるモロゾワの家を借りて住んでおり、その親戚であるサムソーノフの仕事を手伝っている。 リザヴェータ(リーザ、リーズ) カチェリーナを保護しているホフラコワ夫人の娘。アリョーシャの女友達で相愛の仲。一見無邪気な性格。足が不自由で車椅子を常用している。 ゾシマ アレクセイの修道院の長老。余命幾許もない。本名はジノーヴィ。幼い頃に8つ上の兄マルケルを病で亡くす。元中尉であり、軍人の頃にはアンフィナーシイという従卒がいた。現在はスヒマ僧(ロシア正教における高位の修道士)で聖人君子とされ、修道院には彼のご利益にあやかろうとする人でいつもあふれている。だが死後、彼の遺体によって一つの事件が起こる。長老、およびザドンスクのティーホンがモデルとされる[2][3]。 イリヤー・リザヴェータ・スメルジャチシャヤ 「神がかり」と言われ、町を麻の肌着を身に着け、裸足で歩き回る。身長140cm程。20歳くらい。両親を共に亡くし孤児になる。 スネギリョフ 元二等大尉で今は貧窮に苦しんでいる。ドミートリーに飲み屋であごひげを引っ張られ侮辱された。 イリューシャ(イリューシェチカ) スネギリョフの子。中学生。スメルジャコフに動物虐待を教えられそのとおりやったことがあり、級友たちに仲間はずれにされるが、リーダー格のコーリャをナイフで刺したり、喧嘩をしたりと負けん気が強い。カラマーゾフ家の人間ということで、当初はアレクセイを憎む。 コーリャ・クラソートキン イリューシャの級友。クラスのリーダー格で、頭が良いが冷酷な一面があり、イリューシャを皆で仲間はずれにした。早熟でアレクセイの前で背伸びをするが、イリューシャが死ぬと分かったときは涙を流した。 グリゴーリイ 夫婦で長くカラマーゾフ家に仕える忠実な使用人。スメルジャコフを養育した。 ラキーチン アレクセイとともに修道院で学ぶ若い僧。グルーシェンカの親類。人に好かれるアレクセイに嫉妬しており、アレクセイをグルーシェンカのところへ連れて行き堕落させんとした。 続篇の構想 作者自身による前書きにもあるとおり、当初の構想では、この小説は、それぞれ独立したものとしても読める二部によって構成されるものであった。しかし、作者の死によって、第二部(第一部の13年後の物語)は書かれることなく中絶した。続編に関しては、創作ノートなどの資料がほとんど残っておらず、友人や知人に宛てた手紙に、物語のわずかな断片が記されているのみである。ドストエフスキー本人は、続編執筆への意欲を手紙に書き表していたが、その3日後に病に倒れた。残された知人宛への手紙では、「リーザとの愛に疲れたアリョーシャがテロリストとなり、テロ事件の嫌疑をかけられて、絞首台へのぼる」というようなあらすじが記されてあったらしいが、異説も出されている。この説を裏付ける要素として、ドストエフスキーが序文で、アリョーシャを本編から受ける印象とは全く異なる「奇人とも呼べる変わり者の活動家」と評していることが挙げられる。 この評は、1866年4月4日に起きた皇帝アレクサンドル2世暗殺未遂事件の犯人に一致する。革命家ピョートル・クロポトキンは、拷問を受けた体で絞首台に上ろうとするカラコーゾフの凄惨な姿を、現場に居合わせた知人からの伝聞として回想録の中で強い印象をもって記している[4]。カラコーゾフは、出版直後のニコライ・チェルヌイシェフスキーの長編小説「」の影響を受けていた。この事件は「ヴ・ナロード運動」の先駆「」に影響を与え、ピョートル・ラヴロフらの機関紙『前進 Вперёд』の宣伝で勢力を拡大し、1879年に組織化されて「人民の意志」が結成されると、1881年3月13日に党員によって、アレクサンドル2世は暗殺された。 エピグラフで用いられている福音書の「一粒の麦」の喩えは、カラコーゾフがロシア革命運動で果たした役割を暗示するとも読める。シベリア抑留による「改心」によってドストエフスキーに長く貼られて来た「反動的作家」という一方的なレッテルは、晩年、自らをニヒリズム運動を主導した革命家ネチャーエフの亜流と称している点も併せて、一考察の余地があるかも知れない。 一方で、亀山郁夫もその著書『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』の中で、アレクセイにその将来を心配されたコーリャ少年が成人して思想家的テロリストとなり、皇帝暗殺を謀り、その嫌疑をアレクセイが受けるというものではないかと推測している。 いずれにせよ、実際に書かれることのなかった続編の内容を我々が知ることは永遠に不可能である。それでも、20世紀の日本を代表する文芸評論家の小林秀雄もこの小説を「およそ続編というようなものがまったく考えられぬほど完璧な作品」と評している。 受容・評価 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインも第一次世界大戦従軍時の数少ない私物の一つが本書であり「最低でも50回は精読した」と言っている。また、村上春樹は「これまでの人生で巡り合った最も重要な本の3冊」として、F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』とレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』と並んで本書を挙げている。さらに、東京大学の教員を対象に行われたアンケートでは、全ての分野の本の中で『カラマーゾフの兄弟』が「新入生に読ませたい本」の1位に選ばれてもいる。 2006年から2007年にかけては、新訳(亀山郁夫訳)が古典文学としては異例のベストセラーになった[5]。ただし、亀山のこれについてはその後、国際ドストエフスキー学会副会長・木下豊房から、余りに誤訳が多いなどの批判がなされた[6]。2006年には「スターリン論」を「」になぞらえた『大審問官スターリン』が出版された。 2008年、宝塚歌劇団雪組で舞台化された。 正教会からの評価 フョードル・ドストエフスキーの作品は、正教会側からも高く評価されるものであり、時には「正教の神髄の代弁」とまで評される。特に『カラマーゾフの兄弟』については、正教会における人間の救いについての基本的な考えが一応網羅されているとされる[7]。 長老ゾシマのモデルが長老アンヴロシイ、およびザドンスクのティーホンであるとされるほか、「神の像と肖」といった概念や、「永遠の記憶」といった永眠者のための祈りなどの文言が、作品にも盛り込まれている。 日本語訳 原卓也訳 新潮文庫全3巻 上巻 ISBN 4102010106, 中巻 ISBN 4102010114, 下巻 ISBN 4102010122 亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫全5巻-最終巻は、エピローグと解説。  1巻 ISBN 4334751067, 2巻 ISBN 4334751172, 3巻 ISBN 4334751237, 4巻 ISBN 4334751326, 5巻 ISBN 4334751334 米川正夫訳 岩波文庫全4巻 1巻 ISBN 4003261496, 2巻 ISBN 400326150X, 3巻 ISBN 4003261518, 4巻 ISBN 4003261526 品切・絶版の訳書 米川正夫訳 (河出書房新社、「全集 12・13巻」他、複数の版で刊行) 小沼文彦訳 (筑摩書房、「全集 10・11巻」他、複数の版で刊行)、表記はカラマーゾフ兄弟 原卓也訳 (新潮社、「全集 15・16巻」他、複数の版で刊行) 池田健太郎訳 (中央公論社、「世界の文学 17・18巻」1966年、のち中公文庫全5巻 1978年)、表記はカラマゾフの兄弟 江川卓訳 (集英社版「世界文学全集 45・46巻」他) 北垣信行訳 (講談社版「世界文学全集 19・20巻」、講談社文庫 全3巻他)、表記はカラマーゾフ兄弟  中山省三郎訳 (戦前の三笠書房版「全集」訳者、角川文庫全5巻 のち全3巻、のち研秀出版 1975年)、表記はカラマゾフの兄弟 原久一郎訳 (原卓也の父、旧新潮文庫 全5巻)、表記はカラマアゾフの兄弟 米川和夫訳 (米川正夫の四男、集英社の旧版「デュエット版世界文学全集 28・29巻」) 関連書籍 江川卓 『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』 新潮選書、1991年 ISBN 4106004011 亀山郁夫 『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』 光文社新書、2007年、ISBN 4334034209 『ドストエフスキー 謎とちから』 文春新書、2007年 ISBN 4166606042  『ドストエフスキー父殺しの文学 〈上・下〉』、〈NHKブックス〉日本放送出版協会、2004年、上.ISBN 4140910070、下.ISBN 4140910089 『ドストエフスキー共苦する力』 東京外国語大学出版会、2009年、ISBN 4904575016 高野史緒『カラマーゾフの妹』 講談社、2012年、ISBN:978-4-06-217850-1  第58回江戸川乱歩賞受賞作品。ドストエフスキーの死により書かれなかった『カラマーゾフの兄弟』の続編、十三年後の物語を、イワンが捜査官となって「フョードル・カラマーゾフ殺人事件」の真犯人を追うミステリとして描く小説。   高野史緒『ミステリとしての『カラマーゾフの兄弟』―スメルジャコフは犯人か?』 (ユーラシアブックレット) 東洋書店 ISBN 4864591105 乱歩賞受賞作の根拠となった原典テクストの瑕疵と、それが瑕疵ではなく意味のある手がかりであることを示した小論文。事件当日のタイムテーブル完全版やスメルジャコフの現代犯罪学的考察。 映像化 映画 何度も映画化・テレビドラマ化されている。そのうち日本で劇場公開された記録や日本で放送される予定のテレビドラマ化のあるものを以下に記す。 カラマゾフの兄弟 (1921年の映画)[8] - ドイツ映画(原題:Die Brüder Karamasoff) 監督:カール・フレーリッヒ 出演:エミール・ヤニングス(ドミートリイ)、ベルンハルト・ゲッケ(イヴァン)、ヘルマン・ティミッヒ(アレクセイ)、フリッツ・コルトナー(フョードル) カラマゾフの兄弟 (1931年の映画) - ドイツ映画(原題:Der Mörder Dimitri Karamasoff) 監督:フョードル・オツェプ 出演:フリッツ・コルトナー(ドミートリイ)、ベルンハルト・ミネッティ(イヴァン)、マックス・ポール(フョードル)、アンナ・ステン(グルーシェンカ) 備考:アレクセイが登場しない。1921年版で父親を演じたフリッツ・コルトナーがドミートリイを演じている。 カラマゾフの兄弟 (1958年の映画) - アメリカ映画(原題:The Brothers Karamazov) 監督:リチャード・ブルックス 出演:ユル・ブリンナー(ドミートリイ)、リチャード・ベイスハート(イヴァン)、ウィリアム・シャトナー(アレクセイ)、リー・J・コッブ(フョードル)、マリア・シェル(グルーシェンカ) カラマーゾフの兄弟 (1969年の映画) - ソ連映画(原題:Братья Карамазовы、Bratya Karamazovy) 監督:イワン・プイリエフ(共同監督:ミハイル・ウリヤーノフ、キリール・ラヴロフ ※プイリエフ監督が撮影中に急死したため) 出演:ミハイル・ウリヤーノフ(ドミートリイ)、キリール・ラヴロフ(イヴァン)、アンドレイ・ミヤフコフ(アリョーシャ)、マルク・プルードキン(フョードル)、リオネラ・プイリエワ(グルーシェンカ) 少年たち「カラマーゾフの兄弟」より (1990年の映画) - ソ連映画(原題:Мальчики、Malchiki) 監督:レニータ・グリゴリエワ、ユーリー・グリゴリエフ 出演:ドミトリー・チェルニゴフスキー(アリョーシャ)、サーシャ・スホフスキー(イリューシャ)、アリョーシャ・ドストエフスキー[9](コーリャ) 備考:神学生である三男アレクセイ(アリョーシャ)を主人公に、少年たちとの交流を描いた作品。 テレビドラマ カラマーゾフの兄弟 (テレビドラマ) 監督:都築淳一(共同監督:佐藤源太、村上正典) 出演:市原隼人、斎藤工、林遣都 放送期間:2013年1月 - 3月 制作局:フジテレビジョン 備考:舞台を現代の日本に置き換え、登場人物も全て日本人名に置き換えている。登場人物の設定が大幅に変更されており、三男アレクセイ(アリョーシャ)に当たる役が、原作の修道僧から医大生に変更されている他、原作に盛り込まれてあった宗教色や革命思想が変更・割愛されている。 舞台化 「カラマゾフの兄弟」(1967年2月) 劇団四季、於日生劇場[10] 演出:浅利慶太[11] ミュージカル「カラマーゾフの兄弟」(2008年12月~2009年1月)宝塚歌劇団雪組公演 脚本・演出:齋藤吉正 脚注 外部リンク (中山省三郎訳)
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米国ユタ州はモルモン教路が築いた?
ユタ州
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ユタ州( /ˈjuːtɔː, ˈjuːtɑː/(listen))は、アメリカ合衆国西部にある州である。合衆国には1896年1月4日に45番目の州として加盟した。州の北はアイダホ州とワイオミング州に接し、東側はコロラド州に、西側はネバダ州に、南側はアリゾナ州に接している。南東の隅はフォー・コーナーズと呼ばれる4つの州がその角を接するポイントであり、ここでニューメキシコ州とも接していることになる。夏時間を実施している。 州都および最大都市はソルトレイクシティであり、州人口2,763,885人(2010年国勢調査[1])の約80%はソルトレイク市を中心とするワサッチフロントと呼ばれる地域に住んでいる。このために州内の大半の地域にはほとんど人が住んでおらず、ユタ州は国内で6番目に都市集中が進んだ州となっている[2]。 「ユタ」の名は、この地に先住するインディアン部族、ユテ族(「山の民」の意)に因む[3]。 歴史 前史時代から探検時代 ヨーロッパ人探検家がユタ州となった地域を訪れる数千年前、アナサジ族とフレモント族が住んでいた。これらインディアンはユト・アステカ・インディアンの分派であり、定住性の民族だった。アナサジ族は山の洞窟を住処とし、フレモント族は藁で家を造った。これらの部族は15世紀頃に地域からいなくなった。別のインディアン部族であるナヴァホ族が18世紀ころに住み着いた。18世紀半ば、別のアステカ・インディアンであるゴシュート族、パイユート族、ショショーニ族およびユト族も地域に入ってきた。これら5部族が最初のヨーロッパ人が訪れた時の住人だった。 ユタ州の南部地域は1540年にフランシスコ・バスケス・デ・コロナドが率いるスペイン人探検隊が、伝説のシボラ(黄金の七都市)を探して探検していた。1776年、ドミンゲス・エスカランテ遠征隊と呼ばれることもある2人のカトリック教聖職者に率いられた集団が、現在のニューメキシコ州サンタフェを発って、カリフォルニアの海岸に抜けるルートを見つけようとしていた。この遠征隊は北はユタ湖まで旅し、先住民に出遭っていた。スペイン人はさらにこの地域を探検していたが、不毛の砂漠だったので、植民には興味を覚えなかった。1821年、メキシコがスペインからの独立を果たし、ユタの地域はアルタ・カリフォルニアの一部としてメキシコ領となった。 19世紀初期は毛皮を求める罠猟師や交易業者がユタ地域を探検した。プロボ市は1825年にこの地域を訪れた交易業者の1人、エティエンヌ・プロボストに因んで名付けられた。オグデン市はウィーバー・バレーで毛皮を交易したカナダ人探検家、ピーター・スキーン・オグデンに因んで名付けられた。1824年遅く、ジム・ブリッジャーがグレートソルト湖を目視した最初の白人となった。その湖水の高い塩分濃度のために、ブリッジャーは太平洋を見つけたと思った。その後、これは巨大な塩湖以外の何ものでもないことが分かった。この湖が発見された後、数多い交易業者や罠猟師がその地域に交易拠点を設けた。1830年代、アメリカ合衆国の東部から西部に向かって旅した多くの人々がグレートソルト湖の地域で立ち止まるようになった。 モルモン教徒の入植 末日聖徒イエス・キリスト教会の創始者ジョセフ・スミス・ジュニアが1844年にイリノイ州カーセージで殺された後、ナブーに残っていた信者11,000人以上は、近隣との争いが絶えなかったが、教会の大官長ブリガム・ヤングがその最大宗派の指導者として台頭した。 ヤングとモルモン開拓者の最初の集団は1847年7月24日にソルトレイク・バレーに到着した。その後の22年間、7万人以上の開拓者が平原を横切り、ユタに入ってきた[5]。 最初の数年間、ブリガム・ヤングと数千の初期開拓者は生き残るために戦った。不毛の砂漠地は干渉無しにその宗教を信仰できることで、モルモン教徒にとって理想の地と考えられた。 ユタはアメリカ合衆国西部の各所にある多くの開拓地でその発信源となった。ソルトレイク市はモルモン開拓地の「広範囲に広がった自治領[6]」の中心だった。国内東部や世界中から教会への改宗者の絶え間ない移住が続いて人口が増加し、教会指導層は西部中に開拓地を設立するよう教会員に割り当てることが多かった。ユタのワサッチフロント(ソルトレイク市、バウンティフルとウィーバー・バレー、プロボとユタ・バレー)の開拓地に始まり、灌漑によってかなり多い開拓者人口を収容できる開拓地の設立を可能にした。この地域は霜が降りるので穀物栽培には適していないだろうとジム・ブリッジャーがヤングに忠告していた所ではあった[7]。19世紀の残り期間、モルモン開拓者はヤングから、ソルトレイクシティ市を離れて、ユタの他の地域、アイダホ州、ネバダ州、アリゾナ州、ワイオミング州、カリフォルニア州、さらにはカナダやメキシコまで、数多い開拓地を設立するよう要求された。例えばネバダ州ラスベガス、アイダホ州フランクリン(アイダホ州では最初の白人開拓地)、カリフォルニア州サンバーナーディーノ、ワイオミング州スターバレー、ネバダ州カーソンバレーなどがあった。 ユタ州内で著名な開拓地としては、セントジョージ、ローガン、マンタイ(ここでは開拓者がユタ州内で最初から3番目までの寺院を立ち上げ、1893年に完成したソルトレイク市内の大きくて有名な寺院よりもかなり先行した)、さらにはパロワン、シーダーシティ、ブラフ、モアブ、バーナル、フィルモア(1850年から1856年まで準州都)、ニーファイ、レバン、スパニッシュフォーク、プロボベンチ(現在のオレム)、プレザントグローブ、アメリカンフォーク、リーハイ、サンディ、マリー、ジョーダン、センタービル、ファーミントン、ハンツビル、ケイズビル、グランツビル、トゥーイル、ロイ、ブリガムなど数多くの町ができた。ヤングは領土の拡張主義的見解の持ち主であり、その全体を「デザレット」と呼んだ。これはモルモン書に拠れば、蜂の巣と訳されており、ユタ州旗にその絵柄が使われ、州のモットーである「勤勉」の由来となっている[8]。その領域はアメリカ西部から西海岸までの、総計でアメリカ合衆国の1/6の土地をモルモン教徒の土地として要求していた。 ユタ準州 1847年に最初の開拓者が到着した時のユタはメキシコ領だった。1846年に始まった米墨戦争の初期に、アメリカ合衆国は現在のニューメキシコ州やカリフォルニア州を確保し、1848年2月2日に締結されたグアダルーペ・イダルゴ条約によって、現在のアメリカ合衆国南西部がメキシコから委譲された。この条約は3月11日にアメリカ合衆国上院で批准され、ユタ準州は1850年妥協に従って1850年9月9日に創設され、準州都をフィルモアに置いた。ユト族インディアンに因んで、州名はユタとされ、1856年にはソルトレイクシティ市に準州都が移った。 末日聖徒イエス・キリスト教会がその教会員の中で複婚すなわち一夫多妻制を実行していることで、モルモン教徒とアメリカ合衆国政府との間に軋轢が生まれた。モルモン教徒はデザレット州の設立を推進したが、連邦政府はその範囲があまりに広大であることと、一夫多妻制のために、州設立を容認しなかった。 モルモン教徒が一夫多妻制を実行しているという話が広まると、彼等は非アメリカ人であり、反逆者と見なされるようになった。1857年、元陪席判事のウィリアム・W・ドラモンドなどによる準州政府の任務放棄と大衆の不道徳性に関する特に悪質な告発があり、時のジェームズ・ブキャナン政権はユタに秘密の軍事遠征隊を派遣した。反乱とされたものが鎮圧されると、アルフレッド・カミングがブリガム・ヤングに代わって準州知事に就任した。このゴタゴタはユタ戦争と呼ばれるようになった。 アルバート・ジョンストンが率いる軍隊が準州内に入る前に、ブリガム・ヤングはソルトレイクシティ市内の全住人に市内から脱出して南のユタ・バレーに行くよう命令し、政府軍の前進を遅らせるためにノーブー・リージョンと呼ばれる軍隊を派遣した。荷車や物資が燃やされたが、最終的に連邦軍は1858年に到着し、ヤングは準州政府の実権をカミングに渡した。ただし、後の歴史解説者の多くはヤングが準州の実権を持ち続けたと主張している。大統領が指名した知事が辞任することが続き、準州政府の伝統になったと指摘する者が多い。ジョンストンはヤングとの合意に基づき、ソルトレイクシティ市の南西40マイル (64 km) の地にキャンプ・フロイドを設立した。 1861年10月に最初の大陸横断電信線が開通したとき、ソルトレイクシティ市がその最後の結節点になった。ブリガム・ヤングは当時の大統領エイブラハム・リンカーンなど連邦政府の役人に宛てた最初の伝言を送った者達の中にいた。 南北戦争が始まり、1861年には連邦政府軍がユタ準州内から撤退した。軍隊が戦闘に参加するために東部に向かう前にキャンプにあった物資全てを二束三文で売り払ったので、地元経済にとっては恩恵になった。準州はモルモン教徒の支配下に入ったが、1862年にパトリック・コナーがカリフォルニアの志願兵連隊を率いて到着してから事態が変わった。コナーはソルトレイクシティ市の東3マイル (5 km) にダグラス砦を設立し、非モルモン教徒を準州内に誘致するために部下の兵士達には鉱物資源を探索することを奨励した。トゥーイル郡で鉱物が発見され、坑夫達が準州内に集まり始めた。 1865年に始まったユタ・ブラックホーク戦争は準州の歴史の中でも最も凶悪な紛争に発展した。1870年にアントンガ・ブラックホーク酋長が死んだが、1872年にゴーストダンスを鎮圧するために連邦政府軍が援軍を送り込むまで、戦闘が起こり続けた。この戦争は三つ巴の戦いになったことで、インディアン戦争の中でも特異である。アントンガ・ブラックホークの率い、馬を多用するティンパノゴスのユト族が、連符政府軍とモルモン教徒の部隊に駆逐された。 1869年5月10日、グレートソルト湖の北、プロモントリー・サミットで最初の大陸横断鉄道が開通した。この鉄道開通によって次第に州内に入る移民の数を増やし、幾人かの影響力ある事業家が資産を築いた。 1870年代と1880年代に一夫多妻制を違法とする法律が成立し、モルモン教会は1890年の綱領で一夫多妻を禁止した。ユタが再度州昇格を申請すると、このときは認められた。州昇格を認める条件の1つとして、州憲法に一夫多妻制の禁止が盛り込まれた。この条項はその後に州昇格を果たした西部の州では、必要とされる条項となった。州昇格は1896年1月4日に正式のものとなった。 1900年代から現在 1940年代ごろに、世界初のフィルム・コミッションが設立された。 1953年5月19日、ネバダ州にあるネバダ核実験場においてなされた核兵器の核実験による「死の灰」が、ユタ州南部のセントジョージ市などに到達し多数の住民が被曝した。 1978年よりサンダンス映画祭が、毎年1月にパークシティにおいて開催されるようになった。 20世紀の初期から州内にブライスキャニオン国立公園やザイオン国立公園、アーチーズ国立公園などの公園が設立され、ユタ州は自然の景観美で知られるようになった。州南部は乾燥し岩の多い場所が多いので映画撮影のための人気ある場所となり、デリケート・アーチやモニュメント・バレーの「ミトンズ」のような自然の目印となるものは、直ぐに国民の大半に認識されるようになった。1950年代、1960年代、1970年代と州間高速道路が整備され、これら州南部の景観が良い地域へアクセスしやすくなった。 1939年にアルタ・スキー場が開設されてからは、世界でも名高いスキー・リゾートとなった。ワサッチ山脈の乾燥しパウダー状の雪は世界でも最もスキーに適していると考えられており、ユタ州の車のナンバープレートには、「地球上でも最も偉大な雪」という表示がある[9][10]。ソルトレイクシティ市は1995年に2002年冬季オリンピック開催地に選ばれ、地域経済に大きな好況をもたらした。スキー場の人気が高まり、オリンピックに使われたワサッチフロントに散らばる多くの会場は、現在でもスポーツイベントに使われている。さらにこのオリンピックは、UTA TRAXと呼ばれるソルトレイク・バレー内のライトレール体系の発展に寄与し、市周辺の高規格道路の再整備に繋がった。 1957年、ユタ州は州立公園委員会を創設し、4つの州立公園を指定した。今日では43の州立公園と幾つかの未開発地域があり、その総面積は95,000エーカー (380 km2)、水域は100万エーカー (4,000 km2) 以上となっている。北はアイダホ州との州境にあるベア湖州立公園から、南東フォー・コーナーズにあるエッジ・オブ・ザ・シーダーズ州立公園博物館まで、州内のあちこちに鏤められている。ユタ州立公園にはオフ・ハイウェー車、ボーティングおよび散策道の各事務所がある[11]。 20世紀後半にユタ州は急速に成長した。1970年代の成長は郊外化が甚だしかった。当時サンディの町が国内で最も成長速度の高い都市の1つだった。今日では州内のあちこちで、人口増加が起こっている。デービス郡北部、ソルトレイク郡の南部と西部、サミット郡、トゥーイル郡東部、ユタ郡、ワサッチ郡およびワシントン郡で成長速度が高い。開発のために農業用地や原生地がなくなっていくので、交通と都市集中が大きな政治問題になっている。 地理 ユタ州はフォー・コーナーズ州の1つであり(Four Corners Monument)、北部でアイダホ州及びワイオミング州、東部でコロラド州、南東隅でニューメキシコ州、南部でアリゾナ州、並びに西部でネバダ州と隣接している。総面積は84,899 平方マイル (219,887km2) である。州境がそれぞれ1つの緯度あるいは経度の上にある直線で構成されている州として、合衆国に3つある州の1つである(他にワイオミング州とコロラド州)。 ロッキー山脈、グレートベースン、コロラド高原という3つの地形的に特徴のある地域があり、砂丘のある乾燥した砂漠から松の森林に覆われた山岳部のバレーまでがある。 ユタ州を定義している特徴の1つには自然的特徴からみた多様な地形がある。州の北中央部には海抜約12,000 フィート (3,650m) とそびえるワサッチ山脈がある。これらの山脈の一部は毎年500 インチ (1,250cm) 以上にもおよぶ積雪があり、スキーにとっていい環境である、軽く、ふわふわした雪が評価を得ている、世界的に名高いスキーリゾートの拠点になっている。ユタ州の北東部は東西方向に、13,000 フィート (3,950m) またはそれ以上に高くそびえる、ユインタ山地がある。標高13,526 フィート (4,123m) とユタ州の最高地点である、キングス峰[12]はユインタ山地に位置している。 ワサッチ山脈西側麓にはユタ州の最も人口が多い場所であるバレーと盆地が連続しているワサッチフロントである。オグデン、ソルトレイクシティ、レイトン、ウエストバレーシティー、サンディー、ウェストジョーダン、オレム、及びプロボの主要な都市は北端のブリガムシティから南端のニーファイまでほぼひと続きになって、この地域内に位置している。ユタ州の人口のおおよそ75%はこの回廊地帯で暮らしていて、人口の増加が急である。 ユタ州西部は起伏が交互に連続するベイスン・アンド・レンジ地形であり、植生的には大部分が不毛の砂漠である。小規模な山脈と岩だらけの地形が風景をきわ立たせている。しかし、ボンネビル・ソルトフラッツ(塩原)は例外的に、比較的平坦である。ユタ州西部の大部分はボンネビル湖におおわれていた事があった。ボンネビル湖はグレートベースン東部の大半に広がっていたので、グレートソルト湖、ユタ湖、セビア湖およびラッシュ湖は全てこの古代の淡水湖の名残である[13]。グレートソルト湖の西側はネバダ州境までグレートソルトレイク砂漠であり、ユタ州内で最も不毛な地域である。この乾燥地帯で唯一の例外はスネーク・バレーであり、スネーク山脈、ディープクリーク山脈などスネーク・バレーの西にある高山帯から雪が解けてできる地下水で、大きな泉や湿地があり、比較的緑が豊かである。スネーク山脈南部のネバダ州との州境にはグレートベースン国立公園がある。ユタ州西部の有名な観光地はデルタの西にあるノッチ峰であり、北アメリカで最も高い石灰岩の崖がある。 南部と南東部(特にコロラド高原)の大半の景色は砂岩であり、特にカイエンタ砂岩とナヴァホ砂岩が有名である。メキシコのカリフォルニア湾まで続くコロラド川並びにその支流は砂岩を激しく侵食し、その間を縫うように流れている。また、風と雨も100万年以上前から柔らかい砂岩を浸食している。渓谷、小峡谷、アーチ、尖塔、ビュート(孤立した丘)、絶壁、及びメサ(周囲が急斜面で頂上が平らな地形)はユタ州南中部並びに南東部の至る所で見る事ができる。この地域にはアーチーズ、ブライスキャニオン、キャニオンランズ、キャピトルリーフ、及び ザイオンの各国立公園、シーダーブレイクス、グランド・ステアケース・エスカランテ、ホベンウィープ、及びナチュラルブリッジスの各国立モニュメント、グレンキャニオン国立レクリエーションエリア(人気のある観光地、パウェル湖)、デッドホース・ポイント 及びゴブリン・バレーの各州立公園、並びにモニュメントバレーがあり、人気のある写真や数多くの映画の撮影場所ともなったところでもある。南東部はラ・サル、アバホおよびヘンリーの各山脈がある。 州東部は標高の高い地域であり、特にタバプッツ台地やサンラファエル・スウェルなど台地や盆地で大半が覆われ、近づきがたいままである。ユインタ盆地には東部人口の大多数が住んでいる。経済の根幹は鉱業、オイルシェール、石油および天然ガスの採掘であり、牧畜業や観光業もある。東部の土地の多くはユインタ・ユアレイ・インディアン居留地の部分になっている。北東部で人気のある観光地はバーナルに近いダイノソー(恐竜)国立保護区である。 南西部は最も標高が低く、また最も暑い地域である。初期の開拓者がここで綿花を栽培できたのでディキシーと呼ばれている。南西部の外れにあるビーバーダム・ウォッシュが州内で最も標高の低い地点であり、約2,000フィート (610 m) である[14]。モハーヴェ砂漠の最北部がこの地域に掛かっている。ディキシーは急速にレクリエーションと引退後の目的地になっており、人口が急増している。ワサッチ山脈はニーファイに近いネボ山で終わるが、この山地の終端から複雑な一連の山地がユタ州の背骨に沿って南に延びている。ディキシーの北、シーダーシティの東には州内で最も標高の高いスキー場であるブライアンヘッドがある。 アメリカ合衆国の西部と南西部の州と同様に、連邦政府がユタ州内の土地の多くを所有している。土地の70%以上は土地管理局の公有地、ユタ州信託土地、国有林、国立公園、国立モニュメント、国立レクリエーション地域あるいは保護原生地となっている[15]。 気候 ユタ州は亜乾燥気候から砂漠気候に分類されるが、多くの山岳部は様々な気候となり、ユインタ山脈の最高地点は森林限界より高い。乾燥した気候はカリフォルニア州とネバダ州のシエラネバダ山脈の雨陰にあるからである。州の東半分はワサッチ山脈の雨陰になる。州内の降水量の源は太平洋であり、10月から5月に多い太平洋性暴風の通り道にある。夏季には特に南部と東部がカリフォルニア湾から吹いてくるモンスーンの通り道になる。低標高地域の大半は年間降水量が12インチ (300 mm) 未満であり、州間高速道路15号線が通るワサッチフロントは年間降水量が約15インチ (380 mm) になる。グレートソルト湖砂漠が最も乾燥し、降水量は5インチ (125 mm) である。南部外れのバレーを除き降雪はふつうに見られる。セントジョージの年間降雪量は約3インチ (7.5 cm) に過ぎないが、ソルトレイクシティ市では約60インチ (150 cm) にもなる。これはグレートソルト湖の湖水効果雪によるものであり、湖の南、南東および東で雪が多い。湖水効果雪の降るワサッチ山脈の一部では年間降雪量が500インチ (1,250 cm) にもなる。常に乾燥してふわふわした雪が降るので、1980年代に「地球上で最も偉大な雪」というスローガンを採用するようになった。冬季には気温の逆転が起こり、特にユインタ盆地では深い靄や霧が数週間続くこともある。冬以外では空気がきれいであるが、冬の逆転現象のために国内でも最悪の大気汚染の地となっている。 ユタ州の気温は極端に走りやすい。その標高故に冬は寒く、夏は山岳地と高山のバレーを除いて全体に大変暑い。通常は州の北部と東部にある山岳地のお陰で冷たい空気が吹き込むことから守られているが、時として寒帯の冷たい空気が吹き込むことがある。1月の平均最高気温は北部のバレーでの30 (−1 ℃) 程度から、セントジョージの55 (13 ℃) まで幅がある。州の大半の地域で0 (−18 ℃) 以下まで冷え込むことがあり、ランドルフの町の場合などそうした日が年に50日もある所もある。7月の平均最高気温は約85 (29 ℃) から100 (38 ℃) である。しかし、低湿度と高標高のために温度変化が大きく、夏の夜は冷涼である。州内の過去最高気温は2007年7月4日にセントジョージで記録された118 (48 ℃) であり[16]、過去最低気温は1985年2月1日に北部のベアリバー山脈にあるピーターシンクスで記録された-69 (-56 ℃) である[17]。ただし、人の住んでいる地域での過去最低気温は1932年12月12日にウッドラフで記録された-49 (-45 ℃) である[18]。 西部の州の大半と同様に雷雨が来る日は少ない。年間平均で40日未満であるが、起こった時は短時間だが激しくなることがある。特に南部と東部では7月半ば頃から9月半ばのモンスーンの季節に起こりやすい。乾燥した落雷と概して乾燥した気象のために夏は山火事を発生することもあり、また南部の岩の多い地形では特に鉄砲水を生むこともある。北部では春が最も雨の多い季節であるが、南部や東部では晩夏に雨が多い。竜巻はあまり発生せず、年間に2個ほどであり、その強度もEF1を超えることは滅多にない[19]。しかし、1999年8月11日にソルトレイクシティ中心街を抜けたソルトレイクシティ竜巻は前例のないF2の強度であり、1人が死亡、60人が負傷し、被害総額は1億7,000万ドルに上った[20]。ユタ州の歴史の中で、1884年7月6日にサミット郡でキャンプをしていた7歳の少女が竜巻で亡くなったのがもう一つの死亡災害である。最近の竜巻としては2002年9月8日にマンタイを襲った強度F2のものがあった。1993年8月11日にドゥーシェインの北、ユインタ山脈の標高10,500フィート (3,200 m) の地を襲った強度F3の竜巻はボーイスカウトのキャンプ場に被害を与えた。この竜巻はユタ州で記録された最強強度となっている。 人口動勢 Historical populationCensusPop.%±185011,380—186040,273253.9%187086,336114.4%1880143,96366.7%1890210,77946.4%1900276,74931.3%1910373,35134.9%1920449,39620.4%1930507,84713.0%1940550,3108.4%1950688,86225.2%1960890,62729.3%19701,059,27318.9%19801,461,03737.9%19901,722,85017.9%20002,233,16929.6%20102,763,88523.8% ユタ州の人口重心はリーハイ市がある、ユタ郡となっている[21]。2010年国勢調査によるユタ州の人口は2,763,885人となっている[1]。2008年の国勢調査局調査では、国内で最も成長速度の高い州となっていた[22]。 州人口の大半はワサッチ山脈がその東側を南北に走っている都市圏であるワサッチフロントに並ぶ都市と町に住んでいる。ワサッチフロント以外の地域でも人口は増加している。セントジョージ都市圏はラスベガス都市圏に次いで、国内2番目に成長速度の高い都市圏であり、ヒーバー小都市圏もフロリダ州パームコーストに次いで国内2番目に成長速度の高い小都市圏である[23]。 ユタ州には5つの大都市圏 (ローガン、オグデン = クリアフィールド、ソルトレイクシティ、プロボ = オレム、及びセントジョージ)、並びに5つの小都市圏 (ブリガムシティ、ヒーバー、バーナル、プライス、及びシーダーシティ) がある。 なお、2009年度の健康度統計調査においては、ユタ州は全米第二位であった[24]。 人種及び祖先による構成比 この州の人種による構成比は以下のとおりである。 80.4% ヒスパニック以外の白人 13.0% ヒスパニック 2.0% アジア 1.0% インディアン 0.9% アフリカ系 0.9% 太平洋諸島系 1.8% 混血 この州内で祖先による構成比は以下のとおりである[25]。 27.3% イギリス系 12.3% スカンディナヴィア系(デンマーク系5.8%、スウェーデン系4.1%、ノルウェー系2.4%) 12.1% ドイツ系 9.9% メキシコ系 6.6% アメリカ人 6.2% アイルランド系 4.6% スコットランド系 2.2% フランス系 2.2% ウェールズ系 1.4% スコットランド=アイルランド系 1.3% スイス系 宗教 1847年のモルモン開拓者移住以来、ソルトレイクシティに定着したキリスト教系新宗教の末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)によって開かれた州であり、近年では他州・諸外国からの移民の流入などにより教徒の割合が年々減ってきているが、2007年時点でもモルモン教徒が全州人口の約60.7%を占めている[26][27][28]。 モルモン教は二大政党に対して中立政策を採っているが[29]、教会の教義は政治に対して強い影響を与えている[30]。教会の教義の別の影響力の顕れとして高い出生率が上げられ、全国平均よりも25%高く、合衆国の中で最も高い州である[31]。ユタ州のモルモン教徒は政治的な問題では保守的になる傾向があり、有権者の大多数は共和党に投票することの多い無党派層である[32]。2008年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党のジョン・マケインが62.5%を獲得し、2004年のジョージ・W・ブッシュは70.9%を獲得した。 2008年時点で、ユタ州の人々の信仰する宗教による構成比は以下の通りである[33][34]。 モルモン教 – 58% キリスト教 – 25% プロテスタント – 15% 福音主義派 – 7% メインライン・プロテスタント – 6% ブラック・プロテスタント – 1% ローマ・カトリック – 10% 他のキリスト教 – <1% 他の宗教 – 1% 無宗教 – 16% 敬虔で穏やかな人々が培ってきた風土であるとされ、治安も良いことで知られる(モーガン・クイットノーによる2008年度調査によれば治安の良い方から全米13位である[35]。ローガン市は小規模都市を含めた治安で全米一位とされている)。 年齢と性 ユタ州は出生率が高く[31]、国内で最も平均年齢が若い。男性の数が女性のそれを上回っていることでは数少ない非南部州の1つである。2000年時点で女性は49.9%、男性は50.1%となっている[36]。 主要な都市及び町 ユタ州の都市一覧:ABC 順 - 人口別による順位 2000年度の国勢調査によると、ユタ州は1990年から2000年の10年間にアメリカ合衆国内で4番目(29.6%)に早い成長をとげた州であり、2010年度の国勢調査では、2000年から2010年の間にネバダ州に次いで2番目に成長速度の高い州となった(23.8%)。南西部にあるセントジョージはラスベガスに続いて、アメリカ合衆国内で2番目に早い成長をとげた都市圏である。 2010年度の国勢調査で、州内の人口成長速度の高い郡はワサッチ郡(54.7%)、ワシントン郡(52.9%)、トゥーイル郡(42.9%)の順だった。増加した絶対数ではユタ郡が148,028人で最大だった。2000年から2010年にかけて大きな増加がみられた都市は、サラトガスプリングス(1,673%)、ヘリマン(1,330%)、イーグルマウンテン(893%)、シーダーヒルズ(217%)、サウスウィラード(168%)、ニブリー(166%)、シラキュース(159%)、ウェストヘイブン(158%)、リーハイ(149%)、ワシントン(129%)、スタンスベリー(116%)であり、すべて2倍以上となった。 ソルトレイクシティ ローガン プロボ パークシティ サンディ オグデンは近年、特に製造業分野の発展が著しい。また、スペースシャトルなどの製造会社の本社がある(製造工場はさらに北に位置する)。日系人移民が古くからいた都市でもある。 パークシティは、スキーリゾートとして有名であり、ソルトレイクシティオリンピックの会場にもなった。また、サンダンス映画祭やスラムダンス映画祭の開催地としても知られている。 政治と法律 関連項目:ユタ州知事の一覧、List of Utah State Legislatures、Utah State Senate 及び Utah House of Representatives 多くのアメリカ合衆国の州と同じく、ユタ州政府は行政、立法、司法の三権が分立している。 行政府の首長である州知事の任期は4年間である。立法府のユタ州議会は上院と下院の両院制である。上院議員は任期4年間であり、下院議員の任期は2年間である。会期は毎年1月に始まり、45日間である。 司法府の最高機関はユタ州最高裁判所であり、5人の判事は知事によって指名され、その後審査投票が行われる。控訴裁判所は第一審裁判所から上がってきた事件を取り扱う[38]。第一審裁判所とは地区裁判所と治安裁判所である。全ての判事は最高裁判所判事と同様に、指名後に審査投票が行われる。 郡 ユタ州は郡として指定される政治小区分に分割される。1918年から現在の29郡体制となっており、その広さは304平方マイル (787 km2) から7,821平方マイル (20,256 km2) まである。 女性の権利 ユタ州は準州時代の1870年に女性の参政権を認めた。これは州に昇格する26年も前のことだった。アメリカ合衆国の中ではワイオミング州に次いで2番目だった[39]。しかし、1872年、準州政府におけるモルモン教の影響力を抑えるために、連邦政府はエドマンズ・タッカー法を通した。この法の1つの条項は女性参政権の撤廃だった。ユタが州に昇格した1896年になって、女性参政権が復活した。 1972年に提案された男女平等権に関するアメリカ合衆国憲法の修正提案をユタ州は批准しなかった[40]。他に14の州がこの条項を批准せず、修正は成立しなかった。 州憲法 ユタ州憲法は1895年に発効した。このとき、ユタが州昇格を申請したときの連邦議会の要求に従って一夫多妻制を違法としたこと、準州時代に制定した女性参政権を復活させたことが特筆される。その発効以降、何度も修正を重ねてきている[41]。 その他の州法 ユタ州はハワイ州と並んであらゆる形態のギャンブルを違法とすることでは2つしかない州の1つである。またアルコール飲料を統制する州でもある。ユタ州アルコール飲料統制省はアルコールの販売を規制している。ワインやスピリットは州営の酒販売店でのみ購入でき、地方政府は日曜日にビールなどのアルコール飲料の販売を禁止できる。グロサリーストアやコンビニエンスストアでの果実酒販売を禁止している。州法では、商品の前面に州が承認したラベルを貼り、アルコールが含まれていることとその濃度を太字の大文字で表示しなければならないとしている。 近年では、州政府はITを利用した情報処理の一元化・効率化に積極的に乗り出している[42]。また、2008年8月4日より、環境問題へ配慮して通勤による車の排気ガスを減らし、また渋滞解消や節電・節税効果などを狙って、大学・裁判所・刑務所などを除く州の職員の7割を、一日の勤務時間を増やすことによって週4日勤務制(週休3日制)にすることを決めた。 2007年に「教育における親の選択についての法律」が成立した。 死刑制度 ユタ州には死刑制度があり、その執行方法は2004年に薬物注射によるものに限定されたが、それ以前は銃殺によるものも選択可能だった。2010年6月18日に、1985年に死刑判決を受けて自ら銃殺刑を希望した囚人に対して1996年以来となる銃殺刑が執行された[43]。この銃殺刑は、アメリカにおいて死刑制度が復活した1976年以降3件目で、残り2件もユタ州で執行されている。 末日聖徒イエスキリスト教会(通称モルモン教)との関係 モルモン教徒が開いた州なので、政治、法律にもそれが影響している。飲酒、喫煙等には制限がかけられているが、観光客や非モルモン教徒の増加もあり、近年変化が見られる。特に酒を専門に飲むバーは会員制(プライベートクラブ)であったが、2009年夏より廃止され、会員登録や会費は必要なくなった。またアルコール(州で定めたビール等の低アルコール類はスーパー等でも販売)の販売は州の酒販売店に限られている。こちらは特に会員制度を取っている訳でも無く、通常の酒屋と変わらない。ウィスキー、バーボン、日本酒、ワイン、ラム等一通り全て揃っている。市内のモール内にある飲食店で、日曜日にアルコールを提供する関係で教会と揉めている。ソルトレイクシティー市内の教会員の割合も50%を切っている現実から、現実に即した対応も必要になってきている。観光地ではワインフェスティバルも開催され、市内のイベントやユタ州祭ではビールなど普通にアルコール類が提供されている。 住民の多くが末日聖徒イエスキリスト教会の会員であり、妊娠中絶、(異性結婚とまったく同じ権利を認めるという点で)同性愛に反対している。近年、他州や諸外国からの人口の流入に伴い、妊娠中絶や同性愛の権利を掲げる大規模なデモが州都ソルトレイクシティなどで毎年行われている。また、現州知事のゲーリー・ハーバートは、同性愛団体のひとつと会談し、同性愛者に対する差別をすべきではないと明言している(ただし法律の改正に関しては、同性愛者を法律の上で厳密に定義することについて困難があるとして慎重姿勢を見せている)。 政治 19世紀後半、連邦政府は末日聖徒イエスキリスト教会の一夫多妻制を問題にした。教会は1890年に複婚を禁止し、1896年にユタが州に昇格した。モルモン開拓者の後に多くの新しい人々が州内に入ってきた。モルモン教会員と非教会員との間の関係はしばしば歪を生じさせてきた[45]。この歪はユタ州の歴史の中で大きな要素となってきた。 ユタ州選出のアメリカ合衆国上院議員は2人とも共和党員である(2011年時点でオリン・ハッチとマイク・リー)。また同下院議員3人のうち、2人が共和党員、1人が民主党員である。2009年にユタ州知事であったジョン・ミード・ハンツマン (ジュニア)がオバマ政権下での駐中国大使に任命された。その後任は2009年8月11日に就任した共和党のゲーリー・ハーバートである。 末日聖徒イエスキリスト教会は政党やその候補者に関して中立政策を採っている[29]。 ユタ州は圧倒的に共和党の強い州である。テキサス、アイダホに並ぶ保守共和党の牙城であるとされる。モルモン教徒と自認する者達は非教徒よりも共和党に投票する可能性が高い[46]。 1970年代、当時のモルモン教十二使徒の一人、エズラ・タフト・ベンソンはAP通信の記事で、忠実なモルモン教徒がリベラルな民主党員になるのは難しいと語っていた[47]。モルモン教会は多くの場合にそのような声明を公式には否定してきたが、モルモン教徒の民主党員を含め民主党候補者は、共和党は教義的に優れているという観念に共和党が乗じていると考えている。政治学者かつ世論調査評論家のダン・ジョーンズは、全国的な民主党はモルモン協会の反対している同性結婚と人工中絶認可についてリベラルな立場にあることを挙げて、この断絶を説明している[48]。モルモン教徒の多いユタ郡の共和党はそれ自体がモルモン教会にとっての優先される選択だとしている。ユタ郡の民主党候補がモルモン教徒であり、社会的に保守的で、妊娠中絶反対の立場であったとしても、1994年以降民主党はユタ郡で勝っていない[49]。ブリガム・ヤング大学の社会行動学学部長のデイビッド・マグレビーは昔から民主党員で政治アナリストであるが、共和党は現実にモルモン教会よりも保守的であると主張している。マグレビーは地方の保守的な民主党員はモルモン教会の教義とうまく合致するとも論じている[50]。例えば、ユタの共和党は妊娠中絶についてほとんど反対しているのに対し、民主党は全国民主党に比べて保守的であっても、よりリベラルなアプローチをしている。アメリカ合衆国憲法修正第2条(武器を携行して自衛する権利)に関する問題で、共和党は礼拝所や公共空間で武器を隠し持つことに反対するモルモン教会と意見が一致していない。 1998年、モルモン教会は、ユタ州民が共和党の教会の機関だと考えることに懸念を表明し、終生の民主党員で教会七十人定員のマーリン・ジェンセンが教会の二大政党制を促進することを容認した[47]。 ユタ州はアメリカ合衆国全体よりもかなり保守的であり、特に社会問題でそうである。デイビッド・マグレビーに拠れば、山岳西部の他の共和党が強い州、例えばワイオミング州と比較して、ユタ州の政治は道徳に規範を置き、自由主義的な性格は少ない[51]。 ユタ州議会議員の約80%はモルモン教徒であるが[52]、人口対するモルモン教徒の構成比は約61%である[28]。1896年に州昇格を果たして以来、非モルモン教徒の州知事は2人に過ぎない[53]。 2006年、州議会は生物学的に異なる親が合同で子供の親権者となることを禁止する法を成立させた。この法は議会を通り、互恵的な支持者である知事には拒否権を発動された。 カーボン郡の民主党員は一般的にその祖先が20世紀初期に鉱山で働くために移民してきたギリシャ、イタリアおよび南東ヨーロッパ出身の者が多い。この集団に共通の見解は特にニューディール政策の時代の労働問題政策に大きく影響されている[54]。 サミット郡の民主党員は、1990年代にカリフォルニア州からスキー場のあるパークシティに移転してきた富裕層の副産物である。その見解は一般に労働組合に支持される経済政策とリベラル派に支持される社会政策を支持することである。 最も共和党寄りの地域はユタ郡であり、ここにはプロボ市のブリガム・ヤング大学があり、他はほとんど田園部である[55][56]。この地域は一般に全国的な信教の権利の見解に添って社会的に保守的な見解を持っている。 ユタ州は1964年以来民主党の大統領候補を選んでこなかった。共和党候補はこの州で最高の得票率を上げることが多かった。1976年[57]、1980年[58]、1984年[59]、1988年[60]、1996年[61]、2000年[62]および2004年[63]の選挙で全国一の得票率となってきた。1992年、当選した民主党候補ビル・クリントンは、ユタ州でジョージ・H・W・ブッシュと独立系のロス・ペローの後塵を拝して第3位となり、この点では唯一の州となった[64]。2004年、共和党候補のジョージ・W・ブッシュはユタ州内全郡を制し、どの州よりも高い得票率差でユタ州を制した。その得票率は71.5%であり、得票率の差は46%でユタ州の選挙人5名を獲得した。1996年の選挙では、共和党候補が比較的少なく54%の得票率だったが、それでも民主党候補の34%を上回った[65]。 経済 アメリカ合衆国経済統計局によると、2010年度のユタ州の州内総生産高は1,145億米ドルだった。これはアメリカ合衆国国内総生産高(14兆5,500億ドル)の0.78%に相当する[66]。一人当たりの収入は2005年に24,977米ドルだった。 2007年の州の新経済指標では、ユタ州の経済的力強さが評価されて国内第1位になった。この評価は州の経済が知識に基づき、地球規模に行われ、新規起業が行われ、情報技術が推進力となり、革新が行われているかを、それらの程度で評価されるものだった。 2010年10月、雑誌フォーブスの「事業に適した州」の評価でも第1位になった[67]。雑誌「ニューズウィーク」の2010年11月版ではユタ州の特にソルトレイクシティの経済状況を特集し、「新しい経済のザイオン」と呼んで、この地域が以下に高級を払える仕事を持って来られるか、不況の中でもハイテク会社を地域に惹きつけられるかを検証した[68]。 2010年1月時点で州内の失業率は6.8%である[69]。 主要産業は、鉱業、牛の牧畜業、塩の生産業、および行政である。州東部では石油生産が主要産業である[70]。ソルトレイクシティの近くでは多くの会社が石油の精製をおこなっている。中部では鉱業の中でも石炭の生産が盛んである。 近年ネットワークビジネス(マルチ商法)が躍進したがリーマンショック以降不振である。航空宇宙産業・軍需(ミサイル・ブースターユニット、クラスター爆弾製造)の中心地でもあり、近年はソルトレイクシティを中心にIT関連のハイテク産業も活発である。鉱業については特に銅の産出が有名であり、石炭の産出も多いが、近年、ユタ州東部を中心に鉱物資源としてオイルサンド・オイルシェールが豊富なことが注目されており、2008年より三井物産を含む複数の企業がオイルシェールの事業化に乗り出している。 ユタ州は個人の所得税を徴収している。税率は2008年以降は全ての納税者について一律5%となっている[71]。ユタ州の消費税(Sales tax)率は6.5%が基本であり[72]、都市や郡によって様々な税率で上乗せしている。資産税は地方政府で評価され徴収される。無形資産に対する課税はなく、また相続税も課さない。 観光業 観光業はユタ州の主要産業であり、中でも年間を通じたアウトドアのレクリエーションが良く知られている。5つの国立公園(アーチズ、ブライスキャニオン、キャニオンランズ、キャピトルリーフ、及び ザイオン)があり、アラスカ州とカリフォルニア州に次いで国内では3番目に多い。さらに7つの国立モニュメント、2つの国立レクリエーション地域、6つの国有林、また多くの州立公園や保護区がある。 州南東部にあるモアブの地域はスリックロックなどマウンテンバイクの道で知られている。また半年毎に有名なモアブ・ジープ・サファリが開催されている。 ユタ州はウィンタースポーツでも良く知られており、2002年冬季オリンピックを開催して以来観光客も増加している。パークシティはアメリカ合衆国スキー・チームの本拠地である。スキー場は主に北部にあり、ソルトレイクシティ、パークシティ、オグデン、プロボの近くである。2010年、160万人以上が購読している「スキー・マガジン」の購読者2万人以上の投票で、パークシティのディア・バレーは4年連続で北アメリカのスキー場第1位になった。北部のスキー場は、雪の性状が良く、世界クラスの快適さがあることに加え、ソルトレイクシティという大都市や国際空港に近く、他のスキー場も近くにあるので、スキーを楽しむ人は1日で幾つかのスキー場に行くこともできるという便利さで観光客に愛されている。他の大きなスキー場がある州では、スキー場が遠隔地にあり、大都市とも離れ、互いに距離があることとは対照的である。2009年の「スキー・マガジン」読者調査では、アクセスの良いスキー場として10傑のうち6か所、また雪の性状が良いスキー場として10傑のうちやはり6か所がユタ州内のスキー場である[73]。州南部ではブライアンヘッド・スキー場がシーダーシティ近くの山にある。オリンピックで使われたユタ・オリンピックパークやユタ・オリンピックオーバルは現在でもトレーニングや競技会で使われており、スキー・ジャンプ、ボブスレー、スピード・スケートなど一般の人も多くの機会に参加できるようになっている。 ユタ州では、テンプル広場、サンダンス映画祭、レッドロック映画祭、DOCUTAH映画祭、ユタ・シェイクスピア祭など文化的な呼び物も多い。雑誌フォーブスに拠れば、テンプル広場には年間500万人以上の観光客が訪れており、アメリカ合衆国では16番目に多い観光地となっている。 その他の見どころとしては、モニュメント・バレー、グレートソルト湖、ボンネビル・ソルトフラッツおよびパウェル湖がある。 鉱業 19世紀後半から、世界最大の露天掘り鉱山であるビンガムキャニオン鉱山を含め、鉱業が盛んであり、多くの会社が職を求める移住者を惹きつけてきた。ユタ準州の時代から、鉱業はユタの経済に大きな役割を果たしてきた。トゥーイル郡のマーカー、ワシントン郡のシルバーリーフ、ジューアブ郡のユーレカ、サミット郡のパークシティおよびカーボン郡のキャッスルゲイト、スプリングキャニオン、ハイアワサなど炭鉱町を含め、歴史ある鉱山町がある。これらの町はアメリカ合衆国西部にある鉱山町と同様に好況と不況のサイクルを味わってきた。冷戦時代の初期、州東部ではウランが採鉱された。今日でも鉱業はユタ経済にとって主要産業であり続けている。産出される鉱物は、銅、銀、モリブデン、亜鉛、鉛、ベリリウムなどである。化石燃料としては石炭、石油、天然ガスなどであり、特に東部のカーボン郡、エメリー郡、グランド郡、ユインタ郡で産出されている[74]。 交通 州間高速道路15号線と同80号線が州内の主要州間高速道路であり、ソルトレイクシティ近くで交差し、一部区間では合流している。州間高速道路15号線は南のアリゾナ州からセントジョージ近くで州内に入り、ワサッチフロントに平行して北上し、ポーテージ付近でアイダホ州に入る。州間高速道路80号線は、ウェンドーバーでネバダ州から入って州北部を東西方向に走り、ソルトレイクシティの東でワサッチ山脈を横切り、エバンストン付近でワイオミング州に入る。州間高速道路西84号線はアイダホ州ボイシからスノウビル近くで州内に入り、トレモントンからオグデンまでは州間高速道路15号線と合流し、その後は南東にワサッチ山脈を抜けて、エコージャンクション近くで州間高速道路80号線と交差して終わる。 州間高速道路70号線は州中央部のコーブフォートで州間高速道路15号線から別れ、東の山岳部と砂漠の地形を抜け州南部の国立公園や国立モニュメントにアクセスすることができ、その景観美で特筆される。サリナからグリーンリバーまでの103マイル (163km) が1970年に開通したとき、何もサービスが無い区間としては国内最長であり、1943年にアラスカ・ハイウェイが開通して以来、国内最長の全く新しい区間となった。 ソルトレイク・バレーのライトレール体系であるTRAXには3つの線がある。サンディ線はサンディ郊外に始まり、ソルトレイクシティ中心街で終わる。ミッド・ジョーダン線はバレーの南西郊外地デイブレイク・コミュニティに始まり、ユタ大学で終わる。ウェストバレー線はウェストバレーで始まりソルトレイクシティ中心街で終わる。この体系は拡張工事が行われており、2014年までにあと2つの線が開通する予定である。ソルトレイク国際空港に行く路線が特に期待されている。TRAXを運行するユタ州交通局はバス便も運行しており、ワサッチフロントの全体、西のトゥーイルや東のスキー場への冬季に運行される便もある。幾つかのバス会社が冬季にスキー場へ行く便を運行し、地方のバス会社はローガン、セントジョージ、シーダーシティの各市で運行している。フロントランナーと呼ばれる通勤列車はソルトレイクシティとプレザントビューの間で運行されており、現在南のプロボまで延伸工事が行われている。アムトラックの列車カリフォルニア・ゼファーは毎日東西方向に上下便が運行され、グリーンリバー、ヘルパー、プロボおよびソルトレイクシティで停車する。 ソルトレイクシティ国際空港が州内唯一の国際空港であり、デルタ航空のハブ空港として機能している。この空港はアメリカ合衆国の中で出発時間の正確なこと、またキャンセルが少ないことで第1位となっている[75]。この空港から合衆国内、カナダおよびメキシコ、さらにはパリや東京まで100以上の目的地に直行便が運行されている。モアブに近いキャニオンランズ飛行場、シーダーシティ地域空港、プロボ市民空港、セントジョージ市民空港、およびバーナル地域空港も数は限られているが商業便が運行されている。2011年1月12日に全く新しいセントジョージ市民空港が開港し、それまで台地の上にあって拡張の余地が無かった旧空港に置き換わった。スカイウェスト航空がセントジョージにも本社を置いており、ソルトレイクシティをハブとしている。最近フロンティア航空が毎日プロボからデンバーのハブ空港までの定期直行便を毎日運行するようになった。これまでのところは成功している。 教育 ユタ州は教育熱心な州として知られ、州予算のおよそ7割を教育に費やしており、高校の卒業率・大学進学率は全米1・2位を争う。2007年には、「教育における親の選択についての法律」が成立し、これに伴い、高校までの私立学校への入学・転入を州政府が奨学金支給という形で後押しする制度が提案された。この制度はより良い教育を受ける機会を増やし、人口増加による公立学校への負担を減らすことができるが、競争の激化や公立学校のレベル低下につながりかねないことなど懸念があり、また現在私立学校へ通っている家庭には恩恵がないことなどから、州民投票によって否決された。 単科及び総合大学 ブリガムヤング大学、プロボ 、プライス 、セントジョージ 、ソルトレイクシティ ニューモント大学、サウスジョーダン 、プロボ 、ソルトレイクシティ 、エフライムとリッチフィールド 、シーダーシティ 、ソルトレイクシティ、プロボ、オグデン ユタ大学、ソルトレイクシティ ユタ・マッサージ療法カレッジ、ソルトレイクシティ ユタ州立大学、ローガン(メインキャンパス) 、オレム 、オグデン 、ソルトレイクシティ インターネット大学 ウェストミンスター・カレッジ、ソルトレイクシティ 芸術・文化 イベント サンダンス映画祭 - パークシティにて毎年1月に行われる世界的に有名な国際映画祭。 - ソルトレイクシティにて毎年4月頃に行われるお祭り。 スポーツ 2002年にソルトレイクシティオリンピックが開催された。 プロスポーツチーム NBAのユタ・ジャズはソルトレイクシティのエナジーソリューションズ・アリーナで試合を行っている[76]。他のスポーツチームは: レアル・ソルトレイク、サッカー、MLS ソルトレイク・ビーズ、野球、パシフィック・コーストリーグ オグデン・ラプターズ、野球、パイオニアリーグ オレム・オウルズ、野球、パイオニアリーグ ユタ・グリズリーズ、アイスホッケー、ECHL その他 州の象徴など 州の花:セゴユリ(チョウユリ) 州の鳥:カモメ - 開拓時代にイナゴによる作物被害を、カモメの大群が救ったという故事に由来する。海から遠いにも関わらず、グレートソルト湖があるせいか、実際に州内にはカモメが多い。 日本との関係 1869年に岩倉具視を団長とする岩倉使節団が訪れた史実もあるせいか、意外と親日的な土地柄であるとされる。太平洋戦争中に日系人の強制収容に唯一反対した州であり、また戦後も日系人を多く受け容れてきたため、現在でも日系人の割合が比較的高い州のうちのひとつである。 外国人タレントのケント・デリカット、ケント・ギルバートは末日聖徒イエスキリスト教会の宣教師として来日した経緯があり、双方ともにユタ州育ちである(生まれは何れもカナダとアイダホ州、特にケント・デリカットは「ユタ田舎じゃないよー」、「ユタは土地が安くていいんだよ」のフレーズで有名である)。 日本の姉妹都市 (長野県松本市) - (ソルトレイクシティ市)、1958年 出典・参考文献 関連項目 ユタ州の都市圏の一覧 ユタ州の郡一覧 ユタ (戦艦) 外部リンク - ユタ州の水質や大気などについての情報が得られる。 - ユタ州地震情報。 - ユタ州保健局(Utah Department of Health)が運営している医療・健康問題の体験談投稿サイト。 at Curlie (requires Flash)
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日本には近衛兵はいますか?
近衛師団
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近衛師団(このえしだん、正字体:近衞師團)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊(軍隊)として天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」(きんけつしゅご)の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」(ほうれんぐぶ)の任にもあたった。 帝国陸軍における軍隊符号はGD(一般師団はD)。太平洋戦争中後期には編制の改編が行われ、最終的には<b data-parsoid='{"dsr":[1050,1062,3,3]}'>近衛第1師団 (1GD)・近衛第2師団 (2GD)・近衛第3師団 (3GD) の3個近衛師団が編成された。 なお戦後から現代にかけて、自衛隊の陸上組織、陸上自衛隊において他の君主国における近衛兵のような部隊等は存在しておらず、旧宮内省の皇宮警察、禁衛府、皇宮警察署、皇宮警察局、警視庁皇宮警察部と変遷を経て、警察組織である現在の皇宮警察本部がそれらの役割を担っている[1]。 特徴 将来の天皇(大元帥)となる皇太子(東宮)は、西洋社会におけるノブレス・オブリージュを模範として近衛歩兵第1連隊附となるのが通例であり、嘉仁親王(後の大正天皇)・裕仁親王(後の昭和天皇)は近歩1附であった。 近衛師団は禁闕守護の任から衛戍地は東京市(現在のほぼ東京23区)であったものの、他の一般師団と異なり、連隊区といった特定地域からの徴兵によるのではなく、大日本帝国全国から選抜された兵士によって充足されていた。近衛兵になることは大変な名誉とされた[2][3]。 軍服も一般師団とは区別され、 一般の将校准士官正衣の正帽(旧称:第一種帽)のクラウン部が濃紺(黒色)絨、将官を除く一般将校准士官下士卒の明治38年制以前の第二種帽の鉢巻部・一般騎兵下士官兵の胸飾紐(肋骨服)が黄色であるのに対し、「近衛」の称呼を冠する近衛師団に属する軍隊に属する者ではそれらの部分が緋色。 近衛師団の各近衛兵の中でも、特に近衛騎兵は観兵式など式典における儀仗部隊としての色彩が強かったため、一般騎兵下士官兵用のドルマン式ジャケット(肋骨服)が廃止された後も、近衛騎兵下士官兵には<b data-parsoid='{"dsr":[2517,2530,3,3]}'>近衛騎兵供奉服</b>として存続。 将校准士官下士官兵共通として、明治45年制以降の軍帽および昭和13年制の略帽の帽章の五芒星(五光星)には、周囲を囲む桜葉を付す。 等の差異が存在した。 また一般師団の下士官兵には基本的に第二装(程度の良い中古品、主に外出や儀式用)・第三装(着古したり傷を補修した中古品、主に普段の勤務や訓練用)の軍装が支給されたのに対し、近衛師団では「ご守衛勤務」で使うための第一装(新品または新品同様、主に出征時や戦地の勤務用)もあわせて支給された。 日清戦争(乙未戦争)における近衛歩兵連隊の将兵および、同連隊の軍旗(旭日旗) 緋色の第二種帽を着用した近衛後備混成旅団の将兵 近衛歩兵第2連隊附当時の朝香宮鳩彦王 近衛歩兵第4連隊附当時の大山柏 近衛騎兵連隊附時代の閑院宮春仁王(将校) 近衛野砲兵連隊中隊長時代の北白川宮永久王(将校) 近衛歩兵第1連隊附時代の辰口信夫(兵) 近衛第1師団長時代の森赳(将校) 沿革 成立前史 江戸幕府を倒し明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩(現:鹿児島県)、長州藩(現:山口県)、土佐藩(現:高知県)の「薩長土」に依存する脆弱な体制であった。そのため1871年(明治4年)、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である御親兵を創設し、この軍事力を背景に「廃藩置県」を断行した。この御親兵は、1872年(明治5年)に初代近衛都督西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城(皇居)の守護」という任務が課せられた。 1873年(明治6年)に徴兵令が制定され鎮台兵として配備されると、近衛兵は鎮台兵の軍事訓練も担うこととなった。1874年(明治7年)、近衛歩兵大隊を基幹として近衛歩兵連隊(第1大隊と第2大隊を基幹に<b data-parsoid='{"dsr":[4084,4098,3,3]}'>近衛歩兵第1連隊、第3大隊と第4大隊を基幹に近衛歩兵第2連隊が新設)が編成され、同1月23日には帝国陸軍では初めて軍旗が近歩1及び近歩2に親授された。 1877年(明治10年)の西南戦争(日本史上最後の内戦)では、鍋田川の戦い、田原坂の戦い、城山の戦いに従軍する。翌1878年(明治11年)には近衛砲兵大隊が恩賞への不平から武装反乱する竹橋事件が起こった。 1891年(明治24年)、鎮台が廃止され師団に替わることとなり、山縣有朋によって近衛兵は<b data-parsoid='{"dsr":[4381,4391,3,3]}'>近衛師団</b>へ改称され、陸軍大臣管轄の下、平時は隷下の各中隊が輪番制で天皇や宮城の警護などに当たり、戦時には野戦師団のひとつとして出征し戦闘に参加することとなった。師団編制となった近衛師団は、数個近衛歩兵連隊を基幹として、それに騎兵・砲兵・工兵・輜重兵などの特科部隊が統合されていた。 その後、近衛師団は第二次世界大戦終結による大日本帝国陸軍の解散まで各戦争・事変・紛争に従軍し、出征中の近衛師団に代わって天皇及び宮城の警護に当たった近衛師団は<b data-parsoid='{"dsr":[4661,4673,3,3]}'>留守近衛師団</b>とされた。初期は留守近衛連隊が、のちには近衛歩兵第6連隊などがそれにあたる。 歴史 日清戦争 日清戦争に従軍、台湾平定(乙未戦争)で先発する。後発した乃木希典率いる第2師団とともに平定するも、山根信成近衛第2旅団長、北白川宮能久親王近衛師団長をはじめ、多くの戦病死者を出した。 日露戦争 日露戦争では第1軍隷下として従軍。長谷川好道率いる近衛師団(近衛第1旅団と近衛第2旅団から構成される)と、 梅沢道治率いる近衛後備混成旅団が出征した。長谷川好道が鴨緑江会戦及び遼陽会戦の軍功により朝鮮駐剳軍司令官に就任したため、沙河会戦以降は浅田信興近衛第1旅団長が近衛師団長となった。沙河会戦では旅団長梅沢の功績により、後備近衛混成旅団が「花の梅沢旅団」と呼ばれた。奉天会戦にも参加している。 また、日露戦中の1904年(明治37年)6月15日には、輸送船にて輸送中の後備近衛歩兵第1連隊が玄界灘でロシア海軍ウラジオストク巡洋艦隊の装甲巡洋艦3隻の攻撃を受け、軍旗を奉焼し連隊長以下1,000余名が戦死する事件があった(常陸丸事件)。 明治末から大正期 1910年(明治43年)5月29日、師団司令部が東京市麹町区代官町2番地に移転[4]。 1918年(大正7年)6月20日、兵器部が師団司令部構内で事務を開始[5]。 昭和 参考までに、1930年(昭和5年)時点の近衛師団の一覧表を示す[6]。 二・二六事件 1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件では近衛から叛乱将校がクーデターに加わるも、昭和天皇は「朕自ラ近衛師団ヲ率ヰテ此レガ鎮定ニ当タラン(私自ら近衛師団を率いて彼らの鎮圧にあたる)」と発言した。 日中戦争 前述のように近衛師団は日露戦争以降長らく実戦経験がなく、盧溝橋事件勃発後にも出動命令が下ることがなかった。このことから、出動命令を受けた他の師団より「あれはおもちゃの兵隊さんではないか」と揶揄されることも少なくなかった。たまりかねた師団長の飯田貞固中将は昭和天皇と面会した折「将兵一同は皆出征を希望しております」と具申。天皇は驚いて「そんなに皆、出たがっているのか」と承諾した[7]。 こうして1939年(昭和14年)、日中戦争に動員下令、近衛第2師団の前身となる近衛混成旅団となる。近衛混成旅団は第21軍隷下となり、南支那方面軍として広東に上陸する。近衛混成旅団は広東作戦、南寧作戦(翁英作戦は中止)に従軍し、南寧を包囲する国民革命軍と激戦を展開した。 仏印進駐 近衛混成旅団は第5師団や台湾混成旅団とともに、第22軍隷下となり、仏印進駐を担当する。 近歩1・近歩2は、仏印進駐完了後は復員することとなる。この復員は、南支那方面軍が事実上廃止(第23軍に改組)され、印度支那派遣軍(司令官西村琢磨、歩兵団長桜田武)が復員するのと同時期である。 近衛混成旅団と印度支那派遣軍歩兵団は、両者とも桜田武が旅団長・歩兵団長として指揮をとったので桜田兵団と呼ばれていた。この桜田兵団が留守近衛師団の近歩6などと加わり、留守近衛師団から近衛第1師団となる。 一方、近歩3・近歩4・近歩5等は、太平洋戦争開戦以降、河田混成旅団長の近衛混成旅団から近衛師団として南方軍の第25軍隷下として、タイを経て南方作戦のマレー作戦に参加することとなった。 第二次世界大戦 上述の近衛師団は、太平洋戦争中は南方戦線で活躍し、1941年(昭和16年)12月8日から1942年(昭和17年)1月31日のマレー作戦には第25軍隷下として、近歩3・近歩4・近歩5及び近衛捜索連隊等が加わった。また、同年のシンガポールの戦いでも活躍した。 改編 1943年(昭和18年)6月1日に、オランダ領東インド(現在のインドネシア)スマトラ島メダン方面で作戦中の近衛師団は近衛第2師団(2GD)に改称され、東京にあった留守近衛師団を基幹として近衛第1師団(1GD)が、更に1944年(昭和19年)7月18日には留守近衛第2師団を基幹として、近衛第3師団(3GD)が編成される。第二次世界大戦終戦時の近衛第3師団は千葉県成東(旧:山武郡成東町、現在の山武市)にあって連合国軍の関東上陸作戦(本土決戦・決号作戦)に備えていた。 近衛第2師団と近衛第3師団がそれぞれ作戦地に赴任していたため、本来の近衛兵としての任務は近衛第1師団が担当する予定であった。 宮城事件 1945年(昭和20年)8月14日未明にポツダム宣言受諾が決定し、それを昭和天皇自ら国民にラジオ放送を通じて知らせる「玉音放送」を放送することが決まった。8月15日未明に陸軍省軍務局軍務課課員らが近衛第1師団長森赳中将へ決起を促すが、あくまで昭和天皇の思し召しに従い終戦を受け入れる決意の固い森赳師団長はこれを拒絶する。拒否された将校らは、森師団長及び第2総軍参謀白石通教中佐を殺害し、偽の師団長命令を出して上番中の守衛隊を欺いて玉音盤を奪おうとするが、東部軍や近衛連隊長の同調を得られず失敗する。間もなく東部軍司令官田中静壱大将がこの叛乱を知り、叛乱将校を制止するとともに憲兵隊に逮捕を命じる。 のちにこの事件は半藤一利により『日本のいちばん長い日』として小説化され、二度にわたって映画化も行われた。 戦後 終戦時には近衛連隊でも軍旗奉焼・復員が行われた。一部の将兵は禁衛府皇宮衛士総隊に移ったが、禁衛府解体に伴い完全に消滅した。 なお、近衛師団司令部庁舎は現在、東京国立近代美術館工芸館となっている。 また、戦後の皇室および現在の自衛隊(陸上自衛隊)において、皇太子含め男性皇族が自衛官または自衛隊員としてそれらの職務に従事するようなことはなく、旧陸軍の近衛師団のような他国における近衛兵に相当する部隊・組織は存在しておらず、警察庁附属機関である皇宮警察本部がその役割を実質的に担っている。 師団長 近衛師団に属した軍人 伊東祐俊(佐賀藩):近衛歩兵第一聯隊大隊長、水戸連隊区司令官。日露戦争の奉天会戦・黒溝台会戦において近衛師団第一軍聯大隊長として先陣隊を指揮する。 滋野清彦(長州藩):日清戦争時、現役復帰して留守師団長を務めた。 梅沢道治(仙台藩):日露戦争では、近衛歩兵第4連隊長から近衛後備混成旅団長となり、沙河会戦で梅沢旅団の名を挙げる。 森林太郎(津和野藩):1898年(明治31年)10月 - 近衛師団軍医部長(陸軍一等軍医正)となる。 土屋光春(陸軍兵学校卒):明治時代に近衛歩兵第1旅団長。 鮫島重雄:1883年(明治16年)2月に近衛師団参謀。1889年(明治22年)に近衛師団参謀。1894年(明治27年)6月18日近衛師団参謀長(陸軍工兵大佐)。日清戦争中の師団参謀長。 白川義則(陸士旧1期):1886年(明治19年)近衛工兵中隊(工兵科下士官)。1902年(明治35年)2月に近衛師団参謀。 大谷喜久蔵(陸士旧2期):1897年(明治30年)10月11日 - 1898年(明治31年)近衛師団参謀長(大佐)。 橘周太(陸士旧9期):1888年(明治21年)12月に近衛歩兵第4連隊附となる。1895年(明治28年)12月に近衛歩兵第4連隊中隊長となる。 久松定謨(フランス・サンシール陸軍士官学校卒(旧11期相当)):1891年(明治24年)12月に近衛歩兵第2連隊附(陸軍歩兵少尉)。1895年(明治28年)1月近衛師団副官(陸軍歩兵中尉)。日清戦争に出征。1897年(明治30年)12月近衛歩兵第2連隊中隊長(陸軍歩兵大尉)。1914年(大正3年)5月11日に近衛歩兵第1連隊長。 三井清一郎(陸士6期):明治30年代に近衛歩兵第1連隊中隊長に補せられる(陸軍歩兵大尉)。 真崎甚三郎(陸士9期):近衛歩兵第1連隊長。 篠塚義男(陸士17期):1914年(大正3年)9月歩兵第1連隊中隊長(陸軍歩兵大尉)。 東條英機(陸士17期):近衛歩兵第3連隊中隊長(陸軍歩兵大尉)経験あり。 前田利為(陸士17期):1923年(大正12年)8月7日 - 近衛歩兵第4連隊大隊長、後年に近衛歩兵第2連隊長となる。 阿南惟幾(陸士18期):近衛歩兵第2連隊長。 原守(陸士25期):近衛歩兵第4連隊長。歩兵第23旅団長を経て留守近衛司令部附。 栗林忠道(陸士26期):1943年(昭和18年)6月 - 留守近衛第2師団長(陸軍中将)。 李王垠(陸士29期):1939 - 1940年に近衛歩兵第2旅団長。 小畑信良(陸士30期):1940年(昭和15年)5月 - 1941年(昭和16年)に近衛輜重兵連隊長として、1942年(昭和17年)2月 - 1943年(昭和18年)に近衛師団参謀長。 岩畔豪雄(陸士30期):陸軍中野学校設立後、1941年(昭和16年)8月10日 - 1942年(昭和17年)2月3日、近衛歩兵第5連隊長。 西久保豊成(陸士33期):1921年(大正10年)10月26日 - 近衛歩兵第3連隊附(陸軍歩兵少尉)。 中橋基明(陸士41期):近衛歩兵第3連隊第7中隊。二・二六事件の首謀者の一人。 北白川宮永久王(陸士43期):1931年(昭和6年)10月 - 近衛野砲兵連隊附(陸軍砲兵少尉)、1937年(昭和12年)3月 - 近衛野砲兵連隊中隊長(陸軍砲兵大尉)。 小泉親彦(東京帝大医学部卒):1932年(昭和7年) - 近衛師団軍医部長(陸軍軍医監)。 黒田長久(東京帝大理学部動物学科卒):第二次世界大戦中、近衛師団に属した。 木越二郎:1939年(昭和14年)3月9日 - 1940年(昭和15年)3月9日、近衛師団に属した。 最終所属部隊 以下は近衛歩兵連隊のみ。 近衛第1師団 近衛歩兵第1連隊(東京) 近衛歩兵第2連隊(東京) 近衛歩兵第6連隊(東京) 近衛歩兵第7連隊(東京) 近衛第2師団 近衛歩兵第3連隊(東京) 近衛歩兵第4連隊(甲府) 近衛歩兵第5連隊(佐倉) 近衛第3師団 近衛歩兵第8連隊(東京) 近衛歩兵第9連隊(甲府) 近衛歩兵第10連隊(佐倉) 脚注 関連項目 近衛兵 大日本帝国陸軍師団一覧 歩兵連隊#近衛歩兵連隊 御親兵 禁衛府 皇宮警察 (宮内省) 禁衛隊 (満州国) グロースドイッチュラント師団
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B8%AB%E5%9B%A3
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チャールズ・サンダース・パースはどこの大学出身?
チャールズ・サンダース・パース
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チャールズ・サンダース・パース[1](、1839年9月10日 - 1914年4月19日)は、アメリカ合衆国の哲学者、論理学者、数学者、科学者であり、プラグマティズムの創始者として知られる。マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。パースは化学者としての教育を受け、米国沿岸測量局に約三十年間、科学者として雇われていた。「アメリカ合衆国の哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、そしてアメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる[2]。存命中はおおむね無視されつづけ、第二次世界大戦後まで二次文献はわずかしかなかった。莫大な遺稿の全ては今も公表されていない。パースは自分をまず論理学者とみなし、さらに論理学を記号論(semiotics)の一分野とみなした。 生涯 清教徒の移民であったジョン・パースの子孫であり、当時アメリカ最大の数学者と見なされたハーバード大学数学教授ベンジャミン・パースの次男として生まれる。早くから父に才能を見いだされ、特別の教育を受ける。なぞなぞ・トランプの手品・チェス・暗号を好み、8歳で化学者、10歳で数学者となり、12歳のときにはホエイトリーの『論理学の要項』を教えられ、これを完全に理解したという。1862年にバチェラー・オブ・アーツ、1863年にはマスター・オブ・アーツの学位をハーバード大学からそれぞれ抜群の成績で授与され、1869年〜70年度には、エマスン、キャボット、フィスクなどの年長者とならんでハーバード大学の哲学講演に参加した。 1859年に米国沿岸測量局に就職したのを皮切りに、1891年まで断続的に測量の仕事を続けた。1869年から1875年まで、ハーバード大学天文台の助手として測光に従事した。光の波長を測量の規準単位として用いるやり方は、パースが始めたものである。1875年にアメリカの最初の代表として国際測地学協会に出席し、振り子による実験が精密ではないことを指摘し、各国の学者に注目されている。 1867年のアメリカ芸術科学アカデミーでパースは、すでに1847年にブールが発表していた『論理の数学的分析』の重要性を指摘し、その体系に改良を加えた。学会が注目しなかったので中断されてしまったが、パースの記号論理学における仕事はシュレーダーの『論理の代数についての講義』に引き継がれ、さらにラッセルとホワイトヘッドの『数学原理』に結実することになる。 1887年以後、ペンシルベニア州のミルフォードに隠棲し、さまざまな事典や雑誌への寄稿と新刊書評によって生計を立てた。『ネイション(The Nation)』誌のための新刊書評を担当していたときは、莫大な数の書物を読みこなしては毎日2000語ずつ書いたと言われている。これらの仕事は、エジプト学・犯罪学・言語学・心理学・数学・力学・天文学・化学・測量・社会学・歴史・文芸評論・神学・伝記に及ぶ。 パースの興味は常に哲学に向いていたのだが、それを本職にすることはかなわなかった。理由は、1883年にかれが引き起こした離婚問題が清教徒道徳の根強かったマサチューセッツ州で嫌われたということである。当時のハーバード大学学長のチャールズ・ウィリアム・エリオット[3]は、パースを校内のいかなる場所にも立ち入らせなかった。このように冷遇されたことはパースの発表機会を損ね、いっそう難解にしたとも考えられる。パースは中年以後まったく窮乏状態で過ごした。長い年月を持病に苦しめられつつ、死後20年たたないと学者たちから理解されないような学説を書き続けたのである。 米国沿岸測量局 1859年から1891年のあいだ、パースは米国沿岸測量局に、さまざまな科学上の立場で断続的に雇われた。1880年の父の死までのあいだ、影響力のある父から保護を受けた。この雇用のおかげで南北戦争の兵役をまぬがれたが、このことは彼にとって非常にばつの悪いことだった。というのもボストンのエリートであるパース家はアメリカ連合国に同情していたからである。この測量局で彼は主に測地学と重力測定に取り組み、地球の重力の大きさの地域による小さな変動を確定するために、振り子の利用法を改良した。この測量局は彼をヨーロッパに五回派遣した。一回目は1871年で、日食を観測するために派遣されたグループの一員としてであった。ヨーロッパにいるあいだ、彼はオーガスタス・ド・モルガン、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、そしてWilliam Kingdon Cliffordについて研究した。彼らはイギリスの数学者や論理学者で、彼らの考え方はパースと似ていた。1869年から1872年まで、彼はハーバード大学天文台に助手として雇われ、星の明るさと銀河の形の確定についての重要な研究を行った[4]。1876年、全米科学アカデミーの会員に選出。1878年、彼はメートルを特定の振動数の光の非常に多くの波長として定義した最初の人となった[5]。 大学と追放 1879年、パースは新しいジョンズ・ホプキンス大学の論理学の講師に任命された。同大学は彼が興味のある多くの分野で有力だった。たとえば哲学(Josiah Royceとジョン・デューイは同大学で博士号を取得した)、心理学(スタンレー・ホールが教鞭をとり、Joseph Jastrowが研究を行った。Jastrowは重要な経験的研究の成果をパースと共同で執筆した)、そして数学(ジェームス・ジョセフ・シルベスターが教鞭をとった。彼は数学と論理学についてのパースの著作を称賛するようになった)といったぐあいである。この身分が、パースの手にした唯一の大学での役職ということになった。なお大学での職、助成金、そして科学界での地位を得ようとするパースの努力は、当時の有力な科学者サイモン・ニューカムが秘密に表明した反対によって、ことごとく台無しにされていたといわれる[6]。 パースの私生活もまた彼を不利にした。彼の一人目の妻ハリエット・メルシナ・フェイ(Harriet Melusina Fay)は1875年に彼と別れた。彼は間もなくある女性と親しくなったが、彼女の旧姓と国籍は現在も不明確なままである(彼女の名前はジュリエット・フロイシー[Juliette Froissy]で、彼女はフランス人だったというのが最も信頼できる推測である)。だが、彼がハリエットと離婚したのは1883年になってからのことで、彼はそのあとでジュリエットと結婚した。その年、ニューカムはジョンズ・ホプキンス大学の理事に、「パースが、ホプキンス大学で働いているあいだ、ある女性と暮らしたり旅行したりしていたが、パースは彼女と結婚していない」ということを指摘した。スキャンダルの結果、彼は解任された。以後、Clark University、ウィスコンシン大学マディソン校、ミシガン大学、コーネル大学、スタンフォード大学、シカゴ大学で就職を試みるがすべて失敗した。パースはどちらの結婚でも子供を持たなかった。 離職 1880年代、パースの沿岸測量局の仕事への無関心は増し、測量作業の質も速度も低下した。数ヶ月で完成させるべきレポートを書くのに何年もかかったともいわれる。その間、『センチュリー事典』の論理学、哲学、そして科学に関連する何百もの項目を執筆した[7]。 1885年、アリソン委員会の検査はパースの潔白を証明したが、局長のJulius Hilgardおよび沿岸測量局の何人かのほかの従業員は、公金の不正支出のとがで解雇されることになった。1891年、パースは局長のトマス・メンデンホールからの要請で沿岸測量部を辞任。以後、定職に就くことはなかった。 貧困 1887年、ペンシルベニア州ミルフォード近くの2000エーカー(8平方km)の田舎の土地を買うために両親からの相続財産の一部を支払ったが、この土地が経済的収益をもたらすことはけっしてなかった。彼はそこに大きな家を建て、家に「アリスベ」(Arisbe)という名前をつけ、人生の残りの期間を過ごし、大量に執筆をしたが、遺稿の多くは公表されていない。 生活は、まもなく深刻な金銭的、法的困難を引き起こし、最後の20年間の多くを冬は暖房なしですごし、地元のパン屋が親切に寄贈してくれた古いパンをいつも食べていた。新しい文房具を買うことができないので、彼は古い原稿の左側に執筆した。彼はしばらくのあいだニューヨーク市で逃亡者になることになった。彼の兄弟James Mills Peirceと彼の近所の人たち、Gifford Pinchotの親類の人たちを含む何人かの人たちが彼の借金を処理し、彼の固定資産税と貸付金を支払った。 パースは科学技術関連のコンサルタントをやり、原稿料を得るために大量に執筆した。執筆したのは主に辞書と百科事典の項目、「ネイション」誌[8]での書評だった。ほかスミソニアン博物館のサミュエル・ラングレー館長からの強い勧めで、同館向けに翻訳をした。パースは動力飛行についてのラングレーの研究のために、大量の数値計算を行いもした。資金を稼ぐことを望んで、パースは発明をしようと試みた。彼は多くの著書を作ろうとしたが、完成させることはできなかった。 1888年、グロバー・クリーブランド大統領は彼を分析委員会(Assay Commission)のメンバーに任命した。 1890年以降、シカゴのFrancis C. Russell判事がパースの友人かつ崇拝者となり、RussellはパースをPaul CarusとEdward Hegelerに紹介した。彼らはそれぞれ、アメリカの草分け的な哲学雑誌「モニスト」(The Monist)の編集長とオーナーであり、この雑誌は最終的にパースが執筆した14本の論文を公表した。 自分の一生の仕事を要約した著書を執筆するために、助成金を求めて、新たに創設されたカーネギー研究所へ申請を行ったが却下された。彼の宿敵ニューカムが同研究所の執行委員会に参加しており、さらに同研究所の理事長はパースが解任されたときのジョンズ・ホプキンス大学の学長だった。 これらの困難な時期にパースを助けたのは、古い友人ウィリアム・ジェームズだった。ジェームズはハーバード大学周辺でパースの連続講演を企画した。また1898年からジェームズが亡くなる1910年までのあいだ毎年、ジェームズはボストンの友人たちに、パース支援の寄付を要請した。パースはジェームズの長男を、ジュリエットが自分より先に死んだ場合の自分の遺産相続人に指名することによって返礼した[9]。 パースはペンシルベニア州ミルフォードで極貧状態で亡くなり、彼の妻はその20年後に亡くなった。 学問の分類 パースは数学を哲学よりも一般的・普遍的・抽象的な学問分野とみなした。 彼は生涯を通して何度か哲学の分類を試みているが、1902年以降の最終版の分類では[10]、彼は哲学を二種類、すなわち「第一哲学」(philosophia prima)と、「最終哲学」(philosophia ultima)ないし「綜合哲学」(synthetic philosophy)に分けている。 第一哲学の本質を上手く捉える用語として、パースはジェレミ・ベンサムのcenoscopy (coenoscopy)を採用している[11]。cenoscopyは「共通のものの観察」を意味するギリシア語のκοινοσκοπιάに由来する。この名称の通り、パースは第一哲学を、特殊な実験を行わず、人間の日常生活における観察から得られるデータに基づく実証学として捉えていた。第一哲学はさらに現象学、規範学、そして形而上学に分類される。cenoscopyに対置されるのが、実験や探索などの特殊な観察方法に基づくidioscopy、すなわち特殊科学である[12]。idioscopyは「固有なものの観察」を意味するギリシア語のιδιοσκοπιάに由来する。最終哲学ないし綜合哲学の仕事は、それぞれの特殊科学の成果を統一的な視点から綜合することである[13]。 数学 パースの純粋数学における研究は数論、線型代数学、トポロジー、リスティンク数、射影幾何学、四色問題、集合論、ブール代数、そして連続体の研究に及ぶ。応用分野としては経済数学、地図の投影法、確率論、統計学などを研究した。 数学における発見 パースは基礎数学や形式論理学でいくつもの重要な発見をしているが、そのほとんどは死後まで評価されることはなかった。 1860年には、無限数の基数演算を提案した[14]。これはゲオルク・カントールの超限数の研究の前であり(カントールが博士論文を完成させたのは1867年である)、ベルナルト・ボルツァーノの『無限の逆説』(Paradoxien des Unendlichen;1851)へのアクセスがない状態で書かれている。 1881年の「数の論理について」で、パースは自然数算術の公理化を提示した[15]。これはリヒャルト・デデキントとジュゼッペ・ペアノによる公理化の数年前である。またこの同じ論文においてパースは、デデキントよりも前に、今日で言うデデキント有限性に相当する有限集合の定義を初めて与えている。これは、「その真部分集合との間に単射対応が存在する集合」という無限集合の重要な形式的定義(デデキント無限)を含意している。 哲学 背景 パースの職業は科学職であって哲学職ではなかったということ、そして彼は存命中、主に科学者として、そして二次的にのみ論理学者として知られ評価されていたのであって、哲学者としてはほとんど知られたり評価されたりはしなかったということは、十分に認識されていない。この事実がパース研究におけるお決まりの前提になるまでは、哲学と論理学についての彼の著作さえ理解されることはないだろう。—Max H. Fisch, in Moore and Robin (1964), p.486 パースは30年間、科学者として働いていた。プロの哲学者だったと言える時期は、ジョンズ・ホプキンス大学で講義をした五年間だけである。彼が哲学を学び始めたのは、ハーバード大学の学部生だった頃であり、最初に読んだ哲学書はフリードリヒ・フォン・シラーの『美的書簡』だったという[16]。そこからカントの『純粋理性批判』に移り、これを毎日二時間ずつ三年以上も読んだ結果、ほとんど完全に暗記したほどだった[17]。後にはイギリス哲学にも触れ、特にJ・S・ミルの支持者であったチョンシー・ライトとの議論を通してミルの哲学を学んだ。論理学についてはギリシア語・ラテン語・ドイツ語・フランス語の諸文献を広くあさったが、特に中世のスコラ哲学者ドゥンス・スコトゥスから多くを学んだという[18]。 以下、第一哲学の下位分野である現象学、規範学、形而上学の順にパースの哲学を見ていく。 現象学・カテゴリー論 パースの論理学の中核にあるのが彼のカテゴリー論である。彼はある箇所で、自分のカテゴリー論が「私が世界に贈るギフト」であり、「私――私の身体――が跡形なく滅びた後も、私はその中に宿ることだろう」と述べている[19]。 「新しいカテゴリー表について」 その中でも特に重要な位置を占めるのが、1868年の「新しいカテゴリー表について」(On a New List of Categories)[20]という論文である。晩年になってもパースは、「新しいカテゴリー表」が「論理学的観点から見て、私の書いたものの中で最も不備の少ない」論文であると述べ[21]、「哲学への私の唯一の貢献である」とまで評している[22]。これらの発言から、パースがいかにこの論文を重視していたが伺える。 カテゴリーというのは普遍概念、つまりどのような思考においても働いている概念のことである。(一般概念も「普遍概念」と呼ばれることがあるが、ここでは区別する。この定義に従えば、例えば「人間」は一般概念であるが普遍概念ではない)。「新しいカテゴリー表」の目的はこのような普遍概念を見つけ、それによって人間の思考の構造を最も根本的なレベルで明らかにすることである。 パースが採る方法は、実験心理学のデータからカテゴリーの候補となる概念を探し出し、それが実際にカテゴリーであるかどうかを、彼がprescisionと呼ぶ条件を満たすかどうかによって検証していく、というものである。その結果、次の五つのカテゴリーが得られる[23]。 存在 質(根拠への参照) 関係(被関係項への参照) 表象(解釈項への参照) 実体 「新しいカテゴリー表」の時点では中央の三つは「偶有」(accidents)と呼ばれているが、後にこの三つだけが「カテゴリー」と呼ばれ、上から順に「第一性」(Firstness)、「第二性」(Secondness)、「第三性」(Thirdness)となる。 論文の後半では、カテゴリーの応用として、記号には「類似体」(Likenesses)、「指標」(Indices)、「シンボル」(Symbols)の三種類があることが示される[24]。 規範学 現象学が「何があるか」を研究するのに対して、規範学は「何があるべきか」を研究する。すなわち、規範学は「現象が<b data-parsoid='{"dsr":[10803,10811,3,3]}'>目的</b>に対して有する普遍的・必然的関係を研究する」[25]。パースは規範学を論理学、倫理学、美学の三つに分類するが、それぞれに対応する「目的」が真、善、美である。 美学 美学は、あらゆる振る舞いに影響を与える諸目的についての研究であり、他の規範的諸研究の基礎に位置するとパースは考えた。 倫理学 倫理学は目的一般ではなく、人間行為に関わる「良し悪し」のみを研究するという意味で、美学の特殊分野である。 論理学・記号論 論理学は、人間行為のうち思考のみを扱うという意味で、倫理学の特殊分野である。 パースは自分をまず第一に論理学者と見なしていた。しかしパースが「論理学」と言うとき、彼が念頭に置いているのは、現代の哲学者が「論理学」として理解可能なものよりも遥かに射程が広い[26]。パースにとって論理学は、広く探究(inquiry)の構造と方法を研究する学問分野である[27]。そして「探究」というのも科学的探究に限らず、あらゆる思考や知覚過程を含む。 論理学の前提 パースは、1898年に行ったケンブリッジ連続講義の第四講義「論理学の第一規則」で次のように述べている[28]。 理性の第一の、そしてある意味で唯一の規則は、学ぶためには、学ぶことを欲する必要があり、しかも自分が考えたいと思うことに満足することなく欲する必要がある、ということである。ここから、哲学の街のあらゆる壁に刻まれるべき一つの系が帰結する: 探究の道を塞ぐな。 デカルト主義批判 パースは、1868年にJournal of Speculative Philosophyに掲載された論文「人間に備わっているとされるいくつかの能力に関する疑問」[29]において、当時様々な形で広く普及していたデカルト哲学を批判している。 パースのデカルト主義批判の要は、後者が「直観」(intuition)に訴えるという点である。直観というのは、直前の認識によって決定されないような認識、言い換えれば「前提なき結論」である[30]。ここでパースの議論において重要なのは、絶対的に不可知なものの概念は自己矛盾であるという点である。どのような特定の思考についても、それから独立のものを考えることできる。というのも、そうでなかれば認知的誤謬の可能性がないことになってしまうからである。しかし思考一般から独立のものを考えることはできない。なぜなら、あるものを「思考一般から独立」なものとして思考することは、やはりそれを思考することであるからである。ゆえに「絶対的に不可知なもの」の概念も思考可能であるが、そうするとこれは「A、非A」という形式の概念になってしまい、矛盾概念である。ここからパースは、「(最も広い意味における)認識可能性(cognizability)と存在(being)は、形而上学的に同じであるばかりでなく、同義的な用語である」という結論を引き出している[31]。したがってカントの物自体のような概念は斥けられなければならない。 さて、直観というのは直前の認識によって決定されないような認識であった。しかしある認識を説明できるのは、それに先行する認識を提示することによってである。ゆえに、直前の認識によって決定されないような認識は絶対的に説明不可能ということになる。しかし上で見たように、絶対的に不可知なものの概念は自己矛盾である。ゆえに直観の能力の存在を仮定することは、矛盾概念を含意する[32]。したがってそのような能力は存在しないと考えるべきである。 同じく1868年にJournal of Speculative Philosophyに掲載された「四能力の否定の諸帰結」[33]の冒頭においてパースは、自分が「人間に備わっているとされるいくつかの能力に関する疑問」において行ったデカルト主義批判を次の四点にまとめている[34]: 我々には内観の能力はなく、内的世界に関する我々の知識はすべて、外的事実に関する我々の知識からの仮説的推論に由来する。 我々には直観の能力はなく、すべての認識は先行する認識によって論理的に決定される。 我々は記号を用いずに思考することはできない。 我々は絶対的に不可知なものの概念を持つことはできない。 プラグマティシズム 編集中 推論の種類 編集中 記号論 編集中 形式論理学における発見 1880-1881年には、否定論理和のfunctional completeness(en:Functional completeness)を示した[35]。これはヘンリー・M・シェファー(en:Henry M. Sheffer)の研究の33年前である。 1885年の「論理代数について」で、パースは一階の量化と二階の量化を区別した[36]。またこの同じ論文において彼は初めての公理的集合論として読めるものを提示しているが、これはエルンスト・ツェルメロの研究の20年以上前である。 1890年代後半までには、述語論理の図表的記法である存在グラフを開発していた。 形而上学 パースの形而上学は1878年の「自然の秩序」[37]などにその萌芽がすでに見られるが、その輪郭がはっきりしてくるのは1884年の「デザインとチャンス」[38]および1887-1888年の「謎への挑戦」[39]においてである。パースの初めての体系的な形而上学の著作は、1891-1893年にかけて『モニスト』誌上に掲載された「モニスト形而上学シリーズ」(Monist Metaphysical Series)である。その内容は以下の通りである。 「理論の建築学」(The Architecture of Theories;1891)[40] 「必然性の教説再考」(The Doctrine of Necessity Examined;1892)[41] 「精神の法則」(The Law of Mind;1892)[42] 「人間のガラスのような本性」(Man's Glassy Essence;1892)[43] 「進化的愛」(Evolutionary Love;1893)[44] また1898年に行われたケンブリッジ連続講演「推論と事物の論理」(Reasoning and the Logic of Things)[45]も、パースの形而上学が体系的にまとまっているテクストである。以下、これらのテクストに沿ってパースの形而上学の主要な教説を概観する。 偶然主義 パースの偶然主義(tychism)については、「モニスト形而上学シリーズ」の第二論文「必然性の教説再考」が詳しい。そこで彼は「必然主義」(necessitarianism)の立場を次のように定義している[46]: [必然主義の命題は]ある時点において存在する物事の状態と、一定の不変な法則とを合わせれば、他のあらゆる時点における物事の状態が完全に決定される、という命題である(というのも未来の時点だけに限定するのは擁護不可能だから)。 偶然主義は必然主義の否定である。つまり自然法則の支配は絶対的ではなく、規則性からの何らかの逸脱が常に存在するという立場である。その論拠としてパースは以下の五点を挙げている[47]: 機械的必然性は、自然において観察される物事の成長や複雑性の増大を説明できない。 法則からの無限小の逸脱を仮定することによって、宇宙の多様性を説明できる。 必然主義者は、規則性が存在するという一般的な事実を説明できないが、偶然主義者は、規則性そのものを、純粋偶然に起源を持ち、徐々に進化してきたものとして説明できる。必然主義者は、自然法則が存在するという事実をそれ以上説明できない絶対的な所与として扱うが、これは探究の道を塞ぐ仮説である。 必然主義は意識を一種の幻想にしてしまう。 純粋偶然の仮説から演繹される帰結が、観察されている事実と合致する(この点に関する詳しい説明は「必然性の教説再考」にはない)。 連続主義 「連続主義」(synechism)は、パースがギリシア語のσυνεχής(シュネケース:「連続的」)から案出した造語である。彼自身の説明によれば、連続主義は何らかの絶対的な形而上学的教説というよりは、我々がいかなる仮説を編み出し、検討すべきかを規定する、論理学の規範原理である[48]。平たく言えば、連続主義はあらゆる物事に連続性を見出していこう、という考え方である。 ここで「連続性」という概念をどう理解するかが問題であるが、パース自身、生涯を通して数学における連続性概念について思索を深めていった経緯があり、一つの固定的な捉え方があるわけではない。ただ、1895年以降、彼の思考が成熟していくにつれて、一つの明確なモチーフが浮かび上がってくる[49]。それは、「真の連続体」(true continuum)は、いくら無限に要素があろうと、単なる集合に還元することはできない、という発想である[50]。ゲオルク・カントールは、1874年の論文[51]で連続体を実数全体の集合と同一視したが、パースはこれを「疑似連続体」(pseudo-continuum)と呼んで斥けている[52]。彼によれば、真の連続体は、集合の濃度によって決まるのではなく、要素同士の繋がり方によって決まる。そして真の連続体に特徴的な要素の繋がり方は、「直接的連結」(immediate connection)だと彼は言う[53]。二つの要素、AとBが、ある意味において同一であるとき、AとBは直接的連結の関係にあると定義する。しかし、この「ある意味において」が問題である。 ケンブリッジ連続講義の第三講義「関係項の論理学」に、この問題を解いてくれそうな例がある[54]。連続的な線に点を書いたとする。次にその点の箇所で線を切断し、左側の領域Lと右側の領域Rを作る。そうすると元の点は二つの点になる。一つはLの右端に、もう一つはRの左端にできる。ここで再度二つの端をくっつけると、二つの点はまた一つに戻る。 この思考実験が示しているのは、二つの要素、AとBは、同一でありながら潜在的に異なることが可能だということである。もし外部から不連続性が課されると、AとBの違いが顕わになるような順序性が存在していると言える。しかし不連続性が導入される以前は、AとBは異なるとは言えない。これがパースにとって、真の連続体の最も重要な特徴である。すなわち、それは個体的要素の集まりではなく、むしろ個体を書き込むことのできる存在者なのである。連続体の要素間で関係が成り立つのでは決してなく、連続体そのものが関係の構造だというわけである。個体性は、あくまで外部的な確定の結果生まれるのであって、切断前においてAとBが同一であるか異なるかという問いは厳密には意味を成さない。「他性(otherness)や同一性(identity)の適切な定義は個体の世界を前提とする。個体から構成されていないような世界、すなわちあらゆる部分が同種の部分から成るような世界においては、個体が認められる限りにおいてのみ他性や同一性は成り立つ」[55]。 以上、パースの数学的連続性の概念を見てきたが、この概念が、数学外の世界でいかなる意味を持つのかと疑問に思われるかもしれない。ここで重要なのは、パースが「一般概念」を真の連続体と同一視するということである。「関係項の論理学に照らせば、一般者(general)は正確に連続体であることが分かる。したがって、連続性の実在性を主張する教説は、スコラ哲学者たちが実念論(realism)と呼んだ教説と同じである」[56]。 真の連続体が、可能な要素の空間であるのと同様に、一般概念は、可能な具体的事例の空間を指定する。さて、連続体の一つの性質に、どの二つの要素を取っても、その間の要素が必ず存在する、という性質がある(これを「稠密性」と呼ぶ)。一般概念の場合も同様に、どの二つの具体的事例を取っても、その間の性質を持つような事例を考えることができる。例えば「猫」という概念の場合、「黒い猫」と「茶色の猫」の間の性質を持つ「黒茶色の猫」を考えることができる。重要なのは、どれだけ多くの個体を集めても、決して一般概念を尽くすことはできないという点である。真の連続体が点の集合に還元できないのと同様に、一般概念もその個々の体現事例に還元することはできないのである(実念論)。 もちろん、二つの具体的事例の中間の性質を持つような事例が、現実に存在するとは限らない[57]。例えば「猫」と「犬」は一見したところ、全くかけ離れている。しかし、それらが互いに完全に切り離された概念だと考えると、我々の知識はそこで止まってしまう。「猫」と「犬」との間には確かに不連続性があるが、その不連続性は絶対的ではなく、より高次の連続性に対して相対的であると考えるべきである。かくして、その二つの概念を包括する高次の類概念として「哺乳類」という概念が編み出され、我々の切り離された知識も統合される。これがすなわち連続主義の持つ規範性がある。つまり連続主義は、一見全く性質の異なる二つのものがあったとしても、それらが互いに切断されていると考えるのではなく、何らかの隠れた関係が存在するという前提で探究せよ、と命じる発見法的仮説である。 パースが挙げる例に睡眠と覚醒というのがある[58]。我々は普通、起きている状態と寝ている状態は全く異なる状態だと考えがちであるが、実際は、我々が寝ているときも、我々が思っているほど寝ているわけではなく、また我々が起きているときも、我々が思っているほど起きているわけではない、と彼は言う。「我」と「汝」の違いについても同様である。連続主義者は、「私は完全に私であり、あなたではない」と言ってはいけない[59]。また生と死も連続的であり、あくまで程度の差だと彼は述べている[60]。 これらの例からも分かるように、連続主義はあらゆるものの本質的同一性を説く考え方であるが、これは、先に述べた真の連続体の特徴とも関わっている。不連続性が課される以前は、個々の要素の同一性について云々することが不可能であったのと同様に、一般概念においても、個々の具体的事例は、現実化以前は全体の構造の中でいわば「融け合って」いるのである。また、科学的探究とは、個々の具体的な事物や出来事を理解可能にしていく過程であるが、何かを理解するとは、それを一般概念の特殊なケースにすることであるから、科学とは、個々の具体的事例を一般概念に包摂していくプロセスと捉えることができる。そして一般概念=連続体だとすれば、科学的探究とは、個々の具体的事例を連続体に包摂していくプロセスということになる。これがパースにとっての「最高善」(summum bonum)である[61]。宇宙進化の究極の目標は、あらゆるものが、一つの完全な連続体として結晶化することである。我々人間は、その宇宙進化の極小な一部を担っていると彼は考えていたわけである。 客観的観念論 連続主義の心身問題への応用として、精神と物質の連続性が帰結する。「精神の法則」においてパースは次のように述べている[62]。 私が提示した原理によって次のことが要請される。すなわち、これらの[色や音などの]感覚は連続的に神経に伝達されるから、それらに似た何かが刺激源自体にあるはずだと。 これがパースの「客観的観念論」(objective idealism)の立場である。客観的観念論によれば、「物質は退化した精神であり、物理法則は凝り固まった習慣である」[63]。観念の作用を司る法則が宇宙の最も根本的な法則であり、物理法則はあくまでその特殊な現れに過ぎない。 進化的宇宙論 編集中 実念論 編集中 特殊科学における発見 1886年にはブール演算が電子回路によって実現され得ることに気付いていた[64]。これはこんにちのコンピュータに代表されるディジタル回路と呼ばれる電子回路の応用そのものと言える発想であり、日本の中嶋章やクロード・シャノンによる成果の50年以上も前である。 著作 パースが生前出版した著書は、分光分析の手法を天文学に応用した『測光研究』(Photometric Researches;1878)と、ジョンズ・ホプキンズ大学の院生たちとの共著である『論理学研究』(Studies in Logic;1883)の二冊のみである。それ以外の彼の研究はすべて、学術雑誌に投稿された論文や書評、そして死後遺された手稿に分散している。現在、彼の代表的著作を集めた著作集はいくつかあるが、それらを本記事中の略号とともに以下に示す。なお、Writings of Charles S. Peirceは現在刊行中であり、予定されている全30巻のうち、7巻が出版されている(2015年3月現在)。詳しい文献リストについては、en:Charles Sanders Peirce bibliographyを参照。 著作集・略号 CP m. n=Collected Papers of Charles Sanders Peirce, vols. 1-6, eds. Charles Hartshorne and Paul Weiss (1931-1935);vols. 7 & 8, ed. Arthur W. Burks (1958). Cambridge:Harvard University Press. mは巻番号、nは段落番号。 NEM m, n=The New Elements of Mathematics, 4 vols. ed. Carolyn Eisele. Hague:Mouton, 1976. mは巻番号、nはページ番号。 EP m, n=The Essential Peirce:Selected Philosophical Writings, 2 vols. ed. Peirce Edition Project. Bloomington & Indianapolis:Indiana University Press, 1992-1998. mは巻番号、nはページ番号。 W m, n=Writings of Charles S. Peirce:A Chronological Edition, ed. Peirce Edition Project. Bloomington & Indianapolis:Indiana University Press, 1982-. mは巻番号、nはページ番号。 RLT n=Reasoning and the Logic of Things:The Cambridge Conferences Lectures of 1898, eds. Kenneth Laine Ketner & Hilary Putnam. Cambridge:Harvard University Press, 1992. 邦訳 Text "和書" ignored (help)CS1 maint: others (link) Text "和書" ignored (help)CS1 maint: others (link) Text "和書" ignored (help)CS1 maint: others (link) Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help)CS1 maint: others (link) 「現象学」「記号学」「形而上学」の三巻三部門による著作集である。 Text "和書" ignored (help)CS1 maint: others (link) Text "和書" ignored (help)CS1 maint: others (link) 参考文献 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) ^Text "和書" ignored (help) Brent, Joseph (1998), Charles Sanders Peirce:A Life. Revised and enlarged edition, Indiana University Press, Bloomington, IN. Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help)CS1 maint: others (link) Moore, E., and Robin, R.S., eds., (1964), Studies in the Philosophy of C.S. Peirce, Second Series, University of Massachusetts Press, Amherst, MA, 1964. 1964年より前の二次文献の目録がpp. 486-514.に収録されている。 Taylor, Barry N., ed. (2001), . Washington DC:Superintendent of Documents. 脚注 関連項目 アブダクション 伊藤邦武 可謬主義 記号論 疑念 信念 存在グラフ ジュリエット・パース タイプとトークンの区別 探究 チャールズ・サンダース・パースによる記号の要素とクラス ハーバート・ヘンリー・デイヴィス・パース プラグマティシズム プラグマティズム プラグマティズムの格率 ベンジャミン・パース 米盛裕二 パース・クインカンシャル図法 外部リンク entry in the Stanford Encyclopedia of Philosophy (in English) - 本文の一部閲覧可能 - 本文の一部閲覧可能 事典 (in English) (in English) データベース - (in English) (in English) 学術団体 (in English) (in English) (in English) (in English) - フィンランドのパース研究センター on Twitter(in English)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9
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ドナルド・ハーバート・デイヴィッドソンはいつ生まれた?
ドナルド・デイヴィッドソン
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ドナルド・ハーバート・デイヴィッドソン(Donald Herbert Davidson、1917年3月6日 - 2003年8月30日)は、アメリカ合衆国の哲学者である。1981年から2003年にかけてカリフォルニア大学バークレー校で哲学の教授(Slusser Professor)を務めた。またスタンフォード大学、ロックフェラー大学、プリンストン大学やシカゴ大学でも教鞭を執った。日本語訳においては、「ドナルド・デイヴィドソン」と、促音を含めずに表記される場合も多い。 彼の仕事は、1960年代以降、哲学のほとんど全ての領域でかなりの影響力を持ったが、特に心の哲学と言語哲学において顕著だった。彼の仕事の多くは、大きな理論に明確に言及しない小論文の形で発表されるが、しかし強く統一されている(同じ方法と考えが、一見無関係な多くの問題に適用される)ことで知られており、また、たくさんの哲学者たち―イマヌエル・カント、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、フランク・ラムゼイ、W.V.O.クワインやエリザベス・アンスコムらが含まれる―の仕事を総合していることでも有名である。 生涯 デイヴィッドソンは、1917年3月6日マサチューセッツ州スプリングフィールドで、クラレンス(デイヴィ)・ハーバート・デイヴィッドソンとグレイス・コーデリア・アンソニーの間に生まれた。彼の家族はデイヴィッドソンが生まれてすぐ後にフィリピンへ移り、デイヴィッドソンが4歳になるまでそこで暮らした。その後、アマーストとフィラデルフィアでの生活の後、デイヴィッドソンが9歳か10歳の時、家族はスタテンアイランドに落ち着く。この時から、デイヴィッドソンは公立校に通うようになり、最初の学年をかなり年下の同級生たちと共にすごした。それから4年生になると、デイヴィッドソンはスタテンアイランド・アカデミーに顔を出すようになった。高校では、彼はプラトンのパルメニデスやカントの純粋理性批判、それにニーチェの著作を読もうとした。 ハーバード大学に進んだデイヴィッドソンは、英文学・比較文学(シェイクスピアや聖書をセオドア・スペンサーに、ジョイスをハリー・レビンに学んだ)から古典文学と哲学に専攻を変えた。 デイヴィッドソンは、すばらしいピアニストであり、いつも音楽に深い関心を寄せていた。後にスタンフォード大学では「音楽の哲学」を教えるほどだった。ハーバードでは、デイヴィッドソンは後に著名な指揮者で作曲家であるレナード・バーンスタインと同級であり、バーンスタインとデイヴィッドソンは連弾でピアノを弾く仲だった。バーンスタインは、デイヴィッドソンが上演したアリストパネスのギリシア喜劇「鳥」のために作曲してくれた。このときの曲のいくつかは、後にバーンスタインのバレエ「ファンシー・フリー」(1944年) に使われることになる。 卒業後、デイヴィッドソンはカルフォルニアへ行き、そこでエドワード・G・ロビンソンが出演した探偵もののラジオドラマ「ビッグ・タウン」の台本を書いた。彼はスカラーシップを受けてハーバードに戻り、古典哲学を研究し、哲学を教えるかたわらハーバード・ビジネス・スクールの集中的なトレーニングを経験した。ハーバード・ビジネス・スクールを卒業する機会を得る前に、デイヴィッドソンはかつて志願したことのあるアメリカ海軍に招集された。デイヴィッドソンは敵機の見分け方についてパイロットを訓練し、シシリー島、サレルノ湾、エンツィオの侵攻作戦に参加した。海軍で3年半を過ごした後、デイヴィッドソンは小説を書こうとしたが失敗した。その後、哲学研究に戻り、1949年には博士号を取った。彼の博士論文は、彼自身は退屈なものと考えたが、プラトンの「ピレポス」についてのものだった。 クワインの影響の下で、デイヴィッドソンは次第に、分析哲学の特徴である、より厳密な方法とより明確化された問題に向かうようになっていった。デイヴィッドソンはクワインという指導者に対しての信頼をしばしば表明している。 1950年代に、デイヴィッドソンはパトリック・サップスとともに決定理論に対する経験的アプローチを発展させる研究を行った。二人の結論は、他の者から独立した個人の信念や選好を他から切り離すことはできないというもので、つまり人がしたかったものややろうとしたことや価値付けるものという点で個人の行動を分析する方法が常に複数存在するということである。この結論は、クワインの翻訳の不確定性のテーゼとも一致する。そしてデイヴィッドソンが心の哲学について行うその後の研究に重要な意味を持つものである。 彼の最も有名な仕事(下記を参照)は、1960年代以来、行為の哲学から心の哲学や言語哲学、それに時には気まぐれに美学や哲学的心理学、哲学史にいたるまで、そうした分野を連続的に移動しながら続けざまに発表される一連の諸論文の形で出版された。 デイヴィッドソンは方々を旅し、広範な範囲に関心を抱き、それらを追求するエネルギーも持ち合わせていた。ピアノを弾く以外にも、彼は飛行士のライセンスをもち、ラジオを組み立て、登山やサーフィンを好んだ。彼は3度結婚した(最後は哲学者であるマーシャ・キャベルと結婚した)。トマス・ネーゲルは、手短に彼を賞賛して「強烈にエロティックだ」と言っている。 アメリカ哲学協会の東部地区、西部地区双方の会長を務め、クイーンズカレッジ(現在のCUNYの一部)、スタンフォード、プリンストン、ロックフェラー、ハーバード, オックスフォード、および シカゴ大学で様々な専門職を歴任した。1981年から没するまでカリフォルニア大学バークレー校で哲学のウィリス S.&マリオン・スラッサー冠教授を務めた。1995年にジャン・ニコ賞を受賞した。 業績 行為、理由、原因 デイヴィドソンのもっとも有名な論文は、1963年に書かれた「行為、理由、原因」である。当時の学界では、ウィトゲンシュタインに由来する「行為者が行為する理由は、その行為の原因ではない」 という考え(行為の反因果説)が広く受け入れられていた。デイヴィドソンはこれに対し、行為の理由を与えること(合理化)は、因果的説明の一種であると反論した(行為の因果説)。デイヴィドソンによれば、ある行為の「主たる理由」とは、その行為に関する広い意味での欲求(賛成的態度)と関連する信念である。「雨の日に傘を持って外へ出かける」というある人の行為の「主たる理由」は、例えば、その人が濡れずにいたいと考えること(賛成的態度)、そして傘を持っていけば今日雨で濡れることはないだろうと考えること(信念)である。 常識的な素朴心理学と広く一致しているこの見解は、「因果の法則は厳密で決定論的だが、理由による説明はそうである必要はない」という主張を基盤としている。デイヴィドソンの議論によれば、理由の表明がそこまで厳密でないという事実があるからといって、理由を持つ事は行動に因果的に影響する状態ではない、ということにはならないのである。この論文以降もデイヴィドソンは行為論の分野で重要な見解を表明している。 心的出来事 デイヴィッドソンは論文「心的出来事」(1970年)で、心的出来事のトークンは物理的出来事のトークンと同一であると主張した(トークン同一説)。しかし、例えば空が青いと思ったりハンバーガーを欲したりする心的状態と、脳におけるニューロンの活動パターンといった物理的状態とのあいだに、法則性を見出すというのはちょっとありそうにない。従ってこの種の説はおかしいように一見思われる。しかしデイヴィドソンによれば、この種の法則的な還元は「トークン」同一説には必要ない。確かに、心的出来事の「タイプ」を物理的出来事の「タイプ」に対応させる法則は存在しないかもしれない。しかし個々の心的出来事の「トークン」がそれと対応する物理的出来事の「トークン」と同一であることは可能だからだ(タイプとトークンについては、タイプとトークンの区別、心の哲学参照)。つまり、デイヴィドソンの見解では、存在するのは「出来事」のみであり、その出来事が「物理的に」記述されたり(物理的出来事)、「心的に」記述されたり(心的出来事)するだけなのである。従って、ある一つの出来事トークンが同時に「物理的出来事」でもあり「心的出来事」であることも可能なのである。ここでデイヴィドソンは「非法則的一元論」を提唱する。「一元論」 というのは、心的出来事と物理的出来事は同一の出来事であると主張するからであり、「非法則的」というのは心的出来事と物理的出来事の「タイプ」は、厳密な法則によって結合しているのではないと主張するからである。 デイヴィドソンによると、非法則的一元論は次の3つテーゼからの帰結である。 1.エピフェノメナリズムの否定――「心的出来事は物理的出来事を引き起こさない」とする見解の否定。 2.因果の法則性――ある出来事のトークンが別の出来事トークンを引き起こす際には、それらの出来事トークンを支配する厳密な法則がある。 3.心の非法則性――心的出来事の「タイプ」と物理的出来事の「タイプ」の間を支配する厳密な法則は存在しない。 この三つの前提から、心的なものと物的なものの因果関係は出来事のトークンの間に存在するだけであり、心的出来事はタイプとしてみれば非法則的である、という見解が帰結する。従って非法則的一元論は心の領域の自立性を尊重してはいるが、基本的なところでは「トークン物理主義」であり、心的なものと物的なものとの間のスーパーヴィーニエンス関係を確保している。 真理と意味 1967年の論文「真理と意味」も重要な論文である。習得可能な言語は、それが理論上無限個の表現をもっている場合でも、有限の形式内で定式化することが出来なければならない。というのも、もしそれが有限の形式内で定式化できないとすると、人間が言語を学ぶ時のような有限の経験的な方法によっては習得できなくなってしまうからだ。従って、有限の公理体系によって無限の文に意味を与えることが出来るような理論的な意味論を、全ての自然言語に対して与えることが出来なくてはならない。更にデイヴィドソンは、特にカルナップの議論に従い、「文に意味を与える」とは、その文の真理値を述べることに等しいと主張する。こうした主張によって、フレーゲに由来する 真理条件意味論が新たに活気づくことになった。デイヴィドソンの提案によれば、意味の理論は対象となる言語が持つ個々の有限の文法的特徴を区別できなくてはならず、そして、その特徴の各々についてその働きを説明できなくてはならない。この説明は、その特徴を用いている全ての(無限に多い)文の真理条件について、トリヴィアルな(明らかに正しい)言明を生み出してやるという方法で行われる。つまり、意味の理論が、対象となる言語に適用された場合に、その言語の全ての文に対して、「「p」が真なのはpであるときでありそのときに限る」(例:「「雪が白い」が真なのは雪が白いときでありそのときに限る」)という形式の文(T-文)を生み出せるなら、この意味論が正しいという証拠になる。(デイヴィドソンはこのアイデアをアルフレッド・タルスキから学んだ。) 多くの哲学者が、自然言語に対するデイヴィドソン流の意味の理論を発展させようというプロジェクトに着手し、またデイヴィドソン自身も、引用や間接話法、行為の記述に関する論文を通してこれに貢献した。 知識と信念 1970年以降、デイヴィドソンの心の哲学は、 ソール・クリプキ、 ヒラリー・パトナム、 キース・ドネランらの影響を受けている。これらの哲学者は、心的内についての「記述主義者的」理論というべきものに対して数々の反例を上げてきた哲学者たちである。「記述主義者的」理論とは、バートランド・ラッセルの記述の理論(更に、もしかすると ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの 論理哲学論考) に由来するもので、名前がどの人や対象を指示するか(名前の指示対象)は、発話者がその人や対象について抱いている信念によって決定されると考える見解のことである。例えば、今私が「アリストテレスはリュケイオンを開いた」と信じ、「アリストテレスはアレクサンダー大王の先生だった」と信じているとしよう。これらの私の信念達は、誰に「ついての」ものだろうか。明らかにアリストテレスである。しかし、どうしてそうなるだろうのか。ここでラッセルなら、「私の信念達は、それらの内最大限多くのものを真にするようなものについての信念である」と言うだろう。つまり、もしアレクサンダーの先生が二人いたとして、しかしそのうちリュケイオンを開いたのは片方だけであるとするなら、私の信念達はこのリュケイオンを開いたほうの人物についての信念なのである。一方クリプキらは、こうした説はとても擁護できないと議論している。そして、ある人物の持つ信念が実際のところ誰/何についてのものなのかと言う問題は、大部分(あるいは完全に)、その人がどのようにしてその信念や、名前(例:「アリストテレス」)を獲得したかの問題なのであって、名前のもともとの指示対象から、現在その名前を使う発話者までの「因果的」な繋がりがどうなっているかの問題なのである(指示の因果説)、と主張した。 デイヴィドソンもこうした説を取り上げ、80年代の論文では一人称の信念が二人称・三人称の信念とどう関係しているのかと言う問題を取り扱っている。一人称的な信念(私の「お腹がすいた」と言う信念)は、三人称的な信念(誰かが私について抱いている「彼はお腹がすいている」と言う信念)とはまったく異なってやり方で獲得されるように思われる。これらの信念が同じ内容を持っているというのはどうすれば可能なのか。 デイヴィドソンはこの問題にアプローチするに当たって、もう一つ別の問題をここに結び付けた。「二人の人物が同じ外的対象についての信念を持っているというのはどうすれば可能なのか」。その答えとして、デイヴィドソンは三角測量というイメージを提出している。自分自身についての信念、他の人についての信念、そして世界についての信念は、3つ一緒になってはじめて存在するようになると考えるのである。 歴史上の多くの哲学者は、この三種の信念と知識のうち二つを残りの一つに還元する傾向があったといっていいだろう。例えば、 デカルト と ヒュームは、われわれの唯一の出発点は自己知であると考えた。何人かの論理実証主義者(そして、ウィトゲンシュタインや ウィルフリッド・セラーズ)は、われわれは外界についての信念から出発する他ないと考えた。(そしておそらく、フリードリヒ・シェリング と エマニュエル・レヴィナスは、われわれは他者についての信念から出発する他ないと考えた)。しかしデイヴィドソンの見解では、この三種の心的内容のうち一つだけを持つというのは不可能である。どれか一種について信念を持つものは、他の二種についての信念も必ず持っているはずだとデイヴィドソンは議論している。 根元的解釈(ラジカル・インタープリテーション) デイヴィッドソンの仕事を特徴づけるのは、種々の哲学問題を統一的に扱ったのとおなじ「統合」という態度である。デイヴィッドソンは、言語、心、行動、知識を考える際の基礎となる仮説的立脚点は、「根源的解釈(ラジカル・インタープリテーション)」だと考えた。根源的解釈(ラジカル・インタープリテーション)とは、たとえば、理解不能の言語を話す社会に置かれた人間を想定して、そこでどのようにその言語は理解されるのだろうかというようなことを含む。 ひとつ考えられるのは、メタ言語内であてはまるひとつの理論を人間は知っているのではないかということ。つまりその理論をあてはめると、その言語の文「s」は、どんなときでも文「p」である、または文「p」と翻訳されるという定理が導き出されるというわけである。しかしデイヴィッドソンは、ある文を「〜という意味だ」を使って解釈すると、文の意味の広がりばかりでなく、文の意図も反映してしまうという理由でその考えを退ける。つまり、文の意味だけを反映させるためには、「〜という意味だ」は使わずに連結することで、「真という価値」を持つことになるわけである。これを「真機能連結」という。デイヴィッドソンは、意味理論に必要な連結は「必要十分条件」であるとする。これは文「s」と文「p」の意味上の等価性を目指すという点で明確な選択である。しかし、ここでひとつ問題がある。それは「pがsの必要充分条件である」場合、連結する二つの命題のうち「s」が命題の名前であって命題そのものではないときには、文法上正しくないことになってしまうことだ。命題を示してみせるには述語と一緒に提出しなければならない。「sであり、かつsによってのみ命名され、または翻訳される」を満たす述語とはどういうものだろうか。言い換えると、「バナナは黄色い」であり、かつ「バナナは黄色い」以外のものではないというときに、「バナナは黄色い」によって満たされるのはどんな熟語だろうか。答えは「真である」である。こうして、デイヴィッドソンは、次のような結論に至った。つまり、意味理論は、対象言語におけるそれぞれの文に対して「sはpの必要十分条件であるという定理を形作る」ものでなければならない。言語における「真理論」は、「意味理論」として役にたつのである。 こう結論したことで、デイヴィッドソンはアルフレッド・タルスキの意味理論に迫ることが可能になった。タルスキは、人工言語に真を構成する理論を与えるにはどうしたらいいかを示した。そこで、デイヴィッドソンは、根源的解釈(ラジカル・インタープリテーション)の中心となる三つの問いを発する。第1に、真理論は自然言語に当てはめることができるだろうか。第2に、根源的解釈者(ラジカル・インタープリタ)が使えるもっともらしい証拠が得られたとして、解釈しようとする言語に対して真理論を構築し、検証することができるか。第3に、真理論を持つことが根源的解釈者(ラジカル・インタープリタ)が言語を理解することに十分役立つだろうか。デイヴィッドソンは、タルスキを援用して、最初の問いには肯定的な答えが得られるとした。 根源的解釈者(ラジカル・インタープリタ)が使用できるもっともらしい証拠とは何だろうか。デイヴィッドソンは信念と意味は分ちがたいと指摘する。人は、信念と、その人がその文で何を意味しようとするかを元にその文が真であるとするのである。もし、解釈者がその人がその文が真であるとするとき何を信じているのかを知っていれば、文の意味はそこから推察されるし、逆に、もし解釈者がその人がその文は真であるとするときその文で何を意味したいかを知っていれば、その人の信念は何かを推察することができるのである。そこで、デイヴィッドソンは、解釈者が信念にアクセスして証拠とすることがないようにする。解釈者はそこから推論し始めるからである。その代わり、デイヴィッドソンは、話者がその文は真だと言うなら、解釈者は普通にそう信じていいものとする。つまり特定の信念や意味について何も知らなくてもいいのである。ということは、解釈者は、話者とその話者があるときのある物事の状態についての発話に関して仮説を構築してもいいことになる。デイヴィッドソンは、ドイツ語話者が雨のときに言う“Es regnet”を例として挙げる。 デイヴィッドソンは、別個のケースでさえ、話者は客観的な状態について誤解されることがあるかもしれないと言う(たとえば、ドイツ語話者は、雨が降っていないときでも "Es regnet" と言う)が、そのことが文意全体をぶちこわしてしまうことはない。なぜかというと、話者の信念がほとんど正しく、整合性が取れているからである。もしそうでなければ、われわれは話者を話者であると認識しないだろう。これがデイヴィッドソンの「プリンシプル・オブ・チャリティー」であり、これゆえに解釈者は集めた証拠でその言語の真理論の検証ができるのである。 一見すると、真理論は言語の解釈には不十分であるようにも見える。結局のところ、もし真条件がすべてならば、「もし雪が白く草が緑であり、かつそうでしかないならば "Schnee ist weiss" は真である」のような変則的な文を、どうやって偽であると証明することができるだろうか。デイヴィッドソンは、言語は部品の組み合わせであり、同時に全体的であると言う。文は単語の意味を元にしている、しかし、単語の意味はその単語が現れる文の全体性を拠り所としている。この全体的な制約が、真理論が法のようでなければならないということと共に、不確定性を最小にしてコミュニケーションがうまくいく条件を満たす。 まとめると、根源的解釈(ラジカル・インタープリテーション)があきらかにするものは、コミュニケーションがおこるために何が必要かつ十分であるかということである。そのための条件は、1)話者が話者であると認めるために、話者の信念がほとんど整合的であり、また正しいこと、2)意味の不確定性は、コミュニケーションの根底を崩すものではないが、必要な分だけの制約がなければならないことである。 I conclude that there is no such thing as a language, not if a language is anything like what many philosophers and linguists have supposed. There is therefore no such thing to be learned, mastered, or born with. We must give up the idea of a clearly defined shared structure which language-users acquire and then apply to cases. And we should try again to say how convention in any important sense is involved in language; or, as I think, we should give up the attempt to illuminate how we communicate by appeal to conventions.—"A Nice Derangement of Epitaphs," Truth and Interpretation, 446 著作 Decision-Making: An Experimental Approach, co-authored with Patrick Suppes and Sidney Siegel. Stanford: Stanford University Press. 1957. "Actions, Reasons, and Causes," Journal of Philosophy, 60, 1963. (Reprinted in Davidson, 2001a.) 河島一郎訳「行為・理由・原因」、門脇俊介、野矢茂樹編・監修『自由と行為の哲学』春秋社、2010年、収録。 "Truth and Meaning," Synthese, 17, 1967. (Reprinted in Davidson, 2001b.) "Mental Events," in Experience and Theory, Foster and Swanson (eds.). London: Duckworth. 1970. (Reprinted in Davidson, 2001a). 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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%BD%E3%83%B3
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潜水艦シールが初めて参加した戦闘は何
フォークランド紛争
japanese
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フォークランド紛争(フォークランドふんそう、)は、大西洋のイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)[1]の領有を巡り、1982年3月からイギリスとアルゼンチン間で3ヶ月に及んだ紛争のこと。スペイン語やポルトガル語では「マルビナス戦争()」と表記されることが多い。 日本語では「フォークランド紛争」と表記されることが多い[2]。英語圏では「Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.(フォークランド戦争)」とも呼ばれる[3]。ただし、イギリス陸軍の公式ウェブサイトでは「Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.(フォークランドの争い)」の語を用いている[4]。 概要 1982年3月19日、アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島のイギリス領サウス・ジョージア島に2度に渡って寄航、イギリスに無断で民間人を上陸させた(サウスジョージア侵攻)。イギリスはサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すと伴に、3月28日には、アメリカ合衆国連邦政府へ支援を要請、アメリカ軍はアメリカ海軍の原子力潜水艦派遣を決定した。 4月2日にはアルゼンチン正規陸軍が同島に侵攻してきた。4月25日には、サウス・ジョージア島にイギリス軍が逆上陸、即日奪還した。アルゼンチン軍は航空攻撃でイギリス艦船を撃沈するなど、当初は優位に戦いを進めたものの、イギリス軍は経験豊富な陸軍特殊部隊による陸戦や長距離爆撃機による空爆、また同盟国アメリカ合衆国やEC及びNATO諸国の支援を受けて情報戦を有利に進め、アルゼンチンの戦力を徐々に削いだ。6月7日には、フォークランド諸島にイギリス軍地上部隊が上陸、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏し戦闘は終結した。 フォークランド紛争は西側諸国の近代化された軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。両軍で使用された兵器のほとんどは、その時点まで実戦を経験していなかったものの、同紛争で定量的な評価を受けた。また、アルゼンチンはイギリスから一部の兵器を輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴もあった。 両国の国交が再開され、戦争状態が正式に終結したのは、1990年2月5日だった。しかし、国交再開交渉でもフォークランド諸島の領有権問題は棚上げされ、現在もアルゼンチンは領有権を主張している。 歴史的経緯 島の発見 最初に島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれるが、ヨーロッパ人による発見は1520年のポルトガルのマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとされる。1592年にイギリスの探検家ジョン・デイヴィス が島を記録しており、これがイギリスの領有権の根拠である[5]。1690年にはイギリスの船長ジョン・ストロンが英国海軍のアンソニー・フォークランド子爵にちなんで<b data-parsoid='{"dsr":[3156,3171,3,3]}'>フォークランド諸島</b>と命名した。 フランスからボルボン朝スペインへの売却 その後、18世紀になるとフランスとイギリスは七年戦争などで対立し、植民地獲得競争を行った。フランスは1764年に東フォークランドの港に入植し<b data-parsoid='{"dsr":[3297,3309,3,3]}'>サン・ルイ港</b>と名づけた(現・バークレー湾)。他方イギリスは翌1765年にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにあるソーンダース島の港に<b data-parsoid='{"dsr":[3379,3391,3,3]}'>エグモント港</b>と名づけた。 1767年、フランスはボルボン朝スペインにフォークランド諸島を売却し、サン・ルイ港は<b data-parsoid='{"dsr":[3449,3461,3,3]}'>ソレダード港</b>と改名された。1770年にはスペイン・ブルボン朝海軍はブエノスアイレスからエグモント港に侵攻し、現地イギリス軍は降伏した。当時、アメリカ独立戦争に備えていた本国イギリスは全面戦争を避け、1774年には西フォークランド島の居住を認められる代償として、スペインの領有権を認めエグモントのイギリス軍は1776年に解散した。 同1776年にはペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設され、ブエノスアイレスはその首府となった。1806年と1807年にイギリス軍はブエノスアイレスに侵攻するが、副王領軍は撃退する[6]。 1810年にブエノスアイレスは自治を求め五月革命を起こし、内戦(アルゼンチン独立戦争)がはじまる。翌年の1811年には南米での内戦とイギリスの圧力を受け、スペイン系住民はフォークランド諸島から撤退した。スペイン撤退後は英米の軍艦や捕鯨船が避難港として利用した。 アルゼンチンによる領有宣言 1820年にリオ・デ・ラ・プラタ連合州のフリゲートがソレダード港の領有を宣言し、英米のアシカ漁船に警告するが無視される。 1823年にはラ・プラタ連合州がホルヘ・パチェコとルイス・ベルネトに漁業権を与え、さらに1828年に植民地の樹立を条件に東フォークランドとその資源がベルネトへ与えられた。恐怖政治を敷いたブエノスアイレス州知事フアン・マヌエル・デ・ロサスは1829年に島の知事にベルネトを任命し、アザラシの狩猟権も与えた。駐ブエノスアイレス英国領事は抗議した。 アメリカ・アルゼンチン紛争 さらにロサス知事は同1829年、諸島周辺で操業していた捕鯨業者に、船籍を問わず課税することを決定し、支払いを拒否したアメリカ船三隻を拿捕した。これに対してアメリカ領事は「島の主権はイギリスにある」と訴えて、アメリカのアンドリュー・ジャクソン大統領はスループ型軍艦レキシントン号で海兵隊をフォークランド諸島に派遣し、ソレダート港に侵攻し、諸島の中立を宣言した。ロサス知事は米国領事を追放するが、ジャクソン合衆国大統領は深入りせず、報復はしなかった。 イギリスの再領有とアルゼンチンの従属化 1833年1月3日、イギリスはブリッグ・スループ艦クレイオー号をフォークランド諸島に派遣し、無血占領に成功した[7]。アルゼンチンは抗議したが、当時、ラプラタ川通行権をめぐり英仏と対立し、またウルグアイ情勢のため諸島奪還は出来なかった。 大戦争とアルゼンチンの近代化 当時、1828年のアルゼンチン・ブラジル戦争で英仏調停によりウルグアイ東方国が成立したが、ウルグアイではコロラド党とブランコ党(白党)とが対立。さらにウルグアイ再併合を求めるブラジル帝国と英仏がコロラド党を支援、他方ロサスらアルゼンチン連合は白党を支援して1839年に大戦争 (Guerra Grande) が勃発する。大戦争中の1843年に英国は島にスタンリー港を開設し、1845年に行政府所在地となる。1845年に英仏海軍はブエノスアイレス港を封鎖するが、ジュゼッペ・ガリバルディらのゲリラ軍に抵抗され英仏軍は撤退した。しかし、1851年に腹心ウルキーサによる離反でロサスは失脚しイギリスへ亡命した。その後ウルキーサ、続くミトレら自由主義政権は近代化政策のためイギリスから借款を得るなど友好関係を築いたため、フォークランド諸島領有権も発生しなかった。以降、イギリスによる実効支配が続き、1860年代には、スコットランド人入植者により牧畜のための羊と牛が島に持ち込まれ、やがて羊毛産業が主産業になる。 1880年代から20世紀にかけてイギリス資本がさらにアルゼンチンに流入し、アルゼンチンは大英帝国の非公式帝国として経済的な従属国となるが繁栄し、ブエノスアイレスは大都市になる。 イギリス軍補給基地として 蒸気艦船がイギリス海軍に普及すると、スタンリー港は重要な給炭港となった。第一次世界大戦ではドイツ帝国海軍がフォークランド諸島の襲撃を試みた(フォークランド沖海戦)。アルゼンチンは第一次世界大戦の際は中立国であった。また第二次世界大戦時にはナチス・ドイツの装甲艦[8]が南大西洋に進出し、イギリス海軍は巡洋艦[9]をフォークランド諸島からラ・プラタ川河口へ急行させた(ラ・プラタ沖海戦)。フォークランド諸島は2度の大戦を通じて英軍の補給基地としての戦略的な重要性が確認された。 第二次世界大戦にイギリスは戦勝国であったが、アメリカにヘゲモニーを奪われ、さらに戦後あいついだイギリス植民地の独立によって、イギリスはほとんどの植民地や海外領土を失い、イギリス連邦がその役割を引き継いだものの、かつて7つの海を支配し「太陽の沈まぬ国」といわれた大英帝国の威信は衰えた。 フォークランド諸島は大戦後に手放さずに済んだ海外領土の一つで、さらに冷戦下において南大西洋における戦略的拠点として重要な位置を占めた。パナマ運河閉鎖に備えてホーン岬周りの航路を維持するのに補給基地として必要であった上、南極における資源開発の可能性が指摘され始めてから前哨基地としての価値もあった。 開戦までの経緯 アルゼンチンの情勢 1929年の世界恐慌以降、1930年代にはアルゼンチンでナショナリズムが台頭しロサスが再評価されると共に諸島(マルビナス諸島)奪還はアルゼンチン国粋主義者の悲願となっていった。第二次世界大戦後の1946年、左翼民族主義者のフアン・ペロンがアルゼンチン大統領に就任。ペロンは反対派を強制収容所に収容するなど左翼ファシストと呼ばれたが、ポプリスモ政策によって一時的に経済は安定した。 しかしモノカルチャー政策であったため、アメリカやカナダ農業の生産性向上により、1949年には競争力を失った。国民から人気のあった妻が死亡し、またカトリック教会との関係も悪化し、1955年に軍のクーデターでペロンは追放された。その後ペロン派の都市ゲリラと軍部の間で内乱が続いた。 1976年に誕生したホルヘ・ラファエル・ビデラ率いる軍事政権は、反共産主義であることから、「ロッジP2」などの反共産主義組織からの支援と、アメリカ政府からの黙認を受けてペロン派や左翼を弾圧し(汚い戦争)、「行方不明者」のなかにはゲリラと関係のない市民もいた。ビデラ政権は治安回復には一定の成果をみせたが、外資導入による経済政策で失敗し、ハイパーインフレーションに陥り失脚した。 1981年12月に軍事政権を引き継いでアルゼンチン陸軍司令官のレオポルド・ガルチェリ大統領が就任した。ビデラ軍事政権は任期中フォークランド諸島に対する軍事行動に言及していたものの、実際に行動を起こすまでには至らなかった。だが、ガルチェリ大統領の発言に元気づけられたアルゼンチンの活動家が、島内に上陸して主権を宣言するなどの事件が起きていた。 イギリスの情勢 1960年代から1970年代にかけてイギリスが社会保障制度を充実させ基幹産業を国有化するなどの「イギリス社会主義」の政策を行った結果深刻な財政難に悩まされる英国病にかかると、イギリスの維持能力を超えていた諸島にアルゼンチンが行政医療サービスを行うようになり、それにともない、イギリスに対してフォークランド諸島の返還を求めるようになった。当時フォークランド諸島はイギリス本国への羊毛の輸出のみで成り立っており、不況に苦しむ本国以上の過酷な状況で、本土との定期航空便もなく、アルゼンチンからの行政医療サービスで維持されていたような状態だった。 交渉 保守党のヒース政権は1961年にフォークランド諸島と南米各国との空路と海路を開く通信交通協定の締結に成功したが、アルゼンチン側が主権問題を取り上げたためそれ以上の進展はなかった[10]。当時、ヒドリー国務大臣は「引き続いてイギリスが統治するものの主権はアルゼンチンに移譲する」というリースバック案を出したが、イギリス人入植者が多数を占める諸島住民が反対し下院で不採用となった。 これまでイギリスも条件付で諸島返還を認めるとしてきたが、1979年に就任したマーガレット・サッチャー首相は国際連合憲章第1条第2項人民の自決の原則にもとづき、フォークランド諸島住民の帰属選択を絶対条件にしていた[11]。他方、アルゼンチン軍事政権は無条件返還を求めたため交渉は平行線をたどった[12]。 両国の衝突 1982年民間義勇軍を組織してフォークランド諸島を奪還しようという動きにまで発展した。 アルゼンチン政府は沈静化を図ったものの、1982年3月19日になるとアルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島の東にある英領サウス・ジョージア島に2度にわたって寄航、イギリスに無断で民間人を上陸させた(サウスジョージア侵攻)。当初はガルチェリの思惑通り、大統領官邸前が大統領の決定を支持する国民で埋め尽くされた。 イギリスのサッチャー首相はサウス・ジョージア島からのアルゼンチン民間人の強制退去命令を出すと伴に、1982年3月28日にアメリカのヘイグ国務長官に圧力をかけるよう依頼、さらにフォークランド諸島へ原子力潜水艦の派遣を決定した。3月31日、アルゼンチンが正規軍を動かし始めたとの報を受け、イギリスのサッチャー首相は、4月1日アメリカのレーガン大統領に事態収拾の仲介を要請、閣議を招集し機動部隊の編成を命じた。翌4月2日にはアルゼンチン陸軍約4000名がフォークランド諸島に上陸、同島を制圧し、武力紛争化した。同4月2日中に英下院は機動部隊派遣を承諾、4月5日に航空母艦2隻を中核とする英海軍第一陣が出撃した。 到着までの間、アメリカやイギリスのフランシス・ピム外相のシャトル外交により、事態の打開が模索されたものの、イギリス側が諸島統治は島民の意思を尊重する立場であったのに対し、アルゼンチン側の言い分は、同諸島での現地統治および参政権をアルゼンチン島民にも与えるとした[13]。また、排他海域の設定やイギリス軍の進軍停止・撤退なども協定案としてやり取りがあったものの、イギリスの軍事力がフォークランドへ及ばないよう定める文言が、4月24日のアルゼンチン案に含まれていたことから、イギリス側はアルゼンチンの撤退が絶望的と考え、さらに外交交渉が時間稼ぎのために使われていることを懸念した[14]。 4月25日には、フォークランド諸島に続いて占領されていたサウス・ジョージア島に、イギリス軍の特殊部隊が逆上陸、同島におけるアルゼンチン陸軍の軍備が手薄だったこともあり、即日奪還した。その後も国際連合で和平案の議論が行われたが、態度を硬化させたアルゼンチンに、サッチャー首相は「我々は武力解決の道を選択する」と決断した。 戦闘経過 アルゼンチン軍の侵攻 サウスジョージア島上陸 1982年3月19日、フォークランド諸島沖合東約1000km東に位置するサウス・ジョージア島にアルゼンチン海軍の輸送艦バイア・ブエン・スセソが突如来航。20年以上前から放棄されていた捕鯨工場の解体と称してアルゼンチンのクズ鉄業者を名乗る60名近いアルゼンチン人を入国手続きを一切無視して上陸させた。上陸したアルゼンチン人たちはアルゼンチン国旗の掲揚や国歌斉唱を行うなど同島に居座るような行動を取る。イギリス政府はアルゼンチン政府に厳重に抗議するとともに氷海巡視船エンデュアランスに武装した海兵隊22名と軍用ヘリワスプ2機を積載して同島海域に派遣[15]。するとアルゼンチン側は輸送艦バイア・ブエン・スセソを引き揚げさせたものの、数十人のアルゼンチン人を残していった。さらに3月26日にそのアルゼンチン人同胞の警護と称し、アルゼンチン海軍砕氷艦バイア・パライソにて武装した海兵隊員約500名と物資をサウス・ジョージア島に送り込み、同島のリースハーバーに陣取る。この直後からアルゼンチン海軍の動きが活発化し、軍事演習と称して空母、駆逐艦、フリゲート艦、潜水艦、輸送艦などの移動を開始。 3月28日、イギリス側は海兵隊44名を増援してエンデュアランスに送り込むと同時に機動艦隊の派遣準備を始める[15]。 フォークランド諸島侵攻 スタンレー制圧まで 3月30日、アルゼンチン海軍はフォークランド諸島への本格的な侵攻上陸作戦を開始。空母ベインティシンコ・デ・マヨを旗艦とし、駆逐艦7、フリゲート艦3、輸送艦3、揚陸艦1で編成された第79機動艦隊を陸軍4000名の将兵と共にフォークランド諸島へ出撃させる。3月30日から4月3日にかけて行われたアルゼンチン軍のフォークランド島上陸作戦は<b data-parsoid='{"dsr":[10755,10767,3,3]}'>ロザリオ作戦</b>と名付けられた[16]。上陸活動は大きく2つに分けられる。ゴムボートに分乗した少数のコマンド部隊による深夜の隠密上陸と、4月2日早朝に実行された水陸両用車両を使った比較的大掛かりな上陸である。アルゼンチン軍側も総員900名という、歴史的にみれば小規模な上陸作戦であるが、イギリス軍戦力も79名の海兵隊員に過ぎなかった。アルゼンチン軍は、圧倒的な戦力差によって早期にイギリス軍を降伏させ、また国際世論を考慮してできる限り無血で作戦を完遂させることが目標とされた。この作戦は直前にアメリカの偵察衛星により発見されており、アメリカは作戦の中止を求めたがアルゼンチン軍部は引き返すことはしなかった。 隠密上陸 4月1日夜、42型駆逐艦「サンティシマ・トリニダー」が東フォークランド島沖合1海里に到着して21隻のゴムボートを降ろし、1時間半ほどかけて92名の上陸コマンド部隊の隊員を移乗させた。ゴムボートは夜11頃、砂浜に到着し、コマンド部隊は2隊に分かれて目的地のイギリス海兵隊員兵舎と総督邸を目指した。兵舎制圧部隊は午前5時半に兵舎に到着したが、無人であった。一方、総督邸に向かった16人の分遣隊は、そこで予想外に多い42名(31名の海兵隊員と11名の水兵)のイギリス武装兵と射撃戦闘を行うことになった。まもなく、無謀な突撃を行ったアルゼンチン軍コマンド隊員の1名が致命傷を負った。分遣隊は、遮蔽物に隠れ援軍を待った。 水陸両用車両による上陸 水陸両用車両(アメリカ製のアムトラックやLVTP7水陸両用装甲兵員輸送車)を使った上陸部隊本隊による攻略目標は、スタンレー空港と島都スタンレーであった。4月2日未明、まず潜水艦サンタフェから潜水具を装備した少数の偵察隊が空港の北部沿岸に上陸し、岬の灯台を占拠。次いで、揚陸艦カボ・サン・アントニオ[17]が、空港沖合から水陸両用車両20両を発進させ、偵察隊の灯台からの誘導を受けながら最初の目標であるスタンレー空港へ向かった。空港の滑走路には古い乗用車やコンクリートの塊がアルゼンチン軍機の着陸阻止の目的で置かれていたものの、空港は無人であったため、上陸部隊は容易に空港を占領した。 アルゼンチン軍によるスタンレー占領 その後もスタンレー空港から島都に向かう途中に遭遇した若干の抵抗を除けば、イギリス海兵隊からの反撃は無く、北部海域に展開していたアルゼンチン艦隊旗艦の空母ベインティシンコ・デ・マヨから発艦した輸送ヘリコプターによるアルゼンチン海兵隊の増援も到着し、島都スタンレーはアルゼンチン軍が占領した。 4月2日午前9時半、イギリス軍のレックス・ハント総督は、圧倒的な兵力を擁するアルゼンチン軍からの降伏勧告を受け入れ、抵抗するイギリス海兵隊へ武器の放棄を命じイギリス軍は降伏した。アルゼンチン軍はフォークランド諸島全域を手中に置いた。 この作戦でアルゼンチン軍は戦死者1名、負傷者数名を出したが、アルゼンチン軍の当初の狙い通りイギリス軍に死傷者は出さなかった。後日、ハント総督とその家族および全イギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。 サウス・ジョージア島制圧 スタンレー占領の報を受けたサウス・ジョージア島のアルゼンチン海兵隊は同日4月2日に同島の占拠を開始。リースハーバーに留まっていた約500名のアルゼンチン海兵隊員の内、40名が砕氷艦バイア・パライソに移乗してピューマヘリコプター2機による制圧作戦を開始。増援として派遣されたアルゼンチン海軍A69型フリゲートゲリコの支援を受けながら翌日4月3日正午より島都のグリトビケンに上陸を開始した。 サウス・ジョージア島守備隊のイギリス海兵隊はわずか23名と圧倒的不利に立たされていたが、アルゼンチン側の降伏勧告を拒否。地の利を生かして激しく応戦し、上空援護を行っていたアルゼンチン海軍のピューマヘリを機関銃で撃墜。さらにキングエドワードポイント埠頭近海に接近し、機関砲による援護射撃を行っていたゲリコへ84mmカールグスタフ無反動砲とM72 LAWによる攻撃を加えて主砲や対艦ミサイル発射機を使用不能に追い込むなどした。 約2時間に渡る戦闘の後、弾薬の尽きたイギリス海兵隊は全員アルゼンチン軍に降伏。イギリス側の軽傷者1名に対し、アルゼンチン側は死者4名重傷者1名という結果に終わった。スタンレーのイギリス海兵隊と同じく捕虜となった守備隊のイギリス海兵隊員は、中立国のウルグアイ経由でイギリス本土へ送還された。 国際社会の反応 アメリカの対応 アメリカはNATO加盟国で長年の同盟国であるイギリスを全面的に支援し、空中給油機の貸与を申し出た他、アルゼンチンが使用する自国製の戦闘機や各種武器の情報、自国衛星情報を提供した。また、海路長旅を行うイギリス軍のためにアセンション島にイギリス軍を集め、兵員を休憩させるために便宜を図った。アメリカは冷戦下で中米紛争、特に第二次ニカラグア内戦における死の部隊(Death squad)、アルゼンチン軍はアルゼンチン国内で「汚い戦争」を通して培った対ゲリラ戦の戦訓を、イスラエル国防軍などと共にホンジュラス軍やニカラグアのコントラなどへ訓練していた(アルゼンチン・コネクション)。このような「アメリカが表立って行えなかったようなことをアルゼンチンが行う」という関係を通して両国は友好関係にあったが、正式な同盟関係になかったアルゼンチンへの配慮は全くなかった。その一方で、ヒスパニック系アメリカ人の傭兵多数がアルゼンチンの占領軍にいたのは確実と考えられ、グースグリーンでは、アメリカ人傭兵と思しきアメリカ訛りの英語を話すがスペイン語が話せない者2名が英軍に捕えられている(この2名の身元もその後も不明であるが、処刑された可能性が高い)[18] ラテンアメリカ諸国の対応 ラテン・アメリカ諸国のほぼ全てがアルゼンチン支持を表明したが各国は軍隊を送らず情報組織などによる具体的な支援があったわけでもないことから戦況にはほとんど影響しなかった。ただし、ペルーなどの南米諸国からは20世紀後半まで持ち越された帝国主義との戦いのためと称して少数ながら義勇兵が参戦を希望した。また実戦には間に合わなかったが、ペルー空軍のミラージュIII戦闘機10機程度がアルゼンチン空軍に売却された。このことは今まで白人国家であることを誇り、「南米のヨーロッパ」と自称してメスティーソが主体の他のラテン・アメリカ諸国を見下していたアルゼンチンにラテン・アメリカの一員としての意識を芽生えさせた。 チリの対応 アルゼンチンの隣国のチリだけは、アウグスト・ピノチェト政権以前からパタゴニアのビーグル海峡地域において隣国アルゼンチンと国境問題を抱え、小規模な武力衝突をたびたび起こしており、1981年末には戦争寸前となるなど、危機的状況が続いていた。そのため、チリの大統領アウグスト・ピノチェトはアルゼンチンを「侵略者」として非難してイギリスへの支援を表明し、自国内の基地を提供するなど積極的にイギリスに協力した。さらにチリが戦争のどさくさにまぎれて参戦してくることを恐れたアルゼンチンが、イギリスとの戦争中にもかかわらず対チリ戦に備えて多くの戦力を本土に温存せざるを得ない状況に追い込むなど、実質的にイギリスの同盟国として機能した。 国連決議・経済制裁 4月3日には、アルゼンチンとイギリスの間の開戦を受けて開かれていた国連安全保障理事会において決議第502号が出され、アルゼンチンのフォークランド諸島一帯からの撤退を求めた。翌4月4日には、アルゼンチン政府が国内にある全てのイギリス資産を凍結した。これに対して4月10日にはイギリスが加盟するECが対アルゼンチン経済封鎖を承認し、西ドイツやフランスなどの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行った。なお4月29日にはアルゼンチン政府はアメリカによる調停案を拒否した。 日本の対応 日本はアメリカ、イギリス、ECの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置は最後まで実施しなかった。しかし、国連でのアルゼンチン撤退勧告には賛成票を投じた。 ソ連・東側諸国の対応 冷戦下、アメリカ、イギリスと敵対していたソ連や東側諸国はイギリスを非難するという形でアルゼンチンを支持したが、国連安保理では棄権にとどめた。非同盟諸国の多くがアルゼンチン支持を表明したが、各国は軍隊を送るわけでもなかった上、ソ連が衛星写真を提供したことを除いて、情報組織などによる具体的な支援はなかった。 ほか、メディアとしては世界最大のロイター通信社がイギリスの軍事行動を詳細に世界へ発信した。両軍とも相手の出方をある程度承知していたため実害はなかった。 イギリス軍の反撃 イギリス軍の反撃体制 4月3日にイギリス政府から機動艦隊編成の命を受けたイギリス軍では派遣部隊と機動艦隊の編成が急ピッチで進められた。艦隊旗艦とされた空母はハーミーズとインヴィンシブル(軽空母)の2隻だった。各空母には英海軍艦隊航空隊第800飛行隊12機、第801飛行隊8機のシーハリアー FRS.1が配備された。このシーハリアーは当時の新型空対空ミサイルであったAIM-9Lサイドワインダーを搭載していた。また、空軍のハリアー GR.3に空母で運用するための改造[19]が施された他、空対空戦用のミサイルランチャーの増設も行われたが、結局このランチャーはハリアー GR.3の運用が対地攻撃のみに限定されることになったため、後に増援として空母に配備された際に取り外された。 left|サムネイル|航空ショーでのアブロ バルカンXH558。核弾頭を装備していたが、フォークランド紛争では通常爆撃を行った。 さらに本来は核攻撃用に配備されていた英空軍の第44、第55、第101飛行隊の戦略爆撃機バルカンが長距離爆撃のために慣性航法装置の改良や通常爆弾21発の投下が可能なように改造され、パイロットらは空中給油の再訓練を行った。イギリス海軍は4月5日に艦隊旗艦の空母ハーミーズを中核とした空母2、駆逐艦10隻、フリゲート艦13隻、揚陸艦8隻、輸送艦他支援艦16隻の計49隻から成る機動艦隊である第317任務部隊をポーツマス港より出撃させた。 イギリス軍はフォークランド諸島奪還の中継基地としてフォークランド諸島北西約6000kmに位置するイギリス領アセンション島のワイドアウェーク基地を利用した。4月5日から18日にかけ、イギリス空軍の第42、第120、第201、第206飛行隊のニムロッド偵察機、第55、第57飛行隊のヴィクター給油機の部隊の他、艦隊の支援のための補給物資が次々と到着した。 4月12日には先行してフォークランド諸島に向かっていたイギリス海軍の潜水艦隊が同海域に展開、イギリス政府はフォークランド諸島の半径200海里(370km)を封鎖海域とし、以後この海域に他国籍の艦船の侵入を禁じた。 アルゼンチン軍の迎撃体制 一方、フォークランド諸島ではアルゼンチン軍による防衛準備が進められ、歩兵部隊、装甲車両、レーダー設備、野砲や対空機関砲、対空ミサイル発射機などの兵力が輸送艦、輸送機により運び込まれた。4月12日以降のイギリス海軍の海上封鎖から大規模な揚陸はできなくなったものの、輸送機による空輸や小規模な海上輸送は続けられ、同島のアルゼンチン軍守備隊の総兵力は9000名を超えた。さらに制圧したスタンレー、グース・グリーン、ペブル島の各飛行場にアルゼンチン空軍第1、第3グループと海軍の第1・第4航空隊の軍用機約30機や陸軍の輸送ヘリ部隊が配備され、戦力の増強が図られた。軍用機はプカラ攻撃機、イタリアのアレーニア・アエルマッキ社製の軽攻撃機MB-339・MB-326、アメリカのビーチエアクラフト社製のT-34Cターボメンター軽攻撃機等で編成された。 また、アルゼンチン本国では空海軍の航空隊がフォークランド諸島に近いリオ・グランデ、リオ・ガジェゴス、サン・フリアン、トレリューなどの南部の基地に展開し、イギリス海軍への要撃準備が進められた。更に当時アルゼンチン海軍がフランスのダッソー社から購入したばかりのシュペルエタンダール攻撃機に、同じくフランスのMBDA社から購入した空対艦ミサイルエグゾセAM39が5発搭載された。 イギリス軍の反撃開始 4月18日、イギリス海軍の機動部隊がアセンション島を出港、駆逐艦アントリム、フリゲート艦プリマスの2隻がサウス・ジョージア島奪回の任務を帯び、イギリス陸軍特殊部隊SASとイギリス海兵隊を積載して機動艦隊から離れタスクフォースを編成していった。サウス・ジョージア島近海に先行していた氷海巡視船エンデュアランスと合流し同島の奪還作戦を開始する。 4月21日にSASによるサウス・ジョージア島上陸偵察が行われたが、悪天候で中止せざるをえなくなった。撤退時にイギリス海軍のウェセックス HU.5ヘリコプターが2機が墜落する事故を起こし、4月22日深夜にはイギリス海兵隊特殊舟艇隊 (SBS)がゴムボートによる偵察上陸を行うも一部が悪天候のために遭難するという事態となる(どちらもイギリス軍により救助された)。 4月23日にはアルゼンチン海軍の潜水艦が接近しているとの情報を受けたタスクフォースは一旦、同海域から退避。機動艦隊から増援に駆けつけたイギリス海軍のフリゲート艦ブリリアントが合流し、4月24日より艦載ヘリコプターによる掃海作戦を実施する。 4月25日に、サウス・ジョージア島のアルゼンチン軍守備隊へ物資輸送任務を行っていたアルゼンチン海軍の潜水艦サンタフェが掃海中のイギリス海軍艦載ヘリコプターに発見され、攻撃を受け損傷。同日サウス・ジョージア島に擱座、放棄された。同日中に駆逐艦アントリムの艦砲射撃による援護を受けながらイギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸した。アルゼンチン陸軍はサウス・ジョージア島を重要視していなかったことから守備隊は即降伏したため、同島の陸上での戦闘はほとんどなく、イギリス軍はサウス・ジョージア島の奪回に成功する。 以後、タスクフォースは同島に駐在部隊を残して再び機動艦隊に合流し、本格的なフォークランド諸島奪還を始めた。 ブラックバック作戦による空爆 イギリス軍は、アセンション島を基地とするバルカン爆撃機、空母から発進したシーハリアーによる空爆、戦闘艦艇による艦砲射撃の三段階の攻撃により、東フォークランド島のスタンレー空港および、同島の中央に位置するグース・グリーン飛行場を使用不能とする計画をたてた。 その第一段階が5月1日からアブロ バルカン爆撃機によるスタンレー空港の爆撃計画でブラックバック作戦とよばれた。1000ポンド爆弾を21発搭載して長大な距離を往復するという当時としては最長距離の長距離爆撃作戦であった。この作戦に参加した航空機は、バルカン爆撃機2機(内、同行予備機1機[20])とヴィクター K.2空中給油機15機(内、同行予備機4機[21])である。爆撃機と給油機の各1機が離陸後しばらくして機械関係のトラブルに見舞われ、実際の爆撃は予備機にて行われることとなった。この予備のバルカン爆撃機はポート・スタンレー飛行場へ21発の爆弾を投下した。内4発の爆弾がスタンレー空港施設に着弾し、4発の内1発が滑走路を直撃した。 バルカン攻撃機の空爆直後、イギリス海軍機動部隊がスタンレーの東180kmまで接近し、空母ハーミーズから飛び立った第800飛行隊のシーハリアー FRS.1のうち9機がスタンレー飛行場へ、3機がグース・グリーン飛行場へ空爆を行った。スタンレー飛行場へ向かった9機は1000ポンド爆弾とクラスター爆弾で滑走路や対空陣地を攻撃。アルゼンチン側は陸上に設置したタイガーキャット対空ミサイルや高射砲で迎撃するも失敗し、空港施設などを破壊される。 left|サムネイル|シーハリアー FRS.1。 またグース・グリーン飛行場では、3機のシーハリアーが1000ポンド爆弾、クラスター爆弾で滑走路を空爆した。離陸直前だったプカラ攻撃機の1機ごと滑走路を破壊して使用不能に追い込み、駐機していた他の4機のプカラ攻撃機を大なり小なり損傷させた(後にアルゼンチン政府はこの離陸直前に乗機を撃破されて死亡したプカラ攻撃機パイロットの空軍中尉を『単独で空母を攻撃して撃墜された英雄』と脚色して報道し、真相を知っていたアルゼンチン空軍のパイロットらから顰蹙を買った)。ハリアーの空爆後、作戦の総仕上げとして駆逐艦グラモーガンとフリゲート艦アラクリティとアローの3隻が日中と夜間の2回に分けてスタンレー空港と周囲の砲兵陣地に向けて艦砲射撃を加えたが、ヘリコプターの砲撃観測がなかったため不正確なものとなり、被害は軽微なものにとどまった。 この一連の攻撃で以後スタンレー空港は滑走路の損傷から戦闘機や爆撃機などの大型機の発着が不可能となったが、STOL性能を持つC-130やエレクトラ、フォッカーF28フェローシップ等の輸送機や長い滑走路が不要なマッキ攻撃機などは運用が可能であり、アルゼンチン軍は終戦間際までこの空港を活用しつづけた。 この日はアルゼンチン空軍第6グループのダガー攻撃機によるイギリス海軍艦艇への最初の航空攻撃が行われ、上空警戒の任を受けていたイギリス海軍第801飛行隊のシーハリアーとダガー攻撃機の援護で追従してきたアルゼンチン空軍第8グループのミラージュ戦闘機との間で空中戦が発生した。爆装した第6グループのダガー攻撃機3機は、ポート・スタンレー飛行場を艦砲射撃していた駆逐艦群に攻撃を行ったものの一部の艦艇に軽い損傷を与えただけに留まり、空対空ミサイルを装備して空中戦に参加した他のダガー攻撃機2機と前述のミラージュ戦闘機2機がシーハリアーによって撃墜されている。 バルカン爆撃機を用いたブラックバック作戦はこれ以降も5月4日、5月31日、6月3日、6月12日など数回続けられたが、通常爆弾による滑走路破壊はほとんど失敗に終わる。ただし、シュライク対レーダーミサイルを用いたレーダー施設の破壊で一定の戦果を挙げている。 海上戦 アルゼンチン海軍艦の撃沈 4月末日、アルゼンチン海軍は接近するイギリス機動艦隊に対し、艦隊を三方向から向かわせていた。 北方より空母ベインティシンコ・デ・マヨを旗艦として、駆逐艦サンティシマ・トリニダー、エルクレス他数隻で構成される機動艦隊。空母ベインティシンコ・デ・マヨは1942年にイギリス軍が建造したヴェネラブルが改名されたもので、オランダ経由でアルゼンチンに売却されたものだった。 中央(西方)より艦対艦ミサイルエグゾセMM38搭載のA69型フリゲート艦ドゥルモン、ゲリコ、グランビルの3隻からなるミサイル打撃艦隊。 フォークランド諸島南方から周り込むような形で巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノ(艦長エクトール・E・ボンソ。乗員1092名)、駆逐艦イポリット・ボチャール、ピエドラ・ブエナの3隻の艦隊がイギリス側の封鎖海域の外から突入の準備を行っていた。 アルゼンチン海軍はベインティシンコ・デ・マヨの艦載機A-4スカイホークによる空爆とA69フリゲート群による対艦ミサイル、およびヘネラル・ベルグラーノの艦砲による挟撃を行い、イギリス機動艦隊へ大打撃を与える算段だった。ところがベインティシンコ・デ・マヨ空母の艦載機の発艦が不能となり[22]、同空母機動艦隊とフリゲート群は攻撃を取りやめ、アルゼンチン本国側に撤収した。ヘネラル・ベルグラーノの艦隊は単独で南方の海域、封鎖海域の外に留まり続けていた。 イギリス軍原子力潜水艦による攻撃 4月30日に同海域を哨戒中だったイギリス海軍の原子力潜水艦HMSコンカラー(S48)がヘネラル・ベルグラーノ艦隊を発見し、追尾。封鎖海域の外にベルグラーノはいたものの、全速で航行すればイギリス機動艦隊を6時間近くで射程に入れる距離にいたこと、同海域の水深からこれ以上北進されると追尾が難しくなる可能性があったことから、コンカラー艦長クリストファー・リーフォード=ブラウン中佐は衛星通信によりイギリス本国のイギリス艦隊作戦本部と機動艦隊司令部に通報し、指示を仰いだ。 5月2日、イギリス艦隊作戦本部よりコンカラーに封鎖海域外での攻撃命令が下り、16時頃にコンカラーはヘネラル・ベルグラーノに4発のMk8魚雷を発射。内2発が命中し、艦首を喪失したベルグラーノはわずかな時間で撃沈された。多くの乗組員は救命ボートで脱出したものの、383人の乗組員と共にベルグラーノは沈んでいった。残った駆逐艦イポリット・ボチャール、ピエドラ・ブエナはコンカラーを追撃し爆雷で攻撃したとイギリス海軍は主張している。(アルゼンチン側の公式記録にはこれを裏付ける証言はない。) この後、アルゼンチン海軍水上艦部隊の主力艦艇は損失を恐れ、原潜が活動しにくい大陸棚から離れることはなかった。5月2日夜には撃墜されたキャンベラ爆撃機のパイロット捜索に派遣されたアルゼンチン軍哨戒艇2隻がイギリス海軍のリンクスAH.7ヘリコプターと会敵し、シースクア対艦ミサイル攻撃を受けて1隻が撃沈され、もう1隻も大破し撤退した。 イギリス海軍艦の撃沈 5月4日、アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機が空対艦ミサイル・エグゾセAM39[23]でスタンリー南西75海里にいたイギリス機動部隊に攻撃を行った。リオ・グランデ基地より離陸した2機のシュペルエタンダールが空中給油を受けた後、友軍のトラッカー哨戒機の誘導を受けながらレーダーを切った状態で海上15mという低高度で接近していった。この超低空で接近する攻撃機隊をイギリス艦隊はレーダーで捉えることができず、シュペルエタンダールはイギリス艦隊近海でわずかに上昇してレーダーで艦船の1隻をロックオンし、エグゾセを発射して即退避した。 発射された2発のエグゾセの内、1発が当時レーダーピケット任務中だったイギリス海軍シェフィールド(42型駆逐艦)に命中した。この1発は不発だった[24]が、残っていた燃料の燃焼と命中による配電盤の損傷でダメージコントロールがほとんど不可能になり、同艦は炎上、乗組員は総員退艦した。その後上部構造物がほとんど焼き尽くされた状態で鎮火したシェフィールドは12型フリゲートヤーマスに曳航されるも、浸水が激しくなり5月10日に沈没した。なお、残る1発のエグゾセは射程外から発射されたため途中で墜落した。 このシェフィールドの撃沈の他、イギリス機動艦隊は5月1日から10日の間にアルゼンチン海軍の209型潜水艦サン・ルイスから、たびたび魚雷攻撃を受け、対潜行動を強いられ艦艇の損失を避けるべく大幅にその活動範囲を狭めた。この為、イギリス、アルゼンチン両海軍艦艇同士による大規模な海戦は戦争の全期間を通じて一切行われず、その後艦艇への攻撃は航空機によるものが中心となった。 イギリス軍の逆上陸 5月4日には爆撃中のイギリス海軍のシーハリアー1機が対空砲火で撃墜され、シーハリアー初の損失となった。また5月6日には同2機が悪天候の中、おそらく空中衝突で失われた。 5月9日には情報収集に当たっていたアルゼンチンのトロール漁船ナルワル号がシーハリアーによって攻撃された上、SBSの強襲によって拿捕、後に沈没。更にピューマヘリコプター1機が42型駆逐艦コヴェントリーのシーダート対空ミサイルで撃墜された。イギリス海軍は上陸地点の偵察活動を活発化させ、フォークランド海峡内に艦艇を送り込むようになった。 5月10日に海峡内に侵入した21型フリゲートアラクリティは、アルゼンチン軍の輸送艦イスラ・デ・ロス・エスタドスを砲撃し撃沈した。これがこの紛争で唯一の水上艦同士の海戦だった。 5月12日には、アルゼンチン軍のスカイホーク8機により、イギリス海軍の42型駆逐艦グラスゴーと22型フリゲートブリリアントに対する攻撃が行われ、グラスゴーに爆弾を命中させたが不発だった。またこの攻撃の際ブリリアントのシーウルフ対空ミサイルにより3機のスカイホークが撃墜され、さらに1機がアルゼンチン軍の対空砲火の誤射で撃墜された。 ペブル島襲撃 5月14日から16日にかけてイギリスのSBSならびにSASの上陸作戦が行われた。 5月14日にペブル島の飛行場をSASの中隊が襲撃し、駐機していたプカラ攻撃機などのアルゼンチン軍の航空機11機すべてを爆薬で破壊して撤退した。これによりアルゼンチン軍はフォークランド諸島の航空機の三分の一近くを一度に喪失するという大損害を受ける(ペブル島襲撃)。またSBSによる陸上への観測ポストの設置が行われた。この間、イギリス艦艇はポート・スタンリー周辺を陽動のため艦砲射撃している。 5月16日にはフォークランド海峡にてアルゼンチン軍輸送艦バイア・ブエン・スセソ、リオ・カルカナーラがシーハリアーの攻撃を受け、バイア・ブエン・スセソが沈没、リオ・カルカナーラが座礁している。 5月17日には増援としてイギリス海軍徴用のコンテナ船アトランティック・コンベイヤーによって輸送されてきたイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の6機が空母ハーミーズに配備され、対地攻撃への参加を始めた。また、エグゾセミサイル対策として欺瞞装置を搭載したリンクスヘリコプターも届けられ、空母2隻に配備。以後戦争終結まで何時でもスクランブル発進が可能なように甲板上に待機していた。 サン・カルロス上陸 5月21日未明から午前中にかけて、SASがグースグリーン周辺に降下して陽動を行うと同時にイギリス陸軍空挺大隊を中核とする部隊が東フォークランド島西側のサン・カルロスに上陸を開始し、橋頭堡を築いた。イギリス軍は抵抗をほとんど受けずに上陸し、この作戦でのイギリス軍の損害はガゼル2機など軽微だった。 アルゼンチン軍によるイギリス海軍艦艇攻撃 イギリス軍の逆上陸を許したものの、5月21日午後からアルゼンチン空海軍機による海峡内のイギリス海軍艦艇攻撃が開始され、アルゼンチン軍機の爆撃により21型フリゲートアーデントが撃沈された。これ以外にも多くの艦艇が損害を受けた。しかし揚陸艦を含む上陸部隊に損害はなく、当日までに3000名の兵員と1000トンの物資が上陸した。イギリス側はこの日アルゼンチン軍機を13機撃墜した。 5月23日には、アルゼンチン軍のA-4攻撃機がアーデントと交代した21型フリゲートアンテロープを攻撃し、500kg爆弾2発を命中させた。これは不発弾であったが信管除去作業中に爆発し、アンテロープは翌24日に沈没した。このようなアルゼンチン軍機による攻撃に対し、早期警戒機を欠き、十分な哨戒時間が取れないシーハリアーによる防衛体制はほとんど機能しないままであった。さらに5月25日には、アルゼンチン空軍第5グループのA-4Bが42型駆逐艦コヴェントリーと22型フリゲートブロードソードを攻撃し、コヴェントリーに爆弾3発を命中させ撃沈に成功した。 その直後、アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダールがイギリス空母機動部隊を攻撃し、空対艦ミサイルエグゾセAM39の2発を発射した。イギリス海軍艦艇はエグゾセの探知には成功し、各艦艇のチャフロケットとデコイを搭載したリンクスヘリコプターによりエグゾセに対抗した。しかしチャフにより目標を逸れたエグゾセ1発がイギリス海軍徴用コンテナ船アトランティック・コンベイヤーに命中し、アトランティック・コンベイヤーは大破炎上、5月30日に沈没した。アトランティック・コンベイヤーにより輸送されてきたシーハリアー、ハリアーGR.3はすでにハーミーズとインヴィンシブルに移動していたため、損害はなかったが、まだ積まれていたチヌーク3機、ウェセックス6機、リンクス1機の計10機のヘリコプターが失われた他、軍用トラック、航空機整備部品、爆弾などの装備、臨時滑走路構築用の資材など大量の物資が失われ、その後のイギリス軍の作戦行動に大きな制約を与えた。特にイギリス陸軍はヘリコプターを多数失ったことで陸上における歩兵、物資の輸送に多大な影響を受け、臨時滑走路構築用の資材を失ったイギリス空軍はサン・カルロスに建設予定だったハリアー用臨時飛行場の規模大幅縮小を強いられ、航空作戦の計画を変更せざるを得なくなった。 この日の攻撃ではアルゼンチン側も3機が撃墜されたが、この一連の攻撃を受けてイギリス海軍は4日間で2隻のフリゲート艦、1隻の駆逐艦、1隻の徴用艦の計4隻の大型艦船を失った。これは英国内で「第二次世界大戦時の(対日戦における)マレー沖海戦以来の失態」と呼ばれ、英国マスコミは海軍上層部を批判した。 ブラボー・ノーベンバー イギリス空軍第18飛行隊は4機のCH-47チヌークヘリコプターで構成される輸送部隊としてフォークランド諸島に増援として派遣された。ところが同部隊を輸送していたアトランティック・コンベイヤーがミサイル攻撃で撃沈され、第18飛行隊は撃沈直前に離陸して一足先にフォークランド諸島に向かっていた1機を除いて全機を失ってしまう。生き残った1機はフォークランド諸島に到着するも、コンベイヤーに積載されていた予備部品や工具なども失われていたため、ろくな整備ができない状況になり、大きな活躍はできないとされていた。しかしながら整備兵らの尽力により、同機は4月26日から戦争終結まで弾薬や野砲の輸送、イギリス軍兵士やアルゼンチン捕虜の輸送に活躍することができた。その奮迅ぶりから同機は無線のコールサイン『ブラボー・ノーベンバー』の愛称で兵士らから親しまれた。 グース・グリーンの戦い サン・カルロスから逆上陸を果たしたイギリス陸軍部隊は5月26日より東フォークランド島各所に進出を開始した。陸軍空挺連隊第2、第3大隊はそれぞれ南部のグース・グリーン、ポート・ダーウィン方面と西のティール入江方面へ、海兵隊第42コマンド大隊は北東のポート・スタンレー方面ケント山周辺へ進軍を開始。 グース・グリーンへ進出したイギリス陸軍空挺連隊第2大隊約450名の軍勢は5月28日ごろにカミラ水路近辺にてアルゼンチン陸軍第2、第12歩兵連隊を中核とする約1600名の部隊と接触し交戦を開始、「グース・グリーンの戦い」が起きる。イギリス軍空挺連隊第2大隊は、第8砲兵隊の砲撃と空軍の第1飛行隊のハリアーの上空援護を受けながらアルゼンチン軍の陣地に進撃。一方のアルゼンチン側も、空軍第3グループのプカラ攻撃機等、航空兵力による阻止攻撃を幾度となく行い、守備隊の陸軍歩兵部隊も対空機関砲の水平射撃を行うなどして激しく応戦した。 イギリス側はこの戦闘で空挺連隊第2大隊の大隊長である陸軍中佐が戦死するなど損害を受けるも、経験と装備に勝るイギリス陸軍はこの激戦を制して陣地を突破、飛行場を制圧するとアルゼンチン軍守備隊が立てこもるグース・グリーンの町を包囲。守備隊は降伏勧告を受け入れ、グース・グリーンは5月29日早朝にイギリス軍に確保された。 この28日から29日にかけての戦いは陸上における最大の激戦となり、アルゼンチン側は250名以上が戦死。イギリス側は死者17名とアルゼンチン側と比べ少数ながらその内11名は大隊長を含んだ将校、下士官とその損失は小さくはなかった。 ポート・スタンレー方面に進出したイギリス海兵隊第42コマンド大隊とSASは5月30日にポート・スタンレーを見下ろすケント山をほとんど大きな戦闘もなく確保するが、その夜にケント山奪還に差し向けられたアルゼンチン軍コマンド中隊との間で激しい戦闘が行われた。アルゼンチン軍コマンド部隊を退けたイギリス側はケント山に陣地構築を開始し、ポート・スタンレーの包囲体制に入った。 アルゼンチン軍による英艦艇攻撃と英海軍による迎撃 グース・グリーンを確保されるなど、地上戦では徐々にイギリス軍に押されていたアルゼンチン軍であったが、空海軍機によるイギリス海軍艦艇への航空攻撃は続いた。 5月30日午後にはアルゼンチン軍は最後の空対艦エグゾセAM39の1発を使ってイギリス機動艦隊への攻撃を敢行した。海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機[25]と空軍第4グループのA-4スカイホーク攻撃機4機で編成された攻撃隊はイギリス艦隊へ接近し、イギリス艦隊側はこれをレーダーに捕らえた。レーダーに捉えられたシュペルエタンダール攻撃機は全速で艦隊に接近するとレーダーでロックオンしてミサイルを発射後、2機とも退避。ミサイルに続く形で4機のスカイホーク攻撃機が突撃をかけた。このとき攻撃対象とされたのは実際には空母ハーミーズとインヴィンシブルではなく、艦砲射撃と特殊部隊上陸のために主力艦隊から離れて航行していた42型駆逐艦エクゼターと21型フリゲートアヴェンジャーだった。両艦は攻撃隊のレーダー探知後、チャフロケットを即座に発射し、対空砲火による防空を行った。飛来したエグゾセはこの際に空中で撃破された[26]。さらにエクゼターは突撃してくるスカイホーク部隊に対してシーダート対空ミサイルによる迎撃を行い、2機を撃墜した。残った2機のスカイホークは両艦を爆弾で攻撃したが命中させることは出来なかった。 結局、この攻撃によるイギリス側の損害はなかったが、攻撃に参加したアルゼンチン側パイロットは空母にミサイルを命中させたと主張し[27]、シュペルエタンダール攻撃機にはインヴィンシブルのキルマークが描かれた。アルゼンチン政府は新聞に煙を上げる空母の写真すら掲載して損害を与えたと主張したものの、明らかな合成写真であったため、イギリス政府から失笑を買ったという。 フィッツロイ上陸 6月8日にイギリス海軍は徴用船キャンベラやクイーン・エリザベス2によって輸送されてきた増援兵力を強襲揚陸艦フィアレスを中核とした揚陸艦隊に移乗させ、フィッツロイにて揚陸作戦を行っていた。 この動きをアルゼンチン軍はポート・スタンレーのレーダーで察知し、空軍機による攻撃をかけた。 海岸の形状から陸上部隊の上陸に手間取っていた揚陸艦サー・ガラハドがスカイホーク3機の爆撃を受け、艦内にいた兵員46名が戦死するなど大きな人的損害を出して沈没した。同じくサー・トリストラムもスカイホーク2機の爆撃で大破し、その直後に海上を航行中だったフィアレスの揚陸艇F4号が爆撃で撃沈された。また、アルゼンチン空軍のダガー攻撃機部隊の投下した500kg爆弾4発がフォークランド海峡にいたフリゲート艦プリマスを直撃した。しかしいずれも不発でプリマスは対潜爆雷が炎上し火災が発生したが沈没は免れた。 なおこの際にアルゼンチン軍機3機がシーハリアーに撃墜され、イギリス軍機1機もエンジン故障により不時着大破した。 スタンレー陥落 イギリスは、アルゼンチン空海軍機による猛攻により多くの海軍艦艇を失ったものの、陸軍の侵攻は続けられた。イギリス側はアルゼンチン軍守備隊に対して幾度となく降伏勧告を行うが、守備隊はそれを黙殺。6月12日にはスタンレーに設置されていたトレーラー改造のミサイル発射台から輸送機で空輸していた艦対艦ミサイル・エグゾセMM38を発射し、駆逐艦グラモーガンの後部甲板に命中させ、不発ながら中破に追い込んだ。 6月13日よりイギリス軍はスタンレーへの全面攻撃を開始。陸軍第2、第3空挺大隊は北側のロングドン山とワイヤレスリッジ方面を、スコットランド近衛大隊、イギリス海兵隊第45大隊、グルカライフル部隊は「姉妹の尾根」を越え、ダンブルダウン山を越えるルートを侵攻、ウェールズ近衛大隊はハリエット山方面から侵攻した。イギリス軍は野砲や海軍艦艇からの艦砲射撃、ハリアーによる空爆などで援護しつつ、新たに揚陸したスコーピオン軽戦車などを投入して進軍、対するアルゼンチン側は暗視装置を装着したライフルによる夜間戦闘やM2重機関銃による狙撃で対抗した。 この時点でアルゼンチン側は敗戦ムードが漂っていたため、全体の士気が大幅に下がっており、各所でイギリス軍は容易にアルゼンチン軍陣地を突破することに成功していたが、一部の場所ではコマンド部隊など士気、錬度の高いアルゼンチン兵が残っており、特にロングドン山やダンブルダウン山での戦闘は熾烈を極め、塹壕を挟んでの手榴弾の投げ合いや銃剣を用いた白兵戦すら発生した。 翌6月14日にイギリス軍は守備隊陣地を突破して首都ポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)へ肉薄。これを受けてアルゼンチン側は14日正午についに降伏。司令官マリオ・メネンデス准将は指揮下の9,800人の兵士と共に投降した。この12日から14日までの戦いで200人近いアルゼンチン兵が戦死し、イギリス兵も多数の死傷者を出した。 終結 スタンレーの陥落を受けて、翌15日にはガルチェリ大統領が「戦闘終結宣言」を出したが、すでに求心力を失っており2日後に失脚した。 6月20日にはイギリス軍がサウス・サンドイッチ島を再占領し、イギリス政府は停戦宣言を出した。こうして72日にも及び、両国に多大な犠牲を出した戦争は終わった。 両国の参加兵力 アルゼンチン軍 参加艦艇 航空母艦 - ベインティシンコ・デ・マヨ 軽巡洋艦 - ヘネラル・ベルグラーノ 旧42型駆逐艦 - サンティシマ・トリニダー、エルクレス 旧アレン・M・サムナー級駆逐艦 - セギ、イポリット・ボチャール、ピエドラ・ブエナ 旧ギアリング級駆逐艦 - コモドロ・ピイ A69型フリゲート ドゥルモン、ゲリコ、グランビル 209型潜水艦 - サルタ、サン・ルイス、サンタフェ、サンチャゴ・デル・エステロ 輸送艦 - バイア・ブエン・スセソ 他 揚陸艦 - カボ・サン・アントニオ コルベット・哨戒艇・巡視船等 - バイア・パライソ 他 他支援艦艇、徴用船舶 航空機 戦闘機・攻撃機 ダグラス A-4B/C/Q(空軍、海軍) IAI ダガー(空軍) ダッソー・ブレゲー シュペルエタンダール(海軍) ダッソー・ブレゲー ミラージュIIIEA(空軍) FMA IA 58 プカラ(空軍) マッキ MB-339AA(海軍) ビーチ T-34C-1 ターボメンター(海軍) 爆撃機・輸送機など BAe キャンベラ B Mk 62(空軍) ボーイング707(空軍) ロッキード C-130E/H(空軍、爆撃機としても使用) ロッキード KC-130H(空軍) ゲイツ・リアジェット 35(空軍、民間) ホーカー・シドレー HS.125(空軍) フォッカー F28-3000 フェローシップ(海軍) ロッキード L-188 エレクトラ(海軍) ロッキード SP-2H ネプチューン(海軍) グラマン S-2E トラッカー(海軍) ブリテン・ノーマン アイランダー(捕獲) ショート スカイバン(沿岸警備隊) 他 回転翼機 ベル 212(空軍) ベル UH-1H(陸軍) アグスタ A109(陸軍、後に英軍が捕獲運用) ボーイング CH-47C チヌーク(陸軍、空軍) アエロスパシアル ピューマ(陸軍、沿岸警備隊) ウェストランド リンクスMk23(海軍) アエロスパシアル アルエットIII(海軍) シコルスキー SH-3D シーキング(海軍)他 LADE (Lineas Aereas Del Estado、「国営航空」)の各機も空軍の下で輸送任務についた。フェニックス・エスカドロン(徴用ビジネス機部隊)は主に後方支援にあたったが、リアジェットのような高性能機は通信中継や偽装攻撃も行った。アルゼンチン航空等のエアラインも支援体制にあった。長距離洋上哨戒飛行のため(イギリス海軍艦隊の偵察)、武装を施していないアルゼンチン航空のボーイング707旅客機による偵察飛行がたびたび実施されたが、それに対抗するためにイギリス空軍がニムロッド哨戒機にサイドワインダーミサイルを4発搭載して偵察行動をとった結果、ボーイング707による偵察飛行は中止された。 イギリス軍 参加艦艇 第317任務部隊(指揮:ウッドワード少将) - 機動部隊 第324.3任務群(指揮:ハーバート少将) - 潜水艦隊 補給部隊(指揮:ダンロップ准将) 空母 - ハーミーズ(艦隊旗艦)、インヴィンシブル 潜水艦 スウィフトシュア級原子力潜水艦 - スプレンディッド、スパルタン チャーチル級原子力潜水艦 - コンカラー、カレイジャス ヴァリアント級原子力潜水艦 - ヴァリアント オベロン級潜水艦 - オニクス 駆逐艦 82型駆逐艦 - ブリストル 42型駆逐艦 - シェフィールド(沈没)、グラスゴー、コヴェントリー(沈没)、エクゼター、カーディフ カウンティ級駆逐艦 - アントリム、グラモーガン フリゲート 22型フリゲート - ブロードスウォード、ブリリアント 21型フリゲート - アンテロープ(沈没)、アクティブ、アロー、アラクリティ、アーデント(沈没)、アベンジャー、アンバスケイド リアンダー級フリゲート(12I型フリゲート) - アーゴノート、アンドロメダ、ミナーヴァ、ペネロープ ロスシー級フリゲート(12M型フリゲート) - ヤーマス、プリマス 揚陸艦 フィアレス級揚陸艦 - フィアレス(両用艦群旗艦)、イントレピッド ラウンドテーブル級揚陸艦 - サー・ランスロット、サー・ガラハド(沈没)、サー・ベディベア、サー・ゲレイント、サー・パーシバル、サー・トリストラム 補給艦 ネス型給糧艦 - ストームネス リソース級給兵艦 - リソース、リージェント フォート・グランジ級給糧艦 - フォートグランジ、フォートオースティン タイド型給油艦 - タイドプール、タイドスプリング オル型給油艦 - オルメダ、オルナ ローバー型給油艦 - ブルーローバー リーフ型給油艦 - アップルリーフ、ベイリーフ、ブランブルリーフ、プラムリーフ、ペアリーフ 氷海巡視船 - エンデュアランス 掃海艇 - ハント級掃海艇 ブレコン、レッドベリー 測量艦 - ヘクラ、ヘカテ、ヘラルド、ハイドラ 通報艦 - キャッスル級哨戒艦 リーズキャッスル、ダンバードンキャッスル その他支援艦艇若干。クイーン・エリザベス2号、キャンベラ号、アトランティック・コンベアー(沈没)など徴用艦艇多数 航空機 戦闘機・攻撃機 シーハリアー FRS.1(海軍) ハリアー GR.3(空軍) ファントム FGR.2(空軍、アセンション島の防衛) 爆撃機 - アブロ バルカン B.2(空軍) 対潜哨戒機 - BAE ニムロッド MR.2(空軍) 空中給油機 - ハンドレページ ヴィクター K.2(空軍) 輸送機 ビッカース・VC10 C.1(空軍) ロッキード・ハーキュリーズ C.1(空軍) 偵察機 ニムロッド R.1(空軍) イングリッシュ・エレクトリック・キャンベラ PR.2(空軍) ヘリコプター ウエストランド シーキング HAS.2/2A/5/HC.4/HAR.3(海軍、空軍) ウエストランド リンクス HAS.2(海軍) ウェストランド ワスプ HAS.1(海軍) ウェストランド ウェセックス HAS.3/HU.5(海軍) ウェストランド ガゼル AH.1(陸軍、海兵隊) ウェストランド スカウト AH.1(陸軍、海兵隊) ボーイング チヌーク HC.1(空軍) 年表 1982年 3月19日:アルゼンチンの「解体業者」がアルゼンチン海軍輸送艦バイア・ブエン・スセソで入国手続き一切を無視して、サウス・ジョージア島に上陸。アルゼンチン国旗の掲揚などを行った。 3月22日:アルゼンチン海軍輸送艦バイア・ブエン・スセソ、イギリス側からの抗議によりサウス・ジョージア島より撤収。イギリス、氷況巡視船エンデュアランスに海兵隊員と軍用ヘリを積載し同島海域へ派遣する。 3月26日:アルゼンチン海軍砕氷艦バイア・パライソがサウス・ジョージア島にアルゼンチン軍海兵隊と補給物資を輸送。 3月30日:アルゼンチン軍、ベインティシンコ・デ・マヨを旗艦とする艦隊をフォークランド諸島海域に派遣。 3月31日:イギリスのサッチャー首相が、極秘情報によりアルゼンチンのフォークランド侵攻が本気であることを知った。「(侵攻を)計画するだけでもばかばかしく、そんなばかげたことをするはずがない」と思い込んでいた。イギリス首相(当時)の人生で最悪の日であり、取り返せるかもわからなかったと証言(イギリス非公開委員会議事録)。 4月2日:アルゼンチン軍がフォークランド諸島に上陸し、これを占領した。イギリスのレックス・ハント総督以下イギリス軍を捕虜とする。イギリス、アルゼンチンに国交断絶通告。 4月3日:アルゼンチン軍、サウス・ジョージア島を占領。アルゼンチン海軍A69型コルベットゲリコが同島に接近時にイギリス軍守備隊の対戦車ロケット砲の攻撃を受け中破した。 国連安全保障理事会決議第502号、アルゼンチンの撤退を求める。 4月4日:アルゼンチン政府が全ての国内にあるイギリス資産を凍結。 4月5日:イギリス艦隊、ポーツマス港を出港、イギリスのエリザベス2世が民船徴用権付与。 4月10日:ECが対アルゼンチン経済封鎖を承認。西ドイツやフランスなどの加盟国が対アルゼンチン経済制裁を行う。 4月12日:イギリス軍、フォークランド諸島周辺の洋上封鎖発効。 4月18日:イギリス海軍の機動部隊がイギリス領アセンション島を出港。 4月20日:イギリス空軍、アセンション島より発進した第55飛行隊のヴィクターがサウス・ジョージア島を偵察。 駆逐艦アントリムを筆頭としたタスクフォース、同海域に先に派遣されていた氷況巡視船エンデュアランスと合流しサウス・ジョージア島に接近。 4月21日早朝:イギリス軍SAS の偵察隊がサウス・ジョージア島にヘリによる上陸を敢行するも悪天候で作戦行動がとれず、撤収。その際、輸送に使用されたイギリス海軍のウェセックス HU.5ヘリコプターが2機が悪天候により墜落。搭乗員は他のヘリにより救助された。 哨戒任務で出撃していたイギリス海軍第800飛行隊のシーハリアーと偵察任務で飛来したアルゼンチン空軍第1グループのボーイング707が会敵。海空封鎖発効前だったためハリアー側は発砲許可がおりず、写真撮影のみで両機撤収。 4月22日深夜:イギリス海兵隊特殊舟艇隊 (SBS)、サウス・ジョージア島にゴムボートによる偵察上陸を敢行するも一部が悪天候により上陸に失敗し、遭難。後にヘリにより救助された。 4月25日早朝:イギリス海軍タスクフォース艦載のウェセックス HU.5らヘリコプター部隊がサウス・ジョージア島沖合でアルゼンチン海軍潜水艦サンタフェを発見し攻撃、サンタフェは同日サウス・ジョージア島に擱座。乗組員はサンタフェを放棄し上陸後、イギリス軍に降伏した。 4月25日午後: イギリス海兵隊がサウス・ジョージア島に上陸しこれを奪回する。同島のアルゼンチン軍守備隊は全員降伏した。 4月29日:アルゼンチン政府がアメリカによる調停案を拒否。 4月30日:イギリス、フォークランド諸島周辺の海空封鎖発効。 5月1日早朝:イギリス空軍、アセンション島より発進した第101飛行隊のバルカン爆撃機が長途飛来、諸島内のポート・スタンレーの飛行場への長距離爆撃を初実施し滑走路を破壊。 5月1日午前:イギリス海軍、空母ハーミーズ、インヴィンシブル艦載の第800,801飛行隊シーハリアー FRS.1が出撃。第800飛行隊のシーハリアー12機がポート・スタンレーとグース・グリーンの飛行場を空爆。 5月1日午後:イギリス海軍、駆逐艦グラモーガン、フリゲート艦アラクリティ、アローがポート・スタンレー飛行場周辺へ艦砲射撃を敢行。ペブル島のアルゼンチン海軍第4航空隊のビーチ T-34C-1 ターボメンター攻撃機3機が迎撃に出るも第801飛行隊所属のシーハリアー2機の迎撃により遁走。 イギリス海軍、第801飛行隊のシーハリアー部隊とアルゼンチン空軍、第8グループのミラージュIII、第6グループのダガー攻撃機部隊が交戦。ミラージュIII、ダガーそれぞれ2機が撃墜される(うち1機はアルゼンチン軍守備隊の対空砲の誤射にて)。 アルゼンチン空軍、第6グループのダガー攻撃機部隊3機がポート・スタンレーへ艦砲射撃を実施していた艦隊を爆弾と機関砲で攻撃、イギリス海軍、駆逐艦グラモーガン、フリゲート艦アラクリティ、アローなどそれぞれ小規模の損害を受けた。 5月1日夜:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機6機がイギリス海軍艦隊へ空爆をかけようと接近するもイギリス海軍、第801飛行隊所属のシーハリアー2機の迎撃を受け、2機が撃墜、残った機は攻撃を断念し撤収。 アルゼンチン海軍、209型潜水艦サン・ルイス、フォークランド諸島北部海域に接近していたイギリス海軍艦隊のフリゲート艦ブリリアント、ヤーマスに魚雷攻撃を行うも失敗に終わる。 5月2日午後:フォークランド諸島南部近海にてイギリス海軍、原潜コンカラーがアルゼンチン海軍巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノを魚雷攻撃により撃沈する。 5月2日深夜:フォークランド諸島北部近海にてイギリス海軍のシーキングヘリコプターがポート・スタンレーよりパイロット捜索に派遣されていたアルゼンチン海軍の哨戒艇コモドーレ・ソメレーラ、アルフェレツ・ソブラルの二隻と会敵。直後に要撃に出たイギリス海軍のリンクスが二隻をシースクア対艦ミサイルで攻撃し、コモドロ・ソメレーナは撃沈された。アルフェレツ・ソブラルは大破、アルゼンチン本国へ自力で帰還。 5月3日深夜:イギリス空軍、アセンション島より発進した第55飛行隊のバルカン爆撃機が長途飛来、諸島内のポート・スタンレーの飛行場への長距離爆撃を再度実施するも飛行場への損害は与えられなかった。 5月4日:アルゼンチン海軍、第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機が空対艦ミサイル・エグゾセAM39の2発でイギリス海軍42型駆逐艦シェフィールドを攻撃、1発が命中しシェフィールドは炎上し総員退艦、12型フリゲートヤーマスに曳航されるも5月10日に沈没した。 対地攻撃を行っていたイギリス海軍の第800飛行隊所属のシーハリアー1機がアルゼンチン軍守備隊の対空機関砲により撃墜される。 5月5日:アルゼンチン政府がペレス・デ・クエヤル国連事務総長による調停案を受諾。 アルゼンチン海軍、ベインティシンコ・デ・マヨ艦載のトラッカー哨戒機が潜航中の潜水艦らしき艦影(正体不明)を捉えた。ベインティシンコ・デ・マヨの対潜ヘリ部隊が対潜行動を取るも捕捉できず。以後ベインティシンコ・デ・マヨはアルゼンチン、バイア・ブランカに帰港し紛争終結まで出撃しなかった。 5月6日:イギリス海軍、インヴィンシブル艦載の第801飛行隊所属のシーハリアー2機が哨戒任務中に行方不明に(空中衝突による損失と見られているが詳細は不明)。 5月9日:イギリス海軍、第800飛行隊所属のシーハリアーが情報収集船として派遣されていたアルゼンチン籍の大型トロール漁船ナルワル号を攻撃、同船はイギリス海軍に拿捕されるも曳航中に沈没した。乗組員は全員捕虜となった。 アルゼンチン空軍、第4グループのA-4スカイホーク攻撃機2機が天候不良で墜落した。 イギリス海軍、駆逐艦コヴェントリーがポート・スタンレー近郊を飛行していたアルゼンチン陸軍のピューマヘリコプターをシーダードミサイルで撃墜する。 5月10日:イギリス海軍、フリゲート艦アラクリティがフォークランド海峡にてアルゼンチン海軍の補給艦イスラ・デ・ロス・エスタドスを砲撃で撃沈する。 5月12日:アルゼンチン空軍、第5グループのA-4スカイホーク攻撃機部隊がイギリス海軍艦隊へ攻撃。42型駆逐艦グラスゴーに爆弾が命中するも不発に終わる。A-4スカイホーク4機が撃墜された。 5月14日:イギリスSAS D中隊45名がペプル島にシーキングヘリコプター2機で上陸し同島の飛行場を襲撃。飛行場に駐機してあったアルゼンチン機のすべてを爆破工作により破壊し滑走路を使用不能に。この攻撃でアルゼンチン側は海軍第4航空隊所属のプカラ攻撃機6機、ターボメンター軽攻撃機4機、沿岸警備隊のスカイバン輸送機1機を損失。 5月15日:イギリス空軍のニムロッド偵察機がアセンション島よりフォークランド諸島上空に飛来。アルゼンチン海軍の動向を偵察する。 5月16日:フォークランド諸島近海に侵入したアルゼンチン海軍輸送艦バイア・ブエン・スセソ、リオ・カルカナーラがイギリス海軍第800飛行隊所属のシーハリアーに発見され攻撃を受けた。両艦の乗員は共に艦を放棄して脱出した。 5月17日:イギリス海軍徴用コンテナ船アトランティック・コンベイヤーを含む補給艦隊が補給物資を機動艦隊に運搬。イギリス空軍、第1飛行隊所属のハリアー GR.3の6機が空母ハーミーズに合流、イギリス海軍第800,801飛行隊、補給のシーハリアーを4機ずつ受領。 5月19日:イギリスSASのチームを移送中だった シーキングが海鳥との接触事故で墜落、乗員22名が死亡した。 空母「ハーミーズ」より発艦した シーキングがチリのプンタ・アレナスに着陸。乗組員は全員チリ当局に出頭後、後にイギリスに帰国(SASのアルゼンチンに対する極秘作戦だったなど諸説あるが詳細は不明である。) 5月20日:アメリカ政府がKC-135空中給油機のイギリスへの貸与を決定。 イギリス空軍、第1飛行隊所属のハリアー GR.3が西フォークランド島のアルゼンチン軍燃料集積所を空爆。 5月21日早朝:揚陸艦フィアレスを中核とした揚陸艦隊による上陸作戦を開始、イギリス陸軍空挺連隊、海兵隊コマンド大隊が東フォークランド島、サン・カルロスより上陸を開始した。 イギリスSAS部隊40名が上陸部隊支援のためにグース・グリーンにヘリにより降下し、陽動作戦を開始。偵察飛行中だったアルゼンチン空軍第3グループのプカラ攻撃機1機をスティンガーミサイルで撃墜する。 イギリス空軍第1飛行隊のハリアー GR.3がケント山近郊に駐機していたアルゼンチン陸軍のヘリコプター部隊を攻撃。チヌーク1機、ピューマ2機を破壊する。 イギリス海軍、レイピアミサイルの空輸中だったシーキングヘリコプター1機と護衛のガゼルヘリコプター1機からなる編隊がアルゼンチン守備隊から銃撃を受け、ガゼルヘリコプター1機が撃墜。直後に飛来したガゼルヘリコプター1機も同じく銃撃を受け、撃墜された。 イギリス空軍第1飛行隊のハリアー GR.3の1機がアルゼンチン陸軍の対空機関砲にて撃墜される。パイロットの空軍大尉は脱出後、アルゼンチン軍の捕虜となった(アルゼンチン本国に移送後、紛争終結後に無事帰国)。 5月21日午前:アルゼンチン海軍、第一航空隊所属のマッキ攻撃機がイギリス海軍のフリゲート艦アーゴノートをロケット弾と機関砲で攻撃、アーゴノートの損傷は軽微であった。 アルゼンチン空軍、第6グループ所属ダガー攻撃機部隊が揚陸部隊を護衛する艦隊を攻撃、駆逐艦アントリムに爆弾が命中するも不発に終わった。ダガー数機が撃墜された。 5月21日正午:アルゼンチン空軍、第3グループのプカラ攻撃隊2機がイギリス陸軍橋頭保へ攻撃をかけるも艦隊の対空砲火と海軍第801飛行隊の攻撃で阻止、プカラ1機を撃墜する。 アルゼンチン空軍、第5グループ所属A-4スカイホーク攻撃機隊の一部がアルゼンチン海軍が放棄していた輸送艦リオ・カルカナーラを誤爆、イギリス海軍アーデント(21型フリゲート)を空爆するも失敗に終わった。フリゲート艦アーゴノートに爆弾2発が命中(2発とも不発)、中破。 5月21日午後:アルゼンチン空軍、第6グループ所属ダガー攻撃機部隊がアーデントを攻撃し、爆弾2発が命中しアーデントは対空ミサイル発射機、主砲が損傷し使用不能になった。直後にアルゼンチン空軍5グループとアルゼンチン海軍第3航空隊所属A-4スカイホーク攻撃機隊がさらにアーデントを反復攻撃し、アーデントは爆弾計3発が艦尾で炸裂し大破され総員退艦の6時間後に沈没した。 5月22日: フォークランド諸島、チョイゼウル海峡を飛行中のイギリス海軍第801飛行隊のシーハリアー2機が補給物資輸送中だったアルゼンチン沿岸警備隊のパトロール艇リオ・イグアスを発見し機関砲で攻撃。リオ・イグアスは大破、炎上し放棄された。 イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の4機がグース・グリーンのアルゼンチン軍陣地を空爆。 アルゼンチン空軍、第1グループのボーイング707がフォークランド諸島北のイギリス海軍艦隊を偵察。駆逐艦ブリストルとカーディフからシーダート対空ミサイルによる迎撃を受けるが回避、撤収。 5月23日:フォークランド海峡上空を哨戒中だったイギリス海軍、第801飛行隊所属のシーハリアーがシャグ・コーブ入江近くを低空飛行中のアルゼンチン軍ヘリ部隊4機(ピューマヘリ3機、アグスタ A109ヘリ1機で構成)を発見、接近時にピューマ1機が墜落した。残りの3機は強行着陸を行い、搭乗員は逃走した。残った3機はすべてシーハリアーの機関砲により撃破された。 5月23日午後:アルゼンチン空軍、第5グループとアルゼンチン海軍第3飛行隊所属のA-4攻撃機がイギリス海軍艦隊を攻撃。イギリス海軍、21型フリゲートアンテロープ(HMS Antelope) が爆弾2発を被弾、2発とも不発弾で炸裂はしなかった。A-4数機が艦隊の対空砲火と陸上からの対空ミサイルの迎撃で撃墜された。 イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の3機がペブル島のアルゼンチン軍残存勢力に攻撃。 アルゼンチン海軍第2航空隊のシュペルエタンダール攻撃機2機がフォークランド諸島東側に展開するイギリス艦隊へ対艦ミサイル空対艦ミサイル・エグゾセAM39による空襲をかけようとするも標的を捉えられず、帰還。 5月23日深夜:イギリス海軍、21型フリゲートアンテロープが船体に埋まった不発弾の信管除去作業中に爆発し、大破、沈没した。 イギリス海軍第800飛行隊のシーハリアー4機がポート・スタンレー飛行場周辺のアルゼンチン軍陣地を空爆のために空母ハーミーズから出撃、その際、シーハリアー1機が海上に墜落し喪失した。 5月24日早朝: イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機とイギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の4機がポート・スタンレー飛行場のアルゼンチン軍陣地を空爆。 アルゼンチン空軍、第4、第5、第6グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機とダガー攻撃機の編隊がイギリス海軍艦隊を空襲。イギリス海軍揚陸艦サー・ランスロット、サー・ガラハドに爆弾が1発ずつ命中(不発)、サー・ベディベアが小規模な損害を受けた。ダガー、スカイホーク数機が対空砲火で撃墜された。 イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機とアルゼンチン空軍、第6グループダガー攻撃機4機が交戦。ダガー2機が撃墜される。 5月24日夜:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機編隊が東フォークランド島のサン・カルロス近郊に展開するイギリス陸軍に対して空爆。損害は与えられなかった。 5月25日早朝:アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機がサン・カルロスを高高度偵察。入江に展開する艦隊の位置を把握する。 5月25日午前:アルゼンチン空軍、第4、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機編隊がサン・カルロス入江近辺に展開するイギリス海軍の揚陸艦隊を攻撃。激しい迎撃で損害は与えられず、数機が対空砲火で撃墜された。内、パイロットのアルゼンチン空軍中尉が脱出後、イギリス海軍揚陸艦「フィアレス」に収容され、捕虜となった。 5月25日午後:アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機編隊がペブル島沿岸に展開していたイギリス海軍艦隊を発見し、攻撃。イギリス海軍、駆逐艦コヴェントリーが爆弾3発を受け命中し、炸裂し撃沈された。フリゲート艦ブロードソード、不発の爆弾1発が海面を反跳し飛行甲板を下方向から斜めに貫通、艦載ヘリコプターのリンクスを破壊。 アルゼンチン海軍、第2航空隊、シュペルエタンダール攻撃機2機がフォークランド諸島北東海域に展開中の艦隊を空襲、空対艦ミサイル・エグゾセAM39の2発を発射する。イギリス海軍徴用コンテナ船アトランティック・コンベイヤーに1発が命中し大破炎上、積載していたチヌーク、ウェセックス、リンクスなどのヘリコプター計10機とトラック等の車両十数台、爆弾や航空機部品など大量の補給物資が失われた。アトランティック・コンベイヤーは曳航されるも30日に沈没した。 ガルチェリ大統領はそれまで反共の理念で敵対していたキューバのフィデル・カストロ首相に、キューバがアルゼンチンの立場を支持したことに対して感謝の書簡を送った。 5月26日早朝:サン・カルロスに上陸していたイギリス陸軍がフォークランド諸島各所に進出を開始。陸軍空挺連隊第2、第3大隊はそれぞれグースグリーン方面と西のティール入江方面へ、海兵隊第42コマンド大隊はポート・スタンレー方面に進撃。 5月27日午前:アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機が陸上に展開するイギリス軍を偵察。 イギリス陸軍、第2空挺大隊の航空支援を行っていたイギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の1機がアルゼンチン陸軍の対空機関砲により撃墜される。パイロットは脱出後、数日民家に身を潜めた後、イギリス軍のヘリコプターにより救助された。 5月27日午後:アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機2機がサン・カルロス近郊のエイジャックス・ベイに展開していたイギリス陸軍の資材集積所、および戦時病院として利用していた冷凍食品工場周辺を空爆。損害を与えた。スカイホークの1機が迎撃により撃墜。パイロットは脱出後、民家で食糧を調達しながら徒歩で移動し数日後にアルゼンチン軍に救助される。 5月28日:アルゼンチン空軍、第3グループのプカラ攻撃機部隊がグースグリーンに進撃中のイギリス陸軍空挺部隊へ通常爆弾やナパーム弾による反復攻撃を行い、途中イギリス陸軍のスカウトヘリを機銃で撃墜。イギリス軍空隊部隊のブローパイプ対空ミサイルや機関銃、小銃の対空砲火でプカラ攻撃機数機が喪失した。 アルゼンチン海軍、第一航空隊所属のマッキ攻撃機1機がポート・スタンレーより出撃し、グースグリーンに進撃中のイギリス陸軍空挺部隊への阻止攻撃を行うもイギリス軍空隊部隊のブローパイプ対空ミサイルで撃墜される。 5月29日早朝:グース・グリーンのアルゼンチン陸軍守備隊が降伏した。イギリス陸軍空挺連隊第2大隊がポート・ダーウィンとグース・グリーンを占領。 5月29日: イギリス海軍、空母インヴィンシブル艦上にて発艦準備中だった第801飛行隊のシーハリアーが甲板から落下し喪失、パイロットは脱出した。 フォークランド諸島北部で補給物資輸送中のイギリス海軍徴用の貨物船ブリティッシュ・ウェイがアルゼンチン空軍第1グループ所属のC-130改造爆撃機から空爆を受ける。爆弾8発中1発が命中するも不発で船体で弾き飛ばされ、損傷は軽微だった。 5月30日:アルゼンチン陸軍記念日の演説に際し、ガルチェリ大統領が「必要なら世界の他の地域(東側諸国を意味)からの支援を要請する」旨を言明。 5月30日午後:イギリス空軍、第1飛行隊ハリアー GR.3の1機が攻撃から帰還中に戦闘による被弾による損傷が元で墜落、パイロットは救助された。 アルゼンチン海軍、第2航空隊所属のシュペルエタンダール攻撃機2機とA-4スカイホーク攻撃機4機がフォークランド諸島北東海域に展開しているイギリス海軍旗艦ハーミーズの艦隊を空襲。空対艦ミサイル・エグゾセAM39の1発を発射するも命中せず(イギリス側はフリゲート艦アヴェンジャーの艦砲による撃墜を主張しているが詳細不明)。駆逐艦エグゼターのシーダート対空ミサイルによる迎撃でスカイホーク攻撃機2機が撃墜される。 イギリス海兵隊第42コマンド大隊K中隊がケント山を占拠。 5月30日深夜:ケント山に展開していたイギリス陸軍SASチームとケント山奪還のために派遣されたアルゼンチン陸軍のコマンド中隊がケント山北東部で衝突。翌日早朝にアルゼンチン軍コマンド部隊奪還を諦め撤収。 5月31日:イギリス空軍、アセンション島より発進したバルカン爆撃機が長途飛来。ポート・スタンレーのアルゼンチン軍射撃統制レーダー施設へシュライク対レーダーミサイルにて攻撃。損害はほとんど与えられず。 6月1日早朝:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機4機がイギリス軍のサン・カルロス陣地へ攻撃をかけるもイギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアーの迎撃を受けて攻撃を断念し、撤収。 アルゼンチン空軍、第1グループ所属のC-130輸送機1機がポート・スタンレーへの輸送任務を終えて帰還中に独断でサン・カルロス周辺をレーダーで偵察。イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機が迎撃。C-130は対空ミサイルと機関砲により撃墜される。 イギリス空軍、ハリアー GR.3の2機がアセンション島より空中給油で長距離飛行を敢行し空母ハーミーズに飛来、第1飛行隊に合流する。 6月1日午後:イギリス海軍、第801飛行隊のシーハリアー1機がポート・スタンレー上空の哨戒任務中にアルゼンチン軍のローランド対空ミサイルにより撃墜、パイロットは海上でイギリス軍により救助された。 6月2日:ガルチェリがソ連およびワルシャワ条約機構諸国の援助を受け入れることを示唆する。 サン・カルロスにイギリス軍の工兵隊が建築したハリアー用の臨時飛行場が完成。 イギリス陸軍、空挺部隊2個中隊がフィッツロイ周辺の占拠のため、フィッツロイ8km西にシヌークヘリコプターで降下。 6月3日:イギリス空軍、アセンション島より発進したバルカン爆撃機が長途飛来。ポート・スタンレーのアルゼンチン軍射撃統制レーダー施設へシュライク対レーダーミサイルにて再攻撃を開始、射撃統制レーダーに大きな損傷を与えた。攻撃を行ったバルカン爆撃機は帰還中に空中給油機のトラブルからアセンション島への帰還が不可能になり、急遽ブラジル、リオデジャネイロの飛行場に緊急着陸した。イギリス、ブラジル間の交渉により、このバルカン爆撃機は搭乗員と共に6月11日にアセンション島に帰還。 6月5日:サン・カルロスのハリアー用の臨時飛行場が稼働を開始した。イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアー2機とイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の2機が飛行場に到着する。 6月7日:アルゼンチン政府が国連の撤退提案を拒否。 イギリス海軍、揚陸艦フィアレス、イントレピッドを中核とした揚陸艦隊がフィッツロイ上陸のために同海域に進出を開始する。 6月7日朝:アルゼンチン空軍、第2グループのリアジェット捜索機4機がサン・カルロス上空を高高度偵察。イギリス海軍、駆逐艦エグゼターのシーダート対空ミサイルによる迎撃により、リアジェット捜索機1機が撃墜。 6月8日早朝:サン・カルロスの臨時飛行場にてイギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3の1機が偵察より帰還した際にエンジンの不調で着陸に失敗、墜落。一時的に滑走路が使用不能に。 イギリス陸軍フィッツロイ上陸を開始。アルゼンチン陸軍、イギリス軍のフィッツロイ上陸を察知し、空軍による攻撃を伝達。 6月8日午前:アルゼンチン空軍、第5グループ所属ダガー攻撃機5機がフィッツロイに展開するイギリス海軍揚陸艦隊を攻撃、イギリス海軍フリゲート艦プリマスに爆弾4発が命中(すべて不発)し、さらに搭載していたヘリコプター積載の爆雷が爆発、大破炎上するも沈没を免れた。 アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機5機がフィッツロイに展開するイギリス海軍揚陸艦隊を攻撃、イギリス海軍補給揚陸艦サー・ガラハドは爆弾が直撃し大破炎上、撃沈された。補給揚陸艦サー・トリストラムも爆弾が直撃し大破された。両艦合わせてイギリス軍兵士51名が戦死、46名が負傷した。 6月8日午後:アルゼンチン空軍、第4グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機4機がフィッツロイへ空爆に来襲するも陸上にイギリス軍が設置していたレイピア対空ミサイルと機関銃による迎撃を受け、損傷し撤収。 アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機4機がグースグリーンからフィッツロイに兵士を輸送していたイギリス海軍の揚陸艦フィアレスのF4号揚陸艇を攻撃し爆弾を直撃させ撃沈、6名のイギリス兵が死亡した。イギリス海軍、第800飛行隊のシーハリアーが迎撃し、3機のスカイホークが撃墜された。 アルゼンチン空軍、第1グループ所属のC-130改造爆撃機がアメリカ籍のチャーター船であるタンカーハーキュリーズを爆撃、爆弾1発が命中するも不発。 イギリス空軍、ハリアー GR.3の2機が増援としてアセンション島より空中給油で長距離飛行を敢行し空母ハーミーズに飛来、第1飛行隊に合流。 6月9日:アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンがイギリス支持を再度表明。 6月10日:イギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3数機がフォークランド諸島各所のアルゼンチン軍陣を偵察。 6月11日:イギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3とイギリス海軍、第800、第801飛行隊のシーハリアーらがポート・スタンレーのアルゼンチン陣地を重点爆撃。 イギリス陸軍、ポート・スタンレー周辺をほぼ包囲。 6月12日:ポート・スタンレーのアルゼンチン軍守備隊が補給物資として受領していた艦対艦ミサイル・エグゾセMM38をトレーラーを改造した発射機にて陸上から発射。イギリス海軍、カウンティ級駆逐艦グラモーガンの後部甲板に命中(不発)し中破、甲板上のウェセックス・ヘリを破壊し死者13名、負傷者17名を出した。 6月13日午後:アルゼンチン空軍、第5グループ所属のA-4スカイホーク攻撃機7機がケント山に展開するイギリス陸軍第3コマンド旅団の司令部陣地を空襲。駐機していたイギリス陸軍のヘリコプター数機が損傷した。 イギリス陸軍、イギリス空軍、第1飛行隊のハリアー GR.3と連携しレーザー誘導爆弾によるアルゼンチン軍陣地の空爆を実施する。 6月13日夜:アルゼンチン空軍、第2グループ所属のキャンベラ爆撃機編隊が爆撃に来襲するもイギリス海軍、駆逐艦エグゼターのシーダート対空ミサイルによる迎撃により、1機が撃墜され、撤収された。 イギリス陸軍と海兵隊、ポート・スタンレーへ北部、中央部、南部の三方からの全面攻撃を開始。ポート・スタンレー周辺各所にてアルゼンチン陸軍守備隊と激しく交戦した。 イギリス陸軍SASのD中隊、G中隊系60名とSBS6名が高速ボート4隻でポート・スタンレー港を急襲。銃撃で燃料タンクを爆破するもアルゼンチン軍駐在部隊の銃撃に上陸を阻止され、撤収。 6月14日早朝:イギリス陸軍第二、第三空挺大隊がポート・スタンレー北部のワイアレス・リッジを制圧する。 6月14日午前:イギリス陸軍スコットランド近衛大隊、イギリス海兵隊第45大隊、グルカライフル部隊の混成部隊がダンブルダウン山のアルゼンチン軍陣地を突破。イギリス陸軍ウェールズ近衛大隊がハリエット山のアルゼンチン軍陣地を突破し、サッパー高地を制圧する。 6月14日正午:イギリス陸軍がポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)から1kmの地点まで接近。アルゼンチン軍守備隊、総司令官マリオ・メネンデス准将が降伏宣言。これによりフォークランド諸島のアルゼンチン軍守備隊すべてが降伏した。 6月15日:ガルチェリ大統領は戦闘終結を正式に宣言したが、「主権はあくまでもアルゼンチンにある」と述べて「イギリスが再び植民地化の動きをみせるなら戦いをやめない」と主張した。 6月16日:アルゼンチンの外相と内相がガルチェリ大統領に抗議し辞表を提出、ガルチェリ大統領は辞表受け取りを拒否した。 6月17日:ガルチェリ大統領が敗北の責任を問われ、大統領及び陸軍総司令官を辞任した。 戦後・影響 アルゼンチン アルゼンチンでは、ガルチェリ大統領が建国以来はじめての敗戦の責任を問われて大統領及び陸軍総司令官を辞任し、失脚した。退役陸軍中将のレイナルド・ビニョーネが大統領に就任したが、戦争初期は軍とペロニスタも挙国一致の下に和解し、「海賊英国」、「ガルチェリ万歳」を連呼していたアルゼンチン国民も、この敗戦にかつてないほどの反軍感情を高まらせ、すぐに急進党(旧急進党人民派の流れを汲む)のラウル・アルフォンシンに政権交代が行われて民政移管が完了した。ガルチェリ大統領は「銃殺刑に値する」と言われたが、結果的には懲役12年で済み、ビデラなどの他の軍人と共に1990年に軍と取り引きした大統領カルロス・メネムの特別恩赦によって釈放された。アルゼンチン軍の司令官で「汚い戦争」を指導して多くの市民を秘密裏に殺害したマリオ・メネンデスは「敬虔なカトリック教徒なので自殺は出来ない」と述べ、多くの少年兵が死んだのとは対照的に責任を逃れた。なお、降伏した1万人以上のアルゼンチン軍兵士はウルグアイ経由でアルゼンチンに送還された。この戦争の間にアルゼンチンは国際的な評価を大きく落とし、この回復は文民政権の課題となったが、文民政権の下で20世紀の初めから続いていたチリやブラジルとの軍事対立も急速に収まっていった。一方で敗北した軍は政治力を弱めて大幅に削減され、開戦前には三軍で15万5000人程だったアルゼンチン軍は2000年には三軍で7万1000人程になっている。 また、イギリスがNATOやECの一員として他の加盟国へ協力を依頼し、これを受けて白人国家アルゼンチンの多くの市民の先祖が住むイタリアや西ドイツ、スペインなどのEC加盟国はアルゼンチンへの経済制裁を発動した。 イギリス 多くの艦艇を失い、255人の戦死者を出したものの勝利したイギリスでは、戦前不人気をかこっていたサッチャー首相の人気が急上昇した。それまで不人気だったサッチャー首相は続投し、戦勝によって勢い付いた新自由主義的な改革はイギリス経済を復活させた。 また、それまで「二等市民」扱いされていたフォークランド島民もイギリス本土政府から丁寧に扱われるようになり、イギリスとチリからの投資で島の経済やインフラストラクチャーは発展した。紛争前には少数の部隊しか駐留していなかったが、紛争後には最小限の防空部隊を配備しなければならず、F-4M装備の第23飛行隊を派遣した穴埋めの為、アメリカ海軍で余剰になったF-4Jの中古機を購入している(後にトーネードF.3に交代)。 戦後の両国関係 その後も両国の国交断絶状態が続いたが、1986年6月22日に行われたFIFAワールドカップ・メキシコ大会の準々決勝でサッカーアルゼンチン代表がディエゴ・マラドーナらの活躍によりイングランドチームに2対1で勝利し、敗戦の屈辱が残るアルゼンチン国民を熱狂させた[28]。 1989年10月にアルゼンチンとイギリスは開戦以来の敵対関係の終結を宣言し、翌1990年2月5日、両国は外交関係を正式に回復した。しかし、現在も互いに自国の領有権を主張し続けている。 戦後、イギリスは戦死したアルゼンチン兵の遺骨返還を申し出たが、アルゼンチン政府は諸島へのイギリスの主権を追認することになるとして拒否している。フォークランドのダーウィン墓地には、アルゼンチン兵の墓が237基あり、うち123基は身元不明。戦友の墓参に島を訪れた帰還兵の呼びかけをきっかけに、両国政府は2016年12月に身元確認では合意。赤十字国際委員会が遺骨の発掘とDNA型鑑定を2017年中に終えて最終報告書をまとめる予定であるが、アルゼンチン国内では遺骨返還への異論が依然根強い[29]。 評価と戦訓 海戦 アルゼンチン軍 水上艦 開戦当初、アルゼンチン海軍は空母、駆逐艦、揚陸艦、潜水艦など、主力艦艇を活用して揚陸作戦を展開し、フォークランド諸島を掌握することに成功した。しかし、イギリスの海上封鎖発効後に到着したイギリス海軍の機動艦隊に対する空母、巡洋艦、フリゲートによる波状攻撃計画があったものの、空母ベインティシンコ・デ・マヨの不調による作戦の破綻と巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈により頓挫した。 主力艦艇が大陸棚にくぎ付けになっている間も、フォークランド諸島への海上輸送や撃墜されたパイロットの救助等のために輸送艦や哨戒艇、沿岸警備隊のパトロール艇が活動していたが、イギリス海軍のシーハリアーやヘリコプター、フリゲート艦の攻撃に晒された結果、最終的に3隻の輸送艦、2隻の哨戒艇、1隻のパトロール艇が失われた。 潜水艦 サンタフェ (A.R.A. Santa Fe) は4月2日にコマンド上陸支援を行い成功裏に帰還したが、4月25日にサウスジョージア島付近を水上航行中にイギリス海軍のヘリコプターに発見されロケット弾攻撃などで損傷、座礁し、乗組員は上陸後降伏した。 ドイツ製209型潜水艦であるサンルイス (A.R.A. San Luis) はフォークランド諸島北方海域で哨戒活動を行い、何回かの魚雷による攻撃を行ったとされる。このうち5月1日にはブリリアント、ヤーマスを魚雷攻撃したが命中せず、逆に20時間にわたって追跡と攻撃を受けたが無事逃げることに成功した。5月8日には潜水艦目標に対し、また5月10日にはアロー、アラクリティに対し魚雷攻撃を行ったが失敗した。これらの失敗は、魚雷の調整失敗などによるとされる。その後もサンルイスは終戦まで海域にとどまったため、イギリス海軍はサンルイスの存在に多くの注意を払い続けねばらず、その行動を大きく制限されることになった[30]。 総括 艦艇に膨大な損害を受けたイギリス海軍とは対照的に、アルゼンチン海軍の最終的な大型水上艦損失は巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノがイギリスのチャーチル級原子力潜水艦コンカラーに魚雷で撃沈された(これは原子力潜水艦が史上初めて実戦で戦果をあげたものとなった)だけで、他には小型の哨戒艇や輸送艦などが撃沈破されたのみであった。 イギリス軍 イギリス海軍はアルゼンチン軍の航空機によるエグゾセ・ミサイルと通常爆弾による度重なる攻撃で多くの艦艇を撃沈され、これらの攻撃に対する決定的な対策を打てないままに損失を重ねることとなった。さらに、アルゼンチン軍のスカイホーク、ダガー部隊による低空艦船攻撃を受けた際には、早期警戒機がないことにより防空システムが十分に機能せず、21型フリゲートアンテロープとアーデント、揚陸艦サー・ガラハドなどを撃沈され、多数の艦船に損害をうけた。結果として、アルゼンチン軍による果敢な攻撃に翻弄されたイギリス海軍は駆逐艦2隻、フリゲート2隻、揚陸艦1隻、運搬空母として使用されていたコンテナ船1隻の計6隻を失った。ちなみに、敗北したアルゼンチン海軍の大型艦艇の損失をみると、イギリスのチャーチル級原子力潜水艦コンカラーに魚雷で撃沈されたヘネラル・ベルグラーノの1隻だけに終わった。 他方、この戦争の勝敗に大きな影響を与えた5月21日の揚陸作戦においては、イギリス海軍は膨大な損害を出しつつもその作戦目的を十分に果たしたと言える。その際、多数の護衛艦船に被害が生じたが、揚陸部隊にはほとんど損害を出さないまま揚陸作戦を成功させているためである。ただし、その成功もアルゼンチン軍側の戦略ミスによるものであった。 損失の原因 イギリス海軍に生じた損失の原因は、派遣した艦隊の防空能力のミスマッチ、特に対空火器と、艦載機性能が、アルゼンチン軍の攻撃に対しマッチしなかったことである。その結果、本土より空母(ハーミーズとインヴィンシブル)を派遣したが、アルゼンチン軍の航空機や潜水艦の攻撃による損害を考慮し、フォークランド諸島の東のかなり離れた海域にとどまらざるを得なくなった。 具体的には、対空火器については、実際、揚陸艦隊の護衛や艦砲射撃にフォークランド諸島に接近することとなった駆逐艦、フリゲート艦には対空ミサイルなどの誘導兵器は装備されていた。しかし、その多くは、旧式で対応力が低いシースラグ・ミサイルや、手動で誘導を行うシーキャット・ミサイルであり、これらは命中率が低かった。高高度に対する防空火器としては非常に有効となるシーダート・ミサイルも装備されていたものの、超低空で接近するアルゼンチン軍機に対しては有効な対抗策とはならなかった。なお、当時新型であった近接防空兵器のシーウルフ・ミサイルを装備している艦は22型フリゲートブロードソード、ブリリアントとリアンダー級フリゲートアンドロメダのたった3隻であり、絶対数が不足していた。 このような状況下でイギリス海軍各艦は、デッキの手すりなどに軽機関銃を装着できるように現地で改造を行うなどして急場の対空火器の増強を行うこととなった。 艦載機による防空は、シーハリアーが担当したものの、開戦時はわずか20機に過ぎず絶対数が不足していた。しかもシーハリアーは戦域でのCAP時間も短くなる不利を抱えていた。もともとSTOVL機であり滞空時間も短く、さらにフォークランド諸島から空母が離れていたためである。 特に5月21日から25日、6月8日のアルゼンチン軍の攻撃機による通常爆弾による攻撃では、西側に島影があり、また十分な回避行動がとれない海峡内あるいは湾内にいたこともあって、損害を大きくした。 なお当時の報道では、イギリス艦艇の艦橋の構造物はアルミニウム合金製が主流であり、炎上し易いという弱点を露呈したとされたが事実とは異なる。エグゾセにより沈没した42型駆逐艦シェフィールドはアルミニウム製上構ではなかった。シェフィールドに命中したエグゾセは不発だったが、残っていた燃料による火災が塗料および電線被覆に延焼し、被害を拡大、消火作業を阻害したとされる。また、アルミニウム製上構だった21型フリゲートでも、アルミニウム製上構の脆弱性が大きな原因で沈没した艦船はない。21型フリゲートで沈没したアーデント、アンテロープとも船体への爆撃浸水被害および不発弾処理失敗が沈没原因であった。 航空戦 アルゼンチン軍 アルゼンチン空軍の航空戦力は質の面で不十分であった。アルゼンチン軍のダガーは、空中戦となると最新式の電子装備を持ち機動性に優れるイギリス軍の空母から飛来するハリアーに対抗できなかった。なお、シュペルエタンダールに搭載したエグゾセ空対艦ミサイルは有効ではあったものの、5発しか保有していなかった。 さらに、アルゼンチン空軍にとって、主戦場となったフォークランド諸島とアルゼンチン本土の距離が問題となった。その距離は、低空飛行での作戦行動半径の限界に近く、大きな制約となったのである。また、アルゼンチン空軍の通常時の主な任務は、隣国のチリ(それ以前および紛争時に緊張状態にあった)などに対する本土防衛であった。そのため、アルゼンチン軍には空中給油機が2機しかなかった。上記空中給油機が稼働したとしても、ダガーやミラージュはもそもそも空中給油受油装置を持っていなかった。さらに、本戦争当時、アルゼンチン海軍は空母ベインティシンコ・デ・マヨを保有していたものの、機関部の不調から搭載機の発艦ができず、さらに潜水艦の攻撃による損害を恐れて母港に帰還してしまった。しかも、フォークランド諸島の空港は長距離の滑走路が必要なミラージュなど戦闘機の利用には向いておらず、フォークランド諸島に配備できた航空機はプカラなどの軽攻撃機に限定されてしまっていた。 これらの状況から、ダガーやミラージュは、フォークランド諸島上空で積極的な空中戦闘を行うには航続距離が十分でなく、増槽を装着してもフォークランド諸島上空に留まれるのはわずか十数分程度だった。その結果、アルゼンチン側からの航空攻撃は少数機による五月雨式の攻撃となり、イギリス側が恐れたような多数機による同時攻撃は行われなかった。アルゼンチン側は、イギリス海軍艦船を目標とする攻撃においても、探知を避ける為に超低空で艦隊に接近することを繰り返したが、超低空飛行により更に燃費を悪化させてしまい、運用面からも戦闘行動半径を短くしてしまう結果となった。その上、本戦争の直前に国境付近で緊張状態にあった上述のチリに対してもイギリスとの戦争のどさくさにまぎれて攻撃してくる懸念から、ある程度の兵力を本土防衛に控置しておく必要もあった。 他にも艦船攻撃に用いたエグゾセ対艦ミサイルや500ポンド爆弾の不発率が異常に高かった。これは、エグゾセを当時導入したてであったアルゼンチン海軍では、フランス側の技術者による説明が十分でない段階での使用を強いられていたためであった。実際、マニュアルがすべてフランス語だったため、パイロットと整備員らの負担は激増し、シュペルエタンダール攻撃機のサポート要員として派遣されていたダッソー社の技術者の協力によって搭載、運用することができたという。爆弾の不発は、対地用の調整のままで使用したものが多かったため、対空砲火を潜り抜けようと超低空で投下したことにより、安全装置が外れなかったことが主な原因であった。 アルゼンチン本土から爆撃任務を受けたキャンベラ爆撃機や、フォークランド諸島に配備されていたプカラ攻撃機やターボメンター軽攻撃機も有効な打撃を与えられなかった。これらの航空機は、ミラージュやダガーと比べて機動性が遥かに低く、イギリス海軍艦艇のシーダードミサイルやシーハリアーの要撃、陸軍のブローパイプ対空ミサイルによって撃墜されるか、爆撃前に遁走を強いられるケースがほとんどであった。 全体としてアルゼンチン軍は、航空戦力を攻撃目標に対して対応させる準備が不足したまま開戦に踏み切ったことが明らかになっており、そのことによる装備不足や運用のまずさが露呈した。 これらの点がありつつも各局面において、アルゼンチン空海軍は、航空機による攻撃を活かし、多数のイギリス海軍艦艇を撃沈した。特に5発のフランス製の空対艦ミサイル・エグゾセをシュペルエタンダール攻撃機から発射し、そのうち2発を命中させることにより、イギリスの42型駆逐艦シェフィールドと臨時空母として使用されていた徴用コンテナ船アトランティック・コンベイヤーとを沈没させた。 さらにアルゼンチン軍のスカイホーク、ダガー部隊は、対空砲火と早期発見を避けるために低空飛行で爆弾を投下し、前述のように信管調整の失敗から不発弾もきわめて多い中、21型フリゲートアンテロープとアーデント、揚陸艦サー・ガラハドなどを撃沈するなど、多数の艦船に損害を与えた。 空軍第1グループのC-130などの輸送機部隊は、視界の悪い夜間や悪天候時に出撃し、低空飛行でイギリス側の防空網をかい潜ってフォークランド諸島のアルゼンチン部隊への輸送を60回以上も成功させ、補給物資、野砲、対艦ミサイルの搬入や負傷者、捕虜の本国への輸送を行った。 このように、アルゼンチン空海軍は、個人個人の技量は非常に高かったにもかかわらず、部隊として統制がとれた攻撃はできていなかった。イギリス軍に多くの損害を与え、機動部隊の行動に一定の制約を与えたとは言えるものの、イギリス海軍艦船の対空砲火やソフト面で優れたシーハリアーを相手に、多くの被撃墜機も出し、攻撃も護衛艦船に集中し揚陸部隊への攻撃がほとんど行われなかった。これらの結果、最も重要なイギリス軍による逆上陸の阻止に失敗した。 なお、アルゼンチン軍が使用したエグゾセやそれを搭載したシュペルエタンダールなどの本戦争における戦果は、戦後フランスによる自国製兵器の販売促進に大いに利用された。また、ミラージュ5のイスラエル製無断コピー品であるダガーは、中東戦争以外で初めてアルゼンチン軍により実戦投入された。 イギリス軍 本戦争における航空機の運用目的は、アルゼンチン軍が主に艦船への攻撃であるのに対し、イギリス空海軍は、主としてアルゼンチン軍機からの自国艦船の防御と地上目標の破壊であった。イギリスは電子装備では勝っていたものの、本国から長距離の遠征先での戦いを強いられたため、数の上で圧倒的に不利であった。 具体的なイギリス軍艦船の防御をみると、ハリアーは当初空母ハーミーズに12機、インヴィンシブルに8機の計20機しか搭載がなかったため、攻撃任務に使われると防空を担う機体が不足した。このため、後に徴用したコンテナ船で8機が増派された。また、シーハリアーでは滞空時間が短かく有効な迎撃態勢が整わなかった。さらに早期警戒機を展開できず、超低空で艦隊に接近するアルゼンチン軍の攻撃機を見つけられなかった。この状況から、イギリスは艦載機による即応態勢を整えられず、アルゼンチン軍機による攻撃の阻止は不十分となり、艦隊の外周に配置していたレーダーピケット艦が被害を受けることが多かった。このために、シーハリアーを搭載していたハーミーズとインヴィンシブルの展開も攻撃を恐れ後方に終始せざるを得ず、地上目標の攻撃に影響を及ぼした。なおイギリス空軍のハリアー GR.3は、増援部隊としてコンテナ船や空輸により運ばれたもののレーダーを装備しておらず、対地攻撃など近接航空支援に専念し空対空戦闘は行っていない。結果的には、イギリス艦艇は膨大な被害を出すこととなった。 航空機同士の戦闘をみた場合、両軍がともに西側の航空機と装備、兵器を使用してはいたもののイギリス軍の方がより新しく、結果、機体の速度や旋廻性能といった性能より、近代戦における電子装備の重要性が明らかとなった。具体的には、アルゼンチン軍機が狭い作戦行動半径のために本格的な空戦を行う余裕がなかったこと、および空対空戦闘よりも対艦攻撃に専念していたことを考慮しても、ハリアーの23対0(イギリス軍発表)という一方的な撃墜スコアに如実に現われていた。なお、アルゼンチン側も空中戦での戦果が無いことは認めている。特に空対空ミサイルの性能差は歴然としており、旧式のミサイルのため、敵機後方に占位しなければロックオンが出来なかったアルゼンチン軍機に対し、アメリカから購入しイギリス軍機の使用した最新式のサイドワインダーAIM-9Lでは限定的ながら正面からのロックオンが可能であった[31]。 地上戦 当初アルゼンチン軍はほぼ無傷でフォークランド諸島を制圧した上、イギリス海軍艦艇に膨大な損害を与えたにもかかわらず、パタゴニアなどに展開していたアルゼンチン陸軍の精鋭部隊が、当時国境紛争を繰り返していたチリとの戦争に備えて待機していたため、その後のイギリス陸軍やイギリス海兵隊の上陸に備えて陸上部隊を増強することができなかった。 フォークランド諸島に展開したアルゼンチン陸軍は新兵を主体としていた上、数の上でも勝っていたわけではなかった。しかしアルゼンチン兵士の創意工夫によって、イギリス軍は著しい損害を被った。とりわけ、サウス・ジョージア島での攻防では、イギリス海兵隊は敵陣にたどり着くまでに多くの犠牲者を出した。これは、本来は陣地戦での攻防や対車両用に用いられるブローニングM2重機関銃にスコープを載せ、遠距離から狙撃したもので、本格的な大口径対人狙撃の始まりとなった。 これに対しイギリス軍兵士の手持ちのL1A1ライフルなど、自動小銃や軽機関銃はまったく射程が足りず、対抗するためにミラン対戦車ミサイルをもって更なる遠距離から機関銃陣地への攻撃を行った。この戦訓は戦後秘匿されたが、一時は存在意義を失っていた対戦車ライフルが『対物ライフル』として見直される等、各国では、陣地攻撃用の携帯兵器の開発を促すきっかけとなった[32]。 統合作戦 冷戦終結までのイギリス軍において複数の軍種による協同のための恒常的な組織は設置されておらず、必要が生じるつどその場限りで3軍いずれかの司令官が協同作戦の司令官を務める体制であった[33]。フォークランド紛争もその例外ではなく、さらに当時のイギリスにはフォークランド諸島での不測事態への備えが存在していなかった。3軍協同作戦の司令官に任命された海軍艦隊司令官は、急遽、地中海で実施される演習への派遣部隊を指揮していた海軍少将を戦域における全兵力の前線指揮官に充てた。しかし、海軍少将は過大な兵力を指揮する負荷を担わされることになった[34]。戦場から1万キロメートル以上はなれたイギリス本国は、前線に対し広範な政治統制と作戦指導を企てた。この過程で前線指揮官は本国との調整に多くの労力を割くことを強いられ、かたや本国の政府や国防省も議会およびメディアに状況を知らせるために詳細な状況報告を求めたことで、前線と本国の間に大容量かつ長時間の通信が必要とされ、意思決定に遅延を招いた[35]。多くの協同作戦が紛争中に実施されたが、その際、協同作戦能力の不足に起因する誤射事件さえ発生した。 こうしたフォークランド紛争の教訓が生かされるようになったのは、ようやく冷戦終結後に至ってのことであった。冷戦終結後、平和の配当への要求と財政難を踏まえて、イギリス軍に対しても経費を削減する一方でいっそうの効率性が求められるようになった。その過程で示されるようになった方向性は、政策と運用の分離による作戦の効率性の追求であり、国防省本部の役割は前者に限定されるようになった。この方向性のもと、政策および軍事戦略と軍事作戦との間の明確な責任範囲と関係形成が求められた。また、3軍の恒常的な統合作戦への備えとして、計画・準備段階から、危機に際しての作戦遂行、戦力回復、事後の戦訓の蓄積までを一貫して担わせる組織の設立が支持された[36]。こうした協同から統合への方向性は、情報通信技術の革新、統合化による効率性の追求、3軍の固定的な区分に由来する国防能力発揮への障害が認識されたことといった、社会の変革によって促進され[37]、常設統合司令部の設置による恒久的な統合作戦のための体制がとられるようになった。 現代への影響 中華人民共和国とアルゼンチンの軍事的接近 2001年にアルゼンチンはデフォルト(債務不履行)に陥った[38]。アルゼンチン政府は保護主義政策をとり輸入制限を行うが、アメリカ・EU・日本はWTOに提訴し、西側諸国と摩擦が起こった[38]。 ラテンアメリカ諸国に接近した中華人民共和国の中国共産党の首脳陣は2011年12月にアルゼンチンを訪問し、「中国のアルゼンチン支持は不変だ」と表明した[38]。2012年6月にも同国の競争部がアルゼンチンを訪問し、「マルビナス(フォークランド)諸島の領有権についてアルゼンチン側の主張を支持する」と主張し、アルゼンチンのフェルナンデス大統領は感謝の意を表明した[38]。 2012年7月、アルゼンチンのブリチェリ国防相が訪中し、中国人民解放軍の主力戦闘機として開発中の第五世代ステルス戦闘機「殲-20」購入にも言及した[38]。また、アルゼンチンは、中華人民共和国とベトナムやフィリピンの間で問題になっている南シナ海における領有権について、中華人民共和国を支持すると表明した[38]。 2015年2月、フェルナンデス大統領が訪中し、056型コルベットを購入して<b data-parsoid='{"dsr":[61226,61238,3,3]}'>マルビナス級</b>と命名する計画が発表された[39]。また、装甲車や戦闘機の導入も合意した[40]。この際にアルゼンチン議会で承認され、2010年からフェルナンデスが建設を受け入れていたネウケンの人工衛星追跡基地であるは秘密条項も入れた50年契約で敷地を借り上げていることから中国への主権の譲渡や中国による軍事利用の懸念を野党や米国などが示して物議を醸した[41][42][43]。 このような中華人民共和国とアルゼンチンの協力関係を背景にしたイギリス側の報告書では、「イギリスの軍事予算削減によってフォークランド防衛は弱体化し、中華人民共和国からの軍事的及び財政的支援を受けたアルゼンチン軍に奪われた場合、奪還は極めて難しい」と発表している[38]。 尖閣諸島問題との関係 近年、日本と中華人民共和国との間で発生している尖閣諸島問題において、両国ともにこのフォークランド紛争を先行事例として研究している[38]。 教皇フランシスコとの関係 2013年3月15日にイギリスは、バチカン市国の元首にアルゼンチン人が就任したことに警戒感を示し、デーヴィッド・キャメロン首相は「フランシスコ教皇聖下には、先頃行われたフォークランド諸島の帰属に関する住民投票の結果を尊重するように」と、釘を刺した[44]。 脚注 参考文献 M・サッチャー 『サッチャー回顧録 - ダウニング街の日々』 石塚雅彦訳、日本経済新聞社、1993年、ISBN 4-532-16116-9 サンデー・タイムズ特報部編 『フォークランド戦争-“鉄の女”の誤算-』 宮崎正雄訳、原書房、1983年、ISBN 4-562-01374-5 A・プライス, J・エセル 『空戦 フォークランド-ハリアー英国を救う-』 江畑謙介訳、原書房、1984年、ISBN 4-562-01462-8 堀元美 『海戦 フォークランド-現代の海洋戦-』 原書房、1983年、ISBN 4-562-01426-1 三野正洋・深川孝行・仁川正貴 『湾岸戦争 兵器ハンドブック』 朝日ソノラマ、1996年、ISBN 4-257-17313-0 - 後半をフォークランド紛争にあてている。 山崎雅弘 『現代紛争史』 学習研究社<学研M文庫>、2001年、ISBN 4-05-901105-3 ウォーゲーム コマンドマガジン第105号 『フォークランド・ショウダウン』元は海外のウォーゲーム雑誌に掲載されたウォーゲーム。日本語ライセンス化にあたり、ハリアーユニット等の追加・シュペールエタンダールによるエグゾゼ攻撃などの追加ルールをまとめた日本版ヴァリアントを掲載している。 関連項目 フォークランド諸島 アンドルー王子(ヨーク公)- この紛争に従軍した。 オズワルド・アルディレス - サッカー選手・指導者。紛争発生当時はイングランドのトッテナム・ホットスパーに所属してプレーしていたが、混乱を避けるため、紛争期間中はフランスのパリ・サンジェルマンにレンタルに出された。 ステイト・オブ・ウォー - フォークランド紛争を題材にした映画。 MASTERキートン - 主人公が予備役として招集されたと思しき記述がある。 フォークランド沖海戦 - 第一次世界大戦でイギリス海軍とドイツ海軍がフォークランド諸島沖で行った海戦。 イギリスの海外領土 外部リンク - 日本放送協会(NHK) 防衛省防衛研究所戦史研究センター、平成26年3月31日
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フェリチンを発見したのは誰
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慢性活動性EBウイルス感染症(まんせいかつどうせいイービーウイルスかんせんしょう、Chronic Active Epstein-Barr Virus infection:CAEBV)とは、ヘルペスウイルス科に属するEBウイルス(Epstein-Barr virus) が感染したTリンパ球やNKリンパ球の増殖が免疫系の制御が不十分となって誘発される高サイトカイン血症である[1]。希ではあるが顕在化すると重篤な症状を起こす。 概説 CAEBVがひとつの疾患単位として認知されたのは1987年頃であり[2]、本質的には白血球増殖性疾患である[3]。CAEBVは、血球貪食症候群を併発したり、最終的に多臓器不全や悪性リンパ腫などを発症することで高い致死率を示す疾患である。症例は日本をはじめとする東アジア地域に集中しており、欧米諸国では症例がないため研究が進んでいない[4]。日本での発症は年間数百名と推測されている[1]。 全身症状を呈し疾患領域や診療科がひとつに特定できないため、確定診断の遅れになっていたが、 EBウイルス感染症研究会ら[5]の長年の研究活動を基礎に、2009年に発足した研究班[6]が学際的にまとめ。成果は2016年、「慢性活動性EBウイルス感染症とその類縁疾患の診療ガイドライン 2016」[7]として発表された。 難治性疾患克服研究事業の対象にされた[8]難病であるが、指定難病ではないため医療費の助成がされず、また、発見・確定診断が遅れる傾向にある[9]。近年、薬剤や造血幹細胞移植技術の進歩により、治療成績が向上している。 臨床像 慢性または反復性の伝染性単核球症様の症状が長期間継続し、抗EBウイルス抗体の異常なパターンを特徴とする疾患であり、発熱、肝脾腫、リンパ節腫脹も特徴に挙げられる[7]。 EBウイルスは大多数の人が感染を経験しているものの、通常は特に問題にはならずに済んでいる。EBウイルスはヒトの唾液の飛沫などを介し、幼少期から思春期にかけて自然に感染が起き、ヒトリンパ球内で増殖するが、体内の免疫機構により処理され、多くの場合 抗体が産生されて制御される。風邪症状や扁桃炎などの経過で数日で治癒し、不顕性感染で終わることが多い。一部の人では初感染時にその免疫反応が強く現れることにより、伝染性単核球症を発病するが、それでも数週の経過で自然治癒するため、問題とはならない。日本人の90%以上がEBウイルスに対する抗体を有しており、検査によって過去に感染をしていたと(つまり既感染パターンと)証明される。 非常に希なケースとして、EBウイルスの初感染時(あるいは既感染のヒトにおいても)、免疫制御されていたウイルスが何らかのきっかけから体内で再活性化することで、持続的にリンパ球内に感染を生じて体内での免疫制御が不能となってしまうことがある。それにより、慢性的にウイルスが増殖活動し、重症化するということが起こる。これがCAEBVである。 この場合、EBウイルスの標的リンパ球はTリンパ球やNKリンパ球であるとされており、この点がBリンパ球を標的としたEBウイルス感染である伝染性単核球症と異なる。これに関しては、EBウイルスは初感染時あるいは再活性化時にはBリンパ球を標的とするが、その際に一部のウイルスがTリンパ球やNKリンパ球にも感染しているものと想定されており、これがCAEBV発病に関与しているとされるが、なぜ発病する人としない人がいるのか、そのメカニズムについてはまだ不明の点が多い。 発病と<b data-parsoid='{"dsr":[2923,2935,3,3]}'>蚊アレルギー</b>との関連が指摘されている[10][11]。NKリンパ球がEBウイルスに感染している人は、蚊にさされた後の皮膚が強くただれたり、潰瘍をきたしたりする(蚊アレルギー)ことが知られ、このような人では将来的に高確率で16歳前後にCAEBVやEBウイルス関連性悪性リンパ腫を発病するとされる[11]。 上述のごとく小児期のEBウイルス感染がそのままCAEBV発病につながることが多いため、日本では小児科領域での研究・治療が進んでいる。しかし、生活習慣・環境の変化などから成人期での発病症例が徐々に増えていることは憂慮すべき事態であり、今後は内科領域での研究の進展が待たれる(成人症例は少なく症例蓄積ができないことに加え、高熱やリンパ節腫脹などの典型的症状をきたす症例以外にも、肝炎症状や横断性脊髄炎などの神経障害が前面に出る症例など多彩であることから、多くの症例が原因不明で診断がつかないまま各診療科に回されている可能性がある)。 症状 初感染では一過性のリンパ増殖性疾患が伝染性単核球症 (IM:infectious mononucleosis)症状として、発熱、急性咽頭炎、頸部リンパ節腫脹、肝脾腫(肝臓や脾臓の肥大)を呈し1〜3ヶ月で治癒する[2]。特徴的な症候は、脾機能亢進症、発疹、ぶどう膜炎、口腔内潰瘍、唾液腺炎、心筋炎、冠動脈瘤など。蚊刺過敏症や種痘様水疱症などの皮膚症状を伴うこともある[12]。3週以上にわたる38.3℃を超える原因不明の高熱、血球減少による貧血・出血症状、肝脾腫などがある。多くの場合は重篤な症状を呈するため、何らかの形で医療機関を受診し、血球分布の異常や肝障害の存在で発見される。 感染リンパ球の髄液中への浸潤から神経障害を経て髄膜炎、脳炎、横断性脊髄炎を呈し、意識障害、痙攣、歩行障害などを呈する症例が報告されている。一方、激烈な症状をきたさず、慢性的な倦怠感などで現れることもあり、慢性疲労症候群と呼ばれている疾患概念の中にCAEBVの一部が含まれていることも、明らかとなっている。 診断基準 CAEBVの2015年厚生労働省研究班による診断基準[7]は、以下の4項目をすべて満たすこととされている: 伝染性単核症様症状が3か月以上持続(連続的または断続的) 末梢血または病変組織におけるEBウイルスゲノム量の増加 T細胞あるいはNK細胞にEB ウイルス感染を認める 既知の疾患とは異なること 検査 検査としては血液中のEBウイルスのDNA定量(リアルタイムPCR法)が行われ、EBウイルスの増加がチェックされる[7]。 EBウイルス抗体検査は、EBVCA IgGの異常高値やEBNA陰性などの所見が得られることがあって診断の参考となるが、特異性は低い。末梢血や骨髄液中のリンパ球の増加、血球貪食症候群を呈している症例では、血球減少と骨髄中への(単球ではなく)の増生、可溶性IL-2レセプター高値、血清フェリチン高値などが見られる。 肝障害症例 - 肝生検で肝実質へのリンパ球の集積がみられる。これらのリンパ球はEBER-1などの免疫染色でEBウイルス陽性を示す。 神経障害症例 - 脊髄MRI検査で横断性脊髄炎の所見が見られることがある。 上のような検査は自費診療のため高額で、患者にとって大きな負担になっている。それだけでなく、検査料が高いため検査せずに他の疾患と考えられたまま治療が続くうちに、症状が悪化しがちである。その意味で、早期発見を妨げている。一部の患者会では署名を集め、厚生労働省に対して疾患知識の周知の要望と合わせて難病指定等による患者負担の軽減の要望を行っている[13]。 治療 化学療法と骨髄移植が選択される[7]。 骨髄移植造血幹細胞移植が有効で、臍帯血移植も行われる。 化学療法小児領域においては血球貪食症候群を併発した症例で抗腫瘍薬エトポシドと免疫抑制剤(シクロスポリン)の併用療法が行われ、一定の効果を挙げている。それ以外には悪性リンパ腫に準じた抗腫瘍薬による化学療法などが行われている。成人でも小児領域に準じて同様の治療が行われているが、これらのいずれもが根治的な治療とはいえず、化学療法だけでは再燃や難治化の局面を迎えて最終的に死の転帰をたどるケースが少なくない。 近年医療成績が向上した。造血幹細胞移植59例中、観察期間(の中央値)3年で66%が生存していたという2012年の報告がある[14]。また、「骨髄非破壊的同種造血幹細胞移植(RIST)」の場合に3年無病生存率が95.0±4.9%だったという2011年の報告がある[15]。は2016年現在で造血幹細胞移植後4年生存者が91〜93%という成績を公表している[16]。同センターは治療について以下引用のように説明している。まず免疫化学療法で病気の鎮静化を図り急変のリスクを回避します。次に感染細胞の減少を期待して多剤併用化学療法を行います。最後の造血幹細胞移植は、大量の抗癌剤(前処置)で感染細胞を含む自己の血液細胞を破壊するとともに、健常なドナーからいただいた造血幹細胞を投与し、健全な造血を回復させる治療法です。 従来はリスクの高い治療法で、感染症、前処置の抗癌剤に起因する合併症、ドナー免疫細胞による臓器障害(GVHD)などの複合要因でときに死に至るほか、移植後には成長ホルモンや性ホルモンの分泌不全、不妊など、犠牲も多い治療法でした。2000年代に入ると薬剤の進歩により、前処置の強度を減じても移植治療が成功するばかりか、移植中のQOL(生活の質)も改善し、移植後のホルモンや生殖能の保持もある程度期待できるようになってきました。 当科では病気が進行する前に治療を開始し、治療をやり遂げる方針をとっています。移植の前処置は強度を減じた方法で行っています。そして症状が安定した状態で移植できれば、骨髄移植でも、近年に広まった臍帯血移植でも成功率に優劣はなく、約90%の人が元気にされています—, 人気声優で歌手の松来未祐の事例[17]でも、2013年頃の高熱ではじまったが原因が分からなかった。2015年6月にCAEBVの疑いが分かったものの、急速に容態が悪化して同年10月に亡くなっている。 脚注 出典 日本臨床免疫学会会誌 Vol.26(2003) No.5 P283-292、doi: 日本小児血液・がん学会雑誌 Vol.52(2015) No.3 p.317-325、doi: 関連書籍 Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help); External link in |publisher= (help)( 監修) の - (※ 本書はCAEBVのほかに、以下の関連疾患の情報も包括している:EBウイルス関連血球貪食性リンパ組織球症(EBV-HLH)、種痘様水泡症、蚊刺過敏症) 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A2%E6%80%A7%E6%B4%BB%E5%8B%95%E6%80%A7EB%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87
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煙草はいつできましたか?
たばこ
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たばこ(煙草、tobacco)は、ナス科タバコ属の栽培種の葉を嗜好品に加工した製品である。 日本の法令上、「たばこ事業法2条3号」により、「製造たばこ」と定義され、「葉たばこを原料の全部又は一部とし、喫煙用、かみ用又はかぎ用に供し得る状態に製造されたもの」である。本項では、これについて記述する。 たばこの用語は、一般に紙巻きたばこを指すことも多い。たばこ製品には他に、噛みたばこ、嗅ぎたばこ、葉巻たばこ、刻みたばこなどがある。刻みたばこは、燃やして喫煙されそのための喫煙具として、パイプ、水タバコ、煙管(キセル)を用いても摂取される。21世紀に普及したものは、加熱式たばこや、ニコチンを気化させる電子たばこである。 タバコの植物は南米のアンデス山脈地方が原産地であり、7世紀ごろのマヤ文明の遺跡からはたばこを嗜むレリーフが発見されており、伝搬してアメリカ大陸全体で用いられるようになった。15世紀のコロンブスによるアメリカ大陸発見より以降、ヨーロッパへも伝搬し、そこから17世紀までにはアジア、アフリカへと伝搬した。 20世紀後半には、その有害性が明らかとなり規制のためのアイデアが持ち上がり、世界保健機関(WHO)元事務局長のグロ・ハーレム・ブルントラントは「たばこは最大の殺人者である」と述べ、2005年にはたばこの規制に関する世界保健機関枠組条約(たばこ規制枠組条約)が結ばれた[1]。たばこ製品の中でも、紙巻きたばこの有害性が最も高いと推定される[2]。たばこの喫煙、無煙たばこ製品、また、受動喫煙環境はIARC発がん性でグループ1(発がん性あり)に分類される。 歴史  植物としてのタバコはアンデス山脈地方を原産地としており、そこから伝播して南北アメリカ大陸全域において使用されるようになっていった。7世紀ごろのマヤ文明・パレンケ遺跡においてはすでに神がたばこをくゆらすレリーフが発見されており、このころにはすでに喫煙の習慣がはじまっていたことを示している[3]。この時期の使用法としては、すでに噛みたばこ、嗅ぎたばこ、喫煙の3種のすべてが出そろっており、また喫煙においてもそのまま乾燥させた葉を巻いて吸う(葉巻)、トウモロコシの葉などに刻んだ煙草を巻き込む(紙巻きたばこ)、刻んだ葉を喫煙具に入れてくゆらす(パイプや煙管)といった現代において使用される喫煙方法が出現していた[4]。たばこは嗜好品として使用されるほか、薬用や宗教行事においても多用されていた[5]。 1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見してしばらくすると、新大陸中に普及していたたばこは新たにやってきたヨーロッパ人たちの目に留まるようになった。新大陸からたばこはヨーロッパへと伝播し、1571年にスペインの医師であるニコラス・モナルデスが新大陸の薬用植物誌を書いた中でたばこの使用法や薬効を詳述している[6][7]。16世紀末に入ると、たばこはヨーロッパからさらにアジアやアフリカへと伝播していった。アジアへの伝播はスペイン人によって1575年にフィリピンに持ち込まれたものが最初であり、以後17世紀初頭までのわずかな間に福建省、インド、ジャワ、日本などにたばこが広まっていった。ほぼ同じ時期に、中東のサファヴィー朝やオスマン帝国にもたばこが広められている。1630年までには西アフリカに、1638年にはマダガスカルでもたばこが確認され、こうしてたばこは新大陸発見からわずか130年ほど、本格的に普及のはじまった1570年代からは60年ほどで全世界へと普及した[8]。この伝播の過程においては、アフリカを除く伝播したほとんどの文化圏(ヨーロッパ諸国、アジア、中東等)においてたばこの薬効に触れた文献が存在しており、薬として受容された面が大きいと考えられている[9]。ただしいったん受容されると、どの文化圏においてもたばこはすぐに嗜好品としての地位を確立するようになった。 こうして新しくたばこが伝播した国々の喫煙方法は、さまざまな形態を取った。もっとも一般的だったものは喫煙具に刻みたばこを詰めて喫煙するパイプたばこであり、スペインを除く各国はまず最初にこの方式でたばこを消費し始めた。日本もこの方式であり、喫煙のための煙管が広く普及した。これに対し、新大陸の広大な領土を持ちインディオたちとの接触も密であったスペインでは、まず葉巻と嗅ぎタバコという二つの方法が主流となった。このうち嗅ぎタバコはフランスを皮切りにヨーロッパへと普及していき、18世紀後半にはヨーロッパにおいてはパイプをしのぐ人気を持つようになった[10]。アジアでは全く新しい喫煙方法として、おそらく16世紀のペルシアにおいて水タバコが発明され[11]、17世紀中にはインドや中近東、東アフリカといった地域においてこれが主流の喫煙方法となった。 急速に全世界へと広まったことでたばこは重要な換金作物となり、世界各地で生産が行われるようになったが、なかでもたばこ生産が経済の重要な地位を占めるようになっていたのはイギリスの植民地であったチェサピーク湾地方にあるヴァージニアとメリーランドの植民地だった。ここで生産された葉たばこはイギリスに輸入されたのちヨーロッパ大陸へと再輸出され、イギリス・西インド諸島・北アメリカ植民地を結ぶ三角貿易の重要な一角となっていた[12]。このたばこ生産は北アメリカ植民地に独自の経済的基盤を与えることとなった。 ヨーロッパ大陸においては19世紀中ごろから、嗅ぎタバコからパイプたばこへとふたたび喫煙方法の転換が起こった[13]。ただしこの転換は緩やかなもので、20世紀に入ってもしばらくの間は嗅ぎタバコの消費は一定の割合を占めており、またスウェーデンのように第二次世界大戦に入るまで嗅ぎタバコが主流となっていた国家も存在した[14]。また18世紀末から、それまでほぼスペインのみで消費されていた葉巻が徐々にヨーロッパ大陸に広まるようになり[15]、19世紀には流行を見せた。アメリカにおいては、アメリカ独立戦争のころからプラグタバコなどの噛みたばこが流行を見せるようになり、19世紀のほぼ全期間にわたってアメリカで最も利用される喫煙方法となっていた。この噛みたばこの隆盛はヨーロッパ大陸ではあまり見られず、アメリカの喫煙を特徴づけるものとなっていた[16]。20世紀に入ると上記のとおり、紙巻きたばこが急速に普及し、パイプたばこのみならずそれまで嗅ぎタバコが主流だったスウェーデンや噛みたばこが主流だったアメリカにおいてもたばこ消費の主流を占めるに至った。 一方で1970年代ごろからたばこの有害性が叫ばれるようになり、禁煙運動が盛んとなって先進国においてたばこの消費は減少の一途をたどることとなった。多国籍企業による豊富な資金力は、開発途上国においてたばこの消費を増加させてきており、2005年には世界保健機関(WHO)が主導するたばこの規制に関する世界保健機関枠組条約(たばこ規制枠組条約)が結ばれた[1]。 有害性 世界保健機関(WHO)元事務局長のグロ・ハーレム・ブルントランドが「たばこは最大の殺人者である」[1]と述べているように、20世紀になってからたばこの有害性が度々指摘されている。主な害として、中毒性、発がん性、心臓病のリスク向上などが挙げられている。 薬物に関する独立科学評議会における、ニコチン含有製品をによって数値化した研究では、紙巻きたばこの有害性を100とすると、小型葉巻67、パイプ22、水パイプ14、電子たばこ4、ニコチンガムやパッチは約2である[2]。 たばこ産業は喫煙者を安心させるために「低タール」の紙巻たばこを開発し、1980年代に入るとさらに「ウルトラライト」などの商品を販売促進してきた[17]。近年では、むしろ肺がん死亡率が上昇してきているという疫学研究の結果が得られている[18]。こうしたタバコが原因のひとつとして説明されている[19]。古き時代と比較して、女性も男性のように早い年齢で頻繁に吸うようになったことも、女性の死亡リスクを増加させてきた[20]。 2015年12月16日のイギリスの議会庶民院では、が「電子たばこが紙巻たばこの喫煙よりも95%安全である」と広報しており、デーヴィッド・キャメロン首相(当時)は、「国民の健康を改善するための正当な方法であることをはっきりと説明すべきである」と答弁した[21]。 死亡者で比較すれば、2009年アメリカ合衆国では、たばこに起因する443,000人の死亡があり、アルコールでは98,334人であり、他の薬物では37,485人で、2008年に処方薬の過剰摂取による死亡が20,044人、違法薬物の使用に起因する死亡は16,044人である[22]。 規制 たばこの有害性は古くから指摘されており、そのため多数の国・地域においてたばこの購入及び消費には年齢制限がかけられている。 日本においては1900年(明治33年)の第2次山縣内閣(山縣有朋首相)下に未成年者喫煙禁止法が制定されて、「満20歳未満の者は喫煙をすることができない」と定められている。一般に「成年になるまで喫煙をできない」と解釈されてきたが、日本における「喫煙の年齢制限」は未成年者喫煙禁止法において明示されているため、「民法上の成年」とは独立した根拠に基づいている。 ただし、成年になるまで喫煙をできないと解釈されてきたため、2015年(平成27年)に第3次安倍内閣(安倍晋三首相)下で公布・2016年(平成28年)施行の公職選挙法改正により「選挙権が20歳から18歳に引き下げられる」とともに「飲酒・喫煙年齢を18歳に引き下げること」も議論されるようになり、同年自由民主党の特命委員会は「喫煙年齢を18歳に引き下げる」よう政府に求める方針を示した。ただし禁煙運動が進む中、この引き下げには慎重論も根強く残っている[23]。 年齢制限は各国で古くからおこなわれてきたが、1970年代後半よりたばこの害は深刻に受け止められるようになり、禁煙運動が大きな広がりを見せるようになった。こうした中で各国はたばこに対し厳しい規制を敷くようになり、1988年には国際連合によって毎年5月31日が世界禁煙デーと定められた。たばこ広告は19世紀以降たばこの消費拡大に大きな役割を果たしてきたが、各国において禁止されるようになり、たばこのパッケージには健康に対する警告が印刷されるようになった。 2005年のたばこの規制に関する世界保健機関枠組条約(たばこ規制枠組条約)は、「受動喫煙の防止、商品のイメージを想起させない統一的な外装、警告表示の掲載、またそれを画像付きにすることといったガイドライン」を提示してきた。 喫煙方法と種類 たばこはまず、燃やしてその煙を吸う(喫煙)するものと、そうしないものの二つに区別される[24]。 一般的には煙草のほとんどは喫煙するタイプのものであるが、喫煙しないタバコとしては、後述する噛みタバコと嗅ぎタバコの二つの種類が存在する。喫煙タバコはさらに、「葉巻きたばこ」と「刻みたばこ」の2種に大別される。葉巻きたばこはタバコの葉を刻まずに丸めたもので、刻みたばこをタバコの葉で巻いたものも存在する。刻みたばこはその形態によって、さらにいくつかに分類される。このほか、21世紀に入ってから電子たばこ、加熱式たばこが実用化され、広まりつつある。 葉巻きたばこ タバコの葉を筒状に巻いたものであり、シガーとも呼ばれる。葉巻きたばこはもっとも原始的なたばこの形態であり、乾燥し発酵させたタバコの葉を巻いて作られている、発祥はメソ・アメリカ文明からと言われ、元々は先住民族間の交流(回し呑み)や、土地の精霊への祖霊祭などに用いられたものを、16世紀からの大航海時代において大陸上陸した貿易商人により古くから貿易品として利用されてきた。 種類は大きく分けて、湿度管理の必要なプレミアムシガーと管理の必要のないドライシガーがある。フィラーは一枚葉を束ねたものを使用する「ロングフィラー」が主流だが、最近は刻みたばこ状にした「ショートフィラー」も出回っている。 刻みたばこ タバコの葉を刻んだもの。刻みたばこは紙で巻いたり、パイプや煙管といった器具に詰めて使用する。刻みたばこを紙にまいて商品化したものが紙巻きたばこである。 紙巻きたばこ 一般にたばこという場合、これを指す。シガレットとも呼ばれる。パイプ等の喫煙用具を必要とせず着火すればそのまま吸えるので、喫煙者に広く普及している。手軽な反面、必ずフィルター部分を中心に一定量の廃棄部分が発生するためポイ捨てされることも多い。1本あたりの平均的な燃焼時間は3~5分程度で、概ね半分から2/3程度吸ったら火を消して、吸殻として捨てる。火のついた先端は非常に高温で800度近くにもなるので、扱いには注意を要する。紙巻き煙草の税率が高いEUでは、あらかじめ長い煙草を作り、自分で切ってさや紙に詰める製品もある(等)。 手巻きたばこ 紙巻きたばこに対し高額な税金が課されている欧州などの国では、刻みたばことシガレットペーパーを別々に購入し、自分で手巻きして喫煙する方法も行われる。手巻き方法は、シガレットペーパーを一枚取りだし、折り目に刻みたばこを摘んで並べる。舌でシガレットペーパーの糊付け部分を湿らせて筒状に丸める。人によってはフィルターを吸引口に装着したり、添加物を加えることもある。 噛みたばこ 噛みたばこは直接タバコの葉を含む混合物を噛むことにより風味を楽しむものであり、タバコの楽しみ方としては最も古い方法である。北米大陸のインディアンは、ライム(石灰)とともに用いている。火気厳禁である場所、たとえば船倉、鉱山、森林などで用いられた。 タバコの葉と石灰などを共に口に含み使用し、唾液は飲み込まず排出する。西部劇などで見られる痰壷はこれを吐き出すためのものである。唾液を飲み込むとニコチン中毒を起こす危険性があり、唾液中のニコチンは水に溶けた状態なので吸収が早く中毒症状も重い。また、口の粘膜から直接成分を吸収する結果、口腔がん及び咽頭がんの大きな要因になるとして問題視されつつある。 現在ではタバコの葉と石灰の組み合わせのほかにさまざまなハーブなどを組み合わせたものや、子供向けの甘味料と香料を多く含んだグトゥカー、ハーブだけで構成されたパーンと呼ばれる製品もある。インドや東南アジアなどが主要な産地である。 かつては世界的に噛みたばこの使用は一般的であったが、公共の場でつばを吐くという行為が不衛生であり、マナーの観点からも好ましくないことで、徐々に紙巻きたばこに需要が移った。また、昨今の禁煙の風潮と相まって、需要は減少傾向にある。 煙を吸引することによる肺活量の低下がないことで、米国メジャー・リーグの選手に噛みたばこを愛用する者が多く、試合中グラウンドやベンチ内でヤニを吐く光景がよく見られる。米国がん協会の1998年と2003年の調査によれば、36%の大リーガーが噛みたばこを愛用している。しかし、健康面での問題がクローズアップされるにつれ、大リーグでの噛みたばこ使用に厳しい目線が向けられるようになり、現在はマイナーリーグで徹底した禁煙教育が行われるようになっている[25]。一方、大リーグでは禁止に至っておらず、2010年には米下院の公聴会で大リーグでの使用禁止の是非が議論された。殿堂入り選手のトニー・グウィンは、2010年に唾液腺ガンが判明した際に、現役時代に愛用していた噛みたばこが原因ではないかと語った[26]。また、ボストン・レッドソックスの主力投手であったカート・シリングは2014年8月に口腔がんに罹患していることを告白し、30年間にわたり愛好した噛みたばこが原因であると語った[27]。日本のプロ野球においてもアメリカ出身の選手に愛用者が多かったが、今ではほとんど見られなくなった。 日本では「煙も出ない、人に迷惑をかけることがないたばこ」であるとして普及の動きがあったが、日本人の舌に合わないせいもあって定着しなかった。2000年代にはガムタイプのファイアーブレイクが発売されたが、2009年に製造が終了した。 嗅ぎたばこ(スナッフ) 嗅ぎたばことは、着火せずに香りを楽しむたばこである。タバコの粉末を鼻孔の粘膜などから摂取する。嗅ぎたばこおよびそれを摂取する行為は「スナッフ」と呼ばれる。口腔がん</b>のリスクを高める。煙を嗜む喫煙よりもその歴史は古いが、日本においてはあまり普及していない。 大きく下記の5種類に分類される。 スコットランド嗅ぎたばこ (Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)イギリス、スコットランドの嗅ぎたばこ、乾燥させてすりつぶしたタバコの粉末に香りをつけたもの。少量を鼻に吸引させ、鼻をつまみ鼻粘膜にすりこんで楽しむ。 アメリカ嗅ぎたばこ (Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)甘い味付けと辛い味付けの2者が主流で、香りや味は様々。湿った粉末様、若しくは細粒様(ロングカット)の物を歯茎に塗って楽しむ。また、次の北欧嗅ぎたばこと同じく上歯茎と上唇の間に置いて楽しむ。 北欧嗅ぎたばこ(スヌース)(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)主に北欧のスウェーデンで生産されている。ルーズ(粉末)タイプとポーション(小袋入り)タイプの2種類がある。ルーズタイプは湿っており、指で口紅や玉のような形状にするか、ポーショナーと呼ばれる道具を使って上歯茎と上唇の間に置く。ポーションタイプは乾燥させたスヌースが入っている物と、少し湿らせたのが入っている物がある。使用法はルーズタイプと同じ。 中国嗅ぎたばこ(鼻烟)粉末状のたばこを指につけたり手の甲にのせ、鼻から吸引して楽しむ。薬としての効能を謳う銘柄もある。明末期~清初期にキリスト教とともに中国にもたらされたが、献上品のスナッフボックスは湿度に弱く数も少なかったため、湿度の高い中国の気候に合わせた独自の鼻烟壺が開発され清代に広く普及した。モンゴルやチベット周辺地域に愛好者が多かったが、現在の中華人民共和国では鼻烟を嗜む人はかなり少数になってしまっている[28]。 ゼロスタイル・ミント (Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)タバコ葉が入ったカートリッジをパイプにセットして口から吸引する。JT独自の商品。 ニコチンフリー嗅ぎたばこ (Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)タバコ葉を使用していない。ハッカやミントの粉末が主成分。使用法は上記のスコットランド嗅ぎたばこや北欧嗅ぎたばこと同じ。 基本的に、5g - 10g程度のケースなどに入れられて販売されており、細かな粉末を鼻から吸引する。親指と人差し指で粉末をつまみ吸引する他、手の甲の親指、人差し指の付け根のくぼみに適量(一つまみほど)のスナッフを載せ、鼻から吸引するのが一般的な嗅ぎたばこの摂取法である。この三角形の窪みは解剖学の分野で「解剖学的嗅ぎ煙草入れ」と呼ばれている。 タバコの粉末の入った小袋を歯茎と上唇の間に挟み、歯茎からニコチンを吸収する喫煙(摂取)は「スヌース」と呼ばれる。小袋に入った状態で販売されているのが一般的だが、粉を直接歯茎と唇の間に挟む摂取法もある。いずれにせよ喫煙とは異なり手、鼻、頬などにタバコの粉末が残りやすいことに加え、「粉末を鼻から吸引する」という行為は麻薬の摂取方法としてもよく知られているために大きな誤解を受けやすい行為であるので注意が必要である。ドラマなどで、嗅ぎたばこの吸引がミステリアスさを醸し出すスパイスとして用いられることがある。 JTのゼロスタイル・ミントは、嗅ぎたばこに馴染みのない日本人に向けた商品で、口から吸い込んで、通る空気を吸い込む。上記の欠点は改善されている。 煙草のケース同様、嗅ぎたばこの粉末ケース(鼻煙壷)にも装飾が施されたものがあり、コレクションの対象となっている。ディクスン・カーの代表作の一つに「皇帝のかぎ煙草入れ(The Emperor's Snuff-Box)」というミステリー小説がある。 喫煙具 パイプ ブライヤ、トウモロコシの軸、セピオライト(海泡石=メシャム)などを加工したものに樹脂製の吸い口を取り付け作られる。主にアメリカやヨーロッパ等で使われる喫煙具。香料を加えて作られた専用の刻みたばこ(香料不使用のものもあり)をボウルに詰めて着火し吸う。欧州では19世紀ごろまでは、労働者等の大衆の喫煙方法とされていた。紙巻きに比べタバコを味わうのに向いている。火が消えやすく、快適に喫煙するにはタバコ葉の詰め方も含めて技術を要する。葉の分量はおおむね2~3グラム(紙巻きたばこ2~4本程度)。紙巻きたばこと違って、吸った煙は肺に入れず、ふかすようにして口腔粘膜からニコチンを摂取する。時間当たりのタバコ葉消費量(燃焼量)は紙巻きの数分の一になるが、フィルターを使わないことが多く、そのぶん濃くなるので紙巻よりも弱くゆっくり吸うためである。パイプを1時間程度かけて一服することにより、紙巻きたばこ10本程度をチェーンスモーキングする程の充足感が得られるとも言われる。場合によっては非常に経済的な喫煙方法であるが、喫煙具自体が高価なことが多く、数千円からハンドメイドのものは数十万円するものもある。各種のデザインのものが売られておりコレクションをする人も多く、趣味性の高い喫煙方法と言える。 水たばこ 水パイプ、水キセル、シーシャとも呼ばれ、タバコ煙を水にくぐらせた後、極めて長い煙路を経て吸引する。タール分や一酸化炭素を主に、多くの煙に含まれる成分が水に溶けて省かれ、また煙温も低下するので、煙および(不可視な)燃焼ガスに一定の成分変化があるとされている。トルコなどの中東方面で用いられる大型のものから、中国などアジアで見られる小型のものまでさまざまあり、日本でも吹きガラス製の水パイプなどが存在している。この喫煙に使った後の廃水は非常に有害である。また、吸い口が直接本体に付いているものは梵具(ぼんぐ)と呼ばれる。こちらは煙路は短い。どちらも実験器具の洗気瓶と同じ構造である。 煙管 煙管(キセル)は日本、朝鮮、中国で見られる喫煙具。パイプをまねて作られた。雁首、羅宇(らお)、吸口から構成され、雁首の火皿に刻みたばこを詰め、着火する。本来、一息で吸いつくすもので、燻らせるものではない。日本では江戸時代の喫煙は大半がキセルによるものだった。一般的に紙巻きやパイプたばこよりも、葉の刻み方が細かい。一服あたりの平均燃焼時間は2~3分程度だが、使うタバコの葉の量は紙巻たばこの1/4程度に相当で、人によっては(本来の喫煙法ではないが)、紙巻きたばこの吸殻(俗にシケモクと呼ばれる)をこれに詰めて吸う人もいる。しかし2000年代以降、日本国内での愛用者は大幅に減少し続けている。 生産と消費 たばこの原料となる葉たばこの生産量は2014年に世界で744万トンにのぼっている。最大の生産国は中国であり、2012年には314万トンが生産され、世界生産の42%を占める一大生産国となっている。以下、ブラジル、インド、アメリカ合衆国、インドネシア、ジンバブエ、マラウイ、アルゼンチン、パキスタン、トルコの順となっている。葉たばこはアフリカのいくつかの国家において重要な輸出産品となっており、なかでも世界第6位の生産量を持つジンバブエと世界第7位の生産量を持つマラウイにおいて、タバコは多大な外貨を稼ぐ最重要の輸出商品となっている。また、たばこの生産は消費の拡大に伴って増加傾向にある。 これに対し、紙巻きたばこの最大の生産国は中国であるが、以下はアメリカ、ロシア、日本、インドネシアと続き、必ずしも葉たばこ生産国が紙巻きたばこの大生産国とはなっていない。これは、消費国において葉たばこを輸入し紙巻きたばこを生産することが多いことによる。 たばこには上記のように様々な種類のものがあるが、実際には消費の大半は紙巻きたばこによって占められている。この傾向は20世紀に入ってから急速に強まり、1900年においては紙巻きたばこはたばこ消費量の8%を占めるにすぎなかったものが、1950年には57%、そして1980年代末には全たばこ消費量の80%以上が紙巻きたばこによって占められるようになった[30]。またこれに伴い、フィリップモリス(アメリカ)やブリティッシュ・アメリカン・タバコ(イギリス)、R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニー(アメリカ)、インペリアル・ブランズ(イギリス)といった巨大なタバコ多国籍企業による市場の寡占化が進むこととなった[31]。1985年に日本専売公社が民営化されて日本たばこ産業が成立すると、積極的な買収と海外進出によって規模を急速に拡大し、巨大タバコ多国籍企業の一角を占めるようになった。 たばこの消費は先進国においては減少を続けているが、発展途上国においては喫煙率こそ減少しているものの、その減少率は人口増加率には追い付いておらず、喫煙人口自体は増加を続けている。発展途上国の全体的な経済の底上げに伴い、喫煙を楽しむことができる程度の収入のある層が増加していることもこの増加の一因である。とくに喫煙人口増加の多い国家はインドと中国で、中国では1982年から2012年までの30年間に喫煙人口は約一億人増加した[32]。 たばこの販売には多くの国において古くから税がかけられており、しばしば政府の重要な収入源となっていた。特に税源の小さな開発途上国においてはたばこ税は財政上非常に重要な意味を持つものであり、1983年のハイチのように実に「全税収の43%がたばこからの税収であった国家」も存在した[33]。2013-2014年の全世界のたばこ税の税収は約2690億ドルと推定されている[34]。 日本においてもたばこ税は存在しており、国税である国たばこ税およびたばこ特別税、そして、地方税である地方たばこ税(道府県たばこ税および市町村たばこ税)がそれぞれかけられている。 特に先進国の各国政府が禁煙へと舵を切るのに伴い、このたばこ税はたばこ消費抑制の意図もあって各国・地域とも高額な税率をかけるようになってきている。またタバコから政府が収入を得る方法としては、税の徴収のほか専売制も広く行われた。 このたばこ専売制をもっとも大規模に行った国の一つが日本であり、1904年(明治37年)7月1日に大蔵省専売局(現:財務省・金融庁)のもとでタバコ製造を専売として以降、1949年(昭和24年)に日本専売公社に改組されるなどの変遷もあったが、1985年(昭和60年)に民営化されて日本たばこ産業が設立されるまでの81年間にわたり日本の財政に大きな役割を果たした。 脚注 関連項目 たばこの銘柄一覧 日本における禁煙治療薬および禁煙用のたばこ代替品の一覧 たばこの添加物の一覧 外部リンク 紙巻たばこの添加物のリスト -
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広島県福山市鞆町の面積は?
鞆町
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鞆町(ともちょう)は、広島県沼隈郡にあった町である[1]。1956年に福山市に編入された。観光地として鞆の浦が有名[2]。 歴史 近世 鞆の浦は古代より瀬戸内海の潮待ちの港として繁栄しており、江戸時代の備後福山藩の領内では城下町の福山に次いで規模を持つ町であった。この時代には人口5000 - 7000人を抱える備後福山藩最大の商都であった[3]。 江戸時代後期には航海技術の進歩や陸上交通へのアクセス性などから備後地方の港湾拠点の中心は広島藩領の尾道へと移っていったが、福山藩内では最大の港として独自の地位を保っていた。 近代 明治時代になると交通手段の近代化に伴い拠点性を失うことになった。これは海運が船舶の動力化により潮待ちを必要としなくなったうえに大型船舶が入港できないこと、また立地が沼隈半島の先端にあり、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が通ることもないため、陸海の交通路から外れることになった。そのうえ開発可能な平野部に乏しかったことから、大規模な工業が発展せず[4]、かつての繁栄を失うこととなった。1913年(大正2年)鞆軽便鉄道が開通し、利便性は向上したものの、鞆港の地位低下と、鞆側のターミナルであった鞆駅が市街地北側にあったため、業績は芳しくなかった。なお鞆への鉄道は第二次大戦後[5]までは利用客も多かったが、戦後台頭してきた自社のバスに客足を奪われ採算悪化を理由に廃止された。 明治期に尾道は近代的港湾として大発展を遂げ広島県では広島市に次ぎ備後地方で最大の都市となるが、鞆町は近代化の波から取り残されていった。それでも当時の鞆は依然として備後地方では有力な都市のひとつであり、1889年(明治22年)の市町村制施行では沼隈郡鞆町となり郡役所が置かれた。 昭和初期には、尾道市や順調な発展を遂げる福山市から完全に取り残され、1942年(昭和17年)には周囲の田尻村、走島村と合併し町域が拡大するが、沼隈半島の中心地としての地位に留まるのみとなった。またかつては沼隈半島の中心地であったが、隣の沼隈町にある常石造船が戦後大発展を遂げたため、その地位すら失うことになった。そのため広島県の強力な市町村合併政策により、1956年(昭和31年)福山市に編入され、福山市鞆地区となった[6]。 現在では鞆港への商船の出入りは殆ど無く、連絡船、観光船、港内の造船所(本瓦造船)への修理船の入港を除けば、ほぼ漁港として利用されるのみである。しかし、こうしたことが開発の波に飲み込まれることなく、古寺が数多く点在する古い街並みをとどめる要因にもなった。 2017年11月28日に鞆町伝統的建造物群保存地区が国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された[7]。 沿革 1889年4月1日 - 市町村制施行され、沼隈郡鞆村・後地村の地域をもって同郡鞆町(旧)となる。 1898年10月1日 - 沼隈郡役所が鞆町鞆に置かれる。 1942年7月1日 - 鞆町(旧)および田尻・走島両村が対等合併し、鞆町(新)を新設する。 1956年9月30日 - 鞆町が他町村とともに福山市に編入される。 行政 町長 : 門田久松 - 1955年6月の町長選挙で選出 地理 島嶼 仙酔島 走島 宇治島 大可島 - かつては鞆の浦に浮かぶ島のひとつだったが、慶長時代の鞆城築城時に埋め立てられ陸続きとなっている。 つつじ島 皇后島 弁天島 玉津島 津軽島 交通 鞆鉄道・鞆鉄道線(1913年11月 - 1954年2月)鞆駅 鞆港 電気 1910年(明治43年)8月に才賀藤吉が鞆電気を設立[8]。鞆町に発電所(瓦斯力、出力60kW)を建設し1911年(明治44年)5月に事業開始。供給区域は沼隈郡鞆町、田尻村、水呑村[9]。1918年(大正7年)5月広島呉電力に事業譲渡[10]。 名所・旧跡 社寺 阿弥陀寺 安国寺(釈迦堂、阿弥陀三尊像などが国の重要文化財、境内が広島県指定史跡) 静観寺(最澄により806年創建と伝える鞆最古の寺院) 医王寺(空海により826年創建と伝える) 円福寺(大可島城跡に建てられている) 顕政寺 小松寺(境内に琉球使節碑がある・平重盛手植えの松があった) 地蔵院(中国地蔵尊霊場第8番) 慈徳院 浄泉寺 正法寺 善行寺 大観寺 南禅坊(宮城道雄の祖父母の墓がある・中国風建築鐘楼門が目を引く。本堂・山門が国の登録有形文化財) 福禅寺(境内は「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定、村上天皇の命を受けた空也上人による創建 対潮楼には「日東第一形勝」の額が掲げられている) 福寿堂 法宣寺(大覚大僧正による手植え・境内にかつて生育していた天蓋マツは国の元天然記念物) 本願寺 沼名前神社(「延喜式」に記載のある歴史と格式を誇る神社 伏見城から移築の豊臣秀吉ゆかりの能舞台が国の重要文化財、石鳥居が広島県指定重要文化財 京都祇園神社の本社に当る) 明円寺 妙蓮寺 淀姫神社 水野勝成寓居跡(田尻地区) 名所・史跡等 大可島城跡 - 福山市指定史跡 常夜灯 - 通称「とうろどう」 太田家住宅・朝宗亭 - 国の重要文化財、鞆七卿落遺跡として広島県指定史跡。 いろは丸展示館 いろは丸事件談判跡 坂本龍馬宿泊跡 鞆の津の商家 - 福山市指定重要文化財 平野屋資料館 - 江戸時代の船宿を活用した歴史資料館。 雁木(がんぎ) 御膳山 ささやき橋 平賀源内生祠 - 広島県指定史跡 岡本亀太郎本店の門構 - 福山城の長屋門を移築。福山市指定重要文化財。 力石 - 福山市指定重要文化財 鞆城跡 - 福山市指定史跡 小鳥城 - 古戦場跡 対潮楼 - 朝鮮通信使の迎賓施設として使われた。 対仙酔楼 医王寺太子殿 - 医王寺本堂から山道を約15分ほど登る。仙酔島や瀬戸内海が一望ができる。 山中鹿之助首塚(静観寺山門前) 鞆の浦温泉 医王寺太子殿から望む大可島(中央の丘陵部) 常夜燈(とうろどう) 太田家住宅(鞆七卿落遺跡) いろは丸展示館 坂本龍馬宿泊跡 鞆の津の商家 平野屋資料館 雁木(がんぎ) 安国寺 釈迦堂 医王寺 法宣寺 天蓋マツ、奥は大法華堂 円福寺 福禅寺 沼名前神社 地蔵院 明円寺 祭事・催事 鞆の浦観光鯛網 - 毎年5月 鞆の浦弁天島花火大会 - 毎年5月最終土曜日 瀬戸内クルージング - 期間限定3月下旬~11月下旬 鞆港と尾道港を結ぶ観光クルージング お手火まつり - 旧暦6月7日に近い土曜日 八朔の馬出し- 旧暦8月1日に近い日曜日 鞆町並ひな祭 - 2月~3月 名産品 保命酒 花びら餅 天ぷら - 阿藻珍味社のものが有名 竹輪・蒲鉾 魚介料理 施設 学校 鞆町立鞆中学校 鞆町立高島中学校(現在は福山市立向丘中学校に統合) 鞆町立走島中学校 鞆町立走島中学校宇治島分校 公共機関 広島県警察鞆警察署(現在の福山西警察署鞆交番) 鞆町役場田尻支所(田尻民俗資料館として建物が現存) 出身有名人 水野勝貞 森下博 出典・脚注
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馬は遅筋と速筋の割合がどちらの方が多い?
グリコーゲン
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グリコーゲン (glycogen) あるいは<b data-parsoid='{"dsr":[78,86,3,3]}'>糖原(とうげん)とは、多数のα-D-グルコース(ブドウ糖)分子がグリコシド結合によって重合し、枝分かれの非常に多い構造になった高分子である。動物における貯蔵多糖として知られ、動物デンプン</b>とも呼ばれる。植物デンプンに含まれるアミロペクチンよりもはるかに分<!-- 文字の間違い、正しくは「枝」(以下同様) -->が多く、8~12残基に一回の分岐となる。直鎖部分の長さは12~18残基、分岐の先がさらに分岐し、網目構造をとる。英語の発音から「グライコジェン」と呼ばれることもある[1]。 グリコーゲンは肝臓と骨格筋で主に合成され、余剰のグルコースを一時的に貯蔵しておく意義がある。糖分の貯蔵手段としてはほかに、脂肪とアミノ酸という形によるものがある。 脂肪酸という形でしかエネルギーを取り出せない脂肪や、合成分解に窒素代謝の必要なアミノ酸と違い、グリコーゲンは直接ブドウ糖に分解できるという利点がある。 ただし、脂肪ほど多くのエネルギーを貯蔵する目的には向かず、食後などの一時的な血糖過剰に対応している。 肝細胞は、食後直後に肝臓の重量の8 %(大人で100-120 g)までのグリコーゲンを蓄えることができる[2]。本稿の「分解」の節で述べられているように肝臓に蓄えられたグリコーゲンのみが他の臓器でも利用することができる。骨格筋中ではグリコーゲンは骨格筋重量の1-2 %程度の低い濃度でしか貯蔵できない。筋肉は、体重比で成人男性の42%、同女性の36%を占める[3]。このため体格等にもよるが大人で300g前後のグリコーゲンを蓄えることができる。 グリコーゲンの合成・分解は甲状腺、膵臓、副腎がそれぞれ血糖に応じてサイロキシン、グルカゴン及びインスリン、アドレナリンなどを分泌することで調整される。 なお、肝臓で合成されたグリコーゲンと骨格筋で合成されたそれとでは分子量が数倍異なり、前者のほうが大きい。 性質 熱水、ホルムアミド、ジメチル硫酸に可溶。冷水、アルコールに不溶。 分子量1×106から1×107程度(グルコース残基で6,000から60,000程度) ヨウ素デンプン反応における呈色は褐色~赤色。 ヒトの肝臓には約100gのグリコーゲンが含まれ、約600kcalのエネルギーに相当する。 生合成 グルコースより、グルコキナーゼ (EC 2.7.1.2)・ヘキソキナーゼ (EC 2.7.1.1)、ホスホグルコムターゼ (EC 5.4.2.2)、UTP-グルコース-1-リン酸ウリジリルトランスフェラーゼ (EC 2.7.7.9)、グリコーゲンシンターゼ (EC 2.4.1.11) の作用により合成される。分枝は1,4-α-グルカン分枝酵素 (EC 2.4.1.18) により形成される。 EC 2.7.1.2: ATP + D-hexose = ADP + D-hexose-6-phosphate EC 2.7.1.1: ATP + D-glucose = ADP + D-glucose-6-phosphate EC 5.4.2.2: a-D-glucose-6-phosphate = a-D-glucose-1-phosphate EC 2.7.7.9: UTP + a-D-glucose-1-phosphate = diphosphate + UDP-glucose EC 2.4.1.11: UDP-glucose + (1,4-a-D-glucosyl)n = UDP + (1,4-a-D-glucosyl)n+1 EC 2.4.1.18: Transfers a segment of a 1,4-a-D-glucan chain to a primary hydroxy group in a similar glucan chain 分解 グリコーゲンホスホリラーゼは、グリコーゲンをグルコース単位に分解する。グリコーゲンはグルコースが一分子少なくなり、遊離するグルコース分子は グルコース-1-リン酸となる[4]。代謝されるには、ホスホグルコムターゼによってグルコース-6-リン酸に変換される必要がある。 肝臓はグルコース-6-ホスファターゼを持ち、解糖系や糖新生でできたグルコース-6-リン酸のリン酸基を外すことができる。こうしてできたグルコースは血液中に放出され、他の細胞に運ばれる。グルコース-6-ホスファターゼは、グルコースの恒常性維持のための役割をもつ肝臓と腎臓で見られ、網状組織内部原形質の内膜に存在する。肝臓と腎臓以外の筋肉ではこの酵素を含んでおらず、グルコース-6-リン酸のリン酸基を外してグルコースに変換できないために細胞膜を通過することができず、筋肉中のグリコーゲンは他臓器でグルコースとして利用することができず、筋肉自らのエネルギー源として使用される。 乳酸の輸送にはいくつかの種類のトランスポーターが存在する。例えば、グリコーゲンがグルコースを経て速筋線維で分解され乳酸を生成し、その乳酸が細胞膜を通過して遅筋線維や心筋のミトコンドリアで使われる場合がある[5]。乳酸は肝臓で糖新生によりグルコースが生成されて全身でグルコースとして利用される[6]。経口的に摂取された糖の2-3割は骨格筋で利用されると言われているが、骨格筋の糖消費が十分でない場合には食後の血糖が上昇することとなる。 なお、安静時や強度の低い運動時には脂肪の方が糖よりも多く使われている。血糖やグリコーゲンは利用しやすいが貯蔵量は多くはないので安静時などではあまり多くは使われず、強度の高い運動時などに糖が優先的に使われるようになる[5]。運動強度が低い場合には脂肪とグリコーゲンの燃焼比率は1:1であるが、運動強度が高まるに従って脂肪よりもグリコーゲンの燃焼比率が高まる[7]。 その他 グリコーゲンを効率的に貯蔵することをスポーツ医学ではグリコーゲン・ローディングまたは、カーボ・ローディングと呼ぶ。グリコーゲンの貯蔵を増やすことで、グリコーゲン枯渇による運動能力の限界を上げるために用いられる。前処理としてグリコーゲン枯渇を起こし、グリコーゲン合成能力を上げた後、炭水化物食品を摂取する古典的方法や、炭水化物とグリコーゲン分解を阻害するクエン酸とを同時に摂取する高速ローディング法などがある。 脚注 関連項目 グリコーゲン合成 グリコーゲンの分解 カーボ・ローディング 糖原病 グリコ (菓子)
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ロバート・ケイツビーの出身はどこ
キット・ハリントン
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キット・ハリントン(Christopher "Kit" Harington, 1986年12月26日 - )は、イギリスの俳優。『ゲーム・オブ・スローンズ』のジョン・スノウ役で知られる。 略歴 ロンドンのハマースミスにて生まれる。母は劇作家であり、父方の曽祖父は第12代ハリントン準男爵で、数々の政治家を輩出している由緒正しい準男爵の家系である[1]。彼のおじは第14代ハリントン準男爵サー・ニコラス・ジョン・ハリントンである[2][3]。キットは父方の祖母ラヴェンダー・セシリア・デニーを通じてチャールズ2世の子孫でもある[4]。また。 キットはサウスフィールド中学に1992年から1998年の間学んだ。そののち1998年から2003年までChantry High Schoolに在学した[5]。 彼はw:Worcester Sixth Form Collegeに進学し、そこで2003年から2005年までの間に戯曲、演劇学を学んだ。 2008年に、ロンドン大学のカレッジであるセントラル・スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマを卒業している[6]。2008年から2009年までウェスト・エンドの舞台『ウォー・ホース 〜戦火の馬〜』に主演[7][8]。2011年から始まったHBOのテレビドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』にてジョン・スノウ役を務める。 俳優以外の仕事では、イギリスのファッションブランド『ジミーチュウ』の広告塔に抜擢され、2014-15年秋冬メンズキャンペーン及び2015春夏メンズキャンペーンの広告を2期連続で務め[9]、ジミーチュウ初のメンズフレグランス「Jimmy Choo Man」のキャンペーンモデルにも起用された[10]。 2017年9月、ゲーム・オブ・スローンズで共演したローズ・レスリーとの婚約を発表した[11] 。2018年6月23日、二人は結婚式を挙げた[12]。 フィルモグラフィ 映画 テレビシリーズ 舞台 ウォー・ホース 〜戦火の馬〜 War Horse (2008 - 2009) Albert Narracott 役  Posh (2010) Ed Montgomery 役 出典 外部リンク on IMDb
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トマス・マッキーンの出身大学はどこ
トマス・ミフリン
japanese
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トマス・ミフリン(、1744年1月10日 - 1800年1月20日)は、アメリカ、ペンシルベニア植民地出身の商人、政治家である。アメリカ独立戦争中の大陸軍では少将を務め、ペンシルベニア議会議員、大陸会議ではペンシルベニア代表となり、大陸会議の後の連合会議では第5代議長を務めた。また、1787年のアメリカ合衆国憲法制定会議でも代議員となった。その後、ペンシルベニア州議会議長、ペンシルベニア州最高執行委員会議長、およびペンシルベニア州知事を務めた。 生い立ちおよび家族 トマス・ミフリンは、1744年1月10日にペンシルベニアのフィラデルフィアで、ジョン・ミフリンとエリザベス・バグノール夫妻の息子として生まれた。ミフリンはカレッジ・オブ・フィラデルフィア、現在のペンシルベニア大学を1765年に卒業し、ウィリアム・ビドルの商売に加わることになった。ミフリンは1765年にヨーロッパ旅行から戻った後、弟のジョージ・ミフリンと共同経営の商売を始めた。1765年3月4日には従妹のサラ・モリスと結婚した。[1]ミフリンはアメリカ哲学者協会の会員であった。 アメリカ独立戦争 ミフリンは1772年からペンシルベニア植民地議会議員であったが、1774年、第一次大陸会議のペンシルベニア代表となり、1775年の第二次大陸会議開始まで務めた。アメリカ独立戦争の初期、ミフリンは大陸会議を離れ大陸軍に従軍した。ミフリンの一族は4世代にわたるクエーカー教徒であったが、軍隊への従軍は平和を愛する信条に反するものとして、友会から破門された。[2]ミフリンは少佐に任命され、続いてジョージ・ワシントン将軍の副官となり、1775年8月14日には軍で初めての補給局長となった。ミフリンはこの仕事を良くこなしたが、前線に出たいと思った。ミフリンは実戦の指揮により大佐に、さらに准将に昇進した。ミフリンは補給局長の職から解放されたいと願い出たが、大陸会議は替わりの者を見つけることが難しく、ミフリンを留まるように説得した。 大陸会議では、大陸軍をもっと効果的なものにするか、各植民地でそれぞれの軍隊を持つべきか、について議論された。この議論の結果、戦争委員会が創設されミフリンは1777年から1778年まで委員会に務めた。ミフリンはその後大陸軍に戻ったが、あまり活動的な役割が回って来ず、しかも補給局長のときの仕事が批判されるようになった。ミフリンは横領で告訴され査問に呼び出されたが、結局何も起こらなかった。ミフリンはこの時少将で辞任したが、大陸会議は辞任後もミフリンの助言を求め続けた。 政歴 ミフリンは、大陸会議を継いだ連合会議のペンシルベニア代表となり(1782年 - 1784年)、この間1783年11月3日から1784年10月31日まで連合会議の第5代議長となった。その後ペンシルベニア議会議員(1785年 - 1788年)を務めていた1787年にアメリカ合衆国憲法制定会議でも代議員となり、憲法の署名者となった。ミフリンはペンシルベニア州最高執行委員会の一員となり、1788年11月5日にベンジャミン・フランクリンの後任でその議長となり、1789年11月11日にも全会一致で再選された。[3]ミフリンは1790年のペンシルベニア州憲法の起草をする委員会を差配した。この憲法では執行委員会を終わらせ、一人の州知事に置き換えることとした。1790年12月21日、ミフリンはペンシルベニアの最後の議長となり、同時に初代ペンシルベニア州知事となった。ミフリンは州知事を1799年12月17日まで務め、トマス・マッキーンに引き継いだ。ミフリンは一議員に戻り、翌年亡くなるまでその職にあった。 ミフリンの死と遺産 ミフリンは1800年1月20日ペンシルベニア州ランカスターで亡くなり、トリニティ・ルーテル教会の前に埋葬された。ペンシルベニア州は1776年のペンシルベニア憲法下の初代と最後の議長を記念するものとしてトマス・ウォートンとミフリンの名前を教会に記念碑を造った。この記念碑は1975年に除幕されランカスターのデューク・ストリートに在る。[4]その碑には次の様に記されている。 神聖なる三位一体(Holy Trinity) 1730年設立。 最初の教会の建物で1762年にインディアン条約の議論が行われた。 現在の建物は1766年に開所された。 ここにトマス・ウォートン (1778)とトマス・ミフリン知事 (1800)の遺体が眠る。 Founded in 1730. A session for an Indian treaty was held in the original church building in 1762. The present edifice was dedicated in 1766. Here are interred the remains of Thomas Wharton (1778) and Gov. Thomas Mifflin (1800). ペンシルベニアの少なくとも6つの町がミフリンにちなんで名付けられた。ペンシルベニア州ミフリン郡はミフリンの名前にちなんで名付けられた。ユニオン郡のヤングマンタウンとローテスタウンが1827年に合併した時、新しいボロは初代州知事にちなんでミフリンバーグと名付けられた。バージニア州のリー砦にあるアメリカ合衆国陸軍補給局センターおよび学校の主たる建物はミフリン・ホールと名付けられた。 脚注 参考文献 外部リンク
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コシチュシュコの蜂起で死者は出た?
タデウシュ・コシチュシュコ
japanese
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アンジェイ・タデウシュ・ボナヴェントゥラ・コシチュシュコ ( 、1746年2月4日 - 1817年10月15日)はポーランド・リトアニア共和国の将軍にして政治家、アメリカ合衆国の軍人で、1794年の蜂起の指導者としてポーランドとリトアニアでは国民的英雄である。 名前はアンドレーイ・タデーヴシュ・バナヴャントゥーラ・カシツューシュカ(Belarusian: Андрэ́й Тадэ́вуш Банавянту́ра Касьцю́шка )、ターダス(あるいはタデーウシャス)・コーシツュシュカ(Lithuanian: Tadas/Tadeušas Kosciuška )、アンドルー・サディアス(あるいはサディーアス)・バナヴェンチャー・カスキアスコウ(あるいはカスィアスコウ( )など、言語によって呼び方/発音が異なる。 ポーランド語のカナ表記でも、コシチュシコ、コシチューシュコ</b>などとも表記され、従来、日本では<b data-parsoid='{"dsr":[714,726,3,3]}'>コシューシコ</b>と表記されることが多かった。 概要 コシチュシュコは1746年、リトアニア大公領ブレスト州メラチョウシュチナ村(ベラルーシ語: Мерачоўшчына 、波: Mereczowszczyzna(メレチョフシュチズナ)、現ベラルーシ領コサヴァ市近郊)の、先祖がジグムント1世の宮廷に仕えていたというベラルーシ系貴族の家庭に末子として生まれた。当地では東方正教会とローマ・カトリックが併存しており、彼は双方の教会で受洗しアンドレーイ(ポーランド語で「アンジェイ」)とタデーウシュという2つの洗礼名を授かった。ワルシャワの幼年学校を卒業後、1769年から1774年の間、ドイツ、イタリア、フランスに派遣されて軍事教育を受けた。彼がまだ三十代であった1776年から1783年の間は、アメリカ独立戦争に義勇兵として参加し、ジョージ・ワシントンの副官として戦い、大陸会議により外国人ながら陸軍准将に昇進している。その間、トーマス・ジェファーソンらの自由主義思想に強く影響された。 帰国後の1791年、ヨーロッパ初の民主主義成文憲法「5月3日憲法」を制定した4年議会に議員として参加、中道左派の政治スタンスから、4年議会を主導した改革派政党「愛国党」内部の主流派である穏健改革派(「ファミリア」の流れを汲む派閥)と同党の急進改革派(ポーランドのジャコバン派)との間を取り持つ役割を担い、精力的に双方の仲立ちをして、国会対策における巧みな政治手腕を発揮した。 この直後の1792年、新憲法めぐるロシア帝国の干渉と戦った(ポーランド・ロシア戦争)が敗れ、ライプツィヒ、パリで亡命生活を送った。 1793年の第2回ポーランド分割後にポーランドに戻り、主にジャコバン派と農民たちを糾合してクラクフで蜂起(コシチュシュコの蜂起)。最大の戦闘「」(記念館がヴロツワフにある)でロシア軍に大勝し一時はワルシャワ、ヴィリニュスをおさえたが、やがて兵力を次々と補充してきたロシア・プロイセン連合軍に圧倒された。1794年10月には彼自身も戦傷を負いロシア軍に捕らわれた。コシチュシュコの敗北によりポーランド国家は消滅の憂き目にあう。 1798年にコシチュシュコはフランスへ亡命するが、ナポレオンの帝国思想やそれにもとづいたポーランド政策には同調しなかった。その後はスイスに移住し、ゾーロトゥルンで腸チフスに罹患して客死した。 ロシアの著名な劇作家ミハイル・アルツィバーシェフは曾孫。 エピソード アメリカ独立戦争のときのフィラデルフィアでの逸話。「コシチュシュコ」という姓の読み方についてジョージ・ワシントンが、「タディー(タデウシュ)、君のそのコシチュシュコっていう姓は僕らには発音しにくいよ」とコシチュシュコに言ったところ、コシチュシュコは即座にこう言ったという。「ジョージ、僕の姓が言いにくいって? 君のワシントン(Wa-shing-ton)も僕のコシチュシコ(Koś-ciu-szko)もどっちもたったの3音節なのにかい?」 関連項目 コシチュシコ山:ポーランドの元首都クラクフにある人工の山。タデウシュ・コシチュシュコを称えて造営された。 クレディ・アグリコル コジオスコ:オーストラリア大陸の最高峰 第303コシチュシコ戦闘機中隊 (イギリス空軍) - イギリス空軍所属の戦闘機中隊。ポーランド侵攻時に脱出したポーランド空軍パイロットで編成された。 脚注
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日本は国民国家?
国民国家
japanese
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国民国家(こくみんこっか、、、)とは、国家内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「国民」)として統合することによって成り立つ国家。領域内の住民を国民単位に統合した国家そのものだけではなく、単一の民族がそのまま主権国家として成立する国家概念やそれを成り立たせるイデオロギーをも指している。 近代国家の典型の1つとされることも多い。英語では、"Nation-state" は「一民族により構成される国家」の意で用いられることが多く、この意味からは「単一民族国家」が原意に近い。stateとnationについては、しばしば "The state is a political and geopolitical entity; the nation is a cultural and/or ethnic entity."(「stateは政治的あるいは地政学的なもの、nationは文化的あるいはまた民族的なものである。」)と説明される。 ヨーロッパは一般に「国民国家」成立のモデル地域とされており、その先進国とされるのがイギリス、フランスであった[1]。 概要 国民国家はネイション‐ステイト (Nation-state) の訳語ではあるが、ネイション (nation) の意味は多様であり、日本では「国民」と訳されることが多いものの、世界的にみれば多民族国家がむしろ一般的であることから、海外では、日本でいう「民族」の意味で使われることも多い。したがって、単純に〈国民=ネイション、国家=ステイト〉と当てはめることはできない。ネイションは本来「生まれ故郷を同じくする人の集団」を意味し、そこから、文化、言語、宗教や歴史を共有する人びと、つまり「民族」という意味が派生している。その点から、Arab Nationalismは「アラブ民族主義」と訳すのが正確であり、各国に散らばるユダヤ人もまた、それぞれ互いに同じ Nation に属しているものと理解される。したがって、"Nation"を「民族」と機械的に訳してきたことは、訳語上の混乱という瑕疵を作った。このような訳語上の混乱を理解した上で、"Nation"を「国民」と訳することは首肯できるのである。さて、その一方で、ステイト (state) は元来「国王が所有する財産」、すなわち土地や収穫物、財産としての人間(奴隷)を意味する。 つまり、「ネイション‐ステイト」とは、国民国家を構成する人的な要素と物的な要素(奴隷ふくむ)を合成した言葉である。日本語においては、「国家」の語には物的な側面だけでなく政治家や官僚・天皇など、国家機構にかかわる人的な要素も含まれるため、単純に「国家=ステイト」とはならない。国民国家はあくまでネイション‐ステイトというひとつながりの言葉の訳語として理解するべきである。 ネイションの側面は、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」やカール・マルクスのいう「幻想共同体」に相当し、ステイトの側面は、統治機構や法共同体としての同一性に相当すると考えられている[2]。 さらに「国民国家」とは、確定した領土をもち、国民を主権者とする国家体制およびその概念を指すことがある[3]。 歴史的にみれば、絶対王政によって中央集権体制の整えられた国家が三十年戦争を通じてさらに強力化し、その講和条約であるヴェストファーレン条約によって神聖ローマ帝国(ドイツ)の領域に多数の主権国家が生まれ、オランダ(北部ネーデルラント)はスペインからの独立を果たした[注釈 1]。こうして生まれたヨーロッパの国際秩序を「主権国家体制」ないし「ウェストファリア体制」と称する。こののち、ヨーロッパでは17世紀のイギリス市民革命(清教徒革命、名誉革命)、18世紀のフランス革命などにみられるように、絶対王政に対する批判として君主に代わって「国民」が主権者の位置につくことによって近代国家が形成された[3]。18世紀から19世紀にかけて、オランダ・イギリス・フランスにつづいてヨーロッパの他地域でも市民革命が起こり、また、英仏をモデルとした近代化が進められた[3]。こうして成立した国家が国民国家である。 「国民国家」形成過程においては、国民は一般に、国旗の掲揚や敬礼、国歌斉唱、使用する文字や言葉の標準化などの統制を通じて、国民的アイデンティティを形成していく[3]。 諸国民の春 ヨーロッパにおいては、1848年革命(「諸国民の春」)ののち、つぎつぎと「国民国家」が成立した。ドイツ帝国とイタリア王国は統一運動によって、バルカン半島ではセルビア王国、モンテネグロ公国、ルーマニア王国、大ブルガリア公国などはオスマン帝国からの独立によって、それぞれ生まれた国民国家であった。近代の国家システムのなかで、国民は主権者としてのさまざまな権利を有すると同時に、納税、兵役、教育の義務を担うこととなった。国民国家形成はしばしば、当該民族にとって「悲願のできごと」として表現されることが多い。しかし、実際には、国家領域のなかには多様な人びと、複数の集団が存在していることが多いため、さまざまな問題をはらんでおり、歴史的に重大な事件を引き起こす要因ともなってきた(後述「国民国家のはらむ問題」節参照)。 国民国家と国民的アイデンティティ 国家の住民を、「国民」にまとめあげる際、重要な要素となったのが「民族としてのアイデンティティ」であった。国家の一員としての帰属意識(国民的アイデンティティ)の獲得を促したのが、工業化による富や社会構造の変動、言文一致運動とそれを担った娯楽の発展、マスメディアの誕生、義務教育等々による国語の定着などである。また、多くの場合は時期をほぼ同じくして、歴史が国民に共有されたこと、経済圏が統一されて国民経済が確立したことが、その促進要因として挙げられる[注釈 2]。 日本では、明治維新によって、日本列島に大日本帝国という国民国家が成立した。それまで幕藩体制下では民衆はまず直接の統治者である藩を国(クニ)として意識していた。それまでは幕府による統一はあっても中央集権は緩やかであり、藩をまたぐ民衆の移動が制限されていたので言葉や文化、政治の違いも大きく、民衆は「日本国民」という意識が稀薄であった。そうした状況を改め、西欧諸国に対抗するべく明治政府は一君万民を唱え中央集権化を進めることで地方較差を薄め、「日本国民」としての意識を広めていく必要があった。しかし、西欧的な「国民」という概念は当時の日本人にとって抽象的であり、民衆に浸透させることが困難であると危惧した明治政府は、当時の民衆にもわかりやすいように、万民が等しく天皇陛下の臣(臣民)であるというように広めた。 宮台真司は、「幕藩体制下では『クニ』とは藩のことで、庶民レベルには『日本』という概念がなかった。だから、日本統合の象徴である『天皇』という“共通の父”により、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた」と述べている[4]。また、宮崎哲弥は「マスメディアは国民国家の要であり、特にテレビは、日々刻々『国家なる幻想』を産出している装置である」と指摘している[5]。 国民国家のはらむ問題 1861年イタリア統一をめぐる問題 「諸国民の春」ののちイタリアでは、イタリア統一運動が活発化し、1861年にはイタリア王国が成立した。しかし、そののちも、オーストリア帝国領内には「イタリア語の発音が聞こえる地域」がのこった。南ティロル地方、トレンティーノ地方、トリエステ、イストリア地方、フィウーメ(リエカ)、ダルマツィア地方など旧ヴェネツィア共和国領にあたる地域であり、これらの地域は「未回収のイタリア」と称された。統一イタリア王国は普墺戦争の際、プロイセン王国軍と同盟してオーストリアと戦い、ヴェネツィアを回収したが、戦争は7週間で終結したため、ヴェネツィア以遠のイタリア人居住地域の「奪回」を果たすことができなかったのである。 「未回収のイタリア」の存在は、その後のイタリアを左右しつづけた。イタリアは、第一次世界大戦に際し、当初三国同盟に基づいて同盟国側に立ったが、「未回収のイタリア」帰属問題をめぐりオーストリア・ハンガリー帝国と対立、開戦に際しては中立を宣言し、最終的には、1915年にイギリス・フランスなど連合国側について参戦した。しかし、こうして第一次大戦の戦勝国となりながらも、期待していたフィウーメなどの領地が得られなかったことから、戦後のヴェルサイユ体制に強い不満をもつ人も少なくなかった。「未回収のイタリア」問題は、1920年代から30年代にかけてのファシスト党の台頭の遠因のひとつとなったのである。 1871年ドイツ統一をめぐる問題 19世紀後半のドイツ統一は、一般的には、プロイセン王国の宰相オットー・フォン・ビスマルクによって進められ、1871年のプロイセンを中心とするドイツ帝国(ドイツ国)という国民国家の成立で達成されたと理解される。しかし、実際のドイツ帝国は、領域内の全住民をひとつのまとまった構成員として統合する国家という上述の定義からは程遠いものであった[1]。 ドイツ統一へ向けた議論は、1848年のフランクフルト国民議会で本格化した。この時期のドイツは、オーストリア帝国とプロイセン王国の二大邦国をはじめ39の独立領邦がドイツ連邦という国家連合を構成し、各自の国家主権を保持したまま相互の安全保障を図っていた。議会では「ドイツ人とは何か」「どこまでをドイツとするか」という問題をめぐって紛糾した。前者においては、 地縁(ドイツに住む人) 言語(ドイツ語を話す人) 血縁(ドイツ人的血縁をもつ人) が考えられたが、実際にはこれらが重ならないことも多かった。プロイセンやオーストリアには言語・血縁において「非ドイツ人」も多かった一方、ドイツの領域外にも東方植民などによって多数の「ドイツ人」が居住していたからである[1]。 後者においては、「小ドイツ主義」、「大ドイツ主義」、そして「中欧主義」という3種類の統一構想が用意された。小ドイツ主義はオーストリアを除外したプロイセン中心の案であり、大ドイツ主義ではオーストリアの「ドイツ的部分」のみを含めた統一、中欧主義では「非ドイツ人」も含めたオーストリア・プロイセン・ドイツ諸邦を包摂する統一を意味するものであった。フランクフルト議会では当初「大ドイツ主義」が優勢であったが、オーストリアは、その内部のドイツ的部分・非ドイツ的部分を問わないオーストリア帝国の単一・不可分を主張する「一体性宣言」を発したことで「大ドイツ主義」が動揺し、激しい議論の結果、「小ドイツ主義」方式が採用されることとなった[1]。しかし、統一ドイツの世襲皇帝に選出されたプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、1849年、「議会の恩恵による」帝位に就くことを拒否して、ドイツ統一憲法(「パウロ教会憲法」)は宙に浮いて統一実現には至らなかった[1]。 結局、ドイツ統一はビスマルクの誘発した普墺戦争(1866年)と普仏戦争(1870年-1871年)によって成し遂げられた[1][6]。それは「小ドイツ主義」的ではあったが「大プロイセン」的な性格をもっていた[注釈 3]。この過程で、ビスマルクはバイエルン王国のルートヴィヒ2世を買収している[6]。このように強引な形で完成した「国民国家・ドイツ」は、オーストリアに1,000万人を越えるドイツ人を残す一方、普墺・普仏戦争によって獲得した (旧シュレースヴィヒ公国領)やエルザス=ロートリンゲン(旧フランス領)などには「非ドイツ人」を多数かかえる国家となった。 歪な形で成立した「国民国家」における未解決の諸問題は、新たな問題の火種となった。エルザス=ロートリンゲンをめぐってはフランスとの対立が繰り返され、第一次世界大戦後に顕在化した旧オーストリア領のドイツ人問題[注釈 4]はアドルフ・ヒトラーに独墺合邦及びズデーテン併合の野望を抱かせた[注釈 5]。「非ドイツ人」問題は、周辺諸国との国境問題や国内での民族問題につながったが、その最たるものがナチス・ドイツ(ヒトラー政権)によるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)である。 一方、第一次大戦後もドイツ領にとどまったシレジア(シュレージエン)では、ドイツ系住民によるポーランド系住民の迫害が起こり、従来、ドイツ帝国への帰属意識の強かったポーランド系住民の間にも民族意識が高まって、シレジアのポーランド(ポーランド第二共和国)への併合を求めるシレジア蜂起が数回にわたって起こっている。 「国民国家」は、国民の同質性を前提として統合されたが、「国民」という均質で固定された純粋な存在を意識的につくりだしていく一方、他面では雑種的でしかありえない文化や言語、そこからはみ出てしまう社会的少数者に対して抑圧的、排他的な現実をつくり出した[3]。この現象は、決してドイツに限った話ではない。「国民国家」の大義は、先住民族や少数民族の権利と衝突することが多いのである。20世紀前半は、世界各地において、国民国家に潜在化していた矛盾や隠蔽してきた諸問題が、特に際立って露呈した時代であった[3]。 現代の「国民国家」 第二次世界大戦後には、多国籍企業が多数あらわれ、国民経済の枠組みを超える存在となっている。また、東南アジア諸国連合 (ASEAN) やヨーロッパ連合 (EU) や南米諸国連合 (UNASUR) のような地域連合も結成され、特に冷戦後にはその動きが活発化するなど、「国民国家」の枠組みが問われる時代になっている。しかしながら、「国民国家」の問題は決して過去の問題ではない。 現代のドイツ連邦共和国基本法によれば、「ドイツ人」とは、「ドイツ国籍を有する者」または「ドイツ民族所属性を有する難民ないし被追放者として、あるいはその配偶者ないし直系卑属として、…(略)…ドイツ・帝国の領内に受け入れられていた者」と規定される。この文言のなかの「ドイツ民族所属性を有する」という定義は、ナチ時代の内務省の回状に淵源をもつといわれる。これは、戦後、移住先の東ヨーロッパ諸国などを追われたドイツ系の人びとを受け入れるためにやむを得ない処置でもあったが、ドイツは、現代においても同一言語・同一人種という民族主義的な国籍原理を採用しているのである[注釈 6]。 多民族国家であったかつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、その多様性を「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と表現されていた[注釈 7]。しかし、冷戦の終結と東欧社会主義の崩壊は、この国を「ヨーロッパの火薬庫」に引き戻した。 1991年6月、スロベニアとクロアチアの両共和国はユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発した。十日間戦争は短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、それまで地域社会で共存していたセルビア人とクロアチア人が相互に略奪、虐殺、強姦を繰り返す「憎しみの連鎖」が生まれた。また、1992年3月に発せられたボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、独立に反対するセルビア人と独立を推進するボシュニャク人(ムスリム人)が軍事的に衝突、多くは独立に賛成の立場をとるクロアチア人がこれに加わった。これが同年4月よりはじまったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争である。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住が進行していたため、状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は泥沼化し、その過程で民族浄化が発生した。1995年7月、セルビア人勢力は、国際連合の指定する「安全地帯」であったスレブレニツァに侵攻し、同地のボシュニャク人男性すべてを絶滅の対象とし、8,000人以上を組織的に殺害するスレブレニツァの虐殺が引き起こされた。この虐殺は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷および国際司法裁判所によってジェノサイドと認定された。1996年に起こったコソボ紛争でも1999年にジェノサイド(ラチャクの虐殺)が発生し、国際問題へと発展した。 「国民国家」の先進国とされてきたフランスもまた、共和制原理である政教分離を認めようとしないムスリム移民の問題やバスク地方など分離主義運動など多くの火種をかかえており、イギリスにもアイルランド共和軍(IRA暫定派)による北アイルランドのイギリスからの分離と全アイルランドの統一を目指す運動があり、ブリテン島内部にもスコットランドの地域分離主義運動がある。 ヨーロッパ連合が生まれて久しく、その統合は深化しており、国家の枠組みやナショナリズムに対する疑問も多い現代ではあるが、以上のような国民国家の歴史に目を向けたうえで統合を進めることが必要である。 国民国家論の現在 第二次世界大戦以降、旧植民地が相次いで独立し、また、その後の冷戦の崩壊による急速なグローバル化のなかで、「国民国家」の批判的な問い直しが進行している[3]。社会科学や文化研究の領域においては、どのような文化装置ないし政治的装置によって「国民」という均質的な「想像の共同体」が現出したのか、また、「国民」は歴史的につくられてきた存在にほかならないのに、どうして言語や民族によって一定の過去や伝統、文化を保持する機構として自明視されたのか、さらに、「国民」の形成が、レイシズム(人種主義)や性差別、クセノフォビア(外国人嫌悪あるいは外国人恐怖)、階級などといった社会的な差別構造をともなうのは何故なのかなどの問題について分析作業が進められている[3]。 1983年には、アメリカ合衆国の政治学者ベネディクト・アンダーソンによって、このような国民国家論の先がけとなる『想像の共同体』が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した「世俗語革命」による近代小説の成立、そして「出版資本主義」によって書籍が流通することによって「国家語」の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、「公定ナショナリズム」の後押しによって「国民」という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された[3]。書名の「想像の共同体」とは、共同体のメンバーは「おそらく互いを知ることができない」ところに由来している。 同じ1983年には、イギリスの社会学者でユダヤ系のアーネスト・ゲルナーが『民族とナショナリズム』を著し、産業社会の勃興と国民形成の関連性を指摘した。そこでは、ナショナリズムは「政治的単位と民族的・文化的単位の一致を求める一つの政治的原理」であると論じ、「産業化」および産業社会の要請に応える高度な「識字能力」の一般化、また、巨大な社会的費用をかけた教育システムの整備を実行に移せるのは畢竟、国家でしかありえないとして近代ナショナリズムの起源を説明した[3]。 1983年にはまた、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームの編著による『創られた伝統』が刊行されている。これは、「国民国家」を歴史的な観点から考察したもので、「国民」「国家」「民族」の具体的・実定的なイメージを象徴する様々な伝統もまた、実は近代国家形成期に創出されたものにほかならないことが示されている[3]。 1988年には、アメリカの社会学者イマニュエル・ウォーラーステインとフランスの哲学者エティエンヌ・バリバールが世界システム論などの見地から共著『人種・国民・階級』を著している。 脚注 注釈 出典 参考文献 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) 宮崎哲弥『身捨つるほどの祖国はありや』文藝春秋、1998年6月。ISBN 978-4-16-354110-5 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) 宮台真司・宮崎哲弥 『ニッポン問題。M2:2』インフォバーン、2003年6月。ISBN 978-4-901873-04-8 姜尚中・宮台真司 『挑発する知――国家、思想、そして知識を考える』双風舎、2003年11月。ISBN 978-4-902465-00-6。 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) 関連項目 単一民族国家 ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』 アルフォンス・ドーデの『最後の授業』 ナショナリズム 都市国家 リージョナリズム(地域連合) 国語 言語政策 暴力的な非国家の行動者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%9B%BD%E5%AE%B6
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カトリック信仰は植民地化する際の道具として使われたか
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アメリカ合衆国の植民地時代(アメリカがっしゅうこくのしょくみんちじだい、)は、ヨーロッパ人による植民地化から始まり、ヨーロッパからの独立のときまでの歴史であり、特に1776年に独立を宣言した13植民地の歴史である[1]。16世紀後半からイングランド、スコットランド、フランス、スウェーデン、スペインおよびオランダが北アメリカ大陸東部の植民地化を始めた[2][3]。初期の多くの植民の試み、特にイギリスによるロアノーク植民地は失敗に終わったが、幾つかの植民地が設立された。ヨーロッパ人開拓者達は様々な社会と宗教の集団から出てきた者達だった。恒久的に定着した貴族階級はいなかったが、多くの冒険家、軍人、農夫および貿易業者が到着した。その中でもニューネーデルラントのオランダ人、ニュースウェーデンのスウェーデン人とフィンランド人、ペンシルベニアのイギリス系クエーカー教徒、ニューイングランドのイギリス系ピューリタン、ジェームズタウンのイギリス系開拓者およびジョージアの「清貧な」人々、それぞれの集団が新大陸に来て植民地を建設し、社会、宗教、政治および経済の様式に特徴あるものをもたらした。 歴史家達は通常、後にアメリカ合衆国東部となった土地に4つのはっきりした地域を認めている。北から南にニューイングランド、大西洋岸中部、チェサピーク湾植民地(アッパー・サウス)およびローワー・サウスである。歴史家の中には5番目の地域としてフロンティアを加える者がいるが、これは別に組織化されたものではなかった。後のアメリカ合衆国に土地を与えたその他の植民地としては、ヌーベルフランス、ケベック(フランス領ルイジアナ)、ヌエバ・エスパーニャ[4]およびロシア領アラスカがあった[5]。 植民地化の目的 植民者達は高度に発達した陸軍、海軍、政府および企業家的な可能性を備えたヨーロッパの国々から来た。スペイン人やポルトガル人はレコンキスタの数世紀にわたる征服と植民地化の経験があり、新しい海洋航行可能な船舶の操船術と組み合わされて新世界を植民地化する道具と能力および願望を持っていた。イングランド、フランスおよびオランダは西インド諸島と北アメリカ大陸の双方で植民地化を始めた。これらの国は海洋航行可能な船舶の造船術を持っていたが、スペインのように植民地化の強力な歴史は持っていなかった。しかし、イングランドのテューダー朝は初期資本主義(重商主義)を通じてアメリカ大陸の植民地に政府の統制をあまり必要としない商業に基づく投資の性格を与えた[6][7]。 初期植民地の失敗 ノバスコシア(ニュースコットランド)は1629年に入植されたが1631年にフランスのために放棄された。 スペインは現在のアメリカ合衆国の領域に幾つかの植民地を造った。しかしこれらの幾つかは失敗した。1526年、ルーカス・バスケス・デ・アイロンが現在のジョージア州あるいはサウスカロライナ州の地にサンミゲル・デ・グアダルーペ植民地を造った。この植民地は短期間存在しただけで直ぐに崩壊した。この植民地は現在のアメリカ合衆国領土の中でアフリカ人奴隷の労働力を使った最初の例としても有名である。1528年にスペインのコンキスタドール、パンフィロ・デ・ナルバエスがフロリダに植民地を造る試みを始めた。ナルバエス遠征隊はわずか4人が生き残って1536年にメキシコにたどり着くという大惨事におわった。1559年に西フロリダに造ったスペインのペンサコーラ植民地は1561年のハリケーンで破壊された。ノースカロライナの内陸部に1567年に建設されたサンフアン砦は、18ヶ月後に土地のインディアンに破壊された。1570年に設立され翌年には失敗したアハカン伝道所は、後のイングランドのジェームズタウン植民地に大変近い所であり、そこは後にバージニアと呼ばれるようになった[1]。 フランスも幾つかの植民地を造ったが、天候、病気あるいはヨーロッパ列強との抗争によって失敗した。1562年にフランス軍の小さな部隊がサウスカロライナのパリス島に残されてシャルルフォールを造ったが、フランスからの補給が無かったために一年後には放棄された。1564年に現在のフロリダ州ジャクソンビルにカロリーヌ砦が建設されたが、1年後にサン・アグスタンから来たスペイン人に破壊された。1604年、現在のメイン州セントクロワ島に短命のフランス植民地ができたが、病気、おそらくは壊血病に悩まされたために潰れた[1]。 スペインの植民地 フロリダ スペイン帝国はフロリダに多くの小さな開拓地を造った。最も重要なものは1565年に設立されたサン・アグスタン(現在のセントオーガスティン)だったが、何度も攻撃を受け焼かれた。小さな拠点は勿論、サン・アグスタンですら、海賊の攻撃は容赦しないものがあった。1702年と1704年に行われたサウスカロライナからの大規模遠征によって、実質的にスペインの伝道所群が破壊された。サン・アグスタンは生き残ったが、ヤマシー族などイギリス人と同盟したインディアンがフロリダ中で奴隷狩りを行い、この地域にいたインディアンの大半を殺すか奴隷化した[1]。1700年代半ば、ジョージアから侵入したセミノール族インディンが残っていた土地のインディアン大半を殺した。イギリスがこの地域を支配した1763年には、スペイン人約3,000人が住んでいたが、そのほとんど全てが早々に退去した。1783年にスペインの支配に復したが、スペインは新たな開拓者や宣教師をフロリダに送ろうとはしなかった。アメリカ合衆国が1819年にスペインからフロリダの割譲を受けた[8]。 ニューメキシコ(1598年-1821年) 16世紀を通じてスペインはメキシコから現在のアメリカ合衆国南西部を探検した。その中でも最も著名な探検家はフランシスコ・バスケス・デ・コロナドであり、その遠征隊は現在のニューメキシコ州、アリゾナ州、コロラド州南部、オクラホマ州のパンハンドル地域およびカンザス州全体を旅した。しかし、コロナドは新しい開拓地を造らなかった。最初の植民地は1598年にフアン・デ・オニャーテにより、現在のニューメキシコ州エスパノーラに近いサンフアン・デ・ロス・カバレロスに造られたものであり、その後1609年頃のサンタフェが続いた。2番目の植民地はプエブロの反乱の後の1692年、ディエゴ・デ・バルガスによるものだった。ニューメキシコの王国内は幾つかの外国(テキサス、フランス、アメリカ合衆国)による領有権主張があったが、スペイン(223年間)およびメキシコ(25年間)による支配が続けられた。米墨戦争の1846年にアメリカ合衆国スティーブン・ワッツ・カーニーが指揮する西部軍がここを制圧した。当初スペイン、後にはメキシコに土地所有を認められた植民者の多くの直系子孫が今日でもこの地域に住んでいる[1][9]。 カリフォルニア(1769年-1821) 16世紀初期から18世紀半ばにかけてスペインの探検家がカリフォルニの海岸を航行したが、当時は開拓地が造られなかった。 スペインは1769年から宣教師や軍隊を送り始め、カリフォルニアの南部や中部の海岸に沿って一連のカトリック教伝道所を建設し、これに砦、町および牧場が併設された。フランシスコ会宣教師フニペロ・セラ牧師が1769年のサンディエゴ・デ・アルカラから初めて伝道所の繋がりを建設した。カリフォルニアの伝道所群は21箇所の拠点から構成され、インディアンにキリスト教を広める他に、その地域に対するスペインの領有権を確実にする利点があった。この伝道所はヨーロッパの技術、家畜や農作物を伝え、地域先住民を労働者として使っていた[10]。 伝道所はサンディエゴからサンフランシスコ湾の直ぐ北にあるソノマの海岸に沿って、それぞれが馬で約一日の距離に配され、スペインの法律の下に「プレシディオ」すなわち砦と「プエブロ」すなわち町で補われた。全てが海岸線近くに配されたので、伝道所、プレシディオおよびプエブロの間の一本の道は「エル・カミノ・レアル」(王道)と呼ばれるようになり、これが今日のカリフォルニア州最初の公道となった[11]。 1820年までにスペインの影響力はサンディエゴからソノマまでの伝道所の並びに及び、内陸にはおよそ25ないし50マイル(40ないし80 km)まで及んだ。この地帯の外にはおよそ20万人から25万人のインディアンが昔からの生活様式を続けていた。スペイン政府(1821年にメキシコが独立した後はメキシコ政府)が大規模な土地特許を認めて定住を奨励し、それが牛や羊の牧場に変わった。1840年代にはヒスパニック系住人の人口は約1万人だった。「エル・カミノ・レアル」と伝道所は後に牧歌的で平和な過去を偲ばせる象徴になった。伝道所復古調建築様式はカリフォルニアの過去の理想化された見解から想を得た建築運動だった[11]。 ニューネーデルラント 「ニューネーデルラント」すなわちニューネザランドはネーデルラント連邦共和国の17世紀植民地であり、後にニューヨーク州になった。最盛期の人口は1万人足らずだった。オランダは少数の強力な土地所有者に封建制のような権利を与えてパトロン制度を作り上げた。それらの者達は宗教的寛容さと自由貿易の制度も作った。1625年に建設された植民地の首都ニューアムステルダムはマンハッタン島の南端に位置し、その後世界的な都市に成長していくことになった。この町をイギリスが1664年に占領し、1674年には植民地全体を支配下に収めた。しかし、オランダ人土地所有者はそのまま居残り、ハドソン川流域は1820年代までオランダ的の伝統的な性格を残していた[12]。 ニュースウェーデン 「ニュースウェーデン」 (Swedish: Nya Sverige) は1638年から1655年までデラウェア川流域のスウェーデン植民地だった。現在のデラウェア州ウィルミントンにあったクリスティーナ砦を中心に、現在のデラウェア州、ニュージャージー州およびペンシルベニア州の一部を含んでいた。ピーター・ミヌイットが新しく作られたニュースウェーデン植民地の初代知事になった。ヨハン・ビョルンソン・プリンツ知事(在任1643年-1653年)の下で植民地は拡大し、デラウェア川の東岸、今日のニュージャージー州セイラム近くにニュー・エルフスベリ砦を、ティニカム島(今日のフィラデルフィア市の直ぐ南西)にニュー・ゴーテンベリ砦を建設した。オランダの総督ピーター・ストイフェサントが1655年夏遅くに軍隊を動かしてデラウェア川に向かい、即座にトリニティ砦とクリスティーナ砦を占領した。ニュースウェーデンは1655年9月にオランダ領ニューネーデルラントに組み入れられた[1][13]。 入植地自体は、その後もある程度の地方自治を続け、1664年10月にイングランドがニューネーデルラント植民地を征服するまで続き、1682年にこの地域がウィリアム・ペンによるペンシルベニア勅許地に含まれるまでは非公式に継続された。 ヌーベルフランス ヌーベルフランスは1534年にジャック・カルティエがセントローレンス川を探検したことからフランスが植民地化した地域だった。1712年が最頂時期でありノバスコシアからスペリオル湖までとハドソン湾からミシシッピ川さらにはメキシコ湾まで伸びた。その領土はその後5つの植民地に分けられ、それぞれの政府ができた。すなわちカナダ、アカディア、ハドソン湾、ニューファンドランドおよびルイジアナだった。フランスから約16,000人が到来し、セントローレンス川やアカディアの集落に集まった。他の場所にはほとんど開拓者がいなかった。イギリスは1763年までに戦争の代償としてミシシッピ川より東のほとんど全ての領土を奪った。ニューオーリンズ周辺の地域およびミシシッピ川の領域はスペインに渡され、1803年にはフランスに戻っていたが、ルイジアナ買収の結果としてアメリカ合衆国に売却された[1]。 ロシアの植民地 ロシアとアラスカの間の諸島およびベーリング海両岸の海岸部には、アレウト族、ユピク族、チュクチ族などが住んでいた。ロシアのツァーリはその帝国の東部の探検を決断した(アジアとアメリカの間に陸橋があるかどうかを見極めたいと考えた)。1730年代と1740年代初期に第二次カムチャッカ遠征隊が派遣された。最初のロシアの植民地であるアラスカは1784年にグリゴリー・シェリホフによって設立された[14]。1799年にニコライ・レザノフの力で露米会社が設立され、ラッコを狩りその毛皮を求めた。その後ロシアの探検家や開拓者がアラスカ、アリューシャン列島、現在のブリティッシュコロンビア州、ワシントン州、オレゴン州にまで交易基地の建設を続けた。現在のカリフォルニア州ソノマ郡にあったロス砦がロシアの最南端の植民地だったが1841年に放棄された[15] 。 1867年、アメリカ合衆国がアラスカを買収した。アラスカのハーマンなどロシアの宣教師が先住民の中にロシア正教会を設立した。ロシア正教会とアラスカの先住民は今でも密接な関係を続けている。 イギリスの植民地 イングランドは幾つかの理由で17世紀の初めに最初の植民地化を始めた。この時代、スペインによる侵略の怖れがある中で、プロテスタントのある程度の軍事力と女王エリザベス1世の活力に援けられて、イギリスの第一の国家主義と国民的主張が花開いた。しかし当時、イギリスの政府によって植民地帝国を創設する公式の試みはなされなかった。むしろ植民地を建設する背後にある動機はばらばらで変化するものだった。商業的起業、過剰人口および宗教的自由の望みといった実際的な話がその動機の一部になった。 開拓の大きな波は17世紀に訪れた。1700年以降、植民地アメリカに到着する大半の移民は年季奉公としてだった。1610年代後半からアメリカ独立の間で、イギリスはそのアメリカ植民地に推計5万人の受刑者を運んだ[16]。最初の受刑者が到着したのはメイフラワー号が到着する直前のことだった。 チェサピーク湾地域 バージニア 最初に成功したイングランドの植民地はチェサピーク湾に近い小さな川沿いに1607年に設立されたジェームズタウンだった。この事業は金の探求を行う持ち株会社ロンドン・バージニア会社が資金を提供し、取りまとめた。開拓の初年は極めて難しい状況であり、病気、飢えおよび地元のインディアンとの戦争で高い死亡率となり、金も見つからなかった。この植民地はタバコを換金作物とすることで生き残り繁栄した。17世紀終わりまでにバージニアの輸出経済は大半がタバコに基づいており、新しく到着した金持ちの開拓者が広大な土地を所有して大きなプランテーションを造り、年季奉公者や奴隷を輸入した。1676年、ベイコンの反乱が起こったがイギリスから派遣されていた役人に鎮圧された。ベイコンの反乱後、バージニアにおける労働力として、年季奉公者に代わって急速にアフリカ人の奴隷が増加した[17][18]。 植民地の議会は王室に指名された総督と権力を分け合っていた。地方に行けば政府の権力が自己永続性の郡政治を牛耳っていた(現職の者が役人の空席を埋め、人民による選挙はなかった)。換金作物の生産者であるチェサピークのプランテーションはイングランドとの貿易に大きく依存していた。川を使って容易に航行できたので、町や都市の数は少なかった。農園主は直接イギリスに向けて出荷できた。植民地の初期は高い死亡率と大変若い人口構成が特徴だった[18]。 ニューイングランド ピルグリム・ファーザーズ ピルグリム・ファーザーズはイングランドとオランダを本拠にするプロテスタントの小さな宗派だった。1つの集団が<i data-parsoid='{"dsr":[10176,10187,2,2]}'>メイフラワー号</i>で出港しマサチューセッツに入植した。この集団は自治権を広範に持つことになるメイフラワー誓約を結んだ後で、1620年に小さなプリマス植民地を建設した。プリマス植民地は後にマサチューセッツ湾植民地に吸収された。ウィリアム・ブラッドフォードがその主たる指導者だった。コネチカット植民地はコネチカット州になったイギリス人植民地である[19]。当初川の植民地と呼ばれたこの植民地はピューリタンの天国として1636年3月3日に組織化された。プロビデンス・プランテーションはロジャー・ウィリアムズがナラガンセット族酋長カノニカスから得た土地に1636年に設立された。ウィリアムズはマサチューセッツ湾植民地での宗教的迫害から逃げてきており、「公的な事項」では多数決の原理を与え、「信教の自由』を保証する平等主義的憲法について仲間の開拓者達と合意を取り付けた[17]。 ピューリタン 1629年、ピルグリム・ファーザーズよりかなり大きな400人の開拓者集団であるピューリタンがマサチューセッツ湾植民地を設立した。彼らは新世界で新しく純粋な教会を創設することでイングランド国教会を改革しようとした。1640年までに2万人が到着した。多くの者は到着後間もなく死んだが、他の者は健康的な気候を見出し、豊富な食糧を供給できるようになった。 ピューリタンは深遠な宗教、社会的に緊密な結びつきおよび政治的に革新的な文化を創り出し、これが現在のアメリカ合衆国にも生きている。彼らはこの新しい土地が「改革者の国」として機能することを期待した。彼らはイギリスから逃げてきており、アメリカで「聖者の国」すなわち「丘の上の町」を造ろうとした。厳格な宗教と完全に公正な社会がヨーロッパ全てにとって規範であろうとした。宗教的寛容さ、政教分離を説いたロジャー・ウィリアムズはイングランド国教会と完全に袂を分かち、マサチューセッツ湾植民地から追放されてロードアイランド植民地を設立した。そこはアン・ハッチンソンなどピューリタン社会から逃げてきた他の者達にとって天国になった[17]。 経済的にピューリタンのニューイングランドはその設立者の期待を満足させた。チェサピーク地域の換金作物志向プランテーション経済とは異なり、ピューリタンの経済は自給自足農業を広めることに基づき、自分達で生産できない商品のみを輸入した。ニューイングランドではチェサピーク地域よりも概して高い経済的基盤と生活水準が得られた。農業、漁業および製材業と共に、重要な商業と造船業の中心となり、南部植民地とヨーロッパの間の貿易では中継点として機能した[20]。 大西洋岸中部植民地 大西洋岸中部植民地とは現在のニューヨーク州、ニュージャージー州、ペンシルベニア州およびデラウェア州で構成され、宗教、政治、経済および民族においてかなりの多様化で特徴付けられた。オランダのニューネーデルラント植民地がイギリスに奪われてニューヨークと改名されたが、かなり多くのオランダ人が植民地内に留まった。多くのドイツ人やアイルランド人移民がこれらの地域とコネチカットに入植した。ペンシルベニアに来た開拓者はかなりの比率でドイツ人だった[20]。 ローワー・サウス 南部植民地にはチェサピーク地域のプランテーション型植民地(バージニア、メリーランドおよび場合によってデラウェア)とローワー・サウス(カロライナが分かれたノースカロライナとサウスカロライナ、およびジョージア)が含まれる[20]。 カロライナ バージニアより南でイングランドが最初に開拓を試みたのがカロライナ植民地だった。これは民間事業であり、1663年にカロライナの王室勅許を得たイングランドの植民地領主(Lords Proprietors)8人によって資金が出され、南部の新しい植民地もジェームズタウンのように利益が出せることを期待していた。最初に入植の試みが行われたのが1670年になってからであり、この時は南部に移民することに何の特典も無かったので失敗した。しかし領主達が残っていた資本を掻き集めてジョン・ウェストが率いるこの地域への入植隊の費用を出した。この集団は後にチャールストン(当初はチャールズ1世に因んでチャールズタウンと呼ばれた)となる所に肥沃で防御にも適した土地を見つけた。サウスカロライナの当初の開拓者達はカリブ海の諸島と食糧、鹿の毛皮およびインディアンの奴隷という収益の上がる貿易品を見出した。それらは主にイギリスの植民地であるバルバドスからもたらされ、さらにはアフリカ人奴隷も連れてきた。サトウキビのプランテーションで富める島だったバルバドスは、プランテーション農業に大勢のアフリカ人を使った初期イングランド植民地の一つだった。西アフリカの米作地帯から輸入したアフリカ人を通じて1690年代に米の栽培が始まった。この初期植民地時代は、ノースカロライナはまだ辺境のままだった[20]。 まずサウスカロライナが政治的に分離された。その民族構成には当初の開拓者、バルバドス島から来た奴隷を所有し富めるイングランド人開拓者の集団、フランス語を話すプロテスタントであるユグノーが含まれていた。ウィリアム王戦争やアン女王戦争などほとんど間断の無い戦争状態のために商人と農園主の間に経済と政治の面で亀裂を生じさせた。ヤマシー戦争による惨事のために1715年には政治的動揺の10年間が始まった。1729年までに領主政府は崩壊し、領主達はイギリス王室に植民地を買い戻させた[20]。 ジョージア 18世紀イギリスの国会議員ジェームズ・オグルソープが2つの問題に関する共通の解決策としてジョージア植民地を設立した。当時スペインとイギリスは極度の緊張関係にあり、イギリスはスペイン領フロリダからイギリスの植民地を侵されることを恐れていた。オグルソープは両国が競合していた地域に植民地を建設し、イギリスの標準的習慣では投獄されているような負債者を集めて入植させることにした。この計画はイギリスから望ましくない要素を取り去り、フロリダ攻撃のための基地を備えさせるというメリットがあった。1733年に最初の植民者が到着した[20]。 ジョージア植民地は厳格な道徳規範の上に設立された。奴隷制は禁じられ、アルコールなど不道徳と考えられるものも禁じられた。しかし、植民地の現実は理想とは程遠いものだった。植民地人はピューリタン的生活様式に不満であり、この植民地はカロライナの米プランテーションと経済的に競合できないと不平をこぼした。ジョージアは当初は繁栄しなかったが、最終的に規則が和らげられて奴隷制も許可され、カロライナと同じくらい繁栄するようになった。ジョージア植民地は特定の宗教を指定したことは無かった。様々な信仰を持った人の集まりとなった。 東フロリダと西フロリダ 1763年、イギリスはスペインから東フロリダと西フロリダの割譲を受けた。両フロリダはアメリカ独立戦争の間もイギリスに忠実なままだった。1783年にハバナと引き換えにスペインに返還され、イギリス人の大半がそこを離れた。スペインは当時フロリダを無視しており、1819年にアメリカ合衆国がこの地域を購入した時はスペイン人がほとんど住んでいなかった[1]。 1776年におけるイギリスの統治体制 1776年時点でイギリスの植民地統治体制には直轄、領主領および特許の3形態があった[21]。イギリスの封建制の下でこれらは全て君主に従属するものであり、イギリスの議会とは明確な関係が無かった。 直轄植民地 ニューハンプシャー、ニューヨーク、ノースカロライナ、サウスカロライナおよびジョージアの各植民地が直轄植民地だった。 直轄植民地政府は君主の好みで創設された役人に治められた。知事と議会(council)議員が指名されて一般的な執行権を行使し、両院制の議会を招集する権限を与えられた(議会が上院であり、集会(assembly)が下院だった)。この集会には植民地内の自由土地所有者と農園主から議員を選んだ。知事は絶対的な拒否権があり、集会を休会にしたり解散する権限があった。 集会は地域の法律や条令全てを作ることができたが、それらはイングランドの法と一致していなければならなかった。 領主領植民地 ペンシルベニア、デラウェア、ニュージャージーおよびメリーランドの各植民地が領主領植民地だった。 領主領植民地政府は君主から1人以上の人物に対して特定の領土の特許を認められたものであり、その土地の領主として封建制あるいは王室に従属した一般的な統治権を与えられ、君主の支配に従うものだった。 領主は知事や議会議員を指名し、その意のままに組織したり招集することができた。行政権は領主あるいは知事にあった。 特許植民地 マサチューセッツ、ロードアイランド、およびコネチカットの各植民地が特許植民地だった。 特許植民地政府は特許状で創設された政治的法人であり、受権者が土地を支配し立法権を持った。特許植民地には基本的憲法があり、立法府、行政府および司法府に権限が分けられていた。 イギリスによる管理の統一 共通の防衛 植民地人がイギリスの臣民であるというアイデンティティを共有することを思い出させた事件は、ヨーロッパにおけるオーストリア継承戦争(1740年-1748年)だった。この紛争は植民地にも及び、ジョージ王戦争と呼ばれた。大きな戦闘はヨーロッパで起こったが、アメリカ人が管轄した部隊がニューヨーク植民地やニューイングランドでフランス軍およびその同盟インディアンと戦った。 1754年のオールバニ会議では、ベンジャミン・フランクリンが各植民地は防衛、拡張およびインディン問題で共通の政策を守る為に国民大会議で統一すべきという提案を行った。この案は各植民地議会およびジョージ2世に拒絶されたが、北アメリカのイギリス植民地が統一に向けて動き出す前触れとなった[22]。 フレンチ・インディアン戦争 フレンチ・インディアン戦争(1754年-1763年)は七年戦争と呼ばれたヨーロッパ全体の紛争をアメリカに拡大したものだった。北アメリカにおけるそれ以前の植民地戦争はヨーロッパで始まり、それが植民地に広がったものだったが、フレンチ・インディアン戦争の場合は北アメリカで始まり、その後にヨーロッパに広まったことで特徴的だった。イギリスとフランスの間の競合は特に五大湖やオハイオ川渓谷で拡大し、それが戦争の主要原因の一つになった[23]。 フレンチ・インディアン戦争はイギリスの首相大ピットが如何なる犠牲を払ってでもフランスに勝たなければならないと決心した時に、北アメリカのイギリス植民地人にとって重大なものとなった。初めて北アメリカが「世界戦争」と呼ばれるものの主要戦場になった。この戦争中、イギリス植民地(後にアメリカ合衆国の基盤になった13植民地を含む)のイギリス帝国における位置付けが実際に明白なものとなり、イギリスの軍隊と文民の指導者の存在がアメリカ人の生活の中で大きなものになった。この戦争はまた別の面でアメリカの統一という感覚を育てた。兵士達は通常自国から外には出なかったが、それが大陸を移動し、はっきりと異なるがやはり「アメリカ人」という背景を持つ者達と共に戦った。戦争の進展の中で、イギリス軍士官がアメリカ人を訓練した(最も著名なのがジョージ・ワシントン)。これはアメリカ独立戦争のときには有益だった。また、各植民地議会と役人は大陸全体にわたる軍事行動を行うために、初めて広範な共同行動をとる必要があった[23]。 1763年のパリ条約で、フランスはその広大な北アメリカ帝国をイギリスに割譲した。戦前にイギリスが持っていたのは13植民地とノバスコシアの大半、およびハドソン湾地域の大半だった。戦後はミシシッピ川より東のフランス領全て、これにはケベック、五大湖およびオハイオ川流域の全てを含む領土を得た。またスペイン領だった東フロリダと西フロリダも獲得した。13植民地から外国の脅威を排除することで、植民地人が自らを防衛する必要性がほとんど無くなった。 イギリスと植民地人は共通の敵に対して共に戦い勝利した。母国に対する植民地人の忠誠心は戦前より強くなった。しかし、植民地内の不統一も形成され始めていた。イギリスのピット首相は植民地の軍隊を使うことで植民地での戦争を遂行し、資金はイギリス本国に課税することで賄うことにしていた。これは戦時の戦略としては成功だったが、戦争が終わると双方は互いよりも大きな重荷を負っていると考えた。イギリスの特権階級はヨーロッパの何処よりも重い税を掛けられており、植民地人がイギリスの国庫にほとんど金を納めていないことを怒りをもって指摘した。植民地人は彼らの息子達が戦って死んだのは自分達の利益よりもヨーロッパの利益に多く貢献したと反応した。この論争はその後にアメリカ独立をもたらすことになる一連の出来事に繋がっていった[23]。 イギリス帝国への結びつき 各植民地は互いに大変異なってはいたが、文字通りイギリス帝国の一部のままだった。 社会的には、ボストン、ニューヨーク市、チャールストンおよびフィラデルフィアの植民地特権階級は自分達をイギリス人と考えていた。多くの者はイギリスに行ったことも無かったが、服装、ダンスおよびエチケットなどイギリスの様式を模倣した。この社会的上流階級はジョージア様式の邸宅を建て、トーマス・チッペンデールの家具デザインを真似し、啓蒙時代というヨーロッパの知性の流れに迎合した。住人の多くにとって植民地アメリカの海港都市はイギリスの都市そのものだった[24]。 植民地の政治機構の多くはイギリスの野党指導者、特に著名なものとしてコモンウェルスマンとホイッグ党の伝統である者達が表明した共和制を採用した。当時のアメリカ人の多くは、植民地の統治制度をイギリスの憲法をモデルにしていると考え、国王は知事に相当し、イギリスの庶民院は植民地議会に、貴族院は知事諮問委員会に相当すると見なした。植民地の法典はイギリス法から直接引いてくることが多かった。実際にイギリスのコモン・ローがカナダだけでなくアメリカ合衆国全体で生き残っている。つまるところこれら政治的理想の幾つかの意味するもの、特に代議制と共和主義に関する論争がアメリカ独立に向かっていくことになった[25]。 植民地人がイギリスと異なるというよりも類似していると考えたもう一つのポイントは、急増するイギリス商品の輸入についてだった。イギリス経済は17世紀の終わりに急激な成長を始め、18世紀半ばまでにイギリスの小さな工場が国内で消費する以上のものを生産するようになった。イギリスはその市場を北アメリカに求めたので、輸出高は1740年から1770年の間に360%の増加を見た。イギリスの商人は得意客に寛大な信用払いを提供したので、アメリカ人は大量のイギリス製品を買うようになった。ノバスコシアからジョージアまで全てのイギリス臣民が類似した製品を購入し、ある種英国化された共通の感覚を持つようになった[24]。 統一から革命 王室宣言 1763年のパリ条約締結後間もなく持ち上がった不平等の大衆感覚は、アパラチア山脈を越えて西に開拓者が入ることを一時的に禁じた1763年宣言ではっきりしてきた。植民地人はこれに不満であり、その禁制は守られなかった。 イギリス議会の法令 イギリスの議会は概してヨーロッパの事情に捉われており、植民地の統治は植民地に任せるようになっていた。しかしそうしてもおれなくなった。この政策変更から生まれた下記のような一連の法制がニューイングランドの植民地に直接影響し、その後の13年間で13植民地に次々と反対運動を巻き起こした。 通貨法(1764年) 砂糖法(1764年) 印紙法(1765年) 第一次宿舎法(1765年) 宣言法(1766年) タウンゼント歳入法(1767年) 茶法(1773年) 耐え難き諸法、高圧的諸法</i>あるいは<i data-parsoid='{"dsr":[19053,19062,2,2]}'>懲罰的諸法</i>とも呼ばれた 第二次宿舎法(1774年) ケベック法(1774年) マサチューセッツ統治法(1774年) 裁判権法(1774年) ボストン港法(1774年) 通商禁止法(1775年) 植民地の生活 ニューイングランド ニューイングランドでは、ピューリタンが農夫すなわちヨーマンとその家族の宗派による自治社会を創り出した。高いレベルの政治家が男性開拓者すなわち土地所有者達に土地区画を分け与え、土地所有者達が自分達の間で割り当てを決めた。土地の大きな区画は社会的に高い地位にある男性に与えられるのが通常だったが、白人のあらゆる男性は家族を養うに足るだけの土地を持った。さらに重要なことは白人のあらゆる男性が町の集会で発言権があったことだった。町の集会は税金を課し、道路を建設することを決め、町の諸事を行う役人を選出した。 ピューリタンが設立した会衆派教会は、神は救済に値する数少ない人のみを選び出すという信仰があったために、ニューイングランドの全ての住民が自動的に参加したわけではなかった。実際に教会員になるには教会員の前で救われてきたことを納得のいくように「テスト」できる者に限られた。彼らは「選ばれし者」あるいは「聖者」と呼ばれ、ニューイングランド人口の40%に満たなかった。 農園の生活 ニューイングランド住人の大多数は小農だった。これら小農の家族の中では、またイングランド人家族も男性がその資産と妻に対して絶対的権力を持った。イングランド人女性は結婚すると旧姓と個人としてのアイデンティティを失ったので、寡婦になったとしても、自己資産を持てず、訴訟を起こせず、政治に参加できなかった。妻の役割は健康な子供を産んで育てることであり、その夫を支えることだった。大半の女性はこの義務を遂行した。18世紀半ばに女性は通常20代初期に結婚し、6人から8人の子供を産み、子供達は大抵成人まで育った。農家の女性は羊毛から毛糸を紡ぎ、セーターやストッキングを編み、蝋燭や石鹸を作り、ミルクを攪拌してバターを作ることで家族が必要とする物資の大半を供給した。 ニューイングランドの大半の親はその息子達が自分達の農園を築くのを援助しようとした。息子たちが結婚すると父親は土地、家畜あるいは農機具を贈り物にした。娘達は家財道具、農園の動物あるいは現金を受け取った。見合い結婚は大変稀だった。通常は子供達が宗教や社会的地位の同じような適当な知り合いの輪の中から配偶者を選んだ。両親は子供達の結婚について拒否権を持っていた。 ニューイングランドの農家は通常木材が豊富だったので木の家に住んだ。ニューイングランドの典型的な農家は中2階建てで強い枠組み(通常は大きな角材で造られた)を持ち、木製のよろい張り下見壁板で覆われた。調理のためと冬季の暖房のために家の中心には大きな煙突が立てられた。1階部分の一端にはホールがあり、家族が働いたり食事を摂る多目的の部屋として使われた。ホールに隣接して客間があって客をもてなすために使われ、家内で一番の家具や両親のベッドが置かれた。子供達は上のロフトで寝み、台所はホールの一部にあるか、家の裏の物置部分にあった。植民地時代の家族は大きかったので、このような小さな家屋では多くのことが行われ、ほとんどプライバシーは無かった。 18世紀半ばまでに、このような生活様式は危機に直面していた。地域人口は1700年の10万人から1725年の20万人、1750年の35万人と、世代ごとにほぼ倍増したが、これは各家族が多くの子供を抱え、多くの者は60歳まで生きたからだった。マサチューセッツ、コネチカットおよびロードアイランドの植民地人は農夫の間でその土地を小分けし続けていたので、農場はあまりに小さくなり、一つの家族を養えなくなった。この過剰な人口によってニューイングランドの独立したヨーマン農夫による理想の社会が脅かされるようになった。 農夫の中にはマサチューセッツやコネチカットの未開の地で農場を作るために土地特許を得るか、ニューハンプシャー、後にバーモント州となった所で土地投機家から土地区画を購入する者がいた。農業の革新者になる農夫もいた。ムラサキツメクサやチモシー・グラスのような家畜の餌になるイングランドの滋養のある草を植え、生産性が高くて小農にも利益になるジャガイモを育てた。農家の家族は互いに商品を交換したり労働を助け合うことで生産性を上げた。彼らは家畜や放牧地を貸し借りし、共同して毛糸を紡ぎ、キルトを縫い、トウモロコシの皮をむいた。移住、農業の確信および経済的共同作業によって19世紀までニューイングランドのヨーマン社会を保存する創造的手段となった。 町の生活 18世紀半ばまでにニューイングランドでは造船が主要産業になった。イギリスの王室は安価で頑強なアメリカ製船舶に目を向けることが多かった。ニューイングランドにある川の河口ほとんど全てに造船所があった。 1750年までに様々な職人、商店主および商人が成長する農民のためにサービスを提供した。鍛冶屋、車輪修理工および家具職人が地方の村に店を構え、そこで農家が必要とする商品を作ったり修理したりした。衣類、鉄製具、窓ガラスなどイングランドの製品や、砂糖や糖蜜など西インド諸島の製品を売る商店は貿易業者が開店した。これら店舗の商店主は農作物や屋根板、炭酸カリウム、樽板など地元製品と引き換えに輸入した商品を販売した。これら地方産の製品は大西洋岸の町や都市に運ばれた。企業家はこの輸送のために荷馬車道に沿って馬小屋や酒場を作った。 これらの製品がマサチューセッツのボストンやセイラム、コネチカットのニューヘイブンおよびロードアイランドのニューポートのような港町に運ばれた後、商人はそれらを西インド諸島に輸出し、糖蜜、砂糖、金貨および交換手形と取引した。彼らは西インド諸島の製品をニューイングランドの工場に運び、そこで生のサトウキビが砂糖に精製され、糖蜜はラム酒に醸造された。金や交換手形はイングランドに送られて商品と交換され、その商品が植民地に運ばれて砂糖やラム酒と共に農家に売られた。 ニューイングランドの商人には大西洋岸の豊かな漁場を利用して、大規模な漁業船隊を手当てし、収穫物のサバやタラを西インド諸島やヨーロッパに運んで利益を出す者もいた。またある商人は海岸やニューイングランド北部の河川で大量の木材を取引した。彼らは製材所を造って家屋や船舶のために安価な木材を供給した。ニューイングランドの数百の造船工は外洋航行船舶を建造し、イギリスやアメリカの商人に販売した。 多くの商人はその商品を農民に供給することで大きな富を掴み、海港都市の社会を支配するようになった。ヨーマン農家とは異なり、これら商人はイングランド上流階級の生活様式を真似て、新しいジョージア調で設計された中3階建て家屋に住んだ。これらジョージア調家屋は対称的なファサードがあり、中央のドアの両側に同じ数の窓があった。内部には家の中心を通る廊下があり、その両側に図書室、食堂、きちんとした客間、および家主の寝室といった用途を持った部屋があった。ヨーマンの家にある多目的なホールや客間とは異なり、これらの部屋はそれぞれ異なる目的のために使われた。ジョージア調家屋では、男性が主に図書室のような特定の部屋を使い、女性は大半が台所を使った。これらの家屋には二階に寝室があり、両親も子供達にもプライバシーが保たれた。 文化と教育 ニューイングランドでは初等教育が普及した。初期ピューリタン開拓者は聖書を勉強することが必要だと考えたので、子供達は早い段階で読むことを教えられた。それぞれの町は初等教育の費用を出すことも求められた。約10%の子供は中等教育まで進み、大きな町ではグラマースクールも備えられた。少年の大半は父から農業技術を習うか、職人の所に徒弟奉公に出された。正式な学校に入学する少女は少なかったが、大半は家庭あるいは基本的な読み書きが女性自身の家で教えられたいわゆる「ダーム・スクール」(おばさん塾)で幾らかの教育を受けることができた。1750年までにニューイングランドの女性の90%近く、また男性はほとんど全員が読み書きできていた。ピューリタンは1636年にハーバード大学、1701年にイェール大学を設立した。その後バプテストが1764年にロードアイランド・カレッジ(現在のブラウン大学)、会衆派教会が1769年にダートマス大学を設立した。バージニアでは1693年にウィリアム・アンド・メアリー大学を設立していた。この大学は主として牧師、弁護士あるいは医者を目指す者にアピールしていた。独立した神学校あるいはロースクールというものは無かった。 ニューイングランド人は日記、小冊子、書籍および特に説教を著したが、これは他の植民地を併せたよりも量が多かった。ボストンの牧師であるコットン・マザーが『マグナリア・クリスティ・アメリカーナ』(アメリカにおけるキリストの偉大な仕事、1702年)を出版し、信仰復興論者のジョナサン・エドワーズはその哲学書「慎重で厳密な質問...自由意志の...概念...』(1754年)を著した。音楽の大半には宗教的なテーマによって作られ、主に賛美歌が歌われた。ニューイングランドでは信仰心が篤かったので、十分に宗教的ではなかったりあまりに「世俗的な」芸術作品特に劇は禁じられた。 宗教 植民地アメリカに移民してきた者達の中には信仰の自由を求めてきた者がいた。ロンドンは植民地にイングランド国教会の機関を作らなかった。司祭も派遣しなかったので、宗教は多様化した[26]。 「第一次大覚醒」は1730年代と1740年代に大半の植民地で起こった大きな宗教復興運動だった[27]。この運動は、ピルグリムの厳格なカルヴァン主義のルーツへの復帰と「神の畏れ」の覚醒を求めたマサチューセッツの説教師ジョナサン・エドワーズによって始められた。イギリスの説教師ジョージ・ホウィットフィールドなど遊歴する説教師が運動を続け、植民地を巡って劇的で感情を揺り動かすスタイルの説教を行った。エドワーズの追随者やその他同じ様に信心深い説教師が自分達のことを「ニューライト」と呼び、彼らの運動を不可とした「オールドライト」と対照させた。彼らの見解を普及させるためにこの双方がプリンストン大学やウィリアムズ・カレッジなど学校やカレッジを設立した。「第一次大覚醒」は真のアメリカ人による最初の出来事と言われてきた[28]。 類似した敬虔な信仰復興運動がドイツ人やオランダ人の開拓者の中で生まれ、別の会派を生むようになった。1770年代までにバプテストは北部でも南部でも急速に成長した。北部ではブラウン大学を設立し、南部では以前に問題にされなかったイングランド国教会の道徳的権威に異議を申し立てた。 大西洋岸中部 大西洋岸中部はニューイングランドとは異なり、新しい移民によって人口が増え、1750年までにニューヨーク、ニュージャージー、およびペンシルベニア各植民地を合わせた人口は30万人近くまで達していた。この年までにアイルランド人約6万にとドイツ人約5万人がイギリス領北アメリカに渡って来ており、その多くは大西洋岸中部に定着した。1682年にペンシルベニア植民地を創設したウィリアム・ペンは、信仰の自由と不動産の自由保有権という政策によって移民の流入を奨励した。「不動産の自由保有権」とは農夫がその土地を無料で所有し、賃貸ではないことを意味した。最初に移民の流入が起こったのは主にアイルランドからだった。多くのドイツ人は宗教的な紛争から逃れ、ドイツやスイスでの減退しつつあった経済機会を避けて来ていた。 生活様式 大西洋岸中部の建築の多くはその民族の多様性を反映していた。ニューヨーク植民地のオールバニやニューヨーク市では、建物の大多数がオランダ様式で、煉瓦の外装と両端の高い破風が特徴であり、多くのオランダ教会は八角形のように造られた。ペンシルベニアのドイツ人やウェールズ人開拓者は母国でのやり方に倣ってその家屋に切り石を使い、この地域に多量にあった木材は完全に無視した。この例としてフィラデルフィアのジャーマンタウンは、建物の80%が完全に石で造られた。一方、アイルランドからの開拓者はアメリカで豊富に得られる木材を活かして堅牢な丸太小屋を建設した。 民族の文化は家具の様式にも影響した。田園部のクエーカー教徒はテーブル、椅子、チェストのような家具に単純なデザインを好み、華美な装飾を避けた。しかし都会のクエーカー教徒は精巧な細工の家具を所有した。フィラデルフィア市はクエーカー教徒やイギリス人商人の大きな富があったために家具製作の大きな中心地になった。フィラデルフィアの家具職人は優美な机や箪笥を製作した。ドイツ人の職人はそのチェストなどの家具に手の込んだデザインを施し、花や鳥のある景色を描いた。ドイツ人陶器工は優雅で伝統的なデザインのジャグ、ポットおよび皿を多く制作した。 女性の待遇についても民族による違いがあった。ニューイングランドのピューリタン開拓者では、妻が夫と一緒の畑で働くことはほとんど無かった。ペンシルベニアのドイツ人社会では多くの女性が畑や馬小屋で働いた。ドイツ人やオランダ人の移民は女性がその資産を管理することを認めたが、これはイギリスの法律では認められていなかった。イギリス植民地の妻とは異なり、ドイツ人やオランダ人の妻は自分の衣類など物品を所有し、結婚する時に持ってきた資産の処分について遺書を書くこともできた。 アメリカ独立戦争の時までに、白人アメリカ人の約85%はイングランド人、アイルランド人、ウェールズ人およびスコットランド人の子孫だった。白人の約8.8%はドイツ人、3.5%はオランダ人を起源としていた。 農業 民族の多様性は農業のやり方にも違いを生んだ。その例として、ドイツ人農夫は通常鋤を引かせるのに馬よりも牛を好み、スコットランド系アイルランド人はブタやトウモロコシを基本にする農業経済だった。アイルランドでは、農夫が懸命に働き、小さな土地から可能な限り生産性を上げて行こうとしていた。アメリカの植民地では、アイルランド北部から来た開拓者が混合農業を目指した。このやり方で、人が食し、ブタなど家畜の餌にするためにトウモロコシを育てた。あらゆる異なる出自の農夫が改善を志し、その結果を残す為に新しい農業手法を使い始めた。1750年代、これら農業の改革者は干草、小麦および大麦の収穫に用いた鎌や大鎌を、穀物の束を集めやすい木の柄のついた揺動鎌に置き換えた。この道具で農夫が一日にできる作業を3倍にした。農夫は肥やしや農業用石灰を使って土地を肥やし、土壌を肥沃にしておくために輪作も始めた。 1720年以前、大西洋岸中部の植民地人の大半は小規模な農場で働き、西インド諸島にトウモロコシや小麦粉を輸出することで輸入された商品を購入した。ニューヨークでは生皮をヨーロッパに輸出することで地域にさらに富をもたらした。1720年以降、大西洋岸中部の農業は小麦に対する国際的な需要で潤った。ヨーロッパにおける人口の爆発は小麦価格を上昇させた。1770年までに、小麦1ブッシェルの価格は1720年の2倍になった。アイルランドのリンネル産業で亜麻が大きく求められたことや西インド諸島でトウモロコシの需要があったので、亜麻仁やトウモロコシの生産高も上げていった。 到着したばかりの移民の中には農場を購入しこの輸出による富を共有できた者もいたが、多くの貧しいドイツ人やアイルランド人の移民は農業労働者として働くことを強いられた。商人や職人も衣類などの商品を国内で製作するために、これら家の無い労働者を雇用した。商人は農夫から羊毛や亜麻を買い、その家で材料を毛糸に紡ぎ衣類にするために、アイルランドやドイツで繊維工場の労働者だった到着したばかりの移民を雇用した。大規模農場主や商人は富が増し、小規模農場主や職人は生きていくだけの稼ぎしか得られなかった。大西洋岸中部では1750年までに民族的出自と富の双方で分化が進んだ。 海港 小麦貿易で拡大した海港では大西洋岸中部の何処よりも社会階級の分化が進んだ。1750年までにフィラデルフィアの人口は25,000人に達し、ニューヨークには15,000人、ボルティモアには7,000人がいた。商人が海港の社会を支配し、約40人の商人でフィラデルフィアの貿易の半分を支配した。裕福なフィラデルフィアとニューヨークの商人は、ニューイングランドの商人に似て、優美なジョージア調の邸宅を建設した。 商店主、職人、造船業者、肉屋、桶屋、裁縫師、靴屋、パン屋、大工、石工、など多くの専門化した職種が海港社会の中間層を占めた。妻や夫はチームで働き、子供達にその技能を教えて家族に継承して行った。これら職人や貿易業者の多くはそこそこの生活をするだけの資産を作った。 労働者が海港社会の底辺にいた。これら貧しい人々は到着する船から荷を降ろし、出港する船に小麦、トウモロコシおよび亜麻仁を積むためにドックで働いた。その多くはアフリカ系アメリカ人であり、その中でも自由を得た者や奴隷になった者もいた。1750年ニューヨークとフィラデルフィアの人口のうち、約10%が黒人だった。船員の多く、その中にはアフリカ系アメリカ人もいたが、商船の水夫として働いた。 南部植民地 南部植民地は主に、メリーランド、バージニアおよびサウスカロライナ各植民地の富裕な奴隷所有農場主によって支配されていた。農園主は広大な土地を所有し、アフリカ人奴隷を働かせた。1750年に南部の人口65万人のうち、約25万人すなわち40%は奴隷だった。農園主はその富を使って土地の小作人やヨーマン農夫を支配した。選挙があるときには、これら農夫にラム酒を贈り、低い税金を約束して植民地の議会を支配した。 プランテーション 植民地初期の苦しく飢えのあった時代の後の1720年代から、農園主の次の世代は大きなジョージア調の邸宅を建設し始め、馬の背で鹿を狩った。南部植民地の裕福な女性はイギリスの文化も共有した。彼女達はイギリスの雑誌を読み、イギリスデザインの流行の服を着し、優雅な午後の紅茶を楽しんだ。繁華な海港であるサウスカロライナのチャールストンでタウンハンスに住む米プランテーション所有者が最も成功した例だった。メリーランドのアナポリスのような町やバージニアのジェームズ川に沿ったタバコ・プランテーションでは活動的な社交シーズンがあった。 奴隷 アイ、タバコおよび米の畑で働いたアフリカ人奴隷は西アフリカや中央アフリカから来ていた。植民地アメリカの奴隷制は世代から世代に移るにつれて大変抑圧的なものになり、奴隷は法的権利を持たなかった。砂糖やコーヒーのような商品の生産に特化した植民地は最も奴隷に依存し、その結果新世界でも最も高い(奴隷を含む)一人当たり生産高を示した。しかし、奴隷は大変貧しく生きていくだけのものしか与えられなかった。1500年から1700年の間に、新世界に渡った600万人のうち60%は不本意な奴隷だった。1700年、チェサピーク湾地域には約9,600人の奴隷がおり、カロライナには数百人がいただけだった。それから50年間に約17万人のアフリカ人が到着した。1750年までにイギリス領アメリカには25万人以上の奴隷がおり、カロライナの場合は全人口の約60%が奴隷だった。植民地時代が終わった後の最初の国勢調査では、697,681人の奴隷と59,527人の自由黒人がおり、両者合わせて国内人口の約20%に相当した。サウスカロライナの奴隷の大半はアフリカ生まれであり、バージニアとメリーランドの奴隷の半分は植民地で生まれていた。 脚注 関連項目 アメリカ合衆国の独立 ヌーベルフランス 参考文献 Ciment, James, ed. 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薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代の藩。正式名称は<b data-parsoid='{"dsr":[426,436,3,3]}'>鹿児島藩(かごしまはん)。藩庁は鹿児島城(鹿児島市)、藩主は島津氏。薩摩・大隅の2ヶ国および日向国諸県郡の大部分(現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部)を領有し、琉球王国(現在の沖縄県)を支配下に置き間接的に服属させた[注釈 1]。 概要 薩摩藩は通称で、版籍奉還後に定められた正式名称は<b data-parsoid='{"dsr":[730,740,3,3]}'>鹿児島藩。外様大名でありながら、琉球を含めた最高石高は90万石(籾高であり、実際の玄米高は約半分)と加賀藩に次ぐ大藩を形成した。 幕末から明治維新にかけて、西郷隆盛や大久保利通などの有力政治家を数多く輩出し、第一次世界大戦までの日本の政治を支配した藩閥政治では、「薩摩閥」と呼ばれ長州藩とともに有力な政治勢力を形成した。 薩摩藩は佐土原藩を支藩とした。佐土原藩は日向国那珂郡及び児湯郡を領有していた。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)。島津氏支族佐土原島津家が藩主であった。 薩摩藩の家臣団の家格は正徳元年までに整備され、御一門(4家、私領主)、一所持(21家 私領主)、一所持格(約20家)、寄合、寄合並(寄合、寄合並をあわせ約60家。「三州御治世要覧」ではこの家格を「家老与」と呼んでいる。以上が上士層で家老を出すことができる。但し、寄合並は一代限りの家格のため、変動が激しい)、無格(2家)、小番(約760家)、新番(約24家)、御小姓与(約3000家。ここまでが城下士)、与力(赦免士や座附士とも、准士分)の10の家格に分かれていた。 歴史 中世 島津氏は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名・戦国大名であり、1587年(天正15年)に豊臣秀吉の九州征伐によって豊臣氏に服属、薩摩・大隅・日向の一部に跨がる所領の支配を認められた。 豊臣秀吉の文禄・慶長の役の間、留守を預かる武士の青少年の風紀が乱れたことがあり、これを心配した留守居役の家老たちが考案した青少年教育システムが郷中教育といわれている(詳細)。 近世 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくが、徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男・家久が当主と認められた。この時点をもって正式な薩摩藩成立と見なすのが通説である[1]。 1609年(慶長14年)、琉球に出兵して琉球王国を服属(琉球侵攻)させ、琉球の石高12万石を加えられた。奄美群島は琉球と分離され、薩摩藩が大島代官、喜界島代官、徳之島代官、沖永良部代官を配置して直接支配した。沖縄本島以南は那覇に琉球在番奉行を派遣して琉球王国を管理したが、実際には琉球王国は大幅な自治権を行使していた。薩摩藩の琉球支配は、年貢よりもむしろ琉球王国を窓口にした中国との貿易が利益をもたらした。また、薩摩には奄美産の砂糖による利益がもたらされた。その他加増を受けて従来の56万石から72万石の大藩となる(その後石高の高直しなどにより、表高は77万石となる)。 旧来の支配者から転封を経ずに近世大名に移行した薩摩藩は、旧来の支配体制を残し、外城制(武士を鹿児島城下に強制移住させず、領内に分散した<b data-parsoid='{"dsr":[2662,2670,3,3]}'>外城</b>と呼ばれる拠点に居住させる。天明4年(1784年)呼称を<b data-parsoid='{"dsr":[2706,2713,3,3]}'>郷</b>と改める)や門割(かどわり、農民を数戸ごとに「門」(かど)というグループに分け、門ごとに土地を所有させる)などの独特の制度を持った。 しかし、多くの郷士を抱え、広い意味での士分の者が全人口の約40%弱を占めていた。例えば島津家文書「要用集 四」所収の1852年(嘉永5年)の「宗門手札御改人数総之事」によると、奄美・琉球を除いた薩隅日三ヶ国の合計人口62万2365人中、城下士・郷士・人躰外士・私領家来人躰までで17万0694人(27%)、諸士又内・諸座附などが7万3634人(12%)となっている。また「藩制一覧表」などによると、明治3年頃の琉球を除いた薩隅日三国の合計人口77万2354人の内、士族が19万2949人(25%)、足軽以下の卒族が9万5569人(12%)となっている。1872年(明治5年)の卒族廃止の際、薩摩藩の卒族は大多数が平民となったが、族籍が士族となった者は全人口の4分の1を超えていた(なお壬申戸籍における明治維新直後の全国の華士卒族の割合は全人口の約6%である)。また藩内の土壌の多くは水持ちが悪く稲作には適さないシラス台地であったため土地が貧しく、表高は77万石でも実質は35万石ほどの収益しかなかった。かつ、南西諸島ほどではないが台風や火山噴火などの災害を受け易い立地であったため、藩政初期から財政は窮迫していた。 さらに、徳川幕府の有力藩に対する弱体化政策の下で、大規模な御手伝普請を割り当てられた。特に1753年(宝暦3年)に命じられた木曽三川改修工事(宝暦治水)の多大な出費により、所領が現場から遠いこともあって藩財政は危殆に瀕した。工事を指揮した薩摩藩家老平田靱負は、多くの犠牲者と藩財政の疲弊の責任を取って工事完了後に自害している。 第8代藩主・島津重豪は、閉鎖的であったそれまでの藩政を改革し、1773年(安永2年)に、藩校造士館と演武館の設立を手始めに、医学院や明時館と次々に学校を設立。『成形図説・百巻』(農業書)など各種図書の編纂事業も行った。また江戸幕府との結びつきを強めるため、三女の茂姫を第11代将軍・徳川家斉に嫁がせた(ちなみに外様大名から将軍正室を輩出したのは薩摩藩だけである)。これら重豪の豪奢な事業により薩摩藩の全国的な政治的影響力は格段に上がったものの、藩財政は更に困窮の度を増した。 その後1827年(文政10年)、調所広郷を中心に藩政改革が断行され、藩債整理[2]、砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大などを打ち出して、財政は好転した。砂糖専売制については、大島・喜界島・徳之島の三島砂糖総買入れ制度を実施して莫大な利益を得た。1851年(嘉永4年)に第11代藩主となった島津斉彬の下で、洋式軍備や藩営工場の設立を推進し(集成館事業)、また、養女の篤姫を第13代将軍・徳川家定の正継室にするなど、幕末の雄として抬頭した。 斉彬の死後、藩主・島津忠義の実父にして斉彬の異母弟にあたる久光が実権を握り、「国父」・「副城公」と呼ばれた。公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するが、薩英戦争を経て西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る。幕末には公武合体論や尊王攘夷を主張、その後長州藩と薩長同盟を結んで明治維新の原動力となり、明治以降の長きにわたって日本政治を支配する薩摩閥を形成することとなる。 琉球諸島を除く薩摩藩領は、直轄地の奄美群島とともに1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県を経て鹿児島県となった。 島津家は、1884年(明治17年)の華族令により公爵となった。 石高の推移 薩摩藩には内検と呼ばれる藩独自の検地を行っていた。俗に言う「薩摩77万石」とは享保内検から琉球分9万4千石余を引いた値である[3]。 文禄検地 - 56万9千石余(文禄年間に行われた石田三成奉行による検地の結果) 慶長内検 - 73万2千石余 寛永16年 - 69万9千石余 万治内検 - 74万7千石余 享保内倹 - 86万7千石余 文政9年 - 89万9千石余 実質は約35万石ほどと推測されている。なお、琉球の石高12万石は表高に加えることを許されたが、その分は無役(軍役の対象とならない)とされている。 歴代藩主 島津家 - 外様 77万石 薩摩藩の郷中制度 小説家の司馬遼太郎は、薩摩藩の郷中制度の原型は、東南アジアから日本列島の農山漁村に多く見られた若衆組の習俗に由来すると推測した。その傍証の一つに、村落体制下において郷中のトップである郷中頭の権威が高いことをあげる。すなわち、一般的に若衆組のトップである若衆頭は、村落内で大きな発言力を有し、時に年寄りや村落の首長さえも遠慮するほどであった。この点郷中制度と若衆組習俗は共通する。この性格は中国・朝鮮の厳格な儒教文化圏ではありえないことだったとも指摘した。この郷中の性格は、後の私学校に引き継がれた。司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べる。西南戦争の発端になった私学校生徒の暴発に際し、西郷隆盛が反対しつつも、最後は不本意ながら反乱を率いていかざるを得なくなった遠因は、このような郷中制度を機軸とした薩摩文化の観点から読み解けると司馬は述べている[4]。 幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この郷中制度を中心に男色が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された(土佐や会津などにもこれと類似した制度や傾向があったといわれる[5])。 幕末の領地 Colombia 琉球国諸嶋:これには奄美群島も含まれるが、奄美群島は琉球侵攻(己酉の乱)の戦後処理で薩摩藩の蔵入地となっており、江戸時代を通じて奄美群島は琉球国の管轄とされながらも、琉球王国の支配を脱していた。奄美群島は明治維新後には薩摩国管轄として扱われた時期があり、その後1879年(明治12年)に大島郡として発足した際、大隅国管轄となった。 上記のほか、明治維新後に日高国浦河郡、様似郡、十勝国広尾郡、当縁郡、河西郡を管轄したが、後に当縁郡は田安徳川家に、河西郡は一橋徳川家にそれぞれ移管された。 薩摩藩邸跡石碑(同志社大学今出川キャンパス前) 薩藩戦死者墓(京都市、相国寺塔頭) 薩摩藩英国留学生記念館(鹿児島県いちき串木野市) 薩摩義士碑(鹿児島市) 薩摩藩が鋳造した150ポンドカノン砲(大阪市天保山) 薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』 島津斉彬像(照国神社) 戊辰戦争における薩摩藩士 戊辰戦争における薩摩軍の旗 脚注 注釈 出典 参考文献 『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社 1977年 『別冊歴史読本㉔ 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社 1977年 『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 文春新書 2003年 『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』 八幡和郎/著 光文社新書 2004年 関連項目 Colombia 武道関連 太刀流 示現流 古示現流 小示現流 薬丸自顕流 直心影流剣術(薩摩藩では「真影流」と呼ばれた) 浅山一伝流(薩摩藩では「朝山流」と呼ばれた) 関口新心流(薩摩藩では「関口流」と呼ばれた)
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オスマン帝国は何人のアルメニア人を虐殺した?
アルメニア人虐殺
japanese
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アルメニア人虐殺(アルメニアじんぎゃくさつ)は、19世紀末から20世紀初頭に、オスマン帝国の少数民族であったアルメニア人の多くが、強制移住、虐殺などにより死亡した事件。ヨーロッパ諸国では、特に第一次世界大戦に起きたものをオスマン帝国政府による計画的で組織的な虐殺と見る意見が大勢である。それによれば、この一連の事件は「アルメニア人ジェノサイド」と呼ばれ、21世紀に至る現代でも、オスマン帝国の主な継承国であるトルコは国際的に非難されている。トルコ政府は、その計画性や組織性を認めていない。 問題の概要 19世紀末と20世紀初頭の二度にわたり、オスマン帝国領内でアルメニア人に対する大規模な虐殺が起きた[1]。このうち第一次世界大戦中のアルメニア人虐殺は、1915年から1916年にかけて統一と進歩委員会(青年トルコ党)政権によって行われた、伝統的なアルメニア人居住地(いわゆる大アルメニア)の南西部にあたるオスマン帝国領のアナトリア東部(いわゆる西アルメニア)からのアルメニア人強制移住であり、これにともなって数多くのアルメニア人が犠牲になった。オスマン帝国に居住するアルメニア人が政府の命令により意図的に殺害されたとして、この虐殺事件を近代初のジェノサイドの一つであるとみなすものは少なくない[2][3][4][5]。アルメニア人社会では「虐殺がナチス・ドイツによるユダヤ人に対するホロコーストのように組織的に行われた」と考えられており、またオスマン帝国からトルコに至る「トルコ国家」が一貫した責任を有するとする。特に4月24日は、ジェノサイド追悼記念日とされており、毎年トルコを非難する国際的なキャンペーンが行われている。 アルメニア人の死者数は、一般的に100万から150万人の間であると考えられている[6][7][8][9]。トルコ共和国の元国民教育相ユースフ・ヒクメト・バユルは、トルコ歴史協会から出版された、その著書『トルコ革命史』で、1928年にニハト中佐により翻訳されトルコ参謀本部により出版された『世界大戦におけるトルコの戦争』のなかから「東部諸県のムスリムのうち、戦争のため、または避難のため、50万が失われた。80万のアルメニア人と20万人のルム (ギリシャ本土以外に住むギリシャ系住民のトルコでの呼称)は、虐殺と追放のため、また、労働大隊において死亡した」という部分と、「我々の記録に拠っても、事実と看做す必要がある」とのニハト中佐の脚注を引用している[10]。 さらに第一次世界大戦の終結後、アルメニア第一共和国はオスマン帝国領のアルメニア人居住地域を含む領土拡大を目指したが、モスクワのアナトリー・ゲッケル指揮下の赤軍第11軍とアンカラ政府のキャーズム・カラベキル指揮下の東部戦線 (Eastern Front)の攻撃の前に粉砕された。この戦乱でも多くのアルメニア人が命を落とした。 また、アルメニア人の他に、アッシリア人やポントス人 (ルム)に対する虐殺事件も起きた[11][12][13]。 迫害の背景と経過 オスマン帝国におけるアルメニア人問題の発生 オスマン帝国におけるアルメニア人共同体は、大きく分けて、東部の農村社会と、イスタンブールなど都市部の交易離散共同体との二つから成り立っていた。特に後者は貿易や金融業で成功して富裕な商人層を形成しており、また建築家や造幣官などとして宮廷、中央官庁に仕える者も多く、中央政府と共存共栄する共同体であった。オスマン帝国東部にはアルメニア人の他にクルド人なども居住しており、シェイフ・ウベイドゥッラー・ネフリー、ベデゥルハーン・ベグ、イェズダン・シェイルなどのクルド人の反乱が起きていたが、アルメニア人による反乱は起きていなかった。こうした背景から、アルメニア人共同体は、「忠実なるミッレト」 (共同体、Millet-i Sadaka)と呼ばれていた。しかし、19世紀に入るとアルメニア人の中からカトリックへの改宗などを通じて西ヨーロッパ諸国の庇護を受け、特権を享受する者が現れ、ムスリム住民との間に軋轢が生じ始め、また富裕層の間から西ヨーロッパとの交流を通じて民族主義に目覚める者が現れ始めた。一方、コーカサス戦争、などの結果、ムスリムのアナトリアへの集団移住が行われ、オスマン帝国が受け入れていた[14]。これらカフカス移民やバルカン戦争などによるバルカン移民のなかには、キリスト教徒に対し「復讐心」を抱く者が少なくなく、第一次世界大戦時に非正規部隊に登用され、アルメニア人虐殺においても主要な役割を演じることになった。 1877年の露土戦争でロシア帝国は南カフカスとアルメニア人居住地帯の北東部を占領し、アルメニア系の (ラザリャン)中将にムスリムとアルメニア人の離間のための任務にあたらせた。()。アルメニア人人口を抱え込んだロシアは、オスマン帝国領内のアルメニア人を支援するようになり、1878年のサン・ステファノ条約で、、、、、からなるオスマン帝国東部の「」におけるアルメニア人の権利向上を目指す改革の実施を約束させようとした。これを契機にオスマン帝国領内でが盛り上がり、帝国外ではアルメニア人民族主義者が、ダシュナク党など、アルメニアの独立を目標とする政党が結成された。やがて、彼らの中から帝国内に秘密支部()を設け、オスマン官吏を狙った爆弾攻撃を行う抵抗運動すら現れ始めた。一方、先の露土戦争のとき、ロシアの占領地からオスマン帝国に逃れてきたムスリムの難民たちから、キリスト教徒であるアルメニア人がロシア軍に協力してムスリムを追い立てたのだとする風評がムスリムの間で広まり、オスマン帝国下のムスリム、すなわち都市部でアルメニア人と接するトルコ人や東部でアルメニア人と混住するクルド人の間で、アルメニア人を国内にありながら外国と通謀し「テロ」を行う危険分子と見なす敵愾心が高まっていった。 「ハミディイェ虐殺」 1894年、アナトリア東部のビトリス県でムスリムとアルメニア人の大規模な衝突が起き、オスマン政府は軍隊のほかハミディイェのような非正規部隊を動員して衝突を鎮圧し、2万人とも言われる多くの犠牲者を出した()。 ただし、フランスの外交書簡によれば、ハミディイェによって殺されたのはアルメニア人だけではなく、ディヤルバクル(), , スィヴァス[15]などのアナトリアに住むアッシリア人も多かったと記録されている[16][17]。また、9月には、イスタンブールに住むユダヤ人コミュニティが暴動の期間中に多くのアルメニア人を自宅に匿っていた為、シナゴーグがムスリムによる襲撃を受けている[18]。アルメニア人政党はこれを機に国際世論に訴えたので、ヨーロッパ諸国はオスマン帝国の対応を批判し、翌1895年1月、イギリス・フランス・ロシアは共同でアナトリア東部の行政改革案を提示して、その履行をオスマン帝国に要求した。この出来事は同年、オスマン帝国政府が履行を受諾しながら改革を一向に実施しないことに抗議するアルメニア人の大規模なデモをイスタンブールで巻き起こすが、これをデモというよりはむしろ外圧を笠に着た横暴と感じ激昂したムスリム民衆が首都のアルメニア人を襲撃する事件が起こった。さらに翌1896年にはアルメニア人の革命組織がイスタンブールのオスマン銀行を襲撃・占拠した事件()が起こり、ムスリムとアルメニア人の衝突が再燃した。 1894年に起こったこの衝突・迫害は1896年の衝突を最後に一応の沈静化をみるが、一連の衝突で犠牲になったアルメニア人は数万人にのぼった。この事件をきっかけに富裕層を中心にオスマン帝国を見限ったアルメニア人の欧米への移住が相次ぎ、都市部のアルメニア人人口は急速に減少に向かった。 一連の衝突・迫害に関して諸外国はオスマン帝国を非難したが、オスマン帝国の分割あるいは保全に対する列強それぞれの思惑の相違から改革要求以上の介入は行われず、ムスリムとアルメニア人の対立構造は虐殺行為の沈静化後もそのまま手付かずに残されることとなった。 ユルデュズ暗殺未遂事件と青年トルコ人革命 1905年7月21日、アルメニア革命連盟はキュステンディル近郊の村で製造された爆弾によるスルタンアブデュルハミト2世暗殺を試みたが、護衛26人は死亡したもののスルタンは軽傷で済み失敗に終わった。スルタンへの敵意は統一と進歩委員会(青年トルコ党)にとっても同様で、1908年の青年トルコ人革命でついにアブデュルハミト2世の専制がエンヴェル・パシャらによって打破され、憲政が復活した。 アダナの虐殺 それまでズィンミーの身分に耐えてきたアルメニア人キリスト教徒の間でも青年トルコ人革命によって圧政から解放される期待が高まっていたが、1909年4月13日に起こったアダナの虐殺で、アルメニア人キリスト教徒15,000-30,000人がムスリム住民に虐殺された[19][20][21][22][23]。この時、は数千人のアルメニア人で溢れ返り、メルスィンに寄港中だったフランスの軍艦三隻にはアルメニア人難民が殺到した。オスマン軍も暴力を沈静化させるために活動した。イギリス海軍の巡洋艦ダイアナが事態を沈静化させる為にアレクサンドレッタに寄港したが、暴動はなかなか治まらなかった。 第一次世界大戦時の「アルメニア人虐殺」 1913年になるとタラート・パシャ、エンヴェル・パシャ、ジェマル・パシャらがクーデターを起こし、統一派のタラートが自ら政権の座についた。政権奪取に至る帝国内外の政治的な経緯から、次第にトルコ民族主義へと傾斜しており、アルメニア人問題は再燃に向かっていた。1914年、東部アナトリアの諸州にアルメニア人問題に関する国際監視団が派遣されることが決定したが、同年に第一次世界大戦が起こると凍結された。この状況下でオスマン帝国が第一次世界大戦で同盟国側につくことを決すると、連合国側で参戦したロシア帝国のニコライ・ユデーニチが率いるカフカース軍が東部アナトリアに侵攻し、1914年12月のでエンヴェル・パシャが率いるオスマン軍を撃破した。このとき、アルメニア系オスマン帝国臣民の中からも、ロシア軍へと参加したり、オスマン帝国に対するゲリラ活動に入る者が数千人単位で現れるが、アルメニア人ゲリラによってムスリムの村落が襲撃され、ムスリムが殺害される事件も起こった。これらの行動は、露土戦争以来オスマン帝国の政府内外に浸透していたアルメニア人への敵意を確実なものとする結果を呼んだ。 ガリポリ戦線がイギリスの激しい攻勢にさらされる中で、1915年にはヴァン湖周辺でユデーニチ率いるロシア軍と一進一退のこう着状態に陥っており、オスマン軍にとってまでもが劣勢に陥るという苦境だけは避けねばならなかった。1915年4月19日、ヴァン湖地区で行われたヴァン攻囲戦では、エンヴェル・パシャの叔父ハリル・ベイ率いる第5遠征隊 (5 nci Kuvve-i Seferiye)がアルメニア人防衛線を突破することに成功し[24]、7月には-線まで押し戻し、8月にはヴァン湖周辺を制圧することになった。 それと平行して、1915年4月から5月頃、戦闘地域での反国家・利敵行為を予防するとの目的で、ロシアとの戦闘地域であるアナトリア東部のアルメニア人をシリアの砂漠地帯の町デリゾールの強制収容所へと強制移住させる死の行進政策が開始された。その指令がいついかなるようになされたか、あるいは本当になされたのかどうかについては議論がある。そして同年4月24日は、イスタンブールでアルメニア系の著名人たちが逮捕・追放され( (「赤い日曜日」とも))、後に殺害された者も少なくなかった。アルメニアおよび各国のアルメニア人共同体では、この事件が一連の虐殺の契機とみなされており、この日がジェノサイド追悼記念日とされている由縁である。 アルメニア人たちは徒歩で乾燥した山地を越えてシリアの砂漠へと向かう強制移住に駆り立てられた。ユーフラテス川沿いのシリア砂漠の町デリゾールへと向かう厳しい移動の中で少なからぬアルメニア人が命を落としたことはおそらく間違いない事実であり、トルコ共和国もそれは否定していない。また無防備なところを現地のトルコ人・クルド人部族の民兵による「報復」にさらされたりしたこともあったと見られる。 そしてアルメニア人の組織的虐殺を事実として肯定する立場によれば、さらに強制移住のため家々から駆り立てられたアルメニア人の青年男子は村内の一箇所に集められ、まとめて殺害されたという。 一方虐殺を否定するトルコ側の主張は、アルメニア人が多く犠牲になったのはあくまで戦時下の最前線の混乱における不幸な結果だとみなしている。否定する立場では、殺害されたのは戦闘員やロシアと通じたスパイのみであるとされており、4月24日の最初の犠牲者もそれに含まれるという。 混乱を生き延びたアルメニア人たちの多くは、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国に移住して行った。ムーサダーでは、六村が丸ごとレバノンに逃れ、それぞれ居住区を与えられて保護されたケースもある。1933年に、フランツ・ヴェルフェルは、これらのエピソードをもとに小説『』(「モーセ山の40日」とも)を執筆した。 「アルメニア人虐殺」に対する見解は、この問題が現在もなお深刻な政治的問題をも含むために、肯定派と否定派の間に大きな隔たりがある。 エンヴェルに近い統一派の諜報組織「」(特別組織)のもと、クルド部族民、囚人、カフカスおよびバルカン半島からの避難民から編成された非正規戦闘部隊[25] による一連のアルメニア人強制移住への関与が指摘されている。また、サルカムシュの戦いで瓦解したこれら部隊の元構成員が逃亡して、アルメニアおよびムスリムの村々を襲撃したことが報告されている[26]。強制移住にともなう諸々の迫害がオスマン帝国の統一派政権によって組織的に行われていた説が主張されている。しかし一方では「政府当局者がアルメニア人虐殺を命令したとする確かで信頼できる証拠は存在しない」ということを根拠に、虐殺指令の事実を否定する主張もある。さらに「証拠とされる文書の中には、第一次大戦中の敵国によるプロパガンダや偽造文書の類が含まれている」と主張する説もある。 三月事件、九月事件、シュシャ・ポグロム 1918年3月、アルメニア革命連盟が、アルメニア人虐殺への報復として、バクーで3,000-12,000人の主にシーア派のムスリム(タタール人)を虐殺した[27][28][29][30]。この時、アルメニア革命連盟はボルシェビキ、メンシェビキ等と行動をともにした。ムスリムはバクーから追われたり、地下へ潜ったりした。 ネメシス作戦 1921年3月15日に虐殺の首謀者と見られていたタラート・パシャが、アルメニア革命連盟に所属する虐殺を生き延びたキリスト教徒の青年によりベルリンで殺害された。 現代の状況 1991年に旧ロシア帝国領におけるアルメニア人共同体がソビエト連邦から独立して誕生したアルメニア共和国は、 1970年代にアルメニア解放秘密軍やアルメニア人大量殺戮報復部隊などのアルメニア人過激派がトルコ外交官などに対して行ったテロリズムや空港などでの無差別攻撃のため、トルコの反アルメニア人感情も生じた。また、追放・虐殺されたアルメニア人がかつて居住していた地域には、現在、クルド人が多く居住している。 欧州では、各国内にアルメニア・ロビーが存在するため、議会で非難決議を行った国もあり、アルメニア人虐殺をジェノサイドと認識している。これに対してトルコは反論している。このためにトルコはしばしば国際的非難を浴び、非難を外圧と感じるトルコが態度をより硬化させることにもなっている。 オルハン・パムク騒動 2005年には国際的な評価を受けるトルコの作家オルハン・パムク(翌2006年にノーベル文学賞を受賞)が外国メディアとのインタビューで100万人のアルメニア人が殺害されたことをトルコは認めるべきと発言したためにトルコ国内に猛烈な反発を招き、一時は国家侮辱罪で起訴される騒動も起き、トルコの欧州連合(EU)加盟問題に関わるトルコの人権問題にも波及した。 フランス 2006年10月にはフランスの国民議会(下院)が「アルメニア人虐殺否定禁止法」を可決した。同法案は「第1次世界大戦中の1915年から1917年にかけ150万人のアルメニア人がオスマン帝国に虐殺された事実を否定する行為には最高5年の懲役刑ないし罰金刑を科す」という内容で、12日に国民議会で審議が予定されていた[31][32]。これによりフランスとトルコの関係は悪化するといわれ、ヨーロッパでも反トルコ感情が湧きあがった[33]。しかしながらこの法案に対する反対も根強く、2011年夏には元老院(上院)に達する前に廃案となった。 2007年の1月にはアルメニア系トルコ人ジャーナリスト、フラント・ディンクがオギュン・サマスト (Ogün Samast、犯行当時17歳)に暗殺される事件が発生した。「アルメニア人虐殺」をトルコ国内で告発する一方、フランスの「アルメニア虐殺否定禁止法」に見られる過激な動きには反対していたディンクの暗殺はトルコ国内に衝撃を与えた。 2011年12月には国民議会で再度、アルメニア人大量虐殺(ジェノサイド)を公の場で否定することを禁じ、違反した場合は1年以下の禁錮刑と罰金を科す法案が可決された。トルコ政府は駐仏大使を召還するなど強く反発したが、2012年1月23日に元老院でも可決され、大統領の署名があれば成立することとなった[34]。しかし同2012年2月28日、フランス憲法院(憲法裁判所)は、アルメニア人虐殺否定禁止法案を「思想や発言の自由に抵触する」として違憲と判断した[35]。なお、このアルメニア人虐殺否定禁止法案は、サルコジ大統領の主導で成立に向かっていたが、フランス在住の50万人のアルメニア系フランス住民の支持獲得のためであったとされる[35]。サルコジ大統領は同日、失望したと声明を発表した上で、新たな法案作成を指示した[35]。 アメリカ合衆国 2007年10月には、アルメニア系アメリカ市民の意向を受けたカリフォルニア州の下院議員、および民主党主導のアメリカ合衆国下院外交委員会(トム・ラントス委員長)が、20世紀の初頭におきたこの問題をジェノサイドだと認定、非難決議案を採択した。同決議案はこの虐殺をオスマン帝国の責任だとし、アルメニア人の犠牲者を150万人とした[36]。このことを受けてトルコ政府は、同決議案が事実の一方的解釈であり、その採択はトルコと米国との関係を深く傷つけるとして激しく反対し[37]、10月5日付の米紙ワシントン・ポストにも反対意見広告を掲載し、エルドアン首相が歴史調査のためにアルメニアとの共同委員会を設けることをすでに提案していたこと、またこの種の決議は「真実を求める側への不公正」だとして抗議していた。またさらに、同年2月にはギュル外相をアメリカ合衆国議会に派遣、この決議案を通せば、トルコはインジルリク基地のアメリカ軍の使用を拒むとした(同基地はイラク作戦に不可欠だった)。こうしたトルコの抗議を受けてアメリカ合衆国連邦政府も、議会に対し同決議案への反対を明確にしていた。また9月末には、ヘンリー・キッシンジャーら8人のアメリカ合衆国国務長官歴任者たちが連名でトム・ラントスアメリカ合衆国下院外交委員会委員長あてに同決議案への反対を伝える書簡を送っていた[38]。 その後もトルコ政府は抗議を続け、トルコの国務相がアメリカ合衆国への訪問を中止したり、トルコはアメリカ駐在大使を一時本国に召還するなど両国の関係が悪化しつつある。共和党 (アメリカ)のブッシュアメリカ合衆国大統領やロバート・ゲーツアメリカ合衆国国防長官はこの決議案に対し、否定的な見解を示した。 ベルギー 連邦議会 (ベルギー)は、2007年11月6日にトルコのアルメニア人虐殺をジェノサイドと認定する決議案が提出され、代議院 (ベルギー)で審議された[39]。 トルコとアルメニアの国交正常化とその後 トルコとアルメニアの関係改善による地域の安定を画策した欧米の後押しもあり、2009年10月10日に両国間で国交正常化が実現したが、虐殺問題に関しては双方の主張が埋まることはなく、ナゴルノ・カラバフ戦争も含めて、合意文書は問題を先送りする内容となった[40]。 2014年4月23日、トルコのエルドアン首相は、トルコ指導者としては初めて、「アルメニア人虐殺」に対して追悼の意を表明した[41]。 バチカン バチカンはアルメニア人虐殺からちょうど100年に当たる2015年4月12日にサン・ピエトロ大聖堂でアルメニア正教会の聖職者を招待してミサを催し、フランシスコ (ローマ教皇)は「アルメニア人虐殺は20世紀最初のジェノサイドである」と2001年にヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)とアルメニア正教会総主教との間で交わされた文書を引用して、バチカンとしてのアルメニア人虐殺の認識を示した。これに対してトルコ外務省は強く反発し、バチカン駐箚大使を召還し、アンカラ駐箚バチカン大使に説明を求めた。 ドイツ 2016年6月2日、ドイツ連邦議会(下院)は第一次世界大戦期におけるオスマン帝国によるアルメニア人虐殺をジェノサイドと認定した。決議案はドイツキリスト教民主同盟とドイツ社会民主党、同盟90緑の党によって提出された。また、当時オスマン帝国と同盟関係にあったドイツがアルメニア人迫害の情報を把握しながらもそれを止めなかったとし、「ドイツ帝国はこの出来事に責任がある」と認めた[42]。 アルメニア人虐殺を題材とした作品 小説 フランツ・ヴェルフェル『モーセ山の四十日』(1936年) デーヴィッド・ケルディアン『アルメニアの少女』(1990年)評論社 ダグラス・スコット『愛と憎しみの果て』(1990年) マリグ・オアニアン『異境のアルメニア人』(1990年)明石書店 ルイ・カルズー『第八の丘』(2006年) ドキュメンタリー The Armenians: A Story of Survival(2001年) Sarı Gelin - Ermeni sorunun içyüzü(トルコ、Videotek、2004年) The Armenian Genocide(PBS、2006年) Screamers(2006年) 映画 ハードデイズ/地獄の40日(アメリカ、1982年) アララトの聖母(カナダ、2002年) 消えた声が、その名を呼ぶ(ドイツ・フランス・イタリア・ロシア・ポーランド・カナダ・トルコ・ヨルダン合作、2014年) THE PROMISE/君への誓い(スペイン・アメリカ合作、2016年) 参考・脚注 関連項目 外部リンク メスロピャン メリネ、国際文化研究22号、2016-03-31
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA%E8%99%90%E6%AE%BA
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日本で最古の民間保険会社は何?
生命保険
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生命保険(せいめいほけん)とは、人間の生存または死亡による損失を保障することを目的とする保険。すなわち、保険契約により、被保険者の生存または死亡を保険事故として保険者が受取人に保険金を支払うことを約束するもの。生存を保険事故とするものが年金保険であり、死亡を保険事故とするものが死亡保険である。生保(せいほ)と略称される。 日本では生命保険会社がこれを行っている。また、これとほぼ同様の商品として、郵政民営化以前に日本郵政公社が行っていた簡易保険や、農協や生協などの共済事業の中で「生命共済」の名称で取り扱われているものがある。生命保険会社では、他にも貯蓄や老後の保障といった幅広いニーズに対応するため、「財形貯蓄積立保険」や「個人年金保険」などの商品を取り扱っているが、これらも広い意味で生命保険と言える。 概要 日本の法令 保険法(2008年5月30日成立、2010年4月1日施行)では生命保険契約の定義として、「当事者の一方が一定の事由が生じたことを条件として財産上の給付( ... 金銭の支払に限る。 ... )を行うことを約し、相手方がこれに対して当該一定の事由の発生の可能性に応じたものとして保険料( ... )を支払うことを約する契約」(第2条1号、一部省略)のうち、「保険者が人の生存又は死亡に関し一定の保険給付を行うことを約するもの( ...[1] )をいう。」(第2条8号、一部省略)と定義している。 保険法の成立以前は、商法(商法第673条)にて『生命保険契約ハ当事者ノ一方カ相手方又ハ第三者ノ生死ニ関シ一定ノ金額ヲ支払フヘキコトヲ約シ相手方カ之ニ其報酬ヲ与フルコトヲ約 スルニ因リテ其効力ヲ生ス 』[2](生命保険契約は当事者の一方(保険者)が相手方(保険契約者)または第三者の生死に関して一定の金額を支払うべきことを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約することによって効力を生ずる。)と定義された。 損害保険の扱う傷害保険に似ているが、損害保険の要件とされる「急激・外来」の条件に拘束されない点で異なる(但し、特約として傷害保険を含む場合もある)。生命保険は、一般に(出生直後などを除けば)年齢とともに高まる病気や死亡の危険を保障するための仕組みであって、外来の事故のみを保障する傷害保険とは技術的根拠が本質的に異なっている。 生命保険の始まり 生命保険契約の形態は1400年代のイタリアで登場し、当初は奴隷運搬の海上保険の形態として登場した[3]。 17世紀イギリスでは、セントポール寺院の牧師たちが葬式代をまかなうために、お互いにいくらかずつ出し合って積み立てていったといわれる(香典前払保険・香典前払組合)。ただし、これは年齢に関係なく同じ金額を払い込んでいたため、高齢者は比較的少ない保険料で保険金を受取ることになり、若い者の不興を買い、10年ほどでなくなったとされる。 この問題を解決するきっかけを作ったのが、「ハレー彗星」で有名な天文学者エドモンド・ハリーである。 彼は実際に調査して人間の寿命を統計化した生命表を作成した。それは年齢ごとに生存している人死亡した人の割合をまとめた統計データである。母集団が大きな統計は、「大数の法則」により、年齢ごとの亡くなる人数(死亡率)を導くのに便利であった。 そして生命表ができると、各年齢ごとに保険料を払う者の人数と亡くなる(保険金を受け取る)者の人数が推定できるようになった。 そこで死亡率に応じて保険料に差をつけることが考えられ、18世紀のイギリスで死亡率に基づいた保険料を集める制度ができた。 ただし、この生命表に基づく計算は、戦争や地震等の大規模災害による大量死にまで対応できるものではない。このため、現在の生命保険の多くは、戦争・災害に関する免責事項を設けている。 近代的生命保険の成立 生命保険では、統計に基づいて、年齢ごとの死亡率に応じた保険料を設定することで、保険会社が受け取る保険料と保険会社によって支払われる保険金が均衡する仕組みになっている。契約者が支払う保険料は、年齢ごとの死亡率に応じた保険料の合計を期間全体で平準化した金額となるのが一般的である。 現在の近代生命保険の発祥は、1762年にイギリス・ロンドンに設立されたエクイタブル生命(en:The Equitable Life Assurance Society)である。英国の数学者、はエドモンド・ハリーの生命表を活用して確率に応じた適正な保険料による生命保険の理論を生み出し、エクイタブル生命の設立を企図した。 死亡率に応じて保険料を徴収すると年々保険料が上がっていくことになる。これを自然保険料という。ところが、同社は、その保険料を契約期間に応じてならす、「平準保険料」方式を採用した。この仕組みは契約期間の前半に将来の保険料を前払いし(この前払いした保険料がいわゆる責任準備金となる)、契約期間の後半に積み立てられた金額を保険料として取り崩すことになる。これが現在の生命保険の保険料計算の主流となっている。 本来、相互扶助の仕組みであった生命保険だが、平準保険料の採用により、前払いされた保険料が生命保険会社の多額の運用資産となった。そしていわゆる機関投資家として金融市場に大きな影響力を持つ礎となった。 簡易保険の成立 当初は生命保険は資産家や牧師など特殊な人々のものであった。ところが、産業革命により、都市生活者や給与所得者が急増すると一家の収入の稼ぎ手が亡くなった場合の生活保障や、葬儀費用などが問題となった。19世紀半ばのことである。 そこでロンドンの労働者達が、生命保険会社・プルーデンシャル ローン&保険組合(現イギリス・プルーデンシャル)に少額な保険料で葬儀費用を賄える保険を作って欲しいと申し入れ、プルーデンシャルはこれを受け入れて少額・保険料建・週払の労働者向け保険を開発した。このことで、生命保険は一挙に庶民のものとなった。一時期、英国の全世帯の1/3がプルーデンシャルと契約していたとも言われている。当時の労働者にとってこうした問題がいかに深刻であったかを物語る事例といえよう。 また、こうした問題は現在の先進国各国で問題となっており、カナダでは国策として生命保険会社を整備した。国会の議決により労働者向けの生命保険を扱う保険会社を設立している。これが現在のマニュライフ生命保険である。 三大生保の絶頂期 証券引受と、証券保有による企業の系列化は、生命保険会社によっても行われている。このように、(19世紀末から20世紀初頭におけるアメリカの)生命保険会社は、商業銀行、信託銀行、個人銀行業者と同じ活動を行っている。生命保険会社は、たんに投資だけを目的としてではなく、売出しを目的に証券を購入しており、大生命保険会社は、シンジケートの引受活動に参加することによって、多くの金融活動を意のままに支援している。(中略)生命保険会社は、自己にふさわしい投資活動を行う正常な金融業者としての地位にとどまらず、金融市場におけるさまざまな業務にまで関与したり、企業の所有者あるいは共同経営者になっていたりする。—Armstrong Investigation, Vol.10, pp.385-386, 388. 日本における生命保険の歴史 証券恐慌まで 日本では慶応3年(1868年)に福澤諭吉が著書「西洋旅案内」の中で欧米の文化の一つとして近代保険制度(損害保険、生命保険)を紹介したことが発端となり[4]、1880年に岩倉使節団の随員だった若山儀一らによる日東保生会社(日本初の生命保険会社)開業されるが、倒産してしまう[5]。1881年(明治14年)7月、福沢諭吉門下の阿部泰蔵によって現存最古の保険会社・有限明治生命保険会社が開業された。1888年には国内で2番目の保険会社として帝国生命(現朝日生命)、3番目に1889年には日本生命が誕生した。だが、当初は「人の生死によって金儲けをするのか」という誤解に基づく批判も多く、その普及には時間がかかった。 戦前までの生命保険会社の特徴としては、法人の形態が現在のような保険業法に定める相互会社ではなく、株式会社が主流であった。また、普通の生命保険会社とは別に、と呼ばれる保険を扱う徴兵保険会社があった。現存する保険会社の中でも、富国徴兵保険(現 富国生命)、第一徴兵保険(旧 東邦生命、AIGエジソン生命保険に継承)、第百徴兵保険(旧 第百生命、マニュライフ生命に継承)、日本徴兵保険(旧 大和生命)などがそうである。徴兵保険とは、養老保険の一種で子供が小さいうちに加入しておくと、その子供が徴兵などのときに保険金が給付されるというものであったようだ。現代で言えば学資保険のような商品といえる。こうしたことからも戦前までは養老保険などの貯蓄性の高い商品がその主流であった。親子や兄弟・親類が同居・隣接するなどの家族構成や地縁・社縁・血縁で支え合う機能が十分に機能しており、生命保険に求められている遺族の生活を補償する役割のウエイトがそれほど高くなかったと言える。 戦後、こうした生命保険会社の多くは株式会社から相互会社に衣替えし、再出発した。この時期に女性営業職員による募集が考案され、戦争未亡人の働き口として供給が豊富だったこともあり、各社がこぞってこの方式(セールスレディによる護送船団方式による職域営業)を採用するようになった。また家族構成も親子だけで暮らすなどの核家族化が進み、地縁・社縁・血縁もかつてと比べると希薄となり、万が一に際しての遺族の生活を補償する役割は個々人に求められるようになった事から主流の商品は従来まで人気の高かった貯蓄性の高い養老保険から保障の大きな定期付養老保険、さらには定期付終身保険へと徐々にシフトしていった。 高度経済成長~バブル期 この時代の主な動きとして、1973年にアリコ(現メットライフ生命)、1974年にはアフラックによるガン保険などの第三分野保険を足がかりとして、外資系保険会社が参入を始める。日米貿易協定の関係から国内生保は第三分野保険を単体(主契約)で販売することができず、従来商品であった死亡保障に特約で医療保障を提供を始める。またこれまで長く続いていたセールスレディによるセット商品での販売手法に対して、1981年当時世界最大の生命保険会社であった米国プルデンシャル・ファイナンシャルとソニーが合弁会社でソニー・プルデンシャル生命(現ソニー生命)を設立。大学卒業以上の学歴を有し、税制・法律・社会保障などの関連知識を備えた生命保険の専門家ライフプランナーによるコンサルティングセールスで営業を開始。その後に登場するファイナンシャル・プランナーによるライフプラン表の作成・収支分析・家計相談などの基礎となる提案スタイルと生命保険における専門職という新しいチャネルを生命保険業界へ持ち込む。また一方でいわゆるバブル景気(以下「バブル期」)による金利の上昇と不動産の価格高騰は、「超長期固定金利」の商品(定額保険)を扱う生命保険会社にも多大な影響を与えた。一つにはバブル崩壊後、高い予定利率の保有契約を多数抱えてしまったこと、もう一つには、資産運用手段として不動産への投資、あるいは不動産関連の融資を行ったことで、保有資産・貸出資産が不良化してしまったことである。この結果、資産運用による収益力が落ち込むとともに、運用は延びずに予定利率との差額が発生する「逆ザヤ」により経営基盤が不安定になっていった。当時、経営が悪化していた会社は渋谷付近に本社を置いていたものが比較的多く、それらの中でも特に日産生命・千代田生命・東邦生命・日本団体生命を指して「渋谷4社」と呼ばれることがあった。結果的にこれら4社のうち、日本団体生命(アクサ生命と統合)を除く3社は経営破綻[6]しており、その他に大正生命[7]・協栄生命[8]・東京生命[9]の3社が破綻(はたん)している。 一方、バブル期には株式投資が活発化したことから変額保険が注目された。一般的な生命保険は定額保険と呼ばれており、契約時の保障額が変動することはない。そのため経済成長や株価・物価の上昇(インフレーション)局面でその資産価値(保障額)の実質的な目減りが生じる。変額保険はインフレなどにより長い期間の間に保険金が著しく目減りする定額保険の欠点を補うものとして開発され、この時期の保険契約では注目を集めることとなった。また保険金の税の仕組みを活用した相続対策などの名目で生命保険会社によっては銀行と組んで融資と販売をセットにした営業活動を積極的に行った。しかし、想定に反して株価はバブル崩壊によって著しく下落し、それによって大幅に目減りした満期返戻金では融資の返済に不足が生じたため、多くの資産家・契約者が損害を被ることとなった。このような株価下落時のリスクの説明が不十分だった点や、募集行為上の問題(銀行が積極的に募集に関わったなど)があったことなどにより、保険会社や銀行に対する訴訟が相次いだ。 この反省から現在の変額保険は運用方法について、複数のアセット(ファンド・投資信託)を契約者が指定し選択することにより分散投資が任意で行える、死亡保険金の保険金額は最低保証される、契約者からの預かり資産は特別勘定によって管理・運用されることで保険会社が破たん・経営難となった場合でもその運用資産の大部分は影響がないなどの規制を行うことにより、バブル期の頃の変額保険と比べて大きくリスクは減少している。 バブル崩壊後~四半世紀の生命保険業界 前述に挙げた通りバブル崩壊後の生命保険業界は予定利率による逆ざやにより破たんする会社が相次ぎ、生命保険そのものへの信頼が揺らぎかねない時代へと突入した。 このため生命保険業界と保険会社各社は契約者からの信頼を回復するために業界の再建を目指していたが最中の2005年~2007年と相次ぎ保険金不払い問題が発生し、生命保険における様々な問題が大きく注目されるようになった。 また第一次日本版金融ビッグバン(金融の自由化)の一環として銀行・保険・証券や損害保険と生命保険など業界の「垣根(ファイヤーウォール)」を取り払い、相互に参入を自由化しようという政策が進展した。これに伴い保険業法も1995年に全面改正され、保険料の自由化や第三分野保険の完全自由化、従来の保険外交員による販売チャネルとは異なる乗合代理店・銀行窓販・ネット生保などの解禁、一社専属に限られていた生命保険募集人が一部緩和されて仲立人としての保険ブローカーが認められる。またインターネットの普及により契約者が保険会社・保険商品を比較検討するための情報へアクセスしやすくなる等の変化が訪れた。 下記、太字は業界のトピックス。細字は破たん・買収・吸収などに関する事案。 1996年6月 - 東邦生命が業績悪化から業務提携によるGEキャピタル・エジソン生命を設立し承継準備に入る。 1996年8月 - 生命保険業界の乗合代理店、生損保の相互参入が解禁。 損保業界から東京海上の子会社で東京海上あんしん生命、大東京火災保険(現在のあいおいニッセイ同和損保)の子会社で大東京しあわせ生命が参入。 1997年4月 - 日産生命が戦後初の生命保険会社の経営破たん。契約者保護基金(保護機構の前身)から2,000億円の資金援助を受け、あおば生命へ。 契約者保護基金では保険会社を救済できないことが懸念され契約者保護機構が設立される。 1999年6月 - 東邦生命が金融庁からの業務停止命令を受けて経営破たん。 2000年3月 - 東邦生命を生命保険契約者保護機構から3750億円の拠出を受けGEエジソン生命へ包括移転。 2000年5月 - 第百生命が経営破たん。生命保険契約者保護機構から1,450億円の資金提供を受けてマニュライフ生命へ。 2000年8月 - 大正生命が金融庁による業務停止命令を受けて経営破たん。 生命保険契約者保護機構から262億円を資金援助を受けてソフトバンク・ファイナンスと大和生命の合弁によるあざみ生命へ移転。 2000年10月 - 千代田生命が経営破たん。AIGグループによる買収でAIGスター生命へ。  2000年10月 - 協栄生命が経営破たん。公的資金の投入なしで米国プルデンシャル・ファイナンシャルによる買収。ジブラルタ生命へ社名を変え経営再建へ。 2001年3月 - 東京生命が会社更生法を適用し経営破たん。 2001年4月 - 銀行窓販における住宅関連信用生命保険(団体信用生命保険)が解禁される。 2001年4月 - 明治生命が日本で初めてアカウント型保険ライフアカウントL.A.(利率積立型終身保険)を開発。 2001年10月 - 太陽生命・大同生命が手を組んで、破たんした東京生命を吸収。T&Dグループを設立。 2002年4月 - 銀行窓販における個人年金保険・財形保険の販売解禁。 2003年8月 - 米国AIGが株式取得によりGEエジソン生命を買収。AIGエジソン生命へ。 2004年1月 - 明治安田生命発足。明治生命と安田生命の財閥の枠を超えた経営統合が実現。 2004年11月 - プルデンシャル生命が200億円で経営再建中のあおば生命を吸収。 2005年2月 - 明治安田生命による死亡保険金の不当な不払い発覚を皮切りに生損保業界における保険金不払い問題に発展。 2005年12月 - 銀行窓販における一時払終身保険、一時払養老保険、短満期平準払養老保険、貯蓄性生存保険の販売解禁。 2006年4月 - 少額短期保険が解禁。 2007年10月 - 郵政民営化の一環として保険部門をかんぽ生命保険としいて民営化。 2007年12月の銀行窓販全面解禁 定期保険、平準払終身保険、長期平準払養老保険、医療・介護保険などの保障性商品も販売可能に。 2008年4月 - SBIアクサ生命保険及びライフネット生命保険といったネット生保の参入。 2008年9月 - 2009年1月に控えたAIGスター生命とAIGエジソン生命の合併によりAIG生命誕生の予定が、親会社米国AIG経営危機により売却先探しへ。 2008年10月 - あざみ生命。債務超過により会社更生法を受け更生手続きを開始。 2009年4月 - あざみ生命を米国プルデンシャル・ファイナンシャルの子会社ジブラルタ生命が69億円出資して完全子会社化。 2010年 - 保険業法改正(生命保険募集に関する300条の改正。生命保険会社による信託解禁)。 新保険法施行(約100年ぶりの改正。告知ルールが自発的申告から質問応答義務へ変更など)。 2010年4月 - 第一生命相互会社が株式会社へ移行し上場。 2011年2月 - 米国プルデンシャル・ファイナンシャルがAIGエジソン生命・AIGスター生命を買収し、日本の子会社であるジブラルタ生命へ合併。 2012年4月 - 米国AIGグループのアリコジャパンが米国メットライフによる買収でメットライフアリコ生命へ(2014年7月よりメットライフ生命)。 2013年11月 - 国内主要生保9社が逆ざや解消を発表。[10] 2015年5月 - 第一生命が戦後初めて保険料等収入で日本生命を上回り業界首位に。 2015年12月 - 日本生命が三井生命を子会社化。保険料等収入で首位を奪還。 2016年5月 - 保険業法改正[11]。 2016年 - マイナス金利による影響で一時払終身保険の販売停止が各社相次ぐ。標準予定利率2017年度改訂へ。 生命保険のしくみ 生命表 現在の生命保険では、人間の生死にかかわる統計データ、すなわち生命表が用いられるのが常である。すなわち、生命表による加入者の生死の予測に基づいて、適切な保険料が設定される。 ただし、死亡統計は過去から現在までのデータのみが使用されるのに対し、実際の生死は将来発生することであるから、当然予測に誤差が発生し得る。そのようなときに保険料収入が不足する事態になってはいけないので、保険料計算に用いる死亡率にはあらかじめ安全が見込まれている。このときの死亡率を<b data-parsoid='{"dsr":[10608,10619,3,3]}'>予定死亡率</b>と呼び、保険料計算の重要なパラメータのひとつである。 保険料の徴収方式 生命保険の保険料率は年齢ごとの死亡率を元に計算されるが、その考え方には大きく分けて「自然保険料方式」と「平準保険料方式」がある。 「自然保険料方式」とは、加入者の年齢ごとにその死亡率に応じた保険料を徴収する方式で、一般には高齢になればなるほど死亡率が高くなるため、自然保険料方式による保険料率は年齢とともに上昇する。 「平準保険料方式」とは、自然保険料方式では高齢になると保険料が高くなりすぎ、契約者が保険料負担に耐えられないというデメリットがあるため、それを解消する方式であり、保険期間中の年齢ごとの死亡率を平準化した保険料を徴収する。このため、保険期間の終期近く(つまり高齢)になっても保険料が上昇しない。 平準保険料と責任準備金 平準保険料方式を採用すると、本来は高齢になってから支払うべきであった保険料をあらかじめ若いときに支払うことになるので、結果として生命保険会社は将来の保険料を事前に徴収して留保していることになる。この留保された資金のことを責任準備金と呼ぶ。責任準備金は平準保険料方式の契約者についてそれぞれ存在するので、総合すると大きな資金となり、生命保険会社はこれを元に運用を行い、収益を上げることができる。これは生命保険会社の金融機関としての顔である。 実際の保険料はこのような運用益を見込んで割引かれている。この割引分を算出するためにあらかじめ運用利率を予定しておく。この利率を予定利率とよび、これも保険料計算の重要なパラメータである。 解約返戻金 平準保険料方式をとると、本来はまだ必要ではない保険料を事前に徴収していることになるので、保険期間中に何らかの理由で保険契約を解約することになると、その保険料のうち一部は契約者に返還される。これを解約返戻金と呼ぶ。 保険契約者の債権者が解約返戻金請求権を差し押さえ、取立権に基づき解約権を行使した上で取り立てることがある[12]。また債権者が債権者代位権に基づき解約権を行使し、解約返戻金を代位請求することもある[13]。しかし、これが行われると保険金受取人の将来の生活を脅かすおそれがあるので、一定の場合には保険金受取人が解約返戻金相当額を債権者等に支払うことにより解約を回避する制度が設けられている(介入権、保険法60条~62条)。 基本的な保険商品のモデル 生命保険商品は極めて多岐にわたるが、その多くが死亡保険と生存保険の組み合わせによって設計されている。 死亡保険 保険期間の間に被保険者が死亡したときにのみ保険金が支払われる。 純粋な死亡保険の代表例が定期保険である。定期保険は満期保険金が無いので、満期時までに全ての保険料収入を死亡保険金として支払う設計になっている。そのため、責任準備金は満期時にはゼロとなり、保険期間を通じても一般にそれほど多くはならない。 生存保険 被保険者が満期時に生存しているときに保険金が支払われる。 終身年金はある種の生存保険である。年金支払開始から1年後に生存していれば1回目の年金が、2年後に生存していれば2回目の年金が…と、複数の生存保険が合成されたものと考えればよい。 生死混合保険 死亡保険と生存保険を重ね合わせたもので、被保険者が死亡したときには死亡保険金が、満期時に生存しているときには生存保険金が支払われる。 養老保険は上記死亡保険と生存保険を1対1でブレンドしたもので、保険期間中に死亡したときと満期時に生存しているときに同額の保険金が支払われる。また、終身保険は養老保険の保険期間を生命表の生存者が0になった時点に伸ばしたものである。その時点は会社によって異なっており概ね105歳付近が理論上の満期となっている。 現在多種多様な保険商品が開発、販売されているが、その多くはこれらの保険を適宜組み合わせたものである。 三利源と配当金 生命保険の保険料は、純保険料と付加保険料からなる。純保険料とは、保険金の支払に充てるために徴収される保険料であり、付加保険料とは、それ以外に保険会社の事業経費として徴収される保険料である。多くの保険会社は、純保険料と付加保険料の内訳を公開していないが、ライフネット生命は、これらの内訳の代表例を公開している数少ない保険会社である。 純保険料として必要な金額は、前述のように加入者の死亡率と責任準備金の運用利率に基づいて決定され、そのときに用いられる予定値がそれぞれ予定死亡率、予定利率である。 生命保険の付加保険料は、新契約締結にかかる費用、契約の維持にかかる費用、保険料の集金にかかる費用という名目で徴収される。これらについてもあらかじめ必要な額を見込んで保険料計算を行うが、そのときの率を予定事業費率と呼ぶ。 これら予定死亡率、予定利率、予定事業費率はあくまで見込みであるため、実際に保険料として必要となった金額との間に差額が発生する。それらをそれぞれ<b data-parsoid='{"dsr":[12879,12888,3,3]}'>死差益、利差益、費差益</b>と呼び、この三つを合わせて<b data-parsoid='{"dsr":[12921,12930,3,3]}'>三利源</b>と呼ぶ。実際の見込みは保険料の不足が発生しないようかなりの余裕をもって設定されるので、基本的に差額は剰余金として発生する(逆ザヤ(利差損)の問題については「歴史」の節を参照)。これらの剰余金は結果的に保険料として徴収する必要の無かった金銭であるので、保険会社はこれを契約者に還元する。これを配当金と呼ぶ。 ただし、最近は保険料を安くしたいというニーズに応えるために、配当金がまったく無い、あるいは利差益のみを配当金として還元することとし、その分予め保険料を引き下げたタイプの保険商品も設計されている。 危険選択 生命保険においては、収支相等の原則を守るために同一の危険を持つ被保険者集団を形成する必要があるが、その裏をかいて不当に利益を得ようとする行為が発生する恐れが常にある。言い換えると生命保険会社と加入者の関係に内在する情報の非対称性に起因するモラル・ハザードや逆選択が常に発生し得る。 そのため、生命保険会社は、同一の危険を持つ被保険者集団を守るために危険選択を行う。具体的には加入時に医師による診査や告知書などを用いて、特に標準的な危険よりも大きな危険を持つと考えられる加入者を識別している。ただし、それはそのような加入者が保険に加入できないことを意味しない。その加入者と同等の危険を持つ被保険者集団が形成できれば、その集団に対する適切な保険料で保険に加入することができる。 また、支払時にも査定を行い、保険金詐欺を防ぐことが行われている。 保険商品 個人保険 個人保険とは契約者・被保険者を個人とする契約を指す。以下に挙げる団体保険に対する意味で個人保険と呼ばれる。 また契約者が法人の場合の保険契約を法人保険(事業保険)と呼ぶことがある。 主な生命保険の種類 日本の民間保険における死亡保障を主な目的としており、現在販売されている保険商品のうち主なものについて述べる。 定期保険 一定期間以内の死亡に対して保険金が給付される生命保険。いわゆる「掛け捨て」と呼ばれる保険であり、死亡のみ保障するため、保険期間を満了したときの満期保険金はない。途中解約した場合の解約返戻金は一般に少ない(ただし、保険期間が60年・70年といった長期になった場合、契約後期の解約返戻金の額はそれなりに大きくなる)。保障される金額に対する保険料は比較的安いため、子どもが成長するまでの世帯主など、一定期間、高額な保障が必要とされる場合に利用される。近年では保険料を安く保障額を多くしたいというニーズに対応するため、中途解約の場合、解約返戻金がまったくない商品も開発されている。 一般に「定期保険」と言った場合は保険期間中は保険金額が一定だが、保険期間中に保険金額が増加したり減少したりするものもあり、それぞれ「逓増定期保険」「逓減定期保険」という(契約時に将来の保険金額がすべて固定されているという点で変額保険とは異なる)。 終身保険 保険期間を定めず、生涯にわたって保障される保険。死亡した場合必ず保険金が支払われるので、定期保険と比較すると保障される金額に対する保険料が割高である。途中解約をした場合に解約返戻金が出ることが多いが、通常は払い込んだ保険料の総額よりは少なく、また契約してからの経過年数が短いほど返戻金は少ない。解約返戻金の増減は、払込期間をどのように設定するかによって大きく変わる。60歳で保険料を全て払い込む形(払込期間60歳)にした場合、おおむね60歳前後で払い込んだ保険料よりも解約返戻金のほうが多くなる。一方、保険料を一生涯払い込む形(終身払)にした場合、加入時期によっては最終的に70歳代半ばで保険金よりも、払い込んだ金額の方が多くなるという現象が生じるケースが多い。 養老保険 保険期間内に死亡した場合に保険金が支払われるのはもちろんだが、満期になった時に生存していた場合、満期返戻金として保険金額と同額が支払われるというもの。契約満了時には通常、満期返戻金に加え、配当金が支払われるため、払い込んだ保険料よりも多く受け取れる為「貯蓄型」とも呼ばれる。加入時の年齢や保険期間によっては貯蓄性がない場合もある。これは、生存保険と死亡保険を同額組み合わせることで保険金給付に関わるリスクを減らし、貯蓄的な色合いを濃くしたものである。 定期保険特約付終身保険 終身保険と定期保険を組み合わせたもの。子どもが大きくなる前のように、大きな死亡保障が必要なときだけ保障を大きくすることができる。アカウント型を販売していない会社では主力商品となっている。 保有契約として約1,473万件・約317兆円(2007年9月末)が保険契約としてあり、この保険金額は、個人保険契約約1,002兆円に対し、約31.6%という占率がある。 ユニバーサル保険 米国で1970年代頃から登場した保険商品で、保険料の見直し・保障内容をライフステージによって変更可能な保険。米国では1990年代までに主流な保険商品となったが、保険料収入の不安定さなど様々な問題が懸念され、日本では殆んどの保険会社が導入をしなかった。 アカウント型保険 比較的新しい商品で、毎回一定の保険料のうちいくらかを定期保険、残りをアカウント(口座)と呼ばれる積立金に充当し、定期保険終了後に一時払終身保険あるいは年金に移行するタイプの保険である。 日本では明治安田生命が初めて開発し導入した。開発に際しては上記に挙げるユニバーサル保険を参考としたと言われている。 子ども保険(学資保険) 子どもの年齢や小中学校・高校の入学時期に応じて祝い金が支払われたり、満期時に保険金が受け取れるような保険。また、親の死亡時には以降の保険料支払が免除されたり(契約は満期まで継続する)、子どもに対して補助金が給付されたりすることもある。実態としては、子どもを被保険者とする生存保険と、親を被保険者とする死亡保険を組み合わせた保険商品になっている。 個人年金保険 一定期間保険料を払い込み、保険料を積み立てた資金を原資として、契約で定められた年金を受け取るような保険商品。生存保険の一種。 変額保険 保険期間中に契約者が指定した割合で株式・債券などのアセット(ファンド)への投資・運用指示を行い、その成果に応じて死亡保険金額、解約返戻金額、満期保険金額が変化する保険商品。一般の保険は契約時に定めた保険金額が契約期間中に変化しない(定額保険という)。一般の生命保険はインフレへの順応性に乏しく、インフレに対応する保険として定額保険の補完として誕生した。株式や債券などの証券市場への資金流出を抑止するなど米国ではユニバーサル保険に代わる保険商品として近年発展してきた。 その他、保険商品は多種多様であるが、多くは基本的な死亡保険・生存保険の金額・期間を変化させて組み合わせたものになっているといえる。 また2000年以降の第三分野保険の解禁に合わせて民間保険会社が提供する医療保険・介護保険(民間介護保険)・就業不能障害保険も生命保険の一種である。 主な特約の種類 特約とは、終身保険や定期保険などの主契約に特約として付加出来る、いわば生命保険のオプションとしての存在である。定期付終身保険の場合、正式名称は「定期特約付終身保険」となるため、定期保険部分そのものがベースとなる終身保険の特約である。当然、特約分の料金が保険料に上乗せされる。 医療特約 けがや病気が原因で入院したときに所定の金額が受け取れるもの(災害入院特約・疾病入院特約)が一般的。 介護保険特約 自分が介護を受ける必要が出てきた場合に給付金などが受け取れるというもの。但し、給付条件が国の障害者認定1級よりも厳しいものもある。 リビングニーズ特約 ガンなどで、余命数ヶ月と判断されたときに、保険金額のうちのいくらかが生前に支払われるという特約。生前給付(リビングベネフィット)ともいう。 ナーシングニーズ特約 要介護状態となったときに、保険金額のうちいくらかが生前に支払われると言う特約。 災害割増特約 災害や事故で死亡した場合には通常の保険金に加えて、災害割増特約の保険金が支払われると言う特約。 かんぽ生命の生命保険には自動付帯されている。 保険料免除特約 指定の疾病や事故などで入院や休職した期間の保険料支払いを免除した上で保険は継続する特約。「保険の保険」と言える。 団体保険 団体保険とは、会社や官公庁等の団体に所属する者全体を保障する生命保険の一種である。団体と生命保険会社で直接契約を行い、単一の契約でその所属員が一括して保障されるようになっている。大量処理によって運営コストが節約できるため個人保険よりも安価に保障が得られることが多い。 団体定期保険 会社等で被用者の死亡保障を目的とした定期保険商品。保険期間は1年で、1年経過後には自動で更新される。 総合福祉団体定期保険 企業が弔慰金等の財源として加入する団体定期保険である。基本的に所属員全員が加入し、団体が保険料を負担する。 団体定期保険(Bグループ) 所属員が任意で加入できる定期保険で、企業の福利厚生として行われている。保険料は所属員が自分で負担する。個人保険に加入するよりも割安であることが多いが、退職等により団体から脱退すると保障は継続しない。 団体信用生命保険 融資を受け、返済途中に返済者が死亡あるいは高度障害状態になった場合、保険金でローンの残額が返済される仕組み。住宅ローンに付くものが典型的な形態だが、その他のローンに付保するものもある。保険料はローン開始時に一括支払いする方法や、ローン金利に上乗せする方法がある。最近では返済者がガンや心筋梗塞などになった場合も保険金の支払要件とする商品も現れている。 団体年金保険 会社等で従業員に対して退職後の年金を支給するために加入する商品。保険料は全額企業負担のもの、一部従業員負担のもの、全額従業員負担のものがある。 契約にあたって 何のために・誰のために・どんな時のために保険が必要なのか 貯金等の他の手段ではなく、何故保険でなくてはだめなのか 自分にとって、家族(遺族)にとって、本当に保険は必要なのか 必要な保障というのは、各人の価値観やライフスタイルなどによって多様である。死亡時に必要な補償額は、一概に年齢だけで決められるというものではないし、その他の保障についても同様のことが言える。コストをかけて生命保険の保障を受けなくても、単なる貯金や公的社会保障制度(健康保険・厚生年金・遺族基礎年金など)でも十分ということもある。生命保険ではなく損害保険で賄える場合もある。また、場合によっては、死んだときの保障よりも入院したり介護状態になったときの方に備えておかなければならないという場合もある。 個人の貯金や公的な社会保障制度でも足りない分があればそれを生命保険を使って補う、ということを念頭に置くことも、上手に生命保険を活用する方法である。 つまりは、誰しも・万人が生命保険が必要というものではないことになる。個人の貯金や公的な社会保障制度でも足りない分があればそれを生命保険を使って補う、ということを念頭に置くことも、上手に生命保険を活用する方法である。 また、貯蓄性を謳い文句に加入を勧められるケースなどもあるが、保険における責任準備金運用利回りの指標である予定利率は単純に預金金利と比較することはできない。保険料は、保険金にそなえ予定利率による運用される部分(純保険料)とは別に、保険会社の経費として保険会社の収入となる付加保険料が含まれているからである。 貯蓄性について確認する場合、あくまでも払い込んだ保険料の総額と解約返戻金を比較するしかない。死亡保険を含んだ契約で利鞘を稼ぐ代表的な方法として下記の3種類があるが、いずれも最大で長期の銀行定期預金程度の利回りしか得られない。保険は貯蓄目的ではなく、あくまでも上記の3項目の目的に沿って、保険の目的を考えることが重要である。 生命保険豆知識 契約期間が1年を越える生命保険の場合、基本的にクーリングオフが出来るが(書面の交付又は第一回保険料支払日から8日以内に手続きを行えば可能)、自ら保険の営業所などに行って契約した場合には、クーリングオフはできない 契約時に提出する告知書(加入時の自分の健康状態を記入するもの)に偽りがあったり、告知漏れがあった場合には、保険金は下りないこともある(告知義務違反) 被保険者の同意が無ければ、たとえ夫婦・親子であっても保険の加入は出来ない 生命保険の保険料は、保障の期間中同額の全期型と一定期間毎に保険料が上がる更新型がある 保険料金額は、月払より年払、年払よりは一括納金(全期前納)の方が、訪問集金より口座振替の方が安くなる 個人で加入するより勤務先の企業などの団体扱(月払)の保険があれば、後者の方が保険料も安くなる 解約・減額は外交員や営業所以外にもコールセンターなどの窓口でやってもらう方法もある 保険料が払えなくなっても、返戻金がある種類の保険であればそれを原資にして保障を継続することが出来る(保険期間を変えずに保険料を少なくする払済保険、保険金額を変えずに期間を短くする延長定期保険など。但し、付随していた特約は自動的に解約となる) 保険金などの請求権は、原則として支払事由発生日の翌日から起算して3年を経過した時、時効により消滅する 保険金の請求事由(死亡等)が発生しても、直ちに保険金の給付が受けられない場合がある。そのため、大金が必要なとき(葬儀等)に保険から現金が用立てられないといったトラブルが発生することがある。保険金の給付までにかかる期間等は加入時に確認する必要がある。 入院に関する保険金の給付に日数がかかった場合、給付時までに容態が回復したりすると、その状態に応じて給付が減額されることがある。そのため、即時給付の保険と、給付までに日数がかかる保険の場合で、給付額が異なってくる場合がある(即日給付される保険であれば、後日回復したからといって給付額の減額(返金)を求められたりすることは通常ない)。これもよくトラブルの原因になるので、よく確認すべきである。 保険会社が破綻した場合には、その保険は本来なら、無効になる。しかし、契約者への影響が大きいことから、保険会社がお金を出し合い、契約者保護機構というものが作られており、実際には、別の救済保険会社もしくは保険契約者保護機構が保険業務を引き継ぐ事が多い。しかし、バブル崩壊や海外生保の流入により破綻する保険会社が増え、再び大型の連鎖倒産があった場合には契約者保護機構だけでは支えきれなくなる懸念があるとされている。 生命保険会社 日本 日本で生命保険業を営むためには、金融庁から生命保険業免許または外国生命保険業免許を取得しなければならない。外国生命保険業免許というのは、海外の保険会社が日本の支店等を設けて保険業を営む場合に必要な免許である。外国の保険会社が日本に現地法人を設立し生命保険業を営む場合は、生命保険業免許が必要である。したがって、いわゆる外資系がすべて外国生命保険業免許に基づいて業務を行っているわけではない。 保険業法第7条と同法施行規則第13条1項により、生命保険会社は商号中に「生命保険」の文字を入れなければならない。 2018年4月2日現在、日本国内で生命保険業を営んでいる会社は下記のとおりであり、すべて生命保険協会に加盟している。 生命保険業免許取得会社 2018年4月2日現在、生命保険業免許取得会社は40社。2016年度保険料等収入で1兆円以上は<b data-parsoid='{"dsr":[20041,20049,3,3]}'>太字</b>で示す。 国内生保大手 かんぽ生命保険(旧:日本郵政公社の生命保険事業) 日本生命保険(同和生命保険の契約を包括移転。※旧同和生命は同和火災の子会社) 三井生命保険(2016年3月、日本生命保険が完全子会社化) ニッセイ・ウェルス生命保険(2018年5月、日本生命保険が子会社化。旧:平和生命保険→エトナヘイワ生命保険→マスミューチュアル生命保険) 第一生命ホールディングス 第一生命保険 第一フロンティア生命保険 ネオファースト生命保険(旧:ディー・アイ・ワイ生命保険→損保ジャパン・ディー・アイ・ワイ生命保険) 住友生命保険 メディケア生命保険(住友生命と三井生命の共同出資会社として設立、2014年7月より住友生命の完全子会社) 明治安田生命保険(明治生命保険 + 安田生命保険) T&Dホールディングス 太陽生命保険 大同生命保険 T&Dフィナンシャル生命保険(旧:東京生命保険) 富国生命保険 フコクしんらい生命保険(富国生命の子会社。旧:共栄火災しんらい生命保険) 朝日生命保険 国内損保系 東京海上ホールディングス 東京海上日動あんしん生命保険(東京海上あんしん生命保険 + 日動生命保険 + 東京海上日動フィナンシャル生命保険) SOMPOホールディングス 損保ジャパン日本興亜ひまわり生命保険 MS&ADインシュアランスグループホールディングス 三井住友海上あいおい生命保険(三井住友海上きらめき生命保険 + あいおい生命保険) 三井住友海上プライマリー生命保険(旧:三井住友海上シティインシュアランス生命保険→三井住友海上メットライフ生命保険) 異業種からの参入・独立系 ソニーフィナンシャルホールディングス ソニー生命保険(旧:ソニー・プルデンシャル生命保険→ソニー・プルコ生命保険) ソニーライフ・エイゴン生命保険(ソニー生命保険と蘭エイゴンの合弁) オリックス生命保険(オリックス傘下。旧:オリックス・オマハ生命保険) SBI生命保険(SBIホールディングス傘下。旧:オリコ生命保険→ピーシーエー生命保険) ライフネット生命保険 楽天生命保険(楽天傘下。旧:アイリオ生命保険) みどり生命保険(冠婚葬祭ベルコ傘下) 外資系大手 アフラック生命保険(アメリカン ファミリー ライフ アシュアランス カンパニー オブ コロンバスの契約を包括移転) プルデンシャル・ホールディング・オブ・ジャパン プルデンシャル生命保険(日産生命保険→あおば生命保険を吸収合併) ジブラルタ生命保険(旧:協栄生命保険 + AIGエジソン生命保険〈旧:東邦生命保険→GEエジソン生命保険 + セゾン生命保険〉 + AIGスター生命保険〈旧:千代田生命保険〉) プルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険(ジブラルタ生命の子会社。旧:大正生命保険→あざみ生命保険+大和生命保険。2010年4月1日より現社名。その前はプルデンシャル ファイナンシャル ジャパン生命保険) メットライフ生命保険(旧:メットライフアリコ生命保険。アメリカン・ライフ・インシュアランス・カンパニーの契約を包括移転) マニュライフ生命保険(旧:第百生命保険→マニュライフセンチュリー生命保険) アクサ生命保険(アクサ生命保険 + 旧:日本団体生命保険→ニチダン生命保険→アクサグループライフ生命保険 + 旧:ニコス生命保険→クレディ・スイス生命保険→ウインタートウル・スイス生命保険→アクサフィナンシャル生命保険) アクサダイレクト生命保険(旧:SBIアクサ生命保険→ネクスティア生命保険) カーディフ生命保険(仏大手銀行・BNPパリバ系) 外資系中堅 エヌエヌ生命保険(蘭NNグループ傘下。旧:ナショナーレ・ネーデルランデン生命保険) FWD富士生命保険(香港富衛集団傘下。旧:富士生命→AIG富士生命) アリアンツ生命保険(独アリアンツの生保子会社) クレディ・アグリコル生命保険(仏クレディ・アグリコルの生保子会社) 外国生命保険業免許取得会社 2018年4月2日現在、外国生命保険業免許取得会社は1社。2016年度保険料等収入で1兆円以上は<b data-parsoid='{"dsr":[22383,22391,3,3]}'>太字</b>で示す。 チューリッヒ生命(スイスのチューリッヒ・ファイナンシャル・サービシズ グループ傘下。正式名称は「チューリッヒ・ライフ・インシュアランス・カンパニー・リミテッド」日本支店) 日本における問題 日本においては、全世帯のうちおよそ90%は何等かの生命保険に加入している[14]ことから、日本は世界的な生命保険大国であるとも言える。 生命保険文化センターの調査によると、日本人の生命保険平均死亡保険金額の平均は普通死亡保険金額が1人あたり約2400万円以上。また、一世帯あたり平均3.8種類の生命保険に加入し、負担する年間保険料は平均38.5万円、一生涯に払い込む保険料の総額は平均2400万円以上にも及ぶ[15]。即ち、生命保険は住宅の次に高額な商品であり、また長期の契約になることから、契約を決める際にはその必要性・かかるコストを慎重に検討し、契約者個人の人生設計・ライフスタイルも十分勘案する必要がある。 しかし、実際の保険契約は自発的に加入したというものはまれで(そもそも自発的に加入するケースは、保険会社にとってはモラルハザードの点から問題があるので逆に警戒することがある)、勤務先で外交員から勧誘されるままに入ったり、親類・友人・知人などの紹介や勧誘で加入したというケースが多い。そのため、契約書を読まない、読んでも内容を理解していない、といった事例があとを絶たない。 契約者の側には 生命保険に関する知識を得る機会が少なく無関心である(特に、インターネットが広まる前)。 それゆえ、外交員の言いなりに保険に加入し、自分が契約した生命保険の内容についての認識が殆どなく、その保障期間や金額・保険金の受け取り条件・一定の年齢で保険料が上がることなどを知らずにトラブルになることもある。 外交員の側には ノルマが厳しく、離職率も高い。それ故にきちんとした知識を持った外交員を育てることが難しい。 長年、俗に言われる「GNP営業」(G:義理・N:人情・P:プレゼント)で勧誘してきたこともあり、特に女性外交員の社会的地位は大変低く、モチベーションを維持することが難しい。 などの問題が指摘されている。保険会社の方でも、この問題を解決しようと対策に乗り出しているが、実効は上がっているとは言い難い。トラブルにならないようにする為にも、まず基本的な生命保険の種類とそれぞれの特徴を理解し、自分にとっての「必要性」を検討すること、また、外交員にきちんと納得がいくまで説明を求めるなどの必要がある。 また、こと生命保険においては、募集人や代理店に支払われる募集手数料が高額であり、悪質な募集人や代理店はこれを得るために、違法行為となりうる特典(保険料の立て替えなど)を付与したり、不必要な契約を迫ってくることも実際にあり、何の疑いも無く募集人の言うがままに保険に加入してしまうと最終的に契約者自身の首を絞めてしまう可能性がある。こうした危険から身を守るためにも、募集人の話は鵜呑みにせず、その募集人とは何ら関連性の無い別の方法を用いてしっかりと調べておくことが推奨される。 また、生命保険の保険金を狙った「保険金殺人」などの犯罪も後を絶たない(モラルリスク)。団体定期保険や消費者信用団体生命保険については、被保険者に契約内容や受取人のことが周知されておらず社会問題となったことがある。 不当な不払い問題 2005年2月に判明した明治安田生命保険による保険金の不当な不払いの発生を受け、2005年10月、生保各社から過去5年間に保険金や配当金の不払いがあったかどうかを調査した結果が発表された。これによると28社もの生保が不適切な事由で保険金や給付金を支払っていなかったことが明らかになった。 しかし、この調査結果が発表される以前や以後に損保各社による大量不払いが明らかになっており、それに飲み込まれる形で生保の不当な不払いはあまり関心が寄せられず、以降は続々と不正が判明する損保関連の不祥事が目立つようになっていった。 こうして一連の不祥事が終息したかに見えた生保業界であったが、2006年12月22日のジブラルタ生命保険での不払い発覚[16]を皮切りに、新たな保険金の不当不払い事案が生保各社から大量に発覚し始めてしまう事態になった。このため、2007年2月1日に金融庁が日本の全生命保険会社(38社)に対して、2001年~2005年の過去5年間に行われた保険金不払いの件数や不払い合計金額を調査し、2007年4月13日までにその調査結果を報告するように命令した。その結果、同年4月19日までにカーディフ生命保険を除く37社で、個人保険、団体保険、返戻金を合わせた不払いが計約44万件、およそ359億円に達したことが明らかになった。[17]ただし、この調査結果は調査期限に間に合わせた言わば途中経過であり、これをもって調査が完了したことを意味するものではなかった。 当初、各生保で調査結果がまとまるのは同年9月末になる見通しであったが、それから遅れることおよそ2ヶ月後の2007年12月8日にようやく調査結果がまとまった。これによると、38社の不払い合計は、件数にして131万件、金額にして964億円に達し、同年4月の中間調査結果と比較しておよそ3倍に膨れ上がった格好となった。[18] 2008年7月3日、保険金不払い等が判明した生保37社のうち、多数多額に上った生保10社(日本生命保険、第一生命保険、明治安田生命保険、住友生命保険、朝日生命保険、富国生命保険、三井生命保険、大同生命保険、アメリカンファミリー、アリコジャパン)が、金融庁より業務改善命令の行政処分を受けることとなった。[19] 各生保の状況は以下の通り(2005年10月末時点でのデータを元にしている)。 表内の「-」は非公表または不明を表す。 金額はおよその数値も含まれている。 約款条項に関する問題 保険料の滞納・失権についての約款条項の有効性をめぐる問題[20] 生命保険料を滞納した場合、一定期間が経過すると、契約者になんら督促なく保険契約自体が失効する旨定めている約款が多い。また、失効していた間の失効後保険料の払込などによって保険契約が復活しても、失効中は疾病や障害の保障が得られないと定められている約款が多い。これらの点につき、消費者契約法違反で無効である可能性が指摘され、訴訟で争われている。最高裁判例はまだないものの、高等裁判所の判決では契約者側が勝訴(保険会社が敗訴)している。 脚注 文献情報 『奴隷保険と生命保険-世界最古の真正生命保険証券-』木村栄一(生命保険文化研究所論集1966-02) 関連項目 Colombia 外部リンク
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アメリカでアームストロング法を提唱したのは誰?
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ランス・アームストロング(Lance Armstrong , 1971年9月18日 - )、本名ランス・エドワード・アームストロング(Lance Edward Armstrong )は、アメリカ合衆国テキサス州プレイノ出身の元自転車プロロードレース選手。 概略 癌に脳まで冒されながらも奇跡的に復活し、その後1999年から2005年にかけてツール・ド・フランスを7連覇した選手として世界的に著名であったが、この7連覇はドーピング問題により後に取り消された。 2002年にはスポーツ・イラストレイテッド誌の年間最優秀スポーツマン (Sportsman of the Year) に輝き、2002年・2003年のAP通信年間最優秀男性アスリート、2003年・2004年のESPNのESPY賞最優秀男性アスリート、2003年のBBC年間最優秀スポーツ選手賞海外選手部門の各賞を受賞しているがこれもドーピングで獲得したタイトル(4回のツールドフランスの優勝を評価されたこと)による結果の受賞である[1]。 2005年のツール・ド・フランス終了後に一度競技活動を引退し、LIVESTRONG財団の財団長としてガン撲滅研究を進める一方、TREKの株主として、新型モデルの開発などに関わっていたが、2009年のツアーダウンアンダーから現役に復帰。また、U-23の若手育成を目的としたチーム「TREK-Livestrong U-23」を創設、自らオーナーを務めた。 2011年2月16日、2度目の現役引退表明が彼自身により発表された。しかしながら、これはロードレースへの参加を控えるという趣旨であり、後述するように、その後はトライアスロンやマウンテンバイクを利用したレースに活動の場を移した。 2012年8月24日、(USADA)により、ツール・ド・フランスの7連覇を含む1998年8月1日以降の全タイトルの剥奪とトライアスロンをも含む自転車競技からの永久追放の処分を科された。10月10日にはUSADAがドーピングの調査報告書を公表した。これを受け、国際自転車競技連合 (UCI) は10月22日、スポーツ仲裁裁判所 (CAS) には上訴せず、USADAの裁定を受け入れる事を発表[2]、ツール・ド・フランスでの7年連続総合優勝(1999年から2005年)を含む1998年8月1日以降の全てのタイトルの剥奪が確定した。2013年1月14日、テレビ番組の収録において自らドーピングを認めた[3][4][5]。 経歴 生い立ち、プロデビューまで ランスの誕生時、父親はおらず、彼は母によって育てられた(母の自立の精神は、自分にも強い影響を与えたと彼自身しばしば言及している)。3歳の時、母の再婚により現在の姓であるアームストロングを名乗ることになった。しかし継父との関係は良好とはいかなかった。子どものころはアメリカンフットボールが人気だったが、自分にはその才能がないと悟ったランスは水泳、そして母が多忙なため送り迎えが出来ず、ジムとの行き帰りに使用していた自転車、それらを複合させたトライアスロンを最終的に始めることとなる。 その身体能力は非常に高く、12歳のときから一般カテゴリーに参戦していたほどであり、16歳でプロに転向。1987 - 88年は19歳以下のトライアスリートのランキング1位に輝き、1989 - 90年にはアメリカ選手権のスプリント部門で2連覇を果たした。 この後ほどなくして自転車競技に専念することを決め、アマチュアサイクリストとして1991年のアメリカ合衆国チャンピオンとなったほか、バルセロナオリンピックのロードレースでも14位に食い込んだ。ちなみにこの時金メダルを獲得したのがファビオ・カサルテッリである。 競技生活前半 これらの実績をひっさげて1992年にプロに転向。 翌1993年、アメリカチャンピオンになりツールドフランスを迎えた。第8ステージで、ラウル・アルカラらと数人での逃げを決め、ゴールスプリントで区間優勝。数日後に監督の指令によりリタイアしたものの、プロ転向2年目にして早くもグランツールでの勝利を収め、大器の片鱗をのぞかせた。 そして、同年オスロで行われた世界選手権のロードレース種目では単独の逃げを決め、ミゲル・インドゥライン、オラフ・ルードヴィッヒ、ヨハン・ムセウといった並み居る強豪を抑えて優勝。21歳[6] で世界選手権という大舞台を制した快挙により、一躍世間から注目を浴びるようになる。ちなみにこの年のアマチュア部門のロードレースの優勝が後に好敵手となるヤン・ウルリッヒである。 1995年は前年2位に入っていたツアー・デュポンで優勝したほか、クラシカ・サンセバスティアンでも優勝。クラシックスペシャリストとしての地位を高めた後、ツール・ド・フランスへ出場。途中チームメイトのファビオ・カサルテッリをレース中の落車事故で失うという悲劇に見舞われながらも、その3日後にファビオが一番取りたいと語っていたリモージュステージにて優勝を遂げた。 そして翌1996年もツアー・デュポン連覇をはじめ、パリ〜ニース総合2位、フレッシュ・ワロンヌ優勝などの好成績をおさめ、一時は世界ランク1位を記録するなど成功は続いた。しかしシーズン中盤以降はツール・ド・フランスを途中棄権したほか、アトランタオリンピックでも12位と期待はずれの結果に終わるなど目立った活躍ができなかった。 癌 身体の不調を感じ、診断を受けたランスは1996年10月2日、医師から自分が精巣腫瘍に侵され、既に肺と脳にも転移しており、生存確率は50%であることを告げられる(ナイキによって2005年から発売されている彼のブランド「10//2」やトレック社「1/2 Series」はこれが由来)。 精巣腫瘍には化学療法を施すのが一般的だが、治療薬のブレオマイシンには肺毒性があり、間質性肺炎を引き起こすなど、心肺機能を低減してしまう副作用があるため、プロの自転車選手として復帰することは不可能になると判断したランスはこれを拒否。結局インディアナ大学医学部で心肺機能へのダメージは少ないが、より過酷な化学療法を施し、さらに脳の浸潤部を切除することとなった。 その後、幸運にも治療は成功し、小康状態となったという診断を受けてトレーニングを再開。しかし所属していたコフィディスからは、再起不能とみなされて事務的に解雇された。 競技生活後半 その後もリハビリとトレーニングを続け、デビュー時に所属していたモトローラが、1997年に解散したのに伴い、新たに結成されたUSポスタル・サービスと契約し、翌年にプロとして復帰。初戦となったパリ〜ニースで以前のように動かない自分の体に苛立ち途中リタイア、一時はそのまま自転車人生もリタイアしかかる。妻やヨハン・ブリュイネールらの説得により全米選手権をラストランとすることにしたが、そこで好成績をあげた事で本人のやる気も復活し、同年のブエルタ・ア・エスパーニャで総合4位、世界選手権タイムトライアル、同ロードレースでもそれぞれ4位に入り、復活をアピールした。山岳ステージの厳しさではツール・ド・フランスを上回るとされる同レースで上位入賞を果たしたことにより、彼はステージレースを戦い抜く自信を持ったといわれている。ただし、1998年8月以降の成績はその後ドーピングによるものとして剥奪されているため、この年のブエルタ以降の成績は現在では無効である。 1999年、ドーフィネ・リベレを総合8位(ステージ1勝)で終え、好調のままツール・ド・フランスに出場したランスはプロローグステージの個人タイムトライアルで優勝。そのままステージ4勝をあげて総合2位のアレックス・ツェーレに7分以上の差をつけて圧勝。ツール・ド・フランス7連覇へ第一歩を記した。 2000年も最大のライバルとみなされていたヤン・ウルリッヒに6分以上の差をつけてツール・ド・フランス2連覇。さらに2000年シドニーオリンピックでは個人タイムトライアルで銅メダルを獲得した。また同年5月には癌との闘いと復活を綴った『It's Not About the Bike(日本語題:ただマイヨ・ジョーヌのためでなく)』を出版。アメリカをはじめ各国でベストセラーとなった。 2001年はツール・ド・スイスで総合優勝。ツール・ド・フランスでは第8ステージで大逃げが決まり、一時は総合で35分差をつけられたが、逆転して3連覇を達成。続く2002年もドーフィネ・リベレで総合優勝を達成し、ツール・ド・フランス4連覇も果たした。 2003年もドーフィネ・リベレを連覇し、ミゲル・インドゥラインに並ぶ5連覇の期待がかかるなかでツール・ド・フランスに出場。しかしこの年はヤン・ウルリッヒが絶好調で、第12ステージの個人タイムトライアルでは補給ミスからの脱水症状に襲われ1分以上もタイムを詰められてしまう。さらに次の第13ステージではウルリッヒのアタックにランスが付いていけずに遅れるという事態が発生。マイヨ・ジョーヌこそ守ったものの、第14ステージ終了時点で両者の差は15秒、さらに3位のアレクサンドル・ヴィノクロフとも18秒差というかつてない危機をランスは迎えることになった。 そして次の第15ステージでウルリッヒたちとアタック合戦を繰り広げていたゴール手前9.5km地点で、ランスのハンドルに沿道の観客の持っていた袋が絡み付いて落車してしまう。ウルリッヒをはじめとする集団は紳士協定にのっとり落車したランスを待った。レースに復帰したランスは待っていた集団に追い付いたあと、そのままアタックを決め、そのままウルリッヒらを置き去りにする。先頭を走っていたシルヴァン・シャヴァネルをも追い越しステージ優勝を飾り、ウルリッヒに40秒差をつけることに成功。個人タイムトライアルの第19ステージでは雨の中必死に走るウルリッヒがロータリーで落車しタイム差を離し勝負が決まった。第20ステージはこの差を守りきって5連覇を達成した。 また、この年にナイキと契約し、LIVESTRONGプロジェクトとして、黄色のリストバンドを発売し、その売上げを癌患者の支援にあてる運動を始めた。 2004年は、天候不順や落車でライバルたちが次々脱落していくなか手堅くタイムを刻んでいき、後半の山岳ステージで勝利を量産。チームタイムトライアルでの1勝を含む5勝をあげて見事総合優勝を果たし、インデュラインを超える6連覇を達成した。 そして2005年4月、同年のツール・ド・フランスを最後に現役を引退することを発表。危なげないレース運びで見事7度目の総合優勝を獲得し、これを花道にいったん現役を退いた。 現役復帰 その後、トレック社のアドバイザーを務めたり、チャリティー活動の一環でニューヨークシティマラソンに参加するなどしていたが、2008年9月に現役復帰することを表明。「家族や親しい友人と話した結果、がんの苦しみに対する世界の人々の意識を高めるため、プロとしての自転車競技への復帰を決めたことを、喜んで発表する」というコメントを発表し、9月25日にアスタナ・チームへの加入が正式に発表された。 2009年1月、ツアー・ダウンアンダーに出場して現役復帰を果たした。同年5月にはジロ・デ・イタリアに初出場。しかし、3月に出場したスペインのレース、ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンで落車し鎖骨を骨折した影響か序盤は調子が上がらず、第5ステージで大きく遅れてマリア・ローザ争いから脱落。その後はチームのエースであるリーヴァイ・ライプハイマーのアシストに徹する形となり、自身は総合12位となった。なお、落車した時の集団復帰には、エースのライプハイマーがパンクした時の倍近い人数のアシストたちが集団から下りてきてサポートしていた。 2009年7月にはツール・ド・フランスに4年ぶりに出場。第4ステージのチームタイムトライアルでは通算25勝目となるステージ優勝を飾り、アンドレ・ルデュックと並ぶ歴代3位タイとなった。その後は総合優勝したチームメイトのアルベルト・コンタドールのアシストを努め、アンディ・シュレクやブラッドリー・ウィギンスらライバル達を徹底マーク。全盛期のような勢いは無かったものの、安定した走りを見せ、4年のブランクがあったことを考えると驚異的な走りで総合3位に入った。なお、通算8度目の表彰台(1位7回-3位1回)はレイモン・プリドール(1位0回-2位3回-3位5回)と並んで史上最多となった。また、ツール・ド・フランスの期間中にはラジオシャックをメインスポンサーとする新チームの設立を発表し、2010年のツール・ド・フランスにこのチームから出場することを表明した。 2009年の10月には、バドワイザーを製造するアンハイザー・ブッシュ・インベブ社と3年間の個人契約を結んだと報じられた。同社の低カロリー飲料「ミケロブ・ウルトラ」の広告に出演する予定だという。 2010年、自ら立ち上げたチーム・レディオシャックから出場したツール・ド・スイスで総合2位に入るが、ツール・ド・フランスでは全盛期と違って序盤から何度か落車に巻き込まれ、その際に受けたダメージもあってか山岳ステージの第8ステージで大きく後退。最終的には優勝したコンタドールから39分20秒遅れの23位となり、衰えを隠せなかった。2011年1月のツアー・ダウンアンダーを最後に再び第一線から引退した。 エクステラ参戦 その後、ランスはエクステラ(マウンテンバイクを利用したオフロード版トライアスロン)への参戦を表明し、引き続きTREK社のバイクを用いて[7]、アメリカチャンピオンシップで5位となった。 2011年10月23日、ハワイ・マウイ島のカパルア地区で開催されたエクステラ世界選手権大会に参戦。スイムを5位で通過。上位入賞が期待されたものの、バイクコースの終盤で落車し、頭部を強打してしまう。一時はリタイアの危機に瀕するものの、無事に完走し、675人中の23位でゴールした。 ゴール後のインタビューでは「もう少しスイムの練習をして来年戻って来る」と、今後のエクステラ競技の続行を明言した[8]。 トライアスロン復帰 「アームストロングがトライアスロン大会に参戦する」という情報は、ロードレースに復帰した2009年からネット上で散見されていた[9][10] が、実際の出場には至らなかった[11]。 しかし、2012年2月、アームストロングはツイッターにて、への参加を宣言[12]。世界中で2,800万人を数える癌患者へ応援メッセージを送り、世界中の人々に癌への関心を高めてもらうことを今回の参戦の目的だと表明した[13]。同時に、トライアスロン大会においても、トレック社のタイムトライアルバイクを使用することが明らかにされた[14]。 アームストロングは、復帰第一戦として同月12日にパナマで行われたアイアンマン・パナマ70.3に出場。これはスイム1.8km・バイク90km・ラン21kmの合計70.3マイルで争われる大会であった。 スイムは1位から34秒遅れの10位でクリア、バイクでは5秒遅れの2時間46分17秒、2位でクリア。バイクラップ自体は1位のがアームストロングを約15秒上回る結果となった。 ランの途中で遂に1位となり、クリスを1分以上引き離して首位に出たが、バイク4位から追い上げた(アテネ五輪・銀メダリスト、北京五輪・銅メダリスト)に終盤で抜かれ、優勝は逃した。しかし、2位でゴールできたことや、ローラン・ジャラベールとの再会、そしてパナマ市民の声援に感謝を示した[15]。 また、今後は、10月にハワイ島のコナ地域で開催される世界選手権を目指すことも明らかになっている[16]。 なお、アイアンマン大会のプロカテゴリーで世界選手権に出場するには、世界各地での大会を転戦して複数のポイントを獲得し、ランキング50位以内になる必要がある[17]。このため、アームストロングは、2012年だけで、4月1日のアイアンマン70.3アメリカ選手権・テキサス、5月20日のアイアンマン70.3フロリダ、6月2日のアイアンマン70.3ハワイ、6月24日のアイアンマン・フランス(ニース)に出場する予定である[18]。 4月1日に行われたアイアンマン70.3アメリカ選手権では、地元であるテキサスでの開催ということもあり、優勝への期待が高かったが、呆然としながら7位でゴールするという結果に終わった。ゴール時には、自身の愛娘がゲート付近で祝福しようと待ち受けていたが、アームストロングはそれに気づかず、通り過ぎるという一幕もあった[19]。 しかしながら5月20日に行われたアイアンマン70.3フロリダでは、スイムラップこそ3着であったものの、バイクで他の選手に10分以上の差をつける強さを見せ、優勝した[20]。さらには、ハワイ島で6月2日に開催された「アイアンマン70.3ハワイ」では、3時間50分55秒で、フロリダに続き優勝した[21]。特にバイクで圧倒的な強さを見せ、総合タイムでも2位の選手を3分近く引き離す独走を見せた[22]。 ドーピング疑惑と処分 2012年8月24日、全米アンチドーピング機関(USADA)は1998年8月1日以降の記録を全て抹消し、アームストロングに対し、「永久追放」宣告を行う。[23][24]。 10月22日、国際自転車競技連合(UCI)はスポーツ仲裁裁判所(CAS)には上訴せず、USADAの裁定を受け入れる事を発表[2]、1998年8月1日以降の全タイトルの剥奪が確定[25]。 2013年1月17日、14日に収録されたインタヴューが放送され、アームストロング本人がドーピングを認めた[4][5][26]。 ドーピング裁定の後 ドーピング問題でアームストロングは渦中の人となり、アイアンマン・フランス出場を目前に控えていながら、撤退を余儀なくされてしまう。このため、その後は地方の小規模な大会に戦いの場を移した。 USADAによる裁定の翌日にあたる2012年8月25日、コロラド州アスペン-スノーマスで行われたマウンテンバイクの大会に出場した[27]。 また、同年9月30日には、サンディエゴのコロナドで開催されたスーパーフロッグ・トライアスロン大会に参戦。スイム1.93km・バイク90km・ラン21.09kmを3時間49分45秒のコース新記録で優勝した[28]。 2013年1月に自ら過去のドーピングを認めた後、アームストロングは、マスターズ競泳大会(4月5 - 7日・テキサス州オースティン)に出場する動きを見せたが、最終的に出場を取りやめた。アームストロングは40 - 44歳の部の自由形3種目にエントリーしたが、国際水泳連盟が素早く反応し、4日に米国のマスターズ競泳大会を統括する団体に対し「この大会は世界反ドーピング機関 (WADA) 傘下である」との文書を送付し、出場を認めないよう求めた[29]。 また、アームストロングはテキサス州オースティンに1.7エーカー(約6,900m2)の広大な自宅を所有していたが、同年四月に会社経営者に売却したと伝えられた[30]。しかしながらアームストロングは、自宅を売り払った後も引き続きオースティンに住む意向を示しているという。 2013年12月に、トライアスロン選手のクリス・マコーマックから1対1でのトライアスロンレースを申し込まれ、「本気なら電話をくれ」とtwitter上で公開返信した。 人物 自らの著書でも語っているが、少年期から20代前半までの時期には、周囲との衝突を繰り返したり、レースにおける無謀なアタックをたびたび仕掛けたりと攻撃的で負けず嫌いな性格だった。 例としては、プロデビュー直後に出場した地中海一周レースにおいて、アームストロングの名前を別のアメリカ人選手(アンディ・ビショップ)と混同して声をかけたモレノ・アルゼンティンに対してわざと別の名前(マウリツィオ・フォンドリエスト)で呼び返し、「くそったれ、俺の名前はアームストロングだ。このレースが終わるころには、俺の名前を知ることになるさ」と暴言を吐いた事件があげられる。アルゼンティンは世界選手権を制した経験を持っており、アームストロングの発言は通常では考えられないものであった。後日、アルゼンティンとは和解している。 しかし、癌の闘いとその克服、レースへの復帰、そしてツール・ド・フランス連覇を経験していく中で、彼は精神的にも大きく成長し、選手生活の晩年は、無茶なアタックをすることもなく、計算し尽くされた老練な戦略の下、集団内でライバルの様子をうかがいながら走るクレバーなタイプの選手となっていた。 プロとしての紳士的な一面も持っている。2001年ツールの第13ステージでは、カーブを曲がりきれず草むらの中へ突っ込んだウルリッヒを、ランスはスピードを緩めて合流するまで待った。2003年の第15ステージでランスが落車した際に、今度は逆にウルリッヒがランスの合流を待っている。これは2001年のことがあったからだとされている[31]。 ともすれば「つまらない走り」と評されることも多かったが、2002年は2日続けての頂上ゴール制覇や2003年の第15ステージのアタック、2004年には山岳だけで4勝を含む6勝(TT、チームTT含む)をはじめとして山岳ステージではたびたび激しいアタックを見せた。 また2000年のツール・ド・フランスでマルコ・パンターニに僅差で敗れた際に「(ドーピング騒動からの復帰に)敬意を表して最後は手を抜いたんだ」と発言してパンターニを激怒させたり[32](著書では「先に行けよ」と慣れないイタリア語で声をかけたが、「のろま!」と聞かれてしまった。とも書かれている)、2004年のツール・ド・フランスの第12ステージで、死の今際にいる母のためにツール・ド・フランスでの初勝利を渇望していたイヴァン・バッソと一騎討ちになったとき勝利を譲って、王者の貫禄を見せたかと思いきや、次の第13ステージで再び一騎討ちになった時は容赦なくスプリントしてステージ優勝したり、ドーピングを自白しランスの薬物使用を示唆したフィリッポ・シメオーニのアタックを大差の付いた状態にもかかわらず即座に潰しに掛かるなど、かつての攻撃的な性格の一端を垣間見ることが出来るエピソードは多い。 一番大切な人は母だと語っており、「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」の中でも「母は自分のために献身的になんでもしてくれた」と感謝を表す文が何度も登場する。また、最大のライバルとして何度も優勝争いを演じたウルリッヒについても、引退後に「選手として本当に大好きだった」と愛の告白に近い賞賛さえ贈っている[32]。 エピソード ツール・ド・フランスに関するもの 2003年の第15ステージで転倒した時、実はフレームが破損しており、レース復帰直後にペダルを踏み外してもう一度転倒しそうになったのもそれが原因だった(ペダルを踏み外した瞬間にフレームが通常ではありえない曲がり方をしているのが映像で確認できる)。 2004年の第17ステージではアシストを務めたフロイド・ランディスとともにライバルのヤン・ウルリッヒを封じ込め、決死のアタックをかけたアンドレアス・クレーデンをスプリントで差して5勝目を挙げたが、その後の「(4勝もしているのだから)勝利を譲ってもよかったのでは?」という質問に「考えてもいない("No gifts, no gifts this year.")」と言い切った。これは、前述したパンターニとの一件をふまえてのものと考えられる。 2005年については、その前に引退する気持ちもあったが、メインスポンサーがUSポスタルから大手CS放送チャンネルのディスカバリーチャンネルに変わり、スポンサーの意向もあって出場することを決めたと語っている。 復帰した2009年のツール・ド・フランス終了後「確実に(アルベルト・コンタドールと)緊張関係があった」と発言、コンタドールも同時期に同じ発言をしていた。 その他 トライアスロン選手時代は自転車だけでなく水泳に関しても非凡な才能を発揮し、1500m自由形ではナショナルチームに入る一歩手前だった。 元々トライアスロン出身のため、プロデビュー当時は自転車競技に疎かったらしく、所属していたモトローラ・チームに供給されていた自転車のロゴを指して「エディ・マークス(エディ・メルクスの英語読み)って誰だい?」と発言し、「“カンピオニッシモ”メルクスを知らないとは」と周囲を驚かせたことがある。 プロに転向して初めてのレースは1992年のクラシカ・サンセバスティアンだったが、他の選手より大幅な遅れをとり、大会関係車両にクラクションであおられて棄権するよう指示を受けながら、最下位でゴールするという惨めなデビューだった。しかし、翌年の同時期のチューリヒ選手権では2位に入っている(優勝はその後チームメイトとなるVエキモフ)。 一見クライマーのような細身の体型をしているが、プロデビュー時はまるで正反対の、がっしりした筋肉質なスプリンター体型だった。これはトライアスロン選手の名残で、泳ぐのには必要だが自転車では余り必要の無い筋肉が残っていたためである。またなぜそこまで体型が変化したのかについての理由は、闘病生活中の化学療法の副作用で筋肉が全て落ちてしまったためと著書で説明されている。 現役時代の安静時心拍数は31 - 33といわれる。 癌からの復帰後、主治医の1人から、50%と言っていた生存確率は実はもっと低くて(一説には20%以下とも2%ともいわれ、著書では3%と記述されている。)、生存への希望を保ってもらう目的でウソを言ったと告白された。 ツール連覇を続けていた2004年には、映画『ドッジボール』で、本人役でのカメオ出演を果たしている。 癌撲滅チャリティーの為に出場した2006年のニューヨークシティマラソンではほぼイーブンペースを保って、856位でゴール。2時間59分35秒の好タイムで、3時間を切るという目標を果たしたが、レース後に足の痛みを訴え検査したところ、それまでのトレーニングのせいで右脛骨が疲労骨折しており、そのまま参加、完走していたことが発覚した。 2009年シーズンに自転車競技に復帰すると発表があった際、記者団の「3年間何をしていたんですか?」という質問に対し「ソファーで横になってビールを飲んでいた」と笑顔で答えた。実際にはTREKでの仕事や、マラソン他チャリティーへの参加はしていたので、ずっとそういう生活ではなかったはずではあるが、今まで無かった茶目っ気を見せた瞬間でもあった。この発言の頃から決まっていたのかは不明だが、後に個人スポンサーとしてビール会社と契約することとなった。 2009年シーズン序盤、ブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンの落車により復帰後初の鎖骨骨折を喫したが、その痛みのためにモチベーションが全く上がらず、ツールを前にして復帰をあきらめようとしかかった。しかし、監督であるブリュイネールに説得され、残りのレースへの出場を決意した。 2009年シーズン、表向きはLivestrong ProjectのPRのためボランティアで走るということで、アスタナからは給料を受け取らずに走っていたが、出場した各レースプロデューサーから、レースのPR報酬として1億円近い金額を受け取っていたことを明らかにしている(実際に、ランス初登場となったジロ・デ・イタリアは、観客増員や視聴率が跳ね上がった)。 社会活動家としての顔も持ち、ランス・アームストロング基金やNPOのLIVESTRONGを設立し、癌患者と生存者の支援や教育活動を実施している。2007年に「30億ドル(2468億円)を癌の研究や予防プログラムに充てて、テキサス州を癌研究のリーダーにする」という条例案Proposition15がテキサス州議会で可決されたが、これはアームストロングの功績が大きかった。医療格差の大きい米国の健康保険制度改革の提唱者としても知られており、一時期は政治家に転身するのではと噂されたこともある[33]。 LIVESTRONGは、2012年2月、タバコを値上げしてその収益を癌研究に充当するというカリフォルニア州条例案Proposition29(住民投票事項29)の運動に、1500万ドル(12億3400万円)を寄付した。これに関し「現在のタバコ税に1ドルをプラスすることにより、多くの人の命が救われ、喫煙者を減少できる」とアームストロングはコメントしている[34]。 家族 精巣腫瘍にかかったため、癌からの復帰後に凍結保存精子を用いた人工授精によって、妻との間に男の子を、2年後には双子の女児を授かった。しかし、夫妻は5年間の結婚生活の後、2003年に離婚。 2005年9月には歌手シェリル・クロウと婚約したが、2006年2月に婚約を解消したことを発表した。2008年には女優ケイト・ハドソンと結婚間近と思われたが、破局。 その後2008年12月、交際中の一般女性が自然妊娠したことを発表。翌2009年6月に男の子を授かり、合わせて4人の子の父親となった。 機材 現役時代、機材に対しては、多くのプロ選手と同じく保守的な面を見せていた。 ペダルについては、LOOKペダルをシマノがパテント購入して開発したPD-7401[35] を2001年まで愛用していたが、既に廃版となっていたため、チームのメカニックは在庫が残っていないか、アメリカ中の小売店に電話をかけて探したという。さらには、シマノから派遣されていたメカニックが個人的に持っていたペダルを譲り受けてまで、同モデルを使い続けたというエピソードが残っている。その後シマノが「アームストロングほどの選手が廃版モデルを使い続けるのは、マーケティング上問題がある」という理由で、“新生7401”SPD-SLシステム「PD-7750」を開発。2002年からはそれを愛用するようになった。ちなみに、このペダルの開発コードネームは「PDランス」。名前から分かるとおり、本来はランス専用モデルだった(SPD-SLはルック・タイプを元にしており、従来型のSPD-Rとは全く異なるビンディングの構造を持っていることからもそれが分かる)。 ただ復帰時には、メインコンポネートがSRAMに切り替わってしまった事もあり、PD-7750の後継機であるPD-7810をチョイス出来ないランスは、本家LOOK製のkeo blade carbonに変更した。 サドルはサンマルコ社の定番モデルであるコンコール・ライトを愛用している。アームストロングが使用するのは特に、サドル上面に刺繍のないモデルであり、年々登場する新モデルを使用することはなかった。 ハンドル・バーのクランプ径は近年登場した31.8mmのオーバーサイズではなく、旧来の26.0mmのものを、タイヤはユッチンソンの廃盤モデルであるOROを使い続けていた。 ディスカバリーチャンネル所属時にチームが使用していたコンポーネントは、シマノのデュラエース。シマノはランスがトライアスロン選手時代から機材を供給しており、シマノ製品でツール・ド・フランスを制したのは、ランスが初めてだった(ランスが引退した後、残った選手の多数とブリュイネール監督が合流したアスタナは、引き続きトレック社のバイクを使用しているが、コンポーネントはSRAMに切り替えた)。ただアスタナから離れレディオシャックとなった後もシマノには戻さずSRAMのままである。 山岳ステージでは、STIレバーの左側をブレーキレバーに交換し、フロントディレイラーの変速には、ダウンチューブに装着した伝統的なシフター(Wレバー)を使って変速していた。こうしたセッティングは主に軽量化が目的とされ、ランス以外の選手でも行うケースがあったが、機材の最低重量がUCI規定で決まっており(6.8kg)、当時は既にSTIレバーを両方装着しても、最低重量に近い自転車を準備出来た。このような状況では、理論上は何のメリットも無い(今中大介はこれについて、“重量上のメリットよりも一種の験担ぎではないか”と著書で述べている)。 上記に関連するが、トレックが、ランスの現役時には、Wレバーに対応した最上級モデルのバイクを出荷していたが、2007年からは対応しなくなっており、影響の大きさをうかがい知る事が出来る。 また、エクステラ参戦時にはトレック・ゲイリーフィッシャーコレクション29erMTB「スーパーフライ」を使用した[7]。 主な成績 1991年 セッティマーナ・チクリスティカ・ロンバルディア 総合優勝 United States選手権・アマ個人ロードレース 優勝 1992年 ブエルタ・ア・リベラ 総合優勝 フィッツバーグ・ロンショ・クラシック 総合優勝 GPマロスティカ 優勝 チューリッヒ選手権 2位 1993年 世界選手権・個人ロードレース 優勝 United States選手権・個人ロードレース 優勝 フィラデルフィア・インターナショナル・チャンピオンシップ 優勝 トロフェオ・ライグエーリア 優勝 ツール・ド・フランス 区間1勝(第8) ウェスト・ヴァージニア・クラシック 総合優勝 スリフト・ドラッグ・クラシック 優勝 1994年 スリフト・ドラッグ・クラシック 優勝 1995年 クラシカ・サンセバスティアン 優勝 ツール・ド・フランス 区間1勝(第18) パリ〜ニース 区間1勝(第5) ウェスト・ヴァージニア・クラシック 総合優勝 ツアー・デュポン 総合優勝 1996年 フレッシュ・ワロンヌ 優勝 ツアー・デュポン 総合優勝 パリ〜ニース 総合2位 リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ 2位 1998年 ツール・ド・ルクセンブルク 総合優勝 カスケード・クラシック 総合優勝 ラインラント=ファルツ・ルントファールト 総合優勝 2011年 エクステラ世界選手権 23位 成績抹消となった1998年8月1日以降の主な記録 1998年 ブエルタ・ア・エスパーニャ 総合4位 1999年 ツール・ド・フランス 総合優勝、区間4勝(プロローグ、第1、8、9、19) ドーフィネ・リベレ 区間1勝(プロローグ) アムステルゴールドレース 2位 2000年 ツール・ド・フランス 総合優勝、区間1勝(第19) グランプリ・デ・ナシオン 優勝 グランプリ・エディ・メルクス 優勝 ドーフィネ・リベレ 区間1勝(第3) シドニーオリンピック・個人タイムトライアル 3位 2001年 ツール・ド・フランス 総合優勝、区間4勝(第10、11、13、18) ツール・ド・スイス 総合優勝、区間2勝(第1、8) アムステルゴールドレース 2位 2002年 ツール・ド・フランス 総合優勝、区間4勝(プロローグ、第11、12、19) ドーフィネ・リベレ 総合優勝、区間1勝(第6) グランプリ・デュ・ミディ・リブル 総合優勝 チューリッヒ選手権 3位 2003年 ツール・ド・フランス 総合優勝、区間1勝(第15)+TTT1勝(第4) ドーフィネ・リベレ 総合優勝、区間1勝(第3) 2004年 ツール・ド・フランス 総合優勝、区間5勝(第13、15、16、17、19)+TTT1勝(第4) ツール・ド・ジョージア 総合優勝 2005年 ツール・ド・フランス 総合優勝、区間1勝(第20)+TTT1勝(第4) ドーフィネ・リベレ ポイント賞 2009年 ツール・ド・フランス 総合3位、TTT1勝(第4) ジロ・デ・イタリア 総合12位 2010年 ツール・ド・スイス 総合2位 ツール・ド・ルクセンブルク 総合3位 脚注 参考文献 ランス・アームストロング(安次嶺佳子 訳)『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』 ISBN 4-06-210245-5、講談社、2000年8月25日初版 原題 It’s not about the Bike(自転車の話じゃないんだ) ISBN 0-425-17961-3 ランス・アームストロング、サリー・ジェンキンス(曽田和子 訳(『毎秒が生きるチャンス!』 ISBN 4-05-402496-3、学習研究社、2004年9月29日 原題 Every Second Counts (一瞬一瞬が大事) ISBN 0-385-50871-9, Broadway Books 2003. 山口和幸『シマノ 世界を制した自転車パーツ』光文社、2003年 関連項目 疑惑のチャンピオン - アームストロングの栄光と転落の人生を映画化した作品。ベン・フォスターがアームストロングを演じた。 外部リンク at Cycling Archives
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0
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アメリカ合衆国史における<b data-parsoid='{"dsr":[174,183,3,3]}'>禁酒法(きんしゅほう、English: Prohibition)は、1920年から1933年までアメリカ合衆国憲法修正第18条下において施行され、消費のためのアルコールの製造、販売、輸送が全面的に禁止された法律である。「高貴な実験(The Noble Experiment)」(13年10ヶ月19日7時間32分30秒間)[1]とも揶揄された。 概説 禁酒運動による相当な圧力の下で、米国上院は1917年12月18日に憲法修正第18条を提出した。1919年1月16日に3/4の州(当時は36州)による批准が完了して憲法修正条項が成立し、翌年1月16日に施行された。いくつかの州議会では憲法修正第18条の批准の前に、州としての禁酒法を既に立法化していた。 ボルステッド法(正式名:国家禁酒法)はウッドロウ・ウィルソン大統領が拒否権を発動するも、1919年10月28日に議会が再可決し、「酔いをもたらす飲料」を法的に定義して、憲法修正第18条で規制の対象とするアルコール飲料を定めた[2]。一方、ボルステッド法はアルコール販売を禁止したが、法律を強制することはほとんど行われなかった。違法な酒の流通および無許可での製造販売は激烈になったが、アメリカ合衆国連邦政府にはアメリカ合衆国全ての国境、湖、河川および秘密酒場で法執行を強制する手段も意志もなかった。実際にはニューヨーク市単独でも、30,000 - 50,000軒もの違法な酒場(スピークイージー)が至るところにあった[3]。特に都市部においては禁酒法は世界恐慌の間、次第に不興を買うようになった。 1933年3月23日に、フランクリン・ルーズベルト大統領は、ボルステッド法のカレン=ハリソン修正案に署名した。そして、特定の種類のアルコール飲料の製造・販売を許可した。1933年12月5日に、アメリカ合衆国憲法修正第21条は修正第18条を廃止した。 歴史 起源 1658年5月、マサチューセッツ州法廷は「ラム酒、ウィスキー、ワイン、ブランデー、その他」どのような名で知られているかどうかにかかわらず、度数の高い酒を不法と見なした[4] 。 一般に、家庭やコミュニティでの非公式な抑制力により、アルコールの乱用は社会的に受け入れられていなかった。アルコールは神からの贈り物である一方で、その乱用は悪魔の仕業によるものという明確な社会的同意があった。酩酊は非難・罰則の対象ではあったが、それは神からの授り物を乱用したことから非難・罰されるものであり、飲み物それ自体は過失があるとは見なされなかった。酒自体はとがめの対象ではなく、大食の罪の対象となる食物以外のものではなかった。過剰摂取は個人による軽率な行為とみなされた[5]。インフォーマルな規制の下で遵守されない酒の乱用は、常にフォーマルな規制によるバックアップが行われ、統制は保たれていた。 18世紀後半に活躍した有名な医師であるベンジャミン・ラッシュは、1784年にアルコールの過度の乱用は身体的かつ心因的な健康に有害であると主張した(彼は禁酒法よりも、むしろ個人による節度を信じた)。この主張が広範囲にわたって議論された結果、1789年にコネチカット・コミュニティのおよそ200人の農民により禁酒協会が設立され、これに類似した協会がバージニア州で1800年に、1808年にはニューヨーク州で作られ、次の10年で禁酒協会は8つの州で設立された。そのうちのいくつは州全体の組織であった。 禁酒法の発達 1840年代に始まった禁酒法の運動は、敬虔なキリスト教の宗派、特にメソジストがその先鋒を務めた。禁酒運動は、1800年代後半には禁酒からアルコール摂取に関連した全ての振る舞いにまで拡大され、マーク・A・マシューズのような伝道師が、酒を出しているバーと売春を関連づけるようになっていく。 禁酒運動は、メイン州において若干の成功を収め、1851年に法律が可決された[6]。しかし、こうした運動はすぐに勢いを失って、南北戦争(1861年-1865年)の間は完全におざなりにされた。 禁酒運動は、1869年創立の禁酒党と1873年創立のキリスト教婦人禁酒連盟によって復活したが、後者はその名前とは裏腹に、禁酒法の促進にあまり貢献しなかった。これは、子供達に禁酒が浸透することで、飲酒に対する「ドライ」(冷ややか)な感情を醸成するだろうという考えから、禁酒という目的達成の手段の一つとして、教育を重視したためである(禁酒法の支持者は「ドライ」(Dry)と呼ばれ、一方、反禁酒支持者は「ウェット」(Wet)と呼ばれた)。 1881年に、州憲法でアルコール飲料を禁止した最初の州であるカンザス州では、キャリー・ネイション達がバーに乱入し、客を叱って、酒のボトルを手斧でたたき割るという儀式を実行したことに、賛否両論となった。さらにネイションは婦人を集めて「キャリー・ネイション禁酒法グループ」を組織し、他の活動家もバーに入って、歌い、祈り、マスターにアルコールを販売することを停止するよう訴えた[7]。こうして、南部の州を中心とした各州および個々の郡で、禁酒法が制定された。 「進歩的な時代」と呼ばれた1890年-1920年には、バーと政治的影響への敵愾心は広く行き渡るようになっていき、運動面では「反酒場連盟(Anti-Saloon League)」が禁酒法推進にもっとも影響力を持つ団体として禁酒党とキリスト教婦人禁酒同盟に取って代わっていった。 禁酒法に与する勢力は1840年代から1930年代への州における地方政治の重要な勢力であり、民俗宗教的な性格を持っていたことが多数の歴史研究によって示されている[8]。禁酒法は「ドライ」 ― 主に敬虔なプロテスタントの宗派、特にメソジスト、北部バプテスト大会、南部バプテスト連盟、長老派教会、ディサイプル教会、クエーカーとスカンジナビアのルーテル教徒 ― によって要求された。彼らは政治的に不正で、個人の罪として飲んでいるものとしてバーを特定した。一方で「ウェット」 ― 政府が道徳を定めなければならないという考えを非難した主に一部のプロテスタント(米国聖公会、ドイツのルーテル教会)とローマのカトリック教会 ― は「ドライ」に対抗した[9]。ニューヨーク市の「ウェット」の拠点でも、禁酒法が労働者、特にアフリカ系アメリカ人のためになると考えていたノルウェーの教会グループとアフリカ系アメリカ人の労働活動家によって禁酒法運動は活発になった。茶商と炭酸飲料メーカーも、アルコールの禁止令が製品の売上高を増加させると考え禁酒法に賛同した[10]。 連邦禁酒法 1916年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党の現職ウッドロウ・ウィルソンと、対する共和党チャールズ・エヴァンズ・ヒューズの双方とも禁酒法問題に関わろうとしなかった。民主党・共和党両党共に「ドライ」・「ウェット」両派閥があり、接戦でなった選挙ではどちらの候補も彼らの支持者を失うことを嫌い関わろうとしなかったのである。 1917年1月に65回目の議会が招集された。「ドライ」は民主党で140対64、共和党で138対62と、それぞれ「ウェット」より多かった。第一次世界大戦においてアメリカは4月に帝政ドイツに 宣戦布告したことで、反禁酒法の主要勢力であるドイツ系アメリカ人は多くの地域で発言力を失い、抗議活動も無視された。 アメリカにおける大手ビール製造会社の殆どがドイツ系(アンハイザー・ブッシュ、クアーズ、ミラー、それにシュリッツなど)だったせいもあり「ビール=ドイツ=悪」という、単純かつ悪意の満ちたイメージがまかり通るようになり、禁酒派を大いに勢いづかせる事となってしまった。また、アルコール業界内でも、ビール業界がウィスキーを諸悪の根源だと決め付け、規制から逃れようとするなど、内部での足の引っ張り合いが横行しており、「アルコール業界」として統一した動きが取れなかった。 1917年2月に、米国全土で禁酒法を達成するための憲法修正決議が、アメリカ合衆国議会に提出され両院を通過した。1919年1月16日には修正決議は48の州の内36州で批准され、同年10月28日のボルステッド法によって「酔いをもたらす飲料」が定義され、0.5%以上アルコールを含有しているものが法規制対象となった[2]。1920年1月16日に修正第18条が施行され、禁酒法時代が始まった。合計1,520名の連邦禁酒法捜査官(警察)が任務に就いた。 禁酒法は様々な立場から広い支持を受けた一方で、論争の的になる事も多かった。革新派と、一般に女性、南部人、農村地帯の人々の暮らしとアフリカ系アメリカ人はそれが社会を改善すると信じ、クー・クラックス・クラン(KKK)もその厳格な施行を強く支持するという呉越同舟状態だった。 ウィル・ロジャースは「南部はドライ(禁酒主義)で、ドライ(禁酒法の賛成)に投票するだろう。皆しらふすぎて投票所にふらふらと立ち寄っちまうだろう」と、しばしば南部の禁酒主義者の冗談を言った。 改正法の支持者らが、改正法案が撤廃されない事を確信するようになり、法案の考案者の一人でもあるアメリカ合衆国上院議員モーリス・シェパードは、冗談交じりで「憲法修正第18条撤廃の確率は、ハチドリが尾っぽにワシントン・モニュメントをくくりつけながら飛んで火星に着いてしまうほどの確率さ」とまで語った。 一方で、が1929年に発足させた「禁酒法改正全国婦人団体」(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.、略してTransclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)のような禁酒法に反対する女性団体なども存在した。 また当時、アルコールは治療目的のために医師によって広く処方されていて、禁酒法の問題は医療従事者の間で論争の一つとなった。議会は1921年にビールの薬としての効能についての公聴会を開いた。禁酒法は薬用酒にも適用されたので、その後、米国中の医師は禁酒法撤廃を求めて、ロビー活動を行った[11]。 禁酒法が施行されると、アルコールの製造、販売と輸送は違法となった[1]。だが、ニューヨーク市を例に取っても1万5千もの酒場が、禁酒法以降は3万2千もの「もぐり酒場」を生む事になり、酒が飲まれた量も、禁酒法以前の10パーセントも増加している。飲酒運転の摘発も、禁酒法施行後(1920年)の1年間に比べ、1927年には467パーセントの増加になっている[1]。 しかし、ボルステッド法第29節では、1年につき最高200ガロン(750リットル)の[12]「酔わない程度の」ワインとリンゴ酒が国内の果物で作ることが許可され、自身の家庭で使用するブドウを栽培するブドウ園があった。また、禁酒法は実はアルコールの摂取そのものは禁止しておらず、駆け込み需要でアルコールの販売が違法になる1920年1月16日よりも前、1919年の後半に、多くの人が今後の飲用のためにワインと酒を買い溜めした。また医師の処方箋を貰う事で、酒が手に入る状態だった。 また当然この法律は、アメリカ国外では何の影響も持たないどころか、多くのアメリカ人が、アルコール飲料を飲むために国境を越えるようになった。そのためカナダ、メキシコ、それにキューバなどのカリブ海の蒸留所と醸造所は大いに栄えた。そして狂騒の20年代として知られている1920年代には、それらの国からアメリカ合衆国に不法に輸入されるようになり、特にシカゴ市のように、禁酒法をごまかす者のための避難所として有名になった地域もあった[1]。 アル・カポネとその敵対者バグズ・モランなど、シカゴ市の最も悪名高いギャングの多くは、違法なアルコールの売り上げを通して、何百万米ドルもの大金を稼いだ。窃盗や殺人を含む犯罪の多くは、シカゴや、その他の禁酒法に関係する犯罪と関わっていた(ギャングの平均寿命が禁酒法施行前は55歳だったが、施行後には38歳にまで下がった。連邦捜査局の禁酒局捜査官も、ギャングとの銃撃戦で500名もの殉職者を生み、市民やギャングも、2千人以上が死亡したと言われている)[1]。 禁酒法の廃止 こうして、禁酒法に対する反感が大都市でも次第に高まるようになり、撤廃を望む意見が出るようになり、1932年の大統領選挙では禁酒法が中心的争点となった[2]。失業対策と農家救済[13]が叫ばれる中、フランクリン・ルーズベルトは禁酒法の改正を訴えて勝利した。大統領となったルーズベルトは1933年3月23日にボルステッド法のカレン=ハリソン修正案に署名したことで、重量にして3.2%、容積にして4%のアルコールを含むビールと軽いワインの製造・販売が許可された[2]。修正案に署名をしたルーズベルトは「私にはこれがビールのための楽しい時間になるだろうと思えるよ」という言葉を残した。カレン=ハリソン修正案は1933年4月7日に施行され、さらに憲法修正第18条自体も修正第21条により1933年12月5日に廃止され、これによりボルステッド法も違憲状態となってその役目を終えた。ヒーバー・J・グラントと末日聖徒イエス・キリスト教会の反発にもかかわらず、ユタ州議会は憲法修正第21条を批准した[14]。このため、ユタ州と同日にペンシルベニア州とオハイオ州でも憲法修正案が批准されたが、ユタ州が改憲を成立させた36番目の州と言われる。 修正第21条では、州にアルコールの輸送を制限するか禁止する権利を委ねると明記され、憲法改定の後も禁酒法を実施し続ける州もあった。1907年に禁酒法を作ったミシシッピ州は1966年まで禁酒法を廃止せず、最後まで禁酒法が残る州となった。カンザス州では1987年まで、バーの様な屋内の中で酒類を提供することを許可せず、今日でも酒の販売を制限したり禁止する「ドライ」な郡や町が多数残っている。 禁酒法と社会 1920年まではマフィアの主な活動はギャンブルと窃盗に限られていたが、禁酒法時代には無許可で酒を製造販売することで繁栄した[15]。マフィアの資金源となったアルコールの闇市は栄えたが、暴力沙汰も頻繁に起こり、売春が跋扈した。強大なギャングは法執行機関を腐敗させ、最終的には恐喝するまでになる。ギャングは酒の密輸で利益を上げ、より強い酒の人気が急騰した。 禁酒法を実施するための費用も重大な問題となった。本来アルコールの税金で毎年5億ドルの税収があったが、これが無くなった事で、アメリカ合衆国連邦政府の財源に悪影響を及ぼした。 禁酒法は1933年に廃止されたことで、これら犯罪組織は安価なアルコールとの販売競争に敗れ、多くの州で、闇市でのアルコールの売り上げを失った。 また禁酒法は、アメリカのアルコール醸造業に顕著な影響を及ぼした。禁酒法が廃止された後、かつて存在していた醸造所の半分だけが営業を再開した。禁酒法以後は今日バドワイザーやクアーズなどに見られるような米国で主流となっているアメリカンラガースタイルのビールが導入された。アメリカ各地に存在していたウイスキーの蒸留所も禁酒法時代にその大半が操業停止し(一部は医療用ウイスキーの製造認可を得て細々と活動していた)、そのほとんどが禁酒法廃止後に営業再開できなかった。それは同時に、アメリカの燃料産業の一角を構成していたアルコール燃料産業の消滅をも意味していた。これによって石油産業がアメリカのエネルギー事情を完全に掌握する事になり、大石油資本の政治的経済的影響力は絶対的なものとなったのである。(後述のジョン・ロックフェラー2世の手紙の内容と合わせて、禁酒法の真の目的が「石油産業による産業界支配にあったのではないか?」と見なす向きもある。) またワイン歴史家は、禁酒法がアメリカの未熟なワイン産業を壊滅させたことを書き留めている。生産性の高いワイン品質のブドウの木は、家庭醸造用販売のため、輸送に適した実の皮の厚い低級品質の品種と取り替えられ、禁酒法時代の間に、ワイン醸造者は他国に移住したり廃業してしまったため、ワイン業界の知識の多くも失われた[16]。 禁酒法の終わりに、一部の支持者は率直に禁酒の失敗を認めた。富豪にして実業家のジョン・ロックフェラー2世によって書かれた手紙の引用には、こう書かれている。(もっとも彼は大石油企業であるスタンダード・オイル系の石油資本のオーナーとして、燃料市場の一角をアルコール燃料に奪われる側の人間でもあったことから、自分の真意を繕う為の言い分を書いたとも見ることができる。)括弧内は日本語版だけの改変 禁酒法が提出された時、私はそれが大衆の意見によって、広く支持される日が来ることを望みました。そして、アルコールの凶悪な影響が認められる日が、すぐに来るだろうと思いました。しかし、これが私の望んだ結果ではないと、不本意ながらも信じるに至りました。 飲酒はむしろ増加しました。不法酒場がサロンに取って代わりました。犯罪者の巨大な群れが現れました。我々の最高の市民の多くでさえ、禁酒法を公然と無視しました。法律の遵守は大いに軽んじられました。そして犯罪は、かつては決して見えない水準にまで増加しました[17]。—ジョン・ロックフェラー2世 禁酒法が再び成立するという可能性を減らす方法として、アルコール産業が禁酒法廃止の数十年後に、より強力なアルコール規制を受け入れた、と一部の歴史家は述べている[18]。 メディアによる描写 小説 F・スコット・フィッツジェラルド 「グレート・ギャツビー」 : トム・ブキャナンは、ジェイ・ギャツビーが不法なアルコール売却によって金を儲けていると疑う。 マルコム・X「自伝」 : 彼はロングアイランドで酒類密造者のために働いている自分の境遇について語る。 シンクレア・ルイス 「バビット」 : 彼は誇りを持って禁酒法を支持するが、それが続かなくて、彼自身は適度に飲む革新主義者と呼ぶ。 D・J・マクヘイル 「ネバーウォー」 : 禁酒法の間、アルコールを密売することで大金持ちになり、それをギャングであるマクミリアン・ローズに委ねる。 ダシール・ハメットの作品(1923年-1934年)の多くはアルコールの禁酒法へのさりげない描写について言及がある。 レックス・スタウト 『毒蛇』(1934年) :カレン=ハリソン修正案施行直後のニューヨークを舞台にしている。 ネルソン・オルグレン 「荒野を歩め」 : 禁酒法の期間の間のセットである。 デニス・ルヘイン 『夜に生きる』 (2012年) ドラマ アンタッチャブル:禁酒法によって利権をむさぼるアル・カポネ一派と対決する、エリオット・ネスら連邦捜査官たちの活躍を描く。 ボードウォーク・エンパイア 欲望の街:禁酒法時代のアトランティックシティを舞台に、実在の政治家をモデルにその半生を描く。 映画 アンタッチャブル (1987年) : 上記テレビドラマの映画化。禁酒法によって利権をむさぼるアル・カポネ一派と対決する、エリオット・ネスら連邦捜査官たちの活躍を描く。 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ (1984年) コメディ 「お熱いのがお好き」 (1959年) : マリリン・モンロー、トニー・カーティス、ジャック・レモンを禁酒法上の時代という設定で出演させた。 暗黒街の顔役 (1932年) : 禁酒法時代と主人公の転落を描く。アル・カポネがモデルである。 ロード・トゥ・パーディション (2002年) : 禁酒法時代の間にギャングの殺し屋(マイケル・サリバン)の生活を描写する。 ウォーク・トゥ・リメンバー (2002年) : 禁酒法時代にトム・ソートンの舞台演技を披露する。 ミラーズ・クロッシング (1990年) : 禁酒法下で一般大衆に不法なアルコールを売っているシカゴ市ギャングの裏切りと葛藤を描く。 モブスターズ/青春の群像 (1991年) : 禁酒法下のラッキー・ルチアーノの半生に基づきクリスチャン・スレーター、パトリック・デンプシーが出演している。 かけひきは、恋のはじまり (2008年) : もぐり酒場に登場人物が入っているところにテロ対策特殊部隊に急襲される。 ダウンタウン物語 (映画) : バグジー・マローンが地方のギャング太っちょサムでもぐり酒場を経営していた。 シービスケット (2003年) ペーパー・ムーン (1973年) 欲望のバージニア (2012年)1931年バージニア州。禁酒法下、密造酒ビジネスで名を馳せたボンディランド3兄弟をモチーフに、実際にあった復讐劇を映画化。違法ビジネスを行う者と、高額の賄賂を要求する取締官の争いという構図。 夜に生きる (2016年)上記小説の映画化作品。 ゲーム Mafia: The City of Lost Heaven (2002年) : 禁酒法時代のマフィア組織を描いた内容で、主人公らマフィオーソが密造ウィスキーの取引を行ったり、酒を巡って対立する組織のメンバーと銃撃戦になる場面がある。 酒類輸送取締に関する条約 禁酒法制定から約10年後、マフィアによる酒の密輸に対する対応を迫られていた第30代大統領カルビン・クーリッジは、外国船舶に対する臨検・拿捕・逮捕権、管轄権、賠償請求権等、酒類輸送の取締りに係る主権を行使するため、通商関係のある国に対し、二か国間条約の締結を進めた。 アメリカ合衆国国務省が大日本帝国に求めた「日本國亜米利加合衆國間酒類輸送取締ニ關スル條約」(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)は、日本側にとって無害通航権を一方的に縮小させられる不平等条約であったが、田中義一内閣(立憲政友会)は条約締結を受け入れ、1928年(昭和3年)に条約に署名し、翌年批准した。 条約署名者は全権大使松平恆雄と国務長官フランク・ケロッグである。条約は1933年修正18条憲法の廃止により外交意義を失ったが、禁酒州や禁酒郡が存在することなどを背景として、条約は存置運用された[19]。 第4次吉田内閣と第5次吉田内閣は、連合国占領統治下で改廃されなかった、法令の存続確定手続きを実施。この過程で、1953年(昭和28年)7月22日、日本国における「酒類輸送取締に関する条約」の存続は確定した。条約は現在も効力を有する現行法令である[19]。 脚注 参考文献 Kingsdale, Jon M. "The 'Poor Man's Club': Social Functions of the Urban Working-Class Saloon," merican Quarterly vol. 25 (October, 1973): 472-89. Kyvig; David E. Law, Alcohol, and Order: Perspectives on National Prohibition Greenwood Press, 1985. Mark Lender, editor, Dictionary of American Temperance Biography Greenwood Press, 1984 Miron, Jeffrey A. and Jeffrey Zwiebel. “Alcohol Consumption During Prohibition.” American Economic Review 81, no. 2 (1991): 242-247. Miron, Jeffrey A. "Alcohol Prohibition" Eh.Net Encyclopedia (2005) Moore, L.J. 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Walsh, "'Drowning the Shamrock': Drink, Teetotalism and the Irish Catholics of Gilded-Age Pittsburgh," Journal of American Ethnic History vol. 10, no. 1-2 (Fall 1990-Winter 1991): 60-79. 関連文献 岡本勝『禁酒法―「酒のない社会」の実験』 講談社現代新書 (1996) ISBN 978-4061492844. 岡本勝 『アメリカ禁酒運動の軌跡―植民地時代から全国禁酒法まで』 ミネルヴァ書房 (1994/12) ISBN 978-4623024650. Behr, Edward. (1996). Prohibition: Thirteen Years That Changed America. New York: Arcade Publishing. ISBN 1-559-70356-3. Burns, Eric. (2003). The Spirits of America: A Social History of Alcohol. Philadelphia: Temple University Press. ISBN 1-592-13214-6. Clark, Norman H. (1976). Deliver Us from Evil: An Interpretation of American Prohibition. New York: Norton. ISBN 0-393-05584-1. Kahn, Gordon, and Al Hirschfeld. (1932, rev. 2003). The Speakeasies of 1932. New York: Glenn Young Books. ISBN 1-557-83518-7. Kobler, John. (1973). Ardent Spirits: The Rise and Fall of Prohibition. New York: G.P. Putnam's Sons. ISBN 0-399-11209-X. Lerner, Michael A. (2007). 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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%A6%81%E9%85%92%E6%B3%95
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植物ウイルスがは動物に感染することはない?
植物ウイルス
japanese
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植物ウイルス(しょくぶつウイルス、)とは植物に感染するウイルスのことである。他のすべてのウイルス同様、植物ウイルスは偏性細胞内寄生体、すなわち宿主なしで増殖するための分子機構をもたない寄生体である。植物ウイルスは高等植物に対する病原となる。この記事はすべての植物ウイルスを一覧にすることは意図しておらず、いくつかの重要なウイルスとそれらの植物分子生物学における用途について記述している。 概説 植物ウイルスは動物ウイルスほど良く理解されてはいないが、一つの植物ウイルスは象徴的なものになっている。初めてウイルスとして発見されたのがタバコモザイクウイルス(TMV)である(以下参照)。このウイルスを含め植物ウイルスは世界の年間作物収穫高において推定US600億ドルの損失の原因となっている。植物ウイルスは73の属と49の科に分類される。しかしながら、これらの数字は栽培植物にのみ関係するものであり、これはすべての植物種のうちほんの一部のみを代表するに過ぎない。野生植物に感染するウイルスに対する研究は未だ乏しいが、野生植物とウイルスの間のそのような相互作用が宿主の病気を引き起こすようには見えない、ということをほとんど圧倒的多数にある研究が示している[1]。 ある植物から他の植物へ、またはある植物細胞から他の植物細胞へ移動するために、植物ウイルスは動物ウイルスとは大抵の場合違う戦略を取らなければならない。植物は動かないため、植物から植物への伝染はたいてい昆虫などの病原菌媒介生物を必要とする。植物細胞は硬い細胞壁に囲まれているため、原形質連絡を介した輸送がウイルス粒子が植物細胞の間を移動するための経路として好まれている。おそらく植物は原形質連絡を通してmRNAを運ぶ仕組みに特化していて、これらの仕組みは、細胞から細胞へ広がっていくためにRNAウイルスによって使われていたと考えられている[2]。 ウイルス感染に対する植物の防御は、他の手段に加えてdsRNAに応じてsiRNAを使用することを含んでいる[3]。たいていの植物ウイルスはこの反応を抑えるためのタンパク質をコードする[4]。植物は損傷を踏まえて原形質連絡を通した輸送をも抑制する[2]。 歴史 病気を引き起こす植物ウイルスの発見はしばしば、アドルフ・エドゥアルト・マイヤーによるものだとされる。彼はオランダで働きながら、タバコの葉から得られたタバコモザイク病の樹液が健康な植物に注入された時にタバコモザイク病の症候を生み出す、ということを明らかにした。しかしながら樹液を加熱したとき、樹液のもつ感染症は損なわれた。そこで彼は原因である病原体は細菌だと考えた。けれども彼は多くの細菌をより広く注入してみたものの、モザイクの症候を発病させることに失敗した。 1898年にオランダの工科大学で微生物学の教授をしていたマルティヌス・ベイエリンクはウイルスは微小なものだという考えを述べ、また「モザイク病」はシャンベラン濾過器を通してもなお伝染性のままであることを明らかにした。細菌の微生物ならば濾過器によって分離という点で、このことは微生物と対照的である。ベイエリンクが伝染性の濾液を"contagium vivum fluidum"として言及した。このようにして"virus"という新語が生まれたのである。 ウイルスという概念の最初の発見以降、顕微鏡による観察が無益なものだとわかったとはいっても、他の知られているすべての伝染型のウイルスの病気を明らかにする必要が出てきた。1939年、ホームズ (Francis Oliver Holmes) が129の植物ウイルスの分類表を発表した。これは拡張され、1999年には、植物ウイルスは977の正式に認められたものといくつかの暫定的なものとに分類された。 TMVの浄化(結晶化)はウェンデル・スタンリーによって初めて行われた。彼はRNAが伝染性の物質であるということをはっきりさせることはなかったが、1935年に自身の発見を出版した。しかしながら、彼はノーベル化学賞を1946年に受賞した。1950年代に二つの研究室が同時に発見した事実によってTMVの浄化されたRNAが伝染性であることが示され、この発見が議論を強化することとなった。そのRNAが新しい伝染性の粒子の生産のためのコードをするための遺伝情報を運ぶ。 もっと最近のウイルス研究では、ウイルスがどのようにして増殖し、移動し、植物に感染するのかをはっきりさせることに対して特別な興味が持たれている。この研究において、遺伝学と植物ウイルスのゲノムの分子生物学を理解することに焦点が当てられている。ウイルス遺伝学とタンパク質の機能を理解することは、バイオテクノロジーを利用する会社による商業利用の可能性を模索するために使われてきた。特に、ウイルスの起源となった配列は、抵抗の新しい形態を理解するために使われてきた。人間が植物ウイルスを操ることを可能にする技術における最近の発達は、植物に含まれる付加価値のあるタンパク質の生産に対して、新たな戦略を与え得る。 構造 ウイルスは極めて小さく、電子顕微鏡を通してはじめて観察し得る。ウイルスの構造はウイルスのゲノムを囲む、タンパク質の外皮によって出来上がっている。ウイルスの粒子の集まりは自発的に発生する。 知られている植物ウイルスの50%以上が桿状(屈曲していて硬い棒のような形状)である。粒子の長さは通常ゲノムに依存するが、たいていは長さ300~500nm直径15~20nmである。円盤を形作る円の円周付近にタンパク質のサブユニットが置かれる。ウイルスのゲノムの存在において円盤は積み重なり、中央に核酸のゲノムの余地を残しつつ、管状になる。[5]。 植物ウイルスの間で最も共通しているもう一つの構造は粒子が等大であることだ。それらの直径は25〜50ナノメートルである。外皮タンパク質がただ1つのみの場合は、基本構造が60のTサブユニット(Tは整数)で構成されている。正二十面体の形をした粒子を形作ることに関わる2つの外皮タンパク質をもつウイルスも存在する。 ジェミニウイルス科は、1つに詰め込まれた2つの等大の粒子のような双生の粒子をもっていて、これには3つの属がある。 それらの外皮タンパク質に加えて、脂質のエンベロープを持っている植物ウイルスも稀に存在する。これは、ウイルスの粒子が細胞から分離して作られるときに、植物細胞膜から派生して生まれる。 植物ウイルスの伝染 樹液を通して ウイルスは、傷ついた植物と健康な植物の接触による樹液の直接的な移動によって伝染していくことができる。道具や手によるダメージ、自然に受けたダメージ、あるいは動物が植物を常食することなどによって傷ついた植物と、健康な植物との接触は、農作業の間に起こりうる。一般的に、タバコモザイクウイルス(TMV)とジャガイモウイルスとキュウリモザイクウイルス(CMV)は樹液を通して伝染する。 昆虫 植物ウイルスは病原体媒介生物によって伝染する必要があり、これはたいていの場合ヨコバイ[6]やアブラムシ[7])、感染植物との接触した人・農機具・刃物によっておきる<refなどの虫である。ウイルスの種類の一つであるラブドウイルス科は、実は植物の中で増殖するように進化した昆虫ウイルスであるということが提唱されている。植物ウイルスの病原菌媒介生物として選ばれる昆虫が、しばしばそのウイルスの宿主となる対象の範囲がどのようになるかを左右する要素となる。病原菌媒介生物としての昆虫が常食とする植物にしか感染することはできない。これは旧大陸のコナジラミ科が、新しい宿主に多くの植物ウイルスを移した場所であるアメリカ合衆国にまで活動範囲を広げたことに、示されていた。それらが伝染する方法次第で植物ウイルスは非持続性型、半持続性型、持続性型に分類される。非持続性伝染の場合、ウイルスは昆虫の穿刺のための針の先端に付着し、その昆虫が常食とする次の植物に、その昆虫がその植物にウイルスを注入することで移動する[8]。半持続性ウイルス伝染はウイルスが前腸に入り込むことを必要とする。腸を通して血リンパに入り込み、唾液腺にまで至るようなウイルスは持続性のものとして知られている。持続性ウイルスには二つの下位分類が存在する。すなわち増殖型と循環型である。増殖型のウイルスは植物と昆虫の両方において増殖することができるが、一方循環型にはそれができない(増殖型のウイルスはもともと昆虫ウイルスだったのかもしれない)。循環型ウイルスは細菌性の共生生物によって生み出され、タンパク質シャペロンであるシンビオニンによってアブラムシの中で守られている。多くの植物ウイルスはそれらのゲノムのうちで昆虫による伝染にとって極めて重要な領域に関するポリペプチドをコードする。非持続性、半持続性ウイルスの場合、これらの領域は外皮タンパク質やヘルパー成分として知られる他のタンパク質にある。昆虫を媒介としたウイルスの伝染においてこれらのタンパク質がどのように助けとなるのかを説明するために架け橋となる仮説が提唱された。ヘルパー成分が外皮タンパク質の特定の領域に結合し、昆虫の口器にまで至るのである――架け橋を作るように。トマト黄化えそウイルス(TSWV)のような持続性増殖型ウイルスにおいて、しばしば植物ウイルスの他の分類には見られないタンパク質を覆う脂質の外皮がある。TSWVの場合、二つのウイルスのタンパク質はこの脂質外皮において発現される。それらウイルスがこれらのタンパク質を通して結合し、受容体を媒介とした細胞内取り込み作用によって昆虫の細胞に入り込む、ということが提唱されている。 線虫 土壌を媒介した線虫もウイルスの伝染をすることが示されている[9]。それらは感染した根を常食とすることでウイルスを獲得し、伝染させる。ウイルスの伝染の持続性はまちまちだが、ウイルスが線虫の中で増殖することができるという証拠はない。ウイルス粒子は他の植物に感染するために、線虫が感染された植物を常食としているとき、器官に穿刺するための針、あるいは腸に付着し、その後付着した線虫が植物を食べるときに解離することができ。線虫によって伝染され得るウイルスの例として、タバコ輪点ウイルス、タバコ茎えそウイルスなどがある。 ネコブカビ類 多くのウイルスの属は、持続性、非持続性を問わず、土壌を媒介とする遊走子をもつ原生動物によって伝染する。これらの原生動物はそれ自体植物病原性のものではないが、寄生性のものである。そのウイルスの伝染は植物の根と関連付けられたときに起こる。例えば、ポリミキサ・グラミニスやポリミキサ・ベタエが挙げられる。前者は穀物における植物ウイルスによる病気を伝染させることが示され[10]、後者はビートえそ性葉脈黄化ウイルス(BNYVV)を伝染させる。ネコブカビ類も他のウイルスがそこを通して侵入できるような傷を植物の根に作る。 種と花粉を媒介とするウイルス 植物ウイルスの世代間の伝染は約20%の植物ウイルスにおいて起こる。ウイルスが種によって伝染するとき、種は雄原細胞で感染し、そのウイルスは生殖細胞や、しばしばとは言えないまでも時折、種皮の中で維持される。好ましくない天候のような状況によって植物の成長や発達が遅れたとき、種におけるウイルス感染の量は増加する。また、植物における種の位置と感染する見込みとの間には相関関係はないように思われる。種を媒介とした植物ウイルスの伝染が環境に影響を受けるということと、種子伝染は胚珠を媒介とした胚嚢への直接的な侵略によって、あるいは感染した配偶子によって仲介された胚嚢への攻撃を含んだ間接的なやり方によって発生する、ということが知られているが、種を媒介とした植物ウイルスの伝染において伴う仕組みはほとんど知られていない。これらの過程は宿主の植物次第で同時に起こることもあれば、別々に起こることもある。ウイルスがどのように直接的に胚嚢を侵略し、胚珠における親子間の境界線を越えていくのかは知られていない。マメ科、ナス科、キク科、バラ科、ウリ科、イネ科に限らず、多くの植物種が種を通して感染し得る。インゲンマメモザイク病(BCMV)は種を通して伝染する。 植物から人間への直接伝染 フランスのマルセイユにある地中海大学からの研究者たちは、ピーマンのたぐいに共通のウイルスであるトウガラシマイルドモットルウイルス(PMMoV)が人間に伝染し得る、という証拠を希薄ながら発見した[11]。これは滅多にないことであり、他にほとんど類をみない。 脚注 参考文献 Zaitlin, Milton and Peter Palukaitis (2000), Advances in Understanding Plant Viruses and Virus Diseases. Vol. 38: 117–143 doi: Zaitlin, Milton (1998), Discoveries in Plant Biology, New York 14853, USA. Pp.105–110. S. D. Kung and S. F. Yang (eds). Dickinson, M. (2003), Molecular Plant Pathology. BIOS Scientific Publishers. 外部リンク , a full list of plant viruses , on-line plant virus database Danish Institute of Agricultural Sciences 大島一里、「」 ウイルス 2015年 65巻 2号 p.229-238, doi:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E7%89%A9%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9
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ファイナルファンタジーシリーズを開発したゲーム会社は何?
ファイナルファンタジーシリーズ
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ファイナルファンタジーシリーズ(Final Fantasy Series、略称:FFシリーズ)は、日本のゲーム設計者坂口博信によって生み出され、スクウェア・エニックス(旧スクウェア)によって開発・販売されているRPGのシリーズ作品(一部MMORPG、アクションRPG)。CGアニメ、アニメでも展開されている。 1987年に発売された『ファイナルファンタジー』を第1作とする日本製のRPGシリーズ。派生作品を含め様々な世界観を持った作品が数多く発売されており、シリーズ全タイトルの世界累計出荷・ダウンロード販売は1億4,200万本以上を達成した(2018年時点)[1]。世界的なゲームシリーズの一つである。2017年にはタイトル数は合計87作品に及び、最多の作品数を有するRPGシリーズとしてギネス世界記録に認定された[2]。 名称と略称 本シリーズのタイトル名称は「略称が"FF"(エフエフ)となること」を前提として考案されたものである。当初は『ファイティング・ファンタジー』というタイトル案も候補に挙がったたが、同名のボードゲームが既に存在していたため、現在の名称に変更したとされる[3]。 一方、第1作制作当時、それまでのスクウェアの業績が芳しくなく、制作者たちの間でもおそらく最後の作品、「最後の夢」になるであろうという意味を込めて『ファイナルファンタジー』と名付けられた[4]という説も存在するが、坂口博信は「確かに当時は背水の陣だったけれど、Fで始まる単語ならなんでもよかった」と状況は肯定しつつも、名付けには直接関係はないと否定している。 前述のとおり、開発スタッフは「FF(エフエフ)」という略称を想定し[5][6]、現在公式な略称は「FF」とされるが、「ファイファン」と呼ぶ人もいる[5]。 シリーズ一覧 ゲーム 初代『ファイナルファンタジー』は、1987年12月に日本で発売された。タイトルにナンバリングが振られている続編が数多くあるが、それらナンバリングタイトル間において、ストーリー上のはっきりとした関係はない。それぞれの作品世界は、いわゆるパラレルワールドのような位置付けとなっている。 多くのシリーズのゲームは、北米、欧州、豪州の各市場向けにローカライズされている。また、多数のゲーム機、PCそして携帯アプリ向けにも発売されている。 2007年3月時点で、28のゲームが存在する[7]。この数字には、『ファイナルファンタジー』から『ファイナルファンタジーXIV』までのナンバリング作品の直接の続編とスピンオフ作品が含まれている。多くの旧作品は、複数のプラットフォーム向けにリメイク・移植されている。 第一作・ナンバリングの作品 初期の3つのファイナルファンタジーシリーズは、任天堂のファミリーコンピュータをプラットフォームとした。 『ファイナルファンタジー』(第1作)は、1987年に日本で、1990年に北米で発売された[8][9]。据え置きゲーム機のRPGジャンルに多くの新しいコンセプトを導入した。複数のプラットフォーム上でリメイクされている[9]。 『ファイナルファンタジーII』は、1988年に日本で発売された[9][10][11]。 『ファイナルファンタジーIII』は、1990年に日本で発売され、ファミリーコンピュータ上での最後の作品となった[12]。2006年にニンテンドーDS上でリメイクされるまで移植されなかった[11]。 続く『ファイナルファンタジーIV』から『ファイナルファンタジーVI』までの3作品は、スーパーファミコン上で製作された。それら全てが他のプラットフォームに移植されている。 『ファイナルファンタジーIV』は、1991年に発売された。北米では当初 "FINAL FANTASY II" として発売された[13][14]。アクティブタイムバトルシステムが初めて導入された[15]。 『ファイナルファンタジーV』は、1992年に発売された。ストーリー上の続編が、初めてOVA『ファイナルファンタジー』という形で作られた[9][16][17]。 『ファイナルファンタジーVI』は、1994年に日本で発売されたが、北米では "FINAL FANTASY III" として発売された[18]。 続く『ファイナルファンタジーVII』から『ファイナルファンタジーIX』までの3作品は、ソニー・コンピュータエンタテインメントのPlayStation用に発売された。 1997年に発売された『ファイナルファンタジーVII』は、それまで使われていた2Dグラフィックスではなく3Dグラフィックスを使った最初のシリーズ作品である。その後のシリーズ作品は全て3Dグラフィックスを用いて作られている。『FFVII』では、ポリゴンのキャラクターがプリレンダリングされた背景に登場している。また、『FFVII』はより現代的な設定を導入し、そのスタイルは後のシリーズにも受け継がれていった[9]。『FFVII』はヨーロッパで発売された最初のシリーズ作品でもある。 『ファイナルファンタジーVIII』は、1999年に発売された。『FFVIII』は、より写実的なキャラクターと音声を、テーマ音楽を元に一貫性を持って使用した最初の作品とされる[9][19]。 『ファイナルファンタジーIX』は、2000年に発売された。『FFVII』や『FFVIII』のような現代的な世界ではなく、FFシリーズの伝統的な世界設定に戻されている[9][20]。 『FFX』-『FFXII』までのシリーズは、オンラインゲーム1作を含めてPlayStation 2 (PS2) で発売された。 2001年に発売された『ファイナルファンタジーX』は、フル3Dのフィールドとキャラクターボイスを採用した初めての作品である。また、直接の続編となるゲーム『ファイナルファンタジーX-2』が作られた初めてのシリーズ作品でもある[21][22]。 『ファイナルファンタジーXI』は、2002年にPS2とPCで発売され、後にXbox 360でも発売された[23][24]。シリーズ中では最初のMMORPGである。同様に、この『FFXI』はリアルタイムでのシームレスな戦闘システムをランダムエンカウントの代わりに使用した初めての作品である[24]。 『ファイナルファンタジーXII』は2006年に発売された。前作と同様に、相互接続されたフィールドでのリアルタイムでの戦闘システムを用いている[25][26]。 2009年に、『ファイナルファンタジーXIII』がPlayStation 3 (PS3) 用ソフトとして日本で発売され、翌年北米とヨーロッパでもPS3とXbox 360で発売された[27][28]。『FFXIII』は、ファブラ ノヴァ クリスタリス ファイナルファンタジーと呼ばれる一連の作品のフラグシップタイトルである[29]。 シリーズ2作目のMMORPGである『ファイナルファンタジーXIV』は、世界中でWindows用ソフトとして2010年に発売され、後にPS3[30]・PlayStation 4(PS4)・Mac OS上でも発売された。 2016年11月29日に、『ファイナルファンタジーXV』がPS4・Xbox Oneで発売された。 続編とスピンオフ作品 ファイナルファンタジーシリーズは多くのスピンオフ作品とメディアミックスを生んだ。 大型の作品としては『FFX』、『FFXIII』の続編としてそれぞれ『FFX-2』、『FFXIII-2』『FFXIII LightningReturns』、その他SFCにて発売された『FF USA』がある。 また、色々な追加点を加えたインターナショナルシリーズがFFⅦとFFⅩで発売されている。                                          他メディア化 スクウェア・エニックスは、アニメ、CGアニメーションを含む様々なメディア上にファイナルファンタジーシリーズを展開している。 『ファイナルファンタジー(OVA)』は1994年に発売されたOVA。『ファイナルファンタジーV』の200年後の世界でファイナルファンタジーVと同様にクリスタルと世界を守るために勇者たちが戦うというストーリー。 『FF:U 〜ファイナルファンタジー:アンリミテッド〜』はGONZO制作のアニメ作品。記憶喪失の『黒き風』と呼ばれる男が、右腕と一体化した『魔銃』を持って微かに記憶に残る『白き雲』と言う男を宿敵とし、探し追い求めるストーリー。ゲーム固有のキャラクター名は登場するがゲームのファイナルファンタジーシリーズとは違うオリジナルの世界観となっている。 『ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン』は2005年に発売されたOVA。『ファイナルファンタジーVII』の2年後の世界が舞台。全世界累計出荷本数410万本[31]というヒットを記録した。 『キングスグレイブ ファイナルファンタジーXV』は2016年7月9日に劇場公開されたフルCG長編映像作品。『ファイナルファンタジーXV」』と同じ世界で展開される、もう一つの物語で、ゲームと映像のメディアミックスの完全連動作品である。映像作品側では国王レギスの視点、ゲーム側では国王レギスの息子である王子「ノクティス」視点の話であり、父と子の絆が描かれている。 『リアル脱出ゲーム×ファイナルファンタジーXIV 大迷宮バハムートからの脱出』は日本国内では2017年2月から、アメリカでは同年夏頃に開催を予定している謎解きイベントで日本国内では全国のZeppを巡回するライブハウスツアー形式、アメリカでは8都市を巡回する。戦争終結から5年後のエオルゼアを舞台に様々な暗号や謎を駆使して1時間以内に巨大遺跡の地下深くで眠っているバハムートの復活を阻止する体験型謎解きRPGイベント。 『ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』は2017年4月より放送されたテレビドラマ。『ファイナルファンタジーXIV』プレイヤーのブログを基に、親子関係を中心に描かれる。 開発および歴史 1980年代半ばに、スクウェアはシンプルなRPG、レーシングゲームといったゲームによって、任天堂のファミリーコンピュータ上で日本のコンシューマーゲーム産業に参入した。 1987年に、スクウェアのゲームデザイナーの坂口博信は、エニックスの『ドラゴンクエスト』、任天堂の『ゼルダの伝説』、オリジンシステムズの『ウルティマ』シリーズなどからインスピレーションを受け、ファミリーコンピュータ向けに新しいファンタジーRPGを創作することを決定した。 しかし、スクウェアは当時経営危機に直面していたため、坂口は新しいRPGがゲーム産業での最後の仕事になるだろうと考えており、もしも新しいゲームが売れなければ、会社を辞め大学へ戻ろうと考えていた[32][33][34]。 しかし坂口の予想に反して、『ファイナルファンタジー』は予期せぬ大きな売上を記録し、スクウェアの経営危機を救うこととなった[35][33]。 それどころか、『ファイナルファンタジー』はスクウェアの看板タイトルとなった[33][36]。 第1作の成功を受け、スクウェア社はすぐに続編の開発に着手した。しかし、坂口は『ファイナルファンタジー』を単独の作品として考えていたため、初期の作品は続編を開発しうるストーリー構成となっていなかった。そのため、後継作品はテーマ上の類似性や、いくつかのゲーム要素(例えばキャラクター成長システム)のみを受け継ぎ、ストーリー上の関係を持たないものとなった。このアプローチはシリーズを通して受け継がれている。FFシリーズのそれぞれの作品は、新しい設定やキャラクターを用い、戦闘システムは更新されている。テレビゲームライターのジョン・ハリスは、ゲームシステムの再構築とストーリー上の緩い繋がりを持つシリーズ構成は、日本ファルコムの『ドラゴンスレイヤー』シリーズに起源があると分析している[37]。『ドラゴンスレイヤー』シリーズには、以前にスクウェアも開発に関わっている[38]。 FFシリーズには主人公が仲間の「死」に直面する場面がいくつかあるが、その理由として、『FF3』の開発中に製作総指揮・ディレクターを務める坂口博信の自宅が火災に遭い、母親が亡くなる事故が起きたことが挙げられている[39]。坂口は「大切な人が死んでしまったときの、生き残った者の辛さをいやというほど味わいました。そして、どうやって、この悲しみを乗り越えていけばいいのか、生き残った者のすべきことはなんなのか、そんなことをいろいろと考えるようになりました。」と語り、以降のFFが「死」をテーマに扱う物語に繋がっていったとしている[39]。 基本的なシステム シリーズ作品の中では共通の世界観として、あらゆる力の源である「クリスタル」を中心とする世界が描かれる事が多い。「クリスタル」にあたる位置に『FFVI』の「魔石」や『FFVII』の「マテリア」などがあてられる場合もあるが、その基本的な役割に大きな変更はない。ただ、『FFVI』以降に発売された作品では「クリスタルを中心とした世界」の枠にとらわれず、作品ごとに多彩な世界が描かれる傾向にある。 ナンバリングタイトル同士の直接的な物語のつながりはなく、『聖剣伝説』、『ファイナルファンタジータクティクス』などの外伝も続編として作られたものではない。『FFI』-『FFIII』-『FFV』間や、『FFII』-『FFIV』間、『FFVII』-『FFX』間、『FFIII』-『FFXI』間のように間接的なつながりを暗示するものもあるが、これらにおいても、あくまで古い作品のストーリーは新しいものの中で伝説・逸話として語られるにとどまっている。 ただし一部の人物名、キーワード、デザインの中には、シリーズ共通のものもあり、シド(人名)、飛空艇、チョコボ、ビッグス&ウェッジ、ギルガメッシュ、ポーション、ギル(通貨単位)などは代表的な例である。シドは老人、中年、青年と、作品ごとに容貌や役回りは異なるが飛空艇発明家として登場することが多い。ほか、ほぼ全作品にバハムートと呼ばれる屈強な竜が登場するが、本来竜ではないこの神話的幻獣を、日本で竜のイメージとして<!--新たに-->定着させたのはこの作品によるところが大きい。 『FFX』と『FFX-2』のように、同じ世界を使用した続編を製作する流れがあり、"COMPILATION of FINAL FANTASY VII" や「イヴァリースアライアンス」 "FABULA NOVA CRYSTALLIS FINAL FANTASY" と共通の世界観を持つ作品群を複数発表している。『FFXII』と「イヴァリースアライアンス」のひとつである『FFXII RW』は、主人公を同じとしているが、続編ではないという位置づけで登場した。 ハード環境の進展に応じて、ATB(アクティブタイムバトル)やアビリティシステムなど、常に新たなシステムを試みている。これは小改良のみで基本的なシステムの変更が無いドラゴンクエストシリーズなどとは異なる特徴である。また、美麗かつ大規模なグラフィック、映画のようなストーリー演出と、徐々に広がる世界のスケールの壮大さも本シリーズの魅力である。積極的にムービーやボイスを利用する演出も他の大作RPGシリーズとは異なる。しかし一方で、プレイヤーのストーリー進行の自由度が失われているという見方もある。 『チョコボの不思議なダンジョン』や『チョコボスタリオン』など、FFシリーズならではの“世界観”と他会社のソフトの“既存のシステム”を応用して製作される外伝作品も多い。 音楽 シリーズ中では多くの音楽が使われているが、テーマは頻繁に再利用されている。 第1作から作曲を担当していた植松伸夫の存在は、ゲーム音楽界で非常に大きいウエイトを占めており、2005年には米国の『Time』誌において「現代の音楽における革新者のひとり」として紹介されている。 ゲームエンジン 一般的なゲーム制作はゲームエンジンありきで行われることが多いが、FFシリーズはそれぞれの作品に応じて新規にゲームエンジンを作るスタイルを採用している。SFC版の『FFIV』以降は全て異なるゲームエンジンを使ってゲームを制作してきた。しかし、この方式では1作品ごとに新しいゲームエンジンを作ることになり開発費の高騰につながるため、ゲームエンジンをシリーズ内において共通化することが今後の課題となっていた。2007年にFFシリーズのための開発ツールとして「Crystal Tools」(クリスタルツールズ)が開発され、『FFXIII』『FFvsXIII』『FFXIV』で使用されている。 ゲームエンジン「Luminous Studio」を使った技術デモではFF的要素としては次の項目が必要最小限として挙げられている[40]。 魔法 召喚獣 ゴージャスで美しい 洗練 変化と挑戦 非FF的要素としては「流血・しみ」「しわ・肉体の欠損」といった項目が挙げられている。 プロットとテーマ 多くのファイナルファンタジーのゲームにおいて、ゲーム中の世界の支配を目論む対立者との戦いに焦点が置かれている。ストーリー中では独裁国家における反乱が描かれ、主人公たちのグループは反乱に参加することが頻繁にある。主人公たちは悪と戦うことを運命づけられていて、悪の行動の結果によって仲間が集結することが多い[9][41]。 シリーズの他の主題として、「複数の悪役が存在する」ということがある。最初に現れた敵は実際は他のキャラクターや組織の手下であり、その闘いの後に仲間となるケースが多い。また、真の敵は最初はそうだとは分からず、ストーリーが進んでいく中で敵対関係が判明していく[9]。ゲームの最初に現れた主要な敵は常に真の最終ボスであるとは限らないため、プレイヤーは最終的な決着までにゲーム中のクエストを続けなければならない[41]。 シリーズ中のストーリーでは、頻繁に登場人物たちの精神的な葛藤、情熱や悲劇が強調される。そして、ゲームの主なテーマはキャラクターの個人的な生い立ちから世界をめぐる戦いにシフトしていく[26][42]。また、愛や対立といったキャラクター同士の関係性も模索される[9]。 他に繰り返し現れるシチュエーションには、記憶喪失、主人公が悪の力によって堕落させられたり、アイデンティティを喪失したり、登場人物が他人のために自己犠牲を払ったりする状況がある[9][43][44]。 魔術的な力を持つ魔石やクリスタルも、ゲーム中のアイテムとして頻繁に再登場する。それらはゲームの中心的なプロットと結びついていることが多い[41]。クリスタルは世界の創造で中心的な役割を持っており、多くのファイナルファンタジーのシリーズではクリスタルや魔石は惑星のエネルギーと関係を持っている。そのような世界で、クリスタルの所有や利用が物語中の中心的な衝突を引き起こす[41][45]。四大元素の設定もシリーズ中で繰り返し表れるテーマであり、クリスタルや魔法といった要素にも使われている。[41]。 他によく使われるプロットやテーマは、ガイア理論、終末論や科学の発展と自然の対立などがある[41][43][46]。過去に勃発した大きな戦争が、現在に暗い影を落としているという設定も多い。 ゲームシステム コンピュータRPGとしては、主人公とその仲間を操作して、モンスターとの戦闘を繰り返し経験値やそれに類するポイントを蓄積してパワーアップし、徐々に行動範囲を広げていき最終的に架空世界の危機を救う、といった典型的なものである。しかし、新作を出すたびにその時代における革新的なシステムを提示している。 成長システム 基本的にレベルを上げることで成長するが、「ジョブ」・「スフィア」といった要素のポイントを貯め、アビリティを習得していくことが中心になっている作品もある。作品ごとの独自のシステムについては、各作品のシステムの節を参照。 レベル制 『FFII』『FFX』『FFXIII』以外で採用されている。経験値をためることによってレベルを上げるシステム。これを上げればキャラクターは強くなる。 基本的にレベル制では、戦闘で得られる経験値から、戦闘終了時点での戦闘可能状態の人数で経験値を分配するシステムとなっている。 ただし『FFVIII』では、戦闘で得られる経験値を戦闘終了時点で戦闘可能なキャラに均等に分配した上で、敵にトドメを刺したキャラにはボーナス値を与えるシステムになっている。 また『FFXI』では敵とキャラクターのレベルの比較により経験値が決定され、キャラクターに比べて敵が弱くなるにつれ経験値が減り、あまりに弱い敵からは経験値が入らなくなる。『FFXII』においても、キャラクターが強くなると徐々に弱い敵から得られる経験値が減る傾向がある。 例外的に『VIII』では敵のレベルも上がる。 ジョブチェンジシステム 『FFIII』『FFV』『FFタクティクスシリーズ』『FFX-2』『FFXI』『チョコボの不思議なダンジョン 時忘れの迷宮』で登場する。ジョブ(職業)に転職(変身)することで固有の特殊技能を使用できるようになったり、能力値が変化したりする。登場ジョブは各シリーズによって様々である。 熟練度システム 『FFII』に登場する成長システム。総合的な経験値およびレベルを廃し、キャラクターの戦い方や行動の内容によって熟練度が蓄積され、使った各魔法や武器、盾のレベルが別個に成長するというもの。同様に各ステータスの上昇(下降)も行動内容に依存する。厳密に言えば熟練度システムではないが、スキルシステムとして『FFXI』に同様の物が存在する。 アビリティシステム ジョブ固有の能力、ないし特殊な能力をプレイヤーの好みに合わせて装着・解除できるシステム。 魔石システム 『FFVI』に登場する「魔石」を使用したシステム。魔石を装備することにより、それに対応した召喚獣の召喚、および魔石固有に設定された魔法の習得が可能となる。また、一部の魔石はキャラクターのステータス成長にも関与する。 マテリアシステム 『FFVII』に登場する「マテリア」を使用したシステム。マテリアごとに固有のアビリティが設定されており、マテリアを武器や防具の空きスロットに装着することによってその能力を引き出すことが可能となる。また、マテリアは戦闘を重ねることで成長する。 ジャンクションシステム 『FFVIII』に登場するGF(ガーディアン・フォース)を使用する成長システム。魔法を敵キャラから「ドロー」というコマンドで入手、もしくはアイテムから精製するなどして作り、それを力や魔力などの各パラメータに装着することによってキャラを強化する。 装備アビリティシステム アクセサリシステムの発展型。レベルアップの成長をカスタマイズしたり、装備に存在するアビリティを習得するシステム。『FFIX』の項目を参照。 スフィア盤システム 『FFX』に登場する「スフィア」を使用した成長システム。スフィア盤という巨大な双六盤のようなボードの上を、戦闘で稼いだスフィアレベルを消費しながら進んでいく。各コマには力を上げたり魔法を習得したりと、様々な効果が設定されているので、それに対応したスフィアを使ってアビリティを入手していく。 ライセンスシステム 『FFXII』に登場する成長システム。魔法や装備は、たとえ所持していてもそれに対応するライセンスを持っていないと使用・装備ができない。そこでこのライセンスボードを使ってライセンスを習得し、キャラを成長させていく。基本的にはスフィア盤に似ているが、こちらは近接するコマに進むまではどこに何のアビリティがあるのかが見えないため、手探りで進んでいかなければならない。 戦闘 本シリーズの戦闘シーンは、ドラゴンクエストシリーズなどに代表されるプレイヤー視点の形式と対照的に、『FFVI』までの2D作品では、プレイヤーサイドと敵サイドが向かい合い、その様子を横から眺めるという「サイドビュー形式」、『FFVII』以降の3D作品ではカメラアングルがめまぐるしく変化しながら戦闘の様子が映し出される形式となっている。 『FFXI』『FFXII』以外はエンカウント制が採用されており、通常はあらかじめ設定されたエンカウント率に従ってバトルが発生する(いわゆるボス戦闘など、エンカウント率とは無関係に発生するバトルを除く)。なお、一部の作品においては装備によってエンカウント率を下げることも可能である。 各キャラクターは打撃や魔法など、様々な手段で戦闘を進めていく。魔法についての詳細はファイナルファンタジーの魔法形態の項目を参照のこと。代表的な戦闘システムおよび戦闘に関する概要は以下を参照。 ターン制 第1作『FFI』-『FFIII』で採用。味方が全員コマンドを入力すると「1ターン」が始まり、おおむね「すばやさ」の高い順に行動する。 ATB(アクティブ・タイム・バトル) 『FFIV』-『FFIX』、『FFX-2』で採用。時間経過によって敵味方ともにゲージが溜まってゆき、そのゲージが溜まった者から行動を決定・開始できるというシステム。ファイナルファンタジーシリーズの戦闘の顔ともいえる。なお、ATBは当時業界初の新システムで、スクウェア(現スクウェア・エニックス)は特許(特許第2794230号)を取得している。かつてシステムは特許の対象外とされていたが、ソフトウェア関連発明の保護が重要視される状況にスクウェアが敏速に対応したと言える。 CTB(カウント・タイム・バトル) 『FFX』で登場した独自のシステム。詳しくは『FFX』を参照。 RTB(リアル・タイム・バトル) 『FFXI』で登場。入力コマンドが即時に行動に反映される。ただし魔法などには効果発動までに「詠唱時間」、再び使えるようになるまでの「再詠唱可能時間」(待機時間)が存在する。 ADB(アクティブ・ディメンション・バトル) 『FFXII』で登場。フィールド画面(移動画面)と戦闘画面とが一体化している。詳しくは『FFXII』を参照。 敗北条件 味方全員が戦闘不能及び石化、ゾンビになる、など。 勝利条件 敵モンスターの全滅及び特定の敵を撃破すること。作品によっては特定の条件を満たすことによって勝利と判定されるような場面も存在する。 隊列 『FFI』-『FFIX』で採用。『FFI』は並び順で「上」にいるキャラクターの方が攻撃を受けやすいという方式だったが、『FFII』-『FFVII』および『FFIX』では前列と後列の概念が採用されている。後列は前列に比べて敵からの物理攻撃ダメージが減少するが、近距離武器での敵に対する物理攻撃ダメージも同様に減少する(例外として、『FFII』では弓以外では敵に対しての物理攻撃が不可能になる)。また、魔法・弓などの一部の武器は隊列に関係なく攻撃できる。大抵の作品では敵にも当てはまり、奥にいる敵には物理攻撃ダメージが減少する。 基本用語 作品に関連して頻繁に登場する用語で、独自の意味を持つもの。 アイテム関係 ポーション HPを回復するアイテム。上位に「ハイポーション」や「エクスポーション」がある。 エーテル MPを回復するアイテム。上位に「エーテルターボ」や「ハイエーテル」などがある。 エリクサー 1人のHP・MPを完全回復するアイテム。上位に「ハイエリクサー」、この効果を味方全体に及ぼす「ラストエリクサー」もある。『FFII』では「エリクシャー」という表記だが効果は同じ。ただし『FFXI』のみ効果が低くHP、MP共に最大値の4分の1しか回復せず、ハイエリクサーで半分回復し、ラストエリクサーで初めて全回復する(使用者のみ)。 フェニックスの尾 死亡した者(戦闘不能になった者)を生き返らせることができるアイテム。上位に「メガフェニックス」や「フェニックスの羽」、「ラストフェニックス」がある。 テント 味方全員のHP・MP・ステータス異常を回復できるアイテム。ただし、フィールドマップやセーブポイントでしか使えない。「コテージ」として登場することもある。 金の針 味方1人の石化を回復するアイテム。石の敵に使用すると「暗黒回帰」で即死させる。 エクスカリバー 最強装備として、シリーズに出てくる装備(Ⅳ以降)。 登場キャラクター シド FFシリーズを通して登場するキャラクターの名前。『FFII』から登場している。各作品で設定は違うものの、なんらかの形で主人公達に協力または敵対し、特に飛空艇に関わる事が多い。時にはプレイヤーキャラクターであったり、敵として戦うボスキャラクターである事もある。シドがプレイヤーキャラクターである作品は、『FFIV』『FFVII』『FFタクティクス』。『FFI』の原作には登場していなかったが、GBA版『FFI・IIアドバンス』やPSP版『FFI』では、村人の話の中で天空人「ルフェイン人」の先祖だとされている。 チョコボ 『FFII』から登場した、大型の鳥のような生き物。移動に利用できる。独特の体臭をもち、「クエ」と鳴く(『FFV』以降)。さまざまな形で人間と共存しており、FFシリーズのマスコット的存在となっている。チョコボが主に活躍するスピンオフ作品については#チョコボシリーズの節を参照。 モーグリ 『FFIII』から登場した、小型の白い生き物。「クポー!」と鳴き(FC版『FFIII』を除く)、作品によっては人間の言葉をしゃべる。人目を避け隠れ住む場合がほとんどだが、『FFIX』や、『FFXI』、『FFXII』などでは、世界規模の独自の文化を形成し人間と共存する。 ギルガメッシュ 『FFV』から登場したキャラクター。FFV以外に関しては、『FFI・II アドバンス』のようにFFVのキャラクターとしてゲスト出演する場合や、『FFXII』のようにキャラクターを作り直す場合などがあり、設定はシリーズ毎に大きく異なる。 主なモンスター アダマンタイマイ - 亀のような姿のモンスター クアール サボテンダー 鉄巨人 - 巨大な鉄の鎧のような姿のモンスター トンベリ モルボル システム関係 ジョブ 特殊な能力を持つ職業のこと。FFシリーズにおいてはキャラクタークラスの意味で使用されている。『FFI』『FFIII』『FFV』『FFXI』に登場するほか、『FFXII』ではインターナショナル版に追加されている。同義に『FFX-2』の<b data-parsoid='{"dsr":[33164,33173,3,3]}'>ドレス</b>がある。また『FFIV』『FFVI』のメニュー画面では、キャラクターごとにそれぞれ「肩書き」が表示されるが、こちらもジョブとほぼ同義のものである。例「戦士」「黒魔道士」など。同名のジョブであっても作品によって扱いが大きく異なる場合もある。 アビリティ 何らかの方法で習得した特殊な能力や技。自分自身の装備枠の許す限り設定しておける。 クリティカルヒット 通常の物理攻撃(たたかう)を選択した際、まれに発生する大ダメージを与える攻撃。通常の2倍ほどのダメージを与えられる。「運」などのステータスが関わってくる。 召喚獣 召喚士がアビリティで「召喚」することによって現れる強大な存在。人、獣、竜などさまざまな形状で現れ、通常の魔法では得られない絶大な効果を発揮することが多い。 セーブポイント 『FFIV』以降に登場する。フィールドマップ以外でプレイ経過を記録したり、テントを張って休息したりできる地点である。基本的には特殊な結界・物質であることが多いが、『FFIX』ではモーグリがこの役割を代行している。『FFX』や『FFXII』では触れるだけで状態異常やHP・MPが全回復する。なお、オンラインゲームである『FFXI』にはセーブポイントは存在せず、替わりに戦闘不能時やデジョンなどの魔法を使用した際に戻ることができるホームポイントが存在する。 ラグナロク 北欧神話の「神々の黄昏」を意味する、 架空の剣 - ラグナロク (ファイナルファンタジー)を参照。 飛空艇の名前 - 飛空艇#ファイナルファンタジーシリーズの「ファイナルファンタジーVIII」の項を参照。 召喚獣の名前 - ファイナルファンタジーシリーズの召喚獣#ら行の「ラグナロック」の項を参照。 主なスタッフ 坂口博信 - FFシリーズの生みの親。『ファイナルファンタジーX-2』までの歴代作品のプロデューサー・ディレクターなどを数多く務める。 植松伸夫 - FFシリーズのBGMの作曲を手がける。『FFI』-『FFX』まではメインコンポーザー。『FFXI』の一部、『FFXII』の挿入歌を担当。 天野喜孝 - 『FFVI』までと『FFIX』のキャラクターデザイン、全作品のイメージイラストなど。 田中弘道 - 『FFI』-『FFIII』のゲームデザイン、『FFXI』『FFXIV』のプロデューサーなど。 渋谷員子[47] - 『FFI』-『FFVI』のグラフィック、『FFIV』『FFV』のパッケージイラストなど。 寺田憲史 - 『FFI』-『FFIII』のシナリオライター。 ナーシャ・ジベリ - 『FFI』-『FFIII』のメインプログラマー。 石井浩一 - 『FFI』の企画コンセプト、『FFII』のゲームデザイン、『FFIII』のジョブデザイン、設定など。サイドビュー戦闘画面の発案者。チョコボとモーグリの生みの親。 伊藤裕之 - FFシリーズのゲームデザイナー。ATB、アビリティ、アクセサリシステム等の生みの親。 河津秋敏 - 『FFI』『FFII』ゲームデザイン、『FFCC』プロデューサーなど。 北瀬佳範 - 『FFVI』-『FFVIII』のディレクター。『X』、『XIII』のプロデューサーなど。 野村哲也 - モンスター・キャラクターデザイン、ディレクターなど。 吉田明彦 - 『FFIII(DS版)』、『FFXII』、『FFXIV』、『FFT』キャラクターデザインなど。 吉田直樹 - 『FFXIV』『FFXIV:新生エオルゼア』『FFXIV:蒼天のイシュガルド』『FFXIV:紅蓮のリベレーター』のプロデューサー兼ディレクターなど。 吉田直樹はスクウェア・エニックスの2018年4月現在、取締役 兼 執行役員となっている 野島一成 - 『FFVII』、『FFVIII』、『FFX』、『FFXV』のシナリオライター。 神谷智洋 -サウンド『FFII』、『FFX』、『FFVIII』、『FFIX』『FFVIII』『FFXIV』 タイトルロゴ タイトルロゴは『FFIV』から統一したスタイルを採用している。ほぼ同一の書体のアルファベットで書かれたタイトルの背後にイラストが配置される。イラストは、各タイトルのテーマを暗示するものが多い。『FFI』、『FFII』、『FFIII』のリメイク版でもこの統一ロゴが使用されている。 『FFIV』はDSのリメイク版でロゴが変更となった。『FFI』、『FFII』のPSPリメイク版のロゴはイラストのモデル自体は同じだが、新たに描き起こされている。初公開された時点では『FFXII』のような巨大なイラストだったが、発売直前に縮小された。 FFCCシリーズでの統一ロゴのイラストは、GC版『FFCC』を除いて中央ではなく右側に配置されている。また、Wiiウェアの2作品はFFCCの表記が小さく副題が大きい。 FC版の『FFI』のロゴは「ファイナルファンタジー」とカタカナで書かれたもので、フォントもまったく異なっている。『FFII』、『FFIII』ではアルファベットをデザイン化した独自のロゴが使用され、これらも『FFIV』以後のフォーマットとは大きく異なる。タイトルロゴの背後にイラストも配置されていない。『FFI』-『FFIV』では、ゲーム中に表示されるタイトルは商品パッケージのロゴとは別のデザインが使用されている。また、FFTシリーズのタイトルロゴもFFシリーズのものとはフォーマットが異なる。 下記は、統一ロゴの一覧。 "FABULA NOVA CRYSTALLIS" は作品名ではなく開発プロジェクトの名称であるが、統一ロゴを使用している。 リメイク版でオリジナル版とは異なるデザインのロゴを使用しているのは以下の通り: WSC版、PS版、PSP版『ファイナルファンタジー』 WSC版、PS版、PSP版『ファイナルファンタジーII』 DS版『ファイナルファンタジーIII』 DS版『ファイナルファンタジーIV』 『ファイナルファンタジータクティクス 獅子戦争』 ディシディアシリーズ、シアトリズムシリーズではオリジナル版のデザインが使用されている。 評価 幅広いファン層を誇り、歌手の加山雄三やノーベル物理学賞受賞者の小柴昌俊も、本シリーズのファンであると公言している。 販売 第1作『ファイナルファンタジー』から第6作『ファイナルファンタジーVI』までは、一貫して任天堂の家庭用ゲーム機(ファミリーコンピュータ、スーパーファミコン)向けにソフトが開発・販売されていた。しかし『ファイナルファンタジーVII』以降は、ソニー・コンピュータエンタテインメントのゲーム機であるPlayStationシリーズ向けソフトとして開発・販売されている。マルチプラットフォーム化により、『ファイナルファンタジーXIII』シリーズではマイクロソフトのXbox 360向けにも開発・販売されている。 以前は、PS3などの家庭用ゲーム機のスペックに合わせて開発されていたが、『ファイナルファンタジーXV』などではDirectX(PC)上でオリジナルを作り、そこから最適な移植を行う方針に変更されている[89]。 任天堂との関係 『ファイナルファンタジーVII』をPlayStationで開発したことをきっかけに、それまでハードウェアを供給し続けてきた任天堂とスクウェアは険悪な関係になった。これは、大容量のメディアを採用したハードを求めていたスクウェアの開発姿勢と任天堂の方針が大きく食い違っていた事が原因だった、と後のインタビューで語られている(そのためスーパーファミコンの末期のスクウェアタイトルは、ソフトの発売スケジュールが全て繰り上げられた)。詳細はスクウェア・エニックス#任天堂との関係参照。 これ以降、長らくスクウェアは任天堂のハードでFFシリーズを開発することはなかった。その中で、携帯ゲーム機市場においてスクウェアは大きな苦戦を強いられることとなる。2000年以降、スクウェアはFFシリーズのスピンオフ作品である『はたらくチョコボ』を皮切りにバンダイの携帯ゲーム機であるワンダースワンに参入し、その後FFシリーズ初のリメイク作品をリリース。しかし、携帯ゲーム機市場における任天堂のゲームボーイシリーズの圧倒的優位は揺るぐことがなく、ワンダースワン自体が短命ハードとして市場から姿を消していった。 代表取締役社長が和田洋一に交代、方針転換してからは関係が改善し、ゲームボーイアドバンス用ソフトとして外伝的作品『ファイナルファンタジータクティクスアドバンス』や『チョコボランド』などがリリースされる。その後、スクウェアとエニックスの合併を経て、ゲームキューブ用ソフト『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル』が発売。任天堂ハードでの新作FFとしてシリーズ化されている。 また、2004年からはナンバリングタイトルの移植・リメイク作品が任天堂の携帯ゲーム機向けに発売されるようになった。同年7月には『ファイナルファンタジーI・II アドバンス』を発売。2005年10月には『ファイナルファンタジーIV アドバンス』のゲームボーイアドバンスでの発売を発表すると共に "Finest FANTASY for ADVANCE" というキャッチフレーズで「携帯機完全移植計画」を開始。ゲームボーイアドバンス向けには2006年10月に『ファイナルファンタジーV』、同年11月に『ファイナルファンタジーVI』の移植版が、ニンテンドーDS向けには2006年8月に『ファイナルファンタジーIII』、2007年12月に『ファイナルファンタジーIV』のリメイク版が発売された。 一方で、ナンバリング作品がPSプラットフォームとXboxプラットフォームの両方で発売されるようになった現在でも、任天堂ハードでは『ファイナルファンタジーVII』以降のナンバリング作品は発売されていない。(例外として、PS2で発売された『ファイナルファンタジーXII』の派生作品として、『ファイナルファンタジーXII レヴァナント・ウイング』がニンテンドーDS向けに発売されている。) ドラゴンクエストシリーズがバーチャルコンソールを一切出さないのに対し、本シリーズはFC・SFC版の各種作品が各バーチャルコンソールで販売されている。 影響 『ドラゴンクエスト』との関係 家庭用ゲーム機向けRPGとして先に人気を博したのは、登場の早かった『ドラゴンクエスト』である。同シリーズは、日本初の家庭用ゲーム機向けRPG作品であり、そのインパクトと影響は大きく、ファイナルファンタジーシリーズの生みの親である坂口博信はそのビジネス的成功を見て、「ファミコンでもRPGが作れると気づいた」と語っている。また、石井浩一も坂口が「ドラクエのようなRPGを作りたかった」と話していた、と述べている[90]。『ドラゴンクエスト』に遅れをとる形になったファイナルファンタジーシリーズの第1作は「ドラクエの亜種」と評価されることもあり、評価が固まらなかった。しかしその後、両シリーズは「競争」しながら独自の路線を確立していくことになり、両者は「2大RPG」と呼ばれるまでに成長する[91]。本シリーズの日本におけるソフト累計販売本数は、『FFVII』(400万本)と『FFVIII』(370万本)においてトリプルミリオンを続けて記録していたが、『FFIX』以降は作品によっては販売本数を減らしている(『FFX』の300万本以外)[注 4]。これに対し、ドラゴンクエストシリーズは『DQVII』で400万本の大台を叩き出した後も、『DQVIII』でトリプルミリオン、『DQIX』ではシリーズ最高の432万本を達成している。ただし、DQの「一番売れているハードで売る」というコンセプトに対し、FFは「FFで新しいハードの普及率を伸ばす」というコンセプトとなっているほか、発売周期もDQよりも短いため、単純に比較することはできない。 なお、DQの全世界累計売上のほとんどが日本国内の売上であるため、世界市場での累計出荷本数ではファイナルファンタジーシリーズの方が大幅に上回っている。また、世界的な市場別での販売本数を見た場合は、タイトル(開発チーム)によって売り上げが大きく異なる傾向も見られる[注 5]。2003年4月1日、ファイナルファンタジーシリーズの発売元であるスクウェアとドラゴンクエストシリーズの発売元であるエニックスが合併。2004年12月に発売された『ドラゴンクエスト&ファイナルファンタジー in いただきストリートSpecial』では両シリーズのキャラクターが共演し、2社合併の象徴ともいえる存在となった。 このような歩み寄りは見られるものの、それぞれのシリーズの独立性は失われることなく保たれている。2009年を例に見ると、『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』がニンテンドーDSで発売された一方で、ファイナルファンタジーシリーズは『ファイナルファンタジーXIII』がPlayStation 3で発売されており、両者の明確な路線の違いを見て取ることができる。 日本のゲーム市場に対する影響 FFシリーズが市場に与えた直接的な影響としては、日本における据え置き型テレビゲームの機種の世代交代の牽引が挙げられる。 これまでFFシリーズでは、当時の「次世代ハード」にプラットフォームを移して初の登場となる『ファイナルファンタジーIV』(スーパーファミコン)と『ファイナルファンタジーVII』(PlayStation)、『ファイナルファンタジーX』(PlayStation 2)までは、ハードが発売された初期に普及に貢献するという、言わば「起爆剤」のような役割を果たしている。その後、各社がこれに追随しソフト市場全体が活性化する、という流れの繰り返しを見せていた。 特に、1996年の「『FFVII』をPlayStationで開発する」というスクウェアの発表は、当時3社(ソニー・コンピュータエンタテインメントのPlayStation、セガのセガサターン、任天堂のNINTENDO64)がいずれも突破口を見出せず拮抗していたゲーム市場において、PlayStation当時の据え置き型ハード市場の勝利者とする大きなきっかけになった。一方でスクウェアと任天堂との確執を呼び、スクウェアは任天堂ハードからの撤退を余儀なくされ、2003年にエニックスと合併するまでの7年間、任天堂ハードでのニュータイトルリリースはなかった。以降の経緯については#販売についてを参照。 また、ゲーム内での表現において、常に革新的な技術を導入してゲーマーに驚きをもたらすことで、ゲーム業界全体に与えた影響も大きい。PS版『FFVII』からはゲーム内にムービーが導入され、以降の各作品は発売当時の映像制作技術としてはいずれも最先端の技術を誇っていた。このことによって、大容量や高画質を前面に出して売りにするという据え置き型ゲーム機第5世代の方向性の一つを決定付けることとなった。 脚注 注釈 出典 関連項目 ファイナルファンタジーシリーズの魔法形態 サガシリーズ キングダム ハーツ シリーズ いただきストリート 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
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リュベッケの初代市長はだれ
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紋章地図<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[137,143,6,0]}'/>(郡の位置)基本情報連邦州:ノルトライン=ヴェストファーレン州郡:ミンデン=リュベッケ郡緯度経度:標高:海抜 70 m面積:105.18 km²人口:[1]人口密度:Expression error: Unrecognized punctuation character "[". 人/km²郵便番号:32457市外局番:0571, 05722, 05731, 05733, 05751, 05706ナンバープレート:MI自治体コード:05 7 70 032行政庁舎の住所:Kempstraße 1 32457 Porta Westfalicaウェブサイト:首長:ベルント・ヘットマン (Bernd Hedtmann)郡内の位置 ポルタ・ヴェストファーリカ(Porta Westfalica ˈpɔʁta vɛst'faːlika、ラテン語で「ヴェストファーレンの門」を意味する)は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州デトモルト行政管区のミンデン=リュベッケ郡に属す市である。人口約37,000人の中規模の都市で、ノルトライン=ヴェストファーレン州の北東部、ミンデンとビーレフェルトとの間にあたるオストヴェストファーレン=リッペ地方に位置する。 現在の市域への入植は1019年に最初の文献記録が存在する。現在の市は1973年に15の市町村が合併して成立した。1973年に住民投票で選ばれた新しい市名は、ヴェーザー川がヴィーエン山地とヴェーザー山地との間を突破する渓谷「ポルタ・ヴェストファーリカ」に由来する。 地理 位置 ポルタ・ヴェストファーリカ市はノルトライン=ヴェストファーレン州の北西部、ミンデン=リュベッケ郡南部の、名前の由来ともなったポルタ・ヴェストファーリカ(渓谷)に面している。ポルタ・ヴェストファーリカは、ノルトライン=ヴェストファーレン州の自治体ではペータースハーゲン以外で唯一ヴェーザー川東岸に広い土地を有している。 ポルタ・ヴェストファーリカは南から来たヴェーザー川がヴェーザー山地およびヴィーエン山地を突破する渓谷である。これらの山地は市域内を東西に、200 m から 300 m をわずかに超える頂を連ねている。市域はヴィーエン山地およびヴェーザー山地の南北、ヴェーザー川の東西にまたがって広がる。山地の南側の市域はグローサー・ヴェーザーボーゲン(ヴェーザー川の大屈曲部)に面している。ヴェーザーボーゲン沿いには多くの大きな湖がある。ヴェーザー川は市域南部でかなりの区間にわたって西と南の市境をなしている。自然環境上の区分では、市域は中低山地(ヴェーザーベルクラント下部)から北ドイツ低地への移行部にあたる。北ドイツ低地にあたる部分の市域は、ヴェーザー川中流域渓谷の両岸地域であり、ミンデン地方に含まれる。南部のヴェーザー川上流域とは離れた緩やかな丘陵地は、部分的にラーフェンスベルガー丘陵地に分類される。 最寄りの大都市には、ビーレフェルト(南西に 35 km)、オスナブリュック(西に 60 km)、ハノーファー(東に 60 km)がある。 市域の広がりと土地利用 市域の広さは約 105 km2で、南北軸の長さは約 9 km である。東西軸の最大値は約 14 km である。最高地点は市域東部、ニーダーザクセン州との州境上、ヴェーザー山地のパーペンブリンクで海抜 303 m である。最低地点はネーゼン付近のヴェーザー渓谷で、海抜は約 39 m である。 市域は主に農業に利用されており、鄙びた様子である。森林は基本的にはヴィーエン山地とヴェーザー山地だけである。ミンデン=ラーフェンスベルク地方の中では比較的森林が多い自治体であるが、州平均よりは明らかに低地である。土地利用の概要を以下の表に示す。 土地利用別面積農業用地森林住宅・交通用地水域その他面積 (ha)5,5551,7132,498400352占有率52.8 %16.3 %23.8 %3.8 %3.4 % 出典: ノルトライン=ヴェストファーレン州データ管理・統計局[2] 隣接する市町村 ポルタ・ヴェストファーリカは西から時計回りに以下の市町村と境を接する。バート・エーンハウゼン、ミンデン(ともにノルトライン=ヴェストファーレン州ミンデン=リュベッケ郡)、ビュッケブルク、リンテルン(ともにニーダーザクセン州シャウムブルク郡)、ヘルフォルト郡フロートー、リッペ郡カレタール(ともにノルトライン=ヴェストファーレン州)。 市の構成 ポルタ・ヴェストファーリカの基本条例 § 3 にようれば、同市の15の市区 (Stadtteil) は、複数の集落にまたがる問題を採り上げ、解決するための 8 つの地区委員会 (Bezirkschuss) を構成する。 地区委員会地区人口 (2003年5月31日)ポルタ・ヴェストファーリカの地区構成 IハウスベルゲHausberge5,255ローフェルトLohfeld1,487IIバルクハウゼンBarkhausen4,143IIIネーゼンNeesen2,455レルベックLerbeck3,724IVナンメンNammen2,398VヴュルプケWülpke664クライネンブレーメンKleinenbremen2,691VIアイスベルゲンEisbergen3,673フェルトハイムVeltheim2,838VIIメルベルゲンMöllbergen1,706ホルトルプHoltrup1,089フェンネベックVennebeck1,064コシュテットCostedt494VIIIホルツハウゼンHolzhausen4,287 気候 ポルタ・ヴェストファーリカの気候は中央ヨーロッパの海洋性気候と大陸性気候との移行部にあたることや、南部はラーフェンスベルガー盆地に、北部はミンデナーラント地方に位置する地域環境に支配されている。この地域は基本的には海洋性気候なのだが、ときおり大陸性気候の影響を受ける。冬は大西洋の影響により比較的穏やかで、夏はほどほどの暑さであり、降水は年間を通じて平均的である。年間平均気温は約 8.5 ℃ だが、これには高度が影響する。ヴィーエン山地やヴェーザー山地の高地ではこれよりも 0.5 ℃ 低い。降水量は盆地という地形の影響でそれほど多くはない。トイトブルクの森、エッゲ山地、リッパー山地が、ラーフェンスベルガー盆地を大西洋から湿った空気を運んでくる南西の風からこの街を護っている。平均年間降水量は約 750 mm である。北ドイツ低地に位置する地域の降水はこれよりも少なく、年間降水量は約 700 mm 程度である。 歴史 2008年にバルクハウゼン区からローマ時代の石臼、硬貨、鉛鑞(はんだ)、衣服のバックルの一部が発掘された。これらは紀元1世紀のものと同定された。この事から、ポルタ・ヴェストファーリカのローマ陣地はウァルスがそこから戦い(トイトブルクの戦い)に向かった夏の陣地であったと推定されている[3]。また、16年にゲルマニクスの場合も、ヴェーザー川の渡し場であるこの地でヴェーザー川の戦いが行われた可能性がある。ただし、これらの古い出土品について最終的な解釈はまだ確定していない。また、ラテン語の市名はもっと遅くになって初めて現れるものであり、ローマ人入植地が存在した証拠にはなり得ない。「ポルタ・ヴェストファーリカ」という名は貴族の間でラテン語とフランス語を話す事が流行した18世紀になってからつけられたものである。ポルタ・ヴェストファーリカはヴェーザー山地とヴィーエン山地との間のヴェーザー川の渓谷を指した。「ポルタ・ヴェストファーリカ」は1973年に市名として採用された。最初の永続的な定住地は、おそらくザクセン時代に建設されたと推定されている。 この街の集落の中で、知られている最初の入植地は1096年の文献に記録されているシャルクスブルクである。この地は当時ベルゲ家の所領であった。ベルゲ家は1397年までミンデン司教の代官権を行使した。シャルクスブルクこの地域の重要な行政都市に成長した。これを中心としてその周囲に発展し、現在のポルタ・ヴェストファーリカの中心部を形成した。1353年には「ハウス・ツー・ベルゲ」と呼ばれる城に住む城主としても記録が現れる。この頃、周囲の集落は城の名にちなんで「ハウスベルゲ」と呼ばれるようになった。1618年に市場開催権、1720年に都市権が授けられた。この街は主要交通路の両側に位置し、ゆっくりと発展していった。1648年にミンデン侯領としてブランデンブルク=プロイセン領となったが、ユーベルンシュティーク、ベルク・ウント・ブルーフ、ゴーフェルト、ラントヴェール(ハウスベルゲンを含む)の代官所を統合したプロイセンのアムト・ハウスベルゲの本部所在地の地位は保持した。このアムトは現在のポルタ・ヴェストファーリカ、ミンデン、バート・エーンハウゼン、レーネ、フロートーといった都市のそれぞれ全域または一部を包含していた。ミンデン=ラーフェンスベルクの創設や「郡」の概念の導入によってアムトの重要性は低下したものの、その後もアムト・ハウスベルゲはミンデン侯領が廃止されるまで存続した。ポルタ・ヴェストファーリカは、何世紀にもわたってアムト・ハウスベルゲの本部所在地であり続けた。1806年、この地域はナポレオン統治下のフランス領となった。現在のポルタ・ヴェストファーリカの地域は、1807年に事実上フランスの衛星国であったヴェストファーレン王国に編入され、最初はヴェーザー県ミンデン地区に属した。ヴェーザー川右岸の集落はカントン・ハウスベルゲに統合された。ヴェーザー川左岸のバルクハウゼンだけはカントン・ハッデンハウゼンの一部となった。1810年にバルクハウゼンはフランスの直接統治下領に移された。バルクハウゼンはこれ以後カントン=ミンデンに属すデュッツェンの一部とされた。現在の市域の大部分に相当するヴェーザー川右岸側はヴェストファーレン王国に残された。この地域はライネ県に編入された。 ハウスベルゲの大きな飛躍は19世紀のケルン - ミンデン鉄道会社による本線建設によってもたらされた。1864年に現在の市域内で最初のヴェーザー川を渡る橋が架けられた。1896年には、この街の象徴的建造物であるカイザー・ヴィルヘルム記念碑が建立された。1972年10月2日からの市町村再編では、1973年1月1日に15の市町村が合併し、公式にポルタ・ヴェストファーリカと名付けられた。これにより、この概念は単なる地域名ではなく、都市名となったのである。旧アムト本部所在地のハウスベルゲは市議会や行政機関の所在地となり、1978年から1988年に都市の中止として開発がなされた。 宗教 ミンデン司教領がプロテスタントの教義を受け容れて以後、遅くとも世俗化されプロテスタントのプロイセン治下のミンデン侯領となった1648年からこの街は主にプロテスタント、ルター派の街である。信仰を異にする少数派の人々は第二次世界大戦以後の国内移動、東欧からの遅れて来た移民や南欧の出稼ぎ労働者の流入によるものである。 この街の宗教分布を示す間接的な数値として市内の学生に対する宗教調査結果がある。これによれば、約70%がプロテスタント、6%がカトリック、2%がイスラム教の信者であった。11%がその他の宗教を信仰しており、11%が無宗教であった。 市町村合併 現在のポルタ・ヴェストファーリカ市は、1972年10月24日のビーレフェルト法に基づき、1973年1月1日に成立した。ミンデン郡アムト・ハウスベルゲ・アン・デア・ポルタに属していた16の市町村中14市町村が合併したのである。残る2つの自治体は別の市に編入された: ウッフェルンはヘルフォルト郡フロートーの市区となり、マイセンはミンデンに併合された。この他に同じ時に廃止されたアムト・デュッツェンに属していたバルクハウゼンがポルタ・ヴェストファーリカに編入された。これら15の旧市町村は現在、ポルタ・ヴェストファーリカ市の市区を形成している。1973年1月1日以降、新たな市域の変更はない。 行政 市長 歴代市長は以下の通り。 在職期間名前所属政党1973–1983ヴィリー・ヴァーターマンWilli WatermannSPD1983–1999ハインリヒ・シェーファーHeinrich SchäferSPD1999–2004ヒルマー・ヴォールゲムートHilmar WohlgemuthCDU2004–2014シュテファン・ベーメStephan BöhmeSPD2014-ベルント・ヘットマンBernd Hedtmann無所属 市議会 ポルタ・ヴェストファーリカの市議会は40議席からなる。 紋章 ポルタ・ヴェストファーリカ市は1973年11月12日にデトモルト行政管区長官の文書により紋章の使用権を授与された。 図柄は基本条例 §2 によると以下の通りである。胸壁状の分割線で赤地と銀(白)地に上下二分割。上部は3本の銀(白)の胸壁を戴いた塔。下部は横帯状に拡げられた金(黄)の軸を持つ赤い鷲の翼。 この紋章の下部は1939年に定められたハウスベルゲ市の紋章から採られたものである。翼の意匠はさらにハウスベルゲ近郊のシャルクスブルク城を本拠としたベルゲ家の紋章に由来する。紋章の赤い背景は、現在の市域が何世紀にもわたって所属したミンデン侯領およびミンデン司教領を表している[4]。 旗は長辺方向沿いに赤と白に塗り分けられ、中央旗竿寄りに市の紋章が描かれている。 姉妹都市 フリードリヒスハイン=クロイツベルク(ドイツ、ベルリン): 1962年12月21日、アムト・ハウスベルゲはベルリンの壁建設を承けてベルリンの老人や子供の窮状救済を決議した。アムト当局はベルリンのクロイツベルクに対する援助を決定し、1968年8月30日にポルト・ヴェストファーリカの前身であるアムト・ハウスベルゲとベルリン=クロイツベルクとの間に、人的・文化的あるいは地方行政上の交流を促進するための姉妹都市協定が樹立された。1973年のアムト・ハウスベルゲの廃止に伴い、ポルタ・ヴェストファーリカがこの姉妹都市関係を引き継いだ。さらに2001年のベルリンの市区再編によって、この関係はフリードリヒスハイン=クロイツベルク区が引き継いだ。このしまい都市関係は、親密な交流を促進し、各種イベントへの相互参加が行われている。 デミーン(ドイツ、メクレンブルク=フォアポンメルン州): ポルタ・ヴェストファーリカの市議会は1990年10月3日にデミーン市民に宛てて挨拶状を送った。これ以後両者の結びつきは深まり、1990年12月17日に友好関係が確立された。2004年9月10日に正式な姉妹都市関係に発展した。 ウォータールー(アメリカ合衆国、イリノイ州): ウォータールーのヴェラ・コールマイヤーは1979年に自分の祖先がポルタ・ヴェストファーリカの住民であったことを知った。4人の祖父母のうち3人が1850年から60年にかけて、近在の多くの人達とともにアメリカ合衆国に渡った人物であった。彼はポルタ・ヴェストファーリカのヘルムート・マッケとコンタクトを取り、これ以後地域的な交流を深めていった。1983年にウォータールーからの最初の訪問団がポルト・ヴェストファーリカを訪れた。これ以後も定期的に姉妹都市訪問が行われている。[5] 文化と見所 演劇 バルクハウゼンの旧採石場跡のカイザー・ヴィルヘルム記念碑に隣接してゲーテ野外ステージがある。夏季になると一般向けや子供向けの演劇作品が上演される。また、ポルタ・ヴェストファーリカ市立ギムナジウムの演劇AGは毎年南部学校センターで作品を上演している。芸術グループ Spektakulär はクライネンブレーメンの劇場シュペーク・シュペークで小演劇や即興劇を上演している。 博物館 「鉱山と地質学の博物館」は1995年から開館している。クライネンブレーメンの鉱山の一部には、100年を超える鉄鉱石採取の歴史にかかわる品が展示されている。 音楽 市の音楽学校は音楽教育、専門教育、保護育成に利用されている。3歳までの子供にはムジークガルテン、3歳から6歳までは音楽早期教育コースが用意されている。基礎課程学校の児童には音楽基礎教育が施され、その後「インストゥルメンテンカルセル」(直訳すると「楽器のメリーゴーラウンド」)でいくつかの楽器を試し、練習することができる。その上、いくつかの楽器に関する授業を受けることもできる。歌のサークルとしては、児童合唱サークルが1つ、合唱団が2つ、男声合唱サークルが3つある。 建築物 市域内に含まれるヴィッテキンツベルク(海抜 276 m)にカイザー・ヴィルヘルム記念碑がある。 ハウスベルゲ区中心部の旧市街やクライネンブレーメン区の観光鉱山も見所である。クライネンブレーメン区はヤーコプスベルク(海抜 238 m)の麓、アウトバーンA2号線に面している。ヤーコプスベルクには高さ 142 m の展望台付き通信塔がある。 ヴィッテキンツブルク城はヴィーエン山地の尾根の上にある。この城は10世紀に建設され、現在はカフェやレストランとして利用されている。城趾には旧十字架教会の礎石もある。最も古い入植地の避難城塞跡はローマ時代以前、紀元前3世紀から紀元前1世紀に遡るものである。 ポルタ・ヴェストファーリカにはヴェーザー川と並行に長さ約 1.7 km のトンネルが通っている。2002年12月6日に完成したこのトンネルはバルクハウゼン区を通り抜ける車両を通している。 ハウスベルゲ区の旧市街 クライネンブレーメンの観光鉱山 ヤーコプスベルクの通信塔 ヴィッテキンツブルク城 自然文化財 ポルタ・ヴェストファーリカには様々異なる保護目的で指定された16の自然保護地区がある。最大のものは広さ 111.7 ha のヴィッテキンツベルクで、ポルタ・ヴェストファーリカとバート・エーンハウゼンとにまたがっている。広葉樹林を抜ける森の小径は、森林環境学、自然保護、考古学、歴史、地質学といったカテゴリ別に周辺地区へ延びている。この地域にはワシミミズクやマツテンが生息している。 ナンマー・ラーガーは広さ 74.10 ha のナンマー・クリッペン自然保護地区に囲まれている。ここには先史時代からの埋蔵文化財、紀元前300年から紀元前100年頃のの環状壁跡がある。 この他には、それぞれ約 50 ha ほどの広さの、アウフ・デム・シュプレンゲル、ヘーラー・フェルト、モッデがある。これらは古い採石場でかつて掘った跡の池や跡地がある。 スポーツ 約60のクラブがポルタ・ヴェストファーリカのスポーツ生活を演出している。その多くは市のスポーツ連盟に加盟している。市内には4つの大きな体育館と多くの小体育館があり、利用されている。また、屋内・屋外プールもある。一般的に広く普及しているスポーツ種目の他に、ハンググライダー・クラブ、スポーツ飛行サークル、ヨット・サークルや様々なウォータースポーツのサークルがある。 年中行事 毎年聖霊降臨祭の月曜日はポルタフェスト・ウンテルム・カイザーの日である。カイザー・ヴィルヘルム記念碑前で行われるこの時代祭では、近くの地域のみならず外国からの民俗舞踊団や民族衣装舞踊団も参加する。 9月の第2週末にはハウスベルゲ区の中心部で市祭が行われる。ノミの市が開催され、ミュージシャンがライブ・パフォーマンスを繰り広げる。 アドヴェントの第1週末にはハウスベルゲ区でクリスマスマーケットが開催される。 さらに11の射撃クラブが参加する射撃祭も開催される。 経済と社会資本 ポルタ・ヴェストファーリカには E.ON が運営する石炭火力発電所 Gemeinschaftskraftwerk Weser がある。2006年1月6日以降、この発電所ではゴミ(合成樹脂、繊維、フィルム、印画紙、絵の具やラッカーの屑)も焼却されている。ポルタ・ヴェストファーリカや周辺市町村に住むかなりの数の住民達がゴミ焼却に対する反対運動を行っている。 レジャー施設のグローサー・ヴェーザーボーゲンは自然と水に囲まれた美しいキャンプ場であり、水浴場である。キャンプ場は年中オープンしている。 地元企業 ベルンシュタイン: スイッチ、筐体、センサー、安全装置 グローエ: 衛生システム ヘンケル、ポルタ・ヴェストファーリカ工場: 接着剤 ポルタ・メーベル: ドイツに20店舗の支店を持つ家具店 ローゼ・システムテクニーク: 工業用ハウジングシステム SSメーベル・ボス: ドイツに74店舗の支店を持つ家具のディスカウントショップ シェーファース・ブロット: エーデカ・グループ(スーパーマーケット)で販売される菓子製造 テンスマイアー: ヨーロッパ全土で活動しているゴミ処理会社 交通 ポルタ・ヴェストファーリカのフェンネベックには小型飛行機用のポルタ・ヴェストファーリカ飛行場がある。最寄りの国際空港は約 70 km 離れたハノーファー空港である。この街はアウトバーンA2号線および鉄道ハノーファー - アムステルダム線およびハノーファー - ケルン線の沿線に位置する。 ポルタ・ヴェストファーリカ駅は鉄道ハム - ミンデン線の駅である。この駅には、デュッセルドルフ - ビーレフェルト - ケルンを結ぶレギオナルエクスプレス(ヴェストファーレン・エクスプレス)やビーレフェルト/ライネ - オスナブリュック - ハノーファー - ブラウンシュヴァイクを結ぶレギオナルエクスプレスが1時間ごとに発着する。ミンデン行きのバスに接続する。この街はオストヴェストファーレンリッペ交通連盟に加盟している。 デン・ハーグからマズーレン(ポーランドとリトアニアとの国境地域)に至るヨーロッパ広域遊歩道E11号線(ロシアまでの延長が計画されている)がこの街を通っている。 メディア ポルタ・ヴェストファーリカ市はヴェストファーレン=ブラットのミンデン=リュベッケ郡版のサービス地域内に位置している。また、ミンデナー・ターゲブラットの予約定期購読も可能である。 放送では、ミンデン=リュベッケ郡を対象とするローカルラジオ放送ラジオ・ヴェストファーリカのサービス地域に含まれている。ラジオ・ヴェストファーリカはノルトライン=ヴェストファーレン・ローカルラジオ放送グループに加盟している。 公共機関 ポルタ・ヴェストファーリカ消防団は市内に専用の火災・救難ステーションを有している。市域は4つの防火地域に分けられ、各市区に15の消火グループが配備されている。 ハウスベルゲ区には市立図書館の本館がある。この図書館は家族用の図書館として構想された。子供図書館はレルベックの分館にある。総収蔵数は約 27,000 点で、書籍だけでなく、このうちの約10%がCD-ROMや音声ブックなどである。 Wirtschaftsbetrieb der Stadt Porta Westfalica は、汚水処理、ゴミ処理、道路整備(夏と冬の清掃など)、緑地整備、河川・湖沼整備、墓地管理といった市の業務を請け負う受託機関である[6]。 教育 市は10校の基礎課程学校を運営している。この他に、本課程学校、実科学校、総合学校、ギムナジウムがそれぞれ1校ある。成人教育のための市民大学は隣接するミンデンのものが利用できる。さらに、ポルタ・ヴェストファーリカでは「Malche」という神学・教育学セミナーが開催されている。 人物 ゆかりの人物 ハンス・クラーマー(1896年 - 1968年)第二次世界大戦当時の装甲兵大将。1968年にポルタ・ヴェストファーリカで逝去した。 参考文献 Heinz-Peter Mielke (Hrsg.): Minden und die Porta Westfalica in alten Ansichtskarten. Flechsig Verlag, Frankfurt am Main 1979, ISBN 3-88189-084-X. Reinhard Busch (Hrsg.): Porta Westfalica in alten Ansichtskarten. 2 Auflage. Europaeische Bibliothek, 1998, ISBN 9028828273. Rainer Pape: Reizvolles Werretal. Zwischen Teutoburger Wald und Porta Westfalica. Heka Verlag, Leopoldshöhe 1995, ISBN 3-928700-15-4. Jochen Bergmann: Der unterirdische Krieg an der Porta Westfalica. Untertage-Produktion im Dritten Reich. Kopp Verlag, Rottenburg am Neckar 2002, ISBN 3-930219-82-4. Hans-Martin Polte, Hans Münstermann: Hausberge. Damals und heute. Eine Stadt ändert ihr Gesicht. Geschichten und Hintergründe aus vier Jahrzehnten. Porta Westfalica 2008. Karl Brandt: Neesen in Geschichten und Bildern 2003. Röbke Druck, Minden 2003. Günther Leps / Stadt Porta Westfalica: 950 Jahre Lerbeck, Beiträge zu seiner Geschichte 1033-1983. H. Rosenthal, Porta Westfalica-Lerbeck 1983. Michael Funk: Friedrich Borchard und die Glasfabrik Porta Westfalica: Regionale Unternehmensgeschichte im Spiegel einer Biographie. Klartext, 1995, ISBN 3884746073. Peter Könemann: Der Sand- und Kiesabbau im Wesertal an der Porta Westfalica. LIT, 1995, ISBN 3825823946. これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。 引用 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AB
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カストロはいつ大統領になった?
フィデル・カストロ
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フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Alejandro Castro Ruz ( audio), 1926年8月13日 - 2016年11月25日[1])は、キューバの政治家、革命家、軍人、弁護士。社会主義者で、1959年のキューバ革命でアメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を武力で倒し、キューバを社会主義国家に変えた。革命によって同国の最高指導者となり、首相に就任。1965年から2011年までキューバ共産党中央委員会を、1976年より2008年まで国家評議会議長(国家元首)兼閣僚評議会議長(首相)を務めた。 国家元首として在職中、日本国内においては「カストロ議長」と呼称されることが多かった[2]。なお、本項では本人を指す場合は原則として「フィデル」の表記を用いる。これは、彼の弟にして後継者であるラウル・カストロの存在があるためで、ラウルについても本項では原則として「ラウル」の表記を用いる。 経歴 大学卒業まで 1926年、マヤリ近郊のビランにて、スペインのガリシア人移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルヒスの息子として生まれる。当初はマルカネにある公立のグラマースクールに入ったが、ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。1944年には最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945年にはハバナ大学に入学して法律を学んだ。 大学では政治活動に参加、革命反乱同盟 (UTR) に加入する。1948年にラテンアメリカの学生運動の連合を図り、コロンビアを訪れたが、次期大統領候補だった自由党の指導者ホルヘ・エリエセル・ガイタンとの会談を予定していたその日にガイタンが暗殺され、コロンビアはボゴタソ(ボゴタ暴動)に突入した。フィデルもボゴタソに参加し、政府軍との衝突に加わった[3]。1950年に大学を卒業した。 弁護士時代 卒業後、1950年から1952年の間に弁護士として貧困者のために活動。その後フィデルはオルトドクソ党(正統党)から1952年の議会選挙に立候補したが、将軍フルヘンシオ・バティスタ率いるクーデターによってカルロス・プリオ・ソカラスの政府が倒され、選挙の結果は無効となった。その後、フィデルは憲法裁判所にバティスタを告発した。請願は拒絶され、フィデルは裁判所を糾弾した。 武装闘争 モンカダ襲撃 その後フィデルは武装勢力を組織し、1953年7月26日に、130名の仲間とともにモンカダ兵営(サンティアーゴ・デ・クーバ)に対する攻撃を行った。攻撃者の80人以上が死に、フィデルは逮捕された。裁判ではカトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され、投獄される。獄中ではホセ・マルティなどを愛読、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を発刊する。1955年5月に恩赦によって釈放され、2カ月後にメキシコに亡命、後にアメリカに移住して活動を続けた。メキシコ亡命時代にはバティスタの意向を受けたメキシコ警察によって逮捕されたが、フィデルを見込んだメキシコ革命の大成者だった元大統領ラサロ・カルデナスの歎願によって釈放された[4]。 「グランマ号」 1956年12月2日、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でトゥスパン(ベラクルス州, メキシコ)から他の「7月26日運動」のメンバー、総勢82名とともに、マンサニヨ(グランマ州, キューバ)へ上陸。その時点ではフィデルはまだ共産主義者あるいは社会主義者ではなかった。キューバ革命後の1959年後半にフィデルはアメリカの新聞に「どんな産業も国有化する意図はなかった」と語った。フィデルが明確にソビエト連邦を中心とする東側諸国への接近を企図するのは、1961年4月のピッグス湾事件の後である。 しかし日中の上陸であったためにキューバ空軍により攻撃され、激しい戦闘で当初の82人のうちの18人だけが生き残りマエストラ山脈へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。フィデルの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。 勝利 1958年5月24日、バティスタはフィデルの軍に対して17の大隊を送り出した。数字上では圧倒されていたにもかかわらず、フィデルの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げた。1959年1月1日、フィデルの軍隊は首都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期大統領は国外に亡命した。フィデルの軍はハバナを支配下に置き、キューバ革命が成就した。 最高指導者として 革命後、首相に就任したフィデルは、キューバ共産党による一党制を敷いた。共産党の党首である第一書記の地位にあったフィデルは、国家の最高指導者として君臨した。1976年からは国家評議会議長として正式に国家元首の地位に就いた。しかし他の社会主義政権の最高指導者に見られるような、自身の巨大な肖像写真や銅像を一切作らせていない。これは前政権の独裁者バティスタと同一視されるのを忌避していたためと言われている。 経済政策 革命直後はアメリカとも友好的な関係を維持しようと努力したが、フィデルを「容共的」と忌避したアメリカとの関係を見限ってソビエトと接近し、同時にユナイテッド・フルーツ(現:チキータ)などの大企業の農園やハバナに立ち並ぶカジノホテル(その多くがアメリカ政府と密接な関係を持つマフィアの持ち物であった)などのアメリカ企業の資産の接収と国営化を推し進めたために、アメリカはキューバとの断交と禁輸措置を発動し、それに対抗するようにソビエトはサトウキビと石油のバーター貿易(事実上の経済支援)などを通じてキューバ支援を行った。 その関係は1991年のソビエト崩壊まで続いたものの、ソビエト崩壊によって冷戦が終結したことでバーター貿易も経済支援もストップしたため近年は深刻な経済状態が続いており、その為にいかだ等を使用して経済亡命する事件が後を絶たず、カストロ兄弟のみならず国家全体の悩みの種となっている。この様な経済面での失政から、「革命家は年金をもらってまで生きるようなことはしない。私はマルクスやエンゲルスやレーニンと一緒に地獄に落ちるだろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を持ち続けた苦痛に較べれば何でもない」と語ったこともある[5]。 なお、革命後に土地の国有化を推進し、その一環として実家の農園をも例外とせずに取り上げたために実母から絶縁された。娘を含めてカストロ体制を嫌うキューバ人の多くが亡命し、反カストロ派の海外における一大拠点となっているアメリカのマイアミに亡命している。 亡命者問題 1980年3月28日に、カストロ体制を嫌う亡命希望者を乗せたバスがハバナのペルー大使館の門を突破した。続く48時間に10,000人以上のキューバ人が大使館に逃げ込んだ。フィデルは4月20日にマリエルの港からボートで出国できることを発表する。亡命希望者たちはマリエルからボートで出国を始め、彼らは「自由小艦隊 freedom flotilla」として知られるようになる。アメリカ沿岸警備隊によると、9月26日にマリエルが閉鎖されるまで、124,776人のキューバ人が出国したとされる。 宗教政策 キューバはスペインの植民地だったこともあり、国民の大半はもともとキリスト教徒(カトリック)であったが、社会主義革命を標榜するフィデルは頑なな無神論者であり、キリスト教会を取り壊し、教徒を矯正キャンプに入れるなどの宗教弾圧政策を実施した。ローマ教皇ヨハネ23世は1962年1月3日にフィデルを破門した。これは1949年にピウス12世が発した法令によるものであったが、カトリック信徒たりつづけることを以前から放棄していたフィデルにとってこの破門は重要な出来事ではなく、カトリック教徒によるフィデルへの支援を妨害するために行われたと予想されたが、そうであったとする証拠はほとんど無い。 ただし、ヨハネ・パウロ2世とフィデルの関係は以前の教皇に比べれば若干良好であった。1992年にフィデルはキリスト教徒に対する融和策を導入している。ヨハネ・パウロ2世はアメリカによるキューバへの通商停止に対して「不正で、倫理的に承諾しがたい」と非難を行い、その後バチカンとフィデルの関係は改善する。フィデルは1996年11月にはバチカンを表敬訪問し、ヨハネ・パウロ2世に謁見。宗教弾圧政策を事実上放棄した。 1998年、ヨハネ・パウロ2世はキューバを訪問する。これはローマ教皇による初めてのキューバ訪問であった。教皇は訪問がキューバにおけるカトリック教会の建設促進が目的であったと強調し、政治的問題への関係を避けたが、カトリック学校の開設許可のために政府による教育規制の撤廃と、キューバ国内の病院で行われている妊娠中絶を批判した[6]。教皇の訪問後、キューバ政府はクリスマスを再び休日とし、宗教的行事の公然実施を認めた。 2005年4月のヨハネ・パウロ2世の死去の際には、フィデルはハバナ大聖堂でのミサに参列した。それは1959年に妹の結婚式に出席して以来46年ぶりのことであった。ミサを司式した枢機卿ハイメ・オルテガはダーク・スーツを着たフィデルを歓迎し、「私たちの教皇ヨハネ・パウロ2世の死がキューバで心より悼まれた」ことに対して謝意を表した[7]。 外交政策 アメリカとの対立・ソビエトとの友好 1959年1月の革命によってフィデルが全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認した。しかし、新政府がアメリカ企業の資産没収と国有化を実施すると、アメリカとの関係は日増しに悪化する。フィデルは4月にホワイトハウスを訪れ、副大統領のリチャード・ニクソンと会談する。大統領のドワイト・D・アイゼンハワーは「ゴルフ中」で会えないという弁解を行ったことからも、当時アメリカがフィデルを軽視していたことが窺える。 同年12月、アメリカ国家安全保障会議は「容共的かつアメリカにとって不利益をもたらす」としてカストロ政権転覆を決定した。この計画は古代ローマの独裁者ユリウス・カエサルの暗殺に因んで「ブルータス作戦」と呼ばれた。いわゆる「ピッグス湾事件」もこれに含まれる。その後もパティー作戦、リボリオ作戦、AM-LASH作戦と次々に暗殺計画が立案されるが、全て失敗に終わった。1961年4月のピッグス湾事件がアメリカの中央情報局 (CIA) によって訓練された侵攻軍の敗退に終わると、同年5月1日にフィデルはキューバ革命が社会主義革命であることを宣言した。 キューバ国内のアメリカ系石油精製所が石油の供給を拒否し、キューバは1960年2月にソビエトから石油を購入する協定に署名した。アメリカはキューバとの国交を断絶し、アイゼンハワー政権の間にキューバはソビエトとの関係を深める。フィデルとソビエト共産党第一書記ニキータ・フルシチョフとの間で様々な協定が調印され、キューバはソビエトから大量の経済・軍事援助を受け取り始めた。 1960年9月、ニューヨークでの国連総会で約4時間半に及ぶ初演説を行った。この訪米時にアメリカの圧力を受けたことと、それに対するキューバ側のあてつけが行われ、キューバ代表団が国連本部の芝生にテントを張ったり、治安が不安定だったハーレムのホテルに泊まったりした上に、キューバ航空機が差し押さえられるなどの冷遇を受けた。 キューバ危機以降の対米・対ソ関係 フルシチョフの回想録によると、1962年の春にクリミア半島で休暇を過ごしている間に、アメリカの攻撃に対する抑止力としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いついた。フルシチョフはラウル率いるキューバの代表団と会談してこの考えを提案した。その結果、ソビエト製の核ミサイルがキューバに配備された。 1962年10月15日、アメリカのU-2偵察機がミサイル発射装置の建設を発見した。ジョン・F・ケネディ大統領率いるアメリカ政府は10月22日にその事実を公表し、キューバに向かう船舶の臨検を行い、海上封鎖を実行した。 米ソ間の緊張が高まり、核戦争の危機が現実味を帯びると、ケネディとフルシチョフは、アメリカがトルコからジュピターミサイルを撤去するのと引き替えに、ソビエトがキューバからミサイルを撤去することで合意した。しかし緊張が緩和された後も、キューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。 フィデルはアメリカを敵視する一方で、アメリカと妥協したソビエトに対しても不信感を募らせた。だが、ソビエトとの友好関係はキューバの重要な政策であり、フィデルはソビエトとの関係維持に努めた。フルシチョフ失脚後、ソビエトに対する不信感を解消したフィデルは、1968年の「プラハの春」においてソビエト軍によるチェコスロバキア侵攻に理解を示した。しかし、このようなソビエトへの態度が、チェ・ゲバラとの決別の大きな要因になった。 1989年に冷戦が終結し、1991年にはソビエトが崩壊した。ソビエトの後継国家であるロシア連邦との関係は、ソビエト時代に比べて薄れた。また、が、フロリダ州などを中心に大きな影響力を持っているキューバ系アメリカ人財団など、反カストロ派ロビイストの影響を受けているアメリカの保守派は禁輸措置の解除に反対している。 1990年代はキューバと疎遠になっていたロシア連邦は、2000年代に入ってウラジミール・プーチン政権になると、アメリカを牽制する意味から、キューバとの関係を再び強化しており、元首同士の訪問や海軍艦隊の寄港を立て続けに行っている。 現在でもキューバはアメリカから禁輸措置を受けている。なお、アメリカはキューバのハリケーンなどの被害に対する人道的支援は例外的に行う姿勢を見せているが、フィデルはアメリカの申し出に感謝を表しながらも、「もし真の協力の意志があるならキューバに不可欠の輸出を許可し、アメリカ企業による信用供与を妨害すべきではない」として支援を拒否している。 ラテンアメリカ諸国 冷戦時代、アメリカの後押しを受けている反共的軍事独裁政権が多かったラテンアメリカ諸国とは、メキシコなど一部の国としか交流がなく、関係は悪かった。 1971年には米州機構の慣例にも関わらず、社会主義者のサルバドール・アジェンデが大統領となったチリがキューバと外交関係を再確立する。フィデルは1カ月にわたってチリを訪問した。訪問中にアジェンデとの信頼関係を築き、公的な助言を与えた。このため、西側諸国からは「チリの社会主義化への道」と見なされた。1972年7月にはチリに続き、「軍部革命政権」を標榜していたペルーの軍事政権フアン・ベラスコ・アルバラードが、キューバとの国交を回復した[8]。しかしその後アジェンデは、1973年にチリ軍部と野党が計画し、CIAが支援したアウグスト・ピノチェトのクーデターにより失脚、殺害された(チリ・クーデター)。 1983年10月にグレナダでクーデターが起こり、ハドソン・オースティンを首班とする革命軍事評議会が設立されると、フィデルは同政権を支援した。これに対しアメリカがグレナダ侵攻を行うと、同国内においてアメリカ軍とキューバ軍が交戦した。 冷戦末期の1987年1月には、ブラジル政府との間でホットラインを開設し、国交回復へ向けて両国関係は急展開する。以降、フィデルは中南米外交シフトを示し、冷戦終結後、ラテンアメリカ諸国で反共的軍事独裁政権が崩壊すると、キューバはブラジル、ベネズエラなど多くの国と国交を回復した。特に近年は、反米的政策を取るベネズエラのウゴ・チャベスやボリビアのエボ・モラレスと親しい関係を築き、南アメリカにおける「反米同盟」の盟主的な存在となった。 また、ラテンアメリカ諸国に対し、まるで宗主国さながらに振る舞い続けるアメリカの外交政策と、冷戦下のアメリカによる軍事独裁政権へのあからさまな後援を嫌うラテンアメリカの多くの国民からは、フィデルのアメリカに頑なに対抗する姿が、容共、保守の別を問わず、内外で高い共感を得ているといわれている。 中華人民共和国 革命直後は、同じ社会主義政権の一党制国家である中華人民共和国との友好を図る。ゲバラらが中国を訪問して毛沢東らと会見しているが、中ソ論争が激しくなると中国との関係は悪化した。さらに中国は貿易問題と政治問題を結びつけてきたため、フィデルは中国政府を「強盗」と批判し、以後は対立関係にあった。 1970年代に起きたアンゴラ内戦ではキューバとソビエトが政府側(MPLA)を支援して多数の軍隊を派兵したのに対し、中国は関係を回復しつつあったアメリカ合衆国、及びアパルトヘイトを敷いていた南アフリカ共和国と共同で反政府側(UNITA、FNLA)を支援した。 しかし現在、キューバと中国との関係は親密であり、中国はキューバにとって軍事面・資金面において有力な援助国となっている。中国はキューバにとって第2の貿易相手国[9]であり、アメリカの対キューバ禁輸措置が続く中で、キューバにとって中国は食料・経済支援などを頼れる欠かせない国である[10]。フィデルは中国からの援助を評して「今、新しい動力が現われた。それは中国とベネズエラだ」と述べ、中国、ベネズエラとの通商関係に謝意を表した。一方、四川大地震で中国が甚大な被害を受けた際、キューバの医療チームの活動に対して国家主席の胡錦濤は「中国の党、政府、人民は永遠にこれ(医療チームの活動)を心に刻む」と感謝の意を表した[11]。2008年に起きたハリケーンの際には、キューバ政府はアメリカからの人道支援は断っているが、中国政府代表団はキューバに対する貿易債務繰り延べに加えて、港湾・病院などの近代化支援やハリケーン被害の復興支援などに総額7000万ドルの支援を行うと約束した。このように、冷戦終結後のキューバは中国との関係を良好にしている。 しかしその一方で、中国が対立し領有権を主張する台湾(中華民国)についても、同じ小国として連帯感を強く持っており、2003年8月15日、台湾副総統呂秀蓮とパラグアイで会った際、台湾の境遇に強い関心を示したり[12]、2010年7月12日、キューバ国営テレビのインタビューで「台湾は国連に加盟する権利がある」と明らかにしている[13]。 ヨーロッパ諸国・カナダ キューバ革命に成功した当時、キューバの旧宗主国であり、伝統的に非常に絆が強いスペインはフランシスコ・フランコによるファシスト政権であったが、左右正反対であるキューバとは国交を維持した(なお、スペイン内戦で共和国側を支持したメキシコとの間では、スペインは国交断絶状態を続けた)。この背景には、スペインにとってキューバは米国に奪われた土地という歴史的事情があり、その米国の支配からキューバを解放したフィデルに対する敬意があったと言える。 1976年に、当時のカナダ首相ピエール・トルドーはアメリカによる経済封鎖にもかかわらず西側諸国の政治的指導者として初のキューバ公式訪問を行い、フィデルと抱擁を交わした。トルドーはカナダからの支援として400万ドルを提供し、1,000万ドルの融資を行った。トルドーはそのスピーチで「フィデル・カストロ国家評議会議長の長命と、キューバ、カナダ両国民の友情を祈る」と話した。 トルドーとフィデルの友情はその後も続き、トルドーは退任後も1980年代から1990年代にかけてキューバを数度訪れている。フィデルは2000年のトルドー死去時、葬儀に参列するためモントリオールを訪れている。 引退と晩年 2000年代に入り高齢になり体力が衰え、長時間の演説が徐々に短くなり、倒れこむ場面も見られるようになった。 2006年7月31日、フィデルは「腸に急性の問題が発生し、出血が続いているため外科手術を受けた」ことを明らかにし、そして「数週間程度、ラウルに権限を暫定移譲する」との声明を発表した。しかし、その後回復が思わしくなく、暫定移譲期間は長期化していった。2008年2月19日、フィデルは共産党の機関紙グランマにおいて、国家評議会議長と軍最高司令官を引退する意向を示した。2月24日、ハバナの国際会議場で開催された人民権力全国会議においてフィデルは国家評議会議長兼閣僚評議会議長を退任し、後継にはラウルが就任した。 国家元首引退後は論評を執筆して党の機関紙に投稿する生活を送っている。後継のラウルが「重要事項はフィデルへ助言を求める」と表明していることから、時々ラウルからの求めに応じて助言もしているようである。その後、2008年12月16日を最後に翌年1月18日までの1ヶ月論評が掲載されなかったことからフィデルの病状悪化説が浮上。これに対してベネズエラのチャベス大統領は健康悪化説を否定した。2009年2月19日、フィデルがハバナでチリの大統領ミシェル・バチェレと会見した際の写真をチリ政府が発表し、AP通信経由で公開されている[14]。同年8月24日のBBCワールドニュースで、1年振りに地元テレビにフィデルの映像が流れたことを報じた[15]。 2010年7月7日、国立の科学研究施設を訪問し、引退後初めて公の場に姿を表した。キューバのブログ「革命」には、施設訪問したフィデルについて「痩せていたが健康そうだった」と記されていた。8月7日には議会で演説を行ない、健康状態がかなり良くなっているとの推測もあった[16]。 2011年4月19日、第6回キューバ共産党大会において、フィデルは党第一書記を正式に辞任した[17]。後任には2006年より代行を務めていたラウルが選出された。第一書記辞任により、キューバ革命以来、およそ50年にわたり務めた全公職から退き、政界から引退することとなった[18]。 2013年2月3日に行われた人民権力全国会議の選挙に際してフィデルはハバナ市内の投票所で投票し、「久しぶりに公の場に姿を見せた」と報じられた[19]。なお、この選挙でもフィデルは候補者となっている。 2016年4月19日、第7回キューバ共産党大会の閉会式にジャージ姿で出席して10分間演説し、「私がここで話すのはおそらく最後だ」と述べるとともに食糧や水の問題などを「次世代が解決すべき課題」として挙げた[20]。演説の最後には「まもなく、私もほかの人と同じように、その時が来るだろう」と述べていた[20]。 2016年8月13日、満90歳の誕生日を迎え、ハバナ市内の劇場でおこなわれた記念イベントに出席した[21]。同日付で党機関誌「グランマ」に寄稿した文章では、5月のバラク・オバマの広島訪問について、原爆投下への謝罪がなかったことを批判した[21]。 2016年9月22日、フィデルは自らの私邸に於いてキューバを公式訪問した日本の安倍晋三首相と会談し、日本・キューバの二国間関係発展など幅広い議論を取り交わした[22]。これがフィデルにとってG7首脳との最後の会見となった。なお外国首脳との最後の会見は11月15日に行われたベトナム国家主席のチャン・ダイ・クアンとの会見が最後となった[23]。 死と葬儀 2016年11月25日、弟のラウル・カストロが国営テレビを通じて「キューバ革命の最高司令官が今夜(25日夜)午後10時29分(日本時間26日午後12時29分)に死去した」と発表した[1]。。遺言に基づいて遺体は火葬され、12月4日に革命発祥の地サンティアーゴ・デ・クーバで国葬が行われた後、同地のサンタ・エフィヘニア墓地に埋葬されると発表された[24]。社会主義国家の指導者の遺体が永久保存の上で展示される例が複数存在する中、このような措置は珍しいことである[25]。 遺言について「自身の死後、さまざまな機関や広場、公園、道路などの公共施設に自分の名前や肖像は使用されたくないと主張し、その態度は人生最期のときまで一貫していた」、また「記念碑や像といった同様の形態のもの」もあってはならないと述べていた[26]。 2016年12月4日、フィデルの遺言通り、午前中に遺骨がサンタ・エフィヘニア墓地の墓に埋葬された。自ら墓に兄の遺骨を納めたラウルは「フィデルの銅像や肖像画を公共の場に飾るのを禁止する法案を次回の国会で提案する」と述べ[27]、27日に開催された国会で上程・可決された[28]。ただしフィデルを題材にした映画や著作や音楽などの芸術作品の制作や、各地の施設等に既に飾られている写真については規制対象とはしなかった[28]。 一般的なイメージとエピソード 長年の間事実上の独裁体制を敷いてきていた上、経済政策面などでは決して評価が高いとは言えない面はあるが、個人崇拝を嫌い、私利私欲に安易に振り回されない強固な信念の持ち主として、今なお賛否両論が分かれる人物である。 暗殺計画 2006年に国家評議会議長兼閣僚評議会議長の権限を暫定的にラウルに移譲するまでに暗殺を638回計画されたといわれ、命を狙われた回数が最も多い人物としてギネスブックへの掲載が決まっている[29][30]。そのうち大半はCIAなどによるフィデル暗殺計画で、147回計画されたといわれる。革命後にアメリカのマフィアが経営していたカジノを追放したことにより、マイヤー・ランスキーなどのマフィアからも暗殺の標的となる。また1960年にCIAがマフィアに15万ドルでカストロの暗殺を依頼していたことが2007年の文書公開で判った[31][32]。 1979年10月にニューヨークで行われる国連総会に向かう航空機内にて、アメリカ人ジャーナリストのジョン・アルパートの「ニューヨークにはあなたを殺したいと思っている人がたくさんいますが?」という問いかけにフィデルは「人は死ぬときは死ぬんだよ。それが運命だ」と答え、「あなたはいつも防弾チョッキを着ていると聞いていますが」という問いかけには、フィデルはシャツのボタンを外し、肌を露出させ防弾チョッキを着ていないことを見せて「着ていないよ。モラルってチョッキは着てるけどね。これがあれば強い」と答えている[33]。 共産主義指導者としての批評 2006年、アメリカのワシントン・ポスト紙の付録誌「パレード」の『世界最悪の独裁者』という特集記事で、第15位に選出されるなど、アメリカやラテンアメリカ諸国においては「社会主義かぶれの独裁者」として批判を受けることも多いものの、「ラテンアメリカを植民地のように扱うアメリカにかたくなに抵抗し続けるヒーロー的な存在」として、容共的な人々のみならず反共産主義者の間においても心理的な支持者が多いと言われている。 特にベネズエラのウゴ・チャベスは、フィデルを師匠のように敬愛していた他、ボリビアのエボ・モラレス大統領とも友好関係にある。政治家以外ではサッカー選手のディエゴ・マラドーナと親交があった。同じアルゼンチン出身のチェ・ゲバラとともに彼の左派発言の土台を作ったとされている。国内においても、独裁者として君臨しているにもかかわらず同様な理由からカリスマ的な人気が根強くある。なお、が、実際にはキューバ危機後にフィデルはソビエトのフルシチョフのもとへ2回訪問し、2人で事件を冷静に振り返ったうえで、自己批判までしている[34]。 独裁ゆえに権力維持に執着してしまいがちな他の独裁国家の指導者と違い、血族へのものとはいえ、自らの政治指導が困難とみなすと潔く権力の移譲を表明する柔軟さを、高く評価されることもある(血族で唯一政治家であるラウルはモンカダ兵営襲撃事件からの仲間であり、フィデルの主義からして血族という観点からの評価でラウルに移譲したとは考えにくい)。事実、彼は非常に自分が美化されることに神経質で独裁国家によくある公共の場における指導者賛美のプロパガンダが一切存在せず、むしろ自分がTシャツのプリントや絵画に描かれることを嫌っている。また、キューバでは特定の政治指導者が偶像化するのを避けるため、存命中の人物のモニュメントを公共の場所に飾ることを法律で禁じている。よって、既に死亡したゲバラを讃えるモニュメントはあっても、生前のフィデル自身も含め、存命中の人物のモニュメントは存在しない[35]。 共産主義に対して極めて真摯な考えを持ち、自身がアメリカのフォーブスの世界長者番付、君主・独裁者部門に9億ドルの財産を持つとして7位にランクインされたことに激怒し、「気分が悪くなる報道だ。なぜ、こんなバカバカしい記事に対して、自分を弁護しなければならないのか」「もし誰かが、私の口座が国外にあって1ドルでも預けてあると証明するなら、私は議長を辞める」と発言した。アメリカのメディアはほぼすべてが反(フィデル・)カストロであるためたびたび大病を患った、大怪我をしたなどと書かれていた。 葉巻 キューバの最大の特産物で、自らの好物でもある高級葉巻を革命闘争時代から常に欠かさなかったことから、葉巻愛好家の間では象徴的な存在であった。葉巻はゲリラ戦時に寄ってくるハエやアブなどから顔を守る為に始めた。又、革命の主役である者たちのトレードマークである髭も同様の理由からである。しかし、自身の健康と、国民に禁煙の重要さを説くため、1986年に禁煙宣言を出し、自ら禁煙している。 長時間の演説 フィデルは長時間の演説を行うことでも有名で、数時間に及ぶスピーチも一般的だという。かつて党大会で10時間以上に及ぶ政治報告を行ったこともある。本人も自分の演説が長いことを自覚している模様で、とあるパーティでスピーチに立った際、冒頭で「大丈夫、今日は早く終わらせるから」とジョークを言い、出席者を笑わせたことがある。 親日家・野球人として フィデルは親日家として知られている。2003年に来日した際には、外国の要人としては珍しく原爆ドームを視察、慰霊碑に献花・黙祷して「人類の一人としてこの場所を訪れて慰霊する責務がある」とのコメントを残している。ちなみに、チェ・ゲバラも1959年に広島を訪れている。1989年の昭和天皇崩御の際には喪に服した。 最晩年の2015年3月には自宅に日本庭園を造営している。キューバ野球連盟の幹部を務める4男のアントニオが2009年に日本を訪れた際、熱海観光で日本庭園の業者の研修所を利用したことがきっかけで、2014年に業者の社長が訪れた際にフィデルに提案し、実現したものである[36][37]。しかもその業者は、2016年の安倍晋三首相のキューバ訪問の際、安倍の自宅の庭園の造営も手がけていたことが判明し、両者は「このようなことによって両国間の文化交流が深まれば良い」と意気投合したという[38]。 また、野球人として日本の野球に対して敬意を表している。2006年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝戦、日本と戦うことになったキューバだが、フィデルは試合前、キューバ選手団に「試合に“勝て”とは言っていない。“ベストを尽くせ”と言っている」という名言を残す。そして試合当日、キューバは善戦したが、結局は日本に敗れ、日本が優勝、キューバは準優勝という結果に終わったが、フィデルはキューバ選手団を空港まで出迎え、その後に首都ハバナで開かれた政府主催の式典で「金でも銀でもいいじゃないか!決勝に行けたことが素晴らしいんだ!」と自国選手を称えたうえで、「藤田宗一選手からホームランを打ったことは、素晴らしかった(要約)」「日本人選手の名前の読み方がよく分からない。マスコミに聞いてくれ(要約)」と積極的に日本人選手について発言している。 2009年のWBCでは、3月12日放送のテレビ朝日系列『スーパーJチャンネル』にて、日本チームを批判する発言をしたとも報じられたが、これは番組側の誤訳であり、翌13日の放送で謝罪している[39]。日本が連覇を達成すると、監督の原辰徳の投手起用法を高く評価し、決勝打を放ったイチローを「世界最高の打者」と述べるなど、その偉業を最高の賛辞で讃えた[40]。 また、元日本野球連盟会長の山本英一郎と大変親しく、常々「彼は私の大切な親友だ」と公言していた。山本の死の際には、自ら弔電を打って哀悼の意を表した。 カストロ政権でのオリンピック選手団 フィデルが政権を握って以降、オリンピックのキューバ選手団はかなり強豪であり、東側寄りである。 1976年モントリオールオリンピックでは8位に輝き、ソビエト軍のアフガン侵攻でアメリカや日本など西側がボイコットした1980年モスクワオリンピックでは4位に輝いたが、1984年ロサンゼルスオリンピックではソビエトと共に参加をボイコットしており、1988年ソウルオリンピックも不参加であった。冷戦後の1992年バルセロナオリンピックでは5位に、1996年アトランタオリンピックは8位に、2000年シドニーオリンピックでは9位に輝いた。2008年北京オリンピックでは関係修復した中国に対して「中国が並外れて素晴らしいオリンピックとパラリンピックの開催に成功した」と祝福した[41]。 家族 兄弟 フィデルは7人兄弟姉妹で、うち1人に同じ軍人・革命家の弟で、自らの後継となった現国家評議会議長ラウル・カストロがいる。 兄弟姉妹の内、次女のフアニータ・カストロは共産主義に反対し、アメリカへと亡命、CIAへの協力も行った。 結婚歴 1948年に同窓のミルタ・ディアス・バラルトと結婚した。しかし、1950年代に高名な医師の妻のナタリア・リベルタと不倫したため、ミルタは4男を出産した後に離婚届を役所に提出した。1980年には、トリニダード・トバゴ出身のダリア・ソト・デル・バジュと不倫の末に結婚した。 子女 フィデルはミルタ・ディアス・バラルトとの間に4男を儲けて、すべてがキューバに居住しているが、いずれも政治的には高い地位には就いていない。長男の(フィデリト・カストロ、1949年9月1日 - 2018年2月1日)は原子力の専門家であり、国家評議会科学顧問、キューバ科学アカデミー副理事長、京都外国語大学名誉教授を務めた。学位はモスクワ大学博士(理数系分野)。重いうつ病を患い、2018年に68歳で自殺している[42][43]。三男のは、写真家で親韓派でもある[44]。 その一方、娘と称したアリーナ・フェルナンデス・リベルタ(アリーナの母は上記のようにフィデルとの不倫関係は認めているが、アリーナの父親がフィデルであることを否定しており、アリーナの実父は不明である)は、アメリカに亡命して、アメリカの市民権を得ている。 その他 映画監督オリバー・ストーンのインタビューを受けた際、フィデルは自身が好きな男優はチャールズ・チャップリン、好きな女優はソフィア・ローレンとブリジット・バルドーだと答えている。反米主義者であるが、高等教育を受けたこともあり訛りが強いものの英語を話す若き日の姿が映像に残っている。 2001年にマニック・ストリート・プリーチャーズがキューバ史上初の西側ロックバンドによるライブを開催した際、面会したメンバーが「大音量のライブになる」と伝えたところ、フィデルは「戦争よりも大音量にはならないだろう」と答えた。これがきっかけで、ライブDVDのタイトルには「Louder Than War」が選ばれた。このライブにはフィデルも訪れており、ライブ映像に記録されている。 脚注 参考文献 タッド・シュルツ著、新庄哲夫編訳『フィデル・カストロ カリブ海のアンチヒーロー』文芸春秋、1998年 著書 『わがキューバ革命』池上幹徳訳 理論社 1961 『カストロ演説集』高橋勝之訳 新日本出版社 1965 『カストロ選集 第1巻 (祖国か死か)』刀江書院編集部編訳 刀江書院 1966 『カストロ選集 第2巻 (勝利への確信)』刀江書院編集部編訳 刀江書院 1966 『カストロの提言 世界の経済的社会的危機』岡部広治訳 ほるぷ出版 1983 『フィデル・カストロ20世紀最後の提言 グローバリゼーションと国際政治の現況』デイビッド・ドイッチマン編 渡辺邦男訳 VIENT 2005 『少年フィデル』柳原孝敦監訳 トランスワールドジャパン 2007 『思想は武器に勝る フィデル・カストロ自選最新演説集2003~2006年』白野降雨訳 VIENT 2008 『チェ・ゲバラの記憶』柳原孝敦監訳 トランスワールドジャパン 2008 『同志諸君! フィデル・カストロ反グローバリズム演説集』安濃一樹訳 こぶし書房 2009 『カストロは語る』越川芳明訳 青土社 2010 『フィデル・カストロ みずから語る革命家人生』イグナシオ・ラモネ著 伊高浩昭訳 岩波書店 2011 『フィデル・カストロ自伝 勝利のための戦略 キューバ革命の闘い』山岡加奈子,田中高,工藤多香子,富田君子訳 明石書店 2012 『キューバ革命勝利への道 フィデル・カストロ自伝』工藤多香子,田中高,富田君子訳 明石書店 2014 関連映画 コマンダンテ(2003年、スペイン・アメリカ合作、オリバー・ストーン監督) - ストーンがインタビュアーとなってカストロを取材したドキュメンタリー映画。 チェ・ゲバラ&カストロ(2002年、アメリカ、主演ビクトル・フーゴ・マルティン) - 邦題にはゲバラの名があるが主人公はカストロである。 ゴッドファーザーPARTII(1974年、アメリカ) - 直接的にカストロ役は登場しない。 ぜんぶ、フィデルのせい(2006年、フランス・イタリア合作) - タイトルはフィデル・カストロに由来しているが、直接的にカストロ役は登場しない。 ゲバラ!(1969年、アメリカ) チェ 28歳の革命 / 39歳 別れの手紙(2008年、アメリカ・フランス・スペイン合作) エルネスト もう一人のゲバラ(2017年、日本・キューバ合作) ビデオ・ゲーム ゲバラ - プレイヤー2側として操作できる。 THE GODFATHER2 - 宮殿で主人公に暗殺されそうになったが命をとりとめた。 関連項目 ホセ・マルティ カストロ主義(en:Castroism) キューバ革命 チェ・ゲバラ ジョン・F・ケネディ 左翼ナショナリズム 社会主義 コロンビア革命軍 サンディニスタ民族解放戦線 ファラブンド・マルティ民族解放戦線 ダニエル・オルテガ ウーゴ・チャベス 米国の対キューバ禁輸措置 キューバ計画 フィデル・カストロ暗殺未遂事件 外部リンク at Marxists Internet Archive. Arthur Miller tells about his encounter with Castro(December 24, 2003) in The Nation. Interactive site on Fidel Castro with a teacher's guide
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD
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サム・ライミの出身はどこ
スパイダーマン (映画)
japanese
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Main Page 『スパイダーマン』(Spider-Man)は、2002年のアメリカ映画。第75回アカデミー視覚効果賞ノミネート。 概要 「マーベル・コミック」のスタン・リー原作の、同名のアメリカン・コミックである『スパイダーマン』の実写映画化作品。 原作コミックがアース616と呼ばれる世界であるのに対し、こちらはアース96283という平行世界の一つである[1]。 監督は『死霊のはらわた』などのカルト映画で知られたサム・ライミが手掛ける。突然、特殊能力を手に入れた主人公ピーター・パーカーの、ヒーローとしての苦悩と犯罪者たちとの戦いに焦点を当てたストーリーとなっている。 全世界で大きなヒットとなり、サム・ライミ監督制作の全三部作が作られた。三部作すべての興行的成功を受け、更なる続編となる新三部作を追加した全六部作としての案も発表されたが、諸事情により実現に到らなかった。「サム・ライミ版スパイダーマン三部作」の後に、監督・キャスト・ストーリーを一新した「再始動(リブート)作品」として、新シリーズ『アメイジング・スパイダーマン』が制作されている。 北米における大ヒット作の基準値である興行収入1億ドルを公開1週目のオープニング成績のみで達成した初めての作品であり、最終的には北米だけで4億ドルを記録した。 ストーリー 両親を早くに亡くし、伯父夫妻に育てられたピーター・パーカー。ミッドタウン高校に通う彼は、科学好きで人一倍オクテ。隣に住む幼なじみのメリー・ジェーン・ワトソン(MJ)にもなかなか思いを告げられず、学校でも酷いイジメを受ける、悶々とした毎日を送っていた。 ある日、ピーターは社会見学でコロンビア大学の研究室を訪れ、そこで遺伝子改良を施された新種の蜘蛛「スーパースパイダー」に噛まれてしまう。激しい悪寒に襲われるピーターだったが、翌朝目覚めるとその体には驚異的な視力と体力が備わっていた。さらには手首からクモの糸が飛び出し、手のひらから生えた細い毛により指先だけで壁をよじ登れるようになっていた。 小遣い稼ぎなど私利私欲のためにその力を使ったピーターだったが、自分のミスから愛するベン伯父さんを強盗に殺されてしまう。力の代償を深く受け止めたピーターは正義のために尽くすことを決意。高校を卒業した彼は、特注のスーツを身に纏い「スパイダーマン」としてニューヨークにはびこる悪と闘い、人命を救助する毎日を送ることになる。 そして同じ頃、軍事企業「オズコープ」の実験室でまたひとりの怪人が誕生しようとしていた。「オズコープ」の社長であり、ピーターの親友ハリーの父親であるノーマン・オズボーンが実験用のパワー増強剤を自ら服用したのだ。ライバル企業との競争や重役たちに追い詰められストレスを溜めていたノーマンは、薬の副作用で別人格が覚醒し「グリーン・ゴブリン」となり、自分の私利私欲の為に暴走を始める。 キャスト 日本語版制作スタッフ その他声の出演:唐沢潤、津田匠子、雨蘭咲木子、山像かおり、小形満、朝倉栄介、小林正寛、佐藤竜太郎、栗田桃子、佐々木健、園めぐみ、重松朋、鈴木真仁、田野恵、斉藤瑞樹、下屋則子、奥田啓人、本美奈子、山口隆行、小尾元政、三戸崇史、山本泰輔、多緒都、菊地祥子、宮里駿、山田賢太郎、鈴木里彩、林田昌之、厚木拓郎、下山彩那、中村謙吾、古澤龍之、益子倭 演出:岩見純一、演出補:簑浦良平、翻訳:松崎広幸、調整:菊池悟史/亀田亮治、録音スタジオ:ACスタジオ 日本語版制作:ACクリエイト株式会社 スタッフ 監督:サム・ライミ 脚本:デヴィッド・コープ VFX:ソニー・ピクチャーズ・イメージワークス VFXデザイナー:ジョン・ダイクストラ 音楽:ダニー・エルフマン タイトルデザイン:カイル・クーパー 作品解説 映画化の企画自体は以前からあったが、壁に張り付き、スパイダー・ウェブで街を縦横無尽に飛び回るスパイダーマンの姿を実写映像化するのは技術的に困難といわれていた。21世紀になりCGをはじめとする特撮技術が進歩した事により、映画化が可能となった。監督には当初ジェームズ・キャメロンの名が挙がっていた。 事故・トラブル 本作の制作は非常に困難を極めたという。撮影開始間もないころに、スタジオでの撮影中に機材が崩れるという事故が発生し、その事故でスタッフが1名死亡してしまうという惨事が起きた。更には、本作の舞台はニューヨークとなっているが、撮影の真っ只中に9.11が起きたため、既にカメラに映っていたワールドトレードセンターをすべてCG等で消去しなければならなくなり、完成も危ぶまれたという。劇場用特報や先行ポスターも9.11が起きる前はワールドトレードセンターが映っていたが、事件後は別のものに差し替えられた。しかし、実写で写り混んでいたものをCGで処理する一方、スパイダーマンの顔が初めてアップになるショットとラストのスパイダーマンがニューヨークの街を縦横無尽に飛び回るショットでコマ送りで確認できるレベルで同ビルがCGで付け加えられており、犠牲者へのささやかな追悼になっている。 興行収入 本作は1週間に1億ドルの記録を達成した最初の映画となり、114,844,116ドルの新たな週末記録を樹立した。 これまで最高の記録だった『ハリー・ポッターと賢者の石』を9000万ドル上回った。 また、この映画は3日間で1億ドルのマイルストーンを達成した記録を樹立した。このオープニングの週末の興行収入は平均して31,769ドルだったが、これについてはBox Office Mojoが「超ワイド・リリースでこれまでに最高の平均興行収入だった」と報じた。 映画の3日間の記録は『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』がのちにこの記録を破り、オープニング週末の1億1480万ドルは、北米の映画の興行収入の中で、続編ではない1作目では最も高く、8年後には『アリス・イン・ワンダーランド』がそれを上回った。 主題歌 チャド・クルーガー feat. ジョジー・スコット「ヒーロー」 ゲーム版 アメリカ合衆国では2002年4月15日にPC(Windows)版が発売された後、同年4月16日にPS2・GC・Xbox版が発売。日本では2003年2月13日にPS2・GC・Xbox向けタイトルとしてカプコンから発売された。 映画「スパイダーマン」を題材にした作品。 スパイダーマン/ピーター・パーカー(声 - トビー・マグワイア /猪野学) メリー・ジェーン・ワトソン(声 - キャット・オコナー / 岡寛恵) ノーマン・オズボーン/グリーン・ゴブリン(声 - ウィレム・デフォー / 山路和弘) ショッカー(声 - マイケル・ビーティ / 江原正士) スコーピオン(声 - マイク・マッコール / 梁田清之) ヴァルチャー(声 - ドワイト・シュルツ / 八木光生) ナレーター(声 - ブルース・キャンベル / 千葉繁) クレイヴン(声 - ゲイリー・アンソニー・スタージス / 渡部猛)(Xbox版のみ) 脚注 外部リンク at AllMovie on IMDb
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%20%28%E6%98%A0%E7%94%BB%29
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大阪府和泉市元社長夫婦殺害事件の犯人への刑罰は何?
勝田清孝事件
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勝田清孝事件(かつたきよたかじけん)は、1972年(昭和47年)から1983年(昭和58年)の約10年間に<b data-parsoid='{"dsr":[2511,2522,3,3]}'>勝田 清孝(かつた きよたか)が東海地方・近畿地方で8人を相次いで殺害した連続殺人事件である。勝田は1994年に死刑判決が確定し、2000年に執行された[1][2]。10年間で約300件に及ぶ窃盗・強盗殺人を起こしたが、勝田の犯行とされているものの多くは初め別件だと思われていた。 概要 加害者・勝田清孝は1972年から1983年まで約10年間にわたり凶悪犯罪を繰り返し、犯行方法も次第にエスカレートしていった。警察官を交通事故で呼び出し、駆けつけた警察官を車で轢き、銃を盗むという過激な犯行にもおよび、1982年10月31日から翌日にかけてその拳銃で、高速道路のサービスエリアから強引にヒッチハイクして乗り込んだ車の運転手を射殺、この一連の犯行で警察庁は「警察庁広域重要指定113号事件」に指定した。この取り調べの過程で、これ以外の7件の殺人事件を自供した[3]。 殺人については22件について疑われ、勝田本人も22人を殺害したと自供したものの、14件は確証がなかったため立件されず、勝田による殺人と断定されているのは広域重要指定113号事件での1人とそれ以外の事件の7人の計8人のみである。また、勝田による犯行の多くは当初同一犯人による事件ではないと思われていた。 1994年に7件の強盗殺人事件と1件の強盗殺傷事件により最高裁で死刑が確定、2000年に20世紀最後の死刑として執行された[4]。被害者8名は、連続殺人事件としては戦後日本の裁判史上、古谷惣吉事件、大久保清事件と並び、歴代一位[5](単独の事件での死者数最多は2017年時点で相模原障害者施設殺傷事件)。 「113号事件」以前の連続殺人事件 女性を狙った連続殺人 一連の連続殺人事件を起こす直前の1972年(昭和47年)7月、勝田は傷害事件を起こして京都府警察に逮捕された前科があった[6]。 1972年9月13日午前5時過ぎ、勝田は京都府京都市東山区山科御陵別所町102(現・京都市山科区御陵別所町102)のアパート[7]に侵入し住人のクラブホステス女性(事件当時24歳)を強姦した上で絞殺・現金1000円を奪った(強盗殺人1件目・強盗強姦)[8]。空き巣に入ったところ寝ていた被害者女性に気付かれ「泥棒!警察に通報する」と騒がれたことに逆上したことが殺害のきっかけだった[8]。同居していた内縁の夫(当時25歳)が帰宅したところベッド上で被害者女性がストッキングで首を絞められ、下半身裸の状態で死亡しているのを発見して110番通報、京都府警捜査一課・山科警察署は殺人事件と断定して捜査した[7]。 1975年(昭和50年)7月6日午前1時過ぎ、大阪府吹田市原町のマンション通路でクラブママ女性(事件当時33歳)を絞殺して現金約10万円などを奪った(強盗殺人2件目)[8]。被害者女性に対するひったくりを行おうとしたところ抵抗されたことが殺人にエスカレートした[8]。 1976年(昭和51年)3月5日午前2時35分過ぎ、愛知県名古屋市中区千代田の路上でシボレー・カマロから降車したクラブホステス女性(事件当時32歳)を襲撃して絞殺・現金約12万円などを奪った(強盗殺人3件目)[8]。騒がれたことに逆上した犯行だった[8]。 1977年(昭和52年)6月30日午前2時ごろ、名古屋市南区笠寺町西ノ門で麻雀荘アルバイト店員女性(事件当時28歳)宅に侵入、現金約4万円を持ち去ろうとしたところに帰宅した女性と鉢合わせしたために絞殺した(強盗殺人4件目)[8]。この事件から6日後の1977年7月6日、勝田は朝日放送(ABCテレビ)で放送されていたクイズ番組『夫婦でドンピシャ!』(司会者:月亭可朝・出演:海原小浜)の収録に妻とともに参加して優勝を勝ち取り賞金8万円・商品券10万円分を獲得した[9]。出演条件は「夫婦で楽しい人生を送っている」というもので、勝田はこの番組に1977年2月に応募して同年6月15日に局内で行われた予選(面接)に合格した[9]。番組内で勝田は司会者からの「もし奥さんが美人コンテストに出たら100人中10人の合格者に入るでしょうか?」という質問に「自分はやせ型が好みだ。妻はすらっとした体格だからスタイルの面でみれば合格だろう」と回答していた[9]。 1977年8月12日午後11時過ぎ、名古屋市昭和区小桜町のマンションで美容師指導員の女性(事件当時33歳)宅に侵入、女性を絞殺して約45万円相当のダイヤモンド指輪を奪った(強盗殺人5件目)[8]。その8日後となる1977年8月20日に勝田が出演した『夫婦でドンピシャ!』が放送され[9][10]、視聴率20パーセント前後を記録した[11]。 銃による連続強盗殺人 1977年12月13日午後5時過ぎ、兵庫県神戸市葺合区脇浜町(現・神戸市中央区脇浜町)のビル通路で猟銃を用い、現金輸送中だった[3]「兵庫労働金庫神戸東支店」(兵庫労働金庫は現:近畿労働金庫)店員の男性(事件当時25歳)を射殺して現金410万円を奪った(強盗殺人6件目・初めて銃を使用した殺人)[8]。 1979年(昭和54年)12月、勝田は名古屋市内で猟銃を盗んだほか、後述の瀬戸信金事件以前には同犯行に使用された車を盗んだ[12]。 1980年(昭和55年)2月15日午後3時50分ごろ、勝田は名古屋市瑞穂区甲山町1丁目1の市道で瀬戸信用金庫瑞穂通支店(名古屋市瑞穂区瑞穂通6丁目33)に勤務していた外交員男性(事件当時44歳・名古屋市中村区城屋敷在住)が集金を終えてバイクで支店に戻ろうとしていたところを狙い、近くの駐車場に駐車していた乗用車の助手席から猟銃を突き付けて集金カバン(黒色ビニールレザー、縦30cm×横50cm)およびその中身の小切手2枚(額面合計24万6660円)を奪って逃走した(強盗罪)[13]。当時犯行に使用された車は茶色のマツダ・カペラで、署内に捜査本部を設置してこの強盗事件を捜査した瑞穂警察署によれば犯人の男(=勝田)の特徴は「年齢30歳程度・短髪で面長。青いサングラス・白っぽいジャンパーを着用した暴力団組員風の男」だった[13]。 1980年7月30日午後11時過ぎ、名古屋市名東区高社のスーパーマーケット「中部松坂屋ストア一社店」から現金・商品券(計576万円余り)を奪い、夜間店長男性(事件当時35歳)に乗用車を運転させて同市中区栄まで向かい、そこで抵抗した男性を射殺した(強盗殺人7件目)[8]。 車上荒らしで執行猶予判決 一連の事件を起こしていた1972年から1980年にかけて勝田は消防職員として京都府相楽中部消防組合本部に勤務していたが[14]、1980年11月8日未明に大阪府大阪市北区曽根崎新地の繁華街でクラブホステスの乗用車と車内にあったハンドバッグ(現金78,000円入り財布入り)・化粧品バッグを盗む窃盗(車上狙い)事件を起こし、大阪府警察天満警察署に緊急逮捕された[15]。勝田の逮捕は翌日(1980年11月9日)の地元紙朝刊にて「消防署員が盗み」の顔写真付き三段見出し記事で報道され、勝田は逮捕3日後の1980年11月11日付で相楽中部消防署により懲戒免職となって以降は一度も消防士本部に姿を見せず、勝田の持ち物は謝罪に訪れた両親が持ち帰った[16]。 1981年(昭和56年)1月29日、大阪区検察庁により起訴された勝田は前述の窃盗事件で大阪簡易裁判所より懲役10月・執行猶予3年(求刑・懲役1年)の有罪判決を受けた[15]。この時は以上の強盗殺人7件が判明しなかったために警察はさらなる凶悪事件の発生阻止の機会を逸することとなり[15]、また後の公判では併合罪(刑法第45条)の規定により以下の「113号事件」とは分離されて判決が言い渡された[8][17]。 勝田は上記判決から約1年半後の1982年(昭和57年)8月18日午後1時ごろ[18]、滋賀県大津市島の関の駐車場で乗用車を盗んだ(窃盗罪)[19]。さらに同日午後10時30分ごろ二は前述の乗用車を使用し[18]、京都市山科区竹鼻堂ノ前町のスーパーマーケット「エポック山科北店」付近の路上で同店男性店員(当時45歳)を車で轢いて肋骨骨折など全治40日間の怪我を負わせ、店の売上金を奪おうとしたが近隣住民が駆け付けたために断念して逃走した(強盗致傷罪)[19]。 警察庁広域重要指定113号事件 警察官襲撃・拳銃強奪 1982年10月25日ごろ、勝田は名古屋市中区新栄の駐車場に駐車されていた大学生(当時21歳・名古屋大学3年生)のトヨタ・セリカ(時価総額70万円相当)を盗み出した(窃盗罪)[12]。 勝田は1982年10月27日午後9時30分ごろ、愛知県警千種警察署へ「木下」と偽名を名乗って「田代北派出所をお願いします」と電話し、同署経由で派出所につながれたところでパトロールを終えて派出所に戻った直後の後述被害者巡査が応対すると「派出所前を東に突き当たったところに青いクラウンが停車してあるので来てほしい」と話した[20]。 勝田は上記のセリカを用いて[12]愛知県名古屋市千種区法王町1丁目1の「覚王山日泰寺東側第六番札所前」路上で愛知県警察の警察官男性(事件当時38歳巡査・千種警察署田代北派出所配属)を[20]車で跳ね飛ばし、さらに所持していた鉄棒で頭部を殴るなど暴行を加えて[12]「左顔面陥没、左前額部・右後頭部割創のほか両膝前部の挫創などの重傷」を負わせた[20]。その上で巡査から実弾5発入りの回転式拳銃「ニューナンブ38口径」を奪って逃走した(強盗致傷事件)[20]。被害者巡査の証言・当時の『中日新聞』報道によれば事件当時の様子は「巡査が車を確認するために電話で言われた場所に徒歩で向かったところ、確かに青いクラウンが駐車してあったが誰もいなかったために派出所へ戻ろうとした。その時突然頭に『車に撥ねられたような衝撃』を受けて意識を失い、同9時35分ごろに通行人により『頭を血塗れにして電柱に寄りかかっていた』状態で発見されるまでの間は意識がなかった」状態で、巡査はその通行人に「目が見えないので交番まで連れて行ってほしい」と頼み込んで救急車で「加藤外科」(千種区末盛通)に搬送された[20]。被害者巡査は両眼を負傷し失明寸前まで陥ったが、その後完治し第一審判決(1986年3月)までには勤務に復帰した[14]。 本事件を受けて愛知県警捜査一課・千種署は「拳銃強奪を目的として強盗致傷事件」と断定して千種署に特別捜査本部を設置し捜査を開始した上で、県警本部内に対策本部(対策本部長:志方修・県警本部長)を設置した[20]。この時点で愛知県警は「奪われた拳銃を使用した第二の凶悪犯罪発生」を懸念して県下全域に緊急配備態勢を敷き、警戒態勢に全力を挙げつつ犯人割り出しを進めたが[20]、後の事件を阻止することはできなかった。 また勝田はこの犯行から逮捕されるまでの間、愛知・静岡・滋賀・岐阜・京都の各府県内で署員から奪った拳銃を所持した(銃刀法違反・火薬類取締法違反)[19]。 拳銃で連続強盗殺傷 1982年10月31日深夜、静岡県浜松市内でスーパーマーケットに拳銃を持って強盗に押し入るも失敗・逃走した[17]。 1982年10月31日、滋賀県大津市の名神高速道路・大津サービスエリアに駐車中のワゴン車にヒッチハイクした。勝田は運転手だった溶接工男性(事件当時27歳・千葉県市原市今津朝山在住)を拳銃で脅して名古屋方面に向かわせるも、午後9時30分ごろに同県草津市大路の国道1号路上に駐車した車内で前述の拳銃を用いて運転手を射殺した(強盗殺人8件目、運転手は翌11月1日に死亡)[8]。 1982年11月1日午前2時35分ごろ、岐阜県養老郡養老町の名神高速道路・養老サービスエリア内のガソリンスタンド店員男性(事件当時46歳)に前述の拳銃で発砲し重傷を負わせた[8]。この時、男性が胸ポケットに入れていた100円ライターが銃弾を弾いたために男性の命を守った[14]。男性は事件後、夜勤の際などに自然と周囲を確認するなど「人間不信」状態に陥った[14]。 1982年11月28日、京都府京都市山科区内のスーパーに拳銃強盗に入り、売上金を奪って逃走した[17]。 1983年(昭和58年)1月30日午後8時ごろ、勝田は自分の乗用車で京都市内のマンションを出発し、31日午前8時30分過ぎに名古屋市西区内の路上に駐車してあったトヨタ・カローラを盗んで乗り換えた[21]。その後、後述の逮捕現場付近で犯行場所を物色してから銀行裏の駐車場に入った[21]。 逮捕・起訴 1983年1月31日、当時34歳の勝田は名古屋市昭和区阿由知通4丁目6の「第一勧業銀行御器所支店」(同支店は2018年時点で閉店し現存しない。第一勧業銀行は現:みずほ銀行)西側駐車場で預金102万3000円を下ろして帰宅しようとした客の男性(事件当時31歳・名古屋市熱田区内在住の運送会社社長)を襲撃し、男性に実弾3発入りの拳銃を突きつけて「これは警察官の持っている本物の拳銃だぞ。あの事件(113号事件)を知っているだろう。喋ると撃つぞ。後ろの座席に金を置いて車を出せ」などと脅して金品を奪おうとしたが、隙を突かれて手を押さえつけられて取っ組み合いになった[6]。その直後、騒ぎを聞いて駆け付けた銀行員らと格闘になった勝田は被害者男性・銀行員ら3人を殴るなどして打撲傷を負わせ、拳銃2発を発砲するなどして抵抗したが銃は命中せず、銀行員らに押さえつけられて取り押さえられた[6][21]。騒ぎを知った支店員が非常ボタンを押して愛知県警察に110番通報したため、勝田は駆け付けた県警昭和警察署員に身柄を引き渡され強盗致傷容疑で現行犯逮捕された[6][21]。 勝田が持っていた拳銃(ニューナンブ38口径)は前述の警察官襲撃・養老SA殺傷事件で使われたものとナンバーが一致したため、愛知・岐阜両県警の「113号事件」共同捜査本部は「勝田が113号事件の犯人」と断定した[6]。 勝田の逮捕に貢献したこの男性は事件直後、当時の警察庁長官・三井脩から「警察協力賞」を受賞するなど「時の人」となった[14]。 押収された拳銃(実弾1発入り)は千種区内で襲撃された警官の拳銃と登録番号が一致した上、勝田の人相・体格も養老事件の犯人と一致した[21]。 名古屋地方検察庁は第一勧銀事件で逮捕された被疑者・勝田の第1回拘置期限(1983年2月11日)を控えて「事件の重大性からさらに10日間の拘置延長を検討」していたが、第一勧銀事件は現行犯逮捕であるが故立件が容易だった上、勝田による「松坂屋ストア事件」「兵庫労金事件」など重大事件の自供を受けて「捜査の迅速化」が必要と判断した[22]。そのため拘置期限前日となる1983年2月10日、名古屋地検は広域113号事件の被疑者として逮捕された勝田をまず第一勧銀事件における強盗致傷・窃盗の各罪状で名古屋地方裁判所に起訴した[22][23]。愛知県警特捜本部はこの最初の起訴を受けて同日中に勝田を警官襲撃・拳銃強奪事件の強盗致傷・窃盗容疑で再逮捕した上で「瀬戸信金事件などほか数件の強盗事件も勝田の犯行」と推測してさらに取り調べた[12]。残る罪状もその後次々と起訴された。 1984年4月26日にすべての捜査が終結し、逮捕から同日まで452日間の留置期間は愛知県警本部において史上最長記録となった[24]。同日付で勝田は愛知県警本部から名古屋拘置所(名古屋市東区白壁)に身柄を移送され[24]、死刑執行まで余生を同拘置所で過ごした。 生い立ち 勝田は1948年(昭和23年)8月29日に京都府相楽郡木津町鹿背山(現・木津川市鹿背山)の集落にて農家の長男(1歳年上の姉に次ぐ第2子)として生まれた[25]。 家は比較的裕福だった[4]。高校時代は吹奏楽部に所属し、小遣いの多い部員と張り合うために校内食堂で食券を盗んで友人らにおごったり、車両の窃盗、盗品の販売、バイク走行中に女性の頭を竹の棒で殴打して金品を奪うひったくり、車上荒らし、売店荒らしなどの犯罪を働いたりしていた[3]。高校在学中にひったくりで逮捕、大阪府の和泉少年院に送致された。退院後、職を転々とした隣町の1歳下の女性と付き合い結婚を考えるが「少年院帰りとは一緒にはできない」と女性の両親に断られ、勝田の両親も「家の格が違う」と反対する。このためか2人は大阪府へ駆け落ちした。奈良県の運送会社で働き始めた後に両家の承諾を得て結婚し、男の子が二人生まれた。 前歴を隠して23歳で消防職員採用試験に合格する(前歴については直後に職場からも把握されるが、それにより懲戒免職となることはなかった)。真面目な仕事ぶりで評価が高かったが、愛人や車などで金遣いが荒く借金の穴埋めのために長距離輸送のアルバイトを始め、それと同時期に空き巣を始める。また、この時期に近隣の銀行で女子行員暴行殺害事件が起こるが、警察が勝田に疑惑の目を向け、その度に勝田は警察への不信と、うまくいかない人生への不満を募らせていた。 水商売の女性のバッグには大金が入っていることが多いのに気付いた勝田は、クラブのホステスを狙いひったくりを繰り返すようになる。狙った女性から騒がれると容赦なく殺害した。勝田が殺害した5人の女性には、いずれも複雑な人間関係があり、事件によりそれが発覚したために離婚や失職した者もいる。大金を盗まれた形跡がないことから警察は被害者の顔見知りによる怨恨や痴情のもつれを動機とする犯行との判断から捜査を進めていたことから被害は拡大した。その裏で、勝田の借金はさらに膨らんでいった。 1974年、勝田は消防副士長となり、これを機に父親に「賭博で負けた」と嘘をつき200万円の借金を肩代わりしてもらって借金清算するも車・酒・愛人の誘惑に勝てず、再び借金が増えていった。表彰20回、全国競技大会に2年連続入賞という実力で消防士長に昇格した頃には、昼間は真面目な消防隊員、夜は強盗殺人犯に変貌していた。虚飾な性格は変わらず、1980年7月にはスーパーの強盗殺人で得た金で280万円のトランザムと50万円のゴルフ会員権を購入し、同年11月に車上荒らしで逮捕されて消防士を免職となる[3]。収入がないにもかかわらず、1982年には愛人と同棲を始め、ガゼールとトヨタ・クラウンスーパーサルーンを購入するなど羽振りのよさを装い、両親や盗みによる金で借金を清算してはまた借金するという生活を送る[3]。 全国競技大会出場のころなど殺人も空き巣も行っていなかった時期があるのは、本職の消防士として責任ある地位についていたこと、また愛人の存在を知った妻が自殺未遂を起こし、愛人や車に費やす金の工面どころではなかったからと後日、自供している。長距離輸送のアルバイトの間に空き巣や殺人を繰り返し、10年間で約300件に及ぶ窃盗・強盗殺人を起こした後、ようやく勝田は逮捕された。詳細な自供により、勝田の数々の犯行が明らかになった。 刑事裁判 勝田は1972年から1980年までに7人を殺害した件と、1982年に警察官から奪った銃で警察庁広域重要指定113号事件を起こした件で起訴された。獄中で視力障害者のための点字翻訳ボランティアをしていた[26]。 第一審・名古屋地裁 勝田は強盗殺人罪など合計33の罪状・計27の犯罪事実で名古屋地方裁判所に起訴されたが、併合罪(刑法第45条)の規定により、起訴事件とは別の窃盗事件で執行猶予判決を受けた1981年1月(大阪簡裁より懲役10月・執行猶予3年)[17]を境に「強盗殺人7件を含む17罪」(前半事件)+「執行猶予判決後の殺人1件を含む『113号事件』16罪」(後半事件)と分離されて判決が言い渡された[8]。 1983年5月27日午後1時15分から名古屋地裁刑事第4部(水谷富茂人裁判長)にて被告人・勝田清孝の初公判が開かれた[27]。検察官は宇野博・小久保勝両検事、弁護人は国選の村瀬武司がそれぞれ立ち会い、被告人・勝田は罪状認否にてこの時点で起訴されていた「山科区の事件2件・拳銃強奪事件・浜松市の事件・養老SA殺傷事件・第一勧銀事件」のうち養老SA事件に関してのみ殺意を否認したがその他の事件については大筋で起訴事実を認めた[27]。弁護人・村瀬は「被告人・勝田は現時点で起訴されているいずれの犯行時においても『家庭・愛人の問題、借金の返済などで出費が増大しており、かつ収入が不安定だった』ことから『心神耗弱状態、すなわちノイローゼ状態』にあった」と主張して完全責任能力を否定し、その後検察側が15,000字に上る冒頭陳述で勝田の生い立ち・犯行動機・犯行経緯などを述べた[27]。その後、この時点で捜査中だった「113号事件」以前の数々の強盗殺人事件などに関しても次々と追起訴された[27]。 公判途中の1983年10月23日までに、勝田は男性3人・女性5人の計8人の殺害を自供しており、うち男性3人に関しては既に起訴され公判で審理されていたが、それらとは別に「まだ10人くらい女性を殺している。最初の殺人は16歳か17歳のころ、郷里・京都府相楽郡木津町近辺で犯した」などと供述した[28]。そのため『毎日新聞』1983年10月24日付朝刊では「殺害人数は合計18人か?仮に本当ならば帝銀事件(1948年1月)の12人を超える『戦後日本犯罪史上最悪の大量殺人事件』に発展することになる」と報道されたが、それまでに自供した8件の殺人と比較して時間・場所などの記憶が曖昧な面が見られ[28]、結局は立件されなかった。 1983年10月26日、名古屋地裁刑事第4部(橋本享典裁判長)で開かれた第5回公判で被告人・勝田は「(この時点で認めていた養老SA射殺事件以外に)男女7人を殺害した。申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と述べる形で「法廷で初めて殺人の件数を口にした」ほか[29]、初めて涙を流した[17]。なお同日は千種区の警察官襲撃事件から丸1年を控えた日だった[29]。 被告人・勝田清孝は1985年11月26日、名古屋地裁(橋本享典裁判長)で開かれた第22回論告求刑公判において検察側(名古屋地検)から前半・後半両事件において死刑を求刑された[30]。論告において検察側は「勝田は天をも恐れず、共同社会の一員に留まることを自ら否定するかのように犯行を重ねた。前半事件において男女7人を無差別に殺害するなど冷酷性を究めたばかりか、後半事件においても有罪判決後にまた1人を殺害するなど更に残忍性を強め、犯行から次の犯行までの再犯速度を著しく速めて法秩序に挑み、社会を完全に敵に回した。高速道路・銃器を用いた『現代的犯行』の手口は模倣性・伝播性が高く、もはや矯正は不可能であり極刑が相当だ」と主張した[30]。 1985年12月16日に開かれた第23回公判で弁護人による最終弁論が開かれ、初公判(1983年5月)から2年7か月ぶりに結審した[31]。弁護人は同日の最終弁論で「各事件の計画性のなさ」「被告人・勝田は犯行当時完全な責任能力を有しない心神耗弱状態だった」「8件中7件の殺人を自供した行為は自首に該当する」などと主張した上で、「被告人・勝田の反省・悔悟の念」「死刑制度の違憲性」などの点から「死刑回避・無期懲役の量刑選択が妥当」を訴えた[31]。被告人・勝田は最終意見陳述で「名古屋拘置所内で綴った手記『贖罪の日々』」を提出した上で、被害者や遺族に対する謝罪の言葉を述べた[31]。 名古屋地裁(橋本享典裁判長)は1986年3月24日、検察側の求刑通り被告人・勝田清孝に前半・後半両事件ともに死刑判決を言い渡した[8]。名古屋地裁は判決理由で一連の事件を「果てしない虚栄心・物欲を満足させるため犯罪の拡大・再生産を行い、大胆で悪質・残虐だ」と非難した上で「逮捕後、反省・悔悟の日々を送っているとはいえ、自らの生命をもって史上まれな凶悪犯罪を償うほかにない」と量刑理由を述べた[8]。 被告人・勝田と弁護人は1986年3月28日午前11時過ぎ、「死刑は重すぎる」などと事実誤認・量刑不当を理由に名古屋高等裁判所に控訴した[32]。勝田は判決後、名古屋拘置所内で2日間にわたり弁護人・村瀬武司弁護士と控訴するかどうかを話し合った[32]。当初は控訴に消極的な態度も見せていた勝田だったが、判決が勝田の主張をほぼ全面的に退けているため、村瀬が「正しい判断を受ける権利がある」と勝田を説得したところ、勝田は「控訴すべきだろう」と感想を話した[32]。そのため、勝田と弁護人・村瀬が別個に同時に控訴状を提出して控訴手続きを行った[32]。弁護人の控訴理由骨子は以下の通り[32]。 死刑判決は「勝田の反省・悔悟の情を十分に評価していない」点で量刑不当である上、死刑は日本国憲法第36条で固く禁止された残酷な刑罰だ[32]。 一連の連続殺人のうち7件は勝田が捜査中に自供したため、弁護人は「自首が成立するため量刑を軽減する事情となる」と主張したが、判決はうち1人に対してしか自首を認定しなかった[32]。 「犯行当時、勝田は心神耗弱(ノイローゼ状態)だった」とする主張が認められず「完全な責任能力を有していた」という事実誤認がなされた[32]。 「113号事件における殺意を否認する」主張を否定された[32]。 名古屋地裁の判決言い渡しは法令適用・証拠標目などを口頭で明らかにしておらず、刑事訴訟法上の誤り・不完全さがある[32]。 控訴審・名古屋高裁 1987年(昭和62年)3月30日午前に名古屋高等裁判所(吉田誠吾裁判長)で控訴審初公判が開かれた[33]。弁護人は控訴趣意書にて以下の情状から「死刑判決は不当であり破棄した上で無期懲役刑に軽減すべきだ」と主張した一方、検察側は「まれにみる連続殺人であり死刑を持って臨むほかない」と主張して死刑判決支持・被告人側の控訴棄却を求めた[33]。 死刑違憲論(後述) (勝田自身が書いた控訴趣意書より)8人殺害のうち113号事件で殺害した1人を除く死者7人は捜査段階において進んで自供したため自首が成立する上、残る113号事件の1人殺害も「銃の暴発によるもの」であり殺意はなかった[33]。反省の情を酌量してほしい[33]。 控訴審で被告人・勝田の弁護団は以下の3点において死刑違憲論を展開したが、うち前者2つについては既に最高裁判所判例により「合憲」判断が示されていた[34]。 死刑は日本国憲法第36条で禁じられた「残虐な刑罰」である[34]。 刑法では「死刑執行は絞首刑により行う」と規定されているが、その詳細な方法に関する規定はない[33]。絞首刑の具体的な方法を定めた法律がないことから、死刑制度は日本国憲法第31条が定めた「法定手続の保障」に違反する[34]。 検察側は「死刑執行方法は1873年(明治6年)の太政官布告(絞罪器械図式)で規定されており、その布告は日本国憲法下でも有効である」と反論した[33]。 かつて死刑執行に携わった刑務官らは過酷な職務に苦痛を受けている[33]。死刑執行に関与する刑務官には苦役となることから、死刑制度は日本国憲法第18条で保障された「苦役からの自由」を侵害する[34]。 検察側は「死刑執行に携わる刑務官に関する弁護人の主張は独自見解に過ぎない」と反論した[33]。 弁護人を務めた伊藤静雄・花井増実両弁護士は1987年6月30日付で「死刑制度の違憲性を立証するために必要な証拠調べの採用を却下されたため、公正な裁判が行われない虞がある」として、名古屋高裁に対し控訴審を担当する吉田誠吾裁判長、鈴木雄八郎・川原誠両裁判官の忌避を申し立てたが[35]、名古屋高裁は1987年7月8日までに「弁護人の証拠申請を却下したからといって不公平な裁判をする虞はない」として申し立てを却下することを決定し、同決定に対する両弁護士からの異議申し立ても退けた[36]。 1987年9月9日午後に開かれた第5回公判で、被告人質問に先立って弁護人が「死刑制度の違憲性」主張を立証するため、以下の5人を証人申請した[37]。この時に弁護人は「死に直面する死刑囚の苦悩や、死刑制度に対する国民感情の変化を立証したい」と述べたが、検察側は「証人尋問は必要ない」として申請却下を求めた[37]。 松山事件の冤罪被害者で再審無罪が確定した元死刑囚・斎藤幸夫[37] 東京拘置所の勤務医時代に百数十人の死刑囚と交流した作家・加賀乙彦[37] 死刑執行を体験した元刑務官、各国の死刑制度に詳しい専門家ら[37] 弁護団は最終弁論までに斎藤ら14人の証人申請を行ったが次々と却下されたため、控訴審でも死刑判決が支持される公算が強まった[34]。その後、主任国選弁護人・伊藤静雄弁護士は「訴訟指揮への不満」を訴えて辞任届を提出したが、名古屋高裁(吉田誠吾裁判長)は1987年12月7日までに「辞任は認めない」という決定を出した[38]。しかし伊藤が今後出廷しない方針だったため、名古屋高裁は残る1人の国選弁護人・花井増実弁護士を副主任弁護人に指定した上で、花井からの要望を受けて同月9日に予定していた第8回公判(最終弁論)を翌1988年1月12日に延期した[38]。 1988年1月12日に開かれた控訴審第8回公判にて最終弁論が行われて結審した[39]。被告人・勝田の弁護人が死刑判決の破棄・無期懲役への減軽を訴えた一方、検察側が死刑判決を支持するよう求めた[39]。 1988年2月19日、名古屋高裁(吉田誠吾裁判長)で控訴審判決公判が開かれた[40]。名古屋高裁は第一審・死刑判決を全面的に支持して被告人・弁護人側の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[40]。 主任弁護人・伊藤は控訴審判決後、『中日新聞』(中日新聞社)の取材に対し「証拠調べ・事実認定・死刑違憲論議など、あらゆる点で審理が尽くされておらず承服しえない判決だ。「死刑は違憲」と確信しており、上告して争うべきだと考えている」とコメントした[40]。 被告人・勝田は控訴審判決後、収監先・名古屋拘置所で接見した弁護人に対し「死刑違憲論の審理に期待していたが、名古屋高裁は証人申請を認めず踏み込んだ内容にはならなかった」と不満を語った[41]。勝田は控訴審判決を不服として、自ら上告状を作成して1988年3月2日付で最高裁判所に上告した[41]。 上告審・最高裁第一小法廷 最高裁判所第一小法廷(小野幹雄裁判長)は1993年5月26日までに被告人・勝田の上告審口頭弁論公判開廷日時を「1993年11月4日午後1時30分」に指定して関係者に通知した[42]。 1993年11月4日、最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれた[43]。同日の公判で弁護人は日本国憲法第36条を根拠に死刑違憲論を展開した上で、以下のような情状から死刑判決の破棄を求めた[43]。一方で検察側は「殺人7件の自白・反省悔悟の情を考慮しても死刑に処する以外にない」として被告人・勝田の上告棄却を求めた[43]。 一・二審が精神鑑定を実施しないまま被告人・勝田の刑事責任能力を認めたのは日本国憲法第31条(法定手続の保障)に違反する[43]。 養老町で発生した事件においては被告人・勝田に殺意はなく、拳銃が暴発して偶然被害者に命中したことが原因であるにも拘わらず、一・二審判決は「確定的殺意」を認定しており、重大な事実誤認である[43]。 逮捕後に自白した7件の殺人を「自首」と認定したにもかかわらず、量刑の軽減を認めたのは1件だけだったことは不当である[43]。 最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)は1993年11月26日までに上告審判決公判開廷日時を「1993年12月16日午後1時30分」に指定して関係者に通知したが[44]、後に弁護人側の都合を受けて1993年12月6日までに日時を「1994年1月17日午後2時30分」に変更した上で改めて関係者に通知した[45]。 1994年1月17日、最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)で上告審判決公判が開かれた[46]。同小法廷は『罪責が重大で、犯行を深く悔悟していることなどを考慮しても一・二審の死刑判決はやむを得ない」として被告人・勝田の上告を棄却する判決を言い渡したため、逮捕から11年ぶりに死刑が確定することとなった[46]。この判決は社会見学の子どもたちも傍聴しており、開廷からわずか数十秒後に上告棄却」の判決主文が言い渡された「注目を集めた事件にしてはあっけない結末」だった[47]。判決言い渡し後、勝田被告人の弁護団は記者会見で「ある程度は予想していた判決だったが、日本は国際連合人権規約委員会から死刑廃止を勧告されている。そのような情勢の中で国民感情だけを根拠に死刑を存続するのは時代に合わないのではないか」と話した[47]。勝田は同日に支援者・来栖宥子の実母(藤原姓)と養子縁組したことで「藤原清孝」となり、来栖は勝田の義理の姉となった[48][49]。 被告人・勝田は1994年1月26日付で最高裁判決を不服として最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)に判決を訂正するよう申し立てたが、1994年2月3日付で同小法廷から「裁判官5人全員一致の結論」で棄却決定が出され[48]、1994年2月5日に勝田宛に決定書が届いたことで正式に死刑判決が確定した[48][50]。 死刑執行 カトリック名古屋教区の「正義と平和委員会」(委員長・油井滋)は1994年10月3日、死刑囚・藤原清孝の助命を求める全国の宗教家など2516人から集まった嘆願書名簿を法務大臣・前田勲男に提出したことを明かした[51]。 死刑執行までの1年間、名古屋拘置所に収監されていた死刑囚・勝田は重度の腰痛に悩まされておりほとんど寝たきり状態だった[52]。義姉との生前最後の面会となった2000年11月28日(死刑執行2日前)、勝田は義姉に対し腰の不調を訴えており、義姉曰く「辛そうな様子」だった[52]。 2000年(平成12年)11月30日、法務省(法務大臣・保岡興治)の死刑執行命令により収監先・名古屋拘置所で死刑囚・藤原清孝(旧名・勝田清孝、)を含め死刑囚2人の死刑が執行された[1][2]。同日には福岡拘置所でも死刑囚1人の死刑が執行された[1]。なおこれが20世紀最後の死刑執行となった。 勝田は死刑執行当日、もう1人の死刑囚の死刑執行が完了した午前9時30分ごろに死刑執行を伝えられ、初めは遺書を書こうとしなかったが、僧侶らから説得されて刑場の隣の部屋で2つの遺言書を書いた[52]。うち1通は実の両親に対して宛てた感謝の言葉などを書きつらねており、もう1通は義理の姉に対し「自らの遺骨・所有物はすべて残さず拘置所で焼却処分してほしい」という旨のものだったが、カトリック信者の義姉は死刑執行後に勝田の遺体を引き取り、教会にてキリスト教式の通夜を執り行った(後述)[52]。遺書を書き終えた後、勝田は煙草を一服してから僧侶に付き添われて刑場に向かったが、執行直前には刑務官に対し「先生(僧侶)の顔をもう一度見たいから目隠しを取ってほしい」と要望し、般若心経を読んでは被害者1人1人の名前をつぶやき「ごめんなさい」とつぶやいた[52]。 元死刑囚・勝田の葬儀は2000年12月2日正午から名古屋市内の斎場で行われ、義姉のほかキリスト教会関係者ら約20人が参列した[53]。勝田の遺体はその後火葬され、遺骨は岡山県内にある義姉の実家の墓に納骨された[53]。 注釈・出典 参考文献 刑事裁判の判決文 裁判官:橋本享典(裁判長)・服部悟・矢田広高 裁判所書記官:五藤一彦(1986年4月1日付謄本作成) 検察官・弁護人 検察官:京秀治郎・山田弘司 判決内容:被告人・勝田清孝を前半・後半両事件とも死刑。押収品は以下のように還付 ダイヤようの裸石一個(昭和58年押第228号の171)は昭和区事件被害者の相続人に還付 拳銃1丁(昭和58年押第228号の14)・実包(昭和58年押第228号の15)・弾丸2個(昭和58年押第228号の25及び29)は被害者巡査に還付  判決文本文 裁判所ウェブサイト掲載判例 死刑事件(8人強盗殺人事件) 死刑の主文2個の第一審判決を維持した原判決が是認された事例 『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第263号1頁 判決内容:被告人・弁護人側上告棄却(死刑判決確定) 最高裁判所裁判官:小野幹雄(裁判長)・大堀誠一・味村治・三好達・大白勝 検察官・弁護人 最高検察庁検察官:飯田英男 弁護人:平井嘉春・高野洋一 関連書籍 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |origdate= ignored (|orig-year= suggested) (help) 1983年5月16日 - 8月29日まで全51回にわたり『中日新聞』に掲載された長期連載企画「追跡 勝田事件」(計3部構成)を再録した上、第4部を加筆して書籍化した単行本。執筆を担当した記者は中日新聞名古屋本社社会部の林俊弌(次長)・内田優・志村清一の3記者からなる取材班。 Text "和書" ignored (help) - 月刊誌『文藝春秋』1983年6月号に掲載されたレポート「戦後最大の殺人鬼・勝田清孝」を大幅に加筆訂正した上で書籍化した単行本。 後に登場人物の名前を少し変えて『連続殺人鬼 冷血』として映画化された。殺人者役は中山一也。 Text "和書" ignored (help) - 上記単行本を大幅加筆・訂正の上で文庫化した書籍。 Text "和書" ignored (help); ref stripmarker in |ref= at position 1 (help) - 本人による著書。2018年現在は絶版。 Text "和書" ignored (help); ref stripmarker in |ref= at position 1 (help) - 勝田の私信を掲載。 Text "和書" ignored (help); ref stripmarker in |ref= at position 1 (help) 関連項目 夫婦でドンピシャ! 長期捜査 死刑存廃問題・死刑制度合憲判決事件(日本国憲法第36条) 外部リンク - 義理の姉・来栖宥子のサイト、2015年12月に閉鎖。リンクはインターネットアーカイブ。 - 来栖宥子のブログ。勝田に関する記事あり。 - 来栖宥子のブログ。勝田に関する記事あり。
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黄色には何種類ある?
黄色
japanese
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黄色(黃色、きいろ、オウショク)は、基本色名の一つであり、色の三原色の一つである。ヒマワリの花弁のような色。英語では yellow と言う。暖色の一つ。波長 570〜585nm の単色光は黄色であり、長波長側は橙色に、短波長側は黄緑色に近付く。RGBで示すと赤と緑の中間の色。黄(き、オウ、コウ)は同義語。 現代日本語では一般に「黄色」(名詞)、「黄色い」(形容詞)と呼ぶ。これは小学校学習指導要領で使われ[1]、母語として最初に学ぶ色名の一つである[2]。しかし JIS 基本色名やマンセル色体系における公式名称は一般に黄色ではなく<b data-parsoid='{"dsr":[983,990,3,3]}'>黄(黃、き)である。複合語内の形態素としては、黄緑、黄身、黄信号など、「黄」が少なくない。 物体色としての黄色 色料の三原色</b>の一つが yellow と取り決められているため、イエロー</b>と呼ぶ場合、単に黄色の英語名というよりも<b data-parsoid='{"dsr":[1378,1390,3,3]}'>色料の三原色</b>の一つとしての黄色であることを指示することが多い。カラー印刷でのインク・トナーに使われる。通常、シアン (c</b>yan)・マゼンタ (m</b>agenta)・キープレート(k</b>ey plate) と共に使われ、CMYK と呼ばれる[3]。印刷技術の専門用語では<b data-parsoid='{"dsr":[1612,1619,3,3]}'>キ</b>と呼ぶこともある。 ただし、現在の技術では理想の分光反射率曲線を示すイエローのインク・トナーを作ることは少なくとも不可能であり、黄色のインクは理想的なイエローとは違う色をしている。具体的な物質としての黄色の顕色成分については、黄色天然染料・黄色合成染料・黄色有機顔料・黄色無機顔料を参照。 JIS規格における黄色・イエロー JIS では黄色およびイエローがそれぞれ定義されている。この黄色とイエローはわずかに異なる色として示されている。 光源色としての黄色 光の三原色である赤 (#FF0000) と緑 (#00FF00) を一対一の割合で混合した色に該当し、RGB 値では (R, G, B) = (255, 255, 0) で表される。ウェブカラーで Yellow を指定すると、#FFFF00 と同等に扱われる。これは、固有色名でいう檸檬色に近い。 また、LightYellow というコードも指定可能である。物体色の黄色には Gold が近い。 黄色の色料 着色に使用される黄色色素は様々あるが、様々な着色のシステムに用いられる色素の中で黄色を呈するものの耐光性は、総じて劣っている。加えて、無機顔料については毒性を有するものが多いが、被覆力を含めた様々な特性を全面的に代替する顔料は存在しない。 染料については、天然染料と合成染料に大別し、顔料については有機顔料と無機顔料に大別して、記述する。この区分は、顔料と染料のそれぞれの分野で尊重されている典型的な区分である。なお一般的に使用される安全な色料を先に記述し、その後で有毒で一般的に使われない色料を記述する。 黄色天然染料 黄色の染料のうち植物由来のもの。黄色天然染料は伝統的な染料で、一部は、日本語の来歴を証言する性格も有する。 藤黄 gamboge 黄色のガム樹脂で、東アジアでは数百年以上昔から絵具として使用された。主としてインド、中国、タイ等に自生するマンゴスチン科の各種樹木から採取される。ヨーロッパでは古くから商品として伝えられており、初期フランドル絵画に使用されたとも言われる。主として水性絵具、揮発性ニス (varnish)、金属ラッカーの用途がある。草雌黄とも言う。 キハダ キハダ(黄檗)は「黄肌」という意味で、ミカン科の植物である。5から6月頃黄緑の花をつける。樹皮の内側は黄色であり苦味がある。樹皮は染色に使用される。樹皮の薬用名は黄檗(オウバク)であり、健胃剤や火傷の薬である。なおキハダで染色する場合は媒染剤を用いず直接染料として用いる。 カリヤス カリヤス(刈安)はイネ科の植物である。灰汁を媒染剤に用いる。 ウコン ウコンはショウガ科の植物である。地下茎を黄色の染料として用いる。媒染剤不要の直接染料。香辛料・食品用の天然着色料としても用いられる。 オウレン オウレンはキンポウゲ科の植物である。根を黄色の染料として用いる。媒染剤不要の直接染料。 クチナシ クチナシはアカネ科の植物である。果実を黄色の染料として用いる。媒染剤不要の直接染料。食品用の天然着色料としても用いられるが、天然着色料として用いる場合は黄色から緑、青にかけての幅広い色調をカヴァーする。 ズミ ズミはバラ科の植物である。樹皮を黄色の染料として用いる。ミョウバンを媒染剤に用いる。煎餅の着色にも用いられる。 ハイノキ ハイノキはハイノキ科の植物である。葉を黄色の染料として用いる。灰汁を媒染剤に用いる。 メギ メギはメギ科の植物である。樹皮を黄色の染料として用いる。媒染剤不要の直接染料。 黄色合成染料 黄色の染料のうち石油から化学的に合成されたもの。代表的なものとしてアゾ系の黄色染料やピラゾロン系の黄色染料が挙げられる。なお黄色合成染料はレーキ化することによって黄色の有機顔料としても用いられる。レーキ型アゾ系黄色顔料やレーキ型ピラゾロン系黄色顔料はアゾ系黄色染料やピラゾロン系黄色染料をレーキ化して顔料としたものである。 黄色有機顔料 一般工業製品や学校で使われる絵具などには、しばしば毒性の少ない有機顔料が使用される。但し一般印刷に使用されている安価な製品は安価な赤色色素と同様紫外線に弱く、数箇月程屋外に掲示されたポスターなどはマゼンタやイエローが退色し、青く見える。なお、レーキ型の有機顔料は、水溶性を有する有色物質を電離させ、担体としての金属イオンと電気的に結合させたものである。 アゾ アゾ顔料はアゾ基を有する化合物で、顔料としては顔料色素型とレーキ顔料型がある。ただし高分子化するにつれ耐溶剤性は高まる。レーキ顔料型は鮮明な色相を有し耐溶剤性も有する。一般印刷用インキや塗料、安価な絵具等に使われている。 モノアゾ 黄色のモノアゾ (monoazo) 顔料の種類は多いが概して耐溶剤性に劣る。Color Index には Colour Index Generic Name、Pigment Yellow 1、Pigment Yellow 3、Pigment Yellow 74、Pigment Yellow 65、Pigment Yellow 111等が記載されている[4]。Pigment Yellow 3は有機顔料としてはかなり以前に開発された顔料であるが、緑味黄を呈する比較的不透明な黄色顔料で、その色相やコストパフォーマンスから重要な顔料である。Pigment Yellow 65は日本では、Pigment Yellow 83によって駆逐された傾向を見出せる顔料であるが、世界的には依然として重要な顔料である。アリライドイエロー (arylide yellow) とも言う。 ジスアゾ ジスアゾ (disazo) 顔料も種類が多い。モノアゾ顔料と比較して着色力が強く、耐溶剤性も高い。Color Index には Colour Index Generic Name、Pigment Yellow 81、Pigment Yellow 83等が記載されている[4]。ジアリライドイエロー (diarylide yellow) とも言う。 縮合ジスアゾ 縮合ジスアゾ (condensed disazo) 顔料は従来の不溶性アゾ顔料に比べ、耐光性、耐溶剤性などが高いが、生産コストも高い。ジスアゾ縮合とも呼ばれる。具体的には、Pigment Yellow 93、Pigment Yellow 94、Pigment Yellow 95、Pigment Yellow 128、Pigment Yellow 155、Pigment Yellow 166がある[4]。Pigment Yellow 94は生産終了。 Pigment Yellow 128は、現行最も緑味の縮合ジスアゾ顔料で、インクジェットインキ等にも使用される実績のある、透明性が高い割に鮮明な顔料である。 Pigment Yellow 155は、Pigment Yellow 17に近い色相を具えた鮮明な黄色顔料である。耐久性が高く塗料、インキ、プラスチックなど様々な分野で使用されている重要な顔料で、色相や物性の異なる様々な製品が流通している。塗料分野では高い隠蔽性を具えた製品が使用されていて、耐候性はかなり優れている。印刷インキ用としては、透明タイプも隠蔽タイプも使用されているが、透明タイプは流動性に難がある。単にジスアゾ顔料にも分類されることもある。 ピラゾロン ピラゾロン系黄は赤味の強い黄色系統の顔料である。Colour Index Generic Name、Pigment Orange 13、Colour Index Generic Name、Pigment Orange 34 がよく使用される[5]。レーキ型ピラゾロン系黄色顔料として、タートラジンイエローがある。色合いは美しいが耐光性に難がある。そのため、あまり普及していない。 ベンツイミダゾロン ベンツイミダゾロン (benzimidazolon) 顔料は近年重要性が高まっているアゾ顔料で、その中でも特に重要なのはベンツイミダゾロン系モノアゾ (benzimidazole monoazo) である。具体的にはPigment Yellow 151、Pigment Yellow 154、Pigment Yellow 175 等がある[4]。ベンツイミダゾロン顔料の内で赤味のものは橙色を示すが、それ程優れた顔料ではない。具体的にはPigment Orange 36、Pigment Orange 72がある[5]。 キノキサリン キノキサリン顔料としては、Pigment Yellow 213がある。Pigment Yellow 175の<b data-parsoid='{"dsr":[6515,6531,3,3]}'>ベンツイミダゾロン基</b>を<b data-parsoid='{"dsr":[6532,6548,3,3]}'>キノキサリンジオン基</b>に置換した構造である。つまり、Pigment Yellow 175に炭素原子1個、酸素原子1個が追加された分子構造のモノアゾ顔料である。分子式は、C22H19N5O8で、分子量は約481 g/mol。色相はPigment Yellow 175より赤味で、Pigment Yellow 154より緑味であり、幾分緑味の黄色を呈する顔料である。濃色ではPigment Yellow 154よりも不透明で、淡色では着色力の強さが際立つ。耐久性に関しては、全面的にPigment Yellow 154と同等以上で、Pigment Yellow 154の弱点である耐溶剤性と耐オーバーラッカー性を格段に向上させている。現在はまだ黄色顔料としては高価である。N-メチルピロリドン中で加熱して製造される[6]。 アゾメチン アゾメチン顔料は、シッフ塩基そのもの、或いは、シッフ塩基の一部を置換した構造、特にイミンを分子構造中に有する顔料。 金属錯体顔料 金属錯体顔料は、高い透明性と濃色と淡色の色差が特徴であるが、彩度の低さなどから市場性が限定的であり、比較的短期間で生産が終了したものもある。 具体的にはPigment Yellow 117、Pigment Yellow 129、Pigment Yellow 150、Pigment Yellow 153がカラーインデックスに記載されている[4]。 Pigment Yellow 117とPigment Yellow 129は濃色ではいわゆるオリーブ色で、淡色は緑味黄である。Pigment Yellow 129は、Pigment Yellow 117に類似した構造の顔料で、Pigment Yellow 117よりは幾分鮮やかである。Pigment Yellow 117はBASFの製品であったが生産終了。 Pigment Yellow 150は濃色では低彩度で低明度の赤味黄であり、淡色は不鮮明な中黄である。チタン白との併用で「レモンイエロー」になると表現されるが、実際にはレモンイエローと呼ぶには随分赤味であり、幾分宣伝的な表現である。Pigment Yellow 150は、2つのバルビツール酸の炭素と化合している水素原子2個をアゾ基で置換した構造、言い換えると、2つのバルビツール酸をアゾ基で架橋した構造のニッケル錯体顔料である。関連する合衆国特許は、United States Patent 3869439である。 Pigment Yellow 153は濃色ではやや暗い黄橙色を呈し、淡色は赤味黄である。濃淡に関わらず、発色が重くやや不透明で曇りがある。彩度は比較的高いが、多くのアゾ顔料程の明度の高さは無い。色相、粒度、外観性状、透明性など幾つもの理由から、プロセスカラーには適さない。ニッケル錯体顔料で、窒素原子と酸素原子が化合した箇所が多く、複数の構造式が知られている。構造中にニトロソ基を有する。 キノフタロン 黄色顔料のキノフタロンイエローは 1968 年に開発された。無水フタル酸とキナルジンから合成される顔料で、フタロシアニン顔料に匹敵する高い堅牢性を具える。高価であるため、あまり普及していない。Colour Index には Colour Index Generic Name Pigment Yellow 138 が記載されている[4]。 イソインドリノン イソインドリノン顔料は、イソインドールの五員環を構成する炭素と化合している水素1個を酸素で置換し、もう一方の水素を脱落させた構造として説明可能な、イソインドリノン骨格</b>を有する顔料である。 具体的には、Pigment Yellow 109[4]、Pigment Yellow 110[4]、Pigment Yellow 173[4]、Pigment Orange 61[5] がある。蛍光を発するが不安定なイソインドールを塩素の導入などによって、耐久性を改良した顔料シリーズである。Pigment Yellow 173は最も緑味で、透明性が高い。導入されている塩素原子は1分子当たり2個。これ以外のPigment Yellow 109、Pigment Yellow 110、Pigment Orange 61に導入されている塩素原子は1分子当たり8個で、高塩素顔料である。Pigment Orange 61は、構造中にアゾ基を有する。 イソインドリン イソインドリン顔料は、イソインドールの五員環を構成する炭素と化合している水素2個を炭素で置換した構造として説明可能な構造を有する顔料である。現在までに、対称性の高い分子構造の顔料は存在していない。具体的には、Pigment Yellow 139[4]、Pigment Yellow 185[4]、Pigment Orange 66[5]、Pigment Orange 69[5]、Pigment Red 260[7] がある。Pigment Red 260は、構造中にシッフ塩基を有する。 アントラキノン 黄色のアントラキノン系の顔料としてColour Index にはColour Index Generic Name、Pigment Yellow 24 が記載されている[4]。このフラバントロンイエローは、1901 年に開発された。アントラキノンの一部を置換した構造を具えた顔料であり、アントラキノン顔料に分類される。260℃まで安定である耐熱性、希釈時の耐光性が際立っている。色数が乏しく高価であり、用途は限定的である。現在は製造中止。 黄色無機顔料 色合いや耐光性、被覆力などの性能から有機顔料では代替できないものがある。毒性が強いものもある。 黄土 世界中で極めて古くから使用されてきた黄色顔料で、フランスやイギリスで良質のものが産出する。いわゆるシエナ土の組成は黄土とほとんど同じで、類似している。水和酸化鉄 Fe2O3・H2O を主たる発色成分とし、珪酸アルミを含有する。様々な成分による自然な色合いに特徴がある。色合いも多様であるが、いわゆる黄土色を呈すると言って障りない。毒性のない黄色無機顔料として知られ、有機顔料が使用できない用途での使用がある。Colour Index Generic Nameは天然黄土がPigment Yellow 43で[4]、合成黄土がPigment Yellow 42である[4]。 コバルト黄 コバルト黄は、含水亜硝酸第二コバルトカリである。彩度が高く堅牢で、黄色の無機顔料の中で唯一、透明である。耐光性はあまり高くない。オーレオリンの名前で絵具として使用されている。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 40である[4]。ただし、コバルト黄によらない「オーレオリン」も存在する。このように、絵具の名称から顔料の組成を即断することはできない。 黄色複合酸化物顔料 チタン-ニッケル-アンチモン 酸化物、チタン-ニッケル-バリウム 酸化物、チタン-クロム-アンチモン 酸化物、ジルコニウム-バナジウム 酸化物などは、黄色を呈する複合酸化物顔料である。複合酸化物顔料 (mixed metal oxide pigment) とは、複数の金属酸化物を混合し、1000℃以上の高温で焼成した顔料である。複合酸化物顔料は着色力が小さいものの、耐熱性、耐候性に優れる。セラミックや耐熱塗料に使用される。焼成顔料 (calcination pigment) とも呼ばれる[8]。 チタン系黄 黄色のチタン系顔料は、下掲のものが知られている。 チタン-ニッケル-アンチモン 酸化物 レモン調の極めて堅牢な顔料。チタン、ニッケル、アンチモンの酸化物固溶体。安全な無機顔料として知られている。1950年代にUSAで製造されるようになった。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 53である[4]。 チタン-ニッケル-バリウム 酸化物 彩度の高い緑味がかったレモン調の顔料。チタン-ニッケル-アンチモン酸化物同様安全な無機顔料として知られている。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 157である[4]。 チタン-クロム-アンチモン 酸化物 鮮明な黄土色といった色合いの顔料。クロムを含む黄色顔料ではあるがクロムが六価ではなく三価の状態になっており、クロム化合物であるが、現在使用されている安全性の高いクロム系顔料同様、安全な顔料として知られている。Colour Index Generic NameはPigment Brown 24である[9]。 チタン-クロム-ニオブ 酸化物 チタン-クロム-アンチモン 酸化物同様クロムが三価の状態で含まれる黄色顔料であり、クロム化合物であるが安全性の高い顔料として知られている。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 162である[4]。 チタン-クロム-タングステン 酸化物 チタン-クロム-アンチモン 酸化物やチタン-クロム-ニオブ 酸化物同様クロムが三価の状態で含まれる黄色顔料であり、クロム化合物であるが安全性の高い顔料として知られている。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 163である[4]。 バナジウムジルコニウム黄 ジルコニアにバナジウムイオンを固溶させて製造される黄色顔料で、セラミック顔料として使用される。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 160である[4]。 バナジウムスズ黄 酸化スズにバナジウムイオンを固溶させて製造される黄色顔料で、セラミック顔料として使用される。バナジウムジルコニウム黄よりも色調が鮮やかである。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 158である[4]。 ビスマスバナジウム黄 ビスマスの化合物とメタバナジン酸アンモニウムを反応させて製造される黄色顔料で、ビスマスのバナジン酸塩である。ビスマス黄 (Bismuth Yellow) とも呼ばれる。鮮やかな色調をもち耐熱性に優れた毒性のない黄色無機顔料であることから、鮮やかな色調ながら毒性が強くなおかつ発色と効果の面で黄色有機顔料による代替を許さなかったカドミウム黄の代替品として使用されることがある[10]。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 184である[4]。 プラセオジム黄 ジルコンに4価のプラセオジムイオンを固溶させて製造される黄色顔料で、セラミック顔料として使用される。黄色の無機顔料の中では安全性が高く、近年は絵具にも使用されている。 石黄 Orpiment 黄色を呈する硫化ヒ素で、各地に産するが毒性があり、その供給に限りがあり今日では顧みられない。純度の高いものは、輝きのある冴えたレモン色を呈する。古画にあっては、荒粒で用いられ、現在でも豊かな黄色を保っている。しばしば、近い関係にあるリアルガーを含んでいる。プリニウスやヴィトルヴィウスが言及している、古典時代に使用された顔料である。ド・ヴィルトの調査によれば、オランダ及びフランドルの絵画には一例も使用が無い。これは錫 - 鉛 - 黄の登場によって、不要になったからだと考えられている。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 39である[4]。 錫 - 鉛 - 黄 14世紀においても僅かに使用されたが、15-17世紀に使用された顔料である。17世紀のナポリ黄の出現により忘却され、かつては、ナポリ黄と混同されていた。1940年デルナー研究所のヤコビ博士のスペクトル分析によって再発見されるまで、様々な文献にも現れない。隠蔽力に優れ、油性媒材、水性媒材ともなじむ。 密陀僧 Massicot 密陀僧・マシコット、金密陀・リサージ (litharge) は共に黄色を呈する一酸化鉛の呼称である。塩基性炭酸鉛を長時間高温で加熱すると黄色の一酸化鉛が得られる。かつてはヨーロッパ絵画に使用されたと言われているが、自然科学的方法で調査すると錫 - 鉛 - 黄である。日本においては法隆寺壁画に使用された。唐から日本に密陀僧が伝わり乾燥促進剤として使用された。 ナポリ黄 主成分はアンチモン酸鉛。イタリアのベスビオス火山で得られたとされる。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 41である[4]。絵具のネープルスイエローは、名前として残る。但しセラミック顔料のネープルスイエローは本物のアンチモン酸鉛が使用されている。 クロム酸系黄 黄鉛、ジンククロメート、バリウムクロメート、ストロンチウムクロメート、カルシウム黄等のクロム酸塩からなる黄色顔料。六価クロムを含むため毒性が強く、また耐光性に弱い上硫化水素により黒変するといった欠点がある。クロム酸系黄のうち黄鉛とジンククロメートは 2000年頃までは錆止め塗料や黄色塗料に大量に使われていたが、毒性や環境問題から使用が制限されてきている。例えば自動車用塗料では既に鉛や六価クロムを含む顔料はほとんど使用されていない(日本自動車工業会 JAMAGAZINE より)。また日本塗料工業会でも自主規格 JPMS 26 を設け、塗料中の鉛を減らすように動いている。 バリウム黄 バリウム黄はクロム酸バリウムで、淡緑黄の顔料でクロム酸カリウムと塩化バリウムの溶液から作る。塩化バリウムが塩化ストロンチウムに置き換わる以外は、ストロンチウム黄と同じ製法である。1809年ヴォークランはクロム酸バリウムの製法を発表したが、これはこの顔料の最初の記録である。バライタイエロー、バライトイエロー、レモンイエローとも言われる。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 31である[4]。 ストロンチウム黄 淡緑黄の顔料でクロム酸カリウムと塩化ストロンチウムの溶液から作る。塩化ストロンチウムが塩化バリウムに置き換わる以外は、バリウム黄と同じ製法である。ウルトラマリンイエローの名称ももつがウルトラマリンとは無関係。クロム酸ストロンチウム。ストロンシャンイエロー、レモンイエローとも言われる。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 32である[4]。 カルシウム黄 クロム酸カルシウムを主成分とする黄色顔料。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 33である[4]。 黄鉛 Chrome Yellow 黄鉛はクロム酸鉛を主成分とする。L.N.ヴォークランは、回想録の 1909 年の欄においてクロム酸鉛の製法および性質を記している。そして1818年に大量生産が開始された。かつて塗料に大量に使用されていたが最近は毒性を考慮して使用が減少している。黒変する。ジャック=ルイ・ダヴィッドは、この顔料のパレットへの採用に関して保守的だった。フィンセント・ファン・ゴッホがよく使用したことも知られている。ゴッホの黄色が独特の色合いをしているのは、黄鉛が黒変する為であり、必ずしも彼の色彩感覚が独創的だったことを意味しない。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 34である[4]。 亜鉛黄 クロム酸亜鉛、クロム酸カリ亜鉛、塩基性クロム酸亜鉛による顔料などを亜鉛黄と呼称する。ジンクイエロー。レモンイエローとも言われる。Colour Index Generic NameはPigment Yellow 36である[4]。 カドミウム黄 組成は硫化カドミウム(Colour Index Generic Name、Pigment Yellow 37[4])もしくは硫化カドミウム-硫化亜鉛(Colour Index Generic Name、Pigment Yellow 35[4])である。Colour Index Generic Nameからはカドモポン黄であるか否かは判別できない。ただし欧米では、カドミウム黄でも毒性の高いPigment Yellow 37ではなく、Pigment Yellow 37よりは毒性が弱いPigment Yellow 35に代替されている。淡色は淡色のビスマスバナジウム黄にも似た色合いであるが、濃色のカドミウム黄は濃色のビスマスバナジウム黄では到底及ばない、高彩度で不透明性の高い無機顔料である。堅牢性は複合酸化物による黄色顔料のほうが高いが、色合いではカドミウム黄が優れる。有毒で高価であり、なおかつ絵具以外ではカドミウム黄と似た色調でなおかつ毒性のない黄色無機顔料であるビスマスバナジウム黄に代替されているため[10]、今日では油絵具や水彩絵具を除いてほとんど使われない。他方、絵具においては、先述の性質から人気が高く、カドミウム黄の優れた特性を全面的に具えた代替物は存在しない[11]。したがって、代替顔料はカドミウム顔料が持つ優れた特性を必要としない場合にこそ勧められる。また、世間ではカドミウム化合物が環境に及ぼす影響を懸念する声が一部存在するが、絵具メーカーが使用するカドミウム顔料は、実用において他の物質に溶け出すことは無い。 黄色に関する事項 黄色に関する概念の歴史 様々な物質の呼称にも色彩を表す語彙が用いられてきた。人体を素材としたものも例外ではない。生薬の人中黄には、黄の字が入る。顔料としても用いられたミイラよりも黄味の色合いである。ミイラは、ルネサンス期の一部の肖像画、それもその下層に少量用いられた。近世にはこれとは異なる処方も存在したが、必ずしも典型的なものではなかった。この時代には既に、酸化鉄を用いた別の顔料も存在していた。 インド 仏教団誕生時から法衣を黄色に染めた。原料はウコン。ウコンからとれる染料の黄色は、古代インドでは、「太陽の黄金色」として珍重された。 中国 宋代から清代までの中国では、黄色は皇帝・皇位を表す色として尊ばれ、皇帝以外の使用が制限された。黄色が皇帝を表す理由に、「黄」と「皇」の発音が同じ(北京官話ではともにhuáng)だからという説がある。また、中国の五行思想で黄色が中央を表すことから、国の中心である象徴として黄色の服を着たともいわれる。黄色は黄帝の象徴である。 現代では黄色と書くと「エッチな」・「卑猥な」の意味となり、日本でいうピンクと同様の意味合いで使われる。 1980年代以降の反精神汚染運動において、低俗・西側かぶれとする文化を「黄色文化」と称する。 日本 奈良時代の冠位十二階において、上から7番目の位(大信)を示す色であった。律令時代以降は無位の者の袍の色とされたが、時代が下るとこの袍は公に用いられることが無くなり、わずかに貴族の子弟が元服の時使用するに至った。 西欧 これには様々な説があるが、第一の説としてイエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダの衣の色が黄色だったことから、西欧では、黄色には負のイメージがあった。道化の服の色でもあった。第4ラテラノ公会議はキリスト教徒とユダヤ人を衣服で区別させることを決議したため、国によってはユダヤ人に黄色の布の標識を着用させる制度が生まれた[12]。近代においても、ナチスはユダヤ人にを着用させた。このため黄色には「裏切り」、「嫉妬」、「排斥」といったネガティブなイメージもある。現在でも西欧では黄色を第一のナショナルカラーとする国は少ない。国旗・紋章において用いる黄色は、金色の代替色であることが多い。 警戒色としての黄色 黄色は視認性の高い色で、特に黒との組み合わせは非常に目立つコントラストとなる。この「黄色と黒」の組み合わせを一般に「警戒色(警告色)」と呼び、交通標識(警戒標識)や軽自動車のナンバープレート(下記参照)、鉄道の踏切、工事現場、各種工場などで多用される。警戒色としての黄色と黒の組み合わせは、太陽の色である黄色と、闇夜の色である黒を組み合わせる事で、視認性を高めている。俗に「虎マーク」とも呼ばれている。 日本海海戦のロシア艦隊は、煙突を黄色と黒に塗り分けており、日本艦隊にとって視認しやすかったと言われている。また、蜂の体色も、黄色と黒の組み合わせ(縦縞)であることが多い。これは、蜂は毒針で刺す能力を持つ自分を、視覚的に他の動物に印象づけることで、外の動物が避けてくれるようになる効果を持つと言われており、これを生物学の分野でも「警戒色」という。ちなみに、虻やカミキリムシの一部など、擬態のためにこの体色となる生物も少なくない。 このように、黄色は暗い所でかなり目立つ色なので、交通安全には必需の色であると言える。特に小学生が登下校時に被る通学帽(黄色い帽子)や、幼稚園児の通園バッグや、児童用の雨傘には、黄色一色が用いられることが多い(かつては珠算塾の通塾バッグなどにも黄色が多く使われていた)。かっぱやヘルメットにも、黄色一色が用いられることも多い。関連してアメリカ合衆国のスクールバスの多くは黄色に黒帯のカラーリングを採用する。(en:School bus yellowも参照) 近似色 3 檸檬色 クリーム色 淡黄色 浅黄色 山吹色 黄土色 金色 オレンジ色 橙色 琥珀色 ミカドイエロー サフラン色 玉蜀黍色 アプリコット ベージュ 生成色 カーキ色 バフ ジャスミン ストロー 茶色 オリーブ色 黄緑 萌黄 ライムグリーン 緑 黄1号 黄5号 関連項目 シアン マゼンタ 色 色名一覧 日本の色の一覧 黄で始まる記事の一覧 脚注 参考文献 『色彩学概説』 千々岩 英彰 東京大学出版会 2001.4 ISBN 4130820850 『色彩論の基本法則』ハラルド キュッパース (著), Harald K¨uppers (原著), 沢田 俊一 (翻訳) 中央公論美術出版 1997.07 ISBN 9784805503348 『顔料の事典』 伊藤 征司郎(編集) 朝倉書店 2000.10 ISBN 978-4254252439 『有機顔料ハンドブック』 橋本勲 カラーオフィス 2006.5 『絵具の科学』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1994.5(新装普及版) ISBN 480550286X 『絵具材料ハンドブック』 ホルベイン工業技術部編 中央公論美術出版社 1997.4(新装普及版) ISBN 4805502878 『絵画技術入門―テンペラ絵具と油絵具による混合技法(新技法シリーズ)』 佐藤 一郎 著 美術出版社 1988.11 ISBN 978-4568321463 『カラー版 絵画表現のしくみ―技法と画材の小百科』森田 恒之監修 森田 恒之ほか執筆 美術出版社 2000.3 ISBN 4568300533 『絵画材料事典』 ラザフォード・J・ゲッテンス・ジョージ・L・スタウト著 森田恒之訳 美術出版社 1999.6 ISBN 4254252439 『広辞苑 第五版』新村 出 岩波書店 1998.11 ISBN 978-4000801126 『漢字源』漢字源 藤堂 明保,竹田 晃,松本 昭,加納 喜光 学習研究社 改訂第四版 2006.12 ISBN 978-4053018281 『漢字源』藤堂 明保,竹田 晃,松本 昭,加納 喜光 学習研究社 改訂新版 2001.11 ISBN 978-4053008893 『ジーニアス英和辞典』 小西 友七,南出 康世(編集) 大修館書店 第3版 2001.11 ISBN 978-4469041583 『ジーニアス和英辞典』 小西 友七,南出 康世(編集) 大修館書店 第2版 2003.11 ISBN 978-4469041651 近江源太郎・監修 『色々な色』 光琳社出版 1996年 ISBN 4771302324 清野恒介・島森功 『色名事典』 新紀元社、2005年7月。ISBN 4-7753-0384-8。 永田泰弘・監修 『新版 色の手帖』 小学館 2002年 ISBN 4095040025 福田邦夫・著 『色の名前はどこからきたか』 青娥書房 1999年 ISBN 4790601803 福田邦夫・著 『色の名前507』主婦の友社 2006年 ISBN 4072485403 藤井健三・監修 『京の色事典330』 平凡社 2004年 ISBN 4582634125
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ケネス・アール・ウィルバー・ジュニアの著作は日本語にも翻訳されていますか?
ケン・ウィルバー
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ケネス・アール・ウィルバー・ジュニア(Kenneth Earl "Ken" Wilber Junior, 1949年1月31日 - )は、アメリカの現代思想家。インテグラル思想の提唱者。アメリカ合衆国、オクラホマ州生まれ。20以上にも及ぶ著作は世界中の言語に翻訳され、専門家・一般読者の双方に幅広く読まれている。代表作は『進化の構造』(Sex, ecology, spirituality / Shambhala, 1995)、 『宗教と科学の統合』(The marriage of sense and soul / Random House, 1998)、『万物の歴史』(A Brief history of Everything / Shambhala, 1996)など。 著作活動以外では、インテグラル思想の研究組織であるIntegral Instituteの主催、そして、2005年には総合大学であるIntegral Universityを発足、現在同大学のPresidentとして運営の中核を担っている。トランスパーソナル心理学の代表的論客として、その発展に大きく貢献した(1990年代には、トランスパーソナル思想を構成要素として統合するインテグラル思想を提唱して、トランスパーソナルとの「訣別」を表明している)。 略歴 ケン・ウィルバーは、1949年1月31日、アメリカ合衆国のオクラホマ州に生まれた。合衆国空軍に在籍していた父親の頻繁な配置転換にともない、幼児期は国内を転々とした(転居先には、バミューダ・エルパソ・テキサス・アイダホ・グレイトフォールズ・モンタナが含まれる)。ウィルバーは、当時を回想して、頻繁な転居が苦痛であったこと、そして、そうした経験のなかで物事に執着しない態度を習得したことを述懐している。いずれにしても、この時期からウィルバーは、勉強において非常に優秀な成績をおさめ、数々の賞を受賞していた。また、当時から非常に社交的な性格で、運動や自治活動等、課外活動にも積極的に取り組んでいたという。 高校生活をネブラスカ州のリンカーンで修了後、1968年にウィルバーはデューク大学の医学部に進学する。しかし、ウィルバーは、進学後、すぐに「老子」(Tao Te Ching)と出逢い、それまでに自己を支えてきた現代科学を核とする思想的基盤を根本的に揺さぶられる深刻な精神的危機を経験することになる。こうした危機のなか、ウィルバーはデューク大学を退学し、ネブラスカにもどり、University of Nebraskaに再入学する。この頃、ウィルバーは、化学と生物学を専攻しながら、同時に、東西の哲学書を貪るように読破し、また、瞑想等の実践に集中的に取り組むようになったという。その後、ウィルバーは、生物化学の専攻生として大学院に進学するが、その頃すでに哲学的思索と修行の実践に自己の重心を移行していたウィルバーは、学位の取得を目前に退学をすることになる。 退学後、ウィルバーは、家庭教師や皿洗いをはじめとする諸々のアルバイトをして生計を立てながら、思索と修行と執筆の生活に従事する。1972年には、家庭教師の生徒のひとりであったエイミー・ワグナー(Amy Wagner)と結婚している。結婚生活は1981年まで続いた。また、この頃、ウィルバーは、自らの文章技術を磨くために、著名な東洋思想研究者であるアラン・ワッツ(Alan Watts)の全著作をノートに書きうつしたという。 ウィルバーの執筆作業は、普通、まず10月間ほど資料を読みこむ作業をすることからはじまるという。そして、あるとき(「ある朝、目覚めると」)、自らのなかに作品が完全なかたちで完成していることに気づくのだという。それからの数月間は、この「作品」を文字として書きとめていく作業に没頭することになる。今日まで継続するウィルバーの旺盛な創造活動は、基本的に、常にこうした過程をとおして展開しているということだが、それはこの時期に著者のなかで確立されたものである。 1973年、ウィルバーは『意識のスペクトル』(The Spectrum of Consciousness)を完成する。この作品は、20以上の出版社に断られた後、1977年にQuest Booksより出版される。この作品は非常に評価され、ウィルバーは瞬く間に意識研究における新しいパイオニアとして認識されることになる。この成功を契機として、ウィルバーのもとには多数の教職の招待が舞いこむようになる。ウィルバーは、こうしたリクエストにこたえて、短期的にレクチャーやワークショップの提供を中心とした教育活動に従事することになる。しかし、教育活動の喜びを満喫しながらも、ウィルバーは、間もなく執筆生活に自らの活動を集中することを決意する。この決断について、ウィルバーはこう述懐する。 それは今という時間をどう活用するかについての決断ということできるものでした。この瞬間に、わたしは、過去に書きあげたものについて説明をすることもできますし、また、新しいものを生みだすこともできます。それは、これらのうちどちらを選択するかということでした。 1978年、ウィルバーは、ジャック・クリッテンデン(Jack Crittenden)と協力して、雑誌ReVisionを創刊する。1979年には、『意識のスペクトル』(The Spectrum of Consciousness)の「要約」である『無境界』(No Boundary)を出版。その数年後には、ウィルバーの理論体系の新段階の到来を告げる『アートマン・プロジェクト』(The Atman Project)(1980年)と『エデンより』(Up from Eden)(1981年)を発表する。また、この頃、ReVision編集の作業に集中するために、マサチューセッツ州ケンブリッジに移動する。 1983年、ウィルバーはカリフォルニア州マリン郡に移動する。間もなくして、ウィルバーはロジャー・ウォルシュ(Roger Walsh)とフランシス・ヴォーン(Francis Vaughan)の紹介でトレヤ・キラム(Treya Killam)と出逢い、結婚する。しかし、結婚の数日後、トレヤは乳癌と診断され、1984年から1987年まで、ウィルバーは、執筆活動をほぼ完全に停止して、彼女の看病に集中することになる。後日ウィルバーは、この過酷な状況のなかで、自らが一時的に瞑想の実践を放棄し、アルコールに依存するようになったことを報告している。また、1985年、療養生活のために夫婦で訪問したネバダ州レイク・タホで、ウィルバーは、汚染物質流出のためにひきおこされた疾病(RNase)に罹患する(ウィルバーは、今日も、この慢性疾患との闘病生活を続けている)。1987年、夫婦はコロラド州ボルダーに移動し、1989年のトレヤの死まで、比較的な平穏のなかで時間を過ごすことになる。ウィルバーは、トレヤの遺した日記を織り交ぜながら、ふたりの出逢いから離別までを著作『グレース・アンド・グリット』(Grace and Grit)(1991)にまとめている。 数年間の喪に服した後、1993年に、ウィルバーは10年ぶりの理論書を完成させる(出版は1995年)。それが、今日、ウィルバーの代表作として認知されている『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)である(この作品のまえに発表した最後の理論書はTransformations of Consciousness)。この作品について、著者は、「自らの最初の成熟した作品」("my first mature work")と形容しており、現在、構想されている「コスモス三部作」(Kosmos Trilogy)の第一部を構成する作品であるという。 1996年には『進化の構造』の「要約」として『万物の歴史』(A Brief History of Everything)を、そして、1997年には『進化の構造』について投げかけられた批判に応答することを目的として執筆された論文をまとめた『統合心理学への道』(The Eye of Spirit)を発表した。また、1998年には、Random Houseより、『科学と宗教の統合』(The Marriage of Sense and Soul)を発表している。 1997年、ウィルバーは、日々の哲学的考察を日記形式でまとめて、これを1999年に『ワン・テイスト』(One Taste)として出版している。この作品で、ウィルバーは、自らの理論家としての側面のみならず、実践家としての側面を強調している。その後、1999年には Integral Psychology を、2000年には『万物の理論』(A Theory of Everything)を、そして、2002年には初めての小説作品である Boomeritis を発表している。ウィルバーは、この時期をそれまでの執筆生活において最も生産的な時期であると回顧している(また、この時期、Shambhala Publicationsは、ウィルバーの全著作を編纂した集成の刊行を開始している――現在(2006年4月)、8巻が刊行済み)。 私生活の領域では、1997年にボウルダーにあるNaropa Instituteの修士課程に在籍していたマーシー・ウォルターズ(Marci Walters)と交際をはじめ、2001年に結婚をしている(2002年に離婚)。近年は、コロラド州デンバーに移動して、著述活動、そして、自らの主催するIntegral InstituteやIntegral Universityの運営活動に取り組んでいる。 思想 「意識のスペクトラム」(Spectrum of Consciousness)(Wilber-I) ウィルバーの思想活動の基盤にある根本的な発想は、次のように説明することができるだろう。 世界に存在するあらゆる視点は必ずある真実を内包する。従って、必要とされるのは、存在する多数の視点のうち、どれを最も正しいものとして選択するかということではなく、それぞれの視点が内包する真実を認識・尊重したうえで、それらがどのように相互に関係しているかを理解することである。 こうした発想は、ウィルバーが、自らの自己探求の過程において、多様な技法を経験するうちに直面した事実に対する素朴な疑問を基盤としている。それは、いずれの自己探求の視点も非常に重要な洞察をもたらしてくれるものでありながら、それぞれは、自らが最も正当なものであることを主張して、相互に争いをしているという事実に対する疑問――それぞれの存在価値を認識・尊重したうえで、それらの共存を許容する方法はないのだろうかという疑問ということができるだろう。 人間は世界そのものを体験することはできない。人間は、(内的・外的)世界を体験する際、世界を体験するという行為そのものをとおして、不可避的に世界の「創造」に参画することになる。その意味で、存在するあらゆる視点は、それぞれの世界を構築する創造の装置ということのできるものである。しかし、それぞれの創造行為は、また、独特の方法で世界を照明するとともに、同時に、独特の方法で世界を覆い隠してしまう。その意味で、あらゆる視点は構造的に盲点を内包するのである。 こうした事実に着目したウィルバーは、それぞれの視点が相補的に存在することを可能とするための枠組の構想に取り組むことになる。今日、広範に認知されている「意識のスペクトラム」(Spectrum of Consciousness)理論とは、日々の思索と修行の実践のなかで、こうした要求に応えるために創造されたのである。その概要は下記のように説明することができるだろう。 人間の意識は、複数の階層により構成されており、人間の成長はこれらの階層を段階的に通過することをとおして実現される。そして、この段階的成長の過程は、人間の生得的な自己中心性の克服の過程としてとらえることのできるものである。そして、古今東西の自己探求の方法は、この成長過程の各段階において経験される諸々の課題・問題を解決するための触媒(catalyst)として機能するのである。こうした成長段階は、大別して3 (4) つの段階に分類することができるという。 プリパーソナル(pre-personal):生物としての基盤となる肉体的衝動の充足を行動論理とする段階。この段階において、人間は、生命体として生存するために必要となる基礎的な自己認識を確立する。世界とは峻別された存在――それゆえに世界の脅威に対して脆弱な存在――としての自己を認識し、それを防衛・維持することを最高の関心事とする。この段階における課題・問題を解決するための有効な方法としては、例えば、認知行動療法があげられる。これは、人格の基盤となる基礎的構造を構築することを主眼とするものである。 前期パーソナル(personal):共同体の言語・規範を習得して、共同体の構成員としての自己を確立することを行動論理とする段階。共同体において共有されている普遍的な規範を内面化することをとおして、自己の肉体的衝動の呪縛を克服することがこの成長段階における重要な課題となる。この段階における成長課題は、内面化された共同体の規範を徐々に対象化する能力を涵養することである。これにより、自己を規範と完全に同一化するのではなく、それらとの関係性(自由)を確保することができるようになるのである。こうした成長課題を解決するための有効な方法としては、例えば、共同体の規範を内面化する過程において発生した抑圧・分裂等の内的な歪(ひずみ)を解決することを目的とする精神分析療法があげられる。 後期パーソナル(personal):内面化された諸々の共同体の規範・信念等を対象化して、自己の独自の価値体系にもとづいて、それらをあらためて構成しなおす段階。自己の所属する共同体の期待に盲目的に応えるのではなく、それらをさらに包括的な視野(世界中心的視野)から検討したうえで、自己の責任(response-ability)にもとづいて自律的な行動をすることができる。この段階におけるこうした成長課題を解決するための方法としては、例えば、実存主義療法があげられる。これは、個人としての自己の存在を定義する諸々の構造的限定条件(例:死)を認識・抱擁したうえで、それらの条件の範囲内で自己の人生を充実させるための「思想」を構築・実践する能力の涵養を援助する。 トランスパーソナル(transpersonal・postpersonal):自己感覚(self-sense)を個人の領域から霊性の領域へと拡張をする段階。自己の存在基盤を時空間に存在する個人としての存在から時空間を内包(観想)する「目撃者」(Soul・Spirit)へと移行する段階。この段階における成長課題を解決するための方法としては、例えば、瞑想に代表される、東洋宗教により開発された意識変容の方法があげられる。こうした方法は、時空間に存在する個人としての自己の成熟ではなく、自己(identity)の基盤をそうした個人としての自己をあらしめる背景(Soul・Spirit)へと移行することを目的とする。 (人間の意識段階を上記のように3 (4) つに分類するのは、あくまでも便宜的なものであり、必ずしも、この数字にこだわる必要はない。こうした階層構造というのは、虹のようなものであり、その層数は、識別する視点により、多様なものとなる。実際、ウィルバーは、著作のなかで、必要に応じて、各階層をさらに詳細に峻別して説明をしている。各段階において個人が直面する課題・問題とそれらに適応した対応方法についての詳細な説明は、Transformations of Consciousnessの所収論文を参照していただきたい。) ここで留意するべきことは、多数の発達心理学者が指摘するように、こうした成長段階というものが、非常に流動的なものであるということである。個人の成長段階とは、あくまでも重心(“Center of Gravity”)にすぎず、それは、個人の生存状況との関係性のなかで常に変動しつづけているものである。また、個人の内的領域について把握するうえで、段階(“stages”)のみならず、状態(“states”)・領域(“streams”)・スタイル(“styles”)等の要素にも着目することが重要になる。その意味では、こうした段階的な発達理論がインテグラル思想の人間観の「核」を構成するものであると見なすことは、深刻な誤謬を犯すことになるといえるだろう。 重要なことは、ウィルバーの思想活動を貫く「統合の衝動」が、その基本において、人間の認識能力というものが構造的に盲点を内包することの認識にもとづき、それを可能な限り克服することを志向して展開するものであるということを認識することであろう。そうした問題意識は、ウィルバーの思想活動の最初の理論体系である「意識のスペクトラム」にも刻印されているのである。 前・後の混同(Pre/Post Fallacy)(Wilber-II) 「前・後の混同」(“Pre/Post Fallacy”)とは、実際には非常に異なる2つの成長段階をある共通項の存在を理由に短絡的に混同することを意味する。 『アートマン・プロジェクト』(The Atman Project)と『エデンより』(Up from Eden)(これらは、ひとつの作品として構想された)の執筆中、ウィルバーは、深刻な思想的危機を経験する。これは、『意識のスペクトル』(The Spectrum of Consciousness)において展開されたモデルが内包していた問題が、これらの作品の執筆過程のなかで朧気に認識されはじめたことに起因するものであるという。 『意識のスペクトル』において、ウィルバーは、人間の意識成長の過程を次のように描写した。 誕生の瞬間において、人間は、「堕落」(the Fall)を経験するまえの「至福」の状態にある。しかし、成長の過程のなかで、人間は、徐々に、こうした「至福」の状態から苦悩に満たされた状態へと「堕落」していく。それは、誕生の瞬間に存在していた霊とのつながりを喪失することなのである。意識の成長とは、こうして「堕落」をとおして「喪失」された霊(Spirit)とのつながりを恢復する過程なのである。 しかし、『アートマン・プロジェクト』と『エデンより』の執筆中、ウィルバーは、こうした認識が「堕落」というものについての、誤解を内包していたことを認識する。この誤解について、ウィルバー(1983/2005)は、後日、次のように総括している。 『意識のスペクトル』が内包していた問題とは、2種類の「堕落」(the Fall)――「存在論的堕落」(“metaphysical fall”)と「心理的堕落」(“psychological fall”)――の混同と形容できるものである。「存在論的堕落」とは、霊との意識的な同一感覚の喪失、そして、それにもとづく「罪」(疎外・別離・二元性・有限性)の世界への埋没である。そして、「心理的堕落」とは、自らがそうした堕落した状況にあることの内省的な認識である。 霊とは、この現象世界の基盤であり、あらゆる存在は一瞬たりともそれと疎外された状態で存在することはできない。つまり、この現象世界のあらゆる存在は、常に完全なかたちで霊と結びついており、また、霊の顕現として存在しているのである。したがって、人間の直面する問題は、霊との結びつきをいかにして確立するかということではなく、むしろ、霊との結びつきが確立されていることをいかにして認識するかということなのである。 人間は、成長過程において、内省能力が成熟してくると、自らが「罪」の世界に生きていることを認識するようになる。内省能力の成熟がもたらすこうした認識は、不可避的に、精神的な苦悩を醸成することになる。そして、そうした苦悩は――もしそれを抑圧することなく対峙することができるならば――われわれを自らを救済するための積極的な取り組みへと突き動かすことになる。ウィルバーは、こうした成熟した内省能力の確立を契機としてもたらされる精神的な転換を「外的方向性」(“Outward Arc”)から「内的方向性」(“Inward Arc”)への転換と形容するが、それは、人間の人格成長がより高度の成熟段階であるトランスパーソナル段階へと向かうことができるために必要とされるものなのである。つまり、「存在論的堕落」の解決の可能性は、世界に存在することが構造的に内包する問題(「罪」)と対峙することが醸成するこうした苦悩の経験――「心理的堕落」――をとおしてもたらされるのである。 人間は、世界に誕生することそのものをとおして、「存在論的堕落」を経験している。その意味で、すべての人間は生まれながらにして「地獄」(“Hell”)に存在しているのである。しかし、自らが「地獄」に存在していることを認識することができるためには、そうした認識を可能とする内省能力を構築する必要がある。そうした能力が構築されるまでは、人間は、「存在論的堕落」という自らの状況そのものを把握することができず、結果として、「無意識的地獄」(“Unconscious Hell”)を生きることになる。 そうした自己内省力を欠如した状態にある人間の姿は、傍目には平穏に見えるかもしれない。しかし、実際には、その自覚が欠如しているだけで、当人の存在は「罪」に特徴づけられている。内省力の欠如は、内的な平穏という外観をあたえはするが、実際には、彼らの存在は、自らの存在論的状況に自覚的である人間と同様、「罪」に起因する諸々の執着により特徴づけられているのである。むしろ、自らが救済を必要としていることを認識することができていないという意味では、「天国」(“Heaven”)と最も乖離したところにいる状態ということができるだろう。真の救済のために必要とされるのは、そうした虚偽の平穏状態に留まることではなく、自らが救済を必要とすることを自覚することなのである。そして、これは、いわば、「無意識的地獄」を脱却して「意識的地獄」(“Conscious Hell”)へ前進していく行為ということのできるものである。こうした成長をとおして、人間は、はじめて「意識的天国」(“Conscious Heaven”)に到達するための可能性を生みだすことができるのである。 意識成長の過程をとおして内省能力が確立されてくれば、結果として、人々は、「意識的地獄」のなかで、苦悩と苦闘しながら日常を暮らすことになる。そうした状況に置かれた人間の視点には、しばしば、自己を執拗に苦悶させる苦悩から「解放」されることが、救済の証左として意識されるようになる。実際には、そうした苦悩は、「無意識的地獄」から「意識的地獄」への移行という非常に重要な意識深化の過程を経て獲得したものであるにもかかわらず、そのあまりの重圧のために、苦悩の存在しないことそのものが救済であると思いこんでしまうのである。こうした精神状態において、「無意識的地獄」と「意識的天国」とが――「意識的地獄」を特徴づける苦悩に煩わされていないと意味において――どちらもあたかも同じものであるように思われてくるのは自然なことであるといえるだろう。「前・後の混同」(“Pre/Post Fallacy”)とは、このように実際には非常に異なる成長段階をある共通項の存在を理由に短絡的に混同することを意味する。そして、ウィルバーが説明するように、『意識のスペクトル』は、まさに、こうした混同を犯していたのである。 普通、こうした混同は、結果として、2つの混乱を生みだすことになる。ひとつは、高度の成長段階(例:トランスパーソナル段階)を低度の成長段階(例:プリパーソナル段階)として誤解すること(“Reductionism”)。そして、もうひとつは、低度の成長段階(例:プリパーソナル段階)を高度の成長段階(例:トランスパーソナル段階)として誤解すること(“Elevationism”)である。前者の典型的な例としては、高度の宗教的体験を病的な退行体験として解釈するものがあげられる。そして、後者の典型的な例としては、幼児的な体験を高度の宗教的体験として解釈するものがあげられる。 いうまでもなく、こうした理論的な混同は、実践的な混乱をもたらすことになる。例えば、前者の場合、突発的・瞬間的に経験された宗教体験を構造的な意識変容の過程を促進することをとおして統合することが重要になるときに、それを病的な退行体験として誤解することにより、薬物投与等の不適切な介入がなされることになる。また、後者の場合、人格構造が脆弱であるために発生した病的体験を高度の宗教体験として誤解することにより、そうした状況において必要となる人格構造の補強を志向する介入方法ではなく、瞑想等の人格構造を対象化する介入方法が実践されることになる。これらの実践的な混乱は、臨床現場においては、時としてクライアントのなかに深刻な「傷」を生みだすことになる危険性を孕むものである。 ウィルバーの報告によれば、これまでの執筆活動において、こうした枠組は、普通、瞬間的な霊感のなかにもたらされるという。例えば、この「意識のスペクトラム」理論の場合、集中的な瞑想体験の最中に経験した、この惑星における生命の歴史をその主体として追体験するような体験のなかにもたらされた洞察を理論化したものであるという(こうした体験は集中的な瞑想体験においては必ずしも珍しいものではない)。 発達の領域(Lines of Development)(Wilber-III) 人間の人格的発達について検討しようとするときに、複数の発達領域を認識することが重要となることをケン・ウィルバーは強調する。今日、注目を集めているHoward GardnerのMultiple Intelligence Theoryにも象徴されるように、人間の発達領域をひとつのものとしてとらえ、その発達度を測定することが個人の成長段階の把握を可能とするという発想には、修正がくわえられはじめている(例えば、"IQ"に対する相補的な概念として"EQ"というものが提唱されはじめていることは、こうした動向の端的なあらわれといえるだろう)。これまでに使用されてきた視点(測定方法)の価値を認識したうえで、しかし、それでは十全にとらえられない人間存在の他領域を認識・尊重することをとおして、はじめて人間性の包括的な理解に近づくことができるという姿勢は、ウィルバーのインテグラル理論の非常に重要な構成要素である。 具体的な発達領域(Lines of Development)の代表的なものとして、例えば、この領域における代表的研究者であるHoward Gardner (1983/1993) は、下記のものを挙げている。 言語(Linguistic Intelligence) 音楽(Musical Intelligence) 論理・数学(logical-mathematical) 空間感覚(Spatial Intelligence) 身体・運動(Bodily-Kinesthetic Intelligence) 自己(Personal Intelligence―intrapersonalとinterpersonal) また、その後の調査にもとづき、Gardner (1999) は下記の2つをくわえている。 自然(Naturalist Intelligence) 実存(Existential Intelligence) 留意するべきことは、これらの発達領域が、ある程度の自律性を保ちながら、個人のなかに並存しているということである。それぞれの発達領域は、独自の「介入」――「支援」(support)と「挑戦」(challenge)――を必要としながら、独自のダイナミズムにもとづいて段階的に成長をするのである。 また、人間がこうした自律的に展開する複数の領域を内包する存在であるということは、必然的に、個人の存在をあるひとつの発達段階に成立するものとして定義することが不可能であることを示唆する。 ただ、複数の発達領域の存在を認識するとは、必ずしも、それらの発達領域を列記することではない。同時に重要となるのは、並存する発達領域がどのような相互関係にあるのかということについて検討することである。例えば、その問題について検討をするうえで、下記のような質問が想起されるだろう。 ある発達領域における課題・問題に取り組むうえで、どの並存する発達領域に働きかけることにより、成長(治療)を効果的に促進できるのか? ある発達領域における課題・問題を克服することができるまえに、まず、どの並存する発達領域において成長(治癒)が実現する必要があるのか? 人間の複雑性を認識・尊重したところに発せられるこうした問題意識の背景には、関係性というものへの感覚(認識)が存在する。こうした感覚は、今日のように、ある課題・問題に取り組むうえで、複数の方法を統合的に活用することの有効性が広範に認識されはじめている現代という時代において、とりわけ重要になることはいうまでもない。 ここで、ウィルバーは、これらの並存する発達領域をひとつの人格の構成要素としてまとめる意識の統合機能(integrative capacity of the psyche)に注目する。これは、人格の内部に存在する諸々の能力を自己(identity)の重要な構成要素として抱擁する機能と形容できるものである。結果として、ある能力は自己の構成要素として重視されることになり、また、ある機能は自己の構成要素として放擲されることになる。こうした「取捨選択」の「判断」にもとづいて、自己の内部に存在する諸能力を整合性をもつ組織(self-system)として束ねる機能をウィルバーは意識の統合機能と形容するのである。その意味では、こうした領域は、人間の主体(subjectivity)のよりどころとして、とりわけ重要となる発達領域であるといえるだろう。つまり、これこそが、「意識の進化の中枢にあるものなのである」(Wilber, 2000, p. 35)。 この機能は、(自他識別機能・意味構築機能等)人間の根源的な精神機能を可能とする認知能力(cognitive capacity)として、発達心理学により綿密に研究されてきたものである。インテグラル思想においては、人間の意識体験の基盤に存在する「自己感覚」("the proximate self-sense")と形容されている。 ウィルバーは、認知能力の発達度は、他の発達領域における成長の可能性を設定するものとして、とりわけ重要となると指摘する。例えば倫理(morality)(Carol Gilligan)や信仰(faith)(James Fowler)等の領域における発達は、認知能力の発達段階を超えるかたちでは、展開しえないという。つまり、認知能力の発達度とは、これら他領域における発達の上限を設定するのである。その意味では、倫理や信仰の領域における成長を実現するためには、こうした認知能力の成熟が非常に重要となるといえるだろう。 因みに、トランスパーソナル研究において強調される「個を超えることができる前に、まず、個を構築しなければならない」("You have to be somebody before you can be nobody")(Jack Engler in Wilber, 1997, p. 353)という洞察は、あくまでも、人間の主体(subjectivity)のよりどころとして機能する認知能力(cognitive capacity)というひとつの発達領域についてのみあてはまるものである。上記の洞察が人間存在のどの領域にあてはまるものであるのかを明確化することなしに、その妥当性について検討をするのは無意味である。 尚、上記と関連する主題である、並存する意識の3領域――"Frontal Line"・"Soul Line"・"Causal Line"――については、「統合心理学への道」(The Eye of Spirit)を参照していただきたい。また、人間の意識成長について検討するうえで、「発達段階」("stages")・「発達領域」("lines")とともに重要となる意識状態("states")・性格タイプ("types")については、『統合心理学』(Integral Psychology)を参照していただきたい。 人類種の進化(Evolution of Human Species 個人の人格的成長は、常に、関係性のなかで展開するものである。Robert Kegan (1994) の指摘するように、成長は、周囲の適切な介入――支援(support)と挑戦(challenge)――を必要とする。それらは、成長への潜在能力を解発する必要因子として機能するのである。そして、そのどちらが欠落しても、成長はありえないのである。必然的に、人間の意識の深化の可能性について探求するうえで、「個」(the individual)と「集合」(the collective)の有機的な関連性を把握することは、非常に重要となる。 インテグラル思想を構築するうえで、ウィルバーは、こうした課題について綿密な議論を展開している(Wilber, 1981/1996, 1983/2005, 1995/2000)。「個」と「集合」が重要な性質上のちがいをもつことを認識したうえで、ウィルバーは、それらを、人類の進化に参与する2つの重要要素として位置づける。 人類の進化とは、「個」の進化と「集合」の進化を相補的なものとして内包しながら展開する過程である。そのため、人間は、個人としての救済を追求しようとするとき、不可避的に、共同体の進化に取り組むことを要求されるのである。 インテグラル思想においては、「個」の進化と「集合」の進化は、霊(Spirit)という基盤のうえに、そして、霊の顕現として展開するプロセスの2つの側面である。霊との「つながり」(identity)を自らの本質的な条件として認識することを窮極的な救済としてとらえるインテグラル思想において、自らの本質的な課題として、これらの側面における成長(治癒)に取り組むことは、必須の課題なのである。 しかし、現代において、進化という概念を――自然世界ではなく――人類に適応することの妥当性には疑問が投げかけられている。ウィルバーは、そうした状況が存在する背景には、大別して3つの勢力が存在することを指摘している。 過去の宗教的世界観を踏襲する伝統主義者にとり、「人類進化」を伝統的な世界観の否定をとおして達成されるものとしてとらえる現代の歴史観は、受容することのできるものではない。伝統主義者にとり、今日において、「進化」と見なされているものは、むしろ、正当な世界観を継承することに失敗する過程、すなわち、「堕落」の過程として見なされるべきものなのである。 人類の歴史を太古に存在していた「楽園」("Eden")を「追放」されることを契機として始まる「堕落」の過程として見なす回顧的浪漫主義者("Retro-Romantics")にとり、進化のダイナミクスが人類に働いているという見解は受容できるものではない。彼らにとり、人類の歴史とは、「楽園」を「追放」された堕落した存在による「罪」の歴史なのである。そして、大量消費主義という思想を基盤として惑星規模で自然資源を搾取する体制を確立した現代という時代は、人類の「罪」が最大限に肥大化した時代なのである。こうした状況において、彼らが希求するのは、太古に存在していた「楽園」へと回帰することである。 今日、惑星規模で展開する現代文明を構築することをとおして、人類が、進化の最終的な目的地に到達したと信じる合理主義者にとり、今後、質的にさらに高度な認識構造、そして、それを基盤とする世界観が発生するとは信じがたい。実際、「意識の進化」という標語のもと、新しい世界観("New Paradigm")として提唱されるものは、おうおうにして、これまでの歴史のなかで獲得された成果を蔑ろにした退行的(regressive)なものである。彼らにとり、人類の進化とは基本的に完了しているのであり、今後、必要とされるのは、こうして確立された成果を展開していくことなのである。 これらの「立場」は、独自の価値構造を基盤とするものであるが、それぞれは、あらゆる価値構造がそうであるように、何らかの重要な真実をとらえるものであるとともに、また、必ず何らかの盲点を内包している。現代において必要とされているのは、これらの「立場」の内包する真実と盲点を認識したうえで、人類進化の妥当性を確立することであるとウィルバーは主張する。人類進化という概念を復権するために必要となる重要法則としてウィルバーは、下記のものをあげる。 進化の両義性:進化とは、現在の段階において解決することのできない課題・問題を高次の段階を構築することをとおして解決する過程である。しかし、そうした高次の発達段階を構築することをとおして、過去の段階には存在しなかった問題・課題を創造することになる。その意味で、進化とは、常に、新しい可能性と新しい危険性をもたらす過程であるということができる。また、進化の過程で、超越と継承(transcend and include)という法則のもと、共同体の構造が複雑化するなかで、共同体は、その複雑性ゆえに、必然的に比較的に単純な構造においては存在しえない問題・課題を包含することになる。人類の進化について検討するうえで、高次の構造を構築するということが不可避的に内包することになる両義性に注目することが非常に重要になる。 差異化と乖離の識別:進化の過程に働く重要な法則のひとつとして、「差異化」(differentiation)がある。これは、当初はひとつのものとして混乱・混同していたものに秩序をあたえて、そこに内包されていた要素を明確化して、新しい関係性のなかに位置づけることを意味する。例えば、個人の意識の深化において、理性的な構造としての自我を確立して、自己の身体を対象化することは、肉体的衝動の絶対的な支配からの自己の自由を確保するために、必須の課題となる。しかし、そうした差異化が過剰なものとなるとき、身体は個人の自己(identity)の構成要素として抱擁されず、結果として、乖離(dissociation)することになる。今日、個人の領域において蔓延している身体性の乖離は、共同体の領域においては、自然(nature)との乖離をもたらす。こうした病理は、今日、惑星規模の深刻な自然破壊として結実している。進化の過程において、差異化は非常に重要な法則であるが、これは、また、常に乖離の危険性を宿していることを認識する必要がある。 超越と抑圧の識別:進化の過程において、高次の構造は、常に、低次の構造を対象化して、自己の構成要素(基盤)として抱擁する。これにより、高次の構造は、自己の構成要素として抱擁された対象に対して支配力を行使して、操作することができるようになるのである("downward causation")。しかし、こうした低次階層への操作能力は、時として、歪なかたちで行使され、結果として、諸々の病理を生みだすことになる(例:抑圧・否認・歪曲)。進化の過程において、高次構造の構築は、人間に、低次構造の絶対性を解消することをとおして、より包括的な視野から行動することを可能にする非常に重要な活動である。しかし、そこには、また、諸々の病理を生みだす可能性が内包されていることをわれわれは留意しなければならない。 自然なヒエラルキーと病的なヒエラルキーの識別:進化の過程において、ある発達段階において全体であるものが、次の発達段階においてより包括的な全体の構成要素として抱擁されることになる。そして、より高度の統合能力をもつ構造に抱擁(embrace)されることにより、それそのものとしては所有していない意味(価値)を賦与されるのである。 こうした高次と低次の関係性(ヒエラルキー)は、いうまでもなく、このコスモスのあらゆるところに見いだされるものである。その意味で、ヒエラルキーは、自然の組織法則と形容することができるだろう。しかし、また、「抱擁」を基本法則として展開するヒエラルキー構造は、とりわけ人間の活動領域においては、常に、諸々の病理をひきおこす病的なヒエラルキーへと転じる可能性を内包している。従い、人類の進化について検討をする際、ヒエラルキーという法則が、実際に自然なものとして発現しているのか、もしくは、病的なものとして発現しているのかについて注意をする必要がある。 高次の段階が低次の衝動に掌握されてしまう可能性があること:高次の構造により創出された装置・技術・機能は、常に、低次の衝動・欲求により利用される危険性を秘めている。とりわけ、今日のように、大量破壊兵器等、最先端の科学技術を利用して開発された装置が大量生産・大量販売されている状況においては、そうした装置を開発するための必要能力をもちあわせていない人々も容易にそれらを購入・使用することができることになる。結果として、合理性の創造物である装置が、神話的合理性段階の部族主義的な衝動にもとづいて利用されることになるのである。上記のように、進化とは、常に、可能性と危険性の両方を増幅する過程である。人類の進化について検討をする際、共同体のなかに並存する複数の発達段階の行動論理がどのような相互作用をしながら、可能性と危険性を発露させているかを慎重に考察をする必要があるのである。 「前・後の混同」("Pre/Post Fallacy")の項目においても述べたように、目前に展開する世界があまりにも過酷な苦悩に特徴づけられるとき、われわれは、しばしば、そうした世界をもたらした歴史の過程を進化の過程ではなく退化の過程であると思いこむようである。そうした意識状態においては、それらの苦悩が高度の意識構造を構築することにより獲得されたものであることは無視され、ただ、その瞬間に経験される苦悩の重圧のみが注目される。そして、その感覚を正当化するために歴史観が構築されるのである。こうした「錯覚」を回避するために、上記の法則は非常に重要な意味をもつといえるだろう。 インテグラル・ヴィジョン(Wilber-IV~Wilber-V) 1995年に出版された『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)において、ウィルバーは、自己の思想活動をその端緒より特徴づけていた「個人」と「集合」の領域を相互に有機的に関連するものとしてひとつの包括的な理論構想のなかに統合することに成功する。そして、この理論構想は、『進化の構造』の発表後、継続的な修正をくわえられながら、今日の"AQAL"("All Quadrants, All Levels"を省略したもの)と形容されるものへと展開している。このあたりの理論展開の詳細については『進化の構造』とKosmic Karma and Creativityを参照していただくとして、ここでは、これらの理論構想をその基盤において支えている発想(態度)について紹介する。 与那城 務氏(2006)の論文においても指摘されているように、インテグラル思想は、「インテグラル」(統合)という大義のもと、多様な理論体系をその構成要素として包摂することを意図するものではない。むしろ、インテグラル思想とは、人間の意識というものが、ある視点(perspective)を抱擁することをとおして、必然的に盲点を抱えこむものであることの認識のもと、人間の認識行為の構造的な限定条件を建設的に活用することを意図するものである。つまり、それは、世界を認識する際、視点というものを利用せざるをえない人間の認識能力の特性を内省することをとおして、認識という経験が生成する背景としての意識という空間に立ちかえることを援助しようとするものなのである。こうした観想者の視野に継続的に立ちかえることをとおして、人間は、はじめて、自らの得意とする視点に執着することなく、様々な視点を柔軟に活用することができるようになるのである。 『意識のスペクトラム』は、こうした態度を基盤として、垂直的に存在する認識(存在)の階層をまとめたものである。そして、『進化の構造』以降の著作のなかで提唱されるAQALは、この意識(存在)の階層を、水平的に存在する認識(存在)の領域へと展開したものである。 水平的に存在する認識(存在)の領域として、ウィルバーは、"I"・"WE "・"IT"・"ITS"の4つをあげている。これらは、人間が生得的に所有する視点として普遍的に共有されているものであり、また、この世界のあらゆる事象を包括的に認識するうえで必要とされるものであるという。 "I"(Individual Interior):個の内面の領域。この視点は、個の主観的(subjective)な存在としての真実性を尊重するもので、そこでは、個は、自己の内的な意図にもとづいて行動する自律的な存在としてとらえられる。この領域の価値基準は、個人が、自己の内的な感覚をいかに正確に解釈・表現するかに注目する主観的な「誠実」(sincerity)というものである。 "WE "(Collective Interior):集合の内面の領域。この視点は、自律的な内面を所有する個人の相互理解と相互尊重を重視するもので、そこでは、集合(共同体)は、規範・倫理・価値等の文化を共有する個人による共感により維持されるものとしてとらえられる。この領域の価値基準は、集合(共同体)の構成員が、相互理解・相互尊重をとおして、いかにまとまりのある文化空間を構築するかに注目する「正義」(justness)である。 "IT"(Individual Exterior):個の外面の領域。この視点は、客観的に観察をすることのできる事象を重視するもので、そこでは、主観的な要素の影響することない、普遍的な事実が追求される。この領域の価値基準は、いかにあらゆる主観的な「歪曲」に影響されない「客観的」・「普遍的」な真実を抽出するかに注目する「真実」(truth)である。 "ITS"(Collective Exterior):集合(共同体)の外面の領域。この視点は、集合の組織体としての整合性を尊重するもので、そこでは、個は、あくまでも、集合の構成要素としてとらえられる。この領域の価値基準は、ある存在(個人・組織)が、それをとりまく外的な生存状況にいかに適合するかに注目する「機能的な適合」(functional fit)というものである。 上記の視野は、独自の価値基準にもとづいて事象を把握・検証する。つまり、それらは、独自の方法で事象を照明し、また、独自の方法で事象を隠蔽するのである。重要なことは、それぞれの視野の自律性を尊重したうえで、それらを相互の有機的な関係性のなかに位置づけることである。世界のあらゆる事象は、少なくともこれら4つの視野から認識することのできるものである。インテグラル・アプローチは、これらの視野が内在する光と陰を認識したうえで、それらを包括的に活用することの重要性を認識する。 ウィルバーの指摘するように、これらの視野の相補的な重要性を尊重することなく、どれかを絶対化すること("Quadrant Absolutism")は、深刻な悲劇をもたらすことになる。例えば、今日、現代社会は、内面性の価値を溶解しようとする文化的な潮流に席巻されている。これは、ウィルバーが「フラットランド」("Flatland")と呼ぶもので、近代科学の物質主義と現代思想の価値相対主義の融合により生みだされた、あらゆる価値基準の外面化・浅薄化の流れと形容することのできるものである。そこでは、人間を人間たらしめる内面性というものが妥当性をもつ価値領域として否定され、その代わりに、視覚や触覚等、肉体感覚により計測することのできる情報が信頼できる基盤として排他的に抱擁るれたのである。こうした状況において、人間の内面性を探求することをとおして人格の成熟を醸成することを意図する芸術等の営為の存在価値は、必然的に軽視されるようになる。こうした外面化・浅薄化の蔓延した社会においては、人間とは、あくまでも自己の肉体的衝動に忠実に行動する物質的存在にすぎず、その「治癒」は、肉体的衝動の充足をとおして可能となるものであるとされるのである。 しかし、発達心理学の調査が示唆するように、人間の成長(治癒)とは、内省力の深化をとおして、肉体的衝動を高度のレベルに昇華して、成熟した社会性のもとに表現する、自己中心性を克服する過程である。そこでは、成長(治癒)とは、自己を対象化して、複数の視点を考慮したうえで、表現することのできる意識構造を構築することをとおして達成されるものとして認識されるのである。そうした人間存在の垂直的な可能性を尊重する人間観は、今日の外面領域の絶対化を基盤とした人間観と真向から衝突するものである。結果として、こうした内面領域の否定は、とりわけ先進諸国において、意識の広範な地盤沈下をもたらしている。 理論と実践 インテグラル思想においては、普遍性と時代性・自律性と関係性・創造と継承等、一般的に対照的なものとして見なされている対極的事項の統合が積極的に志向される。われわれが瞬間・瞬間に経験する呼吸の動きに象徴されるように、人間の存在は無数の対極的な事項により特徴づけられているが、インテグラル思想は、それらをダイナミックに往復することの価値を認識・強調することをとおして、人間の可能性のより完全な実現を可能としようとするのである。 無数の対極性のなかでも、インテグラル思想において、とりわけ重要な意味をもつのが「理論と実践」である。これらの相補的な対極性を巧みに管理することは、非常に重要な課題として認識される。 上述のように、インテグラル思想において、最も重要視されるのが、構築物としての理論をのりこえていこうとする姿勢である。ウィルバーは、しばしば、その著作の末尾において、自らが構築した思想を自らの手により「否定」することをとおして、読者を常に既に存在する観想者としての自己にひきもどす。窮極的に必要とされるのは、概念的な構築物としての思想を記憶することではなく、人間の存在を特徴づける無(Nothingness)と神秘(Mystery)と空(Emptiness)を自覚することなのである。そして、それは、必然的に、われわれに生きることを要求する。 こうした洞察にもとづいて、今日、インテグラル・コミュニティーは、研究と実践の相補的な重要性を強調するAction Inquiry(行動探求)のコミュニティーとして、その活動を展開しはじめている。活動の主眼は、個人の領域の変容(治癒)のみならず、また、集合の領域の変容(治癒)を包含する、包括的なものである。 今日、人類をとりまく生存状況が惑星規模で急激に劣化するなかで、人類の生存の可能性そのものが深刻な危機にさらされている。[7] こうした状況のなか、現代文明を真の意味で持続可能なものとして構築しなおすための積極的な活動を展開することの必要性は、ますます切迫した課題として認識されている。しかし、実際には、そうした認識が、成熟した責任能力にもとづいて、意図的・継続的な変革の実践として世界的規模で実現されるまでには、まだまだ至っていない。むしろ、今日、世界的に頻発しているのは、生存状況の劣化を契機として発生する諸々の共同体間の衝突である。Steven LeBlanc (2003) の指摘するように、人間は、自らの生活する共同体の人口収容能力が自然資源の枯渇や自然環境の劣化により低下するとき、周辺領域を侵略することをとおして、自己の生存を図ろうとする生物である。今日、人類の繁栄と生存を可能としている重要資源である化石燃料が枯渇局面を迎えようとするなか(Heinberg, 2003)、自己の生存を確保するために、(国家・民族等)諸々の共同体間の衝突が頻発しはじめていることは、むしろ、当然のことといえるだろう。 この惑星は閉鎖システムであり、そこに存在する資源は有限である。継続的な人口増加に基づいた自然資源の大量消費は、いずれは、人類種の生存を可能とする重要資源の枯渇を招くことになる。そして、生存条件という外的状況の悪化は、個人・共同体の内的領域における退行をひきおこし、人間の生得的な自己中心性を増幅することになる。そうした状況が発生するとき、今日、先進諸国において物質的豊かさの基盤のうえに成立している内面性探求は、全く意味をもたないものに成り果ててしてしまう。 今日の繁栄を可能としている諸々の前提条件を溶解するであろう危機の時代において必要とされるのは、われわれに自らをとりまく生存状況を包括的に認識することを可能にする視野である。そうした認識の存在しないところで創出される対応策は――たとえ、それがどれほどの誠実さに支えられたものであろうとも――非効果的なものとならざるをえないだろう。 インテグラル・アプローチを特徴づけるのは、内面と外面、そして、個と集合という領域を相互に関連するものとしてとらえる包括的な視野である。また、インテグラル・アプローチは、そうした視野を自己の認識構造として確立するために必要となる自己変容の実践に取り組むことを重視する実践思想である。 そうした包括的な視野をとおして自己の置かれている時代状況と対峙するとき、われわれは、はじめて、真の意味の責任能力を所有する存在として人生を生きることができるのである。 著作 主著 The Spectrum of Consciousness, 1977, anniv. ed. 1993.『意識のスペクトル1・2』吉福伸逸+菅靖彦訳、春秋社1985年。 No Boundary: Eastern and Western Approaches to Personal Growth, 1979, reprint ed. 2001. 『無境界』吉福伸逸訳、平河出版社、1986年。 The Atman Project: A Transpersonal View of Human Development, 1980, 2nd ed. 『アートマン・プロジェクト』吉福伸逸+プラブッダ+菅靖彦訳、春秋社、初訳1986、改訂1997年。 Up from Eden: A Transpersonal View of Human Evolution, 1981, new ed. 1996.『エデンから』松尾弌之訳、講談社、1986年。 The Holographic Paradigm and Other Paradoxes: Exploring the Leading Edge of Science (editor), 1982. 『空像としての世界』井上忠他訳、青土社、初訳1983年、改訂1992年。 A Sociable God: A Brief Introduction to a Transcendental Sociology, 1983, new ed. 2005 subtitled Toward a New Understanding of Religion. 『構造としての神』井上章子訳、青土社、1984年。 Eye to Eye: The Quest for the New Paradigm, 1984, 3rd rev. ed. 2001. 『眼には眼を』吉福伸逸+プラブッダ+菅靖彦+田中三彦訳、青土社、1987年。 Quantum Questions: Mystical Writings of the World's Great Physicists (editor), 1984, rev. ed. 2001. 『量子の公案』田中三彦訳、工作舎、邦訳1984年、新装1987年。 Transformations of Consciousness: Conventional and Contemplative Perspectives on Development (co-authors: Jack Engler, Daniel Brown), 1986. Spiritual Choices: The Problem of Recognizing Authentic Paths to Inner Transformation (co-authors: Dick Anthony, Bruce Ecker), 1987. Grace and Grit: Spirituality and Healing in the Life of Treya Killam Wilber, 1991, 2nd ed. 2001. 『グレース&グリット1・2』伊東宏太郎訳、春秋社、1999年。 Sex, Ecology, Spirituality: The Spirit of Evolution, 1st ed. 1995, 2nd rev. ed. 2001. 『進化の構造1・2』松永太郎訳、春秋社、1998年。 A Brief History of Everything, 1st ed. 1996, 2nd ed. 2001.『万物の歴史』大野純一訳、春秋社、1996年。 The Eye of Spirit: An Integral Vision for a World Gone Slightly Mad, 1997, 3rd ed. 2001. 『統合的心理学への道』松永太郎訳、春秋社、2004年。 The Marriage of Sense and Soul: Integrating Science and Religion, 1998, reprint ed. 1999. 『科学と宗教の統合』吉田豊訳、春秋社、2000年。 One Taste: The Journals of Ken Wilber, 1999, rev. ed. 2000. 『ワン・テイスト 上・下』青木聡訳、コスモスライブラリー、2002年。 Integral Psychology: Consciousness, Spirit, Psychology, Therapy, 2000. A Theory of everything (philosophy)|Theory of Everything: An Integral Vision for Business, Politics, Science and Spirituality, 2000, paperback ed.. 『万物の理論』岡野守也訳、トランスビュー、2002年。 Boomeritis: A Novel That Will Set You Free, 2002, paperback ed. 2003. The Simple Feeling of Being: Visionary, Spiritual, and Poetic Writings, 2004. 『存在することのシンプルな感覚』松永太郎訳、春秋社、2005年。 Integral-Spirituality,2006. 『インテグラル・スピリチュアリティ』松永太郎訳、春秋社、2008年。 Integral Life Practice: A 21st-Century Blueprint for Physical Health, Emotional Balance, Mental Clarity, and Spiritual Awakening, 2008. 『実践 インテグラル・ライフ:自己成長の設計図』鈴木 規夫訳、春秋社(2010年)。 関連書籍 『教育トピックの教育学的考察』村島 義彦、高菅出版、2002年。※巻末に”オデッセイ”の翻訳あり 『トランスパーソナル ヴィジョン 特集 ケン・ウィルバー』吉福伸逸監修、雲母書房、1989年。 『アメリカ現代思想 [1] 』吉福伸逸監修、阿含宗総本山出版局、1986年。※ウィルバーの論文収録 『アメリカ現代思想 [4] 』吉福伸逸監修、阿含宗総本山出版局、1988年。※ウィルバーの論文収録 What Survives?;Contemporary Explorations of Life After Death ,Gary Doore, 1990,『死を超えて生きるもの――霊魂の永遠性について』ゲーリー・ドーア編 笠原敏雄+上野圭一訳、春秋社。原書1990/日本語訳1993年。※ウィルバーの論文収録 『インテグラル理論入門I:ウィルバーの意識論』鈴木 規夫・久保 隆司・甲田 烈・青木 聡(著)、春秋社、2010年。 『インテグラル理論入門II:ウィルバーの世界論』鈴木 規夫・久保 隆司・甲田 烈・青木 聡(著)、春秋社、2010年。 参考文献 アン・バン・クロフト『20世紀の神秘思想家たち』 吉福伸逸訳、平河出版社 外部リンク インテグラル思想の研究・実践を目的に設立された組織 ケン・ウィルバー自身によるウェブサイト ケン・ウィルバーの主催する研究機関 ケン・ウィルバーの主催する総合大学 Shambhala PublicationsのHP内のウィルバー専門ページ インテグラル思想についての総合的な情報サイト サイト主催者のアンドリュー・コーエンとケン・ウィルバーの対話“the Guru and the Pandit”が読める
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC
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ギロチンを開発したのは誰ですか?
ギロチン
japanese
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ギロチン( French pronunciation:​[ɡijɔtin] English pronunciation:/ˈɡɪlətiːn/)とは、2本の柱の間に吊るした刃を落とし、柱の間に寝かせた罪人の首を切断する斬首刑の執行装置。フランス革命において受刑者の苦痛を和らげる人道目的で採用され、以後フランスでは1792年から1981年まで使用された。「断頭台」、「断首台」とも呼ばれるが、これらはより正確に言えば斬首刑の執行の際に用いられる台全般を指し、ギロチンに限らない。またギロチンのような断首装置の原型は13世紀のヨーロッパにはすでに存在した。 概要 フランスでは、ギロチンが採用される以前、平民は絞首刑が適用されることになっており、斬首刑は貴族階級に対してのみ執行された。当時の斬首には斧や刀が使われていたが、死刑執行人が未熟な場合には一撃で斬首できず、囚人の首に何度も斬りつけるなど残酷な光景が展開され、受刑者に多大な苦痛を与えることも多く、一方で熟練した技量の高い死刑執行人を雇うことができる受刑者は裕福な者に限られた。1788年、革命前の不穏な雰囲気の中、車裂きの刑の公開処刑の場で、民衆が無実を叫ぶ死刑囚に同調してこれを逃がし、処刑台を破壊するという事件が起こり、死刑執行人の職務に対する忌避のタブーが破られた。これをきっかけとして車裂きの刑は廃止されることとなり、残酷な刑に替わり苦痛を伴わない処刑法を求める流れが起こっていた。 フランス革命勃発後、内科医で憲法制定国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンは受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも身分や貧富に関係せずに名誉ある斬首の刑が適用できる、「単なる機械装置の作用」によって「人道的」な処刑を行うよう議会で提案した。ギヨタンの提案は初め嘲笑を以て迎えられたが、彼の再度の提案と説得によりその案が採択され、ギロチンは、1792年4月25日に議会で正式に処刑道具として認められた。これは従来の処刑器よりも苦痛を与えないとされた。 設計の依頼を受けたのは外科アカデミーの秘書であった外科医アントワーヌ・ルイであった。彼は、それ以前から存在したスコッチ・メイデンやハリファックス断頭台などの各地の首切り装置を研究し、刃を三日月形にし、死刑囚の首を板で固定するなどの改良を加えた断頭台を設計した。試作品の製作はドイツのハープシコード製作者トビアス・シュミットが行った。『断頭台の設計図を見たルイ16世が、刃を三日月形ではなく斜めの形状にすればどんな太さの首でも切断できると提案しその通りに改良された』という説があるが、シュミットの考案であるという説もある。ともかく、ギロチンは全高は約5メートルほどで、首を挟む場所は地面から37センチメートルほどの高さにあり、ギロチンは4メートルの高さから40キログラムの刃が自由落下することによって首を切断する装置であった。なお、首と同時に両手首も切り落とす形状のものも存在する。(詳細は下記) 装置の正式な名称は「ボワ・ド・ジュスティス(Bois de Justice/「正義の柱」の意)」といったが、当初は、設計者のアントワーヌ・ルイの名前をとって「ルイゾン (Louison)」あるいはその女性形の「ルイゼット (Louisette)」の愛称で呼ばれていた。しかしこの装置の人道性と平等性を大いに喧伝したギヨタンの方が有名になり、ギヨタン博士の装置(子供)の意味である「ギヨティーヌ (Guillotine)」という呼び名が定着した。ギロチンはその英語読みであるギロティーンが訛ったものである。ギヨタン博士はこの不名誉な名称に強く抗議したが、以後も改められることはなかったので、家族は姓を変えた。 国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットも、他の平民受刑者と同様にこれによって処刑された。また革命の大立者ジョルジュ・ダントン、恐怖政治を主導したマクシミリアン・ロベスピエールや、受刑者をギロチン台に送り続けた検事フーキエ=タンヴィルも最期はギロチンで斬首された。このようにフランスの恐怖政治ですべての党派を次々と呑み込み処刑した状況は、当時の人々によって「ギロチンの嘔吐」と呼ばれた。 ルイ16世の首をはねたギロチンの刃は、死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンが大切に保管していたと回想録に書かれているが、後にサンソン家最後の死刑執行人であるアンリ=クレマン・サンソンが、浪費による借金のために牢獄に入れられ、3800フランス・フランの借金返済のために質入れしてしまった。死刑執行命令を受けたサンソンはギロチンを質入してしまったことを法務大臣に話して3800フランス・フランの現金を支給され、ギロチンを買い戻して死刑を執行した。しかし、アンリ=クレマン・サンソンはこの直後に責任を取らされて死刑執行人を罷免された。 この当時のフランスの制度ではギロチンは死刑執行人の私有財産であり公共財産ではない。そのためサンソンは横領罪に問われることは無かった。一度、質から出されたギロチンは再度売られたという。サンソンが売り払ったギロチンは交流のあったイギリス人の手に渡り、現在はイギリスのマダム・タッソー館にマリー・アントワネットやサンソンの蝋人形と一緒に展示され、説明書きに由来が記されている。 開発史 ギロチンの開発に関してはシャルル=アンリ・サンソンの回想録に詳細な記述が残されているが、1791年6月3日に立法院で刑法第3条が改訂され、死刑の方法は斬首のみになった直後に、サンソンが法務大臣に斬首の難しさと問題点について意見書を提出した。これには、斬首は非常に難しく、全員を斬首することは難しいと記されていた。この意見書は法務大臣から国会に提出され、アントワーヌ・ルイに斬首の研究を依頼したことが開発の始まりであった。 サンソン回想録によると、この時にサンソン、ルイ、ルイ16世の3人で非公式に検討会が開かれたという、この時にルイ16世が、刃を直角三角形の定規のような斜めの形にすることを提案したと記されているが、これには異説もある。 1792年3月17日にルイから国会に報告書が提出され、国会はこれを採択した。試作品が製作されることになり、サンソンが知り合いのチェンバロ製造業者であるトビアス・シュミットに960リーヴルで発注した。当時の一般市民の平均年収が400リーヴル強だったといわれている。シュミット工房はこれ以降、フランス死刑執行人の元締めであるサンソンとの関係からギロチンの製造独占権を得て、フランスだけでなくドイツなどの周辺諸国にも輸出するギロチン独占製造メーカーとなる。しかし、ギロチンは楽器製造の副業として製造されていた。 同年4月17日に、ビセートル監獄の中庭で、ルイ博士、ギヨタンの他、ピネル、カバニスという二人の医者の立会いのもと、3体の死体を使ってギロチンの実験がおこなわれた。死刑執行人はアンリ・サンソンである。ルイ博士は当初は半円月の刃を提案していたため、斜め刃と半月刃の2種類の刃が使用された。結果、斜め刃を使った二体は斬首に成功したが、半月刃を使った一体は斬首に失敗した。こうして、斜めの刃が採用されることとなった。 その8日後の4月25日、フランス史上初のギロチン処刑が行われた。受刑者はという窃盗犯で、前年10月にひったくりをしようとして抵抗され、棒で被害者を殴ったため1月24日に死刑判決を受けていた。司法当局はペルティエを「新しい死刑具」であるギロチン処刑の第1号とすべく、ギロチンが完成するまで3か月間、その処刑を延期していたのである。 処刑当日、「ベルサイユ死刑囚解放事件」の再現を恐れた当局によって公開ギロチン処刑上には通常より多めの警護兵が配置されたが、群衆は騒ぎ立てることはなかった。むしろあっけないほどの斬首の早さに、不満を漏らす観客が多かった。 1793年6月13日にギロチンを各県に1台ずつ配置することが政令で決定した、当時のフランスの行政区分に従い、83台のギロチンがシュミットに1台812リーヴルで発注された。この時に熾烈なギロチン受注の利権争いが発生したが、サンソンとルイの後ろ盾によりシュミットの独占権が守られた。その後も改良型ギロチンを売り込む業者や、ダンピング、政治活動によってギロチン利権を得ようとする業者は後を絶たなかったが、シュミット工房が最後まで独占権を守り続けた。 ギロチンは人間の背丈よりも高い台の上に設置され、周りから良く見えるようになっていた。1792年に助手を務めていたシャルル=アンリの次男ガブリエル・サンソンがこの台から転落死するという事故が起きた。これ以降は周りに手すりが付くようになった。 1870年にアドルフ・クレミューが法務大臣就任後にギロチンを台座からはずし、地面に直接置くように命令し、新しいギロチンを製作させた。この政令に新聞記者たちは一斉に抗議し、パリ市民は怒り、「我々は豚のように地面に這いつくばって死ぬことを拒否する」「ユダヤ人から人間としての誇りを取り戻せ」などとする憤慨の声が挙がった(クレミューはユダヤ人であった)。晒し刑でもあった絞首刑とは違い、苦しむことなく首を刎ねられる斬首刑は、本来貴族にのみ許された名誉刑であった。ギロチンは、この名誉ある斬首をあまねく平民階級にも与える「人道的で名誉なもの」と見なされていたのである。 1871年4月に地面に置かれた新しいギロチンを使用した公開処刑がヴォルテール広場で初めて行われようとしたがパリ・コミューンはこの処刑に怒り狂い、ギロチンを焼き討ちし破壊した。この時、死刑執行人だったニコラ・ロシュはムッシュ・ド・パリに就任してからの初仕事であった。 ギロチンが破壊されたため、1872年に新しく法務大臣に就任したは新しいギロチンの製作を命じた。死刑執行人助手のアルフォンス・レオン・ベルジェが改良を行い、新しい2台のギロチンが製作され、死刑廃止までこの形式のギロチンが使用された。 改良点は以下のとおり。 刃の落下衝撃の緩和 2本の縦枠の下方に、刃の落下によるギロチンに加えられる衝撃を緩和するためのバネをつけた。 後に、バネに替えて円筒形のゴムがつけられたが、これによって独特なギロチンの音が変わった。 刃の固定装置の変更 刃をつけた重しの上部につけられた鏃型の金属の突起がギロチンの最上部につけられた「開閉装置」に挟み込むようにはめ込まれる。 小さなレバー(後にはボタン式)によって開閉装置を開くと、鏃形突起が外れ、刃付き重しが落下する、という仕組みであった。 刃の稼働機構の潤滑化 縦枠の溝を滑る重しにキャスターを取り付けることで、スムーズに落下するとともに、レールの摩耗を防ぐことになった。 執行後の処理の迅速化 高い台の上に設置するのを廃止して、ギロチンは直接地面の上に置いた厚板の上に立てられることになった。 斬首後、死刑囚の頭と胴体を入れるために側に亜鉛とオイルクロスで覆った柳の籠が大小2個置かれた。 ドイツではフランスのギロチンを元に改良型が作られた。主な改良点は柱が金属製となり、死刑囚を拘束するための可動式の台が設けられたことである。ドイツのギロチンはフランス式より小型で230cmの高さから落下させる。そのため、落下高は260センチ程しかない。 フランス革命当時のギロチンは固定設置式ではなく組み立て運搬式だった。ギロチンは使用しないときは死刑執行人の家に分解した状態で収納されており、死刑を行う通達を受けると、死刑執行人の助手たちが指定された場所へ運び込んで組み立てていた。死刑執行が終わると再び分解して収納するのが普通だった。当時は公開処刑であり、裁判所の判決次第で死刑を実施する場所が変わったため、死刑執行人は毎回、違う場所へギロチンを搬入する必要があった。 後にソビエト連邦では馬車の荷台に据え付けたような形の移動式ギロチンが作られ、各地を巡回して全土を処刑場と化した。さらに後年にはトラックの荷台に据え付けた自走式ギロチンという物まで作られている。 シュミット工房のギロチンはフランスの植民地にも輸出され、インドシナの植民地がフランスから独立した後も使用され続けたことがあり、第一次インドシナ戦争当時やベトナム戦争当時の南ベトナムで使用されている。ベトコンのゲリラがギロチンで処刑されている、という話はここから来ている。 なお、シュミット工房は2009年現在もフランスでバイオリンやピアノの製造を行いながら存続している。 死刑執行の歴史 フランス ギロチンが登場するまで、フランスには160人の死刑執行人と、3,400人の助手が存在していた。これが、ギロチンの導入後は減少の一途を辿り、1870年11月には、1人の執行人と5人の助手が、フランス全土の処刑を一手に担うようになった。 フランスでは総裁政府期から平時の死刑制度を廃止していたが、復古王政で再開された。 古くから、処刑は公開して民衆への警告とすべきとする刑法思想があり、かつては公開処刑がひろく行われた。第二次世界大戦直前の1939年まで、フランスでもギロチンによる公開処刑が行なわれていた。しかし人権意識の高まりから、その後は積極的に目立った場所を避けて刑務所の門前で早朝に実施するようになり、広場などで白昼堂々と行う事はなくなっていた。 1939年6月17日にジュール=アンリ・デフルノーによってパーセイルズで行われたドイツ出身の殺人犯オイゲン・ヴァイトマンの死刑執行が最後の公開処刑となった。この処刑は盗撮され、映画館で公開された。これに問題を感じた法務省は、以降の死刑執行を非公開に切り替える事になる。そのため、これがフランスにおいて唯一映像に記録されたギロチンによる処刑映像となった。ヴィシー政権下では、レジスタンスのビラを配っただけで、ギロチン処刑された者がいた。また、堕胎罪で逮捕裁判され、死刑判決を受けて1943年に処刑されたもいた。 ギロチンは一見残酷なイメージだが、導入の経緯、および絞首刑との比較から、欧州ではむしろ人道的な死刑装置と位置づけられており、使用されなくなったのは比較的近年のことである。フランスでは死刑制度自体が廃止される1981年9月までギロチンが現役で稼動していた。フランスで最後にギロチンによって処刑されたのは、女性を殺害した罪に問われた、ハミダ・ジャンドゥビというチュニジア人労働者であり、1977年9月10日にフランス最後の死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)であるマルセル・シュヴァリエによって刑が執行された。これがフランスでギロチンが公式に使用された最後の例である。 アルジェリアやベトナムなどフランスの植民地でも使用されていた。 ドイツ ドイツ帝国(1871年 - 1918年)で1872年に改良型のギロチンが採用されて以来、ヴァイマル共和政(1919年 - 1933年)やナチス・ドイツを経て西ドイツで死刑制度が廃止されるまで使用され続けた。特にナチス・ドイツ時代の1933年 - 1945年にかけては16,500人がギロチンにかけられ、史上最多を極めた。その中には、白バラ抵抗運動のゾフィー・ショルやハンス・ショルら政治犯も多人数含まれている。 ナチス政権下においては、ヨハン・ライヒハートという執行人によって2,948件のギロチン処刑が執行されているが、これは1870年から1977年までのフランスでの処刑件数よりも多いという。皮肉にも、3,000人近い人間に死刑命令を出したナチス高官は戦後に戦犯としてライヒハートによって処刑されている。西ドイツになってから1949年に死刑制度が廃止されるまで使用され続けた。 東ドイツでもギロチンが使用されていたことが報告されていたが、1970年代には廃止されたとみられる。 なお、同国は1987年に死刑を廃止した。 ベルギー フランス革命の時代にフランスに併合されるとフランス領としてフランスの法律によるギロチンによる死刑が制定され、独立後も1977年9月10日に行われた最後の死刑執行まで使用され続けた。 現在ではヘントにあるフランドル伯の城にギロチンが展示されている。 スウェーデン 1900年以降になってギロチンを導入した。それ以前は斧による斬首刑が行なわれていた。しかし、1910年11月23日に行われたヨハン・アルフレッド・アンデの死刑が唯一の死刑となったため、スウェーデンではたった1度しか使われなかった。 ベトナム 遺体の画像があります。表示を押すと、表示されます。 サムネイル|ギロチンで斬首された後、さらし首にされた ベトナムでも、フランスの植民地とされた時代から1975年まで、ベトナム共和国(南ベトナム)で、ギロチンが使用されていた。 1908年のハノイ投毒事件で13人がギロチンで処刑、さらし首にされた。 日本 日本では、刑法制定後は、原則として絞首刑に限定されたが、1930年代から1945年まで、ナチス・ドイツの影響を受けてギロチンに基づく斬首刑の導入が検討された。 ギロチン処刑の手順 フランスでのギロチン廃止前1970年代のギロチン処刑の手順である。だいたい、20分以内に終わるとされる。 死刑執行の日の午前4時ぐらいに、処刑する者の独房に、立会い者が向かい、検察官が恩赦が却下されたことを告げる。 立ち会うのは、検察官、弁護士、教戒師、刑務官、死刑執行人、死刑執行人の助手である。 遺書を書く時間が少し与えられる。そして、手を後ろに縛り、足を拘束具で固定し、抵抗できないようにする。襟と髪をはさみで切る。その間、ラム酒を飲ませ、タバコを喫煙させる。 カーテンが開かれ、助手によって死刑囚はギロチンの前の台に押し倒され、首を固定させられる。死刑執行人のボタンで、ギロチンが落とされる。 斬首後に意識はあるか ギロチンは痛みを感じさせる暇もないほどの高速で斬首を行い、即死させることを目的にした処刑道具である。しかし、心停止が行われても十数秒前後は意識が保たれているように、斬首後のごくわずかな時間、頭部だけの状態で意識が保たれているのではないかという説がある。斬首後の意識については幾つか報告が残されているものの、その多くは出典が怪しい。 例えば化学者のアントワーヌ・ラヴォアジエは、自身がフランス革命で処刑されることになった時、処刑後の人に意識があるのかを確かめるため、周囲の人間に「斬首後、可能な限りまばたきを続ける」と宣言し、実際にまばたきを行なったと言われている。しかしながら当時、流れ作業で行われたラヴォアジエの処刑に立ち会った目撃者の記述にそのような逸話は書かれておらず、1990年以降、ボーリュー博士の報告を元に創られた都市伝説と考えられる。 同様に斬首後のシャルロット・コルデーの首を死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソンの助手が掲げその頰を平手打ちした時、彼女の顔は紅潮し目は怒りのまなざしを向けたという逸話がある。しかし、処刑時すでに夕方だったことから夕日が照り返したため、あるいは血が付いたためそのように見えたに過ぎないとも言われ、伝説の域を出ない。 具体的に斬首後の意識を確認した実験としては、1905年にボーリュー博士が論文として報告したものが挙げられる[1]。1905年6月28日午前5時半に、アンリ・ランギーユ死刑囚がロアレで処刑される際、事前に呼びかけに対してまばたきをするよう依頼したところ、斬首後数秒たって医師が呼びかけると、数秒目を開けて医師を直視し閉じた。二度目の呼びかけには応じたが、三度目以降は目が開かれなかったという。 しかし、こういった報告は筋肉のけいれんによるものとされており、斬首の瞬間に血圧が変化し意識を失うので、意図的にまばたきをするのは不可能というのが通説である。 フランスでは1956年に議会の依頼によってセギュレ博士が実験を行なっている。この実験では瞳孔反応と条件反射を確認したが、斬首後15分は反応があったとする報告を行なっている。意識の有無については確認手段が無いため不明のままであった。 その他 導入国 フランス - 死刑制度廃止まで使用 ドイツ - 死刑制度廃止まで使用 スウェーデン - 1回だけ使用 ベルギー - 死刑制度廃止まで使用 スイス - 死刑制度廃止まで使用 ベトナム - 1975年まで、南ベトナムで使用 逸話 導入提案者のギヨタン自身がこの装置で処刑されたという俗説が有るが、事実ではない。ギヨタンは人道主義者の医学博士で、フランスの保健政策に尽力した後、1814年に肩の腫瘍が原因で死亡した。 製作者を処刑した処刑道具には『ファラリスの雄牛』が有る。こちらは製作者兼芸術家ペリロスが最初の被処刑者と成り、製作を命じた君主もこれで処刑されている。 1996年にジョージア州の下院議員が、電気椅子や薬殺で死んだ死刑囚は受刑後臓器提供者になれない為、臓器を傷つけないギロチンを採用すべきだとする法案を出したが廃案となった。 娯楽としてのギロチン ギロチンは公開処刑で使用されることが多く、19世紀のフランスでは大勢の市民がギロチンによる公開処刑を娯楽として楽しんでいた。有名な愛好家の名前も知られている。 ギロチンによる公開処刑が有名になると、ギロチンのミニチュアが玩具として販売されるようになり、子供たちが捕まえてきた生きた鳥やネズミの首を切り落として遊んだ。ゲーテが5歳になる自分の子供のためにギロチンの玩具を買ってくれるように母親に送った手紙が現存している。なお、ゲーテの母親はこの依頼を憤然と拒絶している。 ギロチンの製造権はトビアス・シュミットが独占していたため、このような玩具のギロチンもトビアス・シュミットしか製造することが出来なかった。トビアス・シュミットはギロチン利権で財産を築いている。そのため、フランス革命の裏ではギロチンの権利を巡るギロチン利権争いともいうべきものが起きていた。 フランス革命200周年記念式典などのイベントで藁人形によるギロチンの実演が行われることが現在でもある。 テーブルマジックの1つとして「指ギロチン」といったものがあり、用具の市販もされている。ミニチュアのギロチンには縦に2つの穴が開いており、一方に指を、もう一方に煙草を入れギロチンを落とすと煙草のみが切断されるというもの。腕とキュウリなどを入れるような大型のものもある。 TBSの人気番組だった『8時だョ!全員集合』の1981年6月27日放送の囚人コントで、いかりや長介が舞台中央に出したギロチンで大根やスイカを試し切りした後、志村けんにそっくりの人形の首を切り落としたシーンがあった[2]。そのシーンが残酷だと抗議電話が100本かかり、翌日の新聞の社会面にも載る反響があった[3][4]。しかし、子供達への反響は、その後の女性週刊誌『女性自身』7月23日号の調査によると面白かったという意見が82%と圧倒的だった[2]。 コレクションとしてのギロチン フランスでは死刑執行人の人員削減に伴って、死刑執行人が所有していたギロチンが売却されていった。特に、ルイ16世の首を刎ねたというギロチンは何度も競売にかけられた記録があるなど、真贋の怪しいギロチンも数多く出回った。現在でもシュミット工房がギロチンの製造販売を行っているため、個人が新品のギロチンを購入することは可能である。価格は時価である。 日本国内では明治大学博物館に1/2サイズのレプリカが展示されており、無料で見学することができる。 ギロチンが登場する映画 無防備都市(イタリア映画、1945年) パピヨン(アメリカ映画、1974年) 暗黒街の二人(フランス映画、1973年) ダントン(ポーランド・フランス映画、1982年) 主婦マリーがしたこと(フランス映画、1988年) 白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々(ドイツ映画、2005年) ギロチンが登場するドラマ 新・刑事コロンボ/汚れた超能力(アメリカ、1989) ギロチンが登場する児童文学 『ピカピカのぎろちょん』作:佐野美津男、絵:中村宏、あかね書房、1968年。 タイトルの「ぎろちょん」というのは子供たちが作ったおもちゃのギロチンのこと。子供たちはこれで憎い人間に見立てて野菜を輪切りにした。 劇中にぎろちょんのモデルになった本物のギロチンも出てくるが、明確な処刑シーンなどは出てこない。 脚注 参考文献 高平鳴海、拷問史研究班 著『拷問の歴史 (Truth In Fantasy)』新紀元社 ISBN 4-88317-357-7 サンソン回想録(ガリカでMémoires des Sansonで検索すると無料で全文を参照出来る) 死刑執行人サンソン(安達正勝、集英社新書) 関連項目 刑罰 スコッチ・メイデン - ギロチンによく似た処刑道具。 ハリファックス断頭台 - ギロチンによく似た処刑道具。 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AD%E3%83%81%E3%83%B3
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開陽丸の大きさは?
開陽丸
japanese
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開陽丸(かいようまる)は、幕末期に江戸幕府が所有していたオランダ製軍艦である。オランダでの愛称はVoorlichter(夜明け前)。木造シップ型帆船。排水量2,590t、長さ約72.8m、幅約13m、高さ約45m、マスト3本、補助蒸気機関410馬力、備砲は当時最新鋭のクルップ砲を含む26門。 概要 開陽丸は江戸大老井伊直弼の意思を継いだ安藤信正(信睦)によってオランダより導入された江戸幕府の軍艦である。オランダで造艦され、1867年(慶応3年)3月25日に横浜へ帰港した。最新鋭の主力艦として外国勢力に対する抑止力となることが期待されたが[1]、徳川軍艦としてわずか1年数ヶ月、1868年(明治元年)11月15日、蝦夷・江差沖において暴風雨に遭い、座礁・沈没した。 1975年(昭和50年)、江差町教育委員会によって世界初となる水中・産業考古学の対象として発掘・調査プロジェクトが発足した[2]。大砲やシャフト等の遺構から古文書など3万点以上の遺留品の引揚げが行われている。1990年(平成2年)4月、北海道檜山郡江差町に史料館として開陽丸が復元された。 背景 黒船来航として知られる1853年(嘉永6年)6月に浦賀沖に現れたアメリカの軍艦は、日本に西欧諸国との文明の差を痛感させるには充分な威力を発揮した[1]。この一件をきっかけとして、幕府は国の海防力の強化の必要性を悟り、海軍創設および強力な軍艦の保持を目指すこととなる。1855年(安政2年)、中古軍艦の買入れを始めると同時に、その軍艦を操船するための兵士の育成を開始するため、オランダへ協力を要請した[3]。長崎出島に海軍伝習所を設ける運びとなり、当時のオランダ国王ウィレム3世は、蒸気軍艦スピング号[注釈 1]を幕府へ贈呈し、ペルス・ライケン中佐らを海軍教官として長崎へ派遣した。この伝習所の第一期生としては勝麟太郎、矢田堀景蔵など150人。1856年(安政3年)には後に開陽丸に深く関わることになる榎本武揚ら2期生が入所した。 しかし、幕府の開港政策に反対する攘夷派の動きや、天保の改革の失敗、貧困・飢饉に苦しむ庶民の一揆、さらには各国と通商条約を結び、海防力の強化を推し進めていた大老・井伊直弼が桜田門外の変で斃れるなど、国内の情勢も非常に不安定であった。 国内外の対応に追われつつも、1862年(文久2年)までには諸外国から買い入れた中古の軍艦を取り揃え、なんとか海軍としての体を成すようになっていた[4]。しかし、外国の不用艦のみでは外国の強力な艦隊にかなう筈も無く、国を守るための、より強力な主力艦が求められるようになった[4]。 歴史 発注 江戸幕府は、外国船に劣らない新鋭艦の必要性を感じてアメリカ駐日公使であったタウンゼント・ハリスに打診する。しかし、ハリスは自国の南北戦争を理由として軍艦の新造を拒否した[5]。このため、オランダへ軍艦の発注および、それに伴う留学生の派遣を依頼することとなった。1862年(文久2年)、久世広周は「オランダ海軍の持つ最新の設計・設備を施した、蒸気機関推進で大砲を20門以上装備した3000トン未満の軍艦一隻」という条件で注文書を出した[5]。同時に、軍艦引き受けをかねて派遣する日本人留学生ら15名を選抜した。そして1863年(文久3年)3月にはロッテルダムの蒸気船会社にて設計が完成し、ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船所(Cornelis Gips & Zonen)に建造が指示された。オランダ側は当初、時流からみて鉄製艦を薦めた[6]が、一刻も早く入手を望んだ幕府側は木造を選択する。こうして開陽丸は木造銅貼で造船されることとなり、1866年6月進水を目指し、作業が開始された。 一方、選ばれた留学生達は、1862年(文久2年)9月11日長崎を出港、1863年(文久3年)4月16日にオランダのブローウエルスハーヘン港(Brouwershaven)に到着した[7]。当地での留学生たちの世話は長崎海軍伝習所で教官を務めていたカッテンディーケ海軍大佐とメーデルフォールト軍医が見ることとなった。 建造 ドルトレヒトで作業が開始されて1年半ほど経過した1864年(元治元年)、艦体の竜骨が組みあがり、第一段階の作業が終了した。幕府より艦名付与の指示を受けた内田は、澤や榎本らと相談し、日本の国情を考慮し、榎本が提案した「夜明け前(蘭語:Voorlichter)」を想起する<b data-parsoid='{"dsr":[4326,4334,3,3]}'>開陽</b>に決定され[9]、10月20日、関係者らを集めた命名式が執り行われた。この名はオランダの庶民にも伝えられ、「日本軍艦フォールリヒター」として近隣住民の話題にものぼるようになった。 開陽の工事は着々と進行し、1865年(慶応元年)9月14日、進水式が執り行われることとなった。3000トン級の船が造られることは海軍国家であったオランダでも珍しく[10]、進水式には関係者の他、ドルトレヒトの市民が大勢集まり、地元紙にもその模様が詳細に掲載された。カッテンディーケ大佐によるロープカットが行われ、メルウェデの河口に無事着水し、成功裏に終わると、夜には盛大な晩餐会が開催された。その後、開陽はヘレフートスライス(Hellevoetsluis)の海軍工廠に曳航され、艤装工事が施され、次にビレムスドルプ(Willemsdorp)にて武装が行われる予定であった。当初幕府は開陽の搭載砲26門のうち、通常砲20門、クルップ施条砲6門にて依頼していたが、留学中にデンマーク戦争を観戦し、施条砲の威力を目の当たりにした榎本、澤、赤松らの尽力によりクルップ施条砲18門を導入するよう変更がなされた。 武装が完了し、海軍当局による検査もパスした開陽は、オランダ海軍大尉ディノー(Jules Arthur Emile Dinaux)に引き渡され、15日間の航海試験を経て、1866年(慶応2年)10月、ようやく完成した。蒸気機関のみでの巡航速度18マイル、クルップ砲の海上試射距離3900メートルなどの高い試験結果を残し、ディノーは「オランダ海軍にも開陽に勝る軍艦は無い」と断言した[11][注釈 2]。 開陽は日本への引渡しのため、1866年(慶応2年)10月25日、フリシンゲンを出港した。この処女航海には、内田ら9人の留学生が同乗し、ディノーの指揮により、帰国の途についた[注釈 3]。イギリス海峡から大西洋を抜けるまでの18日間、暴風雨に見舞われたが、開陽は平然と進み、出港52日目にリオデジャネイロに到着した。補給を済ませ、87日目にはインド洋に入り、1867年(慶応3年)2月20日、アンボイナへ到着した。再び補給を行い、3月6日、横浜を目指して出航、1867年(慶応3年)3月26日10時30分、無事入港した。入港後すぐ軍艦奉行勝海舟らに出迎えられ、榎本らは久々の再会を喜び合った。 オランダと幕府の支払い交渉や手続きが行われている間、日本での乗組員の編成や訓練が行われた。勝は榎本を軍艦頭並、澤を軍艦役並に任命し、乗組員の採用と養成を指示した。残っていた手続きごとが全て完了した1867年(慶応3年)5月20日、開陽の引渡し式が行われ、オランダ公使ポルスブルックと海軍奉行織田対馬守が交換文書にサインし、正式に引き渡された。 勝によって榎本は軍艦頭並に登用されると、榎本は先ず、オランダ海軍の例に倣い、階級によって服装を分けた海軍の軍服を制定し、各隊員へ支給した。 戊辰戦争 大政奉還の時には、僚艦の回天丸、朝陽丸と共に江戸湾に在った。しかし、江戸で薩摩藩の討幕派が戦闘行為を誘発させるべく各所で扇動を行い、それに乗せられた幕臣は、12月25日に江戸の薩摩藩邸・佐土原藩邸を焼討するという事件を起こした。扇動した薩摩藩士は、薩摩藩船の翔凰丸に乗って江戸脱出を図り、開陽丸は僚艦と共にこれを追跡砲撃したが、翔凰丸は大坂に逃れた。これが、開陽丸の初の実戦であった。大坂湾に入った開陽丸は、富士山丸、蟠竜丸、翔鶴丸、順動丸と共に大坂の警備に就いた。12月28日、戦闘回避を望む徳川慶喜は、12月9日の小御所会議で決まった「徳川家の辞官・納地」の受諾を回答した。 慶応4年(1868年)1月2日、開陽丸は、兵庫港を出港した薩摩藩の平運丸に対して空砲で停船を命じたが、平運丸が応じなかったため実弾で砲撃した。翌日薩摩側が抗議すると、榎本は一連の行動は万国公法に則ったものであるとしてこれを突っ撥ねた。このことが鳥羽・伏見の戦いの引き金ともなった。戊辰戦争が勃発すると、開陽丸は阿波沖で薩摩藩の春日丸、翔凰丸を砲撃し、翔凰丸を由岐浦に座礁させ圧倒的な勝利を得る。これが阿波沖海戦である。 鳥羽・伏見の戦いに敗れたことを知った榎本は、将軍徳川慶喜へ謁見するため開陽丸を降船、その間に大坂城を脱出した慶喜が入れ違いに開陽丸に乗船して、副艦長澤太郎左衛門に命じて1月8日に大坂を出航、11日に江戸へ帰還してしまった。置き去りにされた榎本は、富士山丸に大坂城内の書類、重要什器、刀剣類、城内に有った金18万両を積み込み、フランスの軍事顧問団のブリュネ、カズヌーブらを乗せ、1月12日に大坂を出航。1月14日に江戸品川沖に入港した。 その後榎本は、海軍副総裁に就任し、4月11日の江戸城無血開城に至って、開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否し続けた。そして同年8月19日、開陽丸を旗艦とした榎本艦隊(回天丸・蟠竜丸・千代田形丸)は、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸)を加えて品川沖を脱走。榎本は総司令官を務めたため、開陽丸艦長には澤太郎左衛門が任命された。途中暴風雨に遭い美賀保丸・咸臨丸を失うも、開陽丸は8月末に何とか仙台に到着。すぐさま修繕が行われ、奥羽越列藩同盟が崩壊して行き場を失っていた大鳥圭介や土方歳三などの旧幕府脱走兵を艦隊に収容、10月12日仙台折浜より蝦夷地へ渡航し、箱館戦争となる。 沈没 10月20日に蝦夷地鷲ノ木沖に到着した開陽丸は、しばらく鷲ノ木沖に停泊。10月25日に旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃った。旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始。その援護のために開陽丸も11月11日に箱館を出港して江差沖へ向かった。11月14日に江差沖に到着、陸地に艦砲射撃を加えるも反撃がないので、斥候を出すと、松前兵はすでに撤退していた。榎本は最低限の乗組員を開陽丸に残して上陸し、江差を無血占領した。 ところが翌15日夜、天候が急変する。開陽丸は、タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁。江差沖の海底は岩盤が固く、錨が引っ掛かりにくいことも災いした。回天丸と神速丸が救助に向かったが、その神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、開陽丸は岩礁に挟まれていよいよ身動きが取れなくなる。留守を預かっていた機関長の中島三郎助は、艦内の大砲を一斉に陸に向けて撃ち、その反動で船を離礁させようと試みたがこれも失敗に終わり、乗組員は全員脱出して江差に上陸。数日後、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消した。 主力戦艦たる開陽丸の喪失により新政府軍に対する海上戦力の優位が一挙に崩れ、その後の戦局に大きく影響を及ぼすことになる。歴史家の中には開陽丸の江差沖への出港を「不必要に開陽丸を投入し、その挙句に喪失せしめた事は榎本の愚策である」と酷評する見解もある。 開陽の引揚げ 江差沖に沈没した開陽の引き揚げは箱館戦争直後から何度か行われていたが[12]、本格的に行われたのは1873年(明治6年)で、大砲や弾丸、錨などが引き揚げられた。しかし、潜水具や専門の機材も持ち得ていなかった為、全てを引き揚げるには至らなかったが、座礁した神速の物も同時に集積されたため、「開陽丸は昔に引揚げが行われ、もう無い」という認識が一般化した[12]。こうした認識に疑問を呈した江差町教育委員会教育長の石橋藤雄は、1974年(昭和49年)8月23日、文献から沈没位置を推定し、潜水調査を行い、開陽の遺留品を発見した[13]。 この発見は文化庁にも認められ、翌年より引揚げ作業が本格的に行われることとなった。大砲、弾丸、火薬缶、ロープ、帆布、サーベル、日本刀等3万2905点が引揚げ・脱塩処理されている。また、オランダに保管されていた設計図に従い開陽丸を復元するプロジェクトも開始され、復元軍艦内に引揚げ品を配置し、「開陽丸青少年センター」としてその歴史と共に開放された[12]。 開陽丸の船体および遺物は1975年(昭和50年)、日本初の海底遺跡として登録されている[14]。 脚注 注釈 出典 参考文献 書籍 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) 外部リンク Check date values in: |accessdate=, |date= (help) Check date values in: |accessdate= (help) 関連項目 クルップ 博物館船 外部リンク 留学生の肖像写真 、、、、、、、、、、 - 1863-1864年にオランダで撮影されたもの(オランダ国立図書館所蔵) Coordinates:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E9%99%BD%E4%B8%B8
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ブライアン・ボル の性格は?
ブランドン・レアード
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ブランドン・J・レアード(Brandon J. Laird, 1987年9月11日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身のプロ野球選手(内野手)。メキシコ系アメリカ人[1]。 日本では好物の寿司にちなむ「スシポーズ」や、焼き鳥を裏返す仕草のパフォーマンスを披露することでも知られる。元メジャー捕手のジェラルド・レアードは実兄にあたる[2]。 経歴 アマチュア時代 カリフォルニア州の出身。 2005年のMLBドラフトでクリーブランド・インディアンズから27巡目で指名されるが拒否し、州内のに進学した。 ヤンキース時代 2007年のMLBドラフトでニューヨーク・ヤンキースから27巡目で指名され入団。ヤンキース傘下のルーキーリーグチームであるガルフ・コーストリーグ・ヤンキースに所属し[2]。 2008年シーズンはマイナーリーグ・A級チャールストン・リバードッグスに所属。 2009年シーズンはA+級タンパ・ヤンキースに所属し試合に出場した[2]。 2010年8月2日、AA(ダブルA)級トレントン・サンダーからAAA級スクラントン・ウィルクスバリ・レイルライダースへ昇格[3]。昇格前のAA・2010年シーズンには打率.291・23本塁打[4]・90打点を記録しており[2]、この年のAA・イースタンリーグのMVPと新人賞 (Eastern League Rookie of the Year Award) を受賞[4]。 2011年には「ルール・ファイブ・ドラフト」からプロテクトする目的でメジャー昇格が決まり[5]、7月18日にラミロ・ペーニャが故障者リスト入りしたのに伴いメジャーに昇格[6]。7月22日に本拠地ヤンキー・スタジアムでメジャーデビューを果たした。デビュー戦はオークランド・アスレチックスとの一戦で、この試合でレアードは相手投手のクレイグ・ブレスロウから初安打・初打点となるセンター前ヒットを記録。その後もジョーイ・デバインから四球を与えられ出塁するとニック・スウィッシャーのシングルヒットで初得点。 2012年8月27日、ヤンキースがヒューストン・アストロズからスティーブ・ピアースを獲得したのに伴い、40人枠から外れることとなり放出された[7]。 アストロズ時代 ヤンキースから放出後、2012年9月1日付でヒューストン・アストロズに移籍[8]。 2013年シーズンは当時アストロズ傘下であったAAA・オクラホマシティ・レッドホークスで開幕を迎え、4月18日にブレット・ウォレスのマイナー降格と同時にメジャー昇格。12試合で打率.352を記録したが[9]、10月2日にはロースターから外れ[10][11]、10月4日にFAとなる[2]。 ロイヤルズ傘下・ナショナルズ傘下時代 2013年11月23日、カンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んだ[12]。 2014年3月15日にトレードでワシントン・ナショナルズへ移籍した[13]が、メジャーでの試合出場は無し。 日本ハム時代 2014年11月18日に、北海道日本ハムファイターズとの契約が合意に達したことが発表された[14]。 2015年、6月頃まで打率が2割を下回るが、後半戦で22本塁打を記録し、最終的にはリーグ3位タイのシーズン34本塁打を記録し、8月の段階で2016年度の契約が確定した[15]。 2016年、前半戦から20本の本塁打で、特に5月には12本塁打。球団の北海道移転から通算500勝目を飾る決勝弾を放つなど、サヨナラ本塁打を3本記録した。日本プロ野球史上初、打った本塁打が全て打順6番以下での本塁打王を獲得した[16]。10月2日に日本ハムと2年契約を結んだことが発表された[17]。日本シリーズでは、第4戦での勝ち越しとなる2ラン本塁打および第6戦での満塁本塁打を含む3本の本塁打を放ち、日本シリーズMVPを受賞した。 2017年、3月に開催されるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)にメキシコ代表として出場[1]。チームは予選で敗退したが、自身は3番・三塁と主戦力として出場し、2本塁打を放つ活躍を見せた。 WBC終了後、開幕早々の4月に、これまで4番の座に座っていた中田翔の故障により、初めて4番として出場。その後も大谷翔平、近藤健介の離脱に伴い3番・4番・5番に座る機会が増えた。5月12日には2打席連続本塁打し、翌日13日には前日の2四球を挟んで4打数連続本塁打のプロ野球タイ記録を記録した[18]。9月9日に球団助っ人3人目となる「3年連続30本」を達成した。10月1日に発生したラスベガス・ストリップでの銃乱射事件においていとこが犠牲になったことを受け4日に帰国を決めた[19]。 2018年は120試合の出場で打率.233、26本塁打、65打点だった。オフに自由契約となったものの、球団は残留交渉を続けていた[20]。 ロッテ時代 2019年1月15日、千葉ロッテマリーンズと契約したことが発表された[21]。1年契約、年俸110万ドル (推定)[22]、背番号は「54」。 人物 来日してから、日本料理を好むようになった。特に寿司が好物であり、本塁打を打った際には寿司を握る仕草をするというパフォーマンスを行う。これは不振に苦しんでいた2015年のシーズン途中、白井一幸コーチに紹介された寿司店の店主からレアードが依頼されて始めたものであった[23]。当初、白井コーチはこの仕草を「リラックスして打て」というサインにしていたが、調子が一気に上向いたことから冗談半分で「ホームランを打て」のサインにしている。本人もこのポーズをいたく気に入り、本塁打を放ちベンチへ戻ったあとにはカメラに向かって"スシポーズ"を見せる。 2017年のWBCにメキシコ代表として出場し、3月12日の1次ラウンド・プールDのベネズエラ代表対メキシコ代表戦にて5回に3点本塁打を放ち、同じくNPBから代表に呼ばれていたルイス・クルーズと共に寿司を握る仕草を披露した。[24] また、多くの外国人選手が苦にする納豆も好物としており、スタミナ源としてチームメイトの他の外国人選手にも勧めるほどである。 2009年の12月に、兄のジェラルドと2人でNBAのフェニックス・サンズ対ボストン・セルティックスの試合をUSエアウェイズ・センターで観戦しに行った際、乱闘騒ぎを起こし警察に逮捕されている[25]。 詳細情報 年度別打撃成績 NYY1125213400041001030041.190.292.190.482HOU17373529101134000020081.257.297.371.66825767171230530110000302262.169.224.423.647日本ハム1435544986211522234243971004430912918.231.301.488.7891435985477114421039282970004441313816.263.319.516.8351375715035611518132231900007540712518.229.308.459.7671205054504710514226201650104445712410.233.309.447.756MLB:3年53138127122540647160010802384.197.255.370.625NPB:4年543222819982364797551319573491101918562651662.240.310.479.789 2018年度シーズン終了時 各年度の<b data-parsoid='{"dsr":[8618,8626,3,3]}'>太字</b>はリーグ最高 年度別守備成績 2018年度シーズン終了時 各年度の<b data-parsoid='{"dsr":[10085,10093,3,3]}'>太字</b>はリーグ最高 タイトル NPB 本塁打王:1回 (2016年) 表彰 NPB ベストナイン:1回 (三塁手部門:2016年) 月間MVP:2回 (野手部門:2016年5月、2017年5月) スカパー!サヨナラ賞:3回 (2015年9月、2016年6月、2016年7月) 日本シリーズMVP:1回 (2016年) 記録 NPB初記録 初出場・初先発出場:2015年3月27日、対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦(札幌ドーム)、6番・三塁手で先発出場 初安打:同上、5回裏に則本昂大から中前安打 初打点:同上、8回裏に濱矢廣大から左前適時打 初本塁打:2015年3月29日、対東北楽天ゴールデンイーグルス3回戦(札幌ドーム)、1回裏に横山貴明から右越2ラン 節目の記録 100本塁打:2017年8月16日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(札幌ドーム)、5回裏にジェイソン・スタンリッジから左中間ソロ ※史上285人目の記録 NPBその他の記録 1試合3併殺打:2015年4月11日、対福岡ソフトバンクホークス1回戦(鹿児島県立鴨池野球場)で記録。相手投手は3打席とも攝津正。 ※史上30人目(最多タイ) シーズンサヨナラ本塁打2度:1回 (2016年) - 6月10日、対阪神タイガース1回戦(札幌ドーム、投手は藤川球児)と7月10日、対千葉ロッテマリーンズ14回戦(同、投手は木村優太) ※日本ハムでは1995年の田中幸雄以来21年ぶり、外国人選手としてはチーム史上初。 オールスターゲーム出場:2回 (2016年、2017年) 背番号 60 (2011年) 13 (2012年) 4 (2013年) 5 (2015年 - 2018年)[26] 登場曲 「Walk Thru feat. Problem」Rich Homie Quan(2015年) 「GDFR」Flo Rida(2015年) 「Dragon Night」 - SEKAI NO OWARI (2015年 - 2016年途中) 「King Kunta」Kendrick Lamar(2015年) 「Juicy」The Notorious B.I.G.(2015年) 「anti-hero」SEKAI NO OWARI(2015年) 「No Flex Zone」Rae Sremmurd(2015年) 「Middle feat. Bipolar Sunshine」DJ Snake(2016年) 「Pop Style」Drake(2016年) 「Public Service Announcement」Jay-Z(2016年 - ) 「Sahara」DJ Snake(2016年 - ) 「スシ食いねェ!」 - シブがき隊 (2016年CS) 「Atlines」Outkast(2016年) 「I Like The View」Lil Wayne(2017年) 「Tomorrow Til Infinity feat. Gunna」Young Thug(2017年) 「All Time Low」Jon Bellion(2017年) 「キセキ」GReeeeN(2018年) 「Nonstop」Drake(2018年) 「Liquor Store Blues feat. Damian Marley」Bruno Mars(2018年) 「Talk Up feat. Jay-Z」Drake(2018年) 「I Like It Loud feat. Marshall Masters & The Ultimate MC」Tiesto & John Christian(2018年) 「Can't Take A Joke」Drake(2018年) 「Mike Stud」Frio(2018年) 「So Fresh, So Clean」Outkast(2018年) 代表歴 2017 ワールド・ベースボール・クラシック・メキシコ代表 脚注 関連項目 メジャーリーグベースボールの選手一覧 L 北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧#アメリカ合衆国 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 兄弟スポーツ選手一覧 外部リンク on Instagram
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セブン=フォートレスはどのゲーム機で遊べる?
セブン=フォートレス
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セブン=フォートレス(Seven=Fortress)は日本製のファンタジーTRPG。また、そのシリーズ。作者は菊池たけし。1991年にゲーム名が公表され、1996年に発売された。 ルール第一版『セブン=フォートレスRPG』はホビージャパンから発売され、第二版『セブン=フォートレス Advanced』以降、基本ルールブックはアスキー、のちにエンターブレイン、サプリメントはゲーム・フィールドとエンターブレインから発売。また、リプレイはファミ通文庫より刊行されている[1]。 「主八界」もしくは「きくたけワールド」と呼ばれる菊池たけしの多元宇宙観を構成する作品の1つでもある。 『セブン=フォートレス』は何度もルールのバージョンアップが行われており、ルールのバージョンによって全く違うゲームの様相を見せる部分も多い。この項目では『セブン=フォートレス』シリーズ全体について総括して解説する。各バージョンごとの詳細については別個項目を参照のこと。 概要 7人の守護者が見守るファンタジー世界「ラース=フェリア」が舞台としたヒロイックファンタジー物のTRPG。 『ドラゴンボール』に代表されるような『週刊少年ジャンプ』の連載作品などで良く見られる「ド派手なパワーインフレバトル」を行えるのが特徴のゲームである。いわゆる「少年漫画的」なノリの再現を目指したTRPGとしては黎明期にあたるゲームであり、『ワープスファンタジー』の後継的作品でもある[2]。 システム ゲームシステム面については『セブン=フォートレス』のバージョンによって大きく異なるところがあるが、全シリーズに共通している部分について解説する。 属性 『セブン=フォートレス』ではプレイヤーキャラクター(PC)は全員、<空>、<炎>、<森>、<海>、<闇>、<氷>、<幻>の七つの属性のいずれか一つ、もしくは二つを有している。キャラクターがどの属性を有しているかによりキャラクターの基本的な能力値が決定され、また、使用できる魔法も属性ごとに決まっている。 魔法でなくてもただの剣による攻撃でさえ自分の属性がこもる。特定属性による攻撃に対して強い防御を持つ敵や、逆に特定属性に弱点を持つ敵もいるため、自分の属性が何かということはゲームを進行させるにあたって非常に重要な要素となっている。 この七属性の概念はゲームシステムだけでなく世界設定の上でも重要なギミックとなっており、『セブン=フォートレス』というゲームにおいて欠かせない概念である。 行為判定 『セブン=フォートレス』では行為判定は六面体サイコロ2個(以後、2D6と表記)による「上方無限ロール」を使用している。 無限ロールは2d6の出目が「キャラクターごとに設定されたクリティカル値」であれば発生するのだが、このクリティカル値が一定でなく、毎回のゲームプレイの開始時にキャラクターごとにランダムに決定しなおすというルールが他に類を見ないものとなっている。全てのキャラクターは毎回のゲームプレイの開始時に2d6を振り、その出目が今回のゲームプレイのクリティカル値となるのだ。これにより、クリティカル値は7(2d6の最頻値)に近くなりやすく、ゲーム中の無限ロールの発生頻度はかなり高くなっている。 一方、このゲームでは同じように「ファンブル値」というものがある。行為判定の2d6の出目がファンブル値であれば判定の達成値が下がるのだが、このファンブル値もまた毎回のゲームプレイの開始時に2d6で決定されるため、ファンブル値も7に近くなりやすい。 クリティカルとファンブルが両方とも起こりやすいというとてもギャンブル性の高いピーキーなゲームバランスは『セブン=フォートレス』の特徴である。これは少年漫画的なドラマティックな展開(「実力でははるかに劣るはずの主人公が強大な敵に打ち勝つ」「普段の実力を出し切れずに意外な所で敵にやられる」)を再現する部分にも貢献している。 なお、「クリティカル値」と「ファンブル値」の決定時にプレイヤーキャラクターが持つ【幸運】の能力値に応じて数値を上下できるという特典があるため、ファンブル値決定の2d6で7が出た場合などでも、運の良いキャラクターならばある程度は対処できるようになっている。 プラーナ 『セブン=フォートレス』はヒーローポイントである「プラーナ」システムを持つ。プラーナとは気力や生命エネルギーのようなもので、プレイヤーキャラクターはヒットポイントやマジックポイントのようにプラーナがポイントとして設定されている。このプラーナを消費することで一時的に行為判定の達成値を大きく上昇させることができるのである。これもまた、少年漫画的な「主人公が一撃に全ての気力を込めて爆発力のある攻撃を行う」というノリの再現に貢献している。 ライフパス 『セブン=フォートレス』は国産のTRPGでは最も早期に本格的なライフパスのルールを導入したゲームでもある。 『セブン=フォートレス』シリーズに用意されているライフパスは他のゲームのライフパスと違い、「足がくさい」「寝起きは凶暴になる」「破壊的音痴」「目から誘惑光線」「耳から赤外線」などのおかしな特徴がつく事で有名である。バージョンが進むにつれあまりにおかしな特徴は消えていっているが、それでもいくつかのインパクトある特徴は受け継がれている、 ライフパスでおかしな特徴が得られるようになっているのは『セブン=フォートレス』シリーズの元となったリプレイ「砦シリーズ」の登場キャラクターにかなりの変人が多かったことに由来する。ただし、おかしな特徴は必ずつくわけでなく、そういう特徴をつけようと思うプレイヤーでない限りは、まともな特徴にとどまるようにゲームシステムは工夫されている。 世界設定 『セブン=フォートレス』の舞台となるのは「ラース=フェリア」と言われる剣と魔法のファンタジー世界である。 この世界は七つの文化圏に分かれている2つの大陸から成り、それぞれの文化圏を「守護者」と言われる七人の亜神が分担して見守っている。世界中に古代文明の遺跡が存在し、その遺跡の中にある古代の秘宝を持ち帰る探索者という職業が確立しており、プレイヤーキャラクターたちは基本的にこの探索者の立場につく。古代遺跡の中でもっとも有名なのが七つの文化圏に一つずつ存在している<b data-parsoid='{"dsr":[3171,3181,3,3]}'>七つの砦</b>であり、これが『セブン=フォートレス』というタイトルの由来となっている。 ラース=フェリアはギャグやユーモアに根付いた設定が多数あるのも特徴である。地名や古代の秘宝が日本語のダジャレに基づいていたり(「悪徳商人が牛耳る街“ギュージール”」「古代魔法《イブセマスジー》(井伏鱒二)」など)、あきらかに現代人的なセンスをもったキャラクターが多数登場したりする。これは『セブン=フォートレス』の原型となったリプレイ『アルセイルの氷砦』の、さらに元ネタになっていた『ワープス』リプレイ「SLGマガジンシリーズ」がコメディ色の強いシリーズだったことに起因する。コメディ色の強いファンタジーという部分は現在のバージョンに至るまで続いている要素でもある。 その一方で、ラース=フェリアは非常に簡単に人が死ぬ世界でもある。この世界では世界を滅ぼすような存在が巷に跋扈しており、世界は常に滅亡の危機に晒されている。しかし、それと同時に世界を救う「勇者」なる存在も多数生まれる世界でもある。探索者の中の6人に1人は「勇者」として神々より選ばれるような世界であり、あたりまえのように量産される勇者と、虫のように沸いて出てくる魔王たちとが世界の命運をかけて日常的に殺し合いを行っている。その一方で力のない一般市民たちは魔王や邪教の軍団によって殺戮され続けられている ロールプレイングゲームそのものを皮肉ったようなこの世界観をデザイナーの菊池たけしは「巨大なパワーがすべてを支配するモラルなきファンタジー世界」と呼んでいる。このような強烈な世界設定もまた『ドラゴンボール』的な「敵も味方も止まることを知らない、世界を破壊するレベルのパワーインフレバトル」を再現しやすくするためのものでもある。 七つの地域 ラース=フェリアの七つの文化圏は以下である。『セブン=フォートレスRPG』時代=「十六王紀」には七地方に散在する16の都市国家が「十六都市国家評議会」を構成していたが、十六王紀900年代後半の戦争で瓦解し、その後(『セブン=フォートレス Advanced』以降)は十六王紀時代の魔法「属性魔法」の源泉たる「宝珠」を封印し、それに代わる「属性紋章魔法」を構築した7人の魔術師が、自身の魔法の属性を冠した「○導王」の名の下に各地方の諸都市を指導する「七紋章紀」となっている。 各地方の中心都市(十六王紀時代は十六都市国家評議会を構成)はリーンのガンビエンセのように都市自体が図書館であったり、シェローティアのパラフィム、ラ・アルメイアのパット・サイデリアのように空中に浮遊していたりと様々な特徴を持つ。中心都市の詳細については「セブン=フォートレスRPG#十六都市国家」を参照。 シェローティア地方 - <空>の守護者ヴァレリアの加護を持つ。文化特性は「法による秩序」。気候特性とは温暖で災害が少ない。中心都市はラ・メイア、パラフィム、フェイス。空導王はラ・メイアに在する。 フレイス地方 - <炎>の守護者ジュグラットの加護を持つ。文化特性は「力による統制」。気候特性は熱帯の乾燥地帯で砂漠も多い。中心都市はエクサージュとフレイス。炎導王はフレイスに在する。 フォーラ地方 - <森>の守護者スフィラヴの加護を持つ。文化特性は「自然による恩恵」。気候特性は温暖で森が多い。中心都市はグリューナ、ルイダス、ラグシア。ラグシアはフレイス地方のエクサージュの分流にあたる。 フォーチューン地方 - <海>の守護者ティーシャの加護を持つ。文化特性は「慈愛による加護」。気候特性としては海が近いがすごしやすい年中変化のない一定した気温を持つ。また、雨季が存在している。中心都市はリ・アクアティースとエアル・ラーメ。 リーン地方 - <闇>の守護者ジョシュアの加護を持つ。文化特性は「混沌による進化」。気候特性としては年中涼し目で昼より夜が長い。中心都市はハザン、ガンビエンセ、ラファライド。闇導王はハザンに在する。 アルセイル地方 - <氷>の守護者ロンドヴィルの加護を持つ。文化特性は「閉鎖による自己の鍛錬」。気候特性としては年中寒く氷に閉ざされている。中心都市はマティール。アルセイルの都市国家はマティールしかなく、氷導王もマティールに在する。 ラ・アルメイア地方 - <幻>の守護者フェザンティの加護を持つ。文化特性は「絶え間なき変化」。1大陸で1地方を構成している。未開の地が多いうえに古代文明時に魔法実験が頻繁に行われた地であるせいか時空が安定していない。ゆえに気候特性も混沌としており、夏に雪が降ったり、冬の猛吹雪があった次の日に灼熱の気温となったりする。中心都市はイス・フィアとパット・サイデリア。一定の時期に陽炎の中から出現するマリーシという都市が存在するとされる。幻導王はイス・フィアに在する。 世界三大騎士団と守護装騎 シェローティア地方の「神聖騎士団」、フレイス地方の「灼熱騎士団」、アルセイル地方の「氷魔騎士団」の3つは世界三大騎士団と呼ばれ、人々があこがれるヒーローたちとして知られている。またフォーチューン地方には古代兵器であるスーパーロボット「守護装騎」が10体ほど[3]存在し、世界の危機に対してのみ出動する。 しかし、菊池たけしのリプレイ作品では三大騎士団や守護装騎は基本的に「ヤラレ役」として出てくることが多い。古代兵器や魔王が復活したとき、先陣をきって世界の敵に向かっていった三大騎士団が「うわーだめだー」の叫びと共に敵の強大な力でなぎ払われたり、恐るべき力で魔王軍のザコモンスター数万体を一撃でなぎ払った守護装騎が戦場に突如現われた魔王軍の幹部などに一撃で壊されるという演出が「お約束」としてリプレイで良く挿入されるのである。これは「あの強い騎士団(守護装騎)が一撃でやられるなんて!」という、相手の強さを引き立てるかませ犬としての演出手法だが、このリプレイの定番演出のおかげで「世界三大騎士団&守護装騎=ヤラレ役」のイメージがファンの多くに根付いてしまっている。 しかし世界設定上では、三大騎士団は本当にエリート集団であり、また守護装騎は本当に世界防衛の切り札と言える兵器である。ルールブックのワールドガイドで紹介されるときはヤラレ役としてのイメージは基本的につけられていない。 このように「正義の陣営が用意していたエリート部隊や秘蔵の秘密兵器」などといった物はかませ犬な使われ方をすることが多いが、この演出はあくまで菊池たけしのリプレイ作品で多用されているだけであり、各ユーザーがゲームをプレイするときに三大騎士団や守護装騎(あるいは似た設定を持つ部隊や兵器)を頼れる存在として描写してはいけないわけではない。 なお、『セブン=フォートレス』の正史においては、『セブン=フォートレスRPG』の時代である「十六王紀」末期に、氷魔騎士団は宝珠戦争(「聖神官サライの反乱」とも呼ばれる)で、灼熱騎士団は暗黒破壊神バラーの事件(『リーンの闇砦』)で一度壊滅している。特に氷魔騎士団は『セブン=フォートレス Advanced』以降の時代たる「七紋章紀」に同名の騎士団が組織され、十六王紀時代の旧氷魔騎士団と敵対関係にある(『フォーラの森砦』)。 シリーズ概要 『セブン=フォートレス』では作品のバージョンが進むにつれ、作品世界の時間も流れ、細部ルールやコンセプトが変更されているが、根幹部分は同じである。そのため、「前作であったシステムを持ち込む」事も不可能ではない。 セブン=フォートレスRPG ルール第一版。「無印」とも呼称される。1996年にホビージャパンよりボックスタイプで発売された。 パワーゲームを楽しむ作品であったが、後にバランス調整版が「セブン=フォートレス クラシック」というタイトルで、ソフトカバーとなってゲーム・フィールドから発売された。どちらも現在は絶版。 特徴は、「熱い事をやる」ための「バーニングシステム」と、剣技・闘気法や魔法、マジックアイテムなど数々の「データ自作ルール」。前者はポイントを消費する事で燃える行動(味方のピンチに駆けつける、死からの復活等)を取る事ができる。 シリーズの中では「少年漫画的なパワーインフレバトル」を行うという部分に最もストレートに特化した作品である。 セブン=フォートレス Advanced ルール第二版。「アドヴァンスド」と呼称される。1998年にアスペクトより書籍タイプで発売された。 前作と比べるとデータ的な部分が増えており、シビアな作品となっている。「砦(フォートレス)」が中心の作品となっており、ダンジョンアタックによる「プレイヤーとゲームマスターのガチンコバトル」が売り文句。 特徴は、「ダンジョン作成ルール」と「トラップ自作ルール」。前作であった「バーニングシステム」と「データ自作ルール」は失われているが、手元にルールがあれば運用は可能である。 セブン=フォートレス EX 『アドヴァンスド』のサプリメント。「EX」と呼称される。2001年にゲーム・フィールドから書籍タイプで発売された。『セブン=フォートレス』シリーズ全体を通じて初のサプリメントでもある。 高レベルユーザー向けデータブックであるとともに、菊池たけしが「砦シリーズ」のリプレイで描きつづけてきたテーマ「世界の危機に立ち向かう勇者の物語」をユーザーレベルで再現することを目的とした拡張ルールを収録している。そのため単体では遊ぶことはできない。 特徴は、「EXパラメータ」と「シナリオランク」と「マジックアイテムチャート」。「EXパラメータ」は、物語の進行や世界の危機度に応じて、各キャラクターの特徴が段階的に強化されるというもの。また、「シナリオランク」は、その冒険で起きる事柄が、どれだけ世界の危機を引き起こすか、を示すもの。「個人の危機」から「世界の終焉」まで、上下差が激しい。 セブン=フォートレス V3 ルール第三版。「V3」もしくは「ぶいすりゃぁ」と呼称される。2002年にエンターブレインから書籍タイプで発売された。 「異世界からやってきた侵略者軍団から、ラース=フェリアを守る」がテーマであり、作者の他作品の世界の軍勢が敵役として登場し、主八界を舞台にする他作品とのリンクがより前面に押し出される(リンク自体は当初から示唆されていた)。 今までの作品の集大成とも言え、より簡単になった「ダンジョン作成ルール」とキャラクター作成時の「メイン/サブクラス制の導入」、『トーキョーN◎VA The Revolution』以降のF.E.A.R.製TRPGに導入され始めた「シーン制の導入」が特徴。 サプリメントの『セブン=フォートレス パワード』や『セブン=フォートレス エンジェル★プリンセス』を導入すれば、『ナイトウィザード』『超女王様伝説 セント★プリンセス』『エイスエンジェル』などの菊池たけしの他作品の世界からやってきたキャラクターをPCにできる。 セブン=フォートレス メビウス ルール第四版。2008年にエンターブレインから書籍タイプで発売された。 今までのシリーズ以上に「世界の危機とそれに立ち向かう勇者たちの物語」を前面に押し出したゲームになっており、救世主伝説な物語がやりやすいように世界は冥界の勢力により滅亡寸前な状況になっている。 作者の他作品の世界とのリンクは『V3』以上に強化されている。サプリメントを使うことで異世界出身のPCを使用できるようになる他、異世界そのものをシナリオの舞台とする方向性が目立つようになっており、前作までの「ラース=フェリアを舞台にしたゲーム」という枠を逸脱した大作となっている。 ゲームシステムは2007年10月に発売された『ナイトウィザード The 2nd Edition』と同じルール体系が使用されており、互換性が意識されている。 『アドヴァンスド』以降恒例となっているダンジョン探索のルールも、『ナイトウィザード The 2nd Edition』のサプリメント『スクールメイズ』に掲載されているものと互換性のあるものとして再構築された。 「砦シリーズ」リプレイ 『セブン=フォートレス』では「砦シリーズ」といわれるリプレイシリーズがあるのだが、このリプレイはゲームシステムのバージョンアップと深くかかわりあっている。 『セブン=フォートレス』が発売されるに至った経緯に、『RPGマガジン」に連載されたリプレイ「アルセイルの氷砦」が人気を博し、それに使われた菊池たけしの自作オリジナルシステムが商品化されたという歴史があるため、『セブン=フォートレス』では、リプレイで描かれたことをその後にゲームシステムやワールド設定に反映させるというスタンスを貫いている。 故に、『セブン=フォートレス』リプレイは結果的に「(これから発売されるバージョンのルールの)テストプレイの風景」を描いたものになりがちである。実際、発売されたゲームシステムでデータ化されているアイテムや魔法には元々はリプレイ中に登場させるために作成された物が数多く存在する。例えば、属性の1つである〈空〉に多い強力な攻撃魔法や生体防具「カニアーマー」とその必殺技「蟹光線(イブセマスジー)」の存在などは、最初期のリプレイ「アルセイルの氷砦」にてプレイヤーのアイデアから登場したものである。 また、リプレイは数回に分けて収録され、その間にはインターバルがあったため、「読者からデータを募集し、ゲーム中に手紙を読み上げてデータを使用」といったパフォーマンスも行っていた。この読者からのデータ公募という開発手法は、後に『アルシャード』や『アリアンロッドRPG』にも導入されている。 「砦シリーズ」リプレイのリストについては#砦シリーズの節を参照。 関連書籍 基本ルールブック セブン=フォートレスRPG セブン=フォートレス Advanced セブン=フォートレス クラシック セブン=フォートレス V3 セブン=フォートレス メビウス ※シリーズごとのサプリメントについては、シリーズごとの個別項目を参照 リプレイ 砦シリーズ #「砦シリーズ」リプレイの節も参照。 アルセイルの氷砦(無印・完成前) フォーチューンの海砦〜深遠なる時海の狭間に〜(無印・完成前) 以上は『RPGマガジン』に連載。プレイヤーは主にGMである菊池たけしの友人であった。 リーンの闇砦〜黒き髪の人形使い〜(無印 → Advanced) 本リプレイ以降は『ゲーマーズ・フィールド』に連載(「宝玉の七勇者」を除く)。プレイヤーも菊池が設立に参加したF.E.A.R.の社員が中心となる。TRPG業界外からのゲストプレイヤーとしてイラストレーターの三上義衛を招いている。三上はこの後、『ゲーマーズ・フィールド』の『セブン=フォートレス』サポート記事「無限への挑戦」の挿絵を執筆している。 フォーラの森砦〜王女とゆかいな仲間たち〜(Advanced+EX) ゲストプレイヤーはイラストレーターのぽぽるちゃ。 宝玉の七勇者〜THE BRAVEST OF BRAVE!!〜(Advanced+EX) 単行本(ゲーム・フィールド)版『フォーラの森砦』書き下ろし。 フレイスの炎砦〜紅き巫女の守護者〜(Advanced+NW → V3+NW) ゲストプレイヤーはイラストレーターのみかきみかこ。 ラ・アルメイアの幻砦〜英雄たちの宴〜(V3+AP) シェローティアの空砦〜the end of time〜(メビウス+NW2) 注)括弧の中は、使用されたルールを表す。『NW』はナイトウィザード(第一版)、『NW2』はナイトウィザード The 2nd Editionを表す。矢印で示されている場合は途中で使用システムが変更されたことを表している。 みこシリーズ ゲームシステムに『セブン=フォートレス V3』が使われているが、実際には『ナイトウィザード』のリプレイシリーズである。 黒き星の皇子(V3+パワード+NW) 『E-LOGIN』に連載。ゲストプレイヤーは声優の矢薙直樹と小暮英麻。 その他 天空の剣(Advanced) F.E.A.R.公式ウェブサイトでかつて連載されていたリプレイ。未完のまま公開が停止された。 出撃! 試作精霊船アウストリア(メビウス+NW2) 『セブン=フォートレス メビウス』サプリメント『クロスワールド』書き下ろし作品。GMは齋藤幸一。菊池たけしがGMを務めない初の『セブン=フォートレス』リプレイでもある。 脚注 外部リンク
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株式取引はいくらからできますか?
取引コスト
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経済学とその関連した学問分野において、取引コスト(とりひきこすと、)とは経済取引を行うときに発生するコストである。例えば、株の売買をする時に大抵の人はブローカーに仲介手数料を払わなければならない。この仲介手数料が株取引の取引コストである。 また店でバナナを買うとしよう。バナナを買うのに必要なコストは、バナナの価格だけではない。沢山あるバナナの種類の中から自分の好きなバナナを見つけ、何処で、いくらでバナナを買うべきかを調べる労力、そして自宅から店までの往復の交通費、支払いまでの列の待ち時間や、支払い自体にかかる労力など様々なコストが必要なのだ。バナナ自体の購入にかかった価格以外のコストが取引コストである。 将来関わる可能性のある取引を合理的に評価する際には、影響力の大きそうな取引コストを考慮することは重要である。 多くの種類の取引コストが、それぞれの特有の名前で知られている。 「探索コスト」は意思決定に生じるコストである。求めている財が市場で手に入るかであるとか、誰が最も安く売ってくれるかという情報を収集するコストである。 「交渉コスト」は、他の人々との取引で双方が受け入れ可能な同意に達するのに必要なコストだ。適切な契約を締結するのに必要なコストである。ゲーム理論 ではチキンゲーム の実例として分析される。 「監督と強制のコスト」 は他の人々に契約の条項を確実に遵守させるためのコストだ。そして、もし契約が守られなかった場合に(たいてい法的システムを通じて)採られる適切な行動に必要なコストである。 発展の歴史 よく「取引コスト」という用語はロナルド・コースによって作られたと考えられている。コースは、ある経済行為が組織で行われるか市場で行われるかを予想する理論的フレームワークを用意した。 しかし実際には取引コストという用語は1970年代までのコースの初期の論文では使われていなかった。コースは取引コストという用語は作らなかったが、事実上1937年の論文"The Nature of Firm"においてコースは価格メカニズムを使用する際に発生するコストについて論じている。そこでは彼は初めて取引コストの概念について議論した。一方、『取引コスト』という用語自体は、1950年代の金融経済学の文献で初めて見ることができる。 取引コストという考えが最も良く知られるようになったのは、オリバー・ウィリアムソンの取引コスト理論のおかげだといってよいだろう。今日、取引コスト理論は多くの異なった行動を説明するのに用いられている。ウイリアムソンの取引コスト理論は、モノの売り買いといった分かりやすいケースのみならず日々の感情的な付き合いや、日常的な贈り物の交換などをも「取引」とみなした。 ウイリアムソンによれば、取引コストを決定する要素は人間の限定合理性と機会主義的行動、取引における頻度と資産特殊性と不確実性である。 このようなアプローチは新制度派経済学の一分野である。 なお、ウイリアムソンは、これらの研究業績を評価され、エリノア・オストロムとともに2009年、ノーベル経済学賞を受賞した。 簡単な例 ある供給業者が競争的な環境で、ある部品を作ろうとする顧客と価格交渉をするかもしれない。ただ部品を作るためには、供給業者は他の製品には使い回せないような特殊な機械を作り上げる必要がある。 いったん供給業者が契約し契約を結んでしまったら、顧客と供給業者の関係は競争的なものから独占的な関係へと変化する。これを相互的独占という。要するに、値踏み交渉が起こった場合、供給業者よりも顧客のほうが力を持つということだ。 このような潜在的なコストを避けるために、「人質」を交換するかもしれない。「人質」とは例えば部品工場の経営権などである。 しばしば車メーカーと部品供給者は、ちょうど上記のケースに当てはまるといわれる。車メーカーは部品供給者に値下げを強要する。 軍事企業とアメリカ軍は逆の問題を持っているように見える。軍事企業は装備の開発経費を、軍に装備を納入することでまかなわなければならないが、しばしばコストが増大することにより調達数が削減され、装備の単価を上げることでこれを補うことを余儀なくされる。 情報技術と取引コスト 情報技術は一般的に組織の取引コストを削減する手段だと考えられている。しかし、実際には新しい情報技術を取り入れることは、しばしば前より高い取引コストを生み出すという結果になることがある[1][2]。 というのも、組織によって処理されなければならない情報が、かえって増えてしまうからだ。結果として情報過多な状況に陥ってしまう。アントニオ・カレラとカイ・サイモンは、この情報処理コストをコーディネーション・コストと名付けた[1][3]。 もし、これらのコストが情報技術によってもたらされるベネフィットより大きくなれば、取り組みは消極的になりお金ばかりかかるものとなる。[1][2][3][4]。 脚注 参考文献 Cheung, Steven N. S. (1987). “economic organization and transaction costs," The New Palgrave: A Dictionary of Economics, v. 2, pp. 55-58. Niehans, Jürg (1987). “transaction costs," The New Palgrave: A Dictionary of Economics, v. 4, pp. 677-80. Coase, Ronald H. (1937). "The Nature of the Firm." Economica, N.S., 4(16), pp. _____. (1960). "The Problem of Social Cost," Journal of Law and Economics, 3: pp. Williamson, Oliver E. (1981). The Economics of Organization: The Transaction Cost Approach. The American Journal of Sociology, 87(3), p-577. _____. (1985). The Economic Institutions of Cpitalism: Firms, Markets, Relational Contracting. New York, NY: Free Press. _____. (1996). The Mechanisms of Governance. Oxford University Press. 関連項目 スイッチング・コスト 経済人類学 所有権理論 外部リンク
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『デスパレートな妻たち』のスーザン・メイヤーの職業は何?
スーザン・メイヤー
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スーザン・メイヤー(Susan Mayer)は、アメリカ合衆国のABCで放送されている『デスパレートな妻たち』に登場する架空の人物。このドラマの主人公の1人である。シングルマザー。演じるのはテリー・ハッチャー。日本語版吹替えは萬田久子。 人物・経歴 ウィステリア通り4353番地在住。 1966年12月生まれ。 父親はハノイで戦死したと聞かされ、4人の男性と結婚・離婚を繰り返す母を見て育つ。高校生の頃はチアリーダーをしており、卒業式では卒業生総代を務めるほど優秀だった。その後、弁護士のカール・メイヤーと結婚し、一女・ジュリーをもうけるが、彼が秘書と浮気していることが発覚。1年後、正式に離婚し、一人娘ジュリーの親権も得る。離婚した時には、泣き暮らし、ジュリーに慰められ立ち直った。以来時々スーザンが面倒を起こし、ジュリーが解決に導くという逆転した親子関係が続く。 現在はジュリーと二人暮しで、童話作家として自宅で絵本を描いて生活をしている。童話作家としての収入と前夫カールからの離婚慰謝料で生計を立てている。ジュリーとは大変仲が良く、何でも気兼ねなく話せる。マイクの引越し以来、ジュリーには「(女として)現役復帰したら?」とか「(マイクと)まだ寝てないの?」など、恋人関係にも率直に忠告・助言をもらうこともある。 全裸で家を閉め出されたり、マイクがライバル・イーディと寝ていると勘違いし、その嫉妬心からイーディの自宅を失火で全焼させてしまうなど、かなりのおっちょこちょいである。また、根っからのお節介焼きで好奇心旺盛な性格が災いを招く。料理の腕は壊滅的に下手であり、唯一のレパートリーのマカロニチーズさえも満足に作れない。大親友だったメアリー・アリスの葬儀に持っていったのもそれである。しかし、第7シーズン終盤ではクッキーを無難に作っている描写がある。 シーズン1 メアリー・アリスの葬儀から数日後、何が彼女を自殺に追い込んだのか調べよう、とガブリエルに提案される。彼女が何者かに脅迫されていたことを知ったスーザンは、彼女の夫・ポールに疑いの目を向ける。 向かいに引越してきた配管工のマイク・デルフィーノのことを好きになる。幾度となく同じ男を好きになったイーディもやはりマイクのことを好きだと知り焦るスーザン。ある夜、イーディがマイクと寝ていると勘違いしたスーザンはうっかりイーディの家を燃やしてしまう。その後マーサ・フーバーに、自分が火事に関わった証拠を掴まれ、脅迫されるスーザン。 その後、精神病院でザックを見つけたスーザンは、ジュリーを潜り込ませ、「デーナ」という子どもの存在を知る。娘・ジュリーの協力もあり、スーザンはやがてマイクと付き合うようになる。しかし、マーサ・フーバー殺害事件の遺留品がマイクの家から発見され、マイクが殺人犯・麻薬ディーラーという過去を持つと知った時には軽蔑し、別れることを決意する。その後スーザンは自らポールやマイクの過去を私立探偵に調べさせる。マイクに対する誤解や思い込みを解き、又、理解しようと務める シーズン2 マイクと再び付き合うようになり、一緒に暮らすまでになったスーザン。マイクのためを思い、自らザックの行方を探す手伝いを申し出、探し回る。その後、公園でザックを発見したスーザンは、家へ戻るよう説得するが、未だにジュリーへの執着心をのぞかせたザックをジュリーに近付けたくないスーザンは、父親のポールを先に探すようにザックを言いくるめてしまう。だが、そのことがマイクにばれてしまい、同居<!--(同棲?)-->を解消せざるを得なくなり、マイクはスーザンの元を去ってしまう。 母・ソフィーが恋人のモーティと結婚することになる。その結婚式の席上で、実父について聞かされる。ハノイで戦死したと聞かされていた父は、近所で飼料店を営んでいるというのだ。死んだと思っていた父がずっと近所にいたことにショックを受けるが、どうしても実父に会いたいスーザンは、思い切って父・アディソンの店を訪れる。客として近づき、徐々に仲を深めてから娘だと名乗ろうと計画していたが、彼の妻に頼まれて色仕掛けをしに来たと勘違いされ、計画は大失敗、結局娘だと名乗ってしまう。 マイクとの破局から立ち直れないスーザンは勢いで、前夫カールと寝てしまい、ジュリーに軽蔑される。イーディの怒りを買いたくないスーザンは、二度と関係を持たないと誓う。 しかし、その後知り合った医師ロンと付き合うようになるが、彼から「遊走脾」という病気だと診断されたスーザンは手術を受けねばならなくなる。カールとの離婚以来、保険に入っておらず、手術費用に困ったスーザンはどうにかならないものかと試行錯誤した結果、カールの申し出もあり、周囲に内緒で保険のために偽装結婚をする。 手術当日、マイクの見舞いを受けたスーザンは何ともないふりをして別れるが、手術直前、麻酔で朦朧とした意識の中、ロンに「愛してる、マイク」と言ってしまう。その後、偽装結婚のことが露見するが、保険のためだと理解してもらい、マイクのことも何とか誤魔化すがカールのせいでマイクにまだ気持ちがあることがロンにばれてしまい、破局を迎える。 その後、カールに復縁を迫られるも、固辞するスーザン。しかしイーディとは別れたから、と言われ再び関係を持ってしまう。そのことがイーディにばれ、怒り狂ったイーディはスーザンの家に放火、家は全焼してしまう。 カールとの関係を経て、マイクとまだ相思相愛だと互いに気付いたスーザンは、シチュエーションを整え、マイクのプロポーズを待ち続けた。同じころ、マイクがひき逃げに遭っているとも知らずに…。 シーズン3 回復は絶望的だと知りながら、希望を捨てずに昏睡状態に陥ったマイクを看病し続ける。しかし半年が経ってもマイクは目覚めなかった。 そんな矢先、同じく妻が何年も昏睡状態であるイアンに出会う。お互いの寂しさに共感し、励ましあううちに二人は惹かれ合い、後ろめたさを感じつつも付き合い始める。 しかし二人がイアンの別荘に旅行に行っている最中に、マイクが目覚める。連絡を受けたスーザンはイアンに別れを告げ、病院に駆けつけるが、マイクはウィテリア通りに越してきてからの記憶を失くしていた。しかも、イーディからスーザンに関する嘘の情報を吹き込まれていたマイクに冷たく追い返されてしまう。 その後も何とかマイクに真実を伝えようとするも、偽りの情報で取り入ったイーディにマイクを奪われてしまい、再会したイアンと再び付き合うようになる。 その後無実の殺人容疑で逮捕されてイーディに捨てられたマイクの無実を証明しようと、ブリーと対立、イアンも怒らせてしまう。イアンがマイクに有能な弁護士を付けることと引き換えにもうマイクに会わないと約束する。 出所後、心理セラピーを受け記憶を取り戻しスーザンを取り戻そうとするマイクと、とうとう妻が亡くなったイアンの間で揺れ不安定になるが、イアンからのプロポーズを受け、結婚を決意する。しかし、マイクへの未練を捨て切れていないことに気付いたイアンが自ら身を引く。 晴れてマイクと縁りを戻そうと家を訪ねるとマイクは引っ越してしまっていた。マイクの滞在している山へ単身追いかけていくスーザンだが、案内人とはぐれ遭難してしまう。助けに来たマイクと抱き合い二人は復縁する。 プロポーズ(マイクが準備しておりスーザンも期待していたが、気持ちが逸り自らプロポーズしてしまう)後、結婚式の準備に追われる二人だが、ブリーやガブリエルの式に負けないようにと式の内容を豪華にしようとするスーザンは、マイクがその工面をするために深夜も無理をして働いていることを知る。 ある夜電話で配管修理の依頼を受けたマイクが出勤していると、森の中で一人の男に車を停められタキシードを渡される。男に案内された先には花嫁姿のスーザンと客のフリをしてマイクを呼び出したジュリー、そしてささやかで幻想的な結婚式が準備されていた。自分のために無理をするマイクを思い、本当に大事なのは式の内容でなくマイクだと考えたスーザンが用意したものだった。 三年の紆余曲折を経て、遂に二人は結婚する。 シーズン4 マイクと結婚し、幸せな毎日を送るスーザンだったが、子どもはいらないと言ったマイクが気がかりだった。マイクは子どもはいらないと言ったスーザンに合わせただけで、本当は子どもが欲しいのではないかと迫るものの、マイクは今のままで十分幸せだと言う。さらに婦人科へ定期健診に行ったスーザンは生理が不定期になっていることから更年期障害ではないかと診断され、自分にはもう子どもを産むことが不可能なのではないかと一時絶望するが、後日の検査結果で、生理が不定期なのは妊娠しているからだとわかり、マイクとスーザンは大喜びする。 ある日、マイクはカレン・マクラスキーの家に温水器を設置する際に肩を痛め、以前交通事故にあった際に処方された痛み止めの飲み残しを服用し、対処した。しかし服用は1度にとどまらず、徐々に服用する量が増えていった。 そんな中、スーザンとマイクはブリーから妊婦同士の夕食会へ招待され、その席でブリーはマイクが薬を飲んでいる現場を見つけ、それが常習性のあるものだとわかり、スーザンに忠告する。 スーザンはマイクに問い詰めるが、ただの飲み残しで服用は一度だけだと聞かされ、ほっと胸を撫で下ろす。しかしブリーは「自分がアルコール使用障害だったときにはよく嘘をついた。」と言い、信じるなら確証を探してからにしたほうがよいと言われ、スーザンは家の中を捜しまわり、とうとう大量の薬の入った袋を見つけてしまい、マイクが常習していると確信する。 スーザンはショックを受け、マイクを責め立てるが、マイクは子どもにいい人生を送らせるためには身体に鞭を撃って働いてお金を稼ぐしかないと、心境を吐露した。スーザンはその思いに心を撃たれるが、いま子どもに必要なのは健全な父親であり、薬をやめるように言う。マイクはスーザンの目の前で薬の入った袋を破り、排水溝に流してしまい、薬を辞めることを誓った。 その後、薬とは縁を切ったかに見えたマイクだったが、キャサリンの家に修理へ向かった際、夫のアダムが家を訪れてきた過去の浮気相手シルビアを追い払う現場を偶然目撃してしまい、半ば脅迫のような形でアダムに薬を処方してほしいと頼む。婦人科医であるアダムは男性に処方箋を書けないため、今度はアダムがオーソンにブリーの偽装妊娠絡みの件で脅迫し、処方箋を書かせ、マイクに再び薬が渡ってしまう。 一方、スーザンはマイクが薬とは縁が切れたと安心していたが、夫の挙動が不審であることに気付き車のダッシュボードを漁ると、またも薬を発見する。スーザンは処方した医師がオーソンだとわかると、二度と薬を渡さないように言い、ダッシュボードの薬も没収した。薬が無くなっていたことに気付いたマイクはスーザンに薬を返すよう迫るが、その際にあやまってスーザンを階段から突き落としてしまう。マイクは急いで病院へスーザンを連れていくが、竜巻の影響で病院は急患であふれかえっていたため、スーザンは後回しにされてしまう。妊婦であるにも関わらず優先的に見てもらえないことにマイクは焦りといらだちが募り、さらには禁断症状も相まって看護師を殴りつけ、手錠で繋がれてしまった。その後スーザンは足首のねん挫だけで済んだとわかり、痛み止めが処方されたのだが、マイクはその薬を見るなり「もう我慢の限界だ。その薬が欲しい。今はそれで切り抜けさせてくれ。」と言い、まだ薬を求めようとするマイクのその様子を見てスーザンは愕然とする。落ちぶれ果てた夫にスーザンは「明日はない。リハビリを受けないと離婚する。子どもは一人で育てる。」と涙ながらに訴える。スーザンの固い決意にマイクはとうとう折れ、リハビリ施設に入り薬物依存を克服すると決意した。 その後、マイクはリハビリ施設で依存症を克服し、スーザンも無事に出産を迎え、メイナード・デルフィーノ(通称:M.J.)が誕生し、再び幸せな日々を送る。 シーズン5 スーザンがM.J.を出産している分娩室の隣では、ライラ・ダッシュが女の子を出産していた。全く面識のない二人であったが、二人はその後の数年間、数々のニアミスを繰り返す。地元のコーヒーショップや動物病院の待合室、地元の野球の応援席…幾度となくすれ違いを繰り返したが、ある日、二人は衝撃的な出会いをすることとなる。スーザンは結婚記念日を夫と祝うため車に乗り込み、マイクを高級レストランへと誘いだす。同じころライラは娘を連れて車に乗り込み、近所のアイスクリーム・ショップへと向かった。そして二人の車が同じ交差点に差し掛かった時、二台は激しい衝突事故を起こしてしまう。マイクの運転する車は激しく横転したものの、二人は命に別条はなかった。しかしライラとその娘、ペイジ・ダッシュは死亡してしまう。 その後、マイクは不起訴となったのだが、スーザンとマイクの生活は一変、二人の関係はみるみるうちにぎくしゃくしていった。スーザンは自分と同じ母親と自分の息子と同じ小さな子どもが死んだ、自分たちがいなければ今も生きている、ということがどうしても受け流せずにいた。自分を責め続け、あることないことでマイクを責め立てて口論する日々が続く。そんな日々に疲れ果てたマイクの我慢は限界に達し、とうとう家を飛び出してしまう。その後、M.J.の親権はスーザンへと渡るかたちで離婚が成立。二人の関係は修復不可能なものとなってしまった。その後、出入りの塗装業者のジャクソンと付き合うがマイクのことが気になっており、キャサリンがマイクと付き合いだした時は一応は気にしないといっていたが、キャサリンにマイクがM.J.の学費よりプレゼントを優先したと思い込んだ時は激しく嫉妬した。M.J.の通う学校に不安を感じたスーザンはM.J.を新たに有名私立校に編入させることとなり、学費が高額(具体的な額は不明)過ぎて払えないため、美術教師として働くこととなる。新たなる恋人ジャクソンは実は不法入国者であり、終盤にカナダに強制送還となる。終盤になって、知らなかったとはいえ死んだ親子の遺族であるデーブの前でうっかり事故の話をすることとなってしまい、実は事故を起こしたのはスーザンで、免許証が不携帯だったためマイクが起こしたことにしたという真相を復讐に燃えるデーブの前で話してしまう。そのため、デーブの復讐の対象となりM.J.の命が狙われるが、マイクが助けに来たのとデーブが思いとどまったことによって何とか助かりマイクと再婚する。 シーズン6 マイクと再婚するが、帰ってきたジュリーが何者かに襲われる。スーザンはキャサリンや越してきたアンジーとその一家を疑うが、犯人は意外な人物であった。マイクと再婚したことでキャサリンが嫉妬し嫌がらせを開始するが、キャサリンは精神病院に送られその後全員で訪問したため再びキャサリンとの友情が復活する。一方、元夫カールがセスナ事故で死亡したことにより遺産であったストリップ小屋の相続権はスーザンにありその小屋を売って金を得るが、マイクには仕事で失敗した巨額の借金があり、そのためいったん自宅を貸してアパートを借りて借金返済に励むこととなる。その新たな借り手は、何とポール・ヤングだった。 シーズン7 新たな借り手がポールと知り驚くが、借金返済のため渋々自宅を貸すこととなる。スーザンはアパートのオーナーと知り合いインターネットのアダルトサイトで小銭を稼いで借金を返済することとなるが、ポスターになるほど人気が出てしまった。表ざたになるのを阻止するためにポスターを止めようとするが、金が貯金から減っていたため不審に思ったマイクとその場にいたリネットに話すこととなり、ポールにも捨ててあったポスターを拾わればれてしまう。ポールがスーザンを脅して家をよこせといったためスーザンはポールを自宅から無理やり追い出そうとするが、ハロウィンの日にポールがスーザンの勤め先であった学校に告げ口したため校長にばれてしまい、スーザンは解雇されてしまう。その後、ウィステリア通で起こった暴動によって臓器を損傷し、人工透析が必要な体になってしまう。しかし、ポールの再婚相手のベスがスーザンと奇跡的に一致する臓器の持ち主であったため、移植して助かる。その後、家も何とかとり戻しポールとも和解して仕事も復職することも決まるが、ガブリエルの養父がある日ガブリエルの家に訪ねてきてガブリエルを脅したため、カルロスが背後から鈍器で殴り殺害してしまう。迷った末、カルロスとの五人で死体を埋めることになってしまう。 シーズン8 ガブリエルの養父の死体遺棄に関わったことにより怯える日々を他の4人と共に送るが、落ち着いて大学の美術クラスをとることになり、そこの一癖ある講師の勧めで絵を描いてコンクールに出すこととなる。しかし、何と死体遺棄現場の絵だったため、警察から疑われることとなる。一方、娘のジュリーが帰ってきて何とリネットの息子のポーターの子を妊娠していると知り驚くが、ジュリーは養子に出すと言い張り、それに対してスーザンは自分で育てたいといい、口論になってジュリーから厳しいことを言われてショックを受ける。終盤になってマイクが死亡するが、スーザンはマイクが忘れられないため新たなる恋人を作ることはためらう。最終回では新たなる住人に家を売り、M.J.、ジュリー、ジュリーが生んだ孫娘と共にウィステリア通りを出て行き、他の三人と違ってその後の半生は描かれなかった。
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リチャード・ベルマンの出身はどこ
リチャード・E・ベルマン
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リチャード・アーネスト・ベルマン(英: Richard Ernest Bellman、1920年8月26日 - 1984年3月19日)は応用数学者であり、1953年の動的計画法の考案で知られている。他にも数学の様々な分野に重要な貢献をしている。 経歴 1920年、ニューヨークで生まれる。父はブルックリンのプロスペクトパーク付近で小さな食料雑貨店を営んでいた。1937年、高校を卒業後[1]、ブルックリンカレッジで数学を専攻し、1941年に学士号を取得。その後、ウィスコンシン大学マディソン校で修士号を取得。第二次世界大戦中はロスアラモス国立研究所の理論物理学部門で働いた。1946年、プリンストン大学で博士号を取得。指導教官はソロモン・レフシェッツ[2]。 南カリフォルニア大学で教授として勤務。1975年にはアメリカ芸術科学アカデミーのフェロー、1977年には全米技術アカデミーの会員に選ばれた。 受賞歴 1970年 ディクソン賞科学部門 1976年 ジョン・フォン・ノイマン理論賞 1979年 IEEE栄誉賞 受賞理由は「決定プロセスと制御システム論への貢献、特に動的計画法の創造と応用に対して」である。特に重要な業績はベルマン方程式。 業績 ベルマン方程式 ベルマン方程式は、動的計画法と呼ばれる数学的最適化手法に関する最適性の必要条件である。最適制御理論で解けるほとんどの問題は、適切なベルマン方程式を解析することでも解ける。ベルマン方程式はまず工学における制御理論や他の応用数学の問題に適用され、その後経済学でも重要な道具となった。 ハミルトン-ヤコビ-ベルマン方程式 ハミルトン-ヤコビ-ベルマン方程式 (HJB) は、最適制御理論の中核をなす偏微分方程式である。HJB方程式の解を「価値関数」と呼び、ある力学系とそのコスト関数を与えられたとき、その最適コストを与える。最速降下問題などの古典的問題もこの手法で解くことができる。 この方程式は動的計画法の理論的研究の成果であり、それはベルマンが同僚と共に1950年代から先駆的に研究していた分野である。これの離散時間版が一般にベルマン方程式と呼ばれている。また、連続時間版は古典物理学の初期の成果を拡張したハミルトン-ヤコビ方程式であり、ウィリアム・ローワン・ハミルトンとカール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビが定式化した。 次元の呪い 「次元の呪い (curse of dimensionality)」という言葉はベルマンが作ったもので、(数学的)空間の次元を追加していくと、体積が指数関数的に増大し、それによって問題が発生することを表したものである。次元の呪いという言葉に含まれているのは、ベルマン方程式の数値解法で価値関数の状態変数が増えると、計算量が爆発的に増えていくという問題である。 例えば、単位区間に0.01間隔で標本点を設定すると、100の標本点が必要である。これを10次元の単位超立方体で同じく0.01間隔で標本点を設定すると、1020 の標本点が必要になる。すなわちある意味では、10次元の単位超立方体は単位区間の1018倍の大きさだと言うこともできる。 ベルマン-フォード法 ベルマン-フォード法は最短経路問題を解くアルゴリズムである。重み付けが常に正の場合はダイクストラ法の方が高速だが、負の重み付けも許容するような問題ではベルマン-フォード法を使う。 著作 ベルマンは生涯の中で619の論文と39の著書を書いている。脳外科手術を受けたにも関わらず、晩年の11年間で100以上の論文を発表している。以下は主な著作である[1]。 1959年 Asymptotic Behavior of Solutions of Differential Equations 1961年 An Introduction to Inequalities 1961年 Adaptive Control Process 1962年 Applied Dynamic Programming 1967年 Introduction to the Mathematic Theory of Control Process 1970年 Algorithms, Graphs and computers 1972年 Dynamic Programming and Partial Differential Equations 1982年 Mathematical Aspects of Scheduling and Applications 1983年 Mathematical Methods in Medicine 1984年 Partial differential Equations 1984年 Eye of the Hurricane, an Autobiography, World Scientific Publishing. 1985年 Artificial Intelligence 1995年 Modern Elementary Differential Equations 1997年 Introduction to Matrix Analysis 2003年 Dynamic Programming 2003年 Perturbation Techniques in Mathematics, Engineering and Physics 2003年 Stability Theory of differential Equations 脚注 参考文献 J.J. O'Connor and E.F. Robertson (2005). from the MacTutor History of Mathematics. Stuart Dreyfus (2002). . In: Operations Research. Vol. 50, No. 1, Jan–Feb 2002, pp. 48–51. Stuart Dreyfus (2003) . In: International Transactions in Operational Research. Vol 10, no. 5, Pages 543 - 545 Salvador Sanabria. . Paper at www-math.cudenver.edu 外部リンク
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イージス弾道ミサイル防衛システムは何年の完成見込み?
イージスシステム
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イージス・システム(English: Aegis System)は、アメリカ海軍によって、防空戦闘を重視して開発された艦載武器システム。正式名称は<b data-parsoid='{"dsr":[161,181,3,3]}'>イージス武器システムMk.7(AEGIS Weapon System Mk.7)であり、頭文字をとってAWSと通称される[1]。防衛省ではイージス・システム、イージスシステムの両方を使用している[2][3]。 イージス(Aegis)とは、ギリシャ神話の中で最高神ゼウスが娘アテナに与えたという盾であるアイギス(Aigis)のこと。この盾はあらゆる邪悪を払うとされている(胸当てとの異説もある)[4]。 概要 イージス・システムは、アメリカ海軍のウィシントン提督、マイヤー提督の指導のもと、RCA社のレーダー部門(現ロッキード・マーティン)が開発した艦載武器システムである[5]。 従来、空の脅威から艦隊を守ってきた各種の艦対空ミサイル・システム(ターター・システムなど)は、いずれもせいぜい1〜2個の空中目標に対処するのが精一杯であり、また意思決定を全面的に人に依存していたことから、応答時間も長かった。こういった問題を解決するため、1950年代末よりアメリカ海軍は新しい防空システムの開発を試みたものの、計画は難航した。その後、慎重に洞察を重ね、また新しい技術を適用することで、1960年代末から1970年代にかけて開発されたのがイージス・システムである[4][6]。 イージス・システムは、従来のような単なる防空システムという枠にとどまらない、極めて先進的かつ総合的な戦闘システムとして完成された。イージス・システムにおいては、レーダーなどのセンサー・システム、コンピュータとデータ・リンクによる情報システム、ミサイルとその発射機などの攻撃システムなどが連結されている。これによって、防空に限らず、戦闘のあらゆる局面において、目標の捜索から識別、判断から攻撃に至るまでを、迅速に行なうことができる。本システムが同時に捕捉・追跡可能な目標は128以上といわれ、その内の脅威度が高いと判定された10個以上の目標を同時迎撃できる。このように、きわめて優秀な情報能力をもっていることから、情勢をはるかにすばやく分析できるほか、レーダーの特性上、電子攻撃への耐性も強いという特長もある[4]。 高性能ゆえに高価であり、イージス・システム全体としての価格は500億円と言われている。ただ、開発が1969年に始まったため技術としては既に成熟域に達しており、欧州諸国が独自に開発・採用している同種のシステムよりは相対的に価格がこなれている。スペインがドイツ・オランダとの防空システム共同開発から脱退し「イージス」を採用したのもそれが理由である。 開発 タイフォンの挑戦と挫折 タイフォン・システム しかし要求性能の高さに対する技術水準の低さ、統合システムの開発への経験不足のために開発は極めて難航し、最終的に技術的な問題を解決できず、1964年にキャンセルされた。ただし失敗に終わったとはいえ、タイフォン計画から得られた研究成果の多くが、のちにイージス・システムで結実することになる[7]。 ASMSからイージスへ タイフォン計画の失敗を受けて、1963年11月より先進水上ミサイル・システム(ASMS)計画が開始された[8]。タイフォンの轍を踏まないため、本格的な開発に着手するまえに、まず1965年1月よりASMS評価グループを編成してコンセプト開発を行った。この任務のため、ASMSプロジェクト室のほか、海軍省や海軍兵器局、艦船局および研究所、JHU/APL、競合する各社、ベル研究所、陸軍防空庁から選りすぐりの要員が集められた。そしてその指揮官として、既に退役していた少将が非常の措置として呼び戻された[9][10]。 海軍の要求に応じて各社が提出した28個の提案書はウィシントン評価チームによって吟味され、まず7社が選ばれた[9]。1968年には、RCA、ジェネラル・ダイナミクス(GD)、ボーイングの3社に絞り込まれた[10]。そして1969年12月、最終的にRCA社が選定され、主契約者となった[8]。同年、ASMS計画は<b data-parsoid='{"dsr":[3065,3077,3,3]}'>イージス計画</b>と改称した[9]。 1967年に発生したエイラート撃沈事件、1970年にソ連が行なったオケアン70演習を受けて、開発は加速された。とくに、オケアン70演習においては、90秒以内に100発もの対艦ミサイルを集中して着弾させる飽和攻撃が実演され、従来の防空システムの限界が確認された[4]。 前準備なしに洋上試験に入って失敗したタイフォン・システムの失敗を踏まえ、1972年、ニュージャージー州ムーアズタウンのランコカス地区のRCA社構内にあった空軍のレーダー実験施設を借り受けて、地上テストサイト(Land Based Test Site, LBTS;現在はCombat System Engineering Development Site, CSEDS)が建設された。1973年より、まずSPY-1レーダーの試作機(アンテナ1面のみ)が取り付けられて試験が重ねられたのち、戦術情報処理装置などその他のシステムと統合されて、システム全体の試作機にあたる技術開発モデル1号機(Engineering Development Model 1, EDM-1)としての試験に入った。地上での航空機追尾試験などを経て、1975年にはEDM-1を実験艦「ノートン・サウンド」に移設しての洋上試験が開始された。同艦では、LBTSではシミュレータで代用されていたミサイル発射機(艦隊現用のMk.26発射機およびSM-1ミサイル)なども搭載され、ほぼ実艦への搭載に近い状況下で、太平洋上で総合的な試験がくりかえされた。このとき、ミサイル発射試験の初弾で早くもインターセプトに成功したほか、高速目標に対する迎撃能力、レーダーの対妨害能力の高さが注目されたと伝えられている[11][12]。 構成 イージス武器システム (AWS) を搭載する艦(イージス艦)のすべての武器システムは、イージスシステム (AWS) を中核として連結され、システム艦を構築して、艦全体の戦闘を有機的に統括している。この統合戦闘システムをイージス戦闘システム(ACS)と通称する[13]。ここで接続される周辺機器はイージス・システムに特有のものではなく、他の艦艇などにも搭載されうる。 イージス武器システム (AWS) それ自体は純粋な対空戦闘システムであって、以下のシステムによって構成される。 多機能レーダー 指揮決定システム(C&D:Command and Decision System) 武器管制システム(WCS:Weapon Control System) 射撃管制システム(FCS:Fire Control System) ミサイル・ランチャー スタンダード艦対空ミサイル イージス・ディスプレイ・システム(ADS) 自己診断システム(ORTS:Operational Test and Readiness System) 即応性保持システム なお戦闘システム全体の重量は、ベースライン0では610トン、ベースライン3では650トン、ベースライン4では656トンに達するとされる[1]。 多機能レーダー 多機能レーダーとしては、従来、一貫してAN/SPY-1が搭載されてきた。これはイージス武器システムの中心であり、多数目標の同時捜索探知、追尾、評定、発射されたミサイルの追尾・指令誘導の役目を一手に担う多機能レーダーである。周波数はSバンド、パッシブ・フェーズド・アレイ・タイプの固定式平板アンテナを4枚持ち、これを四方に向けて上部構造物に固定装備することで、全周半球空間の捜索を可能にする[14]。 最初に開発されたA型、発展型のB型およびB(V)型は巡洋艦向けで、前後の上部構造物に分けて装備された。その後、レーダー機器を艦橋構造物に集中配置して効率化をはかるとともに小型化したD型、その改良型のD(V)型が駆逐艦向けとして開発された。また、D型をベースとしてさらに簡略化されたフリゲート向けのF型、より小型の艦艇向けのK型も開発されている[14]。 D型では、アンテナ1面につき4350個のレーダー・アンテナ素子が配置され、最大探知距離324キロ以上、200個以上の目標を同時追尾可能とされる[15]。ただしSバンドで動作するため、低高度目標への対処に若干の問題があるとも言われており、ベースライン8以降の艦では、XバンドのAN/SPQ-9Bレーダーが追加装備されている[16]。 そしてベースライン10(ACB-20)では、アンテナをアクティブ・フェーズドアレイ(AESA)方式に変更して新開発されたAN/SPY-6 AMDR-Sに変更される予定となっている[17]。 情報処理システム 指揮決定システム(C&D) 従来のNTDSないしCDS戦術情報処理装置を代替するもので、SPY-1レーダーやソナー、データリンクなどからの情報を総合して、周囲の目標について、その脅威度や攻撃手段などを自動で判断する。これにより、目標への対応についての判断において、処理時間が飛躍的に短縮された。巡洋艦ではMk.1、駆逐艦ではMk.2が採用されている[1]。 イージス・ディスプレイ・システム(ADS) 戦闘指揮所の中枢となるヒューマンマシンインタフェースである。42インチ大の液晶ディスプレイ(LCD)であるLSD(Large Screen Display)を中核としており、巡洋艦では4面構成のMk.1が、駆逐艦では2面構成のMk.2が採用される[1]。ただし、巡洋艦のうちBMD 3.6改修を受けた艦は、左側のLSD 2面を外して、横長の大型ディスプレイ 1面と交換している。また駆逐艦でも、ベースライン9C1/ABMD 5.0CUへのアップグレード改修を受けた艦では4面に増設している[18]。 武器管制システム(WCS) C&Dによって攻撃の判断がなされたとき、ミサイルを選定し、ランチャーに発射指令を送り、発射後には中間誘導を行い、終末段階においては射撃指揮システムに対して指令を行う。実際の攻撃を管制するのが武器管制システム(WCS)である。従来用いられていたWDSをもとに、イージスシステムに適合化したものである[1]。 Mk.99射撃指揮システムのほか、対艦ミサイルやCIWS、砲などとも連結され、その攻撃を管制する。巡洋艦においてはMk.1、駆逐艦においてはMk.8が採用されている。なお、試験艦「ノートン・サウンド」においては、従来型のWDS Mk.12が搭載されていた[1]。 ハードウェア ベースライン0では、C&D、ADS、WCS、AN/SPY-1にそれぞれ1基ずつ、計4基のAN/UYK-7電子計算機が用いられていた。またAWS以外のシステムとして、AN/SQS-53ソナーおよびMk.116水中攻撃指揮装置にも1基ずつのAN/UYK-7電子計算機が用いられていた。これらを補完して、ORTSに1基、WCSに6基、ソナーとの連接用に1基、Mk.86 GFCSに1基、Mk.99 GMFCSに1基、トマホークFCSに1基と、計11基のAN/UYK-20電子計算機も用いられていた[1]。 ベースライン4では、より性能が向上したAN/UYK-43電子計算機が導入され、AN/UYK-7を一対一対応で更新するとともに、訓練用およびMk.86 GFCS用として2基が追加された。またベースライン5では、戦術データ・リンク機能を分離強化するため、7基目のAN/UYK-43が追加された。一方、駆逐艦のシステムでは、GFCSがAWSに統合されるなど一部の構成が異なるため、AN/UYK-43は5基となっていた[1]。 マンマシンインターフェースとしては、当初は18基のAN/UYA-4コンソールが配置されており、またベースライン3では一部がAN/UYQ-21に更新された。またベースライン6では、AN/UYQ-21は商用オフザシェルフ(COTS)化されたAN/UYQ-70へと、部分的に更新が図られた[1]。 このAN/UYQ-70は米海軍オープン・アーキテクチャー化基盤(open architecture computer environment, OACE)の中心的機材と位置付けられており、ベースライン7では更に導入が拡大された。分散処理化が図られ、システム全体が刷新された。従来の電子計算機を中心とするメインフレーム型のシステムは姿を消し、AN/UYQ-70ワークステーションによる分散ネットワークが取って代わった[19]。 動作モード AWSは高度な自動化システムであり、下記の3つのモードを基本としている[20]。 手動モード<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[8060,8066,6,0]}'/>目標捜索から脅威度判定、攻撃指令からミサイル攻撃までのすべてのステップを、オペレーターが手動で行う。 半自動モード<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[8125,8131,6,0]}'/>目標捜索から脅威度判定、攻撃指令からミサイル攻撃までのステップのうち、攻撃指令のみをオペレーターが行い、それ以外は全自動で実行される。 自動モード<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[8206,8212,6,0]}'/>オペレータが事前に入力した「距離パラメータ」に基づいて、指揮決定システム(C&D)が状況を判断して、攻撃指令を発する。実際の交戦に至ったとき、人間の関与は不要である(途中で割り込んで制御することはできる)。 通常の運用においては、2の半自動モードが採択されることが多い。手動モードは、各システムの運用試験、あるいは厳格な統率が必要な局面において使用される[20]。ただし平時には、誤射を恐れてしばしば完全手動モードでの運用がなされるが、逆にイラン航空655便撃墜事件の際には、もし「ヴィンセンス」のAWSが自動モードで運用されていたら誤射は起きなかったであろう、とされている[1]。 また、いくつかのフィクション作品においては、全自動モードのことを「ハルマゲドン・モード」と称するが、実際にこのような呼称が行われているかは不明である。 射撃指揮システム (FCS) スタンダード艦対空ミサイルによる攻撃を直接になうのが射撃指揮システム(FCS)で、現在に到るまで一貫してMk.99が用いられている。スタンダード艦対空ミサイルは、慣性誘導・指令誘導に従って飛翔したのち、最終的にセミ・アクティヴ・レーダー・ホーミングによって誘導されて目標を撃破するが、このときに目標の捕捉を行なうイルミネーターであるAN/SPG-62も、Mk.99射撃指揮システムの一部を構成している[1]。 ミサイル・ランチャー もっとも初期のイージス・システムは、Mk.26をミサイル・ランチャーとして使用していた。これは従来型の連装発射機で、発射するまえに、ミサイルを弾庫からレールに移動・装填する必要があった。このため、機構的に複雑であり、即応性に劣ったうえ、連続発射能力も限られた。 このことから、垂直発射装置であるMk.41が使われるようになった。これは、垂直に配置されたミサイルの保管コンテナがそのまま発射機となるもので、より単純であることから整備が容易であるうえに、それぞれのコンテナにミサイルが密封されるのでミサイルの整備も容易となっており、またミサイルを装填することで無防備に露出する必要がないので、より抗堪性が高い。 艦対空ミサイル AWSでは、従来のターター・システムで用いられていたSM-1MRをもとにプログラマブルなオートパイロットを導入し、指令誘導に対応した改良型であるSM-2MRが採用された。SM-2の場合、発射されるとまずオートパイロットの慣性航法装置(INS)によってコースをとり、目標に動きがあったときはSPY-1レーダーからの指令誘導を受けることになるので、最終のセミ・アクティヴ・レーダー・ホーミング誘導に切り替わるまでの間、AN/SPG-62イルミネーターはほかのミサイルを誘導することができる。これによって、射撃指揮装置の数以上の目標を同時に攻撃できることになり、同時に対処できる目標の数が飛躍的に増加した[4]。 その後、ベースライン5では長射程型のSM-2ERブロックIV[1]、ベースライン9ではこれをもとにアクティブ・レーダー・ホーミング(ARH)誘導装置を導入したSM-6にも対応した[21]。またベースライン6では、逆に個艦防空用のESSMの運用にも対応している[1]。 バージョン イージス・システムは継続的な改良を受け、多数のバージョンが生じている。これらは大まかに<b data-parsoid='{"dsr":[10418,10430,3,3]}'>ベースライン</b>として区別される。また、同じベースラインの内でも小改良などによって生じる差異に応じて、フェーズ</b>としての区別がなされることもある。 ベースライン ベースライン1 最初期のシステムであり、電子計算機としては、従来の海軍戦術情報システムなどで用いられていたのと同様のおよび(補助)が採用されている。またLAMPS Mk.Iを搭載していた状態の構成は、特にベースライン0と区別される。装備艦は、いずれも2005年中に退役している[22]。 タイコンデロガ級:初期建造型5隻 ベースライン2 ミサイル・ランチャーをMk.41 VLSに変更した。これによってトマホーク巡航ミサイルの運用が可能になり、1987年度計画よりAWSに統合された[1]。またSM-2も、射程延伸を図ったブロックIIに更新された[22]。 なお、2008年度より着手されたイージス近代化改修(AMOD)により、ベースライン2搭載艦のシステムはベースライン8(CR2/ACB08)にバージョンアップ改修された[23][16]。 タイコンデロガ級:6番艦から12番艦まで(CG-52〜58)の7隻 ベースライン3 レーダーを改良型のB型に変更したことで、高角度での目標探知が可能になったほか、全体に探知精度が向上している。また軽量化もなされており、タイコンデロガ級の抱える欠点であるトップ・ヘヴィーの改善に益している。のちにはベースライン4に匹敵するレベルまで強化されており、これを<b data-parsoid='{"dsr":[11317,11331,3,3]}'>ベースライン3Aと呼んで区別する[22]。 なお、2008年度より着手されたイージス近代化改修(AMOD)により、ベースライン3搭載艦のシステムはベースライン9A(CR3/ACB12)にバージョンアップ改修された[23][16]。 タイコンデロガ級:13番艦から18番艦まで(CG-59〜64)の6隻 ベースライン4 電子計算機は新型のAN/UYK-43、コンソールの一部もAN/UYQ-21に更新された。またアーレイ・バーク級が装備するものについては、レーダーがD型に変更されている。また、日本のこんごう型護衛艦の初期建造艦は、これをベースとして日本独自の改正を加えた<b data-parsoid='{"dsr":[11745,11759,3,3]}'>ベースラインJ1を装備する[22]。 その後、これらの艦のシステムはベースライン5フェーズIIIと同じ仕様にアップグレードされたのち、2012年度より着手されたイージス近代化改修(AMOD)によってベースライン9C(CR3/ACB12)にバージョンアップ改修された[23][16]。 タイコンデロガ級:19番艦から最終27番艦まで(CG-65〜73)の9隻 アーレイ・バーク級:1番艦から17番艦まで(DDG-51〜67)の17隻 こんごう型:1番艦から3番艦まで(DDG-173〜175)の3隻 ベースライン5 JTIDS/C2PやTADIXS-Bの導入、AN/SRS-1戦闘方向探知機(Combat DF)の搭載など[1]、指揮・管制機能や情報連携能力の強化とともに、民生品の導入(COTS化)によるコストダウンもはかられた。また、フェーズIIIではレーダーの管制プロセッサが強化されるとともに通信能力も向上している[22]。 アーレイ・バーク級:18番艦から28番艦まで(DDG-68〜78)の11隻 こんごう型:最終4番艦(DDG-176) ベースライン6 発展型シースパロー(ESSM)短SAMの搭載に対応し、光ファイバー艦内通信システムが導入された。また、フェーズIIIはレーダーを改良型のD(V)型に変更したことで、低高度の目標や、低視認性の目標を捕捉する能力が向上している[22]。 アーレイ・バーク級:29番艦から40番艦まで(DDG-79〜90)の13隻 ベースライン7 上記の通り、AN/UYQ-70ワークステーションによる分散コンピューティング方式が導入されており、システム構成が一新されている。この商用オフザシェルフ(COTS)化の度合いに応じた内部バージョンとして、CR(COTS Refresh)が設定されている。CRはすなわちハードウェアのバージョンを示したものであり、フェーズI(DDG-91〜102)はCR0、フェーズIR(DDG-103〜112)はCR1である[16]。 共同交戦能力(CEC)に当初より対応しているほか、レーダーに新型プロセッサを導入し、また新型のスタンダード・ミサイルであるSM-2ブロックIIIBに対応した[22]。 アーレイ・バーク級:41番艦以降(DDG-91) アルバロ・デ・バサン級フリゲートの5隻 あたご型護衛艦の2隻 世宗大王級駆逐艦の3隻 ホバート級駆逐艦の3隻 ベースライン8 現用のイージス艦のシステムを近代化するためのイージス近代化(AMOD)計画に基づき開発されたもので、当初はCR2/ACB08と称されていた。ベースライン8は、2008年度より、当時ベースライン2を搭載していた7隻のタイコンデロガ級を対象として改修が開始されており、改修艦は2010年より順次に艦隊復帰を開始した。ハードウェアについてはCR2、ソフトウェアのバージョン(Advanced Capability Build, ACB)についてはACB08とされており、CECにも対応した。CR2は、ベースライン7と同様に情報処理装置・端末をAN/UYQ-70に更新し、アメリカ海軍が標準コンピュータ・アーキテクチャとして策定したOACE(Open Architecture Computer Environment)にほぼ準拠したものとされている[24]。またベースライン8搭載改修の対象となった艦がいずれもタイコンデロガ級であったこともあり、この改修に伴って下記のような改良が施された[25]。 AN/SPQ-9B低空警戒レーダーの導入 CIWSのファランクス・ブロック1Bへの更新 Mk.45 5インチ主砲の長砲身化(54口径から62口径へ) 対潜戦能力の向上(対潜システムをAN/SQQ-89A(V)15、船首装備ソナーをAN/SQS-53D、曳航ソナーをMFTAへ更新、艦載機としてMH-60Rに対応) ベースライン9 ハードウェアについてはOACEに完全準拠したCR3、ソフトウェアのバージョンについてはACB12とされる。またイージスBMD 5.0が統合される計画であり、これにより対空戦(AAW)機能とミサイル防衛(BMD)機能を両立した、IAMD(integrated air and missile defense)機能が実現される[26]。 ベースライン9には、下記のような5つのサブタイプが計画されている[27]。 9A - ベースライン3搭載艦(タイコンデロガ級6隻)へのバックフィット改修用。2012年度より順次に搭載改修を開始している。BMD機能を持たないAAW機能特化型である。 9B - ベースライン4搭載艦のうちタイコンデロガ級9隻へのバックフィット改修用として計画されていたが、キャンセルされた。IAMD機能を有する予定であった。 9C - ベースライン4搭載艦のうちアーレイ・バーク級17隻へのバックフィット改修用。IAMD機能を有する予定である。 9D - アーレイ・バーク級フライトIIAの建造再開艦(DDG-113以降)への搭載用。IAMD機能を有する予定である。 9E - 陸上版イージス(AEGIS ashore)への搭載用。BMD機能を有する予定である。 モデルナンバー なお、イージス武器システムそのものはモデル・ナンバーによっても区別される。ただし、ベースラインによる区別のほうが性能を反映していることから、モデル・ナンバーはあまり重視されていない。 Mod.0はベースライン0、Mod.1はベースライン1におおむね対応する。Mod.2は原子力打撃巡洋艦用として予定されていたが、搭載艦の計画そのものが頓挫したため開発されず、のちにVLS搭載巡洋艦のうちSQQ-89を装備しない艦のシステム名称に流用された。Mod.3はVLS搭載巡洋艦のうちSQQ-89を装備する艦のシステム名称である。Mod.4はベースライン3、Mod.5は計算機をUYK-43に更新した巡洋艦、Mod.6はアーレイ・バーク級のシステム名称とされた[1]。 またウィンストン・S・チャーチル(DDG-81)はmod.9、マクキャンベル(DDG-85)はmod.11、日本のあたご型護衛艦についてはmod.6(V)とされている。 ミサイル防衛 上記の通り、AWSはもともと、有人の攻撃機・爆撃機や、これらの航空機または艦艇から発射される対艦ミサイルの排除を目的とする究極の艦載防空システムとして位置付けられていた。当時、ソビエト連邦はSS-20中距離弾道ミサイルやスカッド短距離弾道ミサイルを配備していたものの、西側諸国からは、SS-20は準戦略兵器として、またスカッドは欧州の地上戦での長距離砲兵として捉えられており、これらを撃墜することによる防衛は重視されなかった[28]。 しかしイラン・イラク戦争や湾岸戦争でスカッドが大量に使用されたほか、ソ連崩壊によって弾道ミサイルと関連技術・技術者が第三世界に拡散したことで、これらの戦術弾道ミサイルへの対策が求められるようになった。まず応急的な施策が行われたのち、1993年に成立したクリントン政権において、本土防衛のための国家ミサイル防衛(NMD)と、同盟国および海外展開米軍部隊の防衛のための戦域ミサイル防衛(TMD)の二本柱として再編成された。これらの新しいBMD体制では宇宙配備システムは棄却され、地上配備システムと海上配備システムに注力することとされた。そしてこの海上配備システムのプラットフォームとして、イージス艦が期待されるようになった[28]。 しかしこれらのミサイル防衛任務は、元来のAWSが目的としてきた対航空機任務とは多くの点で異なる対応が要求されることから、イージスBMD(ABMD)として独自のバージョン管理がなされている[29]。開発にあたってはスパイラルモデルが採択されている[30]。 イージスBMD 3.0シリーズ(ブロック2004) まず2004年9月、交戦機能を省いて、弾道ミサイルの捜索・追尾のみを行うLRS&T(Long range surveillance & track)機能だけを実装したBMD 3.0Eが先行配備されたのち、2005年春より、SM-3ブロックI弾道弾迎撃ミサイルによる交戦に対応したBMD 3.0が実用化された[29]。ただしこちらも、あくまで予備的な交戦機能(Preliminary Engagement Capability)と位置付けられている[31]。 その後、2006年8月には、SM-3ブロックIAの運用に対応して、実戦的な交戦機能(Operational Engagement Capability)を備えたBMD 3.6が承認された[29]。 イージスBMD 4.0シリーズ(ブロック2006/08) 第二段階としてのイージスBMD 4.0シリーズでは、迎撃ミサイルをSM-3ブロックIBに更新することで、SRBM・MRBMに加えて、限定的ながら中距離弾道ミサイル(IRBM)への迎撃能力も付与される。またLOR機能も更に拡張されるほか[31]、新型のBSP(BMD Signal Processor)を導入するなど、レーダー信号処理能力の強化も図られる[30]。 そしてこれをもとに、AWSベースライン9.C1と統合したのがBMD 5.0CUである。BMD 4.0以前では、対空戦(AAW)機能とミサイル防衛(BMD)機能とで異なるプログラムを切り替えて使用していたが、BMD 5.0CUでは同時に使用できるようになり、IAMD(integrated air and missile defense)が実現される[31]。 イージスBMD 5.0シリーズ(ブロック2010/2012/2014) イージスBMD 5.1はAWS ベースライン9.C2と統合されたものとなり、迎撃ミサイルをSM-3ブロックIIAに更新してIRBMへの本格的な対処能力を獲得する[31]。 USA-193の撃墜 アメリカ国家偵察局が2006年12月に打ち上げた偵察衛星USA-193(NROL-21) は打ち上げ直後より制御不能に陥っており、2008年3月上旬に大気圏に再突入すると予想されていた。この衛星には姿勢制御用燃料として有害なヒドラジンが搭載されており、燃料タンクが破壊されず地上に落下した場合2ヘクタールが汚染されると見られた。燃料タンクを破壊し、さらに衛星破壊により発生するデブリの影響を最小限に止めるため、衛星が大気圏に突入する直前にSM-3を用いて破壊することが決定された。レイク・エリー (CG-70)、ラッセル (DDG-59)、ディケーター (DDG-73)の3隻のイージス艦がハワイ西の太平洋上に配置され、アメリカ東部標準時間2月20日22時30分(日本時間2月21日12時30分)に、レイク・エリーからSM-3ブロック1Aミサイルが発射され、高度247kmにおいて衛星を破壊することに成功した。この時の高度はそれまで公表されていたSM-3ブロック1Aミサイルの到達可能高度を60%以上上回っていた。 脚注 注釈 出典 参考文献 Check date values in: |accessdate= (help)CS1 maint: unrecognized language (link) Text "Digest" ignored (help) Check date values in: |accessdate= (help) Text "和書" ignored 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大井ダムの建設に山は崩された?
王滝川ダム
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王滝川ダム(おうたきがわダム、おおたきがわダム[1])は、長野県木曽郡王滝村に位置する、木曽川水系王滝川に建設されたダムである。関西電力株式会社が保有する水力発電用ダムであり、御岳発電所(おんたけはつでんしょ、出力6万8,600キロワット)の取水ダムとして機能する。 設備構成 王滝川ダム 王滝川ダムは、木曽川支流の王滝川を横断する形で築造されたダムである。三浦ダムの下流、牧尾ダムの上流に位置する。形式は越流型重力式コンクリートダム[2]。ダムの堤高(基礎岩盤からの高さ)は18.2メートル、堤頂長(頂上部長さ)は80.0メートル、堤体積(提体の体積)は1万153立方メートル[3]。ダムには洪水吐としてラジアルゲートが3門並ぶ[3]。 ダムによって形成される調整池は湛水面積0.1平方キロメートル・総貯水量は58万9,200立方メートルで、そのうち満水位標高1,044.0メートルから1.6メートル以内の有効貯水量は20万9,400立方メートルに及ぶ(数字は2008年3月末時点)[3]。 御岳発電所 王滝川ダムから取水する御岳発電所は、牧尾ダムよりもさらに下流の木曽町三岳(旧・三岳村)に位置する()。最大使用水量34.34立方メートル毎秒、有効落差229.00メートル(1・2号機)または229.21メートル(3号機)にて最大6万8,600キロワットを発電する[4]。 御岳発電所は長い導水路によって落差を得る点が特徴であり[2]、その総延長は34.2キロメートルに及ぶ[3]。導水路は王滝川ダムを起点に王滝川左岸側を通って発電所へ至るもの、鯎川(うぐいがわ)堰堤を起点に王滝川導水路へと合流するもの、末川堰堤を起点に西野川右岸側を通って発電所へ至るもの、の3路線からなる[5]。導水路途中の計17地点でも渓流取水を行うため[2]、取水ダム・取水堰は以下の20地点に及ぶ[5]。 王滝川導水路 王滝川ダム 下黒沢堰堤 濁沢川堰堤 本谷川堰堤 (鯎川導水路が合流) 鯎川堰堤 小俣川堰堤 立間沢堰堤 鈴ヶ沢堰堤 溝口川堰堤 大又川堰堤 樽沢堰堤 三郎沢堰堤 西野川導水路 末川堰堤 西野川堰堤 管沢堰堤 床並沢堰堤 鹿の瀬川堰堤 湯川堰堤 白崩川堰堤 白川堰堤 発電所は王滝川と支流西野川の合流点手前に位置する。上部水槽は1か所のみだが水圧鉄管が二手に分かれており、1・2号水車発電機と3号水車発電機は設置場所が異なる(3号機の方が西野川合流点寄りに立地)[6]。水圧鉄管の長さは356メートルまたは491メートル[3]。また上部水槽からは西野川に向かって余水路が伸びる[6]。 水車発電機は3組とも日立製作所[7]。水車は立軸単輪単流渦巻フランシス水車を採用し、発電機は容量2万5,000キロボルトアンペアのものを備える[7]。周波数は50ヘルツ・60ヘルツの相応に対応する[7]。 歴史 戦時下の工事 大井発電所など木曽川開発を手掛けた大正・昭和戦前期の大手電力会社大同電力は、王滝川における水力開発も計画し、1925年(大正14年)4月に王滝川にて3地点の水利権を獲得した[8]。だが実際の開発は遅く、1930年代までの進展は、最下流部が木曽川本川の「寝覚」地点に組み入れられて1938年(昭和13年)に竣工したのに留まり[9]、他は未着手であった[8]。 大同電力では王滝川の開発計画を見直し、1925年に水利権を得た「王滝川第二」「西野川」両地点を中心に、水利権出願中の付近水力地点を合同して「御岳(御嶽)」地点とし、出力6万4,100キロワットの発電所を建設する計画を立てていた[8]。1939年(昭和14年)の電力国家管理実施によって国策電力会社日本発送電によって開発されることとなり、下流の常盤発電所が1941年(昭和16年)7月に完成した後[10]、逓信大臣より日本発送電に対して1941年12年に御岳発電所建設準備命令、翌1942年(昭和17年)10月30日に同建設命令がそれぞれ発令された[2]。その後同年11月24日付で水利権許可、翌1943年(昭和18年)1月12日付で工事実施認可が下りた[2]。 建設命令では第1期工事として最大出力4万4,000キロワットの設備を1944年(昭和19年)11月末までに竣工させるよう求められた[2]。太平洋戦争中のため労力・資材の不足に悩まされたが、竣工期日半年後の1945年(昭和20年)6月30日より1号機のみ、出力2万2,200キロワットにて御岳発電所の運転を開始した[2]。この段階で完成していた導水路は一部に留まり、完成部分も大部分がコンクリート巻立てを省いた状態であった[2]。 作家の野添憲治によると[11]、戦時下の工事では請負業者鹿島組・間組・飛島組によって1,714人の中国人労働者が強制労働を強いられ、食糧不足や長時間労働から162人が死亡したという。そうした中で三岳村の鹿島組御岳作業所の中国人の一部は、1945年3月、食料倉庫を襲い、工事現場を破壊するなどの事件を起こす(いわゆる「木曽谷事件」)。長野県特別高等警察により15人が検挙され、うち11人には当時施行されていた治安維持法が適用された。 戦後の工事 終戦直後の1945年10月9日、洪水被害によって導水路が崩壊、土砂が流入して発電不能となる被害を受けるが、翌1946年(昭和16年)2月13日に復旧・再開された[2]。続いて、残工事である三浦貯水池からの放水を受け取る王滝川導水路の完成が急がれ、1947年(昭和22年)12月下旬に通水可能な状態まで工事が進められた[2]。1948年(昭和23年)2月11日2号機が竣工し、一部導水路工事中のため暫定的に出力3万9,300キロワットでの運転を開始する[2]。導水路の補修を待って同年12月20日に発電所出力は4万4,000キロワットへと増強された[2]。また前後して、戦時設計のため柱以外は木造であった発電所建屋が鉄筋コンクリート構造に改築された[2]。1949年(昭和24年)11月には西野川導水路の改良工事も完成している[2]。 1951年(昭和26年)5月1日実施の電気事業再編成では、御岳発電所はほかの木曽川の発電所とともに供給区域外ながら関西電力へと継承された[12]。日本発送電設備の帰属先を発生電力の主消費地によって決定するという「潮流主義」の原則に基づき、木曽川筋の発電所が関西電力所管となったことによる[13]。関西電力発足後、既設1・2号機と同規模の3号機の設置工事が進められ[14]、増設工事竣工により1954年(昭和29年)6月28日付で出力が6万6,000キロワットへと引き上げられた[15]。 発電所更新工事 関西電力が保有する木曽川水系の発電所では、1992年度より老朽化設備のリフレッシュ工事が始められており、その一環として御岳発電所においても2004年(平成16年)5月に更新工事が竣工し、従前と同じ使用水量ながら発電所出力が2,600キロワット増強された[16]。以後発電所出力は6万8,600キロワットとなっている。 この更新工事では、1・2号機の旧型水車が更新されており、2003年(平成15年)4月に1号機、2004年5月に2号機がそれぞれそれぞれ営業運転に入った[17]。水車形式は従来と同じ立軸単輪単流渦巻フランシス水車<!--VF-1RS-->であるが、水の圧力を受けて回転するランナー(羽根車)の部分が、長い羽根(主羽根)と短い羽根(中間羽根)とを交互に配置した「中間羽根付きランナー」(スプリッターランナー)に変更されている[17]。新たに中間羽根を装入することで、ランナー内部の水流が整えられ、部分負荷運転時や最大出力運転時の水車効率が改善された[17]。この新型水車は、関西電力と日立製作所の共同研究によって開発されたもので、御岳発電所1・2号機が最初の採用事例となり、続いて新黒部川第三発電所(富山県)でも導入された[17]。 周辺 国道19号から王滝川に沿って上流へと進むと、木曽ダム・常盤ダム・牧尾ダムを経て、御岳発電所に至る。常盤ダム湖に架かる大島橋の付け根には、御岳発電所建設工事の犠牲となった中国人労働者の死を悼む慰霊碑がある。 御岳発電所を過ぎると牧尾ダムがあり、さらに上流へと進むと自然湖に至る。1984年(昭和59年)の長野県西部地震によって引き起こされた地すべりによって王滝川がせき止められたことで誕生した、いわゆる天然ダムと呼ばれるものである。湖面の立ち枯れの木々は、かつて当地が森の中であったことの名残である。この付近には王滝川をまたぐ水路橋がある。これも御岳発電所を構成する設備の一部で、支流の鯎川(うぐいがわ)で取り入れた水を御岳発電所に向けて送水するためのものである。自然湖を過ぎると間もなく王滝川ダムである。 王滝川ダムの上流には滝越集落がある。王滝川沿いの集落としては最も上流に位置し、「水交園」と呼ばれるレジャー施設がある。道はこの先、源流部の三浦ダムに向かって続いているが、一般自動車による通行は制限されている。 御岳発電所建設工事殉職者の慰霊碑 王滝川をまたぐ水路橋 脚注 参考文献 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編著 『角川日本地名大辞典』20 長野県、角川書店、1990年。ISBN 4040012003 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) 『日立評論』記事 Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) 関連項目 日本のダム - 日本のダム一覧 重力式コンクリートダム - 日本の重力式ダム一覧 電力会社管理ダム - 日本の発電用ダム一覧 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E3%83%80%E3%83%A0
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マイケル・コリンズは何歳で独立運動を指揮した?
マイケル・コリンズ (政治家)
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マイケル・コリンズ(, , 1890年10月16日 - 1922年8月22日)は、アイルランドの政治・軍事指導者。アイルランド独立運動を指揮し、アイルランド議会の財務大臣、アイルランド共和軍(IRA)の情報部長、アイルランド国軍の司令官、英愛条約交渉においてはアイルランド側の代表の一員などをつとめた。1922年、アイルランド内戦のさなかに暗殺された。一種独特のカリスマ性を持ち、生前から人気の高かったマイケル・コリンズは死後、フィナ・ゲール党およびその支持者たちによって独立運動における「殉教者」として英雄視されるようになる。 生い立ち マイケル・コリンズは1890年にアイルランド、コーク州に近いサムズクロスで生まれた。コリンズの墓碑銘には「10月12日生まれ」と刻まれているが、伝記著者たちは10月16日生まれということで意見が一致している。コリンズの一族はもともとウィ・コナイル (Uí Chonaill) 卿というリムリックの近くで暮らす郷紳の家であったが、他のアイルランドの郷紳の多くがそうであったように、土地の多くを奪われて没落し、小作農として暮らしていた。だが、145エーカー程度ではあっても農園を持っていたため、19世紀後半の一般的なアイルランド人に比べればやや裕福な暮らし向きであった。 マイケル・コリンズは8人兄弟の末子、三男として生まれた。同名の父マイケル・コリンズはインテリで、青年時代に(IRB、フェニアン)運動に所属し、アイルランドの共和主義運動に携わっていたが、やがてその活動を離れて農業に専念するようになっていた。 コリンズは父親の影響もあって聡明な少年だったようであるが、やがて周囲の人々の影響を受けてアイルランドの自由獲得を熱望するようになった。はじめは近所の鍛冶屋ジェームズ・サントリーに影響を受け、やがて近隣の学校の校長であったデニス・リヨンズに感化されていった。リヨンズはアイルランド共和同盟 (IRB) のメンバーであったが、奇遇にものちにコリンズはこの団体のリーダーをつとめることになる。 コリンズは背が高いうえに恰幅がよく、どんなスポーツでもよくこなした。しかしいくらスポーツに熱中していても政治への思いは少しも弱まることはなかった。1906年にコリンズはイギリス帝国の公務員試験を受験している。卒業後、15歳のコリンズは、当時のアイルランド人青年たちと同じように仕事を求めてイギリスへ向かった。1906年7月からロンドンの郵便局で勤務している。その後の1909年11月にコーク出身のプロテスタントの共和主義者サム・マグワイアの紹介でアイルランド共和同盟へ加入した。 組織の中でコリンズは徐々に頭角を現し、10年たたずして若きリーダーと目されるようになった。ロンドン時代、コリンズは郵便局から金融関係へと仕事を移し、後に役立つことになる財務の知識に精通するようになっていった。 イースター蜂起 マイケル・コリンズの名を初めて世に知らしめたのは1916年に起こったイースター蜂起であった。アイルランド共和同盟 (IRB) の中で、組織運営における緻密な手腕と、周到な戦略立案の才が評価されていたコリンズは26歳の若さであったが、蜂起の首謀者の一人ジョセフ・メリー・プランケットの父カウント・プランケットの財政顧問をつとめるほどになっていた。ダブリンで起きたこのイースター蜂起において、コリンズはダブリン中央郵便局の周辺で急進派の中心人物パトリック・ピアースらと共に戦った。 しかしこの蜂起もイギリスの正規軍が出動するとなすすべもなく壊滅した。準備不足や計画の露呈が明らかであったこの蜂起については組織内でも反対者が多かったが、ピアースらはとにかく立ち上がることに意味があると考え、成功の見込みもないまま行動を起こした。ピアースは「誰かが血を流すことで皆が立ち上がる」と考えていた(事実そのようになる)。共に戦うことになったコリンズだが、蜂起の前から「とにかく蜂起してしまえば人々がついてくる」という安易な考え方や戦略思考不在の行き当たりばったりの方法には異議を唱えていた。 特に中央郵便局を制圧するという作戦に関しては、ただ目立つ建物だというだけで、守るに難しく、補給困難で、包囲されてしまうと逃げ出すこともできないような場所を占拠しても何にもならないと考えていた。後にアイルランド独立運動の戦いの中、コリンズはこのイースター蜂起の失敗のように「座り込んで狙い撃ちされる」ことを避けるよう仲間たちに薦め、イギリス軍に対しては常にゲリラ戦術を駆使して闘うこと、迅速に占拠してすぐさま撤退することで、最小の損害で相手に対して最大の心理的打撃を与えることを狙った。 結局、寄せ集めの素人によって補給も不十分なままで行われたイースター蜂起は失敗に終わり、コリンズらは逮捕された。逮捕者たちはウェールズにあったフロンホフの収容所に送られた。この収容所においてもコリンズの指導者としてのカリスマは衰えることがなく、むしろ増していった。釈放後にはシン・フェイン党に加わり、同組織における地歩をも固めていった。イギリス政府とアイルランドのメディアはイースター蜂起の黒幕がシン・フェイン党であると喧伝しており、これは誤りであったが、イースター蜂起の生き残りの指導者たちはこれを逆に利用して、シン・フェイン党への支持を固めていった。1917年10月にはコリンズはシン・フェイン党の幹部にしてアイルランド義勇軍の指導者になっていた。コリンズと共に両組織を束ねていたのは盟友エイモン・デ・ヴァレラであった。 アイルランド共和国議会 他のシン・フェイン党の古参幹部と同じように、マイケル・コリンズは1918年に行われた大英帝国議会庶民院におけるアイルランド代表議員の選挙に南コーク州の代表として立候補し、圧倒的な支持を受けて当選した。しかしシン・フェイン党出身の議員たちがライバルであったアイルランド議員党の議員たちと異なっていたのはロンドンの議会に出席することを拒否し、ダブリンに「ドイル・エアラン」(アイルランド共和国議会)なる新議会の創設を宣言したことであった。 ドイル・エアランは1919年1月に初会合を開いたが、このような動きを見たイギリス政府は、デ・ヴァレラをはじめとするシン・フェイン党の指導者たちの一斉検挙に踏み切った。コリンズはいつものように自前の情報網を駆使してこの動きを事前に察知しており、他の指導者たちに再三警告していた。デ・ヴァレラもまたいつものようにコリンズの情報を信じず、もしイギリス政府がそのようなことをしたら、かえってシン・フェイン党の名前をとどろかせ、アイルランド人の士気を高めることになると考えた。しかし、指導陣が根こそぎ逮捕されてしまったことで、シン・フェイン党の名前をとどろかす動きなどできない状況であった。 デ・ヴァレラが収監されている間、カハル・ブルハが代わりに議長 (Príomh Aire) をつとめた。デ・ヴァレラは1919年4月、コリンズの手引きによってを脱獄することに成功した。 1919年はコリンズが大車輪の活躍をした年であった。夏にはアイルランド共和同盟の団長に選ばれ、9月にはアイルランド共和国軍(IRA、から改名)情報部の部長と次々要職についた。1919年1月21日、アイルランド共和国議会の最初の会合の日が、アイルランド独立戦争の始まった日とされている。この日 IRA の義勇兵がティペラリー州のソロヘドベグでダイナマイトを強奪しようと2名の警備兵を射殺している。 財務大臣 1919年、すでに複数の要職を兼ねていたコリンズだったが、デ・ヴァレラからさらに財務担当大臣の職を引き受けるよう懇請されている。独立闘争が激化していた当時、アイルランドの「大臣」であれば、イギリス軍、王立アイルランド警察隊 (RIC) 、などといった敵対勢力から狙われ、拘束や殺害の危険もあった。そのため「大臣」といっても、地下に潜伏して活動するか、名前だけの人間を立てて真の実力者が別にいるのがならいであった。 しかしコリンズは違った。堂々と活躍し、アイルランド独立闘争の資金として「国債」の調達を企画・実行した。実際的な手法により短期間で多くの資金を調達したコリンズの財政手腕は評判となり、ウラジーミル・レーニンもダブリンへ使者を派遣し、ソビエト共和国(当時)の運営に必要な金を借りたほどであった。このとき、担保としてロシア皇帝の宝冠についていた宝石が渡された。この宝石はダブリン市内の金庫に納められたまま忘れられていたが、1930年代に入って偶然発見された。 この当時のコリンズの活躍と実績は超人的なものであった。「」と呼ばれるイギリス政府の要人暗殺を狙う特殊部隊を創設し、「国債」を発行して海外から資金を調達し、IRA を指導しながら、デ・ヴァレラの不在時のアイルランド政府の責任者となった。当然、コリンズはイギリス政府から最重要危険人物としてみられ、殺害あるいは逮捕につながる情報を提供したものには1,000万ポンドが与えられるという懸賞金をかけられていた。 この頃からコリンズはアイルランド独立の指導者たちの中の2人と対立するようになっていく。そのうちの一人はカハル・ブルハであった。彼は名目上は軍事部門の指導者ということになっていたが、戦略的才能に乏しく、戦略の才があるコリンズの前でまったく存在感がなくなっている自分に苛立っていた。もう一人は長年の盟友でドイル・エアランの議長エイモン・デ・ヴァレラであった。 デ・ヴァレラはコリンズが自分の地位を脅かしていると考え、同時にコリンズの反対を押し切って進めていたアメリカ政府に対するアイルランド独立支援の呼びかけがまったく進展しないことにあせりを感じていた。そのころ、長身のデ・ヴァレラは「ロング・フェロー」と呼ばれるようになった(本人は国外でこれを聞いて激怒したといわれる)が、恰幅のいいコリンズは「ビッグ・フェロー」と呼ばれていた。デ・ヴァレラはアメリカから帰国すると代わってコリンズを派遣しようとしたが、単にコリンズがこれ以上アイルランドで活躍しないようにする口実であることが明らかであったため、コリンズ本人だけでなく他の指導者たちも反対してこの話は流れた。 コリンズはと共にIRAの組織構築に貢献した。装備に劣るIRAはイギリス陸軍と王立アイルランド警察隊 (RIC) にゲリラ戦を仕掛けることでイギリス政府を消耗させた。ゲリラ戦において大きな役割を果たした遊撃隊はコリンズとディック・マッキーにより設立されたものである。IRA の情報局長も務めていたコリンズは、ダブリンにおけるイギリスのスパイ網であるを破壊するために、イギリス陸軍の情報担当将校とその手先である情報提供者を暗殺する指令を出した。作戦は1920年11月21日に決行され、この日の朝に IRA の暗殺チームによって13人のスパイが殺害された。この報復として同じ日の午後に治安部隊がクローク・パークで観衆に発砲し14人の死者が出た。この血の日曜日事件はディック・マッキーら IRA 捕虜3人の拷問と殺害により幕を閉じた。 イギリスとアイルランド共和国軍の停戦交渉のあと、イギリス政府は国際的に承認されていない「アイルランド共和国政府」のメンバーたちとの交渉の席についた。当時の各国政府でアイルランド共和国を承認していたのは、資金援助を得たかったソビエト連邦だけであった。デ・ヴァレラはアイルランド系市民の多いアメリカ合衆国で長年交渉をおこなって承認を得ようとしていたが果たせず、同じように第一次世界大戦後のパリ講和会議にアイルランド代表としてショーン・オケリーが出席したが、国際的な承認を得ることができなかった。 1921年8月にドイル・エアラン議長からアイルランド共和国初代大統領へと自らを昇格させていたデ・ヴァレラは、交渉において自分はイギリスのジョージ5世国王と同じ立場であり、国王が参加しない限り、自分も会議に出ないと宣言して周囲を仰天させた。やむなくロンドンでの交渉の席につくことになったのはアーサー・グリフィスとコリンズであったが、コリンズはデ・ヴァレラが交渉に参加しないことが後に大きな問題となるであろうことを予期していた。ちなみに、このときのイギリス側代表団にはデビッド・ロイド・ジョージやウィンストン・チャーチルなども含まれ、そうそうたる顔ぶれであった。 英愛条約 交渉の結果、英愛条約(イギリス・アイルランド条約)が締結され、アイルランドはついに独立を達成することができた。こうして生まれたのがアイルランド自由国である。アイルランド自由国の独立は、北部6州(北アイルランド)にアイルランド自由国へ加入するか、大英帝国へ帰属するかの自由を与えることを条件に認められた(結果的に6州はすぐに大英帝国へ帰属した)。もし6州が大英帝国に帰属した場合、アイルランド国境委員会が設けられて、イギリスとアイルランドの国境確定のための話し合いを行う運びになっていた。 コリンズは、たとえ北部六州がアイルランド自由国に加わらずとも、国境委員会で北アイルランド部分の領域を最小限に抑えることが出来れば、いずれは経済的に立ち行かなくなってアイルランドに組み込むことができるだろうと考えていた。北アイルランドの中でも、イギリスへの帰属を強硬に主張する人々は東アルスターのみに集中していたからである。 こうして成立したアイルランド自由国は、国際的には大英帝国の自治領という位置づけであった。議会として二院制を持ち、名目的にイギリス国王を君主としているが、統治の実体はドイル・エアランから選ばれる内閣にあった。しかし、共和主義者の中でも急進派たちから見ればこのような条約はまやかしであり、独立主義者たちへの裏切りであると映った。彼らにとっては、いくら名目上であれ大英帝国に従属し、国王への忠誠誓約事項が盛り込まれていることが許せないのであった。 シン・フェイン党はこの条約の受け入れをめぐって分裂した。デ・ヴァレラは条約反対派の中心人物となり、交渉を行った「売国者たち」を糾弾した。条約賛成派はイギリス政府が条約を承認する以上、国王の存在を外すことはありえないと主張し、デ・ヴァレラこそ、このような事態を見越して交渉の席から逃げ出した臆病者であると批判した。デ・ヴァレラはこのような批判を無視していたが、多くの史家たちはデ・ヴァレラが条約の受け入れをめぐって分裂が起きることを見越してコリンズに損な役回りを担わせたと見ている。コリンズは、この条約はそれまでの多くの犠牲から見れば大した成果とはいえず、決して完璧なものでないとしながらも、本格的な自由を勝ち取るために欠かせない第一歩であると主張し、デ・ヴァレラもそれを認めざるを得なかった。 英愛条約の締結には、3つの議会による承認が必要であった。まず第1は当然大英帝国議会であり、第2がドイル・エアランである。ドイル・エアランは国際的な承認を得ていないので、本来は必要ないがアイルランド人の心情を考慮するという政治的計算を踏まえたものであった。第3は南アイルランド庶民院という議会である。この議会は1920年のアイルランド自治法に従ってイギリス政府の指導のもとに設置されたものであった。公式には依然この庶民院がアイルランドの立法府であった。 暫定政府の成立とコリンズの死 1919年、ドイル・エアランによって制定されたドイル憲法によってドイル・エアランの存続が決定した。デ・ヴァレラは大統領職を退き、再選にうってでた。が、同じく出馬したアーサー・グリフィスに得票数で敗れ、大統領の座を譲ることになった。グリフィスは共和国大統領と名乗ったデ・ヴァレラと異なり、自らをドイル・エアランの大統領であるとした。しかしこの政体 (Aireacht) は大英帝国の法体系の中では合法的なものではなかった。名目的なものであれ、合法的な議会は依然として南アイルランド庶民院であった。マイケル・コリンズは首相に任命され、アイルランド暫定政府の組閣が行われた。 コリンズは暫定政府の首相であり、同時にグリフィスの共和政府の財務相でもあった。コリンズの首相就任にいたる道のりも複雑であった。大英帝国の法律によって、コリンズはイギリス国王の認可を受けた地位についたことになる。そのため、就任においてイギリスのアイルランド総督に面会して任命を受ける必要が出てきた。 共和主義者の立場からは、コリンズと総督の面会は、コリンズが勝利者としてフィッツァランに会い、イギリスのアイルランド統治の象徴ダブリン城を受け取るという意味合いのものであったが、イギリス側から見れば、コリンズが一段低い立場から総督から任命を受けることにほかならなかった。このような意味づけに違いはあったものの、実際にコリンズは総督と対面し、任命を受けた。逸話として伝えられるところによれば、コリンズは約束の時間に7分遅れて現れたため、総督はこれを責めた。コリンズは「7分くらい待ってもいいじゃないですか。私たちアイルランド人は700年待ちましたよ」と言ったという。 条約反対派はドイルによって認められたこの条約を認めず、イギリスとの交渉を拒否した。彼らはデ・ヴァレラの元に結集して「共和国政府」を名乗り、賛成派との間の内戦に突入した。これがアイルランド内戦である。1922年の中ごろまでに、コリンズは暫定政府の首相とアイルランド国軍(IRA の中の条約賛成派を中心に組織された正規の軍事組織)の司令官を兼任した。あるとき、その任務の一環として故郷のコークに向かうことになった。1922年8月22日、その道中で待ち伏せを受け、銃撃にさらされた。コリンズはそのまま逃げることも出来たが、あえて踏みとどまって応戦することを命じ、流れ弾にあたって命を落とした。まだ31歳の若さであった。 私生活 コリンズの私生活は、生前も死後もゴシップに彩られたものとなった。コリンズにはというフィアンセがいたにもかかわらず、アイルランドの画家卿の夫人やロンドンデリー侯爵夫人エディス(en)と関係を続けていたと噂されていた。2人とも、コリンズは魅力的な男性であったと書き残しているが、愛人関係にあったことはきっぱりと否定していた。が、世の人々はコリンズとエディスが関係を続けていることは間違いないと噂していた。内戦中、コリンズは愛人たちの勧めによって条約の内容を変えているという中傷を受けることもあった。しかし、英愛条約の最新の研究書であるドロシー・マカードルの『アイルランド共和国』 (The Republic of Ireland) とフランク・パケンハムの『試練を受ける和平』 (Peace by Ordeal) の両書ともこのような憶測を否定している。 生前のコリンズには同性愛的な傾向があるという噂も流れていた。コリンズは親しみのあらわれとして男性に対してしきりに体に触れるくせがあったからである。彼はよく周りの人たちと遊びのレスリングに興じていた。コリンズのこのような性癖については、単なる遊びであったというものから、本当に同性愛的傾向があったとするものまでさまざまな説がある。 コリンズの記憶 コリンズはアイルランドの歴史における「偉大な人物」の一人として語り伝えられる。アイルランドの自由獲得という困難な目標の達成を賢明かつ大胆に推し進めたコリンズの死は、生まれたばかりのアイルランド共和国の大きなダメージとなった。内戦中、コリンズは自らへの敵対をあらわにしていた北アイルランドのIRAに対しても支持と援助をやめなかった。コリンズの死後、条約賛成派によって北アイルランドのIRAへの援助は即座に打ち切られた。コリンズの死のわずか10日前に、もう一人の独立運動の英雄アーサー・グリフィス大統領も過労で世を去っている。コリンズの最後の公務はグリフィスの葬儀への参列であった。コリンズは盟友グリフィスと共にダブリンのグラスネヴィン・セメタリーに葬られた。 同僚たちは、コリンズが自らの運命を予見していたかのような発言をしていたことを思い出して悲痛な思いにかられた。条約締結時、イギリス政府代表のバーケンヘッド卿は、このような条約にサインすることで、アイルランドを失った責任者として自分はイギリス国民から非難されるであろうといい、この証書はまさに自らの政治生命に対する死刑宣告証になると嘆いた。コリンズはそれを聞いて、自分にとっては本当の死刑宣告になるだろうと次の様に言ったという。 あなたがこの交渉で苦労したことで、悪夢に悩み、ロンドンの暗い夜の中で絶望的な気分になったときは思い出してほしい。いったいこの私はアイルランドのために何を手にいれたのか、それこそが700年近くアイルランドが望み続けたものではないのか?しかし誰もこの交渉の結果に満足してくれるものはないだろう。今朝私がサインしたこの書類はまさに私にとって死刑宣告書だ。私はかつて銃弾を駆使して戦ったが、その同じ銃弾に打ち抜かれることになるだろう。 コリンズと共にアイルランドの自由のために戦った同志たち、エイモン・デ・ヴァレラ、ウィリアム・コスグレイヴ、リチャード・マルケイ、らは長命したがゆえに、困難をきわめた国づくりにおける失敗や醜い面の印象を人々に残すことになった。コリンズは若くして死んだために、平和時特有の複雑な問題を抱え込むことなく世を去り、人々の心に若い面影だけを残した。 デ・ヴァレラについて人々の印象に残っているのは、年老いて目も見えなくなった1960年代から1970年代にかけての姿であり、コスグレイブは世界恐慌のあとで国家財政の崩壊を食い止められなかった無能な財務家、マルケイは内戦時に反対派を次々と処刑した冷酷な政治家、オ・デュフィはファシズムにかぶれた警官あがりの政治家といった印象しか残していないことを考えれば、早くに世を去ったコリンズが、若々しく力強い指導者、アイルランドに自由をもたらし、人々に勇気を与えた英雄としての良い思い出だけを残したことは幸いだったのかもしれない。アイルランドの苦しみは独立後も長く続くことになる。 1996年に公開された映画『マイケル・コリンズ』では、リーアム・ニーソンがコリンズを演じている。 コーク州コーク市にあるの兵舎はと呼ばれており、の司令部が置かれている。 ダブリンにも同じくコリンズの名を冠したが置かれていたが、こちらは1997年に閉鎖され、現在ではとなっている。 関連項目 アイルランドの議会 フィナ・ゲール マイケル・コリンズ (映画)
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温度計の起源はいつ
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温度計(おんどけい)は温度を測定する計器である。温度変化に伴う物性の変化等の物理現象を利用して温度を測定する。一般的に温度を計るものは温度計と呼ばれるが、特定の用途に応じた名前を持つものもある(体温計等)。 語源 J.ルレション(Jean Leuréchon、1591年頃 - 1670年)が、1626年に“thermomètre”という言葉を使っており、これが英語に翻訳されたのが語源といわれている。 日本では古くは寒暖昇降、験温管、験温器、験温子、験温表、寒暑鍼、寒暑針、寒暑表などと訳され[1]、1880年代から福沢諭吉の物理学に関する著書で採用されたのをきっかけに「寒暖計」[† 1]という訳が定着したが、第二次世界大戦中に「寒暖計は正確には温度を測定する器具である」という理由から「温度計」と訳されるようになった[2]。 種類 一次温度計と二次温度計 温度計は大きく分けて一次温度計と二次温度計に分類される。 一次温度計</b>とは、熱力学温度と直接対応する物理量を測定することで温度が決定される温度計のことであり、温度標準の決定に用いられる。例えば、理想気体の状態方程式 pV=nRTにおいて圧力と体積、物質量が求められれば温度は一意に決定される。一次温度計の特徴として、このように物理量の定義から温度が導かれるので校正という概念がない点にある。温度標準(温度目盛)は国際的な取り決めとして温度域ごとに定義式が定められている。 それに対して<b data-parsoid='{"dsr":[943,954,3,3]}'>二次温度計</b>とは温度との対応が明確に関連付けられた別の量、電気抵抗値や液柱の高さ、出力される電圧などを測定することで温度を求める温度計を指す。一般に流通しているほとんどの温度計はこの二次温度計に分類される。二次温度計は一次温度計で決定された温度を基準に温度計に値を付ける校正作業が必要である。 一次温度計を用いて熱力学温度を決定する作業は専門的な設備が備わる研究施設で行われる。そこで温度標準が決定され、それを基準に二次温度計が校正される。 測定原理の違いによる分類 熱電対 抵抗温度計(Resistance thermometer) 測温抵抗体 サーミスタ 非接触温度計 - 赤外線を用いる。 放射温度計 サーモグラフィー 液柱温度計 バイメタル式温度計 ガリレオ温度計 - 液体中にそれぞれ質量と体積の違う浮き子を入れ、液体の比重が温度によって変化するのに伴って浮沈する浮き子に表記された数字で、大まかな温度を示す温度計である。 そのほか、簡易な温度計として、温度に応じて色付きの数字が液晶で表示される温度計がある(サーモテープを参照)。 歴史 温度計の歴史の初期においては、それぞれの温度計で目盛りが異なっていた。 1592年 - ガリレオ・ガリレイが球付のガラス柱を水面に倒立させて、球部を暖めることによって水面が変化することを示す(空気温度計)。これには異説もあり、ガリレオの友人サントーリオ・サントーリオが発明したという説もある。 1612年 - サントーリオ・サントーリオが医療に温度計を用いる。 1650年頃(遅くとも1654年) - トスカーナ大公フェルディナンド・デ・メディチ(Ferdinando de'Medici)によって設計、A.アラマッニ(Antonio Alamanni)によって、上端を閉じて大気圧の変動の影響を廃した毛細管を持つ液柱(アルコール)温度計が製作された。 1702年 - デンマークの天文学者 オーレ・レーマー(Ole Rømer)が、水の融点と沸点を使って目盛りをふった温度計を製作。 1714年 - ガブリエル・ファーレンハイト(Daniel Gabriel Fahrenheit)が水銀を用いた液柱温度計を発明。 1730年 - ルネ・レオミュールが、アルコールと水の溶解液を用いてセ氏計を考案。当初は水の沸騰点を80度としていたが、1742年にスウェーデンのアンデルス・セルシウスの改良により、水の沸騰点100度に修正された。 1765年 - オランダから日本に伝えられる[1]。 1821年 - トーマス・ゼーベックが熱電対を発明。 1864年 - アンリ・ベクレルがパイロメータの原理を発見 1885年 - Callendar-Van Duesenが 白金抵抗体温度計を発明。 1892年 - アンリ・ルシャトリエがパイロメーターを製作。 特定の用途に用いる温度計 体温計 水温計 油温計 排気温度計 最高温度計 最低温度計 自記温度計 乾湿温度計 地中温度計 気象観測に用いられる温度計 日本では、気象業務法及びその下位法令により、公共的な気象観測には、検定に合格した<b data-parsoid='{"dsr":[2697,2710,3,3]}'>ガラス製温度計(液柱温度計に同じ)、金属製温度計(バイメタル式温度計に同じ)又は<b data-parsoid='{"dsr":[2749,2761,3,3]}'>電気式温度計(白金抵抗体温度計に同じ)を用いることとされている。 これらは、-50℃(ガラス製温度計は-30℃でも可)〜50℃において所定の性能を発揮しなければならない。 ガラス製温度計 ガラス製温度計の感温液としては、公的な観測用としては主に純水銀が使われ、一般の用途には赤色に着色した灯油などが用いられる[3]。後者の液の組成としては、ペンタンの異性体やその混合物、ないしトルエンが推奨されている(日本規格協会 1997, §6.c)。特殊な構造のものとしては 二重管温度計:通常の温度計の毛細管及び目盛板を、さらにガラス管に封入して保護したもの 最高温度計:毛細管に感温液の球部への逆流を防止する留点があり、最高温度到達後に温度が下がっても示度を保持するもの(構造的には水銀式体温計に同じ) 最低温度計:水平な毛細管中に感温液の収縮には引き込まれるが逆には動かない指標が置かれており、最低温度到達後に温度が上がっても指標が示度を保持するもの がある。なお、毛細管に用いられるガラス管は、気象観測に用いることができるほどの精度と経時安定性とを有するものが日本では製造できず、ドイツからの輸入に頼っている。 温度目盛りについては全漬没温度計と漬没線付温度計がある。漬没線付温度計は漬没線以下が測定対象と等温であり、線以上が室温(20℃)であることが前提であり全漬没温度計は球部から液柱先端までが測定対象と等温であることが前提である。前提と異なる測定方法をすると赤液温度計では約5℃近くの補正が必要になる場合がある[4]。 金属製温度計 金属製温度計は、感部にバイメタルを用い、その温度変化に伴う変形を指針の動きに変換することによって温度を測定するものである。バイメタルの材料としては主にアンバーと黄銅との組合せが使われる。構造が簡単で安価なため、家庭用としても普及している。 指針と目盛板によって気温を直接表示するもののほか、指針の代わりに記録ペンを駆動し、ゼンマイなどの動力で回転するドラムに巻かれた記録紙に温度の時系列を自動的に記録する自記式のものもよく使われる。 使用にあたっては、ガラス製温度計による校正が必要である。 許容される器差は、1.0℃である。 電気式温度計 電気式温度計は、白金の温度による電気抵抗の変化を検出することによって温度を測定するものである。自動・遠隔観測に適するため、現在、気象庁をはじめとする多くの機関で主力となっている。感部に用いられる白金線(抵抗体)は、0℃において抵抗値100オームの「Pt100」規格のものと定められている(同条件で抵抗値50オームの「Pt50」を用いる国もある)。 許容される器差は、0.5℃(感部のみについて0.3℃)である。 電気式温度計には、温度によって誘電率の変化する感温体を誘電体に用いたコンデンサの容量の変化を検出する方式のものもあるが、小型軽量な反面、耐久性や測定精度にやや難があるとされ、現在は、使い捨てが前提のラジオゾンデ用としてのみ認められている(許容される器差は0.5又は1℃(測定範囲により異なる))。 家庭用・教材用としてはサーミスタを用いた簡易な製品もあるが、特に常時観測に使用する場合、通電に伴う自己発熱による誤差を生じやすく、耐久性も実証されていないことから、公共的な気象観測には用いられない。 脚注 注釈 出典 参考文献 Text "和書" ignored (help); URL–wikilink conflict (help) 橋本毅彦、梶雅範、廣野喜幸監訳 Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) Text "和書" ignored (help)
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サルヴァトーレ・マランツァーノはいつ生まれた?
サルヴァトーレ・マランツァーノ
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サルヴァトーレ・マランツァーノ(Salvatore Maranzano, 1886年7月31日 - 1931年9月10日)は、シチリア島出身で、ニューヨークの犯罪組織コーサ・ノストラのボス。6か国語に精通したインテリマフィアで、ローマ帝国のジュリアス・シーザーに憧れ、シチリアマフィアが世界を支配するという壮大な夢を持っていたが、シチリア人以外の参加を認めなかったため、国際的シンジケートを目指すラッキー・ルチアーノに暗殺された。 来歴 渡米 シチリア島カステッランマーレ・デル・ゴルフォ(以下カステラマレと略記)生まれ。神父を目指したが断念してマフィアの仲間入りをした[1]。パレルモに在住し、表向き貿易ビジネスを行っていた。一説に、1910年代ステファノ・マガディーノのグループに属し、殺し屋をやっていたともいう。1925年にアメリカに渡り、ブルックリンでカステラマレ地方出身の移民が多く住むウィリアムズバーグに落ち着いた[1]。移民は一般に貧しかったが、マランツァーノは移住した時点で裕福なビジネスマンで、釣り船や農場を所有した[2]。 不動産ビジネスに身を置きながら、ニューヨーク市近郊のダッチェス郡ワッピンガーズフォールズに非合法の酒醸造所を作り、密輸ギャング団を従えてヤミ酒の生産を始めた[1]。禁酒法下のニューヨークは酒の密輸や強奪が横行し、マランツァーノはカステラマレ出身者を密輸組織に取り込んで輸送トラックを武装した。ブロンクスとハーレムを牛耳っていたダッチ・シュルツと縄張り争いし、当時ニューヨーク最大の密輸商の一人フランク・コステロと提携した。酒以外に、偽造旅券の調達など移民の不法入国の斡旋を手掛けた。更にユダヤ系ギャングのルイス・バカルターが支配していたガーメント地区の組合に進出を図ろうとした。バッファローのステファノ・マガディーノやデトロイトのガスパー・ミラッツォ、フィラデルフィアのサルヴァトーレ・サベッラなど北米各都市のカステラマレ派と連携した[1]。 カステランマレーゼ戦争 マンハッタンのシチリア系ボスのジョー・マッセリアがブルックリンのカステラマレ派に高額な上納金を要求し支配下に置こうとしたため、マッセリアへの抵抗を煽るとともにアル・カポネの支配下にあるシカゴのビール密造業にも進出を試み、カポネと同盟したマッセリアと対峙した。 マッセリアはカステラマレ派の連携を分断しようとシカゴやデトロイト各地の同派を取り込もうとしたが、頑強な抵抗にあった。背後でマガディーノが反抗を煽っているとみてマガディーノを呼んだが姿を見せなかったため、代わりにマランツァーノを呼んで説得したが、マランツァーノは協力を拒否した(会議にはジョゼフ・ボナンノが同行)[3]。 カステラマレ派ボスは当時コラ・シーロだったが、マッセリアに上納金(一説に1万ドル)を払って逃亡し、組織を継いだ副ボスのジョー・パリッノはマッセリアと密約して傀儡になった。1930年7月、カステラマレ派の重鎮ヴィト・ボンヴェントレが殺害されたことで、マランツァーノら強硬派が穏健派を押し切って反撃路線に転じた。パリッノはボスの地位をはく奪され、マランツァーノが新ボスに選ばれた[4]。暗殺チームを組織し、臨戦体制を整え、カステランマレーゼ戦争と呼ばれる抗争に突入した。1928年に暗殺されたサルヴァトーレ・ダキーラも引き合いに出して、ダキーラやボンヴェントレの仇を取るための正義の戦争と訴えた。マガディーノは毎月戦闘資金をマランツァーノに送金して助けた。マランツァーノは、マッセリアよりその背後にいる参謀ジュゼッペ・モレロを難敵と見て、同年8月、モレロを電撃作戦で暗殺した[5]。 1930年9月頃、コルレオーネ系のトミー・ガリアーノ一派と、密かに打倒マッセリアで提携した。ガリアーノは、同年2月のボスのガエタノ・レイナの銃殺事件をマッセリアの仕業と見て密かに復讐の機会をうかがっていた。1930年11月、ガリアーノの協力を得てマッセリア派の中核だったアル・ミネオとスティーブ・フェリーニョの暗殺に成功すると、マッセリア派ギャングがマランツァーノ陣営に鞍替えし始め、形勢はマランツァーノに有利になった[1][6]。 マランツァーノはマッセリアの部下達にメッセージを送り、今からでも遅くはないと投降を呼びかけた。1930年12月にニューヨーク内外の中立マフィアがボストンで停戦コミッションを立ち上げ、優勢だったマランツァーノに停戦和解を持ちかけたが、マランツァーノはマッセリアが死ぬまで戦争は終わらないとして和解を拒否した[7]。 1931年4月15日、マッセリアは部下の裏切りによりコニーアイランドのレストランにおびき出され、銃殺された。マッセリアの死により抗争は収束した。 五大ファミリー 1931年4月、マッセリア暗殺から2週間後、ブロンクスで数百名のギャングを招集して勝利宣言し、新たな組織運営と規律を発表した。同時に非シチリア人のコーサ・ノストラ加入を禁止した各地区のファミリーの縄張りを規定し、全米で24のファミリーが提携された。構成員の多いニューヨークは5つの勢力に整理し、ボスをマランツァーノ、ルチアーノ、フランク・スカリーチェ、トミー・ガリアーノ、ジョゼフ・プロファチの5人とした(五大ファミリー)[1]。また自らに「ボスの中のボス(capo di tutti capi」の称号を与えた[8]。 全てにおいてイタリア人的で独裁的であったマランツァーノに対し、心の底では世代交代と他国系犯罪組織とのビジネスを望んでいたルチアーノは彼の排除を決心した。 1931年5月、シカゴで行なわれたギャングスターの集まりで、カポネのことを「かつてはマッセリア側についていたが、今は親睦を深めたいと願っている」と演説をし、彼をシカゴ・ファミリーのボスと認めた。この時集まった全員が拍手した。表ではルチアーノとは和解し、シカゴのカポネを認めていたが、裏では、自分がボスの中のボスであるために、ルチアーノ、カポネ、ヴィト・ジェノヴェーゼ等は危険分子と見なしていた[9]。 終焉 1931年9月10日、刑事の制服に身を包んだ4人組がパーク・アヴェニューのヘルムズリー・ビル9階のマランツァーノの事務所を訪れ、連邦捜査官(Federal Agents)だと名乗り、うち1人が、中にいた訪問者8人を壁際に並ばせた。その間に他の3人が奥のマランツァーノの部屋に入った。部屋の方から言い争いの声や怒号が聞こえ、続いて取っ組み合いして格闘しているような音が聞こえた後、ピストルの音が鳴った。4人は飛び出して逃げた。事務所の壁に立たされていた人々も次々に逃げ、秘書だけが残された。秘書が部屋に入るとマランツァーノが死んでおり、遺体には刺し傷6つと4発の弾痕があった。殺し屋は連邦のバッジをしていたため、マランツァーノもその他も、連邦の刑事が密輸の捜査に来たと信じ切っていた。彼らはナイフで静かに殺そうとしたが、マランツァーノが暴れて抵抗した為、ピストルで射殺したと信じられた[10]。 警察は犯人が遺していたメモ帳などを手掛かりにバッファロー、シカゴやポーキプシなどに捜査の手を伸ばしたが、捜査は行き詰った[11]。言い伝えでは、ルチアーノがマランツァーノに顔を知られていないユダヤ系の殺し屋を、ランスキーやバグジー・シーゲルの助けを借りて集めたという。殺し屋は一説にサム・レヴィン、シュルツの側近ボー・ワインバーグなどとされる。マランツァーノはひそかにルチアーノを暗殺しようと計画していたが、それを察知したルチアーノに先手を打たれたとする説もある[1]。ルチアーノに暗殺計画を密告したのは、カステランマレーゼ戦争でマランツァーノ陣営に加わっていたトミー・ガリアーノ配下のトーマス・ルッケーゼとも言われた。またルチアーノは、マランツァーノが連邦国税局IRSの調査対象になっていることを知り、殺し屋をIRSの制服に変装させたともいう。 マランツァーノは妻のエリザベッタ(1964年死去)と共にニューヨーク市クイーンズ区のセント・ジョーンズ墓地に埋葬されている[1]。 暗殺以後 カステラマレ派はルチアーノに復讐をしなかった。マッセリアの死から半年の間に、マランツァーノは部下に恩賞を与えずに寄付金を独占するなど尊大に振る舞うようになり[1]、マランツァーノをリーダーに後押ししたマガディーノやディグレゴリオ、ダッナらの信用を失ったという[12]。その後、新ボスを決める投票が行われ、ボナンノが有力幹部フランチェスコ・イタリアーノを負かして新ボスに選ばれ、マランツァーノの縄張りを継いだ。 ルチアーノはマランツァーノの(五大ファミリー)再編をそのまま継承してコーサ・ノストラを主導し、各地の犯罪組織のネットワーク化を推進した。 エピソード 彼のブルックリンにある家の自室の壁4面すべてに本棚がそなえてありジュリアス・シーザー関連の本で埋め尽くされていた[13][14]。ちなみにそれらの本をラテン原語で読む教養人であり、ジョゼフ・ボナンノをして“禁欲的な知識人であり、生まれながらの戦士である”と言わしめている。 威厳をもって演説をするのを好んだ。ファシストにシチリアを追い出されるまでカステラマレ派の地方幹部で、選挙政治に関わり、デマゴーグとして活動していたという[15]。妻エリザベッタのファミリーネームが有力な地元マフィアのミノーレ(Minore)一家と同じことから同一家と繋がりがあると一部では信じられている。 ルチアーノに、マイヤー・ランスキーたちを裏切れとも言っていた。彼はユダヤ人を毛嫌いしており、シチリア人だけの組織を作ろうとしていた(反ユダヤという点ではマッセリアも同様だったが)。またルチアーノにマッセリアを裏切るよう仕向けたが、裏切りに乗らなかったため彼を拷問にかけ、顔に一生残る傷をつけたという言い伝えがある。 ヴィンセント・"マッド・ドッグ"・コールにルチアーノの暗殺を依頼していたというエピソードがある。コールはルチアーノ殺害を前払い金2万5千ドル、成功報酬2万5千ドルで請け負ったが、殺害を実行せず資金を着服したという。1963年のジョセフ・ヴァラキの供述によれば、コールはルチアーノを待ち伏せるためマランツァーノの事務所のあるビルにやって来たが、マランツァーノを殺したばかりのルチアーノの手下が逃げてくるのとビルの階段ですれ違った。彼らからマランツァーノが死んだことを聞いたコールはすぐにビルを出て帰ったという[1][8]。 マランツァーノが殺された時、殺し屋をマランツァーノの事務所まで手引きしたのはルッケーゼという説がある。ルッケーゼは殺し屋を引き連れ事務所に来ると、頭の動作でマランツァーノを指して誰がマランツァーノかを殺し屋に教え、マランツァーノが殺し屋と格闘している間、傍らで傍観していたとされる[1]。 1963年マフィアの暴露本を出したニコラ・ジェンタイルは、マランツァーノが殺害された時、殺し屋をマランツァーノの事務所まで手引きしたのはボナンノだとした[16]。ボナンノは1983年の自叙伝でマランツァーノの暗殺を事前に知らなかったとして殺害関与を否定した[1]。ボナンノによれば、ルッケーゼがマランツァーノの事務所の内情やマランツァーノが国税局IRSの対応に患っていることを漏らしていたことを知っていたといい、ルッケーゼの関与を示唆した[17]。 マランツァーノ暗殺後、48時間以内に全米の30〜40人の口ひげピート(旧時代のボスの蔑称)が殺されたとする伝説(「シチリアの晩祷の夜」[18])があるが、大量殺戮の事実は確認されていない。出元の1つはダッチ・シュルツの弁護士デキシー・デービスの誇張した回想(マランツァーノ死後90人が死んだ云々)ではないかと指摘されている[19]。 ガリアーノの配下としてマランツァーノの対マッセリア暗殺チームに加わり、多くの暗殺現場に居合わせたジョゼフ・ヴァラキは、マランツァーノ暗殺より少し前に、ルチアーノからマランツァーノにあまり近づくなというアドバイスを受けたが、暗殺までそのアドバイスの意味がよくわからなかったという[20]。 脚注 注釈 出典 外部リンク La Cosa Nostra Database Gangster Inc.
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タイムマシンは存在しますか?
親殺しのパラドックス
japanese
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親殺しのパラドックス(おやごろしのパラドックス)は、タイムトラベルにまつわるパラドックスで、SF作家ルネ・バルジャベルが1943年の著作 Le Voyageur Imprudent(軽はずみな旅行者)で最初に(この正確な形式で)描いた[1]。英語では grandfather paradox(祖父のパラドックス)と呼ぶ。すなわち、「ある人が時間を遡って、血の繋がった祖父を祖母に出会う前に殺してしまったらどうなるか」というものである。その場合、その時間旅行者の両親のどちらかが生まれてこないことになり、結果として本人も生まれてこないことになる。従って、存在しない者が時間を遡る旅行もできないことになり、祖父を殺すこともできないから祖父は死なずに祖母と出会う。すると、やはり彼はタイムトラベルをして祖父を殺す……。このように堂々巡りになるという論理的パラドックスである。 このパラドックスは当事者の誕生の不可能性にだけ注目したものではない。むしろまず第一に、時間を遡るタイムトラベルを不可能にするあらゆる行為を考慮している。パラドックスの名称は単にそのような様々な行為の代表例にすぎない。他に、タイムマシンの発明に繋がる科学知識を特定し、その時代に遡って(殺人などの手段で)その科学者の仕事を妨害してタイムマシンが発明されないようにするという例がある。 哲学においてはこれと等価なパラドックスが autoinfanticide と呼ばれていて、時間を遡って赤ん坊時代の自分自身を殺すというものである[2]。 このパラドックスは時間に逆行するタイムトラベルが不可能だとする証拠として使われてきた。しかし、パラドックスを避けるための様々な仮説も提案されてきた。例えば、過去は決して改変できないという考え方では、祖父や親を殺そうとしてもその試みは失敗し、相手は必ず生き延びるとする。あるいは、過去へのタイムトラベルは別の時間線を生み出すだけで、その時間旅行者が生まれた時間線はそのまま残っているという考え方もある。 科学的理論 ノヴィコフの首尾一貫の原則 イゴール・ノヴィコフの首尾一貫の原則とキップ・ソーンは、時間を遡るタイムトラベルがパラドックスの危険を冒さずに可能となる一つの見方を提示した。その仮説によると、唯一の可能な時間線は完全に首尾一貫しているものだけであり、時間旅行者が過去に遡って行う行為はすべて歴史の一部であって、首尾一貫性を崩すようなパラドックスとなる行為は決して実行できない。いわゆる決定論と呼ばれる考え方であり、自由意志という観念とは矛盾する。つまりこの考え方でいけば、過去へのタイムトラベルが可能だとしたら、歴史によって個人の行動が決定されることになる。 並行宇宙/別の時間線 「並行宇宙の集合体」があると考えたとき、時間旅行者が祖父(あるいは親)を殺すのは別の並行宇宙で行われ(あるいは、その行為によって別の並行宇宙が生まれ)、その並行宇宙では時間旅行者に対応する人物は存在しない。しかし、彼がもともといた宇宙では何も起きていない。つまりこの考え方でいけば、過去へのタイムトラベルが可能だとしたら、未来の複数のバージョンが並行宇宙として存在していることになる。これはある人物が過去に遡って自分自身を殺す場合にもあてはまり、その人物が死んでいる未来とその人物が生きている未来が並行して存在することになる。 物理学における並行宇宙の仮説として、次の例がある。 エヴェレットの多世界解釈 量子力学の理論の一つで、ゼロでない確率のあらゆる無作為な量子事象は全てそれぞれ異なる「世界」で実際に起きており、歴史(時間線)は常に様々な「世界」に分岐している。物理学者デイヴィッド・ドイッチュは過去に遡るタイムトラベルが可能だとしたら、時間旅行者が遡った先は出発点とはことなる歴史の枝になるだろうと主張した[3]。 M理論 6つの超弦理論を統合した仮説的な理論だが、今のところほとんど不完全である。M理論から導かれるアイデアの一つが、brane と呼ばれる3次元の膜の形で複数の宇宙が空間の第4の次元(いわゆる4次元といったときの時間とは異なる)上で並んでいるという仮説である(ブレーンワールド)。しかし多世界解釈とは異なり、物理学界から brane が歴史の一つのバージョンに対応しているという主張はなされておらず、タイムトラベルが brane から brane への旅行だという主張もない。我々の銀河系と良く似た他の銀河が(我々の銀河系の)パラレルワールド的存在の銀河ではなく、単に別個の銀河として存在しているだけの様に、我々の宇宙であるブレーンと他のブレーンの関係も互いに別個の独立したブレーンでしかないとする見方がシンプルでありごく自然だからである。 SFにおける解釈 並行宇宙 パラドックスを防ぐアイデアとして、時間旅行者は元々の歴史とは異なる並行宇宙に行くのだと解釈するもので、上の科学的理論で述べたのと同じ考え方であり、SFにもよく見られる。歴史改変SFにあるタイムトラベル参照。 例えば、村上もとかの漫画作品『JIN-仁-』は、正体不明の人物のタイムスリップに巻き込まれ、現代医師の南方仁が幕末期にタイムスリップして、未来の医療技術を持ち込むという話である。主人公の南方仁は、幕末期では精製不可能な抗生物質を入手するため、再び現代へとタイムスリップし、また幕末期へと戻っていく。その際、現代にタイムスリップした際に自分自身と出くわし、その自分自身をタイムスリップに巻き込んでしまう。つまり冒頭の正体不明の人物は、南方仁本人であった。その2度目のタイムスリップにおいて、現代の南方仁は、「幕末期に南方仁がタイプスリップした事によって、歴史が改変されたもうひとつの現代」にタイムスリップする。つまり、南方仁がタイムスリップで飛ばされる先が2種類ある事で、2つの平行世界が成立している。 過去は変えられない ノヴィコフの首尾一貫の原則に対応した解釈では、過去に遡っても自然の法則(あるいは他のなんらかの要因)により、そのタイムトラベルがなかったことになるような如何なる行為も防がれるとする。例えば、祖父を撃とうとしても銃弾が外れたり、そのような行為の成功を妨げる何らかの事象が発生する。歴史を改変しようとする時間旅行者の行為は常に「不運」に見舞われ失敗に終わるか、何らかの偶発事によって失敗に終わる。結果として時間旅行者はもともと知っている歴史を改変することができない。小説などでよくあるのは、時間旅行者が単に防ごうと思っていた事象の発生を防げないだけでなく、偶発的にその事象の発生を助けてしまうというパターンである。 この考え方では自由意志の存在が疑われ、人間に自由意志があるというのは幻想だとされたり、少なくとも限度があるとされる。またこの場合、因果性は常に守られると仮定している。すなわち、原因がなければ結果は存在し得ないとする。一方で、原因が取り除かれてもその結果生じた事象はそのまま存続するという解釈もある。 それと密接に関連する別の解釈として、時間線には自己修復能力があるという考え方がある。時間旅行者の行為は大きな湖に石を投げ込むようなものだとする。すると波紋が広がっていくが、間もなく波は消えて何事もなかったかのようにもとの状態に戻る。例えば、時間旅行者が自国を悲惨な戦争に導いた政治家を暗殺したとする。するとその政治家の周囲の者がその暗殺を口実として戦争へと突入し、暗殺への一般大衆の感情がカリスマの死を相殺することになる。あるいは時間旅行者が恋人が交通事故で死ぬのを防いだとしても、別の原因(階段を踏み外す、食事をのどに詰まらせる、流れ弾に当たるなど)でその恋人が結局死ぬことになる。2002年の映画『タイムマシン (2002年の映画)』では、主人公は恋人が強盗に殺されたため、それを防ぐためにタイムマシンを作るが、その恋人は交通事故で死んでしまう。未来へと旅立った彼は、タイムマシンでは恋人を救えないし、救えるとしたらタイムマシンを作ることができなかっただろうということを学ぶ。時間旅行者が過去に遡るきっかけとなった事象は変えられないとする物語、どんな改変も「修復」されるとする物語、あまりにも大きな改変は修復できないとする物語などがある。『ドクター・フー』のロールプレイングゲーム (en) では、時間は水の流れのようなものだと説明している。その流れにダムを作ったり、方向を変えたり、せき止めたりすることは可能だが、低いほうへと流れる全体的方向を変えることはできない。 時間旅行者が過去を変えたのか、歴史を覚えている通りに促進させたのか、はっきりしないこともある。例えば、作品が一つしか現存していない芸術家がいて、時間旅行者がその芸術家のところに行き、他の作品を隠しておくよう説得したとする。元の時間に戻ったとき他の作品を一般に知られていたとしたら、時間旅行者の計画が成功したとわかる。しかし戻ってから一週間後に他の作品が発見されたとしたら、彼の計画が歴史を変えたのか、それとも単に歴史がその通りに進行するのを助けた(つまり彼が隠すよう説得したため、これまで他の作品が見つからなかった)だけなのか不明である。 宇宙が消滅する SF小説にはパラドックスを生じさせると宇宙が消滅する、あるいはそのパラドックスに影響された時空間の一部が消滅するという例もある(前者の例として『サマータイムマシン・ブルース』、後者の例として『戦国自衛隊1549』が挙げられる)。その場合、パラドックスを防ぐことがプロットの中心となる。例えば、『新スタートレック』の最終話がある。 それほど破滅的でない類似の解釈として、歴史が改変されるかどうかで時間旅行者の死が関わってくる。例えばバック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズの1作目では、過去を変えてしまったために主人公の存在が消えてしまう危険が生じ、自身の存在をかけて過去を修復しようとする。この解釈では、祖父を殺した場合、殺人者までの存在は全て消えてしまい、祖父の死も別の原因だったことになる。従って歴史的観点ではパラドックスはなかったことになる。 過去の改変は取り消される この解釈は他の解釈とも部分的に似ている。タイムトラベルが可能ならば親殺しのパラドックスを生じさせるような行為は不可能だとし、タイムトラベルそのものを取り消すようないかなる行為も不可能だとする。そのような行為はそれを取り消すような結果を生じ、関係者の記憶も書き換えられてその事象がなかったことになる。そして、過去を変えられるとしたら、その改変が必要なものだったということだと解釈する。 例えば、過去に遡って親を殺そうとしても失敗する。一方、別の誰かの死を防ぐために過去に遡って無作為に選んだ人々に何かをした場合、その行為は取り消されず成功する。なぜなら、タイムトラベルの理由やタイムトラベルそのものがパラドックスを生じないためである。 さらに、歴史上の大事件に関するような改変の場合、それがタイムトラベルを不可能にするような改変でない限り成功する。その場合、その時間旅行者が改変を行うと即座に本人のその事象についての記憶や知識が書き換えられる。 例えば、1887年のオーストリアにタイムトラベルした時間旅行者が無作為に選んだ5人の人間を殺し、その中に偶然アドルフ・ヒトラーの親が含まれていたとする。するとヒトラーは存在しないことになるが、その改変がタイムトラベルの存在を否定するものでない限り、そしてそのタイムトラベルの理由を否定するものでない限り、改変はなされる。しかし、その時間旅行をすることになった理由に影響が生じる場合、改変はできない。何者かが別の人間に過去に遡って特定の人間を(誰と明かさずに)殺させるという企みは成功しない(取り消される)。なぜなら、成功するとそもそも殺人を依頼する動機がなくなってしまい、タイムトラベルが行われないことになるからである。 この解釈をユーモラスに描いたエピソードがアニメ『フューチュラマ』にある。主人公のフライが過去にタイムトラベルし、うっかり祖母と結婚する前の祖父を死なせてしまう。取り乱した祖母はフライを誘惑し、もとの時間に戻ったフライは自分が自分の祖父だということを知る。 過去改変の試みは織り込み済み 藤子・F・不二雄の「ドラえもん」には、「現在は過去を改変しようとする未来からの干渉を織り込んだ上で成り立っている」とする話がある。てんとう虫コミックス37巻「のび太の0点脱出大作戦」では、のび太がテストでいい点を取るために出木杉の答案を見ようとテストが返却された後の未来へタイムマシンで移動するが、そこにはのび太本人が待っていて、「他人の答案を見て百点とろうなんてせこいこと考えるなよ。実力でいこうよ」と言って、答案を見に来たのび太を撃退してしまう(この時点ではドラえもんにものび太にもなぜ出木杉の部屋にのび太がもう一人いたのかまったく不明)。のび太は仕方なく自力で勉強を始め、それなりの点を取って周囲から褒められる。自力での成果に気をよくしたのび太は、翌日に出木杉の部屋に過去の自分が答案を見に来ることを思い出し、過去の自分を撃退するためにドラえもんにひみつ道具を借りて出木杉の部屋へタイムマシンで向かう。この話では、のび太が過去の改変に成功したようではあるが、のび太は「出木杉の答案を見た現在」を変えるために過去に行ったわけではない。 また32巻「連想式推理虫メガネ」では、金貨が密室から消えたという事件を解決するためにドラえもんとのび太がタイムマシンで金貨がなくなった時間帯の密室に張り込むが、犯人はついに現れずドラえもんは金貨を持ち出して現在に戻り持ち主に返そうとする。つまり「ドラえもんが過去にさかのぼって金貨を持ち出したから金貨が消えた」というオチなのだが、オチが描かれるまでの間は完全に「謎の金貨消失」としてストーリーが展開している。 なお、藤子・F・不二雄の場合の「SF」は「すこし・ふしぎ(Sukoshi Fushigi)」の略。 谷川流の小説、「涼宮ハルヒシリーズ」では、1巻よりも未来の主人公、キョンによってもたらされた過去への干渉によって現在が成り立ち、現在のハルヒやSOS団との活躍が描かれる。作中、「過去に干渉して未来を変えることはできない」と語られているが、「干渉できず、変わらない」と言う意味ではなく、干渉した結果が未来の姿である。作中では「規定事項」と呼ばれており、未来人は自由に渡航することはできない。 その他 親殺しのパラドックスを検討する過程で、タイムトラベルそのものが非常に逆説的であり、論理的に考えて存在しえないという結論に達した者もいる。例えば哲学者 Bradley Dowden は著書 Logical Reasoning で次のように記している[4]。 “これまで過去に遡ることができるタイムマシンを作った者はいない。タイムマシンが決して実現しないことを示すよい論証があるので、真剣にタイムマシンを作ろうなどとすべきでない。それは次のような論証である。あなたがタイムマシンを持っていて、それにのって過去に行けるとする。あなたがその時代で行う行為は祖父と祖母が出会うのを妨げる結果を生じるかもしれない。するとあなたは生まれないことになり、したがってタイムマシンにも乗ることができない。すなわち、タイムマシンの存在そのものが矛盾していると結論付けられる。” しかしノヴィコフの首尾一貫の法則などに示唆されるように過去を改変する可能性がないとしたら、過去へのタイムトラベルは論理的に不可能ではないとする学者もいる。Bradley Dowden 自身も哲学者 Norman Swartz と意見交換した後、見解を翻した[5]。 論理学者クルト・ゲーデルはアインシュタイン方程式の厳密解の一つであるゲーデル解で記述される仮説的宇宙での過去へのタイムトラベルの可能性を検討し、時間の流れは一種の幻想かもしれないと述べた[6][7]。 親殺しのパラドックスの発展形として、未来に時間移動してその光景を観測することにより、必ずその未来に辿り着くよう歴史を確定させることが出来るという「子殺しのパラドックス」も提唱されている。例えば10歳の少年が7年後にタイムスリップして17歳の自分を殺害した後に元の時代に帰還することで、「少年は17歳のときに過去の自分により殺害される」という歴史が確定し、17歳になるまではどれほど危険な状況に陥っても死亡しない存在になるというものである。 脚注・出典 関連項目 タイムトラベル 鶏が先か、卵が先か バタフライ効果 - 北京の蝶の羽ばたきがアメリカの大風につながることもありうる、とするバタフライ効果の考え方だと、「現在に影響を与えない歴史改変」はほとんど不可能となることも考えられる。たとえば、1万年前に行って、15歳で子を作って16歳で死ぬまで何も目立った活動のない少年を12歳時点で殺したとしても、1万年間の少年の子孫の数を考えれば多大な影響が出る。子孫そのものが偉人にならないまでも、他に影響を与えることもありうる(たとえば渡辺崋山など多くの偉人の伝記に「屈辱を受けて発憤」という記事が出るが、屈辱を与えた人間自体は多くは凡人である)。
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恐竜が絶滅したきっかけとなった出来事は?
恐竜
japanese
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恐竜(きょうりゅう)は、脊椎動物の分類群の一つである。中生代三畳紀に現れ、中生代を通じて繁栄した。多様な形態と習性のものに適応放散し、陸上動物としては非常に大きくなったものもあったが、約6,600万年前の白亜紀と新生代との境に多くが絶滅した。なお、小型の獣脚類の一部は現在も繁栄して鳥類と呼ばれているとする見方もある。アラモサウルスなどの一部の属については、この後もしばらく生き延びていた可能性を主張する研究者もいる[1]。 古典的分類では爬虫綱 - 双弓亜綱 - 主竜形下綱に属し、分類階級は上目とされてきた。なお、系統樹に基づく分岐学的観点から、単に「恐竜」と呼んだ場合、学術的には「鳥類」を含めることが多くなっている(後述)。このため、上記の分類群(恐竜から鳥類を除いたグループ)を指す上では、より厳密な「非鳥類型恐竜(non-avian dinosaur)」の使用が、学術論文を中心に見られる[2][3]。ただし一般に「恐竜」と言えば鳥類を除いたものを指すケースが多く、依然分類群としても簡便で有用である[3]。よって本項では特に言及のない限り、「恐竜」と言えば「非鳥類型恐竜」を指すものとする。 大衆的に恐竜の一群としてイメージされやすい翼竜・首長竜・魚竜などは恐竜には含まれない。[4]ただし翼竜は恐竜やワニと同じく主竜類に属し、恐竜とは「姉妹群」の関係にあたる。その一方、首長竜や魚竜は恐竜とは遠縁の水棲爬虫類である。 名称 English: dinosaur は 「恐ろしい」 + 「とかげ」[注 1]の合成であり、1842年、それまでに発見されていた3種の化石爬虫類(イグアノドン、メガロサウルス、ヒラエオサウルス)の新しい分類名として、リチャード・オーウェンによって命名されたものである[5](ただし、オーウェンはδεινός の語を英語でfearfully great[6][7](「恐ろしいほど大きな[8]」)という意味で用いたという)。語根 -saur- には「竜」をあてるのが通例である。「○○サウルス」といえば「恐竜の名前」として認識されがちだが、実際にはトカゲ型の動物や爬虫類には、現生のものであっても「-saurus」と学名の付いたものが少なくない(例えばエリマキトカゲの学名はChlamydosaurus kingiiであり、カタカナに直せば"クラミドサウルス・キンギイ"となる)。 定義 通俗的には、「恐竜」という言葉は往々にして「大昔の爬虫類」という程度の把握しやすいイメージで認識されており、同じ地質時代に生息していた翼竜や魚竜・首長竜のほかに、古生代に生息していた一部の非哺乳類型の単弓類(いわゆる哺乳類型爬虫類)なども含めた概念として呼ばれる場合が少なくない。「恐竜展」や子ども向けの「恐竜図鑑」などではこれらの各種爬虫類や、さらには恐竜絶滅後の生物(マンモスなど)まで含めて展示・掲載するものがよく見られる。 しかし正確には「恐竜」は、系統的に異なる翼竜、魚竜、首長竜などは一切含まない独立した分類群である。この分類群、すなわち恐竜類はそのもっとも際立った特徴をして「直立歩行に適した骨格をもった爬虫類」と呼ぶことができ、ほぼすべて地上棲である。 分岐学的定義 分岐学の観点から、「現生鳥類とトリケラトプス(Triceratops)を含むグループの最も近い共通祖先より分岐したすべての子孫」が定義として頻繁に用いられる[9][2]。 この意味は実際に系統樹を見ると分かりやすい。 Nesbitt (2011)に基づく主竜類の系統樹の例: 主竜類 ワニ類鳥頸類 翼竜類(プテラノドンなど)恐竜様類(Dinosauromorpha) ラゲルペトン科(Lagerpetidae)恐竜形類(Dinosauriformes) マラスクス(Marasuchus) シレサウルス科Silesauridae恐竜 鳥盤類(イグアノドン、トリケラトプス、ステゴサウルスなど)竜盤類 獣脚類(メガロサウルス、ティラノサウルス、鳥など) 竜脚形類(ブラキオサウルス、サルタサウルスなど) 上の系統図で、現生鳥類は竜盤類の獣脚類に含まれ、トリケラトプスは鳥盤類の一属である。要するに、前述の定義の意図するところは概して「竜盤類と鳥盤類、それぞれの動物の共通祖先から分岐したすべてのもの」[3]であり、「現生鳥類」「トリケラトプス」は、それぞれ竜盤類、鳥盤類における代表例として任意に挙げられたにすぎない[注 2]。 よって同様のグループを、例えば「恐竜 (dinosauria)」の命名のきっかけとなった2属を挙げ、「メガロサウルス(Megarosaurus)とイグアノドン(Iguanodon)を含むグループの、最も近い共通祖先より分岐したすべての子孫」[10]と表すこともできる。 また、より厳密に3つの系統を用いて「トリケラトプス (Triceratops horridus)、サルタサウルス(Saltasaurus loricatus)、イエスズメ(Passer domesticus)の、最も近い共通祖先より分岐したすべての子孫」(つまり、恐竜=鳥盤類+獣脚類+竜脚形類)[11]とする意見もある。 これらの定義では必然的に、獣脚類の一群である鳥類を恐竜(より詳細には、竜盤類の中の獣脚類、コエルロサウリアに属すマニラプトラに含まれる)に含めることになる。このため、鳥を除いた恐竜を表すために、「非鳥類型恐竜 (non-avian dinosaur)」の用語が使用される。また特に、鳥を除いた獣脚類を表す語として、「非鳥類型獣脚類 (non-avian theropod)」も頻繁に用いられる。 特徴的な派生形質 恐竜は単系統群と考えられており[2][3]、その系統を特徴づける派生形質は非常に多い。以下に主要なものを列挙する[3]。 (主竜類、さらに鳥頸類や恐竜形類の形質をもった上で) 後前頭骨(postfrontal)を二次的に失う。 上腕骨の三角筋稜(delto-pectoral crest)が発達する。 腸骨、恥骨、坐骨で構成された骨盤に、大腿骨がはまり込む場所である寛骨臼(かんこつきゅう)が貫通している。 仙椎を構成する骨が3個以上(ワニやトカゲなど、多くの爬虫類ではより少ないことが多い)。 脛骨前面に距骨突起が成立する。 など。 これらのいくつかは、特に二足歩行に適応した結果として生じた形質と考えられ、恐竜が、一般的に想像されるトカゲのような「爬虫類」とは異なる運動機能を持っていたことを示している。 進化史 恐竜の登場と初期進化 恐竜は、祖先的な双弓類から進化した群で、直接的祖先は初期主竜類(かつては槽歯目としてまとめられていた)中の一群、鳥頸類の一群とされる[12]。このグループには恐竜の他には翼竜などが含まれている。このグループは、初期段階から二足歩行へと移行しつつある形態を持っており、最初期の恐竜は既に二足歩行を獲得していた。 絶滅 非鳥類型恐竜は白亜紀末期に絶滅した。恐竜はよく関心を持たれる動物群であり、ことさらその絶滅の原因に関する仮説は多い。しかし、ある系統の「絶滅」とは、生物の進化において普遍的なプロセスであり、中生代を通じていくつもの恐竜の系統が絶滅してきたことにも留意する必要がある[13]。 K-Pg境界(以前はK-T境界と呼ばれた)の大量絶滅は、恐竜のみならず数多くの動植物を巻きこんだという意味で大規模な絶滅であり、事実、K-Pg境界における恐竜の絶滅に関する科学的な研究は長い間なされてこなかった[3]。 絶滅の主要因に関する仮説には以下などのものがある。 短時間で滅んだとする激変説(隕石衝突説・彗星遭遇説など) 長時間かかったとする漸減説(温度低下説・海退説・火山活動説など) そのうち、確定的とされているのは巨大隕石の衝突である。1980年、地質学者のウォルター・アルバレスとその父で物理学者のルイス・アルバレスは、世界的に分布が見られる中生界白亜系と新生界古第三系を境する粘土層(通称K-T境界層)に含まれるイリジウムの濃度が他の地層の数十倍であり、かつ、イリジウムは地殻にはほとんど存在しないことから、これが隕石の衝突によってもたらされたものであると考え、大量絶滅の原因を隕石の衝突に求めた[14]。その後、1991年メキシコ・ユカタン半島に、直径180キロメートルの巨大クレーター(チチュルブ・クレーター)が再発見され、このクレーターを形成した隕石の衝突が恐竜絶滅の原因だとする説が提唱された[15]この説では、地球規模の大火災で生態系が破壊され、衝突後に生じた塵埃が大気中に舞い、日光を遮断することで起きた急速な寒冷化が絶滅の原因であると主張された(ただし異論を唱える学者もいる[16])。 しかし一方で、衝突で大気中に浮遊した微小粉塵量を過大評価しているとし、寒冷化よりもむしろ衝突で大気中に浮遊した粉塵・衝突による巨大な森林火災の煤煙などが地表への太陽光をさえぎった結果、地上や海中の生態系が破壊され、食物連鎖の底辺の光合成を行う生物の様相が大きく変わり、隕石衝突の直接の影響を生き抜いた恐竜たちも餌の不足により絶滅したとする説明が提示されている。なお、東北大学は前述の説を支持する研究結果を出している[17]。また、隕石が南側に数百キロずれて衝突していたら恐竜は今も生き残っていたかもしれないとする研究結果もある[18]。 隕石説と反対に、イリジウムの起源を地球内部に求め、当時活動していたデカントラップなどの火山活動が大量絶滅の原因であるとする「火山説」も複数の研究者により唱えられたが、2010年、Peter Schulte他40名の研究者により、チチュルブ・クレーターを形成した衝突が大量絶滅を引き起こしたと結論づけられた[19]。 また、過去には伝染病説、裸子植物から被子植物への植物相の変化(草食恐竜の食物が無くなった)、原始的な哺乳類による恐竜の卵乱獲説など諸説もあったが、現在ではかえりみられない。これら諸説は、恐竜のみの絶滅の原因を考察したものであり、白亜紀末期の恐竜を含めた数多くの動植物の絶滅の原因の説明になっていないからである。 当初の衝突による「衝突の冬」(寒冷化)が原因では、なぜ同時期に存在した両生類や爬虫類などが絶滅を免れたかという疑問が残ったが、現在でも二酸化炭素による濃度上昇に伴う気温上昇、塵による太陽光の遮断、硫酸エアロゾルによる太陽光遮断と酸性雨などについては確証がなくよくわからないとする意見も強い。 一方で、鳥類が恐竜から進化した事実から、「恐竜は絶滅を逃れた」「絶滅を逃れて進化した恐竜が鳥類である」という観点も存在する。そのような観点からは、むしろ「何故恐竜(鳥類)は、白亜紀末の大絶滅を免れ、生き延びたのか?」という疑問が成立すると言える。 生物学的特徴 現代に生きる鳥の系統を除いても、恐竜は長期間にわたって陸上で繁栄した一群であり、その形態は多様であった。 その身体のサイズも、ニワトリほど大きさのものから、陸上においては最大級のものまでさまざまであった。最大のものは竜脚類で、その中でも判明している範囲ではスーパーサウルスが最も大きい。これら竜脚類は、水棲のクジラ類を除けば地球の歴史上最も大きな動物であり、陸棲動物では地球史上最大である[20]。さらに、アンフィコエリアスはクジラより大きかったとされる。ただし、こちらは現存するものが曖昧な化石の発掘時の記録しかないため、実在が疑問視されている。 体重についてはブラキオサウルス科のギラファティタンなどが80トン以上だったとする説もある。ただし、この数値はやや過大であるという見方も存在する[21]。 恐竜の祖先である初期主竜類は肉食性であり、エオラプトル、コエロフィシスなど最初期の恐竜も肉食の捕食者であった[22]。しかし、原竜脚下目など比較的初期段階から草食へと移行しつつあるグループも出現している[23]。 姿勢・歩行 恐竜はそれ以外の多くの爬虫類とは異なり、胴体の直下に四肢を持つ。この特徴は、側方型の四肢に比べて体重を支えるのに都合がよく、大型化したグループが出現する素地となったとする考えがある。また、歩行の際に身体を捻る必要がないため、軽快な移動を可能にしている。 この特徴はやや遅れて哺乳類も獲得しているが、異なる点としては、恐竜は二足歩行の種が多い点である。これは、二足歩行が初期主竜類から受け継いだ、祖先的な形態だからである。初期主竜類の中でもユーパルケリアなどは身体の作りが軽快であり、常時二足歩行を可能としていた。竜脚類や鳥盤類の一部の様な四足歩行の恐竜は、体重の増加等の理由で二次的に四足歩行に復帰したものである。このためか、四足歩行の恐竜でも体重の大半は後足が支える形となっている。 恐竜の二足歩行はヒトとは異なり、後足を中心に長い尾によって上半身と下半身のバランスをシーソーのようにとっていたと考えられている。恐竜の巨大な尾はバランスを取るための必然であり、ティラノサウルスおよび近縁の属に見られる縮小した前肢は、巨大化した頭部と釣り合いを取るためだとされる。 かつてのように、尾を引きずりながら歩く復元では巨大な尾は邪魔にしかならないため、では間違いとされる。 一方、胴体の横から足が生えている側方型の爬虫類、例えばトカゲは胴体をくねらせて歩行する、いわば爬行を行っている。この方法では四肢を側方に突き出した姿勢で身体を持ち上げているため、エネルギー効率が悪い。また肺を圧迫するために呼吸が阻害され、長時間の走行を困難にしている[24]。 カメは四肢が側方に生えておりながらも胴体が甲羅に覆われて可動性を持たないため、爬行を行えない。そのため四肢により胴体を持ち上げて歩行を行っているが、歩行能力は一般に優れているとは言えず、歩行速度の遅い動物の代表格扱いされている。またワニは、トカゲに比べて胴体の可動性がやや乏しいために[25]、胴体をくねらさない。また、短距離ではあるとはいえ、ギャロップで走行することが可能なものも存在する[26]。ただし、ワニは恐竜に近縁なグループであり、祖先は胴体直下に直立した四肢を持っていた。そのため、かれらの四肢を突き出した姿勢は半水生の生態に適応した二次的なものである。またカメもワニなどに近縁な主竜形類であるため、祖先は胴体直下に四肢を持っていたが、甲羅の発達にともない二次的に四肢が側方へと突き出す形となったとする仮説もある[27]。 恐竜の二足歩行形態は、現在では子孫の鳥類へと受け継がれている。しかし、祖先と異なる点としては、尾が短縮したことで重心が前方へと移ったため、大腿骨がほぼ身体に対して水平に保持されていることである[28]。そのため、歩行は膝関節を中心としたものとなっている[29]。 恐竜の色 恐竜がどのような色をしていたのかは明らかではない。 図鑑などに載っている恐竜の色は現世動物をもとに推測したものであり、以前は爬虫類と同様の茶色やくすんだ緑色など地味なものが多かった。 その後、鳥類との関係が認知され、羽毛をもつ恐竜が発見されるに従い、カラフルな恐竜の復元画も登場してきている。 2008年、ヤコブ・バンターらは恐竜の羽の化石中に含まれるメラニン色素を解析することにより、オリジナルの色がどのようなものであったか判別することに成功した[30]。今後、羽に覆われた保存状態のよい皮膚組織の化石が発見されれば、恐竜がどのような色をしていたのか解明することが可能と主張している。 羽毛 そして1990年代以降、中国の白亜紀の地層で羽毛をもった、現在の鳥類と羽毛のない恐竜の間を埋める、羽毛のある恐竜の化石が相次いで発見され、系統関係が明らかになってきた。羽毛をもった恐竜には、シノサウロプテリクス・プロターケオプテリクス・カウディプテリクス・ミクロラプトル・ディロングなどがある。 羽毛をもった恐竜のグループの存在から空を飛ぶ鳥類と恐竜の進化の関係が明確になった。このように現在では、「鳥類の先祖は恐竜の獣脚類の一種である」という説がほぼ定説となった。 気嚢式呼吸 古生代ペルム紀末(P-T境界)の大量絶滅により、陸上で多様化や大型化を遂げていた単弓類の一群など、数多くのグループが絶滅した。こうして空白地帯となった陸上の生態系に、さまざまなグループが競って進出し、ニッチを埋めていったと思われる。その中の一つが恐竜の祖先であった。他の競合者となったのが、鳥頸類の姉妹群でワニの祖先を含むクルロタルシ類及び、前時代からの残存勢力で哺乳類の祖先を含む単弓類であった。 ペルム紀初期の大気中の酸素濃度は35%に達したとされ、横隔膜による呼吸を採用した哺乳類型爬虫類は高酸素下では特に支障はなかった[31]。出現当初の恐竜は比較的小型であり、ほぼ同時期に現れた哺乳類共々、陸上の脊椎動物相においてそれほどの割合を占めていなかったとされる。しかし、三畳紀末期には、恐竜の多様性が増大する。この理由のひとつとして呼吸器系の進化が提唱されている。すなわち進行する乾燥と低酸素化の環境の中、哺乳類は横隔膜を使った肺呼吸をより発達させて効率的な酸素交換を実現し、一方の恐竜は、それより更に高効率の呼吸システムを獲得していく。それが、鳥類にも見られる気嚢である。この気嚢を獲得したことで、恐竜は高い酸素摂取能力を獲得することになる。また、この気嚢が骨の中に入り込むことで中空の含気骨となり、骨格自体の軽量化にも貢献することとなった。 酸素濃度35%のペルム紀以降は、リグニンの分解能を獲得した菌類による木材の分解により酸素濃度は低下しジュラ紀後期の2億年前には酸素濃度は12%まで低下した。気嚢は、横隔膜方式よりも効率的に酸素を摂取できる機能があり、低酸素下でもその機能を維持し繁栄することができた。競合する哺乳類型爬虫類は低酸素下でその種の大部分が絶滅することとなった[31]。 恒温性 初めて恐竜が見つかったときには、爬虫類であるとして変温動物と考えられていた。それに異を唱え、「恐竜は恒温動物である」とした研究者にはジョン・オストロムやその弟子のロバート・T・バッカーなどがいる。彼らを含む研究者の一部は、恐竜を含む主竜類、特に小型の獣脚類は温血動物であったと主張している。 しかしながら脳の発達の程度、骨に年輪が見られることなどから恒温性を否定する説も存在した。しかし、骨の年輪は草食哺乳類にも存在することが判明しており、この点からも恒温性を否定する根拠とはなり得ない[32][33]。 またエドウィン・ハリス・コルバートらがアメリカアリゲーターの総排泄口に温度計を差し込み、体温を計測する実験を行った結果、大型の個体程体温の変化が緩やかであるという結論が得られた[34]。故に、「大型の竜脚類などでは容積が大きいので結果的に体温を体内に保つことが出来る「慣性恒温性」で体温を保っていた」とする主張もあり、研究が続けられている。 生態・社会性 恐竜は絶滅しており、行動を直接見ることは出来ないため、その生態は謎に満ちている。数少ない物証としては、ヴェロキラプトルとプロトケラトプスが戦っている状態で見つかった化石や、鳥類のように丸まって眠っている姿勢で発見されたメイ・ロンの化石、同種の歯型が多数残り共食いをしていたことが推定されるマジュンガサウルスの化石がある。 恐竜の行動の多くは足跡や巣の状態から類推することができ、化石のみで情報が乏しいながらも、骨格から推測される筋肉、足跡の計測などから、おおよその歩行速度を求める試みも一部ではある。 また、子供を育てる、群れを作って共同で生活をするなど、現在見られる哺乳類動物と類似する社会性をもった恐竜もいたと考えられている。社会性をもつと、捕食動物にもよるが、捕食者が近づいて来た場合の警告がしやすい。しかし、これらはまだ研究者の間で議論中の論点であり、異論も少なくない。 研究史 恐竜の発見 学術的な記録としては1677年、イギリス、オックスフォード大学のアシュモリアン博物館にてロバート・プロット(Robert Plot)による大腿骨の膝関節部分の記載が最初と思われる。これはオックスフォード州中期ジュラ紀の地層より発掘されたもので、おそらくメガロサウルスのものと推測される(詳細なスケッチを残し、標本は現存していない)が、この時代に恐竜は知られておらず、プロット自身はゾウのような大型の動物の骨と考えていた[35][36]。 1815年頃にはウィリアム・バックランドが新たな化石を入手している。バックランドはこの化石がどのような動物に属するのか判断がつかなかったようだが、1818年にはジョルジュ・キュヴィエがオックスフォードを訪れ、この化石が大型の爬虫類のものであることを指摘している。これに基づきバックランドは1824年にはTransactions of the Geological Society誌上にて論文を発表し、断片的な下顎、いくつかの脊椎骨や腸骨、後肢の一部の化石を記載。Megalosaurus(メガロサウルス)と命名した[37]。 1822年にはロンドン地質協会でギデオン・マンテルが、ある"植物食性と思われる動物の歯の化石"について発表を行った。これは当初、同協会に所属していたバックランドや、既に比較解剖学の大家として知られていたキュヴィエらから、サイの歯かあるいは魚のものであるとの評価を得た。しかし後年の精査により、彼らもこれが大型の爬虫類のものであると認め、1825年、マンテルはこの歯の化石をもとにIguanodon(イグアノドン)を記載した[38]。 1842年には、リチャード・オーウェンにより、メガロサウルス、イグアノドン、ヒラエオサウルスを内包するグループとして"Dinosauria"(恐竜)の名称が初めて用いられた[5]。 化石戦争 鳥との関係 1861年、ドイツのゾルンホーフェンにおける後期ジュラ紀の地層より発掘された化石に基づき、Archaeopteryx(始祖鳥)が初めて報告された[39]。始祖鳥は、それまで鳥に特有とされていた羽毛を持ちながら、発達した歯や手指、長い尾を持つなど、爬虫類のような特徴を多く保持していた。1868年には、トマス・ハクスリーがこの化石に基づき、鳥の祖先が恐竜であったと述べている[40]。しかし論争は続き、20世紀にはゲルハルト・ハイルマン(Gerhard Heilmann)により、鳥は恐竜ではなく、より祖先的な主竜類から分岐したと述べられた[41]。この説は一時、よく受け入れられたが、1969年にジョン・オストロムらがデイノニクスを記載し(次項で詳述)、ふたたび鳥の祖先として恐竜が挙げられるようになった[42]。その後もジャック・ゴーティエによる分岐学的手法の発達[43][44]や、新たな祖先的鳥類やマニラプトラ類をはじめとする化石の発見が相次ぎ、現在では(本記事で幾度も述べられた通り)恐竜と鳥との関係はほとんど疑いのないものとなっている。 恐竜ルネッサンス 1969年に記載された小型の獣脚類であるDeinonychus(デイノニクス)に基づく一連の研究は、それまでの「大型でのろまな変温動物」という恐竜のイメージを、恒温性で活動的な動物へと大きく覆した。1970年代に続いたオストロムやその学生であるロバート・バッカーらの主導による一連のパラダイムシフトはdinosaur renaissance(恐竜ルネッサンス)と呼ばれた。これ以降、恐竜の行動や生態、進化や系統に関する多種多様な研究が増えていった。 2000年代以降の主な報告 指の謎 恐竜と鳥との関係は確実視されてはいたが、両者の間では前肢の指に齟齬があった。恐竜では鳥の系統に近づくにつれ、五本指のうち第5,4指が退縮する(つまり第1,2,3指が残る)傾向があるのに対し、現在の鳥の指は位置関係上、第2,3,4指であることが発生学的に観察されるからである[45]。この問題についてギュンター・ワグナー(Günter Wagner)らは、非鳥類型恐竜から鳥への進化上の段階で、前肢の指の位置関係のシフトが起こったと説明した[46][47]。また田村らはニワトリの胚を用い、発生の過程で指の原基となる細胞が、位置関係のシフトを起こすことを示した[48]。 これに対して2009年には第1指、第5指の退化的な(つまり2,3,4指の発達した)リムサウルス(Limusaurus)が報告される[49]など、いまだ指には謎がある。 軟組織の発見 2000年から2003年、アメリカ・モンタナ州の約6800万年前の地層で見つかった恐竜化石から、ティラノサウルス・レックスの化石化していない軟組織が発見された。ただし2009年頃には、それが現代のバクテリアの粘液に由来するものではないかという疑惑が浮上している。 他にもカモノハシ竜のミイラ化石とされる「ダコタ」など、軟組織が含まれているのではないかと考えられる化石は存在する。 別種か、それとも? トリケラトプスとトロサウルス[50][51]、パキケファロサウルスとスティギモロクとドラコレックスのように、これまで別属と考えられていた恐竜が、成長段階や雌雄の差なのではないかとする研究がある。いずれも反論があり、共通見解は得られていない。 復元 恐竜の習性は化石では直接確認できないことが多いが、足あとの化石や生息地が習性を予想する手がかりになる。マイアサウラのように子育てを継続的に行っていた証拠が確認された例などもあるが、恐竜の行動にはなお不明な点が多く、現在恐竜展などで展示されている恐竜の姿や行動は、鳥類の習性からの予想や似た生態的地位にある現生大型動物からの類推による部分も大きい。 かつて恐竜は、ワニのような皮膚をもっていたと考えられており、実際に鱗が保存された化石も発見されている。その後鳥類との類縁関係が注目されるようになり、一部の種においては羽毛をもった化石も発見されたところから、中にはある種の鳥類のような色鮮やかな羽毛をもつものがいた可能性も考えられている。ただし、図鑑等で見られる恐竜の皮膚や羽毛の色模様等は全て現生爬虫類または鳥類から想像されたもので、実際の皮膚がどんな色だったかは、ほとんど不明である。皮膚自体が残った、ミイラ状態の化石は発掘されているが、質感はともかく色や模様は化石として残らないからである。 下位分類 恐竜の定義としては、寛骨(いわゆる骨盤)に大腿骨がはまり込む場所である寛骨臼(かんこつきゅう)が貫通していること、仙椎を構成する骨が3個以上である、などである。下位の分類としては、骨盤の形状により、竜盤類 Saurischiaと鳥盤類 Ornithischiaに大別される[52]。竜盤類は恥骨が前方へと伸びる、トカゲなど他の爬虫類に似た骨盤を持っていた。対して鳥盤類は鳥類に似た、恥骨が腸骨にそってが後方へと伸びた形状であった。 恐竜の分類はジャック・ゴーティエが1986年に分岐分析法により作成した系統樹により大きく変貌している。鳥類が恐竜(獣脚類)から分岐したこともこのときに示されている。 分類学的には竜盤類と鳥盤類を恐竜とする。翼竜、魚竜、首長竜など恐竜と同時代にはさまざまな大型爬虫類が出現したが、現在では分類上、これらを<b data-parsoid='{"dsr":[25050,25064,3,3]}'>恐竜には含めない。この3グループの系統上の位置は爬虫類を参照。現生の動物では鳥類が最も近い生物であり、ワニ類がそれに次ぐ。カメ類はこれより遠く、ヘビ・トカゲ類(有鱗目)とはさらに遠い系統関係になる。 なお、新種の恐竜の化石が発見される、同種だと思われていた恐竜が別種だった、逆に別種だと思われていたが同種だった、骨格から体の特徴が改められるなどの新発見が相次いでおり、毎年のように最も有力な学説は変化している。即ち恐竜研究は現在も速い速度で進展しつづけているのであり、現在最も有力な知見が将来も有力であり続ける保証は存在しない。たとえば<b data-parsoid='{"dsr":[25363,25377,3,3]}'>ブロントサウルス</b>は、1980年代頃までは必ず恐竜図鑑に登場する、代表的な恐竜とされていたが、これは学名のBrontosaurusをカタカナ表記したものであり、現在はApatosaurusと学名が変更され、アパトサウルスとカタカナ表記される。 竜盤類の典型的な骨盤(左側面図) ティラノサウルスの骨盤(左側面図) 鳥盤類の典型的な骨盤(左側面図) エドモントサウルスの骨盤(左側面図) 上位分類 有羊膜類 Amniota 竜弓類 爬虫類 Reptilia 双弓類 Diapsida 主竜形類 主竜類 Archosauria 恐竜類 Dinosauria ★ 竜盤類 鳥盤類 [53][54] 竜盤類 Saurischia 獣脚亜目 ?エオラプトル科 Eoraptoridae - エオラプトル ?ヘレラサウルス類 ヘレラサウルス科 - ヘレラサウルス、レヴェルトラプトル スタウリコサウルス科 Staurikosauridae - スタウリコサウルス (三畳紀、南米) グアイバサウルス科 Guaibasauridae - グアイバサウルス 新獣脚類 ケラトサウルス下目 コエロフィシス上科 ゴジラサウルス コエロフィシス科 プロコンプスグナトゥス亜科 Procompsognathinae - プロコンプソグナトゥス コエロフィシス亜科 Coelophysinae - コエロフィシス、サルトプス、メガフォサウルス ?ハルティコサウルス科 - ハルティコサウルス、ディロフォサウルス ネオケラトサウルス類 Neoceratosauria ケラトサウルス科 Ceratosauridae - ケラトサウルス アベリサウルス上科 アベリサウルス科  アベリサウルス亜科 Abelisaurinae - アベリサウルス カルノタウルス亜科 Carnotaurinae - カルノタウルス、インドスクス、マジュンガサウルス、ルゴプス ノアサウルス科 Noasauridae - ノアサウルス,マシアカサウルス、ヴェロキサウルス テタヌラ下目 ?クリオロフォサウルス メガロサウルス上科 スピノサウルス科 - スピノサウルス、バリオニクス、スコミムス、イリテーター メガロサウルス科 - メガロサウルス、アフロベナトル、ミフネリュウ、トルヴォサウルス アヴェテロポーダ類 (新テタヌラ類 Neotetanurae) カルノサウルス類 アロサウルス上科 Allosauroidea モノロフォサウルス シンラプトル科 Sinraptoridae - シンラプトル、ヤンチュアノサウルス、スゼチュアノサウルス アロサウルス科 Allosauridae - アロサウルス、クリオロフォサウルス、サウロファガナクス、アクロカントサウルス カルカロドントサウルス科 - カルカロドントサウルス、ギガノトサウルス、マプサウルス コエルロサウルス類 ?オルニトレステス科 Ornitholestidae -オルニトレステス コンプソグナトゥス科 Compsognathidae - コンプソグナトゥス、シノサウロプテリクス(中華竜鳥) コエルルス科 - コエルルス、オルニトレステス ティラノサウルス上科 -エオティラヌス、 ティラノサウルス科 Tyrannosauridae - ティラノサウルス、アルバートサウルス、タルボサウルス、アウブリソドン オルニトミモサウルス類 オルニトミムス科 - オルニトミムス、ストルティオミムス、ガリミムス            マニラプトル類 アルヴァレスサウルス科 - モノニクス、アルヴァレスサウルス、パタゴニクス Oviraptoriformes オヴィラプトロサウルス類 アビミムス科 - アビミムス カウディプテリクス科 - カウディプテリクス カエナグナトゥス上科 カエナグナトゥス科 - カエナグナタシア、キロステノテス、エルミサウルス オヴィラプトル科 - オヴィラプトル、アジャンキンゲニア、インキシヴォサウルス テリジノサウルス類 Therizinosauria テリジノサウルス上科 Therizinosauroidea テリジノサウルス科 Therizinosauridae - テリジノサウルス、セグノサウルス、アラシャサウルス 原鳥類 Paraves ペドペンナ ?スカンソリオプテリクス科 - スカンソリオプテリクス、エピデクシプテリクス デイノニコサウルス類 トロオドン科 - トロオドン、メイ ドロマエオサウルス科 - ドロマエオサウルス、デイノニクス、ヴェロキラプトル 鳥類 Aves(現生鳥類の先祖) 竜脚形亜目 テコドントサウルス科 - テコドントサウルス 原竜脚下目 ?アンキサウルス科 - アンキサウルス プラテオサウルス科 Plateosauridae - プラテオサウルス、ウナイサウルス メラノロサウルス科 Melanorosauridae - メラノロサウルス マッソスポンディルス科 Massospondylidae - マッソスポンディルス、ルーフェンゴサウルス 竜脚下目 ?ヴルカノドン科 Vulcanodontidae - ヴルカノドン 真竜脚亜目(エウサウロポーダ類) Eusauropoda ?イービノサウルス マメンチサウルス類 マメンチサウルス科 Mamenchisauridae - マメンチサウルス、チュアンジェサウルス ケティオサウルス類 ケティオサウルス科 Cetiosauridae - ケティオサウルス、ロエトサウルス ジョバリア科 - ジョバリア オメイサウルス科 - オメイサウルス 新竜脚類 Neosauropoda ハプロカントサウルス ディプロドクス類 Diplodocimorpha レッバキサウルス科 ディプロドクス上科 ディプロドクス科 Diplodocidae アパトサウルス亜科 Apatosaurinae - アパトサウルス ディプロドクス亜科 Diplodocinae - ディプロドクス、セイスモサウルス ディクラエオサウルス科 Dicraeosauridae - ディクラエオサウルス、アマルガサウルス、レッバキサウルス            マクロナリア類 カマラサウルス類 Camarasauromorpha カマラサウルス科 Camarasauridae - カマラサウルス ティタノサウルス上科 Titanosauriformes ?アンデサウルス科 - アンデサウルス、マラウィサウルス ブラキオサウルス科 - ブラキオサウルス ティタノサウルス上科 Titanosauria ラペトサウルス亜科 Rapetosaurinae - ラペトサウルス サルタサウルス亜科 Saltasaurinae - ティタノサウルス、サルタサウルス、アラモサウルス 鳥盤類 Ornithischia ファブロサウルス科 - ファブロサウルス、レソトサウルス、テクノサウルス ゲナサウリス類 Genasauria - エキノドン 装楯亜目 スクテロサウルス科 - スクテロサウルス ユーリ脚類 Eurypoda スケリドサウルス科 Scelidosauridae - スケリドサウルス ステゴサウルス類(剣竜下目) ステゴサウルス科 - ステゴサウルス、ケントロサウルス、インシャノサウルス、ダケントルルス、レクソヴィサウルス、ウエロサウルス、トゥオジャンゴサウルス ファオヤンゴサウルス科 -ファヤンゴサウルス 曲竜下目(鎧竜下目) ステゴペルタ族 Stegopeltini - グリプトドントペルタ、ステゴペルタ ノドサウルス科 - ノドサウルス、サウロペルタ、エドモントニア、ドラコペルタ ポラカントゥス科 Polacanthidae - ポラカントゥス、ガーゴイロサウルス、ガストニア アンキロサウルス科 - アンキロサウルス、エウオプロケファルス、サイカニア 角脚類 Ceraopoda(新鳥盤類 Neornithischia) ヘテロドントサウルス科 Heterodontosauridae - ヘテロドントサウルス、ピサノサウルス 鳥脚亜目 Ornithopoda ゼフィロサウルス科 Zephyrosauridae - ゼフィロサウルス オスニエリア科 Othnieliidae - オスニエリア 新鳥脚類 Neornithopoda(正鳥脚下目 Euornithopoda) ヒプシロフォドン科 - ヒプシロフォドン イグアノドン類 ムッタブラサウルス 真イグアノドン類 Euiguanodontia Rhabdodontidae - ラブドドン ドリオサウルス科 Dryosauridae - ドリオサウルス、ヴァルドサウルス Ankylopollexia カンプトサウルス科 Camptosauridae - カンプトサウルス、ドラコニクス イグアノドン上科 Iguanodontoidea イグアノドン科 - イグアノドン、オウラノサウルス、フクイサウルス プロバクトロサウルス科 Probactrosauridae - プロバクトロサウルス ハドロサウルス科 - ハドロサウルス、アナトティタン、コリトサウルス、ランベオサウルス、パラサウロロフス、マイアサウラ、シャントゥンゴサウルス 周飾頭亜目 ステノペリクス ヘテロドントサウルス科 - ヘテロドントサウルス、ゲラノサウルス、ラナサウルス 堅頭竜下目 ホマロケファレ上科 Homalocephaloidea パキケファロサウルス科 Pachycephalosauridae - パキケファロサウルス、ステゴケラス ホマロケファレ科 Homarocephalidae - ホマロケファレ 角竜下目 プシッタコサウルス科 - プシッタコサウルス 新角頭類 Neoceratopsia レプトケラトプス科 Leptoceratopsidae - アジアケラトプス、モンタノケラトプス ケラトプス上科 Coronosauria プロトケラトプス科 Protoceratopidae - プロトケラトプス、アーケオケラトプス レプトケラトプス科 Leptoceratopidae - レプトケラトプス、ウダノケラトプス Ceratopsoidea ケラトプス科 ケラトプス亜科 Ceratopsinae - カスモサウルス、トリケラトプス、トロサウルス セントロサウルス亜科 Centrosaurinae - セントロサウルス、スティラコサウルス、パキリノサウルス、シノケラトプス 日本で発掘された主な恐竜の化石 樺太庁川上村…ニッポノサウルス・サハリネンシス(ハドロサウルス類) 北海道中川町…テリズィノサウルス類 北海道小平町…ハドロサウルス類 北海道夕張市…ノドサウルス類 岩手県岩泉町…竜脚類(通称モシリュウ) 福島県南相馬市…足跡(ジュラ紀) 福島県広野町…鳥脚類(通称ヒロノリュウ)、ティラノサウルス類(通称フタバリュウ) 福島県いわき市…竜脚類(通称ヒサノハマリュウ)、鳥脚類 群馬県神流町(旧中里村)…スピノサウルス類、オルニトムス類(通称サンチュウリュウ)、獣脚類、足跡 長野県小谷村…足跡(ジュラ紀) 富山県富山市(旧大山町)…イグアノドン類の歯、獣脚類、足跡 岐阜県白川町…竜脚類、足跡 岐阜県高山市(旧荘川村)…イグアノドン類、鳥脚類、獣脚類 石川県白山市(旧白峰村)…竜脚類(通称ハクサンリュウ)、獣脚類(通称オピラプトロサウルス類)、イグアノドン類(通称シマリュウ)、アルバロフォサウルス・ヤマグチオロウム(角脚類)、足跡 福井県勝山市…フクイサウルス・テトリエンシス(イグアノドン類)、フクイラプトル・キタダニエンシス(カルノサウルス類)、フクイティタン・ニッポネンシス(竜脚類)、コシサウルス・カツヤマ(イグアノドン類)[55]、獣脚類、鳥脚類、足跡 福井県大野市(旧和泉村)…獣脚類の歯、足跡 三重県鳥羽市…ティタノサウルス類(通称トバリュウ)、足跡 兵庫県丹波市…タンバティタニス・アミキティアエ(ティタノサウルス形類) 兵庫県洲本市…ランベオサウルス類 徳島県勝浦町…イグアノドン類の歯 山口県下関市吉母…足跡 福岡県北九州市…獣脚類 福岡県宮若市(旧宮田町)…獣脚類(ワキノサウルス・サトウイ) 長崎県長崎市…獣脚類[56] 熊本県御船町…ティラノサウルス類、オルニトミムス類、テリジノサウルス類、ドロマエオサウルス類、アンキロサウルス類、ハドロサウルス類、足跡 熊本県天草市…獣脚類、イグアノドン類、鳥脚類、竜脚類、足跡 鹿児島県薩摩川内市(旧下甑村、旧鹿島村)…獣脚類、角竜類 北海道むかわ町…ハドロサウルス科 熊本県八代市…獣脚類(アロサウルス形類)、肋骨[57] 脚注 注釈 出典 参考文献 Text "和書" ignored (help) CS1 maint: multiple names: editors list (link) CS1 maint: extra text (link) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) 関連項目 恐竜の一覧 恐竜ルネッサンス バーナム・ブラウン ギデオン・マンテル 恐竜エキスポふくい2000 ディノサウロイド 絶滅した動物一覧 福井県立恐竜博物館 御船町恐竜博物館 外部リンク (群馬県 神流町 恐竜センター) (FPDM 福井県立恐竜博物館) (国立科学博物館) (石川県白山市) (福島県いわき市) (兵庫県) (鉄腕DASH) (福井県勝山市)
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五月革命が起きた原因は何?
五月危機
japanese
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フランスの<b data-parsoid='{"dsr":[5,15,3,3]}'>五月危機(ごがつきき)は、1968年5月におきた、フランスのパリでおこわれたゼネスト(ゼネラル・ストライキ)を主体とした学生の主導する労働者、大衆の一斉蜂起と、それにともなう政府の政策転換を指す。五月革命</b>ともいう。セックス革命、文化革命、社会革命</b>でもあった。 パリ五月革命がドゴールを倒したという説は誤謬であり、ドゴールは選挙に勝ち、政権にとどまり続けた。しかし運動の影響で政権は弱体化し、翌年にはドゴールは辞任することになる。 五月革命では、キューバ革命のチェ・ゲバラと文化大革命の毛沢東が運動のイコンとしてかかげられた。背景にはフランス革命からロシア革命、キューバ革命、文化大革命へと至る「革命の歴史」があり、それを高度経済成長に湧くパリの学生がみちびき、各国の学生運動に熱をふりまき、より拍車をかけた。 1960年代後半、欧米、日本を中心とした世界の若者は、学生運動によってお互いの理念、思想、哲学を共有し、激しい政治運動をおこなうことができた。これによって国の枠組みにおさまらない対抗文化(counter culture)や反体制文化(ヒッピー文化)を構成するユートピアスティックな「世界的な同世代」という世代的な視座が加速度を増してゆく。以降、より自由に世界とコミュニケーションできるようになった学生は発言権を強めるようになり、フランスの現代化</b>を推進させた[1]。 それはロックや映画、ファッション[2]、アニメ、アートなどに影響を与え[3]、その精神はヒッピー文化、パソコン通信などを通じ、コンピューターカルチャーへとつながってゆく。 革命をとりまく世界の状況―1968 1968年は世界レベルで大衆の異議申し立て運動が活発化した年だった。 アメリカでは泥沼化したベトナムに対する反戦運動、中国では文化大革命が熱を帯び、日本では全共闘、東大紛争、こののちの10月2日にはメキシコでトラテロコの虐殺がおきる。ベトナムのテト攻勢[5]やワルシャワ条約機構軍によるチェコへの軍事介入(プラハの春)、メキシコオリンピック、西側の高度経済成長など、60年代後半は激動の時代だった。 旧態依然とした父権的な権力(白人=男性=異性愛)は同時代的な意識をもとめる民衆の挑戦をうけ、その権力の在り方そのものが問われるようになる。五月危機もそうした世界の潮流に呼応する形で起きた世界的な大衆運動の一環であり、それ以後のヨーロッパの大衆文化や思考の在り方にポジティヴな強い影響を与えた。 この運動の在り方や変革そのものを、保守・右派の価値観で否定的にとらえれば「危機」であり、左派、リベラルの立場で肯定的にとらえればパリ五月「革命」として見ることができる。 戦後フランスの社会状況 第二次大戦がおわって植民地帝国だったフランスは第四共和政という政権の安定しない政治体制に移行した(1946-1958)。このあいだにベトナムとアルジェリアという2つの旧植民地独立の挑戦をうけ、インドシナ戦争(1946-1954)とアルジェリア戦争(1954-1962)に派兵した。インドシナ戦争で苦戦を強いられたフランス軍は1953年ディエンビエンフーで敗れ、ベトナムからの撤退を余儀なくされる。さらにフランスはアルジェリアの植民地維持に固執し、議会の混乱を招くと、泥沼のアルジェリア戦争(1954)へと突入してゆく。第四共和政が明確なリーダーシップを採りえない体制であったことから、第二次大戦の国民的英雄ド・ゴール将軍[6]はより大統領権限の強化された第五共和政を樹立(1958)し、アルジェリアやアフリカ各国の独立を容認した。一方で父権を感じさせる強い権限での統治スタイルや強力な行政、官僚機構は、新しい時代の大衆の反発を招くものでもあった。 自由、平等、性の解放 五月革命の特徴は「学生たち」が状況を先導したところにあり、従来の政治的枠組みをobsolète metodo(時代おくれのやり方)としてみせた。 これは、当時のフランス市民たちに新しい政治の季節の到来を予感させるものだった。若い学生たちはそれまでの「父権的な政府」も官僚的で怠慢な労働組合の幹部も拒否し、「若く斬新な政治姿勢」をうちだして、若者と市民数の力で圧倒しようとした。また彼らは戦後高度経済成長に育ったベビーブーマーであり、急激に数の膨張した大学生だった。 1938年、フランスの大学生は6万人にすぎなかったが、それが1961年に24万人、 1968年までに60万5,000人にまでふくれあがる[7]。それまで特権階級の場だった大学は一般に開かれ、よりつつましい階級の家庭の学生の比率が膨らんだ。旧態依然としたド・ゴール政権(ド・ゴール主義)は彼らを発言権のある存在としてはみとめておらず、倦怠と抑圧を感じる学生の不満は高まっていた。彼らは広い意味で「平等」をもとめていた。社会にも、階級にも、帝政の歴史にも、第3世界にも、政治にも。 「Egalité! Liberté! Sexualité!―平等!自由!セクシャリティ!」は革命運動時の学生の重要なスローガンとなった。古い世代の制度と新しくふくらんだ大学生のあいだでに生じた摩擦はやがてマニフェストをともなったデモやゼネストというかたちで顕在化されるようになる。 タイムライン 1968年3月15日付日刊紙ル・モンドにジャーナリスト、ピエール・ヴィアンソン=ポンテは「現在、私たちの生活を定義するものは退屈だ」、「フランス人は退屈だ。彼らは世界を揺るがす激動に参加していない」と書いた。その後の出来事は、「退屈」が反乱の強力な触媒として作用したことを示唆している[8]。 1968年3月22日 事件の発端は1966年以降に起こったストラスブール大学の学生運動、教授独占の位階体制に対する民主化要求や既存の学生運動組織だったフランス全国学生連盟(UNEF[9])、官僚主義への反発からはじまる[10][11]。やがて要求は1964年に創立したばかりのパリ大学ナンテール分校(現在のパリ第10大学、ちなみにサルコジ大統領、マクロン大統領もここの卒業生である)へと波紋をひろげ、1968年3月22日にはベトナム戦争反対を唱える国民委員会5名の検挙に反対する学生運動へと発展[12]、ソルボンヌ(パリ大学)の学生の自治と民主化の運動に継承された。 のちに欧州議会の議員となったユダヤ系ドイツ人、赤毛のダニーこと「ダニエル・コーン=ベンディット」、フランス西部レンヌで美術教師となった全学連(UNEF)の副リーダー「ジャック・ソヴァジョ[13]」、国家教育名誉査察官になった反=スターリニズムの毛沢東主義者「アラン・ジェスマル[14]」、革命共産党連盟(LCR)のスポークスマンになったトロツキスト「アラン・クリヴィンネ[15]」らの指導者があらわれ、一部の労働者も学生に賛同して、運動は労働者にも波及してゆく。3月29〜30日。ナンテール校の授業は中断された。 1968年5月1日 極右の学生組織「オキシデンタル・グループ(Occidental group)」がナンテール校を攻撃しようとしているという噂が広まり、緊張が高まった。 1968年5月2日 ソルボンヌの学生組合ビルの一部が燃え、オキシデンタル・グループによって非難される。 ダニエル・コーン=ベンディットを含む7名ものメンバーは3月22日の運動の件で懲戒委員会に呼び出される。 1968年5月3日 ナンテール校の学部長はキャンバスの閉鎖を決定する。追放された学生およそ500名は、ソルボンヌ校を占拠する。それを追い払おうとする警察、フランス共和国保安機動隊(CRS)、大学当局と対立。100名以上の負傷者、20名の重傷者、数百名の逮捕者をだす。ソルボンヌ校は閉鎖された。学生はパリ市街ラテン地区のストリートへと雪崩れこみ、バリケードを築いた。オデオン座、カルチエ・ラタンを含むパリ中心部で大規模なデモがおこなわれ、警察がカルチェ・ラタンへ踏みこんでこれを弾圧、いわゆる普通の学生もデモに参加し、区別のつかなくなった警察に無関係な一般市民も巻きこまれた。 1968年5月6日 再びカルチエ・ラタンおよびラテン地区で激しい衝突がおき、 600名の学生と345名の警察官が負傷、 422名が逮捕された。フランスの各地で高校生や大学生による<b data-parsoid='{"dsr":[6978,6991,3,3]}'>連帯ストライキ</b>がおきた。7日、全学連(UNEF)が呼びかけた4万人デモがおこり、大学の再開を主張した。警察はカルチエ・ ラタンから撤退し、学生たちの「解放区」になった。9日、労働総同盟(CGT)とフランス民主労働総同盟 (CFDT) とが会合する。 1968年5月10・11日 米国とベトナムの交渉に参加する代表団の安全確保のため、警察の増員部隊がパリに到着した。全国高等教育職員組合 (SNES[16]) が警察による抑圧を非難し、高校生によるさまざまな行動委員会が組織された。フランス放送協会 (ORTF) は、一連の出来事の放送を禁止した。国民教育相と学生の交渉が行われるが,これは決裂に終わる。学生、労働者バリケードを築き、カルチエ・ラタン一帯を占拠し(「バリケードの夜」)、転がされた車が燃えた。警察251名、学生102名など計377人が重傷、418名が逮捕され、およそ60台もの車が燃やされた。警察の強硬な反応に学生と一般市民は団結を強めた。11日、それぞれの組合が共同で13日のデモ、ゼネスト決行を宣言した。フランス各地でのデモや占拠は続く。ポンピドゥー首相は学生達の要求に譲歩を見せた。 1968年5月13日 労働組合(CGT、CFDT、FEN)と左派政党は学生支援のために24時間のストライキを呼びかけた。約80万人もの教師、組合員、政治家がパリの通りに集まる。ジョルジュ・ポンピドゥ首相は、ソルボンヌの再開を発表することで状況を落ち着かせようとした。学生は恒久的な占拠を宣言する。討論と会議は昼夜を問わずに行なわれた。 1968年5月14日 シャルル・ド・ゴール大統領は、ルーマニアに公式訪問。ストライキは多くのルノー工場に波及し、およそ50もの工場が労働者に占拠され、工場の責任者は労働者の手によって拘束され、工場に「赤い旗」が掲げられた。5月17日までに20万人がストライキを決行、この数字は翌日のストライキで200万人にふくれあがり、その後1週間でフランス人労働者のおよそ2/3にあたるおよそ1千万人が参加したと言われる。 1968年5月15・16日 レ・フィガロ紙が「権力はストリートにある」と報道。パリ、オデオン座を学生が占拠。タクシ―運転手たちがストライキを宣言。16日、より広域にデモとストがひろがる。 1968年5月17・18・19日 17日、フランス共産党が左派の共通プログラムを呼びかけ、鉄道(SNCF[17])もストライキ。18日、極右勢力による反共産主義デモが行われ、ストラスブール大学で自治が宣言される。19日、フランス国鉄・パリ市交通公団・郵便通信電話局でストライキ、燃料不足が始まる。 1968年5月20日 ほとんど全てのセクターでゼネストに近い状態になった。全学連(UNEF) と フランス民主労働総同盟(CFDT[18]) が記者会見をひらき、談上の「労働者と学生の闘争は同じである」という語はスローガンとなり、教師達の組合の枠を超えてストライキがひろがるきっかけとなった。フランス放送協会(ORTF)は放送を中止する。 1968年5月21日 銀行や繊維産業等も含めた大規模なゼネスト、フランスの交通システムはすべて麻痺状態に陥った。 1968年5月22日 フランスでは800万人以上の人々がストライキを行なった。 ドイツを旅していたダニエル・コーン=ベンディットはフランスへの再入国を拒否される。 1968年5月24日 パリ市庁舎や証券取引所[19]を学生が襲撃、20万人の農業労働者や各大学もストライキに突入し、カトリック教会でも学生の要求に親和的な意見が高まる。デモはパリ市街をまわり「人民政府」を要求。はじめて2人の死者を出す。テレビ演説でド・ゴール大統領は国民投票を提案して世論を取り戻そうとしたが、演説はほとんど影響を及ぼさず、抗議者は辞表を要求した。ラテン地区での衝突で456人が負傷し、795人が逮捕された。ストラスブール、ボルドー、ナント、リヨンでも衝突が起こり、警察官がトラックで押しつぶされ、死亡している。 1968年5月25日 ド・ゴール主義の国務長官ジャック・シラクが主宰で労働者、国、雇用主組織のあいだでの三者間会議が催される。 1968年5月27日 政府、労働組合、および雇用主連合間の交渉が社会雇用省(Minister of Social Affairs and Employment)にて行われる。交渉の結果、最低賃金が3分の1上昇し、労働組合への公的権利が確立される「グルネル協定(Grenell agreements)」が締結された。 一部強硬派は合意を不服とし、ストライキを続けた。 ダニエル・コーン=ベンディットは秘密裏にフランスに戻る。 1968年5月29日 全国規模でデモがおき、パリに共産主義者80万人が集まり、「人民政府!」を連呼した。ド・ゴールは秘密会議を招集する。 1968年5月30日 ド・ゴール大統領はドイツから帰国し、フランス軍のジャック・マシュ将軍の支援を求めた。 ド・ゴールはラジオ放送を行ない、辞任を拒否するが、国会を解散すると述べた。その夜、何十万人ものド・ゴールの支持者、いわゆる「サイレント・マジョリティ」がパリのシャンゼリゼ通りを行進した。 1968年6月 公共および民間労働者の大部分は仕事に戻ったが、余波としての散発的な暴力は続いた。警察、学生、労働者が別の事件で、3人が死亡した。 6月23日および30日の第1回、第2回の総選挙で、ド・ゴールに近い政党が大勝利を収めた。 1968年7月10日 ド・ゴール大統領はモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルを首相に任命した[20]。 概要 新左翼のアンチ共産党 ソ連と関係が深かった「スターリン主義」的なフランス共産党は、当初は影響下にある労働総同盟(CGT)を通じて労働者のストライキを組織した。だが、当時の共産党幹部ジョルジュ・マルシェは運動のリーダーであるダニエル・コーン=ベンディットら”ソ連を非難する急進的な学生運動”を「アナーキストのドイツ人」と否定、バリケードを構築しての衝突や街頭占拠をすすめる学生や労働者を「トロツキスト」と非難した。党や労働総同盟には学生主導のストライキを組織する力はなく、逆に学生や労働者のほうがより時代にあった根本的な要求をかかげていた。さらに五月革命には党や組合によって、組織されたものではない運動の自由で自発的な性質があり、「反=組合」「反=共産党」の幸福感があった[21]。同じようにスターリン主義に幻滅していた、無神論的実存主義の哲学者ジャン・ポール・サルトルが学生運動家に接近した。 新左翼と左翼の混在 実際に五月革命を主導していたのは、「反スターリニズム」的、「反ソヴィエト連邦」的な新左翼グループだった。デモはトロツキスト、マオイスト(毛沢東主義者)、アナーキスト、学生、労働者、市民、状況主義者(シチュアニスト[22])らと、フランス社会党、共産党など旧来の左翼の混合部隊だった。これらの性質の違う、さまざまなグループが雑多に集まり、運動を高揚させていったところに、この革命の特徴がある。とくに彼らのなかでも若い学生、市民が新しい主張をして、想像力ゆたかなポスターやスローガンをかかげていたことは運動の長所でもあった。 事態鎮静化 政治生命の危機に直面したシャルル・ド・ゴール大統領は、国民議会を解散し、あくる6月に総選挙をすることを約束した。解散にさきだつ5月27日、政府は労働組合との賃上げ交渉に寛大にこたえるかたちで事態の鎮静化をはかった。その結果、学生と労働組合はよりよい条件の「グルネル協定」を締結(すべての賃金の10%上乗せと最低賃金の35%引き上げ[23])、労働環境の改善をする。労働者はかならずしも満足しなかったが、この政府の軟化姿勢によって、段階的にデモは消滅へとむかうこととなった。 授業面でも、大学では「五月革命」の精神をとりいれ、学生の自発的なアイデアを議論させる授業が行われるようになり、革命は教育システムに内在化されるものとなった。 対外的には西ドイツや日本、イタリアなどの先進国の左翼学生たちに影響を与え、それらの先進国における学生運動をより激しいものにさせていった。やがて西ドイツやイタリアなどではフランス同様教育システムに組み込まれるようになる。五月革命は対案のない不満の爆発ではあったが、それまでの強権的な政権を軟化させることによって、大衆の力を権力に強く印象づける事件だった。 政権右派との抗争事件 フランス共和国保安機動隊(CRS[24])は動乱の鎮圧にさいして、「SAC[25]」(Civic Action Service―市民行動サービス)と「Occidental group[26]」(オキシデンタル・グループ)のふたつのグループを組織した。 「SAC」は元レジスタンス剛腕政治家のシャルル・パスクワとアフリカ政策(とりわけ戦争状態にあったアルジェリア)の政府顧問ジャック・フォッカール[27]が設立に関与したド・ゴール大統領への徹底した忠誠が特徴の政府中枢肝いりの民兵組織だった。彼らは動乱の市民にまぎれこみ、さまざまな工作をおこない、運動で負傷した学生を兵舎本部の地下へと拘束した。その結果、彼らの行動はその忠誠が保守市民に認められ、5月30日におこなわれたド・ゴール支持のカウンターデモを人でいっぱいにした。自由をもとめる学生や市民の攻勢にもかかわらず、ド・ゴールはおおくの保守市民から手堅い支持を集めた。 「オキシデンタル・グループ(Occidental group)」は1964年に設立され、主に極右の学生で構成されていた。1968年時点で1500人の構成員がおり、将来保守政治家となるジェラルド・ロンゲ[28]らが参加していた。構成員は生理的に共産主義を「毛嫌い」し、スローガンに「共産主義者とであったら、どこででも殺せ!」を掲げた白人至上主義であり、反ユダヤ主義であり、ベトナム戦争賛成派だった。その襲撃によって運動に参加した学生たちを蹴散らしたが、運動自体を弱める効果はなかった。結局最終的にマオイストやアナーキストとのあいだで抗争事件が勃発し、街頭での過激な暴力闘争となった。1968年10月31日ド・ゴール政権の手によって、解散させられた。 知識人たちの68年 ジャン・ポール・サルトル=戦後フランスを代表する哲学者。左翼だが、ソヴィエト政権に批判的だったサルトルは五月革命を熱烈に支持した。革命運動のリーダー、ベンディットとインタヴューもしている。サルトルはキューバにも訪れ、カストロやチェ・ゲバラを知っており、学生の革命に肯定的だった。 アンドレ・マルロー=保守派で反ファシズムの文学者。1968年当時文化大臣だったマルローは同時にレジスタンス時代に知り合ったド・ゴール大統領の熱心な支持者でもあった。マルローの忠誠心は5月30日の「ドゴール支持」のデモへとつづく。終生をつうじてその熱い忠誠の思いはかわることはなかった。 ジャン・リュック・ゴダール=ヌーベルバーグ(新しい波)の映画監督。すこしづつ政治的なモチーフに関心を示すようになったゴダールは、五月革命に先だつ1967年に「中国女」というマオイズム的な映画をつくった。この映画はナンテール校の生徒たちに強い影響を与えた。実際五月革命はゴダールのイメージで充満していた。ちょうど五月に開催予定だったカンヌ国際映画祭に対し、トリュフォーやポランスキーらと祭の中止を要求したが認められず、彼らの作品の上映はなくなった(カンヌ映画祭粉砕事件)。 ルイ・アルチュセール=マルクス主義の哲学者。アンチ=スターリニスト。思想面でおおきな影響を五月革命にあたえたとされる。アルチュセールの生徒たちは青年共産主義マルクスレーニン連盟(UJC(ml))を結成。革命中、大学やストリートで活発に活動する。 サムネイル|ギ―・ドゥボールの著書「スペクタクルの社会」。この本は消費される商品と人間との関係性を分析し、五月革命に強い影響を与えた。ギ―・ドゥボール=左派系の詩人、映像作家、著述家。ドゥボールもまた五月革命に強い影響を与えた一人だった。彼はその著書「スペクタクルの社会」(1967)のなかで、新しい市民社会はスペクタクル(光景、ショー)化する商品を通じて<b data-parsoid='{"dsr":[15717,15727,3,3]}'>人間疎外</b>をうむことを指摘した。商品の語る真実っぽさ(スペクタクル)に囲まれ、個人そのものは商品のなかに解消されてしまう。このようなスペクタクルとリアルの境界を線引きすることが難しい状況が消費社会なのであり、それは新しい「状況」をつくることによって批判されなくてはならない(「状況主義」)。ドゥボールの提示したテーゼは68年を経て、いま現在のコンピューター情報社会を鋭く言いあらわしている。 抗議する学生たちの投石 膨大な逮捕者をだしたデモにおいて、学生の主要な武器のひとつは投石だった。学生や大衆は石畳の舗装された石をほじくり返しては、それを投げるという原始的な方法をとった。これに対して警察はヘルメットと盾で装備をかため、催涙弾と警棒、放水による攻撃をくわえた。「武装した政府」とより「原始的な学生」という非対称性はベトナムにおける「圧倒的軍事力のアメリカ」と「アナログ兵器で立ち向かうベトナム」になぞらえられる。 ベトナムに鼓舞された「DIY精神」という意味で、この投石は当時のパリの雰囲気を伝えていた。 毛沢東主義への憧れ 当時のフランスでは赤い中国のGrand Timonier[29]こと毛沢東の著書「Le petit livre rouge de mao」 (「毛沢東語録」)[30]が流行していた。それはパリのENS(高等師範学校)[31]の学生たちを通じてひろまり、左派知識人たちを活気づけ、学生や労働者を団結させる思想だった。学生はアメリカの覇権主義に反対するモデルとして毛沢東思想の書籍を読んだ。したがって中国への憧れも「五月革命」には投影されている。ただその憧れは思想的に深められることがなく、ロマンチシズムの色彩が濃かった。さらに当然なことながら、学生には政府を転覆させる力はなかった。つまり本物の武力による革命ではなくて、学生時代のモラトリアムな革命[32]だった。 「造反有理」をかかげた日本の60年代の安保闘争同様、現実の議会構成には大きな影響をおよぼすことがなかったが、フランスが中国も憧れの対象としたことは、世界状況の変化を反映した当時の市民の意識の変化でもあった。 フランス人たちの思考 また五月革命はうなりを上げるスピードと効率の社会システムを、ひとりひとりが「止めて」みる(ゼネスト)というところに意義があった。 つまり、この社会システムそのものを個人それぞれが吟味し、それが自分にとってどのように関わり、どのように意味をもつのか、国家機構という集団性と自分自身という個人性との関係の基本をあらためて問い直してみた運動でもあった。68年当時、パリ、エコール・ド・ボザールの准教授だったブルーノ・ケサンヌは高揚をまじえながら、五月革命について以下のように述べている[33]。 「革命に参加したそれぞれの人は、ずっとその人自身と積極的に関わっていたんだ。 それは不公平に妨害工作をしてやろうとしたのでなく、どうやったらフランスが走ることを止めることができるのかということだった。 全世界は、彼らがいったん立ち止まって、その存在条件を社会に反映すべきなんだということに同意していたのさ」 フランス人たちはこのとき、いちど、立ち止まって考えてみたと言える。 評価 フランス革命同様に政治的なモチーフからはじまった革命ではなく、大衆の不満から自然発火的にはじまった運動だったとされる。 したがって、政治的側面のみならず、「旧世代に反対する新世代の台頭」あるいは「フリーセックス」「フリーラブ(自由恋愛)」(学生同士で性交渉する権利)に代表されるような古い価値観を打破するという意識を持って参加する学生もおおかった。この運動により労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大された。「フランス及びドイツでは短期的には成就しなかった<b data-parsoid='{"dsr":[18452,18460,3,3]}'>革命</b>は五月危機などの主体となっていた学生たちが起こした社会運動によって成し遂げられていった」とされる[34]。 短期的には、68年に行われた総選挙においてド・ゴール大統領派が56議席増やした300議席を確保し圧勝した他、アメリカでは「保守・右派」のリチャード・ニクソンも大統領選で大勝し、日本でも佐藤栄作の自由民主党が安定多数を堅持した。保守政権の基盤は維持されたものの、ケインズ派や左派の異議申し立てに融和的とならざるをえなくなった。ニクソンは74年にウォーターゲイト事件で失脚した。 中長期的には、女性解放、黒人やアジア人への偏見の見直し、セックスやマリファナの再評価、反帝国主義、ベトナム終戦、マイノリティ運動、LGBT運動、エコロジー運動など現代につながるより幅広い認識をせまる大衆運動のさきがけとなった。この精神はフランスのみならず、アメリカやヨーロッパ、メキシコなどを包括して「68年精神(The spirit of 68)」と呼ばれ、それ以後の大衆文化におおきな影響を与えるとことなった。 五月革命、それから― 70年代パンク・ムーブメント 五月革命からしばらくのちの1970年代中盤にはいると、アメリカやイギリスのユースカルチャーの世界に「パンク」が登場する。パンクはアナーキズム、左翼、ダダ、ニヒリズムなどの傾向があり、権力に対する挑戦、不満、退屈によるストレスの爆発、DIY精神など、その精神そのものは五月革命と通底するところがある。もっともパンクは音楽であり、国家機能を停止させ、政府と直接的な政治交渉をするほどの集合的な力は生みださず、ある局所的なムーブメントであった。つまりファッションとしてのヴィジュアル面の影響が強く、真似しやすく、記号としての流通が簡単にできた。そのため政治思想としての反映ではなく、パンク・ファッション的が、おおくのデザイナーにインスピレーションを与えることとなった。マルコム・マクラレーンと組んでブティック「SEX」のデザイナーをし、セックス・ピストルズの衣装を手がけた英国のヴィヴィアン・ウエストウッドは億万長者になった後も、保守党のキャメロンに激しい抗議行動をおこなったり、緑の党を支持したりした。 レゲエやヒップホップの流行も起きた。米ソ冷戦構造下で発生したパンク革命は、資本主義社会体制下で実現が難しい、永遠の憧れとしての革命、実現しないユートピアへの憧れの側面が強かった。 パンクはアナーキストになりたい―(I wannna be anarchist[35](Anarchy in the UK-The Sex Pistols))若者だったが、五月革命の学生や知識人も社会主義に憧れをいだき、叶わぬユートピア実現のために戦ったのである。 セックス革命とアンチセックス 68年当時、欧米においても性そのものは現在より抑圧されており、性表現や性関係は比較的につつましやかなものだった。 聖書の価値観、キリスト教の教義では、婚前性交渉、婚外性交渉(不倫)、同性愛は罪であるからだ。 ヒッピーのフリーラブスピリットや五月革命などの対抗文化を受けて性はより広範にわたって「表現されるもの」となり、映画、小説、文学、舞踏、アニメ、ゲームなどのカルチャーを通じて一般にひろまり、身体意識の高まりを生むこととなった。また避妊具の発展、ファッションの簡易化、下着化、性映像の情報化、パーソナルメディアの発達とともに異性間での性交渉も日常に解放され、現在に至っている。一方で60年代の左翼的ウーマンリブとは正反対の、新しい規制を好きな保守的フェミニストは性が搾取されるものと主張した。これは右派政治家と一致していた。また一方、対象となる女性の人権を無視した「セクハラ」はMe too運動のような新しいカウンター運動を生んだ。 文化大革命の実態報道 当時フランスで盛り上がった「毛沢東への憧れ」はやがて文化大革命の実情が明らかになるにつれて、「毛沢東への幻滅」へとかわった。文化大革命とは下からの「革命」ではなく、毛沢東共産党支配を恒久化するための、上からの「中華的ブルジョワ文化の殲滅」であり、毛の夢見た農本主義の完成を目指すものだった。それは五月革命が志向した精神とはかけ離れたところにあった。その意味でフランスのマオイストたちはそれほど誠実に毛沢東と向きあってはいなかったと言える。フランス人によくあるように、漠然としたユートピアを東洋に夢見ていた。もっとも、実際にそれに罪があるというわけではないが、あまりにも無邪気かつ無知でもあり、反=スターリニズムの機運のなかで学生や思想家の呈のいい希望の星となった感は否めない。 けっきょく、毛沢東中国への幻想は消えた。しかし資本主義や消費主義に対するその批判的スタンスとしてフランスから共産主義がなくなったというわけではなく、また資本主義が1929年の世界大恐慌と同様に格差をむき出しにするとき、新たな平等主義の理想郷として新しいかたちでよみがえるだろう。資本主義そのものはシステム的に未完のものであり、格差社会を拡大する危険な制度だった。 サブカルチャーの流行 サブカルチャーはマンガ、アニメだけでなく、ヘヴィメタルなどのロックや麻薬、フリーセックスもふくまれた。キリスト教の影響が強い欧米社会において、セックス革命というのは「社会の世俗化(vulgar)」を意味する。キリスト教(とくにカトリック)や、キリスト教原理主義者はその教義のなかで「中絶」、「同性愛」を厳しく戒めてきた。なお中絶禁止は聖書には書かれていない。いまだ性をマイナス・イメージでとらえる信者も多い。したがって、このような社会の「世俗化」は、保守派の眉を顰めさせるような出来ごとであり、従来の価値を愛する保守の市民の根強い反発もある。くわえてサブカルチャーと結びついた麻薬やセックスの自由は、「中毒」や「依存症」になる危険もある。革命以後、アメリカのみならず、ヨーロッパも革新と保守の乖離の問題を抱えることとなった。 パリ五月革命と黄色いベスト運動 フランスはデモが多い国である。パリ五月革命は成功したストライキであり、フランス大衆のあいだでストライキが多く発生するようになった。五月革命という成功体験で市民はその再現を望むようになった。フランス社会は個人の自由や尊厳が尊重される社会となった。パリ五月革命の精神は、ネオ・リベラリストのマクロンに反対する「黄色いベスト運動」に、引き継がれている。 参考図書 ミシェル・ヴィノック『フランス政治危機の100年-パリ・コミューンから1968年5月まで』大嶋厚訳、吉田書店、2018年(第8章「一九六八年五月」参照) 五月革命に関連した映画 『中国女』(1967年)-ジャン=リュック・ゴダール 『あたりまえの映画』(1968年) - ジガ・ヴェルトフ集団 『万事快調』(1968年) - ジガ・ヴェルトフ集団(ジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・ゴランの合作) 『たのしい知識』(ジャン=リュック・ゴダール/1968) 『五月のミル』(1989年) - 五月危機に大きな影響を与えたカンヌ国際映画祭粉砕事件の当事者の一人、ルイ・マル監督作品。パリの混乱の影響で物価が高騰し、社会が完全に麻痺したために、母親の葬儀と埋葬を一切全部自分でやる羽目になった中年男の話。 『ドリーマーズ』(2003年) - ベルナルド・ベルトルッチ監督 『恋人たちの失われた革命』(2005年) - フィリップ・ガレル監督 「コクリコ坂から」(2011年) - アニメ・スタジオジブリ作品、直接は描かれないが「カルチェラタン」が登場し、その保存が論議される。五月革命はライトモチーフとなっていることがうかがえる。 脚注 関連項目 カルチエ・ラタン ジャン=リュック・ゴダール - ジガ・ヴェルトフ集団 カンヌ国際映画祭粉砕事件 新哲学者 ダニエル・コーン=ベンディット - 緑の党 オリヴィエ・ジェルマントマ
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カルステン・ボルクグレヴィンクは何年に生まれましたか?
サザンクロス遠征
japanese
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サザンクロス遠征(サザンクロスえんせい、、正式には<b data-parsoid='{"dsr":[231,256,3,3]}'>イギリス南極遠征1898年-1900年)は、南極探検の英雄時代ではイギリスが初めて行った遠征であり、後のロバート・スコットやアーネスト・シャクルトンが行った成果の華々しかった探検行の先駆けになったものである。ノルウェー生まれで半分イギリスの血を引き、探検家かつ学校長のカルステン・ボルクグレヴィンクが発案した探検であり、南極大陸で初めて越冬し、1839年から1843年のジェイムズ・クラーク・ロス以来となるグレート・アイス・バリアを訪れ、バリア表面に初めて上がった。南極行では初めて犬と橇を使った。 この遠征はイギリスの雑誌出版者ジョージ・ニューネス卿が個人的に資金を出したものだった。1898年8月にSSサザンクロス号</i>で南に向かい、ボルクグレヴィンクの隊は、ロス海海岸線の北西端であるケープアデアで1899年の冬を過ごした。ここで科学観測の広範なプログラムをこなしたが、基地を取り囲む山や氷のある地形のために内陸の探検は厳しく制限されたままだった。1900年1月、隊はSSサザンクロス号</i>でケープアデアを離れてロス海を探検した。それは60年前にロスがたどった経路だった。隊はグレート・アイス・バリアに達し、3人の小部隊がバリア表面を初めて橇で旅し、その間に新しい最南端記録南緯78度50分に達した。 この遠征隊がイングランドに戻った時、ロンドンの地理関係者から冷ややかに受け止められた。王立地理学会は独自の国営南極探検で心に描いていた役割の優先権について憤慨していた。ボルクグレヴィンクの指導者としての特性にも疑問があり、遠征隊が持ち帰った限られた量の科学情報にも批判があった。南極で越冬し、移動することには前例のない成果があったものの、ボルクグレヴィンクはスコットやシャクルトンのような英雄扱いを受けず、その遠征隊は英雄時代の探検家を取り巻くドラマの中で、直ぐに忘れられていった。しかし、1911年の南極点征服者ロアール・アムンセンは、ボルクグレヴィンクが南極行に対する大きな障害を取り除いてくれ、その後に続いた全ての遠征に道を開いたことを認めた。 背景 カルステン・ボルクグレヴィンクはノルウェー人の父とイギリス人の母の間に1864年にオスロで生まれ、1888年にオーストラリアに移民し、内陸の測量チームで仕事をしていたが、その後ニューサウスウェールズ州で地方の学校教師の指名を受けていた[1]。1894年、捕鯨船<i data-parsoid='{"dsr":[1794,1807,2,2]}'>アンタークティック</i>でヘンリク・ブルが率いる商業遠征に加わり、南極海を通って、ロス海の西入り口であるケープアデアに到達した。ブルとボルクグレヴィンクを含む探検隊が短期間上陸し、南極大陸に足を踏み入れた最初の者となった。ただし、アザラシ狩猟者のジョン・デイビスが1821年に南極半島に上陸したと考えられている[2][3]。ブル達はロス海のポゼッション島も訪れ、ブリキ缶にその旅の証拠となるメッセージを残した[4]。ボルクグレヴィンクはケープアデアの場所について、その大きなペンギンの繁殖地が新鮮な食料と脂肪の供給源であり、将来の遠征で越冬し、さらに南極の内陸を探検する基地として機能することを確信した[5][6]。 ボルクグレヴィンクはケープアデアから戻ってから遠征隊を自分で率いたいと決心し、その後の3年間の多くを使ってオーストラリアとイギリスで財政的な援助を得ようとしていた。王立地理学会から幾らかの激励を貰ったものの、1895年にボルクグレヴィンクが出席した国際会議はうまく行かなかった[7]。王立地理学会は実際に独自の大規模なイギリス国営南極遠征を実施する計画を温めており[8]、資金源を探していた。ボルクグレヴィンクは王立地理学会の会長クレメンツ・マーカム卿から、外国からの侵入者であり、資金の競合者であると見なされた[6]。しかし、ボルクグレヴィンクは遂にその遠征の全費用4万ポンド(4,376,700ポンド、2014年換算)[9][10][11]を出してくれる出版者ジョージ・ニューネス卿を説得できた。ニューネスの事業はマーカムの遠征の後ろ盾となったアルフレッド・ハームズワースと競合していた。このことがマーカムと王立地理学会を激高させた。ニューネスの寄付は「国営遠征の端緒をつける」には十分な額だったからだった[12]。 ニューネスは1つ条件をつけた。ボルクグレヴィンクの遠征はイギリス国旗を掲げて行かねばならないとしたことであり、国営南極遠征のスタイルに合わせた。ボルクグレヴィンクは直ぐにこの条件に合意したが、遠征隊全員のうち2人しかイギリス人ではなかった[13]。このことでマーカムの敵対意識と侮蔑を増すことになった[14]。王立地理学会の司書ヒュー・ロバート・ミルがサザンクロス遠征の出発に出席していたので、マーカムはミルを非難した[13]。 そのとき、ミルは感動的な言葉で遠征を祝福し、誰もまだ到達したことのなかった地球の一部があるというのは、「人類の事業にとって恥である」と言った。「ジョージ・ニューネス卿の気前の良さとボルクグレヴィンク氏の勇気」を通じてこの恥が無くなることを期待した[15]。 組織 遠征の目的 ボルクグレヴィンクの遠征目的は、商業、科学、地理学の目標を合わせたものだった。1894年から1895年の航海で観察したグアノ堆積物を商業化する会社を結成しようと考えたが、これは成功しなかった[5]。南磁極の場所を突き止める可能性など、滞在型遠征で実行できる広範な作業について、多くの科学界に強調していた[7]。ボルクグレヴィンクが指名した科学者チームには経験の足りない者もいたが、磁気学、気象学、生物学、動物学、剥製学、地図学など幅広い学問が入っていた[16]。ボルクグレヴィンクは遠征隊の科学的業績が、地理的な発見や旅の素晴らしさ、南極点への接近にも引き合うものであることも期待した[5]。南極大陸に地理について知識は無く、ケープアデアの基地の場所が南極内陸部の重大な探検に重要なものになることに気づいていなかった[17][18]。 船 ボルクグレヴィンクは遠征用船のために、著名なノルウェーの造船者であるコリン・アーチャーの造船所で建造された蒸気駆動捕鯨船<i data-parsoid='{"dsr":[6502,6510,2,2]}'>ポルクス</i>を購入した[19]。アーチャーはフリチョフ・ナンセンの船フラム号を設計し建造していた。フラム号は1896年にナンセンの「最北点」遠征で北極海を長く漂流した後、無傷で帰還していた[20]。ポルクス</i>はボルクグレヴィンクが直ぐに<i data-parsoid='{"dsr":[7011,7021,2,2]}'>サザンクロス</i>と改名した[17]、総トン数520トン、全長146フィート (45 m)のバークだった[19]。機関はボルクグレヴィンクの仕様に合わせて設計され、ノルウェーを離れる前に艤装された[19]。マーカムはその耐海洋性(おそらくボルクグレヴィンクの出発を妨げた)に疑問を投げかけたが[21]、この船は南極海に要求される全てを満たしていた。歴史の中で極地を目指した船の幾らかと同様、遠征後のその寿命は短かった[22]。ニューファンドランドのアザラシ漁会社に売却され、1914年4月、ニューファンドランド沖で嵐に遭い、乗組員共々失われた[23]。 人員 ケープアデアで越冬した10人の越冬隊は、ボルクグレヴィンク、5人の科学者、全体の助手も務めるコック1人、犬の御者2人だった。この隊の中で、5人はノルウェー人であり、2人がイギリス人、1人がオーストラリア人であり、犬御者の2人はノルウェー北部のサーミ人の出身者であり、隊の中ではラップ族と言われたり「フィン族」と言われたりした[2][16]。科学者の中にはタスマニアのルイ・ベルナッチがおり、メルボルン天文台で磁気学と気象学を学んでいた。1897年から1899年のベルギー南極遠征隊に指名されたが、その地位に就くことができなかった。この遠征隊の用船<i data-parsoid='{"dsr":[8257,8265,2,2]}'>ベルギカ</i>が南に進む途中でメルボルンに立ち寄れず、ベルナッチを置き去りにしていた[24]。ベルナッチはその後ロンドンに旅して、ボルクグレヴィンクの科学スタッフの地位を確保した[24]。ベルナッチのサザンクロス遠征に関する年代記が1901年に出版され[25]、ボルクグレヴィンクの指導力について批判的だったが、遠征隊の科学的業績については弁護していた[14]。1901年、ベルナッチはスコットのディスカバリー遠征隊の物理学者として南極に戻った[26]。スコットのディスカバリー遠征隊にも参加したもう一人の隊員はイギリス人のウィリアム・コルベックであり(ディスカバリー</i>救出のための<i 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ケープアデアは南極探検家ジェイムズ・クラーク・ロスが1839年から1843年の遠征で発見していた。長い岬の外れにあり、岬より下は大きな三角形の砂利浜である、ここにブルとボルクグレヴィンクが短期間だが1895年に上陸した。この浜は大陸の中でアデリーペンギン最大の繁殖地であり、家、テントなどを建てる空間が豊富にあった[5]。ペンギンが多いことで、冬の食料や燃料源にもなった[30]。 2月17日に荷卸が始まった。最初に揚げられたのは75頭の犬であり[31]、そのサーミ人御者の2人も犬と一緒だったので、南極大陸で最初の夜を過ごした人となった[32]。その後の12日間で、装置や物資が揚陸されプレハブ小屋が2軒建てられ、1つは住居棟に、1つは保管庫用に使われた[33]。この2軒が南極大陸に最初に建てられた構造物になった。三番目の建物は予備の資材を使って作られ、磁気観測小屋として使われた[30]。「生活小屋」は小さすぎて10人の人が暮らすには不便だった。いい加減なベルナッチが後に「15ft(4.5 m) 平方、岩の多い岸にケーブルで結わえ付けられた」と表現していた[34]。犬達は荷造り用箱から作られた犬小屋に入れられていた[33]。3月2日までに基地はボルクグレヴィンクのイギリス出身である母の旧姓から「キャンプ・リドリー」と命名され[12]、完成し、ヨーク公の旗が掲揚された。 その日、サザンクロス</i>はオーストラリアで冬を過ごすために、そこへ向かった[32]。 生活小屋の中には2つの控室があり、1つは写真の暗室として、もう1つは剥製室に使われた。主居住区には二重ガラスとシャッターのある窓を通じて、また屋根高くつけられた1つの小さな四角いガラスを通して太陽光を取り入れた[33]。壁に沿って寝台が設けられ、テーブルとストーブが小屋の中央を占めた。冬になる前の数週間、隊員は近くのロバートソン湾の海氷の上で橇旅行を試しており、その間に海岸線を測量し、鳥や魚の標本を集めた。また食料と燃料のためにアザラシやペンギンを殺した。厳しい冬が始まる5月の半ばには、戸外活動がほとんどできなくなった[12]。 南極の冬 冬が始まると、隊員は生活居住区の中に完全に閉じ込められた。これは難しい時間であることが分かった。ベルナッチは退屈さといら立ちが増していった様子を「士官と隊員、全員で10人は機嫌が悪くなっているのが分かった」と記した[34]。この緊張と拘束の期間に、指揮官としてのボルクグレヴィンクの力が足りていないことがわかった。ベルナッチに拠れば、「多くの観点で...良い指導者ではない」と記していた[14]。極地の歴史家ラナルフ・フィーネスは、「民主的無政府」という状態の中で、汚れ、無秩序、不活発性というのが当時の秩序だったと記している[35]。 ボルクグレヴィンクは訓練を積んだ科学者ではなく、器具に精通していないこと、観測を1つもできなかったことが、隊員数人にとっての大きな関心だったとされていた[36]。しかし、科学観測の計画は続けられ、気象の許されるときは戸外での行動が行われ、さらなる気晴らしとして、サビオが小屋の周りにある雪の吹き溜まりの中で即席のサウナ風呂を作った。コンサートが計画され、ランタンを使った幻燈、歌、朗読があった[37]。この期間に2つの重要な事件が起きた。最初のものは、寝床の中で消されずにいた蝋燭から火事になり、大きな被害を出したことだった。2つ目の事件は隊員の3人が眠っている間に吸った石炭ガスで窒息死しそうになったことだった[4]。 この隊は様々な基本的食料が十分足りていた。バター、紅茶、コーヒー、ニシン、イワシ、チーズ、スープ、缶詰のハチノス、プラム・プディング、乾燥ポテトや野菜があった[37]。しかし、贅沢品が無いことで直ぐに不平が出るようになり、コルベックは「上陸部隊に支給された缶詰果物は途中で食べてしまうか、船の乗組員に残されるかした」と述べていた[37]。タバコも不足していた。500kgを用意するつもりだったが、特定量の噛みタバコのみが揚陸された[37]。 動物学者のニコライ・ハンソンがこの冬の間に病気になった。1899年10月14日、明らかに腸の障害でハンソンが死に、南極大陸に埋葬された最初の者になった。その墓は岬の頂部で凍った土をダイナマイトで爆破して作った[38]。ベルナッチは、「あたりに沈黙と平和が充満している。海鳥が飛んでいる以外永遠の眠りを妨げるものは無い」と記した[4]。ハンソンは妻がおり、また南極に向かった後に生まれた娘が残された[2]。 冬から春になると、犬と橇を使ってさらに大掛かりな内陸旅行の準備を始めた。しかし、そのベースキャンプは大陸の内部との間に高い山脈が隔てており、海岸線に沿った行程は、危険な海氷で阻まれていた。これらの要因のためにその探検の範囲が著しく限られており、ロバートソン湾の近傍に限られていた[31]。このとき、小さな島が発見された。ペネル海岸にあるこの島は、遠征隊の庇護者に因んでヨーク公島と名付けられた[28]。その数年後のディスカバリー遠征では、この命名が無視され、その島は「存在しない」ことになったが[39]、その後、位置が南緯71度38分、東経170度4分にあることが確認された[40]。 ロス海探検 サザンクロス</i>が1900年1月18日にオーストラリアからケープアデアに戻った[36]。ボルクグレヴィンクはキャンプの解体を始め、残っている物資を船に積んだが、間もなくそれを止めた。2月2日、船をロス海の南に進ませた[36]。そのときにケープアデアから急ぎ慌てて出発したことは、2年後にディスカバリー遠征の隊員が訪れたときに確かめられた。その後エドワード・ウィルソンが「周り一帯のゴミの山、物資箱の山、死んだ鳥、アザラシ、犬、橇の装置、..他の物は天のみぞ知る」と記していた[41]。 ロス海で最初に訪れた港はポゼッション島のものであり、1895年にボルクグレヴィンクとブルが缶詰の箱を残していたのが発見された[4]。その後さらに南へ進み、ヴィクトリアランドの海岸を辿って、別の諸島を発見し、その1つにボルクグレヴィンクがサー・クレメンツ・マーカムと名付けたが、マーカムのこの遠征隊に対する敵意は、明らかにこの栄誉をもってしても変わらなかった[28][42]。サザンクロス</i>はさらにロス島に進み、火山のエレバス山を観察し、テラー山の麓にあるケープクロージャーに上陸しようとした。ここで氷の分離、すなわちグレート・アイス・バリアからの氷山の離脱によってできた大きな波に、ボルクグレヴィンクとジェンセン船長が危うく飲まれるところだった[4]。60年前の1843年に、ジェイムズ・クラーク・ロスがバリアの縁に沿って東に進んで入り江を見つけようとしたときに、ロスはその最南端に達していた[43]。ロスの時からバリアの縁は30法廷マイル (50km) 南に移動したことが分かり、サザンクロス</i>はロスの最南端を更新したことになった[4]。しかし、ボルクグレヴィンクはバリアそのものに上陸したいと思った。ロスの入り江近くに氷が傾斜しているところを見つけ、上陸が可能だと判断した[44]。2月16日、ボルクグレヴィンク、コルベックとサビオが犬と橇を伴って上陸し、バリアの表面に登り、さらに南数マイル、彼らの計算では南緯78度50分まで移動して、新たな最南端記録が作られた[30]。彼らはバリア表面を旅した最初の者達となり、のちにアムンセンが「我々はバリアに登ることで、ボルクグレヴィンクが南に進む経路を開き、その後の遠征隊にとっての大きな障害を除いたことを認めねばならない」と称賛していた[44]。10年後の同じ地点近くに、アムンセンは南極点到達に至る旅の前に、「フラムハイム」と呼ぶベースキャンプを設けることになった[45]。 サザンクロス</i>は北に戻る途中で、ヴィクトリアランド海岸沖のフランクリン島で止まり、一連の磁力計算を行った。それによって南磁極は予想通りヴィクトリアランド内にあることが分かったが、以前に想定されていたよりも、さらに北、かつさらに西にあった[4]。遠征隊は帰国への旅に入り、2月28日には南極圏を通過した。4月1日、ニュージーランドのブルーフから電報で無事帰還の報せがイギリスに送られた[31]。 遠征の後 サザンクロス</i>は1900年6月にイングランドに戻って来たが[46]、その出迎えは冷ややかだった。地理学会では、ボルクグレヴィンクがニューネスの後ろ盾を得たことに対する不満がまだ残っていたが、大衆の関心はいずれにしても、翌年の出港に向けて準備が進むディスカバリー遠征に集まっていた[4]。一方、ボルクグレヴィンクは「南極地域は新たなクロンダイクになる可能性がある。漁業、アザラシ漁、鉱物採掘の見込みにおいて」と言って、その航海を大きな成功だったと報告した[47]。南極で人間が越冬できることを示し、一連の地理的な発見もあった。その中にはロバートソン湾とロス海の新しい諸島、フランクリン島、クールマン島、ロス島、グレート・アイス・バリアの最初の上陸点があった[28]。ヴィクトリアランド海岸の測量では「重要な地理的発見、サザンクロス・フィヨルドやメルボルン山麓の優れたキャンプサイト」があることが分かった[28]。この探検の最も価値ある業績はグレート・アイス・バリアの計測を行ったことであり、「これまで人類が達した最南端」まで進んだことであると主張していた[28]。 ボルクグレヴィンクによるこの遠征の報告書『南極大陸の最初』は、翌年出版された。その英語版の多くはニューネスのスタッフが脚色した可能性があり、「ジャーナリスト」的であることと、自慢話的な調子を批判された[1][42]。解説者が認めた著者は、「そのつつましさあるいはその機転もわからない」ものであり[21]、イングランドとスコットランドで講演旅行を行ったが、その受け取られ方は概して低調だった[4]。 ヒュー・ロバート・ミルは、この遠征の科学的成果は期待したほど大きなものではなく、ハンソンのノートの多くが不思議にも消失し、「科学的業績の威勢の良い作品として興味ある」と述べていた[47]。ヴィクトリアランドの気象と磁気の状態が一年間にわたって記録された。南磁極の位置には到達しなかったが計算された。南極大陸の動物相や植物相のサンプルと、地質的なサンプルが集められた。ボルクグレヴィンクは新しい昆虫と浅い水域の動物種の発見も主張しており、「二極性」(北極と南極双方の近くに住む種の存在)を証明した[28]。 イギリスや海外での地理学会はこの遠征に対する公式の認知を緩りと与えていった。王立地理学会はボルクグレヴィンクに特別研究員資格を与え、その後はノルウェー、デンマーク、アメリカ合衆国からの勲章や表彰が続いたが[1]、遠征隊の業績が広く認められることは無かった。マーカムはボルクグレヴィンクに対する攻撃を続け、狡猾で無節操だと言った[48]。アムンセンの暖かい賛辞が唯一の肯定的な発言だった。スコットの伝記作者デイビッド・クレインは、ボルクグレヴィンクがイギリス海軍の士官であったら、その遠征はイギリスで異なる待遇を受けたことであろうが、「ノルウェーの水夫で校長というのは、真面目に捉えられることはない運命だった」と推量した[14]。マーカムの死からかなり経った1930年、王立地理学会がボルクグレヴィンクにパトロンのメダルを贈った。「サザンクロス</i>遠征のパイオニア的行動の当時には、正義は行われなかった。それが打ち勝った困難さの程度は、当時過小評価されたままだった」ことを認めた[4]。ボルクグレヴィンクはこの遠征後、比較的静かに暮らしており、公衆の目に触れることはほとんど無かった。1934年4月21日にオスロで死んだ。 脚注 参考文献 CS1 maint: extra text: authors list (link) 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E9%81%A0%E5%BE%81
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米英戦争の勝者はどっち
米英戦争の結果
japanese
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米英戦争の結果(英:Results of the War of 1812)は、1812年から1815年にかけて、アメリカ合衆国とイギリスとの間で戦われた米英戦争の結果について概要を記す。この戦争の結果は、1814年12月のガン条約によって、領地の変化も主要な政策的な変化も起こさないことになった。しかし、戦争の原因の幾つかは消滅した。1つはインディアン諸族の力が弱まり、アメリカのインディアンに対する恐怖が小さくなる一方で、イギリスが考えていたインディアンの国を造ってアメリカとの緩衝地帯にするという案は潰えた。1814年のナポレオン敗北以降、英仏関係がよくなり中立国との貿易に制限が無くなった。イギリスは、アメリカの水夫を強制徴募することも止めた。アメリカ人はニューオーリンズでイギリスの侵略を食い止めたこともあり、「第二の独立戦争」での勝利を宣言し、イギリスは二度とアメリカを支配できないと考えられた。[1]また、ニューイングランド諸州が合衆国から脱退する怖れも無くなった。 イギリスでは、この戦争の重要さがナポレオン戦争の影に隠れており、ガン条約の直後の1815年3月にパリに戻ったナポレオンも6月にはワーテルローで力尽きた。 カナダでは、戦争遂行の中から国としての連帯感と誇りが生まれた。アッパー・カナダとローワー・カナダを侵略しようとしたアメリカ軍を撃退したので、カナダ人はその民兵の勝利だと主張した。 停戦のための努力 停戦のための努力は、開戦した1812年に既に始まっていた。ロンドンのアメリカ外交官は強制徴募の停止と引き換えに休戦を提案した。しかしイギリスが拒んだ。1812年遅く、イギリス軍がデトロイト砦を奪取し、アメリカの貿易を著しく阻害していたイギリスの枢密院令の撤廃の報せがワシントンに届いた時、イギリスの北アメリカ植民地総督ジョージ・プレボストは、アメリカ陸軍総司令官のヘンリー・ディアボーンと休戦の交渉を始めた。しかし、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディソンは戦争継続を選んだ。1813年には、ロシアが和平の仲介を申し出たが、これはイギリスがヨーロッパで妥協することになる可能性があったので、イギリスが拒んだ。[2]最後にイギリスとアメリカが休戦交渉を始めたのは1814年1月であったが、その交渉開始は遅れた。 交渉 1814年8月になってやっと、中立国の都市であるベルギーのガンで和平交渉が開始された。双方ともが非現実的な要求の言い合いから交渉を始めた。アメリカはイギリスの海事慣習の全てを止めさせることを望んだが、これはとても受け入れられないことだった。またカナダ植民地の割譲とニューファンドランド島沖での漁業権の保証を要求した。イギリスはアメリカ北西部領土にインディアンの国を造り緩衝地帯とすることを求めた。また、占領していたアメリカのメイン州(この時はまだ州に昇格していない)の一部を併合して、大西洋側のイギリス植民地からケベックへの陸の回廊を設けようとしていた。 何ヶ月もの交渉が続き、この間の軍事的な勝敗や行き詰まりという変化しつつある背景を考慮し、両者は共に平和を望んでおり、戦争を続ける本当の理由が無いことに気付いた。どちらも戦争に倦んでいた。密貿易を除いて貿易はほとんど麻痺しており、ナポレオンに対する勝利の後は、イギリス海軍がアメリカの商船を襲ったり水夫を連れ去る必要性が無くなっていた、イギリスはナポレオン後のヨーロッパの再建に没頭していた。交渉の結末は戦争前の状態に戻すこととなり1814年12月24日に、ガンでガン条約の調印がなされた。イギリスはその4日後に条約を批准し、アメリカは1815年2月16日に上院の全会一致で批准した。アメリカの批准日は条約の写しがワシントンに届いた数日後であった。この批准までの間に、1月8日にはニューオーリンズの戦いが起こり、大規模なイギリス侵略軍がアンドリュー・ジャクソン指揮するアメリカ軍に敗北した。[3] ガン条約ではアメリカの海事権の確保には失敗したが、この1815年から第一次世界大戦の1914年までの1世紀間、ヨーロッパの制海権の争いの中でもイギリスとアメリカの間には重大な局面が生まれなかった。イギリスは水夫の強制徴募を止め、戦争の危険を冒すようなところまでアメリカとの紛争を発展させることがなかった。アメリカはカナダ征服に失敗したが、イギリスは征服していたメイン州の土地を条約に従ってアメリカに返した。 この戦争はアメリカが戦う決意をした幾つかの問題を解消した。特にインディアンの脅威と独立を主張する心理的必要性の問題であった[4]。強制徴募や中立国としての権利は1815年以降の長い平和の期間のために影を潜めてしまい、イギリスは強制徴募や海上封鎖を行使する機会が無くなった。 インディアン問題 アメリカ辺境の開拓者達が戦争に賛成する第1の理由はインディアンの脅威であった。彼らはカナダにいるイギリスの代理人が介入していると非難していた。開拓者達はイギリスがインディアンを唆し武器を与えて侵入を拒んでいる土地への入植を求めた。1813年、ショーニー族預言者の兄テカムセの戦死と共に、北西部領土でのインディアンの脅威は縮小された。アメリカ南東部では、アンドリュー・ジャクソンが1803年のホースシュー・ベンドの戦いでイギリスと同盟するクリーク族インディアンを打ち破り、この地域でのインディアンの脅威を取り去って、ジョージア州とアラバマ州に広大な農業用地を開拓者のために確保した。アメリカは西フロリダを占領し、1819年にはフロリダの残りをスペインから買収した。このことで敵対的な種族に対する武器の供与も無くなった。 イギリスは条約の中で、カナダからインディアンに武器を渡さないことと交易すらしないことを約束した。アメリカとカナダの国境は概ね平和な状態になった。しかし、アメリカ人の中にはイギリスが以前の同盟インディアンと共謀して五大湖地方のアメリカ支配を防ごうとしていると見ている者もいた。しかしこのような認識は間違いだったと、歴史家のキャロウェイは指摘している(1987年)。ガン条約以降、インディアンはイギリスの政策立案者にとっての望ましくない重荷になった。イギリスは北アメリカを商品の販売先と原材料の輸入元と見るようになった。この分野のイギリス代理人は以前のパートナーであったインディアンとも定期的に会ってはいたが、武器を供給することはなく、アメリカの拡張主義を止めるためのインディアンの行動を奨励することもなかった。 カナダ 開戦前のワシントンでは、アッパー・カナダの人口の多数を占めるアメリカ人が「イギリスのくびき」を投げ打ってアメリカに着くと予測した者もいたが、これは起こらなかった。1815年以降、イギリスの役人、聖公会の牧師やカナダ王党派は、共和制や民主主義というようなアメリカ的政治思想を見分けて排除しようと努めた。これによってイギリスと王党派特権階級は、以前の敵とは異なる様式をカナダ人に植え付けることができた。インディアンではなくイギリスの正規兵でもなく、カナダの民兵が戦争に勝ったのだというカナダ人の神話は、真実ではなかったが、しばしば繰り返し唱えられカナダの愛国主義精神を作り出す効果があった。[5] アメリカがイギリス領北アメリカを攻撃した時、イギリス軍の主力はナポレオン戦争に従軍していた。イギリス領北アメリカは、はるかに強大な(訓練は不足していたものの)軍隊を持ったアメリカに対して最小の守備軍しかなかった。戦争の大部分を、イギリス領北アメリカは単独で強いアメリカ軍に立ち向かった。イギリスからの援軍は戦争の最後の年1814年になってやっと到着した。強いアメリカ軍を跳ね返すことでイギリス領北アメリカの団結を作り上げることになった。これはアッパー・カナダとローワー・カナダにいるイギリス人と多数派のフランス語を話す人々の間で最も顕著なことであった。 愛国主義的な感情は共和主義のようなアメリカ的考え方に疑いを生じ、1837年に起こった反乱までアッパー・カナダとローワー・カナダで政治改革を挫折させていた。しかし、結果的には米英戦争が1867年のカナダ連邦に導くプロセスの始まりであった。カナダの作家ピエール・バートンは、反乱や1860年代のフェニアン襲撃のような事件は重要であったが、もし米英戦争が起こらなければ、アメリカからの開拓者が次々と入ってきてカナダはアメリカの一部になり、カナダ的な愛国主義は起こらなかったであろうと書いた。アメリカの歴史家はバートンの推測に同意せず、イギリスが厳しく統制を続けたであろうとしている。 米英戦争はイギリス領北アメリカ植民地にとって極めて意義あるものだった。この戦争ははるかに兵力で勝るアメリカ軍に対して国の生き残り戦争でありそれに成功したと考えられた。また共通の敵に対してフランス語を話す国民と英語を話す国民が結束して戦争の大半を守り抜いた。英語によるカナダの歴史家は、イギリスに対する忠誠感とともに独立国家カナダとしての感覚を作ったと主張した。開戦時にアッパー・カナダの人口の3分の1はアメリカ生まれだったと見積もられている。イギリスに対する忠誠を誓う王党派もいたが、安い土地を求めて来た者はイギリスに対する忠誠感など無かった。しかし、多くの者が共通して侵略を恐れた。例えば、ローラ・セコールはアメリカからアッパー・カナダへの移民であったが、以前の母国からの攻撃計画をイギリス軍に警告するために、難儀な道のりをも躊躇しなかった。 戦争から生まれたカナダの神話は、カナダの民兵が賞賛に値する働きをし、イギリス軍士官は大きな戦果を上げていないというものだった。ジャック・グラナットスタインはこれを「民兵神話」と名づけ、職業的常備軍よりも市民の民兵に重きを置くカナダの軍事思想に深く影響したと感じている。アメリカは戦争開始時に類似した「開拓者神話」に影響された。これは個人の自発性や射撃技術が訓練されたイギリス軍に対抗しうるというものだったが誤りであった。グラナットスタインは、民兵は戦争で特に有効だったわけではなく、イギリス軍の成功はイギリス正規兵の働きによるものであり、イギリスが制海権を維持していた結果だとしている。例えば、アイザック・ブロックは民兵にマスケット銃を持たせても、信用しようとはしなかった。アメリカ陸軍が戦争の後期の陸戦で勝利を挙げたのは、軍隊を訓練して規律あるやり方で戦わせたからであり、イギリスや他のヨーロッパ諸国の軍隊に倣ったものであった。 戦争中、イギリス軍士官はアメリカとカナダの境界の一部をなしていたセントローレンス川をアメリカ軍が封鎖するのではないかと常に心配していた。もしアメリカ軍がこれを実行しておれば、多くの陸戦が起こったアッパー・カナダとの補給線が無くなり、数ヵ月後にはすべての西部領土から撤退もしくは降伏するしかなかったと考えられる。戦後のイギリス軍士官の報告書では、アメリカ軍がそのような単純な手段に訴えようとしなかったことに驚きを表していたが、イギリス軍は敵が誤りを繰り返すことを宛てにしていた訳ではなかった。その結果、イギリスはオンタリオ湖岸のキングストンとオタワ川をつなぐ金のかかるリドー運河造りを始め、国境のセントローレンス川の一部をバイパスする代用補給線を備えようとした。オタワ川につながる運河の北東端開拓地は、後にカナダでは4番目に大きく首都にもなるオタワ市となった。ここは「防衛できる後背地」としてアメリカ軍の侵略から守られるように内陸に造られた。セントローレンス川から離れた地域の人口は希薄であったので、イギリスは戦後、後背開拓地が増加するような手段を重ねた。そこには兵士を入植させ、農場用地をただで提供する移民促進策を始めた。開拓者にはアイルランド南部の出身者が多かった。運河の建設は1832年まで掛かり、戦争のために使われることは無かった。 イギリス カナダとは対照的に、今日のイギリスで米英戦争のことを覚えている人は少ない。これは同時期に行われたナポレオン戦争の方が劇的な展開がありその陰に隠れてしまったことと、イギリス自体が結果的に得るものも失うものも無かったからであった。 イギリス海軍は、戦争中アメリカ海軍が1対1の対決では大半を勝利し、時にはイギリスにとって屈辱的な形で勝ちを収めたことに鋭敏に反応していた。またアメリカの私掠船や商船襲撃船が多くのイギリス商船を捕らえたために保険料率が上がり、海軍本部を当惑させた。これにも拘わらず、イギリスは幾つかの海戦で勝利を収め、アメリカの士気を下げた。また、イギリスはアメリカ海岸の海上封鎖を行って多くのアメリカ商船を捕らえ、アメリカ政府を当惑させた。イギリス海軍はアメリカの水域では圧倒的な力を展開することができたので、アメリカの海上貿易を単に損なう以上の影響を与えた。戦後イギリス海軍は新造船の構造や砲術を変えることがあったが、艦隊の要員計画を変えることはなかった。 イギリスはカナダとアメリカにおける戦闘を副次的なものと見ていた。唯一、第41連隊(後にウェルチ連隊となり、次にウェールズ王室連隊の一部となり、現在はウェルシュ王室連隊)のみが米英戦争の間のデトロイト砦の功績で戦闘名誉章を受けた。陸軍はスペインの半島戦争での実践的な経験により大きな興味を持っていた。カナダやニューオーリンズにおける幾つかの敗北は、便宜上まずい指揮力の所為あるいは克服不可能な物理的障害の所為にされた。指導力がもっと良ければ、海上でもまたニューオーリンズでもイギリス軍がもっと頻繁に成功を収めていただろうと信じられた。ヨーロッパにおけるウェリントン公の偉大で圧倒的な成功と卓越性のために、イギリス軍は徴兵、訓練および将校任官の仕組みを半世紀以上変えることはなかった。 イギリス軍の兵士または水兵は、米英戦争の間に5,000名が戦死または負傷した。 バミューダ バミューダは、アメリカの独立前はその民兵や私掠船も防衛に専念させられていたが、イギリス海軍が1795年にバミューダを使って作戦を展開するようになってから、失われたアメリカの港の代用として使われていた。元々は北アメリカ船隊の冬季本部として使われたが、米英戦争ではバミューダで準備を整えて大西洋の港を封鎖するという新しい使命を宛てられ、ワシントンD.C.への攻撃もここで作戦を組み立てられここから発進された。19世紀の前半を通じて建設作業が続き、バミューダは西部海域の永久的な海軍本部となり、本部の建屋を作り、海軍基地と修繕所にもなった。海軍施設を守る守備隊が構成され、群島全体を要塞化して、西のジブラルタルと呼ばれるようになった。バミューダの造船産業と海洋経済はゆっくりと落ち込んで行き、防衛施設が第二次世界大戦の後までバミューダの経済を支えた。1890年、陸軍大臣はバミューダが植民地としてよりも基地としてイギリス政府に帰属するものと考えると指摘した。 米英戦争は1790年代以降死に絶えていたバミューダの私掠船を復活させた。私掠船が止まっていたのは、イギリス海軍本部が西大西洋における私掠船への依存度を下げたバミューダにおける基地の構築によっており、またイギリスの私掠船に対してアメリカが法律に訴えて圧力を掛けて来たからであった。イギリスの私掠船といってもその大半はバミューダのものを名指ししているようなものであった。米英戦争の間、バミューダの私掠船はその快速バミューダ・スループ船を使って298隻の船を捕獲した。五大湖から西インド諸島の間でイギリス海軍とその私掠船が捕まえた船は1,593隻であった。 アメリカ合衆国 戦争に真っ向から反対したニューイングランドの沈鬱は1814年の12月に頂点に達し、5つの州からの代表が密かにハートフォード会議に集まった。ここでは西部と南部に対してニューイングランドの利益を守るため憲法の改定を要求した。脱退の噂も飛び交っており、もしこの要求が無視されれば、この地域の合衆国からの脱退の怖れが出てきたが、和平の報せで沙汰止みとなった。 アメリカ合衆国は1814年に難しい状況に立たされていたが、ニューオーリンズの戦いとボルティモアの戦いにおける勝利とイギリスに対する成功と思われたことが、国民の愛国主義的風潮を高め、合衆国を一つにまとめる効果があった。よく知られる愛国的逸話は「星の煌く旗」(The Star-Spangled Banner)であった。この言葉はマックヘンリー砦に対する艦砲射撃の後で、フランシス・スコット・キーが詩を作り、イギリスの歌「天国のアナクレオンへ」の旋律に当てはめられたものであった。1889年、アメリカ海軍はこの曲を国旗掲揚式に使用し始め、陸軍もこれに倣った。1931年、この歌はアメリカ合衆国の国歌に指定された。[6] アメリカ合衆国が得た大きなものは、改めて自信を得たことと、国家の自由と栄誉を守るための軍事能力に対する信頼であった。米英戦争の当事国双方ともはっきりとした勝利を得たわけではなかったが、アメリカ人は民主主義の経験に立つ成功の証と捉えた。戦争はアメリカの歴史において「好感情の時代」の先駆けとなった。その時代は、少なくとも表面上、ほとんどのアメリカ人が共通の目的のために一つになったと感じた時であった。この国は外国の脅威を受け流すことができ、その目指すところは母国の拡張にあるということを確信させた。 ハートフォード会議の崩壊と、ニューオーリンズの戦いでの勝利の報せによって、アメリカ人は祝いの気分になった。1815年2月、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディソンは議会に平和条約を提案した。マディソンは戦争の終結を、「議会委員会の知恵と、民衆の愛国主義、民兵の公的精神およびこの国の陸軍と海軍の勇気による当然の結果として成功に導いた」と言って国民を祝福した。国民主義の精神と誇りが反対ばかりを叫んでいた連邦党を崩壊させ、新しい「好感情の時代」に導いた。 米英戦争の間接的な結果の一つは、戦争の英雄アンドリュー・ジャクソンとウィリアム・ハリソンを大統領選挙で勝利させたことであった。二人共に軍人としての名声を選挙に利用した。もう一つの間接的な結果は連邦主義者の凋落であった。 米英戦争はアメリカの製造能力に劇的な効果を齎した。イギリスが行ったアメリカ海岸の海上封鎖はアメリカの綿布を不足させたが、マサチューセッツ州ウォルサムのフランシス・カボット・ローウェルに始まる綿布製造産業の立ち上げにつながった。戦争はエリー運河の建設にも拍車をかけた。これは商業的なつながりを促進するために建設されたが、軍用として用いる必要性があるとも認識された。 合衆国議会が合衆国第2銀行を国有化する決断をしたのは、米英戦争で露呈された国家財政の脆弱さで一部説明された。南部の指導者、特にジョン・カルフーンがその手段を支持した準備の良さは高度の国民感情を示していた。[7]おそらく、国民団結という新しい感覚の明白な印は、民主共和党の勝利であり、長い間の政敵連邦党が国の政局から姿を消したことである。その結果はかつてないくらい党派抗争のない「好感情の時代」であった。 軍事に関する影響 米英戦争で、アメリカ軍の兵士と水兵は2,260名が戦死した。戦費は約2億ドルに達した。アメリカもイギリスも軍事的な利点を得ることは無かったが、アメリカは間接的に得るものがあった。[8] ウィンフィールド・スコット将軍によってアメリカ陸軍士官の職業意識が強調され、特にウェストポイントの陸軍士官学校における士官の訓練は、意義ある軍隊の発展となった。この新しい職業意識は後の米墨戦争 (1846-1848)で顕著となった。アメリカによるテキサス併合の後、マニフェスト・デスティニーという言葉がアメリカの拡張主義と軍隊の誇りを喧伝する政治的な言葉として広く使われるようになった。米英戦争では領土拡大を齎さなかったものの、この事実がイギリス領北アメリカへの拡張に関してその後何十年もの間政治的議論の的となった。[9] その後の発展に就いては、アメリカはその防衛を民兵に頼ることを公式に止めた。更に当時ウエストポイントを支配していたアメリカ陸軍工兵司令部が戦争中のイギリス軍の攻撃に対する反応としてニューオーリンズの要塞化工事を始めた。この努力が多くの川の治水工事にも発展し、特に1840年代と1850年代はP・G・T・ボーリガード将軍のもとで進んだ。工兵隊はミシシッピ川や他の川の工事では今でも権威であり続けている。 後に学者達は、米英戦争のアメリカの戦略や戦術について疑問を投げかけた。その明白な結果や、そもそも戦争を始めた時の知恵についてである。しかし、当時のアメリカ人には、海軍の印象的な勝利やニューオーリンズでのアンドリュー・ジャクソンの勝利がモンロー時代に引き継がれる「好感情」の蓄積を創った。 1823年のモンロー主義は、実際には長い大統領演説の中のほんの数句にすぎないが、アメリカはヨーロッパの内情に巻き込まれることはなく、アメリカに対するヨーロッパの干渉を認めないと宣言した。他の国に与えたその直接の影響は大したものではないが、アメリカ市民に与えた影響は測り知れない。さらに新世界から旧世界に警告を放ったその自信に満ちた論調は、国中を席捲した国民主義的な気分をうまく反映した。 スペイン領フロリダに逃亡したクリーク族インディアンはそこのセミノールに合流した。アメリカが1819年に東フロリダを購入した後も長いセミノール戦争に続いた。 脚注 関連項目 米英戦争の原因 米英戦争 米英戦争に対する反戦運動 参考文献 Benn, Carl. The War of 1812 [www.questia.com/PM.qst?a=o&d=107722609 online version]; Oxford, UK 2002 (ISBN 1-84176-466-3)] short British summary Calloway, Colin G. Crown and Calumet: British-Indian Relations, 1783-1815. U. of Oklahoma Press, 1987. 345 pp. Errington, Jane. The Lion, the Eagle and Upper Canada: A Developing Colonial Ideology (1988) Heidler, Donald & Jeanne T. Heidler (eds) Encyclopedia of the War of 1812 (2nd ed 2004) 636pp Hickey, Donald R. The War of 1812: A Forgotten Conflict (1989) (ISBN 0-252-01613-0) Mason, Philip P. ed. After Tippecanoe (1963) Pratt, Julius W. A History of United States Foreign Policy (1955) Risjord, Norman K. "1812: Conservatives, War Hawks, and the Nation's Honor," William and Mary Quarterly, 3d ser., 18 (April, 1961), 196-210. in JSTOR Marshall Smelser. The Democratic Republic 1801-1815 (1968). Remini, Robert V. Henry Clay: Statesman for the Union (1991) (ISBN 0-393-31088-4) Rutland, Robert A. The Presidency of James Madison (1990) Stagg, John C. A. 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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E7%B5%90%E6%9E%9C
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武装親衛隊とはなんですか?
親衛隊
japanese
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親衛隊(しんえいたい)とは、主に君主や元首、それに類する重要人物の身辺警護をする武装組織。 概要 様々な国家に設置されるが日本においては、まず君主の警護を務める「近衛兵」とそれ以外の元首を警護する「親衛隊」に大別される。主に軍隊の中の一部署である場合が多いが中には、完全に独立した組織であるものもあった。しかしどちらの場合も少数精鋭であり数個師団・旅団規模である。しかしその中でもナチス親衛隊は大きく、規模は総軍だった。ドイツ第三帝国の武装親衛隊、日本の近衛師団やイギリスの近衛兵は、警護任務だけでなく一般部隊と同様に戦争にも参加した。 派生 本義の親衛隊になぞらえて、日本の応援団や暴走族では団体旗を掲げて守る本部直属のグループを親衛隊と呼称している。応援団の場合、関西では親衛隊(多くは正旗手が親衛隊長を務める)、関東では旗手隊と称する団が多いようであるが、詳細は各項目を参照されたい。 歴史 古代国家の軍隊は、戦時にのみ召集され、戦いが終わると解散された。しかし訓練によって戦力を維持し、団結力を保つために次第に常備軍の設置が目指された。特にアケメネス朝の不死隊、テーベの神聖隊などが知られる。これらが国王や元首と共に戦場で戦ったために近衛兵や親衛隊と呼ばれるようになった。また平時においては、警察など治安組織としての役割も果たした。 しかし歴史上、最も重要な部隊になったのがローマ帝国の親衛隊である。彼らは、単なる精鋭部隊ではなく武装した軍隊が侵入することが許されないイタリア半島に駐屯し、皇帝を警護する唯一の部隊となった。やがて皇帝の相談役となる人物が現れたり皇帝を暗殺し、皇帝を擁立するようになって政治的にも重要な組織となった。 近世以降、元首が自ら親衛隊と共に戦場で戦うことはなくなった。また常備軍が拡大し、親衛隊だけが常備軍ではなくなった。そこで警護部隊以外にもエリート部隊の称号として与えられるようになった。 親衛隊の例 プラエトリアニ - ローマ軍親衛隊。ローマ皇帝の直属の警護軍団として唯一イタリア半島での駐屯が許された軍団。 親衛隊 (ナチス)(シュッツシュタッフェル(Schutzstaffel)) - ナチス・ドイツにおける国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の直属軍事組織。ドイツ語の略称「SS」で知られる。武装親衛隊は戦闘に出征。一般親衛隊は国家保安本部などの公安警察的役割。 イェニチェリ - オスマン帝国のスルタン直属部隊。戦場では、スルタンと食事を共にした。 ドルジーナ - キエフ大公国などの親衛隊。 ドルジナ - ポーランド王国の親衛隊。 ヴァリャーグ(ヴァラング隊 (Varangias)) - 東ローマ帝国の親衛隊。従士団を持っていた。元はキエフ大公国から来たヴァイキング。 セルデューク - ヘーチマン国家の親衛隊。セルジューク、セルジュクとも。 ルィーンダ - ロシア・ツァーリ国の親衛隊。1698年にピョートル1世によってクーデター加担の嫌疑で廃止された。 - ロシア帝国における皇帝の近衛部隊の名称。グヴァルジヤ。 宿衛所 - 李氏朝鮮の親衛隊。“スギソ”と読む。 親衛隊 (ソ連・独立国家共同体) - ソビエト連邦、ロシア連邦などにおけるエリート部隊の名称。グヴァルジヤ。 プーチン大統領が2016年、ロシア国内軍を中心として創設する大統領令に署名した。  - 2014年3月14日、ウクライナ国内軍を再編する形で編成。 フランス共和国親衛隊(ギャルド・レピュブリケーヌ) - 大統領府やエリゼ宮殿等を警備する、フランス国家憲兵隊所属の親衛隊。麾下の軍楽隊「ギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団」は“世界最強の楽団”として知られる。 特別共和国防衛隊 - フセイン時代のイラクの大統領親衛隊。戦闘に出征。 サウジアラビア国家警備隊 - サウジアラビアの王室及び部族の警護・防衛を担当。独立以前のサウド家の私兵と配下の豪族の兵力を統合したもので、国防軍より歴史が古い。サウジアラビア国内において最も保守・親イスラム派であるとされる。軍部による政権奪取を予防するため、制度的に(比較的世俗派とされる)国防軍とは対立関係にある。国防軍は国防相が掌握するのに対し、同隊は第二首相の管轄下にある。また、任務も国防軍が対外防衛なのに対し、国家親衛隊は治安維持や対テロ作戦に従事しており軽装備である。 近衛師団 - 大日本帝国陸軍の皇室警護部隊。ただし戦時には、一般部隊同様に出征した。 近衛兵 (イギリス) - イギリス陸軍の王室警護部隊。バッキンガム宮殿の王室騎兵は有名。 親衛隊に類似する組織 イラク共和国防衛隊 - フセイン時代の正規の国防軍とは別の武装親衛隊的な軍事組織。フセイン時代のイラクと同じくバース党が政権を握るシリアにも類似した性質の部隊(共和国防衛隊)が存在する。 イスラム革命防衛隊(パースダーラーン) - イランのイスラム体制の防衛を主任務とする部隊。革命防衛隊省の管轄にあり、国防軍とは別個の組織である。ただし、実際の指揮系統等は便宜的に国防軍と統合されている。独自の海上部隊や航空部隊も保有する。 皇宮警察 (宮内省) - 日本の天皇と皇族を専門に警護する宮内省管轄の組織。日本が太平洋戦争で敗戦するまでは、旧日本陸軍の近衛師団と分担して天皇や宮城を警護してきた。現在の皇宮警察は、警察庁の管理下にある政府組織であり、君主の命により国内外において独立した活動が出来るような親衛隊や近衛部隊という軍組織というような性質のものではない。しかし武装可能な警察組織であるうえ、皇室に対してのみ適用される警護組織という性質を持つ。さらに英名が近衛兵や親衛隊を意味する「Imperial Guard」であり、儀仗において非常に大きな役割を果たしている。このことから事実上の「親衛隊相当の組織」ということも可能である。 アメリカ海兵隊 - 大統領府や在外公館敷地内の警備も担当し、大統領が搭乗するヘリコプターは海兵隊の所属である。陸海空軍と異なり、外国への武力介入の際には、議会への事後報告が必要とはいえ国家元首である大統領が自分の一存で動かすことが出来る。つまり海兵隊のみ動いている段階では武力介入(日本で言う「事変」)に過ぎず、“全面戦争”ではない。 朝鮮人民軍陸、海、空軍名誉衛兵隊 - 具体的にどのような部隊か不明だが地上・海・空軍のエリート部隊。ちなみに青年親衛隊という民兵部隊がある。 日本史上の親衛隊 日本史上では律令制下において、近衛府の唐名として羽林とともに「親衛」の語が使われた。ただし、これは一般的な用例ではない。従って「近衛」と「親衛」という語は厳密には同義とはいえないが、事実上、同じと見てさしつかえない。 9世紀以降、律令制の崩壊に伴い、それまで天皇の警護を司っていた大伴氏を長とする衛府が実質を失ってゆく。これに代わり蔵人所の滝口(滝口武者)と呼ばれる武士が大内(皇居)警護の役割を担うようになった。清和源氏嫡流の摂津源氏は、代々、大内守護の任についた。 11世紀末には、院政を行った白河法皇により院御所に詰めて上皇を護衛する武士集団として北面武士が創設され、後の後鳥羽上皇は加えて西面武士を組織した。なお、前者が主に寺社の強訴を防ぐための院の直属軍として創られたのに対して、後者は鎌倉幕府に対抗するための軍事力とされる。公家政権(朝廷)と武家政権(幕府)が対立した承久3年(1221年)の承久の乱で幕府側が勝利すると、北面武士は縮小されて御所の警備隊程度の存在となり、西面武士は解体された。 さらに、武士が台頭してくると、大名の側近として親衛隊的な役割も果たす馬廻が登場する[1](馬廻衆)。室町時代に、3代将軍足利義満が将軍直属の軍事力として御馬廻の整備を始め、9代将軍足利義尚が奉公衆を確立するに至った(明応2年(1493年)の明応の政変で事実上解体された)。 明治維新後は、宮内省侍従職の内舎人が天皇の身辺警護にあたり、陸軍の近衛師団(前身は御親兵)、宮内省の皇宮警察は、宮城の警護及び儀仗を担当した。 太平洋戦争後は、警察庁に移管された皇宮警察本部が皇居・離宮の警護及び儀仗の任務を担当している。現在の皇宮警察の英語表記は、近衛兵や親衛兵を意味する「Imperial Guard」であり事実上の皇室の親衛隊となっている。また、皇居に隣接する北の丸公園に警視庁第一機動隊の本部が置かれており、皇居の外側は第一機動隊が警備している。このことから「近衛の一機」の通称がある。なお、自衛隊には親衛隊に相当する部隊は存在しない。 脚注 関連項目 ボディーガード 準軍事組織 警備員 警備 警備隊
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ゲーデルンの最大宗教は何
ブッツバッハ
japanese
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紋章地図<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[124,130,6,0]}'/>(郡の位置)基本情報連邦州:ヘッセン州行政管区:ダルムシュタット行政管区郡:ヴェッテラウ郡緯度経度:標高:海抜 199 m面積:106.60 km²人口:[1]人口密度:Expression error: Unrecognized punctuation character "[". 人/km²郵便番号:35510市外局番:06033, 06081, 06085, 06447ナンバープレート:FB, BÜD自治体コード:06 5 31 005行政庁舎の住所:Schlossplatz 1 35510 Butzbachウェブサイト:首長:ミヒャエル・メルレ (Michael Merle)郡内の位置 ブッツバッハ (German: Butzbach) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ヴェッテラウ郡に属す市である。タウヌス山地北東部のへの移行部に位置する。この街は、2011年1月から「フリードリヒ=ルートヴィヒ=ヴァイディヒ=シュタット」というニックネームを持つ。 地理 隣接する市町村 ブッツバッハは、北はラングゲンス(ギーセン郡)、東はミュンツェンベルクおよびロッケンベルク、南はオーバー=メルレン(以上 3市町村はヴェッテラウ郡)およびウージンゲン(ホーホタウヌス郡)、西はグレーヴェンヴィースバッハ(ホーホタウヌス郡)およびヴァルトゾルムス(ラーン=ディル郡)と境を接している。 市の構成 ブッツバッハは、ボーデンロート、ブッツバッハ(中核市区)、エーバースゲンス、ファウアーバッハ・フォア・デア・ヘーエ、グリーデル、ハウゼン=エス、ホーホ=ヴァイゼル、キルヒ=ゲンス、マイバッハ、ミュンスター、ニーダー=ヴァイゼル、オストハイム。ポール=ゲンス。ヴィーゼンタールの各市区から構成されている。 歴史 ローマ時代 紀元後90年頃、ヴェッテラウは(従って現在のブッツバッハの市域の一部も)、ローマ帝国のゲルマニア・スペリオル属州の一部となった。ブッツバッハの北西部を分断していたオーバーゲルマニシュ=レティシャー・リーメスは、ローマに従属しないゲルマン人から領土を護るために築かれた。この国境の土塁はユネスコの世界遺産に登録されている。ローマ人は、およそ200年にも及ぶ支配の間に、この土塁の近く、現在の市内中心部近くに軍隊のための城塞を築いた。この城塞は、近世にはフンネブルク(「フン族の城」)と呼ばれていた。この城は、17世紀になっても明らかに見ることができ、フン族の王アッティラの城であったと誤解されていたのである。やがてこの城は安直な採石場と見なされ、時代とともに地上建造物は取り壊されていった。市の博物館にこの城の模型が展示されているが、その規模は修復されたタウヌスのザールブルク城よりも大きかった。フンネブルクの他に、トラヤヌス帝の時代にデーガーフェルトに小規模な城も築かれた。これは、ローマ帝国と、リーメスの外側の世界との交易を安全に行うために設けられたものである。この城塞も現在では見ることができない。 2世紀の初め頃から、軍隊の城塞の西側に、入植地が築かれたが、その名称は伝えられていない。この入植地は2つの城塞の間にあり、かなりの大きさがあった。 2世紀から3世紀のやアレマン族の侵入によって、城塞は破壊されたが、後に再建された。260年にリーメスが放棄されるまで、両城塞には兵士が配備されていた。その後、城も入植地も荒廃していった[2]。 中世 ブッツバッハの文献上の最も古い記録は、773年に Botisphaden としてなされたものである。中世盛期、この集落は帝国ミニステリアーレのハーゲン=ミュンツェンベルク家の所領であった。この集落は、1255年にハーゲン=ミュンツェンベルク家の遺産とともにハーナウ家のものとなったが、早くも1308年にはファルケンシュタイン家に売却された[3]。フィリップ4世フォン・ファルケンシュタイン=ミュンツェンベルクは、1321年に皇帝ルートヴィヒ4世からこの街の都市権を授けられた。この新しい都市は、壁、土塁、堀で頑丈に護りを固められた。行政は、老練な議員と若い議員に仕分けされた14人の議員からなる市議会に委託された[4]。ブッツバッハは何度も遺産として領主を替えた: ファルケンシュタイン家からエップシュタイン家、されにゾルムス=ブラウンフェルス家、ゾルムス=リヒ家、カッツェネルンボーゲン家、そして最終的にヘッセン=ダルムシュタット方伯という具合であった。 歴史的名称 史料上のこの街の表記は以下の通りである[5]。 Botisphaden (773年) Botinesbach (768年–778年) Butisphaden (805年–808年) Buodesbach (821年) Bvotesfad (10世紀) Budesbah (12世紀後半) 近世 ブッツバッハは、1609年から1643年まで、ヘッセン=ダルムシュタット家の次子相続に伴いによって創設されたヘッセン=ブッツバッハ方伯領の首都となった。このため、この街に方伯の城館が建設された。この城館に付属する遊歩庭園には、星や星座、季節を表す多彩な装飾を施された「プラネーテンブルンネン」(惑星の泉)がある。しかし、フィリップ3世は子供をもうけず亡くなったため、彼の死後ブッツバッハはヘッセン=ダルムシュタット家に戻された。後に方伯の居城は兵舎とされ、遊歩庭園は取り壊された。しばらく前から、修復された城館の周囲に、遊歩庭園の細部まで忠実な復元がなされている。 近現代 ヘッセン=ダルムシュタット方伯領の後継であるヘッセン大公国で、ブッツバッハはアムト・ブッツバッハの主邑となり、このアムトの廃止後 1821年から1829年までの短期間ではあるが郡庁所在地となった。1840年から2004年まで本市はブッツバッハ地方裁判所および区裁判所の所在地であった。中世の防衛施設であった塔や門は、19世紀に取り壊された。兵舎に転用されたかつての城館は、19世紀半ばには「シェヴォルジャー兵舎」と呼ばれ、ヘッセン大公の軍隊が配備されていたが、第二次世界大戦後にはアメリカ軍が駐留した。 さらにキルヒ=ゲンス市区にアイアース兵舎があり、やはりアメリカ軍が駐留した。1000戸の住宅、オフィス、学校や病院を備えたアメリカ軍兵士の居住地「ローマン・ウェイ・ハウジング」は2007年10月にアメリカ陸軍から委譲された。この地域は2011年末まで空き地であったが、これ以後建物の大部分が取り壊された。この住宅地は、ローマ時代の旧城塞の村に建設されていた。 2007年6月1日から10日まで、ブッツバッハ市は第47回ヘッセンの日の開催都市となった。これにより110万人がこの街を訪れた。 『ヘッセン急使』の共同著者であるフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヴァイディヒの220回目の誕生日にあたる2011年2月15日に、ブッツバッハ市は、当時のヘッセン州内務大臣ボリス・ラインから「フリードリヒ=ルートヴィヒ=ヴァイディヒ=シュタット」という添え名を授けられた。 市町村合併 ヘッセン州の地域再編に伴い、1970年12月31日に、それまで独立した町村であったホーホ=ヴァイゼル、ニーダー=ヴァイゼル、オストハイム、ポール=ゲンスがブッツバッハ市に合併した。同日にファウアーバッハ・フォア・デア・ヘーエとミュンスターが合併して成立したフィリップゼックと、ボーデンロートが1972年2月1日にブッツバッハ市に加わった。グリーデル、ハウゼン=エス、キルヒ=ゲンス、マイバッハは1972年8月1日にこれに続いた[6]。 住民 宗教 キリスト教 ブッツバッハのマルクス教会は、福音主義教会の教会堂である。福音主義教会はこの他に、ハウス・デーガーフェルト、ユーゲントハウス・カフェ・カンネおよび幼稚園を有している[7]。市内にはローマ=カトリック教会(聖ゴットフリート教会)があり、やはり幼稚園を運営している[8]。ファウアーバッハ市区の教会がこの教区に属している。城館には、福音主義シュタットミッション・ブッツバッハ/ニーダー=ヴァイゼルが教会センターとともに入居している。さらに中核市区にはも存在している。 ユダヤ教 中世の1332年に初めてユダヤ人住民が記録されている。1348年から1349年のペスト禍の時代に排斥された後、1371年から1372年にこの街に再びユダヤ人が戻ってきた。ブッツバッハのシナゴーグ(礼拝堂)については1384年に記述されている。ユダヤ人家族は、特にユーデンガッセ(後のヒルシュガッセ)に住んでいた。彼らの主な収入源は金融業であった。しかし、ユダヤ人医師やユダヤ人教師もいた。中世末期の排斥については知られていないが、事実として15世紀中頃にほとんどのユダヤ人がこの街を去っていった。16世紀から17世紀にはこの街に再びユダヤ人が暮らすようになっていた。主には小売業者であったが、中には貿易商人もいた。1622年には 5 から 8 家族があった。1656年にはラビを含む 10家族に増えた。理由は明らかではないが、そのしばらく後にユダヤ人家族はブッツバッハから去るか追放されるかして、またしてもいなくなった。再び大きな流入が起こるのは 19世紀になってからであった。1848年頃には 27人(5家族)のユダヤ人を数えた。その後ユダヤ人家族は増加したようで、しばらくすると独立した教区を創設する許可が下りている。礼拝室は、1848年8月に市庁舎内に設けられた。1868年、ユダヤ人は 14家族に増えていた。特に第一次世界大戦後には近隣の村落のユダヤ人や、いわゆる「オストユーデン」(東欧地域のユダヤ人)がこの街に移住した。ユダヤ人家族の長は、商人(靴商人、織布商人)、家畜商、野菜商人、肉屋、タバコ商人、時計職人や靴職人として家計をたてていた。1926年8月20日にヴェッツラー通りにシナゴーグが建設された。1933年以後ユダヤ人組織の一部(1933年には148人、これは全住民の 2.6 % にあたる)が高まる権利の迫害や、圧力により移住した。その多く(80人)はアメリカ合衆国に移り住んだ。1938年11月の排斥運動(水晶の夜)では、シナゴーグが焼かれただけでなく、ユダヤ人の企業や住居が完全に破壊され、住民は暴行を受けた。1941年から1942年にブッツバッハに残っていた最後のユダヤ人 18人が絶滅収容所に送致され、殺害された。さらにかつてブッツバッハに住んでいたユダヤ人達も他の街で逮捕された。1945年以後、この街にはユダヤ人コミュニティは存在していない。 行政 市議会 2011年3月27日の市議会議員選挙以降、ブッツバッハの市議会は 37議席で構成されている[9]。 首長 2012年9月30日の市長選挙決選投票で、現職のミヒャエル・マリー (SPD) が 62.4 % の票を獲得して対立候補のベニャミン・ゼリガー (CDU) に勝利し、再選された。この選挙の投票率は 45.5 % であった[10]。 姉妹都市 コッレッキオ(イタリア、エミリア=ロマーニャ州) (ドイツ、ザクセン州)1990年10月26日 サン=シール=レコール(フランス、イヴリーヌ県)2008年 (チェコ、カルロヴィ・ヴァリ州)[11] 協力援助関係 1954年にブッツバッハは、のテプラー市から追放されたシュレージエンのドイツ人に対する協力援助関係を結んだ。 経済と社会資本 交通 ブッツバッハ駅は、ライン=マイン交通連盟に属す区間であるマイン=ヴェーザー鉄道のギーセン - フリードベルク間に位置している。ブッツバッハ・オスト駅(ブッツバッハ東駅)は、かつてブッツバッハ=リッヒャー鉄道の本社所在地であった。この旧駅は、現在ヘッセン州営鉄道 (HLB) に移譲されている。ブッツバッハの立地は、ヴェッテラウにおける公共旅客交通(バス - HLB ヘッセンバス)や鉄道旅客交通(鉄道 - HLB ヘッセン鉄道)において重要な役割を担っている。 この街は、連邦アウトバーン A5号線(ハッテンバッハ・ジャンクション - ヴァイル・アム・ライン)および連邦アウトバーン A45号線(ザウアーラント線、ドルトムント - アシャッフェンブルク)に直接アクセスできる。この 2つのアウトバーンは、ガムバッハのすぐ近くで交差している。さらにブッツバッハからほど近いラングゲンスは連邦アウトバーン A485号線の起点であり、ギーセン北ジャンクションを経由してマールブルクやカッセル方面に延びている。この他にブッツバッハは、フリートベルクとギーセンとを結ぶ連邦道 B3号線にも面している。 州道 L3053号線 ブッツバッハ - ハウゼン区間はメディアやインターネットで重力の歪みと取りざたされている。ここでは、瓶、ボール、車が、他からの作用がなく山を転がり上がる。ただし、これは目の錯覚である。この箇所が下り坂であることは道路交通局の測量と見解によって証明されている。 自転車道 ブッツバッハ市内には数多くの自転車道が通っている。 ドイツ・リーメス自転車道が、中核市区とヴィーゼンタール市区、ファウアーバッハ・フォア・デア・ヘーエ市区、ミュンスター市区、ホーホ=ヴァイゼル市区を通っている。この自転車道は、オーバーゲルマニシュ=レティシャー・リーメス沿いに、ライン川沿いのバート・ヘニンゲンからドナウ川沿いのレーゲンスブルクまで全長 8181 km を結んでいる。 ヘッセン自転車道 R6号線は、「ヴァルデッカー・ラントからタインタールへ」というモットーの下に設けられている。この自転車道は、ヘッセン州北部のディーメルシュタットからスタートとして、南部のラムパートハイムまでを結んでいる。全長は約 380 km である。 メディア ブッツバッヒャー・ツァイトゥングは、ブッツバッハとその周辺地区向けの地元日刊紙である。この新聞は、グラッツフェルト印刷所で出版、印刷されている。 ラジオ WeWeWe - ヴェレ・ヴェスト・ヴェッテラウはイベントラジオ局であり、1999年から年に1回、多くの場合は 9日間程度一般向けに放送を行っている。このラジオはフェライン(クラブ、同好会)として組織され、市民ラジオとして認識されている。このラジオ局は、ラジオ・ヴェッテラウのためにメディア教育上寄与している。 地元企業 ブッツバッハの博物館の一部門は「エッセンにクルップがあったように、ヘッセンにはブッツバッハがある!」という標題を掲げている。ブッツバッハは重要な商工業都市であり、機械製造と金属加工がその主要分野である。たとえば、の分岐器、プロセスシステム工学、農業機械製造、研磨材製造、さらには、水および廃水再生、包装機械、計測工学、制御工学分野の装置製造などである。1987年以降製造業の従事者が減少しており、サービス業や商業の従事者が増加している。たとえばヘス・ナトゥール社(天然素材の衣料販売)は、ブッツバッハに本社を置いている。コンピューター、電子分野、日用品のオンライン通信販売業者ディジターロ GmbH は、閉鎖されるまでブッツバッハに本社を置いていた。 教育 ヴァイディヒシューレ、ギムナジウム シュレンツァーシューレ、統合型総合学校 市立学校、基礎課程・本課程・実科学校。養護課程もある。 デーガーフェルトシューレ、基礎課程学校 職業・技術学校 文化と見所 博物館 ブッツバッハには、ゾルムス=ブラウンフェルス館にブッツバッハ市立博物館がある。この博物館では、ブッツバッハの工業史(革なめし工場、靴造り職人、食品製造業)を一望することができる。 余暇・レジャー ブッツバッハは、ドイツ木組みの家街道[12]およびドイツ・リーメス街道に面している[13]。 シュレンツァーは、ブッツバッハ周縁部の高台であり、人気のハイキング地である。ここからは周辺の素晴らしい眺望が得られる。ここには野外プールもある。 建築物 市場の泉、16世紀に建てられた木組み建築の市庁舎、何棟もの木組み建築を有するマルクト広場。しばしばヘッセンで最も美しい広場の一つに数えられる。 16世紀から 18世紀までの木組み建築群 15世紀に建造されたゴシック教会であるマルクス教会 市壁の小規模な遺構 方伯の城館。1200年頃にはすでにブッツバッハに城塞があり、時代とともに城館に改築されていった。ここは、短い期間ではあったが、ヘッセン=ブッツバッハ方伯の居城であった。その後この城館は兵舎となった。方伯の城は2004年まで改修が行われ、市当局や行政機関に利用されている。 城館については、ゾルムス家の城館もある。これは、ゾルムス伯の役所および未亡人の館として利用されていた。 聖ヴェンデリン礼拝堂は、1440年頃に建設されたヘッセン州で最も古い木組み建築の教会である。 ブッツバッハ南部ニーダー=ヴァイゼル市区のヨハネ騎士団の騎士修道会教会 市内には、1890年から1894年に建設されたブッツバッハ刑務所がある。ここには成人男性犯罪者が収監されている。 市場の泉 木組み建築が建ち並ぶグリーデラー通り ブッツバッハの市壁跡 ゾルムス伯の城館 聖ヴェンデリン礼拝堂 ヨハネ騎士団の騎士修道会教会 ニーダー=ヴァイゼル兵士墓地 この兵士墓地は終戦の頃にアメリカ陸軍によって整備された。ここには 519人の兵士が眠っているが、このうち 420人がドイツ人、99人がソヴィエトとポーランドの戦争犠牲者である。ドイツ人は、1945年3月にヘッセンで、4月に西テューリンゲンで戦死した人々である。現在では、毎年国民哀悼の日にブッツバッハ市の中央追悼式が行われている。 スポーツ 全国的に知られているのが、TSV 1846 ブッツバッハである。このクラブのハンドボールチームは 2年間ブンデスリーガでプレイした。 年中行事 市場(3月: ファーゼルマーケット、10月: カタリーネンマーケット) ヘッセン最大の野外映画 9月第1週末: 旧市街祭 人物 出身者 (1745年 - 1812年)イェーナで新約聖書学の教授を務め、新約聖書の本文批評の父とされている。 ロレンツ・ディーフェンバッハ(1806年 - 1883年)司書、牧師、ドイツ学者、辞書編纂者、ドイツ国民主義の著述家。 (1902年 - 1963年)作家 ゆかりの人物 (1415年頃 - 1495年)中世後期の神学者で、長年にわたりブッツバッハのの修道院長代理を務めた。ブッツバッハのクーゲルハウス内の図書館は、ガブリエル・ビールがブッツバッハにいた期間に創設された。 フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヴァイディヒ(1791年 - 1837年)ブッツバッハの学校で教師および校長として22年間勤務した。ヴァイディヒはゲオルク・ビュヒナーと協力して『ヘッセン急使』を著した。ヴァイディヒシューレ(ギムナジウム)は彼にちなんで命名された。 参考文献 Ludwig Horst: Zur Geschichte von Butzbach, von der Vor-und Frühgeschichte bis zur Gegenwart, herausgegeben von der Stadt Butzbach und vom Geschichtsverein Butzbach 1971. この文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。 引用 外部リンク at Curlie in the German National Library catalogue
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サイリスタはいつ発明された
サイリスタ
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サイリスタ(English: Thyristor)とは、主にゲート (G) からカソード (C) へゲート電流を流すことにより、アノード (A) とカソード (C) 間を導通させることが出来る3端子の半導体素子である。SCR(Silicon Controlled Rectifier: シリコン制御整流子)とも呼ばれる。 近年はスイッチング周波数を高く採ることが容易なトランジスタが台頭しているが、トランジスタに匹敵するスイッチング周波数をもったものや、サイリスタの持ち味である大電力にも耐えられる性能、そして新しい半導体材料やPIN接合で設計できるなど、サイリスタの魅力は十分にある。 名称について サイリスタが「SCR」とも呼ばれることは前述の通りである。「SCR」はゼネラル・エレクトリック社の登録商標で[1]、「サイリスタ」はRCA社がサイラトロンの動作に似たトランジスタとしてつけた名称である[1](後に国際電気標準会議により「サイリスタ」に統一される[1])。また、後述する逆導通サイリスタが流通し始めると、区別のために「逆阻止3端子サイリスタ」とも呼ばれるようになった。サイリスタ単体で逆阻止能力、すなわち逆方向からの電圧に耐える能力を持っているからである。しかし単に「サイリスタ」といえば逆阻止3端子サイリスタを指すことが多い。 後にP型半導体またはN型半導体の組み合わせが4重以上、端子の数も2つ以上のものが発明され、主にスイッチング用途で使用し構造や動作原理が似たものを総じて「サイリスタ」と呼ぶようにもなった[2][3]。 基本的な構造と動作 PNPN の4重構造をしている。最初のP型半導体にアノード、最後のN型半導体にカソード、そして中央2つのうち何れかひとつにゲート端子が接続されている。そのうちP型半導体からゲート端子(ゲート電極、制御電極とも)を引き出しているものをPゲート、N型半導体からゲート端子を引き出しているものをNゲートと呼ぶ。NゲートのものはPUT (Programmable Uni junction Transistor) として動作する。原理としては、図のようにPNPトランジスタとNPNトランジスタを組み合わせた複合回路と等価である。 サイリスタの動作は機械的なスイッチのそれである。機械スイッチのオンを半導体では「導通」電流が素子を通って回路に流れている「状態」のことを指す。また、オフ状態を「非導通」という。非導通から導通からへのプロセスは「点弧」もしくは「ターンオン」という。反対に導通から非導通へのプロセスは「消弧」もしくは「ターンオフ」である。そしてこれらを制御する装置は「ゲートドライブ」や「ゲート装置」と呼び、スイッチのつまみにあたるゲート端子がサイリスタの操作を行う。これらの動作は後述する。 これらの動作はほぼすべてのサイリスタに共通していえることである。この特徴を生かし、一度導通状態にしたら、通過電流が0になるまで導通状態を維持することが望ましい用途に使用される。(カメラのフラッシュ制御など)。このような特性のため非常に過電流耐量が大きく通常のヒューズでも素子を保護することができるため電源 - サイリスタ - 負荷の接続で使用する位相制御用としては非常に良い素子である。特に、大電力の制御の場合、電流0のタイミングで OFF になるためサージ防止に優れる。 ただしインバータのように電源に対して2個直列したものを並列にする回路構成では、最悪の場合サイリスタで電源を短絡してしまうことになるため、十分な保護回路を組み合わせることが必要である。 点弧 以下、左図を元に説明する。この図ではアノードから順に、接合部に対しJ1、J2、J3と名付けられている。説明でもこの名称を用いることにする。 サイリスタはJ1とJ3がP型半導体からN型半導体に接合され順バイアスとなっているが、J2でN型半導体からP型半導体に接合されている。つまりJ2では逆バイアス状態で、アノードに正電圧を加えるだけではJ1は通過できるものの、J2ではわずかな漏れ電流が流れるだけであり、実用上は電流が停止した状態である。 J3がPN接合であるため、カソードから電圧をかけるとダイオードに逆バイアスをかけるのと同じ状態であり、やはり非導通状態のままである。 ところが、サイリスタに対して順バイアスをかけてからゲートに電流を通過(トリガ)させると、J2からJ3への漏れ電流がゲート電流により加速されてなだれ降伏を起し、アノードとカソード間が導通する。このときのゲート電流はアノード - カソード間よりも小さくてもよい。 ゲート電流の発信には、古くはユニジャンクショントランジスタが多用された。また後述するトライアックではダイアックとペアで使用されることが多い。 消弧 サイリスタで一度なだれ降伏を起すと、ゲート電流を切るだけでは降伏は収まらない。ゲート電流を切った後アノードとカソード間の電流を最も簡単に止める方法は、アノードに流れる電流も切ってしまうことであるが、回路を無接点化したい場合、この方法は不適切な場合がある。例外として交流電源の場合、電圧が0になる瞬間があるため自然と消弧する[3]。また交流電源を整流するのであれば、整流器を構成するダイオードの一部または全部をサイリスタに置き換えることで、直流電流をスイッチングすることができる(サイリスタ位相制御)。電源そのものが直流の場合はサイリスタに逆バイアスをかける必要がある。逆阻止3端子サイリスタと逆導通サイリスタは自己消弧能力を持たないため、サイリスタを消弧するための素子が別途必要となる。消弧専用の回路を転流回路と呼び[3]、例えば転流回路の素子をサイリスタとすると、そのサイリスタをオンにして主回路側のサイリスタに逆バイアスをかける。自己消弧能力を持つ場合はゲートドライブでゲート端子に負電圧をかけることで逆バイアスとする。カソードに正電圧をかける点はどちらもおなじである。また自己消弧能力を持つ場合は、ゲートドライブに転流回路を組み込んでいるといえる。 逆導通サイリスタ 通常はブリッジ状に個別に配線する還流ダイオードとサイリスタをひとつの基板上に組み込んだものである。ゆえに、基本的には逆阻止3端子サイリスタと大差はない。しかし配線が単純化するとともに小型化される特徴がある。 Reverse Conducting Thyristorの頭文字をとってRCTとも呼ぶ。逆向きの電流を流さない一方向性半導体素子の多くにこの配線を採用したものがあり、例えばGTOサイリスタなら逆導通GTOサイリスタと呼ばれる。電気鉄道の電機子チョッパ制御の主力であり、またVVVFインバータ制御の黎明期まで使用された。スイッチング周波数は300Hz程度。 ゲート補助ターンオフサイリスタ 三菱電機が開発した自己消弧素子で、Gate Assisted Turn-off Thyristorの頭文字からGATTとも呼ぶ。1982年に帝都高速度交通営団(現東京地下鉄)が開発を進めていた高周波分巻チョッパ制御の試作品に、スイッチング素子として試験採用されたが、実際に同制御方式を採用する予定の01系電車が製造段階に入る頃には後述のゲートターンオフサイリスタが主流となりつつあったため、同制御方式はもとより電子部品としても実用化されることなく消滅してしまった。 ゲートターンオフサイリスタ Gate Turn Off thyristorの頭文字からGTOサイリスタ、または単にGTOとも呼ばれる自己消弧素子である。文字通りゲート電極の信号で消弧もできる。ゲート電極に与える信号は負電圧で、正電圧はカソードにかける。スイッチング周波数は450Hz。点弧用ゲートドライブは単純であるが、消弧する際は大きな電流が必要となるため、数段に渡るバイポーラトランジスタを一斉に導通して大きなサージを発生させ昇圧する必要がある。使用に際してはアノードリアクトルとスナバ回路が必須である。 大電力用途として、とくに電気鉄道のVVVFインバータ制御において1990年代後半まで主力であった。また電機子チョッパ制御も末期に東京都交通局や営団などに、また高周波分巻チョッパ制御や初期の静止形インバータ、整流器にも使用された。電圧耐性と出力の高さから、90年代にはひとつのインバータ装置で2両分8個の主電動機を駆動する (1C8M) ことができるようになり、軽量化、大容量化とコスト削減を実現している。これは主役の座を明け渡したIGBTでさえ得ることができない性能である。 また逆導通GTOサイリスタは装置の小型軽量化に適しており、日本国内の路面電車の多くに採用されている。一般的な電車への採用例もあり、東日本旅客鉄道のE127系電車が該当する。 構造 キャリアを引き抜きやすくするためカソード電極の周りをゲート電極で取り囲み、アノード電極は逆阻止3端子サイリスタでは2つ目に接合されていたN型半導体と、それに埋め込まれるように接合され、細かく分割されたP型半導体の両方に接続されている。これを同心円状に多数並列接続し、セラミックなどのケースに封止したものである。 ゲート転流型ターンオフサイリスタ Gate Commutated Turn-off thyristorの頭文字からGCTサイリスタ</b>とも呼ばれる。三菱電機が1995年に世界に先駆けて開発したもので[4]、GTOサイリスタのゲートを中心に改良したものである。スナバ回路が不要となって低損失化を実現したほか、インダクタンスの低減によりスイッチング周波数が10倍となった。サイリスタとゲートドライブとのインダクタンスは1/100ほどまで低減されている。またターンオン時の電流上昇率に対する耐量が向上し、アノードリアクトルも不要となる。近年はPIN接合やSiC(Silicon Carbide: 炭化ケイ素)を用い、110kVA級の容量を持つインバータ装置が関西電力と英Cree社の共同開発によって実現されている[5]。逆導通形 (Reverce conducting GCT: RGCT) や電圧形インバータとして逆導電形もラインナップされている。 現在の用途はもっぱら圧延機の駆動用だが、これをさらに改良したIntegrated GCT (IGCT) サイリスタを用いた高速列車が韓国高速鉄道KTXの次世代車両HSR-350xとして試作された。時速352.4km/hを記録したが、素子の破壊を繰り返したためIGBTへの移行を検討している(最終的にIGCTを採用)。 構造 GTOサイリスタではケースから引き出されたゲート電極を介してゲートドライブに接続されていたのに対し、GCTサイリスタは積層構造を基本とし、ゲート電極がリング状の金属板として基盤に積み重ねられている。基盤には数千個にも及ぶサイリスタが同心円状に並列接続されている点と、ゲート電極がカソード電極を囲んでいるのはGTOサイリスタと同じである[6]。上述の韓国高速鉄道が採用したIGCTは集積化ゲート転流型サイリスタ(Integrated GCT)のことで、GCTとそれを駆動するゲートドライブを積み重ねて一体化したものである。 ターンオフはサイリスタに流れてくる電流すべてをゲート回路に向けて流すことで行う。ゲート電極をリング状とすることで点ではなく線で接触するため、半導体の広い範囲に電圧をかけることが可能となり高効率となった。なお、金属板のゲート電極と線状のゲート電極は互いに動くことができるよう弾性材によって押し付けられている[6]。 逆方向阻止電圧耐性を持たないのも特徴で、逆阻止能力を持たせた逆阻止形GCTサイリスタ (SGCT: Symmetrical GCT) もラインナップされている。 光トリガサイリスタ(光サイリスタ) 光トリガサイリスタ(光サイリスタ)は、光信号によって直接点弧させるサイリスタである。 制御回路と電力回路とを完全に絶縁でき、ノイズによる誤動作を少なくすることができるので、高電圧の交流電源回路に用いられる。具体的な適用例として、周波数変換設備 (FC: Frequency Converter) や直流送電設備 (HVDC: High Voltage Direct Current) における交直変換装置、無効電力補償装置 (SVC)、大容量回転機の始動装置 (SS) などがあげられる。 静電誘導サイリスタ 静電誘導サイリスタは、高速で大電流を制御可能な半導体素子である。 トリガ電圧が低く、ターンオフが速やかで自己制御型のGTOのようなON-OFF素子で東洋電機によって1988年に発売された。静電誘導素子の一種で高出力、高周波数の電力用半導体素子である。実質的にはp+の電極状のゲート構造を備えたp+nn+ダイオードである。素子の構造はアノード側に付加されたp+層以外は概ね静電誘導トランジスタと同じ。 通常は導通状態でOFFにするためには負の電圧を付加する必要がある。静電誘導サイリスタの導通状態はPINダイオードの挙動に似る。 双方向サイリスタ(トライアック:TRIAC) 双方向サイリスタ(そうほうこう さいりすた)は、相補的な2個のサイリスタを逆並列に接続する構成をとることで、双方向に電流を流すことを可能とし、直流だけでなく交流でも使えるようにしたものである。実際の素子は、2個の素子を接続したものではなく図に示すようなモノリシック構造となっている。TRIACとは、Triode AC Switchの略であり、1964年にゼネラル・エレクトリック社で初めて開発された。 ダイアックを点弧素子として交流の双方向スイッチング制御に用いられる。 参考文献 - 社団法人 日本機械工業連合会 関連項目 ユニジャンクショントランジスタ - ゲート信号の発信機として多用されたほか、プログラマブルUJTはサイリスタに似た構造を持つ。 チョッパ制御 半導体リレー
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日本選手権優勝チームに賞金は出る?
日本選手権シリーズ
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日本選手権シリーズ(にほんせんしゅけんシリーズ、にっぽんせんしゅけんシリーズ、通称:日本シリーズ)は、日本プロ野球のペナントレース終了後、クライマックスシリーズ優勝チームによって行われる、各年の日本一のプロ野球チームを決める試合である。正式名称は<b data-parsoid='{"dsr":[605,624,3,3]}'>プロ野球日本選手権シリーズ[1]。 概要 1949年のプロ野球のリーグ分裂を受けて、翌1950年にセントラル・リーグとパシフィック・リーグのそれぞれの当年の優勝者が野球界の「日本一」の座をかけて対戦するシリーズとして創設された。2007年にクライマックスシリーズ制度が導入され、リーグ戦の結果とは無関係に同シリーズの優勝チーム同士によって行われるようになったことで、プロ野球の年間王者を決めるという創設当初の性質は薄くなっている。初年度以降、中止になった年はない。 2005年 - 2013年の間は、本シリーズの優勝者がさらに『アジアシリーズ』・『日韓クラブチャンピオンシップ』に日本代表として参加した。 なお、1リーグ時代に春季優勝チームと秋季優勝チームが対戦して年間チャンピオンを決める試合もあったが、一般にはこの1950年に始まる日本シリーズが一般的であるため、本項においても1950年以降の試合について述べる。 運営概要 主催 レギュラーシーズンやクライマックスシリーズと異なり、全試合日本野球機構(NPB)主催である。入場料収入の一部は球団に分配され、さらに選手らにも第4戦までのものを基準に分配される[2]。 大会日程 両リーグのチャンピオンが決定した後、毎年10-11月ごろに行われる。 ゲームは7戦4勝制(番勝負参照)。先に4勝したチームが日本一となり終了、以降の試合は行われない。 西暦の奇数年はパ・リーグの出場チーム、西暦の偶数年はセ・リーグの出場チームが第1・2戦と6・7戦をホームで開催、相手方のチームが第3・4・5戦をホームで開催する。第2・3戦の間と第5・6戦の間は、移動日として空白日が挟まれる(奇数年ならパパ・セセセ・パパ、偶数年ならセセ・パパパ・セセ)。 雨天等で中止になった場合は、2006年までは移動日を含め全ての日程が順延となっていたが、2007年からは第5戦までに雨天中止が入った時には、第5戦と第6戦の間の移動日・休養日は原則として設けない事に変更された(ただし、出場2チームの本拠地が離れていて、当日移動が難しいと判断された場合は移動日を設ける場合がある)。 引き分けなどがあり第8戦にもつれこんだ場合、第8戦は第7戦の翌日に第7戦の球場で行い(過去は1986年の1回のみ)、それでもどちらのチームも4勝に満たない場合は、更に移動日を1日挟んで、第3戦 - 第5戦で使用された球場で、どちらかが4勝を挙げるまで試合を行う。 出場チーム 2007年以降は、両リーグともに、ペナントレース後に行われるクライマックスシリーズの優勝チームが出場している。 クライマックスシリーズから日本シリーズ進出までの道のり(2007年以後) (H)-そのステージのホームチーム (☆)-隔年でホーム4:ビジター(アウェー)3の配分が異なる。(基本的に第1戦主管球団がホーム4、第3戦主管球団がホーム3の割合) 2006年以前の出場チーム セ・リーグ - 当年のペナントレースの優勝チームが出場。 パ・リーグ - 当年のペナントレースの優勝チームが出場。ただし、ペナントレースの優勝決定方式が以下の通りだった年度がある。 1973年-1982年 - 2シーズン制を取っており、両シーズンの優勝チーム同士のプレーオフにより決定。 2004年-2006年 - 上位3チームのプレーオフにより決定。 試合方式 延長戦は、第7戦までは延長12回まで、第8戦以降は回数無制限(試合時間は一律無制限)が現行のルールである(2018年から)。過去の変遷は以下。 1966年まで - 日没まで(当時は全試合デーゲーム)。 1964年(全試合ナイトゲーム) - 22時30分以降新しいイニングに入らない。 1967年-1981年 - 17時30分以降新しいイニングに入らない。 1982年-1986年 - 試合開始から4時間半を経過した時点で新しいイニングに入らない。 1987年-1993年 - 第7戦までは18回まで、第8戦以降は回数無制限(1986年のシリーズが、第1戦が延長14回引き分けで、第8戦まで行われたことをきっかけに改定)。 1994年-2017年 - 第7戦までは延長15回まで[注 1]に短縮。 1994年 - デーゲーム・ナイトゲーム併用のため、デーゲームの場合は18回まで。 2011年 - レギュラーシーズンで用いられた節電・省エネのための「3時間30分打ち切りルール」は使用しない。2011年の第1試合はデーゲームとなるが、延長は従来通り15回までの打ち切りとする。 2018年 - 第7戦までは延長12回までに短縮。 サスペンデッドゲームは適用しない。 両チームはシリーズ開始日の前々日までに「出場有資格者選手」(最大40人)の名簿を提出する。公示後はこれを変更することはできない。ベンチ入り選手の人数は公式戦と同じく最大25人で、試合ごとに有資格者の中から選ぶ。 指名打者制度は1984年までは採用せず、1985年から隔年による採用(1985年は全試合採用、1986年は全試合採用せず)としていたが、1987年からはパ・リーグの出場チームの本拠地球場でのみ採用されている。 審判は6人制が採用される。審判員は日本野球機構(NPB)審判部から選ばれた合計8人の審判員で運営されていたが、2015年から合計7人の審判員で運営される。 表彰 賞金・賞品は2018年のもの。 優勝チーム賞 日本野球機構よりペナント、チャンピオンフラッグ、優勝記念品代、内閣総理大臣杯 在京民放各テレビ局より賞金、計250万円(日本テレビ・テレビ朝日・TBSテレビ・テレビ東京・フジテレビから50万円ずつ)と共に日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京からトロフィー、フジテレビより優勝盾 最高殊勲選手賞(MVP) 日本野球機構よりトロフィー NPBパートナー6社(SMBC・コナミデジタルエンタテインメント・大正製薬・日本生命・マイナビ・ローソン)より賞金各100万円(計600万円) 敢闘選手賞 日本野球機構よりトロフィー J SPORTSより賞金25万円 、ミズノより30万円相当の商品券、ベースボール・マガジン社よりサイバーリラックスマッサージチェア(AS-1000)、JA夢みなみより、白河産特別栽培米「ひとめぼれ」、季節の野菜・果物詰合せ「四季の味」1年分25万円相当 優秀選手賞(3人) 日本野球機構よりトロフィー J SPORTS、文化放送、ニッポン放送、ベースボール・マガジン社より賞金10万円ずつ(1名に40万円ずつ、計120万円)、御幸毛織グループより高級オーダースーツ30万円相当 ホームラン賞 各試合のホームランを打った選手に対して『SMBCデビットホームラン賞』として、SMBCから賞金3万円が贈呈される。 なお2015年は『ミドすけホームラン賞(『ミドすけ』とは、冠スポンサー・三井住友銀行(SMBC)のマスコットキャラクターのこと)』として、SMBCから賞金3万円と「ミドすけ」のぬいぐるみが手渡されていた。2014年は、SMBC(2011年から2013年まではコナミ)から賞金(5万円)が贈呈された。 特別協賛賞 2011年から2013年までは特別協賛(冠スポンサー)のコナミより、上記賞とは別に以下の賞が追加された。 「みんなで選ぶコナミ賞」(賞金400万円・2011年は賞金300万円) 「ドリームナイン賞」(賞金100万円・2011年は賞金200万円) 「BASEBALL HEROES賞」(賞金100万円・2011年は賞金200万円) 「パワフルプロ野球賞」(賞金100万円・2012年より) 「プロ野球スピリッツ賞」(賞金100万円・2012年より) 「みんなで選ぶコナミ賞」は大会期間中に、コナミの大会特別公式サイト・コナミが携帯電話サイトで展開するソーシャルネットワークゲームサイト『プロ野球ドリームナイン』・アーケードゲーム『BASEBALL HEROES』の成績閲覧ページやゲーム機からのファン投票によって行い、大会終了時の表彰式で表彰選手を発表するものである(2011年は各ゲームからの投票で「ドリームナイン賞」・「BASEBALL HEROES」賞を選んだ)。 出場資格者 出場有資格者は、原則として8月31日までに出場球団(すなわち、両リーグクライマックスシリーズ優勝球団)の支配下登録されている選手のうち、その中から40人までを選ぶ。 ベンチ入りメンバーは以下を原則とする。 監督1名 監督以外のコーチ8名以内 選手25名以内 マネジャー、トレーナー、スコアラー、通訳、広報、用具担当者各1名 以上の名簿を第1戦開催前々日正午までに主催団体の日本野球機構コミッショナーに書類を提出しなければならない。この提出した名簿をコミッショナーが公示した後は原則として変更することができないものとする。 ただし、監督・コーチと選手兼任である人については、選手の数に含まれるものとみなす。 また通訳が2か国語以上必要な場合、通訳を2名登録することができる。 ブルペン捕手の登録は1試合2名までとして、各試合ごとの出場選手名簿に記載する。ただしベンチ入りは不可。[3] 各年の日本シリーズ 対戦成績はセ・リーグの35勝、パ・リーグの34勝(2018年まで)。 原則として最高殊勲選手(MVP)は優勝球団から、敢闘賞は敗退球団から表彰するが、例外として1956年の敢闘賞は優勝した西鉄から選出された。 チーム別成績 太字</b>の項目は最多数を表す。球団</b>の列のソートボタンで元の順序に戻る。 松竹は大洋(現・DeNA)に、近鉄はオリックスにそれぞれ吸収合併されたため記録としては※特記事項となる。 ギャラリー 2008年日本選手権シリーズ、西武vs巨人 内野席(2008年11月9日撮影) 同左 西武vs巨人 内野席(2008年11月9日撮影) 同左 西武vs巨人 スコアーボード(2008年11月9日撮影) 同左 西武vs巨人 表彰式(2008年11月9日撮影) エピソード 名称 第1回(1950年)から第4回(1953年)については、メジャーリーグベースボールを参考にした『日本ワールドシリーズ』という名称だった[1]。 「日本シリーズ」の”日本”の読み方について、以前は「にほん-」と読ませるのが主流だったが、2000年頃からは「にっぽん-」と読ませるように変更されている。この理由として、日本一に輝いたチームに授与するチャンピオンフラッグの旗面に「NIPPON」が縫い込まれているためとされている。なお、このチャンピオンフラッグは縦1.4メートル、横3メートルの大きさをした三角形のペナントとなっており、製作に100万円近くを費やしているといわれている[1]。 スポンサー これまで日本シリーズでは大会協賛スポンサーとなる企業・団体がなかったが、2011年から2013年までゲームソフト大手のコナミ株式会社(後のコナミホールディングス株式会社)[注 2]が大会特別協賛スポンサーとなり、大会名も『KONAMI日本シリーズ(西暦年度)(コナミ・にっぽんシリーズ)』として開催された。なお、コナミは過去に2005年-2007年に『アジアシリーズ』に「KONAMI CUP」として特別協賛したことがある。 2014年-2018年は三井住友銀行が冠スポンサーとなり、「SMBC日本シリーズ」として開催される[4][5]。なお、SMBCは本大会特別協賛を機に、2014年10月1日より本大会を主催する日本野球機構の協賛スポンサー「NPBパートナー」の締結を結んだ[6]。 試合開始時刻 かつて日本シリーズは開催される10月頃は冬に向かう時期で寒くなることから、平日であってもデーゲームで試合が開始されていた。 日本シリーズが史上初めてナイトゲームで開かれたのは1964年(第15回)の阪神タイガース対南海ホークスだった。これは東京オリンピックの開催の妨げにならないようにとの配慮で、開会式が予定された10月10日までに全ての日程を消化させることにしていた。本来は第1戦が9月29日、第7戦は10月7日であったが、セントラル・リーグの優勝決定がずれ込んだ上に雨天順延が入り、10月10日に最終戦を開催せざるを得なかった。これが影響してか、シリーズの平均観客動員は歴代最低を記録したため、翌1965年からは元のデーゲーム開催に戻すことにした。 だが平日開催ともなると会社や学校を休まない限り試合の観戦が困難となったり、テレビの視聴率の問題にも関わることから1994年(第45回、読売ジャイアンツ対西武ライオンズ)では試験的に平日開催の第3-5戦(西武ライオンズ球場)に限りナイトゲームで実施。その評判が高かったこともあって、1995年(第46回、オリックス・ブルーウェーブ対ヤクルトスワローズ)以後は全試合に拡大した。 2011年の第1戦は17年ぶりにデーゲームで行われた[7]。これは中継権を獲得したフジテレビで同日のゴールデンタイムに『ワールドカップバレー2011』を放送したためである。 コールドゲーム 2005年(第56回)の千葉ロッテマリーンズ対阪神タイガース第1戦(10月22日 千葉マリンスタジアム)7回裏1アウト、濃霧のため試合が中断し天気が回復しなかったためそのままコールドゲームとなった。天候災害でのコールドは1953年(第4回)の読売ジャイアンツ対南海ホークス第3戦の8回終了時点で降雨コールドゲームになって以来52年ぶりであるが、濃霧による中断からそのまま試合打ち切りとなったのはシリーズ史上初。 なお、コールドゲームで優勝決定となった試合はこれまで一度もない。 変則的な開催日程 開催日程および開催会場が変則的な形となった例は以下の通り。 は開催会場を試合ごとに変えて行った。第1戦から明治神宮野球場、後楽園球場、阪神甲子園球場、阪急西宮球場、中日球場、大阪球場の各球場である。この年は4勝2敗で毎日オリオンズが初代王者に輝いたが、第6戦で松竹ロビンスが勝って3勝3敗になった時は第7戦は後楽園球場で行われる予定だった(連戦か、移動日を挟むかの詳細不明)。 は第4戦までは通常通りだったが第5戦から第7戦は大阪球場、阪神甲子園球場[注 3]、後楽園球場の順で開かれた。これは当時の規定に「第1、第3、第5、第7試合と第2、第4、第6試合の使用球場は毎年両リーグが交互にこれを指定する。ただし、第1、第2試合と第3、第4試合と第5、第6試合の使用球場はそれぞれ連続して同一地域にある球場を指定する」とあったため。この年の偶数試合の球場指定権はセ・リーグにあり「大阪よりも収容能力の大きい甲子園ならば収益力が高い」との思惑を持っていたが、その思惑は外れ、入場者数は6346人であった。なおこの年は日米野球が2大会組まれた[注 4]影響もあり、本来設けられるべき移動・休養日がなく、2試合ごとに試合当日移動をこなすという強行軍だった。 、東映フライヤーズ主催による第5戦とのヤクルトスワローズ主催の4試合全ては、神宮球場の学生野球開催の都合で、後楽園球場で代替開催した。 のロッテオリオンズ主催の第3戦 - 第5戦は施設上の問題もあり県営宮城球場ではなく後楽園球場を使用した[注 3]。 、の近鉄バファローズ主催全ゲームは日本生命球場の収容人数が日本シリーズ開催基準の3万人に満たなかったこと[注 5]、藤井寺球場も照明設備が設置されていなかったことにより当時南海ホークスの本拠地であった大阪球場で代替開催した。 は両リーグの出場チームが、本拠地がともに後楽園球場である読売ジャイアンツと日本ハムファイターズだったため、全6戦が同球場で開催された(後楽園シリーズ)。 は第1戦は引き分けで始り広島東洋カープが3連勝したが、西武ライオンズも3連勝し第7戦終了時点で3勝3敗1分になってしまったため、急遽第7戦で使用した広島市民球場で初の第8戦以降を行って勝敗を決することとなった。結果は第8戦で西武が勝利し決着がついたが、当時のルールでは第8戦以降も回数無制限ではなく、仮に引き分けならば1日の移動日を設けて西武ライオンズ球場で第9戦以降も行うことになっていた。 は読売ジャイアンツと福岡ダイエーホークスで対戦することとなったが、この3年前の1997年に大規模な国際学術集会の会場を探していた日本脳神経外科学会から貸し出し依頼を受けた福岡ドームが日本シリーズの日程と重なる2000年10月24日から27日までを球団の許可なく貸し出してしまっていた。これは1997年当時ホークスは南海時代から続く20年連続のBクラスであったため、リーグ優勝の可能性が低いと見越してのものである。ところが翌1998年にAクラス入りを果たし、日本シリーズの開催可能性が高まったため球団が日本脳神経外科学会に日程変更を求めたが、各国から2万人以上の人員が集結する大規模な総会であり、すでに様々な関連の手配が終わっていることもあり断られた。そこで中内正球団オーナー代行(当時)がシリーズ開催地のセ・パ入れ替え、シリーズ日程そのものの変更、他のパ・リーグチームの本拠地球場での開催、九州内の他球場での開催等を検討・要請したが、いずれも不可能となった。日本脳神経外科学会側からも一部日程を短縮して時間帯を空けるなどの協力を得られたこともあり、「東京ド・東京ド・福岡ド・休み・休み・福岡ド・福岡ド・東京ド・東京ド」と言う移動日なしの9日間変則日程で行うことが8月21日に発表された。なおシリーズ終了後、球団は開催日程確保を怠ったとして日本プロ野球機構から制裁金3000万円(球団または個人への制裁金として最高額)を科された。 は台風14号が接近する恐れがあり、もし10月30日・10月31日のナゴヤドームでの試合が中止となった場合は、本来なら第2・3戦の間の移動日はそのままとし、第5・6戦の移動日を割愛して実質最大5連戦とする日程になるところを、テレビの全国中継が4試合しかない(第1・2・5戦は衛星放送のみ。地上波は県域放送だけ)ことを配慮する形で、第2・3戦の移動日を割愛して最大5連戦として、第5・6戦の移動日はそのままとする日程が設定されたが、台風の影響がなくなったため、この事例はなくなった。 ビデオ判定 2015年・第5戦、福岡ソフトバンクホークス・李大浩の打球は左翼ポールの上を通過し、左翼線審はポールを巻いたとして本塁打と判定したが、東京ヤクルトスワローズ・真中満監督から「ファウルではないのか」と物言いがつき、審判団による7分にも及ぶビデオ判定を経て、判定は覆らず本塁打となった。なお、NPBにおいて2010年にホームランを巡るビデオ判定が導入されて以来、シリーズでのビデオ判定は史上初[注 6][8][9]。 2016年・第2戦では同年より導入された本塁クロスプレーでのビデオ判定が行われた。6回裏、無死二塁の場面で広島東洋カープ・菊池涼介がバントの構えからバスターに切り替えて打った打球はレフト前へ抜ける。これを見た二塁走者の田中広輔は本塁へ向かった。日本ハム左翼手・西川遥輝から捕手・大野奨太へ際どいタイミングで返球され、球審の白井一行はアウトと宣告した。これに広島・緒方孝市監督がビデオ判定を要求、審判団の協議によりビデオ判定が行われた。その結果、「大野のタッチより先に田中の手が本塁に触れていた」として、判定を覆して田中の生還を認めた[10]。 同年では2016年・第5戦にも、2回表、無死一塁の場面で広島の下水流昂が札幌ドームフェンス上で跳ね上がる打球を放つ。審判はインプレーと判定し、一塁走者小窪哲也・打者下水流はそれぞれ三塁・二塁上で止まったが、緒方監督が本塁打ではないかとビデオ判定を要求した。審判団はビデオ判定の結果、打球はフェンストップで跳ね返ったものと判断し、判定は覆らず、無死二・三塁で試合は再開された。 全試合同一都道府県内での開催 の開催は両リーグの出場チームが、文京区の後楽園球場に当時本拠地を置いていた巨人と、荒川区の東京スタジアムを当時本拠地としていたロッテであり、全試合が東京都での開催となったため、史上初めて同一都道府県内のみでの開催となった(東京シリーズまたはgoシリーズ)。同一都道府県での日本シリーズはこの1970年と上述の(後楽園シリーズ)の2例のみ。2015年現在は、2008年にオリックスが大阪府をフランチャイズ[注 7]とし、セ・パ両リーグの球団がともに本拠地を置く都道府県がないため、通常のフランチャイズ制度下では同一都道府県で開催されることはない。 テレビ放送 地上波系列全国放送 2010年までは基本的にホームゲームの球団が推薦した放送局と直接交渉し、その放送局の属するネットワークにより全国生中継された(通常レギュラーシーズンの放送を頻繁に行う局が推薦され、生放送される)。しかし2010年の日本シリーズで地上波全国中継が実施されない試合が3試合あったことを受けて、2011年は進出球団が放送局を推薦したうえで、テレビ中継協賛スポンサーの広告代理店にその放送局への中継交渉を行う方式をとった[11](それでも、通常レギュラーシーズンの放送を頻繁に行う局が優先的に推薦されることに変わりはない)。これ以降の中継では放送局の番組編成の都合から、試合開始時間が繰り上がる事例が発生している(2011年の第1戦、2016年の第5戦)。 セントラル・リーグの球団では、読売ジャイアンツ(日本テレビ)、中日ドラゴンズ(CBCテレビ、東海テレビ、テレビ愛知、三重テレビ)、東京ヤクルトスワローズ(フジテレビ)、横浜DeNAベイスターズ(TBSテレビ)といったように特定の放送局に本拠地主催試合の放映権が与えられている。これらの球団が日本シリーズに出場した場合、レギュラーシーズン同様に放映権もこれらの放送局の属するネットワークの系列局が必ず推薦される。特に読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズの場合は新聞社系列故に系列外局に対する締め出しが非常に強く、放映権が与えられていない放送局には日本シリーズの放映権も推薦させないほどの徹底ぶりである。 阪神タイガースと広島東洋カープについては各局に放映権が均等に分配されているが、阪神タイガースの場合は朝日放送テレビが水曜日と日曜日の試合の放映権を優先させており、阪神タイガースが日本シリーズに出場した場合の放映権もそれを踏襲している。従って、セ・リーグ球団の開催試合においては、テレビ朝日・ANNネットワークの系列局が推薦されるのは、阪神タイガースが日本シリーズに出場した場合の水曜日と日曜日の試合、広島東洋カープが出場した場合、東京ヤクルトスワローズが出場し、フジテレビが独占しなかった場合の本拠地開催の一部試合にほぼ限定される。 千葉ロッテマリーンズなどパシフィック・リーグの一部球団が進出した場合、テレビ東京・テレビ東京系列の局が推薦される場合があり、その場合は系列局が少ないため地上波で生中継を見られる地域は他系列に比べ大幅に少なくなる(セ・リーグ側はこれまで中日ドラゴンズが進出した場合のみに放送権を得ている)ため、衛星放送のNHK BS1(以前はBShiも)での放送で補完することになる(テレビ東京系列のBSテレ東での放送は現状未実施)。 過去にテレビ東京は次の試合を放送している 1970年・ロッテ対巨人(第3・4試合。第4試合はNHK総合テレビ並列) 1974年・ロッテ対中日(第5試合) 2003年・ダイエー対阪神(第7試合。制作・TVQ九州放送) 2005年・ロッテ対阪神(第2・7試合。但しロッテ4連勝のため第7試合はなし) 2006年・日本ハム対中日(第4試合 制作協力・テレビ北海道) 2007年・日本ハム対中日(第2・5試合。第2試合は制作協力・テレビ北海道 第5試合はセ・リーグ側のホームゲーム 制作協力・テレビ愛知) 2009年・日本ハム対巨人(第7試合 制作協力・テレビ北海道 予定されていたが、前日の第6試合で巨人が優勝を決めたためなし) 2010年・ロッテ対中日(第4試合 第1試合=セ・リーグ側ホームゲームもテレビ愛知が放送権を得たが、全国中継せず。仮に第8試合にもつれた場合はテレビ愛知協力による全国放送となる予定であった) 2011年・ソフトバンク対中日(第2・5試合 第2試合は制作協力・TVQ九州放送 第5試合はセ・リーグ側のホームゲーム 制作協力・テレビ愛知) 2015年・ソフトバンク対ヤクルト(第2試合。制作協力・TVQ九州放送) 1970年と1974年は日中の開催で、一部の局ではローカルセールスの時間帯であったことから、特に東京12チャンネルとの結びつきが強い地方局への番組販売(中京圏は本来なら日経資本の中京テレビで中継されるものだったが、UHFの視聴世帯がまだ少なかったため、名古屋テレビで中継。近畿地方は1970年の第3戦と1974年の第5戦は当時クロスネット局の関係にあった毎日放送(MBS)で、1970年の第4戦は当時から東京12チャンネルの準キー局扱いであった近畿放送・サンテレビで中継)にて同時放送が行われた。 しかし、ナイトゲーム開催以後の6回(試合自体がなかった回は除く 以下同文)の中継は系列局の編成の都合から生放送はTXN系列5局と中京・近畿の独立県域局を視聴できる地域に限られており、2003年は地方局には90分に編集した録画中継版を販売して当日深夜(翌日未明)に放送した局もあったが、2005年以降はそれも行われず、系列のない大多数の県ではTXNの実況を見られない状態となっている(BSジャパン・TX系列のCS(AT-Xや日経CNBC)でも中継されていないため)[注 8]。また系列局はあっても中継局がないなどの理由で視聴できない地域や(特にテレビ北海道)、ケーブルテレビの区域外再放送でも視聴できない地域があることから(技術の問題、地元系列局の反対等)、「全域で放送できなければ放送権を取るな!」という苦情もある。特に2003年や2007年のように、中継権を得た試合が優勝決定戦になるとその傾向が強まる。 1999年・ダイエー対中日も一度第7試合をテレビ東京系列(制作・TXN九州)で放送することが決まっていたが、系列局が少ないのと、衛星放送の普及が進んでいない(当時のBS民放は有料放送のWOWOWのみだった。民放キー局系の無料放送を含めデジタル放送の開局は2000年12月1日)という理由でANN(九州朝日放送)に移譲したことがあった。しかし、ダイエーが4勝1敗で優勝し、第7戦そのものが開催されなかった。 また、1998年に日本ハム[注 9]、2001年にダイエーがそれぞれ進出した場合、1998年は第4戦、2001年は第7戦の放送が検討されていたが、優勝を逃したため実現に至らなかった。 なおANN(NET→ANB→EX)系は1970年代後半のUHF局開局以後1990年代の平成新局の開局ラッシュ時まで、基幹都市から段階を追い、最終的に基幹都市以外の地方系列を増やしているが、系列局が少なかった時代はその推薦をなかなか受けられなかったため中継ができた試合は限られた。特に南海ホークスと結びつきの強い毎日放送が1975年3月30日の腸捻転ネットチェンジが解消するまではANN(NET)の系列だったことから毎日放送発の南海戦の日本シリーズの放送は1959年の対巨人戦の第1・2戦[注 10]、南海戦以外では1962年・阪神対東映の第1・6・7試合の3試合のみで、合計5試合に留まった[注 11]。 また、NHKでも1991年までは主に最速で優勝が決まる第4試合を中心に(例外あり)NHK総合テレビで生中継されていたが、衛星放送の普及による番組編成の見直しから地上波での放送は91年以降行われていない。独占放送は前述・1974年の中日対ロッテ第6戦(ロッテが優勝を決めた試合)を最後に途絶えている。 県域独立局 1985年・阪神対西武の第3・5試合が兵庫県域局のサンテレビ(兵庫県ローカル)で放送された。独立県域局ではネット受け以外で史上初の放送権となったが、この時は第3戦が朝日放送、第5戦はよみうりテレビとの並列放送だったので、独占放送ではなかった。なおこの後2003年・阪神対ダイエー、2005年・阪神対ロッテの2回はサンテレビが主管試合の放映権を得ることはなかったが、兵庫県内では隣府県のTXN系県域局のテレビ大阪・テレビせとうち[注 12]が受信できない地域への配慮としてテレビ東京製作のそれぞれパ・リーグ側主管試合(2003年第7試合、2005年第2試合)をネットしている。 2010年は第1・2・5試合は地上波全国中継が行われなかった。中部日本放送(CBC)の系列局であるTBS系列に優先権があったが、時間帯が『世界バレー』中継と重なったことからTBSは放送権を獲得しなかった。第1戦はナゴヤドームがある愛知県ローカル局のテレビ愛知[注 13]、第2戦は中京広域圏の東海テレビで、第5戦は千葉マリンスタジアムがある千葉県の県域独立局の千葉テレビでは千葉県ローカルで放送された。前述・阪神対西武の試合が広域放送(準キー局)との並列だったが、この試合の地上波放送は千葉テレビだけであるため、当初は史上初の「県域独立局独占中継」となる可能性があった。その後、第5戦の中継に関しては、11月3日に中部日本放送が急遽自社制作を実施し東海地方ローカルでの放送を受け持つことになり、千葉テレビ制作の中継が三重テレビにも同時ネットされることとなった[12]が、それでも関東地方では千葉テレビだけでの放送であり、キー局を含め「関東地方テレビ局独占中継」の形となった。 衛星放送 系列局ごとによって対応が異なる。プロ野球中継放送実績の無い放送局は原則として省略する。 CS放送 日本テレビ系列 読売ジャイアンツ(巨人主催全試合)または巨人以外の他球団が出場する試合を系列局[注 14]が放映権を獲得した場合、日テレジータスを通して完全生中継及び深夜に録画中継(地上波同内容)。日テレプラス ドラマ・アニメ・スポーツは放送なし[注 15]。 テレビ朝日系列 テレ朝チャンネル2(2012年は朝日ニュースター)で地上波と同じ内容で完全録画中継。なお同じテレビ朝日直轄のテレ朝ch1は編成の特殊性の関係で放送実績なし。更に2011年まではテレビ朝日系製作の試合は、同系列の朝日放送(現:朝日放送グループホールディングス。認定放送持株会社移行並びに分社化のため、テレビ事業自体はその子会社の朝日放送テレビに継承)傘下のスカイ・エーで放送された[注 16]。 TBS系列 TBSチャンネル2で地上波と同じ内容で完全録画中継。2013年までは編成の特殊性の関係で放送実績がなかった。(なお、2013年まではTBSニュースバードで同趣旨を行っていた<過去中日・ソフトバンク主催試合で実績あり。但し2011年の一部の試合は地上波での放送は実況を差し替えてあった>が、ニュースバードでの放送は同年度[注 17]をもって終了となっている)。なお、同じJNN系列の毎日放送の親会社(認定放送持株会社)であるMBSメディアホールディングス傘下のGAORAでは放送実績なし。 テレビ東京系列 CSでの放送実績なし(直轄の日経CNBCとAT-Xはそれぞれ編成の特殊性の関係上、放送できない。)。 フジテレビ系列 フジテレビONE(739)またはフジテレビTWO(721)で地上波と同じ内容で完全生中継(都合により録画中継した試合あり)。 その他 2010年は地上波全国放送が行われない試合があったため、J SPORTSで第1・2・5試合を自主制作(うち、第1戦はテレビ愛知の映像提供を受けて)で放送した。 FOX SPORTS ジャパンは放送実績なし。 BS放送 NHK NHK-BSでは1998年・2002年を除いて放送実績がある。特に地上波でテレビ東京系の中継を行う場合は未放送地域へのカバーとして必ず行われる。2009年以降、BSではNHK BS1のみでの放送となり、他BS局では2012年のBS日テレでの録画ダイジェストを除いて放送されなくなった[注 18]。 BS1 1989年 - 1993年(全試合中継録画)、1994年(第4・6戦。第1・2・3・5戦は中継録画)、1995年(第4戦)、1996年(第3戦)、1997年(第4戦)、1999年(第1・2戦)、2000年(第4・5戦)、2007年(第2・5戦)、2009年(第1・2・3・6戦)、2010年(第1・2・3・4・5戦)、2011年(第2・5・6・7戦)、2012年(第2・3・4戦)、2013年(第2・3・6・7戦)、2014年(第2・3・4・5戦)、2015年(第1・2・3戦) BShi 2008年(第1・6・7戦) BS1・BShi同時放送 2001年(第2戦)、2003年(第1・2・4・5・7戦)、2004年(第2・7戦)、2005年(第2戦)、2006年(第2・4戦) 日本テレビ系列 BS日テレでの放送実績なし(ただし2003年(第2戦、第5戦)、2012年(第1戦、第6戦)、2013年(第4戦、第5戦)は1時間のダイジェスト版として放送)。 テレビ朝日系列 BS朝日で2001年(第1・4戦。後者録画)、2002年(第3戦)、2003年(第3・6戦。後者録画)は完全中継で、また2006年(第3・5戦)、2007年(第1戦)、2008年(第2-5戦)はそれぞれ1時間のダイジェスト版を放送した。 TBS系列 BS-TBSでBS-i時代の2002年(第4戦)、2004年(第5戦)に放送実績がある。 テレビ東京系列 BSテレ東ではBSジャパン時代から放送実績なし。 フジテレビ系列 BSフジで2001年(第3・5戦)、2004年(第6戦)の放送実績がある。 その他 BS11・TwellV・FOXスポーツ&エンターテイメント・J SPORTS[注 19]での放送実績なし。 ラジオ放送 日本シリーズはNPB主催のため、レギュラーシーズンの放送権の有無に関わらず平等に中継することができる。2004年現在はJRN系列における東京ヤクルトスワローズのホームゲームが該当する。放送権は原則としてシリーズ全試合が対象。 NHKラジオ第1放送[13][注 20]と文化放送、ニッポン放送は毎年生中継を実施、そのうちニッポン放送は開催球場問わず全試合自社制作となり(特に1989年以降)、朝日放送ラジオと毎日放送は毎年、東海ラジオは中日が連覇した(2010年と2011年)以降もカードに関わらず日本シリーズを試合開始30分前から完全中継している。 なお、シリーズ期間中はナイターオフ編成のため、レギュラーシーズンとネットワーク編成が異なる上、ネット受けの放送を行わない局も出てくる。また、地元球団がある局では当該球団が出場した場合のみ放送する局もある。 ラジオ大阪は2006年以降[注 21]、TBSラジオは2018年以降[注 22]、放送は行っていない。RFラジオ日本は2013年以降読売ジャイアンツのホームゲームのみ放送[注 23]。 1988年の中日の優勝の翌年以降もカードに関わらず日本シリーズを中継していたCBCラジオは2018年から中日が出場しない場合は中継しないことになった。 FMについては、埼玉西武ライオンズが進出した場合のみ、NACK5で放送する。 インターネット配信 AbemaTVでは開局した2016年以降、出資元のテレビ朝日が中継する試合において独自の実況・解説を付ける形で同時配信を行っている。そのほかのキー局が出資元となっているインターネット配信業者においても2018年から、Hulu(日本テレビ)、Paravi(TBS)、フジテレビONEsmart(フジテレビ)にて同時配信を行うようになった。 その他備考 第2次戦力外通告は原則クライマックスシリーズ終了の翌日から日本シリーズ終了の翌日までだが、日本シリーズ出場チームは期限が4日間延長される。 脚注 注釈 出典 関連項目 セントラル・リーグ パシフィック・リーグ セ・パ交流戦 オールスターゲーム (日本プロ野球) クライマックスシリーズ 外部リンク - NPB.jp 日本野球機構 (より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
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ソビエト連邦が崩壊した要因は何?
ソ連崩壊
japanese
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ソ連崩壊(ソれんほうかい、)とは、1991年12月のソビエト連邦共産党解散を受けた各連邦構成共和国の主権国家としての独立、ならびに同年12月25日のソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビエト連邦が解体された出来事[1][2]である。 概要 1917年11月7日のロシア革命(十月革命)からロシア内戦を経て1922年12月30日に成立したソビエト連邦は、69年後の1991年12月25日に崩壊した。同日、ソビエト連邦に比して規模が小さいロシア連邦が成立した。かつてのソビエト連邦を構成した国々は、それぞれが独立国として別々の外交政策を採り始めた。 ソビエト連邦が解体され、CISという緩やかな国家同盟へと変容した。 ロシアの歴史を見ても、現在まで続くロシア連邦は、ソビエト連邦成立以前のロシア帝国の後継国家として、自国の起源を定義しており、一党独裁については明確に否定した上で自由選挙を行う共和制多党制国家となった。正式な国旗や軍旗などもロシア帝国時代の物を採用している。 アメリカ合衆国が名実共に唯一の超大国となり、アメリカ単独覇権の時代が始まった。 核兵器という究極兵器を持つ国家が、軍事的に衰弱しないまま崩壊した。これは国際政治学でのパワーポリティクス(現実主義)への批判を招いた。(ハード・パワーからソフト・パワーへの移行) ソビエト連邦の崩壊は、これら4つの意味を持つ大事件である。社会主義の実現を信じていた西側諸国内のソ連型社会主義政党や政治学者はイデオロギー的に敗北し、冷戦時代にソビエト共産党から受けていた資金提供などの実態がロシア連邦政府による情報公開によって暴露された。また、ソ連型社会主義とは一線を画するユーロコミュニズム政党だったイタリア共産党も解党し、日本共産党名誉議長だった野坂参三は1930年代のソ連滞在当時に同志の山本懸蔵を密告した事実が判明、満100歳を超えていながら党を除名された[3]。 独立国家共同体の設立 マルクス・レーニン主義者などの守旧派による8月クーデター失敗後、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国もソビエト連邦からの離脱をで決定し、12月8日に急遽行われたロシア共和国、白ロシア、ウクライナの代表者による秘密会議においてベロヴェーシ合意が宣言され、3ヶ国のソビエト連邦からの離脱とEUと同レベルの共同体の創設が確認された。その後の12月21日、ロシアを始めとした12共和国が、ソビエト連邦に代わる新しい枠組みとして独立国家共同体(CIS)の設立を宣言するアルマ・アタ宣言に調印したことで、ソビエト連邦はその存在意義を完全に喪失した。 こうした中で、12月25日19時の会見で、ミハイル・ゴルバチョフはソビエト連邦大統領の辞任を表明し、辞任と同時にクレムリンに掲げられていたソビエト連邦の「鎌と鎚の赤旗」の国旗も降ろされ、これに代わってロシア連邦の「白・青・赤の三色旗」の国旗が揚げられた。翌日12月26日にはソ連最高会議でソ連の消滅が確認された。 脚注 関連文献 Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) 関連項目 ロシアの歴史 共産主義 - 反共主義 独立国家共同体 現代 (時代区分) 歴史の終わり 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%B4%A9%E5%A3%8A
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家庭用ゲーム機を初めて開発した会社は何?
ゲーム機
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コンピュータゲーム機(コンピュータゲームき)とは、コンシューマーゲーム機、テレビゲーム機、携帯型ゲーム機、アーケードゲーム機などといった、コンピュータゲームを動作させるためのハードウェア機器の総称[1][2][3]である[注 1]。 概要 ここではゲーム機と呼ばれているものがどのようにして確立したかを年代順に簡略に述べる。 ゲーム機が誕生した1970年頃には、コンピューターと言えばメインフレームや、せいぜいミニコンであり、大企業<!--軍-->や大学や、それらあるいは軍の研究所で使われる高価なシステムしかなかった。初期のコンピューターゲームで最も有名なものとしては、ミニコン上で書かれ不特定多数の大学生に遊ばれた宇宙戦ゲーム『スペースウォー!』が挙げられる[4]。その後、ゲームは4つの道を通って発展した。 店頭に設置して有料で遊ぶ「アーケードゲーム」 消費者が家庭で楽しむ「テレビゲーム」 パソコン上でアプリケーションの一種として動作する「パソコンゲーム」 電卓の技術を応用して作られた「電子ゲーム」 1972年、史上初のビデオゲーム機が登場するが商業的に成功せず、最初に商業ゲームとして成功したのはアタリのアーケードゲーム『ポン』だった[5]。ビデオゲームは、それまでゲームセンターで人気を博していたピンボールを瞬く間に駆逐した。アーケードビデオゲームは次第に内容が複雑化していき、ワイヤードロジックの回路では実現が難しくなるにつれマイクロプロセッサーが採用されるようになっていった。1970年代中盤に登場した最初期のテレビゲーム機(第1世代)は、それらのアーケードゲームを家庭で手軽に楽しむためのものであった。当初のテレビゲーム機は、初期のアーケードゲーム同様にワイヤードロジックで構成されていたため、1ハード1ゲーム、もしくは複数のゲームをスイッチで切り替える方式だった。第2世代(1970年代後半 - 1980年代前半)では、1つのハードでさまざまなゲームをプレイしたいというユーザーの欲求に応えるため、ハードにゲームソフトを組み合わせることで、コンピューターゲームをプレイすることができるシステムが採用された。ソフトの供給メディアはカセットテープを採用したマシンもあったが、Atari 2600はカートリッジでプログラムを供給するカートリッジ交換式のシステムを採用し、それが標準となった。1979年には史上初のサードパーティーが誕生し、ここで、ゲーム機本体を販売する産業とは別に、ゲームのプログラムそのものを販売して利益を上げるゲーム産業が誕生した。このAtari 2600によってテレビゲームのイメージがほぼ確立されたが、1982年にいわゆるアタリショックが起きた[6]。 1977年には、各社からパーソナルコンピュータ(8ビットパソコン)の販売が始まった。この頃すでにテレビゲームやアーケードゲームは存在しており、パソコンのユーザはこれらのアーケードゲームを無料で楽しむために、アーケードゲームを真似たパソコンゲームを競って自機上にプログラミングし、互いに交換しあった。パソコンゲームはその後アドベンチャーゲームやロールプレイングゲーム、シミュレーションゲームといった、同時代のアーケードゲームやコンシューマーゲームとは異なる分野で発展を遂げていくことになる。 1970年代後半のマイクロプロセッサの、主にその速度はグラフィックを扱うには不足していたため(例えばNTSCのグラフィック表示にはドットクロック12〜15MHz程度が必要であり、当時のマイクロプロセッサでは力不足[7])、当時のゲーム機・パソコン・アーケードゲームのいずれも映像表示周辺は独自に作り込まれた設計となっており、それぞれの機種の個性となっていた。画像処理機能も含め、ゲーム向け機能の代表的なものはスプライト(オブジェクト)機能やスクロール機能などのハードウェア支援であろう。いずれも目的や想定するユーザー層などとコストの兼ね合いでこのあたりの機能と性能は決定されるため、目的のゲームに特化して設計されるアーケードゲーム機の回転機能などは花形であった。ゲーム機・パソコン・アーケードゲームが個々に独自のアーキテクチャを持つ傾向はその後も続いた。 1970年代後半には携帯型ゲーム機も人気となった。1979年には既にカートリッジ交換型携帯型ゲーム機が登場していたが、当時は技術的な制約から他の形態と比べて十分な製品を作れずにいた。かわりに主流となっていたものが電子ゲームと呼ばれるものであった。電子ゲームとは電卓の技術を応用したもので、アーケードゲームやパソコンゲームとはまったく別系統に生まれたものである。表示装置としては特定の形状を表示する液晶や発光ダイオードが使われた。汎用のグラフィック表示機能を備えておらず、必然的に1ゲーム1ハードが基本であった。 第3世代(1980年代前半 - 1980年代中盤)では、エレクトロニクス技術の進歩によって、テレビゲーム機にも簡略化・低価格化を施されたスプライト機能とハードウエアスクロール機能が追加されていった。任天堂のファミリーコンピュータは、サードパーティーによるソフトウェアの製造をライセンス(ゲーム機メーカがサードパーティーにゲームソフトウエア開発・販売を許諾する)形式にし、ゲームソフトメーカからのライセンス収入を見込むことでゲーム機のハードウェア自体を低価格で販売することができ、それによりゲーム機所有者数が増えることでゲームソフトメーカも恩恵を得ることができた。 1980年代後半には、パソコンの性能向上速度が加速し最新機種が入れ替えられていったために、ゲームに対するパソコンのプラットフォーム性が失われた一方、相対的に機種変更頻度が少ないゲーム機はそのプラットフォーム性が高まった。パソコンやゲーム機などで、単一の機種が長期的に基本性能が変わらないまま販売され続ける(商品寿命が長い)と、その機種はひとつのプラットフォームとして認識され、その機種で他機種用のゲームを遊べるよう<!-- サードパーティーによって ... オリジナル開発元も他機種展開した -->多くのソフトウェアが製作された(いわゆる移植)。「プラットフォームハードウェアと多数のソフトウェア」という手法は、ハードウェアの進歩や新しいプログラミング手法の導入(これらのゲーム機のソフトはほとんどがアセンブリ言語で記述されていたが、世の中のプログラミングはC言語などに移行しつつあった)を阻害するものではあったが、ゲームソフトという特定の先鋭分野における競争と技術開発を促進することでゲームソフト業界を急速に発展させる一因にもなった。第4世代(1980年代後半 - 1990年代前半)ではさらにゲームソフトの技術力や表現力が向上し、より高性能のハードウェアが求められるようになり、ゲーム機専用のプロセッサ類が設計されるようになった。それまでのゲーム機は、パソコン用チップや汎用製品を流用したものが多かったが、この時代になるとゲーム機はゲーム用途としてはパソコンをはるかに凌ぐ性能を持つとのイメージが確立された。また、他のハードウエア形態と遜色がない十分な性能をもつ CPU とグラフィック表示装置を備えるカートリッジ交換型の「携帯型ゲーム機」がこの頃に発売され、人気を得るようになった。なお、2000年代以降のゲーム機では再び据置機(テレビゲーム機)・携帯機・アーケードゲーム・パソコンゲームの区別が曖昧となるが、下記<!--の第6世代以降-->で詳しく述べる。 略史 世代分けについては、英語版ウィキペディアにおける「Video game console」(en:Video game console を参照)にだいたい相当するもの、すなわち、「コンシューマーゲーム機」「家庭用ゲーム機」「ゲーム専用機」[注 2]等と呼ばれているものに関しての話題を主として扱う。 マイナーなものまで含めれば多種多様のさまざまな形態がある[注 3]ものの、この項ではひとまず各機種を据置機(いわゆるテレビゲーム機)と、携帯型ゲーム機のふたつに分類している。 世代については、英語版ウィキペディアが「First generation」から「Eighth generation」まで分類しているためそれに沿っているが、ここで見られる世代分けは日本のゲーム研究等ではあまり見られず、また英語による資料においても異同が見られる[8][9]。 据置機 第1世代 1970年代前半 - 中盤を、この記事では「第1世代」とする。 第1世代の据置機 オデッセイ ホーム・ポン<br/>(テレゲームズ) カラーテレビゲーム15 1972年に史上初の家庭用ゲーム機とされる『オデッセイ』がリリースされた。オデッセイはCPUではなく、アナログ回路で電子ゲーム機能を実現していた。オデッセイを参考にして製作したビデオゲーム『ポン』をアーケードで大ヒットさせたアタリが、テレビに接続するだけで家庭でもポンが楽しめる『ホーム・ポン』を1975年にリリースし、大ヒットとなった。これによって家庭用ゲーム機という存在が広く知られ、「ポンクローン」と呼ばれるポンのコピーゲーム・亜流ゲームが、大手から中小までおびただしい数の玩具メーカーからリリースされた。日本ではオデッセイを発売したマグナボックスと提携したエポック社と任天堂からゲーム機が発売されたが、これらもポンクローンと呼ばれている。アタリが1976年に発売した『ブレイクアウト』(ブロック崩し)なども多くのクローン機が出回った。これらのゲーム機が最初期に現れたゲーム機、すなわちゲーム第1世代と呼ばれる。この時代はソフトがハードに組み込まれていて、後からソフトを買い足すことはできなかったが、スイッチで複数のゲームを切り替えることができるもの、切り替えカードを追加購入することでオプションのゲームをプレイできるものもあった。 オデッセイ(マグナボックス、1972年) ホーム・ポン(アタリ、1975年) ポンクローン テレビテニス(エポック社、1975年) テルスター(コレコ社、1976年) カラーテレビゲーム15(任天堂、1977年) ブレイクアウトクローン テレビブロック(エポック社、1979年) カラーテレビゲーム ブロック崩し(任天堂、1979年) その他 TV JACK(バンダイ、1977年~1978年) TV FUN(トミー工業、1977年~1978年) システム10(エポック社、1978年) カラーテレビゲーム レーシング112(任天堂、1978年) テレビ野球ゲーム(エポック社、1979年) テレビベーダー(エポック社、1980年) コンピュータTVゲーム(任天堂、1980年) 第2世代 1970年代後半 - 1980年代前半を、この記事では「第2世代」とする。 第2世代の据置機 チャンネルF Atari 2600 VC 4000 インテレビジョン コレコビジョン 1976年、フェアチャイルドがチャンネルFを発売した。チャンネルFはROMカートリッジを差し込むことで様々な種類のゲームを楽しむことができる最初の家庭用ゲーム機であった[10]。マグナボックスも1978年に同様のシステムを採用したゲーム機Odyssey²を発売した。アタリも1977年にAtari 2600(VCS)を発売した。『スペースインベーダー』などの人気アーケードゲームのコンシューマ移植をキラータイトルとし、1980年頃にはアメリカにおいて爆発的な人気を博した。さらに、1979年にアタリからアクティビジョンが独立してゲーム史上初のサードパーティーとなって以後、続々と誕生するサードパーティーのソフトを積極的に受け入れるビジネスモデルを確立した。北米では他にインテレビジョンやコレコビジョンも人気となり、欧州ではドイツのインタートンによるVC 4000なども人気を博した。しかし1982年のクリスマス商戦で決定的な市場崩壊(いわゆるアタリショック)を起こした[6]。Atari 2600のみならずアメリカのゲーム機市場(パソコンゲーム市場は含まない)そのものが一時壊滅状態に追い込まれた。日本や南米などの地域におけるゲーム機の本格的な普及は、次のファミコン時代以後になる。 チャンネルF(フェアチャイルドセミコンダクター、1976年) Atari 2600(アタリ、1977年) ビデオカセッティ・ロック(タカトク、1977年) オデッセイ2(マグナボックス、1978年) VC 4000(インタートン、1978年) ビジコン(東芝、1978年) インテレビジョン(マテル、1980年) カセットビジョン(エポック社、1981年) Atari 5200(アタリ、1982年) コレコビジョン(コレコ、1982年) Vectrex(GCE、1982年) アルカディア(バンダイ、1983年) TVボーイ(学習研究社、1983年) 第3世代 1980年代前半 - 中盤を、この記事では「第3世代」とする。 第3世代の据置機 コモドール64 ZX Spectrum ファミリーコンピュータ NES セガ・マークIII セガ・マスターシステム アタリショック後、北米と欧州ではゲーム機能に加えてプログラミング機能をそなえたゲームパソコンが勢力を増し、多くのゲームメーカーがゲームリリースを家庭用機からパソコン主力に移した。ゲームパソコンとして北米ではコモドール64が、欧州ではZX Spectrumが成功を収めた。日本でも同様の機種(ぴゅう太、M5、SC-3000、MSXなど)が登場したが、最終的にはゲーム機能に特化し、第1・第2世代より優れたゲーム性能を実現した機種が成功を収めた。特にファミリーコンピュータ(以下ファミコン)は日本における家庭用ゲーム機の本格的普及を担った。1985年にはアメリカで海外版ファミコンであるNintendo Entertainment System(NES)が発売され大成功を収めた。RPGや対戦型格闘ゲーム、2Dアクションゲームなどの今日に繋がるゲームシステムの原型もこの時期に出来上がった。これまではAtari 2600に由来するATARI仕様と呼ばれるジョイスティック型のコントローラーが一般的であったが、ファミコンのパッド型コントローラー(ゲームパッド)はコンパクトだが汎用性に優れ、以後のほとんど全てのゲーム機における入力機器の基礎となった。 ファミリーコンピュータ、AV仕様ファミリーコンピュータ、ファミリーコンピュータ ディスクシステム(任天堂、1983年、1993年、1986年) SG-1000、SG-1000II(セガ、1983年、1984年) PV-1000(カシオ、1983年) Atari 7800(アタリ、1984年) スーパーカセットビジョン(エポック社、1984年) セガ・マークIII、セガ・マスターシステム(セガ、1985年、1987年) ゲームパソコン マックスマシーン(コモドール、1982年) コモドール64(コモドール、1982年) ZX Spectrum(シンクレア、1982年) ぴゅう太(トミー、1982年) M5(ソード、1982年) SC-3000(セガ、1983年) RX-78(バンダイ、1983年) PV-2000 楽がき(カシオ、1983年) MSX(MSX参入各社、1983年) 第4世代 1980年代後半 - 1990年代前半を、この記事では「第4世代」とする。 第4世代の据置機 PCエンジン メガドライブ スーパーファミコン スーパーファミコンJr ネオジオ 従来機種より高度なスプライト機能を搭載し、2Dグラフィックスの表現力が格段にアップした。ステレオサウンドが標準になり、表現も工夫された。ゲームの複雑化・高度化も進み、対応するコントローラーも多ボタン化が進んだ。他方、複雑で表現力豊かなゲームをROMカートリッジに詰め込むのには、容量不足による限界が見え始めてきた。ゲームソフトの大容量化によりコストも高騰し、9,800円以上のソフトが続出した。このような情勢から、従来のROMカートリッジに代わり世界初のCD-ROMをゲーム媒体に使用したCD-ROM2[11]が現れ、対応タイトルは、大容量を活かしたものとなっており、後の光ディスクによるソフト供給の基礎となった。 主なハードは、PCエンジン・メガドライブ・スーパーファミコンの3機種である。スーパーファミコンは他の2種よりも大幅に発売が遅れたが、日本ではファミリーコンピュータからの圧倒的シェアを受け継いで移行することに成功した。一方の北米市場では任天堂のSNES(日本国外版スーパーファミコン)とセガのGENESIS(同メガドライブ)が市場競争を展開し、GENESISがシェア55%の2000万台を売り上げ一定の成功を収めた[12]。 アーケード市場において対戦型格闘ゲームなどで絶大な人気を得ていたSNKが、アーケードのシステムをそのまま家庭用機に流用したNEOGEOでゲーム機市場に参入した。家庭用ゲーム機の高性能化によりアーケードゲームやパソコンゲームとの性能差は縮まった。海外市場ではホビーパソコンのAtari STとAmigaがリリースされ、ゲームパソコンとして拮抗した人気を得た。日本でもX68000やFM TOWNSなどのホビーパソコンが発売されたが、据置機とソフトに恵まれた日本ではパソコンゲームは家庭用ゲーム機で扱えないアダルトゲームを除いて衰退した。第4世代ゲーム機はドット絵とスプライトによる2Dゲームの成熟・完成期に当たる。第7世代機ではネットワークサービスを利用して、当時のゲームや「ドット絵を利用した、当時のハードウェア環境そのままでの新作」が配信された。 PCエンジン(コアグラフィックス)、CD-ROM2、SUPER CD-ROM2(NECホームエレクトロニクス、1987年、1989年、1988年、1991年) メガドライブ、メガCD(セガ、1988年、1991年) PCエンジンスーパーグラフィックス(NECホームエレクトロニクス、1989年) スーパーファミコン(任天堂、1990年) ネオジオ(SNK、1990年) PCエンジンDuo(NECホームエレクトロニクス、1991年) ワンダーメガ(セガ、1992年) 第5世代 1990年代中盤 - 後半を、この記事では「第5世代」とする。 第5世代の据置機 3DO (Panasonic FZ-1) Atari Jaguar セガサターン、メガドライブ2、スーパー32x PlayStation バーチャルボーイ NINTENDO64 プレイディア ROMカセットに代わって光ディスクがコンテンツ販売パッケージの主力となった。光ディスクは読み込みに時間がかかるという難点があるものの、データ容量が大きくさらに生産性が高いので、安価にゲーム媒体を量産可能になった。これに伴いゲームの規模は拡大し、副次的にも音質の向上やムービー再生による演出が広がるなどのメリットがあった。本格的な3Dグラフィックス機能が搭載されたゲーム機が現れ、ゲーム内での映像表現の幅が劇的に広がった。振動機能やアナログスティックを備えたコントローラも登場した。ドット絵とポリゴンでは製作ノウハウが違い、中小の新しいソフトハウスも台頭した。 この世代から第6世代にかけて、コンソール・ウォー(ゲーム機戦争)と呼ばれるハードウェア同士の性能競争が最高潮に達し、各社とも自社製ゲーム機の高性能ぶりを盛んにアピールした。主要な機種はPlayStation、セガサターンの2機種である。この世代でゲーム機市場に新規に参入したSCEのPlayStationは、安価で開発のしやすいシステムと、サードパーティーの高い支持による充実したソフト群を背景に首位に立った。セガのセガサターンは、PlayStationより早く100万台を売り上げるなど、発売直後は好調さを見せたが、コストカットしにくいハード構成であることからPlayStationとの値下げ競争で苦境に立たされた。また、北米では米セガがスーパー32Xを先行して投入するなど、販売戦略において日本セガ側との食い違いが見られ、結果的にユーザー側の混乱を招いて共倒れする形となってしまい、海外市場で不評を買った。任天堂が発売したNINTENDO64は、64ビットの高性能をその名でアピールする象徴的な存在を目指したが、他社に比べて発売が大きく出遅れた上、旧来的なROMカセットを採用したためソフトウェアの価格は高めであり価格競争力も低く、北米では成功したが主流となることはなかった。 北米最大のコンシューマゲーム会社であるエレクトロニック・アーツの創設者が、3DO社を設立してゲーム機市場に参入した。ゲーム機やゲームパソコンのメーカーとして黎明期から長らくゲーム業界を支えたアタリがこの世代を最後にハード事業において四半世紀に渡る長い休眠期間に突入し、コモドールが倒産した。それによって、ゲーム用途で使われるパソコンとしてはPC/AT互換機がほとんどとなった。Windows 95の登場後もしばらくゲーム用途ではMS-DOSが主流であったが、DirectXの登場以後は次第にゲーム用途としてもWindowsがメイン環境となった。マイクロソフトはパソコン用ゲームの開発スタジオを多数抱える大手ゲームメーカーとなり、続く第6世代でついにコンシューマ機に参入した。 Atari Jaguar、Atari Jaguar CD(アタリ、1993年) Amiga CD32(コモドール、1993年) FM TOWNS マーティー(富士通、1993年) レーザーアクティブ(パイオニア、1993年) 3DO(3DO、1994年) ネオジオCD(SNK、1994年) プレイディア(バンダイ・デジタル・エンタテイメント、1994年) セガサターン(セガ、1994年) スーパー32X(セガ、1994年) PlayStation(SCE、1994年) PC-FX(NECホームエレクトロニクス、1994年) バーチャルボーイ(任天堂、1995年) ルーピー(カシオ、1995年) ピピンアットマーク(バンダイ・デジタル・エンタテイメント、1996年) NINTENDO64、64DD(任天堂、1996年 - 1999年) 第6世代 1990年代末 - 2000年代初頭を、この記事では「第6世代」とする。 第6世代の据置機 ドリームキャスト PlayStation 2 ニンテンドーゲームキューブ Xbox 3Dグラフィックスの表現力が格段に上がり、インターネットとの通信や5.1chサウンドにも限定的に対応し始めた。メディアはDVD、もしくはDVDの技術を応用した独自規格のディスクが主流となった。この世代を最後にセガはハード販売から撤退し、入れ替わる形でマイクロソフトのXboxが参入した。Xboxは日本国外市場において成功を収めてPS2に次ぐシェアを獲得したが、日本では非常に不振であった。NINTENDO64の後継機のGCは日本で一定の支持を得たが、日本国外では前ハードほど振るわなかった。 大手メーカーではゲームの大作主義・シリーズ物重視がより一層進み開発費の高騰が進んだ。大手メーカーやサードパーティーの統廃合も進行し、据置きゲーム市場は厳しい転換期を迎えた。開発費の高騰に対しては、開発者側では従来から行われてきた開発ライブラリの整備だけでなく、ゲームエンジンを利用した開発などの対策がとられた。ハードウェア面ではGCのようにボトルネックを排除し扱いやすさを意識した設計を採用したり、ドリームキャストとXboxのようにWindowsをOSに採用しパソコンとほぼ同様の開発手法が使えることをアピールするゲーム機が現れた。欧米ではパソコンや複数のゲーム機にタイトルを供給するマルチプラットフォーム作品が増加し当たり前になってきた。 パソコンにおけるブロードバンドの普及期に当たり、ネット対応が不十分な家庭用ゲーム機に先行して、パソコン用のオンラインゲームが充実した。中国や韓国などアジアの新興国においても自国製ゲームの普及が見られ始めるが、据置型ゲームは多大な開発コストなどの参入障壁が大きかったことや、アジア諸国における海賊版の横行のためコンテンツ販売では利益を得にくかったなどの理由から、課金制のパソコンオンラインゲームが開発の主流となっていき、これらの国の作品が世界に輸出されるのも多く見られ始めた。 ドリームキャスト(セガ、1998年) PlayStation 2(SCE、2000年) ニンテンドーゲームキューブ(任天堂、2001年) Xbox(マイクロソフト、2001年) 第7世代 2000年代中盤 - 末を、この記事では「第7世代」とする。 第7世代の据置機 XaviX PORT Xbox 360 PlayStation 3 Wii Zeebo WiiはWiiリモコンという体感型のコントローラを搭載し、ハイデフィニション (HD) に対応したPS3とXbox 360もPlayStation MoveやKinectを発売した。いずれの機種もかつてのハードで発売されたソフトの公式エミュレータを用意しコンテンツのダウンロード販売も行われるようになった。ビデオ・オン・デマンドなど海外ではXbox 360がスマートテレビのデファクトともいわれた[13]。 ソフトメーカーにとってはシェアの先行き不透明な状況が続き、前世代以上にマルチプラットフォームが増加した。Xbox 360とPS3は売れ行きは鈍く、人気ゲームの続編・リメイク・HD対応版の発売が多くなった。Wiiは今までのゲーム機の常識を変え体感型として出したため、新しくて面白さが分かりやすく普及に時間がかからなかったが、サードパーティーによるソフトのマルチプラットフォームリリースの対象から外れる事が多かった上、後年はWii専用タイトルの数も大きく減少した。結果的にXbox 360やPS3のラインナップが充実していく中、逆にWiiは新作ソフトが不足するようになり、後継機であるWii Uの登場を前にしてソフトがほとんど発売されないという状況に陥った[14]。 Xbox 360(マイクロソフト、2005年) PlayStation 3(SCE、2006年) Wii、Wii Family Edition、Wii Mini(任天堂、2006年、2011年、2012年) 日本の新世代株式会社が2005年にWiiより早く体感型インターフェイスの採用・発売したXaviX PORTはゲーム機ではなくフィットネス機器あるいは体感型玩具としての戦略を取ったが、システムとしては紛れもなくカセット交換型のゲーム機であり、ゲーム機向けのフィットネス系ゲームである『Wii Fit』と特に競合する。また、南米やアジアなどの新興国ではネットワーク対応や体感型などを盛り込みながらも安価で低性能なゲーム機が盛んにリリースされており、ブラジルで長らくセガの代理店として活動していたTectoy社が2009年に独自にリリースしたドリームキャストの後継機Zeeboや、中国におけるセガの代理店であるAtGamesがリリースしたZONEおよびそのバリエーションであるSEGA Reactorが代表的な製品である。先進国ではハードから撤退したセガは新興国ではTectoyやAtGamesなどを介してハード事業を継続しており、Tectoyからはメガドライブのモデルチェンジ版であるメガドライブ4も2009年発売された。 XaviX PORT(新世代株式会社、2005年) Zeebo(Tectoy&Qualcomm、2009年4月) Tectoy Mega Drive 4(Tectoy、2009年8月) ZONE、SEGA Reactor(AtGames&セガ、2010年) 第8世代 2010年代前半以降を、この記事では「第8世代」とする。 第8世代の据置機 Wii U PlayStation 4 Xbox One Nintendo Switch Wii Uが2012年11月、PS4とXbox Oneが2013年11月で、共に北米地域のホリデーシーズンに合わせて発売された。3機種全てで北米地域での発売が優先されている[15][16][17][18]。 2012年にはスマートフォンやタブレットの普及によりコモディティ化した高度なモバイルハードウェア・ソフトウェア技術がゲーム機に転用され始め、クラウドファンディングの流行を背景にOUYAやGameStickなど新興企業の手によるAndroidゲーム機の企画・開発が相次いだ[19]。ゲーム開発自由な「オープンプラットフォーム」およびメディア在庫を持たない「デジタルディストリビューション」といった特徴は共通している。また、2013年にはValve CorporationがSteamOS/Steam Machine/Steam Controllerを発表した。Steam Machineは予てより構想が伝えられていたSteam Box、すなわち同社のPCゲームプラットフォームSteamのコンシューマ市場展開を担う家庭用ゲーム機・専用ゲーミングPCの規格である(Xi3のPistonは非公認となった)。 Gaikai/OnLive/PlayStation Now、Microsoft AzureやAmazon Web Services[20]のように各クラウドのサービス・プラットフォームが台頭し、NVIDIA GeForce GRIDやGクラスタ/Ubitus[21][22]などはSTBにも使用された(スーパーコンピューターゲーミングを目指していたシンラ・テクノロジーは解散したが、主要メンバーはGenvid Technologiesを立ち上げた[23])。 任天堂は2017年3月に、据置機としても携帯機としても遊べるハイブリッドゲーム機としてNintendo Switchを発売。また、「ニンテンドークラシックミニ」シリーズも登場した。 Wii U(任天堂、2012年) PlayStation 4、PlayStation 4 Pro、PlayStation VR(SIE(旧称・SCE)、2013年、2016年、2016年) Xbox One、Xbox One S、Xbox One X(マイクロソフト、2013年、2016年、2017年) PlayStation Vita TV(SIE(旧称・SCE)、2013年) Nintendo Switch(任天堂、2017年) マイクロコンソール Apple TV(アップル、2015年) クラウドゲーム機 G-cluster(ブロードメディア、2013年) Android搭載 OUYA(OUYA, inc.、2013年) GameStick(PlayJam Inc.、2013年) GamePop(BlueStacks、2013年) M.O.J.O(Mad Catz、2013年) UNU/Vyper(Snake Byte、2014年) HUAWEI Tron mini game console(華為技術、2014年) 世代未確定 アタリはAtari Jaguar以来約四半世紀ぶりに家庭用ゲーム機業界に復帰し、Atari VCSを発表した。また、マテルもインテレビジョンの権利を買い戻し、Intellivision Amicoを発表した。 Atari VCS(アタリ、2019年) Intellivision Amico(マテル、2020年) 携帯機 第1世代 1970年代後半 - 1980年代前半に当たる。 第1世代の携帯機 Microvision (Block Buster) Mattel Auto Race Mattel Football 据置型ゲーム機が第2世代となり、ブームとなっていた1979年、アメリカの大手玩具メーカーであるミルトン・ブラッドリー社から史上初のカートリッジ交換式携帯型ゲーム機Microvisionがリリースされた。MicrovisionはCPUがカートリッジ側についているなど、後のゲーム機とはずいぶん異なっていた。LCD画面が壊れやすいなど技術的な制約のため、商業的にほとんど成功せずに終わった。ROMカートリッジをハードに差し込む形式ではなく、1ハードにつき1ゲームという形式の<b data-parsoid='{"dsr":[23132,23143,3,3]}'>電子ゲーム</b>が登場した。当時の電子ゲームはモノクロLCDすら搭載できず、LED表示によるものが主だったが、マテルが1976年に世界初の携帯型電子ゲーム機となるMattel Auto Raceをリリースして以降、各社から続々とLEDゲームが発売され、大きなブームとなった。 Microvision(ミルトン・ブラッドリー、1979年) 電子ゲーム Mattel Auto Race(マテル、1976年) Mattel Football(マテル、1977年) 第2世代 1980年代前半 - 中盤に当たる。 第2世代の携帯機 ゲーム&ウオッチ<br/>(ボール) ゲーム&ウオッチ<br/>(ドンキーコングII) ゲームポケコン 1980年代に入るとLCDが安価となり、LCDを搭載した電子ゲームがブームとなった。代表的な製品が、任天堂が1980年に発売したゲーム&ウオッチシリーズであり、モノクロでシンプルなゲームが多数を占めたが、非常に普及した。ゲーム&ウオッチの一部機種では、後に据置機の主力インターフェイスへと発展する十字キーも先行して採用された。任天堂、バンダイ、トミー、タイガー・エレクトロニクスと言った大手玩具メーカーの他にも多数のメーカーがさまざまな電子ゲームをリリースし、アーケードの移植も盛んであった。1982年、本体に太陽電池を採用し、電池が不要な初のゲーム機であるLCD SOLARPOWERシリーズをバンダイが発売した。1983年、2つのディスプレイを搭載し、3D表示を可能とした初の携帯型ゲーム機であるTomytronic 3D(トミー3D立体グラフィックゲーム)シリーズをトミーが発売した。1984年にはエポック社から、日本初のROMカートリッジ交換型の携帯型ゲーム機であるゲームポケコンが発売されたが、商業的にはまたしても失敗に終わった。 ゲームポケコン(エポック社、1984年) 電子ゲーム ゲーム&ウオッチ(任天堂、1980年) LCD SOLARPOWER(バンダイ、1982年) Tomytronic 3D(トミー、1983年) 第3世代 1980年代後半 - 1990年代前半に当たる。 第3世代の携帯機 ゲームボーイ Atari Lynx ゲームギア、キッズギア PCエンジンGT、LT ROMカートリッジ交換型の携帯型ゲーム機が実用的なスペックを獲得し、多彩なゲームが楽しめるようになった最初の世代である。Atari Lynx、ゲームギアのスペックは第3世代の据置ハードとほぼ同等であり、PCエンジンGTは据置機第4世代のPCエンジンと互換性があった。モノクロ液晶を採用したゲームボーイは、当時としては卓越した性能と画質を持つ他機種に大きく劣っていたが、当時の液晶技術は未熟で消費電力も大きく、カラー液晶機種はさらに高価でバッテリー(単三乾電池)消費も激しかったなかで、コンパクトで長時間駆動できるゲームボーイは携帯型ゲーム機で最も人気を集めた。ゲームギアは日本では商業的に苦戦したが、北米ではゲームボーイに対して善戦した。実用的な携帯型ゲーム機の登場によって電子ゲームのブームはこの世代で終了したが、電子ゲームは販売されつづけて一定の市場を維持しており、時にたまごっち(バンダイ・1997年)のような大ヒットとなるものもあった。 ゲームボーイ(任天堂、1989年) Atari Lynx(アタリ、1989年) ゲームギア(セガ、1990年) PCエンジンGT(NECホームエレクトロニクス、1990年) 第4世代 1990年代中盤 - 後半に当たる。 第4世代の携帯機 ノーマッド ゲームボーイ<br/>ポケット GameBoy Light ゲームボーイ<br/>カラー ネオジオポケット ワンダースワン、スワンカラー、スワンクリスタル Pocket Station スペックは据置ハードの第3世代と同等か、やや上回る程度であり、携帯ハードの第3世代から大きく向上してはいないが、携帯性に優れた薄く小さいボディを実現した。液晶技術の発達により、カラー液晶を採用した機種でも、長時間の運用に耐えられるようになった。赤外線通信機能などを搭載し、通信機能を生かしたゲームが流行した。ビジュアルメモリとPocketStationは、据置機の外部記憶媒体(メモリーカード)にゲーム機能を付加するものだったが、普及には至らず、後世代機においては採用されなかった。メガドライブと互換性のあるセガ・ノーマッドや、この時代にあえてモノクロで挑んだワンダースワンなどの意欲的な機種が出たものの、この世代ではカラー化を果たした任天堂のゲームボーイシリーズが一人勝ち状態であった。 ノーマッド(セガ、1995年) ゲームボーイポケット、ゲームボーイライト、ゲームボーイカラー(任天堂、1996年、1998年) game.com(タイガー・エレクトロニクス、1997年) ネオジオポケット、ネオジオポケットカラー(SNK、1998年、1999年) ワンダースワン、ワンダースワンカラー、スワンクリスタル(バンダイ、1999年、2000年、2002年) ポケモンミニ(ポケモン、2001年) 据置機の外部記憶媒体 ビジュアルメモリ(セガ、1998年) PocketStation(SCE、1999年) 第5世代 1990年代末 - 2000年代初頭に当たる。 第5世代の携帯機 ゲームボーイアドバンス ゲームボーイアドバンスSP N-Gage 反射型TFT液晶や反射型FSTN液晶を採用したカラー液晶のゲーム機が主流となった。スペック的には据え置きハードの第4世代を上回る程度の機能を搭載し、携帯型ゲーム機における表現の幅が飛躍的に拡大した。前世代と同様に任天堂以外の機種は振るわない結果となり、携帯型ゲーム機において任天堂の独占状態が確立した。この頃から携帯電話の普及率が激増したため、それを使った携帯電話ゲームが登場し始めた。N-GageのようにPDAや携帯電話機能を搭載したゲーム機も出始めた。N-GageはS60を搭載し、2008年にはアプリケーション・プラットフォーム化した。 ゲームボーイアドバンス、ゲームボーイアドバンスSP、ゲームボーイミクロ(任天堂、2001年、2003年、2005年) GP32(GamePark、2001年) N-Gage、N-Gage QD(ノキア、2003年、2004年) Zodiac(Tapwave、2003年) 第6世代 2000年代中盤 - 末に当たる。 第6世代の携帯機 ニンテンドーDS、DSLite ゲームボーイミクロ ニンテンドーDSi PlayStation Portable PlayStation Portable go に DSとPSPによって二分された。前世代までの乾電池に代わりエネルギー密度が高いリチウムイオン電池を採用し、明るいバックライト付き液晶となった。据置機同様にグラフィックの3D化が進み、ネットワークを介したデータのダウンロードやオンラインプレイが可能となった。DSはブルー・オーシャン戦略でライト層もターゲットに据え、PSPはコア層を主なターゲットに据えた。DSはネットへのハードルを下げたニンテンドーWi-Fiコネクション[24]や、タッチパネルの採用は携帯型ゲーム機としては史上初であり、特徴的な2画面による「Touch! Generations」のヒットによってユーザー層が広がり、DSが教育にも取り入れられた。PSPは大型液晶画面と光学ドライブ、高性能マイクロプロセッサを搭載した。PSPは日本市場においては『モンスターハンター ポータブル』シリーズに恵まれたこともあり、任天堂のハードが一人勝ち状態であった前世代までとは違い善戦した。 ニンテンドーDS、ニンテンドーDS Lite、ニンテンドーDSi、ニンテンドーDSi LL(任天堂、2004年、2006年、2008年、2009年) PlayStation Portable、PlayStation Portable go(SCE、2004年、2009年) GP2X、GP2X Caanoo(GamePark、2005年、2010年) Dingoo A320(Dingoo、2009年) Pandora(OpenPandora、2010年) 第7世代 2010年代初頭 - 中盤に当たる。 第7世代の携帯機 ニンテンドー3DS ニンテンドー2DS New ニンテンドー3DS PlayStation Vita NVIDIA SHIELD Portable 3DSやPS VitaはカメラによるARやコミュニケーション・ソーシャルを意識した機能が多数盛り込まれた。2013年にはGPUメーカーとして知られるNVIDIAがTegra/Android搭載のNVIDIA SHIELD Portableを発売した。新参Androidゲーム機はこの年のトレンドといえるが、同機はPCをサーバとするゲームストリーミングクライアントでもあり、新たなストリーミングサーバ技術とともに発表され注目を集めた。スマートフォン/タブレットといったスマートデバイス用OSにゲームを意識した機能が盛り込まれた[25]。2008年にアップルのiPhone OS(現・iOS)のSDKが公開されて以降、iPod touch/iPhone/iPadといったiOS用のApp Store[26]やGoogleのGoogle Playが提供された。これまで家庭用ゲーム機向けに展開されてきたシリーズが提供されたり連携も図られた。 ニンテンドー3DS、ニンテンドー3DS LL、ニンテンドー2DS、New ニンテンドー3DS、New ニンテンドー3DS LL 、Newニンテンドー2DS LL(任天堂、2011年、2012年、2013年、2014年、2017年) PlayStation Vita(SIE(旧称・SCE)、2011年) NEOGEO X(SNK、2012年) Android搭載 SO-01D(ソニー、2011年) Archos GamePad(Archos、2012年) Wikipad(Wikipad、2013年) NVIDIA SHIELD Portable(NVIDIA、2013年) Tek 807D/SUPERGAMER俺(Tekniser/スペックコンピュータ、2013年) 立体映像対応のゲーム機 1980年代にトミーから、立体視のできる電子ゲームが発売された(『宇宙壮絶戦車戦』、『ジョーズ』、『スペースレーザーウォー』、『ジャングルファイター』、『コスモ・ル・マン』、『ドッグファイト』、『シャーマンアタック』の7作品が確認されている)[27][28][29][30][31]。 任天堂からは1987年にファミコン3Dシステムが発売、セガからはアメリカ市場においてセガ・マスターシステムでSegaScope 3-D Glassesと複数の対応ソフトが発売された。1994年にはアタリから『ミサイルコマンド3D』と『Wolfenstein3D』のわずか2タイトルだったが、Jaguar VR ヘッドセットが発売された[32][33][34]。 1995年7月には任天堂からスタンドタイプのバーチャルボーイが発売されるものの、販売台数は振るわなかった。以上のように200x年代前半までは、いずれも散発的にリリースされたに留まる。2006年11月に発売されたPlayStation 3は2010年4月に公開されたシステムアップデートで3次元ディスプレイへの映像出力に対応し[35]、また2011年2月に任天堂から裸眼立体映像に対応した携帯型ゲーム機ニンテンドー3DSが発売された。 脚注 注釈 出典 関連項目 ゲーム機一覧/Category:ゲーム機画像 娯楽家電/マルチメディア機 VG Chartz Console Wars - 1990年代のセガ・オブ・アメリカのCEOを務めたトム・カリスンスキを中心に任天堂との競争を描くブレイク・ハリスによる著書。スコット・ルーディン、セス・ローゲン、エヴァン・ゴールドバーグ、ソニー・ピクチャーズによる映画化も発表された。
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『ちびくろサンボ』が書かれたのはいつ
ちびくろサンボ
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『ちびくろサンボ』()は、世界的に広く読まれている童話、絵本。もとは軍医であった夫とインドに滞在していたスコットランド人、ヘレン・バンナーマン(ヘレン・バナマン)が、自分の子供たちのために書いた手作りの絵本であった。のちに公刊され、多くの海賊版(後述)によって広く流布した。 概説 手作りの本として誕生した『ちびくろサンボ』は、知人を通してイギリスの出版社に紹介され、1899年に英国のグラント・リチャーズ社より初版が刊行された。子供の手に収まる小さな絵本で、文も絵もヘレン・バンナーマン自身によるものである。 著作権の混乱から、アメリカ合衆国ではいわゆる海賊版が横行した。改変された箇所も多く、特に絵は原作と違うものが使われることが多かった。その多くは主人公をインドの少年から、アメリカに住むアフリカ系黒人の少年に置き換えたものであった。このことが、後に人種差別問題と深く関わってくることになる。 またアメリカ版では、かなりの部分で設定の置き換えが行われた。一例をあげれば、主人公の少年が迷い込むジャングルは竹やぶから森に替えられ、またある挿絵では、少年の母親はアフリカ系婦人のふくよかな特徴を与えられた。しかしトラが登場する箇所に関しては、当時のアメリカの海賊版編集者の多くが実物を見たことがなく、イメージできなかったためか、改変を免れている。こうして一部の海賊版では、アフリカを想起させる背景描写と、インドを想起させるトラの混在が行われるようになった。 日本語版 日本で広く知られるようになった、岩波書店の日本語版『ちびくろ・さんぼ』(1953年(昭和28年)刊、120万部以上が売れたとされる)も、こうしたアメリカ版の1つであるマクミラン社版(1927年刊)に使われていたフランク・ドビアスの絵を用いている(ただし、岩波版では絵のレイアウトなどが、翻訳者である光吉夏弥によって改変されている)。日本でもアメリカ同様にこの絵本には著作権がないとみなされていたため、海賊版が横行し、国内の主要な出版社ほとんどすべてから70種類を越えるいろいろな『ちびくろサンボ』が出版された。日本で出版されたものの多くは、主人公の名前を「サンボ」と片仮名書きし、「ちびくろ」を平仮名で形容詞的に用いていたため、『ちびくろサンボ』という表記が最も一般的なものとなり、これらのいろいろな異本を総称する場合も『ちびくろサンボ』とするのが普通である(そこで、この項目でもこの表記を見出しとして用いている)。このように多くの異本が出回った中で、岩波書店版は最初に広く普及したものであったことから、オリジナルと違う絵が使われていたにもかかわらず、日本ではいわゆる定本と見なされてきた。 しかしその後、アメリカでの黒人の公民権運動の高まりと連動して黒人差別であるとの批判を受けるようになり、1988年(昭和63年)には出版社が一斉に絶版させる処置を行った(後述)。これにより岩波書店版を含め、事実上すべての出版社のものが自主的に絶版となり、書店から回収されるに至った[1]。 一斉絶版問題以前には、ヘレン・バンナーマンによる原作そのままを日本語訳したものは出版されないままであった。原作そのものの日本語版が出版されたのは、1999年(平成11年)の『ちびくろさんぼのおはなし』(灘本昌久訳・径書房刊)が初めてである。同じ径書房から英語の完全復刻版も出版されている。 続編 ミニサイズの絵本では、続編は書かれないことが多い。 ストーリー 主人公は、父ジャンボ・母マンボと一緒に暮らしている男の子、サンボである。 両親から新しい靴・上着・ズボン・傘をもらったサンボは、竹藪に出かける。しかし通りかかったトラたちに喰われそうになり、身に着けたものを一つずつ与えることで許してもらう。サンボは裸にされ、号泣する。 一方トラたちは、戦利品を奪い合って木の周りをぐるぐる回りはじめる。その間にサンボは、与えたものをすべて取り返すことに成功する。トラたちは最終的に溶けてギー(インドのバター)になってしまう。サンボ一家はそのギーでパンケーキを焼く。マンボは27枚、ジャンボは55枚、サンボは169枚も食べた[2]。 双子の弟「ウーフ」「ムーフ」が生まれ(ともにサンボ自身による命名)、サンボは面倒をよく見る優しいお兄ちゃんになる。誕生日にはプレゼント(マグカップ・赤と青の色違いの帯)をして可愛がる。 ある日サンボが夕食の羊肉を焼く薪を取りに行ったすきに、双子は2匹の悪いサルに誘拐されてしまう。サルたちは、双子が逃げられないように高い椰子の木の上に隠す。 悲しみにくれるマンボとサンボ。サンボの必死の捜索の末、椰子の根元に置き去りになったマグカップと、樹上から降る双子の涙を発見し、双子が椰子の木に隠されていることが明らかになる。サンボはジャンボからもらった金槌で、長い釘を打ちながら足場を作って登っていくが、針のような葉に阻まれ、救出は失敗する。 サンボが木の下で泣いていると、ちょうど上空を飛んでいた一羽の大鷲が降りて来てサンボから事情を聞き、双子の救出を快く引き受ける。悪いサルたちは恐ろしい大鷲の姿を見て驚き、その場から逃げて行ったが、その様子を見た双子も大鷲を恐れ、樹上から出てこない。再び救出は失敗する。 困った大鷲はサンボに事情を説明し、今度はサンボを背中に乗せて樹上に向かう。サンボの姿を見た双子は安心して樹上から現れ、救出はようやく成功する。双子を大鷲の両肩に色違いの帯で縛って、3人とも家まで送ってもらう。 サンボたちは家で心配して待っていた両親と感動の再会を果たす。一家は双子を助けてもらったお礼として、夕食に食べるはずだった羊肉を大鷲に全部与え、大鷲はその羊肉を自分の子供たちのために持ち帰る。大鷲の親子は羊肉を、サンボ一家は代わりにマンボが焼いたホットケーキをお腹いっぱい食べ、両者ともに大御馳走でハッピーエンドとなるが、悪いサルたちだけは何も食べる物がなかったという。 一斉絶版以前の日本版での設定 ストーリーは上述の通りであったが、当時発行された多くの本は、細かい設定を若干オリジナルから改変したところもあった。 服装 サンボのズボンは当時日本の子供が広く着用していた半ズボンとしたものが多かった。また裸体のサンボは、オリジナル版では黄色い腰布を巻いていたが日本版の多くは白い腰布を巻いていたものが多かった(一部は全裸のものもあった)。顔立ちなども日本人風に描かれた例が多い。サンボの母にはサリーを着用していたものが多かったが、サンボの衣服は日本式の(あるいはアジア式の)織機で作った例がある。 台詞 サンボが出かけるとき、サンボの母はサンボに「服を汚さないでね」と呼びかける例が多い。またトラはサンボの服を奪うとき、「俺様」と自称するものが多い。 一斉絶版問題 イギリスでもアメリカでも、この絵本は広く受け入れられ、一時は黒人のイメージを向上させる本として図書館の推薦図書にまでなっていたが、公民権運動が進展した1970年以降に人種差別との関連性が指摘されはじめ、各地の書店や図書館から姿を消した(しかし、発売禁止や絶版の措置が取られたわけではなく、注文すれば購入できる状態ではあった)。問題とされたのは、作品の中の男の子の名前「サンボ」がアメリカ合衆国とイギリスにおける黒人に対する蔑称と共通しているということ[3]、サンボが169枚のパンケーキを平らげる描写が「大喰らいの黒人」を馬鹿にしているのではないか、サンボの派手なファッションは黒人の美的センスを見くびっている、黒人のステレオタイプな表現[4]などである。 日本でも1953年(昭和28年)に岩波版が登場して以来、常に人気の高い絵本であり、主要な出版社から70種類を越えるいろいろな版が出版されていた。1971年と1976年には光村図書刊行の教科書『しょうがくしんこくご 二年上』に掲載されている[4]。1974年には児童文学家の灰谷健次郎が「おやすみなさい『ちびくろ・さんぼ』」において、差別的であると指摘しているが、鳥越信や石井桃子による「良書である」という評価が優勢であり、大きな動きにならなかった[5]。 1988年、事実上すべての出版社がこの絵本の出版を自主的に取りやめてしまうことになった。 1988年7月22日にワシントン・ポストに掲載されたそごう東京店の黒人マネキン[6]に対する批判記事(マーガレット・シャピロ/東郷茂彦記者)を発端として海外の黒人表現を見直す動きに誘発され、当時結成したばかりの有田喜美子とその家族で構成される市民団体「黒人差別をなくす会」がこの絵本の主要な発売主である岩波書店およびその他の「サンボ」の日本語版絵本を出版していた各出版社に本書は差別的と抗議し、さらに海外から日本大使館への抗議も多数寄せられた。岩波書店はこの本を絶版にし、他の出版社もこれに追随した。当時オリンピック誘致活動を行っていた長野市では、市内の学校や家庭にある『ちびくろサンボ』の書籍を廃棄処分にするようにという要請を行った[7]が、行き過ぎであるという批判もあり、撤回されている[8]。 これらは、マスコミによって大きく取り上げられ、差別表現に神経質となった世論の影響が大きい。またカルピスの商標、ダッコちゃん人形[9]など、その他の黒人表現の自主規制にも繋がった[10]。さらにこの運動の余波を受け、1989年には堺市女性団体連絡協議会が「童話・絵本研究会」を設立し、『白雪姫』『みにくいアヒルの子』『こぶとりじいさん』などが差別的であるとして修正・改善を求める要望を各出版社に送るなど、童話に関連する差別問題は賛否両論を起こした[7]。 こうした絶版措置を支持する声もある一方で、『ちびくろサンボ』に愛着を持つ人々からは絶版措置に不満が起った。サンボ(zambo)は南アメリカにおいて、インディオと黒人の混血を指す語であり差別語ではないとする反論や、「サンボ」「マンボ」「ジャンボ」はシェルパ族の中では一般的な人名であるという反論もなされている。なお一部では、「発売禁止」措置が取られたかのように誤解されているが、出版社による自主的な市場からの撤退であり、発売禁止になったわけではない。日本では言論出版の自由が日本国憲法に明記されており、地方裁判所の事前抑制として、出版差し止めの仮執行を行うことが理論的には可能なことを除いては、民間や政府が「発売禁止」を行うことはできない。 同様の植民地時代における黒人蔑視の思想を孕んでいると指摘される作品としては、『ぞうのババール』、『ドリトル先生』シリーズなどがあるが、それらのいずれも日本国内で絶版措置はとられていない。 1988年(昭和63年)の岩波書店版に引き続いてすべての出版社が絶版の措置をとったことは、この本の出版契約を正式に交わしておらず著作権上の問題があったためではないかという指摘もある[11]。 日本における復刊 1989年(平成元年)一斉絶版措置に反対して『ブラック・サンボくん』(山本まつよ訳・阪西明子絵、子ども文庫の会)が出版されたが、大手の取次店での取扱いがなされなかったため、一般にはほとんど知られないままであった。 1997年(平成9年)10月に北大路書房から、原作者ヘレン・バンナーマンの著作権継承者であるイギリスの Ragged Bears Publishing 社との契約に基づく改作本『チビクロさんぽ[12]』が出版され、後述するアメリカ版の改作本2作とともにマスコミに取り上げられた。本作は、「チビクロ」という名前の犬が散歩するという意図での改作であり、黒人そのものは登場しないが、本作出版後には、岩波版絶版のきっかけとなったといわれる市民団体「黒人差別をなくす会」から北大路書房への抗議が寄せられた。両者のやりとりは改作者森まりもこと松本大学教育学部教授守一雄のウェブサイト[13]の該当ページ[14]に公開されている。『チビクロさんぽ』出版をめぐっては、東京大学大学院教育学研究科教授市川伸一による『チビクロさんぽ』の出版は是か非か[15]』という改作者らを交えた心理学者による電子討論の記録が出版されている。 1997年から1998年にかけては、主人公はアフリカ系黒人のまま名前をSamとしてストーリーも改変した[Sam and the Tigers]error: {{lang}}: text has italic markup (help)[16](1996、邦訳『おしゃれなサムとバターになったトラ[17]』や、イラストを本来のインド風にして主人公とその家族を ババジ(Babaji)、ママジ(Mamaji)、パパジ(Papaji)とした[The Story of Little Babaji]error: {{lang}}: text has italic markup (help)[18](1996、邦訳『トラのバターのパンケーキ[19]』というアメリカでの改作の翻訳版の出版も相次いだ。 1999年(平成11年)5月には径書房から、『ちびくろさんぼのおはなし[20]』が原著と同じ内容、装丁、タイトルで復刊され、2カ月で8万部を売った。訳者は灘本昌久。また彼の著書には『ちびくろサンボ』擁護の立場に立ってその経緯や差別論に関する議論をまとめた『ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ[21]』がある。灘本昌久の報告によると絶版騒動の際に『ちびくろサンボ』の刊行を批判していた部落解放同盟中央本部のある、部落解放センターの書籍売場にこの2冊が平積みされていたという。 2005年(平成17年)6月に著作権の切れた岩波版(光吉夏弥訳)の『ちびくろ・さんぼ[22]』が瑞雲舎から17年ぶりに復刊され、5カ月で15万部を売った。ただし、岩波版は原作でなく、黒人の人種的特長を誇張で問題になっているフランクドビアスの絵柄[23]を基にした問題のあるものでありこの絵を使ってのちびくろサンボの復活にはロサンゼルス・タイムズ紙をはじめ、海外のメディアは批判的にこの復刊を伝えたが、かつての絶版騒動の頃と違い、国内のマスコミが静観したこともあって[24]、特に大きな問題となっていない。岩波書店はこの復刊を編集権の侵害として抗議したとされている。また、旧岩波版が抱えていた著作権問題は新しい瑞雲舎版でも解決されないままである。 瑞雲舎は、その後も、もともとは岩波版1冊に収められていた、もうひとつのストーリーを別冊にして『ちびくろ・さんぼ2[25]』、ヘレン・バンナーマンによる別の絵本を原作としたストーリーを『ちびくろ・さんぼ3』と銘打って出版。ただし、主人公が女の子から男の子になるなど、内容面はほとんど違う物語といえるくらいに改変されている。 2008年(平成20年)6月、径書房が岩波版『ちびくろ・さんぼ』のもとになった、アメリカ版原書を忠実に再現した『ちびくろサンボ[26]』を出版。岩波版では、サイズなどの規定によって、まるまるカットされたり、切り貼りや左右反転といった形で流用されていたイラストも、原形のまま掲載している。 書籍情報 『チビクロひるね』(森まりも、ISBN 4762821179、北大路書房) 『The Story of Little Black Sambo』(ヘレン・バナーマン、灘本昌久、ISBN 4770501722、径書房) 関連書籍 『ちびくろサンボ絶版を考える』(径書房編集部、ISBN 4770500874、1990年8月、径書房) 『ちびくろサンボとピノキオ―差別と表現・教育の自由』(杉尾敏明、棚橋美代子、ISBN 4250900428、1990年12月、青木書店) 『焼かれた「ちびくろサンボ」―人種差別と表現・教育の自由』(杉尾敏明、棚橋美代子、ISBN 4250920305、1992年11月、青木書店) 『さよならサンボ―『ちびくろサンボの物語』とヘレン・バナマン』(エリザベス・ヘイ、ゆあさふみえ(訳)、ISBN 4582333087、1993年1月、平凡社) 『サンボ―アメリカの人種偏見と黒人差別』(ジョゼフ・ボスキン、斎藤省三(訳)、ISBN 4750319384、2004年7月、明石書店) 脚注 参考文献 Check date values in: |accessdate=, |date= (help) 関連項目 言葉狩り 著作権 外部サイト 京都産業大学教授灘本昌久の - 「ちびくろサンボ新着情報」「ちびくろサンボよすこやかによみがえれ」などの記事。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%B3%E3%81%8F%E3%82%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%9C
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フランツ・ペーター・シューベルトに子どもはいた?
フランツ・シューベルト
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フランツ・ペーター・シューベルト(German: Franz Peter Schubert[1], 1797年1月31日 - 1828年11月19日)は、オーストリアの作曲家。各分野に名曲を残したが、とりわけドイツ歌曲において功績が大きく、歌曲の王</b>と呼ばれることもある。 後述の理由により、本稿ではシューベルトの作品番号として「D.○○」を用いず「D○○」という表記を採用する。 生涯 誕生 シューベルトはウィーン郊外ので生まれた。メーレン(モラヴィア)から移住したドイツ系植民の農夫の息子である父のフランツ・テオドールは教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツは結婚前ウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年生まれ)、次男フェルディナント(1794年生まれ)、三男カール(1796年生まれ)、次いで第12子の<b data-parsoid='{"dsr":[1427,1437,3,3]}'>フランツ、娘のテレジア(1801年生まれ)だった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。 フランツは5歳の時、父から普通教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学した。この頃、父は末の息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは7歳頃になると父親の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、父はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。聖歌隊の仲間たちはフランツの音楽的才能に一目を置いた。当時は演奏家として聴衆に注目されなければ音楽家としての成功の機会は無いという時代だったので、しばしば聖歌隊建物に隣接するピアノ倉庫にフランツを案内して、ピアノの練習を自由にできるように便宜を図ってくれた。そのおかげで、貧しい彼には触れられなかったような良い楽器で練習、勉強をすることができた。 コンヴィクト 1808年10月、シューベルトは(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育と殆ど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。シューベルトを支えた友人たちの多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun, 1788-1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多くの友人たちが貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙など、誠実な支持と励ましを与えた。また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。一方、才能は作曲の分野で既に示しつつあった。1810年4月8日-5月1日の日付がある32ページにわたりびっしりと書かれた『4手ピアノのためのファンタジア (D1)』、続いて1811年にはツムシュテーク (1760 - 1802) が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、『五重奏序曲 (D8)』『弦楽四重奏曲 (D18)』『4手ピアノのためのファンタジア第2番 (D9)』がある。室内楽曲が目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でカルテット演奏会が行われていたからである。これは後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものだった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残した。また野心的に力を注いだのは、1812年の母の葬儀用と言われる『キリエ (D31)』と『サルヴェ・レジーナ (D106)』(それぞれ合唱聖歌)、『木管楽器のための八重奏曲 (D72)』である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなる『カンタータ (D80)』を残した。学校生活の最後には最初の交響曲 (D82) が生まれた。 1813年-1815年 1813年の終りにシューベルトは、変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったためコンヴィクトを去り、兵役を避けるために父の学校に教師として就職した。この頃、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。彼は2年以上この仕事に就いたが、あまり関心を持てなかったようで、その代償を別の興味で補った。サリエリから個人的な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難してシューベルトを悩ませた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。またシューベルトはグローブ一家と親密に交際しており、そこの娘は歌が上手く良い友人だった。彼は時間があれば素早く大量に作曲をした。完成された最初のオペラ『悪魔の悦楽城 (D84)』と、最初の『ミサ曲ヘ長調 (D105)』は共に1814年に書かれ、同じ年に『弦楽四重奏曲』3曲(D46.D74.D87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調 (D82)』の第1楽章、『潜水者 (D77)』や『糸を紡ぐグレートヒェン (D118)』といった傑作を含む7つの歌曲が書かれた。 1815年には、学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『交響曲第2番変ロ長調 (D125)』が完成し、『交響曲第3番ニ長調 (D200)』もそれに続いた。また、『ト長調 (D167)』と『変ロ長調 (D.324)』の2つのミサ曲(前者は6日間で書き上げられた)、その他『ヘ長調のミサ曲』のための新しい『ドナ・ノビス (D185)』『悲しみの聖母 (D383)』『サルヴ・レジナ (D379)』、オペラは『4年間の歩哨兵勤務 (Der Vierjahrige Posten, D190)』『フェルナンド (D220)』『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ (D239)』[2]『アドラスト (D137)』(研究により1819年の作曲と推定)『バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカ(サラマンカの友人たち)(D326)』(会話の部分が失われている)の5曲が作曲された。他に『弦楽四重奏ト短調(D173)』『ピアノのための4つのソナタ(D157.D279.D459』、数曲のピアノ小品がある。これらの最盛期をなすのは、146の歌曲で、中にはかなり長い曲もあり、また8曲は10月15日、7曲は10月19日の日付がある。 1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人(1787-1836)と知り合った。この出会いは間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱の時もあったが、突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方マイアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。2人の関係は、シューベルトに対して一方的に奉仕するものだったという。 1816年 シューベルトの運命に最初の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聴いていた、法律学生フランツ・ショーバー(1796-1882)がシューベルトを訪問して、教師を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛り付けられているという思いが強まっていた。父親の了解はすぐに得られ、春が去る頃にはシューベルトはショーバーの客人になった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成させるとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていたという。 1816年の作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のための『3つの儀式用カンタータ (D407)』、もう1つの『プロメテウス・カンタータ (D451)』はハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒たちのためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。彼は雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『カンタータ (D472)』。最も重要な作品は『交響曲第4番ハ短調 (D417)』で《悲劇的交響曲》と呼ばれ、感動的なアンダンテがある。次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『第5番変ロ長調 (D485)』、その他多少の教会音楽。これらはゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩だった。 この時期友人の輪が次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768-1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタやファンタジーを演奏した。ゾンライトナー家は裕福な商人で、長男がコンヴィクトに所属していた縁もあって自宅を自由に使わせていたが、それは間も無く「シューベルティアーデ」と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。 シューベルトは貧しかった。それと言うのも教師を辞めたうえ、公演で稼ぐことも出来なかったからである。しかも、音楽作品をただでも貰うという出版社は無かった。しかし、友人たちは真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、裕福な者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい人が紹介された時の、「彼が出来ることは何か?」という質問がこの会の特徴をよく表している。 1818年 1818年は前年と同様、創作上は比較的実りが無かったものの、2つの点で特筆すべき年だった。1つ目は作品の公演が初めて行われたことである。演目はイタリア風に書かれた『序曲 (D590)』で、これはロッシーニをパロディー化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。2つ目は初めて公式の招聘があったことである。これは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。 この年の作品には『ミサ曲 (D452)』『交響曲第6番(D589)』(共にハ長調)、ツェレスでの生徒たちのための一連の『四手のためのピアノ曲』、『孤独に (D620)』『聖母マリア像 (D623)』『繰り言 (Litaney)』などを含む歌曲がある。秋のウィーンへの帰りに、ショーバーの所には滞在する部屋が無いことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食の後、田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、或いはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。歌曲の作曲家としての最初の公演は1819年2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌 (D121)』が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取って、フォーグルと共に北部オーストリアを旅行した。シュタイアーで「鱒(ます)」として有名な『ピアノ五重奏曲イ長調 (D667)』のパート譜をスコア無しで書き、友人を驚かせた。秋に、自作の3曲をゲーテに送ったが、返事は無かった。 1820年・1821年 1820年の作品には進歩と形式の成熟が見られる。小作品の数々に混じって『詩篇23番 (D706)』『聖霊の歌 (D705)』『弦楽四重奏断章ハ短調 (D703)』、ピアノ曲『さすらい人幻想曲 (D760)』などが誕生している。 6月14日に『双子の兄弟 (D647)』が、『魔法の竪琴 (D644)』が8月19日に公演された。これまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭でのカルテット演奏会から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接することが求められ始めた。相変わらず出版社は冷淡だったが、友人のフォーグルが1821年2月8日にケルントナートーア劇場で『魔王』を歌ってようやくアントニオ・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781-1858)がシューベルトの作品の取次販売に同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後この契約が終了し、大手出版社が彼に応じて僅かな版権を受け取り始めた。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについては、多くの記事が見られる。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより舞台に向けられた。 1821年の年の瀬にかけて、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アルフォンソとエストレラ (D732)』は受け入れられず、『フィエラブラス (D796)』も同じだった。『陰謀者 (D787)』は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠だった)。劇付随音楽『ロザムンデ (D797)』は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アルフォンソとエストレラ』と『フィエラブラス』は、規模の点で公演が困難だった(例えば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜)。しかし『陰謀者』は明るく魅力的な喜劇であり、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。 1822年-1825年 1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてベートーヴェンと知りあう。両者ともに親しい関係にはならなかったが、ベートーヴェンはシューベルトの才能を認めていた。シューベルトもベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による変奏曲(D624)』作品10を同年に出版するに当たり献呈している。しかしウェーバーはウィーンを離れ、新しい友人も現れなかった。この2年は全体として、彼の人生で最も暗い年月だった。 1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲 (D803)』『大交響曲のためのスケッチ』を書き、再びツェレスに戻った。またハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風喜遊曲 (D818)』と『弦楽四重奏曲イ短調 (D804)』を作曲した。 舞台作品や公的な義務で忙しかったが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。『ミサ曲変イ長調 (D678)』が完成。1822年に着手した絶妙な『未完成交響曲 (D759)』も生まれている。ミュラー(1794-1827)の詩による『美しき水車小屋の娘 (D795)』と素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれた。 1824年までに、前記の作品を除き『《しぼめる花》の主題による変奏曲 (D802)』、2つの弦楽四重奏曲『イ短調 <ロザムンデ>(D804)』『ニ短調<死と乙女> (D810)』が作られている。また『ピアノとアルペジョーネのためのソナタ (D821)』は、扱いにくいため廃れてしまった楽器を奨励する試みだった。 過去数年の苦難は1825年の幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスからしばらくは解放された。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中に、ウォルター・スコット(1771-1832)原詩の歌曲『ノルマンの歌 (D846)』『囚われし狩人の歌 (D843)』や『ピアノソナタ イ短調 (Op.42, D845)』を作曲、スコットの歌ではこれまでの作曲で最高額の収入を得た。 ウィーンでの晩年 1827年にグラーツへ短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。 晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。一つ目は1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。二つ目はオペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけ、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したが拒否され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして三つ目は1828年の春、人生で初めてで生前唯一の、彼自身の作品の演奏会である。 1827年に、シューベルトは『冬の旅 (D911)』『ピアノとヴァイオリンのための幻想曲 (D934)』2つのピアノ三重奏曲(Op.99 / D898、Op.100 / D929)を書いた。 1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトは葬儀に参列した。その後友人たちと酒場に行き、「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。この時友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたという[3][4]。そして、彼の寿命はその翌年で尽きた。 最晩年の1828年、『ミサ曲変ホ長調 (D950)』、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ (D962)』、『弦楽五重奏曲 (D956)』、『ミサ曲ハ長調 (D452)』のための2度目の『ベネディクトス (D961)』、最後の『3つのピアノ・ソナタ(D958, 959, 960)』、『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D957/D965A)を完成させた。この中の6曲はハイネの詩に付けられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集「歌の本」は1827年秋に出版されている。シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(後にブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いた。しかし何度かのレッスンの後、ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされた。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトの最後の手紙となった。 その後シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。31歳没。フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。 遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあったヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も二人の当時の墓石が残っている。 死後間もなく小品が出版されたが、当時の出版社はシューベルトを「のための作曲家」とみなして、大規模作品を出版することはなかった。 シューベルトの死因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が彼の体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。シューベルト生誕200年の1997年には、改めて彼の人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。 死後 19世紀 没後は歌曲の王という位置づけがなされ、歌曲以外の作品は『未完成交響曲』や弦楽四重奏曲『死と乙女』のような重要作を除いて放置に等しい状況だった。 1838年にシューマンがウィーンに立ち寄った際に、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問した。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった時のままの状態で保存していて、シューマンはその机上で『(大)ハ長調の交響曲』が埃に埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持ち帰った。その後メンデルスゾーンの指揮によって演奏され、ノイエ・ツァイトシュリフト紙で絶賛された。ちなみにこの交響曲の番号は、母国語がドイツ語の学者は第7番、再版のドイツのカタログでは第8番、英語を母国語とする学者は第9番として掲載するなど、未だに統一されていない。 この他の埋もれていた作品の復活に、1867年にウィーンを旅行したジョージ・グローヴ(1820-1900)とアーサー・サリヴァン(1842-1900)の2人が大きな功績を挙げた。この2人は7曲の交響曲、ロザムンデの音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出した。こうして聴衆は埋もれていた音楽に興味を抱くようになり、最終的には楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定版として世に送り出された。 グローヴとサリヴァンに由来し、長年にわたって《失われた》交響曲にまつわる論争が続いてきた。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を1828年の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものでは無いが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「ニ長調 (D963A)」のスケッチを指していることは、音楽学者によってある程度受け入れられている。これは1970年代に発見され、によって交響曲第10番として理解されている。シューベルトはリストの言葉でよく要約されている。曰く、「シューベルトはもっとも詩情豊かな音楽家である」 シューベルトの多くの作品に即興性が見られるが、これは彼が筆にインクのしみを付けたことが無いほどの速筆だったことも関係している。 20世紀 シューベルトは歌曲以外にも、未公開作品や未出版作品を大量に遺したため、研究は難航した。 ピアノソナタなど、その他の作品が脚光を浴びるようになるのはシューベルト没後百年国際作曲コンクール(優勝者はクット・アッテルベリ)が1927年に開催されるころからであり、同時期にエルンスト・クルシェネクがシューベルトのピアノソナタの補筆完成版を出版した。 シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンより格下に見られていたために録音しようというピアニストは少数だったが、その黎明期に録音を果たした人物にヴァルター・ギーゼキングがいる。没後150年を迎えた1977年ごろになると、シューベルトのピアノソナタは演奏会でかかるようになり、長大なピアノソナタを繰り返しなしで演奏することが可能になった(かつては省略が当たり前だった)。現在は初期から後期までの作品が演奏会に現れる。補筆して演奏するパウル・バドゥラ=スコダ(ピアノソナタ第11番)のようなピアニストも珍しくない。 シューベルト新全集は現在ベーレンライター出版社が全責任を取る形で出版に務めているが、オペラなどの部分は完結していない。音符の形やスコア全体のレイアウトはすべてコンピュータ出力で修正されているが、合唱作品はCarus社なども新しい版を出版している。 現在の浄書技術を以ってしてもデクレッシェンドなのかアクセントなのかの謎(これについては後述)は、完全には解明されていない。そのため、『未完成交響曲』の管楽器についた音は、未だに奏者や指揮者によって解釈が異なり定着していない。 歴史的位置 ロマン派の幕開け シューベルトは一般的にロマン派の枠に入れられるが、その音楽、人生はウィーン古典派の強い影響下にあり、記譜法、基本的な作曲法も古典派に属している。貴族社会の作曲家から市民社会の作曲家へという点ではロマン派的であり、音楽史的には古典派とロマン派の橋渡し的位置にあるが、年代的にはシューベルトの一生はベートーヴェンの後半生とほぼ重なっており、音楽的にも後期のベートーヴェンより時に古典的である。 同様に時期的にも様式的にも古典派にかかる部分が大きいにもかかわらず、初期ロマン派として挙げられることの多い作曲家としてカール・マリア・フォン・ウェーバーがいるが、シューベルトにも自国語詞へのこだわりがあった。ドイツ語オペラの確立者としての功績を評価されるウェーバーと比べると大きな成果は挙げられなかったものの、オペラ分野ではイタリア・オペラの大家サリエリの門下でありながら、未完も含めてドイツ語ジングシュピールに取り組みつづけた。当時のウィーンではドイツ語オペラの需要は低く、ただでさえ知名度の低いシューベルトは上演機会すら得られないことが多かったにもかかわらず、この姿勢は変わらなかった[5]。教会音楽は特性上ラテン語詞の曲が多いものの、それでも数曲のドイツ語曲を残し、歌曲に至っては9曲のイタリア語曲に対しドイツ語曲576という比率となっている。 「ドイツの国民的、民族的な詩」に対し「最もふさわしい曲をつけて、本当にロマン的な歌曲を歌いだしたのはシューベルトである」とし、ウェーバーらとともに、言語を介した民族主義をロマン派幕開けの一要素とする見解もある[6]。 他の作曲家との関係 シューベルトは幼い頃からフランツ・ヨーゼフ・ハイドンやミヒャエル・ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンの弦楽四重奏を家族で演奏し、コンヴィクトでもそれらの作曲家の交響曲をオーケストラで演奏、指揮していた。 シューベルトは当時ウィーンで最も偉大な音楽家だったベートーヴェンを尊敬していたが、それは畏怖の念に近いもので、ベートーヴェンの音楽自体は日記の中で「今日多くの作曲家に共通して見られる奇矯さの原因」としてむしろ敬遠していた。シューベルトは主題労作といった構築的な作曲法が苦手だったと考えられているが、そういったベートーヴェンのスタイルは本来シューベルトの作風ではなかった。 むしろシューベルトが愛した作曲家はモーツァルトである。1816年6月14日、モーツァルトの音楽を聴いた日の日記でシューベルトはモーツァルトをこれ以上無いほど賞賛している。またザルツブルクへの旅行時、聖ペーター教会のミヒャエル・ハイドンの記念碑を訪れ、感動と共に涙を流したという日記も残されている。 コンヴィクトからの友人ヨーゼフ・フォン・シュパウンが書き残した回想文は、シューベルトが11歳の時、「ベートーヴェンのあとで、何が出来るだろう」と言ったと伝えている。さらにオーケストラでハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの交響曲を演奏した時にはハイドンの交響曲のアダージョ楽章に深く心が動かされ、モーツァルトの(恐らくk550)ト短調交響曲については、なぜか全身が震えると言い、さらにメヌエットのトリオでは天使が歌っているようだと言った。ベートーヴェンについてはニ長調(第2番)、変ロ長調(第4番)、イ長調(第7番)に対して夢中になっていたが、のちにはハ短調(第5番)の方が一層優れていると言ったと伝えている。 ウェーバーとも生前に親交があった。1822年のウィーンでの『魔弾の射手』上演の際に知り合い、シューベルトの歌劇『アルフォンソとエステレッラ』をドレスデンで上演する協力を約束したが、後の『オイリアンテ』についてシューベルトが、「『魔弾の射手』の方がメロディーがずっと好きだ」と言ったために、その約束は果たされなかった。 シューベルトは後の作曲家に大きな影響を与えた。『大ハ長調交響曲』を発見したシューマンは言うに及ばず、特に歌曲、交響曲においてメンデルスゾーン、ブラームス、ブルックナー、ヨーゼフ・シュトラウス、ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウス、ドヴォルザークなど、シューベルトの音楽を愛し、影響を受けた作曲家は多い。 シューベルティアーデ 彼が私的に行った夜会は、彼の名前にちなんで「」と呼ばれた。現在もキャッチフレーズとして使われることがある。彼は協奏曲を作曲することはほとんどなく、その慎ましいイメージも「シューベルティアーデ」の性格を助長させた。 1828年に出版された最後の作品は、『連弾のための大ロンドイ長調op.107(D951)』だったことから伺えるように、生前に出版された作品だけでも作品番号は100を超えている。同じ時代に、これと同数の作品を作曲できたライバルはカール・ツェルニーのみである(31歳前後のツェルニーにはオペラや交響曲などの大規模出版作品は見当たらない)。それらに大規模作品は含まれず、極端な場合は委嘱作すら生前の出版はなく(cf.アルペジョーネソナタ)、没後も長期間にわたり出版が継続されている。最後の作品番号はop.173(1867)であり、すでにシューベルト死去から30年以上が経過していた。 31歳でこの膨大な量は無名の作曲家では不可能であり、作曲家としてすでに成功と考えてよい、という理由からシューベルトが本当に貧しかったのか疑問視する声もある[7]。また、シューベルトを描いた肖像画は何点も作成されており、それらは対象を美化している。名士であれば肖像画を実物より綺麗に描くことが当時の画家の責務だったため、こうした待遇は、シューベルトが名士であった証拠と考えることが出来る。シューベルトはグラーツ楽友協会から名誉ディプロマを授与された(cf.未完成交響曲)とき、25歳に過ぎず、この時点で彼は無名ではなかったと考えられる。 また、彼の死に際して、新聞は訃報を出している。 校訂 シューベルト作品の校訂は21世紀に入った現在でも簡単ではない。とくに「ヘアピン」ともよばれる特大のアクセントのような記号をどう解釈するかが問題になっている。小節間をまたぐようにヘアピン[8]がわたっているものもある。 これをデクレッシェンドと解釈すると、「シューベルティアーデ」の慎ましい性格を強調したかのような可憐な音楽が得られ、アクセントと解釈すると、ベートーヴェンにも勝るとも劣らない表出力を与える。 また、シューベルトは鋭いスタッカティシモのような縦線を使う(「未完成」の第二楽章)こともあり、19世紀の出版譜では通常のスタッカートに直されている。これも元に戻す動きが見られるが、この縦線が何を意味するのか結論は得られていない。 前述のとおりシューベルトの交響曲やオペラなどの大規模作品の出版には当時の出版社が難色を示したため、シューベルト本人の意向が文献の形では残っていない。 ピアノ作品には、現代ピアノでは非常に難しいオクターブの連続が『さすらい人幻想曲』ほかで頻繁に現れるが、これは当時の軽いシングルアクションではオクターブグリッサンドが可能だったためである(cf.ベートーヴェン『ワルトシュタインソナタ』)。 彼は古い記譜法を用いていたため、『しぼめる花変奏曲』などでは大量の64分音符がフルートパートに連続して現れる。現在ではメトロノームを使って真っ黒な記譜法を回避することが出来るが、シューベルトにその発想はなかった。 古い記譜法では「一拍単位のAndante」というテンポ表示だけではなく、「一小節単位でAndante」というテンポ表示(cf.『ベートーヴェンの交響曲第9番』の第2楽章Trioの指示)も19世紀初頭まではたびたび行われた。これは、現代のテンポ表記に直すとだいたいModeratoからAllegretto程度である。シューベルトが20世紀に再発見された当時、そのような風習は絶えていたため、「一拍単位のAndante」に多くの作品が曲解された(特にピアノ作品で顕著だった)。現在はピリオド楽器の演奏法も浸透し、演奏全体のレヴェルも上がったため、これらの誤解は直されつつある。 ラテン語のミサ曲では6曲全てで典礼文の一部が欠落しているため、教会で歌うことが出来なかった(少なくともD105とD167は教会で初演記録あり)が、これも理由がわかっていない。典礼文の写しを所持しておりそれに誤脱があったという見解が一般的だが、聖歌隊で数多くのミサ曲を歌ってきたシューベルトが、Credoでのカトリック教会の信仰の本質的な部分の欠如に気づかなかったという説には無理があると思われる。おそらくカトリック教会に対して一線を引くという意味であえて削除したという説を唱える学者もいる[9]。 主な作品 D番号 シューベルトの1000近いスケッチ、未完を含む作品群は、オーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュ(Otto Erich Deutsch)により1951年に作られた英語の作品目録"Franz Schubert – Thematic Catalogue of all his works in chronological order"のドイチュ番号によって整理されている。シューベルトの場合、出版に際しての作品番号(op.)を持つものは170程度なので、通常はD番号が使用されている。1978年に、などによってドイツ語の改訂版"Franz Schubert – Thematisches Verzeichnis seiner Werke in chronologischer Folge"も作られた。 日本語の完全な作品目録はまだ存在せず、かつての日本では作品番号を優先しD番号を後回しにしていたたが、現在はNHK-FMのアナウンサーも、ドイチュ番号をアナウンスするようになっている。 ドイチュ自身は目録の序文において、「D」を自分の名前の略記ではなくシューベルトの作品を示す記号と捉えてほしいと述べている。これに応え、このページでは「D.○○」とピリオドを打たず、「D○○」という表記を用いる。ただしドイツ語圏などではDと数字の間に半角スペースを入れ「D ○○」とするのが一般的である。通常「ドイチュ番号○○」又は「ドイチュ - 番」などと読まれる。オーストリアなどではDeutsch-Verzeichnisという読み方のとおり、「DV ○○」と表記されることもある(オーストリア国営放送 ORFなどで見られる[10])。 交響曲 シューベルトは現在楽譜が残っているものだけで14曲の交響曲の作曲を試みている。そのうち有名な「未完成」も含め6曲が未完成に終わっている。よく演奏されるのは、ロ短調交響曲 D 759、通称「未完成」と、最後の完成された交響曲である大ハ長調交響曲 D 944、通称「ザ・グレート」(「ザ・グレイト」)である。それ以外では第5番 D 485も親しまれている。 シューベルト自身による標題は第4番「悲劇的」 D 417の1曲だけで、他は後世によるものである。第7(8)番ロ短調交響曲「未完成」はその名の通り、完成したのは第2楽章までで、第3楽章が20小節(ピアノ・スケッチも途中まで)で終わっていることからこう呼ばれるようになった。第8(9)番の通称である「ザ・グレート」という名前はイギリスの出版社によって付けられたタイトルだと考えられているが、ドイツ語では《Die große Sinfonie C-Dur》であり、「偉大な」という意味合いはない(同じハ長調である第6番と比較して「大きい方」程度の意味)。 交響曲の番号付け 古い番号付けでは、完成された7曲に順に7番まで番号が振られた。そして「未完成」D759は、4楽章構成の交響曲としては未完だが、2楽章は完成しており、非常に美しい旋律で多くの人に愛好されているため、8番の番号が振られた。 他の未完の交響曲のうち、ホ長調D729は4楽章のピアノスケッチで完成に近く(楽譜に「Fine」と書き添えてあることから、一応は完成したとみなす音楽学者もいる[11])、シューベルトの死後フェリックス・ヴァインガルトナーやらの手によって補筆され、全曲の演奏が可能になっている。このため、1951年のドイチュの目録では作曲年代順に、ホ長調交響曲D729に第7番が割り当てられ、「未完成」D759が第8番、「大ハ長調」D944が第9番とされた。 しかし、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)が1978年のドイチュ目録改訂で見直し、交響曲第7番「未完成」、第8番「大ハ長調」とされた。最近ではこれに従うことが多くなってきているが、1951年のドイチュ目録のまま交響曲第7番ホ長調D729、第8番「未完成」D759、第9番「大ハ長調」D944とされることもまだあり、さらには後述の『グムンデン・ガスタイン交響曲』を第9番、「大ハ長調」を第10番とすることもあるなど、番号付けは混乱している。日本では、NHKがドイチュ目録に合わせて「未完成=第7番」「大ハ長調=第8番」にしている一方で、音楽評論家の金子建志は「長く親しみ慣れた番号を繰り上げるのは、単に混乱を引き起こすだけ」と主張している[12]。そして、「ナンバー抜きで〈未完成〉〈グレイト〉というニックネームで呼べば、一番簡単で、問題が生じない」とこの問題に対する見解を述べている。 交響曲の同定のために調性も古くから使われてきた。すなわち、第5番D485を「変ロ長調交響曲」、「未完成」D759を「ロ短調交響曲」と呼ぶなどである。なお、ハ長調の交響曲は2曲あり、編成などから先に作曲された方(第6番D589)を「小ハ長調(交響曲)」(ドイツ語で「ディー・クライネ(Die kleine)」)、後に作曲された方(D944)を「大ハ長調(交響曲)」と呼ぶ。「ザ・グレート」(独語「ディー・グローセ(Die große)」の英訳)の呼称もここから来ている。 グムンデン・ガスタイン交響曲 シューベルトの手紙に言及があるものの楽譜が見つからず、幻の存在とされてきた『グムンデン・ガスタイン交響曲』(Gmunden-Gasteiner Sinfonie) D849(1825年)は研究により、20世紀中葉ではハ長調D944 「ザ・グレート」を指している可能性がきわめて高いとされていた。もともとD944は1828年の作曲と考えられていたためにこのD番号を持ち、D849とは別であると考えられてきたが、この根拠となっていた楽譜の年号の記述が後世の加筆によると判明し、加筆前は1825年だったものと考えられている。このことが、「ザ・グレート=グムンデン・ガスタイン」という証拠とされてきた。 一時はピアノ・デュオ曲『グラン・デュオD812』がD849の原曲ではないかと言われ、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがその説に基づいてオーケストレーションを施したこともある。 その後、シュトゥットガルトでD849にあたるホ長調の交響曲の筆写譜が発見された[13]とし、ギュンター・ノイホルト指揮のシュトゥットガルト放送交響楽団による演奏の録音が南ドイツ放送でFM放送されている。主題とその展開が「ザ・グレート」交響曲にそっくりで、シューベルトも「ロザムンデ」序曲の前によく似たD590の序曲を書いていることから、スケッチのような意味で作ったという学説がある。この曲は「ザ・グレート」と同じ素材と展開方法が使われ、下書き的役割を果たしたことが濃厚である。 楽器編成は D944 と全く同じであり(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2、トロンボーン3、ティンパニ1対、弦五部)、第1楽章:Andante molto-Allegro,8分の6拍子-2分の3拍子、ホ長調、446小節、第2楽章:Scherzo un poco agitato,4分の3拍子、嬰ハ短調、117小節、第3楽章:Andante con moto,4分の2拍子、ホ短調、146小節、第4楽章:Finale Presto,8分の6拍子、ホ長調、1066小節、演奏時間約50分で現在シュトゥットガルトのGoldoni出版社からWerner Maser校訂[14]による楽譜が入手できる。録音は上述のものに続いて、Gerhard Samuel指揮シンシナティ・フィルハーモニー管弦楽団による新録音 (Centaur: CRC2139)[15]も発売された。グムンデン・ガスタイン交響曲がシューベルトの真作と認められれば、未完成は7番、グムンデン・ガスタインは8番、ザ・グレートが9番ということになる。 最後の交響曲 『ニ長調D936A』には補筆作曲版、ブライアン・ニューボールド補筆作曲版などがある。異色なのはイタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオの手による補筆作曲版の「レンダリング」である。「レンダリング」ではスケッチの部分はスケッチのままで、それ以外の判然としないスケッチとスケッチの間の部分は現代音楽の手法でつなぎ合わせている。 最後の交響曲は自筆譜のままでは完成しておらず、国際シューベルト協会(Internationale Schubert-Gesellschaft)は番号を附していないが、10番などとされる場合もある。 交響曲の一覧 室内楽曲 八重奏曲 ヘ長調 D803, Op.166 (1824) クラリネット、ホルン、ファゴット、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバスのための作品。 弦楽五重奏曲 ハ長調 D956, Op.163 (1828) シューベルト晩年の傑作で、演奏に50分近くを要する大曲である。編成はヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ2。 ピアノ五重奏曲 イ長調 D667, Op.114 (1819) 「鱒」(Die Forelle ) 第4楽章が歌曲「鱒」D550 の旋律による変奏曲であるために「鱒」という副題が付いた。 弦楽四重奏曲 第12番 ハ短調 D703 (1820) 「四重奏断章」(Quartettsatz ) 第1楽章のみ完成。第2楽章が未完。4楽章構成の弦楽四重奏曲と捉えれば未完だが、美しい旋律によりしばしば演奏される。 弦楽四重奏曲 第13番 イ短調 D804, Op.29 (1824)「ロザムンデ」(Rosamunde ) 副題は、第2楽章が「キプロスの女王ロザムンデ」付随音楽D797の間奏曲第3番の旋律による変奏曲であるため。 弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調 D810 (1824) 「死と乙女」(Der Tod und Das Mädchen ) 第2楽章が歌曲「死と乙女」D531 の旋律による変奏曲であるため、この副題が付いた。マーラー編曲による弦楽合奏版がある。 弦楽四重奏曲 第15番 ト長調 D887, Op.161 (1826) 1826年6月20日から30日にかけて作曲された弦楽四重奏曲としては最後の作品。 ピアノ三重奏曲 第1番 変ロ長調 D898, Op.99 ピアノ三重奏曲 第2番 変ホ長調 D929, Op.100 ピアノ三重奏曲は番号付きが以上の2曲で、ともにピアノ三重奏曲の名曲として親しまれている。 アルペジョーネソナタ イ短調 D821 (1824) アルペジョーネはほとんど廃れてしまった楽器で、代わりにチェロなどを用いてピアノ伴奏で演奏される。ガスパール・カサド編曲の管弦楽伴奏版もある。 ピアノ曲 ピアノソナタ 第3番 ホ長調 D459 または「5つのピアノ曲」 (1815) 10代で先人の傑作(K.545)を模倣する早熟さを発揮している。 ピアノソナタ 第4番 イ短調 D537, Op.164 (1817) 中間楽章の主題が最晩年の作品(D959)の終楽章に引用されている。 ピアノソナタ 第7番 変ニ長調 D567 ピアニスティックな完成作品。 ピアノソナタ 第8番 嬰ヘ短調 D571 第1楽章の途中までの未完作。(1817年) ピアノソナタ 第13番 イ長調 D664, Op.120 「イ長調の小ソナタ」(1819) ピアノソナタ 第14番 イ短調 D784, Op.143 (1823) ピアノソナタ 第15番 ハ長調 D840 「レリーク(Reliquie)」(1825) ピアノソナタ 第16番 イ短調 D845, Op.42 (1825) ピアノソナタ 第17番 ニ長調 D850, Op.53 (1825) ピアノソナタ 第18番 ト長調 D894, Op.78 「幻想」(1826) シューマンに有機的な楽曲構造の美を絶賛されている。 ピアノソナタ 第19番 ハ短調 D958 (1828) ピアノソナタ 第20番 イ長調 D959 (1828) ピアノソナタ 第21番 変ロ長調 D960 (1828) 最晩年の傑作。3曲ともベートーヴェン様式を模している。 楽興の時 (Moments Musicaux) (6曲) D780, Op.94 (1823-28) 幻想曲 ハ長調 D760, Op.15 (1822) 「さすらい人」(Wanderer ) 第2楽章が歌曲「さすらい人」D489 に基づいている。 4つの即興曲 D899, Op.90 (1827) 4つの即興曲 D935, Op.142 (1827) 3つのピアノ曲 D946 (1828) 3つの軍隊行進曲 D733, Op.51 (1818) (四手連弾曲) 幻想曲ヘ短調 D940, Op.103 , (1828) (四手連弾曲) 歌曲 歌曲集「美しき水車小屋の娘」(Die Schöne Müllerin )(20曲) D795, op.25 (1823) 歌曲集「冬の旅」(Winterreise )(24曲) D911, op.89 (1827) 歌曲集「白鳥の歌」(Schwanengesang )(14曲) D957,965A (1828) 野ばら(Heidenröslein ) D257, Op.3-3 (1815) 魔王(Erlkönig ) D.328, op.1(1815ころ) 死と乙女(Der Tod und das Mädchen ) D531, op.7-3 (1817) ます(Die Forelle ) D550, op.32 (1816-21) アヴェ・マリア(エレンの歌第3番)(Ave Maria ) D839 (1825) 子守歌(Wiegenlied ) D498, op.98-2 (1816) 糸をつむぐグレートヒェン(Gretchen am Spinnrade ) D118(1814) タルタルスの群れ(Gruppe aus dem Tartarus ) D583 ゲーテの小説「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」による3つの竪琴弾きの歌(3 Gesänge des Harfners ) D478, op.12 さすらい人(Der Wanderer )D493(D489), op.4-1 ギリシャの神々(Die Götter Griechenlands )D677 ガニュメート(Ganymed)D544 音楽に寄せて(樂に寄す)(An die Musik ) D547 op.88-4 (1817. 3.) 御者クロノスに(An Schwager Kronos )D369 ミューズの息子(Der Musensohn )D764 秋(Herbst )D945 侏儒(小人)(Der Zwerg )D771 ブルックにて(Auf der Bruck )D853 恋人のそばに(Nähe des Geliebten )D162 夜と夢(Nacht und Träume )D827 夜曲(Nachtstück )D672 夕映えに(Im Abendrot )D799 “ヘリオポリス”よりII「岩に岩が重なるところ」(Aus "Heliopolis" II ) D754 万霊節のための連禱(Litanei auf das Fest Allerseelen ) D343 op.13-2 (ca. 1816) 春に(Im Frühling )D738 シルヴィアに(Gesang (Was ist Silvia? / An Silvia) ) D891 op.106-4 湖上にて(Auf dem See )D543 op.92-2 至福 (Seligkeit )D433 ハナダイコン (Nachtviolen) D752 いくつかの歌曲には、後世の作曲家による管弦楽伴奏版やピアノ独奏への編曲版も存在する。ピアノ独奏用編曲についてはフランツ・リストやレオポルド・ゴドフスキーによるものが知られている。 シューベルトの歌曲の主な管弦楽編曲版 ベルリオーズ:「魔王」 リスト:「糸をつむぐグレートヒェン」D118、「ミニョンの歌」、「魔王」、「若い尼僧」D828、「別れ」D957-7(紛失)、「ドッペルゲンガー」D957-13(紛失) ブラームス:「馭者クロノスに」D369、「メムノン」D541、「ひめごと」D719、「エレンの歌第2」D838 レーガー:「糸をつむぐグレートヒェン」、「魔王」、「音楽に寄せて」D547、「タルタルスの群れ」D583、「プロメテウス」D674、「夕映えの中で」D799、「夜と夢」D827 ヴェーベルン:「君こそは憩い」D776、「涙の雨」D795-10、「道しるべ」D911-20、「彼女の肖像」D957-9、他1曲 オッフェンバック:「セレナード」 フェリックス・モットル:「セレナード」, 「死と乙女」 ブリテン:「ます」 ツェンダー:「冬の旅」 歌劇 鏡の騎士 D11 (1811、未完) 悪魔の悦楽城D84 2つ稿があり (1813/14) 4年間の哨兵勤務 D190 (1815) サラマンカの友人たち D326 (1815) 双子の兄弟 D647 (1818/20) アルフォンゾとエストレッラ D732 (1821/22) 謀反人たち D787(後に「家庭争議」と改名) (1823) フィエラブラス D796 (1823) 多くの分野に代表作を残したシューベルトとしては最も評価が低い領域で、上演機会は少ない。 劇付随音楽 魔法の竪琴 D644 (1820) キプロスの女王ロザムンデ(Rosamunde,Fürstin von Zypern ) (11曲)D797, Op.26 (1823) 教会音楽 ミサ曲第1番 ヘ長調 D105 ミサ曲第2番 ト長調 D167 ミサ曲第3番 変ロ長調 D324 ミサ曲第4番 ハ長調 D452 Op.48 ミサ曲第5番 変イ長調 D678 ミサ曲第6番 変ホ長調 D950 ドイツ・ミサ曲 ヘ長調 D872 スターバート・マーテル D383 (1816) シューベルトと詩人 シューベルトは詩の芸術性に無頓着で、時おり凡庸な詩に作曲してしまう事もあったと言われている。確かに彼の歌曲にはゲーテやシラーといった大詩人以外に、現在その中にしか名を留めていない詩人の手によるものが多く存在している。ただしこれは「シューベルティアーデ」で友人たちの詩に作曲したものを演奏するという習慣があったことも影響している。 シューベルトが作曲した詩人は多い順にゲーテ、マイアホーファー、ミュラー、シラー、そして重要な詩人としてマティソン、ヘルティ、コーゼガルテン、クラウディウス、クロップシュトック、ザイドル、リュッケルト、ハイネなどがいる。自分より前の世代に評価が定着していた詩人から、新しい時代の感性を持った詩人まで幅広い。 国際音楽コンクール 現在シューベルトの名が附されたコンクールは二つある。ひとつは長い伝統を持つドルトムントで行われる「シューベルト国際コンクールドルトムント」で、現在はリートデュオ部門とピアノソロ部門が交互に行われる。もうひとつはグラーツで行われる「フランツ・シューベルトと現代音楽のための国際室内楽コンクール」で、作曲部門と室内楽部門が併設されている。どちらもシューベルト作品のみでは競わないが、関連した楽曲や編成が焦点になっている。 脚注 関連項目 Category:シューベルトの楽曲 映画『未完成交響楽』(1933年) - シューベルトを扱った伝記映画(内容はフィクション)。「わが恋の終わらざる如く、この曲もまた終わらざるべし」の台詞が有名。 - フランスの文学者(1897-1986)。シューベルトを主人公にした長編小説『ウィーンの調べ』Les Harmonies viennoises(1926年)を書いた。 外部リンク (in English) (in English) ドイチュOtto Erich Deutsch氏(1883年9月5日-1967年11月23日)による作品番号 ピアニスト バート・バーマン による (in English) Free scores by フランツ・シューベルト at the International Music Score Library Project (IMSLP)
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遺伝子はどのように確認することが出来る
遺伝子診断
japanese
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遺伝子診断(いでんししんだん)とは、遺伝子を検査することで、本人の病気やその発症リスク、薬の効き具合を診断したり[1]、胎児を含めた親子鑑定(遺伝的な母親・父親または、多くの人々の間の祖先関係)を行ったりすること。遺伝子検査 、DNA検査</b>とも呼ばれる。 染色体の個々の遺伝子を調べ、変異体の遺伝子を持つことに伴う遺伝性疾患のリスクを測定する。遺伝子検査は、染色体、遺伝子、タンパク質の違いを検知する[2]。様々な遺伝子検査が毎年開発されている。古くは、遺伝子検査の主なものは、染色体数が異常かどうかや、遺伝疾患につながる珍しい染色体を有するかどうかを調べるものだった。現在の遺伝子検査は、心臓病や癌といった疾病に関するリスクを決定する複数の遺伝子を分析したりする[3]。遺伝子検査の結果、遺伝病になりやすいかがわかる。数百の遺伝子検査が現在利用可能で、さらなる技術開発が進んでいる[4][5]。 遺伝子の変異は直接タンパク質の構造に影響を及ぼすため、特定の遺伝子診断は、タンパク質又はその代謝物や、染色、蛍光染色を観察することにより行う[6]。 この記事では主に医療目的のための遺伝子検査に焦点を当てる。 種類 遺伝子検査は「臨床目的のために、染色体(DNA)、タンパク質、代謝物を分析し、遺伝疾患に関連した遺伝子型、突然変異、表現型、核型を検知すること」である[7]。人生を通して不変の特定の個人の遺伝子や染色体についての情報を明らかにする。現在可能な試験は次のようなものである。 新生児マススクリーニング (Newborn screening) 人生の早い段階で治療することができる遺伝的障害を識別するためだけに、出生後に使用される。血液サンプルは、出生後の新生児24〜48時間から採取し、分析のために研究室に送られる。新生児スクリーニングの手順は、状態によって変化する。異常な結果が得られた場合でも、それは必ずしも子供が障害を持っていることを意味するわけではない。診断は、病気を確認するために、最初のスクリーニングを行わなければならない[8]。アメリカ合衆国では、毎年何百万人もの赤ちゃんが、ある種の障害のための遺伝子検査を受けており、それが最も広く使用されている遺伝子検査である。アメリカの全ての州は現在、フェニルケトン尿症(放置すれば精神的な病気を引き起こす遺伝性疾患)および先天性甲状腺機能低下症(甲状腺の障害)のための遺伝子検査を乳幼児に対して行う。フェニルケトン尿症の人々は、子供の時の正常な成長にかかわるアミノ酸フェニルアラニンを、合成するのに必要な酵素を持っていない。あまりにも多くのフェニルアラニンの蓄積がある場合は、脳組織が発達遅延を引き起こし、破損するおそれがある。新生児スクリーニングによりフェニルケトン尿症を検出できれば、障害につながる影響を避けるために、すぐに特別な食事を子どもに摂らせることができる。[8] 診断テスト (Diagnostic testing) 医師の診断において、特定の遺伝子または染色体を調べるために使用される。多くの場合、遺伝子検査は、体の異変や症状に基づいて疑われる特定の場合に、診断を確認するために使用される。診断テストは生涯にわたりいつでもできるが、全ての遺伝子に対しては使用できない。診断テストの結果は、ヘルスケアや疾患の管理について個人の選択に影響を与えうる。例えば、多発性嚢胞腎疾患(PKD)の家族を持つ、腹部の痛みがある、頻尿、尿路感染症や腎臓結石などにより、テストされ、それらの遺伝子を持っていることを決定することができれば、その結果はPKDの診断の役に立つ[9]。 キャリアテスト (Carrier testing) 相同染色体の両方にある遺伝子が変異を起こした場合に、遺伝的障害を引き起こす遺伝子変異について、一つのコピーをもつヒトを識別するために使用される。このタイプの検査は、特定の遺伝性疾患の変異遺伝子をもつリスクが高い家族歴を有する個人や民族の人々に提供される。両方の親が検査を受けていれば、嚢胞性線維症 cystic fibrosisのような遺伝的疾患の子供ができるリスクを知ることができる。 着床前診断 (Preimplantation genetic diagnosis) 体外受精(IVF in vitro fertilization )の手順の一部として、移植の前に人間の胚上で実行されている遺伝的試験手順。不妊治療で体外受精により妊娠しようとするときに、着床前診断が使用される。男性から精子、女性から卵を取り出し、複数の胚を作成し、体外受精されている。個々の胚の異常について検査し、異常のないものを子宮に移植する[10]。 出生前診断 (Prenatal diagnosis) 出生前に胎児の遺伝子や染色体の変異を検出するために使用する。このタイプの検査は、遺伝子または染色体障害の赤ちゃんを持つリスクが高いカップルに提供されている。場合によっては、出生前診断は、カップルの不確実性の軽減や、妊娠を中止するかどうかの判断に役立つ。しかし、全ての可能性のある遺伝性疾患や先天性欠損症を識別することはできない。出生前診断の方法の1つは、妊娠中の母親の15〜20週以上の羊膜嚢からサンプルを羊水穿刺により得る。次いで、それを調べることで、ダウン症候群(21トリソミー)と18トリソミーなどの染色体異常がわかる。テスト結果は、羊水穿刺が完了した後7-14日以内に得られる。この方法は、胎児の染色体異常を99.4%精度で診断できる。羊水検査には流産の危険性があり、流産率は1/400である。出生前診断の別の方法に、絨毛膜絨毛サンプリング(CVS)という検査もある。胎盤は赤ちゃんと同じ遺伝子をもち、胎盤の一部である絨毛を検査する。出生前診断でこの方法を選ぶ場合、絨毛のサンプルが胎盤からとられ検査される。このテストでは、妊娠10から13週に実行され、結果はテストが行​​われた7〜14日後に出る[11]。胎児の臍帯から採取する血液を用いる、経皮的臍帯血サンプリングという別の試験もある。 予測と発症前テスト (Predictive and presymptomatic testing) 出生後から人生の後半に出てくる障害に関連する遺伝子変異を検出するために使用される。これらのテストは、遺伝性疾患を持つ家族がいるが、テスト時にその疾患の徴候がない人に役立つ。予測試験は、ある種のガンなど遺伝子変異が原因の疾患の可能性を高め遺伝子変異を同定できる。例えば、 BRCA1 の突然変異を有する人は、乳癌の65%累積リスクをもつ[12]。卵巣癌症候群に伴う遺伝性乳癌は、遺伝子のBRCA1およびBRCA2の遺伝子変異をもつことが原因である。これらの遺伝子の変異に関連する主要な癌のタイプは、女性の乳癌、卵巣癌、前立腺癌、膵臓癌、および男性の乳癌である[13]。リ - フラウメニ症候群(Li-Fraumeni syndrome)は遺伝子TP53上の遺伝子変異よって引き起こされる。この遺伝子の変異に関連した癌の種類は、乳癌、軟部組織肉腫、骨肉腫、白血病および脳腫瘍が挙げられる。カウデン症候群では潜在的な乳癌、甲状腺癌や子宮内膜癌を引き起こし、PTEN遺伝子に変異をもつ。発症前テストは、徴候や症状が現れる前に、人の遺伝性疾患(例えば、ヘモクロマトーシスすなわち鉄過剰症など)を発症するかどうかを決定できる。予測と発症前テストの結果は、特定の障害を発症するリスクに関する情報を提供し、医療に関する意思決定に役立ち、良好な予後を提供する。 ゲノム薬理学(Pharmacogenomics、ファーマコゲノミクス) 薬物に対しての応答に、影響を与える遺伝的変異を調べる遺伝子検査のタイプである。病気もしくは健康であるにかかわらず、ファーマコゲノミクスは個々の遺伝子構成を調べ、最も安全で、最も有益な薬、あるいはどのような投与量がよいかを決めることができる。ヒトゲノムには約11百万の一塩基多型(SNPs)があり、ヒト集団のバリエーションをつくる。SNPは、特定の薬物に対する個体の応答に関する情報を明らかにする。遺伝子検査のこのタイプは、化学療法を受けている癌患者のためにも使用することができる[14]。癌組織のサンプルは、遺伝子解析のための専門の研究室に送られる。分析の後、取得した情報は、腫瘍の変異を同定することができ、最善の治療方針を決定するために使用できる[15]。 診断に使うわけではない検査 法医学的検査 法律上の目的とし個人を識別するために、DNA塩基配列を使用する。上述の試験とは異なり、法医学的検査は、疾患に関連する遺伝子変異を検出するために使用されない。このタイプのテストは、犯罪や大災害の犠牲者の識別、犯罪容疑者の絞り込み、または人々の間の生物学的関係(例えば誰が父親かを特定する)場合に使われる。 親子鑑定 遺伝子検査のこのタイプは、血縁のある個人の間で、同一または類似の遺伝パターンを識別するために、特殊なDNAマーカーを使用する。我々はすべて、母親と父親からDNAの半分、半分を継承している。DNAの科学者は、いくつかの高度に個人間の差があるマーカーでDNA配列を調べる。 遺伝子系図検査 (Genealogical DNA test) 祖先や民族的な遺伝を調べることができる。 研究試験 未知の遺伝子を発見し、遺伝子がどのように動作するかを研究する。 特定疾患 遺伝的な要素がある、多くの疾患について、遺伝子診断が利用可能。 アフリカの鉄過負荷 (African iron overload) 過剰鉄吸収、重要な臓器(心臓、肝臓、膵臓)中の鉄の蓄積、臓器損傷、心疾患、癌、肝疾患、関節炎、糖尿病、不妊、インポテンツ[16]。 α-1アンチトリプシン欠損症 (Alpha-1 antitrypsin deficiency) 成人の閉塞性肺疾患、小児期の肝硬変、新生児や乳児の長期間(1から2週間以上)持続する黄疸、脾腫、腹水(腹腔内の液体の蓄積)、掻痒(かゆみ)、および肝臓損傷の他の徴候を有している場合、運動後の息切れおよび/または肺気腫の他の徴候を示し、喘鳴(ぜんめい)、慢性の咳や気管支炎を発症する40歳未満の方(次の場合は特に。患者が喫煙者でない場合、患者が肺刺激物に暴露されていない場合、肺の損傷が、肺の低い位置にみられる場合)、α-1アンチトリプシン欠損症の近親を持っている場合、A1ATのレベルが低下している場合。 アポリポタンパク質E-関連 血清コレステロールとトリグリセリドの両方の上昇、加速されたアテローム性動脈硬化症、冠状動脈性心疾患、皮膚黄色腫、末梢血管疾患、糖尿病、肥満症または甲状腺機能低下症。 筋ジストロフィー (Becker/Duchenne) 筋力低下(急速進行)、頻繁に転倒、運動が困難になる(走る、ホッピング、ジャンプ)、進行性の歩行困難(歩行能力は、年齢が12歳で失われる可能性がある)、疲労、知的遅滞(可能性)。骨格奇形、胸と背中(脊柱側弯症)。筋肉の奇形(かかと・足の拘縮、ふくらはぎの筋肉の仮性肥大)。 ベータサラセミア ヘモグロビンβ鎖の合成低下。小球性低色素性貧血 Factor II 第II因子(トロンビン) 静脈血栓症、一定の動脈血栓症状態、深部静脈血栓症、肺塞栓症、脳静脈血栓症、及び早期虚血性脳卒中、早期の心筋梗塞を発症した女性の患者、血栓/塞栓症、hyperhomocystinemia、および複数の流産に関連した早期発症の脳卒中、深部静脈血栓症、血栓塞栓症、妊娠の家族歴。変異を有するヒトは、経口避妊薬の使用、外傷、および外科手術を受けたかで、血栓症のリスクが高くなる。 Factor V Leiden 静脈血栓症、肺塞栓症、一過性脳虚血発作または早期の脳卒中、末梢血管疾患(特に下肢)、閉塞性疾患、脳静脈血栓症、複数の自然流産、子宮内胎児死亡。 ホモシステイン 静脈血栓症、増加した血漿ホモシステインの値。 PAI-1の遺伝子変異 冠動脈疾患の独立した危険因子で、虚血性脳卒中、(骨壊死を含む)静脈血栓症。 乳癌、 卵巣癌 および 前立腺癌 癌細胞の制御不能な分裂。 クローン病 結腸に限局性炎症、腹痛と血便、肛門瘻および直腸周囲膿瘍が発生することもある。 嚢胞性線維症 Cystic Fibrosis 肺や腸内に、異常に厚い大量の粘液、congestioni、肺炎、下痢や成長不良につながる。 難聴 (非syndromic) 聴力の先天性喪失、-prelingual、非症候性難聴。 家族性高コレステロール血症 腱黄色腫、上昇したLDLコレステロール、早発性心疾患。 ファンコーニ貧血 急性骨髄性白血病の素因、骨格異常、ラジアル形成不全と椎骨の欠陥やその他の物理的な異常、骨髄不全(汎血球減少症)、内分泌機能不全、早期発症骨減少症/骨粗鬆症および脂質異常、DNAの架橋剤への曝露による染色体切断。 脆弱X症候群 Fragile-X Syndrome 病因不明の精神遅滞または学習障害、自閉症や自閉症様の特徴。早発閉経した女性。大脳皮質、扁桃体、海馬や小脳などでFMR1の欠如に起因する、思春期以降の男性の顕著な下顎と大きな耳、微妙な異形症、および行動異常。 フリードライヒ失調症 Friedreich's ataxia ゆっくりとした進行性失調症。一般的に、腱反射が減少し、dysarthria, Babinski responses, および位置や振動感覚の喪失を伴う。 遺伝性ヘモクロマトーシス[16] 過剰吸収鉄、重要な臓器(心臓、肝臓、膵臓)中の鉄の蓄積、臓器損傷、心疾患、癌、肝疾患、関節炎、糖尿病、不妊、インポテンス。 ヒルシュスプルング病腸管 Hirschsprung's disease 腸内の神経節がない。 ハンチントン病 運動筋肉、認知、および精神障害の進行性疾患。 乳糖不耐症 低ラクターゼ症、持続性の下痢、腹部の痙攣、膨満感、吐き気、放屁。 Multiple endocrine neoplasia 多発性内分泌腺腫 MEN2A(MEN2ファミリーの90%から60%に影響を与える):甲状腺髄様癌。褐色細胞腫(副腎の腫瘍)、副甲状腺腺腫(良性[非癌性]腫瘍)または副甲状腺の過形成(大型)。 MEN2B(MEN2の家族の5%に影響を与える):甲状腺髄様癌、褐色細胞腫、粘膜神経腫(舌や唇に神経組織の良性腫瘍)、消化器系の問題、筋肉、関節、脊椎の問題。典型的な顔の特徴。家族甲状腺髄様癌(MEN2ファミリーの5%から35%が罹患)(FMTC):甲状腺髄様癌。 筋緊張性筋ジストロフィー 骨格や平滑筋だけでなく、目、心臓、内分泌系、および中枢神経系に影響。穏やかな、古典的な、および先天性:軽度から重度まで連続に及ぶ臨床所見、重複表現型に分類されている。 コリンエステラーゼ欠乏症(Pseudocholinesterase、butyrylcholinesterase or "BCHE"ともいわれる) コリンエステラーゼは、コカイン、ヘロイン、プロカイン、およびサクシニルコリンSuccinylcholine、ミバクリウムmivacurium、および他の即効性の筋弛緩剤を含む塩素系化合物を加水分解する[17]。BCHEの欠損は、これらの化合物の代謝が遅れ、その効果の持続期間をのばす。サクシニルコリンは、一般の外科手術で麻酔薬として使用されている。BChE変異を有する人は、長期paraylasisを被る可能性がある。 3200人から5000人に1人がBChE変異をもつ。ペルシャ人、ユダヤ人とアラスカ州先住民の中でこの遺伝子の変異をもつヒトが最も多い[17][18]。2013年の時点で利用可能な遺伝子検査は9つある[19]。 鎌状赤血球貧血 溶血、断続的な血管閉塞の結果、組織の虚血および急性および慢性臓器不全が起こる。合併症は、貧血、黄疸、再生不良性危機への素因、敗血症、胆石症、および遅延した成長。痛みを伴う手足のむくみ、蒼白、黄疸、肺炎球菌性敗血症や髄膜炎、脾臓肥大、または急性胸部症候群を伴う重度の貧血がある乳児や幼児に疑われる。 テイ=サックス病 脂質が、脳内に蓄積する。神経機能障害、進行性の脆弱性と運動能力の喪失、社会的相互作用、発作、失明、および衰弱。 多彩性ポルフィリン症 (Variegate porphyria) 光線過敏症、急性内臓神経異常。 医療の手順 遺伝子検査は、多くの場合、遺伝カウンセリングの一環として行われ、2008年半ばの時点で1,200以上の臨床応用遺伝子検査が利用可能とされている[20]。遺伝子検査を行うときには、遺伝カウンセラー、プライマリ・ケア医師または専門家は、インフォームド・コンセントを得た後、遺伝子検査を実行することができる。 遺伝子検査は、血液、毛髪、皮膚、羊水(妊娠中の胎児を取り囲む流体)、または他の組織の試料に対して行われる。例えば、医療処置は、頬の内側表面から細胞のサンプルを収集するために小さなブラシや綿棒を使用する。代替的に、生理食塩水うがい薬少量で、細胞を収集するために口の中でマウスウォッシュしてもよい。疑われる疾患に応じて、特定の染色体の変化、DNA、またはタンパク質を探す研究室にサンプルは送られる。研究室は、患者の医師または遺伝カウンセラーに書面での試験結果を報告します。ルーチンの新生児スクリーニング検査は、ランセットを使って赤ちゃんのかかとを刺すことにより得られる少量の血液サンプルで行われている。 リスクと限界 ほとんどの遺伝子診断に関連した肉体的なリスクは、特に、血液サンプルまたは頬スミア(頬の内側表面からのサンプル細胞手順)のみを必要とするので、非常に小さい。出生前診断のために使用される手順は、胎児の周りから羊水又は組織のサンプルを必要とするため、流産の無視できないリスクがある。遺伝子診断に関連したリスクの多くは、試験結果による、感情的、社会的、または財産的な結果を伴う。遺伝子診断を受診した人は、怒ったり落ち込んだり、気にしたり、またはそれらの結果について罪悪感を感じることがある。遺伝子診断の潜在的な負の影響により、「知らないでいる権利"right not to know"」をどう守るかが考えられている[21]。結果は検査を受けた人に加えて、その人の家族についての情報も明らかにできるので、いくつかの例では、遺伝子診断は、家族内の緊張を生み出す。雇用や保険における遺伝的差別の可能性も懸念される。保険を購入したり、仕事を見つけたりるのに影響を与える恐れがあるので、遺伝子診断を避ける人もいる[22]。健康保険会社は、現在、保険の申請に遺伝子診断を受けることを必要としない。保険会社が遺伝情報に遭遇したとき、それは他の機密の健康情報と同じ機密性の保護の対象である[23]。米国では、遺伝情報の使用は、遺伝情報差別禁止法(GINA)​​によって制限されている。 遺伝子診断は、遺伝情報についての限られた情報を提供する。症状が出るか、または障害が時間をかけて進行するかどうか、どれくらい重度の障害の症状が出るかについて遺伝子診断では、多くの場合判断できない。診断を行っても、多くの遺伝性疾患では、治療する方法がない。 遺伝専門家が詳細にメリット、リスク、および特定のテストの限界を説明することができる。遺伝子検査を検討している全ての人が理解し、意思決定をする前に、これらの要因を比較検討することが重要である。 消費者向け遺伝子診断 消費者向け(Direct-to-consumer, DTC)遺伝子診断は、医療専門家を経由せず、消費者と直接アクセスする遺伝子診断のタイプがある。通常、遺伝子診断をするために、医師などの医療従事者は、患者の許可を取得し、所望の検査を注文する。しかし、 DTC遺伝子診断は、消費者はこのプロセスと順序が違い、自分自身で注文することが可能。乳癌の対立遺伝子についての試験から嚢胞性線維症にかかわる突然変異に至るまで、DTCテストには様々なものがある。 DTCテストの利点は、消費者が検査をできるため、積極的な健康管理の促進につながり、遺伝情報のプライバシーもより自分で管理できる。 DTCテストの可能性のあるその他のリスクは、政府規制の欠如や遺伝情報の潜在的な誤解、未成年者が検査を行ったり、治療法のない項目についての検査、個人情報、公衆衛生ケアシステムから漏れてしまうことなど[24]。 また日本において、妊娠8~10週目以降の女性が自身の血液と、性交を持った男性から採取した検体(同意を得て採取しているとは限らない)を提供して親子関係の検査を求め、結果によっては妊娠中絶を行う例がある[25]。 論争 DTC遺伝子診断が医学コミュニティ内で率直な反対に遭い、議論されている。 DTCテストの批評家は、規制されていない広告やマーケティングの特許請求の範囲、および政府の監督の全体的な欠如を伴うリスクを主張している[26]。 DTCテストは、任意の遺伝子診断と同じリスクの多くを共有している。これらの危険なリスクのひとつは、試験結果の深刻な誤解の可能性である。専門家の指導がなければ、消費者は、遺伝情報を誤って解釈し、彼らの個人的な健康について間違った理解をしてしまうことにある。 消費者向け遺伝子診断のいくつかの広告は、遺伝情報と疾患リスクとの間の関連について誇張や不正確なメッセージを伝え、そのことを販売のための広告として利用し、感情に訴えかけるとして批判されている。乳癌のBRCA-予測遺伝子検査の広告は、次のように述べている。「情報以上に、恐怖の強力な解毒剤はありません」[27] Ancestry.comという、系図の目的のためにDTCのDNAテストを提供する会社は、殺人事件を調査する警察による、彼らのデータベースを、令状なしで検索することを可能にしたと報告した[28]。米国ニューオーリンズの映画監督からのDNAサンプルの収集を強制的に捜索令状につながった令状なしで検索したが、彼は殺人容疑者と一致しないことが判明した[29]。 米国での政府の規制 現在、米国ではDTC市場は連邦政府による強い規制がなく、緩和されている。利用可能な数百あるテストのうち、ほんの一握りのみが、アメリカ食品医薬品局(FDA)により承認されている。これらは「自宅でできる検査キット」として販売されている上、「医療機器」と考えられているため、FDAが管轄権を主張することができる。 DTCテストの他のタイプは、検査のために、DNA試料を顧客が郵送する必要がある。実際の検査は、プロバイダの研究室で完了するので、FDAはこれらのタイプの検査に管轄権を行使するのは困難である。 2007年、消費者向け遺伝子検査の大半の主張されている精度について、FDAはまだ正式に科学的な検証をしていない[30]。 一般的に、遺伝子検査や遺伝情報に関しては、米国内の法律は、遺伝情報差別禁止法が、「健康保険の組織や保険会社に、遺伝的素因のみに基づいて、健康な人限定、あるいは、将来の疾患を発症する人に高い保険料を課すこと」を禁止している。法案はまた、雇用、解雇、就職、または昇進を決定する際、個人の遺伝情報を使用することを禁止している[31]。米国では、その種の最初の法律は、[32] 95-0の投票で、2008年4月24日にアメリカ合衆国上院で可決され、2008年5月21日にジョージ・W・ブッシュ大統領の署名により成立した[33][34]。それは2009年11月21日に発効した。 2013年6月にアメリカ合衆国最高裁判所は、人類遺伝学上の2つの判決を出した。裁判所は、遺伝子検査の分野における競争を開く、ヒト遺伝子の特許を認めなかった(The Court struck down patents)[35]。最高裁はまた、警察は深刻な犯罪で逮捕した人々からDNAを回収させたと裁定した[36]。 大衆文化 遺伝子診断やそれを利用した遺伝子工学が、現代や未来において引き起こしうる倫理的な問題などは、SFを中心とするフィクションにしばしば取り上げられる。例としては映画『ガタカ』、アニメ『機動戦士ガンダムSEED』シリーズ、漫画『ゴルゴ13』の「血液サンプルG」「Gの遺伝子」などである。 倫理 小児遺伝子検査 米国小児科学会(AAP)とAmerican College of Medical Genetics(ACMG)は、米国の子供の小児科遺伝子診断およびスクリーニングの倫理的な問題のための新たな指針を提供した。そのガイドラインは「子どもの最善の利益であるように、小児の遺伝子診断を行うべきである」と述べている。 成人では「遺伝的に癌になりやすいかを調べる遺伝子診断を受けるか?」という質問に関心を示す人が84から98パーセントいた[37]。(この訳であっているか自信ない)In hypothetical situations for adults getting genetically tested 84-98% expressing interest in getting genetically tested for cancer predisposition.しかし、癌になりやすい体質の可能性のある人について聞くと、遺伝子診断を受けたい人が半分になる。Though only half who are at risk of would get tested. AAPとACMGは、小児期に遺伝性疾患を診断し、早期介入を開始すると、罹患率や死亡率を減らすことができるのだが、大人になってから影響のある遺伝病についての診断は、大人になるまで受けないことを勧めている。AAP and ACMG recommend holding off on genetic testing for late-onset conditions until adulthood. Unless diagnosing genetic disorders during childhood and start early intervention can reduce morbidity or mortality. 彼らはまた、小児期発症の疾患の原因遺伝子を受け継いでいるが、無症状の小児のためには、親または保護者の許可の上、小児のために遺伝子検査をするのは、理想的であるといっている。 組織適合性試験ガイドラインは、全ての年齢の子供は、事前に心理社会的、感情的および肉体的な影響を検討しておくことを条件として、近親者のために組織適合性テストを受けることは許容されるとしている。(この訳であっているか自信ない)Histocompatibility testing guideline states that it’s permissible for children of all ages to have tissue compatibility testing for immediate family members but only after the psychosocial, emotional and physical implications has been explored. ドナー支援者または同様の機構を 強要から未成年者を保護するための場所とするべき。 With a donor advocate or similar mechanism should be in place to protect the minors from coercion and to safeguard the interest of said minor. AAPとACMGの両方ともに、試験内容の正確性、解釈および検査内容を理由に、消費者向けおよび家庭用キットの遺伝子検査の使用を、推奨していない。ガイドラインはまた、未成年が適切な年齢である場合、親や保護者が遺伝子検査の結果を、彼らの子供に知らせることは奨励されるべきであると述べている。成熟した年齢と適切な要求である場合、未成年者の要求が受け入れられるべきである。倫理的および法的な理由のため、遺伝子検査会社は、親や保護者の関与なしに、予測するための遺伝子検査を未成年者にすることに注意をすべきである。ガイドラインの範囲内AAPとACMG状態その医療提供者は、テスト結果の含意に両親または保護者に通知する義務がある。患者は家族と情報を共有することを奨励され、それは遺伝カウンセリングのために結果を説明する助けになる。AAPとACMGは、どんな予測遺伝子検査でも、臨床遺伝学、遺伝カウンセラーや医療提供の申し出ている遺伝カウンセリングを受けるのがよいとしている[37][38][39]。 イスラエル イスラエルは、人々が、特定の民族グループに与えられた法的権限の対象となるかどうかを決定するためにDNA検査を使用している。 「旧ソ連( 'FSU')から多くのユダヤ人が戻るときに、イスラエルの法律の下で国民をユダヤ人として移住するために、彼らがユダヤ人のDNAをひきついでいるか確認するように求められる」という政策が論争を起こした[40]。 脚注 関連項目 DNA型鑑定 オーダメイド医療 優生学 遺伝カウンセリング 遺伝子の窃盗
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民間防衛の概念はいつ日本で誕生した?
民間防衛
japanese
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民間防衛(みんかんぼうえい、English: civil defense)とは、武力紛争等の緊急事態において市民によって国民の生命及びインフラストラクチャーや公共施設、産業などの財産を守り、速やかな救助、復旧によって被害を最小化することを主目的とする諸活動をいう。民防と略される。文民保護の機能もある(日本では国民保護に相当)。 概要 戦争・核戦争・自然災害などの大規模な被害が生じうる緊急事態においては、軍隊や警察・消防だけの能力で規模の面から追随出来ない事態が起こりうる。そのため自己の防衛と、火災などの被害の最小化のための民間人による行動の必要性が生じる。この諸活動を民間防衛と呼ぶ。また平時における自然災害や人為的災害に対しても備えるものであり、いわばマルチハザード型の住民の防護体制ということができ、防災、防犯、政治をも包括した概念である。有事に際しては中央政府の計画及び指導にもとづき、地方公共団体の組織の指導によって一般市民が主体となって避難、救援活動に従事するものである。 機能 防護 防護は直接的な被害を防ぐことである。具体的には公共用、家族用の保護施設、掩蔽壕、防空壕(シェルター)がまず挙げられる。また、化学兵器や生物兵器に対抗するための防護マスク・防護服、また防火装具も人員の防護のための道具である。建築物の地下化、耐火・耐熱・防火・消火設備の付与、交通機関の耐爆施設化、船舶用の洞窟、航空機の地下格納・掩体も防護手段として考えられる。スウェーデンでは工場の地下化が行われている。 疎開 疎開とは人口・建物や文化財の密集化を避けて分散することで被害を軽減することであり、防護と対比される。疎開は都市・工場・人口の分散、都市計画の段階における分散、有事における緊急疎開や文化財の保管場所の変更などが挙げられる。また航空機や船舶を緊急退避させることもこれに当たる。 疎開や防護が不可能な状態にある医療施設や文化財については、国際法で認められた形状の証票を遠方や上空からも視認できる位置に掲示し、敵が攻撃を思いとどまるよう働きかける措置をとる。 秘匿 秘匿とは敵が得る情報を最小化することである。偽装・隠蔽などで重要施設の、灯火管制で人的被害を軽減することができる。 情報 ここでの情報とは、空襲警報などの各種警報の伝達、情報の伝達を言う。情報収集は軍隊が行う。警報は各種の緊急事態を周知させるためのものであり、情報の伝達は応急復旧や救出活動、避難などにおいて必要な情報を適所・適時に伝達することを指す。 消火 ここでの消火とは、水、砂、消火器、消火栓での放水などを、消防機関に頼らず自主防災組織や自衛消防組織等の民間人が行うことによって、被害を最小限に食い止めんと努力することをいう。 補給 ここでの補給とは食料・水・空気・被服・医薬品・衛生材料・修理材料などの消耗品の備蓄や空気浄化装置・通信装置・自家発電・簡易便所・消火設備などの設置を言う。これには家庭用と公共用のものに分けられる。家庭用のものは事前からの備蓄であり、公共用のものは配給で配分されることとなる。 衛生 ここでの衛生は検査・CBR処理・患者救出を言う。CBR処理とは消毒・除毒、防疫、汚染除去を指す。患者救出では救護所が設置され、民防組織及び防災組織が現場から負傷者を救出し、止血や添え木等の簡単な応急処置を施しつつ医師のもとへ搬送する。医師は搬送されてきた負傷者に対してトリアージを行う。 交通 交通とは疎開のための輸送、交通の統制を言う。疎開輸送とは人口の疎開に必要な輸送であり、特に全面戦争などにおいては短時間のうちに大規模な輸送を行う必要性があるため、組織的な交通統制と疎開先の受け入れ準備が不可欠となる。疎開は理論上最も費用の安い手段であるが、実際には物理的可能性に限界があり、パニックや士気などの心理的要素と関連し、公共の秩序維持上の問題がある。日本では、有事の際の緊急輸送を確保するため、国内海運業者をカボタージュ制度で統制している。 防諜 民間防衛における防諜とは、敵側陣営が放つデマやプロパガンダに惑わされないための情報リテラシーの素養の育成である。 応急復旧 ここでの応急復旧は遺体処理や交通復旧などを言う。遺体処理の実施は、公衆衛生を維持し、また国民の心理的な被害を低減するために必要であり、当局には死者の尊厳を卑しめることのないよう配慮する責任がある。戦争・災害などで寸断された交通網はあらゆる活動の物理的な制約となるため、事後に速やかに交通を復旧しなければならない。 民防組織 民間防衛は民間人による防衛の一手段であるが、個人の能力ではその活動に限界がある。そのために民間防衛組織(民防組織)を国民的に組織化する必要性がある。つまり個人、家族、職業集団などにを構成単位としてその指揮系統が整備され、その上層部は市町村、地方、州、最終的には政府に繋がっていなければならない。民防組織は、その最高意思決定がアメリカ合衆国や旧ソ連などのように国防省によって行われている形態と、カナダやスイスのように一般的な行政省によって行われている形態がある。民防組織は、その組織体制においては計画指導機関、幹部教育機関、訓練機関、実働部隊が組織・編成されている。 日本における民間防衛 第二次世界大戦前の民間防衛体制としては、空襲に備えた防空法(昭和12年法律第47号)に基づく空襲警報などの諸施策などがあった。民間防衛組織としては、警防団などが存在した。日本本土空襲が現実化すると、大規模な疎開が行われた。沖縄戦やソ連対日参戦による諸戦闘では民間人の事前疎開などが十分に実施できず、地上戦闘に巻き込まれる例が多く発生した。 戦後の日本においては国民保護の名で呼ばれる。2004年、有事法制の第二段として、武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(国民保護法)をはじめとする関連法が成立し、さらに同日ジュネーヴ諸条約の追加議定書も採択を認可する決議がなされたことで、武力攻撃事態において自衛隊は在日米軍とともに侵略軍からの防除に努め、内閣総理大臣の総合調整権の下、地方自治体を中核とする警察・消防による国民の保護実務のあり方などが定められた。屋内退避等の手順を定めた国民保護計画が立案されたことは大きな成果である。 とりわけ、国民保護法では国民の協力を求め消防団や水防団、防災協会や防犯協会、町内会や自治会をはじめとした自主防災組織(自主防犯組織)の活躍が期待されている。近年はこれらの組織を改編すべきだという意見も一部あるが、憲法や各種法令に触れる可能性もあり(日本国憲法第9条に基づき戦争を放棄しているので、戦争することを前提とした法規の制定は違憲立法であるとの解釈)、国民的同意も乏しいため実現の目処は立っていない。現に、国民保護法では、自主防災組織やボランティア団体の活躍を期待しているが、これを民間防衛組織とみなすことはないと規定し、新たに民間防衛組織を創設しないことも規定している。 民間防衛について田母神俊雄は、消防団の制度を改正して企業や民間人を消防団に取り込むことを主張する。田母神によれば、民間人は有事に際しては消防団員のように民間防衛活動をするべきであり、第二次大戦における反ナチスのレジスタンス闘争のように、民間人が火炎瓶・ボウガン・猟銃・スタンガン等の武器を用意して侵略者を迎え撃つことは、結果的には自衛隊や警察の活動を妨げかねないという。また、レジスタンス気取りの民間人によるテロ・ゲリラ戦法は、刑法上の正当防衛・緊急避難には該当しないため、これに失敗した場合は侵略者による民間人の大量虐殺が誘発され、もし成功しても現行法のままでは戦後になって罪に問われる虞があり、民間人の武装レジスタンス化は許されない旨の見解を示している[1]。 このような日本の実情に適応する民間防衛の試みの一つとして、日本財団によって「海守」の活動が行われている。海守は、不審船や密航に警戒をする海上保安庁公認のボランティア団体である。 資源や食料を輸入に頼る日本にとって、国民の食生活の安定は民間防衛上、重要な課題である。農林水産省では、食糧法、国民生活安定緊急措置法、物価統制令を法的根拠とする「食料・農業・農村基本計画」(平成12年3月閣議決定)に基づくマニュアルを整備しており、有事・重要影響事態によって海外からの食料が輸入できなくなった場合、国として配給制度を実施したり、原野や休耕地等での耕作による食料の確保を行い、国民を保護する計画である[2]。また、国土交通省では、日本有事や大規模災害における資源等の輸送が、公共の秩序維持のために必要と認められる場合、カボタージュの下にある日本国籍の船舶について、海上運送法第26条を法的根拠とする航海命令を強制することができる(ただし、外国に国籍のある便宜置換船については航海命令に従う義務はない)。 各国の民間防衛 スイス 重武装中立政策をとるスイスでは1969年[3](チェコ事件の翌年)、当時の東西冷戦に伴う緊張の高まりを受け、スイス政府がタイトルそのままの冊子『民間防衛』を各家庭に260万部発行・無償で配布した歴史がある。この冊子の存在は、スイスの国防意識の高さを如実に表すエピソードの一つとして、日本などで有名である。発行元は。 冊子は320ページと非常に重厚な内容であり、主として戦争の危機に際して必要な準備や心構えなどについて詳しく解説されている(一方で地震・噴火・風水害といった自然災害への備えに関する記述は皆無である)。食料品や燃料の配給統制の説明や食料の備蓄呼び掛けに始まり、民間の自衛・防災組織の構築、核兵器や化学兵器の使用を含めた敵国の攻撃によって想定される被害への対策や実際に攻撃された際の行動、敵国のプロパガンダやスパイに対する対応、万が一敵国に占領された場合(但し政府が交戦の末に降伏したのか否かについては一切記述がない)のレジスタンス活動の心得まで、様々な危機とそれらへの対処が詳しく解説されている。 日本でもこの冊子は何度か邦訳されている。スイス本国で配布された直後の1970年(その後1983年に一度絶版になる)、阪神・淡路大震災後の1995年、そして極東における有事問題への関心が高まり出した2003年には新装版が、それぞれ原書房から発売され、2005年現在、日本国内で累計15万部以上が発行されている。 日本の福井県安全環境部危機対策・防災課が平成16年(2004年)に纏めたレポートは、スイスの現況を次のように伝えている[4]。 民間防衛の冊子について 現在日本国内で市販されているスイス政府版『民間防衛』は、1980年代までの冷戦に基づいた本であり、現在のスイス国内で同書が使われることは全くない。スイス政府にとっては過去のマニュアル本であり、改訂する予定もなければ再び頒布をする予定も現在のところ無い。しかし、もし日本で役に立つのであれば良いことだと思う、とスイス側からのコメントが紹介されている。 避難マニュアルについて マニュアルはない。事前に国民へ配布もしないし、その必要もない。スイス政府では有事の際にはサイレンで警報を流すが、その内容やその他の事柄は電話帳の巻末に記載されている。スイス国民はそれらに沿って行動し、追加事項は州や連邦から直ちに伝達される事になっている。 民間防衛体制の変遷について 民間防衛に関しては、冷戦の際は地理的条件から核戦争に巻き込まれる危険もあり、核シェルター等を法制化し整備していた。現在においては、ヨーロッパにおける現在の環境を考慮すると比較的戦争の可能性がない。したがって、災害の防止などが主眼におかれている。 現在のスイス国内でこのマニュアルの存在を知る人は少ない。2018年1月12日の読売新聞の報道で、スイス連邦工科大学の研究者は、「マニュアルのことを日本人に質問されて初めて知った」「スイス人がこのマニュアルを熟知しているというのは誤解だ」「欧州の人が『日本に今も侍がいる』と思い込むようなものだ」と述べている。またスイス国防・民間防衛・スポーツ省のロレンツ・フリシュクネヒト報道官は「このマニュアルは69年に配布したきり、改定をされたこともない。無効なものだと考えている」と述べた。国道を有事に滑走路へ活用する計画も訓練も既に廃止されている。スイスの危機管理対策は自然災害に重きをおいており、それでもその名を受け継ぐ同省のフリシュクネヒトは、「民間防衛はなくなったのではなく、大きく変わった」と語っている[5]。 イスラエル 周囲を敵対国に囲まれているイスラエルでは『イスラエルの民間人に対する脅威とイスラエルの民間防衛措置』と題して敵国のミサイル攻撃に備えて伏せたり、遮蔽物に隠れて身を守る訓練を行って非常時に慌て無いような防衛措置を普段からイスラエル軍と共に国民がしている。テルアビブの高速道路の運転手らは2014年7月9日や7月20日に即座のミサイル攻撃から避難するために警報システムのサイレンアラート時には車から降りて車を盾にするように子供を自身の下にして守るように身を低くしている。同日にイスラエルの道路で民間人に軍の指示に従って敵のミサイル攻撃に備えて身を低くする指導が行われている。他にもイスラエルではミサイル防衛システム「アイアンドーム」による迎撃ミサイルでの敵ミサイル撃墜の結果として生じる破片は、落下して依然として大きな被害をもたらす可能性があるので、死傷者の負担を最小限にするのに不可欠だとして定期的な民間人の公共安全のための民間防衛の指導・国内インフラの強化の公共工事の二つを防衛政策として重視している。さらに地下の密入国トンネルによる越境してきた敵への突発的な攻撃への対策について教えられている[6]。 リトアニア ウクライナ問題をうけて2015年にリトアニアは潜在的な敵への直接の武力闘争だけでなく、他の抵抗方法も選択できるように民間防衛に関するパンフレットを発行した[7][8]。 イギリス 第2次世界大戦では戦略爆撃などで民間人の被害も大きくなり、各国とも民間人を動員して救護活動を行うことが一般化した。核兵器の出現によって、使用された場合の被害が甚大となることが予想されるため、主要諸国では民間防衛に対する法令を制定し、平時から民間防衛のための対策を準備している。英国政府は第2次世界大戦終結後に従来の民間防衛体制に新形態の空襲対策を盛り込むための調査研究期間の確保のため現行だった民間防衛法の停止法を成立させて一時的に停止させた。1954年の新法には1945年の法律への補足として軍隊の構成員が民間防衛で指導をすることが義務付けられた。1986年には平時市民保護法が制定され、民間防衛に交付金で地方自治体は外国勢力の攻撃以外の緊急事態・災害などでも被害防止・救済のために自治体の資源を動員できるようになった。2004年にテロ・ミサイル攻撃・自然災害・伝染病など多様な緊急事態に対する包括的な民間防衛の枠組構築を目的とした民間緊急事態法が制定されている[9][10][11][12]。 脚注 関連文献 『防衛学概論』服部実著(原書房、1980年) 『民間防衛』スイス政府著/原書房 ; ISBN 4562036672 『スイスと日本 国を守るということ「永世中立」を支える「民間防衛」の知恵に学ぶ』松村劭著/祥伝社 ; ISBN 4396681062 関連項目 戦時体制 民兵 ジュネーヴ諸条約の追加議定書 (1977年) 武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律 警察官 海上保安官 消防本部 - 消防長 - 消防吏員 消防団 - 消防団長 - 消防団員 水防団 - 水防団長 - 水防団員 海守 ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧省 - ロシア民間防衛軍 民防衛隊 準軍事組織 自警団
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500ユーロ紙幣に描かれているのは何ですか?
ユーロ紙幣
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ユーロ紙幣(ユーロしへい)とは、ユーロ圏などで使用されている通貨ユーロの紙幣。ユーロ紙幣は2002年から流通され、発券は欧州中央銀行が担っており、各紙幣には欧州中央銀行総裁の署名が印刷されている。ユーロ紙幣には5ユーロから500ユーロまでがあり、発券はユーロ圏の各国で行なわれているが、ユーロ硬貨と違ってデザインはユーロ圏で統一されている。 金種 ユーロ紙幣には7つの金種があり、それぞれ異なる色と大きさになっている。各金種のデザインは時代ごとのヨーロッパの建築物という共通の主題を持っている。紙幣表面は窓や門が描かれているのに対して、裏面は橋が描かれている。紙幣に描かれた建築物はそれぞれの美術様式の特徴を表現しているが、これらは実在する建築物ではない[1]。 すべての紙幣に共通して印刷されているのは、欧州旗、5種類の欧州中央銀行の略称(BCE, ECB, EZB, ΕΚΤ, EKP)、裏面のヨーロッパの地図、ユーロのラテン文字表記 (EURO) とギリシア文字表記(ΕΥΡΩ)、現任の欧州中央銀行総裁の署名である。また欧州旗に描かれている12個の星の円環も描かれている。 ユーロ紙幣のデザインは1996年2月12日から開始された欧州通貨機構の理事会による選考で集められた44の図案から選ばれたものである。選ばれた図案はオーストリア国立銀行のロベルト・カリーナが作成したもので、1996年12月3日に採用が決定された。 特徴 ユーロ紙幣に使われている紙は純綿繊維で、独特の手触りを持つほか、耐久性に優れている[2]。 紙幣に描かれている地図にはユーロを導入している加盟国の海外領土(アゾレス諸島、フランス領ギアナ、グアドループ、マデイラ諸島、マルティニーク、レユニオン、カナリア諸島)が描かれている。その一方でキプロスとマルタは2004年にユーロを導入しているにもかかわらず、紙幣の地図に描かれていない。これは地図に描かれるには、実際の面積が少なくとも 400km2 は必要であり、マルタはそれよりも小さい (316km2) ために描けないのである[3]。 上記の紙幣画像のうち、200ユーロ紙幣表面に記載されている署名はウィム・ドイセンベルクのものであるが、それ以外の紙幣に記載されている署名はジャン=クロード・トリシェのものである[4]。 デザイン ユーロ紙幣に描かれているすべての建造物は欧州連合域内の名所旧跡を連想させるように描かれており、ヨーロッパ中にある無数の歴史的な橋や門に普遍的な要素を合成した、各時代の建築様式を表現した架空のものである[5]。たとえば5ユーロ紙幣は古典古代を表現したもので、10ユーロ紙幣はロマネスク、20ユーロ紙幣はゴシック、50ユーロ紙幣はルネサンス、100ユーロ紙幣はバロックとロココ、200ユーロ紙幣はアール・ヌーヴォー(鉄とガラスの時代)、500ユーロ紙幣は近代の様式を表現している。ところがオランダ銀行による調査では、5ユーロ紙幣の主題がわかったのは 2%、50ユーロ紙幣にいたっては 1% しかわからなかったという結果が出されている。ユーロ紙幣には特定の建築物の特徴を描いてはならないということになっていたが、ロベルト・カリーナによる原案では、ヴェネツィアのリアルト橋やパリのヌイイ橋といった実際の橋を描いたものとなっていたため、のちに一般的な建築様式の特徴に改められた。ところが決定稿では試作のデザインにきわめて似たものとなったため、完全に一般的な表現とはいえないものとなっている[6]。 視覚障害者に対する工夫 ユーロ紙幣には視覚障害者団体と協力して取り入れた工夫がある。これらは紙幣そのものは見えるが印刷内容が読み取れないような視覚障害者や全盲者のためのものである。 ユーロ紙幣は額面とともにその寸法も大きくなっており、視覚障害者や全盲者が金種を判別できるようになっている。また紙幣の基調色も金種の順番で暖色と寒色が交互になっており、色を判別できる人に対して近い2つの額面を混同させにくくしている。さらに額面部分の印刷には凹版印刷が施されており、指先の触覚だけで金種を判別できるようにしている。5, 10, 20ユーロの低額紙幣には表面右側にホログラムの入った帯状の金属箔が、高額紙幣にはホログラムの入った四角の金属箔が付けられている。200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣の縁には触知できる模様があり、200ユーロ紙幣には下部中央から右の角にかけて縦の線が、500ユーロ紙幣には右端に斜めの線が走っている。 ユーロに移行する以前の通貨の紙幣にも視覚障害者のための工夫がなされていたが、ユーロの導入にあたっては視覚障害者の団体に意見を求めている。 安全対策 欧州中央銀行はユーロ紙幣の安全対策のなかでも基本的なものの一部を明らかにしており、一般の人が見た目でユーロ紙幣の真贋を判断できるようにしている。その一方で安全性の観点から、安全対策の全般は極秘となっている。 公式に明らかにされているもの、また一般の人が独自に見つけたものを数えると、ユーロ紙幣には少なくとも13の安全対策が施されている。 ホログラム 5, 10, 20ユーロ紙幣には表面右側にホログラムの入った帯状の金属箔が貼り付けられている。この金属箔には紙幣の額面が浮かび上がるようになっている。 他方で50ユーロ以上の額面の紙幣には帯状のものではなく、四角形のようなシールが貼り付けられている。 光学的変化インク 低額紙幣には右隅に、50ユーロ以上の額面の紙幣には裏面に光学的変化インクが使われている。角度を変えて見ると紫から緑に変色するようになっている。 チェックサム 紙幣には1枚ずつに記番号が記されている。この記番号の末尾の数字は1から9で表される検査数字であり、記番号は次の規則を満たすものとなっている。先頭の文字をアルファベットの順番の数字(L は12、M は13…、Z は26)に置き換え、すべての数字の和を9で割ったときの余りが8となるようにされている。なおある数を9で割ったときの余りを容易に確認するには、その数の各桁の数の和を求め、その和が2桁以上であれば和が1桁になるまで各桁の数を足す計算を繰り返し、和が1桁になればその数が求める余りとなる。 例として紙幣の記番号が Z10708476264 であれば、まずは Z を26と考えたうえで残りの番号の数を足していけばよい。つまり、26 + 1 + 0 + 7 + 0 + 8 + 4 + 7 + 6 + 2 + 6 + 4 = 71、 7 + 1 = 8 となり、規則を満たすものとなっている。 記番号の先頭の文字を別の法則で置き換えると異なる余りが得られることになる。例えば先頭の文字を ASCII の10進数の数値とすれば、記番号の数の和を9で割ると余りは0となる。 別の例として紙幣の記番号が Z10708476264 であれば、ASCII コードで Z に割り当てられている10進数は90であるから、記番号は 9010708476264 に置き換えられる。この番号の各桁の数の和は 9 + 0 + 1 + 0 + 7 + 0 + 8 + 4 + 7 + 6 + 2 + 6 + 4 = 54 で、5 + 4 = 9 となるため、この記番号は9で割り切れ、余りは0となる。 ユーリオン ユーロ紙幣には「ユーリオン」と呼ばれる、紙幣の複製防止のために用いられる模様が入れられている。コピー機や画像処理ソフトウェアの中には、ユーリオンが含まれている画像の複写や使用を受け付けないように設定されているものがある。 透かし 通常の透かし 各金種にはそれぞれで透かしが入れられている。この透かしは紙幣を光にかざすと浮かび上がるようになっている。 電子透かし ユーリオンのように、デジマーク社の電子透かしが紙幣に埋め込まれている。Adobe Photoshop や Corel Paint Shop Pro などの画像編集ソフトウェアは紙幣の加工を受け付けないようになっている[7]。 赤外線・紫外線透かし 紙幣に赤外線を照射すると、金種によって異なるが、黒っぽくなる部分がある。また紫外線光を照射するとよりはっきりとユーリオン模様が見え、蛍光糸が浮かび上がる。 レジストレーション 表面左上隅の紙幣額面と裏面右上隅の紙幣額面は、光を透かして紙幣を見ると、額面が完全に表示されるようになるレジストレーションが施されている。真券は表裏でずれることなく額面が表示されるようになっているが、偽紙幣など正確に印刷されていないものは数字がずれて表示される。 隆起印刷 ユーロ紙幣にはほかの部分と違う質感を持つ部分がある。"BCE ECB EZB" と印刷されている部分は隆起しているように感じられる。 バーコード ユーロ紙幣を光に向けてかざすと、透かしの右のあたりに金属のような複数の線が見える。この線の数と幅で紙幣の金種がわかるようになっている。この部分はマンチェスター符号としてスキャンされる。 (裏面から見て、濃いバーを1、薄いバーを0とする) セキュリティ・スレッド 紙幣を光源の反対側に置くと、中央部分の黒く磁気を帯びた筋が見える。この筋には紙幣の額面と "EURO" の文字が記されている。 磁気インク 紙幣の一部には磁気インクで印刷された箇所がある。たとえば20ユーロ紙幣に描かれている教会の1番右側の窓とその上方にある大きな 0 の文字は磁気を帯びている。 マイクロ印刷 表面下方にある線、例えば10ユーロ紙幣のΕΥΡΩの右側にあるものは非常に小さい文字で EURO ΕΥΡΩと印刷されている。 マット加工 縦の帯状の部分に45度の角度で光を当てるとユーロ記号と額面が浮かび上がるようになっている。この加工は5, 10, 20ユーロのみに施されている。 偽造 2002年の流通開始からユーロ紙幣・硬貨の偽造は急速に増加している。 2003年には551,287枚の偽造紙幣が、26,191枚の偽造硬貨が回収されている。2004年、フランスの警察は2か所の工場から10ユーロと20ユーロのおよそ180万ユーロに相当する偽造紙幣を押収しており、この工場で製造された偽造紙幣145,000枚が市中に出回っているものと見られている。 2008年7月、欧州中央銀行は偽ユーロ紙幣の枚数は増え続けており、2008年上半期に押収された偽造紙幣の枚数は前期比で15%以上も増加したと発表した。このうち50ユーロと20ユーロの偽造紙幣が多くを占めており、また精度の高い200ユーロや500ユーロの偽造紙幣も作られているとも述べている[8]。 記番号 硬貨とは異なり、ユーロ紙幣はその紙幣を発券した国が独自にデザインを定めているものではない。そのかわり、紙幣の記番号の先頭の文字で発券された国がわかるようになっている。 記番号の先頭の文字はその紙幣を発券した国を示すものである。その後に続く13桁の数字は上述のチェックサムとなっており、各桁の数を足していき、その和が2桁以上であれば再度各桁の数の和を求め、1桁になったその数によっても発券した国がわかるようになっている。チェックサムの規則のため記番号は連続したものとなっておらず、9ずつ増加したものとなっている。 記番号の先頭に使われる文字でも、W, K, J は、現在ユーロを導入していない欧州連合加盟国が将来使用するために残されている。また R はユーロを導入していても発券を行なっていない国に割り当てられている。 記番号の先頭の文字は Z から順に、それぞれの国の公用語で表記した国名のアルファベット順で決められている。 (1)アルファベット以外の11桁の記番号のチェックサム 上記一覧でデンマークとギリシャの記番号の先頭の文字が入れ替わっているのは、ギリシア文字には「」があるが、「」に相当する文字がないためである。 アイルランドの第1公用語はアイルランド語であるが、上記一覧ではアイルランド語表記の [Éire]error: {{lang}}: text has italic markup (help) ではなく、英語表記の Ireland にしたがっている。なおアイルランド語は2007年1月1日に欧州連合の公用語となっている。 フィンランドの公用語はフィンランド語とスウェーデン語の2つがあり、いずれも欧州連合の公用語となっているが、同国内では前者が多く使われていることもあって上記一覧では、スウェーデン語の [Finland]error: {{lang}}: text has italic markup (help) ではなくフィンランド語の [Suomi]error: {{lang}}: text has italic markup (help) に従ったものとなっている。 ベルギーには3つの公用語があり、いずれも欧州連合の公用語となっている。またルクセンブルクにも公用語が3つあるが、そのうち2つが欧州連合の公用語となっている。ただいずれの言語の表記でも、国名の最初の文字はおなじであるため一覧の順番に影響を与えることがない。 ルクセンブルクはユーロ紙幣の印刷を行なったことがなく、記番号の先頭の文字が「」となっているユーロ紙幣は流通していない。 ユーロ圏が拡大した2007年1月からはスロベニアにも記番号の先頭の文字が割り当てられたが、導入された当初、スロベニアはほかの国で印刷されたユーロ紙幣が流通された。そのためスロベニアではなくフランスで2008年4月以前に印刷された、記番号の先頭の文字が「」のユーロ紙幣が流通している[11]。 キプロスとマルタは2009年にはじめてユーロ紙幣(20ユーロ)を印刷した[12]。 記番号の先頭の文字はユーロ紙幣の流通開始の時点におけるすべての欧州連合加盟国に割り振られており、上記のような順番で「」までが決められたが、それ以降に欧州連合に加盟した国に割り振られる文字は、ユーロを導入した順番に指定されていくことになる。同時に2か国以上がユーロを導入したときには、上述の順番で文字が指定される。つまり、その国の名称を公用語で表記したさいに、その先頭のアルファベットの順番で記番号の先頭の文字を決めることになる。2007年にユーロを導入したスロベニアには「」のひとつ前のアルファベットである「」が割り当てられた。2008年にユーロを導入したキプロスとマルタについては、国名の公用語表記の先頭が K であるキプロス[13]が「」を、「」であるマルタが「」を割り当てられた。さらに、2009年にユーロを導入したスロバキアには「」が指定されている。 2002年に発券されたユーロ紙幣にはウィム・ドイセンベルクの署名が入っており、この紙幣は全7金種がフィンランド銀行、ポルトガル銀行、オーストリア国立銀行、オランダ銀行、イタリア銀行、アイルランド中央銀行、フランス銀行、スペイン銀行、ドイツ連邦銀行、ギリシャ銀行、ベルギー国立銀行の各中央銀行によって発券された。ただしポルトガル銀行は200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣を、アイルランド中央銀行は200ユーロ紙幣をそれぞれ発券しなかった。このためドイセンベルクの署名が印刷されたユーロ紙幣の発券国と金種の組み合わせは74通り存在することになる。 2002年のユーロ紙幣の流通が開始されたあと、ユーロ圏各国の中央銀行は一部の金種のみを発券していくようになった。たとえば50ユーロ紙幣の発券はユーロ圏のすべての中央銀行のうち、4行のみが担っている。このような分散して発券する体制によって、各中央銀行は発券に先立って別の国で発券された金種と交換しなければならず、またときには複数の印刷所から自らが発券した紙幣を調達することもある。これはつまり、一部の発券国・署名の組み合わせのユーロ紙幣がほかの組み合わせと比べて希少になっているとのである。とくにドイセンベルクの署名が印刷されたフィンランド発券の200ユーロ紙幣、ポルトガル発券の100ユーロ紙幣、アイルランド発券の100ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣、ギリシャ発券の200ユーロ紙幣と500ユーロ紙幣は数が少ない。また2003年以降に発券されたジャン=クロード・トリシェの署名が印刷されたユーロ紙幣は必ずしもすべての金種がすべてのユーロ圏の国で見かけることができるものではない。2007年末の時点で、トリシェの署名が印刷されたユーロ紙幣の発券国と金種の組み合わせは77通りがありえるはずだが、実際には30通りしか確認されていなかった。また2008年にはスロベニア銀行が発券した、記番号の先頭の文字が "H" となっている紙幣が流通されるようになり、発券国・金種の組み合わせは増えていくことになる[14]。 印刷工程 7種のそれぞれの額面の紙幣には、印刷情報が特定できるような6文字の小さな印刷コードが記載されている。 この印刷コードは、先頭はアルファベット、続いて3桁の数字、アルファベット1文字、1桁の数字で構成されている(例:G013B6)。 先頭の文字は印刷所を示している。たとえば「」はオランダのヨハン・エンシェーデのコードである。続く3桁の数字は紙幣の印刷版の版数を示している。例の「」はその印刷所で作成された13番目の印刷版で印刷したということを示す。5桁目にあるアルファベットと6桁目の数字はそれぞれ印刷版の縦と横の位置を示しており、「」は縦の2段目、横の6列目を表している[15]。 紙幣は複数のものがつながったシートの形で印刷されるが、印刷所によってシートの大きさが異なっている。これは額面が高くなるにつれて紙幣が大きくなるためで、同じ大きさのシートであれば作成される紙幣の枚数は少なくなる。たとえばドイツの2つの印刷所では1枚のシートで5ユーロ紙幣を60枚(縦10段、横6列)印刷するが、10ユーロ紙幣であれば54枚(縦9段、横6列)、20ユーロ紙幣であれば45枚(縦9段、横5列)が印刷される。 印刷所コードは国別コードと一致させる必要はなく、ある国が発券した紙幣が別の国で印刷されるということがある。紙幣を印刷する工場には国有のもののほかに民間のものがあり、それらの工場はユーロ以前にはそれぞれの旧通貨を印刷していた。紙幣を発券する国にはそれぞれ1か所ずつ、国有の(あるいは国有だった)印刷所があるが、ドイツについては、旧東ドイツと旧西ドイツのそれぞれの印刷所があり、これらは両方ともが現在はユーロ紙幣を印刷している。またフランスも民間のフランソワ=シャルル・オーベルテュールとフランス銀行印刷所の2か所がある。現在はユーロを印刷していないものの、イギリスも民間のデ・ラ・ルーとイングランド銀行印刷所の2か所がある[14]。 A, C, S のコードはユーロ紙幣未発行の印刷所に割り当てるために未使用となっている。 上記一覧で、ある印刷所が特定の1つの国に対して紙幣を印刷していると表記されている場合は、そこで印刷される金種は1種類であるか、あるいは7種類すべてのいずれかであるということを示している。各国の中央銀行の中にはさまざまな額面の紙幣を複数の印刷所から調達するところもあり、また単一の金種の紙幣を複数の印刷所から調達しているところもある。前者の例として、ギリシャが5か所の印刷所から調達しており、後者の例にはオランダが2009年3月までに5ユーロ紙幣を5か所の印刷所から調達している。紙幣を発券している各中央銀行は公認されている印刷所から自由に紙幣を調達することができ、またその枚数もさまざまなものとなっている。2008年6月の時点で、ユーロ紙幣の印刷所・署名・発券国・額面の組み合わせは133通りとなっており、今後もこの組み合わせは増えていくことになる。 デザインの変更 ユーロ紙幣には欧州中央銀行総裁の署名が印刷されている。2003年11月以降に印刷された紙幣にはジャン=クロード・トリシェの署名が入っており、それ以前の紙幣にはウィム・ドイセンベルクのものが印刷されている。 2002年以降のユーロ紙幣は欧州連合加盟国が27にまで増えたということがデザインに反映されていない。たとえば、紙幣に描かれている地図は東側が切れているためキプロスが含まれていなかったり、また縮尺のためにマルタが描かれていなかったりしている[3]。欧州中央銀行では7年から8年ごとに紙幣を再設計することになっており、従来のものに替わる新しいデザインの準備が進められている。新紙幣には新しい製造技術と偽造防止技術が採用されることになっているが、デザインについては従来と同じもの、同じ色調が用いられることになっている。それでも新しい版の紙幣は見た目にも変化が明らかなものとなる予定である[16]。 また欧州中央銀行の略称表記も従来のものに、キリル文字(ЕЦБ)、ハンガリー語 (EKB)、マルタ語 (BĊE)、ポーランド語 (EBC) によるものが加えられる。 さらに「ユーロ」の表記についてもキリル文字のЕВРOのみが加えられる。ユーロ圏各国では「ユーロ」の表記についてさまざまなものがありえるが、欧州中央銀行の方針ではラテン文字を使う国についてはすべて euro で統一することとしている。 新しい版の紙幣は、当初2011年1月に発券されることになっていた[17]。しかし、実際にはスケジュールが遅れており、2013年5月から5ユーロ紙幣を皮切りに順次新紙幣に切り替えられることになった。新紙幣にはマリオ・ドラギ現欧州中央銀行総裁のサインが入る[18]。 小額紙幣 1ユーロと2ユーロの紙幣 イタリア、ギリシャ、オーストリアとスロベニアでは低額のユーロ紙幣の導入が求められてきた[19]。欧州中央銀行は「1ユーロ紙幣1枚あたりの印刷費用は1ユーロ硬貨1枚あたりの鋳造費用よりも高く、また耐久性が低い」としている。また、2004年11月18日には、きわめて低い額面の紙幣はユーロ圏全体での需要が少ないとも判断した。ところが、2005年10月25日、欧州議会において半数以上の議員が欧州委員会と欧州中央銀行に対して1ユーロ紙幣と2ユーロ紙幣の導入の明確な必要性を認識するよう求める動議を採択している[20]。ただし、この動議の採択があっても欧州中央銀行は欧州議会に対してただちに回答する義務を負ってはいない。 0ユーロ ユーロ圏では記念紙幣として額面が0のユーロ紙幣が発行されている[21]。 2018年4月にはカール・マルクスの生誕200年を記念し、出身地であるトリーアの観光局がマルクスの肖像が描かれた0ユーロ紙幣を3ユーロで発売したところ、購入希望者が殺到したため増刷する事態となった[22]。 脚注 関連項目 紙幣追跡 外部リンク (欧州連合公用23言語) (in English) - Fleur de Coin (in English) - Fleur de Coin (in English) (in English)
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オグロメジロザメの最高速度は?
ホホジロザメ
japanese
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ホホジロザメ(頬白鮫、Carcharodon carcharias)は、ネズミザメ目ネズミザメ科ホホジロザメ属に分類されるサメ。本種のみでホホジロザメ属を形成する。ホオジロザメ</b>とも。「白い死神」とも呼ばれる[1]。ホホジロザメの名称は日本魚類学会発行の日本産魚類目録に記載された標準和名である。 分布 亜熱帯から亜寒帯まで、世界中の海に広く分布している。北はアラスカやカナダ沿岸にも出現した記録がある。アメリカ合衆国や南アフリカ共和国、オーストラリア、ニュージーランドの周辺海域、地中海等で多く見られ、日本近海にも分布する。2009年には、メキシコ-ハワイ間の深海にホホジロザメが集う海域があるという研究結果が公表され、この海域はホホジロザメ・カフェと呼ばれている[2]。 形態 側頭部が白いことが和名の由来。胸鰭裏側の先端部には、大きな黒斑がある。背側は濃灰色から黒色、腹側は白色で、体を側面から見ると、背側と腹側の色は1本の線ではっきりと分かれている。 体型はがっしりとした流線紡錘型で、尾鰭は上下の長さがほぼ等しい三日月型。平均的なホホジロザメの体長は4.0-4.8メートル、体重680-1100キログラム。最大体長と体重に関しては諸説あり、一致した見解が無い。体長11メートルを越える巨大な個体も報告されているが、専門家の意見では体長6メートル、体重1900キログラム程度が最大と見積もられている。推定値ながら、台湾沖やオーストラリア沖などで、切り落とされた頭部の大きさなどから体長7メートル以上、体重2500キログラム以上と推定される個体が捕獲されたことがある。大きさや体型が似たウバザメ[3]が見間違われる事もある。 歯は非常に鋭利な正三角形で、長さは7.5センチメートル、のこぎりのようなギザギザを持つ鋸歯(きょし)状縁になっている。皮や筋肉を切断するのに適した形状で、ホホジロザメは獲物から一噛みで約14キログラムの肉塊を食いちぎるといわれている。歯列は3段あり、歯が1本でも欠けたり抜け落ちたりすると、すぐに後ろの歯列がせり上がってきて古い歯列を押し出す。これはサメ類に共通の特徴であり、歯は何回でも生え変わる。 生態 主に沿岸域の表層付近を泳ぐ。沖合から海岸線付近まで近づくこともある。海表面近くにいることもあるが、250メートルより深いところにも潜る。アザラシやオットセイの繁殖地の周辺海域に集まることが多い。海面を泳ぎながら顔を出し、体を横に回転させながら口を開閉するrepetitive aerial gaping と呼ばれる行動が観察されるが、これは他のサメには見られないホホジロザメの特有の行動である。 奇網と呼ばれる毛細血管の熱交換システムが発達している為、体温を海水温よりも高く保つ事ができ、軟骨魚類の中では高い運動能力を獲得している。普段はゆったりと泳いでいるが、瞬間的には最高時速25-35 km程度を出すと言われ、海面から体が完全に飛び出す高さまで跳躍することもできる。これほどの運動能力は、他のサメでは高速遊泳を行うことで知られるアオザメやオナガザメに見られる程度である。 シャチやイルカなどの海棲哺乳類の知能とは比べられないが、魚類の中でも高度な知能を持ち、学習能力に優れ、獲物を襲う際には過去の成功と失敗の経験を生かすと言われている。仲間内で多彩な行動を取り、獲物を分けるなど、社会性を示すような行動も確認されている。 食性 食性は動物食で、イルカやオットセイ、アザラシなどの海棲哺乳類を好み、魚類や海鳥も捕食する。クジラの死骸を食べることもある。またホホジロザメはよくエイを食べるが、エイの棘が内臓に引っかかることも珍しくない。体重の30%程の重量を食べると満腹になるといわれる。 硬骨魚類[4]や鯨類は最高時速50km以上を出す事も珍しくないため、狩りの際は奇襲を仕掛ける事が多い。南アフリカ沿岸のホホジロザメは、海面を泳ぐミナミアフリカオットセイを狙う際、海底側から高速で突進し、獲物に噛み付いたまま海面に飛び出す光景で知られている。 獲物を食いちぎる際、肉に刺さって欠けた歯を一緒に飲み込んで自身の内臓を傷つける場合があると言われている。獲物に喰いついて大ダメージを与えた後に放し、出血多量で死ぬのを待つ行動は、歯が折れるのを防ぐ為だと考えられている。 繁殖 卵胎生で、子宮の中で卵から孵化した胎仔が、胎内に放出される未受精卵を食べて育つ母体依存型胎生であるが、妊娠初期は子宮ミルクを分泌する。現在確認されている中で、子宮ミルクを分泌するサメはホホジロザメのみである[5]。 妊娠期間については知られていないが、雌は1度に2 - 15尾前後の子どもを産む。産まれた子どもは体長1.2-1.5メートルの大きさで、しばらくは魚を中心に捕食し、大きくなると大型魚類や海棲哺乳類を襲うようになる。 天敵 天敵は人間やシャチ、他の大型のサメである。大型のサメは比較的小型のホホジロザメを捕食することもあり、また、同じホホジロザメ同士で、より大型の個体が小型の個体を捕食することもある。 シャチは偏食の習性があるのに加えて、抵抗されれば自身にも危険が及ぶホホジロザメを積極的に攻撃や捕食の対象にはしていないと見られているが、沖合型のシャチはサメ類を積極的に捕食しているという説もある。また、子供を連れているシャチは危険を除去する目的で積極的に攻撃を仕掛け、ホホジロザメを殺害する例が幾度も観察されている。シャチはサメをはじめとした軟骨魚類を襲う際に、身体をひっくり返して擬死状態に陥らせ、抵抗できなくしてから捕食する[6]。 ハンドウイルカの子イルカを捕食しようとしたホホジロザメが、成体のハンドウイルカに反撃される例も観察されている。内臓を守る硬い骨格を持たないサメは、イルカの体当たりを受けて内臓破裂で死ぬこともある。 分類 ホホジロザメ属 Carcharodonの現生種は、ホホジロザメ C. carcharias 1種のみ。 メガロドン Carcharodon megalodon 絶滅種。カルカロドン・メガロドン(あるいは単にメガロドン)と学名で呼ばれることも多い。歯の化石しか見つかっていないが、体長最大13メートル、ジンベエザメに匹敵する大きさの巨大な捕食者だったと考えられている。ただし、まだ学問的に完全に決着がついたと言える状況ではないものの、近年では本種との関係性自体否定され学名も<i data-parsoid='{"dsr":[5567,5584,2,2]}'>カルカロクレス・メガロドン</i>に変更されつつある。 人間との関係 ホホジロザメは、サメの中でも人を襲った記録が多く、さらに映画『ジョーズ』のモデルとなって以来、英語圏でMan eater sharkという俗称がつくほどに「人喰いザメ」のイメージが定着した。サメの中では世界最大のジンベエザメと並んで一般によく知られ、「サメ」と言えば、大口を開けたホホジロザメがイメージされることも多い。 巨大な体、大きな顎、鋭い歯をもち、泳ぐのが速く、獲物の探知に優れているなど捕食者としての能力の高さから、襲われれば最も危険なサメであり、世界中で死傷事故が発生している。 サーフィンの最中や、貝などの漁で潜水しているとき、海水浴場での遊泳中に襲われる場合が多い。噛み付かれると致命傷になることがしばしばあり、死に至らなくとも手足を切断されるような重傷を負うことがある。サメにより人が襲われる事故は、例えばオーストラリアだけで1791年から2006年までの約200年間に668件発生しており、その内191人が死亡している。 人を襲う理由 低水温に耐えられるホホジロザメは、温帯から亜寒帯の広い海に生息し、時期によっては亜熱帯海域にまで進出する。さらに沿岸域の浅い所で生活し、昼行性であるため、サメと人の活動が重なる機会の多さが、事故の起きる要因になっている。 空腹でない限りは何も襲わず、こちらから危害を加えなければ何もしてこないと考えられているが、主食となるアザラシと、水中にいる人間を見間違えて襲っているという見解がある。人を襲うのは、アザラシやオットセイなど海生哺乳類を主食とする4-5メートル級の大型個体が多く、サーフィン板等の上で腹ばいになってパドリングする人間の動きや、ウェットスーツを着て足ヒレを動かす姿が、サメからはアザラシのシルエットと同じに見えるのだと考えられている。 サメ事故の予防策としては 目撃情報や生息情報のある危険海域に近づかない 色の明暗がある水着やサーフボードを利用する。黒と白の縞模様など、なるべく明るい色の入ったものが望ましい。鮫は明暗が分かるので、アザラシなどと勘違いされることを避けることができるとされている。 海中で排尿・排便をしたり、怪我や月経による出血がある場合は泳がない。鮫は嗅覚がとても優れているので、臭いに寄って来る可能性がある。 などが挙げられるが、狂暴でない個体が突然人を襲うケースもあり、サメが人を襲う根本的な理由はわかっていないため、ホホジロザメに限らずサメ類による事故の予防には、サメとの遭遇そのものを避けることが重要になる。 世界のホホジロザメによる事故 「人食いザメ」のイメージから、他種のサメによる事故と混同される例もあるが、1876年〜2004年の間に確認された人身事故は224件あり、その内63件が死亡事故である。場所別に見ると、アメリカ西海岸が最も多く84件(7件)、次が南アフリカで47件(8件)、3番目はオーストラリアで41件(27件)(括弧内は死亡事故)。他に、地中海やニュージーランドでの被害も多い。日本では、2000年に1件の死亡事故が確認されている。上記のデータは国際サメ被害目録によるものであり、他にも下記のような事故が起きている。 日本のホホジロザメによる事故 1992年3月8日 愛媛県松山沖 タイラギ貝漁中に潜水夫が行方不明になった。ウェットスーツや通信ケーブルが切り裂かれており、その切断面の形状から体長約5メートルのホホジロザメに襲われたものと断定された。 1995年4月9日 愛知県伊良湖沖 ミル貝漁をしていた男性が突然サメに襲われた。引き上げたところ体長6メートルほどのサメが食いついており、右肩から腹部にかけて噛まれ、右腕は食いちぎられており、ほぼ即死状態だった。 体長からサメはホホジロザメとみられる。この事故の後、仲間の漁師らが「敵討ち」と称し捕獲作戦を決行したが、ついに捕獲には至らなかった。 ホホジロザメの目撃例 1999年7月9日 山口県光市 海水浴場に全長約5.3メートルのホホジロザメが現れた。このサメは沖合をしばらく泳ぎ回った後、捕獲された。 その後も光市内では2002年8月にも虹ヶ浜付近にホホジロザメらしきサメが出現している。 2005年10月26日 神奈川県川崎市千鳥運河 雄としては世界最大級とされる体長4.8メートルの屍体が発見された。現在この屍体は剥製標本となり川崎市東扇島の川崎マリエンで展示されている[7]。 飼育 常時動き続けなければ生存できないため飼育は非常に難しいとされ[8]、生体を飼育・展示している水族館はほとんどない。米国のモントレー湾水族館で若い雌を198日間飼育したが[9] 、その後この個体は海へ返されている。飼育を断念したのは、成長に従って水槽内の他の魚への危険が増したためであると水族館側は説明している。ほかに島根県立しまね海洋館で2002年に幼体を4日間[9]、大分マリーンパレス水族館「うみたまご」で2004年に1日[10]飼育したことがある。 2016年1月5日より沖縄県の沖縄美ら海水族館が読谷村沖の定置網にかかった体長約3.5メートルのオスの成体を飼育・展示し、成体では世界初の飼育例となったが、その個体は3日後の1月8日に死亡した[8][9]。 関連作品 スティーヴン・スピルバーグ監督の出世作である映画『JAWS』に登場する「人喰いザメ」も、このサメである[11]。 代表的な人食いザメというイメージから、良くも悪くも人の注目を集めるサメであり、ジャンルを問わず数々の作品においてホホジロザメが登場したり、それをモチーフとしたキャラクターが登場している。 脚注 参考文献 A&A・フェッラーリ 『サメガイドブック-世界のサメ・エイ図鑑』 御船淳・山本毅訳、谷内透監修、ティビーエス・ブリタニカ、2001年、256頁。 仲谷宏一 『サメのおちんちんはふたつ』 築地書館、2003年、231頁。 関連項目 ネズミザメ科 ニュージャージーサメ襲撃事件 - ホホジロザメによるものとされ、『ジョーズ』の題材となった。 立川談志 - 1992年の松山市沖における人身事故の際、シャークハンター必殺隊を結成し、ホホジロザメ退治にのりだした。 グレグ・ノーマン - 「ホワイトシャーク」(ホホジロザメの英名)のニックネームを持つ、オーストラリアのプロゴルファー。 外部リンク 環境省 独立行政法人 水産総合研究センター 英語。シャチとホホジロザメに関する記述あり。 英語。国際サメ被害目録。 英語。飼育当時の動画や写真がある
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読売ジャイアンツの監督に長嶋茂雄が任命されたのはいつ
読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
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読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧(よみうりジャイアンツれきだいよばんだしゃいちらん)は、日本のプロ野球球団である読売ジャイアンツ(以下特記を除き「巨人」と称す)が4番打者を、独自の基準で選別して一覧化しているものである。 野球の打順について、日本ではいわゆる「クリーンナップ」の中心となる4番にチーム最強の打者を置くことが多く見られ、同球団については、球団の歴史として関連データを記録・整理し、公表されている。 巨人はこの歴代4番打者には独自基準を設けており、公式試合の打順で4番打者となった選手が全て含まれているわけではなく、以下の2ケースを除外して掲載されている。 試合の途中から4番に入ったケース 先発に名前を連ねただけの偵察メンバーのケース(この場合次に4番に入る選手を先発扱いとする) この歴代4番打者という概念は現在スポーツ報道でも見られる[1]。 なお、この「歴代4番打者」という表現を、球団や報道機関などが積極的かつ公式に使用しているのは読売ジャイアンツだけであり、他の11球団では「歴代4番打者」という概念が公式に表された形での存在の形跡は見られない[2]。 歴史 黎明期 球団創設時の中心選手だった第3代4番の中島治康は、1938年秋に打率.361、本塁打10、打点38の成績で史上初の三冠王に輝いた。 川上時代 戦前から戦後にかけて、「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治が巨人の第7代4番として1658試合(歴代最多。他チームを含めた4番打者の出場数で見ても2259試合の野村克也、1734試合の落合博満に次ぐ。通算出場1979試合の83.8%に相当。)で4番を務め、数々の打撃タイトルを獲得した。 一方で兵役で川上がいなかった1943年から1946年途中には投手の名前も見られる。これは戦争の影響による選手不足が主な原因であり、例えば11代ヴィクトル・スタルヒン、12代近藤貞雄が4番に入った1944年には前年在職35名中休職16名の状況からさらに3名の退団者と10名の入営者を出し、解散した球団から譲り受けた選手と新人選手で何とかメンバーを組んでいる状態だった[3]。 王・長嶋(ON)時代(V9時代) 1958年に第25代4番となる長嶋茂雄が入団。同年8月6日の対広島カープ戦で初めて4番に座ると以後は長嶋が4番に固定され、新しい時代を迎えることとなる。翌1959年には後に第28代4番となる王貞治が入団。1962年の開幕戦で初の4番に座ると以後は長嶋と王が交互に4番に座り、「ON砲」と呼ばれた。通算で長嶋は1460試合、王は1231試合で4番を任され、巨人のV9時代の中心を担った。ただし、長嶋の現役中は4番を長嶋が打つ事が多く、王が4番の出場数で長嶋を上回ったのは、終盤に長嶋が怪我をしてしまい、また王自身も初の三冠王を獲得した1973年が初めてであった。 そのV9時代の初期の頃には、試合数こそ少ないが、32代吉田勝豊、33代田中久寿男、34代高倉照幸、35代森永勝也ら移籍選手の名前が連なる。当時の打線補強の形跡が垣間見られる(参考[4])。 この時代、長嶋と王が怪我や調整等でスタメンを外れた試合以外で4番打者に座ったのは、36代柴田勲のみである。 その後、1971年から1973年の3シーズンは新たに4番打者がなく、打線の中軸の固定化が見られる。1974年に長嶋が引退し、以後は主に王が4番を務めた。1976年から1979年にかけては日本ハムファイターズからトレード移籍してきた第39代張本勲が王と3、4番を組んだ(OH砲)。 原時代 1980年に王が引退した後、1980年代から1990年代初頭にかけては、「若大将」と呼ばれた第48代原辰徳が中心の時代になる。「ONの後継者」というプレッシャーに耐え、原は4番打者として1066試合に出場し、382本の本塁打数を記録した。その原を支えるように、45代中畑清と50代ウォーレン・クロマティが同じ時期にそれぞれ200試合近く4番を務めた。 。 FA制度導入から2005年まで 1993年シーズン終了後からプロ野球ではフリーエージェント(FA)制度が導入され、同制度を活用した選手獲得に積極的な方針をとった巨人では4番の流れも大きく変わることとなった。元々張本を筆頭に他球団からトレードで4番に据えられるだけの大物選手を獲得する事は珍しくなかったが、それにFA制度の獲得も加わり、さらには他球団で活躍していた外国人選手の契約期間が満了して自由契約となると彼らも積極的に獲得するようになった。 落合時代 端緒となったのは、1994年に球団史上初のFA入団選手となった落合博満である。中日ドラゴンズからFA移籍してきた落合は、1994年から1996年までの3年間、第60代の4番打者として331試合で4番を務めた。落合が在籍した3年間で2度のリーグ制覇を果たした。 1995年には史上最年長で首位打者争いを繰り広げ、8月31日時点で打率.332、最終的にはシーズン打率.311(リーグ4位)本塁打17本65打点をマーク。 翌1996年は、8月31日に野口茂樹から受けた左手首への死球により残りのシーズンを棒に振ったが、打率.301本塁打21本86打点を残し、。 更に巨人軍史上においても、この落合博満が現在においても巨人軍史上最年長4番打者(1996年8月31日42歳8ヶ月)であり、その記録を保持している。 松井・清原・高橋(MKT)時代 1996年オフに落合が退団し、入れ替わるように西武ライオンズからFAで清原和博が入団。1997年から2004年頃までは62代松井秀喜、64代清原、66代高橋由伸の3人が主に4番打者を務めることとなった。松井は入団3年目の1995年に初めて4番に座り、翌1996年も開幕当初は4番を務めたがシーズン途中から4番を落合に譲り3番に回っていた。その後1999年まで、清原や高橋、67代ドミンゴ・マルティネスらが4番を打ったこともあった。。松井はその後、2000年の開幕戦で4番に座り、以後2002年までの3年間全試合4番としてフルイニング出場を果たし、2度の日本一に貢献した。2002年オフに松井がFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースに移籍してからは高橋らが4番に置かれたが、4番固定には至らなかった。 またこの時期は、(松井が4番に固定された3年間を除き)4番打者が乱立した時代でもある。そのメンバーにはFA制度を利用してヤクルトスワローズから61代広澤克実、西武ライオンズから64代の清原、トレードによって近鉄バファローズから65代石井浩郎、福岡ダイエーホークスから69代小久保裕紀、他球団で活躍した外国人選手として西武(西武自由契約後、メキシカンリーグを経て)から67代のマルティネス、ヤクルトから68代ロベルト・ペタジーニと、他球団に所属経験のある選手が多くみられた。彼らのほとんどは4番打者として長期間起用され続けるには至らなかったが、2004年シーズン後半から2005年にかけては小久保が4番に座り、ようやく一定の安定をみることとなった。 第2次原辰徳体制以降(2006年〜) 李承燁 2006年に原が監督(第2次)に就任すると、千葉ロッテマリーンズから自由契約で移籍した第70代李承燁を開幕から4番に据え、各1試合ずつ第71代二岡智宏、小久保、高橋が入っただけで打線を固定化した。 2007年前半も李が4番に座ったが、シーズン中盤には第72代として阿部慎之助が、後半戦になってからは第73代としてこの年日本ハムからFA移籍した小笠原道大が4番を務め、シーズン最終盤では李が4番に戻った。2007年7月29日の広島東洋カープ戦はその時点で巨人に在籍していた歴代4番経験者全員が本塁打を放ち(66代高橋ソロ本塁打、70代李ソロ本塁打、71代二岡ソロ本塁打、72代阿部ソロ本塁打と2ラン本塁打、73代小笠原3ラン本塁打)、その得点のみで9-0で勝利するという珍しい試合となった。なおこの試合の4番は小笠原だった。 ラミレス 2008年も当初は李が4番を務めたが、後にヤクルトから移籍の74代アレックス・ラミレスが4番に固定された。ラミレスは2009年と2010年は全試合4番スタメンで出場。2011年7月13日の阪神タイガース戦まで469試合連続で4番スタメンを守ったが、この試合で受けた死球の影響で翌14日はスタメンを外れ、75代長野久義が初の4番となった。ラミレスは2011年オフに退団。 阿部慎之助 ラミレスの退団以降、チームの核となったのが阿部慎之助であった。2012年は阿部がチーム史上初めて「4番・捕手」として開幕戦に出場、しばらく阿部が4番を務めた後、横浜から移籍の村田修一が76代の4番となったが、同年後半からは阿部が4番で固定され、阿部の休養時のみ村田や高橋、2013年にはホセ・ロペス(77代)、ジョン・ボウカー(78代)など、助っ人が4番に座った。 2013年8月24日、横浜DeNAベイスターズ戦でこれまで4番で固定されていた阿部が約1年ぶりに4番を降り「3番・捕手」、代わってこの8月の月間MVPを受賞する好調さを見せていた村田が「4番・三塁手」として出場した。 2014年から2015年にかけては阿部・村田の不調や怪我が重なったことから、2014年にはレスリー・アンダーソン(79代)、フレデリク・セペダ(80代)、など新戦力やベテランの高橋、リーグ優勝決定後には大田泰示(81代)がそれぞれ座り、2015年には阿部が離脱、村田はさらなる不調に見舞われ、坂本勇人(82代)が4番を務めた。しかし、その坂本も故障で離脱すると、中井大介(83代)、亀井善行(84代)と矢継ぎ早に新4番を任命された。しかし、シーズンを通してみれば、4番としての最多出場は阿部が守った格好となった。 2016年は阿部はコンディション不良によって2軍調整となり、高橋監督は新外国人のギャレット・ジョーンズ(85代)に開幕4番を託す。その後、セ・パ交流戦の時期からギャレットに代わり長野が4番を務めていた。しかし、オールスター明け数試合後の打順の見直しにより長野は1番打者に回り、4番にはセ・パ交流戦から復帰していた阿部が返り咲く。阿部は終盤の消化試合2試合を除いて4番を守り抜き、シーズン通算での4番としての最多出場を維持した。 成績 歴代選手の4番での打撃成績は以下の通り。 太字の選手</b>は2019年1月時点の巨人在籍選手。 期間は最初に4番を務めた年と最後に4番を務めた年を示す。 成績は、2018年シーズン終了時。 初めて4番に起用した監督 長嶋茂雄 17人 - 第39代~第44代、第57代~第67代 原辰徳 16人 - 第68代、第70代~第84代 川上哲治 12人 - 第27代~第38代[5] 水原茂 10人 - 第17代~第26代[6] 高橋由伸 5人 - 第85代~第89代 巨人での初試合で4番に起用された選手 6人 - 永沢富士雄(初代)、落合博満(60代)、清原和博(64代)、李承燁(70代)、フレデリク・セペダ(80代)、ギャレット・ジョーンズ(85代)、アレックス・ゲレーロ(88代) 各年度の歴代4番打者 各年度の開幕4番打者とシーズンを通して最も多くの試合で4番を務めた打者は次の通り。 参考文献 宇佐美徹也 『宇佐美徹也の記録巨人軍65年』 説話社 ISBN 4-916217-09-8、2000年、P337 第67代のマルティネスまで記載 読売巨人軍広報部 『2007年 メディアガイド』 読売巨人軍広報部、2007年、P403 第71代の二岡まで記載。『巨人軍5000勝の記憶』(読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。)付属DVDにも同一の記述 越智正典 『ジャイアンツの歴史』 恒文社、1974年 脚注・出典 外部リンク (より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E5%A3%B2%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%84%E6%AD%B4%E4%BB%A34%E7%95%AA%E6%89%93%E8%80%85%E4%B8%80%E8%A6%A7
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阪神電気鉄道の設立日は?
阪神電気鉄道
japanese
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阪神電気鉄道株式会社(はんしんでんきてつどう、英称:Hanshin Electric Railway Co., Ltd.)は、大阪と神戸を結ぶ鉄道を運営している大手私鉄。通称は「阪神電鉄」、「阪神電鉄KK」または「阪神電車」、略称は「阪神」、キャッチコピーは「“たいせつ”がギュッと。 阪神電車」。阪急阪神ホールディングスの完全子会社であり、阪急阪神東宝グループの企業である。 会社概要 1905年に営業を開始しており、都市間電気鉄道(インターアーバン)としては日本で最も古い。2009年3月現在の鉄道事業の営業キロは48.9km、バス事業の営業キロは1,979.8km。また、プロ野球球団「阪神タイガース」の親会社でもある。 2006年6月19日に村上ファンドによる買収問題を発端とする株式公開買い付け (TOB) が成立し、阪急ホールディングスの連結子会社 (64.76%) となった。同年10月1日には阪神電気鉄道株1株につき阪急ホールディングス株1.4株を割り当てる株式交換を実施し、阪急阪神ホールディングス(阪急ホールディングスから商号変更)の完全子会社となった。詳しくは「阪急・阪神経営統合」を参照のこと。 本社所在地は大阪府大阪市福島区海老江一丁目1番24号。他に東京事務所が東京都千代田区有楽町一丁目5番2号 東宝ツインタワービル5階にある。 歴史 1896年(明治29年)田中市兵衛、外山脩造、川上左七郎、前川槇造、大阪発起人総代により広瀬宰平、藤田伝三郎、豊田文三郎、岡橋治助らを加え発起人会が発足する。1899年(明治32年)6月に、社名を<b data-parsoid='{"dsr":[2962,2978,3,3]}'>摂津電気鉄道株式会社</b>として社長に外山脩造を迎えて設立。同年7月に<b data-parsoid='{"dsr":[3000,3016,3,3]}'>阪神電気鉄道株式会社</b>に改称し、1905年(明治38年)4月に神戸(三宮) - 大阪(出入橋)間の営業を開始した。 年表 1899年(明治32年) 6月12日 摂津電気鉄道として設立(資本金150万円)。 7月7日 阪神電気鉄道に社名変更。 1902年(明治35年) 東証・大証に上場。 1905年(明治38年)4月12日 本線 神戸(三宮) - 大阪(出入橋)間が開業。 1914年(大正3年)8月18日 北大阪線開業。 1924年(大正13年)1月20日 伝法線(現在の阪神なんば線)開業。 1926年(大正15年)7月1日 甲子園線開業。 1928年(昭和3年)4月1日 阪神国道電軌を合併し、国道線とする。 1929年(昭和4年)4月14日 尼崎海岸線開業。 1933年(昭和8年) 3月 付帯事業として、旧梅田停留場に「阪神マート」を開業(阪神百貨店の前身)。 6月17日 岩屋 - 三宮(現在の神戸三宮)間の地下新線開業。 1935年(昭和10年)12月10日 株式会社大阪野球倶楽部(大阪タイガース)を設立(1961年〈昭和36年〉4月1日付で株式会社阪神タイガースに社名変更)。 1943年(昭和18年)11月21日 武庫川線開業。 1944年(昭和19年)8月17日 武庫川線 武庫大橋 - 武庫川間の延伸で阪神の路線総延長が最長の76.5kmとなる[1]。 1949年(昭和24年)11月17日 阪神国道自動車(阪国バス)を合併。 1954年(昭和29年) 列車用誘導無線装置を導入。 9月15日 初の大型車両3011形導入。梅田 - 三宮間ノンストップ特急運転開始。 1957年(昭和32年)4月17日 百貨店事業を分離独立する形で株式会社阪神百貨店が設立。 1958年(昭和33年)7月24日 ジェットカー5001形(初代)営業運転開始。 1962年(昭和37年)12月1日 尼崎海岸線廃止(これにより当時の路線総延長は休止区間を含めて75.6kmとなる。以下も路線総延長に休止区間含む。2年後の西九条延長で総延長は0.8km追加される)。 1967年(昭和42年)7月 神戸市内の高架工事完成により本線の線路を移設。これにより石屋川車庫開設。新在家車庫が廃止される。 1968年(昭和43年)4月7日 神戸高速鉄道が開業。山陽電気鉄道と相互直通運転開始。 1970年(昭和45年)7月1日 日本初の電機子チョッパ制御装置(力行のみ)採用の7001・7101形営業運転開始。 1972年(昭和47年)10月5日 尼崎駅に自動改札機(11台)を初設置。1982年(昭和57年)2月28日には改集札業務の自動化が完了[2]。 1975年(昭和50年)5月6日 国道線・甲子園線・北大阪線全線廃止(当時の路線総延長41.0km)。 1977年(昭和52年)12月27日 全線を軌道法に基づく軌道から地方鉄道法に基づく鉄道に変更。 1983年(昭和58年)4月30日 営業用全車両の冷房化を完了(日本の民鉄界で初)。ただしこの時点では武庫川線は冷房電源のない3301形の単行で運行されていたため、冷房は使用できなかった。 1984年(昭和59年)4月3日 武庫川線洲先 - 武庫川団地前間0.6km延伸開業(当時の路線総延長41.6km。翌1985年の同線休止区間の廃止で40.1kmとなる)。同線が2両編成での運行となり、全線全営業列車での冷房使用を開始。 1985年(昭和60年)8月12日 運輸省(現・国土交通省)で日本民営鉄道協会の会議が行われたが、代表取締役社長で阪神タイガース球団オーナーである久万俊二郎が私用で出席できなくなり、専務取締役鉄道事業本部長でタイガース球団社長の中埜肇と常務取締役の石田一雄の2人が代理でこの会議に出席し、終了後帰阪のために羽田発伊丹行日本航空123便に搭乗し、その墜落事故で犠牲となった。 1988年(昭和63年)4月1日 元町 - 西代間の第2種鉄道事業(第3種鉄道事業者:神戸高速鉄道)開始。 1992年(平成4年)5月18日 本社を梅田から野田阪神ビルに移転。 1995年(平成7年) 1月17日 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生し、各線および石屋川車庫が被災。赤胴車(特急・急行用車両)33両、青胴車(各駅停車用車両)8両の計41両が廃車。 1月18日 本線の梅田 - 甲子園間と西大阪線が運行再開。 1月26日 武庫川線が復旧。 6月26日 本線が全線復旧。 9月1日 運賃改定に伴い時差回数券、土休日回数券導入。 11月1日 5500系営業運転開始。 1996年(平成8年) 3月20日 石屋川車庫が復旧。9000系営業運転開始で震災前の車両数に復旧。 スルッとKANSAI対応「らくやんカード」発売開始。 1998年(平成10年)2月15日 梅田 - 山陽姫路間に直通特急を運転開始。 2001年(平成13年)3月10日 9300系営業運転開始。 2005年(平成17年)10月1日 株式交換により、株式会社阪神百貨店を完全子会社化。 2006年(平成18年) 2月1日 PiTaPa導入。阪神はCoCoNet PiTaPaカードを発行。同時にICOCAも利用可能に。 6月27日 阪急ホールディングスが実施した阪神電気鉄道へのTOB(株式公開買い付け)成立(6月19日)により買い付けの決済が行われ、阪急ホールディングスの子会社(64.76%)となる。 6月29日 株主総会にて阪急ホールディングスとの経営統合が承認。 9月26日 東証・大証上場廃止。 10月1日 阪急阪神ホールディングス(旧・阪急ホールディングス)の完全子会社となる。戦後初の大手私鉄の経営統合となった。株式買収問題の経緯については阪急・阪神経営統合を参照。 2007年(平成19年) 10月1日 これまでのCoCoNet PiTaPaカードに代わりSTACIAカードを発行。 10月5日 1000系営業運転開始。 2009年(平成21年) 3月20日 阪神なんば線(西九条 - 大阪難波間)開業[3]、近畿日本鉄道と相互直通運転開始。西大阪線を阪神なんば線に改称(当時の路線総延長43.9km)。 4月1日 簡易会社分割により直営バス事業(自動車部、阪神電鉄バス)を子会社の阪神バスに全面移管(2006年に一部事業を移管済)。 2010年(平成22年) 10月1日 神戸高速鉄道へ委託していた神戸高速線(東西線)の駅業務・運行業務を引き継ぐ(これにより路線総延長は現行の48.9kmとなる)。 12月29日 5550系営業運転開始[4]。 2011年(平成23年)9月1日 全線各駅において、構内終日全面禁煙化[5]。 2013年(平成25年) 3月23日 Kitaca、PASMO、Suica、manaca、TOICA、nimoca、はやかけん、SUGOCAがIC乗車カード全国相互利用開始と同時に利用可能に。 7月1日 沿線活性化プロモーションを開始し、キャッチコピーとして「“たいせつ”がギュッと。 阪神電車」を制定[6]。 2014年(平成26年) 3月22日 賢島 - 神戸三宮間で近鉄の特急車両による団体向け臨時貸し切り列車が直通運転開始。 4月1日 全線全駅に駅ナンバリングを導入[7][8]。 5月17日 近鉄名古屋 - 甲子園間で近鉄の特急車両による団体向け臨時貸し切り列車が直通運転開始。これは私鉄では過去最長記録となる。 2015年(平成27年)8月24日 5700系営業運転開始。 2016年(平成28年)5月24日 5700系が自社車両として初のブルーリボン賞を受賞[9]。 2018年(平成30年) 3月17日 スマートフォン用公式アプリ「阪神アプリ」配信開始。 4月1日 不動産事業を阪急阪神不動産へ譲渡。 2019年(平成31年) 1月21日 - 台湾で桃園メトロを運行する桃園捷運公司と連携協定を締結、自社傘下のタイガースや台湾プロ野球のLamigoモンキーズを含めた相互交流促進を図ることになった。翌日より桃園機場捷運(MRT空港線)の普通車に阪神タイガースや沿線名所をあしらったラッピング列車の運行が開始された[10]。阪神側も3月より台湾仕様のラッピング列車運行を予定している[11]。 3月1日 阪神にてプリペイド式ICカード「ICOCA」および「ICOCA定期券」の発売を開始予定[12]。あわせて「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」の発売を2月28日で終了予定[13]。 鉄道事業 路線 明治時代、開業にあたって官鉄線(旧国鉄東海道本線)との競合を危惧する鉄道作業局側の反対から私設鉄道法での許可が得られず、この問題を回避するため、当時まだ内務省単独所管だった軌道条例準拠による軌道敷設申請を行った。これは軌道が道路交通の補助であったことに加え、当時の内務省幹部で、土木工学の大家として都市交通について造詣の深かった古市公威から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得たことで実現した。これらの経緯からと集客を目的として西国街道沿いの集落を結ぶルートを選択した名残で各駅間が平均1kmと短く、駅の数は多い。 京都電気鉄道、名古屋電気鉄道、大師電気鉄道、小田原電気鉄道、豊州電気鉄道、江之島電気鉄道、宮川電気、東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道、大阪市営電気鉄道、横浜電気鉄道、土佐電気鉄道に続く日本で14番目の電鉄運営事業者であり、開業当初の線区が現在も存続するものとしては<!--大師、江之島、土佐に次いで-->日本で4番目に古い(いずれも日本の普通鉄道では初めての電車運転(1904年)である甲武鉄道を除く)。大阪と神戸という大都市を結んで、日本における都市間電気鉄道(インターアーバン)の先駆けにもなった鉄道でもある[注 1]。 電気を表徴する稲妻でレール断面を菱形に囲んだだけの、開業以来変わらぬシンプルな社紋に、その歴史が現れている(社紋は右の画像を参照。大手私鉄で円形をモチーフにした社紋を採用したことがないのは阪神のみである)。 1920年にメインの路線である本線に並行して、阪神急行電鉄(阪急)が神戸本線を開業させると、乗客獲得競争を繰り広げるようになった。それは、車内でハンカチを乗客に無料配布するといった身近なものから、他社の営業活動をお互いに妨害するという過激な事態にも及んだ(詳しくは「阪神急行電鉄」を参照)。阪神はこの頃から、大阪 - 神戸間の多頻度運転を進めることになり、「待たずに乗れる阪神電車」と言うキャッチフレーズがよく知られるようになった。2006年の経営統合後の阪急は兄弟会社(兄的存在)であり、共存共栄・棲み分けがはかられている。2014年7月には尼崎工場で阪急の車両を改造するため、阪神の線路上を阪急の車両が走っている[14][注 2]。 1975年に国道線など軌道線区間を全廃した時に総営業キロは41.0km(これには当時休止中であった武庫川線の武庫大橋 - 武庫川間の1.5kmを含む)まで下がり、1984年の武庫川線0.6kmの延伸で41.6kmとなった後、翌1985年の武庫川線休止区間の廃止で40.1kmになった。これに第二種鉄道事業区間の神戸高速線および阪神なんば線延伸区間を含めても48.9kmで、1990年に相模鉄道が大手私鉄へ昇格するまでは、大手私鉄の中で営業距離が最も短かった。 なお、1969年より1975年にかけての国道線およびその支線区2線の廃止開始直前の総営業キロは75.1km(うち国道線系34.1km、本線系41.0km[注 3])であった。 保有路線は以下の通り。阪神なんば線の開業に伴い、山陽電気鉄道に加え近鉄とも直通乗車、阪急に加え南海とも直接乗り換え可能になり、関西の大手私鉄5社(阪神・阪急・京阪・近鉄・南海)のうち京阪をのぞく4社がJRや地下鉄を介さずに直接乗り換えることが可能になった。 現有路線 駅ナンバリングの路線記号はすべて (HS) 本線:梅田駅 - 元町駅 32.1km 阪神なんば線:尼崎駅 - 大阪難波駅(西九条 - 大阪難波間は第2種・西大阪高速鉄道が第3種) 10.1km 武庫川線:武庫川駅 - 武庫川団地前駅 1.7km 神戸高速線:元町駅 - 高速神戸駅 - 西代駅(第2種・神戸高速鉄道が第3種) 5.0km 廃止路線 北大阪線:野田駅 - 天神橋筋六丁目駅 国道線:野田駅 - 東神戸駅間 甲子園線:上甲子園 - 甲子園駅 - 浜甲子園駅 - 中津浜駅 尼崎海岸線:出屋敷駅 - 東浜駅 武庫川線: 武庫川駅 - 武庫大橋駅 - (国鉄)西ノ宮駅(武庫大橋 - 西ノ宮間は国鉄直通の貨物列車のみ運行) 未成線 今津出屋敷線:高洲駅 - 洲先駅 - 浜甲子園駅 - 今津駅 尼崎宝塚線(宝塚尼崎電気鉄道):尼崎駅 - 宝塚駅間 第二阪神線:梅田駅 - 千鳥橋駅 - 尼崎駅 - 三宮駅 - 湊川駅間 他社線との直通運転 山陽電気鉄道:1998年2月15日から阪神梅田 - 山陽姫路間を神戸高速鉄道東西線(現:阪神神戸高速線)を経由して直通特急が相互直通運転している。直通特急のほか阪神からは特急が山陽電気鉄道本線須磨浦公園駅まで乗り入れている。直通特急の運転開始前は、阪神からは山陽電気鉄道本線須磨浦公園駅まで、山陽電気鉄道からは阪神本線大石駅までの乗り入れであった。 近畿日本鉄道:2009年3月20日から阪神なんば線・近鉄難波線を経由して、阪神本線神戸三宮 - 近鉄奈良線近鉄奈良間で相互直通運転している。また、2014年3月22日から近鉄の特急車両による団体向け臨時列車の運行が神戸三宮 - 近鉄志摩線賢島間で開始された[15][16]。同年5月17日には初めて近鉄名古屋線近鉄名古屋 → 阪神本線甲子園間でも運転が行われている[17]。 山陽6000系(尼崎センタープール前駅) 山陽5030系(魚崎駅) 近鉄9020系(大石駅) 近鉄1252系(伝法駅) 近鉄特急22600系Ace(エース)(大石駅) 山陽5000系・近鉄9020系・阪神8000系(尼崎駅) 相互直通運転では、通常は鉄道運転業務上や車両管理上、他社と形式や車両番号が重複しないように対処している。しかし、神戸高速鉄道乗り入れ開始時の経緯から、阪神の在籍車では5000番台(5001形など)が直通する山陽5000系列と一部重複する車両番号となっている。また2009年3月20日からは西大阪線延伸に伴う近鉄との相互乗り入れ開始に伴い、同社奈良線在籍の近鉄5800系と5820系も直通運用に充当され、3社の5000番台形式車が阪神線上を走ることになった[注 4]。また近鉄1252系や9820系なども乗り入れるようになったため、1000/9000番台形式も重複する。 なお、阪急電鉄・神戸電鉄にも5000系電車(阪急5000系電車・神戸電鉄5000系電車)が存在するため、神戸高速鉄道には、直通運転に参加している4社すべての鉄道会社の5000系電車が乗り入れている。阪神3000系が廃車される2003年までは、3000系も4社すべてが保有していた。また2000系も4社とも神戸高速鉄道に乗り入れていた。 京阪電気鉄道の開業時には大阪市電を経由して、阪神が京阪天満橋駅まで、京阪が阪神梅田駅まで直通する構想があり、阪神1形電車と京阪1形は寸法・性能ともほぼ同一で設計されていた。だが後に比較的大型の路面電車を走らせることになる大阪市電は、まだ小型車のみで運行しており、乗り入れるなら市電と同じサイズでと要望があったため、折り合いがつかずに頓挫した[18]。 共同使用駅 大阪難波駅(近畿日本鉄道の管轄駅) 高速神戸駅(阪神の管轄駅、阪急電鉄との共同) 新開地駅(同上、阪急電鉄・神戸電鉄との3社共同) 西代駅(山陽電気鉄道の管轄駅) 元町駅は2010年10月1日より阪神と神戸高速鉄道の共同使用駅から阪神の単独駅となった。 車両 かつてグループに武庫川車両工業(現・阪神車両メンテナンス)を有していた関係で、現有車両は武庫川車両工業製が大多数を占めている。このほかに、川崎重工業製の車両もあるほか、武庫川車両工業が解散してからは近畿車輛やアルナ車両製の車両も導入されている。1960年代ごろまでは汽車製造・日本車輌製造でも製造していたことがあった。 2016年度に5700系が鉄道友の会のブルーリボン賞に選定され[19]、阪神の車両として初の鉄道友の会BL賞(ブルーリボン賞・ローレル賞)を受賞した。 8000系(赤胴車) 9300系(赤胴車) 1000系(近鉄直通対応車)(出屋敷駅) 5500系(ジェットカー) 5700系(ジェット・シルバー5700) 走行性能 車両は1960年代以降、高速走行性能に優れる急行・特急など優等列車用車両と、高加減速性能重視の普通列車専用車両に二分される。 阪神の路線はJR神戸線や阪急神戸線といった競合路線と比べても駅間距離が短く、普通用の車両は所要時間の短縮や、優等列車ダイヤの遅延防止を目的として、特に高加速・高減速性能(加速度・減速度ともに最大 4.0 - 4.5 km/h/s。地下鉄車両の場合は加速度が最大 3.3 km/h/s 程度)が求められており、一方、急行用の車両は高速性能が求められるため、他の大手私鉄の一般的な通勤電車と同様の性能(加速度が2.6 - 3.0 km/h/s)となっている。急行系が長らく採用されて来た朱色とクリームの車体塗装から「赤胴車」(ステンレス車体の1000系・9000系も含む)、普通系は同じように青とクリーム(5500系と5550系は色を変更)の車体塗装から「青胴車」もしくはその高加速・高減速性能ゆえに初期車両に付いた愛称から「ジェットカー」(ステンレス車体の5700系は「ジェット・シルバー5700」[注 5])と呼ばれている。 各形式の解説中、営業最高速度が急行用車両 106 km/h 、普通用車両 91 km/h となっているのは、運転曲線がATSの検知誤差を考慮して認可最高速度よりも4 km/h減で引かれていることによる。 車体 旧性能車時代は車体長さ・幅とも小さめの車両が使われており、当時の車両を現在では「小型車」と呼ぶ。正面の尾灯が左右段違いに付いている、貫通扉が二枚折りのガラス戸であるなど、特徴あるデザインだった。新性能車の導入にあわせて寸法は大型化され、現在の車両はいずれも近隣の京阪・阪急・山陽に類似した全長19m級の3扉車で、先頭車前面には貫通路が設けられている。 地方鉄道法による免許の交付を受けるまでに製造された鉄道線の車両(軌道法による特許の時代、つまり新設軌道線時代に新造された車両)は、車体側面の窓の下部に保護棒が取り付けられていたが、それらの車両のほとんどは廃車となっており、現存するものはわずかとなっている。 ステンレス車体の採用についてはこれまで4回の時期に隔てられており、初回が5201形(2両のみの試作的製造)、2回目が9000系(阪神大震災による代替車両の急造に迫られた結果、川崎重工業のステンレス車用の製造ベースしか開いていなかったため)、3回目が1000系となる。ただし1000系の後も5550系が普通鋼車体で新造されたが、4回目の採用車両として、5700系が2015年より製造されている。 9000系までの両開き扉を持つ車両は、扉の開口幅は他社より広く1400 mmを標準としていた。9300系以降は他社並みの1300 mmとなっている。 開業から2017年現在に至るまで、アルミニウム合金製の車両を導入したことは一度もない。 機器 車体デザインは全般的にオーソドックスな前面貫通型・3扉であるのに対し、早期における軽量高性能車・高減加速車の開発、電機子チョッパ制御の実用化、冷房化の推進など技術面の功績から、永らく「技術の阪神」として評価が高い。ただし、VVVFインバータ制御の導入は1995年の5500系で大手私鉄では最も遅かった。 電動機・パンタグラフは、東芝製の電動機を採用の5700系[20]を除き東洋電機製造(以前は制御器も納入していた)製であり、制御器のメーカーは東芝と三菱電機が現在の所有全車両において約半数ずつの採用となっている。他社からの直通運転可能な車両の一部で採用している日立製作所や富士電機の製品は納入していない。制御器に関しては、直流整流子電動機の時代において電機子チョッパ制御、界磁チョッパ制御、界磁添加励磁制御という省エネルギー効果のある制御方式を採用している。 保有車両数が少ないことが有利に働き、戦前から車内放送装置を全車両に設置していた。1950年代後半から新性能車が各社に登場したが、他の鉄道事業体では1980年代にもまだ大都市近郊で旧性能車が活躍していたのに対し、阪神では(鉄道線の旅客用車両に限定すれば)1966年という非常に早い時期に旧性能車が淘汰された。阪神での旅客営業用の吊り掛け駆動車両の完全廃止は国道線廃止の1975年である。 新性能車導入と同時に、車体は新性能車に準じた構造だが走行機器を旧性能車から流用した、旧性能機器流用車も多くの鉄道事業者で製造されたが、大手私鉄においては阪神のみ7801・7901形の中間車の一部に旧性能車の台車を流用したのみで、旧性能機器流用車は製造していない。 連結器にアメリカのヴァン・ドーン社のバンドン式密着連結器を現在でも採用しているのは阪神のみであった(小型車時代には急行用車にはバンドン式を、普通用にはトムリンソン式密着連結器と2種の連結器を併用していた)。また日本国内の鉄道車両の平均的な連結器取り付け位置よりも235mm低い、645mmの位置に連結器が取り付けられていたのも特徴である。2006年から5001形5013号車を皮切りに、近畿日本鉄道の車両と共通の<b data-parsoid='{"dsr":[18799,18814,3,3]}'>回り子式密着連結器</b>への換装が開始され、換装後の連結面高さは840mm(近鉄車では880mm)となっている。そのままで取り付けを行うと車体裾と干渉するおそれがあるため切り欠きをしているが、8000系についてはこの切り欠き加工を実施していない。これは他の形式・系列と比べて車体裾高さが少し高いためだが、後の検査時に切り欠き加工を実施した8000系が存在する。なお、山陽車は連結器の高さこそほぼ同じではあるが、阪神車・近鉄車と同じ回り子式密着連結器を採用している6000系を除き密着自動連結器を採用しているため、阪神線・山陽線での救援の際などの非常時に6000系を除く山陽車が阪神車または自社の6000系(および阪神線内での近鉄車)と連結する場合は中間連結器(アダプター)を使用する。 電気指令式ブレーキを搭載した車両では、ブレーキハンドルの形状がジェットカーと赤胴車で異なっている。ジェットカーは縦軸式なのに対して、赤胴車は山陽車・近鉄車(シリーズ21)に合わせて前後操作式となっている(その他の近鉄車はジェットカーと同じく縦軸式)。9000系は縦軸式であったが、近鉄乗り入れ対応を機に前後操作型に交換した。 補助装備など 1970年代末には赤胴車が全車冷房化され、遅れていた青胴車も1983年には全車冷房化と、驚異的な早さで他社に先駆けて冷房化率100%を達成した。冷房装置は主に国鉄AU13型に準じた分散式を採用していたが、その後の新系列車両では集約分散式へと変化している。 普通列車については、1968年までは早朝・深夜の途中駅止まりを除き、表示板自体を取り付けず全くの無表示であったが、同年4月7日の神戸高速鉄道開業によるダイヤ改正より「梅田 - 元町」などの表示板を前面に掲出するようになった。当初は発駅・着駅が書かれた表示板を使用していたが、神戸高速線に普通列車を直通させるようになった1987年12月13日改正以降は、取り換え作業を簡素化するため駅名部分が差し込み式となった表示板を使用した。ただし現在はすべての車両が方向幕もしくはLED表示となっており、表示板のみを使用する車両は全廃されている。 列車種類選別装置は一貫して東芝製のものが使われており、車上子は先頭車の左側面の先端に付けられている。この車上子の銘板には最新型の車両でも、東芝の旧ロゴマークである傘マークが使われている。列車種類選別装置は自動列車停止装置 (ATS) や列車無線と違って、神戸高速線に直通する各社の共通規格ではなく、乗り入れしている山陽電気鉄道や近鉄の車両にも取り付けられている。運転台にある設定機器については、当初は種別ごとに定められた記号に合わせるチャンネル式であったが、現在は種別ごとに設けられた照光押しボタン式である(山陽電鉄や近鉄の阪神乗り入れ対応車両も同様)。列車種類選別装置により、踏切の作動時間の最適化を図っている。 列車無線は1952年に国際電気製の誘導無線が導入された。1977年には現在の空間波無線が導入されている。 本線で使用する急行系車両は、山陽電鉄本線の大塩駅上りホームや、有効長が5両編成までの駅・ホームに臨時停車する際でのドアカットに対応するため、山陽電鉄や近鉄の阪神乗り入れ対応車両も含めて、乗務員室にドアカットスイッチが標準装備されている。なお、神戸三宮駅の3番線降車ホームが廃止された現状では、阪神線内において常時使用する機会はなくなっている。 車両番号 かつては他の多くの鉄道会社と同様に、車両に「系列」の概念が存在しなかった。1980年代前半までは必要に応じ、複数グループの形式を自由に併結して編成を組む形を取っており、他社のような系列の考えが必要なかったため、7801形などの形式で呼称していたのである。つまり小田急電鉄や京成電鉄、西日本鉄道など現在でも「形」を使用している会社と同様、公式には「系」ではなく「形」を使用していた。3000系以降は1984年落成の8701・8801・8901形と7890・7990形をのぞき、同一グループの形式だけで編成を組むようになったため、「系」で呼ぶようになっている。 車体外側の車両番号表記には独特の縦長ゴシック体が用いられている。同じ書体はかつての子会社であり、阪神の車両の大半を製造していた武庫川車両が製造を担当した、京福電車のモボ600番台や2000番台とえちぜん鉄道の車体にも用いられている。なお、車番は妻面にも書かれており、この事例は他の大手私鉄では京成のみである。 また、車両番号は四桁数字のみで、「モハ(デハ)」「クハ」「サハ」といった文字は一切使われていない。 分類について 現用車は通常、急行用車両と普通用車両を基本に分類するが、本項では便宜上、以下の4種類を基本に分類することとする。 後期大型車(8000系以降から現在製造中の系列) 前期大型車(5131・5331形以前) 開業以来の吊り掛け駆動による小型車 併用軌道線(国道線・甲子園線・北大阪線の阪神電鉄社内における総称)向け車両 以下掲載している全車両において、製造初年度が新しい車両は上、古い車両は下に配置している。 後期大型車 本線においては4両または6両の固定編成で運用されており、系列把握は他社並に容易である。阪神なんば線開業前は最長編成両数が6両で、大手私鉄で唯一、7両編成以上の列車が存在したことがなかったが、阪神なんば線開業以後は、9000系と1000系は尼崎駅で増結用車両を増解結し、自社および近鉄の車両による8両編成、10両編成の列車を運行している。 2015年度以降、2代目5001形、および5131形、5331形の置き換えとして[21]、量産型の普通用車両としては初のステンレス製となる5700系「ジェット・シルバー5700」[22][23][24]の製造を開始し、まず1編成4両が近畿車輛で製造された。 急行用車両 1000系 - 近鉄直通運転対応 9000系 - 近鉄直通運転対応 9300系 8000系 普通用車両 5500系 5550系 5700系 前期大型車 この世代は近畿日本鉄道や神戸電鉄と同様、多種の形式が存在しており、大手私鉄の新性能車としては複雑な部類に入るとされている(阪神は大手私鉄としては路線規模が小さいが、路線の長さと車種の多さは比例しない)。主な理由は以下の通り。 何世代にもわたって、同様のスタイルで車両を製造していた(厳密には正面の周囲や、初期急行用車両の窓配置がかなり異なる)。 同じ時代に作られた系列でも、急行用車両と普通用車両、両運転台と片運転台、2両運転可と1両運転可など作り分けがあった。 新車が出る場合、系列番号の1000位か100位が増加して行くのが一般的であるが、阪神では3000, 5000, 7000台の番号の増減が不規則に見られがちであった(ちなみに4000台、6000台は使用した実績がない)。 前述通り1 - 2両単位の形式が自由に組み合わされて4 - 6両編成を組成していた(現在でも7000番台車についてはこのような運用を行うことがある)。 8000系製作以前の急行用車両はほとんどが新造後に改造され、別番号に改番されていた。 そこで前期大型車については下記の表を使用し、製造年や改造年により、同世代の急行用車両と普通用車両などの把握を容易にしているので、参照されたい。 急行用車両と普通用車両で製造年が違う場合、その枠内で最も製造年の早い形式を記載。 改造した系列は改造後も改造初年でなく、製造初年の順に配置している。 +印は改造か廃車による消滅形式。 事業用大型車 110形 201・202形 小型車 全車除籍済。 1001形・1101形・1111形・1121形・1141形 851形・861形・881形 801形・831形 601形 701形 301形・311形・321形・331形・291形 1形(本線) 事業用小型車及び電動貨車 全車除籍済。 101形(有蓋電動貨車) 111形・112形・121形 (貨車)(無蓋電動貨車) 151形(救援車) 155形(救援車) 67・69形(散水車) 併用軌道線(国道線・甲子園線・北大阪線)車両 路線廃止により全車廃車。 201形 91形 71形 121形(アミ電) 31形 1形 (併用軌道線) 51形・61形 501形 車両基地 尼崎車庫・工場 石屋川車庫 御影留置線 2012年までは、関西の大手私鉄で唯一車両基地を一般に公開するイベントを開催したことがなかった(他社では鉄道の日イベントは車両基地で行われるが、「はんしんまつり」は西宮駅のエビスタ西宮で開催されていた。2013年より尼崎工場で開催)。ただし、「わくわくトレイン」や「石屋川エクスプレス」といった事前応募制の貸切臨時列車を運転して車両基地を公開したことはある。 乗務員区所 東部列車所《尼崎》(梅田 - 尼崎、武庫川線、阪神なんば線) 尼崎車庫構内に事務所がある 西部列車所《石屋川》 石屋川車庫構内に事務所がある。 西部列車所西宮交代所《西宮》 運賃 大人普通旅客運賃(小児は半額・10円未満切り上げ)。2014年4月1日改定[25]。 神戸三宮駅 - 元町駅間は上表に関係なく130円の特定運賃。強調</b>した金額は阪急の同金額の回数券を券売機で引き換えた上で利用できる区間(詳細は後述)。 神戸高速線は、阪神が第2種鉄道事業者となる区間も含めて別途運賃が設定されている。神戸高速線の運賃の詳細は「神戸高速線#運賃」を参照。本線と跨って乗車する場合は、神戸三宮駅を境界として運賃を合算する形になる。 加算運賃 阪神なんば線の西九条駅 - 大阪難波駅間(他の区間と連続して利用する場合も含む)を利用する場合、運賃に90円(初乗り区間は60円)が加算された上表の加算運賃加算後欄の額が適用される。 運賃計算の特例 杭瀬駅 - 大物駅 - 出来島駅を含む経路を乗車する場合は、大物駅 - 尼崎駅を折り返して乗車しても大物駅経由として運賃計算される。これは、乗り継ぐ前後の両方の列車が大物駅に停車する場合も含めて尼崎駅での乗り換えも可能である。ただし、定期券の場合は「大物駅乗換」か「尼崎駅乗換」かを指定する必要があり、「大物駅乗換」の定期券では尼崎駅で乗り換えることができない[26]。 回数券の取り扱い 2007年4月1日より、阪急電鉄と運賃が同額となる区間(2014年4月1日改定時点では190円、270円、280円、320円、370円)のすべての回数券については、相互利用が可能となった。ただしそのままでは乗車できず、阪神の回数券については阪急線で乗車の際は前もって赤色の新型券売機で引き換える必要がある。2009年3月20日より新規に出現した270円区間でも、2014年4月1日から旧180円、260円、270円、310円区間の190円、270円、280円、320円区間のほか370円区間でも同様の取り扱いを開始した。 通勤定期での選択乗車制度 通勤定期券を使用する場合、以下に挙げる3つの場合で選択乗車が可能となっている。 阪神本線の神戸三宮駅 - 梅田駅間を含む定期券を持っている場合、阪急神戸本線の神戸三宮駅と梅田駅で乗降可能。逆に阪急神戸本線の神戸三宮駅 - 梅田駅間を含む定期券を持っている場合、阪神本線の神戸三宮駅と梅田駅で乗降可能。どちらにおいても神戸三宮駅と梅田駅の間の駅での乗降は別途運賃が必要[27]。 阪神本線、阪神神戸高速線の神戸三宮駅 - 高速神戸駅間を含む定期券を持っている場合、阪急神戸本線、阪急神戸高速線の神戸三宮駅・花隈駅・高速神戸駅で乗降可能。逆に阪急神戸高速線の神戸三宮駅 - 高速神戸駅間を含む定期券を持っている場合、阪神線の神戸三宮駅・元町駅・西元町駅・高速神戸駅で乗降可能。本項に限り、通勤定期券だけでなくIC通学定期券にも適用される[27]。 阪神なんば線の九条駅 - 大物駅を含む定期券を持っている場合、阪神本線の梅田駅でも乗降可能。逆は不可。また、福島駅 - 杭瀬駅間での乗降には別途運賃が必要となる[27]。 近鉄線(または他社路線)との連絡乗車券 近鉄との連絡乗車券は近鉄奈良線系統の一部の駅と大阪線の大阪上本町から桜井までしか発売できないため(下記参照)、運賃表に記載のない駅へ行く場合はその最寄り駅までの乗車券を購入し、車内か降車する駅で精算することとなる。近鉄と阪神なんば線新区間の各駅への連絡乗車券はタッチパネル方式の新型自動券売機でしか購入できない。花隈駅をのぞく神戸高速線では近鉄との連絡乗車券は発売されていないので大阪難波駅までの乗車券購入後、車内か降車する駅で精算することとなる。PiTaPaやICOCAなどの全国相互利用対応の交通系IC乗車カードはそのまま目的駅まで利用できる。 連絡乗車券発売対象区間は以下の通り。 奈良線全駅 難波線全駅 大阪線大阪上本町 - 桜井間 京都線平城・高の原 橿原線全駅 天理線全駅 けいはんな線生駒 - 学研奈良登美ヶ丘間 生駒線生駒 - 東山間 信貴線全駅 東鳴尾駅と洲先駅を除く(この2駅には自動券売機がなく、いったんそのまま乗車してから武庫川駅の中間改札に設置されている自動券売機で購入することになる)すべての駅では近鉄(発売範囲は上記参照)に加えて、神戸高速線経由山陽電気鉄道・神戸電鉄各駅への<b data-parsoid='{"dsr":[28319,28330,3,3]}'>連絡普通券</b>も購入できる。なお、連絡回数券</b>は阪神線と神戸高速線・山陽電鉄線・神戸電鉄線間で利用できるものしか発売されていない。 乗車カード・企画乗車券 以下の各項目を参照。 阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード - 後述の「らくやんカード」に代わって、2017年4月1日より本線・阪神なんば線の各駅および武庫川団地前駅で発売している磁気カード[28]。2019年2月28日をもって発売を終了し、同年9月30日で利用を終了する予定[13]。 STACIAカード - 阪急阪神グループ発行のPiTaPaカード。 ICOCA - JR西日本のプリペイド式IC乗車カード。2006年から阪神線でも利用可能。2019年3月1日には阪神でも発売開始予定[12]。 CoCoNet PiTaPaカード - 2007年9月で発行を終了し翌10月からSTACIAカードに移行。 らくやんカード - 本線・阪神なんば線の各駅および武庫川団地前駅で発売していた。2017年3月31日で発売を終了[29]。2018年2月以降も2019年9月30日(予定)までは阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄の自動改札機で利用可能[30][13]。 ラガールカード - 神戸高速線 西元町 - 高速長田間各駅で発売していた。2017年3月31日で発売を終了。2018年2月以降も2019年9月30日(予定)までは阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄の自動改札機で利用可能[30][13]。 どこでもパス 阪急阪神1dayパス 高野山1dayチケット 奈良・斑鳩1dayチケット いい古都チケット このうち「高野山1dayチケット」「奈良・斑鳩1dayチケット」は、阪神なんば線開業までは梅田駅経由大阪市営地下鉄・ニュートラムが利用できたが、開業後この2チケットは阪神なんば線経由で利用するように改められた(前者のチケットは大阪難波駅で徒歩連絡乗り換えができ、後者のチケットは同駅から直接接続することになる)ため、大阪市営地下鉄・ニュートラムの利用はできなくなっている(詳細は「阪神なんば線#大阪難波延伸開業による利便性の向上」を参照のこと)。 かつて「ハープカード」という独自のプリペイドカードを発売していたがスルッとKANSAIに加入時に「らくやんカード」に切り替える形で発売終了し、2010年3月頃に自動券売機および自動精算機での利用も終了した。 1994年のみ、梅田 - 甲子園間専用の6枚つづりの回数券として「タイガースきっぷ」が発売されていた。これは現在発売されているカード型回数券と同様、自動改札機に直接投入して使用が可能であった。 1990年代から2008年にかけて、毎年12月1日 - 31日の1ヶ月間のみ阪神全線で使用可能な「としのせきっぷ」が発売されていた。普通乗車券サイズで大人用のみ4枚900円で発売されており、梅田 - 元町間で利用すれば30%近い割引率になった[31]。阪神なんば線が延伸開業した2009年以降は発売されていない。 IC乗車カード 阪神電気鉄道ではPiTaPaやICOCAをはじめとした交通系全国相互利用IC乗車カードが利用できる。また、2015年3月3日現在連絡する路線では西代駅以西の山陽電鉄線や新開地駅以北の神戸電鉄線・大阪難波駅以東の近鉄線でも交通系全国相互利用IC乗車カードが利用できる。 また、2019年3月1日より、阪神においてもプリペイド式IC乗車カードの「ICOCA」、および「ICOCA定期券」の発売を開始する予定である[12]。 旅客案内 駅の列車接近・発車メロディ 1990年から駅自動放送でシンセサイザーによる接近・発車メロディなどが演奏されている。発車メロディ・通過列車接近メロディ・遅延発生時告知メロディはオリジナル、停車列車接近メロディの曲は『線路は続くよどこまでも』が使われている。1990年の導入時は西浦達雄作曲・編曲によるものであったが、2009年1月からは向谷実作曲・編曲によるものに変更され、停車列車接近メロディは従来の『線路は続くよどこまでも』のアレンジを変更したものに、発車メロディは上り・下りとも同一のメロディとなっている。元町駅と桜川駅の発車メロディは予告用のみが流れている(桜川駅1番線では、このあとに近鉄用の信号扱所からの出発承認合図器音〈ブザー音〉が流れる)。また、同時に放送の案内の音声も更新している。 頭端式ホーム(梅田駅の全ホーム、神戸三宮駅の2番線)では以前より入線時はメロディを省略、放送フォーマットも独特のものとなっている。駅到着直前は全ての列車で「まもなく、●番線に電車が参ります」と放送し、駅到着後少し間隔を空けて「●番線に停車中の電車は、■■(駅名)ゆき▲▲(列車種別)です、停車駅は…」と放送する(普通は列車種別から先に放送)。 停車列車接近メロディは2011年から放送されているラジオCMでも使われている。 甲子園駅では、阪神甲子園球場での高校野球全国大会開催に合わせて、2013年の夏から全国高等学校野球選手権大会、2015年の春から選抜高等学校野球大会の開催期間限定で停車列車接近メロディを変更している。曲目は「甲子園駅#列車接近メロディ」を参照。 駅の案内放送 列車到着時の放送は、「大阪梅田行き・特急」と行先・種別の順に案内しているが、阪神本線の各駅停車のみ「各駅停車・高速神戸行き」と種別・行先の順に案内している(車内放送でも同様)。ただし、列車到着前の乗車位置案内では各駅停車でも種別を後につける文体になる。 2016年3月のダイヤ改正以降、列車到着時には「黄色い線の内側へお下がりください」とアナウンスされている。それまでは「白線の内側へお下がりください」とアナウンスされていた[注 6]。 発車時の自動放送は、本線では梅田駅・神戸三宮駅・元町駅、阪神なんば線では桜川駅、武庫川線の起終点駅のみ採用している(阪神なんば線開業前は尼崎駅西大阪線ホームと西九条駅でも使用されていた)。それ以外の駅では発車時に自動鳴動する放送はないが、野田駅・尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・御影駅にはホーム上のスイッチにより鳴動する手動の発車ベル(電子音)及び放送が用意されている。このほか、駅員が使用するワイヤレスマイクにも手動の発車ベルのスイッチが付いているため、駅員がマイクのスイッチを操作して発車ベルを鳴らすこともある。優等列車と普通列車の接続が行われる場合、優等列車発車時に必ず普通列車乗務員がホームに降りて放送を鳴動させるためほぼ確実に流れる(野田駅・甲子園駅では停車時間の関係により使用されない場合がある)。また、ドーム前駅・九条駅・西九条駅でも発車ベル及び放送(こちらは乗務員や駅員が操作するものではない。ベルの音色とアナウンスの内容や声質は同じ)が用意されており、必要な場合に使用される。 2017年2月から、「姫路」は「山陽姫路」、「難波」は「大阪難波」、「日本橋」は「近鉄日本橋」、「奈良」は「近鉄奈良」、など、それまで省略して案内していた駅名は全て正式駅名でアナウンスするようになった。 車内放送 乗務員室にある放送装置には、乗務員同士で通話が可能なインターホンの機能が付けられており、マイクを通じてのみでの通話が可能である。現在の装置は、操作盤にある照光式の「車内」「車外」「インターホン」(5700系と5500系のリニューアル編成では、それに加えて「車内外」「扉個別」も)のいずれかのボタンを押した上で、マイクにあるボタンを押すことで放送または通話が可能な仕組みとなっている。 長らく、操作盤には「放送」「切」「インターホン」のボタンがあり(1980年代までの車両では「放送」「インターホン」それぞれのスイッチのバーを上下させるもの。現在は撤去・取り換え済み)、「放送」ボタンを押すだけでマイクはそのまま車内放送が可能で、マイクに付いているボタンを押すと車外スピーカーに流れる方式としていた。ただ、これは乗り入れ先の山陽電鉄、近鉄とは方式が異なることから、5700系が登場して以降は既存車両も含めて他社に合わせた現在の方式としている。 現在は車内放送でも、行先や停車駅は、駅での放送と同じく、省略せず正式駅名で案内している。 梅田駅を車内放送で案内する場合「梅田、大阪梅田、終点です。」と放送する。また昼間時には「大阪梅田」のあとに「阪神百貨店前」が追加される。 尼崎駅における阪神なんば線から阪神本線への乗り換え案内では、「大阪・神戸方面」と梅田や三宮・元町を省略することも少なくない。 JRとの乗換駅である梅田駅や野田駅、神戸三宮駅では競合関係にあるためか過去はJRへの案内が省略されていたが、2009年のダイヤ改正より案内を行うようになった(並行する阪急でも2013年12月21日の京都線ダイヤ改正までは放送されていなかった)。ただし、他社線や阪神バスとの乗り換え案内は、23時以降は行わない。 福島駅を車内放送で案内する場合「福島、ラグザ大阪・ホテル阪神前です。」と放送する。 尼崎センタープール前駅を車内放送で案内する場合「センタープール前、尼崎センタープール前です。」と放送する。これは尼崎駅との区別を明確にするためである。 甲子園駅を車内放送で案内する場合、現在は「甲子園、甲子園球場前です。」と放送する。かつては「甲子園、甲子園野球場です。」と車内、甲子園駅構内でアナウンスされていた。 西宮駅を車内放送で案内する場合、昼間時のみ「西宮、エビスタ西宮前です。」と放送する。ただし十日えびすの期間中は「西宮、西宮戎です。」と案内される。 全駅でどちらの扉が開くか案内する。また、通過運転を行う区間では、到着放送の結びに到着駅名の再案内を行う(例:「西宮、エビスタ西宮前です。乗り換え案内をします。各駅停車ご利用の方は左側、4番線の電車にお乗り換えください。阪神バスご利用の方はお乗り換えください。西宮を出ますと、次は、芦屋にとまります。出口は左側です。西宮です。」)。 2016年3月19日のダイヤ改正からは、車内での駅到着時の乗り換え案内では「乗り換えのご案内をします。」と丁寧な表現が用いられている。 野田駅、甲子園駅、西宮駅到着時には「阪神バスご利用の方はお乗り換えください。」と案内する(これは阪神電鉄バス時代から行われている)。尼崎にも阪神バスが乗り入れているが、尼崎では阪神バスへの乗り換え案内はない。 御影駅に到着する際には、「六甲山へお越しの方はバスにお乗り換え下さい。」と案内する。これは六甲山のレジャー施設の開発運営を阪神電鉄が行っているためである。ただし御影駅前には阪神バスではなく神戸市交通局バスが乗り入れている。また西宮と違い、阪神百貨店が入居する施設である「御影クラッセ」の案内は行われていない。 阪神なんば線(神戸三宮、新開地始発の奈良行き快速急行を含む)の列車については、行先、種別の前に「西九条、難波方面」を付け加えて放送することが多い。 2012年3月20日のダイヤ改正前まであった阪神なんば線内の各駅に停車する奈良行の快速急行(同改正で快速急行の全列車が「尼崎 - 西九条間ノンストップ運転」となった)の尼崎到着時の車内案内は「大阪難波まで各駅に停車」と「鶴橋まで各駅に停車」と両方あり、必ずしも統一はされていなかった。ただし事実上は近鉄奈良線の鶴橋まで各駅に停車するため後者も誤りではない。 普通列車ではかつて、駅到着直前の放送は原則として行わず、各駅を出発後に「次は、●●、●●です。出口は●側です。」を1回のみ放送していた時期があったが、2009年3月20日以降は普通列車でも駅到着直前の放送が行われている。 神戸三宮駅を車内放送で案内する場合は「三宮、神戸三宮です…(略)」と放送する。 奈良方面行きの大阪難波駅(桜川駅出発後)、尼崎方面行きの桜川駅(大阪難波駅出発後)の車内案内は、近鉄の乗務員が担当している。なお、この区間では近鉄車両・阪神車両問わず車内自動放送が行われており、近鉄の乗務員が車両に接続したタブレット端末を操作して自動音声で案内を行っている(アナウンスは、日本語のみ男性の声、英中韓は女性の声)。 武庫川線の列車はワンマン運転のため、車内自動放送による案内がされている(アナウンスは、女性の声で日本語のみ)。武庫川団地前行きでは行先を「団地前行き」と案内し、終点到着時には「次は、団地前、武庫川団地前。終点です。」と放送する。 最終到着駅を案内する場合、梅田駅など終端駅の場合は「●●(駅名)、終点</b>です。」、そうでない場合は「終着、●●です。」と案内する。 2014年より運転を開始した近鉄22600系電車による貸切列車が御影駅を通過する際は、上りでは石屋川駅手前で、下りでは住吉駅手前で「間もなく、御影駅を通過します。電車が揺れますのでご注意ください。」と放送を行う。また、上りでは乗務員交替となる桜川駅(乗客は下車不可能)で、下りでは乗客の下車する各駅で「阪神電車をご利用頂きありがとうございました」と放送を行う。 駅名標・駅の案内サイン かつては、旧国鉄に準じた「丁子矢印」形式の駅名標であったが、平仮名は使用されず漢字のみが記載されているものであった。その後同じく「丁子矢印」形式であっても、上部よりローマ字の大文字、平仮名で駅名が書かれ、前後の駅は平仮名のみが記載されたものが使用された。 1970年代に入ると、京阪電気鉄道や南海電気鉄道にも見られたタイプの駅名標に代わり、当初は白地に黒色、のちに白地に青色で駅名、前後の駅は青色地に白文字で記載されている物が長らく設置されていたが、2009年1月下旬より全線で青がベースで白文字の新しい駅名標に統一されている(阪神なんば線の西九条駅から福駅までのホーム延長部分の駅名標は最初から設置、尼崎駅西大阪線ホームにあった旧駅名標も阪神なんば線開通日に新しい駅名標に交換された)。 これと同時に駅の案内サインもほぼ全面的に刷新され、ユニバーサルデザイン(ピクトグラムも使われている)に基づいた表示に更新されている。この駅名標は2010年10月1日より神戸高速鉄道東西線花隈駅をのぞく各駅にも導入された[32]。なお、花隈駅には阪急タイプの駅名標が導入されている。 共同使用駅である大阪難波駅と西代駅は、それぞれ駅を管轄する近畿日本鉄道・山陽電気鉄道仕様の駅名標となる。 2014年3月には、翌月4月1日より導入する駅ナンバリングに対応した駅名標(駅名横に駅番号を追加したもの)への取り換えが行われ、デザインも若干変更された。 「縦書きタイプ」の駅名標(ホームの上屋柱などに取り付けるタイプのもの)を設置している駅は1つもなかったが、阪神なんば線の2009年に開業した駅(九条・ドーム前・桜川)およびリニューアル後の神戸三宮駅に設置されたほか、神戸高速線内にも古い縦書き駅名標が存在する。 駅名標・車内案内表示器の英字表記は阪急や京阪と同様一文字目が大文字で、以降が小文字となっている(例:神戸三宮は『Kobe-Sannomiya』、画像も参照)。一方で、車体正面・側面の種別・行先表示器や駅構内の発車標での種別・行先表示では、未だにすべて大文字のみとなっている(例:特急は『LTD.EXP.』、神戸三宮は『KOBE-SANNOMIYA』)。なお、2017年2月より、行先や停車駅の表記は、「姫路」が「山陽姫路」、「奈良」が「近鉄奈良」、というように省略はせず正式駅名での表記に改められている(英語表記も同様)。 駅の発車標は、かつてはソラリー式が主に使われたが、1990年代から3色LED式(野田駅・西宮駅・元町駅は液晶式[注 7])が主流となり、阪神なんば線延伸開直前の2008年からはフルカラーLED式の設置もしくは更新が行われ、現在に至る。かつては、字幕式が尼崎駅で阪神なんば線延伸開業前まで使われたほか、ソラリー式は最後に残った甲子園駅で2012年まで使われた。また、野田駅・甲子園駅・西宮駅・御影駅・神戸三宮駅(大阪方面行き)の各島式ホームでは、従来の左右のりば独立したものに代えて直近4列車を一括で表示する大型のものが設置されている。また、主要駅の駅改札口には直近2〜4列車が表示されるフルカラーLED式のものが設置されているほか、現在は全ての駅の改札口に上下線とも直近2列車が表示される(運転見合わせなどアクシデント発生時はその状況も表示される)液晶モニターが設置されている。 阪神の駅名標(駅ナンバリングが入る前) 以前の駅名標。一部の駅(主に、阪神大震災前後に高架化または改良工事が行われた駅)のみでしか導入されなかった。 以前からの駅名標。ほとんどの駅には下に広告が入っている。 福島駅のみの独自の駅名標(現在は一番左の様式のものに取り替えられている) 駅ナンバリング 2014年4月1日より、阪神全駅で駅ナンバリングを導入した。最初に発表した時点では近畿日本鉄道と協議中であったため『近畿日本鉄道管理の大阪難波駅を除く』としていた[7][8]が、最終的には大阪難波駅も同日より導入することになった。路線記号は「H</b>an<b data-parsoid='{"dsr":[38122,38129,3,3]}'>S</b>hin」から「HS」となる[注 8]。導入に先駆けて同年2月頃より一部車両の車内案内表示で駅ナンバリングが表示されており[注 9]、3月に入り駅名標や車内の路線図が新しいものに交換された。 本線 梅田駅 (HS 01) - 元町駅 (HS 33) 神戸高速線 西元町駅 (HS 34) - 西代駅 (HS 39) 阪神なんば線 大阪難波駅 (HS 41) - 出来島駅 (HS 49) 武庫川線 武庫川団地前駅 (HS 51) - 東鳴尾駅 (HS 53) 数字は阪神本線・神戸高速線が00 - 30番台、阪神なんば線が40番台、武庫川線が50番台となり、大物駅、尼崎駅、武庫川駅は本線の駅ナンバリングが付与され、西代駅では山陽の駅番号であるSY 01、大阪難波駅では近鉄の駅番号であるA01も付与される。 駅名標への駅ナンバリングの記載については、大阪難波駅(近鉄仕様)は阪神・近鉄両方が、西代駅(山陽仕様)は阪神・山陽両方が記載されている。 方向幕・表示器の色 特急 直通特急 区間特急 (赤地に白文字で、新形式車の前面は黒地に赤文字で「 特急 」「 直通特急 」「 区間特急 」、LED表示は前面・側面とも赤地に白文字) 直通特急 (黄地に青文字) 快速急行 (水色地に白文字で、近鉄線内は特急と同じ赤地に白文字で「 快速急行 」に変わる) 急行 区間急行 (白地に赤文字で、新形式車の前面は黒地に橙文字で「 急行 」「 区間急行 」、LED表示は前面・側面とも橙地に白文字で「 急行 」「 区急 」)) 準急 区間準急 (緑地に白文字) 普通 (紺地に白文字) 回送 試運転 臨時 貸切 (白地に黒文字で、LED表示は側面の行き先部分に黒地に白文字で「 回送 」「 試運転 」「 臨時 」「 貸切 」で、種別部分は表示なし) 行き先はすべて「 梅田 」(白地に黒文字)で、新形式車の前面とLED表示の前面・側面とも「 梅田 」(黒地に白文字)となる。 2014年4月1日より三宮駅が神戸三宮駅へ改称されたため、LED表示の車両は同日より『神戸三宮』へと表示が変更されたが、方向幕の車両はしばらく『三宮』のままであった。2016年3月のダイヤ改正で 直通特急 の各駅停車区間が変更され、さらに急行系車両が使用され区間運転の特急(実質的には普通)も正式に普通に種別を変更することになったため、8000系のうち方向幕の車両も方向幕の交換に合わせて現在は『神戸三宮』へと表示が変更されている。ただし、普通で使用する青胴車と阪神線に乗り入れる近鉄・山陽の各車両の方向幕には変更されていないものもあり、青胴車と近鉄は『三宮』のまま、山陽は『 阪神三宮 』と『 阪神神戸三宮 』が混在している(LED表示の車両は、近鉄は『神戸三宮』、山陽は『阪神神戸三宮』)。 方向板 行き先は縦長の四角形で、起点と終点の両方が入っており、本線系は青文字、支線系は黒文字で縦書きとなっていた。普通に関しては、最終まで使用されたタイプは行き先が交換できる方式となっていた。武庫川線はワンマンになる直前までは、緑地に白文字で書かれた行き先同士を波で結ぶ形となっていた。これは普通で使用されたほか、赤胴車では方向幕が設置されている車両は、2016年までは普通の行き先幕が全く入っておらず、「普通」の表示で方向板が使用されていた。このような形式は普通車の方向幕設置車と非設置車が混結される場合でも同様となっていた。 特急は行き先の方向板に加え、横長の四角形で黄色の翼形のマーク(マークの下に赤文字で「特急」)が描かれた種別板を貫通扉に掲げて併用していた。ただし、高校野球の開催期間中は翼形ではなく「高校野球」「センバツ」と書かれた専用マークのものを使用していた。また、梅田⇔元町間の特急に限り、横長の四角形で中央に青色の翼形のマーク、その上に「特急」、その下に「梅田⇔元町」と書かれた方向板を掲げていた。なお、「特急」の種別板だけは、表示幕が設置されてからもそのまま継続して使用された(貫通扉にサボ受けがない8000系以降の車両を除く)。 急行は縦長の四角形で、上半分は赤文字で「急行」と縦書きされ、行き先はその下に青文字横書きで入っていた。 準急は縦長の四角形で、上半分は赤文字で「準急」と縦書きだがその両脇に青の縦長の帯が入っており、行き先はその下に縦書きで入っていた(「尼崎行」のみ横書き)。 丸形は縦書きの回送・試運転・貸切・工事のほか、A・Bというものもあった(いずれも白地に黒文字)。このほか、白地に赤丸と黒文字「急」や、カモメをモチーフとした快速急行、うずしお、競艇マーク(準急と準急のないバージョン両方あり)、梅田甲子園ノンストップ特急、団体用の「もみじ」、「あおば」などもあった。 8000系などの新形式車両で使用される前面左側窓のマークは運行開始直後からしばらく使用された直通特急「大阪ライナー」(青地に黒文字、川の流れを示すマーク)、「姫路ライナー」(赤地に白文字、白鷺のマーク)と、タイガースバージョン(黄地に黒文字、タイガースマーク)もあった。他にタイガースマーク(直通特急でも使用)、高校野球(直通特急では2013年春までは未使用で、夏以降からは使用)、区間特急梅田行きなどもあった。 赤胴車においては、表示幕が設置される以前は、車体側面のドア3か所のうち両端2か所のドア横にサボ受けが設けられており、運用する種別によって白地に赤文字で「特急」「急行」(準急は白地に緑文字で「準急」)と書かれたサボを掲げていた。 5261形で使用されていた方向板。行き先を交換できるタイプだった。 3561形の方向板。行き先と特急マークを併用していた。特急マークは高校野球仕様のもの。 翼形の特急マーク。方向幕になってからも特急マークは2000系の全車廃車直前まで使用されていた。 その他特記事項 運行情報・遅延証明書 2005年12月19日よりウェブサイト上で運行情報の提供が開始されたが、これは日本の大手私鉄では最も遅かった。 2015年より順次、各駅改札口に大型液晶モニターを設置しており、運転見合わせや遅延の発生など異常時にはモニターにリアルタイムで運行情報が表示されるようになっている。なお、通常時は直近に発車する2ないし4列車を表示しているが、駅構内やホームのLED式発車案内板では表示されない駅ナンバリングのマークも付記されている(山陽姫路や近鉄奈良など他社線の駅についても、乗り入れ先の仕様で表示しているが、近鉄のものについては同社が採用している字体とは異なるものとなっている)。 遅延証明書については、現在はウェブサイト上で発行しているが、梅田駅などでは駅員による手渡しが行われることもある。 野球開催時の輸送体制 甲子園球場でのプロ野球、高校野球の試合開催時には大阪梅田・難波方面(特急が中心)・神戸三宮方面(急行が中心)共に断続的に臨時列車が運転される。甲子園球場の存在が阪急阪神ホールディングス全体においても大きな収入源であり、阪神タイガース及び高校野球の人気チームの勝敗は阪神電鉄の収支に大きな影響を与えている。西武ドームを保有し、埼玉西武ライオンズの親会社である西武鉄道も、阪神電鉄の野球開催時の輸送体制を模範としている。 終夜運転 毎年、大晦日深夜から元旦にかけては、武庫川線を除く全線で終夜運転が行われている。全列車が各駅停車で、阪神本線・神戸高速線は梅田 - 高速神戸間で、阪神なんば線は全区間(大阪難波から先は近鉄奈良方面に直通)で、午前0時台と1時台は概ね15分間隔・午前2時台から5時までは概ね30分間隔で、それぞれ運転されている。なお、高速神戸駅から先は、山陽電鉄が接続し須磨浦公園駅まで終夜運転を行っている。 乗務員と運転業務 乗務員は乗務中制帽のあご紐を留める。ただし、通過列車監視などのためにホームに出る際はあご紐を留めなくても良い。 地下線内を除き、日中は室内灯を消灯して運転する。 運転士・車掌ともに近鉄の車両に乗務する場合、「近鉄備品」と書かれた黄色のタグのついたバッグを携帯する。 公衆無線LAN 阪神の各駅と神戸高速線各駅に2013年3月現在公衆無線LANが設置されている。利用できるのはauのau Wi-Fi SPOTとワイヤ・アンド・ワイヤレスのWi2 300(au Wi-FiとWi2 300とともにSSIDは「Wi2premium_club」のみ)、SoftBankのソフトバンクWi-Fiスポット (SSID:0001 softbank)、NTTドコモのdocomo Wi-Fi (SSID:docomo) となっている。なお利用できるSSIDは上記の3つとHS_wifiが検出される。このうちHS_wifiは利用の用途は不明で、セキュリティが掛かっているため利用はできない。これらは阪神の駅だけではなく、阪神甲子園球場にも設置されている。また阪神の駅や施設だけではなく、阪急阪神グループの駅や、商業施設にも拡大する予定となっている[33][34]。2013年2月28日からはauとソフトバンクに加え、NTTドコモのdocomo Wi-Fiも利用できるようになった[35]。アイテック阪急阪神が運営に当たっており、阪神のほか、阪急・北大阪急行・能勢電鉄(SoftBankとドコモは除外)の各路線でも展開されている。 スポーツ・レジャー事業 レジャー事業は古くから活動しており、最初期のものに1907年(明治40年)開設の香櫨園遊園地がある(1913年(大正2年)閉鎖)。全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)(夏の高校野球)の会場も誘致し、鳴尾球場(現在廃止。タイガース二軍球場とは別のもの)と阪神甲子園球場を相次いで建設している。 その後甲子園球場を本拠地とするプロ野球球団の阪神タイガースを創立し、甲子園球場では選抜高等学校野球大会(春の高校野球)も開催されている。また甲子園地区や六甲山地区の開発にも携わり、阪神間モダニズムの一翼を担った。 現在でも直営の施設を持っているが、大部分の施設の運営は子会社の六甲山観光株式会社に委託されており、子会社が所有している施設もある。 現在の主な直営施設 阪神甲子園球場(阪神タイガース本拠地、春・夏の高校野球大会会場) 六甲高山植物園 六甲山スノーパーク ホール・オブ・ホールズ六甲 子会社によるもの ラフィット(フィットネスクラブ・株式会社ウエルネス阪神) リゾ鳴尾浜(複合スパリゾート・株式会社鳴尾ウォーターワールド - 西宮市と阪神電鉄が中核として出資している第三セクター)。 閉鎖されたもの 香櫨園遊園地 鳴尾運動場 - 鳴尾競馬場を改造したもの。場内に鳴尾球場があった。 南甲子園運動場 - 戦前に全国中等学校蹴球選手権大会や全国中等学校ラグビーフットボール大会などが開催された。鳴尾競馬場の西側にあった。 甲子園プール - 1万人収容スタンドがあった公認プールで、甲子園球場の西側にあった。 甲子園阪神パーク - 2003年に閉鎖した遊園地。跡地は三井不動産プロデュースのららぽーと甲子園とキッザニア、イトーヨーカドーとなる。 かつて行っていた事業 バス事業 以前は<b data-parsoid='{"dsr":[47364,47376,3,3]}'>阪神電鉄バス</b>として直営で運行しており、大手私鉄直系のバスの中で最後までバス事業の分社化が行われなかったが、採算の悪化により2005年12月14日に子会社として阪神バス株式会社</b>を設立し、翌2006年6月から阪神西宮発着の一般バス路線および三宮 - HAT神戸の路線を同社に移管した。 また、2009年4月1日に簡易会社分割方式により、残りのバス路線もすべて阪神バスへ譲渡された[36]。これにより、関西の大手私鉄各社はすべての会社がバス事業についてすべて子会社による運営に切り替わった。 旅行事業 阪神電気鉄道は、長年航空事業部門として<b data-parsoid='{"dsr":[47813,47823,3,3]}'>阪神航空</b>のブランドで旅行事業を展開していた。ホームページ等では航空事業と記載されていたが、運営していたのは旅行事業である。以前は同ブランドで航空貨物代理店(フォワーダー)も営んでいたが、こちらは1999年に「阪神エアカーゴ」として分社している。 1948年(昭和23年)から営業を開始しており、国土交通大臣登録第1種旅行業で登録番号は第33号と古い歴史を持っていた。また、関西大手私鉄の鉄道系旅行業者では唯一の直営での運営であった。店舗は大都市圏(首都圏・関西・名古屋地区)のみのため小規模ではあったが、『(阪神航空)フレンドツアー』と題したヨーロッパ旅行ツアーを中心に展開した。 のちに阪急阪神ホールディングスの一員となったため、阪神エアカーゴも含めた旅行事業については阪急系の阪急交通社と重複することから、阪急交通社、阪急エクスプレス、阪神エアカーゴとの4社を中心に阪急阪神交通社ホールディングスを傘下とする企業グループに再編した上で旅行事業は独立し、2008年4月1日に阪神航空株式会社へと移管した。阪神航空はのちに社名変更し、現在は<b data-parsoid='{"dsr":[48354,48380,3,3]}'>株式会社阪急阪神ビジネストラベルとなっている。 不動産事業 阪神電鉄は、創業から10年後の1909年から不動産事業の展開を始め、2018年3月31日まで事業を継続した。 阪神電鉄ではかつて不動産事業本部を擁しており、宅地・住宅の開発・分譲のほか、不動産鑑定業務、ハービスOSAKAやハービスENTなどの西梅田再開発事業、エビスタ西宮やウイステなどの商業施設の開発・運営を行っていた。 村上ファンドが阪神電鉄株式を取得し始めたのは、阪神電鉄が阪神甲子園球場やハービスOSAKA、ハービスENTなどを保有していることに着目したからであるように、不動産事業を撤退した現在でも優良資産を多数保有している。 宅地・住宅の開発・分譲については、阪神沿線を中心に沿線開発等を手掛けてきたが、特に2010年代に入ってからは首都圏にも進出するなど阪神沿線以外でも幅広く手掛けた。ただ、分譲住宅事業に関しては晩年は建売戸建(「ハピアガーデン」ブランド)のみとし、マンションは2008年の「ジオ甲子園口一丁目」を最後に撤退した。特に阪急東宝グループとの経営統合後は、分譲住宅事業のうち建売戸建は阪神電気鉄道が、マンションは阪急不動産(当時)が、それぞれ専ら手掛けることで競合しないようグループ内で棲み分けを図った。 不動産事業については、事業再編により阪急阪神ホールディングスが子会社化した阪急不動産に移管することとなり、不動産事業本部は独立し2018年4月1日より阪急不動産と経営統合して阪急阪神不動産株式会社(の一部)となった[37]。 不動産事業本部が手掛けた主な分譲物件は、以下のとおり。 分譲戸建事業 東加古川住宅地(加古川市) 土山稲美住宅地 塩屋とびお台(神戸市垂水区塩屋北町、1982 - 2006) 播磨美原台(兵庫県揖保郡太子町、1991 - ) 神戸・花山手(神戸市北区花山中尾台、1994 - ) 武庫川リバーサイド(西宮市小曽根町、1998 - 2002) 芦屋・春日町(芦屋市春日町他、2000) 苦楽園三番町(西宮市苦楽園三番町、2003) 神戸・石屋川(神戸市東灘区御影塚町、2002) 神戸・新在家(神戸市灘区浜田町、2002) コートヴェール芦屋(芦屋市海洋町、2003) 神戸・西灘公園(神戸市灘区都通、2003) 神戸・石屋川公園(神戸市東灘区御影塚町、2003) カルチェリベルテ学園都市(神戸市西区学園東町、2003) 潮芦屋住宅事業コートヴェール芦屋・パークサイドレジデンス芦屋(芦屋市南浜町、JV、2004) 潮芦屋住宅事業コートヴェール芦屋・ビーチフロント芦屋(芦屋市南浜町・涼風町、JV、2005) ハピアガーデン武庫川(西宮市上田東町、JV、2006) 箕面小野原レジデンス(箕面市小野原西、JV、2008 - 2010) ハピアガーデン東加古川(加古川市野口町、2009 - ) 王寺スカイヒルズ(奈良県北葛城郡王寺町南元町、JV、2009 - ) ハピアガーデン四季のまち(大阪市西淀川区中島、2010 - ) ハピアガーデン寝屋川市幸町 駅の手公園通りの街 (寝屋川市幸町、2012-) 分譲マンション事業 シップス本山(神戸市東灘区本山南町、JV、1999) ローレルスクエア南甲子園(西宮市南甲子園、JV、2001) クレアフォート西宮 酒蔵通り(西宮市浜町、JV、2002) エイヴィスタワー西宮(西宮市田中町、JV、2002) レフィナード甲子園(西宮市甲子園浦風町、JV、2002) コスモ六甲ガーデンフォート(神戸市灘区新在家北町、JV、2003) カルチェリベルテ学園都市(神戸市西区学園東町、JV、2003) ハピアレジデンス南堀江(大阪市西区南堀江、2003) ジークレフ御影(神戸市東灘区御影中町、JV、2004) ラセラ高槻(高槻市富田丘町、JV、2004) 御影タワーレジデンス(神戸市東灘区御影中町、JV、2008) ジオ甲子園口一丁目(西宮市甲子園口一丁目、JV、2008) 関係企業 阪急阪神東宝グループに属する全企業の一覧は「阪急阪神東宝グループ」を参照。 阪急電鉄 阪急百貨店(エイチ・ツー・オー リテイリング、イズミヤ) 東宝 阪神グループ 阪神タイガース 阪神園芸 阪神百貨店 エビスタ西宮 大阪ダイヤモンド地下街株式会社 阪神ホテルシステムズ - ザ・リッツ・カールトン大阪の経営 阪神コンテンツリンク - ビルボードライブ(東京六本木、大阪梅田、福岡天神)運営主体 ベイ・コミュニケーションズ - ケーブルテレビ局 阪神ケーブルエンジニアリング - ケーブルテレビ局の設計、施工、保守管理業務等 Be Happy!789(FMキタ) - コミュニティFMラジオ放送局 山陽自動車運送 阪神車両メンテナンス - 武庫川車両工業より継承 西大阪高速鉄道 六甲山観光 - 2013年に六甲摩耶鉄道が阪神総合レジャーと合併して社名変更 神戸高速鉄道 - 阪急阪神ホールディングスグループ 山陽電気鉄道 山陽百貨店 神姫バス 京福電気鉄道 - かつては阪神の車両が譲渡されたり自社発注車に阪神との共通点が見られるなど、関係が深かった。だが1960年代より京阪電気鉄道が関係強化に乗り出した結果、現在京福および分社化した叡山電鉄は、京阪の100%子会社となっている。 近畿日本鉄道 大阪シティドーム - 京セラドーム大阪運営会社 朝日放送グループホールディングス - 朝日放送テレビはANN準キー局で、朝日放送ラジオはJRNとNRNの系列局。阪神との関連が深く、同社会長の坂井信也が朝日放送会社の取締役を2018年6月まで務めていた。また、2007年から2011年まで同局のアニメ・特撮番組である「仮面ライダーシリーズ」と「プリキュアシリーズ」のキャラクターを使って夏休み期間中にスタンプラリー(阪急・能勢電鉄と共催)を行っていた。現在では一部車両の中扉の浜側右側に番組宣伝のポスターを出稿している。サイズは昔阪急が、現在でも山陽電鉄が採用している正方形サイズの広告枠。 関西テレビ放送 - FNN/FNS準キー局。筆頭株主はフジ・メディア・ホールディングスでその持分法適用会社でもあるが、元来阪急系(阪急東宝グループ)の会社であり阪急との経営統合後は関連が深くなった。 東京巨人軍(読売ジャイアンツ。東京巨人軍は出資当時の名称) - 戦前の一時期、大阪タイガースの親会社でありながら出資していた。ただしこの当時の巨人軍の筆頭株主は阪神と同業の京成電鉄であり、読売新聞社ではなかった。また当時は無協約時代であったため、球団の親会社が他球団を含めた複数の球団に出資しても問題視されなかった。なお、読売新聞社も逆に大阪タイガースの株式を保有していた時期があった。 読売新聞大阪本社 - 読売新聞の大阪進出にあたり、阪神が仲介して社屋の用地を提供した。 関連施設 ハービスOSAKA ホテル阪神 - 阪急阪神第一ホテルグループ ウイステ - 大手スーパー・イオンの野田阪神店が入居。 アンスリー - 南海電気鉄道・京阪電気鉄道と共同経営していたコンビニエンスストア。阪急との経営統合により、阪神の駅にある店舗についてはアズナスに切り替わっている。 ウインズ神戸 - 阪神電鉄がA館設置者。 そごう神戸店 - 三宮阪神ビルが本館の一部となっている。竣工当時は梅田に阪神マートを開業したばかりで百貨店のノウハウがなかったため、そごうをキーテナントとして招へいした。 CM・提供番組 CM 1995年までは朝日放送(ABC)のテレビとラジオで提供番組を持ち、CMが放送されていたが、阪神・淡路大震災発生後は自粛に入りその後は阪神パーク甲子園住宅遊園のCMが放送された時期があったが、1998年頃の直通特急運行開始の時期、2009年の阪神なんば線開通の時期[注 10]にそれぞれCMが放送されていた。その後はラジオCMのみとなっていたが、2014年に入り、「阪神沿線物語」でテレビCMが2009年の阪神なんば線開通の時期以来5年ぶりに放送されることとなった[38]。このCMではHD制作となったが、2009年以前のCMは全てSD制作となっていた。2014年のテレビCMの主な出演者は女優の佐藤江梨子とお笑い芸人のハマカーン。ラジオについてはグループ会社のエフエムキタではスポット枠や提供枠を持っており、朝日放送では後述の提供番組で放送されている。2011年から2013年まで放送されていたCMは列車到着メロディを使用したCMが放送されていた。 1987年に「ぼくの街の阪神電車」のCMが放送され、CMソングは憂歌団が歌っていた。2017年には同CMを30年の時を越えてリメイクした「ぼくの街の阪神電車2017」が放映される。1987年版と2017年版では構図・CMソング[注 11]は全く同じであり、阪神タイガースの帽子、阪神百貨店の紙袋が2017年現在のものに変更され、撮影車両も8000系から1000系に変わった[39]。 阪神沿線物語シリーズCM出演者 佐藤江梨子 - 森田優子(旧姓 坂本)役 吉田哲子 - 坂本みよ子役 島崎俊郎 - 坂本清志役 山本香織 - 瀬戸直子役 ハマカーン 神田伸一郎 - 森田達也役 浜谷健司 - 駅員役 このほか、桧山進次郎がワンシーンのみ出演していたこともある。 現在の提供番組 サンテレビボックス席(サンテレビジョン放送分・阪神甲子園球場での阪神タイガース戦のみ) ABCフレッシュアップベースボール - 阪神沿線の各駅周辺を訪ねる、5分間のミニ番組。阪神グループのケーブルテレビ局・ベイ・コミュニケーションズが制作。同局および阪神・近鉄・山陽沿線のケーブルテレビ各局にて放送(提供クレジット表示はなし)。 過去の提供番組 スポーツ・パレード - かつてABCラジオで放送されていた提供番組。 ANNニュースレーダー→たいむ6(1983年の放映枠拡大時から)→ニュース・ウェーブ→600ステーションABC→ABC News Report→ワイドABCDE〜す - かつてABCテレビで放送されていた提供番組。阪神・淡路大震災発生に伴いCM放映を休止し、そのまま撤退している。 渡辺篤史の建もの探訪 - ABCテレビのみで提供していた。住宅情報番組のため当時あった阪神パーク甲子園住宅遊園のCMが中心だった。 おはよう朝日です - 一時期スポンサーに付くことがあった。 - 「ときめき沿線ドラマティックロード」の前番組 三月の花嫁 on ドラマティックロード(FM大阪) (ラジオ関西制作) ABCフレッシュアップベースボール MBSタイガースライブ ドッキリ!ハッキリ!三代澤康司です(朝9時25分頃のニュースコーナー) ABCニュース(テレビ・ラジオ) - ABCラジオで放送されていた沿線情報番組。 脚注 注釈 出典 関連項目 阪急・阪神経営統合 ザ!鉄腕!DASH!! - TOKIOのメンバーが阪神の5500系電車・5700系電車と競争する企画があった。 電車唱歌(阪神電車唱歌) 外部リンク 公式サイト - 企業情報 on YouTube on Twitter on Twitter
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93
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名鉄3700系電車が初めて運用されたのはいつ
名鉄3500系電車 (2代)
japanese
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名鉄3500系電車(めいてつ3500けいでんしゃ)は、1993年(平成5年)に登場した名古屋鉄道の通勤形電車。 なお本項では、車体・性能・システムが類似し、同じグループとして運用されている3700系電車(3代)・3100系電車</b>についても記述する。 概要 従来投入されてきた6000系列の後継発展車種として、VVVFインバータ制御、電気指令式ブレーキ等の新機軸を導入のうえ登場した通勤形電車である。3500系・3700系・3100系ともに車体は普通鋼製[注釈 1] で、座席はオールロングシートである。 就役後の変化として、1993年から1997年製造の車両は登場時は種別・行先表示器が6000系以来の種別=漢字1文字(「快急」を除く)、行先表示=日本語のみの方式であったが、2005年までに種別を2文字表記とし種別・行先ともに英文字を併記した方式へ変更された。また、EB装置や折りたたみ式の転落防止幌なども順次取り付けられている。当初から全車が装着しているボルスタレス台車は、1995年からヨーダンパが設置され、さらに2004年からは電動台車のみ許容荷重を高めたタイプに交換された。 3500系 1993年6月から1996年6月まで製造された、片側3扉で全車両の座席がロングシートの4両固定編成で、豊橋方から ク3500形(Tc1) - モ3550形(M2) - モ3650形(M1) - ク3600形(Tc2) の順に組成される。 主電動機の出力を170kWに増強し、GTOサイリスタ素子(4500V/4000A)を用いたVVVFインバータ制御を導入した[注釈 2]。また、三菱電機のMBS-A方式電気指令式ブレーキを採用しているため、旧来のHSC方式電磁直通ブレーキを有する6000系・6500系などとの連結運転はできない。電気指令式ブレーキの採用で、名鉄の車両としては初めて一つの主幹制御器で加速・減速操作を行うワンハンドル式が採用された[注釈 3]。主幹制御器のノッチは力行5段・中立・常用制動7段・非常制動となっている。 客室内の設備として、名鉄では特急車以外で初採用となる号車番号表示器とLED式車内案内表示装置を車端部に設置した。号車番号表示は途中駅から行き先が分かれる列車に便利な機能で、案内表示器には次駅の案内などのほかその時々の速度を数字と電車をかたどったグラフで示す機能もある。座席配置は6500系8次車・6800系6次車と同一で、座面形状が変更された。ラッシュ対策のため、特に利用客が固まる乗降扉の両脇1人分ずつには座席を設けず立席スペースとし[注釈 4]、扉間が6人掛け、中間車の車端部が4人掛けとしてある[注釈 5]。しかし実質座席定員が少ないとの指摘を受け、1996年製造の4次車からは1両につき8か所に1人用の補助席を追加した[注釈 6]。これは初期製造車の一部にも設置されている(後述)。また、運転席背後には当初から座席を設けず車椅子スペースとしている。客室化粧板は6750系2次車から採用されている格子模様のクリーム色だが、天井板が6500系8次車などでは白色であったのに対し、本系列からはクリーム色となった。4両編成34本136両が在籍する。 落成当時、赤い車体に乗降口扉の上半分が灰色に塗られていたが、2000年以後、他の部分と同じ赤色に塗り直された。これは3700・3100系も同じである。また座席のモケットは2種類ある[注釈 7] が、更新に伴い現在のモケットへ変更が進められ、旧モケットは数編成程度である。 車体は6500系の6518編成以降をベースとするが、先頭車前面には電気指令式ブレーキを意味する「ECB」 (Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) のプレート[注釈 8] が取り付けられ、また正面下部にはスカート(排障器)を設置した。また、正面上部には車両番号が表記されている。正面の車両番号表示は、名鉄における完全新製車では1954年以来、車体更新車でも1966年以来行われていなかった。 主電動機、主制御器ともに最初は東洋電機製造製のみであったが、増備車では主電動機に三菱電機製、主制御器に東芝製と三菱電機製が加わった。かご型三相誘導電動機は回転子の構造が単純なため、短時間の過負荷による温度上昇に強く、定格出力は170kWであるが短時間ならば実効出力で250kW以上を発揮できる。また許容回転数も高い。この高出力な電動機によって、通勤車ながらも高速性能は大幅に向上し、就役当初から名古屋本線の優等列車で120km/h運転を実施した[注釈 9]。ただし、高速性能を最重視していることもあり、逆に加速度は2.0km/h/sと日本の在来線VVVF車両としては最低ランクに位置する[注釈 10]。なお、特急車2000系、2200系においても、搭載モーターや基本的な走行性能は本系列をベースとしている。 総数136両は名鉄では6000系に次ぐ2位だが、それを僅か4年間で投入しており新造ペースに関しては現有車両の中で1位である。また6000系も瀬戸線在籍車を除くと120両に留まるため、瀬戸線の6000系が全廃された2014年度以降は、完全に3500系が名鉄最多車両となった。   1次車 3501F–3504F 1991年より犬山線などに暫定的に投入されていた100系200番台が本来の使用目的である名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)鶴舞線への直通運用に充当されることになったため、その代替用として1993年6月から7月にかけて4編成16両が製造された。当初はまだ3100系が製造されておらず本系列自体も車両数が少なく柔軟な運用が組みにくかった[注釈 11] ため、急行にはあまり運用されず普通列車を中心に運用されていた。 このグループのみ6000系などと同じ従来型の列車無線アンテナを装備する。なお、本系列の全体定員は座席を切り詰めたことにより100系[注釈 12] よりも僅かに多くなっている。 3503編成 2次車 3505F–3511F 1994年3月から4月にかけて7編成28両が製造された。基本的な仕様は1次車に準拠するが、この増備車より列車無線アンテナの形状が変わり以後の新造車両ではこのタイプのものが採用されている。 3509Fの岐阜方先頭車のク3609は1995年9月より試験的に折り畳み式補助椅子を設置し翌年の増備車で本格採用されたほか、1997年には3509Fの他の3両と3508Fにも設置された。 3507編成 3次車 3512F–3521F 1995年4月に3512F–3517F、6月に3518F–3521Fの計10編成40両が製造された。前述の通り、この増備車からは制御器や主電動機の製造会社が従来の東洋電機製造製に加えて東芝製と三菱電機製を採用した車両が登場した。1995年以降からの東洋電機製造のVVVFインバータ装置などの電装品には、会社名を表すTDK刻印ロゴから、プレート式のものに変更となった。 この増備で、広見線新可児 - 御嵩間や尾西線新一宮 - 森上間などの支線にも入線するようになった。ちなみに1995年の名鉄での新製車両は本系列のみでクロスシート車の新製が皆無であった。この3次車導入により、6000系16両が瀬戸線に転属、3780系の一部が代替廃車された。 3519編成 4次車 3522F–3526F 1996年2月に6編成24両が製造された。ク3609でテストされていた折り畳み式補助椅子が本格採用され、各車両に8名分ずつ設置された。またドアチャイムが設置され、以後の新造車で標準装備となったほか、6000系などの一部の車両にも改造で取り付けられた。さらには冷房装置を低騒音型のものに[注釈 13]、冷房装置などサービス機器に電力を供給するSIVをGTOサイリスタ方式からIGBT方式のものに変更した。 室内では天井中央部の高さが僅か1cmであるが高くなった。なお、全編成とも制御装置、主電動機ともに東洋電機製である。 3524編成 3525編成車内(ドア脇に補助椅子がある) 5次車 3527F–3534F 1996年4月に8編成32両が製造された。基本的な仕様は4次車に準拠する。 上記4次車とこの5次車の増備により、6000系の5–8次車の中間車のみ12両を瀬戸線に転用させることで、HL車全廃・モ800形(初代)営業運転終了・7300系の一部廃車といった動きがあり、名鉄の1500V線区での冷房化率は100%となった[注釈 14]。さらに、6000系列については豊橋までの定期運用が消滅した[注釈 15]。 この増備をもって本系列の製造は終了し、1997年からの新製は下記の3700系となった。また、7000系から連綿と引き継がれてきた卵形小断面車体の製造も特急車を除いて最後となった。 3532編成 リニューアル 2017年度より制御機器の更新工事が順次実施されており、行先表示器のフルカラーLED化、ドアチャイムの新設、車内案内表示装置の更新といった改装も同時に行われている[1]。なお、3511編成はこれに先行した2013年に試験的な機器更新が行われており[1]、この時車内案内装置が交換されていたのは編成両端の運転台側の2基だけであった[2]。 更新後の3501編成 側面行先表示器のLED化 車内案内表示器のLCD化 3700系 3500系の改良型で、1997年から1998年にかけて4両編成5本20両が製造された。編成は豊橋方から ク3700形(Tc1) - モ3750形(M2) - モ3850形(M1) - ク3800形(Tc2)である。ちなみに、3700系という形式称号は名鉄では3代目となる。 動力系や室内などは3500系に準ずるが、パンタグラフには従来タイプの菱形ではなくシングルアーム式のものが採用されたほか、車体断面の形状もそれまでの卵形の形状から側板が垂直の角張った形状に変更して屋根高さが10cm高い3,600mmとなった。側窓の天地寸法は4cm拡大され880mmとなったが、屋根は肩部のR(曲率半径)が小さく上面のRが大きいため幕板部分が広い。また本系列から車体のみの長さを18,230mmに、連結部の隙間を600mmとした。床面高さは1cm下げられ、ちょうど1,100mmとなった。 室内の構成は3500系と同様であるが、車体断面の形が変わったことによる変化の他に、天井の高さが2,235mmに拡大され冷房吹出口が1200系と同様のラインフロー式となり、座席が扉脇まで延長された。したがって折りたたみ式の補助席は設置されていない。扉間の座席は9人掛けとなったが、1人当りの幅は440mmで、その後の標準である470mm(8人掛け)に比べると狭い。ただし車端部は470mmを確保している。座面の形状は3500系と同様だが、背摺りの傾斜が若干大きくなった。車体を延長した分だけ、妻面の壁が3500系と比べて厚くなり、そこにLED表示器、消火器、非常扉コックなどを収めている。また側窓の天地寸法拡大によって、荷棚受け金具の形状にも変化が見られる[注釈 16]。天井は両隅から中央に向かって緩やかに高くなっており、中央部の化粧版は1次車がクリーム色、2次車がグレーベージュとなっている。 3500系と同様に電気指令式ブレーキを装備するため、先頭車前面に「ECB」のプレートが装着されているが、そのデザインは変化している。冷房装置は、客室容積の拡大と吹き出し方式の変更に伴い6000系の能力アップに採用された12,500kcal/hの集約分散式を各車3基搭載するが、室外機カバーの形状は異なる。扉付近に大径のラインデリアを併用する点も1200系と同様である。 また車内のLED表示器の文字の書体も3500系とは異なる。種別・行先表示器の表示内容の変遷は前記した。電動空気圧縮機(CP)は、次項の3100系と同様C-1500型に、補助電源装置(SIV)も出力75kVAの新設計品へと変更された。これらのCP、SIVともその後の新形式では標準装備となっている。 車内案内表示装置 1次車 3701F・3702F 1997年に2編成8両が製造された。 この2本と下記の3100系1次車の製造によって7300系が全廃された。 3701編成 2次車 3703–3705F 1998年3月に3編成12両が製造された。前面窓の位置を8cm上げ[注釈 17]、新造時から種別・行先表示器にローマ字を併記した字幕を採用し前面・側面ともに1次車よりも表示窓が拡大されている。 この3編成と3100系2次車の製造によって7000系が編成単位で廃車されるようになった。 本系列は5本が落成したのみで製造を終了し、以後本線系の4両編成通勤形車両は2004年の3300系に移行した。 3703編成 3100系 3700系の2両編成版で、1997年から2000年にかけて23本46両が製造された。編成は豊橋方から ク3100形(Tc) - モ3200形(Mc) である。 車体や客室設備は上記の3700系とほぼ同様で、名鉄の公式サイト等では同系の2両バージョンと位置づけている。 しかし制御システムは異なり、VVVFインバータ装置を3500・3700系のGTO素子からIGBT素子(1C1M×4群)に変更し、故障時に対処しやすくなるなど、きめ細かい制御を可能にした。このシステムは、後の新造車にも一部改良の上で採用されている。制御装置は三菱製と東芝製のものが採用された。 3500系・3700系と同じく電気指令式ブレーキを装備するため、先頭車前面に「ECB」のプレートが装着されている[注釈 18]。また、従来2両組成車の場合制御付随車に搭載されてきた補助電源装置は、本形式から制御電動車に搭載されるようになった。 基本的に自動放送装置などは搭載されていない[注釈 19]。 本形式にも車内案内表示装置が搭載され、1700系と併結して快速特急・特急の運用に入った際にのみ、特別車についての案内も表示される他、種別の表示が赤色文字となる[注釈 20]。なお、2200系と併結して快速特急・特急運用に入った場合や3500・3700系および3300系と併結して急行・快速急行に入った場合でも通常通りの表示(上記の1700系を除く)[注釈 21] となる。 また、2004年5月には当時落成して間もない2000系と併結しての試運転も行った。 1次車 3101F–3110F 1997年3月から4月にかけて10編成20両が製造された。 3107編成 2次車 3111F–3119F 1998年3月から4月にかけて9編成18両が製造された。3700系2次車と同様の改良がなされている。 3119編成 3次車 3120F–3123F 2000年4月に4編成8両が製造された。前年に落成した1600系に準じた変更がなされ、運転台モニタの設置や主幹制御器の右手操作型への変更、100系でも採用されている発車予告ブザーの設置、車外スピーカーの設置がされているほか、新製時より転落防止外幌を装備する。また客室側窓の巻上げカーテンはフリーストップ式となった。 前照灯は当初シールドビームであったが、のちにこの3次車の全車両がHIDに交換され、以後の新造車両では標準装備となった。また、車体側面の車両番号の表記位置がやや上の位置にずれている。また1700系と併結して運用に入った際にのみモニタに特別車の開閉図と走行モーターが表示される。 この3次車8両の導入を受け、同数の6000系[注釈 22] が瀬戸線の輸送力増強のため同線に転出した。 本系列の製造はこれをもって終了し、以降の本線系通勤形2両編成の製造は2004年登場の3150系に移行した。 2002年登場の300系以降、通勤形車両はステンレス製の車体を採用するようになったため、長年の名鉄の象徴であった「赤い電車」が新製ならび改造にされたのは、現時点では1380系が最後となった。この3次車をもって、TD車の製造も終了し、300系からはWN駆動に移行された。 3123編成 運用 3500系・3700系両系列で4両編成39本156両、3100系2両編成23本46両の合計62本202両が在籍している。3500系・3700系は3300系と、3100系は3150系と共通運用が組まれ、これらを組み合わせた2 - 8両編成で本線系統で幅広く使用されている。 快速急行以下での使用が中心で、2008年12月のダイヤ改正以降における豊橋駅発着の急行・一部特別車特急用車両の特急・快速特急の運用は、基本的に本グループ(3300・3150・2200・1700-2300系も含む)で運用される。2両編成の3100系については3150系とともに主に急行・快速急行の運用や平日の朝夕ラッシュ時、名古屋本線・常滑線・犬山線の岐阜駅・新鵜沼駅 - 豊橋駅間の特急で2200系や1700-2300系6両編成に増結して8両とする運用もされる。 2011年3月改正からは4連車と2連車とを併結した6両編成による全車一般車特急運用が深夜(名鉄名古屋駅発東岡崎行きや中部国際空港駅発岐阜行き)に設定[注釈 23] されたほか、2015年6月20日からは1800系・1850系の運用と入れ替わる形で日中の全車一般車特急運用も1往復設定された[3]。 回送列車では2両編成を4本連結した8両編成や、2000系との併結も行われている。 支線区では、西尾線にはこれまで2000年頃のごく僅かな期間を除いて入線実績がなかったが、2008年6月のダイヤ改正以降、定期運用が設定された。三河線知立 - 猿投間ではワンマン化以降定期運用はないが、イベントなど[注釈 24] のため増発して6000系だけでは車両不足になった際には車掌が乗務して入線する。2003年3月27日のダイヤ改正以降は、前日限りで定期営業運転を終了した旧3300系に代わって築港線で2両単独で運用されていた。しかし平日は混雑することから、2009年10月3日のダイヤ改正・運用変更以降は築港線は5000系などの4両編成による運行とされた。また、以前は小牧線や三河線知立 - 碧南間や広見線新可児 - 御嵩間、尾西線津島以北にも乗り入れていたが、ワンマン運転開始に伴い定期運用がなくなった[注釈 25]。なお、これまでに豊田線や蒲郡線での定期運用はない。しかし、2019年1月24日に本系列としては初めて3120Fが蒲郡線に代走で運用された。これは現在VVVFインバーター制御を採用した通勤形電車が蒲郡線に入線した初めての事例である。 ラッピング車両 本系列、特に側面がフラットな3700系と3100系にはタイアップなどの一環としてラッピングが行われる場合がある。以下はその事例である。 パトトレイン - 2003年春より1年間、愛知県警による防犯PRのため3701Fと3106Fにパトカー風のラッピングが施された。「パト電」という愛称もある。 ネスレ「キットカット」 - 2005年と2006年の受験シーズンには3702Fと3703Fにネスレ「キットカット」ラッピングが施された。 ポケモンキャンペーン ポケモン映画とのタイアップやスタンプラリーイベントの一環として、2007年から2016年まで2000系や2200系とともにラッピングが行われた。 さくらTRAIN 受験生を応援するキャンペーンの一部として2013年から<!--2017年まで (暫定)-->運行されているラッピング電車。車内には受験生を応援するメッセージが掲示されている[15]。 主要諸元 起動加速度: 2.0km/h/s(2.5km/h/s準備、設計上は2.8km/h/sまで可能) 減速度: 3.5km/h/s(常用)4.0km/h/s(非常) 最高速度: 120km/h(130km/h準備) 平坦均衡速度: 130km/h以上(M、T同数編成) 歯車比: 5.65 編成表 2008年末時点の車両番号を基本として記載する[21]。2017年4月1日現在、3500系は34編成136両が、3700系は5編成20両が、3100系は23編成46両の合計202両が在籍している[22]。 凡例Tc …制御車、Mc …制御電動車、M …電動車 VVVF…制御装置、SIV…補助電源装置、CP…電動空気圧縮機、PT…集電装置 脚注 注釈 出典 外部リンク 関連項目
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E9%89%843500%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A%20%282%E4%BB%A3%29
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ハイデルベルク中央駅はいつ完成した?
ハイデルベルク中央駅
japanese
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ハイデルベルク中央駅(ハイデルベルクちゅうおうえき、German: Heidelberg Hauptbahnhof)は、2009年時点で1日約42,000人の乗客がある、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州でも大きな鉄道駅である。ドイツの鉄道駅の分類で、7つあるカテゴリのうちの上から2番目にあたるカテゴリ2に分類されている。最初の駅は1840年にハイデルベルクの旧市街の近くに頭端式の駅として建設された。1862年に一部を改造して通過式の駅としたが、それに伴う都市問題と、拡張の困難さから、20世紀初頭におよそ1 km西に移転して新たな通過式の駅を建設する決定がなされた。2回の世界大戦によって計画は遅延し、ハイデルベルクの駅の移転完了には50年余りを要することになった。新しい駅は1955年に開業し、「ドイツ連邦鉄道でもっとも美しく、建築的に興味深い駅舎」とされた[1]。1972年にバーデン=ヴュルテンベルク州の特別重要文化財として登録された。 歴史 旧駅 1840年 - 1955年 1840年9月12日に、マンハイムからのの最初の区間の終点として、ハイデルベルクに当初の頭端式の駅が開業した。頭端式の形態が選ばれたのは、駅をできるだけ町に近づけられるようにするためであった。駅はこんにちのポスト通りとバーンホーフ通りの間に位置し、駅前広場はローアバッハ通りに面していた[2]。建築家のが設計した駅は、装飾によってロマン主義を添えられた、いくつかのシンプルな新古典主義の建物で構成されていた[3]。主な駅舎は市街地側に建てられており、赤いネッカー砂岩とスレートで作られた屋根が対照をなしていた。2径間のトレインシェッドが合計4線の番線を覆い、全長75 m、幅28 mで当時としては大変大きかった。このトレインシェッドは木造であった。大きな径間を実現するために、アイゼンローアは後に鋼製構造物に用いられるのと似たような構造を採用した。駅から線路が出ていくところは両脇に2つの塔が建てられており、高架水槽として利用されていた。駅構内には6か所の分岐器と15か所の転車台が設置されており、転車台では軽い車両を載せて手作業で回転させることができた。当初の時刻表によれば、1日に4本の列車がマンハイムへ運転されており、所要時間は35分から40分であった[4]。 1843年にハイデルベルクからカールスルーエまでの路線が開通した。1846年にフランクフルト・アム・マインまでマイン-ネッカー鉄道が開通し、1848年には2番目の駅が「建築的に模範的な形態で」[5]開設され、既存の駅の施設に統合された。この駅もアイゼンローアによって設計され、既存の駅施設に対しておおむね対称的な形で設計され、また将来的に北側へ拡張の余地があるように建設された。バーデン大公国邦有鉄道が1,600 mmの広軌であったのに対してマイン-ネッカー鉄道は標準軌で開通したため、バーデン大公国邦有鉄道が1855年4月に改軌するまでの間、駅の中央付近に設けられた貨物上屋においてすべての貨物を積み替えなければならなかった。2つの主な駅舎を連絡してアーケードが設けられており、その中央部分が駅への主要な入口として機能していた。これに加えて、2か所に三線軌条が分岐器を通って通じていた扇形庫と、トラバーサーによって通じていた車庫があった[6]。駅では1854年から、大学の書店であるカール・シュミットの営業による駅構内書店があり、これはドイツでも初期のもので[7]、100年後までその基本的な形態を保持していた。 1862年にが開通した際に駅は通過式の配線になり、またこの機会に南側へわずかに拡張された。1873年にはハイデルベルクはのターミナルともなった。1864年には駅の容量を救済するためにマンハイムへの路線とカールスルーエへの路線を結ぶ連絡線が使用を開始した。また1873年にはレーマー通りの西、マンハイムへの路線に沿って、新しい貨物駅と操車場が設置された[8]。 駅の移転 1902年 - 1955年 20世紀初頭には、駅の周りにおいて、北側で、南側でこんにちのが開発され、鉄道施設の拡張を妨げることになった。1902年の時点で平日はハイデルベルクから340本の列車が運転されていた[9]。1954年/1955年のダイヤでは、400本以上になっていた。駅の容量は限界に達していたため、重要な長距離列車はハイデルベルクを迂回するようになっていた[10]。 同時に、駅は都市設計に影響を与えるようになっていた。1862年のオーデンヴァルト線建設以降、道路交通が増加してきて、こんにちのアデナウアー広場のところにあったローアバッハ通りとの踏切は特に交通の妨げとなっていた。1949年末の時点で、1日3 - 4時間は閉じるこの踏切を10,800台の車が通行していた[11]。ここには歩行者用の地下道が1893年に開設されていた。の路線は踏切の両側で途切れており、市電の乗客は踏切を徒歩で横断しなければならなかった。この踏切が、駅の移転の大きな理由の一つとなった[12]。 1873年には駅の移転の検討が行われていた。しかしこれは、駅近傍で営業していたホテル業者に反対された[13]。1892年には木造の駅舎の1棟が火災で焼け落ちたが、野次馬の中には駅全体が焼けてしまえと思っていた人もいたであろう[14]。1895年にマイン-ネッカー鉄道が国有化されたことで、1890年代の当初の計画を促進することになった。当初の町の側の希望は、駅を市街中心部にできるだけ近くするために、現在地で駅を高架化することであった。1901年にハイデルベルクの市民委員会は、現在地からおよそ1 km西に新しい通過式配線の駅を建設するというバーデン大公国邦有鉄道からの提案を承認した[15]。1908年のバーデン大公国邦有鉄道による最初の設計では、20の番線を持った通過式配線の駅となっていた[16]。また線路別運転が行われることになっていた。総建設費は4000万ドイツマルクと見積もられた[15]。 1902年の起工式の後、全長約3 km、幅最大250 m、4 - 5 mの深さの掘割の中に旅客駅を建設する工事が開始された。掘り出された土砂は、操車場と貨物駅を高い位置に持ち上げる盛土のために利用された。旅客駅の南西側に位置していた操車場は、1914年3月に運用を開始した。1910年10月に、およそ15か月にわたる掘削工事を終えて全長約2,500 mのケーニヒシュトゥールトンネルが完成し、オーデンヴァルト線を新しい駅に接続した。第一次世界大戦の勃発に伴い工事は中断された。この時点で、オーデンヴァルト線の貨物列車はケーニヒシュトゥールトンネルを通って走行しており、ハイデルベルク市街地の踏切の問題を幾分緩和していた[17]。 大戦後は、経済的な事情から当初は建設計画は中止されていた。1926年から、計画されていた駅との間に信号場と車両基地の建設が行われ、1928年に運用を開始した。1932年から1936年にかけて、(別名カールストーア駅)がケーニヒシュトゥールトンネルの東側入口付近に再建された。1933年には、見通しのつく限りの期間では、駅の建設計画続行に必要な資金を負担できないと鉄道管理当局が決定した[18]。 ナチス・ドイツの時代には、1929年から1945年までハイデルベルク市長を務めたが駅移転計画において重要人物となった[19]。ナインハウスは都心部の包括的な再設計を行い、これには鉄道施設の一掃が必要であった。1936年に市議会は建築家のに設計を依頼し、2年後には、、といった人物も参加することになった。1938年にナインハウスはアルベルト・シュペーアと連絡を取った。シュペーアの助けを得て、アドルフ・ヒトラーは1941年5月にハイデルベルクを「再設計都市」(Neugestaltungsstadt) に指定する命令に署名した。このようにして計画は促進され、第二次世界大戦が終結次第建設に取り掛かれるはずであった[20]。1908年から1914年までと、1926年から1939年までの建設期間に、新しいハイデルベルク中央駅の設備のおよそ80パーセントができあがっていた[16]。 計画は1943年に第二次世界大戦によって中断されたが、その中でフレーゼが着想したこととして、かつての駅の地区を貫いて新駅と都心部を結ぶ大通りがある。この道路は東側にハイデルベルク城を、西側に新しい駅の駅舎を望むことになる。駅舎は大通りに対して垂直に、そして線路に対しては斜めに建てられることになる[21]。 第二次世界大戦中、駅はわずかな部分のみが被害を受けた。特に被害を受けたのは工場と貨物駅の部分であった。1947年から駅建設の継続に関して広く討論が行われた。戦争終結時点で、1952年時点での通貨価値に換算して7000万ドイツマルクの投資が必要とされる計画されていた設備のうち、80パーセントが完成していた。計画の見直しにより、番線の数は20から8に減らされ、これにより残りの建設費用が1200万ドイツマルクに削減された。バーデン=ヴュルテンベルク州政府は250万ドイツマルクを借り入れてこの費用を負担した[22]。1949年に発足したドイツ連邦鉄道(西ドイツ国鉄)にとって最初の大規模プロジェクトとして、工事再開の鍬入れが1950年9月12日に行われた。1914年以来ほとんど使われていなかった掘割は、計画されていた電化のための余地を確保するためにさらに50 cm掘り下げられた。 1955年の新駅 1955年5月5日に、新しいハイデルベルク中央駅が連邦大統領テオドール・ホイス臨席により開業した。かつてハイデルベルクに数年間住んでいたことのある大統領は、ブルッフザールからの特別列車でハイデルベルクに到着した。実際の駅の営業は5月7日から8日にかけての夜から開始された。これは、旧駅まで暫定的に結んでいた2か所の築堤を撤去する必要があったためである。この築堤の下に、新駅への線路が既に建設されていた[23]。営業開始初日には、分岐器に関する技術的な問題と、人員が新しい設備に慣れていなかったことにより、初期問題が発生した[24]。新しいダイヤでは、それまでハイデルベルクの駅の容量問題によりハイデルベルクを迂回していた18本の長距離列車がハイデルベルクに停車するようになった[25]。 新しい駅舎はドイツ連邦鉄道の重役、ヘルムート・コンラディ (Helmuth Conradi) が設計した。彼は1920年代にやパウル・ボーナッツから建築を学び、の影響を受けた[26]。縦のガラスの壁を持つ駅舎は、ナチス時代にハンス・フレーゼが設計したように、線路に対して50度の角度を付けて建てられた。長さ53 mの南側の壁には、幅16 m、高さ12 mのホールの部分に[27]、カール・ヨーゼフ・フーバーによる「ヘリオスと太陽の戦車」のズグラッフィートがある[28]。線路に並行して2番目の建物があり、1階には小荷物および急行貨物の受付、待合室、レストラン、2階には連邦鉄道の管理事務所などが入っている。2つの建物の間の部分には両方につながる螺旋階段がある[29]。駅舎から突き出して、全長91 m、幅20 mのプラットホームに通じる跨線橋ホールがある。このホールの屋根はプレストレスト・コンクリートによりカーブを描いた形で造られている。 1955年に開業した時点で、駅舎は「近づきづらいガラス箱」と批判を受けた[30]。後に跨線橋ホールについては「建築上・運営上卓越している」と評価された[31]。長いガラスのファサードはかつて鉄道の建物にはなかった「優雅さと明るさ」[32]を持ち、「1950年代の建築の理想: 透明・明るさ・雄大さ」に対応していると言われた。バーデン=ヴュルテンベルク州の歴史文化財事務所が2010年に発行した文献によれば、ガラスのファサードの新しさが、比較的強くネオクラシカルなコンクリートの屋根の支柱を備えた駅舎の垂直構造と対照をなしている[33]。 中央継電連動信号扱所は駅舎に収容されている。旧駅に10か所あった信号扱所を置き換え、信号扱手の数をそれまでの45人から7人に削減した[34]。西側にはアメリカ陸軍のために別にプラットホームを備えた専用地区があった。小荷物と郵便物を列車に積み込むために、2本の荷物用地下道が掘られた。それまで一般的であったエレベーターに代えて、プラットホームへの接続には坂道が用いられた[35]。西側から来てハイデルベルク終着となる列車のために、機関区のそばに12本の番線を持つ留置線と車体洗浄設備、車両工場が設けられた。さらなる到着列車のために駅の東側に4本の留置線が設けられた[36]。 新しいハイデルベルク中央駅は1955年から完全に電化されていたため、入換機関車としては電気機関車が使用されていた。最初にハイデルベルクに配置されたのはで、1964年にに置き換えられた。また1962年からはハイデルベルク機関区に初めて急行用の機関車としてが、そして近郊用電車としてが配置された。ハイデルベルクへの蒸気機関車の運行は1965年に終了し、石炭の取り扱い施設も1968年に閉鎖された。1970年時点では入換機関車と電車のみがハイデルベルクに配置されていた。1989年5月に機関区は廃止となった[37]。 1966年にシュヴェツィンゲンへの支線が廃止となり、1990年代には多くの長距離列車がハイデルベルクを通らなくなった。新しいハイデルベルク中央駅の開業40周年に際して、ハイデルベルクの新聞「」では、1955年時点での予想に反して、駅は国際鉄道輸送に不適合になってきているとした[38]。2003年春にはバリアフリーのために、跨線橋ホールとプラットホームを結ぶエレベーターが設置された。長距離列車用のプラットホームについては、1987年時点でエスカレーターが設置されていた[39]。2003年12月には、ハイデルベルクはラインネッカーSバーンの拠点となった。ドイツ鉄道の南西地区の信号扱いはカールスルーエに集約されたことから、中央信号扱所は2006年に機能を停止した。信号扱所の建物はそのまま存置されている[40]。 1997年7月に郵便物の鉄道輸送が廃止になったことから、駅の南側、モンペリエ橋の近くにあった鉄道用の郵便局も廃止となった。同じく1997年には、に機能を譲って、ハイデルベルクの操車場と貨物駅は廃止となった。もともと1日2,500両を扱えるように設計されていたのだが、最後の頃は1日400 - 500両程度に過ぎなかった[41]。貨物駅と機関区の跡地には、新しい街区として(鉄道の町という意味である)が設定され、最初の建物の建設が2010年に開始された。バーンシュタットの開発を促進するため、2011年1月から跨線橋ホールを南側へ伸ばす工事が行われている[42]。 旧駅跡地の利用 1955年5月にハイデルベルク中央駅が移転したことで、24ヘクタールの鉄道用地が空いた。市議会はナチス時代からの計画を見直して1950年代初期に基本計画を策定した[43]。計画には、70 m幅に及ぶ大規模な東西方向の連絡道路、クーアフュルステンアンラーゲが含まれていた。空いた用地のおよそ60パーセントが道路と広場の建設に用いられた。カール・ナインハウスは、1945年に市長を解任されてから7年後に再び市長に選出され、1955年に「新しい道路が短期間に多くの店の並ぶ活気のある場所となる」という期待を述べた。そして「町の特徴を一目で表す、名刺のようなものとなるだろう」とした[44]。 1956年7月に、クーアフュルステンアンラーゲを通って新しい駅まで路面電車が開通した。新しい道路の建設はゆっくりと進み、特にを含む公的機関の建物が並んでいった。1960年代初めに、かつての中央駅のあった場所にという建物が建てられ、これはこんにちにおいてもハイデルベルクにおいて唯一の高層住宅である。新しい駅前広場はヴィリー・ブラントにちなんで名づけられたが、それに向かって1990年に化学同業協会のビルが建てられた。印刷機の会社、の事務所および訓練センターのビルが2000年に、の彫像の前に建てられた[45]。1993年5月からは、駅舎のすぐ北側に路面電車の停留所が設置され、ここにはの列車も発着する。このためにオーバーライン鉄道の線路がヴィープリンゲンへ向けて敷設され、中央駅において路面電車網と接続された[46]。 クーアフュルステンアンラーゲの都市開発については、2010年には冷厳としたものだと評されている。店舗やカフェ、レストランなどが並ぶという期待は外れてしまった。交通量の多い通りは歩行者には魅力がなかった[47]。地元紙「ライン=ネッカー=ツァイトゥング」は1995年に、駅は「西側に離れて少し遠すぎ、期待されたような強い引力がなかった」とした。期待されていた、ベルクハイムとヴェストシュタットの街区の統合は失敗し、クーアフュルステンアンラーゲに建てられた公的機関の建物は「とても味気ない」とされた[38]。2011年にはクーアフュルステンアンラーゲ沿いの公的機関の建物の解体が始まった。今後これらの建物は住宅で置き換えられることになっており、これらの地区がもっと魅力的になるようにしようとしている。 運行 長距離 ハイデルベルク中央駅は主要な経済活動地で人気のある観光地でもあるハイデルベルクにあり、ドイツ鉄道の長距離列車網の一部となっている。ICE、インターシティ、ユーロシティなどの列車が停車する。 ラインネッカーSバーン ハイデルベルク中央駅は地域交通にとっても重要である。DBレギオが2003年から運転しているラインネッカーSバーンの主要な拠点となっている。 その他の近郊交通 脚注 参考文献 Josef Kaiser: 50 Jahre neuer Heidelberger Hauptbahnhof. Von den Anfängen bis zum modernsten Bahnhof Deutschlands. Pro Message, Ludwigshafen 2005, ISBN 3-934845-25-8. Pressedienst der Bundesbahndirektion Karlsruhe (Hrsg.): 115 Jahre Bahnhof Heidelberg 1840–1955. Festschrift zur Eröffnung des Heidelberger Hauptbahnhofs am 5. Mai 1955. Hüthig & Dreyer, Heidelberg 1955. 外部リンク ハイデルベルク中央駅の配線図、ドイツ鉄道のウェブサイト ハイデルベルク中央駅 新駅50周年 Martin Schack:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E9%A7%85
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ヨハネス・フェルメールに最も影響を与えた画家は誰?
ヨハネス・フェルメール
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ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer Dutch:[joːˈɦɑnəs vərˈmeːr], 1632年10月31日? - 1675年12月15日?)は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。本名<b data-parsoid='{"dsr":[1329,1357,3,3]}'>ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)。 概要 フェルメールは、同じオランダのレンブラント、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどと共に、バロック絵画を代表する画家の1人である。また、レンブラントと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家である。 生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。最も初期の作品の一つ『マリアとマルタの家のキリスト』(1654年-55年頃)に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転向していく。現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの、33 - 36点と少ない。このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はある。 生涯 出生 1632年にデルフトに生まれる。同年10月31日にデルフトで洗礼を受けた。本業の絹織物職人を勤める傍ら、パブと宿屋を営んでいた父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスは(後に姓をフォスからファン・デル・メールに変えている)、ヨハネス誕生の前年に画家中心のギルドである聖ルカ組合に画商として登録されている。ヨハネスの本名のファン・デルフトは「デルフトの」という意味で、彼がアムステルダム在住の同姓同名の人物と間違えられないように付け加えたものである。父親の姓フォス(Vos)は英語の狐(Fox)を意味するものだった。父がなぜファン・デル・メールに改姓したのか、またヨハネスがなぜそれを短縮して「フェルメール」としたのかは分かっていない。10年後の1641年には現在フェルメールの家として知られるメーヘレンを購入し、転居した。 結婚と画家としての出発 フェルメールは、1653年4月5日、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚したが、彼の父に借金があったことや、彼がカルヴァン派のプロテスタントであるのに対して、カタリーナはカトリックであったことなどから、当初カタリーナの母マーリア・ティンスにこの結婚を反対された。デルフトの画家レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めている。 この8か月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されているが、当時親方画家として活動するには6年の下積みが必要だったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、師事した人物については不明。カレル・ファブリティウスとの説もあるが、確証がない。なお修業地はデルフト以外の場所だった模様。新婚当初はメーヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。この理由はよく分からないが、カレル・ファブリティウスも命を落とし、作品の大半を焼失させた1654年の大規模な弾薬庫の爆発事故が原因とする説がある。彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折した。それでも13人の大家族であり、画業では養うことができなかったため、裕福な義母マリアに頼らざるを得なかったと思われる。 全盛期 父親の死後、1655年に実家の家業を継いで、パブ兼宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。こういった収入やパトロン、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。また、この年の9月20日ピーテル・デ・ホーホが聖ルカ組合に加入したことで、彼との親密な付き合いが始まった。この2人はのちに「デルフト派」と呼ばれるようになる。他のオランダの都市に比べて、この時代のデルフトの美術品・工芸品は、よりエレガントな傾向があるが、それはデルフトの上品な顧客層やオランダ総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客の好みが作風に反映されていたからで、フェルメールやデ・ホーホも洗練された画風の静寂な作品を描いている。 1657年から彼は生涯最大のパトロンであり、デルフトの醸造業者で投資家でもあるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれた。このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。彼の援助があったからこそ、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間2、3作という寡作でも問題なかったと考えられる。 1662年から2年間、最年少で聖ルカ組合の理事を務め、また1670年からも2年間同じ役職に就いている。2度にわたって画家の組合である聖ルカ組合の理事に選出されるのは大変珍しいことであり、生前から画家として高い評価を受けていたことが窺われる。 不遇の時代 レンブラントの時代は好景気に沸いていたが、1670年代になると、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。第3次英蘭戦争が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。追い打ちをかけるように、この頃にファン・ライフェンも亡くなった。さらに、戦争によって彼の義母はかつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることになった。この打撃によって、オランダの画家数は17世紀半頃と17世紀末を比べると4分の1にまで減少している。 死去 フェルメールの11人の子供のうち、8人が未成年であったため(当時の未成年は25歳未満を指した)、大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回ったが、とうとう首が回らなくなり、1675年にデルフトで死去した。12月15日に埋葬されたとの記録があるが、正確な死亡日は分かっていない。42歳、または43歳没。 彼の死後、妻カタリーナには一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産した。同郷同年生まれの織物商であり博物学者としても知られ、史上初めて顕微鏡を用いて微生物を発見し微生物学の父と称せられるアントニ・ファン・レーウェンフックが死後の遺産管財人となった。破産したためカタリーナは過酷な生活を送る羽目となったが、義母マーリアは彼の莫大な負債から孫を守ろうとして直接その遺産を手渡したため、その生活を改善してやることはできなかった。1680年にはマーリアも死去し、彼の死後12年経った1687年、56歳でカタリーナも死去した。 後世 「忘れられた画家」と再発見 聖ルカ組合の理事に選出されていたことからも明らかなように、生前は画家として高い評価を得ていた。死後20年以上たった1696年の競売でも彼の作品は高値が付けられている。 しかしながら、18世紀に入った途端、フェルメールの名は急速に忘れられていった。この理由として、あまりに寡作だったこと、それらが個人コレクションだったため公開されていなかったこと、芸術アカデミーの影響でその画風や主だった主題が軽視されていたことが挙げられる。もっとも、18世紀においても、ジョシュア・レノルズは、オランダを旅した際の報告において、彼について言及している。 19世紀のフランスにおいて、ついに再び脚光を浴びることとなる。それまでのフランス画壇においては、絵画は理想的に描くもの、非日常的なものという考えが支配的であったが、それらの考えに反旗を翻し、民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーが現れたのである。この新しい絵画の潮流が後の印象派誕生へつながることとなった。このような時代背景の中で、写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなった。 1866年にフランス人研究家トレ・ビュルガーが美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」に著した論文が、フェルメールに関する初の本格的なモノグラフである。当時フェルメールに関する文献資料は少なく、トレ・ビュルガーは自らをフェルメールの「発見者」として位置付けた。しかし、実際にはフェルメールの評価は生前から高く、完全に「忘れられた画家」だったわけではない。トレは研究者であっただけでなくコレクターで画商であったため、フェルメール「再発見」のシナリオによって利益を得ようとしたのではないかという研究者もいる。 その後、マルセル・プルーストやポール・クローデルといった文学者などから高い評価を得た。 フェルメールのモチーフはこれまで検討されていないが、当時出島からオランダにもたらされ、評判を呼んだ日本の着物と見える衣裳の人物像が5点ほど見える。オランダ絵画の黄金時代を花開かせた商人の経済力には、当時、世界的に注目を受けていた石見銀山で産出した銀が、出島からオランダにもたらされ莫大な利益を生んでいたことも関係している。 贋作事件 トレ・ビュルガーがフェルメールの作品として認定した絵画は70点以上にのぼる。これらの作品の多くは、その後の研究によって別人の作であることが明らかになり、次々と作品リストから取り除かれていった。20世紀に入ると、このような動きと逆行するようにフェルメールの贋作が現れてくる。中でも最大のスキャンダルといわれるのがハン・ファン・メーヘレンによる一連の贋作事件である。 この事件は1945年ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻エミー・ゲーリングの居城からフェルメールの作品とされていた『キリストと悔恨の女』(実際には贋作)が押収されたことに端を発する。売却経路の追及によって、メーヘレンが逮捕された。オランダの至宝を敵国に売り渡した売国奴としてである。ところが、メーヘレンはこの作品は自らが描いた贋作であると告白したのである。さらに多数のフェルメールの贋作を世に送り出しており、その中には『エマオのキリスト』も含まれているというのである。『エマオのキリスト』は、1938年にロッテルダムのボイマンス美術館が購入したものであり、購入額の54万ギルダーはオランダ絵画としては過去最高額であった。当初メーヘレンの告白が受け入れられなかったため、彼は法廷で衆人環視の中、贋作を作ってみせたという。『エマオのキリスト』は、現在でもボイマンス美術館の一画に展示されている。 フェルメールとダリ シュルレアリストとして有名な画家サルバドール・ダリは、フェルメールを絶賛しており、自ら『テーブルとして使われるフェルメールの亡霊』(1934年、ダリ美術館)、『フェルメールの「レースを編む女」に関する偏執狂的=批判的習作』(1955年、グッゲンハイム美術館)など、フェルメールをモチーフにした作品を描いている。 ダリは著書の中で、歴史的芸術家達を技術、構成など項目別に採点しており、レオナルド・ダ・ヴィンチやパブロ・ピカソなど名だたる天才の中でも、フェルメールに最高点をつけている。独創性において1点減点する以外はすべて満点をつけた。 盗難事件 1970年代以降、フェルメールの作品はたびたび盗難に遭った。 1971年、アムステルダム国立美術館所蔵の『恋文』が、ブリュッセルで行われた展覧会への貸し出し中に盗難に遭った。程なく犯人は逮捕されたが、盗難の際に木枠からカンバスをナイフで切り出し、丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。 1974年2月23日、『ギターを弾く女』がロンドンの美術館であるケンウッド・ハウスから盗まれている。この作品と引き換えに、無期懲役刑に処せられているIRA暫定派のテロリスト、プライス姉妹をロンドンの刑務所から北アイルランドの刑務所に移送せよとの要求が犯人から突きつけられた。 さらに5週間後の4月26日には、ダブリン郊外の私邸ラスボロー・ハウスからフェルメールの『手紙を書く婦人と召使』を始めとした19点の絵画が盗まれた。こちらの犯人からは、同じくプライス姉妹の北アイルランド移送と、50万ポンドの身代金の要求があった。 イギリス政府はいずれの要求にも応じなかったものの、『手紙を書く婦人と召使』などケンウッド・ハウスから盗まれた絵画は、翌週5月4日に、別件で逮捕されたIRAメンバーの宿泊先から無事保護された。さらに『ギターを弾く女』も盗難から2か月半後の5月6日、スコットランドヤードに対しロンドン市内の墓地に置かれているという匿名の電話があり、無事保護された。 ラスボロー・ハウスの『手紙を書く婦人と召使』は1986年にも盗まれたが、7年後の1993年に、おとり捜査によって犯人グループが逮捕され、作品は取り戻されている。 1990年3月18日の深夜1時過ぎ、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にボストン市警の警察官を名乗る2人組が現れて警備員を拘束、フェルメールの『合奏』を始め、レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』、ドガ、マネの作品など計13点を強奪の上、逃走した。被害総額は当時の価値で2億ドルとも3億ドルともいわれ、史上最大の美術品盗難事件となってしまった。これらの絵画は依然として発見されていない。 作品 技法 人物など作品の中心をなす部分は精密に書き込まれた濃厚な描写になっているのに対し、周辺の事物はあっさりとした描写になっており、生々しい筆のタッチを見ることができる。この対比によって、見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。『レースを編む女』の糸屑の固まり、『ヴァージナルの前に立つ女』の床の模様などが典型的な例として挙げられる。また、その絵の意味を寓意する画中画が描かれた作品が多い。 フェルメールは、描画の参考とするためカメラ・オブスクラを用いていたという説がある。 彼の用いた遠近法については、NHK制作のドキュメンタリー(ハイビジョンスペシャル)「フェルメール盗難事件」[1]にて別の研究成果が紹介されていた。まず、絵の一部に消失点となる点を決め、そこに小さな鋲のようなものを打つ。次に、その鋲にひもを結びつけてひっぱる。このとき、このひもにチョークを塗り、大工道具の墨壺のような原理で直線を引く。この線と実際の絵を比較すると、窓やテーブルの角のラインが一致している。フェルメールの17の作品において鋲を打っていたと思われる場所に小さな穴があいていることからもこの手法がとられていた可能性は高い。 少女の髪や耳飾りが窓から差し込む光を反射して輝くところを明るい絵具の点で表現しており、この技法はポワンティエ(pointillé)と呼ばれ、フェルメールの作品における特徴の1つとされる。 フェルメールの絵に使用される鮮やかな青は「フェルメール・ブルー」と呼ばれる(天然ではラピスラズリに含まれるウルトラマリンという顔料に由来)。 初期の物語画 『マリアとマルタの家のキリスト』1654年-55年頃。スコットランド国立美術館(エディンバラ)。 『取り持ち女』1656年。アルテ・マイスター絵画館(ドレスデン)。 『聖プラクセディス』 『ディアナとニンフたち』 風俗画 『牛乳を注ぐ女』1658年-60年頃。 アムステルダム国立美術館。 『紳士とワインを飲む女』1658年頃。絵画館(ベルリン)。 『兵士と笑う女』1658年頃。フリック・コレクション〈ニューヨーク)。 『窓辺で手紙を読む女』1659年頃。アルテ・マイスター絵画館(ドレスデン)。 『音楽の稽古』1662年-65年頃。ロイヤル・コレクション(バッキンガム宮殿)。 『手紙を書く女』1665年-66年頃。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)。 『真珠の耳飾りの少女』1665年頃。マウリッツハイス美術館(ハーグ)。 『地理学者』1669年頃。シュテーデル美術館(フランクフルト)。 『ヴァージナルの前に立つ女』1673年-75年頃。ナショナルギャラリー(ロンドン) 都市景観画 『小路』1658年頃。アムステルダム国立美術館。 『デルフト眺望』1660年-61年頃。マウリッツハイス美術館(ハーグ〉。 脚注 参考文献 単行本 赤瀬川原平 『赤瀬川原平の名画探検 フェルメールの眼』 講談社、1998年、ISBN 978-4-06-209012-4 尾崎彰宏 『西洋絵画の巨匠5 フェルメール』 小学館、2006年、ISBN 978-4-09-675105-3 木村泰司 『名画の言い分 巨匠たちの迷宮』集英社、2009年、ISBN 978-4-08-781421-7 朽木ゆり子 『フェルメール 全点踏破の旅』 集英社新書ヴィジュアル版、2006年、ISBN 978-4-08-720358-5 小林頼子 『フェルメール論 -神話解体の試み-』 八坂書房、1998年、ISBN 4-89694-416-X 同書の増補版: 『フェルメール論 -神話解体の試み-』(増補新装版) 八坂書房、2008年7月、ISBN 978-4-89694-913-1 同書の抜粋版: 『フェルメール -謎めいた生涯と全作品-』 角川文庫(角川文庫15324)、2008年9月、ISBN 978-4-04-391601-6 星野知子 『フェルメールとオランダの旅』 小学館、2000年、ISBN 4-09-606053-4 林綾野 『フェルメールの食卓』 講談社、2011年、ISBN 978-4-06-217046-8 その他 『ユリイカ 詩と批評 特集フェルメール』、2008年8月号、青土社、ISBN 978-4-7917-0181-0。 関連項目 フェルメールの作品 外部リンク (英語・オランダ語) (フェルメールに関する総合サイト。英語)
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武満 徹のデビュー曲は何
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武満 徹(たけみつ とおる、1930年10月8日 - 1996年2月20日)は、日本の作曲家。 ほとんど独学で音楽を学んだが、若手芸術家集団「実験工房」に所属し、映画やテレビなどで幅広く前衛的な音楽活動を展開。和楽器を取り入れた『ノヴェンバー・ステップス』によって、日本を代表する現代音楽家となった。 人物・来歴 デビューまで 1930年10月8日に東京本郷区駒込曙町(現 文京区本駒込一丁目)で生まれる。父は鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)隈之城町出身で帝国海上保険勤務、祖父の武満義雄は政友会の鹿児島県幹事長を務め、第7回衆議院議員総選挙から第12回衆議院議員総選挙まで衆議院議員を連続6期15年務めた[1]。 生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前尋常小学校に入学[2]、7年間にわたって叔父の家に寄留する。叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品『二つの小品』(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる[3][4]。この頃に従兄弟からレコードで聴かされたベートーヴェンやメンデルスゾーンなどのクラシック音楽には興味を示さなかったが[5]、その一方で1948年に行われた「新作曲派協会」第2回作品発表会に足を運び、後に作曲を師事する清瀬保二の『ヴァイオリンソナタ第1番』のような、当時としては新しい音楽に感動していたとされる[6]。 1943年、旧制の私立京華中学校に入学。額から頭にかけての格好が飛行船に似ていたため、当時の渾名は「ツェッペリン」であった[7]。軍事教練では教官の手塚金之助少尉からしごきを受け、野外演習で入浴中に「あの金坊の野郎、ただじゃおかねえからな」と叫んだところ、真ん前に手塚がいたため「この野郎」と殴られたこともある[7]。在学中の1945年に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていた[8]リュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』(Parlez-moi d'amour)[9]を耳にして衝撃を受ける。現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の『鳥は星型の庭に降りる』、『遠い呼び声の彼方へ!』など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している[10]。戦争中は予科練を受験[7]。戦争末期には「日本は敗けるそうだ」と語った級友を殴り飛ばした軍国少年であった[11]。 終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。京華高等学校卒業後、1949年に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験。科目演奏には最も簡単なショパンのプレリュードを選び、妹の下駄を突っかけて試験会場に出向いたが、控室で網走から来た熊田という天才少年(後に自殺)と意気投合し、「作曲をするのに学校だの教育だの無関係だろう」との結論に達し[12]、2日目の試験を欠席し、上野の松坂シネマで『二重生活』を観て過ごした[13]。この時期の作品としては清瀬保二に献呈された『ロマンス』(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された『二つのメロディ』(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する[14]。 デビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという[15]。武満は「1軒もことわられなかったから、よほど運がよかったのだ」と言っているが、ときどき同行した友人の福島和夫によると、最初は確かに貸してくれたが、何度も続くと必ず「もう来ないで下さい」と断られたという[15]。のち、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は、武満と面識はなかったにもかかわらず、妻のピアノをプレゼントした[15]。 デビュー、前衛作曲家への道 1950年に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲『2つのレント』を発表して作曲家デビューするが、当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評された[16]。傷ついた武満は映画館の暗闇の中で泣いていたという[17]。この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、『2つのレント』の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品『妖精の距離』(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとった。同年、瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ『生きる悦び』で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲『遮られない休息I』(1952年)などの作品を発表した。この最初期の作風はメシアンとベルクに強い影響を受けている。「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽(広義の意。主にテープ音楽)を手がけた。また武満はテープ音楽(ミュジーク・コンクレート)として、『ヴォーカリズムA.I』(1956年)、『木・空・鳥』(同年)などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。 「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。映画『北斎』の音楽(1952年、映画自体が制作中止となる)、日活映画『狂った果実』の音楽(1956年、佐藤勝との共作)、橘バレエ団のためのバレエ音楽『銀河鉄道の旅』(1953年)、劇団文学座のための劇音楽『夏と煙』(1954年)、劇団四季のための『野性の女』(1955年)、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけた。これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレートの手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられている。また作風においても、前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される『さようなら』(1954年)、『うたうだけ』(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっている。また、1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美[18]が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。 この間、私生活においては『2つのレント』を発表した際にチケットをプレゼントした若山浅香と1954年に結婚した。病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。 1957年、早坂文雄(1955年没)に献呈された[19]『弦楽のためのレクイエム』を発表。日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となる[20]。 1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための『ソン・カリグラフィI』(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。2本のフルートのための『マスク』(1959年)、オーケストラのための『リング』(1961年)などを発表する。大阪御堂会館で行われた『リング』の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになる[21]。この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品『樹の曲』(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品『テクスチュアズ』(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがある。このテクスチュアズで日本人作曲家として初めてユネスコ国際作曲家会議でグランプリを受賞。武満の名声は一気に跳ね上がった。 世界のタケミツ 1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ている。武満自身は、若い頃から映画を深く愛し、年間に数百本の映画を新たに見ることもあった。スペインの映画監督ヴィクトル・エリセの映画エル・スールを父親の視点から絶賛しているほか、ロシア(ソ連)の映画監督アンドレイ・タルコフスキーに深く傾倒し、タルコフスキーが1987年に他界すると、その死を悼んで弦楽合奏曲『ノスタルジア』を作曲している。 1962年にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲した音楽は、ミュジーク・コンクレートの手法で変調された筑前琵琶と箏の音を使用しており、武満にとっては伝統的な邦楽器を使用した初の作品となった。その後、前述の映画『切腹』では筑前琵琶と薩摩琵琶が西洋の弦楽器とともに使用され、1964年の映画『暗殺』(監督:篠田正浩)、『怪談』(監督:小林正樹)では琵琶と尺八が、1965年の映画『四谷怪談』(監督:豊田四郎)では竜笛、同年のテレビドラマ『源氏物語』(毎日放送)では十七弦箏とともに鉦鼓、鞨鼓など、雅楽の楽器も使用された[22]。1966年のNHK大河ドラマ『源義経』の音楽においては邦楽器はオーケストラと組み合わされている。これらの映画や映像のための音楽での試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。その最初の作品である『エクリプス』(1966年)は琵琶と尺八という、伝統的な邦楽ではありえない楽器の組み合わせによる二重奏曲である。この『エクリプス』はアメリカで活動中の小澤征爾を通じてニューヨーク・フィル音楽監督レナード・バーンスタインに伝えられ、このことから、同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった。こうしてできあがった曲が、琵琶と尺八とオーケストラによる『ノヴェンバー・ステップス』(1967年)である。この作品を契機として武満作品はアメリカ・カナダを中心に海外で多く取り上げられるようになった[23]。 1970年には、日本万国博覧会で鉄鋼館の音楽監督を務め、このための作品として『クロッシング』、『四季』(初の打楽器アンサンブルのための作品)、テープ音楽"Years of Ear"を作曲、翌1971年には札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱によってオーケストラ曲『冬』を作曲した。1973年からは「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、世界の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介した。1975年にエフエム東京の委嘱によって作曲された『カトレーン』は同年に文化庁芸術祭大賞、翌年に第24回尾高賞を受賞するなど、日本で高い評価を得た[24]。また『ノヴェンバー・ステップス』以後は、世界からの注目も高まり、1968年と69年には「キャンベラ・スプリング・フェスティバル」のテーマ作曲家、1975年にはイェール大学客員教授、1976年と77年にトロントで開催された「ニューミュージック・コンサーツ」ではゲスト作曲家として招かれた。 癌との闘い 1980年に作曲されたヴァイオリンとオーケストラのための『遠い呼び声の彼方へ!』は、前衛的な音響が影を潜め、和声的な響きと「歌」を志向する晩年の作風への転換を印象続ける作品となった[25]。この時期にショット社へ移籍し、作品の演奏の機会は以前よりも急激に増えることになる。以前、自身の作曲が日本で正当に評価されていなかったことを嘆き、「今日の音楽・作曲賞」では武満たった一人が審査を務め、武満自身の手で国際作曲賞を授与することに決めた。この作曲賞から多くの日本の若手や世界各国の若手が巣立った。 1980年代はすでに前衛は流行らなくなっており、武満も今日の音楽では積極的に海外の潮流を紹介したが、武満本人の興味はそれとはもう関わりが薄くなっていた。作品はますます調性的になり、オーケストラとの相性が良いのでひっきりなしにオーケストラ曲の委嘱に応えていた。全編が調性音楽である「系図」には、かつての不協和音は完全に影を潜めた。この時期になると世界各国からの反応も、良いものばかりではなくなり始めた。ショット社はドイツにあるにもかかわらず、ドイツの新聞で「シェーンベルク以前の音楽」「バスタブの中の河」(リヴァーランのドイツ初演評)などと酷評を受けるようになる。 晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは『マドルガーダ』(邦題は『夜明け前』)となる予定であった[26]。1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた武満は数ヶ月に亘る長期の入院生活を送ることになる[27]。小康を得ての一時退院中、完成された最後の作品となる『森のなかで』『エア』を作曲[28]。1996年2月20日、虎の門病院にて死去した。享年65[29][30]。墓所は、東京都文京区小日向にある曹洞宗日輪寺の境内墓地。 政治的態度 政治にも関心が深く、1960年代の安保闘争の折には「若い日本の会」や草月で開かれた「民主主義を守る音楽家の集い」などに加わり武満自身もデモ活動に参加していた(ただし体調が悪くなっていたのですぐ帰っていたらしい[31])。1970年代には、スト権ストを支持したことがある。また、湾岸戦争(1991年)の際には、報道番組における音楽の使われ方に対して警鐘を鳴らし、報道番組は、音楽を使うべきではないと論じた。一方で音楽による政治参画については否定的であったとされ、1970年代には自身も参加した音楽グループ「トランソニック」の季刊誌上で見解を示した[32]。 娘の武満真樹は洋画字幕の翻訳家だったが、2005年からクラシック音楽専門チャンネルのクラシカ・ジャパンの副社長を務めている。 作風 初期 1960年代前期は、特に管弦楽曲においてクライマックスを目指すヒートアップの方向性が明確に表れる。「アーク」(「テクスチュアズ」含む)「アステリズム」などがこれに当たる。この時期には西欧前衛の動向を手中に収め独自の語法として操る術を獲得しているが、特にヴィトルド・ルトスワフスキのアド・リビトゥム書法からの影響が直接的に現れている。もっともこれは結果としてルトスワフスキとの類似となったもので、直接には1960年代初頭に一柳慧によって日本にその思想が持ち込まれたジョン・ケージの偶然性の音楽の影響が見られる。武満はピアニストのためのコロナなどにおいて、直接的には図形楽譜による記譜の研究、内面的には偶然性がもたらす東洋思想との関連などを探った。そして帰結したのが時間軸の多層化という考え方である。1960年代後期には、それまで映画音楽でのいくつかの試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。この頃から徐々に、上で述べた(1960年代前期までの)西洋音楽的な一次元的時間軸上の集中的指向性を薄め、東洋音楽的な多層的時間軸上の汎的指向性へと変化していく。 中期 中期を過ぎた頃には、前衛語法の使用から次第に調的な作風へと変化していった。具体的には「グリーン(当初の題は「ノヴェンバー・ステップス第2番」)」を発端とし、いくつかの中規模な作品を経て「カトレーン」「鳥は星型の庭に降りる」など1970年代終盤において明確に調性を意識するようになる。「アーク」の書き直しを行うごとに、協和音やオクターブなどの響きやすい音程関係へ傾斜した。モートン・フェルドマンのいう「オーケストラにペダルをつける」アイデアをここまで自家薬籠中の物とした作曲家、それを細川俊夫は「日本で唯一官能的な響きをオーケストラから引き出した」と述べた。 後期 作品は1980年代は武満トーンでどの声部も豊麗に鳴り響いていたものの、1990年代からは健康管理が難しくなったことも含めて、歌われる旋律線が一本に収斂される時間が優勢になっていった。線が例え二本であっても、一本を持続にした上でもう一本を歌わせることで、情報量の制限を試みている。この手法はクラブサンのための「夢見る雨」で効果的に使われていたが、いかなる作品に対しても適用し始めたのは1990年代からになる。この手腕に対してルチアーノ・ベリオは「タケミツは西洋楽器のみを使ったほうが、よりいっそう日本を感じるんだよね」と答えている。佐野光司は「武満は、最晩年も進化し、『第四期』といってもよかった」とこの時代を締め括る。 備考 武満は晩年に「実は数的秩序をハーモニーに導入している」などとも語り、いまだ創作軌跡の全貌は、明らかにされていない点も多い。ヴィトルト・ルトスワフスキから「トオルよ。メロディーについて考えているか」と尋ねられ「はい。考えています」と返答し、「これからの作曲家もメロディーを忘れてはいけない」という呼びかけに、最も早く反応した日本の作曲家であることが、戦後日本音楽史の中で際立っている。今日の音楽では武満の好みが色濃く反映された選曲を行っており、ブライアン・ファーニホウのような作曲家も日本初演を実現させた。 実用音楽 武満は多くの映画音楽を手がけているが、それらの仕事の中で普段は使い慣れない楽器や音響技術などを実験・試行する場としている。武満自身、無類の映画好きであることもよく知られ、映画に限らず演劇、テレビ番組の音楽も手がけた。 琵琶と尺八の組み合わせで彼は純音楽として代表作『ノヴェンバー・ステップス』をはじめ『エクリプス(蝕)』、『秋』、三面の琵琶のための『旅』などを書いているが、最初に琵琶を用いた作品は映画『切腹』およびテレビ(NHK大河ドラマ)『源義経』であり、尺八は映画『暗殺』でプリペアド・ピアノやテープの変調技術と共に用いた。さらに映画『怪談』(監督:小林正樹)では、琵琶、尺八のほかに胡弓(日本のもの)、三味線、プリペアド・ピアノも、それぞれテープ変調と共に用いている。この『怪談』の音楽は、ヤニス・クセナキスがテープ音楽として絶賛した。これらの作品の録音において、琵琶の鶴田錦史、尺八の横山勝也との共同作業を繰り返した経験が、後の『ノヴェンバー・ステップス』その他に繋がった。 2台のハープを微分音で調律してそのずれを活かすという書法は、純音楽としては『ブライス』などに見られ、またハープ独奏としては『スタンザII』が挙げられるが、このための実験としては、映画『沈黙』『美しさと哀しみと』『はなれ瞽女おりん』(すべて監督:篠田正浩)などが挙げられる。『はなれ瞽女おりん』は後に演奏会用組曲『2つのシネ・パストラル』としてもまとめている。 他にテレビの音楽としてはNHKの歴史ドキュメンタリー番組「未来への遺産」においてオンド・マルトノを用いていることも特筆される。純音楽ではこの楽器は用いなかった。 黒澤明とは、『どですかでん』で初めてその音楽を担当して以来の関係であったが、1985年の映画『乱』で黒澤と対立し「これ以後あなたの作品に関わるつもりはない」と言った。武満は黒澤にマーラー風の音楽を求められたことに不満を述べている[33]。 短編ドキュメンタリー映画『ホゼー・トレス』でのジャズの語法をはじめ、1960-70年代当時の日本の歌謡曲の語法など、武満自らが趣味として多く接した娯楽音楽の分野へのアプローチを試みたのも、これら映画音楽やテレビの音楽である。 その他の娯楽音楽として、晩年、それまでに作曲した合唱曲、映画音楽の主題や挿入歌などをポピュラー音楽として再編し石川セリが歌ったポピュラーソングのCDアルバムを発表した。これについては武満の死後、武満の葬儀の席上で黛敏郎が思い出として披露した、未発表の短い映画音楽用の旋律[34]を基に、もう一枚のリメイク・ヴァージョンのアルバムが出ている。森山良子、小室等、沢知恵らもこれらの歌をレパートリーとしている。 影響 晩年監修を務め、武満の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールは<b data-parsoid='{"dsr":[13180,13196,3,3]}'>タケミツ・メモリアル</b>の名が冠せられた。東京オペラシティのオープニング・コンサートの中で、作曲家でピアニストの高橋悠治は武満のために「閉じた眼II」を弾いた[35]。また、「武満徹作曲賞」の演奏会も毎度、このホールにて行われている。 武満の劇音楽の仕事は多忙を極めたこともあり、アシスタントを雇っていたことが知られているが、これは同時にまだデビュー間もない新人の発掘・育成にも繋がっていった。アシスタント経験者には池辺晋一郎や八村義夫、川井学、毛利蔵人、菅野由弘がいる。高橋悠治もデビュー初期に武満の仕事を手伝っており、『おとし穴』(監督:勅使河原宏)などでは演奏にも参加している。また、クラシック出身者以外にもマジカル・パワー・マコや鈴木昭男といった独自の楽器音響を追求する後輩たちとも交流を持ち、劇音楽の仕事を通してコラボレーションを行っている。 武満の著書には彼自身の自筆譜が多く掲載されていることで知られていたが、そのほとんどはフルスコアではなく、コンデンススコアである。コンデンススコアでまず作曲し、思いついた奏法や楽器名をその上に記し、アシスタントがフルスコアに直すことで多くのオーケストラ曲は完成されていた。多忙ではなくなった時期からは、自らフルスコアを書いている。 保守的なことで知られるウィーン・フィルによってもその作品は演奏され、その死は、多くの演奏家から惜しまれた。ショット社の公表では、没後武満の作品の演奏回数は1年で1000回を越えた。(出典:日本の作曲20世紀)映画音楽で有名なジョン・ウィリアムズも、武満を高く評価しており、『ジュラシック・パーク』では尺八を取り入れた。 音楽作品 全集 『武満徹全集』(全5巻)、小学館、2002-05年 音楽作品の録音全集。管弦楽や室内楽などコンサート作品から、映画音楽やラジオ・テレビ作品のサウンドトラックまで、様々なレコード会社や放送用の音源をまとめ、新録音も含めて全集として発売している。ただし、長木誠司は「監修者不在」を批判している[36][37]。 自筆譜 パウル・ザッヒャー財団が武満徹の全自筆譜・メモ・スケッチほかを一律管理したい、と申し出がある[38]が武満夫人を含む関係者はこの申し出に2016年現在応じていない。 出版 楽譜は日本ショット株式会社およびフランスのサラベール(現在はデュランなど他レーベルとともにBMGが版権を所有し発行管理している)により出版されている。かつては一部の楽譜が音楽之友社からも出版されていたが、サラベールに奪われた。 著作(文章) 武満自身、音楽作品以外に文章でも多数の著書を発表、また新聞や雑誌でも音楽評論を盛んに執筆した。 著作集 『武満徹著作集』(全5巻)、新潮社、2000年。編纂委員は友人の谷川俊太郎と船山隆。 さまざまな媒体に発表した文章の大半を、『音、沈黙と測りあえるほどに』などの単著を軸に収録されている。しかし厳密には、武満徹の残した文章のすべてではない。 単著(日本語) 『武満徹←1930……∞』 私家版、1964年 『音、沈黙と測りあえるほどに』新潮社、1971年(著作集第1巻) 『骨月−あるいは a honey moon』私家版、限定200部、1973年12月(『草月 ikebana sogetsu』83号、1972年8月に発表。『遠い呼び声の彼方へ』に所収)、小説 『樹の鏡、草原の鏡』新潮社、1975年(著作集第1巻) 『音楽の余白から』新潮社、1980年(著作集第2巻) 『夢の引用 映画随想』岩波書店、1984年(著作集第5巻) 『音楽を呼びさますもの』新潮社、1985年(著作集第2巻) 『夢と数』リブロポート、1987年(著作集第5巻)、自らの音楽語法について直接述べた著作 『遠い呼び声の彼方へ』新潮社、1992年(著作集第3巻) 『時間の園丁』新潮社、1996年(著作集第3巻)、1996年に点字資料版が日本点字図書館で刊行 単著(再編本、英語版) 『サイレント・ガーデン』新潮社、1999年(闘病日記、病床で描いた絵入り料理レシピ) 『私たちの耳は聞こえているか』「人生のエッセイ9」日本図書センター、2000年(既刊書に収録された回想エッセイを再編した著作) 『武満徹|Visions in Time』エスクァイアマガジン・ジャパン、2006年 『武満徹エッセイ選 言葉の海へ』小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年 Confronting Silence: Selected Writings. trans. and ed. by Yoshiko Kakudo and Glenn Glasow. Berkeley, Calif: Fallen Leaf Press, 1995. 『映像から音を削る 武満徹映画エッセイ集』清流出版、2011年 共著 『ひとつの音に世界を聴く――武満徹対談集』晶文社、1975年、新装版1996年 『武満徹対談集――創造の周辺』芸術現代社(上・下)、1976年→新版(芸術現代選書・全1巻)、1997年 『音・ことば・人間』川田順造との往復書簡、岩波書店、1980年→岩波同時代ライブラリー(改訂版)、1992年→(著作集第4巻) 『音楽』小澤征爾との対話、新潮社、1981年→新潮文庫、1984年 『音楽の庭――武満徹対談集』新潮社、1981年 『シネマの快楽』蓮實重彦との対話、リブロポート、1986年→河出文庫、2001年 『すべての因襲から逃れるために――武満徹対談集』 音楽之友社、1987年 『オペラをつくる』大江健三郎との対話、岩波新書、1990年→(著作集第4巻) 『歌の翼、言葉の杖――武満徹対談集』 TBSブリタニカ、1993年→(著作集第5巻) 『シネ・ミュージック講座/映画音楽の100年を聴く』 秋山邦晴と、フィルムアート社、1998年 『武満徹対談選 仕事の夢・夢の仕事』 小沼純一編、ちくま学芸文庫、2008年 『武満徹 自らを語る』 聞き手安芸光男、青土社、2010年 自著以外の関連書籍 ロング・インタビュー マリオ・A[聞き手・写真]/埴谷雄高、猪熊弦一郎、武満徹[述]『カメラの前のモノローグ』集英社新書、2000年 木之下晃[聞き手・写真] 『木之下晃 武満徹を撮る 武満徹 青春を語る』小学館、2005年(CD付写真集) 音楽学 『武満徹 響きの海へ』 船山隆、音楽之友社、1998年 『武満徹 音の河のゆくえ』 長木誠司・樋口隆一編、平凡社、2000年 『武満徹と三善晃の作曲様式 - 無調性と音群作法をめぐって』 楢崎洋子、音楽之友社、1994年 『「辺境」の音 ストラヴィンスキーと武満徹』 遠山一行、音楽之友社<音楽選書>、1996年 『武満徹の音楽』 ピーター・バート、小野光子訳、音楽之友社、2006年 『武満徹 ある作曲家の肖像』 小野光子、音楽之友社、2016年 ISBN 978-4-276-22690-6 評伝・人物論 『カフェ・タケミツ 私の武満音楽』 岩田隆太郎、海鳴社 1992年 『武満徹 その音楽地図』小沼純一、PHP新書、2005年 『武満徹 作曲家・人と作品』 楢崎洋子、音楽之友社、2005年 『武満徹 没後10年、鳴り響く音楽』 河出書房新社〈道の手帖〉、2006年 『武満徹・音楽創造への旅』 立花隆、文藝春秋、2016年 ISBN 978-4-16-390409-2 『武満徹 現代音楽で世界をリードした作曲家』 ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉筑摩書房、2016年 ISBN 4-480-76633-2 写真集・回想 『作曲家・武満徹との日々を語る』 武満浅香(夫人)、小学館、2006年 『武満徹の世界』 齋藤慎爾・武満真樹(娘)、集英社 1997年 「著作案内」の外部リンク (音楽作品) 主な受賞歴 第24回尾高賞(1976年) 日本芸術院賞(1980年)[39] モービル音楽賞(1981年) 朝日賞(1985年) 芸術文化勲章(フランスから、1985年) モーリス・ラヴェル賞(フランスから、1990年) サントリー音楽賞(1991年) NHK放送文化賞(NHKから、1994年) グレン・グールド賞(カナダから、1996年) 脚注 関連項目 武満徹の作品一覧 現代音楽 東京オペラシティ - 同館芸術顧問であった武満の名を冠し、大ホールにあたるコンサートホールが「タケミツメモリアル」と名付けられている。 スピリットガーデンホール - 武満徹が岐阜県飛騨市(旧古川町)のために作曲した『スピリット・ガーデン(精霊の庭)』に由来するホール。 武満徹作曲賞 - 武満の名を冠した、現代音楽の新人作曲家に与えられる作曲賞。 実験工房 外部リンク at the Japanese Movie Database(in Japanese) on IMDb
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アメリカに西欧人が入植したのはいつ?
アメリカ合衆国の歴史
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アメリカ合衆国の歴史(アメリカがっしゅうこくのれきし)では、アメリカ合衆国の歴史について述べる。 経過 植民地時代以前(先コロンブス期) 北アメリカ大陸に最初に住んだ人々はアジア系のモンゴロイドである。彼らインディアンは氷河期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、凍結したベーリング海などを渡ってシベリアからアラスカを経由して広大な南北アメリカ大陸各地に分散していった。こうした人々インディアンは母系社会による独自の文化を育んだが、広大な土地に比べれば、人口はごくわずかであった。インディアンによる統一したアイデンティティは発生せず、部族それぞれが独自の国家を形成する形で分散した。 なお10世紀末頃ノルマン人(オーマイゴットヴァイキング)の航海士レイフ・エリクソン率いる船団が北米へ達しアメリカ大陸を発見したとサガに記されている。一行は現在のカナダのバフィン島に到達し、そのまま南下をしニューイングランドからニューヨーク州一帯を新天地として「ヴィンランド」と名付け定住を試みたが、先住民のスクレリングと折り合いがつかず抗争へと発展し長続きはせず、十年ほどで放棄されレイフ・エリクソン一行は元の入植地であるグリーンランドへと戻ったとされている。 現在では、カナダのニューファンドランド島で彼らの定住地跡であるランス・オ・メドーが発見され世界遺産に登録されるなど、彼らの存在は認知されることとなったが、当時彼らが新大陸に達したという情報はヨーロッパ諸国ではあまり知られておらず、定住が頓挫し領有もしなかったためアメリカ大陸の「白人初の発見者」とはされず、クリストファー・コロンブスほどの正当な評価を受けていないのが現状である。 近世まで北米には中南米に匹敵するインディアン文明が存在しないとされていたが、近年発掘が進み、8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化の存在が、マウンド(土塁)群と呼ばれる墳墓遺跡によって確認された。そのうちもっとも大規模なものはイリノイ州セントルイス郊外のカホキアと呼ばれる大遺跡で、最盛期で1万人に達したとされている。この超巨大遺跡は、1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界遺産に登録された。 植民地時代 (1493年〜1776年) イタリア半島を中心としたヨーロッパでルネサンスが花開いたこの時代、ポルトガルとスペインがいち早く遠洋航海技術を身に付け、大航海時代が幕をあけた。イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブスはスペイン女王の承諾を受け、大西洋周りによるアジア発見を志したが、1492年に西インド諸島に到達した。これに引き続き、1498年英国人ジョン・カボットが北米大陸の東海岸を探検し英国がこれを領有(ニューイングランド植民地)、1534年フランス人ジャック・カルティエがセントローレンス川を遡ってこれをフランスが領有化(カナダ植民地)するなど、西欧人による南北アメリカ大陸の探検と開拓、インディアンに対する領土略奪と虐殺がはじまった。コロンブスの上陸を記念する「コロンブス・デー (10月第2月曜日) 」は、インディアン虐殺の象徴日として毎年、全米でインディアンたちが抗議行動を決行する日でもある。 現在のアメリカ合衆国における植民地活動としての「開発」は、当初から多民族国家となる運命を辿るかの様に行なわれた。ヴァージニアやカロライナにはイギリス人(ニューイングランド)が、ルイジアナにはフランス人が(フレンチルイジアナ)植民地を築くなど、この「開発」は主にイギリス人とフランス人2つの民族によって行われた。しかし、それだけではなくニューヨークやニュージャージーにはオランダ人(ニューネーデルラント)が、デラウェアにはスウェーデン人(ニュースウェーデン)が、フロリダにはスペイン人(ヌエバ・エスパーニャ)が、それぞれ思い思いに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を築いた。アメリカ東部には、すでに17世紀半ばに現在のアメリカ文化に繋がる欧米文化が移植されていたのである。 宗教的に見ても、当初の移民はカトリックであったが、16世紀に欧州でプロテスタント(新教徒)出現と宗教改革、続いて宗教戦争が起こると、ピューリタン(清教徒)による1620年の移民(メイフラワー号)をきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次いで入植した。彼らは先発のカトリックやインディアンと敵対しながら勢力を伸ばし、1620年の移民は現在でもアメリカの新教徒の間で偉業として称えられている。しかし、インディアンたちからは民族虐殺の始まりとして「ピルグリム・ファーザーズの感謝祭」には、大規模な抗議が行われている。 西欧人は植民地で砂糖、コーヒー、綿花、タバコなどの農作物を農園で作り出したが、労働者の不足に悩まされた。西欧人はインディアンを奴隷化し、またこれと同じ時期にアフリカ大陸の大西洋沿岸にも進出し、現地のアフリカ諸部族の黒人有力者から黒人を買い取り、南北アメリカ大陸に輸出した(奴隷貿易)。それと交換に進んだ火器や、当時進出していたインド産の木綿をアフリカ諸国の黒人有力者に売った。ただ、誤解が多くあるが、植民地時代の奴隷需要はカリブ海地域および中南米が圧倒的であり、北米への奴隷輸出は多くない。18世紀はもっぱらサウスカロライナ州を中心に、インディアン奴隷の売買が盛んであった。奴隷制度によって維持されるアメリカ南部の広大なプランテーション農業が盛んになったのは、19世紀に入ってからである。 17世紀から18世紀にかけて、英仏がヨーロッパにおいて戦争をするたびに、英国からの植民団が建設したニューイングランド植民地と、フランスからの植民団が建設したカナダとが対立し、植民地でも戦争が起こった。この一連の北米植民地戦争は1700年のスペイン継承戦争によって端を発し、七年戦争・フレンチ・インディアン戦争によって英国が勝利する1763年まで続き、この戦争中に英国は次々とフランス・スペインの植民地を獲得、また南部に広がるスペイン植民地への奴隷専売権を得た。こうして英国は北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収め、イギリス海上帝国、つまり大英帝国の礎を築き上げた。インディアンたちは英仏どちらにつくかを選択させられ、代理戦争を引き受けさせられた。そしてどちらが勝っても彼らの領土は没収され、部族は散り散りにさせられた。 北米東海岸を一手に握った英国は、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大した。この段階で13州の植民地を建設し、州によっては白人の人口がインディアンを上回る地域が生まれた。 18世紀にはいると、寒冷で比較的農業に向いていなかった北東部で醸造、造船、運輸などの産業が発達し、英国本国の経済を圧迫するようになった。元々、新教徒が多数派を占める植民地とイングランド国教会の本国は軋轢があったが、この頃には精神的に本国と分離しており、経済的にも自立できる力を持っていた。 英国はかねてから「羊毛品法」や「鉄法」によって植民地での工業発展を妨げ、英国以外との独自貿易を禁じてきたが、ここでさらに重商主義政策を敷くことでさらに植民地を圧迫した。また、フランスとの長い戦争中で必要となった自国軍の駐屯費や戦費を拠出するため植民地住民に対して重税を課し、「印紙法」によって貿易独占を企てた。住民が反課税と印紙法廃止を主張して1765年に激しい反対運動を展開したため英国は翌年これらを撤廃したが、今度は「茶法」によって茶の貿易を独占しようとした。対して住民は1773年にボストン港を襲撃、ボストン茶会事件となった。 茶会事件に衝撃を受けた英国はボストン港を閉鎖、住民に対して強硬な姿勢を示した。ここにおいてアメリカ大陸13州の住民代表者はフィラデルフィアで史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めて英国に対して反抗、1775年4月、英国の駐屯兵と住民有志による民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)し、アメリカ独立戦争となった。住民代表者は第2次大陸会議を開催、ジョージ・ワシントンを戦争の総司令官に任命して大陸軍を結成、1776年7月4日の大陸会議において、トーマス・ジェファーソンが起草し、プロテスタント的思想を体現して近代民主主義の原点となったアメリカ独立宣言を発表した。また、英国は1660年代から囚人の流刑地としてアメリカを利用していたが独立戦争が始まったことにより巨大な流刑地を喪失し刑執行が困難になり、これが新たな流刑植民地としてのオーストラリアの歴史へとも繋がっていく。 ジェファーソンは1778年にデラウェア州でデラウェア族と「インディアン条約」を初めて結び、以後、合衆国はインディアンから武力を背景に領土を購入し、彼らを保留地(Reservation)へ追いやるという政策を推し進めていく。インディアンには土地を売り買いする文化は無かったので、これが理解されたとは言い難く、数々の「インディアン戦争」に結びついた。そして必ずその結果はインディアンの領土のさらなる縮小となった。 独立戦争と国家建設 (1776年〜1789年) アメリカ独立戦争はフランス、スペインの軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国エカチェリーナ2世皇帝は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結んだ。このために英国は外交的にも軍事的にも孤立、次第に劣勢は明らかとなり、1781年にヨークタウンの戦いで敗れると、独立容認を叫ぶ声が自国内でも高まり、1783年にアメリカに対してパリ条約を結んだ。これによって大陸13州は完全に独立し、ミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得した。 しかし13州合衆国はまだ緩やかな連合体に過ぎず、内外に対する政策は州ごとに異なって混乱をきたした。そこで強力な統一政府を作ろうという運動が起こり、1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催された。ここにおいて<b data-parsoid='{"dsr":[5638,5648,3,3]}'>主権在民</b>の共和制、三権(立法・司法・行政)分立、連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定され、現代に至るアメリカ合衆国(首都ニューヨーク)が誕生した。しかし、この憲法に対する批判運動が各州に起こり、憲法容認の連邦派と憲法反対の反連邦派が抗争を繰り返すこととなったが、これが後の政党となった。憲法に基づいた最初の大統領選挙によって、1789年、初代アメリカ合衆国大統領にジョージ・ワシントンが就任した。なお、日本語で大統領と訳されるプレジデントは、当時はアメリカ合衆国議会の前身である連合会議議長の肩書きとして使われていたものであり、執行権の無い親分的な意味合いしかないものだった。ワシントンは新しい共和国がヨーロッパの帝国の模倣にならないよう国王や皇帝との違いを表す為に、ミスタープレジデントという呼称を好み、最高執行権者となった大統領にそのような特別な権威がないことを印象付けさせたものである.[1]。 西方への領土拡大 (1789年〜1865年) 建国初期 1790年、首都がニューヨークからフィラデルフィアに移された。それでも南部住民の間には首都が北に偏りすぎているという批判があった。そのため、この年に当時の合衆国の中央部にあたるメリーランド州とバージニア州の州境にあるポトマック川流域に新首都を建設する事を決めた。1801年に新首都が完成して政府機関はこの地に移された。新首都はこの直前に死去した初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで「ワシントン市」と命名された。 米英戦争への道 1803年、ナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収したことにより、広大な西部の土地を得るだけでなく、西部に住む農民たちが国境ではなくなったミシシッピ川を物流路として自由に使えるようになった。 ルイジアナ買収の数週間後、ナポレオン・ボナパルト率いるフランスとイギリスは戦争状態に入った。合衆国は、ヨーロッパへの農産物の輸出によって得る外貨にたよる状態であった。アメリカは、中立の態度を取り、両陣営と両陣営の持つカリブ海沿いの植民地に対しての農産物や原材料輸出を行った。両陣営とも、利益になる場合の貿易は許可したが、不利益になる事に関しては拒んだ。 1805年、トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスの海上封鎖を実施した。またイギリスはアメリカの貿易政策に対しても緩い海上封鎖を実施し、報復を行った。 イギリスがアメリカ以外の国からの農産品輸入を当てにしないだろうと考えたアメリカ議会とジェファーソン大統領は、イギリスの海上封鎖解除を狙い、1807年に外国との貿易を停止した。しかし、イギリスは他からの農産物輸入に切り替えてしまう。アメリカの農産品輸出は大きな打撃を受けた。そこで1812年、イギリスがミシシッピ西部とカナダの先住民を支援していることを口実とし、南部と西部出身の議員が中心となりイギリスへの宣戦布告がなされ、米英戦争となった。 南部と西部の入植白人達は、インディアンの土地を得ることや農産物輸出の拡大を期待して、戦争を熱心に支援した。それに対して、北部の連邦主義者たちは戦争には反対であった。しかし、アメリカの初期の勝利でそれらの反戦論は霞んでいった。しかし、次第にアメリカにとって苦しい戦いとなり、1815年、ベルギーで締結されたガン条約により停戦となる。米英の領土は戦前に戻された。この米英戦争中に欧州との関係が途絶え、経済的・文化的に孤立することとなったため、アメリカ人としての精神的自立を促した。これによってナショナリズムが高まり、保護関税を図って自国内の工業を発展させた。 また、ラテンアメリカ諸国で独立運動が盛んに行われるようになると、モンロー大統領は1823年に欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱える<b data-parsoid='{"dsr":[7586,7598,3,3]}'>モンロー宣言</b>を発表、これは後にモンロー主義となり、アメリカ大陸の孤立化(アメリカ合衆国の孤立主義)を図った。これはその後100年近く続くアメリカの孤立主義という外交方針となった。モンロー主義は「アメリカ大陸はアメリカ合衆国の縄張りである」という宣言であり、1890年の「フロンティア消滅宣言」の頃まで「アメリカ合衆国内の先住民の掃討」に専念した。先住民の掃討が完了した1890年頃以降は太平洋・ラテンアメリカへの政治的・軍事的介入へ展開していく。「先住民掃討に専念していた時代」はアメリカ合衆国の侵略行為はアメリカ大陸を出なかったため「孤立主義の時代」と呼ばれることがある。モンロー主義はヨーロッパへの相互不干渉と同時に、ラテンアメリカへの政治的・軍事的介入を行うことの理論的根拠となった。 1830年代、ジャクソン大統領は選挙権を拡大、民主政治が発達した。家柄にとらわれることなく政治家となることができた一方、大量に選挙人がいることは、被選挙人が大規模な選挙活動を行うこととなり、被選挙人が当選した際には活動協力者に役職を提供するなど、猟官制度が登場した。この政策に賛成する親ジャクソン派は民主党を、反ジャクソン派はホイッグ党を結成し、後の共和党となった。 ジャクソン大統領は「インディアンは白人と共存し得ない。野蛮人で劣等民族のインディアンはすべて滅ぼされるべきである」と議会で演説し、「インディアン移住法」を可決した。これは「ミシシッピ川以東の大多数のインディアンを、強制的に白人のまばらなインディアン準州(現:オクラホマ州)の、連邦政府(州政府ではない)が保留した土地(Reservation)に移住させ、社会体形を整えさせた後に白人社会に同化させる。またこれに従わない部族は絶滅させる」、という民族浄化政策だった。 このときのインディアンの抵抗戦である「セミノール戦争」で、フロリダ州のインディアンたちは逃亡黒人奴隷を受け入れ、沼沢地でゲリラ戦を戦った。これに対し、ジャクソンは焦土作戦を採った。この戦争は現在では、「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれている。東部のインディアン部族勢力のチェロキー族、クリーク族、チカソー族、チョクトー族、セミノール族の五部族がこの政策によって、徒歩で大陸を横断しオクラホマへ移住させられた(涙の道)。途上死者は数千とも数万とも伝えられる。 ジャクソンの時代、アメリカも産業革命を迎え、鉄道や航路が発達し、国内市場が拡大した。また、工業などに従事する人口が少なかったことも、産業革命を全面的に受け入れる土壌となったので、1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んだ。労働者が大量に暮らす大都市圏が登場、企業経営を行う経営者や企業に出資する資本家が台頭し、資本主義社会となった。 領土の拡大とフロンティア 米英戦争によってヨーロッパ政治への介入に懲りたアメリカは、自国の領土拡大へ方針を転換した。1818年にイギリスと旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、スペインからは1819年に南部のフロリダを購入した。これによって1マイル四方に人口(白人人口)が2人以下という開拓前線、いわゆるフロンティアが誕生した。 米英戦争直後からアメリカ国民は大挙してルイジアナ植民地へ移住した。その中心はオハイオ川流域であったが、1840年ごろから太平洋沿岸の新天地オレゴンを目指すようになった。このオレゴンを目指す道はやがてオレゴン街道と呼ばれ、西部開拓が盛んになった。移民たちはインディアンなどに襲われないよう、幌馬車で隊列(コンボイ)を組んで移動した。 1844年に領土膨張主義を主張するポークが大統領に就任すると、翌1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合して領土は太平洋に到達した。また同年に英国と協定を結び、メキシコとの間で米墨戦争を行って勝利した。これによって1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1858年にさらにメキシコ北部を買収した。編入された領土ではメキシコ時代に廃止された奴隷制が復活した。 1848年に旧メキシコ領カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、一攫千金を狙った多くの白人が移住した。いわゆるゴールド・ラッシュである。ヤヒ族などは、金鉱採掘者によって絶滅させられてしまった。 インディアンを虐殺し、流れ者と戦いながら開拓し、生活用品は豊富な森林から自分で生み出すと言う移住者には、共通する開拓者精神、いわゆるフロンティア・スピリットが生まれ、これがアメリカ人としてのアイデンティティ、「アメリカン・ドリーム」となって現在まで受け継がれている。広大な西部は西欧人をひきつけ、アメリカの人口はイギリス植民地時代の旧移民の自然増加と、欧州からの新移民によって急増した。新移民の多くは英国人やドイツ人の農民、英国人の搾取に苦しむアイルランド人であった。このときに流入した白人の人口比は、現代アメリカ白人の人口比とほとんど変わっていない。その裏でインディアンの権利は剥奪され、彼らの領土は矮小化していった。 外政では、当時多くが西欧の植民地であった東南アジアに対抗して、まだ西欧諸国の手が伸びていなかった東アジアに対して積極的に強圧外交を行い、1800年代に大国清やその属国朝鮮に接近、1853年に日本に上陸し、翌年に徳川幕府を開国させることに成功した。だが、その後発生した南北戦争によって東アジア外交は一時滞ることとなる。 南北戦争 (1861年〜1865年) アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、北部は産業革命を迎えて工業化が進んだが、南部は綿花生産を主産業としていた。北部工業地帯は欧州との工業製品輸出競争の兼ね合いから、自国産業保護を訴えて関税をかけるなどの保護貿易を求めた。一方、南部農業地帯は自由に綿花を輸出したいため、自由貿易と関税撤廃を求めた。こうして南北の対立が非常に深まった。 また、重工業化の進んだ北部では労働者が不足する事態となったので、19世紀初頭に続々と黒人奴隷を解放して、労働者として使用した。これら解放された奴隷の一部はアフリカ大陸への帰還を希望し、アフリカ西海岸にリベリアが成立した。一方、南部では19世紀半ばを過ぎても黒人を奴隷として使用し、広大なプランテーション農業を行っていたが、北部の工場を経営する資本家はこの豊富な黒人労働力を必要としていた。しかし、英国からの綿花需要が拡大し、南部ではますます黒人奴隷に頼る産業構造となった。 領土が西部に広がり、植民地の人口が増加したことにより、これらの植民地を州に格上げすることとなったとき、これらの新州に奴隷制を認めるかで南北対立となった。1854年、北部を中心に奴隷制反対を訴える共和党が結党され、農民の支持が多かった民主党と対立した。 1860年に大統領となったのが共和党エイブラハム・リンカーンである。彼は黒人奴隷解放を政策とし、北部の資本家から喜ばれた。すると南部の奴隷州は反発しアメリカ連合国(南部連合)を結成して離反した。当然合衆国の認めるところではなく、南北戦争という形で火を吹いた。南軍有利で戦争は進んだが、北軍は海上封鎖などで対抗、1863年にリンカーンは奴隷解放宣言を発表すると急速に支持を拡大、ゲディスバーグの戦いで北軍が勝利を収めると南軍の勢力が弱まった。1865年、南部連合は降伏してアメリカは統一した。 リンカーンは憲法を改正して奴隷制廃止を明文化し、黒人に市民権が与えられたが、彼は俳優で南部過激派のジョン・ウィルクス・ブース John Wilkes Boothに射殺された。黒人は奴隷制から解放されたものの、社会的な差別や人種差別主義者からの迫害からは守られることはなく、クー・クラックス・クラン等による私刑は20世紀半ばを過ぎても多くの黒人の命を奪い続けた。 奴隷解放後、南部のプランテーション農家の多くは産業の基盤を失って没落したが、中には解放奴隷を小作人として雇い入れ、南北戦争前と実質的にほとんど変わらない経営を続けた大農家も多く存在した。 西部開拓時代 (1865年〜1890年) 領土は太平洋へ到達したとは言え、東西交通は馬車か船舶での移動に頼っていた。地上を行く馬車は移動に半年を要する上に、大平原やロッキー山脈を越えなければならず、インディアンの土地を侵犯することによる襲撃などもあって、危険な交通手段であった。船舶は基幹の大量輸送交通であったが、南米大陸の南端を回る為、移動に4ヶ月を要し、さらに南米南端の海域は常に荒れて事故が多発した。こうした交通網の未整備により、ゴールドラッシュによって人口が急増したとは言え、西部には基幹産業も無く発展が遅れ、陸の孤島のような有様であった。これは、南北分裂の上に、西部まで分裂する可能性を含んだ問題であり、リンカーン大統領は南北戦争中から、東西交通の機関となる大陸横断鉄道の建設を進めた。 鉄道建設は苦難の連続であった。西側からは新参の中国人移民が駆りだされ、シエラネバダ山脈で低賃金の労働をしたが、爆薬としてニトログリセリンを、安全性を軽視したまま使用させたことにより、多数の死者を出した。東側からは食詰め者の貧困白人が駆り出され、鉄道沿線に労働者街を形成したが、この新たな街は法秩序が確立されておらず、流入したアウトローのギャングによる盗賊行為が頻発したため、労働者は自ら武装して、戦いながら線路を建設した。また、無法者を裁判無しで処刑できる、いわゆる「リンチ法」が制定され、一定の抑止力となった。さらに、生活圏を脅かされることを恐れたインディアンが線路沿いで蜂起し、白人労働者を殺戮したため、政府は2000人の軍を沿線に投入して制圧した。1869年に最初の大陸横断鉄道が開通したことを皮切りに、次々に開業した。南北戦争の残務処理も終わり、アメリカは実質的にも精神的にも、国土が一つとなった。 合衆国はやがて、鉄道建設の邪魔になり、西部のインディアンの生活の糧でもあるバッファローの政策としての絶滅作戦をとる。組織的なバッファロー虐殺によって、平原のバッファローはただ殺され、19世紀初頭に4000万頭を数えたバッファローは1890年ころには1000頭を切ってしまった。平原のインディアンたちは生活の柱を奪われ、保留地で飢えることとなった。また、1875年頃にAlbert's swarmなどの蝗害を引き起こしていたロッキートビバッタも、バッファローが減少したことで草原の環境が激変した結果、1902年頃には絶滅することになった。 横断鉄道の完成によって西部との物流・交流が活発になり、西部開拓時代が到来した。広大な西部では放牧が盛んに行われるようになった。牛を追いかけて生活するカウボーイは西部を象徴するものとなり、テキサスから国土を縦断して鉄道駅まで牛を追うロングドライブといった生活方式も生まれた。農業は、少ない人口で効率よく生産するため機械化が進み、大規模農業をすることができた。鉄道・道路網の拡大によって西部との一体化が進み、国内市場の拡大は工業産業を飛躍的に高めた。しかし法秩序が確立されていなかった西部では、ギャングや盗賊によって治安が悪化し、これを防ぐために保安官が登場した。 太平洋に達したアメリカの領土だが、1868年に北部アラスカをロシア帝国から安値で購入した。西部の人口はさらに増加し、急速に生活圏を奪われたインディアンは、1860年代から1870年代にかけて、各部族による一斉蜂起を行った。これがインディアン戦争であり、米軍との間で20年以上の争いとなった。結局、蜂起は次々に鎮圧されてゆき、ナバホ族のように領土を一時完全に没収されるか(ロング・ウォーク)、保留地へ幽閉された。指導者は戦いで死ぬか毒殺されるかして部族のコミュニティも壊滅させられ、人口も減少していった。さらにドーズ法はインディアンの社会を根本から破壊し、彼らの土地のほとんどを白人農業者のものとした。 1871年、合衆国政府は「合衆国はもうインディアン部族を独立国家とはみなさない。したがって今後はもう主権条約は結ばない」と宣言した。この時点で、全米のインディアン部族の領土(保留地)は総計51万km2に過ぎず、合衆国政府は1778年から1868年の100年足らずの間に、インディアンから1億1000万エーカー(44万5200km2)の土地を没収し、768万km2の国土を手に入れていた。西部の最大反抗勢力のスー族も、シッティング・ブルやクレイジー・ホースが殺され、南西部でアパッチ族のジェロニモが投降し、「ウーンデッド・ニーの虐殺」を機に、「開拓に邪魔なインディアンの掃討作戦は終了した」として、合衆国は1890年に「フロンティアの消滅」を宣言した。インディアンはさらなる同化の意図をもって、「インディアン寄宿学校」へと子供たちが強制入学させられることとなった。 帝国主義時代 (1890年〜1918年) 西部開拓時代の終結によって、アメリカ人は更なるフロンティアを海外へ求め、「外に目を向けなければならない」という意識が起こった。1889年にパン・アメリカ会議が開催され、この力がアメリカのラテンアメリカ進出を促した。とはいえ、モンロー主義に基づくアメリカ合衆国の伝統的な外交政策は引き続き重視されていたため、植民地獲得については消極的であり、もっぱら棍棒外交やドル外交に基づいた経済的進出を狙いとしていた。 アメリカ人はこぞって太平洋上の島々へ移住していった。1898年にハワイ王国をなし崩し的に併合、領土を太平洋上まで拡大した。さらに同年、スペイン領キューバの独立戦争に便乗し、軍船「メイン号」爆発事件を契機として、スペインとの間で米西戦争を起こした。この開戦には、当時普及していた新聞が大きな役割を果たした。すなわち、米国民の反スペイン感情を煽動する報道を繰り返し行った。これは新聞によって煽動された大衆が戦争を要求した最初の例であり、米国政府はこの情報戦略を積極的に利用し、後の戦争のほとんどに活用された。 米西戦争とそれに続く米比戦争に勝利すると、中米の多くの国からスペイン勢力を駆逐して経済植民地(バナナ共和国)とし、プラット修正条項によってキューバを保護国に、プエルトリコやフィリピン、グアム島などを植民地化した。さらに、西欧列強と日本によって中国分割が進もうとしているときに、1899年と1900年に清の門戸開放・機会平等・領土保全の三原則を提唱し、中国市場への進出を狙った。また、1905年に日露戦争の調停役を申し出るなど、国際的な立場向上を目指した。 一方、日露戦争に日本が勝利を収めたことから、西欧諸国はアジア人に対する恐怖を抱き、それまで大量の移民を輩出する中国人に向けられた黄禍論の矛先が日本に向けられたが、米国も同様であり、「オレンジ計画」と呼ばれる対日戦争計画を進めることになる。また、日本は戦後にロシア帝国と和解、イギリスやフランスと関係強化に乗り出したことから、利権を侵されることを恐れた米国は日本と対立し、一時は西欧メディアが開戦必至と報じるほどに緊張が高まった。同時に、ドイツ、イギリス、メキシコとの戦争計画も持っており、周辺の大国を潜在的な敵国と判断して外交を行うようになった。 カリブ海地域を勢力圏にするために、カリブ海政策を推し進め、これらの地域で反乱などが起こるたびに武力干渉した(棍棒外交)。また、国内東西物流の安定を目的としたシーレーンの確保を目的に、パナマ運河建設権を買収し、2万人以上の死者と長期間の工事を経て、果ては工兵まで投入して完成させた。さらにコロンビアから分離独立させたパナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。 またこのころ、石油や電力を中心とした第二次産業革命が起こり、豊富な石油資源を持ったアメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となった。そして強力な企業連合体や独占体が成長し、エクセル、カーネギー、モルガン、ロックフェラーは一代で巨大企業にのし上がり、巨万の富を得た。その後のアメリカ経済は彼ら財閥によって動かされることとなる。 19世紀後半からヨーロッパで人口が急増し、食糧難が頻発した。このため新天地アメリカを目指して多くの移民が発生した。1880年代からは南欧や東欧からの移民が増加し、彼らは都市部で未熟練労働者として働いたため、低所得者として都市中心部でスラム街を形成した。彼ら新移民はカトリック・正教会やユダヤ教信者であったため、それ以前からの旧移民との間で偏見と摩擦が起こり、しばしば抗争に発展した。こういった新移民にフォード・モーターが技術・言語教育を施し、大量生産方式に組み入れていった。また、清や日本からも移民が発生した。急増した日本移民は低所得労働者として都市各地で活動したため、人種差別感情に基づいた、彼らに対する排斥運動が起こった。 第一次世界大戦 (1914年〜1918年) 1914年、サラエボ事件を契機に第一次世界大戦'が勃発すると、ヨーロッパの各国に武器、車両を輸出して外貨を獲得することができ、経済が非常に潤った。すぐに終わるといわれた戦争は長期化し、ヨーロッパはドイツ・オーストリアを挟んで東と西の戦線で非常に荒廃した。イギリスはアメリカの参戦を要望したが、孤立主義の看板を掲げたアメリカは応じることはできなかった。アメリカは表向き中立政策を維持する一方で、連合国への物資支援のみを行っていた。しかし、1915年客船ルシタニア号がUボートに撃沈される事件が発生、米国民にも死傷者が出ると国内における反独感情は高まり、さらにツィンメルマン電報も要因となり、国民世論は派兵賛成へ転じた。また、ロシアで革命が起こり、ソビエト連邦が発足すると、チェコ軍団の救出のため、日本と共にシベリア出兵を行った。米国は終戦とともに撤兵したが、日本が侵攻を継続した為、日本に対する疑念が深まった。同盟軍は米国の参戦を前に決着をつけるべく、西部戦線において大攻勢を仕掛けるが、米国の参戦後は物量に押されるようになる。こうしたドイツへの軍事的圧力は、1918年のドイツ革命やドイツ敗戦を導いた一要因であると考えられる。これによって、アメリカは国際的な威信を高めることになった(一方で、ヘミングウェイらに代表される失われた世代も登場した)。 史上最高の繁栄と崩壊 (1918年〜1939年) 大戦後はウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟を設立、国家間の紛争を防止しようと積極的に整備を進めたが、孤立主義を守ろうとする保守的な議会の決議によってアメリカ自身は不参加という結果となってしまった。ウィルソンによって掲げられた高い理想の達成が失敗すると、アメリカは再び孤立主義を選択することとなる。また、1919年のパリ講和会議での人種差別撤廃案を廃案に追いやった。国内ではレッドサマー、シカゴ人種暴動、オマハ人種暴動、エレイン人種暴動などの人種暴動が勃発した。 経済は、消耗したヨーロッパに変わって世界の工場として輸出を拡大、国際的にも大戦に消極参加だったアメリカと日本が大国として存在感を増し、両国は史上初めての繁栄を謳歌した。米国内では、戦争から帰還した若者を中心に刹那的な文化が台頭し、急速に消費社会に移行した。大都市では高層ビルが建設され、ニューヨークなどは摩天楼と呼ばれる高層都市となった。トーマス・エジソンによって早期に電気が普及したことから、夜間でも明るい街は人間の活動時間を飛躍的に拡大した。グラハム・ベルによって普及した電話は遠く離れた人と直接交流できる手段となり、ビジネスをより効率的に、効果的に発展させることに寄与した。さらに、ラジオ・新聞の発達によるマスメディアの成長によって、市民はリアルタイムで新しい情報を仕入れることが可能となり、成長を常に新しい情報に頼る社会(情報化社会)のさきがけとなった。 1920年代前半は大規模なストライキなどが頻発し、アメリカで最も労働運動が盛んに行われた時代でもある。しかし、賃上げなどを要求することよりも、企業の国有化を求めるものが大半であった。これは共産主義革命に成功したソビエト連邦に影響を受けたものとも取られて、企業活動に影響を与える労働運動を弾圧する動きが司法庁を中心に盛んに行われ、マルキストや共産主義者とされた人々のソ連への追放が行われた。この活動には捜査局BOI(現FBI)長官フーヴァーによる司法支配が背景にある。彼は1924年の就任以降、死までの約50年にわたり長官の座に就き、FBIの権限・能力強化に尽力した反面、自らは冷戦前半にかけて「影の大統領」と呼ばれるほどの強大な権限を手にして、アメリカの数々の内外政策に関与した。 またこのころ、リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功したり、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグなどの野球スターが登場、市民を熱狂させ、大資本によるハリウッド映画が製作された。また大衆市民が手軽に株や土地を売買し、情報網の発達に伴って大都市を中心に流行したが、これは株価や地価を異常に高騰させる理由となった(バブル景気)。しかし、アメリカが人類史上最高の「富」を手にしていることは、世界の誰が見ても真実のようであった。 一方、農村部では大戦中の食物増産によって土地が疲弊し、その後の農業政策に失敗したことから、南部の小農家がさらに没落し、離農して西部を目指すものが多く現れた。大都市が繁栄を謳歌する傍らで、農家は貧しさを味わうと言う、非常に偏った「富」であったことも事実である。 豊かになった大都市では、富を目当てに群がるユダヤ人やカトリックなどの新移民に対して差別感情が蔓延した。アルコール依存症患者が増加したためとの名目で禁酒法が制定されたが、実際は新移民に酒造業を営むものが多かったことへの排斥感情に基づいているとも言える。他にも黒人の反乱が地方都市で頻発したこともあり、クー・クラックス・クラン(KKK)などの人種差別団体が公然と組織され、黒人や新移民を弾圧した。また1920年代には日本人による移民が急増したが、これら日系アメリカ人が社会的に成功する様に危機感を抱いた勢力によって、日本人の脅威を煽る積極的な排日キャンペーンが繰り広げられ、日本製品のボイコットなどが行われた。日系移民の多いカリフォルニア州を中心に排斥運動は高まり、排日移民法が制定されるなど、人種差別が公然と行われる時代であった。日系人排斥運動は隣国カナダへも飛び火した。 アジアでは中国軍民による居留民襲撃に対しイギリス軍と共同して南京市街への砲撃を行うなど断固とした姿勢をとった(南京事件)[2]。 やがてヨーロッパの自力復興によって、アメリカの輸出経済に陰りが生じ、1929年9月の最高値を境に、株価はじわじわと値を下げ始めていた。しかし熱狂した市民はそれに注意することも無く、株や土地の売買を続けた。1929年10月24日のいわゆる「暗黒の木曜日」を境に、遂に株価が一斉に大暴落し、史上最高の繁栄を誇ったアメリカはここに破綻した。アメリカの破綻は「世界の工場アメリカ」に経済依存していたヨーロッパ諸国や日本に波及し、1930年代を取り巻く世界恐慌となった。 資本家は一斉に労働者のリストラをはじめ、大都市は失業者で溢れた。食糧の配給には長蛇の列ができ、浮浪者や犯罪者が増加して社会不安が蔓延した。農家の没落はもはやとどまるところを知らず、彼らが逃れた西部にも、彼らを受け入れる余地はどこにも無かった。そこにかつての繁栄を誇ったアメリカはどこにも存在しなかった。 この社会不安の中、大戦恩給の前払いを求めて退役軍人が首都ワシントンで大規模なデモを起こした。陸軍士官ダグラス・マッカーサーはこれを共産主義者に煽動された暴挙とし、彼らを戦車を主体とする軍事力で弾圧、流血の事態となった。このころ失業者のデモや闘争が相次いでおり、革命が公然と叫ばれるようになっていたが、これらを共産主義者が煽動していることは十分に考えられることであった。どちらにしろ、この後に共産主義者を大量に検挙することに成功し、アメリカでの共産主義運動は沈静化した。 未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程・速度については各国なりの事情が影響した。植民地を領有する国々(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ソビエト連邦や日本、ドイツといった全体主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が宗主国諸国との軋轢を生んだ。恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局外為相場の国際的調整は第二次世界大戦後のIMF設立を巡る議論の中に送り込まれることとなった[3]。 フランクリン・ルーズベルト大統領は、国が率先して主導する大規模公共事業を中心としたニューディール政策によってこの難局を乗り切ろうとするが、経済は一時的に回復したのみで、1930年代後半には再び危機的状況に陥った。 第二次世界大戦 (1939年〜1945年) 1939年9月、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発、短期間で西ヨーロッパの大部分はドイツに占領され、イギリスも執拗な攻撃によって疲弊し、ウィンストン・チャーチルは再三にわたってアメリカに参戦を求めた。アメリカ大統領ルーズベルトはレンドリース法を設定して援助を拡大するものの、参戦には世論の支持を得られないと考えて難色を示し、中立法を遵守するとした。ドイツは頑強に抵抗するイギリスの攻略を諦め、1941年にはソビエト侵攻に移った。三国同盟によってドイツと同盟関係にある日本は、中国大陸への軍事侵攻を行っており、アメリカは西欧と共に経済制裁を行っていたが、効果は大きく、1941年7月の南部仏印進駐は、東南アジアの油田に対する侵攻準備と受け取られた。アメリカはこれに対して「ハル・ノート」として知られる強硬な交渉案を突き付け、12月に日本がハワイ真珠湾を攻撃した。ルーズベルトは即座に参戦を表明、枢軸国に対して宣戦布告した。太平洋戦争の始まりであった。 欧州戦線ではドイツが1942年から1943年にわたるスターリングラードの戦いに敗れ、形勢が逆転した。ドイツが劣勢となる中で、米英両軍はフランスのノルマンディーへ上陸した。また、ドイツ軍が発展させた都市無差別爆撃の戦法を英米軍も採用し、ドイツの主要都市をことごとく破壊して国家機能を奪った。同盟国イタリアは政権転覆によって降伏、ドイツは東西両軍から挟み込まれる形となり、ついに自国領内への侵攻を許し、連合国の勝利は決定的となった。 日本は開戦と同時に東南アジア植民地を次々に占領、欧米の統治体制を一時的に崩壊させた。アメリカもフィリピンとグアム、アリューシャン列島の数島を奪われたが、ミッドウェー諸島の占領を阻止(ミッドウェー海戦)し、ガダルカナル島上陸によって戦況は逆転、太平洋の島々で両軍は世界戦史に残る壮絶な死闘を繰り広げた。マキン・タラワ両島や硫黄島では最大の死傷者を出し、サイパンやフィリピン、沖縄では住民を巻き込んだ悲惨な戦争となった。北マリアナ諸島を占領した米軍は、無差別爆撃を日本でも行ったが、木や紙を多用する日本家屋の構造を考慮した焼夷弾を使用して、主要都市を人口の多い順に焼き払い、日本の国家機能は破壊された。 また、米国内の日系アメリカ人を敵性国民として、残らず砂漠地帯に建設した強制収容所に送った(日系人の強制収容)。このため、日系人の若者は信頼を回復する為に軍へ志願入隊し、欧州戦線の激戦区に送られた。日系人部隊の戦いぶりは他の部隊を凌駕し、大戦で最多の勲章を受章した。この活躍により、米国での日系人の信用は徐々に回復して行った。日系人や在住日本人はカナダやペルーなどの国でも同様に収容所へ送られ、終戦まで過ごした。このような措置はイタリア系やドイツ系の国民に対しても、日系人ほどでないが実施された[4]。 米国が日本に投下した原子爆弾は、南西部の「フォー・コーナーズ」にあるナバホ族、ホピ族、プエブロ族、山岳ユテ族の保留地(Reservation)から、アメリカ連邦政府によってほぼ部族に無断で採掘されたウラニウムを精製して製造され、メスカレロ・アパッチ族と西ショーショーニー族、南部パイユート族の保留地で爆発実験されたものである。この際に生み出された放射性副産物質は、サン・イルデフォンソ・プエブロ族とサンタクララ・プエブロ族の保留地に格納された。「フォー・コーナーズ」一帯のインディアン保留地はアメリカの核兵器開発と原子力産業の中枢となっており、全米科学アカデミーはこの地を「国家の犠牲地域」(National Sacrifice Area)のひとつに指定している。 ルーズベルトは戦争中にもチャーチル、ソ連のヨシフ・スターリン、中国の蒋介石と密接に会談(テヘラン会談、カイロ会談、ヤルタ会談)、ルーズベルトは戦後の処理についてこの頃から路線を決定していたが、1945年4月にドイツ降伏を目前にして急死する。跡を継いだハリー・トルーマンはポツダム会談によって戦後の路線を明確にし、日本の広島と長崎に対して世界初の原子爆弾を使用した(しかし、トルーマンが、明確に原爆投下を許可したという証拠は見つかっておらず、近年では、後述するマンハッタン計画の当時の最高責任者である、レスリー・グローブス陸軍准将ら、軍の関係者がトルーマン政権に対して内密に投下を許可した可能性があるという説が有力になってきている)。原爆はマンハッタン計画と称した極秘計画によって、巨額の費用と最高の能力を投じて開発した最終兵器であり、後には「核」と呼ばれ、終戦後の世界を支配する力を持つものであった。アメリカは日本に2発の原爆攻撃を与え、ソ連もヤルタ会談の約束どおり参戦して、日本を降伏に追いやった。 戦後世界の復興は、まずアメリカ・イギリス・ソ連の3カ国によって主導権が握られた。欧州では、枢軸中心国ドイツとオーストリアは英米仏ソ4国によって分割統治、イタリアは領土割譲と高額の賠償金を承諾して講和し、植民地も保障された。枢軸国となった東欧諸国はソ連の影響圏に置かれ、南欧は英ソ両国が影響力を持った。日本は本土(北海道・本州・四国・九州)をGHQ/SCAPが統治、沖縄・奄美・小笠原・南洋諸島をアメリカが占領統治、朝鮮半島は米ソで分割、南樺太・千島はソ連が領有、台湾は中国が領有した。しかし、日本が占領していた東南アジアは宗主国が復帰したものの、ベトナムやインドネシアでは独立戦争が勃発し、インドでも反英暴動が起こるなど、戦前の帝国主義が崩壊した新たな時代の幕開けとなった。 冷戦 (1945年〜1989年) 日本の降伏からベトナム戦争まで (1945年〜1975年) 世界の盟主を自負していたイギリスは、戦争の痛手と植民地の相次ぐ反乱によって急速に衰退し、代わってアメリカとソ連が世界の覇者となった。かねての構想であった国際連合を設立、戦後世界の構築を進めた。しかし、思想が異なるソ連との連合は不可能なことであり、戦後すぐに双方は離反した。アメリカはマーシャル・プランによって西ヨーロッパを経済援助することを基本路線に掲げ、対するソ連は東ヨーロッパの周辺中小国を共産化したことから、欧州大陸は東西に分裂した。いわゆる冷戦である。双方はベルリン問題で対立を深めたが、朝鮮戦争(1950年-1953年)によって遂に熱い戦争となった。アメリカは欧州を防衛する為、集団防衛組織として北大西洋条約機構 (NATO) を設立し、ソ連と東欧の東側陣営を封じ込める戦略を採った。また中東条約機構 (METO) の成立に寄与し、東洋では東南アジア条約機構(SEATO)・ANZAS条約・日米条約・米韓条約・米華条約・米比条約をそれぞれ締結して、ソ連と中華人民共和国を包囲した。さらに、対外情報機関を統合したCIAが設置され、東側との情報戦や諜報戦など工作活動が盛んに行われ、また西側諸国も影響下に置くべく監視した。CIA長官は強大な権限を与えられ、これ以降、数々の国外活動にCIAは関与するようになり、1954年には早くもグアテマラの容共的な政権を転覆するためにPBSUCCESS作戦が実行された。 国内では戦争が終わった安堵感と、若年層の兵士が帰国したことから結婚と出産が急増し、1945年から数年間で幼児人口が増加した(ベビーブーム)。いわゆる「ベビーブーマー」(日本では団塊の世代)と呼ばれる世代の登場である。戦争を潜り抜けた若い家族は、戦前の家族制度に縛られず、両親とは離れた郊外に一戸建てを購入して生活することが多くなり、核家族化が急速に進んだ。この背景には、安くて高性能・しかも若者受けするスタイルの自動車が多数販売されたこと、高速自動車道路網の整備が急速に行われたことが大きく影響している。さらに、家庭用電化製品(家電)の発明と普及が、核家族化の進んだ家庭を助けた。郊外の宅地整備ラッシュ、自動車と家電製品の製造、さらには戦争で再び荒廃した西欧へ製品を輸出したことにより、米国経済は非常に活性化し、1950年代には大好況となった。テレビ、レコードなどの新たな娯楽が普及し、エルビス・プレスリーなどのミュージシャンが登場した。また、ハリウッド映画の黄金期と呼ばれるのもこの時代で、長編の大作映画が次々に製作された。 一方、冷戦の急速な緊張の高まりにより、1940年代末期にジョセフ・マッカーシー上院議員が中心となった反共運動が国民の支持を拡大、FBIも共産主義者の取締りを強化し、公民問わず様々な場所で、共産主義者と見られた人々の排斥が行われた。それは民間企業から官公庁、果ては軍隊へ至り、労組の力が強かったハリウッドでは、数々の作家や俳優が共産主義者として排斥された。この中でチャップリンなどは国外亡命に追いやられて、国内外に衝撃を与えた。これらはマッカーシズムや、魔女狩りに例えて赤狩りと呼ばれ、マッカーシーが失脚する1950年代前半まで大きな動きとなった。この運動によって公職を追放された者は数知れないが、一方で米国内の共産主義運動の芽を摘んだと評価する者もいる。なお、連合国の占領下にあった日本においても、レッドパージとして同様の排斥運動が盛んに行われたが、これは反共のマッカーサー司令官の意思が大きい。 世界では1960年代までに脱植民地化の潮流から植民地からの独立が相次ぎ、西欧の帝国主義的な覇権は終焉を迎え、独立国が資本主義的国家ならばアメリカが、社会主義国家ならばソ連が支援するという二極世界が誕生した。そしてお互いは核兵器、大陸間弾道ミサイル、原子力潜水艦という具合に、この間に相手を何万回も殺せる兵器を持つに至った。大気圏内での核実験を相次いで実施し、核戦争に備える対策が全国で取られた。また両国は軍事的優位に立つために宇宙開発競争に乗り出した。航空宇宙局(NASA)が設立され、人工衛星、有人宇宙船を次々に宇宙空間に送り出したが、ソ連が常に先を行っていた。ジョン・F・ケネディ大統領(民主党)はソ連より先に人類を月へ送り込む計画を打ち出し、NASAの事業はこの目的の為にほぼ一本化されていった。 そんな時、「アメリカの裏庭」と称していたカリブ海のキューバで革命が起こり、これを阻止すべく、亡命キューバ人を中心とした侵攻軍を組織したが、この計画は失敗した。このピッグス湾事件によってカストロ政権はキューバ革命が社会主義革命であることを宣言し、防衛力強化のために共産化したキューバはソ連と親交を深め、アメリカを狙う弾道ミサイルを配備しようとしたため、ジョン・F・ケネディはソ連と核戦争瀬戸際の外交戦を展開した。これがキューバ危機(1962年)である。この危機的状況を打破した米ソ首脳は、緊張の緩和を目指すことで一致し、この後は米ソの直接的な激突は避けられた。 国内では、社会的に保障されず、人種差別に悩む黒人(アフリカ系アメリカ人)が公民権を獲得する為の運動(アフリカ系アメリカ人公民権運動)を行い、急速に盛り上がっていた。特に、1963年は南北戦争の奴隷解放宣言から100周年であり、黒人のデモが相次いで白人と衝突し、銃撃戦に発展する地域もあったが、指導者的存在であるキング牧師はインドに学んだ非暴力闘争を主張し、支持を拡大した。この公民権運動に加え、フランスを中心に拡大した大学生による大学自治運動(学生運動)が飛び火し、学生によるストライキやデモによって、ほとんどの都市が騒然とした状態となった。ケネディは黒人への公民権付与や大学自治の拡大を認め、解決への道筋をつけた。しかし、以前からアメリカ政府が取り組んでいたベトナム戦争への介入政策を転換しようと模索していたが暗殺された。インディアンたちは「レッド・パワー運動」として黒人団体と連携し、権利回復要求を激化。「インディアン若者会議(NIYC)」や「アメリカインディアン運動(AIM)」を結成、「アルカトラズ島占拠事件」や「ウーンデッド・ニー占拠抗議」など、数々の抗議運動でインディアンの存在を全世界に訴えた。 ケネディの後を継いだリンドン・B・ジョンソン(民主党)は、拡大しつつあった「貧困との戦い」と、公民権運動の最終的な解決を目指した「偉大な社会」計画を実行し、一方ではベトナムへ積極的な介入を行い、トンキン湾事件を引き金としてベトナム戦争(1965年-1975年)へ発展した。北ベトナムへ地上軍を進めることの出来ない米軍は圧倒的な物量を背景に北爆や枯葉剤の散布を行ったが、北から次々に侵入する共産軍や、南ベトナムの共産ゲリラに苦しめられ、戦闘は泥沼化した。死傷者が続々と増える中で、欧米や日本では大学生を中心に共産主義運動が流行しており、これは公民権運動と結びついた反戦運動となった。これらの運動は「ベビーブーマー」が主体となっており、既存の文化・社会体制に反感を持ったヒッピーなどに代表される、反社会的な若者文化によっていっそう盛り上がった。長引く戦争に対して国民の支持が得られなくなったジョンソンは1968年の大統領選挙への立候補をしないと表明し、大統領選に出馬しようとしたロバート・ケネディ(ジョンの弟)や、公民権運動の立役者であるキングは相次いで暗殺され、社会は混乱した。 アメリカの1960年代は、公民権法の制定による法律上の人種差別の撤廃、1965年の社会保障法による医療保険制度の普及、ベトナム戦争への介入拡大による死傷者の増大、ベトナム戦争に介入した軍事目的と政治目的の達成断念、反戦運動の拡大、政治や社会運動の指導者の暗殺、アポロ計画による有人月面探査の実現など、多くの成果や弊害が混在した激動の時代だった。 ジョンソンの後を受けたリチャード・ニクソン(共和党)は、泥沼化したベトナムからの撤退を模索し始めた。アメリカ軍はベトナムからの段階的な撤退をはじめ、ついに1973年3月、5万8千人の死者と2千人の行方不明者をもたらしたベトナム戦争からの完全撤退を完了した。ニクソンはその他にも、中華人民共和国の承認と外交関係の開始、ソ連との核軍縮条約の締結、国連における生物兵器禁止条約、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約の採択と加盟、ドルと金の兌換停止、為替の変動相場制への移行、環境保護庁の設立、自動車の排気ガス規制など、外交と内政において多くの政策転換に取り組んだが、ウォーターゲート事件に対する議会からの責任追及により辞職し、大統領の権威低下と政治に対する信用低下をもたらした。 ベトナム戦争終結から冷戦終結まで (1975年〜1989年) 冷戦後 (1990年〜現在) ニクソンの跡を継いだジェラルド・R・フォード(共和党)がニクソンに対して恩赦を与えたことや、さらにこれに続くジミー・カーター(民主党)の政権運営が弱腰と批判された事から、1970年代を通じて政治不信は解消されなかった。特に、イラン革命の際に占拠された大使館を救出する作戦が失敗し、数十名の海兵隊員を死なせた事は、国民の米軍に対する信頼を裏切ることとなった。さらには、この大使館問題が解決される際、裏取引があったことが後に明るみに出て大問題となった(イラン・コントラ事件)。 ケネディによって市民権を獲得した黒人も、白人による差別感情は短期間で拭えるものではなかった。高級職業につくことは難しく、貧しい生活が続いた。大都市の中心ではことごとく低所得者や黒人・プエルトリコ人の暮らすスラム街が形成され、高所得の白人は郊外の住宅地に移転し、都市のドーナツ化現象が進んだ。こういった米国の負の特徴は「アメリカ病」と呼ばれ、アメリカの影響下にある先進諸国共通の問題となっていった。政府は問題を改善する為に福祉に力を入れざるを得なくなり、1970年代に福祉国家へ生まれ変わった。 こうした中で保守派、福音主義(en:Evangelicalism)、キリスト教根本主義、キリスト教右派団体の期待を背負って登場したのがロナルド・レーガン(共和党)である。レーガンはソ連を「悪の帝国」と規定し、それに対抗するためにSDI(スターウォーズ構想)をはじめるなど、それまでの柔軟な外交政策を強硬的なものに変更した。おりしもソ連がアフガニスタンへの侵攻を開始したため、冷戦は新たな高まりを見せた。そのためこの時期を「新冷戦」と言う。このような強攻策はレーガン政権に入り込んだ新保守主義(ネオコン)の影響が強く働いている。ネオコンはリベラルな民主党で勢力を伸ばしていたが、1970年代の民主党の支持率低下によって見切りをつけ、大挙して共和党へ流れ込んだ。 レーガンは、軍事では中米紛争に介入し、ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラの内戦で反共を掲げる政府軍や、ニカラグアの反革命傭兵軍団コントラを支援した。また、グレナダ侵攻を成功させ、ベトナムとイランで傷ついた軍の威信も取り戻したが、すぐにレバノン内戦で大使館と海兵隊が襲われ、200名以上の死者を出したことから、地上作戦には消極的になった。レーガンは中央アメリカでは、人権侵害を行う反共組織の支援に徹したが、こうした姿勢が仇になり、イラン・コントラ事件というスキャンダルを巻き起こした。リビアのカダフィ政権とは長く対立し、戦闘機同士の空中戦や、旅客機爆破事件(パンアメリカン航空103便爆破事件)の報復攻撃などを行った。また、イギリスや日本といった同盟国との関係を重視し、これらの国とは蜜月の関係となった。オイルショック以来、奇跡的な経済成長を遂げた日本・西ドイツを影響下に置きながら、政治・経済・軍事を西側先進国の合議によって運営しようとするサミットが開催されるようになったが、1985年のプラザ合意でその影響力が発揮された。この時代は1960年代末までのニューディール絶頂期から保守的な時代へと大きく転換した時代である。 産業面では、半導体を用いるコンピュータを中心とした先端工業が発達し、シリコンバレーと呼ばれる半導体工業地帯が登場し、ハイテク草創期において技術がほぼ独占状態となった。一方、1970年代から1980年代にかけ、経済成長によって大国となった日本や西ドイツが自動車、家電、オーディオ機器などを次々に米国で展開した。特に日本製の製品は大衆的で高品質低価格として非常に人気となり、日本製自動車が全米の保有台数の4分の1から3分の1に迫るまでになった。また、米国の独占が続いたハイテク産業においても、1980年代後半には日本企業が急成長してシェアを奪い、米国企業の危機感を煽った。このため、商務省と財界は日本に対して貿易不均衡の是正として様々な圧力をかけ、牛肉や柑橘類の自由貿易を認めさせたが、日本側も様々な手段で抵抗した為、すさまじい貿易摩擦へと展開した。米国内では、国民の不満を日本へ向けるための煽動報道が繰り返し行われ、1990年代前半にかけ、「ジャパンバッシング」(日本叩き)と呼ばれる運動が広がった。 レーガンの跡を継いだジョージ・H・W・ブッシュ(共和党)は積極的な強硬政策を採り、パナマ侵攻と湾岸戦争を成功させ、軍の威信と信頼を取り戻した。また、上記のような反日感情を反映し、日本に対しては様々な圧力外交を行った。この露骨な圧力政策は、日本のバブル経済が崩壊する1990年代半ばまで続いた。さらにブッシュの時代、ロス暴動をきっかけとして、国内に根強く残る人種差別感情や人種間対立が浮き彫りとなった。 1989年11月9日、冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊し、それを受けて12月3日のミハイル・ゴルバチョフとのマルタ会談では「冷戦の終結」が宣言された。 一極支配 (1990年〜2001年) 冷戦が終わると、まず最初に直面した問題は中東問題である。1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻したことに対して、アメリカ軍を中心とした多国籍軍が編成され、1991年1月17日から2月28日までに亘って多国籍軍とイラク軍が戦争を行い、クウェートをイラクから解放することに成功した。これが湾岸戦争である。湾岸戦争はその現在まで続く中東問題の端緒ともなった。また、湾岸戦争が起こった1991年にはソビエト連邦が崩壊し、自由主義陣営の中心であるアメリカの勝利を意味していたが、アメリカの経済は双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)と呼ばれる状態に苦しめられていた。 ブッシュの後に登場したビル・クリントン(民主党)はこうした経済的不況を解消することに努力し、クリントンが大統領職を去るときにはこの状況は完全に解消され、アメリカはこれまでに無い好景気を謳歌することができた。これには副大統領のアルバート・ゴアが主張する情報スーパーハイウェイ構想など、IT産業を積極的に後押しした事もその助けとなっている。アメリカは1980年代から軍事目的として電話回線を使用した情報網の整備を行っており、1990年代にパソコン通信やインターネットが民間によって急速に広がる下地となった。マイクロソフトやアップルコンピュータといった米国企業が急成長し、ハイテク技術の独占が進んだ。 1993年にはビル・クリントンが大統領に就任し、1990年代の繁栄を謳歌した。このクリントンの時代は、ソビエト連邦が崩壊した後の、米国による「一極支配」と呼ばれる時代になった。 クリントン時代にはファーストレディであるヒラリー・クリントンの影響から女性の権利を大幅に認めるなど、ブッシュまでの保守的な状況から、ある程度リベラルな方向へ巻き戻す試みがなされた。対外的には、ソマリアの国連平和維持活動(PKO)が地元民兵に襲撃されて米兵に多数の犠牲を出した事件によって、海外派兵を控える意見が大きくなり、またコソボ紛争によるユーゴスラビア連邦共和国や、イラクへの空爆、アフガニスタン・スーダン攻撃は地上軍を伴わない比較的小規模な戦闘で、大きな対外軍事行動による出費がなかったこともクリントン政権には幸いした。 同時多発テロ以後 (2001年〜現在) 民主党ビル・クリントンの次に政権に就いたのは、共和党でネオコンサバティブや、キリスト教右派、ローマ・カトリック、キリスト教根本主義に支持されていたジョージ・W・ブッシュ(先のブッシュ大統領の息子)であった。ブッシュの支持率は当初から低かったが、アメリカ市民は20世紀から21世紀の世紀転換期を、平和と好景気とリベラルの中で謳歌していた。そんなアメリカの目を覚ます出来事が起こる。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件(nine eleventh、September eleventh)である。ブッシュ政権はこの事件を期に支持率を拡大、アフガニスタン侵攻、イラク戦争と言った対テロ戦争をはじめ、大きく保守化の方向へ舵を切った。 こうしたアメリカの強硬な外交政策はユニラテラリズムと呼ばれ、冷戦後に欧州で発言力を増したドイツやフランスなどから批判を受けている。ロシアや中国もテロ対策に賛同したが、イラク戦争によって対立へと変わった。2004年に再選されたブッシュは、アフガニスタンやイラクのほかにもイラン、北朝鮮を「テロ支援国家」「悪の枢軸」と規定しているが、イラク戦争が泥沼化し、国内のハリケーン災害が後手に回ったこともあり、強行外交の見直しと軍の再編が行われている。 BRICs新興国の台頭、中国やインドなどの開発途上国の経済の急成長が主要な原因となって貿易赤字も増大傾向である。景気はクリントン時代のITバブルが崩壊して一時的に鈍化したが、続いて住宅人気による宅地造成・建設ラッシュが好景気を招いたが、住宅価格バブルは2008年に崩壊した。かつて世界一を誇った工業力も、企業が工場の海外移転を進め、また、投資事業や金融に力を入れた結果、産業の空洞化が起こっている。米国の国際力は長期的に衰退する可能性がある一方、産業移転と投資によって中国やインドは工業的に急成長し、原油高によってロシアの経済力も回復した。ドイツ・フランスの周辺国への影響も増しており、冷戦に続く米国の一極構造は崩れつつあるという見方もある。強硬な反米姿勢で知られるベネズエラのウゴ・チャベス大統領は「我々は世界の新しい秩序を築きつつある。一極支配はすでに崩壊した。アメリカ帝国の力は瓦解しつつある」と述べている。 国家を形成する人種構成も20世紀末から大きく変化した。ラテンアメリカからのスペイン語系移民(ヒスパニック、ラティーノ)が土着し、それまでの白人・黒人のどちらにも属さない新たなコミュニティを形成している。貧しいラテンアメリカから豊かに見えるアメリカ合衆国への人々の流れは増加の一途にあり、黒人人口を上回る地域も発生した。この事象はメキシコと国境を接する各州共通の問題であるが、ヒスパニックが低賃金の新たな労働資源となっていることや、ラテンアメリカ系の商品売買による新たな経済活動の機会となっているため、単純な同化政策を採りづらくなっている。しかし、同化政策の遅れは言語分断を招くなど大きな問題となっている。どちらにしてもヒスパニックは今後のアメリカを左右する重要な勢力になると思われる。米国政府の推測では、2006年10月に人口が3億人を超えたが、これはヒスパニックの流入と、アメリカの合計特殊出生率が安定していることなどによる自然増が要因と考えられている。 2000年代以降、長らくあった黒人差別を解消の象徴ともいえる出来事が起こり、アフリカ系アメリカ人のコリン・パウエル、コンドリーザ・ライスが第65代、第66代国務長官に就任し、そして史上初のアフリカ系初の大統領のバラク・オバマとそのファーストレディのミシェル・オバマが登場した。バラク・オバマ第44代アメリカ合衆国大統領就任式はアメリカの有名人も多く参加するほどの盛り上がりであった。 2008年の南オセチア紛争や2000年代後半以降の東欧ミサイル防衛構想でロシアと対立が始まっており、親米のイスラエルがベネズエラやボリビアから国交を断絶され、反露のグルジアがロシアと国交を断絶し親米化を進めた。さらにウクライナは親米派、親露派に分かれた。ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどの中南米諸国は、アメリカ合衆国とは異なる国家の統治モデル、経済モデルを模索し追求している。東側諸国のBRICsのロシアと中国は超大国化しアメリカ合衆国と同等またはそれ以上の国際的影響力の拡大をめざしている。また、中ロは人権弾圧国家も支援しているためにアメリカを含む西側と対立している。 アメリカ発の金融危機が世界経済に深刻な打撃を与えている。西側諸国に限らず、ロシアや中国も事実上の資本主義体制であるため、経済に深刻な打撃を受けている。中国では2009年6月現在まで2000万人が失業したとされる。アメリカの同盟国である日本も非正規労働者を中心に多くの失業者が出るあど、甚大な影響を受けた。ロシアは世界で最も経済にダメージを受けた国と言われ、失業者は公式統計でも200万人に上り、労働争議が多発し、ドミートリー・メドヴェージェフ、ウラジーミル・プーチン政権の支持率が低下している。ロシアのメドヴェージェフ大統領は「世界不況はアメリカによる一極支配が原因」とアメリカを批判した。2012年5月7日から、再びプーチンがロシア連邦大統領として政権復帰し、中華人民共和国では習近平が2013年3月14日に国家主席となり、新体制に突入した。しかし、中国・ロシアともに不況下にあっても軍事力の増強・近代化は強力に推し進めており、アメリカの一極支配を脅かしている。 バラク・オバマ大統領は伊勢志摩サミット出席後の2016年5月27日、日本の安倍晋三[内閣総理大臣|首相]]とともに、現職のアメリカ大統領としては初めて、世界史上初めて戦争時において核兵器の使用がなされた場所である広島県広島市の広島平和記念公園を訪問した。 2016年、ラストベルト地帯における、従来は民主党の支持層であった白人労働者の支持を受けるなどして、「AMERICA FIRST(アメリカ第一)」、「Make America Great Again(アメリカを再び大国に)」といったスローガンを掲げて、その並外れた言動から「暴言王」とも称された、実業家出身で政治経歴のないドナルド・トランプが共和党候補として出馬し、元ファーストレディ(大統領経験者の配偶者)であるヒラリー・クリントン民主党候補を破り当選を果たし大統領に選出され、2017年1月20日に第45代アメリカ合衆国大統領に、副大統領にはマイク・ペンスが就任した。 トランプ政権は、環太平洋パートナーシップ協定(通称:TPP)からの撤退表明、駐イスラエル米国大使館のエルサレムへの移転および同国首都としてのエルサレムの承認、シリアへの空爆、メキシコからの不法移民規制、気候変動抑制に関する多国間協定(通称:パリ協定)からの米国離脱宣言、イラン核合意からの離脱、国連人権理事会からの離脱、ホワイトハウス報道官やCIA(中央情報局)長官、国務長官などの相次ぐ政府高官人事の交代、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の第3代最高指導者である金正恩朝鮮労働党委員長との史上初の米朝首脳会談の開催など、内政・外交面ともにさまざまな課題に直面している。 領土の変遷 大陸領土の拡大 1776年 - 13州がアメリカ独立宣言を発表 1783年 - イギリスより北西部植民地を割譲(ミシシッピ川以東) 1803年 - フランスよりルイジアナ植民地を買収(ミシシッピ川以西) 1818年 - イギリスより割譲(現ノースダコタ州) 1819年 - スペインより買収(現フロリダ州) 1842年 - イギリスより割譲(現メーン州北部) 1845年 - テキサス共和国併合 1846年 - オレゴン併合(現オレゴン・ワシントン・アイダホ州) 1848年 - メキシコより割譲(現カリフォルニア・ネバダ・ユタ・アリゾナ州など) 1853年 - メキシコより買収(現アリゾナ州南部) 太平洋・カリブ海への進出 1857年 - ハウランド島・ベーカー島・ナヴァッサ島を領有 1858年 - ハワイとジョンストン島を共同統治、ジャーヴィス島領有 1867年 - ロシアよりアラスカ購入(現アラスカ州)、ミッドウェー諸島領有 1889年 - ジャーヴィス島をイギリスへ割譲 1897年 - パルミラ環礁領有 1898年 - ハワイ王国併合、スペインよりフィリピン・グアム・プエルトリコ各植民地を割譲 1899年 - ドイツと分割して東サモア獲得、ウェーク島領有 1903年 - パナマよりパナマ運河地帯を、キューバよりグァンタナモ湾を永久租借 1905年 - ドミニカ共和国を保護領とする。 1915年 - ハイチを保護国とする。 1917年 - デンマークよりヴァージン諸島を購入 1922年 - キングマン・リーフを領有 1926年 - ドミニカ共和国自立 1934年 - ハイチ自立 1935年 - ジャーヴィス島を再領有 第二次世界大戦後統治・信託統治 1945年 - 南洋諸島・沖縄・奄美・小笠原諸島占領統治、日本占領統治、ドイツ・オーストリア・朝鮮半島分割占領統治。 1946年 – フィリピン独立 1947年 - 太平洋諸島(南洋諸島)信託統治 1948年 - 大韓民国独立 1952年 - 日本主権回復 1953年 - 奄美群島を日本へ返還 1955年 - 西ドイツ独立・オーストリア主権回復 1966年 – イギリスよりディエゴガルシア島を50年間租借 1968年 – 小笠原諸島を日本へ返還 1972年 – 沖縄県を日本へ返還(沖縄返還) 1979年 - 太平洋諸島信託統治領にミクロネシア連邦結成 1982年 - マーシャル諸島と自由連合を結成し信託統治終了 1986年 - ミクロネシア連邦・マーシャル諸島独立、北マリアナ諸島は自治領となる。 1994年 - パラオ独立、ベルリンをドイツへ返還 1999年 - パナマ運河地帯をパナマへ返還 2003年 - イラク占領統治 2006年 - イラク主権回復 脚注 関連項目 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国大統領:歴代大統領一覧 アメリカ合衆国の経済史 アメリカ合衆国の技術と産業の歴史 アメリカ合衆国の外交史 外部リンク (日本語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
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中国の2018年度の平均寿命は?
沖縄県の人口統計
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本稿の<b data-parsoid='{"dsr":[2753,2767,3,3]}'>沖縄県の人口統計(おきなわけんのじんこうとうけい)では、沖縄県と本県に属する41の市町村の人口に関する統計を説明する。 沖縄県の人口動態 概説 薩摩藩による侵攻が行われた1600年代初めの琉球王国の人口は約10万人、1700年代初頭には約15万人、1700年代中頃には約20万人と増加していた。しかし、1771年に発生した明和の大津波によって、当時の八重山列島の人口の3分の1に相当する約1万人が死亡、さらにこの頃の琉球各地では台風や大雨、干ばつによる飢饉の流行が度重なった。それらの災害により、1800年代初期の人口は15万人へ減少した一因とされているが、人口減少に至った原因の詳細は不明なままである[13]。 琉球処分により日本へ併合され、沖縄県が設置された明治時代から大正にかけての約40年で約20万人増加した。機械式の製糖工場の導入によりサトウキビから砂糖への生産効率が向上し、産業の近代化が行われたことで[14]、経済的発展に伴い人口が増加したと思われ、さらに官吏や寄留商人の転入[15]も相次いだ。 一方で製糖業やサツマイモによる食糧生産といった農業依存のモノカルチャーにより、日本本土に比し産業、経済基盤が脆弱であり構造的不況のまま推移し、1904年(明治37年)の沖縄明治大干魃(「ナナチチヒャーイ」)ほか天候被害に左右される状況が続いた。また、大正、昭和時代にかけても第一次世界大戦後の戦後恐慌から関東大震災、世界恐慌、昭和恐慌など日本本土の経済状況にも左右され、沖縄も大不況となり、本土からの輸出が減少しそれに伴い、県の主要産物である砂糖は過剰供給となり、経済に深刻な影響を及ぼす状況が続いていた。この時期には、農民の一部はソテツの実や幹から抽出した澱粉しか食せないほど困窮し、その様は「ソテツ地獄[16][17]」と呼ばれた。そのような窮乏状況から沖縄から海外へ移住する人々が増加し、1899年から1937年までに約7万人の海外移民がいた。自然増加数と海外移民による社会減少数が同程度であったため、人口推移はほぼ横ばいとなった[18]。また1920年以降みられた、主に大阪府や神奈川県への出稼ぎ労働者は毎年1万人以上となり[19]、その子孫らは大阪府大阪市大正区と神奈川県横浜市鶴見区に暮らしている[20]。その後太平洋戦争によって、県外や台湾へ疎開した者は約8万人に上った[21]。 沖縄戦終結直後は戦死者による減少が起きたものの、海外から帰国した移民の増加とベビーブームにより人口が増加した。本土復帰直前には転出者の増加により1968年から3年間は人口が減少したが、復帰後は県外からの転入者が増加した[18]。1950年以降、沖縄県の人口は増加傾向にあるが、出生率の低下に加え、死亡率の増加傾向の影響により、1980年から人口増加のペースが鈍化している[18][22]。国立社会保障・人口問題研究所の『日本の将来推計人口 平成24年1月推計』(2010年度の国勢調査に基づいた人口を基準に算出[23])によると、沖縄県の将来推計人口は、2020年の約141万7千人[24]まで増加、それ以降は減少するとされ、全都道府県で最も遅く人口減少に転ずると予測される(表2参照)[25]。2014年3月に沖縄県は、子育てしやすい環境を整え、産業の創出で新たに移住者を引き寄せる「県人口増加計画」を発表し、順調に計画が進行すれば、2050年の人口が160万人に増加するとしている[26]。 人口調査 1920年の第1回国勢調査から2015年度国勢調査に基づく沖縄県の人口(2015年度は別の文献[2])[27]を表1に示したが、1945年度と1947年度の国勢調査は実施されず、12月31日現在の推計人口を掲載している(表1の緑背景)[28]。また沖縄県は1945年から1972年にかけてアメリカ合衆国の占領下に置かれたため、1950年度は琉球列島米国軍政府、1955年度から1970年度までは当時の琉球政府が独自で調査を行い、また1950年から1960年の調査期日は12月1日、それ以降は本土と同様10月1日である(表1のピンク背景)[29]。増減人口は該当年度の前回で調査した人口(ただし、1950年度は1940年度の調査人口)から差し引いている。また、表2に2010年度国勢調査を基にした沖縄県の将来推計人口を示した[24]。 人口増加とその要因 2005年度と2010年度の国勢調査結果を比較して、人口増加率は2.3%増加と前回の調査結果の3.3%増加よりも下回った[30]。しかし都道府県別では沖縄県を含む9都府県の人口が増加し[31]、東京都 (4.6%)、神奈川県 (2.9%)、千葉県 (2.6%)に次ぐ第4位の増加率となった[18]。また、2015年度の国勢調査では、2.9%増加し、全国で人口増加率が最も高い[2]。1974年2月現在の推計人口は100万人、1998年12月で130万人、そして2011年8月1日には140万人を超えた[18]。 『平成22年 人口動態統計』によれば、2010年の沖縄県の自然増加率は人口千人あたり5.0人の増加で、全都道府県で最も高い[32]。社会増加率は各年により増減が変動するが、増大する要因として、2005年頃の沖縄への移住ブーム、2008年のリーマン・ショック以降の不況による帰省客の増加が挙げられる[33]。また2010年における沖縄県の合計特殊出生率は1.87人と全国の1.39人を上回り[34]、1975年度以来連続で全国1位を維持している[35]。『平成17年度版 厚生労働白書』によると、出生率が高い理由として、 他の都道府県と比較して親族や地域同士とのコミュニティの結び付きが強く、相互扶助の精神(方言で「ユイマール」[36])が残っている。 男系子孫を重んじるため、男児を産むまで出産を制限せず、結果的に多産する。 という2つの説を挙げている[37]。 死亡率と平均寿命 高齢者の少ない県ほど、単に死亡数を人口で割った粗死亡率は低くなる傾向にあるため、年齢構成の異なる都道府県と一律に比較できるように、年齢調整死亡率が用いられている[38]。2010年度における沖縄県の粗死亡率は、人口10万人当たり男性は797.4人(全国1,029.2人)、女性は671.5人(全国869.2人)であるのに対し[39]、年齢調整死亡率は人口10万人当たり男性547.3人(全国544.3人)、女性267.0人(全国274.9人)で[40]、特に2000年の男性15歳から50歳までの年齢調整死亡率が全国高位3位以内という結果となった[41]。1995年までは男女ともに年齢調整死亡率は全国でも低位5位以内に位置していたが、それ以降から男性は全国平均並、女性は全国平均へと近づきつつある[41]。 『都道府県別生命表』は、国勢調査の結果を基に5年ごとに作成される[42]。沖縄県の女性の平均寿命は1975年の統計以来、2005年まで全国1位の高さを維持していたが、『平成22年 都道府県別生命表』によると女性は初めて1位から3位へ順位を下げた[43]。また男性は1995年の全国4位から、2000年には26位、そして2010年は30位に下落した[44]。前回の2005年調査の平均寿命から比較すると、男性0.76歳増加(全国32位)、女性は0.14歳増加と全国で2番目に低い結果となった[45]。沖縄県によると青年・中年男女ともに生活習慣病を原因とする死亡率が全国平均より高い点を指摘している[46]。厚生労働省によると、女性の順位が下がった要因として挙げられるのは、他の都道府県と比較して、脳血管疾患やがん、または自殺による死亡率の改善が目立っていないと述べている[47]。沖縄県内の医療分野専門の大学教授らは、アルコールの過剰摂取と喫煙による影響、また中年者の食の欧米化による肥満やそれに伴う糖尿病患者が増加し、沖縄の伝統的な生活様式を見直すべきだと指摘されている[48]。 年齢構成 『平成22年度 国勢調査』によると、沖縄県の15歳未満の人口の割合が17.8%と全都道府県で最も高い[7]。また65歳以上の人口比率は17.4%と最も低く、20%以下の都道府県は本県のみで、さらに15歳未満の人口が65歳以上の人口を上回った唯一の都道府県である[9]。さらに15歳から65歳までの人口に対する65歳以上の人口の割合である「老年人口指数」[49]は26.8と全国で最も小さい[50]。平均年齢は40.7歳で全国平均の45.0歳を下回り、都道府県別でも最も若い結果となった[51]。2015年度国勢調査によると、65歳以上の人口比率 (19.6%) が、調査開始以来、15歳未満 (17.4%) を上回った[2]。 2016年の沖縄県による発表によると、2016年9月1日現在、同年9月15日時点における本県の100歳以上の高齢者は1,011人(男性130人、女性881人)で、本土復帰以降の調査で初めて千人を超えた[52]。当発表による県内最高齢は112歳の女性1人で、長寿者上位20名のうち、男性は1人のみであった[52]。本県の人口10万人当たりの100歳以上の高齢者数は、都道府県別で1973年から2009年まで37年連続全国1位であったが、2012年は62.88人と全国5位に後退し[53]、2016年は15位となった[52]。厚生労働省と沖縄県によれば、順位が下がった理由として、沖縄県の出生率が全国で最も高く、人口増加率も高いことが影響しているのではないかと分析している[54][55]。また長寿研究を行っている琉球大学の教授によれば、今回の順位下落により沖縄県における長寿に影響を及ぼすものではないが、高齢者が健康的に暮らせるよう生活の質を高める努力をしなければならないと述べている[56]。 沖縄県内の外国人 表3に沖縄県内に在住する外国人の国籍上位5位と、2005年度と2010年度の国勢調査結果と比較した増加率を示した。2010年度の国勢調査結果によると県内に居住する外国人は7,651人である[57]。前回の2005年度国勢調査と比べて754人(10.9%)増加し、特に中国と韓国・朝鮮籍の外国人の増加が目立つ[58]。外国人の国籍はアメリカ(27.2%)が最多で、また都道府県別の全外国人に占めるアメリカ国籍の割合でも沖縄県が最も高い[59]。その次に中国(17.4%)、フィリピン(14.6%)と続き、他にもBrazil、Indonesia、Thailand、Vietnam、United Kingdom等の外国人も居住している[57]。2015年度国勢調査によれば、沖縄県内の外国人は11,020人で、2010年度より3,369人 (44%) 増加している[2]。 また日米地位協定により米軍関係者は「外国人の登録及び管理に関する日本国の法令の適用から除外される[60]」と規定されているため、国勢調査には在沖米軍の軍人・軍属とその家族は含まれていない[61]。しかし2008年2月22日に、日本政府と在日アメリカ軍は米軍の不祥事対策の一環として、日本国内の各地方自治体の米軍関係者の人数を公表し、2008年1月末現在の在沖米軍の関係者(軍人・軍属・家族)は44,963人で、日本の米軍関係者(94,217人)の48%を占めた[62]。 各市町村の人口統計 概説 古琉球時代から地方の行政区分として間切が存在した。薩摩藩による琉球侵略後に行われた検地に関する資料『琉球国高究帳』によれば、沖縄本島は27の間切と約300の集落で構成されていた。また間切制度が廃止される直前の1906年は那覇区、首里区、45の間切と離島7島で、そして市町村制が導入された戦前の1940年には那覇市・首里市の2市と5町49村、当時私有地であった大東諸島(1946年に村政に施行[63])で構成された。戦後の市町村合併を経て、2009年現在では11市11町19村の計41市町村となっている[64]。 1890年の統計では、城下町で政治の中心地であった首里区の人口は、商業の中心として栄えた港町の那覇区の人口を下回り、那覇区が当時沖縄県で最も人口の多い自治体となった。一方、この頃の那覇・首里以外の沖縄県は農業が主な産業であったため、土壌の肥えた沖縄本島中南部や本部半島に多く人口が分布していた。しかしその後経済活動が活発になると、鉄道整備による交通の要衝として、あるいは工場の設置等による産業の中心地として各地で都市化が進行し、他の農村部との人口格差が拡大していった。戦後、軍道1号線(国道58号)の整備、それに伴って当道路に沿って建設された米軍基地に関連した雇用体制が確立したことで、戦前太平洋側に多かった人口が東シナ海側へ移ったと考えられる。本土復帰以降、沖縄本島北部と沖縄諸島の離島、石垣島を除く先島諸島の人口は減少傾向にある。それに対して、沖縄本島中南部の人口増加は顕著で、国道沿いに市街地が連続して形成するコナベーションが発達している。那覇市の人口は微増だが、その一方で南風原町や豊見城市などの周辺自治体の人口が急増するドーナツ化現象が進んでいる[65]。 『平成22年度 国勢調査』によれば、『平成17年度 国勢調査』と比較した全国市町村別の人口増減率のうち、増加率上位では北大東村(8位)、中城村(10位)、豊見城市(23位)が、また減少率では、座間味村(6位)、渡名喜村(22位)が入る[66]。年齢構成では、全国の市町村別の15歳未満の人口の比率上位20位中14の本県に属する市町村が占め[67]、65歳以上の人口に関しては市部別の下位10位中に浦添市(6位)と豊見城市(8位)が、町村別では西原町(5位)が順位づけされている[68]。総人口に対する人口集中地区人口の割合で、都道府県庁所在地別では那覇市が99.7%と東京都特別区部、大阪市に次ぐ第3位となっている[69]。沖縄県における人口重心の位置は、『平成22年度 国勢調査』によれば「豊見城市役所の西14.0kmの海上」()となり、『平成17年度 国勢調査』により算出された人口重心()から東北東方向へ552メートル移動している[70]。 面積と推計人口 面積[71]は2015年10月1日</b>現在、推計人口[72]は現在の統計結果を表4に示した。 各項目の右端にあるアイコンをクリックすると、その項目の数値が降順または昇順に並べ変えられる。 面積の項目で、境界未定の市町村の面積参考値[71]を、ピンクの背景色で示している。 人口増減率 (%) は、以下の関係式を用いて算出した。 増減率 (%) =(推計人口 - 法定人口)/ 法定人口 × 100 ただし、ここでの法定人口は2015年の国勢調査(確定値)[2]により集計された人口数である。 人口増減率の項目で、人口増は緑字、人口減は赤字で、また絶対値が2.50以上のものは<b data-parsoid='{"dsr":[19438,19446,3,3]}'>太字</b>で示した。 国勢調査による人口統計 各市町村の2015年度国勢調査(確定値)[2]による統計結果を以下の表5に示した。また前回の2010年度の数値も記載した[73]。 人口増減率の項目で、人口増は緑字、人口減は赤字で、また絶対値が5.00以上のものは<b data-parsoid='{"dsr":[38894,38902,3,3]}'>太字</b>で示した。 増減人口は2015年度国勢調査に基づく人口から2010年度国勢調査の人口から差し引いた数値である。また増減率は以下の計算式を用いて算出した。 増減率 (%) = 増減人口 / 2010年度国勢調査結果に基づく人口 × 100 各市町村の2005年度[74]と2010年度国勢調査[73]による統計結果を以下の表6に示した([表示]タブをクリック)。 2005年度と2010年度国勢調査結果に基づく沖縄県各市町村の人口 島しょ別人口 沖縄県に属する面積0.01km2以上の島は160島で、そのうち有人島は49島である。さらに、有人島のうち「沖縄振興特別措置法」第3条第3号に規定する「指定離島」[75]は39となり、残り10の有人島は沖縄本島と、この島と架橋などで連結されている離島である[76]。 指定離島の人口 以下の表は、「指定離島」における、国勢調査結果(一部例外あり)に基づく人口表である。2005年度は『第51回 沖縄県統計年鑑』(2008年)[77]、2010年度は『平成27年1月 離島関係資料』(2015年)[78]を出典としている。 沖縄本島と連結された離島の人口 以下の表8は2000年度と2005年度の国勢調査結果に基づいた、沖縄本島と海中道路や橋などで連結された離島の人口表である。また、表9の「沖縄本島」の人口は、表8の「沖縄本島連結離島」を含む値であるため、差し引いた数値(表中の「(1) - (2)」)を掲載している。ともに出典は『第51回 沖縄県統計年鑑』(2008年)[77]より。 脚注 注釈 出典 参考文献 政府・自治体刊行物 沖縄県企画部統計課編 『第51回 沖縄県統計年鑑』 沖縄県企画部統計課、2008年。 沖縄県企画部統計課編 『第54回 沖縄県統計年鑑 平成23年度版』 沖縄県統計協会、2012年。 沖縄県企画部統計課編 『第58回 沖縄県統計年鑑 平成27年度版』 沖縄県統計協会、2016年。 沖縄県企画部地域・離島課編 『平成27年1月 離島関係資料』 沖縄県企画部地域・離島課、2015年。 厚生労働省編 『平成17年度版 厚生労働白書 -地域とともに支えるこれからの社会保障- 』 株式会社ぎょうせい、2005年。ISBN 4-324-07704-5 厚生労働省大臣官房統計情報部編 『平成24年 我が国の人口動態 -平成22年までの動向-』 一般財団法人厚生労働統計協会、2012年。ISBN 978-4-87511-515-1 厚生労働省大臣官房統計情報部編 『平成22年 人口動態統計 上巻』 一般財団法人厚生労働統計協会、2012年。ISBN 978-4-87511-505-2 厚生労働省大臣官房統計情報部編 『平成22年 都道府県別年齢調整死亡率 人口動態統計特殊報告』 一般財団法人厚生労働統計協会、2012年。ISBN 978-4-87511-536-6 厚生労働省大臣官房統計情報部編 『平成22年 都道府県別生命表』 一般財団法人厚生労働統計協会、2013年。ISBN 978-4-87511-571-7 国立社会保障・人口問題研究所編 『日本の将来推計人口 平成24年1月推計』 一般財団法人厚生労働統計協会、2012年。ISBN 978-4-87511-531-1 国立社会保障・人口問題研究所編 『日本の地域別将来推計人口 平成25年3月推計』 一般財団法人厚生労働統計協会、2014年。ISBN 978-4-87511-597-7 総務省統計局編 『平成22年国勢調査報告 最終報告書 日本の人口・世帯 (上巻 - 解説・資料編)』 一般財団法人日本統計協会、2014年。ISBN 978-4-8223-3770-4 総務省統計局編 『平成22年国勢調査報告 最終報告書 日本の人口・世帯 (下巻 - 統計表編)』 一般財団法人日本統計協会、2014年。ISBN 978-4-8223-3771-1 総務省統計局編 『平成17年国勢調査 全国・都道府県・市区町村別人口及び世帯数(確定数)』 財団法人日本統計協会、2007年。ISBN 978-4-8223-3190-0 内閣府編 『平成24年度版 子ども・子育て白書』 勝美印刷株式会社、2012年。ISBN 978-4-906955-02-2 その他文献 沖繩大百科事典刊行事務局編 『沖繩大百科事典』 沖縄タイムス社、1983年。 仲田邦彦 『沖縄県の地理』 編集工房東洋企画、2009年。ISBN 978-4-938984-68-7 安里進、高良倉吉、田名真之、豊見山和行、西里善行、真栄平房昭 『沖縄県の歴史』 山川出版社、2004年。ISBN 4-634-32470-9 朝日新聞社 『朝日新聞縮刷版 2008年2月 No.1040』 朝日新聞社、2008年。 朝日新聞社 『朝日新聞縮刷版 2010年9月 No.1071』 朝日新聞社、2010年。 朝日新聞社 『朝日新聞縮刷版 2013年3月 No.1101』 朝日新聞社、2013年。 毎日新聞社 『毎日新聞縮刷版 平成22年9月 No.729』 毎日新聞社、2010年。 毎日新聞社 『毎日新聞縮刷版 平成24年9月 No.753』 毎日新聞社、2012年。 毎日新聞社 『毎日新聞縮刷版 平成25年3月 No.759』 毎日新聞社、2013年。 関連項目 沖縄県 那覇都市圏 沖縄都市圏 中南部都市圏 日本の人口統計 都道府県の人口一覧 日本の市の人口順位 日本の町の人口順位 日本の村の人口順位 外部リンク - 沖縄県企画部統計課 - 総務省統計局 - 沖縄県
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
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錦織圭の通算成績一覧
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錦織圭の通算成績一覧</b>は日本のテニス選手錦織圭の成績一覧である。 主要大会決勝 グランドスラム決勝 シングルス: 1 (0タイトル, 1準優勝) マスターズ1000決勝 シングルス: 4 (0タイトル, 4準優勝) オリンピックメダル シングルス: 1 (銅メダル 1) ATPツアー決勝進出結果 シングルス: 26回 (12勝14敗) ダブルス: 1回(0勝1敗) ATPチャレンジャーズ&ITFフューチャーズ 成績 KeyWFSFQF#RRRQ#APZ#POGF-SSF-BNMSNH(W) Won; (F) finalist; (SF) semifinalist; (QF) quarterfinalist; (#R) rounds 4, 3, 2, 1; (RR) round-robin stage; (Q#) qualification round; (A) absent; (Z#) Davis/Fed Cup Zonal Group (with number indication) or (PO) play-off; (G) gold, (F-S) silver or (SF-B) bronze Olympic medal; a (NMS) downgraded Masters Series/1000 tournament; (NH) not held. SR=strike rate (events won/competed) To avoid confusion and double counting, these charts are updated at the conclusion of a tournament or when the player's participation has ended. 4大大会 ※不戦勝・不戦敗は通算成績に含まない。[1] 年間最終戦 オリンピック ATPワールドツアー・マスターズ1000 ※不戦敗は通算成績に含まない[2]。 500シリーズ・250シリーズ 全米オープンシリーズ 世界ランキング ATPツアー賞金 年4大大会ATPタイトル合計賞金 ($)ランク2014044$4,439,218[3]6[4]2015033$3,302,055[5]8[5]2016011$4,806,748[6]5[6]2017000$1,441,870262018000$3,789,255[7]10[7]2019011$424,132[8]7[8]通算*01212$22,097,518[9]14[9] *2019年全豪終了時 4大大会シード 主な対戦成績 太字</b>は世界ランク1位在位者。 現役選手 最高位1~10位 最高位11位以下 5回以上の対戦がある選手と日本人選手を記載する 引退選手 世界トップ10選手勝利記録 デビスカップ 出場: 23 (20–3) オリンピック全成績 シングルス ダブルス 脚注 外部リンク at the Association of Tennis Professionals at the International Tennis Federation
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E7%B9%94%E5%9C%AD%E3%81%AE%E9%80%9A%E7%AE%97%E6%88%90%E7%B8%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7
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アベノミクスはGDP成長に貢献した?
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アベノミクス(English: Abenomics)とは、自由民主党の政治家・安倍晋三が第2次安倍内閣において掲げた一連の経済政策に対して与えられた通称である[1]。少数ながら表記揺れに「アベノミックス[2]」「安倍ノミクス[3]」がある。主唱者である「安倍」の姓と、経済学・経済理論の総称である「エコノミクス/エコノミックス([† 1][† 2][4])」とを合わせた造語[5](混成語)[† 3]。英語・フランス語・ドイツ語ではAbenomics[6][7][8][9]、ロシア語ではАбэномика(アベノミカ)と表記される。なお、国際的にはAbeconomics(アベコノミクス)と呼ばれることもある[10]。 概要 アベノミクス</b>は、第1次安倍内閣における経済政策の総称として命名されたが、その後の第2次安倍内閣の経済政策とは基本的なスタンスが異なっていた。当初の「アベノミクス」は、財政支出を削減し公共投資を縮小させ、規制緩和によって成長力が高まることを狙った「小泉構造改革」路線の継承を意味するものであった。この言葉は、第1次安倍内閣当時の自由民主党幹事長・中川秀直による造語であり[11]、メディアに売り込んでいたともされる[12]。 「近いうち解散」と呼ばれた2012年(平成24年)11月の衆議院解散前後から朝日新聞が使用したことをきっかけ[13]に多用され始めた言葉であるともされるが、「アベノミクス」「三本の矢」という呼称自体は既に2006年(平成18年)時点で、第1次安倍内閣当時の自由民主党幹事長・中川秀直が使用した例が確認されている[14][15] 第2次安倍内閣では新たに、デフレ経済を克服するためにインフレターゲットが設定され、これが達成されるまで日本銀行法改正も視野に入れた大胆な金融緩和措置を講ずるという金融政策[16][17]が発表された。これら一連の経済政策が、第40代のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンの経済政策として名高い「レーガノミクス ()」にちなんで、アベノミクス</b>と総称されるようになったともされる[18]。 安倍首相は、2013年9月26日にニューヨーク証券取引所での講演で「Buy my Abenomics(アベノミクスは『買い』だ)」と述べている[19][20]。また同年12月30日の東京証券取引所の大納会でも、「来年もアベノミクスは買いです」と述べた[21]。 「アベノミクス」は2013年新語・流行語大賞のトップテンに入賞し、安倍首相自らが受賞した[11]。 年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)と日本銀行が、東証一部に上場する企業のうちおよそ半数の約980社で事実上の大株主となっていることが、朝日新聞・東京商工リサーチ・ニッセイ基礎研究所の調べでわかった[22]。 韓国経済新聞は2012年末のアベノミクス施行後に日本の名目国内総生産は2012年の494兆円からアベノミクス施行された2017年までの5年間で過去最大となる549兆円に増加したこと、5年間に就業者数は270万人増加と失業者の110万人減少、2017年時点で失業率は2.8%で最も低い水準になったこと、景気拡張傾向が61カ月連続で続き過去2番目の長期好況を経験しているとして、日本経済は「失われた20年」の軛から抜け出したという評価を聞くほど回復基調が明確だと述べている[23]。2000年代まで海外に工場などを移していた大企業から中小企業まで規模や業種を問わず企業の「本国復帰」が2015年以降からブームとなっている。2015年の1年間で日本企業724社が製造本国回帰したことが就活生が職場を選ぶ「売り手市場」の原動力となっている。2017年には製造業による雇用が戻ってきてかつての1000万人を越えた[24][25]。大韓民国の聯合ニュースはアベノミクスについて、2012年末から6年間で名目国内総生産(GDP)が12%以上も増加し、就業者数が251万人増加、2018年7月時点で日本の失業率は完全雇用の状態とされる2.50%まで低下させたと説明している[26]。 内容 アベノミクスの「三本の矢」 アベノミクス</b>は、下記の「三本の矢」を、経済成長を目的とした政策運営の柱に掲げている[27]。 大胆な金融政策 機動的な財政政策 民間投資を喚起する成長戦略 個別の政策としては、それぞれの矢として下記などが提示、あるいは指摘されている。 大胆な金融政策 2%のインフレ目標[16][17][28] 無制限の量的緩和[17][28] 円高の是正[17][† 4]と、そのための円流動化 日本銀行法改正[17][† 5] 機動的な財政政策 大規模な公共投資(国土強靱化)[17] 日本銀行の買いオペレーションを通じた建設国債の買い入れ・長期保有[29]、ただし国債そのものは流動化 民間投資を喚起する成長戦略 「健康長寿社会」から創造される成長産業[30] 全員参加の成長戦略[30] 世界に勝てる若者[30] 女性が輝く日本[30] 論文 2014年6月30日、安倍首相はフィナンシャル・タイムズ紙に、「私の『第3の矢』は日本経済の悪魔を倒す」と題した論文を寄稿し、経済再建なしに財政健全化はあり得ないと述べ、日本経済の構造改革を断行する考えを表明している[31]。改革の例として、 法人税の引き下げ。2014年に2.4%引き下げ、数年で20%台に引き下げ。 規制の撤廃、エネルギー・農業・医療分野の外資への開放。 働く母親のために家事を担う外国人労働者の雇用。 を挙げた[31]。また、2014年4月の消費税増税については「影響は限定的である」と述べている[31]。 同年8月9日、安倍首相は月刊誌「文芸春秋」9月号に「アベノミクス第二章起動宣言」と題した論文を寄稿し、「経済成長こそが安倍政権の最優先課題」としてデフレ脱却に向けた決意を表明、地方振興・人口減少対策に全力を挙げる考えを示した[32]。 組織 経済政策を進めるために、経済財政政策担当相・甘利明の下に日本経済再生本部を設け、さらにその下に経済財政諮問会議、産業競争力会議を設置している。 アベノミクスの「第四の矢」 2013年5月28日の経済財政諮問会議では、経済財政政策担当大臣の甘利明が財政健全化をアベノミクスの「第四の矢」に位置づけたという[33][34]。しかしこの発言は、同日の経済財政諮問会議議事要旨にはない[35]。自由民主党の野田毅税制調査会長は「アベノミクスは消費税率引き上げを前提に成り立っている」と表明している[36]。 財政健全化をアベノミクスの「第四の矢」とすべきかについては、大和総研理事の木村浩一は賛成[37]し、第1次安倍内閣で経済政策のブレーンの一人であった経済学者の高橋洋一は反対[34]している。 2013年10月7日、安倍首相はアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議で講演を行い、消費税率の引き上げを決断したことを踏まえ「財政の健全化を図り、国の信認を維持することは、経済再生を進めていく上で不可欠であり、財政再建は私の成長戦略と車の両輪をなすものだ」として、経済成長と財政再建の両立を図る考えを強調している[38]。 財政健全化以外の政策・事象をアベノミクスの「第四の矢」とすべきだという意見もある。ジャーナリストの長谷川幸洋は、政府データの公開(オープンデータ)こそ、第四の矢になりうると主張している[39]。日本経済新聞編集委員の田中陽は、2013年7月参議院議員選挙前の猛暑を「第四の矢」としている[40]。 2013年9月7日、安倍首相は2020年夏季五輪の東京開催が及ぼす経済効果について、「経済、成長、ある意味で『第4の矢』の効果はある」と述べている[41]。 アベノミクスの新「三本の矢」 2015年9月25日の自由民主党総裁選挙で再選した際の記者会見で、安倍首相は、2015年からの3年間を「アベノミクスの第2ステージ」と位置づけ、「一億総活躍社会」を目指すと発表した[42]。その具体策として下記の新しい「3本の矢」を軸としている。 希望を生み出す強い経済[43] 夢を紡ぐ子育て支援[43] 安心につながる社会保障[43] 組織 安倍首相は、2015年10月の第3次安倍晋三改造内閣発足時に、アベノミクスの第2ステージとして、新設の一億総活躍担当大臣・加藤勝信の下に一億総活躍国民会議を設け、「ニッポン一億総活躍プラン」を推進していくと発表している[44]。 2016年8月3日の第3次安倍晋三第2次改造内閣発足時、安倍首相は、一億総活躍社会実現を目指し、働き方改革担当大臣を設置した。また同年9月26日には内閣総理大臣決裁により働き方改革実現会議を設置した[45]。 背景 国内の経済の状況 1990年代初頭のバブル崩壊を直接の発端とし、1997年の消費税増税やアジア金融危機を経て顕著になったデフレーションによって停滞した日本経済は、失われた10年、さらには失われた20年を経験した。20世紀以降の先進国において、20年以上もの長期にわたって年率1%以下の低成長が続いたという事実は、近現代史上きわめてまれである。 1997年4月1日、第2次橋本内閣は、3年前の1994年11月25日に村山内閣が成立させた税制改革関連法案に基づき、消費税率を3%から5%に引き上げた。ところが元来財政再建のための増税であったはずが、翌1998年度の一般会計税収は前年度比4.5兆円減少し、増税前の1996年には3.1%を記録した経済成長率も1998年には前年度比2.2%低下してマイナス成長に転じる結果となった。しかもその後の小渕内閣の緊急経済対策と重なって、国債発行額は18.5兆円(1997年)から翌1998年以降、30兆円超へと一気に倍増した[46][47]。1997年までは増加し続けていた年間平均賃金も、消費税率の5%への引き上げを契機に、名目GDPよりも急速な減少に転じた。 2012年8月10日、野田第2次改造内閣において、社会保障のための安定財源の確保のため2014年に消費税率を5%から8%へ、さらに2015年には10%への引き上げを盛り込んだ、社会保障・税一体改革関連法案が可決・成立した[48][49]。 アベノミクスは、このような推移を背景として、長期にわたる経済停滞を打破しようとして生まれた。議員連盟「アベノミクスを成功させる会」の前身は、「デフレ・円高解消を確実にする会」である[50]。 日本国外の経済動向 それまで日本のマーケットは、米国の株価に左右される動きではあるが、米国の大企業が好決算を出していたものの、日本のGDPが上がらず、主力株である銀行や鉄鋼などが低迷したままの状態であった。特に輸出関連のメーカーなどは30年前の株価まで下落する状況であった。グローバルな経済の後退の間、2009年の分離して5.2%の損失をもって続いた、2008年に日本は実質GDPにおける0.7%の損失を被った。対照的に、2008年の世界の実質GDPの成長のそのデータは2009年の0.7%の損失に続く3.1%の上昇だった。[51]2008年から2009年にかけて(アメリカへの)日本からの輸入は27%の縮小の、7465億合衆国ドルから5453億合衆国ドルへと縮んだ。[52]2013年をもって、日本の名目GDPは日経平均株価指数がそれの3番目のピークだったときの、1991年と同じような水準だった[53]。 前政権の政策 民主党政権において数回、円売りドル買い介入をしたものの円高や株安は改善されなかった。2012年に、野田内閣は国の予算のバランスのために2014年に8%そして2015年に10%へ消費税を引き上げるようなひとつの法案を通した[54]。この消費税増税は、消費をより低迷させる一要因となるものと推測された[55]。 アベノミクスのイデオロギー的基礎 安倍の経済政策はもちろん中国の経済的かつ政治的な力の台頭に関係する。アベノミクスと明治時代の富国強兵のプログラムの間の明白な平行性を安倍の支持者は比べる。加えてアジア―太平洋地域での中国に対するより強力な平衡力を与えて、日本の経済を強くすることは、防衛のためのアメリカ合衆国に対して頼ることを減らす積もりでもある。[56] 1994-1999年の日本の経済の概観[57] 注:名目GDPは2006年の市場価格での値 政府の動向 政府政策・方針等の公式表明 2013年2月28日 第183回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説[58] 2013年4月19日 安倍総理「成長戦略スピーチ」@日本プレスクラブ[30] 2013年5月17日 安倍総理「成長戦略第2弾スピーチ」@日本アカデメイア[59] 2013年6月5日 安倍総理「成長戦略第3弾スピーチ」@内外情勢調査会全国懇談会[60] 2013年6月14日 「日本再興戦略-JAPAN is BACK-」を閣議決定[61] 2013年10月1日 安倍総理「安倍内閣総理大臣記者会見」[62] 2013年12月24日、政府は12月の月例経済報告を公表し、物価について「底堅く推移している」として、4年2カ月ぶりに「デフレ」の文言をなくした[63]。ただし、「デフレ脱却宣言」は見送った[64]。 2014年4月17日、政府は4月の月例経済報告で、景気の基調判断を1年5カ月ぶりに下方修正した[65]。 閣僚の発言 2013年1月22日、閣議後の会見で、財務大臣麻生太郎は「円高がだいぶ修正されつつある」との認識を示した[66][67]。 同年1月28日の臨時閣議後の記者会見で、甘利明経済財政・再生相は、円安誘導との批判がある安倍政権の経済政策について「(ダボス会議で)説明後に、この政策に対して危惧を持っているという発言は無かった」と述べ、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)ではおおむね理解を得られたとの認識を示した[68][69]。甘利経済財政・再生相はIMF、OECDなど国際機関の責任者や民間の識者から日本の政策を支持する声が「相次いだ」と説明している[69][70]。また、円安誘導との批判については「ごく一部の国からだ」と指摘し、ドイツや韓国、中国を挙げた[68][69]。 同年2月9日、財務大臣の麻生は円安について、進みすぎだと発言している[71]。また円安のペースは速すぎるとの認識を示している[72]。 同年2月22日、安倍首相はバラク・オバマ米大統領との首脳会談後の記者会見で、「アベノミクス」について、オバマ大統領が「歓迎した」と明らかにし、「日本経済の再生が日米両国、さらに世界に有意義であるとの認識を共有した」との認識を示した[73]。安倍首相はオバマ大統領が「安倍政権がとった大胆な政策が日本国民に評価されていると認識している」と応じたと述べている[74]。 同年10月1日午後、安倍首相は、官邸で開かれた政府与党政策懇談会で、2014年4月に消費税を8%に引き上げると表明し「経済政策パッケージの実行により、消費税率を引き上げたとしても、その影響を緩和することができ、日本経済が再び成長軌道に、早期に回復することが可能と考えている」と述べた[75]。同日、安倍首相は、首相官邸で記者会見し、2014年4月から消費税率を8%に引き上げる決定を発表し「社会保障を安定させ、厳しい財政を再建するために財源の確保は待ったなし」と述べ、増税に理解を求めた[76]。「経済再生と財政健全化は両立し得る」と強調し、5兆円規模の経済対策を実施する方針を示した[76]。 同年10月11日、麻生財務相は、アメリカのワシントンで開かれたG20財務相・中央銀行総裁会議後の者会見で、2014年4月の消費税率の8%への引き上げについて「日本が国際的にコミット(約束)してきた財政健全化目標の達成に向けた大きな一歩。各国の評価を得られた」と述べた[77]。 2014年1月24日、甘利経済財政・再生相は、衆参両院本会議での経済演説で「もはやデフレ状況ではない」と述べた[78]。 同年4月1日、消費税率の3%引き上げ(8%)を実施。安倍首相は首相官邸で記者団に「やっと手に入れたデフレ脱却のチャンスを手放すわけにはいかない」と述べた[79]。 同年4月8日、甘利経済財政担当相は閣議後の記者会見で、税率引き上げから1週間が経過した消費税増税の影響について「大きく消費が落ち込むという状況にはなっていない。想定内に収まっているのではないか」との認識を示した[80]。また、茂木敏充経済産業相も閣議後会見で、駆け込み需要の反動減に関して「想定を超える反動減は生じていない」と述べた[80]。 同年4月16日、副総理・財務相の麻生は午前の衆院財務金融委員会で、約130兆円の公的年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF) について「6月以降に動きが出てくる」とし、株式市場で「そうした動きがはっきりすれば、外国人投資家が動く可能性が高くなる」と述べた[81]。 同年7月11日、麻生財務相は閣議後の会見で、2015年度の予算編成に関連し、「何が何でもプライマリーバランスの赤字半減達成が優先順位の一丁目一番地」と述べ、財政健全化目標の実現が最優先課題との認識を示した[82]。 同年8月18日、谷垣禎一法相は、自民党有隣会の研修会での講演で、2015年10月に消費税率10%の引き上げを予定通りすべきとの考えを示し「10%にもっていけない状況が生まれれば、『アベノミクス』が成功しなかったとみられる可能性がある」と述べた[83]。 2016年1月4日、安倍晋三は年頭記者会見にて、アベノミクスが国及び地方の税収増をもたらしたと述べる[84]。。 2017年1月20日、安倍晋三は施政方針演説で、「確実に経済の好循環が生まれている」と述べ、今後の方針についてはこれまでと変わらず「経済再生と財政再建、社会保障改革の3つを同時に実現しながら一億総活躍の未来を切りひらく」と発言[85]。 2017年12月13日にブルムバーグ紙のジェームズ・メーガは、一億層中流化は既に過去の話であり、アベノミクスの所為で格差拡大を助長していると、賃金がほぼ上昇していないことや東京のみがアベノミクスの果実の恩恵に預かっていることなどを含めて指摘した。[86] 内閣参与 2013年11月15日、浜田宏一内閣官房参与は講演で2014年4月からの消費税率の引き上げについて「私を含めて慎重派の説得力が財務省の説得力に打ち勝てなかった」と説明し「日銀の黒田東彦総裁は(追加の)金融政策を発動すると期待しており、心配していない」「黒田総裁が積極的に消費税を上げろと言ったのだから、責任とって金融政策はちゃんとやってもらわなければ困る」と述べている[87]。また、アベノミクスの三本の矢を大学の通知表にならって採点すると「金融緩和はAプラス、財政政策はB、成長戦略の第三の矢はE(ABE)」としている[88]。 2014年9月1日、本田悦朗内閣官房参与は「消費増税は消費や投資に冷や水をかけ(成長)縮小効果がある政策」とし「消費増税とアベノミクスは逆を向いている。今はアベノミクスに集中すべきである」と指摘している[89]。本田は、消費税の再増税の判断は「アベノミクスの成功に対して、非常に大きな影響を与える」と述べ、政策を失敗すれば景気腰折れにつながりかねないとしている[89]。 2014年11月3日、浜田宏一は都内の会見で2014年10月の消費税率10%への引き上げについて「1年半延ばす意見に同調する」との考えを示し、2014年4月の消費増税について「打撃が大きく、日本経済はふらついている」「増税を決定するには状況は非常に悪い」と述べた[90]。 2014年11月17日、本田悦朗はロイターのインタビューで、内閣府が発表した7-9月期のGDP速報値について「ショッキングであり、もはや消費税増税を議論している場合ではない。日本経済を支えるため、経済対策に議論を集中すべきである」と述べた[91]。 経済の動向 2012年(平成24年)11月14日、2日後の11月16日に衆議院解散(近いうち解散)をして12月に総選挙を行うことが決まったため、自民党の政権復帰が視野に入ると共に円安・株高現象が起こった[92][93][94]。安倍首相が11月15日、デフレ脱却・無制限の量的緩和策を打ち出したことで、日経平均株価と円安の動きが連動した[95]。そして選挙戦に事実上突入して以降は株高・円安がさらに加速したことで「アベノミックス」「安倍トレード[96][97][98]」「安倍バブル[99]」「安倍相場[100]」「アベ景気[101]」「アベノミクス景気[102]」という言葉をマスメディア等が使い始めた。 円安になると円換算の売上が増えて輸出競争力が付き、為替差益が生ずるため、実際に増収増益となる。そのため、マーケットは思惑買いから先取りした相場展開となり、第2次安倍内閣の発足以前から市場が動いて株式市場において株価上昇効果が出た[103]。 第2次安倍内閣発足から2014年3月迄は、2014年4月からの消費増税引上げによる駆け込み需要の影響で、毎月の個人消費は若干増加傾向にあったものの、引き上げ以降は落ち込み、毎月の消費支出は、15年前の小泉政権発足時以降で、最も大きい減少率となる[104]。 2013-2014年 日経平均株価は、2013年3月8日にリーマン・ショック前の水準へ戻った[105]。同年5月10日(日本時間、未明)には4年1ヶ月ぶり1ドル100円を記録した[106]が、同年5月23日場中につけた最高値を境に、2週間で3000円近く下がり、2か月分の上昇を打ち消した。安倍首相が発表したアベノミクスの「第3の矢」とされる「成長戦略」が事前に報道された内容に留まった上、実現への具体策も乏しいと市場に受け止められ、失望売りが膨らんだとみられた他[107][108][109]、。 2014年10月31日、アベノミクスに基づいて日銀がマネタリーベースを年80兆円に拡大する追加金融緩和を発表した。この発表は事前に予想されていなかったサプライズ緩和であった[110]。 2014年12月15日、日銀が発表した12月の企業短期経済観測調査は、3か月後の景気の見通しを示す先行きの業況判断指数が大企業、中堅企業、中小企業の規模を問わず、製造業、非製造業ともに悪化した[111]。 2013年にタイ、マレーシアからの観光客に対してビザを免除し、2014年にはインドネシアからの観光客のうちICチップ入りパスポートを所持する人についてもビザを免除するなど、訪日外国人旅行客の誘致も積極的に推進され、2013年は1036万人と初の訪日外国人旅行者数の1000万人超えを達成、2014年は1341万人を記録し、前年の過去最高記録を更新した。また、2014年の訪日旅行客が使った金額も過去最高となる2兆305億円を記録した[112]。 2014年の勤労者世帯実収入は前年比 実質3.9%減、名目0.7%減となり、2人以上世帯の消費支出(実質)は前年比 2.9%減、消費支出(除く住宅等)は前年比 2.5%減となった[113]。日本経済新聞は、4月の消費税の引き上げの影響によるものと見ている[114]。 2015年 2015年4月10日、日経平均株価が15年ぶりに一時2万円を記録した[115]。同月22日には、輸出の増大と輸入の減少により同年3月の貿易収支が2年9ヶ月ぶりに黒字を記録した事が発表された事などにより、終値でも2万円超えを記録した[116][117]。 2015年5月28日、円安ドル高の加速を受けて日経平均が終値で2万551円を記録、27年ぶりに日経平均株価が10日連続で続伸した[118]。 2015年1月の時点で日本銀行総裁を務める黒田東彦は、2年間で2%のインフレ目標達成は困難になったと認め、2%のインフレ誘導実現は2016年3月になるだろうと述べた。指標となるコアCPIは2014年11月の時点で0.7%であり、その年4月に施行された消費税率引き上げを境に下落基調となっている。黒田は2013年4月の時点で、あらゆる手段を用いてその2%のインフレ目標を実現させると宣言していた[119]。黒田は持続的な物価上昇には賃金上昇が必要との意見に同意した上で、2015年4月に行われるであろう労組と企業の間での賃上げ交渉の動向を見守ると示唆した[119]。また、いまだデフレからの脱却ができていない事実について、人工衛星を打ち上げて安定軌道にのせるにはより大きな脱出速度が必要になるのだと述べた[120]。 2015年の実質賃金指数は速報値で前年比0.9%減となり、4年連続でマイナスとなった[121]。このうち3年間はアベノミクスが推進された期間と一致する[121]。政府主導によるベアで名目賃金は増加したものの、それ以上に金融緩和に伴う円安による輸入物価の上昇などの影響が大きいとみられる[121]。 2015年の総世帯の家計調査で1世帯当たりの実質消費支出が前年比2.7%減(速報値)となり、2014年に続き2年連続の減少となる[122][123]消費支出の水準は、比較可能な2000年以降で最低だった[124]。 2016年 2016年1月29日、日本銀行の黒田総裁は日本の歴史上初のマイナス金利導入を発表した。 2016年通年では、正規職員・従業員は、前年から51万人増加し3355万人となった。一方、非正規職員・従業員は、前年から36万人増加し2016万人となった。前年度比では、正規職員・従業員は1.5%増加、非正規職員・従業員は1.8%の増加となる[125]。 2016年9月、日銀は「総括的検証」に基づき、従来の枠組を変更した上で、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」へ金融政策を変更した[126]。 2016年11月18日、消費税率10%への引き上げを2017年4月から2019年10月に再延期する税制改正関連法が参議院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決、成立した[127]。 2016年の実質賃金指数は速報値で前年比0.7%増となり、5年ぶりに上昇となった。一方で、16年12月の実質賃金は前年同月比0.4%減となり15年12月以来1年ぶりに減少した[128]。 2016年の総世帯の家計調査で1世帯当たりの実質消費支出が前年比1.7%減(速報値)となり、3年連続の減少となった[129]。 2017年 2017年2月17日、総務省は2016年の実質消費支出が前年比1.8%減と発表した[130]。 2017年5月11日、財務省は2016年度の経常収支は20兆1990億円の黒字となったことを発表した。年度累計の黒字額が20兆円台に乗せたのは2007年度以来9年ぶりとなる。一方、16年暦年の対米収支は、円高に伴う輸出額の減少で5年ぶりに黒字額を縮小した[131]。 2017年12月25日、日経平均株価は終値で2万2939円18銭の年初来高値をつけた。1992年1月9日以来およそ26年ぶりの高値[132]。 2018年 2018年1月23日、日経平均株価は終値で2万4124円15銭をつけた。約26年ぶりの2万4000円台の回復[133]。 2018年2月7日、厚生労働省は物価変動の影響を除いた2017年通年の実質賃金は16年に比べて0.2%減ったと発表した。2年ぶりのマイナスとなる。名目賃金にあたる現金給与総額は0.4%伸びたものの、物価の伸びに賃金の伸びが追いついていないと報じられている[134]。 2018年2月16日、総務省は2017年の実質消費支出が前年比0.3%減と発表した。マイナス幅は前年の1.7%より縮まったが、4年連続の減少となる[135]。 分析 財政緊縮政策 安倍晋三の貨幣主義の助言者の、浜田宏一は、ジェフリー・フランケルのように経済学者が毎年の1パーセントの税率の段階的な引き上げを提案した[136]ことを付け加えた上で、予定された消費税の引き上げは長い景気後退とデフレーションからの復活を始めたようなものである日本の経済を傷つける恐れがあることを警告した。彼は日本へマンデルフレミングモデルを適用することで、日本銀行による金融緩和はそれの負の効果を帳消しにできることを予測する、しかしながら浜田は税の引き上げの効果について心配する。 国内の通貨の引き下げはもしマーシャル・ラーナー条件に合っていればそれの輸出を上げられる。もしそうでなければ、貿易のバランスは初めから悪化しだす。 2011年の福島での悲惨な出来事以来、日本のすべての原子力発電所は閉鎖されつづけてきた。失った電気の発電を補うために、弱い円によっていくぶん国の貿易の損失を悪化させるものである、化石燃料を日本は余計に輸入した。[137]電力のコストの上昇は国内の産業を傷つけ、そして経済を上げることについて妨げるかもしれない。しかし石破茂は、国民が原子力発電なしに電力供給できることに気付きつつあったことを言った。このように、発電所の再稼動はいまだ論争中である:ある全国的な世論調査は76パーセントは原子力発電に反対であるかまたは日本に核エネルギーにおけるその信頼を減らすよう求めることを示し、仙台市に近いコミュニティーのようないくつかの地域でのあいだ[138]での、原子力発電施設が仕事を生み関係した補助金が交付されるところでは、その発電所の再稼動は広く支持された。原子力発電なしには、化石燃料における大きな依存とそして輸入において増大する信頼にしたがって、そのマーシャル・ラーナー条件は合わないだろう。 議論 富裕層への減税 支持 浜田宏一はその経済効果におけるトリクルダウン効果をもったことを主張するアベノミクスからの大企業や富裕層だけが利益を得ているのを批判することに反対した。日本が投資を引き寄せるためには(現行の)35%の法人税を24%にまで引き下げることが必要だと言った。[139] 批判 日本の若年層を助けるためにその課税体系を変える必要があるとトマ・ピケティは言った。そのことは世界の大きな第三世界の経済は富裕層や企業に10%から20%まで課税すべきであることを示唆する。[140]富の再分配はアベノミクスの第4の矢になりうると彼は見ている。国内での不平等を低下させるにはVAT[141]の引き上げは悪い方法だったことも、彼は付け加える。 合衆国やイギリスで、富裕層への減税がなされていたとしても、大企業は彼らの雇用を引き上げるのに使うのではなく、それを彼ら個人の利得として使いたがるだろう、ことをジョセフ・スティグリッツは示唆した。[142] 野党の反応 アベノミクスをめぐる論戦で野党は二極化し、競争原理を重視する小さな政府を目指すみんなの党と日本維新の会は方向性には同調しつつ、規制改革の踏み込みが足りないと主張している[143]。一方で、民主党・生活の党・日本共産党・社会民主党は格差拡大を助長するとの見方から、アベノミクスの方向性を批判している[143]。 民主党は「賃上げ無き物価上昇、格差の拡大、国債の金利の乱高下などの副作用が生じている」と副作用を指摘している[144]。みんなの党は規制改革が不十分なことについて「古い自民党体質の政治が露呈していることの表れであり、アベノミクスの欠点」と主張したが、総論としての批判はしていない[144]。日本共産党は「国民の所得を直接増やす『矢』がない。国民の所得を減らして奪うものばかり」と富裕層が豊かになれば国民も豊かになるとする、いわゆる「トリクルダウン理論」を批判している[144]。 日本維新の会 2013年2月12日、日本維新の会の石原慎太郎共同代表は衆議院予算委員会において「何としてもアベノミクスを成功させて欲しい」と要望し[145]、「日本の国家の会計制度に懸念を持っている。これを合理化して企業並みにしないと、アベノミクスのバリアになる。この国には健全なバランスシート、財務諸表がない。国は何で外部監査を入れないのか。アベノミクスを成功させるためにも会計制度を一新させる必要がある。会計制度を変えると税金の使途がハッキリ分かる」と提言を行った[146][147]。 後継政党である維新の党も基本的には、アベノミクスを評価しており、「全否定はしないが、普通の暮らしをしている人たちの生活をどう支えるかが足りない」と指摘し、「イシンノミクス」を打ち出した[148]。 みんなの党 2013年2月5日、山内康一みんなの党国対委員長は、衆議院本会議において、安倍首相が掲げる公共事業について「特定の産業を育成するのは社会主義計画経済的な発想だ。経済政策は保守主義の王道から外れるのではないか」と述べた[149][150]。 新党改革 新党改革の荒井広幸代表は、アベノミクスについて「効果があると、大勢のみなさんが感じておられる。民主党の沈滞、停滞の時に戻していいかと思っている。」と述べ、家庭にもアベノミクスの恩恵が行くようにしないといけないとして[151]、アベノミクスを補強する手段として「家庭ノミクス」を提唱した[152]。 次世代の党 次世代の党は、第47回衆議院議員総選挙のマニフェストのなかで、アベノミクスについて「基本的方向性は是とするが、軌道修正が必要」とした[153]。「次世代ミクス」として、金融政策への過度の依存是正や、消費税増税の延期、道州制などの規制改革などを主張した[154]。 民主党 2012年12月24日、民主党代表の海江田万里は安倍首相が掲げる金融緩和について「学者の中にもいろんな考え方がある。国民生活を学説の実験台にしてはいけない」と述べ、対決姿勢を示した[155]。同年12月25日、民主党新代表に選出された海江田はアベノミクスに潜む危険性を予算委員会で指摘した[156]。記者会見では「公共事業の大盤振る舞いは古い考え方」と批判し、金融政策について「日銀の独立性が損なわれるような政策は中銀や円の信任にかかわり、様々な副作用が予想される」と語った[157]。 野田佳彦元首相は「何でも日銀に責任をかぶせるやり方だ。国際社会では通用しない」と述べアベノミクスを批判した[158]。首相時代に野田は安倍総裁の金融政策に関する発言について「安倍さんのおっしゃっていることは極めて危険です。インフレで喜ぶのは株・土地を持っている人。一般庶民には関係ありません。借金を作ってそんなことをやってはいけない」「金融政策の具体的な方法まで言うのは、中央銀行の独立性を損なう」と批判していた[159][160][161]。 2013年1月30日、衆院本会議で海江田万里は、財政政策について「公共事業に偏重した旧来型経済政策は効果に乏しく、財政赤字を膨らませてきた」と批判。物価上昇2%を目標とする金融緩和策に関しても「国民生活への副作用も無視できない」と懸念を示し、「景気回復が一過性なら、雇用や給与はほとんど増えない可能性がある」と指摘し、実質賃金の引き下げなどにつながりかねないと疑問を呈した[162][163][164][165]。 2月7日、民主党の前原誠司は衆院予算委員会において、デフレの背景として、日本の人口減少が影響していると指摘、これに対し安倍首相は「人口減少とデフレを結びつける考え方を私はとらない。デフレは貨幣現象であり、金融政策で変えられる。人口が減少している国は他にもあるが、デフレに陥った国ない」と答えた[166][167]。これに対して前原誠司はさらに「日本を他の国と比べることは出来ない。他の国との大きな違いとして、日本には莫大な財政赤字ある。人口が減っていくという事は国民一人当たりの負担が増えていくという事ではないか」と応じた[168]。 2月12日、民主党の後藤祐一は衆院予算委員会において「三本の矢は我々民主党が言い出し、三本を一体でやっていこうと主張しているが、安倍首相は『一本目の矢の金融緩和は勝手に日銀がやってくれ。我々政府は知らない』と言っている。三本の矢で行こうというのが日銀と民主党の考え方、一本の矢で行こうというのが安倍首相の考え方であり、食い違いがある」、「人口減少と、デフレギャップおよびデフレは密接に関係している」、「2%の物価安定目標の達成に向けて安倍首相は政府は全く責任を取らないと主張している。本音は(2013年7月の)参院選が気になっているだけだ。安倍首相のマクロ経済に対する考え方は私は大変疑問だ」と発言した[145]。これに対し、安倍首相は「そもそも三本の矢と言い始めたのはあなた(後藤祐一)でも日銀でもなく私であり、総裁選を通じて申し上げてきたもの。単に金融緩和をやるのではなく、それと共に有効需要を作っていき実質経済を成長させ、そして地域が活性化し雇用や賃金に反映させる時差を短くし、景気回復の実感を持って頂く。そのために二本目の矢の財政政策が必要であると主張している。しかしこれは何度も打てないので三本目の矢の成長戦略をしっかり打つ。これを同時に打ち込み、以前から言ってきた経済三団体への賃上げ協力要請[169]も本日行う。私が全く言っていない事について、言った事として批判されても本当に困る」、「山本幸三議員が先程のヤジで指摘した通り、アメリカは日本より遥かにデフレギャップが大きいのにデフレに陥っていない。人口が減少している国の中でデフレ脱却していない国は日本だけ」と反論した[145]。 4月7日、野田佳彦は千葉県佐倉市のパーティーでアベノミクスについて「海外投資家と食事する機会があり、その1人が『ABE』と言った。Aはアセット。Bはバブル。Eはエコノミー。資産バブル経済、という意味だ」と述べ、バブルを生み出していると批判した[170]。 4月17日、国会の党首討論で海江田万里は、安倍政権の金融緩和策について「大変な劇薬を日本は飲んだ。副作用、あるいは落とし穴がある」と指摘し、物価上昇など負の側面があると強調した[171]。それに対し安倍首相は株価上昇で5兆円の年金運用益の数字を並べて反論し「何もしなければリスクがないと思ったら大間違いだ。閉塞感の中で悩んでいた状況を変えることができた」と反論した[171]。 5月29日、海江田万里は、日本外国特派員協会での記者会見で「円安によって輸入品の価格が上がり、人々の生活は苦しくなっている。中小企業などにも影響が出て、漁業従事者も大変厳しい状況だ」「長期金利がほぼ1%に上昇した。国債が暴落して金利が上昇するのが、アベノミクスの一番のリスクだ」と述べ、安倍政権の経済運営を批判した[172]。 6月25日、民主党は参院選公約を発表し、安倍政権の経済政策について物価上昇や国債金利の乱高下など「強い副作用がある」と批判した[173]。 7月3日午後、日本記者クラブ主催の党首討論会で海江田万里は「(安倍)首相の経済政策は国民の期待を膨らませるのには成功したが、副作用として物価が上がっている」と懸念を示した[174]。 海江田万里は、広島市の街頭演説で「アベノミクスは3年たてば必ず破綻する」と述べている[175]。 2014年9月28日、民主党幹事長の枝野幸男は、2015年10月の消費税率の10%への引き上げを先送りすれば、アベノミクスが失敗したことを自ら認めることになるという認識を示した[176]。 10月22日、枝野幹事長は消費税率10%への引き上げについて、「アベノミクスによって経済が好循環に入っていれば、(消費税率を)上げられるはずである。日本のためには、約束通り進めることがベストである」と述べた[177]。 10月28日、枝野幹事長は「アベノミクスが成功だとして続けながら、消費税を上げないのは最悪である。消費税を上げられないような経済環境をもたらしている経済政策を維持しながら、景気が良くないからとして消費税を上げないと、結果的に財政はますます悪化する。財政も経済も両方悪化する最悪の選択である」と指摘した[178]。 11月1日、海江田代表は、日銀の追加金融緩和について「日本売りを加速する。国民生活にとって禁じ手を使った」「大変リスクを持った判断である。日銀は円の価値を損なうことをすべきではない」と述べた[179]。 11月17日、枝野幹事長は7-9月期のGDPの速報値について「想像を大きく超える悪い数字であり、アベノミクスの限界が消費税の駆け込み需要と反動減をはさんで改めて証明された」「この2年間で実体経済、特に家計に大きな打撃を与えた。アベノミクスのカンフル剤と痛み止めに頼った施策では限界がある」と述べた[180]。 2015年2月4日、前原誠司は衆院予算委員会の集中審議で、アベノミクスのリスクとして国債暴落の可能性を指摘し、「国民を巻き込んだギャンブル」と批判した[181]。 日本共産党 2013年2月5日、日本共産党の佐々木憲昭は衆院本会議で2012年度補正予算案に関し「庶民の懐を温める政策に転換すべきだ。家計消費が増えれば、内需が拡大しデフレ克服への道が開かれる」と代表質問を行なった。これに対し安倍首相は「成長期待の低下やデフレ予想の固定化」が不況の原因であると答えた[182]。佐々木は「いま必要なのは、消費税増税の中止など国民の所得を奪う政策をただちにとりやめること」と述べている[182]。2016年2月、赤旗新聞は、実質可処分所得は30年前以下の水準にまで落ち込んだと報道している[183]。 社会民主党 2013年4月21日、社会民主党の福島瑞穂党首(当時)は金沢市内で講演でアベノミクスについて「『アベノミクス』は『安倍のリスク』。ハイパーインフレで人々の生活が壊れるのではないか心配だ」と述べている[184]。 各界の反応 元大蔵官僚でアジア開発銀行(ADB)総裁の黒田東彦(2013年3月末、第31代日本銀行総裁)はアベノミクスについて「適切だ」と評価し、支持する姿勢を示している[185]。黒田は「デフレを克服する一方、中期的な財政再建を堅持し、成長力を高めていくのは適切な政策だ。日本経済の問題にたいして適切に対応するものだ」「日本経済にとって最大の課題はデフレからの脱却だ。15年もデフレが続いているのは異常である。日本経済にマイナスの影響を与え、その結果として世界経済にもマイナスの影響与えている。それを直そうということは日本にとって正しいだけでなく、世界経済にとっても正しい」と評価している[186][187]。また「日本がデフレから脱却することがアジアにも世界経済にもプラスになる」とし、アジア各国も支持するとの認識を示している[188]。また、政府と日銀が2%の物価上昇率目標を設定する共同声明を結んだことについて「画期的なことであって、非常に正しいことだ」と高く評価する考えを示している[189]。 経団連名誉会長の奥田碩は、1ドル90円から100円が適正な為替レートで、そうなれば自動車や電機の輸出も増え、貿易赤字が解消されるだろうとの見解を示した[190]。 日本自動車工業会会長の豊田章男は「『失われた20年』の間に、日本企業の時価総額は360兆円を失った」と分析し「『アベノミクス』でこの内の約半分が取り返せた」と安倍政権を評価した[191]。 元大蔵官僚で国際通貨研究所理事長の行天豊雄はアベノミクスを小手先の金融政策や景気刺激策に終始するようであれば市場に足をすくわれるのがオチと批判。アベノミクスにより財政悪化が進めば最終的に日本は悪性インフレに陥るとまとめた[192]。 コーポレートガバナンス協会理事の八幡和郎は「とりあえず、やってみるという真珠湾攻撃と同じ」「世界の常識に反した一か八かのかけ」と批判している[193]。 オリエンタル・エコノミスト・アラート代表リチャード・カッツはアベノミクスによってドルに対して円の価値が25%下落したことは、アベノミクスが日本の活力を取り戻せることを確信させる有効な要素の一つであるとした。しかし、メリットがデメリットを上回る場合のみ、円安は経済成長に寄与すると述べた。デメリットとして2012年9月以降、価格調整後の実質輸入量は5%減少したが名目輸入金額は12%上昇し、日本は5%少ない輸入量を確保するのに、日本円を12%多く支払ったと指摘。日本企業の主要輸出事業者の価格戦略が意味しているところは、経済全体の成長をもたらす乗数効果が存在しないことである。この効果は2012年末までには表れるが、円安メリットの大きさは不透明であると結んだ[194]。 2013年1月7日、日本商工会議所会頭の三村明夫(新日鉄住金名誉会長)、経済同友会代表幹事の長谷川閑史(武田薬品工業社長)ら財界首脳は会見で、一段の円安を否定的に受け止める見解を示した[195]。 2016年12月、バンク・オブ・アメリカの世界経済責任者イーサン・ハリスは、労働市場の引き締まりなどを根拠に、日本が2017年に失われた20年を脱出するチャンスを得るという見解を示した[196]。 2017年2月、アメリカのビジネスサイト・にて、「なぜ日本は遂に失われた20年から脱出するかもしれないのか?(Why Japan may finally emerge from its lost decades)」と題するコラムが掲載された[197]。 アホノミクス・アベノリスク #日本国内の識者の見解も参照。 アベノミクスは、「アホノミクス」、「アベノリスク[198][199]」「アベノミクス“不況”[200][201]」などと批判的な表現もなされている。 「アホノミクス」は、2013年の新語・流行語大賞の候補にノミネートされた[202][203]。 2014年には山内勉が製作した「アホノミクス〜金は天上の回りモノ〜」という舞台が公演された[204]。 消費税増税 経団連の米倉弘昌会長は、安倍首相が2014年4月に消費税を8%に上げると表明したことについて「大変な英断だ。高く評価する」と歓迎し、投資減税などの5兆円規模の経済対策についても「消費増税のネガティブな側面を下支えする効果が期待できる」としている[205]。 世界の反応 肯定的反応 アメリカのノーベル経済学賞受賞者ポール・クルーグマンはアベノミクスについて、ニューヨーク・タイムズのコラムで「素晴らしい結果を伴っている」と絶賛し、安倍首相について「国家主義者であり、経済政策について関心が乏しいのでは」「深く考えているわけではないだろう」と皮肉を込めながらも、「他の先進諸国ができなかった財政と金融の刺激策を実施していることは事実で、その結果も完全に正しい。長期金利は急騰せず円は急落するのは日本にとって非常によいことである」[206]。「私はアベノミクスを評価している。日本がデフレの罠から脱却するために必要な政策である」「日本の期待インフレ率はちょうどよい値で推移している。少しのインフレ期待があることで、経済にとってプラスに働いている状況になっている」「円が安くなれば日本の製造業の輸出増を牽引することになる」[207]と評している。また「日銀が方針を転換し、2%の物価目標を掲げ、その効果を持続させるために政府が短期間、財政出動をし景気を刺激する。発信されたメッセージが何よりも重要である。緩和姿勢を維持し、景気を後押しするだろうという見通しこそ大事である」と述べている[208]。また長期金利と株価が同時に上昇してきたことについては楽観論の表れだと分析し、日本の財政問題への懸念を反映したものではないとの見解を示した[209]。また、「金融・財政政策刺激策への急転換である『アベノミクス』について重要な点は、他の先進国が同様の政策をまったく試していないということである。アベノミクスという政策実験が奏功すれば、同じような状況に陥った国に対しても意義ある示唆になる[210]」「(アベノミクスが)奏功すれば、日本が世界のモデルになる[211]」と述べている。 2013年にノーベル経済学賞を受賞したイェール大学のロバート・シラーは「最も劇的だったのは、明確な形で拡張的な財政政策を打ち出し、増税にも着手すると表明したことである。財政均衡を目指した刺激策といえる。世界中で財政緊縮策が広がる中で、日本の積極策がどういう結果になるか注目している」と述べている[212]。 シカゴ大学の経済学者アニル・カシャップは「日本の長引くデフレの責任を日銀に負わせ、それを是正するためのツールが日銀にはあることをあらためて示したことについては安倍は正しい」と述べた[213]。 ニュー・ケインジアンとして知られるハーバード大学の経済学者ケネス・ロゴフは、日銀が消費者物価2%上昇を目指すインフレ目標を決めたことについて、デフレ克服に向けた「好ましい長期的な戦略である」と評価した上、追加金融緩和が世界的な通貨安競争を招くとの見方は「完全な間違い」と否定した[214]。 ゴールドマン・サックスのエコノミスト、ジム・オニールは2%のインフレ目標を評価、「We Want Abe!」というレターを書き市場で話題となった[215]。 インドネシア財務省の財政政策責任者バンバン・ブロジョネゴロは、緩和政策が日本の内需を刺激し、同国の対日輸出を増やすと期待している[216]。 国際通貨基金(IMF)専務理事のクリスティーヌ・ラガルドは、安倍政権と日銀による2%の物価目標導入を柱にした金融政策について「中央銀行の独立性が確保されている限り、好ましく興味深い計画」と評価した[217]。 国際通貨基金(IMF)アジア太平洋局のアヌープ・シン局長は東京都内の講演で、「三本の矢」で、日本の株式市場などに多くの海外資金が流入するなど「日本が世界の経済地図の中心にきた」と政策を高く評価している[218]。また、安倍首相が2014年4月に消費税率を8%に引き上げることを決めたことについては「財政の機動性確保に向けた第一歩」と歓迎している[218]。 ピーターソン国際経済研究所のアダム・ポーゼン所長は、安倍政権の政策について、「正しい方向に踏み出している」と評価している[219]。 2013年1月27日、スイス・ダボスで開かれた世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)でパネル討論では、ラガルドIMF専務理事や経済協力開発機構(OECD)のグリア事務総長、カナダ銀行のマーク・カーニー総裁らが、アベノミクスへの理解や支持を表明[70]。円安誘導や中央銀行の独立性侵害、財政規律の維持放棄といった批判や懸念は鳴りを潜めた[220]。 2013年2月11日、アメリカのブレイナード財務次官は記者会見し、アベノミクスについて「アメリカは、成長の促進とデフレ脱却を目指す日本の努力を支持する」と述べ、理解を示した[221][222]。 2013年2月12日、スイス国立銀行(中央銀行)のヨルダン総裁はジュネーヴで記者会見し、「日本は長らくデフレに直面しており、日銀はデフレを回避し、成長を促すために政策を変えつつある」と述べ、金融緩和などを柱とした「アベノミクス」に理解を示している[223][224]。 英エコノミスト誌の表紙に、スーパーマン風の安倍首相の写真が掲載された[225]。内容的は日本経済の復活と中国へのチャレンジを表している[226]。 ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、2014年4月からの消費税率8%の増税について、消費税は世代間で均等に税負担を広げる、景気が後退しても比較的あてにすることができる「安定した税収」として重要という、エコノミストの意見を紹介し、高齢化社会という課題に直面する他の先進諸国も、いずれ後を追うことになるため、日本はその先駆例として注目されるべきと評価している[227]。 2013年2月26日、連邦準備制度理事会(FRB)議長のベン・バーナンキは上院銀行委員会での証言で、日銀の金融緩和策について「デフレ脱却に向けた試みであり、支持する」と述べ、日銀の政策は自国経済の強化が目的で「為替操作ではない」との認識を示した[228][229][230]。また同年6月20日に「日本がデフレに取り組むのは重要であり、デフレの解消とともに『三本の矢』には賛成である。日銀の政策がアメリカ経済にいくらかの影響を及ぼしたとしても、日銀の黒田総裁や日本の取り組みを支持する」と述べている[231]。また同年7月17日に「日本が力強さを増すことはアメリカの国益にもかなう」と述べ「日本は景気全体を押し上げようと努力している。その結果として、利益と代償が生まれるが、その利益とは日本経済の強化であり、アジア市場の強化である」と述べている[232]。 2013年4月4日、FRBのジャネット・イエレン副議長は日銀のマネタリーベースを倍増させる政策について「日本が行っていることは同国の最大の利益となるものである」「成功すれば、世界経済の成長刺激に有益で、我々にも良いことである」「デフレ脱却を目指し積極策を講じるのは理解できる」と述べている[233][234]。 2013年4月17日、カナダ銀行のカーニー総裁は「日銀の措置は、モスクワG20声明と完全に整合しおり、国内目標に照準を定めた金融政策である」と述べ、日銀の政策による需要拡大はカナダにとっても利益との見方を示している[235]。同日、アメリカのジェイコブ・ルー財務長官は「日本は長期にわたり内需の問題を抱えていた。日本が国内向けの政策ツールを用いて内需拡大を目標としている限り、G7がモスクワ会合で合意した内容に沿っている」「政策が内需拡大に向けた目標に沿っている限り、国内的な政策を利用することは理にかなっている」と述べている[236]。 2013年5月15日、フィリピンのプリシマ財務相は、「日本の政策が円相場を下落させていることについて懸念していない。円安と日本が現在取り組んでいる措置が日本の成長加速につながるなら、我々にとってプラスであり、期待を寄せている」との認識を示した[237]。 2014年2月11日、FRBのジャネット・イエレン議長は下院金融委員会の証言で、日銀の金融緩和策について「長期にわたるデフレを解消するためには当然であり、筋の通った政策である」「現時点では有効に働いている」と述べ、「日本経済が成長すれば近隣諸国に恩恵が及び、世界経済の利益となる」と表明している[238]。 韓国 2017年4月9日に韓国銀行は「海外経済フォーカス」で、 安倍の就任前は約6年間で首相が6人交代していたことで政策の一貫性が落ちていたが、安倍が2012年末に就任して一貫性のある経済政策を進めたことで政策の不確実性を緩和したと評価して、韓国にもアベノミクスのように一貫した経済政策が必要だと報告した[239]。 海外移転していた工場がアベノミクスを背景に、2017年1月から12月までの1年間で海外に生産設備を持つ日本企業の11.8%が日本に戻ってきた。10万台規模の自動車生産ラインの日本移転や35年ぶりの化粧品メーカーの国内への工場建設など朝鮮日報は「大企業から中小企業まで、規模や業種を問わずに企業の「本国復帰」がブームとなっている」と表現した[240]。 日本経済は2017年第4四半期に2016年四半期比から0.4%の成長率を記録し、8四半期連続のプラス成長を続けた。これは2001年以来、16年ぶりの最長成長となった[241]。 2018年、中央日報はバブル崩壊後の日本経済の慢性病だったデフレも事実上終焉して消費心理が回復したと報じている。1月には失業率も2.4%を記録し、1993年4月の2.3%以来の低水準まで下落して完全雇用となった[241]。 2012年12月時点で失業率が4.3%だったが、2017年8月には1994年以来23年ぶりの最低値である2.8%になった[242]。 首都圏や大都市以外を新しい観光地と商品開発の集中投資し、訪日外国人観光客は2012年の836万人から2017年は2869万人になった。日本の景気動向指数は1985年の調査開始以来、2017年12月に120.7で過去最高値となった[243]。 15〜64歳の生産年齢人口が2017年には約7,600万人で20年前よりも10%も減少したにも関わらず、就業者数は2017年11月に6,528万人に増加した。ソウル経済新聞は女性や高齢者などの労働参加が積極的に奨励するアベノミクスによる内閣の政策が理由だと説明している。生産年齢の女性が就業している割合は2017年11月に68.2%で、5年前より6.7%ポイント上昇した。この数値は過去最高であり、経済協力開発機構加盟国の上位の数値と比肩するようになった。更に65歳以上の就業者の割合も増加し、就職希望する高齢者は完全雇用の水位に到達した。 女性や高齢者の労働参加を促すことによって、2017年12月時点の就業者数は歴代2番目に高かった1998年の6,514万人を追い越し、日本史上最高だった1997年の就業者数6,557万人を超えて2018年には過去最高を更新するのは確実だと報道された[244]。 毎日経済新聞によると2013年以降からアベノミクスを背景に雇用指標が継続的に改善し、2012年に8.1%だった青年失業率は翌年から低下し始めた。2017年には日本の青年失業率は4.6%となった。2012年には日本の青年失業率は韓国より0.6%高かったが、2017年には韓国の9.8%の半分未満まで下落した [245]。 2018年1月に失業率は2.4%と、25年前の1993年並みの水準となった。日本経済新聞や中央日報などは日本の景気拡大が6年目も維持されると報道 [246]。 条件付の肯定 ジョセフ・E・スティグリッツは、日本政府がアベノミクスで彼の10年前に推薦した政策を採用することを歓迎し[247]、「円高を是正して景気を刺激し、本格的なデフレ対策を打つという意図は正しい」と述べ、大胆な金融緩和や財政出動を柱とする安倍政権の経済政策を評価している[248]。また、第一の矢である金融緩和と第二の矢の財政出動に対しては全面的に支持しているが、第三の矢(現状では規制緩和を旨とする規制改革と雇用の流動化などの構造改革)には警戒感を持っているとされる[249][250]。2013年3月21日に安倍首相と会談した際には、アベノミクスに対して懸念も表明する。NHK BS1でのインタビューでは、「日本には、自由化・規制緩和もアジェンダに加えるべきと考えている人達がいるから彼らには注意しなければならない」と答える。同年3月22日、スティグリッツは東京で記者団に対し、日本の金融政策を通じた円相場の押し下げは正しいことだとの認識を明らかにし、安倍首相の経済政策について楽観的な見通しを示した[251]。スティグリッツは安倍首相の経済政策を評価する考えを示した上で「世界にはユーロ危機などの短期的な問題だけでなく、地球温暖化・格差拡大など長期的問題も残っている。成長戦略の中で、医療・教育など、長期的な課題に予算を振り向け、自立的な成長を目指すべきである」と述べている[252]。 また、スティグリッツは、以下の通り主張している。 「安倍総理が掲げる三本の矢のなかでもっとも難しい三本目の矢の成長戦略については、持続可能な成長を促すためにいかにお金を使うか、これは非常に難しい問題である。イノベーションといえば、人が働くコストを省くことに焦点を合わせてきた。その結果、他方では高い失業率に悩まされている。これはパズルみたいなもので、失業率が高いときに、さらに失業者を増加させることにつながる、労働力を省くイノベーションを追求していていいのか。」[253]、「アベノミクスでは、拡張型の金融政策が必要だということを認識している。また強力な財政政策が必要であり、そして規制緩和など構造上の強力な政策が必要であるということを認識している。世界の中でも、包括的な枠組みを持っている数少ない国である。日本は公共債務が多い。予算の状況を改善しながら、同時に経済に対して刺激策を講じることができるかどうか。私はできると思っているが、それに成功するためには各々の政策を慎重に設計しなければならない。構造改革を考える際は、どのような大きな問題が日本の前に立ちはだかっているのか、またどんな構造改革によって効率を改善し、国民の幸せを改善できるのかを真剣に考えなければならない。そのため、人々は製造業からシフトしなければならない。だからこそイノベーションが必要になってくる。生産年齢人口の減少を調整した場合、日本は過去10年間、OECD諸国の中で最も成功している国の1つである。ここで必要なことは三本の矢と呼ばれる包括的な経済政策に関する行動計画である。まず金融政策はターゲットを絞ることで成功している。これを拡張型の財政政策で補完すべきである。そして規制をコントロールして、経済に刺激を与えることができるか。私は、こうした構造上の改革を日本が成し遂げ、持続可能な繁栄を遂げることができ、そして世界に対して模範を示すことができると信じている。」[254] トマ・ピケティは「安倍政権・日銀が物価上昇を起こそうしているその姿勢は正しい」とする一方で「2014年4月の消費増税は、景気後退につながった」と指摘している[255][256]。 ポール・クルーグマンは「黒田東彦日銀総裁が、(2014年10月31日に)追加緩和を発表したが、称賛すべきことである。日銀・政府が実行してきたことは、消費税増税を除いてはすべて歓迎する。日銀が実行してきたことは斬新なことではなく、何年も前から私を含め欧米の専門家たちが実行するように促してきたことである。優先すべきことは、脱デフレのためになんでもやることであり、消費税増税以外の政策はその点で正しい」と指摘している[211]。クルーグマンは「どれだけ追加緩和を行ったとしても消費税増税はそれと真逆の政策であり、ブレーキをかけている状態となる」と指摘している[211]。 2016年に韓国の中央日報は「四年間、金融緩和・財政拡張・構造改革という3本の矢を放っているが1次目標のデフレーシヨンからも抜け出せていないので大局的に見ると日本経済を楽観する理由はない。とはいえ失敗したと見るのは誤算だ。キジの代わりに鶏は捕まえたと考えられる。もしアベノミクスがなければ日本経済の沈滞はさらに深刻だった」と評している[257]。 批判的反応 エスワル・プラサドは「金融政策だけで日本経済の長期停滞から救うことは不可能であり、他の政策からの支援も必要である」「金融政策が効果を持つには、他の政策も役割を果たす必要がある。金融政策だけですべての負荷を支えようとすれば、政策の効果と副作用のバランスが崩れ、副作用が効果を上回ること可能性もある」と指摘している[258]。 は安倍総理大臣と彼の自民党は、構造的な条件である、高い水準の政府の財政の債務、人口減少、主要なの喪失による、経済の重荷に対して為す術の見込みがなく、2020年までに財政的な危機を引き起こす極めて高いリスクがあると報告している。[259] 韓国 中央日報は「円安は韓国の輸出鈍化につながりかねない[260]」「円安により韓国の輸出品の競争力に及ぼす影響は大きくないとみる専門家も多い[261]」と報じた。また、朝鮮日報は「韓国の輸出企業は円安ウォン高が続くのではないかと緊張感を強めている」と報じた[2]。 韓国の金仲秀中銀総裁は、日銀の決定に問題があると指摘し「為替水準が影響を受ける。変化のスピードも問題。動きが急過ぎる」と述べている[262]。 2013年(平成25年)2月19日、韓国政府はジュネーヴで開かれた世界貿易機関(WTO)の貿易政策審査会合で「円安誘導政策が疑われる」と日本を批判している[263]。 韓国では「アベノミクス」によるデフレ対策に伴う円安進行に対する「円安脅威論」が過熱し、韓国メディアは「円安は沈黙の殺人者」(中央日報)などと批判している[264]。一方で為替市場をめぐっては、韓国の金融当局が「覆面介入」してウォン安誘導しているとの疑念が付きまとっていた[264]。 なお、朴槿恵韓国大統領が掲げる経済政策を指してクネノミクスと呼ぶことがある。 ドイツ ドイツのヴォルフガング・ショイブレ財務相は「日本の新政権の政策に、大きな懸念を持っている」と発言し、大胆な金融緩和策を批判した[265]。ドイツ連邦銀行のワイトマン総裁は「新政権が中銀に大きく干渉し、大胆な金融緩和を要求して独立性を脅かしている」などと批判した[266]。 中国 中国・新華社は日本銀行の金融緩和策を「このような近隣窮乏化政策を進めれば、他国も追随せざるを得なくなり、世界的な通貨戦争が巻き起こる可能性がある」と危惧した[267]。 2013年3月4日、中国の格付け会社「大公国際資信評価」は、アベノミクスで日本は財政状況が悪化するとして、日本国債の信用格付けを引き下げを発表した[268]。大公はアベノミクスでは日本経済の構造上の問題は解決できず「日本の長期的な低迷は続く」と酷評し、「日中両国の政治的対立がもたらすマイナスの影響にも注目する必要がある」と指摘した[268]。中国では円安に伴って人民元が上昇し、中国の輸出競争力を低下させるとの警戒感が広がっており、当局者・有識者の間でアベノミクスへの批判が高まっている[268]。 中国の政府系ファンド、中国投資(CIC)の高西慶社長は日銀の金融緩和策について、意図的な円安誘導であり、「(中国など)近隣諸国をごみ箱のように扱い、通貨戦争を始めれば、他国にとって危険であるだけでなく、最終的には自らにも害が及ぶ」と強く批判している[269]。 新華網は、「アベノミクス」は長期的な特効薬とは言えず、その各政策は、日本経済の問題の根本的な解決にならないとしており、日本経済に副作用をもたらしているとしている[270]。 なお、李克強首相が掲げる経済政策を指してリコノミクスと呼ぶことがある。 アメリカ 2013年6月6日、アメリカ合衆国下院の与野党議員226人は、日本を主要な為替操作国と名指しし、安倍首相の政策は「市場を歪めている」として対応を求める連名の書簡をバラク・オバマ大統領に送った[271]。 2013年10月1日、ウォール・ストリート・ジャーナルは社説で、安倍首相が2014年4月からの消費税率引き上げを決めたことについて「アベノミクスを沈没させる恐れがある」と批判し、デフレが克服されていない状況で消費に打撃を与えるべきではないと強調した上で「より速く、持続的な経済成長」こそが財政健全化の唯一の方策だと主張している[272]。 批判的意見への反論 ポール・クルーグマンは「大胆な金融緩和をするとハイパーインフレになってしまうというものだが、まったく的外れである。日本と同じように金融緩和をしているアメリカでハイパーインフレは起こっていない」「大規模な財政出動をやると財政悪化につながるという批判もあるが、現実をきちんと見ていない批判といえる。日本の長期金利は1%未満の水準を超えておらず、政府の借り入れコストはほとんど変化していない。インフレ期待は高まっているのだから、政府の債務は実質的に減っていることになる。日本の財政見通しは、悪くなるというより大きく改善している」と述べている[207]。また円安について「G20で、各国は円安を許容せざるを得ないだろう。欧州中央銀行のマリオ・ドラギ総裁が懸念を示しても、日本に経済制裁を科すわけではない。アメリカも金融緩和でドル安を導いたと批判されてきたので何も言わない。日米ともに景気の現状を踏まえて、金融緩和を進めているに過ぎない。その結果としての通貨安である」と述べている[208]。 ジョセフ・E・スティグリッツは東京都内での国際会議で、アベノミクスの副作用が懸念されていることについて「実施しないほうが将来的なリスクになる」と述べている[273]。 ニーアル・ファーガソンハーバード大学教授は、2013年1月27日のフィナンシャル・タイムズへの寄稿で、日本の差し迫った経済状況を考えれば、国際社会は円安政策をある程度受け入れるべきであり、むしろ過去5年間に実質的な通貨価値が大幅に下落した韓国が日本を非難するのは偽善的だと述べた[274]。 フィナンシャル・タイムズ紙は「中央銀行の金融政策が経済にとって有害である時に政府が中央銀行と意見を交換するのは適切なことで、バイトマン総裁の批判は的外れである」と評している[275]。 G20の当局者は「日本が競争的な(自国通貨)引き下げを図っていると論じることは出来ない」「介入が無い限り、政策期待で市場が動いているだけ」と指摘している[262]。 OECDのグリア事務総長は、日本は円安だけを求めているのではなく、デフレを克服するため行動していると述べ、一部から円安誘導策との批判が出ている日本の積極的な金融緩和策を擁護する考えを示し、「日本が成長を遂げることは、誰にとっても最大の利益になる。特に韓国にとっては重要である。日本の成長が高まり、世界経済に寄与することを望む」と述べた[276]。 IMFはモスクワで開かれたG20財務相・中央銀行総裁会議向けの報告書を公表し、円安をめぐる懸念は行き過ぎとの認識を示し、日銀は一段の決意でデフレ脱却に取り組むべきと指摘した[277][278][279]。 FRBのベン・バーナンキ議長は「日銀が何も実施していなかった当時の市場は不安定ではなかったことを考えると、日銀の政策変更の結果として市場が不安定になったと考えるのは論理的である。デフレ期待を壊し物価上昇率を2%に上げるため、日銀は非常に積極的な政策を実施している。政策の初期段階では、投資家は日銀の政策による反応を学んでいる状態で市場が不安定になるのは驚くべきことではない」と述べている[231]。また、中国は人民元を割安な水準で維持しようと為替操作しているとして、日本と中国の金融政策の違いを明確にし「日本は為替レートを操作していない。また為替水準を維持しようと直接介入することもない」と述べている[232]。 警告・問題点の指摘 ポール・クルーグマンは「せっかくアベノミクスを始めたのに、いまこの時期に消費税を増税することは、日本経済の復活のために、何のプラスにもならない。いまは消費税増税を我慢し、2%の物価目標の達成に、全力を注ぐべき時である」と指摘していた[280]。クルーグマンは「8%への消費増税を決定したことにはがっかりした。本来なら、デフレを完全に脱却してからやったほうが安全である。ちょうど光が見えかけていたのに、増税によって消費が落ち込む可能性がある[281]」「すでに消費増税という『自己破壊的な政策』を実行に移したことで、日本経済は勢いを失い始めている。このままいけば、日本はデフレに逆戻りするかもしれない[282]」と述べている。また、消費税増税に関して日本政府へ警告を発し[283]、消費税を10%に上げれば日本はデフレーションに逆戻りするとして、日本政府は消費税率を5%に戻しインフレ期待の醸成に専念するべきであると述べた[283]。 ジョセフ・E・スティグリッツは、経済の回復が安定状態に入る前に消費税率を引き上げる安倍首相の戦略のせいで、日本経済は2014年、失速の危機に見舞われるだろうと述べている[284]。 2014年3月12日、ロバート・シラーは都内の講演で、安倍首相と面会し、アベノミクスに感銘を受けていると話したとする一方で、市場は人々の心理に依存するためアベノミクスの成功がいつまでも続く保証はないと指摘した[285]。 UBS銀行ウェルス・マネジメントは「アベノミクス」が失敗すればスタグフレーションに突入すると述べている[286]。 2013年10月1日、新華社は安倍首相の消費税率引き上げ表明について「国際社会の日本の財政状況に対する関心に答えた」と評価する一方で「ようやく回復してきた日本経済の勢いをそぐ恐れがあると心配されている」と報じている[287]。同日、中国紙チャイナデイリーは消費税率8%引き上げのニュースについて「安倍首相が民衆の抗議デモを無視し消費税の引き上げ決断」とのタイトルで報じた[288]。 ウォール・ストリート・ジャーナルは「2014年4月1日からの消費税率の引き上げ敢行という決断は、安倍首相が前任者たちと同様に、財務官僚とケインズ主義経済学の囚人だということを露呈させた」「景気刺激策を装った公共支出は、過去20年にわたって成果を上げていない。それでも安倍首相は増税と公共支出で日本に繁栄をもたらせると信じている」と述べている[289]。公共事業支出や低所得者層への現金配布などの景気刺激パッケージについて、7.5兆円と予想される増税での増収を帳消しにしてしまうと述べている[290]。 2014年9月21日、アメリカのジェイコブ・ルー財務長官は、G20財務相・中央銀行総裁会議の閉幕後の記者会見で、日本について、消費税率を4月に8%に引き上げて以降、個人消費・投資が落ち込んでおり、「経済活動の縮小による困難に直面している」と懸念を示した[291][292]。 2014年11月17日、日本の2014年7-9月期のGDP速報値が2四半期続けてマイナス成長となったことについて、ワシントン・ポストは「日本が景気後退入り」と報じ、ウォールストリート・ジャーナルは「景気後退とみなされる」と報じた[293]。 北京大学経済学部の方明は「アベノミクスによって、日本経済はスタグフレーションに陥るだろう」と述べている[294]。 IMF 国際通貨基金のラガルド専務理事は「IMFは、いかなる形でも通貨安競争に賛同しない」と発言した[217]。 2013年7月9日、IMFのオリヴィエ・ブランチャード主任エコノミストは「2本目の矢(の財政出動)が中期的な財政再建策を伴わず、三本目の矢に抜本的な改革が盛り込まれなければ、投資家は懸念を強め、国債金利は跳ね上がるだろう」と述べ、アベノミクスが世界経済へのリスクになり得ると指摘した[295]。 2013年7月16日、ラガルド専務理事は日米英ユーロ圏中銀の非伝統的措置について、資本フローに影響を与えたと指摘し、その解除については段階的に慎重に行われるべきだとの見解を示した[296]。 2013年8月1日、IMFは世界経済のリスクに関する年次評価報告書を発表し、アベノミクスが失敗すれば世界経済にとって主要なリスクの一つになると警告している[297]。IMFは、アベノミクスについて大筋で支持し、計画が完全に実施されれば効果を上げるだろうとしながらも、政治的に困難な部分について実施に移せなければ、深刻な危機をもたらすと分析している[297]。 2014年10月15日、アメリカ財務省は為替報告書で、アベノミクスについて「大幅な円安にもかかわらず、輸出が伸び悩んでいることは意外である」「3本の矢はデフレから脱却する力強い試みだったが、ここに来て(2本目の矢の一環の財政再建が)経済成長を妨げている」と公表した[298]。また「財政再建ペースは慎重に策定することが重要である」と述べ、金融政策は「行き過ぎた財政再建を穴埋めできず、構造改革の代替にもならない」と公表した[298]。 日本政府の批判的意見への反論 国務大臣 財務大臣の麻生太郎は「(2009年4月のG20加盟20カ国の首脳会談で)通貨安競争はやらないという約束をしたが、約束を守った国は何カ国あるのか。米国はもっとドル高にすべきだ。ユーロはいくらになったのか」と言及。1ドル=100円前後で推移していた当時に比べても円高水準にあるとした上で、約束を守ったのは日本だけだとし、「外国に言われる筋合いはない。通貨安に急激にしているわけではない」と述べた[299][300][301]。2013年1月28日の臨時閣議後の記者会見は、各国で日本が通貨安政策をとっているとの批判が起きていることに「ドルやユーロが下がった時には(日本は)一言も文句を言っていない」と述べ、「戻したらぐちゃぐちゃ言ってくるのは筋としておかしい」と反論した[302]。円相場については、安倍政権がとった施策を受けて「結果として安くなったもの」と分析。過度な円高の修正局面だとの認識を示した[302]。また「日本は(金融危機だった)欧州の救済のために融資するなど、やるべきことをやっている」と付け加えた[303]。 内閣参与 内閣官房参与の浜田宏一は「麻生副総理も言っておられたように、今まで日本だけが我慢して他国にいいことを続けてきたのに、今自国のために金融緩和しようとするときに、他国に文句をつけられる筋合いはない。日本の金融政策は日本のためであり、ブラジルや他国のためではない」と述べている[304]。また浜田は「日本はこの3年間、世界中からいいように食い物にされてきた。今回は、それをようやく正常な形に戻すことに決めたということである。それを海外が非難すること自体、おかしなことで、日本はそうした非難を恐れる必要はない」と述べている[305]。2013年2月15日にピーターソン国際経済研究所でおこなった講演では、日本の金融政策は国内の物価目標の達成のみを目指したもので、円相場を操作していると解釈されるべきではないとの見解を示した[306]。またリーマン・ブラザーズ破綻後の金融危機時に、日本はイングランド銀行やFRBが行った拡張的な金融政策を批判しなかったとし、日本の積極的な金融政策も非難されるべきではないというのが日本当局者の見解と述べた[306]。また、「変動相場制の下では『通貨安戦争』という概念はない」と述べ、「ブラジルのように不満のある国は、自らの国で適切な金融政策を採用すべきである」と指摘した[307]。同年5月には、韓国について「日本の中央銀行を非難するべきではなく、自国の中央銀行に適切な金融政策を求めるべきである」と語った[308]。 日本銀行 2013年2月14日、日銀の白川方明総裁は、金融政策決定会合後の記者会見で「(金融緩和)は国内経済の安定が目的で、為替相場への影響を目的にしているわけではない」と述べ、先進国の一部や新興国による「円安誘導」との指摘を否定した[309][310]。 日本国内の識者の見解 経済学者 同志社大学大学院の浜矩子教授(国際経済学・国際金融論)は、アベノミクスを「アホノミクス」と称している。浜によれば、株や不動産の価格が上がるバブルは起きるものの、庶民が生活に必要とする商品の物価は上がらずデフレになるとしており、得をするというのは富裕層のみであり、庶民にとっては厳しい経済状況になるとしている[311]。また、アホノミクスの結果、バブルのムードが起き人々はたぶらかされるようになるとしている。株価が上がり続けて騒がれているのは、何となく安倍ならばやってくれるというムードからであるとしている。企業の業績が伸びたりサラリーマンが昇給となっているのは、一部の大企業のみであるとしている[312]。 経済評論家の植草一秀は、アベノミクスや外交政策、軍事政策によって引き起こされる日本国民、日本経済の危機、損失(リスク)、「アベノリスク」と批判し、アベノミクスの「三本の矢」を「七つの大罪」と表現している[313]。 経済アナリストの森永卓郎は、アベノミクスを「アベノリスク」と呼び、安倍政権によって悪夢のような格差社会、利権社会がやってくるとしている。森永は「2013年7月の参議院選挙後、アベノミクスに沸く中、静かに進む社会変革。その動きは一気に加速する。安倍政権が目指すのは、超弱肉強食、かつ強烈な利権社会である。「そんなこと、おとぎ話だ、妄想だ」と躍起になって否定する人は多いだろう。体制側にいる人ならなおさらである。しかし、庶民にとっての悪夢が現実となってからでは遅いのである」と主張している[314]。 早稲田大学政治経済学部の若田部昌澄教授(経済学史)は、「生活保護の切り下げは、アベノミクスの負の側面である」と指摘している[315]。 同志社大学商学部の服部茂幸教授(数理経済学)は、「円安となり株が上がっただけで、評価する点がない。第2の矢である財政政策の効果は認める」と指摘している[316]。 京都大学の伊東光晴名誉教授(理論経済学)は、「株価上昇と円高ドル安は、総選挙と安倍内閣の発足以前に始まっており、安倍・黒田政策の効果ではない」と指摘している[317]。 東京大学の伊藤元重名誉教授(国際経済学)は、「アベノミクスの成果が大きかったことは株価・為替レート・物価上昇率・失業率や有効求人倍率などの雇用指標など、どれをとっても明らかである」と述べている[318]。 慶應義塾大学経済学部の竹森俊平教授(国際経済学)は、「アベノミクスとはつまり、金融緩和だけである」とし、金融緩和政策が効果を発揮し、雇用が改善されていると述べている[319]。 明治大学政治経済学部の飯田泰之准教授(経済政策)は、「アベノミクスの一本目の矢は、決して金持ちの味方・貧乏人の敵ではない。所得に関しては中立であり、むしろ格差是正的な側面もある」と指摘している[320]。 立命館大学経済学部の松尾匡教授(理論経済学)は、「第三の矢は供給能力を高める政策、新自由主義政策である。第三の矢が景気を押し下げる効果は他の政策(第一、第二の矢)の景気拡大効果には及ばない」と指摘している[321]。 一橋大学の野口悠紀雄名誉教授(ファイナンス理論・日本経済論)は、「2013年から異次元金融緩和することで円安が起きてるが、2014年秋から追加金融緩和を実施したので、将来的に日銀の保有している国債は損失をもたらすだろう」と指摘している[322]。 慶應義塾大学大学院の岸博幸教授(経営戦略・経済政策)は、「旧3本の矢が“全体を良くする”ことだけを目指していたのに対して、新3本の矢が“全体を良くする”ことと“全員を良くする”ことの二兎を追うことにしたというのは、少なくとも方向性としては評価できると思います」と述べている[323]。 エコノミスト 株式会社日本総合研究所(JRI)副理事長の翁百合は、「株高・円安をさせ、人々のマインドを変えた効果は評価するが、量的緩和による直接的な効果は出ていない」と述べている[324]。 片岡剛士は、「アベノミクスを全否定するということはあるべき経済成長のためのツール全てを否定することなる」、「日本のメディアには経済成長を否定しているところもあり、たとえば朝日新聞がアベノミクス批判を強めるのは、道理としては理解できる」と述べている[325]。 第一生命経済研究所主席エコノミストの永濱利廣は、「『アベノミクス』というと特別・目新しい政策と受け取られるが、決してそうではない。アメリカをはじめ諸外国で実行されていたにもかかわらず、日本では踏み込んでこなかったことに、遅ればせながら取り組もうとしているに過ぎない」「1本目の金融政策は『異次元』と形容されるが、実際にはリーマンショック以降のアメリカやイギリスの先例に追随した、グローバルスタンダードな金融緩和である」と述べている[326]。 丸三証券経済調査部長の安達誠司は、「市場関係者とそれに近い経済学者の間では、『量的・質的緩和』に対する評判はすこぶる悪い。彼らの間ではアベノミクスの効果は、財政政策(公共投資の拡大)であって金融政策(量的緩和の拡大)ではないというのがコンセンサスになっている。(量的・質的)金融緩和は、金融政策のレジーム転換が大きな鍵を握っている」と述べている[327]。 村上尚己は相対的貧困率の低下を根拠に、「(2017年時点で)日本の所得格差は縮小している」と述べている[328]。 その他の評論 漫画家の小林よしのりは、「アベノミクスはアホノミクスである」と批判しており、更に小林は安倍信者は「アベノモクズと消える」と述べている[329]。 東京中日新聞論説委員の長谷川幸洋は、「私自身は100点満点で70点と採点する。もちろん合格点である」「増税前までは実に3四半期連続で2.5%前後から3%の成長を遂げていた。この1点をみても、アベノミクスは4月まで完全に成功しており、ただ1つの失敗が消費増税だったことがあきらかだ。だからこそ、ここで軌道を戻す必要がある」と述べている[330]。 元航空幕僚長の田母神俊雄は、「アベノミクス」を推進すると発言しただけで、株価が上がり、円高も是正された点を評価しており、アメリカによる情報戦に振り回されなかった政策であるとしている[331]。 東京大学政策ビジョン研究センター講師(国際政治学)の三浦瑠麗は、アベノミクスは過小評価されているとしている。その理由として、安倍政権が進めている外交・安全保障政策は政治思想に直結するものであるためマスコミの取り上げ方も大きくなり、本来的にはリベラル的な経済政策であるアベノミクスを支持したいはずの左派勢力にとっては、安倍政権の思想的DNAが気に入らないのでイデオロギー的に支持できないのではないかとしている[332]。 経済評論家の上念司は、「大胆な金融緩和に加え、景気の下支えには政府の財政出動が必要」「私たちが一番恐れるべきはデフレだ。アベノミクスの第1の矢は極めて正しい」と述べている[333][334][335]。 神戸大学名誉教授の浦部法穂は、「『アベノミクス』なるものによって極端な円高が是正され、輸出企業の業績が回復して株高にもつながった、として、なにやら景気が良くなったような雰囲気が作り出されている。それで多くの国民の生活が楽になったわけではないのに、そういう雰囲気が「右翼の軍国主義者」(ハーマン・カーン賞受賞の際の安倍の挨拶)の首相への支持につながっているのであろう。多くの国民は、彼が「右翼の軍国主義者」であるから支持しているというわけではない。彼の経済政策によって景気が良くなり自分たちの生活も楽になるかもしれない、という期待で支持しているのだと思う。だが、話は古くなるが、600万人もの失業者を抱えていた1930年代のドイツで、1933年1月にヒトラーが政権について以後わずか3年で完全雇用の状態に改善され、そうした経済政策上の成果がヒトラーに対する国民の大きな支持の一つの理由になった、といわれている。そうしてヒトラーを支持したドイツ国民が、その後どのような運命をたどったかは、語るまでもなかろう。「右翼の軍国主義者」を経済政策だけで支持していると、同じ目に遭うことになりかねない。」と批判した[336]。 コストプッシュ・インフレ 株式会社アゴラ研究所代表取締役社長の池田信夫は、「アベノミクスが成功しても失敗しても円は下がる。輸出産業は安泰である一方、エネルギー・輸入品の価格の上昇によって、家計の負担は増える」と述べている[337]。 Office『W・I・S・H』代表の岩本沙弓は、「円安株高が本当にアベノミクスだけでもたらされたのか疑問である。株高ドル高(円安)は、アメリカ発の要素が強いと考えるほうが現実的である」と述べている[338]。 BNPパリバ証券経済調査本部長・チーフエコノミストの河野龍太郎は、「アベノミクスでは、デフレから脱却することで、日本経済が回復軌道に乗るというシナリオを描いていたが、2014年に実際に観測されたのは、円安によるインフレ上昇がもたらした景気減速であった」と述べている[339]。 アライアンス・バーンスタインの村上尚己は、2014年10月時点で「企業倒産の数は全体として抑えられており、円安が原因で倒産した企業がごく僅かに増えたというのが正確な状況である」と述べている[340]。 日本経済研究センター(JCER)参与の新井淳一は、「円安が定着すれば輸出は勝手に伸び始める。2014年12月の輸出数量は前年比で4%近い伸びとなっており、円安分を価格転換させ、市場開拓に努める企業が増えてきている」と述べている[341]。 公共事業 ジャーナリストの田村秀男は「経済は消費・投資・輸出の総体であり、経済成長の度合いはこれらの増加分で決まる。2013年の名目1%の経済成長に最も寄与したのは、公共事業など13%増額された公共投資である」と述べている[342]。 経済学者の原田泰は「公共事業が、経済を下支えしているのではなく、経済効率を低下させている。第一の矢と第二の矢の相乗効果などはない」と指摘している[343]。原田は「景気が良くなったのが、公共事業をしたことによってなのか判断しなければならないが、海外の好景気によって輸出が増えて景気が良くなることもあるし、技術革新によって画期的な新製品が多数登場し、景気が良くなることもありうる。そのような公共事業と無関係の要因を取り除いて、公共事業を増加させるとどれだけGDPが増えるのかを検証しなければならない」と述べている[344]。 エコノミストの櫨浩一は「現在(2014年)の日本では、公共事業による景気対策を行っても建設労働者の不足で事業が執行できないという状況になっている。今回(2014年4月)の消費税増税後に予想されていた需要不足に対して、5.5兆円という規模の2013年度補正予算で対策を講じたはずであったが、GDP統計を見ると4-6月期には公共事業は実質で前期比年率2%の減少(寄与度はマイナス0.1%ポイント)となっており、需要の下支えにはならなかった。日本全体で建設関連の労働者不足が起こっており、公共事業を増やしても景気の下支え効果が期待できない状況になっている」と述べている[345]。 村上尚己は「建設セクターで人手・材料不足が起きているに、市場メカニズムを無視して、供給力を上回る公共工事の発注が実現している。増税によって集められた税収が、限定的なセクターに対して非効率に配分されている」と述べている[346]。 雇用 片岡剛士は「正規雇用の労働者数が減っているのというのは、団塊世代の正社員が退職している影響が大きく、単純に悪いことだとはいえません。非正規雇用の労働者数が増えているのは、本でも触れていますが2013年に増えたのは女性の30〜40代のパートタイマーです。(52ページ)。こういった人たちの多くは、民主党政権時代に起こったリーマン・ショックからの景気低迷で、職を失った人なんです。職を失った人が再び職を得られるようになったことを、非正規化の進行と理解するのは短絡に過ぎます。」と述べている[325]。 消費税 浜田宏一は、アベノミクスの第1、第2の矢は需給ギャップを大きく改善させ「大きな役割を果たした」と評価する一方で、2014年4月の消費税率8%への引き上げは「ブレーキをかけた」と述べている[347]。 若田部昌澄は「(2014年4月の)消費税増税が人々の予想に負の影響を与えた。アベノミクスは振り出しに戻ってしまった」と述べている[348]。 本田悦朗は「個人消費、設備投資、住宅投資、インフラストラクチャー投資、すべて縮小してきている」と述べた[349]。本田は、アベノミクス効果が2013年度に比べて減弱しているとし、消費税の10%への増税施行は1年半程度遅らせるべきであると述べた。本田によれば、持続的な経済成長には賃金上昇が不可欠であり、この延期期間を賃金が上昇するための猶予期間にすることができるという[349]。 片岡剛士は「アベノミクスを経済政策として支持していた人の多くは増税に反対しており、安倍首相の政策だからという理由で金融緩和・財政出動に反対していた人は増税に賛成している、という構図がある。アベノミクスという政策パッケージと消費税増税にはまったく関係がない。アベノミクスという経済政策の枠組みとは、成立過程がまったく別のものである」と述べている[350]。 竹中平蔵は「アベノミクスは最初の1年半は、うまく行っていた。歯車を狂わせたのは、当初アベノミクスのメニューにはなかった消費増税(5%から8%)を2014年4月に実施したことである。実際に引き上げたら、景気は失速してしまった。しかも、マイナスの影響は予想以上に大きく、長期化した」と述べている[351]。 実質賃金の低下 服部茂幸は「実質賃金が大きく下がり続けているのが安倍政権の特徴である。消費税増税前からマイナスが拡大しており、消費増税だけが原因ではない。日銀の金融緩和による物価上昇もその1つの要因である」と述べている[316]。 本田悦朗は、足元の実質賃金の減少は2014年4月の消費増税によるものとしており、「このままだと経済の好循環が確認できなくなる」と述べた[352]。 片岡剛士は「名目所得の増加を超える物価上昇率の高まりによって、実質所得が低下していることを問題にするのであれば、早すぎた消費税増税を断行したことこそ批判すべきである」と述べている[353]。 2015年2月4日、日銀の岩田規久男副総裁は、仙台市での金融経済懇談会の講演で「消費税引き上げによる実質賃金の引き下げ効果を除くと、一般労働者・パート労働者の実質賃金は前年比で大きく落ち込んではいない」「最終的に実質賃金は上昇に転じる」と述べている[354]。 成長戦略 中野剛志は、文藝春秋2013年六月号に、『竹中平蔵「成長戦略」と言う毒の矢』と言う記事を寄稿している。ジョセフ・E・スティグリッツの意見を引用しつつ(#条件付の肯定、失われた20年#雇用の流動化に対しての批判参照)、「スティグリッツ的なケインズ主義に向けさえすれば」と条件付で肯定しているのと同時に、「今のアベノミクスは内部に新自由主義とケインズ主義が混在すると言う矛盾を抱えている。そして成長戦略と言う三本目の矢は、明らかに新自由主義に向いている。それは日本の経済、社会、政治そして倫理の根幹をも腐らせる毒の矢になりかねない。日本経済がデフレ脱却するには数年の時間がかかるかもしれない。その間に公共投資悪玉論や財政健全化論が再燃し、新自由主義が支配的になった場合、日本の希望の灯火も消える。安倍首相が新自由主義者を退け、スティグリッツ氏の理論を取り入れる事を切に望みたい」とまとめている[355]。 松尾匡は「第3の矢は、金融緩和の足を引っ張るだけである。そういうことが課題となるのは、完全雇用になった後である」と指摘している」と述べている[356]。 アベノミクス策定・遂行と成果・効果 この項目ではニューパブリック・マネジメント(新公共経営、新公共管理、NPM)の視点から、アベノミクスの政策策定から成果・効果の測定までを行なう。この必要は、アベノミクス第三の矢の集大成である「日本再興戦略」(内閣府、2013年6月14日)でも言及されている[357]。以下、個々の政策について、策定過程・実施・成果・評価を行なう。 インフレ目標 約2年で2%のインフレ目標を達成する。 政策策定過程 アベノミクスの「第一の矢」が安倍自民党総裁の経済政策の第1の柱となった経緯は、比較的よく知られている。 安倍総裁のデフレ対策案 「デフレこそ諸悪の根源」と考える総選挙前の安倍総裁によりアベノミクスの第一の矢として採用された。その概要は、以下の通り。 (1) インフレ目標を2%に設定し、日銀法の改正も視野に、政府・日銀の連携強化の仕組みを作り、大胆な金融緩和を行う[358] (2) 名目3%以上の経済成長を達成する (3) 財務省、日本銀行、および民間が参加する外債ファンドを創設し、外債購入の方策を検討する 安倍首相にこのような考えをもたらしたのは、リフレ論者で、安倍首相が官房副長官時代に内閣府の所長をしていた浜田教授という[359]。若田部昌澄によれば、自民党衆議院議員山本幸三が超党派の議員連盟「増税によらない復興財源を求める会」を作り、その会長に山本が安倍晋三を据えたことが発端という。安倍は、当初、半信半疑だったが、それが確信に変わっていく。そのあたりで自民党総裁選があり、安倍の後押しをしたのが山本らのリフレ派だった。その関係から、安倍は総選挙の最初から「金融緩和」を掲げた。これがアベノミクスの第一の矢になったという[360]。 政策実施 安倍内閣は、大規模な金融緩和を唱えた黒田東彦を日銀総裁に指名した。黒田総裁は、総裁就任後の初の政策決定会合後の2013年4月4日の記者会見において、「量的・質的金融緩和」政策の概要を公表した[361][362][363]。 物価目標を2年程度を掛けて年間2パーセントとするため、以下の5点にわたる政策を実施する[362]。 (1)日銀の市場操作目標を無担保コールレートからマネタリーベース(日銀券+日銀当座預金+貨幣[硬貨])へ変更 (2)2年後の日銀資産を現在(158兆円)の2倍近い290兆円にまで膨らませる。 (3)買入れ資産対象を従来の短期国債中心から、中期国債その他に拡大する(平均残存期間を3年弱から7年程度に延長する)。 (4)2パーセント程度のインフレが安定的に実現するまで継続する。 (5)銀行券ルールを一時停止する。 この発表は、市場からは「驚き」をもって迎えられた[364][365][366]。 政策成果 失業率 完全失業率 全国・季節調整済・速報値 総務省労働力調査 2012年11月4.1% 12月4.2% 2013年 1月4.2% 2月4.3% 3月4.1% 4月4.1% 5月4.1% 6月3.9%(2013年7月30日公表) 2013年4.0% 2014年3.6% 2015年3.4% 2016年3.1% 2017年 3月2.8% 4月2.8% 5月3.1% 6月2.8%(2017年7月28日公表) 物価指数 消費者物価総合指数(前年同月比) 6月に入り始めてインフレ方向に転じた。内閣府統計局消費者物価指数 2012年11月-0.2% 12月-0.1% 2012年0.0% 2013年 1月-0.3% 2月-0.7% 3月-0.9% 4月-0.7% 5月-0.3% 6月0.2%(2013年7月26日発表) 2013年0.4% 2014年2.7% 目標達成 2015年0.8% 2016年-0.1% 2017年 3月0.3% 4月0.4% 5月0.4% 6月0.4%(2017年7月28日公表) 実質GDP成長率[367] 2013年2.0% 2014年0.3% 2015年1.2% 2016年1.0% 名目GDP成長率[368] 2013年1.7% 2014年2.1% 2015年3.3% 目標達成 2016年1.3% 2017年1.0%(2017/1〜3年率換算) 株価上昇 。 5月末の株価大変動 5月23日、一日で約1,500円の値幅(高値-低値)を記録した。5月末の株価大変動と円高で市場が乱高下し、経済金融アナリストの吉松崇はボラテイリティの増大を懸念している[369]。 2017年3月末1万8909円26銭 消費需要の動き 1月-4月 百貨店の美術・宝飾・貴金属などの売上が上昇していると報道されている。実際、2013年1月〜4月の同売上は前年同月比で6.8%、8.6%、15.6%、18.8%上昇している。しかし、百貨店の総売上は0.2%、0.3%、3.9%、-0.5%と低迷している。同じように、同期間のスーパーの売上高は前年同月比で-4.7%、-5.5%、1.7%、-1.9%、同じくコンビニの売上高は-0.9%、-4.7%、-0.4%、-2.6%と前年に対し減少している。[370] 5月、6月 全国百貨店2013年 5月 対前年比 2.6%増 6月 同 7.2%増 「全国百貨店売上高概況」[371]各月による。 スーパー2013年 5月 対前年比 0.2%増 6月 同 2.8%増 「日本スーパーマーケットマンスリーレポート」[372]各月による。 コンビニ全店2013年 5月 対前年比 4.1%増 6月 同 5.5%増 コンビニ既存店2013年 5月 対前年比 -1.2%増 6月 同 0.1%増 「JFAコンビニエンスストア統計調査月報」[373]各月による。 法人税率 2012年25.5% 2015年23.9% 2016年23.4% 2017年23.4% 設備投資 日本政策投資銀行の全国設備投資計画調査(2013年6月調査)によると、2013年度計画は、2012年実績に比べ、全産業で10.3%増、うち製造業10.6%増、非製造業10.1%増[374]。 なお、2011年度実績に対する2012年度実績は、全産業で2.9%増、うち製造業2.7%増、非製造業3.1%増であった。これに対し、2013年度実績に対する2014年度計画は、全産業で▲10.0%、うち製造業▲12.4%、非製造業▲9.0%と減少計画となっている。比較は、データが共通にある起業についてのみ行なわれ、2012年度実績は2,088社、2013年度計画は2,205社、2014年度計画は994社の共通回答に基づいている[374]。 投資動機では、全産業2013年計画で能力増強39.5%、維持・補修21.4%、新製品・製品高度化9.5%、合理化・省力化7.1%、研究開発9.0%、その他18.3%となっており、「維持・補修」のウェイトが調査開始以来最大となっている[374]。 企業の資金需要に関係する設備投資計画/キャッシュフローDIは2013年度計画で全産業▲40.3となっている(これは設備投資額がキャッシュフローを上回ると答えた企業数が29.9%、下回ると答えた企業70.2%を意味する)。これは企業の借入需要は回復していないとも、約1/3の企業で資金需要が出てきたとも解釈できる[374]。 地域別(資本金1億円以上)でも2012年度実績にたいする2013年度計画は全国全産業で9.5%増となっているが、北海道と北関東では前年度実績を下回る計画となっている。逆に東海と四国では、増加率が20%を超えている[374]。 賃金低下 2013年のフルタイム労働者の平均月額賃金が前年比から0.7%減少し、4年ぶりに賃金が前年を下回った事が厚生労働省の賃金構造基本統計調査(全国)によって判明した[375]。 また、非正規雇用者が2013年11月時点で1964万人と過去最多となる一方で、正規雇用者は2013年1月から11月までの間に26万人減少しており、雇用の質の悪化が進んでいる。2013年11月の正社員有効求人倍率は0.63倍にとどまっており、大半の新規求人は非正規である[376][377]。 2014年7月の実質賃金は前年比で6.2%落ち込んだ[378]。 消費者態度 内閣府の消費動向調査(2013年7月調査、8月9日発表)の総世帯・季節調整済み数値で消費者態度指数は[† 6]、5月45.6、6月44.3、7月43.6と2ヶ月連続で悪化している。一般世帯季節調整済みでは、5月45.7、6月44.3、7月43.6である[379]。 回答の区分構成比は、下表の通り[379] 消費税率の引き上げ 2014年4月から6月までの改訂版の実質経済成長率はマイナス1.8%、年率換算値でマイナス7.1%であった[380]。 速報値は年率マイナス6.8%であったが、それが下方修正された。これは2009年以降で最大の下落率であり、専門家らはこの下落は消費税の増税のためであると述べる[381]。 国債格付け 2014年-2015年に、3大格付け会社のムーディーズ、フィッチ・レーティングス、スタンダード&プアーズはアベノミクスの効果を疑問視し日本の国債の格付けを下げている[382][383]。 思想的・経済学的背景 大胆な金融緩和デフレ対策としての量的金融緩和政策、リフレーション 機動的な財政政策公共事業投資、伝統的なケインズ政策 民間投資を増やす成長戦略イノベーション政策、供給サイドの経済学 大阪市立大学の塩沢由典名誉教授(複雑系経済学)は、アベノミクスの3本の矢は、それぞれ異なる経済理論・経済思想に基づいていて相互に矛盾があり、アベノミクス全体は整合的な政策体系ではないと述べている[384]。 早稲田大学政治経済学部の若田部昌澄教授(経済学史)は、自由民主党内のアベノミクス推進派には、4つくらいの経済思想が「共存」していると述べている[† 8]。また、「アベノミクスには、自民党内の政治力学、あるいは政治的妥協の産物という顔と、経済政策のパッケージという2つの側面がある。そもそも安倍首相の復活には麻生太郎、甘利明ら自民党実力者の力が大きく働いた。ここから、3人の実力者のお気に入りの経済政策アイデアを束ねるという妥協が生じた。『第一の矢』大胆な金融緩和(安倍)、『第二の矢』機動的な財政政策(麻生)、『第三の矢』民間投資を呼び起こす成長戦略(甘利)である。こうした妥協の産物として、アベノミクスは関係者をそれぞれ満足させる『三方一両得』のようによくできている」とも述べている[385]。 2013年にノーベル経済学賞を受賞したイェール大学のロバート・シラー教授は、「個々の政策に目新しさはないかもしれないが、組み合わせた点は珍しい」と評価している[285]。 フランスのレギュラシオン学派の経済学者として知られるロベール・ボワイエは、「アベノミクスは、イデオロギー的なケインズ主義である」と述べている[386]。 上武大学の田中秀臣教授(日本経済思想史)は、「池田勇人の経済政策である所得倍増計画は、1)日銀の金融緩和政策スタンス、2)インフラ整備中心の財政政策、3)貿易の自由化・エネルギー政策の転換・規制緩和など、によって実現を目指すものであった。この3つの要素は、アベノミクスの『三本の矢』と相似している」と述べている[387]。 それぞれの政策には、経済学者の応援団がついている。以下はその簡易なリストである。 大胆な金融緩和浜田宏一[388]、岩田規久男[389]、若田部昌澄[390]、伊藤隆敏[391]、浅田統一郎[392] 機動的な財政政策藤井聡[393]、三橋貴明[394][† 9]、小野善康[† 10] 民間投資を増やす成長戦略竹中平蔵[395][396]、伊藤元重[397] 3つの政策のそれぞれに激しい対立がある。まず、それぞれに対する賛否およびそれぞれの政策間の矛盾について解説する。 リフレーション政策について デフレーション(物価の持続的な下落)をマイルドなインフレーション(年率2-3パーセント)に転換することを目指す一連の政策をインフレターゲット政策</b>という。これまで多くの国々において、高騰するインフレ率を抑制するための対策としてインフレターゲットが掲げられてきた。インフレターゲットの設定によるリフレーション政策(リフレ政策)は、アメリカのノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマン(国際経済学・経済地理学)が提唱し[398]、それに賛同する経済学者・エコノミストたち(リフレ派)が長く導入を求めていた[399]。リフレ派の代表的な経済学者には岩田規久男、浜田宏一、原田泰、高橋洋一ら、エコノミストには森永卓郎[400]、山形浩生、勝間和代[401]らがいる[† 11]。また、リフレ派の観点から経済学者を格付けした『エコノミスト・ミシュラン』という本もある[402]。 田中秀臣は「現在(2015年)の日銀の金融政策の方向性は、インフレ目標政策・量的緩和などリフレ政策のメニューそのものである」と述べている[403]。 リフレ派と反リフレ派との間には、過去10年以上にわたる激しい論戦があった。たとえば、小野善康は、「アベノミクスの金融緩和は、デフレ脱却への道筋とはならない」と批判している[404][405]。その一方で、原田泰は「金融緩和によってお金を増やせば、必ず物価が上がり、名目GDPも増加する」と述べている[406]。 アベノミクスの登場により、リフレ派と反リフレ派の争いはさらにエスカレートしている。アベノミクスに対する経済学者・エコノミストの賛否も、多くはリフレ政策の有効性と危険性をめぐってのものである[405][407]。 リフレ派の多くは、クラウディング・アウト、非ケインズ効果、マンデルフレミングモデルに基づいて、反対しないまでも、財政出動にはあまり効き目がないと主張している[408]。浜田宏一は、「有効需要をつけるために景気を財政で鞭打つというのは、変動相場制の下では有効な政策ではない」と述べている[409]。ただし、リフレ派とされる飯田泰之は、ゼロ金利など流動性の罠に陥っている状況では、財政出動により利子率が上昇する事実はなく、マンデル=フレミング効果の適用には「理論的背景について十分な整理が必要」としている[410]。 日本銀行法改正 安倍内閣の内閣参与である本田悦朗は日本銀行法を改正して物価安定とともに「物価安定を阻害しない限り雇用の最大化を図る」ことを条文で明示するよう主張している[411]。また、日銀法改正の必要性は安倍首相に「会うたびに言っている」と述べている[412]。 2015年2月4日、安倍晋三首相は衆議院予算委員会で、日銀法改正について「将来の選択肢として視野に入れていきたい」と述べた[413]。 成長戦略について 規制緩和・構造改革 若田部昌澄は「アベノミクスの成長戦略は、産業政策的なターゲット政策・官民ファンドが中心であり、規制改革・民営化は副次的である」と述べている[414]。 安倍内閣の産業競争力会議メンバーである竹中平蔵は「経済を成長させるためには、規制改革を進めなければならない」「日本経済を動かすには、枠組みを変えなくてはいけない」と述べている[415]。 社会政策 安倍内閣は2020年までに最低賃金を時給1000円まで上げる方針を示している[416]。 アベノミクス解散 2014年11月21日、安倍晋三首相は2014年4月の消費税増税による予想以上の景気の落ち込みで、アベノミクスの継続を問うとして衆議院を解散し、勝利した。 関連人物 内閣官房長官の菅義偉は、浜田宏一と本田悦朗について「2人はまさに『アベノミクス』を作った。多くの反対があったが、実行したらあらゆる経済指標がよくなり始めた」と述べている[417]。 高橋洋一 - ブレーンの一人[418]。第1次安倍内閣では経済政策のブレーンを務めた。嘉悦大学教授(財政学)。 浜田宏一 - 経済政策・金融分野のブレーンの一人[419][420][421]。第2次安倍内閣の内閣官房参与。安倍晋三の父・安倍晋太郎が興した「安倍フェロー」の研究員となったことから、安倍首相との親交が生まれた[305]。東京大学・イェール大学名誉教授(国際金融論・ゲーム理論)。 黒田東彦 - 日本銀行総裁。金融政策ブレーンの一人である。 本田悦朗 - ブレーンの一人[422][423]。第2次安倍内閣の内閣官房参与。2016年より、駐スイス・駐リヒテンシュタイン特命全権大使、兼欧州金融経済特命大使に任命される。 岩田規久男 - 日本銀行副総裁。経済ブレーンの一人[424]。上智大学・学習院大学名誉教授(都市経済学・金融論)。 中原伸之 - 金融政策のブレーンの一人[425][426]。元東亜燃料工業(現・JXTGエネルギー)株式会社代表取締役社長。日本銀行政策委員会審議委員も務めた。 山本幸三 - 野党時代、安倍に経済政策をブリーフィングし安倍をリフレ派に導いた。自身について、アベノミクスの原案作りに携わる[50]。第3次安倍内閣 (第2次改造)において内閣府特命担当大臣(地方創生・規制改革)。 藤井聡 - 第2次安倍内閣での内閣官房参与(防災・減災ニューディール政策担当)。国土強靭化計画の提唱者[427]。京都大学大学院工学研究科教授(都市社会工学)、同レジリエンス研究ユニット長。 脚注 注釈 出典 参考文献 Text "和書" ignored (help) 関連項目 第2次安倍内閣 第2次安倍内閣 (改造) 第3次安倍内閣 第3次安倍内閣 (第1次改造) 第3次安倍内閣 (第2次改造) 第3次安倍内閣 (第3次改造) 第4次安倍内閣 第4次安倍内閣 (改造) 異次元緩和 働き方改革 日本の年金 上げ潮派 安倍ドクトリン 国家戦略特別区域 環太平洋戦略的経済連携協定 在日米国商工会議所 マネタリスト 国立大学改革プラン トリクルダウン 聖域なき構造改革 第16循環 外部リンク 官邸公式ページ - WSJ.com 2013年7月2日
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ピルフェニドンが初めて処方されたのはいつ
ベンゾジアゼピン離脱症候群
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ベンゾジアゼピン離脱症候群(ベンゾジアゼピンりだつしょうこうぐん、Benzodiazepine withdrawal syndrome)は、ベンゾジアゼピン系薬の服用により身体的依存が形成されてから、用量を減量するか、断薬することによって生じる一連の離脱症状。その症状は頻繁に深刻な睡眠障害、易刺激性、不安と緊張の増加、パニック発作、手の震え、発汗、集中困難、混乱と認識困難、記憶の問題、吐き気やむかつき、体重減少、動悸、頭痛、筋肉の痛みと凝り、多くの知覚変化、幻覚、てんかん発作、精神病[1]、インフルエンザ様症状[2]、また自殺[3]といった特徴がある(#兆候と症状節の完全な一覧を参照)。さらに、これらの症状は単純に直線的に着々と減少するのではなく、重症度が日々あるいは週ごとに変化し、一進一退することで有名である[4][5]。 発生する症状は、潜在的に深刻な状態であり、複雑でしばしば長期化しうる[6][7]。アルコールやバルビツール酸系の離脱症候群と、ベンゾジアゼピン系の離脱症状は類似している[8]。長期間の使用は、3か月以上の日常的な使用と定義され[9]、その患者らに離脱症状が出現する割合は15%から44%の間だと推定されている[10]。このような使用は依存のリスクの増加[11]、用量の増加や効果の減少、特に高齢者における事故と転倒のリスクの増加[12]、また認知的[13]、神経学的および知的な障害[14]に結びつくため望ましくない。短時間作用型の睡眠薬の使用は入眠障害には有効だが、離脱の影響によって睡眠の後半は悪化する[15]。 症状の重症度は、重篤なものになりえ[6]、特に長期的な使用や高用量からの離脱、突然あるいは急速すぎる減量では、発作のような致命的なものになる[16]。しかし徐々の減量や、また比較的低用量・短期的な使用からであっても[17](動物実験では1回の大量投与の後でも[18][19])重篤な離脱反応が起きることもある。離脱時には、致命的となる可能性のある振戦せん妄の兆候の評価が必要である[20]。患者の少数では遷延性離脱症候群が起こり、ベンゾジアゼピンの中止後も急性症状の下位の水準で数カ月あるいは数年にわたって持続する可能性がある。服用量をゆっくり徐々に減少させることによって遷延性離脱症候群の発症の可能性を最小限にすることができる。[21] 発生機序は、慢性的なベンゾジアゼピンへの暴露により、薬の影響を弱めようと神経系が適応し、耐性と身体依存が生じることによる[22]。治療用量内であっても長期的な使用により、服薬と服薬との間において離脱症状が出現することがある[23]。この状態で投与が中止あるいは減量されれば、離脱症状が生じる可能性があり、これは体の生理的適応が逆転するまで残存しうる[24]。これらの反跳性症状は、当初に薬を服薬することとなった症状と同様か、もしくは退薬症状である[25]。重篤な症例では、離脱反応は躁病、統合失調症、発作性疾患(特に高用量)のような、精神医学的なまた医学的に重篤な状態に似ていることがある[26]。治療者が退薬症状を見分けられなければ、ベンゾジアゼピンを再服用する誤った根拠となり、これは離脱の失敗とベンゾジアゼピンの再投薬へと戻ることになり、それはしばしば高用量となってしまう[26]。 離脱症状の啓もう、患者別の離脱重症度に沿った漸減計画、ベンゾジアゼピン離脱支援団体への紹介や支援は、すべて離脱の成功率を高める[27][28]。しかしながら、ベンゾジアゼピンの長期使用者の場合は彼らの意思に反しての離脱を強制すべきではない[6]。 歴史とガイドライン 1960年に初のベンゾジアゼピンであるクロルジアゼポキシドがホフマン・ラ・ロシュ社より市場に出され、日本ではコントール、海外ではLibriumの商品名で知られる。そのすぐ後にジアゼパム(セルシン、Valium)が登場した。そしてすぐ後の1961年には、ホリスターらが1〜7か月の間でクロルジアゼポキシドを使用した入院患者において、不眠症からけいれん発作までの離脱症状を報告した[30]。こうした1960年代の初期の報告は、治療用量よりも高用量で長期的に使用した後の中止により生じたものであったが、後に治療用量でも離脱症状が生じることをいくつかの試験が示していった[31]。 世界保健機関は、1961年に公布された麻薬を規制する麻薬に関する単一条約の後に登場した、新たな向精神薬の乱用を懸念した。1971年には向精神薬に関する条約が公布され、ベンゾジアゼピン系ではクロルジアゼポキシドやジアゼパムを含めた20種以上が指定され、後に登場したものでも国際的に乱用されたものについては追加されていった。アメリカでは1975年には、クロルジアゼポキシドやジアゼパムは規制物質法の管理下に置かれた[32]。 ロシュ社は1980年まで非依存性であると主張し続けたが、今日の医薬品の添付文書は明らかに乱用や身体依存への注意を促している[32]。日本の医薬品添付文書でも同様に依存と、不眠から発作までを含めた離脱症状に注意し、慎重な減量を促している。1980年代にイギリスのヘザー・アシュトンによるベンゾジアゼピン系の離脱専門診療所が開設される。1988年には、英国医薬品安全委員会は国内の医師に処方ガイドラインを送付し、ベンゾジアゼピン系の処方は4週間以内にすべきとした[33]。 1996年には、世界保健機関がベンゾジアゼピンの合理的な使用に関するガイドラインを出版し、処方は30日以下にすべきであるとした[34]。この報告書では、具体的な離脱の方法としてヘザー・アシュトンの論文を出典とし、全体の量の50%は数日で減量できるが、次の25%は数週間までを必要とすることがあり、最後の残りの25%は6カ月までを要する場合があり、まれに入院を要し、個々人に沿った管理の必要性が示されている[35]。また半減期が短い薬剤は、長時間型に置換することにも言及している[35]。 2002年には、ヘザー・アシュトンによる『ベンゾジアゼピン-それはどのように作用し、離脱するにはどうすればよいか』(Benzodiazepines: How They Work and How to Withdraw)[6]がオンラインで入手可能となる。邦訳は2012年8月に公開され、これは出典論文が省略され、新たな付記も存在する。内容としては、離脱を管理するために長時間型のジアゼパムに置換し、ジアゼパムが10mgになるまで週あたり残りの10%を減量するといった、1996年の世界保健機関によるものよりさらにペースを落とした方法が紹介されている。 国内外の診療ガイドラインを比較すれば以下のようになる。 2012年の日本うつ病学会のうつ病の診療ガイドラインは、そもそも軽症のうつ病では安易な薬物療法の選択を避ける姿勢が優先されているが、薬物療法は抗うつ薬を基本とし、ベンゾジアゼピンを併用するとしても単剤かつ必要最小限とし、常用量依存に注意すべきとしている[36]。 2013年の日本睡眠学会による診療ガイドラインでは、多剤併用によりさらなる有効性があるというよりは副作用の頻度を高めるのでできるだけ避け、臨床常⽤量を超える使用は絶対に避け、休薬する場合に複数の離脱症状を呈する患者は20〜40%とされ、漸減法などを⽤いて慎重に減量し、例として1〜2週間ごとに1/4錠ずつ減量し問題がなければこのように続行するなど時間をかけることが必要とされている[37]。さらに、⻑期間、⾼⽤量、多剤併⽤が離脱症状の危険因⼦であり、2錠以上あるいは2種類以上である場合には緩やかな減量が必要だとしている。 この診療ガイドラインの医師向け解説では、単に1〜2週ごとに服用量の25%ずつ減薬するのが標準的であると書かれ「1錠の1/4」という情報が消去されている。多剤では半減期が短いものを先に減量するのが望ましく、単剤の超短時間作用型である場合には長時間型に置換してもいいとされる。この診療ガイドラインの睡眠薬の離脱症状の出現率の論拠は、非ベンゾジアゼピン系のゾピクロン(アモバン)の7.5mgかゾルピデム(マイスリー)の10mgを3カ月使用した後に徐々に減量した場合のものである[38]。説明のある通り、非ベンゾジアゼピン系の薬剤は、受容体のサブタイプに対してより選択的に作用することで抗不安作用が少ないといった改良された睡眠薬であり、依存と離脱症状の点において古いベンゾジアゼピン系よりも改良された利点がある[2]。睡眠薬での懸念は抗不安薬とは異なり、長年にわたった投薬からの急な断薬は、低用量においてさえも、けいれん発作を起こすなど非常に悲惨で危険となりうるため、低力価で長時間型の薬剤を使用し、特に何年も使用した場合には数カ月にわたって漸減すべきである[2]。 2007年の英国国立薬物乱用治療庁の臨床ガイドラインでは、明らかに依存の症状がある場合にはジアゼパムに等価用量で置換して減量を開始し、治療用量の場合には、はじめにジアゼパムで2〜2.5mg減量し症状が出ればおさまるまで維持し、2週間ごとに1日の用量の8分の1(4分の1から10分の1の間)で減量するとしている[39]。 2012年のコロンビア大学嗜癖物質乱用国立センター(The National Center on Addiction and Substance Abuse at Columbia University)による様々な薬物の嗜癖についての科学的根拠の精査は[40]、ベンゾジアゼピンのような中枢神経抑制剤からの離脱は、アルコールにおける発作やせん妄に似た症状により一部では致死的となる場合があり、離脱症状は一般的には10〜14日だが半年程度持続することもあるため、数週間から数カ月にわたって漸減すべきであり、選択肢としてクロルジアゼポキシドやクロナゼパムのような長時間型の薬剤を処方することもあるとしている。 アメリカ精神医学会(APA)による2009年のパニック障害のガイドラインでは、主とする治療薬は抗うつ薬となるが、初期にベンゾジアゼピンを使用しても身体依存に注意して2〜3か月をめどとし、中止は2〜4カ月にわたって週に10%の減量を超えないように漸減し中止する[41]。 イギリスでは『英国国民医薬品集』(British National Formulary)にて漸減を推奨している[42]。英国国立医療技術評価機構(NICE)の2004年不眠症診療ガイドラインでは、処方は4週間を限度とし、かつベンゾジアゼピンの慢性的使用者の10〜30%が身体的依存を生じ、半数が離脱症状を経験すると記されている[43]。 イギリスでは、フルニトラゼパム(サイレース、ロヒプノール)はNHSブラックリストに載っており国民保健サービスでは処方できない[43]。アメリカでも医薬品として認可されておらず[44]、国際的にも、1995年には他のベンゾジアゼピンよりも強い乱用傾向のため向精神薬に関する条約のスケジュールIIIへと規制が1段階昇格している[45]。 対照的に、日本ではフルニトラゼパムが利用可能である上に、厚生労働省の研究において、睡眠薬の基準をフルニトラゼパムで等価換算しているし、2010年の精神科における2534名の処方歴から実際に26.3%と最も多い比率で処方されている[46]。睡眠薬/抗不安薬をジアゼパムに等価換算し、1剤では平均8.6mg、同様に2剤で17.3mg、3剤で25.8mg、4剤で38.1mg、5剤は48.6mg、6剤以上では72.1mgである[47]。多剤併用では、高力価のベンゾジアゼピンの使用や、3剤以上とですでに高用量となっている場合に注意が必要である。 ジアゼパムでは30〜40mgからの中止によってせん妄やけいれん発作が生じやすい[48]。アルコールなどの併用を除外して、ベンゾジアゼピン依存症だと同定された108人のうち高用量から突然断薬となった12%(13人)にせん妄やけいれんが生じ、せん妄が10%(11人)、けいれんが3%(3人)である[49]。別の調査では、ベンゾジアゼピンの一年以上の使用者の離脱反応として、7%に精神病症状、4%にてんかん発作が生じている[50]。 『精神障害の診断と統計マニュアル』第5版(DSM-5)には、ジアゼパムに換算して15mgの「少量」でも、数か月にわたり毎日服用していれば離脱が生じることが報告されており、換算40mgでは臨床的な離脱症状を起こしやすく、100mgではせん妄やけいれんを、よりおこしやすいことが記載されている[51]。 明確に高用量からの離脱に言及したものは、上述したヘザー・アシュトンの『ベンゾジアゼピン』や[6]、2007年の英国国立薬物乱用治療庁の臨床ガイドラインや[39]、2012年の英国精神薬理学会(BAP)の物質使用障害に関する科学的根拠に基づくガイドライン[52]、また2009年の世界保健機関による薬物依存と離脱の管理のための臨床ガイドラインがある[53]。 『ベンゾジアゼピン』はジアゼパムに換算して100mgを超えるケースにも詳細に言及し、またもっとも遅い減量ペースであるが離脱症状が長期化するのを避けることに焦点を当てているためである。 イギリス国民保健サービスの臨床ガイドラインでは、ジアゼパムに換算して30mg以上はごくまれにしか処方されるべきでなく、離脱を目的として短期間に限るべきとしている。ジアゼパムに換算して50mg以上のような非常に高用量の場合、専門家による評価が必要だとしている。 英国精神薬理学会のものは、単に長期的に処方された治療用量の依存と、高用量となりがちな処方薬の誤用や違法な乱用を伴う依存を区別し、後者は先に治療用量に減量することが目的であるとしている。その具体的な手法には言及していない。ジアゼパムに換算して30mgの高用量は滅多に処方されるべきではないとし、この量は非常に高用量となったベンゾジアゼピンからの離脱けいれんを予防するのに十分な量であるためである。 世界保健機関のガイドラインは、ベンゾジアゼピンは数週間で依存を形成し、離脱症状の重症度の変動が激しいため離脱尺度による計測は推奨できないとしている。また、最も安全な離脱の管理法は、用量を徐々に減量することであるとし、このことで離脱症状を軽減し発作の発症を予防できる。換算を超えても最大40mgまでの等価用量のジアゼパムを1日に3等分して投与し置換して、4〜7日続け安定化させる。その後は、低用量と元が40mg以上だった高用量とに漸減計画が分かれこれに従って1〜2週間ごとに減量していき、症状には波があるので症状が弱まるまで現行の用量を維持するとしている。(最大でも40mgの高用量のジアゼパムはアルコールの離脱の管理においても適切な量である[54]) 長時間型のジアゼパムに置換し、昼、朝、夜の順で減量し減薬していく方法は、ヘザー・アシュトンの『ベンゾジアゼピン』と世界保健機関の診療ガイドラインとで共通し、夜を最後に回す理由はアシュトンによれば睡眠の為である。この2つを参考にすれば減量幅やペースは個々の症状の重症度に合わせて変化するだろうが、おおよそ以下のような手順である。 夜10mgのみとなってからの減量幅はアシュトンの『ベンゾジアゼピン』では1mgずつ、また13の症例が例示されている。海外の離脱支援団体では、非常に微量な量で減量していくミルク・タイトレーションという方法を用いている。 『精神科救急のすべて』(Handbook of Emergency Psychiatry)は、救急医療におけるものだが、ベンゾジアゼピンを含む鎮静催眠剤の離脱はアルコールと同様の処置が必要であるとし、バルビツール酸系のフェノバルビタールの置換や、ベンゾジアゼピン系のクロルジアゼポキシドやクロナゼパムへの置換を候補として挙げ、1日の服用量をフェノバルビタールに等価換算し1日に3分割して投与する方法を紹介している[55]。しかし、すでに見てきたように通常ベンゾジアゼピン系において用いられるのはバルビツール酸系ではなく、ベンゾジアゼピン系である。 2007年のイギリスの薬物依存の臨床ガイドラインは、重篤な離脱症状を呈し対処されていない患者は、症状緩和のために用量を増加させる必要があるかもしれないとしている[39]。 他の様々な薬物を併存したケースの治療の科学的根拠の比較については、英国精神薬理学会のガイドラインが言及している[56]。『精神科救急のすべて』は、アルコールや違法薬物を含めた併存した離脱における救急状態について、実際の救急医療に基づき言及している[55]。精神科の多剤大量処方によって複雑な多剤処方となっている場合の減量について、笠陽一郎の『精神科セカンドオピニオン』に様々な事例が紹介されている[57]。 兆候と症状 ベンゾジアゼピン、バルビツール酸、アルコールなどの鎮静催眠剤の離脱の影響は、深刻な医学的合併症となる。アヘンなどのオピオイドの離脱を引き合いにしてもその危険性を上まわる[58]。たいていの患者は医師からの助言や中止のための支援はわずかである[59]。一部の離脱症状は、薬が処方されることとなった症状と同じであり[25]、急性であったり長期化したりする。症状の発症は、長い半減期をもつベンゾジアゼピンでは3週間まで遅れる場合があるが、短時間型のものでは一般的に24〜48時間で現れる[60]。高用量あるいは低用量の中止による症状には、基本的な違いはないが、高用量のほうが重篤化しやすい傾向がある[61]。 日中における再発と、服用間離脱とも呼ばれる反跳性の離脱症状は、依存が始まれば生じることがある。再発は、薬が最初に処方された症状の再来である。対照的に、反跳症状は、ベンゾジアゼピンが最初に服用された症状の以前より激しい再来である。一方で、離脱症状は服用量が減少した期間中に初めて出現し、不眠症、不安、苦悩、体重減少、パニック、抑うつ、現実感喪失、偏執病などの特徴があり、トリアゾラムやロラゼパムのような短時間型のベンゾジアゼピンの中止によく関連している。トリアゾラムやロラゼパムでは7日の使用後でも離脱症状を発症させた証拠がある。[26][62]日中の症状は、夜間にベンゾジアゼピン[63][64]あるいはゾピクロンのようなZ薬[65]を使用しだしてから数日から数週間後に生じる。離脱に関連した不眠症は、治療前よりも悪化して反跳する[66][67]。これはベンゾジアゼピンを断続的に使用した場合でもそうである[68]。 以下の症状が、徐々にあるいは急に減量した期間中に生じる ベンゾジアゼピンの急な、あるいは急速すぎる中止は、さらに重篤で不快な離脱症状となる可能性がある 筋萎縮、筋減少 正に症状は「生きているのか夢の世界にいるのか」という症状となり、外出も不可なほどとなる。 患者は離脱の進行と共に、改善された気分や認知能力を伴った身体と精神の健康に気づく。 機序と病態 ベンゾジアゼピンはGABA阻害を増強する。もし長期投与などによりこの阻害が継続すると、神経適応はこの中枢神経系の抑制強化に対して、GABA阻害の減少とグルタミン酸興奮性の増強によってバランスをとる。ベンゾジアゼピンを中断すると神経適応はあらわとなり、神経系の興奮と離脱症状の出現がおこる。 離脱時にグルタミン酸系の興奮作用が増加することが、キンドリング現象を起こすと考えられている[22]。 ベンゾジアゼピン離脱の既往歴を持っている人は再度の離脱には成功する確率が低いことが知られている[111]。 アルコール離脱と同様、ベンゾゼジアピン離脱を繰り返すと中枢神経系の感作やキンドリングにつながり、認知能力の悪化、症状と離脱期間の悪化となる[112][113][114]。 管理 WHOのガイドラインに従えば、離脱は長期作用型のベンゾジアゼピンに置換し、8-12週間以上をかけて行うべきとされている[115]。 心理学的な介入は、徐々に減量する(漸減する)だけよりも、中止後の追跡調査において小さいが有意に追加の利益をもたらす可能性がある[116]。調査された心理学的な介入とは、リラクゼーションの訓練、不眠症に対する認知行動療法、消費量と症状の自己管理、目標設定、離脱の管理と不安時の対処である[116]。 十分な動機づけと適切な方法により、ほとんどの人がベンゾジアゼピンからの離脱に成功する。しかし、長期化した重篤な症状は、結婚の破たん、企業の倒産、破産、入院につながり、最も深刻な悪影響は自殺である[3]。このように、長期的な使用者は自らの意思に反して中止されてはならない[6]。急速すぎる離脱、説明不足、一時的な離脱症状に対する安心付けの怠りは、狂ってしまうのではないかというパニックと恐れを増加させ、その結果として心的外傷後ストレス障害に似た状況に陥らせやすい。ゆっくりとした離脱は、周囲の人々からの励ましと相まって成功を高める[6][21]。 2017年の高齢者のベンゾジアゼピン漸減の補助についてのシステマティック・レビューでは、患者教育が最も成功率に寄与しており、認知行動療法は一貫しない結果がみられるが全体的には有益であり、ほかの薬物の使用は結論を出せなかった[117]。 医薬品との相互作用 いくつかの代替の薬物療法には見込みがあるが、それらを利用するには現在の証拠では不十分である[116]。いくつかの研究により実際に代替の薬物療法への突然の置き換えは、漸減法単独よりも有効性が低いことが判明しており、3つの研究だけが、漸減法と共にメラトニン[118]あるいはパロキセチン[119]、あるいはトラゾドンとパルプロ酸[120]を追加することによる利益を見出している。 2018年の薬理学的介入についてのコクランレビューは、研究規模が小規模なため確固とした結論を導くことはできないとし、三環系抗うつ薬、フルマゼニル、長期的な追加では効果が持続しなかったパロキセチンなどが含まれる[121]。 アルコールは、たとえ適度の飲酒であっても、ベンゾジアゼピンとの交叉耐性のためか、離脱失敗の有意な予測因子であることが判明している[6][122][123] 抗精神病薬は、ベンゾジアゼピン離脱に誘発された精神病には、たいてい無効である[75][124]。抗精神病薬は、ベンゾジアゼピン離脱中は痙攣などの離脱症状を悪化させる傾向にあるため避けるべきである[60][125][126][127]。一部の抗精神病薬、特にクロザピン、オランザピン(ジプレキサ)、低力価のフェノチアジン系(クロルプロマジンなど)は他よりも離脱時のリスクが高い。それらは発作閾値を低下させ、離脱症状を悪化させる。もし使われていた場合は、細心の注意が必要となる[128]。 バルビツール酸系は、ベンゾジアゼピンとの交叉耐性があるため避けるべきである。 ベンゾジアゼピンや交叉耐性のある薬物は、断薬後には時々でさえ避けるべきである。これには同様の作用機序を持つ非ベンゾジアゼピン系のZ薬も含まれる。なぜなら、ベンゾジアゼピン系への耐性は、個々人の生化学により離脱後も4カ月から2年にわたり存在することが証明されているからである。ベンゾジアゼピンへの再暴露によって、通常、耐性とベンゾジアゼピン離脱症状は再燃した。[122][129] ブプロピオンは、主に抗うつ薬や禁煙に使用されるが、発作のリスクを高めるため、ベンゾジアゼピンや他の鎮静催眠薬(アルコールなど)の急な離脱を経験した患者には禁忌である[130]。ブプロピオンには持続的な覚醒作用がある。 (セディール)による増強では、中止の成功率を高めることは判明しなかった[9]。 カフェインは覚醒の性質のため、離脱症状を悪化させることがある[6]。興味深いことに、動物実験においてカフェインは、発作閾値を低下させるようなベンゾジアゼピン部位の調整を示した[131]。けいれんが起きやすくなる可能性がある。 カルバマゼピンは、抗てんかん薬だが、ベンゾジアゼピンの離脱の管理と治療において、いくらかの有益な効果があるようである。とはいえ、現時点では研究が限られているためベンゾジアゼピンの離脱に推奨するほどの特性はない。[122] フルマゼニルは、ベンゾジアゼピンの解毒剤であるため、身体依存が形成され現在服用している最中には非常に危険である。これは医薬品添付文書においても禁忌である[132]。フルマゼニルは、耐性を反転させ受容体の機能の正常化を促すことが分かっている。しかしながら、離脱治療においての作用についての、無作為化試験の実施が求められている[133]。フルマゼニルは、GABAA受容体のベンゾジアゼピン受容体における上方制御を促し、脱共役を反転させる。その結果、耐性を反転させ、離脱症状や再発率の低減を図る[134][135]。これは研究レベルに限定されておりリスクを抱えるため、フルマゼニルによる解毒法は議論の余地があり、医学的監視下で入院してのみ行うことができる。 ベンゾジアゼピン受容体拮抗薬であるフルマゼニルの、離脱後に持続するベンゾジアゼピン離脱症状における影響についての研究が、レーダーとモートンによって実施された。被験者は、ベンゾジアゼピンなしとなってから1か月から5年であった。しかし全員が様々な程度の離脱の影響が続いていると報告した。持続的な症状には、思考が鈍い、疲労感、首の凝りのような筋肉の症状、離人症、けいれんと震え、またベンゾジアゼピンの離脱に特徴的な知覚の症状、しびれてチクチクする感じ、灼熱感、痛みと身体がゆがむような主観的な感覚が挙げられた。偽薬対照において、0.2〜2mgのフルマゼニルの静注投薬はこれらの症状を減少させた。ベンゾジアゼピン受容体拮抗薬は中立であり臨床的な効果はないので興味を引く。研究者によれば、この研究が示唆するありそうな説明として、ベンゾジアゼピンの使用に続く耐性によって、逆作動薬の構造へとGABA-BZD受容体複合体における構造が固定され、そして、拮抗薬のフルマゼニルはベンゾジアゼピン受容体を元の感度に初期化するというものである。この研究ではフルマゼニルは長期化したベンゾジアゼピンの離脱症状の治療に成功したことが分かったが、さらなる研究が必要である[136]。スウェーデンのボーグ教授による調査は、長期離脱に苦しむ患者で同様の結果を報告した[69]。2007年には、フルマゼニルのメーカーであるホフマン・ラ・ロシュは、長期化したベンゾジアゼピン離脱症状の存在を認識したが、その症状をフルマゼニルで治療することは推奨していない[137]。オーストラリアのメルボルンにあるセントヴィンセント病院では、フルマゼニルを徐々に体内に放出するポンプを使い重篤な離脱症状をもつベンゾジアゼピンの依存の治療を行っている[138]。 フルオロキノロン系抗生物質は、アシュトンによって指摘されており、また他の研究者によってベンゾジアゼピン依存または離脱中に、あるいは一般集団の1〜4%において重篤な中枢神経毒性の発生率を増加させることが実証されている。これはおそらくベンゾジアゼピン受容体部位からベンゾジアゼピンを完全に外すという、GABA拮抗作用の結果である。この拮抗作用は急性離脱症状を引き起こし、数週間から数カ月持続させることもある。これには不安、精神病、偏執病、重篤な不眠症、耳鳴り、光や音への過感受、振戦、けいれん状態、自殺念慮や自殺企図が含まれる。ベンゾジアゼピンの依存や離脱中には禁忌である。[6][139][140][141][142]非ステロイド性抗炎症薬(NSAID)にも弱いGABA拮抗の性質があり、動物実験でベンゾジアゼピンをその結合部位から外すことが示されている。しかしNSAIDがフルオロキノロンと併用された場合、GABA拮抗作用、GABA毒性、発作や他の重篤な副作用を著しく増加させることになる。(en:adverse effects of fluoroquinolonesも参照)[143][144][145] は、離脱の管理においていくつかの研究であげられているが、現在は離脱には使われていない[146]。 イミプラミン(イミドール、トフラニール)は、三環系抗うつ薬に属し、統計的に投薬中止の成功率を高めることが判明している[9]。 メラトニンによる増強は不眠症の患者において、統計的に投薬中止の成功率を高めることが判明している[9]。他と異なり、メラトニンには離脱症状がなく、増強した医薬品に対して新たに身体依存が形成されるリスクはない。 フェノバルビタール(バルビツール酸系)は、「解毒」施設や他の入院施設において、急速な離脱期間中の発作を予防するのに用いられている。フェノバルビタールは、1〜2週間で漸減するが、よりゆっくりなほうが優先される。[26]比較研究ではベンゾジアゼピンを用いた急速な減量のほうが、フェノバルビタールを用いた急速な減量よりも優れていることが分かっている[147][148]。 プレガバリン(リリカ)は、ベンゾジアゼピン離脱症状の重症度を下げ[149]、再発リスクを低下させる可能性がある[150]。ただし、ベンゾジアゼピンと同じくGABA受容体に作用する。 プロゲステロンは、離脱の管理には無効だと判明している[133]。 プロプラノロール(インデラル)は、中止の成功率を高めるかは判明しなかった[9]。 SSRI系抗うつ薬の追加は、ベンゾジアゼピン離脱の治療には少ししか効果がないことが判明している[151]。 トラマドールは、オピオイド鎮痛剤に属し、発作閾値を低下させるためベンゾジアゼピンの離脱中には避けるべきである。 トラゾドン(SSRI、レスリン、デジレル)が、中止の成功率を高めるかは判明しなかった[9]。 予防 『英国国民医薬品集』(すべての英国医師に発行される医療指導本)に従えば、ベンゾジアゼピンからの急速な離脱よりも、非常にゆっくりのほうが最善である[152]。減量の速度が適切であれば、症状の強さと重症度を最小化する。おまけに、ゆっくりであれば、重篤な長期化する症状の発症リスクを低下させるだろう。 ジアゼパムやクロルジアゼポキシドのような長い半減期のベンゾジアゼピンらは、反跳作用を最小化し、またそれらは入手可能な低力価の薬剤である。一部の人々は、減量速度がゆっくりな時でも減量と減量との間で十分に安定化させない。そのような人々では時に完全に離脱するまでの間、具合が良くないことが続く。[10] 予後 最初に急な離脱が試まれ失敗し、続いて体系的に徐々に中止した場合の成功率は、中央値58%で25%から100%の範囲である[9]。パニック障害に対する認知行動療法、不眠症に対するメラトニン、フルマゼニルとバルプロ酸ナトリウムは、成功率の向上に有益であった[9]。10年にわたる追跡からは、長期的な使用からの離脱の成功から2年後にまだ過半数が禁断を継続しており、この2年時点の状態を維持することができていた場合には、10年時点でも維持されている可能性が高かった[12]。ある調査では、ベンゾジアゼピンの長期的な使用からの禁断後1年で、認知、神経学的、知的な障害は正常に戻っていた[153]。 以前に精神科の診断歴のあるものにおいても、2年の追跡調査時点で、徐々の減量により同様の成功率であった[10][154]。ベンゾジアゼピンからの離脱は、抗うつ薬の使用の増加に関連しなかった[155]。 2018年の薬理学的介入についてのコクランレビューは、薬物を置き換えるような薬理学介入について、ランダム化比較試験のより長期的な転機を必要とし、製薬産業からは独立して試験を実施すべきとした[121]。 離脱の管理 短時間型あるいは中間作用型のベンゾジアゼピンからの離脱は、服用間の反跳性症状の強さのために難しくなる[6][156][157][158]。さらに、短時間型ベンゾジアゼピンは、より強い離脱症状を生じさせる傾向にある[159]。この理由のため減量による中止は、短時間型のベンゾジアゼピンを、ジアゼパム(セルシン、ホリゾン)やクロルジアゼポキシド(コントール、バランス)のような長時間型のものに等価換算した量に置換して行われる。正確な量の使用に失敗すれば、重篤な離脱反応を引き起こしうる[160]。 24時間以上の半減期のベンゾジアゼピンには、ジアゼパム(セルシン)やクロルジアゼポキシド(コントール)のほかに、ロフラゼプ酸エチル(メイラックス)、クロナゼパム(リボトリール)、フルラゼパム(ダルメート)、メダゼパム(レスミット)、プラゼパム(セダプラン)、クアゼパム(ドラール)などがある。 24時間以下の半減期のベンゾジアゼピンには、アルプラゾラム(ソラナックス、コンスタン、カームダン)、ブロマゼパム(レキソタン、セニラン)、ブロチゾラム(レンドルミン、グッドミン)、エチゾラム(デパス)、フルニトラゼパム(ロヒプノール、サイレース)、ロラゼパム(ワイパックス、ユーパン)、ロルメタゼパム(エバミール、ロラメット)、ミダゾラム(ドルミカム)、ニメタゼパム(エリミン)、ニトラゼパム(ベンザリン)、トリアゾラム(ハルシオン)などがある。 利用者が少ない薬剤では、入手可能性が限られる可能性もある。また長時間型でも、クロナゼパム(リボトリール)では高力価であるし、クアゼパム(ドラール)などは15mgと20mgの錠剤型しかない。ジアゼパムは世界的に広く用いられ、2mgと5mgと10mgの錠剤に加え、散剤、液剤、また重篤な症状を呈した救急時には医療機関に注射剤もあり、換算基準であるため把握が容易である。 等価用量に置換してから、徐々に減量していく。アシュトンの方法における減量の幅は、反応と重症度に従って1〜2週間ごとに残っている用量から10%削減し、最終的な用量はジアゼパムの0.5mgまたはクロルジアゼポキシドの5mgである[6]。 期間 最後の服薬の後、離脱の急性期はたいてい2カ月ほど続く。離脱症状は、低用量の使用でも、6か月から12カ月持続し徐々によくなるが[10][61]、臨床的に有意な離脱症状は数年にわたり持続することもある。とはいえ、これもまた徐々に減少していく。 わずか8週間の間、アルプラゾラム(ソラナックス)を服用した臨床試験では、記憶障害の長期化症状を引き起こし中止後にも8週間持続した[161]。 遷延性離脱症候群 遷延性離脱症候群(Protracted withdrawal syndrome)は、数カ月から数年にわたって持続する症状である。 ベンゾジアゼピンから離脱した人々の少数、おそらく10〜15%は、遷延性離脱症候群が出現し、時に深刻となりえる。症状は、耳鳴り[88][162]、精神病、認知障害、胃腸に関する訴え、不眠症、痺れ(しびれと疼き)、痛み(たいてい手足の)、筋肉痛、筋力低下、凝り、痛みを伴う震え、震えの発作、ひきつけ、眼痙[21]、これらの症状は、既往歴がなくても生じることがある。ベンゾジアゼピンの減量中あるいは中止により生じた耳鳴りは、再服薬によって軽減される。 神経心理学な要因をテストした調査では、精神生理学的な指標が通常とは異なることを見出し、そして遷延性離脱症候群が長期的な使用が原因となる本物の医原性の病態であると結論した[163]。持続する症状の原因は、薬剤誘発性の受容体の変化のような薬理学的な要因と、心理的な要因との複合であり、特に高用量の使用者では薬剤による、構造上の脳損傷や、神経損傷が原因である[21][164]。症状は時間と共に改善し、無能力の数年を過ごしてもそのうち普段の生活を取り戻す。[6] ゆっくりな離脱は、長期化し重篤な症状の状態となるリスクを有意に低下させる。遷延性離脱症候群は、いい時と悪い時の時期によって中断することがある。長期化した離脱の間には、生理的な変化によって瞳孔拡大や、血圧や心拍数の増加など周期的に症状の増加が起こることもある[26]。症状の変化は、耐性反転の過程の間の、受容体におけるGABAへの感度の変化によるものであるとの説もある[6]。メタアナリシスによれば、ベンゾジアゼピンの使用が原因の認知障害は離脱から6ヵ月後には改善しているが、残りの認知障害は永続するか、6か月以上必要な可能性がある[165]。 長期化した症状は、数か月から数年にわたって薄れていく。長期化したベンゾジアゼピンの離脱症状を治す方法は、時間を除いて知られていないが[21]、フルマゼニルは、1か月から5年間の間ベンゾジアゼピンなしであった患者の敵意や攻撃性の感情を減少させるのに偽薬よりも有効であることが判明している[166]。つまり、フルマゼニルが遷延性離脱症候群を治療することを示唆している。 疫学 離脱症候群の重症度と期間は、減量のペース、服用期間と服用量、おそらく遺伝的要素などに関係すると思われる[6][167]。 特別集団 高齢者 ベンゾジアゼピン依存症の高齢者を対象とした研究によると、高齢者はほとんど合併症を引き起こすことなく離脱を達成でき、その後は睡眠と認知能力の改善をもたらす可能性があることが判明した。 離脱成功者は離脱の52週間後には、認知能力に22%の改善がみられ社会機能にも改善がみられた。ベンゾジアゼピンの使用を継続している人達は認知能力の5%が減少し、これは通常の老化の速度よりも早く老化が進んでいるように見られる。このことは、ベンゾジアゼピンの服用を長く続ければ続けるほど認知能力が低下していくということを示唆している。 ベンゾジアゼピン断薬後の最初の数ヶ月の間は、高齢者には症状の悪化が見られたが、その後の24週間のフォローアップ(経過観察)後、ベンゾジアゼピンの使用を継続している人達に比べて明らかに改善がみられた。睡眠の改善が、24週間および52週間のフォローアップ後に見られた。著者達は、ベンゾジアゼピンは離脱による反跳性不眠の抑制作用を除いて、睡眠問題に対して長期的には有効でないと結論した。 ベンゾジアゼピン離脱の24週間後から52週間後の間にわたって、睡眠やいくつかの認知能力や、技能能力など多くの点で改善が見られた。ベンゾジアゼピンに敏感な一部の人の認知能力やエピソード記憶は改善しなかった。しかし、著者達は3.5年の追跡調査では全く記憶障害を示さなかった若年者の調査を引用し、慢性的なベンゾジアゼピン使用から特定の記憶機能が回復するためには時間がかかると推測し、ベンゾジアゼピン離脱の52週間よりもさらに後に、高齢者の認知機能のさらなる改善が起きる可能性があると推測した。 ベンゾジアゼピンの使用中止後、改善が見られるまでに24週間かかった理由は、脳がベンゾジアゼピンのない環境に適応するためにそれだけの時間が必要だったからである。24週の時点で、脳における情報処理の精度の向上を含むかなりの改善が見られた。しかし、ベンゾジアゼピンの使用を継続した人にはその退化がみられた。52週の継続調査でさらに改善が認められ、これはベンゾジアゼピンの中止により、継続的に改善が進んでいることを示している。ベンゾジアゼピンで若年者にも視空間記憶の認知能力の低下が見られたが、認知能力は高齢者ほどには影響を受けなかった。 高齢の患者はベンゾジアゼピンを断ってから52週目で反応時間に改善がみられた。高齢者が車を運転するときに、ベンゾジアゼピン使用者は交通事故のリスクの増大があるので、この反応時間の改善は重要である。 24週間のフォローアップで、患者の80%がベンゾジアゼピンからの離脱に成功した。この離脱成功の一因は、ベンゾジアゼピンの心理的な依存を断ち切った「偽薬手法」に起因する:高齢の患者が気づいた時は彼らは数週間前にゆっくりなペースでの減薬を完了しており、すでに偽薬のみを服用していた。この離脱の成功により、高齢者は薬なしで眠れることができるようにり安堵することができた。 著者達はまた、新しい非ベンゾジアゼピン系のZ薬の薬理学的な、また作用機序の類似性を警告した[168]。 他の半減期の長いベンゾジアゼピンと同様に、ジアゼパムとクロルジアゼポキシドの耐性は、高齢者にとっては若年者に比べて2倍程度に長くなる。多くの医師は、高齢に応じてベンゾジアゼピンの投与量を調整することはしない[169]。 妊娠中 新生児離脱症候群 ベンゾジアゼピンは、特に妊娠後期中に取られた場合は、新生児に重度ベンゾジアゼピン離脱症候群を引き起こす可能性がある。 2010年には厚生労働省から、重篤副作用疾患別対応マニュアル(新生児薬物離脱症候群)[170]がでている。 日本国内でも新生児の副作用が認知されており、ベンゾジアゼピンの添付文書を見ると以下の警告文も明記されている。 妊婦、産婦、授乳婦等への投与 妊婦(3カ月以内)又は妊娠している可能性のある婦人には,治療上の有益性が危険性を上回ると判断される場合にのみ投与すること.〔動物実験により催奇形作用が報告されており,また,妊娠中に他のベンゾジアゼピン系薬剤(ジアゼパム)の投与を受けた患者の中に奇形を有する児等の障害児を出産した例が対照群と比較して有意に多いとの疫学的調査報告がある.〕 妊娠後期の婦人には,治療上の有益性が危険性を上回ると判断される場合にのみ投与すること.〔ベンゾジアゼピン系薬剤で新生児に哺乳困難,嘔吐,活動低下,筋緊張低下,過緊張,嗜眠,傾眠,呼吸抑制・無呼吸,チアノーゼ,易刺激性,神経過敏,振戦,低体温,頻脈等を起こすことが報告されている.なお,これらの症状は,離脱症状あるいは新生児仮死として報告される場合もある.また,ベンゾジアゼピン系薬剤で新生児に黄疸の増強を起こすことが報告されている.なお,妊娠後期に本剤を連用していた患者から出生した新生児に血清CK(CPK)上昇があらわれることがある.〕 分娩前に連用した場合,出産後新生児に離脱症状があらわれることが,ベンゾジアゼピン系薬剤で報告されている. 授乳婦への投与は避けることが望ましいが,やむを得ず投与する場合は,授乳を避けさせること.〔ヒト母乳中へ移行し,新生児に体重増加不良があらわれることがある.また,他のベンゾジアゼピン系薬剤(ジアゼパム)で嗜眠,体重減少等を起こすことが報告されており,また黄疸を増強する可能性がある.〕 妊娠中の断薬 妊娠中のベンゾジアゼピン系薬または抗うつ薬の突然の断薬は、重篤な合併症を引き起こす危険性が高いので、推奨できない。ベンゾジアゼピン系薬または抗うつ薬の突然の断薬は希死念慮や重度のリバウンド効果等の極端な離脱症状のリスクが高い。妊婦に精神疾患が存在するなら、妊娠中の母親の入院につながることができ、潜在的に自殺未遂、母、胎児の死を回避できる可能性がある。 出典 参考文献 臨床ガイドライン Check date values in: |date= (help) Unknown parameter |ollc= ignored (help); Check date values in: |date= (help) Text "publisher " ignored (help); Check date values in: |date= (help) Unknown parameter |deadurldate= ignored (help); Unknown parameter |coauthor= ignored (|author= suggested) (help); Unknown parameter |month= ignored (help); Check date values in: |archivedate= (help) Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help)、(邦訳は2012年8月19日に公開され、出典論文が省略されている) その他 Unknown parameter |deadurldate= ignored (help); Unknown parameter |coauthor= ignored (|author= suggested) (help); Check date values in: |archivedate= (help) Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) 関連項目 遷延性離脱症候群 抗うつ薬中断症候群 ベンゾジアゼピン誘導性気分障害 多剤大量処方 外部リンク - UpToDate (in English) (in English) (2017) 離脱症状の問題を扱うコミュニティは多めの毎週の減薬が難しい人々にとって毎日非常に少量を減薬する方法を考案している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%BE%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%82%BC%E3%83%94%E3%83%B3%E9%9B%A2%E8%84%B1%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
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ロバート・オウエンは政治家にはならなかった?
ロバート・オウエン
japanese
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ロバート・オウエン(Robert Owen、1771年5月14日 - 1858年11月17日)は、イギリスの実業家、社会改革家、社会主義者。人間の活動は環境によって決定される、とする環境決定論を主張し、環境改善によって優良な性格形成を促せるとして先進的な教育運動を展開した。協同組合の基礎を作り、労働組合運動の先駆けとなった空想社会主義者。「の父」とされ、初めて本格的な労働者保護を唱えたとされる[1]。ロバート・オーウェン</b>あるいは<b data-parsoid='{"dsr":[2363,2378,3,3]}'>ロバート・オーエン</b>の表記ゆれがみられる。 概要 1771年、ロバート・オウエンは、北ウェールズ地方ので、小手工業者の子として生まれ、10代で商店に奉公して各地を転々とした。この間に産業革命の進行にともなう労働者の困窮を目撃する。 1790年、マンチェスターの紡績工場の支配人となって、数々の技術改良を進め、工場経営に成功、資本家となっていく。ついで、1800年以降、スコットランドのニュー・ラナーク紡績工場の共同経営者となって最新技術の導入を図り、優れた経営手腕で2000人の労働者を雇用する「綿業王」へと立身出世を果たしていく。同時に、労働者の生活改善やその子弟の教育に尽力して、工場に幼稚園や共済店舗を設けた。著述を通じて労働立法の必要を説き、の制定に貢献した。 1817年には、貧民階級救済のために協同主義社会の創設を提案した。1825–1827年には、私財を投じてアメリカ・インディアナ州に協同村を建設したが失敗に終わった。帰国後、1839-42年にクイーンウッドでも同様の試みをしたがやはり失敗する。財産を失って庶民へと身を落した後は、社会運動や言論活動を通じて私有財産制度・宗教・財産結婚、金属貨幣制度を厳しく糾弾した。 1833-1834年にはを創設したが、政府の弾圧と内部分裂で初の全国的統一組合は瓦解した。その後、1837-1858年にかけて成人男子選挙権と議席再配分を要求する急進的な民主化運動チャーティスト運動が発展を見せたが、オウエンは労働者解放を実現する方法を経済的な抑圧の打破に求めたため、こうした政治運動には距離を置いた。晩年は、精神更生運動に没頭して1858年に87歳で貧困のうちに没した。 エンゲルスによってアンリ・ド・サン=シモンやシャルル・フーリエと並んで「空想社会主義者」と位置づけられた。 経歴 幼少期(1771-1780) 1771年、北ウェールズ地方ので誕生した[2][3]。父ロバート・オウエンは馬具や金物を扱っていた小手工業者であった。父は駅逓長も務めたほか教区の会計役も果たし、地域で信頼された人物であった。そして、母アンは地元富農の娘で評判の美人で品行方正な女性だったと伝わっている。ロバートはこの両親の7人兄弟の6番目の子供として生まれた。内2人は夭折したが、上からウィリアム、アン、ジョン、リチャードが残った[4]。 幼児期に注目すべき逸話としてこんなエピソードが残っている。ロバートは、5歳の時、ある日登校時刻に間に合わなくなりそうになり、朝食の熱いオートミールをあわてて飲み込んで、お腹の中に火傷をしてしまった。そのことがもとで、細かく観察したり、深く考える習慣がついたと、後年『自叙伝』の中で回想している。本書によると、この事件は自身の性格を形成するものに大きな影響を与えたと言及されている[5]。 また、ロバート・オウエンは幼少期から読書を好み、『ロビンソン・クルーソー』などの小説類、ジェームズ・クックの航海記などの冒険譚、偉人たちの伝記を読み漁った[6]。8歳ごろ、メソジストの姉妹と交流を持ったのをきっかけに宗教書を読んだ。彼は宗教に関心を抱いて、宗教間・宗派間の対立の存在を知って、いつしか宗教に疑問を募らせていき、宗教に対する否定的な立場を生涯持ち続けた。その結果、地元では「小牧師」の異名を持ったという[7]。学業については、音楽、ダンス、体育が得意だった。負けず嫌いで1番になりたがり、競争心が強かった[8]。地元のジェームズ・ダン青年と交友して各所を散策、自然観察の楽しみを享受することを覚えた[9]。従弟のリチャード・ウィリアムとはとりわけ仲が良く、一緒に遊んで過ごした。そのなかで、2人で草刈りの手伝いをしたことがあり、作業を通じて働くことの達成感とやりがいを感じたという[10]。 母親とも愛情に満ちた日々を過ごしていた。しかし、1回だけ母アンの折檻を受けた記憶があるという。彼は母から呼びかけられたが、よく聞きもせず、「いいや」と生返事したという。それで母が立腹して叩かれたというが、ロバートによると充分に意図を理解しているが尋ねて叱ればよいのであって、一方的に怒り罰するのは理不尽だと感じたようだ。これにより、罰は罰する側にも罰せられる側にも有害であると考えるようになったという[11]。 店員時代(1780-1789) ロバートは温かい家庭に恵まれ、両親の寵愛を受けて育てられた。だが、この時代の子供の自立は早く、10歳で働き始めるのが普通であった。ニュータウンの隣家の店の手伝いを始めて幼い頃から働き始める。したがって、ロバートの教育レベルも初歩的な教育を受けて読書算ができる程度であった。以後の知的活動は全て独学の産物である。当然、ロバートもやがてはロンドンのような都会に出て働きたいと考えるようになった。10歳になったら家を出てロンドンに行き、当地でしかるべき親方のもとで奉公することを両親に伝え、その承諾を得ることになった[12]。 ロバートは、父親の伝でリンカンシャーのの高級リンネルの生地商ジェイムズ・マクガフォッグの商店で1年目は無給、2年目は8ポンド、3年目は10ポンドの契約で寝食付きの住み込み奉公を始めた。以降、経済的に親から独立して自力で生計を立てていった[13]。その後、夢に抱いていたロンドン行きを決意して、当時流行していた10セントストアのフリント・パーマー商会で働いた[14][15]。 また、マンチェスターの呉服卸商店サタフィールド商店で働き始めて繊維業界での知識を蓄えていった。モスリン、キャンブリック、アイリシュ・リネン、レースなどの細糸織物の製作、品質評価(目利き)、取引、在庫管理、労務管理、経理、仕入れなど業務ノウハウを身につけていった。サタフィールド商店での経験が後の成功の礎となった[14][16]。 実業家時代(1789-1799) 青年経営者への道 1789年、ロバートがサタフィールド商店で働いていた頃、婦人帽の針金部材の納品で商店に来る1人の職人ジョーン・ジョーンズという青年に出会った。そして、紡績機を購入して合資会社を設立して商売をしないか持ちかけられた。ロバートは兄ウィリアムから100ポンドを借りてミュール紡績機を購入して改良し、工場を借りて40人の職人を雇用して、紡績に着手した。だが、ジョーンは発明家を志していたものの経営については素人で、実際の仕入れ、在庫管理、労務など経営実務はすべてロバートがやっていた[17][18]。その後、ジョーンは他社からの提携話で会社を売却するが、以後ロバートが3台のミュール紡績機と3人の工員を引き受けて独立、アンコーツ・レインの工場で単身経営を担うことになった。その結果、平均週6ポンドの利益を出すようになった[19][20]。 こうした実業における成果は業界の有力者の目にも留まった。業界人の工場ではジョージ・リーという有能な支配人が急に退社して支配人不在の状態になっていた。そこで、工場支配人を募集する広告を出していたのであるが、この広告をロバートの工員が見つけて彼に応募するように勧めたのである。こうして、ロバートはランカシャー随一の蒸気機関を動力とする最新設備を備えた紡績工場の支配人として抜擢された。このときの起用は、オウエン自身が自力でも稼げると豪語したうえで強気と言える300ポンドもの破格の俸給を要求しての異例な取立てだった。1792年、早速これまで経営していた会社をドリンクウォーターに売却して成年男女小児合わせて500人の工員を雇用する巨大な近代化工場の支配人に着任した[21][20]。 ロバートは朝一番に出勤して工場の鍵を開け、日々寡黙に働いて仕入れから製造、商品開発、在庫管理、労務管理、経理、取引をこなし、夜、最後に帰宅するという生活を続けた。製糸の技術改良に取り組み、繊度を高めて細糸を製作する技術を開発して最高120番手の製糸を達成し、翌年には300番手という極細糸を製造することに成功した[22]。また、仕入れでは品質に優れたアメリカ綿の輸入をいち早く決定して、原産地を変えて製造を試み、品質向上を実現した。やがて、アメリカ綿は国内需要の90パーセントを占めるようになる[23][24]。 かくして、オウエンの製品は前任者リーの在庫品よりも歓迎され、この若手支配人は早々に失敗するだろうという周囲の予測を裏切り、大成功を挙げた。これに喜んだドリンクウォーターはロバートに破格の高給を与えて、2人の息子と合資会社を発足させる協定を提示した。ピカディリー糸は市場の好評を受けて生産能力の全てを挙げても追いつかないほどの人気商品となり、商品の包装にはオウエンの名が印刷されることになった[23]。 こうした技術面以上に成果を上げたのが、オウエンの進んだ労務管理体制であった。工場の就業規則と取決めを定めて規律・訓練・節制を中心に厳格な労務管理を構築するとともに、労働条件や労働環境を思い切って改善し、労働者に対して高賃金と高待遇、高い独立性をもった労働条件を提示して雇用した工員の心情を掌握した。整然と規律正しい労働をもって生産力を向上させ、製品の品質向上と商品開発に精力を傾け、増産と利益向上を実現した[25]。オウエンにとって重要だったのは、労働者に対する雇用条件の改善がもたらす効果が人と企業に響いていく事実を見出して、そこに「繁栄の法則性」を発見したことだった。この発見と手ごたえはさらに理論的に発展させた[26]。 パーシヴァルとの出会い 1793年、ロバート・オウエンは事業で成功を収めて名士の仲間入りを果たした。 非国教徒系のマンチェスター大学の学者と交友し、23歳にして紡績業界の専門家として学術団体「」に参加を許された。同協会は、大学で助手を務めていた化学者ジョン・ドルトン、詩人コールリッジ、汽船発明者のロバート・フルトンらが所属していた。オウエンはフルトンに資金援助をするとともに、彼らと科学と発明、宗教、啓蒙や改革に関する討議を夜毎重ねた。そして、オウエンは協会で綿の問題に関する3篇の論文を発表している[27][28]。 また、協会の会長博士は当時もっとも優れた公衆衛生学者であった[27][29][28]。 16世紀に教区徒弟を雇用する法が制定されており、それに基づき7歳になると教区の救済を受けている子供たちが教区吏によって親方に連れていかれ工房で雇用された。当初、子供の浮浪化を防いで定職に就くように促す目的があったものの、やがて過酷な児童労働を科す産業革命の暗黒面を表象する制度となっていった。19世紀にはいる頃には、子供は5-6歳で工場に連れてこられ、安価な労働力として利用され、不健康な状態の中で通常14-16時間にわたって長時間働かされていた。 1794年、パーシヴァル博士は、マンチェスターを襲った熱病に関する報告書において、幼い児童らが不衛生な工場内で長時間の過重労働を強いられてきた結果熱病で倒れたのだと結論を示し、時の工場労働の実態を告発した。同報告書において、密集状態の解消、衛生環境の改善、長時間労働の是正を要求した[30]。1795年、パーシヴァル博士はマンチェスター保健局を設立し、労働調査委員会のに児童労働に対処するように求めた。児童の教育レベルを向上させるために児童の深夜業を禁じ、工場内の環境を改善するように工場主に注意喚起をするよう働きかけた[31]。 パーシヴァル博士の提言により、工場主が徒弟に対して、建物内の衛生を整え、衣類と食事を提供し、充分な休養を取れるように配慮し、医療扶助をおこない、読書算を教え込む責任があることが確認された[32]。そして、この内容に即してが制定された。同法では徒弟の労働時間が12時間に制限され、深夜業は廃止された。また、雇用主に衣類と食事の提供、毎日3時間を利用して読書算の教育を与える義務が負わされた。また、年1回は大規模な清掃を実施することが定められ、常に換気をおこなうことが明記された。工場監督官が法令の順守状況を確認することとされ、違反した場合は罰金を科されることが規定された[33]。だが、工場主はしばしば法令を無視した。また、教師は老齢で無能で学校の設備や備品は充分に整備されず、3歳以上の児童が雑居していてほとんど教育効果を発揮しなかった。 こうした欠陥があったものの、博士は先進的な法律制定に寄与した他、ロバート・オウエンも保健局の一員となりその思想に影響を与えた。ロバート・オウエンは小学校相当の教育しか受けていないが、それ故に人一倍知識欲が旺盛であった。この時期の知的交流の結果、合理的思考に研磨が加わり、工場立法の必要性と環境改善による性格形成理論の原型ができ始めていった[27]。観察や経験、思考に基づいて人間性というものが科学と社会の基礎にあることを発見した。オウエンの哲学はアイザック・ニュートンの自然観に影響を受けた他、プラトン、ジョン・ロック、ディドロ、エルヴェシウス、ジェームズ・ミル、ジェレミー・ベンサム、ウィリアム・ゴドウィンといった思想家の影響を受けた。 独立、恋愛、結婚 オウエンが成功を収めた時、再び大きな変化が生じた。サミュエル・オルドノオがナポレオン戦争による恐慌から巨額の損失を抱えて、ドリンクウォーターの娘との縁談話を持ちかけて、合併計画を策したのである。そして、オルドノオはドリンクウォーターにオウエンとの合資協定を要求、ドリンクウォーターもこれを受諾したのである。オウエンは経営権剥奪を通達されたため激怒して支配人辞任を声明し、独立することを決意した[34][26]。 1796年、オウエンはロンドンのボロデール・アトキンス商会とマンチェスターのバーデン商会と合資協定を締結して、コールトン紡績会社を設立した。綿花の買い付け、紡績操作、精巧な商品開発、販売営業などで、ランカシャーとスコットランドを駆け回り、まもなくドリンクウォーター商会を圧倒した[34]。 この商用の旅の途上、グラスゴウ でカロライン・デイル嬢と引き合わされ、やがて恋愛関係になった。1798年、カロラインの父であり、有力な商人、木綿王、銀行家、紡績工場を経営していたと協定を結んで新会社を発足させ、ニュー・ラナーク工場の共同経営者となった。翌年、ロバート・オウエンはデイルの娘カロラインと結婚した[34]。ロバートとカロラインの間には8人の子が生まれた。最初の子は早くに亡くなったものの、(1801–77)、ウィリアム(1802–42)、アン・カロライン(1805–31)、ジェーン・デイル(1805–61)、(1807-1860)、(1809–90)、メアリ(1810–32)が成人した。家族の紹介は第三章「家族」の章で詳述する。 ニュー・ラナーク時代(1798-1813) ニュー・ラナーク工場はスコットランド・サウス・ラナークシャーの都市ラナークから約1.5kmを流れるクライド川沿いに位置する[36]。 ニュー・ラナークの起源は、1786年にデヴィッド・デイルが綿紡績工場を建設して1700名の工員を雇用し、工場労働者用の住宅を建設したことに端を発する。デイル発明家リチャード・アークライトの協力を得てその場所に工場を建てたのは川の水力を活用するためだった[37]。1798年、ロバート・オウエンは年利5%の償還条件に基づいて総額6万ポンドで工場を買収した。こうしてデイルとの共同所有のもと、娘婿ロバート・オウエンも経営陣に名を連ねて工場労働の悪弊を打破すべく苦闘を重ねた[38]。オウエンは決意を次のように表明した。 「(当時は)、自分が克服せねばならぬ悪習や悪行が、人々の間に行われていることが直ちに見出した。…全工場を通じて。人々はのんだくれで不道徳であった。主な支配人たちは、「いわゆる命の洗濯」なるもの―何週間もぶっ通しに毎日毎日酒に浸って、その期間は全く彼担当の仕事を放っておく、それ―をしきりにやっていたものだ。盗みなどごく普通のことで、おびただしく途方もない程にまで行われていた。デール氏の財産はあらゆる方面で掠奪され、殆ど公有財産と見なされていた。……。 私はこれらの不幸な地位におかれてある人々をば、彼らが実際にあるがままに、無知な悪い境遇の被造物だと考えなければならぬ、すなわちそれらの人々は、彼らを囲むようにされた悪条件のために、今日あるが如きものにされたのであって、それに対して責任を負うべきものがあるとすれば社会のみである。かつ個人個人を苦しめる代わりに、―ある者を獄に投じ、ある者を流罪にし、ある者を絞首刑にし、人々を常に不合理な興奮の状態においておく代わりに―、私はこれらの悪状態を、良き状態に変じなければならぬ。 この後の方法は、…人間性およびそれに及ぼす境遇の力の科学に関する知識を必要とする。……。その秘密は、一つの源泉からのみ開かれうるのだ。「われわれ人類の各人の性格は、神すなわち自然により、および社会によって形成される。従ってまたいかなる人間も、自分の諸性質あるいは性格を、形成しえたとか、うるとかということは、不可能なのだ。」という知識からのみだ。」[39] ここで提起された「人間性に関する知識」はやがて環境決定論に基づく人間形成理論として体系化されていった。 ここでもオウエンは「統治」と称する革新的な経営管理を試み、矢継ぎ早に労務改革、管理体制の刷新を図った。「統治」の原理は、ドリンクウォーターのピカディリー工場で導入した経営手法に基づいたものであった。厳格な原価計算、ストック・コントロールを採用して、作業の能率化と労働時間を10時間半に縮減した。沈黙の操業報告「作業モニター」に基づく勤務評定を採用して賃金体系を定めた[注釈 1]。 オウエンは最大の利潤を得られるように努力し、企業家としての本分である利潤追求についても結果を出した。前期14年間で年平均2万5千ポンド、後期12年間で年平均1万9千ポンドの利潤を記録、年率5%の利払いの後も5万ポンドの資本増強を達成した[42]。しかし、オウエンは企業的利益の追求だけに満足はしなかった。博愛主義者として知られていたデイルが既に着手していた労働者福利の充実をロバート・オウエンは引き継ぎ、工場内の売店での販売手法を現金掛け値なしに改めて生活費を切り下げられるように計らい、労働者側の負担を減らすといった施策を採用した[42]。 だが、オウエンの関心はこうした経営実践上の福利策だけでは留まらなかった。客観的な労働条件の改善と主体的な人格の陶冶に向けられていた。新しい人間性の形成とそれによる社会変革の思想が現れてきた。やがて、ニュー・ラナークはソーシャルビジネスにより事業的にも成功を収め、いわゆるユートピア社会主義を体現する存在となった[43]。 公的人生の始まり(1810-1825) 児童労働問題の再浮上 1802年、ロバート・オウエンは劣悪な工場経営を刷新する上で中心となる理論を世に広めようと執筆に取り組んでいった。翌年、グラスゴー製造業主委員会に「イギリス綿工業報告書」を提出、産業問題、労働問題に関する発言を増加させた。 1806年には義父のデイヴィッド・デイルが死去してその娘を引き取っている。翌年1807年、アメリカ合衆国がフランスと結んでイギリスと国交を断絶して綿花の輸出を停止させた。これにより繊維産業で不況が発生し、ニューラナーク工場も操業停止を余儀なくされたが、オウエンは職工の生活防衛のために四カ月の休業期間も賃金を支給した[44]。1808年にはランカシャーで大規模な労働争議が発生した他、1810年にも恐慌が襲いスコットランドの織布工の大争議が発生した[45]。 1810年代、各地でラッダイト運動が激化していた[45]。これに対して、オウエンは機械は時代の進歩から生み出され、さらに文明の発展を促していくものと考えていた。オウエンは機械の打ち壊しに反対して、代替案として機械化を前進させて労働時間短縮など労働条件の改善に取り組んだ。下で20年にわたり停滞してきた労働運動を前進させ、労働者の待遇改善のために工場立法の必要を訴え始めた。1812年には、グラスゴーで十時間労働法案第1回公開集会が開かれて、議長に指名された[45]。しかし、雇用者側で意見の折り合いがつかず、結局、議員と折衝して法制化することを検討する。 1812年、オウエンは「ピール委員会」でニュー・ラナーク工場での経営の実例を紹介し、綿工場での過酷な労働の実態を証言した。そして、10歳未満の児童労働の禁止を要求するとともに、12歳までの少年については半日工とすること、また一般労働者の労働時間を12時間以内に制限して順次時短を図るように訴えた。しかし、が主導力や戦略が不足していたため法制化に対する委員からの充分な支持が集まらず、委員会での議論は長期化して成果を出すには至らなかった。 しかし、オウエンの見識は1813年に『社会にかんする新見解』([A New View of Society: Or, Essays on the Formation of Human Character, and the Application of the Principle to Practice, 1813]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help))を執筆するなどニュー・ラナークで培った経験を社会に役立てる段階に到達していた。オウエンは人間形成理論の概要を記述しながら、人間性は環境によって形成されることを指摘し、環境が改善されれば人間性も改善されると主張した。労働者の貧困や悪習は労働者に責任があるわけではなく、すべて産業革命での資本主義の発展が生み出した社会環境の悪化を原因とする見解を示した。これは痛切な社会批判であった。後半部分は有力者が社会環境の改善のために労働者保護や社会改良政策を遂行するように求めた。オウエンは語る。 「もし諸君の生命なき機械の状態に対する適切な配慮がこのような有益な結果を持たしうるとすれば、それよりもはるかに素晴らしくつくられている諸君の生きた機械に対して、同じ注意を注ぐなら、どんな結果でも期待しうるのではないでしょうか。諸君は生きた機械は金銭的な利得よりも大きく増加させるように、容易に訓練、指導され、しかも同時に、諸君はまた彼らから多大な感謝を捧げられうる、ということを発見するでしょう。」 オウエンは貴族や資本家階級の存在や役割を重視し、全産業階級が一致した政策立案を進めれば、社会問題のすべては解決できると信じていた。実際、オウエンは「国内の革命がなくても―戦争や流血がなくても―いや、現にあるものは何であれ機が熟さぬうちに混乱させることがなくても、世界はあの原理(人間形成の原理)を受け入れるようになるだろう」と楽観的な期待を示した。 性格形成学院と児童教育 『社会にかんする新見解』の中心をなすものは教育による人間性の改良であったが、これを実践する方法は学校教育であった。1802年、オウエンは1000ポンドの資金を寄付してアンドリュー・ベルとジョセフ・ランカスターによる大規模教授法()の開発に資金援助をしていたが、これに飽き足らず教育事業に積極的に取り組んだ[46][47]。工場内教育を実践して、その経験を活用する学校を設立、独自に教育原理を確立しようと試みた。 オウエンの時代には、およそ2500人がニュー・ラナークに住んでいたが、その多くはグラスゴーやエディンバラの救貧院出身の貧しい労働者であった。労働者は過酷な境遇にはなかったが、オウエンは既存の労働環境に満足せず、環境改善を推進していた。彼は子供たちに格段の注意を払き、先進的な教育のプランを実践した。オウエンは学院を設立するにあたっての動機をこのように語った。 「貧しい労働者階級の住宅は、おおむね幼い子供たちの訓練には全く適しない。幼い子供たちは、これらの住居の限られた広さや設備のもとでは、しょっちゅうその親たち、すなわち日々の仕事でいっぱいな親たちにとっては、邪魔になってしょうがないものだ。だから子供たちは、訓練の行き届いた子供たちに必要なやりかたとまるで正反対な物言いもし扱われもする。それで百のうち九十九まで、親たちは子を、殊に自分の子を扱う正しい方法をまるで知らない。こうした考慮が、私に、まず幼児がその親たちの手を離れうるそもそもの始まりから、性格形成の真の原理に基づいた幼児教育の必要にかんする最初の考えを私の心の中に創り出したのである。」[48] 当時のニュー・ラナークには500人ほどの子供が暮らしており、多くの子供たちが工場で働いていた。オウエンは育児や教育における労働者階級の実情を目の当たりにして、貧しい労働者の家庭が児童教育に相応しい環境になっていないことを痛感した。子供たちを危険な工場から隔離して児童の取り扱いのできる者に監督させ、一方、両親は子供を保育所に預けて日中労働に専念して、安心して子育てしながら働いていくというコンセプトを実現させようと考えた[49]。すぐに10歳未満の子どもの工場労働を止めさせ、子供たちの性格改良のための幼児学校を工場に併設することを決断する。 しかし、1809年、オウエンは学校の建設を開始したものの出資者の反対にあって一時中断した。合資協定をめぐるトラブルによって一時破産しかけたものの、支援者からの資金援助で危機を辛くも乗り越えていた。1813-14年にニュー・ラナーク工場は競売にかけられ、オウエンが11万4100ポンドで工場を購入、ジェレミー・ベンサムなど進歩的知識人を含む出資者と新しい合資協定を締結した[50][注釈 2]。ラナークの住民はオウエンによる落札の報知を受けて、家々に灯りをともしてオウエンの帰還を歓迎し、出迎えの者が旗を掲げバンドを打ち鳴らし、馬車を引き立てて歓呼の声を上げて街を凱旋したという[53]。学院の建設事業を再開させ、ようやく1816年1月1日に開校に漕ぎつけた。オウエンは学校を「性格形成新学院」と名付けた[54]。この学院は3階建て煉瓦造りの2つの校舎からなり、昼間は幼稚園と小学校、夜間は青少年と成人のための夜間学校であった。これが世界初の夜間学校となった。学校建設費は3000ポンドで費用は会社の利潤から充て、運営費用[注釈 3]は授業料では賄い切れなかったため、工場の生協ストアの売り上げから捻出した[55]。子供たちに健康を与え、優美な肉体を与え、自然的な服従と規律を与え、心に平和と幸福を与え、心身ともに健全な素地を育成することが建学の理念であった[56]。 オウエンの教育事業は幼児教育の最初の試みであった。1840年に幼稚園を開園し、幼児教育の生みの親といわれるフリードリヒ・フレーベルよりも先んじて、就学前の子どものための学校を実践した[57]。 オウエンは満1歳から歩けるようになれば子供をすぐに学院に収容した。3歳までを第1組、3-6歳までを第2組として、それぞれの組で30-50人が収容されていた。選ばれた婦人1人が監督していた[注釈 4]。第1組は校舎1階の1室と運動場が中心、第2組は教室と運動場に加えて田園散策も頻繁におこなわれた。1816年の開校時に園児の内訳は男児が49人、女児が31人であった。幼稚園と小学校で制服が無償で提供され[注釈 5]、幼稚園の授業料は無料で小学校の授業料は3ペンスであった[64][65]。 1818年、オウエンはフランスで教育委員を務めたビクテ教授の招待を受けてフランス・スイス・ドイツを歴訪するヨーロッパ旅行に出発した。オウエンはロンドンに立ち寄ってジョルジュ・キュヴィエと落ち合い、フランスの軍艦に搭乗して大陸へと渡った。パリで六週間滞在し、天文学者のピエール=シモン・ラプラス、地理学者アレクサンダー・フンボルトなどの知識人やオルレアン公ルイ・フィリップとも歓談したほか政財界の有力者と会談した。次いで、スイスではイヴェルドン・レ・バンで幼児学校を運営していたペスタロッチを訪問した。しかし、ペスタロッチの直観教育に基づく高邁な教育理念や誠実な人格に共感する一方で、オウエンはペスタロッチの旧式な教育手法に落胆したと語っている。フェレンベルクが運営した学校に注目した。フェレンベルクは富裕層や貴族の子弟が通う名門校から貧民学校まで経営していた人物で、オウエンは整然とした秩序で運営されている学校の教育現場とその経営手腕に感嘆し、ロバート・デイル、ウィリアムの2人の息子の教育を託している。ドイツでは新社会の建設に関する建白書を皇帝会議に提出したが、王侯や政治家からの賛同は得られなかった。しかし、オウエンはスイスでは博物館協会の名誉会員に選出され、パリでは建白書が評判となったことを聞き及んで、実りあるヨーロッパ旅行に満足して帰国した[66]。オウエンは「実物教授」をはじめヨーロッパ旅行で得た幼児教育における最先端の手法に基づく教育原理を採用した[55]。児童教育の方針を次のように語っている。 「幼児小児は、眼に見えるもの―すなわち実物(模型や絵)によって、また打ち解けた話によって教えられる。」 「小児を書物でいじめるな。身の回りにころがっている物の使い方や本性・性質を教えるものだ、小児の好奇心が刺激され、それらについて質問するようになったときに打ち解けた言葉で。……これらの幼児小児の真の知識が書物なしで立派に進歩してゆくのを見るのはこの上もなく元気づけられる悦ばしいことだった。且つ教育、すなわち性格形成の最良の方法が広まる暁には、子供たちが10歳にもならぬうちから、いったい書物を使うべきかどうか私は疑う。ともあれ彼らは、書物なしで、10歳にして優秀な性格を自分らのために作ってもらうだろう。一番の物知りがそれらの問題につき成年で今知っているよりも、また世界のどの年齢の大衆よりもはるかによく、自分および社会を原理的実践的に知っている合理的な人間として。」[67][68] オウエンの教育プランはペスタロッチ同様にルソーから影響を受けたもので、1)環境改善教育、2)子供自身から引き出す教育、すなわち子供中心教育、3)愛と幸福との教育、4)賞罰の廃止、5)書物を使用しない直観教育、6)生産労働と直結した教育、7)自然と結びついた教育からなっていた[48][69]。自然に基づく教育が実践され、サマータイムが導入された。これは子供たちが日光をよく多く浴びることができるようにして成長と健康を促す目的があった。2歳以上はダンス、4歳以上はダンス、第2の小学校は満5歳からで12歳までが対象だった。上のクラスでは40人ほどが学業に励み、下のクラスではより生徒数が多く男女共学となっていた[64][70]。 講義は大教室で200人をまとめて一斉教授をおこなった。教師はクラス担任が各1名ずつ配置され、他にダンスと音楽教師、教練の教師、裁縫教師が1名ずつ配属された。学科は読書算、裁縫、博物、地理、歴史、音楽、ダンス、軍事教練からなっていた。とりわけ、革新的だったのは非宗教的な世俗教育に徹したことに加えて、読書算に留まらず博物、歴史や地理などの学科に至るまで、本の使用は極力制限され、直観教育の器材が用いられたことである[71][72][69]。オウエンは、木のブロック(フレーベルはこうした教材を恩物と名付けた)や教室での掛け軸といった視覚教材を活用するなど教育方法にも工夫を凝らしていた[64][73]。これは見学に訪れた人々に感銘を与えたという。 しかし、親の都合による小学校の中退者が多かったため、オウエンは青少年教育にも取り組んだ。対象は中退者を含めて10歳から20歳までを対象として無償で授業がおこなわれた。講義とダンスによる教育が行われたが、出席率が低かったため、1816年には労働時間を削減して出席率向上の施策に取り組み、講義に合わせて人材育成を目的に紡績機械の操作実習など実践的な技術教育が施された[55]。 労働立法の提言 1815年、ワーテルローの戦いでウェリントン公爵がナポレオンを撃破した。これにより、ナポレオンは退位してセント・ヘレナ島に流刑となり、ナポレオン戦争が終結した[74]。 これはイギリスにとっても歴史の転換点を意味した。需要の縮小の結果、イギリスで戦後恐慌が発生して多数の労働者が失業し、労働条件の改善の要求も高まっていた。また、外国産の穀物輸入の増加によって国内の地主階級の収入が減少することを危惧した政府によって穀物法が成立した。同法は貴族階級の権益を擁護する一方で、食料価格を不当に吊り上げて労働者階級を虐げ国民生活を圧迫する悪法となった。ロバート・オウエンも穀物法成立が国内に新しい政治危機を生み出すことを予見していた。 Part of a series onOrganized labour Labour movement Timeline New UnionismProletariat Social Movement Unionism SocialismSyndicalism Anarcho-syndicalism Labour rights Child labourEight-hour day Five-day work week Annual leave Collective bargaining Minimum wage Occupational safety and health Employment Protection Trade unions Trade unions by country Trade union federations International comparisons ITUCIWAWFTU Strike action Chronological list of strikes General strikeSecondary action Sitdown strikeWork-to-rule Labour parties Australia Britain Ireland Israel Malta New Zealand Netherlands Norway List of Labour parties Academic disciplines Industrial relations Labour economics Labour history Labour lawvt 一方、オウエンは児童労働と労働時間をめぐる状況に危機感を募らせていた。19世紀社会は現代社会と同様に児童労働と子どもの貧困が最も深刻化した時代であった。あらゆる先進工業国が児童を酷使し、搾取し、虐げることを経済発展の糧としてあらゆる形態の人権侵害を恣にした[29]。 オウエンは人道的な観点から児童労働に反対する立場をとっていた。さらに、機械化の進展による生産性の向上によって、労働時間を短縮させることが可能であると見ていた[75]。1815年に綿業家の集会が開催された際にも彼は演説を行い、幼少年の工場労働条件についての具体案を示した。1815年、オウエンは繊維産業で働く児童の雇用条件を改善させ児童の利用を規制するようサー・ロバート・ピールに提言、法案提出に向けて共に草案を作成しようと嘆願した[76]。しかし、ピールの対応は鈍かったばかりかオウエンが作成した草案は穏健化させたものを法案として提出した。 1816年、での公開集会で「機械による手工業労働者の排除について」という講演を行い、翌年3月『貧困の原因と対策に関する報告書』([Report to the Committee of the Association for the Relief of the Manufacturing and Labouring Poor]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help), 1817)を作成してカンタベリー大主教のが議長を務めた工業労働貧民救済対策員会に提出した。その見解の革新性からオウエンの発議は救貧法委員会に回されたものの却下されてしまう[45]。これを機にオウエンは議会や宗教をはじめ支配構造に対して不信感を強めていった。オウエンは委員会による法案審議の進捗が芳しくないことに苛立ちを強め、息子のロバート・デイルを連れて各地の工場を巡り調査活動を進めた。後に彼はこう語っている。 「諸事実は、私にはほとんど信じられないほど怖ろしく思われた。例外ではなく、一般に、われわれは見出した、10歳の子供が一日14時間―昼夜にわずかに30分の休みを含んで、それも工場内で食べるのだ―レギュラリーに労働していることを。細糸紡績工業(1ポンド当たり120ハンクから300ハンクまで生産する)では、普通75度以上の暖度のなかで労働させられた。で、どの綿糸紡績工場でも、多少とも肺に悪い空気を吸う。塵埃やこまかい綿繊維がそこに充満しているからだ。 ある場合など強欲な紡績工場主たちを、もっともっと過激な全く文明人には実に恥ずべき非人道行為へ追いつめているのも見た。彼れの工場は1人が一日15時間も、稀には16時間も働き続ける。そして男女児とも8歳から雇っても平気だ。それ以下の子もかなり多く見たものだ。こんな制度が笞刑なしでは維持しえぬのはいうまでもあるまい。多数の親方が固い革紐をおおっぴらに持ち歩いている。われわれは年の一番幼い子供でもひどく打たれているのを頻々と見たことであった。 若干の大工場では子供は四分の一から五分の一は跛足か畸形だった。過労で、時には極道な虐待で生傷の絶えまがない。子供の幼い方は、三、四年できっとひどい病気か死ぬかしてしまうのだ。」[77][78] 同時に、オウエンは協同社会に関する計画を練り始め、救貧対策、社会変革、新社会建設を含んだ「協同社会の計画」を発表した。1817年夏からオウエンはヨーロッパ大陸各国を歴訪する旅に出る。その行程はフランス、スイス、オーストリア、ドイツに及んだ。帰国後はカンタベリー大主教に公開状を発したほか、首相リヴァプール伯爵に工場法の法制化を促した。幼児労働の制限と、その分の時間における教育の充実を立法化しようとした。 は、オウエンが作成した法案が議会を通過成立できるよう、1815年の会期末に第一読会に入るのに同意した。1816年会期中、ピールは法律が必要であることを示すために関連証拠を集め、庶民院に設置された委員会での議長も務めた。しかし、1817年の議会審議を前にピールが病気が理由で職務を中断させざるを得なくなり、法案を提出できなかった。また、1818年ピールは法案を提出したが、総選挙が行われたため審議を継続できなくなってしまう。しかし、この頃になると貴族院も事態を把握するために委員会を設置する必要があることを認めるようになった。 1819年、貴族院に設置された委員会は証拠を収集するべく査問会を開き、29か所の綿工場を調査したボルトン治安判事から聞き取りを行った。20か所の工場は徒弟を雇用しておらず、合計550人に及ぶ14歳未満の子供たちを使役していた。その他の9つの工場は、合計98人の徒弟と14歳未満の合計350人の子供たちを雇用していた。徒弟の大部分は大工場で雇用されており、いくらか良い条件で働いていた。とはいえ、児童は1日12時間以下の条件で働いていた。ツーティントンのグラント兄弟の工場では11時間半働かせていたようである。治安判事は「この施設は非常によく換気されています。すべての徒弟と子供たちは、健康で、幸せで、清潔で、日々の配慮がよく払われていて衣類も与えられています。そして、日曜日には教会の礼拝に定期的に出席しています」と報告した。他方、他の工場で労働する子供たちはさらに悪い状況で、1日につき最高15時間も労働していた。例えばゴールトンにあったロバーツのエルトン工場では、「最も不潔で、換気がなされず、徒弟と子供たちは発育が悪く体格が小さい。そして、全く衣類を支給されていなかった。いかなる種類の配慮も与えられず、哀れでならない」と言及している。結局、1819年になってサー・ロバート・ピールは法案を再び提出し、綿工場で働いている子供たちの労働条件を規制するためにようやく法案は可決され、が成立した。 だが、新法は教育面における法整備は果たされないなど、オウエンの望む内容からは遠いものとなった[76]。 1815年6月の提出段階では、繊維産業の工場内で雇用されたすべての子供たちに適用されることが謳われ、労働可能な最低年齢を10歳とし、10歳未満の児童労働が禁止された。18歳以下の少年たちの労働時間は休息時間を除外して10時間までと定められた。食事のために休息時間2時間が設定され、合わせて教育のため30分が学習時間として充てられるという規定を盛り込んでいた。午後9時から午前5時の夜間労働は禁止され、雇用して最初の四年間は教育を与えることが義務付けられた。また、工場監督官が治安判事によって任命され、報酬が支払われることが規定された工場監督官としての強制力ある公的権限が与えられ、工場労働の実態を把握するために工場内をいつでも検査することができるとされていた[79][74]。 しかし、1819年に可決された法は、1815年に提出されたオウエンの草案を骨抜きにする形で成立した[80]。 1819年の工場法は紡績工場でのみ適用されるに留まり、全産業の児童労働を規制する包括的法律にならなかった。9歳未満の児童労働が禁止されたが[81]、9歳から16歳までの子供たちは1日最大12時間労働(食事時間および学習時間は含まない)としていた。午前5時と午後9時の間に12時間労働することが規定されたが、朝食に少なくとも30分、午前11時と午後2時の間で夕食と休息を取ることが見込まれた。(翌年の会期に修正された法では休息時間は午前11時から午後4時に修正された)。2人の目撃者が工場が法を破っていたという情報を宣誓して伝えるなら、地元の治安判事が工場を調べるために視察を行うことができたものの、工場監督官による抜き打ち検査や自由に視察できるとした条文は削除された。法的に禁止されたのは児童による夜間労働だけであった。同法は政府介入の原則を十二分に確立していないため、実質的な強制力の乏しい内容となっていた[80]。 ニュー・ハーモニー時代(1825年-1830) 協同社会への構想 オウエンは労働組合運動を指導したほか、協同組合などの事業も手がけた。ロバート・オウエンは今後の活動の方向性を協同組合運動に向け始める。早くも1817年には「協同社会の計画書」を執筆し、各界の指導者を対象に公開していた。オウエンは協同組合運動を積極的に宣伝したが、一方でこれまでの宗教への姿勢を公言するようになった。ロンドン・ターヴァンにて国教会批判に留まらず全ての既存宗教を否定する演説をおこなう。オウエンはこのように述べた。 「これまで人間の心に強制されてきた全ての宗教には、人類にとってひどく危険で悲しむべき不統一、分断、分裂の原理がそれらすべての基本的な観念と分かちがたく絡みついていました。それによって生じるたしかな事態は、人類の歴史全体を貫いて、宗教的な憎悪がそのような穏やかならざる容赦ない厳格さあるいは狂気にみちた情念と結びついたあらゆる凄惨な結果でした。」 オウエンにとって宗教は現実の社会問題に背を向けた欺瞞の世界観でしかなく、神の愛を人々にもたらすものではなかった。宗教間の不和と敵意が原因となって、人種間の融和や人権保障、人道主義といった価値がないがしろになれていた。イギリスは植民地を広げて巨大な版図を抱えた大英帝国を建設していったものの、実態は繁栄とは言えないほどの危機を抱えていた。国際協調や各植民地の実情に合わせた多文化共存を実現させることはおろか、ブリテン本土の国教会、長老派教会、カトリック教会といった宗派間の対立を調停することもできず、名誉革命によって成立した国教会支配のもとでカトリックのアイルランド人は イングランド人に支配される隷属的な立場に置かれ、長老派教会のウェールズ人やスコットランド人も2級市民の扱いを受けていた。信仰の自由に基づく教育の拡大や権利の平等を達成できず、地域格差の是正や階級闘争の緩和による社会統合といった喫緊の課題に充分に対処できず、国内外で暴動や打ちこわしが相次ぎ、戦争や反乱、革命の脅威が迫っており非常に不安定な政治情勢にあった。オウエンは宗教批判のデメリットを充分に理解していたものの、国家と世界が抱える実情に対する憂慮から世俗的な共同体内の相互扶助の重要性を宣伝し、合理主義や協同組合主義を広めていくために果敢に宗教批判をおこなった。その結果、聖職者たちを中心とした激しい反発を招き、議会は協同組合計画の法制化を拒否することを決定、反対意見が噴出して議会から拒絶される結果に終わった。政界の反発に直面したもののオウエンは諦めなかった。 1819年には選挙法の改正を求める大衆運動を政府が武力鎮圧したピータールーの虐殺が発生した[82]。社会不安が蔓延するなかで1820年代にはオウエン主義に基づく協同組合運動が盛んになっていった。 オウエンは協同社会のヴィジョンを打ち出して資本主義に対抗しようと試み、協同組合の設立に影響力を発揮した。1830年代にはイギリスにおける協同組合の数は300を超えるまでに発展していたものの、各地の協同組合設立を主導したのはオウエンではなく、影響を受けて活動に加わったオウエン主義者であった。 1821年、の指導によって改革精神旺盛なロンドンの知的アーティザンである印刷工が結集し、に200世帯からなる生活共同体「協同経済組合」(English: Co-operative and Economical Society)が結成された。最初の組合規則前文には「本組合の終局目的はニュー・ラナークのミスター・オウエンによって計画されたプランに基づき、農業・工業・交易を結合したひとつの一致と協同の村を建設することにある」と記された。当面の目的は居住施設の確保。食料、衣類、その他の日用品の購入のために共同基金を創設して「集合家族居住共同体」を設立、共同印刷工場が開かれた[83]。 生産と生活の共同体を設立して、混乱と窮乏の資本主義社会の現実に対抗するというのが運動の目標であった。そして、短期間ながらもムーディーによって週刊誌『エコノミスト』([The Economist]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help), 1821-1822)が創刊された。この機関誌での共同活動を通じてオウエンとムーディーは急激に親しくなっていき、オウエンも同誌に「現下窮乏原因の一解明」([An Explanation of the Cause of Distress which pervades the civilised parts of the world]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help), 1823)という論文を寄稿するなど、同誌はオウエン主義者の広告塔として活用された[83]。 ニュー・ハーモニー建設 ニュー・ラナーク工場の共同出資者の中で教育事業に対して不和が生じ、クエーカー教徒のウィリアム・アレンから聖書に基づく宗教教育を盛り込むように圧力がかかり、オウエンは教育事業での主導権を失う[84]。やがて、オウエンはオウエン派の活動家アーチボルト・ジャームズ・ハミルトンが計画したマザーウェル協同村の建設事業に対する志に熱気が生じるようになる[85]。オウエンはニュー・ラナーク工場の共同出資者に事業への投資を呼びかけたが、すでにアレンをはじめとする経営陣はオウエンに対する不信感と苛立ちを強めており、その説得に失敗した[86]。これ以降、オウエンは経営から社会運動への方向へと関心事を拡大させ、執筆活動や社会活動に限らず、「協同社会の計画書」での構想に基づいて共産主義的な農業共同体の建設という野心的な社会実験に取り組む。そのために資本を処分して資金を調達して新天地にチャンスを得たいという望みが膨らんでいった。 1824年、オウエンは反対者が多いブリテンを離れて計画を実現できないか模索してアメリカに渡り、首都ワシントンD.C.でジェームズ・モンロー大統領と会談、新コミュニティ建設事業の計画を伝えた。後の1829年には知米派の知識人として再渡米してアンドリュー・ジャクソン大統領と会談、緊張状態にあった英米関係の仲介者にもなった。新共同体を作る場所としてインディアナ州ハーモニー村が予定されていた。ハーモニー村はドイツから信奉者とともにアメリカに渡ってきたが築いた宗教的コミュニティによって開拓されたものである。だが、ラップは経済的繁栄で信仰が鈍るのを恐れて別に新天地を構えようと考えて競売にかけることを決意した。イリノイ州の不動産業者ジョージ・フラワー(リチャード・フラワーとの記載もあり)がニュー・ラナークのオウエンを訪問して商談を持ち掛けた[87][88][89][90]。 「ハーモニーの町。一級の土地二万エーカー付き。ウォバッシュ川の東岸に位置し、……オハイオ川から陸路15マイル。ウォバッシュ川は四季を通じて20トン積みの船舶航行可能、中型蒸気船は一年の大部分。二千エーカーのよく開墾された土地。そのうち15エーカーは葡萄畑。35エーカーはりんご果樹園。果樹と植木の多い快適な庭園。」 「三階建ての水力利用製粉工場一棟。宏大な綿織物毛織物工場一棟。製材所二棟。煉瓦石造りの大倉庫一棟。大穀物倉庫二棟。商店一戸。大きな宿屋一戸。作業場…六棟。…なめし皮工場一棟。脱穀機付き納屋三棟。大きい羊小屋三棟。二階建て煉瓦造り住宅群…。大醸造所一棟。」[91] 以上がラップの財産目録であった。フラワーとの交渉において評価額6万ポンドが提示されたが、オウエンは自信を示したかったのかすぐさま購入を即決した。交渉人のフラワーも商談に懸念を感じたが、当事者のオウエンには微塵も不安を持たなかった。何よりもアメリカ中西部は河川による水運が利用できるものの近傍に大都市が少なく社会的基盤が乏しかった。こういった問題点は交渉で吟味されなかった。地所の欠点については息子のロバート・デイルが注進すべきであったが、彼は自身の恋愛問題に関心が向かい、全力をもって父に歯向かうことはできなかった。結局、オウエンは長男に工場での業務を引き継ぎ、現地視察のために渡米した。オウエンはニュー・ラナーク工場の株式を売却して調達した資金12万5千ドルを投じて競売でハーモニー村を買い取ったのである[92][93][88][90]。 スコットランド生まれの成功した元貿易商人で、フィラデルフィア自然科学アカデミーのパトロンで地質学者のウィリアム・マクルールが合資者となった。マクルールはオウエンの理想に共鳴してオウエンとともに私財を投じ、コミュニティの建設を試みた。オウエンとその息子たち、、、マクルールの友人の科学者たち、無政府主義者で企業家でもあったらとともにプロジェクトに参加した。アメリカに渡って自給自足を原則とした私有財産のない共産主義的な生活と労働の共同体(村)の実現を目指す。 このような経緯でハーモニー村をオウエンとマクルールが購入して、少し遅れて息子ロバート・デイルが加わり、共産村建設プロジェクトは1826年から始まった。 プロジェクトの計画の柱は、ニュー・ハーモニーの丘でのスクウェア・パレスという壮麗な建築物の建築、「フィラデルフィア自然アカデミー」の科学者たちのコミュニティ加入、完全平等のコミュニティ実現のための新憲法制定であった。ちょうどその頃、1825年には世界初の生産過剰を原因とする近代恐慌が発生した。翌年にかけて欧州からの移住者が増加、労働者900人をはじめとして移住希望者が集まった。マクルールと親交がある優秀な自然科学者たち27名がアメリカへと移住した結果、ニューハーモニー村は知識人の移住とともにアメリカにおける文化の中心地となった[94]。オウエンの子供たちも成人後アメリカ市民権を獲得し、父親の志を受けてニュー・ハーモニー建設運動に参加したほか、ロバート・デイルは議員に、リチャード・デイルは学者となってアメリカ社会の発展に貢献していった。彼ら息子たちは、老齢となり仕事も収入を失って無一文となったオウエンの生活を支えていった。 しかし、オウエンの挑戦は難事業となった。早くも翌年には様々な信条をもった人々の集団は意見の対立を生んでいったのである。 1826年2月5日、オウエンは目標とした「ニューハーモニー完全平等協同体憲法」を制定した[95]。しかし、それ以外の計画は実現できずに終わる。各成員の見解の相違を克服するために独裁制も採用するが、村は混乱を極めていった。5月に入るころには分村が進行、それにつれて合資者のマクルールとオウエンとの対立が深刻化していった。1826年7月4日、アメリカ建国五十年記念の日におこなった演説、「精神的独立宣言」はこの頃の彼の思想的到達点を示していて興味深い。彼はその中で、「悪の三位一体」として「私有財産、矛盾と不合理な宗教、それらと結合した不合理な結婚制度」を挙げ、それらの「奴隷」として生きてきた人類の解放を謳った。 しかし、村の存続は厳しい状況にあり、事業は2年あまりで崩壊、間もなくオウエンは巨額損失を覚悟で村の経営権を放棄する決断を下した。失敗の原因は概ね次のとおりのことが指摘されている。1)住民選別が不充分だったこと、つまり、入植を希望する人々に知識人・文化人・労働者が多い一方、農業の経験や専門知識をもった自営農がおらず道具のメンテナンスを担当するスキルのある職人が僅かで、即戦力となる人材が揃わなかったこと、2)成員間の宗教的・社会的・人種的偏見が根強く内部に対立抗争が生じたこと、3)怠慢・勤勉に対する賞罰が欠落しており労働規律が弛緩して意欲低下が深刻化したこと、4)舞踏や音楽などの文化活動に耽って労働を忌避したこと、5)平等の実現を掲げたため意思決定の過程が不明確で、オウエンとマクルール間の連携も円滑でなく、上席者による意思決定や責任と権限が不明確であったことなど組織化の欠如といった問題点が挙げられる[96][97][94]。ニュー・ハーモニーはアメリカ社会主義の発祥の地となった。アメリカ初の幼稚園、幼児学校、職業学校、無償公教育制度、婦人クラブ、民間劇場、地質学研究学会、労働者研究博物図書館を設立し、アメリカ史上に不朽の業績を残した。 村では土地の開発と裏腹に共有資産の私物化が進行してオウエンの財産は完全に失われていた。1828年に帰国した後、自己精算した際の損失額は20万ドルに上り、かつて有力な資産家であったオウエンの資産の大部分が失われた。それでもオウエンは協同村の実現を諦めてはいなかった。メキシコ政府から当時メキシコ領だったテキサスのアメリカ合衆国との国境地帯の土地を無償提供する話が持ちかけられ、オウエンは再び協同村建設計画に関心を抱く。しかし、この計画はメキシコの政情不安のために暗礁に乗り上げて立ち消えとなってしまう。 オウエンは帰国を決意してアメリカ大陸を離れる途上で大英帝国の植民地ジャマイカに立ち寄っている。ジャマイカで見た情景は酷使され虐げられる黒人奴隷の姿であったが、オウエンはジャマイカの黒人以上にブリテン本国の労働実態に心を痛め、危険で過酷な苦汗労働を強いられている白人労働者が置かれている労働条件の深刻さを痛感した。帰国後の4月28日、オウエンは自身の失敗を認め、協同体に対する批判の演説をおこなう。集団内部の党派対立が原因だったとはいえ、ニュー・ハーモニー建設事業はオウエンにとって完全なる失敗となった[90]。ただし、協同村建設の夢はオウエンの志となってその後も胸中に残った。 帰国後の活動(1830-1858年) 第一次選挙法改正 1817年、デヴィッド・リカードによって『経済学および課税の原理』が発表され、近代経済学は発展を見せた。かれは地代論を展開して、商品価値は労働力と関係があることを指摘した。また、商品を生産している労働者は対価として賃金を受け取るが、商品生産のための資本(土地・工場・機械・道具)を提供している資本家は労せず利潤を受け取る、これが社会の仕組み(資本主義)になっていることを明らかにしている。この経済論は労働価値説を説明するものであると同時に搾取の存在を示唆するもので、後の時代の社会主義思想の出発点になる考え方であった。オウエンは産業の発達を真に担ったのは労働者であり、その労働者が貧しいのは資本家が搾取するためであるとに見ていた[98]。 ブリテンでは19世紀に入り産業革命の本格的進展によって各地の産業構造に変化が生じ、南部の農村地帯から北部の工業地帯へと人口移動がおこっていた。その結果、北部の工業都市に移住した多数の労働者が政治的権利のない2級市民の立場に置かれていた。それまで合理性があった旧来の選挙制度は急速に時代にそぐわないものとなっていた。イギリスでは議会制度の腐敗が進み[注釈 6]、改革は避けがたいものとなっていた。こうして大規模な社会変動、政治変動が始まる。 1830年、改革の障害であったジョージ4世が崩御、改革要求の激化が革命に発展することへの恐怖を前に議会改革に着手する必要性があった。しかし、議会では党派的な対立が改革の足かせとなった。 ホイッグ派は改革に積極的な立場をとった。財産と教養をもつ裕福な資本家階級の支配体制への編入を試み、1830年グレイ卿を筆頭にホイッグ急進派は改革動議を提出するに至る。しかし、トーリー派は内相ロバート・ピールが改革に意欲的だったものの、ウェリントン公が現行制度は完全であるとしていかなる改革にも反対、さらに他の議員も改革が更なる改革の要求を正当化する可能性を指摘して反対したがゆえに時のトーリー政府による改革は不可能となった。 一方、議会外では1829年末、が中心となりが発足、普通選挙権と平等選挙区の実現を目指して選挙法改正運動が展開される。中産階級に留まらず労働階級も参加して改革の実現を求めた。1831年、BPUの成員は遅々として進展しない改革に苛立ちを強めていった。第一次法案が廃案となったためという騒乱状態に入っていった[99]。 トーリー党は政治担当能力の欠如が批判されは内閣総辞職に追い込まれる。1831年、が成立して改革派は改正案を提出し、庶民院通過を果たした。さらに、国王ウィリアム4世を味方につけ貴族院に対して新貴族創家を盾に法案通過を強行、1832年、が実現する[100][注釈 7]。資本家を始め中産階級が選挙権を獲得する一方で、労働者には選挙権は与えられず、議席配分では依然として農村に重点が置かれたため議会改革問題は未解決のままに残された。議会制度の欠陥をめぐる争点はチャーティスト運動へと引き継がれる[103]。 1830年代の労働運動 1824年にが改正され規制が緩和されたため、1830年代になると労働運動の発展が顕著となっていった[104]。 ヨークシャーではトーリー急進派による工場法制定運動が活発化していた。労働時間を10時間に制限することを目標に時短運動であった。労働運動は労働時間の短縮や賃下げへの防衛的な抵抗を柱に結集を始めていった。やがて十時間労働制の要求は八時間労働制の要求へと発展した。同様に、トーリー派のが中心となって、児童労働と労働時間の制限が再度議論された。工場法改正委員会が発足して実態調査が行われて改めて労働の実態が報告され、ついに1833年の工場法が制定された。 アイルランド出身の紡績工が労働運動を指導して、マンチェスター紡績工組合の専従書記となり、1829年にストライキを闘ったが敗北し、業種を超えたより包括的で全国的な組織を結成しようと試みた[105][106]。1829年、ドハティーは仲間とともにマン島に渡って会議を招集し、「イギリス・アイルランド紡績職工大連合」を結成した[107]。1827年には大工・指物工大連合が、マンチェスター連合という煉瓦積職人らの全国協会が、それぞれ結成されていた。1832年にはヨークシア労働組合が結成され、工事発注を請け負う中間業者の搾取の温床となっていた請負制を廃止して、最低賃金の設定を要求する大規模な運動が展開された。この運動により、大工、指物工、石工、煉瓦積工をはじめ建築業種の7業種が合同して、1833年にはが組織され職種を超えた労働者の大同団結が加速していた。翌年9月にはロバート・オウエンも建築工が主催する「建築工議会」に参加して、雇用主を排除した生産ギルドを結成する構想を提案した[108]。 1834年にはドハティーが主導して「」(NAPL)が設立された。また、『人民の声』([The Voice of People]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help))という週刊の機関誌が創刊され、3000部が発行された。マンチェスター近傍のチェシャーやランカシャー、ダービーといった北部工業都市で活動する14の紡績工組合が中心となり、染色工、機械工、鋳物工、鍛冶屋、木挽き、製糸工、製靴工、指物工、帽子工などの組合が合流していった。全国組織を名乗ったもののランカシャー地方など活動領域が限定されており、中部のノッティンガムに若干の支持団体が存在していたに留まった。そこで、ドハティーはロンドンに本部を移転させ、名実ともに全国組織に勢力拡大を図ろうとしたが、激しい反対論に直面して実現できずに終わる。組織は賃下げ反対を目的に樹立され、攻撃的な賃上げ要求を掲げなかったものの、職種を超えた労働者の団結に資本家や治安当局から危険視する警戒感が高まり、『人民の声』には売価3ペンスに対して4ペンスが課税され、武装蜂起の計画を立てているといったデマが流されるなかで、建築工が組合に参加するのを拒絶したり加盟団体が集まらずに財政難に陥って組織の解散を決議せざるを得なくなった[105]。 労働組合の影響力の拡大に対して、政府・メディアの反応は厳しくなっていった。団結禁止法撤廃を主導したフランシス・プレイスも個々の業種からなる労働組合はきわめて大事な組織だが、組合連合や全国的な組合はきわめて有害であるという認識をもっていた。こうした状況下でも労働運動は冷却しなかった。ダービーでは、多くの職種で資本家が労働者に組合活動に参加しないと記した宣誓書(ドキュメント)への署名を求め、署名しないならば雇用を打ち切るとしてロックアウトに踏み切り、労使間の紛争が多発した。しかし、最終的に雇用主側が勝利して運動は分裂した[105]。 選挙法改正と労働者の政治的排除は社会的抑圧の構図も浮かび上がらせた。 選挙法改正後は中産階級による階級立法が加速し、労働者に不利になる法律が成立していった。によって貧民救済の手段は救貧院による院内救済に置かれることになった。ただし、救貧院での貧民の待遇は劣悪なもので、被救済民は家族と引き離され男女別々に収容され、さらに重労働が課された。被救済民に人間的な扱いはなく、待遇は最下層に位置する労働者の生活水準以下に設定され、実態は犯罪者に対する懲役と大差のない待遇となっていた。労働者は救貧法改正に強く反発して反対暴動を展開していった[109]。改革に対する労働者の失望がチャーティスト運動とオウエン主義運動の発展を促す[110]。 労働者は社会環境の悪化に抵抗すべく自衛のために活発な社会運動を発展させた。革命的プロレタリアートの運動に2つの流派が形成された。それが、ロバート・オウエンによる社会主義運動(空想的社会主義)と『人民憲章』を旗印に普通選挙権獲得を目指し民主化運動を展開していたチャーティスト運動であった[注釈 8]。 オウエンは政治への不信感から議会改革に懐疑的で、労働者の救済は経済的方法での実現に限られると考えていた[115]。それゆえ、第一次選挙法改正運動、その後に続くチャーティスト運動とは距離を取り続けた。労働者救済のために強固な組合組織と教育活動による社会の改良が必要であると考えていた。こうした考えは協同組合運動への労働者の結集へとつながっていった[98]。一方、チャーティストも民主主義の実現によって労働者を解放し、労働者を基盤にした人民の政府によって資本主義の諸矛盾の解決策を模索するという展望を持って、労働者を民主化運動のもとに集結させようとしていた。両派は競合関係にあった[116]。 オウエン主義運動の展開 ニュー・ハーモニー建設運動に失敗して財産を失ったものの、ロバート・オウエンの士気と名声は衰えなかった。 協同村建設の夢から協同組合運動の種はイギリス社会に広く播かれて芽吹こうとしていた。1829-34年の5年間にわたって暴力革命目前の政情にあった。深刻な政治危機の時代のなかで人道的な理想を説き暴力革命を否定するオウエンの穏健な協同組合主義は人々の希望の旗印となる。産業革命期にあって資本主義の成長を前に喘ぐ労働者・職工たちが、オウエンの描く社会ヴィジョンに共感して、協同組合運動の社会的拠点を形成していき、プロレタリアートの階級意識を持った労働運動を育み、またチャーティスト運動の基盤ともなった。 の生協運動が盛んとなった後、協同組合は年々増加して1830年末には400を超えていった。巨大化した協同組合運動は全国的な統合を目指した。の主導の下に、1831-1835年にかけて半年ごとに「協同組合会議」なる代議員会合が招集され、卸売連合機関と全国統一機構、共同体建設運動が論じられた。 1832年、は歴史的画期であったが、この時の改革は多くの課題を残すものであった。選挙法改正は有権者数を増加させたものの、財産資格による制限選挙制が残され、最終的にブルジョワジーに利するものとなった。労働者階級はモブ・エネルギーとして利用されたものの、改革運動の物理力の源泉であった労働者が選挙権を得ることはなかった。政治に失望した労働者が結集したのが、チャーティスト運動とオウエン主義運動の2択であった。その結果、オウエン主義の労働組合運動と協同組合運動はさらに勢力を拡大させ、飛躍的な量的膨張を達成する。 オウエン主義は労働者の経済的利害にもっとも調和していた。 1832-1834年、オウエンは「全国衡平労働交換所」を設置、協同組合の生産品の相互交換を目的としたによる生産バザーで、ロンドンとバーミンガムとスコットランドに開設された。この施策はストライキでロックアウトされた労働組合員の生活助成のための協同生産も包含していた。労働者自主を培い、共同体原理の実現を図る経済活動の新形態となるはずだった[117]。チャーティストの若き青年運動家の1人となったもオウエンの労働交換所ロンドン支店で店主となっていた。彼らはオウエンの思想に感化を受け社会改革の理想に目覚め、トーマス・ホジスキンの経済思想で理論武装を果たし、チャーティスト運動の指導者へと成長していった[118]。労働交換所設立の運動背景にはオウエンの貨幣観が存在している。オウエンは富の源泉を労働者による生産活動が作り出す労働価値(労働価値説)に求めており、労働者が貧しいのは金銀など金属貨幣に基づく誤った通貨制度が根底に存在しているためだと考えていた。したがって、従来の貨幣を廃止して、時間単位での標準労働量を基礎に紙幣を発行すれば、搾取を克服した経済活動が可能になり、働く者が報われる社会が実現すると考えていた[119][120][121]。しかし、労働価値に対する評価問題をはじめとする労働紙幣の信頼性が課題となり続け、さらには紙幣自体が悪徳商人の投機対象となってしまい、結局失敗に終わった[117][122]。 ロバート・オウエンは「貨幣の廃止」に失敗したものの、活動を停止したりはしなかった。 彼は労働組合と協同組合の2つの潮流を結合させる中心人物で、オウエン思想は労働運動界の権威となっていた。1833年10月、オウエンは労働組合の代表者が集まった会合に参加して様々な職種の職人達を糾合する動きは加速させることを提案した。1834年にはロンドンの労働者内にオウエンの影響は拡大しており、仕立て工を中心にすべての生産階級の全国的結集を目標に、が発足した。「生産階級の全体的組織」を樹立するために、オウエンは資本家も含めて生産にたずさわる全ての階級が提携して労使協調的な大連合を構想してその指導者となった。主たる活動目標は、1)諸団体の構成を合理的に統合編成していくこと、2)生産調整などの方法を実行して賃下げに有効な戦略を試みること、3)ストライキを支援して賃上げ運動を展開することにあった[123]。機関誌『パイオニア』によると、「大連合」は加盟団体を順調に獲得してその勢力は急激に拡大、自称50万人の会員を擁する巨大組織へと成長した[124]。 労働組合の組織化を援助するために各地の闘争を支援した。 だが、1833年11月に始まったダービーの絹織工によるストライキは大連合にとって大打撃となった。絹織工は組合脱退要請を拒絶して闘争を開始したが、雇用主側のロックアウトに直面したため自分たちのために労働することを宣言した。オウエンは闘争を支援する目的で協同組合工場の設立を構想するが実現できず、ストライキも4ヶ月の抵抗の末敗北した。さらに、当時のイングランド南部の農村では、という脱穀機を破壊するといった騒擾が激化していた。そんな中でドーチェスター近郊のトルパドルでジョージ・ラヴレスら6名の農業労働者が大連合に参加する誓約書に署名した嫌疑で逮捕され、裁判の結果オーストラリアやタスマニアへの七年間の流刑が言い渡された。これがである。1834年4月21日、オウエンと大連合はこの事件での判決に25万人の署名を集めて不服を表明、抗議のために過少に見積もっても3万人が参加した大請願集会を開催し、被告人らの刑期短縮を獲得した[125]。 その後、大連合崩壊につながる亀裂が生じ始めた。綿紡績工の組織化での困難に直面している間に建築工のストライキに突入、全国的な労働闘争とその支援に忙殺される。しかし、現実的に大連合が提供できる支援策は少なく、傘下の組織の足並みや意見も不統一のままであった。建築工、陶工、紡績工、織物工といった業種の有力組合が参加せず、活動規模と財政力は主張するほど勢力を持ってはいなかったのである。大連合や傘下の労働組合内では基金横領事件が発生するなど内部統制上の問題も抱えていた。こうした状況下で組合闘争の多くが資本家によるロックアウトで挫折した[124]。やがて、大連合指導部の足並みも乱れ始め、戦闘的なストライキを試みる組合指導者と階級協調や協同組合主義を模索するオウエンの立場は隔たっていった。かくして「大連合」は崩壊してオウエン主義の後退が生じるが、この間隙のなかで選挙法改正運動においてチャーティスト運動が勢力を拡大させていった。 オウエンによる労働組合の指導には根本的な問題点があったと指摘されている。オウエンと労働組合指導者との間で見解の相違が存在していたのである。 オウエンは労働組合を生産協同体の延長で考えており、資本家と労働者の連帯を前提に活動するべき組織として位置づけられていた。したがって、紛争が生じた場合に自衛のために結集するのを除いて賃金闘争を激化させることに反対していた。しかし、労働組合の指導者たちにとって賃金や労働時間をめぐる条件闘争で勝利することが最優先課題であった。それゆえ、彼らにとって労働組合は資本家との階級闘争の手段であって、生産協同体としての社会的機能は二の次だった。オウエンと労働組合主義の共闘は同床異夢に終わり、長続きはしなかったのである。 晩年(1840-1858年) クイーンウッド協同村の建設 1839年秋、オウエン派団体「合理的宗教者協会」は、ハンプシャーのに位置する卿の所領クイーンウッドの533エーカーの土地を99年で借用する契約を締結した。協会は中央金庫と寄付金から資本を投入して協同村を建設する事業に着手する。当初準備された資本金は充分ではなく、オウエンは事業の成功に疑問を感じてすぐさま参加を表明せず、建設事業はジョン・フィンチによって遂行されることとなった。しかし、すぐにフィンチが病気で倒れて責任者不在となったため、瞬く間に建設は不振に陥った。こうした中、オウエンは「国内植民協会」という団体で募金をおこなって中産階級の支援者から潤沢な資金を確保しはじめた[126]。 1841年春、クイーンウッドが赤字であることが明らかになるとオウエンは救済のために事業の引き継ぎと建て直しに同意、全権を与る「統治者」となることとなった。オウエンは近隣の農地を買収して農園の規模を2倍に拡大させ、建築家ジョゼフ・ハンサムに団地と学校の建設を依頼して「ハーモニーホール」というビルを建設した。順調に建設が進み将来有望な事業と評されながら、1842年には2万5千ポンドを目標とした募金活動が思うように成功せず、実際に集めた資金が1割程度に留まったため財政状態が一転悪化した。学校では無償教育がおこなわれ、成員の生活費は年30ポンドのところ25ポンドと低く抑えられていたために過剰な支出が生じて財政を悪化させた。収入がない中で運営資金が底を尽き、宣伝員に対する人件費も確保できなくなった[127]。 1844年、協同村の大会でオウエンは退任を表明、後任をオウエン主義の後継者ウィリアム・ギャルピンが引き継いで財政健全化を模索するが、1846年には解散を決議するに至る。やむなく彼らは土地や建物をクエーカー教徒の団体に払い下げ、寄付者たちに資金を返金する措置を取った[128]。ハーモニーホールを大学に転用してが設立された。最終的にこの協同村の実験も失敗に終わった。失敗の理由は、1)植民者が農業に不慣れであったため充分な収益が得られなかったこと、2)オウエンが運営者としての資質を完全に備えていたわけではなかったこと、3)齢70歳に達してすでに高齢であったことが原因となって共同体の運営や指導に困難があって事業は失敗に終わった[115]。これらの協同主義運動は大規模な協同村の建設ではなく、より小規模な協同組合の設立への情熱を高め、1844年にはロッチデール先駆者協同組合の運動へと発展した。 1848年革命 オウエンはクイーンウッドを退去してすぐにアメリカに渡り、ニュー・ハーモニーの家族と再会を果たした。いくつもの共同体を訪問して各地の講演会に出席し、世界会議の招集を呼びかけ、合衆国の政治家と会談した。アメリカ大陸における英米間の国境紛争「オレゴン問題」で仲裁者をつとめ、オレゴンをアメリカに譲渡することで紛争の解決に貢献した。いくらか礼金を受け取ってアメリカから帰国したオウエンはクイーンウッドに立ち寄って「社会祭」に参加し、成員たちとダンスに興じるなどを社交を楽しんだ。 まもなくヨーロッパ中で祭り以上の高揚1848年革命が生じた。 1848年2月、パリで選挙法の改正とギゾー首相の退陣を要求した民衆の運動が1848年のフランス革命へと発展、国王ルイ・フィリップは退位してフランスは再び共和国となる。臨時政府は社会主義者ルイ・ブランが中心となり、失業者対策のために「国立作業場」を設置して協同生産の制度が導入された。オウエンもこの革命に鼓舞されてすぐさまフランスに渡ってラマルティーヌやルイ・ブランと会談、「労働委員会」というテーマで講演して革命を祝福した。この時、オウエンは『フランス・世界とオウエンとの対話』というパンフレットを出版している。間もなくルイ・ブランは失脚、国立作業場は閉鎖されて、労働者による6月蜂起も武力鎮圧されるなど革命は反動化していった。オウエンは失意の中で帰国していった。 心霊主義への傾倒 最晩年のロバート・オウエンは政治との関わりを失っていったが、ジャーナリズムの活動は死の直前まで続けたため、自身の発言の手段は失わなかった。 オウエンは幼少期から宗教への関心が深い人物であったが、成人するとマンチェスターやニューラナークでの実業から労働問題に関心を向け、社会矛盾の原因は不合理な宗教であると考えて次第に熱心な宗教批評家となっていた。しかし、晩年になると一転してアメリカから始まりヨーロッパ各国で流行したスピリチュアリズムに染まって心霊主義者となっていった。オウエンは合理的宗教に基づく社会的教義を作り上げ、「新しい道徳世界」を建設したいと夢見た。 オウエンは『ロバート・オウエンの至福千年雑誌』という刊行物を発行し、その思想は次第に現実社会からは離れて天啓的なメッセージへと変わっていった。1834年以降は労働運動の最前線から身を引き、協同村建設に取り組んだものの失敗してかつての影響力を失い、やがて時代の中で取り残された存在となっていった。この頃、チャーティスト運動は1848年の国民請願に失敗するなど、労働者による政治運動も障害にぶつかっていた。また、イギリスは安定した経済成長の道を辿って資本主義を成長させ、革命の危機はしだいに遠のいていった。 一方、1851年にはオウエンは80歳を迎えていた。だが、この頃のオウエンに往時の面影はなかった。彼は体力の衰えに加えて耳が遠くなり、心霊の存在を深く信じるようになっていた。テーブル叩きといった心霊との交信に熱中し、先祖や古い友人の霊、ケント公やベンジャミン・フランクリンの霊と交友して過ごした。心霊との交友でオウエンは天界の世界や地上での出来事に関する秘密を教えられ喜びと幸福を感じたという。こうした姿は、宗教を長年否定してきたことに加え、最晩年の5年間を迎えて寿命を使い尽したことで生じた心の隙間を心霊主義によって癒していたのだと理解されている。 1857年、老オウエンはバーミンガムで「社会科学促進国民協会」の大会での講演を依頼されて演壇に立って「刑罰なき人類の統治」というスピーチを行った。オウエンは老いてなお初志を曲げず、自己の信念を表明したが、聴衆は「ニュー・ラナークのロバート・オウエンがまだ生きていたのか」と彼の長寿に驚いたという。翌年、再び講演の依頼があって演説に臨むことになった。議長を務めた80歳のブルーガム卿に促されて登壇したが、二言三言語り演台を降りてしまう。この時既に体力低下のために発言を続けられないほど衰えていたのである。 臨終 87年に及ぶ波乱万丈の人生を送ったロバート・オウエンが最後に願ったことは故郷ニュータウンに帰郷して一生を終えることであった。 帰郷後は、精根尽きながらも残りの力を振り絞って、かつての友人宅を訪問してその1軒のお宅の娘から、子どもの時に火傷したことがあるオートミールやプッティングをふるまわれたという。危篤の知らせを受けたロバート・デイルがアメリカから駆け付けた。最後の様子を示す言葉が残されている。「私の親愛なる父は、今朝7時15分前に死去した、そしてあたかも眠りに陥るように穏やかにそして静かにこの世を去った。……彼の死の20 分前に、はっきりと述べられた彼の最期の言葉は、『救いがやって来た』であった」。 こうしてオウエンは誕生した家からほど近い自宅で息を引き取った。思い残すこともなく患うこともなく心静かに世を去ったのである。ロンドンの墓地に立つオウエンの記念碑には次のように刻まれた。 「ロバート・オウエン。人類愛に燃えた人。1771年5月14日生まれ、1858年11月17日死す。」 ロバート・オウエンは博愛主義を胸に抱いて、厳正な労務管理を心掛け労働条件の改善に取り組み、児童労働の廃止や児童教育の導入を試み、労働紙幣を発行、協同村を建設して公正な経済秩序の樹立を生涯を賭けて目指した。協同組合と労働組合運動の指導者として勇名を馳せイギリス社会主義の歴史に一時代を築いた英雄は、教育の理念と協同の精神を現代に残した。 家族 。ロバート・オウエンの岳父。 カロライン・オウエン(1778-1831)。デイヴィッド・デイルの娘であり、ロバート・オウエンの妻である。1778年生まれで、オウエンとグラスゴーで出会ったのは19歳の時であった。2人は出会って1年後の1798年に結婚した。母が名門の出で長老派教会の敬虔なクリスチャンで熱心な宗教教育を受けていたこともあり、娘のカロラインも毎日聖書を読み、毎晩祈り、日曜日には必ず教会に行く信仰の篤い女性であった。天性慈しみ深く、温厚従順な夫人だったという。しかし、夫のロバートは良妻に恵まれながらも信仰一徹の思想に不満を持ち始め、自分の子どもやカロラインの妹たちといった近縁の親族を世俗的で自由な教育を与えようと考えた。したがって、夫人は宗教批評家としての夫の活動を支持していたわけではない。しかし、夫人は夫ロバートや家族を献身的に支えたばかりか、ニュー・ラナーク工場で働く労働者への関心に心を砕いて素行不良な労働者を労わり、品行を改善できるように助けたのも夫人であった。また、工場視察に来た来訪者の接待役を務めて、饗応の場で行き届いた歓迎を行ったのも夫人の功であった。オウエンは工場経営から工場立法や宗教批判、協同組合運動などの社会運動へと活動を拡大させていくとロンドンに滞在することが増え、家を留守にすることが多くなった。当然、留守中に家の管理や子どもの教育を任されたのは夫人カロラインであった。その後、ロバートがヨーロッパに旅行中もニュー・ラナークに留まり、アメリカでニュー・ハーモニー建設に着手するも夫人は同行しなかった。夫人カロラインは夫の社会運動には距離を置いたが、子どもの必要を最優先に考えて家族を守ろうとしたのである。それ故、宗教上の立場の相違を除けば、この上もない良妻賢母と評価されている。カロラインは1830年に娘アンを失って喪失感を抱えながら、夫が帰国してまもなくの1831年に世を去った[129]。 オウエンの人生に残された偉業は、彼とニュー・ハーモニーに移住した四人の息子ロバート・デイル、ウィリアム、デーヴィット・デイル、リチャード・デイルと娘のジェーンに受け継がれた。 (1801–1877)。1825年、父とともにアメリカへと渡ったロバート・デイルは、ニューヨークに上陸後、すぐさまアメリカ市民権を申請した。父を支えてニューハーモニー・コミュニティを運営し、1820年代後半に『ニューハーモニー新聞』の発行を助け、協同主義の有能な提唱者となった。また、1826年以降はアメリカの自由思想家とともに活動してナショーバーで黒人解放奴隷の定住化計画に協力した。ライトとニューヨークで週刊誌『自由探求者』を共同で編集、エイブラハム・リンカーンとも30年以上も交友し、婦人解放、奴隷解放、協同主義の宣伝に努めた。1832年にニューハーモニーに戻り、インディアナ州で政治家になる。1835年には民主党から議員に選出され、1836–1839年にかけて、1851–1853年にかけて議員を務めた。1843-1847年にはインディアナ州からアメリカ合衆国下院議員に選出された。1844年にはオレゴン州境問題で境界案を提示したほか、1845年にはスミソニアン研究所の設置、1850年の州憲法改正に貢献した。1853年にはナポリ王国駐在代理公使、1855年にはイタリア大使、1858年に帰国した後は再び奴隷解放問題に向けて活動した。1861-1865年の南北戦争の末期に国防省に設置された自由民対策庁長官に就任、北軍作戦地域の自由民や難民の救済と保護を担当した。戦後もワシントンD.C.に留まり、公民権法として知られるアメリカ合衆国憲法修正第14条の制定のために尽力した[130]。ロバート・デイルも父と同様に熱烈な心霊主義者であった。 ウィリアム・オウエン (1802–1842)。1824年、父とともにアメリカに渡ったウィリアムは、ニュー・ハーモニー建設運動に当初から参加して終生に渡って共同体の実験に尽くした。父がアメリカを去った後も現地に留まり、1837年メアリと結ばれて弟たちと共に結婚式を挙げた。わずか一年で妻を失い、五年後には早すぎる死を遂げた。若くして亡くなったため伝えられている事績は乏しいが、演劇に関する関心が深く、1827年にニュー・ハーモニーに演劇組合を設立した。組合は百年ほど存続したといわれている。1838年には「演劇の船」をつくりミシシッピ川を下って各地の巡回公演を行った[131]。 ジェーン・デイル・オウエン(1805–1861)。母と姉妹の死後、ジェーンは最後にニュー・ハーモニーに入った。1835年にバージニア州出身で村の売店を共同経営していたロバート・ヘンリー・フォーンテレロリーと結婚するが、1850年に商用で南部に出かけた夫を黄熱病で亡くした。その後は子供と甥や姪の教育に専念した。長女のコンスタンスは伯父のロバート・デイルのナポリ赴任に随行してヨーロッパに渡って教育を受け、帰国後はニュー・ハーモニーに定住して、1859年にアメリカ最初の婦人の文化サークル「ミネルバ協会」を設立した。協会の規約は伯父のロバート・デイルが書いた[131]。 (1807–1860)。1828年にアメリカに渡る以前は、画家を志してロンドンでベンジャミン・ウェストの弟子として修業していた。ニューハーモニー到着後は画才が無いと感じて画家を諦め、次いで医学に関心を持って1835年にオハイオ州のマイアミ大学医学部で学位を取得した。しかし、本格的な麻酔医療以前の時代にあって、外科医として開業して手術を施すには神経が細すぎると感じて開業医を辞めた。マクルールの地質コレクションに魅了されて地質学の研究に着手し、インディアナ州内での地質調査の実績が認められて1839年には連邦政府地質学者に任命された。ニュー・ハーモニーを本拠地として全米地質調査本部を設置、以後17年間、アメリカ北西部の地質調査の専念した。兄ロバート・デイルがスミソニアン研究所設立の構想を担当することに及んで、ワシントンD.C.で施設設計図の作成を手掛けた。1856年、デイヴィッド・デイルは研究所が完成すると地質調査本部を首都に移設した。その後、ケンタッキー、アーカンソー、インディアナ州の地質学者を歴任した後引退し、1860年にニューハーモニーで没した。玄孫にあたるケネス・デイル・オウエンもニュー・ハーモニーで暮らし地質学者となっている。1853年、デイヴィッド・デイルは医学から地学に至るまで科学的才能に長けており、義父がジョゼフ・ニーフが亡くなった後、ニーフの遺言でナポレオンのイタリア戦役 (1796-1797年)中に戦場で狙撃された時に頭部に残った弾頭を探してほしいと依頼され、遺体を解剖して顎の骨に残された弾頭を発見し取り除いている[132]。 (1810–1890)。彼は1827年にニューハーモニーに到着した際には若干18歳であった。しかし、現地に到着後まもなく化学者であった夫サミュエル・チェイスを亡くし、美術と音楽の教師をしていた美貌の未亡人バティと結婚した。しかし、間もなく精神病で新妻を失い、9年後にはニーフのもう1人の娘アンと再婚した。ニューハーモニーでは児童教育に従事していたが、兄デイヴィッド・デイルの影響で地質学への関心を深めて調査を手伝っていた。近隣のケンタッキー州の陸軍学校で自然科学を教え、テネシー州ナッシュビルで学校経営に取り組んだ。しかし、兄が1860年に亡くなるとインディアナ州の地質学者の席を受け継いで地質研究に携わった。一方、リチャード・デイルは米墨戦争では第16連隊の大尉として従軍し、南北戦争では州都インディアナポリスの南軍捕虜収容所の所長を務めた。従軍中はユリシーズ・グラント将軍とともにビックスバークで南軍に捕まるが、在任中は捕虜を厚遇したため、リチャード・デイルは博愛主義者として知られており、すぐさま釈放されている。戦後は南軍の元捕虜が募金活動で集めた資金で胸像を制作して州都に建立されている。退役後はインディアナ大学の自然科学の教授を務めたほか、パデュー大学の初代学長に選出されて大学の基礎固めに貢献したが、学長としての俸給は一切受け取らなかった。1874年には学長職を退き、インディアナ大学の教授としてニュー・ハーモニーで地質学の研究に没頭した。教授職を退いた後は村の子供にフランス語やダンスを教えながら余生を過ごした。余生は健康管理に注意を傾けたが、飲み薬と誤って防腐剤を飲み81歳で亡くなった[133]。 影響と評価 エンゲルスらから、サン=シモン、フーリエなどと共に空想的社会主義者と評されつつも、挙げた実績に関しては高い評価を受けた。日本国内に、ロバート・オウエン協会がある。 著書 [A New View of Society: Or, Essays on the Formation of Human Character, and the Application of the Principle to Practice]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help) (London, 1813). Retitled, ([A New View of Society: Or, Essays on the Formation of Human Character Preparatory to the Development of a Plan for Gradually Ameliorating the Condition of Mankind]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help), for second edition, 1816. [Observations on the Effect of the Manufacturing System]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help). (London, 1815). [Report to the Committee of the Association for the Relief of the Manufacturing and Labouring Poor]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help) (1817).[134] [Two Memorials Behalf of the Working Classes]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help) (London: Longman, Hurst, Rees, Orme, and Brown, 181[135] [An Address to the Master Manufacturers of Great Britain: On the Present Existing Evils in the Manufacturing System]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help) (Bolton, 1819) [Report to the County of Lanark of a Plan for relieving Public Distress]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help) (Glasgow: Glasgow University Press, 1821) [An Explanation of the Cause of Distress which pervades the civilised parts of the world]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help) (London and Paris, 1823) English: The Social System in [The New-Harmony Gazette]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help), Vol.2, (1826-1827) English: Region, property, MARRIAGE in [The New Moral World]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help), Vol.5, (1839) [An Address to All Classes in the State]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help) (London, 1832) [The Revolution in the Mind and Practice of the Human Race]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help) (London, 1849) 主な著書 『オウエン自叙伝』(五島茂訳、岩波書店、岩波文庫、1961年、ISBN 4003410823) 『新社会観』(楊井克巳訳、岩波書店、岩波文庫、1954年、) 脚注 注釈 出典 参考文献 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help)CS1 maint: multiple names: translators list (link) 関連項目 English Wikiquote has quotations related to: Robert Owen ロッチデール先駆者協同組合 産業組合 信用金庫 大原幽学 外部リンク - コトバンク - コトバンク (in English) (in English) (in English) DIAMOND online at Internet Archive {{UK National Archives ID}} template missing ID and not present in Wikidata. at the National Portrait Gallery, London
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%83%B3
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マイケル・ジョセフ・ピアッツァは何歳でMLB入団した?
マイク・ピアッツァ
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マイケル・ジョセフ・ピアッツァ(Michael Joseph Piazza、1968年9月4日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ノリスタウン出身の元プロ野球選手(捕手・内野手)。右投右打。イタリア系アメリカ人である。Piazzaの発音はpiːˈɑːtsəだが、日本語表記は「ピアッツァ」のほか、マスコミによっては「ピアザ」「ピアッザ」「ピアーザ」と表記されることもある。 経歴 プロ入り前 1968年9月4日に生まれた。父方の曾祖父は南イタリア・シチリアからの移民で、父はスロバキア系の血も引き、不動産業や中古車販売で家族を養っていたが、一発を当てて億万長者となった[1]。また、父はトミー・ラソーダと親友で、マイクは、1977年のロサンゼルス・ドジャースがリーグ優勝決定の試合後、シャンパンファイトの輪に入れてもらうことができた[2]。 両親は広大な土地を購入し、打撃練習場を作った[1]。その打撃練習場の打撃マシンはプロが使う高性能なもので、マイクはこのマシンで練習をした[2]。マイクは練習をしたくてたまらず、兄弟からは「ヤツはまるで打撃練習場に住んでいるかのようだ。朝昼晩、いつもあそこにいる」と半ば驚き、半ば呆れ果てていた[2]。 一番好きなポジションは投手で一番嫌いなポジションは捕手だった[1]。リトルリーグ時代は監督から足が遅いことを理由に捕手を薦められるも、捕手は嫌なため、カーブを習得し投手に転向した[2]。進学したフェニックスビル・エリア高校では捕手が不足しており、肩が強いことを理由に監督からは捕手をやってみないかと誘われた際は、投手としての限界を自覚していたが、やはり捕手は好きになれず、打撃に集中したいため一塁手をやりたいと、翌日監督に伝えた[2]。 高校では打率6割を記録するも無名校のためどこからもドラフトで指名されず、マイアミ大学へ進学するも出場機会に恵まれず、試合に出場したいため、マイアミ・デード大学へ転校[2][3]。スカウトからの誘いがなかったが、ラソーダはマイクがかつてバットボーイの空いた時間にドジャースの投手相手にした打撃が忘れることができなかった[3]。 プロ入りとドジャース時代 1988年のドラフトでドジャースから62巡目(この年に1433人指名され1,389番目)に指名された。球団から電話がかかってきたのは指名から2か月後で、契約金は15,000ドル、捕手として入団[3]。ラソーダは間もなくドジャース史上最も攻撃的捕手の一人になるだろうと評した[4]。捕手をやるのはリトル・リーグ以来で、「ラソーダのペット」という陰口に耐え、捕手について学んだ。 1992年には開幕をAA級で迎え、6月にはAAA級アルバカーキ・デュークスへ昇格。9月1日にメジャーデビューを果たした[3]。 1993年春にチームはマイク・ソーシアを解雇したため、「ラソーダのペット」の声が高まった[5]。迎えた1993年のレギュラーシーズンは149試合に出場し、打率.318・35本塁打・112打点を記録した。MLBオールスターゲームに選出され、新人王を満票で受賞した[4]。球団と3年総額420万ドルで契約延長した。 1994年はチームが首位でマイクも5月に初の月間MVPを受賞するなど好調を維持していたが、8月11日にストライキによりシーズンを終えた。ストライキは短期で解決すると聞かされていたが長引いて、プレーオフが行われず、失意に打ちのめされた[5]。翌1995年の開幕も危ぶまれたが、選手会側がストライキを解除。この年トニー・グウィンに次ぐリーグ2位の打率.346を記録し、球団がロサンゼルス移転後の球団タイ記録となった[4]。チームは7年ぶりにプレーオフへ進出したが、シンシナティ・レッズとのディビジョンシリーズでは1勝もできずに終わった。MLB史上最も攻撃力に溢れた捕手と称賛された[6]。 1996年、フィラデルフィアで開催されたオールスターゲームではレフト二階席へ本塁打を放ち、ナリーグを勝利へ導きMVPに選出された[4]。レギュラーシーズンは打率.336・36本塁打・105打点を記録し、MVPの投票ではケン・カミニティに次ぐ票を集めた。ワイルドカードで前年に続きプレーオフ進出もアトランタ・ブレーブスに1勝もできずに敗退。 1997年は打率.362・40本塁打・124打点を記録し、捕手として史上3人目となるシーズン40本塁打を記録するなど自己最高のシーズンとなった[4]。シーズン終了後にFA権を取得するため1998年開幕直後に球団は6年総額7,500万ドルで契約延長のオファーを出したがこれを拒否。7年総額1億ドルを主張した[6]。 マーリンズ時代 1998年5月14日にトッド・ジールと共に2対5のトレードでフロリダ・マーリンズへ移籍。 マーリンズは前年のワールドチャンピオンの後に年俸削減を行っていた。 メッツ時代 1998年5月22日に1対3のトレードでニューヨーク・メッツへ移籍[4]。移籍後7月22日までに46試合に出場し、打率.333を記録するも打点は20で、本塁打は7と大きく期待を裏切り、結果をすぐに求めるニューヨークのファンからブーイングの対象となった[7]。しかし、8月以降に14本塁打・52打点を記録し、打率は.350を上回った。シーズン終了後の11月26日に7年総額9,100万ドルで契約延長した[8]。 1999年は2年ぶりに本塁打を40の大台に乗せ、球団タイ記録となる24試合連続安打を記録した[4]。 2000年7月のサブウェイシリーズのニューヨーク・メッツ対ニューヨーク・ヤンキース戦で、ヤンキースのロジャー・クレメンス投手と対戦した際、ピアッツァはクレメンスによって、頭部直撃の死球を受け、脳震盪を起こし、「ロジャーに対しての尊敬を失った」と語った[8][9]。同年のワールドシリーズでこの死球がサブウェイ・シリーズを盛り上げるための一つの象徴になっていた[9]。シリーズ第2戦、クレメンスとピアッツァは再び対戦し、クレメンスの投球によってピアッツァのバットが折れた。この際、クレメンスはピアッツァに対して折れたバットを投げつけるという前代未聞の事件を起こし、2日後にクレメンスは「故意ではないが、危険な行為」と見なされ、罰金5万ドルを払った[8][9]。 2003年は怪我に泣かされ、メジャーデビューした1992年以降最少の68試合の出場に終わる。ピアッツァが不在の間は、堅守のベテラン捕手バンス・ウィルソンと巧打の若手捕手ジェイソン・フィリップスの併用で穴を埋めた。シェイ・スタジアム最終戦では、ドジャース時代の1993年7月26日以来となる一塁守備に就いている。 2004年はフィリップスの台頭もあり、捕手兼一塁手として起用となり、一塁手として68試合、捕手として50試合に出場。主に捕手ではフィリップスと、一塁ではオフにFAで加入したトッド・ジールとのツープラトン起用だった。5月2日には通算352本塁打を放ち、捕手としての記録でカールトン・フィスクを凌ぎ歴代1位となった[8]。 元々拙守・弱肩の捕手として知られているが(大学時代は一塁手であった)、2003年以降は年齢による身体能力低下に歯止めがかからず、代打、もしくは一塁手として用いられるようになる。 7年契約を満了しFAとなった。 パドレス時代 2006年1月26日にサンディエゴ・パドレスと1年契約で合意した[8]。開幕前の3月には第1回WBCのイタリア代表に選出された[10]。同大会では日本プロ野球のロッテに所属していたヴァル・パスクチと共にクリーンアップを組んだ。 2006年4月26日MLBで本塁打の最も出にくい球場の一つに数えられるサンディエゴ・パドレスの本拠地ペトコ・パークで通算400本塁打も達成している。 アスレチックス時代 2006年12月にオークランド・アスレチックスは「捕手としては限界に達しているが、打撃面で十分戦力になる」と踏み、フランク・トーマスに代わる指名打者として1年契約で合意した[11]。2007年は怪我で83試合しか出場できず、打率.275、8本塁打、44打点に終わった。 2007年シーズン終了後にフリーエージェントとなったが獲得に動く球団はなく、2008年5月20日に現役引退を発表した。 引退後 引退後は2009 ワールド・ベースボール・クラシック、2013 ワールド・ベースボール・クラシックのイタリア代表のコーチに就任している[12][13]。その後も第二の母国であるイタリア野球のために精力的に活動しており、ヨーロッパ野球の振興に尽力している。 2016年1月6日、有資格者となってから4度目の投票で83.0%の得票を得てアメリカ野球殿堂入りが決定した[14]。至上ドラフト最下位指名での殿堂入りとなり、同時に殿堂入りしたケン・グリフィー・ジュニアとの順位差は歴代の殿堂入り選手の中でも最も開いていた。WBC代表選手の殿堂入りとしても初である。また、殿堂のプレートの帽子はメッツの帽子となり、同年1月25日、古巣メッツはピアッツァの在籍時の背番号『31』を永久欠番に指定することを発表した[15][16]。 選手としての特徴 捕手の本塁打記録を持っている通り、打撃だけなら捕手ではMLB史上最高の選手といわれる。新人王に輝いた1993年から2002年までの間、ストライキで短縮シーズンだった1994年を除けば毎年30本塁打、90打点以上を記録している。この10年間は、全てシルバースラッガー賞を獲得した。特に圧倒的だったのが1997年で、打率.362、40本塁打、124打点と打撃三部門でいずれも4位以内につけていた。MVP投票でも2位に付けている。更にキャリアの大半をドジャース、メッツで過ごしているが、これらの本拠地はいずれも打者不利といわれており、このこともピアッツァの打撃評価を引き上げている。 反面守備は評価が低い。特に盗塁阻止率が非常に低く、年間で三桁の盗塁を許したことが八度もある。ゴールドグラブ賞は打撃の良い選手が優遇されるという傾向があるが、一度も選出されることはなかった。 しかしながら近年のセイバーメトリクスは異なった知見を提供している。盗塁阻止能力は確かに低かったものの、フレ―ミング(審判に際どい球をストライク判定させる能力)や後逸阻止といった能力はむしろ優れており、総体として守備面でも優秀な捕手だった可能性を示している[17]。 一塁守備はバウンド捕球に難があり、晩年はほとんどがDHでの出場だった。 人物 薬物疑惑 アマチュア時代は全くの無名選手であり、マイナーでも最初の2年間はパッとしない成績だったが、その翌年の1991年から長打力が著しく向上して急激に成績を上げ、メジャー屈指の打撃を誇る捕手へと成長した経緯もあり、禁止薬物を使用していたのではないかという疑惑がある。確たる証拠はないが、ステロイド使用者に多く見られるように背中に多数の座瘡があったことは有名で、成績が低下し始めた時期がドーピング検査の開始と重なるという指摘もある(ただし、成績低下は30代後半に差し掛かる時期であり、単なる衰えとも考えられる)[18][19]。 2013年1月に初めて対象になったアメリカ野球殿堂入りの投票では得票率57.8%に留まり、殿堂入りに必要な75%に達しなかった。ステロイド使用が確定しているバリー・ボンズに投票した記者からは8割以上の支持を得たのに対し、ボンズに投票しなかった記者からの支持率は4割台に留まったことから、薬物疑惑が影響したのは明らかであった[20]。ピアッツァは翌月に出版される自伝において、禁止薬物の使用を明確に否定した[21]。 日本での知名度 ピアッツァは日本でも名が知られている選手である。野茂英雄が渡米した際にはドジャースの正捕手として、またピアッツアがやはり日本でもお馴染みのボビー・バレンタイン監督(当時)が率いるメッツに移籍した際と、その12日後に野茂がメッツに移籍して再びチームメイトとなった際、更に新庄剛志がメッツに入団してピアッツアとチームメイトになった(2001年の移籍時と2003年の復帰時)際にも、日本で新聞やニュースで報道されていた[22]。 詳細情報 年度別打撃成績 LAD2174695163012270000401121.232.284.319.6031496025478117424235307112340646638610.318.370.561.9311074414056412918024219921302331016511.319.370.541.9111124754348215017032263931001391018010.346.400.6061.00614863154787184160363081050302812119321.336.422.563.985152633556104201321403551245105691137719.362.431.6381.069371611492042509743000011140273.282.329.497.826FLA519181501075000100000.278.263.389.652NYM1094463946713733023239761003471025312.348.417.6071.024'98計15162656188184381323201111005581428015.328.390.570.960141593534100162250403071242207511117027.303.361.575.93613654548290156260382961134202581036915.324.398.6141.0121415735038115129036288940201671928720.300.384.573.957135541478691342323326098030357938226.280.359.544.9036827323437671301111334000335314011.286.377.483.8601295284554712121020202540003681427814.266.362.444.80611344239841100230191806200004163677.251.326.452.778SD126439399391131912220068000334236613.283.342.501.843OAK83329309338517181284400021800619.275.313.414.727通算:16年191277456911104821273448427376813351720045759146301113229.308.377.545.922 各年度の<b data-parsoid='{"dsr":[14409,14417,3,3]}'>太字</b>はリーグ最高 表彰 新人王:1993年 シルバースラッガー賞:10回(1993年 - 2002年) オールスターMVP:1996年 記録 MLBオールスターゲーム選出:12回(1993年 - 2002年、2004年、2005年) 代表歴 2006 ワールド・ベースボール・クラシック・イタリア代表 脚注 関連項目 メジャーリーグベースボールの選手一覧 外部リンク at the Baseball Hall of Fame on Instagram on Facebook on Twitter
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IBM 5550の発売当初の値段は?
マルチステーション5550
japanese
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IBM 5550(アイビーエムごうごうごうまる)は、1983年から1990年代まで日本IBMが開発・販売した、主に企業向けのパーソナルコンピューターのシリーズ。日本での正式名称は「IBM マルチステーション5550」。後継はPS/55シリーズ。 IBMが日本で最初に販売したパーソナルコンピュータであり、漢字などの2バイト文字を表示できたため、韓国、台湾、中国などでも販売された。 呼称 日本での正式名称は「IBM マルチステーション5550」である。主に形状・サイズによって「5550」を中心に、上位モデルの「5560」、下位モデルの「5540」、後にはラップトップパソコンの「5535」、更に下位モデルの「5530」などの各シリーズが登場した。型番は仕様によって「5551-K01」などと7桁で表現した。 1987年に「パーソナルシステム/55」シリーズと改称されたが、その上位モデル(PS/55 S/T/V以降)はIBM PS/2(MCAバス)ベースとなり、下位モデル(PS/55 M/Pまで)は従来モデル(マルチステーション5550)のアーキテクチャであった。 以下ではアーキテクチャが「マルチステーション5550」のモデル(モデル名がM/Pまで)について説明する。 概要 IBMは世界的には1981年にインテル i8088仕様のIBM PCを発売していたが、当時の日本語処理には非力であったため、日本ではIBM PCを発売せず、代わりに日本のパソコン市場では広く使われたインテルi8086を利用して日本独自仕様の「マルチステーション5550シリーズ」を発売した。最初のモデル群は1983年3月15日発表。 キャッチフレーズは「1台3役」で、3役とは「日本語ビジネス・パーソナル・コンピューター」「日本語ワード・プロセッサー」「日本語オンライン端末」であった。「マルチステーション」の名前もここから来ている。および「多機能ワークステーション」「つながるOA、ひろがるOA」。 イメージキャラクターは渥美清、CMのコピーは「友よ。機は、熟した。」であった。 特徴 日本市場向けに以下の特徴が与えられた。 日本語表示用に当時としては高解像度の 1024x768 FDDは5.25インチ2DD(後に3.5インチFDDも提供された) 初代5551は3ドライブという特異な形状(ハードディスク無しの場合、システムディスク、日本語フォント、ユーザーデータ用で必要なため) IBM PC、PC/XT、PC/ATよりコンパクトな、本体および拡張カードのサイズ 本体背面から差込でき、ディップスイッチの無い拡張カード(ユーザーは本体ケースを開けてはいけない) 初期のハードディスク無しモデルは、ソフトウェアで日本語表示を実現(後のDOS/Vの前身) 起動に使用するディスケット(フロッピーディスク)の入れ替え、またはハードディスクの起動区画変更で、以下3機能に切り替え可能 日本語ビジネス・パーソナル・コンピューター (OSは「日本語DOS」。「KDOS」と呼ばれる場合あり) 英語環境の実装はなく、同じIBMのPC系列とは互換性がない 日本語ワード・プロセッサー(「文書プログラム」。DOSの上で動く「DOS文書プログラム」の前身) 日本語オンライン端末(「3270漢字エミュレーション」「5250漢字エミュレーション」。DOSの上で動く「日本語3270PC」「日本語5250PC」の前身) キーボードは用途に応じた多数の配列より選択(1型は日本語ワープロ専用のキーが多数) モノクロディスプレイは、長時間の使用でも眼の疲れが少ない、グリーン・イエロー これら仕様となった理由は以下が伝えられている。 日本語表示を、国産メーカーで一般的であった16x16ドットではなく、24x24ドットで、行間も含め表示する 日本のオフィススペースに合わせた、本体および拡張カードのサイズ 競合する国産メーカーのワープロ専用機にも対抗する なお5550の後期では、以下の使用形態が一般化した。 日本語DOSに加えて、OS/2(バージョン1.xまで)も選択可能 ワードプロセッサーは「DOS文書プログラム」(日本語DOSまたはOS/2の上で稼動) オンライン端末は「日本語3270PC」または「日本語5250PC」(日本語DOSまたはOS/2の上で稼動) カラーディスプレイの普及(日本語DOSのデフォルトは、黒背景にグリーン文字) モデル 5551-A/B/C/D/E/G/H/J/K/M/P (中心モデル。当初はディスプレイ脇に置ける。後半より5541サイズとなる) 5541-B/E/J/K/M/P (省スペース・モデル。ディスプレイの下に置ける。後半は更に小型化する) 5561-G/H/J/K/M/P (ややサイズが大きいモデル) 5530-G/H (小型のスタンドアロン用モデル。オンライン端末機能はサポートしない。3.5インチFDD) 5535-M (日本IBM初のラップトップ。3.5インチFDD) 影響 高価で巨大であった3270や5250の専用端末は、5550への置き換えが進んだ 日本IBMは競合国産メーカー(富士通、日本電気など)と異なり、ワープロ専用機を遂に発売しなかった 1024x768の解像度は、後にPS/2の8514/A、XGAに引き継がれた ソフトウェアで日本語表示をする(OSでフォントファイルを持つ)方法は、後のDOS/Vに引き継がれた 製造委託 5550の本体は松下電器産業、プリンターは沖電気工業、キーボードはアルプス電気が製造を行った[2]。 5550は数千台を超える規模の販売が予定されていたが、日本IBMの自社工場にはパソコンを大量生産する環境が整っていなかったため、松下電器産業が製造を受託して日本IBMにOEM供給することになった[3][4]。松下が自社で販売しようという案もあったが日本IBM側がこれを拒否。次に日本IBMと合弁で販売会社を設立しようとしたが、小林大祐(当時、富士通の会長兼パナファコムの社長)が難色を示したため実現しなかった[5][6]。シリーズがPS/55に移行した後も5550系統のモデルは松下が製造を担当した[7]。 ただ、1984年に松下通信工業と松下電器産業から互換性はないが仕様が酷似した特注のビジネスパソコン「JB-5000」やワープロの「パナワード5000」が販売されていた[8]。 備考 当時の日本IBMは外資系にも拘わらず徹底した「日本語化」を行ったため、用語は以下で統一されていた システム装置 (PC本体のこと) 表示装置 (ディスプレイのこと) 鍵盤 (キーボードのこと) 印刷装置 (プリンタのこと) 数値演算共用プロセッサー(FPUのこと) 多重記憶アダプター (独自仕様のバンクメモリのこと) 3.5型/5.25型ディスケット駆動機構 (3.5インチ/5.25インチFDDのこと) 用途に応じた多数の鍵盤(キーボード)に共通して、上部に4個単位で幅を空けた12または24個のPFキー(現在のFキー)がある。これは3270/5250専用端末ではPFキーが12または24個なため、5550が当初からオンライン端末として設計されたことによる。なお IBM PC、PC/XT、PC/AT前期まではFキーは10個であり、12個になったのはPC/AT後期の101キーボードからのため、5550の方が先である。 派生製品として、機能をオンライン端末に限定した製品(5295など)がある IBMサービスセンター(ISC。法人向けのハードウェア修理受付窓口)の電話番号は、今でも末尾が「5550」である。 5550には英語環境の実装がなかったため、日本IBMは英文需要に対し当初はJXのオプション、後にPC/XT・ATそのもの、最終的にPS/55(のモデルS/T/V以降)で応えていた 競合製品 競合は個人用・ホビー用のPC-8800シリーズや、FM-11ではなく、以下のビジネス向けパソコンであった。 富士通 FACOM 9450シリーズ(パナファコム「Cファミリ」のOEM) FMRシリーズ 日本電気 N5200/N5300 PC-9800シリーズ 脚注 参考文献 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) Text "和書" ignored (help); Missing or empty |title= (help) 外部リンク - 年代・モデル別の詳細な説明あり - IBMマルチステーション5550の渥美清のTV CM
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コスプレという言葉が使われ始めたのはいつですか?
コスプレ
japanese
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コスプレ</b>とは漫画やアニメ、ゲームなどの登場人物やキャラクターに扮する行為を指す。それらのジャンルの愛好者や同人サークルが集まるコミックマーケット、同人誌即売会を始めとする各種イベント、また、ビジュアル系バンドのライブ会場等で見かけられる。コスプレを行う人を<b data-parsoid='{"dsr":[256,269,3,3]}'>コスプレイヤー (cosplayer) と呼ぶ。 コスプレはコスチューム・プレイを語源とする和製英語だが、世界中で通用する単語であり[1]、英語表記のcosplayは、イギリスの辞書に載っている英単語である[2]。 近年は意味が拡大し、特定の職業で採用されている制服や特定の着衣を好む者が、その衣装を真似て作った服もしくは本物を着て、自らの意志でそのキャラクターになりきることもコスプレと呼ぶことがある[3]。しかし、狭義のコスプレに限るべしとの意見もある[4]。 歴史的な展開 コスプレの起こり 日本では、江戸時代に流行した集団参詣や民衆踊りの際に仮装を伴うものが多く見られた[5]。また、江戸時代の京都では、人気芸妓が歴史上の人物や物語の登場人物に扮して祇園などを練り歩き、途中で馴染み客から「所望!」という呼び声が掛かると、立ち止まって役にちなんだ舞を披露する「ねりもの」と呼ばれる仮装行列があり[6]、現在のコスプレ写真のように、個々の仮装姿が浮世絵に描かれ人気を集めた[7]。古くからハロウィンで仮装する伝統があるアメリカでは、1960年代後半からSF大会等のイベントにおいて、『スタートレック』等のSF作品に登場する人物の仮装大会 (masquerade) を行っていた[8]。日本においてもアメリカで主に開かれる世界SF大会ワールドコンの影響を強く受けた日本SF大会で1960年代末から1970年代に既にコスチューム・ショーとしてプログラムの中に取り入れられていた[9][10]。日本SF大会におけるコスプレは、1974年の京都大会からショウアップが行われて翌年から定着したという[9] 。1978年に神奈川県芦ノ湖で開催された第17回日本SF大会の仮装パーティーに於いて、当時はファンの一人だったSF評論家の小谷真理やひかわ玲子らで構成されたファンタジーサークル「ローレリアス」が、エドガー・ライス・バローズの『火星の秘密兵器』(創元SF文庫)の表紙イラスト(武部本一郎によるもの)を真似た格好で参加[11]。他の参加者がその姿を見てアニメ『海のトリトン』の仮装だと勘違いし、本人も強く否定しなかったことから、いつの間にかトリトンが日本のコスプレ第1号と言われるようになったとされる。その後も日本SF大会ではコスプレのコンテストが行われた[12]。 この「架空の人物に扮する」という行為は、活字でのSFファンが多勢を占めていた当時において特異な存在であり、ともすれば異端と見做され「SFファン」とは一線を画す、少数の限られた嗜好であった。しかし、SFに対して何かしら一見識がないと参加し辛く、ハードルの高かったSFのコミュニティーで、単に「参加してみたかっただけ」というライトなSF層も「仮装」という見た目がわかりやすい形での参加が可能になり、それまで「覗き見」だけだった者らも取り込んでいくことになる[13]。 同人誌の即売会等でもコスプレは行われており漫画やアニメの扮装をすることをコスチュームプレイと呼ぶようになったのは同人誌即売会コミックマーケット(コミケット、コミケ)代表者の米澤嘉博を中心したメンバーだった[14]。米澤は、元は少女マンガの同人作家やファンがコミケをお祭りの場として派手な格好をしていた中から、アニメのキャラクターの扮装をする者が現われ、徐々に増えていったとしている[15]。コスプレアイドルの先駆者的な存在になった漫画家・一本木蛮はプロデビュー前の1980年頃から『うる星やつら』のラムの衣装を自作、コミケ会場でコスプレをして注目を集めていた[16]。アニメやマンガのコスプレが登場する以前のコミケでは、自分が愛好するロック系の衣装を身につける事も行われていたが、1977年になってコミケにアニメ『海のトリトン』の衣装をした少女が登場して注目を集め、その次の回には『科学忍者隊ガッチャマン』のコスプレが登場し、徐々に広まっていった[9]。 日本のメディアではアニメ雑誌等が同人誌即売会に関連してコスプレを少しずつ取り上げ始めたが、特に大きく取り扱ったのは、ラポート発行の『ファンロード』1980年8月号(創刊号)で、同誌は、当時原宿を席巻していたタケノコ族を捩り、原宿にコスプレ集団「トミノコ族」が現われたとする「特集記事」を掲載した。「トミノコ」は『機動戦士ガンダム』の富野由悠季監督に由来するもので、記事には『機動戦士ガンダム』の登場人物やモビルスーツ・ガンダムの仮装をした人々が踊っている写真が掲載された。実際には、当時そのような風俗は存在せず、これは報道記事の体裁を採った映画宣伝企画だった[9]。しかし、翌年1981年2月22日、劇場版公開前に行われた「アニメ新世紀宣言」(サンライズ主催。新宿駅東口広場)の折には、ガンダムファンが1万人以上が集まり、ファンジンと呼ばれたファンの中には自主的にキャラクターの衣装を制作して参加する者もみられた(永野護や川村万梨阿らなども参加していた)[17]。 1985年になると、TBSがテレビ番組でコミケを取材して、多くのコスプレイヤーに取材を行った[9]。テレビでは1989年になって、テレビ番組『はなきんデータランド』(テレビ朝日系、1989年 - 1995年)が、アニメランキング特集を行った際にコスプレランキングも発表していた。 1985年頃には、同人誌界で人気だった『キャプテン翼』のコスプレが、Tシャツの改造やユニフォームショップに注文するだけの手軽さから拡大する。1986年からは集団で行うコスプレが発生したと言われ、同時期にはコスプレを撮影するアマチュアのカメラ小僧と言われる人々が現れる[18]。 一方、1988年頃から、同人誌即売会でのコスプレは混雑やマナー、過度な露出などの問題から、禁止とするイベントも増えていった[9]。 アメリカでは、1970年代後半にSF映画『スター・ウォーズ』の人気によりコスプレはポピュラーとなり、日本のアニメ人気によりアメリカ全土で行われるようになったアニメコンベンションなどのイベントでは日本の漫画やアニメのキャラクターに扮する光景が見られるようになっている。そこでは従来の masquerade ではなく、和製英語由来の cosplay の名称で呼ばれている[19]。 1990年代での発展 1990年代にコスプレの人口は増大し、コミケのコスプレイヤーは1991年には約200人、1994年に約6000人、1997年には約8000人を数えた[9]。 アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の流行等でサブカルチャーに注目が集まるようになり、コスプレという用語・行為も普及した。1990年代初頭のビジュアル系バンドブームの火付け役となるX JAPANのライブではファンによる凝ったコスプレが披露され、これは2007年の復活後にも少数ながら見られた。 その頃から商業資本もコスプレに着目するようになった。従来、コスプレ衣装はコスプレイヤーによる自家製によるものしかなかったが、それらを既製服として製作・販売する業者「コスチュームパラダイス」(現・コスパ)が現れた。これは製作者の技術に出来が左右される自家製の物に対して、一定レベル以上の品質を保っていたために人気を集め、ブランドを確立している。コスパの成功以後、こうしたコスプレ衣装製作業社が増えた事で市場は拡大していった。 イベントについても、それまではコミックマーケットを始めとする同人誌即売会や、ワンダーフェスティバル、日本SF大会等において付随的に行われていた状態から、コスプレ単独のイベントも開催されるようになった。形式としては、コスプレをしてダンスミュージックやアニメソングに合わせて踊る「コスプレダンスパーティーや、コスプレイヤー同士が互いに交流や撮影を行ったり、アマチュアカメラマン(カメラ小僧)に撮影の場を提供する撮影会などがある。 イベント会場は、東京ファッションタウン(TFTホール)や大田区産業プラザ(Pio)といった各種展示会場等が使われるが、ダンスパーティー形式ではディスコやクラブ等が使われる事もある。また、後楽園ゆうえんち(現東京ドームシティアトラクションズ)がハロウィンの仮装イベントとして始めたコスプレイベントが切っ掛けとなって、各種遊園地やテーマパークでもイベントが行われるようになった。これとは別に、「東京ゲームショウ」や「キャラフェス」、「DreamParty」等といったコスプレが可能な展示会等の各種イベントも開催されるようになっている。「コスチュームカフェ」と呼ばれる制服専門の同人誌即売会・コスプレイベントや、特定のジャンルのコスプレに限定したイベントも開催される。 同人誌即売会やコスプレイベント情報を集めた情報誌が同人誌として発売され、インターネットの普及以後は情報サイトも登場した。コスプレ専門のムック・雑誌も発行され[20]、2007年現在では『COSMODE』(インフォレスト)、『電撃Layers』(メディアワークス)、『CosCure』(livedoor Cure・双葉社)ほか多数存在する。 広がりを見せるコスプレ 1990年代末以降になると、店員がコスプレ衣装を着用してサービスを提供するコスプレ系飲食店や風俗店が登場し、女優がアニメやゲームキャラの衣装を着用して登場するアダルトビデオ等も販売され、キャットファイトDVDでもメイドやレースクイーン、その他制服物衣装が着用されるようになった。 1990年代末 - 2000年代以降になると、インターネットの普及でコスプレイヤー各自がホームページを作成するようになり、ネットアイドル的要素を包含するようになる。さらには自主制作・同人レベルでコスプレ写真集やCD-ROM写真集を作成、同人誌や同人ソフトとしてコミックマーケット等で直接、もしくは同人誌専門店を通じて頒布するコスプレイヤーやカメラマンも出るようになった。 撮影の場は各種イベントだけではなく、コスプレイヤーやカメラマンが自主的に主催する個人撮影会、イベント会社やモデル事務所がコスプレイヤーと契約する形で、写真撮影会が行われる事もある。秋葉原の歩行者天国でコスプレ系飲食店や各種ゲーム等の宣伝活動を行っている店員やコスプレイヤーを撮影する事例もある。 アニメやゲーム等の宣伝要員として、人気のあるコスプレイヤーを「公式コスプレイヤー」として起用する例や、もとは無名でも、公式コスプレイヤーになった事で知名度を高めた例もある。公式HPのコンテンツとして、コスプレ衣装の紹介と通信販売へのリンクを貼る例もある。 中には芸能事務所に所属し、タレントや俳優(AV女優含む)、イベントコンパニオンやレースクイーン、キャンペーンガール、ファッションモデルを始めとするとするモデル業、声優等として活動する者おり、アイドルやタレント、声優等がイベントやプロモーション、グラビア写真上でコスプレをする事例もあり、コスプレが趣味であることを公言する者も居る。また反対にコスプレイヤーとして有名になった人物がアイドル、タレント等としてデビューする例もある。(有名コスプレイヤーを集めて結成されたパナシェ!や既存のアイドルグループにてコスプレイヤーがデビューした虹色幻想曲 〜プリズム・ファンタジア〜、初期メンバーにコスプレイヤーを加入させたでんぱ組.incなど。 2003年からはテレビ愛知(テレビ東京系)が主催となって、名古屋市内を会場とし、世界各地の著名なコスプレイヤーを日本に招いて「世界コスプレサミット」を開催するようになった。コスプレサミットは2005年は名古屋市内だけではなく愛・地球博会場でも行われ、ネット関連でライブドア(世界最大のコスプレコミュニティサイト「Cure」を傘下に持つ)の協力を得ており、2006年は大須夏まつりにて開催され、外務省・国土交通省の後援を得るなど、年を追う毎に大規模化している。2005年は欧米と中国の6国で、2006年には更にタイやブラジルでも予選が行われている。 2007年8月には衣装製作会社などが非営利法人「日本コスチューム協会」の設立準備委員会を発足、参加企業を募った上で、年内に正式に協会を発足すると発表した。同協会では日本のコスチューム文化の啓蒙や健全な発展を目的とし、定期的なイベントやコンテストの開催、SNSサイトなどを通じてのコスプレイヤーやコスプレファンの情報交換の場の提供、コスチューム製品の品質維持・消費者保護体制の確立・市場統計調査、PR活動・認知活動などを行っていくとしている。 日本のコスプレに関する禁則 風紀的な問題などから、会場や主催者によっては極端に肌を露出する衣装や男装・女装を禁止し、防犯・安全上の理由からモデルガン、模造刀、鋭利な装飾や棒[21]を始めとする全長の長い物などの持込が禁止されることもある。コミックマーケットの規則に準ずるとするイベントもある。コスプレをしたままでの来場・帰宅、更衣室と指定されていない場所での着替えやメイク、イベントによっては血糊の使用も禁止事項やマナー違反とされる[22][23]。 また、盗撮や肖像権侵害を防ぐ意味から、開催当日もしくは事前申込という形で参加登録を義務付けるイベントがあるほか、主催者によっては特殊なカメラやレンズ、撮影機材に制限を設ける場合もある[22][23]。 その他、屋外型博物館である博物館明治村において行われた行為が問題となり、規制に発展した例もある[24]。 法律との関わり 創作性のある表現にあたる独特な衣装は著作権法による保護の対象になるが、私的使用の範囲内であれば複製権ないし翻案権の制限により、権利者に無断で使用することができるとされる[25]。また、商業上の行為を目的として権利者の許諾を得ることなくコスプレ衣装等を製作する場合、商標法や不正競争防止法に抵触することも考えられる[25]。 軍服ないしは自衛隊の制服などについて軽犯罪法第一条十五項違反になるとして禁止するイベントもある。 世界各国でのコスプレ 欧米諸国を始め、東アジア諸国では韓国、中国、台湾、香港、東南アジア諸国等でコスプレを行う層が増えている。 世界コスプレサミットなどにおける各国での予選会場の中には、日本人から見ると想像もつかないほどの盛り上がりとなっているところもある[26]。それには、日本人のコスプレに対するイメージが「オタクがやるもの」に対して、世界各国のコスプレに対するイメージが「何かになりきってみんなで騒ぐのは最高」という、コスプレに対するイメージの違いが大きいとする意見がある[27]。 欧米では「日本発の新たな文化」と見られるが、流血等の表現が問題視されることもある。また、発祥が日本という事で、他国の異文化に対する差別思想の対象となることもある。各種のアニメコンベンションではアメリカン・コミックスや『スター・トレック』、『スター・ウォーズ』のような自国の作品のみならず日本発祥の作品のコスプレも行われる。こうしたコンベンションでは扮装を行うだけでなく、「マスカレード」と呼ばれる寸劇によるコスプレコンテストも実施される。イタリアの古都ルッカにおいても1966年に始まったヨーロッパ最古の「ルッカ・マンガ&ゲームフェスティバル(it:Lucca Comics & Games)」でコスプレが行われている[28]。 中国では、日本の漫画やアニメを愛好する者によるコスプレ(角色扮演)が行が行われる。中国政府は危機意識やビジネスチャンスなどを踏まえた上で、国家事業としてコスプレイベントの全国大会である角色扮演嘉年華(コスプレカーニバル)を毎年主催している。中国には様々な題材で仮装して劇を行う文化があり、角色扮演は同好会を作って数人でキャラクターに扮し、寸劇を行うことを意味している。台湾や韓国等でも同人誌即売会やイベントが開催され、日本作品のコスプレも行われている。 世界各国でのコスプレ ウィキペたんのコスプレ(香港) 迷路小瑪のコスプレ(台湾の万金聖母聖殿のキャラクター) ジニー・ウィーズリーのコスプレ、ハリーポッター パドメ・アミダラのコスプレ、スター・ウォーズシリーズ(フランス) 遊☆戯☆王のコスプレ ララ・クロフトのコスプレ 雷電 (メタルギアシリーズ)のコスプレ、アニメ・エキスポ GANTZのコスプレ、C3 in hong kong シリ、ウィッチャー3_ワイルドハントのコスプレ ずまきナルトのコスプレ コスプレの分類 「キャラクターになりきること」を目的としているため、漫画、アニメ、ゲーム他の分類とコスプレの分類も一致する。「見せる為のコスプレ」という側面から派生した物もある。特定の職種や固有の制服を有する団体・企業のコスプレも見られる。 漫画・アニメ・ゲーム系 各作品の登場人物の衣装や持ち物を個別に再現した物がコスチュームとして製作されるほか、特定のキャラクターの衣装ではなく、登場人物の通う学校や所属する組織の制服を再現した物も存在する。 漫画・アニメ・ゲームキャラクター 魔法少女 アイドル(ラブライブ!、うたの☆プリンスさまっ♪など) SF 歴史系(真・三國無双シリーズ、戦国無双シリーズ、戦国BASARAシリーズなど) 特撮ヒーロー ライトノベル ディズニーキャラクター スタジオジブリキャラクター その他 映画・ドラマ 歴史・時代劇(三国志など) 甲冑 芸能系 ヴィジュアル系バンド アイドル(ハロプロ系、AKB48グループ系、ジャニーズ系など) お笑い芸人 声優 VOCALOID 同人コスプレサークル 自宅警備隊 N.E.E.T.など 擬人化 着ぐるみなどを用いず、ロボットや動物のキャラクターをイメージしたコスチュームを着用したもの。猫耳など 鉄道擬人化 京急たん、ファステックたん、千九百王女〔香港九鉄SP1900形電車〕など ドーラー(Doller) アニメキャラを模した仮面とコスプレ衣装を着用したもの 着ぐるみ ロボットや動物系キャラクターなどの着ぐるみを装着、もしくは特撮ヒーローのスーツを着用したもの 参考文献 篠宮亜紀「二十分で分かる!コスプレの超常識」『別冊宝島358 私をコミケにつれてって!』宝島社、1998年。 堀淵清治『萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』日経BP社、2006年。 三田村蕗子 『コスプレ −なぜ、日本人は制服が好きなのか』 祥伝社新書、2008年10月5日。 櫻井孝昌 『世界カワイイ革命 なぜ彼女たちは「日本人になりたい」と叫ぶのか』 PHP新書、2009年11月30日。ISBN 978-4-569-77535-7。 出典・脚注 関連項目 コスプレショップ コスプレ系飲食店 制服 軍服 異性装/女装/男装 合わせ 世界コスプレサミット 秋葉原的萌えクィーンコンテスト 時代行列 仮装/変装 コンプレックス・エイジ 外部リンク - テレビ愛知公式サイト内
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AC
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テンプラニーリョは日本で生産される?
テンプラニーリョ
japanese
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テンプラニーリョ</b>または<b data-parsoid='{"dsr":[529,543,3,3]}'>テンプラニージョ (Spanish: Tempranillo)は、主にイベリア半島で栽培されている黒ブドウ品種。日本語では誤ってテンプラニーニョと表記されることもある。ウイ・ダ・リャブラ、センシベル、ティンタ・デル・パイスなど、地域によって呼称は様々である。 品種名はスペイン語のTemprano(「早生の」、「早熟な」)に由来し[3]、スペインの大半の黒ブドウ品種よりも数週間早く熟す。フェニキア人の時代からイベリア半島で栽培されており、スペインでは「貴族のブドウ」と呼ばれることもある。 歴史 しばらくの間、テンプラニーリョはピノ・ノワール種と親戚関係にあるとされてきた。シトー会の修道士がサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路に沿った修道院にピノ・ノワール種の挿し木を残したとする伝承が残っている。しかしこの伝承の一方で、ブドウ品種学的研究ではこれらの品種間の遺伝的関係は示されていない[4][5]。 今日生産されるほぼすべてのワイン用ブドウの種であるヨーロッパブドウのスペインでの栽培の歴史は、スペイン南部にあったフェニキア人の集落に遡る。古代ローマの著作家である(紀元後4年-70年頃)はワイン用ブドウがヒスパニア全土で栽培されているとし、テンプラニーリョという品種名にも所々で言及している。1972年にはで、ローマ神話における「酒の神」バックスのモザイク画が発掘された。リベラ・デル・ドゥエロのワイン生産は2000年以上前に遡ることが、この66メートルにも及ぶモザイク画によって証明されている[6]。 テンプラニーリョはスペイン人コンキスタドールによって、17世紀にアメリカ大陸に持ちこまれた可能性がある。アルゼンチンのクリオーリャ種の遺伝子を分析した結果、クリオーリャ種はテンプラニーリョと密接な遺伝的関係を持っていることが確かめられた[7]。 見かけは脆弱であるが、テンプラニーリョは20世紀の間に広く拡散した。様々な試行錯誤を経て、世界中で栽培品種としての地位を確立した。1905年にはフレデリック・ビオレッティがアメリカ合衆国のカリフォルニア州にテンプラニーリョをもたらしたが、その後禁酒法時代が到来したことだけではなく、温暖で乾燥した気候を嫌うこの品種の特徴もあって、当地では冷やかな反応を受けた。その後、カリフォルニア州のブドウ畑はテンプラニーリョに適した山岳地帯に移り、半世紀以上も後の1980年代にテンプラニーリョによるワイン生産が開始された。この地域でのワイン生産量は1993年以降に倍増している[8]。 1990年代以降にこの品種は世界的に飛躍を遂げ、一部のスペイン人生産者が、リオハ地方以外でも優れた特徴と品質を持ったワインを生産できることを示した。この結果、テンプラニーリョの単一品種醸造はより一般的になっており、特に、リベラ・デル・ドゥエロ、ナバーラ、ペネデス (DO)などの比較的涼しい地域により適している。1990年代を通じて、オーストラリアや南アフリカの生産者が広大なテンプラニーリョのブドウ畑でのワイン生産を開始した。 特徴 より香り高いカベルネ・ソーヴィニヨン種やピノ・ノワール種などの赤ワイン用品種とは異なり、テンプラニーリョは比較的控え目な性質を持ち、しばしばガルナッチャ種(グルナッシュ種)やカリニャン種(マスエロ種)などの他品種とのブレンドに使用されたり、樽の香りが容易にワインに移るために、オーク樽での長期間の熟成が行われる。 テンプラニーリョは一般的にプラムやイチゴの香りを持つとされる[9]。香り高く繊細な味わいを持つ、長期熟成型のワインを生み出す[10]。 テンプラニーリョは、スペインのリベラ・デル・ドゥエロ (DO)などに代表されるチョーク質の土壌でよく育つ傾向を持つ早生品種である。ポルトガルではティント・ロリスまたはアラゴネスなどとして知られ、ポート・ワインのブレンド用に使用される[9]。 ブドウ栽培 テンプラニーリョは厚い果皮を持つ黒ブドウである[3]。比較的高温でもっともよく育ち、暑すぎる気候にも耐えることができる[11]。ワイン評論家のオズ・クラークはテンプラニーリョの栽培について以下のように語っている。 テンプラニーリョが優雅さと酸度を得るためには、涼しい気候が必要である。しかし、ワインに深い色合いを与える厚い果皮や、高い糖度を得るためには、暖かい気候が必要である。高標高のリベラ・デル・ドゥエロでは、この二つの相反する条件が大陸性気候で調和される。[12] リベラ・デル・ドゥエロにおける7月の平均気温は摂氏21.4度であるが[13]、標高の低い谷では日中の気温が摂氏40度に達することもある。夜間には気温が劇的に下がり、日中の高温から摂氏16度にまで落ち込む。テンプラニーリョはこのような湿潤大陸性気候に適応し生き残ることができる品種のひとつである[14]。 ワイン生産 テンプラニーリョのワインはルビー色であり、香りと味わいはベリー、プラム、タバコ、バニラ、レザー、ハーブなどが引き合いに出される[15]。テンプラニーリョの90%はブレンド用に使用され、単一品種で瓶詰めされることは稀である。酸度と糖度がいずれも低いことから、グルナッシュ種(スペインでは一般的にガルナッチャ種)、カリニャン種(スペインでは一般的にマスエロ種)、グラシアーノ種、メルロー種、カベルネ・ソーヴィニヨン種などがブレンド相手となる[3]。テンプラニーリョはリオハのブレンドワインの最重要品種であり、リベラ・デル・ドゥエロでも90-100%を占めている[3]。オーストラリアでは、テンプラニーリョはグルナッシュ種やシラー種とブレンドされる。ポルトガルではティンタ・ロリスとして知られ、ポート・ワイン生産における主要な品種のひとつである[16]。 栽培地域 スペインのリオハ地方が原産地だとされており[1]、スペインとポルトガルを代表する黒ブドウ品種である。イベリア半島の二か国以外には、フランス、メキシコ、ニュージーランド、アメリカ合衆国(カリフォルニア州・ワシントン州・テキサス州)、南アフリカ、オーストラリア、アルゼンチン、ウルグアイ、トルコ、カナダなどでも栽培されている。 スペイン テンプラニーリョはスペイン北部が原産地であり、スペイン北部からスペイン南部のラ・マンチャ (DO)まで広く栽培されている。二大栽培地域は北中部のリオハ (DO)と北西部のリベラ・デル・ドゥエロ (DO)である。北東部にあるカタルーニャ州のペネデス、北中部のナバーラ、中南部のカスティーリャ=ラ・マンチャ州にあるなどでも栽培されている[15]。 スペインのいくつかの地域では、この品種はテンプラニーリョとは異なる名称で知られている。リベラ・デル・ドゥエロとその周辺部ではティンタ・デル・パイスとして知られ、トロ (DO)、カタルーニャ (DO)のウイ・ダ・リャブラやエストレマドゥーラ州のモリスカではティンタ・デ・トロとして知られている。また、センシベル、ティント・フィノと呼ぶ地域も存在する。 ポルトガル ポルトガルでは、アレンテージョ地方中央部とドウロ地方の2地域でこの品種からワインが生産されている。アレンテージョ地方中央部ではアラゴネスとして知られ、赤のテーブルワインのブレンド用に使用される。一方、ドウロ地方ではティンタ・ロリスとして知られ、主にポート・ワインのブレンド用に使用される[16]。 フランス 近年にはフランス南部のラングドック地方でもテンプラニーリョが栽培されている[10]。 新世界 テンプラニーリョはバルデペーニャスという名前でアメリカ合衆国西部のカリフォルニア州に到着し、19世紀から20世紀への変わり目にセントラル・ヴァレーで栽培が試みられた。セントラル・ヴァレーの気候はブドウにとって理想的ではなかったため、テンプラニーリョは低価格ワインのブレンド用品種として使用された[3]。カリフォルニア州では高級ワインにもテンプラニーリョが使用され始めている。 南部のテキサス州では、ハイ・プレーンズとテキサス・ヒル・カントリーの土壌がスペイン北部のそれと比較された。テキサス州でテンプラニーリョは好評であり、テキサス州を象徴するブドウ品種とみなされるまで成長した[17][18]。 北西部のオレゴン州では、涼しく湿度が高いアンプクア・ヴァレーにあるアバセラ・ワイナリーのアール・ジョーンズがこの品種を導入し[3]、また同じくスペイン原産のアルバリーニョ種なども導入している[19]。この地域の、日中は暑いが夜間は涼しい夏季の気候がテンプラニーリョに最適であると思われる。北西部のワシントン州では、1993年に初の商用品種が植え付けられる際に、コロンビア川右岸のヤキマ・ヴァレー北西部にあるレッド・ウィロー・ヴィンヤードに植えられたのが最初期である[20]。 南半球のオーストラリアでは、南オーストラリア州アデレード南郊のマクラーレン・ヴェールでテンプラニーリョが栽培されている[21]。東南アジアのタイ王国でも一部の生産者がテンプラニーリョを導入している[22]。この品種はラテンアメリカのアルゼンチン、チリ、メキシコなどでも広く栽培されている。 リオハのレセルバ ペネデスで栽培されているテンプラニーリョ ワシントン州で栽培されているテンプラニーリョ 別名 テンプラニーリョは特に多くの別名を持つ品種であり、以下のような別名がある[23]。 アルビーリョ・ネグロ、アルデペーニャス、アラゴン、アラゴネス、アラゴネス51、アラゴネス・ダ・フェラ、アラゴネス・デ・エルバス、アルガンダ、アリント・ティント、センシベル、センシベラ、チンチリャーナ、チンチリャーノ、チンチルジャーノ、クパニ、デ・ポル・アカ、エスコベラ、ガルナッチョ・フォノ、グレナッチェ・デ・ログローニョ、ハシベラ、ハシビエラ、フアン・ガルシア、ネグラ・デ・メサ、ネグレット、オホ・デ・リエブレ、オルオ・デ・レブレ、ピヌエラ、テンプラニーリャ、テンプラニーリョ・デ・ラ・リオハ、テンプラニーリョ・デ・ペラルタ、テンプラニーリョ・デ・リオハ、テンプラニーリョ・デ・リオサ、テンプラニーリョ・リオハ、ティンタ・アラゴネス、ティンタ・コリエンテ、ティンタ・デ・マドリード、ティンタ・デ・サンティアゴ、ティンタ・デ・トロ、ティンタ・ド・イナシオ、ティンタ・ド・パイス、ティンタ・フィナ、ティンタ・マドリード、ティンタ・モンテイラ、ティンタ・モンテイロ、ティンタ・ロリス、ティンタ・サンティアゴ、ティンタ・アラゴン、ティンタ・アラゴネス、ティント・デ・ラ・リベラ、ティント・デ・マドリード、ティント・デ・リオハ、ティント・デ・トロ、ティント・デル・パイス、ティント・フィノ、ティント・マドリード、ティント・パイス、ティント・リビエラ、ティント・リオハーノ、ウイ・ダ・リエブラ、ウイ・ダ・リェブレ、バルデペーニャス、ベルディエイ、ビド・デ・アランダ 関連項目 ブドウ品種の一覧 ブドウ スペインワイン ポルトガルワイン ワイン用ブドウ品種の一覧 脚注 参考文献 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A7
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マカロニはどこで発祥した?
マカロニ・ウェスタン
japanese
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マカロニ・ウェスタン</b>は、1960年代から1970年代前半に作られたイタリア製西部劇を表す和製英語。大半のものはユーゴスラビア(当時)やスペインで撮影された。 イギリス・アメリカ合衆国・イタリアなどでは、これらの西部劇を<b data-parsoid='{"dsr":[199,217,3,3]}'>スパゲッティ・ウェスタン (Spaghetti Western) と呼んでいる。マカロニ・ウェスタンという呼称は、セルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』が日本に1965年に公開された際に、映画評論家の淀川長治が「スパゲッティでは細くて貧弱そうだ」ということで「マカロニ」と呼び変えたと言われる。日本人による造語でありマカロニ・ウェスタンという言葉は他国では通用しないとも言われるが、イギリスの映画評論家であるen:Christopher Fraylingが2006年に出した著書『Spaghetti Westerns: Cowboys And Europeans from Karl May to Sergio Leone』によれば、実際には本国イタリアでもマカロニ・ウェスタンと呼ばれているという[1]。韓国ではマカロニとスパゲッティの両方の呼称が使われており、より多く用いられているのは「マカロニ・ウェスタン」である。「スパゲッティ・ウェスタン」という名称はやや蔑称的なのでドイツでは「イタロ・ウェスタン」という呼称が正式である。俳優などイタリア人以外が多く関与しているものは「ユーロ・ウェスタン」と呼ばれることもある。 発祥とその特徴 最初にイタリア製西部劇を撮ったのはセルジオ・コルブッチ。1963年にロバート・ミッチャムの息子ジェームズ・ミッチャムを主役にしてMassacro al Grande Canyonという西部劇を撮っている。 マカロニ・ウェスタン発生の先駆となったのは一つには「カール・マイ西部劇」とよばれる一連の西ドイツ映画があげられる。カール・マイは19世紀の作家で冒険小説を数多く書いた有名作家。ロケ地はユーゴスラビア(当時)だった。そしてマカロニ・ウェスタン登場以降も引き続いてドイツでも西部劇が作られていった。 このように西ドイツ製西部劇がマカロニウェスタンの片親だとすると、もう一方の親はイタリア史劇映画、俗に「サンダル映画」と呼ばれた一連の映画である。 イタリア映画界の巨匠フェデリコ・フェリーニをはじめとする多くの映画人が使用した欧州有数の巨大映画スタジオ『チネチッタ』が、『ベン・ハー』『十戒』などの史劇ブーム(その多くがヨーロッパにプールされていたアメリカ映画の興行収益をヨーロッパで活用するために製作された)の終焉でイタリア映画産業の斜陽から経営危機に陥り、活路を見いだすために製作され始めたものである 後に『続・荒野の1ドル銀貨』を撮ったドゥッチョ・テッサリなどはホメロスの「オデュッセイア」をモチーフにしている。 その基本路線とは「アンチ・アメリカ西部劇」である。ドイツにはEdelwestern「高級西部劇」という言葉があるが、当時のアメリカ西部劇、ハワード・ホークスやジョン・フォードなどの西部劇は主人公が高潔で、ストーリーもピューリタン的、清浄で見ていて気分がよくなるようなものだった。対してマカロニウェスタンはニヒルで暴力的な主人公が登場し、周りの人物も褒められないタイプの人格で、たまに高潔な人物が出てくるとたいてい殺される。処女地を開いて新しい国を作った国アメリカの誇り高い西部劇とは正反対である。 また、レオーネの『荒野の用心棒』は映画音楽と絵との関係も変えた。いままでのように常にバックに流れていたオーケストラでなく、「音で絵を描く、セリフの代わりに音楽にストーリーを語らせる」方式にしたのだ。 その第1作として特に名高いのが『荒野の用心棒』だった。制作費を安く上げるためにスペインでロケをし、ハリウッドの駆け出し俳優などを使って、残忍で暴力的なシーンを多用した斬新な作風が、当時の西部劇の価値観を大きく変えた。口笛を使ったエンニオ・モリコーネのテーマ曲も一世を風靡した。ストーリーは黒澤明の『用心棒』をそのまま使い、後に盗作で訴えられている。 役者として招いていたハリウッドのB級俳優の中には、まだ売り出し中のクリント・イーストウッドやバート・レイノルズの姿もあり、また、ハリウッドでは悪役専門だったリー・ヴァン・クリーフが主人公に据えられたりした。イタリア人の俳優では、フランコ・ネロやジュリアーノ・ジェンマが有名であるが、この「アンチ・アメリカ西部劇路線」は後にマカロニウェスタンの中で二つのサブジャンルを生み出した。 一つは「メキシコ革命もの」と言われる作品群で、アメリカではなく、メキシコ、あるいはアメリカとメキシコの国境付近を舞台に、フアレスなどが率いたメキシコ革命を扱ったもの。セルジオ・コルブッチ、セルジオ・ソリーマなどがこのモチーフを手がけている。特にソリーマは最初から社会派路線を行くマカロニ・ウェスタンを撮り続けた。『アルジェの戦い』を手がけたフランコ・ソリナスなどもいくつかのマカロニ・ウェスタンで脚本を担当している。アメリカ西部劇では主要舞台はあくまで英語圏の西部で、登場人物は英語の話者がほとんどだったのがマカロニ・ウェスタンと違う点である。 もう一つのサブジャンルは、エンツォ・バルボーニなどに代表させられるドタバタ喜劇路線。これが出てくる1970年代とは、1969年ごろにその頂点に達した以後マカロニウェスタンがはっきり衰退期に入った時期だが、このドタバタ路線はある程度の成功を記して、いまだにファンも多い。この時期に有名になったのが「オリバー・ハーディ&スタン・ローレル以来の最大のギャグコンビ」といわれるバッド・スペンサーとテレンス・ヒルである。この二人を最初に共演させたのはバルボーニ、と思われることが多いが、最初にこのコンビを「発掘」したのは実はジュゼッペ・コリッツィで、その映画はハード路線のマカロニ・ウェスタンである。 黄金期と衰退期 『荒野の用心棒』が世界中で爆発的な人気を博すると、イタリアでは1965年頃から500本以上にのぼる作品が量産されるようになる。 映画に箔をつけるため、アメリカ(クリント・イーストウッド、ヘンリー・フォンダ、ロッド・スタイガーなど)やイギリス(リンゴ・スター)などから俳優を持ってくることも少なくなかったが、大半は脇役も主役もイタリア本国を始め、スペイン(アントニオ・カサス、ニエヴェス・ナヴァロなど)、フランス(ロベール・オッセン、ジャン=ルイ・トランティニャン)、オーストリア(ジークフリート・ルップ、ヨゼフ・エッガー、ヴィルヘルム・ベルガー)、西ドイツ(クラウス・キンスキー、マリアンネ・コッホ)など、ヨーロッパ大陸部全体から集められた。「ユーロ・ウェスタン」という呼称の所以である。南米ウルグアイ出身のスター、ジョージ・ヒルトンが参加しており、日本からも仲代達矢が招かれている。ソリーマの映画でスターとなったトーマス・ミリアンはキューバ出身(後アメリカに移住)、『続・荒野の用心棒』の作曲家ルイス・エンリケス・バカロフはアルゼンチン人である。 イタリアからは、ジュリアーノ・ジェンマ、フランコ・ネロ、バッド・スペンサー、テレンス・ヒルたちがスターとなり、年に1、2本は大型予算を投じた作品も撮られるようになり、その代表的なものに、レオーネ監督の『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』、そしてハリウッドからヘンリー・フォンダ、チャールズ・ブロンソンらのA級スターを招いた『ウエスタン』などがある。 面白いところでは、ホラー映画で有名なルチオ・フルチが、ジュリアーノ・ジェンマでマカロニ・ウェスタンを1作撮っている。予想に反して普通の映画で、決してジュリーノ・ジェンマが眼をつぶされたりはしない。さらに、ピエル・パオロ・パゾリーニが監督でなく俳優として出演している『殺して祈れ』などの作品もある。 製作はほとんどイタリアのものだったが、最盛期にはロベール・オッセン監督・主役の『傷だらけの用心棒』など、ほとんどフランス人の手だけによる西部劇も作られた(脚本はイタリア人のダリオ・アルジェント)。これも「ユーロ・ウェスタン」の名の由来である。『傷だらけの用心棒』は、フランス人トランティニャンが主役を勤めた『殺しが静かにやって来る』と同様、ネガティブなラストでノワール映画的な陰鬱な雰囲気が漂っているが、『殺しが静かにやって来る』ほどの凄みはない。 マカロニ・ウェスタンは日本でも人気を集め、ブームの頃にはその影響を強く受けた時代劇が作られるようになる。映画では五社英雄監督(『牙狼之介』『御用金』)や三隅研次監督(『子連れ狼』『御用牙』)など、テレビドラマでは『必殺シリーズ』、『木枯し紋次郎』、『唖侍鬼一法眼』、『斬り抜ける』など、マカロニ・ウェスタンの要素を取り入れた作品が多く作られ、若者を中心に支持を集めた。また刑事ドラマ『太陽にほえろ!』の登場人物の早見淳(萩原健一)が、マカロニ・ウェスタンの主人公のような格好をしていることからマカロニの愛称で呼ばれている。 しかし1970年代に入ると、急速にそのブームは失速していった。マカロニ・ウェスタンは「既成のヒーロー像の反対を行く」というのが基本コンセプトであったため、『続・荒野の用心棒』のような強烈なインパクトのあるアンチ・ヒーロー、言い換えるなら奇をてらったヒーロー像を必要としたわけだが、その要求を満たすため様々な主人公が考え出された。棺桶を引きずったヒーロー、口のきけない主人公、盲目のガンマン、聖職者のガンマン、ホモセクシャルなどありとあらゆるヒーローが作り出されたが、あまりにも量産されてアイデアが枯渇、インパクトに欠けてしまい、観客も食傷気味になってしまった。その状態を打破するために、サブジャンルが生じたことは上述の通りである。 1973年製作のトニーノ・ヴァレリ監督による『ミスター・ノーボディ』は事実上最後のマカロニ・ウェスタンと呼ばれ、これ以後は見るべき作品は生まれなかった。1976年には『Keoma』、1993年には『Jonathan degli orsi』といういずれもフランコ・ネロ主演のマカロニ・ウェスタンが作られているが、かつてのような精彩は感じられない。また、1987年には『続・荒野の用心棒』の正式な続編がやはりフランコ・ネロで撮られたが(Django 2: Il grande ritorno)、完全な失敗作に終わった。 2005年には、全盛期に映画の撮影が行われたスペインの村がロケセットを西部村として観光化するも、それすら寂れていくという、マカロニ・ウェスタンの楽屋落ちのようなストーリーを描いた『マカロニ・ウェスタン 800発の銃弾』というスペイン映画が製作されている。 主な監督 ロベール・オッセン - 国際的に名の通ったフランス映画界の俳優・監督。代表作はマカロニ・ウェスタン『傷だらけの用心棒』Une corde, un Colt...(1968年)。自ら主役を務め、『アンジェリク』という映画シリーズでコンビを組み人気を博していたミシェル・メルシエを相手役に起用した。1961年にはメキシコを舞台にした独仏伊合作映画Le Gout de la violenceも監督している。 作品 - 『傷だらけの用心棒』Une corde, un Colt...(1968年) ジュゼッペ・コリッツィ - 元作家志望で、脚本家から監督になった。テレンス・ヒル、バッド・スペンサーで3本のマカロニ・ウェスタンを撮っている。その3本とも音楽は『鉄道員』のカルロ・ルスティケッリが担当。コリッツィが発見したヒル・スペンサーのコンビは後にバルボーニが引き継いだ。 作品 - 『Dio perdona .. io no!』(1967年)(劇場未公開)、『荒野の三悪党』I quattro dell'Ave Maria(1968年)、『La collina degli stivali』(1969年)(劇場未公開) セルジオ・コルブッチ - マカロニ・ウェスタン独特のスタイルを確立した。マカロニ・ウェスタン作品数も最も多く、陰鬱な作品からコメディまで作風も幅広い。アイディアに富んだ娯楽作品を多数連発した。 主な作品 - 『続・荒野の用心棒』(1966年)、『さすらいのガンマン』(1966年)、『殺しが静かにやって来る』(1968年)、『ガンマン大連合』(1970年) エンツォ・ジロラーミ(またはエンツォ・カステラーリ)- 1966年にレオン・クリモフスキーのマカロニ・ウェスタン『Pochi dollari per Django』で非公式の助監督をした後、『荒野のお尋ね者』Sette Winchester per un massacro(1967年)でデビューした。中堅作品が多い。作曲家のフランチェスコ・デ・マージとよく組んでいる。ずっと後になってから(1993年)フランコ・ネロでマカロニ・ウェスタンを撮ったのもジロラーミ。 作品 - 『荒野のお尋ね者』Sette Winchester per un massacro(1967年)、Quella sporca storia nel West(1967年)(劇場未公開)、『黄金の三悪人』 Vado, l'ammazzo e torno(1967年)、『七人の特命隊』Ammazzali tuti e torna solo(1968年)、『Tedeum』(1972年)(劇場未公開)、『ケオマ・ザ・リベンジャー』Keoma(1976年)(劇場未公開)、『ジョナサン・ベア』Jonathan degli orsi(1993年)(劇場未公開) セルジオ・ソリーマ - レオーネ、コルブッチと並ぶ重要な作家で、3本のマカロニ・ウェスタンを作った。特に一作目の『復讐のガンマン』(1967年)は高い評価を受けている。レオーネの作風を受け継いだヴァレリや、これ見よがしにレオーネに対抗して見せたコルブッチと違い、ソリーマは最初から中立で独自の路線を貫き、テーマも社会的なものである。レオーネはクリント・イーストウッド、コルブッチはフランコ・ネロを起用して成功したが、ソリーマは全作品でトーマス・ミリアンを主役に立てている。 作品 - 『復讐のガンマン』La resa dei conti(1966年)、『血斗のジャンゴ』Faccia a faccia(1967年)、『続・復讐のガンマン』Corri uomo corri(1968年) ダミアーノ・ダミアーニ - 政治社会問題を得意のテーマとした正統派の監督・脚本家。ジャン・マリア・ヴォロンテ、クラウス・キンスキーで撮った『群盗荒野を裂く』Quien sabe?(1966年)も社会派路線を貫き、大ヒットした。1975年にセルジオ・レオーネの誘いを受けて再度『ミスター・ノーボディ2』Un genio, due compari, un polloというマカロニ・ウェスタンをテレンス・ヒルで撮ったが、1作目ほどの成功はおさめなかった。 作品 - 『群盗荒野を裂く』Quien sabe?(1966年)、『ミスター・ノーボディ2』Un genio, due compari, un pollo(1975年) ドゥッチョ・テッサリ - ドキュメンタリー映画からサンダル映画出身。ジュリアーノ・ジェンマを使った『続・荒野の一ドル銀貨』Il ritorno di Ringoはマカロニ・ウェスタンの名作だが、これはホメロスのオデュッセイアの最後の部分をそのままストーリーにしている。1985年に再びジュリアーノ・ジェンマで西部劇を撮った。 作品 - 『夕陽の用心棒』Una pistola per Ringo(1964年)(劇場未公開)、『続・荒野の一ドル銀貨』Il ritorno di Ringo(1965年)、『荒野の大活劇』Vivi o preferibilmente morti(1969年)、『新・脱獄の用心棒』Viva la muerte ... tua!(1971年)(劇場未公開)、『魔境のガン・ファイター』Tex e il Signore degli abissi(1985年)(劇場未公開) エンツォ・バルボーニ(またはE.B.クラッチャー) - カメラマン出身で、『続・荒野の用心棒』でも撮影を担当し、1969年から監督としてマカロニ・ウェスタンを撮りはじめた。最初はハード路線であったがテレンス・ヒルとバッド・スペンサーを使ったコメディ・マカロニ・ウェスタン『風来坊/花と夕日とライフルと』Lo chiamavano Trinitaで大ヒットを飛ばした後は喜劇に転向した。 作品 - Ciakmull - L'uomo della vendetta(1969年)(劇場未公開)、『風来坊/花と夕日とライフルと』Lo chiamavano Trinita(1970年)、『風来坊II/ザ・アウトロー』Continuavano a chiamarlo Trinita(1971年)、『自転車紳士西部を行く』... e poi lo chianarono il magnifico(1972年)、『Trinita & Bambino ... e adesso tocca a noi!』(1995年) ルチオ・フルチ - ホラー映画監督として有名だが、1966年に『真昼の用心棒』Le colt cantarono la morte e fu ... tempo di masssacroでマカロニ・ウェスタンでもデビューし、フランコ・ネロだけでなくジョージ・ヒルトンをスターにのし上げた。ホラー映画に転向したのは70年代であるが、1977年、マカロニ・ウェスタンのブームがすでに去ってからもジュリアーノ・ジェンマで西部劇を撮っている。 作品 - 『真昼の用心棒』Le colt cantarono la morte e fu ... tempo di masssacro(1966年)、『白い牙』Zanna Bianca(1973年)(劇場未公開)、『名犬ホワイト/大雪原の死闘』Il ritorno di Zana Bianca(1974年)(劇場未公開)、『荒野の処刑』I quattro dell'Apocalisse(1975年)(劇場未公開)、『新・復讐の用心棒』Sella d'argento(1977年)(劇場未公開) セルジオ・レオーネ - イタリア製西部劇を「マカロニ・ウェスタン」という一つの映画ジャンルとして確立した事実上の創設者。海外の映画作家に多大な影響を与えた。俳優の顔の極端なアップや特徴的なロングショットなどを使ったアクの強い画像で知られる。 作品 - 『荒野の用心棒』Per un pugno di dollari(1964年)、『夕陽のガンマン』Per qualche dollaro in piu(1965年)、『続・夕陽のガンマン』Il buono, il brutto, il cattivo(1966年)、『ウエスタン』C'era una volta il West(1968年)、『夕陽のギャングたち』Giu la testa(1971年) トニーノ・ヴァレリ - 『夕陽のガンマン』でレオーネの助監督を務め、『さすらいの一匹狼』でデビューしたので、レオーネの影響を強く受けているが、レオーネよりもマイルドな作風である。 作品 - 『さすらいの一匹狼』Per il gusto di ucchidere(1966年)、『怒りの荒野』I giorni dell'ira(1967年)、『復讐のダラス』Il prezzo del potere(1969年)、『ミスター・ノーボディ』Il mio nome e Nessuno(1973年) 主な作品 『荒野の用心棒』(1964年 / 監督: セルジオ・レオーネ 出演: クリント・イーストウッド、ジャン・マリア・ヴォロンテ) 『夕陽のガンマン』(1965年 / 監督: セルジオ・レオーネ 出演: クリント・イーストウッド、リー・ヴァン・クリーフ、ジャン・マリア・ヴォロンテ) 『夕陽の用心棒』(1965年 / 監督: ドゥッチョ・テッサリ 出演: ジュリアーノ・ジェンマ、ジョージ・マーティン) 『荒野の1ドル銀貨』(1965年 / 監督: カルヴィン・J・バジェット 出演: ジュリアーノ・ジェンマ、イヴリン・スチュアート、ピーター・クロス) 『続・荒野の1ドル銀貨』(1965年 / 監督: ドゥッチョ・テッサリ 出演: ジュリアーノ・ジェンマ、ジョージ・マーティン) ※上記の続編ではない。 『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(1966年 / 監督: セルジオ・レオーネ 出演: クリント・イーストウッド、リー・ヴァン・クリーフ、イーライ・ウォラック) 『続・荒野の用心棒』(1966年 / 監督: セルジオ・コルブッチ 出演: フランコ・ネロ、ロレダーナ・ヌシアク、エドゥアルド・ファハルド) 『真昼の用心棒』(1966年 / 監督: ルチオ・フルチ 出演: フランコ・ネロ、ジョージ・ヒルトン) 『群盗荒野を裂く』(1966年 / 監督: ダミアーノ・ダミアーニ 出演: ジャン・マリア・ヴォロンテ、クラウス・キンスキー) 『ガンマン無頼』(1966年 / 監督: フェルディナンド・バルディ 出演: フランコ・ネロ、コレ・キトシュ、ホセ・スアレス) 『情無用のジャンゴ』(1966年 / 監督: ジュリオ・クェスティ 出演: トーマス・ミリアン、ロベルト・カマディエル) 『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』(1967年 / 監督: ジュリオ・ペトローニ 出演: ジョン・フィリップ・ロー、リー・ヴァン・クリーフ) 『怒りの荒野』(1967年/ 監督: トニーノ・ヴァレリ 出演: リー・ヴァン・クリーフ、ジュリアーノ・ジェンマ) 『拳銃のバラード』(1967年 / 監督: アルフィオ・カルタビアーノ 出演: アントニー・ギドラ、アル・ノートン) 『さすらいのガンマン』(1967年 / 監督: セルジオ・コルブッチ 出演: バート・レイノルズ、ニコレッタ・マキャベリ) 『星空の用心棒』(1967年 / 監督: スタン・ヴァンス・出演: ジュリアーノ・ジェンマ、コンラート・サン・マルティン、フランシスコ・ラバル) 『血斗のジャンゴ』(1967年 / 監督: セルジオ・ソリーマ 出演: ジャン・マリア・ヴォロンテ、トーマス・ミリアン) 『殺しが静かにやって来る』(1968年 / 監督: セルジオ・コルブッチ 出演: ジャン=ルイ・トランティニャン、クラウス・キンスキー) 『復讐のガンマン』(1968年 / 監督: セルジオ・ソリーマ、出演: リー・ヴァン・クリーフ、トーマス・ミリアン) 『ウエスタン』(1968年 / 監督: セルジオ・レオーネ 出演: ヘンリー・フォンダ、クラウディア・カルディナーレ、ジェイソン・ロバーズ、チャールズ・ブロンソン) 『豹/ジャガー』(1969年 / 監督: セルジオ・コルブッチ 出演: フランコ・ネロ、ジャック・パランス) 『ガンマン大連合』(1970年 / 監督: セルジオ・コルブッチ 出演: フランコ・ネロ、トーマス・ミリアン、ジャック・パランス) 『夕陽のギャングたち』(1970年 / 監督: セルジオ・レオーネ 出演: ジェームズ・コバーン、ロッド・スタイガー) 『進撃0号作戦』(1973年 / 監督: セルジオ・コルブッチ 出演: ヴィットリオ・ガスマン、パオロ・ヴィラッジョ、エドゥアルド・ファハルド) 邦題に関して 配給会社ごとに邦題に特徴がつけられた。東和は「用心棒」、ユナイトは「ガンマン」、ヘラルドは「無頼」、松竹は「一匹狼」などである。 出典 関連項目 西部劇 イタリアの映画
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華族とはなんですか?
華族
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華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。 1886年1月(明治19年)における人口は3419名で、うち戸主(家督)は525名であった[1]。 爵位制度以前 華族の誕生 明治2年6月17日(1869年7月25日)、岩倉具視の政策による版籍奉還と同日の行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた[2]。公家137家・諸侯270家[3]・明治維新後に公家となった家5家[4]・維新後に諸侯となった家15家[5]の合計427家[6]は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である終身華族と、子孫も華族となる永世華族があった。 またこの後も新たな華族が加えられた。奈良興福寺の門跡や院家だった公家の子弟が還俗して新たな華族となった26家は奈良華族と総称された。また、大久保利通の功により大久保家が、木戸孝允の功により木戸家が[7]、広沢真臣の功により広沢家が[8]、それぞれ明治天皇の特旨によって華族になったが、華族令以前に華族に列した元勲の家系はこの3家のみである[9]。さらに歴史上天皇に対して忠節を尽くした者の子孫[10]も天皇の特旨によりこの時代に華族となっている。 華族の名称 華族という名称が採用された経緯ははっきりとしない。華族制度の策定にあたった伊藤博文は「公卿」、広沢真臣・大久保利通・副島種臣は「貴族」、岩倉具視は「勲家」「名族」「公族」「卿家」などの案を持っていた。討議の結果「貴族」と「名族」が候補に残ったが、決定したのは「華族」だった。 明治以前までは華族といえば公家の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第2位の家格である清華家の別称だった。 華族制度の整備 11月20日、旧諸侯の華族は原則東京に住居することが定められた。ただし地方官や外交官として赴任するものはこの限りでなかった。また同月には旧公家の華族<!-- ならびに旧・官人 -->の禄制が定められ、また華族はすべて地方官の貫属とする旨が布告された。 明治4年(1871年)には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民の上に立ってその模範となることが求められた。また諸侯華族は2月20日にすべて東京府の貫属となった。7月14日には廃藩置県が行われ、知藩事としての地位も失った。 明治7年(1874年)には華族の団結と交友のため華族会館が創立された。明治10年(1877年)には華族の子弟教育のために学習院が開校された。同年華族銀行とよばれた第十五国立銀行も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは自らも公家華族である右大臣岩倉具視だった。 明治9年(1876年)、全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公家の区別なく、系図上の血縁ごとに76の「類」として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになった。明治11年(1878年)にはこれをまとめた『華族類別録』が刊行されている。 明治11年(1878年)1月10日、岩倉は華族会館の組織として華族部長局を置き、華族の統制に当たらせた。しかし公家である岩倉の主導による統制に武家華族が不満を持ち、部長局の廃止を求めた。明治15年(1882年)、華族部長局は廃され、華族の統制は宮内省直轄の組織である華族局が取り扱うこととなった。 岩倉は政治的には伊藤と協力関係にあったが、伊藤や木戸が構想した将来の議会上院形成のために華族を増員すること、具体的には維新の功労者を華族に加えることには強い拒否反応を示した。岩倉はそもそも華族が政治に参加することに反対だった。しかし明治14年(1881年)に国会開設の詔が出されると、岩倉もようやく伊藤の方針に同意した。岩倉の死後は、伊藤を中心に設置された制度取調局で華族制度の整備が進められた。 叙爵 爵位制度の検討 華族制度の発足以前から、爵位による華族の格付けは検討されていた。明治2年(1869年)5月には華族を「公」「卿」「太夫」「士」の四つに分け、公と卿は上下の2段階、太夫と士は上中下の3段階という計9等級に分ける案が三職会議から提出された。明治4年(1871年)9月には正院から左院に、「上公」「公」「亜公」「上卿」「卿」の5等級に分ける案が下問された。これを受けた左院は10月に、「公」「卿」「士」の3等級に分ける案を提出した。明治9年(1876年)には法制局が「公」「伯」「士」の3等級案を提出し、西南戦争以前は3等級案が主流となっていた。 明治11年(1878年)」2月4日、法制局大書記官尾崎三良と少書記官桜井能堅から伊藤博文に対し、「公」「侯」「伯」「子」「男」の5等級案が提出された。これは五経の一つである『礼記』の王制篇に「王者之制禄爵 公侯伯子男 凡五等」とあるのにならったものである。 華族令発布による爵位制度の発足 明治17年(1884年)7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された[11]。 爵位の基準は、明治17年(1884年)5月7日に賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮された</b>が、武家に関しては徳川家と元対馬藩主宗家以外は江戸時代の家格(国主、伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」のみが選定基準</b>となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。 また華族令発布と同時期に、維新前に公家や諸侯でなかった者、特に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、当主は爵位を受けている。叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。これらの華族は新華族や勲功華族と呼ばれている。また、終身華族はすべて永世華族に列せられ、終身華族が新たに生まれることもなかったため、全ての華族は永世華族となった。これ以降も勲功による授爵、皇族の臣籍降下によって華族は増加した。 爵位制度の概要 爵位は華族となった家の戸主、しかも男性のみが襲位した。土地の所有権を示すヨーロッパの爵位や中国の爵位と異なり、この爵位は家に対して与えられるものであり、複数の爵を一人の個人が所有することや、華族で別の爵位を名乗るような事態は存在しなかった。陞爵(爵位の昇進)によって爵位が変化した家もあるが、爵位の格下げは一例も無い[12]。 爵位の上下により、叙位や宮中席次などでは差別待遇が設けられた。たとえば功績を加算しない場合公爵は64歳で従一位になるが、男爵が従一位になるのは96歳である。公爵は宮中席次第16位であるが、男爵は第36位である。また、公爵・侯爵は貴族院議員に無条件で就任できたが、伯爵以下は同じ爵位を持つ者の互選で選出された。 英語呼称 公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵は、それぞれ英国のprince、marquess、earl、viscount、baronに相当するものとされた。しかし英国におけるprinceは王族に与えられる爵位であるため、近衛文麿公爵が英米の文献において皇族と勘違いされる例もあった。英国の爵位で公爵と日本語訳されるのは、通常はdukeである。 叙爵基準による最初の叙爵 公爵 公家からは五摂家、武家からは徳川家宗家が公爵相当となった。 「国家に偉功ある者」として公家からは三条家(清華家・三条実美の功)、岩倉家(羽林家・岩倉具視の功)、武家からは島津家宗家(薩摩藩主島津忠義の功)、玉里島津家(薩摩国父島津久光の功)、毛利家(長州藩主毛利敬親の功)が公爵に叙せられた。 侯爵 公家からは清華家、武家からは徳川御三家と現米[13]15万石以上の大名家が侯爵相当となった。 琉球国王[14]だった尚氏も侯爵となっている。 「国家に勲功ある者」として、木戸家(木戸孝允の功)、大久保家(大久保利通の功)が侯爵となった。また公家の中山家(羽林家)は「勲功により特に」侯爵が授けられたが、中山忠能が明治天皇の外祖父だったことが考慮されたものとみられる。 伯爵 公家からは大臣家、大納言の宣任の例が多い[15]堂上家、武家からは徳川御三卿と現米5万石以上の大名家が伯爵相当となった。 公家の東久世家は参議を極官とする羽林家で大納言宣任の例も皆無だったが、維新における東久世通禧の功が特に考慮されて伯爵となった。また武家の対馬藩は数千石余で、肥前国内の飛地1万石を併せても表高の2万石を下回っていたが、藩主宗家は朝鮮外交の実務担当者として10万石の格式が江戸時代を通じて認められていたことが考慮されて伯爵となった。平戸藩主松浦家は本来は算入されないはずの分家の所領まで計算に繰り入れた上で伯爵となったが、これは中山忠能正室が松浦家の出身であることから明治天皇の外戚に当たることが考慮されたものとみられる。 西本願寺・東本願寺の世襲門跡家だった両大谷家も伯爵となった。 「国家に勲功ある者」として、伊藤博文・黒田清隆・井上馨・西郷従道・山県有朋・大山巌などの維新の元勲も伯爵に叙された。 子爵 公家からは伯爵の要件を満たさない堂上家、武家からは維新前に諸侯だった大名家が子爵相当となった。 分家した家は、本家が高い爵位を持っている場合は特例として子爵に叙せられた。近衛秀麿家(公爵近衛家の分家)、徳川武定家(侯爵水戸徳川家の分家)、松平慶民家(侯爵福井松平家の分家)の3家。 「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者のうち伯爵相当とみなされなかった者の家が子爵に叙せられた。 男爵 明治維新後に堂上公家または諸侯大名に取り立てられた家(奈良華族、附家老家など)が男爵相当となった。 地下家で最も家格が高い局務家の押小路家と官務家の壬生家の2家は、堂上家に準じて男爵を与えられた。出納家の平田家以下他の地下家はすべて士族として扱われた。 大社の世襲神職家14家[16]、浄土真宗系の世襲門跡家4家[17]も男爵となった。 琉球王家の尚氏の分家だった伊江家と今帰仁家の2家も男爵となった。 「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者のうち伯爵・子爵相当とみなされなかった者の家が男爵に叙せられた。 最初の叙爵から外された叙爵基準の対象者 旧諸侯のうち、最初の叙爵から外された特殊な事例として、以下のケースがある。 江戸幕府第15代将軍でかつ内大臣でもあった徳川慶喜は、幕府滅亡後に徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)に譲って同家の隠居扱いとなっていたが、明治35年(1902年)になって養子・家達とは別に公爵を授けられ、宗家とは別家(徳川慶喜家)を創設した。 戊辰戦争で旧幕府側についたことを理由に改易され、維新前に諸侯だった大名家中唯一士族に編入された請西藩主林家は、明治26年(1894年)になって本来よりも1つ低い男爵に叙せられた。 華族の特権 司法 華族や勅任官・奏任官は1877年の民事裁判上勅奏任官華族喚問方(明治10年10月司法省丁第81号達)により民事裁判への出頭を求められることがなく、また華族は1886年の華族世襲財産法により公告の手続によって世襲財産を認められ得た。 財産 その他、宗秩寮爵位課長を務めた酒巻芳男は華族の特権を次のようにまとめている[18]。 爵の世襲(華族令第9条) 家範[19]の制定(華族令第8条) 叙位[20](叙位条例、華族叙位内則) 爵服の着用許可(宮内省達) 世襲財産の設定(華族世襲財産法) 貴族院の構成(大日本帝国憲法・貴族院令) 特権審議(貴族院令第8条) 貴族院令改正の審議(貴族院令第13条) 皇族・王公族との通婚(旧皇室典範・皇室親族令) 皇族服喪の対象(皇室服喪令) 学習院への入学(華族就学規則) 宮中席次の保有(宮中席次令・皇室儀制令) 旧堂上華族保護資金(旧堂上華族保護資金令) 1886年に華族は第三者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来るとする華族世襲財産法が制定されたことにより、世襲財産を設定する義務が生まれた。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権や質権を主張することは出来なかった。しかし同時に、世襲財産は華族の意志で運用することも出来ず、また債権者からの抗議もあって、大正5年(1915年)に当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになった。財産基盤が貧弱であった堂上貴族は旧堂上華族保護資金令により、国庫からの援助を受けた。さらに財産の少ない奈良華族や神官華族には、男爵華族恵恤金が交付された。 教育 学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の定員は帝国大学のそれと大差なかったため、学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。 貴族院議員 1889年の大日本帝国憲法により、華族は貴族院議員となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「皇室の藩屏」としての役割を果たすものとされた。 また貴族院令に基づき、華族の待遇変更は貴族院を通過させねばならないこととなり、彼らの立場は終戦後まで変化しなかった。議員の一部は貴族院内で研究会などの会派を作り、政治上にも大きな影響を与えた。 なお、華族には衆議院議員の被選挙権はなかったが、高橋是清のように隠居して爵位を息子に譲った上で立候補した例がある。 皇族・王公族との関係 同年定められた旧皇室典範と皇族通婚令により、皇族との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者[21]に限定された。 また宮中への出入りも許可されており、届け出をすれば宮中三殿のひとつ賢所に参拝することも出来た。侍従も華族出身者が多く、歌会始などの皇室の行事では華族が役割の多くを担った。また、皇族と親族である華族が死亡した際は服喪することも定められており、華族は皇室の最も近い存在として扱われた。 華族の身分 爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されなかったが、華族としては認められ、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された[22]。しかし女戸主は1907年(明治40年)の華族令改正で廃止され、男当主の存在が必須となった。また男系相続が原則であると規定されている[23]。また有爵者は原則として隠居を禁じられていたが、1907年(明治40年)の改正により民法と同様の隠居が可能になった[24]。 華族令によると、華族とされる者は有爵者のみであるとされていたが、皇室典範にある皇族は、皇族および華族のみと結婚できるという規定と矛盾するという指摘が行われた[25]。このため貴族院では華族の範囲を有爵者の家族にまで広げるという議決が行われたが、帝室制度調査局による修正により、結局有爵者のみが華族であり、その家族は有爵者の余録によって「族称としての華族」を名乗るという扱いとなった[26]。また1907年(明治40年)の華族令改正より、華族とされる者は家督を有する者および同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても平民との婚姻などにより分籍した者は、平民の扱いを受けた。また、当主の庶子も華族となったが、妾はたとえ当主の母親であっても華族とはならなかった(皇族も同様で、大正天皇の実母である柳原愛子は皇族ではない)。養子を取ることも認められていたが、男系6親等以内が原則であり、華族の身分を持つことが条件とされていた。 華族の統制 華族は宮内大臣と宮内省宗秩寮の監督下に置かれ、皇室の藩屏としての品位を保持することが求められた。また華族子弟には相応の教育を受けさせることが定められた。 自身や一族の私生活に不祥事があれば、宗秩寮審議会にかけられ、場合によっては爵位剥奪・除族・華族礼遇停止といった厳しい処分を受けた。 華族制度への批判 華族制度は成立当初、一君万民の概念に背き、天皇と臣民の間を隔てる存在であり、華族は無為徒食の徒であるとして華族制度の存在に反対するものもいた。島地黙雷や小野梓元老院書記官が反対の論陣を張り、『朝野新聞』紙上で激しい論戦が繰り広げられた。『朝野新聞』は明治13年(1880年)に「華族廃すべし」と題した論説を掲載している。また政府内でも、井上毅は当初爵位制度に反対していたが、自由民権運動の勢力拡大にともない、華族と妥協するため主張を変更している。 板垣退助も華族制度は四民平等に反するという主張を持っており、明治20年(1887年)に伯爵に叙された際も2度にわたって辞退した。しかし天皇の意志に背くことは出来ずに結局は爵位を受けたが、この時には華族制度を疑問視する意見書を提出している。また、明治40年(1907年)には全華族に対して華族の世襲を禁止するという意見書を配り、谷干城と激しい論争になった。死の直後には「華族一代論」を出版し、息子鉾太郎に遺言して襲爵手続きも行わせなかったため、板垣伯爵家は廃絶した。 部落解放運動家の松本治一郎は広田内閣当時に衆議院議員として「不当にたてまつられる華族の存在こそは部落民が不当にさげすまれる原因であり華族制度を廃止すべきと思うがどうか」と質問した。 華族の実際 財政 華族は皇室の藩屏として期待されたが、奈良華族をはじめとする中級以下の旧・公家などには、経済基盤が貧弱だったため生活に困窮する者が現れた。華族としての体面を保つために、多大な出費を要したためである。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家が跡を絶たなかった。 一方、大名華族は家屋敷などの財産を保持し、維新後数十年間は家禄、それに引き続いて金碌公債が支給されたため一般に裕福であり、旧家臣との人脈も財産を守る上で役立った。それでも明治末期以降は相伝の家宝が「売り立て」(入札)の形で売却されることも多くなり、大名華族の財政も次第に悪化しつつあった。 華族銀行として機能していた十五銀行が金融恐慌の最中、昭和2年(1927年)4月21日に破綻した際には、多くの華族が財産を失い、途方に暮れた。 スキャンダル 華族は<b data-parsoid='{"dsr":[12537,12555,3,3]}'>現代の芸能人のような扱い</b>もされており、『婦人画報』などの雑誌には華族子女や夫人のグラビア写真が掲載されることもよくあった。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、柳原白蓮(柳原前光伯爵次女)が有夫の身で年下の社会主義活動家と駆け落ちした白蓮事件、芳川鎌子(芳川寛治夫人、芳川顕正伯爵四女)がお抱え運転手と図った千葉心中、吉井徳子(吉井勇伯爵夫人、柳原義光伯爵次女)とその遊び仲間による男性交換や自由恋愛の不良華族事件など、数々の華族の醜聞が新聞や雑誌を賑わせた。 進路 制度発足当初は貴族院議員として、また軍人・官僚として、率先して国家に貢献することも期待された。 貴族院議員として政治に参画しようとする場合、公侯爵と伯爵以下とでは、条件やインセンティブに大きな違いがあった。公侯爵議員の場合、無条件で終身議員になれる上、その名誉で議長・副議長ポストにも優先的に就任できた。ただ無報酬のため、中には醍醐忠順のように腰弁当徒歩で登院したり、嵯峨公勝のように登院に不熱心な議員も存在した[27]。伯子男爵の場合、7年ごとに互選があったが、衆議院議員と同額の報酬もあり、家計の助けとなった。中には水野直のように、各家の生活上の面倒を請け負いながら、選挙の調整を図る人物も登場した[28]。 陸軍士官学校には明治10年代、華族子弟のための特別な予科が設けられた。しかし希望者が少ない上、虚弱体質などで適性割合が低く、じきに廃止された。有名な華族軍人としては、陸軍では前田利為や町尻量基、海軍では醍醐忠重や小笠原長生らがいる。 進路として最も適性があったと思われる国家機関は、宮内省である。特に旧・堂上華族は、皇室(朝廷)との縁や、代々伝わる技芸を活かせた。歴代天皇も彼らとの縁を重んじ、逆に離れていくことを拒んだ。他官庁の高級官僚になった例としては木戸幸一(商工省)や岡部長景(外務省)、広幡忠隆(逓信省)らがいるが、立身出世主義の風潮が強い官界では、もともと恵まれた生活環境にある華族官僚への目は冷やかだったという。実際に3人とも、ある程度のキャリアを経て、宮内省へ転じている。 学問の道に進む華族も多かった。高等教育が約束されていた上、その後も学究を続けるだけの安定した経済的基盤に恵まれていたためで、独自に研究所を開く者も少なくなかった。徳川林政史研究所を開いた徳川義親(植物学)、「蜂須賀線」で知られる蜂須賀正氏(鳥類学)、D・H・ローレンスを研究した岩倉具栄(英文学)らが代表例である。大山柏は父・巌の遺命で陸軍に入ったが、その気風になじめず考古学者に転身した。 珍しい進路に進んだ例としては、演劇の土方与志(本名・久敬、伯爵)が挙げられる。土方はソ連での反体制的言動により、爵位剥奪となった。 革新華族 昭和に入ると、華族の中にも社会改造に興味を持ち、活溌な政治活動を行う華族が増加した。こうした華族は革新華族あるいは新進華族と呼ばれ、戦前昭和の政界における一潮流となった。近衛文麿・有馬頼寧・木戸幸一・原田熊雄・樺山愛輔・徳川義親などが知られる。 華族制度の廃止 昭和22年(1947年)5月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定(第14条)を定めた日本国憲法の施行により、華族制度は廃止された。 当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない。」(補則第97条)と、存命の華族一代の間はその栄爵を認める形になっていた。昭和天皇は旧堂上華族だけでも存置したい意向で、自ら男爵でもあった幣原喜重郎もこの条項に強いこだわりを見せたが[29]、衆議院で即時廃止に修正(芦田修正)して可決、貴族院も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。 小田部雄次の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は、1011家であった。廃止後、華族会館は霞会館(運営は、一般社団法人霞会館)と名称を変更しつつも存続し、現在も旧・華族の親睦の中心となっている。 注釈 参考文献 ・香川敬三『岩倉公実記』。皇后宮職、1906年。 『』。内務省、1911年。 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |naid= ignored (help) 浅見雅男『華族誕生-名誉と体面の明治』中公文庫、1999年 ISBN 4-12-203542-2 主な関連書籍 浅見雅男『華族たちの近代』NTT出版、1999年/中公文庫、2007年 ISBN 4-12-204835-4 小田部雄次『華族-近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社[中公新書]、2006年 ISBN 4-12-101836-2 小田部雄次『華族家の女性たち』小学館、2007年、ISBN 4-09-387710-6 千田稔『華族事件録 明治・大正・昭和』 新人物往来社、2002年 ISBN 4-404-02976-4 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年 ISBN 4-06-288001-6 保阪正康『華族たちの昭和史』毎日新聞社、2008年 ISBN 4-620-31918-X 『華族のすべてがわかる本 明治・大正・昭和』新人物往来社、2009年、ISBN 4-404-03728-7 「歴史読本」編集部 編『日本の華族』新人物往来社[新人物文庫]、2010年 ISBN 4-404-03922-0 『皇族・華族古写真帖』新人物往来社、2003年、ISBN 4-404-03150-5 酒井美意子『ある華族の昭和史-上流社会の明暗を見た女の記録』主婦と生活社、1982年 続編『元華族たちの戦後史 没落、流転、激動の半世紀』宙出版、1995年 写真集『酒井美意子 華族の肖像』清流出版、1995年 『大久保利謙歴史著作集3 華族制の創出』吉川弘文館、1993年 森岡清美『華族社会の「家」戦略』吉川弘文館、2001年 ISBN 4-642-03738-1、上記2冊は大著研究 華族史料研究会 編『華族令嬢たちの大正・昭和』吉川弘文館、2011年 ISBN 4-642-08054-6 歴史読本2013年10月号「特集 華族 近代日本を彩った名家の実像」歴史読本編集部 関連項目 皇室 皇族 士族 卒族 平民 爵位 新家 家令 貴族院 (日本) 王公族 朝鮮貴族 学習院 霞会館 鹿鳴館 家憲 斜陽 豊饒の海 日本の華族一覧 華族ゆかりの人物・団体
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E6%97%8F
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コンピュータのOSで初めて開発されたのはなに
コンピュータ
japanese
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コンピュータ()とは、電気を動力として計算処理を自動で行う計算機、即ち電子式汎用計算機のことである。電子計算機とも呼ばれる。数値計算に限らず、文書作成・動画編輯・遊戯など、情報処理・データ処理などと呼ばれるような幅広い行為に用いられる。現代ではプログラム内蔵方式のディジタルコンピュータの中でも、特にパーソナルコンピュータやメインフレーム、スーパーコンピュータなどを含めた汎用的なシステムを指すことが多い。 呼称 日本語においては、英語の「computer」を音写した「コンピュータ」や「コンピューター」が多く使われる[1]。 法用語では「」という表現が刑法や著作権法等で用いられている。また、手動の機械式計算機などと違う点を強調して「自動」の語が初期には入ることもあったが、近年はほぼ見なくなった。「電子計算組織」という語もあり、官公庁の公式文書である入札公告、条例などで21世紀に入った後の使用例も見られる[2][3]。「組織」の用法は大体「システム」といった意味のようである。 「電子計算機」を省略した、電算機</b>という略語もある。「電算業務」「電算処理」「電算室」などの語で、「コンピュータの」という意味合いで<b data-parsoid='{"dsr":[1964,1972,3,3]}'>電算</b>という語が用いられる。これについて、情報処理学会が日本における計算機の歴史について調査した際に、学会誌『情報処理』に掲載された富士通における歴史を述べた記事[4]によれば、電子計算機以前の頃、リレーによる計算機によりサービスを開始した同社が(「電子」じゃないけど、ということで)使い始めた言葉であろう、と書かれている。 他に、人工頭脳[5]や<b data-parsoid='{"dsr":[2295,2305,3,3]}'>電子頭脳、中国大陸・台湾・香港などでもよく使われる<b data-parsoid='{"dsr":[2326,2334,3,3]}'>電脳</b>という言葉がある。 語源 英語の 「computer」は算術演算(数値計算)を行う主体を指す語であるが、元々は主体として人間を指していた。この用法は(英語圏では非常に稀になりつつあるが)今でも有効である。オックスフォード英語辞典第2版では、この語が主体として機械をも指すようになった最初の年を1897年と記している。同辞典では、1946年までに、「computer」の前に修飾語を付けることで異なる方式の計算機を区別するようになった。たとえば「analogue computer」「digital computer」「electronic computer」といった表現である。様々な引用文から、1946年以前にこれらの語が既に使われていたことは明らかである。 ディジタルとアナログ (ディジタル)コンピュータは数値計算以外にもあらゆる情報処理を行えるものであるのに対し、アナログ計算機はそうではないので、以下、「コンピュータ」という表現と「計算機」という表現が混用されるが、意図的なものである。 ディジタル計算機とアナログ計算機という分類もあるが、アナログ計算機は現代ではほとんどマイナーな存在となったことから、単にコンピュータという表現でディジタルコンピュータを指すことが多い。 なお、「コンピュータ」という語を特に「電子」計算機を指す語として使う場合があり、その用語法では、アナログ計算機のうち特に電子式アナログ計算機を指すのが「アナログコンピュータ」ということになる。 また、対象が連続量ではなく、整数のような離散的であるものは(例えばエレクトロニクスを使っていなくても)「ディジタル」である。良い例としては、そろばんはディジタルであり、そろばんのことを指してアナログと言うのは誤りである。 アナログ計算機は、電気的現象・機械的現象・水圧現象を利用してある種の物理現象を表現し、問題を解くのに使われる計算機の一形態である[6]。アナログ計算機はある種の物理量を別の物理量で表し、それに数学的な関数を作用させる。入力の変化に対してほぼリアルタイムで出力が得られる特徴があり(これはいわゆる「高速型」の場合の話である。時間をかけてバランスが取れた状態を見つけ出すとか、移動量の合計を得るといったような「低速型のアナログ計算機」もある)、各種シミュレーションなどに利用されたが、演算内容を変更するためには回路を変更する必要があり、得られる精度にも限界があるので、ディジタルコンピュータの性能の向上とDA/ADコンバータの高精度化・高速化によって、コストパフォーマンス的にもそちらで代替したほうが有利となり、その役割を終えた。 なお、かつて電子式アナログコンピュータの重要な要素として多用されたものと同じ機能を持つ電子回路は、IC化された「オペアンプIC」として今日でも広く使われているが、モジュール化され簡単に使えるものになっているため、全くコンピュータとは認識されていない。 以上のようにアナログ計算機が「量」(物理量)によって計算を行うのに対して、ディジタルコンピュータは、数(digit)によって「計数的」に計算を行う。現代ではもっぱらエレクトロニクスを用いて、2値論理による論理演算と、二進法による数値表現を使っている(タイガー計算器のように歯車の離散的な角度により十進法を表現するものもディジタルな計算機であるし、機械として見ると2値論理方式の機械でも、数の扱いとしては3増し符号などにより十進法のものもある。数値の表現法である「x進法」と、論理のモデルである「x値論理」は、厳密には別のものであることに注意)。 概要 1940年代に最初の実用ディジタルコンピュータが登場して以来、コンピュータに使われる技術は、特に微細化という点では劇的に変化してきた。しかし現在のところ、基本的にはノイマン型の構成を受け継いでいる。 命令 コンピュータの命令は人間の言語に比べるとずっと貧弱である。コンピュータは限られた数の明確で単純な命令しか持っていないが、曖昧さは全くない。多くのコンピュータで使われている命令の典型的な例としては、「5番地のメモリの中身をコピーしてそのコピーを10番地に書け」とか「7番地の中身を13番地の中身に加算して結果を20番地に書け」とか「999番地の中身が0なら次の命令は30番地にある」といったものである。 コンピュータの内部では命令は二進コード、つまり2を底とする計数法で表現される。例えば、インテル系のマイクロプロセッサで使われるあるコピー命令のコードは10110000である。ある特定のコンピュータがサポートする特定の命令セットをそのコンピュータの機械語と呼ぶ。 実際には、人間がコンピュータへの命令を機械語で直接書くことは通常はなく、高水準のプログラミング言語を使う。プログラミング言語で書かれた命令が、インタプリタやコンパイラと呼ばれる特別なコンピュータプログラムによって自動的に機械語に翻訳されて実行される。プログラミング言語の中にはアセンブリ言語(低水準言語)のように、機械語に非常に近いレベルで対応付けられるものもある。逆に Prolog(プロログ)のような高水準言語は計算機の実際の演算の詳細とは完全に切り分けるという絶対原理に基づいている。 ハードウェア 記憶 記憶装置(メモリ)はアドレスを附与された領域の列で、各の領域には命令又はデータが格納される。 領域に格納された情報は書換可能か否か、揮発性(動力の供給を止めることで情報が失くなるという性質)を有つか否かは、記憶装置の実装方法に依存する。 記憶装置を実装する技術もまた時代と伴に大きく変化してきた。初期は電磁継電器(リレー)が、続いて水銀の入った管(水銀遅延線)や金属線を波(振動)が伝わる際の遅延時間を利用する部品が使われた。次にはフェライト製のトロイダルコア(磁気コアメモリ)や個別部品のトランジスタが使われた。そして、現在使われている方式の元祖と言える、集積回路による記憶装置は1960年代に開発され、1970年代にはコストパフォーマンスで凌駕し、それまでの主流だったコアメモリに替わり主流となった(インテルのDRAM、1103による(en:Intel 1103))。 また、補助的に用いられる、一般に大容量の補助記憶装置がある。例えば、SSDやHDDなどがそれである。 演算 演算装置は、加算・減算などの算術演算、AND・OR・NOTなどの論理演算、比較(2つの値が等しいかどうかなど)、ビットシフト等を行う装置である。 制御 制御装置は、記憶装置の中に在る、これから実行する命令が在る場所を視続け、実行する時に、実行に必要な情報を記憶装置から読み出し、実行した結果を記憶装置の中の正しい場所に収めるという仕事をする。一度これらの仕事を終えると、制御装置は次の命令が在る場所に目を移す(普通、次の命令は次の格納場所に在るが、ジャンプ命令が実行された場合はそうではない)。 入出力 入出力(I/Oとも言う)はコンピュータが外の世界から情報を得たり、計算結果を外に送り返したりすることを可能にするためのものである。外部から見て、コンピュータに情報を送ることを入力、逆にコンピュータから情報を得ることを出力という。 入出力には、入出力インタフェースを介して、入出力装置(I/O装置)が接続される。入出力装置としては例えば、キーボード、マウス、スキャナ、モニタやプリンター、磁気ディスク装置、光学ドライブ装置、ネットワークインタフェースなどといった馴染み深いものから、3次元ディスプレイやデータグローブといったものまで、幅広いものが存在する。 入出力装置は、主として入力を得るためのもの(キーボード、スキャナなど)、出力するためのもの(モニタ、プリンターなど)、入力と出力を兼ね備えたもの(磁気ディスク装置、インタフェースなど)に大別することができる。 アーキテクチャ ソフトウェア プログラム コンピュータプログラムはコンピュータに実行させる命令を記述した物を意味する。ワープロソフトやOSなどの基本的なプログラムは莫大な量の命令からなる。汎用的な処理を、プログラムごとに全て新たに書くのは効率が悪いため、例えば「画面に点を描く」「ファイルに保存する」「インターネットを通して他のコンピュータとデータを遣り取りする」の様な屡行われる仕事は、ライブラリとして纏められる。 今日では、ほとんどのコンピュータは同時にいくつものプログラムを実行するように見える。これは通常、マルチタスクと呼ばれている。実際には、CPUはあるプログラムの命令を実行した後、短い時間の後でもう一つのプログラムに切り替えてその命令を実行している。この短い時間の区切りをタイムスライスと呼ぶ。これによって、複数のプログラムがCPU時間を共有して同時に実行されるように見える。これは動画が実は静止画のフレームの短い連続で作られているのと似ている。このタイムシェアリングは通常、オペレーティングシステムというプログラムで制御されている。 オペレーティングシステム 具体的に処理すべき作業の有無によらず、コンピュータに自らの演算資源を管理し「ユーザーの指示を待つ」という動作を取らせるためにさえ、ある種のプログラムを必要とする。典型的なコンピュータでは、このプログラムはオペレーティングシステム (OS) と呼ばれている。オペレーティングシステムをはじめとする、コンピュータを動作させるのに必要となるソフトウェアを全般に「システムソフトウェア」と呼ぶ。 コンピュータを動作するためオペレーティングシステムは、ユーザー、もしくは他のプログラムからの要求に応じてプログラム(この意味では、アプリケーションソフトウェアもしくは単にアプリケーションという用語も使用される。ソフトウェアという用語も似た意味合いだが、これはプログラム一般を指すより広い概念である)をメモリー上にロードし、プログラムからの要求に応じていつ、どのリソース(メモリやI/O)をそのプログラムに割り当てるかを決定する。 オペレーティングシステムはハードウェアを抽象化した層を提供し、他のプログラムがハードウェアにアクセスできるようにする。例えばデバイスドライバと呼ばれるコードがその例である。これによってプログラマは、コンピュータに接続された全ての電子装置について、その奥深い詳細を知る必要なくそれらの機械を使うプログラムを書くことができる。また、ライブラリと呼ばれる再利用可能な多くのプログラム群を備え、プログラマは自ら全てのプログラムを書くことなく、自らのプログラムに様々な機能を組み込むことができる。 ハードウェアの抽象化層を持つ現在のオペレーティングシステムの多くは、何らかの標準化されたユーザインタフェースを兼ね備えている。かつてはキャラクタユーザインタフェースのみが提供されていたが、1970年代にアラン・ケイらが Dynabook(ダイナブック)構想を提唱し、「暫定 Dynabook」と呼ばれる Alto(アルト)と Smalltalk(スモールトーク)によるグラフィカルユーザインタフェース環境を実現した。なお、「暫定 Dynabook」は当時のゼロックスの首脳陣の判断により製品化されなかった(ゼロックスより発売されたグラフィカルユーザインタフェース搭載のシステム Xerox Star(ゼロックス・スター)は「暫定 Dynabook」とは別系統のプロジェクトに由来する)が、この影響を受け開発されたアップルコンピュータの LISA(リサ)や Macintosh(マッキントッシュ)、マイクロソフトの Windows(ウィンドウズ)の発売、普及により、グラフィカルユーザインタフェースが一般的にも普及することとなった。 世間に普及するコンピュータを台数を基準として見た場合、そのほとんどはデスクトップコンピュータとして存在しておらず、携帯電話や炊飯器などの電気製品、各種の測定機器、乗用車や工作機械などの装置に組み込まれた、非常に小さく安価なコンピュータとして実装されている。これらを組み込みシステムと呼ぶ。一般に組み込みOSと呼ばれる専用のOSを用いる。TRON(トロン)プロジェクトのITRON(アイトロン)、米ウィンドリバーのVxWorks(ヴイエックスワークスト)、米シンビアンのSymbian OS(シンビアン・オーエス)、米リナックスワークスのLynxOS(リンクスオーエス)などが利用されている。ただし、近年は開発期間の短縮などの目的で、Windows や Linux(リナックス)といったデスクトップコンピュータで使われているOSと同系統のOSを搭載する場合もある。また、小規模な組み込みシステムのなかには、明確なOSを内蔵していないものも多い。 歴史 紀元前2000年頃 古代バビロニアで手動式ディジタル計算器であるアバカスが(“そろばん”は中国起源説もある)発明される(古代ギリシアでは紀元前300年頃に伝わって来たとされており、日本では西暦1400年頃の室町時代に明から伝わって来たといわれる)。 紀元前2世紀 - アンティキティラ島の機械 紀元前150 - 100年に古代ギリシア人によって作られた、現在確認できるものでは世界最古の「一種の、アナログ計算機ではないか」と考えられているもの、である。 1620年 イギリスのエドモンド・ガンターが、手動式アナログ計算器である計算尺の原型となる対数尺を発明。 1623年頃、ドイツのヴィルヘルム・シッカートが、ネイピアの骨を応用した、乗算と加減算を行なえる、歯車式の計算機を作った。加減算に関しては繰り上がりが出来たが、乗算に関しては繰り上がりが出来なかった。 1642年 フランスのブレーズ・パスカルが歯車式計算機パスカリーヌを開発。約50台が作成された。 1670年代 ドイツのゴットフリート・ライプニッツがLeibniz wheelを発明。その後パスカリーヌより高機能な計算機を開発し、60年間に約1500台が販売された。 1698年 ライプニッツが二進法の数理を確立。 1725年 このころ織機の制御にパンチカードが使われ始める。 1801年 ジョゼフ・マリー・ジャカールがジャカード織機を発明。 1822年 解析機関の設計者チャールズ・バベッジが第1階差機関の実験モデルを作成。 1823年 バベッジによる階差機関の開発開始。 1833年 追加予算が打ち切られ、階差機関の開発が中止となる。 1843年 シュウツ親子により階差機関が完成。 1854年 ジョージ・ブールがブール代数を発見する。 1865年 万国電信連合(現・国際電気通信連合)設立。電気通信分野における初の標準化機関であり、国際機関。 1871年 バベッジが解析機関の実現を見ぬまま死去。解析機関のオペレータであるエイダ・ラブレスは世界最初のプログラマとされる。 1889年 ハーマン・ホレリスがパンチカード方式の自動集計機を実現。 1897年 フェルディナント・ブラウンが陰極線管(通称:ブラウン管)を発明。 1905年 ジョン・フレミングが二極真空管を発明。 1906年 国際電気標準会議(IEC)設立。電気電子関連技術を扱う国際的な標準化団体。 リー・ド・フォレストが三極真空管を発明。 1936年 アラン・チューリングが、論文 On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem を発表。同論文でチューリングマシンを提示。 1938年 ドイツのコンラート・ツーゼが、自宅で機械式の計算機V1(後にZ1と改名)を作成。 1939年 ツーゼがZ1をベースに演算部がリレー、記憶部が機械式のテスト用の計算機Z2を作成。 1940年 ツーゼがZ2をベースに全リレー式の計算機Z3を作成。Z3は(意図的にそのように設計されたものではないが)1998年に万能(チューリング完全)であると証明された[7][8][9][10] 1942年 ジョン・アタナソフとクリフォード・ベリーが真空管を使って演算処理をするディジタル計算機ABCを作成。 1943年 ローレンツSZ42暗号機によるドイツ軍の暗号を解読するため、イギリスでColossusが発明される。 1944年 ツーゼがZ4を作成。メモリ部分は機械式に戻る。 1945年 ジョン・フォン・ノイマンがプログラム内蔵方式を提唱。 1946年 ペンシルベニア大学で真空管を使って演算処理をするディジタル計算機ENIACが作成される。一般に広く知られた初のコンピュータ。 1947年 AT&Tベル研究所のウォルター・ブラッテン、ジョン・バーディーン、ウィリアム・ショックレーらがトランジスタを発明。 1948年 マンチェスター大学のフレデリック・C・ウィリアムスとトム・キルバーンが、初のプログラム内蔵式のコンピュータThe Babyを発明。 1949年 モーリス・ウィルクスとケンブリッジ大学の数学研究所のチームによるEDSAC稼働。 1951年 EDVAC稼働。 1951年 レミントンランドがUNIVAC Iを商品化。 プリンストン高等研究所(IAS)が開発したIASマシンの稼働が始まる。 1952年 米IBMが商用のプログラム内蔵式コンピュータIBM 701を発売。 ETL Mark I(リレー式)を通産省工業技術院電気試験所(現:産業技術総合研究所)が完成。 1953年 MITにてWhirlwindが実用化された。量産機AN/FSQ-7が1958年からSAGEに使われ、後のIBMのコンピュータ技術の基礎となった。 1956年 FORTRANが誕生(最初のFORTRANマニュアルのリリース)。 「FUJIC」(富士フイルム)稼働。 アメリカ合衆国ブルックヘブン国立研究所のウィリアム・ヒギンボーサムが、アナログコンピュータ(オペアンプ)とオシロスコープを用いた『Tennis for Two』を開発。 米IBMによる磁気ディスク(ハードディスクドライブ)「IBM 350」の初出荷。5Mキャラクタ。 1957年 パラメトロンを利用したMUSASINO-1完成(日本電信電話公社電気通信研究所)。 1958年 米テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーが集積回路(IC)を発明。 フランク・ローゼンブラット、パーセプトロンの論文を発表する。 1959年 日本国有鉄道が日本初のオンラインシステムであるマルス1を導入。 1960年 米ディジタル・イクイップメントが、世界初のミニコンピュータPDP-1を発売。 1961年 IBM、IBM 7030を発売。 1962年 「スペースウォー!」完成。 1963年 アメリカ電気学会(AIEE)と無線学会(IRE)が合併し、IEEE設立。 アイバン・サザランドがSketchpadを開発。CADプログラムの先駆け。 1964年 IBMがメインフレームのSystem/360を発売。商用初のオペレーティングシステムが生まれる。 コントロール・データ・コーポレーション、CDC 6600を製造開始。1969年まで世界最高速の地位にあり、世界で初めて成功したスーパーコンピュータとも言われる。 1965年 Multicsが開発される。後のUNIXはこのMultixの利点と欠点を踏まえて開発されたものである。 「Electronics」誌に発表された論文「Cramming more components onto integrated circuits」でムーアの法則が提唱される。 1966年 ACM、チューリング賞を創設。 1967年 IBMがフロッピーディスクを開発。 1968年 ダグラス・エンゲルバートが、マウスやウィンドウなどをデモンストレーション。 1969年 後にインターネットの母体となるARPANETが運用開始。UNIXオペレーティングシステムの開発が始まる。 エドガー・F・コッドがリレーショナルデータベースを提唱。 1970年 インテルが世界初のDRAM 1103を発売。 後にイーサネットの原型となるALOHAnetが運用開始。 1971年 インテルが世界最初のシングルチップの4ビットマイクロプロセッサ、i4004をビジコンと共同開発。10月に発売されたビジコンの電卓141-PFに搭載される。 1972年 4月、インテルが8ビットのマイクロプロセッサi8008を発表。 アタリ、業務用ゲーム機「PONG」を発売。 マグナボックス、世界初の家庭用ゲーム機「ODYSSEY」を発売。 アラン・ケイがオブジェクト指向の概念を提唱。 1973年 米ゼロックスのパロアルト研究所において、チャック・サッカーが Altoを製作。アラン・ケイらはこれを用い、オブジェクト指向に基づく汎用のGUIデスクトップ環境である暫定Dynabook環境を構築。 ケン・トンプソンとデニス・リッチーがパデュー大学で行なわれたthe Symposium on Operating Systems PrinciplesでUNIXに関する最初の論文を発表。 1974年 4月、インテルが8ビットのマイクロプロセッサi8080を発表。 ゲイリー・キルドールが8ビットCPU(8080)用のディスクオペレーティングシステム、CP/Mを開発。 1975年 4月、ビル・ゲイツがマイクロソフトを設立。 クレイ・リサーチ社、Cray-1を発表。スーパーコンピュータの代名詞となる。 米MITS社が、世界初の一般消費者向けマイクロコンピュータAltair 8800を発売。主に組み立てキットとして販売された。 ジョン・コックの統括のもとで、RISCの概念に基づくマイクロプロセッサIBM 801の開発が行われる。 1976年 NEC、TK-80を発売。6万台を売り上げ、初期のマイコンとしては異例の大ヒットとなる。 1977年 ビル・ジョイが開発した1BSDが初めて配布される。 アップルコンピュータ、パーソナルコンピュータApple IIを発売。 1978年 米国シカゴで最初の電子掲示板「CBBS」が開設される。 1979年 NECがPC-8001を発売。 ビジコープ、VisiCalcを発売。世界初の表計算ソフトであり、Apple IIのキラーアプリケーションとなる。 オラクル、商用初の関係データベース製品である Oracle 2をリリース。 1980年 CERNの研究員ティム・バーナーズ=リーが、World Wide Webの元となるEnquireを開発。 シャープがポケットコンピュータPC-1210を発売。ポケットサイズでBASICが動作する初のデバイス。 1981年 IBMがPC DOSを搭載したパーソナルコンピュータIBM PCを発売。以後、マイクロソフト社から各社にMS-DOSがOEM供給される。 ゼロックス、Xerox Starを発売。GUIを装備した初の商用ワークステーションであった。 1982年 米サン・マイクロシステムズがTCP/IPを採用したワークステーションを発売。 世界初の(狭義の)コンピュータウイルスElk Clonerが出現。 NECがPC-9801を発売。 エプソンが初期のハンドヘルドコンピュータであるHC-20を発売。 1983年 リチャード・ストールマンがGNUプロジェクトを開始。 1984年 アップルコンピュータがMacintoshを発売。 IBMがPC/ATを発売。ATバスなどの技術がPC/AT互換機の基礎となる。 坂村健によってTRONが提唱される。 1985年 デイヴィッド・ドイッチュが量子コンピュータの原モデルである量子チューリングマシンを定義した。 アップルコンピュータがLaserWriterを発売。ページ記述言語としてPostScriptを採用したレーザープリンターで、ページレイアウトソフト「PageMaker」とともにDTPの時代を切り開く。 フィリップスが初のCD-ROMドライブであるCM100を発表。 マイクロソフトが最初のWindows製品であるWindows1.0を発売。 1986年 SQLの最初の規約が批准される。 IETF設立。インターネット標準の策定団体。 日本でΣプロジェクトが開始される。 1987年 ISO/IEC JTC 1設立。国際標準化機構 (ISO) と国際電気標準会議 (IEC) の標準化作業をすり合わせるための組織。 3月、シャープがX68000を発売。 IBM PS/2発売。バスMCAは普及しなかったが、VGA、PS/2コネクタなどはPC/AT互換機の標準となる。 1988年 ネクスト・コンピュータがNeXTcubeを発売。搭載されたNEXTSTEPは後にMac OS Xの基盤となった。 PC-VANにおいて、コンピュータウイルスの被害が日本で初めて報告された。 1989年 東芝がノートパソコンDynaBookを発売(IBM PC/XT互換)。 1990年 マイクロソフトがWindows 3.0 を発売。初の成功したWindows製品となった。 1991年 リーナス・トーバルズがスクラッチビルドによるUNIXライクなOSカーネルLinuxを発表。 ティム・バーナーズ=リーがWorld Wide Webプロジェクトを発表する。 フィル・ジマーマンが公開鍵暗号PGPを開発し公開した。 1992年 シリコングラフィックス、OpenGLを公開する。 1993年 Unicodeと概ね互換のISO/IEC 10646が国際標準化される。 NetBSD・FreeBSDの発表。 CERN、World Wide Webを無料で公開。同年にウェブブラウザ・NCSA Mosaicがリリースされ、World Wide Webの普及が始まる。 1994年 ティム・バーナーズ=リー、W3Cを設立。World Wide Web関連のプロトコルを策定する標準化団体。 マイクロソフトがWindows NTを発売。 1995年 マイクロソフトがWindows 95を発売。 1996年 サン・マイクロシステムズにより、Javaの開発環境が公式にリリースされる。 ECMAScriptが策定されJavaScriptが標準化される。 The Open Groupが創設され、UNIX戦争が終結した。 USロボティクス、Palm Pilotを発売。最も成功した携帯情報端末となる。 1997年 チェス専用スーパーコンピュータ・ディープ・ブルーがチェス世界チャンピオンガルリ・カスパロフに勝利した。 第一次ブラウザ戦争が勃発。 2000年 2000年問題。大きなトラブルはなかった。 ソニー・コンピュータエンタテインメント、PlayStation 2を発売。DVDの普及が本格的に始まる。 2001年 インターネット・バブルが崩壊。 4月、アップルコンピュータがMac OS Xを発売。10月にはiPodを発表。 2003年 中国で人工知能を応用したインターネット検閲システム金盾の稼働が始まる。 2004年 Mozilla Firefox 1.0 がリリース。この頃から第二次ブラウザ戦争が勃発する。 2006年 ソニー・コンピュータエンタテインメントがBlu-ray Discドライブを搭載したPLAYSTATION 3を発売。 2007年 アップルがiPhoneを発売。Mac OS X派生のモバイルオペレーティングシステム、iPhone OS(現iOS)を搭載し、以降スマートフォンの普及が急激に進んだ。 2008年 グーグルがLinuxベースのモバイルオペレーティングシステムAndroidをリリース。 2009年 IBM、意思決定支援システムワトソンを公開する。 2011年 アジア太平洋地域インターネットレジストリのIPv4アドレスが枯渇した。 D-Wave Systemsは世界初の商用量子コンピュータシステム、D-Wave Oneを発表した。 世界のパソコン出荷台数がピークの3億5280万台に達する。 2012年 グーグル、スタンフォード大学との共同研究である(Google brain)を構築し、ディープラーニングの有用性が認められる。 2014年 アマゾン、AIアシスタントAmazon Alexaを発表、スマートスピーカーの Amazon Echoに搭載される。 2016年 Google DeepMindが開発したAlphaGoが世界最強の棋士と目される李世乭に勝利した。 種類 スーパーコンピュータ(スパコン、HPCサーバ) メインフレーム(汎用コンピュータ、汎用機) ミニコンピュータ(ミニコン) オフィスコンピュータ(オフコン) ワークステーション (WS) コンピュータ・クラスター マイクロコンピュータ(マイコン) マイクロコントローラ(組み込みシステム用コンピュータ) 汎用サーバ エンタープライズサーバ PCサーバ パーソナルコンピュータ(パソコン、PC) デスクトップパソコン ノートパソコン シンクライアント ワードプロセッサ ゲーム機 携帯機器 PDA(個人情報端末、ハンドヘルドコンピュータ) ポケットコンピュータ スマートフォン 携帯電話機(フィーチャーフォン) 携帯型ゲーム機 タブレット 研究段階のコンピュータ 光コンピュータ - 半導体の電子回路の代わりに光集積回路を使用する。 量子コンピュータ 分子コンピュータ DNAコンピュータ ニューロコンピュータ 生体コンピュータ 脚注 関連項目 総合索引に関する項目 コンピュータ用語一覧、コンピュータ略語一覧 プログラミング用語一覧、プログラミング用語 (分野別) ソフトウェアに関する項目 ファームウェア、プログラミング (コンピュータ) オペレーティングシステム ハードウェアに関する項目 情報機器 計算機の歴史 コンピュータ・アーキテクチャに関する項目 ノイマン型 - 21世紀初頭におけるコンピュータのほとんどがこの方式である。 研究に関する項目 計算機科学 情報工学 計算機工学 人工知能(AI) 社会・諸問題に関する項目 コンピュータと社会 コンピュータ・リテラシー、情報格差 コンピュータシステム、情報システム ネットワークに関する項目 コンピュータネットワーク オンライン データ通信 LAN インターネット、World Wide Web 外部リンク (情報処理学会) English: (Information Processing Society of Japan) 、統計数理研究所 - 石川新情報書府
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弁理士の資格はいつから導入された?
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日本における<b data-parsoid='{"dsr":[259,268,3,3]}'>弁理士(辨理士、辧理士、べんりし)は、弁理士法で規定された知的財産権に関する業務を行うための国家資格者であり、弁護士・司法書士・税理士・行政書士・社会保険労務士・土地家屋調査士・海事代理士と共に職務上請求権が認められている8士業</b>の一つである。 概要 弁理士は、優れた技術的思想の創作(発明)、斬新なデザイン(意匠)、商品やサービスのマーク(商標)に化体された業務上の信用等を特許権、意匠権、商標権等の形で権利化をするための特許庁への出願手続代理や、それらの権利を取消又は無効とするための審判請求手続・異議申立て手続の代理業務を行うものである。また、弁理士は、近年の知的財産権に関するニーズの多様化に伴い、ライセンス契約の交渉、仲裁手続の代理、外国出願関連業務等を含む知的財産分野全般に渡るサービスを提供するなどの幅広い活躍が期待されている[1]。 弁理士の歴史 弁理士制度は、1899年(明治32年)に施行された「特許代理業者登録規則」から始まる、歴史のある国家資格である。1909年(明治42年)には、特許局への手続などは「特許弁理士」でなければ行えない旨が規定されていた。その後、1921年(大正10年)に弁理士法が公布され、「特許弁理士」から現在の「弁理士」という呼び方となった[2]。 弁理士の就業形態 弁理士登録者13,505人中、特許事務所勤務は3,274人、特許事務所経営は3,258人、企業は2,736人、特許業務法人勤務は1,916人、特許業務法人経営は887人等となっている(2017年11月現在)[3]。 弁理士の業務の概要 弁理士の主な業務は、以下の通りである[2]。 特許・意匠・商標などの出願に関する特許庁への手続についての代理 知的財産権に関する仲裁事件の手続についての代理 特許や著作物に関する権利、技術上の秘密の売買契約、ライセンスなどの契約交渉や契約締結の代理 特許法等に規定する訴訟に関する訴訟代理 弁理士は、主に特許事務所、特許法律事務所、法律事務所又は企業で業務を行っている。 特許事務所 特許事務所は、弁理士が業として特許、実用新案、意匠、商標など特許庁における手続あるいは経済産業大臣に対する手続を行うための業務を処理するために開設する事務所である。 特許事務所の規模は、大きく分けて、1人の弁理士と数人の所員で構成される個人事務所、数人の弁理士と数人~十数人の所員で構成される中堅事務所、数十人の弁理士と数十人~100人以上の所員を抱える大手事務所に大別されるが、同じような職制を取っている。 所長弁理士 特許事務所のトップ。個人事務所ではその弁理士、中堅・大手事務所では事務所を創設した弁理士等となる。内部的には複数の弁理士が対等の立場で経営に当たる共同経営事務所でも、対外的には所長は1人である。また、共同経営者が持ち回りで所長となる場合もある。企業の「代表取締役社長」に相当する。 パートナー 特許事務所の共同経営者。中堅・大手事務所において複数名の弁理士が経営に当たる場合に置かれることがある。特許事務所によって異なるが、出願明細書の代理人欄に名前が記載される弁理士は、代表パートナーとしての所長と他のパートナー弁理士であり、出願明細書作成などの実務作業にはあたらない場合が多い。企業の「代表取締役(社長、会長、副社長等)」に相当する。 担当弁理士(勤務弁理士) 所長弁理士あるいはパートナー弁理士の指揮監督下において、出願明細書作成などの実務作業にあたる。弁理士資格の無い所員を束ねて仕事にあたる管理職的な役割を持たせている特許事務所もある。このクラスの弁理士は、出願明細書の代理人欄に名前を記載しないところが多いが、逆に責任感を持たせるために所長弁理士とパートナーに加えて名前を入れるところもある。 所員 弁理士資格を持たない事務員で、実務担当者と事務担当者に大別される。大手・中堅の事務所では、さらに、調査担当者、翻訳者、図面トレーサー、情報システム管理者などが置かれる場合も多い。実務担当者には、特許出願用の明細書の作成補助にあたる補助者や、意匠・商標の出願業務の補助者がいる。実務担当者の中には、将来の弁理士を目指して特許事務所に入り、実務を習得しながら試験対策指導を受ける者もいる。一方、事務担当者は、国内外の出願業務に関する特許庁手続き、顧客や外国代理人とのコレスポンデンス(Correspondence)、各種の期限管理、経理、人事、総務、秘書などの業務を担当する。 特許事務所の待遇 ほとんどの事務所は実績主義あるいは出来高主義により、弁理士や実務担当者の給与(年俸)を決めている。能力・経歴によっては弁理士資格の有無に関わらず数年で1000万円以上を稼ぐ者も少なくない。但し、他の士業と同様、大手特許事務所では所長弁理士とパートナーの待遇は比較的良いが、担当弁理士の待遇は必ずしも良いとは限らず独立開業を目指す者も少なくない。事務所内の職制に応じて歩合の比率を上げていくところもある(実務担当者は25%、勤務弁理士は35%、管理職は40%など)。なお、パートナーは、担当部門の実績に応じて報酬が決められることが多い。一方、日常的に手続依頼をしている大手企業では、事務所単位のみならず、所長、パートナー、勤務弁理士あるいは所員の区別なく、外注業者として「実績評価」を行っている企業も少なくなく、実績があり信頼を置く弁理士が独立あるいは他の事務所に移った場合にはその事務所への委任案件を引き上げる企業もある。そのため、有能な弁理士をどれだけ確保できるかが経営上の重要課題のひとつでもある。 企業内弁理士 インハウスローヤーのように、企業内知財部等で活躍する弁理士のことである。企業・部署・ポジションにより業務内容が大幅に異なる。例えば、有資格者として、法改正時の法制度普及促進を担ったり、審決取消訴訟時の社内代理人、付記をしていれば侵害訴訟時に代理人として手続きを行う場合がある。また、近年の民事訴訟法改正や、米国での判例に基づき、守秘特権(すなわち社内弁理士が法的にアドバイスした書類等の裁判所への証拠提出の免除)の活用の可能性について模索している会社もあるようである。また、企業においてその企業の出願等の知財業務を行う場合は弁理士資格は必要ではないので、弁理士の資格を持っていても、無資格の知財部員と業務内容は殆ど同じ会社もある。 知財部員数に比して出願件数・その他の仕事が膨大なケースが多く、自社内で明細書等出願書類を全て内製できる企業は殆どない。よって、社内弁理士による社内出願に加えて、特許事務所を外注として活用することが多い。近年は弁護士の場合と同様に社内弁理士は増加傾向にある。一部の会社では、弁理士数の増加の時期と同じくして、自社の知財部員が試験に合格しても弁理士登録料や弁理士会費など各種手数料を負担しない会社もある。 企業内弁理士の主業務 なお、以下には弁理士資格を持たない知財部員と同等の業務が含まれる。 自社内の有望な技術を発掘し、権利化する(主業務)。 一部の大企業を除き出願書類の作成は外部の特許事務所に依頼しており、その内容チェックも主業務である。 開発部門が積極的に特許出願を希望する場合や、知財部員が積極的に開発部門に赴いて技術を発掘する場合など社風によっても様々である。 自社出願の中間処理方針を指示する。 自社製品に搭載されている技術などを勘案しながら、事務所に権利化方針を伝える。 自社製品が他社特許等を利用していないか調査し、必要な場合は外部事務所に第三者的な意見~鑑定を依頼する(クリアランス)。 重要案件について審判を行う(大企業では、企業内弁理士自らが代理人となる場合も少なくない)。 他社とライセンス交渉を行う(大企業では、ライセンス専門の部署を置いている場合も少なくない)。 特許・実用新案、意匠、商標権に関する訴訟をサポートする。 企業内弁理士の待遇 基本的には資格を持たない知財部門社員に準じている場合が多いが、その企業の知財への取り組み方針の違いによって企業間ではかなり差がある。また、知財部門社員との間で待遇格差がなかったとしても、弁理士は知財業界において権威ある国家資格(名称及び専権業務独占資格)として広く認識されているため、弁理士資格取得を機により待遇の良い企業、特許事務所等に転職する機会が得られるといった間接的な形での「資格取得による収入面での」メリットもあげられる。 中小企業によっては資格手当が支給される場合がある。 大企業では、給与面での優遇は乏しいものの昇進面で加味する企業は多い。その理由として、単純に弁理士資格により法律面の知識・能力が客観的に担保できていると判断される点のみならず、海外や業界団体への出席が認められたり、社外弁理士との横のつながりの点において社外・世界的な知財情勢についての幅広い知識と人脈が得られ、幅広い視点をもって仕事ができる点等が評価されるためである。また、第二の理由としては、昇進において仕事上での資格の利用価値に重みをおいているか、あるいは資格を取得したことの努力・能力を評価する場合があるためである(昇進面で学歴等を加味することと類似している)。但し、弁理士会の会費が高いこと(会費月1.5万円)・近年合格者が増えていることから、試験に合格したからといって、職場から全員分の弁理士会費が支払われないケースも近年見受けられる。例えば、キヤノンでは弁理士試験の合格者が35、36人ほどいるが、弁理士登録をしているものは半分程度である[4]。 弁理士の業務 専権業務 弁理士は、他人の求めに応じ報酬を得て、特許、実用新案、意匠若しくは商標若しくは国際出願若しくは国際登録出願に関する特許庁における手続若しくは特許、実用新案、意匠若しくは商標に関する異議申立て若しくは裁定に関する経済産業大臣に対する手続についての代理又はこれらの手続に係る事項に関する鑑定若しくは政令で定める書類若しくは電磁的記録の作成を業とすることができる(弁理士法(以下「法」という。)4条1項)。 上記業務は弁理士以外の者は業として行うことはできないため(法75条)、弁理士業務とよばれている(法79条3号)。この規定に違反して、弁理士又は特許業務法人でない者が、他人の求めに応じ報酬を得て、特許庁における手続の代理行為等を業として行った場合(いわゆる「非弁行為」)には、刑事罰の対象となり一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処される。ただし、本人・権利者が自分自身において特許庁において手続することはさまたげない。この点が医師等の業務独占と大きくことなる。 その他の業務 弁理士は、上記の専権業務のほかに、以下の業務を行うことができる。 侵害品輸入時における、輸入差止手続き時の代理業務(法4条2項1号)。 特許、実用新案、意匠、商標、回路配置又は特定不正競争に関する仲裁事件の手続についての代理(法4条2項2号)。 特許、実用新案、意匠、商標、回路配置若しくは著作物に関する権利若しくは技術上の秘密の売買契約、通常実施権の許諾に関する契約その他の契約の締結の代理若しくは媒介を行い、又はこれらに関する相談に応ずることを業とすることができる(法4条3項1号)。 特許、実用新案、意匠若しくは商標、国際出願若しくは国際登録出願、回路配置又は特定不正競争に関する訴訟について、補佐人として陳述又は尋問をすることができる(法5条)。 特許、実用新案、意匠若しくは商標に係る審決又は決定の取消に関する訴訟について、訴訟代理人となることができる(法6条)。 特許、実用新案、意匠、商標、回路配置に関する権利の侵害又は特定不正競争による営業上の利益の侵害に関する訴訟について、訴訟代理人となることができる(法6条の2・但し、一定の研修修了と認定試験(特定侵害訴訟代理業務試験)の合格、そして弁護士との共同受任が条件)。 上記業務は、弁護士法72条の例外として弁理士が行うことのできる業務であり、弁護士又は弁理士以外の者は業として行うことはできない(弁護士法72条)。違反した場合は刑事罰の対象となる(弁護士法77条)。 なお、弁理士の扱う知的財産関連業務への一貫した関与を求めるユーザーの声や、司法制度改革や規制緩和による弁護士独占業務の隣接職種への開放の流れを受けて弁理士の業務範囲は年々拡大しており、関税法、著作権法(契約締結代理・関税法関連業務)、種苗法(関税法関連業務)、不正競争防止法に関する事務等も弁理士の業務に含まれるようになっている。また、平成12年の弁理士法改正(2001年(平成13年)1月6日施行)によって、知的財産権に関する契約締結交渉の代理業務は契約書の作成代理を含め(行政書士法1条の3の解釈から)弁理士にも可能となり、同時に特許料・登録料の納付手続、住所・氏名等の変更手続など、権利確定後の手続きについては行政書士との共管業務となった。 特定侵害訴訟代理業務 弁理士は、日本弁理士会において特定侵害訴訟代理業務試験に合格した旨の付記を受けることにより、特定侵害訴訟の代理人になることができる。付記を受けている弁理士は4,122人である(2017年11月現在)[3]。 特定侵害訴訟代理業務試験は、特定侵害訴訟に関する訴訟代理人となるのに必要な学識及び実務能力に関する研修を修了した弁理士を対象に、当該学識及び実務能力を有するかどうかを判定するために実施するものである。本試験に合格後、日本弁理士会において本試験に合格した旨の付記を受けた弁理士は、弁護士が同一の依頼者から受任している事件に限り、その事件の訴訟代理人となることができる(弁護士との共同受任であるほか、弁理士の出廷についても、共同受任している弁護士との共同出廷が原則)。 ここで、特定侵害訴訟とは、特許、実用新案、意匠、商標若しくは回路配置に関する権利の侵害又は特定不正競争による営業上の利益の侵害に係る訴訟をいう。研修は、民法、民事訴訟法の基本的知識を修得した弁理士を対象に、特定侵害訴訟に関する実務的な内容を中心とした合計45時間の講義及び演習により日本弁理士会が行っている[5]。 国際業務 日本では1899年(明治32年)に不平等条約改正とともに工業所有権の保護に関するパリ条約に加盟し、同年、日本初の特許申請代理人が誕生した[6]。知的財産の保護を各国独自で行うことの問題点〜知的財産権は世界的に権利化する必要性があることについては100年以上前から認識されており、弁理士資格は日本において知的財産業務を業とする唯一の国家資格として誕生時点においてすでに国際的な業務を担うことを期待されていた。現在での日本から外国への特許出願件数は、2004年ベースで125,000件前後[7]となっており、全出願件数の約1/4は海外へ出願されていることになる。日本企業の一層の国際展開とともに、日本法のみではなく米国法、ヨーロッパ法に関しての最低限の知識、あわせて英語能力をより要求されつつある。 現状、日本の出願人が外国の有資格者を介して外国特許庁へ出願する際の当該出願に係る書類の翻訳文及びドラフトの作成業務や外国有資格者への媒介(以下「外国出願関連業務」という)については、誰でも行うことが可能な業務である。この点に関して、外国出願関連業務を弁理士としての義務と責任をもって遂行する、いわゆる標榜業務とすることが、改正弁理士法に盛り込まれている。 弁理士業務の課題 特許権者の訴訟費用低減の観点から単独侵害訴訟代理の解除などへの議論[8]が続けられているが、現在のところ、法曹界の慎重意見により弁理士単独の訴訟代理は認められるには至っていない[9]。 弁理士は特許出願代理を主に行っているものの、ライセンス交渉、技術経営的な知識を持っている者は乏しく、経営的なセンスを有している弁理士の育成が急務の課題と考えられている。そのためこれからは、知財戦略などのコンサルティング事業といった付加価値の高いサービスを知財部を持つ事が出来ないベンチャー、中小企業などに提供していくことが弁理士には期待されている。 弁理士資格 弁理士となる資格を有するのは、 弁理士試験に合格した者 弁護士となる資格を有する者 特許庁の審査官または審判官として通算7年以上審査または審判の事務に従事した者 である(法7条各号)。 ただし、弁理士となる資格を有する者が弁理士となるには、日本弁理士会に弁理士登録する必要がある(法17条)。 2008年(平成20年)10月1日に施行された改正弁理士法により、経済産業大臣または大臣から指定を受けた機関(指定修習機関)が実施する登録前義務研修(実務修習)を修了することが、弁理士登録をするための条件となった(実務修習を修了しないと、弁理士登録はできない)。日本弁理士会は、現在唯一の指定修習機関として経済産業大臣から指定を受けている[10]。既登録弁理士に対しては義務研修(継続研修)の受講が義務付けられている。 弁理士試験 試験内容 弁理士試験は、弁理士になろうとする者が弁理士として必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とした試験である。弁理士試験に合格し、実務修習を修了された者は、「弁理士となる資格」が得られる。 弁理士試験は、筆記試験と口述試験により行い、筆記試験に合格した者でなければ口述試験を受験することはできない。また、筆記試験は短答式と論文式により行い、短答式に合格した者でなければ論文式を受験することはできない[11]。 短答式筆記試験 以下の試験科目について、短答式(択一式)で行われる[11]。 特許法・実用新案法 意匠法 商標法 工業所有権に関する条約(パリ条約、特許協力条約など) 著作権法・不正競争防止法 毎年5月中旬から下旬に、仙台市、東京都、名古屋市、大阪市、福岡市で行われる。 合格基準:65%の得点を基準として、論文式筆記試験を適正に行う視点から工業所有権審議会が相当と認めた得点以上であること。ただし、科目別合格基準(各科目の満点の40%を原則とする)を下回る科目がひとつもないこと。 論文式筆記試験 短答式筆記試験に合格した者のみが受験する。前年またはその前の年の短答式筆記試験に合格し論文式筆記試験に不合格となった者も受験できる。論文式で行われ、必須科目である工業所有権に関する法令(特許法、実用新案法、意匠法、商標法)と、以下の選択科目が出題される。選択科目については、科目及び選択問題を願書提出時に選択する必要があり、その後は変更することができない[11]。 理系あるいは法学の修士号を有する者や一定の資格(技術士、一級建築士、情報処理技術者試験のうち一部の試験区分の合格者、薬剤師、司法書士登録者、行政書士登録者など)を有する者は選択科目が免除される。工業所有権に関する法令の試験と選択科目の試験は必須科目の3週間後に行われるようになった。毎年7月頃に東京都と大阪市で行われる。 合格基準:必須科目については、得点の合計が、満点に対して54%の得点を基準として工業所有権審議会が相当と認めた得点以上であること。ただし、47%未満の得点の科目が1つもないこと。必須科目の得点については、標準偏差によって採点格差が調整される。選択科目については、素点が満点の60%以上であること[12]。 口述試験 論文式筆記試験に合格した者が受験する。前年またはその前の年の論文式筆記試験に合格し口述試験に不合格となった者も受験できる(ただし、短答式筆記試験の免除が受けられない場合を除く)。口述式で行われ、工業所有権に関する法令が出題される。毎年10月に東京都で行われている[11]。口述試験の不合格者は平成16年度以前は約十数人と少なかったが、以降増加し、平成24年度には300人超が不合格となる試験となった。その後、平成27年度からは20人程度に戻っている。 合格基準:採点基準をA、B、Cのゾーン方式とし、合格基準はC評価の科目が2科目以上ないこととする。 弁理士試験制度改正 弁理士法施行規則の一部を改正する省令が2014年(平成26年)12月26日に公布され、2016年(平成28年)1月1日に施行された。この法改正により、平成28年度弁理士試験から短答式筆記試験への科目別合格基準の導入及び、論文式筆記試験(選択科目)における選択問題の集約が行われた。試験制度改正の概要は以下の通りである[13]。 短答式筆記試験における改正点 これまでの工業所有権に関する法令の科目を、特許・実用新案に関する法令、意匠に関する法令及び商標に関する法令の3つに分けて実施される。現行では、総合点のみで合否の判定を行っていたが、試験科目別に合格基準(40%程度を想定)を導入する。 論文式筆記試験(選択科目)における改正点 論文式筆記試験(選択科目)の選択問題を各科目の基礎的な分野に集約する。 難易度 合格率の推移は以下の通りである[14]。 平成26年度以降の合格率は6.5% - 7.0%であり、10%を上回っていた平成24年度及び平成25年度に比べて、かなり低下している。平成26年度の合格者数は平成13年度以来の400人割れとなった。 なお、最近の弁理士試験の特徴として、口述試験の難化が挙げられる。以前の口述試験の合格率は95%以上であり、不合格者がほとんど出ない試験であったが、平成21年度以降の急激な受験者数の増加に合わせて合格率が低下し70%台に難化した。特に、平成24年度では口述試験不合格者は300人を超え、合格率は70%を大きく割り込んだ(平成25年度は81.7%で前年より容易化したが、平成26年度は74.6%で再び難化した)。弁理士試験制度については、後述の課題が指摘されている。 合格者の平均年齢は概ね、30歳~39歳の間で推移している。平成26年度の合格者の女性比率は23.1%であり、前年度より3.5ポイント上昇し、過去最高となった。 受験者層は、理工系出身者が全体の80%を占め、さらに最終学歴が修士号又は博士号である者は40%前後を占める点から、受験者のうち理工系の高等教育を受けた者の割合が著しく高い点が特徴である。 最終合格者の出身校では東京大学、京都大学等の国立大学の出身者が多いという、司法試験とも異質な法律系資格である。各年度弁理士試験の合格者数の多い上位出身大学は以下の通りである(括弧内は合格者数)[14]。 2018年度(平成30年度)弁理士試験の全合格者の出身校を見てみると、合格者が多い順に、東京大学(36名)、京都大学(29名)、大阪大学(16名)、慶應義塾大学(11名)、北海道大学(11名)、 東京工業大学(10名)、早稲田大学(9名) 、東京理科大学(6名)、東北大学(6名)、筑波大学(6名)、横浜国立大学(6名)、明治大学(5名)、神戸大学(5名)、名古屋工業大学(5名)、名古屋大学(4名)、東京農工大学(4名)、同志社大学(4名)、千葉大学(4名)、電気通信大学(4名) 、中央大学(3名)、広島大学(3名)、静岡大学(3名)、上智大学(3名)、九州大学(2名) 青山学院大学(2名) 大阪工業大学(2名) お茶水女子大学(2名) 神戸市立外国語大学(2名) 、近畿大学(2名) 埼玉大学(2名) 信州大学(2名) 新潟大学(2名)、法政大学(2名)、北陸先端技術大学(2名) 、立命館大学(1名)、岐阜大学(1名)、岡山大学(1名)、金沢大学(1名) となっており(括弧内は合格者数)、有名大学出身者が多く、その反面、最終学歴が高卒の合格者はいない。 試験制度の課題 若い人材の参入 2014年(平成26年)に公表された産業構造審議会知的財産分科会による「弁理士制度の見直しの方向性について」では、学生や20歳代の若い人材の参入は進んでおらず、司法試験、公認会計士試験と比較しても、弁理士試験については、合格者平均年齢が40歳前後と高く、学生の割合が低い状況にある旨が指摘されている[16]。 更に、受験生や合格者の平均年齢が増加していることに加え、弁理士制度小委員会では、若い人は合格しても弁理士登録をしない旨の懸念が指摘されている。この原因について、弁理士会からは、弁理士制度がやや変質してきて魅力が薄れており、かつては難しい試験、しかし資格を取れば十分な、十二分な職がはぐくまれるというような意識があったが、今では競争原理を働かせた結果、必ずしもそのような状況になっていない旨の指摘が出されている。また、同委員会に出席したキヤノン所属の委員代理からは、同社の試験合格者のうち、弁理士登録をしているのはそのうちの約半分ぐらいである旨の指摘がされている。この理由として、弁理士業務をしっかりできる者をその業務に充てており、弁理士の会費を全員分を負担するのは、登録料が高いこともありできない旨が指摘されている[4]。 試験内容の課題 弁理士試験制度について、以下の点に課題があると指摘されている[17]。 短答式筆記試験を科目別に見ると、科目別の得点に偏りがある短答式試験合格者が存在している。 工業所有権に関する条約は多いのに対し、出題範囲が不明確であり、今後も関連する条約が増えることが予想される。 論文式筆記試験の必須科目について、平成12年改正で条約単独の科目はなくなったが、これを復活させるべきとの意見がある。 論文式筆記試験選択科目の選択問題には、受験者がいない科目や受験者が極めて少数の科目が存在している。 口述試験の公平性に関する懸念があり、また、口述試験の合格率が低下している。 試験科目の一部免除制度は、平成12年及び平成19年改正で導入されてきたが、制度が複雑になっている。 なお、上記1については平成28年度弁理士試験から短答式筆記試験への科目別合格基準が導入され、上記4については論文式筆記試験(選択科目)における選択問題の集約が行われている。 弁理士という言葉の意味 弁理士と弁護士の「弁」は、現在では同じ字を使っているが、かつては、弁理士は「辨」を用いて辨理士、弁護士は「辯」を用いて辯護士と書いた。 「辨」という字の意味は「わきまえ知る」であり、「理」という字の意味は「筋道」/「物事の道理」である。従って、弁理士とは、筋道あるいは物事の道理をわきまえ知る者という意味になる。一方、「辯」という字の意味は「言い開く」「言葉が自在に説法できること」であり、「護」という字の意味は「まもる」である。従って、弁護士とは、人のために言葉を自在に駆使してその人を護ることを役割とする者という意味になる[18][19][20]。 なお、日本では、弁護士となる資格を有する者は、弁理士登録をすることができる。もっとも、弁護士は、弁理士登録をせずとも弁理士業務を行うことができる。これは、弁護士法第3条第2項に「弁護士は、当然、弁理士及び税理士の事務を行うことができる。」と規定されているためである。 弁理士の日 毎年7月1日は、日本弁理士会によって<b data-parsoid='{"dsr":[19020,19031,3,3]}'>弁理士の日</b>に定められている。これは、1899年(明治32年)のこの日に、現在の「弁理士法」の前身にあたる「特許代理業者登録規則」が施行されたことにちなんで1997年(平成9年)に定められたものである[21]。この日の前後には、日本弁理士会や各地の支部により、講演会、シンポジウム、特許無料相談会などのイベントが開催されている。 その他 弁理士は行政書士となる資格を有している(行政書士法2条3号)。 脚注 関連項目 特許庁 弁護士 日本弁理士会 知的財産管理技能検定 菅直人(内閣総理大臣経験のある弁理士) 外部リンク e-Gov 特許庁
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急行形車両には車両数に対するトイレの数が決められていますか?
国鉄103系電車
japanese
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国鉄103系電車(こくてつ103けいでんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流通勤形電車。 国鉄通勤形電車として、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で経済性を最重視して設計され、1963年(昭和38年)3月から1984年(昭和59年)1月までの21年間に3,447両が製造された。 また、本項ではインドネシアの鉄道会社 (PT. Kereta Api) に譲渡された車両についても記述する。 概要 基本的な構成は、国鉄初の新性能通勤電車で前作に当たる101系を概ね踏襲している。切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・1300mmの両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持・直巻整流子電動機を用いた抵抗制御・MM'ユニット方式である。 国鉄の汎用的通勤形電車として設計されたため、比較的駅間が短く速度の低い線区を主に使用することを前提として設計されたが、週末などの臨時電車運転を考慮して主電動機の界磁を35%まで弱めて高速特性を近郊形電車の111系並に設定[1]している。設計当時多くの路線で最高速度が95km/hであったこともあり、よほど特殊な線区以外では高速運転をする機会はなかったが、大量に製造されるうちに、駅間距離が長い路線やブレーキ初速度の高い路線などに投入された結果、高速性能を求められるケースも増え、加速性能では分流抵抗による弱め界磁率の誤差などを修正する小改造[2]を、高速域からの電気ブレーキ性能では過電圧対策[3]などを施した車両も存在した。なお、最初の投入先が山手線であったことから<b data-parsoid='{"dsr":[2552,2572,3,3]}'>駅間距離が短い山手線専用形式</b>と言われたこと[4]もあったが、当時の関係者によって完全に否定[5]されている。最高速度は100km/hとなっているが、MT比1:1では90km/hを超えると加速余力は少なく95km/h程度である[6]。 本系列の設計は帝都高速度交通営団(現在の東京地下鉄)東西線乗入用のアルミ製車両である301系の基本[7]となったほか、地方私鉄買収電化路線用の105系にも応用[8]された。 新造車3,447両のほか、20両が72系から、36両が101系から編入され、総数は3,503両であるが、全車が同時に存在した時期はない。 JRグループ発足時に、事故廃車2両と105系改造車65両を除いた3,436両が、北海道旅客鉄道(JR北海道)と四国旅客鉄道(JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれた。その後老朽化による新型車両への置き換えによって廃車が進行し、東海旅客鉄道(JR東海)が所有していた該当車両は2001年(平成13年)、東日本旅客鉄道(JR東日本)が所有していた該当車両は2009年(平成21年)に形式消滅となっており、2018年4月1日現在残存するのは西日本旅客鉄道(JR西日本)が関西圏で運用する99両と九州旅客鉄道(JR九州)が筑肥線で運用する18両の計117両[9]である。 [10] 歴史 開発までの経緯 101系全電動車化計画の失敗 1957年(昭和32年)に国鉄初の新性能電車として登場したモハ90形(後の101系通勤形電車)は当時の民鉄の高性能車に匹敵する加速度・減速度などを備え、国鉄の通勤輸送力の要として期待された[11]。しかし、試運転を重ねるうちに所定の加速度設定では電流が、き電設備に負荷をかけることがわかり、営業運転開始時から101系は本来の性能を出せず[12]、オール電動車編成を持て余すことになる。初めての新性能電車の運転に対して、国鉄工作局も電気局も変電所容量や架線設備が適合するかのチェックを見落としていた[13]。既に昭和32年度にモハ90形が150両計上されており1958年(昭和33年)春から夏にかけて落成されたが、量産車も本来の性能で運転できなかったことから全電動車編成のあり方に疑問がなげかけられる[14]。モーター数を減らした編成で運転した方が車両新製費用が安いことから、昭和33年度の新製車からは、10両編成中2両をモーターなしの車両にした8M2T編成で増備されることとなった。 101系電車の使用方法の検討 1959年(昭和34年)に入っても中央本線に101系が増備されていたが、基本8両編成を6M2T、付属2両編成を2Mという編成を組み、日中は基本編成の8両編成で運転されていた。1950年代後半の首都圏の通勤輸送の伸び率は年6%以上であり、車両を投入して増発や増結をしても輸送量の伸びに追従できない状態にあり、少数の高性能な車両よりも多数の車両が必要となってきた。限られた予算内で多くの車両を作るには、製造単価の高いモーター車の比率を下げる必要があるため、中央線の101系の使用方法にも、付属編成はそのままで基本編成を4M4Tにした6M4T編成が可能かどうか、また他線区の編成両数から4両を1単位とした編成が組める方が都合が良いことから、MT比1:1による運転が可能かどうかの検討が始められる。 これらの観点から、1959年(昭和34年)11月に中央線営業列車にて主電動機温度測定試験が行われた。基本4M4T+付属2Mという編成を用いたが、付属編成を分離した後の4M4T編成は日中の乗車率が少ない時でもモーター内の温度が上昇しており、101系ではモーター車とモーターなし車を半々で編成を組んだ、いわゆるMT比1:1の編成は、主電動機の熱容量不足のため不可能という結果が出された。同時に、編成はモーター車2両に対してモーターなし車1両 (2M1T) を基本に、場合によっては4M3T・6M4Tまでの編成に制約するという判断がなされた[16]。また、この現車試験だけでなく、主電動機の熱容量を計算によって求めるRMS電流値による運転評価が1959年(昭和34年)秋頃から実用化[17]され、MT比1:1編成のみならず、山手線のように駅間距離が短く発車してすぐに停車するような路線は、モーターを冷やす時間が少ないことから、101系は不利になった。 新形通勤電車の構想 101系が設備面と主電動機の容量不足で今後の通勤線区に対して効果的な増備が行えないことから、国鉄本社運転局では「通勤電車の問題点」を1960年(昭和35年)2月にまとめ、次期通勤電車に対する要望として経済的で大量生産できる車両を挙げた[18]。方向性としては、オール電動車形式による高性能車と回生ブレーキをセットに考える方法と、電動機の出力をアップしてMT比を1:1にして運転する方法が検討されている。回生ブレーキは勾配用として国鉄でも採用実績はあったが停止用回生ブレーキは民鉄を含めても一般的ではなく、京阪電鉄が1959年(昭和34年)2月以降1650形の一部において搭載し、営業運転をしながら試験を続けており[19]、その試験結果によって同年9月より回生ブレーキ付き2000形の営業運転を開始した[20]。また、小田急では主電動機の出力を高めMT比を1:1とした2400形がデビューし、これまでのオール電動車による高性能車から、MT比1:1による高性能車へと変革をとげつつあった。構想にあたって回生ブレーキは京阪の研究結果を待つことにしたが、国鉄でも試作車を1959年(昭和34年)度中に落成している。 架線温度上昇問題 中央線の新性能化に大きく貢献してきた101系だが、1960年(昭和35年)には別の問題が発生した。旧形国電に比べてパンタグラフ当たりの集電電流が大きくなったことによる架線への影響である。中央線の101系化率は同年4月には84%に達し、101系の通過両数が増えたことから中央線の架線温度を上昇させ、架線の摩耗が激しいだけでなく、夏場などには架線溶断の危険性も浮上した[21][22]。この問題は、架線を平行に並べるツインシンプルカテナリー方式を用いることで改善できることもあり、中央線と中央緩行線の工事を行った。 101系のパワーアップを検討 101系の問題点を克服し、標準形通勤電車を設計するための基礎資料として、1960年(昭和35年)3月末に回生ブレーキを搭載した101系910番台を試作し、同年6月から回生試験を開始した。試験の結果、初期費用が高いこともあり、回生による消費電力量の削減などを照らし合わせて考えても、大量生産しなければならない通勤形電車に搭載することは不適切との結果となった。また、小田急2400形が採用しているのと同じ120kWのMB3039A形[23]電動機を101系2両に搭載し、1961年(昭和36年)1月に中央線や山手線で試験を行った。結果として、回生ブレーキを採用できない状態で主電動機のみをパワーアップすることはできないため、国鉄の1961年度技術課題では回生ブレーキ試作車を大阪環状線に転じて、編成単位での長期試験を行うことも検討された[24]。 限界性能の6M4T化 1960年(昭和35年)初頭から選考に入った101系に代わる次期通勤電車は、101系の失敗を繰り返さないためにも、様々な試験を重ねたうえで電気局など多数の関係者も含めて慎重に仕様を決める必要があり、それまでの通勤輸送改善のための車両増備は101系に頼らざるを得ない状況にあった。国鉄の整備計画である第一次5ヵ年計画での車両増備が、予定の390億円に対して321億円と予算不足[25]にあったことから、101系を10両中モーター車8両という構成から10両中モーター車6両にして、製造費の高いモーター車を減らすことで少ない予算で多くの車両を通勤輸送に投入した[26]。これを実現させるには編成を基本8両編成から7両編成に減車しなければならないため、東京鉄道管理局の日中輸送力の検討結果を待って決定された。その結果、昭和35年度本予算では101系のモーターなし車のみ88両が製造され、101系の編成替えを実施し各線の輸送力増強に充てられた他、中央線では11月21日のダイヤ改正にてオール101系化がなされた[27]。 標準形通勤電車の設計へ 一方、首都圏の通勤事情は悪化し、1961年(昭和36年)1月には中央線朝ラッシュ時に56分30秒という過去最高の遅延を記録するなど、「交通地獄」の様相を呈してくる[28][29]。この状態を緩和するため、同年秋から山手線に101系を4M3Tで投入を開始した。101系の性能上、山手線などで使用する場合はモーターに電流をあまり流すことが出来ないため、電気ブレーキをカットすると共に、力行時の限流値も低く抑える必要があり、旧形国電よりも運転速度は遅くなったが、101系は両開きドアであることからラッシュ緩和に効果があること、山手線から捻出される旧形国電を他の路線の増結用に回すことができること等の利点を買われたものである。このように103系の設計がまとまるまでの間、中央線用に設計された[30]101系を性能的に適さない山手線や総武線などに増備されたのはラッシュ輸送改善のためであり、101系を入れても新性能電車投入のスピードアップなどの効果が薄いため、これらの通勤路線に適合した仕様でMT比1:1を実現し低費用で大量量産する新形通勤電車が必要となった(詳細は国鉄101系電車#計画の頓挫参照)。 101系では当初全M車編成で3.2km/h/sという加速度が目標[31]とされたが、6M4T化により2.0km/h/sの加速度と3.0km/h/sの減速度になった。新形通勤電車の投入候補線区のうち、次期車両の投入予定4線区(右表○印)に関して検討した結果、高加速度のメリットが大きくないことが明らかになってきた。輸送力向上のための運転時隔短縮が本来の目的であり、高加速度は駅間での運転速度を高めて閉塞区間を速く通過することで次の列車を早く通すという考え方に基づく要求だが、これを達成するためには実際には高減速度の方が重要ということが判明したため、2.0km/h/sの加速度に留め、3.5km/h/sという減速度を目指すことになった[32]。 運転時隔と車両性能の検討 国鉄では列車同士の追突を防止するために列車の進路を閉塞という区画で区切り信号機により追突を防止する信号保安というシステムを用いた。列車と列車の運転時隔を縮めるためには前を走る列車が駅に停車中に、後続の列車が進行信号で走行する必要があるが、ラッシュ時は客扱いに30秒以上停車する駅もあり、運転時隔を2分以下とするには駅から先行列車が迅速に発車し、後続列車が進行信号で駅に進入するシステムが必要となる。京浜東北線と山手線が同一線上を走っていた1952年10月よりラッシュ時に各々3分40秒間隔、双方合わせると1分50秒間隔運転を開始した際には、後続列車に進行信号を現示し停車時間を確保するために一部の駅のホーム中間に信号機を増設した[34]。モハ90形通勤電車においては、高加速度にて駅から早く発車し運転時隔を縮めようとしたが、電力設備が追いつかず、旧形国電とさほど変わらぬ加速度に落ち着いたが、運転時分を短縮するにはホーム中間に信号機を設ける方法は効果的なことから、京浜東北線と山手線が分離運転を始めた1956年11月19日以降も大部分の駅にホーム中間信号機を設置したが、それ以外にも信号機をこれまでの赤・黄・緑の3灯現示以外に25km/h以下での進行を指示する警戒信号(黄+黄)や65km/h以下で進む減速信号(黄+緑)などの多灯信号機を導入し駅手前に短い閉塞区間を設けるなどの措置を講じた[35]。 ホーム中間信号機が設置してある線区での運転時隔は、列車最後部がホーム中間の信号機を通過するまでの走行時間が重要となり、その場合は4.0km/h/sの高加速度でも2.0km/h/sの加速度でも運転時隔に差がないことが判明した。ホーム中間に信号機がある場合、後続列車への影響は駅を出た列車の最後尾がホームを出た先にある出発信号機を通過する時間ではなく、ホーム中間の信号機を通過するまでの時間が重要となり、ホーム中間の信号機は列車停止位置の最後尾から100m以下であるため、列車の起動加速度を究極まで高めても効果が低いためだ。運転時分の算定にはブレーキ初速度やホーム中間の信号機の位置、列車の長さなど、いくつかのパラメータを与えれば求まる計算式があり、それらを様々な条件を当てはめてシミュレートした結果、起動加速度2.0km/h/s・減速度2.5km/h/s程度、ブレーキ初速度60km/h程度、ホーム中間の信号機を設けていることが適していることがわかった[36]。これらのことから、新形通勤電車の設計にあたっては、起動時の電流量が多くなり電力設備に負荷をかける加速度を高めるのではなく、加速度は低く2.0km/h/s程度に抑え、ブレーキ減速度を3.5km/h/sと高めにとることにした[37]。 なお、場内信号機の建植位置は、運転保安設備基準規程[注 2]により駅の列車停止位置より150m以上外方と決められているが、表の路線は特例としてホーム中央などに場内信号機を設置した。1961年(昭和36年)当時の山手線品川 - 新宿 - 田端間でホーム中間に信号機が設置されていたのは一部の駅だけであった[38]が、1974年までに全駅でホーム中間に信号機の整備が完了[39]している。 車体の設計 車体は101系をベースにしているが変更点がある。床材は、101系のリノールを塗り固めた構造が修繕作業に手間がかかることから、103系では床鋼板の上に床仕上げ材を貼った簡単なものとなった。モーター付き車両の側面には主電動機などの回転機の冷却風の取込用として風取り入れ口を設けた[40]。 主電動機の設計 101系が中央線など駅間距離が長い路線でないと使えない電車になってしまったのは、オール電動車で設計されていたものをモーターの付いていない車両を編成中に増やしたことによるモーターの過負荷が原因である。特に通勤線区は駅間距離が短い路線が多いため、101系電車で運転しようとすると、モーター車の比率を高めるか限流値を下げて運転速度を落とすしかなかった。これは、101系に用いられているMT46Aという主電動機の熱容量が小さかったからである。熱容量にはモーターの絶縁材が大きく関わっており、MT46Aの温度上昇限度は電機子が特別B種の120度まで、界磁がH種で150度までの制約があり、電流を流した時に発生する熱は電流の二乗に比例するため、大きな電流を流して加速度を高めると電動機の大きな過熱を招いて絶縁材の寿命が短くなる。温度が8度上がるだけで絶縁材の寿命が半減するという「8度半減則」という法則[41]もあり、許容温度以上の負荷使用は、特別な場合を除き避けなければならなかった。 RMS電流は求める線区の運転曲線から列車の電流量を計算により求める手法[42]である。その列車が実際に運転を行った後は、主電動機の温度が上昇するが、これを最初から一定の電流を流して同様な温度上昇になる数値を計算により求めることともいえる。よって、その列車が運転曲線通りに運転できるかどうかは、RMS電流を計算して主電動機の連続定格電流以下か、一時間定格電流の80 %以下の電流値であることが求められる。ちなみに、基準運転時分作成のための速度定数業務では速度定数査定基準規程(昭和39年12月10日)によって様々な条件が課せられるが、主電動機の温度制限に関する第33条の内容は下記の通り。 第33条 主電動機の温度は、次の各号に揚げる場合、その温度上昇の許容限度内にあるとみなす。 運転線図における加速区間の平均加速電流及びその他区間の電流が1時間定格以内の場合 運転全区間のR.M.S電流(平均二乗平方根電流)が1時間定格の80 %以内の場合 運転線図に基づいて温度上昇を計算した結果が許容限度内にある場合 限流値を一時間定格電流以下に設定して運転する旧形国電と違い、MT46以降の電車用主電動機は電流の過負荷に対する耐性が一時間定格電流の160 %までで設計されており、起動電流を大きく取って加速度を高めると、モーターが過負荷運転になる場合もあった。そこで1959年(昭和34年)の秋頃から、主電動機の温度上昇限度をオーバーせずに運転線図を作成し運転計画を立てることが当然となり、RMS電流計算により推定する[43]ことが基本となった。 前述のように、101系をモデルチェンジした新型車両では回生ブレーキの採用や出力の増強が見送られ、運転時隔や架線への影響、消費電力量などの経済性なども含めて通勤用途に適した主電動機を新たに設計することになった。消費電力量や起動電流の面からは定格速度を低く取る方が良いが、低く取りすぎると力行率が増して回復運転余力がなくなるほか、高速運転のために極端に界磁を弱める必要が出たり、電気ブレーキ使用時に過電圧になる問題があった[44]。これらを勘案し、標準形通勤電車用としてMT55形主電動機を開発した。回生ブレーキの採用は定期的に発生する維持費用の低減をはるかに上回る試算になったため見送られた[13]。 MT55の概要 103系通勤電車用として、端子電圧375 VのMT55が設計されたが、想定される速度域や消費電力量などを考慮し、全界磁定格回転数は1,250 rpmで103系に搭載した場合の定格速度は33.5 km/hという中速形の電動機となった。高速域での使用も考慮したが、保守との兼ね合いから補償巻線を設けない範囲で最大限弱めることとし、弱め界磁率を35 %と高くとって高速性能をカバーした。正規運転時におけるRMS電流を1時間定格の80 %、回復余力を10 %と見込み、電気ブレーキの有効範囲なども比較検討した結果、主電動機出力は110 kWとした[45]。定格速度は36.5 km/hとなり、定格回転数は1,350 rpmとなった。これは定格速度が低く、実際では弱め界磁運転が多くなるため、定格を85 %界磁上においてバランスをとっている[46]。また最大許容端子電圧をMT54などの750 Vではなく900 Vまでにしたことで、電気ブレーキの有効範囲も広く取ることが可能となった。 101系との主電動機比較 8両編成でMT比1:1とすることを前提として計画されたが、1968年(昭和43年)10月の山手線10両編成化の際には6M4Tとなるため、MT比が3:2となった。単純に編成出力だけを見れば101系の2,400 kWに対し本系列は2,640 kWと大きく、「10両ならば103系は不要で101系でいい[47]」という意見も存在した。 実際の変電所負担に関わる電力消費に関しては、定格引張力が小さい101系は[注 3]本系列の加速度に合わせるためには起動時の限流値を高めなければならなかった。 同様な駅間距離を持つ総武・中央緩行線の101系と本系列6M4T同士の試算では、以下のようになる。 運転時分を同等とした場合の限流値は本系列で415 Aに対し101系では480 Aとなる[注 4]。 同試算によると101系に比べ本系列の方が変電所設備や年間電力消費量を低減できるとされており、上記の編成出力だけを基準とした意見は必ずしも正確ではない。 101系のみならずMT46系主電動機を採用した形式は、主電動機の絶縁種別が低いこともあって熱容量(電動機の通電による熱に対しての耐性)が不足しており、山手線のような加速・減速を繰り返すような線区ではオール電動車にしても熱容量が足りない[48]との試算がすでに1960年代初頭に出ており、101系は全電動車でも問題点があるとされていた。 さらに101系は熱容量不足から応荷重装置が使えず、乗車効率が300 %にもなるラッシュ時には乗客の数に応じて運転時分が変わる。一方で、応荷重装置を使える本系列は乗客の数に関わらず起動加速度は一定に保つことができる。 そもそもMT比1:1設計をMT比3:2とすれば運転性能は上がり、1965年の京浜東北線10両編成投入の際に、長短所については検討しているが、省電力などのメリットはMT比3:2でも引き続き得られることを確認[49]している。したがって、同じMT比3:2の6M4Tでも101系より本系列の方が加速度の高いことがわかる。 国鉄電車用主電動機との比較 主電動機の能力を示す指針としては出力よりもSRPを用い、電動機進歩の比較としてSSRP[50][51]を用いるケースが多いが、専門的な分野であるため一般的ではない。その結果、本来SRPやSSRPで比較すれば低い定格回転数で高い許容回転数を出す103系のMT55電動機は優秀な電動機であるのだが、103系の高速運転時のモーターがブンブンと回るだけと、高回転では103系のモーターが能力外であると勘違いさせるような記述[52]も見受けられる。ただしMT55を定格速度が低い103系のセッティングで使う場合、定出力領域は64 km/hで終わり、それ以上高速になると出力が落ちる。これは113系や115系の84 km/hに比べて低いばかりか、定格出力の小さい101系の67 km/hよりも低い数値[53]であり高速域では持てる出力を出し切れていない。なお、下記に国鉄の主な主電動機のSSRPとSRPを示す。SRPとは許容回転数÷定格回転数×電動機容量(馬力HP)で、SSRPはSRPを主電動機重量で除したものである。 本系列の投入先 新型通勤電車の概要がまとまると、どの線区に投入するかが焦点となった。1962年(昭和37年)6月頃には本系列を山手線に投入するのか、捻出される101系の転用先をどうするのか早急に決めるべきだという議論がなされた。 1962年秋の山手線8両化のための変電所増強では、101系6M2Tの限流値300Aでの運転を想定しており、限流値を350A→480Aにするための変電所増強計画が提案・検討された。変電所増強時点で、本系列4M4Tで限流値415Aの場合、101系6M2Tの限流値480Aでの運転とほぼ同等の所要時間で運転を行うことが可能と判断されたため、本系列の山手線投入を早急に決定しなければ、不要な変電所増強を行うことになる。このため1962年10月には国鉄本社運転局・営業局・電気局・工作局などにより「新型通勤電車の投入線区について」がまとめられ、103系の投入線区を山手線・京浜東北線・総武緩行線に絞り込んで議論が続けられた。その結果を踏まえ、同年11月5日の常務会にて本系列は山手線に投入し、101系を総武緩行線に転用することが決定された。 1962年11月15日に渋谷・東京などの変電所増強が完成し、11月19日のダイヤ改正から山手線の一部8両編成化が行われた。電動車比率が上がったことから限流値は300Aのままとされ、山手線一周の運転時分は5M3Tの旧性能車よりも20秒短縮できたが、変電所増強が完了するまで、新性能化がされながらも旧性能車並に制約を受けざるを得なかったのが、当時の首都圏電力事情である。 試運転 1963年(昭和38年)3月25日先行試作車1編成が落成し、9か月に渡る試運転を繰り返した後、12月28日より営業運転に入った。試運転では問題が発生していたものの、早急な新車投入が求められていたことから、最低限の手直しで量産車を発注している。 量産 1964年(昭和39年)以降の国鉄における通勤用の標準車両として大量に製造され、直流通勤形電車はもとより日本の鉄道車両としても最大の車両数を誇り、1970 - 1980年代(昭和40 - 50年代)の首都圏や近畿圏など日本の都市圏通勤輸送を支えた。 山手線への投入 1964年(昭和39年)5月より量産車(ウグイス色)が山手線に配置され、1964年度で202両が製造された。捻出された101系(カナリア色)は総武緩行線に転出し、別途新製された先頭車2両を組み込み10両編成で運用された。 駅間距離の長い線区への進出 増備が進むと次第に本来の投入予定線区とは性格を異にする路線にも投入された。1962年の新形通勤電車の投入候補線区には比較的駅間の長い常磐線(平均速度52.8km/h)と京阪神緩行線(同56.7km/h)も含まれていたが、本系列の仕様決定は、これらの路線を除いた対象4線区での平均駅間距離 (1.34km) や平均速度が参考にされた。比較的駅間距離が長い路線向けにはMT46A形主電動機の界磁を40%からさらに弱めた35%にするなどの措置が必要であり、MT55形が35%まで界磁を弱めているのはこれに対応するためでもある。 当時の多くの路線の最高速度は95km/hであり、80km/hを超える高速域では101系より加速力が高い[注 5]ため大きな問題にはなっていない。しかし、快速列車から逃げ切るために高加速高速の通勤電車を求めていた大阪鉄道管理局には1964年(昭和39年)に京阪神緩行線を新性能化する際に、新形式を必要とするのか検討させている。大阪鉄道管理局では当時の線路使用方法(快速と緩行の内側線のみの集中)が改善されるなら、新形式ではなく既存形式(101系や本系列)でも使えるとの認識を示した(詳細は京阪神緩行線#新形通勤電車構想を参照)。 35%まで界磁を弱めて高速特性を高めたが、定格速度は30km/h台であることから、平均駅間距離が2km台の京浜東北線[注 6]に1965年(昭和40年)に投入する際には、以下の案も検討された。 ノッチオフの速度が上がったことから、本系列の歯車比を1:5.6にする。 MT54形主電動機により中速以上の特性を高めた通勤電車の可能性を模索。 しかし、いずれも本系列に比べて電力消費量が増加することのデメリットが大きく、高速運転区間も経済性が高く、高速タイプにする必要はないとの結論を得た。これらの調査結果を受け、1967年(昭和42年)末から常磐線に本系列が投入される際には、ブレーキ初速と使用頻度が高くなることもあり、新規開発されたメンテナンスフリーのディスクブレーキ付きTR212形付随台車を採用した[注 7]。 通勤電車初の10両貫通編成の出現(山手線) 1968年10月1日のダイヤ改正には、山手線に103系10両貫通編成が登場した。山手線ではラッシュ緩和を目的として編成を8両から10両に増強する工事を進めていたが、当時の山手線の電車区の状況は品川電車区が手狭なこともあり、夜間は山手線の車両を京浜東北線の蒲田電車区や下十条電車区に収容する必要があり、山手線で使用する56編成のうち34編成を電車区に夜間疎開した。京浜東北線の車庫を間借りしながら10両編成化を進めるには無理があるので、山手線内に新しい電車区を新設することになり、大井工場の敷地内に新たに収容能力490両の2階建て電車区を建設して、品川電車区を移転する工事を1965年(昭和40年)3月に開始すると共に山手線のホーム延伸工事も進めた。1967年4月3日に新品川電車区の留置線のみ一部供用を開始し、京浜東北線の夜間疎開を24編成に減らした。同年10月、検修設備など電車区としての設備も含めた一期工事が完成し、京浜東北線の夜間疎開は18編成に減り、翌年の10両編成化への準備を着々と進めていった[56]。当初、1968年12月に新品川電車区は完成する予定だったが、同年10月1日に予定されている全国ダイヤ大改正に合わせて準備を進め、山手線を10両編成運転にするための車両の増備も昭和42年度第3次予算で中間車2両を20編成分、合計40両発注した[57]。 9月から増結用の新製車が山手線に配属されて、10月1日から8両編成の中間に増結し10両運転を開始した。このことにより山手線の10両編成は運転台が編成の前後のみの貫通編成となったが、これは通勤形電車では初めての事[58]であり、運転中に余分な運転台がない分だけ定員が増え、ラッシュ輸送に適した編成となった。増結用の車両は10月中に出そろい、10月24日までに8両編成18編成が10両編成に生まれ変わり、ラッシュ時は内回り12編成、外回り6編成が10両編成化され、池袋駅では内回り7時50分から8時17分まで連続して10両編成が来るダイヤとなり、混雑が緩和された[59]。ラッシュ緩和に効果のある貫通編成だが、車庫の検修庫の設備が貫通編成の長さだけ必要な関係で、10両運転をしている他の線区では設備の都合で3両+7両編成などの分割編成にしなければならないケースもあったが、常磐線・京浜東北線など設備の整っている電車区の編成は一部が1970年から10両貫通編成にて運転された。 快速運用への投入(阪和線) 阪和線の天王寺 - 鳳間は1965年(昭和40年)6月から6両運転を開始[60][61]したが、鳳以南から天王寺に運転されている快速列車の朝ラッシュ時の混雑が1965年(昭和40年)11月現在で319%[62]となっていた。さらに鳳以南では1968年度までに26,000戸の住宅開発が予定されており快速列車の6両運転を計画していたが、1968年10月改正に合わせて設備が完成することから6両編成の103系を快速列車用として投入した。103系投入により快速のスピードアップが図られ東和歌山(現在の和歌山)- 天王寺間で通勤時間帯9分、日中7分の時間短縮が行われた[63]。103系は山手線や京浜東北線という緩行線用に使用しており、快速用として使用するのはこのときが初めてである。 運転速度向上による問題(東海道・山陽線) 京阪神緩行線への投入から3年後の1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正後のスピードアップでは、ブレーキ初速が90km/h台になると電気ブレーキを使用した際に主電動機に過電圧がかかることから、保護回路が頻繁に作動し、電気ブレーキが作動せずに故障と紛らわしいと苦情が多発。保護回路が作動する際に衝動が大きく、乗り心地にも影響を与えることなどが判明した。設計上95km/h程度までは過電圧が発生しないため、101系に取り付けられていた減圧継電器を省略していたことも原因の1つではあるが、本来の性能に近づけるため一部の回路を改良し、1972年度中に過電圧を防止する対策が施工された[64]。 3両編成による運転の開始(阪和線) 阪和線の支線である鳳 - 東羽衣間は3両編成の旧形国電により運転されていたが1977年春に阪和線用を含め33両が増備車され同区間用には103系を3両編成に組成して投入した。この投入により、同年4月14日改正にて阪和線新性能化が完了した[65]。3両編成を組むため編成はクモハ103-モハ102-クハ103となったが、103系の3両編成による運転はこの阪和線が最初のケースとなった。 通勤輸送での冷房化の推進 昭和40年代前半になると家庭でもクーラーが普及し始め、通勤型電車でもクーラーの要求が増していく。そこで国鉄では103系と113系にて冷房装置の試作を昭和45年に行い、昭和48年度より103系は冷房車製造を行っていく。冷房装置付きの103系が増備されることで各線区の冷房化率が上がった。 数字でみた国鉄での冷房率の推移 国鉄広報部が毎年1回出している「数字でみた国鉄」では昭和49年版から通勤用車両の冷房化率が掲載されている。201系の量産が始まる昭和57年版までの冷房化率の推移を示す。一部は101系冷房改造車によるものも含まれるが、103系が昭和50年代に大量に増備された結果、通勤輸送における冷房化率が向上した。 JR化後 3500両近い103系がJRに承継されて使用されたが、運用線区の変更や置き換えなどが行われた。 15両運転の開始(常磐快速線) 常磐線は上野 - 取手間の通勤形電車を用いた運転と、取手以北の近郊形電車を用いた運転とに分けられ、ラッシュ時の混雑が増大してきた1985年3月改正において近郊形電車は15両に編成を増強したが、取手以南の通勤形電車は10両のままであり、JR化後ラッシュ1時間の混雑率252%と首都圏で最も混雑する路線となった。そこで、通勤形電車の編成増強のため、1988年3月改正をめどに設備工事を行ってきたが、昭和62年11月にほぼ完成することから、昭和62年12月1日から一部の通勤形電車の15両運転を開始した[66]。通勤形電車における15両編成化はこの時の103系によるものが全国で初めてである[67]。 近郊路線への進出(山陽本線・呉線) 1991年度からJR東西線の開業を見越し同線に乗り入れる予定であった片町線では、103系から地下乗り入れ対応の207系に置き換えを始めた。同線から捻出された103系は100両を超えそのほとんどが冷房車であったことから、関西本線・阪和線の非冷房車置き換えに転用されたが、一部は山陽本線下関運転所に冷房化率改善のため転出した[68]。103系は過去にも通勤区間で駅間の長い路線に投入されたことはあったものの、近郊形電車の運用区間に直接転用されたことはなかったゆえに、趣味誌では、その使用方法について疑問が投げかけられた。特に下関所の105系で山陽本線岩国以西についてはトイレなし編成での運用の実績はあったものの、103系の投入により約半年で広島運転所に転配され、広島付近の運用に改められている。 ワンマン運転の開始(阪和線羽衣支線) JR西日本阪和線鳳 - 東羽衣間で3両編成で運転されたが、日中は1両編成でも足りることから1987年(昭和62年)6月1日よりクモハ123+クモハ123+クハ103という編成で、始発から朝ラッシュ時は3両編成、日中は1両編成、夕ラッシュ以後は2両編成と柔軟な運用に改められた[69]。その後1989年10月20日から車内での運賃収受のないワンマン運転を103系で開始した[70]。同様なワンマン運転はJR九州の筑肥線でも行われている他、車内に運賃箱を設置した車内収受タイプのワンマン運転はJR西日本の播但線や加古川線でも行われている。 改造工事 103系は長期間にわたり使用されているため、国鉄時代から様々な改造工事が行われている。工事内容などの詳細は後述する。 車両改造工事(用途変更) 車両自体の用途を変更するための改造工事で、他系列から103系化されたもの、103系から他系列に改造したもの、中間車の先頭車改造、中間車の電装解除などが行われている。 他形式から103系化されたもの 103系と車体構造の違いが少ない101系のうち、103系が量産を開始した後も総武線10両化用として製造された101系付随車や制御車は、経年が浅いため103系に編入された。また、仙石線用の72系アコモ車は旧形車の下回りに車体を103系ベースで製造して組み合わせたもので、車体自体の経年が浅かったことから下回りを103系に合わせて改造編入した。 101系サハ101形のサハ103形750番台化(国鉄) 101系クハ101形のクハ103形2050番台化(国鉄) 101系クハ100形のクハ103形2000番台化(国鉄) 72系の103系3000番台化(国鉄) 中間車の先頭車改造 モハ103形1500番台のクモハ103形1500番台化(JR九州) モハ102形1500番台のクモハ102形1500番台化(JR九州) モハ103形のクハ103形2550番台化(JR西日本) モハ102形のクハ103形2500番台化(JR西日本) モハ103形のクモハ103形5000番台化(JR西日本) モハ102形のクモハ102形3500番台化(JR西日本) モハ103形のクモハ103形3550番台化(JR西日本) モハ102形のクモハ102形3550番台化(JR西日本) 中間車の電装解除など モハ103形0番台・910番台のサハ103形800番台化(JR東日本) モハ102形0番台・910番台のサハ103形800番台化(JR東日本) モハ103形のサハ103形2500番台化(JR西日本) モハ102形0番台・2000番台のモハ102形5000番台化(JR西日本) サハ103形のサハ102形5000番台化(JR西日本) モハ103形のモハ103形3500番台化(JR東日本) モハ102形2000番台のモハ102形3500番台化(JR東日本) 先頭車の改造 クモハ103形0番台のクモハ103形5000番台化(JR西日本) クモハ103形5000番台のクモハ103形2500番台化(JR西日本) クモハ103形5000番台のクモハ103形3500番台化(JR西日本) クハ103形0番台のクハ103形3500番台化(JR東日本) 車両改造工事(延命関係) 車両の寿命は各社の規程などにより決められているが、置き換え時期を延命工事により伸ばし、その間の車両投資を抑制することで調達・製造~使用~廃棄の段階で必要となる費用を低減する効果や、陳腐化したアコモデーションの改善効果がある。1981年(昭和56年)度に国鉄小倉工場が423系に対して施行したのが最初であるが、103系は翌1982年(昭和57年)度から延命工事が行なわれるようになった。 特別保全工事(国鉄・JR東日本・JR東海・JR西日本) リフレッシュ工事(国鉄・JR東海) 延命N工事(JR西日本) 延命NA工事(JR西日本) 延命NB工事(JR西日本) 車両更新工事(JR東日本) 延命N40工事(JR西日本) 体質改善40N工事(JR西日本) 体質改善30N工事(JR西日本) 車両改造工事(機能追加等) 103系は様々な線区に使用されたこともあり、線区固有の設備を車両に追加設置する工事などもあった。また、機能的な面や腐食対策などでも改善が加えられるケースも含めて、下記のような項目にて改造された。 前照灯シールドビーム化改造 屋根の塗り屋根化改造 冷房取付改造 前面排障器取付改造 ドアの半自動改造 パンタグラフの2台化改造 ワンマン運転対応改造 トイレ設備取付改造 自動分割解結装置取付改造 電気連結器取付改造 列車無線取付改造 ATC機器取付改造 ATS-P機器取付改造 戸袋窓埋込改造 妻窓埋込改造 ドアレール座ステンレス化改造 ガラス抑え方式変更改造 廃車 103系は大量に製造されたために、JR化後30年経過した2018年4月時点でも100両近い車両が在籍している。廃車のほとんどは老朽廃車であるが、一部事故廃車が存在する。 国鉄時代の事故廃車 1970年5月20日、根岸線新杉田 - 洋光台間で下り電車が土砂崩壊に乗り上げ、前位側2両にあたるクハ103-548とモハ102-169が大破した[71]。その結果この2両は1971年3月27日付けで廃車[72]となっている。モハ102-169とペアを組むモハ103-105は整備の上、新たに製造されたモハ102-445とペアを組んで復帰している(窓枠の異なる車両同士でのユニット)。 JR東日本の事故廃車 1988年12月5日、中央緩行線東中野駅構内に停車中の103系10両編成に、後続の201系10両編成が追突[73]。103系の後位側9両(クハ103-277・モハ103-334・モハ102-490・サハ103-326・モハ103-21・モハ102-21・サハ103-327・モハ103-336・モハ102-492)のうち中間車8両が回復不能として1989年3月23日付け[74]で、先頭車のクハ103-277が1989年7月25日付け[75]で廃車となっている。 JR西日本の事故廃車 1994年8月3日、福知山線三田 - 新三田間で上り電車がトラックと衝突[76]、前位側先頭車であるクハ103-839が大破した。その結果同車は1994年8月10日付けで廃車[77]となっている。 他形式等との比較 本形式は、製造期間が20年以上に及んだため、その間の技術向上などを反映しにくく、製造後30年近く経っても大量に残っていたこともあり、陳腐化していた[78]。オイルショック以後の省エネという観点において回生ブレーキを装備していなかったことの指摘もある上、JR東日本が製造した209系通勤形電車の車内に103系電車との消費電力量比較が掲示されたことと相まって、浪エネと表現した記事も見られるようになる。鋼製車体で回生ブレーキを装備しない本形式が過去にどのような比較等をなされているかを示す。 旧形国電や101系との電力消費量率の比較(1966年頃) 103系が経済性が高いと言われた所以は、単にMT比1:1による運転が出来て車両費などが安いという点だけでなく、高い加速度と高い減速度によって同時代の他の抵抗制御車よりも消費電力量が少なく、経済運転が可能な点に依るところが大であった。設計当時は後者のメリットを語る記述が多かったが、1980年代以降に回生ブレーキ車が一般化し、さらに軽量ステンレスやアルミ車などが標準になってからは「103系は他系列より消費電力が経済的」というロジックは完全に過去のものとなっている。 下表は103系が量産され始めた当時に試算された他形式との比較表であり、103系が他形式よりも有利であることがわかる[79]。電力消費率は、1kmまたは1000 tkmあたりの消費電力量だが、ここでは1000 tkmを用いている。また、消費電力量は運転時分を長くするとそれだけ減る傾向にあるが、103系の消費電力量、消費電力量率は他の形式に比べて運転時分が短い状態での数値である。同じ運転時分ベースで考えるとさらに103系の消費電力量等は下がる。 113系やMT54の歯車比1:5.60車との比較(1975年頃) 同一駅間における運転時分は、起動加速度を高くとり低い速度で惰行に移る方が省エネになる。このように103系は駅間距離が長くても到着時分は113系などと遜色なく、消費電力量も少ない。車両の最高速度が高いからといって、必ずしも目的地への到達時間が短くなるわけではない[80]。 下表は113系と101系の主電動機をMT54にした架空形式、そして103系の3種類の形式を2M2T300%乗車、回復余力10%という条件で1km - 5kmの駅間距離の運転時分と消費電力量を計算したものだが、113系は限流値が低く起動加速度が低いため、省エネ率なども低くなっている[81]。 営団6000系や301系などアルミ車との比較(1975年頃) 鉄道車両の電力消費量は、編成重量に比例する。つまり車体が軽量であるほど、電力消費量は低くなるため、昭和30年代中頃よりステンレスやアルミによる車両軽量化が始まった。国鉄では、ステンレス車は試作車両のみに終わるが、営団地下鉄5号線(現、東京メトロ東西線)乗り入れ用として、昭和41年にアルミ車体の301系が103系ベースに設計されている。しかし、アルミ車体は製造費が高いこともあって301系の製造は56両で終わり、その後は地下乗り入れ用の車両も103系が製造された。営団地下鉄9号線(現、東京メトロ千代田線)では営団側がアルミ車体回生ブレーキ付きの6000系を使用していたのに対し、国鉄側が回生ブレーキを持たず、電動車比率の高い103系であり、営団側からも早期のチョッパ制御など省エネ車の導入を要請されていた。一時は費用が掛かるため断念したが、1973年末のオイルショック以後、省エネが社会問題となっていた事から、アルミ車体にした場合の効果を再考し、山手線などの冷房付き103系10両編成をアルミ車にした場合で各車両に10t荷重がかかった状態(満車は20tで査定される)では消費電力量が11%削減できると予測している[82]。また、営団千代田線でも我孫子 - 代々木公園間で乗車率50%で実測したのが下表で、車体の軽量化と回生ブレーキを有する事で営団6000系は103系に比べて消費電力量が40%少ない結果となった。 旧型国電や101系との比較(1981年頃) 経済運転は、動力費が原価の部分であると考えるなら企業内で取り上げられて当然であり、各鉄道会社でも古くは蒸気機関車の石炭消費量の節約方法など活発に行われた。103系のような通勤電車の場合も同様に経済運転の手法が確立されており、通勤電車のように起動・停止が連続するものに関しては、定格速度を低く取る事で起動抵抗を早く抜け抵抗ロスを少なくし、高速域は界磁を弱めて対応することが得策である。一定駅間を同一時分で運転する場合は、加速度を高くとり惰行時間を多く取ればブレーキ初速が遅くなりブレーキによるエネルギー損失を防げ、加速度を大きく取ると103系のような直流直巻電動機を用いる場合、定格速度が低くなるが、逆に起動時の抵抗ロスを減らす効果がある。抵抗損失は抵抗の抜ける速度の二乗に比例して増大するため、101系や旧型国電に対して抵抗を抜ける速度が約30km/hと低い103系は、これらの形式に比べて格段に抵抗損失が少なくなっている。結果として、103系を用いることで首都圏などの通勤線区では10%程度省エネとなっている[83]。 駅間が長く高速運転できる形式との比較(1985年頃) 103系電車が阪和線や東海道・山陽緩行線などに投入されると、駅間距離が長い路線では、一般に最高速度やブレーキ初速が高い運転がされているため、投入当初は苦情も多かった。しかし、原因の追及などによりそれらの不満は解消されることになる[3]が、このことが恒久的な問題点だと記事にしたケース[78]などもあり、駅間が長く高速運転をする線区では103系は適さないと思われるようになった。 しかし車両設計事務所の川添雄司は「103系は駅間の長い路線や最高速度が高い路線など別形式が有利に見える路線でも、データを見ると103系に有利な数字が出るとしている。東海道本線・山陽本線などでは、3ドアの113系を4ドアにしたような車両でよいかもしれないが、比較すると103系の方が消費電力量が少ない。103系は駅間の短いところから長いところまで使える上に、価格も安い」と述べている[84]。このことは前述の113系等との1km - 5kmの運転時分や消費電力量の比較などを見ても明らかである。 山手線205系との比較(1986年頃) 1985年9月から1986年9月まで山手線の103系と205系それぞれ1編成に積算電力計を設置し、実車による消費電力量調査を行っている[85]。力行時の効果は205系が軽量ステンレス車体やボルスタレス台車などの採用で編成あたり65トン軽いという要素があり、補機については103系が主抵抗器の強制冷却用ブロアモーターがあること、冷房装置が205系の省エネタイプのAU75Gに比べて古いタイプであることなどによる差も含んだデータとなっている。回生率などのデータはその路線での運転方法と綿密な関連があるので、このデータはあくまでも山手線のものである。 京浜東北線205系・209系との比較(1993年頃) 京浜東北線に209系が配置されると、実際の消費電力量を車両サイドで調査している。この結果を受けて、209系には「この電車は、従来の半分以下の電力で走っています」のステッカーが貼られた。山手線205系での比較にあるように、103系は消費電力量の大きな冷房装置などを使っていることや抵抗器を強制冷却していることなどから、これらを含めると差はさらに広がる。 大量生産の弊害 103系は長期間にわたり大量に製造されたことから、試作後20年を経過した1980年代後半より、アコモデーション面での見劣り、オイルショック以後の省エネ施策の未対応、スピードアップ要求に対応出来ないほか、乗り心地面など様々な面が指摘されるようになる。103系と同時期に設計された国鉄車両も同様な問題点があったが、例えば101系が一部の短区間路線を除き1990年代初めには置きかえられた反面、103系は最終増備車が1984年(昭和59年)製であることから、21世紀に入っても大量に残った。初期に製造された車両を少量数しか承継せず、比較的早い時期に近郊形電車で置き換えが可能だったJR東海は別にして、103系と同時期に製造され続け、103系同様に陳腐化した113系や115系電車を大量に抱えるJR東日本やJR西日本では置き換えのペースが遅く、格差が広がる結果となった。 原因 通常の大量生産される輸送機器では同一の製品を20年以上もそのまま作り続けることは、日本では例がない。例えばスーパーカブのように基本設計の完成度が高く、登場時点で既に21世紀の製品にも劣らない信頼性を有していたものであっても、オイルショック以降の環境・安全面での要請の高まりに対応して大幅な改良が加えられた。しかし、103系電車は試作車落成後20年以上も製造が続けられ、目立った改良は1974年以降の生産分の先頭車両がATCに対応した高運転台タイプに改められた程度で、1980年代に205系が登場するまで新世代の通勤車両は103系を置き換えなかった。これらは下記のような理由によるものである。 標準化による技術の停滞 国鉄では1960年(昭和35年)頃から日本国有鉄道規格、いわゆるJRS (Japanese National Railways Standards) が整備されはじめる[86]。標準化の効果は費用が低減すること、品質が安定すること、作業能率が上がること、安全性が高まることなどメリットが多く[87]、大量の資材調達を行う国鉄が導入することは当然のことであった。標準化による技術の阻害については、標準品を継続して使いつつ技術の進歩を蓄積し、一定のタイミングでモデルチェンジを行うことで技術開発との調和ができると考えられていた[87]が、結果的には単純化の考えにより特定メーカーごとの特徴が出にくくなったこと、特定会社に有利にならないように配慮したことが逆にメーカーの競争力を奪ったことなど、技術革新テンポに合致せず技術の停滞を招く原因にもなり、JR後に廃止された[88]。 国鉄の財政赤字 車両を軽量化すれば維持費用が下がるほか、加速力が質量と関係があることから、加速性能や高速性能のアップが見込める。1960年代に入るとアルミやステンレス車体の試作車を製造し始め、国鉄でも関門トンネル用や営業車ではサロ153形やキハ35形などでステンレスを用いた車両を製造していたが、地下鉄東西線への乗り入れ用として1966年(昭和41年)にアルミ車体の301系を完成させる[89]。301系では1両あたり5t近い車体軽量化が図られたほか、台車を空気ばね付きとして乗り心地を改善している。アルミ車体の採用によって103系と同一走行システムであり問題点を解決できたが、素材の価格が鋼板の6倍から7倍するアルミを用いた車両を大量に製造することは国鉄には難しく、1971年(昭和46年)の西船橋延長用の増備車は103系1200番台になった。これは軽量化で顕著な効果があったとしながらも、財政事情が悪い国鉄では同じ予算で1両でも多くの車両を製造したいという考え[90]があり、財政赤字が車両の改善をも影響を及ぼしていることがわかる[注 8]。長期量産による長期維持費用の著しい低さ(短期的費用の安さ)と、「いくつかの欠点を度外視すれば、大方の用途において当面の必要性能を充足しうる」という103系の特性は、それが旧弊化・陳腐化していることが明白であっても、なお財政赤字の国鉄に増備を続行させる動機となったのである。 チョッパ制御車の開発遅れ 営団地下鉄が1965年(昭和40年)に銀座線の2000形を使用して国内初のチョッパ試験を行い結果的に6000系電車として量産を開始した。国鉄でも1967年(昭和42年)3月に101系電車を改造して力行チョッパ試験を行ったのち1969年(昭和44年)11月には装置を一新し回生ブレーキも含めたテストを行った。しかし、回生ブレーキの結果に難があり、翌1970年(昭和45年)11月にも現車試験を行ったが、回生ブレーキ時の界磁電流制御が今後の課題とされた[92]。力行制御としては既に合格の域に達していたが、抵抗を低い速度で抜ける103系電車との比較では、重い装置を積んでチョッパ制御を力行だけで使うメリットがなく、回生ブレーキとの組み合わせが求められた。電機子チョッパ制御による回生ブレーキは発生電圧を抑える必要があったが、103系で用いているMT55は定格速度が低く、高い速度からの発電ブレーキでは発生電圧が高くなった。これらを改善するため、1972年(昭和47年)に直並列チョッパ装置を開発し、工場での試験では高速からの回生ブレーキに対して有効であることが確認された。しかし、当時の労使関係から、1974年(昭和49年)6月まで現車試験は行われなかった。国鉄の場合、標準化の観点もあり、同一システムを近郊形などにも波及させる困難さが付きまとい、地下鉄のようにブレーキ初速度が低い場所や誘導障害の範囲が限定される状態では導入できる技術も、多くの路線で使うことになる国鉄車での採用には、様々な問題点をクリアしていかねばならなかった。特に標準品との兼ね合いで設計が制約されることがあり、直並列チョッパのような余計な開発時間が必要になる要因を作っていたのも事実である。1975年(昭和50年)頃からは回生ブレーキの特殊性が理解され、チョッパ制御に適した主電動機の設計が認められることになり、チョッパ制御と対になるMT60主電動機の開発と、それを用いた回生システムなどが詰められていく[93]。チョッパ制御の201系試作車が登場したのは1979年(昭和54年)1月であった。右表は電機子チョッパ制御車と103系の消費電力を試算したときの比率で、103系を100とした場合の節減率だが駅間の長い中央線では電機子チョッパ制御のメリットがないことがわかる。なお、回生失効は考慮していない。 個別案件 103系は様々な線区で使用されたことにより、線区特性などに合致しないケースなども多く見られた。経営判断としての投入なのであるが、それ自体に疑問を投げかけられた。故障などの頻度を他形式と比べた場合、103系は他形式より件数が多くなることに留意する必要はある。なお、原因を解明したとしても、それが展開されずに他線区でも同様な問題点が発生する。 衝動について 山手線の103系が40km/hから50km/hの間で電気ブレーキを掛けた場合に前後衝動が激しく、乗客にけが人が出ることもあった。そこで運転士が2段ブレーキを用いて対策を講じたが、ブレーキ距離などの問題があった。原因究明の結果、103系のMT55は電気ブレーキの立ち上がり時に急激に電流が流れることで大きなブレーキが発生していたことがわかった。よって、ブレーキ時の衝動は少なくなった[94]。 走行音 技術の発達に伴い、電車の主電動機や台車等の走行機器から走行中に発生する車外への騒音は年々低減される傾向にあるが、基本構造が1960年代の技術水準に留まる103系は、その面でも改善がほとんど図られてこなかった。同時代に開発された旧型車両の置き換えが進行する中、103系は周辺環境対策でも不利な状況に陥った。 奈良線では2015年(平成27年)時点で他系列と並ぶ主力車として運用されているが、環境省が2015年(平成27年)に国土交通大臣に提出した、奈良線の複線化事業に係る環境影響評価[95]における、沿線環境対策についての指摘項目では、「適切な環境保全措置を講じ、転動音、車両機器音及び構造物音の低減を図ること」として、ロングレール化や、鉄橋におけるコンクリート床版化の極力導入と並び、「103系車両からの代替による低騒音型機器搭載車両の導入推進」が挙げられている。 ダイヤ上の問題 常磐快速線と阪和線で問題になった。これは103系単独の問題ではなく、運用上、阪和線では113系、常磐快速線では401・403・415系と並行ダイヤを組むことになったためである。加減速度が高く中間加速度で劣る103系と各近郊型電車とで並行ダイヤを組んだため、どちらの特性もスポイルした。更に常磐快速線では485系(後に651系も加わる)特急もそのダイヤの中に入りこんだため、ダイヤカットに苦労することになる。 このため、東京鉄道管理局では1972年(昭和47年)の中央・総武緩行線分離後に首都圏の101系を常磐線に集結させ、上野~取手間の快速電車と取手以北へ行く中距離列車の加減速特性を近づけ、同時に松戸電車区の103系0番代を常磐快速線より平均駅間の狭い線区に転出させることが検討された。しかし、この計画は実現しなかった。常磐線快速電車と中距離列車の特性を揃えるという対策は、JR化後に前者をE231系、後者をE531系に置き換えることで実現した。 量産車に対する抜本的な体質改善工事に対する忌避 同時期に製造され性能特性も近い営団5000系などは、回生ブレーキ化によるトンネル内発熱抑制や経済化、性能特性改善のため界磁添加励磁制御へ改造されている。他にも大手私鉄では、同時期の抵抗制御車が界磁添加励磁制御に改造された例が散見されるが、国鉄及びJR各社は性能面の抜本改造を嫌う傾向にあり、実現していない。 製造名目 103系は大量に生産されたが、何の目的で製造されたかという製造名目がある。年度計については早期債務や1次債務での発注は年度初めに投入される部分であるが、1960年代前年度末までに入っていたことがあり、それに従い、年度末までに投入された予算は年度をまたいでも前年度で計上しているものもある。 構造 車体 車体構造は101系に準じており、普通鋼が採用された。そのため、外観は前面以外101系と差がないが、床下機器が変更された。製造が進むにつれ設計変更が盛り込まれており、初期製造車と最終増備車で相違が大きい。 走行装置 主電動機 MT比(電動車と付随車の比率)1:1で駅間距離の短い通勤線区で運用されることを前提に、主電動機を低回転数域トルク特性を重視して定格回転数を引き下げ、これに合わせて電機子の磁気容量を大きく取った新設計のMT55形とした。原設計は日立製作所が担当[97]。なお同一機能で完全互換性があるものの、製造年度により初期型のMT55、中期型でISOネジ採用のMT55A、冷却ファン構造が強化されたた後期型MT55Aの計3種類が存在し、走行時の音が異なる。 MT55形の主要諸元 1時間定格出力 = 110kW/375V/330A/1350rpm(85%界磁)[注 9] 85%界磁定格速度 = 36.5km/h[注 10] 加速度 = 4M4T時2.0(6M4T時2.3)km/h/s[注 11] 駆動方式 = 中空軸平行カルダン駆動方式 台車 試作車用台車 DT26C形電動台車 クモヤ791形用のDT26形の枕バネをコイルばねに変更したDT21形の派生形式。 TR62X形付随台車 TR62形のブレーキシューを片押し式に変更。 量産車用台車 DT33形電動台車 DT26C形の量産化形式。主電動機のMT55形がMT46系と比較して磁気容量確保や低定格回転数化のため大直径化したのに合わせ、車輪径は通常の860mmより大きい910mm、ホイールベースは通常の2100mmより長い2300mmとした。 歯車比は15:91=1:6.07であるが、860mm車輪径換算で1:5.73に相当。 TR201形付随台車 TR62X形の量産化形式。 TR212形付随台車 TR201形のブレーキを再度ディスクブレーキ化した形式。 DT33形台車(JR西日本車) TR212形台車(JR西日本車) 101系からの変更点 車内床のコルク材の使用をやめ、床の厚みが薄くなり台枠底面の高さが上昇。101系の床構造は床面痛みが激しかったことに伴う対策。遮音性・遮熱性は損なわれた一方で、101系とは異なりA基準を満たした構造となった。 パンタグラフは高圧引通線の短縮化などを目的にM車(クモハ103形・モハ103形)に搭載。 運転中の乗務員に対する軌道の流れによる圧迫感を防ぐため、運転台窓を天地方向にやや縮小。 運転台機器は人間工学を駆使した以下のものに改良。 視認性を重視したメーター類配置 操作性・疲労軽減性を考慮して手前に傾けられたマスコン・ブレーキハンドル・運転士座席 扱いやすさの観点から多用するスイッチ類を制御卓に集約 運転台下部正面中央にも外気導入口を追加。 主電動機および電動発電機冷却風取入口は電動車の車体外側幕板部に設置し、戸袋を利用して車体下部へ導く新方式を採用。 正面行先表示器の拡大。 電動空気圧縮機をC2000形とし、搭載車両をM'車(クモハ102形・モハ102形)に集約。 電動発電機は主抵抗器冷却送風機兼用形から独立させ、地下形を除く初期非冷房車は容量20kVAのものをM'車に搭載。 両開き式客用扉のドアエンジン機構を変更。 西武建設(→西武所沢車両工場)が西武鉄道451系電車向けに開発した両開き扉の連動開閉機構「ST式戸閉装置」を導入。1基のドアエンジン(TK4形)とドア上鴨居に仕込まれた連動ベルトで構成され、低費用で簡略ながら作動の確実性も高い開閉機構となっている。 形式 本系列は電動車にMM'ユニット方式を採用しており、モハまたはクモハ103形と102形に主要機器を分散搭載して、電動車2両を1単位としている。形式解説順序は慣例に準じて記述する。車両の方向は東海道本線基準で奇数向きは東京寄り、偶数向きは神戸寄りを表す。 クモハ103形 (Mc) モハ102形またはクモハ102形とユニットを組む制御電動車で、パンタグラフや主制御器などの主回路を構成する機器群を搭載する。奇数向き専用。新造は製造初期の1965年(昭和40年)から1968年(昭和43年)の3年間に限られた。3両〜5両を組成する場合にはこの形式が必要となる[注 12]。 クモハ102形 (Mc') モハ103形またはクモハ103形とユニットを組む制御電動車で、電動発電機(MG)や空気圧縮機(CP)などの補助的な機器を搭載する。偶数向き専用。国鉄は車種が増えることを避けたために1970年から製造された1200番台5両以外に新造車はない。しかし、短編成化時の必要性からJR化後に一部のモハ102形から改造されたほか、3000番台の片側先頭車はこの形式となった。 モハ103形 (M) クモハ102形またはモハ102形とユニットを組む電動車で、クモハ103形と同様にパンタグラフと主制御器を搭載する。 モハ102形 (M') クモハ103形またはモハ103形とユニットを組む電動車で、クモハ102形と同様に電動発電機(MG)と空気圧縮機(CP)を搭載する。 クハ103形 (Tc) 制御車。75 - 91および線区の事情で方向転換した車両を除く0・900・1000・1500番台は、車番が奇数の車両は奇数向き、偶数の車両は偶数向きの先頭に連結される。クモハ103形と同時に製造された500番台は偶数向き専用。 サハ103形 (T) 運転台のない付随車で量産化開始の1964年から製造された。 車種分類 103系の場合、通勤形車両として大量に生産されたことから、製造時期や使用目的などにより、様々な設計変更や、後述する番号の重複を避けるため、番台区分が行われた。そのため、車番により仕様の判別が可能である。 0番台 1984年までに3184両が製造された、103系の基本形式である。長期にわたり大量に製造されたため、途中で様々な改良が加えられている。製造時期ごとに解説する。以下の分類は製造年による区分である。 1964年 - 1967年製造車 クモハ103-1 - 133・モハ103-1 - 159・モハ102-1 - 292・クハ103-1 - 114・501 - 616・サハ103-1 - 225の計1039両が該当する。山手線向けを皮切りに、首都圏各線区へ導入された。試作編成に存在しなかった<b data-parsoid='{"dsr":[54171,54184,3,3]}'>クモハ103形</b>と<b data-parsoid='{"dsr":[54185,54197,3,3]}'>サハ103形</b>が追加された。山手線に先行投入されていた試作車は、後にこのグループに合わせた仕様に改造されている。 1967年10月以降に製造された「昭和42年度本予算車」から、客用ドアがステンレス製に変更されており、それ以前に製造された鋼製ドア車もステンレス製のものに交換されたが、改造工場・時期によって窓の支持にHゴムを使用したタイプと押え金具を使用したタイプがあり、併用車両も存在している。 クモハ103-127 モハ103-82 モハ102-273 クハ103-6 サハ103-25 1967年 - 1970年製造車 上記に続いて製造された量産車グループで、クモハ103-134 - 155・モハ103-160 - 278・モハ102-293 - 433・クハ103-115 - 177・617 - 638・サハ103-226 - 305の計447両が該当する。1967年(昭和42年)に「昭和42年度本予算追加車」が常磐線に、続く「昭和42年度第3次債務車」が阪和線にと高速運転中心の路線への投入が開始され、本系列の使用方法に対する不満や疑問が発生する原因をつくったグループである。 クモハ103形0番台とクハ103形500番台は、本グループで製造が打切られた。本グループからは高速運転対策として、付随車の台車を踏面ブレーキ装備のTR201形からディスクブレーキ装備のTR212形に変更している。 地下鉄直通用の1000番台・1200番台を除く1970年(昭和45年)までに製造された先頭車(クハ103-1 - 179・500番台・900番台全車・クモハ103-1 - 155)の前照灯は、101系と同じく250Wの白熱灯1灯装備で製造されたが、後年になってシールドビーム2灯に改造された車両が多数である。1975年に大井工場(現在の東京総合車両センター)で事故復旧工事施工のクハ103-544、同じく1977年施工のクハ103-4をはじめ、1979年からは本格的に施工された。一方で未改造のまま白熱灯で残存した車両も存在し、2000年(平成12年)11月6日廃車の京葉電車区(現在の京葉車両センター)所属クハ103-562が、最後の白熱灯車両である。 クハ103-149 サハ103-279 試作冷房車(1970年製造) 1968年(昭和43年)に京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)が初代5000・5100系電車増備車に冷房を装備したのを皮切りに、私鉄において冷房を取付けたロングシート車両が登場した[注 13]のに呼応し、私鉄とのサービス格差を改善する目的で試作冷房装置を搭載して山手線に10両編成1本が試験投入された。 冷房方式の比較・検討のために以下の仕様となった。 異なるメーカーの試作した3種の試作冷房装置を屋根上に搭載。 冷房装置の形式の後に付く「X」は「試作品」(eXperimental) を意味するサフィクス(接尾辞、拡張子)。 同じ冷房装置を搭載する車両でも、各車で送風ダクト本数や室内通風口の位置といった風道構造、扇風機の有無などの差を付けた。 冷房電源用のMGは、通常のモハ102形搭載とは別途に編成両端のクハ103形に出力210kVAのものが1基ずつ搭載され、それぞれ5両給電とした。 冷房装置の本体構造には次の大きな相違点がある。 AU73X形:AU74X形…冷房装置の内部に3基の小型ユニットクーラーを集約 AU75X形…冷房装置の内部に2基の大型ユニットクーラーを集約 1ユニット故障時の冷却能力低下が少ないという点では前2が有利であったが、製造・保守費用の点ではAU75X形の方が有利。 後に東芝と日立も2ユニット構成のAU73X形およびAU74X形を試作したが、最終的にもっとも完成度が高かったAU75X形が標準機種として選定された。 翌1971年以降冷房装置と扇風機を併用したAU75系としてこれら3社の手で量産が開始。 このグループはクハ103形最後の白熱灯式前照灯採用車であるが、冷房搭載のほかに以下の設計変更が行われた。 客室窓を製造工数低減と気密性向上の観点から外ハメ式のユニット窓に変更 運転席下の通風口を省略 客室座席を人間工学に配慮した新型に変更 座面低下・奥行きの延長・背もたれの角度も増大を実施 座席下の客室ヒーターとその設置方法を改良 暖房放射面積の増大と暖房能力の強化の観点から、従来7人掛け中央に1基設置→U字型の取付幅が広いタイプを斜めになった座席下蹴込み部に2基設置へ変更 当初は池袋電車区(現在の池袋運輸区)に配置されていたが、1978年(昭和53年)の冷房試験終了後に量産冷房車と同仕様に改造。1979年(昭和54年)以降は山手線のATC化に伴う転配により、各車が転属を繰り返すようになった。 2000年(平成12年)4月3日に習志野電車区(現在の習志野運輸区)配置の4両より廃車が始まり、2005年(平成17年)11月22日に京葉車両センター配置のサハ103-307をもって廃車となった。 現在では、JR奈良線に、クハ103-167 (NS402編成)が残るのみ。 1971年 - 1972年製造車 モハ103-282 - 330・モハ102-437 - 486[注 15]・クハ103-180 - 212・サハ103-308 - 323の計148両が該当する。発注時点で前述の試作冷房車が試験中であったことから非冷房車として製造されたが、これまでの運用で表面化した問題への対策が講じられ、随所に改良が行われたことから、「1次改良車[注 16]」とも呼ばれる。 変更点は次の通り。 客室窓をユニットサッシに変更。 クハ103形の前照灯を新造時から1000番台・1200番台と同じシールドビーム2灯に変更。 冷房を搭載しないので先頭車運転席下の通風口を復活。 主制御器をCS20A形からCS20D形に改良。 冷房化はグループ全車にAU75系冷房装置は搭載されず、分割民営化後に軽量な集約分散式WAU102形(JR西日本)やAU712形(JR東日本)を搭載した車両も存在する[注 17]。冷房改造時にクハ103形の前面通風口は埋込まれており、現存車両はすべて後述の1973年(昭和48年)製造車と同一形状となった。京阪神緩行線に編成単位で集中投入されたため、大部分の車両が明石電車区(現・網干総合車両所明石支所)に新製配置されており、クハ103形は188が松戸電車区(現・松戸車両センター)に新製配置された以外は関西に配属され、JR西日本に承継された。 1973年製造車 前述の試作冷房車の試験結果を踏まえ、1次改良車を基本に当初から冷房装置を標準搭載して製造されたグループで、モハ103-331 - 413・モハ102-487 - 569・クハ103-213 - 268・サハ103-324 - 359の計258両が該当する。ただし、京浜東北線に配置されたモハ103-373 - 382・モハ102-529 - 538は、非冷房車編成に組み込まれることから非冷房車として製造された(後にAU75系冷房装置にて冷房改造)。 冷房装置はモハ103-410、モハ102-566、クハ103-266、サハ103-357まではAU75A形、以降はロールフィルター内蔵のAU75B形が採用された。電力供給用電動発電機 (MG) はモハ102形に制御・補助回路兼用としつつ、冷房電源として自車を含め4両まで給電可能な出力 (160kVA) の物を搭載して、一括給電するように変更され、本系列のMT比が最大でも1:1で、編成中4両に1両は必ずモハ102形が含まれることを考慮して決定された。これにあわせて、車体2・4位側[注 18]にも、電動発電機用冷却風取入口を設置した。 また、以下の改良も行われた。 居住性の改善目的で、座面拡張と蛍光灯の増設を実施。 クハ103形の前面通風口は冷房化により再び廃止。 主電動機をISOネジ採用のMT55A形に変更。 後位側面に電動行先表示器を設置し、その下の側窓は下段上昇・上段下降式に変更。 併せて前面の行先表示器を電動化と位置若干変更を実施。 行先表示器指令器と冷房制御盤を設置したことにより、運転室背後の客室仕切中央の窓を廃止。 客室内3位側妻窓上部には配電盤を設置し、その下の妻窓上段を固定化。 終着駅での折返しによる長時間停車による冷暖房効果を損失させないため半閉回路を新設。 各車両の両端2か所の側引戸を閉、中央2か所を開とする。 当初、山手線・中央線快速(主に特別快速で運用された)および大阪環状線に投入されたが、後述のATC化と関連して関東配属の先頭車の多くは1974年(昭和49年)に新製の中間車と組んで京阪神緩行線(配属は高槻電車区)に転属した。「低運転台+新造時からシールドビーム」形態のクハ103形は関東地区では極めて少数派となった。中央線快速残存車は、後に中央・総武緩行線に転用されて津田沼電車区に転属。さらに一部の車両は後述のリニューアル工事を受け、仙石線(陸前原ノ町→宮城野電車区)に転属した。 1974年 - 1981年製造車 モハ103-414 - 786・モハ102-570 - 899及び2001 - 2043・クハ103-269 - 499及び701 - 844・846・848・850[注 19]・サハ103-360 - 503の計1268両が該当する。 本グループは、クハ103形に大幅な設計変更が実施された。 踏切事故対策や視認性向上のために高運転台構造に変更。 窓下の面が間延びしないように運転室窓下にはステンレスの飾帯を設置。 山手線・京浜東北線ATC化のため準備工事を施工。 運転台後部にATC装置(ATC-6形)搭載のため機器室を設置し、同部分の戸袋窓を廃止。 ブレーキ弁がME40A形からATC対応の非常抜き取り化されたME48形に変更。 後に中央快速線や福知山線などのATC非設置線区にも投入されることになり、対応するクハ103-797・799 - 808・810 - 815・817 - 844・846・848・850はATC関連非装備で製造され[注 20]、ATC機器室の省略・戸袋窓を復活・ME40A形ブレーキ弁装備で落成した。 さらに以下の変更が行われた。 北陸トンネル火災事故の教訓を受けて火災対策が強化され、A-A基準に準拠。 妻扉のガラスが網入になり、消火器置場が1両につき2か所となった。 ただし前面貫通扉は未設置。 本グループの途中から主電動機MT55Aの自己冷却ファンの形状が変更されている。なおMT55とMT55Aのファンの相違による2種の計3種類とも完全互換性があり、全般検査の機会に台車の交換が行われた事から、製造年が古い車輌にMT55A後期型、新しい車輌にMT55が搭載されるなど多様な形態が見られた。なお自己冷却ファンは外扇型である。 1973年製造車で設置が開始された半閉回路は有効に使われないまま、クハ103-317以降から廃止された。 1977年後期製造車からは座席下の蹴込み板がステンレス製になるなど、車内の完全無塗装化が行われた。 なお、本グループをもってクハ・サハ103形は製造終了となった。 モハ103-520 モハ102-676 クハ103-347 ATC準備車<br/>乗務員室直後戸袋窓なし クハ103-831 非ATC準備車<br/>乗務員室直後戸袋窓あり 1983年(昭和58年) - 1984年(昭和59年) 製造車 モハ103-787 - 793・モハ102-2044 - 2050の計14両が該当する。 201系の製造が開始されてから製造であったため、以下の設計変更を実施した。 ゴム布張り屋根から塗屋根へ変更。 クーラー・パンタグラフの横のランボードを201系と同一形状に変更。 各窓支持Hゴムが材質変更により白から黒に。 側扉開口部周囲を完全溶接化。 冷房装置はステンレスキセの改良形のAU75E形に変更。 赤羽線の10連化および山手線輸送改善の件名で新製され、池袋電車区に配属された。 モハ103-787 - 791+モハ102-2044 - 2048の5ユニットがカナリア色で赤羽線用。 モハ103-792・793+モハ102-2049・2050の2ユニットがウグイス色で山手線用。 その後、カナリア色の5ユニットはウグイス色に塗り替えられ、1985年(昭和60年)9月末の埼京線開業(赤羽線の延長)による受持区所の変更のため川越電車区(現在の川越車両センター)に転属し、そのまま埼京線で運用された。分割民営化時には、全車JR東日本に承継された。 クハ103形500番台 1965年(昭和40年)に京浜東北線への本系列投入が開始されたが、当初は基本編成と付属編成の分離運転が考慮されていたことと、下十条電車区と蒲田電車区では検修線が10両分無かったことから3両と7両に編成を分割して使うこととなった。投入当時は京浜東北線の10両設備が未完成であったことから2両+6両の8両編成で使用された。2両と6両に分ける必要があるため奇数向きの先頭車としてクモハ103形が設計され、反対側はクハ103形0番台が連結された。しかし、クモハ103と対になるクハ103形は向きが偶数向きに固定されることから、両渡り式のクハ103形0番台では、ジャンパ栓納めや床下の配線が一部省略できること、両栓のジャンパ連結器を片栓の物にできることで費用を下げることが図れることから、1966年(昭和41年)4月以降の10両編成対応の製造分から、偶数向きの片渡り式にしたクハ103形500番台に設計変更された。クハ103形0番台との外見上の違いは、正面右下にあったジャンパ連結器納めがない点である。クハ103-617番以降の台車がディスクブレーキのTR212形に変更されている。また、陸前原ノ町区の車両の一部はジャンパ栓を片栓から両栓に改造している。 試作車 モハ103形・モハ102形・クハ103形900番台 1963年に先行試作車として新造された車両で、山手線用に4両編成2本が製造された。量産車との相違点を以下に示す。 台車が、DT26C形(電動車)・TR62X形(付随車)を装着。 ジャンパ連結器が、KE58形2基(19芯×2)。 このためKE70形1基の量産車とは混結不可。 製造当時の車両番号はウグイス色の地に白文字(量産車は黒文字)とした。 当初は1 - を称していたが、1964年(昭和39年)3月31日付けで900番台に区分変更・改番された。 モハ103/モハ102-1・2→モハ103/モハ102-901・902 クハ103-1 - 4→クハ103-901 - 904 上記改番のため、クハ103-1 - 4・モハ103/モハ102-1 - 2は「2代目」車両。 1967年(昭和42年)2月に量産車化改造が施工された後は量産車と混用されたが、最終配置はクハ103形が豊田電車区で青梅・五日市線、電動車ユニットが川越電車区で埼京線で、それぞれ老朽化により最後まで冷房化されることなく1992年(平成4年)までに全車廃車となった。 モハ103形・モハ102形910番台 加減速時に発生する空転を防止する観点から、1967年に制御段数を力行55段・ブレーキ51段と大幅に増やしたCS30形超多段バーニア式制御器を搭載した試作車の区分である。 制御器搭載のモハ103-911 - 913とユニット間の引通線を一部変更したモハ102-911 - 913の合計3ユニット6両が製造された。品川電車区に配置され、山手線で試験が行われた結果、問題点の改善策を講じた量産型であるCS40形が後述の地下鉄乗り入れ用1000番台に採用された。精密なバーニア機構は製造費用が高く保守にも手間がかかることから、1000番台・1200番台に採用されたに留まり、その他の増備車は従来型のCS20形のままで製造された。 山手線で910番台は1編成に集約の上で運用されていたが、同線の205系化により他線区に転出させる際、特殊な制御器淘汰を名目に以下の転用改造が施工された。 冷房改造され160kVA-MGを搭載していたモハ102-911・913以外の4両については電装解除のうえ、後述のサハ103形800番台に改造。 モハ102-911は浦和電車区に転属、モハ103-107とユニットを組成。 モハ102-913は豊田電車区に転属、モハ103-62とユニットを組成。 新ユニット組成車は、ほぼ同時期に保全工事を施工された非冷房車(後にAU712形で冷房化)。 ユニットを組替で捻出されたモハ102-172・62はサハ103形800番台に改造。 1994年にモハ102-913が、1995年にモハ102-911が廃車となり区分番台消滅した。 地下鉄対応車両 地下鉄乗入用として、以下の車両が0番台と並行して製造された。乗入先各線はすべて保安設備が異なるため、投入路線ごとに仕様を変え、新たな番台が起こされているのが特徴である。 1000番台 常磐緩行線・帝都高速度交通営団(営団、現・東京地下鉄)千代田線直通運転用として、1970年(昭和45年)から10両編成16本160両が製造され、松戸電車区(現在の松戸車両センター)に配置された。落成から千代田線乗入開始までの一時期は地上区間で運用された。 以下の設計変更が行われた。 A-A基準に準拠して設計されたため、車体には不燃・難燃素材を使用。 主回路ヒューズ箱は屋上へ移設。 クハ103形前面に貫通扉を設置。 前面窓下へは警戒の意味で太帯を配置[98]。 前面運行番号表示窓上方と側面幕板部には青21号の国鉄マーク(JNRマーク)を掲出。 千代田線用ATC機器を乗務員室直後の床上搭載としたため該当部分の戸袋窓は廃止。 営団から要求された加速性能を実現するため編成中両先頭車以外の全車を電動車化 (8M2T)。 主電動機の限流値を上げ、制御器は910番台の節で解説した改良型のバーニヤCS40形制御器を搭載。 トンネル内での騒音防止の観点から、主抵抗器冷却には送風機を使用しない自然通風式を採用。 乗入協定に従い前照灯をシールドビーム2灯化。 塗装は灰色8号地に窓の上下に青緑1号の帯。 千代田線開通以後、長らく国鉄側所属車両として千代田線直通専用に充てられたが、営団が新造した回生ブレーキが使用可能な電機子チョッパ制御車6000系より電力消費量が格段に多い[注 21]ことや、抵抗器からの排熱によってトンネル内温度が上昇する・車内の床が焦げるなど[注 22]という問題が発生したことから、1984年から1986年(昭和61年)3月までに203系へ置き換えられ(詳細は常磐緩行線#複々線化の沿革と問題を参照)、捻出された本区分番台は以下の経過をたどった。 近畿・広島地区用105系への改造・転用 56両は105系に改造され、奈良線・桜井線・和歌山線・紀勢本線和歌山 - 和歌山市間の電化開業用および可部線の旧形電車置換用として、奈良電車区および広島運転所へ転属。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化時にはJR西日本に継承。 地上線(常磐快速線・成田線)への転用 松戸区残存の104両は地上線(常磐快速線と成田線の我孫子 - 成田間)に転用され、ATC機器を撤去。青緑1号一色に塗色変更された。 後に地上用0番台とも混結されるようになり、冷房装置も搭載された。[99] 1989年(平成元年)には10両編成1本が営団東西線乗入用として三鷹電車区(現在の三鷹車両センター)に転属し、営団東西線用ATC-3形(色灯式信号用ATC)・デッドマン装置付マスコンハンドル化・塗色変更を施工した。廃車は2002年(平成14年)からで、松戸区の車両は常磐快速線・成田線へのE231系0番台の投入によって2004年(平成16年)3月までに、三鷹区の車両は東西線乗入運用へのE231系800番台の投入によって2003年(平成15年)5月30日に運用を終了し全車廃車となった。 1200番台 中央・総武緩行線・営団東西線直通運転用のグループで、301系の増備車にあたる。国鉄の財政難により、地下鉄乗り入れ車の製造費用低減のために製造された本系列の区分番台で、301系と同じ7両 (6M1T) 編成を基本としたため、地上形にはないクモハ102形 (Mc') が開発・製造された。1970年(昭和45年)に1本(7両)、1972年(昭和47年)・1978年(昭和53年)にそれぞれ2本(28両)の計5本(35両)が製造された。 1000番台からの変更点を以下に示す。 ATC機器は東西線のWS-ATC(国鉄名称:ATC-3型)対応機器に変更。 そのため乗務員室直後の戸袋窓が復活。 機器配置を301系に合わせたため蓄電池の搭載車などが異なる。 塗装は301系に合わせたためライトグレー(灰色8号)に黄帯(黄5号)の塗装。 ただし、駅の放送や案内板などでは営団5000系が銀色だったことから「銀色の電車」という案内が行われていた。 雨樋・窓枠・通風器形状や座席寸法は他の本系列と共通とした。 地上型のマイナーチェンジに合わせ、第2編成以降はユニット窓を採用。座席寸法も301系と同一に変更した。 主電動機も第2編成以降は後期型MT55Aを搭載した。 1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に際しては、35両全車がJR東日本に継承され、全車、AU712形集約分散式冷房装置により冷房改造を施工し、一部は常磐快速線に転用された(以降の状況については、#1200番台塗色変更・10両編成化関連も参照)。最後の1200番台となったK9編成が、2003年7月31日に大宮工場(現在の大宮総合車両センター)へ廃車回送された。これをもって本区分番台は消滅した。 1500番台 唐津線・筑肥線・福岡市地下鉄1号線(現在の空港線)直通運転用として、1982年に6両編成 (4M2T) 9本54両が製造された。編成番号は3両ずつに分かれている。 製造当時、既に常磐緩行線・千代田線直通用として電機子チョッパ制御の203系電車が製造されたが、筑肥線は筑前前原以西の駅間距離が長く列車密度も低いため、ブレーキ頻度や回生負荷の面で電機子チョッパ制御車を導入しても省エネ効果や回生制動力が期待できないことから費用の安い本系列が一部設計変更のうえ導入され[100]、唐津電車区(現在の唐津鉄道事業部唐津運輸センター現在は唐津車両センター)に配置された。 1500番台のみ、日立製作所で製造された(川崎重工業と分担)。 本区分番台の変更点を以下に示す。 機器配置は他の地下鉄乗入車に準じているが、主制御器は0番台で広く使用されているCS20D形を基本に自然通風式主抵抗器を使用するために手直ししたCS20D-G3形を搭載。 電動発電機は、費用削減のため急行形の廃車発生品を搭載。 車体や内装は実質的に本番台と同時期に製造された201系を基本としており、本系列で唯一、新造時から戸袋窓がない[注 23]。 A-A基準準拠のため、先頭車両は105系に類似した貫通扉を有する前面デザインを採用[101]。額縁スタイルの一種ではあるが、彫りはごく浅く、傾斜も付けられていない。窓まわりの配色はクリーム色(塗装参照)となっている。 塗装はスカイブルー(青22号)にクリーム色(クリーム1号)の帯。 国鉄車を示すJNRマークをクハ103形正面に掲出。 折返時などの長時間停車での車内保温のため、4ドアのうち3ドアを締切るドアカット機能を搭載[101]。 1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化で全車がJR九州に継承されたが、同社に継承された本系列は本グループのみである(その後の状況については、#JR九州も参照)。分割民営化後、4本が先頭車化改造により3両編成化された(#編成分割参照)ため、2010年(平成22年)時点で13本54両となった。3両編成は限定運用、6両編成は303系代走運用も担当した。なお、クハ103-1504は1998年(平成10年)3月に今宿駅付近で強風により脱線したが、復旧している。 乗り入れ先の地下鉄線はATO路線であり市営地下鉄の車両ではこの機能を利用したワンマン運転を行っているが、当グループにはATO装置が搭載されておらず、地下鉄線内はATCを利用して運転を行っていた。また同線内のホームドアとの連動もできないため、地下鉄線内では車掌が乗務し、ドア開閉は車掌スイッチとともにホームドア開閉スイッチを操作していた。 2014年(平成26年)7月31日、JR九州より後継となる305系の投入が発表された。6両編成6本が製造され、2015年(平成27年)2月5日より営業運転を開始している。これに伴い順次地下鉄乗り入れ運用から離脱し、6両編成5本と3両編成2本が廃車となり、JR九州小倉総合車両センターにて解体された。現在では残った3両編成が筑前前原と西唐津の間でワンマン列車として運行されている。 各線区ごとの歴史 仙石線 1979年より仙石線の旧形車(主に72系)の置換えのため、首都圏各線への0番台ATC対応車投入で捻出された山手線・京浜東北線・横浜線・青梅・五日市線で運用されていた0番台初期車が転用された。首都圏とは異なる寒冷地の仙石線事情から、投入時に以下の改造を施工した。全車スカイブルー塗装で入線している。 塗装をスカイブルーに統一。 出入り口の半自動ドア化・取手取り付け。 客室ヒーターの増設。 タブレット使用区間が存在したため、乗務員室扉直後の戸袋窓をタブレット衝突による破損防止の観点から埋込[注 24]。 2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設。 前面窓ガラスにデフロスタを取付(後に熱線入ガラスと交換されたため撤去)。 ATS-S形車上装置の搭載。 国鉄末期の1986年にクハ103-10・42・74の3両に対し、車内に清涼飲料水の自動販売機とゴミ箱が設置された(いずれも後に撤去) 2本を除き全編成が非冷房編成であり、冷房編成のうち1本は1987年(昭和62年)に105系電車に改造されている。 全車JR東日本に継承されたが、更新車の導入により1993年までに全車廃車となった。 仙石線への車両更新車の投入 1989年以降、首都圏への205系電車投入によって余剰となり、在来形本系列置換え用として仙石線に入線した車両は、車両更新工事が施工されたが、通常の更新車と異なり、以下の改造が施工された。ただし一部は冷房化率100%を早期に達成するため、未更新のまま入線した車両もある(その後、改めて改造を施工して再入線している)。 窓を上段下降・下段固定のユニット窓に交換 側窓、戸袋窓ガラスの着色ガラス化・バケットシート化・袖仕切設置 ドアを窓が大きいタイプに交換、 1994年投入のRM-155編成および1998年投入のRT-299・371編成(京浜東北線・根岸線から捻出されたATC仕様車)は首都圏で更新を終えてから転入したため、3編成は窓とドアの交換が省略された。 半自動ドア(ボタン式)化・ドアブザーの設置 内壁張替、先頭車にはゴミ箱(のちに撤去)も設置 前面窓を2枚窓化 運行番号表示器を列車愛称・種別表示器に交換 AU712形で冷改されていた車両のうち、側面方向幕が未設置であった車両は、更新と同時に搭載。 塗装は上からアイボリー・青(太線)・スカイブルー(側扉はアイボリー単色)に変更。 1998年投入の高運転台車編成より白にコバルトブルーを配した「SENSEKI LINE色」に塗装を変更。のちに従来車も変更。 RT-299・371編成は高運転台先頭車+非ユニット窓中間車という異色の編成で、内装を交換せず、ドアの配線も剥き出しで投入。 のちにRT-105・107・131・235編成ではモハ103形のパンタグラフを2基に増設するダブルパンタ化が実施され、2000年には扇風機やベンチレーターの撤去も施工されたが、老朽化が進み205系3100番台に置換えが決定し、[注 25]2004年7月までにRT-235編成を除く17編成が運用を終了し、廃車・解体された。なお、後述の川越電車区に投入された3500番台よりも改造箇所は多いものの、改造に伴う区分変更・改番は行われていない。 RT-235編成 仙石線での本系列運用は2004年7月に一旦終了したが、2006年以降に予定された多賀城駅付近の立体交差化工事の際に車両不足が想定[注 26]されることから、本編成のみ郡山総合車両センターで留置された。2006年11月に同センターで復帰のための整備が施工され、2007年3月19日より営業運転に復帰した。 復帰の際に以下の改造工事も併せて施工された。 クハ103-235にトイレと車椅子スペースを設置[注 27]。 ATS-Sn→ATS-Psに変更。 モハ103-343のパンタグラフをシングルアーム式2基に変更(本系列初かつ唯一)。 台車をグレー塗装化。 座席モケットを205系と同タイプに変更。 復帰後は平日朝のラッシュ時に区間運転2往復限定で運用された。しかし、老朽化と首都圏配置車の需給調整の結果、南武線209系2200番台投入により205系が捻出できることになり、2009年10月21日を最後に営業運転を終了[102]。同月26日に郡山総合車両センターへ廃車回送され[ネット注 1]、2010年1月に解体された[ネット注 2]。 4両とも中央線快速→中央総武緩行線→仙石線と転属してきた車両である。 RT-235編成 クハ103-235 トイレと車椅子スペース(左) モハ103-343 交換された座席(右) 営業運転最終日 中央本線名古屋地区 1977年にATC対応車の投入で捻出された0番台初期車が中央本線(中央西線名古屋地区)に投入され、神領電車区(現在の神領車両区)に配置された。初期投入分が京浜東北線・横浜線、後期投入分が青梅・五日市線からの転用と統一された。投入時に以下の改造を施工した。 塗装をスカイブルーに統一。 2人乗務用に運転室助士側に座席とワイパーを増設(後期に投入されたものについてはワイパー増設がされていない)。 前面窓ガラスにデフロスタを取付(後にガラスを熱線吸収ガラスに交換したため撤去している)。 先頭車側面にサボ(行先方向板)受けの設置(後期に投入されたものについては設置されていない)。 サボを使う関係で冷房車でも方向幕の使用は行わず、前面の方向幕も「中央線」・「普通」などのステッカー貼付による固定表示とした。 運用はラッシュ時に10両編成とされていたが、以下の変遷を経ている。 投入当初は置換え前の72系が5+5両編成であり、近い両数による組成としたためで、1986年11月1日ダイヤ改正後は輸送力適正化のため日中運転用の付属編成を3両とした。 川越線・八高線 種車は1974年(昭和49年)に仙石線用72系4両編成5本計20両の車体を郡山工場で同時期製造の本系列<!--[[台枠]]を残して←[[国鉄72系電車#アコモデーション改良車]]によると、台枠は72系仕様の物を新規に制作したとあるが、真偽のほどは?-->と同等の車体に更新[注 28]したアコモデーション改良車のモハ72形970番台・クハ79形600番台で、1985年 - 1986年に大井工場・大船工場・大宮工場・新津車両所にて本系列への編入改造を施工した番台区分である。 モハ72形970番台・クハ79形600番台は、1980年までに本系列投入による仙石線の未更新旧形車両が置換え後も運用されていたが、1985年に同線の車両が本系列に統一されたため運用を喪失した。しかし、車体更新からの経年が浅かったことと当時の国鉄が逼迫する財政であったために転用先が検討された。 ほぼ同時期に埼京線の開業ならびに川越線の電化が完成し、大宮 - 川越 - 高麗川間の区間運転用電車が必要となった。そのため、旧性能電車の新性能化[注 29]という、国鉄としては稀な改造工事を施工しての投入となった。車端部装着の製造銘版には昭和28年(=1953年)や昭和29年(=1954年)など改造種車の製造年が記載されていたが、21世紀まで活躍し製造から50年以上も現役だった。 分割民営化では全車がJR東日本に継承され、その後AU712形冷房装置とインバーター (SIV) を搭載して冷房化、同時に側面行先表示機(先頭車のみ)も搭載する改造が施工された。 1996年(平成8年)には、八高線八王子 - 高麗川間の電化完成に伴い同線でも運用開始されるとともに、輸送力増強と新たに投入された本系列3500番台改造車、209系3000番台と編成を合わせることから、サハ103形3000番台を川越線用3000番台編成に組み込み4両編成となった。これにより3000番台は川越電車区配置となり、以下の編成が組成された。 ( )内は本系列化改造施工工場。 旧番号との対照は72系の該当項目を参照。 老朽化により205系3000番台・209系3100番台への置換えで廃車が進行し、2005年(平成17年)10月2日の「川越線電化20周年記念号」をもって運用を終了。その後もハエ53編成が予備車扱いで残存したが[注 30]、11月中旬までに全車廃車・解体され区分消滅した。 八高線 一部電化関連(3500番台) 1996年(平成8年)3月の八高線八王子 - 高麗川間の電化では、川越線用3000番台が同線でも運用されるようになったが、運用区間の延長で既存の車両では必要編成数が不足した。そのため、209系3000番台4本が新製されたほか、本系列の0番台4両編成1本が寒冷地走行用に半自動扉機能設置の改造を施工され川越電車区に投入された。 本改造施工車は新たに3500番台</b>に区分された。半自動扉は3000番台の手動開閉方式に対し、押ボタン開閉方式とされた。 3000番台と共通運用されたが、2005年(平成17年)4月に廃車・解体された。JR西日本に播但線用「3500番台」区分車が存在するが、関連ならびに重複車番はない。 山陽本線下関・広島地区 下関運転所(現在の下関総合車両所運用検修センター)の115系非冷房車置換えのため、山陽本線下関地区に本系列が投入されることになり、以下の転入対応改造が吹田工場・鷹取工場で施工された。 ATS-S形・列車無線の搭載 瀬戸内色への塗装変更 方向幕不使用のため行先表示板(サボ)受けの設置(サボ受け設置位置の弱冷車表記は干渉するため移設されたが、弱冷車表記は移設前後とも使用していない) 1992年5月から運用開始したが、トイレを装備した近郊型電車に置き換えられ広島運転所に転属。広島地区(山陽本線・呉線・可部線)での運用された。 側面方向幕の使用が開始されたがサボ受けは残存(前面方向幕は使用されず、運行表示器には編成番号を掲出。4両編成1本はサボ受けが未設)。 一部は関西地区に再転属したが、サボ受けは未撤去。 4両編成は2007年から関西地区で余剰となった113系[注 31]に順次置換えられ、2011年3月1日のE-07編成の廃車をもって全廃。一方、4両編成のうち付随車[注 32]を抜いて3両にした編成は3本が組成され、2008年にクハ103(86・170・171)にトイレの設置と側面方向幕が移設され使用が継続されたが、2015年3月14日に227系に代替される形で全車運用離脱、広島地区から103系が完全撤退した。当該編成は朝、運用についたあと、2編成を連結し下関にある下関総合車両所本所に回送、その後に解体された。 クモハ103-48を擁する広島D-01編成(2015年廃車) 山陽本線岡山地区 下関地区と同様に115系非冷房車を置換えるため、1994年より広島支社に続いて岡山支社にも投入、同年4月25日より営業運転を開始した[103]。塗装については独自の「マスカット色」に変更された。岡山電車区に4両編成5本20両配置で、山陽本線岡山地区や宇野線などで運用。 編成構成はすべて0番台でクハ103形は1次改良型と初期量産冷房車、中間車も1971年以降のユニット窓装備車で統一された。 冷房装置は全車一般的なAU75形搭載。 中間MM'ユニット3組に延命N40施工。 他の14両はN延命工事・戸袋窓閉塞施工済。 長らく20両で推移したが、2004年に213系「マリンライナー」の転用により運用離脱し、3編成が広島支社に、N40施工MM'ユニット1組が奈良電車区に転属し、MM'ユニットと編成を組成していたクハ2両は廃車された。残存1編成は予備車とされたが2006年に廃車され、完全に運用を離脱していた。その直後にアーバンネットワークでの車両置換えに伴い、奈良電車区・日根野電車区からの余剰車が転入して、本系列の運用が再開された。 1994年転入車と同じ0番台であるが、上記の編成構成かつ初期車の率が高く1本は戸袋窓が存置されているなど比較的状態が良いのが特徴。その後現在までに車両交換があり、1994年転入車と同構成の編成も在籍するようになった。ただし、塗装は統一されていない。2008年末からは、広島運転所からの転入も行われたが、こちらも塗装変更は未施工のままである。なお岡山地区からは103系は引退している[104]。 モハ103-497 1994年転入車 H17編成<br/>日根野電車区転入車 H18編成<br/>奈良電車区転入車 H19編成<br/>広島運転所転入車 播但線投入(3500番台) 1998年3月14日の播但線姫路 - 寺前間の電化完成に伴い、同区間で本系列が投入されることになった。需要とワンマン運転の利便性から、営業用としては本系列初の2両編成となり、改造費抑制のためにクモハ103形2500(元・5000)番台ユニットから9本が1997年から1998年にかけて3500番台に区分改造され、網干電車区(現・網干総合車両所)に配置された。改造種車には状態の良い車両が選定されたため、製造の新しいユニットが中心である。JR東日本に同じ番台区分が存在したが、関連性や設定形式が異なるために車番重複はない。設計は吹田工場が担当し[105]、改造は吹田工場と鷹取工場で施工されている[106]。 クモハ103形3500番台 寺前側の制御電動車。クモハ103形2500番台が種車。3503・3509は運転台上部にパンタグラフを追加設置するためのパンタ台を設置[107]。 クモハ103-2506・2508 - 2515→クモハ103-3501 - 3509 クモハ102形3500番台 姫路側の制御電動車。改造種車になっていたクモハ103形2500番台とユニットを組むモハ102形0番台に運転台の設置改造を施工。運転台形状はクモハ103形2500番台に合わせた1971 - 73年製造の「1次改良型」とし、新造された運転台妻鋼体を取り付け、乗務員扉や運転台機器は同時期に廃車となったクハ103形を流用している[106]。 モハ102-583・636・641・655・883・885・2027・2029・2037→クモハ102-3501 - 3509 同時に体質改善40N工事を施行。一部に延命N40工事施工車が存在するが、重複施工となった。 クモハ103-3501・クモハ102-3501編成は、体質改善40N施工車で乗降ドアのガラスの支持方が205系と同様であり、ガラス周りに金属フチがない異端車[107]。 また本区分ではワンマン運転時対応のため以下の特化した装備を持つ。 運転席からの視認性向上のために運転台仕切りの設置と妻面貫通扉の窓を拡大し、明るい室内を実現[105]。 車内で運賃収受が行われることから、運転台仕切りにバスタイプの運賃表示器と運賃箱[注 33]を設置[108]。 ワンマン運転時に一部扉が閉め切られることから車外客用扉付近に出入口を明示するLED表示器を設置。 また、直通予備ブレーキの追加のほか、自動解結装置、耐雪ブレーキも装備されている[109]。 ワンマン対応工事と同時にEB装置が設置された。2005年から2007年にかけてクモハ102形に3550番台と同型のトイレが設置され、窓が埋め込まれた。2009年以降、ATS-PやTE装置の取付が行われている[110]。また、BH3、BH9の両編成にはパンタグラフが2つ搭載された。 日根野電車区からの応援編成 3500番台に加え、2006年3月には日根野電車区から阪和線で運用されていた0番台6両編成1本[注 34]を借り受けた。姫路駅高架化工事の進展によって山陽本線ホームと播但線ホームを構内で入換することが一時的にできなくなり、221系電車による朝ラッシュ時の応援運用が不可能になるためである。ラッシュ時以外に使用されないことから、塗装も阪和線のスカイブルーを維持。同年11月に検査期限が近づき、かつ223系2000番台4次車投入で運用に余裕が発生した113系6両編成と交換された。 全車最初期の1964年製造で老朽化が進んでいたため、2006年12月15日付けで廃車された。 和田岬線投入 2001年の和田岬線電化に伴いスカイブルー塗装で延命N40工事車統一の6両編成1本が網干総合車両所明石品質管理センターに配置された。本編成が検査などで運用を外れた場合は207系[注 35]で運用される。 同線に列車の運行が無い日中時間帯は乗務員訓練に使用されるため、前面にワイパーが3本取付られた。 また、乗務員室と客室間の仕切り窓の形状は独特な角ばった形状で、ガラスの支持方法は他の延命N40と異なりゴム押さえではなく金属押さえになっている。 加古川線投入(3550番台) 2004年12月19日の加古川線全線電化に伴い播但線と同様にワンマン運転対応の2両編成が投入された。網干総合車両所加古川派出所に8本が配置されたが、様々な変更が加えられたため新たに3550番台へ区分された。 改造施工は吹田工場と下関車両センターだが、両者には床面ビニールクロスの色や妻面部分化粧板の固定方法など細かい部分での仕様差がある。落成が電化より早く、登場からしばらくは網干駅や、網干総合車両所などに留置された。3500番台と共に分割・併合が多い路線に配置されるが、電気連結器などは未装備である。 3500番台ではクモハ103形ユニットの反対側のモハ102形に運転台が設置されて組成されたが、本区分では体質改善40N工事施工済のMM'ユニットが種車となった。この時期の体質改善は簡略化した30N工事に移行していた上にクモハ103形ユニットは年齢が高い車両が多く[注 36]、前面形状を変更[注 37]することから既存の運転台が使えないという事情があった。 種車は森ノ宮電車区・奈良電車区の編成からMM'ユニットを抜き取り、両端に運転台を設置した。運転台形状は大幅に変更され、前照灯を窓下に配置し、2編成併結時に乗客の通行ができるよう貫通扉を設置し、105系に近いスタイルとなった。この措置は同時期に改造されたクモハ115形1600番台との共通点が見られる。 クモハ103形3550番台 モハ103形0番台に運転台設置改造を施工した谷川方制御電動車。一部は運転台側屋根上に冬期架線霜取用パンタグラフを増設。 モハ103-659・660・714・715・726・728・730・731→クモハ103-3551 - 3558 クモハ102形3550番台 モハ102形0番台に運転台設置改造を施工した加古川方制御電動車。同社の本系列で初めて洋式車椅子非対応トイレを設置した。 モハ102-815・816・870・871・882・884・886・887→クモハ102-3551 - 3558 改造工事 改造工事は、形式間改造と呼ばれるものの他に、耐用年数を延長するための延命工事、線区の特性に合わせた付加設備を追加するもの、車両の性能や旅客設備の向上を図るものなどがある。ここでは国鉄時代とJR化後に大きく分けて説明する。国鉄時代からJR化後も継続して工事を続けたものは国鉄時代に始めた改造の方で取り上げる。 国鉄時代の改造工事 国鉄は1970年代になると財政難により、新造費用を軽減する目的で、別の用途に振り向けた。 101系の103系連結対応工事 1970年(昭和45年)12月10日より大阪環状線の一部を8両編成化した。大阪環状線は101系または103系の6両編成が25本配置されており、ラッシュ時2分40秒間隔運転を行っていたが、8両編成化にあたりラッシュ時の時隔を3分に戻し、捻出される6両編成4本24両を既存の6両編成に組み入れる編成替えを行い、6両編成12本を8両編成12本に組成し直した[111]。しかし、101系は8両化に際して4M4T編成が組めず6M2T編成になることから、編成替えにあたってサハ101とサハ100が余ったため、そのサハを103系6両編成に組み込み103系も8両編成にするため若干の小改造を行なったものである。森ノ宮電車区所属のサハ100-55・58・サハ101-55・58の計4両に、ジャンパ連結器をKE57形2基からKE70形1基へ交換、貫通幌を交換する小改造を吹田工場で施工した。この4両は番号変更は行われず1979年(昭和54年)までに復元され片町線の101系編成の6連化用に転用された。 サハ103形750番台 1964年(昭和39年)度から赤字経営となった国鉄は、無駄をなくすことが求められた。モーターの付いていない101系は簡単な改造で103系と連結できることからサハ101形を103系化改造したものがサハ103形750番台である。下記の30両が国鉄時代に改造されているが経年の浅い101系の車両を選んでいる。サハ100形も同様工事を施工して700番台とする計画も存在したが実施されなかった。車体そのものにはほとんど手を加えられていないことや元々本系列が101系の構造を基本に設計されている関係で、連結時の外観上の違和感は少ないが、細部ではサハ101形の車高はサハ103形よりやや低く、台車もDT21T形もしくはTR64形という若干の差異がある。 改造時期・種車形態・改造内容により以下の5種に細分できる。 サハ101-111・112・113・114・133・134・139・140・143・144・145・137・138・141・142・100・107→サハ103-751 - 767 非冷房のサハ101形から改造されたグループ。改造時にAU75形による冷房化改造と側面行先表示器の設置を施工。 サハ101-123・124・126→サハ103-768 - 770 改造時にAU75形で冷房化されていたサハ101形が種車のグループ。側面行先表示器は未設置。 サハ101-282・299→サハ103-771・772 2.と同形態だが、種車がサハ101形200番台のグループ。200番台はMG・CPを搭載車であったが、改造時に撤去。側面行先表示器は未設置。101系試作冷房改造車で、冷房装置が車体中心からずれた位置に搭載。 サハ101-115・116・127・128→サハ103-773 - 776 非冷房のサハ101形から改造されたグループ。冷房・側面行先表示器ともに未設置。JR東日本継承車の775がAU712形で冷房改造された以外は非冷房のまま廃車された。JR東日本継承車の774は豊田→中原→松戸と転属。松戸区ではエメラルドグリーンに塗装されたが、これが唯一の例である。 サハ101-119・120・121・122→サハ103-777 - 780 改造時にAU75形で冷房化改造済のサハ101形が種車のグループ。改造時に側面行先表示器を設置。779以外の3両はJR西日本継承後の1993年に台車をTR212形に交換。 分割民営化時にはJR東日本とJR西日本に継承。一部は延命工事が施工されたが、早期に廃車対象となり、2002年にJR西日本で765が廃車となったのを最後に全廃となった。 冷房化改造 103系は1973年(昭和48年)以降の製造車は基本的に冷房車となったが、それまでの非冷房車も1975年(昭和50年)度以降冷房改造工事を行った。冷房装置は新製冷房車と同じAU75形の集中冷房装置で、搭載にあたり車体の補強や側面行き先表示器の追加を行なった。冷房用電源もモハ102形に160kVAのMGを搭載することになり、既存の20kVAのMGと交換した。これらは新製冷房車に準じたものである。また、これらとは別に1975年夏に関西地区で先頭車のみ非冷房車の編成が投入されたが、扇風機回路を冷房起動回路に代用することによって一斉起動できるように施工された。その後関東地区にも同様の事例が発生したが、こちらでは両端の乗務員室内に新たに冷房起動回路用のスイッチ(冷房制御スイッチ)を取付けた。1981年(昭和56年)度からは中京地区でも冷房改造が始まり、冷房制御スイッチ取付が施工された。 クハ103形0番台の1000番台併結対応化改造 1983年(昭和58年)に常磐線で車両需給上、クハ103形0番台2両+1000番台電動車8両の10両編成を組成する必要が生じ、該当編成に組まれるクハ103-93・188・627・636に対して施工された併結対応改造。 乗務員室に非常用ブザーの取付ならびに非常用ブザー・連絡用電話回路切替スイッチの取付。 188は車両数の関係で方向転換(偶数向き→奇数向き)を併せて実施。 施工車は、一般車との識別のために外部の車両番号下部に白線を追加。 川越線区間運転用改造 仙石線時代の4両編成×5本から3両編成×5本への編成組替を含む本系列化改造である。 72系アコモ改良車仙石線編成 103系3000番台川越線区間運転車編成 本系列化改造を施工するにあたり、制御器をはじめとする機器は新品としたが、以下で示す機器・部品の有効活用が行われた。 1985年に集中台検[注 38]の廃止および工場の予備品見直しにより捻出したMT55形主電動機とDT33形台車を電動車に搭載。 クハ103形の台車は、101系廃車発生品のDT21T形を搭載。 電動発電機 (MG) は、モハ72形970番台が装備していたものをクモハ102形に移設。 また、種車の構造を有効に活用するため、0番台車とは以下の差異がある。 モハ72形に搭載されていたパンタグラフを活かし3両編成を組成することから、0番台のクモハ103形+モハ102形の構成から本区分番台ではクモハ102形+モハ103形に変更となった。 通常ユニット相手の電動車側に搭載されるモハ103形のパンタグラフが、反対側のユニット外側に搭載。 床下機器類の配置も0番台と逆位置となる。 主電動機冷却風は車体側面に設置された風道から採風したが、クモハ102形では未施工。 本区分番台では、モハ103形と共に主電動機にフィルタ箱を設けて直接採風する方式が採用され、モハ103形の風道・取入口は1両を除いて改造時に埋込んだ。 クモハ102形搭載のMGも同様の方式とした。 川越線も仙石線同様に冬期寒冷となるため72系時代からのTK8形半自動扉[注 39]は残存。 仙石線時代はタブレットが使用されていたため、タブレット衝突による運転室扉直後の戸袋部窓破損を防止する観点から保護板が設置されていたが、一部は保護板を撤去し埋込んだ。 このため同時期のATC車と酷似した外観となった。 仙石線時代の検査担当が郡山工場であったことから、検査時には交流区間を機関車に牽引される配給回送となっていた。そのため通常の尾灯とは別に外吊式の標識灯掛けフックが存在する。 後に一部車両は撤去。 冷房化改造・側面行先表示機の搭載は経費の都合で見送り。 なお、形式ごとの種車には以下の関連がある。 クハ79600(偶数)→クモハ102形 クハ79600(奇数)→クハ103形 モハ72970(偶数)→モハ103形 モハ72970(奇数)→休車 青梅・五日市線4両編成化対応改造 上記の改造に漏れたモハ72形5両は休車となったが、1986年(昭和61年)11月のダイヤ改正で青梅・五日市線が4両化されることになり、電装解除されてサハ103形3000番台となった。電動車であったことから、屋根上にパンタグラフ台が残るなどの特徴のほか、機器類も流用品である。オレンジバーミリオン(朱色1号)に塗装され豊田電車区配置となり、以下の編成を組成した。 103系3000番台青梅・武蔵五日市線組込編成 関西方面編成数増加関連(2000・2050番台) 1986年(昭和61年)の関西本線(大和路線)と阪和線の編成短縮・編成数増加政策[注 40]に伴い先頭車が不足したため、余剰となった101系の先頭車が改造・編入された。種車によって以下の番台区分とされた。 クハ103形2000番台 非冷房のクハ100形から改造された車両。奈良電車区に配属され、主に関西本線で運用。 クハ100-92・35・31・60→クハ103-2001 - 2004 クハ103形2050番台 非冷房のクハ101形から改造された車両。日根野電車区に配属され、主に阪和線で運用。 クハ101-78・83→クハ103-2051・2052 前述のサハ103形750番台同様、車体には手が加えられていないが、101系と本系列では前面の窓形状が異なっているため、差異が目立っている。冷房装置・側面行先表示器の搭載は未施工のままであった。 分割民営化時には全車JR西日本に継承された。1991年(平成3年)に2052が阪和線のATS-P形化に際し対応工事を施工されないまま京阪神緩行線に転用されたものの[注 41]、経年や事故で早期に廃車対象となり1992年(平成4年)までに全車廃車され区分消滅した。 105系への改造 JR東日本の改造工事 本系列は、大量輸送に特化した国鉄の標準型通勤形電車という形態から、20年以上に渡り製造が継続された。そのため性能・設備面では陳腐化が目立ったが、1983年(昭和58年)3月の中央線快速が201系への、1986年(昭和61年)4月の常磐緩行線が203系への置換え完了を除き進行しておらず、分割民営化時には現役車両は全て承継された。しかし、その後はJR各社で新型車の開発・投入による置換えにより廃車が進行した。その一方で国鉄時代より柔軟かつ徹底した改造施工例も多く、様々な新区分番台も発生した。 JR東日本では、東中野駅列車追突事故以降にATS-P形化を促進させた。単に機器搭載のみならず、ME40形ブレーキ弁搭載車の大半はME48形への交換が行われた。ただし、クモハ103形は、車上機器の搭載スペースが不足したことから、苦肉の策で運行番号表示窓を潰して搭載。運行表示器は前面ガラスに設置した。 また、運用路線ごとに特化した仕様への改造も施工された。 南武線・鶴見線用(全車)京浜東北線・常磐快速線用(一部)…外幌取付とそれに伴う妻窓閉鎖。 京葉線用…先頭車にスカート(排障器)を取付。 常磐快速線用…運行番号表示器をLED式に変更。 しかし、1990年代からは205系・209系・E231系などの置換えにより廃車が進行した。首都圏では2006年(平成18年)3月18日のダイヤ改正までに全車が定期運用を離脱。同年4月8日の常磐快速線でのさよなら運転、その翌日の車両展示会を最後に営業運転が終了し、仙石線では最後まで残っていたRT-235編成が2009年(平成21年)10月21日に営業運転を終了した。 これにより、同社の本系列は消滅。なお、以下で同社が施工した大規模改造工事について解説を行う。 AU712形による冷房化 国鉄時代から非冷房車に対して冷房改造工事を行ったが、従来からのAU75系冷房装置での改造は構体の補強なども踏まえ、1両あたり2000万円から3000万円の費用と2か月から3か月の改造時間を要した。そこでJR九州が1987年(昭和62年)度から18000kcal/h×2の床置きタイプのAU2Xを開発し費用・工期ともに三分の一で改造できるようになり、冷房化率100%を達成した。しかし、乗客の多い通勤形電車の場合の必要な冷房能力を計算したところ240%乗車時に30%の人が快適と感じるには42000kcal/hの能力が必要である[112]。これらを考慮してJR東日本では同年9月、サハ103-128の屋根上両車端部に1基ずつ取り付ける分散冷房装置日立FTUR-300-102形を試作した。1988年(昭和63年)度から同様な屋根上配置のAU712形冷房装置(冷房能力21000kcal/h×2)を開発して冷房改造を進めた。当初の冷房用電源はモハ102形に搭載されるMGによったが同年下期からは屋根上にSC24形補助電源装置 (SIV) を取り付け、他車からの電源供給が無くても冷房が使えるようにした。その結果、冷房用の引き通し線を車体に設けておらずAU75系搭載車と混結した場合に、AU712冷房改造車をまたいでの冷房電源の供給が出来ず、冷房が効かなかった。また、SIV搭載で改造された車両は初期車が多く、一時的な延命といった形だったため、廃車対象となった。MG給電車は2005年(平成17年)にモハ103-185+モハ102-340の廃車により営業車両から退き、SIV搭載車は0番台は2004年にクハ103-125の廃車で消滅し、残った3000番台も2005年に廃車された。側面の行先表示機の設置は一部にとどまり、クハ103の偶数向き車は基本的に設けられず、仙石線更新工事施行車に後付けされたほか、SIV搭載型はクモハと3000番台の先頭車以外は未施工であった。 クハ103形への自動分併装置(電気連結器)の取付 1989年から分割併合運用の多い以下のクハ103形に自動分併装置取付工事取付が施工された。 京葉電車区…基本編成蘇我方・付属編成東京方 豊田電車区…青梅・五日市線用4両編成 松戸電車区…基本編成取手方・付属編成上野方 松戸区基本編成の一部には、取手方先頭車にクモハ103形が組込まれていたが、他車両基地からの転入車も活用しクハ103形に統一した上で施工。 車両更新工事 国鉄時代から特別保全工事が施工されていたが、同社では、1988年(昭和63年)から一層徹底した延命工事に切り替えられた。施工対象は、主に1967年 - 1972年製造車で、一部は冷房化も施工された。 工事内容 屋根鋼板補修とポリウレタン樹脂系塗屋根化 雨樋取替 外板取替(屋根・腰板部・窓周辺) 側窓枠取替 外板塗装更新 空気配管取替および除湿装置取付 主回路配線引替 ジャンパ連結器の取替および片栓車の両栓化 引戸の取替(上レール・下レール座・戸車取替) 室内化粧板とカーテン取替 シートモケット取替(フットライン入り) 握り棒・荷物棚のステンレス化 吊手の取替 側扉を除いた各ゴム類の黒ゴム化(戸先・戸当り・Hゴム・押えゴム) 側扉ガラス支持方法の変更(Hゴム方式から金属押えゴム方式。一部車両はドア自体をゴムの無い金属押え方式のものに交換したほか、更新前に金属押さえ方式に交換された車両はそのままとした。) 本工事は複数の工場が担当しており、車内でも化粧板の柄や腰掛モケットが異なるなど、仕様に差異が見られる。*大井工場施工車の一部は袖仕切設置が施工され、長野工場施行車はドアコック蓋が原型のままである、など。 1992年(平成4年)に低費用で量産可能な209系が登場するとJR東日本は更新工事を中止し、老朽車の置換えに移行した。そのため、後期車の大半は未更新車であり、後期車の多い中央・総武線では更新車の比率が他の路線に比べて低かった。 訓練車 1991年に同社では、乗務員を対象に定期的に行う異常時の取扱いや応急処置等の教育訓練のため保留車を整備することになった。一般営業用車両を現車訓練に用いることが難しくなったことも一因である。 本系列の訓練車は非冷房車3両3編成が整備され、豊田電車区・浦和電車区・松戸電車区に配置した。一般車両との識別のため、これらの編成の車体には2本の白帯と「訓練車」の文字が書き込まれた。浦和・豊田配置のモハ102形は、一部のドアの締め切りや荷物棚の撤去、機材置場の設置などを行ったため事業用車両に変更となり、新形式の<b data-parsoid='{"dsr":[97681,97693,3,3]}'>モヤ102形</b>となった(モハ102-138・140→モヤ102-1・2)。 その後、改造種車が非冷房だったこと、ATC・ATS-S形・P形が未搭載で本線運転に制約があったことから、1995年に冷房車の4両3編成と交代となった。豊田・浦和配置編成は、モヤ102形に改造された(モハ102-508・519→モヤ102-3・4)。 浦和配置車は、同区の営業用車両が209系に統一された後も使用されていたが、2000年に廃車。 豊田配置車は、201系四季彩編成が訓練車を兼ねることから、2001年に廃車。 松戸配置車は、MM'ユニットが同区我孫子派出の車輪転削装置改修に伴う予備車確保のために白帯や「訓練車」の文字を消して営業車に復帰した経歴を持つ。2006年に廃車。 これにより本系列の訓練車編成は消滅。 910番台転用関連 CS30形超多段バーニア式制御器搭載試作車の同ユニットは一般車とは混結運用ができないことから、山手線から転用する際には以下の2グループに分かれた。 別ユニットのモハ103形とユニットを組成 モハ102-911+(モハ103-62) モハ102-913+(モハ103-107) ユニット組成時にモハ102形2両はAU75形冷房改造車、モハ103形は非冷房車。後にモハ103形はAU712形で冷房化。 サハ103形化改造 CS30形制御器搭載のモハ103-911 - 913・モハ102-912・上述のユニット解除されたモハ102形2両の計6両は以下の改造を施工されサハ103形800番台となり、松戸電車区配置で常磐快速線に投入された。 電装関係機器の撤去 モハ103形はパンタグラフの撤去とベンチレータの設置 台車をTR201形へ交換 モハ103-912・911・913・モハ102-912・172・62→サハ103-801 - 806 全車が冷房改造を受けており、国鉄時代改造の802・803が集中式AU75形、サハ化後改造の残り4両が集約分散式AU712形を搭載(後者は側面方向幕設置未施工)。国鉄時代に特別保全工事を受けた802・803・805・806が1993年(平成5年)に、JR化後に車両更新工事を受けた801・804が2003年(平成15年)に廃車。 サハ103-803 (元・モハ103-913) モハ103-107(非冷房)+モハ102-911(冷房車) 1200番台塗色変更・10両編成化関連 1989年(平成元年)に中央・総武緩行線に205系が黄帯[注 42]で登場し、誤乗防止の観点から帯色をスカイブルー(青22号)に変更[注 43]した。同時に駅の放送や案内板も「銀色に青帯の電車」に変更された。1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化後は、JNRマークをラインカラーで塗りつぶし[注 44]、白色の巨大なJRマークを先頭車の側面窓下に貼付するという小変化があった。 ラインカラー変更とほぼ同時期に冷房改造が若干早期に行われたため、冷房改造された黄帯編成も存在した。同時にクモハ102形を除く全形式に側面行先表示器を搭載し、前面方向幕も連電動化された[注 45]。 1991年(平成3年)12月1日ダイヤ改正では東西線完全10両化により、7両編成で残存していた本系列5本(35両)と301系2本(14両)は全て10両編成に組み替えられた。余裕が生じていたため12両が常磐快速・成田線用として松戸電車区に転出[注 46]した。これは、冷房化の予備車を確保するために松戸電車区から借入扱いで転入していた103系1000番台を本配置(のちのK8編成)とし、代わりに余剰となった車両を転出させて返却扱いとしたためである。 残存車は、7両編成時代の旧K12・K13編成を中心に以下の車両を組み合わせ10両の新K6・K7編成を組成した。 モハ103・102-1202[注 47]: 松戸転出の旧K9編成から捻出 モハ103-1207+モハ102-1205: 残存の旧K11編成から捻出 サハ103-429・430[注 48]: 浦和電車区から転入 モハ103-1207+モハ102-1205を抜き取った旧K11編成は、5両編成で新K9編成となり[注 49]、同じく10両編成化で5両編成で残った301系と組成した。*のちに301系5両編成が廃車されたため、予備編成となった。 前面強化工事 成田線大菅踏切事故で運転士が殉職したことから踏切事故などでの乗務員の保護のために前面を強化する工事が1995年3月末までに施工された。113系などは車両基地で施工し、施工直後は前面がステンレス地の車両も見られたが、本系列では検査入場の際に工場にて鋼板を取り付ける工事を施工した。1974年以降に製造された高運転台車は製造当初から前面が強化されているため改造対象外であった。1993年12月までの大宮工場にて施工車は尾灯上部の足掛けが外側に設置されている。インドネシアに譲渡された初期先頭車はこの形態。 各線からの撤退 201系・205系・209系・E231系などの投入・転用により撤退した。時期は定期運用離脱時で撤退後にイベント運転されたケースもある。 中央快速線 1983年3月 常磐緩行線・営団千代田線 1986年3月 山手線 1988年6月 横浜線 1989年2月 埼京線・川越線(大宮 - 川越間) 1990年12月 京浜東北線・根岸線 1998年3月 中央・総武緩行線 2001年3月 青梅線・五日市線 2002年4月 中央緩行線・営団東西線 2003年6月 仙石線 2009年10月(2004年7月 - 2007年3月は運用されず) 南武線 2004年12月 八高線・川越線(八王子 - 川越間) 2005年10月 京葉線 2005年11月 武蔵野線 2005年12月 鶴見線 2005年12月 常磐快速線・成田線(我孫子 - 成田間) 2006年3月 JR東海の改造工事 70両を承継したが、1965年(昭和40年)から翌1966年(昭和41年)にかけて製造された初期車両であったことから、一部の冷房車を含む20両は廃車し、残った50両には以下の改良工事を施工した。 塗色変更 承継車はスカイブルーであったが、後述のリフレッシュ工事施工車両は、同社のイメージカラーであるクリームにオレンジと緑の帯に塗り替えられた。新塗色の登場は1989年。当初は前面にJRマークがなく、帯に切れ目がなかった。 C-AU711A形による冷房化 JR東日本のAU712形と同様に工期短縮と経費削減の観点から、C-AU711A形集約分散式2基搭載による改造工事が施工された。モハ102形には冷房電用SIVを搭載。青22号の塗色のままC-AU711A形を搭載した車両も存在した。側面方向幕の設置は未施工。 リフレッシュ工事 室内のアコモ関係に他の車両との格差が目立つようになったことから、特別保全工事に211系5000番台の水準をベースとした室内のリフレッシュ工事を併施した。内容を以下に示す。 側窓の上段下降・下段固定のユニット窓化 側扉・妻扉取替 握り棒・荷物棚のステンレス化 座席袖仕切取付 バケットシート化 塗色変更 これらのメニューは、車両により異なったことから、側扉・側窓・冷房などに差異が発生した。朝夕を中心に中央西線(名古屋 - 瑞浪間)で3両+7両の10両編成を組みラッシュ時輸送に投入されたほか、関西本線で3両編成が運用された。ダイヤ上のネックとなり、313系の導入に伴い1999年(平成11年)に定期運用から離脱、2001年(平成13年)までに廃車となった。 JR西日本の改造工事 承継車両の多くが初期から中期型車であったことから、延命を図っている。また、JR化後に新たな用途が多数発生しており、それに合わせた改造も見られる。 羽衣線関連 羽衣線には1987年(昭和62年)にクモニ143形荷物電車改造のクモハ123-5・6が日根野電車区に投入されたが、同時にラッシュ時3両運転用増結車としてクハ103-194が用意され、1995年に阪神・淡路大震災後の応援車両として貸し出されるまでの間運用された。 1989年(平成元年)秋からはワンマン運転を行うことになり、クハ103-194・クモハ123形2両、および予備車としてクモハ103-77+モハ102-186+クハ103-545にワンマン運転対応改造が施工された。なお、クハ103-194および予備車3両は1990 - 91年にWAU102形による冷房化改造と延命N工事が施工された。 阪神大震災の後、クハ103-194はJR神戸線の応援編成に転用され、代替として大阪環状線で使用されたサハ103-758に朱色のままワンマン運転対応改造を施工し、クモハ123形2両で挟んだ3両編成で運用された。 阪神大震災後の応援運用を終えたクハ103-194は、事故廃車となったクハ103-839の補充として福知山線に転出し、塗装もカナリア色に変更されたが、前面行先表示機が手動であるなど異端な存在であったことから、1997年9月1日に、播但線用3500番台への運転台部品供出のために廃車された。 1995年(平成7年)クモハ123形2両はクモハ84形置き換えのため岡山電車区に転出し、交代でワンマン運転対応改造を施工したクモハ103-23+モハ102-105+クハ103-26が投入された。 2007年(平成19年)には2編成(クモハ103-2503+モハ102-396+クハ103-162・クモハ103-2504+モハ102-451+クハ103-192)にワンマン運転対応改造が施工され、1989年と1995年にワンマン化改造された2編成は廃車となった。 WAU102形による冷房化 JR西日本の冷房改造は、当初は国鉄時代を踏襲したAU75形集中式冷房装置によって行われていたが、1988年(昭和63年)より改造に必要な費用の削減と早期の改造進展のため、WAU102形分散式を1両あたり3基搭載する方法に改められた。 冷房電源は1編成あたりクハ103形1両(大阪環状線用8両編成のみ両端のクハ103形2両)に冷房用静止形インバータ (SIV) 搭載で対応している。WAU102形は製造会社による形状の違いも認められており、東芝製と三菱電機製では外部ルーバー形状などに差異がある。性能には大差はないため、混載する車両も存在する。 WAU102形搭載車は同車エリアに広く配置されていたが、AU75形に比べて冷房能力が不足することから、優先的に廃車が進められた。2007年7月、日根野区に配置されていた羽衣線予備編成の廃車をもって近畿圏からは消滅し227系投入により最後まで残った広島圏の車両も廃車となった。廃車発生品のWAU102形や電源用SIVは105系の体質改善工事の際に一部が再利用された。 関西本線関連(2500・2550番台) 国鉄時代に関西本線(大和路線)では、列車増発を編成短縮と編成数増加させることからクハ101・100形改造のクハ103形2000・2050番台で対応した。この方針は民営化後も引き続き行われたが、不足する先頭車は余剰中間車の改造で対応することになり1988年に以下の2形式7両が改造された。 クハ103形2500番台 モハ102形が種車で前位側に運転台を設置。方向転換し偶数向き専用。 モハ102-387・388・397・398→クハ103-2501 - 2504 クハ103形2550番台 モハ103形が種車で奇数向き専用。 モハ103-233・242・243→クハ103-2551 - 2553 両区分共通の改造内容は次に示す。 電装解除と2550番台ではのパンタグラフの撤去。 ランボードや一部車両では側面の主電動機・電動発電機冷却風取入口も存置。 2551・2552はパンタグラフ撤去跡に通風器が増設。 台車は種車のDT33形を小改造したWDT33T形を継続使用。 新設運転台は同社の方針から1974年以降製造の高運転台型ではなく、1次改良型の低運転台・シールドビームタイプ。 2500番台が1両多いのは、羽衣線に転用されたクハ103-194のを補充する必要からである。 改造時は非冷房であったが、後にWAU102形による冷房化と延命N工事を施工。しかし種車の車齢が高く、冷房能力も劣ることから早期に廃車対象となり、2500番台は播但線用3500番台へ運転台部品供出で1997年4月8日に、2550番台は状態のよい余剰車に置換えられて2006年3月1日に全廃された。 片町線 一部電化関連(5000・2500番台) 1989年(平成元年)3月11日に片町線(学研都市線)が全線電化されたが、その際に開設された松井山手以西は7両編成での運転は可能であるが、以東の各駅はホーム長が短く入線不可であった。そのため松井山手駅で京橋寄りの4両を切離し、木津寄りの3両のみが入線するという運用で対応することになった。さらに翌1990年(平成2年)には木津駅乗入れ編成を4両編成とする組成変更が行われた。 両編成間の連結部は電気連結器使用。 5000番台は以下で解説する連結・解放用装備搭載改造が施工された車両である。 クモハ103形5000番台 クモハ103-48・モハ103-248・249・241・295・304・427・435・480・485・499・727・729・770・772・780→クモハ103-5001 - 5016 分割・併合の迅速化のため、電気連結器と電気空気開閉器を搭載した。5001はクモハ103形が種車。他はモハ103形に運転台を設置して対応し、新番号は5004を除いて古い順に振り直された。新設運転台は、クハ103形2500・2550番台と同様に1次改良型タイプだが、5001を含め奥行きがやや広く運転台直後の戸袋窓が改造時からない。種車が多岐に渡るため、前面以外の形態は各車ごとに異なる。非冷房車を種車とする5001-5003は改造時に冷房化(WAU102形)と側面方向幕設置が施工された。 サハ102形5000番台 サハ103-385・277・280・281・286・290・320・323・366・383・386・390・416→サハ102-5001 - 5013 クモハ103形5000番台の分割・併合相手として、サハ103形0番台から改造された。電気連結器などの装備の際、既存の床下機器と干渉するため方向転換されため通常のサハ103形と逆配置となり取扱が異なることから、別形式とされた。運用上、松井山手駅に残されるため標識灯掛が設置され、運用範囲が狭いことから改造両数もクモハ103形5000番台より3両少ない13両(4両編成が3本少ない)。5001を除いて新番号は古い順に振り直され、車両ごと形態に差異がある。編成構成の変更により1年足らずで意義が失われ、サハ102形0番台となった。方向転換は行われず、側面方向幕の設置位置[注 50]など、サハ103形との外観差異はその後も残った。 モハ102形5000番台 モハ102-395・450・459・590・635・638・640・654・882・884・2026・2028・2041→モハ102-5001 - 5013 編成組成の変更に伴い、新たにクモハ103形5000番台の分割・併合相手としてモハ102形0番台から改造された。改造内容はサハ102形5000番台に準じているが、方向転換はされていない。 サハ103形2500番台 モハ103-232 → サハ103-2501 編成組成の変更に伴いモハ103形0番台から改造された付随車でクハ103形2550番台から運転台設置を省いた形態である。当初4両編成に組成されていたサハ102形を木津直通編成に転用されたが、車両不足が生じた。2両は一般のサハ103形が転用されたが、残りの1両はユニット相手のモハ102-387がクハ103形2500番台に改造され余剰となったモハ103-232を種車として改造した。同時にWAU102形による冷房改造および延命N工事を施工された。 クモハ103-5003 密着連結器下に電気連結器を装備 サハ102-2 電気連結器撤去後 片町線運用からの転用 本区分番台は、1993年 - 1995年に207系の新製投入により、順次関連装備を撤去の上で他線に転用された。 クモハ103形 5001は原番復帰、5002以降は車番を-2501の2500番台に区分された。1997年 - 1998年にかけて9両が播但線用3500番台に改造され、2011年には日根野電車区に在籍していた元5008(→2507)が廃車、2015年には広島運転所に在籍していた元5001~5003(→48・2501・2502)が廃車となり、2018年(平成30年)3月現在では日根野電車区に2503・2504が残存する。 このうち2503・2504は羽衣線用ワンマン運転対応、2504は編成全車が体質改善40N工事を施工、2503は全車が非ユニットサッシ車である。2505は廃車されている。  なお広島運転所の48(←5001)は新製時からクモハ103である車両で最後の現存車両であった。 サハ102形 1・9 - 13は延命N40が施工されたが、2008年に9が廃車されて形式消滅。 モハ102形 他線転用時などに電気連結器を撤去した車両もあったが、電気空気開閉器を撤去した段階で元番号への復帰を実施。廃車となった車両がある一方で体質改善工事施工車もあるが、標識灯掛が残存しているため妻面の形状が一般のモハ102形と異なる。 サハ103形 廃車となった。 ATS-P形導入に伴うブレーキ弁改造・交換 ATS-P形搭載に付随して、ブレーキ弁の改修が施工された。電源投入方式がJR東日本と異なるため非常抜取対応のME48形は導入せず、従来からのME40形に電気接点部分改造施工で対応。その後117系などに採用されたME49系への交換が開始された。 座席モケット交換 イメージアップの一環として、201・203・205系と同様の、座席モケットが茶系統で3-1-3の区分入仕様に交換したが、その後、緑色などの試験を経て近年ではシーマンブルー(わずかに紫がかった青)1色に再交換されつつある。優先座席も青地にピクトグラムの入ったものに交換されている。福知山線脱線事故によりJR東日本から転入した8両のうち、広島運転所に投入されたクハ103形は2廃車までJR東日本仕様のままであった。 腐食対策 延命の一環として、腐食の原因を取り除く改造がされた。 窓閉塞 雨水の浸入を防ぎ車体腐食の遅延化ならびに窓清掃の簡略化から、1990年より戸袋窓の、1997年からは妻面窓の閉鎖工事を施工した。2007年7月現在で戸袋窓残存車は日根野電車区・岡山電車区・広島運転所に4両編成1本ずつ、計12両のみである。妻面窓については閉鎖ではなく、オリジナルの2段開閉式から1枚固定ガラスへの交換車も存在している。 扉交換 腐食防止のために側扉および貫通扉が鋼鉄製からステンレス製に交換している。新扉は車両によって窓の支持方法が異なる<!--施工時期の違い?-->ほか、貫通扉はオリジナルより窓下方が長いものであり、ほぼ全車が施工した。扉に化粧板と同色のシールが貼られた車両も存在するが、側扉への施工はごく少数に限られ金属地むき出しが多数である。 前面金属板設置 窓支持用Hゴムの保護と運転台への風雨浸入防止のため、先頭車の前面ガラス・運行番号表示器・行先表示器の縁部分が金属板で覆う施策である。 クハ103形高運転台<br/>戸袋窓閉塞施工車 窓閉鎖車車内 延命N40車<br/>固定式妻窓(左側) 新貫通扉 ステンレス製扉<br/>金属枠支持(左) Hゴム支持(右) クハ103形0番台<br/>前面窓ステンレス<br/>側扉窓アルミ押さえ支持車 クモハ103形2500番台<br/>前面窓・側扉窓Hゴム支持車 スカート設置 201系などとともに、衝撃への耐久性を高める目的でスカート(排障器)が設置され、全先頭車に施工された。 延命工事 国鉄時代の「特別保全工事」を発展させる形で、車両延命と接客設備改善のための工事が行われた。試験的なものをのぞくと、内容によって以下の4種に分かれる。 延命N 製造から30年の使用を目指し外板整備・機器の一部更新・配管の交換および化粧板の張替・扉のステンレス化・妻窓の固定化など。1972年までの製造車大半が該当。 延命NA 国鉄時代の特別保全工事施工車に内壁の張替など前述の延命N工事と同様の工事を施工。施工済部分は省略。 延命NB 1970年(昭和45年)以前製造の初期車が対象で延命N工事と同時にWAU102形搭載冷房改造・側窓の延命N40工事(後述)で使用されるものと同様の黒サッシへの交換を施工。施工車両は11両に留まり、2006年(平成18年)4月までに廃車。 延命N40 製造から40年の使用を目指し、従来の延命N・NA工事内容に加え、塗装総剥離塗り替え・雨樋のFRP化・窓サッシの交換(上段下降・下段固定の黒色サッシ)など。主に1973年 - 1976年製の車両に施工されたほか、広島運転所では1972年までに製造された車両の一部にも施工。この工事で採用された黒色サッシは取付部枠の幅が太く、ガラス面積が従来より減少。 延命N車 延命NA車 延命NB車 延命N40車 延命N車(左) 延命N40車(右) 延命N車車内 延命N40車車内 体質改善工事 1996年(平成8年)以降、後継の207系との落差改善ならびに延命N40工事以上の徹底した延命を目的とした体質改善工事が施工された。工事施工車の車番標記は、国鉄時代の丸ゴシック体→JR西日本独特の書体(モリサワ・新ゴ)に変更された。 体質改善40N 老朽車のイメージ払拭と保守性の向上のため以下の工事を施工。 Colombia 本工事の施工1号となった8両編成1本は、以下の相違点がある。 ドアエンジンがTK4形からドア上部設置の直動式に交換 座席全交換(207系と同一の下部が空洞の片持ち式) 前灯は原形維持 妻窓残存(のちに埋込み) 下枠交差式パンタグラフの取り付け(のちに菱形へ交換) 後にこの編成はサハを除き日根野電車区へ転属したが、2013年(平成25年)3月に廃車となった。その後もサハは、日根野から転属して来た体質改善40N編成の中間に組み込まれて運用されていたが、323系投入に伴い、2017年(平成29年)1月に、廃車前提で吹田工場に回送された。これらの工事内容は、次第に冷房風道のラインフロー化→従来風道の再用やラインデリア→扇風機などの簡略化が進み、2002年からは後述の30N工事に移行した。 体質改善40N車(低運転台) 体質改善40N試作車<br/>クハ103-245 ※2013年3月廃車 方向幕部分支持方法の相違<br/>内支持(左)金属枠支持(右) 体質改善40N車車内<br/>冷房風道ラインフロー化<br/>ラインデリア改造車 体質改善40N車車内<br/>風道改造・妻面窓閉塞車 体質改善40N試作車車内<br/>下部空洞化片持ち式座席 カバー取付扇風機<br/>ラインデリア化省略車 (参考)通常の扇風機 体質改善30N 2002年以降新車投入ペースが速まり本系列の車齢も高まったことから、内容が製造後30年程度まで使える程度に縮小された。直接保守面・接客面への影響が少ない外装の改造は大幅に簡素化され、体質改善40Nに比べてドア・側窓・屋根樋などが原形のままとされた。1973年以降に製造された車両のうち、延命工事を含む上述5種類の更新未施工のクハ103形とMM'ユニットが施工対象とされた。2005年までに2両(モハ103-405+モハ102-561)[注 51]を除く全車に施工された。 体質改善30N車(低運転台) 体質改善30N車車内<br/>原型窓・照明カバー省略以外は40N車に準ずる 現状 JR東日本の場合と異なり、本系列を使用する方針により、編成替えにより延命工事施工車や後期製造車で状態不良車を置き換えるという、本系列同士の置換えで対応した。しかし、延命期間を経過したことや方針の変更、そして前述の通り環境省から騒音防止のため103系の代替車両の導入推進の通達が出された事などで、2010年頃から廃車の進行が急速になってきている。その後、短編成化や新型車両(225系5000番台、323系)投入に伴う運用見直しなどで、サハやWAU102形冷房搭載車が廃車となったほか、比較的車齢の若いユニット窓車、さらには延命期間がまだ経過していない車齢35~37年程度の体質改善車についても廃車が進行しており、大阪府下を走る各路線では既に運用されていない。 2006年 - 2007年には、JR京都・神戸・宝塚線系統に321系が投入され、201系が大阪環状線や関西本線(大和路線)などに、205系が阪和線に転用された[注 52]ため、本系列の転属と廃車が行われた。また、山陽本線等の岡山地区電化区間では、2010年3月のダイヤ改正で再び定期運用から離脱している。そして2011年3月のダイヤ改正では阪和線への225系5000番台投入と運用見直しにより、森ノ宮電車区から日根野電車区への転属と廃車が多く発生、両区とも配置車両が減少した。2015年3月のダイヤ改正では広島地区への227系導入により、下関・広島地区での運用が消滅した。2016年からは大阪環状線に323系が、阪和線に225系5100番台がそれぞれ投入されている。このため2017年(平成29年)10月に大阪環状線・桜島線からは引退[113]し、2018年(平成30年)3月には阪和線からも引退した[ネット注 3]。両路線の103系は廃車または廃車待ちの保留車となっている。 JR九州の改造工事 編成分割 筑肥線は筑前前原を境に断面輸送量が大きく異なることから、以西運用の短編成化を行うことになり、1989年(平成元年)に小倉工場で6両編成9本のうち4本に対して3両編成8本に分割する改造が施工された。 編成番号+1500で各形式の車両番号となる 改造内容の概略は、6両編成組成時の3両目となるモハ102形と4両目となるモハ103形にクハ103形1500番台相等の運転台を取付、それぞれ<b data-parsoid='{"dsr":[115538,115551,3,3]}'>クモハ102形・クモハ103形</b>としたものである。そのため改造該当編成は2種類のパターンとなった。以下で改造の詳細・特徴について解説をする。 形式変更のみで車両番号はモハ時代のものを踏襲。 クハ103形の前面貫通路が地下鉄区間での非常脱出用であるのに対し、クモハ2形式の貫通路は併結時に通路となるため幌枠・貫通幌を装備する。 分割併結時の省力化ならびに時間短縮化の観点から電気連結器を装備する。 福岡市地下鉄空港線用ATCは未搭載。(当初から当番台にATOを搭載する車両は存在しない) 地下鉄に乗り入れる際はATC未搭載のクモハを先頭車とせずにATCを搭載したクハを先頭車とし、クモハ同士を向かい合わせで連結して6両編成を組んでいた。3両編成で運行される区間は筑前前原-西唐津間に限定された。 2代目九州色 3+3の6両編成 クハ103-1512(左)とクモハ102-1517(右) スカート設置 踏切事故対策として国鉄時代から先頭車にスカートを取付を施工開始し、全車完了した。 ワンマン改造 2000年3月11日ダイヤ改正から西唐津 - 筑前前原間で車内で運賃を収受しないワンマン運転を開始した[114]。ワンマン運転に対応するための改造工事を1999年末から2000年3月にかけて小倉工場で実施した[115]。施工内容は車外スピーカーの追設・ドア開閉時に駅ホーム設置のカメラ映像を確認可能な安全確認用液晶モニターを設置している。 トイレ設置 2002年度下期より本系列としては初となるトイレの設置が行われ、全編成の唐津向き先頭車(クハ103形奇数番号車またはクモハ103形)の車端部の海側に身体障害者対応の大型洋式トイレが設置された。これに際し、トイレ設置部分の側窓・妻窓が埋め込まれ、車椅子スペースとした側窓を1/4程度に縮小された。この改造によりJR九州の電車編成でのトイレ設置率は100%を達成している。 2004年(平成16年)以降 福岡市地下鉄空港線内(姪浜駅を含む、以下同様)には2004年までにホームドアが設置されており、その動作には本来自動列車運転装置 (ATO) や電気指令式ブレーキによる定位置停止装置 (TASC) が必要とされる。しかし本番台にはこれらの機器は搭載されておらず、地下鉄区間に乗り入れる際は必ず車掌が乗務し、停止位置は運転士が目視で調整、ホームドアは車掌がホーム設備のスイッチで操作していた。 本来の製造目的であった地下鉄区間への乗り入れは、VVVFインバータ制御でATOを搭載する303系の導入・増備時に車両運用を見直したことから、305系運用開始前の2015年1月時点では1日18往復と減少した。 筑肥線筑前前原駅以西での3両編成でのワンマン運転(駅収受方式)は本番台のみが対応している。 E01 - E10編成は、6両編成の運用において、検査などで編成の一方が運用を離脱したときには、両方のまたは一方の編成をE11 - E18編成で補ったことがあった。後者の場合でも幌枠のある先頭車(クモハ)が中間車(モハ)と連結され、貫通幌は通常どおりに使用可能であった。 地下鉄乗り入れの末期には、主に夏季を中心に地下鉄線内でのトラブルが続発した。2011年7月1日、大濠公園駅到着時に主回路故障、き電停止が発生し、所定停止位置より約10m過ぎて停車、さらに煙が出ているとの通報があったため、乗客を地上部まで避難させる事態となった。原因は減流抵抗器内碍子に塵埃等が付着し、碍子の絶縁が低下したことで抵抗体の一部に電流が流れ、溶損に至ったというものであり、減流抵抗器内碍子の一斉点検を行い、不良の碍子を取り替えるなどの対策が講じられた[ネット注 4]。2012年7月29日には、唐人町駅で床下から火花と煙が出ているとの通報があり、運行を中止するトラブルが発生した。原因は、主制御器内にあるモーター電流を安全に遮断するためのタイミングを調整するタイマーリレーの不具合により、温度上昇で誤作動を起こし、モーター電流を完全に遮断する断流器にある減流抵抗器[注 53]に過大な電流が流れて焦損したためであり、JR九州は全編成のタイマーリレーを交換するなどの対応を行った[ネット注 5]が、同年9月には地下鉄線内で照明が消えて非常灯が点灯し、またしても運行を中止するトラブルが起こり、事態を重く見た福岡市交通局はJR九州に対して103系の早期更新を要請した[116]。 2014年1月には、2014年度に筑肥線・福岡市地下鉄直通運転へ新型車両305系を6編成36両導入することがJR九州より発表された[ネット注 6]。同系は前述の通り2015年2月5日より順次営業運転を開始し、同年3月14日のダイヤ改正までに計画の6編成36両が出揃い、営業運転を開始している。これに伴い、2015年3月をもって本系列による福岡市営地下鉄空港線への乗り入れ運用は終了し、以後は筑前前原 - 西唐津間のみで運用となっている。 305系投入と前後して、E02編成[ネット注 7]・E01編成[ネット注 8]・E03+E04編成[ネット注 9]・E05+E06編成[ネット注 10]・E07+E08編成[ネット注 11]が順次小倉総合車両センターへ配給回送されており、E01・E02編成の6両は2014年度中に廃車となり、その他の6両編成もすべて保留車となっている[117]。 その他の改造 AU720形冷房装置搭載 松戸電車区所属車を中心にクーラーを209系と同タイプのAU720形に交換した。効果の程は不明だが、一般車と区別なく廃車された。JR西日本でも日根野電車区所属車に同様の工事を施工した車両が存在する(WAU709形)。 WAU709形搭載車 AU75形より小型のためランボード長と不一致 WAU709形上部 関西圏主要路線の103系 国鉄分割民営化以降、各地で廃車が進んだ103系であるが、アーバンネットワークエリアを中心とした関西圏では比較的多く活躍している。本稿では2000年代以降における関西圏主要路線の103系の動向について述べる。 大阪環状線・桜島線 吹田総合車両所森ノ宮支所所属の8両編成が大阪環状線・桜島線の普通に使用されていた。車両の車体色は朱色1号(■ オレンジバーミリオン)。なお、USJ開業当初の桜島線向けシャトル列車には6両編成も存在した。 2005年-2007年の網干総合車両所からの201系転入により、一部を残して廃車され、他線区へ転出したほか、2007年には他線区から体質改善車が転入したが、2011年3月のダイヤ改正前後に日根野電車区へ転出した。このため4M4Tの8両編成は5編成に減少した。2014年6月1日から「OSAKA POWER LOOP」ラッピング編成が運行を開始した。また大和路線直通の区間快速としての運用も存在したが、2016年(平成28年)10月3日より奈良支所所属の221系に置き換えられて廃止されている。これとは別に、桜島線内折り返し列車に使用されていたUSJラッピング車両が森ノ宮支所への入出区のため、西九条駅 - 京橋駅でも営業運転していた。 車両の老朽化が進んだことや将来のホームドアの設置をスムーズに図る(扉数の統一)のため、2016年(平成28年)からは3ドアの323系に順次置き換えられており、2017年(平成29年)3月時点では2編成が残った。その後、「OSAKA POWER LOOP」編成は2017年(平成29年)9月7日に営業運転を終了[ネット注 12][ネット注 13]、同年10月3日をもって約48年間に及ぶ大阪環状線での運行を終了した[ネット注 14][ネット注 15]。また当編成の引退と同時にオレンジバーミリオンの103系動態車は消滅した。 なお引退後、先頭車のクハ103形843号車が京都鉄道博物館で11月3日から4日間限定で展示された。また「この編成がご覧いただけるのは最後の機会になる」とも発表された。当初は大和路線のウグイス色の103系も展示される[ネット注 16][ネット注 17]予定であったが、輸送上の都合によりクハ103形802号車に変更された[ネット注 18]。 奈良線・関西本線(大和路線)・おおさか東線 吹田総合車両所奈良支所所属の4両編成があり、奈良線を中心に運用されていた。車体色は黄緑6号(■ ウグイス)で、制御車の前面窓下に白色警戒帯を配する。6両編成は201系の転入で本数が減少したが、おおさか東線の開業で6両編成の運用数が増えたため、数年間は置き換えに至らなかった。4両編成は2016年(平成28年)9月までは大和路線でも2本連結して8両編成として大阪環状線へ直通する区間快速でも使用された。 奈良支所所属の車両は電化時に投入された101系の置き換えのため、1983年から1985年にかけて導入された。日根野電車区(現:吹田総合車両所日根野支所)への入出庫との兼ね合いから編成の向きが(日根野区の阪和線用車両等と)逆になっている。これらは京阪神緩行線(JR京都・神戸線)への201系投入によって捻出された明石電車区(現:網干総合車両所明石支所)の車両や淀川電車区(当時)・森ノ宮支所などからの転入組で構成されており、長年に渡り関西圏や首都圏の各地から寄せ集められたため1編成の製造時期と形態が1両ごとに違う編成が多い。1986年11月1日国鉄ダイヤ改正で編成両数を短くしつつ日中の運転本数を増やす施策が取られたため、国鉄末期から1994年にかけては日根野電車区等から転入したクモハ103+モハ102+クハ103の3両編成が投入され、単独運転またはラッシュ時には2編成を併結した6両編成で運転されていた。しかし乗客増に伴い1994年にJR京都・神戸線に207系が投入されたことにより捻出されたサハ103形を組み込んで4両編成化された。6両編成の一部は1988年にモハ103+モハ102を電装解除のうえ先頭車化改造したクハ103-2550・-2500を組み込み4両編成化され、単独運転またはラッシュ時に2編成を併結した8両編成(前述)で運転された。 4両編成は両端クハの編成とクモハを含む編成が混在することになったが、2007年にクモハ103-2505の4両編成が日根野電車区へ転出したのを最後に前者に統一された。 大阪環状線から撤退した吹田総合車両所森ノ宮支所の201系に置き換えられ、2018年1月24日をもって103系は大和路線(木津駅 - 奈良駅間を除く)、おおさか東線から撤退したが、同年10月28日より朝の一部の便において、奈良線所属の4両編成による奈良駅 - 王寺駅間での運転が復活している。また、奈良線についても、吹田総合車両所日根野支所の205系による一部置き換えが進められている。 阪和線 吹田総合車両所日根野支所所属の4両・3両編成があり、阪和線(羽衣支線含む)で使用されていた。車体色は青22号(■ スカイブルー)。過去には8両固定編成も存在し、主にラッシュ時の快速に充当されていた。2003年から2006年まで鳳駅 - 大阪環状線間で運転された区間快速には8両固定編成が充当された。また4両2本併結の8両編成は2011年3月12日のダイヤ改正で姿を消した。また日中も天王寺駅 - 鳳間の普通のみとなったため、本系列の運用が減少した。 2016年(平成28年)7月より225系5100番台が投入されたことを受けて同年12月には4両編成、2017年(平成29年)7月には6両編成、2018(平成30年)年3月16日には羽衣線用3両編成が223系・225系4両編成に置き換えられ姿を消した。[ネット注 3]。 試験 103系をベースにしていくつかの車両試験がおこなわれた。 チョッパ制御試験 103系が量産を開始した直後から、電機子チョッパ制御の試験などが活発化し1970年(昭和45年)に阪神7000系が日本で最初のチョッパ制御営業車として運転を始めた[118]。国鉄でも1967年(昭和42年)に101系を用いたチョッパ試験テストを行なったほか、103系を母体にして1969年(昭和44年)11月23日から12月1日までモハ103-59に取り付けて根岸線で試験を行なったほか、1974年(昭和49年)7月にもモハ103-57に取り付けて根岸線で試験を行なった[119]。 VVVF試験 JR東日本では1990年(平成2年)度から既存の抵抗制御車に対してのVVVF制御改造について研究を進めていたが1992年(平成4年)2月にJR東日本のクモハ103-87を東芝府中工場でVVVFインバータ装置と901系のモーター等の搭載改造をおこないJR大船工場で現車試験を行った[120]。JR東海でも自社でクモハ103-4を改造してVVVF試験を行った。 DDM試験 JR東日本が開発中だったダイレクトドライブ・モーターをモハ103-502に搭載し、試験を行った。同期電動機駆動用制御装置としてIGBT素子によるVVVFインバータ化も同時施工されE993系との比較実験もされたが、実験の終了に伴い廃車された。同様の試験が鉄道総研内でも行われていたが、試験車両は解体された。ちなみにこの時の試験車両は武蔵野線で使用されていたクモハ103-104・モハ103-230である。 車両塗装 101系と同様に、103系では車両塗色にラインカラーが制定されて用いられ、JR発足後の現在でも使用されている。国鉄時代に定められた各路線の塗装は以下の5色と地下鉄乗入用車両の各専用色3色(それぞれの項で解説)の計8色であったが、現在では様々な地域色が発生している。なお、塗色の号数呼称は「国鉄車両関係色見本帳」に準拠し、その後の記号は修正マンセル記号である[121]。また、JR設定色は公式な呼称が存在しないため最も一般的な呼称で紹介している。 なお、一部は各路線の塗装として定められた色以外の塗装の車両を組込んだ編成も存在した。この中には、誤乗防止のためにドア上などにステッカーを貼付したものも存在した。 以上5種類は車体すべてを一色で塗装するものである。 地下鉄対応車両 以上4種類は車体地色+帯色の組み合わせ塗装である。 JR設定色 ラッピング・イベント塗装 桜島線(JRゆめ咲線) 森ノ宮電車区の6両編成4本が、沿線にあるユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) のPR車両として、それぞれ違ったテーマのラッピングを施された。 各車両のデザイン名称とコンセプトは次の通り[ネット注 20][ネット注 21][ネット注 22]。 パワーオブハリウッド号(運転終了[ネット注 23]) USJのメインアトラクションのキャラクターを用いて、華やかさやエキサイティングをイメージした車両。 ウッディー・ウッドペッカー号(運転終了[ネット注 24];オレンジ色に再塗装さ) ウッディー・ウッドペッカーがアトラクションを紹介するリズミカルをイメージした車両。 アメリカの街並風景号(運転終了) 園内にあるロマンチックな街並風景をデザインした大人向けのシックをイメージした車両。 ユニバーサルグローブ号(運転終了) USJのロゴマークやグローブを用いてシンプルでワールドワイドをイメージした車両。 セサミストリート 4−D ムービーマジック号(運転終了[ネット注 25] ;もとユニバーサルグローブ号。妻面はユニバーサルグローブ編成の名残で白1色であった。) 想像力豊かに4Dの楽しさが体験できる「セサミストリート 4-D ムービーマジック」の魅力を表現した車両。 アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド号(運転終了 ;もとアメリカの街並風景号;2012年先頭車2両は日根野電車区へ転属、中間車4両は2両ずつもとセサミストリート 4−D ムービーマジック号およびもとウッディー・ウッドペッカー号に組み込まれ、いずれもオレンジ色に再塗装された。) アトラクションのスリリングなアクションシーンをダイナミックに表現した車両。 パワーオブハリウッド号 アメージング・アドベンチャー・オブ・スパイダーマン・ザ・ライド号 セサミストリート 4−D ムービーマジック号 ウッディー・ウッドペッカー号 ユニバーサルグローブ号 アメリカの街並風景号 加古川線 網干総合所に所属する加古川線用の2両編成4本に横尾忠則がデザインした車両が、加古川線が電化された2004年12月19日から運用されていた。2011年5月15日から全般検査のため順次運用を終了し[ネット注 26]、2012年11月18日をもって運行を終了した[ネット注 27]。各編成の運転開始日・終了日・テーマは次の通り。 眼のある電車「見る見る速い」( M1 編成、2004年12月19日 - 2011年5月15日) 緑のある中で目立たなければならず、列車の外を眺める眼と列車を眺める人々の眼を表現するために、車体に眼がデザインされたもの。 「銀河の旅」( M2 編成、2005年12月18日 - 2011年6月19日) 加古川線の電化1周年を記念してデザインされた。 「滝の音、電車の音」( M5 編成、2006年3月12日 - 2011年10月10日) 加東市発足を記念してデザインされた。 「走れ!Y字路」( M8 編成、2007年6月10日 - 2012年11月18日) 西脇市の夜のY字路がモデルになっている。 4種類のラッピング以外にさらに2種類ラッピング案が存在していたが、経費不足とJR福知山線脱線事故を連想させる内容が含まれていたため、採用は見送られた[ネット注 28]。 「眼(め)のある電車」 「銀河の旅」 「走れ!Y字路」(正面) 「走れ!Y字路」(横) 播但線 生野銀山(朝来市)と飾磨港(姫路市)を結ぶ約49kmの馬車専用道路であった生野鉱山寮馬車道、通称「銀の馬車道」をPRするためにデザインされた車両で、網干総合車両所に所属する2両編成3本にラッピングが施されている[122][ネット注 29][ネット注 30]。 そのほか アニメ・ドリームトレイン1999用 イベントに合わせて車体を旧形客車を模したぶどう色2号に塗装した。 関門・海峡物語 OSAKA POWER LOOP 「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、森ノ宮電車区のLA3編成に大阪環状線沿線の街の魅力を表現したラッピングが施され[ネット注 31]、2014年6月1日から2017年9月7日まで運転された。  デザインは地元のFM802が担当した。 アニメ・ドリームトレイン1999(モハ103形) 関門・海峡物語 OSAKA POWER LOOP 譲渡 福知山線脱線事故関連 2005年4月25日の福知山線脱線事故により被災した207系の廃車および帯色変更工事、117系の同線からの撤退などの事象が重なり、車両が不足した。そのためJR東日本武蔵野線で運用されていた8両編成1本が同年7月28日付でJR西日本に譲渡された。 同社に入籍後は、既存車と編成を組み替えられ以下の配置経歴を持つ。 クハ103-821・828: 広島運転所(E04編成) モハ103-684+モハ102-840+モハ103-685+モハ102-841: 宮原総合運転所→日根野電車区(K801編成→K606編成) モハ103-686+モハ102-842: 森ノ宮電車区(モリ17編成)→奈良電車区(NS402編成)→日根野電車区(J404編成→J414編成) 車両不足解消後には戸袋窓閉塞工事が施工されたが、貫通扉は廃車まで窓の小さいものを装備し続けた。 2010年6月21日付でクハ103-821・828が廃車となった。また2011年3月にモハ103-686+モハ102-842が吹田工場へ、4月にはモハ103-684+モハ102-840+モハ103-685+モハ102-841も幡生工場へ廃車回送された。 インドネシアへの売却 2004年(平成16年)、JR東日本が保有していた下記の16両が、インドネシアの鉄道会社(PT Kereta Api)に有償譲渡された。 これらの譲渡車両は現地での長期使用を考慮し、後期製造車または車両更新工事施工車が選ばれた。その後は東急8000系・8500系を導入したため16両で終了となった。現地では前面下部にオレンジ色の大型スカート(排障器と前面窓に投石対策として金網が設置され、元都営6000形や東京メトロ(営団)の車両とともに日本のODA・政府開発援助により整備されたジャカルタ首都圏の通勤電車で、有料の急行 (Ekspres) ・準急(Semi Ekspres/2008年に種別廃止)・Ekonomi AC(2007年新設)用として運用される。 当初、塗装は武蔵野線時代のまま使用されたが、その後窓周りに黄色が塗られてツートンとなった。2008年秋頃には濃い青を基調とした新たな塗装に変更され、2011年にはJR東海色を基調した塗装に変更された。現地でもJR 103と呼ばれており、車番は日本での製造時から付番されていたものをステンシルで記入している。ただし、「クハ」「モハ」に相当する記号標記は無い。行先表示は前面窓内に方向板を掲出し、本来の行先表示器は使用しない。JR時代の行先表示幕や路線図がそのまま掲出されている。元JR205系の譲渡が増えたことや老朽化により2016年(平成28年)に運行終了した。 1代目塗装 3代目塗装 北海道へ渡った103系 JR北海道では、電化区間が札幌近郊の交流電化区間のみで、かつ札幌都市圏における国鉄の輸送シェアも本州に比べ著しく低かったことや車両自体にも徹底した耐寒・耐雪構造が必要なことから、国鉄時代から1両も本系列が配置されたことはなかったが、1998年(平成10年)8月に103系8両が機関車牽引で入線した[123]。 譲渡に関する情報は一般には全く公表されたことはなく、雑誌の投稿を含めても交友社『鉄道ファン』の1998年11月号 No.451のP.120に掲載された「103系が北海道へ」に津軽海峡線をED79形50番台に牽引された被験車8両編成の写真レポートが投稿されたのみである。 この103系は『鉄道ファン』同号掲載の写真から以下の状態が確認された。 大半の車両が窓・扉などの大幅な埋込 車体の延長または各部の欠取 クーラーの撤去 車番のRTRI-××への変更 連結器を密着式から自動式への換装 この改造は東急車輛製造で施工された。 その後は苗穂工場内に留置された。工場内を移動することはあったが、関係者以外には一切非公開で、使用目的も明かされず、同年末までにすべて姿がなくなった。 収集されたデータの目的は公開されていないが、実験結果は英文にて公開されている。 渡道車一覧(所属は廃車時) クハ103-396・454・481・482・719・724 サハ103-230・417 クハ103-396・サハ2両:松戸電車区所属エメラルドグリーン塗装 ほかの5両:浦和電車区所属スカイブルー塗装。 保存車 クハ103-1 廃車後、吹田総合車両所に保管されていた[ネット注 32]が、2016年(平成28年)に開業した「京都鉄道博物館」(京都市下京区観喜寺町)に展示されることとなり、スカイブルーからオレンジバーミリオンに塗装変更され、2015年3月2日に吹田総合車両所から搬出された[ネット注 33]。 クハ103-525 東京都府中市の東芝府中事業所に譲渡後、機器類を改造された状態で留置されている。車体はオレンジ一色に塗り替えられた。 クモハ103-147 個人へ譲渡された。 クハ103-713 埼玉県さいたま市の鉄道博物館に乗務員室側約9mのカットボディが保存されている。当初はスカイブルーであったが、2017年(平成29年)のキッズプラザリニューアルに際し、白ベースにオレンジ・スカイブルー・カナリアイエロー・ウグイス・エメラルドグリーンの103系がまとった5色を水玉で配した模様に塗り替えられた。 クモハ103-18 美濃太田車両区に保管されている。屋外留置のため腐食や褪色が見られる。2011年3月14日にオープンしたリニア・鉄道館の展示リストには入っていない。 クモハ103-110 大阪府立消防学校で訓練施設として使用されている。[ネット注 34][ネット注 35]。 クハ103-525 クモハ103-18 レプリカ・その他 玉造駅「ビエラ玉造」 本系列をモチーフにした商業施設。設置当時は運行番号表示が「04A」であったが、その後「07K」に変更された。 ビエラ玉造 脚注 注釈 ネット上の出典および注釈 出典 参考文献 通史 福原俊一・永尾信幸・前納浩一 『103系・301系通勤形直流電車』(車両史編さん会、2000年) 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』156号、1964年4月 特集: 国鉄通勤電車 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年5月号 No.447 特集: 103系通勤形電車 交友社『鉄道ファン』1993年4月号・5月号 No.384・385 特集: 103系通勤形電車 (1・2) 「103系が北海道へ」(読者投稿)/交友社『鉄道ファン』1998年11月号 No.451 P.120 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2003年12月臨時増刊号、鉄道友の会編「車両研究――1960年代の鉄道車両」 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |naid= ignored (help); Check date values in: |date= (help) 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2004年4月号 No.745 特集: 103系電車 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2005年8月号 No.764 特集: 惜別 JR東日本103系 斎藤幹雄 「インドネシアへ行った日本の電車」/電気社研究会『鉄道ビクトリアル』2006年12月号 No.783 P.107 - P.112 交友社『鉄道ファン』2005年3月号 No.527 特集: 101系 その顔の世界 Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) 交友社『鉄道ファン』2006年5月号 No.541 特集: 究極の標準形通勤電車103系 特集: 究極の標準形通勤電車103系〔訂正・補遺〕/交友社『鉄道ファン』2006年7月号 No.543 P.152 - P.153 来住憲司 「JR西日本 103系現況」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 P.32 - P.49 岡本祐次 「JR西日本・延命工事の概要」/交友社『鉄道ファン』2007年1月号 No.549 P.50 - P.53 編集部 「アーバンネットワーク2006年3月改正通勤・近郊形電車の現状」/鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』2006年8月号 No.478 P.52 - P.61 毛呂信明『103系物語』戦後日本の高度成長を支えた通勤型電車(JTBパブリッシング 2012年6月発行 ISBN 9784533086991) 杉崎行恭『山手線 ウグイス色の電車今昔50年』(JTBパブリッシング 2013年11月発行 ISBN 9784533094231 交通新聞社『103系メモリアル』 2013年11月発行 ISBN 9784330423135 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) 参考資料 運転・設備・理論に関わるもの 福崎直治(国鉄工作局)・沢野周一(国鉄工作局)『電車と電気機関車』岩波書店、1964年4月30日 川島泰太郎(国鉄東鉄局運転部電車課)『電車運転曲線と操縦理論』交友社、1955年6月25日 竹崎確(国鉄技師長室)『運転総論』ヘッドライト社、1967年12月1日 運転設備研究会編(国鉄運転局 明本昭義ほか24名)『運転設備』日本鉄道運転協会、1973年3月25日 野田忠二郎(阪神電鉄 工学博士)ほか10名『電気鉄道(改訂版)』電気学会、1964年5月25日(12版) 野田忠二郎(阪神電鉄 工学博士)ほか10名『電気鉄道ハンドブック』電気学会、1962年9月20日 内田富彦(国鉄運転局列車課)『輸送計画論』交通書房、1956年8月10日 藤田義人(国鉄運転局客貨車課)ほか10名『電車運転工学 理論編』日本鉄道図書、1964年12月25日 吉江一雄(元国鉄輸送局設備課)『電車輸送と建設』交友社、1981年5月1日(再版) 井上進(元JR東日本運輸車両部輸送課長)ほか7名『列車ダイヤと運行管理』成山堂書店、2008年11月28日 大沢健(国鉄東京鉄道管理局運転部調査課)『目で見てわかる運転取扱規程技術図典』交友社、1968年6月20日(改訂再版) 電車運転理論研究会編(関東鉄道学園運転第一科長 一杉治夫ほか2名)『電車運転理論』交友社、2006年8月30日(24版) 歴史に関わるもの 佐藤信之(亜細亜大学講師)『首都圏の国電 戦後の発展史』グランプリ出版、2005年6月20日 佐藤信之(亜細亜大学講師)『東京圏鉄道プロジェクト 都市鉄道整備の展開』電気車研究会、1995年1月10日 構造に関わるもの 菊池直助(元中央鉄道学園運転第2課長)ほか9名『直流電車』交友社、1965年3月1日(新訂改版) 松田新市『高速度電動機と駆動装置』電気車研究会、1958年6月25日 入江則公(国鉄車両設計事務所)『交流電気車両の基礎理論』1984年10月1日(再版) 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昭和42年版』日本国有鉄道、1966年10月14日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1967 昭和42年版』日本国有鉄道、1967年10月14日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1968 昭和43年版』日本国有鉄道、1968年10月1日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1969 昭和44年版』日本国有鉄道、1969年10月5日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1970 昭和45年版』日本国有鉄道、1970年10月1日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1971 昭和46年版』日本国有鉄道、1971年10月1日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1972 昭和47年版』日本国有鉄道、1972年10月1日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1973 昭和48年版』日本国有鉄道、1973年10月30日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1974 昭和49年版』日本国有鉄道、1974年10月1日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1975 昭和50年版』日本国有鉄道、1975年10月1日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1976 昭和51年版』日本国有鉄道、1976年10月1日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1977 昭和52年版』日本国有鉄道、1977年10月20日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1978 昭和53年版』日本国有鉄道、1978年10月30日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1979 昭和54年版』日本国有鉄道、1979年10月14日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1980 昭和55年版』日本国有鉄道、1980年10月14日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1981 昭和56年版』日本国有鉄道、1981年 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1982 昭和57年版』日本国有鉄道、1982年12月1日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1983 昭和58年版』日本国有鉄道、1983年12月15日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1984 昭和59年版』日本国有鉄道、1985年1月30日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1985 昭和60年版』日本国有鉄道、1985年10月14日 日本国有鉄道広報部『数字でみた国鉄 1986 昭和61年版』日本国有鉄道、1986年10月14日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 30年版』交通協力会、1955年3月10日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 31年版』交通協力会、1956年3月10日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 32年版』交通協力会、1957年3月15日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1961』交通協力会、1961年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1962』交通協力会、1962年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1963』交通協力会、1963年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1964』交通協力会、1964年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1965』交通協力会、1965年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1966』交通協力会、1966年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1967』交通協力会、1967年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1968』交通協力会、1968年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1969』交通協力会、1969年3月15日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1970』交通協力会、1970年2月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1971』交通協力会、1971年3月1日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1972』交通協力会、1972年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1974』交通協力会、1974年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1975』交通協力会、1975年3月20日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1976』交通協力会、1976年3月10日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1977』交通協力会、1977年3月10日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1978』交通協力会、1978年3月10日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1979』交通協力会、1979年3月15日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1981』交通協力会、1981年3月15日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1982』交通協力会、1982年3月15日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1983』交通協力会、1983年3月15日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1984』交通協力会、1984年3月15日 運輸省・日本国有鉄道各部門担当者『交通年鑑 1985』交通協力会、1985年3月15日 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1988』交通協力会、1988年3月15日 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1989』交通協力会、1989年3月15日 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1990』交通協力会、1990年3月15日 運輸省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 1991』交通協力会、1991年3月15日 国土交通省・JR各社各部門担当者『交通年鑑 2004』交通協力会、2004年3月25日 専門記事 岡部達郎(国鉄本社施設局停車場課) 「中央線(東京 - 三鷹間)の増強計画について」『交通技術』1958年3月号、pp.2 - 6。 伊東正信(国鉄総裁室調査課) 「昭和33年度国鉄の工事計画について」『交通技術』1958年5月号、pp.6 - 8。 酒井弘(国鉄本社電気局電力課) 「通勤輸送に対処する自営電源と送電網」『交通技術』1958年6月号、pp.32 - 33。 国鉄臨時車両設計事務所 『これからの鉄道車両』1959年1月、pp.11 - 15。 大塚長一郎(京浜急行電鉄車両部長) 「補償線輪付車両用主電動機について」『電気車の科学』1959年5月号、pp.11 - 14。 塚本清治(国鉄技師長室) 「昭和34年度の技術課題について」『交通技術』1959年7月号、pp.2 - 5。 榊原三郎(国鉄運転局客貨車課補佐) 「昭和35年度電車計画の展望」『電車』1960年1月号、pp.28 - 33。 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急"HE車"の概要」『電気鉄道』1960年1月号、pp.18 - 21。 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急2400形HE車 (1)」『電気車の科学』1960年2月号、pp.12 - 15。 「通勤電車とドア」『交通技術』1960年2月号、p.27。 山村秀幸(小田急車両課長) 「小田急2400形HE車(続)」『電気車の科学』1960年3月号、pp.21 - 26。 山村秀幸(小田急車両課長) 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「新形電車における1ユニット不動の推定法と運転扱いについて」『電車』1964年3月号、pp.26 - 37。 寺島和年(前大鉄運転部電車課長) 「大阪国電の現状とその将来について」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.25 - 27。 久保田博(仙鉄運転部長・元本社工作局) 「国鉄通勤形電車の最近の動き」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.35 - 37。 小沢耕一(東鉄運転部電車課長) 「東京の通勤輸送の現状と問題点」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.4 - 6。 石本祐吉(川崎製鉄KK千葉製鉄所) 「通勤形電車はどうあるべきか」『鉄道ピクトリアル』1964年4月号、pp.72 - 73。 加藤精一(国鉄大井工場第1電車職場長)・望月旭(国鉄浜松工場製缶職場長) 「電車用主電動機の性能向上」『電車』1964年4月号、pp.66 - 76。(注: ガラスバインドとハンダレス整流子関係) 久保卓三(国鉄運転局客貨車課) 「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (1)」『電車』1964年5月号、pp.12 - 18。 小沢耕一(東鉄運転部電車課長) 「東京付近の通勤輸送をめぐって」『電車』1964年5月号、pp.45 - 54。 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「ユニット不動の推定法と運転扱いについてを読んで」『電車』1964年5月号、pp.66 - 68。 運転局客貨車課 「新形電車現行使用限流値調べ」『電車』1964年5月号、p.18。 大石一男(静鉄静岡運転所) 「現場から見たユニット不動時の運転の問題について」『電車』1964年6月号、pp.52 - 53。 久保卓三(国鉄運転局客貨車課) 「国鉄中央線と地下鉄5号線の相互乗り入れについて (2)」『電車』1964年6月号、pp.85 - 93。 「103系量産車の運転性能試験が実施される!!」『電車』1964年7月号、p.31。 丹羽一夫(元運輸省都市交通課専門官・現運輸省保安課補佐) 「東京およびその周辺における都市交通について」『電車』1964年8月号、pp.22 - 27。 「国鉄中央線と地下鉄5号線との相互直通車両の規格仕様に関する覚え書が交換された」『電車』1964年8月号、pp.54 - 56。 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「運転台シリーズ (4) 国電103系の運転台 (1)」『電車』1964年10月号、pp.73 - 78。 岡田直昭(国鉄臨時車両設計事務所技師) 「運転台シリーズ (4) 国電103系の運転台 (2)」『電車』1964年11月号、pp.32 - 35。 「新らしい機器の紹介 C2000形空気圧縮機」『電車』1964年12月号、pp.31 - 33。 小田急電鉄株式会社 『新設計の通勤車について』1965年2月1日、pp.1 - 16。(注: 2600形の設計時資料) 森章(東鉄局電気部電力課長) 「東鉄における電車線路の保守について(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、pp.19 - 22。 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所) 「電気車の性能と容量(その1)」『電気鉄道』1965年5月号、pp.23 - 25。 伊東正行(東京急行電鉄株式会社電気部変電課変電係長) 「回生制動により生ずる回転変流機の逆流防止装置」『電気鉄道』1965年6月号、pp.8 - 11。 川添雄司(国鉄臨時車両設計事務所) 「電気車の性能と容量(その2)」『電気鉄道』1965年6月号、pp.20 - 22。 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課) 「京浜東北線にはどのような性能の車両がよいか」『電車』1965年6月号、pp.13 - 19。 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その2) ダブルシンプルカテナリ (1)」『電気鉄道』1965年8月号、pp.24 - 26。 森章(東鉄局電気部電力課長)「東鉄における電車線路の保守について(その3) ダブルシンプルカテナリ (2)」『電気鉄道』1965年9月号、pp.21 - 24。 柿沼道夫・後閑始(東京鉄道管理局田端電力区) 「東鉄における電車線路の保守について(その6) ダブトロ工事の施行および今後の保守」『電気鉄道』1966年1月号、pp.27 - 31。 石塚健次郎・山口義雄・杉野治之・小沼栄(以上 東鉄池袋電車区電車検査掛)・藤巻亀忠(東鉄池袋電車区電車運転士) 「103系電車のブレーキ時の衝動と防止対策」『電気車の科学』1966年4月号、pp.13 - 17。 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |naid= ignored (help); Check date values in: |date= (help) (国鉄電気局電化課) 高藤茂(国鉄池袋電車区長) 「運転業務研究会をかえりみて」『電気鉄道』1966年11月号、pp.24 - 27。(注: 103系電車のブレーキ衝動対策関係) 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工) 「電車線路用裸電線について(第2章トロリー線について)」『電気鉄道』1966年12月号、pp.39 - 43。 平野慎吾(古河電工)・武田清治(昭和電線電纜)・皆川伯夫(日立電線)・稲川洋一(藤倉電線)・川端昭雄(大日日本電線)・宗像和夫(住友電工) 「電車線路用裸電線について(第3章き電線について)」『電気鉄道』1967年1月号、pp.31 - 35。 内田真・藤村敏郎(以上 国鉄鉄道技術研究所)・権藤豊義・府川有治・佐藤善一・冨中昭三(以上 国鉄電気局電化課) 「大都市通勤輸送区間における大電流き電回路の現状と問題点」『電気鉄道』1967年4月号、pp.2 - 18。 山本幸司・粥川昭二・飯島薫・塙三郎(以上 国鉄品川電車区) 「ATS-B形諸問題の現状と対策について」『電気鉄道』1967年6月号、pp.17 - 21。(注: 列車運転時の電圧変動関係) 金子一彦(国鉄新宿変電区) 「車両の空転によるき電用高速しゃ断器の動作について」『電気鉄道』1968年2月号、pp.16 - 20。 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課) 「電気車の運転性能 (I)」『電気鉄道』1968年3月号、pp.9 - 12。 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課) 「電気車の運転性能 (II)」『電気鉄道』1968年4月号、pp.22 - 24。 猪野淳之助(国鉄車両設計事務所次長) 「通勤電車設計の展望」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、pp.4 - 7。 小林喜幹(国鉄運転局客貨車課) 「国鉄通勤電車の配置運用と見通し」『鉄道ピクトリアル』1968年4月号、pp.8 - 10。 浅野幸夫(国鉄運転局機関車課) 「電気車の運転性能 (III)」『電気鉄道』1968年5月号、pp.19 - 21。 高橋金吾(国鉄運転局列車課) 「電気車の運転性能 (IV)」『電気鉄道』1968年6月号、pp.18 - 21。 高橋金吾(国鉄運転局列車課) 「電気車の運転性能 (V)」『電気鉄道』1968年8月号、pp.13 - 15。 宇津木弘(東京西局運転部電車課) 「青梅・五日市線に103系電車を迎えて」『電車』1977年3月号、pp.37 - 40。 角野勇・春日井竹次(以上 国鉄大阪電気幸司局) 「桜井線・和歌山線(王寺・五条間)及び草津線の電車線路設備の概要」『電気鉄道』1980年4月号、pp.13 - 17。 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (1)」『電車』1981年2月号、pp.25 - 29。 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (2)」『電車』1981年3月号、pp.18 - 23。 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (3)」『電車』1981年4月号、pp.22 - 25。 沼野稔夫(車両設計事務所電気車主任技師) 「電気車両の省エネルギー (4)」『電車』1981年5月号、pp.52 - 54。 島秀雄(宇宙開発事業団理事長) 「電車列車の経済運転について」『電気車の科学』1982年7月号、pp.56 - 57。 加進昇(車両設計事務所電気車補佐) 「界磁制御車両について(昭和58年度技術課題の成果)」『電車』1984年10月号、pp.18 - 23。 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (1) -パソコンによる-」『電車』1986年1月号、pp.26 - 31。 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (2) -パソコンによる-」『電車』1986年2月号、pp.15 - 21。 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (3) -パソコンによる-」『電車』1986年3月号、pp.10 - 14。 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (4) -パソコンによる-」『電車』1986年4月号、pp.16 - 20。 大沢健(日本鉄道建設公団計画部調査課) 「運転曲線の作成 (5) -パソコンによる-」『電車』1986年6月号、pp.23 - 28。 石川陽一(車両局設計課) 「電力消費量の比較 山手線の205・103系」『電車』1987年3月号、pp.6 - 9。 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (1)」『電車』1987年8月号、pp.31 - 37。 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (2)」『電車』1987年9月号、pp.25 - 29。 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (3)」『電車』1987年10月号、pp.24 - 29。 古田良介(JR東日本運輸車両部車両課) 「機器別シリーズ 電車用主電動機 (4)」『電車』1987年11月号、pp.19 - 26。 須永宏資・田部井賢夫(以上 JR東日本下十条運転区経済運転プロジェクトチーム) 「経済運転実践の研究」『電車』1987年11月号、pp.21 - 29。 曽根悟(東京大学教授電気工学) 「101系電車の評価と日本の通勤電車」『鉄道ピクトリアル』1987年11月号、pp.20 - 23。 国井浩一(JR東日本運輸車両部運用課) 「常磐線快速の15両化」『電車』1988年1月号、pp.24 - 27。 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (1)」『電車』1988年5月号、pp.17 - 24。 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (2)」『電車』1988年7月号、pp.33 - 39。 小口良夫(鈴木合金株式会社東京営業所・元国鉄車両局設計課) 「機器別シリーズ 電車用主抵抗器 (3)」『電車』1988年8月号、pp.49 - 57。 曽根悟(東京大学教授電気工学) 「103系をどうするか」『鉄道ピクトリアル』1995年3月号、pp.28 - 29。 曽根悟(工学院大学電気工学科教授) 「私鉄高性能車は何をもたらしたか」『鉄道ピクトリアル』2003年1月号、pp.10 - 18。 日本規格協会 「JIS E 4001 鉄道車両用語:1999」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、pp.957 - 1032。 日本規格協会 「JIS E 6002 通勤用電車の性能通則:1989」『JISハンドブック69鉄道2008』2008年6月、pp.2026 - 2030。 地下鉄対応・他形式からの改造番台 中村新一・野元 浩「103系3000番代<!--←原典のタイトルがこのとおりなので「3000番台」とはしないこと-->通勤形直流電車」/電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1985年10月号 No.454 P.65 - P.67 「国鉄最初の地下鉄電車301系と103系1000・1200番台の活躍を振り返る」/交友社『鉄道ファン』2003年8月号 No.508 P.96 - P.103 当時の国鉄と営団の車両技術メンバーによる誌上座談会。 久保 敏「旧形国電から103系に変身したウグイス色電車 103系3000番台」/交友社『鉄道ファン』2004年2月号 No.514 P.105 - P.109 国鉄資料 車両設計事務所『103系通勤形直流電車』1964年 車両設計事務所『103系通勤形直流電車』1971年3月 車両設計事務所『電車性能曲線』1962年 車両設計事務所『電車性能曲線(追録)』1964年2月 車両設計事務所『電車性能曲線(追録)』1969年3月 車両設計事務所『電気機関車性能曲線』1962年 車両設計事務所『新性能電車用主電動機』1968年3月 運転局『電車気動車加速力曲線』1966年 運転局『速度定数便覧』1972年
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