id
int64
5
4.87M
title
stringlengths
1
102
text
stringlengths
501
177k
paragraphs
listlengths
1
1.1k
abstract
stringlengths
4
27.4k
wikitext
stringlengths
34
554k
date_created
stringlengths
20
20
date_modified
stringlengths
20
20
is_disambiguation_page
bool
2 classes
is_sexual_page
bool
2 classes
is_violent_page
bool
2 classes
templates
sequencelengths
0
208
url
stringlengths
31
744
1,106,057
大邱駅
大邱駅(テグえき)は大韓民国大邱広域市北区七星洞(朝鮮語版)にある、韓国鉄道公社(KORAIL)の駅。 本項では、近接する大邱都市鉄道公社(DTRO)の大邱駅駅(テグヨクえき)についても記述する。 大邱広域市の中心部に位置し、以前は大邱市のターミナル駅だったが、1969年の東大邱駅開業以降ターミナル駅の機能は全般的に東大邱駅が担っており、KTX・SRTの列車も当駅ではなく東大邱駅に停車する。 KORAILの京釜線が乗り入れており、京釜線を通じて慶北線・慶全線・東海線に直通する列車も当駅に乗り入れ、全てのITX-セマウル・ムグンファ号は当駅に停車する。なお、駅構内を京釜高速線が通過しているが、京釜高速線には当駅が設置されていない扱いとなっており、KTX・SRTも全列車が停車しない。 KORAILの駅舎の北東部地下に大邱都市鉄道1号線の「大邱駅駅」が位置している。駅番号は132。 当駅の駅舎は民間事業者が運営する民資駅舎で、地上駅(橋上駅)である。民資駅舎にはロッテ百貨店が入居している。 島式ホーム2面4線と通過線1線、単式ホーム1面1線の合計3面6線を有しているが、現在旅客扱いを行っているのは単式ホームと島式ホームのそれぞれ1面ずつである。 南から1番線 - 6番線と並んでいる。2番線は上り通過線でホームは存在しない。3・4番線は京釜高速線の線路で、ホームは使用されていない。 相対式ホーム2面2線を有する地下駅。フルスクリーンタイプのホームドアが設置されている。 ホームは地下3階にあり、上り・下りホームから階段を上った地下2階にそれぞれの改札があり、上下ホーム間の改札内移動は出来ない。同じ地下2階に駅務室、地下1階に化粧室がある。 出口は1番から4番までの合計4ヶ所ある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大邱駅(テグえき)は大韓民国大邱広域市北区七星洞(朝鮮語版)にある、韓国鉄道公社(KORAIL)の駅。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項では、近接する大邱都市鉄道公社(DTRO)の大邱駅駅(テグヨクえき)についても記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大邱広域市の中心部に位置し、以前は大邱市のターミナル駅だったが、1969年の東大邱駅開業以降ターミナル駅の機能は全般的に東大邱駅が担っており、KTX・SRTの列車も当駅ではなく東大邱駅に停車する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "KORAILの京釜線が乗り入れており、京釜線を通じて慶北線・慶全線・東海線に直通する列車も当駅に乗り入れ、全てのITX-セマウル・ムグンファ号は当駅に停車する。なお、駅構内を京釜高速線が通過しているが、京釜高速線には当駅が設置されていない扱いとなっており、KTX・SRTも全列車が停車しない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "KORAILの駅舎の北東部地下に大邱都市鉄道1号線の「大邱駅駅」が位置している。駅番号は132。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当駅の駅舎は民間事業者が運営する民資駅舎で、地上駅(橋上駅)である。民資駅舎にはロッテ百貨店が入居している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "島式ホーム2面4線と通過線1線、単式ホーム1面1線の合計3面6線を有しているが、現在旅客扱いを行っているのは単式ホームと島式ホームのそれぞれ1面ずつである。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "南から1番線 - 6番線と並んでいる。2番線は上り通過線でホームは存在しない。3・4番線は京釜高速線の線路で、ホームは使用されていない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "相対式ホーム2面2線を有する地下駅。フルスクリーンタイプのホームドアが設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ホームは地下3階にあり、上り・下りホームから階段を上った地下2階にそれぞれの改札があり、上下ホーム間の改札内移動は出来ない。同じ地下2階に駅務室、地下1階に化粧室がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "出口は1番から4番までの合計4ヶ所ある。", "title": "駅構造" } ]
大邱駅(テグえき)は大韓民国大邱広域市北区七星洞にある、韓国鉄道公社(KORAIL)の駅。 本項では、近接する大邱都市鉄道公社(DTRO)の大邱駅駅(テグヨクえき)についても記述する。
{{駅情報 |駅名=大邱駅 |母国語表記=대구 |よみがな=テグ |ローマ字=Daegu |所在地={{Flagicon|KOR}}[[大邱広域市]][[北区 (大邱広域市)|北区]] |所属事業者=[[韓国鉄道公社]]([[#韓国鉄道公社|駅詳細]])<br />[[大邱都市鉄道公社]]([[#大邱都市鉄道公社|駅詳細]]) }} {{韓国の事物 |hangeul=대구역/대구역역 |hanja=大邱驛/大邱驛驛 |hiragana=たいきゅうえき/たいきゅうえきえき |katakana=テグヨク/テグヨンニョク |alphabet=Daegu Station }} '''大邱駅'''(テグえき)は[[大韓民国]][[大邱広域市]][[北区 (大邱広域市)|北区]]{{仮リンク|七星洞|ko|칠성동}}にある、[[韓国鉄道公社]](KORAIL)の[[鉄道駅|駅]]。 本項では、近接する[[大邱都市鉄道公社]](DTRO)の'''大邱駅駅'''(テグヨクえき)についても記述する。 == 概要 == 大邱広域市の中心部に位置し、以前は大邱市のターミナル駅だったが、[[1969年]]の[[東大邱駅]]開業以降ターミナル駅の機能は全般的に東大邱駅が担っており、[[韓国高速鉄道|KTX]]・[[SRT (列車)|SRT]]の列車も当駅ではなく東大邱駅に停車する。 === 乗り入れ路線 === KORAILの[[京釜線]]が乗り入れており、京釜線を通じて[[慶北線]]・[[慶全線]]・[[東海線]]に直通する列車も当駅に乗り入れ、全ての[[ITX-セマウル]]・[[ムグンファ号]]は当駅に停車する。なお、駅構内を[[京釜高速線]]が通過しているが、京釜高速線には当駅が設置されていない扱いとなっており、KTX・SRTも全列車が停車しない。 KORAILの駅舎の北東部地下に[[大邱都市鉄道1号線]]の「'''大邱駅駅'''」が位置している。駅番号は'''132'''。 == 歴史 == [[ファイル:Taikyu Station circa 1930.JPG|200px|right|thumb|1930年頃の大邱駅]] * [[1905年]][[1月1日]] - 普通駅として開業。 * [[1913年]][[12月]] - 駅舎新築竣工。(木造2階建てルネッサンス様式) * [[1978年]][[12月15日]] - 駅舎新築竣工。 * [[1998年]][[5月2日]] - 大邱都市鉄道公社1号線が開業。 * [[2000年]][[2月]] - 民資駅舎が新築着工し、臨時駅舎で営業。 * [[2003年]] ** [[1月17日]] - 民資駅舎新築竣工。 ** [[2月18日]] - [[大邱地下鉄放火事件|中央路駅で起こった放火事件]]により、大邱広域市地下鉄公社1号線全線運休。 ** [[10月21日]] - 大邱広域市地下鉄公社1号線の運転再開。 * [[2013年]] ** [[9月1日]] - {{仮リンク|大邱駅列車衝突事故|label=列車追突事故|ko|대구역 열차 충돌 사고}}発生。終日全ての旅客列車が通過した。 ** [[10月1日]] - KTX大邱都心区間工事により、[[馬山駅|馬山]]・[[晋州駅|晋州]]方面[[ムグンファ号]]が[[東大邱駅]]に短縮し、5番ホームの線路撤去。 == 駅構造 == === 韓国鉄道公社 === {{駅情報 |社色=#0066B3 |文字色= |駅名=韓国鉄道公社 大邱駅 |画像=대구역 전경.jpg |pxl= |画像説明=駅舎(2012年撮影) |母国語表記=대구 |よみがな=テグ |ローマ字=Daegu |副駅名= |所属路線=[[京釜線]] |前の駅=[[西大邱駅|西大邱]] |次の駅=[[東大邱駅|東大邱]] |駅間A=4.2 |駅間B=3.2 |地図={{Infobox mapframe|zoom=13|frame-width=280|type=point}} |所在地={{Flagicon|KOR}}[[大邱広域市]][[北区 (大邱広域市)|北区]]{{仮リンク|太平路 (大邱広域市)|label=太平路|ko|태평로 (대구)}}161(七星洞2街) |座標={{ウィキ座標2段度分秒|35|52|33.35|N|128|35|45.79|E|type:railwaystation}} |駅番号= |所属事業者=[[韓国鉄道公社]](KORAIL) |副項目名1=駅種別 |副項目1=管理駅 |副項目名2=駅等級 |副項目2=2級 |キロ程=323.1 |起点駅=[[ソウル駅|ソウル]] |駅構造=[[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム=3面5線 |乗車人員=7,705 |統計年度=2010年 |乗降人員=15,414 |開業年月日=[[1905年]][[1月1日]] |廃止年月日= |乗換= |備考= }} 当駅の駅舎は民間事業者が運営する民資駅舎で、[[地上駅]]([[橋上駅]])である。民資駅舎には[[ロッテ百貨店]]が入居している。 [[島式ホーム]]2面4線と通過線1線、[[単式ホーム]]1面1線の合計3面6線を有しているが、現在旅客扱いを行っているのは単式ホームと島式ホームのそれぞれ1面ずつである。 南から1番線 - 6番線と並んでいる。2番線は上り通過線でホームは存在しない。3・4番線は[[京釜高速線]]の線路で、ホームは使用されていない。 ==== のりば ==== {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" |- ! 1 | 京釜線(上り) | [[大田駅|大田]]・[[天安駅|天安]]・[[水原駅 (京畿道)|水原]]・[[ソウル駅|ソウル]]方面 |- ! 3・4 | 京釜高速線 | ホーム未使用(通過線) |- ! 5 | 京釜線(下り) | 使用停止中(下り通過線) |- ! 6 | 京釜線(下り) | [[釜山駅|釜山]]・[[晋州駅|晋州]]・[[釜田駅 (韓国鉄道公社)|釜田]]方面 |- |} <gallery widths="180"> ファイル:대구역 내부.jpg|待合室(2012年撮影) ファイル:DaeguStationFlatform.jpg|ホーム(2012年撮影) </gallery> {{-}} === 大邱都市鉄道公社 === {{駅情報 |社色=#005BAA |文字色= |駅名=大邱都市鉄道 大邱駅駅 |画像=Daegu-metropolitan-transit-corporation-132-Daegu-station-entrance-4-20161009-074116.jpg |pxl= |画像説明=4番出入口(2016年撮影) |母国語表記=대구역 |よみがな=テグヨク |ローマ字=Daegu Station |副駅名= |所属路線=[[大邱都市鉄道1号線|1号線]] |前の駅=131 [[中央路駅 (大邱広域市)|中央路]] |次の駅=[[七星市場駅|七星市場]] 133 |駅間A=0.7 |駅間B=0.8 |地図={{Infobox mapframe|zoom=13|frame-width=280|type=point}} |所在地={{Flagicon|KOR}}[[大邱広域市]][[北区 (大邱広域市)|北区]]七星南路30道地下24 |駅番号=132 |所属事業者=[[大邱都市鉄道公社]](DTRO) |キロ程=14.5 |起点駅=[[舌化ミョン谷駅|舌化{{lang|ko|椧}}谷]] |駅構造=[[地下駅]] |ホーム=2面2線 |乗車人員=10,169 |統計年度=2010年 |乗降人員=20,965 |開業年月日=[[1998年]][[5月2日]] |廃止年月日= |乗換= |備考= }} [[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地下駅]]。フルスクリーンタイプの[[ホームドア]]が設置されている。 ホームは地下3階にあり、上り・下りホームから階段を上った地下2階にそれぞれの改札があり、上下ホーム間の改札内移動は出来ない。同じ地下2階に駅務室、地下1階に化粧室がある。 出口は1番から4番までの合計4ヶ所ある。 ==== のりば ==== * のりばの番号は存在しない。 {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" |- ! 上り | [[ファイル:Daegu Metro Line 1.svg|18px|2|link=]]1号線 | [[中央路駅 (大邱広域市)|中央路]]・[[半月堂駅|半月堂]]・[[舌化ミョン谷駅|舌化{{lang|ko|椧}}谷]]方面 |- ! 下り | [[ファイル:Daegu Metro Line 1.svg|18px|2|link=]]1号線 | [[東大邱駅]]・[[半夜月駅|半夜月]]・[[安心駅|安心]]方面 |} <gallery widths="180"> ファイル:Daegu-metropolitan-transit-corporation-132-Daegu-station-platform-20161009-073436.jpg|ホーム(2016年10月9日) </gallery> {{-}} == 利用状況 == <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ; 韓国鉄道公社 {| class="wikitable" style="text-align: right; font-size:80%" !align="center" rowspan="3" colspan="3"| 年度別 !align="center" colspan="6"| 利用人員<ref>원자료는 철도통계연보[http://www.korail.go.kr/ROOT/cambo-retrieve.cambo?programid=10&lang=kor].</ref> |- !align="center" colspan="4"| 京釜線 |-- !align="center" colspan="1"| [[セマウル号|セマウル]] !align="center" colspan="1"| [[ムグンファ号|ムグンファ]] !align="center" colspan="1"| [[トンイル号|トンイル]] !align="center" colspan="1"| 合計 |----- !align="center" rowspan="4"| 2001年 !align="center" rowspan="2"| 下り !align="center" | 乗車 |align="center" | 2889 |align="center" | 1105282 |align="center" | 6741 |align="center" | 1114912 |----- !align="center" | 下車 |align="center" | 12236 |align="center" | 1710574 |align="center" | 38212 |align="center" | 1761022 |----- !align="center" rowspan="2"| 上り !align="center" | 乗車 |align="center" | 6520 |align="center" | 1847480 |align="center" | 68449 |align="center" | 1922449 |----- !align="center" | 下車 |align="center" | 6693 |align="center" | 1207939 |align="center" | 19193 |align="center" | 1233825 |----- !align="center" rowspan="4"| 2002年 !align="center" rowspan="2"| 下り !align="center" | 乗車 |align="center" | 2491 |align="center" | 1027112 |align="center" | 6264 |align="center" | 1035867 |----- !align="center" | 下車 |align="center" | 10746 |align="center" | 1584442 |align="center" | 31627 |align="center" | 1626815 |----- !align="center" rowspan="2"| 上り !align="center" | 乗車 |align="center" | 7074 |align="center" | 1706552 |align="center" | 60976 |align="center" | 1774602 |----- !align="center" | 下車 |align="center" | 9187 |align="center" | 1114635 |align="center" | 18201 |align="center" | 1142023 |----- !align="center" rowspan="4"| 2003年 !align="center" rowspan="2"| 下り !align="center" | 乗車 |align="center" | 2050 |align="center" | 1108847 |align="center" | 7538 |align="center" | 1118435 |----- !align="center" | 下車 |align="center" | 11886 |align="center" | 1676174 |align="center" | 14741 |align="center" | 1702801 |----- !align="center" rowspan="2"| 上り !align="center" | 乗車 |align="center" | 6147 |align="center" | 1772184 |align="center" | 65850 |align="center" | 1844181 |----- !align="center" | 下車 |align="center" | 9942 |align="center" | 1148236 |align="center" | 23476 |align="center" | 1181654 |----- !align="center" rowspan="4"| 2004年 !align="center" rowspan="2"| 下り !align="center" | 乗車 |align="center" | 129359 |align="center" | 985241 |align="center" | 19230 |align="center" | 1133830 |----- !align="center" | 下車 |align="center" | 216011 |align="center" | 1459713 |align="center" | 3641 |align="center" | 1679365 |----- !align="center" rowspan="2"| 上り !align="center" | 乗車 |align="center" | 193404 |align="center" | 1577275 |align="center" | 18362 |align="center" | 1789041 |----- !align="center" | 下車 |align="center" | 144481 |align="center" | 972473 |align="center" | 17710 |align="center" | 1134664 |----- !align="center" rowspan="4"| 2005年 !align="center" rowspan="2"| 下り !align="center" | 乗車 |align="center" | 168949 |align="center" | 966577 |align="center" | 28782 |align="center" | 1164308 |----- !align="center" | 下車 |align="center" | 241559 |align="center" | 1462461 |align="center" | 始発 |align="center" | 1704020 |----- !align="center" rowspan="2"| 上り !align="center" | 乗車 |align="center" | 218331 |align="center" | 1579963 |align="center" | 終着 |align="center" | 1798294 |----- !align="center" | 下車 |align="center" | 189355 |align="center" | 953130 |align="center" | 14870 |align="center" | 1157355 |} </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> ;大邱都市鉄道公社 {| class="wikitable" |- !rowspan|年度 !rowspan|1日平均<br>乗車人員<ref> 원자료는 [http://www.dtro.or.kr/ 알림판>지하철자료실>통계자료, 대구지하철 승객량 통계 1997~2008] </ref> |- |1998年 |style="text-align:right;"|2543 |- |1999年 |style="text-align:right;"|3949 |- |2000年 |style="text-align:right;"|未公開 |- |2001年 |style="text-align:right;"|3085 |- |2002年 |style="text-align:right;"|3252 |- |2003年 |style="text-align:right;"|2265 |- |2004年 |style="text-align:right;"|6974 |- |2005年 |style="text-align:right;"|7672 |- |2006年 |style="text-align:right;"|10851 |- |2007年 |style="text-align:right;"|10386 |- |2008年 |style="text-align:right;"|10362 |- |2009年 |style="text-align:right;"|10213 |- |2010年 |style="text-align:right;"|10169 |- |2011年 |style="text-align:right;"|10516 |- |2012年 |style="text-align:right;"|10488 |} </div>{{clear|left}} == 駅周辺 == * [[ロッテ百貨店]]大邱店 * [[ロッテシネマ]]大邱 * {{仮リンク|大邱市民会館|ko|대구시민회관}} * 七星花卸売市場 * [[七星市場]]公営駐車場 * 北部消防署 * 七星ヒューマンシア * {{仮リンク|大邱銀行|ko|대구은행}}統一路支店 * 七星洞郵便局 * [[ホームプラス]]大邱店 * {{仮リンク|七星高等学校|ko|칠성고등학교}} * [[大邱市民運動場野球場]] * [[大邱フォレストアレーナ]] * 七星洞グムリュアパート * オペラコーロンハヌルチェアパート * ポンゲ市場 * 大邱共同魚市場 * 大邱景明女子高等学校 * 大邱景明女子中学校 * 大邱玉山初等学校 * 無量寺 == 隣の駅 == ; 韓国鉄道公社 : 京釜線 :: ITX-セマウル ::: [[亀尾駅]] - '''大邱駅''' - [[東大邱駅]] :: ムグンファ号(慶全線・東海南部線直通列車)・ヌリロ号 ::: [[倭館駅]] - '''大邱駅''' - 東大邱駅 :: ムグンファ号 ::: [[新洞駅]] - '''大邱駅''' - 東大邱駅 ; 大邱都市鉄道公社 : [[ファイル:Daegu Metro Line 1.svg|18px|2|link=]]1号線 ::: [[中央路駅 (大邱広域市)|中央路駅]] (131) - '''大邱駅駅 (132)''' - [[七星市場駅]] (133) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == * [[韓国の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == {{commonscat|Daegu Station}} * [http://www.letskorail.com/ebizprd/stationMainView.do?stationSeq=10279575&searchCondition=main4&znCd=V190 韓国鉄道公社 大邱駅] {{ko icon}} * [http://www.dtro.or.kr/open_content_new/ko/guidance/cyber_station_new/include/page.html?sStation_Code=132&sStation_Name=%B4%EB%B1%B8&tTblStaCate=undefined&pnum=2 大邱都市鉄道公社 大邱駅] {{ko icon}} {{京釜線}} {{大邱都市鉄道1号線}} {{DEFAULTSORT:てく}} [[Category:韓国の鉄道駅 て|く]] [[Category:大邱広域市の鉄道駅]] [[Category:大邱都市鉄道公社の鉄道駅|てくえき]] [[Category:1905年開業の鉄道駅]] [[Category:京釜線]] [[Category:北区 (大邱広域市)]]
2007-08-06T04:03:44Z
2023-08-02T00:30:38Z
false
false
false
[ "Template:大邱都市鉄道1号線", "Template:韓国の事物", "Template:-", "Template:Lang", "Template:Clear", "Template:脚注ヘルプ", "Template:京釜線", "Template:駅情報", "Template:仮リンク", "Template:Commonscat", "Template:Ko icon" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%82%B1%E9%A7%85
3,364,708
チャールズ・モンタギュー・クック
チャールズ・モンタギュー・クック(Charles Montague Cooke, Jr. 、1874年12月20日 – 1948年10月29日)は、アメリカ合衆国の動物学者(貝類、軟体動物)である。 ホノルルに生まれた 。ハワイの初期の宣教師を先祖とする裕福な一家に生まれた。祖父はキャッスル&クック(現在のドール・フード・カンパニー)の創立者で、父親はハワイ銀行の創立者の一人で、母親はホノルルの芸術の支援者でホノルル美術館の創立者のアナ・ライス・クックである。プナハウ高校を卒業した後、イェール大学で学び、1901年に学位を得た。結婚して、ヨーロッパ旅行をした後、ハワイに戻った。夫妻の住んだオアフ島のマノアヴァレーの邸宅はアメリカ合衆国国家歴史登録財(U.S. National Register of Historic Places)に指定された。 父親や弟が実業家として働いたのに対して、科学者の道を選び、1902年からホノルルのバーニス・P・ビショップ博物館の貝類コレクションの学芸員として働いた。ハワイ諸島に固有のカタツムリであるハワイマイマイ類を収集した宣教師、貝類学者のジョン・ギューリックの高価なコレクションを購入した。1934年に博物館が企画したマンガレヴァ島を含むポリネシアの諸島の学術調査を率いた。軟体動物の分類学的研究の分野での権威、ヘンリー・ピルスブリーとハワイ諸島の巻貝の分類学研究を行った。人類学者のケニス・エモリーと南太平洋の学術調査を何度か行った 。 両親が設立したクック財団の会長を1920年から1948年の間務め、ハワイ大学(当時はCollege of Hawaii)の理事などの公職も務めた。1948年に没した。ビショップ博物館の学芸員の仕事は助手を務めたマウイ島生まれの日系人、ヨシオ・コンドー(:en:Yoshio Kondo)に引き継がれた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "チャールズ・モンタギュー・クック(Charles Montague Cooke, Jr. 、1874年12月20日 – 1948年10月29日)は、アメリカ合衆国の動物学者(貝類、軟体動物)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ホノルルに生まれた 。ハワイの初期の宣教師を先祖とする裕福な一家に生まれた。祖父はキャッスル&クック(現在のドール・フード・カンパニー)の創立者で、父親はハワイ銀行の創立者の一人で、母親はホノルルの芸術の支援者でホノルル美術館の創立者のアナ・ライス・クックである。プナハウ高校を卒業した後、イェール大学で学び、1901年に学位を得た。結婚して、ヨーロッパ旅行をした後、ハワイに戻った。夫妻の住んだオアフ島のマノアヴァレーの邸宅はアメリカ合衆国国家歴史登録財(U.S. National Register of Historic Places)に指定された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "父親や弟が実業家として働いたのに対して、科学者の道を選び、1902年からホノルルのバーニス・P・ビショップ博物館の貝類コレクションの学芸員として働いた。ハワイ諸島に固有のカタツムリであるハワイマイマイ類を収集した宣教師、貝類学者のジョン・ギューリックの高価なコレクションを購入した。1934年に博物館が企画したマンガレヴァ島を含むポリネシアの諸島の学術調査を率いた。軟体動物の分類学的研究の分野での権威、ヘンリー・ピルスブリーとハワイ諸島の巻貝の分類学研究を行った。人類学者のケニス・エモリーと南太平洋の学術調査を何度か行った 。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "両親が設立したクック財団の会長を1920年から1948年の間務め、ハワイ大学(当時はCollege of Hawaii)の理事などの公職も務めた。1948年に没した。ビショップ博物館の学芸員の仕事は助手を務めたマウイ島生まれの日系人、ヨシオ・コンドー(:en:Yoshio Kondo)に引き継がれた。", "title": "略歴" } ]
チャールズ・モンタギュー・クックは、アメリカ合衆国の動物学者(貝類、軟体動物)である。
'''チャールズ・モンタギュー・クック'''(Charles Montague Cooke, Jr. 、[[1874年]][[12月20日]] – [[1948年]][[10月29日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[動物学者]]([[貝類]]、[[軟体動物]])である。 ==略歴== [[ホノルル]]に生まれた<ref name="men">{{cite book |title= Men of Hawaii: being a biographical reference library, complete and authentic, of the men of note and substantial achievement in the Hawaiian Islands |publisher=Honolulu Star-Bulletin |year=1921 |editor=John William Siddall |page= 107 |url= https://books.google.co.jp/books?id=4o8DAAAAYAAJ&redir_esc=y&hl=ja }}</ref> 。[[ハワイ王国|ハワイ]]の初期の[[宣教師]]を先祖とする裕福な一家に生まれた。祖父はキャッスル&クック(現在の[[ドール・フード・カンパニー]])の創立者で、父親はハワイ銀行の創立者の一人で<ref>{{cite web |url=http://www.ksbe.edu/pauahi/trustees.php |accessdate=2009-04-10 |title=Kamehameha Schools: First Trustees Appointed to Care for the Princess's Trust |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100527101143/http://www.ksbe.edu/pauahi/trustees.php |archivedate=2010年5月27日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、母親はホノルルの芸術の支援者で[[ホノルル美術館]]の創立者のアナ・ライス・クックである。プナハウ高校を卒業した後、[[イェール大学]]で学び、1901年に学位を得た。結婚して、ヨーロッパ旅行をした後、ハワイに戻った。夫妻の住んだ[[オアフ島]]のマノアヴァレーの邸宅は[[アメリカ合衆国国家歴史登録財]](U.S. National Register of Historic Places)に指定された<ref name="focus">{{cite web |title= Charles Montague Cooke, Jr. residence nomination form |author= Sam Cooke |work= National Register of Historic Places |date= September 1984 |publisher= U.S. National Park Service |url= http://pdfhost.focus.nps.gov/docs/NRHP/Text/85003402.pdf |accessdate= May 6, 2010 }}</ref>。 父親や弟が実業家として働いたのに対して、科学者の道を選び、1902年からホノルルの[[バーニス・P・ビショップ博物館]]の貝類コレクションの学芸員として働いた。[[ハワイ諸島]]に固有の[[カタツムリ]]であるハワイマイマイ類を収集した宣教師、貝類学者の[[ジョン・ギューリック]]の高価なコレクションを購入した。1934年に博物館が企画した[[マンガレヴァ島]]を含む[[ポリネシア]]の諸島の学術調査を率いた。軟体動物の[[分類学]]的研究の分野での権威、[[ヘンリー・ピルスブリー]]とハワイ諸島の巻貝の分類学研究を行った。[[人類学者]]のケニス・エモリーと[[南太平洋]]の学術調査を何度か行った<ref>{{cite news |title= Lush & Legendary: The Manoa Heritage Center preserve includes the famous Kukaoo heiau |author= Cheryl Chee Tsutsumi |date= December 21, 2008 |newspaper= Honolulu Star-Bulletin |url= http://www.starbulletin.com/travel/hawaiisbackyard/20081221_hawaiis_back_yard.html |accessdate= May 6, 2010 }}</ref> 。 両親が設立したクック財団の会長を1920年から1948年の間務め、[[ハワイ大学]](当時はCollege of Hawaii)の理事などの公職も務めた。1948年に没した。ビショップ博物館の学芸員の仕事は助手を務めた[[マウイ島]]生まれの[[日系人]]、ヨシオ・コンドー(:en:Yoshio Kondo)に引き継がれた。 {{Botanist|C.M.Cooke}} ==著作== * {{cite news |title= The Hawaiian hepaticae of the tribe Tirgonanthae |author= Charles Montague Cooke, Jr. |work= Transactions of the Connecticut Academy of Arts and Sciences |volume=12 |year= 1902 |pages= 1–44}} Ph.D. dissertation * Alpheus Hyatt and Henry Augustus Pilsbry. 1911. ''Manual of Conchology. Second series: Pulmonata''. [https://archive.org/details/manualofconcholo21tryorich Volume 21]. Achatinellidae (Amastrinae). ''Leptachatina'' by C. Montague Cooke. (The volume was published after Hyatt's death in 1902.) (Amastridae is now considered to be a sole family.) * 1912-1914. ''Manual of Conchology. Second series: Pulmonata''. [https://archive.org/details/manualofconcholo22tryorich Volume 22]. Achatinellidae by Henry A. Pilsbry assisted by C. Montague Cooke. Genealogy and migrations of the Achatinellidae by Alpheus Hyatt. * Henry A. Pilsbry & C. Montague Cooke. 1915-1916. ''Manual of Conchology. Second series: Pulmonata''. [https://archive.org/details/manualofconcholo23tryorich Volume 23]. Appendix to Amastridae. Tornatellinidae. Index, vols. XXI-XXIII. * H. A. Pilsbry & Cooke C. M. 1918-1920 ''Manual of Conchology. Second series: Pulmonata''. [https://archive.org/details/manualofconcholo25tryorich Volume 25]. Pupillidae (Gastrocoptinae, Vertigininae). Philadelphia. * C. M. Cooke & Henry Edward Crampton (1930) "New species of ''Partula''". ''B. P. Bishop. Mus. Occ. Papers'' '''9''': 3-5. == 参考文献 == {{reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くつく ちやあるすもんたきゆう}} [[Category:19世紀アメリカ合衆国の動物学者]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の動物学者]] [[Category:貝類学者]] [[Category:ホノルル出身の人物]] [[Category:1874年生]] [[Category:1948年没]] [[Category:ハワイ州の科学者]]
null
2022-04-28T19:18:48Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:Normdaten", "Template:Botanist", "Template:Cite news", "Template:Reflist", "Template:Cite book" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%83%E3%82%AF
4,204,963
エア・トランスポート・インターナショナル805便墜落事故
エア・トランスポート・インターナショナル805便墜落事故は、1992年2月15日にアメリカ合衆国で発生した航空事故である。 シアトル・タコマ国際空港からトレド・エクスプレス空港(英語版)へ向かっていたエア・トランスポート・インターナショナル805便(ダグラス DC-8-63F)が着陸復航中に墜落し、乗員乗客4人全員が死亡した。 事故機のダグラス DC-8-63F(N794AL)は、1968年に製造番号 45923/383として製造された。旅客機として製造された同機は1968年8月16日にスカンジナビア航空へ納入された。その後、アイスランド航空、タイ国際航空、トランスオーシャン航空(英語版)での運用を経て、貨物機に改修された後にバーリントン・エア・エクスプレス(英語版)へ納入された。事故当時、同機はエア・トランスポート・インターナショナル(英語版)にリースされていた。事故機には4基のプラット・アンド・ホイットニー JT3D-7Qが搭載されていた。 1991年11月13日、事故機はトレドからロサンゼルスへ向かう貨物便として運航されていた際、離陸後に貨物ドアが開くという出来事に巻き込まれていた。幸いにも乗員3人は全員無事で、機体を安全に着陸させることに成功した。このときの原因は航空機関士がドアのロックの状態を適切に確認しなかったこととされた。また、ドアが完全に閉鎖されていなかったにもかかわらず、配線の損傷によりドアの開閉状態が誤表示された。そのため機長と副操縦士はドアが閉鎖されていないことに気付かなかった。 機長は59歳の男性だった。総飛行時間は16,382時間で、DC-8では2,382時間の経験があった。副操縦士は37歳の男性だった。総飛行時間は5,082時間で、DC-8では3,135時間の経験があった。航空機関士は57歳の男性だった。総飛行時間は21,697時間で、DC-8では7,697時間の経験があった。また、同機にはバッファロー航空のパイロット1人も搭乗していた。 EST21時45分、805便はシアトル・タコマ国際空港を定刻通りに離陸した。操縦していたのは副操縦士で、計器の監視などは機長が担当していた。3時02分、管制官は滑走路07へのILS着陸を許可した。コックピットボイスレコーダーには、着陸許可を得た後にパイロット達がランディング・チェックリストを実行する様子が記録されていた。しかしこの直後、機長は副操縦士にフラップが十分に展開されていないため、速度が遅すぎると発言した。機長は続けて、「ローカライザーを捕捉できていない(You're not even on the [expletive] localizer at all.)」と言った。805便の進入は不安定で、グライドパスも下回っていた。3時13分、機長は着陸復航を宣言した。管制官は復航の理由について機長に尋ねた。これに対して機長は、「ローカライザーに接近できなかった...、最終進入で適切な位置に居なかった...、グライドパスは捕捉していたが、ローカライザーは捕捉していなかった(We lost the localizer close in there...couldn't position ourselves on final...we had the glidepath, but not the localizer.)」と返答した。 2度目の着陸進入ではローカライザーは捕捉されており、3時21分に着陸が許可された。しかし2度目の進入も不安定なものとなった。そのため、対地接近警報装置のグライドスロープと降下率の警報が作動した。3時24分、機長は副操縦士から操縦を引き継ぎ、着陸復航を開始した。3時25分、副操縦士は管制官に着陸復航を行っていることを報告した。管制官は3,000フィート (910 m)まで上昇し、左旋回を行うよう指示した。805便は80度近く傾いた状態で25度の機首上げを行いながら上昇し始めた。上昇中に機長は副操縦士に操縦を引き継いだ。副操縦士は機体を水平にしようとしたが、3時26分に805便は滑走路から4.8km地点に墜落した。衝撃により搭乗者4人は即死した。機体の残骸は付近の民家の庭まで飛散し、これにより住人1人が負傷した。また、救助活動に当たった消防士12人が煙の吸引により病院へ搬送された。 国家運輸安全委員会(NTSB)が事故調査を行った。コックピットボイスレコーダー(CVR)とフライトデータレコーダー(FDR)は現場から回収され、解析が行われた。当初、事故機で以前発生した貨物ドアの誤作動が805便でも発生したのではないかという仮説が立てられた。現場からは7つの貨物ドアの止め金が見つかった。この内1つは衝撃によりラッチピンが抜け落ちていた。飛行中に貨物ドアが開いた場合、CVRには騒音が記録される。しかし、805便のCVRにはそのような音声は録音されていなかった。また、警告灯が作動したという証拠も見つからなかったため、NTSBは貨物ドアの誤作動は発生しなかったと結論付けた。 NTSBは姿勢指示器(ADI)の故障についても検討した。現場からはADIが1つ回収されたが、衝撃により大きく損傷していた。FDRの記録などから、副操縦士が行った回復操作は適切であったことが分かった。この事からNTSBは、少なくとも副操縦士側のADIは正常に動作していたと判断した。NTSBは報告書で、 と述べた。また、パイロット間のクルー・リソース・マネジメントも適切なものではなかった。加えて、NTSBは副操縦士が不安定な進入を行った理由を特定できなかった。 1992年11月19日、NTSBは最終報告書を公表した。報告書では、以下のことが推定原因とされた。 NTSBはどの要因が事故を引き起こしたかや、事故の寄与したかを明確に判断することができなかった。また、機体の制御が失われた明確な時間も特定できなかった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エア・トランスポート・インターナショナル805便墜落事故は、1992年2月15日にアメリカ合衆国で発生した航空事故である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "シアトル・タコマ国際空港からトレド・エクスプレス空港(英語版)へ向かっていたエア・トランスポート・インターナショナル805便(ダグラス DC-8-63F)が着陸復航中に墜落し、乗員乗客4人全員が死亡した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "事故機のダグラス DC-8-63F(N794AL)は、1968年に製造番号 45923/383として製造された。旅客機として製造された同機は1968年8月16日にスカンジナビア航空へ納入された。その後、アイスランド航空、タイ国際航空、トランスオーシャン航空(英語版)での運用を経て、貨物機に改修された後にバーリントン・エア・エクスプレス(英語版)へ納入された。事故当時、同機はエア・トランスポート・インターナショナル(英語版)にリースされていた。事故機には4基のプラット・アンド・ホイットニー JT3D-7Qが搭載されていた。", "title": "飛行の詳細" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1991年11月13日、事故機はトレドからロサンゼルスへ向かう貨物便として運航されていた際、離陸後に貨物ドアが開くという出来事に巻き込まれていた。幸いにも乗員3人は全員無事で、機体を安全に着陸させることに成功した。このときの原因は航空機関士がドアのロックの状態を適切に確認しなかったこととされた。また、ドアが完全に閉鎖されていなかったにもかかわらず、配線の損傷によりドアの開閉状態が誤表示された。そのため機長と副操縦士はドアが閉鎖されていないことに気付かなかった。", "title": "飛行の詳細" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "機長は59歳の男性だった。総飛行時間は16,382時間で、DC-8では2,382時間の経験があった。副操縦士は37歳の男性だった。総飛行時間は5,082時間で、DC-8では3,135時間の経験があった。航空機関士は57歳の男性だった。総飛行時間は21,697時間で、DC-8では7,697時間の経験があった。また、同機にはバッファロー航空のパイロット1人も搭乗していた。", "title": "飛行の詳細" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "EST21時45分、805便はシアトル・タコマ国際空港を定刻通りに離陸した。操縦していたのは副操縦士で、計器の監視などは機長が担当していた。3時02分、管制官は滑走路07へのILS着陸を許可した。コックピットボイスレコーダーには、着陸許可を得た後にパイロット達がランディング・チェックリストを実行する様子が記録されていた。しかしこの直後、機長は副操縦士にフラップが十分に展開されていないため、速度が遅すぎると発言した。機長は続けて、「ローカライザーを捕捉できていない(You're not even on the [expletive] localizer at all.)」と言った。805便の進入は不安定で、グライドパスも下回っていた。3時13分、機長は着陸復航を宣言した。管制官は復航の理由について機長に尋ねた。これに対して機長は、「ローカライザーに接近できなかった...、最終進入で適切な位置に居なかった...、グライドパスは捕捉していたが、ローカライザーは捕捉していなかった(We lost the localizer close in there...couldn't position ourselves on final...we had the glidepath, but not the localizer.)」と返答した。", "title": "事故の経緯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2度目の着陸進入ではローカライザーは捕捉されており、3時21分に着陸が許可された。しかし2度目の進入も不安定なものとなった。そのため、対地接近警報装置のグライドスロープと降下率の警報が作動した。3時24分、機長は副操縦士から操縦を引き継ぎ、着陸復航を開始した。3時25分、副操縦士は管制官に着陸復航を行っていることを報告した。管制官は3,000フィート (910 m)まで上昇し、左旋回を行うよう指示した。805便は80度近く傾いた状態で25度の機首上げを行いながら上昇し始めた。上昇中に機長は副操縦士に操縦を引き継いだ。副操縦士は機体を水平にしようとしたが、3時26分に805便は滑走路から4.8km地点に墜落した。衝撃により搭乗者4人は即死した。機体の残骸は付近の民家の庭まで飛散し、これにより住人1人が負傷した。また、救助活動に当たった消防士12人が煙の吸引により病院へ搬送された。", "title": "事故の経緯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "国家運輸安全委員会(NTSB)が事故調査を行った。コックピットボイスレコーダー(CVR)とフライトデータレコーダー(FDR)は現場から回収され、解析が行われた。当初、事故機で以前発生した貨物ドアの誤作動が805便でも発生したのではないかという仮説が立てられた。現場からは7つの貨物ドアの止め金が見つかった。この内1つは衝撃によりラッチピンが抜け落ちていた。飛行中に貨物ドアが開いた場合、CVRには騒音が記録される。しかし、805便のCVRにはそのような音声は録音されていなかった。また、警告灯が作動したという証拠も見つからなかったため、NTSBは貨物ドアの誤作動は発生しなかったと結論付けた。", "title": "事故調査" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "NTSBは姿勢指示器(ADI)の故障についても検討した。現場からはADIが1つ回収されたが、衝撃により大きく損傷していた。FDRの記録などから、副操縦士が行った回復操作は適切であったことが分かった。この事からNTSBは、少なくとも副操縦士側のADIは正常に動作していたと判断した。NTSBは報告書で、", "title": "事故調査" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "と述べた。また、パイロット間のクルー・リソース・マネジメントも適切なものではなかった。加えて、NTSBは副操縦士が不安定な進入を行った理由を特定できなかった。", "title": "事故調査" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1992年11月19日、NTSBは最終報告書を公表した。報告書では、以下のことが推定原因とされた。", "title": "事故調査" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "NTSBはどの要因が事故を引き起こしたかや、事故の寄与したかを明確に判断することができなかった。また、機体の制御が失われた明確な時間も特定できなかった。", "title": "事故調査" } ]
エア・トランスポート・インターナショナル805便墜落事故は、1992年2月15日にアメリカ合衆国で発生した航空事故である。 シアトル・タコマ国際空港からトレド・エクスプレス空港へ向かっていたエア・トランスポート・インターナショナル805便が着陸復航中に墜落し、乗員乗客4人全員が死亡した。
{{Infobox aircraft occurrence | name =エア・トランスポート・インターナショナル 805便 | image = Burlington Air Express DC-8-63 N794AL.jpg | alt = | caption = 1991年6月に撮影された事故機 | occurrence_type = Accident | date = [[1992年]][[2月15日]] | summary = [[空間識失調]]、及び[[パイロットエラー]] | site = {{USA}}・[[オハイオ州]]{{仮リンク|トレド・エクスプレス空港|en|Toledo Express Airport}}付近 | coordinates = {{Coord|41|37.95|N|83|48.07|W|type:event|display=inline,title}} | aircraft_type = [[ダグラス DC-8|ダグラス DC-8-63F]] | aircraft_name = | operator = {{Flagicon|USA}} {{仮リンク|エア・トランスポート・インターナショナル|en|Air Transport International}} | tail_number = {{Airreg|N|794AL}} | origin = {{Flagicon|USA}} [[シアトル・タコマ国際空港]] | stopover = | stopover0 = | last_stopover = | destination = {{Flagicon|USA}} {{仮リンク|トレド・エクスプレス空港|en|Toledo Express Airport}} | passengers = 1 | crew = 3 | fatalities = 4(全員) | injuries =0 | missing = | survivors = 0 | ground_injuries = 13 }} '''エア・トランスポート・インターナショナル805便墜落事故'''は、[[1992年]][[2月15日]]に[[アメリカ合衆国]]で発生した航空事故である。 [[シアトル・タコマ国際空港]]から{{仮リンク|トレド・エクスプレス空港|en|Toledo Express Airport}}へ向かっていたエア・トランスポート・インターナショナル805便([[ダグラス DC-8|ダグラス DC-8-63F]])が着陸復航中に墜落し、乗員乗客4人全員が死亡した{{sfn|report}}<ref name="ASN">{{Cite web|title=ASN Aircraft accident McDonnell Douglas DC-8-63F N794AL Toledo-Express Airport, OH (TOL)|url=https://aviation-safety.net/database/record.php?id=19920215-1|last=Ranter|first=Harro|date=|website=aviation-safety.net|publisher=[[Aviation Safety Network]]|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=2019-06-15}}</ref>。 == 飛行の詳細 == === 事故機 === 事故機の[[ダグラス DC-8|ダグラス DC-8-63F]](N794AL)は、1968年に製造番号 45923/383として製造された。旅客機として製造された同機は1968年8月16日に[[スカンジナビア航空]]へ納入された。その後、[[アイスランド航空]]、[[タイ国際航空]]、{{仮リンク|ガルフ・エア・トランスポート|label=トランスオーシャン航空|en|Gulf Air Transport}}での運用を経て、貨物機に改修された後に{{仮リンク|BAXグローバル|label=バーリントン・エア・エクスプレス|en|BAX Global}}へ納入された。事故当時、同機は{{仮リンク|エア・トランスポート・インターナショナル|en|Air Transport International}}に[[航空機リース|リース]]されていた。事故機には4基の[[プラット・アンド・ホイットニー JT3D|プラット・アンド・ホイットニー JT3D-7Q]]が搭載されていた{{sfn|report|pp=13-17}}<ref name="ASN" /><ref>{{Cite web|title=N794AL Air Transport International Douglas DC-8-60/70|url=https://www.planespotters.net/airframe/douglas-dc-8-n794al-air-transport-international/e9jlzq|website=www.planespotters.net|language=en|access-date=2020-05-21}}</ref>。 1991年11月13日、事故機はトレドからロサンゼルスへ向かう貨物便として運航されていた際、離陸後に貨物ドアが開くという出来事に巻き込まれていた。幸いにも乗員3人は全員無事で、機体を安全に着陸させることに成功した。このときの原因は航空機関士がドアのロックの状態を適切に確認しなかったこととされた。また、ドアが完全に閉鎖されていなかったにもかかわらず、配線の損傷によりドアの開閉状態が誤表示された。そのため機長と副操縦士はドアが閉鎖されていないことに気付かなかった{{sfn|report|p=47}}<ref>{{Cite web|title=Report of cargo door incident on N794AL|url=https://app.ntsb.gov/pdfgenerator/ReportGeneratorFile.ashx?EventID=20001212X18509&AKey=1&RType=Final&IType=IA.pdf|last=|first=|date=|website=app.ntsb.gov|publisher=National Transportation Safety Board|id=NYC92IA030|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=2020-05-21}}</ref>。 === 乗員 === 機長は59歳の男性だった。総飛行時間は16,382時間で、DC-8では2,382時間の経験があった。副操縦士は37歳の男性だった。総飛行時間は5,082時間で、DC-8では3,135時間の経験があった。航空機関士は57歳の男性だった。総飛行時間は21,697時間で、DC-8では7,697時間の経験があった。また、同機にはバッファロー航空のパイロット1人も搭乗していた{{sfn|report|pp=11-13, 62}}<ref name="UPI1">{{Cite news|title=Cargo plane crashes; four die|url=https://www.upi.com/Archives/1992/02/15/Cargo-plane-crashes-four-die/6395698130000/|last=|first=|date=|work=United Press International|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=2019-09-24}}</ref><ref name="AP">{{Cite news|last=Weiss|first=Mitch|date=1992-02-15|title=Cargo Plane Crashes, 4 Killed|work=AP NEWS|agency=Associated Press|url=https://apnews.com/53b2640345b0ec29a848614634dcfb3d|url-status=live|access-date=2020-05-21}}</ref>。 == 事故の経緯 == [[東部標準時|EST]]21時45分、805便はシアトル・タコマ国際空港を定刻通りに離陸した。操縦していたのは副操縦士で、計器の監視などは機長が担当していた{{sfn|report|p=1}}。3時02分、管制官は滑走路07への[[計器着陸装置|ILS]]着陸を許可した。[[ブラックボックス (航空)#コックピットボイスレコーダー(CVR)|コックピットボイスレコーダー]]には、着陸許可を得た後にパイロット達がランディング・チェックリストを実行する様子が記録されていた。しかしこの直後、機長は副操縦士に[[高揚力装置|フラップ]]が十分に展開されていないため、速度が遅すぎると発言した。機長は続けて、「ローカライザーを捕捉できていない(You're not even on the [expletive] localizer at all.)」と言った。805便の進入は不安定で、グライドパスも下回っていた。3時13分、機長は着陸復航を宣言した。管制官は復航の理由について機長に尋ねた。これに対して機長は、「ローカライザーに接近できなかった...、最終進入で適切な位置に居なかった...、グライドパスは捕捉していたが、ローカライザーは捕捉していなかった(We lost the localizer close in there...couldn't position ourselves on final...we had the glidepath, but not the localizer.)」と返答した{{sfn|report|p=2}}。 2度目の着陸進入ではローカライザーは捕捉されており、3時21分に着陸が許可された。しかし2度目の進入も不安定なものとなった。そのため、[[対地接近警報装置]]のグライドスロープと降下率の警報が作動した。3時24分、機長は副操縦士から操縦を引き継ぎ、着陸復航を開始した。3時25分、副操縦士は管制官に着陸復航を行っていることを報告した。管制官は{{convert|3,000|ft|m|}}まで上昇し、左旋回を行うよう指示した。805便は80度近く傾いた状態で25度の機首上げを行いながら上昇し始めた。上昇中に機長は副操縦士に操縦を引き継いだ。副操縦士は機体を水平にしようとしたが、3時26分に805便は滑走路から4.8km地点に墜落した。衝撃により搭乗者4人は即死した{{sfn|report|p=3}}。機体の残骸は付近の民家の庭まで飛散し、これにより住人1人が負傷した。また、救助活動に当たった消防士12人が煙の吸引により病院へ搬送された<ref name="AP" />。 == 事故調査 == [[国家運輸安全委員会]](NTSB)が事故調査を行った。[[ブラックボックス (航空)#コックピットボイスレコーダー(CVR)|コックピットボイスレコーダー]](CVR)と[[ブラックボックス (航空)#フライトデータレコーダー(FDR)|フライトデータレコーダー]](FDR)は現場から回収され、解析が行われた。当初、事故機で以前発生した貨物ドアの誤作動が805便でも発生したのではないかという仮説が立てられた。現場からは7つの貨物ドアの止め金が見つかった。この内1つは衝撃によりラッチピンが抜け落ちていた。飛行中に貨物ドアが開いた場合、CVRには騒音が記録される。しかし、805便のCVRにはそのような音声は録音されていなかった。また、警告灯が作動したという証拠も見つからなかったため、NTSBは貨物ドアの誤作動は発生しなかったと結論付けた{{sfn|report|p=47}}。 NTSBは[[姿勢指示器]](ADI)の故障についても検討した。現場からはADIが1つ回収されたが、衝撃により大きく損傷していた{{sfn|report|p=35}}。FDRの記録などから、副操縦士が行った回復操作は適切であったことが分かった。この事からNTSBは、少なくとも副操縦士側のADIは正常に動作していたと判断した{{sfn|report|p=55}}。NTSBは報告書で、 {{Quote|text=副操縦士の回復操作は機体を水平にし、機首を上げるという標準的な手順に従ったものだった。もし、副操縦士がより積極的な操作を行っていれば、機体を姿勢を回復できた可能性がある。このときに必要だった操作は機体の運用範囲内にあったとみられている{{sfn|report|p=57}}。}} と述べた。また、パイロット間の[[クルー・リソース・マネジメント]]も適切なものではなかった{{sfn|report|p=57}}。加えて、NTSBは副操縦士が不安定な進入を行った理由を特定できなかった{{sfn|report|p=59}}。 1992年11月19日、NTSBは最終報告書を公表した。報告書では、以下のことが推定原因とされた。 {{Quote|text=事故原因として、空間識失調に陥った機長が不適切な操縦を行ったこと、及びその後の状況認識や回復操作を素早く行えなかったことが考えられる。また、ADIが故障しており、それが事故に寄与した可能性もある{{sfn|report|p=60, vi}}。}} NTSBはどの要因が事故を引き起こしたかや、事故の寄与したかを明確に判断することができなかった。また、機体の制御が失われた明確な時間も特定できなかった{{sfn|report}}<ref name="UPI2">{{Cite news|last=|first=|date=1992-11-19|title=Pilot error partially blamed for fatal crash|work=United Press International|url=https://www.upi.com/Archives/1992/11/19/Pilot-error-partially-blamed-for-fatal-crash/3048722149200/|url-status=live|access-date=2020-05-21|archive-url=|archive-date=}}</ref>。 == 脚注 == {{reflist}} === 参考文献 === * {{Citation|publisher=[[国家運輸安全委員会]]|title=AIR TRANSPORT INTERNATIONAL, INC., FLIGHT 805 DOUGLAS DC-8-63, N794AL LOSS OF CONTROL AND CRASH SWANTON, OHIO FEBRUARY 15, 1992|url=https://www.ntsb.gov/investigations/AccidentReports/Reports/AAR9205.pdf|last=|first=|date=November 19, 1992|website=|id=NTSB/AAR-92/05|url-status=live|archive-url=|archive-date=|access-date=June 15, 2019|language=English|format=PDF|ref={{sfnref|report}}}} == 関連項目 == * [[エア・インディア855便墜落事故]] * [[大韓航空8509便墜落事故]] {{1992年の航空事故一覧}} {{DEFAULTSORT:えあとらんすほおといんたあなしよなる805ひんついらくしこ}} [[Category:1992年の航空事故]] [[Category:アメリカ合衆国で発生した航空事故]] [[Category:アメリカ合衆国の災害 (1990年-)]] [[Category:1992年のアメリカ合衆国]] [[Category:オハイオ州の交通事故]] [[Category:ルーカス郡 (オハイオ州)]] [[Category:DC-8による航空事故]] [[Category:パイロットエラーによる航空事故]] [[Category:1992年2月]]
null
2023-06-28T06:34:53Z
false
false
false
[ "Template:Cite news", "Template:Citation", "Template:仮リンク", "Template:Sfn", "Template:Cite web", "Template:Reflist", "Template:1992年の航空事故一覧", "Template:Infobox aircraft occurrence", "Template:Convert", "Template:Quote" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB805%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
798,666
第六大陸
『第六大陸』(だいろくたいりく)は、小川一水による2003年刊のSF小説。早川書房よりハヤカワ文庫として全2巻刊行。第35回星雲賞日本長編部門の受賞作。一般にハードSFとして分類される。 近未来の月開発をテーマにした、小川の得意とする技術系SFである。タイトルは、月を5大陸に続く(南極大陸に代わる)第6の大陸と位置づけたものである。 早川書房からの小川初の単行本である。近年のハヤカワ文庫では珍しいカラー口絵付きで、カバー表紙絵と共に、『プラネテス』で知られる幸村誠が描いている。 2025年。化石燃料の枯渇が深刻な問題となった結果、世界各国が平和主義路線を歩み始めた時代。レジャー用の深海交通艇が南沙諸島の海底を航行し、海底にドーム型都市が造られる近未来。 25歳にして世界トップレベルの建築技術を誇る御鳥羽総合建設の俊英である青峰走也(あおみね そうや)は、月に結婚式場を建設するという途方も無い計画を実現するため、依頼主であるレジャー企業エデン・レジャーエンターテイメント社会長・桃園寺閃之助(とうえんじ せんのすけ)の孫娘・桃園寺妙(とうえんじ たえ)を伴い月に向かう。 完成および運用までの12年に及ぶ歳月のなかで、走也と妙は月と地球、その間に広がる宇宙で様々な経験を積んで、成長していく。 ウェブコミック誌『FlexComixネクスト』(フレックスコミックス)で2008年12月9日更新号から2010年11月22日更新号まで全22話の連載が行われた。作画は吉祥寺笑。単行本は全5巻。 山本弘のSF小説『去年はいい年になるだろう』では、2001年の小川一水が登場しこの作品の構想を語っている。ただし物語中では、歴史改変により小川は執筆を断念している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『第六大陸』(だいろくたいりく)は、小川一水による2003年刊のSF小説。早川書房よりハヤカワ文庫として全2巻刊行。第35回星雲賞日本長編部門の受賞作。一般にハードSFとして分類される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "近未来の月開発をテーマにした、小川の得意とする技術系SFである。タイトルは、月を5大陸に続く(南極大陸に代わる)第6の大陸と位置づけたものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "早川書房からの小川初の単行本である。近年のハヤカワ文庫では珍しいカラー口絵付きで、カバー表紙絵と共に、『プラネテス』で知られる幸村誠が描いている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2025年。化石燃料の枯渇が深刻な問題となった結果、世界各国が平和主義路線を歩み始めた時代。レジャー用の深海交通艇が南沙諸島の海底を航行し、海底にドーム型都市が造られる近未来。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "25歳にして世界トップレベルの建築技術を誇る御鳥羽総合建設の俊英である青峰走也(あおみね そうや)は、月に結婚式場を建設するという途方も無い計画を実現するため、依頼主であるレジャー企業エデン・レジャーエンターテイメント社会長・桃園寺閃之助(とうえんじ せんのすけ)の孫娘・桃園寺妙(とうえんじ たえ)を伴い月に向かう。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "完成および運用までの12年に及ぶ歳月のなかで、走也と妙は月と地球、その間に広がる宇宙で様々な経験を積んで、成長していく。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ウェブコミック誌『FlexComixネクスト』(フレックスコミックス)で2008年12月9日更新号から2010年11月22日更新号まで全22話の連載が行われた。作画は吉祥寺笑。単行本は全5巻。", "title": "漫画" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "山本弘のSF小説『去年はいい年になるだろう』では、2001年の小川一水が登場しこの作品の構想を語っている。ただし物語中では、歴史改変により小川は執筆を断念している。", "title": "他作品への登場" } ]
『第六大陸』(だいろくたいりく)は、小川一水による2003年刊のSF小説。早川書房よりハヤカワ文庫として全2巻刊行。第35回星雲賞日本長編部門の受賞作。一般にハードSFとして分類される。
{{基礎情報 書籍 | title = 第六大陸 | orig_title = | image = | image_size = | image_caption = | author = [[小川一水]] | translator = | illustrator = [[幸村誠]] | published ={{flagicon|JPN}} [[2003年]] | publisher = {{flagicon|JPN}} [[早川書房]] | genre = [[サイエンス・フィクション|SF]] | country = {{JPN}} | language = [[日本語]] | type = [[文庫本]] | pages = | preceded_by = | followed_by = | website = | id = ISBN 978-4150307271<br />ISBN 978-4150307356 }} 『'''第六大陸'''』(だいろくたいりく)は、[[小川一水]]による[[2003年]]刊の[[SF小説]]。[[早川書房]]より[[ハヤカワ文庫]]として全2巻刊行。第35回[[星雲賞]]日本長編部門の受賞作<ref>{{Cite book |和書 |author=大森望・三村美衣 |date=2004年12月24日第1刷発行 |title=ライトノベル☆めった斬り! |publisher=NTT出版 |page=270 |isbn=4-87233-904-5}}</ref>。一般に[[ハードSF]]として分類される。 == 概要 == 近未来の[[月]]開発をテーマにした、小川の得意とする技術系SFである。タイトルは、月を5[[大陸]]に続く([[南極大陸]]に代わる)第6の大陸と位置づけたものである。 早川書房からの小川初の単行本である。近年のハヤカワ文庫では珍しいカラー[[口絵]]付きで、[[ブックカバー|カバー]][[表紙]]絵と共に、『[[プラネテス]]』で知られる[[幸村誠]]が描いている。 == あらすじ == {{節スタブ}} [[2025年]]。[[化石燃料]]の枯渇が深刻な問題となった結果、世界各国が[[平和主義]]路線を歩み始めた時代。レジャー用の[[潜水艇|深海交通艇]]が[[スプラトリー諸島|南沙諸島]]の海底を航行し、海底に[[ドーム型都市]]が造られる近未来。 25歳にして世界トップレベルの建築技術を誇る御鳥羽総合建設の俊英である青峰走也(あおみね そうや)は、[[月]]に[[結婚式場]]を建設するという途方も無い計画を実現するため、依頼主であるレジャー企業エデン・レジャーエンターテイメント社会長・桃園寺閃之助(とうえんじ せんのすけ)の孫娘・桃園寺妙(とうえんじ たえ)を伴い月に向かう。 完成および運用までの12年に及ぶ歳月のなかで、走也と妙は月と[[地球]]、その間に広がる[[宇宙]]で様々な経験を積んで、成長していく。 == 受賞 == *2003年「おすすめ文庫王国 今年の収穫ベストテンSF部門」10位<ref>『本の雑誌増刊 おすすめ文庫王国2003年度版』 P.43 本の雑誌社</ref> *[[2004年]] 『[[SFが読みたい!]]』ベストSF2003 国内篇2位 *2004年 第35回[[星雲賞]] 日本長編部門 == 漫画 == [[ウェブコミック]]誌『[[FlexComixネクスト]]』([[フレックスコミックス]])で[[2008年]][[12月9日]]更新号から[[2010年]][[11月22日]]更新号まで全22話の連載が行われた。作画は[[吉祥寺笑]]。単行本は全5巻<ref>ただし、最終巻は4巻の発売後から2年後に発売された。</ref>。 == 書誌情報 == *小説 **第六大陸 1 ([[早川書房]] [[ハヤカワ文庫]]JA、[[2003年]]6月、ISBN 4-15-030727-X) **第六大陸 2 (早川書房 ハヤカワ文庫JA、2003年8月、ISBN 4-15-030735-0) *漫画 **第六大陸 01 ([[ソフトバンク クリエイティブ]] Flex Comix、[[2009年]]{{0}}6月11日、ISBN 978-4-7973-5499-7) **第六大陸 02 (ソフトバンク クリエイティブ Flex Comix、2009年{{0}}8月11日、ISBN 978-4-7973-5562-8) **第六大陸 03 (ソフトバンク クリエイティブ Flex Comix、2009年12月11日、ISBN 978-4-7973-5756-1) **第六大陸 04 (ソフトバンク クリエイティブ Flex Comix、[[2010年]]{{0}}4月10日、ISBN 978-4-7973-5918-3) **第六大陸 05 ([[ほるぷ出版]] Flex Comix、[[2012年]]{{0}}6月20日、ISBN 978-4-5938-5697-8) == 他作品への登場 == [[山本弘 (作家)|山本弘]]のSF小説『[[去年はいい年になるだろう]]』では、[[2001年]]の小川一水が登場しこの作品の構想を語っている。ただし物語中では、[[歴史改変SF|歴史改変]]により小川は執筆を断念している。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *{{Wayback|url=http://homepage1.nifty.com/issui/sakuhin1.htm#sixth |title=小川遊水池 - 作品解説 第六大陸 |date=20001027171734}} *[http://flex-comix.jp/titles/dairoku/ FlexComixWeb - 第六大陸] {{星雲賞日本長編部門}} {{Lit-stub}} {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:たいろくたいりく}} [[Category:日本のSF小説]] [[Category:2003年の小説]] [[Category:漫画作品 た|いろくたいりく]] [[Category:2008年の漫画]] [[Category:FlexComixネクスト]] [[Category:月を舞台とした作品]] [[Category:宇宙を舞台としたSF作品]] [[Category:ハヤカワ文庫]] [[Category:未来を題材とした小説]] [[Category:未来を題材とした漫画作品]] [[Category:星雲賞受賞作品]]
2006-12-09T10:34:37Z
2023-12-11T13:38:32Z
false
false
false
[ "Template:星雲賞日本長編部門", "Template:基礎情報 書籍", "Template:Wayback", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Lit-stub", "Template:Manga-stub", "Template:節スタブ", "Template:0" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E5%A4%A7%E9%99%B8
4,632,060
エーペックスレジェンズの登場キャラクター
エーペックスレジェンズの登場キャラクター(エーペックスレジェンズのとうじょうキャラクター)は、FPS・バトルロイヤルゲーム『エーペックスレジェンズ』『エーペックスレジェンズモバイル(以下モバイル版)』に登場する、架空の人物の一覧である。 担当声優は特に注釈のない限り、原語版/日本語吹替版の順に表記している。 『タイタンフォール』シリーズの系譜を継ぐ『エーペックスレジェンズ』には多くのキャラクターが登場するが、その内実際にゲームをプレイする上で操作できる、いわゆるプレイアブルキャラクターのことを同作においては独自に「レジェンド(Legend/Legends)」と呼んでいる。レジェンドにはリキャストが存在し一定時間ごとに使用可能となる各自固有の「戦術アビリティ」と、より長いリキャストを要する同じく各自固有の「アルティメットアビリティ」、そしてプレイ中いつでも発動する(できる)「パッシブアビリティ」を持っている。 また、一部のレジェンドには、パッシブスキルと別途で設けられている「パーク」という能力が存在する。2022年8月現在では、ジブラルタル・コースティック・ニューキャッスルの3人に自身へのダメージが15%軽減される「鉄壁」が付与されている。かつてライフライン、レイス、ワットソン、パスファインダー、レヴナントには被弾するとダメージが5%上昇する「小柄」があったが、シーズン9開始時に廃止されている。 シーズン15までは、各レジェンドには「オフェンス」「ディフェンス」「リコン」「サポート」の4つのクラスに割り振られていたが、リコンのみマップ上にランダムに点在する「調査ビーコン」を使用でき、次のリングの位置がわかる能力を使用できた。以下に各クラスに分類されるレジェンドを示す。太字は、モバイル版限定レジェンド。 シーズン16からレジェンドクラスが5つに再構成され、それぞれにクラスパーク(能力)が付与され、レジェンドがクラスごとに大別される形になった。 上述の通り、シーズン16ではレジェンドのクラスが再構成されたほかに、プロフィールも一部変更された。個別の記載については特筆のある場合を除き、シーズン15まで→シーズン16からのもの。 変更前のパッシブアビリティは、本人が味方を蘇生中にシールドの展開と回復アイテムを高速で使用できた。 コースティックとミラージュは、シーズン0から既に登場しており、所定のアイテムを使用することで解放できる。オクタン以降は記述順に各シーズン1人ずつ、同様の方法で解放できるレジェンドとして登場した。 モバイル版において現在使用できるレジェンドはブラッドハウンド・ジブラルタル・ライフライン・パスファインダー・レイス・バンガロール・コースティック・ミラージュ・オクタンとアップデートで追加されたローバ・クリプト・アッシュ・レヴナント・ホライゾン、モバイル版限定レジェンドのフェード・ラプソディの16人である。 モバイル版ではオリジナル要素として「レジェンドパークシステム」があり、アビリティの他に能力が自由に追加できる。当初はバトルロイヤル(カジュアルマッチ)のみだったが、シーズン3「チャンピオン」からランクマッチでも使用できるようになった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エーペックスレジェンズの登場キャラクター(エーペックスレジェンズのとうじょうキャラクター)は、FPS・バトルロイヤルゲーム『エーペックスレジェンズ』『エーペックスレジェンズモバイル(以下モバイル版)』に登場する、架空の人物の一覧である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "担当声優は特に注釈のない限り、原語版/日本語吹替版の順に表記している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『タイタンフォール』シリーズの系譜を継ぐ『エーペックスレジェンズ』には多くのキャラクターが登場するが、その内実際にゲームをプレイする上で操作できる、いわゆるプレイアブルキャラクターのことを同作においては独自に「レジェンド(Legend/Legends)」と呼んでいる。レジェンドにはリキャストが存在し一定時間ごとに使用可能となる各自固有の「戦術アビリティ」と、より長いリキャストを要する同じく各自固有の「アルティメットアビリティ」、そしてプレイ中いつでも発動する(できる)「パッシブアビリティ」を持っている。", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "また、一部のレジェンドには、パッシブスキルと別途で設けられている「パーク」という能力が存在する。2022年8月現在では、ジブラルタル・コースティック・ニューキャッスルの3人に自身へのダメージが15%軽減される「鉄壁」が付与されている。かつてライフライン、レイス、ワットソン、パスファインダー、レヴナントには被弾するとダメージが5%上昇する「小柄」があったが、シーズン9開始時に廃止されている。", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "シーズン15までは、各レジェンドには「オフェンス」「ディフェンス」「リコン」「サポート」の4つのクラスに割り振られていたが、リコンのみマップ上にランダムに点在する「調査ビーコン」を使用でき、次のリングの位置がわかる能力を使用できた。以下に各クラスに分類されるレジェンドを示す。太字は、モバイル版限定レジェンド。", "title": "クラス" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "シーズン16からレジェンドクラスが5つに再構成され、それぞれにクラスパーク(能力)が付与され、レジェンドがクラスごとに大別される形になった。", "title": "クラス" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "上述の通り、シーズン16ではレジェンドのクラスが再構成されたほかに、プロフィールも一部変更された。個別の記載については特筆のある場合を除き、シーズン15まで→シーズン16からのもの。", "title": "レジェンド一覧" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "変更前のパッシブアビリティは、本人が味方を蘇生中にシールドの展開と回復アイテムを高速で使用できた。", "title": "レジェンド一覧" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "コースティックとミラージュは、シーズン0から既に登場しており、所定のアイテムを使用することで解放できる。オクタン以降は記述順に各シーズン1人ずつ、同様の方法で解放できるレジェンドとして登場した。", "title": "レジェンド一覧" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "モバイル版において現在使用できるレジェンドはブラッドハウンド・ジブラルタル・ライフライン・パスファインダー・レイス・バンガロール・コースティック・ミラージュ・オクタンとアップデートで追加されたローバ・クリプト・アッシュ・レヴナント・ホライゾン、モバイル版限定レジェンドのフェード・ラプソディの16人である。", "title": "レジェンド一覧" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "モバイル版ではオリジナル要素として「レジェンドパークシステム」があり、アビリティの他に能力が自由に追加できる。当初はバトルロイヤル(カジュアルマッチ)のみだったが、シーズン3「チャンピオン」からランクマッチでも使用できるようになった。", "title": "レジェンド一覧" } ]
エーペックスレジェンズの登場キャラクター(エーペックスレジェンズのとうじょうキャラクター)は、FPS・バトルロイヤルゲーム『エーペックスレジェンズ』『エーペックスレジェンズモバイル(以下モバイル版)』に登場する、架空の人物の一覧である。 担当声優は特に注釈のない限り、原語版/日本語吹替版の順に表記している。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{一次資料|date=2023年7月}} '''エーペックスレジェンズの登場キャラクター'''(エーペックスレジェンズのとうじょうキャラクター)は、[[FPSオンラインゲーム|FPS]]・[[バトルロイヤルゲーム|バトルロイヤル]]ゲーム『[[エーペックスレジェンズ]]』『エーペックスレジェンズモバイル(以下モバイル版)』に登場する、[[架空]]の人物の一覧である。 担当[[声優]]は特に注釈のない限り、原語版 / 日本語吹替版の順に表記している。 == レジェンドについて == 『[[タイタンフォール]]』シリーズの系譜を継ぐ『エーペックスレジェンズ』には多くのキャラクターが登場するが、その内実際にゲームをプレイする上で操作できる、いわゆるプレイアブルキャラクターのことを同作においては独自に「レジェンド(Legend/Legends)」と呼んでいる。レジェンドにはリキャストが存在し一定時間ごとに使用可能となる各自固有の「戦術アビリティ」と、より長いリキャストを要する同じく各自固有の「アルティメットアビリティ」、そしてプレイ中いつでも発動する(できる)「パッシブアビリティ」を持っている。 また、一部のレジェンドには、パッシブスキルと別途で設けられている「パーク」という能力が存在する。2022年8月現在では、ジブラルタル・コースティック・ニューキャッスルの3人に自身へのダメージが15%軽減される「鉄壁」が付与されている。かつてライフライン、レイス、ワットソン<ref name=":182">{{Cite web|和書|title=英雄の軌跡アップデート パッチノート |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/legacy-update-patch-notes |website=Electronic Arts Inc. |date=2021-04-29 |accessdate=2021-12-28 |language=ja}}</ref>、パスファインダー<ref>{{Cite web|和書|title=カオスセオリーコレクションイベントで気分転換 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/season-8-chaos-theory-collection-event |website=Electronic Arts Inc. |date=2021-03-04 |accessdate=2022-01-01 |language=ja}}</ref>、レヴナント<ref>{{Cite web|和書|title=古の理イベントパッチノート |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/old-ways-patch-notes |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-04-07 |accessdate=2022-01-01 |language=ja}}</ref>には被弾するとダメージが5%上昇する「小柄」があったが、シーズン9開始時に廃止されている。 == クラス == シーズン15までは各レジェンドには「オフェンス」「ディフェンス」「リコン」「サポート」の4つのクラスがあったが、リコンだけにマップ上にランダムに点在する「調査ビーコン」を使用でき、次の戦闘可能な範囲がわかる能力があった。その他のクラスにはないためプレイに影響を与えることはなかった。以下に各クラスに分類されるレジェンドを示す。モバイル版限定レジェンドは太字で示した。 {| class="wikitable" |+ !クラス !当該レジェンド |- |オフェンス |レイス、バンガロール、ミラージュ、オクタン、レヴナント、ホライゾン、ヒューズ、アッシュ、マッドマギー、'''フェード''' |- |ディフェンス |ジブラルタル、コースティック、ワットソン、ランパート、ニューキャッスル、カタリスト |- |リコン |ブラッドハウンド、パスファインダー、クリプト、ヴァルキリー、シア、ヴァンテージ |- |サポート |ライフライン、ローバ、'''ラプソディ''' |} シーズン16からレジェンドクラスが5つに再構成され、それぞれにクラスパーク(能力)が付与され、レジェンドがクラスごとに大別される形になった<ref name="REVELRY-UPDATES">{{Cite web|和書|title=「エーペックスレジェンズ: 大狂宴」の最新アップデート |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/revelry-season-game-updates |website=Electronic Arts Inc. |accessdate=2023-02-09 |language=ja}}</ref>。 {| class="wikitable" |+ !rowspan=2|クラス !当該レジェンド |- !能力 |- |rowspan=2|アサルト<br/>(Assault) |バンガロール、ヒューズ、アッシュ、マッドマギー、バリスティック |- |赤いサプライボックスの秘密のコンパートメントにアクセス可能。<br/>また、弾の所持数が1スタック多く所持できる。 |- |rowspan=2|スカーミッシャー<br/>(Skirmisher) |パスファインダー、レイス、オクタン、レヴナント、ホライゾン、ヴァルキリー |- |接近中のケアパッケージを見つけて、中に入っている最も価値の高いアイテムを確認できる。 |- |rowspan=2|リコン<br/>(Recon) |ブラッドハウンド、クリプト、シア、ヴァンテージ |- |改良型調査ビーコンを使うことでマップとミニマップ上ですべての敵の位置を30秒表示する。<br/>ただし、近くの敵にはビーコンが使用されたことが知らされる。 |- |rowspan=2|コントローラー<br/>(Controller) |コースティック、ワットソン、ランパート、カタリスト |- |リングコンソールを使用すると、次のリングの場所を確認できる。 |- |rowspan=2|サポート<br/>(Support) |ジブラルタル、ライフライン、ミラージュ、ローバ、ニューキャッスル、コンジット |- |味方のバナーをクラフトすることで回収できる。有効期限の切れたバナーもクラフト可能。<br/>シーズン17から味方にサポートクラスのレジェンドがいれば他のクラスでもバナーをクラフト可能になった。<br/>また、ライフラインのみ可能だった青いサプライボックスの秘密のコンパートメントにアクセスができる。 |- |} == レジェンド一覧 == 上述の通り、シーズン16ではレジェンドのクラスが再構成されたほかに、プロフィールも一部変更された。個別の記載については特筆のある場合を除き、シーズン15まで→シーズン16からのもの。 === 初期レジェンド === ;ブラッドハウンド(Bloodhound)/ ブロス・フゥンダル(Blódhundr)<ref>{{Cite web|和書|title=ブラッドハウンド - 科学で敵を追跡するハンター |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/bloodhound |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05}}</ref> :声 - [[アレグラ・クラーク]] / [[木下紗華]]<ref>{{Cite news|title=『Apex Legends』ブラッドハウンド役は木下紗華さんであると明らかにー『FF15』ゲンティアナや『ポケモン サン&ムーン』ルザミーネ役|newspaper=インサイド|date=2021-03-10|url=https://www.inside-games.jp/article/2021/03/10/131373.html|accessdate=2021-03-11}}</ref><ref>[https://twitter.com/KinoSayaka0721/status/1369503974068424704 『Apex Legends』性別不明で吹替も謎のままがよいかなと伏せていたのですが、事務所で宣伝して頂いたのでこちらでも。2019年発売初期より「ブラッドハウンド」の声を担当しております(画像左)少し加工されてますwSwitch配信は本日より。人気ゲームに関われて光栄です。よろしくお願いします] - Twitter 木下彩華(@KinoSayaka0721) 2021年3月10日</ref> :ガスマスクを装着した狩人であるレジェンド。[[Xジェンダー|ノンバイナリー]]<ref>[https://twitter.com/PlayApex/status/1353065485181480960 With pleasure!*taps mic*Bloodhound is non-binary.] - Apex Legends(@PlayApex) 2021年1月24日</ref>。本名、年齢は不明とされていたが、シーズン16から叔父が死に際に与えた称号「ブロス・フゥンダル」を本名として名乗り、年齢が40歳と明らかになった<ref name="Bloodhound_name">{{Cite web |title=『Apex Legends』ブラッドハウンドの年齢が突然公開。“ブラハ40歳 ”にユーザー驚く |url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20230209-236759/ |website=AUTOMATON |date=2023-02-09 |accessdate=2023-02-11}}</ref> 。クラスはリコン → リコン。 :一定時間内に敵が残した足跡や血痕、ドアの開閉などの痕跡を知ることができるパッシブアビリティ「トラッカー」、短時間で敵やトラップを探知する戦術アビリティ「全能の目」、25秒間視界が白黒になり敵を常に赤く強調表示させ、視野角と移動速度が向上{{Efn|ただし視野角の変更については無効にできる設定機能が後に追加されている。}}し戦術アビリティのクールダウンを減少させるアルティメットアビリティ「ハンティングビースト」を使用できる。 : ;ジブラルタル(Gibraltar)/ マコア・ジブラルタル(Makoa Gibraltar)<ref>{{Cite web|和書|title=ジブラルタル - 装甲要塞 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/makoa-gibraltar |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05}}</ref> :声 - [[ブランスコム・リッチモンド]] / [[間宮康弘]]<ref>{{Cite web |url=https://kenyu-office.com/mamiyayasuhiro/ |title=タレントプロフィール |publisher=株式会社ケンユウオフィス |accessdate=2020-09-01}}</ref> :大柄な男性レジェンド。30歳→32歳。クラスはディフェンス → サポート。[[ゲイ]]で、男性の恋人がいる<ref>[https://twitter.com/playapex/status/1393643543126712323 The boy who hated Gibraltar] - Twitter Apex Legends(@PlayApex) 2021年5月16日</ref>。 :照準を合わせる際に自動的にシールドが展開され50ダメージまで敵の攻撃を防ぐパッシブアビリティ「ガンシールド」、ドームを展開し、ドームの内外の攻撃を無効化する戦術アビリティ「プロテクトドーム」、マーキングした地点に[[迫撃砲]]を要請し、敵に視界不良・移動速度鈍化・ダメージを与えるアルティメットアビリティ「防衛爆撃」を使用できる。 : ;ライフライン(Lifeline)/ アジェイ・チェ(アジェイ・シェ、Ajay Che)<ref>{{Cite web|和書|title=ライフライン - 戦う衛生兵 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/lifeline |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05}}</ref> :声 - {{仮リンク|メラ・リー|en|Mela Lee}} / [[羽飼まり]]<ref>[https://twitter.com/bloody_mary_851/status/1165092041405034496 かなり遅くなってしまいましたが、お知らせの許可をいただいたので…💨PlayStation 4、Xbox One、Microsoft Windowsなどで配信されている#ApexLegendsで〈戦う衛生兵〉#ライフライン の声を担当させていただきました✨よろしくお願いします😊] - Twitter 羽飼まり(@bloody_mary_851) 2019年8月24日</ref> :小柄な女性レジェンド。24歳→26歳。クラスはサポート → サポート。 :ダウンした味方をヒールドローンで蘇生し、自身は自由に行動できるパッシブアビリティ「戦う衛生兵」、ヒールドローンを設置し、付近にいるレジェンドを敵味方関係なく自動的に回復する戦術アビリティ「D.O.C.ヒールドローン」、防御用装備や回復アイテムが入ったドロップポッドを要請するアルティメットアビリティ「ケアパッケージ」を使用できる。<!--また、拡張サプライボックスから追加の装備品を入手できる。-->[[2020年]][[6月23日]]にパッシブアビリティ「戦闘復活」が「戦う衛生兵」に変更された<ref name=":62">{{Cite web|和書|title=失われた財宝パッチノート |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/lost-treasures-patch-notes |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-06-22 |accessdate=2021-12-19 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=Lost Treasures Patch Notes |url=https://www.ea.com/games/apex-legends/news/lost-treasures-patch-notes?setLocale=en-us |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-06-22 |accessdate=2021-12-19 |language=en }}</ref>。変更前のパッシブアビリティでは本人が味方を蘇生中にシールドの展開と回復アイテムを高速で使用できた<ref>{{Citation|title=Meet Lifeline – Apex Legends Character Trailer|url=https://www.youtube.com/watch?v=nxXFfe5X5qo|language=ja-JP|accessdate=2021-12-19}}</ref><ref name=":62" />。 : ;パスファインダー(Pathfinder)/ マーヴィン(MRVN)<ref name=":222">{{Cite web|和書|title=パスファインダー – 前線の斥候兵 – Apex Legends™ キャラクター |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/pathfinder |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-08-18 |accessdate=2022-03-05}}</ref> :声 - {{仮リンク|クリス・エドガーリー|en|Chris Edgerly}} / [[川田紳司]]<ref>[https://twitter.com/Shinji_Kawada/status/1181498823769591808 こちらも許可をいただきましたので宣伝させていただきます。大人気ゲーム「Apex Legends」で、パスファインダーの日本語音声を担当しております。なかなか魅力的なキャラクターです。みなさんどうか可愛がってあげてください。] - Twitter 川田紳司(@Shinji_Kawada) 2019年10月8日</ref> :ロボット型のレジェンド。クラスはリコン<ref>シーズン3までサポートだった。</ref> → スカーミッシャー。自身の創造主を見つけに『Apexゲーム』に参加した<ref name=":222"/>が、[[2021年]][[6月22日]]に公開された『The Truth - Pathfinder Origin』にて、創造者がブランシウムの研究者であると判明し、現在はスペアパーツで作成されたもう一つの自分を探している<ref>[https://twitter.com/PlayApex/status/1407383128331726850?s=20&t=t94fSbUi-doZDiPFqO7_3Q The truth.] - Twitter Apex Legends(@PlayApex) 2021年6月23日</ref><ref name=":82">{{Cite web |url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20210623-166372/ |title=『Apex Legends』パスファインダー出生の秘密が公開。壮絶な過去と、新たに明かされる「パスファインダー“パパ”説」 |accessdate=2021-12-17}}</ref>。 :マップに点在しているケアパッケージ<ref>シーズン15までは調査ビーコン</ref>をスキャンすることで即座にアルティメットをフルチャージさせ、アルティメットのリチャージ時間を10秒減少させるパッシブアビリティ「内部情報」、岩や建物の壁などにワイヤーを打ち込み素早く移動できる戦術アビリティ「グラップリングフック」、プレイヤーが長距離移動できるジップラインロープを射出し、設置するアルティメットアビリティ「ジップラインガン」を使用できる。 : ;レイス(Wraith)/ レネイ・ホープ・ブラジー(Renee Hope Blasey)<ref name=":192">{{Cite web|和書|title=レイス – 次元をまたぐ戦闘兵 – Apex Legends™ キャラクター |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/wraith |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-13 |accessdate=2022-03-05}}</ref> :声 - [[シャンテル・ヴァンサンテン]] / [[小島幸子]]<ref>[https://twitter.com/chiffons3/status/1321781158120550400 レイス役の小島幸子です!うわあー、もうすぐだぁーー!レイスと違って背は高いです。(笑)皆さんに会えるのを楽しみにしてます!頑張ってくださーい。#ApexLegends #APEX] - Twitter シフォン(@chiffons3) 2020年10月29日</ref> :[[忍者]]のような装いをした小柄な女性レジェンド。32歳→34歳。クラスはオフェンス → スカーミッシャー。かつてはシニアサイエンスパイロットだったが自身の実験の被験者となり、能力の代償に過去の記憶を失った。時空を操ってIMCから逃げ延び、過去の記憶を探している<ref name=":192" />。 :敵に照準を合わせられたり、敵の罠が付近にある際に味方に危険を知らせるパッシブアビリティ「虚空からの声」、4秒間全てのダメージを無効化し、移動速度が上昇する戦術アビリティ「虚空へ」、別の場所に高速移動できるポータルを設置するアルティメットアビリティ「ディメンションリフト」を使用できる。前傾姿勢で両腕を後ろに伸ばしたまま走るダッシュモーションだったが、アドバンテージが生じていたため変更された<ref>{{Cite web |title=「アフターマーケット」のパッチノート |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/aftermarket-patch-notes |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-10-05 |accessdate=2022-01-01 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=『Apex Legends』では、まだこっそり「ナルト走り」ができる。すぐに試せる裏技であのモーションをもういちど |url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20201013-139879/ |website=AUTOMATON |date=2020-10-13 |accessdate=2022-01-01 |language=ja |first=Yuki |last=Kurosawa}}</ref>。過去には、虚空が0.4秒で発動できた時代もあったが、現在では1.25秒へと調整されている。 : ;;バンガロール(Bangalore)/ アニータ・ウィリアムズ(Anita Williams)<ref name=":272">{{Cite web|和書|title=バンガロール - 職業軍人 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/bangalore |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05}}</ref> :声 - {{仮リンク|エリカ・ラットレル|en|Erica Luttrell}} / [[三木美]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://kenyu-office.com/mikimii// |title=タレントプロフィール |publisher=株式会社ケンユウオフィス |accessdate=2020-09-01}}</ref> :アフリカ系の女性軍人。38歳→40歳。クラスはオフェンス→アサルト。惑星グリッドアイアン出身。元IMCの[[曹長]]で、戦闘中に自身を救って行方不明になった兄のジャクソン・ウィリアムズ[[中尉]](後のレジェンド『ニューキャッスル』)を探している<ref name=":272"/>。 :スプリント中に被弾、または自身の近くに弾が通った際に一時的に移動速度が上昇するパッシブアビリティ「駆け足」、敵の視界を遮るスモーク弾を発射する戦術アビリティ「スモークランチャー」、フレア弾を投げ、投げた前方広範囲に広がるミサイル爆撃を要請し、敵に視界不良・移動速度鈍化・ダメージを与えるアルティメットアビリティ「ローリングサンダー」を使用できる。 === 追加レジェンド === コースティックとミラージュは、シーズン0から既に登場しており、所定アイテムを消費して解放できる。オクタン以降は記述順に各シーズン1人ずつ、同様の方法で解放できるキャラクターとして登場した。 ;コースティック(Caustic)/ アレクサンダー・マクスウェル・ノックス(Alexander Maxwell Nox)<ref>{{Cite web|和書|title=コースティック - 毒性トラップの使い手 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/caustic |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - [[JB・ブラン]] / [[滝知史]]<ref>[https://twitter.com/MISA_ece/status/1457278389186797570?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Etweet お待たせいたしました!コースティックの日本語版声優の情報がついに、解禁ですっっ!賢プロダクション 所属\\\\✨滝知史さん✨////別現場でのご縁で、SNSをやっていない滝さんに代わり発表を託されました!!ガスおじへの愛は!是非!滝さんへ🥳] - Twitter 石井未紗(@MISA_ece) 2021年11月7日</ref> :ガスマスクを装着して、長い顎鬚を生やした男性レジェンド。48歳→50歳。クラスはディフェンス→コントローラー。 :毒ガス内にいる敵が黄緑色に表示されるパッシブアビリティ「Noxビジョン」、敵の接近や攻撃で毒ガスが噴射するトラップを設置する戦術アビリティ「ガストラップ」、毒ガスが噴射するグレネードを投げ、敵にダメージを与えるアルティメットアビリティ「Noxガスグレネード」を使用できる。 : ;ミラージュ(Mirage)/ エリオット・ウィット(Elliott Witt)<ref>{{Cite web|和書|title=ミラージュ - ホログラムの幻術師 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/mirage |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - [[ロジャー・クレイグ・スミス]] / [[高橋英則]]<ref>[https://twitter.com/hidenori_1207/status/1357486187259195393 公式から発表となりましたのでこちらでも失礼致します。Apex Legendsの【ミラージュ】役を吹替えさせて頂きました。皆さんの戦いを盛り上げられるよう頑張ります!] - Twitter 高橋英則(hidenori_1207) 2021年2月5日]</ref> :飄々とした雰囲気の男性レジェンド。30歳→32歳。クラスはオフェンス→スカーミッシャー、シーズン17からサポートクラス。 :自身のダウン時や、味方を蘇生する際に透明化するパッシブアビリティ「神出鬼没」、自身と同じ姿をしたホログラフの「デコイ」を生成する戦術アビリティ「サイクアウト」、プレイヤーを中心に、自身と同じ動きをするデコイを5体円状に展開するアルティメットアビリティ「パーティーライフ」を使用できる。シーズン5にアルティメットアビリティの「ファントム」が「パーティーライフ」に変更された<ref name=":72">{{Cite web|和書|title=シーズン5パッチノート |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/season-5-patch-notes |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-05-12 |accessdate=2021-12-19 |language=ja }}</ref>。ファントムではプレイヤーを中心にデコイの集団を出現させ、自身が透明化した<ref name=":72" />。パーティーライフは、イベントのダミーの見せ場で「エマージェンシー ダンスパーティー」として最初に登場した<ref name=":72" /><ref>{{Cite web|和書|title=『Apex Legends』“ダミーの見せ場”は既存レジェンドの出番なし! |url=https://dengekionline.com/articles/24421 |website=電撃オンライン |accessdate=2021-12-19 |language=ja}}</ref>。デコイに関してはバトルロイヤルでの飛行中(ヴァルキリーの「スカイハイダイブ」も含む)にも2つまで生成できる。 : ;オクタン(Octane)/ オクタビオ・シルバ(Octavio Silva)<ref>{{Cite web|和書|title=オクタン - 危険を恐れぬ高速兵 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/octane |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - [[ニコラス・ロア]] / [[菊地達弘]]<ref>[https://twitter.com/DANBTATSU/status/1300366664454647809 タイミングを逃しました…「Apex Legends」で「オクタン」の声やってます!ってのを今更ながらご報告します。オクタンなのに遅いってどうよ…命削って高速移動野郎はスリルとロマンで動くんだよ!削った命も置き去りにしてジャンプで彼方に消えていく…それがオクタンだ!] - Twitter 菊地 達弘(@DANBTATSU) 2020年8月31日</ref> :シーズン1で登場した、両脚に[[義足]]を装着した男性レジェンド。24歳→26歳。クラスはオフェンス→スカーミッシャー。英語版では、時折[[スペイン語]]を話す<ref>APEX LEGENDS パスファインダー・クエスト 130ページ</ref>。 :ダメージを受けていない間、自動的に1秒に1ポイント(かつては1.5ポイントだった)回復するパッシブアビリティ「高速修復」、体力を消費し、高速移動できる戦術アビリティ「興奮剤」、大きくジャンプできるジャンプパッドを設置するアルティメットアビリティ「ジャンプパッド」を使用できる。ジャンプ距離は何度もアップデートが加えられ変更されており、現在はジャンプボタンを押すことでダブルジャンプもできるようになっている。 : ;ワットソン(Wattson)/ ナタリー・パケット(Natalie Paquette)<ref>{{Cite web|和書|title=ワットソン - 静電防衛者 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/wattson |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - [[ジャスティン・ハクスリー]] / [[近藤唯]]<ref>[https://twitter.com/yun_yk28/status/1148154601016713216 お知らせをさせていただきます!ゲーム「Apex」にて、ワットソンの声を吹き替えさせていただいてます!ワットソン、実装された時にトレンドに入ってて、おぉぉと思っていました〜(*^^*)よろしくお願い致します!(*⁰▿⁰*)] - Twitter 近藤 唯(@yun_yk28) 2019年2019年7月8日</ref> :シーズン2で登場した女性レジェンド。22歳→24歳。クラスはディフェンス→コントローラー。英語版では、時折[[フランス語]]を話す<ref>APEX LEGENDS パスファインダー・クエスト 40ページ</ref>。 :アルティメット促進剤を1スタックに2つ所持でき、アルティメット促進剤一つでフルチャージができる(通常は35%)パッシブアビリティ「天才のひらめき」、ノードを接続して電気フェンスを設置し、敵に触れている時間分の連続ダメージを与えたり移動が遅くなるデメリットを与えたり当たった敵の位置を短い間表示したりなどをしてくれる戦術アビリティ「周辺セキュリティ」、電気パイロンを設置し、グレネードやアビリティ、ジブラルタルやバンガロールのアルティメットスキルによる攻撃を防ぎ、付近の敵味方全員のシールドを修復するアルティメットアビリティ「インターセプターパイロン」を使用できる。シーズン8のアップデートで、2秒に1ポイントシールドが回復するパッシブが追加された<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=シーズン8:メイヘム パッチノート |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/season-8-patch-notes |website=Electronic Arts Inc. |date=2021-02-01 |accessdate=2021-10-11 |language=ja }}</ref>。 : ;クリプト(Crypto)/ パク・テジュン(Tae Joon Park)<ref>{{Cite web|和書|title=クリプト - 監視活動の達人 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/crypto |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - {{仮リンク|ジョニー・ヤング|en|Johnny Young}} / [[増元拓也]]<ref>[https://twitter.com/maruko_q/status/1181201215767506944 FPSバトルロイヤルゲーム【Apex Legends】にて、SEASON3で追加のレジェンド「Crypto クリプト」をやらせて頂いております。ドローン使いです。よろしくお願いします! #Apex] - Twitter 増元拓也(@maruko_q) 2019年10月7日</ref> :シーズン3で登場した、エンジニアである男性レジェンド。31歳→24歳<ref name="Bloodhound_name"/>。クラスはリコン→リコン。英語版では、時折{{ISO639言語名|ko}}で話す<ref>APEX LEGENDS パスファインダー・クエスト 150・153・154~159ページ</ref>。 :スパイドローンから30m以内に検出した敵をチームが視認出来るように自動的にマーキングするパッシブアビリティ「ニューロリンク」、クリプト本体の半径200mまで飛行できる[[無人航空機|ドローン]]を展開する戦術アビリティ「スパイドローン」、スパイドローンから[[電磁パルス]]波を放出し、範囲内にいる敵にシールドに直接ダメージを与え、行動を遅らせる効果を与えるほか、敵が設置した罠などを破壊できるアルティメットアビリティ「ドローンEMP」を使用できる。 : ; レヴナント(Revenant)/ ケイレブ・クロス(Kaleb Cross)<ref>{{Cite web |title=レヴナント - 人造の悪夢 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/revenant |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> : 声 - {{仮リンク|ダリン・デ・ポール|en|Darin De Paul}} / [[藤原貴弘]]<ref>[https://twitter.com/hakui891nanasi/status/1565248552640839681 #えぺ声優れじぇんど祭りのメンバー発表を持ちまして、レヴナントの日本語版声優公開となります。※ご本人許可済み] - Twitter 後藤光祐(@hakui891nanasi) 2022年9月1日</ref> : シーズン4で登場した、人間の脳内情報を全てデータ化し、機械の体に移植させた「シミュラクラム」と呼ばれるロボット型のレジェンド。元々は暗殺業を営む男性だったが、死亡後に機械化された。359歳。クラスはオフェンス→アサルト、シーズン18からスカーミッシャークラス。 : シーズン17までしゃがんだ状態で歩行速度並みの移動ができ、他のレジェンドより高く壁をよじ登れ、足音を小さくできるパッシブアビリティ「ストーカー」、敵のアビリティを無効にするデバイスを投げる戦術アビリティ「サイレンス」、トーテムを呼び出し、体力がなくなると強制的にトーテム付近に戻るアルティメットアビリティ「デストーテム」を使用できた。 : シーズン18「リザレクション」でアビリティがアップデートされ、付近に見えている体力の低い敵をハイライト表示。しゃがんだ状態での移動が速くなり、壁登りが強化されたパッシブアビリティ「アサシンの本能」、長押しでチャージして、更に遠くまで飛ぶ戦術アビリティ「シャドウパウンス」、周囲に直接ダメージを防ぎ、破壊後に再生する硬化した影を作り上げるアルティメットアビリティ「フォージシャドウ」に変更された<ref>{{Cite web |title=「エーペックスレジェンズ™: リザレクション」で新たなアップデートが登場 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/resurrection-season-game-updates |website=Electronic Arts Inc. |date=2022-08-03 |accessdate=2022-08-08 |language=ja}}</ref>。 : ;ローバ(Loba)/ ローバ・アンドラーデ(Loba Andrade)<ref>{{Cite web|和書|title=ローバ - 流転の盗賊 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/loba |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - {{仮リンク|フリーダ・ウルフ|en|Fryda Wolff}} / [[御沓優子]]<ref>[https://twitter.com/miku39yuko/status/1260882947306950658 【出演情報】世界中で大人気のゲーム「Apex Legends」シーズン5より参戦した新レジェンド『ローバ・アンドラーデ』の日本語CVを担当させて頂きました!凄く面白いスキルを持っているので、ぜひとも愛でてあげてください✨私もプレイしてるのでマッチングしたらよろしくお願いします🐺(笑)] - Twitter 御沓 優子(@miku39yuko) 2020年5月14日</ref> :シーズン5で登場した、盗賊の女性レジェンド。34歳→36歳。クラスはサポート→サポート。[[両性愛|両性愛者]]<ref>[https://twitter.com/tommiecas/status/1260315372391002112 You all are discovering all our secrets... 😈] - Twitter Tom Casiello(@tommiecas) 2020年5月13日</ref>。幼き頃にレヴナントに親を殺害された過去を持つ。 : 付近のレベル3の紫色のアイテムとレベル4の金色のアイテムとレベル5の赤色のアイテムを壁越しに見ることができるパッシブアビリティ「アイフォークオリティ」、ジャンプドライブ・ブレスレットを投げた先に[[瞬間移動|テレポート]]できる戦術アビリティ「盗賊の相棒」、付近のアイテムをインベントリ内にテレポートさせ、敵味方関係なく最大2つのアイテムを回収できる(弾を入手する場合、枠は消費されない)ポータブルデバイスを設置できるアルティメットアビリティ「ブラックマーケットブティック」を使用できる。 : ;ランパート(Rampart)/ ラムヤ・パリーク(Ramya Parekh)<ref>{{Cite web|和書|title=ランパート - 狂喜の改造職人 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/rampart |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - {{仮リンク|アンジャリ・ビマーニ|en|Anjali Bhimani}} / [[石井未紗]]<ref>[https://twitter.com/misa_ece/status/1296034059093569536?s=21 【出演】ゲーム『Apex Legends』シーズン6 新レジェンド✨ランパート日本語版のボイスを担当させていただきました…!たくさんのファンの方がいらっしゃる作品に新加入ということで、本当にどきどきしておりました。ランパートをよろしくお願いいたします!] - Twitter 石井 未紗(@MISA_ece) 2020年8月19日</ref> :シーズン6で登場した、武器の製作と改造を好む女性レジェンド。21歳→23歳。クラスはディフェンス→コントローラー。インド系イギリス人で、英語版では、インド訛りの英語を話す<ref>[https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/season-6-patch-notes シーズン6パッチノート] - Apex Legends 2020年8月18日</ref>。 :ライトマシンガン、ミニガン使用時に弾薬の容量を増やし高速リロードが可能になるパッシブアビリティ「改造ローダー」、バリケードを設置すると、全体を覆う強化バリケードが出現し、敵の銃弾をブロックし、バリケード内からの攻撃を強化する戦術アビリティ「増幅バリケード」、全員が使用できるミニガンを設置するアルティメットアビリティ「ミニガン『シーラ』」を使用できる。なお、登場初期は、「増幅バリケード」を破壊するとエラーになるというバグがあり、猛威を振るった。シーズン10にて最初の1マガジンに限り持ち運びながらミニガンを使用できる(モバイルシーラ)ようになったほか、シーズン14のコレクションイベント「ビースト・オブ・プレイ」が開始された2022年9月22日よりモバイルシーラ及び設置したシーラでズームしたときの感度をそれぞれ2倍・3倍スコープを覗いたときと同感度になるよう修正された<ref>{{Cite web|和書|url=https://apexlegends-news.com/season-14-crafting-weapon/ |title=【APEX】9月21日のパッチでクラフトローテーションが変更!!「P2020」と「ハボック」がクラフト武器に |access-date=2022-09-23}}</ref>。 : ;ホライゾン(Horizon)/ マリー・ソマーズ博士(Dr.Mary Somers)<ref name=":122">{{Cite web|和書|title=ホライゾン - 重力を操る者 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/horizon |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - エル・ニューランズ / [[有賀由樹子]]<ref>[https://twitter.com/arugalion/status/1324643905770524673 『Apex Legends』シーズン7新レジェンド『ホライゾン』の日本語ボイスを担当しております。APEXに参加できて嬉しいです✨ドキドキ😍ホライゾンは、人物背景も能力も面白いキャラなので、ぜひ使ってみてくださいね!😉#ApexLegends #ホライゾン] - Twitter 有賀由樹子(@arugalion) 2020年11月6日</ref> :シーズン7で登場した、科学者である女性レジェンド。ADHDを抱えている。新たな資源であるブランシウムを発見し、ブラックホールの降着円盤にてその理論を証明した。しかし、部下のアシュレイ・リード博士に裏切られ、ブラックホールに放置されたが、回収したブランシウムでブラックホールから脱出した。肉体年齢は37歳→39歳だが、ブラックホール影響下から帰還した影響で時間の流れが歪み、実世界では87年の年月が経過している<ref name=":122"/>。英語版では、[[スコットランド]]訛りの英語を話す。クラスはオフェンス→スカーミッシャー。 :空中の制御を向上させ、落下の衝撃を抑制するパッシブアビリティ「スペースウォーク」、前方に縦方向の反重力を発生させ、上空に持ち上げる戦術アビリティ「グラビティリフト」、ニュートを展開させ、敵やグレネードを吸引できる極小ブラックホールを生成し、重力の爆発で攻撃するアルティメットアビリティ「ブラックホール」を使用できる。 : ;ヒューズ(Fuse)/ ウォルター・フィッツロイ・ジュニア(Walter Fitzroy Jr)<ref>{{Cite web|和書|title=ヒューズ - 爆発物の信奉者 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/fuse |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - ベン・プレンダーガスト<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1351662712888020992 Righto, you lot - time to give our newest Legend a warm bloody welcome: All the way from Salvo, it’s @benjipea as Fuse!🔥] - Twitter Respawn(@Respawn) 2021年1月20日</ref> / [[後藤光祐]]<ref>[https://twitter.com/hakui891nanasi/status/1356817792918450176 【告知】ゲーム「Apex Legends」第8シーズン新レジェンド【ヒューズ】役の日本語吹き替えを担当させていただきました「俺様がヒューズだ!派手に行くぜ!」#ApexLegends#ヒューズ#シーズン8] - Twitter 後藤光祐(@hakui891nanasi) 2021年2月3日</ref> :シーズン8で登場した男性レジェンド。54歳→55歳。クラスはオフェンス→アサルト。[[全性愛|全性愛者]]<ref>[https://twitter.com/SamEJGill/status/1355266459082006529 Absolutely! Fuse is pansexual :)] - Twitter S am Gill(@SamEJGill) 2021年1月30日</ref>。 :インベントリにおいてグレネードを1スタックに2つ所有でき、遠くへ素早く正確に発射できるパッシブアビリティ「グレネーダー」、着弾時に空中炸裂するグレネードを発射する戦術アビリティ「ナックルクラスター」、敵の周辺を炎の壁で包み込む爆撃を行うアルティメットアビリティ「マザーロード」を使用できる。 : ;ヴァルキリー(Valkyrie)/ 今原 カイリ(カイリ・イマハラ、Kairi Imahara)<ref>{{Cite web|和書|title=ヴァルキリー - 有翼の復讐者 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/valkyrie |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - {{仮リンク|エリカ・イシイ|en|Erika Ishi}}<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1384176139623493650 Her call sign is Valkyrie. 😏Meet @erikaishii, the voice behind our newest Legend taking to the skies in Legacy.] - Twitter Respawn(@Respawn) 2021年4月20日</ref> / [[土井真理]]<ref>[https://twitter.com/honey_wax_D/status/1389776892874481664【Apex Legends 英雄の軌跡】ヴァルキリー(略称ヴァルク 本名今原カイリ)の日本語吹き替えを担当しております。Apexの前身TITANFALL2に登場したバイパーさんの娘です。「空は私のものだ」] - Twitter 土井 真理(@honey_wax_D) 2021年5月5日</ref> :シーズン9で登場した、『[[タイタンフォール2]]』のキャンペーンモードに登場したバイパーの娘で、[[日本人]]と[[白人]]のハーフ<ref>[https://twitter.com/rkrigney/status/1394832390623830018 Senior Game Writer @ashsmashreed tackles a popular question about when some characters speak their "country's native tongue," but not others (like Valkyrie): (9/9)] - Twitter Ryan K.Rigney(@RKRigney) 2021年5月19日</ref>である女性レジェンド。使用しているジェットパックはかつて父が使用していた、ノーススター級タイタンの残骸をランパートに依頼して、改造されたもの。30歳→31歳。[[レズビアン]]<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=bh7mAHABhXo Erika Ishii Interview | Valkyrie Apex Legends! Season 9 NEW LEGEND] - YouTube MoonLiteWolf 2021年4月30日</ref>。クラスはリコン→スカーミッシャー。 :背中に装着されたジェットパックで空中移動できるパッシブアビリティ「VTOLジェット」、複数の小型ロケットを一斉発射して敵にダメージを与え、敵を一時的にスタンさせる戦術アビリティ「ミサイルスワーム」、空中へ高く上昇し、スカイダイブを行うアルティメットアビリティ「スカイハイダイブ」を使用できる。スカイダイブ中のみ自身の周りにいる敵が黄緑色に表示される。 : ;シア(Seer)/ オビ・エドラシム(Obi Edolasim)<ref>{{Cite web|和書|title=シア - アンブッシュアーティスト |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/seer |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - {{仮リンク|アイク・アマディ|en|Ike Amadi}}<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1417559937551683609/photo/1 This, it cannot be unseen.🦋Please join us in welcoming the voice behind Seer, our newest Apex Legend—@AfricanWrdsmith!] - Twitter Respawn(@Respawn) 2021年7月21日</ref> / [[櫻井トオル]]<ref>[https://twitter.com/sakurai_dengana/status/1422856200840892421 実装されたぞー‼『ApexLegends』シーズン10の新レジェンド《Seer》の吹き替えを櫻井がやってまーす🦋原音はIkéAmadi(@AfricanWrdsmith)さんです🦋念願のレジェンド演じられて超楽しかったー‼みんな使ってね!『さぁ皆さん!一緒に踊りましょう!』] - Twitter 櫻井トオル(@sakurai_dengana) 2021年8月4日</ref> :シーズン10で登場した[[イボ人]]<ref>[https://twitter.com/AmandaDoiron11/status/1417152809946935296 Can confirm that Obi/Seer is Igbo.] - Twitter Amanda Doiron(@AmandaDoiron11) 2021年7月20日</ref>の男性レジェンド。26歳→27歳。クラスはリコン→リコン。 :エイム時に75m以内の敵の心拍を捉え視覚化する(壁などの障害物があっても視覚化される)パッシブアビリティ「ハートシーカー」、指定した方向にマイクロドローンを呼び出し、爆風を放出することにより8秒間敵を強調表示させ、1秒間のサイレンス、行動の強制中断を発動できる戦術アビリティ「フォーカス・オブ・アテンション」(かつては敵にわずかなダメージを与える効果もあったが、現在は削除されている)、マイクロドローンの球体を作り出し、範囲内でスプリント移動したり、射撃している敵の位置を明らかにするアルティメットアビリティ「ショーケース」を使用できる。 : ;アッシュ(Ash)/ アシュレイ・リード博士(Dr.Ashleigh Reid)<ref>{{Cite web|和書|title=アッシュ - 慈悲無き扇動家 |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/ash |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - アンナ・キャンベル<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1450151042679640067 Revenge is merely an opportunity for improvement.🐀Please join us in welcoming the voice behind Ash to the Apex Legends cast-@AnnaWillTweet!] - Twitter Respawn(@Respawn) 2021年10月19日</ref> / [[行成とあ]]<ref>[https://mobile.twitter.com/toa_ailurofilia/status/1451203570083139594 お知らせです!『レジェンドの皆さん…』とアリーナで語りかけてくるアッシュさん遂にシーズン11の新レジェンドとしてやってきます!引き続き吹き替えを担当しておりますー!タイタンフォール2から長い付き合いになりました😊是非ともごひいきに!] - Twitter 行成とあ(@toa_ailurofilia) 2021年10月22日</ref> :シーズン11で登場した、レヴナントと同じシミュラクラムのロボット型のレジェンド。クラスはオフェンス→アサルト。かつては人間の女性科学者だったが、ブランシウムを同僚たちから強奪する際にアメリ・パケット博士に刺されて致命傷を負い<ref name=":102">{{Citation|title=The Truth - Pathfinder Origin - Official Apex Legends Short Film|url=https://www.youtube.com/watch?v=6IOopZ-M_eU|language=ja-JP|accessdate=2021-12-23}}</ref>、機械の体に心を移し替えられたが、通常の手順を逸脱し、生きたままの状態での移植作業を行ったためか、生前の数十年分の記憶と人格の一部が欠落している<ref name=":242">{{Citation|title=Apex Legends {{!}} Stories from the Outlands - “Ashes to Ash”|url=https://www.youtube.com/watch?v=RY6j8RzpI5U|language=ja-JP|accessdate=2021-12-23}}</ref><ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/playapex/status/1453738402663129096 |url=https://twitter.com/playapex/status/1453738402663129096 |website=Twitter |accessdate=2021-12-25 |language=ja}}</ref>。 :『[[タイタンフォール2]]』に登場した後、APEX作中の舞台であるアウトランズを統治するシンジケートが同じく作中に登場するステージ「オリンパス」へのアクセスコードを求めていたため、ブリスクによってコードを知っているアッシュの頭部を隠されたが<ref name=":252">シーズン6 ゲーム内コミック『最初の船』</ref>、シーズン5クエスト『壊されし亡霊』で回収された<ref>[https://automaton-media.com/articles/newsjp/20200715-130622/ 『Apex Legends』シーズンクエストのラストに待ち受ける演出が話題に。噂される新レジェンドの正体と、新マップ実装の布石]</ref>。その後、コードの抽出が完了して用済みになり、ハモンドの建物の裏に廃棄されたが、パスファインダーが拾得し、一時同棲していた<ref name=":252" />。そこからアリーナの管理人を経て、現在に至る。 :マップ全体のデスボックスの位置をミニマップに表示させ、デスボックスの前で「敵をマーク」を押すと、デスボックスの持ち主を倒した敵プレイヤーを一時的にマークできるパッシブアビリティ「死の烙印」、手裏剣に似た[[スネア]]を前方に投げ、最初に触れた敵にダメージを与え、しばらくの間拘束することができる戦術アビリティ「アークスネア」、一方向に高速移動できるポータルを設置するアルティメットアビリティ「フェーズティア」を使用できる。 : ;マッドマギー(Mad Maggie)/ マーガレット・コヒーレ(Margaret Kōhere)<ref>{{Cite web|和書|title=マッドマギー - 反乱のウォーロード |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/mad-maggie |website=Electronic Arts Inc. |date=2020-07-14 |accessdate=2022-03-05 }}</ref> :声 - {{仮リンク|ニコラ・カワナ|en|Nicola Kawana}} / [[橘U子]]<ref>[https://twitter.com/tatibana1973315/status/1356828944972935172 《お知らせです!》「Apex Legends」第8シーズン新レジェンドヒューズの旧友『マギー』役(日本語吹替え)にて出演しております!ガンガン、皆様を煽らせて頂いております💪ヒューズ役は弊社、後藤光祐君@hakui891nanasi是非に!] - Twitter 橘U子(@tatibana1973315) 2021年2月3日</ref><ref>[https://twitter.com/tatibana1973315/status/1485749725022547970 【お知らせ📢】ゲーム「Apex Legends」第12シーズン新レジェンド《マッドマギー》役日本語吹き替えをシーズン8に引き続き担当させて頂きました!魂、心を込めて叫びました大好きなマギーを宜しくお願い致します!#エーペックスレジェンズ #ApexLegends#シーズン12#マッドマギー] - Twitter 橘U子(@tatibana1973315) 2022年1月25日</ref> :シーズン8で登場した、ヒューズの旧友である女性<ref>{{Citation|title=Apex Legends {{!}} Stories from the Outlands – “Good as Gold”|url=https://www.youtube.com/watch?v=NKOVl6F8bjA|language=ja-JP|accessdate=2021-12-17}}</ref>。55歳→56歳。クラスはオフェンス→アサルト。 :ヒューズが「Apexゲーム」に参加することに納得できず、キングスキャニオンの北部の岩山を爆破させ<ref name=":232">{{Citation|title=Apex Legends Season 8 – Mayhem Launch Trailer|url=https://www.youtube.com/watch?v=8KWMwl-Qd0E|language=ja-JP|accessdate=2021-12-17}}</ref>、イベント『ウォーゲーム』を開催し、アナウンスを担当していた<ref name=":92">{{Cite web|和書|title=ウォーゲームに備えよ |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/news/war-games |website=Electronic Arts Inc. |date=2021-04-08 |accessdate=2021-12-17 |language=ja }}</ref>。 :シーズン12では追加レジェンドとして登場した。ダメージを与えた敵の姿を一時的に可視化し、ショットガンを所持していると移動速度が上昇するパッシブアビリティ「ウォーロードの怒り」、障害物を越えて炎を放出し、敵にダメージを与える戦術アビリティ「ライオットドリル」、弾みながら移動速度が上昇する「スピードブーストパッド」を設置し、敵の付近で爆発する巨大な爆弾を投げるアルティメットアビリティ「レッカーボール」を使用できる。 : ;ニューキャッスル(New Castle)/ ジャクソン・ウィリアムズ(Jackson Williams)<ref>{{Cite web|和書| |title=ニューキャッスル – 英雄的防衛者 – エーペックスレジェンズ キャラクター - EA |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/newcastle |website=Electronic Arts Inc. |accessdate=2022/6/11}}</ref> :声 - [[ゲイブ・クンダ]]<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1518681254786322432 「Presenting...your new competition, though you may have met before—@GabeKunda as Newcastle!] - Twitter Respawn(@Respawn) 2022年4月26日</ref> / [[宮本崇弘]]<ref>[https://twitter.com/miyammtto/status/1524196627959132160 宣伝です ゲーム「Apex Legends」 第13シーズン新レジェンド 《ニューキャッスル》 日本語吹き替えを 担当させて頂きました グリッドアイアンのジャクソンの吹替からやらせていただいております 守れる兄貴をこれからよろしくお願いします。 #エーペックスレジェンズ #ApexLegends #シーズン13] - Twitter 宮本崇弘(@miyammtto) 2022年5月11日</ref> :シーズン13から追加された男性レジェンド。40歳→41歳。タイプはディフェンス→サポート。バンガロールの兄で、'''ラモント・クレイグ'''(Lamont Craig)という偽名を使用している。 :リバイブシールドで守りつつ、倒れた味方を引きずりながら蘇生するパッシブアビリティ「傷兵警護」、操作可能なドローンを投げ、移動するエネルギーシールドを生成する戦術アビリティ「モバイルシールド」、味方か標的のエリアにジャンプして突撃し、要塞化した砦を築き上げるアルティメットアビリティ「キャッスルウォール」を使用できる。最大飛行距離は35mだが、味方に対して用いた際は倍加する。また、味方のデスボックスに対してはさらに長距離を飛行できる。 : ;ヴァンテージ(Vantage)/ シオマラ "マラ" コントレラス(Xiomara“Mara”Contreras)<ref>{{Cite web|和書| |title=ヴァンテージ – スナイパー・サヴァント – エーペックスレジェンズ™ キャラクター - EA |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/vantage |website=Electronic Arts Inc. |accessdate=2022/8/12}}</ref> :声 - [[ナタリー・カニザレス]]<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1551676538734538757 Finally. Vantage and her bat HATE being cooped up. Say "hi" to our newest Legend—Natalie Cañizares! 🦇 https://t.co/SLZGPA2xiW] - Twitter Respawn(@Respawn) 2022年7月26日</ref> / [[東内マリ子]]<ref>[https://twitter.com/hgsuCHiMark/status/1557184011415347200 『Apex Legends』 第14シーズン新レジェンド ヴァンテージ 日本語吹替担当いたしました! 是非ヴァンテージと一緒にシーズン14楽しんでください! 「この銃、なんかおかしいよ」 #エーペックスレジェンズ #ApexLegends #シーズン14] - Twitter 東内マリ子(@hgsuCHiMark) 2022年8月10日</ref> :シーズン14から追加された女性レジェンド。18歳→19歳。クラスはリコン→リコン。 :武器なしの状態か2倍以上のスコープでエイムすると周囲を偵察でき、着弾インジケーターを使用して着弾予測地点を確認できるパッシブアビリティ「スポッターレンズ」、[[コウモリ]]のエコーを配置し、エコーに向かって移動できる戦術アビリティ「エコー配置」、カスタムのスナイパーライフルで敵の標的をマークし、マークした敵に対して自分とチームのダメージボーナスが適用されるアルティメットアビリティ「スナイパーズマーク」を使用できる。 : ;カタリスト(Catalyst)/ トレッサ・クリスタル・スミス(Tressa Crystal Smith)<ref>{{Cite web|和書| |title=カタリスト – ディフェンシブコンジュラー – エーペックスレジェンズ™ キャラクター - EA |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/catalyst |website=Electronic Arts Inc. |accessdate=2022/10/29}}</ref> :声 - [[メリ・グラント]]<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1582051718090567689?cxt=HHwWksCtkfrpyfQrAAAA Everyone deserves a chance to rise. Meet @Melizande, the voice of Catalyst.] - Twitter Respawn(@Respawn) 2022年10月18日</ref> / [[きそひろこ]]<ref>[https://twitter.com/yes_my_/status/1587746488423428098 シーズン15エクリプスが開幕となりました🌙✨ ✅ゲーム『#ApexLegends 』にて 新レジェンド カタリストの声を担当させて頂きます🎙 #APEX #Catalyst 新マップは「Broken Moon」🌕⚡️ https://t.co/H2Kljrg5ya どうぞよろしくお願い致します✨🧛🏻‍♀️🚪] - Twitter きそひろこ🥼🎙💊🎤(@yes_my_) 2022年11月2日</ref> :シーズン15から追加されたレジェンド。29歳→30歳。クラスはディフェンス→コントローラー。[[性転換手術]]を受けた[[トランス女性]]<ref>{{Cite web|和書| |title=「カタリスト」は『Apex Legends』初のトランス女性レジェンドで“磁性流体の魔術師”―キャラクターへの敬意と尊厳をもって設計 |url=https://www.gamespark.jp/article/2022/10/19/123566.html |website=Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト |accessdate=2022/11/02}}</ref>。 :ドアを補強して敵がドアを開けることができない状態にし(自身と味方は開けられる)、破壊されたドアを補強できるパッシブアビリティ「レインフォース」、敵が近づくとスパイクに変化する[[磁性流体]]を投げる戦術アビリティ「スパイクトリップ」、磁性流体の透過可能な壁を作り、壁を通った敵は移動速度が低下し一時的に視界が悪くなるアルティメットアビリティ「フェロバリケード」を使用できる。 : ; バリスティック(Ballistic)/ オーガスト・モンゴメリー・ブリンクマン(August Montgomery Brinkman)<ref>{{cite web| |title=Ballistic - Refined Gunslinger - Apex Legends™ Characters - EA |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/ballistic |website=Electronic Arts Inc. |accessdate=2023/5/2}}</ref> : 声 - [[ロビン・アトキン・ダウンズ]]<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1650966994940997632 RespawnさんはTwitterを使っています:「Refined, precise…and ready to kick your arse. Put the kettle on and join us in welcoming Robin Atkin Downes as Ballistic.」] - Twitter Respawn(@Respawn) 2023年4月26日</ref> / [[高瀬右光]]<ref>[https://twitter.com/aksent1987/status/1656147048666636288 株式会社 アクセントさんはTwitterを使っています: 「【出演情報】 ゲーム『Apex Legends』 シーズン17より参戦の新レジェンド 《バリスティック》 日本語吹き替えを #高瀬右光 が担当しております。 是非プレイして楽しんでください✨ #エーペックスレジェンズ #ApexLegends」 / Twitter] - Twitter Respawn(@Respawn) 2023年5月10日</ref> : シーズン17から追加された男性レジェンド。63歳。クラスはアサルト。Apexゲームの前身であるサンダードームゲームのスター。 : 3番目の武器をスリングに保管できる(ただしスリング武器はアタッチメントを装着できない)パッシブアビリティ「スリング」、ロックオンした敵を追尾して敵が射撃すると銃をオーバーヒートさせる弾を発射し、オーバーヒートするとダメージを与える戦術アビリティ「ウィスラー」、近くの仲間のリロード速度や武器装備中の移動速度が上り、弾薬数が無限になり、スリング武器はゴールドにアップグレードするアルティメットアビリティ「テンペスト」を使用できる。 :シーズン17から新しくなった射撃訓練場のアナウンスをバリスティックが担当している。 ; コンジット(Conduit)/ : 声 - [[フランキー・ケビッチ]]<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1715104110599639110 She knows all your old moves so you had better come up with new ones. Get ready and get loud for Frankie Kevich as your newest @PlayApex Legend—Conduit.] - X Respawn(@Respawn)2023年10月20日</ref>/[[城内由茄子]]<ref>[https://twitter.com/y__k__zone8/status/1719332618456727994 ◉ 出演情報 ◉ ゲーム「Apex Legends」 第19シーズン新レジェンド ⦅ コンジット ⦆ 日本語吹替を担当させて頂きました! 太陽の様に明るく元気いっぱいな女の子です💪🏻✨ 皆様を輝かせられますように…!🔋 どうぞよろしくお願いいたします! #エーペックスレジェンズ #ApexLegends #シーズン19] - X 城内 由茄子(@y__k__zone8) 2023年11月1日</ref> : シーズン19から登場する女性レジェンド。年齢は27歳、クラスはサポート。 : 戦術アビリティの範囲外にいる仲間に向かって走ると、スピードがブーストされるパッシブアビリティ「セイバースピード」、仲間にエネルギーを一気に放出し、危機に陥った仲間とコンジットに一時的なシールドを生成する戦術アビリティ「レイディアントトランスファー」、敵にダメージを与えて動きを鈍らせるジャミングデバイスの一団を展開するアルティメットアビリティ「エネルギーバリケード」を使用できる。 === モバイル版のレジェンド === モバイル版において現在使用できるレジェンドはブラッドハウンド・ジブラルタル・ライフライン・パスファインダー・レイス・バンガロール・コースティック・ミラージュ・オクタンとアップデートで追加されたローバ・クリプト・アッシュ・レヴナント・ホライゾン、モバイル版限定レジェンドのフェード・ラプソディの16人である。 モバイル版ではオリジナル要素として「レジェンドパークシステム」があり、アビリティの他に能力が自由に追加できる。当初はバトルロイヤル(カジュアルマッチ)のみだったが、シーズン3「チャンピオン」からランクマッチでも使用できるようになった。 ;フェード(Fade)/ イグナシオ・フアマニ(Ignacio Huamaní)<ref>{{Cite web|和書| |title=『Apexモバイル』限定の新レジェンド“フェード”が参戦。無敵になる戦術で安全に退避し、ウルトでほかレジェンドを虚空へ送りつける! |url=https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.famitsu.com/news/amp/202205/17261539.php%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D |website=ファミ通App |accessdate=2022/6/5}}</ref> :声 - [[ジョシュ・キートン]]<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1526698361398521858 Some know him as Ignacio Huamaní, but we know him as Fade. Meet the man behind the mask, our first @PlayApexMobile Legend—@joshkeaton! https://t.co/s3WorymPSW] - Twitter Respawn(@Respawn) 2022年5月18日</ref> / [[田所陽向]]<ref>[https://mobile.twitter.com/Hinata_TaD/status/1527594034793168896 『Apex Legends Mobile』にてモバイル限定レジェンド【フェード】の声を担当させて頂きました。Apexは普段から楽しませてもらってる作品なので、関わることができて嬉しい限りです!是非フェード使ってください🙌🙌モバイル難しいね💦] - Twitter 田所陽向(@Hinata_Tad) 2022年5月20日</ref> :シーズン1「プライムタイム」で追加された男性レジェンド。26歳。クラスはオフェンス。家族の仇を討つためにフェーズ技術を搭載したスーツを使いこなせるよう特訓し、Apexゲームに参加した。 :スライディング終了時に一時的に移動速度が上昇するパッシブアビリティ「スリップストリーム」(10秒のクールダウンが生じる)、虚空に入り、60m前の場所へ戻ることができる戦術アビリティ「フラッシュバック」、リングを投げ、範囲内にいるすべてのレジェンドを虚空に送り込み、ダメージを与えたり受けたりできなくするアルティメットアビリティ「フェーズチャンバー」を使用できる。 : ;ラプソディ(Rhapsody)/ リン・ミ・ヴォ(Linh My Vo)<ref name="220708Distortion2">{{Cite web|和書|title=「エーペックスレジェンズ™ モバイル」ディストーションパッチノート |url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/apex-legends-mobile/news/distortion-patch-notes |website=Electronic Arts Inc. |date=2022-07-08 |accessdate=2022-07-08 |language=ja}}</ref> :声 - [[ザンシ・フイン]]<ref>[https://twitter.com/Respawn/status/1547700864663449604 Please join us in welcoming our newest Legend to the stage—the one and only Xanthe Huynh as Rhapsody in @PlayApexMobile. Make some noise! 👏👏 https://t.co/Av2sRp5bdK] - Twitter Respawn(@Respawn) 2022年7月15日</ref> / [[櫻庭有紗]]<ref>[https://twitter.com/ArisaSakuraba/status/1547033140413157376 「💜出演情報💜 #Apexモバイル の新レジェンド、ラプソディの日本語版の声を担当させて頂きます🥰 大好きなAPEXに声優として関われて本当に嬉しいです😭💕 ぜひアンロックして、沢山使ってください! よろしくお願いします🎧❕ #エペモバ #エペモバ世界2300万プレイヤー」] - Twitter 櫻庭有紗(@ArisaSakuraba) 2022年7月13日</ref> :シーズン2「ディストーション」で追加された女性レジェンド。23歳。クラスはサポート。 :広い範囲で音を視覚的に捉えることができるパッシブアビリティ「ギフテッドイヤー」、自身と近くにいる味方の移動速度を増加させ、シールドを回復する曲を奏でる戦術アビリティ「ハイパーアンセム」、フレンドロボットの「ラウディー」から点滅する光の壁を投影し、敵の視界と察知をブロックするアルティメットアビリティ「ラウディーのレイヴ」を使用できる。 == その他のキャラクター == === Apexゲーム === ;クーベン・ブリスク(Kuben Blisk) :声 - [[JB・ブラン]] / 不明 :『Apexゲーム』の[[コミッショナー]]<ref>APEX LEGENDS パスファインダー・クエスト 94ページ</ref>で、『[[タイタンフォール]]』と『[[タイタンフォール2]]』のキャンペーンモードにも登場した白髭を生やした男性<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/449/G044914/20210419068/ |title=「Apex Legends」の新レジェンド“ヴァルキリー”のトレイラーが公開。タイタンフォールに登場する敵パイロット“バイパー”の娘がApexに参戦 |access-date=2021-12-17 |website=www.4gamer.net}}</ref>。 ;AIアナウンサー :声 - {{仮リンク|ゼーラ・ファザル|en|Zehra Fazal}} / [[弘松芹香]]<ref>[https://twitter.com/_kznrs/status/1348587590912413697 今更告知ですが!!『Apex Legends』リングの〝アナウンサー〟の声をやらせて頂いてます!新イベ、ファイトナイトの〝ボクシングアナウンサー〟の声もやってます!みんなのプレイ動画めちゃくちゃみてます!!これからも、Apexのチャンピオンお知らせしていきますね!!!] - Twitter 弘松芹香(@_kznrs) 2021年1月11日</ref> :バトルロイヤルモードにおいて、リングの縮小などを告げるアナウンサー。 ;マーヴィン(MRVN) :『[[タイタンフォール]]』と『[[タイタンフォール2]]』にも登場した「移動ロボット型汎用作業機」<ref name=":22">{{Cite web|和書|url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/pathfinder |title=パスファインダー - 前線の斥候兵 |access-date=2022-03-05 |date=2020-07-14 |website=Electronic Arts Inc.}}</ref>。マップ各地に点在し、アクセスするとアタッチメントを手に入れることができる。 === ブランシウムの研究基地 === ;アメリ・パケット博士(Dr.Amélie Paquette) :声 - / 城内由茄子 :ワットソン(ナタリー・パケット)の祖母<ref>シーズン11 エスケープ ゲーム内コミック『楽園事変』</ref><ref>[https://twitter.com/PlayApex/status/1411040728680181764?s=20&t=t94fSbUi-doZDiPFqO7_3Q Reflections.] Twitter Apex Legends(@PlayApex) 2021年7月3日</ref>。パスファインダーの創造主の一人で、彼の映像記録に登場した<ref name=":20">{{Citation|title=Apex Legends {{!}} Stories from the Outlands – “Fight Night”|url=https://www.youtube.com/watch?v=iT4C1aIS9Ww|language=ja-JP|access-date=2021-12-23}}</ref><ref name=":8">{{Cite web|和書|url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20210623-166372/ |title=『Apex Legends』パスファインダー出生の秘密が公開。壮絶な過去と、新たに明かされる「パスファインダー“パパ”説」 |access-date=2021-12-17}}</ref>。ブランシウムを強奪しようとするアシュレイ・リード博士に致命傷を与えた<ref name=":10">{{Citation|title=The Truth - Pathfinder Origin - Official Apex Legends Short Film|url=https://www.youtube.com/watch?v=6IOopZ-M_eU|language=ja-JP|access-date=2021-12-23}}</ref>。 ;ニュートン・ソマーズ(Newton Somers) :ホライゾン(マリー・ソマーズ)の息子<ref name=":12">{{Cite web|和書|url=https://www.ea.com/ja-jp/games/apex-legends/about/characters/horizon |title=ホライゾン - 重力を操る者 |access-date=2022-03-05 |date=2020-07-14 |website=Electronic Arts Inc.}}</ref>。母の意志を継ぎ<ref name=":8" />、アウトランズをエネルギー危機から救った。ホライゾンは、ニュートと呼んでいる。 === その他の関係者 === ;フォージ(Forge)/ ジェームズ・マコーミック(James McCormick) :声 - {{仮リンク|ダリン・デ・ポール|en|Darin De Paul}} :[[2020年]][[1月24日]]に予告されたシーズン4で参戦するとされていた筋骨隆々な男性レジェンド<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202001/24191278.html |title=『Apex Legends』シーズン4は2月4日開幕! 新キャラ“フォージ”やライフル“センチネル”の投入などを予告 |access-date=2021-12-15}}</ref>。 :シーズン4開始前のインタビューの最中に、レヴナントに暗殺され<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=JmmNYDmvS2k エーペックスレジェンズ|アウトランズの物語 - 特集インタビュー] - YouTube Apex Legends 2020年1月28日</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202001/28191468.html |title=『Apex Legends』新キャラ“フォージ”が実装前に暗殺されてお陀仏に。犯人はもう1体の新キャラと噂だった“レヴナント” |access-date=2021-12-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekionline.com/articles/24740 |title=『Apex Legends』で衝撃の展開! フォージのチャームを手に入れよう |access-date=2021-12-15 |website=電撃オンライン}}</ref>、同年[[1月31日]]にはシーズン4で参戦するレジェンドもレヴナントに変更された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202001/31191761.html |title=『Apex Legends』シーズン4の新レジェンドはやっぱりレヴナント! 元人間の全身サイボーグの殺し屋がやってくる |access-date=2021-12-24}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> {{Respawn Entertainment}} [[Category:エーペックスレジェンズ|とうしようきやらくたあ]] [[Category:ゲームの登場人物の一覧]] [[Category:エレクトロニック・アーツ]] {{DEFAULTSORT:ええへつくすれしえんすのとうしようきやらくたあ}}
2022-07-24T11:49:22Z
2023-11-07T00:25:33Z
false
false
false
[ "Template:ISO639言語名", "Template:要出典", "Template:Notelist", "Template:Cite news", "Template:一次資料", "Template:Efn", "Template:Cite web", "Template:Citation", "Template:Respawn Entertainment", "Template:仮リンク", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC
70,932
今井兼平
今井 兼平(いまい かねひら)は、平安時代末期の武将。正式な名のりは中原 兼平(なかはら の かねひら)。父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。兄に樋口兼光がいる。現在の長野県にあたる信濃国今井の地を領して今井を称した。 義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える。治承・寿永の乱では治承4年(1180年)の義仲挙兵に従い、養和元年(1181年)5月、横田河原の戦いで城助職を破る。寿永2年(1183年)、般若野の戦い・倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平家軍を破り、7月には平家を都落ちさせて義仲と共に入京。10月、福隆寺縄手の戦いで妹尾兼康を破る。11月、後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の活躍が著しかった。元暦元年(1184年)正月20日、鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年33。 その壮絶な最期は、『平家物語』あるいは『源平盛衰記』の「木曾殿最期」の山場としての乳兄弟の絆の強さを示す逸話として知られる。 『平家物語』の「木曾殿最期」の段の義仲と兼平の最期は、悲壮美に満ちている。また、この場面の兼平の矛盾した言い方や、「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます)」の武士たる心構えを伝える言に、その情況に応じての、兼平の義仲への苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。 「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや(いつもは何ともない鎧が、きょうは重くなったぞ)」と言う義仲に対し、 「それは御方(みかた)に続く勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候らめ。兼平一騎をば、余の武者千騎と思し召し候べし。ここに射残したる矢七つ八つ候へば、暫く防矢(ふせぎや)仕り候はん。あれに見え候は、粟津の松原と申し候。君はあの松の中へ入らせ給ひて、静に御自害候へ(それは殿に続く軍勢がないので、臆病になられたのでしょう。兼平一騎を、殿の武者千騎と思ってくださいませ。ここに矢の七本や八本が残ってございますので、これでしばらくは防ぎ矢を放つこともできましょう。あちらは粟津の松原と申します。殿はあの松原の中に入られ静かに御自害なさいませ)」と述べ、 義仲が「所々で討たれんより、一所でこそ討死もせめ(ばらばらで討ち死にするより、一緒に討ち死にしよう)」と言うと、 「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。御身も労(つか)れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候。云ふ甲斐なき人の郎等に組み落とされて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本国に鬼神と聞こえさせ給ひつる木曾殿をば、某が郎等の手に懸けて、討ち奉ったりなんぞ申されん事、口惜しかるべし。唯理を枉げて、あの松の中に入らせ給へ(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます。殿はお疲れでございます。御馬も弱ってございます。ふがいない者が郎党に組み落とされて、討たれたりしたら、さしも日本国に鬼神と言われた木曽義仲を、だれかの郎党の手にかかって討ち取ったりと言われることは悔しいことです。そこは無理を承知であの松原にお入りくださいませ)」と述べた。 義仲が討たれると、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ(いまは誰をかばうために戦をすべきであろうか。東国の武士どもよ、これを見よ。日本一の剛の者の自害の仕方よ)」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害した。 (現代語簡訳:戦前は義仲に「武士らしく強気になれ」と助言をし、戦中は死を共にしようとする義仲に「疲れているのだから潔く自害しなさい」と冷静に助言し、義仲が自害する時間稼ぎをした。義仲が討ち取られたと知った直後、「東国の方々、これが日本一の強者の自害する手本だ」と言った。) 今井兼平の築城とする伝承をもつ城郭(砦)が各地に存在する。 北橘村、木祖村、長野市、川中島に「兼平塚」がある。また、滋賀県大津市にも墓所がある。 長野市川中島の奉斎神社、松本市今井鎮座の今井神社、群馬県渋川市北橘村箱田の木曾三社神社・木曾三柱神社で主祭神として祀られている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "今井 兼平(いまい かねひら)は、平安時代末期の武将。正式な名のりは中原 兼平(なかはら の かねひら)。父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。兄に樋口兼光がいる。現在の長野県にあたる信濃国今井の地を領して今井を称した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える。治承・寿永の乱では治承4年(1180年)の義仲挙兵に従い、養和元年(1181年)5月、横田河原の戦いで城助職を破る。寿永2年(1183年)、般若野の戦い・倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平家軍を破り、7月には平家を都落ちさせて義仲と共に入京。10月、福隆寺縄手の戦いで妹尾兼康を破る。11月、後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の活躍が著しかった。元暦元年(1184年)正月20日、鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年33。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その壮絶な最期は、『平家物語』あるいは『源平盛衰記』の「木曾殿最期」の山場としての乳兄弟の絆の強さを示す逸話として知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『平家物語』の「木曾殿最期」の段の義仲と兼平の最期は、悲壮美に満ちている。また、この場面の兼平の矛盾した言い方や、「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます)」の武士たる心構えを伝える言に、その情況に応じての、兼平の義仲への苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。", "title": "木曾殿最期" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや(いつもは何ともない鎧が、きょうは重くなったぞ)」と言う義仲に対し、", "title": "木曾殿最期" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「それは御方(みかた)に続く勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候らめ。兼平一騎をば、余の武者千騎と思し召し候べし。ここに射残したる矢七つ八つ候へば、暫く防矢(ふせぎや)仕り候はん。あれに見え候は、粟津の松原と申し候。君はあの松の中へ入らせ給ひて、静に御自害候へ(それは殿に続く軍勢がないので、臆病になられたのでしょう。兼平一騎を、殿の武者千騎と思ってくださいませ。ここに矢の七本や八本が残ってございますので、これでしばらくは防ぎ矢を放つこともできましょう。あちらは粟津の松原と申します。殿はあの松原の中に入られ静かに御自害なさいませ)」と述べ、", "title": "木曾殿最期" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "義仲が「所々で討たれんより、一所でこそ討死もせめ(ばらばらで討ち死にするより、一緒に討ち死にしよう)」と言うと、", "title": "木曾殿最期" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。御身も労(つか)れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候。云ふ甲斐なき人の郎等に組み落とされて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本国に鬼神と聞こえさせ給ひつる木曾殿をば、某が郎等の手に懸けて、討ち奉ったりなんぞ申されん事、口惜しかるべし。唯理を枉げて、あの松の中に入らせ給へ(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます。殿はお疲れでございます。御馬も弱ってございます。ふがいない者が郎党に組み落とされて、討たれたりしたら、さしも日本国に鬼神と言われた木曽義仲を、だれかの郎党の手にかかって討ち取ったりと言われることは悔しいことです。そこは無理を承知であの松原にお入りくださいませ)」と述べた。", "title": "木曾殿最期" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "義仲が討たれると、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ(いまは誰をかばうために戦をすべきであろうか。東国の武士どもよ、これを見よ。日本一の剛の者の自害の仕方よ)」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害した。", "title": "木曾殿最期" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "(現代語簡訳:戦前は義仲に「武士らしく強気になれ」と助言をし、戦中は死を共にしようとする義仲に「疲れているのだから潔く自害しなさい」と冷静に助言し、義仲が自害する時間稼ぎをした。義仲が討ち取られたと知った直後、「東国の方々、これが日本一の強者の自害する手本だ」と言った。)", "title": "木曾殿最期" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "今井兼平の築城とする伝承をもつ城郭(砦)が各地に存在する。", "title": "兼平の築城とされる城" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "北橘村、木祖村、長野市、川中島に「兼平塚」がある。また、滋賀県大津市にも墓所がある。", "title": "墓所・神社" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "長野市川中島の奉斎神社、松本市今井鎮座の今井神社、群馬県渋川市北橘村箱田の木曾三社神社・木曾三柱神社で主祭神として祀られている。", "title": "墓所・神社" } ]
今井 兼平は、平安時代末期の武将。正式な名のりは中原 兼平。父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。兄に樋口兼光がいる。現在の長野県にあたる信濃国今井の地を領して今井を称した。 義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える。治承・寿永の乱では治承4年(1180年)の義仲挙兵に従い、養和元年(1181年)5月、横田河原の戦いで城助職を破る。寿永2年(1183年)、般若野の戦い・倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平家軍を破り、7月には平家を都落ちさせて義仲と共に入京。10月、福隆寺縄手の戦いで妹尾兼康を破る。11月、後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の活躍が著しかった。元暦元年(1184年)正月20日、鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年33。 その壮絶な最期は、『平家物語』あるいは『源平盛衰記』の「木曾殿最期」の山場としての乳兄弟の絆の強さを示す逸話として知られる。
{{基礎情報 武士 | 氏名 = 今井 兼平 | 画像 = Imai Kanehira.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 今井兼平([[徳音寺]]所蔵) | 時代 = [[平安時代]]末期 | 生誕 = [[仁平]]2年([[1152年]]) | 死没 = [[寿永]]3年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]([[1184年]][[3月4日]])<br/>享年33 | 改名 = | 別名 = 四郎(通称)、中原兼平 | 墓所 = [[長野県]][[木曽郡]][[木曽町]]日義の[[徳音寺]]、<br/>[[北橘村]]、[[大津市]]、[[木祖村]]、[[長野市]]、[[川中島]] | 主君 = [[源義仲]] | 氏族 = [[中原氏 (木曽)|木曽中原氏]] | 父母 = 父:[[中原兼遠]] | 兄弟 = [[樋口兼光]]、'''兼平'''、[[今井兼光]]?、[[巴御前]]?{{Efn2|『[[平家物語]]』諸本では巴の出自について触れられていないが、『[[源平闘諍録]]』では兄兼光の娘、『[[源平盛衰記]]』では父兼遠の娘となっている。}} | 妻 = | 子 =[[兼連]]、[[兼之]]、[[熊丸]] | 特記事項 = }} '''今井 兼平'''(いまい かねひら)は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。正式な名のりは'''中原 兼平'''(なかはら の かねひら)。父は[[中原兼遠]]。[[源義仲|木曾義仲]]の[[乳母]]子で[[源義仲|義仲四天王]]の一人。兄に[[樋口兼光]]がいる。現在の[[長野県]]にあたる[[信濃国]]今井{{Efn2|どこの今井かは、更級郡今井(長野市川中島町今井)、佐久郡今井(佐久市今井)、諏訪郡今井(岡谷市今井)、筑摩郡今井(松本市今井)など諸説ある。}}の地を領して今井を称した。 義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える。治承・寿永の乱では治承4年([[1180年]])の義仲挙兵に従い、養和元年(1181年)5月、横田河原の戦いで城助職を破る。寿永2年(1183年)、般若野の戦い・倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平家軍を破り、7月には平家を都落ちさせて義仲と共に入京。10月、福隆寺縄手の戦いで妹尾兼康を破る。11月、後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の活躍が著しかった。元暦元年(1184年)正月20日、鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年33。 その壮絶な最期は、『[[平家物語]]』あるいは『[[源平盛衰記]]』の「'''木曾殿最期'''」の山場としての乳兄弟の絆の強さを示す逸話として知られる。 == 木曾殿最期 == 『[[平家物語]]』の「'''木曾殿最期'''」の段の義仲と兼平の最期は、悲壮美に満ちている。また、この場面の兼平の矛盾した言い方や、「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます)」の武士たる心構えを伝える言に、その情況に応じての、兼平の義仲への苦しいいたわりの気持ち、美しい主従の絆が書かれている。 「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなったるぞや(いつもは何ともない鎧が、きょうは重くなったぞ)」と言う義仲に対し、 「それは御方(みかた)に続く勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候らめ。兼平一騎をば、余の武者千騎と思し召し候べし。ここに射残したる矢七つ八つ候へば、暫く防矢(ふせぎや)仕り候はん。あれに見え候は、粟津の松原と申し候。君はあの松の中へ入らせ給ひて、静に御自害候へ(それは殿に続く軍勢がないので、臆病になられたのでしょう。兼平一騎を、殿の武者千騎と思ってくださいませ。ここに矢の七本や八本が残ってございますので、これでしばらくは防ぎ矢を放つこともできましょう。あちらは粟津の松原と申します。殿はあの松原の中に入られ静かに御自害なさいませ)」と述べ、 義仲が「所々で討たれんより、一所でこそ討死もせめ(ばらばらで討ち死にするより、一緒に討ち死にしよう)」と言うと、 「弓矢取りは、年頃日頃如何なる高名候へども、最後に不覚しぬれば、永き瑕(きず)にて候なり。御身も労(つか)れさせ給ひ候ひぬ。御馬も弱って候。云ふ甲斐なき人の郎等に組み落とされて、討たれさせ給ひ候ひなば、さしも日本国に鬼神と聞こえさせ給ひつる木曾殿をば、某が郎等の手に懸けて、討ち奉ったりなんぞ申されん事、口惜しかるべし。唯理を枉げて、あの松の中に入らせ給へ(武士は、常日頃からいかなる名誉を得たとしても、最後に不覚を取っては、後世長い間にわたり名に傷がつきます。殿はお疲れでございます。御馬も弱ってございます。ふがいない者が郎党に組み落とされて、討たれたりしたら、さしも日本国に鬼神と言われた木曽義仲を、だれかの郎党の手にかかって討ち取ったりと言われることは悔しいことです。そこは無理を承知であの松原にお入りくださいませ)」と述べた。 義仲が討たれると、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ(いまは誰をかばうために戦をすべきであろうか。東国の武士どもよ、これを見よ。日本一の剛の者の自害の仕方よ)」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害した。 (現代語簡訳:戦前は義仲に「武士らしく強気になれ」と助言をし、戦中は死を共にしようとする義仲に「疲れているのだから潔く自害しなさい」と冷静に助言し、義仲が自害する時間稼ぎをした。義仲が討ち取られたと知った直後、「東国の方々、これが日本一の強者の自害する手本だ」と言った。) == 兼平の築城とされる城 == 今井兼平の築城とする伝承をもつ[[城郭]]([[砦]])が各地に存在する。 *[[東京都]] **今井城([[東京都]][[麻布区]]今井町、現在の[[六本木]]) *[[神奈川県]] **[[今井城 (武蔵国都筑郡)|今井城]]([[横浜市]][[保土ケ谷区]]) *[[新潟県]] **今井城([[新潟県]][[糸魚川市]]今井) **[[今井城 (越後国)|今井城]](新潟県[[中魚沼郡]][[津南町]]) *[[富山県]] **[[白鳥城]]([[富山市]]呉羽町) *[[福井県]] **今井城([[福井市]]小羽町) == 墓所・神社 == [[File:Grave of Imai Kanehira, Ōtsu, Shiga.jpg|thumb|今井兼平の墓(滋賀県大津市晴嵐二丁目)]] [[北橘村]]、[[木祖村]]、[[長野市]]、[[川中島]]に「兼平塚」がある。また、[[滋賀県]][[大津市]]にも墓所がある。 長野市川中島の奉斎神社、[[松本市]]今井鎮座の今井神社、[[群馬県]][[渋川市]][[北橘村]]箱田の[[木曾三社神社]]・[[木曾三柱神社]]で主祭神として祀られている。 == 系譜 == *父:[[中原兼遠]] *母:不詳 *妻:不詳 **長男:兼連 **次男:兼之 **三男:熊丸 == 子孫 == * 北佐久郡立科町芦田、[[与惣塚]] - 兼平の長男=兼連の墓 * 長野市御厨戸部、今井山[[讃楽寺]] - 兼平の次男=兼之が創建 * 長野市鬼無里山角、[[山角城]] - 兼平の三男=幼少名・熊丸が築城 * 文献によると、[[元暦]]元年([[1184年]])の粟津の戦いで[[源義仲|木曾義仲]]と兼平が戦死すると、兼平の次男[[今井兼之]]・ [[高梨氏]]・楯氏・根井氏・町田・小野沢・萩原・串渕・諸田等が義仲と[[巴御前]]の子である三男[[源義基 (木曾義基)|木曾義基]]を匿い、[[群馬県]][[渋川市]][[北橘村]]箱田に落ち延びたとされる。義仲の崇敬社である[[岡田神社]]、[[沙田神社]]、[[阿禮神社]]の分霊を勧請し[[木曾三社神社]]・[[木曾三柱神社]]を創建。箱田に住居を構えたことが始まりとされる{{Sfn|今井善兵衛|1935|p={{要ページ番号|date=2022年3月}}}}<ref>[http://www.guntabi.com/sibukawa/kiso.html 木曾三社神社]</ref>。のちに[[箱田城]]を自ら築城し[[箱田地衆]]([[国衆]])として活動するが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入り有力[[大名]]である[[長尾氏#白井・総社長尾氏|白井長尾家]]、[[上杉氏]]、[[武田氏]]、[[北条氏]]、[[酒井氏]]、[[松平氏]]に仕えた<ref>[http://www.geocities.jp/sisekisanpo/kisosansya/kisosansya.html 木曾三柱神社②]</ref>{{Sfn|今井善兵衛|1935|p={{要ページ番号|date=2022年3月}}}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=今井善兵衛|authorlink=今井善兵衛|title=更生農村:北橘村の実情|publisher=日本評論社|year=1935|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=今井善一郎|authorlink=今井善一郎|title=赤城の神|publisher=煥乎堂|year=1974|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=今井善一郎|title=習俗歳時記|publisher=煥乎堂|year=1975|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author1=児玉幸多|author2=北島正元|author1-link=児玉幸多|author2-link=北島正元|title=藩史総覧|publisher=新人物往来社|year=1977|ref=harv}} *『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 (新人物往来社、1977年) * 山崎一『群馬県古城塁址の研究』(群馬県文化事業振興会、1971年-1972年) == 関連項目 == {{Commonscat}} *[[今井氏]] *[[木曾三柱神社]] *[[木曾三社神社]] == 外部リンク == * [http://de101705.btblog.jp/cm/kulSc18Gs485E59F1/1/ 木曾三柱神社 将軍塚古墳・朝日塚古墳] * [http://www.tg.rim.or.jp/~ewakim/kofun/ktt/hdsgz.html 木曾三柱神社①] * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/sisekisanpo/kisosansya/kisosansya.html |title=木曾三柱神社② |date=20190330043659}} * [http://jsmh.umin.jp/journal/51-2/322.pdf 木曾三柱神社③] * [http://www.guntabi.com/sibukawa/kiso.html 木曾三社神社①] * [https://blog.goo.ne.jp/kochou_2005/e/5111198d1dfd72873a2b839beb9997a5/?st=1 木曾三社神社②] {{Japanese-history-stub}} {{people-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いまい かねひら}} [[Category:中原氏 (木曽)|分いまい かねひら]] [[Category:平安時代の武士]] [[Category:治承・寿永の乱の人物]] [[Category:源義仲]] [[Category:信濃国の人物]] [[Category:木曽町の歴史]] [[Category:日本の神 (人物神 源平合戦)]] [[Category:切腹した人物]] [[Category:1152年生]] [[Category:1184年没]]
2004-03-29T03:35:58Z
2023-11-23T18:49:53Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist2", "Template:Japanese-history-stub", "Template:Normdaten", "Template:Wayback", "Template:People-stub", "Template:基礎情報 武士", "Template:Efn2", "Template:Sfn", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E5%85%BC%E5%B9%B3
3,890,480
進藤あまね
進藤 あまね(しんどう あまね、2004年4月20日 - )は、日本の女性声優、元コスプレイヤー。愛知県出身。堀越高等学校卒業。響所属。 小学校2年生頃よりアニメを見て声優に憧れ始める。いくつかオーディションを受けた後、2018年中学2年生の時に、憧れの三森すずこが所属する声優事務所響の新人声優発掘オーディション2018を“ラストチャンス”として覚悟を決めて受け合格、同年より響の所属となった。テレビアニメ『バミューダトライアングル 〜カラフル・パストラーレ〜』のキャロ役でデビューを果たす。 声優ユニット『BanG Dream!』「Morfonica」ボーカル・倉田ましろ 役並びに、『D4DJ』「Lyrical Lily」DJ・春日春奈 役としても活動を行っている。 2022年、『ROCKETOON』宣伝大使に就任。 2023年2月16日、堀越高等学校を卒業。 愛称はあまねす。趣味はゲーム、ぬいぐるみ集め、イラスト、スカッシュ。特技はギター、ダンス(チア、バレエ、ヒップホップ)、フラフープ。好きなものとして、猫、ジンベエザメを挙げている。 同じ事務所でかつ共演作も多い西尾夕香とは10歳の年齢差があるにも拘わらず仲が深く、自他共に「おゆねす」と称している。また、『BanG Dream!』のリアルバンドの活動もしているMyGO!!!!!のドラムス・椎名立希役の林鼓子とは共に中学生の時に受けていたオーディションの時からの友人で、後に通っていた高校も同じだったため学校の身体測定の時間に再会を果たした。 太字はメインキャラクター。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "進藤 あまね(しんどう あまね、2004年4月20日 - )は、日本の女性声優、元コスプレイヤー。愛知県出身。堀越高等学校卒業。響所属。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "小学校2年生頃よりアニメを見て声優に憧れ始める。いくつかオーディションを受けた後、2018年中学2年生の時に、憧れの三森すずこが所属する声優事務所響の新人声優発掘オーディション2018を“ラストチャンス”として覚悟を決めて受け合格、同年より響の所属となった。テレビアニメ『バミューダトライアングル 〜カラフル・パストラーレ〜』のキャロ役でデビューを果たす。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "声優ユニット『BanG Dream!』「Morfonica」ボーカル・倉田ましろ 役並びに、『D4DJ』「Lyrical Lily」DJ・春日春奈 役としても活動を行っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2022年、『ROCKETOON』宣伝大使に就任。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2023年2月16日、堀越高等学校を卒業。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "愛称はあまねす。趣味はゲーム、ぬいぐるみ集め、イラスト、スカッシュ。特技はギター、ダンス(チア、バレエ、ヒップホップ)、フラフープ。好きなものとして、猫、ジンベエザメを挙げている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "同じ事務所でかつ共演作も多い西尾夕香とは10歳の年齢差があるにも拘わらず仲が深く、自他共に「おゆねす」と称している。また、『BanG Dream!』のリアルバンドの活動もしているMyGO!!!!!のドラムス・椎名立希役の林鼓子とは共に中学生の時に受けていたオーディションの時からの友人で、後に通っていた高校も同じだったため学校の身体測定の時間に再会を果たした。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "太字はメインキャラクター。", "title": "出演" } ]
進藤 あまねは、日本の女性声優、元コスプレイヤー。愛知県出身。堀越高等学校卒業。響所属。
{{声優 | 名前 = 進藤 あまね | ふりがな = しんどう あまね | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = | 愛称 = あまねす<ref name="twitter20200402">{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/amane_bushi/status/1245562539745742848|title=最近私を知った方もいると思いましたので自己紹介です✨ 詳しくは、ラジオ・本・動画などで紹介しているので是非そちらのチェック✔️もお願いします💦 これで大分私を知って頂ける気がします💭|work=[[Twitter]]|author=進藤あまね|date=2020-04-02|accessdate=2020-04-27}}</ref>、あましゅ{{R|twitter20200402}}、あまちゃん<ref>[https://twitter.com/Ruka_Fukagawa96/status/1384316320745852928 深川瑠華さんはTwitterを使っています 「@amane_bushi あまちゃんお誕生日おめでとう🥳🥳 写真めっちゃ可愛い😘 これからもよろしくね!! 素敵な一年になりますように✨」 / Twitter ]</ref> | 性別 = [[女性]] | 出生地 = {{JPN}}・[[愛知県]]{{R|twitter20200402}} | 死没地 = | 生年 = 2004 | 生月 = 4 | 生日 = 20 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 血液型 = [[ABO式血液型|A型]]<ref name="hibiki_prof">{{Cite web|和書|url=https://hibiki-cast.jp/hibiki_f/shindou_amane/|title=進藤あまね|女性声優|株式会社 響|accessdate=2019-01-11}}</ref> | 身長 = 165 [[センチメートル|cm]]<ref> {{Cite web|和書|url=https://twitter.com/amane_bushi/status/1273617715693903872?s=21|title= 面白いが大盛りでしたね✨来週も楽しみ〜🎶意外と背が高いGirl!の身長は165ぐらいになったと思います💭|work=[[Twitter]]|author=進藤あまね|date=2020-06-18|accessdate=2020-06-19}}</ref> | 職業 = [[声優]] | 事務所 = [[響 (芸能プロダクション)|響]]{{R|hibiki_prof|thetv}} | 配偶者 = | 著名な家族 = | 公式サイト = [https://hibiki-cast.jp/hibiki_f/shindou_amane/ 進藤あまね|女性声優|声優事務所 響] | 活動期間 = [[2018年]] - | デビュー作 = 『[[バミューダトライアングル 〜カラフル・パストラーレ〜]]』<ref name="ツイート20210121">{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/amane_bushi/status/1352206524920127491|title=amane_bushiによるツイート|date=2021-01-21|accessdate=2021-06-28}}</ref> |出身地=}} '''進藤 あまね'''(しんどう あまね、[[2004年]]<ref>{{Twitter status2|amane_bushi|1106832899666411521|4=2019年3月16日のツイート|accessdate=2019-06-07}}</ref>[[4月20日]]{{R|hibiki_prof|thetv}} - )は、[[日本]]の[[女性]][[声優]]、元[[コスプレ|コスプレイヤー]]。[[愛知県]]出身{{R|twitter20200402}}。[[堀越高等学校]]卒業<ref name="a">[https://twitter.com/amane_bushi/status/1626499485450010625 進藤あまねさんはTwitterを使っています: 「昨日、堀越高校を卒業しました🌸 全日制の高校に通う事は、簡単な事ではありませんでした。 3年間マネージャーさん、関係者の方々、沢山の方に支えて頂き、卒業する事が出来ました。 親友、トレイトコースの仲間と共に過ごした日々は大切な宝物です。 本当に、お世話になりました!! https://t.co/hLAOKZaWAC」 / Twitter ]</ref>。[[響 (芸能プロダクション)|響]]所属{{R|hibiki_prof|thetv}}。 == 経歴 == 小学校2年生頃よりアニメを見て声優に憧れ始める<ref>『[[B.L.T.]] VOICE GIRLS Vov.45』 p.067</ref>。いくつかオーディションを受けた後、[[2018年]]中学2年生の時に、憧れの[[三森すずこ]]が所属する声優事務所[[響 (芸能プロダクション)|響]]の新人声優発掘オーディション2018を“ラストチャンス”として覚悟を決めて受け合格<ref>『[[B.L.T.]] VOICE GIRLS Vov.45』 p.068</ref>、同年より響の所属となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/interview/798652/a/|title=進藤あまね「本当に17歳?って聞かれますけど、昭和ネタが大好きです」【声優図鑑】|work=ダ・ヴィンチニュース|publisher=KADOKAWA|date=2021-06-23|accessdate=2021-06-28}}</ref>。テレビアニメ『[[バミューダトライアングル 〜カラフル・パストラーレ〜]]』のキャロ役でデビューを果たす{{R|ツイート20210121}}。 [[声優ユニット]]『[[BanG Dream!]]』「[[Morfonica]]」ボーカル・倉田ましろ 役<ref>{{Cite web|url=https://bushiroad-music.com/artists/morfonica|title=Morfonica|work=[[ブシロードミュージック]]|accessdate=2020-03-05}}</ref>並びに、『[[D4DJ]]』「Lyrical Lily」DJ・春日春奈 役<ref>{{Cite web|url=https://bushiroad-music.com/artists/lyricallily|title=Lyrical Lily|work=[[ブシロードミュージック]]|accessdate=2021-10-20}}</ref>としても活動を行っている。 2022年、『ROCKETOON』宣伝大使に就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1651806272 |title=新WEBTOONブランド「ROCKETOON」作品がアニメイトブックストアほか各電子書店で配信スタート! 声優・進藤あまねさんが宣伝大使に就任 |publisher =アニメイトタイムズ |date=2022-05-06 |accessdate=2022-10-24}}</ref>。 2023年2月16日、[[堀越高等学校]]を卒業<ref name="a"/>。 == 人物 == 愛称はあまねす{{R|twitter20200402}}{{efn|group=注|この愛称の名付け親は、事務所の先輩で後に『[[バミューダトライアングル 〜カラフル・パストラーレ〜]]』や『[[カードファイト!! ヴァンガード overDress]]』などで共演する[[遠野ひかる]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/amane_bushi/status/1285511979977674752?s=19|title=とのぴーさん✨実は「あまねす」という素敵な名前を付けてくださったのはとのぴーさんなのです💕💕💕💕💕素敵なナレーションとともに #MORFONICAL お楽しみください🦋|work=[[Twitter]]|author=進藤あまね|date=2020-07-21|accessdate=2020-07-21}}</ref>。}}。趣味はゲーム、ぬいぐるみ集め、イラスト、スカッシュ{{R|hibiki_prof}}。特技はギター、ダンス(チア、バレエ、ヒップホップ){{R|hibiki_prof}}、フラフープ。好きなものとして、[[猫]]、[[ジンベエザメ]]を挙げている<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/amane_bushi/status/1287026292303437825|title=amane_bushiによるツイート|date=2020-07-26|accessdate=2021-06-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/amane_bushi/status/1063756760870092802|title=amane_bushiによるツイート|date=2018-11-17|accessdate=2021-06-28}}</ref>。 同じ事務所でかつ共演作も多い[[西尾夕香]]とは10歳の年齢差があるにも拘わらず仲が深く、自他共に「おゆねす」と称している<ref>[https://www.youtube.com/playlist?list=PLt3_0vv9O393Al61s_26yBRBhRVG_DWQv おゆねす(進藤あまね・西尾夕香) - YouTube ]</ref>。また、『[[BanG Dream!]]』のリアルバンドの活動もしている[[MyGO!!!!!]]のドラムス・椎名立希役の[[林鼓子]]とは共に中学生の時に受けていたオーディションの時からの友人で、後に通っていた高校も同じだったため学校の身体測定の時間に再会を果たした<ref>{{Citation|title=進藤あまねの『あまね部!』#36 ゲスト:林鼓子【2023/7/28配信】|url=https://www.youtube.com/watch?v=B6SU1ZUWNck|language=ja-JP|access-date=2023-08-23}}</ref>。 == 出演 == '''太字'''はメインキャラクター。 === テレビアニメ === {{dl2 | 2019年 | * [[バミューダトライアングル 〜カラフル・パストラーレ〜]]('''キャロ'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://colorful-pastrale.com/characters/caro/ |title=キャロ|work=TVアニメ「バミューダトライアングル 〜カラフル・パストラーレ〜」公式サイト|accessdate=2019-01-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1542697145|title=冬アニメ『バミューダトライアングル』発表会が開催|publisher=アニメイトタイムズ|accessdate=2019-06-07}}</ref><ref name="thetv">{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/2000035711/|title=進藤あまね(しんどうあまね)のプロフィール・画像・出演スケジュール【スタスケ】|publisher=ザテレビジョン|accessdate=2019-06-07}}</ref>)<!-- 2019-01-12 --> * [[BanG Dream! (アニメ)|BanG Dream!]](生徒、花女生徒B)<!-- 2019-02-14 --> | 2020年 | * [[りばあす]]('''美濃周子'''<ref>{{Cite web|url=https://rebirth-fy.com/anime/|title=ANIME|work=「Reバース for you」公式サイト|accessdate=2019-12-01}}</ref>)<!-- 2020-01-05 --> * [[BanG Dream! ガルパ☆ピコ|BanG Dream! ガルパ☆ピコ シリーズ]](2020年 - 2021年、'''倉田ましろ'''<ref>{{Cite web|work=「BanG Dream! ガルパ☆ピコ ふぃーばー!」公式サイト|url=https://anime.bang-dream.com/pico/staff_cast/ohmori/|title=STAFF&CAST|accessdate=2021-09-18}}</ref><ref>{{Cite web|work=「BanG Dream! ガルパ☆ピコ ふぃーばー!」公式サイト|url=https://anime.bang-dream.com/pico/staff_cast/|title=STAFF&CAST|accessdate=2021-09-19}}</ref>) - 2シリーズ{{Ras|第2期『〜大盛り〜』(2020年)<!-- 2020-08-17 -->、第3期『ふぃーばー!』(2021年 - 2022年)}} | 2021年 | * [[ぷっちみく♪ D4DJ Petit Mix]](春日春奈<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.d4dj-pj.com/petit-mix/cast-staff/|title=キャスト&スタッフ|work=ぷっちみく♪ D4DJ Petit Mix|accessdate=2021-02-03}}</ref>)<!-- 2021-03-19 --> * [[カードファイト!! ヴァンガード overDress]](2021年 - 2024年、'''大倉メグミ'''<ref>{{Cite web|url=https://anime.cf-vanguard.com/vgd/archive/overdress/staff-cast/|title=Staff & Cast - overDress|work=TVアニメ「カードファイト!! ヴァンガード Divinez」 公式アーカイブサイト|accessdate=2023-12-12}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://anime.cf-vanguard.com/vgd/archive/willdress/staff-cast/|title=Staff & Cast - willdress|work=TVアニメ「カードファイト!! ヴァンガード Divinez」 公式アーカイブサイト|accessdate=2023-12-12}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://anime.cf-vanguard.com/vgd/staff-cast/|title=Staff & Cast|work=TVアニメ「カードファイト!! ヴァンガード Divinez」 公式サイト|accessdate=2023-12-12}}</ref>) - 6シリーズ{{Ras|Season1(2021年)<!-- 2021-04-03 -->、Season2(2021年)、続編『will+Dress』Season1(2022年)<!-- 2022-07-05 -->、続編『will+Dress』Season2(2023年)<!-- 2023-01-28 -->、続編『will+Dress』Season3(2023年)<!-- 2023-07-08 -->、『Divinez』(2024年)<!-- 2024 -->}} | 2022年 | * [[異世界美少女受肉おじさんと]](ウルティナ<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/454203|title=「異世界美少女受肉おじさんと」OP曲は福山芳樹!ED曲、放送日、追加キャストも|website=[[コミックナタリー]]|date=2021-11-19|accessdate=2021-11-19}}</ref>)<!-- 2022-01-26 --> * [[バンドリ! ガールズバンドパーティ!|バンドリ! ガールズバンドパーティ! 5th Anniversary Animation -CiRCLE THANKS PARTY!-]]('''倉田ましろ''')<!-- 2022-03-10 --> * [[乙女ゲー世界はモブに厳しい世界です]](女子)<!-- 2022-04-17 --> * [[BanG Dream! Morfonication]]('''倉田ましろ'''<ref>{{Cite web|url=https://morfonica-anime.bang-dream.com/staff_cast/|title=Staff&Cast|website=「BanG Dream! Morfonication」公式サイト|accessdate=2022-06-03}}</ref>)<!-- 2022-07-28 --> | 2023年 | * [[D4DJ All Mix]]('''春日春奈'''<ref>{{Cite web|url=https://anime.d4dj-pj.com/all-mix/staff_cast/|title=STAFF/CAST|website=TVアニメ「D4DJ All Mix」公式サイト|accessdate=2022-10-24}}</ref>)<!-- 2023-01-13 --> * [[BanG Dream! It's MyGO!!!!!]](倉田ましろ)<!-- 2023-06-29 --> }} === 劇場アニメ === * [[BanG Dream! FILM LIVE 2nd Stage]](2021年、'''倉田ましろ'''<ref>{{Cite web|和書|work=劇場版「BanG Dream! FILM LIVE 2nd Stage」公式サイト|url=https://anime.bang-dream.com/filmlive2/cast_staff/|title=STAFF・CAST|accessdate=2020-09-21}}</ref>) * [[劇場版 BanG Dream! ぽっぴん'どりーむ!]] (2022年、'''倉田ましろ'''<ref>{{Cite web|和書|title=CHARACTER {{!}} 劇場版「BanG Dream! ぽっぴん'どりーむ!」 |url=https://popipa-movie.bang-dream.com/character/ |website=CHARACTER {{!}} 劇場版「BanG Dream! ぽっぴん'どりーむ!」 |accessdate=2022-04-02 |language=ja}}</ref>) === Webアニメ === * [[アサルトリリィ#Webアニメ|アサルトリリィ ふるーつ]](2021年、'''丹羽灯莉'''<ref>{{Cite web|和書|title=アサルトリリィ ふるーつ|url=https://anime.assaultlily-pj.com/fruits/|website=アサルトリリィ ふるーつ|accessdate=2021-10-07|language=ja}}</ref>)<!-- 2021-07-20 --> === ゲーム === {{dl2 | 2019年 | * [[クイズRPG 魔法使いと黒猫のウィズ]](園田きゃたぴら / エニグマクローバー<ref>{{Cite web|和書|title=キャラクター|新番組「からふる!エニグマフラワーズ」公式サイト|url=https://colopl.co.jp/magicianwiz/lp/enigma/chara04_enigma.php|accessdate=2019-11-11}}</ref><ref>{{Twitter status2|amane_bushi|1193799795237765121|2019年11月11日|accessdate=2019-11-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=作品情報|新番組「からふる!エニグマフラワーズ」公式サイト|url=https://colopl.co.jp/magicianwiz/lp/enigma/about.php|accessdate=2019-11-15}}</ref>)<!-- 2019-11-11 --> * [[ブラウンダスト]](2019年 - 2023年、メロディア<ref>{{Cite web|和書|title=ボイスキャスト一覧 |url=https://browndust.net/voicecast/ |website=ブラウンダスト公式ブログ |date=2023-03-02 |access-date=2023-04-17 |language=ja |last=browndustteam}}</ref>、シリオン<ref>{{Cite web|和書|date=2020-01-09 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000413.000010988.html |title=【NEOWIZ プレスリリース】采配バトルRPG『ブラウンダスト』新助力者が4名実装&悪魔城に新ステージ登場! |publisher=PR TIMES |accessdate=2020-11-23}}</ref>、リアトリス<ref>{{Cite tweet|user=BROWNDUST2_JP|number=1645320758787448833|title=【キャラクター紹介23】|date=2023-04-10|accessdate=2023-08-26}}</ref>) - 2作品{{Ras|『ブラウンダスト』(2019年 - 2021年)、『ブラウンダスト2』(2023年)}} | 2020年 | * 帝国戦記(トモエ、フル)<!-- 2020-01 --> * [[バンドリ! ガールズバンドパーティ!]](2020年 - 2023年、'''倉田ましろ'''<ref>{{Cite web|url=https://bang-dream.bushimo.jp/character/morfonica/kurata-mashiro/|title=CHARACTER|work=バンドリ! ガールズバンドパーティ!|publisher=[[ブシロード|ブシロードゲームズ]]|accessdate=2023-09-09}}</ref>)<!-- 2020-02-22 --> * 神装の戦乙女(コリーン、ジャレンス)<!-- 2020-02-29 --> * [[D4DJ Groovy Mix]](2020年 - 2023年、春日春奈<ref>{{Cite web|publisher=[[ブシロード]]|work=「D4DJ Groovy Mix(グルミク)」(アプリゲーム)公式サイト|url=https://d4dj.bushimo.jp/unit/kasuga-haruna/|title=UNIT|accessdate=2020-02-01}}</ref>)<!-- 2020-10-25 --> * [[共闘ことばRPG コトダマン]](スレイン、ツウカイン)<!-- 2020-10-26 --> * [[マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝]](2020年 - 2022年、八雲みかげ<ref>{{Cite web|和書|date=2020-11-13 |url=https://www.4gamer.net/games/358/G035840/20201113125/ |title=「マギアレコード」,イベント・みたまの特訓 みかげ編が開催 |publisher=4Gamer.net |accessdate=2020-11-14}}</ref>)<!-- 2020-11-16 --> | 2021年 | * [[アサルトリリィ Last Bullet]](2021年 - 2023年、丹羽灯莉<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20200419082944/https://assaultlily.bushimo.jp/character/akari/|title=丹羽 灯莉{{!}}CHARACTER|work=アサルトリリィ Last Bullet (ラスバレ){{!}}公式サイト|accessdate=2020-03-06}}</ref>)<!-- 2021-01-20 --> | 2022年 | * [[三国ドライブ]](滅鬼一閃 魏延<ref>{{Cite tweet|user=SangokuDrive |number=1503657259422806017 |title=『滅鬼一閃 魏延』登場記念 |date=2023-03-15 |access-date=2023-12-02}}</ref>)<!-- 2022-03-15 --> * LOST EPIC(幽霊少女<ref>{{Cite web |url=https://one-or-eight.co.jp/lostepic/ |title=Cast |publisher =『LOST EPIC(ロストエピック)』公式サイト |accessdate=2022-12-01}}</ref>)<!-- 2022-07-28 --> * ミシックヒーローズ(ネフティス<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/666/G066643/20230130076/ |title=「ミシックヒーローズ」公式Twitterにて声優陣のサイン色紙が抽選で当たるキャンペーンを開催 |publisher =4Gamer.net |date=2023-01-30 |accessdate=2023-12-02}}</ref>)<!-- 2022-12-28 --> | 2023年 | * [[アズールレーン]](ヒーロー<ref>{{Cite web|和書|url=https://gamebiz.jp/news/364941 |title=Yostar、『アズールレーン』で期間限定イベント「黙示の遺構」を開催 UR「インプラカブル」を先行実装した「期間限定建造」を追加 |publisher =gamebiz |date=2023-02-24 |accessdate=2023-12-02}}</ref>)<!-- 2023-02-23 --> * [[サクライグノラムス]](ツタンカーメン<ref> {{Cite web|和書|url=https://twitter.com/FgG_SKIG/status/1598255595689152512|title= #サクライグノラムス⚔️サムライ紹介⚔️【ツタンカーメン(CV:#進藤あまね)】|work=[[Twitter]]|author=【公式】サクライグノラムス ‐2023年リリース予定‐|date=2022-12-01|accessdate=2022-12-01}}</ref>)<!-- 2023-02-27 --> * [[Dislyte~神世代ネオンシティ~]](アーチボルト<ref>{{Cite tweet|user=Dislyte_JP |number=1712422873380618650 |title=【アーチボルト・スキルムービー】 |date=2023-10-12 |access-date=2023-12-02}}</ref>)<!-- 2023-10 --> * [[クッキーラン: キングダム]](つららイエティクッキー<ref>{{Cite tweet|user=CRKingdomJP |number=1727522362348777655 |title=◤つららイエティクッキー登場記念キャンペーン◢ |date=2023-11-23 |access-date=2023-12-02}}</ref>)<!-- 2023-11-23 --> }} === 特撮 === * [[仮面ライダー555#Vシネクスト|仮面ライダー555 パラダイス・リゲインド]](2024年) - スマートレディ 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/543191|title=「仮面ライダー555 20th」新ライダー役に福田ルミカ、新オルフェノクも3体登場|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-10-02|accessdate=2023-10-02}}</ref> === 舞台 === * [[D4DJ#舞台|舞台 Lyrical Lily「千リ!の道も一歩から」]](2022年6月28日 - 7月3日、飛行船シアター) - 春日春奈 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://d4dj-pj.com/live-event/post-49|title=舞台 Lyrical Lily「千リ!の道も一歩から」|work=D4DJ(ディーフォーディージェー)公式サイト|accessdate=2023-04-21}}</ref> ** 舞台 D4DJ「有栖川学院文化祭 LIVE STAGE」(2023年4月30日 - 5月7日、飛行船シアター)<ref>{{Cite web|url=https://d4dj-pj.com/live-event/post-81|title=舞台 D4DJ「有栖川学院文化祭 LIVE STAGE」|work=D4DJ(ディーフォーディージェー)公式サイト|accessdate=2023-04-21}}</ref> === Web配信番組 === * MORFONICAL/もるふぉにかる(2020年、[[YouTube]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekionline.com/articles/30116/ |title=『バンドリ!』Morfonicaのドキュメンタリー番組とラジオ番組が配信決定 |publisher =電撃オンライン |date=2020-03-21 |accessdate=2022-12-01}}</ref>)<!-- 2020-03-24 --> * 進藤あまねの「あまね部!」(2020年 - 、[[ニコニコ動画]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://spice.eplus.jp/articles/273990 |title=声優・進藤あまねのニコニコチャンネルがスタート 初冠番組となる『あまね部!』が放送開始決定 |publisher =SPICE |date=2020-08-13 |accessdate=2022-12-01}}</ref>・YouTube)<!-- 2020-08-27 --> * [[マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝|マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝Magia Day 2022]](2022年9月12日、[[アニプレックス]]公式チャンネル)- 八雲みかげ役 ※<ref>{{Cite web|和書|url=https://magireco.com/news/?id=61117|title=5周年記念番組「Magia Day 2022」配信決定!|publisher=マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝Twitter|accessdate=2021-09-15}}</ref> * [[超!A&G+マンスリースペシャル|超!A&G+マンスリースペシャル 進藤あまねのあまねく沼に誘われて]](2022年、[[超!A&G+]]) - 9月度パーソナリティ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.joqr.co.jp/ag/article/62734/ |title=「超!A&G+マンスリースペシャル」2022年9月は進藤あまねが担当!9月5日放送開始! |publisher =文化放送 |date=2022-08-22 |accessdate=2022-10-24}}</ref> * 中島由貴と進藤あまねのふたりげーむぷらす(2023年、ニコニコチャンネルプラス) - シーズンMC<ref>{{Cite web|和書|url=https://dengekionline.com/articles/185459/ |title=中島由貴さんと進藤あまねさんの『ふたりげーむぷらす』初回が5月18日(木)スタート! |publisher =電撃オンライン |date=2023-05-16 |accessdate=2023-05-26}}</ref> === CM === * 6割増どうぶつ・6割増どうぶつII(ブシロードクリエイティブ) ※ 実写出演及びCMソング歌唱 * カードファイト!! ヴァンガード overDress(ブシロード)「3種デッキ買いに行かなきゃ部室編」「買いに来たショップ編」「リリカルモナステリオ(Lyrical Lilyとして出演)」「御薬袋ミレイ -封焔の巫女-編」 ※ 実写出演 * ブシロードカード(ブシロードムーブ) ※ 実写出演<ref>[https://twitter.com/BushiroadMove/status/1580041372136255489?t=2uHx8Gla9zfGN9rxrODGFQ&s=19 ブシロードムーブ公式「ブシロードカード TVCM放映中!」]</ref> * ROCKETOON(2022年、実写出演<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000006124.000014827.html |title=宣伝大使・進藤あまねさんが出演!縦読みコミック・”WEBTOON”レーベル『ROCKETOON』初のTVCMが本日10月6日(木)より公開! |publisher =PR TIMES |date=2022-10-06 |accessdate=2022-10-24}}</ref>) === デジタルコミック === {{dl2 | 2021年 | * りんちゃんは据え膳したい('''柏木凛'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=PR TIMES|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000008131.000007006.html|title=CV:進藤あまね、野津山幸宏のボイスコミックも公開!  アラサー教師×天然匂わせJK 幼馴染同士のラブコメディ『りんちゃんは据え膳したい』コミックス第1巻 発売!|date=2021-02-10|accessdate=2021-07-16}}</ref>) * [[まったく最近の探偵ときたら]](蜂屋真子 ほか<ref>{{Cite web|和書|publisher=PR TIMES|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000008424.000007006.html|title=【アニメ化期待高まる】花澤香菜×諏訪部順一で遂にボイスコミック化!累計47万部超『まったく最近の探偵ときたら』|date=2021-04-23|accessdate=2021-07-17}}</ref>) * 神様にスカウトされて異世界にやって来ました。―家電魔法で快適ライフ―【コミック版】(ジョルテ<ref>{{Cite web|和書|publisher=PR TIMES|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000178.000022475.html|title=【Renta!】「アニコミ」新シリーズ『神様にスカウトされて異世界にやって来ました。―家電魔法で快適ライフ―』が配信開始!更に「HiBiKi StYle」とのYouTubeコラボ企画も同時スタート!|date=2021-04-23|accessdate=2021-07-15}}</ref>) * ブラッド・ドゥーム(部員D<ref>{{Cite web|和書|publisher=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/427296|title=小林裕介、井上麻里奈ら出演のボイスコミック公開「ブラッド・ドゥーム」1巻|date=2021-05-08|accessdate=2021-07-17}}</ref>) * 勇者サポートセンター魔王城支部(オペレーター ほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=c_saSZAO5Ak|title=【漫画】魔王様が勇者に一目惚れ!?『勇者サポートセンター魔王城支部』第1話(CV:鬼頭明里、花守ゆみり、大西沙織、八代拓 他)【ボイスコミック】【公式】|work=KADOKAWAオフィシャルチャンネル(YouTubeチャンネル)|date=2021-09-10|accessdate=2022-02-14}}</ref>) * ちゃんと吸えない吸血鬼ちゃん('''石川月菜'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/448320|title=ママになっちゃう…!庇護欲くすぐるポンコツ吸血美少女もの、ボイスコミックも|date=2021-10-08|accessdate=2022-02-14}}</ref>)<!-- 2021-10-08 --> * そのとき修羅場が動いた('''本城リョーコ'''<ref>{{Cite web|和書|publisher=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/452858|title=やべー女が男を取り合う闇深ハーレムラブコメ「そのとき修羅場が動いた」1巻|date=2021-11-09|accessdate=2022-02-12}}</ref>)<!-- 2021-11-09 --> }} === ナレーション === * 「[[カノジョに浮気されていた俺が、小悪魔な後輩に懐かれています]] 6巻」&「この恋は元カノの提供でお送りします。」PV(2022年<ref>{{Cite web|和書|publisher=YouTube|work=KADOKAWAanime|url=https://www.youtube.com/watch?v=99yX3a9ujN0|title=小悪魔な後輩が部屋に入り浸り……元カノが恋の指南役に!? CV.進藤あまね【スニーカー文庫】|date=2022-04-28|accessdate=2022-06-20}}</ref>) * 第1回[[コミック アース・スター]]ヨミキリ総選挙(2022年<ref>{{Cite video|url=https://www.youtube.com/watch?v=jEA24drj10E|title=第1回ヨミキリ総選挙CM(ナレーション:進藤あまね)|medium=YouTube|publisher= 【公式】[[アース・スター エンターテイメント]]|date=2022-10-06|accessdate=2022-10-13}}</ref>) * 文化放送超!A&G+『A&G ミュージックX』「Season2特集」(2023年<ref>{{Cite tweet|user=ag_music_x |number=1644671443282567168 |title=「Season2特集」もありがとうございました! |date=2023-04-08 |access-date=2023-12-02}}</ref>) * [[ラブライブ! スクールアイドルフェスティバル|5分でわかるスクフェス2!]](2023年<ref>{{Cite tweet|user=amane_bushi |number=1658458349187502081 |title=【お知らせ🌱】 |date=2023-05-16 |access-date=2023-12-02}}</ref><ref>{{Cite tweet|user=amane_bushi |number=1668643700413706240 |title=【お知らせ🌱】 |date=2023-06-14 |access-date=2023-12-02}}</ref>) * [[ひろがるスカイ!プリキュア]]おでかけ!ひろがるワールド(池袋)CM(2023年<ref>{{Cite tweet|user=amane_bushi |number=1688189156802064384 |title=【お知らせ🌱】 |date=2023-08-06 |access-date=2023-12-02}}</ref>) * CSMファイズドライバーNEXT 商品紹介PV(2023年) * CSMカイザフォンXX 商品紹介PV(2023年) * CSMミューズドライバー 商品紹介PV(2023年) === その他コンテンツ === * なでしこ童話「オズの魔法使い」フォトブック(2021年、カカシ<ref>{{Cite web |url=https://nadeshikodowa-oz.themedia.jp/pages/5372304/page_202109291600 |title=Cast&Staff |publisher =なでしこ童話vol.2〜オズの魔法使い〜 |accessdate=2022-06-02}}</ref>) * [[ブシロードメディア]]「[[ブシロードメディア#Voice Actor Card Collection|Voice Actor Card Collection]]」VOL.09 進藤あまね『アオハルあまねす』(2022年4月20日発売) * [[B.L.T.]] デジタル写真集「くすぐる。」(2022年10月7日、[[東京ニュース通信社]]<ref>{{Cite web|url=https://twitter.com/BLTTV/status/1578188364313919489|title=B.L.T.official Twitter|accessdate=2022-10-07|publisher=B.L.T.official Twitter}}</ref>) * [[温泉むすめ]](2023年、かみのやま庵<ref>{{Cite web|和書|website=温泉むすめ公式サイト|url=https://onsen-musume.jp/character/kaminoyama_an|title=かみのやま庵|accessdate=2023-03-01}}</ref>) * [[StarryMonogatari Project]](2023年、'''王熙玥'''<ref>{{Cite tweet|user=stamono_proj |number=1728700547270914196 |title=【キャラ紹介】 |date=2023-11-26 |access-date=2023-12-02}}</ref>) == ディスコグラフィ == {{Main2|Morfonicaでの活動|Morfonica}} === タイアップ曲 === {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- !楽曲 !タイアップ !時期 !備考 |- |6割増どうぶつ |ブシロードクリエイティブ「TAMA-KYU」『6割増どうぶつ』CMソング |2020年12月 |正式曲名不明 |- |6割増どうぶつII |ブシロードクリエイティブ「TAMA-KYU」『6割増どうぶつII』CMソング |2021年10月 |正式曲名不明 |- |Blessed Rain<!--キャラクター大倉メグミ名義でも正規ED担当のMorfonica名義でもなく「進藤あまね」名義でクレジットされているため記載--> |テレビアニメ『[[カードファイト!! ヴァンガード overDress]] Season2』第13話エンディングテーマ<ref>[https://twitter.com/cfvanguard_PR/status/1445047422762176512?t=RmX93Mvmlaer3szlpuz4Ng&s=19 カードファイト!! ヴァンガード公式のツイート(2021年10月5日0:25)]</ref> |2021年10月4日 |音源発売未定 |- |} === キャラクターソング === {{VOICE Notice Hidden| ◆ 「キャラクター(声優名)」で統一すること。 ◆ 当記事の声優のみ「キャラクター('''声優名''')」とすること。 ◆ ユニットの場合は{{Vau}}を用いる。使い方は[[Template:Vau]]を参照。}} {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 発売日 !! 商品名 !! style="width:30%;"|歌 !! 楽曲 !! 備考 |- ! colspan="5"|2019年 |- | 2月10日 || rowspan="2"| シャボン<ref group="注" name="DL">配信限定。</ref> | キャロ('''進藤あまね''') | rowspan="2"|「シャボン」 | rowspan="2"|テレビアニメ『[[バミューダトライアングル 〜カラフル・パストラーレ〜]]』エンディングテーマ |- | 3月31日 | {{Vau|カラフル・パストラーレ}} |- ! colspan="5"|2020年 |- | 6月24日 || Cosmic CoaSTAR | {{Vau|Lyrical Lily}} | 「汚れっちまった悲しみの色」 | 『[[D4DJ]]』関連曲 |- | rowspan="2"|7月3日 || Reバース GO! | {{Vau|鶏とナスの三ツ星シチュー}} | rowspan="2"|「Reバース GO!」 | テレビアニメ『[[りばあす]]』エンディングテーマ |- | Reバース GO! Go Go しちゅー's! | 美濃周子('''進藤あまね''') | テレビアニメ『りばあす』関連曲 |- | rowspan="2"|2月16日 || rowspan="2"|吾輩よ猫であれ | rowspan="2"|{{Vau|Lyrical Lily}} | 「吾輩よ猫であれ」 | トレーディングカードゲーム『[[カードファイト!! ヴァンガード#リリカルブースター|カードファイト!! ヴァンガード overDress リリカルモナステリオ]]』CMソング |- | 「銀河鉄道の夜に」 | 『D4DJ』関連曲 |- ! colspan="5"|2021年 |- | 1月20日 || D4DJ Groovy Mix カバートラックス vol.1 | {{Vau|Lyrical Lily}} | 「[[がっこうぐらし!#音楽|ふ・れ・ん・ど・し・た・い]]」<br />「[[タッチ (岩崎良美の曲)|タッチ]]」 | ゲーム『[[D4DJ Groovy Mix]]』関連曲 |- | 2月19日 || 笑顔でGo Go Go!!!<ref group="注" name="DL" /> | {{vau|Go Go しちゅー's!}} | 「笑顔でGo Go Go!!!」 | アニメ『りばあす』エンディングテーマ |- | 2月24日 || ぐるぐるDJ TURN!! | {{Vau|D4DJ ALL STARS|1}} | 「LOVE!HUG!GROOVY!!」 | ゲーム『D4DJ Groovy Mix』主題歌 |- | 7月21日 || D4DJ Groovy Mix カバートラックス vol.2 | rowspan="2"|{{vau|Lyrical Lily}} | 「[[創傷イノセンス]]」<br />「[[Shiny Smily Story]]」 | ゲーム『D4DJ Groovy Mix』関連曲 |- | 8月18日 || プティプランス | 「プティプランス」<br />「Magiの贈り物」 | 『D4DJ』関連曲 |- | 8月28日 || なんてカラフルな世界![D4DJ Remix]<ref group="注" name="DL" /> | {{vau|D4DJ ALL STARS|1}} | 「なんてカラフルな世界![D4DJ Remix]」 | ゲーム『D4DJ Groovy Mix』関連曲 |- | 9月8日 || Edel Lilie(Last Bullet MIX) グラン・エプレVer. | {{vau|グラン・エプレ}} | 「Multicolored flowers」 | ゲーム『[[アサルトリリィ Last Bullet]]』関連曲 |- | 10月8日 || ピコたるもの、ふぃーばー!<ref group="注" name="DL" /> | 戸山香澄([[愛美]])、美竹蘭([[佐倉綾音]])、丸山彩([[前島亜美]])、湊友希那([[相羽あいな]])、弦巻こころ([[伊藤美来]])、倉田ましろ('''進藤あまね''')、レイヤ([[Raychell]]) | 「ピコたるもの、ふぃーばー!」 | テレビアニメ『[[BanG Dream! ガルパ☆ピコ ふぃーばー!]]』エンディングテーマ |- | rowspan="3"|{{nobr|11月24日}} || 冒険王! | {{vau|Lyrical Lily}} | 「冒険王!」<br />「ねむり姫」 | rowspan="3"| ゲーム『D4DJ Groovy Mix』関連曲 |- | D4DJ 6ユニット3rd Single連動購入特典CD | {{vau|D4DJ ALL STARS|1}} | rowspan="2"|「ぷっちみくパーチナィ!」 |- | D4DJ 6ユニット3rd Single連動購入特典CD C ver. | {{vau|Lyrical Lily}} |- ! colspan="5"|2022年 |- | 1月26日 || D4DJ Groovy Mix カバートラックス vol.3 | {{vau|Lyrical Lily}} | 「[[赤いスイートピー]]」<br />「[[男の勲章]]」 | ゲーム『D4DJ Groovy Mix』関連曲 |- | 2月9日 || Neunt Praeludium(Last Bullet MIX) グラン・エプレVer. | {{vau|グラン・エプレ}} | 「蕾の中の奇跡」<br />「Treasure Every Day!」 | ゲーム『アサルトリリィ Last Bullet』関連曲 |- | 4月27日 || D4DJ Groovy Mix カバートラックス vol.4 | rowspan="4" | {{vau|Lyrical Lily}} | 「[[プリパラ (アニメ)#挿入歌|太陽のflare sherbet]]」<br />「[[サクラサク (林原めぐみの曲)|サクラサク]]」 | ゲーム『D4DJ Groovy Mix』関連曲 |- | rowspan="2" |6月29日 || Lyrical Anthology A ver. | 「月に萌える」<br />「ライム畑でつかまえて」<br />「Journey to the West」<br />「Happy Prince」<br />「夢十Yah!」<br />「人間合格!!!!」<br />「銀河鉄道の夜に(Lyrical Anthology Remix)」 | rowspan="2" |『D4DJ』関連曲 |- | Lyrical Anthology B ver. | 「ねむり姫(Lyrical Anthology Remix)」 |- | rowspan="2" |7月20日 || rowspan="2" |D4DJ Groovy Mix カバートラックス vol.5 | 「[[ギミー!レボリューション]]」<br />「[[1st Priority]]」 | rowspan="3" |ゲーム『D4DJ Groovy Mix』関連曲 |- | 大鳴門むに([[三村遙佳]])、花巻乙和([[岩田陽葵]])、福島ノア([[佐藤日向]])、矢野緋彩([[もものはるな]])、春日春奈('''進藤あまね''') | 「[[五等分の花嫁#主題歌|五等分の気持ち]]」 |- | 10月26日 || D4DJ Groovy Mix カバートラックス vol.6 | {{vau|Lyrical Lily}} | 「[[愛しいかけら|Agapё]]」<br />「[[ブレンド・S#主題歌|ぼなぺてぃーと♡S]]」 |- ! colspan="5"|2023年 |- | 1月25日 || D4DJ Groovy Mix カバートラックス vol.7 | rowspan="3"| {{vau|Lyrical Lily}} | 「アンダーカバー (TeddyLoid Remix)」<br />「[[ラブ・ストーリーは突然に]]」 | ゲーム『D4DJ Groovy Mix』関連曲 |- | rowspan="2"| 2月15日 || rowspan="2"| Maihime | 「Maihime」 | テレビアニメ『[[D4DJ All Mix]]』オープニングテーマ |- | 「春とショコラ」 | テレビアニメ『D4DJ All Mix』挿入歌 |- | 6月14日 || サーカスへようこそ | rowspan="3"|{{vau|Lyrical Lily}} | 「サーカスへようこそ」<br />「White Margaret」 | 『D4DJ』関連曲 |- | 7月12日 || D4DJ Groovy Mix カバートラックス vol.8 | 「[[犬と猫どっちも飼ってると毎日たのしい#主題歌|にゃんだーわんだーデイズ]]」<br />「[[撲殺天使ドクロちゃん#主題歌|撲殺天使ドクロちゃん]]」 | ゲーム『D4DJ Groovy Mix』関連曲 |- | 10月4日 || Hello World | 「Snow Black」<br />「IFの踊子」<br />「人間合格!!!!(Hello World Remix)」<br />「冒険王!(ビッグでバンなアラウンド! Remix)」 | 『D4DJ』関連曲 |- | rowspan="3"|12月20日 || rowspan="3"|D4DJ EXCLUSIVE TRACKS | {{vau|Photon Maiden|2}}×{{vau|Lyrical Lily}} | 「妙なる星と」 | テレビアニメ『D4DJ All Mix』挿入歌 |- | {{vau|D4DJ ALL STARS|2}} | 「LOVE!HUG!GROOVY!! +nova」 | rowspan="2"|ゲーム『D4DJ Groovy Mix』関連曲 |- | {{vau|Lyrical Lily}} | 「汚れっちまった悲しみの色(t+pazolite Remix)」 |- ! colspan="5"|2024年 |- | 1月10日 || 真夏の朝の夢 | {{Vau|Lyrical Lily}} | 「真夏の朝の夢」<br />「わんわんとチョコレイト工場」 | ゲーム『D4DJ Groovy Mix』関連曲 |} == 出版 == === 写真集 === * 進藤あまね1st写真集 翠〜Midori〜(2023年2月20日、[[主婦の友社]]、撮影:[[中山雅文]])ISBN 978-4074539024<ref>集英社『週刊プレイボーイ』2023年4月10日 No.15 「制服の彼女」175頁</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} {{Ras}} {{Vau}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{Official|1=https://hibiki-cast.jp/hibiki_f/shindou_amane/|name=進藤あまね|女性声優|声優事務所 響}} * {{Twitter|amane_bushi}} * {{Instagram|amane_shindo_official}} * {{日本タレント名鑑|W19-1367}} * [https://thetv.jp/person/2000035711/ 進藤あまねのプロフィール・画像・写真 - WEBザテレビジョン] * [https://seigura.com/directory/61353/ 進藤 あまね|声優名鑑 - 声優グランプリweb] * {{Kinejun name|371287}} * {{Movie Walker name|352797}} * {{映画.com name|335830}} * {{Allcinema name|996347}} {{Voice-stub}} {{響}} {{BanG Dream!}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しんとう あまね}} [[Category:日本の女性声優]] [[Category:響所属者]] [[Category:Morfonicaのメンバー]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:堀越高等学校出身の人物]] [[Category:2004年生]] [[Category:存命人物]]
2019-01-11T06:51:08Z
2023-12-12T07:32:00Z
false
false
false
[ "Template:Cite tweet", "Template:Kinejun name", "Template:映画.com name", "Template:Cite web", "Template:Citation", "Template:Efn", "Template:Main2", "Template:VOICE Notice Hidden", "Template:Vau", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Allcinema name", "Template:Voice-stub", "Template:Dl2", "Template:Ras", "Template:Cite video", "Template:Instagram", "Template:日本タレント名鑑", "Template:Normdaten", "Template:Nobr", "Template:R", "Template:Twitter status2", "Template:Cite news", "Template:声優", "Template:Official", "Template:Twitter", "Template:Movie Walker name", "Template:響", "Template:BanG Dream!" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E8%97%A4%E3%81%82%E3%81%BE%E3%81%AD
568,548
チームガイスト
チームガイスト(+TeamgeistTM)はアディダス製のサッカーボールで、2006 FIFAワールドカップの大会公式試合球である。この他にアディダスがエクイップメントを提供しているリーグやクラブでも使われている。正式には「プラス チームガイスト」という。 ガイスト(geist)とはドイツ語で精神を表し、英語ではspiritに対応する。即ち、teamgeistを英訳すると、Team spirit(チームスピリット)に相応し、これは日本語でも外来語として取り入れられているものに相応する。 本大会の組み合わせ抽選会が行われたライプツィヒで全世界に向けて初めて公開された。 実際にはチームガイストに日本から参画したモルテンから提供された技術が使われ、製品もモルテンからアディダスへOEM供給されている。 また、アディダスがユニフォームを提供しているドイツ、アルゼンチン、フランス、スペイン、日本、トリニダード・トバゴのドイツ大会用のユニフォームの左袖には、チームガイストのロゴがプリントされている。 2007年にはこれを改良した「チームガイストII」が発表され、このボールは北京オリンピックの公式試合球として使われる。 1960年代から近年まで、サッカーボールは表面のデザインを変えつつも五角形の革12枚と六角形の革20枚で構成された切頂二十面体のボールが主流だったが、1999年からプロジェクトが始まったこのボールは以前のボールの形状と全く構造が異なる。その特徴は以下の通りである。 このような特徴により、選手個人が持つ技術をそのままボールに伝え、正確なキックを可能にしている。その一方でゴールキーパーにとっては非常にやっかいなボールである(正確な分、軌跡を読みやすいとも言われ、不利はないとの意見もある)。 そのほかの特徴として といった点が上げられる。 「チームガイストII」にはこれらに加え、「PSCテクスチャー」というマイクロテクスチャー素材を採用して表皮の均一な突起によって水の層を削減し、摩擦やすべりを軽減させることによってボールとシューズの摩擦力・回転数・ボールとの密着性を増加させている。また、色は視認性向上のために白・黒に加え赤もベースにしている。 冒頭に述べたとおり、2006 FIFAワールドカップ本大会で採用されているのがこのボールである。出場国32か国には練習用に40球支給され、対戦国・開催場所・日付・キックオフ時間が入った試合球が各試合で9球確保されている。 ワールドカップの使用球にはプロペラ状の部分に金色のふち取りが入っている。また、ベルリンで行われる決勝戦の使用球はTeamgeist Berlinと呼ばれ、他の試合とは異なり全体的に金の色合いのボールが使われる。ドイツ大会の優勝チームは、その後4年間は全試合で使える。 2008年北京オリンピックのサッカー競技では「チームガイストII」が採用されており、特別モデル「マグヌス モエニア」というサブネームが付いたものを使う。これはラテン語で「万里の長城」を意味し、色も赤をベースとしており「中国」の文字が入る。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "チームガイスト(+TeamgeistTM)はアディダス製のサッカーボールで、2006 FIFAワールドカップの大会公式試合球である。この他にアディダスがエクイップメントを提供しているリーグやクラブでも使われている。正式には「プラス チームガイスト」という。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ガイスト(geist)とはドイツ語で精神を表し、英語ではspiritに対応する。即ち、teamgeistを英訳すると、Team spirit(チームスピリット)に相応し、これは日本語でも外来語として取り入れられているものに相応する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本大会の組み合わせ抽選会が行われたライプツィヒで全世界に向けて初めて公開された。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "実際にはチームガイストに日本から参画したモルテンから提供された技術が使われ、製品もモルテンからアディダスへOEM供給されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "また、アディダスがユニフォームを提供しているドイツ、アルゼンチン、フランス、スペイン、日本、トリニダード・トバゴのドイツ大会用のユニフォームの左袖には、チームガイストのロゴがプリントされている。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2007年にはこれを改良した「チームガイストII」が発表され、このボールは北京オリンピックの公式試合球として使われる。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1960年代から近年まで、サッカーボールは表面のデザインを変えつつも五角形の革12枚と六角形の革20枚で構成された切頂二十面体のボールが主流だったが、1999年からプロジェクトが始まったこのボールは以前のボールの形状と全く構造が異なる。その特徴は以下の通りである。", "title": "ボールの特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "このような特徴により、選手個人が持つ技術をそのままボールに伝え、正確なキックを可能にしている。その一方でゴールキーパーにとっては非常にやっかいなボールである(正確な分、軌跡を読みやすいとも言われ、不利はないとの意見もある)。", "title": "ボールの特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "そのほかの特徴として", "title": "ボールの特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "といった点が上げられる。", "title": "ボールの特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「チームガイストII」にはこれらに加え、「PSCテクスチャー」というマイクロテクスチャー素材を採用して表皮の均一な突起によって水の層を削減し、摩擦やすべりを軽減させることによってボールとシューズの摩擦力・回転数・ボールとの密着性を増加させている。また、色は視認性向上のために白・黒に加え赤もベースにしている。", "title": "ボールの特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "冒頭に述べたとおり、2006 FIFAワールドカップ本大会で採用されているのがこのボールである。出場国32か国には練習用に40球支給され、対戦国・開催場所・日付・キックオフ時間が入った試合球が各試合で9球確保されている。", "title": "ボールの特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ワールドカップの使用球にはプロペラ状の部分に金色のふち取りが入っている。また、ベルリンで行われる決勝戦の使用球はTeamgeist Berlinと呼ばれ、他の試合とは異なり全体的に金の色合いのボールが使われる。ドイツ大会の優勝チームは、その後4年間は全試合で使える。", "title": "ボールの特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2008年北京オリンピックのサッカー競技では「チームガイストII」が採用されており、特別モデル「マグヌス モエニア」というサブネームが付いたものを使う。これはラテン語で「万里の長城」を意味し、色も赤をベースとしており「中国」の文字が入る。", "title": "ボールの特徴" } ]
チームガイスト(+Teamgeist™)はアディダス製のサッカーボールで、2006 FIFAワールドカップの大会公式試合球である。この他にアディダスがエクイップメントを提供しているリーグやクラブでも使われている。正式には「プラス チームガイスト」という。 ガイスト(geist)とはドイツ語で精神を表し、英語ではspiritに対応する。即ち、teamgeistを英訳すると、Team spirit(チームスピリット)に相応し、これは日本語でも外来語として取り入れられているものに相応する。 本大会の組み合わせ抽選会が行われたライプツィヒで全世界に向けて初めて公開された。 実際にはチームガイストに日本から参画したモルテンから提供された技術が使われ、製品もモルテンからアディダスへOEM供給されている。 また、アディダスがユニフォームを提供しているドイツ、アルゼンチン、フランス、スペイン、日本、トリニダード・トバゴのドイツ大会用のユニフォームの左袖には、チームガイストのロゴがプリントされている。 2007年にはこれを改良した「チームガイストII」が発表され、このボールは北京オリンピックの公式試合球として使われる。
{{出典の明記|date=2012年8月16日 (木) 11:14 (UTC)}} [[画像:Teamgeist-STG-CRO-AUS.jpg|thumb|right|200px|Teamgeist]] '''チームガイスト'''('''{{lang|de|+Teamgeist™}}''')は[[アディダス]]製の[[サッカーボール]]で、[[2006 FIFAワールドカップ]]の大会公式試合球である。この他にアディダスがエクイップメントを提供しているリーグやクラブでも使われている。正式には「プラス チームガイスト」という。 ガイスト(geist)とは[[ドイツ語]]で[[精神]]を表し、[[英語]]ではspiritに対応する。即ち、teamgeistを英訳すると、'''Team spirit'''('''チームスピリット''')に相応し、これは日本語でも外来語として取り入れられているものに相応する。 本大会の組み合わせ抽選会が行われた[[ライプツィヒ]]で全世界に向けて初めて公開された。 実際にはチームガイストに日本から参画した[[モルテン]]から提供された技術が使われ、製品もモルテンからアディダスへ[[OEM]]供給されている。 また、アディダスが[[ユニフォーム]]を提供している[[ドイツ]]、[[アルゼンチン]]、[[フランス]]、[[スペイン]]、[[日本]]、[[トリニダード・トバゴ]]のドイツ大会用のユニフォームの左袖には、チームガイストの[[ロゴタイプ|ロゴ]]がプリントされている。 [[2007年]]にはこれを改良した「'''チームガイストII'''」が発表され、このボールは[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の公式試合球として使われる。 == ボールの特徴 == 1960年代から近年まで、サッカーボールは表面のデザインを変えつつも五角形の革12枚と六角形の革20枚で構成された[[切頂二十面体]]のボールが主流だったが、1999年からプロジェクトが始まったこのボールは以前のボールの形状と全く構造が異なる。その特徴は以下の通りである。 * ボールの外部パネルはプロペラ状のパネル6枚とローター状のパネル8枚の計14枚で構成されており、より真球に近い形状にするためのデザインが施されている。 * '''[[サーマルボンディング]]'''と呼ばれる、パネル同士を特殊な接着剤と熱によって接着する技術が採用されていて、手縫いのものに比べてボール表面の凹凸がない。この技術はモルテンが開発し、アディダスに技術供与したものである。 * 手縫いではなく機械での生産が可能であり、どのボールもほぼ同一の質を保てる。 このような特徴により、選手個人が持つ技術をそのままボールに伝え、正確なキックを可能にしている。その一方で[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]にとっては非常にやっかいなボールである(正確な分、軌跡を読みやすいとも言われ、不利はないとの意見もある)。 そのほかの特徴として * 特殊加工によりデザインの磨耗が少ない。 * 色の基調は[[黒]]と[[白]]で、これはサッカーボールで伝統的な配色であると同時にドイツ代表チームの伝統的な色である。 といった点が上げられる。 「チームガイストII」にはこれらに加え、「PSCテクスチャー」というマイクロ[[テクスチャー]]素材を採用して表皮の均一な突起によって水の層を削減し、摩擦やすべりを軽減させることによってボールとシューズの摩擦力・回転数・ボールとの密着性を増加させている。また、色は視認性向上のために白・黒に加え赤もベースにしている。 [[画像:Teamgeist Ball World Cup 2006 Finale.jpg|thumb|right|150px|Teamgeist Berlin]] === 2006 FIFAワールドカップでの使用 === 冒頭に述べたとおり、[[2006 FIFAワールドカップ]]本大会で採用されているのがこのボールである。出場国32か国には練習用に40球支給され、対戦国・開催場所・日付・キックオフ時間が入った試合球が各試合で9球確保されている。 ワールドカップの使用球にはプロペラ状の部分に金色のふち取りが入っている。また、ベルリンで行われる決勝戦の使用球は'''Teamgeist Berlin'''と呼ばれ、他の試合とは異なり全体的に金の色合いのボールが使われる。ドイツ大会の優勝チームは、その後4年間は全試合で使える。 [[画像:Teamgeist Magnus moenia.jpg|thumb|right|150px|Teamgei2t Magnus Moenia]] === 北京オリンピックでの使用 === [[2008年北京オリンピックのサッカー競技]]では「チームガイストII」が採用されており、特別モデル「マグヌス モエニア」というサブネームが付いたものを使う。これはラテン語で「[[万里の長城]]」を意味し、色も赤をベースとしており「中国」の文字が入る。 == ボールのテストに関わった選手・チーム == * [[ACミラン]](アディダスが契約しているチーム) * [[1.FCニュルンベルク]](アディダスが契約しているチーム) * [[デビッド・ベッカム]] * [[ジネディーヌ・ジダン]] * [[中村俊輔]] == 関連項目 == {{S-start}} {{succession box|title=[[FIFAワールドカップ]]<br>公式球|before=[[フィーバーノヴァ]]|after=[[ジャブラニ]]|years=[[2006 FIFAワールドカップ]]}} {{S-end}} {{2006 FIFAワールドカップ}}{{FIFAワールドカップ公式試合球}} {{DEFAULTSORT:ちいむかいすと}} [[Category:2006 FIFAワールドカップ]] [[Category:サッカーボール]] [[it:Campionato mondiale di calcio 2006#Il pallone]]
null
2023-04-14T06:45:24Z
false
false
false
[ "Template:Succession box", "Template:S-end", "Template:2006 FIFAワールドカップ", "Template:FIFAワールドカップ公式試合球", "Template:出典の明記", "Template:Lang", "Template:S-start" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%88
4,348,528
エレナ・コルナロ・ピスコピア
エレナ・ルクレツィア・コルナロ・ピスコピア(Elena Lucrezia Cornaro Piscopia イタリア語: [ˈɛːlena luˈkrɛttsja korˈnaːro piˈskɔːpja] 、1646年6月5日 – 1684年7月26日)は、ヴェネツィアの貴族系の哲学者である。世界で大学の学位を取得した最初の女性の一人であり、世界で最初に哲学博士号を取得した女性である。エレナ・ルクレツィア・コルネル(Elena Lucrezia Corner イタリア語: [korˈnɛr] )とも。 1646年6月5日に、ヴェネツィア共和国ヴェネツィアのパラッツォ・ロレダンで、父親のジャンバッティスタ・コルナロ=ピスコピアと父親の愛人であるザネッタ・ボニの間に生まれた。母親は農民であり、両親は彼女の誕生時に結婚していなかった。したがって、ヴェネツィアの法律は、たとえ貴族の親によって認められたとしても、貴族の非嫡出子に貴族の特権を禁じていたため、コルナロは法律上ではコルナロ家の一員ではなかった。ザネッタは非常に貧しい農民の家族の出身であった。ザネッタは飢餓から逃れるためにヴェネツィアに逃げた可能性があり、その後、共和国で最も強力な貴族の愛人になった。ジャンバティスタとザネッタは1654年に正式に結婚したが、二人の子供たちは貴族の特権を禁じられた。 父親のジャンバティスタは1664年に、ヴェネツィアの貴族の切望職である Procuratore di San Marco de supra(サンマルコ大聖堂の出納官)に選ばれ、ヴェネツィアのドージェ(首相)に次ぐ有力者となった。このため、非嫡出子であるにもかかわらず、コルナロはヴェネツィアの伝統行事である海との婚礼の祭典で有名になった。父親は何度か婚約者を用意しようとしたが、彼女は全ての男性を断った。彼女が11歳のときに純潔を誓ったという初期の伝記作家の見解は、フランチェスコ・ルドヴィコ・マスキエットによって異議を唱えられている。 1665年には、ベネディクト会のオブラートの宗教的習慣を身につけたが、尼僧にはならなかった。 コルナロは幼い頃から天才と見なされていた。家族ぐるみの司祭ジョヴァンニ・ファブリスの助言により、彼女は古典教育を始めた。著名な教育者の下でラテン語とギリシア語を学び、7歳までにこれらの言語の他に、フランス語とスペイン語が堪能になった。また、ヘブライ語とアラビア語で Oraculum Septilingue(7ヶ国語の託宣)の称号を獲得した。その後は、数学、哲学、神学などを勉強した。 チェンバロ、クラヴィコード、ハープ、バイオリンを堪能し、彼女の音楽能力は作曲した音楽によって証明された。10代後半から20代前半に、物理学、天文学、言語学に興味を持つようになった。パドヴァ大学で哲学の会長を務めていたコルナロの哲学の家庭教師カルロ・リナルディーニは、ラテン語で幾何学を中心に書かれた本を1668年に出版し、22歳のコルナロに献呈した。 1669年には、カルトジオ会の僧侶ランスペルギウスによる『キリストの談話』をスペイン語からイタリア語に翻訳した。翻訳は、彼女の親友であり告白者であるジョバンニ・パオロ・オリバに献呈された。この巻は、1669年から1672年まで共和国で5つの版で発行された。彼女の名声は広まり、多くの学会に招待され、1670年にはヴェネツィアの学会であるアカデミア・デイ・パシフィックの会長となった。 哲学の家庭教師であるカルロ・リナルディーニの推薦を受け、フェリーチェ・ロトンディはパドヴァ大学に神学のラウレア号をコルナロに与えるよう請願した。パドヴァの司教であるグレゴリオ・バルバリゴ枢機卿は、彼女が神学の学位を取得しようとしていることを知ったとき、彼女が女性であるという理由で拒否したが、哲学の学位を取得することを許可し、彼女は哲学のラウレア号を取得した。学位は1678年6月25日にパドヴァ大聖堂で、大学当局、すべての学部の教授、学生、ほとんどのヴェネツィア上院議員、そしてボローニャ大学、ペルージャ大学、ローマ大学、ナポリ大学からの多くの招待客の前で授与された。コルナロは古典ラテン語で1時間のスピーチを行い、アリストテレスの作品の『分析論後書』と『自然学』から選ばれた難しい句を説明した。彼女の説明は非常に注意深く聴かれ、リナルディーニ教授が彼女にラウレアの記章を授与するときに賞賛を受けた。コルナロは哲学の本、指には指輪、頭には月桂冠、肩にはアーミンのモゼッタを受け、Magistra et Doctrix Philosophiae(哲学の教師と医師)を宣言された。これによりコルナロは、世界で大学の学位を取得した最初の女性の一人となり、そして世界で哲学博士の学位を取得した最初の女性となった。式典をひと目見ようと、二万人以上の人々がパドヴァ大学に押し寄せた。 彼女は人生の最後の7年間を、研究と慈善活動に専念した。コルナロは1684年にパドヴァで結核で亡くなり、サンタ・ジュスティーナ教会に埋葬された。 コルナロの授与から数ヶ月後、パドヴァで医学の講師を務めるカルロ・パティンは、娘のカルラ=ガブリエラ・パティンに学位を取得させようとした。ジャンバッティスタ・コルナロ=ピスコピアの支援を受けていた大学は、女性の卒業を禁止するように制定法を変更した。次に女性の博士号を取得したのは1732年のラウラ・バッシとなった。 コルナロの追悼式は、ヴェネツィア、パドヴァ、シエナ、ローマで行われた。アッカデミア・デグリ・インフェコンディは2つの記念巻を出版し、パドヴァのアカデミア・デイ・リコヴラティも記念巻を出版した。パドヴァ大学には彼女の像が置かれ、1685年には彼女を記念するメダルが作られた。 1895年、イギリス・ベネディクト会衆会の女子修道院長マチルダ・ピンセントは、ローマでコルナロの墓を開け、遺骨を新しい棺に入れ、彼女を記念する粘土板を刻ませた。彼女の卒業式は、1906年にヴァサー大学のトンプソン・メモリアル図書館の西棟に設置されたコルナロ・ウィンドウ(窓)に描かれている。ルース・クロフォード・ミッチェルの提案により、コルナロはピッツバーグ大学のイタリアン・ナショナリティ・ルームにあるジョヴァンニ・ロマグノリの1949年の壁画に描かれている。2019年6月5日に、Googleは彼女の生誕373周年をGoogle Doodleで記念した。 コルナロの著作には、学術的な談話、翻訳、および献身的な論文がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エレナ・ルクレツィア・コルナロ・ピスコピア(Elena Lucrezia Cornaro Piscopia イタリア語: [ˈɛːlena luˈkrɛttsja korˈnaːro piˈskɔːpja] 、1646年6月5日 – 1684年7月26日)は、ヴェネツィアの貴族系の哲学者である。世界で大学の学位を取得した最初の女性の一人であり、世界で最初に哲学博士号を取得した女性である。エレナ・ルクレツィア・コルネル(Elena Lucrezia Corner イタリア語: [korˈnɛr] )とも。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1646年6月5日に、ヴェネツィア共和国ヴェネツィアのパラッツォ・ロレダンで、父親のジャンバッティスタ・コルナロ=ピスコピアと父親の愛人であるザネッタ・ボニの間に生まれた。母親は農民であり、両親は彼女の誕生時に結婚していなかった。したがって、ヴェネツィアの法律は、たとえ貴族の親によって認められたとしても、貴族の非嫡出子に貴族の特権を禁じていたため、コルナロは法律上ではコルナロ家の一員ではなかった。ザネッタは非常に貧しい農民の家族の出身であった。ザネッタは飢餓から逃れるためにヴェネツィアに逃げた可能性があり、その後、共和国で最も強力な貴族の愛人になった。ジャンバティスタとザネッタは1654年に正式に結婚したが、二人の子供たちは貴族の特権を禁じられた。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "父親のジャンバティスタは1664年に、ヴェネツィアの貴族の切望職である Procuratore di San Marco de supra(サンマルコ大聖堂の出納官)に選ばれ、ヴェネツィアのドージェ(首相)に次ぐ有力者となった。このため、非嫡出子であるにもかかわらず、コルナロはヴェネツィアの伝統行事である海との婚礼の祭典で有名になった。父親は何度か婚約者を用意しようとしたが、彼女は全ての男性を断った。彼女が11歳のときに純潔を誓ったという初期の伝記作家の見解は、フランチェスコ・ルドヴィコ・マスキエットによって異議を唱えられている。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1665年には、ベネディクト会のオブラートの宗教的習慣を身につけたが、尼僧にはならなかった。", "title": "生い立ち" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "コルナロは幼い頃から天才と見なされていた。家族ぐるみの司祭ジョヴァンニ・ファブリスの助言により、彼女は古典教育を始めた。著名な教育者の下でラテン語とギリシア語を学び、7歳までにこれらの言語の他に、フランス語とスペイン語が堪能になった。また、ヘブライ語とアラビア語で Oraculum Septilingue(7ヶ国語の託宣)の称号を獲得した。その後は、数学、哲学、神学などを勉強した。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "チェンバロ、クラヴィコード、ハープ、バイオリンを堪能し、彼女の音楽能力は作曲した音楽によって証明された。10代後半から20代前半に、物理学、天文学、言語学に興味を持つようになった。パドヴァ大学で哲学の会長を務めていたコルナロの哲学の家庭教師カルロ・リナルディーニは、ラテン語で幾何学を中心に書かれた本を1668年に出版し、22歳のコルナロに献呈した。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1669年には、カルトジオ会の僧侶ランスペルギウスによる『キリストの談話』をスペイン語からイタリア語に翻訳した。翻訳は、彼女の親友であり告白者であるジョバンニ・パオロ・オリバに献呈された。この巻は、1669年から1672年まで共和国で5つの版で発行された。彼女の名声は広まり、多くの学会に招待され、1670年にはヴェネツィアの学会であるアカデミア・デイ・パシフィックの会長となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "哲学の家庭教師であるカルロ・リナルディーニの推薦を受け、フェリーチェ・ロトンディはパドヴァ大学に神学のラウレア号をコルナロに与えるよう請願した。パドヴァの司教であるグレゴリオ・バルバリゴ枢機卿は、彼女が神学の学位を取得しようとしていることを知ったとき、彼女が女性であるという理由で拒否したが、哲学の学位を取得することを許可し、彼女は哲学のラウレア号を取得した。学位は1678年6月25日にパドヴァ大聖堂で、大学当局、すべての学部の教授、学生、ほとんどのヴェネツィア上院議員、そしてボローニャ大学、ペルージャ大学、ローマ大学、ナポリ大学からの多くの招待客の前で授与された。コルナロは古典ラテン語で1時間のスピーチを行い、アリストテレスの作品の『分析論後書』と『自然学』から選ばれた難しい句を説明した。彼女の説明は非常に注意深く聴かれ、リナルディーニ教授が彼女にラウレアの記章を授与するときに賞賛を受けた。コルナロは哲学の本、指には指輪、頭には月桂冠、肩にはアーミンのモゼッタを受け、Magistra et Doctrix Philosophiae(哲学の教師と医師)を宣言された。これによりコルナロは、世界で大学の学位を取得した最初の女性の一人となり、そして世界で哲学博士の学位を取得した最初の女性となった。式典をひと目見ようと、二万人以上の人々がパドヴァ大学に押し寄せた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "彼女は人生の最後の7年間を、研究と慈善活動に専念した。コルナロは1684年にパドヴァで結核で亡くなり、サンタ・ジュスティーナ教会に埋葬された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "コルナロの授与から数ヶ月後、パドヴァで医学の講師を務めるカルロ・パティンは、娘のカルラ=ガブリエラ・パティンに学位を取得させようとした。ジャンバッティスタ・コルナロ=ピスコピアの支援を受けていた大学は、女性の卒業を禁止するように制定法を変更した。次に女性の博士号を取得したのは1732年のラウラ・バッシとなった。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "コルナロの追悼式は、ヴェネツィア、パドヴァ、シエナ、ローマで行われた。アッカデミア・デグリ・インフェコンディは2つの記念巻を出版し、パドヴァのアカデミア・デイ・リコヴラティも記念巻を出版した。パドヴァ大学には彼女の像が置かれ、1685年には彼女を記念するメダルが作られた。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1895年、イギリス・ベネディクト会衆会の女子修道院長マチルダ・ピンセントは、ローマでコルナロの墓を開け、遺骨を新しい棺に入れ、彼女を記念する粘土板を刻ませた。彼女の卒業式は、1906年にヴァサー大学のトンプソン・メモリアル図書館の西棟に設置されたコルナロ・ウィンドウ(窓)に描かれている。ルース・クロフォード・ミッチェルの提案により、コルナロはピッツバーグ大学のイタリアン・ナショナリティ・ルームにあるジョヴァンニ・ロマグノリの1949年の壁画に描かれている。2019年6月5日に、Googleは彼女の生誕373周年をGoogle Doodleで記念した。", "title": "死後" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "コルナロの著作には、学術的な談話、翻訳、および献身的な論文がある。", "title": "文献" } ]
エレナ・ルクレツィア・コルナロ・ピスコピアは、ヴェネツィアの貴族系の哲学者である。世界で大学の学位を取得した最初の女性の一人であり、世界で最初に哲学博士号を取得した女性である。エレナ・ルクレツィア・コルネルとも。
{{Infobox 哲学者|name=エレナ・コルナロ・ピスコピア<br>Elena Cornaro Piscopia |image=Elena Piscopia portrait.jpg |image_size=250px |caption=エレナ・コルナロ・ピスコピア肖像 |birth_date={{birth date|df=y|1646|6|5}} |birth_place=[[ヴェネツィア共和国]][[ヴェネツィア]] |death_date={{death date and age|df=y|1684|7|26|1646|6|5}} |death_place=ヴェネツィア共和国[[パドヴァ]] |死因 = [[結核]] |時代 = [[啓蒙時代]] |出身校 = [[パドヴァ大学]] }} '''エレナ・ルクレツィア・コルナロ・ピスコピア'''(Elena Lucrezia Cornaro Piscopia {{IPA-it|ˈɛːlena luˈkrɛttsja korˈnaːro piˈskɔːpja|lang}} 、[[1646年]][[6月5日]] – [[1684年]][[7月26日]])は、[[ベネチア|ヴェネツィア]]の[[貴族|貴族系]]の[[哲学者]]である。世界で大学の学位を取得した最初の女性の一人であり、世界で最初に[[哲学博士号]]を取得した女性である。'''エレナ・ルクレツィア・コルネル'''(Elena Lucrezia Corner {{IPA-it|korˈnɛr|lang}} )とも。 == 生い立ち == 1646年6月5日に、[[ヴェネツィア共和国]][[ヴェネツィア]]の[[パラッツォ]]・ロレダンで、父親のジャンバッティスタ・コルナロ=ピスコピアと父親の愛人であるザネッタ・ボニの間に生まれた。母親は農民であり、両親は彼女の誕生時に結婚していなかった<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=The Lady Cornaro: Pride and Prodigy of Venice|year=1999|publisher=College Avenue Press|isbn=978-1883551445|author=Guernsey, Jane Howard}}</ref><ref>{{Cite web|title=Elena Cornaro|url=https://www.britannica.com/biography/Elena-Cornaro|website=Encyclopedia Britannica|accessdate=2021-04-07|language=en|publisher=Encyclopædia Britannica Inc.|author=Gregersen, Erik}}</ref>。したがって、ヴェネツィアの法律は、たとえ貴族の親によって認められたとしても、貴族の非嫡出子に貴族の特権を禁じていたため、コルナロは法律上ではコルナロ家の一員ではなかった。ザネッタは非常に貧しい農民の家族の出身であった。ザネッタは飢餓から逃れるためにヴェネツィアに逃げた可能性があり、その後、共和国で最も強力な貴族の愛人になった。ジャンバティスタとザネッタは1654年に正式に結婚したが、二人の子供たちは貴族の特権を禁じられた。 父親のジャンバティスタは1664年に、ヴェネツィアの貴族の切望職である ''Procuratore di San Marco de supra''([[サン・マルコ寺院|サンマルコ大聖堂]]の出納官)に選ばれ、ヴェネツィアの[[ドージェ]](首相)に次ぐ有力者となった<ref>{{Cite book|和書|title=The Lady Cornaro: Pride and Prodigy of Venice|year=1999|publisher=College Avenue Press|isbn=978-1883551445|chapter=1}}</ref>。このため、非嫡出子であるにもかかわらず、コルナロはヴェネツィアの伝統行事である海との婚礼の祭典で有名になった。父親は何度か婚約者を用意しようとしたが、彼女は全ての男性を断った。彼女が11歳のときに[[純潔]]を誓ったという初期の伝記作家の見解は、フランチェスコ・ルドヴィコ・マスキエットによって異議を唱えられている<ref>{{Cite book|和書|title=Francesco Ludovico Maschietto. Elena Lucrezia Cornaro Piscopia (1646–1684): The First Woman in the World to Earn a University Degree|year=|publisher=Renaissance Quarterly|pages=878~879|volume=61|issue=3|doi=10.1353/ren.0.0207. S2CID 191474641|date=2018-11-20|author=Findlen, Paula}}</ref>。 1665年には、[[ベネディクト会]]のオブラートの宗教的習慣を身につけたが、[[尼|尼僧]]にはならなかった<ref name=":0" />。 == 教育 == コルナロは幼い頃から天才と見なされていた。家族ぐるみの司祭ジョヴァンニ・ファブリスの助言により、彼女は古典教育を始めた。著名な教育者の下で[[ラテン語]]と[[ギリシャ語|ギリシア語]]を学び、7歳までにこれらの言語の他に、[[フランス語]]と[[スペイン語]]が堪能になった<ref name=":0" />。また、[[ヘブライ語]]と[[アラビア語]]で ''Oraculum Septilingue''(7ヶ国語の託宣)の称号を獲得した。その後は、[[数学]]、[[哲学]]、[[神学]]などを勉強した。 [[チェンバロ]]、[[クラヴィコード]]、[[ハープ]]、[[バイオリン]]を堪能し、彼女の音楽能力は作曲した音楽によって証明された。10代後半から20代前半に、[[物理学]]、[[天文学]]、[[言語学]]に興味を持つようになった。[[パドヴァ大学]]で哲学の会長を務めていたコルナロの哲学の家庭教師カルロ・リナルディーニは、ラテン語で幾何学を中心に書かれた本を1668年に出版し、22歳のコルナロに[[献辞|献呈]]した<ref name=":0" />。 == 経歴 == 1669年には、[[カルトジオ会]]の僧侶ランスペルギウスによる『キリストの談話』をスペイン語からイタリア語に翻訳した。翻訳は、彼女の親友であり告白者であるジョバンニ・パオロ・オリバに献呈された。この巻は、1669年から1672年まで共和国で5つの版で発行された。彼女の名声は広まり、多くの学会に招待され、1670年にはヴェネツィアの学会であるアカデミア・デイ・パシフィックの会長となった<ref>{{Cite book|和書|title=Delle accademie veneziane dissertazione storica di Michele Battagia|year=1826|publisher=Giuseppe Picotti's typography|pages=50|author=Battagia, Michele|language=伊語}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=The Lady Cornaro: Pride and Prodigy of Venice|year=1999|publisher=College Avenue Press|pages=101|author=Guernsey, Jane Howard|isbn=978-1883551445|chapter=8}}</ref>。 [[ファイル:Cornaro_Window.jpg|サムネイル|コルナロの授与を描いたトンプソン・メモリアル図書館の窓。]] 哲学の家庭教師であるカルロ・リナルディーニの推薦を受け、フェリーチェ・ロトンディは[[パドヴァ大学]]に神学のラウレア号をコルナロに与えるよう請願した。[[パドヴァ]]の司教であるグレゴリオ・バルバリゴ[[枢機卿]]は、彼女が神学の学位を取得しようとしていることを知ったとき、彼女が女性であるという理由で拒否したが、哲学の学位を取得することを許可し、彼女は哲学のラウレア号を取得した''<ref>{{Cite web|title=Elena Lucrezia Cornaro Piscopia|url=https://www.unipd.it/elena-lucrezia-cornaro-piscopia|website=Università degli studi di Padova|date=2015-09-10|accessdate=2021-04-06|language=伊語|first=|last=}}</ref>''。学位は1678年6月25日に[[パードヴァのドゥオーモ|パドヴァ大聖堂]]で、大学当局、すべての学部の教授、学生、ほとんどのヴェネツィア上院議員、そして[[ボローニャ大学]]、[[ペルージャ大学]]、[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学|ローマ大学]]、[[ナポリ大学]]からの多くの招待客の前で授与された。コルナロは[[古典ラテン語]]で1時間のスピーチを行い、[[アリストテレス]]の作品の『[[分析論後書]]』''と『''[[自然学 (アリストテレス)|自然学]]''』''から選ばれた難しい句を説明した<ref>{{Cite book|和書|title=Review of Elena Lucrezia Cornaro Piscopia (1646–1684): The First Woman in the World to Earn a University Degree|year=2009|publisher=The Catholic Historical Review|pages=355~357|author=King, Margaret L.|volume=95|issue=2|issn=0008-8080|JSTOR=27745551}}</ref>。彼女の''説明''は非常に注意深く聴かれ、リナルディーニ教授が彼女にラウレアの記章を授与するときに賞賛を受けた。コルナロは哲学の本、指には指輪、頭には[[月桂冠]]、肩にはアーミンのモゼッタを受け、{{Lang|la|Magistra et Doctrix Philosophiae}}(哲学の教師と医師)を宣言された<ref>{{Cite book|和書|title=Elena Lucrezia Cornaro Piscopia (1646–1684): The First Woman in the World to Earn a University Degree|year=2007|publisher=Saint Joseph's University Press|pages=73~74、188|author=Francesco Ludovico Maschietto|isbn=}}</ref>。これによりコルナロは、世界で大学の学位を取得した最初の女性の一人となり、そして世界で[[哲学博士]]の学位を取得した最初の女性となった<ref>{{Cite book|和書|title=Schools, Seminaries, and Catechetical Instruction, in Catholicism in Early Modern History 1500–1700: A Guide to Research|year=1988|publisher=Center for Information Research|pages=328|author=Paul F. Grendler}}</ref>。式典をひと目見ようと、二万人以上の人々がパドヴァ大学に押し寄せた<ref>{{Cite |和書 | author = マルヨ・T・ヌルミネン | translator = 日暮雅通 | title = 才女の歴史 古代から啓蒙時代までの諸学のミューズたち | date = 2016 | publisher = 東洋書林 | pages = 368 | isbn = 9784887218239 | ref={{SfnRef|ヌルミネン|2016}} }}</ref>。 彼女は人生の最後の7年間を、研究と慈善活動に専念した。コルナロは1684年に[[パドヴァ]]で[[結核]]で亡くなり、サンタ・ジュスティーナ教会に埋葬された。 == 死後 == コルナロの授与から数ヶ月後、パドヴァで医学の講師を務めるカルロ・パティンは、娘のカルラ=ガブリエラ・パティンに学位を取得させようとした<ref>{{Cite book|和書|title=Elena Lucrezia Cornaro Piscopia (1646–1684): The First Woman in the World to Earn a University Degree|year=2007|publisher=Saint Joseph's University Press|pages=79|author=Francesco Ludovico Maschietto}}</ref>。ジャンバッティスタ・コルナロ=ピスコピアの支援を受けていた大学は、女性の卒業を禁止するように制定法を変更した。次に女性の博士号を取得したのは1732年の[[ラウラ・バッシ]]となった<ref>{{Cite book|和書|title="Admissions". In Ridder-Symoens, Hilde de; Rüegg, Walter (eds.). Universities in Early Modern Europe (1500–1800). A History of the University in Europe|year=2003|publisher=Cambridge University Press|pages=296~297|author=de Simone, Maria Rosa|volume=2|isbn=9780521541145}}</ref>。 コルナロの追悼式は、ヴェネツィア、パドヴァ、[[シエーナ|シエナ]]、[[ローマ]]で行われた。アッカデミア・デグリ・インフェコンディは2つの記念巻を出版し<ref>{{Cite book|和書|title=Le pompe funebri celebrate da' signori Accademici infecondi di Roma per la morte dell'illustrissima signora Elena Lucrezia Cornara Piscopia accademica detta l'inalterabile: dedicate all sereniss. republica di Venezia|year=1686|publisher=il Cadorino|author=Cassioni, Giovanni Francesco; Cardano, Tommaso; Cadorin, Matteo|language=伊語}}</ref>、パドヴァのアカデミア・デイ・リコヴラティも記念巻を出版した<ref>{{Cite book|和書|title=Compositioni degli Academici Ricourati per la morte della nob. d. signora Elena Lucretia Cornaro Piscopia dedicate all'eccellenza del signor Gio. Battista suo padre procurator di s. Marco, dal co. Alessandro abb. De lazara principe dell'Academia|year=1684|publisher=Pietro Maria Frambotto|author=Accademia dei Ricovrati|language=伊語}}</ref>。パドヴァ大学には彼女の像が置かれ、1685年には彼女を記念するメダルが作られた。 1895年、イギリス・ベネディクト会衆会の[[女子修道院長]]マチルダ・ピンセントは、ローマでコルナロの墓を開け、遺骨を新しい棺に入れ、彼女を記念する粘土板を刻ませた。彼女の卒業式は、1906年に[[ヴァッサー大学|ヴァサー大学]]のトンプソン・メモリアル図書館の西棟に設置されたコルナロ・ウィンドウ(窓)に描かれている<ref>{{Cite book|和書|title=The Lady of the Window|date=1976-01-01|publisher=Vassar Quarterly|pages=24~28|author=Forbush, Gabrielle E.|volume=72|chapter=2}}</ref>。ルース・クロフォード・ミッチェルの提案により、コルナロは[[ピッツバーグ大学]]のイタリアン・ナショナリティ・ルームにあるジョヴァンニ・ロマグノリの1949年の壁画に描かれている<ref>{{Cite book|和書|title=The Lady of the Window|date=1976-01-01|publisher=Vassar Quarterly|pages=24~28|author=Forbush, Gabrielle E.|chapter=2|volume=72}}</ref>。2019年6月5日に、[[Google]]は彼女の生誕373周年を[[Google Doodle]]で記念した<ref>{{Cite journal|author=Ritschel, Chelsea|date=2019-06-04|title=Five things you should know about the first woman to receive a PhD|journal=The Independent}}</ref>。 == 文献 == === 著作 === コルナロの著作には、学術的な談話、翻訳、および献身的な論文がある。 * {{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=hfFmAAAAcAAJ&pg=PP13|title=Helenae Lucretiae Corneliae Piscopiae opera quae quidem haberi potuerunt|location=Parma|publisher=Rosati|date=1688|language=伊語、羅語|editor-first=Benedetto|editor-last=Bacchini|和書}} * {{Cite book|title=Lettera overo colloquio di Christo N. R. all'anima devota composta dal R. P. D. Giovanni Laspergio in lingua spagnola e portata nell'italiana|location=ヴェネツィア|publisher=Giuliani|date=1669|和書|language=伊語}} ([https://books.google.ie/books?id=hfFmAAAAcAAJ&pg=PA179 Bacchini(1688)179–183頁]にて再版) ; 未出版 * 『[[悲しみの聖母]]』に関する1672年の談話<ref name="jstor27745551">Maschietto 2007, cited in {{Cite journal|last=King|first=Margaret L.|date=2009|title=Review of ''Elena Lucrezia Cornaro Piscopia (1646–1684): The First Woman in the World to Earn a University Degree''|journal=The Catholic Historical Review|volume=95|issue=2|pages=355–357|ISSN=0008-8080|JSTOR=27745551}}</ref> === 伝記 === * {{Cite book|last=Deza|first=Massimiliano|title=Vita di Helena Lucretia Cornara Piscopia descritta da Massimiliano Deza della Congregazione della Santissima Madre di Dio, e dedicata alla maestà dell'aug.ma imperatrice Eleonora principessa di Monferrato, &c|date=1686|publisher=Antonio Bosio|location=ヴェネツィア|url=https://archive.org/details/bub_gb_C4UWVV_k0eEC/page/n4|accessdate=|language=伊語|和書}} * Benedetto Bacchini『Actorem Helenæ』1688年(羅語; [https://books.google.ie/books?id=hfFmAAAAcAAJ&pg=PA1 Bacchinied (1688)1–48頁] )。 * {{Cite book|last=Lupis|first=Antonio|last2=Vendramina|first2=Caterina|title=L'eroina Venetia, ouero, La vita di Elena Lucretia Cornara Piscopia|date=1689|publisher=Curti|location=ヴェネツィア|oclc=991386840|language=伊語|和書}} * {{Cite book|last=Pynsent|first=Mathilde|title=The Life of Helen Lucretia Cornaro Piscopia, Oblate of the Order of St. Benedict and Doctor in the University of Padua|date=1896|publisher=St. Benedict's|language=英語|和書}} * {{Cite book|last=Fusco|first=Nicola|title=Elena Lucrezia Cornaro Piscopia, 1646–1684|url=https://archive.org/details/elenalucreziacor0000fusc|date=1975|publisher=United States Committee for the Elena Lucrezia Cornaro Piscopia Tercentenary|language=英語|和書}} * {{Cite book|last=Maschietto|first=Francesco Ludovico|title=Elena Lucrezia Cornaro Piscopia, 1646–1684: prima donna laureata nel mondo|date=1978|publisher=Antenore|location=Padua|language=伊語|series=Contributi alla storia dell'Università di Padova|volume=10|和書}} ** {{Cite book|last=Maschietto|first=Francesco Ludovico|translator=Vairo|editor-first=Catherine|editor-last=Marshal|title=Elena Lucrezia Cornaro Piscopia (1646–1684): The First Woman in the World to Earn a University Degree|date=2007|publisher=Saint Joseph's University Press|isbn=978-0916101572|url=https://books.google.com/books?id=lyFlAAAAMAAJ|accessdate=|language=英語|和書}}<bdi><cite class="citation book cs1" data-ve-ignore="true" id="CITEREFMaschietto2007">[[スペシャル:BookSources / 978-0916101572|978-0916101572]]</cite></bdi> * {{Cite book|last=Tonzig|first=Maria Ildegarde|title=Elena Lucrezia Cornaro Piscopia: prima donna laureata nel mondo. Terzo centenario del dottorato (1678–1978)|date=1980|publisher=V. Gualandi|language=伊語|和書}} * {{Cite book|last=Guernsey|first=Jane Howard|title=The Lady Cornaro: Pride and Prodigy of Venice|date=1999|publisher=College Avenue Press|isbn=978-1883551445|language=英語|url=https://archive.org/details/ladycornaropride00guer|和書}}<bdi><cite class="citation book cs1" data-ve-ignore="true" id="CITEREFGuernsey1999">[[スペシャル:BookSources / 978-1883551445|978-1883551445]]</cite></bdi> * {{Cite book|last=Carrano|first=Patrizia|title=Illuminata. La storia di Elena Lucrezia Cornaro, prima donna laureata nel mondo|date=2001|publisher=Mondadori|isbn=978-8804490906|language=伊語|和書}}<bdi><cite class="citation book cs1" data-ve-ignore="true" id="CITEREFCarrano2001">[[スペシャル:BookSources / 978-8804490906|978-8804490906]]</cite></bdi> * {{Cite book|last=Pighetti|first=Clelia|title=Il vuoto e la quiete: scienza e mistica nel '600 : Elena Cornaro e Carlo Rinaldini|date=2005|publisher=FrancoAngeli|isbn=978-8846463333|url=https://books.google.com/books?id=2sqe40XeZ94C|accessdate=|language=伊語|和書}}<bdi><cite class="citation book cs1" data-ve-ignore="true" id="CITEREFPighetti2005">[[スペシャル:BookSources / 978-8846463333|978-8846463333]]</cite></bdi> == 出典 == {{Reflist}} * {{cite web|title=Corner, Elena Lucrezia|first=Renzo|last=Derosas|year=1983|url=http://www.treccani.it/enciclopedia/elena-lucrezia-corner_(Dizionario_Biografico)/|publisher=Treccani|work=Dizionario Biografico degli Italiani|language=伊語|access-date=22 January 2016}} * {{cite book|和書|last=Guernsey|first=Jane Howard|title=The Lady Cornaro: Pride and Prodigy of Venice|url=https://archive.org/details/ladycornaropride00guer|url-access=|year=1999|publisher=College Avenue Press}} * [https://web.archive.org/web/20080704054850/http://library.vassar.edu/about/cornaro.html Vassar College Library Website] == 外部リンク == * {{Commons category-inline|Elena Lucrezia Cornaro Piscopia|エレナ・コルナロ・ピスコピア}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:こるなろ ひすこひあえれな}} [[Category:17世紀の女性科学者]] [[Category:17世紀イタリアの女性]] [[Category:イタリアの女性哲学者]] [[Category:17世紀の女性哲学者]] [[Category:イタリアの哲学者]] [[Category:キリスト教徒のヘブライ学者]] [[Category:女性数学者]] [[Category:ヴェネツィア共和国の人物]] [[Category:結核で死亡した人物]] [[Category:ヴェネツィア出身の人物]] [[Category:1684年没]] [[Category:1646年生]]
null
2023-05-31T03:00:08Z
false
false
false
[ "Template:Lang", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite", "Template:Commons category-inline", "Template:Authority control", "Template:IPA-it", "Template:Cite book", "Template:Cite journal", "Template:Infobox 哲学者" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%94%E3%82%A2
3,591,781
一条栄子
一条 栄子(いちじょう えいこ、1903年2月28日 - 1977年6月30日)は日本の探偵作家。デビュー当初はバロネス・オルツィをもじった小流智尼(おるちに)の筆名を用いていた。本名は丹羽栄子(旧姓は北本)。日本の女性探偵作家の草分けの一人であるが、約3年半の間に短編10編を発表しただけで、家庭の事情で筆を折った。 1903年2月28日、京都府久世郡宇治町(現・宇治市)に、北本雄(たけし)・キク夫妻の次女として生まれる。父の北本雄は幕末に薩摩藩に肩入れした資産家で、寺田屋事件の後始末を行ったといい、明治になってから久世郡長をつとめている。 京都高等女学校(現・京都女子中学校・高等学校)を首席で卒業。 1925年に設立された探偵作家およびファンの親睦団体である「探偵趣味の会」に参加し、同会の推薦雑誌である『映画と探偵』の1925年12月創刊号に、「小流智尼」名義で短編「丘の家」を発表し、作家デビューを果たす。 1926年、『サンデー毎日』の大衆文芸募集に応募した「そばかす三次」が当選、同誌8月1日号に掲載。その後、同誌1927年1月2日号に掲載された同作の続編「戻れ、弁三」から、筆名を一条栄子に改める。ペンネーム変更の理由は明らかでないが、ミステリ評論家の新保博久は、商業誌デビューに際して「あまりに奇矯なペンネームを廃したかったのだろう」「姓は、京都の一条通りから採られたに違いない」、また歴史学者の細川涼一は「メジャー・デビューしたことによる新たな決意であろう」と、それぞれ推測している。 同人誌『猟奇』1929年5月号・6月号に発表した「ベチィ・アムボス」を最後に筆を折る。『猟奇』1931年4月号から同誌の同人名簿に名を連ねているが、作品を発表することはなかった。 1931年、丹羽賢と結婚。丹羽賢は衆議院議員・京都商品陳列所会頭などを歴任した実業家・丹羽圭介の次男で、東京美術学校日本画科を卒業、のちに大阪市立工芸学校第4代校長となっている。結婚後は、婚家の方針で小説の執筆を許してもらえなかったという。 1933年から1936年まで京都商工会議所婦人部部長をつとめる。 1977年6月30日、膵臓癌のため京都第一赤十字病院で死去。 新保博久が江戸川乱歩旧蔵書調査の過程で、1954年に一条栄子が乱歩宛に出した年賀状を発見し、それをもとに遺族の存在をつきとめた。これをきっかけとして、1999年1月に鮎川哲也・新保博久・山前譲・戸川安宣による遺族へのインタビューが行われ、経歴が明らかとなった。『創元推理』第19号(1999年11月)で特集が組まれている。 著作集は2017年現在刊行されておらず、一部の作品がアンソロジーに再録されるのみにとどまっている。 一条栄子は日本初の女性探偵作家とされる。ただし、一条が執筆活動を始める前の1923年から1926年にかけて、松本恵子が「中野圭介」という男性名のペンネームで、夫の松本泰が主催していた『秘密探偵雑誌』『探偵文藝』に創作探偵小説を発表している。したがって、一条は正確には、日本で初めて女性名で作品を発表した女性探偵作家ということになる。 また、一条より8カ月早く、久山秀子が「浮れてゐる「隼」」(『新青年』1925年4月号)を発表し、日本で初めての女性名を名乗った探偵作家としてデビューしている。ただし「久山秀子」は、実際は男性作家のペンネームだった。 なお、日本で最初に単行本を出版した女性探偵作家は、1935年に『踊る影絵』(柳香書院)を出版した大倉燁子である。 実質的な作家活動は1925年12月から1929年6月までの約3年半であり、この間に短編10編が発表されている。新保博久は、「アマチュア作家としては少ない数ではない」とし、「ほんど一編ごとに作風を変えている」と評した上で、「作家としては特色がな」く、そのためにいち早く忘れられてしまったのではないか、と推測している。 『サンデー毎日』に掲載された「そばかす三次」と「戻れ、弁三」は、スリ師のそばかす三次を主人公とするシリーズ作品で、ジョンストン・マッカレーの『地下鉄サム』に影響を受けている。 新保博久と細川涼一は、ともにファンタジー風の「フラー氏の昇天」を最も完成度が高い作品と評している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "一条 栄子(いちじょう えいこ、1903年2月28日 - 1977年6月30日)は日本の探偵作家。デビュー当初はバロネス・オルツィをもじった小流智尼(おるちに)の筆名を用いていた。本名は丹羽栄子(旧姓は北本)。日本の女性探偵作家の草分けの一人であるが、約3年半の間に短編10編を発表しただけで、家庭の事情で筆を折った。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1903年2月28日、京都府久世郡宇治町(現・宇治市)に、北本雄(たけし)・キク夫妻の次女として生まれる。父の北本雄は幕末に薩摩藩に肩入れした資産家で、寺田屋事件の後始末を行ったといい、明治になってから久世郡長をつとめている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "京都高等女学校(現・京都女子中学校・高等学校)を首席で卒業。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1925年に設立された探偵作家およびファンの親睦団体である「探偵趣味の会」に参加し、同会の推薦雑誌である『映画と探偵』の1925年12月創刊号に、「小流智尼」名義で短編「丘の家」を発表し、作家デビューを果たす。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1926年、『サンデー毎日』の大衆文芸募集に応募した「そばかす三次」が当選、同誌8月1日号に掲載。その後、同誌1927年1月2日号に掲載された同作の続編「戻れ、弁三」から、筆名を一条栄子に改める。ペンネーム変更の理由は明らかでないが、ミステリ評論家の新保博久は、商業誌デビューに際して「あまりに奇矯なペンネームを廃したかったのだろう」「姓は、京都の一条通りから採られたに違いない」、また歴史学者の細川涼一は「メジャー・デビューしたことによる新たな決意であろう」と、それぞれ推測している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "同人誌『猟奇』1929年5月号・6月号に発表した「ベチィ・アムボス」を最後に筆を折る。『猟奇』1931年4月号から同誌の同人名簿に名を連ねているが、作品を発表することはなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1931年、丹羽賢と結婚。丹羽賢は衆議院議員・京都商品陳列所会頭などを歴任した実業家・丹羽圭介の次男で、東京美術学校日本画科を卒業、のちに大阪市立工芸学校第4代校長となっている。結婚後は、婚家の方針で小説の執筆を許してもらえなかったという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1933年から1936年まで京都商工会議所婦人部部長をつとめる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1977年6月30日、膵臓癌のため京都第一赤十字病院で死去。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "新保博久が江戸川乱歩旧蔵書調査の過程で、1954年に一条栄子が乱歩宛に出した年賀状を発見し、それをもとに遺族の存在をつきとめた。これをきっかけとして、1999年1月に鮎川哲也・新保博久・山前譲・戸川安宣による遺族へのインタビューが行われ、経歴が明らかとなった。『創元推理』第19号(1999年11月)で特集が組まれている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "著作集は2017年現在刊行されておらず、一部の作品がアンソロジーに再録されるのみにとどまっている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一条栄子は日本初の女性探偵作家とされる。ただし、一条が執筆活動を始める前の1923年から1926年にかけて、松本恵子が「中野圭介」という男性名のペンネームで、夫の松本泰が主催していた『秘密探偵雑誌』『探偵文藝』に創作探偵小説を発表している。したがって、一条は正確には、日本で初めて女性名で作品を発表した女性探偵作家ということになる。", "title": "「日本初の女性探偵作家」" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、一条より8カ月早く、久山秀子が「浮れてゐる「隼」」(『新青年』1925年4月号)を発表し、日本で初めての女性名を名乗った探偵作家としてデビューしている。ただし「久山秀子」は、実際は男性作家のペンネームだった。", "title": "「日本初の女性探偵作家」" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、日本で最初に単行本を出版した女性探偵作家は、1935年に『踊る影絵』(柳香書院)を出版した大倉燁子である。", "title": "「日本初の女性探偵作家」" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "実質的な作家活動は1925年12月から1929年6月までの約3年半であり、この間に短編10編が発表されている。新保博久は、「アマチュア作家としては少ない数ではない」とし、「ほんど一編ごとに作風を変えている」と評した上で、「作家としては特色がな」く、そのためにいち早く忘れられてしまったのではないか、と推測している。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "『サンデー毎日』に掲載された「そばかす三次」と「戻れ、弁三」は、スリ師のそばかす三次を主人公とするシリーズ作品で、ジョンストン・マッカレーの『地下鉄サム』に影響を受けている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "新保博久と細川涼一は、ともにファンタジー風の「フラー氏の昇天」を最も完成度が高い作品と評している。", "title": "作品" } ]
一条 栄子は日本の探偵作家。デビュー当初はバロネス・オルツィをもじった小流智尼(おるちに)の筆名を用いていた。本名は丹羽栄子(旧姓は北本)。日本の女性探偵作家の草分けの一人であるが、約3年半の間に短編10編を発表しただけで、家庭の事情で筆を折った。
{{Infobox 作家 |name={{ruby|一条 栄子|いちじょう えいこ}} |pseudonym=小流智尼<br>一条 栄子 |birth_name=北本 栄子 |birth_date=1903年2月28日 |birth_place=[[京都府]][[久世郡]][[宇治市|宇治町]] |death_date={{死亡年月日と没年齢|1903|2|28|1977|6|30}} |death_place=[[京都第一赤十字病院]] |occupation=[[小説家]] |language=[[日本語]] |nationality={{JPN}} |alma_mater=[[京都女子中学校・高等学校|京都高等女学校]] |period=1925年 - 1929年 |genre=[[推理小説|探偵小説]] |subject= |movement= |notable_works=『フラー氏の昇天』(1927年) |awards=『[[サンデー毎日]]』第1回懸賞「大衆文芸」当選 |debut_works=『丘の家』(1925年) }} {{読み仮名_ruby不使用|'''一条 栄子'''|いちじょう えいこ|1903年2月28日 - 1977年6月30日}}は日本の[[推理作家|探偵作家]]。デビュー当初は[[バロネス・オルツィ]]をもじった{{読み仮名_ruby不使用|'''小流智尼'''|おるちに}}の筆名を用いていた。本名は丹羽栄子(旧姓は北本)。日本の女性探偵作家の草分けの一人であるが、約3年半の間に短編10編を発表しただけで、家庭の事情で筆を折った。 ==経歴== 1903年2月28日、[[京都府]][[久世郡]]宇治町(現・[[宇治市]])に、北本雄(たけし)・キク夫妻の次女として生まれる{{sfn|鮎川|1999|page=6}}。父の北本雄は幕末に[[薩摩藩]]に肩入れした資産家で、[[寺田屋事件]]の後始末を行ったといい、明治になってから久世郡長をつとめている{{sfn|鮎川|1999|page=111}}。 京都高等女学校(現・[[京都女子中学校・高等学校]])を首席で卒業{{sfn|鮎川|1999|page=6}}。 1925年に設立された探偵作家およびファンの親睦団体である「[[探偵趣味の会]]」に参加し、同会の推薦雑誌である『映画と探偵』の1925年12月創刊号に、「小流智尼」名義で短編「丘の家」を発表し、作家デビューを果たす{{sfn|新保|1999|page=47}}。 1926年、『[[サンデー毎日]]』の大衆文芸募集に応募した「そばかす三次」が当選、同誌8月1日号に掲載。その後、同誌1927年1月2日号に掲載された同作の続編「戻れ、弁三」から、筆名を一条栄子に改める{{sfn|新保|1999|page=48}}。ペンネーム変更の理由は明らかでないが、ミステリ評論家の[[新保博久]]は、商業誌デビューに際して「あまりに奇矯なペンネームを廃したかったのだろう」「姓は、京都の一条通りから採られたに違いない」{{sfn|新保|1999|page=48}}、また歴史学者の[[細川涼一]]は「メジャー・デビューしたことによる新たな決意であろう」{{sfn|細川|2004|page=30}}と、それぞれ推測している。 同人誌『猟奇』1929年5月号・6月号に発表した「ベチィ・アムボス」を最後に筆を折る。『猟奇』1931年4月号から同誌の同人名簿に名を連ねているが、作品を発表することはなかった{{sfn|新保|1999|page=49}}。 1931年、丹羽賢と結婚。丹羽賢は衆議院議員・京都商品陳列所会頭などを歴任した実業家・[[丹羽圭介]]の次男で、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]日本画科を卒業、のちに[[大阪市立工芸高等学校|大阪市立工芸学校]]第4代校長となっている。結婚後は、婚家の方針で小説の執筆を許してもらえなかったという{{sfn|鮎川|1999|pages=6-8}}。 1933年から1936年まで[[京都商工会議所]]婦人部部長をつとめる{{sfn|鮎川|1999|page=7}}。 1977年6月30日、[[膵癌|膵臓癌]]のため[[京都第一赤十字病院]]で死去{{sfn|鮎川|1999|page=10}}。 ===没後=== 新保博久が[[江戸川乱歩]]旧蔵書調査の過程で、1954年に一条栄子が乱歩宛に出した年賀状を発見し、それをもとに遺族の存在をつきとめた{{sfn|新保|1999|page=46}}。これをきっかけとして、1999年1月に[[鮎川哲也]]・新保博久・[[山前譲]]・[[戸川安宣 (編集者)|戸川安宣]]による遺族へのインタビューが行われ、経歴が明らかとなった{{sfn|鮎川|1999|pages=5-6}}。『[[創元推理]]』第19号(1999年11月)で特集が組まれている。 著作集は2017年現在刊行されておらず、一部の作品が[[アンソロジー]]に再録されるのみにとどまっている。 ==「日本初の女性探偵作家」== 一条栄子は日本初の女性探偵作家とされる{{sfn|鮎川|1999|page=5}}{{sfn|細川|2004|page=17}}。ただし、一条が執筆活動を始める前の1923年から1926年にかけて、[[松本恵子]]が「中野圭介」という男性名のペンネームで、夫の[[松本泰]]が主催していた『秘密探偵雑誌』『探偵文藝』に創作探偵小説を発表している{{sfn|細川|2004|page=34}}。したがって、一条は正確には、日本で初めて'''女性名で作品を発表した女性探偵作家'''ということになる。 また、一条より8カ月早く、[[久山秀子]]が「浮れてゐる「隼」」(『新青年』1925年4月号)を発表し、日本で初めての'''女性名を名乗った探偵作家'''としてデビューしている。ただし「久山秀子」は、実際は男性作家のペンネームだった{{sfn|細川|2004|page=17}}。 なお、日本で最初に'''単行本を出版した女性探偵作家'''は、1935年に『踊る影絵』(柳香書院)を出版した[[大倉燁子]]である{{sfn|細川|2004|page=33}}。 ==作品== 実質的な作家活動は1925年12月から1929年6月までの約3年半であり、この間に短編10編が発表されている。新保博久は、「アマチュア作家としては少ない数ではない」とし、「ほんど一編ごとに作風を変えている」と評した上で、「作家としては特色がな」く、そのためにいち早く忘れられてしまったのではないか、と推測している{{sfn|新保|1999|page=47}}。 『サンデー毎日』に掲載された「そばかす三次」と「戻れ、弁三」は、[[スリ]]師のそばかす三次を主人公とするシリーズ作品で、[[ジョンストン・マッカレー]]の『地下鉄サム』に影響を受けている{{sfn|新保|1999|page=48}}{{sfn|細川|2004|page=27}}。 新保博久と細川涼一は、ともにファンタジー風の「フラー氏の昇天」を最も完成度が高い作品と評している{{sfn|新保|1999|page=49}}{{sfn|細川|2004|pages=31-32}}。 ===小流智尼名義=== *丘の家(『映画と探偵』1925年12月) *無用の犯罪(『[[探偵趣味の会|探偵趣味]]』1926年2月)<ref group="注釈">[[ミステリー文学資料館]]編『「探偵趣味」傑作選』([[光文社文庫]]、2000年)に再録。</ref> *手袋(『探偵趣味』1926年3月) *そばかす三次(『[[サンデー毎日]]』1926年8月1日)<ref group="注釈" name="創元推理19">『創元推理』第19号に再録。</ref> *南京街(『探偵趣味』1926年12月) ===一条栄子名義=== *戻れ、弁三(『サンデー毎日』1927年1月2日) *平野川殺人事件(『探偵趣味』1927年9月)<ref group="注釈" name="創元推理19" /> *フラー氏の昇天(『探偵・映画』1927年10月)<ref group="注釈" name="創元推理19" /><ref group="注釈">[[ミステリー文学資料館]]編『「探偵」傑作選』([[光文社文庫]]、2002年)に再録。</ref> *千眼禅師(『探偵趣味』1928年5月) *ベチィ・アムボス(『猟奇』1929年5月 - 6月)<ref group="注釈">[[ミステリー文学資料館]]編『「猟奇」傑作選』([[光文社文庫]]、2001年)に再録。</ref> ==脚注== ===注釈=== {{Reflist|group="注釈"}} ===出典=== {{Reflist|30em}} ==参考文献== *{{citation |和書 |title=新・幻の探偵作家を求めて 結婚のため創作の道を捨てた日本最初の女流ミステリー作家……小流智尼・一条栄子の巻 |last=鮎川 |first=哲也 |authorlink=鮎川哲也 |journal=[[創元推理]] |publisher=[[東京創元社]] |issue=19 |year=1999 |date=1999-11-10 |pages=4-12 |isbn=4-488-02426-2 |ref=harv }} *{{citation |和書 |title=早すぎた才媛 |last=新保 |first=博久 |authorlink=新保博久 |journal=[[創元推理]] |publisher=[[東京創元社]] |issue=19 |year=1999a |date=1999-11-10 |pages=46-49 |isbn=4-488-02426-2 |ref=harv }} *{{citation |和書 |title=小流智尼・一条栄子作品リスト |editor-last=新保 |editor-first=博久 |editor-link=新保博久 |journal=[[創元推理]] |publisher=[[東京創元社]] |issue=19 |year=1999b |date=1999-11-10 |page=50 |isbn=4-488-02426-2 |ref=harv }} *{{citation |和書 |last=細川 |first=涼一 |authorlink=細川涼一 |title=久山秀子・一条栄子覚え書き――日本最初の「女性」探偵作家 |journal=京都橘女子大学研究紀要 |publisher=京都橘女子大学研究紀要編集委員会 |issue=30 |date=2004年1月31日 |year=2004 |pages=17-38 |issn=0916-1791 |ref=harv }} {{デフォルトソート:いちしよう えいこ}} [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:日本の女性推理作家]] [[Category:京都府出身の人物]] [[Category:膵癌で亡くなった人物]] [[Category:1903年没]] [[Category:1977年没]]
null
2022-02-14T08:10:32Z
false
false
false
[ "Template:Infobox 作家", "Template:読み仮名 ruby不使用", "Template:Sfn", "Template:Reflist", "Template:Citation" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%A0%84%E5%AD%90
383,843
Darker than darkness -style 93-
『darker than darkness -style 93-』(ダーカー・ザン・ダークネス -スタイルナインティスリー-)は、日本のロックバンドであるBUCK-TICKの7枚目のオリジナル・アルバム。 1993年6月23日にビクターエンタテインメントのInvitationレーベルよりリリースされた。前作『狂った太陽』(1991年)よりおよそ2年4か月ぶりとなる作品であり、作詞は櫻井敦司および今井寿が担当、作曲は今井および星野英彦が担当、BUCK-TICKによるセルフ・プロデュースとなっている。 レコーディングでは星野が初めてキーボードを使用するなど新たな試みが行われた。音楽性は前作に増してノイズ音が顕著になり、ギター・サウンドもヘビーなものになっている。アルバムタイトルは「暗闇の向こう側」という意味合いを込めて、今井が命名した。 先行シングルとして「ドレス」がリリースされたほか、「die」がリカットとしてリリースされた。「ドレス」はリリースから12年後にWOWOWテレビアニメ『トリニティ・ブラッド』(2005年)の主題歌として使用され、2005年4月20日に「ドレス (bloody trinity mix)]」としてリミックスバージョンがリリースされた。 本作はオリコンチャートにて最高位2位となった。 前作『狂った太陽』(1991年)リリース後、BUCK-TICKは「狂った太陽 TOUR」と題したコンサートツアーを同年3月6日のグリーンホール相模大野公演から6月29日の群馬音楽センター公演まで、38都市全49公演を実施した。同年に今井寿はSOFT BALLETの藤井麻輝とともに音楽ユニット「SCHAFT」を結成、10月21日にリリースされたオムニバス・アルバム『DANCE 2 NOISE 001』に楽曲「nicht-titel」で参加、同アルバムには星野英彦もソロ名義として楽曲「Jarring Voice」で参加している。 1992年に入り、3月21日にはセルフカバー・アルバム『殺シノ調べ This is NOT Greatest Hits』をリリース、同日には櫻井敦司がオランダのロックバンドであるXYMOS(英語版)とともに参加した『DANCE 2 NOISE 002』がリリースされており、同アルバムには後にコンサートツアー「LSB」に参加することとなるTHE MAD CAPSULE MARKETSも参加している。その後「殺シノ調べ This is NOT Greatest Tour」と題した同アルバムを受けたコンサートツアーを同年3月14日、3月15日の横浜アリーナ2日間連続公演から5月26日、5月27日の日本武道館2日間連続公演まで、20都市全23公演が行われた。また同年9月10日および9月11日には「Climax Together」と題した単独公演が横浜アリーナにて2日間連続で行われた。同公演はライブ・ビデオ撮影のために行われており、12月2日にライブ・ビデオ『Climax Together』としてリリースされた。 本作のレコーディングは1993年2月20日から4月30日に掛けて、サウンドスカイスタジオにて行われた。 楽曲の制作に当たり、星野は今井に電話してアルバムの方向性を確認したが、今井からの返答は「やってみねぇとわかんねぇ」というものであった。その時点で星野は一度制作した曲をボツにし、もう一度新曲の制作に取り組んでいたが、今井は1曲も制作していない状態であった。その時に今井は星野との関係性をイソップ寓話『アリとキリギリス』に例えている。今井は星野が制作した「誘惑」および「ドレス」を聴いて、ギターサウンドではないことから「ヒデはとまどってんのかなって思った」と述べている。後に今井の曲が出来上がって来た際に、自身の制作曲とはあまりに曲調が異なることから、星野は自問自答する場面もあったと述べている。また、今井は星野が制作した曲を2枚目のアルバム『SEXUAL×××××!』(1987年)収録曲の「ILLUSION」が進化したような形であると述べている。両者の制作曲を擦り合わせた際に、全く異質であるために同じアルバムに収録することに星野は疑問を呈していたが、今井は相手の曲に合わせることはかえってマイナスになると判断し、両者とも気の赴くままに制作することが重要であると述べている。その他、星野は本作で初めてキーボードを演奏しており、星野のギターパートが存在しない箇所ではキーボードを演奏するなど音楽の幅が広がったと今井は述べている。 櫻井は本作における歌詞制作に関して、自身の言いたいことは一つであり、その一つのことを説明する言葉を多種多様に引っ張り出して使用していると述べ、また詞の世界のキャラクターとしての言葉を選択しているとも述べている。本作での作詞方法は前作までと異なり、ノートに思いついた言葉を大量に書き留めていたが、実際にはそこに書かれた言葉はほとんど使用されなかったと述べている。また、本作の歌詞は前向きなものが多く、櫻井は「自分に優しくなれるようになったんですよ、あまりイジメちゃかわいそうだなぁって。弱いんだからオレはって」と述べている。リズム隊である樋口豊とヤガミトールは、最初に制作された5曲のレコーディング期間が50日程度あったため、余裕を持って作業をすることができたと述べている。また、初期の頃はスタジオで初めて聴かされた曲をそのままレコーディングしていたが、本作の頃にはある程度完成したデモテープが制作された上でレコーディングが行われるように変化しており、樋口とヤガミはともに「やりやすい」「楽になってきてます」と述べている。 1993年6月23日にビクターエンタテインメントのInvitationレーベルからCDにてリリースされた。当初は5月20日から開始予定であった全国ツアーまでにリリース予定であったが、不測の事態によりツアー開始後のリリースとなった。なお本作には仕掛けがあり、パッケージなどには10曲目までしか曲目は記載されていないが、実際はCDの中には93トラック存在している。75トラック目と84トラック目にノイズが収録されており、最終トラックである93トラック目には隠しトラックである「D・T・D」が収録されている。「D・T・D」の歌詞はシングル「die」およびベスト・アルバム『BT』(1999年)に記載されている。また、シングル「die」のカップリングとして収録されたライブ版の曲タイトルは「darker than darkness (live)」となっている。 2002年9月19日には、ビクターエンタテインメントのHAPPY HOUSEレーベルから比留間整監修によるデジタルリマスター版がリリースされ、初回限定盤にはジャケットサイズのオリジナルステッカーが付属されたほか、ボーナス・トラックとして「ドレス (AUX・SEND MIX)」および「die (single Live version)」の2曲が追加収録された。また、この初回盤においてはボーナス・トラックが収録されていることから11曲目に「D・T・D」が収録されており、オリジナル版と同様の93トラックの仕掛けは再現されていない。 2007年9月5日には生産限定品として、ビクター所属時代のアルバム全12作品のデジタルリマスター版が紙ジャケット仕様でリリースされた。同版には携帯サイズのロゴステッカー・シートが封入されたほか、全タイトルを一括購入すると先着で全タイトル収納ケースがプレゼントされるキャンペーンが行われた。 本作を受けたコンサートツアーは、「darker than darkness -style '93-」と題して1993年5月20日の大阪城ホール公演から11月18日、11月19日の群馬音楽センター2日間連続公演まで、49都市全59公演が行われた。同年12月31日には渋谷公会堂にて開催された「TVK LIVE GAGA SPECIAL'93」に出演し、SOFT BALLETとともに「ICONOCLASM」を演奏した。 音楽情報サイト『CDジャーナル』では、「大胆なヴォイス・エフェクトをほどこしたノイジーなサウンドにはアバンギャルドな魅力が蔓延している」と記したほか、「さらに重く暗くアグレッシヴに、独自の境地を突き進む彼らの姿が潔い作品。シニカルな櫻井の歌詞の世界にも注目」と記した上で肯定的に評価した。書籍『BUCK-TICK ~since 1985-2011~ 史上最強のROCK BAND』では、前作までに見られたポップな要素が薄まり「ひたすらマニアックな表現を突き詰めた一枚」であると指摘、また「非常にヘヴィな楽曲が多く、歌詞もひときわ抽象的で内省的なものとなっている」とも指摘した上で、一般的にBUCK-TICKは『悪の華』(1990年)のイメージが強いが本格的なBUCK-TICKのサウンドは本作から始まっていると肯定的に評価した。書籍『B-T DATA BUCK-TICK 25th Anniversary Edition』では、本作を「極端なミックスや音響効果が施されたアルバム」であると主張、世界観は「暗黒よりも暗い世界」となっているがジャズやファンク、ヒップホップなどの多彩な音楽性を取り入れたことを「斬新なアプローチ」であるとして肯定的に評価した。 本作はオリコンチャートにて最高位2位を獲得、登場回数は8回で売り上げ枚数は21.3万枚となった。この売り上げ枚数はBUCK-TICKのアルバム売上ランキングにおいて6位となっている。2022年に実施されたねとらぼ調査隊によるBUCK-TICKのアルバム人気ランキングでは7位となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『darker than darkness -style 93-』(ダーカー・ザン・ダークネス -スタイルナインティスリー-)は、日本のロックバンドであるBUCK-TICKの7枚目のオリジナル・アルバム。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1993年6月23日にビクターエンタテインメントのInvitationレーベルよりリリースされた。前作『狂った太陽』(1991年)よりおよそ2年4か月ぶりとなる作品であり、作詞は櫻井敦司および今井寿が担当、作曲は今井および星野英彦が担当、BUCK-TICKによるセルフ・プロデュースとなっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "レコーディングでは星野が初めてキーボードを使用するなど新たな試みが行われた。音楽性は前作に増してノイズ音が顕著になり、ギター・サウンドもヘビーなものになっている。アルバムタイトルは「暗闇の向こう側」という意味合いを込めて、今井が命名した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "先行シングルとして「ドレス」がリリースされたほか、「die」がリカットとしてリリースされた。「ドレス」はリリースから12年後にWOWOWテレビアニメ『トリニティ・ブラッド』(2005年)の主題歌として使用され、2005年4月20日に「ドレス (bloody trinity mix)]」としてリミックスバージョンがリリースされた。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本作はオリコンチャートにて最高位2位となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "前作『狂った太陽』(1991年)リリース後、BUCK-TICKは「狂った太陽 TOUR」と題したコンサートツアーを同年3月6日のグリーンホール相模大野公演から6月29日の群馬音楽センター公演まで、38都市全49公演を実施した。同年に今井寿はSOFT BALLETの藤井麻輝とともに音楽ユニット「SCHAFT」を結成、10月21日にリリースされたオムニバス・アルバム『DANCE 2 NOISE 001』に楽曲「nicht-titel」で参加、同アルバムには星野英彦もソロ名義として楽曲「Jarring Voice」で参加している。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1992年に入り、3月21日にはセルフカバー・アルバム『殺シノ調べ This is NOT Greatest Hits』をリリース、同日には櫻井敦司がオランダのロックバンドであるXYMOS(英語版)とともに参加した『DANCE 2 NOISE 002』がリリースされており、同アルバムには後にコンサートツアー「LSB」に参加することとなるTHE MAD CAPSULE MARKETSも参加している。その後「殺シノ調べ This is NOT Greatest Tour」と題した同アルバムを受けたコンサートツアーを同年3月14日、3月15日の横浜アリーナ2日間連続公演から5月26日、5月27日の日本武道館2日間連続公演まで、20都市全23公演が行われた。また同年9月10日および9月11日には「Climax Together」と題した単独公演が横浜アリーナにて2日間連続で行われた。同公演はライブ・ビデオ撮影のために行われており、12月2日にライブ・ビデオ『Climax Together』としてリリースされた。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "本作のレコーディングは1993年2月20日から4月30日に掛けて、サウンドスカイスタジオにて行われた。", "title": "録音、制作" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "楽曲の制作に当たり、星野は今井に電話してアルバムの方向性を確認したが、今井からの返答は「やってみねぇとわかんねぇ」というものであった。その時点で星野は一度制作した曲をボツにし、もう一度新曲の制作に取り組んでいたが、今井は1曲も制作していない状態であった。その時に今井は星野との関係性をイソップ寓話『アリとキリギリス』に例えている。今井は星野が制作した「誘惑」および「ドレス」を聴いて、ギターサウンドではないことから「ヒデはとまどってんのかなって思った」と述べている。後に今井の曲が出来上がって来た際に、自身の制作曲とはあまりに曲調が異なることから、星野は自問自答する場面もあったと述べている。また、今井は星野が制作した曲を2枚目のアルバム『SEXUAL×××××!』(1987年)収録曲の「ILLUSION」が進化したような形であると述べている。両者の制作曲を擦り合わせた際に、全く異質であるために同じアルバムに収録することに星野は疑問を呈していたが、今井は相手の曲に合わせることはかえってマイナスになると判断し、両者とも気の赴くままに制作することが重要であると述べている。その他、星野は本作で初めてキーボードを演奏しており、星野のギターパートが存在しない箇所ではキーボードを演奏するなど音楽の幅が広がったと今井は述べている。", "title": "録音、制作" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "櫻井は本作における歌詞制作に関して、自身の言いたいことは一つであり、その一つのことを説明する言葉を多種多様に引っ張り出して使用していると述べ、また詞の世界のキャラクターとしての言葉を選択しているとも述べている。本作での作詞方法は前作までと異なり、ノートに思いついた言葉を大量に書き留めていたが、実際にはそこに書かれた言葉はほとんど使用されなかったと述べている。また、本作の歌詞は前向きなものが多く、櫻井は「自分に優しくなれるようになったんですよ、あまりイジメちゃかわいそうだなぁって。弱いんだからオレはって」と述べている。リズム隊である樋口豊とヤガミトールは、最初に制作された5曲のレコーディング期間が50日程度あったため、余裕を持って作業をすることができたと述べている。また、初期の頃はスタジオで初めて聴かされた曲をそのままレコーディングしていたが、本作の頃にはある程度完成したデモテープが制作された上でレコーディングが行われるように変化しており、樋口とヤガミはともに「やりやすい」「楽になってきてます」と述べている。", "title": "録音、制作" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1993年6月23日にビクターエンタテインメントのInvitationレーベルからCDにてリリースされた。当初は5月20日から開始予定であった全国ツアーまでにリリース予定であったが、不測の事態によりツアー開始後のリリースとなった。なお本作には仕掛けがあり、パッケージなどには10曲目までしか曲目は記載されていないが、実際はCDの中には93トラック存在している。75トラック目と84トラック目にノイズが収録されており、最終トラックである93トラック目には隠しトラックである「D・T・D」が収録されている。「D・T・D」の歌詞はシングル「die」およびベスト・アルバム『BT』(1999年)に記載されている。また、シングル「die」のカップリングとして収録されたライブ版の曲タイトルは「darker than darkness (live)」となっている。", "title": "リリース" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2002年9月19日には、ビクターエンタテインメントのHAPPY HOUSEレーベルから比留間整監修によるデジタルリマスター版がリリースされ、初回限定盤にはジャケットサイズのオリジナルステッカーが付属されたほか、ボーナス・トラックとして「ドレス (AUX・SEND MIX)」および「die (single Live version)」の2曲が追加収録された。また、この初回盤においてはボーナス・トラックが収録されていることから11曲目に「D・T・D」が収録されており、オリジナル版と同様の93トラックの仕掛けは再現されていない。", "title": "リリース" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2007年9月5日には生産限定品として、ビクター所属時代のアルバム全12作品のデジタルリマスター版が紙ジャケット仕様でリリースされた。同版には携帯サイズのロゴステッカー・シートが封入されたほか、全タイトルを一括購入すると先着で全タイトル収納ケースがプレゼントされるキャンペーンが行われた。", "title": "リリース" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "本作を受けたコンサートツアーは、「darker than darkness -style '93-」と題して1993年5月20日の大阪城ホール公演から11月18日、11月19日の群馬音楽センター2日間連続公演まで、49都市全59公演が行われた。同年12月31日には渋谷公会堂にて開催された「TVK LIVE GAGA SPECIAL'93」に出演し、SOFT BALLETとともに「ICONOCLASM」を演奏した。", "title": "ツアー" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "音楽情報サイト『CDジャーナル』では、「大胆なヴォイス・エフェクトをほどこしたノイジーなサウンドにはアバンギャルドな魅力が蔓延している」と記したほか、「さらに重く暗くアグレッシヴに、独自の境地を突き進む彼らの姿が潔い作品。シニカルな櫻井の歌詞の世界にも注目」と記した上で肯定的に評価した。書籍『BUCK-TICK ~since 1985-2011~ 史上最強のROCK BAND』では、前作までに見られたポップな要素が薄まり「ひたすらマニアックな表現を突き詰めた一枚」であると指摘、また「非常にヘヴィな楽曲が多く、歌詞もひときわ抽象的で内省的なものとなっている」とも指摘した上で、一般的にBUCK-TICKは『悪の華』(1990年)のイメージが強いが本格的なBUCK-TICKのサウンドは本作から始まっていると肯定的に評価した。書籍『B-T DATA BUCK-TICK 25th Anniversary Edition』では、本作を「極端なミックスや音響効果が施されたアルバム」であると主張、世界観は「暗黒よりも暗い世界」となっているがジャズやファンク、ヒップホップなどの多彩な音楽性を取り入れたことを「斬新なアプローチ」であるとして肯定的に評価した。", "title": "批評" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "本作はオリコンチャートにて最高位2位を獲得、登場回数は8回で売り上げ枚数は21.3万枚となった。この売り上げ枚数はBUCK-TICKのアルバム売上ランキングにおいて6位となっている。2022年に実施されたねとらぼ調査隊によるBUCK-TICKのアルバム人気ランキングでは7位となった。", "title": "チャート成績" } ]
『darker than darkness -style 93-』は、日本のロックバンドであるBUCK-TICKの7枚目のオリジナル・アルバム。 1993年6月23日にビクターエンタテインメントのInvitationレーベルよりリリースされた。前作『狂った太陽』(1991年)よりおよそ2年4か月ぶりとなる作品であり、作詞は櫻井敦司および今井寿が担当、作曲は今井および星野英彦が担当、BUCK-TICKによるセルフ・プロデュースとなっている。 レコーディングでは星野が初めてキーボードを使用するなど新たな試みが行われた。音楽性は前作に増してノイズ音が顕著になり、ギター・サウンドもヘビーなものになっている。アルバムタイトルは「暗闇の向こう側」という意味合いを込めて、今井が命名した。 先行シングルとして「ドレス」がリリースされたほか、「die」がリカットとしてリリースされた。「ドレス」はリリースから12年後にWOWOWテレビアニメ『トリニティ・ブラッド』(2005年)の主題歌として使用され、2005年4月20日に「ドレス]」としてリミックスバージョンがリリースされた。 本作はオリコンチャートにて最高位2位となった。
{{小文字}} {{Pathnav|BUCK-TICK|[[BUCK-TICKの作品|作品リスト]]|this=darker than darkness -style 93-|frame=1}} {{Infobox Album | Name = darker than darkness<br />-style 93- | Type = [[スタジオ・アルバム]] | Artist = [[BUCK-TICK]] | Released = [[1993年]][[6月23日]] | Recorded = {{Unbulleted list|1993年[[2月20日]] - [[4月30日]]|サウンドスカイスタジオ}} | Genre = {{Hlist-comma|[[ロック (音楽)|ロック]]|[[電子音楽|エレクトロニック]]|[[オルタナティヴ・ロック]]|[[ゴシック・ロック]]|[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]}} | Length = 61分50秒 | Label = [[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター]]/[[Invitation (レーベル)|Invitation]] | Producer = [[BUCK-TICK]] | Reviews = | Chart position = *2位([[オリコンチャート|オリコン]]){{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=30|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}} | Certification = | Last album = 『[[殺シノ調べ This is NOT Greatest Hits]]』<br />([[1992年]]) | This album = 『'''darker than darkness -style 93-'''』<br />(1993年) | Next album = 『[[シェイプレス]]』<br />([[1994年]]) | Misc = {{Singles | Name = darker than darkness -style 93- | Type = スタジオ・アルバム | Single 1 = [[ドレス (BUCK-TICKの曲)|ドレス]] | Single 1 date = 1993年[[5月21日]] | Single 2 = [[die (BUCK-TICKの曲)|die]] | Single 2 date = 1993年[[10月21日]] }} | EAN = {{Collapsible list |title = EAN一覧 |1 = {{EAN|4988002278053}} (1993年)<br />{{EAN|4988002437986}}(2002年・初回盤)<br />{{EAN|4988002437283}}(2002年・通常盤)<br />{{EAN|4988002532940}}(2007年)}} }} 『'''darker than darkness -style 93-'''』(ダーカー・ザン・ダークネス -スタイルナインティスリー-)は、日本の[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]である[[BUCK-TICK]]の7枚目の[[スタジオ・アルバム|オリジナル・アルバム]]{{Efn|[[セルフカバー|セルフカバー・アルバム]]『[[殺シノ調べ This is NOT Greatest Hits]]』を除いた場合。『殺シノ調べ This is NOT Greatest Hits』を7枚目のアルバムとした場合8枚目のアルバムとなる。}}。 [[1993年]][[6月23日]]に[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]]の[[Invitation (レーベル)|Invitation]]レーベルよりリリースされた。前作『[[狂った太陽]]』([[1991年]])よりおよそ2年4か月ぶりとなる作品であり、作詞は[[櫻井敦司]]および[[今井寿]]が担当、作曲は今井および[[星野英彦]]が担当、BUCK-TICKによるセルフ・プロデュースとなっている。 レコーディングでは星野が初めて[[キーボード (楽器)|キーボード]]を使用するなど新たな試みが行われた。音楽性は前作に増してノイズ音が顕著になり、[[ギター]]・サウンドもヘビーなものになっている。アルバムタイトルは「暗闇の向こう側」という意味合いを込めて、今井が命名した。 先行シングルとして「[[ドレス (BUCK-TICKの曲)|ドレス]]」がリリースされたほか、「[[die (BUCK-TICKの曲)|die]]」が[[リカット]]としてリリースされた。「ドレス」はリリースから12年後に[[WOWOW]]テレビアニメ『[[トリニティ・ブラッド]]』([[2005年]])の主題歌として使用され、2005年[[4月20日]]に「ドレス (bloody trinity mix)]」としてリミックスバージョンがリリースされた。 本作は[[オリコンチャート]]にて最高位2位となった。 == 背景 == 前作『[[狂った太陽]]』([[1991年]])リリース後、BUCK-TICKは「狂った太陽 TOUR」と題したコンサートツアーを同年[[3月6日]]の[[相模原市立文化会館|グリーンホール相模大野]]公演から[[6月29日]]の[[群馬音楽センター]]公演まで、38都市全49公演を実施した{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=29|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}}。同年に[[今井寿]]は[[SOFT BALLET]]の[[藤井麻輝]]とともに[[音楽ユニット]]「[[SCHAFT]]」を結成{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=29|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}}、[[10月21日]]にリリースされた[[オムニバス]]・アルバム『[[DANCE 2 NOISE|DANCE 2 NOISE 001]]』に楽曲「nicht-titel」で参加<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2015-10-03 |url=https://natalie.mu/music/news/161797 |title=今井寿&藤井麻輝ユニットSCHAFTが本格再始動、年明けにツアー |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2022-02-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=OKMusic編集部 |date=2015-10-03 |url=https://okmusic.jp/news/94871 |title=今井寿と藤井麻輝のユニット“SCHAFT"が94年以来の本格始動を発表 |website=[[OKWAVE|OKMusic]] |publisher=ジャパンミュージックネットワーク |accessdate=2022-02-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2015-10-03 |url=https://rockinon.com/news/detail/131774 |title=奇跡! 今井寿(BUCK-TICK)&藤井麻輝(minus(-)、睡蓮)による“SCHAFT”本格始動 |website=[[rockin'on|rockin'on.com]] |publisher=[[ロッキング・オン]] |accessdate=2022-02-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= 冬将軍 |date= 2015-10-24 |url= https://realsound.jp/2015/10/post-4968_3.html |title= 今井寿と藤井麻輝によるユニット・SCHAFT再始動の衝撃ーー名盤『SWITCHBLADE』を改めて振り返る |website= [[リアルサウンド (ニュースサイト)|リアルサウンド]] |publisher= blueprint |accessdate=2022-02-27}}</ref>、同アルバムには[[星野英彦]]もソロ名義として楽曲「Jarring Voice」で参加している。 [[1992年]]に入り、[[3月21日]]には[[セルフカバー|セルフカバー・アルバム]]『[[殺シノ調べ This is NOT Greatest Hits]]』をリリース、同日には[[櫻井敦司]]が[[オランダ]]のロックバンドである{{仮リンク|XYMOS|en|Clan of Xymox}}とともに参加した『DANCE 2 NOISE 002』がリリースされており、同アルバムには後にコンサートツアー「LSB」に参加することとなる[[THE MAD CAPSULE MARKETS]]も参加している。その後「殺シノ調べ This is NOT Greatest Tour」と題した同アルバムを受けたコンサートツアーを同年[[3月14日]]、[[3月15日]]の[[横浜アリーナ]]2日間連続公演から[[5月26日]]、[[5月27日]]の[[日本武道館]]2日間連続公演まで、20都市全23公演が行われた{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=30|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}}。また同年[[9月10日]]および[[9月11日]]には「Climax Together」と題した単独公演が横浜アリーナにて2日間連続で行われた{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=27}}{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=30|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}}。同公演はライブ・ビデオ撮影のために行われており、[[12月2日]]にライブ・ビデオ『Climax Together』としてリリースされた{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=30|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}}。 == 録音、制作 == {{Quote box|width=230px|align=right|quote=あんまりゴテゴテ装飾音とかつけ加えるのも、もういいやって思いはじめて。でも、単なるシンプルなロックっていうのはイヤだし。そっからヒネりだして作ったと。とりあえず、うるさい曲、かな。ギザギザした感じ。|source=今井寿, <br />{{Small2|SHAPELESS BUCK-TICK}}{{Sfn|SHAPELESS|1994|p=120|ps= - 「今井寿 SOUND」より}}}} 本作のレコーディングは1993年[[2月20日]]から[[4月30日]]に掛けて、サウンドスカイスタジオにて行われた。 楽曲の制作に当たり、星野は今井に電話してアルバムの方向性を確認したが、今井からの返答は「やってみねぇとわかんねぇ」というものであった{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=106}}。その時点で星野は一度制作した曲をボツにし、もう一度新曲の制作に取り組んでいたが、今井は1曲も制作していない状態であった{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=106}}。その時に今井は星野との関係性を[[イソップ寓話]]『[[アリとキリギリス]]』に例えている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=106}}。今井は星野が制作した「誘惑」および「ドレス」を聴いて、ギターサウンドではないことから「ヒデはとまどってんのかなって思った」と述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=106}}。後に今井の曲が出来上がって来た際に、自身の制作曲とはあまりに曲調が異なることから、星野は自問自答する場面もあったと述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=106}}。また、今井は星野が制作した曲を2枚目のアルバム『[[SEXUAL×××××!]]』([[1987年]])収録曲の「ILLUSION」が進化したような形であると述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=106}}。両者の制作曲を擦り合わせた際に、全く異質であるために同じアルバムに収録することに星野は疑問を呈していたが、今井は相手の曲に合わせることはかえってマイナスになると判断し、両者とも気の赴くままに制作することが重要であると述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=106}}。その他、星野は本作で初めて[[キーボード (楽器)|キーボード]]を演奏しており、星野のギターパートが存在しない箇所ではキーボードを演奏するなど音楽の幅が広がったと今井は述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=106}}。 櫻井は本作における歌詞制作に関して、自身の言いたいことは一つであり、その一つのことを説明する言葉を多種多様に引っ張り出して使用していると述べ、また詞の世界のキャラクターとしての言葉を選択しているとも述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=105}}。本作での作詞方法は前作までと異なり、ノートに思いついた言葉を大量に書き留めていたが、実際にはそこに書かれた言葉はほとんど使用されなかったと述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=105}}。また、本作の歌詞は前向きなものが多く、櫻井は「自分に優しくなれるようになったんですよ、あまりイジメちゃかわいそうだなぁって。弱いんだからオレはって」と述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=105}}。[[リズム体|リズム隊]]である[[樋口豊 (ミュージシャン)|樋口豊]]と[[ヤガミトール]]は、最初に制作された5曲のレコーディング期間が50日程度あったため、余裕を持って作業をすることができたと述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=107}}。また、初期の頃はスタジオで初めて聴かされた曲をそのままレコーディングしていたが、本作の頃にはある程度完成した[[デモテープ]]が制作された上でレコーディングが行われるように変化しており、樋口とヤガミはともに「やりやすい」「楽になってきてます」と述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=107}}。 == リリース == [[1993年]][[6月23日]]に[[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクターエンタテインメント]]の[[Invitation (レーベル)|Invitation]]レーベルから[[コンパクトディスク|CD]]にてリリースされた。当初は[[5月20日]]から開始予定であった全国ツアーまでにリリース予定であったが、不測の事態によりツアー開始後のリリースとなった{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=30|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}}。なお本作には仕掛けがあり、パッケージなどには10曲目までしか曲目は記載されていないが、実際はCDの中には93トラック存在している。75トラック目と84トラック目にノイズが収録されており、最終トラックである93トラック目には隠しトラックである「D・T・D」が収録されている{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=30|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}}。「D・T・D」の歌詞はシングル「[[die (BUCK-TICKの曲)|die]]」および[[ベスト・アルバム]]『[[BT (BEST TRACKS)|BT]]』([[1999年]])に記載されている{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=30|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}}。また、シングル「die」のカップリングとして収録されたライブ版の曲タイトルは「darker than darkness (live)」となっている。 [[2002年]][[9月19日]]には、ビクターエンタテインメントのHAPPY HOUSEレーベルから比留間整監修による[[デジタルリマスター]]版がリリースされ、初回限定盤にはジャケットサイズのオリジナルステッカーが付属されたほか、[[ボーナス・トラック]]として「ドレス (AUX・SEND MIX)」および「die (single Live version)」の2曲が追加収録された。また、この初回盤においてはボーナス・トラックが収録されていることから11曲目に「D・T・D」が収録されており、オリジナル版と同様の93トラックの仕掛けは再現されていない。 [[2007年]][[9月5日]]には生産限定品として、ビクター所属時代のアルバム全12作品のデジタルリマスター版が[[ディスクジャケット|紙ジャケット]]仕様でリリースされた<ref name="natalie20070701">{{Cite web|和書|author= |date=2007-07-01 |url=https://natalie.mu/music/news/2436 |title=<nowiki>[BUCK-TICK]</nowiki> 全国ツアー&初期作品が紙ジャケ化 |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2022-02-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date= 2007-07-12 |url=https://www.cdjournal.com/main/news/buck-tick/15809 |title=BUCK-TICK、ニュー・アルバム&紙ジャケ12タイトルが発売! |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2022-02-05}}</ref>。同版には携帯サイズのロゴステッカー・シートが封入されたほか、全タイトルを一括購入すると先着で全タイトル収納ケースがプレゼントされるキャンペーンが行われた<ref name="natalie20070701"/>。 == ツアー == 本作を受けたコンサートツアーは、「darker than darkness -style '93-」と題して1993年[[5月20日]]の[[大阪城ホール]]公演から[[11月18日]]、[[11月19日]]の[[群馬音楽センター]]2日間連続公演まで、49都市全59公演が行われた{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=30|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}}。同年[[12月31日]]には[[渋谷公会堂]]にて開催された「TVK LIVE GAGA SPECIAL'93」に出演し、SOFT BALLETとともに「ICONOCLASM」を演奏した{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=30|ps= - 「BUCK-TICKの26年間の足跡ストーリー1985-2011」より}}。 == 批評 == {{Album ratings | rev1 = CDジャーナル | rev1Score = 肯定的<ref name="cdjournal"/><ref name="cdjournal2"/> | rev2 = BUCK-TICK ~since 1985-2011~ | rev2Score = 肯定的{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=91|ps= - 「File7 BUCK-TICK REVIEW〜オリジナルアルバムレビュー&全作品アーカイブ 1986-2011」より}} | rev3 = B-T DATA | rev3Score = 肯定的{{Sfn|B-T DATA|2013|p=164|ps= - 「DISCOGRAPHY 1986-2013」より}} }} 音楽情報サイト『CDジャーナル』では、「大胆なヴォイス・エフェクトをほどこしたノイジーなサウンドにはアバンギャルドな魅力が蔓延している<ref name="cdjournal">{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://artist.cdjournal.com/d/darker-than-darkness--style-93-/1193080646 |title=BUCK-TICK / ダーカー・ザン・ダークネス~スタイル93 <nowiki>[廃盤]</nowiki> |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2022-04-02}}</ref>」と記したほか、「さらに重く暗くアグレッシヴに、独自の境地を突き進む彼らの姿が潔い作品。シニカルな櫻井の歌詞の世界にも注目<ref name="cdjournal2">{{Cite web|和書|author= |date= |url=https://artist.cdjournal.com/d/darker-than-darkness---style-93--/3202080539 |title=BUCK-TICK / darker than darkness-style93- <nowiki>[限定][廃盤]</nowiki> |website=CDジャーナル |publisher=音楽出版 |accessdate=2022-04-02}}</ref>」と記した上で肯定的に評価した。書籍『BUCK-TICK ~since 1985-2011~ 史上最強のROCK BAND』では、前作までに見られたポップな要素が薄まり「ひたすらマニアックな表現を突き詰めた一枚」であると指摘、また「非常にヘヴィな楽曲が多く、歌詞もひときわ抽象的で内省的なものとなっている」とも指摘した上で、一般的にBUCK-TICKは『[[悪の華 (BUCK-TICKのアルバム)|悪の華]]』([[1990年]])のイメージが強いが本格的なBUCK-TICKのサウンドは本作から始まっていると肯定的に評価した{{Sfn|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011|p=91|ps= - 「File7 BUCK-TICK REVIEW〜オリジナルアルバムレビュー&全作品アーカイブ 1986-2011」より}}。書籍『B-T DATA <small>BUCK-TICK 25th Anniversary Edition</small>』では、本作を「極端なミックスや音響効果が施されたアルバム」であると主張、世界観は「暗黒よりも暗い世界」となっているが[[ジャズ]]や[[ファンク]]、[[ヒップホップ]]などの多彩な音楽性を取り入れたことを「斬新なアプローチ」であるとして肯定的に評価した{{Sfn|B-T DATA|2013|p=165|ps= - 「DISCOGRAPHY 1986-2013」より}}。 == チャート成績 == 本作は[[オリコンチャート]]にて最高位2位を獲得、登場回数は8回で売り上げ枚数は21.3万枚となった。この売り上げ枚数はBUCK-TICKのアルバム売上ランキングにおいて6位となっている<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url= https://www.oricon.co.jp/prof/3189/rank/album/ |title= BUCK-TICKのアルバム売上ランキング |website= [[オリコンニュース]] |publisher= [[オリコン]] |accessdate=2022-02-27}}</ref>。[[2022年]]に実施された[[ITmedia|ねとらぼ調査隊]]によるBUCK-TICKのアルバム人気ランキングでは7位となった<ref name="nlab20220209">{{Cite web|和書|author= |date=2022-02-09 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/570201/4 |title=「BUCK-TICK」のアルバム人気ランキングTOP25! 1位は「狂った太陽」に決定!【2022年最新投票結果】 |website=[[ITmedia|ねとらぼ調査隊]] |publisher=アイティメディア |accessdate=2022-02-23}}</ref>。 == 収録曲 == === 一覧 === {{tracklist | collapsed = | headline = | extra_column = | total_length = auto | all_arrangements = [[BUCK-TICK]] | lyrics_credits = yes | music_credits = yes | title1 = '''キラメキの中で...''' | lyrics1 = [[櫻井敦司]] | music1 = [[今井寿]] | length1 = 4:41 | title2 = '''Deep Slow''' | lyrics2 = 櫻井敦司 | music2 = 今井寿 | length2 = 4:32 | title3 = '''誘惑''' | lyrics3 = 櫻井敦司 | music3 = [[星野英彦]] | length3 = 5:59 | title4 = '''青の世界''' | lyrics4 = 櫻井敦司 | music4 = 今井寿 | length4 = 4:57 | title5 = '''神風''' | lyrics5 = 今井寿 | music5 = 今井寿 | length5 = 4:43 | title6 = '''ZERO''' | lyrics6 = 櫻井敦司 | music6 = 今井寿 | length6 = 4:00 | title7 = '''[[ドレス (BUCK-TICKの曲)|ドレス]]''' | lyrics7 = 櫻井敦司 | music7 = 星野英彦 | length7 = 6:22 | title8 = '''LION''' | lyrics8 = 櫻井敦司 | music8 = 今井寿 | length8 = 4:32 | title9 = '''Madman Blues <small>-ミナシ児ノ憂鬱-</small>''' | lyrics9 = 今井寿 | music9 = 今井寿 | length9 = 5:10 | title10 = '''[[die (BUCK-TICKの曲)|die]]''' | lyrics10 = 櫻井敦司 | music10 = 今井寿 | length10 = 4:29 }} {{tracklist | collapsed = yes | headline = 隠しトラック(1993年盤) | extra_column = | total_length = 61:50 | lyrics_credits = yes | music_credits = yes | title93 = '''D・T・D''' | lyrics93 = 櫻井敦司 | music93 = 今井寿 | length93 = 6:42 }} {{tracklist | collapsed = yes | headline = 2002年初回限定盤 | extra_column = | total_length = auto | lyrics_credits = yes | music_credits = yes | title1 = '''キラメキの中で...''' | lyrics1 = 櫻井敦司 | music1 = 今井寿 | length1 = 4:41 | title2 = '''Deep Slow''' | lyrics2 = 櫻井敦司 | music2 = 今井寿 | length2 = 4:32 | title3 = '''誘惑''' | lyrics3 = 櫻井敦司 | music3 = 星野英彦 | length3 = 5:58 | title4 = '''青の世界''' | lyrics4 = 櫻井敦司 | music4 = 今井寿 | length4 = 4:57 | title5 = '''神風''' | lyrics5 = 今井寿 | music5 = 今井寿 | length5 = 4:43 | title6 = '''ZERO''' | lyrics6 = 櫻井敦司 | music6 = 今井寿 | length6 = 4:01 | title7 = '''ドレス''' | lyrics7 = 櫻井敦司 | music7 = 星野英彦 | length7 = 6:22 | title8 = '''LION''' | lyrics8 = 櫻井敦司 | music8 = 今井寿 | length8 = 4:32 | title9 = '''Madman Blues <small>-ミナシ児ノ憂鬱-</small>''' | lyrics9 = 今井寿 | music9 = 今井寿 | length9 = 5:10 | title10 = '''die''' | lyrics10 = 櫻井敦司 | music10 = 今井寿 | length10 = 4:34 | title11 = '''D・T・D''' | lyrics11 = 櫻井敦司 | music11 = 今井寿 | length11 = 6:50 | title12 = '''ドレス (AUX・SEND MIX)''' | lyrics12 = 櫻井敦司 | music12 = 星野英彦 | length12 = 6:23 | title13 = '''die (single Live version)''' | lyrics13 = 櫻井敦司 | music13 = 今井寿 | length13 = 5:16 }} === 曲解説 === #「'''キラメキの中で...'''」 #:「[[メタル]][[レゲエ]]」をテーマに作られたBUCK-TICK初のレゲエソング。後に至るまでライブでの定番曲となっており、その都度アレンジが異なることが多い。書籍『B-T DATA <small>BUCK-TICK 25th Anniversary Edition</small>』では、[[ダブ]]的処理が施された曲であると記されている{{Sfn|B-T DATA|2013|p=165|ps= - 「DISCOGRAPHY 1986-2013」より}}。 #「'''Deep Slow'''」 #:仮タイトルは「ロック野郎」{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=112}}。本曲は[[リフ]]をメインとした構成になっているが、それによって今井の知らないところで仮タイトルが決定されており、今井は「これでもうロックになっちゃうのか」との感想を持ちリフが効果的であることを初めて知ったと述べている{{Sfn|WORDS BY BUCK-TICK|2002|p=112}}。 #「'''誘惑'''」 #:星野が、前年から習い始めた[[キーボード (楽器)|キーボード]]を使用して制作した楽曲。イントロのノイズは、スタジオにあったレコードに傷をつけて録ったもので、[[サックス]]音は今井による[[ギターシンセサイザー]]。 #:当初は映画『[[マルコムX (映画)|マルコムX]]』(1992年)から拝借された「マルコムX」という仮タイトルだった。 #「'''青の世界'''」 #:今井が[[大友克洋]]の漫画『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』([[1982年]] - [[1990年]])をイメージして作曲し、櫻井もそのイメージにあった近未来的で破滅的な詞をつけた(アウトロと5曲目が繋がっている)。 #:[[トリビュート・アルバム]]『[[PARADE III 〜RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK〜]]』([[2020年]])において[[八十八ヶ所巡礼 (バンド)|八十八ヶ所巡礼]]によるカバーが収録されている<ref name="towerrecords20191021">{{Cite web|和書|author= |date=2019-10-21 |url=https://tower.jp/article/feature_item/2019/10/21/0708 |title=BUCK-TICKトリビュートアルバム第3弾『PARADE III ~RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK~』2020年1月29日発売 |website=TOWER RECORDS ONLINE |publisher=[[タワーレコード]] |accessdate=2022-03-21}}</ref><ref name="natalie20191122">{{Cite web|和書|author= |date=2019-11-22 |url=https://natalie.mu/music/news/356617 |title=BUCK-TICKトリビュート詳細解禁!椎名林檎、BRAHMAN、DIRらがカバーするのは |website=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |publisher=ナターシャ |accessdate=2022-03-21}}</ref><ref name="okmusic20191122">{{Cite web|和書|author= |date=2019-11-22 |url=https://okmusic.jp/news/364128 |title=BUCK-TICK、トリビュートアルバムの収録曲発表&ジャケ写は宇野亞喜良が担当 |website=[[OKWAVE|OKMusic]] |publisher=ジャパンミュージックネットワーク |accessdate=2022-03-21}}</ref>。 #「'''神風'''」 #:前述のとおり、4曲目とイントロ繋がっている。 #「'''ZERO'''」 #:書籍『B-T DATA <small>BUCK-TICK 25th Anniversary Edition</small>』では、[[ファンク]]であると記されている{{Sfn|B-T DATA|2013|p=165|ps= - 「DISCOGRAPHY 1986-2013」より}}。 #「'''ドレス'''」 #:先行[[シングル]]。特に表記はされていないが別ミックスである。詳細は「[[ドレス (BUCK-TICKの曲)|ドレス]]」を参照。 #「'''LION'''」 #:櫻井曰く「自分自身のことを唄った」楽曲。 #「'''Madman Blues <small>-ミナシ児ノ憂鬱-</small>'''」 #:書籍『B-T DATA <small>BUCK-TICK 25th Anniversary Edition</small>』では、[[ヒップホップ]]であると記されている{{Sfn|B-T DATA|2013|p=165|ps= - 「DISCOGRAPHY 1986-2013」より}}。 #「'''die'''」 #:後に[[リカット]]された。詳細は「[[die (BUCK-TICKの曲)|die]]」を参照。 #* 「'''D・T・D'''」([[隠しトラック]])2002年リマスター盤では93トラックの仕掛けが再現されていない(初回盤にボーナストラックを収録する関係と思われる)。 == スタッフ・クレジット == === BUCK-TICK === *[[櫻井敦司]] - [[ボーカル]] *[[今井寿]] - [[ギター]] *[[星野英彦]] - ギター、[[ピアノ]]、[[シンセサイザー]] *[[樋口豊 (ミュージシャン)|樋口豊]] - [[ベース (弦楽器)|ベース]] *[[ヤガミトール]] - [[ドラムセット|ドラムス]]、[[パーカッション]] === 参加ミュージシャン === *[[浜田理恵]] - バッキングボーカル(7曲目) *[[横山和俊]] - [[マニピュレーター|マニピュレート]](1,7曲目) === スタッフ === *[[BUCK-TICK]] - プロデューサー *田中淳一 - ディレクター *比留間整 - [[レコーディング・エンジニア]]、ミックス・エンジニア *内藤重利 - レコーディング・エンジニア *内田孝弘 - レコーディング・エンジニア *藤島浩人 - アシスタント・エンジニア *守屋勝美 - アシスタント・エンジニア *山根啓司 - ギターサウンド・テクニシャン *杉本幸彦 - ドラムチューナー *浅見繁男 - ドラムチューナー、ローディ *枡岡慶彦 - チーフマネージャー *下川ハジメ - マネージャー *小嶋人志 - マネージャー *豊島直己 - チーフ・プロモーター *大岡政利 - アーティスト&リレイションズ *高木修 - [[エグゼクティブ・プロデューサー]] *村木敬史 - エグゼクティブ・プロデューサー *シェイクハンド - アーティスト・マネージメント *ビジュアル・スタッフ **[[サカグチケン|坂口賢]] - アート・ディレクション&デザイン **[[蓮井幹生|M.HASUI]] - フォトグラファー **八木智晴 - スタイリスト **谷崎隆幸 - ヘア&メイクアップ **宮岡昌広 - コーディネイト **木澤勉 - コーディネイト **中尾健二 - プロダクツ・マネージメント **祖師雄一郎 - プロダクツ・マネージメント *小西康司(サウンドスカイ川奈) - スペシャル・サンクス *関口明 - スペシャル・サンクス *大場達夫 - スペシャル・サンクス *古居隆志 - スペシャル・サンクス *川島清(ラディック) - スペシャル・サンクス *草野豊([[フェルナンデス (楽器メーカー)|フェルナンデス]]) - スペシャル・サンクス *白土耕一郎([[グレコ]]) - スペシャル・サンクス *波多野光男(Bow's ギターギャラリー) - スペシャル・サンクス *[[藤井麻輝]] - スペシャル・サンクス *フックアップ - スペシャル・サンクス *松木昭男(イシバシ楽器) - スペシャル・サンクス *原島亨 - スペシャル・サンクス *[[アナーキー (バンド)|仲野茂]] - スペシャル・サンクス *[[THE MAD CAPSULE MARKETS|ザ・マッドカプセルマーケッツ]]の皆様 - スペシャル・サンクス *じゅぴ太 - スペシャル・サンクス *LAV - スペシャル・サンクス *HIRO([[THE STAR CLUB|ザ・スタークラブ]]) - スペシャル・サンクス *トランスワールド - スペシャル・サンクス *[[カノウプス]] - スペシャル・サンクス *Buck-Tick club - スペシャル・サンクス == リリース履歴 == {|class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:smaller" |- ! No. ! 日付 ! [[レコードレーベル|レーベル]] ! 規格 ! [[規格品番]] ! 最高順位 ! 備考 |- | style="text-align:right" | 1 | [[1993年]][[6月23日]] | [[ビクターエンタテインメント]]/[[Invitation (レーベル)|Invitation]] | [[コンパクトディスク|CD]] | VICL-419 | 2位 | |- | style="text-align:right" | 2 | [[2002年]][[9月19日]] | ビクターエンタテインメント/HAPPY HOUSE | CD | VICL-60988(初回盤)<br/>VICL-60968(通常盤) | - | デジタルリマスター盤(監修:比留間整)<br/>初回盤のみボーナストラック2曲収録、オリジナルステッカー封入 |- | style="text-align:right" | 3 | [[2007年]][[9月5日]] | ビクターエンタテインメント/Invitation | CD | VICL-62548 | - | デジタルリマスター盤、[[ディスクジャケット|紙ジャケット]]仕様 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author = |title = SHAPELESS BUCK-TICK |date = 1994-10-05 |publisher = [[ソニー・マガジンズ]] |page = 120 |isbn = 9784789709279 |ref = {{SfnRef|SHAPELESS|1994}}}} * {{Cite book|和書 |author = |title = WORDS BY BUCK-TICK 1987-2002 |date = 2002-03-26 |publisher = [[シンコーミュージック・エンタテイメント|シンコーミュージック]] |pages = 27 - 107 |isbn = 9784401617265 |ref = {{SfnRef|WORDS BY BUCK-TICK|2002}}}} * {{Cite book|和書 |author = |title = BUCK-TICK ~since 1985-2011~ 史上最強のROCK BAND |date = 2011-03-26 |publisher = アイビーコーポレーション |pages = 29 - 91 |isbn = 9784864251273 |ref = {{SfnRef|BUCK-TICK ~since 1985-2011~|2011}}}} * {{Cite book|和書 |author = |title = B-T DATA <small>BUCK-TICK 25th Anniversary Edition</small> |date = 2013-04-10 |publisher = [[エンターブレイン]] |pages = 164 - 165 |isbn = 9784047288218 |ref = {{SfnRef|B-T DATA|2013}}}} == 外部リンク == *{{Discogs master|type=album|1002456|name=Buck-Tick – Darker Than Darkness -Style 93-}} {{Album-stub}} {{BUCK-TICK}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たあかあさんたあくねすすたいる93}} [[Category:1993年のアルバム]] [[Category:BUCK-TICKのアルバム]] [[Category:ビクターインビテーションのアルバム]]
2005-11-29T03:43:10Z
2023-10-01T13:01:33Z
false
false
false
[ "Template:Sfn", "Template:Tracklist", "Template:BUCK-TICK", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:Album-stub", "Template:Infobox Album", "Template:Efn", "Template:Album ratings", "Template:Quote box", "Template:Cite web", "Template:Reflist", "Template:Discogs master", "Template:Normdaten", "Template:小文字", "Template:Pathnav", "Template:仮リンク" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/Darker_than_darkness_-style_93-
39,148
金子光晴
金子 光晴(かねこ みつはる、1895年(明治28年)12月25日 - 1975年(昭和50年)6月30日)は、日本の詩人。本名は金子安和(かねこ やすかず)。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいる。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。 愛知県海東郡越治村(現津島市)生まれ。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。 渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。その後世界を放浪して無国籍者の視野を獲得。反権力、反戦の詩を多く残した。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。 詩集として『落下傘』、『こがね蟲』、『鮫』、『蛾』、『IL』、『女たちへのエレジー』 、『若葉のうた』などがある。また、『マレー蘭印紀行』、『どくろ杯』、『ねむれ巴里』などの自伝、終戦後の日本と自身の『人間の悲劇』、 古今東西絶望した人々について書いた『絶望の精神史』などがある。 一般的に鋭い自己と現実批判、抵抗、反骨の詩人として知られる。 戦時中も偽装した詩で監視・検閲を潜り抜け戦争へ傾く風潮に抵抗する作品を発表しつづけた。(後述) イギリス、ベルギー、パリ、上海、アジア、欧州の旅の風景、人物の描写、 江戸から明治、大正、昭和、戦中と敗戦後の移り変わりについてや、『愛情69』などエロスを描いた作品も評価が高い 1918年以降、イギリス、ベルギー、フランス、上海に渡航、滞在。 1928年には妻三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパの旅にて欧州の植民地となったアジアの国を見る。 この旅は裕福なものではなく、各地の日本人がいれば訪ね、多少習っていた 絵を描き、資金援助を申し出ては、断られながらの旅であった。 旅の末たどり着いたパリでは、一時期安定した収入も無く、生活の為に本人曰く、売春以外のことは何でもしたと自伝「眠れパリ」でも詳細に描かれている。 戦争中は戦争に対し自身の経験からも反対の立場をとり、作品を発表するにあたり、国の検閲をすり抜けるよう文学的技法を使い、偽装した形で発表し続けた。戦争・天皇・宗教・日本の封建的性格などについての作品も多く残している。 一人息子が招集されそうになった時には、病気に近い状態にし兵役を免れさせ、国家への不服従を貫き、個人の意思を貫いた。 表面的には一見、戦争肯定とも見える詩「湾」「落下傘」なども書いているが、監視や検閲をすり抜け作品を届ける為に一見、戦争批判ではないようにも見える表現を行ったと本人が自著、改定『詩人 金子光晴自伝』(P195~197)解説している。 代表作の一つ、詩集『鮫』についての本人の自著、改定『詩人 金子光晴自伝』(P195~197)の解説では、 「『鮫』は禁制の書だったが、厚く偽装を凝らしているので、ちょっとみては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳きだしもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが(中略) 強力な軍の干渉のもとの政府下で、どれだけ生きのびれるかが、我ながらみものであった。そして、この結果は、当時の僕としては、いかなる力をもってしても、考え直したり、曲げたりする余地のあるものではなかった。 (中略) 御用作家たちも、続々と海を渡って、報道陣に加わった。非協力作家のリストを軍の黒幕になって作っている文士もあると聞いた。 金子光晴はまだ帰り新参の駆け出しだったので、そういうリストには漏れていた。詩が難解ということも僕にとって有利だった。その上、僕の詩の鍵を握った連中は、概して僕を外界から守ってくれた。多くの正直な詩人達が、沈黙を守らせられている時、僕に語らせようという、暗黙のあいだの理解が、目立たぬ場所で僕を見守っていてくれたのだ。』 戦時中下の暴力的言論弾圧下の中、厳しくなる検閲や監視からすり抜けるため、光晴の考えを知っているものや、詩に造詣のある者、さらには一般の読者にも鍵の様なものがあれば全ての引き出しが開き、逆の意味を意図している内容がわかるように書いたと後述している。 読み取り方の【鍵】の一例としては、後述する『こがね蟲 金子光晴研究第4号』に開設された作品「湾」の分析ではこうされている。 「湾」の序文のヘーゲルの言葉の引用 「永遠の平和に安らふ民あらんか それはただ堕落の外なるべし」という内容。これらは光晴の作品を知る者には、光晴が絶対に思わないであろう 正反対とも言えるものである。それを意図的にあえて序文に載せているのは、読者に以下、この詩の内容は通常の読み取りではなく、反語・否定的な意図で読み取って欲しいという【鍵】であると分析されている。 光晴研究の中で湾の内容の読み取り方として分析者は()を光晴の真意ではないかとして付け加えている。 「勝たねばならぬ(という)信念の(スローガン)ため ひとそよぎの草も動員されねばならないのだ」。 意味として「勝つために動員すべき」ではなく、「草までも動員するという馬鹿、馬鹿しさ、強制への反抗」また「草」自体も自然に生えている自由なはずの人間、もしくは光晴自身とも読め、どんなものにも強制する現状への思いを書いているとも読み取れる。 また研究の中では、戦中も身の危険を感じながらも、自身の作品を描き続けた光晴が、突如、戦争賛美詩を書くのも不自然であり、戦中も反戦や抵抗詩も書いている事から、得意の隠喩、伏字、アイロニー(反語、風刺、あてこすり、皮肉など)を込めた詩で検閲や特高警察の監視の目を逸らしながら発表したものであろうと分析している。 アイロニーの表現の例として光晴の作品『戦争』を挙げる 子どもよ。まことにうれしいじゃないか。 たがいにこの戦争に生まれあわせたことは。 十九の子どもも 五十の父親も おなじおしきせをきて また櫻本富雄が戦争賛美詩とした『湾』『洪水』は戦争協力詩であるとの主張に対し、金子光晴の会『こがね蟲 金子光晴研究第4号』では、 光晴の詩法と意図を読み取らずに、レッテルを貼った詩の実像を歪める行為であると、各詩の改編や指摘箇所、発表当時の雑誌の状況(同じ雑誌のある詩は反戦的内容で、片方は戦争賛美詩という指摘の矛盾など)を例に出し各詩を詳細に分析し、櫻本の意見に反論している。 これとは別に光晴自身のエッセイ(『反骨』か『じぶんというもの』収録)の中で、『天邪鬼のうさばらし』として、今(エッセイ筆記当時)の反戦運動の中には、熱に浮かされた戦争時と共通するものを感じなくもないと書いている。 晩年はTV出演や対談を多くしており、その一部が『金子光晴下駄ばき対談』、回想に堀木正路『金子光晴とすごした時間』(各・現代書館) 戦後は、山川浩『京都守護職始末 旧会津藩老臣の手記』(平凡社東洋文庫全2巻)を訳し、『日本人の悲劇』(新書判、レグルス文庫・第三文明社)、『絶望の精神史 体験した「明治百年」の悲惨と残酷』(初版は光文社カッパ・ブックス)を著し、明治維新以降の近代化路線へ批判を行っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "金子 光晴(かねこ みつはる、1895年(明治28年)12月25日 - 1975年(昭和50年)6月30日)は、日本の詩人。本名は金子安和(かねこ やすかず)。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいる。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "愛知県海東郡越治村(現津島市)生まれ。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。その後世界を放浪して無国籍者の視野を獲得。反権力、反戦の詩を多く残した。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "詩集として『落下傘』、『こがね蟲』、『鮫』、『蛾』、『IL』、『女たちへのエレジー』 、『若葉のうた』などがある。また、『マレー蘭印紀行』、『どくろ杯』、『ねむれ巴里』などの自伝、終戦後の日本と自身の『人間の悲劇』、 古今東西絶望した人々について書いた『絶望の精神史』などがある。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一般的に鋭い自己と現実批判、抵抗、反骨の詩人として知られる。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "戦時中も偽装した詩で監視・検閲を潜り抜け戦争へ傾く風潮に抵抗する作品を発表しつづけた。(後述)", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "イギリス、ベルギー、パリ、上海、アジア、欧州の旅の風景、人物の描写、 江戸から明治、大正、昭和、戦中と敗戦後の移り変わりについてや、『愛情69』などエロスを描いた作品も評価が高い", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1918年以降、イギリス、ベルギー、フランス、上海に渡航、滞在。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1928年には妻三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパの旅にて欧州の植民地となったアジアの国を見る。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この旅は裕福なものではなく、各地の日本人がいれば訪ね、多少習っていた 絵を描き、資金援助を申し出ては、断られながらの旅であった。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "旅の末たどり着いたパリでは、一時期安定した収入も無く、生活の為に本人曰く、売春以外のことは何でもしたと自伝「眠れパリ」でも詳細に描かれている。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "戦争中は戦争に対し自身の経験からも反対の立場をとり、作品を発表するにあたり、国の検閲をすり抜けるよう文学的技法を使い、偽装した形で発表し続けた。戦争・天皇・宗教・日本の封建的性格などについての作品も多く残している。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一人息子が招集されそうになった時には、病気に近い状態にし兵役を免れさせ、国家への不服従を貫き、個人の意思を貫いた。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "表面的には一見、戦争肯定とも見える詩「湾」「落下傘」なども書いているが、監視や検閲をすり抜け作品を届ける為に一見、戦争批判ではないようにも見える表現を行ったと本人が自著、改定『詩人 金子光晴自伝』(P195~197)解説している。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "代表作の一つ、詩集『鮫』についての本人の自著、改定『詩人 金子光晴自伝』(P195~197)の解説では、", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "「『鮫』は禁制の書だったが、厚く偽装を凝らしているので、ちょっとみては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳きだしもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが(中略)", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "強力な軍の干渉のもとの政府下で、どれだけ生きのびれるかが、我ながらみものであった。そして、この結果は、当時の僕としては、いかなる力をもってしても、考え直したり、曲げたりする余地のあるものではなかった。 (中略) 御用作家たちも、続々と海を渡って、報道陣に加わった。非協力作家のリストを軍の黒幕になって作っている文士もあると聞いた。 金子光晴はまだ帰り新参の駆け出しだったので、そういうリストには漏れていた。詩が難解ということも僕にとって有利だった。その上、僕の詩の鍵を握った連中は、概して僕を外界から守ってくれた。多くの正直な詩人達が、沈黙を守らせられている時、僕に語らせようという、暗黙のあいだの理解が、目立たぬ場所で僕を見守っていてくれたのだ。』", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "戦時中下の暴力的言論弾圧下の中、厳しくなる検閲や監視からすり抜けるため、光晴の考えを知っているものや、詩に造詣のある者、さらには一般の読者にも鍵の様なものがあれば全ての引き出しが開き、逆の意味を意図している内容がわかるように書いたと後述している。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "読み取り方の【鍵】の一例としては、後述する『こがね蟲 金子光晴研究第4号』に開設された作品「湾」の分析ではこうされている。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「湾」の序文のヘーゲルの言葉の引用", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「永遠の平和に安らふ民あらんか それはただ堕落の外なるべし」という内容。これらは光晴の作品を知る者には、光晴が絶対に思わないであろう 正反対とも言えるものである。それを意図的にあえて序文に載せているのは、読者に以下、この詩の内容は通常の読み取りではなく、反語・否定的な意図で読み取って欲しいという【鍵】であると分析されている。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "光晴研究の中で湾の内容の読み取り方として分析者は()を光晴の真意ではないかとして付け加えている。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「勝たねばならぬ(という)信念の(スローガン)ため ひとそよぎの草も動員されねばならないのだ」。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "意味として「勝つために動員すべき」ではなく、「草までも動員するという馬鹿、馬鹿しさ、強制への反抗」また「草」自体も自然に生えている自由なはずの人間、もしくは光晴自身とも読め、どんなものにも強制する現状への思いを書いているとも読み取れる。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また研究の中では、戦中も身の危険を感じながらも、自身の作品を描き続けた光晴が、突如、戦争賛美詩を書くのも不自然であり、戦中も反戦や抵抗詩も書いている事から、得意の隠喩、伏字、アイロニー(反語、風刺、あてこすり、皮肉など)を込めた詩で検閲や特高警察の監視の目を逸らしながら発表したものであろうと分析している。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "アイロニーの表現の例として光晴の作品『戦争』を挙げる", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "子どもよ。まことにうれしいじゃないか。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "たがいにこの戦争に生まれあわせたことは。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "十九の子どもも", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "五十の父親も", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "おなじおしきせをきて", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また櫻本富雄が戦争賛美詩とした『湾』『洪水』は戦争協力詩であるとの主張に対し、金子光晴の会『こがね蟲 金子光晴研究第4号』では、", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "光晴の詩法と意図を読み取らずに、レッテルを貼った詩の実像を歪める行為であると、各詩の改編や指摘箇所、発表当時の雑誌の状況(同じ雑誌のある詩は反戦的内容で、片方は戦争賛美詩という指摘の矛盾など)を例に出し各詩を詳細に分析し、櫻本の意見に反論している。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "これとは別に光晴自身のエッセイ(『反骨』か『じぶんというもの』収録)の中で、『天邪鬼のうさばらし』として、今(エッセイ筆記当時)の反戦運動の中には、熱に浮かされた戦争時と共通するものを感じなくもないと書いている。", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "晩年はTV出演や対談を多くしており、その一部が『金子光晴下駄ばき対談』、回想に堀木正路『金子光晴とすごした時間』(各・現代書館)", "title": "著作" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "戦後は、山川浩『京都守護職始末 旧会津藩老臣の手記』(平凡社東洋文庫全2巻)を訳し、『日本人の悲劇』(新書判、レグルス文庫・第三文明社)、『絶望の精神史 体験した「明治百年」の悲惨と残酷』(初版は光文社カッパ・ブックス)を著し、明治維新以降の近代化路線へ批判を行っている。", "title": "著作" } ]
金子 光晴は、日本の詩人。本名は金子安和。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいる。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。 愛知県海東郡越治村(現津島市)生まれ。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。 渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。その後世界を放浪して無国籍者の視野を獲得。反権力、反戦の詩を多く残した。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。
{{出典の明記|date=2020年5月}} {{画像提供依頼|顔写真|date=2022年10月|cat=人物}} {{Infobox 人物 |氏名= 金子 光晴 |ふりがな= かねこ みつはる |画像=<!-- 画像ファイル名 --> |画像サイズ= |画像説明= |出生名=金子 安和 |生年月日= {{生年月日と年齢|1895|12|25|no}} |生誕地= {{JPN}} [[愛知県]][[海東郡]][[越治村]] |没年月日= {{死亡年月日と没年齢|1895|12|25|1975|06|30}} |死没地= {{JPN}} [[東京都]][[武蔵野市]][[吉祥寺本町]] |国籍=<!-- {{JPN}} --> |別名= |職業= |活動期間= |著名な実績= |代表作= |墓地=[[八王子市]]の[[上川霊園]]}} '''金子 光晴'''(かねこ みつはる、[[1895年]]([[明治]]28年)[[12月25日]] - [[1975年]]([[昭和]]50年)[[6月30日]])は、[[日本]]の[[詩人]]。本名は金子安和(かねこ やすかず)。弟に詩人で小説家の[[大鹿卓]]がいる。妻も詩人の[[森三千代]]、息子に翻訳家の[[森乾]]。 [[愛知県]][[海東郡]][[越治村]](現[[津島市]])生まれ。[[暁星学園|暁星中学校]]卒業。[[早稲田大学]]高等予科文科、[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]日本画科、[[慶應義塾大学]]文学部予科に学ぶも、いずれも中退。 渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。その後世界を放浪して無国籍者の視野を獲得。反権力、反戦の詩を多く残した。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。 == 経歴 == {{年譜のみの経歴|date=2020年5月}} *[[1895年]]([[明治]]28年) 12月25日、愛知県海東郡越治村(現:津島市[[下切町 (津島市)|下切町]])の酒商の家に生まれる。父・大鹿和吉、母・里やう。本名は安和、後に保和を名のる。 *[[1897年]](明治30年) 父が事業に失敗し、[[名古屋市]][[小市場町]](現:[[中区 (名古屋市)|中区]][[錦三丁目]])に転居する。土建業の[[清水組]]名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となる(正式には6歳のとき)。養母の須美は当時16歳。 *[[1900年]](明治33年) 養父が京都出張所主任となったため、[[京都市]][[上京区]]に転居。 *[[1902年]](明治35年) 4月、金子保和の名で[[銅駝尋常高等小学校]]尋常科に入学する。 *[[1906年]](明治39年) 養父の東京本店転任にともない、一家は銀座の祖父宅に転居する。4月、泰明尋常高等小学校(現:[[中央区立泰明小学校]])高等科に入学。銀座竹川町(現・銀座7丁目)のキリスト教教会で洗礼志願式を受ける。[[浮世絵師]]の[[小林清親]]に[[日本画]]を習う。 *[[1907年]](明治40年) 6月、[[牛込区|牛込]]新小川町に転居し、津久戸尋常小学校(現・[[新宿区立津久戸小学校]]に転校する。11月、友人と渡米を企てて家出するが、やがて見つかり連れ戻される。この放浪中の不摂生により体調を崩し、翌年3月まで床に臥せる。 *[[1908年]](明治41年) 4月、[[暁星中学校]]に入学。初年度は成績優秀だった。[[漢文学]]に関心を寄せる。 *[[1909年]](明治42年) 夏休みに徒歩で[[房総半島]]を横断旅行する。[[老荘思想]]や[[江戸文学]]に惹かれ、中学の校風に反発し、成績が悪くなる。 *[[1910年]](明治43年/15歳) 200日近く学校を休んだため留年となる。現代文学に関心が向かい、小説家を志望する。 *[[1912年]](明治45年/[[大正]]元年) 同人誌を発行し、級友に回覧する。 *[[1914年]](大正3年) 4月、[[早稲田大学]]高等予科文科に入学するが、[[自然主義文学]]の空気になじめず、[[オスカー・ワイルド]]や[[ミハイル・アルツィバーシェフ|アルツィバーシェフ]]に影響を受ける。 *[[1915年]](大正4年) 2月、早稲田大学を中退。4月に東京美術学校(現・[[東京芸術大学]])日本画科に入学するが8月には退学する。翌9月、[[慶應義塾大学]]文学部予科に入学。すさんだ生活を送り、この頃のようすを「人はみな、その頃の僕を狂人あつかいにした」と述べている。肺尖[[カタル]]により、3ヵ月ほど休学。丙種で徴兵検査に合格。 *[[1916年]](大正5年) 6月、慶應義塾大学を中退。[[保泉良弼]]、良親兄弟と知り合い、触発されて詩作をはじめる。[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]、[[北原白秋]]、[[三木露風]]などの詩を読みふける。7月、[[石井有二]]、[[小山哲之輔]]らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)。10月、養父の荘太郎が死去したため、養父と財産を折半し放蕩生活を続ける。 *[[1917年]](大正6年) 牛込区赤城元町に転居。[[岐阜県|岐阜]]、[[関西]]、[[福江島]]などへ「目的のない」旅をする。[[中条辰夫]]と雑誌『魂の家』を発行(5号で休刊)。 *[[1918年]](大正7年) [[ウォルト・ホイットマン]]、[[エドワード・カーペンター]]に影響を受ける。鉱山の仕事に着手するが失敗する。[[川路柳虹]]に印刷会社を紹介してもらい、自費で詩集『赤土の家』の出版を企画する。12月、養父の友人とともにヨーロッパ[[遊学]]に旅立つ。 *[[1919年]](大正8年) 1月、金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行。同月末、[[イギリス]]の[[リバプール]]に到着する。その後、[[ロンドン]]、また[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]を訪ね、ブリュッセルでは同行人と別れ一人で郊外に下宿。親日家であり、日本の工芸品のコレクターであった[[イヴァン・ルパージュ]]の厚遇を得る。西洋美術に触れ、落ち着いた読書の日々を送る。 *[[1920年]](大正9年) [[エミール・ヴェルハーレン]]の詩に強い影響を受ける。5月、ブリュッセルを離れて[[パリ]]へ。12月、ロンドンで帰国の船に乗る。 *[[1921年]](大正10年) 1月、2年余のヨーロッパ旅行から帰国。同人誌『人間』等に詩を発表する。 *[[1922年]](大正11年) 詩誌『楽園』(3号で休刊)の編集に携わる。同人に[[大山広光]]、[[サトウハチロー|佐藤八郎]]、[[平野威馬雄]]ら。3月、ベルギーで書きためた詩の推敲に着手(後に『こがね蟲』の題名をつける)。同人誌『人間』『嵐』に詩を発表。 *[[1923年]](大正12年) 7月、詩集『こがね蟲』出版記念会を開く。出席者に[[西条八十]]、[[吉田一穂]]、[[石川淳]]、[[室生犀星]]、[[福士幸次郎]]ら。9月、[[関東大震災]]に遭い、名古屋の友人の実家に身を寄せる。のちに兵庫の実妹の嫁ぎ先へ。 *[[1924年]](大正13年) 1月、東京に戻る。小説家志望の[[森三千代]]と知り合い、恋愛関係になる。7月には三千代が妊娠のため東京女子高等師範(現:[[お茶の水女子大学]])を退学。室生犀星の仲人により結婚する。 *[[1925年]](大正14年) 3月、長男・乾が誕生する。翻訳で生計を立てるが、困窮した生活が続く。3月、『[[エミール・ヴェルハーレン|ブェルハレン]]詩集』訳(新潮社)。8月、『近代仏蘭西詩集』訳(紅玉堂書店)、[[モーリス・ルブラン]]『虎の子』訳(紅玉堂書店、[[怪盗ルパン]]シリーズ)を刊行。 *[[1926年]](大正15年) 3月、夫婦で[[上海市|上海]]に1ヵ月ほど滞在し、[[魯迅]]らと親交をかわす。 *[[1927年]](昭和2年) [[国木田虎雄]]夫妻と上海に行き3ヵ月ほど滞在。[[横光利一]]とも合流して交流を深める。この間に三千代が美術評論家の[[土方定一]]と恋愛関係に陥る。5月、詩集『鱶沈む』(有明社出版部、森三千代との共著)を刊行。 *[[1928年]](昭和3年) 小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募したが、横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる。9月、三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパの旅に出発。はじめの3ヵ月ほどは大阪に滞在し、後に[[長崎市|長崎]]から上海に渡る(上海にはこれより5ヶ月に渡って滞在)。 *[[1929年]](昭和4年) 上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、[[香港]]へ渡る。のちに[[シンガポール]]でも風景小品画展を開き、[[ジャカルタ]]、[[ジャワ島]]へ旅行。11月、一人分のパリまでの旅費が貯まり、三千代を先に旅立たせる。 *[[1930年]](昭和5年) 1月、パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ。のちに金子は「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやった」と当時の生活について述べている。 *[[1931年]](昭和6年) パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せる。日本画の展覧会を開いて旅費を得、三千代を残してシンガポールへ渡る。 *[[1932年]](昭和7年) 4ヵ月ほど[[マレー半島]]を旅行する。三千代は4月に単身で帰国し、6月には光晴も帰国。実妹の設立した化粧品会社(モンココ洗粉本舗)で働き生活費を得る。 *[[1933年]](昭和8年) [[山之口貘]]との交友がはじまる{{Sfn|茨木|1999|pp=42-46}}。 *[[1935年]](昭和10年) 9月、『[[文藝 (改造社)|文藝]]』に「鮫」を発表。12月には『[[中央公論]]』に「灯台」を発表する。日本の社会体制への批判を込めた詩を次第に発表するようになる。[[喘息]]の発作で苦しむことが多くなる。 *[[1937年]](昭和12年) 12月、三千代と[[中華民国|中国]]北部を旅行し、[[日本軍]]の大陸進出に対する認識を深くする。8月、詩集『鮫』([[人文社]])を刊行。 *[[1938年]](昭和13年) 1月中旬、中国より帰国。3月、[[吉祥寺]]に転居する。 *[[1940年]](昭和15年) 10月、『[[マレー蘭印紀行]]』([[山雅房]])を刊行。 *[[1941年]](昭和16年) 4月、[[アンリ・フォコニエ]]『馬来』を訳(昭和書房)。7月、『[[エムデン最期の日]]』訳(昭和書房)を刊行。 *[[1943年]](昭和18年) 12月、『[[マライの健ちゃん]]』([[中村書店]])を刊行。 *[[1944年]](昭和19年) 4月、長男の乾が[[徴兵検査]]を受ける。11月、召集令状が届いた乾を戦地に送らせないため、[[気管支]][[カタル]]を病んでいた乾を雨の中に立たせたりして発作を誘発しようとした。その結果、召集を免れる。12月、一家で[[山梨県]]の[[山中湖]]畔に疎開(この頃、後に『落下傘』で発表する作品群を制作)。 *[[1945年]](昭和20年) 再度乾に召集令状が届くが、診断書を持って係官と掛け合い、延期させる。 *[[1946年]](昭和21年) 3月、疎開先より吉祥寺に戻る。『コスモス』の同人となる。 *[[1948年]](昭和23年) 詩人志望の[[大河内令子]]と恋愛関係になり、この後三千代との間で、離婚と入籍を繰り返す。4月に詩集『落下傘』([[日本未来派発行所]])、9月には詩集『蛾』([[北斗書院]])を刊行。 *[[1949年]](昭和24年) 三千代が[[関節リウマチ]]に罹り、闘病生活を送る。5月に詩集『女たちのエレジー』([[創元社]])、12月には詩集『鬼の児の唄』([[十字屋書店]])を刊行。 *[[1950年]](昭和25年) 6月、『かえれ湖』([[文林社]])を刊行。 *[[1951年]](昭和26年) 4月に『金子光晴詩集』(創元社)、6月には詩集『[[ルイ・アラゴン|アラゴン]]詩集』訳(創元社)を刊行。 *[[1952年]](昭和27年) 5月に詩集『悪の華』([[宝文社]])、12月には詩集『人間の悲劇』(創元社)を刊行。 *[[1954年]](昭和29年) 1月、『人間の悲劇』で第5回[[読売文学賞]]を受賞する。6月、『現代詩の鑑賞』([[河出書房]])を刊行。 *[[1955年]](昭和30年) 7月、三千代とともに[[札幌医科大学|札幌医大]]文芸部主催の会で講演する。1月、詩集『非情』([[新潮社]])を刊行。 *[[1956年]](昭和31年) 5月、詩集『水勢』([[東京創元社]])を刊行。 *[[1957年]](昭和32年) 8月、自伝『詩人』([[平凡社]])を刊行。 *[[1959年]](昭和34年) 10月に『日本人について』([[春秋社]])、12月には『日本の芸術について』(春秋社)を刊行。 *[[1960年]](昭和35年) 7月、書肆ユリイカより『金子光晴全集(全5巻)』第1巻を刊行。 *[[1962年]](昭和37年) 7月、『屁のような歌』([[思潮社]])を刊行。 *[[1963年]](昭和38年) 3月より1971年の8月まで、『金子光晴全集』第2~第5巻が[[昭森社]]より刊行される。7月、山之口貘の葬儀委員長を務める。 *[[1964年]](昭和39年) 6月、孫の若葉が生まれる。同人雑誌『あいなめ』に参加し、中心的存在となる。同人には[[桜井滋人]]・[[新谷行]]などがいる。 *[[1965年]](昭和49年) 三千代と3度目の離婚届を提出する。5月に詩集『IL』([[勁草書房]])、9月には『絶望の精神史』([[光文社]])を刊行。 *[[1967年]](昭和42年) 2月に『日本人の悲劇』([[富士書院]])、4月に詩集『若葉のうた』(勁草書房)、6月に『定本金子光晴詩集』([[筑摩書房]])、7月に『ランボオ詩集』([[角川書店]])を刊行。 *[[1968年]](昭和43年) 7月に評論・随筆集『残酷と非情』([[川島書店]])、10月に詩集『愛情69』(筑摩書房)、12月には『作詩法入門』([[久保書店]])を刊行。 *[[1969年]](昭和44年) 5月、軽い[[脳溢血]]により片腕が利かなくなり、2ヵ月ほど[[河北病院]]に入院する。10月に詩集『よごれてゐない一日』([[あいなめ会]])、12月には『金子光晴文学断想』([[冬樹社]])を刊行。 *[[1971年]](昭和46年) 4月、詩集『桜桃梅李』([[虎見書房]])、5月、『どくろ杯』([[中央公論社]])、6月、『新雑事秘辛』([[濤書房]])、『人非人伝』([[大光社]])、9月、『風流尸解記』([[青娥書房]])、『金子光晴全集』第5巻(最終巻)を刊行。 *[[1972年]](昭和47年) 3月、『風流尸解記』で[[芸術選奨]]文部大臣賞を受賞する。 *[[1973年]](昭和48年) 4月、『天邪鬼』([[大和書房]])を刊行。5月、[[荻窪 (杉並区)|荻窪]]の[[シミズ画廊]]で金子光晴展を開く。また、雑誌「みづゑ」に、「ベルギーの象徴絵画」というエッセーを寄稿。7月、京都へ旅行。9月、詩集『花とあきビン』(青娥書房)、『愛と詩のものがたり』([[サンリオ出版]])。10月、『ねむれ巴里』(中央公論社)を刊行。 *[[1974年]](昭和49年) 4月、『人よ、寛かなれ』(青娥書房)、『金子光晴自選詩画集』([[五月書房]])。7月から雑誌『[[面白半分]]』の編集長を半年務める。この頃、雑誌『面白半分』で金子の特異なキャラクターが若者に知られ、「エロじいさん」キャラで若者の間の教祖的な存在となる<ref>『「面白半分」快人列伝』 (平凡社新書、[[佐藤嘉尚]]著)</ref>。11月、『西ひがし』(中央公論社)を刊行。解説『平凡社ギャラリー 18 [[渓斎英泉|英泉]]』([[平凡社]])を刊。 *[[1975年]](昭和50年) 1月、『ほりだしもの』(大和書房)。2月より『'''金子光晴全集'''』が刊行開始(全15巻、中央公論社、1977年の1月まで)。4月、遺書をしたためる。『金子光晴(日本の詩)』(ぽるぷ出版)。6月30日午前11時30分、[[気管支喘息]]による急性[[心不全]]により[[武蔵野市]][[吉祥寺本町]]の自宅で死去<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)96頁</ref>。7月5日、[[千日谷会堂]]にて告別式が行われる。 *[[1977年]](昭和52年) 6月29日、森三千代が死去。7月に『回想の詩人たち』(冬樹社)、8月『金子光晴下駄ばき対談』([[現代書館]]、新版1995年)、詩集『塵芥』([[いんなあとりっぷ社]])、『私の詩論』(冬樹社)、9月、『鳥は巣に・六道』(角川書店)。11月、『樹懶』([[河出書房新社]])、『這えば立て』(大和書房)を刊行。 == 著作 == {{雑多な内容の箇条書き|date=2020年5月}} 詩集として『落下傘』、『こがね蟲』、『鮫』、『蛾』、『IL』、『女たちへのエレジー』 、『若葉のうた』などがある。また、『マレー蘭印紀行』、『どくろ杯』、『ねむれ巴里』などの自伝、終戦後の日本と自身の『人間の悲劇』、 古今東西絶望した人々について書いた『絶望の精神史』などがある。 一般的に鋭い自己と現実批判、抵抗、反骨の詩人として知られる。 戦時中も偽装した詩で監視・検閲を潜り抜け戦争へ傾く風潮に抵抗する作品を発表しつづけた。(後述) イギリス、ベルギー、パリ、上海、アジア、欧州の旅の風景、人物の描写、 江戸から明治、大正、昭和、戦中と敗戦後の移り変わりについてや、『愛情69』などエロスを描いた作品も評価が高い{{要出典|date=2020年5月}} 1918年以降、イギリス、ベルギー、フランス、上海に渡航、滞在。 1928年には妻三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパの旅にて欧州の植民地となったアジアの国を見る。 この旅は裕福なものではなく、各地の日本人がいれば訪ね、多少習っていた 絵を描き、資金援助を申し出ては、断られながらの旅であった。 旅の末たどり着いたパリでは、一時期安定した収入も無く、生活の為に本人曰く、売春以外のことは何でもしたと自伝「眠れパリ」でも詳細に描かれている。 戦争中は戦争に対し自身の経験からも反対の立場をとり、作品を発表するにあたり、国の検閲をすり抜けるよう文学的技法を使い、偽装した形で発表し続けた。戦争・天皇・宗教・日本の封建的性格などについての作品も多く残している。 一人息子が招集されそうになった時には、病気に近い状態にし兵役を免れさせ、国家への不服従を貫き、個人の意思を貫いた{{要出典|date=2016年12月}}。 表面的には一見、戦争肯定とも見える詩「湾」「落下傘」なども書いているが、監視や検閲をすり抜け作品を届ける為に一見、戦争批判ではないようにも見える表現を行ったと本人が自著、改定『詩人 金子光晴自伝』(P195~197)解説している{{要出典|date=2016年12月}}。 代表作の一つ、詩集『鮫』についての本人の自著、改定『詩人 金子光晴自伝』(P195~197)の解説では、 「『鮫』は禁制の書だったが、厚く偽装を凝らしているので、ちょっとみては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳きだしもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが(中略) 「泡」は日本軍の暴状の曝露、「天使」は徴兵に対する否定と、厭戦論であり、「紋」は、日本の封建的性格の解剖であって、政府側からみれば、こんなものを書く僕は抹殺に値する人間であるわけだ。 強力な軍の干渉のもとの政府下で、どれだけ生きのびれるかが、我ながらみものであった。そして、この結果は、当時の僕としては、いかなる力をもってしても、考え直したり、曲げたりする余地のあるものではなかった。 (中略) 御用作家たちも、続々と海を渡って、報道陣に加わった。非協力作家のリストを軍の黒幕になって作っている文士もあると聞いた。 金子光晴はまだ帰り新参の駆け出しだったので、そういうリストには漏れていた。詩が難解ということも僕にとって有利だった。その上、僕の詩の鍵を握った連中は、概して僕を外界から守ってくれた。多くの正直な詩人達が、沈黙を守らせられている時、僕に語らせようという、暗黙のあいだの理解が、目立たぬ場所で僕を見守っていてくれたのだ。』  戦時中下の暴力的言論弾圧下の中、厳しくなる検閲や監視からすり抜けるため、光晴の考えを知っているものや、詩に造詣のある者、さらには一般の読者にも鍵の様なものがあれば全ての引き出しが開き、逆の意味を意図している内容がわかるように書いたと後述している。 読み取り方の【鍵】の一例としては、後述する『こがね蟲 金子光晴研究第4号』に開設された作品「湾」の分析ではこうされている。 「湾」の序文のヘーゲルの言葉の引用 「永遠の平和に安らふ民あらんか それはただ堕落の外なるべし」という内容。これらは光晴の作品を知る者には、光晴が絶対に思わないであろう 正反対とも言えるものである。それを意図的にあえて序文に載せているのは、読者に以下、この詩の内容は通常の読み取りではなく、反語・否定的な意図で読み取って欲しいという【鍵】であると分析されている{{誰2|date=2020年5月}}。 光晴研究の中で湾の内容の読み取り方として分析者は()を光晴の真意ではないかとして付け加えている。 「勝たねばならぬ(という)信念の(スローガン)ため ひとそよぎの草も動員されねばならないのだ」。 意味として「勝つために動員すべき」ではなく、「草までも動員するという馬鹿、馬鹿しさ、強制への反抗」また「草」自体も自然に生えている自由なはずの人間、もしくは光晴自身とも読め、どんなものにも強制する現状への思いを書いているとも読み取れる{{誰|date=2020年5月}}。 また研究の中では、戦中も身の危険を感じながらも、自身の作品を描き続けた光晴が、突如、戦争賛美詩を書くのも不自然であり、戦中も反戦や抵抗詩も書いている事から、得意の隠喩、伏字、アイロニー(反語、風刺、あてこすり、皮肉など)を込めた詩で検閲や特高警察の監視の目を逸らしながら発表したものであろうと分析している。 アイロニーの表現の例として光晴の作品『戦争』を挙げる {{Quote|~中略~ 子どもよ。まことにうれしいじゃないか。 たがいにこの戦争に生まれあわせたことは。 十九の子どもも 五十の父親も おなじおしきせをきて おなじ軍歌をうたって。}} また櫻本富雄が戦争賛美詩とした『湾』『洪水』は戦争協力詩であるとの主張に対し、金子光晴の会『こがね蟲 金子光晴研究第4号』では、 光晴の詩法と意図を読み取らずに、レッテルを貼った詩の実像を歪める行為であると、各詩の改編や指摘箇所、発表当時の雑誌の状況(同じ雑誌のある詩は反戦的内容で、片方は戦争賛美詩という指摘の矛盾など)を例に出し各詩を詳細に分析し、櫻本の意見に反論している。 これとは別に光晴自身のエッセイ(『反骨』か『じぶんというもの』収録)の中で、『天邪鬼のうさばらし』として、今(エッセイ筆記当時)の反戦運動の中には、熱に浮かされた戦争時と共通するものを感じなくもないと書いている。 晩年はTV出演や対談を多くしており、その一部が『金子光晴下駄ばき対談』、回想に堀木正路『金子光晴とすごした時間』(各・[[現代書館]]) 戦後は、[[山川浩]]『[[京都守護職]]始末 旧[[会津藩]]老臣の手記』([[平凡社東洋文庫]]全2巻)を訳し、『日本人の悲劇』(新書判、レグルス文庫・[[第三文明社]])、『絶望の精神史 体験した「明治百年」の悲惨と残酷』(初版は[[光文社]]カッパ・ブックス)を著し、[[明治維新]]以降の近代化路線へ批判を行っている。 === 没後刊行の新編著作 === *『金子光晴詩集』([[思潮社]] [[現代詩文庫]]、新版2008年)、新書判 *『風流尸解記』([[講談社文芸文庫]]、1990年) *『金子光晴詩集』([[清岡卓行]]編、[[岩波文庫]]、1991年) *『女たちへのいたみうた 金子光晴詩集』([[集英社文庫]]、1992年) *『詩人 金子光晴自伝』(講談社文芸文庫、1994年) *『金子光晴抄 詩と散文に見る詩人像』([[河邨文一郎]]編、[[冨山房]]百科文庫、1995年)、新書判 *『絶望の精神史』(講談社文芸文庫、1996年) *『人間の悲劇』(講談社文芸文庫、1997年) *『女たちへのエレジー』(講談社文芸文庫、1998年) *『人よ、寛かなれ』([[中公文庫]]、2003年) *『どくろ杯』(中公文庫、改版2004年) *『[[マレー蘭印紀行]]』(中公文庫、改版2004年) *『這えば立て』(中公文庫、2004年) *『ねむれ巴里』(中公文庫、改版2005年) *『流浪』 金子光晴エッセイ・コレクション 全3巻 **『異端』、『反骨』([[大庭萱朗]]編、[[ちくま文庫]]、2006年) *『西ひがし』(中公文庫、改版2007年) *『世界見世物づくし』(中公文庫、2008年) *森三千代/森乾と共著 『詩集「三人」』([[講談社]]、2008年/講談社文芸文庫、2019年) *『金子光晴 [[ちくま日本文学]] 038』(筑摩書房、2009年)、文庫判 *『自由について 金子光晴老境随想』(中公文庫、2016年) *『じぶんというもの 金子光晴老境随想』(中公文庫、2016年) *『マレーの感傷 金子光晴初期紀行拾遺』(中公文庫、2017年) *森三千代と共著 『相棒』(中公文庫、2021年) *『詩人/人間の悲劇 金子光晴自伝的作品集』(ちくま文庫、2023年)  ====資料文献==== *『金子光晴 新装版現代詩読本3』(思潮社、1985年) *『アジア無銭旅行』([[ランティエ]]叢書18:[[角川春樹事務所]]、1998年) *『金子光晴 21世紀の日本人へ』([[晶文社]]、1999年) *『金子光晴・草稿詩集IL(イル)〈自筆ノート〉復刻』(金子光晴の会、2010年)  *『老薔薇園』([[烏有書林]]、2015年) *桜井滋人聞き書き『金花黒薔薇艸紙』(集英社、1975年/[[小学館文庫]]、2002年) *森乾『父・金子光晴伝 夜の果てへの旅』([[書肆山田]]、2002年) *[[柏倉康夫]]『今宵はなんという夢見る夜 金子光晴と森三千代』(左右社、2018年) *『金子光晴を旅する』(中公文庫、2021年)、本人の回想と、作品論集 === 翻訳 === *[[アルチュール・ランボー]]『ランボオ詩集』[[角川文庫]]、1951年、改版1969年 **『イリュミナシオン ランボオ詩集』角川文庫、1999年/土曜社、2020年 *[[ルイ・アラゴン]]『アラゴン詩集』[[クロード・ロワ]]編著、[[創元社]](世界現代詩叢書、第1)1951年 *[[シャルル・ボードレール|ボードレエール]]『全訳 [[悪の華]]』宝文館、1952年 *[[ポール・ヴェルレーヌ]]『フランドル遊記』[[平凡社]]、1994年 == 絵画 == *「蛾」 紙本墨絵 色紙 *「燻蠟(人力車の図)」 紙本墨絵 色紙 *「花(仮題)」 紙本水彩 色紙 === 画集・アルバム === *『金子光晴自選詩画集』五月書房、1974年 *『大腐爛頌』詩画集 [[中林忠良]]版画/金子光晴詩 ギャルリー・ワタリ、1975年 :[[ブリュッセル]]でその多くが作られた詩集で、ここに収められた「アルコール」「草刈り」という詩について、詩人の[[飯島耕一]]は[[ピーテル・ブリューゲル|ブリューゲル]]や[[ヒエロニムス・ボス|ボッシュ]]の反映があるように思うと述べ、とくに「草刈り」に関してはのちの『鮫』(1935年)以降の詩へとつながって行く重要な詩であるとしている。<ref>{{Cite journal|author=飯島耕一|year=1991|title=バルザック、ドーミエ、金子光晴|journal=金子光晴研究 こがね蟲|volume=第5号}}</ref> *『金子光晴 画帖』、河邨文一郎編、三樹書房、1981年 *『金子光晴旅の形象:アジア・ヨーロッパ放浪の画集』、今橋映子編、平凡社、1997年 *『金子光晴 新潮日本文学アルバム45』新潮社、1994年 *『金子光晴 散歩帖』 峠彩三写真と文、アワ・プランニング、2002年  *『金子光晴の旅 かへらないことが最善だよ。』 横山良一写真、平凡社コロナ・ブックス、2011年 *『まばゆい残像 そこに金子光晴がいた』 小林紀晴写真、わたしの旅ブックス、2019年 == 金子光晴とフォーク == *[[高田渡]] **69 *[[ひがしのひとし]] **うまれてはじめてのことを女はされる *[[友部正人]] **絵はがき == 参考文献 == * {{Citation |和書 |last=茨木 |first=のり子 |authorlink=茨木のり子|title= 貘さんがゆく | volume=|series=詩人の評伝シリーズ|publisher=童話社 |date=1999-4-8 |isbn=4887470053}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アナキズム]] * [[ラブレター (1981年の映画)]] - 金子光晴と34歳年下の女性の、30年にも及んだ愛人生活を題材にした[[江森陽弘]]のノンフィクション作品『金子光晴のラブレター』が原作の[[日活ロマンポルノ]]映画。 == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/2226/poem_01.html |title=日本の詩人たちの森 金子光晴集 |date=20011230133523}} * {{NHK人物録|D0009072202_00000}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かねこ みつはる}} [[Category:金子光晴|*]] [[Category:20世紀日本の詩人]] [[Category:読売文学賞受賞者]] [[Category:暁星中学校・高等学校出身の人物]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:東京芸術大学出身の人物]] [[Category:慶應義塾大学出身の人物]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:1895年生]] [[Category:1975年没]]
2003-12-24T12:46:18Z
2023-11-09T13:45:42Z
false
false
false
[ "Template:要出典", "Template:Reflist", "Template:Normdaten", "Template:Wayback", "Template:出典の明記", "Template:年譜のみの経歴", "Template:誰2", "Template:Citation", "Template:Cite journal", "Template:画像提供依頼", "Template:Infobox 人物", "Template:雑多な内容の箇条書き", "Template:脚注ヘルプ", "Template:NHK人物録", "Template:Sfn", "Template:誰", "Template:Quote" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%85%89%E6%99%B4
1,242,040
有頭動物
有頭動物(ゆうとうどうぶつ、Craniata)とは、提案されている脊索動物内部の分類であり、現生種としては(狭義の)脊椎動物と、ヌタウナギを含む。頭蓋骨を持つことを特徴とする。 有頭動物は、伝統的な意味での(広義の)脊椎動物を置き換えるための、無階級の分類群である。広義の脊椎動物と狭義の脊椎動物の主な違いは、伝統的な意味での広義の脊椎動物は、ヌタウナギ類と頭甲綱を含むが、狭義ではこれらは脊椎動物には含まれない。これらは真の脊椎を欠いており、脊椎を有するという脊椎動物の特性を有さない(Hickman他, 2007による)。 (注:上記記述には問題があり、頭甲綱は狭義の脊椎動物に含まれる説の方が一般的) 頭蓋骨を持つこと以外の、有頭動物の特徴は以下である。 有頭動物 (注:上記分類にも問題があり、ヤツメウナギ(頭甲綱に含まれるとされる)の位置に関して混乱がある) 有頭動物の分類群としての妥当性は確認されてはいない。mtDNAによる研究(Delarbre他 2002)によると、メクラウナギ類は不穿口蓋類(ヤツメウナギ類)に近く、これは伝統的な分類と同様になる。すなわち、無顎類は分類群として妥当である。頭甲類は伝統的に不穿口蓋類(ヤツメウナギ類)と同一視されてきたが、それが事実であるかどうかは疑問の余地がある。分岐年代が古い場合、mtDNAによる分類が絶対的でないことは留意する必要がある。また化石記録殻の判断も解釈が難しい。 もし無顎類が単系統と認められれば、脊椎動物は従来認められてきたとおり顎口類+無顎類の内容となり、有頭動物は、脊椎動物の不必要な異名となる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "有頭動物(ゆうとうどうぶつ、Craniata)とは、提案されている脊索動物内部の分類であり、現生種としては(狭義の)脊椎動物と、ヌタウナギを含む。頭蓋骨を持つことを特徴とする。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "有頭動物は、伝統的な意味での(広義の)脊椎動物を置き換えるための、無階級の分類群である。広義の脊椎動物と狭義の脊椎動物の主な違いは、伝統的な意味での広義の脊椎動物は、ヌタウナギ類と頭甲綱を含むが、狭義ではこれらは脊椎動物には含まれない。これらは真の脊椎を欠いており、脊椎を有するという脊椎動物の特性を有さない(Hickman他, 2007による)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "(注:上記記述には問題があり、頭甲綱は狭義の脊椎動物に含まれる説の方が一般的)", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "頭蓋骨を持つこと以外の、有頭動物の特徴は以下である。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "有頭動物", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "(注:上記分類にも問題があり、ヤツメウナギ(頭甲綱に含まれるとされる)の位置に関して混乱がある)", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "有頭動物の分類群としての妥当性は確認されてはいない。mtDNAによる研究(Delarbre他 2002)によると、メクラウナギ類は不穿口蓋類(ヤツメウナギ類)に近く、これは伝統的な分類と同様になる。すなわち、無顎類は分類群として妥当である。頭甲類は伝統的に不穿口蓋類(ヤツメウナギ類)と同一視されてきたが、それが事実であるかどうかは疑問の余地がある。分岐年代が古い場合、mtDNAによる分類が絶対的でないことは留意する必要がある。また化石記録殻の判断も解釈が難しい。", "title": "有頭動物説の妥当性" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "もし無顎類が単系統と認められれば、脊椎動物は従来認められてきたとおり顎口類+無顎類の内容となり、有頭動物は、脊椎動物の不必要な異名となる。", "title": "有頭動物説の妥当性" } ]
有頭動物(ゆうとうどうぶつ、Craniata)とは、提案されている脊索動物内部の分類であり、現生種としては(狭義の)脊椎動物と、ヌタウナギを含む。頭蓋骨を持つことを特徴とする。 有頭動物は、伝統的な意味での(広義の)脊椎動物を置き換えるための、無階級の分類群である。広義の脊椎動物と狭義の脊椎動物の主な違いは、伝統的な意味での広義の脊椎動物は、ヌタウナギ類と頭甲綱を含むが、狭義ではこれらは脊椎動物には含まれない。これらは真の脊椎を欠いており、脊椎を有するという脊椎動物の特性を有さない。 頭蓋骨を持つこと以外の、有頭動物の特徴は以下である。 心房と心室に分かれる心臓を持つ。 3分節された脳を持つ。 (少なくとも1つの)半規管を持つ。
{{出典の明記| date = 2022-03}} '''有頭動物'''(ゆうとうどうぶつ、Craniata)とは、提案されている[[脊索動物]]内部の[[分類]]であり、現生種としては(狭義の)[[脊椎動物]]と、[[ヌタウナギ]]を含む。[[頭蓋骨]]を持つことを特徴とする。 有頭動物は、伝統的な意味での(広義の)脊椎動物を置き換えるための、無階級の[[分類群]]である。広義の脊椎動物と狭義の脊椎動物の主な違いは、伝統的な意味での広義の脊椎動物は、[[ヌタウナギ]]類と[[頭甲綱]]を含むが、狭義ではこれらは脊椎動物には含まれない。これらは真の[[脊椎]]を欠いており、脊椎を有するという脊椎動物の特性を有さない(Hickman他, 2007による)。 (注:上記記述には問題があり、頭甲綱は狭義の脊椎動物に含まれる説の方が一般的) 頭蓋骨を持つこと以外の、有頭動物の特徴は以下である{{要出典|date=2008年12月}}。 * 心房と心室に分かれる[[心臓]]を持つ。 * 3分節された脳を持つ。 * (少なくとも1つの)半規管を持つ。 == 分類 == '''有頭動物''' * [[ヌタウナギ綱]] [[:en:Myxini]] (= Hyperotreti) ** [[ヌタウナギ目]] [[:en:Myxiniformes]] *** [[:en:Myxinidae]] * [[頭甲綱]] [[:en:Cephalaspidomorphi]] * [[脊椎動物亜門]] [[:en:Vertebrate|Vertebrata]] ** [[有顎動物下門]] [[:en:Gnathostomata]] *** [[軟骨魚綱]] [[:en:Chondrichthyes]] *** [[硬骨動物]] [[:en:Teleostomi]] ** [[不穿口蓋類]] [[:en:Hyperoartia]] *** [[ヤツメウナギ目]] [[:en:Petromyzontiformes]] (注:上記分類にも問題があり、ヤツメウナギ(頭甲綱に含まれるとされる)の位置に関して混乱がある) == 有頭動物説の妥当性 == {{出典の明記| date = 2022-03}} 有頭動物の分類群としての妥当性は確認されてはいない。[[mtDNA]]による研究(Delarbre他 2002)によると、メクラウナギ類は不穿口蓋類(ヤツメウナギ類)に近く、これは伝統的な分類と同様になる。すなわち、[[無顎類]]は分類群として妥当である。頭甲類は伝統的に不穿口蓋類(ヤツメウナギ類)と同一視されてきたが、それが事実であるかどうかは疑問の余地がある。分岐年代が古い場合、[[mtDNA]]による分類が絶対的でないことは留意する必要がある。また化石記録殻の判断も解釈が難しい。 もし無顎類が単系統と認められれば、脊椎動物は従来認められてきたとおり[[顎口類]]+[[無顎類]]の内容となり、有頭動物は、脊椎動物の不必要な異名となる。 {{DEFAULTSORT:ゆうとうとうふつ}} [[Category:脊索動物]] {{Animal-stub}}
null
2022-03-16T11:32:21Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:要出典", "Template:Animal-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A0%AD%E5%8B%95%E7%89%A9
3,260,835
清原長田
清原 長田(きよはら の ながた)は、平安時代初期から前期にかけての皇族・貴族。当初長田王を名乗るが、清原真人姓を与えられ臣籍降下。知太政官事・舎人親王の後裔(曾孫)か。官位は従四位上・加賀守。 天長3年(826年)従五位下に叙爵。天長8年(831年)従五位上。 天長10年(833年)仁明天皇の即位後間もなく伊勢守に任ぜられると、翌承和元年(834年)大和守と仁明朝前半は地方官を務める。承和10年(843年)民部大輔として京官に復すると、承和11年(844年)正五位下、承和14年(847年)従四位下と仁明朝後半は順調に昇進する。この間、承和13年(846年)に子息の基雄が岑成王(舎人親王の曾孫)の子息らと共に、嘉祥2年(849年)には長田王本人が岑成王と共に、清原真人姓を与えられて臣籍降下している。 嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後に大宰大弐に任ぜられる。文徳朝後半は斉衡3年(856年) 従四位上、斉衡4年(857年)刑部大輔と叙任される。 天安2年(858年)清和天皇の即位に前後して刑部大輔を辞任して散位にあったが、即位後間もなく下野守として地方官に転じ、貞観2年(860年)加賀守と、引き続き地方官を務めた。 『六国史』による。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "清原 長田(きよはら の ながた)は、平安時代初期から前期にかけての皇族・貴族。当初長田王を名乗るが、清原真人姓を与えられ臣籍降下。知太政官事・舎人親王の後裔(曾孫)か。官位は従四位上・加賀守。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "天長3年(826年)従五位下に叙爵。天長8年(831年)従五位上。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "天長10年(833年)仁明天皇の即位後間もなく伊勢守に任ぜられると、翌承和元年(834年)大和守と仁明朝前半は地方官を務める。承和10年(843年)民部大輔として京官に復すると、承和11年(844年)正五位下、承和14年(847年)従四位下と仁明朝後半は順調に昇進する。この間、承和13年(846年)に子息の基雄が岑成王(舎人親王の曾孫)の子息らと共に、嘉祥2年(849年)には長田王本人が岑成王と共に、清原真人姓を与えられて臣籍降下している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位後に大宰大弐に任ぜられる。文徳朝後半は斉衡3年(856年) 従四位上、斉衡4年(857年)刑部大輔と叙任される。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "天安2年(858年)清和天皇の即位に前後して刑部大輔を辞任して散位にあったが、即位後間もなく下野守として地方官に転じ、貞観2年(860年)加賀守と、引き続き地方官を務めた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『六国史』による。", "title": "官歴" } ]
清原 長田は、平安時代初期から前期にかけての皇族・貴族。当初長田王を名乗るが、清原真人姓を与えられ臣籍降下。知太政官事・舎人親王の後裔(曾孫)か。官位は従四位上・加賀守。
{{基礎情報 公家 | 氏名 = 清原長田 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[平安時代]]初期 - 前期 | 生誕 = 不明 | 死没 = 不明 | 改名 = 長田王→清原長田 | 別名 = | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = | 墓所 = | 官位 = [[従四位|従四位上]]・[[加賀国#国司|加賀守]] | 主君 = [[淳和天皇]]→[[仁明天皇]]→[[文徳天皇]]→[[清和天皇]] | 氏族 = [[清原氏|清原]][[真人]] | 父母 = | 兄弟 = | 妻 = | 子 = 基雄、[[清原惟岳|惟岳]]、常名 | 特記事項 = }} '''清原 長田'''(きよはら の ながた)は、[[平安時代]]初期から前期にかけての[[皇族]]・[[貴族]]。当初'''長田王'''を名乗るが、[[清原氏|清原]][[真人]]姓を与えられ[[臣籍降下]]。[[知太政官事]]・[[舎人親王]]の後裔(曾孫)か。[[官位]]は[[従四位|従四位上]]・[[加賀国#国司|加賀守]]。 == 経歴 == [[天長]]3年([[826年]])[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。天長8年([[831年]])従五位上。 天長10年([[833年]])[[仁明天皇]]の即位後間もなく[[伊勢国#国司|伊勢守]]に任ぜられると、翌[[承和 (日本)|承和]]元年([[834年]])[[大和国#国司|大和守]]と仁明朝前半は地方官を務める。承和10年([[843年]])[[民部省|民部大輔]]として京官に復すると、承和11年([[844年]])[[正五位|正五位下]]、承和14年([[847年]])[[従四位|従四位下]]と仁明朝後半は順調に昇進する。この間、承和13年([[846年]])に子息の基雄が<ref name="s">『続日本後紀』承和13年7月2日条</ref>[[清原岑成|岑成王]]([[舎人親王]]の曾孫)の子息らと共に、[[嘉祥]]2年([[849年]])には長田王本人が岑成王と共に、清原真人姓を与えられて臣籍降下している。 嘉祥3年([[850年]])[[文徳天皇]]の即位後に[[大宰府|大宰大弐]]に任ぜられる。文徳朝後半は[[斉衡]]3年([[856年]]) 従四位上、斉衡4年([[857年]])[[刑部省|刑部大輔]]と叙任される。 [[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])[[清和天皇]]の即位に前後して刑部大輔を辞任して[[散位]]にあったが、即位後間もなく[[下野国#国司|下野守]]として地方官に転じ、[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]])加賀守と、引き続き地方官を務めた。 == 官歴 == 『[[六国史]]』による。 *時期不詳:[[正六位|正六位上]] *[[天長]]3年([[826年]]) 9月13日:[[従五位|従五位下]] *天長8年([[831年]]) 正月7日:従五位上 *天長10年([[833年]]) 3月24日:[[伊勢国#国司|伊勢守]] *[[承和 (日本)|承和]]元年([[834年]]) 正月12日:[[大和国#国司|大和守]] *承和10年([[843年]]) 正月12日:[[民部省|民部大輔]] *承和11年([[844年]]) 正月7日:[[正五位|正五位下]] *承和14年([[847年]]) 正月7日:[[従四位|従四位下]] *時期不詳:[[讃岐国#国司|讃岐守]] *[[嘉祥]]2年([[849年]]) 11月2日:[[臣籍降下]]([[清原氏|清原真人]]) *嘉祥3年([[850年]]) 正月15日:[[弾正台|弾正大弼]]。3月22日:[[装束司]]。4月2日:[[供僧司]](何れも[[仁明天皇|仁明上皇]][[崩御]])。5月17日:[[大宰府|大宰大弐]] *[[斉衡]]3年([[856年]]) 正月7日:従四位上 *斉衡4年([[857年]]) 2月16日:[[刑部省|刑部大輔]] *[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]]) 11月25日:[[下野国#国司|下野守]] *[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]]) 正月16日:[[加賀国#国司|加賀守]] == 系譜 == *父:不詳 *母:不詳 *妻:不詳 **男子:清原基雄<ref name="s" /> **男子:[[清原惟岳]]<ref name="s" /> **男子:清原常名<ref name="s" /> == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == *[[森田悌]]『日本後紀 (下)』講談社学術文庫、2006年 *[[森田悌]]『続日本後紀』(上下巻)[[講談社学術文庫]]、2010年 *[[武田祐吉]]、[[佐藤謙三]]訳『読み下し 日本三代実録 上巻』[[戎光祥出版]]、2009年 {{DEFAULTSORT:きよはら の なかた}} [[Category:清原氏|なかた]] [[Category:賜姓皇族]] [[Category:平安時代の男性皇族]] [[Category:平安時代初期の貴族]] [[Category:平安時代前期の貴族]] [[Category:9世紀没]]
null
2019-02-02T03:16:25Z
false
false
false
[ "Template:基礎情報 公家", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E9%95%B7%E7%94%B0
2,469,900
藤井謙汰
藤井 謙汰(ふじい けんた、1994年4月4日 - )は、三重県鈴鹿市出身のオートバイレーサー。2011年の[[]]J-GP3クラスチャンピオン。2012年よりロードレース世界選手権Moto3クラスに参戦する。 ホンダのワークスライダーだった藤井璋美を祖父に、レーシングチームを運営するTSR現代表の藤井正和を父に持つ。小学6年生のときからバイクに乗り始め、2005年からは鈴鹿サーキットで開催されている若手ライダー対象のレーシングスクール、SRS-Jに入校した。 2008年には全日本ロードレース選手権のGP-MONOクラスに、父正和が総監督を務める F.C.C.TSRチームからフル参戦を開始、最終戦岡山で初優勝を挙げて年間ランキング2位となった。翌2009年にはランキング3位を記録、またこの年からはGP125クラスにも並行参戦を始めた。 GP-MONO 3年目の2010年シーズン、鈴鹿高校の1年生になった謙汰は第3戦SUGOから最終戦鈴鹿まで4連勝を遂げ、ベテランの小室旭を4ポイント差で逆転して史上最年少となるシリーズチャンピオンに輝いた。また旧GP125クラスが改称となったJ-GP3クラスでは年間ランキング12位となった。 2011年シーズンも両クラスへの並行参戦を継続、チーム監督には新たに元125cc世界チャンピオンの坂田和人が就く体制となった。GP-MONOでは長島哲太に次ぐランキング2位に終わり、タイトル防衛は果たせなかった。いっぽうJ-GP3クラスには、2012年よりロードレース世界選手権で始まるMoto3クラス(125ccクラスの後継)に向けてホンダが開発を進めていた4ストローク250cc単気筒マシン、NSF250Rの先行量産機を駆って参戦。従来型の2ストローク125ccマシンに乗る徳留真紀や、同じNSF250Rの仲城英幸といったベテラン勢を僅差で抑えてチャンピオンを獲得した。 2012年シーズンはロードレース世界選手権Moto3クラスに、フランスのテクノマグCIPチームよりフル参戦を開始する。またそれに先立ち、2011年11月にはロードレーススペイン選手権(CEV)125GP/Moto3クラスの終盤2戦にNSF250Rを駆って参戦。ウェットレースとなった最終戦ヘレスでは前戦である全日本ロードレース最終戦での右足骨折も治らぬまま総合4位でフィニッシュ、ファステストラップを記録した。マシンはTSR ホンダを使用。チームメイトのアラン・ティシェがいくつかのレースで入賞圏内に食い込む結果を出していく一方、藤井はグリッド最後尾近辺のポジションから抜け出せないレースが続く。それどころかシーズンが進むごとに成績は悪化し、この年のベストリザルトは18位という暗澹たる内容となり、結局このシーズン、藤井はフル参戦ライダーの中でワーストに近い結果でノーポイントに終わった。そして、シーズン終了をもってMoto3から撤退。 2013年は直下カテゴリーであるスペイン選手権にステップダウンし、出直しをはかることとなった。だがこのクラスでも目立った戦果は挙げられずにシーズンを終えた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "藤井 謙汰(ふじい けんた、1994年4月4日 - )は、三重県鈴鹿市出身のオートバイレーサー。2011年の[[]]J-GP3クラスチャンピオン。2012年よりロードレース世界選手権Moto3クラスに参戦する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ホンダのワークスライダーだった藤井璋美を祖父に、レーシングチームを運営するTSR現代表の藤井正和を父に持つ。小学6年生のときからバイクに乗り始め、2005年からは鈴鹿サーキットで開催されている若手ライダー対象のレーシングスクール、SRS-Jに入校した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2008年には全日本ロードレース選手権のGP-MONOクラスに、父正和が総監督を務める F.C.C.TSRチームからフル参戦を開始、最終戦岡山で初優勝を挙げて年間ランキング2位となった。翌2009年にはランキング3位を記録、またこの年からはGP125クラスにも並行参戦を始めた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "GP-MONO 3年目の2010年シーズン、鈴鹿高校の1年生になった謙汰は第3戦SUGOから最終戦鈴鹿まで4連勝を遂げ、ベテランの小室旭を4ポイント差で逆転して史上最年少となるシリーズチャンピオンに輝いた。また旧GP125クラスが改称となったJ-GP3クラスでは年間ランキング12位となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2011年シーズンも両クラスへの並行参戦を継続、チーム監督には新たに元125cc世界チャンピオンの坂田和人が就く体制となった。GP-MONOでは長島哲太に次ぐランキング2位に終わり、タイトル防衛は果たせなかった。いっぽうJ-GP3クラスには、2012年よりロードレース世界選手権で始まるMoto3クラス(125ccクラスの後継)に向けてホンダが開発を進めていた4ストローク250cc単気筒マシン、NSF250Rの先行量産機を駆って参戦。従来型の2ストローク125ccマシンに乗る徳留真紀や、同じNSF250Rの仲城英幸といったベテラン勢を僅差で抑えてチャンピオンを獲得した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2012年シーズンはロードレース世界選手権Moto3クラスに、フランスのテクノマグCIPチームよりフル参戦を開始する。またそれに先立ち、2011年11月にはロードレーススペイン選手権(CEV)125GP/Moto3クラスの終盤2戦にNSF250Rを駆って参戦。ウェットレースとなった最終戦ヘレスでは前戦である全日本ロードレース最終戦での右足骨折も治らぬまま総合4位でフィニッシュ、ファステストラップを記録した。マシンはTSR ホンダを使用。チームメイトのアラン・ティシェがいくつかのレースで入賞圏内に食い込む結果を出していく一方、藤井はグリッド最後尾近辺のポジションから抜け出せないレースが続く。それどころかシーズンが進むごとに成績は悪化し、この年のベストリザルトは18位という暗澹たる内容となり、結局このシーズン、藤井はフル参戦ライダーの中でワーストに近い結果でノーポイントに終わった。そして、シーズン終了をもってMoto3から撤退。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2013年は直下カテゴリーであるスペイン選手権にステップダウンし、出直しをはかることとなった。だがこのクラスでも目立った戦果は挙げられずにシーズンを終えた。", "title": "経歴" } ]
藤井 謙汰は、三重県鈴鹿市出身のオートバイレーサー。2011年の[]J-GP3クラスチャンピオン。2012年よりロードレース世界選手権Moto3クラスに参戦する。
'''藤井 謙汰'''(ふじい けんた、[[1994年]][[4月4日]] - )は、[[三重県]][[鈴鹿市]]出身<ref name="KTM">http://www.ktm-japan.co.jp/2009/race/team_tsr/20090312_team_tsr.html</ref>の[[オートバイ]]レーサー。2011年の[[]]J-GP3クラスチャンピオン。{{MGP|2012}}より[[ロードレース世界選手権]]Moto3クラスに参戦する。 == 経歴 == [[本田技研工業|ホンダ]]の[[ワークス・チーム|ワークス]]ライダーだった藤井璋美を祖父に、レーシングチームを運営する[[TSR (オートバイ)|TSR]]現代表の藤井正和を父に持つ<ref>{{Cite web|url=http://www.mfj.or.jp/user/contents/race_result2010/road_race/2010result/rd07/mono_fin_repo.html|title=2010MFJ GP SUPERBIKE RACE in SUZUKA|accessdate=2019-01-05|website=www.mfj.or.jp}}</ref>。小学6年生のときからバイクに乗り始め<ref name="asahi">http://www.asahi.com/areanews/mie/NGY201011190022.html</ref>、2005年からは[[鈴鹿サーキット]]で開催されている若手ライダー対象のレーシングスクール、[[鈴鹿サーキットレーシングスクール|SRS-J]]に入校した<ref name="KTM"/>。 2008年には[[全日本ロードレース選手権]]のGP-MONOクラスに、父正和が総監督を務める F.C.C.TSRチームからフル参戦を開始、最終戦[[岡山国際サーキット|岡山]]で初優勝を挙げて年間ランキング2位となった。翌2009年にはランキング3位を記録、またこの年からはGP125クラスにも並行参戦を始めた<ref>http://www.superbike.jp/results/archives.html</ref>。 GP-MONO 3年目の2010年シーズン、[[鈴鹿中学校・高等学校|鈴鹿高校]]の1年生になった謙汰は第3戦[[スポーツランドSUGO|SUGO]]から最終戦鈴鹿まで4連勝を遂げ、ベテランの[[小室旭]]を4ポイント差で逆転して史上最年少となるシリーズチャンピオンに輝いた<ref name="asahi"/>。また旧GP125クラスが改称となったJ-GP3クラスでは年間ランキング12位となった。 2011年シーズンも両クラスへの並行参戦を継続、チーム監督には新たに元125cc世界チャンピオンの[[坂田和人]]が就く体制となった<ref>http://www.avtj.com/TSR/2011/2011TSR_RacingPlan0204.pdf</ref>。GP-MONOでは[[長島哲太]]に次ぐランキング2位に終わり、タイトル防衛は果たせなかった。いっぽうJ-GP3クラスには、{{MGP|2012}}より[[ロードレース世界選手権]]で始まるMoto3クラス(125ccクラスの後継)に向けてホンダが開発を進めていた[[4ストローク機関|4ストローク]]250cc[[単気筒]]マシン、[[ホンダ・NSF250R|NSF250R]]の先行量産機を駆って参戦。従来型の[[2ストローク機関|2ストローク]]125ccマシンに乗る[[徳留真紀]]や、同じNSF250Rの[[仲城英幸]]といったベテラン勢を僅差で抑えてチャンピオンを獲得した。 {{MGP|2012}}シーズンはロードレース世界選手権Moto3クラスに、フランスのテクノマグCIPチームよりフル参戦を開始する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.superbike.jp/news/2011/09/2012moto3.html|title=藤井謙汰が2012年からMoto3に参戦!|accessdate=2019-01-05|website=SUPERBIKE.JP|publisher=}}</ref>。またそれに先立ち、2011年11月にはロードレーススペイン選手権(CEV)125GP/Moto3クラスの終盤2戦にNSF250Rを駆って参戦。ウェットレースとなった最終戦[[ヘレス・サーキット|ヘレス]]では前戦である全日本ロードレース最終戦での右足骨折も治らぬまま総合4位でフィニッシュ、[[ファステストラップ]]を記録した<ref>http://www.cevbuckler.com/pdfclasificaciones_2011/jerez_7/125ca.pdf</ref>。マシンは[[TSR (オートバイ)|TSR]] [[本田技研工業|ホンダ]]を使用。チームメイトの[[アラン・ティシェ]]がいくつかのレースで入賞圏内に食い込む結果を出していく一方、藤井はグリッド最後尾近辺のポジションから抜け出せないレースが続く。それどころかシーズンが進むごとに成績は悪化し、この年のベストリザルトは18位という暗澹たる内容となり、結局このシーズン、藤井はフル参戦ライダーの中でワーストに近い結果でノーポイントに終わった。そして、シーズン終了をもってMoto3から撤退。 2013年は直下カテゴリーであるスペイン選手権にステップダウンし、出直しをはかることとなった。だがこのクラスでも目立った戦果は挙げられずにシーズンを終えた。 == 主なレース戦績 == ===全日本ロードレース選手権=== {|class="wikitable" style="font-size:80%" !シーズン !クラス !チーム !バイク !出走 !優勝 !表彰台 !PP !ポイント !シリーズ順位 |- align="right" |2008年 |GP-MONO | align="left"|F.C.C.TSR | align="left"|[[ホンダ・CRF250]] |5 |1 |1 |0 |61 |2位 |- align="right" |rowspan=2|2009年 |GP-MONO | align="left"|TSR | align="left"|[[KTM・ACK250M]] |6 |0 |3 |2 |89 |3位 |- align="right" |GP125 | align="left"|TSR | align="left"|[[KTM・ACK250]]<br />[[ホンダ・RS125R]] |6 |0 |0 |0 |20 |16位 |- align="right" |rowspan=2|2010年 |GP-MONO | align="left"|TSR | align="left"|[[ホンダ・ACH250M]] |6 |4 |5 |3 |141 |'''1位''' |- align="right" |J-GP3 | align="left"|TSR | align="left"|[[ホンダ・RS125R]] |6 |0 |0 |0 |45.5 |12位 |- align="right" |rowspan=2|2011年 |GP-MONO | align="left"|F.C.C. TSR Honda | align="left"|[[ホンダ・ACH250M]] |5 |2 |5 |1 |115 |2位 |- align="right" |J-GP3 | align="left"|F.C.C. TSR Honda | align="left"|[[ホンダ・NSF250R]] |5 |1 |3 |0 |103 |'''1位''' |} *[[2013年]] - 全日本ロードレース選手権J-GP2ランキング20位 F.C.C.TSR BR TSR・TSR2 *[[2014年]] - 全日本ロードレース選手権J-GP2ランキング31位 F.C.C.TSR BR TSR・TSR2 ====Moto3クラス 2012年==== *'''[[Template:MotoGP results legend|凡例]]''' {| class="wikitable" style="font-size: 70%; text-align:center" |- style="vertical-align:top" !style="vertical-align:middle"| ライダー !style="vertical-align:middle"| バイク ! [[2012年のカタールグランプリ|QAT]]<br />{{flagicon|QAT}} ! [[2012年のスペイングランプリ (ロードレース)|ESP]]<br />{{flagicon|ESP}} ! [[2012年のポルトガルグランプリ (ロードレース)|POR]]<br />{{flagicon|POR}} !style="background:#8fcfdf;"| [[2012年のフランスグランプリ (ロードレース)|FRA]]<br />{{flagicon|FRA}} ! [[2012年のカタルーニャグランプリ|CAT]]<br />{{flagicon|Catalonia}} ! [[2012年のイギリスグランプリ (ロードレース)|GBR]]<br />{{flagicon|UK}} !style="background:#8fcfdf;"| [[2012年のオランダグランプリ (ロードレース)|NED]]<br />{{flagicon|NED}} ! [[2012年のドイツグランプリ (ロードレース)|GER]]<br />{{flagicon|GER}} ! [[2012年のイタリアグランプリ (ロードレース)|ITA]]<br />{{flagicon|ITA}} ! [[2012年のインディアナポリスグランプリ|IND]]<br />{{flagicon|USA}} !style="background:#8fcfdf;"| [[2012年のチェコグランプリ|CZE]]<br />{{flagicon|CZE}} ! [[2012年のサンマリノグランプリ (ロードレース)|RSM]]<br />{{flagicon|SMR}} ! [[2012年のアラゴングランプリ|ARA]]<br />{{flagicon|Aragon}} ! [[2012年の日本グランプリ (ロードレース)|JPN]]<br />{{flagicon|JPN}} ! [[2012年のマレーシアグランプリ (ロードレース)|MAL]]<br />{{flagicon|MYS}} ! [[2012年のオーストラリアグランプリ (ロードレース)|AUS]]<br />{{flagicon|AUS}} !style="background:#8fcfdf;"| [[2012年のバレンシアグランプリ|VAL]]<br />{{flagicon|Valencia}} !style="vertical-align:middle"| ポイント |- |style="background:#8fcfdf;text-align:left"| {{flagicon|JPN}} '''藤井謙汰''' | [[TSR (オートバイ)|TSR]] [[本田技研工業|ホンダ]] |style="background:#cfcfff"| 21 |style="background:#efcfff"| Ret |style="background:#cfcfff"| 23 |style="background:#efcfff"| Ret |style="background:#cfcfff"| 25 |style="background:#cfcfff"| 24 |style="background:#cfcfff"| 27 |style="background:#cfcfff"| 23 |style="background:#cfcfff"| 25 |style="background:#cfcfff"| 18 |style="background:#cfcfff"| 26 |style="background:#cfcfff"| 22 |style="background:#cfcfff"| 26 |style="background:#cfcfff"| 18 |style="background:#cfcfff"| 27 |style="background:#cfcfff"| 22 |style="background:#cfcfff"| 23 ! 0 |} *[[2013年]] - CEV Moto3 seasonランキング18位 TSR Honda == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * {{twitter|kenta51171}} {{全日本ロードレース選手権J-GP3クラスチャンピオン}} {{DEFAULTSORT:ふしい けんた}} [[Category:日本のライダー]] [[Category:Moto3のライダー]] [[Category:三重県出身の人物]] [[Category:1994年生]] [[Category:存命人物]]
2011-11-21T06:53:48Z
2023-12-01T21:10:55Z
false
false
false
[ "Template:全日本ロードレース選手権J-GP3クラスチャンピオン", "Template:MGP", "Template:Flagicon", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Twitter" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E4%BA%95%E8%AC%99%E6%B1%B0
2,397,856
京騒戯画
『京騒戯画』(きょうそうぎが)は、バンプレストと東映アニメーションによる日本のWebアニメおよびテレビアニメ作品。 外界から隔離され、時間が止まった京都=〈鏡都〉を舞台にしたアクションファンタジー。『映画 ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー...ですか!?』でデビューを飾った新鋭・松本理恵を監督に、バンプレストと東映アニメーションが初タッグを組んだアニメーションプロジェクト。2011年8月27日に制作発表が行われ、そこで登場キャラクターと一部の担当声優を発表した。作品のイメージをまとめたプロモーションビデオが公開されている。 第一弾は2011年12月に配信(全1話)。第二弾は2012年8月31日より公開(全5話)。第一弾、第二弾合計で100万回再生を記録している。 2013年10月から12月にかけてテレビアニメが全13話で放送された。なお13話中、「#0 予習篇」は2011年に配信したプロモーション映像の編集版、「#5.5 京都実録篇」は出演声優によるロケ地紹介(実写)、「#10.5 復習篇」はハイライトシーンの総集編となっている。 先行上映会が下記の日程・場所で行われた。 ※公式サイトの配信はスマートフォン、フィーチャーフォン対応 ニコニコ動画、YouTube、バンダイチャンネルにて配信。現在は配信終了。 2013年10月から12月にかけて放送された。 新人声優・原嶋あかりが、作品の中で役柄を得るために奮闘する様を追いかけたドキュメンタリー。 公式サイト上で動画(全4話)を公開中。 『電撃マオウ』にて2012年2月号より、第一弾のストーリーを再構成した漫画版が連載され、同年11月号より2013年3月号まで、第二弾の外伝『京騒戯画 鏡書院と迷子の栞』が連載された。テレビアニメ化に合わせて2013年11月号より2014年3月号まで再び連載。いずれも作画 - mercre、原作 - 東堂いづみ、企画 - 京騒戯画プロジェクト。 『京騒戯画 〜コトと明恵のお茶の間通信〜』のタイトルで2013年10月2日より公式サイトにて配信。隔週水曜日更新。出演は釘宮理恵(コト役)と鈴村健一(明恵役)の両名。 ゲーム『超ヒロイン戦記』にコトと八瀬が参戦している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『京騒戯画』(きょうそうぎが)は、バンプレストと東映アニメーションによる日本のWebアニメおよびテレビアニメ作品。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "外界から隔離され、時間が止まった京都=〈鏡都〉を舞台にしたアクションファンタジー。『映画 ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー...ですか!?』でデビューを飾った新鋭・松本理恵を監督に、バンプレストと東映アニメーションが初タッグを組んだアニメーションプロジェクト。2011年8月27日に制作発表が行われ、そこで登場キャラクターと一部の担当声優を発表した。作品のイメージをまとめたプロモーションビデオが公開されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第一弾は2011年12月に配信(全1話)。第二弾は2012年8月31日より公開(全5話)。第一弾、第二弾合計で100万回再生を記録している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2013年10月から12月にかけてテレビアニメが全13話で放送された。なお13話中、「#0 予習篇」は2011年に配信したプロモーション映像の編集版、「#5.5 京都実録篇」は出演声優によるロケ地紹介(実写)、「#10.5 復習篇」はハイライトシーンの総集編となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "先行上映会が下記の日程・場所で行われた。", "title": "公開媒体等" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "※公式サイトの配信はスマートフォン、フィーチャーフォン対応", "title": "公開媒体等" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ニコニコ動画、YouTube、バンダイチャンネルにて配信。現在は配信終了。", "title": "公開媒体等" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2013年10月から12月にかけて放送された。", "title": "公開媒体等" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "新人声優・原嶋あかりが、作品の中で役柄を得るために奮闘する様を追いかけたドキュメンタリー。", "title": "京騒戯画への道" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "公式サイト上で動画(全4話)を公開中。", "title": "京騒戯画への道" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "『電撃マオウ』にて2012年2月号より、第一弾のストーリーを再構成した漫画版が連載され、同年11月号より2013年3月号まで、第二弾の外伝『京騒戯画 鏡書院と迷子の栞』が連載された。テレビアニメ化に合わせて2013年11月号より2014年3月号まで再び連載。いずれも作画 - mercre、原作 - 東堂いづみ、企画 - 京騒戯画プロジェクト。", "title": "漫画版" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『京騒戯画 〜コトと明恵のお茶の間通信〜』のタイトルで2013年10月2日より公式サイトにて配信。隔週水曜日更新。出演は釘宮理恵(コト役)と鈴村健一(明恵役)の両名。", "title": "ウェブラジオ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ゲーム『超ヒロイン戦記』にコトと八瀬が参戦している。", "title": "ゲーム" } ]
『京騒戯画』(きょうそうぎが)は、バンプレストと東映アニメーションによる日本のWebアニメおよびテレビアニメ作品。
{{Infobox animanga/Header |タイトル= 京騒戯画 |ジャンル= [[戦闘|アクション]]、[[ファンタジー]] }} {{Infobox animanga/TVAnime |タイトル= |原作= [[東堂いづみ]] |監督= [[松本理恵 (演出家)|松本理恵]] |シリーズ構成 = 東堂いづみ |キャラクターデザイン= [[林祐己]] |音楽= [[高木洋]](第一弾)<br />[[椎名豪]](第二弾) |アニメーション制作= [[東映アニメーション]] |製作= 京騒戯画プロジェクト |放送局= [[バンダイチャンネル]]<br />[[ニコニコ動画]]<br />[[YouTube]] |放送開始= 第一弾:[[2011年]][[12月10日]]<br />第二弾:[[2012年]][[8月31日]] |放送終了= [[12月22日]] |話数= 第一弾:全1話<br />第二弾:全5話 |その他= |インターネット= 1 }} {{Infobox animanga/TVAnime |タイトル= |原作= 東堂いづみ |シリーズディレクター= 松本理恵 |シリーズ構成 = 東堂いづみ、松本理恵 |キャラクターデザイン= 林祐己 |音楽= 椎名豪 |アニメーション制作= 東映アニメーション |製作= 京騒戯画プロジェクト |放送局= [[#放送局|放送局]]参照 |放送開始= [[2013年]]10月 |放送終了= 12月 |話数= 全13話<ref name="PublicSiteStory">{{Cite web|和書|date=|url=https://www.toei-anim.co.jp/tv/kyousougiga/story/index.html|title=ストーリー|work=|author=|publisher=京騒戯画公式サイト 東映アニメーション|accessdate=2017-09-25|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref> |その他= |インターネット= }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト= [[プロジェクト:アニメ|アニメ]] |ウィキポータル= [[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''京騒戯画'''』(きょうそうぎが)は、[[バンプレスト]]と[[東映アニメーション]]による[[日本]]の[[Webアニメ]]および[[テレビアニメ]]作品。 == 概要 == 外界から隔離され、時間が止まった[[京都市|京都]]=〈鏡都〉を舞台にしたアクションファンタジー。『[[映画 ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー…ですか!?]]』で監督してデビューを飾った新鋭・[[松本理恵 (演出家)|松本理恵]]を監督に、バンプレストと東映アニメーションが初タッグを組んだアニメーションプロジェクト。[[2011年]][[8月27日]]に制作発表が行われ<ref>{{Cite news|date=2011-06-10|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000062.000001598.html|title=「キャラホビ2011 C3×HOBBY」にて製作発表を決定!『バンプレスト×東映アニメーション』によるアニメーション「京騒戯画(キョウソウギガ)」 6月24日公式サイトにて最新PV映像を先行公開! |newspaper=PR TIMES|author=|publisher=PRTIMES|accessdate=2013-10-25}}</ref>、そこで登場キャラクターと一部の担当声優を発表した。作品のイメージをまとめたプロモーションビデオ<ref name="bandai">{{Cite web|和書|date=2011-06-10|url=http://www.b-ch.com/ttl/index.php?ttl_c=3164&mvc=3_21931_0_0|title=京騒戯画PV|work=|author=|publisher=[[バンダイチャンネル]]|accessdate=2013-10-25}}</ref>が公開されている。 第一弾は2011年12月に配信(全1話)。第二弾は[[2012年]][[8月31日]]より公開(全5話)。第一弾、第二弾合計で100万回再生を記録している<ref name="animate20130726">{{Cite web|和書|publisher=アニメイトTV|title=100 万再生を記録した配信アニメ『京騒戯画』が今秋テレビアニメ化放送決定!|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1374822061&p=2|accessdate=2013-07-31}}</ref>。 [[2013年]]10月から12月にかけてテレビアニメが全13話<ref name="PublicSiteStory" />で放送された<ref name="animate20130726" />。なお13話中、「#0 予習篇」は2011年に配信したプロモーション映像の編集版、「#5.5 京都実録篇」は出演声優によるロケ地紹介(実写)、「#10.5 復習篇」はハイライトシーンの総集編となっている。 == あらすじ == === テレビアニメ版 === ; #0  :鏡都のまちを、アラタマを手に毎日のように暴れまわるコトと阿吽。アラタマの持ち主ショーコ博士は怒り心頭、居候先の明恵に叱り付けられても懲りない日々。コトは黒いウサギを探しに鏡都へやってきたのだが、鏡都で「みやこ様」として祀られ、すでに姿を消した古都であるらしいと知り落胆。だが三人議会の鞍馬と八瀬は、自分たちの母である古都を呼び戻そうと、ビシャマルとコトを戦わせる。ビシャマルに呑まれたコトは、宇宙を漂い、飛び出してきた古都に抱きつかれる。ビシャマルの中から古都を連れて戻ってきたコトに、八瀬たちは喜ぶが、コトは「うちに帰りてえー!」と叫ぶのだった。 ; #1 - 10 :人と妖怪が共存し、物が壊れることのない不思議な町・鏡都に、ある日、空から'''コト'''と名乗る少女が降ってくる。黒いウサギを追ってきたコトは'''阿吽'''と共に明恵の居候になり、得物のアラタマで毎日暴れまわる。三人議会の'''鞍馬'''、'''八瀬'''、'''明恵'''は、それぞれはるか昔鏡都を去った母親・'''古都'''とコトに関係があると気づく。鞍馬と八瀬はビシャマルを使って、コトを外世界に送り込み神社の聖域から古都を連れ戻すことに成功。母子は再会を喜ぶが、そこへ'''明恵上人'''から姿を変えた父親の'''稲荷'''が登場。隕石が次々と落ち、鏡都の崩壊が始まる。鏡都に降り立った神社の'''宮司'''は、鏡都は稲荷が秘密裏に作った13平行軸であり、神社の聖域にコトが強制介入したことで他の平行軸にある星も危機にあると告げる。鏡都を存続させようと宮司と交渉するコトに、稲荷は自分が神の子であると明かし、コトは特別な子と言いながら御神刀で突く。コトは正気を失いアラタマで鏡都はさらに崩壊。鞍馬は明恵こそが鏡都の王と説得、明恵は瓦礫の中コトを探す。再会した二人は高天原で'''神'''と対面、13平行軸である鏡都の存在を承認されるが、稲荷は二人に魂を受け継がせ自分は消えるつもりでいると知らされる。父の真意を問うため二人は神社の聖域に移動して稲荷と再会。コトは稲荷を殴りつけながら必死で家族の愛を伝える。神の裁断により、稲荷の存在も許され、めでたく一家は再生した。 == 登場キャラクター == ; コト : 声 - [[釘宮理恵]] : 「黒いウサギ」を探すため鏡都に迷い込んだ少女。白いセーラー服の上に黒いセーターを着ている。赤い目が特徴。 : 探索と称して阿吽兄弟と共に暴れ回るのが日課。街中を駆け回っているせいか顔は広い。鞍馬からは「とんでもないちゃん」と呼ばれる。 : 得物としている伸縮自在の[[槌|ハンマー]]「アラタマ」は、ショーコ博士曰く、もともとビシャマルのもの。 : テレビ版では、幼いころは両親を知らず、「狐の拾い子」として稲荷に育てられていたが、ある時、絵の中の黒いウサギと稲荷が本当の両親であることに気づく。神社直轄部隊配属後、母親である黒いウサギを探して自ら鏡都へやって来ており、アラタマも稲荷に貰ったものとなっている。 ; [[明恵]](みょうえ) : 声 - [[鈴村健一]] / [[斎藤千和]](薬師丸) : 僧侶姿の青年。〈三人議会〉の1人で、鞍馬、八瀬の弟。髪や目の色は違うものの、外見が父・明恵上人と酷似している。兄弟の中で一人だけ描いた絵から生み出された存在ではなく、人間。居候するコト、阿吽が揉め事をおこすと、そのたび父から受け継いだ数珠を操り、縛り上げている。 : 幼名は薬師丸。京都の戦火で家族と家を失い自害したが、明恵上人に拾われ、術によって生き返り、上人と古都の最初の子どもとなった。 : 「犬山さん」と呼ばれる犬を飼っている。 ; [[鞍馬天狗|鞍馬]](くらま) : 声 - [[中原茂]] / [[白石涼子]](幼い鞍馬) : 明恵上人が描いた絵から生み出された。八瀬と明恵の兄。三人議会の議長を務め、実質「鏡都」を取り仕切っている。鞍馬寺の主。 :〈三人議会〉の1人。浮遊する金の盃に座りっぱなしの寺の指導者で、穏やかな口調を崩さない。ショーコらに断りなく事を起こすこともしばしば。 ; [[八瀬童子|八瀬]](やせ) : 声 - [[喜多村英梨]] : 明恵上人が描いた鬼。〈三人議会〉の1人。 :「禁足地」に建つ大きなお屋敷の主で、無数の妖怪変化を従えるお姫様。お転婆なコトがお気に入り。 : 母・古都との思い出を大切にしており、思い出の品を全て額やそれ専用の部屋に保管している。 ; [[阿吽|阿]](あ) : 声 - [[日髙のり子]] : 兄弟の活発な方。赤い式神に変化する。吽とはいつも一緒で、寺の下っ端の撃破数を競っている。 ; [[阿吽|吽]](うん) : 声 - 白石涼子 : 兄弟の落ち着いた方。妙なところで我慢強い。青い式神に変化し、阿とはいつも一緒。 ; ショーコ博士 : 声 - 斎藤千和 : 鞍馬寺一派に属する、白衣姿に[[ゴーグル]]をした少女。寺の科学技術を担うメカオタク。感情の起伏が激しい。 : 白服と呼ばれる大勢の手下を使ってコトたちを追い回しているが、戦果は芳しくない様子。 ; 伏見(ふしみ) : 声 - [[竹本英史]] : 鞍馬寺一派の青年でショーコの部下。コトたちを相手に奮戦するショーコを一歩後ろで眺めつつ、彼女のサポートをする。 : テレビアニメ版では、元々コトの世界の『神社』に所属していたという設定になっている。 ; げじげじ : 声 - [[矢尾一樹]] : コトのハンマーにぶら下がったオレンジ色のぬいぐるみ。 ; パクパク : 声 - [[原嶋あかり]] : コトのハンマーにぶら下がったウサギのぬいぐるみ。八瀬が母・古都にもらった人形と似ている。 ; 古都(こと) : 声 - [[久川綾]] : 明恵上人に描かれ、明恵上人に恋をした黒ウサギ。[[仏眼仏母]]の姿を借りて上人の妻となる。コトと同じく目の色は赤。 : コトが探しているウサギで、鞍馬、八瀬、明恵の母。「みやこ様」として鏡都で信仰の対象になっている。だいぶ前に姿を消してしまったらしい。 : テレビアニメ版1話では不吉な夢を見て鏡都にいられないと確信、鏡都を去っている。その後コトを出産、以来神社の聖域から出られなくなっていた。 ; ビシャマル : 声 - 竹本英史 : 寺の宝物にして金色のスーパーロボット。ハンマーは新調してある。 :ショーコのリモコン([[PlayStation Portable|PSP]]のようなもの)で動くが、すばしこいコトには翻弄されがち。 ; 明恵上人(みょうえしょうにん) / [[稲荷神|稲荷]](いなり) : 声 - [[石田彰]] : 「明恵上人」は、京都の高雄山に隠棲する僧侶。紙に描いた絵を実体化させる能力を持つ。鞍馬、八瀬、明恵の父。 : その能力が気味悪がられ、一家で絵の中の世界「鏡都」に移り住むが、ある日突然「始まりと終わりを連れて帰ってくる」と告げて、古都と共に鏡都を去る。 : 「稲荷」は、神社直轄部隊の一人で狐の面に御神刀を帯びている。少年のように小柄な体型で、穏やかで飄々とした性格。魂の流転を繰り返している。コトが元いた世界での育ての親で、コトから「先生」「パパ」と呼ばれている。阿吽兄弟に似た白と黒の式神(子〈ね〉と子〈こ〉)を連れている。 : 両者は同一人物であるが、名前や姿を変えた理由は明らかにされていない。 ; 宮司(ぐうじ) : 声 - 矢尾一樹 : 神の子で稲荷の兄。12の平行軸の均衡を保つ神の代行者として『神社』を設立、その長を務める。 ; 神 / ナレーション : 声 - [[銀河万丈]] : 動物や着ぐるみなど様々な姿で画面に登場するが、テレビアニメ版最終話で登場人物と会話する。宮司と稲荷の父。 == 用語・世界観 == ; 鏡都 : 明恵上人が襖に描いた都。「[[京都]]」から名前を取り、鞍馬に言われ字面を変えた。京都で暮らしていた明恵上人たち一家がある事情により、移り住んだ都。絵の世界であるため、人が死ぬこともなく、壊れた物もすぐ元通りになる。外世界から閉ざされており、コトが来るまで新しい住人はいなかった。実は、地球に降臨する前の明恵上人が、神社に秘密で作った13平行軸の惑星。 ; 三人議会 : 鏡都を取り仕切る組織。鞍馬、八瀬、明恵の3人が所属しており、話し合いで都の方針などを決定するが、実質は議長である鞍馬の独断で決まっているらしい。 ; 神社 : 「中央軸統合機関神社」「惑星統合機関神社」とも表記される。12の平行軸にある惑星を神の代行者として管理統括するため設立された。「神社直轄部隊」と呼ばれる、能面に黒服、御神刀を持った兵士があちこちに派遣されている。学校もあり、コトが在籍していた。 ; 平行軸 : 創造主である神が創った世界。12の平行軸に12の惑星がある。 ; アラタマ : コトが得物として使っている巨大ハンマー状の武器。透明で中に色の付いた玉が浮かんでいる。Web版とテレビ版0話ではショーコの持ち物という設定だったが、テレビ版1話では稲荷がコトに渡している。形状もビー玉のような小さい玉で、コトの意思で巨大ハンマーになる。また物が壊れない鏡都でもアラタマで壊した物は戻らないという設定が付け加えられている。 == スタッフ == * 企画 ** Webアニメ - 京騒戯画プロジェクト、[[バンプレスト]]、[[東映アニメーション]] ** テレビアニメ - [[関弘美]]、春山ゆきお、小出慎太郎、平田滋、伍賀一統、吉野健一 * 原作 - [[東堂いづみ]] * 監督(第一弾) / シリーズディレクター(第二弾・テレビアニメ) - [[松本理恵 (演出家)|松本理恵]] * シリーズ構成 - 東堂いづみ、松本理恵(テレビアニメ) * 脚本 - [[丸尾みほ]](第一弾) * キャラクターデザイン・作画監督<ref group="注">テレビアニメでは総作画監督。</ref> - [[林祐己]] * 美術デザイン・美術設定 - [[倉橋隆]] * 美術監督 - [[栫ヒロツグ]]・[[加藤浩]](第一弾)、[[本間禎章]](第二弾) * 色彩設計 - 秋元由紀 * 編集 - 西村英一 * 音楽 - [[高木洋]](第一弾)、[[椎名豪]](第二弾・テレビアニメ) * 音響効果 - [[サウンドリング|石野貴久]] * 制作 - 東映アニメーション * 製作 - 京騒戯画プロジェクト == 主題歌 == ; Webアニメ :; 「疾走銀河」 :: 歌 - TEPPAN ; テレビアニメ :; オープニングテーマ「[[ココ (曲)|ココ]]」 :: 作詞・作曲 - [[たむらぱん|田村歩美]] / 歌 - [[たむらぱん]] ::: 第10話のみエンディングテーマに使用。 :; エンディングテーマ「疾走銀河」 :: 歌 - TEPPAN ::: 第10話のみ挿入歌に使用。 :;挿入歌「The Secret of My Life」 ::歌 - Aimee Blackschleger ::: Web版では5話、テレビアニメ版では9話に使用。 == 各話リスト == {| class="wikitable" style="font-size:small" !話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!美術監督 |- !colspan="7"|第二弾 |- |第1話||コト、主人公かく語りき||やまもとみちよ||[[松本理恵 (演出家)|松本理恵]]<br />[[貝澤幸男]]||松本理恵||[[林祐己]]||本間禎章 |- |第2話||ショーコ、科学者慌て窮す||浅葱久楽||colspan="2" style="text-align:center;"|小林寛||渡邊巧大||倉橋隆 |- |第3話||八瀬、妖怪鏡都通信||[[中瀬理香]]||colspan="2" style="text-align:center;"|貝澤幸男||rowspan="3"|林祐己||渡辺佳人 |- |第4話||明恵、坊主かく語りき||rowspan="2"|浅葱久楽||松本理恵||羽多野浩平||嶋田昭夫 |- |第5話||古都、黒兎回想録||colspan="2" style="text-align:center;"|松本理恵||飯野敏典 |- !colspan="7"|テレビアニメ |- |#0||予習篇||[[丸尾みほ]]||colspan="2" style="text-align:center;"|松本理恵||rowspan="2"|林祐己||rowspan="2"|柴田聡 |- |#1||ある一家の事情とその背景||東堂いづみ<br />浅葱久楽||rowspan="2"|松本理恵||松本理恵<br />[[畑野森生]] |- |#2||やってきたのは妹||やまもとみちよ<br />丸尾みほ<br />東堂いづみ||[[中尾幸彦]]||林祐己<br />嘉村弘之||杉本智美 |- |#3||長男と愉快で科学な仲間||浅葱久楽||colspan="2" style="text-align:center;"|[[角銅博之]]||ポール・アンニョヌエボ<br />フランシス・カネダ<br />アリエス・ナリオ||嶋田昭夫 |- |#4||次女と素敵な妖怪達||中瀬理香||colspan="2" style="text-align:center;"|貝澤幸男||仲條久美<br />嘉村弘之||北村由樹子 |- |#5||若き三男の悩みと始まりと終わり||やまもとみちよ<br />浅葱久楽||[[志水淳児]]<br />松本理恵||志水淳児||松本朋之<br />近藤優次||中尾道弘 |- |#5.5||京都実録篇||colspan="5" style="text-align:center;"|[ディレクター]有國 浩/[出演]矢尾一樹、白石涼子、[[中山恵梨香]] |- |#6||二人が計画し一人が悩む話||丸尾みほ<br />やまもとみちよ<br />東堂いづみ||志水淳児<br />森田三郎<br />松本理恵||畑野森生||[[舘直樹]]<br />浦田幸博||深谷知穗 |- |#7||母が帰還してついでに父も帰還した||中瀬理香<br />丸尾みほ||松本理恵||鎌谷悠||馬場充子<br />中西和也<br />嘉村弘之||嶋田昭夫 |- |#8||あっちとこっちでもめる話||rowspan="3"|やまもとみちよ<br />松本理恵<br />東堂いづみ||貝澤幸男||伊藤尚往||星野玲香<br />竹本佳子<br />浦田幸博||杉本智美 |- |#9||どうしたらいいかみんなで考えよう||colspan="2" style="text-align:center;"|志水淳児||松本朋之<br />近藤優次<br />渡邊巧大||北村由樹子 |- |#10||今日を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画||松本理恵<br />貝澤幸男||松本理恵||林祐己||中尾道弘 |- |#10.5||復習篇||colspan="5" style="text-align:center;"|[ナレーション]釘宮理恵、鈴村健一 |} == 公開媒体等 == * 公式プロモーションビデオ<ref name="bandai"/> * フィギュア王No.164(2011年[[9月23日]])特典付録『京騒戯画』〜“弦”Remix ver.〜DVD * 電撃ホビーマガジン11月号(2011年[[9月24日]])特典付録『京騒戯画』〜“和”Remix ver.〜DVD === 先行上映会 === 先行上映会が下記の日程・場所で行われた。 * [[2011年]][[12月1日]] 東京会場(有楽町 朝日ホール) * 2011年[[12月4日]] 京都会場(京都 京都シルクホール) === 本編配信 === ※公式サイトの配信はスマートフォン、フィーチャーフォン対応 ==== 第一弾 ==== * 2011年[[12月10日]] - 現在は配信終了。 ** [[バンダイチャンネル]](12:00 - 配信開始) ** [[ニコニコ動画]](18:00 - 配信開始) ** [[YouTube]](18:00 - 配信開始) ==== 第二弾 ==== ニコニコ動画、YouTube、バンダイチャンネルにて配信。現在は配信終了。 * 第1話 [[2012年]][[8月31日]] * 第2話 2012年[[10月27日]] * 第3話 2012年[[11月10日]] * 第4話 2012年[[12月8日]] * 第5話 2012年[[12月22日]] === テレビアニメ === 2013年10月から12月にかけて放送された。 ==== 放送局 ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" !放送地域!!放送局!!放送期間!!放送日時!!放送系列!!備考 |- |[[東京都]]||[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]||[[2013年]][[10月3日]] - [[12月26日]]||木曜 1:30 - 2:00||[[全国独立放送協議会|独立局]]|| |- |rowspan="6"|[[全国放送|日本全域]]||[[ビーエス朝日|BS朝日]]||rowspan="3"|2013年[[10月5日]] - [[12月28日]]||土曜 1:30 - 2:00||[[日本における衛星放送#BS放送|BS放送]]|| |- |[[ニコニコ生放送]]||土曜 22:30 - 23:00||rowspan="3"|ネット配信|| |- |[[ニコニコチャンネル]]||土曜 23:00 更新|| |- |[[バンダイチャンネル]]||2013年[[11月10日]] - [[2014年]][[1月12日]]||日曜 12:00 更新||<ref group="注">初回配信のみ第0話 - 第3話を一挙配信。第4話以降は毎週日曜の同時刻に最新話を更新。</ref> |- |rowspan="2"|[[アニマックス]]||2014年[[7月11日]] - [[9月26日]]||金曜 22:00 - 22:30||rowspan="2"|BS/[[日本における衛星放送#CSデジタル放送|CS放送]]||リピート放送あり |- |2014年[[7月12日]] - [[9月27日]]||土曜 22:30 - 23:00||<ref group="注">[[スカパー! (東経110度BS・CSデジタル放送)|スカパー!]]([[日本における衛星放送|BS放送]])、[[スカパー!プレミアムサービス]]、[[スカパー!プレミアムサービス光]]にて無料放送。</ref> |} == Blu-ray / DVD == {| class="wikitable" style="font-size:small;" border="1" ! rowspan="2"|巻 !! rowspan="2"|発売日 !! rowspan="2"|収録話 !! colspan="2"|規格品番!! rowspan="2"|特典 |- ! BD !! DVD |- | 零巻 || 2013年12月6日 || 2011年製作PV(5分バージョン、25分バージョン)<br />2012年製作 配信用ショートストーリー 全5話 || BSTD-8875 || DSTD-8875 ||映像特典:ノンテロップED+エピローグ(2011年製作25分プロモーション映像)<br>スペシャルパッケージ<br>ドラマCD:「肉球ともふもふと迷える双子」<br>京騒絵巻 甲ノ巻 |- | 壱巻 || 2014年1月10日 || 第1話 - 第2話 || BSTD-8876 || DSTD-8876 || 映像特典:第0話「予習篇」<br>スペシャルパッケージ<br>ドラマCD:「長男の茶室と賑やかな末っ娘」<br>京騒絵巻 乙ノ巻 |- | 弐巻 || 2014年2月7日 || 第3話 - 第4話 || BSTD-8877 || DSTD-8877 || |- | 参巻 || 2014年3月14日 || 第5話 - 第6話 || BSTD-8878 || DSTD-8878 || |- | 四巻 || 2014年4月11日 || 第7話 - 第8話 || BSTD-8879 || DSTD-8879 || |- | 伍巻 || 2014年5月9日 || 第9話 - 第10話 || BSTD-8880 || DSTD-8880 || |} == 京騒戯画への道 == 新人声優・[[原嶋あかり]]が、作品の中で役柄を得るために奮闘する様を追いかけたドキュメンタリー。 公式サイト上で動画(全4話)を公開中<ref>{{Cite web|和書|date=2011-06-10|url=http://www.b-ch.com/ttl/index.php?ttl_c=3164&mvc=3_23343_0_0|title=京騒戯画への道|work=|author=|publisher=バンダイチャンネル|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131029202858/http://www.b-ch.com/ttl/index.php?ttl_c=3164&mvc=3_23343_0_0|archivedate=2013-10-29|accessdate=2017-09-25}}</ref>。 == 漫画版 == 『[[電撃マオウ]]』にて2012年2月号より、第一弾のストーリーを再構成した漫画版が連載され、同年11月号より2013年3月号まで、第二弾の外伝『'''京騒戯画 鏡書院と迷子の栞'''』が連載された。テレビアニメ化に合わせて2013年11月号より2014年3月号まで再び連載。いずれも作画 - mercre、原作 - 東堂いづみ、企画 - 京騒戯画プロジェクト。 == ウェブラジオ == 『'''京騒戯画 〜コトと明恵のお茶の間通信〜'''』のタイトルで2013年10月2日より公式サイトにて配信。隔週水曜日更新。出演は[[釘宮理恵]](コト役)と[[鈴村健一]](明恵役)の両名。 == ゲーム == ゲーム『[[超ヒロイン戦記]]』にコトと八瀬が参戦している。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.toei-anim.co.jp/sp/kyousogiga/ 公式サイト] - 東映アニメーション * [http://www.kyousougiga-tv.com/ テレビアニメ版公式サイト] ** [https://www.toei-anim.co.jp/tv/kyousougiga/index.html 東映アニメーションテレビアニメ公式サイト] * {{Twitter|kyousougiga_tv}} * {{Facebook|ksgiga}} * [http://1kuji.bpnavi.jp/item/319 バンプレスト一番くじ特設サイト] * [http://maoh.dengeki.com/blog/ksgg 『京騒戯画』あらすじ≪電撃マオウ編集部ブログ] {{東映アニメーション}} {{DEFAULTSORT:きようそうきか}} [[Category:アニメ作品 き|ようそうきか]] [[Category:2011年のWebアニメ]] [[Category:2012年のWebアニメ]] [[Category:日本のオリジナルWebアニメ]] [[Category:2013年のテレビアニメ]] [[Category:日本のオリジナルテレビアニメ]] [[Category:UHFアニメ]] [[Category:東映アニメーションのアニメ作品]] [[Category:BANDAI SPIRITSのアニメ作品]] [[Category:京都市を舞台としたアニメ作品]] [[Category:漫画作品 き|ようそうきか]] [[Category:電撃マオウ]] [[Category:継続中の作品]] [[Category:仏教を題材とした作品]]
2011-07-26T17:13:15Z
2023-12-10T08:04:44Z
false
false
false
[ "Template:Infobox animanga/Header", "Template:Infobox animanga/TVAnime", "Template:Infobox animanga/Footer", "Template:Cite news", "Template:東映アニメーション", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Twitter", "Template:Facebook" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%A8%92%E6%88%AF%E7%94%BB
2,541,961
奥山虎章
奥山 虎章(おくやま とらふみ / こうしょう、1848年1月9日(弘化4年12月4日) - 1887年(明治20年)4月16日)は、上山藩出身の医学者、水産学者、大日本帝国海軍軍医寮教官。通称・又三郎(またさぶろう)、玄良。 出羽国上山藩にて奥山玄仲の二男として生まれ、のち盛岡藩の南部美濃守の藩医に招かれる。 慶応2年(1866年)4月5日に江戸に出て盛岡藩士・赤沢長五郎と共に鉄砲洲慶應義塾に入塾。卒業後、海軍軍医寮の教官となり、近代日本において最も初期に専門的に医学語彙を集めた『医語類聚』(1872年)、さらに解剖学・生理学語彙に特化させた『解剖生理学語部』(1881年)を発表。 この『医語類聚』には日本で初めて、脊椎動物では中枢神経系や自律神経系で著しく発連し、興奮の伝わり方に変化を与える「神経」という訳語や精神病理学に関する訳語が膨大に収録されており、「痴呆」などといった訳語は現在もこの辞典の訳語から引用されている。 明治36年(1903年)に愛媛県西宇和郡三瓶村水産試験場に出向いて指導をうけ、同年8月福岡県藍ノ島に行き、漁夫として20日間余り従事し、さらに転じて徳島県撫養に出向いて10日間余り研究を行なった後、巾着を整調し、三崎半島の宇和海沿岸を調査した。 藩政時代から宇和海における嫋漁は重視され、鰯大網が隆盛を極める時代に入ってから乱獲のため漁場の荒廃と漁群の離散が甚しくなり沖合漁業に着目。鰛の大群を発見し、網を投入したところ一網で漁船3隻分に及ぶ豊漁となり、以後県の普及指導もあり、漁業が一段と盛んになった。 又三郎は当時、「網旦那」と呼ばれて地元の信用があり、大正年間に奥山が発行した銭手形は地区で通用していたという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "奥山 虎章(おくやま とらふみ / こうしょう、1848年1月9日(弘化4年12月4日) - 1887年(明治20年)4月16日)は、上山藩出身の医学者、水産学者、大日本帝国海軍軍医寮教官。通称・又三郎(またさぶろう)、玄良。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "出羽国上山藩にて奥山玄仲の二男として生まれ、のち盛岡藩の南部美濃守の藩医に招かれる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "慶応2年(1866年)4月5日に江戸に出て盛岡藩士・赤沢長五郎と共に鉄砲洲慶應義塾に入塾。卒業後、海軍軍医寮の教官となり、近代日本において最も初期に専門的に医学語彙を集めた『医語類聚』(1872年)、さらに解剖学・生理学語彙に特化させた『解剖生理学語部』(1881年)を発表。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この『医語類聚』には日本で初めて、脊椎動物では中枢神経系や自律神経系で著しく発連し、興奮の伝わり方に変化を与える「神経」という訳語や精神病理学に関する訳語が膨大に収録されており、「痴呆」などといった訳語は現在もこの辞典の訳語から引用されている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "明治36年(1903年)に愛媛県西宇和郡三瓶村水産試験場に出向いて指導をうけ、同年8月福岡県藍ノ島に行き、漁夫として20日間余り従事し、さらに転じて徳島県撫養に出向いて10日間余り研究を行なった後、巾着を整調し、三崎半島の宇和海沿岸を調査した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "藩政時代から宇和海における嫋漁は重視され、鰯大網が隆盛を極める時代に入ってから乱獲のため漁場の荒廃と漁群の離散が甚しくなり沖合漁業に着目。鰛の大群を発見し、網を投入したところ一網で漁船3隻分に及ぶ豊漁となり、以後県の普及指導もあり、漁業が一段と盛んになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "又三郎は当時、「網旦那」と呼ばれて地元の信用があり、大正年間に奥山が発行した銭手形は地区で通用していたという。", "title": "経歴" } ]
奥山 虎章は、上山藩出身の医学者、水産学者、大日本帝国海軍軍医寮教官。通称・又三郎(またさぶろう)、玄良。
{{参照方法|date=2012年3月}} {{Infobox Scientist |name = 奥山 虎章 |image = |caption |birth_date = |birth_place = {{JPN}} [[出羽国]] |death_date = <!--{{死亡年月日と没年齢|不明}}--> |death_place = |residence = <!--居住国--> |nationality = <!--国籍--> |field = [[医学]]・[[水産学]] |work_institution = {{IJNAVY}} |alma_mater = [[慶應義塾]]<br />(現・[[慶應義塾大学]]) |doctoral_advisor = |doctoral_students = |known_for = 語彙集編慕・[[漁業]] |prizes = |religion = <!--信仰--> |footnotes = }} '''奥山 虎章'''(おくやま とらふみ / こうしょう、[[1848年]][[1月9日]]([[弘化]]4年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]<ref name=oku38>「『医語類聚』の著者 海軍大軍医 奥山虎章」38頁。</ref>) - [[1887年]]([[明治]]20年)[[4月16日]]<ref name=oku38/>)は、[[上山藩]]出身の[[医学者]]、[[水産学者]]、[[大日本帝国海軍]][[軍医寮]]教官。通称・'''又三郎'''(またさぶろう)<ref name=oku37/>、玄良<ref>「『医語類聚』の著者 海軍大軍医 奥山虎章」35頁。</ref>。 == 経歴 == === 江戸就学 === [[出羽国]]上山藩にて奥山玄仲の二男<ref name=oku37>「『医語類聚』の著者 海軍大軍医 奥山虎章」37頁。</ref>として生まれ、のち[[盛岡藩]]の[[南部利剛|南部美濃守]]の[[藩医]]に招かれる。 [[慶応]]2年([[1866年]])[[4月5日]]に[[江戸]]に出て盛岡藩士・[[赤沢長五郎]]と共に鉄砲洲[[慶應義塾]]に入塾。卒業後、海軍軍医寮の教官となり、近代日本において最も初期に専門的に[[医学]]語彙を集めた『医語類聚』([[1872年]])、さらに[[解剖学]]・[[生理学]]語彙に特化させた『解剖生理学語部』([[1881年]])を発表。 この『医語類聚』には日本で初めて、[[脊椎動物]]では[[中枢神経]]系や[[自律神経]]系で著しく発連し、興奮の伝わり方に変化を与える「[[神経]]」という訳語や[[精神病理学]]に関する訳語が膨大に収録されており、「[[痴呆]]」などといった訳語は現在もこの辞典の訳語から引用されている。 === 奥山式巾着網 === [[明治]]36年([[1903年]])に[[愛媛県]][[西宇和郡]]三瓶村水産試験場に出向いて指導をうけ、同年8月[[福岡県]][[藍ノ島]]に行き、[[漁夫]]として20日間余り従事し、さらに転じて[[徳島県]][[撫養町|撫養]]に出向いて10日間余り研究を行なった後、巾着を整調し、[[三崎半島]]の[[宇和海]]沿岸を調査した。 藩政時代から宇和海における[[嫋]]漁は重視され、[[鰯]]大網が隆盛を極める時代に入ってから[[乱獲]]のため漁場の荒廃と漁群の離散が甚しくなり[[沖合漁業]]に着目。[[鰛]]の大群を発見し、網を投入したところ一網で漁船3隻分に及ぶ豊漁となり、以後県の普及指導もあり、[[漁業]]が一段と盛んになった。 又三郎は当時、「'''網旦那'''」と呼ばれて地元の信用があり、[[大正]]年間に奥山が発行した銭手形は地区で通用していたという。 == 著書 == *『医語類聚』 *『講筵筆記』 *『獨和醫學字典初篇』 *『解剖生理学語部』 ==脚注== {{Reflist}} == 参考文献 == * 丸山信編『人物書誌大系 30 福沢諭吉門下』[[日外アソシエーツ]]、1995年3月、ISBN 4816912843 * 愛媛県 『愛媛県史:社会経済,第15巻』 *深瀬泰旦「『医語類聚』の著者 海軍大軍医 奥山虎章」『日本医史学雑誌』第42巻第1号、日本医史学会、1996年。 == 関連項目 == *[[大日本帝国海軍文官一覧]] *[[三机村]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おくやま とらふみ}} [[Category:幕末盛岡藩の人物]] [[Category:江戸時代の医学者]] [[Category:19世紀日本の科学者]] [[Category:日本の水産学者]] [[Category:ドイツ語学者]] [[Category:日本の辞典編纂者]] [[Category:戦前日本の学者]] [[Category:江戸時代の医師]] [[Category:19世紀日本の翻訳家]] [[Category:慶應義塾の塾生]] [[Category:日本の官僚 (1868-1949)]] [[Category:大日本帝国海軍文官]] [[Category:日本の海軍軍医]] [[Category:幕末上山藩の人物]] [[Category:山形県出身の人物]] [[Category:愛媛県の歴史]] [[Category:1848年生]] [[Category:1887年没]]
null
2021-10-31T01:30:49Z
false
false
false
[ "Template:参照方法", "Template:Infobox Scientist", "Template:Reflist", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B1%B1%E8%99%8E%E7%AB%A0
5,258
車輪
車輪(しゃりん、英: wheel)とは、車の輪。乗り物類の下にある円形の物体で、軸のまわりを回転し、地面上を容易に移動することを可能にする目的のもの。 小さな力で車、乗り物類を移動させるために用いられる。 車輪は最古の最重要な発明とされており、重量物を乗せて運ぶ橇と、その下に敷くころから発展したと考えられている。やがて橇の下にころが固定され、さらに車軸と回転部が分離して現在の形となった。 車輪が無いと、1. 物を持ち上げつつ移動させるか、2. あるいは物を地面・床面に接触した状態で押したり引いたりしなければならない。1の場合、持ち上げる(持ち上げ続ける)のに大きな力を要する。2.の場合、すべり摩擦よりも大きな力で押したり引いたりしなければならなくなる。 一方、車輪にはたらく摩擦は「転がり摩擦」で、これはすべり摩擦よりも遥かに小さく、遥かに小さな力で押す(引く)だけで移動させることができる。 たとえば、普通自動車(おおむね1トン超)でも、車輪が付いていてブレーキさえ解除していれば、男性が1人で押しても動き出すほどに転がり抵抗は小さい。もしも車輪がついていなかったら、男性1人では1トンのものは持ち上げることができず移動させられない。また通常の地面に車輪無しの1トンの鉄の箱が接触した状態では、1人の男性の力では押したり引いたりして移動させることは不可能である。 また、円盤状の板材の車輪に車軸を通して回転可能にした構造は、人類の発明の中でも偉大なものの一つであるといわれる。 一般的に言う「車輪」「ホイール」「ウィール」は接地しているタイヤ(ゴムや軟質の鉄などで出来ている)やチューブまで回転部分全てを指すが、分野や状況によっては区分される場合がある。自動車の分野では硬質の部分だけでも「wheel ホイール」と言う一方で、車輪の空転を示す用語として「ホイールスピン」は、接地しているタイヤを含みロードホイール全体を含む用語である。また逆に、ロードホイール全体を「タイヤ」という場合もある(テンパータイヤ、小説空飛ぶタイヤなど)。 Wheelのカタカナ表記は業界によって異なる、自動車やオートバイなどでは「ホイール」と呼ばれ、スケートボードやローラースケートでは「ウィール」と記述される。アメリカのミニカーのHotWheels(ミニカーの商標)は日本での代理店により揺らぎが有り、『ホットホイール』や『ホットウィール』と呼ばれている。 なおピラミッドの石材は、丸い材木(ころ。軸の無い丸い木材)を下に敷いて運搬したわけだが、ころのほうの起源は新石器時代に遡ると考えられている。 車輪の起源は、古代メソポタミアのシュメール人にあり、時期としては(一説では)紀元前3500年ころとされる。シュメールの車輪は、木製の円板に軸を挿したものだった。発明の時期に関しては、メソポタミア・ウバイド期の遺跡から轆轤から発展した車輪が出土していたり、紀元前3100年頃のスロベニア遺跡でも車輪が出土しているなど、いくつかの説が存在する。 なおポーランドの、個人のウェブページでは『「車輪のある乗り物」(ここでは四輪で軸が2つあるもの)と「思われる」最古の絵は、ポーランド南部で出土した紀元前3500年ごろのものと「思われる」 Bronocice pot に描かれたものだ』と主張された。 Gwynne Dyerの著書「War」の新版(2004年)によると、車輪は紀元前4千年紀にはヨーロッパや西南アジアに広まり、紀元前3千年紀にはインダス文明にまで到達した、といい、中国では紀元前1200年ごろには車輪を使った戦車が存在していたことがわかっている、という。一方、Barbieri-Low (2000) によれば、紀元前2000年ごろには中国に車輪つきの乗り物があったという。 ヌビアの古代遺跡では轆轤や水車が使われていた。ヌビアの水車は水汲み水車であり、牛を使って回していたと見られている。またヌビアではエジプトから馬に引かせる戦車も輸入していたことがわかっている。 オルメカや他の西半球文化では、インカ文明まで含めて車輪を発明しなかったが、紀元前1500年ごろの子供用の玩具と思われる岩石製の車輪状の物体が出土しており、車輪の発明に近づいていたと見られている。これはマヤ文明においても同じで、車輪付きの動物土偶が出土したように車輪そのものは知られていたが、それが実用化されることはなかった。新大陸において車輪が実用化されなかったのは輓獣となる家畜の不在が原因のひとつであると考えられている。 車輪付きの乗り物は家畜に引かせて初めて威力を発揮する。メソポタミアにおける荷車の出現はロバの家畜化とほぼ同時期である。やがて紀元前24世紀に入ると、ドン川やヴォルガ川流域でロバに代わり馬に荷車を引かせはじめるようになった。 車輪が広く使われるようになるには、平坦な道路が必要だった。でこぼこ道では、人間が荷物を背負って運ぶほうがたやすい。そのため、平坦な道路がない未開発地域では、20世紀に入るまで車輪を輸送手段に使うことはなかった。日本では平安時代に牛車が使用されていたが、平安京のような平地の都市部のみの普及だった。地方では牛馬の背に荷物を載せて運搬する駄賃馬稼が一般的であったが、江戸時代に入ると人力による大八車やベカ車も使用されるようになった。馬車や人力車の普及は道路網が整備された明治以降だった。 初期の車輪は木製の円盤であり、中心に車軸を通すための穴があった。木材の性質上、木の幹を水平に輪切りにしたものは強度がなく、縦方向に切り出した板を丸くしたものが必要だった。もし車輪を作れるだけの材が一本の木からとれなかった場合、三枚の半月形の板を作り、それを組み合わせて一枚の車輪とした。 地面からの衝撃を和らげるスポークのある車輪の発明に関しては、現在知られている最古の例はアンドロノヴォ文化のもので、紀元前2000年ごろである。そのすぐ後に、カフカース地方の騎馬民族が3世紀に渡ってスポークを使った車輪のチャリオットを馬に引かせるようになった。彼らはギリシア半島にも進出し、地中海の民族と交流した。ケルト人は紀元前1千年紀に戦車の車輪の外側に鉄を巻きつけることを始めた。 19世紀に入ると車輪に変化が訪れた。蒸気機関車の発明とともにその重さを支えるための鉄の車輪が発明され、鉄道などに用いられるようになった。 1870年ごろには、空気入りのタイヤと針金スポークの車輪が発明された。これは最初、そのころ発展しはじめた自転車に使用されたのち、19世紀末より普及し始めた自動車に使用されるようになり、これにより車輪の性能は大幅に向上した。 車輪の発明は輸送手段以外のテクノロジー一般にとっても重要だった。例えば、水車、歯車(アンティキティラ島の機械参照)、糸車、アストロラーベ、トルクエタムなどが車輪と関係が深い。さらに最近では、プロペラ、ジェットエンジン、フライホイール(ジャイロスコープ)、タービンなどが車輪を基本要素として発展していった。 車輪は物体を地表に押し付ける力があるとき、その物体を地表に沿って効率的に動かすことを可能にする機械(機構)である。 車輪と軸は常に組み合わせて使われ、軸に対して車輪が回転するか、本体内で軸が(車輪と共に)回転する。どちらにしても機構的には同じである。 車輪と軸を使う際の抵抗力が単に物体を引きずった場合よりも小さくなるのは次のように説明できる(摩擦を参照): 摩擦面の摩擦を低減するのに軸受が使われる。最も単純な最古の軸受は単なる丸い穴で、そこに軸を通した(すべり軸受)。 例: 追加のエネルギーが車輪と地面の接触で失われる。これは主に変形損失であり、転がり抵抗と呼ばれる。 地面の凸凹に対して車輪の径が十分大きければ、不規則な地面の上を楽に移動出来るという利点もある。 車輪単体は機械とは言えないが、軸や軸受と組み合わせることで、輪軸という単純機械になる。車両の車輪も輪軸の一例である。 意匠分類上は以下のような形状に分類される。 一般的には4穴、5穴等のボルト、ナット仕様が多い。レーシングカーやポルシェ、フェラーリ、ランボルギーニ、マクラーレンなどの中でも、極一部のスーパースポーツカー、ハイパーカーには迅速にタイヤ交換が可能なセンターロック仕様もある。 例えば「16×7J 5H PCD100 +38」と表記されていた場合 詳しくは、スチールホイール、アルミホイールを参照。 車輪はものを移動させる方法として広く使われている。ただし、向く場所(得意とする場所)、向かない場所(苦手とする場所)がある。 舗装された面、鉄道の上面、硬い地面、平らでなめらかな床面などはよく転がり、車輪に適している。 車輪の向かない場所というのは、雪原(積雪地)・湿地・泥道・砂漠・不整地・障害物がころがっている道、などである。 車輪が苦手な場所で、車輪の代わりに使われるものには次のようなものもある。 車輪には文化的な意味もあり、チャクラ、転生、陰陽などといった周期や規則的繰り返しの神秘的暗喩という側面もある。そのため、地形が険しくて不向きということもあり、チベットではかつて車輪つきの乗り物が禁じられていた。 翼付きの車輪は進歩の象徴であり、パナマの国章や Ohio State Highway Patrol のロゴなど、様々な場面で見られる。 スポークのある車輪(チャリオット)は青銅器時代中期に登場し、一種の権威を象徴するようになった。太陽十字は原始宗教によく見られるが、これは太陽神がチャリオットに乗るようになったという技術革新を表したものと言われている。 インドの国旗に見られる車輪は糸車と言われているが、法(ダルマ)を表しているとも言われる。ロマの人々の旗にも車輪が使われているが、これは彼らがインドを起源とすることと、流浪の歴史を現しているという。 日本の家紋の一種に車輪を文様化した図案化した車紋(くるまもん)が存在する。 使用家の代表格としては徳川四天王として活躍した榊原家や同じく大名の生駒家の車紋が挙げられる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "車輪(しゃりん、英: wheel)とは、車の輪。乗り物類の下にある円形の物体で、軸のまわりを回転し、地面上を容易に移動することを可能にする目的のもの。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "小さな力で車、乗り物類を移動させるために用いられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "車輪は最古の最重要な発明とされており、重量物を乗せて運ぶ橇と、その下に敷くころから発展したと考えられている。やがて橇の下にころが固定され、さらに車軸と回転部が分離して現在の形となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "車輪が無いと、1. 物を持ち上げつつ移動させるか、2. あるいは物を地面・床面に接触した状態で押したり引いたりしなければならない。1の場合、持ち上げる(持ち上げ続ける)のに大きな力を要する。2.の場合、すべり摩擦よりも大きな力で押したり引いたりしなければならなくなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "一方、車輪にはたらく摩擦は「転がり摩擦」で、これはすべり摩擦よりも遥かに小さく、遥かに小さな力で押す(引く)だけで移動させることができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "たとえば、普通自動車(おおむね1トン超)でも、車輪が付いていてブレーキさえ解除していれば、男性が1人で押しても動き出すほどに転がり抵抗は小さい。もしも車輪がついていなかったら、男性1人では1トンのものは持ち上げることができず移動させられない。また通常の地面に車輪無しの1トンの鉄の箱が接触した状態では、1人の男性の力では押したり引いたりして移動させることは不可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、円盤状の板材の車輪に車軸を通して回転可能にした構造は、人類の発明の中でも偉大なものの一つであるといわれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一般的に言う「車輪」「ホイール」「ウィール」は接地しているタイヤ(ゴムや軟質の鉄などで出来ている)やチューブまで回転部分全てを指すが、分野や状況によっては区分される場合がある。自動車の分野では硬質の部分だけでも「wheel ホイール」と言う一方で、車輪の空転を示す用語として「ホイールスピン」は、接地しているタイヤを含みロードホイール全体を含む用語である。また逆に、ロードホイール全体を「タイヤ」という場合もある(テンパータイヤ、小説空飛ぶタイヤなど)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "Wheelのカタカナ表記は業界によって異なる、自動車やオートバイなどでは「ホイール」と呼ばれ、スケートボードやローラースケートでは「ウィール」と記述される。アメリカのミニカーのHotWheels(ミニカーの商標)は日本での代理店により揺らぎが有り、『ホットホイール』や『ホットウィール』と呼ばれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なおピラミッドの石材は、丸い材木(ころ。軸の無い丸い木材)を下に敷いて運搬したわけだが、ころのほうの起源は新石器時代に遡ると考えられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "車輪の起源は、古代メソポタミアのシュメール人にあり、時期としては(一説では)紀元前3500年ころとされる。シュメールの車輪は、木製の円板に軸を挿したものだった。発明の時期に関しては、メソポタミア・ウバイド期の遺跡から轆轤から発展した車輪が出土していたり、紀元前3100年頃のスロベニア遺跡でも車輪が出土しているなど、いくつかの説が存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なおポーランドの、個人のウェブページでは『「車輪のある乗り物」(ここでは四輪で軸が2つあるもの)と「思われる」最古の絵は、ポーランド南部で出土した紀元前3500年ごろのものと「思われる」 Bronocice pot に描かれたものだ』と主張された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "Gwynne Dyerの著書「War」の新版(2004年)によると、車輪は紀元前4千年紀にはヨーロッパや西南アジアに広まり、紀元前3千年紀にはインダス文明にまで到達した、といい、中国では紀元前1200年ごろには車輪を使った戦車が存在していたことがわかっている、という。一方、Barbieri-Low (2000) によれば、紀元前2000年ごろには中国に車輪つきの乗り物があったという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ヌビアの古代遺跡では轆轤や水車が使われていた。ヌビアの水車は水汲み水車であり、牛を使って回していたと見られている。またヌビアではエジプトから馬に引かせる戦車も輸入していたことがわかっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "オルメカや他の西半球文化では、インカ文明まで含めて車輪を発明しなかったが、紀元前1500年ごろの子供用の玩具と思われる岩石製の車輪状の物体が出土しており、車輪の発明に近づいていたと見られている。これはマヤ文明においても同じで、車輪付きの動物土偶が出土したように車輪そのものは知られていたが、それが実用化されることはなかった。新大陸において車輪が実用化されなかったのは輓獣となる家畜の不在が原因のひとつであると考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "車輪付きの乗り物は家畜に引かせて初めて威力を発揮する。メソポタミアにおける荷車の出現はロバの家畜化とほぼ同時期である。やがて紀元前24世紀に入ると、ドン川やヴォルガ川流域でロバに代わり馬に荷車を引かせはじめるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "車輪が広く使われるようになるには、平坦な道路が必要だった。でこぼこ道では、人間が荷物を背負って運ぶほうがたやすい。そのため、平坦な道路がない未開発地域では、20世紀に入るまで車輪を輸送手段に使うことはなかった。日本では平安時代に牛車が使用されていたが、平安京のような平地の都市部のみの普及だった。地方では牛馬の背に荷物を載せて運搬する駄賃馬稼が一般的であったが、江戸時代に入ると人力による大八車やベカ車も使用されるようになった。馬車や人力車の普及は道路網が整備された明治以降だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "初期の車輪は木製の円盤であり、中心に車軸を通すための穴があった。木材の性質上、木の幹を水平に輪切りにしたものは強度がなく、縦方向に切り出した板を丸くしたものが必要だった。もし車輪を作れるだけの材が一本の木からとれなかった場合、三枚の半月形の板を作り、それを組み合わせて一枚の車輪とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "地面からの衝撃を和らげるスポークのある車輪の発明に関しては、現在知られている最古の例はアンドロノヴォ文化のもので、紀元前2000年ごろである。そのすぐ後に、カフカース地方の騎馬民族が3世紀に渡ってスポークを使った車輪のチャリオットを馬に引かせるようになった。彼らはギリシア半島にも進出し、地中海の民族と交流した。ケルト人は紀元前1千年紀に戦車の車輪の外側に鉄を巻きつけることを始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "19世紀に入ると車輪に変化が訪れた。蒸気機関車の発明とともにその重さを支えるための鉄の車輪が発明され、鉄道などに用いられるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1870年ごろには、空気入りのタイヤと針金スポークの車輪が発明された。これは最初、そのころ発展しはじめた自転車に使用されたのち、19世紀末より普及し始めた自動車に使用されるようになり、これにより車輪の性能は大幅に向上した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "車輪の発明は輸送手段以外のテクノロジー一般にとっても重要だった。例えば、水車、歯車(アンティキティラ島の機械参照)、糸車、アストロラーベ、トルクエタムなどが車輪と関係が深い。さらに最近では、プロペラ、ジェットエンジン、フライホイール(ジャイロスコープ)、タービンなどが車輪を基本要素として発展していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "車輪は物体を地表に押し付ける力があるとき、その物体を地表に沿って効率的に動かすことを可能にする機械(機構)である。", "title": "構造と機能" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "車輪と軸は常に組み合わせて使われ、軸に対して車輪が回転するか、本体内で軸が(車輪と共に)回転する。どちらにしても機構的には同じである。", "title": "構造と機能" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "車輪と軸を使う際の抵抗力が単に物体を引きずった場合よりも小さくなるのは次のように説明できる(摩擦を参照):", "title": "構造と機能" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "摩擦面の摩擦を低減するのに軸受が使われる。最も単純な最古の軸受は単なる丸い穴で、そこに軸を通した(すべり軸受)。", "title": "構造と機能" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "例:", "title": "構造と機能" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "追加のエネルギーが車輪と地面の接触で失われる。これは主に変形損失であり、転がり抵抗と呼ばれる。", "title": "構造と機能" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "地面の凸凹に対して車輪の径が十分大きければ、不規則な地面の上を楽に移動出来るという利点もある。", "title": "構造と機能" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "車輪単体は機械とは言えないが、軸や軸受と組み合わせることで、輪軸という単純機械になる。車両の車輪も輪軸の一例である。", "title": "構造と機能" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "意匠分類上は以下のような形状に分類される。", "title": "自動車用ホイール" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一般的には4穴、5穴等のボルト、ナット仕様が多い。レーシングカーやポルシェ、フェラーリ、ランボルギーニ、マクラーレンなどの中でも、極一部のスーパースポーツカー、ハイパーカーには迅速にタイヤ交換が可能なセンターロック仕様もある。", "title": "自動車用ホイール" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "例えば「16×7J 5H PCD100 +38」と表記されていた場合", "title": "自動車用ホイール" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "詳しくは、スチールホイール、アルミホイールを参照。", "title": "自動車用ホイール" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "車輪はものを移動させる方法として広く使われている。ただし、向く場所(得意とする場所)、向かない場所(苦手とする場所)がある。", "title": "車輪が得意とする場所、苦手とする場所" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "舗装された面、鉄道の上面、硬い地面、平らでなめらかな床面などはよく転がり、車輪に適している。", "title": "車輪が得意とする場所、苦手とする場所" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "車輪の向かない場所というのは、雪原(積雪地)・湿地・泥道・砂漠・不整地・障害物がころがっている道、などである。", "title": "車輪が得意とする場所、苦手とする場所" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "車輪が苦手な場所で、車輪の代わりに使われるものには次のようなものもある。", "title": "車輪が得意とする場所、苦手とする場所" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "車輪には文化的な意味もあり、チャクラ、転生、陰陽などといった周期や規則的繰り返しの神秘的暗喩という側面もある。そのため、地形が険しくて不向きということもあり、チベットではかつて車輪つきの乗り物が禁じられていた。", "title": "象徴としての車輪" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "翼付きの車輪は進歩の象徴であり、パナマの国章や Ohio State Highway Patrol のロゴなど、様々な場面で見られる。", "title": "象徴としての車輪" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "スポークのある車輪(チャリオット)は青銅器時代中期に登場し、一種の権威を象徴するようになった。太陽十字は原始宗教によく見られるが、これは太陽神がチャリオットに乗るようになったという技術革新を表したものと言われている。", "title": "象徴としての車輪" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "インドの国旗に見られる車輪は糸車と言われているが、法(ダルマ)を表しているとも言われる。ロマの人々の旗にも車輪が使われているが、これは彼らがインドを起源とすることと、流浪の歴史を現しているという。", "title": "象徴としての車輪" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本の家紋の一種に車輪を文様化した図案化した車紋(くるまもん)が存在する。 使用家の代表格としては徳川四天王として活躍した榊原家や同じく大名の生駒家の車紋が挙げられる。", "title": "象徴としての車輪" } ]
車輪とは、車の輪。乗り物類の下にある円形の物体で、軸のまわりを回転し、地面上を容易に移動することを可能にする目的のもの。
{{Redirect|ホイール|コンピュータで用いるマウスのホイール|マウス (コンピュータ)#ホイール|その他の用法|ホイール (曖昧さ回避)}} [[File:Roue primitive.png|thumb|right|プリミティブな(原型的、素朴な)車輪]] [[File:Wheel of an old horse carriage.jpg|thumb|right|220 px|古い[[馬車]]の車輪。]] [[File:JR-East Ms260-1 DT88.jpg|thumb|right|220 px|[[鉄道車両]]の車輪([[輪軸 (鉄道車両)|輪軸]])]] [[File:Car wheel round.jpg|thumb|right|220 px|[[自動車]]の車輪]] '''車輪'''(しゃりん、{{Lang-en-short|wheel}})とは、[[車]]の[[輪]]<ref>大辞泉【車輪】</ref>。乗り物類の下にある[[円形]]の物体で、[[軸]]のまわりを[[回転]]し、[[地面]]上を容易に移動することを可能にする目的のもの<ref>[https://www.lexico.com/definition/wheel Lexico, definition of wheel]</ref>。 == 概要 == 小さな力で車、乗り物類を移動させるために用いられる。 車輪は最古の最重要な[[発明]]とされており、重量物を乗せて運ぶ[[橇]]と、その下に敷く[[ころ]]から発展したと考えられている。やがて橇の下にころが固定され、さらに車軸と回転部が分離して現在の形となった<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p134-135 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。 車輪が無いと、1. 物を持ち上げつつ移動させるか、2. あるいは物を地面・床面に接触した状態で押したり引いたりしなければならない。1の場合、持ち上げる(持ち上げ続ける)のに大きな力を要する。2.の場合、[[摩擦力|すべり摩擦]]よりも大きな力で押したり引いたりしなければならなくなる。 一方、車輪にはたらく摩擦は「[[摩擦力|転がり摩擦]]」で、これは[[摩擦力|すべり摩擦]]よりも遥かに小さく、遥かに小さな力で押す(引く)だけで移動させることができる。 たとえば、普通自動車(おおむね1トン超)でも、車輪が付いていてブレーキさえ解除していれば、男性が1人で押しても動き出すほどに転がり抵抗は小さい。もしも車輪がついていなかったら、男性1人では1トンのものは持ち上げることができず移動させられない。また通常の地面に車輪無しの1トンの鉄の箱が接触した状態では、1人の男性の力では押したり引いたりして移動させることは不可能である。 また、円盤状の板材の車輪に車軸を通して[[回転]]可能にした構造は、[[人類]]の[[発明]]の中でも偉大なものの一つであるといわれる。 一般的に言う「車輪」「ホイール」「ウィール」は接地している[[タイヤ]](ゴムや軟質の鉄などで出来ている)や[[チューブ]]まで回転部分全てを指すが、分野や状況によっては区分される場合がある。自動車の分野では硬質の部分だけでも「wheel ホイール」と言う一方で、車輪の[[空転]]を示す用語として「ホイールスピン」は、接地しているタイヤを含みロードホイール全体を含む用語である。また逆に、ロードホイール全体を「タイヤ」という場合もある(テンパータイヤ、小説[[空飛ぶタイヤ]]など)。 Wheelのカタカナ表記は業界によって異なる、自動車やオートバイなどでは「ホイール」と呼ばれ、スケートボードやローラースケートでは「ウィール」と記述される。アメリカのミニカーの[[ホットウィール|HotWheels(ミニカーの商標)]]は日本での代理店により揺らぎが有り、『ホットホイール』や『ホットウィール』と呼ばれている。 なお[[ピラミッド]]の[[石材]]は、丸い材木([[ころ]]。軸の無い丸い木材)を下に敷いて運搬したわけだが<!--ころの使用の起源は-->、ころのほうの起源は新石器時代に遡ると考えられている<ref>[https://www.napac.jp/cms/images/publish/chap01.pdf ホイールの誕生、 そして進化と発展の歩み]</ref>。 == 歴史 == === 起源と伝播 === 車輪の起源は、古代[[メソポタミア]]の[[シュメール人]]にあり<ref name="citeco_invention_of_wheel">[https://www.citeco.fr/10000-years-history-economics/the-origins/invention-of-the-wheel 3500 BC, Invention of the wheel]</ref>、時期としては(一説では)[[紀元前3500年]]ころとされる<ref name="citeco_invention_of_wheel" />。シュメールの車輪は、木製の[[円板]]に[[軸]]を挿したものだった<ref name="citeco_invention_of_wheel" />。発明の時期に関しては、メソポタミア・[[ウバイド文化|ウバイド期]]の遺跡から[[轆轤]]から発展した車輪が出土していたり<ref name="名前なし-rKhF-1">「ものがつなぐ世界史」(MINERVA世界史叢書5)p25 桃木至朗責任編集 中島秀人編集協力 ミネルヴァ書房 2021年3月30日初版第1刷発行</ref>、紀元前3100年頃のスロベニア遺跡でも車輪が出土しているなど、いくつかの説が存在する<ref name="名前なし-rKhF-1"/>。[[File:Bronocice drawn.png|thumb|200px|[[:en:Bronocice pot|Bronocice pot]]の図。ポーランドで出土、[[:en:Archaeological_Museum_of_Kraków|クラクフ考古学博物館]]蔵]] なおポーランドの、個人のウェブページでは『「車輪のある[[乗り物]]」(ここでは四輪で軸が2つあるもの)と「思われる」最古の絵{{要検証|date=2022年6月}}は、ポーランド南部で出土した紀元前3500年ごろのものと「思われる」 [[:en:Bronocice pot|Bronocice pot]] に描かれたものだ』と主張された<ref>[http://www.bronocice.dzialoszyce.info/waza.htm Waza z Bronocic (in Polish)]</ref>。 Gwynne Dyerの著書「War」の新版(2004年)によると、車輪は紀元前4千年紀には[[ヨーロッパ]]や[[西南アジア]]に広まり、[[紀元前3千年紀]]には[[インダス文明]]にまで到達した、といい、[[中国]]では紀元前1200年ごろには車輪を使った[[チャリオット|戦車]]が存在していたことがわかっている、という<ref name="Dyer">Dyer, Gwynne, "War: the new edition", p. 159: Vintage Canada Edition, Randomhouse of Canada, Toronto, ON</ref>。一方、Barbieri-Low (2000) によれば、紀元前2000年ごろには中国に車輪つきの乗り物があったという。 [[ヌビア]]の古代遺跡では轆轤や水車が使われていた<ref>[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9C00E5D71E3BF934A15751C0A962958260 CRAFTS; Uncovering Treasures of Ancient Nubia; New York Times]</ref><ref>[http://wysinger.homestead.com/kush.html Ancient Sudan: (aka Kush & Nubia) City of Meroe (4th B.C. to 325 A.D.)]</ref>。ヌビアの水車は[[水汲み水車]]であり、牛を使って回していたと見られている<ref>[http://discovermagazine.com/1994/jun/whatthenubiansat393 What the Nubians Ate]</ref>。またヌビアでは[[エジプト]]から馬に引かせる戦車も輸入していたことがわかっている<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=JAca1F3qG34C&pg=PA278&lpg=PA278&dq=Nubian+horse+chariots&source=web&ots=wWVGBxkwJD&sig=4wS7bIPBseMDkQJxC_7iT3oYyZo&hl=en&ei=fbmMSe2mKY60yQWF8a2_Bg&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y The Cambridge History of Africa]</ref>。 [[File:Wheels_troughout_history.JPG|right|thumb|100px|車輪の歴史]] [[オルメカ]]や他の[[西半球]][[文化_(代表的なトピック)|文化]]では、[[インカ文明]]まで含めて車輪を発明しなかったが、紀元前1500年ごろの[[子供]]用の[[玩具]]と思われる[[岩石]]製の車輪状の物体が出土しており、車輪の発明に近づいていたと見られている<ref>{{cite journal|title=Wheeled Toys in Mexico|last=Ekholm|first=Gordon F|journal=American Antiquity|volume= 11|date=1945}}</ref>。これは[[マヤ文明]]においても同じで、車輪付きの動物[[土偶]]が出土したように車輪そのものは知られていたが、それが実用化されることはなかった<ref>「マヤ文明を知る事典」p46 青山和夫 東京堂出版 2015年11月10日初版発行</ref>。新大陸において車輪が実用化されなかったのは[[輓獣]]となる家畜の不在が原因のひとつであると考えられている<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p137 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。 車輪付きの乗り物は[[家畜]]に引かせて初めて威力を発揮する。メソポタミアにおける荷車の出現は[[ロバ]]の[[家畜化]]とほぼ同時期である<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p158 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。やがて紀元前24世紀に入ると、[[ドン川]]や[[ヴォルガ川]]流域でロバに代わり[[馬]]に荷車を引かせはじめるようになった<ref>「ものがつなぐ世界史」(MINERVA世界史叢書5)p26-27 桃木至朗責任編集 中島秀人編集協力 ミネルヴァ書房 2021年3月30日初版第1刷発行</ref>。 車輪が広く使われるようになるには、平坦な[[道路]]が必要だった<ref>[http://successcircuit.com/is-the-end-of-originality-here/ How The Wheel Developed]</ref>。でこぼこ道では、人間が荷物を背負って運ぶほうがたやすい。そのため、平坦な道路がない未開発地域では、20世紀に入るまで車輪を輸送手段に使うことはなかった。日本では[[平安時代]]に[[牛車]]が使用されていたが、[[平安京]]のような平地の都市部のみの普及だった。地方では牛馬の背に荷物を載せて運搬する[[駄賃馬稼]]が一般的であったが、[[江戸時代]]に入ると人力による[[大八車]]や[[ベカ車]]も使用されるようになった<ref>「物流ビジネスと輸送技術【改訂版】」(交通論おもしろゼミナール6)p25-26 澤喜司郎 成山堂書店 平成29年2月28日改訂初版発行</ref>。[[馬車]]や[[人力車]]の普及は道路網が整備された明治以降だった。 [[ファイル:Standard of Ur chariots.jpg|thumb|left|250px|[[シュメール]]時代の[[アジアノロバ|オナガー]]に引かせた[[チャリオット|戦車]]の絵(紀元前2500年ごろ)]] {{Gallery|width = 200px |File:Chariot de type sumérien (Louvre, AO 2773).jpg|ブロンズ製のシュメール式[[チャリオット|戦車]]。([[紀元前2500年]]-2250年ころ。フランス、[[ルーブル美術館]]の展示品。) }} === 車輪の発展 === 初期の車輪は木製の円盤であり、中心に車軸を通すための穴があった。[[木材]]の性質上、木の幹を水平に輪切りにしたものは強度がなく、縦方向に切り出した板を丸くしたものが必要だった。もし車輪を作れるだけの材が一本の木からとれなかった場合、三枚の半月形の板を作り、それを組み合わせて一枚の車輪とした<ref>「図説 人類の歴史 別巻 古代の科学と技術 世界を創った70の大発明」p135 ブライアン・M・フェイガン編 西秋良宏監訳 朝倉書店 2012年5月30日初版第1刷</ref>。 地面からの衝撃を和らげる[[スポーク]]のある車輪の発明に関しては、現在知られている最古の例は[[アンドロノヴォ文化]]のもので、紀元前2000年ごろである<ref>「ものがつなぐ世界史」(MINERVA世界史叢書5)p27-29 桃木至朗責任編集 中島秀人編集協力 ミネルヴァ書房 2021年3月30日初版第1刷発行</ref>。そのすぐ後に、[[カフカース]]地方の騎馬民族が3世紀に渡ってスポークを使った車輪の[[チャリオット]]を馬に引かせるようになった。彼らは[[ギリシア半島]]にも進出し、[[地中海]]の民族と交流した。[[ケルト人]]は紀元前1千年紀に戦車の車輪の外側に[[鉄]]を巻きつけることを始めた。 [[19世紀]]に入ると車輪に変化が訪れた。[[蒸気機関車]]の発明とともにその重さを支えるための鉄の車輪が発明され、[[鉄道]]などに用いられるようになった。 [[1870年]]ごろには、空気入りの[[タイヤ]]と針金スポークの車輪が発明された<ref>[http://www.bookrags.com/research/wheel-and-axle-woi/ bookrags.com] - Wheel and axle</ref>。これは最初、そのころ発展しはじめた[[自転車]]に使用されたのち、19世紀末より普及し始めた[[自動車]]に使用されるようになり、これにより車輪の性能は大幅に向上した。 <!--画像:Australian cart.jpg|thumb|right|250px|荷車]]--> {{Gallery|width = 200px |ファイル:Wheel Iran.jpg|[[テヘラン]]の[[イラン国立博物館]]に展示されている、紀元前1000年以前のものと推定されている、スポーク式の車輪。([[チョガ・ザンビール]]で出土) |画像:Columbia_High-wheeled_Bicycle,_circa_1886.jpg|[[ペニー・ファージング]]型自転車の車輪。前輪だけが大きい。 |File:Bicycle wheel 01.jpg|近年の自転車の車輪。前後同じサイズ。 }} 車輪の発明は輸送手段以外の[[テクノロジー]]一般にとっても重要だった。例えば、[[水車]]、[[歯車]]([[アンティキティラ島の機械]]参照)、[[糸車]]、[[アストロラーベ]]、[[トルクエタム]]などが車輪と関係が深い。さらに最近では、[[プロペラ]]、[[ジェットエンジン]]、[[フライホイール]]([[ジャイロスコープ]])、[[タービン]]などが車輪を基本要素として発展していった。 == 構造と機能 == 車輪は物体を地表に押し付ける力があるとき、その物体を地表に沿って効率的に動かすことを可能にする機械(機構)である。 車輪と[[軸 (機械要素)|軸]]は常に組み合わせて使われ、軸に対して車輪が回転するか、本体内で軸が(車輪と共に)回転する。どちらにしても機構的には同じである。 車輪と軸を使う際の抵抗力が単に物体を引きずった場合よりも小さくなるのは次のように説明できる([[摩擦]]を参照): * 摩擦を生じる接触部分にかかる垂直力は同じである。 * 軸が一回転することで車輪が一回転すると、軸の外周のぶんだけの摩擦距離で、車輪の外周のぶんだけ進むことになり、摩擦の生じる距離が大幅に小さくなる。 * 摩擦の生じる接触面が全て機構の中にあるため、地面との摩擦よりも摩擦係数をかなり低くできる。 摩擦面の摩擦を低減するのに[[軸受]]が使われる。最も単純な最古の軸受は単なる丸い穴で、そこに軸を通した([[すべり軸受]])。 例: * 100 [[キログラム|kg]] の物体を 10 [[メートル|m]] 引っ張るとする。[[摩擦]]係数 ''μ''&nbsp;= 0.5 で、[[垂直力]]は 981 [[ニュートン (単位)|N]] とすると、なされる[[仕事 (物理学)|仕事]](必要とされる[[エネルギー]])は「仕事 = 力 × 距離」なので、981 × 0.5 × 10&nbsp;= 4905 [[ジュール]]である。 * ここで同じ物体に4つの車輪をつける。4輪と軸の間の垂直力は以前と(合計では)同じで 981 N である。車輪と軸が木製だとして、その摩擦係数を ''μ''&nbsp;= 0.25 と仮定する。車輪の[[径]]を 1000&nbsp;mm、軸の径を 50&nbsp;mm とする。これを 10 m 移動させるとすると、摩擦面がこすられる距離は 0.5 m となる。したがってなされる仕事は 981 × 0.25 × 0.5&nbsp;= 123 ジュールである。したがって、物体を直接ひきずる場合の 1/40 で済む。 追加のエネルギーが車輪と地面の接触で失われる。これは主に変形損失であり、[[転がり抵抗]]と呼ばれる。 地面の凸凹に対して車輪の径が十分大きければ、不規則な地面の上を楽に移動出来るという利点もある。 車輪単体は機械とは言えないが、[[軸 (機械要素)|軸]]や軸受と組み合わせることで、[[輪軸]]という[[単純機械]]になる。車両の車輪も輪軸の一例である。 == 車輪の素材 == * 木材 * 竹材 * 石材 * [[鋼]](鉄合金) * [[アルミニウム合金]] * [[マグネシウム合金]] * [[チタン]]合金 * [[プラスチック]] ** [[ポリウレタン]] <!--*[[スカンジウム]]合金--><!--アルミニウムに微量のスカンジウムを添加した合金のことだと思いますが、一般に「oo 合金」というときの「oo」は母材を表しますので、この場合では上記の「アルミニウム合金」に含まれるものでしょう。とりあえずコメントアウトとしました--> * [[炭素繊維強化プラスチック]](カーボン) == 車輪の要素 == * キャストホイール ** ディスクホイール ** コムスターホイール * スポークホイール ** [[リム (機械)|リム]] ** [[スポーク]] ** [[ハブ (機械)|ハブ]] ;構成要素 * [[軸 (機械要素)|車軸]] * [[リム (機械)]] * [[車輪軸]] * [[固定車軸]] * [[輪軸]] * [[ベアリング]] * [[センターロックホイール]] * ホイール - [[スチールホイール]]、[[アルミホイール]]、[[マグネシウムホイール]] * [[サスペンション]] - [[車軸懸架]]、[[独立懸架]]、[[トーションビーム式サスペンション|可撓梁懸架]] * [[ブレーキ]] - [[ドラムブレーキ]]、[[ディスクブレーキ]] == 自動車用ホイール == === 形状 === 意匠分類上は以下のような形状に分類される<ref name="jpo-card-G2">[https://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/pdf/card/G2.pdf 意匠分類定義カード(G2)] 特許庁</ref>。 * 放射状 - ホイールのリム内側ディッシュ部分が放射状<ref name="jpo-card-G2"/> * うず巻き状 - ホイールのリム内側ディッシュ部分がうず巻き状<ref name="jpo-card-G2"/> * ディスク状 - ホイールのリム内側ディッシュ部分が平らかな板状<ref name="jpo-card-G2"/> * メッシュ状 - ホイールのリム内側ディッシュ部分がメッシュ状<ref name="jpo-card-G2"/> === 取り付け規格 === 一般的には4穴、5穴等のボルト、ナット仕様が多い。[[レーシングカー]]や[[ポルシェ]]、[[フェラーリ]]、[[ランボルギーニ]]、[[マクラーレン・オートモーティブ|マクラーレン]]などの中でも、極一部のスーパー[[スポーツカー]]、[[ハイパーカー]]には迅速にタイヤ交換が可能な[[センターロックホイール|センターロック]]仕様もある。 === サイズ表記・規格 === 例えば「16×7J 5H PCD100 +38」と表記されていた場合 * 「16」外径…16[[インチ]] ** ビード当たり面の直径をインチで表す。 * 「7」リム幅…7インチ * 「J」[[フランジ#ホイールとタイヤの嵌合部分|フランジ]]形状。リム面からフランジ頂部までの高さ、フランジの厚さ、フランジのビード当たり面の半径で分類。 ** 乗用車で一般的な形状(高さ / 厚さ / 半径。単位 mm)<br />B = 14.0 / 10 / 7.5<br />J = 17.5 / 13 / 9.5<br />JJ = 18.0 / 13.0 / 9.0<br />K ** トラックで一般的な形状<ref>[https://www.topy-ep.co.jp/pdf/business/automobile_parts/truck/withtube.pdf ウィズチューブホイール] - [[トピー工業]](更新日不明)2018年1月26日閲覧</ref><br />B、F、E、GS、J、JJ、K、S、SW、SWA、T、V ※形状記号の後にSDCが付いた場合はサイドリング付き(Semi Drop Center rim) ** 特殊自動車・農機で一般的な形状<ref>[http://www.marunaka-rubber.co.jp/product/forklift-wheel.php 取扱商品] - 中丸ゴム工業(更新日不明)2018年1月26日閲覧</ref><br />A、B、D、E、F、G、I、J、JA、JJ、K、LB、MT、P、R、S、SP、SW、TG、V、W、WI ** バイクで一般的な形状<br />J、K、MT、W ※形状記号の後にDTが付いた場合は2つ割りリム(Divided Type rim) ** 自転車で一般的な形状<br />B/E、H/E、W/O ** その他<br /> Lなど :: 乗用車用アルミホイールのフランジ形状には「J」が多いため、よく目にするこの記号をリム幅の単位だと勘違いし、例えば、フランジ形状「K」の純正スチールホイールを「14×5.0J」と呼んだり、幅広ホイールに対して「J数が大きい」と表現するなどは、すべて誤用である。 * 「5H」取付ボルト穴…5穴 3穴~12が用いられている。重量や負荷が大きい車両ほどボルト数が多く、直径が太くなる。 * 「PCD」[[ナット座ピッチ直径|取付穴間径]]…100 mm **「PCD」とは「Pitch Circle Diameter」の略。(日本の乗用車では100 mm、110 mm、114.3 mm(4.5インチ)が一般的で、外国車には101.6 mm(4インチ)などもある。複数の径に対応したマルチPCDホイールもある。) * 「+」インセット(日本国内での旧称はプラスオフセット)。ハブ面からリム(タイヤ幅)中心までの距離…プラス方向(車両内側)に38 mmの意味。ETと表記するメーカーもある(単位はmmで、ドイツ語の「Einpresstiefe」の略で英語のOffsetと同義)。 ** リム中心がハブ面の内側に入ることをインセット、逆にリム中心がハブ面より外側に出ることをアウトセット(日本国内の旧称はマイナスオフセット)という。 詳しくは、[[スチールホイール]]、[[アルミホイール]]を参照。 {{Gallery|width = 250px |File:Prius2004Wheel.JPG|[[トヨタ・プリウス]](2004)のリアホイール |File:BMW Sauber F1.06 rear wheel - Bridgestone tire.jpg|F1のセンターロック式ホイール |File:車のホイール.jpg|自動車用ホイール |File:ハイゼットカーゴデラックス(2WD CVT)伊丹空港展示のフロントホイール.jpg|[[ダイハツ・ハイゼット]](2022)カーゴのフロントホイール }} == 様々な車輪 == {{節スタブ|section=1|date=2022年6月}} {{Gallery|width = 250px |File:0 Series Shinkansen Wheel.jpg|[[新幹線0系電車]]の車輪 |File:Curiosity rover's damaged left front wheel, sol 411.jpg|火星探査機[[キュリオシティ]]の車輪 |File:UranusOmniDirectionalRobotPodnar.png|{{ill2|メカナムホイール|en|Mecanum wheel}}を用いた移動ロボットURANUS |File:Big Lizzie Red Cliffs Victoria.jpg|不整地を走るための{{ill2|ドレッドノートホイール|en|Dreadnaught wheel}}を用いたトラクター |File:Pedrail wheel.jpg|{{ill2|Pedrail wheel|en|Pedrail wheel}} |ファイル:CASE_STX480.jpg|[[無限軌道]]を用いたトラクター |File:Set of wheel and cut brake - Boeing 747 (8458361481).jpg|[[ボーイング747]]の車輪の断面 }} == 車輪が得意とする場所、苦手とする場所 == [[File:Rally_Dakar_2009_5.jpg|thumb|right|160px|[[砂漠]]での車輪の使用。([[ダカールラリー]])]] 車輪はものを移動させる方法として広く使われている。ただし、向く場所(得意とする場所)、向かない場所(苦手とする場所)がある。 [[舗装]]された面、[[鉄道]]の上面、硬い地面、平らでなめらかな床面などはよく転がり、車輪に適している。 車輪の向かない場所というのは、雪原(積雪地)・[[湿地]]・[[泥道]]・[[砂漠]]・[[不整地]]・障害物がころがっている道、などである。 車輪が苦手な場所で、車輪の代わりに使われるものには次のようなものもある。 * 不整地 : 徒歩、[[ウマ]]([[乗馬]])、[[無限軌道]](ただし実際には機構の一部として車輪が使われている)。[[ホバークラフト]]も。 ** 近年では、四足歩行ロボットも(たとえばボストン・ダイナミクスの[[Spot (四肢ロボット)|Spot]]など)。あるいは[[二足歩行ロボット]]。 <!--リニアは車輪の苦手な場所で代用で使っているのではない。 別次元の話。リニアを挙げるくらいなら、それ以前に航空機を挙げたほうがよい。[[電磁気学|電磁気]]による浮上([[磁気浮上式鉄道]]など)--> * 雪原 : [[ソリ]](手押しの[[橇]]、[[犬ぞり]]など)。スノーモビル(ただしゴムの[[無限軌道]]が使われていて、車輪も組み込まれている。) == 象徴としての車輪 == 車輪には[[文化的]]な意味もあり、[[チャクラ]]、[[転生]]、[[陰陽]]などといった周期や規則的繰り返しの神秘的暗喩という側面もある。そのため、地形が険しくて不向きということもあり、[[チベット]]ではかつて車輪つきの乗り物が禁じられていた。 翼付きの車輪は進歩の象徴であり、[[パナマの国章]]や [[:en:Ohio State Highway Patrol|Ohio State Highway Patrol]] のロゴなど、様々な場面で見られる。 スポークのある車輪([[チャリオット]])は青銅器時代中期に登場し、一種の権威を象徴するようになった。[[太陽十字]]は[[原始宗教]]によく見られるが、これは[[太陽神]]がチャリオットに乗るようになったという技術革新を表したものと言われている。 [[インドの国旗]]に見られる車輪は[[糸車]]と言われているが、[[法 (仏教)|法]](ダルマ)を表しているとも言われる。[[ロマ]]の人々の旗にも車輪が使われているが、これは彼らがインドを起源とすることと、流浪の歴史を現しているという。 <gallery> Roma flag.svg|[[ロマ]]の旗 </gallery> === 車紋 === [[日本]]の[[家紋]]の一種に車輪を文様化した図案化した'''車紋(くるまもん)'''が存在する。 使用家の代表格としては[[徳川四天王]]として活躍した[[榊原氏|榊原家]]や同じく[[大名]]の[[生駒氏|生駒家]]の車紋が挙げられる。 <gallery> Japanese Crest Gennji kuruma.svg|源氏車 kuruma.png|榊原源氏車 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == <!--雑多 [[File:StolenBike-FrontWheel.jpg|thumb|right|220px|自転車本体が盗まれ、駐輪場にポツンと残された前輪。]]--> * [[輪軸 (鉄道車両)]] * [[駆動輪]] * {{仮リンク|タイヤバランス|en|Tire balance}} * [[転がり抵抗]] * [[観覧車]] * [[手押し車]] * [[キャスター (移動用部品)]] * 車輪に関する事象 - [[ホイール・オブ・フォーチュン]]、[[車裂きの刑]]、 [[車輪の再発明]] * [[メス (工学)]] * [[インド=ヨーロッパ語族]] - 車輪・車両に関する共通語彙があり、初期の発展と密接な関係があると考えられる。 * その他の地上移動方法:[[磁気浮上式鉄道]]、[[そり]]、[[ホバークラフト]]・[[空気浮上式鉄道]]、{{ill2|歩行機械|en|Walking vehicle}}、[[球体|球体駆動式全方向移動機構]]、{{ill2|スクリュー推進|en|Screw-propelled vehicle}} == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Kotobank}} {{Clear}} {{Car-stub}} {{自動車部品}} {{自動車}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやりん}} [[Category:車輪|*]] [[Category:機械要素]] [[Category:技術史]] [[Category:交通史]] [[Category:回転機械]]
2003-03-26T23:24:09Z
2023-10-27T10:32:33Z
false
false
false
[ "Template:節スタブ", "Template:Car-stub", "Template:Reflist", "Template:Kotobank", "Template:Clear", "Template:自動車部品", "Template:自動車", "Template:Redirect", "Template:要検証", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Lang-en-short", "Template:Commonscat", "Template:Normdaten", "Template:Gallery", "Template:Cite journal", "Template:Ill2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8A%E8%BC%AA
1,086,912
フォン・スチューベン (原子力潜水艦)
フォン・スチューベン(USS Von Steuben, SSBN-632)は、アメリカ海軍のジェームズ・マディソン級原子力潜水艦の6番艦。艦名はアメリカ独立戦争に従軍したプロイセン王国の陸軍士官フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベンに因む。その名を持つ艦としては第一次世界大戦時に接収したドイツ貨客船クローンプリンツ・ヴィルヘルム号を改名(ID-3017)して以来2隻目。 フォン・スチューベンの建造は1961年7月20日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所に発注され、1962年9月4日に起工した。1963年10月18日にフレッド・コース夫人によって命名、進水し、1964年9月30日にブルー班のジョン・P・ワイズ艦長およびゴールド班のジェフリー・C・メッツェル艦長の指揮下就役する 1964年の秋にフォン・スチューベンは各班それぞれの整調航海を完了し、続いて対潜水艦戦訓練を行った。12月22日にゴールド班は、クリスマス休暇でニューポート・ニューズに帰還する前に最初のポラリス・ミサイルを大西洋試験海域で発射した。1965年に入ると乗組員が交代し、ケープ・カナベラル沖の試験海域でブルー班がミサイル発射訓練を行う。2月に訓練を完了しニューポート・ニューズに帰還する。 3月にフォン・スチューベンは最初の配備に就く。新たな母港のサウスカロライナ州チャールストンで第18潜水艦戦隊に合流し、直ちに戦略抑止哨戒を開始する。 1968年に11回目の哨戒を完了し、フォン・スチューベンは第16潜水艦戦隊に転属する。スペインのロタを拠点として1969年半まで作戦活動を行う。この間の1968年夏にはコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で補修を受ける。その後ロタから哨戒を再開した。1970年11月にフォン・スチューベンは再びグロトンを訪れ、16ヶ月のオーバーホールに入る。この間にポセイドン C-3 ミサイルを運用するための改修が行われた。転換作業が終了後の1971年初めに整調を行い、2月から3月にかけてポセイドン・ミサイルの発射試験を行う。フォン・スチューベンはチャールストンに帰還し、1971年5月に哨戒を再開した。 フォン・スチューベンは1980年代の初めにトライデント・ミサイルを運用するための改修が行われた。 フォン・スチューベンは1994年2月26日に退役し、同日除籍された。その後ワシントン州ブレマートンで原子力艦再利用プログラムの下2000年10月1日に解体作業に入り、作業は2001年10月30日に完了した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フォン・スチューベン(USS Von Steuben, SSBN-632)は、アメリカ海軍のジェームズ・マディソン級原子力潜水艦の6番艦。艦名はアメリカ独立戦争に従軍したプロイセン王国の陸軍士官フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベンに因む。その名を持つ艦としては第一次世界大戦時に接収したドイツ貨客船クローンプリンツ・ヴィルヘルム号を改名(ID-3017)して以来2隻目。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "フォン・スチューベンの建造は1961年7月20日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所に発注され、1962年9月4日に起工した。1963年10月18日にフレッド・コース夫人によって命名、進水し、1964年9月30日にブルー班のジョン・P・ワイズ艦長およびゴールド班のジェフリー・C・メッツェル艦長の指揮下就役する", "title": "艦歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1964年の秋にフォン・スチューベンは各班それぞれの整調航海を完了し、続いて対潜水艦戦訓練を行った。12月22日にゴールド班は、クリスマス休暇でニューポート・ニューズに帰還する前に最初のポラリス・ミサイルを大西洋試験海域で発射した。1965年に入ると乗組員が交代し、ケープ・カナベラル沖の試験海域でブルー班がミサイル発射訓練を行う。2月に訓練を完了しニューポート・ニューズに帰還する。", "title": "艦歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "3月にフォン・スチューベンは最初の配備に就く。新たな母港のサウスカロライナ州チャールストンで第18潜水艦戦隊に合流し、直ちに戦略抑止哨戒を開始する。", "title": "艦歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1968年に11回目の哨戒を完了し、フォン・スチューベンは第16潜水艦戦隊に転属する。スペインのロタを拠点として1969年半まで作戦活動を行う。この間の1968年夏にはコネチカット州グロトンのエレクトリック・ボート社で補修を受ける。その後ロタから哨戒を再開した。1970年11月にフォン・スチューベンは再びグロトンを訪れ、16ヶ月のオーバーホールに入る。この間にポセイドン C-3 ミサイルを運用するための改修が行われた。転換作業が終了後の1971年初めに整調を行い、2月から3月にかけてポセイドン・ミサイルの発射試験を行う。フォン・スチューベンはチャールストンに帰還し、1971年5月に哨戒を再開した。", "title": "艦歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "フォン・スチューベンは1980年代の初めにトライデント・ミサイルを運用するための改修が行われた。", "title": "艦歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "フォン・スチューベンは1994年2月26日に退役し、同日除籍された。その後ワシントン州ブレマートンで原子力艦再利用プログラムの下2000年10月1日に解体作業に入り、作業は2001年10月30日に完了した。", "title": "艦歴" } ]
フォン・スチューベン(USS Von Steuben, SSBN-632)は、アメリカ海軍のジェームズ・マディソン級原子力潜水艦の6番艦。艦名はアメリカ独立戦争に従軍したプロイセン王国の陸軍士官フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベンに因む。その名を持つ艦としては第一次世界大戦時に接収したドイツ貨客船クローンプリンツ・ヴィルヘルム号を改名(ID-3017)して以来2隻目。
<div class="thumb tright"> {| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff" |colspan="2"|[[File:Uss Von Steuben SSBN-632.jpg|300px|]] |- !colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴 |- |発注: |[[1961年]][[7月20日]] |- |起工: |[[1962年]][[9月4日]] |- |進水: |[[1963年]][[10月18日]] |- |就役: |[[1964年]][[9月30日]] |- |退役: |[[1994年]][[2月26日]] |- |除籍: |[[1994年]][[2月26日]] |- |その後: |[[原子力艦再利用プログラム]] |- !colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元 |- |[[排水量]]: |基準:6,504トン<br />水上:7,250トン、水中:8,250トン |- |全長: |129.5 m (425 ft) |- |全幅: |33 ft |- |吃水: |32 ft |- |機関: |原子力ギアード・タービン推進<br />GE [[S5W (原子炉)|S5W]][[原子炉]] 1基 |- |最大速: |20+ [[ノット]] |- |兵員: |士官、兵員120名 |- |兵装: |21インチ[[魚雷発射管]]4基<br />[[トライデント・ミサイル]]16発 |} </div> '''フォン・スチューベン'''('''USS Von Steuben, SSBN-632''')は、[[アメリカ海軍]]の[[ジェームズ・マディソン級原子力潜水艦|ジェームズ・マディソン級]][[原子力潜水艦]]の6番艦。艦名は[[アメリカ独立戦争]]に従軍した[[プロイセン王国]]の陸軍士官[[フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン]]に因む。その名を持つ艦としては[[第一次世界大戦]]時に接収したドイツ貨客船クローンプリンツ・ヴィルヘルム号を改名(ID-3017)して以来2隻目。 == 艦歴 == フォン・スチューベンの建造は1961年7月20日に[[バージニア州]][[ニューポート・ニューズ]]の[[ニューポート・ニューズ造船所]]に発注され、1962年9月4日に起工した。1963年10月18日にフレッド・コース夫人によって命名、進水し、1964年9月30日にブルー班のジョン・P・ワイズ艦長およびゴールド班のジェフリー・C・メッツェル艦長の指揮下就役する 1964年の秋にフォン・スチューベンは各班それぞれの整調航海を完了し、続いて対潜水艦戦訓練を行った。12月22日にゴールド班は、[[クリスマス]]休暇でニューポート・ニューズに帰還する前に最初の[[ポラリス・ミサイル]]を大西洋試験海域で発射した。1965年に入ると乗組員が交代し、[[ケープ・カナベラル]]沖の試験海域でブルー班がミサイル発射訓練を行う。2月に訓練を完了しニューポート・ニューズに帰還する。 3月にフォン・スチューベンは最初の配備に就く。新たな母港の[[サウスカロライナ州]][[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]で第18潜水艦戦隊に合流し、直ちに戦略抑止哨戒を開始する。 1968年に11回目の哨戒を完了し、フォン・スチューベンは第16潜水艦戦隊に転属する。[[スペイン]]の[[ロタ (スペイン)|ロタ]]を拠点として1969年半まで作戦活動を行う。この間の1968年夏には[[コネチカット州]][[グロトン (コネチカット州)|グロトン]]の[[エレクトリック・ボート]]社で補修を受ける。その後ロタから哨戒を再開した。1970年11月にフォン・スチューベンは再びグロトンを訪れ、16ヶ月のオーバーホールに入る。この間にポセイドン C-3 ミサイルを運用するための改修が行われた。転換作業が終了後の1971年初めに整調を行い、2月から3月にかけて[[ポセイドン・ミサイル]]の発射試験を行う。フォン・スチューベンはチャールストンに帰還し、1971年5月に哨戒を再開した。 フォン・スチューベンは1980年代の初めに[[トライデント・ミサイル]]を運用するための改修が行われた。 フォン・スチューベンは1994年2月26日に退役し、同日除籍された。その後[[ワシントン州]][[ブレマートン]]で[[原子力艦再利用プログラム]]の下2000年10月1日に解体作業に入り、作業は2001年10月30日に完了した。 == 関連項目 == * [[アメリカ海軍艦艇一覧]] == 外部リンク == * [https://www.navsource.org/archives/08/08632.htm navsource.org] {{ジェームズ・マディソン級原子力潜水艦}} {{DEFAULTSORT:ふおんすちゆうへん}} [[Category:ジェームズ・マディソン級原子力潜水艦]] [[Category:1964年竣工船]] [[Category:ニューポート・ニューズ造船所建造の潜水艦]]
2007-07-19T12:52:06Z
2023-11-01T01:58:46Z
false
false
false
[ "Template:ジェームズ・マディソン級原子力潜水艦" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3_(%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6)
55,290
活量
活量(かつりょう、英: activity)は、実在溶液における実効モル濃度である。できる限りモル濃度(あるいは他の濃度)に近い性質を持ち、しかも厳密な熱力学の関係に登場し得る量である。一般的には、温度、圧力、物質量についての複雑な関数になる。 理想系と実存系に存在する誤差を修正するためにギルバート・ルイスによって導入された物理量で、普通 a {\displaystyle a} 、或いは A {\displaystyle A} と表される。活動度と呼ばれる場合もある。 理想的な混合物の場合、成分 i {\displaystyle i} の化学ポテンシャルはラウールの法則より以下のように与えられる: ここで、 μ i ∘ {\displaystyle \mu _{i}^{\circ }} は基準となる化学ポテンシャル、 x i {\displaystyle x_{i}} は成分 i {\displaystyle i} のモル分率、 p {\displaystyle p} は圧力、 T {\displaystyle T} は温度である。 これに対し実在系、すなわちラウールの法則が成り立たない系では、化学ポテンシャルは以下のように活量で表される: つまり である。 溶液の場合、溶質の濃度が0に近づくにつれてラウールの法則からのズレが小さくなるため、溶媒および溶質の活量はモル分率で近似される( x s o l v e n t → 1 {\displaystyle x_{\mathrm {solvent} }\to 1} 、 x s o l u t e → 0 {\displaystyle x_{\mathrm {solute} }\to 0} につれて a s o l v e n t → x s o l v e n t {\displaystyle a_{\mathrm {solvent} }\to x_{\mathrm {solvent} }} 、 a s o l u t e → x s o l u t e {\displaystyle a_{\mathrm {solute} }\to x_{\mathrm {solute} }} )。 活量係数(英: activity coefficient) γ {\displaystyle \gamma } は次式によって定義される。 これは理想とする数値からのずれを表す指標となっている。希薄溶液の場合、溶液および溶質の活量係数は1に近づく( x s o l v e n t → 1 {\displaystyle x_{\mathrm {solvent} }\to 1} 、 x s o l u t e → 0 {\displaystyle x_{\mathrm {solute} }\to 0} につれて γ s o l v e n t → 1 {\displaystyle \gamma _{\mathrm {solvent} }\to 1} 、 γ s o l u t e → 1 {\displaystyle \gamma _{\mathrm {solute} }\to 1} )。 絶対活量(英: absolute activity)は以下のように定義される。そのため a {\displaystyle a} は相対活量(英: relative activity)と呼ばれることもある。 { λ i ≡ exp ( μ i / R T ) λ i λ i ∘ = Δ μ i R T {\displaystyle {\begin{cases}\lambda _{i}\equiv \exp(\mu _{i}/RT)\\\displaystyle {\frac {\lambda _{i}}{\lambda _{i}^{\circ }}}={\frac {\Delta \mu _{i}}{RT}}\end{cases}}} 活量は分圧を基準圧力1 barで除したものや、モル濃度を基準濃度1 mol/Lで除したもので近似される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "活量(かつりょう、英: activity)は、実在溶液における実効モル濃度である。できる限りモル濃度(あるいは他の濃度)に近い性質を持ち、しかも厳密な熱力学の関係に登場し得る量である。一般的には、温度、圧力、物質量についての複雑な関数になる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "理想系と実存系に存在する誤差を修正するためにギルバート・ルイスによって導入された物理量で、普通 a {\\displaystyle a} 、或いは A {\\displaystyle A} と表される。活動度と呼ばれる場合もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "理想的な混合物の場合、成分 i {\\displaystyle i} の化学ポテンシャルはラウールの法則より以下のように与えられる:", "title": "化学ポテンシャルとの関係" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ここで、 μ i ∘ {\\displaystyle \\mu _{i}^{\\circ }} は基準となる化学ポテンシャル、 x i {\\displaystyle x_{i}} は成分 i {\\displaystyle i} のモル分率、 p {\\displaystyle p} は圧力、 T {\\displaystyle T} は温度である。", "title": "化学ポテンシャルとの関係" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "これに対し実在系、すなわちラウールの法則が成り立たない系では、化学ポテンシャルは以下のように活量で表される:", "title": "化学ポテンシャルとの関係" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "つまり", "title": "化学ポテンシャルとの関係" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "である。", "title": "化学ポテンシャルとの関係" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "溶液の場合、溶質の濃度が0に近づくにつれてラウールの法則からのズレが小さくなるため、溶媒および溶質の活量はモル分率で近似される( x s o l v e n t → 1 {\\displaystyle x_{\\mathrm {solvent} }\\to 1} 、 x s o l u t e → 0 {\\displaystyle x_{\\mathrm {solute} }\\to 0} につれて a s o l v e n t → x s o l v e n t {\\displaystyle a_{\\mathrm {solvent} }\\to x_{\\mathrm {solvent} }} 、 a s o l u t e → x s o l u t e {\\displaystyle a_{\\mathrm {solute} }\\to x_{\\mathrm {solute} }} )。", "title": "化学ポテンシャルとの関係" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "活量係数(英: activity coefficient) γ {\\displaystyle \\gamma } は次式によって定義される。", "title": "活量係数" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "これは理想とする数値からのずれを表す指標となっている。希薄溶液の場合、溶液および溶質の活量係数は1に近づく( x s o l v e n t → 1 {\\displaystyle x_{\\mathrm {solvent} }\\to 1} 、 x s o l u t e → 0 {\\displaystyle x_{\\mathrm {solute} }\\to 0} につれて γ s o l v e n t → 1 {\\displaystyle \\gamma _{\\mathrm {solvent} }\\to 1} 、 γ s o l u t e → 1 {\\displaystyle \\gamma _{\\mathrm {solute} }\\to 1} )。", "title": "活量係数" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "絶対活量(英: absolute activity)は以下のように定義される。そのため a {\\displaystyle a} は相対活量(英: relative activity)と呼ばれることもある。", "title": "絶対活量" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "{ λ i ≡ exp ( μ i / R T ) λ i λ i ∘ = Δ μ i R T {\\displaystyle {\\begin{cases}\\lambda _{i}\\equiv \\exp(\\mu _{i}/RT)\\\\\\displaystyle {\\frac {\\lambda _{i}}{\\lambda _{i}^{\\circ }}}={\\frac {\\Delta \\mu _{i}}{RT}}\\end{cases}}}", "title": "絶対活量" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "", "title": "絶対活量" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "活量は分圧を基準圧力1 barで除したものや、モル濃度を基準濃度1 mol/Lで除したもので近似される。", "title": "近似" } ]
活量は、実在溶液における実効モル濃度である。できる限りモル濃度(あるいは他の濃度)に近い性質を持ち、しかも厳密な熱力学の関係に登場し得る量である。一般的には、温度、圧力、物質量についての複雑な関数になる。 理想系と実存系に存在する誤差を修正するためにギルバート・ルイスによって導入された物理量で、普通 a 、或いは A と表される。活動度と呼ばれる場合もある。
{{出典の明記|date=2012年11月}} '''活量'''(かつりょう、{{lang-en-short|activity}})は、実在溶液における実効モル濃度である。できる限り[[モル濃度]](あるいは他の濃度)に近い性質を持ち、しかも厳密な[[熱力学]]の関係に登場し得る量である。一般的には、[[温度]]、[[圧力]]、[[物質量]]についての複雑な関数になる<ref>{{Cite book|和書|author=田崎晴明|authorlink=田崎晴明|title=熱力学 現代的な視点から|series=新物理学シリーズ 32|publisher=[[培風館]]|edition=初版|date=2000-4-12|page=184|isbn=9784563024321|ref=tasaki}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=P. A. Atkins; J. de Paula|title=物理化学(上)|edition=8|series=|date=|year=2009|publisher=東京化学同人|pages=|translator=千原秀昭、中村亘男|isbn=9784807906956}}</ref>。 理想系と実存系に存在する誤差を修正するために[[ギルバート・ルイス]]によって導入された[[物理量]]で、普通<math>a</math>、或いは<math>A</math>と表される。'''活動度'''と呼ばれる場合もある。 == 化学ポテンシャルとの関係 == 理想的な混合物の場合、成分<math>i</math>の[[化学ポテンシャル]]は[[ラウールの法則]]より以下のように与えられる: :<math>\mu_i (p,T) = \mu_i^\circ (T) + RT \ln x_i</math> ここで、<math>\mu_i^\circ</math>は基準となる化学ポテンシャル、<math>x_i</math>は成分<math>i</math>の[[モル分率]]、<math>p</math>は圧力、<math>T</math>は温度である。 これに対し実在系、すなわちラウールの法則が成り立たない系では、化学ポテンシャルは以下のように'''活量'''で表される: :<math>\mu_i(p,T) = \mu_i^\circ (T) + RT \ln a_i</math> つまり :<math>\Delta \mu_i = RT \ln a_i \iff a_i = e^{\Delta \mu_i / RT}</math> である。 溶液の場合、溶質の濃度が0に近づくにつれてラウールの法則からのズレが小さくなるため、溶媒および溶質の活量はモル分率で近似される(<math>x_{\mathrm{solvent}} \to 1</math>、<math>x_{\mathrm{solute}} \to 0</math>につれて<math>a_{\mathrm{solvent}} \to x_{\mathrm{solvent}}</math>、<math>a_{\mathrm{solute}} \to x_{\mathrm{solute}}</math>)。 == 活量係数 == '''活量係数'''({{lang-en-short|activity coefficient}})<math>\gamma</math>は次式によって定義される。 :<math>a_i \equiv \gamma_i x_i \,</math> これは理想とする数値からのずれを表す指標となっている。希薄溶液の場合、溶液および溶質の活量係数は1に近づく(<math>x_{\mathrm{solvent}} \to 1</math>、<math>x_{\mathrm{solute}} \to 0</math>につれて<math>\gamma_{\mathrm{solvent}} \to 1</math>、<math>\gamma_{\mathrm{solute}} \to 1</math>)。 == 絶対活量 == '''絶対活量'''({{lang-en-short|absolute activity}})は以下のように定義される。そのため<math>a</math>は'''相対活量'''({{lang-en-short|relative activity}})と呼ばれることもある。 <math> \begin{cases} \lambda_i \equiv \exp(\mu_i/RT) \\ \displaystyle\frac{\lambda_i}{\lambda_i^\circ} = \frac{\Delta\mu_i}{RT} \end{cases} </math> == 近似 == 活量は分圧を基準圧力1&nbsp;[[バール (単位)|bar]]で除したものや、モル濃度を基準濃度1&nbsp;mol/Lで除したもので近似される。 == 参考文献 == <references/> == 関連項目 == *[[ラウールの法則]] *[[ヘンリーの法則]] *[[フガシティー]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かつりよう}} {{chem-stub}} [[Category:物理化学]] [[Category:溶液化学]] [[Category:状態量]]
null
2022-07-19T19:41:18Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Lang-en-short", "Template:Cite book", "Template:Normdaten", "Template:Chem-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E9%87%8F
4,017,449
フランソワ・オヴィド
フランソワ・オヴィド(François Ovide、1952年10月 - 2002年5月29日、ルーアン生まれ・ルーアンで死去)は、フランスのギタリストであり、アルベール・マルクールやジョン・グリーヴスとの長年のコラボレーションで最もよく知られている。 オヴィドはルーアン周辺で育った。1970年代に彼が初めて関わった2つのバンド・プロジェクトは、ロック・バンドの「So & Co」と「Plat du Jour」だった。1976年、彼はアルベール・マルクールと仕事をするようになった。 彼はバンドの最後のメンバーとしてヴィドルジェに参加し、その後、セッション・ワークを始めた。また、1981年にはフォーク・ロック・バンドのグウェンダルに参加した。1984年、グリーヴスのバック・バンドに参加し、ミレイユ・バウアー(元ゴング)と共に演奏した。彼らは後に結婚し、2人の子供を持った。 オヴィドはグリーヴスのアルバム『リトル・ボトル・オブ・ランドリー』(1991年)、『ソングス』、『ケアテイカー』でも演奏した。彼はまた、ピップ・パイルによる1998年のアルバム『セヴン・イヤー・イッチ』にも参加した。1980年代半ばには、ミレイユ・バウアー、ピエール・ヴェルメイレ、アンディ・エムラーらとソロ・アルバムを録音したが、このプロジェクトはいまだにリリースされていない。 他のセッション・ワークとしては、ヴァネッサ・パラディ、ルノー、パトリシア・カース、ジョニー・アリディ、マキシム・ル・フォレスティエと一緒の仕事があった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フランソワ・オヴィド(François Ovide、1952年10月 - 2002年5月29日、ルーアン生まれ・ルーアンで死去)は、フランスのギタリストであり、アルベール・マルクールやジョン・グリーヴスとの長年のコラボレーションで最もよく知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "オヴィドはルーアン周辺で育った。1970年代に彼が初めて関わった2つのバンド・プロジェクトは、ロック・バンドの「So & Co」と「Plat du Jour」だった。1976年、彼はアルベール・マルクールと仕事をするようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "彼はバンドの最後のメンバーとしてヴィドルジェに参加し、その後、セッション・ワークを始めた。また、1981年にはフォーク・ロック・バンドのグウェンダルに参加した。1984年、グリーヴスのバック・バンドに参加し、ミレイユ・バウアー(元ゴング)と共に演奏した。彼らは後に結婚し、2人の子供を持った。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "オヴィドはグリーヴスのアルバム『リトル・ボトル・オブ・ランドリー』(1991年)、『ソングス』、『ケアテイカー』でも演奏した。彼はまた、ピップ・パイルによる1998年のアルバム『セヴン・イヤー・イッチ』にも参加した。1980年代半ばには、ミレイユ・バウアー、ピエール・ヴェルメイレ、アンディ・エムラーらとソロ・アルバムを録音したが、このプロジェクトはいまだにリリースされていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "他のセッション・ワークとしては、ヴァネッサ・パラディ、ルノー、パトリシア・カース、ジョニー・アリディ、マキシム・ル・フォレスティエと一緒の仕事があった。", "title": null } ]
フランソワ・オヴィドは、フランスのギタリストであり、アルベール・マルクールやジョン・グリーヴスとの長年のコラボレーションで最もよく知られている。 オヴィドはルーアン周辺で育った。1970年代に彼が初めて関わった2つのバンド・プロジェクトは、ロック・バンドの「So & Co」と「Plat du Jour」だった。1976年、彼はアルベール・マルクールと仕事をするようになった。 彼はバンドの最後のメンバーとしてヴィドルジェに参加し、その後、セッション・ワークを始めた。また、1981年にはフォーク・ロック・バンドのグウェンダルに参加した。1984年、グリーヴスのバック・バンドに参加し、ミレイユ・バウアー(元ゴング)と共に演奏した。彼らは後に結婚し、2人の子供を持った。 オヴィドはグリーヴスのアルバム『リトル・ボトル・オブ・ランドリー』(1991年)、『ソングス』、『ケアテイカー』でも演奏した。彼はまた、ピップ・パイルによる1998年のアルバム『セヴン・イヤー・イッチ』にも参加した。1980年代半ばには、ミレイユ・バウアー、ピエール・ヴェルメイレ、アンディ・エムラーらとソロ・アルバムを録音したが、このプロジェクトはいまだにリリースされていない。 他のセッション・ワークとしては、ヴァネッサ・パラディ、ルノー、パトリシア・カース、ジョニー・アリディ、マキシム・ル・フォレスティエと一緒の仕事があった。
{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> |Name = フランソワ・オヴィド<br />François Ovide |Img = |Img_capt = |Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |Background = non_vocal_instrumentalist<!-- singer/group/bandなど --> |Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --> |Alias = |Blood = <!-- 個人のみ --> |School_background = <!-- 個人のみ --> |Born = [[1952年]][[10月]]<!-- 個人のみ --> |Died = {{death date and age|2002|5|29|1952|10|}}<!-- 個人のみ --> |Origin = {{FRA}} [[ルーアン]] |Instrument = ギター<!-- 個人のみ --> |Genre = [[プログレッシブ・ロック]]<br />[[カンタベリー・ロック]] |Occupation = [[ミュージシャン]]<!-- 個人のみ --> |Years_active = [[1970年代]] - [[2002年]] |Label = |Production = |Associated_acts = |Influences = |URL = |Current_members = <!-- グループのみ --> |Past_members = <!-- グループのみ --> |Notable_instruments = }} '''フランソワ・オヴィド'''('''François Ovide'''、1952年10月 - 2002年5月29日、[[ルーアン]]生まれ・ルーアンで死去)は、[[フランス]]のギタリストであり、[[アルベール・マルクール]]や[[ジョン・グリーヴス]]との長年のコラボレーションで最もよく知られている。 オヴィドはルーアン周辺で育った。1970年代に彼が初めて関わった2つのバンド・プロジェクトは、ロック・バンドの「So & Co」と「Plat du Jour」だった。1976年、彼はアルベール・マルクールと仕事をするようになった。 彼はバンドの最後のメンバーとして[[ヴィドルジェ]]に参加し、その後、セッション・ワークを始めた。また、1981年にはフォーク・ロック・バンドのグウェンダルに参加した。1984年、グリーヴスのバック・バンドに参加し、[[ミレイユ・バウアー]](元[[ゴング (バンド)|ゴング]])と共に演奏した。彼らは後に結婚し、2人の子供を持った。 オヴィドはグリーヴスのアルバム『リトル・ボトル・オブ・ランドリー』(1991年)、『ソングス』、『ケアテイカー』でも演奏した。彼はまた、[[ピップ・パイル]]による1998年のアルバム『セヴン・イヤー・イッチ』にも参加した。1980年代半ばには、ミレイユ・バウアー、ピエール・ヴェルメイレ、アンディ・エムラーらとソロ・アルバムを録音したが、このプロジェクトはいまだにリリースされていない。 他のセッション・ワークとしては、[[ヴァネッサ・パラディ]]、[[ルノー・セシャン|ルノー]]、[[パトリシア・カース]]、[[ジョニー・アリディ]]、マキシム・ル・フォレスティエと一緒の仕事があった。 == ディスコグラフィ == === リーダー・アルバム === * ''In A Celtic Way'' (1997年、Encore Merci) ※with Youenn Le Berre * ''Could You Repeat? (Music Shop/21)'' (1999年、Encore Merci) == 出典 == * [http://calyx.club.fr/mus/ovide_francois.html Calyx biography] == 外部リンク == * {{Discogs artist|368249-François-Ovide}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おういと ふらんそわ}} [[Category:1952年生]] [[Category:2002年没]] [[Category:フランスのギタリスト]]
null
2021-02-20T20:07:16Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:Infobox Musician", "Template:Discogs artist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%89
2,024,845
吉岡吉典
吉岡 吉典 (よしおか よしのり、1928年5月16日 - 2009年3月1日)は、日本の政治家、歴史研究家。元参議院議員(日本共産党公認、3期)。日本共産党中央委員会名誉役員。「キッテンさん」の愛称でも親しまれた。 島根県八束郡鹿島町(現・松江市)出身。旧制松江高等学校在籍中の1948年日本共産党へ入党するが、同校は程なくして中退。同級生には京都大学名誉教授の松尾尊兊がいる。松江地区委員長、島根県常任委員などを経て、1959年に赤旗編集局入り。編集局では中央機関紙編集委員や政治部長などを歴任する。 1986年の参院選に比例区から出馬し初当選、以後3期18年参議院議員を務めた後、2004年に引退を表明する。議員時代は労働・社会政策および懲罰の各委員長、党内では参議院議員団長を務めた。また1993年10月には、予算委員会で小沢一郎と建設業者との癒着問題を追及。その中で大手ゼネコン24社で構成される「裏選対」の存在を議員としては初めて暴露した。 2009年3月1日、韓国・ソウル市内で行われた三・一独立運動90周年記念のシンポジウムで講演を行った後、夕食会で心筋梗塞により倒れ、客死。 自民党衆議院議員石破茂が、回想として、 『私が防衛庁長官のときに、参議院議員選挙がありました。その時、その選挙で引退されるっていう共産党の参議院議員が、防衛庁に訪ねてこられたのです。秘書官たちはびっくりして、共産党の議員がアポをとって防衛庁長官のところに来るっていうのは例がありませんから、どうしましょうかっていうから、「いいじゃないか」って言ってお会いしました。1人で来られました。吉岡さんという方です。その方がおっしゃったのは、「私は今回で引退するが、その前に一言だけあなたにお礼を言いたかった」と。「あなたと私の主義主張は全く違う。今でも違う。だけどあなたは私の質問に正面から答えてくれた。共産党だからって等閑視するんじゃなく、一生懸命答えてくれた。それが嬉しくて引退するにあたってお礼を言いにきた」と。これは私の一生の誇りです。』 と、人柄についてのエピソードを述べている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "吉岡 吉典 (よしおか よしのり、1928年5月16日 - 2009年3月1日)は、日本の政治家、歴史研究家。元参議院議員(日本共産党公認、3期)。日本共産党中央委員会名誉役員。「キッテンさん」の愛称でも親しまれた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "島根県八束郡鹿島町(現・松江市)出身。旧制松江高等学校在籍中の1948年日本共産党へ入党するが、同校は程なくして中退。同級生には京都大学名誉教授の松尾尊兊がいる。松江地区委員長、島根県常任委員などを経て、1959年に赤旗編集局入り。編集局では中央機関紙編集委員や政治部長などを歴任する。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1986年の参院選に比例区から出馬し初当選、以後3期18年参議院議員を務めた後、2004年に引退を表明する。議員時代は労働・社会政策および懲罰の各委員長、党内では参議院議員団長を務めた。また1993年10月には、予算委員会で小沢一郎と建設業者との癒着問題を追及。その中で大手ゼネコン24社で構成される「裏選対」の存在を議員としては初めて暴露した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2009年3月1日、韓国・ソウル市内で行われた三・一独立運動90周年記念のシンポジウムで講演を行った後、夕食会で心筋梗塞により倒れ、客死。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "自民党衆議院議員石破茂が、回想として、 『私が防衛庁長官のときに、参議院議員選挙がありました。その時、その選挙で引退されるっていう共産党の参議院議員が、防衛庁に訪ねてこられたのです。秘書官たちはびっくりして、共産党の議員がアポをとって防衛庁長官のところに来るっていうのは例がありませんから、どうしましょうかっていうから、「いいじゃないか」って言ってお会いしました。1人で来られました。吉岡さんという方です。その方がおっしゃったのは、「私は今回で引退するが、その前に一言だけあなたにお礼を言いたかった」と。「あなたと私の主義主張は全く違う。今でも違う。だけどあなたは私の質問に正面から答えてくれた。共産党だからって等閑視するんじゃなく、一生懸命答えてくれた。それが嬉しくて引退するにあたってお礼を言いにきた」と。これは私の一生の誇りです。』 と、人柄についてのエピソードを述べている。", "title": "エピソード" } ]
吉岡 吉典 は、日本の政治家、歴史研究家。元参議院議員(日本共産党公認、3期)。日本共産党中央委員会名誉役員。「キッテンさん」の愛称でも親しまれた。
'''吉岡 吉典''' (よしおか よしのり、[[1928年]][[5月16日]] - [[2009年]][[3月1日]])は、[[日本]]の[[政治家]]、[[歴史家|歴史研究家]]。元[[参議院|参議院議員]]([[日本共産党]]公認、3期)。[[日本共産党中央委員会]]名誉役員。「'''キッテンさん'''」の愛称でも親しまれた<ref> [http://www.sasaki-kensho.jp/hunsenki/091205-215706.html 元参議院議員・吉岡吉典さんを偲ぶ会に出席しました] [[佐々木憲昭]]日本共産党衆議院議員の2009年12月5日付ブログより</ref>。 == 来歴 == [[島根県]][[八束郡]][[鹿島町 (島根県)|鹿島町]](現・[[松江市]])出身。[[松江高等学校 (旧制)|旧制松江高等学校]]在籍中の[[1948年]]日本共産党へ入党するが、同校は程なくして中退。同級生には[[京都大学]][[名誉教授]]の[[松尾尊兊]]がいる。松江地区委員長、島根県常任委員などを経て、[[1959年]]に[[しんぶん赤旗|赤旗]]編集局入り。編集局では中央機関紙編集委員や政治部長などを歴任する。 [[第14回参議院議員通常選挙|1986年の参院選]]に[[参議院比例区|比例区]]から出馬し初当選、以後3期18年参議院議員を務めた後、[[2004年]]に引退を表明する。議員時代は[[厚生労働委員会|労働]]・[[厚生労働委員会|社会政策]]および[[懲罰委員会|懲罰]]の各[[常任委員会|委員長]]、党内では参議院議員団長を務めた。また[[1993年]][[10月]]には、[[予算委員会]]で[[小沢一郎]]と[[建設業]]者との癒着問題を追及。その中で大手[[ゼネコン]]24社で構成される「裏選対」の存在を議員としては初めて暴露した<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=112815261X00419931012 参議院会議録情報 第128回国会 予算委員会第4号(1993年10月12日)]</ref><ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-01-30/2010013007_01_0.html 公共事業を食い物に 小沢氏疑惑の核心 93年から共産党が追及] 2010年1月30日付「しんぶん赤旗」</ref>。 2009年3月1日、[[大韓民国|韓国]]・[[ソウル特別市|ソウル]]市内で行われた[[三・一独立運動]]90周年記念のシンポジウムで講演を行った後、夕食会で[[心筋梗塞]]により倒れ、客死<ref>2009年3月2日付「朝日新聞」夕刊15面</ref>。 == エピソード == [[自由民主党 (日本)|自民党]][[衆議院|衆議院議員]][[石破茂]]が、回想として、 『私が[[第2次小泉内閣|防衛庁長官]]のときに、[[第20回参議院議員通常選挙|参議院議員選挙]]がありました。その時、その選挙で引退されるっていう共産党の参議院議員が、[[防衛省|防衛庁]]に訪ねてこられたのです。[[秘書官]]たちはびっくりして、共産党の議員がアポをとって[[防衛大臣|防衛庁長官]]のところに来るっていうのは例がありませんから、どうしましょうかっていうから、「いいじゃないか」って言ってお会いしました。1人で来られました。吉岡さんという方です。その方がおっしゃったのは、「私は今回で引退するが、その前に一言だけあなたにお礼を言いたかった」と。「あなたと私の主義主張は全く違う。今でも違う。だけどあなたは私の質問に正面から答えてくれた。共産党だからって等閑視するんじゃなく、一生懸命答えてくれた。それが嬉しくて引退するにあたってお礼を言いにきた」と。これは私の一生の誇りです。』 と、人柄についてのエピソードを述べている<ref>ハーバー・ビジネス・オンライン_2018-09-08 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180908-00174352-hbolz-soci</ref>。 == 主著 == === 単著 === *『米騒動五十年』([[旬報社|労働旬報社]]、[[1968年]]) *『日米安保体制論』([[新日本出版社]]、[[1978年]][[1月]]) *『有事立法とガイドライン』(新日本出版社、[[1979年]][[4月]]) *『日本共産党アメリカを行く』([[白石書店]]、[[1980年]]4月) *『韓国をみる視点』(白石書店、1980年[[11月]]) *『安保再改定論と日本の安全』([[大月書店]]、[[1981年]][[2月]]) *『日米関係の実像』([[学習の友社]]、1981年[[12月]]) *『危機に立つ社会党』(新日本出版社、[[1982年]][[6月]]) *『レーガン政権下の日米軍事同盟』(新日本出版社、[[1983年]][[3月]]) *『軍縮・平和・安全への道』(新日本出版社、1983年10月) *『転機に立つ日本の政治』(新日本出版社、[[1984年]]10月) *『戦後軍縮交渉と核問題』(新日本出版社、[[1985年]][[7月]]) *『いまなぜ国家機密法か』(新日本出版社、1985年[[11月]]) *『日本型ファシズムと革新の展望』(新日本出版社、[[1987年]]2月) *『歴史に学ぶもの逆らうもの』(新日本出版社、[[1988年]][[12月]]) *『島根の先駆者たち([[治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟]]島根県支部、[[1991年]]) *『戦後半世紀の日本の政治』(新日本出版社、1991年12月) *『侵略の歴史と日本政治の戦後』(新日本出版社、1993年1月) *『日本の侵略と膨張』(新日本出版社、[[1996年]]2月) *『日清戦争から盧溝橋事件』(新日本出版社、[[1998年]]4月) *『史実が示す日本の侵略と「歴史教科書」』(新日本出版社、[[2002年]][[5月]]) *『「日米同盟」と日本国憲法』([[下町人間総合研究所]]、2004年[[9月]]) *『総点検日本の戦争はなんだったか』(新日本出版社、[[2007年]]4月) *『「韓国併合」100年と日本(新日本出版社、[[2009年]]11月) *『ILOの創設と日本の労働行政』(大月書店、2009年12月) === 共著 === *『日・朝・中三国人民連帯の歴史と理論』(日本朝鮮研究所、1964年)[[安藤彦太郎]]、[[寺尾五郎]]、[[宮田節子]]との共著 *『豊原五郎 獄中からの手紙』(豊原五郎をたたえる会編、[解説]吉岡吉典、刀江書院、1964年) *『日本と朝鮮』(『アジア・アフリカ講座』第3巻、勁草書房 1965年) *『日米安保条約』(労働旬報社、1968年)[[渡辺洋三]]、[[岡倉古志郎]]との共著 *『日米安保条約全書』(労働旬報社、1968年)渡辺洋三との共著 *『資料集20世紀の戦争と平和』(新日本出版社、[[2000年]]8月)[[新原昭治]]との共著 *『東アジア共同体と勝海舟』(下町人間総合研究所、2009年1月)[[内藤功]]、[[石山久男]]他との共著 *『勝海舟を軸に日本の近現代史を考える』(下町人間総合研究所、2009年2月)[[山口義夫]]、[[石山久男]]、[[宮地正人]]、[[梅田欽治]]、[[浅川保]]、[[鵜沢義行]]との共著 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == *『現代政治家人名事典』([[日外アソシエーツ]]、[[1999年]][[1月]]) == 関連項目 == *[[上田耕一郎]] *[[日本の慰安婦]] == 外部リンク == * [http://www.yoshiokayoshinori.com/ 吉岡吉典メモリアルサイト] {{-}} {{start box}} {{s-par}} {{Succession box | title = {{flagicon|JPN}} [[懲罰委員会|参議院懲罰委員長]] | years = 2001年 - 2004年 | before = [[橋本敦]] | after = [[山下八洲夫]] }} {{Succession box | title = {{flagicon|JPN}} 参議院労働・社会政策委員長 | years = 1998年 - 2000年 | before = [[鹿熊安正]] | after = 廃止 }} {{end box}} {{参議院懲罰委員長|2001年-2004年}} {{比例区選出参議院議員(1983-)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:よしおか よしのり}} [[Category:日本共産党の参議院議員]] [[Category:比例区選出の参議院議員]] [[Category:平成時代の参議院議員]] [[Category:昭和時代の参議院議員]] [[Category:島根県出身の人物]] [[Category:1928年生]] [[Category:2009年没]]
null
2022-06-24T06:29:07Z
false
false
false
[ "Template:-", "Template:Start box", "Template:S-par", "Template:Succession box", "Template:End box", "Template:参議院懲罰委員長", "Template:比例区選出参議院議員(1983-)", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B2%A1%E5%90%89%E5%85%B8
115,419
阿津賀志山の戦い
阿津賀志山の戦い(あつかしやまのたたかい)は、文治5年(1189年)に鎌倉幕府創設期の源頼朝軍と、迎え撃つ奥州藤原氏の軍が陸奥国阿津賀志山(厚樫山、現福島県伊達郡国見町辺り)で戦った合戦である。 源義経を自害させて鎌倉幕府との和平の意思を示した藤原泰衡だが、鎌倉幕府による全国統治を進める源頼朝は、文治5年(1189年)に奥州藤原氏の討伐のため鎌倉を出立する。 軍勢は3分割し、頼朝の大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面へ、千葉常胤・八田知家の東海道軍は常陸国や下総国の武士団とともに岩城岩崎方面へ、比企能員・宇佐美実政の北陸道軍は越後国から日本海沿いを出羽国方面へそれぞれ進攻した。『吾妻鏡』7月19日条によれば、大手軍は騎馬武者では先陣の畠山重忠はじめ一千騎を従えたとされ、歩兵や輸送要員を加え、さらに道中では各地の豪族を加え、推定される総勢は25,000以上の兵力だったと思われる。 一方奥州軍は、防衛線を伊達郡と刈田郡(宮城県白石市)の境として、厚樫山山麓から阿武隈川に至る長大な堀に阿武隈川の水を引いて、総延長3kmに及ぶ三重の防塁で大要塞を築く(阿津賀志山防塁)。総大将は泰衡の異母兄藤原国衡で、金剛別当秀綱以下二万の兵を配備して迎撃態勢を取った。泰衡は陸奥国国分原鞭楯(現仙台市宮城野区・榴岡公園辺りと推定される)に本陣を置き、名取川、広瀬川などの川底に縄を巡らせ、要所に兵を配置するほか、田川行文・秋田致文を出羽国に派遣して出羽方面の指揮を統括させ、鎌倉軍の来襲に備えた。 8月7日の夜に頼朝は明朝の攻撃を命じ、畠山重忠は率いてきた人夫80名に用意していた鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。8日の卯の刻(午前6時頃)、畠山重忠らの先陣は、金剛別当秀綱の率いる数千騎と戦端を開き、巳の刻(午前10時頃)に秀綱は大木戸に退却した。 また、石那坂の戦い(現在の福島市松川町関谷付近)では伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、その首を阿津賀志山の上の経岡に晒した。ただし石那坂は地理的に阿津賀志山よりはるかに南方であることがわかっており、石那坂の戦いは阿津賀志山の戦いより以前に別の場所で起こった合戦と思われる。『吾妻鏡』はそれを同時に進行していたように描くことで劇的効果を上げており、軍記物語特有の表現技法を取り入れた例と推測されている。 10日、畠山重忠・小山朝政らの本軍は大木戸に総攻撃を行った。奥州軍の抵抗は激しく、戦いの声は山谷に響き渡り郷村を動かすようであったという。激戦が続く中、紀権守、芳賀次郎大夫ら七名が鳥取越(現小坂峠)から迂回して国衡軍の後陣を奇襲する。奥州軍は混乱に陥り、金剛別当秀綱、子息の下須房太郎秀方が戦死(享年13)して潰走した。出羽方面に脱出しようとした国衡は、追撃した和田義盛に討たれた。根無藤の城郭でも両軍の激しい攻防が繰り広げられたが、大将軍の金十郎が戦死すると勝敗が決した。自軍の大敗を知った泰衡は多賀城から平泉方面へ退却した。 この戦いにより奥州藤原氏は大打撃を受けて、奥州合戦の大勢は決した。以後、奥州藤原氏に大規模な会戦を行う余力はなくなり、散発的抵抗は続くものの、多賀城、多加波々城を防衛できず、22日には本拠地の平泉が陥落して滅亡することになる。そして泰衡は9月3日に数代の郎党である河田次郎の裏切りで殺害され、奥州藤原氏は滅亡した。12月には泰衡の家臣であった大河兼任が主君の仇として挙兵し鎌倉軍を悩ませた(大河兼任の乱)。この反乱は翌年3月に鎮圧され、約10年にわたる争乱が終息し、頼朝による武家政権確立に向けた準備がほぼ整うことになる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "阿津賀志山の戦い(あつかしやまのたたかい)は、文治5年(1189年)に鎌倉幕府創設期の源頼朝軍と、迎え撃つ奥州藤原氏の軍が陸奥国阿津賀志山(厚樫山、現福島県伊達郡国見町辺り)で戦った合戦である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "源義経を自害させて鎌倉幕府との和平の意思を示した藤原泰衡だが、鎌倉幕府による全国統治を進める源頼朝は、文治5年(1189年)に奥州藤原氏の討伐のため鎌倉を出立する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "軍勢は3分割し、頼朝の大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面へ、千葉常胤・八田知家の東海道軍は常陸国や下総国の武士団とともに岩城岩崎方面へ、比企能員・宇佐美実政の北陸道軍は越後国から日本海沿いを出羽国方面へそれぞれ進攻した。『吾妻鏡』7月19日条によれば、大手軍は騎馬武者では先陣の畠山重忠はじめ一千騎を従えたとされ、歩兵や輸送要員を加え、さらに道中では各地の豪族を加え、推定される総勢は25,000以上の兵力だったと思われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一方奥州軍は、防衛線を伊達郡と刈田郡(宮城県白石市)の境として、厚樫山山麓から阿武隈川に至る長大な堀に阿武隈川の水を引いて、総延長3kmに及ぶ三重の防塁で大要塞を築く(阿津賀志山防塁)。総大将は泰衡の異母兄藤原国衡で、金剛別当秀綱以下二万の兵を配備して迎撃態勢を取った。泰衡は陸奥国国分原鞭楯(現仙台市宮城野区・榴岡公園辺りと推定される)に本陣を置き、名取川、広瀬川などの川底に縄を巡らせ、要所に兵を配置するほか、田川行文・秋田致文を出羽国に派遣して出羽方面の指揮を統括させ、鎌倉軍の来襲に備えた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "8月7日の夜に頼朝は明朝の攻撃を命じ、畠山重忠は率いてきた人夫80名に用意していた鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。8日の卯の刻(午前6時頃)、畠山重忠らの先陣は、金剛別当秀綱の率いる数千騎と戦端を開き、巳の刻(午前10時頃)に秀綱は大木戸に退却した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、石那坂の戦い(現在の福島市松川町関谷付近)では伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、その首を阿津賀志山の上の経岡に晒した。ただし石那坂は地理的に阿津賀志山よりはるかに南方であることがわかっており、石那坂の戦いは阿津賀志山の戦いより以前に別の場所で起こった合戦と思われる。『吾妻鏡』はそれを同時に進行していたように描くことで劇的効果を上げており、軍記物語特有の表現技法を取り入れた例と推測されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "10日、畠山重忠・小山朝政らの本軍は大木戸に総攻撃を行った。奥州軍の抵抗は激しく、戦いの声は山谷に響き渡り郷村を動かすようであったという。激戦が続く中、紀権守、芳賀次郎大夫ら七名が鳥取越(現小坂峠)から迂回して国衡軍の後陣を奇襲する。奥州軍は混乱に陥り、金剛別当秀綱、子息の下須房太郎秀方が戦死(享年13)して潰走した。出羽方面に脱出しようとした国衡は、追撃した和田義盛に討たれた。根無藤の城郭でも両軍の激しい攻防が繰り広げられたが、大将軍の金十郎が戦死すると勝敗が決した。自軍の大敗を知った泰衡は多賀城から平泉方面へ退却した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この戦いにより奥州藤原氏は大打撃を受けて、奥州合戦の大勢は決した。以後、奥州藤原氏に大規模な会戦を行う余力はなくなり、散発的抵抗は続くものの、多賀城、多加波々城を防衛できず、22日には本拠地の平泉が陥落して滅亡することになる。そして泰衡は9月3日に数代の郎党である河田次郎の裏切りで殺害され、奥州藤原氏は滅亡した。12月には泰衡の家臣であった大河兼任が主君の仇として挙兵し鎌倉軍を悩ませた(大河兼任の乱)。この反乱は翌年3月に鎮圧され、約10年にわたる争乱が終息し、頼朝による武家政権確立に向けた準備がほぼ整うことになる。", "title": "後日談" } ]
阿津賀志山の戦い(あつかしやまのたたかい)は、文治5年(1189年)に鎌倉幕府創設期の源頼朝軍と、迎え撃つ奥州藤原氏の軍が陸奥国阿津賀志山(厚樫山、現福島県伊達郡国見町辺り)で戦った合戦である。
{{出典の明記|date=2023年8月}} {{Battlebox | battle_name = 阿津賀志山の戦い | campaign = |colour_scheme = | image = | caption = | conflict = 奥州合戦 | date = [[文治]]5年([[1189年]])8月8日 | place = [[陸奥国]]阿津賀志山([[厚樫山]]、現[[福島県]]伊達郡[[国見町]]辺り) | result = 鎌倉軍の勝利 | combatant1 = [[鎌倉幕府|鎌倉政権]][[Image:Sasa_Rindo.svg|20px]] | combatant2 = [[奥州藤原氏]] | commander1 = [[源頼朝]]<br>[[畠山重忠]]<br>[[結城朝光|小山朝光]] | commander2 = [[藤原泰衡]]<br>[[藤原国衡]] | strength1 = 25,000以上 | strength2 = 20,000 | casualties1 = | casualties2 = 壊滅 }} '''阿津賀志山の戦い'''(あつかしやまのたたかい)は、[[文治]]5年([[1189年]])に[[鎌倉幕府]]創設期の[[源頼朝]]軍と、迎え撃つ[[奥州藤原氏]]の軍が[[陸奥国]]阿津賀志山([[厚樫山]]、現[[福島県]]伊達郡[[国見町]]辺り)で戦った[[合戦]]である。 == 概要 == === 背景 === [[源義経]]を自害させて鎌倉幕府との和平の意思を示した[[藤原泰衡]]だが、鎌倉幕府による全国統治を進める源頼朝は、文治5年(1189年)に奥州藤原氏の討伐のため鎌倉を出立する。 === 両軍の兵力と編成、対峙 === 軍勢は3分割し、頼朝の大手軍は鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面へ、[[千葉常胤]]・[[八田知家]]の東海道軍は常陸国や下総国の武士団とともに岩城岩崎方面へ、[[比企能員]]・[[宇佐美実政]]の北陸道軍は越後国から日本海沿いを出羽国方面へそれぞれ進攻した。『吾妻鏡』7月19日条によれば、大手軍は騎馬武者では先陣の[[畠山重忠]]はじめ一千騎を従えたとされ、歩兵や輸送要員を加え、さらに道中では各地の豪族を加え、推定される総勢は25,000以上の兵力だったと思われる。 一方奥州軍は、防衛線を伊達郡と刈田郡([[宮城県]][[白石市]])の境として、厚樫山山麓から阿武隈川に至る長大な堀に阿武隈川の水を引いて、総延長3kmに及ぶ三重の防塁で大要塞を築く([[阿津賀志山防塁]])。総大将は泰衡の異母兄[[藤原国衡]]で、金剛別当秀綱以下二万の兵を配備して迎撃態勢を取った。泰衡は陸奥国[[宮城野|国分原]][[鞭楯]](現[[仙台市]][[宮城野区]]・[[榴岡公園]]辺りと推定される)に本陣を置き、[[名取川]]、[[広瀬川 (宮城県)|広瀬川]]などの川底に縄を巡らせ、要所に兵を配置するほか、[[田川行文]]・[[秋田致文]]を[[出羽国]]に派遣して出羽方面の指揮を統括させ、鎌倉軍の来襲に備えた。 === 奥州軍の敗北 === 8月7日の夜に頼朝は明朝の攻撃を命じ、畠山重忠は率いてきた人夫80名に用意していた鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。8日の卯の刻(午前6時頃)、畠山重忠らの先陣は、金剛別当秀綱の率いる数千騎と戦端を開き、巳の刻(午前10時頃)に秀綱は大木戸に退却した。 また、[[石那坂の戦い]](現在の[[福島市]][[松川町関谷]]付近)では[[伊佐為宗]]が信夫庄司[[佐藤基治]]([[佐藤継信]]・[[佐藤忠信]]の父)を打ち破り、その首を阿津賀志山の上の経岡に晒した。ただし石那坂は地理的に阿津賀志山よりはるかに南方であることがわかっており、石那坂の戦いは阿津賀志山の戦いより以前に別の場所で起こった合戦と思われる。『[[吾妻鏡]]』はそれを同時に進行していたように描くことで劇的効果を上げており、[[軍記物語]]特有の表現技法を取り入れた例と推測されている。 10日、畠山重忠・[[小山朝政]]らの本軍は大木戸に総攻撃を行った。奥州軍の抵抗は激しく、戦いの声は山谷に響き渡り郷村を動かすようであったという。激戦が続く中、[[紀権守]]、[[芳賀次郎大夫]]ら七名が鳥取越(現小坂峠)から迂回して国衡軍の後陣を奇襲する。奥州軍は混乱に陥り、金剛別当秀綱、子息の下須房太郎秀方が戦死(享年13)して潰走した。出羽方面に脱出しようとした国衡は、追撃した[[和田義盛]]に討たれた。根無藤の城郭でも両軍の激しい攻防が繰り広げられたが、大将軍の金十郎が戦死すると勝敗が決した。自軍の大敗を知った泰衡は多賀城から平泉方面へ退却した。 == 後日談 == この戦いにより奥州藤原氏は大打撃を受けて、奥州合戦の大勢は決した。以後、奥州藤原氏に大規模な会戦を行う余力はなくなり、散発的抵抗は続くものの、多賀城、多加波々城を防衛できず、22日には本拠地の平泉が陥落して滅亡することになる。そして泰衡は9月3日に数代の郎党である[[河田次郎]]の裏切りで殺害され、奥州藤原氏は滅亡した。12月には泰衡の家臣であった[[大河兼任]]が主君の仇として挙兵し鎌倉軍を悩ませた([[大河兼任の乱]])。この反乱は翌年3月に鎮圧され、約10年にわたる争乱が終息し、頼朝による武家政権確立に向けた準備がほぼ整うことになる。 == 関連項目 == * [[奥州合戦]] * [[石那坂の戦い]] {{デフォルトソート:あつかしやまのたたかい}} [[Category:鎌倉時代の戦い]] [[Category:平安時代の戦い]] [[Category:国見町の歴史]] [[Category:源頼朝|戦あつかしやま]] [[Category:畠山重忠]] [[Category:和田義盛]] [[Category:藤原泰衡]] [[Category:奥州藤原氏|戦あつかしやま]] [[Category:陸奥国|戦あつかしやま]] [[Category:1189年の日本]] [[Category:1189年の戦闘]]
2004-07-24T00:38:15Z
2023-08-22T15:39:16Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Battlebox" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B4%A5%E8%B3%80%E5%BF%97%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
4,873,128
ウォーターマン (小惑星)
ウォーターマン(1822 Waterman)は、小惑星帯の内側領域にある岩石質の小惑星である。直径は、約6.5kmである。 1950年7月25日にインディアナ大学のインディアナ小惑星計画により、インディアナ州ブルックリン近郊のゲーテ・リンク天文台で発見された。アメリカ合衆国の物理学者アラン・T・ウォーターマンの名前に因んで命名された。 ウォーターマンは、S型小惑星であり、小惑星帯の内側領域の太陽から1.8-2.5天文単位の軌道を3年2か月(1,168日)ごとに公転している。軌道離心率は0.15、黄道に対する軌道傾斜角は1°である 。観測弧の始点には、1943年、ドイツのゾンネベルク天文台での1943 EBとしての最初の観測は用いられず、公式の発見時点から始まっている。 2013年1月、ニューメキシコ州のU.S Etscorn天文台での測光観測で、ウォーターマンの光学曲線が得られた。7.581時間の周期で光度が0.51等級変化する結果が精度よく得られた(U=3)。 アメリカ航空宇宙局の広視野赤外線探査機とその後継のNEOWISEミッションにより、ウォーターマンの直径は6.06-6.52km、表面アルベドが0.264-0.325であると測定された。Collaborative Asteroid Lightcurve Link(CALL)では、岩石質の小惑星の標準アルベドを0.20と推定しており、絶対等級13.1から、半径を7.46kmと計算している。 この小惑星は、アメリカ国立科学財団の初代会長であったアメリカ合衆国の物理学者アラン・T・ウォーターマン(1892年-1967年)の名前に因んで命名された。彼は物理学者として25年間研究に従事した後、ワシントンに移動し、1941-45年に科学研究開発局、1946-51年にアメリカ海軍海事技術本部、1951-63年にアメリカ国立科学財団で勤めた。 ウォーターマンは、科学分野における優れた指導者としてカール・テイラー・コンプトン金メダルを受賞したほか、1960年に公共福祉メダル、1963年に大統領自由勲章を授与された。公式な命名の引用は、小惑星センターの1975年6月1日の公表による。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウォーターマン(1822 Waterman)は、小惑星帯の内側領域にある岩石質の小惑星である。直径は、約6.5kmである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1950年7月25日にインディアナ大学のインディアナ小惑星計画により、インディアナ州ブルックリン近郊のゲーテ・リンク天文台で発見された。アメリカ合衆国の物理学者アラン・T・ウォーターマンの名前に因んで命名された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ウォーターマンは、S型小惑星であり、小惑星帯の内側領域の太陽から1.8-2.5天文単位の軌道を3年2か月(1,168日)ごとに公転している。軌道離心率は0.15、黄道に対する軌道傾斜角は1°である 。観測弧の始点には、1943年、ドイツのゾンネベルク天文台での1943 EBとしての最初の観測は用いられず、公式の発見時点から始まっている。", "title": "軌道と分類" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2013年1月、ニューメキシコ州のU.S Etscorn天文台での測光観測で、ウォーターマンの光学曲線が得られた。7.581時間の周期で光度が0.51等級変化する結果が精度よく得られた(U=3)。", "title": "物理的性質" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アメリカ航空宇宙局の広視野赤外線探査機とその後継のNEOWISEミッションにより、ウォーターマンの直径は6.06-6.52km、表面アルベドが0.264-0.325であると測定された。Collaborative Asteroid Lightcurve Link(CALL)では、岩石質の小惑星の標準アルベドを0.20と推定しており、絶対等級13.1から、半径を7.46kmと計算している。", "title": "物理的性質" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この小惑星は、アメリカ国立科学財団の初代会長であったアメリカ合衆国の物理学者アラン・T・ウォーターマン(1892年-1967年)の名前に因んで命名された。彼は物理学者として25年間研究に従事した後、ワシントンに移動し、1941-45年に科学研究開発局、1946-51年にアメリカ海軍海事技術本部、1951-63年にアメリカ国立科学財団で勤めた。", "title": "名前" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ウォーターマンは、科学分野における優れた指導者としてカール・テイラー・コンプトン金メダルを受賞したほか、1960年に公共福祉メダル、1963年に大統領自由勲章を授与された。公式な命名の引用は、小惑星センターの1975年6月1日の公表による。", "title": "名前" } ]
ウォーターマン(1822 Waterman)は、小惑星帯の内側領域にある岩石質の小惑星である。直径は、約6.5kmである。 1950年7月25日にインディアナ大学のインディアナ小惑星計画により、インディアナ州ブルックリン近郊のゲーテ・リンク天文台で発見された。アメリカ合衆国の物理学者アラン・T・ウォーターマンの名前に因んで命名された。
{{天体 基本 | 色 = 小惑星 | 和名 = ウォーターマン | 英名 = 1822 Waterman | 仮符号・別名 = 1950 OO{{·}}1943 EB<br />1953 MA{{·}}1963 TT | 分類 = [[小惑星]] | 軌道の種類 = [[小惑星帯]]<ref name="lcdb" /> }} {{天体 発見 | 色 = 小惑星 | 発見日 = [[1950年]][[7月25日]]<ref name="jpldata" /> | 発見者 = [[インディアナ小惑星計画]]<ref name="jpldata" /> }} {{天体 軌道 | 色 = 小惑星 | 元期 = 2017年9月4日 ([[ユリウス日|JD]] 2,458,000.5) | 軌道長半径 = 2.1700 AU<ref name="jpldata" /> | 近日点距離 = 1.8378 AU<ref name="jpldata" /> | 遠日点距離 = 2.5023 AU<ref name="jpldata" /> | 離心率 = 0.1531<ref name="jpldata" /> | 公転周期 = 3.20 年(1,168 日)<ref name="jpldata" /> | 軌道傾斜角 = 0.9567°<ref name="jpldata" /> | 近日点引数 = 30.351°<ref name="jpldata" /> | 昇交点黄経 = 221.25°<ref name="jpldata" /> | 平均近点角 = 45.052°<ref name="jpldata" /> }} {{天体 物理 | 色 = 小惑星 | 直径 = {{val|6.054|0.098}}<ref name="Masiero-2014" /><br />{{val|6.515|0.060}} km<ref name="WISE" /><br />7.46 km {{small|(計算)}}<ref name="lcdb" /> | 自転周期 = {{val|7.581|0.002}} 時間<ref name="Klinglesmith-2013d" /> | スペクトル分類 = S<ref name="lcdb" /> | 絶対等級 = 13.0<ref name="WISE" />{{·}}13.1<ref name="jpldata" /><ref name="lcdb" />{{·}}{{val|14.04|0.51}}<ref name="Veres-2015" /> | アルベド = 0.20 {{small|(推定)}}<ref name="lcdb" /><br />{{val|0.2639|0.0659}}<ref name="WISE" /><br />{{val|0.325|0.046}}<ref name="Masiero-2014" /> }} {{天体 終了 | 色 = 小惑星 }} '''ウォーターマン'''(1822 Waterman)は、[[小惑星帯]]の内側領域にある岩石質の[[小惑星]]である。直径は、約6.5kmである。 1950年7月25日に[[インディアナ大学]]の[[インディアナ小惑星計画]]により、[[インディアナ州]][[ブルックリン (インディアナ州)|ブルックリン]]近郊の[[ゲーテ・リンク天文台]]で発見された<ref name="MPC-Waterman" />。[[アメリカ合衆国]]の[[物理学者]][[アラン・T・ウォーターマン]]の名前に因んで命名された<ref name="springer" />。 ==軌道と分類== ウォーターマンは、[[S型小惑星]]であり、小惑星帯の内側領域の太陽から1.8-2.5[[天文単位]]の軌道を3年2か月(1,168日)ごとに公転している。[[軌道離心率]]は0.15、[[黄道]]に対する[[軌道傾斜角]]は1°である<ref name="jpldata" /> 。[[観測弧]]の始点には、1943年、[[ドイツ]]の[[ゾンネベルク天文台]]での'''1943 EB'''としての最初の観測は用いられず、公式の発見時点から始まっている<ref name="MPC-Waterman" />。 ==物理的性質== ===自転周期=== 2013年1月、[[ニューメキシコ州]]のU.S Etscorn天文台での[[測光]]観測で、ウォーターマンの[[光学曲線]]が得られた。7.581時間の周期で光度が0.51等級変化する結果が精度よく得られた(U=3)<ref name="Klinglesmith-2013d" />。 ===直径とアルベド=== [[アメリカ航空宇宙局]]の[[広視野赤外線探査機]]とその後継の[[NEOWISE]]ミッションにより、ウォーターマンの直径は6.06-6.52km、表面[[アルベド]]が0.264-0.325であると測定された<ref name="Masiero-2014" /><ref name="WISE" />。''Collaborative Asteroid Lightcurve Link''(CALL)では、岩石質の小惑星の標準アルベドを0.20と推定しており、絶対等級13.1から、半径を7.46kmと計算している<ref name="lcdb" />。 ==名前== この小惑星は、[[アメリカ国立科学財団]]の初代会長であったアメリカ合衆国の物理学者アラン・T・ウォーターマン(1892年-1967年)の名前に因んで命名された。彼は物理学者として25年間研究に従事した後、[[ワシントン]]に移動し、1941-45年に[[科学研究開発局]]、1946-51年に[[アメリカ海軍海事技術本部]]、1951-63年に[[アメリカ国立科学財団]]で勤めた<ref name="springer" />。 ウォーターマンは、科学分野における優れた指導者としてカール・テイラー・コンプトン金メダルを受賞したほか、1960年に[[公共福祉メダル]]、1963年に[[大統領自由勲章]]を授与された<ref name="springer" /><ref name=PublicWelfare />。公式な命名の引用は、小惑星センターの1975年6月1日の公表による<ref name="DoMP-Circular-dates" />。 ==出典== {{reflist|30em|refs= <ref name="jpldata">{{cite web |type = 2017-03-17 last obs. |title = JPL Small-Body Database Browser: 1822 Waterman (1950 OO) |url = https://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=2001822 |archive-url = https://web.archive.org/web/20161220141410/http://ssd.jpl.nasa.gov/sbdb.cgi?sstr=2001822 |archive-date = 20 December 2016 |publisher = Jet Propulsion Laboratory |accessdate = 8 June 2017}}</ref> <ref name="springer">{{cite book |title = Dictionary of Minor Planet Names – (1822) Waterman |last = Schmadel | first = Lutz D. |publisher = Springer Berlin Heidelberg |page = 146 |date = 2007 |isbn = 978-3-540-00238-3 |doi = 10.1007/978-3-540-29925-7_1823 |chapter = (1822) Waterman }}</ref> <ref name="MPC-Waterman">{{cite web |title = 1822 Waterman (1950 OO) |work = Minor Planet Center |url = https://www.minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=1822 |accessdate = 15 December 2016}}</ref> <ref name="DoMP-Circular-dates">{{cite book |title = Dictionary of Minor Planet Names – Addendum to Fifth Edition (2006–2008) |chapter = Appendix – Publication Dates of the MPCs |last = Schmadel |first=Lutz D. |publisher = Springer Berlin Heidelberg |page = 221 |isbn = 978-3-642-01964-7 |doi = 10.1007/978-3-642-01965-4}}</ref> <ref name=PublicWelfare>{{cite web |title = Public Welfare Medal |url = http://www.nasonline.org/programs/awards/public-welfare-medal.html |publisher = National Academy of Sciences |accessdate = 22 August 2016}}</ref> <ref name="Masiero-2014">{{cite journal |display-authors = 6 |first1 = Joseph R. |last1 = Masiero |first2 = T. |last2 = Grav |first3 = A. K. |last3 = Mainzer |first4 = C. R. |last4 = Nugent |first5 = J. M. |last5 = Bauer |first6 = R. |last6 = Stevenson |first7 = S. |last7 = Sonnett |date = August 2014 |title = Main-belt Asteroids with WISE/NEOWISE: Near-infrared Albedos |url = http://adsabs.harvard.edu/cgi-bin/bib_query?bibcode=2014ApJ...791..121M |journal = The Astrophysical Journal |volume = 791 |issue = 2 |page = 11 |bibcode = 2014ApJ...791..121M |doi = 10.1088/0004-637X/791/2/121 |arxiv = 1406.6645 |accessdate= 15 December 2016}}</ref> <ref name="lcdb">{{cite web |title = LCDB Data for (1822) Waterman |publisher = Asteroid Lightcurve Database (LCDB) |url = http://www.minorplanet.info/PHP/generateOneAsteroidInfo.php?AstInfo=1822%7CWaterman |accessdate = 15 December 2016}}</ref> <ref name="WISE">{{cite journal |display-authors = 6 |first1 = A. |last1 = Mainzer |first2 = T. |last2 = Grav |first3 = J. |last3 = Masiero |first4 = E. |last4 = Hand |first5 = J. |last5 = Bauer |first6 = D. |last6 = Tholen |first7 = R. S. |last7 = McMillan |first8 = T. |last8 = Spahr |first9 = R. M. |last9 = Cutri |first10 = E. |last10 = Wright |first11 = J. |last11 = Watkins |first12 = W. |last12 = Mo |first13 = C. |last13 = Maleszewski |date = November 2011 |title = NEOWISE Studies of Spectrophotometrically Classified Asteroids: Preliminary Results |journal = The Astrophysical Journal |volume = 741 |issue = 2 |page = 25 |bibcode = 2011ApJ...741...90M |doi = 10.1088/0004-637X/741/2/90 |arxiv = 1109.6407}}</ref> <ref name="Klinglesmith-2013d">{{Cite journal |first1 = Daniel A. III |last1 = Klinglesmith |first2 = Jesse |last2 = Hanowell |first3 = Ethan |last3 = Risley |first4 = Turk |last4 = Janek |first5 = Angelica |last5 = Vargas |first6 = Curtis Alan |last6 = Warren |date = July 2013 |title = Etscorn Observed Asteroids: Results for Size Asteroids December 2012 - March 2013 |url = http://adsabs.harvard.edu/cgi-bin/bib_query?bibcode=2013MPBu...40..154K |journal = The Minor Planet Bulletin |volume = 40 |issue = 3 |pages = 154–156 |issn = 1052-8091 |bibcode = 2013MPBu...40..154K |accessdate= 15 December 2016}}</ref> <ref name="Veres-2015">{{cite journal |display-authors = 6 |first1 = Peter |last1 = Veres |first2 = Robert |last2 = Jedicke |first3 = Alan |last3 = Fitzsimmons |first4 = Larry |last4 = Denneau |first5 = Mikael |last5 = Granvik |first6 = Bryce |last6 = Bolin |first7 = Serge |last7 = Chastel |first8 = Richard J. |last8 = Wainscoat |first9 = William S. |last9 = Burgett |first10 = Kenneth C. |last10 = Chambers |first11 = Heather |last11 = Flewelling |first12 = Nick |last12 = Kaiser |first13 = Eugen A. |last13 = Magnier |first14 = Jeff S. |last14 = Morgan |first15 = Paul A. |last15 = Price |first16 = John L. |last16 = Tonry |first17 = Christopher |last17 = Waters |date = November 2015 |title = Absolute magnitudes and slope parameters for 250,000 asteroids observed by Pan-STARRS PS1 - Preliminary results |url = http://adsabs.harvard.edu/cgi-bin/bib_query?bibcode=2015Icar..261...34V |journal = Icarus |volume = 261 |pages = 34–47 |bibcode = 2015Icar..261...34V |doi = 10.1016/j.icarus.2015.08.007 |arxiv = 1506.00762 |accessdate= 15 December 2016}}</ref> }} ==外部リンク== * [http://www.minorplanet.info/PHP/lcdbsummaryquery.php Asteroid Lightcurve Database (LCDB)], query form ([http://www.minorplanet.info/lightcurvedatabase.html info] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20171216050541/http://www.minorplanet.info/lightcurvedatabase.html |date=16 December 2017 }}) * [https://books.google.com/books?id=aeAg1X7afOoC&pg Dictionary of Minor Planet Names], Google books * [http://obswww.unige.ch/~behrend/page_cou.html Asteroids and comets rotation curves, CdR] – Observatoire de Genève, Raoul Behrend * [https://www.minorplanetcenter.net/iau/lists/NumberedMPs000001.html Discovery Circumstances: Numbered Minor Planets (1)-(5000)] – Minor Planet Center {{デフォルトソート:うおおたあまん}} [[Category:メインベルトの小惑星]] [[Category:インディアナ小惑星計画が発見した天体]] [[Category:1950年に発見の天体]] [[Category:天文学に関する記事]]
2023-12-28T15:44:54Z
2023-12-28T15:44:54Z
false
false
false
[ "Template:天体 基本", "Template:天体 発見", "Template:天体 軌道", "Template:天体 物理", "Template:天体 終了", "Template:Reflist", "Template:Webarchive" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3_(%E5%B0%8F%E6%83%91%E6%98%9F)
1,441,098
セクストゥス・プロペルティウス
セクストゥス・アウレリウス・プロペルティウス(Sextus Aurelius Propertius, 紀元前50年頃 - 紀元前15年頃)はラテン語のエレギア詩人。 プロペルティウスについて知られていることは、その著作を除けばほとんどない。その詩の中に多く言及されていることから、ウンブリアで生まれ育ったようである。アッシジが、自分の町こそプロペルティウスの出生地であると主張している。現存する作品の中には、4巻の『エレギア』詩集が含まれている。 プロペルティウスの名声の基盤となっているのは、4巻の『エレギア』詩集である。プロペルティウスのエレギア詩はすべて、紀元前1世紀にローマの社交界で流行していた「エレゲイオン」という詩形(エレジー#古典詩参照)で書かれている。ほとんどのエレギア詩人同様、プロペルティウスの詩は一人の女性のことで占められている。その女性は「キュンティア(Cynthia)」という名前で、その名前は最初の詩『Monobiblos』の冒頭から登場する。 キュンティアの名前は第1巻の詩の半分に出てくる。それ以外の詩にも間接的に登場する。アプレイウスはキュンティアの本名が「ホスティア(Hostia)」であるとした。プロペルティウスも彼女が紀元前2世紀のローマの叙事詩人ホスティウス(en:Hostius)の子孫だとほのめかしている(第3巻20)。プロペルティウスはしばしばキュンティアを「教養ある淑女」で(第1巻7、第2巻131、第2巻13)、スルピキア(en:Sulpicia)のように自分でも詩を書いたと賛辞しているが、研究者たちは、キュンティアはおそらく高級娼婦(en:Courtesan)ではなかったかと推測している。二人の関係は、感情の両極端を大きく揺れ動き、少なくとも第3巻の発表時まで、キュンティアは恋人としてプロペルティウスの人生を支配していた。 プロペルティウスの詩がいつ書かれたかを特定することは難しいが、その詩は、ラテン語のエレギア詩人の間ではありふれたテーマであった愛の告白、情熱、嫉妬、口論、悲嘆を年代順に記録している。第3巻の最後の2つの詩はキュンティアとの最終的破局を示しているように見える(「僕の詩が君を有名にしたことは恥である」第3巻24)。そしてキュンティアは最後の第4巻が発表される前に亡くなったらしい。第4巻でキュンティアをテーマとしたものは、後書きとしての挨拶のたった2つの詩だけである。この両極端な関係の複雑性は第4巻の中の痛切な詩の中に十分に明示される。キュンティアの幽霊が、自分の葬式は豪勢でなかったと(他のことと一緒に)プロペルティウスを批判するのである。そしてその最後の行は、プロペルティウスが未練を残しているように見受けられる。 また第4巻はプロペルティウスが新しい詩の方向を企図していたことを強く示している。そこにはローマやその歴史的な建物の神話的由来を再吟味した、いくつかの因果関係学(en:Etiology#Mythology)的詩が含まれている。これらは、新しいローマを目指すアウグストゥスとその政策の批判(曖昧に転覆をも目論む)として読むこともできるが、現代の古典研究者たちの間でも議論の的となっている。最後の詩(第4巻11)は、紀元前16年に亡くなったコルネリア・スピキオ(en:Cornelia Scipio)の葬式のために書かれたもので、コルネリアの美徳を賛辞している。ほとんど帝国からの依頼のようなものだが(コルネリアはアウグストゥスの親類だった)、その荘厳さ、気高さ、哀調は「エレギアの女王」という評価を受けている。 プロペルティウスのスタイルは、ぱっと見たところ唐突な場面転換(ラテン語の新しい詩の方法)と、ギリシア・ローマの神話・伝説のあまり知られていない一節に多く向けられた高度で想像力に富んだ隠喩によって特徴づけられる。プロペルティウス独特の言い回しは、テキストの損なわれた状態と相俟って、その詩の校訂の問題を生じさせる。これまでに、古典主義のジョン・パーシヴァル・ポストゲイト(en:John Percival Postgate)やイギリスの詩人A・E・ハウスマン(en:Alfred Edward Housman)がテキストの原典研究ならびに校訂を行った。 テキストには多くの統語上・構造上・論理上の問題が含まれている。いくつかは疑いなく、プロペルティウスの大胆で、時には型破りなラテン語の使用が問題を悪化させている。写本に記載する際、研究者がテキストの手直し、時には変更をせざるをえなかったものもある。 全部で146ある現存するプロペルティウスの写本のもっとも古いものは12世紀のものである。しかし、そうした写本の中の詩のいくつかは支離滅裂である。たとえば第1巻8は、キュンティアが航海の計画を取りやめたことを弁解するところから始まっているが、ラストでは航海を中止した喜びで終わる。そのため、多くの研究家はこの詩の前半を8a(26行まで)、後半を8b(27行から46行まで)と分割している。第2巻26は、より複雑な構造上の問題を含んでいる。順番に、(1)難破するキュンティアの夢、(2)キュンティアの貞節への賛辞、(3)キュンティアが航海を計画し、プロペルティウスが同行することの表明、(4)一緒に岸に移動する二人、(5)急に二人は船上にいて海難の可能性に備える、と混乱している。論理的にも時間的にも矛盾していて、そのためにさまざまな注釈者たちは、行を並び替えるか、テキストの中にいくつかの「空白」を差し挟んでいる。D. Thomas Benediktsonなど近年の研究者は、こうした改訂は、プロペルティウスの元々の詩はアリストテレスによって定められた古典文学の法則を厳格に守っていて、見た目の混乱は写本の改悪であると仮定してのものだった、と指摘している。 別の可能性としては、たとえば三一致の法則のような法則に背いて、プロペルティウスが故意に支離滅裂なイメージを書き連ねたというものである。この解釈もまた、プロペルティウスのスタイルは古典文学原理の正統性に対する反発であることを意味している。 プロペルティウスは自分のことを、その時代とても人気があったばかりでなく、スキャンダラスでもあったと語っている(第2巻24a)。プロペルティウスの人気はポンペイの落書きの中にプロペルティウスの詩があることでも立証されている。 中世になると、プロペルティウスの名は忘れ去られたが、イタリア・ルネサンス期に他のエレギア詩人とともに復活した。ペトラルカの愛のソネットはプロペルティウスの影響がはっきりと見られるし、アエネアス・シルウィウス(後のピウス2世 (ローマ教皇)。詩人であった)が若い時に発表したエレギア詩集のタイトルは『Cinthia(キンティア)』だった。さらに、ベン・ジョンソンの作とされる(異論もある)『Propertian Elegies(プロペルティウス風エレジー集)』もある。ゲーテの1759年の詩集『ローマ悲歌』もプロペルティウスの詩に少し近い。 20世紀になると、エズラ・パウンドの詩『セクストゥス・プロペルティウスへの敬意』がある。これはプロペルティウスの風刺家・反体制としての側面に焦点を当てたもので、パウンドのエレギア詩の翻訳/解釈は、それをパウンドが提唱するイマジズム理論の古代の例として紹介している。イマジズムの解釈、つまりプロペルティウスの内的独白の傾向と徹底的に私的な特質は、現代でもプロペルティウスを人気作家にした。ごく最近になってプロペルティウスの英語訳が2冊出版され、劇作家トム・ストッパードは戯曲『The Invention of Love』(1997年)の中で、プロペルティウスは、西洋が今日「ロマンティックな愛」と見なしている多くのものに寄与した、と示唆している。 ヨシフ・ブロツキーのロシア語で書かれた詩『Anno Domini』(1968年)の叙情的主人公はプロペルティウスである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "セクストゥス・アウレリウス・プロペルティウス(Sextus Aurelius Propertius, 紀元前50年頃 - 紀元前15年頃)はラテン語のエレギア詩人。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "プロペルティウスについて知られていることは、その著作を除けばほとんどない。その詩の中に多く言及されていることから、ウンブリアで生まれ育ったようである。アッシジが、自分の町こそプロペルティウスの出生地であると主張している。現存する作品の中には、4巻の『エレギア』詩集が含まれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "プロペルティウスの名声の基盤となっているのは、4巻の『エレギア』詩集である。プロペルティウスのエレギア詩はすべて、紀元前1世紀にローマの社交界で流行していた「エレゲイオン」という詩形(エレジー#古典詩参照)で書かれている。ほとんどのエレギア詩人同様、プロペルティウスの詩は一人の女性のことで占められている。その女性は「キュンティア(Cynthia)」という名前で、その名前は最初の詩『Monobiblos』の冒頭から登場する。", "title": "プロペルティウスの詩" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "キュンティアの名前は第1巻の詩の半分に出てくる。それ以外の詩にも間接的に登場する。アプレイウスはキュンティアの本名が「ホスティア(Hostia)」であるとした。プロペルティウスも彼女が紀元前2世紀のローマの叙事詩人ホスティウス(en:Hostius)の子孫だとほのめかしている(第3巻20)。プロペルティウスはしばしばキュンティアを「教養ある淑女」で(第1巻7、第2巻131、第2巻13)、スルピキア(en:Sulpicia)のように自分でも詩を書いたと賛辞しているが、研究者たちは、キュンティアはおそらく高級娼婦(en:Courtesan)ではなかったかと推測している。二人の関係は、感情の両極端を大きく揺れ動き、少なくとも第3巻の発表時まで、キュンティアは恋人としてプロペルティウスの人生を支配していた。", "title": "プロペルティウスの詩" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "プロペルティウスの詩がいつ書かれたかを特定することは難しいが、その詩は、ラテン語のエレギア詩人の間ではありふれたテーマであった愛の告白、情熱、嫉妬、口論、悲嘆を年代順に記録している。第3巻の最後の2つの詩はキュンティアとの最終的破局を示しているように見える(「僕の詩が君を有名にしたことは恥である」第3巻24)。そしてキュンティアは最後の第4巻が発表される前に亡くなったらしい。第4巻でキュンティアをテーマとしたものは、後書きとしての挨拶のたった2つの詩だけである。この両極端な関係の複雑性は第4巻の中の痛切な詩の中に十分に明示される。キュンティアの幽霊が、自分の葬式は豪勢でなかったと(他のことと一緒に)プロペルティウスを批判するのである。そしてその最後の行は、プロペルティウスが未練を残しているように見受けられる。", "title": "プロペルティウスの詩" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また第4巻はプロペルティウスが新しい詩の方向を企図していたことを強く示している。そこにはローマやその歴史的な建物の神話的由来を再吟味した、いくつかの因果関係学(en:Etiology#Mythology)的詩が含まれている。これらは、新しいローマを目指すアウグストゥスとその政策の批判(曖昧に転覆をも目論む)として読むこともできるが、現代の古典研究者たちの間でも議論の的となっている。最後の詩(第4巻11)は、紀元前16年に亡くなったコルネリア・スピキオ(en:Cornelia Scipio)の葬式のために書かれたもので、コルネリアの美徳を賛辞している。ほとんど帝国からの依頼のようなものだが(コルネリアはアウグストゥスの親類だった)、その荘厳さ、気高さ、哀調は「エレギアの女王」という評価を受けている。", "title": "プロペルティウスの詩" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "プロペルティウスのスタイルは、ぱっと見たところ唐突な場面転換(ラテン語の新しい詩の方法)と、ギリシア・ローマの神話・伝説のあまり知られていない一節に多く向けられた高度で想像力に富んだ隠喩によって特徴づけられる。プロペルティウス独特の言い回しは、テキストの損なわれた状態と相俟って、その詩の校訂の問題を生じさせる。これまでに、古典主義のジョン・パーシヴァル・ポストゲイト(en:John Percival Postgate)やイギリスの詩人A・E・ハウスマン(en:Alfred Edward Housman)がテキストの原典研究ならびに校訂を行った。", "title": "プロペルティウスの詩" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "テキストには多くの統語上・構造上・論理上の問題が含まれている。いくつかは疑いなく、プロペルティウスの大胆で、時には型破りなラテン語の使用が問題を悪化させている。写本に記載する際、研究者がテキストの手直し、時には変更をせざるをえなかったものもある。", "title": "テキストの問題" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "全部で146ある現存するプロペルティウスの写本のもっとも古いものは12世紀のものである。しかし、そうした写本の中の詩のいくつかは支離滅裂である。たとえば第1巻8は、キュンティアが航海の計画を取りやめたことを弁解するところから始まっているが、ラストでは航海を中止した喜びで終わる。そのため、多くの研究家はこの詩の前半を8a(26行まで)、後半を8b(27行から46行まで)と分割している。第2巻26は、より複雑な構造上の問題を含んでいる。順番に、(1)難破するキュンティアの夢、(2)キュンティアの貞節への賛辞、(3)キュンティアが航海を計画し、プロペルティウスが同行することの表明、(4)一緒に岸に移動する二人、(5)急に二人は船上にいて海難の可能性に備える、と混乱している。論理的にも時間的にも矛盾していて、そのためにさまざまな注釈者たちは、行を並び替えるか、テキストの中にいくつかの「空白」を差し挟んでいる。D. Thomas Benediktsonなど近年の研究者は、こうした改訂は、プロペルティウスの元々の詩はアリストテレスによって定められた古典文学の法則を厳格に守っていて、見た目の混乱は写本の改悪であると仮定してのものだった、と指摘している。", "title": "テキストの問題" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "別の可能性としては、たとえば三一致の法則のような法則に背いて、プロペルティウスが故意に支離滅裂なイメージを書き連ねたというものである。この解釈もまた、プロペルティウスのスタイルは古典文学原理の正統性に対する反発であることを意味している。", "title": "テキストの問題" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "プロペルティウスは自分のことを、その時代とても人気があったばかりでなく、スキャンダラスでもあったと語っている(第2巻24a)。プロペルティウスの人気はポンペイの落書きの中にプロペルティウスの詩があることでも立証されている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "中世になると、プロペルティウスの名は忘れ去られたが、イタリア・ルネサンス期に他のエレギア詩人とともに復活した。ペトラルカの愛のソネットはプロペルティウスの影響がはっきりと見られるし、アエネアス・シルウィウス(後のピウス2世 (ローマ教皇)。詩人であった)が若い時に発表したエレギア詩集のタイトルは『Cinthia(キンティア)』だった。さらに、ベン・ジョンソンの作とされる(異論もある)『Propertian Elegies(プロペルティウス風エレジー集)』もある。ゲーテの1759年の詩集『ローマ悲歌』もプロペルティウスの詩に少し近い。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "20世紀になると、エズラ・パウンドの詩『セクストゥス・プロペルティウスへの敬意』がある。これはプロペルティウスの風刺家・反体制としての側面に焦点を当てたもので、パウンドのエレギア詩の翻訳/解釈は、それをパウンドが提唱するイマジズム理論の古代の例として紹介している。イマジズムの解釈、つまりプロペルティウスの内的独白の傾向と徹底的に私的な特質は、現代でもプロペルティウスを人気作家にした。ごく最近になってプロペルティウスの英語訳が2冊出版され、劇作家トム・ストッパードは戯曲『The Invention of Love』(1997年)の中で、プロペルティウスは、西洋が今日「ロマンティックな愛」と見なしている多くのものに寄与した、と示唆している。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ヨシフ・ブロツキーのロシア語で書かれた詩『Anno Domini』(1968年)の叙情的主人公はプロペルティウスである。", "title": "影響" } ]
セクストゥス・アウレリウス・プロペルティウスはラテン語のエレギア詩人。 プロペルティウスについて知られていることは、その著作を除けばほとんどない。その詩の中に多く言及されていることから、ウンブリアで生まれ育ったようである。アッシジが、自分の町こそプロペルティウスの出生地であると主張している。現存する作品の中には、4巻の『エレギア』詩集が含まれている。
{{Infobox 作家 | name = セクストゥス・プロペルティウス<br/>Sextus Propertius | image = Properce.jpg | imagesize = 260px | caption = | birth_date = 紀元前50年頃 | birth_place = おそらく[[ウンブリア州|ウンブリア]] | death_date = 紀元前15年頃 | occupation = [[詩人]] | period = [[共和政ローマ]]、[[帝政ローマ]] | genre = [[エレギア]] }} [[ファイル:Prop_and_Cynth.jpg|サムネイル|367x367ピクセル|Auguste Jean Baptiste Vinchon, Propertius & Cynthia]] '''セクストゥス・アウレリウス・プロペルティウス'''('''Sextus Aurelius Propertius''', <!--イタリア語版から-->[[紀元前50年]]頃 - [[紀元前15年]]頃)は[[ラテン語]]の[[エレギア]][[詩人]]。 <!--英語版の「Life」の内容と差し替えます(なぜか内容が違ってます)。イタリア語版も参照しました。-->プロペルティウスについて知られていることは、その著作を除けばほとんどない。<!--「セクストゥス・プロペルティウス」以上のフルネームがわかっていないと書いてあるが、記事の冒頭の名前は何???-->その詩の中に多く言及されていることから、[[ウンブリア州|ウンブリア]]で生まれ育ったようである。[[アッシジ]]が、自分の町こそプロペルティウスの出生地であると主張している。現存する作品の中には、4巻の『エレギア』詩集が含まれている。<!--「詩人の[[ガイウス・マエケナス]]、コルネリウス・ガルス([[:en:Cornelius Gallus]])、[[ウェルギリウス]]らとは友人で、彼らとともにパトロンとして[[アウグストゥス]]を持っていた」——とあるが、マエケナスは詩人でなくパトロンでは???--> <!--他の伝記部分は省略します--> == プロペルティウスの詩 == プロペルティウスの名声の基盤となっているのは、<!--92篇という数については省略-->4巻の『エレギア』詩集である。プロペルティウスのエレギア詩はすべて、[[紀元前1世紀]]にローマの社交界で流行していた「エレゲイオン」という詩形([[エレジー#古典詩]]参照)で書かれている。ほとんどのエレギア詩人同様、プロペルティウスの詩は一人の女性のことで占められている。その女性は「キュンティア(Cynthia)」という名前で、その名前は最初の詩『Monobiblos』の冒頭から登場する。 :Cynthia prima suis miserum me cepit ocellis, :contactum nullis ante cupidinibus. :-- 第1巻1の冒頭。大意「キュンティアはまずその小さな瞳で惨めな私を虜にした。私はそれまでクピドに触れられたことが一度もなかった」。<!--詩の訳はすべて英語からの翻訳です。誤訳がありましたら修正よろしくお願いします--> キュンティアの名前は第1巻の詩の半分に出てくる。それ以外の詩にも間接的に登場する。[[アプレイウス]]はキュンティアの本名が「ホスティア(Hostia)」であるとした<ref> アプレイウス『アポロギア』ch. X</ref>。プロペルティウスも彼女が[[紀元前2世紀]]のローマの[[叙事詩]]人ホスティウス([[:en:Hostius]])の子孫だとほのめかしている(第3巻20)。プロペルティウスはしばしばキュンティアを「教養ある淑女」で(第1巻7、第2巻131、第2巻13)、スルピキア([[:en:Sulpicia]])のように自分でも詩を書いた<ref>「アポロは君に歌の力を、カリオペは喜んでアオニア([[:en:Aonia]])の竪琴を授けた」(第1巻2)</ref>と賛辞しているが、研究者たちは、キュンティアはおそらく高級娼婦([[:en:Courtesan]])ではなかったかと推測している。二人の関係は、感情の両極端を大きく揺れ動き、少なくとも第3巻の発表時まで、キュンティアは恋人としてプロペルティウスの人生を支配していた。 :cuncta tuus sepelivit amor, nec femina post te :ulla dedit collo dulcia vincla meo. :-- III.15.11-2。大意「君の愛は他のすべてを忘れさせた、どんな女もいない、君が僕の首に甘い足枷をはめた後では」。 プロペルティウスの詩がいつ書かれたかを特定することは難しいが、その詩は、ラテン語のエレギア詩人の間ではありふれたテーマであった愛の告白、情熱、嫉妬、口論、悲嘆を年代順に記録している。第3巻の最後の2つの詩はキュンティアとの最終的破局を示しているように見える(「僕の詩が君を有名にしたことは恥である」第3巻24)。そしてキュンティアは最後の第4巻が発表される前に亡くなったらしい。第4巻でキュンティアをテーマとしたものは、後書きとしての挨拶のたった2つの詩だけである。この両極端な関係の複雑性は第4巻の中の痛切な詩の中に十分に明示される。キュンティアの幽霊が、自分の葬式は豪勢でなかったと(他のことと一緒に)プロペルティウスを批判するのである。そしてその最後の行は、プロペルティウスが未練を残しているように見受けられる。 :inter complexus excidit umbra meos :-- IV.7.96。大意「それから彼女の影は僕の抱擁から消え去った」。 また第4巻はプロペルティウスが新しい詩の方向を企図していたことを強く示している。そこにはローマやその歴史的な建物の神話的由来を再吟味した、いくつかの因果関係学([[:en:Etiology#Mythology]])的詩が含まれている。これらは、新しいローマを目指す[[アウグストゥス]]とその政策の批判(曖昧に転覆をも目論む)として読むこともできるが、現代の古典研究者たちの間でも議論の的となっている<ref>Micaela Janan, The Politics of Desire: Propertius IV. Berkeley: University of California Press, 2001. Pp. 255. ISBN 0-520-22321-7</ref>。最後の詩(第4巻11)は、[[紀元前16年]]に亡くなったコルネリア・スピキオ([[:en:Cornelia Scipio]])の葬式のために書かれたもので、コルネリアの美徳を賛辞している。ほとんど帝国からの依頼のようなものだが(コルネリアはアウグストゥスの親類だった)、その荘厳さ、気高さ、哀調は「エレギアの女王」という評価を受けている。 プロペルティウスのスタイルは、ぱっと見たところ唐突な場面転換(ラテン語の新しい詩の方法)と、ギリシア・ローマの神話・伝説のあまり知られていない一節に多く向けられた高度で想像力に富んだ隠喩によって特徴づけられる。プロペルティウス独特の言い回しは、テキストの損なわれた状態と相俟って、その詩の校訂の問題を生じさせる。これまでに、古典主義のジョン・パーシヴァル・ポストゲイト([[:en:John Percival Postgate]])や[[イギリス]]の詩人A・E・ハウスマン([[:en:Alfred Edward Housman]])がテキストの原典研究ならびに校訂を行った。 == テキストの問題 == テキストには多くの統語上・構造上・論理上の問題が含まれている。いくつかは疑いなく、プロペルティウスの大胆で、時には型破りなラテン語の使用が問題を悪化させている。写本に記載する際、研究者がテキストの手直し、時には変更をせざるをえなかったものもある。 全部で146ある現存するプロペルティウスの写本のもっとも古いものは12世紀のものである。しかし、そうした写本の中の詩のいくつかは支離滅裂である。たとえば第1巻8は、キュンティアが航海の計画を取りやめたことを弁解するところから始まっているが、ラストでは航海を中止した喜びで終わる。そのため、多くの研究家はこの詩の前半を8a(26行まで)、後半を8b(27行から46行まで)と分割している。第2巻26は、より複雑な構造上の問題を含んでいる。順番に、(1)難破するキュンティアの夢、(2)キュンティアの貞節への賛辞、(3)キュンティアが航海を計画し、プロペルティウスが同行することの表明、(4)一緒に岸に移動する二人、(5)急に二人は船上にいて海難の可能性に備える、と混乱している。論理的にも時間的にも矛盾していて、そのためにさまざまな注釈者たちは、行を並び替えるか、テキストの中にいくつかの「空白」を差し挟んでいる。D. Thomas Benediktsonなど近年の研究者は、こうした改訂は、プロペルティウスの元々の詩は[[アリストテレス]]によって定められた古典文学の法則を厳格に守っていて、見た目の混乱は写本の改悪であると仮定してのものだった、と指摘している<ref>D. Thomas Benediktson - "Propertius: Modernist Poet of Antiquity", S. Illinois Univ. Press (1989)</ref>。 別の可能性としては、たとえば[[三一致の法則]]のような法則に背いて、プロペルティウスが故意に支離滅裂なイメージを書き連ねたというものである。この解釈もまた、プロペルティウスのスタイルは古典文学原理の正統性に対する反発であることを意味している。 == 影響 == プロペルティウスは自分のことを、その時代とても人気があったばかりでなく、スキャンダラスでもあったと語っている(第2巻24a)。<!--以下、ホラティウス『書簡詩集』II.2.87-104からの引用とあるのですが……原文に該当箇所が見つかりません……このあたりの記事は省略します-->プロペルティウスの人気は[[ポンペイ]]の[[落書き]]の中にプロペルティウスの詩があることでも立証されている。 [[中世]]になると、プロペルティウスの名は忘れ去られたが、イタリア・[[ルネサンス]]期に他のエレギア詩人とともに復活した。[[ペトラルカ]]の愛の[[ソネット]]はプロペルティウスの影響がはっきりと見られるし、アエネアス・シルウィウス(後の[[ピウス2世 (ローマ教皇)]]。詩人であった)が若い時に発表したエレギア詩集のタイトルは『Cinthia(キンティア)』だった。さらに、[[ベン・ジョンソン (詩人)|ベン・ジョンソン]]の作とされる(異論もある)『Propertian Elegies(プロペルティウス風エレジー集)』もある。[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の[[1759年]]の詩集『[[ローマ悲歌]]』もプロペルティウスの詩に少し近い。 [[20世紀]]になると、[[エズラ・パウンド]]の詩『セクストゥス・プロペルティウスへの敬意』がある。これはプロペルティウスの風刺家・反体制としての側面に焦点を当てたもので<ref>Slavitt, p. 8</ref>、パウンドのエレギア詩の翻訳/解釈は、それをパウンドが提唱する[[イマジズム]]理論の古代の例として紹介している。イマジズムの解釈、つまりプロペルティウスの内的独白の傾向と徹底的に私的な特質は、現代でもプロペルティウスを人気作家にした。ごく最近になってプロペルティウスの英語訳が2冊出版され<ref>Slavitt's translation appeared in 2002, while Katz's 2004 translation was a winner of the 2005 National translation Award, American Literary Translators Association.</ref>、[[劇作家]][[トム・ストッパード]]は戯曲『The Invention of Love』([[1997年]])<ref>プロペルティウスの校訂も行った詩人A・E・ハウスマンの生涯を描いている。[[:en:The Invention of Love]]参照。</ref>の中で、プロペルティウスは、西洋が今日「ロマンティックな愛」と見なしている多くのものに寄与した、と示唆している。 [[ヨシフ・ブロツキー]]の[[ロシア語]]で書かれた詩『Anno Domini』([[1968年]])の叙情的主人公はプロペルティウスである。 <!--省略--> == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * Propertius, 'The Poems' (Oxford World's Classics) - see especially Lyne's introduction * David Slavitt, "Propertius in Love: The Elegies" Univ. of Cal. Press (2002) * Vincent Katz, "The Complete Elegies of Sextus Propertius" Princeton University Press (2004) * D.Feeney, 'Literature and Religion at Rome: Cultures, Contexts, and Beliefs' * M.Beard, J. North & S.Price, 'Religions of Rome' * J.North, 'Religion and Politics: from Republic to Principate' in Journal of Roman Studies 76 * J.Hallett, 'Queens, princeps and women of the Augustan elite: Propertius' Cornelia elegy and the Res Gestae Divi Augusti' in R. Winkes (ed.) 'The Age of Augustus' * Carlo Santini, Francesco Santucci, ''Properzio tra storia arte mito'' (Assisi: Accademia Properziana del Subasio, 2004), Pp. 271. * Hans-Christian Guеnther (ed.), ''Brill's Companion to Propertius'' (Leiden: Brill, 2006), Pp. 476. * S. J. Cynthia Heyworth, ''A Companion to the Text of Propertius'' (Oxford: Oxford University Press, 2008), Pp. xvi, 647. == 外部リンク == {{Commonscat|Sextus Propertius}} {{Wikiquote|en:Sextus Propertius|プロペルティウス(英語)}} * [http://www.gutenberg.org/browse/authors/p#a133 Works]([[プロジェクト・グーテンベルク]]) * [http://www.dominiopublico.gov.br/pesquisa/PesquisaObraForm.do?select_action=&co_autor=2082 works] at DominioPu * [http://www.dominiopublico.nom.es/libros/Sixto_Propercio/ Works] at DomiPubli * [http://www.thelatinlibrary.com/prop.html The ''Elegies'' of Propertius]([[ラテン図書館]]) * [https://web.archive.org/web/20050419130519/http://www.tkline.freeserve.co.uk/Prophome.htm Propertius, The Elegies] * {{Wayback|url=http://www.geocities.com/romanelegy/ |title=English translations of Propertius with introductory essay and notes by Jon Corelis |date=20080710053218}} * [http://virgilmurder.org Propertius and'' cacozelia latens''] {{writer-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふろへるていうす せくすとうす}} [[Category:紀元前1世紀の詩人]] [[Category:古代ローマの文筆家]] [[Category:紀元前1世紀生]] [[Category:紀元前10年代没]]
null
2022-08-30T14:50:44Z
false
false
false
[ "Template:Wikiquote", "Template:Wayback", "Template:Writer-stub", "Template:Normdaten", "Template:Infobox 作家", "Template:Reflist", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9
3,898,434
はるかなる朝
『はるかなる朝』(はるかなるあさ)は、星野之宣の漫画短編集。および、表題作となる短編SF漫画。表題作は第9回手塚賞入選作でもある。 『週刊少年ジャンプ』(集英社)1975年34号に掲載。 第9回(昭和50年上期)手塚賞の入選作品。当時、手塚賞審査委員長の手塚治虫は手塚賞応募作品の8割がSF作品でうんざりしていたこともあり、一目でSFと判る作品は選外としていた。しかしながら、「はるかなる朝」はSF作品であるにもかかわらず、選外にしようとする声は審査委員からは誰一人として上がらなかった。完成度が高くSF漫画作品の見本としても賞を与えざるをえないとの審査員全員一致の意見であったと、手塚治虫は1985年に行われた星野、諸星大二郎との鼎談で語っている。 この時、手塚は星野のことを「SFプロパー」であると確信していたが、1980年代から『ヤマトの火』といった伝奇漫画を描き出したことから、その判断は誤りであったのではないかとも鼎談で語っている。 『不条理日記』(吾妻ひでお)は数多くのSF作品をパロディにしているが、「転生篇」の「仕事がいやになったので冬眠カプセルをあける」で本作と『暗黒神話』(諸星大二郎)とを合わせてパロディにしている。 『少年ジャンプ1976年8月20日増刊号』(集英社)掲載、 『少年ジャンプ1975年4月28日増刊号』(集英社)掲載。星野のデビュー作である。 『月刊少年ジャンプ』(集英社)1975年8月号掲載。 後年、『イワン・デジャビュの一日』やMF文庫版に再録された際には「落雷」に改題されている。 『月刊少年ジャンプ』(集英社)1975年3月号掲載。 『週刊少年ジャンプ』(集英社)1975年39号 掲載、 『少年ジャンプ1978年9月15日増刊号』(集英社)掲載。 『少年ジャンプ1977年9月10日増刊号』(集英社)掲載。 『漫画アクション増刊スーパーフィクション2』(1979年、双葉社)掲載。 『週刊ヤングマガジン』(講談社)1996年7号に掲載。 『月刊コミックトム』(潮出版社)1985年8月号から同年10月号に掲載。 『ビジネスジャンプ』(集英社)1986年3号に掲載。 本作を表題作とする短編集も発刊されている。 『ベアーズクラブ』(集英社)1990年8号、同年9号に掲載。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『はるかなる朝』(はるかなるあさ)は、星野之宣の漫画短編集。および、表題作となる短編SF漫画。表題作は第9回手塚賞入選作でもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『週刊少年ジャンプ』(集英社)1975年34号に掲載。", "title": "はるかなる朝" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第9回(昭和50年上期)手塚賞の入選作品。当時、手塚賞審査委員長の手塚治虫は手塚賞応募作品の8割がSF作品でうんざりしていたこともあり、一目でSFと判る作品は選外としていた。しかしながら、「はるかなる朝」はSF作品であるにもかかわらず、選外にしようとする声は審査委員からは誰一人として上がらなかった。完成度が高くSF漫画作品の見本としても賞を与えざるをえないとの審査員全員一致の意見であったと、手塚治虫は1985年に行われた星野、諸星大二郎との鼎談で語っている。", "title": "はるかなる朝" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この時、手塚は星野のことを「SFプロパー」であると確信していたが、1980年代から『ヤマトの火』といった伝奇漫画を描き出したことから、その判断は誤りであったのではないかとも鼎談で語っている。", "title": "はるかなる朝" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『不条理日記』(吾妻ひでお)は数多くのSF作品をパロディにしているが、「転生篇」の「仕事がいやになったので冬眠カプセルをあける」で本作と『暗黒神話』(諸星大二郎)とを合わせてパロディにしている。", "title": "はるかなる朝" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "『少年ジャンプ1976年8月20日増刊号』(集英社)掲載、", "title": "カルネアデス計画" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『少年ジャンプ1975年4月28日増刊号』(集英社)掲載。星野のデビュー作である。", "title": "鋼鉄のクイーン" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『月刊少年ジャンプ』(集英社)1975年8月号掲載。", "title": "四次元の爆撃機" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "後年、『イワン・デジャビュの一日』やMF文庫版に再録された際には「落雷」に改題されている。", "title": "四次元の爆撃機" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『月刊少年ジャンプ』(集英社)1975年3月号掲載。", "title": "葬送船団" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "『週刊少年ジャンプ』(集英社)1975年39号 掲載、", "title": "荒野への脱出" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『少年ジャンプ1978年9月15日増刊号』(集英社)掲載。", "title": "遠い呼び声" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "『少年ジャンプ1977年9月10日増刊号』(集英社)掲載。", "title": "水のアマゾネス" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『漫画アクション増刊スーパーフィクション2』(1979年、双葉社)掲載。", "title": "ホワイト・アウト" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "『週刊ヤングマガジン』(講談社)1996年7号に掲載。", "title": "冬の帝王" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "『月刊コミックトム』(潮出版社)1985年8月号から同年10月号に掲載。", "title": "アリス" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "『ビジネスジャンプ』(集英社)1986年3号に掲載。", "title": "イワン・デジャビュの一日" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "本作を表題作とする短編集も発刊されている。", "title": "イワン・デジャビュの一日" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『ベアーズクラブ』(集英社)1990年8号、同年9号に掲載。", "title": "アガル" } ]
『はるかなる朝』(はるかなるあさ)は、星野之宣の漫画短編集。および、表題作となる短編SF漫画。表題作は第9回手塚賞入選作でもある。
『'''はるかなる朝'''』(はるかなるあさ)は、[[星野之宣]]の漫画短編集。および、表題作となる短編[[SF漫画]]。表題作は第9回[[手塚賞]]入選作でもある。 == 短編集 == ; はるかなる朝 SF傑作集 :1977年、[[ジャンプスーパーコミックス]]([[創美社]]) :「はるかなる朝」、「カルネアデス計画」、「鋼鉄のクイーン」、「四次元の爆撃機」、「葬送船団」、「荒野への脱出」 ; はるかなる朝 :1988年、ジャンプスーパーエース(創美社)、ISBN 978-4420137089 :「はるかなる朝」、「カルネアデス計画」、「鋼鉄のクイーン」、「葬送船団」、「荒野への脱出」、「遠い呼び声」、「水のアマゾネス」、「ホワイト・アウト」 ; はるかなる朝 :2005年、[[MF文庫]]([[メディアファクトリー]])、ISBN 978-4840112703 :「はるかなる朝」、「落雷」、「荒野への脱出」、「ホワイトアウト」、「冬の帝王」、「アリス」、「イワン・デジャビュの一日」 ; THE DISTANT DAWN はるかなる朝 :2012年、ビッグコミックスペシャル([[小学館]])、ISBN 978-4091846976 :「はるかなる朝」、「カルネアデス計画」、「鋼鉄のクイーン」、「葬送船団」、「荒野への脱出」、「遠い呼び声」、「水のアマゾネス」、「ホワイト・アウト」、「アガル」(前後編) == はるかなる朝 == 『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])1975年34号に掲載。 第9回([[昭和50年]]上期)手塚賞の入選作品。当時、手塚賞審査委員長の[[手塚治虫]]は手塚賞応募作品の8割がSF作品でうんざりしていたこともあり、一目でSFと判る作品は選外としていた。しかしながら、「はるかなる朝」はSF作品であるにもかかわらず、選外にしようとする声は審査委員からは誰一人として上がらなかった。完成度が高くSF漫画作品の見本としても賞を与えざるをえないとの審査員全員一致の意見であったと、手塚治虫は1985年に行われた星野、[[諸星大二郎]]との鼎談で語っている{{R|手塚}}。 この時、手塚は星野のことを「SF[[プロパー]]」であると確信していたが、1980年代から『[[ヤマトの火]]』といった伝奇漫画を描き出したことから、その判断は誤りであったのではないかとも鼎談で語っている{{R|手塚}}。 『[[不条理日記]]』([[吾妻ひでお]])は数多くのSF作品をパロディにしているが、「転生篇」の「仕事がいやになったので冬眠カプセルをあける」で本作と『[[暗黒神話]]』([[諸星大二郎]])とを合わせてパロディにしている。 ; あらすじ : [[アトランティス]]では高度な文明を築いていたが、大陸が没するほどの異変には勝てず、2隻の宇宙船で2000人が脱出できただけだった。幼馴染のアトルとクレイトーはそれぞれの家族と別々の宇宙船で脱出した。 : 時は流れて、現代。[[ツングースカ大爆発]]の跡地にほど近い峡谷で宇宙船を見たという地元民を取材に来た日本のSF作家は、氷漬けの宇宙船を発見する。宇宙船にはカプセルに入って[[コールドスリープ]]する1000人の人々。驚愕するSF作家を老いた男が射殺する。しかし、そのショックでカプセルの1つが解凍され、少女-クレイトーが目覚めた。老いた男は「お前だけは目覚めさせたくなかった」とクレイトーを抱きしめる。老いた男-アトルはもう1隻の宇宙船の最後の1人であり、現生人類がアトランティスの文明を手に入れた場合に地球そのものを破壊しかねない戦争を引き起こすと、1人ずつ目覚めて見張りを行い、死んでいったのだった。ツングースカ大爆発は最後の1人だったアトレが目覚めた際に残った宇宙船を破壊するために起きた爆発だったのだった。 == カルネアデス計画 == 『少年ジャンプ1976年8月20日増刊号』(集英社)掲載、 ; あらすじ :恋人である'''陽子'''と'''電'''はヨットで海に出ていたが、突如として空が暗くなり海が荒れはじめる。ヨットは壊れて電は船体の亀裂に脚を挟まれていた。電の脚の傷から流れる血を嗅ぎ付けて、[[鮫]]が集まって来る。陽子は自分の身を護るため、[[カルネアデスの板]]の逸話のように電を打ちすえて殺した。 :'''ヨーコ'''と'''デン'''は次元のひずみを通って、地球の軌道上に現れたもう1つの地球を破壊する「カルネアデス計画」の関係者。計画に消極的なヨーコはもう一つの地球から住民を救おうとするが、助けることができたのは海上を漂っていた女性1人だけだった。 :ヨーコに救出された陽子は、電と瓜二つのデンを見て正気を失う。 == 鋼鉄のクイーン == 『少年ジャンプ1975年4月28日増刊号』(集英社)掲載。星野のデビュー作である。 ; あらすじ : コンピューター'''ミス・エバ'''の主導の宇宙船による4年間の惑星間航行実験も、あと1週間で終わろうとしていた。乗船していた4人の宇宙飛行士は、日々カードゲームを行う他に仕事もなく、退屈は限界に達していた。 : 乗員の1人'''甲斐'''は酔った勢いで、地球とミス・エバの集積回路とを賭けてミス・エバとカードゲームを行うことになる。勝負は全てのカードの行方を認知していたミス・エバの勝ちに終わるが、続いて'''阿部'''がミス・エバに賭けを申し込む。阿部は自らも重傷を負うのを覚悟で、ミス・エバの回路を拳で破壊した。 == 四次元の爆撃機 == 『月刊少年ジャンプ』(集英社)1975年8月号掲載。 後年、『イワン・デジャビュの一日』やMF文庫版に再録された際には「落雷」に改題されている。 ; あらすじ : さまざまな理由で東京から広島への旅客機に乗り込んだ客たち。落雷で旅客機の計器がおかしくなり、周囲も奇妙な空間だった。そこで、アリメカ軍の[[B-29 (航空機)|B-29]]とすれ違う。機体に描かれていた固有名は「サンダーボルト」。それは[[エノラ・ゲイ]]、[[ボックスカー]]に続く3番目の原爆搭載機であり、爆装状態でエノラ・ゲイの成功を見てから東京へ爆撃を行う予定で随伴飛行をしていて、広島原爆投下の際に行方不明となっていた機体であった。 : 旅客機は原爆投下直後の広島へ、そしてサンダーボルトは眼下の無傷の東京にこれまでの空爆隊は何をやってたんだと愚痴をこぼしながらも、搭載している原爆の投下を行った。 == 葬送船団 == 『月刊少年ジャンプ』(集英社)1975年3月号掲載。 ;あらすじ : 人類は大気汚染と人口増加によって存亡の危機に立たされていた。これを回避するために、火星に人工都市を建設。第一次移民団として1隻2万人を収容したロケットが5隻が地球を出発する。 : 火星までの旅の途中、2隻のロケットが爆発。実は火星都市に10万人を養う能力は最初からなく、4隻の移民船を破壊する計画だったのだ。 == 荒野への脱出 == 『週刊少年ジャンプ』(集英社)1975年39号 掲載、 ;あらすじ :近未来。ドライブの途中で大事故を起こした'''優'''と'''ナオミ'''は医者であるナオミの父の手によって一命を取り止める。先に退院した優はナオミとの面会も許可されず、ナオミの父からはもう会わないように言われる。優は命を繋ぐためのサイボーグ手術という別の患者と別の医者の会話を聞いてしまう。 :優はようやく退院してきたナオミを誘拐同然に雷鳴とどろく居住地域外へと連れ出す。 == 遠い呼び声 == 『少年ジャンプ1978年9月15日増刊号』(集英社)掲載。 ;あらすじ :ジュディは、幼い頃から自分の名を呼ぶ謎の円盤と遭遇していた。いつしか円盤とも遇わなくなり、成長したジュディは航空宇宙局の電話交換室で働き始める。 :そこで、聞き覚えのある声をした宇宙飛行士レイと知り合い、交際を始める。 :レイは新型の「イオナイザーロケット」のテストパイロットとして飛び立つが、「光る円盤に衝突する」という通信を最後に行方不明になる。 == 水のアマゾネス == 『少年ジャンプ1977年9月10日増刊号』(集英社)掲載。 {{main|妖女伝説#水のアマゾネス}} == ホワイト・アウト == 『[[漫画アクション]]増刊スーパーフィクション2』(1979年、双葉社)掲載。 == 冬の帝王 == 『[[週刊ヤングマガジン]]』([[講談社]])1996年7号に掲載。 == アリス == 『[[コミックトム|月刊コミックトム]]』([[潮出版社]])1985年8月号から同年10月号に掲載。 {{main|妖女伝説#アリス}} == イワン・デジャビュの一日 == 『[[ビジネスジャンプ]]』(集英社)1986年3号に掲載。 本作を表題作とする短編集も発刊されている。 * イワン・デジャビュの一日 1988年、ジャンプスーパーエース([[創美社]])、ISBN 978-4420137102 *# 落雷 *# 海の牙 *# 暁の狩人 *# アリス *# イワン・デジャビュの一日 * ONE DAY IN THE LIFE OF IVAN DEJAVU 2012年、ビッグコミックススペシャル([[小学館]])、ISBN 978-4091846983 *# イワン・デジャビュの一日 *# 海の牙 *# 冬の帝王 *# アリス *# 暁の狩人 *# 落雷 *# [[七都市物語]] ペルー海峡攻防戦・外伝 *#: [[田中芳樹]]の小説『七都市物語』の一編「[[七都市物語#ペルー海峡攻防戦|ペルー海峡攻防戦]]」が行われていたのと同時期に起きた事件、小説の次の話となる「[[七都市物語#ジャスモード会戦|ジャスモード会戦]]」の原因ともなるフバイシュ・アル・ハッサンの死因について描かれる。 == アガル == 『[[ベアーズクラブ]]』(集英社)1990年8号、同年9号に掲載。 == 出典・脚注 == {{Reflist|refs= <ref name="手塚">{{Cite book|和書|title=別巻11 手塚治虫対談集(3)|series=[[手塚治虫漫画全集]]|author=手塚治虫|authorlink=手塚治虫|year=1997|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061759930|chapter=諸星大二郎 星野之宣 -メジャーとマイナー-}}</ref> }} == 外部リンク == *{{mediaarts-db|C312139|はるかなる朝}} {{book-stub}} {{manga-stub}} {{リダイレクトの所属カテゴリ | redirect1 =四次元の爆撃機 | 1-1 = 漫画作品 よ|しけんのはくけきき | 1-2 = 星野之宣の漫画作品 | 1-3 = SF漫画作品 | 1-4 = 1975年の漫画 | 1-5 = 月刊少年ジャンプの漫画作品 | 1-6 = 核兵器を題材とした漫画作品 | 1-7 = タイムトラベルを題材とした漫画作品 }} {{デフォルトソート:はるかなるあさ}} [[Category:星野之宣の漫画作品]] [[Category:漫画作品 は|るかなるあさ]] [[Category:SF漫画作品]] [[Category:漫画短編集]]
2019-01-31T06:51:56Z
2023-11-09T15:40:52Z
false
false
false
[ "Template:Main", "Template:Reflist", "Template:Mediaarts-db", "Template:Book-stub", "Template:Manga-stub", "Template:R" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%9C%9D
3,223,565
ウィリアム・ストートン
ウィリアム・ストートン(英: William Stoughton、1631年 - 1701年7月7日)は、マサチューセッツ湾直轄植民地の判事、管理者である。セイラム魔女裁判と呼ばれることになる事件では、まず1692年に予審の特別裁判所で首席判事となり、その後の1693年に最高司法裁判所の首席判事となった。これらの裁判で、霊的証拠(悪魔的なものを見たとされる)を受け入れたために議論を呼んだ。他の判事とは異なり、そのような証拠を受け入れたことが誤りだった可能性を認めることは無かった。 1650年にハーバード・カレッジを卒業した後、イングランドで宗教に関する研究を続け、説教も行っていた。1662年にマサチューセッツに戻り、神職ではなく政治の世界に入る道を選んだ。熟練した政治家として、マサチューセッツが混乱した時代の事実上全ての政府に仕えた。マサチューセッツ湾植民地は1684年に最初の植民地認証を取り消され、1692年に2度目の認証を取得した。1680年代後半はエドマンド・アンドロスの不人気な支配期間があった。ストートンは1692年からその死の1701年まで副総督を務め、そのうち約6年間、総督不在時の代行を務めた。植民地の主要な大土地所有者の1人であり、土地の購入ではジョセフ・ダドリーなど著名人と共同事業を行った。マサチューセッツ州ストートン町はストートンにちなんで名付けられている。 ウィリアム・ストートンは1631年に、イスラエル・ストートンとエリザベス・ナイト・ストートン夫妻の子供として生まれた。ストートンの出生や洗礼の記録は残っていないので、その正確な出生地は不明である。両親がイングランドからマサチューセッツ湾植民地に移民してきた日付も正確には分かっていない。分かっていることは、1632年までにストートン家が植民地に居たことであり、ドーチェスターの初期開拓者だった。 ストートンは1650年にハーバード・カレッジで神学の学位を得て卒業した。ピューリタンの牧師になるつもりでイングランドに移り、オックスフォード大学のニュー・カレッジで研究を続けた。1653年には神学の修士号を得て卒業した。ストートンは敬虔な説教師であり、「偉大な事項に関する主の約束と予測」を信じた。当時のイングランドはピューリタンのイングランド共和国の支配下にあったが、1653年はオリバー・クロムウェルが議会を解散した年であり、護国卿時代が始まっていた。ストートンはサセックスで説教を行い、1660年に国王チャールズ2世が王位に復した後、その後に起きた宗教的異端者に対する弾圧の中で、その職を失った。 ストートンはイングランドで別の地位を得られる見込みが少なかったので、1662年にマサチューセッツに戻った。ドーチェスターやケンブリッジで何度か説教を行ったが、恒久的な神父の地位の申し出は断った。その代りに政治と土地開発に関わるようになった。1671年から1686年までほぼ毎年、植民地の補佐評議会委員となり(総督評議会の前身)、1673年から1677年および1680年から1686年にはニューイングランド連邦の植民地代表となった。1684年の選挙で、植民地認証の問題について中道的姿勢を示したために、(ストートンやバークリーなどと共に)植民地の敵と呼ばれたジョセフ・ダドリーは、評議員会への再選を果たせなかった。ストートンは辛うじて過半数をとって再選されたが、ダドリーの友人であり事業上の共同経営者だったので、抗議のために就任を拒んだ。 1676年、ピーター・バークリーと共にイングランドで植民地の利益を代弁する委員に選ばれた。その受けた指示事項は何とか達成することができた。現在のメイン州においてマサチューセッツの主張する土地所有権と対立するフェルディナンド・ゴージズとジョン・メイソンの相続者から、土地の権利を取得することを認められた。この権利を1,200ポンドで取得し、そこを弟のヨーク公ジェームズのためにその権利を取得しようと考えていたチャールズ2世の怒りを買うことになった。彼らは、メインとニューハンプシャー植民地の他の領土に対して、マサチューセッツが行った幅広い権利主張を維持することはできなかった。この限られた権限が、植民地の法を自分たちの政策に合うように改変しようとしていた貿易省を動揺させた。ストートンとバークリーの任務は、その強硬的な姿勢故にロンドンの植民地担当役人に敵意を抱かさせる以上のことはできなかった。 ストートンとジョセフ・ダドリーは長年友人であり、政治でも事業でもパートナーだった。この二人は政治的には密接に協業し、土地開発にも共に携わった。1680年代、ストートンはダドリーと共同で、ニプマク族インディアンから現在のウースター郡でかなりの広さの土地を取得した。この共同事業には、オックスフォードを避難民ユグノーの入植地として設立する事業も含んでいた。ダドリーとストートンはその政治的な地位を使って、興味を抱いた土地に対する権利が法的に問題ないことを確保し、そのやり方が彼らの友人、親戚その他事業上のパートナーにも恩恵を与えた。この手続きに関連して、国王の代理人エドワード・ランドルフが、「国王陛下の権利が関わり、判事もその一党であるときに、土地の権利を裁判に持ち出すのは不可能である。」と記していた。このことは、ストートンとダドリーがメリマック川バレーの土地100万エーカー (4,000 km) を取得する事業の側にいたときは特に明らかだった。ダドリーの評議会は、ストートンやその他の投資家が評議員になっており、1686年5月に正式の土地の権利問題を明白にした。 1686年、ダドリーがニューイングランド自治領の暫定首長に指名されたとき、ストートンはその評議員に指名され、その評議員の互選で副議長に選出された。エドマンド・アンドロスの治世下では、判事と評議員を務めていた。判事としてのストートンは、自治領政府に対する税問題での抗議を行ったイプスウィッチ町の指導者に特に厳しくあたった。その抗議は代表権の無い状態でニューイングランド自治領が支配するのは、イングランド人の権利を侵しているという主張に基づいていた。アンドロスは、1688年にイングランドで起きた名誉革命によって触発された無血蜂起により、1689年4月に逮捕され、ストートンはその蜂起の首謀者の宣言に署名した一人となった。このとき人民側を支持する声明を出したにも拘わらず、ストートンはアンドロスと親しくしていたために不人気であり、選挙で選ばれる役人にはなれなかった。ストートンは政治的な力を持つマザー家に訴えた。マザー家とはまだ公的的な関係を保っていた。1692年、インクリース・マザーとウィリアム・フィップス卿がロンドンから新しくマサチューセッツ湾直轄植民地の認証状をもって到着し、フィップスには国王による総督の任命書、ストートンには副総督の任命書がもたらされた。 フィップスが到着した時、特にセイラムで魔女に関する噂が広まっていた。フィップスは即座に魔女と告発された者達を扱う特別法廷の首長にストートンを指名し、6月には植民地裁判所の首席判事に指名した。ストートンはこの地位を終生保つことになった。悪名高いセイラム魔女裁判で、ストートンは首席判事と検事の双方を務めた。被告のある者については特に厳しく、レベッカ・ナースが無罪と判断されたときは陪審員に再検討するよう言い渡した。その後レベッカは有罪となった。ストートンが霊的証拠の利用を認めたために多くの者が有罪とされた。それは、悪魔とある種の盟約を交わした、あるいは魔女と関わった者には悪魔の姿が形になって表れるという考え方だった。コットン・マザーが、このような証拠は告発をするときに認められると論じたが、判事の中には司法手続きでそれを使うことについて疑問を呈する者がいた。しかしストートンはその受け入れを確信しており、この見解について他の判事に影響を与えた可能性がある。この特別法廷は1692年9月に開廷を止めた。 1692年11月と12月、フィップス総督は植民地の司法体系再編を監督し、イングランドのやり方に合わせるようにした。新しい裁判所で、ストートンはやはり首席判事を務めており、1693年の魔女裁判の扱いを始めたが、フィップスからは霊的証拠を無視するよう特別の指示を受けていた。このために、かなり多くの事件が証拠不足のために無罪となり、フィップスは既になされていた有罪判決の幾つかを無効にした。事態のこの展開にストートンは怒り、抗議のために短期間は判事の職を務めなかった。歴史家のセドリック・カウイングは、ストートンが霊的証拠を受け入れたことは、植民地でピューリタンの権限を再度主張する必要性があると考えたことに一部拠っていると示唆している。同僚のサミュエル・スーワルは後に魔女裁判で法廷にあっての行動を後悔したが、ストートンはそのスーワルとは異なり、霊的証拠に関わるその行動や信念、さらには裁判そのものが誤りだったと認めることは無かった。 ストートンは魔女裁判に加えて、1869年に起こったウィリアム王戦争に対する植民地の対応を監督することになった。当時は現在のメイン州を含んでいたマサチューセッツは、ヌーベルフランスとの戦争の最前線にあり、北部フロンティアの町がフランスとインディアンからの襲撃でかなりの被害を蒙った。フィップス総督はしばしばメインに行ってそこの防御物建設を監督したので、ストートンはマサチューセッツに残って諸般の事情を監督することになった。そのような総督不在の間に、例えばストートンは、同様に襲撃で破壊されていた隣接するニューハンプシャー植民地を守るための小さな民兵隊立ち上げに責任があった。1694年初期、フィップスが職権乱用という告発に答弁するためにロンドンに呼び戻された。フィップスが出発したのは11月になってからであり、その後はストートンが総督代行となった。フィップスは1695年初期にロンドンで死亡した。まだフィップスに対する告発に対して審問が行われる前のことだった。 ストートンは自身を急場の世話人と見ており、王室が新しい総督を指名するまで政府を運営した。その結果、植民地議会にかなりの程度で自治権限を与えることになり、その慣習ができると後の総督と議会の関係が複雑になった。植民地の政策を実行するために、比較的活発な手段も採っており、ロンドンからの指示に従うためには最小限のことをしただけだった。植民地の役所の評論家は、ストートンが「良き学者だ」と見たが、「航海法を執行するには適していなかった」とも見ていた。 1695年、ストートンはアカディアからフランスが繰り出す私掠船の行動に抗議した。私掠船はニューイングランドの漁船や商船の船隊に大損害を与えていた。その行動に反撃するために、ベンジャミン・チャーチがアカディアに対する襲撃隊を組織することを認めた。チャーチが遠征のために兵士を募集しているときに、ヌーベルフランスの総督フロンテナック伯爵ルイ・ド・ボードがメインのペマキッドにあったイングランド人砦を標的とする遠征隊を組織した。チャーチがまだ出発していなかった1696年8月に、ペマキッド砦が奪われ破壊されたという報せが入った。ストートンがチャーチに出した指示はある程度曖昧なものであり、チャーチはファンディ湾の奥にあるボーバッサンを襲撃した以外ほとんど何もせずにボストンに戻ってきた。。チャーチが戻って来る前に、ストートンは第2の小さな遠征隊を組織し、セントジョン川沿いのナッシュワーク砦を包囲させたが、不首尾に終わった。これら遠征の失敗により、植民地の武力の不適切さを際立たせることとなり、マサチューセッツ議会はロンドンに救援を要請した。 1697年のレイスウェイク条約でフランスとイングランドの間に和平が戻ったが、北方のアベナキ族インディアンに関わる問題は何も解決しなかった。その結果、フロンティアでは緊張関係が続き、漁場に関して、またニューイングランド人が魚を乾すためにアカディアの土地を使うことに関する議論が続いた。ストートンとアカディアの総督ジョセフ・ロビノー・ド・ビルボンは1698年にこの問題に関する非難や脅迫を応酬した。ビルボンはマサチューセッツの船舶を捕捉し、アカディア領土に残された資産を押収すると脅したが、それを実行するに足る資源を持っていなかったので、大部分は空脅しだった。ストートンはロンドンに外交的援助を要請し、それで幾らか緊張関係を和らげることができた。 ストートンは1699年まで総督代行を続け、一方で首席判事も務めていた。ベロモント伯が総督となった短期間に副総督として残り、ベロモント伯が1700年に去った後には再度総督代行を務めた。しかしその頃には健康を害しており、その最晩年にはほとんど特筆すべきことを残せなかった。 ハーバード・カレッジの法人としての存在は、カレッジの認証が依存する植民地認証が1684年に撤回されたことで混乱させられることになった。1692年、植民地議会はこのカレッジに対する新しい認証を与える法を成立させたが、貿易省が1696年にその法に拒否権を発動し、カレッジの存続が再度危うくなった。当時総督代行だったストートンはカレッジの統治に関して暫定的な手配を行い、その間に議会が新しい認証作成に動いた。最終的にハーバードの認証問題は1707年になって解決され、1650年の認証が復活した。 ハーバードの支配人たちの派閥間で宗教と政治の意見が食い違ったことは1690年代に後半に大きく問題にされた。当時ハーバード学長だったインクリース・マザーは神学的に保守であり、多くの支配人が中庸な見解を持っていたのとは対照的であり、この時代にカレッジの運営を巡っての闘争が始まった。この分裂は最終的には1698年のブラトル通り教会設立に繋がり、マザーやその息子であるコットンが提唱する極度のピューリタン慣習のあるものからはっきり距離を置く綱領を採用した。ストートンと植民地における宗教や政治で著名な多くの人物が論争に立ち入って怒りを冷まし、植民地の信教的寛大さにたいする姿勢を強化した。その結果得られた和平によって父のマザーが新しい教会の奉納式に参列することになった。 ストートンは総督代行を務めていた1701年、ドーチェスターの自宅で死んだ。現在ドーチェスター北墓地と呼ばれる墓地に埋葬された。生涯独身であり、その土地の一部と邸宅を姉妹のレベッカの息子であるウィリアム・テイラーに遺贈した。テイラーは2度副総督を務め、また短期間総督代行も務めた。その死の時はストートンの傍に埋葬された。 ストートンが行った説教の中で唯一出版されて残ったのが『ニューイングランドの真の興味』だった。この説教は当初1668年の選挙の時に行われ、1670年に出版された。その中で植民地設立の時の頃を思い出させ、「神は全国民を移して、この荒野に穀物という選択を送り込んだ」が、またマサチューセッツ社会の衰退というものを見て嘆き、在野の者がその年長者である聖職者の判断に従うことを勧めた。 マサチューセッツ州ストートンの町は、ストートンにちなんで名付けられた。ハーバード・ヤードにあるハーバード・カレッジ寮の1つ(ストートン・ホール)も同様である。最初にストートン・ホールが建設されたのは1698年のことであり、ストートンが1,000ポンドを遺贈したことで可能となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウィリアム・ストートン(英: William Stoughton、1631年 - 1701年7月7日)は、マサチューセッツ湾直轄植民地の判事、管理者である。セイラム魔女裁判と呼ばれることになる事件では、まず1692年に予審の特別裁判所で首席判事となり、その後の1693年に最高司法裁判所の首席判事となった。これらの裁判で、霊的証拠(悪魔的なものを見たとされる)を受け入れたために議論を呼んだ。他の判事とは異なり、そのような証拠を受け入れたことが誤りだった可能性を認めることは無かった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1650年にハーバード・カレッジを卒業した後、イングランドで宗教に関する研究を続け、説教も行っていた。1662年にマサチューセッツに戻り、神職ではなく政治の世界に入る道を選んだ。熟練した政治家として、マサチューセッツが混乱した時代の事実上全ての政府に仕えた。マサチューセッツ湾植民地は1684年に最初の植民地認証を取り消され、1692年に2度目の認証を取得した。1680年代後半はエドマンド・アンドロスの不人気な支配期間があった。ストートンは1692年からその死の1701年まで副総督を務め、そのうち約6年間、総督不在時の代行を務めた。植民地の主要な大土地所有者の1人であり、土地の購入ではジョセフ・ダドリーなど著名人と共同事業を行った。マサチューセッツ州ストートン町はストートンにちなんで名付けられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ウィリアム・ストートンは1631年に、イスラエル・ストートンとエリザベス・ナイト・ストートン夫妻の子供として生まれた。ストートンの出生や洗礼の記録は残っていないので、その正確な出生地は不明である。両親がイングランドからマサチューセッツ湾植民地に移民してきた日付も正確には分かっていない。分かっていることは、1632年までにストートン家が植民地に居たことであり、ドーチェスターの初期開拓者だった。", "title": "初期の経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ストートンは1650年にハーバード・カレッジで神学の学位を得て卒業した。ピューリタンの牧師になるつもりでイングランドに移り、オックスフォード大学のニュー・カレッジで研究を続けた。1653年には神学の修士号を得て卒業した。ストートンは敬虔な説教師であり、「偉大な事項に関する主の約束と予測」を信じた。当時のイングランドはピューリタンのイングランド共和国の支配下にあったが、1653年はオリバー・クロムウェルが議会を解散した年であり、護国卿時代が始まっていた。ストートンはサセックスで説教を行い、1660年に国王チャールズ2世が王位に復した後、その後に起きた宗教的異端者に対する弾圧の中で、その職を失った。", "title": "初期の経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ストートンはイングランドで別の地位を得られる見込みが少なかったので、1662年にマサチューセッツに戻った。ドーチェスターやケンブリッジで何度か説教を行ったが、恒久的な神父の地位の申し出は断った。その代りに政治と土地開発に関わるようになった。1671年から1686年までほぼ毎年、植民地の補佐評議会委員となり(総督評議会の前身)、1673年から1677年および1680年から1686年にはニューイングランド連邦の植民地代表となった。1684年の選挙で、植民地認証の問題について中道的姿勢を示したために、(ストートンやバークリーなどと共に)植民地の敵と呼ばれたジョセフ・ダドリーは、評議員会への再選を果たせなかった。ストートンは辛うじて過半数をとって再選されたが、ダドリーの友人であり事業上の共同経営者だったので、抗議のために就任を拒んだ。", "title": "政治と土地の開発" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1676年、ピーター・バークリーと共にイングランドで植民地の利益を代弁する委員に選ばれた。その受けた指示事項は何とか達成することができた。現在のメイン州においてマサチューセッツの主張する土地所有権と対立するフェルディナンド・ゴージズとジョン・メイソンの相続者から、土地の権利を取得することを認められた。この権利を1,200ポンドで取得し、そこを弟のヨーク公ジェームズのためにその権利を取得しようと考えていたチャールズ2世の怒りを買うことになった。彼らは、メインとニューハンプシャー植民地の他の領土に対して、マサチューセッツが行った幅広い権利主張を維持することはできなかった。この限られた権限が、植民地の法を自分たちの政策に合うように改変しようとしていた貿易省を動揺させた。ストートンとバークリーの任務は、その強硬的な姿勢故にロンドンの植民地担当役人に敵意を抱かさせる以上のことはできなかった。", "title": "政治と土地の開発" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ストートンとジョセフ・ダドリーは長年友人であり、政治でも事業でもパートナーだった。この二人は政治的には密接に協業し、土地開発にも共に携わった。1680年代、ストートンはダドリーと共同で、ニプマク族インディアンから現在のウースター郡でかなりの広さの土地を取得した。この共同事業には、オックスフォードを避難民ユグノーの入植地として設立する事業も含んでいた。ダドリーとストートンはその政治的な地位を使って、興味を抱いた土地に対する権利が法的に問題ないことを確保し、そのやり方が彼らの友人、親戚その他事業上のパートナーにも恩恵を与えた。この手続きに関連して、国王の代理人エドワード・ランドルフが、「国王陛下の権利が関わり、判事もその一党であるときに、土地の権利を裁判に持ち出すのは不可能である。」と記していた。このことは、ストートンとダドリーがメリマック川バレーの土地100万エーカー (4,000 km) を取得する事業の側にいたときは特に明らかだった。ダドリーの評議会は、ストートンやその他の投資家が評議員になっており、1686年5月に正式の土地の権利問題を明白にした。", "title": "政治と土地の開発" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1686年、ダドリーがニューイングランド自治領の暫定首長に指名されたとき、ストートンはその評議員に指名され、その評議員の互選で副議長に選出された。エドマンド・アンドロスの治世下では、判事と評議員を務めていた。判事としてのストートンは、自治領政府に対する税問題での抗議を行ったイプスウィッチ町の指導者に特に厳しくあたった。その抗議は代表権の無い状態でニューイングランド自治領が支配するのは、イングランド人の権利を侵しているという主張に基づいていた。アンドロスは、1688年にイングランドで起きた名誉革命によって触発された無血蜂起により、1689年4月に逮捕され、ストートンはその蜂起の首謀者の宣言に署名した一人となった。このとき人民側を支持する声明を出したにも拘わらず、ストートンはアンドロスと親しくしていたために不人気であり、選挙で選ばれる役人にはなれなかった。ストートンは政治的な力を持つマザー家に訴えた。マザー家とはまだ公的的な関係を保っていた。1692年、インクリース・マザーとウィリアム・フィップス卿がロンドンから新しくマサチューセッツ湾直轄植民地の認証状をもって到着し、フィップスには国王による総督の任命書、ストートンには副総督の任命書がもたらされた。", "title": "政治と土地の開発" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "フィップスが到着した時、特にセイラムで魔女に関する噂が広まっていた。フィップスは即座に魔女と告発された者達を扱う特別法廷の首長にストートンを指名し、6月には植民地裁判所の首席判事に指名した。ストートンはこの地位を終生保つことになった。悪名高いセイラム魔女裁判で、ストートンは首席判事と検事の双方を務めた。被告のある者については特に厳しく、レベッカ・ナースが無罪と判断されたときは陪審員に再検討するよう言い渡した。その後レベッカは有罪となった。ストートンが霊的証拠の利用を認めたために多くの者が有罪とされた。それは、悪魔とある種の盟約を交わした、あるいは魔女と関わった者には悪魔の姿が形になって表れるという考え方だった。コットン・マザーが、このような証拠は告発をするときに認められると論じたが、判事の中には司法手続きでそれを使うことについて疑問を呈する者がいた。しかしストートンはその受け入れを確信しており、この見解について他の判事に影響を与えた可能性がある。この特別法廷は1692年9月に開廷を止めた。", "title": "副総督と首席判事" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1692年11月と12月、フィップス総督は植民地の司法体系再編を監督し、イングランドのやり方に合わせるようにした。新しい裁判所で、ストートンはやはり首席判事を務めており、1693年の魔女裁判の扱いを始めたが、フィップスからは霊的証拠を無視するよう特別の指示を受けていた。このために、かなり多くの事件が証拠不足のために無罪となり、フィップスは既になされていた有罪判決の幾つかを無効にした。事態のこの展開にストートンは怒り、抗議のために短期間は判事の職を務めなかった。歴史家のセドリック・カウイングは、ストートンが霊的証拠を受け入れたことは、植民地でピューリタンの権限を再度主張する必要性があると考えたことに一部拠っていると示唆している。同僚のサミュエル・スーワルは後に魔女裁判で法廷にあっての行動を後悔したが、ストートンはそのスーワルとは異なり、霊的証拠に関わるその行動や信念、さらには裁判そのものが誤りだったと認めることは無かった。", "title": "副総督と首席判事" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ストートンは魔女裁判に加えて、1869年に起こったウィリアム王戦争に対する植民地の対応を監督することになった。当時は現在のメイン州を含んでいたマサチューセッツは、ヌーベルフランスとの戦争の最前線にあり、北部フロンティアの町がフランスとインディアンからの襲撃でかなりの被害を蒙った。フィップス総督はしばしばメインに行ってそこの防御物建設を監督したので、ストートンはマサチューセッツに残って諸般の事情を監督することになった。そのような総督不在の間に、例えばストートンは、同様に襲撃で破壊されていた隣接するニューハンプシャー植民地を守るための小さな民兵隊立ち上げに責任があった。1694年初期、フィップスが職権乱用という告発に答弁するためにロンドンに呼び戻された。フィップスが出発したのは11月になってからであり、その後はストートンが総督代行となった。フィップスは1695年初期にロンドンで死亡した。まだフィップスに対する告発に対して審問が行われる前のことだった。", "title": "副総督と首席判事" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ストートンは自身を急場の世話人と見ており、王室が新しい総督を指名するまで政府を運営した。その結果、植民地議会にかなりの程度で自治権限を与えることになり、その慣習ができると後の総督と議会の関係が複雑になった。植民地の政策を実行するために、比較的活発な手段も採っており、ロンドンからの指示に従うためには最小限のことをしただけだった。植民地の役所の評論家は、ストートンが「良き学者だ」と見たが、「航海法を執行するには適していなかった」とも見ていた。", "title": "副総督と首席判事" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1695年、ストートンはアカディアからフランスが繰り出す私掠船の行動に抗議した。私掠船はニューイングランドの漁船や商船の船隊に大損害を与えていた。その行動に反撃するために、ベンジャミン・チャーチがアカディアに対する襲撃隊を組織することを認めた。チャーチが遠征のために兵士を募集しているときに、ヌーベルフランスの総督フロンテナック伯爵ルイ・ド・ボードがメインのペマキッドにあったイングランド人砦を標的とする遠征隊を組織した。チャーチがまだ出発していなかった1696年8月に、ペマキッド砦が奪われ破壊されたという報せが入った。ストートンがチャーチに出した指示はある程度曖昧なものであり、チャーチはファンディ湾の奥にあるボーバッサンを襲撃した以外ほとんど何もせずにボストンに戻ってきた。。チャーチが戻って来る前に、ストートンは第2の小さな遠征隊を組織し、セントジョン川沿いのナッシュワーク砦を包囲させたが、不首尾に終わった。これら遠征の失敗により、植民地の武力の不適切さを際立たせることとなり、マサチューセッツ議会はロンドンに救援を要請した。", "title": "副総督と首席判事" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1697年のレイスウェイク条約でフランスとイングランドの間に和平が戻ったが、北方のアベナキ族インディアンに関わる問題は何も解決しなかった。その結果、フロンティアでは緊張関係が続き、漁場に関して、またニューイングランド人が魚を乾すためにアカディアの土地を使うことに関する議論が続いた。ストートンとアカディアの総督ジョセフ・ロビノー・ド・ビルボンは1698年にこの問題に関する非難や脅迫を応酬した。ビルボンはマサチューセッツの船舶を捕捉し、アカディア領土に残された資産を押収すると脅したが、それを実行するに足る資源を持っていなかったので、大部分は空脅しだった。ストートンはロンドンに外交的援助を要請し、それで幾らか緊張関係を和らげることができた。", "title": "副総督と首席判事" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ストートンは1699年まで総督代行を続け、一方で首席判事も務めていた。ベロモント伯が総督となった短期間に副総督として残り、ベロモント伯が1700年に去った後には再度総督代行を務めた。しかしその頃には健康を害しており、その最晩年にはほとんど特筆すべきことを残せなかった。", "title": "副総督と首席判事" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ハーバード・カレッジの法人としての存在は、カレッジの認証が依存する植民地認証が1684年に撤回されたことで混乱させられることになった。1692年、植民地議会はこのカレッジに対する新しい認証を与える法を成立させたが、貿易省が1696年にその法に拒否権を発動し、カレッジの存続が再度危うくなった。当時総督代行だったストートンはカレッジの統治に関して暫定的な手配を行い、その間に議会が新しい認証作成に動いた。最終的にハーバードの認証問題は1707年になって解決され、1650年の認証が復活した。", "title": "副総督と首席判事" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ハーバードの支配人たちの派閥間で宗教と政治の意見が食い違ったことは1690年代に後半に大きく問題にされた。当時ハーバード学長だったインクリース・マザーは神学的に保守であり、多くの支配人が中庸な見解を持っていたのとは対照的であり、この時代にカレッジの運営を巡っての闘争が始まった。この分裂は最終的には1698年のブラトル通り教会設立に繋がり、マザーやその息子であるコットンが提唱する極度のピューリタン慣習のあるものからはっきり距離を置く綱領を採用した。ストートンと植民地における宗教や政治で著名な多くの人物が論争に立ち入って怒りを冷まし、植民地の信教的寛大さにたいする姿勢を強化した。その結果得られた和平によって父のマザーが新しい教会の奉納式に参列することになった。", "title": "副総督と首席判事" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ストートンは総督代行を務めていた1701年、ドーチェスターの自宅で死んだ。現在ドーチェスター北墓地と呼ばれる墓地に埋葬された。生涯独身であり、その土地の一部と邸宅を姉妹のレベッカの息子であるウィリアム・テイラーに遺贈した。テイラーは2度副総督を務め、また短期間総督代行も務めた。その死の時はストートンの傍に埋葬された。", "title": "家族と遺産" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ストートンが行った説教の中で唯一出版されて残ったのが『ニューイングランドの真の興味』だった。この説教は当初1668年の選挙の時に行われ、1670年に出版された。その中で植民地設立の時の頃を思い出させ、「神は全国民を移して、この荒野に穀物という選択を送り込んだ」が、またマサチューセッツ社会の衰退というものを見て嘆き、在野の者がその年長者である聖職者の判断に従うことを勧めた。", "title": "家族と遺産" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "マサチューセッツ州ストートンの町は、ストートンにちなんで名付けられた。ハーバード・ヤードにあるハーバード・カレッジ寮の1つ(ストートン・ホール)も同様である。最初にストートン・ホールが建設されたのは1698年のことであり、ストートンが1,000ポンドを遺贈したことで可能となった。", "title": "家族と遺産" } ]
ウィリアム・ストートンは、マサチューセッツ湾直轄植民地の判事、管理者である。セイラム魔女裁判と呼ばれることになる事件では、まず1692年に予審の特別裁判所で首席判事となり、その後の1693年に最高司法裁判所の首席判事となった。これらの裁判で、霊的証拠(悪魔的なものを見たとされる)を受け入れたために議論を呼んだ。他の判事とは異なり、そのような証拠を受け入れたことが誤りだった可能性を認めることは無かった。 1650年にハーバード・カレッジを卒業した後、イングランドで宗教に関する研究を続け、説教も行っていた。1662年にマサチューセッツに戻り、神職ではなく政治の世界に入る道を選んだ。熟練した政治家として、マサチューセッツが混乱した時代の事実上全ての政府に仕えた。マサチューセッツ湾植民地は1684年に最初の植民地認証を取り消され、1692年に2度目の認証を取得した。1680年代後半はエドマンド・アンドロスの不人気な支配期間があった。ストートンは1692年からその死の1701年まで副総督を務め、そのうち約6年間、総督不在時の代行を務めた。植民地の主要な大土地所有者の1人であり、土地の購入ではジョセフ・ダドリーなど著名人と共同事業を行った。マサチューセッツ州ストートン町はストートンにちなんで名付けられている。
{{Infobox Officeholder |name = ウィリアム・ストートン<br />William Stoughton |image = WilliamStoughton-painting.png |caption = ウィリアム・ストートンの肖像画、作者不詳、1700年頃 |signature = WilliamStoughtonSignature.png |order = |office = [[マサチューセッツ湾直轄植民地]]総督代行 |term_start = 1694年12月4日 |term_end = 1699年5月26日 |lieutenant = |predecessor = [[ウィリアム・フィップス]] |successor = [[リチャード・クート (初代ベロモント伯)|リチャード・クート]] |order2 = |term_start2 = 1700年7月22日 |term_end2 = 1701年7月7日 |lieutenant2 = |predecessor2 = リチャード・クート |successor2 = 総督評議会 |birth_date = 1631年 |birth_place = [[イングランド王国]]あるいは[[マサチューセッツ湾植民地]] |death_date = {{death year and age|1701|1631}}年7月7日 |death_place = [[マサチューセッツ湾直轄植民地]] |party = |spouse = |profession = |religion = [[ピューリタン]] }} '''ウィリアム・ストートン'''({{lang-en-short|William Stoughton}}<!-- {{IPAc-en|ˈ|s|t|oʊ|t|ᵊ|n}}-->、1631年 - 1701年7月7日)は、[[マサチューセッツ湾直轄植民地]]の判事、管理者である。[[セイラム魔女裁判]]と呼ばれることになる事件では、まず1692年に予審の特別裁判所で首席判事となり、その後の1693年に最高司法裁判所の首席判事となった。これらの裁判で、[[霊的証拠]](悪魔的なものを見たとされる)を受け入れたために議論を呼んだ。他の判事とは異なり、そのような証拠を受け入れたことが誤りだった可能性を認めることは無かった。 1650年に[[ハーバード大学|ハーバード・カレッジ]]を卒業した後、[[イングランド]]で宗教に関する研究を続け、説教も行っていた。1662年にマサチューセッツに戻り、神職ではなく政治の世界に入る道を選んだ。熟練した政治家として、マサチューセッツが混乱した時代の事実上全ての政府に仕えた。[[マサチューセッツ湾植民地]]は1684年に最初の植民地認証を取り消され、1692年に2度目の認証を取得した。1680年代後半は[[エドマンド・アンドロス]]の不人気な支配期間があった。ストートンは1692年からその死の1701年まで副総督を務め、そのうち約6年間、総督不在時の代行を務めた。植民地の主要な大土地所有者の1人であり、土地の購入では[[ジョセフ・ダドリー]]など著名人と共同事業を行った。[[マサチューセッツ州]][[ストートン(マサチューセッツ州)|ストートン町]]はストートンにちなんで名付けられている。 == 初期の経歴 == ウィリアム・ストートンは1631年に、イスラエル・ストートンとエリザベス・ナイト・ストートン夫妻の子供として生まれた。ストートンの出生や洗礼の記録は残っていないので、その正確な出生地は不明である。両親がイングランドからマサチューセッツ湾植民地に移民してきた日付も正確には分かっていない。分かっていることは、1632年までにストートン家が植民地に居たことであり、ドーチェスターの初期開拓者だった<ref>Anderson, pp 1773-5</ref>。 ストートンは1650年にハーバード・カレッジで[[神学]]の学位を得て卒業した。[[ピューリタン]]の牧師になるつもりでイングランドに移り、[[オックスフォード大学]]のニュー・カレッジで研究を続けた。1653年には神学の修士号を得て卒業した<ref name=CS480/>。ストートンは敬虔な説教師であり、「偉大な事項に関する主の約束と予測」を信じた<ref>Felt, p. 424</ref>。当時のイングランドはピューリタンの[[イングランド共和国]]の支配下にあったが、1653年は[[オリバー・クロムウェル]]が議会を解散した年であり、[[護国卿]]時代が始まっていた<ref>Manganiello, p. 43</ref>。ストートンは[[サセックス]]で説教を行い、1660年に国王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]が王位に復した後、その後に起きた宗教的異端者に対する弾圧の中で、その職を失った<ref name=S195/>。 == 政治と土地の開発 == [[ファイル:Lieut-Gov William Stoughton by Evert Duyckinck.png|thumb|right|ウィリアム・ストートン、1685年頃、エバーと・ダイキンク画、ボストン図書館蔵]] ストートンはイングランドで別の地位を得られる見込みが少なかったので、1662年にマサチューセッツに戻った<ref name=S195>Sibley, p. 195</ref>。ドーチェスターや[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]で何度か説教を行ったが、恒久的な神父の地位の申し出は断った。その代りに政治と土地開発に関わるようになった。1671年から1686年までほぼ毎年、植民地の補佐評議会委員となり(総督評議会の前身)、1673年から1677年および1680年から1686年にはニューイングランド連邦の植民地代表となった<ref name=CS480/>。1684年の選挙で、植民地認証の問題について中道的姿勢を示したために、(ストートンやバークリーなどと共に)植民地の敵と呼ばれたジョセフ・ダドリーは、評議員会への再選を果たせなかった。ストートンは辛うじて過半数をとって再選されたが、ダドリーの友人であり事業上の共同経営者だったので、抗議のために就任を拒んだ<ref>Lovejoy, p. 155</ref>。 [[ファイル:Joseph Dudley attributed to Peter Lely.jpg|thumb|left|upright|[[ジョセフ・ダドリー]]、ストートン友人であり事業上の共同経営者]] 1676年、ピーター・バークリーと共にイングランドで植民地の利益を代弁する委員に選ばれた。その受けた指示事項は何とか達成することができた。現在の[[メイン州]]においてマサチューセッツの主張する土地所有権と対立するフェルディナンド・ゴージズとジョン・メイソンの相続者から、土地の権利を取得することを認められた。この権利を1,200ポンドで取得し<ref name=S184/>、そこを弟の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ヨーク公ジェームズ]]のためにその権利を取得しようと考えていたチャールズ2世の怒りを買うことになった<ref name=L140/>。彼らは、メインと[[ニューハンプシャー植民地]]の他の領土に対して、マサチューセッツが行った幅広い権利主張を維持することはできなかった。この限られた権限が、植民地の法を自分たちの政策に合うように改変しようとしていた貿易省を動揺させた<ref name=S184>Staloff, p. 184</ref>。ストートンとバークリーの任務は、その強硬的な姿勢故にロンドンの植民地担当役人に敵意を抱かさせる以上のことはできなかった<ref name=L140>Lovejoy, p. 140</ref>。 ストートンとジョセフ・ダドリーは長年友人であり、政治でも事業でもパートナーだった<ref>Quincy, p. 175</ref>。この二人は政治的には密接に協業し、土地開発にも共に携わった。1680年代、ストートンはダドリーと共同で、[[ニプマク]]族[[インディアン]]から現在の[[ウースター郡 (マサチューセッツ州)|ウースター郡]]でかなりの広さの土地を取得した。この共同事業には、オックスフォードを避難民[[ユグノー]]の入植地として設立する事業も含んでいた。ダドリーとストートンはその政治的な地位を使って、興味を抱いた土地に対する権利が法的に問題ないことを確保し、そのやり方が彼らの友人、親戚その他事業上のパートナーにも恩恵を与えた<ref>Martin, pp. 88–97</ref>。この手続きに関連して、国王の代理人エドワード・ランドルフが、「国王陛下の権利が関わり、判事もその一党であるときに、土地の権利を裁判に持ち出すのは不可能である。」と記していた<ref>Martin, p. 91</ref>。このことは、ストートンとダドリーがメリマック川バレーの土地100万エーカー (4,000 km<sup>2</sup>) を取得する事業の側にいたときは特に明らかだった。ダドリーの評議会は、ストートンやその他の投資家が評議員になっており、1686年5月に正式の土地の権利問題を明白にした<ref>Martin, p. 99</ref>。 1686年、ダドリーがニューイングランド自治領の暫定首長に指名されたとき、ストートンはその評議員に指名され、その評議員の互選で副議長に選出された<ref>Lovejoy, p. 180</ref>。エドマンド・アンドロスの治世下では、判事と評議員を務めていた。判事としてのストートンは、自治領政府に対する税問題での抗議を行ったイプスウィッチ町の指導者に特に厳しくあたった。その抗議は代表権の無い状態でニューイングランド自治領が支配するのは、イングランド人の権利を侵しているという主張に基づいていた<ref>Lovejoy, p. 194</ref>。アンドロスは、1688年にイングランドで起きた[[名誉革命]]によって触発された[[ボストン暴動|無血蜂起]]により、1689年4月に逮捕され、ストートンはその蜂起の首謀者の宣言に署名した一人となった<ref>Lovejoy, pp. 241–242</ref>。このとき人民側を支持する声明を出したにも拘わらず、ストートンはアンドロスと親しくしていたために不人気であり、選挙で選ばれる役人にはなれなかった<ref>''The Quarterly Register'', p. 338</ref>。ストートンは政治的な力を持つマザー家に訴えた。マザー家とはまだ公的的な関係を保っていた。1692年<ref>Quincy, p. 61</ref>、インクリース・マザーと[[ウィリアム・フィップス]]卿が[[ロンドン]]から新しくマサチューセッツ湾直轄植民地の認証状をもって到着し、フィップスには国王による総督の任命書、ストートンには副総督の任命書がもたらされた<ref>Quincy, p. 178</ref>。 == 副総督と首席判事 == === セイラム魔女裁判 === {{main|セイラム魔女裁判}} フィップスが到着した時、特に[[セイラム (マサチューセッツ州)|セイラム]]で魔女に関する噂が広まっていた<ref>Cowing, p. 90</ref>。フィップスは即座に魔女と告発された者達を扱う特別法廷の首長にストートンを指名し、6月には植民地裁判所の首席判事に指名した。ストートンはこの地位を終生保つことになった<ref name=C93/><ref>Hurd, pp. xiv, xvi</ref>。悪名高いセイラム魔女裁判で、ストートンは首席判事と検事の双方を務めた。被告のある者については特に厳しく、[[レベッカ・ナース]]が無罪と判断されたときは陪審員に再検討するよう言い渡した。その後レベッカは有罪となった<ref name=C93>Cowing, p. 93</ref>。ストートンが霊的証拠の利用を認めたために多くの者が有罪とされた。それは、悪魔とある種の盟約を交わした、あるいは魔女と関わった者には悪魔の姿が形になって表れるという考え方だった。[[コットン・マザー]]が、このような証拠は告発をするときに認められると論じたが、判事の中には司法手続きでそれを使うことについて疑問を呈する者がいた<ref>Cowing, p. 92</ref>。しかしストートンはその受け入れを確信しており、この見解について他の判事に影響を与えた可能性がある<ref name="Cowing, p. 94">Cowing, p. 94</ref>。この特別法廷は1692年9月に開廷を止めた<ref name=D2657/>。 1692年11月と12月、フィップス総督は植民地の司法体系再編を監督し、イングランドのやり方に合わせるようにした。新しい裁判所で、ストートンはやはり首席判事を務めており、1693年の魔女裁判の扱いを始めたが、フィップスからは霊的証拠を無視するよう特別の指示を受けていた。このために、かなり多くの事件が証拠不足のために無罪となり、フィップスは既になされていた有罪判決の幾つかを無効にした<ref name=D2657>Dunn, pp. 265–267</ref>。事態のこの展開にストートンは怒り、抗議のために短期間は判事の職を務めなかった<ref name=C93/>。歴史家のセドリック・カウイングは、ストートンが霊的証拠を受け入れたことは、植民地でピューリタンの権限を再度主張する必要性があると考えたことに一部拠っていると示唆している<ref name="Cowing, p. 94"/>。同僚のサミュエル・スーワルは後に魔女裁判で法廷にあっての行動を後悔したが、ストートンはそのスーワルとは異なり、霊的証拠に関わるその行動や信念、さらには裁判そのものが誤りだったと認めることは無かった<ref>''The Quarterly Register'', p. 339</ref>。 === 総督代行 === ストートンは魔女裁判に加えて、1869年に起こった[[ウィリアム王戦争]]に対する植民地の対応を監督することになった。当時は現在のメイン州を含んでいたマサチューセッツは、[[ヌーベルフランス]]との戦争の最前線にあり、北部フロンティアの町が[[フランス]]とインディアンからの襲撃でかなりの被害を蒙った<ref>Leach, pp. 84–104</ref>。フィップス総督はしばしばメインに行ってそこの防御物建設を監督したので、ストートンはマサチューセッツに残って諸般の事情を監督することになった<ref>Rawlyk, p. 76</ref>。そのような総督不在の間に、例えばストートンは、同様に襲撃で破壊されていた隣接するニューハンプシャー植民地を守るための小さな民兵隊立ち上げに責任があった<ref>Leach, p. 105</ref>。1694年初期、フィップスが職権乱用という告発に答弁するために[[ロンドン]]に呼び戻された。フィップスが出発したのは11月になってからであり、その後はストートンが総督代行となった。フィップスは1695年初期にロンドンで死亡した。まだフィップスに対する告発に対して審問が行われる前のことだった<ref>Dunn, pp. 268–269</ref>。 [[ファイル:William Phips - Project Gutenberg etext 20110.jpg|thumb|left|upright|[[ウィリアム・フィップス]]卿、1692年から1694年のマサチューセッツ総督]] ストートンは自身を急場の世話人と見ており、王室が新しい総督を指名するまで政府を運営した。その結果、植民地議会にかなりの程度で自治権限を与えることになり、その慣習ができると後の総督と議会の関係が複雑になった。植民地の政策を実行するために、比較的活発な手段も採っており、ロンドンからの指示に従うためには最小限のことをしただけだった。植民地の役所の評論家は、ストートンが「良き学者だ」と見たが、「[[航海条例|航海法]]を執行するには適していなかった」とも見ていた<ref>Pencak, p. 38</ref>。 1695年、ストートンは[[アカディア]]からフランスが繰り出す[[私掠船]]の行動に抗議した。私掠船はニューイングランドの漁船や商船の船隊に大損害を与えていた<ref>Rawlyk, p. 80</ref>。その行動に反撃するために、[[ベンジャミン・チャーチ]]がアカディアに対する襲撃隊を組織することを認めた。チャーチが遠征のために兵士を募集しているときに、ヌーベルフランスの総督フロンテナック伯爵ルイ・ド・ボードがメインのペマキッドにあったイングランド人砦を標的とする遠征隊を組織した。チャーチがまだ出発していなかった1696年8月に、ペマキッド砦が奪われ破壊されたという報せが入った<ref>Rawlyk, p. 81</ref>。ストートンがチャーチに出した指示はある程度曖昧なものであり、チャーチはファンディ湾の奥にあるボーバッサンを襲撃した以外ほとんど何もせずに[[ボストン]]に戻ってきた。。チャーチが戻って来る前に、ストートンは第2の小さな遠征隊を組織し、セントジョン川沿いのナッシュワーク砦を包囲させたが、不首尾に終わった。これら遠征の失敗により、植民地の武力の不適切さを際立たせることとなり、マサチューセッツ議会はロンドンに救援を要請した<ref>Rawlyk, pp. 82–83</ref>。 1697年の[[レイスウェイク条約]]でフランスとイングランドの間に和平が戻ったが、北方の[[アベナキ族]]インディアンに関わる問題は何も解決しなかった<ref>Morrison, pp. 141–142</ref>。その結果、フロンティアでは緊張関係が続き、漁場に関して、またニューイングランド人が魚を乾すためにアカディアの土地を使うことに関する議論が続いた。ストートンとアカディアの総督ジョセフ・ロビノー・ド・ビルボンは1698年にこの問題に関する非難や脅迫を応酬した。ビルボンはマサチューセッツの船舶を捕捉し、アカディア領土に残された資産を押収すると脅したが、それを実行するに足る資源を持っていなかったので、大部分は空脅しだった<ref>Rawlyk, p. 86</ref>。ストートンはロンドンに外交的援助を要請し、それで幾らか緊張関係を和らげることができた<ref>Rawlyk, p. 87</ref>。 ストートンは1699年まで総督代行を続け、一方で首席判事も務めていた。ベロモント伯が総督となった短期間に副総督として残り、ベロモント伯が1700年に去った後には再度総督代行を務めた。しかしその頃には健康を害しており、その最晩年にはほとんど特筆すべきことを残せなかった<ref>Sibley, p. 202</ref>。 === ハーバードとブラトル通り教会 === [[ファイル:1859 BrattleSqChurch byJJHawes Boston.png|thumb|right|upright|ブラトル通り教会、1859年]] ハーバード・カレッジの法人としての存在は、カレッジの認証が依存する植民地認証が1684年に撤回されたことで混乱させられることになった。1692年、植民地議会はこのカレッジに対する新しい認証を与える法を成立させたが、貿易省が1696年にその法に拒否権を発動し、カレッジの存続が再度危うくなった。当時総督代行だったストートンはカレッジの統治に関して暫定的な手配を行い、その間に議会が新しい認証作成に動いた<ref>Quincy, pp. 69–82</ref>。最終的にハーバードの認証問題は1707年になって解決され、1650年の認証が復活した<ref>Quincy, p. 277</ref>。 ハーバードの支配人たちの派閥間で宗教と政治の意見が食い違ったことは1690年代に後半に大きく問題にされた。当時ハーバード学長だったインクリース・マザーは神学的に保守であり、多くの支配人が中庸な見解を持っていたのとは対照的であり、この時代にカレッジの運営を巡っての闘争が始まった<ref>Quincy, pp. 127–129</ref>。この分裂は最終的には1698年のブラトル通り教会設立に繋がり、マザーやその息子であるコットンが提唱する極度のピューリタン慣習のあるものからはっきり距離を置く綱領を採用した<ref>Quincy, pp. 130–132</ref>。ストートンと植民地における宗教や政治で著名な多くの人物が論争に立ち入って怒りを冷まし、植民地の信教的寛大さにたいする姿勢を強化した<ref>Quincy, p. 134</ref>。その結果得られた和平によって父のマザーが新しい教会の奉納式に参列することになった<ref>Quincy, p. 135</ref>。 == 家族と遺産 == ストートンは総督代行を務めていた[[1701年]]、ドーチェスターの自宅で死んだ<ref>{{cite web|url=http://www.mass.gov/portal/government-taxes/laws/interactive-state-house/historical/governors-of-massachusetts/royal-colony-of-massachusetts-1692-1774/william-stoughton-1631-1701.html|title=Biography of William Stoughton|publisher=State of Massachusetts|accessdate=2011-05-05}}</ref>。現在ドーチェスター北墓地と呼ばれる墓地に埋葬された<ref>Boston Cemetery Department, p. 38</ref>。生涯独身であり、その土地の一部と邸宅を姉妹のレベッカの息子である[[ウィリアム・テイラー]]に遺贈した<ref>Clapp, p. 20</ref>。テイラーは2度副総督を務め、また短期間総督代行も務めた。その死の時はストートンの傍に埋葬された<ref>Boston Cemetery Department, p. 39</ref>。 ストートンが行った説教の中で唯一出版されて残ったのが『ニューイングランドの真の興味』だった<ref>McWilliams, p. 164</ref>。この説教は当初1668年の選挙の時に行われ、1670年に出版された<ref>McWilliams, p. 337</ref>。その中で植民地設立の時の頃を思い出させ、「神は全国民を移して、この荒野に穀物という選択を送り込んだ」が、またマサチューセッツ社会の衰退というものを見て嘆き、在野の者がその年長者である聖職者の判断に従うことを勧めた<ref name=S163>Staloff, p. 163</ref>。 マサチューセッツ州ストートンの町は、ストートンにちなんで名付けられた<ref name=CS480>Colby and Sandeman, p. 480</ref>。ハーバード・ヤードにあるハーバード・カレッジ寮の1つ(ストートン・ホール)も同様である。最初にストートン・ホールが建設されたのは1698年のことであり、ストートンが1,000ポンドを遺贈したことで可能となった<ref>Quincy, p. 180<!--engraving of 1698 building on p. 194--></ref>。 == 脚注 == {{reflist|2}} == 参考文献 == {{refbegin}} * {{cite book|last=Anderson|first=Robert Charles|title=The Great Migration Begins: Immigrants to New England, 1620–1633|location=Boston, MA|publisher=New England Historic Genealogical Society|year=1995|isbn=978-0-88082-120-9|oclc=42469253}} * {{cite book|author=Boston Cemetery Department|title=Annual Report of the Cemetery Department, 1903|year=1904|location=Boston|publisher=City of Boston|url=https://books.google.co.jp/books?id=rIQUAAAAYAAJ&printsec=frontcover&source=gbs_ge_summary_r&redir_esc=y&hl=ja|oclc=25503633}} * {{cite book|last=Clapp|first=David|title=The Ancient Proprietors of Jones's Hill, Dorchester|publisher=self-published|year=1883|url=https://books.google.co.jp/books?id=OSwWAAAAYAAJ&printsec=frontcover&source=gbs_ge_summary_r&redir_esc=y&hl=ja|location=Boston|oclc=13392454}} * {{cite book|last=Colby|first=Frank|author2=Sandeman, George |title=Nelson's Encyclopedia|publisher=Thomas Nelson|year=1913|location=New York|oclc=8831481|url=https://books.google.co.jp/books?id=MAJCAAAAYAAJ&pg=PA480&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&f=false}} * {{cite book|last=Cowing|first=Cedric|title=The Saving Remnant: Religion and the Settling of New England|year=1995|publisher=University of Illinois Press|location=Urbana, IL|isbn=978-0-252-02138-1|oclc=30624261}} * {{cite book|last=Dunn|first=Richard|title=Puritans and Yankees: The Winthrop Dynasty of New England|publisher=Princeton University Press|year=1962|location=Princeton, NJ|oclc=187083766}} * {{cite book|last=Felt|first=Joseph Barlow|title=The Ecclesiastical History of New England: Comprising Not Only the Religious, But Also Moral, and Other Relations|year=1862|publisher=Congregational Library Association|location=Boston|isbn=978-0-7905-8263-4|oclc=22948816|url=https://books.google.co.jp/books?id=dmN4PEAvIysC&pg=PA424&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&f=false}} * {{cite book|last=Hurd|first=Duane|title=History of Middlesex County, Massachusetts|publisher=J. W. Lewis|year=1890|oclc=2155461|location=Philadelphia|url=https://books.google.co.jp/books?id=m74TAAAAYAAJ&pg=PR14&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&f=false}} * {{cite book|last=Leach|first=Douglas|title=Arms for Empire: A Military history of the British Colonies in North America 1607–1763|publisher=Macmillan|location=New York|year=1973|oclc=164624574}} * {{cite book|last=Lovejoy|first=David|title=The Glorious Revolution in America|publisher=Wesleyan University Press|year=1987|location=Middletown, CT|isbn=978-0-8195-6177-0|oclc=14212813}} * {{cite book|last=Manganiello|first=Stephen|title=The Concise Encyclopedia of the Revolutions and Wars of England, Scotland, and Ireland, 1639–1660|publisher=Scarecrow Press|year=2004|location=Lanham, MD|isbn=978-0-8108-5100-9|oclc=231993361}} * {{cite book|last=Martin|first=John Frederick|title=Profits in the Wilderness: Entrepreneurship and the Founding of New England Towns in the Seventeenth Century|publisher=University of North Carolina Press|year=1991|location=Chapel Hill, NC|isbn=978-0-8078-2001-8|oclc=231347624}} * {{cite book|last=McWilliams|first=John|title=New England's Crises and Cultural Memory: Literature, Politics, History, Religion, 1620–1860|publisher=Cambridge University Press|year=2004|isbn=978-0-511-21107-2|oclc=144618556}} * {{cite book|last=Morrison|first=Kenneth|title=The Embattled Northeast: the Elusive Ideal of Alliance in Abenaki-Euramerican Relations|publisher=University of California Press|year=1984|isbn=978-0-520-05126-3|oclc=10072696}} * {{cite book|last=Pencak|first=William|title=War, Politics and Revolution in Provincial Massachusetts|publisher=Northeastern University Press|year=1981|location=Boston|isbn=978-0-930350-10-9|oclc=469556813}} * {{cite book|title=The Quarterly Register|author=American Education Society|year=1836|publisher=Perkins and Marvin|location=Boston|url=https://books.google.co.jp/books?id=_SYsAQAAIAAJ&printsec=frontcover&redir_esc=y&hl=ja}} * {{cite book|last=Quincy|first=Josiah|title=The History of Harvard University|publisher=J. Owen|year=1840|oclc=60721951|url=https://books.google.co.jp/books?id=d44pAQAAIAAJ&pg=PA127&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&f=false}} * {{cite book|last=Rawlyk|first=George|title=Nova Scotia's Massachusetts|year=1973|publisher=McGill-Queen's University Press|location=Montreal|isbn=978-0-7735-0142-3|oclc=1371993}} * {{cite book|last=Sibley|first=John Langdon|title=Biographical Sketches of Graduates of Harvard University|publisher=Charles William Sever|location=Cambridge, MA|year=1873|oclc=13538569}} * {{cite book|last=Staloff|first=Darren|title=The Making of an American Thinking Class: Intellectuals and Intelligentsia in Puritan Massachusetts|publisher=Oxford University Press|year=2001|isbn=978-0-19-514982-1|oclc=469081745|location=New York}} {{refend}} == 関連図書 == * {{cite book|last=Miller|first=Perry|author2=Johnson, Thomas Herbert |title=The Puritans: A Sourcebook of Their Writings|publisher=Courier Dover|year=2001|location=Mineola, NY|isbn=978-0-486-41601-4|oclc=248269294|origyear=1963}} Contains ''New-Englands True Interest''. == 外部リンク == {{wikiquotelang|en|William Stoughton}} * [http://www.stoughtonhistory.com/williamstoughton.htm Biography of William Stoughton (1631-1701) from Stoughton, MA website] * [https://books.google.co.jp/books?id=6SPRd9QAh_8C&redir_esc=y&hl=ja A narrative of the proceedings of sir Edmond Androsse and his complices] by William Stoughton, et al. (1691) * "William Stoughton," pp.&nbsp;194–208 of [https://books.google.co.jp/books?id=aOgtAAAAIAAJ&redir_esc=y&hl=ja ''Biographical Sketches of Graduates of Harvard University'', Vol. 1] {{s-start}} {{s-off}} {{succession box |before=Sir [[ウィリアム・フィップス]] |title=[[マサチューセッツ湾直轄植民地]]総督代行 |years=1694年12月4日 – 1699年5月26日 |after=[[リチャード・クート (初代ベロモント伯)|リチャード・クート]] }} {{succession box |before=[[リチャード・クート (初代ベロモント伯)|リチャード・クート]] |title=[[マサチューセッツ湾直轄植民地]]総督代行 |years=1700年7月22日 – 1701年7月7日 |after=総督評議会 }} {{s-legal}} {{s-new|seat}} {{s-ttl|title=マサチューセッツ湾直轄植民地最高司法裁判所首席判事|years=1692年 – 1701年}} {{s-aft|after=[[ウェイト・ウィンスロップ]]}} {{s-end}} {{マサチューセッツ州知事}} {{セイラム}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:すとうとん ういりあむ}} [[Category:マサチューセッツ植民地総督]] [[Category:セイラム魔女裁判の人物]] [[Category:ハーバード大学出身の人物]] [[Category:オックスフォード大学出身の人物]] [[Category:イギリス系アメリカ人]] [[Category:ボストン出身の人物]] [[Category:1631年生]] [[Category:1701年没]]
null
2022-04-16T18:15:52Z
false
false
false
[ "Template:Main", "Template:S-start", "Template:S-ttl", "Template:S-aft", "Template:セイラム", "Template:Cite book", "Template:S-new", "Template:S-off", "Template:Succession box", "Template:マサチューセッツ州知事", "Template:Authority control", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Refbegin", "Template:Refend", "Template:Wikiquotelang", "Template:S-legal", "Template:S-end", "Template:Infobox Officeholder", "Template:Lang-en-short" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3
23,472
柳川市
柳川市(やながわし)は、福岡県の筑後地方の南西部にある市。市域のうち旧柳川市域、旧三橋町域は福岡都市圏に属している。 筑後地方の主要都市であり、鉄道では福岡市から西鉄天神大牟田線で約45分、久留米市や大牟田市から約15分の距離にある。 市内を掘割が縦横に流れることから水の都と呼ばれ、筑後地方南西部における商業の中心地であるとともに、鰻のせいろ蒸しなど鰻料理、掘割を使った川下り、旧藩主立花氏の別邸である立花氏庭園(御花)が知られる。このほかにも干拓地を中心としたい草の栽培、有明海における海苔の養殖なども盛んである。 市域の中心部に旧柳河藩の城下町と西鉄柳川駅周辺からなる現在の市街地が形成されており、市街地を取り囲むように住宅地及び農地が広がっている。西鉄柳川駅周辺は福岡市の郊外・ベッドタウンの様相であり、城下町から発展した城内地区とは雰囲気が異なっている。市内を西鉄天神大牟田線が南北に貫いており、福岡市、久留米市への通勤路線となっている。 福岡県の南部、筑後地方の南西部に位置し、北九州市から南南西に約100 km、福岡市から南に約50 km、久留米市から南西に約20 km、大牟田市から北西に約15 kmの距離にある。 市のほぼ全域が平坦地であるため、市域面積77.2 kmのうち、99.8%(約77.0 km) が可住地であり、可住地面積は県内6位の広さである。 市形は南北12 km、東西11 kmのひし形ないしはダイヤモンド形をしているが、地理的な特徴を理解するには扇形と言ったほうがイメージに近い。即ち、市の北東部を扇の要に見立てると、西を筑後川、南東を矢部川という一級河川が扇の両端を形成しており、その間を矢部川から分岐した沖端川、二ツ川、塩塚川が市内を貫流する。矢部川を含めて各河川は扇の骨のように北東から南西方向に流れており、いずれも市の南西で有明海に注ぎ込む。そして、各河川から分流する掘割が市内を縦横に走っている。 市の全域が筑紫平野に含まれており、市の北東部2/3が沖積平野、南西1/3が干拓地で構成される。市域の多くは古くから人工的に開拓・干拓されてきた。干拓地は江戸時代から昭和にかけて徐々に造成されたため、海岸線に平行して各時代の干拓堤防と堤防沿いの集落が連なる。標高は最高でも5-6 mしかない起伏の少ない低平地であり、有明海に向かって緩やかに傾斜している。 市の表層の全ては砂・礫・泥からなる沖積地堆積物で形成されており、そのうち表土層の5-20 mには、極めて軟弱で含水比が70%と高い「有明粘土層」が分布している。筑紫平野の沖積地堆積物は厚く重なっており、基盤の深度は柳川付近で最深部を形成し、その深度は海面下900mを超えるとされる。 三橋町・大和町の両町は従来の大字の前に旧町名を冠している。市外局番は全域が0944(瀬高MA)。 柳川地域の歴史は、約2千数百年前の弥生土器が柳川市郊外の蒲池地域に出土していることから古く、その頃からこの地域で稲作が始まったと推定されているが、都市としての柳川は、戦国時代に柳河城主の蒲池氏の城下として生まれ、安土桃山時代は田中氏の、江戸時代は立花氏の柳河藩の城下町となり現在に至る。 市北部の蒲池地区、南東部の鷹尾地区には弥生時代の土器が出土している。869年に鷹尾地区に鷹尾神社が創建され、同神社の中世以降の文書は国の重要文化財に指定されている。 平安時代の藤原純友の乱の時には、大宰府を占領した純友の弟である藤原純乗が柳川まで進出したが、大宰権帥の橘公頼とその子の橘敏通が蒲池城で撃退した。敏通の子孫である大宰府官の橘氏が領主となる。 12世紀には平家の落武者が柳川市沖の端地区に落ち延び定住したと伝えられる。 鎌倉時代に嵯峨源氏の流れを汲む源久直(蒲池久直)が地頭職となり、蒲池氏となる(蒲池氏は藤原純友の末裔との伝承もある)。室町時代に筑後宇都宮氏の宇都宮久憲(蒲池久憲)が蒲池氏を継ぎ、南筑後での有力氏族となった。16世紀に蒲池治久が蒲池城の支城を築き、これが後の柳河城となる。 戦国時代には蒲池鑑盛が筑後守護職でもある大友氏方の国人領主となる一方で、大友氏、龍造寺氏、島津氏の有力な戦国大名の勢力が筑後国で激突したため、戦国後期での柳川を含めた筑後地方の歴史は複雑である。 1581年に蒲池鎮漣(鎮並)が龍造寺隆信に謀殺され、柳河城は落城し龍造寺氏が進駐した。1584年には大友氏の高橋紹運・戸次道雪(立花道雪)が筑後へ進出すると、同年に島原の沖田畷の戦いで龍造寺氏を破った島津氏が1586年には筑後に進出。両者は筑後・筑前両国で争い、島津氏が優勢だったが1587年の豊臣秀吉の九州出陣によって九州は一挙に統一・平定された。 秀吉の九州仕置によって、高橋紹運の実子で立花道雪の養子となった立花宗茂が南筑後13万2千石の領主として柳河城に入城した。宗茂は朝鮮出兵に従軍し活躍したが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたため所領を没収された。 立花氏に代わって、関ヶ原で石田三成を捕らえる功を上げた田中吉政が岡崎城から筑後国32万5千石の領主として柳河城に入城し、柳河藩を立藩した。吉政は柳河城周辺の掘割整備のほかに、五層天守閣の構築に着手するなど、柳川の城下町としての基礎を整えた。さらに、矢部川の治水、有明海の干拓堤防の築堤(慶長本土居)、荒地開墾、交通網の整備(久留米柳川往還、現県道23号線)によって藩の財政的な基盤を固めた。 しかし、田中氏は2代で無嗣断絶。この間、立花宗茂は関ヶ原後に浪人となったが、徳川家康に引き上げられ陸奥棚倉3万5千石の大名となっていた。宗茂は田中家断絶後の旧領柳河に10万9千石の大名として返り咲き、以後明治まで立花氏が藩主となる。 1697年に4代藩主立花鑑任が藩主別邸として「御花」こと「松涛館」を建設。御花は現在でも立花家現当主によって経営されており、一般に公開され、一部は宿泊、結婚式場としても利用されている。 1862年には横綱土俵入りの不知火型の創始者とも言われる雲龍久吉が10代横綱となった。 1871年(明治4年)の廃藩置県によって柳河藩は柳河県となり、その後柳河県は三潴県(旧久留米藩)に統合されたが、1876年(明治9年)に福岡県に編入されて落ち着いた。1872年(明治5年)の失火により天守閣を含む柳河城は全焼した。城跡は学校(柳川市立柳城中学校・私立柳川高等学校)となり、石垣は干拓地の堤防に利用されたため、城跡を示すものはわずかしか残っていない。 1937年(昭和12年)に電気鉄道の九州鉄道(現在の西鉄天神大牟田線)が柳川経由で開通。現在では福岡で随一の通勤路線となっている。 1953年(昭和28年)6月に九州一帯を襲った昭和28年西日本水害では市内各所で被害。特に旧三橋町では、町域の大半が泥海と化した。 旧来の柳川市と三橋町は市街地が連続するなど一体化していることから、「柳川」の名を冠した官庁や西鉄の駅が旧三橋町域にあるという事態が長く続いていたが、2005年(平成17年)の合併で名実ともに「柳川市」に存在することとなり、違和感は解消されつつある。しかしその一方で、他の合併都市にもみられるように、旧市町の“壁”を取り払った、市全体としての街づくりが課題となっている。 旧三橋町域にある「柳川」「柳河」の名がついた主な施設としては以下のものがある。 また、旧三橋町には柳河という大字が存在した(現・柳川市三橋町柳河)。1987年に廃止された佐賀線の筑後柳河駅は上記の三橋町大字柳河に所在した。 2005年(平成17年)3月21日、隣接する三橋町・大和町と対等合併し、旧市名はそのままに新市制が施行された。 市議会設置庁舎は柳川庁舎。 2007年度の実質収支比率は2.4と、単年度の収支は比較的健全な状況にある(比較可能な県内26市のうち15位)。しかし、財政力指数は0.43と低い(同26市のうち22位)。これは、市の歳入構造が地方交付税交付金に偏っており、地方税などの独自財源に乏しいことを示している。2007年度の歳入総額に占める地方税収の比率は20%にとどまっている(比較可能な県内26市のうち23位)。独自財源が乏しく地方交付税への依存度が高いため、国の財政再建の影響を受けやすい体質にある。 現在、西鉄柳川駅・中島駅周辺で2つの事業が行われている。 治安状況は総じて安全である。2005年における刑法犯認知件数は981件と前年(1022件)から4%減少した。人口比発生率は1.32%であり、福岡県平均2.11%はもちろん、全国平均1.78%よりも低く、県内28市のなかでは4位の低さである。交通事故発生件数は667件と前年(681件)から減少した。人口比発生率は0.89%と全国平均0.73%をやや上回るものの、福岡県平均1.03%よりも低い。 市内総生産: 1,911億円(2007年度) 中心駅は西鉄柳川駅であり特急を含むすべての列車(特別料金不要)が停車する。また、2005年の合併以前に柳川市内にあったのは蒲池駅だけである。また、市内区間はすべて単線となっている。 詩人、北原白秋の故郷でもあり、生家が今日も保存されている。市内には、ゆかりの北原白秋、檀一雄、長谷健他の歌碑、詩碑、句碑が多数ある。 実写映画『柳川堀割物語』(製作宮崎駿、監督高畑勲)は、住民が荒廃した掘割の再生に取り組むさまを記録したドキュメンタリーである。架空の町を舞台とする『廃市』(原作福永武彦、監督大林宣彦)も柳川で撮影が行われた。 写真家荒木経惟・陽子夫妻は新婚旅行で柳川を訪れ、写真集「センチメンタルな旅」として出版した。また、彼らのエッセイをもとにした「東京日和」(監督・主演竹中直人)でもこの「センチメンタルな旅」の写真をもとにした柳川のシーンが描かれている。 このほかに、日本文学研究者の藤村作、作家の長谷健、俳人の木村緑平、哲学者の廣松渉、俳優の妻夫木聡、歌手の徳永英明の実家、歌手の松田聖子の実家(蒲池家)の菩提寺もある。 柳川を舞台とするアニメ映画として『ドットハック セカイの向こうに』がある。柳川を舞台とするドキュメンタリーとして新日本風土記「水郷 柳川」(2020年10月23日、NHK-BSP)がある。 掘割は、クリークとも呼ばれる水路であり、柳川を含めた筑紫平野南部に一般的に存在する。筑紫平野南部では六角川・嘉瀬川・筑後川・矢部川などの主要河川が有明海に注ぎ込んでおり、中世以前には低湿地帯が広がっていた。中世以降、徐々に低湿地帯を掘削・開墾(土地かさ上げによる乾田化)することで人工的な農地が形成されてきたが、掘削後の水路が掘割と呼ばれることとなった。 柳川市内の掘割は、戦国時代の領主蒲池鑑盛が柳川城の水の防壁として開発し、柳川城を九州屈指の難攻不落の堅城としたが、近世都市との関連では立花氏に先立つ領主田中吉政によって整備され、上水道・農業用水路・洪水予防の貯水路としての機能が強化された。上水道網が完備する昭和40年代までは掘割は上水道・水運など生活用水としての役割を担っていた。しかし、上水道網・道路網の整備が進むに連れて掘割の清掃がなされなくなり、掘割は水草に埋没し、ゴミの不法投棄が横行した。柳川出身の作家檀一雄は、当時の市長に「我が故郷はシブタも住まず蚊蚊ばかり」という句を送り、往時の姿を失った掘割を嘆いている(シブタとは小魚の一種)。 1977年(昭和52年)には、柳川市街地の掘割を暗渠・埋め立てする計画が市議会により承認され実施直前であったが、下水道係長であった広松伝の研究・啓蒙活動を受けて、市長古賀杉夫の判断により一転して掘割の保存、整備を進めることとなった。1978年(昭和53年)に、掘割の浚渫や排水規制を主体とする河川浄化計画が実施され、柳川の掘割は蘇った。しかし、化学薬品の流入や一般家庭の生活廃水による富栄養化の問題、下水道整備の不足など、掘割の再生は途上である。 柳川市の掘割の総延長は930 kmであり、貴重な農業水利および、市街域の掘割を巡る「川下り」の舞台として観光資産となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "柳川市(やながわし)は、福岡県の筑後地方の南西部にある市。市域のうち旧柳川市域、旧三橋町域は福岡都市圏に属している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "筑後地方の主要都市であり、鉄道では福岡市から西鉄天神大牟田線で約45分、久留米市や大牟田市から約15分の距離にある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "市内を掘割が縦横に流れることから水の都と呼ばれ、筑後地方南西部における商業の中心地であるとともに、鰻のせいろ蒸しなど鰻料理、掘割を使った川下り、旧藩主立花氏の別邸である立花氏庭園(御花)が知られる。このほかにも干拓地を中心としたい草の栽培、有明海における海苔の養殖なども盛んである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "市域の中心部に旧柳河藩の城下町と西鉄柳川駅周辺からなる現在の市街地が形成されており、市街地を取り囲むように住宅地及び農地が広がっている。西鉄柳川駅周辺は福岡市の郊外・ベッドタウンの様相であり、城下町から発展した城内地区とは雰囲気が異なっている。市内を西鉄天神大牟田線が南北に貫いており、福岡市、久留米市への通勤路線となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "福岡県の南部、筑後地方の南西部に位置し、北九州市から南南西に約100 km、福岡市から南に約50 km、久留米市から南西に約20 km、大牟田市から北西に約15 kmの距離にある。 市のほぼ全域が平坦地であるため、市域面積77.2 kmのうち、99.8%(約77.0 km) が可住地であり、可住地面積は県内6位の広さである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "市形は南北12 km、東西11 kmのひし形ないしはダイヤモンド形をしているが、地理的な特徴を理解するには扇形と言ったほうがイメージに近い。即ち、市の北東部を扇の要に見立てると、西を筑後川、南東を矢部川という一級河川が扇の両端を形成しており、その間を矢部川から分岐した沖端川、二ツ川、塩塚川が市内を貫流する。矢部川を含めて各河川は扇の骨のように北東から南西方向に流れており、いずれも市の南西で有明海に注ぎ込む。そして、各河川から分流する掘割が市内を縦横に走っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "市の全域が筑紫平野に含まれており、市の北東部2/3が沖積平野、南西1/3が干拓地で構成される。市域の多くは古くから人工的に開拓・干拓されてきた。干拓地は江戸時代から昭和にかけて徐々に造成されたため、海岸線に平行して各時代の干拓堤防と堤防沿いの集落が連なる。標高は最高でも5-6 mしかない起伏の少ない低平地であり、有明海に向かって緩やかに傾斜している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "市の表層の全ては砂・礫・泥からなる沖積地堆積物で形成されており、そのうち表土層の5-20 mには、極めて軟弱で含水比が70%と高い「有明粘土層」が分布している。筑紫平野の沖積地堆積物は厚く重なっており、基盤の深度は柳川付近で最深部を形成し、その深度は海面下900mを超えるとされる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "三橋町・大和町の両町は従来の大字の前に旧町名を冠している。市外局番は全域が0944(瀬高MA)。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "柳川地域の歴史は、約2千数百年前の弥生土器が柳川市郊外の蒲池地域に出土していることから古く、その頃からこの地域で稲作が始まったと推定されているが、都市としての柳川は、戦国時代に柳河城主の蒲池氏の城下として生まれ、安土桃山時代は田中氏の、江戸時代は立花氏の柳河藩の城下町となり現在に至る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "市北部の蒲池地区、南東部の鷹尾地区には弥生時代の土器が出土している。869年に鷹尾地区に鷹尾神社が創建され、同神社の中世以降の文書は国の重要文化財に指定されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "平安時代の藤原純友の乱の時には、大宰府を占領した純友の弟である藤原純乗が柳川まで進出したが、大宰権帥の橘公頼とその子の橘敏通が蒲池城で撃退した。敏通の子孫である大宰府官の橘氏が領主となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "12世紀には平家の落武者が柳川市沖の端地区に落ち延び定住したと伝えられる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "鎌倉時代に嵯峨源氏の流れを汲む源久直(蒲池久直)が地頭職となり、蒲池氏となる(蒲池氏は藤原純友の末裔との伝承もある)。室町時代に筑後宇都宮氏の宇都宮久憲(蒲池久憲)が蒲池氏を継ぎ、南筑後での有力氏族となった。16世紀に蒲池治久が蒲池城の支城を築き、これが後の柳河城となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "戦国時代には蒲池鑑盛が筑後守護職でもある大友氏方の国人領主となる一方で、大友氏、龍造寺氏、島津氏の有力な戦国大名の勢力が筑後国で激突したため、戦国後期での柳川を含めた筑後地方の歴史は複雑である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1581年に蒲池鎮漣(鎮並)が龍造寺隆信に謀殺され、柳河城は落城し龍造寺氏が進駐した。1584年には大友氏の高橋紹運・戸次道雪(立花道雪)が筑後へ進出すると、同年に島原の沖田畷の戦いで龍造寺氏を破った島津氏が1586年には筑後に進出。両者は筑後・筑前両国で争い、島津氏が優勢だったが1587年の豊臣秀吉の九州出陣によって九州は一挙に統一・平定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "秀吉の九州仕置によって、高橋紹運の実子で立花道雪の養子となった立花宗茂が南筑後13万2千石の領主として柳河城に入城した。宗茂は朝鮮出兵に従軍し活躍したが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたため所領を没収された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "立花氏に代わって、関ヶ原で石田三成を捕らえる功を上げた田中吉政が岡崎城から筑後国32万5千石の領主として柳河城に入城し、柳河藩を立藩した。吉政は柳河城周辺の掘割整備のほかに、五層天守閣の構築に着手するなど、柳川の城下町としての基礎を整えた。さらに、矢部川の治水、有明海の干拓堤防の築堤(慶長本土居)、荒地開墾、交通網の整備(久留米柳川往還、現県道23号線)によって藩の財政的な基盤を固めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかし、田中氏は2代で無嗣断絶。この間、立花宗茂は関ヶ原後に浪人となったが、徳川家康に引き上げられ陸奥棚倉3万5千石の大名となっていた。宗茂は田中家断絶後の旧領柳河に10万9千石の大名として返り咲き、以後明治まで立花氏が藩主となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1697年に4代藩主立花鑑任が藩主別邸として「御花」こと「松涛館」を建設。御花は現在でも立花家現当主によって経営されており、一般に公開され、一部は宿泊、結婚式場としても利用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1862年には横綱土俵入りの不知火型の創始者とも言われる雲龍久吉が10代横綱となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1871年(明治4年)の廃藩置県によって柳河藩は柳河県となり、その後柳河県は三潴県(旧久留米藩)に統合されたが、1876年(明治9年)に福岡県に編入されて落ち着いた。1872年(明治5年)の失火により天守閣を含む柳河城は全焼した。城跡は学校(柳川市立柳城中学校・私立柳川高等学校)となり、石垣は干拓地の堤防に利用されたため、城跡を示すものはわずかしか残っていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)に電気鉄道の九州鉄道(現在の西鉄天神大牟田線)が柳川経由で開通。現在では福岡で随一の通勤路線となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1953年(昭和28年)6月に九州一帯を襲った昭和28年西日本水害では市内各所で被害。特に旧三橋町では、町域の大半が泥海と化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "旧来の柳川市と三橋町は市街地が連続するなど一体化していることから、「柳川」の名を冠した官庁や西鉄の駅が旧三橋町域にあるという事態が長く続いていたが、2005年(平成17年)の合併で名実ともに「柳川市」に存在することとなり、違和感は解消されつつある。しかしその一方で、他の合併都市にもみられるように、旧市町の“壁”を取り払った、市全体としての街づくりが課題となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "旧三橋町域にある「柳川」「柳河」の名がついた主な施設としては以下のものがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また、旧三橋町には柳河という大字が存在した(現・柳川市三橋町柳河)。1987年に廃止された佐賀線の筑後柳河駅は上記の三橋町大字柳河に所在した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)3月21日、隣接する三橋町・大和町と対等合併し、旧市名はそのままに新市制が施行された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "市議会設置庁舎は柳川庁舎。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2007年度の実質収支比率は2.4と、単年度の収支は比較的健全な状況にある(比較可能な県内26市のうち15位)。しかし、財政力指数は0.43と低い(同26市のうち22位)。これは、市の歳入構造が地方交付税交付金に偏っており、地方税などの独自財源に乏しいことを示している。2007年度の歳入総額に占める地方税収の比率は20%にとどまっている(比較可能な県内26市のうち23位)。独自財源が乏しく地方交付税への依存度が高いため、国の財政再建の影響を受けやすい体質にある。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "現在、西鉄柳川駅・中島駅周辺で2つの事業が行われている。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "治安状況は総じて安全である。2005年における刑法犯認知件数は981件と前年(1022件)から4%減少した。人口比発生率は1.32%であり、福岡県平均2.11%はもちろん、全国平均1.78%よりも低く、県内28市のなかでは4位の低さである。交通事故発生件数は667件と前年(681件)から減少した。人口比発生率は0.89%と全国平均0.73%をやや上回るものの、福岡県平均1.03%よりも低い。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "市内総生産: 1,911億円(2007年度)", "title": "産業" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "中心駅は西鉄柳川駅であり特急を含むすべての列車(特別料金不要)が停車する。また、2005年の合併以前に柳川市内にあったのは蒲池駅だけである。また、市内区間はすべて単線となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "詩人、北原白秋の故郷でもあり、生家が今日も保存されている。市内には、ゆかりの北原白秋、檀一雄、長谷健他の歌碑、詩碑、句碑が多数ある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "実写映画『柳川堀割物語』(製作宮崎駿、監督高畑勲)は、住民が荒廃した掘割の再生に取り組むさまを記録したドキュメンタリーである。架空の町を舞台とする『廃市』(原作福永武彦、監督大林宣彦)も柳川で撮影が行われた。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "写真家荒木経惟・陽子夫妻は新婚旅行で柳川を訪れ、写真集「センチメンタルな旅」として出版した。また、彼らのエッセイをもとにした「東京日和」(監督・主演竹中直人)でもこの「センチメンタルな旅」の写真をもとにした柳川のシーンが描かれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "このほかに、日本文学研究者の藤村作、作家の長谷健、俳人の木村緑平、哲学者の廣松渉、俳優の妻夫木聡、歌手の徳永英明の実家、歌手の松田聖子の実家(蒲池家)の菩提寺もある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "柳川を舞台とするアニメ映画として『ドットハック セカイの向こうに』がある。柳川を舞台とするドキュメンタリーとして新日本風土記「水郷 柳川」(2020年10月23日、NHK-BSP)がある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "掘割は、クリークとも呼ばれる水路であり、柳川を含めた筑紫平野南部に一般的に存在する。筑紫平野南部では六角川・嘉瀬川・筑後川・矢部川などの主要河川が有明海に注ぎ込んでおり、中世以前には低湿地帯が広がっていた。中世以降、徐々に低湿地帯を掘削・開墾(土地かさ上げによる乾田化)することで人工的な農地が形成されてきたが、掘削後の水路が掘割と呼ばれることとなった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "柳川市内の掘割は、戦国時代の領主蒲池鑑盛が柳川城の水の防壁として開発し、柳川城を九州屈指の難攻不落の堅城としたが、近世都市との関連では立花氏に先立つ領主田中吉政によって整備され、上水道・農業用水路・洪水予防の貯水路としての機能が強化された。上水道網が完備する昭和40年代までは掘割は上水道・水運など生活用水としての役割を担っていた。しかし、上水道網・道路網の整備が進むに連れて掘割の清掃がなされなくなり、掘割は水草に埋没し、ゴミの不法投棄が横行した。柳川出身の作家檀一雄は、当時の市長に「我が故郷はシブタも住まず蚊蚊ばかり」という句を送り、往時の姿を失った掘割を嘆いている(シブタとは小魚の一種)。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1977年(昭和52年)には、柳川市街地の掘割を暗渠・埋め立てする計画が市議会により承認され実施直前であったが、下水道係長であった広松伝の研究・啓蒙活動を受けて、市長古賀杉夫の判断により一転して掘割の保存、整備を進めることとなった。1978年(昭和53年)に、掘割の浚渫や排水規制を主体とする河川浄化計画が実施され、柳川の掘割は蘇った。しかし、化学薬品の流入や一般家庭の生活廃水による富栄養化の問題、下水道整備の不足など、掘割の再生は途上である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "柳川市の掘割の総延長は930 kmであり、貴重な農業水利および、市街域の掘割を巡る「川下り」の舞台として観光資産となっている。", "title": "文化" } ]
柳川市(やながわし)は、福岡県の筑後地方の南西部にある市。市域のうち旧柳川市域、旧三橋町域は福岡都市圏に属している。
{{日本の市 | 画像 = Fukuoka Yanagawa03bs3200.jpg | 画像の説明 = 柳川川下り | 市旗 = [[ファイル:Flag of Yanagawa Fukuoka.svg|100px|柳川市旗]] | 市旗の説明 = 柳川[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:Emblem of Yanagawa, Fukuoka.svg|75px|柳川市章]] | 市章の説明 = 柳川[[市町村章|市章]]<br />2005年3月21日制定 | 自治体名 = 柳川市 | 都道府県 = 福岡県 | コード = 40207-9 | 隣接自治体 = [[大川市]]、[[筑後市]]、[[みやま市]]、[[三潴郡]][[大木町]]<br />[[佐賀県]][[佐賀市]] | 木 = [[ヤナギ|柳]] | 花 = [[花菖蒲]]及び[[藤]] | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 832-8601 | 所在地 = 柳川市本町87-1<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-40|display=inline,title}}<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=250|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}}<br />[[ファイル:Yanagawa City Hall 2021.JPG|250px]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|40|207|image=Yanagawa in Fukuoka Prefecture Ja.svg|村の色分け=yes}} | 特記事項 = }} '''柳川市'''(やながわし)は、[[福岡県]]の[[筑後地方]]の南西部にある[[市]]。市域のうち旧柳川市域、旧三橋町域は[[福岡都市圏]]に属している。 == 概要 == [[筑後地方]]の主要都市であり、鉄道では[[福岡市]]から[[西鉄天神大牟田線]]で約45分、[[久留米市]]や[[大牟田市]]から約15分の距離にある。 市内を掘割が縦横に流れることから[[水の都]]と呼ばれ、筑後地方南西部における商業の中心地であるとともに、[[鰻のせいろ蒸し]]など鰻料理、[[掘割]]を使った川下り、旧藩主立花氏の別邸である[[立花氏庭園]](御花)が知られる。このほかにも[[干拓地]]を中心とした[[い草]]の栽培、[[有明海]]における海苔の養殖なども盛んである。 市域の中心部に旧[[柳河藩]]の城下町と西鉄柳川駅周辺からなる現在の市街地が形成されており、市街地を取り囲むように住宅地及び農地が広がっている。西鉄柳川駅周辺は福岡市の郊外・[[ベッドタウン]]の様相であり、城下町から発展した城内地区とは雰囲気が異なっている。市内を[[西鉄天神大牟田線]]が南北に貫いており、[[福岡市]]、[[久留米市]]への通勤路線となっている。 == 地理 == [[ファイル:Yanagawa city center area Aerial photograph.2008.jpg|thumb|380px|柳川市中心部周辺の空中写真。<br/>2008年5月3日撮影の12枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] 福岡県の南部、筑後地方の南西部に位置し、[[北九州市]]から南南西に約100&nbsp;km、[[福岡市]]から南に約50&nbsp;km、[[久留米市]]から南西に約20&nbsp;km、[[大牟田市]]から北西に約15&nbsp;kmの距離にある。 市のほぼ全域が平坦地であるため、市域面積77.2&nbsp;km{{Sup|2}}のうち、99.8%(約77.0&nbsp;km{{Sup|2}}) が可住地であり、可住地面積は県内6位の広さである<ref>[[国土地理院]]測図部「全国都道府県市区町村別面積調」[https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO-title.htm] より</ref>。 市形は南北12&nbsp;km、東西11&nbsp;kmのひし形ないしはダイヤモンド形をしているが、地理的な特徴を理解するには扇形と言ったほうがイメージに近い。即ち、市の北東部を扇の要に見立てると、西を[[筑後川]]、南東を[[矢部川]]という一級河川が扇の両端を形成しており、その間を矢部川から分岐した[[沖端川]]、二ツ川、塩塚川が市内を貫流する。矢部川を含めて各河川は扇の骨のように北東から南西方向に流れており、いずれも市の南西で[[有明海]]に注ぎ込む。そして、各河川から分流する掘割が市内を縦横に走っている。 市の全域が[[筑紫平野]]に含まれており、市の北東部2/3が沖積平野、南西1/3が干拓地で構成される。市域の多くは古くから人工的に開拓・干拓されてきた。干拓地は江戸時代から昭和にかけて徐々に造成されたため、海岸線に平行して各時代の[[干拓堤防]]と堤防沿いの集落が連なる。標高は最高でも5-6&nbsp;mしかない起伏の少ない低平地であり、有明海に向かって緩やかに傾斜している。 市の表層の全ては砂・礫・泥からなる沖積地堆積物で形成されており、そのうち表土層の5-20&nbsp;mには、極めて軟弱で含水比が70%と高い「有明粘土層」が分布している。筑紫平野の沖積地堆積物は厚く重なっており、基盤の深度は柳川付近で最深部を形成し、その深度は海面下900mを超えるとされる<ref>[http://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/39/pdf/39_03.pdf アーバンクボタ No.39-3「別府-島原地溝」] より</ref>。 === 隣接する市町村 === * [[福岡県]] ** [[大川市]] ** [[筑後市]] ** [[みやま市]] ** [[三潴郡]][[大木町]] * [[佐賀県]] ** [[佐賀市]]<ref group="注釈">佐賀市とは[[筑後川]]河口付近で隣接しているが、橋などはない。</ref> === 地名 === 三橋町・大和町の両町は従来の大字の前に旧町名を冠している。市外局番は全域が0944(瀬高MA)。 * 曙町(旧柳河町) * 旭町(旧柳河町) * 恵美須町(旧柳河町) * 鍛冶屋町(旧柳河町) * 片原町(旧柳河町) * 蟹町(旧柳河町) * 上町(旧柳河町) * 北長柄町(旧柳河町) * 京町(旧柳河町) * 糀屋町(旧柳河町) * 小道具町(旧柳河町) * 細工町(旧柳河町) * 材木町(旧柳河町) * 新船津町(旧柳河町) * 新町(旧柳河町) * 隅町(旧柳河町) * 辻町(旧柳河町) * 椿原町(旧柳河町) * 出来町(旧柳河町) * 常盤町(旧柳河町) * 中町(旧柳河町) * 西魚屋町(旧柳河町) * 八軒町(旧柳河町) * 東魚屋町(旧柳河町) * 保加町(旧柳河町) * 南長柄町(旧柳河町) * 本船津町(旧柳河町) * 元町(旧柳河町) * 八百屋町(旧柳河町) * 横山町(旧柳河町) * 一新町(旧城内村) * 奥州町(旧城内村) * 鬼童町(旧城内村) * 坂本町(旧城内村) * 新外町(旧城内村) * 城隅町(旧城内村) * 城南町(旧城内村) * 袋町(旧城内村) * 本城町(旧城内村) * 本町(旧城内村) * 宮永町(旧城内村) * 茂庵町(旧城内村) * 柳町(旧城内村) * 稲荷町(旧沖端村) * 沖端町(旧沖端村) * 矢留町(旧沖端村) * 筑紫町(旧沖端村:1953年、筑紫より町名設置) * 矢留本町(旧沖端村:1953年、矢留村より町名設置) * 下宮永町(旧東宮永村:1953年、下宮永より町名設置) * 佃町(旧東宮永村:1953年、佃より町名設置) * 上宮永町(旧西宮永村:1953年、上宮永より町名設置) * 弥四郎町(旧西宮永村:1953年、弥四郎より町名設置) * 吉富町(旧西宮永村:1953年、吉富より町名設置) * 有明町(旧両開村:1953年、西開より町名設置) * 大浜町(旧両開村:1953年、東開より町名設置) * 蒲生(旧蒲池村) * 金納(旧蒲池村) * 高島(旧蒲池村) * 立石(旧蒲池村) * 西蒲池(旧蒲池村) * 東蒲池(旧蒲池村) * 矢加部(旧蒲池村) * 久々原(旧久間田村→昭代村) * 田脇(旧久間田村→昭代村) * 七ツ家(旧久間田村→昭代村) * 間(旧久間田村→昭代村) * 古賀(旧浜武村→昭代村) * 西浜武(旧浜武村→昭代村) * 南浜武(旧浜武村→昭代村) * 吉原(旧浜武村→昭代村) * 橋本町(1953年、干拓により発足) * 昭南町(1964年、干拓により発足) ; 大和町 * 明野 * 栄 * 皿垣開 * 塩塚 * 鷹ノ尾 * 徳益 * 豊原 * 中島 * 六合 * 永田開(1923年、干拓により発足) * 谷垣(1929年、干拓により発足) * 大坪(1974年、干拓により発足) ; 三橋町 * 磯鳥 * 今古賀 * 枝光 * 江曲 * 起田 * 蒲船津 * 木元 * 五拾町 * 下百町 * 白鳥 * 高畑 * 棚町 * 垂見 * 中山 * 新村 * 久末 * 百町 * 藤吉 * 正行 * 柳河 * 吉開 === 人口 === {{人口統計|code=40207|name=柳川市|image=Population distribution of Yanagawa, Fukuoka, Japan.svg}} == 歴史 == 柳川地域の歴史は、約2千数百年前の弥生土器が柳川市郊外の[[蒲池]]地域に出土していることから古く、その頃からこの地域で稲作が始まったと推定されているが、都市としての柳川は、戦国時代に柳河城主の[[蒲池氏]]の城下として生まれ、安土桃山時代は[[田中氏]]の、江戸時代は[[立花氏]]の[[柳河藩]]の[[城下町]]となり現在に至る。 === 古代 === 市北部の[[蒲池]]地区、南東部の鷹尾地区には[[弥生時代]]の土器が出土している。869年に鷹尾地区に鷹尾神社が創建され、同神社の中世以降の文書は国の重要文化財に指定されている。 [[平安時代]]の[[承平天慶の乱#藤原純友の乱|藤原純友の乱]]の時には、[[大宰府]]を占領した純友の弟である[[藤原純乗]]が柳川まで進出したが、[[大宰権帥]]の[[橘公頼]]とその子の橘敏通が[[蒲池城]]で撃退した。敏通の子孫である大宰府官の[[筑後橘氏|橘氏]]が領主となる。 === 中世 === 12世紀には[[平家]]の落武者が柳川市沖の端地区に落ち延び定住したと伝えられる。 [[鎌倉時代]]に[[嵯峨源氏]]の流れを汲む源久直([[蒲池久直]])が[[地頭]]職となり、[[蒲池氏]]となる(蒲池氏は[[藤原純友]]の末裔との伝承もある)。[[室町時代]]に[[筑後宇都宮氏]]の[[宇都宮久憲]](蒲池久憲)が蒲池氏を継ぎ、南筑後での有力氏族となった。16世紀に[[蒲池治久]]が[[蒲池城]]の支城を築き、これが後の[[柳川城|柳河城]]となる。 === 近世 === [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[蒲池鑑盛]]が筑後[[守護職]]でもある[[大友氏]]方の[[国人]]領主となる一方で、大友氏、[[龍造寺氏]]、[[島津氏]]の有力な[[戦国大名]]の勢力が[[筑後国]]で激突したため、戦国後期での柳川を含めた筑後地方の歴史は複雑である。 [[1581年]]に[[蒲池鎮漣]](鎮並)が[[龍造寺隆信]]に謀殺され、柳河城は落城し龍造寺氏が進駐した。[[1584年]]には大友氏の[[高橋紹運]]・戸次道雪([[立花道雪]])が筑後へ進出すると、同年に島原の[[沖田畷の戦い]]で龍造寺氏を破った島津氏が[[1586年]]には筑後に進出。両者は筑後・筑前両国で争い、島津氏が優勢だったが[[1587年]]の[[豊臣秀吉]]の九州出陣によって九州は一挙に統一・平定された。 秀吉の九州仕置によって、高橋紹運の実子で立花道雪の養子となった[[立花宗茂]]が南筑後13万2千石の領主として柳河城に入城した。宗茂は朝鮮出兵に従軍し活躍したが、[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]で西軍についたため所領を没収された。 立花氏に代わって、関ヶ原で[[石田三成]]を捕らえる功を上げた田中吉政が[[岡崎城]]から筑後国32万5千石の領主として柳河城に入城し、柳河藩を立藩した。吉政は柳河城周辺の掘割整備のほかに、五層天守閣の構築に着手するなど、柳川の城下町としての基礎を整えた。さらに、矢部川の治水、有明海の干拓堤防の築堤(慶長本土居)、荒地開墾、交通網の整備(久留米柳川往還、現県道23号線)によって藩の財政的な基盤を固めた。 しかし、田中氏は2代で無嗣断絶。この間、立花宗茂は関ヶ原後に浪人となったが、[[徳川家康]]に引き上げられ陸奥[[棚倉藩|棚倉]]3万5千石の大名となっていた。宗茂は田中家断絶後の旧領柳河に10万9千石の大名として返り咲き、以後明治まで[[立花氏]]が藩主となる。 [[1697年]]に4代藩主[[立花鑑任]]が藩主別邸として「御花」こと「松涛館」を建設。御花は現在でも立花家現当主によって経営されており、一般に公開され、一部は宿泊、結婚式場としても利用されている。 [[1862年]]には[[横綱土俵入り]]の[[不知火型]]の創始者とも言われる[[雲龍久吉]]が10代[[横綱]]となった。 === 近現代 === 1871年(明治4年)の[[廃藩置県]]によって柳河藩は柳河県となり、その後柳河県は[[三潴県]](旧[[久留米藩]])に統合されたが、1876年(明治9年)に福岡県に編入されて落ち着いた。1872年(明治5年)の失火により天守閣を含む柳河城は全焼した。城跡は学校([[柳川市立柳城中学校]]・私立[[柳川高等学校]])となり、石垣は干拓地の堤防に利用されたため、城跡を示すものはわずかしか残っていない。 1937年(昭和12年)に電気鉄道の九州鉄道(現在の[[西鉄天神大牟田線]])が柳川経由で開通。現在では[[福岡都市圏|福岡]]で随一の通勤路線となっている。 1953年(昭和28年)6月に九州一帯を襲った[[昭和28年西日本水害]]では市内各所で被害。特に旧三橋町では、町域の大半が泥海と化した<ref>「久留米全市に避難命令」『日本経済新聞』1953年6月27日、9面</ref>。 ==== 行政区域の変遷 ==== {{日本の市 (廃止) | 廃止日 = 2005年(平成17年)3月21日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = '''柳川市'''(旧)、[[山門郡]][[三橋町]]、[[大和町 (福岡県)|大和町]] → 柳川市(新) | 現在の自治体 = 柳川市(新) | よみがな = やながわし | 自治体名 = 柳川市 | 画像 = | 市旗 = [[ファイル:Flag of Yanagawa, Fukuoka (1956–2005).svg|100px|柳川市旗]] | 市旗の説明 = 柳川[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:Emblem of Yanagawa, Fukuoka (1956–2005).svg|75px|柳川市章]] | 市章の説明 = 柳川[[市町村章|市章]]<br />[[1956年]][[2月2日]]制定 | 都道府県 = 福岡県 | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = | 人口の出典 = [[推計人口]] | 人口の時点 = | 隣接自治体 = [[大川市]]、[[三瀦郡]][[大木町]]、山門郡三橋町、大和町<br />[[佐賀県]]:[[佐賀郡]][[川副町]] | 木 = | 花 = | シンボル名 = | 鳥など = | 郵便番号 = 832-8601 | 所在地 = 柳川市本町87番地1 | 外部リンク = | InternetArchive = | 位置画像 = | 特記事項 = }} * 1889年([[明治]]22年)4月1日 - 町村制施行により、現在の市域にあたる以下の町村が発足。[[山門郡]][[柳河町]]・[[東宮永村]]・[[西宮永村]]・[[城内村 (福岡県)|城内村]]・[[沖端村]]・[[両開村]]・[[川北村 (福岡県)|川北村]]・[[川辺村 (福岡県)|川辺村]]・[[宮ノ内村]]・[[垂見村]]・[[塩塚村]]・[[鷹尾村]]・[[有明村 (福岡県)|有明村]]。[[三潴郡]][[浜武村]]・[[久間田村 (福岡県)|久間田村]]・[[蒲池村]]。 * 1907年(明治40年)3月20日 - 川北村・川辺村・宮ノ内村・垂見村が対等合併し、三橋村が発足。塩塚村・鷹尾村・有明村が対等合併し、大和村が発足。 * 1937年([[昭和]]12年)1月1日 - 浜武・久間田両村が対等合併して[[昭代村]]が誕生する。 * 1951年(昭和26年)4月1日 - 柳河町と東宮永・西宮永・城内・沖端・両開の5村が対等合併し、'''柳川町'''が発足。 * 1952年(昭和27年)4月1日 - 柳川町が市制施行。'''柳川市'''となる。 * 1952年(昭和27年)6月1日 - 三橋村が町制施行。[[三橋町]]となる。 * 1952年(昭和27年)9月1日 - 大和村が町制施行。[[大和町 (福岡県)|大和町]]となる。 * 1955年(昭和30年)1月1日 - 昭代・蒲池の2村を柳川市に編入。 * 2005年([[平成]]17年)3月21日 - 柳川市・三橋町・大和町が対等合併して、新市制による'''柳川市'''が発足(旧柳川市は解散)。 旧来の柳川市と三橋町は市街地が連続するなど一体化していることから、「柳川」の名を冠した官庁や西鉄の駅が旧三橋町域にあるという事態が長く続いていたが、2005年(平成17年)の合併で名実ともに「柳川市」に存在することとなり、違和感は解消されつつある。しかしその一方で、他の合併都市にもみられるように、旧市町の“壁”を取り払った、市全体としての街づくりが課題となっている。 旧三橋町域にある「柳川」「柳河」の名がついた主な施設としては以下のものがある。 * 福岡県柳川総合庁舎(南筑後県土整備事務所柳川支所、南筑後保健福祉環境事務所、大牟田県税事務所山門地区県税相談窓口など) * [[福岡県警察]][[柳川警察署]] * [[西鉄柳川駅]](特急停車駅。市内に無いにもかかわらず、旧柳川市においても中心駅として機能していた) * [[福岡県立柳河特別支援学校]] また、旧三橋町には柳河という大字が存在した(現・柳川市三橋町柳河)。1987年に廃止された[[佐賀線]]の[[筑後柳河駅]]は上記の三橋町大字柳河に所在した。 === 歴代市長 === 2005年(平成17年)3月21日、隣接する[[三橋町]]・[[大和町 (福岡県)|大和町]]と対等合併し、旧市名はそのままに新市制が施行された。 {| class="wikitable" style="font-size:90%;" |- ! 代 !! 氏名 !! 就任日 !! 退任日 !! 備考 |- ! colspan="5" | 旧・柳川市長 |- |初-2||古賀慶蔵||1952年4月1日||1959年4月30日|| |- |3-7||古賀杉夫||1959年5月1日||1979年4月30日|| |- |8-9||乗富光義||1979年5月1日||1985年7月26日||収賄容疑で逮捕され辞職 |- |10-13||小宮徹||1985年9月8日||2001年9月7日|| |- |14||河野弘史||2001年9月8日||2005年3月20日|| |- ! colspan="5" | 柳川市長 |- |- ||rowspan="1"|矢ケ部広巳||2005年3月21日||2005年4月24日||市長職務執行者 |- |初||rowspan="1"|[[石田宝蔵]]||2005年4月24日||2009年4月23日||旧大和町長 |- |2-5||rowspan="1"|[[金子健次]]||2009年4月24日||現職|| |- |} == 行政 == === 市長 === * 金子健次(4期目) * 任期:2025年4月23日 === 市議会 === * 定数:19人 * 任期:2026年10月20日 === 役所所在地 === 市議会設置庁舎は柳川庁舎。 * 柳川庁舎(本庁): 柳川市本町87番1号 * 三橋庁舎(支庁): 柳川市三橋町正行431番地 * 大和庁舎(支庁): 柳川市大和町鷹ノ尾120番地 === 財政状況 === 2007年度の[[実質収支比率]]は2.4と、単年度の収支は比較的健全な状況にある(比較可能な県内26市のうち15位)。しかし、[[財政力指数]]は0.43と低い(同26市のうち22位)。これは、市の歳入構造が[[地方交付税交付金]]に偏っており、[[地方税]]などの独自財源に乏しいことを示している。2007年度の歳入総額に占める地方税収の比率は20%にとどまっている(比較可能な県内26市のうち23位)。独自財源が乏しく地方交付税への依存度が高いため、国の財政再建の影響を受けやすい体質にある。 === 再開発事業 === 現在、西鉄柳川駅・中島駅周辺で2つの事業が行われている。 ; 柳川駅東部土地区画整理事業 : これは、有明海沿岸道路の建設が予定されている、柳川駅東側で東口を開設することにより、同駅を中心とした市街地の形成、市東部住民の利便性向上並びに通勤時間帯を中心に駅送迎の車で渋滞の激しい西口の混雑緩和を狙うものである。 : 東口駅舎の完成は平成26年春の予定で、同時に東西自由通路や西口駅前広場の再整備も行われ、交通の結節機能が向上する見込み。 ; 中島地区密集住宅地改善事業 :これは、住宅や商店が密集している中島駅周辺で、住環境の改善を図る事業である。 === 公共施設 === [[ファイル:Yanagawa Museum of Ancient Documents 1.JPG|thumb|250px|柳川古文書館]] * 柳川市民文化会館 * 柳川市民体育館 * 柳川古文書館 * 柳川市立図書館 * [[柳川市消防本部]] ** 柳川消防署 ** 柳川消防署東部出張所 * [[福岡県警察]][[柳川警察署]]管内 ** 昭代交番 ** 京町交番 ** 大和交番 ** 西鉄駅前交番 ** 金納駐在所 ** 垂見駐在所 治安状況は総じて安全である。2005年における刑法犯認知件数は981件と前年(1022件)から4%減少した。人口比発生率は1.32%であり、福岡県平均2.11%はもちろん、全国平均1.78%よりも低く、県内28市のなかでは4位の低さである<ref>警察庁刑事局「犯罪統計書」より</ref>。交通事故発生件数は667件と前年(681件)から減少した。人口比発生率は0.89%と全国平均0.73%をやや上回るものの、福岡県平均1.03%よりも低い<ref>警察庁交通局「交通統計」より</ref>。 === 姉妹・友好都市 === * {{Flagicon|JPN}}[[竹田市]]([[大分県]]) ** 1982年4月3日姉妹都市締結<ref name="sister cities">[http://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/political/simai.html 柳川市WEBサイト:姉妹都市]</ref> * {{Flagicon|JPN}}[[延岡市]]([[宮崎県]]) ** 1984年11月6日友好都市締結<ref name="sister cities" /> * {{Flagicon|NED}} [[:en:Steenwijkerland|Steenwijkerland]]([[オランダ]]、旧[[:en:Brederwiede|Brederwiede]]、1973年〜、継続不明)<ref>[http://www.nl.emb-japan.go.jp/organizations2/organizations.html 在オランダ日本大使館HP "Japan-related Organizations"]</ref> == 教育 == === 高等学校 === * [[福岡県立伝習館高等学校]] * 学校法人柳商学園[[柳川高等学校]] * 学校法人杉森学園[[杉森高等学校]] === 中学校 === ; 市立 * 柳川市立柳城中学校 * 柳川市立柳南中学校 * 柳川市立昭代中学校 * 柳川市立蒲池中学校 * 柳川市立三橋中学校 * 柳川市立大和中学校 === 小学校 === ; 市立 {{Col| * 柳川市立柳河小学校 * 柳川市立城内小学校 * 柳川市立蒲池小学校 * 柳川市立昭代第一小学校 * 柳川市立昭代第二小学校 * 柳川市立東宮永小学校 * 柳川市立矢留小学校 * 柳川市立両開小学校 * 柳川市立藤吉小学校 * 柳川市立矢ヶ部小学校 | * 柳川市立二ツ河小学校 * 柳川市立中山小学校 * 柳川市立垂見小学校 * 柳川市立中島小学校 * 柳川市立大和小学校 * 柳川市立皿垣小学校 * 柳川市立有明小学校 * 柳川市立豊原小学校 * 柳川市立六合小学校 }}{{Clear|left}} === その他の学校 === ; 特別支援学校 * [[福岡県立柳河特別支援学校]] ; 専修学校・専門学校 * [[ハリウッドワールド美容専門学校]] * [[学校法人高木学園]][http://yanagawa.takagigakuen.ac.jp/ 専門学校柳川リハビリテーション学院] ; その他 * [[やまと学校]] - ボートレーサー養成所。 == 産業 == [[ファイル:Paddy field in Yanagawa, Fukuoka.JPG|thumb|250px|旧[[柳川城|柳河城]]下地区の[[田んぼ]]]] 市内総生産: 1,911億円(2007年度) * 第一次産業 - 146億円(従事者は13.1%): 干拓地における米・イグサの栽培、有明海沿岸部における[[海苔]]の養殖、漁業。 * 第二次産業 - 359億円(従事者は28.1%): IC(集積回路)関連の事業所や市西部での木工産業などが立地。 * 第三次産業 - 1452億円(従事者は57.9%): 観光業が盛んなほか、市中心部において商業施設・事業所が集積。 * 昼夜人口比率は91.5%<ref>[http://www.stat.go.jp/data/ssds/5b.htm 「統計でみる市区町村のすがた2006」] より</ref> * 平成17年国勢調査によれば、他主要都市での従業・通学者数は、福岡市1826人、久留米市2666人、大牟田市2264人、大川市2778人、筑後市1233人となっている。第一次産業、第二次産業、第三次産業である<ref>[http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2005/kihon2/40/hyodai.htm 「平成17年国勢調査 第2次基本集計結果(40福岡県)統計表」] より</ref>。 === 漁港 === * 沖端漁港 * 久間田漁港 * 両開漁港 * 東宮永漁港 * 有明漁港 * 皿垣開漁港 * 中島漁港 === 特産品 === * 有明[[海苔]] * 粕漬([[タイラギ]]、[[ウミタケガイ]]) * [[ウナギ|うなぎ]]の[[蒸籠]]蒸し * 水産品([[コウライアカシタビラメ|クッゾコ]]、[[ワラスボ]]、[[ムツゴロウ]]、[[シャコ|シャッパ]]、タイラギ、[[アサリ]]、[[サルボウ]]、[[シャミセンガイ|メカジャ]]、[[イソギンチャク|ワケ]]など) * [[柳川まり]] * 柳川神棚 * 流しびな * [[クラゲ素麺]] === 企業 === * [[西日本ガス]] * [[柳川農業協同組合]] === 主な商業施設 === * 柳川ショッピングモール * [[ゆめモール柳川]] == 交通 == === 鉄道 === * [[西日本鉄道]] ** [[西鉄天神大牟田線|天神大牟田線]]([[福岡市]]〜[[久留米市]]〜'''柳川市'''〜[[大牟田市]]) *** - [[蒲池駅 (福岡県)|蒲池駅]] - [[矢加部駅]] - '''[[西鉄柳川駅]]''' - [[徳益駅]] - [[塩塚駅]] - ([[中島信号場]]) - [[西鉄中島駅]] - 中心駅は西鉄柳川駅であり[[特別急行|特急]]を含むすべての列車(特別料金不要)が停車する。また、2005年の合併以前に柳川市内にあったのは蒲池駅だけである。また、市内区間はすべて単線となっている。 ; 廃止路線 * 1932年(昭和7年)2月21日まで[[柳河軌道]]が柳河町と[[瀬高町]](いずれも当時)の矢部川駅(現瀬高駅)を結んでいた。御仁橋、三橋、蒲船津、柳河の4駅が存在した。後述の国鉄佐賀線開業に伴い廃線となった。 * 1987年(昭和62年)3月28日まで[[日本国有鉄道|国鉄]][[佐賀線]]が市内を通り佐賀市と瀬高町を[[諸富町]](当時)および[[大川市]]経由で結んでおり、旧三橋町内に[[三橋駅|三橋]]、[[百町駅|百町]]、[[筑後柳河駅|筑後柳河]]の3駅が存在した。のちに後述の並行するバス路線が開設されたことで旅客がバスに流れ、[[特定地方交通線]]に指定され廃止された。 === バス === * [[西鉄バス]]([[西鉄バス久留米]]) - 西鉄柳川駅を起終点とし、[[大川市]]中心部を経て[[佐賀市]]に至る路線と、市北西部の沖ノ端・昭代地区および大川市南部の川口・[[大野島]]を経て佐賀市南東部の早津江に至る路線の2路線。 ** 1:西鉄柳川 - 兼木 - 中原 - 大川橋 - 諸富 - 南佐賀 - [[佐賀駅バスセンター]] ** 6:西鉄柳川 - 御花前 - 昭代支所前 - 大野島農協前 - 早津江 * [[堀川バス]] - 西鉄柳川駅を経由して柳川市中心部と[[瀬高駅]]を結ぶ路線を運行する。 ** 瀬高駅前 - [[福岡県立山門高等学校|山門高校]]前 - 三橋 - 西鉄柳川 - 布橋 - 杉森高校前 - 亀の井ホテル柳川 * [[柳川市コミュニティバス]]「べにばな号」 - コミュニティバス。主に西鉄バス・堀川バスの沿線以外の市内各地で曜日を限定して運行する。 === 道路 === ==== 高速道路 ==== * [[有明海沿岸道路]]([[地域高規格道路]]) ** [[大和南インターチェンジ|大和南IC]] - [[大和北インターチェンジ|大和北IC]] - [[徳益インターチェンジ|徳益IC]] - [[柳川東インターチェンジ|柳川東IC]] - [[柳川西インターチェンジ|柳川西IC]] ==== 一般国道 ==== * [[国道208号]] * [[国道385号]] * [[国道443号]] ==== 県道 ==== * 主要地方道 ** [[福岡県道・佐賀県道18号大牟田川副線]] ** [[福岡県道23号久留米柳川線]] ** [[福岡県道83号大和城島線]] * 一般県道 ** [[福岡県道702号柳川城島線]] ** [[福岡県道703号柳川筑後線]] ** [[福岡県道714号高田柳川線]] ** [[福岡県道716号水田大川線]] ** 福岡県道766号橋本辻町線 ** 福岡県道767号本町新田大川線 ** 福岡県道769号新田西蒲池線 ** 福岡県道770号枝光今古賀線 ** 福岡県道771号谷垣徳益線 ** 福岡県道772号徳益蒲船津線 ** 福岡県道773号木元白鳥線 ==== 市道 ==== * 柳川市道内堀線(水辺の散歩道) *: 市街地を東西に流れる幹線水路に沿う約800メートル区間の市道で、「水辺の散歩道」とも呼ばれている。1979年(昭和54年)[[国土庁]]の[[伝統的文化都市環境保存地区]]整備事業として環境整備と併せて整備された遊歩道で、1986年(昭和61年)8月10日に、旧[[建設省]]と「道の日」実行委員会により制定された「[[日本の道100選]]」に選定されている{{Sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=195}}。東から西へ順に、A・B・Cの三つのゾーンで構成される。Aゾーンはかつて袋小路と呼ばれた通りで、掘割の護岸は自然石、路面は木目入りコンクリート平板と木レンガの舗装がなされており、北原白秋の袋町遊歩道歌碑と白秋の高弟である[[宮柊二]]の歌碑が建立されている{{Sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=195}}。Bゾーンは、玉石護岸に植栽を残す掘割沿いの道で、対岸には「花菖蒲園」があり5月下旬から6月上旬にかけての[[ハナショウブ]]開花期は最も観光客で賑わう{{Sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=195}}。Cゾーンは石畳と砂敷を調和させた舗装の通りで、沿道に[[木村緑平]]句碑、[[長谷健]]文学碑、[[河野静雲]]句碑、白秋の「弥兵衛門橋の歌碑」のほか、世に珍しい「うなぎ供養碑」がある{{Sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=195}}。 == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == === 名所・旧跡・観光スポット === * 柳川川下り * [[立花氏庭園]](御花・松濤園) - 国の[[名勝]]。 * [[旧戸島家住宅]] - 庭園は国の名勝。 * [[柳川城|柳川城址]] - 国史跡。 * [[北原白秋生家]]・[[北原白秋記念館]] * 市内に多数ある[[北原白秋]]、[[檀一雄]]、[[長谷健]]、[[木村緑平]]などの[[石碑|歌碑、詩碑、句碑]] * [[矢留大神宮]] * [[沖端水天宮]] * [[三柱神社 (柳川市)|三柱神社]] - 2005年に放火による火災で大部分が焼失した。 * 史跡・塩塚百八人塚(史跡・[[蒲池鎮漣]]夫人他百八人殉難之地) * 並倉 * 中山熊野神社 - 境内に樹齢約300年とされる福岡県指定天然記念物の[[フジ (植物)|野田藤]]「中山大藤」があり、毎年4月下旬の藤の開花シーズンに「中山大藤まつり」が開催される。 * 中島の朝市 * [[カササギ]]生息地 - 市域全域のほか、福岡・佐賀両県にまたがる生息地が国の[[天然記念物]]に指定されている。 * 柳川大仏(三橋町吉開) * [[弥剣神社 (柳川市)|弥剣神社]] * 涅槃像 - 等応寺 * 柳川ひまわり園 - 両開地区の干拓地の一角にあり、例年7月下旬に開園する。 * [[福厳寺]] * [[良清寺]] * [[崇久寺]] === 祭事・催事 === * [[さげもん]](柳川雛祭り): 2月下旬〜4月3日 * 沖端水天宮祭: 5月3日〜5日 * 中島祇園祭り: 7月 * おにぎえ: 10月 * 白秋祭: 11月1日〜3日 === 百選 === * [[かおり風景100選]]: 柳川川下りとうなぎの蒸籠蒸し * [[日本の道100選]]: 水辺の散歩道{{Sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=194}} * [[水の郷百選]]: 水辺とひとが輝くまち 柳川 * [[疏水百選]]: 柳川の堀割 <gallery> Yanagawa Ohana 200223a.jpg|[[立花氏庭園|松濤園]] Old_Toshima_House06s5s3200.jpg|旧戸島家住宅 Yanagawa Sagemon.jpg|[[さげもん]]での[[吊るし飾り]] Nakayama-Ofuji 2.jpg|中山大藤 Yanagawa eel steamed in a basket.JPG|うなぎの蒸籠蒸し </gallery> == 文化 == 詩人、[[北原白秋]]の故郷でもあり{{Sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=194}}、生家が今日も保存されている。市内には、ゆかりの北原白秋、[[檀一雄]]、長谷健他の歌碑、詩碑、句碑が多数ある。 実写映画『[[柳川堀割物語]]』(製作[[宮崎駿]]、監督[[高畑勲]])は、住民が荒廃した掘割の再生に取り組むさまを記録したドキュメンタリーである。架空の町を舞台とする『[[廃市]]』(原作[[福永武彦]]、監督[[大林宣彦]])も柳川で撮影が行われた。 写真家[[荒木経惟]]・陽子夫妻は新婚旅行で柳川を訪れ、写真集「[[センチメンタルな旅]]」として出版した。また、彼らのエッセイをもとにした「[[東京日和 (映画)|東京日和]]」(監督・主演[[竹中直人]])でもこの「センチメンタルな旅」の写真をもとにした柳川のシーンが描かれている。 このほかに、日本文学研究者の[[藤村作]]、作家の[[長谷健]]、俳人の[[木村緑平]]、哲学者の[[廣松渉]]、俳優の[[妻夫木聡]]、歌手の[[徳永英明]]の実家、歌手の[[松田聖子]]の実家([[蒲池氏#子孫たち|蒲池家]])の[[良清寺|菩提寺]]もある。 柳川を舞台とするアニメ映画として『[[ドットハック セカイの向こうに]]』がある。柳川を舞台とするドキュメンタリーとして[[新日本風土記]]「水郷 柳川」(2020年10月23日、[[NHK-BSプレミアム|NHK-BSP]])がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/fudoki/ts/X8R36PYLX3/episode/te/VGJRJM5Y7P/ |title=水郷 柳川 |date=2021-07-23 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/J1SJh |archivedate=2021-07-16 |accessdate=2021-07-25}}</ref>。 === 掘割 === [[ファイル:Hakushusai yanagawa 2005.jpg|thumb|300px|right|白秋祭での掘割の夜景]] 掘割は、クリークとも呼ばれる水路であり、柳川を含めた筑紫平野南部に一般的に存在する。筑紫平野南部では[[六角川]]・[[嘉瀬川]]・筑後川・矢部川などの主要河川が有明海に注ぎ込んでおり、中世以前には低湿地帯が広がっていた。[[中世]]以降、徐々に低湿地帯を掘削・開墾(土地かさ上げによる乾田化)することで人工的な農地が形成されてきたが、掘削後の水路が掘割と呼ばれることとなった。 柳川市内の掘割は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の領主[[蒲池鑑盛]]が[[柳川城]]の水の防壁として開発し、柳川城を九州屈指の難攻不落の堅城としたが、近世都市との関連では立花氏に先立つ領主[[田中吉政]]によって整備され、上水道・農業用水路・洪水予防の貯水路としての機能が強化された。上水道網が完備する昭和40年代までは掘割は上水道・水運など生活用水としての役割を担っていた{{Sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=194}}。しかし、上水道網・道路網の整備が進むに連れて掘割の清掃がなされなくなり、掘割は水草に埋没し、ゴミの不法投棄が横行した。柳川出身の作家[[檀一雄]]は、当時の市長に「我が故郷はシブタも住まず蚊蚊ばかり」という句を送り、往時の姿を失った掘割を嘆いている(シブタとは小魚の一種)<ref>「[[柳川堀割物語]]」より</ref>。 1977年(昭和52年)には、柳川市街地の掘割を暗渠・埋め立てする計画が市議会により承認され実施直前であったが、下水道係長であった[[広松伝]]の研究・啓蒙活動を受けて、市長[[古賀杉夫]]の判断により一転して掘割の保存、整備を進めることとなった。1978年(昭和53年)に、掘割の浚渫や排水規制を主体とする河川浄化計画が実施され、柳川の掘割は蘇った<ref>[https://www.mlit.go.jp/crd/city/mint/htm_doc/db/134yanagawa.html まち再生事例データベース 事例134 「水辺とひとが輝くまち」] 参照</ref><ref>[https://www.mlit.go.jp/crd/city/mint/htm_doc/pdf/134yanagawa.pdf 同上、詳細情報]</ref>。しかし、化学薬品の流入や一般家庭の生活廃水による富栄養化の問題、下水道整備の不足など、掘割の再生は途上である。 柳川市の掘割の総延長は930&nbsp;kmであり、貴重な農業水利および、市街域の掘割を巡る「川下り」の舞台として観光資産となっている{{Sfn|「日本の道100選」研究会|2002|p=194}}。 <gallery> Yanagawa kawakudari2.jpg|新外町乗船場 橋が低いので伏せる 柳川川下り (19016709711).jpg|橋が低いので伏せる客 船頭さん (18987393756).jpg|橋を乗り越える船頭 Fukuoka Yanagawa02s3200.jpg|掘割脇のレンガ倉庫 </gallery> == 関連人物 == === 出身の人物 === [[ファイル:Kotoshogiku-1.jpg|thumb|靖国神社奉納大相撲で土俵入りする琴奨菊]] * [[北原白秋]](詩人)(1885~1942) * [[菅原杜子雄]](詩人) * [[長谷健]](作家)(1904~1957) * [[檀一雄]](作家)(1912~1976) * [[木村緑平]](俳人)(1888~1968) * [[藤村作]](国文学者)(1875~1953) * [[廣松渉]](哲学者)(1933~1994) * [[海老名弾正]](キリスト教思想家・同志社総長)(1856~1937) * [[川辺御楯]]([[日本画家]])(1838~1905) * [[村石米齋]]([[書道家]]・[[画家]]) * [[井上佐由紀]](写真家) * [[富重利平]](写真家)(1837~1922) * [[中山岩太]](写真家)(1895~1949) * [[雲龍久吉]](力士・第10代[[横綱]])(1823~1890) * [[佐賀ノ海初太郎]](力士・元[[前頭]])(1884~1937) * [[大潮英雄]](力士・元[[十両]]) * [[大蛇川覚]](力士・元[[十両]])(1938~1985) * [[富士の岩秀之]](力士・元[[十両]]) * [[琴奨菊和弘]](力士・第242代元[[大関]]) * [[筑後山一政]](力士・元[[十両]])(1926~1978) * [[園田勇]](柔道選手) * [[小野英二郎]](銀行家・第4代[[日本興業銀行]]総裁)(1864~1927) * [[渡邊正光]]([[福岡市]][[副市町村長|副市長]])(1953~2017) * [[徳永英明]](歌手) * [[妻夫木聡]]([[俳優]]) * [[北山たけし]](歌手) * [[台所おさん]]([[落語家]]) * [[勝山慎司]]([[お笑いタレント]]・[[ムーディ勝山]]) * [[もとむらえり]]([[漫画家]]) * [[井口卓人]]([[レーシングドライバー]]) * [[坂井淳子]](フリーアナウンサー・元[[エフエム宮崎|FM宮崎]]アナウンサー) * [[内山田洋]]([[作曲家]]・[[内山田洋とクールファイブ]]のリーダー)(1936~2006) * [[金子剛 (サウンドクリエーター)]]([[ゲームミュージック]]、[[作曲家]]) * [[足立賢明]]([[いきものがかり]] サポートメンバー マニピュレーター) * [[田口悌治]]([[ジャズ]][[ギタリスト]]) * [[目野哲也]]([[中央競馬]][[調教師]]) * [[坂井聖人]](水泳選手・2016年リオデジャネイロ・オリンピック 男子200m[[バタフライ]]銀メダリスト) * [[柿木映二]](元プロ野球選手・投手・[[福岡ソフトバンクホークス]]) * [[堤なぎさ|黒滝サク]](モデル・タレント) *[[坂口カンナ]](ローカルタレント・ラジオDJ) *[[大木史郎|大木史朗]](俳優) *[[大曲錬]](プロ野球選手・投手・[[埼玉西武ライオンズ]]) *[[古賀優大]](プロ野球選手・捕手・[[東京ヤクルトスワローズ (ファーム)|東京ヤクルトスワローズ]]) === ゆかりの人物 === * [[小野俊一]](動物学者、社会運動家) - 父の小野英二郎が柳川市出身。(1892~1958) * [[オノ・ヨーコ]](芸術家) - 祖父の小野英二郎が柳川市出身。 * [[松岡修造]](元プロテニス選手、テニス解説者) - [[柳川高等学校]]出身。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=「日本の道100選」研究会|title=日本の道100選〈新版〉|publisher=[[ぎょうせい]]|editor=国土交通省道路局(監修)|date=2002-06-20|isbn=4-324-06810-0|ref=harv}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Yanagawa|Yanagawa, Fukuoka}} * {{Official website}} * {{Facebook|city.yanagawa|広報柳川}} * [http://www.yanagawa-net.com/ 柳川市観光協会] * [https://www.gappei-archive.soumu.go.jp/db/40huku/170-yanagawa/index.html 柳川市・大和町・三橋町合併協議会] {{福岡県の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:やなかわし}} [[Category:福岡県の市町村]] [[Category:城下町|やなかわ]] [[Category:蒲池氏|*]] [[Category:立花左近将監家|*]] [[Category:柳川市|*]] [[Category:1951年設置の日本の市町村]] [[Category:2005年設置の日本の市町村]]
2003-11-02T16:16:35Z
2023-11-25T08:39:47Z
false
false
false
[ "Template:日本の市", "Template:Notelist", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:Official website", "Template:Sup", "Template:人口統計", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commons&cat", "Template:日本の市 (廃止)", "Template:Flagicon", "Template:Sfn", "Template:福岡県の自治体", "Template:国土航空写真", "Template:Col", "Template:Clear", "Template:Reflist", "Template:Facebook", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B8%82
955,653
アメリカバク
アメリカバク(Tapirus terrestris)は、奇蹄目バク科バク属に分類されるバク。別名ブラジルバク。 アルゼンチン、エクアドル、ガイアナ、コロンビア、スリナム、パラグアイ、ブラジル、仏領ギアナ、ベネズエラ、ペルー、ボリビア 体長オス204センチメートル、メス221センチメートル。肩高77 - 108センチメートル。体重150 - 250キログラム。全身は短い体毛で被われる。咽の体毛は淡褐色。頚部の毛はやや鬣状に伸長する。 出産直後の幼獣は体重3.2 - 5.8キログラム。幼獣は全身濃褐色の体毛に白い縦縞が入る。 水辺の森林や湿地に生息する。種小名 terrestris は「大地の」の意。群れは形成せず、単独もしくはペアで生活する。木などに尿を噴きつけ縄張りを主張する。夜行性で、昼間は茂みの中などで休む。水浴びを好み泳ぎや潜水も上手く、5分以上水中に潜ることができる。 食性は植物食で、草、木の葉、小枝、樹皮、果実、水草などを食べる。捕食者はジャガー・ピューマ・ワニなどが挙げられる。外敵に襲われると水や藪の中へ逃げ込む。 繁殖様式は胎生。発情周期は50 - 80日で、発情期間は48時間。周年繁殖し、妊娠期間は335 - 439日。1回に1頭の幼獣を産む。授乳期間は生後6 - 8か月。メスは生後2 - 3年で性成熟する。飼育下での寿命は35年。 生息地では食用にされることもあり、皮は紐や鞭として利用された。 森林伐採による生息地の破壊、家畜との競合、食用の狩猟などにより生息数は減少している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アメリカバク(Tapirus terrestris)は、奇蹄目バク科バク属に分類されるバク。別名ブラジルバク。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アルゼンチン、エクアドル、ガイアナ、コロンビア、スリナム、パラグアイ、ブラジル、仏領ギアナ、ベネズエラ、ペルー、ボリビア", "title": "分布" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "体長オス204センチメートル、メス221センチメートル。肩高77 - 108センチメートル。体重150 - 250キログラム。全身は短い体毛で被われる。咽の体毛は淡褐色。頚部の毛はやや鬣状に伸長する。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "出産直後の幼獣は体重3.2 - 5.8キログラム。幼獣は全身濃褐色の体毛に白い縦縞が入る。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "水辺の森林や湿地に生息する。種小名 terrestris は「大地の」の意。群れは形成せず、単独もしくはペアで生活する。木などに尿を噴きつけ縄張りを主張する。夜行性で、昼間は茂みの中などで休む。水浴びを好み泳ぎや潜水も上手く、5分以上水中に潜ることができる。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "食性は植物食で、草、木の葉、小枝、樹皮、果実、水草などを食べる。捕食者はジャガー・ピューマ・ワニなどが挙げられる。外敵に襲われると水や藪の中へ逃げ込む。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "繁殖様式は胎生。発情周期は50 - 80日で、発情期間は48時間。周年繁殖し、妊娠期間は335 - 439日。1回に1頭の幼獣を産む。授乳期間は生後6 - 8か月。メスは生後2 - 3年で性成熟する。飼育下での寿命は35年。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "生息地では食用にされることもあり、皮は紐や鞭として利用された。", "title": "人間との関係" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "森林伐採による生息地の破壊、家畜との競合、食用の狩猟などにより生息数は減少している。", "title": "人間との関係" } ]
アメリカバクは、奇蹄目バク科バク属に分類されるバク。別名ブラジルバク。
{{生物分類表 |省略 = 哺乳綱 |名称 = アメリカバク |画像=[[ファイル:Brazilian_tapir_zoo.JPG|250px|アメリカバク]] |画像キャプション = '''アメリカバク''' ''Tapirus terrestris'' |status = VU |status_ref = <ref name="cites">[https://cites.org/eng/app/appendices.php Appendices I, II and III]<http://www.cites.org/>(accessed December 15, 2015) </ref><ref name="iucn">Naveda, A., de Thoisy, B., Richard-Hansen, C., Torres, D.A., Salas, L., Wallance, R., Chalukian, S. & de Bustos, S. 2008. ''Tapirus terrestris''. The IUCN Red List of Threatened Species 2008: e.T21474A9285933. {{doi|10.2305/IUCN.UK.2008.RLTS.T21474A9285933.en}}. Downloaded on 15 December 2015.</ref> |status_text = [[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]附属書II |目 = [[奇蹄目]] [[w:Odd-toed_ungulate|Perissodactyla]] |亜目 = [[有角亜目]] [[w:Odd-toed ungulate#Taxonomy|Ceratomorpha]] |上科 = [[w:Tapiroidea|Tapiroidea]] |科 = [[バク科]] [[w:Tapir|Tapiridae]] |属 = [[バク科|バク属]] [[w:Tapir|''Tapirus'']] |種 = '''アメリカバク''' ''T. terrestris'' |学名 = ''Tapirus terrestris'' ([[カール・フォン・リンネ|Linnaeus]], [[1758年|1758]])<ref name="grubb">Peter Grubb, "[http://www.departments.bucknell.edu/biology/resources/msw3/browse.asp?id=14100043 ''Tapirus terrestris'']," ''Mammal Species of the World'', (3rd ed.), Volume 1, Don E. Wilson & DeeAnn M. Reeder (ed.), Johns Hopkins University Press, 2005, p. 634.</ref><ref name="padilla_dowler">Miguel Padilla and Robert C. Dowler, "''Tapirus terrestris''," ''Mammalian Species'', No. 481, American Society of Mammalogists, 1994, pp. 1-8. </ref> |シノニム = ''Hippopotamus terrestris''<br />Linnaeus, 1758<ref name="padilla_dowler"/> |和名 = アメリカバク<ref>今泉吉典, 松井孝爾 「アメリカバク」『原色ワイド図鑑3 動物 改定新版』、[[学研ホールディングス|学習研究社]]、[[1984年]]、92、182頁。</ref><ref name="miura">三浦慎悟 「アメリカバク」『小学館の図鑑NEO 動物』、[[小学館]]、[[2002年]]、82頁。</ref> |英名 = [[w:South American_tapir|Brazilian tapir<br />Lowland tapir<br />South American tapir]]<ref name="luxenberg">Luxenberg, S. 2014. "''Tapirus terrestris''" (On-line), Animal Diversity Web. Accessed December 15, 2015 at http://animaldiversity.org/accounts/Tapirus_terrestris/</ref> |生息図=[[ファイル:Tapirus_terrestris_range.png|250px|分布域]] }} '''アメリカバク'''(''Tapirus terrestris'')は、[[奇蹄目]][[バク科|バク科バク属]]に分類されるバク。別名'''ブラジルバク'''<ref name="miura"/>。 == 分布 == [[アルゼンチン]]、[[エクアドル]]、[[ガイアナ]]、[[コロンビア]]、[[スリナム]]、[[パラグアイ]]、[[ブラジル]]、[[フランス領ギアナ|仏領ギアナ]]、[[ベネズエラ]]、[[ペルー]]、[[ボリビア]]<ref name="iucn"/> == 形態 == [[体長]]オス204センチメートル、メス221センチメートル<ref name="padilla_dowler"/><ref name="luxenberg"/>。肩高77 - 108センチメートル<ref name="padilla_dowler"/><ref name="luxenberg"/>。[[体重]]150 - 250キログラム<ref name="luxenberg"/>。全身は短い体毛で被われる。咽の体毛は淡褐色。頚部の毛はやや鬣状に伸長する。 出産直後の幼獣は体重3.2 - 5.8キログラム。幼獣は全身濃褐色の体毛に白い縦縞が入る。 == 分類 == ;''Tapirus terrestris terrestris'' :ガイアナ、スリナム、ブラジル、仏領ギアナ<ref name="luxenberg"/> ;''Tapirus terrestris aenigmaticus'' :エクアドル東部、コロンビア東部、ペルー北東部<ref name="luxenberg"/> ;''Tapirus terrestris colombianus'' :コロンビア北部<ref name="luxenberg"/> ;''Tapirus terrestris spegazzinii'' :アルゼンチン北東部、パラグアイ、ブラジル南東部、ボリビア東部<ref name="luxenberg"/> == 生態 == 水辺の[[森林]]や[[湿原|湿地]]に生息する。種小名 ''terrestris'' は「[[大地]]の」の意。群れは形成せず、単独もしくは[[番い|ペア]]で生活する。木などに[[尿]]を噴きつけ[[縄張り]]を主張する。[[夜行性]]で、昼間は茂みの中などで休む<ref name="luxenberg"/>。[[水浴び]]を好み泳ぎや潜水も上手く、5分以上水中に潜ることができる。 食性は植物食で、[[草本|草]]、木の[[葉]]、小枝、樹皮、[[果実]]、[[水草]]などを食べる<ref name="luxenberg"/>。捕食者は[[ジャガー]]・[[ピューマ]]・ワニなどが挙げられる<ref name="padilla_dowler"/><ref name="luxenberg"/>。外敵に襲われると水や藪の中へ逃げ込む<ref name="luxenberg"/>。 繁殖様式は胎生。発情周期は50 - 80日で、発情期間は48時間<ref name="luxenberg"/>。周年繁殖し、妊娠期間は335 - 439日<ref name="luxenberg"/>。1回に1頭の幼獣を産む<ref name="luxenberg"/>。授乳期間は生後6 - 8か月<ref name="luxenberg"/>。メスは生後2 - 3年で性成熟する<ref name="luxenberg"/>。飼育下での寿命は35年<ref name="luxenberg"/>。 == 人間との関係 == 生息地では食用にされることもあり、皮は紐や鞭として利用された<ref name="luxenberg"/>。 森林伐採による生息地の破壊、家畜との競合、食用の狩猟などにより生息数は減少している<ref name="iucn"/>。 == 画像 == <gallery> 画像:Tapirbaby.jpg|幼獣 </gallery> == 参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Tapirus_terrestris}} {{Wikispecies|Tapirus_terrestris}} * [[バク科]] {{Animal-stub}} {{デフォルトソート:あめりかはく}} [[Category:バク科]] [[Category:ワシントン条約附属書II]]
2007-04-02T18:57:14Z
2023-07-30T08:31:35Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Commons", "Template:Wikispecies", "Template:Animal-stub", "Template:生物分類表" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%90%E3%82%AF
4,539,724
ロベルト・アルバラード
ロベルト・アルバラード(Roberto Alvarado, 1998年9月7日 - )は、メキシコ・グアナフアト州サラマンカ出身のサッカー選手。CDグアダラハラ所属。メキシコ代表。ポジションはフォワード。 メキシコの2部リーグであるリーガ・デ・アセンソにおいて、史上最年少でデビューした選手である。2013年から2017年までFCセラヤでプレーした。その後、リーガMXのCFパチューカとクルブ・ネカクサでプレーし、CONCACAFチャンピオンズリーグ2016-17とコパMX2018クラウスーラで優勝した。 U-21メキシコ代表としては、2018年のトゥーロン国際大会で2位となった。2018年9月7日、ウルグアイ代表戦でA代表デビューを果たした。 2013年9月25日、コパMXのテコスFC戦にギジェルモ・クレメンス(英語版)との交代で途中出場し、プロデビューを果たした。3日後、同じくテコスFC戦にレネ・イバン・ガルシア(英語版)との交代で途中出場し、リーグ戦初出場を果たした。この時、15歳21日だった。 2014年2月18日、コパMXのアトラスFC戦でプロ初ゴールを挙げた。2014年11月に、マンチェスター・ユナイテッドFCとサンダーランドAFC、2015年1月にレスター・シティFCのトライアルを受けたが、不合格となった。アペルトゥーラ2016シーズン頃よりブレイクし、14試合6得点を記録してリーガMXのクラブからも注目されるようになった。 2017年、クラウスーラ2017シーズンよりCFパチューカに移籍した。2017年3月3日、クラブ・ティフアナ戦で0-1のビハインドの状況で移籍後初ゴールを挙げ、3-2での逆転勝利に貢献した。パチューカでのシーズンは、リーグ戦9試合に出場しなかったが、チームが優勝したCOCACAFチャンピオンズリーグでは2試合に出場した。 アペルトゥーラ2017シーズンの前に、エドソン・プッチとのトレードでクルブ・ネカクサに移籍した。2017年8月26日、アトラスFC戦で移籍後初ゴールを挙げてチームの勝利に貢献した。2018年4月14日、ロボス・デ・ラ・BUAP戦では、その試合唯一の得点を記録し、1-0での勝利に貢献した。クラウスーラ2018シーズンからはスタメンに定着した。コパMXのクラウスーラの決勝で、デポルティーボ・トルーカFCを破りチームは優勝を果たした。 2018年5月21日、クルス・アスルに移籍した。7月21日、クルブ・プエブラ戦でデビューすると、84分にミサエル・ドミンゲス(英語版)と交代するまでプレーした。8月4日、UANLティグレス戦で移籍後初ゴールを挙げた。8月18日、クルブ・レオン戦では、3アシストを記録した。この活躍により、ESPNはアルバラードをまだ若いにも関わらず「クルス・アスルの先導者」と呼ぶ記事を掲載した。同じ週、スペインのマルカは、「天からの宝石」と呼んで活躍を称えるなど、センセーショナルを引き起こした。シーズンの半ばには、マスコミからリーグで最高のMFの1人であるとみなされた。11月、コパMXアペルトゥーラ決勝のCFモンテレイ戦に勝利し、優勝に貢献した。 2021年12月26日、CDグアダラハラに移籍した。2022年2月12日、UANLティグレス戦で移籍後初ゴールを挙げた。 2018年のトゥーロン国際大会に出場する代表メンバーに選出され、グループリーグのカタール代表戦、中国代表戦、決勝のイングランド代表戦で1得点ずつ記録し、得点ランキング2位となる3ゴールを挙げた。2018年の中央アメリカ・カリブ海競技大会の代表メンバーにも選出されたが、所属クラブのクルス・アスルが招集を拒否した。 東京オリンピック・北中米カリブ海予選に出場し、5試合全試合に出場した。東京オリンピックのメンバーにも選出され、銅メダルを獲得した。 2018年8月29日、ウルグアイ代表とアメリカ代表との親善試合に向けたメキシコ代表に初招集を受けた。9月7日のウルグアイ代表戦でアラン・プリードとの交代で出場し、代表デビューを果たした。 2019年5月、ヘラルド・マルティーノ監督により2019 CONCACAFゴールドカップに出場するメキシコ代表の予備リストに含められた。6月5日、ベネズエラ代表戦で代表初ゴールを挙げた。翌日、ゴールドカップに出場するメキシコ代表に最終リストに含められた。大会では全試合に出場し、優勝に貢献した。 名前は、ブラジル代表のロベルト・カルロス及びその同名の歌手(英語版)から名付けられた。 憧れの選手である元アルゼンチン代表のクラウディオ・ロペスにちなんで、「エル・ピオホ」の愛称で呼ばれている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ロベルト・アルバラード(Roberto Alvarado, 1998年9月7日 - )は、メキシコ・グアナフアト州サラマンカ出身のサッカー選手。CDグアダラハラ所属。メキシコ代表。ポジションはフォワード。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "メキシコの2部リーグであるリーガ・デ・アセンソにおいて、史上最年少でデビューした選手である。2013年から2017年までFCセラヤでプレーした。その後、リーガMXのCFパチューカとクルブ・ネカクサでプレーし、CONCACAFチャンピオンズリーグ2016-17とコパMX2018クラウスーラで優勝した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "U-21メキシコ代表としては、2018年のトゥーロン国際大会で2位となった。2018年9月7日、ウルグアイ代表戦でA代表デビューを果たした。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2013年9月25日、コパMXのテコスFC戦にギジェルモ・クレメンス(英語版)との交代で途中出場し、プロデビューを果たした。3日後、同じくテコスFC戦にレネ・イバン・ガルシア(英語版)との交代で途中出場し、リーグ戦初出場を果たした。この時、15歳21日だった。", "title": "クラブ経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2014年2月18日、コパMXのアトラスFC戦でプロ初ゴールを挙げた。2014年11月に、マンチェスター・ユナイテッドFCとサンダーランドAFC、2015年1月にレスター・シティFCのトライアルを受けたが、不合格となった。アペルトゥーラ2016シーズン頃よりブレイクし、14試合6得点を記録してリーガMXのクラブからも注目されるようになった。", "title": "クラブ経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2017年、クラウスーラ2017シーズンよりCFパチューカに移籍した。2017年3月3日、クラブ・ティフアナ戦で0-1のビハインドの状況で移籍後初ゴールを挙げ、3-2での逆転勝利に貢献した。パチューカでのシーズンは、リーグ戦9試合に出場しなかったが、チームが優勝したCOCACAFチャンピオンズリーグでは2試合に出場した。", "title": "クラブ経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アペルトゥーラ2017シーズンの前に、エドソン・プッチとのトレードでクルブ・ネカクサに移籍した。2017年8月26日、アトラスFC戦で移籍後初ゴールを挙げてチームの勝利に貢献した。2018年4月14日、ロボス・デ・ラ・BUAP戦では、その試合唯一の得点を記録し、1-0での勝利に貢献した。クラウスーラ2018シーズンからはスタメンに定着した。コパMXのクラウスーラの決勝で、デポルティーボ・トルーカFCを破りチームは優勝を果たした。", "title": "クラブ経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2018年5月21日、クルス・アスルに移籍した。7月21日、クルブ・プエブラ戦でデビューすると、84分にミサエル・ドミンゲス(英語版)と交代するまでプレーした。8月4日、UANLティグレス戦で移籍後初ゴールを挙げた。8月18日、クルブ・レオン戦では、3アシストを記録した。この活躍により、ESPNはアルバラードをまだ若いにも関わらず「クルス・アスルの先導者」と呼ぶ記事を掲載した。同じ週、スペインのマルカは、「天からの宝石」と呼んで活躍を称えるなど、センセーショナルを引き起こした。シーズンの半ばには、マスコミからリーグで最高のMFの1人であるとみなされた。11月、コパMXアペルトゥーラ決勝のCFモンテレイ戦に勝利し、優勝に貢献した。", "title": "クラブ経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2021年12月26日、CDグアダラハラに移籍した。2022年2月12日、UANLティグレス戦で移籍後初ゴールを挙げた。", "title": "クラブ経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2018年のトゥーロン国際大会に出場する代表メンバーに選出され、グループリーグのカタール代表戦、中国代表戦、決勝のイングランド代表戦で1得点ずつ記録し、得点ランキング2位となる3ゴールを挙げた。2018年の中央アメリカ・カリブ海競技大会の代表メンバーにも選出されたが、所属クラブのクルス・アスルが招集を拒否した。", "title": "代表経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "東京オリンピック・北中米カリブ海予選に出場し、5試合全試合に出場した。東京オリンピックのメンバーにも選出され、銅メダルを獲得した。", "title": "代表経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2018年8月29日、ウルグアイ代表とアメリカ代表との親善試合に向けたメキシコ代表に初招集を受けた。9月7日のウルグアイ代表戦でアラン・プリードとの交代で出場し、代表デビューを果たした。", "title": "代表経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2019年5月、ヘラルド・マルティーノ監督により2019 CONCACAFゴールドカップに出場するメキシコ代表の予備リストに含められた。6月5日、ベネズエラ代表戦で代表初ゴールを挙げた。翌日、ゴールドカップに出場するメキシコ代表に最終リストに含められた。大会では全試合に出場し、優勝に貢献した。", "title": "代表経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "名前は、ブラジル代表のロベルト・カルロス及びその同名の歌手(英語版)から名付けられた。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "憧れの選手である元アルゼンチン代表のクラウディオ・ロペスにちなんで、「エル・ピオホ」の愛称で呼ばれている。", "title": "人物・エピソード" } ]
ロベルト・アルバラードは、メキシコ・グアナフアト州サラマンカ出身のサッカー選手。CDグアダラハラ所属。メキシコ代表。ポジションはフォワード。 メキシコの2部リーグであるリーガ・デ・アセンソにおいて、史上最年少でデビューした選手である。2013年から2017年までFCセラヤでプレーした。その後、リーガMXのCFパチューカとクルブ・ネカクサでプレーし、CONCACAFチャンピオンズリーグ2016-17とコパMX2018クラウスーラで優勝した。 U-21メキシコ代表としては、2018年のトゥーロン国際大会で2位となった。2018年9月7日、ウルグアイ代表戦でA代表デビューを果たした。
{{スペイン語圏の姓名|アルバラード|エルナンデス}} {{サッカー選手 | 名前 = ロベルト・アルバラード | 画像 = | 画像サイズ = | 画像の説明 = | 本名 = ロベルト・カルロス・アルバラード・エルナンデス<br />Roberto Carlos Alvarado Hernández<ref name="Liga MX">{{cite web|title=Roberto Carlos Alvarado Hernández|url=http://ligamx.net/cancha/jugador/94585/roberto-carlos-alvarado-hernandez|work=Liga MX|accessdate=3 September 2018}}</ref> | 愛称 = | カタカナ表記 = | アルファベット表記 = Roberto Alvarado | 原語名 = | 原語表記 = | 国 = {{MEX}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1998|9|7}}<ref name="Liga MX"/> | 出身地 = [[サラマンカ (メキシコ)|サラマンカ]]<ref name="Liga MX"/> | 身長 = 176cm<ref name="Liga MX"/> | 体重 = | 所属チーム名 = {{Flagicon|MEX}} [[CDグアダラハラ]] | ポジション = [[フォワード (サッカー)|FW]] | 背番号 = 25 | 利き足 = | ユースクラブ1 = {{Flagicon|MEX}} [[FCセラヤ]] | ユース年1 = 2013-2016 | クラブ1 = {{Flagicon|MEX}} [[FCセラヤ]] | 年1 = 2013-2017 | 出場1 = 50 | 得点1 = 8 | クラブ2 = {{Flagicon|MEX}} [[CFパチューカ]] | 年2 = 2017 | 出場2 = 9 | 得点2 = 1 | クラブ3 = {{Flagicon|MEX}} [[クルブ・ネカクサ]] | 年3 = 2017-2018 | 出場3 = 26 | 得点3 = 2 | クラブ4 = {{Flagicon|MEX}} [[クルス・アスル]] | 年4 = 2018-2021 | 出場4 = 120 | 得点4 = 16 | クラブ5 = {{Flagicon|MEX}} [[CDグアダラハラ]] | 年5 = 2022- | 出場5 = 4 | 得点5 = 1 | クラブ成績更新日 = 2022年2月12日 | 代表1 = {{MEXf}} U-21 | 代表年1 = 2018 | 代表出場1 = 5 | 代表得点1 = 3 | 代表2 = {{MEXf}} U-23 | 代表年2 = 2021 | 代表出場2 = 9 | 代表得点2 = 1 | 代表3 = {{MEXf}} | 代表年3 = 2018- | 代表出場3 = 26 | 代表得点3 = 4 | 代表成績更新日 = 2021年11月16日 | 監督年1 = | 監督チーム1 = | show-medals = yes | medaltemplates = {{MedalSport|[[サッカー]]}} {{MedalCountry|{{MEX}}}} {{MedalCompetition|[[オリンピックのサッカー競技|オリンピック]]}} {{MedalBronze| [[2020年東京オリンピック|2020 東京]] | [[2020年東京オリンピックのサッカー競技・男子|男子]] }} }} '''ロベルト・アルバラード'''(Roberto Alvarado, [[1998年]][[9月7日]] - )は、[[メキシコ]]・[[グアナフアト州]][[サラマンカ (メキシコ)|サラマンカ]]出身の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。[[CDグアダラハラ]]所属。[[サッカーメキシコ代表|メキシコ代表]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]。<ref>[https://us.soccerway.com/players/roberto-carlos-alvarado-hernandez/315852/ Soccerway profile]</ref> メキシコの2部リーグである[[リーガ・デ・アセンソ]]において、史上最年少でデビューした選手である<ref name="Asi Sucedio">{{cite news|url=http://asisucedegto.mx/conoce-algo-de-roberto-alvarado-el-jugador-mas-joven-en-ascenso-mx-y-que-le-anoto-al-atlas/|title=Conoce algo de Roberto Alvarado el jugador más joven en Ascenso MX y que le anotó al Atlas|language=es|first=Ricardo|last=Sierra|date=February 19, 2014|publisher=Asi Sucede Guanajuato|accessdate=September 13, 2015}}</ref>。2013年から2017年まで[[FCセラヤ]]でプレーした。その後、[[リーガMX]]の[[CFパチューカ]]と[[クルブ・ネカクサ]]でプレーし、[[CONCACAFチャンピオンズリーグ2016-17]]と[[コパ・メヒコ|コパMX2018クラウスーラ]]で優勝した。 [[サッカーメキシコ代表|U-21メキシコ代表]]としては、2018年の[[トゥーロン国際大会]]で2位となった。2018年9月7日、[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表]]戦でA代表デビューを果たした。 == クラブ経歴 == === FCセラヤ === 2013年9月25日、[[コパ・メヒコ|コパMX]]の[[テコスFC]]戦に{{仮リンク|ギジェルモ・クレメンス|en|Guillermo Clemens}}との交代で途中出場し、プロデビューを果たした<ref>{{cite web|url=https://int.soccerway.com/matches/2013/09/26/mexico/copa-mexico/celaya/club-universidad-autonoma-de-guadalajara/1486412/|title=Celaya vs. Estudiantes Tecos 1 - 0|date=September 25, 2013|publisher=Soccerway|accessdate=September 13, 2015}}</ref>。3日後、同じく[[テコスFC]]戦に{{仮リンク|レネ・イバン・ガルシア|en|René Iván García}}との交代で途中出場し、リーグ戦初出場を果たした。この時、15歳21日だった<ref name="Mexicano entrena">{{cite news|url=http://gurusdeportivos.com/fut-internacional/roberto-alvarado-mexicano-que-entrena-con-equipo-de-premier-league-de-inglaterra|title=Roberto Alvarado, mexicano que entrena con equipo de la Premier League.|language=es|first=David|last=Nieva|date=January 8, 2015|publisher=Gurús Deportivos|accessdate=September 13, 2015}}</ref>。 2014年2月18日、[[コパ・メヒコ|コパMX]]の[[アトラスFC]]戦でプロ初ゴールを挙げた<ref>{{cite news|url=http://www.am.com.mx/leon/superdeportivo/estreno-inmejorable-86846.html|title=Estreno inmejorable|language=es|first=Cristian|last=Morado|date=February 20, 2014|publisher=Periódico AM|accessdate=September 13, 2015}}</ref>。2014年11月に、[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]と[[サンダーランドAFC]]<ref>{{cite news|url=http://www.oncetitular.com/mosno.php?nota=29152|title=Roberto Alvarado invitado por el Manchester United y Sunderland|language=es|date=November 9, 2014|publisher=Once Titular|accessdate=September 13, 2015}}</ref>、2015年1月に[[レスター・シティFC]]<ref name="Mexicano entrena"/>のトライアルを受けたが、不合格となった。アペルトゥーラ2016シーズン頃よりブレイクし、14試合6得点を記録して[[リーガMX]]のクラブからも注目されるようになった<ref name="espn">{{cite news|url=http://www.espn.com/soccer/liga-bancomer/22/blog/post/3604884/roberto-alvarado-is-still-only-19-but-is-a-leading-light-for-cruz-azul|title=Roberto Alvarado is still only 19 but is a leading light for Cruz Azul|first=Tom|last=Marshall|publisher=[[ESPN]]|date=20 August 2018|accessdate=8 September 2018}}</ref>。 === CFパチューカ === 2017年、クラウスーラ2017シーズンより[[CFパチューカ]]に移籍した<ref>{{cite web|title= Dos toros refuerzan a Tuzos|url=https://deportes.televisa.com/futbol/roberto-alvarado-sergio-vergara-reuferzos-pachuca/|work=Televisa Deportes|accessdate=22 August 2018|language=es}}</ref>。2017年3月3日、[[クラブ・ティフアナ]]戦で0-1のビハインドの状況で移籍後初ゴールを挙げ、3-2での逆転勝利に貢献した<ref>{{cite web|title=Tijuana 2 3 Pachuca|url=http://www.espn.com/soccer/match?gameId=469841|work=ESPN|accessdate=6 September 2018}}</ref>。パチューカでのシーズンは、リーグ戦9試合に出場しなかったが、チームが優勝した[[CONCACAFチャンピオンズリーグ2016-17|COCACAFチャンピオンズリーグ]]では2試合に出場した。 === クルブ・ネカクサ === アペルトゥーラ2017シーズンの前に、[[エドソン・プッチ]]とのトレードで[[クルブ・ネカクサ]]に移籍した。2017年8月26日、[[アトラスFC]]戦で移籍後初ゴールを挙げてチームの勝利に貢献した。2018年4月14日、[[ロボス・デ・ラ・BUAP]]戦では、その試合唯一の得点を記録し、1-0での勝利に貢献した<ref>{{cite web|title=El Necaxa da un empujón a Lobos rumbo al descenso|url=https://www.marca.com/claro-mx/futbol/liga-mx/2018/04/15/5ad295cfe2704e3d148b4591.html|work=Marca|first=Edgar|last=González|date=14 April 2018|accessdate=19 October 2018}}</ref>。クラウスーラ2018シーズンからはスタメンに定着した<ref name="quien">{{cite news|url=https://www.goal.com/es-mx/noticias/quien-es-roberto-alvarado-el-juvenil-que-quiere-ser-referente-en-/savi9p45v76k1qzsy8lr5t0ay|title=¿Quién es Roberto Alvarado, el juvenil que quiere ser referente en Cruz Azul?|publisher=Goal.com|date=19 August 2018|accessdate=8 September 2018|language=es}}</ref>。コパMXのクラウスーラの決勝で、[[デポルティーボ・トルーカFC]]を破りチームは優勝を果たした<ref>{{cite web|title=Los Rayos del Necaxa derrotan al Toluca y se adjudican el título de la Copa MX|url=https://www.marca.com/claro-mx/futbol/copa-mx/2018/04/12/5acecaf622601d5d018b4636.html|work=Marca|language=es|date=11 April 2018|accessdate=15 November 2018}}</ref>。 === クルス・アスル === 2018年5月21日、[[クルス・アスル]]に移籍した<ref>{{cite web|title=Cruz Azul announces Aguilar signing as additions continue|url=https://www.goal.com/en-us/news/cruz-azul-announces-aguilar-signing-as-additions-continue/1c6zbvk41z7m91ayq6pg5zofgh|work=Goal.com|first=Jon|last=Arnold|date=21 May 2018|accessdate=22 August 2018}}</ref>。7月21日、[[クルブ・プエブラ]]戦でデビューすると、84分に{{仮リンク|ミサエル・ドミンゲス|en|Misael Domínguez}}と交代するまでプレーした。8月4日、[[UANLティグレス]]戦で移籍後初ゴールを挙げた<ref>{{cite web|title=Roberto Alvarado: "Me acuerdo de cuando era niño y eso me ayuda a no achicarme"|url=http://www.marca.com/claro-mx/futbol/liga-mx/2018/08/06/5b67d23246163f157c8b45fa.html|work=Marca|first=Javier|last=Cardoso|accessdate=21 August 2018|language=es}}</ref>。8月18日、[[クラブ・レオン]]戦では、3アシストを記録した。この活躍により、[[ESPN]]はアルバラードをまだ若いにも関わらず「クルス・アスルの先導者」と呼ぶ記事を掲載した<ref name=espn/>。同じ週、スペインの[[マルカ (新聞)|マルカ]]は、「天からの宝石」と呼んで活躍を称えるなど、センセーショナルを引き起こした<ref name="La joya celeste">{{cite news|url=http://www.marca.com/claro-mx/futbol/liga-mx/2018/08/21/5b7b937746163f8c368b45ce.html|title=Roberto Alvarado, la joya celeste que hace soñar a Cruz Azul|first=Javier|last=Cardoso|work=[[Marca (newspaper)|Marca]]|date=22 August 2018|accessdate=8 September 2018|language=es}}</ref>。シーズンの半ばには、マスコミからリーグで最高のMFの1人であるとみなされた<ref>{{cite news|url=http://www.espn.com/soccer/liga-bancomer/22/blog/post/3624156/roberto-alvaradocruz-azul-stars-among-liga-mxs-best-midseason-players|title=Roberto Alvarado, Cruz Azul stars among Liga MX's best midseason players|first=Cesar|last=Hernandez|work=[[ESPN]]|date=4 September 2018|accessdate=8 September 2018}}</ref>。11月、コパMXアペルトゥーラ決勝の[[CFモンテレイ]]戦に勝利し、優勝に貢献した<ref>{{cite web|title=Roberto Alvarado, motor de Cruz Azul|url=https://www.excelsior.com.mx/adrenalina/roberto-alvarado-motor-de-cruz-azul/1276983|work=Excélsior|first=Edgar|last=Berrios|language=es|date=8 November 2018|accessdate=14 November 2018}}</ref>。 === CDグアダラハラ === 2021年12月26日、[[CDグアダラハラ]]に移籍した<ref>{{Cite web |title=Roberto Alvarado llega a las Chivas |url=https://www.chivasdecorazon.com.mx/es/noticias/34746/Roberto-Alvarado-llega-a-las-Chivas |website=www.chivasdecorazon.com.mx |accessdate=2022-02-19}}</ref>。2022年2月12日、[[UANLティグレス]]戦で移籍後初ゴールを挙げた。 == 代表経歴 == === U-21代表 === 2018年の[[トゥーロン国際大会]]に出場する代表メンバーに選出され<ref>{{cite web|title=Mexico sends strong squad to Toulon Tournament|url=https://www.fmfstateofmind.com/2018/5/23/17382970/mexico-sends-strong-squad-to-toulon-tournament|work=FMF State of Mind|accessdate=21 August 2018}}</ref>、グループリーグの[[サッカーカタール代表|カタール代表]]戦<ref>{{cite web|title=Mexico Roll Past Qatar 4-1 in 2018 Toulon Tournament|url=https://bleacherreport.com/articles/2778028-mexico-roll-past-qatar-4-1-in-2018-toulon-tournament|work=Bleacher Report|first=James|last=Dudko|accessdate=21 August 2018}}</ref>、[[サッカー中華人民共和国代表|中国代表]]戦<ref>{{cite web|title=Mexico Cruise Past China in 2018 Toulon Tournament Group Stage|url=https://bleacherreport.com/articles/2778977-mexico-cruise-past-china-in-2018-toulon-cup-group-stage|work=Bleacher Report|first=James|last=Dudko|accessdate=21 August 2018}}</ref>、決勝の[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]戦で1得点ずつ記録し、得点ランキング2位となる3ゴールを挙げた<ref>{{cite web|title=England Beat Mexico to Win 2018 Toulon Tournament Final, 3rd Straight Title|url=https://bleacherreport.com/articles/2780312-england-beat-mexico-to-win-2018-toulon-tournament-final-3rd-straight-title|work=Bleacher Report|first=Christopher|last=Simpson|accessdate=21 August 2018}}</ref>。2018年の[[中央アメリカ・カリブ海競技大会]]の代表メンバーにも選出されたが、所属クラブのクルス・アスルが招集を拒否した<ref name=quien/>。 === U-23代表 === [[2020年東京オリンピックのサッカー競技・北中米カリブ海予選|東京オリンピック・北中米カリブ海予選]]に出場し、5試合全試合に出場した。[[2020年東京オリンピックのサッカー競技・男子|東京オリンピック]]のメンバーにも選出され<ref>{{cite web |title=Revelan lista oficial de la Selección Sub-23 que acudirá a Tokio 2020 |url=https://espndeportes.espn.com/futbol/selecciones/nota/_/id/8854207/mexico-sub23-convocatoria-jaime-lozano-tokio-2020 |accessdate=2022-02-19}}</ref>、銅メダルを獲得した。 === A代表 === 2018年8月29日、[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ代表]]と[[サッカーアメリカ合衆国代表|アメリカ代表]]との親善試合に向けたメキシコ代表に初招集を受けた<ref>{{cite news|url=https://miseleccion.mx/convocatoria-la-seleccion-nacional-mexico-14/|title=Convocatoria de la Selección Nacional de México|website=miseleccion.mx|publisher=Mexican Football Federation|date=29 August 2018|accessdate=7 September 2018|language=es}}</ref>。9月7日のウルグアイ代表戦で[[アラン・プリード]]との交代で出場し、代表デビューを果たした<ref>{{cite web|url=https://us.soccerway.com/matches/2018/09/08/world/friendlies/mexico/uruguay/2795267/|title=Mexico vs. Uruguay 1–4|publisher=Soccerway|date=7 September 2018|accessdate=8 September 2018}}</ref>。 2019年5月、[[ヘラルド・マルティーノ]]監督により[[2019 CONCACAFゴールドカップ]]に出場するメキシコ代表の予備リストに含められた<ref>{{cite web |title=Marco Fabián vuelve y no está Tecatito; anuncian lista previa de México para Copa Oro |url=https://www.mediotiempo.com/futbol/seleccion-mayor/seleccion-mexicana-prelista-copa-oro-2019-tata-martino |publisher=Mediotiempo.com |first=Enrique |last=Martínez Villar |date=14 May 2019 |accessdate=2022-02-19}}</ref>。6月5日、[[サッカーベネズエラ代表|ベネズエラ代表]]戦で代表初ゴールを挙げた。翌日、ゴールドカップに出場するメキシコ代表に最終リストに含められた<ref>{{cite web |title=Selección Mexicana anuncia lista definitiva para Copa Oro 2019 |url=https://www.mediotiempo.com/futbol/copa-oro/seleccion-mexicana-anuncia-lista-definitiva-copa-oro-2019 |date=6 June 2019 |work=MedioTiempo.com |accessdate=2022-02-19}}</ref>。大会では全試合に出場し、優勝に貢献した<ref>{{cite web |title=Mexico Turns Tide, Wins Gold Cup Title Again vs. Wasteful USMNT |url=https://www.si.com/soccer/2019/07/07/mexico-usa-gold-cup-title-dos-santos-pizarro-pulisic-berhalter |publisher=[[Sports Illustrated]] |first=Brian |last=Straus |date=7 July 2019 |accessdate=2022-02-19}}</ref>。 == 人物・エピソード == 名前は、[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]の[[ロベルト・カルロス]]及びその{{仮リンク|ロベルト・カルロス (歌手)|en|Roberto Carlos (singer)|label=同名の歌手}}から名付けられた<ref>{{cite web|title=Roberto Alvarado, talento a prueba de adversidades|url=https://www.eleconomista.com.mx/deportes/Roberto-Alvarado-talento-a-prueba-de-adversidades-20180821-0146.html|work=El Economista|first=Alain|last=Arenas|date=21 August 2018|accessdate=26 September 2018}}</ref><ref>{{cite web |title=Roberto Alvarado: futuro prometedor para Cruz Azul y la Selección Mexicana |url=https://www.vavel.com/mx/futbol-mexicano/2018/08/24/cruz-azul/938819-roberto-alvarado-futuro-prometedor-para-cruz-azul-y-la-seleccion-mexicana.html |accessdate=2022-02-19}}</ref>。 憧れの選手である元[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]の[[クラウディオ・ロペス]]にちなんで、「エル・ピオホ」の愛称で呼ばれている<ref name="La joya celeste"/>。 == タイトル == === クラブ === ; CFパチューカ * [[CONCACAFチャンピオンズリーグ]] : 2016-17 ; クルブ・ネカクサ * [[コパ・メヒコ]] : クラウスーラ2018 ; クルス・アスル * [[リーガMX]] : クラウスーラ2021 * [[コパ・メヒコ]] : アペルトゥーラ2018 * [[スーペルコパMX]] : 2019 * リーグカップ : 2019 === 代表 === ; U-23メキシコ代表 * [[オリンピックのサッカー競技|夏季オリンピック]] : 銅メダル ([[2020年東京オリンピックのサッカー競技・男子|2021]]<ref>{{cite web|url=https://www.goal.com/en/news/mexico-win-olympic-bronze-medal-after-beating-hosts-japan-at/xfw3o7f3tzte1pp4ern8bzrb6|title=Mexico win Olympic bronze medal after beating hosts Japan at Tokyo 2020|website=Goal|date=6 August 2021|accessdate=6 August 2021}}</ref>) ; メキシコ代表 * [[CONCACAFゴールドカップ]] : 2019 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Sports links}} {{Navboxes |title=メキシコ代表 - 出場大会 |titlestyle=background:#016549; color:#FFFFFF; border:#CE1126 1px solid; |list1= {{第46回トゥーロン国際大会メキシコ代表}} {{2019 CONCACAFゴールドカップメキシコ代表}} {{東京オリンピック (2020年) サッカーメキシコ代表}} {{2022 FIFAワールドカップメキシコ代表}} }} {{DEFAULTSORT:あるはらあと ろへると}} [[Category:メキシコのサッカー選手]] [[Category:サッカーメキシコ代表選手]] [[Category:CFパチューカの選手]] [[Category:クルブ・ネカクサの選手]] [[Category:クルス・アスルの選手]] [[Category:グアダラハラの選手]] [[Category:オリンピックサッカーメキシコ代表選手]] [[Category:サッカーのオリンピックメダリスト]] [[Category:メキシコのオリンピック銅メダリスト]] [[Category:2020年東京オリンピックサッカー出場選手]] [[Category:2022 FIFAワールドカップ出場選手]] [[Category:1998年生]] [[Category:存命人物]]
2022-02-19T06:23:15Z
2023-10-08T16:30:21Z
false
false
false
[ "Template:Navboxes", "Template:スペイン語圏の姓名", "Template:サッカー選手", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:Cite web", "Template:Sports links" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89
554,599
蛇行
蛇行(だこう、英: meandering)とは、蛇が這う姿のように曲がりくねって進むことを指す。また、川や気流が曲がりながら流れることを指す。 川の流れがカーブの内側となる場所は、流れが遅く、土砂が堆積されるが、外側となる場所では、流れが急で、水深も深い。 川は地形の低い場所に水を流すため、自然状態では通常蛇行する。なお、ドイツの流体力学者テオドール・シュベンク(英語版)は「蛇行の原因は河川の断面方向にある二つの螺旋流である」と著書 "Das sensible Chaos. Strömendes Formenschaffen in Wasser und Luft "(原著1962年刊。日本語題:カオスの自然学)の中で述べている。 また、蛇行は洪水の原因となるため、第二次世界大戦後の日本では河川改修が進んで直線化し、「元-川」「旧-川」といった場所に、蛇行を残すだけのことが多い。逆に自然を取り戻すために、一度直線化した河道をふたたび蛇行させる試みもある。 河川の蛇行は大きく自由蛇行(free meander)と穿入蛇行(incised meander)に分けられる。 自由蛇行とは、低地部において河川の流路が自由に変更可能な蛇行のことであり、攻撃斜面での侵食と滑走斜面(英語版)での堆積によって流路変更がなされる。自由蛇行の両側において自然堤防が発達し、堤防の外側では低湿地が見られる。 河川が台地などを掘割って流れ平地へ出た後、自由蛇行が発達する場合がある。 穿入蛇行とは、河谷における蛇行のことであり、掘削蛇行(intrenched meander)と生育蛇行(ingrown meander)に大きく分けられる。掘削蛇行は、自由蛇行の河川において、侵食作用が活発化し下刻が起こることで地形が形成される。一方側刻は小さいため、河谷の断面は左右対称となる。生育蛇行では、下刻に限らず側刻も行われ、蛇行の振幅も増大させ、河谷の断面も非対称になる。攻撃斜面では植生に乏しく岩石が露出しており、侵食の進行により谷壁の傾斜が大きく、斜面崩壊も起こりやすい。一方滑走斜面では緩傾斜であり災害も起こりにくい。 なお、穿入蛇行の大多数は生育蛇行であり、掘削蛇行はあまり存在しない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "蛇行(だこう、英: meandering)とは、蛇が這う姿のように曲がりくねって進むことを指す。また、川や気流が曲がりながら流れることを指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "川の流れがカーブの内側となる場所は、流れが遅く、土砂が堆積されるが、外側となる場所では、流れが急で、水深も深い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "川は地形の低い場所に水を流すため、自然状態では通常蛇行する。なお、ドイツの流体力学者テオドール・シュベンク(英語版)は「蛇行の原因は河川の断面方向にある二つの螺旋流である」と著書 \"Das sensible Chaos. Strömendes Formenschaffen in Wasser und Luft \"(原著1962年刊。日本語題:カオスの自然学)の中で述べている。 また、蛇行は洪水の原因となるため、第二次世界大戦後の日本では河川改修が進んで直線化し、「元-川」「旧-川」といった場所に、蛇行を残すだけのことが多い。逆に自然を取り戻すために、一度直線化した河道をふたたび蛇行させる試みもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "河川の蛇行は大きく自由蛇行(free meander)と穿入蛇行(incised meander)に分けられる。", "title": "河川の蛇行" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "自由蛇行とは、低地部において河川の流路が自由に変更可能な蛇行のことであり、攻撃斜面での侵食と滑走斜面(英語版)での堆積によって流路変更がなされる。自由蛇行の両側において自然堤防が発達し、堤防の外側では低湿地が見られる。", "title": "河川の蛇行" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "河川が台地などを掘割って流れ平地へ出た後、自由蛇行が発達する場合がある。", "title": "河川の蛇行" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "穿入蛇行とは、河谷における蛇行のことであり、掘削蛇行(intrenched meander)と生育蛇行(ingrown meander)に大きく分けられる。掘削蛇行は、自由蛇行の河川において、侵食作用が活発化し下刻が起こることで地形が形成される。一方側刻は小さいため、河谷の断面は左右対称となる。生育蛇行では、下刻に限らず側刻も行われ、蛇行の振幅も増大させ、河谷の断面も非対称になる。攻撃斜面では植生に乏しく岩石が露出しており、侵食の進行により谷壁の傾斜が大きく、斜面崩壊も起こりやすい。一方滑走斜面では緩傾斜であり災害も起こりにくい。", "title": "河川の蛇行" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、穿入蛇行の大多数は生育蛇行であり、掘削蛇行はあまり存在しない。", "title": "河川の蛇行" } ]
蛇行とは、蛇が這う姿のように曲がりくねって進むことを指す。また、川や気流が曲がりながら流れることを指す。 川の流れがカーブの内側となる場所は、流れが遅く、土砂が堆積されるが、外側となる場所では、流れが急で、水深も深い。 川は地形の低い場所に水を流すため、自然状態では通常蛇行する。なお、ドイツの流体力学者テオドール・シュベンクは「蛇行の原因は河川の断面方向にある二つの螺旋流である」と著書 "Das sensible Chaos. Strömendes Formenschaffen in Wasser und Luft "の中で述べている。 また、蛇行は洪水の原因となるため、第二次世界大戦後の日本では河川改修が進んで直線化し、「元-川」「旧-川」といった場所に、蛇行を残すだけのことが多い。逆に自然を取り戻すために、一度直線化した河道をふたたび蛇行させる試みもある。
{{出典の明記|date=2019年2月}} [[ファイル:Oxbow lake,Yamal Peninsula,Russia.JPG|thumb|300px|平野を流れて自由蛇行する川と、流路が変化するごとに新たに形成されてきた数多くの[[三日月湖]]、および、古い時代の三日月湖の痕跡/[[ロシア]]は[[シベリア]]北部の[[ヤマル半島]]付近。]] [[File:Eastern garter snake slithers through a muddy area.jpg|thumb|300px|ヘビが這う様子]] [[ファイル:Meander Oxbow development.svg|thumb|150px|蛇行の進行]] '''蛇行'''(だこう、{{Lang-en-short|meandering}}{{Sfn|文部省・土木学会|1991|p=}})とは、[[ヘビ|蛇]]が這う姿のように曲がりくねって進むことを指す。また、[[川]]や気流が曲がりながら流れることを指す。 川の流れがカーブの内側となる場所は、流れが遅く、[[土砂]]が[[堆積]]されるが、外側となる場所では、流れが急で、水深も深い。 川は[[地形]]の低い場所に水を流すため、[[自然]]状態では通常蛇行する。なお、[[ドイツ]]の[[流体力学|流体力学者]]{{仮リンク|テオドール・シュベンク|en|Theodor Schwenk}}は「蛇行の原因は河川の断面方向にある二つの[[螺旋]]流である」と{{Sfn|シュベンク|2005|p=98}}著書 "''Das sensible Chaos. Strömendes Formenschaffen in Wasser und Luft'' "{{Sfn|Schwenk|1962}}(原著[[1962年]]刊。日本語題:カオスの自然学)の中で述べている{{Sfn|シュベンク|2005|p=98}}。 また、蛇行は[[洪水]]の原因となるため、[[第二次世界大戦]]後の[[日本]]では[[河川改修]]が進んで直線化し、「元-川」「旧-川」といった場所に、蛇行を残すだけのことが多い。逆に自然を取り戻すために、一度直線化した河道をふたたび蛇行させる試みもある。 == 河川の蛇行 == 河川の蛇行は大きく'''自由蛇行'''({{en|free meander|links=no}})と'''[[穿入蛇行]]'''({{en|incised meander|links=no}})に分けられる{{Sfn|日本地形学連合|2017|p=502}}。 === 自由蛇行 === 自由蛇行とは、[[低地]]部において河川の流路が自由に変更可能な蛇行のことであり{{Sfn|日本地形学連合|2017|p=502}}、[[攻撃斜面]]での[[侵食]]と{{仮リンク|滑走斜面|en|Slip-off slope}}での[[堆積]]によって流路変更がなされる{{Sfn|日本地形学連合|2017|p=365}}。自由蛇行の両側において[[自然堤防]]が発達し、堤防の外側では低湿地が見られる{{Sfn|鈴木|1998|p=252}}。 河川が台地などを掘割って流れ平地へ出た後、自由蛇行が発達する場合がある<ref>例えば、[[渡良瀬川]]の[[海老瀬]]地区、[[矢上川]]の[[加瀬]]地区など。</ref>。 === 穿入蛇行 === {{main|穿入蛇行}} 穿入蛇行とは、河谷における蛇行のことであり、'''掘削蛇行'''({{en|intrenched meander|links=no}})と'''生育蛇行'''({{en|ingrown meander|links=no}})に大きく分けられる{{Sfn|日本地形学連合|2017|p=465}}。掘削蛇行は、自由蛇行の河川において、侵食作用が活発化し下刻が起こることで地形が形成される{{Sfn|日本地形学連合|2017|p=209}}。一方側刻は小さいため、河谷の断面は左右対称となる{{Sfn|日本地形学連合|2017|p=209}}。生育蛇行では、下刻に限らず側刻も行われ、蛇行の振幅も増大させ、河谷の断面も非対称になる{{Sfn|日本地形学連合|2017|p=431}}。攻撃斜面では植生に乏しく岩石が露出しており、侵食の進行により谷壁の傾斜が大きく、[[斜面崩壊]]も起こりやすい{{Sfn|鈴木|2000|p=697}}。一方滑走斜面では緩傾斜であり災害も起こりにくい{{Sfn|鈴木|2000|p=698}}。 なお、穿入蛇行の大多数は生育蛇行であり{{Sfn|日本地形学連合|2017|p=431}}、掘削蛇行はあまり存在しない{{Sfn|日本地形学連合|2017|p=465}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}<!-- === 注釈 === {{Reflist|group="*"}}--> === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * <!--シュベンク-->{{Cite book |和書 |author=テオドール・シュベンク |authorlink=:en:Theodor Schwenk |translator=赤井敏夫 |date=2005-04-01 |title=カオスの自然学―水・大気・音・生命・言語から |origdate=1962 |edition=新装版 |publisher=[[工作舎]] |isbn=978-4-87502-384-5 |ref={{SfnRef|シュベンク|2005}} }} ** 原著:{{Cite book |last=Schwenk |first=Theodor |author=Theodor Schwenk |authorlink=:en:Theodor Schwenk |year=1962 |title=Das sensible Chaos. Strömendes Formenschaffen in Wasser und Luft |location=[[シュトゥットガルト|Stuttgart]] |publisher=[[:en:Verlag Freies Geistesleben & Urachhaus|Verlag Freies Geistesleben & Urachhaus]] |language=ger |isbn=3-7725-0571-6 |ref={{SfnRef|Schwenk|1962}} }} * <!--すずき-->{{Cite book |和書 |author=鈴木隆介 |date=1998-05-01 |title=低地 |publisher=[[古今書院]] |series=建設技術者のための地形図読図入門 第2巻 |isbn=978-4-7722-5007-8 |ref={{SfnRef|鈴木|1998}} }} * {{Cite book |和書 |author=鈴木隆介 |date=2000-05-26 |title=段丘・丘陵・山地 |publisher=古今書院 |series=建設技術者のための地形図読図入門 第3巻 |isbn=978-4-7722-5015-3 |ref={{SfnRef|鈴木|2000}} }} * <!--にほんちけいがくれんごう-->{{Cite book |和書 |editor=[[日本地形学連合]](編集)、鈴木隆介・砂村継夫・松倉公憲(責任編集) |date=2017-01-20 |title=地形の辞典 |publisher=[[朝倉書店]] |isbn=978-4-254-16063-5 |ref={{SfnRef|日本地形学連合|2017}} }} * <!--もんぶしょう-->{{Cite book |和書 |editor=[[文部省]]編、[[土木学会]]編 |date=1991-01 |title=学術用語集 土木工学編 |edition=増訂版 |url=http://sciterm.nii.ac.jp/cgi-bin/reference.cgi |publisher=土木学会 |isbn=978-4-8106-0073-5 |ref={{SfnRef|文部省・土木学会|1991}} }} == 関連項目 == <!--{{Wiktionary|蛇行}}※立項待ち--> {{Commonscat|Meanders|曲流}} * [[三日月湖]] * [[蛇行動]] - [[鉄道車両]]に発生する[[共振]]現象 * {{ill2|蛇行 (行動)|en|Undulatory locomotion}} == 外部リンク == {{節スタブ}} {{Geo-term-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たこう}} [[Category:河川]] [[Category:地形学]]
null
2023-04-20T12:51:38Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:Geo-term-stub", "Template:En", "Template:Main", "Template:Commonscat", "Template:Ill2", "Template:Normdaten", "Template:仮リンク", "Template:Lang-en-short", "Template:Sfn", "Template:節スタブ", "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%87%E8%A1%8C
326,117
ダイノバード
ダイノバード(dinobird)とは、恐竜や鳥類の先祖としてジョージ・オルシェフスキー(オランダ語版)が主張している仮想生物である。ジョージ・オルシェフスキーのBCF仮説のなかで使われる言葉である。 なお、BCF仮説は2013年現在の恐竜研究においては主流の仮説ではない。 初めて鳥類と恐竜類の類縁関係、つまり恐竜から鳥が進化したと主張したのは、「ダーウィンのブルドッグ」というあだ名で有名なトマス・ヘンリー・ハクスリーで、1860年代後半のことであった。しかしながら、当時知られていた恐竜には鎖骨が存在しなかったことから、鎖骨が消失した恐竜から鎖骨が発達した鳥類が進化することはありえないとして、この説は支持者を失っていった。多くの研究者は、恐竜と鳥類は共通の先祖(槽歯類)から分岐して進化したと考えるようになった。 1973年、ジョン・オストロムが獣脚類にも鎖骨を持つものがいること、すなわち恐竜の鎖骨はすべて消失していたわけではないことを明らかにし、恐竜から鳥類が進化したという説を復活させた。 だが、鳥類が恐竜から進化したという説が通説となる一方、それを覆すような発見もあった。1983年にシャンカール・チャタジー(英語版)によって三畳紀後期のカルン期の地層から発見されたプロトアビス・テキセンシスである。もっとも古い鳥類と考えられてきた始祖鳥よりも7000万年も前、最古の恐竜と同時期に、始祖鳥よりさらに進化した鳥類が存在することとなった。 それを踏まえ、1994年に米国のコラムニスト(古生物学の研究を職業とする者ではない)のジョージ・オルシェフスキー(オランダ語版)は、ジョン・オストロムとはまったく逆の、恐竜と鳥の起源に関する大胆な仮説を提案した。それがBCF仮説(The Birds Came First hypothesis :「鳥が先」仮説。ダイノバード仮説とも)であり、このなかで「ダイノバード」という言葉が新造された。彼のBCF仮説では、三畳紀に樹上性のある種の爬虫類が生存していたと想定し、そこから地上生活へと戻り分岐していったものが恐竜となり、最後まで樹上に残ったものが飛行能力を得て鳥類へ進化したとする。ここで想定したある種の爬虫類を「ダイノバード」と呼称した。そして始祖鳥は、ダイノバードが再び地上に戻り、恐竜へ進化する過程の生物であると位置づけたのである。 BCF仮説は、鳥的な恐竜、恐竜的な鳥が相次いで発見され、鳥の起源に注目が集まっていた時期に、「先に鳥が存在したのだ」という驚くべき大胆な仮定によって鳥と恐竜の関係をすっきりと説明しようとした。例えばこの仮説に従えば、恐竜に鎖骨を持つものとないものがいることが説明できる。つまり、鎖骨のない恐竜は「ダイノバード」から早々に分岐して地上生活に戻り鎖骨が退化したものであり、鎖骨のある恐竜はそれより後にダイノバードより分岐したということになる。 BCF仮説は一般的な関心を集めはしたものの、学術論文の形式で発表された学説ではなかったため、研究者からの評価は低かった。 のちに中国などで盛んに発見された一連の羽毛恐竜の化石もBCF仮説を裏付けるものにはならず、逆に恐竜・獣脚類から鳥類が進化したことを示すものであった。2009年には、中国科学院などの研究チームが、ジュラ紀後期(1億6100万年〜1億5100万年前/始祖鳥よりも古い時代)の地層から、前後の脚に長い風切り羽を持つ小型肉食恐竜の化石が見つかったと、9月24日付で英科学誌ネイチャーに発表した。この発見によって、恐竜はまず羽毛を身につけ、そこから鳥類へと進化していったと結論づけられた。 特にBCF仮説の弱点とされたのは、その論拠となったプロトアビスの化石が非常に不完全かつ保存状態が悪かった点である。これは発見当初こそ始祖鳥より進化した鳥類として話題を集めたものの、現在ではそれは単なる思い込みに過ぎず、そのような結論が下せる状態のものではないとされている(鳥だと思って見る者には鳥に見え、恐竜だと思って見る者には恐竜に見える、ロールシャッハ・テストだという学者もいる)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ダイノバード(dinobird)とは、恐竜や鳥類の先祖としてジョージ・オルシェフスキー(オランダ語版)が主張している仮想生物である。ジョージ・オルシェフスキーのBCF仮説のなかで使われる言葉である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "なお、BCF仮説は2013年現在の恐竜研究においては主流の仮説ではない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "初めて鳥類と恐竜類の類縁関係、つまり恐竜から鳥が進化したと主張したのは、「ダーウィンのブルドッグ」というあだ名で有名なトマス・ヘンリー・ハクスリーで、1860年代後半のことであった。しかしながら、当時知られていた恐竜には鎖骨が存在しなかったことから、鎖骨が消失した恐竜から鎖骨が発達した鳥類が進化することはありえないとして、この説は支持者を失っていった。多くの研究者は、恐竜と鳥類は共通の先祖(槽歯類)から分岐して進化したと考えるようになった。", "title": "BCF仮説の概略" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1973年、ジョン・オストロムが獣脚類にも鎖骨を持つものがいること、すなわち恐竜の鎖骨はすべて消失していたわけではないことを明らかにし、恐竜から鳥類が進化したという説を復活させた。", "title": "BCF仮説の概略" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "だが、鳥類が恐竜から進化したという説が通説となる一方、それを覆すような発見もあった。1983年にシャンカール・チャタジー(英語版)によって三畳紀後期のカルン期の地層から発見されたプロトアビス・テキセンシスである。もっとも古い鳥類と考えられてきた始祖鳥よりも7000万年も前、最古の恐竜と同時期に、始祖鳥よりさらに進化した鳥類が存在することとなった。", "title": "BCF仮説の概略" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "それを踏まえ、1994年に米国のコラムニスト(古生物学の研究を職業とする者ではない)のジョージ・オルシェフスキー(オランダ語版)は、ジョン・オストロムとはまったく逆の、恐竜と鳥の起源に関する大胆な仮説を提案した。それがBCF仮説(The Birds Came First hypothesis :「鳥が先」仮説。ダイノバード仮説とも)であり、このなかで「ダイノバード」という言葉が新造された。彼のBCF仮説では、三畳紀に樹上性のある種の爬虫類が生存していたと想定し、そこから地上生活へと戻り分岐していったものが恐竜となり、最後まで樹上に残ったものが飛行能力を得て鳥類へ進化したとする。ここで想定したある種の爬虫類を「ダイノバード」と呼称した。そして始祖鳥は、ダイノバードが再び地上に戻り、恐竜へ進化する過程の生物であると位置づけたのである。", "title": "BCF仮説の概略" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "BCF仮説は、鳥的な恐竜、恐竜的な鳥が相次いで発見され、鳥の起源に注目が集まっていた時期に、「先に鳥が存在したのだ」という驚くべき大胆な仮定によって鳥と恐竜の関係をすっきりと説明しようとした。例えばこの仮説に従えば、恐竜に鎖骨を持つものとないものがいることが説明できる。つまり、鎖骨のない恐竜は「ダイノバード」から早々に分岐して地上生活に戻り鎖骨が退化したものであり、鎖骨のある恐竜はそれより後にダイノバードより分岐したということになる。", "title": "BCF仮説の概略" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "BCF仮説は一般的な関心を集めはしたものの、学術論文の形式で発表された学説ではなかったため、研究者からの評価は低かった。", "title": "BCF仮説の評価" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "のちに中国などで盛んに発見された一連の羽毛恐竜の化石もBCF仮説を裏付けるものにはならず、逆に恐竜・獣脚類から鳥類が進化したことを示すものであった。2009年には、中国科学院などの研究チームが、ジュラ紀後期(1億6100万年〜1億5100万年前/始祖鳥よりも古い時代)の地層から、前後の脚に長い風切り羽を持つ小型肉食恐竜の化石が見つかったと、9月24日付で英科学誌ネイチャーに発表した。この発見によって、恐竜はまず羽毛を身につけ、そこから鳥類へと進化していったと結論づけられた。", "title": "BCF仮説の評価" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "特にBCF仮説の弱点とされたのは、その論拠となったプロトアビスの化石が非常に不完全かつ保存状態が悪かった点である。これは発見当初こそ始祖鳥より進化した鳥類として話題を集めたものの、現在ではそれは単なる思い込みに過ぎず、そのような結論が下せる状態のものではないとされている(鳥だと思って見る者には鳥に見え、恐竜だと思って見る者には恐竜に見える、ロールシャッハ・テストだという学者もいる)。", "title": "BCF仮説の評価" } ]
ダイノバード(dinobird)とは、恐竜や鳥類の先祖としてジョージ・オルシェフスキーが主張している仮想生物である。ジョージ・オルシェフスキーのBCF仮説のなかで使われる言葉である。 なお、BCF仮説は2013年現在の恐竜研究においては主流の仮説ではない。
{{出典の明記|date=2020年2月}} '''ダイノバード'''(dinobird)とは、[[恐竜]]や[[鳥類]]の先祖として{{ill2|ジョージ・オルシェフスキー|nl|George Olshevsky}}が主張している仮想生物である。ジョージ・オルシェフスキーのBCF仮説のなかで使われる言葉である。 なお、BCF仮説は2013年現在の[[恐竜]]研究においては主流の仮説ではない。 == BCF仮説の概略 == 初めて鳥類と恐竜類の類縁関係、つまり恐竜から鳥が進化したと主張したのは、「[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]のブルドッグ」というあだ名で有名な[[トマス・ヘンリー・ハクスリー]]で、1860年代後半のことであった。しかしながら、当時知られていた恐竜には鎖骨が存在しなかったことから、鎖骨が消失した恐竜から鎖骨が発達した鳥類が進化することはありえないとして、この説は支持者を失っていった。多くの研究者は、恐竜と鳥類は共通の先祖([[槽歯類]])から分岐して進化したと考えるようになった。 [[1973年]]、[[ジョン・オストロム]]が獣脚類にも鎖骨を持つものがいること、すなわち恐竜の鎖骨はすべて消失していたわけではないことを明らかにし、恐竜から鳥類が進化したという説を復活させた。 だが、鳥類が恐竜から進化したという説が通説となる一方、それを覆すような発見もあった。[[1983年]]に{{ill2|シャンカール・チャタジー|en|Sankar Chatterjee}}によって[[三畳紀]]後期のカルン期の地層から発見された[[プロトアビス]]・テキセンシスである。もっとも古い鳥類と考えられてきた[[始祖鳥]]よりも7000万年も前、最古の恐竜と同時期に、始祖鳥よりさらに進化した鳥類が存在することとなった。 それを踏まえ、[[1994年]]に[[アメリカ合衆国|米国]]の[[コラムニスト]](古生物学の研究を職業とする者ではない)の{{ill2|ジョージ・オルシェフスキー|nl|George Olshevsky}}は、ジョン・オストロムとはまったく逆の、恐竜と鳥の起源に関する大胆な仮説を提案した。それが'''BCF仮説'''(The Birds Came First hypothesis :「鳥が先」仮説。ダイノバード仮説とも)であり、このなかで「ダイノバード」という言葉が新造された。彼のBCF仮説では、[[三畳紀]]に樹上性のある種の爬虫類が生存していたと想定し、そこから地上生活へと戻り分岐していったものが恐竜となり、最後まで樹上に残ったものが飛行能力を得て鳥類へ進化したとする。ここで想定したある種の爬虫類を「ダイノバード」と呼称した。そして始祖鳥は、ダイノバードが再び地上に戻り、恐竜へ進化する過程の生物であると位置づけたのである。 BCF仮説は、鳥的な恐竜、恐竜的な鳥が相次いで発見され、鳥の起源に注目が集まっていた時期に、「先に鳥が存在したのだ」という驚くべき大胆な仮定によって鳥と恐竜の関係をすっきりと説明しようとした。例えばこの仮説に従えば、恐竜に鎖骨を持つものとないものがいることが説明できる。つまり、鎖骨のない恐竜は「ダイノバード」から早々に分岐して地上生活に戻り鎖骨が退化したものであり、鎖骨のある恐竜はそれより後にダイノバードより分岐したということになる。 == BCF仮説の評価 == BCF仮説は一般的な関心を集めはしたものの、学術論文の形式で発表された学説ではなかったため、研究者からの評価は低かった。 のちに中国などで盛んに発見された一連の[[羽毛恐竜]]の化石もBCF仮説を裏付けるものにはならず、逆に恐竜・獣脚類から鳥類が進化したことを示すものであった。[[2009年]]には、中国科学院などの研究チームが、ジュラ紀後期(1億6100万年〜1億5100万年前/始祖鳥よりも古い時代)の地層から、前後の脚に長い風切り羽を持つ小型肉食恐竜の化石が見つかったと、9月24日付で英科学誌ネイチャーに発表した。この発見によって、恐竜はまず羽毛を身につけ、そこから鳥類へと進化していったと結論づけられた。 特にBCF仮説の弱点とされたのは、その論拠となった[[プロトアビス]]の化石が非常に不完全かつ保存状態が悪かった点である。これは発見当初こそ始祖鳥より進化した鳥類として話題を集めたものの、現在ではそれは単なる思い込みに過ぎず、そのような結論が下せる状態のものではないとされている(鳥だと思って見る者には鳥に見え、恐竜だと思って見る者には恐竜に見える、[[ロールシャッハ・テスト]]だという学者もいる)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アクア説]] - 同じく古生物学の門外漢による進化の仮説。 {{DEFAULTSORT:たいのはあと}} [[Category:恐竜]] [[Category:鳥類学]] [[Category:架空の爬虫類]] [[Category:仮説]]
2005-09-14T02:07:18Z
2023-09-24T09:16:57Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Ill2", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89
1,427,069
セイヴド
『セイヴド』(Saved)は、1980年にリリースされたボブ・ディラン20枚目のスタジオ・アルバム。ボーン・アゲイン・クリスチャンに改宗したディランの個人的な信仰心とゴスペルに強く影響を受けた楽曲が並び、前作『スロー・トレイン・カミング』(1979年)での試みをさらに深めた作品。ビルボード200チャートで最高24位、全英アルバム・チャートで3位を記録した。 レコーディングは1980年2月11日から15日にかけて、前作『スロー・トレイン・カミング』と同じく、アラバマ州シェフィールドのマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオにてジェリー・ウェクスラーとバリー・バケットのプロデュースで行われた。 当初ジャケット・カバーの絵はトラフィックなどのジャケットも手がけるトニー・ライト(Tony Wright)による「神の手」が描かれていた。リリース直後の雑誌『ローリング・ストーン』誌によると発売直後、ディランはコロムビアにジャケットを差し替えるように要請したが却下されたとのこと。しかし、このことに関しては、このアルバムは最高位24位とディランのオリジナル・アルバムの中ではファースト・アルバム以来の売れ行きの悪さに危機感を持ったディランがプロモーションの強化を促す意図があったと受け止められていた。後にCD化の際にジャケットは裏表逆にされた。 インナースリーヴには、旧約聖書『エレミヤ書』31章31節の一文が記載されている。 特記なき楽曲はボブ・ディラン作詞・作曲
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『セイヴド』(Saved)は、1980年にリリースされたボブ・ディラン20枚目のスタジオ・アルバム。ボーン・アゲイン・クリスチャンに改宗したディランの個人的な信仰心とゴスペルに強く影響を受けた楽曲が並び、前作『スロー・トレイン・カミング』(1979年)での試みをさらに深めた作品。ビルボード200チャートで最高24位、全英アルバム・チャートで3位を記録した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "レコーディングは1980年2月11日から15日にかけて、前作『スロー・トレイン・カミング』と同じく、アラバマ州シェフィールドのマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオにてジェリー・ウェクスラーとバリー・バケットのプロデュースで行われた。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当初ジャケット・カバーの絵はトラフィックなどのジャケットも手がけるトニー・ライト(Tony Wright)による「神の手」が描かれていた。リリース直後の雑誌『ローリング・ストーン』誌によると発売直後、ディランはコロムビアにジャケットを差し替えるように要請したが却下されたとのこと。しかし、このことに関しては、このアルバムは最高位24位とディランのオリジナル・アルバムの中ではファースト・アルバム以来の売れ行きの悪さに危機感を持ったディランがプロモーションの強化を促す意図があったと受け止められていた。後にCD化の際にジャケットは裏表逆にされた。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "インナースリーヴには、旧約聖書『エレミヤ書』31章31節の一文が記載されている。", "title": "解説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "特記なき楽曲はボブ・ディラン作詞・作曲", "title": "収録曲" } ]
『セイヴド』(Saved)は、1980年にリリースされたボブ・ディラン20枚目のスタジオ・アルバム。ボーン・アゲイン・クリスチャンに改宗したディランの個人的な信仰心とゴスペルに強く影響を受けた楽曲が並び、前作『スロー・トレイン・カミング』(1979年)での試みをさらに深めた作品。ビルボード200チャートで最高24位、全英アルバム・チャートで3位を記録した。
{{Infobox Album | Name = セイヴド<br>Saved | Type = [[スタジオ・アルバム]] | Artist = [[ボブ・ディラン]] | Released = {{flagicon|USA}} [[1980年]][[6月23日]] | Recorded = 1980年[[2月11日]]-[[2月15日|15日]]<br>{{flagicon|US}} [[アラバマ州]]シェフィールド<br>[[マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ]] | Genre = ゴスペル・ロック | Length = 42分39秒 | Label = [[コロムビア・レコード|コロムビア]] | Producer = ジェリー・ウェクスラー<br />バリー・ベケット | Reviews = *''[[オールミュージック|Allmusic]]'' {{rating-5|2}} [http://www.allmusic.com/album/r6441 link] *''[[ローリング・ストーン|Rolling Stone]]'' {{rating-5|3.5}} [http://www.rollingstone.com/artists/bobdylan/albums/album/175580/review/5944002/saved link] | Chart position = *{{flagicon|USA}} 24位([[Billboard 200|ビルボード200]]) *{{flagicon|UK}} 3位([[全英アルバムチャート|全英アルバム・チャート]]) | Certification = *{{flagicon|UK}} シルバー(BPI) | Last album = [[スロー・トレイン・カミング]]<br />([[1979年]]) | This album = '''セイヴド'''<br />(1980年) | Next album = [[ショット・オブ・ラブ]]<br />([[1981年]]) }} 『'''セイヴド'''』('''Saved''')は、[[1980年]]にリリースされた'''[[ボブ・ディラン]]'''20枚目の[[スタジオ・アルバム]]。[[新生 (キリスト教)|ボーン・アゲイン・クリスチャン]]に改宗したディランの個人的な信仰心と[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]に強く影響を受けた楽曲が並び、前作『[[スロー・トレイン・カミング]]』([[1979年]])での試みをさらに深めた作品。[[Billboard 200|ビルボード200]]チャートで最高24位<ref>{{cite web | url = http://www.allmusic.com/artist/p4147 | title = allmusic ((( Bob Dylan > Charts & Awards > Billboard Albums ))) | accessdate = 2009年8月10日 |language=英語| publisher = [[オールミュージック|Allmusic]] | date =}}</ref>、[[全英アルバムチャート|全英アルバム・チャート]]で3位を記録した。 ==解説== ===レコーディング=== レコーディングは1980年[[2月11日]]から[[2月15日|15日]]にかけて、前作『スロー・トレイン・カミング』と同じく、[[アラバマ州]]シェフィールドの[[マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ]]にてジェリー・ウェクスラーとバリー・バケットのプロデュースで行われた。 ===カバー・アート=== 当初ジャケット・カバーの絵は[[トラフィック]]などのジャケットも手がけるトニー・ライト([[:en:Tony Wright (artist)|Tony Wright]])による「神の手」が描かれていた。リリース直後の雑誌『[[ローリング・ストーン]]』誌によると発売直後、ディランは[[コロムビア・レコード|コロムビア]]にジャケットを差し替えるように要請したが却下されたとのこと。しかし、このことに関しては、このアルバムは最高位24位とディランのオリジナル・アルバムの中ではファースト・アルバム以来の売れ行きの悪さに危機感を持ったディランがプロモーションの強化を促す意図があったと受け止められていた。後にCD化の際にジャケットは裏表逆にされた。 インナースリーヴには、[[旧約聖書]]『[[エレミヤ書]]』31章31節の一文が記載されている。 ==収録曲== 特記なき楽曲はボブ・ディラン作詞・作曲 ===Side 1=== # ア・サティスファイド・マインド - [[:en:A Satisfied Mind|A Satisfied Mind]] – 1:57 #*作詞・作曲: Red Hayes/[[:en:Jack Rhodes|Jack Rhodes]] # セイヴド - Saved – 4:00 #*作詞・作曲: [[:en:Tim Drummond|Tim Drummond]]/ディラン # コヴィナント・ウーマン - Covenant Woman – 6:02 # ホワット・キャン・アイ・ドゥ・フォー・ユー - What Can I Do for You? – 5:54 # ソリッド・ロック - Solid Rock – 3:55 ===Side 2=== # プレッシング・オン - Pressing On – 5:11 # イン・ザ・ガーデン - In the Garden – 5:58 # セイヴィング・グレイス - Saving Grace – 5:01 # アー・ユー・レディ - Are You Ready – 4:41 ==パーソネル== *バリー・バケット([[:en:Barry Beckett|Barry Beckett]]) - [[音楽プロデューサー|プロデューサー]] *キャロリン・デニス([[:en:Carolyn Dennis|Carolyn Dennis]]) - [[ボーカル]] *ティム・ドラモンド([[:en:Tim Drummond|Tim Drummond]]) - [[ベース (弦楽器)|ベース]] *ボブ・ディラン - [[ギター]]、[[ハーモニカ]]、[[キーボード (楽器)|キーボード]]、ボーカル *Gregg Hamm - [[レコーディング・エンジニア|エンジニア]] *Bobby Hata - [[マスタリング]] *レジナ・ヘイヴィス - ボーカル *[[ジム・ケルトナー]] - [[ドラムス]] *クライディ・キング([[:en:Clydie King|Clydie King]]) - ボーカル *Mary Beth McLemore - アシスタント・エンジニア *[[:en:Spooner Oldham|Spooner Oldham]] - キーボード *Arthur Rosato - フォトグラフィ *[[:en:Fred Tackett|Fred Tackett]] - ギター *ジェリー・ウェクスラー([[:en:Jerry Wexler|Jerry Wexler]]) - プロデューサー *Paul Wexler - マスタリング・スーパーバイザー *トニー・ライト([[:en:Tony Wright (artist)|Tony Wright]]) - アートワーク *Monalisa Young - ボーカル *Terry Young - キーボード、ボーカル ==リリース== ;日本 {|class="wikitable" ! 日付 ! style="white-space:nowrap" |レーベル ! style="white-space:nowrap" |フォーマット ! style="white-space:nowrap" |カタログ番号 ! 付記 |- | style="white-space:nowrap" |1980年 | style="white-space:nowrap" |CBSソニー | style="white-space:nowrap" align="center" |LP | 25AP 1890 | |- | style="white-space:nowrap" |1980年 | style="white-space:nowrap" |CBSソニー | style="white-space:nowrap" align="center" |カセット | 25KP 581 | |- | style="white-space:nowrap" |1991年12月1日<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Arch/SR/BobDylan/SRCS-6170/index.html | title = セイヴド | accessdate = 2009年8月10日 | publisher = [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージック]] | date = }}</ref> | style="white-space:nowrap" |ソニー | style="white-space:nowrap" align="center" |CD | SRCS 6170 | NICE PRICE LINE |} ==関連項目== *[[ボブ・ディランの作品]] ==脚注== <references/> {{ボブ・ディラン}} {{Album-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいうと}} [[Category:ボブ・ディランのアルバム]] [[Category:ジェリー・ウェクスラーがプロデュースしたアルバム]] [[Category:バリー・ベケットがプロデュースしたアルバム]] [[Category:コロムビア・レコードのアルバム]] [[Category:1980年のアルバム]]
2008-04-27T02:02:34Z
2023-10-19T03:02:20Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:Infobox Album", "Template:Cite web", "Template:ボブ・ディラン", "Template:Album-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%83%89
2,897,004
聖マリア女子中学 (上海)
聖マリア女子中学(せいまりあじょしちゅうがく、中国語: 聖瑪利亞女中、英語: St. Mary's Hall, Shanghai)は、中国・上海にあった米国聖公会のミッションスクールで、中華人民共和国の成立後に閉鎖された。 聖マリア女子中学は1851年に虹口米国租界地の聖公会座堂近くに建てられた文紀女塾にさかのぼり、1881年には聖マリア女校(聖瑪利亞女校)として正式に発足し、聖ヨハネ書院と隣り合わせにあった。1923年には上海共同租界の白利南路(現在の長寧路1187号)に引っ越し、聖マリア女子中学(聖瑪利亞女中)と改名した。当時、学費が高かったのでメソジスト教会の中西女子中学(McTyeire School)と共に「貴族教会女子校」との異名で知られていた。特に英文科、家政科、音楽舞踏科で有名であった。 新中国の発足後、1952年には聖マリア女子中学と中西女子中学を合併して、上海市第三中学(江蘇路155号)が作られて、聖マリア女子中学の旧址は上海紡績専科学校となり、1999年には東華大学紡績学院長寧分校となった。 なお、国民党政府が台湾へ移ったのち、聖ヨハネ大学と聖マリア女子中学の卒業生が中心となり、台湾にのちに聖ヨハネ科技大学と呼ばれるようになる教育機関を設立している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "聖マリア女子中学(せいまりあじょしちゅうがく、中国語: 聖瑪利亞女中、英語: St. Mary's Hall, Shanghai)は、中国・上海にあった米国聖公会のミッションスクールで、中華人民共和国の成立後に閉鎖された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "聖マリア女子中学は1851年に虹口米国租界地の聖公会座堂近くに建てられた文紀女塾にさかのぼり、1881年には聖マリア女校(聖瑪利亞女校)として正式に発足し、聖ヨハネ書院と隣り合わせにあった。1923年には上海共同租界の白利南路(現在の長寧路1187号)に引っ越し、聖マリア女子中学(聖瑪利亞女中)と改名した。当時、学費が高かったのでメソジスト教会の中西女子中学(McTyeire School)と共に「貴族教会女子校」との異名で知られていた。特に英文科、家政科、音楽舞踏科で有名であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "新中国の発足後、1952年には聖マリア女子中学と中西女子中学を合併して、上海市第三中学(江蘇路155号)が作られて、聖マリア女子中学の旧址は上海紡績専科学校となり、1999年には東華大学紡績学院長寧分校となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "なお、国民党政府が台湾へ移ったのち、聖ヨハネ大学と聖マリア女子中学の卒業生が中心となり、台湾にのちに聖ヨハネ科技大学と呼ばれるようになる教育機関を設立している。", "title": "概要" } ]
聖マリア女子中学は、中国・上海にあった米国聖公会のミッションスクールで、中華人民共和国の成立後に閉鎖された。
'''聖マリア女子中学'''(せいまりあじょしちゅうがく、{{Lang-zh|聖瑪利亞女中}}、{{Lang-en|St. Mary's Hall, Shanghai}})は、[[中国]]・[[上海]]にあった[[米国聖公会]]の[[ミッションスクール]]で、[[中華人民共和国]]の成立後に閉鎖された。 == 概要 == 聖マリア女子中学は1851年に虹口米国租界地の聖公会座堂近くに建てられた'''文紀女塾'''にさかのぼり、1881年には'''聖マリア女校'''(聖瑪利亞女校)として正式に発足し、[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ書院]]と隣り合わせにあった。1923年には[[上海共同租界]]の白利南路(現在の長寧路1187号)に引っ越し、'''聖マリア女子中学'''(聖瑪利亞女中)と改名した。当時、学費が高かったので[[メソジスト教会]]の[[中西女子中学]](McTyeire School)と共に「貴族教会女子校」との異名で知られていた。特に英文科、家政科、音楽舞踏科で有名であった。 新中国の発足後、1952年には聖マリア女子中学と中西女子中学を合併して、[[上海市第三中学]](江蘇路155号)が作られて、聖マリア女子中学の旧址は上海紡績専科学校となり、1999年には[[東華大学]]紡績学院長寧分校となった<ref>[http://www.disappearingcorners.com/st-marys-hall-high-school/ St. Mary's Hall High School]</ref><ref>[http://english.sju.edu.tw/bin/home.php St. John's University]</ref>。 なお、[[国民党政府]]が[[台湾]]へ移ったのち、聖ヨハネ大学と聖マリア女子中学の卒業生が中心となり、台湾にのちに[[聖ヨハネ科技大学]]と呼ばれるようになる教育機関を設立している。 == 主な出身者 == *[[張愛玲]] == 脚注 == <references/> == 関連項目 == *[[聖ヨハネ大学 (上海)]] *[[聖約翰科技大学]] *[[米国聖公会]]・[[中華聖公会]] *[[聖ヨハネ座堂 (台北)]] == 外部リンク == *[http://app1.chinadaily.com.cn/star/2001/0426/cu18-2.html St. MarY's, Once a Top School for Chinese Girls] (英語) {{DEFAULTSORT:せいまりあしよしちゆうかく}} [[Category:上海の中学校|廃]] [[Category:聖公会系学校|廃]] [[Category:中国のキリスト教系学校]] [[Category:上海市の歴史]] [[Category:長寧区]] [[Category:教育機関 (廃止)]]
2013-12-16T12:30:18Z
2023-10-16T23:06:54Z
false
false
false
[ "Template:Lang-zh", "Template:Lang-en" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%A5%B3%E5%AD%90%E4%B8%AD%E5%AD%A6_(%E4%B8%8A%E6%B5%B7)
4,819,851
ルネ・メッジ
ルネ・メッジ(René Metge、1941年10月23日 - )は、フランス・オー=ド=セーヌ県モンルージュ出身のレーシングドライバー、実業家。「ルネ・メチェ」とも呼ばれる。 ポルシェや英国車を中心にドライブし、ダカール・ラリーの四輪部門を3度制覇した。 7歳で父のブガッティのステアリングを握った。パリの学校で精密スタンピング加工の技術者となり、最初の上司からデルビの50ccバイクのトレーニングを受けたり、ガレージをもらったりした。 1972年にルノー・12 ゴルディーニカップで優勝。フランスツーリングカー選手権に参戦し、トライアンフ・ドロマイトをドライブして1976年に2,000以下クラス、1978年に1,600〜2,500ccクラス王者となった。1982年にはローバー・3500をドライブして総合でも王者となっている。 ル・マン24時間には6回出場しているが、すべてポルシェ(グループ4やグループ5)をドライブしており、1982年にグループ5クラスで1位完走を果たした。1986年には四輪駆動のポルシェ・961でル・マンにエントリーし、総合7位となった。1987年はサルテ・サーキットのユノディエールで961をドライブし、382km/hをマークした。 ニュルブルクリンク24時間やスパ・フランコルシャン24時間ではBMWもドライブした。 1981年に立ち上がったル・マン24時間のカミオン(トラック)版にも参戦し、1983年にMANをドライブして優勝している。 ラリーレイドにも古くから挑戦しており、ダカール・ラリーの事実上の前身となるアビジャン-ニースラリーで1978年に2位となった。その後誕生したダカール・ラリーの四輪部門に参戦し、1981年(ランドローバー・レンジローバー)に初優勝。これを受けたジャッキー・イクスの紹介でポルシェワークスに加入し、1984年(ポルシェ・953)、1986年(ポルシェ・959)の合計3度の優勝を果たした。1984年には北米のバハ1000でも2位となった。 最後の優勝の年にダカール創始者ティエリー・サビーヌが死去。メッジは彼の後釜としてダカールの運営組織TSO(ティエリー・サビーヌ・オルガニザシオン)に加入し、競技ディレクターとなって、サビーヌの父ギルバートと共に運営に携わった。しかしメッジの運営はうまくいかず、不評のままTSOを去った。 しかしその後もTSOでの経験を活かしてモトネージュ-ハリカーナ、マスターラリー(パリ-北京)、モスクワ-イスタンブール、ルカネー-ペトラ、トルクメン・デザート・チャレンジなどのラリーレイドイベントを転々としながら運営に携わった。 1994年ダカールではペルリーニのトラックをドライブし、総合6位でフィニッシュした。 2003年にル・マンに参戦するダッジ・バイパーGT-Sのテストを行った。 2002年から2007年の間に日産のワークス格であるフランスのチーム・ドスードに加入して、フランス人ロックスターのジョニー・アリディ、ジャーナリストのベルナール・シュバリエ、ツーリングカー世界王者のイヴァン・ミュラーなどのナビを務めた。なお2003年は娘のエロディをナビとして、トラック部門勝者に名を連ねるジョルジュ・グロワンが開発したメルセデス・ML430で参戦した。 2009年に同じくフランス人のジャン=ルイ・シュレッサーとともに、アフリカ・エコレースを立ち上げた。 モンルージュでランドローバーを扱うディーラーも経営している。 2022年に自伝『ルネ・メッジ 7歳から77歳までのパイロット』を出版した。その発表会にはダカールの戦友や、サビーヌの元妻が出席した。 2010年代後半にホンダのワークスチームであるTeam HRCからダカールの二輪部門に参戦したマイケル・メッジ、およびその兄弟でホンダ・サウスアメリカからエントリーしたアドリアン・メッジは、ルネ・メッジと血縁関係があると公言し、ホンダのホームページでもそのような記載がされているが、メッジの娘のエロディはこれを明確に否定している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ルネ・メッジ(René Metge、1941年10月23日 - )は、フランス・オー=ド=セーヌ県モンルージュ出身のレーシングドライバー、実業家。「ルネ・メチェ」とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ポルシェや英国車を中心にドライブし、ダカール・ラリーの四輪部門を3度制覇した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "7歳で父のブガッティのステアリングを握った。パリの学校で精密スタンピング加工の技術者となり、最初の上司からデルビの50ccバイクのトレーニングを受けたり、ガレージをもらったりした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1972年にルノー・12 ゴルディーニカップで優勝。フランスツーリングカー選手権に参戦し、トライアンフ・ドロマイトをドライブして1976年に2,000以下クラス、1978年に1,600〜2,500ccクラス王者となった。1982年にはローバー・3500をドライブして総合でも王者となっている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ル・マン24時間には6回出場しているが、すべてポルシェ(グループ4やグループ5)をドライブしており、1982年にグループ5クラスで1位完走を果たした。1986年には四輪駆動のポルシェ・961でル・マンにエントリーし、総合7位となった。1987年はサルテ・サーキットのユノディエールで961をドライブし、382km/hをマークした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ニュルブルクリンク24時間やスパ・フランコルシャン24時間ではBMWもドライブした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1981年に立ち上がったル・マン24時間のカミオン(トラック)版にも参戦し、1983年にMANをドライブして優勝している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ラリーレイドにも古くから挑戦しており、ダカール・ラリーの事実上の前身となるアビジャン-ニースラリーで1978年に2位となった。その後誕生したダカール・ラリーの四輪部門に参戦し、1981年(ランドローバー・レンジローバー)に初優勝。これを受けたジャッキー・イクスの紹介でポルシェワークスに加入し、1984年(ポルシェ・953)、1986年(ポルシェ・959)の合計3度の優勝を果たした。1984年には北米のバハ1000でも2位となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "最後の優勝の年にダカール創始者ティエリー・サビーヌが死去。メッジは彼の後釜としてダカールの運営組織TSO(ティエリー・サビーヌ・オルガニザシオン)に加入し、競技ディレクターとなって、サビーヌの父ギルバートと共に運営に携わった。しかしメッジの運営はうまくいかず、不評のままTSOを去った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかしその後もTSOでの経験を活かしてモトネージュ-ハリカーナ、マスターラリー(パリ-北京)、モスクワ-イスタンブール、ルカネー-ペトラ、トルクメン・デザート・チャレンジなどのラリーレイドイベントを転々としながら運営に携わった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1994年ダカールではペルリーニのトラックをドライブし、総合6位でフィニッシュした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2003年にル・マンに参戦するダッジ・バイパーGT-Sのテストを行った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2002年から2007年の間に日産のワークス格であるフランスのチーム・ドスードに加入して、フランス人ロックスターのジョニー・アリディ、ジャーナリストのベルナール・シュバリエ、ツーリングカー世界王者のイヴァン・ミュラーなどのナビを務めた。なお2003年は娘のエロディをナビとして、トラック部門勝者に名を連ねるジョルジュ・グロワンが開発したメルセデス・ML430で参戦した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2009年に同じくフランス人のジャン=ルイ・シュレッサーとともに、アフリカ・エコレースを立ち上げた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "モンルージュでランドローバーを扱うディーラーも経営している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2022年に自伝『ルネ・メッジ 7歳から77歳までのパイロット』を出版した。その発表会にはダカールの戦友や、サビーヌの元妻が出席した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2010年代後半にホンダのワークスチームであるTeam HRCからダカールの二輪部門に参戦したマイケル・メッジ、およびその兄弟でホンダ・サウスアメリカからエントリーしたアドリアン・メッジは、ルネ・メッジと血縁関係があると公言し、ホンダのホームページでもそのような記載がされているが、メッジの娘のエロディはこれを明確に否定している。", "title": "余談" } ]
ルネ・メッジは、フランス・オー=ド=セーヌ県モンルージュ出身のレーシングドライバー、実業家。「ルネ・メチェ」とも呼ばれる。 ポルシェや英国車を中心にドライブし、ダカール・ラリーの四輪部門を3度制覇した。
[[file:Porsche 953 front side.JPG|200px|thumb|right|1984年ダカールを制覇した時のポルシェ・953]] '''ルネ・メッジ'''(René Metge、[[1941年]][[10月23日]] - )は、[[フランス]]・[[オー=ド=セーヌ県]][[モンルージュ]]出身の[[レーシングドライバー]]、[[実業家]]。「ルネ・メチェ」とも呼ばれる。 [[ポルシェ]]や[[イギリス車|英国車]]を中心にドライブし、[[ダカール・ラリー]]の四輪部門を3度制覇した。 == 経歴 == 7歳で父の[[ブガッティ]]のステアリングを握った<ref name="COWBOY">[https://impact-european.com/the-last-lap-of-the-cow-boy-of-malakoff/ THE LAST LAP OF THE "COW BOY OF MALCOFF"]</ref>。[[パリ]]の学校で精密スタンピング加工の技術者となり、最初の上司から[[デルビ]]の50ccバイクのトレーニングを受けたり、ガレージをもらったりした{{R|COWBOY}}。 1972年に[[ルノー・12]] ゴルディーニカップで優勝。フランスツーリングカー選手権に参戦し、[[トライアンフ・ドロマイト]]をドライブして1976年に2,000以下クラス、1978年に1,600〜2,500ccクラス王者となった<ref name="AUTO">[https://www.lefigaro.fr/automobile/2007/08/02/03001-20070802ARTWWW90247-rene_metge_un_parcours_eclectique.php René Metge, un parcours éclectique]AUTOMOBILE 2023年8月27日閲覧</ref><ref>[http://touringcarracing.net/Pages/1976%20FTCC.html 1976 Championnat de France Groupe 1 1976 index]Touring car racing 2023年8月27日閲覧</ref><ref>[http://touringcarracing.net/Pages/1978%20FTCC.html 1978 Championnat de France Groupe 1 1978 index]Touring car racing 2023年8月27日閲覧</ref>。1982年には[[ローバー・3500]]をドライブして総合でも王者となっている<ref>[http://touringcarracing.net/Pages/1982%20FTCC.html 1982 Championnat de France Groupe 1 1982 index]Touring car racing 2023年8月27日閲覧</ref>。 [[ル・マン24時間]]には6回出場しているが、すべて[[ポルシェ]]([[グループ4]]や[[グループ5]])をドライブしており<ref name="EI">[https://www.endurance-info.com/classic/article/97157-rene-metge-porsche-cetait-une-vraie-famille René Metge : "Porsche, c'était une vraie famille"]ENDURANCE INFO 2023年8月27日閲覧</ref>、1982年にグループ5クラスで1位完走を果たした<ref name="NISMO_BIO">[https://www.nismo.co.jp/M_SPORTS/2002/dakar/team/driver_6.html ルネ・メッジ]NISMO公式サイト 2023年8月27日閲覧</ref>。1986年には[[四輪駆動]]の[[ポルシェ・959|ポルシェ・961]]でル・マンにエントリーし、総合7位となった。1987年は[[サルテ・サーキット]]のユノディエールで961をドライブし、382km/hをマークした{{R|COWBOY}}。 [[ニュルブルクリンク24時間]]や[[スパ・フランコルシャン24時間]]では[[BMW]]もドライブした{{R|COWBOY}}。 1981年に立ち上がったル・マン24時間のカミオン(トラック)版にも参戦し、1983年に[[MAN]]{{要曖昧さ回避|date=2023年9月}}をドライブして優勝している{{R|COWBOY}}。 [[ラリーレイド]]にも古くから挑戦しており、[[ダカール・ラリー]]の事実上の前身となるアビジャン-ニースラリーで1978年に2位となった。その後誕生した[[ダカール・ラリー]]の四輪部門に参戦し、1981年([[ランドローバー・レンジローバー]])に初優勝。これを受けた[[ジャッキー・イクス]]の紹介でポルシェワークスに加入し、1984年([[ポルシェ・959|ポルシェ・953]])、1986年([[ポルシェ・959]])の合計3度の優勝を果たした<ref name="SUGAWARA_TEGAMI">[https://www.sser.org/?p=12784 No.0621「ルネメッジのこと」- Organisation Voice 2004/04/01]菅原さんからの手紙 2023年8月27日閲覧</ref>。1984年には北米の[[バハ1000]]でも2位となった{{R|NISMO_BIO}}。 最後の優勝の年にダカール創始者[[ティエリー・サビーヌ]]が死去。メッジは彼の後釜としてダカールの運営組織TSO(ティエリー・サビーヌ・オルガニザシオン)に加入し、競技ディレクターとなって、サビーヌの父ギルバートと共に運営に携わった。しかしメッジの運営はうまくいかず、不評のままTSOを去った{{R|SUGAWARA_TEGAMI}}。 しかしその後もTSOでの経験を活かしてモトネージュ-ハリカーナ、[[1992年のパリ-モスクワ-北京ラリー|マスターラリー(パリ-北京)]]、モスクワ-イスタンブール、ルカネー-ペトラ、トルクメン・デザート・チャレンジなどのラリーレイドイベントを転々としながら運営に携わった{{R|NISMO_BIO}}。 1994年ダカールでは[[ペルリーニ]]のトラックをドライブし、総合6位でフィニッシュした<ref>[https://www.automobilsport.com/race-categories--24,15762,16th-PARIS---DAKAR---PARIS---1994-History,news.htm THE DAKAR IN FIGURES 16th PARIS - DAKAR - PARIS ]AutomobileSport 2023年8月31日閲覧</ref>。 2003年にル・マンに参戦する[[ダッジ・バイパー|ダッジ・バイパーGT-S]]のテストを行った{{R|EI}}。 2002年から2007年の間に日産のワークス格であるフランスのチーム・ドスードに加入して、フランス人ロックスターの[[ジョニー・アリディ]]{{R|NISMO_BIO}}、ジャーナリストのベルナール・シュバリエ、ツーリングカー世界王者の[[イヴァン・ミュラー]]などのナビを務めた{{R|AUTO}}{{R|COWBOY}}。なお2003年は娘のエロディをナビとして、トラック部門勝者に名を連ねる[[ジョルジュ・グロワン]]が開発した[[メルセデス・ベンツ・Mクラス|メルセデス・ML430]]で参戦した{{R|COWBOY}}<ref>[http://www.dlg.speedfreaks.org/archive/2003/dakar/dakare.html 2003 Paris-Dakar Rally Entry List]</ref>。 2009年に同じくフランス人の[[ジャン=ルイ・シュレッサー]]とともに、[[アフリカ・エコレース]]を立ち上げた<ref>[https://www.visitmonaco.com/ja/%E3%82%A4%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%88/%E3%82%B9%E3%83%9B-%E3%83%84/39013/africa-eco-race-monaco-dakar Africa Eco Race - Monaco-Dakar]アフリカ・エコレース公式サイト 2023年8月27日閲覧</ref>。 モンルージュで[[ランドローバー]]を扱うディーラーも経営している{{R|AUTO}}。 2022年に自伝『ルネ・メッジ 7歳から77歳までのパイロット』を出版した。その発表会にはダカールの戦友や、サビーヌの元妻が出席した{{R|COWBOY}}。 == 余談 == 2010年代後半に[[ホンダ]]のワークスチームである[[ホンダ・レーシング|Team HRC]]からダカールの二輪部門に参戦したマイケル・メッジ、およびその兄弟でホンダ・サウスアメリカからエントリーしたアドリアン・メッジは、ルネ・メッジと血縁関係があると公言し、ホンダのホームページでもそのような記載がされている<ref>[https://www.honda.co.jp/DAKAR/race2018/formation/michael-metge/ マイケル・メッジ]本田技研工業公式サイト 2023年8月27日閲覧</ref>が、メッジの娘のエロディはこれを明確に否定している<ref>[https://www.lepoint.fr/sport/dakar-la-fille-de-rene-metge-refute-tout-lien-familial-avec-adrien-et-michael-metge-09-01-2017-2095828_26.php Dakar: la fille de René Metge réfute tout lien familial avec Adrien et Michaël Metge]Le Point 2023年8月27日閲覧</ref>。 == 脚注 == {{reflist|}} == 関連項目 == *[[ポルシェ・959]] *[[ル・マン24時間レース]] *[[ダカール・ラリー]] *[[アフリカ・エコレース]] {{デフォルトソート:めつし るね}} [[Category:フランスのドライバー]] [[Category:フランスのラリードライバー]] [[Category:ル・マン24時間レースのドライバー]] [[Category:ダカール・ラリー]] [[Category:オー=ド=セーヌ県出身の人物]] [[Category:1941年生]] [[Category:存命人物]]
2023-08-27T01:09:22Z
2023-09-18T14:00:30Z
false
false
false
[ "Template:R", "Template:要曖昧さ回避", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B8
674,765
鹿屋バイパス
鹿屋バイパス(かのやバイパス)は、 鹿児島県肝属郡肝付町(旧高山町)から同県鹿屋市に至る全長約11kmの国道220号のバイパス道路である。1992年3月25日に暫定2車線で全通し、2010年末に郷之原トンネル区間を除き4車線化された。 鹿屋市街地の交通渋滞対策として1973年度に基礎調査を開始。1980年5月から工事を開始し、1992年に全線開通した。起点の肝付町富山から鹿屋市郷之原町までを第1期、鹿屋市郷之原町から終点の鹿屋市白水町までを第2期として工事を進めた。 全通後ロードサイド店舗が多数立地するようになり、交通量も大隅半島で最も多くなったことから、2001年から2003年度にかけて鹿屋市大浦町(上谷口交差点付近)以西と鹿屋大橋・弥生橋を除く区間が、2010年3月に鹿屋大橋・弥生橋が、そして同年12月に第1期区間が全線4車線化された。開通直後の1993年には新たな商圏が誕生することが予想されており、後にそれが現実となった。 工事中に鹿屋市王子町(MEGAドン・キホーテ鹿屋店付近、旧ベスト電器鹿屋本店→エディオン鹿児島鹿屋店跡地)で弥生時代の竪穴建物などが発見され、1980年度から1984年度にかけて発掘調査と「王子遺跡資料館」への移転作業が実施された。 肝属川や国道504号をまたぐ鹿屋大橋はディビダーグ工法で設計されている。渡り初めには約1,500人が参加した。 郷之原トンネルは1988年度から工事を進め、1989年12月16日に貫通。1992年3月25日に開通した。幅員は10.7m、高さは6.7m、総工費は16億4,000万円。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "鹿屋バイパス(かのやバイパス)は、 鹿児島県肝属郡肝付町(旧高山町)から同県鹿屋市に至る全長約11kmの国道220号のバイパス道路である。1992年3月25日に暫定2車線で全通し、2010年末に郷之原トンネル区間を除き4車線化された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "鹿屋市街地の交通渋滞対策として1973年度に基礎調査を開始。1980年5月から工事を開始し、1992年に全線開通した。起点の肝付町富山から鹿屋市郷之原町までを第1期、鹿屋市郷之原町から終点の鹿屋市白水町までを第2期として工事を進めた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "全通後ロードサイド店舗が多数立地するようになり、交通量も大隅半島で最も多くなったことから、2001年から2003年度にかけて鹿屋市大浦町(上谷口交差点付近)以西と鹿屋大橋・弥生橋を除く区間が、2010年3月に鹿屋大橋・弥生橋が、そして同年12月に第1期区間が全線4車線化された。開通直後の1993年には新たな商圏が誕生することが予想されており、後にそれが現実となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "工事中に鹿屋市王子町(MEGAドン・キホーテ鹿屋店付近、旧ベスト電器鹿屋本店→エディオン鹿児島鹿屋店跡地)で弥生時代の竪穴建物などが発見され、1980年度から1984年度にかけて発掘調査と「王子遺跡資料館」への移転作業が実施された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "肝属川や国道504号をまたぐ鹿屋大橋はディビダーグ工法で設計されている。渡り初めには約1,500人が参加した。", "title": "構造物" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "郷之原トンネルは1988年度から工事を進め、1989年12月16日に貫通。1992年3月25日に開通した。幅員は10.7m、高さは6.7m、総工費は16億4,000万円。", "title": "構造物" } ]
鹿屋バイパス(かのやバイパス)は、 鹿児島県肝属郡肝付町(旧高山町)から同県鹿屋市に至る全長約11kmの国道220号のバイパス道路である。1992年3月25日に暫定2車線で全通し、2010年末に郷之原トンネル区間を除き4車線化された。
{{Infobox_road |種別・系統 = [[一般国道]]<br/>([[バイパス道路|バイパス]]) |アイコン = {{Ja_Route_Sign|220|width=100}} |名前 = 鹿屋バイパス |名前の補足 = [[国道220号]]バイパス |副名 = |副名の補足 = |地図画像 = |総距離 = 10.63km |陸上距離 = |海上距離 = |制定年 = |開通年 = [[1982年]] - [[1992年]] |廃止年 = |道路の方角 = |起点 = 鹿児島県肝属郡肝付町富山笠之原<br>(笠野交差点) |起点方角 = |環状線通過都市 = |主な経由国 = |主な経由都市 = |終点 = 鹿児島県鹿屋市白水町<br>(鹿屋市一里山交差点) |終点方角 = |接続する主な道路 = [[ファイル:Japanese National Route Sign 0220.svg|24px]][[国道220号]](現道)<br/>[[ファイル:Japanese National Route Sign 0269.svg|24px]][[国道269号]]<br/>[[大隅縦貫道]] }} [[ファイル:Route220 Kanoya Fudamoto 200809.jpg|thumb|鹿屋市札元(日南方面)]] [[ファイル:Route220 Kanoya Bridge 2010.JPG|thumb|鹿屋大橋]] [[画像:Route220 Gonohara Tunnel.jpg|thumb|郷之原トンネル入口(垂水方面)]] '''鹿屋バイパス'''(かのやバイパス)は、 [[鹿児島県]][[肝属郡]][[肝付町]](旧[[高山町 (鹿児島県)|高山町]])から同県[[鹿屋市]]に至る全長約11[[キロメートル|km]]の[[国道220号]]の[[バイパス道路]]である。[[1992年]][[3月25日]]に[[暫定2車線]]で全通し、2010年末に郷之原トンネル区間を除き4車線化された。 == 沿革 == 鹿屋市街地の交通渋滞対策として1973年度に基礎調査を開始。1980年5月から工事を開始し、1992年に全線開通した。起点の肝付町富山から鹿屋市郷之原町までを第1期、鹿屋市郷之原町から終点の鹿屋市白水町までを第2期として工事を進めた。 全通後[[ロードサイド店舗]]が多数立地するようになり、交通量も[[大隅半島]]で最も多くなったことから、2001年から2003年度にかけて鹿屋市大浦町(上谷口交差点付近)以西と鹿屋大橋・弥生橋を除く区間が、2010年3月に鹿屋大橋・弥生橋が、そして同年12月に第1期区間が全線4車線化された。開通直後の1993年には新たな[[商圏]]が誕生することが予想されており<ref>『鹿屋市史 下巻』680頁より。</ref>、後にそれが現実となった。 工事中に鹿屋市王子町([[ドン・キホーテ (企業)|MEGAドン・キホーテ]]鹿屋店付近<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.kagoshima.jp/af01/sangyo-rodo/syoko/daikibo/documents/71947_20190718094128-1.pdf 大規模小売店舗の新設に関する公告]}} 鹿児島県公式ウェブサイト([http://www.pref.kagoshima.jp/af01/sangyo-rodo/syoko/daikibo/koukoku1.html 大規模小売店舗立地法にかかる届出内容の公告について])、2019年7月19日。</ref>、旧[[ベスト電器]]鹿屋本店→[[エディオン]]鹿児島鹿屋店跡地)で[[弥生時代]]の[[竪穴建物]]などが発見され、1980年度から1984年度にかけて発掘調査と「[[王子遺跡]]資料館」への移転作業が実施された。 * 1980年5月19日 - 一部区間を着工。 * 1982年4月 - 一部区間(札元)の800mを供用開始。 * 1986年4月5日 - 一部区間(札元 - 大浦間)の2,260mを供用開始。 * 1988年4月2日 - 一部区間(起点 - 札元269交差点間)の2,765mを供用開始。 * 1989年12月16日 - 郷之原トンネルが貫通。 * 1990年1月18日 - 一部区間(大浦 - 郷之原間)の2,935mを供用開始(第1期区間の8.76kmが全通)。 * 1992年3月25日 - 暫定2車線で全線開通(第2期区間の1,870mが全通)。 * 2001年5月 - 札元地区(県道550号交点 - 弥生橋間の2.29km)と大浦地区(鹿屋大橋 - 上谷口交差点間の1.86km)の4車線化工事を開始。 * 2001年12月27日 - 札元・大浦地区を4車線化。 * 2004年3月 起点 - 県道550号交点を4車線化。 * 2010年3月30日 - 鹿屋大橋・弥生橋を4車線化<ref>{{PDFlink|[http://www.qsr.mlit.go.jp/osumi/np/append/p20100304_01.pdf 国道220号鹿屋バイパス(王子-西祓川地区)の4車線拡幅工事が3月末に完成します!!]}} 大隅河川国道事務所、2010年3月4日。</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.qsr.mlit.go.jp/osumi/np/append/p20100326_01.pdf 国道220号鹿屋バイパス(王子-西祓川地区)4車線拡幅工事区間の交通開放日時のお知らせ!!]}} 大隅河川国道事務所、2010年3月26日。</ref>。 * 2010年12月27日 - 大浦・郷之原地区を4車線化(第1期区間の約8.7kmの4車線化完了)<ref>{{PDFlink|[https://www.qsr.mlit.go.jp/osumi/np/append/p2043_01.pdf 国道220号鹿屋バイパス(大浦-郷之原地区)4車線拡幅工事区間の交通開放日時のお知らせ!!]}} 大隅河川国道事務所、2010年12月21日。</ref> 。 == 概要 == * 延長 - 10.63km * 幅員 - 25[[メートル|m]] * レーン - 4[[車線]] * 起点 - 鹿児島県[[肝属郡]]肝付町富山笠之原 (笠野交差点) * 終点 - 鹿児島県鹿屋市白水町一里山 (鹿屋市一里山交差点) * 最高所 - [[高さ|海抜]]120m (鹿屋市白水町) * 最低所 - 海抜58m (肝属町富山) * 交通量 - 19,534台/[[日]] (鹿屋市王子町) == 構造物 == * 弥生橋(82m) * 鹿屋大橋(543m) * 大浦橋(67m) * 郷之原トンネル(660m) * 一里山橋(188m) [[肝属川]]や[[国道504号]]をまたぐ'''鹿屋大橋'''はディビダーグ工法で設計されている。渡り初めには約1,500人が参加した。 '''郷之原トンネル'''は1988年度から工事を進め、1989年12月16日に貫通。1992年3月25日に開通した。幅員は10.7m、高さは6.7m、総工費は16億4,000万円。 == 接続道路 == * 国道220号(肝付町富山) * [[鹿児島県道68号鹿屋吾平佐多線]](肝付町富山) ** かつては南方向は県道543号大隅高山停車場線(2007年廃止)が接続していた。 * [[鹿児島県道550号鹿屋環状線]](鹿屋市笠之原町) * [[大隅縦貫道]]([[串良鹿屋道路]])笠之原IC(鹿屋市笠之原町) * [[国道269号]](鹿屋市札元2丁目) * [[鹿児島県道553号下高隈川東線]](鹿屋市札元2丁目) * 鹿児島県道550号鹿屋環状線(鹿屋市郷之原町) * [[古江バイパス]](鹿屋市白水町、未開通) == ロードサイド店舗 == * [[マツダ]] * [[プリモ店]] * [[マツダレンタカー]] * [[三菱自動車工業]] * [[佐川急便]] * [[ユニクロ]]鹿屋店 * [[ヤマダ電機]]テックランド鹿屋店 * [[大和ハウス工業]] * [[ヨネザワ]] * [[コープかごしま]] * [[メガネスーパー]] * [[オートバックスセブン]] * [[ベスト電器]] * [[ケーズホールディングス|ケーズデンキ]] * [[ジョイフル]] * [[すかいらーく]] * [[ミサワホーム]] * [[ニシムタ]]スーパーセンター鹿屋店(旧ダイエーハイパーマート鹿屋店跡) * [[大創産業]] * [[宮脇書店]] * [[スズキ (企業)|スズキ]] * [[ローソン]] * [[モスバーガー]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 鹿屋市史編さん委員会・編 『鹿屋市史 下巻(改訂版)』 鹿屋市、1995年3月、679-680頁。 * 『広報かのや』 鹿屋市(初代)、2001年4月号・2002年1月号。 == 外部リンク == * [https://www.qsr.mlit.go.jp/osumi/ 国土交通省九州地方整備局 大隅河川国道事務所] ** {{PDFlink|[https://www.qsr.mlit.go.jp/osumi/ir-info/seibikoka/kanoya.pdf 鹿屋バイパスの整備効果]}} - 大隅河川国道事務所 * [https://www.qsr.mlit.go.jp/n-michi/seibi-koka/page4.html 地方部の道路整備による地域医療の改善(道路整備効果事例)] - 国土交通省九州地方整備局 {{国道220号}} {{DEFAULTSORT:かのやはいはす}} [[Category:国道220号]] [[Category:鹿児島県の道路]]
null
2022-10-20T14:13:21Z
false
false
false
[ "Template:Infobox road", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:PDFlink", "Template:国道220号" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B1%8B%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%91%E3%82%B9
80,140
64DD
64DD(ロクヨンディーディー)は、任天堂とアルプス電気の共同開発によるゲーム機NINTENDO64の周辺機器。本体の下に取り付けて使用する磁気ディスクドライブである。 任天堂のゲームソフト開発者の中に、外から新しいゲームのキャラクターデータやコースデータ等のプログラムを追加・変更してゲームを動的に変化させたいという希望があり、「ロムカセットに見られるデータ容量の制限を克服した上で、CD-ROMでは実現できない大容量の書き換え領域を活用することにより、ユーザーに新しい遊びを提供する周辺機器」として開発が始まった。そのためにかつてのファミコンディスクシステムのようにディスクライターを店頭に設置する予定だった。 NINTENDO64発表当初から情報を公開しており、1996年11月22日~24日まで開催された任天堂スペースワールドでソフトが出展されるなど、ユーザーの間では長らく発売が待たれていた。スクウェアは、任天堂とジャストシステムとで合弁会社を設立し、64DD向けソフト開発を行っており、通信ネットワーク事業も運用する予定だったが、スクウェアが64DDから撤退するなど、ソフト開発の遅れやNINTENDO64自体の普及が進まなかったことなどにより発売の延期が繰り返されていた。 その後、ドリームキャストやPlayStation 2といった第6世代ゲーム機に今後の注目が移っていた1999年初夏に、任天堂とリクルートが合弁会社「株式会社ランドネットディディ」を通じて提供するネットワークサービス、ランドネット専用の通信端末としての発売が決定する。 ランドネットディディを設立する事になる香山哲が関わる前までは、任天堂から発売される予定だったが、ランドネットディディが64DDの販売に関する権利を買い取った上、64DD向けゲームソフトの販売権も有していたため、ハード・ソフトとも任天堂やソフトメーカーが小売店等で販売する事ができず、流通経路が制約された。また、香山はランドネットディディ、マリーガル・マネジメント時代に任天堂に不義理をしており、任天堂の怒りを買うことになる。 当初64DD用として開発されていたソフトのほとんどが64DDの商用化の遅れにより計画変更され64カセットでの発売となったこと、更にはNINTENDO64の次世代機となるドルフィンの開発着手が1999年春に公表されていた事で、将来性を疑問視されたことも普及を鈍らせた。また、発表時には北米での展開も示唆されていたものの、最終的に実現しなかった。 本体のカセット差込口を塞がない設計となっており、カセット型の周辺機器やカセットソフトをディスクで拡張するといった遊びに対応している。実際にカセットで発売されたソフトの一部(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、『マリオパーティ』など)には、64DDを用いてステージなどを追加する予定があった。その名残か、本体に64DDを接続してこれらのソフトを起動すると、64DDの拡張パックについてのメッセージが表示され、64DDにディスクを挿入したまま起動すると「ディスクが間違っています。」という旨のエラーメッセージが表示される(そもそも64DDに対応していないソフトを起動した場合、エラーメッセージは表示されない)。 また、本体上面には更なる付属機器を追加出来るようにコードを通すS字の溝があるが、使用する必然性のある周辺機器が発売されることは無かった。発表当時のイラストによると、モデムとして実際に発売されたカートリッジ型のものではなくコントローラーポートにつなぐケーブル接続型のものが検討されていたため、それを後ろ側へ逃がすための溝であったとみられる。 かつてのファミリーコンピュータ用のディスクシステム、セガのメガドライブ用のメガCD、スーパーファミコン用のサテラビューと同様の本体下部設置型の周辺機器であるが、専用のACアダプタ又は単2電池6本が必要だったディスクシステム、専用のACアダプタが必要だったセガのメガCD、専用のACアダプタと電源中継ボックスが必要だったサテラビューと比べて、NINTENDO64本体から追加機器を使わずに電源を供給できるという部分が進歩点。両面読み込みに対応し手動でディスクを裏返す必要もなくなったため、ディスクと差込口の形状も裏表非対称となり、表を上向きにする差し込み方以外は物理的にできなくなっている。 64DD専用ソフトには以下の10タイトルが存在する。この内、『ランドネットディスク』と『マリオアーティスト コミュニケーションキット』の通信機能はランドネットのサービスが終了した現在は使用することができない。 これらのソフトは会費以外の代金を別途支払う必要は無く、ランドネット入会後に順次配布された。 これらのソフトはランドネットのショッピングサービスにて販売が行われた。 発売中止になったソフトはNINTENDO64や他機種で発売されたものもあれば、ソフトは企画されたものの発売中止になったものもある。 磁気ディスクの大容量を活かし、ムービーシーンを多用した『ファイナルファンタジーVII』や、書き換え領域を活用した『ドラゴンクエストVII』等のゲームが製作される予定だった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "64DD(ロクヨンディーディー)は、任天堂とアルプス電気の共同開発によるゲーム機NINTENDO64の周辺機器。本体の下に取り付けて使用する磁気ディスクドライブである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "任天堂のゲームソフト開発者の中に、外から新しいゲームのキャラクターデータやコースデータ等のプログラムを追加・変更してゲームを動的に変化させたいという希望があり、「ロムカセットに見られるデータ容量の制限を克服した上で、CD-ROMでは実現できない大容量の書き換え領域を活用することにより、ユーザーに新しい遊びを提供する周辺機器」として開発が始まった。そのためにかつてのファミコンディスクシステムのようにディスクライターを店頭に設置する予定だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "NINTENDO64発表当初から情報を公開しており、1996年11月22日~24日まで開催された任天堂スペースワールドでソフトが出展されるなど、ユーザーの間では長らく発売が待たれていた。スクウェアは、任天堂とジャストシステムとで合弁会社を設立し、64DD向けソフト開発を行っており、通信ネットワーク事業も運用する予定だったが、スクウェアが64DDから撤退するなど、ソフト開発の遅れやNINTENDO64自体の普及が進まなかったことなどにより発売の延期が繰り返されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その後、ドリームキャストやPlayStation 2といった第6世代ゲーム機に今後の注目が移っていた1999年初夏に、任天堂とリクルートが合弁会社「株式会社ランドネットディディ」を通じて提供するネットワークサービス、ランドネット専用の通信端末としての発売が決定する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ランドネットディディを設立する事になる香山哲が関わる前までは、任天堂から発売される予定だったが、ランドネットディディが64DDの販売に関する権利を買い取った上、64DD向けゲームソフトの販売権も有していたため、ハード・ソフトとも任天堂やソフトメーカーが小売店等で販売する事ができず、流通経路が制約された。また、香山はランドネットディディ、マリーガル・マネジメント時代に任天堂に不義理をしており、任天堂の怒りを買うことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当初64DD用として開発されていたソフトのほとんどが64DDの商用化の遅れにより計画変更され64カセットでの発売となったこと、更にはNINTENDO64の次世代機となるドルフィンの開発着手が1999年春に公表されていた事で、将来性を疑問視されたことも普及を鈍らせた。また、発表時には北米での展開も示唆されていたものの、最終的に実現しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本体のカセット差込口を塞がない設計となっており、カセット型の周辺機器やカセットソフトをディスクで拡張するといった遊びに対応している。実際にカセットで発売されたソフトの一部(『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、『マリオパーティ』など)には、64DDを用いてステージなどを追加する予定があった。その名残か、本体に64DDを接続してこれらのソフトを起動すると、64DDの拡張パックについてのメッセージが表示され、64DDにディスクを挿入したまま起動すると「ディスクが間違っています。」という旨のエラーメッセージが表示される(そもそも64DDに対応していないソフトを起動した場合、エラーメッセージは表示されない)。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、本体上面には更なる付属機器を追加出来るようにコードを通すS字の溝があるが、使用する必然性のある周辺機器が発売されることは無かった。発表当時のイラストによると、モデムとして実際に発売されたカートリッジ型のものではなくコントローラーポートにつなぐケーブル接続型のものが検討されていたため、それを後ろ側へ逃がすための溝であったとみられる。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "かつてのファミリーコンピュータ用のディスクシステム、セガのメガドライブ用のメガCD、スーパーファミコン用のサテラビューと同様の本体下部設置型の周辺機器であるが、専用のACアダプタ又は単2電池6本が必要だったディスクシステム、専用のACアダプタが必要だったセガのメガCD、専用のACアダプタと電源中継ボックスが必要だったサテラビューと比べて、NINTENDO64本体から追加機器を使わずに電源を供給できるという部分が進歩点。両面読み込みに対応し手動でディスクを裏返す必要もなくなったため、ディスクと差込口の形状も裏表非対称となり、表を上向きにする差し込み方以外は物理的にできなくなっている。", "title": "ハードウェア" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "64DD専用ソフトには以下の10タイトルが存在する。この内、『ランドネットディスク』と『マリオアーティスト コミュニケーションキット』の通信機能はランドネットのサービスが終了した現在は使用することができない。", "title": "専用ソフト" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これらのソフトは会費以外の代金を別途支払う必要は無く、ランドネット入会後に順次配布された。", "title": "専用ソフト" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "これらのソフトはランドネットのショッピングサービスにて販売が行われた。", "title": "専用ソフト" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "発売中止になったソフトはNINTENDO64や他機種で発売されたものもあれば、ソフトは企画されたものの発売中止になったものもある。", "title": "発売中止になった64DDソフト" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "磁気ディスクの大容量を活かし、ムービーシーンを多用した『ファイナルファンタジーVII』や、書き換え領域を活用した『ドラゴンクエストVII』等のゲームが製作される予定だった。", "title": "発売中止になった64DDソフト" } ]
64DD(ロクヨンディーディー)は、任天堂とアルプス電気の共同開発によるゲーム機NINTENDO64の周辺機器。本体の下に取り付けて使用する磁気ディスクドライブである。
{{出典の明記|date=2021年9月}} {{Pathnav|NINTENDO64|frame=1}} {{Infobox_コンシューマーゲーム機 |名称 = 64DD |ロゴ = [[File:64DD logo (1999).svg|200px]] |画像 = [[ファイル:64DD-Bare.jpg|250px]]<br />[[File:64DD-Attached.png|250px]] |画像コメント = 64DD(上)<br />NINTENDO64と接続した様子(下) |メーカー = [[ランドネットディディ]] |種別 = [[ゲーム機|ゲーム機周辺機器]] |世代 = [[ゲーム機|第5世代]] |発売日 = {{Flagicon|JPN}} [[1999年]][[12月11日]] |CPU = |GPU = |メディア = [[ZIP (記憶媒体)|ZIP]] |ストレージ = [[磁気ディスク]] |コントローラ = |外部接続端子 = |オンラインサービス = [[ランドネット]] |売上台数 = {{Flagicon|JPN}} 1万5,000台(出荷台数は10万台) |最高売上ソフト = |互換ハード = |前世代ハード = |次世代ハード = }} '''64DD'''(ロクヨンディーディー)は、[[任天堂]]と[[アルプス電気]]の共同開発によるゲーム機[[NINTENDO64]]の[[周辺機器]]。本体の下に取り付けて使用する[[磁気ディスク]]ドライブである。 == 歴史 == [[任天堂]]のゲームソフト開発者の中に、外から新しいゲームのキャラクターデータやコースデータ等のプログラムを追加・変更してゲームを動的に変化させたいという希望があり、「[[ロムカセット]]に見られるデータ容量の制限を克服した上で、[[CD-ROM]]では実現できない大容量の書き換え領域を活用することにより、ユーザーに新しい遊びを提供する周辺機器」として開発が始まった。そのためにかつての[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム|ファミコンディスクシステム]]のようにディスクライターを店頭に設置する予定だった。 NINTENDO64発表当初から情報を公開しており、1996年11月22日~24日まで開催された<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=電撃王 通巻57号 表紙 [[榎本加奈子]]|date=1997年1月1日|year=1997|publisher=主婦の友社|page=50}}</ref>[[任天堂スペースワールド]]でソフトが出展される<ref>{{Wayback|url=https://www.nintendo.co.jp/n12/swddsoft/index.html |title=SPACEWORLD'97 NINTENDO64 DD 出展ソフト |date=19980224225238}}</ref><ref>{{Wayback|url=https://www.nintendo.co.jp/event/spacew99/itiran/dd/index.html |title=SPACEWORLD'99 64DD 出展ソフト一覧 |date=20121111223640}}</ref>など、ユーザーの間では長らく発売が待たれていた。[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]は、任天堂と[[ジャストシステム]]とで[[合弁事業|合弁会社]]を設立し、64DD向けソフト開発を行っており、通信ネットワーク事業も運用する予定だった<ref>{{Cite news |和書|title=スクウェアが64ビット機 ディスク用ソフト開発へ 任天堂、ジャストシステムと合弁会社 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19951101p.pdf |newspaper=ゲームマシン |issue=506 |agency=アミューズメント通信社 |date=1995-11-01 |page=2}}</ref>が、スクウェアが64DDから撤退するなど、ソフト開発の遅れやNINTENDO64自体の普及が進まなかったことなどにより発売の延期が繰り返されていた。 その後、[[ドリームキャスト]]や[[PlayStation 2]]といった[[ゲーム機#第6世代|第6世代ゲーム機]]に今後の注目が移っていた[[1999年]]初夏に、任天堂と[[リクルートホールディングス|リクルート]]が合弁会社「株式会社[[ランドネットディディ]]」を通じて提供するネットワークサービス、[[ランドネット]]{{Efn2|発表当初の「エンターネットサービス」から改称}}専用の通信端末としての発売が決定する<ref name=nintendo19990611>{{Cite press release |和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/1997-99/990611a.html|title=報道資料 新規事業開始のお知らせ|publisher=任天堂|date=1999-06-11|accessdate=2021-05-25}}</ref>。 ランドネットディディを設立する事になる[[香山哲 (実業家)|香山哲]]{{Efn2|後に[[セガ]][[代表取締役]][[最高執行責任者]]}}が関わる前までは、任天堂から発売される予定だったが、ランドネットディディが64DDの販売に関する権利を買い取った上、64DD向けゲームソフトの販売権も有していた{{R|nintendo19990611}}ため、ハード・ソフトとも任天堂やソフトメーカーが[[小売]]店等で販売する事ができず、流通経路が制約された。また、香山はランドネットディディ、[[マリーガル・マネジメント]]時代に任天堂に不義理をしており、任天堂の怒りを買うことになる<ref>{{Cite book|和書|author=佐藤秀樹 |title=元社長が語る! セガ家庭用ゲーム機 開発秘史 ~SG-1000、メガドライブ、サターンからドリームキャストまで~ |publisher=[[徳間書店]] |date=2019-09-20 |isbn=978-4198649845 |page=160 }}</ref>{{Efn2|関連性は不明だが、香山のセガ特別顧問就任([[2000年]][[11月1日]])と同時期に、ランドネットのサービス終了発表(2000年[[11月22日]])がなされている。}}。 当初64DD用として開発されていたソフトのほとんどが64DDの商用化の遅れにより計画変更され64カセットでの発売となったこと、更にはNINTENDO64の次世代機となるドルフィン{{Efn2|後の[[ニンテンドーゲームキューブ]]}}の開発着手が1999年春に公表されていた事で、将来性を疑問視されたことも普及を鈍らせた。また、発表時には北米での展開も示唆されていたものの、最終的に実現しなかった。 == ハードウェア == 本体のカセット差込口を塞がない設計となっており、カセット型の周辺機器やカセットソフトをディスクで拡張するといった遊びに対応している。実際にカセットで発売されたソフトの一部(『[[ゼルダの伝説 時のオカリナ]]』、『[[マリオパーティ]]』など)には、64DDを用いてステージなどを追加する予定があった。その名残か、本体に64DDを接続してこれらのソフトを起動すると、64DDの拡張パックについてのメッセージが表示され、64DDにディスクを挿入したまま起動すると「ディスクが間違っています。」という旨のエラーメッセージが表示される(そもそも64DDに対応していないソフトを起動した場合、エラーメッセージは表示されない)。 また、本体上面には更なる付属機器を追加出来るようにコードを通すS字の溝があるが、使用する必然性のある周辺機器が発売されることは無かった。発表当時のイラストによると、モデムとして実際に発売されたカートリッジ型のものではなくコントローラーポートにつなぐケーブル接続型のものが検討されていたため、それを後ろ側へ逃がすための溝であったとみられる。 ; 名称 : 当初「NINTENDO64 DISK DRIVE」の略称だったが、発売時には正式名称になった<ref group="注">旧称の名残として、ソフト挿入口横のN64ロゴ(Nキューブ)に「DISK」の文字が見られる。</ref>。 ; 磁気ディスク : 「64DDディスク」は過去のディスクシステム用のそれよりも大型で分厚く、裏表非対象のデザインとなった。側面にはタイトルラベル用のスペースがあり、ドライブにセットした状態でもタイトルを確認できる。 : 容量は[[フロッピーディスク|パソコンフロッピー]]の約45枚に相当する64MBであり、そのうち、20MBは書き込みが可能<ref name=":0" />。CD-ROMの540MBには及ばない。この点について開発責任者の[[竹田玄洋]]は「容量は多いのは少ないよりもいい」「しかし64DDというのは、書き換えられるというのが基本にあるわけです。そこでは、やっぱり読み出し専用のものと同じくらいの容量はありえない」「そういうふうにコストとかをいろいろ考えた上でそう決まった(中略)折り合いのついたところがそのへんだった<ref>{{Cite book|和書|author=武田亨 |title=It's The Nintendo |publisher=[[ティーツー出版]] |date=2000-02-01 |isbn=978-4887497160 |page={{要ページ番号|date=2021年9月}} }}</ref>」と述べている。 ; ランドネットサービス : {{main|ランドネット}} : [[2000年]][[2月]]に開始されたネットワークサービス。当初は1999年12月1日にサービス開始予定だった<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/1997-99/991020a.html|title=12月1日サービス開始、11月11日より会員募集開始 ゲーム業界初の月会費制で大幅価格ダウン|publisher=ランドネットディディ|date=1999-10-20|accessdate=2021-09-19}}</ref>。[[2001年]][[2月28日]]にサービスを終了した。 === 仕様 === * 型名:NUS-010(JPN) * 記録方式:両面磁気記録 * フォーマット容量:約64.45Mバイト(64,458,560バイト) * データ転送レート:約1.0Mバイト/秒(最大)約0.79Mバイト/秒(平均)5.4倍速CD-ROMドライブに相当。 * ディスクの寸法:101×103×10.2mm / 重量:1.6kg * ドライブ本体の寸法:260×190×78.7mm * モーター起動時間:1.9秒以下。(エラー訂正機能あり) * 拡張メモリ:4Mバイト<ref>{{Cite book|和書 |title=[[電撃王]] 通巻79号 |date=1998年8月1日 |year=1998 |publisher=[[メディアワークス]] |pages=40,41,}}</ref> * 電源:NINTENDO64より供給 * 時計機能:内蔵 かつての[[ファミリーコンピュータ]]用のディスクシステム、[[セガ]]の[[メガドライブ]]用の[[メガCD]]、[[スーパーファミコン]]用の[[サテラビュー]]と同様の本体下部設置型の周辺機器であるが、専用のACアダプタ又は単2[[電池]]6本が必要だったディスクシステム、専用のACアダプタが必要だったセガのメガCD、専用のACアダプタと電源中継ボックスが必要だったサテラビューと比べて、NINTENDO64本体から追加機器を使わずに電源を供給できる<ref group="注">NINTENDO64本体に付属している専用のACアダプタがそのまま使える。</ref>という部分が進歩点。両面読み込みに対応し手動でディスクを裏返す必要もなくなったため、ディスクと差込口の形状も裏表非対称となり、表を上向きにする差し込み方以外は物理的にできなくなっている。 == 周辺機器 == <gallery> File:Nintendo-64DD-Disk-Top.jpg|64DDディスク File:Nintendo-64-Mouse.jpg|マウス File:NUS-021.jpg|マイクとマイクカバー File:NUS-028.jpg|キャプチャーカセット File:Nintendo-64-Modem-Front.jpg|モデム File:Nintendo-64-Memory-Expansion-Pak Front.jpg|メモリー拡張パック </gallery> {|class="wikitable" ! 型番 !! 名称 !! 備考 |- | NUS-007 || '''メモリー<br />拡張パック''' || 旧称は「'''ハイレゾパック'''」。<br />4.5MBの増設メモリで、本体上部手前の36Pinメモリー拡張コネクタに接続する。<br />本体のメモリも4.5MBであるため、メモリー拡張パックを使うことで容量を一気に倍加できる。<br />本体に同梱。 |- | NUS-010 || '''64DD''' || 詳細は「[[#仕様|仕様]]」を参照。 |- | NUS-011 || '''64DDディスク''' || 64DDのゲームプログラムを格納した専用メディア。<br />データ容量は約64MBだが、その内約38MBは追記用の領域になっている。<br />仕組みとしては[[ZIP (記憶媒体)|Zip]]に近い磁気ディスクとなっている。<br />「'''ダイナミックデータディスク'''」(DDD)という呼称もあった。 |- | NUS-017 || '''マウス''' || ボール式の2ボタン[[マウス (コンピュータ)|マウス]]。<br />コントローラポートに接続して使用する。<br />対応ソフトは『[[マリオアーティストシリーズ]]』と『[[デザエモン#デザエモン3D|デザエモン3D]]』。<br />『[[マリオアーティストシリーズ#マリオアーティスト ペイントスタジオ|マリオアーティスト ペイントスタジオ]]』に同梱。 |- | NUS-021 || '''マイク''' || 単一指向性のモノラル[[マイクロフォン|マイク]]。<br />キャプチャーカセットに接続して使用する。<br />NINTENDO64音声認識システム<ref group="注" name="first">NINTENDO64音声認識システムは『[[ピカチュウげんきでちゅう]]』および『[[電車でGO!2高速編#電車でGO!64|電車でGO!64]]』に同梱されている。</ref>に使用されていたものと同一である。<br />『[[マリオアーティストシリーズ#マリオアーティスト タレントスタジオ|マリオアーティスト タレントスタジオ]]』に同梱。 |- | NUS-026 || '''マイクカバー''' || 球状の黄色いスポンジで、マイクのセンサー部分にかぶせ、息や風の音を軽減する。<br />NINTENDO64音声認識システム<ref group="注" name="first" />に使用されていたものと同一である。<br />マイクに同梱。 |- | NUS-028 || '''キャプチャーカセット''' || [[RCA端子|RCAジャック]](映像、音声L、音声R)とマイク用[[フォーンプラグ|ミニジャック]]がついたカセットで、映像や音声を取り込むことができる。<br />プラグインパワー方式<ref>[https://ameblo.jp/shin-aiai/entry-10831218710.html 1119 :ファンタムパワーとプラグインパワーは全く違いますよ|ShinさんのPA工作室]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20060503050212/http://www.geocities.jp/brabecaudio/amp/techinf7.htm プラグイン・パワーとは]</ref>で電源を供給している為、専用マイク等のコンデンサマイク以外は絶対にミニジャックに接続してはいけない。<br />『マリオアーティスト タレントスタジオ』に同梱。 |- | NUS-029 || '''モデム''' || 本体のカセット挿入口に接続して使用する専用[[モデム]]。<br />通信速度は28.8kbps。<br />本体に同梱。 |- | HVC-053 || '''モジュラーケーブル''' || モデムに接続する長さ4mの電話線。<br />元々は[[ファミリーコンピュータ]]の周辺機器「[[ファミリーコンピュータ ディスクシステム#ディスクファックス|通信アダプタセット]]」に付属していた物で、[[ニンテンドーゲームキューブ]]のモデムアダプタにも付属している。<br />本体に同梱。 |- | RND-001 || '''キーボード''' || 専用[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]。<br />対応ソフトは『[[ランドネット#ランドネットディスクで利用できるサービス|ランドネットディスク]]』のみ。 |- |不明||'''64GBケーブル'''||N64のコントローラ端子とつなぎ、[[ゲームボーイカラー]]を画面付きコントローラとして使用するためのケーブル。『[[DT Lords of Genomes|DT]]』や『[[ダービースタリオン]]DD』で使用する予定だったが、発売する事なくランドネットのサービスが終了してしまった。 |} == 専用ソフト == 64DD専用ソフトには以下の10タイトルが存在する。この内、『[[ランドネット#ランドネットディスクで利用できるサービス|ランドネットディスク]]』と『[[マリオアーティストシリーズ#マリオアーティスト コミュニケーションキット|マリオアーティスト コミュニケーションキット]]』の通信機能はランドネットのサービスが終了した現在は使用することができない。 === ランドネットセットに含まれていたソフト === これらのソフトは会費以外の代金を別途支払う必要は無く、ランドネット入会後に順次配布された。 * 『[[巨人のドシン|巨人のドシン1]]』 * [[マリオアーティストシリーズ]] ** 『[[マリオアーティストシリーズ#マリオアーティスト ペイントスタジオ|マリオアーティスト ペイントスタジオ]]』 ** 『[[マリオアーティストシリーズ#マリオアーティスト タレントスタジオ|マリオアーティスト タレントスタジオ]]』- 本作のアイデアは、後の[[Mii]]につながっていった。 ** 『[[マリオアーティストシリーズ#マリオアーティスト ポリゴンスタジオ|マリオアーティスト ポリゴンスタジオ]]』 ** 『[[マリオアーティストシリーズ#マリオアーティスト コミュニケーションキット|マリオアーティスト コミュニケーションキット]]』 * 『[[シムシティー64]]』 * 『[[F-ZERO X エクスパンションキット]]』 ** カセットの『[[F-ZERO X]]』と併用することで新しいコースが追加される。それに加え、自作のコースやマシンでプレイすることも可能。ディスク単体での使用はできない。 * 『[[ランドネット#ランドネットディスクで利用できるサービス|ランドネットディスク]]』 ** 64DD専用の[[ウェブブラウザ]]。基幹部分は[[ACCESS (企業)|ACCESS]]の[[NetFront]]を採用し、N64のコントローラでの操作に最適化されている。特に3Dスティックと5つのボタンを使用した文字入力システムは使い勝手が良く、N64ソフト『[[どうぶつの森]]』にも採用された。 ** しかし度々バージョンアップが繰り返された[[ドリームキャスト]]用の『ドリームパスポート』と比較すると機能は格段に劣っていた。例えば「書く」や「行った」といった基本的な単語が変換できないなど特に漢字変換能力が弱く、辞書機能も無い。また、フォントがウェブ閲覧に適しておらず、しかも文字の大小関係無く同じ大きさで文字が表示されることから一般のウェブサイトの表示は大きく乱れやすかった。さらに[[Adobe Flash]]や[[JavaScript]](一部)も非対応である<ref group="注">後にキーボードの不具合に対応するための改良版が希望者に配布された。</ref>。 ** NINTENDO64用のキーボードに対応した唯一のソフトである。 === 別売りとして販売されたソフト === これらのソフトはランドネットのショッピングサービス<ref group="注">『'''GETモール'''』と呼ばれていた。</ref>にて販売が行われた。 * 『[[巨人のドシン#巨人のドシン解放戦線チビッコチッコ大集合|巨人のドシン解放戦線チビッコチッコ大集合]]』 ** 『巨人のドシン1』の拡張用ディスク。『F-ZERO X エクスパンションキット』と同様、ディスク単体での使用はできない。 * 『[[日本プロゴルフツアー64]]』 ** このソフトを使用したゲーム大会も行われていた。 == 発売中止になった64DDソフト == 発売中止になったソフトはNINTENDO64や他機種で発売されたものもあれば、ソフトは企画されたものの発売中止になったものもある。 === 移行して発売されたソフト === 磁気ディスクの大容量を活かし、ムービーシーンを多用した『[[ファイナルファンタジーVII]]』や、書き換え領域を活用した『[[ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち|ドラゴンクエストVII]]』等のゲームが製作される予定だった。 * 『[[ファイナルファンタジーVII]]』 - 1997年1月31日に[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]で発売。 * 『[[がんばれゴエモン64]]』 - 1997年8月7日にNINTENDO64『[[がんばれゴエモン〜ネオ桃山幕府のおどり〜]]』が発売。 * 『[[ポケットモンスターDD]]』 - 1998年8月1日にNINTENDO64『[[ポケモンスタジアム]]』が発売<ref group="注">当時の『[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]』の記事で開発中の画面が確認できる。</ref>。 * 『[[ゼルダの伝説64]]』 - 1998年11月21日にNINTENDO64『[[ゼルダの伝説 時のオカリナ]]』が発売。 * 『[[大乱闘スマッシュブラザーズ]]』 - 1999年1月21日にNINTENDO64で発売。 * 『[[ポケモンスナップ]]』 - 1999年3月21日にNINTENDO64で発売。 * 『[[ビーストウォーズメタルス64]]』 - 1999年10月1日にNINTENDO64『[[トランスフォーマー ビーストウォーズメタルス64]]』が発売。 * 『[[ウルトラドンキーコング]]』 - 1999年12月10日にNINTENDO64『[[ドンキーコング64]]』が発売。 * 『[[井出洋介の麻雀塾]]』 - 2000年4月21日にNINTENDO64で発売。 * 『[[マリオストーリー|スーパーマリオRPG2]]』 - 2000年8月11日にNINTENDO64『[[マリオストーリー]]』が発売。 * 『[[ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち|ドラゴンクエストVII]]』 - 2000年8月26日にPlayStationで発売(後に[[ニンテンドー3DS]]でリメイク版が発売)。 * 『[[どうぶつの森]]』 - 2001年4月14日にNINTENDO64で発売。 * 『[[ファイアーエムブレム64]]』 - 2002年3月29日に[[ゲームボーイアドバンス]]『[[ファイアーエムブレム 封印の剣]]』が発売。 * 『[[バイオハザード0]]』 - 2002年11月21日に[[ニンテンドーゲームキューブ]]で発売<ref group="注">2008年7月10日に[[Wii]]用ソフトとして移植された。</ref>。 * 『[[ゼルダの伝説DD]]』 - 2002年12月13日発売のニンテンドーゲームキューブ『[[ゼルダの伝説 風のタクト]]』の予約特典ディスクとして『[[ゼルダの伝説 時のオカリナ#ゼルダの伝説 時のオカリナGC|ゼルダの伝説 時のオカリナGC 裏]]』が収録。また、ニンテンドー3DS『[[ゼルダの伝説 時のオカリナ 3D]]』にも収録。 * 『[[カービィのエアライド]]』 - 2003年7月11日にニンテンドーゲームキューブにて発売。 * 『[[オリエンタルブルー 青の天外]]』 - 2003年10月24日にゲームボーイアドバンスで発売。当初は『[[天外魔境]]7』として企画されていた<ref>{{Cite video|work=[[YouTube]] |author=C62チャンネル|title=祝!天外魔境ZIRIA34周年!あの幻の天外魔境を語ってみた |url=https://www.youtube.com/watch?v=3bRPYAdtiA8}}</ref>。 * 『[[MOTHER3 豚王の最期]]』 - 2006年4月20日にゲームボーイアドバンス『[[MOTHER3]]』が発売。 === 発売中止になったソフト === * 『[[スーパーマリオ64#続編の発売中止|スーパーマリオ64 2]]』 - 『[[スーパーマリオ64]]』の続編。ルイージが登場する予定だった。また、「[[任天堂スペースワールド|NINTENDO64 スペースワールド]] '96」にて、スーパーマリオ64 ディスク版(SUPER MARIO 64 DISK VERSION)が出展されていた。 * 『[[マリオペイント64]]』 * 『[[ポケットモンスター64]]』 * 『[[キャベツ (ゲーム)|キャベツ]]』 - 飼育・育成ゲーム。[[糸井重里]]が製作に携わっていた。 * 『[[ウォール街 (ゲーム)|ウォール街]]』 - 実際の株価などを使用する経営シミュレーションゲーム。 * 『[[マリオアーティストシリーズ#『マリオアーティスト サウンドメーカー』の発売中止について|マリオアーティスト サウンドメーカー]]』 * 『[[シムコプター|シムコプター64]]』 * 『[[デザエモンDD]]』 - 『[[デザエモン#デザエモン3D|デザエモン3D]]』の拡張ディスクとして発売される予定だった。 * 『[[飛龍の拳#開発中止|飛龍の拳スタジアムDD・SDバージョン]]』 - 『[[飛龍の拳#NINTENDO64版|飛龍の拳ツイン]]』の拡張ディスクとして発売される予定だった。 * 『[[飛龍の拳#開発中止|飛龍の拳スタジアムDD・リアルバージョン]]』 - 上記を参照。 * 『[[大戦略シリーズ|現代大戦略 Ultimate War]]』 * 『[[DT Lords of Genomes|DT]]』 * 『TEO』 * 『将棋』 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[GameWave]] - [[1999年]][[11月10日]]放送回で、64DDを特集。 == 外部リンク == {{Commons|Category:Nintendo 64}} * [https://www.nintendo.co.jp/nom/9911/index.html 特集『ウワサのランドネット徹底解析!』] - N.O.M 99年11月号(No.15) * [https://www.nintendo.co.jp/nom/0005_2/index.html ランドネットコンテンツ大賞] - N.O.M 2000年5月増刊号 * [https://ksnk.jp/ddlab/ 64DD研究所]- 64DDのファンサイト。64DDとその周辺機器や専用ソフト、さらにはランドネットのサービスとその終了までの経緯などまで記載されている。 * [http://wiki.mobile-gb.com/index.php?title=64DD 任天堂大辞典 64DD] * [https://web.archive.org/web/20050528094200/http://www.64dd.net 64DD.net](英語サイト、2005年5月28日時点のアーカイブ) {{任天堂|主な製品}} {{家庭用ゲーム機/任天堂}} {{DEFAULTSORT:ろくよんていてい}} [[Category:コンピュータゲームの周辺機器]] [[Category:NINTENDO64]] [[Category:任天堂のハードウェア]] [[Category:ゲーム機]] [[Category:1999年のコンピュータゲーム|*64DD]] [[Category:1990年代の玩具]] [[Category:磁気ディスク]]
2004-04-23T13:18:27Z
2023-11-08T06:33:37Z
false
false
false
[ "Template:Efn2", "Template:Main", "Template:Wayback", "Template:R", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:家庭用ゲーム機/任天堂", "Template:Infobox コンシューマーゲーム機", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:Cite press release", "Template:任天堂", "Template:出典の明記", "Template:Pathnav", "Template:Cite video", "Template:Commons" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/64DD
1,609,743
セルゲイ・スタリコフ
セルゲイ・ヴィクトロヴィチ・スタリコフ(ロシア語: Серге́й Ви́кторович Ста́риков, ラテン文字転写: Sergei Viktorovich Starikov、1958年12月4日 - )は、ソビエト連邦(現ロシア)のチェリャビンスク出身の元プロアイスホッケー選手、コーチ。ポジションはディフェンスマン。 1977年、1978年にアイスホッケー世界ジュニア選手権に出場した。その後HC CSKAモスクワで数シーズンを過ごし、チームの北米遠征時(スーパーシリーズ)の勝利に貢献した。 国内リーグ9回優勝、冬季オリンピックに3度出場し、金メダル2個、銀メダル1個を獲得している。アイスホッケー世界選手権に5回出場、1979年チャレンジカップ、1984年カナダカップでもソビエト連邦代表(ロシア語版)としてプレイした。 1989年のNHLドラフト(英語版)8巡目でニュージャージー・デビルスに指名されてヴャチェスラフ・フェティソフと共に入団した際、スポーツ・イラストレイテッドのカバーに登場し、ソビエト連邦選手として初のNHL選手として紹介された。デビルズでは16試合の出場にとどまった。 引退後1年間、KHLのHCシビル・ノヴォシビルスクのアシスタントコーチを務めた。 その後、アメリカ合衆国ニュージャージー州に居住し、ロック・アイス・パビリオンのインストラクターをしている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "セルゲイ・ヴィクトロヴィチ・スタリコフ(ロシア語: Серге́й Ви́кторович Ста́риков, ラテン文字転写: Sergei Viktorovich Starikov、1958年12月4日 - )は、ソビエト連邦(現ロシア)のチェリャビンスク出身の元プロアイスホッケー選手、コーチ。ポジションはディフェンスマン。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1977年、1978年にアイスホッケー世界ジュニア選手権に出場した。その後HC CSKAモスクワで数シーズンを過ごし、チームの北米遠征時(スーパーシリーズ)の勝利に貢献した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国内リーグ9回優勝、冬季オリンピックに3度出場し、金メダル2個、銀メダル1個を獲得している。アイスホッケー世界選手権に5回出場、1979年チャレンジカップ、1984年カナダカップでもソビエト連邦代表(ロシア語版)としてプレイした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1989年のNHLドラフト(英語版)8巡目でニュージャージー・デビルスに指名されてヴャチェスラフ・フェティソフと共に入団した際、スポーツ・イラストレイテッドのカバーに登場し、ソビエト連邦選手として初のNHL選手として紹介された。デビルズでは16試合の出場にとどまった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "引退後1年間、KHLのHCシビル・ノヴォシビルスクのアシスタントコーチを務めた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その後、アメリカ合衆国ニュージャージー州に居住し、ロック・アイス・パビリオンのインストラクターをしている。", "title": "経歴" } ]
セルゲイ・ヴィクトロヴィチ・スタリコフは、ソビエト連邦(現ロシア)のチェリャビンスク出身の元プロアイスホッケー選手、コーチ。ポジションはディフェンスマン。
{{MedalTableTop|Sergei Starikov in Hackensack.jpg|200px}} {{MedalSport | 男子 [[アイスホッケー]]}} {{MedalCountry|{{SSR}}}} {{MedalCompetition|[[オリンピックのアイスホッケー競技|オリンピック]]}} {{MedalGold| [[1984年サラエボオリンピックのアイスホッケー競技|1984]]}} {{MedalGold| [[1988年カルガリーオリンピックのアイスホッケー競技|1988]]}} {{MedalSilver| [[1980年レークプラシッドオリンピックのアイスホッケー競技|1980]]}} {{MedalBottom}} '''セルゲイ・ヴィクトロヴィチ・スタリコフ'''({{翻字併記|ru|Серге́й Ви́кторович Ста́риков|Sergei Viktorovich Starikov}}、[[1958年]][[12月4日]] - )は、[[ソビエト連邦]](現[[ロシア]])の[[チェリャビンスク]]出身の元プロ[[アイスホッケー]]選手、コーチ。ポジションはディフェンスマン。 == 経歴 == 1977年、1978年に[[アイスホッケー世界ジュニア選手権]]に出場した。その後[[HC CSKAモスクワ]]で数シーズンを過ごし、チームの北米遠征時([[スーパーシリーズ (アイスホッケー)|スーパーシリーズ]])の勝利に貢献した。 国内リーグ9回優勝、[[オリンピックのアイスホッケー競技|冬季オリンピック]]に3度出場し、金メダル2個、銀メダル1個を獲得している。[[アイスホッケー世界選手権]]に5回出場、[[1979年チャレンジカップ]]、[[1984年カナダカップ]]でも{{仮リンク|アイスホッケーソビエト連邦代表|label=ソビエト連邦代表|ru|Сборная СССР по хоккею с шайбой}}としてプレイした。 1989年の{{仮リンク|1989年のNHLドラフト|label=NHLドラフト|en|1989 NHL Entry Draft}}8巡目で[[ニュージャージー・デビルス]]に指名されて[[ヴャチェスラフ・フェティソフ]]と共に入団した際、[[スポーツ・イラストレイテッド]]のカバーに登場し、ソビエト連邦選手として初の[[NHL]]選手として紹介された。デビルズでは16試合の出場にとどまった<ref name="legends">{{cite web|url=http://www.legendsofhockey.net/LegendsOfHockey/jsp/SearchPlayer.jsp?player=14433 |title=Sergei Starikov |publisher=[[ホッケーの殿堂]] |accessdate=2010-10-23}}</ref>。 引退後1年間、[[KHL]]の[[HCシビル・ノヴォシビルスク]]のアシスタントコーチを務めた。 その後、[[アメリカ合衆国]][[ニュージャージー州]]に居住し、[[w:The Rock Ice Pavilion|ロック・アイス・パビリオン]]のインストラクターをしている<ref>[http://www.therockice.com/site-new/clinics.htm ROCK ICE PAVILION]</ref>。 == 所属チーム == * チェルヤビンスク・トラクター(1978/79) * [[HC CSKAモスクワ]](1979/80-1988/89) * [[w:Utica Devils|ユーティカ・デビルズ]]([[アメリカン・ホッケー・リーグ|AHL]])(1989/90, 1990/91) * ニュージャージー・デビルス(1989/90) * [[w:San Diego Gulls (1990–1995)|サンディエゴ・ガルズ]]([[w:International Hockey League (1945–2001)|IHL]])(1991/92-1992/93) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat|Sergei Starikov}} * {{Ice hockey stats|nhl= 8451680 |elite=|euro=|hr=|hockeydb= 5147 |legends=}} * [http://www.peoples.ru/sport/hockey/sergey_starikov/ Sergei Starikov] {{ru icon}} * [http://www.chidlovski.net/1954/54_player_info.asp?p_id=s037 Team CCCP Players] {{en icon}} * [http://www.hockey-reference.com/players/s/starise01.html hockey-reference.com] {{en icon}} * [https://web.archive.org/web/20160304094104/http://databasehockey.com/players/playerpage.htm?ilkid=STARISER01 databasehockey.com] {{en icon}} * {{imdb|0823105}} {{sportspeople-stub}} {{DEFAULTSORT:すたりこふ せるけい}} [[Category:ソビエト連邦のアイスホッケー選手]] [[Category:ロシアのアイスホッケー選手]] [[Category:HC CSKAモスクワの選手]] [[Category:ニュージャージー・デビルスの選手]] [[Category:アイスホッケーソビエト連邦代表選手]] [[Category:ソビエト連邦のオリンピック金メダリスト]] [[Category:ソビエト連邦のオリンピック銀メダリスト]] [[Category:アイスホッケーのオリンピックメダリスト]] [[Category:ロシアのアイスホッケー指導者]] [[Category:名誉記章勲章受章者]] [[Category:在外ソビエト人]] [[Category:在アメリカ合衆国ロシア人]] [[Category:チェリャビンスク出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]]
null
2022-02-21T15:03:31Z
false
false
false
[ "Template:MedalSport", "Template:MedalSilver", "Template:Imdb", "Template:Ru icon", "Template:MedalGold", "Template:翻字併記", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:MedalTableTop", "Template:MedalBottom", "Template:Commonscat", "Template:Sportspeople-stub", "Template:Ice hockey stats", "Template:En icon", "Template:MedalCountry", "Template:MedalCompetition", "Template:仮リンク", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%95
1,866,934
モトリー・クルー (アルバム)
モトリー・クルー (Motley Crue)は、モトリー・クルーが1994年にリリースしたセルフ・タイトルの6thアルバム。 1992年2月にオリジナル・メンバーでヴォーカリストのヴィンス・ニールが解雇され、ニュー・シンガーに元The Screamのジョン・コラビを迎えて製作された。 当初予定のアルバム・タイトルは「ティル・デス・ドゥ・アス・パート」。 全米アルバム・チャート初登場7位を記録したが翌週にはチャート圏から姿を消した。 バンドの司令塔ニッキー・シックスが「モトリー・クルーの名前でリリースしたのが唯一の失敗だった」と語っている通り、当時の音楽シーンを席巻していたグランジ・オルタナティヴ・ロックに棹差しながらも、流行に埋没することなくクオリティの高い楽曲を集めた佳作となっているが、良くも悪くも個性的なコラビのヴォーカルが、ヴィンスの声と一体であったバンドのイメージとそぐわない印象を与えた面は否めない。 シングルカットは「フーリガンズ・ホリデイ」「ミスアンダーストゥッド」「スモーク・ザ・スカイ」。 All Music by Corabi,Lee,Mars&Sixx All Lyrics by Corabi&Sixx
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "モトリー・クルー (Motley Crue)は、モトリー・クルーが1994年にリリースしたセルフ・タイトルの6thアルバム。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1992年2月にオリジナル・メンバーでヴォーカリストのヴィンス・ニールが解雇され、ニュー・シンガーに元The Screamのジョン・コラビを迎えて製作された。 当初予定のアルバム・タイトルは「ティル・デス・ドゥ・アス・パート」。 全米アルバム・チャート初登場7位を記録したが翌週にはチャート圏から姿を消した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "バンドの司令塔ニッキー・シックスが「モトリー・クルーの名前でリリースしたのが唯一の失敗だった」と語っている通り、当時の音楽シーンを席巻していたグランジ・オルタナティヴ・ロックに棹差しながらも、流行に埋没することなくクオリティの高い楽曲を集めた佳作となっているが、良くも悪くも個性的なコラビのヴォーカルが、ヴィンスの声と一体であったバンドのイメージとそぐわない印象を与えた面は否めない。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "シングルカットは「フーリガンズ・ホリデイ」「ミスアンダーストゥッド」「スモーク・ザ・スカイ」。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "All Music by Corabi,Lee,Mars&Sixx", "title": "収録曲" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "All Lyrics by Corabi&Sixx", "title": "収録曲" } ]
モトリー・クルー (Motley Crue)は、モトリー・クルーが1994年にリリースしたセルフ・タイトルの6thアルバム。 1992年2月にオリジナル・メンバーでヴォーカリストのヴィンス・ニールが解雇され、ニュー・シンガーに元The Screamのジョン・コラビを迎えて製作された。 当初予定のアルバム・タイトルは「ティル・デス・ドゥ・アス・パート」。 全米アルバム・チャート初登場7位を記録したが翌週にはチャート圏から姿を消した。 バンドの司令塔ニッキー・シックスが「モトリー・クルーの名前でリリースしたのが唯一の失敗だった」と語っている通り、当時の音楽シーンを席巻していたグランジ・オルタナティヴ・ロックに棹差しながらも、流行に埋没することなくクオリティの高い楽曲を集めた佳作となっているが、良くも悪くも個性的なコラビのヴォーカルが、ヴィンスの声と一体であったバンドのイメージとそぐわない印象を与えた面は否めない。 シングルカットは「フーリガンズ・ホリデイ」「ミスアンダーストゥッド」「スモーク・ザ・スカイ」。
{{Infobox Album | | Name = モトリー・クルー | Type = [[スタジオ・アルバム]] | Artist = [[モトリー・クルー]] | Released = [[1994年]][[3月15日]] | Genre = [[ヘヴィ・メタル]] <br /> [[ハードロック]] | Length = 60分23秒 | Label = {{flagicon|USA}}[[エレクトラ・レコード|エレクトラ]] | Producer = [[ボブ・ロック]] | Chart position = * 7位([[アメリカ]]) *5位([[日本]]) | Certification = *[[ゴールドディスク|ゴールド]](アメリカ) | Last album = [[デケイド・オブ・デカダンス]] <br /> ([[1991年]]) | This album = モトリー・クルー <br /> (1994年) | Next album = [[ジェネレーション・スワイン]] <br /> ([[1997年]]) }} '''モトリー・クルー''' ('''Motley Crue''')は、[[モトリー・クルー]]が[[1994年]]にリリースしたセルフ・タイトルの6th[[アルバム]]。 1992年2月にオリジナル・メンバーでヴォーカリストの[[ヴィンス・ニール]]が解雇され、ニュー・シンガーに元The Screamの[[ジョン・コラビ]]を迎えて製作された。 当初予定のアルバム・タイトルは「ティル・デス・ドゥ・アス・パート」。 全米アルバム・チャート初登場7位を記録したが翌週にはチャート圏から姿を消した。 バンドの司令塔[[ニッキー・シックス]]が「[[モトリー・クルー]]の名前でリリースしたのが唯一の失敗だった」と語っている通り、当時の音楽シーンを席巻していたグランジ・オルタナティヴ・ロックに棹差しながらも、流行に埋没することなくクオリティの高い楽曲を集めた佳作となっているが、良くも悪くも個性的なコラビのヴォーカルが、ヴィンスの声と一体であったバンドのイメージとそぐわない印象を与えた面は否めない。 シングルカットは「フーリガンズ・ホリデイ」「ミスアンダーストゥッド」「スモーク・ザ・スカイ」。 == 収録曲 == All Music by [[ジョン・コラビ|Corabi]],[[トミー・リー|Lee]],[[ミック・マーズ|Mars]]&[[ニッキー・シックス|Sixx]] All Lyrics by Corabi&Sixx # パワー・トゥ・ザ・ミュージック - ''Power To The Music'' [5:06] # アンクル・ジャック - ''Uncle Jack'' [5:32] # フーリガンズ・ホリデイ - ''Hooligan's Holiday'' [5:40] # ミスアンダーストゥッド - ''Misunderstood'' [6:53] # ラヴシャイン - ''Loveshine'' [2:36] # ポイズン・アップルズ - ''Poison Apples'' [3:39] # ハマード - ''Hammered'' [5:14] # ティル・デス・ドゥ・アス・パート - ''Til Death Do Us Part'' [6:03] # ウェルカム・トゥ・ザ・ナム - ''Welcome To The Numb'' [5:20] # スモーク・ザ・スカイ - ''Smoke The Sky'' [3:37] # ドロッピン・ライク・フライズ - ''Droppin Like Flies'' [6:24] # ドリフトアウェイ - ''Driftaway'' [4:01] # ヒプノタイズド - ''Hypnotized'' [5:29]*ボーナストラック # ベイビー・キルズ - ''Baby Kills'' [5:24]*ボーナストラック # リヴィング・イン・ザ・ノウ - ''Livin' In The Know'' [4:23]*ボーナストラック == 参加ミュージシャン == * [[ジョン・コラビ]] (John Corabi) - [[ボーカル]]、[[アコースティック・ギター]] * [[ミック・マーズ]] (Mick Mars) - [[ギター]] * [[ニッキー・シックス]] (Nikki Sixx) - [[ベース (弦楽器)|ベース]] * [[トミー・リー]] (Tommy Lee) - [[ドラムセット|ドラム]] {{モトリー・クルー}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:もとりいくるう}} [[Category:モトリー・クルーのアルバム]] [[Category:1994年のアルバム]] [[Category:エレクトラ・レコードのアルバム]] [[Category:ボブ・ロックがプロデュースしたアルバム]]
null
2021-03-01T17:30:49Z
false
false
false
[ "Template:Infobox Album", "Template:モトリー・クルー", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
958,048
幌加駅
幌加駅(ほろかえき)は、かつて北海道河東郡上士幌町字幌加に設置されていた、日本国有鉄道(国鉄)士幌線の駅である。電報略号はホカ。事務管理コードは▲111413。 地名より。駅の南で音更川から分かれる、現在の幌加川(幌加音更川)のアイヌ語名、「ホㇿカナイ (horka-nay)」(逆戻りする・川)に由来する。 これは、南から北へ上って行く音更川から西に分かれ、逆戻りするように南西のウペペサンケ山へ向かって上っていく様子を表現したものである。 駅舎は構内の東側に設置され、旅客用に島状の単式ホーム1面1線と糠平方から分岐し駅舎横の貨物ホームに繋がる貨物線を有し、駅裏側に貨物積卸用の副本線を有していた。駅舎側の貨物線からはさらに北側に広がる営林署のストックヤード(貯木場)への専用線が伸びていた。無人化後は貨物線・専用線は撤去されたが副本線は残され、廃止までこの配線となっていた。 駅舎は取り壊されたが、ホーム(旅客用・貨物用共に)及びポイントを含む線路が残っている。保存団体によりレプリカの駅名標が設置された。 路線廃止後の上士幌タクシーによる代替バスですら沿線の極端な過疎化(糠平地区以外はほぼ無人化)によって2003年9月いっぱいで廃止され、同年10月より帯広 - 糠平 - 旭川間のノースライナーみくに号が十勝三股停留所を新設、幌加温泉入口停留所と糠平方面の乗降も可能として代替する。駅跡周辺には停留所は設置されていない(幌加温泉入口まで約2.7 km)。 ※列車運転休止・バス代行輸送化の際、糠平 - 幌加間にスキー場入口バス停、幌加 - 十勝三股間に幌加温泉入口バス停を新設した(時刻表には掲載なし)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "幌加駅(ほろかえき)は、かつて北海道河東郡上士幌町字幌加に設置されていた、日本国有鉄道(国鉄)士幌線の駅である。電報略号はホカ。事務管理コードは▲111413。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地名より。駅の南で音更川から分かれる、現在の幌加川(幌加音更川)のアイヌ語名、「ホㇿカナイ (horka-nay)」(逆戻りする・川)に由来する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "これは、南から北へ上って行く音更川から西に分かれ、逆戻りするように南西のウペペサンケ山へ向かって上っていく様子を表現したものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "駅舎は構内の東側に設置され、旅客用に島状の単式ホーム1面1線と糠平方から分岐し駅舎横の貨物ホームに繋がる貨物線を有し、駅裏側に貨物積卸用の副本線を有していた。駅舎側の貨物線からはさらに北側に広がる営林署のストックヤード(貯木場)への専用線が伸びていた。無人化後は貨物線・専用線は撤去されたが副本線は残され、廃止までこの配線となっていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "駅舎は取り壊されたが、ホーム(旅客用・貨物用共に)及びポイントを含む線路が残っている。保存団体によりレプリカの駅名標が設置された。", "title": "駅跡・周辺" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "路線廃止後の上士幌タクシーによる代替バスですら沿線の極端な過疎化(糠平地区以外はほぼ無人化)によって2003年9月いっぱいで廃止され、同年10月より帯広 - 糠平 - 旭川間のノースライナーみくに号が十勝三股停留所を新設、幌加温泉入口停留所と糠平方面の乗降も可能として代替する。駅跡周辺には停留所は設置されていない(幌加温泉入口まで約2.7 km)。", "title": "駅跡・周辺" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "※列車運転休止・バス代行輸送化の際、糠平 - 幌加間にスキー場入口バス停、幌加 - 十勝三股間に幌加温泉入口バス停を新設した(時刻表には掲載なし)。", "title": "隣の駅" } ]
幌加駅(ほろかえき)は、かつて北海道河東郡上士幌町字幌加に設置されていた、日本国有鉄道(国鉄)士幌線の駅である。電報略号はホカ。事務管理コードは▲111413。
{{駅情報 |社色 = #ccc |文字色 = #000 |駅名 = 幌加駅 |画像 = Horoka-STA.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅跡地全景(2022年6月) |よみがな = ほろか |ローマ字 = Horoka |前の駅 = [[糠平駅|糠平]] |駅間A = 11.6 |駅間B = 7.0 |次の駅 = [[十勝三股駅|十勝三股]] |電報略号 = ホカ |駅番号 = |所属事業者 = [[日本国有鉄道]](国鉄) |所属路線 = [[士幌線]] |キロ程 = 71.3 |起点駅 = [[帯広駅|帯広]] |所在地 = [[北海道]][[河東郡]][[上士幌町]]字幌加 |座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|43|26|54|N|143|8|55.5|E|}} |駅構造 = [[地上駅]] |ホーム = 1面1線 |開業年月日 = [[1939年]]([[昭和]]14年)[[11月18日]] |廃止年月日 = [[1987年]]([[昭和]]62年)[[3月23日]] |乗車人員 = |乗降人員 = |統計年度 = |乗換 = |備考 = バス代行の後路線廃止に伴う廃駅 }} [[ファイル:Horoka eki.jpg|right|thumb|1977年の幌加駅と周囲約750m範囲。上が十勝三股方面。駅無人化後の姿であるが、駅舎がそのまま残されている。周囲は既に民家が見えない。かつては駅舎横や駅裏のストックヤードに山のように木材が積まれていた時期もあった。十勝三股寄りの踏切辺りから右上に伸びる小道風に見えるのは、営林署貯木場へ向かっていた専用線の路盤跡。{{国土航空写真}}]] '''幌加駅'''(ほろかえき)は、かつて[[北海道]][[河東郡]][[上士幌町]]字幌加に設置されていた、[[日本国有鉄道]](国鉄)[[士幌線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[電報略号 (鉄道)|電報略号]]は'''ホカ'''。[[事務管理コード]]は▲111413<ref name=":02322222">{{Cite book|和書|title=停車場一覧 昭和41年3月現在|date=|year=1966|url=https://doi.org/10.11501/1873236|publisher=日本国有鉄道|language=ja|doi=10.11501/1873236|access-date=2022-12-10|editor=日本国有鉄道営業局総務課|page=235}}</ref>。 == 歴史 == * [[1939年]](昭和14年)[[11月18日]] - 開業。[[一般駅]]<ref name="Teisha">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|year=1998|isbn=978-4-533-02980-6|page=889}}</ref> * [[1947年]](昭和22年) - 帯広営林局上士幌営林署が貯木場8.0ha設置。専用側線718m敷設<ref>東北海道の林業 帯広営林局 昭和44年発行 P359 表・貯木場現況による。なお、昭和26年版全国専用線一覧では、帯広営林局側線300mと記載。</ref> * [[1970年]](昭和45年)[[9月10日]] - [[チッキ|荷物]](特別扱新聞紙を除く)の取り扱いと[[車扱貨物]]以外の貨物の取り扱いを廃止<ref name="Teisha" /><ref>{{Cite news|和書 |title=日本国有鉄道公示第353号 |newspaper=[[官報]] |date=1970-09-05}}</ref>し、無人駅化<ref name="Kushi100">JR釧路支社「鉄道百年の歩み」平成13年12月発行。</ref><ref>{{Cite news|和書 |title=通報 ●士幌線駒場駅ほか4駅の駅員無配置について(旅客局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1970-09-05 |page=4}}</ref>。 * [[1978年]](昭和53年) ** [[12月20日]] - 貨物の取り扱いを全面廃止<ref name="Teisha" /><ref name="Kushi100" />。 ** [[12月25日]] - [[糠平駅|糠平]] - [[十勝三股駅|十勝三股]]間の列車運転を休止<ref name="Teisha" />。この日より、上士幌タクシーが受託する[[マイクロバス]]による[[バス代行|代行輸送]]となる。この時点で、民家は駅前商店「船戸商店」<ref>後に糠平温泉郷に移転、[[2008年]]閉店。</ref>はじめ数軒が残るのみとなっていた。休止後も同区間は名目上は鉄道路線として、幌加駅も十勝三股駅も駅として存続しており、国鉄の[[時刻表]]にも引き続き掲載されていた。しかし、列車が発着することはなく、事実上は廃駅となっていた。 * [[1987年]](昭和62年)[[3月23日]] - 士幌線の全線廃止に伴い、廃駅となる<ref name="Teisha" />。同線はバス路線に転換され、引き続き、上士幌タクシーのマイクロバスが運行される。 === 駅名の由来 === 地名より。駅の南で[[音更川]]から分かれる、現在の幌加川(幌加音更川)の[[アイヌ語]]名、「ホㇿカナイ (horka-nay)」(逆戻りする・川)に由来する<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/grp/111120P.pdf |title=アイヌ語地名リスト ヒラタ~ホロナ P111-120 |accessdate=2018-06-23 |date=2007 |work=[http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/ass/new_timeilist.htm アイヌ語地名リスト] |publisher=北海道 環境生活部 アイヌ政策推進室}}</ref><ref name="Yamada2018">{{Cite book|和書|title=北海道の地名|date=2018-11-30|year=|publisher=草風館|author=山田秀三|authorlink=山田秀三|edition=2|series=アイヌ語地名の研究 別巻|location=[[浦安市]]|isbn=978-4-88323-114-0|page=315}}</ref>。 これは、南から北へ上って行く音更川から西に分かれ、逆戻りするように南西の[[ウペペサンケ山]]へ向かって上っていく様子を表現したものである<ref name="Yamada2018" />。 == 駅構造 == 駅舎は構内の東側に設置され、旅客用に島状の[[単式ホーム]]1面1線と糠平方から分岐し駅舎横の貨物ホームに繋がる貨物線を有し、駅裏側に貨物積卸用の副本線を有していた。駅舎側の貨物線からはさらに北側に広がる[[北海道森林管理局|営林署]]のストックヤード(貯木場)への専用線が伸びていた。無人化後は貨物線・専用線は撤去されたが副本線は残され、廃止までこの配線となっていた。 == 駅跡・周辺 == 駅舎は取り壊されたが、ホーム(旅客用・貨物用共に)及びポイントを含む線路が残っている。保存団体によりレプリカの駅名標が設置された。 * [[国道273号]] * [[北海道開発局]]帯広開発建設部幌加除雪ステーション 路線廃止後の上士幌タクシーによる代替バスですら沿線の極端な過疎化(糠平地区以外はほぼ無人化)によって2003年9月いっぱいで廃止され、同年10月より帯広 - 糠平 - 旭川間の[[ノースライナー (北海道)|ノースライナーみくに号]]が十勝三股停留所を新設、[[幌加温泉]]入口停留所と糠平方面の乗降も可能として代替する。駅跡周辺には停留所は設置されていない(幌加温泉入口まで約2.7 km)。 == 隣の駅 == ; 日本国有鉄道 : 士幌線 :: [[糠平駅]] - '''幌加駅''' - [[十勝三股駅]] ※列車運転休止・バス代行輸送化の際、糠平 - 幌加間にスキー場入口バス停、幌加 - 十勝三股間に幌加温泉入口バス停を新設した(時刻表には掲載なし)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> ==外部リンク== {{Commonscat|Horoka Station}} *上士幌町 [http://www.kamishihoro.jp/place/00000147 旧幌加駅跡] *[http://hokkaido.coor.net/ 北海道廃止ローカル線の旅] - [http://hokkaido.coor.net/ex2.html 士幌線]  幌加駅現役時代からの変遷 {{士幌線}} {{DEFAULTSORT:ほろか}} [[Category:上士幌町の廃駅]] [[Category:士幌線]] [[Category:日本の鉄道駅 ほ|ろか]] [[Category:日本国有鉄道の廃駅]] [[Category:1939年開業の鉄道駅]] [[Category:1987年廃止の鉄道駅]]
2007-04-04T14:41:29Z
2023-11-21T03:10:15Z
false
false
false
[ "Template:駅情報", "Template:国土航空写真", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite book", "Template:Cite news", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:士幌線" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%8C%E5%8A%A0%E9%A7%85
79,280
清水卯一
清水 卯一(しみず ういち、1926年3月5日 - 2004年2月18日)は日本の陶芸家。京都府京都市東山区五条生まれ。1985年人間国宝に認定。 1926年(大正15年)3月5日、京焼陶磁器卸問屋を営む生家の長男として誕生した。 11歳で父が急死したため、1938年(昭和13年)、家業を継ぐことを目的として立命館商業学校(後の新制立命館高等学校)に入学するも、作陶に興味を抱き同校を2年修了後の1940年に中退。14歳で石黒宗麿に師事し、通い弟子として陶芸を学ぶ。しかし国の戦時体制強化が影響したため弟子期間は数か月に終わり、その後は自宅にろくろ場を設け自作を開始した。 翌1941年国立京都陶磁試験場に伝習生として入所、同所では日根野作三、水町和三郎の指導を受けた。1943年に京都市立工業研究所窯業部助手になるが終戦と共に職を辞し、その後は自宅陶房を中心に陶芸活動に専念した。 1947年に前衛陶芸家集団「四耕会」の結成に参加したほか、1949年には「緑陶会」「京都陶芸家クラブ」などの結成にも参加している。1957年より日本工芸会正会員。 1958年(昭和33年)開催のブリュッセル万国博覧会にてグランプリを獲得し日本国外でも高い評価を得た。 1985年4月13日、師事した石黒宗麿に続く重要無形文化財「鉄釉陶器」の保持者、いわゆる人間国宝に認定された。1970年(昭和45年)には滋賀県志賀町の蓬莱山麓に転居し登り窯の蓬莱窯を築き、以後の作品制作の場とした。1986年、紫綬褒章を受章。1992年、京都市文化功労者表彰。1999年には自身の1940年から1998年までに作成した147点の作品を滋賀県立近代美術館に寄贈した。 1992年以降は若手陶芸家の指導のために自窯である蓬莱窯を開放し積極的な後進の育成に尽力していた。 2004年2月18日、大腸がんのため滋賀県滋賀郡志賀町(現大津市八屋町)の自宅で死去、享年77。 大相撲の立行司(のち副立行司)だった13代木村玉之助は親戚。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "清水 卯一(しみず ういち、1926年3月5日 - 2004年2月18日)は日本の陶芸家。京都府京都市東山区五条生まれ。1985年人間国宝に認定。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1926年(大正15年)3月5日、京焼陶磁器卸問屋を営む生家の長男として誕生した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "11歳で父が急死したため、1938年(昭和13年)、家業を継ぐことを目的として立命館商業学校(後の新制立命館高等学校)に入学するも、作陶に興味を抱き同校を2年修了後の1940年に中退。14歳で石黒宗麿に師事し、通い弟子として陶芸を学ぶ。しかし国の戦時体制強化が影響したため弟子期間は数か月に終わり、その後は自宅にろくろ場を設け自作を開始した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "翌1941年国立京都陶磁試験場に伝習生として入所、同所では日根野作三、水町和三郎の指導を受けた。1943年に京都市立工業研究所窯業部助手になるが終戦と共に職を辞し、その後は自宅陶房を中心に陶芸活動に専念した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1947年に前衛陶芸家集団「四耕会」の結成に参加したほか、1949年には「緑陶会」「京都陶芸家クラブ」などの結成にも参加している。1957年より日本工芸会正会員。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1958年(昭和33年)開催のブリュッセル万国博覧会にてグランプリを獲得し日本国外でも高い評価を得た。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1985年4月13日、師事した石黒宗麿に続く重要無形文化財「鉄釉陶器」の保持者、いわゆる人間国宝に認定された。1970年(昭和45年)には滋賀県志賀町の蓬莱山麓に転居し登り窯の蓬莱窯を築き、以後の作品制作の場とした。1986年、紫綬褒章を受章。1992年、京都市文化功労者表彰。1999年には自身の1940年から1998年までに作成した147点の作品を滋賀県立近代美術館に寄贈した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1992年以降は若手陶芸家の指導のために自窯である蓬莱窯を開放し積極的な後進の育成に尽力していた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2004年2月18日、大腸がんのため滋賀県滋賀郡志賀町(現大津市八屋町)の自宅で死去、享年77。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大相撲の立行司(のち副立行司)だった13代木村玉之助は親戚。", "title": "略歴" } ]
清水 卯一は日本の陶芸家。京都府京都市東山区五条生まれ。1985年人間国宝に認定。
{{Infobox 芸術家 | 名前 = 清水 卯一<br />(しみず ういち) | 画像 = <!-- ファイル名だけを指定し、前後の[[]]は含めないで下さい --> | 画像サイズ = <!-- 画像サイズ指定 --> | 画像テキスト = <!-- 視力障害者のための代替テキスト --> | 画像説明文 = <!-- 画像説明文 --> | 本名 = <!-- 名前 と異なる場合にのみ記入して下さい --> | 誕生日 = [[1926年]][[3月15日]]<ref name=kotobank>{{Cite web2 |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%8D%AF%E4%B8%80-18261 |title=清水卯一 しみず-ういち |publisher=[[コトバンク]] |author=[[講談社]]「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」 |accessdate=2018年7月17日 }}</ref> | 出生地 = <!-- 出生地を記入します。出身地とは異なる場合があります。 --> | 死没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|yyyy|mm|dd|YYYY|MM|DD}} --> | 死没地 = [[滋賀県]][[滋賀郡]][[志賀町]](現[[大津市]])<ref name=toubunken>{{東文研 |id=28289 |title=清水卯一 |date=2015年12月14日 |accessdate=2018年7月17日 |switch=none }}</ref> | 墓地 = <!-- 墓碑の位置 --> | 墓地座標 = <!-- {{Coord|LAT|LONG|type:landmark|display=inline}} --> | 国籍 = {{JPN}} | 教育 = <!-- 芸術家が修行した場所または共に修行した人物。 --> | 出身校 = <!-- 芸術家が在籍した高等教育機関の名前(リンク付き)。 --> | 芸術分野 = <!-- 日本画、洋画、彫刻など --> | 代表作 = <!-- 最大5つまで --> | 流派 = <!-- 芸術家の芸術的なスタイル --> | 運動・動向 = <!-- 芸術家が関連している芸術運動や流派 --> | 配偶者 = <!-- 特筆性のない一般人の配偶者名は記入しないで下さい --> | 受賞 = [[#主な受賞歴]]参照 | 会員選出組織 = <!-- 芸術家が会員に選出された組織 --> | patrons = <!-- 芸術家を支援した人物 --> | メモリアル = <!-- 記念碑、銘板、主題にちなんで名づけられたエンティティなど --> | 活動期間 = 昭和後期 - 平成時代{{R|kotobank}} | 被影響芸術家 = [[石黒宗麿]]{{R|kotobank}}<br />[[日根野作三]]{{R|toubunken}}<br />[[水町和三郎]]{{R|toubunken}} | 与影響芸術家 = <!-- 芸術家に影響を受けた芸術家。最大5人まで --> | ウェブサイト = <!-- {{URL|https://example.com/}} --> }} '''清水 卯一'''(しみず ういち、[[1926年]][[3月5日]] - [[2004年]][[2月18日]])は[[日本]]の[[陶芸家]]{{R|kotobank}}。[[京都府]][[京都市]][[東山区]]五条生まれ。1985年[[人間国宝]]に認定{{R|kotobank}}。 == 略歴 == [[1926年]]([[大正]]15年)[[3月5日]]、京焼陶磁器卸問屋を営む生家の長男として誕生した{{R|toubunken}}。 11歳で父が急死したため、1938年([[昭和]]13年)、家業を継ぐことを目的として立命館商業学校(後の新制[[立命館中学校・高等学校|立命館高等学校]])に入学するも、作陶に興味を抱き同校を2年修了後の1940年に中退{{R|toubunken}}。14歳で[[石黒宗麿]]に師事し、通い弟子として陶芸を学ぶ{{R|toubunken}}。しかし国の戦時体制強化が影響したため弟子期間は数か月に終わり、その後は自宅に[[轆轤|ろくろ場]]を設け自作を開始した{{R|toubunken}}。 翌1941年[[国立京都陶磁試験場]]に伝習生として入所、同所では[[日根野作三]]、[[水町和三郎]]の指導を受けた{{R|toubunken}}。1943年に[[京都市立工業研究所|京都市立工業研究所窯業部]]助手になるが終戦と共に職を辞し、その後は自宅陶房を中心に陶芸活動に専念した{{R|toubunken}}。 1947年に前衛陶芸家集団「[[四耕会]]」の結成に参加したほか、1949年には「[[緑陶会]]」「[[京都陶芸家クラブ]]」などの結成にも参加している{{R|toubunken}}。1957年より[[日本工芸会]]正会員{{R|toubunken}}。 1958年([[昭和]]33年)開催の[[ブリュッセル万国博覧会 (1958年)|ブリュッセル万国博覧会]]にてグランプリを獲得し日本国外でも高い評価を得た{{R|kotobank}}。 1985年4月13日、師事した石黒宗麿に続く[[重要無形文化財]]「鉄釉陶器」の保持者、いわゆる[[人間国宝]]に認定された{{R|kotobank|toubunken}}<ref>{{東文研 |type=nenshi |id=6992 |title=人間国宝認定 |date=2015年11月20日 |accessdate=2018年7月17日 |switch=none }}</ref>。1970年(昭和45年)には[[滋賀県]][[志賀町]]の蓬莱山麓に転居し[[登り窯]]の蓬莱窯を築き、以後の作品制作の場とした{{R|toubunken}}。1986年、[[紫綬褒章]]を受章。1992年、[[文化功労者|京都市文化功労者]]表彰{{R|toubunken}}。1999年には自身の1940年から1998年までに作成した147点の作品を[[滋賀県立近代美術館]]に寄贈した{{R|toubunken}}。 1992年以降は若手陶芸家の指導のために自窯である蓬莱窯を開放し積極的な後進の育成に尽力していた{{R|toubunken}}。 2004年2月18日、[[大腸がん]]のため[[滋賀県]][[滋賀郡]][[志賀町]](現[[大津市]][[八屋町]])の自宅で死去、[[享年]]77{{R|toubunken}}。 [[大相撲]]の[[立行司]](のち[[副立行司]])だった[[木村玉之助 (13代)|13代木村玉之助]]は親戚<ref>『華麗なる脇役 木村庄之助と大相撲』文芸社、2011年、35頁。</ref>。 == 主な受賞歴 == *[[日展]]入選(1951年第7回日展{{R|toubunken}}、作品「柚子肌釉大皿」) *[[朝日新聞社]]賞(1953年第9回日展 - 1956年まで4年連続、現代日本陶芸展){{R|toubunken}} *最優秀作家賞([[日本陶磁協会]]、1955年)<ref>{{東文研 |type=nenshi |id=2682 |title=日本陶磁協会新進作家を表彰 |date=2015年11月20日 |accessdate=2018年7月17日 |switch=none }}</ref> *高松宮総裁賞(1960年第7回日本伝統工芸展、作品「柚子肌釉大皿」) *[[ブリュッセル万国博覧会 (1958年)|ブリュッセル万国博覧会]]グランプリ{{R|kotobank}}(1958年、作品「柿釉深鉢」) *[[日本陶磁協会]]金賞(1977年) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{コトバンク|清水卯一}} * {{東文研 |id=28289 }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しみす ういち}} [[Category:日本の陶芸家]] [[Category:人間国宝]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1926年生]] [[Category:2004年没]] [[Category:大腸癌で亡くなった人物]]
2004-04-20T18:56:45Z
2023-09-07T09:11:17Z
false
false
false
[ "Template:コトバンク", "Template:Normdaten", "Template:Infobox 芸術家", "Template:R", "Template:Reflist", "Template:東文研" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%8D%AF%E4%B8%80
84,679
タイの国歌
タイ国歌(タイこっか、タイ語: เพลงชาติไทย)はタイ王国の国歌である。 作詞はルワン・サーラーヌプラパン (ヌワン・パーチンパヤック)、作曲はプラ・チェン・ドゥリヤーン (親はドイツからの移民。ドイツ名はペーター・ファイト Peter Feit)。1939年制定。1932年の立憲革命により、タイ王国の政治体制が絶対王政から立憲君主制に移行したことを契機にして、この歌が作られた。それまでは国王賛歌が国歌の役割を果たしていた。 毎日朝8時と夕方の午後6時に公共施設、公園、広場、テレビやラジオで流される。国旗掲揚台があるところでは、朝の国歌斉唱時に国旗が掲揚され、夕方の斉唱時に降納される。国歌が流れてきているときは歌わなくてもよいが、直立不動の姿勢をとる必要があり、この姿勢をとらない場合には愛国心がない、タイ人ではない、非常識な人だなどという理由で周りの人から顰蹙を買われる可能性があるが、王室と直接関わる曲ではないので、多くの外国人が勘違いしているように国王賛歌と同じように不敬罪に問われたり、不敬罪が適用されたりすることはなく、その実例もない。ちなみに、タイの映画館で上映前に流れる曲は国歌ではなく国王賛歌である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "タイ国歌(タイこっか、タイ語: เพลงชาติไทย)はタイ王国の国歌である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "作詞はルワン・サーラーヌプラパン (ヌワン・パーチンパヤック)、作曲はプラ・チェン・ドゥリヤーン (親はドイツからの移民。ドイツ名はペーター・ファイト Peter Feit)。1939年制定。1932年の立憲革命により、タイ王国の政治体制が絶対王政から立憲君主制に移行したことを契機にして、この歌が作られた。それまでは国王賛歌が国歌の役割を果たしていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "毎日朝8時と夕方の午後6時に公共施設、公園、広場、テレビやラジオで流される。国旗掲揚台があるところでは、朝の国歌斉唱時に国旗が掲揚され、夕方の斉唱時に降納される。国歌が流れてきているときは歌わなくてもよいが、直立不動の姿勢をとる必要があり、この姿勢をとらない場合には愛国心がない、タイ人ではない、非常識な人だなどという理由で周りの人から顰蹙を買われる可能性があるが、王室と直接関わる曲ではないので、多くの外国人が勘違いしているように国王賛歌と同じように不敬罪に問われたり、不敬罪が適用されたりすることはなく、その実例もない。ちなみに、タイの映画館で上映前に流れる曲は国歌ではなく国王賛歌である。", "title": "概要" } ]
タイ国歌はタイ王国の国歌である。
{{Infobox anthem |題名={{Lang|th|เพลงชาติไทย}} |翻字= |和訳例=タイ国歌 |画像= Phleng Chat Thai Sheet music - Official version since 2004.jpg |画像サイズ= |画像代替= |画像説明= |採用対象=国 |採用共同体={{THA}} |別名= |別名和訳= |別名2= |別名2和訳= |作詞者=ルワン・サーラーヌプラパン |作詞時期=[[1939年]] |作曲者=プラ・チェン・ドゥリヤーン |作曲時期=[[1932年]] |採用時期=[[1939年]] |採用終了= |言語=[[タイ語]] |試聴=Thai National Anthem - US Navy Band.ogg |試聴タイトル= タイ王国国歌(米国海軍楽団演奏) }} [[File:Phleng Chat Thai (Abridged) - 1st Military Circle Band.ogg|thumb|タイ国歌 (要約)]] '''タイ国歌'''(タイこっか、{{lang-th|เพลงชาติไทย}})は'''[[タイ王国]]'''の国歌である。 == 概要 == 作詞は[[ルワン・サーラーヌプラパン]] (ヌワン・パーチンパヤック)、作曲は[[プラ・チェン・ドゥリヤーン]] (親はドイツからの移民。ドイツ名はペーター・ファイト ''Peter Feit'')。1939年制定。1932年の立憲革命により、タイ王国の政治体制が[[絶対王政]]から[[立憲君主制]]に移行したことを契機にして、この歌が作られた<ref name="21seiki">文春新書 21世紀研究会編『国旗・国歌の世界地図』タイp.26-p.28</ref>。それまでは[[タイの王室歌|国王賛歌]]が国歌の役割を果たしていた<ref name="21seiki"/>。 毎日朝8時と夕方の午後6時に公共施設、公園、広場、テレビやラジオで流される<ref name="21seiki"/>。[[タイの国旗|国旗]]掲揚台があるところでは、朝の国歌斉唱時に国旗が掲揚され、夕方の斉唱時に降納される<ref name="21seiki"/>。国歌が流れてきているときは歌わなくてもよいが、直立不動の姿勢をとる必要があり、この姿勢をとらない場合には[[不敬罪|愛国心がない、タイ人ではない、非常識な人だなどという理由で周りの人から顰蹙を買われる]]可能性があるが、王室と直接関わる曲ではないので、多くの外国人が勘違いしているように国王賛歌と同じように不敬罪に問われたり、不敬罪が適用されたりすることはなく、その実例もない。ちなみに、タイの映画館で上映前に流れる曲は国歌ではなく[[タイの王室歌|国王賛歌]]である<ref name="21seiki"/>。 == 歌詞 == {{Wikisourcelang|th|เพลงชาติไทย|タイ語版の歌詞}} {{Wikisource|タイ国歌|日本語訳|歌詞}} [[File:Phleng Chat Thai (vocal) - 1st Military Circle Band.ogg|thumb|タイの国歌]] === タイ語歌詞と転写 === {| cellspacing=5 |- ! |''タイ語歌詞'' ! |''タイ語転写 ([[タイ文字のローマ字表記法|RTGS]])'' ! |''発音の転写 ([[国際音声記号|IPA]])'' |- ||ประเทศไทยรวมเลือดเนื้อชาติเชื้อไทย ||Prathet thai ruam lueatnuea chat chuea thai, ||[pràtʰêːt tʰaj ruːə̯m lɯ̂ːə̯t.nɯ́ːə̯ ʨʰâːt ʨʰɯ́ːə̯ tʰaj] |- ||เป็นประชารัฐ ไผทของไทยทุกส่วน ||Pen pracha rat, phathai khong thai thuk suan, ||[pen prà.ʨʰaː rát | pʰà.tʰaj kʰɔ̌ŋ tʰaj tʰúk sùːə̯n] |- ||อยู่ดำรงคงไว้ได้ทั้งมวล ||Yu damrong khong wai dai thang muan, ||[jùː dam.roŋ kʰɔ̌ŋ wáj dâːj tʰáŋ muːə̯n] |- ||ด้วยไทยล้วนหมาย รักสามัคคี ||duai thai luan mai, rak samakkhi, ||[dûːə̯j tʰaj lúːə̯n mǎːj | rák sǎ.mák.kʰiː] |- ||ไทยนี้รักสงบ แต่ถึงรบไม่ขลาด ||thai ni rak sangop, tae thueng rop mai khlat, ||[tʰaj níː rák sà.ŋòp | tɛ̀ː tʰɯ̌ŋ róp mâj kʰlàːt] |- ||เอกราชจะไม่ให้ใครข่มขี่ ||Ekkarat cha mai hai khrai khom khi, ||[ʔèːk.kà.râːt ʨàʔ mâj hâj kʰraj kʰòm kʰîː] |- ||สละเลือดทุกหยาดเป็นชาติพลี ||Sala lueat thuk yat pen chat phali, ||[sà.làʔ lɯ̂ːə̯t tʰúk jàːt pen ʨʰâːt pʰá.liː] |- ||เถลิงประเทศชาติไทยทวี มีชัย ชโย ||Thaloeng prathet chat thai thawi, mi chai, chayo! ||[tʰà.lɤːŋ prà.tʰêːt ʨʰâːt tʰaj tʰá.wiː | miː ʨʰaj | ʨʰá.joː] |} === 英訳 === {| cellspacing=5 |- ! |''英訳例1'' ! |''英訳例2'' ! |''英訳例3'' |- ||Thailand unites flesh and blood of Thais, ||Thailand unites its people with flesh and blood, ||Thailand embraces in its bosom all people of Thai blood, |- ||Nation of the people; belonging to the Thais in every respect. ||Land of Thailand belongs to the Thais. ||Every inch of Thailand belongs to the Thais. |- ||Long maintained [has been] the independence, ||Long maintained its sovereignty, ||It has long maintained its sovereignty, |- ||Because the Thais seek, and love, unity. ||All Thais intend to unite together. ||Because the Thais have always been united. |- ||Thais are peace-loving, But at war we're no cowards. ||Thais are peace-loving, no cowards at distress. ||The Thai people are peace-loving, But they are no cowards at war. |- ||Sovereignty will not be threatened. ||They shall allow no one to rob them of freedom. ||Nor shall they suffer tyranny. |- ||They will sacrifice every drop of their blood to contribute to the nation, ||Sacrificing every drop of blood for the nation, ||All Thais are ready to give up every drop of blood, |- ||Hail the nation of Thailand, long last the victory, Hurrah. ||They will serve their country with pride and prestige, full of victory. Chai Yo (Cheers). ||For the nation's safety, freedom and progress. |} ===日本語訳=== {| cellspacing=8 |- ! |''日本語訳例'' |- ||血と肉によるタイの団結 |- ||タイはすべてタイ国民に属せり |- ||一致団結 国家の独立永らえん |- ||平和を愛するタイ国民 |- ||苦難に屈する臆病者なし |- ||侵されることなき国家の独立 |- ||自由のために命を捧げん |- ||タイ万歳 永きに渡る勝利を! |} === サイアム国歌歌詞 (1932–1939) === [[File:Phleng Chat Siam 1934-1939 (Vocal by Miss Pratum) - Rabbit Gramophone record HA 6003.ogg|thumb|サイアムの国歌]] :แผ่นดินสยามนามประเทืองว่าเมืองทอง :ไทยเข้าครองตั้งประเทศเขตต์แดนสง่า :สืบเผ่าไทยดึกดำบรรพ์โบราณลงมา :รวมรักษาสามัคคีทวีไทย ::บางสมัยศัตรูจู่โจมตี ::ไทยพลีชีพร่วมรวมรุกไล่ ::เข้าลุยเลือดหมายมุ่งผดุงผะไท ::สยามสมัยบุราณรอดตลอดมา :อันดินสยามคือว่าเนื้อของเชื้อไทย :น้ำรินไหลคือว่าเลือดของเชื้อข้า :เอกราษฎร์คือเจดีย์ที่เราบูชา :เราจะสามัคคีร่วมมีใจ ::รักษาชาติประเทศเอกราชจงดี ::ใครย่ำยีเราจะไม่ละให้ ::เอาเลือดล้างให้สิ้นแผ่นดินของไทย ::สถาปนาสยามให้เทอดไทยไชโย :เหล่าเราทั้งหลายขอน้อมกายถวายชีวิต :รักษาสิทธิ์อิสสระณแดนสยาม :ที่พ่อแม่สู้ยอมม้วยด้วยพยายาม :ปราบเสี้ยนหนามให้พินาศสืบชาติมา ::แม้ถึงภัยไทยด้อยจนย่อยยับ ::ยังกู้กลับคงคืนได้ชื่นหน้า ::ควรแก่นามงามสุดอยุธยา ::นั้นมิใช่ว่าจะขัดสนหมดคนดี :เหล่าเราทั้งหลายเลือดและเนื้อเชื้อชาติไทย :มิให้ใครเข้าเหยียบย่ำขยำขยี้ :ประคับประคองป้องสิทธิ์อิสสระเสรี :เมื่อภัยมีช่วยกันจนวันตาย ::จะสิ้นชีพไว้ชื่อให้ลือลั่น ::ว่าไทยมั่นรักชาติไม่ขาดสาย ::มีไมตรีดียิ่งทั้งหญิงทั้งชาย ::สยามมิวายผู้มุ่งหมายเชิดชัยไชโย == 外部リンク == * {{YouTube|6lIRd2W_FL4|Thailand National Anthem (MCOT 2009 - 2011)}}{{th icon}} ** タイのテレビ局・9チャンネルが制作した国家のミュージックビデオ。2011年までは各テレビ局が独自のMVを制作し、度々更新していた。 * {{YouTube|RLVrU6dhdjI|MV เพลงชาติไทย ฉบับ สปน. แบบที่ 1(タイ内閣府制作・タイ国歌MV 第1バージョン)}}{{th icon}} * {{YouTube|1OzPq9NONiw|MV เพลงชาติไทย ล่าสุด แบบที่ ๒(タイ国歌・最新MV 第2バージョン)}}{{th icon}} ** タイの内閣府が制作し、2011年10月より全てのテレビ局で流される国歌のMVが統一されるようになった。現在は第2バージョンが上映されているが、諸事情により却下された第1バージョンも存在していた。<!--タイ国旗の青色の部分が象徴する、タイの王室が映った時間が非常に短くて不適切だから。--> * {{YouTube|zHKSBy_8q_4|National Anthem of Thailand タイ国歌斉唱}} - 国歌演奏中は皆が起立しているのが分かる動画である。 == 脚注 == {{Reflist}} {{アジアの国歌}} {{Normdaten}} [[Category:アジアの国歌|たいのこっか]] [[Category:タイの文化|こつか]] [[Category:タイの国の象徴|こつか]]
null
2021-03-03T01:12:54Z
false
false
false
[ "Template:Lang-th", "Template:Wikisourcelang", "Template:Wikisource", "Template:アジアの国歌", "Template:Normdaten", "Template:Infobox anthem", "Template:YouTube", "Template:Th icon", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%AD%8C
4,445,509
国鉄タ1550形貨車
国鉄タ1550形貨車(こくてつタ1550がたかしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)およびその前身である鉄道省等に在籍した貨車(タンク車)である。 タ1550形は、1928年(昭和3年)5月の車両称号規程改正により、カス160形 、カス175形、カス185形 を改番し誕生した形式である。合計21両が改番されたが途中欠番が7両あり最終番号はタ1577であった。21両全てが鉄道省所有貨車であり私有貨車は1両も在籍しなかった。 カス160形 は、元関西鉄道に在籍していた車両である。関西鉄道ではこれらの車両を客車照明器具のピンチ式ガス灯の使用燃料であるガス輸送用に運用していた。鉄道省も引き続き同用途にて運用されたが照明は次第に電灯に切り替わり用途が少なくなっていった。 1932年(昭和7年)度よりミ200形への改造が始まり1933年(昭和8年)度までに9両(ミ200 - ミ206,ミ211,ミ212)が本形式を離れた。(ミ207 - ミ210はタ1550形に改番されずに廃車となったカス形より充当された。)ミ200形は1両(ミ212)を除く全車が北海道に集中配属された。 車体色は黒色、寸法関係は一例として全長は6,414 mm - 8,116 mm、全幅は2,184 mm - 2,511 mm、全高は2,505 mm - 3,499 mm、実容積は7.1 m - 12.0 m、自重は6.9 t - 10.2 tである。 1950年(昭和25年)に「第二次貨車特別廃車」の対象形式に指定され、同年5月20日通達「車工第376号」により告示された。(当時の在籍車数は11両であった) 同年に最後まで在籍した車両が廃車となり、同時に形式消滅となった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "国鉄タ1550形貨車(こくてつタ1550がたかしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)およびその前身である鉄道省等に在籍した貨車(タンク車)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "タ1550形は、1928年(昭和3年)5月の車両称号規程改正により、カス160形 、カス175形、カス185形 を改番し誕生した形式である。合計21両が改番されたが途中欠番が7両あり最終番号はタ1577であった。21両全てが鉄道省所有貨車であり私有貨車は1両も在籍しなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "カス160形 は、元関西鉄道に在籍していた車両である。関西鉄道ではこれらの車両を客車照明器具のピンチ式ガス灯の使用燃料であるガス輸送用に運用していた。鉄道省も引き続き同用途にて運用されたが照明は次第に電灯に切り替わり用途が少なくなっていった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1932年(昭和7年)度よりミ200形への改造が始まり1933年(昭和8年)度までに9両(ミ200 - ミ206,ミ211,ミ212)が本形式を離れた。(ミ207 - ミ210はタ1550形に改番されずに廃車となったカス形より充当された。)ミ200形は1両(ミ212)を除く全車が北海道に集中配属された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "車体色は黒色、寸法関係は一例として全長は6,414 mm - 8,116 mm、全幅は2,184 mm - 2,511 mm、全高は2,505 mm - 3,499 mm、実容積は7.1 m - 12.0 m、自重は6.9 t - 10.2 tである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)に「第二次貨車特別廃車」の対象形式に指定され、同年5月20日通達「車工第376号」により告示された。(当時の在籍車数は11両であった)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "同年に最後まで在籍した車両が廃車となり、同時に形式消滅となった。", "title": "概要" } ]
国鉄タ1550形貨車(こくてつタ1550がたかしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)およびその前身である鉄道省等に在籍した貨車(タンク車)である。
{{鉄道車両貨車 | 背景色 = #000 | 文字色 = #fff | 画像 = | 画像幅 = | 画像説明 = | unit = auto | 車種 = [[タンク車]] | 運用者 = [[鉄道省]]<br />[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]<br />[[運輸省]]<br />[[日本国有鉄道]] | 所有者 = 鉄道省<br />運輸通信省<br />運輸省<br />日本国有鉄道 | 種車 = カス160形、カス175形、カス185形 | 改造所 = <!-- 改造車向け --> | 改造年 = [[1928年]](昭和3年)* | 改造数 = 21 | 運用開始 = | 引退 = | 廃車 = | 消滅 = [[1950年]](昭和25年) | 常備駅 = | 車体色 = [[黒 (国鉄制定色)|黒]] | 専用種別 = ガス | 化成品分類番号 = 制定前に形式消滅 | 軌間 = 1,067 | 全長 = 6,414 mm - 8,116 | 全幅 = 2,184 mm - 2,511 | 全高 = 2,505 mm - 3,499 | 車体長 = | 車体幅 = | 車体高 = | タンク材質 = [[炭素鋼|普通鋼]]([[一般構造用圧延鋼材]]) | 荷重 = | 実容積 = 7.1 m<sup>3</sup> - 12.0 | 自重 = 6.9 t - 10.2 | 換算両数 積車 = | 換算両数 空車 = | 走り装置 = | 車輪径 = 860 | 軸距 = 3,043 mm - 3,962 | 最高速度 = 65 | 備考 = *称号規程改正年<br />上記寸法類は一例である | 備考全幅 = }} '''国鉄タ1550形貨車'''(こくてつタ1550がたかしゃ)は、かつて[[日本国有鉄道]](国鉄)およびその前身である[[鉄道省]]等に在籍した[[貨車]]([[タンク車]])である。 == 概要 == '''タ1550形'''は、[[国鉄貨車の車両形式#1928年称号規程|1928年(昭和3年)5月の車両称号規程改正]]により、'''カス160形''' 、'''カス175形'''、'''カス185形''' を[[改番]]し誕生した形式である。合計21両が改番されたが途中欠番が7両あり最終番号はタ1577であった。21両全てが鉄道省所有貨車であり私有貨車は1両も在籍しなかった。 '''カス160形''' は、元[[関西鉄道]]に在籍していた車両である。関西鉄道ではこれらの車両を客車照明器具のピンチ式ガス灯の使用燃料であるガス輸送用に運用していた。鉄道省も引き続き同用途にて運用されたが照明は次第に電灯に切り替わり用途が少なくなっていった。 [[1932年]](昭和7年)度よりミ200形への改造が始まり[[1933年]](昭和8年)度までに9両(ミ200 - ミ206,ミ211,ミ212)が本形式を離れた。(ミ207 - ミ210はタ1550形に改番されずに廃車となったカス形より充当された。)ミ200形は1両(ミ212)を除く全車が北海道に集中配属された。 車体色は[[黒 (国鉄制定色)|黒色]]、寸法関係は一例として全長は6,414 [[ミリメートル|mm]] - 8,116 mm、全幅は2,184 mm - 2,511 mm、全高は2,505 mm - 3,499 mm、実容積は7.1 [[立方メートル|m<sup>3</sup>]] - 12.0 m<sup>3</sup>、自重は6.9 t - 10.2 tである。 [[1950年]](昭和25年)に「第二次貨車特別廃車」の対象形式に指定され、同年5月20日通達「車工第376号」により告示された。(当時の在籍車数は11両であった) 同年に最後まで在籍した車両が廃車となり、同時に形式消滅となった。 == 参考文献 == * 吉岡心平 『<small>プロフェッサー吉岡の</small>私有貨車図鑑(復刻増補)』 2008年、ネコ・パブリッシング刊 ISBN 978-4-7770-0583-3 * 『日本の貨車-技術発達史-』(貨車技術発達史編纂委員会編著、社団法人 日本鉄道車輌工業会刊、2008年) == 関連項目 == * [[国鉄の車両形式一覧]] {{日本国有鉄道のタンク車}} {{デフォルトソート:こくてつタ01550かたかしや}} [[Category:日本国有鉄道の貨車|タ01550]] [[Category:1928年製の鉄道車両|こくてつ貨タ01550]] [[Category:他形式からの改造貨車]]
null
2022-01-22T09:46:16Z
false
false
false
[ "Template:鉄道車両貨車", "Template:日本国有鉄道のタンク車" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84%E3%82%BF1550%E5%BD%A2%E8%B2%A8%E8%BB%8A
75,274
中西太
中西 太(なかにし ふとし、1933年4月11日 - 2023年5月11日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。1999年に野球殿堂入り。豪打と俊足で「怪童」と呼ばれ、西鉄ライオンズの黄金期を支えた。西鉄、日本ハム、阪神で監督となり、多くの球団や選手のコーチも務めた。指導者としては「ふとっさん」や「名伯楽」と呼ばれ、打撃指導は高く評価された。 高松第一高等学校時代は甲子園で夏2回ベスト4、春1回出場。甲子園で二戦連続ランニングホームランも記録した。西鉄では三原脩監督時代の黄金期を支え、本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回、ベストナイン(三塁手)7回を記録。1953年には史上最年少でトリプルスリーと二冠(本塁打王・打点王)を、1955年にはパ・リーグ最高殊勲選手を達成した。 西鉄では選手兼監督を経て監督となり、1963年にリーグ優勝を達成。5球団で監督・監督代行を、ヤクルト、近鉄、巨人、オリックスなどでもコーチや臨時コーチを歴任。若松勉、岡田彰布、掛布雅之、宮本慎也らを育てた。「何事も苦しい時が自分の礎をつくる」という「何苦楚」が座右の銘で、岩村明憲や田口壮に引き継がれた。 妻は三原脩の長女。人生の師でもある三原からは「人を見て法を説け」や「三原イズム」、メモ魔を受け継いだ。中西が持っていた「三原ノート」は栗山英樹に引き継がれている。高松讃紫会では名誉会長に就任。2000年に初の高松市市民栄誉賞となり、たかまつミライエには中西の特設コーナーが設けられている。 幼少期は野菜の行商をしていた母の手で育てられる。小学6年生だった1945年7月4日、住んでいた高松で高松空襲に遭う。一度は防空壕に逃げ込んだが、周りの大人たちに招かれるように防空壕を出て、間もなくして自分が避難していた防空壕は爆撃された。本人も「あのまま防空壕にいたら命は無かったから、運が良かった」と語っている。1946年、旧制高松一中に入学(高松一中は1948年に学制改革により高松一高となる)。高松一高時代は本塁打を量産し、「怪童」といわれていた。中西が打撃練習を始めると、打球が速すぎて危険なため内野手は外野に移動していたという。甲子園には三塁手として3度出場。1949年春の選抜は準々決勝に進むが、小倉北高のエース福嶋一雄に完封負けを喫する。同年夏の選手権は、準決勝で佐々木信也(高橋)のいた湘南高に延長10回にサヨナラ負けする。 1951年夏の選手権は準決勝に進むが、優勝校となる平安高の清水宏員(毎日)、上市明(大映)のバッテリーに抑えられ3-4で惜敗。この大会では岡山東高の秋山登(大洋)らから2試合連続でランニングホームラン、計6打点を記録した。同年の広島国体では準々決勝(初戦)で都島工と対戦、延長21回の熱戦の末に0-1でサヨナラ負けした。高校の2年上に山下健(阪急)、1年上に玉木春雄(西鉄)、同期には松岡雅俊(東映)、1年下には荒井健(近鉄)、松井清(西鉄)と後にプロ入りするチームメイトが揃っていた。 国体出場後、高校卒業後の進路について飛田穂洲より早稲田大学進学を勧められ、見学のために上京。この時に同郷・香川の先輩で早大OBでもある西鉄ライオンズの三原脩監督と出会った。 三原は貧しかった中西の早大進学の費用を西鉄が出す代わりに、卒業したら入団するように約束をさせた。しかし毎日オリオンズの若林忠志監督が毎日新聞高松支局長を伴って中西の兄を抱き込み、契約寸前までいっているとの連絡が入る。三原はすぐさま中西の家に向かい、西鉄側には高松一高野球部後援会や市会議員までが出てきて入団を後押しした。最終的には「郷里の先輩を信じるのが一番良い」という母親の決断により、西鉄入りが決まった。早大進学の夢が打ち砕かれたのとプロでやっていく自信の無さから、決定の瞬間に中西は大声をあげて泣いた。 1952年に西鉄へ正式入団すると、開幕から七番打者、三塁手に抜擢され活躍。プロ初本塁打はランニングホームランであった(高校時代に甲子園で記録した本塁打も2本ともランニングホームランである)。同年は打率.281(17位)、12本塁打で新人王を獲得。 1953年には7月から四番打者に座り、トリプルスリー(打率.314、36本塁打、36盗塁)を史上最年少で達成。同年から6年連続でベストナインに選出される。また、36本塁打は2021年現在も2019年の村上宗隆と並び高卒2年以内の選手の最多本塁打記録であり、86打点も同年の村上が抜くまで高卒2年目以内の選手の最多記録だった。その後も1958年まで毎年の様に三冠王に近い成績を残し、1956年はパシフィック・リーグMVPを受賞。1953年から1956年にかけては4年連続で本塁打王を獲得。1953年は大映(30本)と近鉄(31本)、1954年は近鉄(27本)のチーム本塁打を個人で上回っていた。他にも、1955年は17敬遠でパ・リーグの初代最多敬遠となり、翌年も山内和弘と並ぶ17敬遠を記録した。 大下弘・豊田泰光・関口清治・高倉照幸・河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年に球団初のリーグ優勝を飾る。同年の中日ドラゴンズとの日本シリーズでも25打数8安打3打点と活躍。稲尾和久が入団した1956年からは水原茂監督率いる巨人を相手に3年連続日本一という黄金時代を築き上げた。この時期に三原の長女・敏子のもとへ婿入りし、三原の義理の息子となっている(戸籍上は「三原太」となっている)。1956年の巨人との日本シリーズでは第2戦に安原達佳、第4戦に中尾碩志から本塁打を放つ。この年は29本塁打・95打点で二冠王に輝くも、打率は豊田泰光と4毛の差で三冠王を逃す。 1957年の日本シリーズは21打数5安打無打点とあまり活躍の場はなかったが、1958年の日本シリーズは第5戦から3試合連続本塁打を放ち本領を発揮した。 1958年は打率.314と23本塁打で二冠王に輝くも、打点王の葛城隆雄(大毎)に1打点差で届かず、三冠王を逃す。なおこの時の打率.314は、1953年の岡本伊三美(近鉄)の.314を下回り、2リーグ分裂後パ・リーグの首位打者としては最低打率記録で、1976年に西鉄の後進・太平洋クラブの吉岡悟が.309で首位打者となるまて最低打率だった 1958年までは常にタイトル争いに加わるほどの打棒を誇るが、1959年の6月3日の近鉄戦(平和台)で鈴木武に利き手をスパイクされて6針縫う負傷。さらに1960年には左手首に腱鞘炎を患い満足なスイングができなくなり、常時出場は困難になる。 1961年には回復が見られ、主に一塁手として78試合に先発出場、打率.304、21本塁打を記録。しかしベストナインには9試合のみ起用された三塁手として選出された。 1962年からは西鉄の選手兼任監督に就任。再び怪我が悪化し開幕から欠場、28試合の先発にとどまる。同年オフには豊田が国鉄スワローズに移籍した。 1963年は開幕から一塁手として出場。チームも好調を維持し、トニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウィルソンら「三銃士」が活躍。若生忠男・畑隆幸・田中勉・安部和春・井上善夫ら若手投手の奮闘もあり、南海と熾烈な優勝争いを繰り広げる。最大14.5ゲーム差を追い上げて最後の4試合(2日連続のダブルヘッダー。3勝1分以上もしくは2勝2分で優勝、3勝1敗で南海との同率プレーオフ、それ以外は南海の優勝)に全勝し、劇的なリーグ優勝を決める。同年の日本シリーズでは巨人に3勝4敗で敗退した。 1964年からは代打での出場が主になる。チームは稲尾を故障で欠いたため、5位へ転落。同年オフの退団となった若林忠志ヘッドコーチの処遇を巡りバッシングを受け、「若林に成績不振の責任を取らせた」とマスコミからの非難を浴びた。実はこの時、若林退団の真の理由は末期ガンのためであったが、若林の家族の意向からその事実は本人にも伏せられ、真相は中西と若林夫人しか知らなかった。自らの真の病状を知らない若林は中西が見舞いに来るたびに、「自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしい」と語っていたという。それがもはや叶わないことを知っていた中西は「涙が出るほど辛かった」と後年に回想している。若林は1965年、58歳で死去した。 1965年はルーキーの池永正明が20勝で新人王を獲得したほか、稲尾の復活もあり3位でAクラスに返り咲く。 1966年は稲尾がリリーフに転向し、最優秀防御率を獲得。同年9月30日、中西はこのシーズン5本目の代打本塁打を記録するが、これは自身通算10本目の代打本塁打であり、大館勲夫の当時の日本プロ野球記録を二つとも更新している。 1967年は宮寺勝利を正捕手に据えたため、和田博実を外野にコンバート。池永が最多勝を獲得し、2年連続で2位となった。 1968年は「猛打西鉄」復活を狙って、高木喬・広野功を獲得。東田正義・竹之内雅史の台頭もあったが、5位に終わる。 1969年は宮寺に代わって村上公康が正捕手となったが、チーム打率最下位・チーム防御率5位という散々な内容で2年連続で5位となる。広野が20本塁打、村上が14本塁打を放った。同年に中西は現役を引退し、監督も退任。同年10月に発覚し、西鉄の選手も関与していた八百長疑惑事件、いわゆる「黒い霧事件」についての道義的責任を負っての辞任でもあった。 中西が着けた背番号6は、将来有望な選手が出るまでの保留欠番とされ、1973年、西鉄が身売りした際に、監督の稲尾の推薦で菊川昭二郎が33から変更して着けた。 引退後に1年だけTBS解説者(1970年)を務めた後、ヤクルト(1971年 - 1973年ヘッドコーチ, 1983年 - 1984年一軍ヘッド兼打撃コーチ)、日本ハム(1974年 - 1975年監督)、阪神(1979年 - 1980年一軍打撃コーチ, 1980年 - 1981年監督)、近鉄(1985年 - 1988年一軍打撃コーチ, 1989年 - 1990年ヘッドコーチ)、巨人(1992年一軍打撃総合コーチ)、ロッテ(1994年ヘッドコーチ)、オリックス(1995年 - 1997年ヘッドコーチ)で監督・コーチを歴任。指導者生活の合間を縫って、毎日放送(1982年, 1991年)・九州朝日放送(1976年 - 1978年)解説者、日刊スポーツ評論家(1977年 - 1978年, 1982年 , 1991年, 1993年)を務めた。 ヤクルトコーチ1期目にはプロ入り前から若松勉の素質を見抜き、体の小ささを理由にプロ入りを拒否していた若松に対して北海道まで出向いて説得を行い、入団後はマンツーマン指導により2年目で首位打者を獲得するまでに育て上げた。後に若松が野球殿堂入りを果たした時は「自分の殿堂入りよりもうれしい、自分に若松を託したお父さんからもお褒めの言葉を授かり、非常に嬉しかった」と述べている。2期目には八重樫幸雄と二人三脚で独特のオープンスタンスの打撃フォームを造り上げ、これにより打力が向上した八重樫は正捕手の座を獲得し、現役晩年は代打の切り札として活躍した。1984年4月には武上四郎辞任に伴い監督代行を務めるも、体調不良と成績不振のため18試合で辞任。 日本ハムでは初代監督に就任するも2年連続最下位で解任され、代表取締役社長兼球団代表の三原は、初回に走者が出た場面でバントのサインを多用していた中西の采配を見て、監督の器ではないと思ったという。また、張本勲は一打逆転の場面を直視できずにベンチ裏に下がり、マネージャーを通して状況を確認していた中西の采配について、選手も戦う気になれなかったと振り返っている。 阪神時代はドン・ブレイザーの辞任に伴い、監督へ昇格したが、5位に終わる。1981年は3位になるも同年退任し、在任中はコーチ時代から折り合いの悪かった江本孟紀に「ベンチがアホや」と公言され、確執が修復不能なほど悪化して引退に追い込んでしまう。ただし、引退後しばらくしてからは、会えば会話をし、肩を組んで写真を撮ることもある関係に回復している。一方で、掛布雅之を中心とした猛虎打線の基礎を横溝桂打撃コーチと共に築き上げた。掛布から師と仰がれ「中西さんは選手のいい所をどんどん引き出してくれてね。それで欠点を補っちゃうんだよ」。球を呼び込んで打つよう大きなジェスチャーで求める中西に、掛布は「バットを大きく引いて打つイメージが、より鮮明になった」と振り返る。 近鉄コーチ時代は盟友の仰木彬監督とタッグを組み、1989年のリーグ優勝に貢献。オリックスコーチ時代には仰木と再びタッグを組み、リーグ2連覇と1996年の日本一に貢献。特に近鉄コーチ時代は10.19があった1988年と劇的なリーグ優勝を果たした翌1989年における仰木とのコンビで、球団の人気も実力とともに急上昇し、近鉄は常勝チーム西武の最大のライバル球団となった。伊東勤はその西武の選手であったにも関わらず指導を受けた経験があり、中西について、教えるのが好きな人だったと振り返っている。1989年近鉄優勝の立役者となったラルフ・ブライアントは、1988年途中まで中日二軍でプレーしていたが、仰木らと共に二軍戦を視察した中西が「獲れ。ワシが直す」と進言し、金銭トレードでの近鉄移籍が実現。その後はマンツーマンの練習を行い成功に繋げ、後に日本での成功の秘訣を訊かれたブライアントは、中西の口癖である「シンボウ」(辛抱)と答えている。なお、西鉄時代は中西の参謀役を、まだ現役選手だった仰木が務めていた。 ロッテ時代はシーズン途中からは八木沢荘六の後を受けて監督代行を務め、手腕が評価され翌年からの正式就任を打診されるも、年俸などの条件が折り合わず固辞。 オリックス退団後も様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めたが、1999年にはヤクルト監督を務めていた若松の依頼により、バッティングアドバイザーに就任。同年には野球殿堂入りを果たし、2001年まで務めた。在任中は宮本慎也を指導し、当時の宮本は守備の人であったが、これにより打力が向上。後にプロ通算2000安打を達成した際に「(中西との出会いがなければ)2000本になんて到底届かなかったと思います」と語っている。並行して2000年からは4度目の日刊スポーツ評論家となり、2002年からは評論活動に専念。 1997年に甲状腺がんを患ったが克服し、経過は良好であり、2007年2月にはメジャーリーグに挑戦する愛弟子・岩村明憲の自主トレを手伝い、中西自らバッティングピッチャーとして登板。岩村も「こんな元気な70代の人はそうはいないですよ」と驚くほどだった。 自身の座右の銘である「何苦楚(なにくそ-何事も苦しむことが楚となる)」は、オリックス・ヤクルト時代の教え子である田口壮や岩村に受け継がれ、その影響は田口の著書「何苦楚日記」や岩村のブログ「AKI何苦楚魂」に見られる。2007年10月には現役時代のユニフォームやトロフィーなどの資料49点を故郷の高松に寄贈し、2008年4月26日より高松市松島町の高松市民文化センターで公開されていたが、2012年3月11日限りで建物が閉館となった。その後は市民文化センターの後継施設として2016年11月23日にオープンした高松市こども未来館(たかまつミライエ)1階の「市民交流ゾーン」に「怪童中西太コーナー」が改めて設置されている。 2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会開会式前に「甲子園レジェンズ」の一人として登場。 2017年に学生野球の指導資格を回復。2018年3月には高倉照幸前会長の後を受けて「ライオンズOB会」会長に就任。同年夏には第100回全国高等学校野球選手権記念大会香川県大会と本大会(大会14日目)で始球式を行った。2019年4月2日にはライオンズ埼玉移転40周年を記念して、メットライフドームにてパ・リーグ本拠地開幕戦で始球式に招聘された。 2023年5月11日、心不全のため死去。90歳没。同年シーズンオフの11月3日に高松市内でお別れの会の開催が予定されている。墓所は世田谷区実相寺。 「怪童」と称されるほどのスラッガーであった。中西は、その豪快な打撃で数々の伝説を残している。以下はその一例である。 二冠獲得4回、本塁打王5回(4年連続含む)、首位打者2回、打点王3回の打撃タイトルを誇る。特筆すべきは、これらのタイトルを高卒から入団7年目までに獲得していることである。 戦後初の三冠王となるチャンスが何度もあった。特に惜しかったのは1956年と1958年である。前者は首位打者を同僚の豊田泰光と争ったが、最終戦を前に三原監督が両者に休養を命じたため、豊田の首位打者が決まった(ただし、豊田は首位打者、中西は二冠王で構わないと最初から両者で話し合って決めていたとも言われている)。後者は全日程を終了して三冠、ただし打点のみは大毎オリオンズの葛城隆雄と同数という状況で、葛城が最終戦で本塁打を放ったため、打点王を逃したというものである。この時葛城に本塁打を打たれたのは、元同僚の大津守投手(当時近鉄)であり、後日試合で対戦の際に中西と顔を合わせ、「すまん」と謝ったとされている。なお、中西が何度もタイトルに近づいたことで、それまで日本ではあまり知られていなかった「トリプルクラウン」が認識されるようになり、さらに「三冠王」という訳語もマスコミで定着するに至った。 中西は三冠王になったことはないが、打率・本塁打・打点の部門において、「1部門がリーグ2位の二冠王」を1953年・1955年・1956年・1958年の通算4回記録している。これは王貞治の5回、長嶋茂雄の3回に挟まれて歴代2位である。中西は4回すべてが僅差であり、1953年は打率において4厘差で岡本伊三美に、1955年は打点において1打点差で山内和弘に、1956年は打率において.0004差で豊田に(中西は.3247、豊田は.3251)、1958年は打点において1打点差で葛城に、それぞれタイトルを奪われた。 西鉄、日本ハム、阪神で計12シーズンにわたって監督を務め、Aクラス6回(リーグ優勝1回)の実績を持つが、野村克也は著書で監督としては「失敗」という評価をしている。 一方で、コーチとしては数多くの強打者を指導しており、前述の野村もコーチとしての指導実績は高く評価している。吉田義男は「中西さんは教える達人でしたね」と話しており、江夏豊は「名監督は数多くいても、名コーチは少ない」が持論だが、その中で「投げるほうの名コーチは権藤博さん、打つほうの名コーチは中西さん」と語っている。 中西本人も、若手選手と直接向き合える打撃コーチが天職で、監督には向いていないと公言していた。 中西の打撃理論は「ボールを呼び込んで下半身で打つ」こと、「バットを内側から出す」ことを基本としており、練習法ではティー打撃に重点を置いている。中西流の指導法は、教え子の若松や伊勢孝夫、杉村繁らに引き継がれている。 愛称は「太っさん(ふとっさん)」。あるいは「太」。 非常に運動神経に優れていたことで知られ、本人も「私は農耕民族だから」と言う、その足腰の強さは特筆物であった。相撲好きであり、関脇・鶴ヶ嶺(後の井筒親方)と非常に仲が良かったため、よく井筒部屋に出稽古に出かけていたという。しかも三段目ほどの力士であれば軽くあしらって勝ってしまうこともあった程で、鶴ヶ嶺は「中西さんは相撲の世界に入っていても、間違いなく幕内までは軽々行ったと思う」と述べている。 荒くれ者の西鉄野武士軍団の中心打者で豪快な打撃とその風貌から勘違いされやすいが、性格は繊細で真面目で人一倍練習熱心だった。宿舎で同部屋だった稲尾和久は「毎日、夜、寝る前に部屋でビュンビュンとバットを振る。振るたびにすごい風圧で、ガラス窓が割れそうになるので怖かった」と振り返っている。練習のしすぎが腱鞘炎の原因のひとつとも言われる。 やや気が小さい面が見られた。腱鞘炎で試合から遠ざかっていた選手兼任監督時代、試合前にバックネットの前で素振りをしていると、スタンドのファンから大声で「中西、試合に出んか!」と野次を飛ばされた。気の強い選手ならすぐにそちらを向いて睨みつけそうなものだが、中西はそちらを見ることができず、横にいた記者に「どんな奴が怒鳴ってる?」と素振りを続けながら尋ねたという。流線型打線の中核を担ったが、たとえば一番打者の高倉照幸が二塁打を放つと、気が強くチャンスに強い二番の豊田に「トヨ(豊田)、(走者を)返しとけよ・・」と呟く事もあった。豊田が首尾よくタイムリーを放ち先制点を取ると中西も重圧から解放されその後の打席は打棒が爆発し、一番の高倉から三番中西までで試合を早々に決めてしまう事もままあった。 中西は現役時代における最も忘れられない場面として、1958年の日本シリーズ、1勝3敗で迎えた第5戦、2-3と1点ビハインドの9回裏一死三塁という「非常に責任ある打席(中西)」で三塁ゴロに倒れた場面を挙げている。この試合は続く5番の関口清治が起死回生のタイムリーヒットを打って同点に追いつき、延長10回裏稲尾のサヨナラ本塁打で勝利。西鉄は第6戦、第7戦も連勝して奇跡の逆転優勝を果たし、中西もまたこの第5戦に続いて第6戦、第7戦でも本塁打を放つ活躍を見せたが、第5戦9回裏の場面は「もしあのまま試合が終わっていたら...」と思い返すことがたびたびあったという。 三原脩について取材で聞かれることが多く、「三原さんの事についてはもう勘弁してくれというぐらい話してる」と語っている。 阪神監督時代の中西は痛風を患っており、スパイクの足先を切り取って痛さを誤魔化していた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中西 太(なかにし ふとし、1933年4月11日 - 2023年5月11日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。1999年に野球殿堂入り。豪打と俊足で「怪童」と呼ばれ、西鉄ライオンズの黄金期を支えた。西鉄、日本ハム、阪神で監督となり、多くの球団や選手のコーチも務めた。指導者としては「ふとっさん」や「名伯楽」と呼ばれ、打撃指導は高く評価された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "高松第一高等学校時代は甲子園で夏2回ベスト4、春1回出場。甲子園で二戦連続ランニングホームランも記録した。西鉄では三原脩監督時代の黄金期を支え、本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回、ベストナイン(三塁手)7回を記録。1953年には史上最年少でトリプルスリーと二冠(本塁打王・打点王)を、1955年にはパ・リーグ最高殊勲選手を達成した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "西鉄では選手兼監督を経て監督となり、1963年にリーグ優勝を達成。5球団で監督・監督代行を、ヤクルト、近鉄、巨人、オリックスなどでもコーチや臨時コーチを歴任。若松勉、岡田彰布、掛布雅之、宮本慎也らを育てた。「何事も苦しい時が自分の礎をつくる」という「何苦楚」が座右の銘で、岩村明憲や田口壮に引き継がれた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "妻は三原脩の長女。人生の師でもある三原からは「人を見て法を説け」や「三原イズム」、メモ魔を受け継いだ。中西が持っていた「三原ノート」は栗山英樹に引き継がれている。高松讃紫会では名誉会長に就任。2000年に初の高松市市民栄誉賞となり、たかまつミライエには中西の特設コーナーが設けられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "幼少期は野菜の行商をしていた母の手で育てられる。小学6年生だった1945年7月4日、住んでいた高松で高松空襲に遭う。一度は防空壕に逃げ込んだが、周りの大人たちに招かれるように防空壕を出て、間もなくして自分が避難していた防空壕は爆撃された。本人も「あのまま防空壕にいたら命は無かったから、運が良かった」と語っている。1946年、旧制高松一中に入学(高松一中は1948年に学制改革により高松一高となる)。高松一高時代は本塁打を量産し、「怪童」といわれていた。中西が打撃練習を始めると、打球が速すぎて危険なため内野手は外野に移動していたという。甲子園には三塁手として3度出場。1949年春の選抜は準々決勝に進むが、小倉北高のエース福嶋一雄に完封負けを喫する。同年夏の選手権は、準決勝で佐々木信也(高橋)のいた湘南高に延長10回にサヨナラ負けする。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1951年夏の選手権は準決勝に進むが、優勝校となる平安高の清水宏員(毎日)、上市明(大映)のバッテリーに抑えられ3-4で惜敗。この大会では岡山東高の秋山登(大洋)らから2試合連続でランニングホームラン、計6打点を記録した。同年の広島国体では準々決勝(初戦)で都島工と対戦、延長21回の熱戦の末に0-1でサヨナラ負けした。高校の2年上に山下健(阪急)、1年上に玉木春雄(西鉄)、同期には松岡雅俊(東映)、1年下には荒井健(近鉄)、松井清(西鉄)と後にプロ入りするチームメイトが揃っていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "国体出場後、高校卒業後の進路について飛田穂洲より早稲田大学進学を勧められ、見学のために上京。この時に同郷・香川の先輩で早大OBでもある西鉄ライオンズの三原脩監督と出会った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "三原は貧しかった中西の早大進学の費用を西鉄が出す代わりに、卒業したら入団するように約束をさせた。しかし毎日オリオンズの若林忠志監督が毎日新聞高松支局長を伴って中西の兄を抱き込み、契約寸前までいっているとの連絡が入る。三原はすぐさま中西の家に向かい、西鉄側には高松一高野球部後援会や市会議員までが出てきて入団を後押しした。最終的には「郷里の先輩を信じるのが一番良い」という母親の決断により、西鉄入りが決まった。早大進学の夢が打ち砕かれたのとプロでやっていく自信の無さから、決定の瞬間に中西は大声をあげて泣いた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1952年に西鉄へ正式入団すると、開幕から七番打者、三塁手に抜擢され活躍。プロ初本塁打はランニングホームランであった(高校時代に甲子園で記録した本塁打も2本ともランニングホームランである)。同年は打率.281(17位)、12本塁打で新人王を獲得。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1953年には7月から四番打者に座り、トリプルスリー(打率.314、36本塁打、36盗塁)を史上最年少で達成。同年から6年連続でベストナインに選出される。また、36本塁打は2021年現在も2019年の村上宗隆と並び高卒2年以内の選手の最多本塁打記録であり、86打点も同年の村上が抜くまで高卒2年目以内の選手の最多記録だった。その後も1958年まで毎年の様に三冠王に近い成績を残し、1956年はパシフィック・リーグMVPを受賞。1953年から1956年にかけては4年連続で本塁打王を獲得。1953年は大映(30本)と近鉄(31本)、1954年は近鉄(27本)のチーム本塁打を個人で上回っていた。他にも、1955年は17敬遠でパ・リーグの初代最多敬遠となり、翌年も山内和弘と並ぶ17敬遠を記録した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "大下弘・豊田泰光・関口清治・高倉照幸・河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年に球団初のリーグ優勝を飾る。同年の中日ドラゴンズとの日本シリーズでも25打数8安打3打点と活躍。稲尾和久が入団した1956年からは水原茂監督率いる巨人を相手に3年連続日本一という黄金時代を築き上げた。この時期に三原の長女・敏子のもとへ婿入りし、三原の義理の息子となっている(戸籍上は「三原太」となっている)。1956年の巨人との日本シリーズでは第2戦に安原達佳、第4戦に中尾碩志から本塁打を放つ。この年は29本塁打・95打点で二冠王に輝くも、打率は豊田泰光と4毛の差で三冠王を逃す。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1957年の日本シリーズは21打数5安打無打点とあまり活躍の場はなかったが、1958年の日本シリーズは第5戦から3試合連続本塁打を放ち本領を発揮した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1958年は打率.314と23本塁打で二冠王に輝くも、打点王の葛城隆雄(大毎)に1打点差で届かず、三冠王を逃す。なおこの時の打率.314は、1953年の岡本伊三美(近鉄)の.314を下回り、2リーグ分裂後パ・リーグの首位打者としては最低打率記録で、1976年に西鉄の後進・太平洋クラブの吉岡悟が.309で首位打者となるまて最低打率だった", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1958年までは常にタイトル争いに加わるほどの打棒を誇るが、1959年の6月3日の近鉄戦(平和台)で鈴木武に利き手をスパイクされて6針縫う負傷。さらに1960年には左手首に腱鞘炎を患い満足なスイングができなくなり、常時出場は困難になる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1961年には回復が見られ、主に一塁手として78試合に先発出場、打率.304、21本塁打を記録。しかしベストナインには9試合のみ起用された三塁手として選出された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1962年からは西鉄の選手兼任監督に就任。再び怪我が悪化し開幕から欠場、28試合の先発にとどまる。同年オフには豊田が国鉄スワローズに移籍した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1963年は開幕から一塁手として出場。チームも好調を維持し、トニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウィルソンら「三銃士」が活躍。若生忠男・畑隆幸・田中勉・安部和春・井上善夫ら若手投手の奮闘もあり、南海と熾烈な優勝争いを繰り広げる。最大14.5ゲーム差を追い上げて最後の4試合(2日連続のダブルヘッダー。3勝1分以上もしくは2勝2分で優勝、3勝1敗で南海との同率プレーオフ、それ以外は南海の優勝)に全勝し、劇的なリーグ優勝を決める。同年の日本シリーズでは巨人に3勝4敗で敗退した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1964年からは代打での出場が主になる。チームは稲尾を故障で欠いたため、5位へ転落。同年オフの退団となった若林忠志ヘッドコーチの処遇を巡りバッシングを受け、「若林に成績不振の責任を取らせた」とマスコミからの非難を浴びた。実はこの時、若林退団の真の理由は末期ガンのためであったが、若林の家族の意向からその事実は本人にも伏せられ、真相は中西と若林夫人しか知らなかった。自らの真の病状を知らない若林は中西が見舞いに来るたびに、「自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしい」と語っていたという。それがもはや叶わないことを知っていた中西は「涙が出るほど辛かった」と後年に回想している。若林は1965年、58歳で死去した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1965年はルーキーの池永正明が20勝で新人王を獲得したほか、稲尾の復活もあり3位でAクラスに返り咲く。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1966年は稲尾がリリーフに転向し、最優秀防御率を獲得。同年9月30日、中西はこのシーズン5本目の代打本塁打を記録するが、これは自身通算10本目の代打本塁打であり、大館勲夫の当時の日本プロ野球記録を二つとも更新している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1967年は宮寺勝利を正捕手に据えたため、和田博実を外野にコンバート。池永が最多勝を獲得し、2年連続で2位となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1968年は「猛打西鉄」復活を狙って、高木喬・広野功を獲得。東田正義・竹之内雅史の台頭もあったが、5位に終わる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1969年は宮寺に代わって村上公康が正捕手となったが、チーム打率最下位・チーム防御率5位という散々な内容で2年連続で5位となる。広野が20本塁打、村上が14本塁打を放った。同年に中西は現役を引退し、監督も退任。同年10月に発覚し、西鉄の選手も関与していた八百長疑惑事件、いわゆる「黒い霧事件」についての道義的責任を負っての辞任でもあった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "中西が着けた背番号6は、将来有望な選手が出るまでの保留欠番とされ、1973年、西鉄が身売りした際に、監督の稲尾の推薦で菊川昭二郎が33から変更して着けた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "引退後に1年だけTBS解説者(1970年)を務めた後、ヤクルト(1971年 - 1973年ヘッドコーチ, 1983年 - 1984年一軍ヘッド兼打撃コーチ)、日本ハム(1974年 - 1975年監督)、阪神(1979年 - 1980年一軍打撃コーチ, 1980年 - 1981年監督)、近鉄(1985年 - 1988年一軍打撃コーチ, 1989年 - 1990年ヘッドコーチ)、巨人(1992年一軍打撃総合コーチ)、ロッテ(1994年ヘッドコーチ)、オリックス(1995年 - 1997年ヘッドコーチ)で監督・コーチを歴任。指導者生活の合間を縫って、毎日放送(1982年, 1991年)・九州朝日放送(1976年 - 1978年)解説者、日刊スポーツ評論家(1977年 - 1978年, 1982年 , 1991年, 1993年)を務めた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ヤクルトコーチ1期目にはプロ入り前から若松勉の素質を見抜き、体の小ささを理由にプロ入りを拒否していた若松に対して北海道まで出向いて説得を行い、入団後はマンツーマン指導により2年目で首位打者を獲得するまでに育て上げた。後に若松が野球殿堂入りを果たした時は「自分の殿堂入りよりもうれしい、自分に若松を託したお父さんからもお褒めの言葉を授かり、非常に嬉しかった」と述べている。2期目には八重樫幸雄と二人三脚で独特のオープンスタンスの打撃フォームを造り上げ、これにより打力が向上した八重樫は正捕手の座を獲得し、現役晩年は代打の切り札として活躍した。1984年4月には武上四郎辞任に伴い監督代行を務めるも、体調不良と成績不振のため18試合で辞任。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本ハムでは初代監督に就任するも2年連続最下位で解任され、代表取締役社長兼球団代表の三原は、初回に走者が出た場面でバントのサインを多用していた中西の采配を見て、監督の器ではないと思ったという。また、張本勲は一打逆転の場面を直視できずにベンチ裏に下がり、マネージャーを通して状況を確認していた中西の采配について、選手も戦う気になれなかったと振り返っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "阪神時代はドン・ブレイザーの辞任に伴い、監督へ昇格したが、5位に終わる。1981年は3位になるも同年退任し、在任中はコーチ時代から折り合いの悪かった江本孟紀に「ベンチがアホや」と公言され、確執が修復不能なほど悪化して引退に追い込んでしまう。ただし、引退後しばらくしてからは、会えば会話をし、肩を組んで写真を撮ることもある関係に回復している。一方で、掛布雅之を中心とした猛虎打線の基礎を横溝桂打撃コーチと共に築き上げた。掛布から師と仰がれ「中西さんは選手のいい所をどんどん引き出してくれてね。それで欠点を補っちゃうんだよ」。球を呼び込んで打つよう大きなジェスチャーで求める中西に、掛布は「バットを大きく引いて打つイメージが、より鮮明になった」と振り返る。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "近鉄コーチ時代は盟友の仰木彬監督とタッグを組み、1989年のリーグ優勝に貢献。オリックスコーチ時代には仰木と再びタッグを組み、リーグ2連覇と1996年の日本一に貢献。特に近鉄コーチ時代は10.19があった1988年と劇的なリーグ優勝を果たした翌1989年における仰木とのコンビで、球団の人気も実力とともに急上昇し、近鉄は常勝チーム西武の最大のライバル球団となった。伊東勤はその西武の選手であったにも関わらず指導を受けた経験があり、中西について、教えるのが好きな人だったと振り返っている。1989年近鉄優勝の立役者となったラルフ・ブライアントは、1988年途中まで中日二軍でプレーしていたが、仰木らと共に二軍戦を視察した中西が「獲れ。ワシが直す」と進言し、金銭トレードでの近鉄移籍が実現。その後はマンツーマンの練習を行い成功に繋げ、後に日本での成功の秘訣を訊かれたブライアントは、中西の口癖である「シンボウ」(辛抱)と答えている。なお、西鉄時代は中西の参謀役を、まだ現役選手だった仰木が務めていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ロッテ時代はシーズン途中からは八木沢荘六の後を受けて監督代行を務め、手腕が評価され翌年からの正式就任を打診されるも、年俸などの条件が折り合わず固辞。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "オリックス退団後も様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めたが、1999年にはヤクルト監督を務めていた若松の依頼により、バッティングアドバイザーに就任。同年には野球殿堂入りを果たし、2001年まで務めた。在任中は宮本慎也を指導し、当時の宮本は守備の人であったが、これにより打力が向上。後にプロ通算2000安打を達成した際に「(中西との出会いがなければ)2000本になんて到底届かなかったと思います」と語っている。並行して2000年からは4度目の日刊スポーツ評論家となり、2002年からは評論活動に専念。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1997年に甲状腺がんを患ったが克服し、経過は良好であり、2007年2月にはメジャーリーグに挑戦する愛弟子・岩村明憲の自主トレを手伝い、中西自らバッティングピッチャーとして登板。岩村も「こんな元気な70代の人はそうはいないですよ」と驚くほどだった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "自身の座右の銘である「何苦楚(なにくそ-何事も苦しむことが楚となる)」は、オリックス・ヤクルト時代の教え子である田口壮や岩村に受け継がれ、その影響は田口の著書「何苦楚日記」や岩村のブログ「AKI何苦楚魂」に見られる。2007年10月には現役時代のユニフォームやトロフィーなどの資料49点を故郷の高松に寄贈し、2008年4月26日より高松市松島町の高松市民文化センターで公開されていたが、2012年3月11日限りで建物が閉館となった。その後は市民文化センターの後継施設として2016年11月23日にオープンした高松市こども未来館(たかまつミライエ)1階の「市民交流ゾーン」に「怪童中西太コーナー」が改めて設置されている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会開会式前に「甲子園レジェンズ」の一人として登場。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2017年に学生野球の指導資格を回復。2018年3月には高倉照幸前会長の後を受けて「ライオンズOB会」会長に就任。同年夏には第100回全国高等学校野球選手権記念大会香川県大会と本大会(大会14日目)で始球式を行った。2019年4月2日にはライオンズ埼玉移転40周年を記念して、メットライフドームにてパ・リーグ本拠地開幕戦で始球式に招聘された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2023年5月11日、心不全のため死去。90歳没。同年シーズンオフの11月3日に高松市内でお別れの会の開催が予定されている。墓所は世田谷区実相寺。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "「怪童」と称されるほどのスラッガーであった。中西は、その豪快な打撃で数々の伝説を残している。以下はその一例である。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "二冠獲得4回、本塁打王5回(4年連続含む)、首位打者2回、打点王3回の打撃タイトルを誇る。特筆すべきは、これらのタイトルを高卒から入団7年目までに獲得していることである。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "戦後初の三冠王となるチャンスが何度もあった。特に惜しかったのは1956年と1958年である。前者は首位打者を同僚の豊田泰光と争ったが、最終戦を前に三原監督が両者に休養を命じたため、豊田の首位打者が決まった(ただし、豊田は首位打者、中西は二冠王で構わないと最初から両者で話し合って決めていたとも言われている)。後者は全日程を終了して三冠、ただし打点のみは大毎オリオンズの葛城隆雄と同数という状況で、葛城が最終戦で本塁打を放ったため、打点王を逃したというものである。この時葛城に本塁打を打たれたのは、元同僚の大津守投手(当時近鉄)であり、後日試合で対戦の際に中西と顔を合わせ、「すまん」と謝ったとされている。なお、中西が何度もタイトルに近づいたことで、それまで日本ではあまり知られていなかった「トリプルクラウン」が認識されるようになり、さらに「三冠王」という訳語もマスコミで定着するに至った。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "中西は三冠王になったことはないが、打率・本塁打・打点の部門において、「1部門がリーグ2位の二冠王」を1953年・1955年・1956年・1958年の通算4回記録している。これは王貞治の5回、長嶋茂雄の3回に挟まれて歴代2位である。中西は4回すべてが僅差であり、1953年は打率において4厘差で岡本伊三美に、1955年は打点において1打点差で山内和弘に、1956年は打率において.0004差で豊田に(中西は.3247、豊田は.3251)、1958年は打点において1打点差で葛城に、それぞれタイトルを奪われた。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "西鉄、日本ハム、阪神で計12シーズンにわたって監督を務め、Aクラス6回(リーグ優勝1回)の実績を持つが、野村克也は著書で監督としては「失敗」という評価をしている。", "title": "指導者として" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一方で、コーチとしては数多くの強打者を指導しており、前述の野村もコーチとしての指導実績は高く評価している。吉田義男は「中西さんは教える達人でしたね」と話しており、江夏豊は「名監督は数多くいても、名コーチは少ない」が持論だが、その中で「投げるほうの名コーチは権藤博さん、打つほうの名コーチは中西さん」と語っている。", "title": "指導者として" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "中西本人も、若手選手と直接向き合える打撃コーチが天職で、監督には向いていないと公言していた。", "title": "指導者として" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "中西の打撃理論は「ボールを呼び込んで下半身で打つ」こと、「バットを内側から出す」ことを基本としており、練習法ではティー打撃に重点を置いている。中西流の指導法は、教え子の若松や伊勢孝夫、杉村繁らに引き継がれている。", "title": "指導者として" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "愛称は「太っさん(ふとっさん)」。あるいは「太」。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "非常に運動神経に優れていたことで知られ、本人も「私は農耕民族だから」と言う、その足腰の強さは特筆物であった。相撲好きであり、関脇・鶴ヶ嶺(後の井筒親方)と非常に仲が良かったため、よく井筒部屋に出稽古に出かけていたという。しかも三段目ほどの力士であれば軽くあしらって勝ってしまうこともあった程で、鶴ヶ嶺は「中西さんは相撲の世界に入っていても、間違いなく幕内までは軽々行ったと思う」と述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "荒くれ者の西鉄野武士軍団の中心打者で豪快な打撃とその風貌から勘違いされやすいが、性格は繊細で真面目で人一倍練習熱心だった。宿舎で同部屋だった稲尾和久は「毎日、夜、寝る前に部屋でビュンビュンとバットを振る。振るたびにすごい風圧で、ガラス窓が割れそうになるので怖かった」と振り返っている。練習のしすぎが腱鞘炎の原因のひとつとも言われる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "やや気が小さい面が見られた。腱鞘炎で試合から遠ざかっていた選手兼任監督時代、試合前にバックネットの前で素振りをしていると、スタンドのファンから大声で「中西、試合に出んか!」と野次を飛ばされた。気の強い選手ならすぐにそちらを向いて睨みつけそうなものだが、中西はそちらを見ることができず、横にいた記者に「どんな奴が怒鳴ってる?」と素振りを続けながら尋ねたという。流線型打線の中核を担ったが、たとえば一番打者の高倉照幸が二塁打を放つと、気が強くチャンスに強い二番の豊田に「トヨ(豊田)、(走者を)返しとけよ・・」と呟く事もあった。豊田が首尾よくタイムリーを放ち先制点を取ると中西も重圧から解放されその後の打席は打棒が爆発し、一番の高倉から三番中西までで試合を早々に決めてしまう事もままあった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "中西は現役時代における最も忘れられない場面として、1958年の日本シリーズ、1勝3敗で迎えた第5戦、2-3と1点ビハインドの9回裏一死三塁という「非常に責任ある打席(中西)」で三塁ゴロに倒れた場面を挙げている。この試合は続く5番の関口清治が起死回生のタイムリーヒットを打って同点に追いつき、延長10回裏稲尾のサヨナラ本塁打で勝利。西鉄は第6戦、第7戦も連勝して奇跡の逆転優勝を果たし、中西もまたこの第5戦に続いて第6戦、第7戦でも本塁打を放つ活躍を見せたが、第5戦9回裏の場面は「もしあのまま試合が終わっていたら...」と思い返すことがたびたびあったという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "三原脩について取材で聞かれることが多く、「三原さんの事についてはもう勘弁してくれというぐらい話してる」と語っている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "阪神監督時代の中西は痛風を患っており、スパイクの足先を切り取って痛さを誤魔化していた。", "title": "人物" } ]
中西 太は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。1999年に野球殿堂入り。豪打と俊足で「怪童」と呼ばれ、西鉄ライオンズの黄金期を支えた。西鉄、日本ハム、阪神で監督となり、多くの球団や選手のコーチも務めた。指導者としては「ふとっさん」や「名伯楽」と呼ばれ、打撃指導は高く評価された。 高松第一高等学校時代は甲子園で夏2回ベスト4、春1回出場。甲子園で二戦連続ランニングホームランも記録した。西鉄では三原脩監督時代の黄金期を支え、本塁打王5回、打点王3回、首位打者2回、ベストナイン(三塁手)7回を記録。1953年には史上最年少でトリプルスリーと二冠(本塁打王・打点王)を、1955年にはパ・リーグ最高殊勲選手を達成した。 西鉄では選手兼監督を経て監督となり、1963年にリーグ優勝を達成。5球団で監督・監督代行を、ヤクルト、近鉄、巨人、オリックスなどでもコーチや臨時コーチを歴任。若松勉、岡田彰布、掛布雅之、宮本慎也らを育てた。「何事も苦しい時が自分の礎をつくる」という「何苦楚」が座右の銘で、岩村明憲や田口壮に引き継がれた。 妻は三原脩の長女。人生の師でもある三原からは「人を見て法を説け」や「三原イズム」、メモ魔を受け継いだ。中西が持っていた「三原ノート」は栗山英樹に引き継がれている。高松讃紫会では名誉会長に就任。2000年に初の高松市市民栄誉賞となり、たかまつミライエには中西の特設コーナーが設けられている。
{{出典の明記|date=2020-05}} {{Other people|プロ野球選手|日本テレビ放送網社員|中西太 (日本テレビ)}} {{Infobox baseball player | 選手名 = 中西 太 | 画像 = Futoshi Nakanishi 1954 NPB All-star game.jpg | 画像サイズ = 200 | 画像説明 = [[1954年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1954年のオールスターゲーム]]にて | 国籍 = {{JPN}} | 出身地 = [[香川県]][[高松市]][[松島町 (高松市)|松島町]]{{R|四国新聞2023}} | 生年月日 = {{生年月日|1933|4|11}}{{R|四国新聞2023}} | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1933|4|11|2023|5|11}}{{R|四国新聞2023|四国新聞2023a}} | 身長 = 174 | 体重 = 93 | 利き腕 = 右 | 打席 = 右 | 守備位置 = [[三塁手]]、[[一塁手]] | プロ入り年度 = 1952年 | ドラフト順位 = | 初出場 = 1952年3月21日 | 最終出場 = 1969年10月8日 | 経歴 = * [[高松第一高等学校]] * [[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]] (1952 - 1969) | 経歴補足題 = 監督・コーチ歴 | 経歴補足 = * 西鉄ライオンズ (1962 - 1969) * [[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトアトムズ]] (1971 - 1973) * [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]] (1974 - 1975) * [[阪神タイガース]] (1979 - 1981) * ヤクルトスワローズ (1983 - 1984) * [[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]] (1985 - 1990) * [[読売ジャイアンツ]] (1992) * [[千葉ロッテマリーンズ]] (1994) * [[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]] (1995 - 1997) | 選出国 = 日本 | 選出年 = {{by|1999年}} | 得票率 = | 選出方法 = 競技者表彰 }} '''中西 太'''(なかにし ふとし、[[1933年]][[4月11日]]{{R|四国新聞2023}} - [[2023年]][[5月11日]]{{R|四国新聞2023a|NHK2023}})は、[[香川県]][[高松市]]出身の[[プロ野球選手]]([[内野手]])・[[プロ野球コーチ|コーチ]]・[[プロ野球監督|監督]]、[[野球解説者|解説者]]・[[野球評論家|評論家]]。[[1999年]]に[[野球殿堂]]入り{{R|四国新聞2023|NHK2023}}。豪打と俊足で「怪童」と呼ばれ{{R|寺尾2023a|四国新聞2023a|四国新聞2023c}}、[[西鉄ライオンズ]]の黄金期を支えた{{R|寺尾2023a|四国新聞2023a|NHK2023}}。西鉄、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]、[[阪神タイガース|阪神]]で監督となり、多くの球団や選手のコーチも務めた{{R|寺尾2023a|四国新聞2023a}}。指導者としては「ふとっさん」や「名伯楽」と呼ばれ{{R|寺尾2023a}}、打撃指導は高く評価された{{R|寺尾2023a|四国新聞2023a}}。 [[高松第一高等学校]]時代は甲子園で夏2回ベスト4、春1回出場{{R|四国新聞2023|四国新聞2023a}}。甲子園で二戦連続[[ランニングホームラン]]も記録した{{R|寺尾2023a}}。西鉄では[[三原脩]]監督時代の黄金期を支え、[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]5回、[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]3回、[[首位打者]]2回、ベストナイン(三塁手)7回を記録{{R|寺尾2023a|四国新聞2023a}}。[[1953年]]には史上最年少で[[トリプルスリー]]と二冠(本塁打王・打点王)を、[[1955年]]には[[パ・リーグ]][[最高殊勲選手]]を達成した{{R|寺尾2023a|四国新聞2023a}}。 西鉄では選手兼監督を経て監督となり、[[1963年]]にリーグ優勝を達成{{R|四国新聞2023a}}。5球団で監督・監督代行を{{R|NHK2023}}、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]、[[読売ジャイアンツ|巨人]]、[[オリックス・バファローズ|オリックス]]などでもコーチや臨時コーチを歴任{{R|四国新聞2023a}}。[[若松勉]]、[[岡田彰布]]、[[掛布雅之]]、[[宮本慎也]]らを育てた{{R|寺尾2023a|四国新聞2023a|四国新聞2023b|時事2023}}。「何事も苦しい時が自分の礎をつくる{{R|菅谷2023}}」という「何苦楚」が[[座右の銘]]で{{R|寺尾2023a|菅谷2023}}、[[岩村明憲]]や[[田口壮]]に引き継がれた{{R|菅谷2023|四国新聞2023b|時事2023}}。 妻は三原脩の長女{{R|寺尾2023b}}。人生の師でもある三原からは「人を見て法を説け」や「三原イズム」、メモ魔を受け継いだ{{R|寺尾2023b}}。中西が持っていた「三原ノート」は[[栗山英樹]]に引き継がれている{{R|日刊スポーツ2023b}}。高松讃紫会{{Efn2|「高松讃紫会」は[[高松商業高等学校]]、[[高松第一高等学校]]、[[高松高等学校]]の野球部OB連合会{{R|四国新聞2023c}}。}}では名誉会長に就任{{R|四国新聞2023c}}。[[2000年]]に初の高松市市民栄誉賞となり{{R|四国新聞2023a|四国新聞2023d}}、[[高松市こども未来館|たかまつミライエ]]には中西の特設コーナーが設けられている{{R|四国新聞2023d}}。 == 経歴 == === プロ入り前 === 幼少期は[[野菜]]の[[行商]]をしていた母の手で育てられる。小学6年生だった[[1945年]][[7月4日]]、住んでいた高松で[[高松空襲]]に遭う。一度は[[防空壕]]に逃げ込んだが、周りの大人たちに招かれるように防空壕を出て、間もなくして自分が避難していた防空壕は爆撃された。本人も「あのまま防空壕にいたら命は無かったから、運が良かった」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202306120000725.html|title=「あのまま防空壕にいたら命はなかった」戦中戦後を乗り越えた中西太/寺尾で候|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2023-06-13|accessdate=2023-06-14}}</ref>。[[1946年]]、旧制高松一中に入学(高松一中は[[1948年]]に学制改革により[[高松第一高等学校|高松一高]]となる)。高松一高時代は本塁打を量産し、「'''怪童'''」といわれていた<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190905-10 中西太「フルスイングの“源流”」/プロ野球20世紀の男たち]週刊ベースボールONLINE2019年9月5日</ref>。中西が打撃練習を始めると、打球が速すぎて危険なため内野手は外野に移動していたという<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikarakoko/news/201811180000361.html 日本人最長160メートル弾/中西太1]日刊スポーツ2018年11月21日</ref>。甲子園には[[三塁手]]として3度出場。{{by|1949年}}[[第21回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]は準々決勝に進むが、[[福岡県立小倉高等学校|小倉北高]]のエース[[福嶋一雄]]に完封負けを喫する。同年[[第31回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]は、準決勝で[[佐々木信也]]([[高橋ユニオンズ|高橋]])のいた[[神奈川県立湘南高等学校|湘南高]]に延長10回にサヨナラ負けする。 {{by|1951年}}[[第33回全国高等学校野球選手権大会|夏の選手権]]は準決勝に進むが、優勝校となる[[龍谷大学付属平安中学校・高等学校|平安高]]の[[清水宏員]]([[千葉ロッテマリーンズ|毎日]])、上市明([[大映ユニオンズ|大映]])のバッテリーに抑えられ3-4で惜敗。この大会では[[岡山県立岡山東商業高等学校|岡山東高]]の[[秋山登]]([[横浜DeNAベイスターズ|大洋]])らから2試合連続でランニングホームラン、計6打点を記録した<ref name="sponichi5">[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/yakyu-jin/futosi-nakanisi/KFullNormal20070918143.html 憧れのWASEDA] スポーツニッポン</ref>。同年の[[第6回国民体育大会|広島国体]]では準々決勝(初戦)で[[大阪市立都島工業高等学校|都島工]]と対戦、延長21回の熱戦の末に0-1でサヨナラ負けした。高校の2年上に[[山下健]]([[オリックス・バファローズ|阪急]])、1年上に玉木春雄([[埼玉西武ライオンズ|西鉄]])、同期には[[松岡雅俊]]([[北海道日本ハムファイターズ|東映]])、1年下には[[荒井健 (野球)|荒井健]]([[大阪近鉄バファローズ|近鉄]])、松井清(西鉄)と後にプロ入りするチームメイトが揃っていた。 国体出場後、高校卒業後の進路について[[飛田穂洲]]より[[早稲田大学野球部|早稲田大学]]進学を勧められ、見学のために上京。この時に同郷・香川の先輩で早大OBでもある[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]の[[三原脩]]監督と出会った<ref name="sponichi5" />。 三原は貧しかった中西の早大進学の費用を西鉄が出す代わりに、卒業したら入団するように約束をさせた。しかし[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]の[[若林忠志]]監督が[[毎日新聞]]高松支局長を伴って中西の兄を抱き込み、契約寸前までいっているとの連絡が入る。三原はすぐさま中西の家に向かい、西鉄側には高松一高野球部後援会や市会議員までが出てきて入団を後押しした。最終的には「郷里の先輩を信じるのが一番良い」という母親の決断により、西鉄入りが決まった。早大進学の夢が打ち砕かれたのとプロでやっていく自信の無さから、決定の瞬間に中西は大声をあげて泣いた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/yakyu-jin/futosi-nakanisi/KFullNormal20070918144.html 人生は他動的] スポーツニッポン</ref><ref>立石泰則著「三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師(上)」418ページ</ref>。 === 現役時代 === {{by|1952年}}に西鉄へ正式入団すると、開幕から七番打者、[[三塁手]]に抜擢され活躍。プロ初本塁打はランニングホームランであった(高校時代に甲子園で記録した本塁打も2本ともランニングホームランである)。同年は打率.281(17位)、12本塁打で[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得。 {{by|1953年}}には7月から四番打者に座り、[[トリプルスリー]](打率.314、36本塁打、36盗塁)<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201908270000920.html|title=31発村上に36発中西太氏「大きく育ってくれよ」|publisher=日刊スポーツ|date=2019-08-28|accessdate=2020-03-06}}</ref>を史上最年少で達成<ref name="baseballking">「[http://baseballking.jp/ns/column/47066 山田、柳田の同時達成はほぼ間違いなし! 過去のトリプルスリー達成者とは?]」ベースボールキング 2015年9月8日 2021年8月29日閲覧。</ref>。同年から6年連続で[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]に選出される。また、36本塁打は2021年現在も[[2019年]]の[[村上宗隆]]と並び高卒2年以内の選手の最多本塁打記録であり、86打点も同年の村上が抜くまで高卒2年目以内の選手の最多記録だった<ref>[https://www.jiji.com/jc/article?k=2019090200783&g=spo 昭和から令和へ継ぐ「怪童」=中西太さん、ヤクルトの19歳村上に感嘆-プロ野球]時事通信2019年9月2日</ref>。その後も{{by|1958年}}まで毎年の様に[[三冠 (野球)|三冠王]]に近い成績を残し、{{by|1956年}}は[[最優秀選手 (日本プロ野球)|パシフィック・リーグMVP]]を受賞。1953年から{{by|1956年}}にかけては4年連続で[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得。1953年は[[大映ユニオンズ|大映]](30本)と[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]](31本)、{{by|1954年}}は近鉄(27本)のチーム本塁打を個人で上回っていた。他にも、{{by|1955年}}は17[[故意四球|敬遠]]でパ・リーグの初代最多敬遠となり、翌年も[[山内一弘|山内和弘]]と並ぶ17敬遠を記録した<ref group="注">パ・リーグ記録としては1959年に[[豊田泰光]]が更新</ref>。 [[大下弘]]・[[豊田泰光]]・[[関口清治]]・[[高倉照幸]]・[[河野昭修]]らと形成する強力打線は「[[流線型打線]]」と呼ばれ、{{by|1954年}}に球団初のリーグ優勝を飾る。同年の[[中日ドラゴンズ]]との[[1954年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも25打数8安打3打点と活躍。[[稲尾和久]]が入団した1956年からは[[水原茂]]監督率いる[[読売ジャイアンツ|巨人]]を相手に3年連続日本一という黄金時代を築き上げた。この時期に三原の長女・敏子のもとへ婿入りし、三原の義理の息子となっている(戸籍上は「三原太」となっている)。1956年の巨人との[[1956年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第2戦に[[安原達佳]]、第4戦に[[中尾碩志]]から本塁打を放つ。この年は29本塁打・95打点で二冠王に輝くも、打率は豊田泰光と4毛の差で三冠王を逃す。 {{by|1957年}}の[[1957年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は21打数5安打無打点とあまり活躍の場はなかったが、1958年の[[1958年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は第5戦から3試合連続本塁打を放ち本領を発揮した。 {{by|1958年}}は打率.314と23本塁打で二冠王に輝くも、打点王の[[葛城隆雄]]([[千葉ロッテマリーンズ|大毎]])に1打点差で届かず、三冠王を逃す。なおこの時の打率.314は、1953年の[[岡本伊三美]]([[大阪近鉄バファローズ|近鉄]])の.314を下回り、2リーグ分裂後パ・リーグの首位打者としては最低打率記録で、{{by|1976年}}に西鉄の後進・太平洋クラブの[[吉岡悟]]が.309で首位打者となるまて最低打率だった<ref>なおその後、{{by|2012年}}[[角中勝也]]([[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]が.312、[[頓宮裕真]]([[オリックス・バファローズ|オリックス]]が.307といずれも中西の.314を下回る記録で首位打者となっている。</ref> 1958年までは常にタイトル争いに加わるほどの打棒を誇るが、{{by|1959年}}の6月3日の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]戦([[平和台球場|平和台]])で[[鈴木武]]に利き手をスパイクされて6針縫う負傷<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202112220000019.html 実績乏しい「超二流」操り日本一、三原魔術の真骨頂/三原脩氏編12]日刊スポーツ</ref>。さらに{{by|1960年}}には左手首に[[腱鞘炎]]を患い満足なスイングができなくなり、常時出場は困難になる。 {{by|1961年}}には回復が見られ、主に[[一塁手]]として78試合に先発出場、打率.304、21本塁打を記録。しかしベストナインには9試合のみ起用された三塁手として選出された。 {{by|1962年}}からは西鉄の選手兼任監督に就任。再び怪我が悪化し開幕から欠場、28試合の先発にとどまる。同年オフには豊田が[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]に移籍した。 {{by|1963年}}は開幕から一塁手として出場。チームも好調を維持し、[[トニー・ロイ]]、[[ジム・バーマ]]、[[ジョージ・ウイルソン (野球)|ジョージ・ウィルソン]]ら「'''三銃士'''」が活躍。[[若生忠男]]・[[畑隆幸]]・[[田中勉 (野球)|田中勉]]・[[安部和春]]・[[井上善夫]]ら若手投手の奮闘もあり、[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]と熾烈な優勝争いを繰り広げる。最大14.5ゲーム差を追い上げて最後の4試合(2日連続のダブルヘッダー。3勝1分以上もしくは2勝2分で優勝、3勝1敗で南海との同率プレーオフ、それ以外は南海の優勝)に全勝し、劇的なリーグ優勝を決める<ref group="注">これが西鉄最後の優勝となった。{{by|2017年}}現在、最大ゲーム差の逆転優勝である</ref>。[[1963年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では[[読売ジャイアンツ|巨人]]に3勝4敗で敗退した。 {{by|1964年}}からは代打での出場が主になる。チームは稲尾を故障で欠いたため、5位へ転落。同年オフの退団となった[[若林忠志]]ヘッドコーチの処遇を巡りバッシングを受け、「若林に成績不振の責任を取らせた」と[[マスメディア|マスコミ]]からの非難を浴びた。実はこの時、若林退団の真の理由は[[癌|末期ガン]]のためであったが、若林の家族の意向からその事実は本人にも伏せられ、真相は中西と若林夫人しか知らなかった。自らの真の病状を知らない若林は中西が見舞いに来るたびに、「自分はもう大丈夫だから現場に戻してほしい」と語っていたという。それがもはや叶わないことを知っていた中西は「涙が出るほど辛かった」と後年に回想している。若林は{{by|1965年}}、58歳で死去した。 1965年はルーキーの[[池永正明]]が20勝で新人王を獲得したほか、稲尾の復活もあり3位でAクラスに返り咲く。 {{by|1966年}}は稲尾がリリーフに転向し、最優秀防御率を獲得。同年9月30日、中西はこのシーズン5本目の代打本塁打を記録するが、これは自身通算10本目の代打本塁打であり、[[大館勲夫]]の当時の日本プロ野球記録を二つとも更新している<ref>講談社刊 宇佐美徹也著「プロ野球記録大鑑」463ページ</ref>。 {{by|1967年}}は[[宮寺勝利]]を正捕手に据えたため、[[和田博実]]を外野にコンバート。池永が最多勝を獲得し、2年連続で2位となった。 {{by|1968年}}は「猛打西鉄」復活を狙って、[[高木喬]]・[[広野功]]を獲得。[[東田正義]]・[[竹之内雅史]]の台頭もあったが、5位に終わる。 {{by|1969年}}は宮寺に代わって[[村上公康]]が正捕手となったが、チーム打率最下位・チーム防御率5位という散々な内容で2年連続で5位となる。広野が20本塁打、村上が14本塁打を放った。同年に中西は現役を引退し、監督も退任。同年10月に発覚し、西鉄の選手も関与していた八百長疑惑事件、いわゆる「[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]」についての道義的責任を負っての辞任でもあった。 中西が着けた[[野球の背番号|背番号]]'''6'''は、将来有望な選手が出るまでの保留欠番とされ、{{by|1973年}}、西鉄が身売りした際に、監督の稲尾の推薦で[[菊川昭二郎]]が33から変更して着けた。 === 引退後 === 引退後に1年だけ[[TBSホールディングス|TBS]]解説者({{by|1970年}})を務めた後、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]({{by|1971年}} - {{by|1973年}}ヘッドコーチ, {{by|1983年}} - {{by|1984年}}一軍ヘッド兼打撃コーチ)、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]({{by|1974年}} - {{by|1975年}}監督)、[[阪神タイガース|阪神]]({{by|1979年}} - {{by|1980年}}一軍打撃コーチ, 1980年 - {{by|1981年}}監督)、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]({{by|1985年}} - {{by|1988年}}一軍打撃コーチ, {{by|1989年}} - {{by|1990年}}ヘッドコーチ)、巨人({{by|1992年}}一軍打撃総合コーチ)、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]({{by|1994年}}ヘッドコーチ)、[[オリックス・バファローズ|オリックス]]({{by|1995年}} - {{by|1997年}}ヘッドコーチ)で監督・コーチを歴任。指導者生活の合間を縫って、[[毎日放送]]({{by|1982年}}, {{by|1991年}})・[[九州朝日放送]]({{by|1976年}} - {{by|1978年}})解説者、[[日刊スポーツ]]評論家(1977年 - 1978年, 1982年 , 1991年, 1993年)を務めた。 ヤクルトコーチ1期目にはプロ入り前から[[若松勉]]の素質を見抜き、体の小ささを理由にプロ入りを拒否していた若松に対して[[北海道]]まで出向いて説得を行い、入団後はマンツーマン指導により2年目で首位打者を獲得するまでに育て上げた。後に若松が[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りを果たした時は「自分の殿堂入りよりもうれしい、自分に若松を託したお父さんからもお褒めの言葉を授かり、非常に嬉しかった」と述べている<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20090114-449847.html 若松勉氏殿堂入り「小さな大打者」に勲章]日刊スポーツ2009年1月14日</ref>。2期目には[[八重樫幸雄]]と二人三脚で独特のオープンスタンスの打撃フォームを造り上げ、これにより打力が向上した八重樫は正捕手の座を獲得し、現役晩年は代打の切り札として活躍した<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190125-12 八重樫幸雄 極端なオープンスタンスがトレードマークの捕手/プロ野球1980年代の名選手]週刊ベースボール</ref>。1984年4月には[[武上四郎]]辞任に伴い監督代行を務めるも、体調不良と成績不振のため18試合で辞任。 日本ハムでは初代監督に就任するも2年連続最下位で解任され<ref>{{Cite book |和書 |title = 俺たちの東京日本ハムファイターズ 後楽園・東京ドーム時代の30年間をこの1冊に! |year = 2014 |publisher = ベースボール・マガジン社 |series = B.B.MOOK BBMタイムトラベル |page = 38 |isbn = 9784583620886 }}</ref>、代表取締役社長兼球団代表の三原は、初回に走者が出た場面でバントのサインを多用していた中西の采配を見て、監督の器ではないと思ったという<ref>[[週刊現代]]2016年12月31日号、p129</ref>。また、[[張本勲]]は一打逆転の場面を直視できずにベンチ裏に下がり、マネージャーを通して状況を確認していた中西の采配について、選手も戦う気になれなかったと振り返っている<ref>張本勲「プロフェッショナル真の仕事とは何か:勝者のための鉄則55」[[日之出出版]]、2013年、P180-P182</ref>。 阪神時代は[[ドン・ブレイザー]]の辞任に伴い、監督へ昇格したが、5位に終わる。1981年は3位になるも同年退任し、在任中はコーチ時代から折り合いの悪かった[[江本孟紀]]に「ベンチがアホや」と公言され<ref>{{Cite web|和書|url= https://gendai.media/articles/-/39101|title= 有名人がいまだから明かす「私が許せなかった人へ」【第6回】江本孟紀(野球解説者)から中西太へ「ベンチがアホ」発言いまからでも謝りたい|accessdate= 2016年2月7日}}</ref>、確執が修復不能なほど悪化して引退に追い込んでしまう<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/05/11/kiji/20200510s00001173504000c.html 【内田雅也の猛虎監督列伝(21)~第21代 中西太】「ベンチがアホ」にも弁解せず 六甲おろしで別れ― スポニチ Sponichi Annex 野球]</ref>。ただし、引退後しばらくしてからは、会えば会話をし、肩を組んで写真を撮ることもある関係に回復している<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASR5L5KGXR5LULZU011.html 「ベンチがアホ」ではなく…江本孟紀さんが中西太さんに送る言葉]朝日新聞2023年5月18日</ref><ref name="emoto20230519">[https://www.sanspo.com/article/20230519-YYIYXNP3CBOKRFPPVNSAHY3ZTI/ 【悼む】江本孟紀氏が引退時の阪神監督…中西太さんの〝真の姿〟 「打撃コーチが天職」自ら「監督には向かん」公言]2023年5月19日</ref>。一方で、[[掛布雅之]]を中心とした[[ダイナマイト打線|猛虎打線]]の基礎を[[横溝桂]]打撃コーチと共に築き上げた。掛布から師と仰がれ「中西さんは選手のいい所をどんどん引き出してくれてね。それで欠点を補っちゃうんだよ」。球を呼び込んで打つよう大きなジェスチャーで求める中西に、掛布は「バットを大きく引いて打つイメージが、より鮮明になった」と振り返る<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/20210227-OYT1T50192/ [掛布雅之物語]<11>打席でのルーチン意識、中西太コーチに魅せられて]読売新聞2021/02/27</ref>。 近鉄コーチ時代は盟友の[[仰木彬]]監督とタッグを組み、1989年のリーグ優勝に貢献。オリックスコーチ時代には仰木と再びタッグを組み、リーグ2連覇と{{by|1996年}}の日本一に貢献。特に近鉄コーチ時代は[[10.19]]があった1988年と劇的なリーグ優勝を果たした翌1989年における仰木とのコンビで、球団の人気も実力とともに急上昇し、近鉄は常勝チーム西武の最大のライバル球団となった。[[伊東勤]]はその西武の選手であったにも関わらず指導を受けた経験があり、中西について、教えるのが好きな人だったと振り返っている<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130716/mar13071620010002-n1.html 中西太氏がロッテ・角中らにアドバイス] サンケイスポーツ2013年7月16日</ref>。1989年近鉄優勝の立役者となった[[ラルフ・ブライアント]]は、1988年途中まで中日二軍でプレーしていたが、仰木らと共に二軍戦を視察した中西が「獲れ。ワシが直す」と進言し、金銭トレードでの近鉄移籍が実現<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190506-12 金村義明が語るブライアント「No.1の打撃。別格でしたね」]2019年5月6日</ref>。その後はマンツーマンの練習を行い成功に繋げ<ref>{{Cite web|和書|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170728-11 |title=“途中移籍”助っ人の衝撃。ブライアントの場合 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2017-07-28 |accessdate=2021-06-09}}</ref>、後に日本での成功の秘訣を訊かれたブライアントは、中西の口癖である「シンボウ」(辛抱)と答えている<ref>{{Cite web|和書|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190625-11 |title=ブライアント 「シンボウ」の連続からスーパー長距離砲へ/プロ野球1980年代の名選手 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2019-06-25 |accessdate=2021-06-09}}</ref>。なお、西鉄時代は中西の参謀役を、まだ現役選手だった仰木が務めていた。 ロッテ時代はシーズン途中からは[[八木沢荘六]]の後を受けて監督代行を務め、手腕が評価され翌年からの正式就任を打診されるも、年俸などの条件が折り合わず固辞。 オリックス退団後も様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めたが、{{by|1999年}}にはヤクルト監督を務めていた若松の依頼により、バッティングアドバイザーに就任。同年には野球殿堂入りを果たし、{{by|2001年}}まで務めた。在任中は[[宮本慎也]]を指導し<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20120508/bbl1205080753000-n1.htm 宮本2000安打を支えた2人の“恩人”]ZAKZAK2012年5月8日</ref>、当時の宮本は守備の人であったが、これにより打力が向上。後にプロ通算2000安打を達成した際に「(中西との出会いがなければ)2000本になんて到底届かなかったと思います」と語っている<ref>[http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2012/05/05/2000___split/index2.php 「守備の人」が2000本安打。宮本慎也を支えた打撃理論と母の教え]web sportiva 2012年5月5日</ref>。並行して{{by|2000年}}からは4度目の日刊スポーツ評論家となり、{{by|2002年}}からは評論活動に専念。 1997年<ref>[https://www.sanspo.com/article/20230519-5CA3IGYIFNIIVJNZSOFCK3QVKU/2/ 「怪童」中西太さん死す、90歳 平和台球場で〝165メートル〟場外弾など数々の伝説…球界に多くの〝教え子〟]サンケイスポーツ2023年5月19日</ref>に[[甲状腺がん]]を患ったが克服し、経過は良好であり、{{by|2007年}}2月には[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]に挑戦する愛弟子・[[岩村明憲]]の自主トレを手伝い、中西自らバッティングピッチャーとして登板<ref name="iwamura20230518">[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/05/18/kiji/20230518s00001173746000c.html 「何苦楚」の継承者・岩村氏が中西さんからの教えや伝説を語り継ぐ「ますます何苦楚魂で頑張らないと」]スポーツニッポン2023年5月18日</ref>。岩村も「こんな元気な70代の人はそうはいないですよ」と驚くほどだった。 自身の座右の銘である「何苦楚(なにくそ-何事も苦しむことが楚となる)」は、オリックス・ヤクルト時代の教え子である[[田口壮]]や岩村に受け継がれ<ref name="taguchi20230518">[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202305180001184.html 【オリックス】田口壮コーチ指導受けた中西太氏しのぶ バットに目を書き、独自ノート手に鼓舞]日刊スポーツ2023年5月18日</ref><ref name="iwamura20230518" />、その影響は田口の著書「何苦楚日記」や岩村のブログ「AKI何苦楚魂」に見られる。2007年10月には現役時代のユニフォームやトロフィーなどの資料49点を故郷の高松に寄贈し、{{by|2008年}}4月26日より高松市松島町の[[高松市民文化センター]]で公開されていたが、{{by|2012年}}3月11日限りで建物が閉館となった。その後は市民文化センターの後継施設として{{by|2016年}}11月23日にオープンした[[高松市こども未来館]](たかまつミライエ)1階の「市民交流ゾーン」に「怪童中西太コーナー」が改めて設置されている<ref>[https://takamatsu-miraie.com/facility/1f.php 1F 市民交流ゾーン] - 高松市こども未来館</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJC744BQJC7PLXB002.html|title=香川)「たかまつミライエ」落成式 23日にオープン|newspaper=朝日新聞|date=2016-11-08|accessdate=2017-01-22}}</ref>。 {{by|2008年}}の[[第90回全国高等学校野球選手権記念大会]]開会式前に「甲子園レジェンズ」の一人として登場。 [[File:中西太_(51003788501)_(cropped).jpg|thumb|2019年4月2日]] {{by|2017年}}に学生野球の指導資格を回復<ref name="yomiuri20190601">[https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/feature/CO050452/20210704-OYTAT50004/ [道あり]元西鉄ライオンズ 中西太さん<5>野球界 死ぬまで恩返し]読売新聞西部本社版2019年6月1日</ref>。{{by|2018年}}3月には[[高倉照幸]]前会長の後を受けて「ライオンズOB会」会長に就任<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/403971/ ライオンズOB新会長に中西太氏 西鉄黄金期の主軸打者で元監督]西日本スポーツ2018年3月27日</ref>。同年夏には[[第100回全国高等学校野球選手権記念大会]]香川県大会<ref>[https://www.daily.co.jp/baseball/2018/07/09/0011428732.shtml 中西太氏が高校野球香川大会で始球式 母校・高松一ユニで「本当にありがたい」]デイリースポーツ2018年7月9日</ref>と本大会(大会14日目)<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/201808180000301.html 怪童・中西太氏ノーバウンド「本番に強いんだよ」]日刊スポーツ2018年8月18日</ref>で始球式を行った。{{by|2019年}}4月2日にはライオンズ埼玉移転40周年を記念して、[[西武ドーム|メットライフドーム]]にてパ・リーグ本拠地開幕戦で始球式に招聘された。 {{by|2023年}}5月11日、[[心不全]]のため死去{{R|寺尾2023a|四国新聞2023a}}。{{没年齢|1933|04|11|2023|05|11}}。同年シーズンオフの11月3日に高松市内でお別れの会の開催が予定されている<ref>{{Cite news2|title=中西太氏「お別れの会」11月3日に出身地の高松市内で開催 イチローら名選手を育てた名伯楽|date=2023-09-05|newspaper=日刊スポーツNEWS|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202309040000765.html|agency=日刊スポーツ新聞社|accessdate=2023-09-05}}</ref>。墓所は世田谷区実相寺。 == プレースタイル == === 打撃 === 「怪童」と称されるほどのスラッガーであった<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202305180000395.html 中西太さん死去 本塁打王5度、首位打者2度、打点王3度 兼任監督で西鉄最後の優勝]</ref>。中西は、その豪快な打撃で数々の伝説を残している。以下はその一例である。 * [[1953年]]8月29日、対[[大映ユニオンズ|大映]]戦([[平和台野球場]])で[[林義一]]投手から放った打球はライナーでバックスクリーンを優々と越え、場外の福岡城址まで届いた。[[大和球士]]の「プロ野球三国史第十巻」によると、打球は「バックスクリーンの上空三十フィート、約九メートルのところを越えていった」。その飛距離は「五百三十フィート(一六二メートル)」で、プロ野球最長飛距離の本塁打、また福岡城址は「外野スタンドから更に50m先」にあるため、180〜190m近く飛んだ可能性もあると言われており、まさに球史に残る大ホームランであったとされる。この時も、林義一投手は「(取れるライナーかと思って)ジャンプした。そうしたらグングン伸びて、バックスクリーンのはるか上を越えていった」と[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]に後年語っていたと言う。ただ打った中西本人は、あまりにも低い弾道だった為、本塁打になるとは思わず、一塁を回るあたりまでは全力疾走をしていたといい、それほどの飛距離の本塁打になるとも思っていなかったという。また同僚の[[豊田泰光]]は「あの一発クラスのホームランを太さんは何本も打っている。左中間場外に飛ばした打球は、当時は照明が暗かったし、どこまで飛んでいったか分からんのだよ。あの一発より大きいものもあったはず」と語っている<ref name="baseball20140428">[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=069-20140428-01 週刊ベースボールONLINE“レジェンド”たちに聞け!第7回 中西太&#91;西鉄&#93;]</ref>。 * [[1955年]]の[[川崎球場]]で行われた試合では、中西の放った地面すれすれの強烈なライナーがショートを守っていた[[有町昌昭]]の足を直撃した。有町は病院送りとなったが、彼はあまりの打球の速さに一歩も動けずグラブを差し出すことすら出来なかった。この試合を観戦していた記者の大和球士は、[[スポーツ報知|報知新聞]]に「中西が日本で初めてのゴロを打った。二死後、遊撃有町めがけたライナーは有町の左のスパイクか右足首にぶつかり、勢い余って二塁の守備位置付近に転がる痛烈なゴロ。打球の鋭さといい野手を一発し打倒したことといい、跳ね返り具合といい、まさに日本で初めて見るゴロであった」と記している。なお有町は当時まだプロ2年目であったが、この打球による負傷の影響に加えて「俺はあんなの捕る自信ない」と自信喪失してしまったことにより、同年限りで現役を引退した。 * [[1958年]]のシーズン、南海に7月に11.5ゲーム差をつけられた西鉄は終盤戦に猛追して、9月28日に平和台球場での26回戦(カード最終戦)を勝率6厘差の2位で迎えた。中西は1回の第一打席で先発の[[杉浦忠]]からスリーランを放った。打った瞬間、杉浦は「ショートライナーか左前打だ」と思った打球がライナーのままスタンドインし、看板を直撃した。外野手の[[大沢啓二|大沢昌芳(後に啓二)]]と[[長谷川繁雄]]は互いに顔を見合わせて一歩も動けなかった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1209/kiji/K20120928004221630.html 【9月28日】1958年(昭33)怪童・中西太、2発でホークス撃沈 西鉄大逆転V] スポーツニッポン2012年9月28日</ref>。 * 南海の捕手の[[野村克也]]は中西について、[[力士]]のような体で柔らかく、素振りひとつ、フリーバッティング一つとっても絵になる打者だったと語っている。中西がベンチ前で素振りをすると、反対側の南海側ベンチまで「ブンッ」という音が聞こえて南海ベンチで話題となったという。このような体験をしたのは中西ただ一人だけとのこと<ref name="baseball20151005">[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=051-20151005-01 野村克也が語る「中西太の打球」]ベースボールマガジン社2015年9月25日</ref>。バットを持たせてもらったことがあったが振れるような重さではなかったという<ref>プロ野球怪物伝</ref>。 * 遊撃手がジャンプしてわずかに届かなかったライナー性の打球が、ものすごい勢いでそのままスタンドインした。また、投手の肩口を抜けたライナーが伸びに伸びて平和台のバックスクリーンを超えていった([[青田昇]]の証言より。このとき青田はセンター前ヒットと思って一歩前に出たという)。 * [[ファウルボール|ファウル]]チップで焦げた[[ボール (野球)#用具としてのボール|ボール]]の皮の匂いが、[[マウンド]]上の投手まで届いた(中西曰く、当時はバットを動物の脂で磨くことが多く、ボールが焦げたというのは誤りであるものの、ダッグアウトまでその匂いが届いたという)<ref name="jiji">[https://www.jiji.com/jc/d4?p=tpt911-jpp08465939&d=d4_uu トリプルスリー~万能型野球人の証明~ 写真特集]時事通信</ref>。 * 中西の打球について三原は「中西君の本領は、しかしこの本塁打ではない。飛距離もそうだが、それにプラス打球の速さがあった。この打球スピードについては、ヒイキ目でなく、中西の前に中西なく中西のあとに中西なし、といってもいい。その秘密は、類まれなリストの強さ、柔軟さにあったと思う」と述べている<ref>立石泰則著「三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師(上)」469ページ</ref>。 * [[王貞治]]の育ての親でもある[[荒川博]]は、「日本プロ野球で最強のバッターは誰かと聞かれたら次の2人。右の中西、左の王でしょうな。中西はあのデカイ体をものすごい勢いで回転させるから、打球が速いうえによく飛ぶ。文字どおりの大砲でしたよ。まあケタ違いの打球を打っていた。同じ右の強打者といっても、悪いけど[[長嶋茂雄]]とじゃ格が違っていたね」と語っている<ref name="baseball">[http://www.php.co.jp/magazine/voice/nippon.php?unique_issue_id=12368 ニッポン新潮流 怪童・中西太の人材育成]</ref>。 * メジャーの強チームが頻繁に来日した1955年前後、来日したメジャーリーガーたちは、「中西だけはメジャー級」という言葉を残して帰国した。その打棒は、海の向こうにも鳴り響いていた<ref name="baseball20140428" />。 * メジャーリーガーもその打撃には一目置いていた。[[1956年]]の[[日米野球]]では[[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]]の[[ギル・ホッジス]]とホームラン競争を行い、13本塁打を放った。[[1958年]]11月4日[[大阪スタヂアム]]で行われた[[セントルイス・カージナルス]]との日米野球第8戦では満塁の場面で[[野村克也]]の代打で登場。左中間に弾丸ライナーで飛び込むホームランを放ちカージナルスナインの度肝を抜いた。試合後カージナルスの選手たちが、わざわざ記念撮影を申し込み、「ビッグ・バッファロー」と呼ばれた<ref name="ReferenceA">[[ベースボールマガジン社]]「[[週刊プロ野球 セ・パ誕生60周年]]」47号24ページ</ref>。この日米野球で放った3本塁打、11打点は日本勢最多である。 * 同じリーグで同じ右のスラッガーであった[[山内一弘]]とは、互いに認め合うライバル関係であった。二人は当時の球界を代表する強打者であり、かつ打撃のスタイルが全く異なっていたことから、同じプロの右打者たちの間で「中西流」「山内流」という言葉が生まれ、参考にされる存在であった<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/13032?page=2 ノムさんの人生が示す、「一流」と「二流」の差] </ref>。 * 「素振りの音が相手ベンチまで聞こえた」という程スイングスピードが速く大きな武器であったのだが、あまりにも速すぎたために体への負担もまた大きく、[[腱鞘炎]]を患ったが、現役引退後、実は{{by|1959年}}に[[小玉明利]]からスパイクされたことが遠因で利き手の骨が欠けていたことが判明した。これがなければ「率を除く全ての分野において2倍は通算成績を残していた」と言われる。 === 守備・走塁 === * ずんぐりむっくりな体型に似合わぬ俊足で盗塁数も多かった。1953年には36[[盗塁]]を記録し、史上3人目の打率3割・30本塁打・30盗塁([[トリプルスリー]])を達成している。三塁の守備では柔らかなグラブ捌きを見せ<ref name="jiji" />、また目の前にフェンスが迫っていても怪我を恐れずに打球を追ったことから、[[遊撃手]]を務めていた[[豊田泰光]]とともに「金網デスマッチ」と言われていた。このため前歯を3本折損している。 * 非常に器用な選手であり、内野のすべてのポジションに加え、外野手も無難にこなしている。 === 記録に関するトピック === 二冠獲得4回、本塁打王5回(4年連続含む)、首位打者2回、打点王3回の打撃タイトルを誇る。特筆すべきは、これらのタイトルを高卒から入団7年目までに獲得していることである。 戦後初の[[三冠 (野球)|三冠王]]となるチャンスが何度もあった。特に惜しかったのは1956年と1958年である。前者は首位打者を同僚の[[豊田泰光]]と争ったが、最終戦を前に三原監督が両者に休養を命じたため、豊田の首位打者が決まった(ただし、豊田は首位打者、中西は二冠王で構わないと最初から両者で話し合って決めていたとも言われている)。後者は全日程を終了して三冠、ただし打点のみは[[千葉ロッテマリーンズ|大毎オリオンズ]]の[[葛城隆雄]]と同数という状況で、葛城が最終戦で本塁打を放ったため、打点王を逃したというものである。この時葛城に本塁打を打たれたのは、元同僚の[[大津守]]投手(当時近鉄)であり、後日試合で対戦の際に中西と顔を合わせ、「すまん」と謝ったとされている。なお、中西が何度もタイトルに近づいたことで、それまで日本ではあまり知られていなかった「トリプルクラウン」が認識されるようになり、さらに「三冠王」という訳語もマスコミで定着するに至った<ref>中川淳一、「[https://www.nikkei.com/article/DGXBZO35498550R11C11A0000000/ ことばオンライン 『三冠王』定着の陰に伝説の強打者] 」- [[日本経済新聞]]、2011年10月18日、2017年5月18日閲覧。</ref>。 中西は[[三冠王]]になったことはないが、打率・本塁打・打点の部門において、「1部門がリーグ2位の二冠王」を1953年・1955年・1956年・1958年の通算4回記録している。これは[[王貞治]]の5回、[[長嶋茂雄]]の3回に挟まれて歴代2位である。中西は4回すべてが僅差であり、1953年は打率において4厘差で[[岡本伊三美]]に、1955年は打点において1打点差で[[山内和弘]]に、1956年は打率において.0004差で豊田に(中西は.3247、豊田は.3251)、1958年は打点において1打点差で葛城に、それぞれタイトルを奪われた。 == 指導者として == 西鉄、日本ハム、阪神で計12シーズンにわたって監督を務め、Aクラス6回(リーグ優勝1回)の実績を持つが、[[野村克也]]は著書で監督としては「失敗」という評価をしている<ref>{{cite book|author= 野村克也|title= ああ、監督|publisher= 角川書店|year=2009|isbn= 9784047101838}}p.p.28~30 </ref>。 一方で、コーチとしては数多くの強打者を指導しており、前述の野村もコーチとしての指導実績は高く評価している。[[吉田義男]]は「中西さんは教える達人でしたね」と話しており<ref>大阪[[日刊スポーツ]]編著『感涙!ナニワ野球伝説』[[朝日新聞出版]]、2011年、P41</ref>、[[江夏豊]]は「名監督は数多くいても、名コーチは少ない」が持論だが、その中で「投げるほうの名コーチは[[権藤博]]さん、打つほうの名コーチは中西さん」と語っている<ref>[[週刊プレイボーイ]]2012年10月22日号「江夏豊のアウトロー野球論」 721回</ref>。 中西本人も、若手選手と直接向き合える打撃コーチが天職で、監督には向いていないと公言していた<ref name="emoto20230519" /><ref name="yomiuri20190601" />。 中西の打撃理論は「ボールを呼び込んで下半身で打つ」こと、「バットを内側から出す」ことを基本としており、練習法ではティー打撃に重点を置いている。中西流の指導法は、教え子の若松や[[伊勢孝夫]]、[[杉村繁]]らに引き継がれている<ref>[https://www.sanspo.com/article/20150904-LGTTU7J2I5MW7NACHIR43G5IRQ/ “火ヤク庫”ヤクルト打線活躍の裏に中西太理論あり]サンケイスポーツ2015年9月4日</ref><ref>[https://www.ninomiyasports.com/archives/53121 杉村繁(東京ヤクルト打撃コーチ/高知県高知市出身)×二宮清純]スポーツコミュニケーションズ 2015年10月26日</ref>。 == 人物 == 愛称は「'''太っさん'''(ふとっさん)<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202305180001449.html 吉田義男氏、同い年の“ふとっさん“中西太さん訃報に「思い出語り尽くせません」]日刊スポーツ2023年5月18日</ref>」。あるいは「太」。 非常に運動神経に優れていたことで知られ、本人も「私は農耕民族だから」と言う、その足腰の強さは特筆物であった。[[相撲]]好きであり、[[関脇]]・[[鶴ヶ嶺昭男|鶴ヶ嶺]](後の[[井筒 (相撲)|井筒]]親方)と非常に仲が良かったため、よく[[井筒部屋]]に出稽古に出かけていたという。しかも[[三段目]]ほどの力士であれば軽くあしらって勝ってしまうこともあった程で<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=018-20150831-01 昔のプロ野球選手は、大相撲の力士と、とても仲が良かった 太っさんの上半身は見事!三段目では相手にならなかったそうな]週刊ベースボールオンラインおんりい・いえすたでい2015年8月21日</ref>、鶴ヶ嶺は「中西さんは相撲の世界に入っていても、間違いなく[[幕内]]までは軽々行ったと思う」と述べている。 荒くれ者の西鉄野武士軍団の中心打者で豪快な打撃とその風貌から勘違いされやすいが、性格は繊細で真面目で人一倍練習熱心だった。宿舎で同部屋だった[[稲尾和久]]は「毎日、夜、寝る前に部屋でビュンビュンとバットを振る。振るたびにすごい風圧で、ガラス窓が割れそうになるので怖かった」と振り返っている<ref name="ReferenceA" />。練習のしすぎが[[腱鞘炎]]の原因のひとつとも言われる。 やや気が小さい面が見られた。腱鞘炎で試合から遠ざかっていた選手兼任監督時代、試合前にバックネットの前で素振りをしていると、スタンドのファンから大声で「中西、試合に出んか!」と野次を飛ばされた。気の強い選手ならすぐにそちらを向いて睨みつけそうなものだが、中西はそちらを見ることができず、横にいた記者に「どんな奴が怒鳴ってる?」と素振りを続けながら尋ねたという<ref>益田啓一郎著「西鉄ライオンズとその時代」144ページ</ref>。[[流線型打線]]の中核を担ったが、たとえば一番打者の[[高倉照幸]]が二塁打を放つと、気が強くチャンスに強い二番の豊田に「トヨ(豊田)、(走者を)返しとけよ・・」と呟く事もあった。豊田が首尾よくタイムリーを放ち先制点を取ると中西も重圧から解放されその後の打席は打棒が爆発し、一番の高倉から三番中西までで試合を早々に決めてしまう事もままあった。 中西は現役時代における最も忘れられない場面として、[[1958年の日本シリーズ]]、1勝3敗で迎えた第5戦、2-3と1点ビハインドの9回裏一死三塁という「非常に責任ある打席(中西)」で三塁ゴロに倒れた場面を挙げている。この試合は続く5番の[[関口清治]]が起死回生のタイムリーヒットを打って同点に追いつき、延長10回裏稲尾のサヨナラ本塁打で勝利。西鉄は第6戦、第7戦も連勝して奇跡の逆転優勝を果たし、中西もまたこの第5戦に続いて第6戦、第7戦でも本塁打を放つ活躍を見せたが、第5戦9回裏の場面は「もしあのまま試合が終わっていたら…」と思い返すことがたびたびあったという。 三原脩について取材で聞かれることが多く、「三原さんの事についてはもう勘弁してくれというぐらい話してる」と語っている<ref>[完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P23</ref>。 阪神監督時代の中西は[[痛風]]を患っており、スパイクの足先を切り取って痛さを誤魔化していた<ref>[https://maidonanews.jp/article/14912577 やさしき怪童…記者だけが見た、中西太さんの思い出 痛風でスパイクはサンダル状態、新幹線・食堂車の酒も飲み干した|まいどなニュース]</ref>。 == 詳細情報 == === 年度別打撃成績 === {| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|1952}} |rowspan="18" style="text-align:center;white-space:nowrap;"|[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]] |111||410||384||57||108||20||7||12||178||65||16||4||0||--||26||--||0||38||12||.281||.327||.464||.790 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1953}} |'''120'''||509||465||'''92'''||'''146'''||20||7||'''36'''||'''288'''||'''86'''||36||16||1||--||41||--||1||52||13||.314||.370||'''.619'''||'''.989''' |- |style="text-align:center;"|{{by2|1954}} |130||554||493||87||146||28||8||'''31'''||283||82||23||9||2||4||51||--||4||73||10||.296||.364||'''.574'''||'''.938''' |- |style="text-align:center;"|{{by2|1955}} |135||549||473||96||157||28||4||'''35'''||'''298'''||98||19||12||0||3||71||'''17'''||2||91||10||'''.332'''||.419||'''.630'''||'''1.049''' |- |style="text-align:center;"|{{by2|1956}} |137||523||462||74||150||27||5||'''29'''||274||'''95'''||15||12||1||5||54||'''17'''||1||70||8||.325||.393||'''.593'''||'''.987''' |- |style="text-align:center;"|{{by2|1957}} |'''132'''||538||486||84||'''154'''||'''31'''||3||24||263||'''100'''||15||6||0||2||49||6||1||71||14||.317||.379||.541||.920 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1958}} |126||469||404||61||127||19||1||'''23'''||217||84||8||9||0||2||'''60'''||'''10'''||3||59||10||'''.314'''||'''.405'''||'''.537'''||'''.942''' |- |style="text-align:center;"|{{by2|1959}} |59||181||153||21||45||10||1||7||78||29||2||3||0||3||24||7||1||24||6||.294||.387||.510||.897 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1960}} |32||54||47||6||17||2||1||1||24||10||1||0||0||1||6||4||0||8||4||.362||.426||.511||.937 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1961}} |99||301||253||48||77||6||1||21||148||54||4||6||0||3||44||13||1||42||8||.304||.405||.585||.990 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1962}} |44||82||71||6||19||1||0||2||26||11||2||1||0||1||9||2||1||8||4||.268||.354||.366||.720 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1963}} |81||241||216||26||61||7||0||11||101||26||0||3||0||0||24||2||1||47||10||.282||.357||.468||.824 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1964}} |33||46||40||2||6||2||0||0||8||4||0||0||0||0||6||1||0||10||2||.150||.261||.200||.461 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1965}} |34||58||51||3||15||2||0||2||23||9||0||0||0||1||6||1||0||8||4||.294||.362||.451||.813 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1966}} |51||55||51||6||14||2||0||6||34||15||1||0||0||1||3||2||0||9||0||.275||.309||.667||.976 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1967}} |32||40||36||3||10||2||0||3||21||9||0||0||0||0||3||0||1||7||1||.278||.350||.583||.933 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1968}} |26||28||25||1||10||0||0||1||13||8||0||0||0||0||3||3||0||5||1||.400||.464||.520||.984 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1969}} |6||7||6||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||1||0||0||2||0||.000||.143||.000||.143 |- !colspan="2"|通算:18年 |1388||4645||4116||673||1262||207||38||244||2277||785||142||81||4||26||481||85||17||624||117||.307||.379||.553||.933 |} * 各年度の'''太字'''はリーグ最高 === 年度別監督成績 === {| class="wikitable" style="text-align: right; font-size: small;" ![[年度]]!![[日本プロ野球|球団]]!!順位!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!![[勝率]]!![[ゲーム差]]!!チーム<br/>本塁打!!チーム<br/>打率!!チーム<br/>防御率!![[年齢]] |- |{{by|1962年}}||rowspan="8" style="text-align:center"|[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]||3位||136||62||68||6||.477||16.0||92||.245||3.00||29歳 |- |{{by|1963年}}||1位||150||86||60||4||.589||-||146||.244||2.69||30歳 |- |{{by|1964年}}||5位||150||63||81||6||.438||19.5||116||.242||3.57||31歳 |- |{{by|1965年}}||3位||140||72||64||4||.529||15.5||112||.246||3.00||32歳 |- |{{by|1966年}}||2位||138||75||55||8||.577||4.0||125||.231||2.13||33歳 |- |{{by|1967年}}||2位||140||66||64||10||.508||9.0||98||.222||2.50||34歳 |- |{{by|1968年}}||5位||133||56||74||3||.431||24.0||110||.237||3.17||35歳 |- |{{by|1969年}}||5位||130||51||75||4||.405||25.0||119||.225||3.40||36歳 |- |{{by|1974年}}||rowspan="2" style="text-align:center"|[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||6位||130||49||75||6||.395||6位・6位||96||.246||4.11||41歳 |- |{{by|1975年}}||6位||130||55||63||12||.466||4位・4位||100||.258||3.89||42歳 |- |{{by|1980年}}||rowspan="2" style="text-align:center"|[[阪神タイガース|阪神]]||5位||130||54||66||10||.450||20.5||134||.262||3.73||47歳 |- |{{by|1981年}}||3位||130||67||58||5||.536||8.0||114||.272||3.32||48歳 |- !colspan="3"|通算:12年 |1640||748||811||81||.480||colspan="5" style="text-align:center"|Aクラス6回、Bクラス6回 |} : ※1 1962年、1966年から1996年までは130試合制 : ※2 1963年から1964年までは150試合制 : ※3 1965年は140試合制 : ※4 1973年から1982年までは前後期制のため、ゲーム差欄は上段前期順位、下段後期順位を表示 : ※5 1965年は試合前練習で負傷し4月19日から5月10日まで欠場(7勝6敗)。監督代理は[[深見安博]] : ※6 1969年は成績不振により5月23日から6月13日まで(13勝5敗)、復帰後の10月9日から閉幕まで休養(1勝2敗)。監督代行は[[鬼頭政一]] : ※7 1980年、[[ドン・ブラッシンゲーム|ドン・ブレイザー]]監督辞任に伴い、5月15日にコーチから監督に就任(41勝54敗9分 勝率.432) : ※8 1984年、ヤクルト[[武上四郎]]監督休養後の4月28日から監督代行(5勝11敗2分)。成績不振により5月22日に休養。監督代行は[[土橋正幸]] : ※9 1994年、ロッテ[[八木沢荘六]]監督解任に伴い8月2日から監督代行(21勝22敗2分) : ※10 通算成績は実際に指揮した試合の成績 === タイトル === * [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]:2回(1955年、1958年) * [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:5回(1953年 - 1956年、1958年)※1953年は昭和生まれ初、かつ20歳での達成はNPB最年少(2リーグ制以降では唯一、1リーグ制を含むと4人目)。 * [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:3回(1953年、1956年 - 1957年)※1953年は昭和生まれ初 * [[最多出塁数]]:1回(1958年) * [[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]](当時連盟表彰なし):2回(1953年、1957年)※1953年は昭和生まれ初 === 表彰 === * [[最優秀選手 (日本プロ野球)|最高殊勲選手(MVP)]]:1回(1956年) * [[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]](1952年) ※高卒1年目の選手として史上初 * [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:7回(1953年 - 1958年、1961年) * [[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]競技者表彰(1999年) * [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優秀選手賞:1回([[1958年の日本シリーズ|1958年]]) * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:2回([[1954年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1954年]] 第1戦、[[1958年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1958年]] 第2戦) === 記録 === ; 初記録 * 初出場・初先発出場:1952年3月21日、対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス]]1回戦([[春日原球場]])、7番・[[三塁手]]で先発出場 * 初安打:同上、4回裏に[[沢藤光郎]]から右中間へエンタイトル二塁打 * 初打点:1952年3月23日、対近鉄パールス2回戦([[小倉豊楽園球場|豊楽園球場]])、9回裏に[[関根潤三]]からサヨナラ適時二塁打 * 初本塁打:1952年4月17日、対[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]6回戦([[川崎球場]])、6回表に[[上野重雄]]からランニング本塁打 ; 節目の記録 * 100本塁打:1955年8月4日、対近鉄パールス11回戦([[平和台野球場|平和台球場]])、4回裏に[[山下登]]から先制決勝ソロ ※史上15人目 * 150本塁打:1957年6月18日、対近鉄パールス10回戦([[大阪スタヂアム]])、6回表に[[蔦行雄]]から3ラン ※史上10人目 * 1000安打:1959年5月20日、対[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]8回戦(平和台球場)、6回裏に[[牧野伸]]から ※史上31人目 * 200本塁打:1961年4月22日、対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]1回戦(大阪スタヂアム)、5回表に[[皆川睦雄]]から右中間へ3ラン ※史上7人目 * 1000試合出場:1961年5月17日、対南海ホークス6回戦(平和台球場)、5回裏に[[城戸則文]]の代打で出場 ※史上58人目 ; その他の記録 * [[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]](当時連盟表彰なし):2回 (1953年、1957年) ※1994年より表彰 * リーグ最多長打:3年連続(1953-1955年)※パ・リーグ最長タイ * リーグ最高長打率:4年連続5回 ※ともに[[柳田悠岐]]と並ぶパ・リーグタイ記録 * [[トリプルスリー#日本プロ野球|3割30本30盗塁]]:1953年、20歳での達成は史上最年少。36盗塁はトリプルスリー達成者の中で最多記録 ** 35本塁打35盗塁:NPB初の達成、後に[[秋山幸二]]が記録 * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:7回 (1953年 - 1955年、1957年 - 1958年、1961年、1963年) === 背番号 === * '''6'''(1952年 - 1969年) * '''60'''(1971年 - 1973年) * '''88'''(1974年、1995年 - 1997年) * '''30'''(1975年) * '''81'''(1979年 - 1981年) * '''80'''(1983年 - 1984年) * '''77'''(1985年 - 1990年) * '''70'''(1992年) * '''89'''(1994年) == 著書 == === 単著 === *『人を活かす 人を育てる』[[学研ホールディングス|学習研究社]]、1991年5月、{{ISBN2|4051056309}}。 *『活人術 強い組織をつくるために』[[小学館]]、1998年5月、{{ISBN2|4093872511}}。 *『西鉄ライオンズ最強の哲学』[[ベースボール・マガジン社]]、2007年11月、{{ISBN2|4583100639}}。 === 監修 === *『守備入門』有紀書房〈ぼくたちの野球百科〉、1971年、{{国立国会図書館書誌ID|000000793134}}。 *『野球バッティング入門』福田てんこう 漫画、[[集英社]]〈まんが版入門百科〉、1972年、{{国立国会図書館書誌ID|000000800562}}。 == 出演・対談 == === 解説者としての出演番組 === * [[TBSラジオ エキサイトベースボール|TBSラジオ エキサイトナイター]]([[TBSラジオ]]、解説。MBSラジオ時代にも出演中継のネット受け放送あり) * [[SAMURAI BASEBALL]]([[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]のプロ野球中継の現行タイトル。TBS時代・毎日放送時代に出演) * [[MBSベースボールパーク|毎日放送ダイナミックナイター]]([[MBSラジオ|毎日放送ラジオ]]、解説。TBSラジオ・KBCラジオ時代にも出演中継のネット受け放送あり) * [[KBCホークスナイター|KBCジャンボナイター]]([[KBCラジオ]]、解説。MBSラジオ時代にも出演中継のネット受け放送あり) * [[ニッポン放送ショウアップナイター]]([[ニッポン放送]]、解説。MBSラジオ・KBCラジオからの出演中継のネット受けの他、自社制作中継への出向出演あり) * [[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|ゴールデンナイター/パワーアップナイター/プロ野球中継]]([[九州朝日放送|KBCテレビ]]、解説) * [[猛虎紳士録]]([[スカイ・エー|スカイA Sports+]]、現在コメンテーター〔猛虎紳士〕として出演中) === 出演CM === * [[ヤクルト本社|ヤクルト]]『タフマン』(ヤクルトヘッドコーチ時代に武上四郎監督と共演) === 対談 === * [http://www.pref.kagawa.jp/kocho/sanukino/2008/summer/05_06.htm かがわさぬき野2008年夏号掲載インタビュー記事] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em|refs= <!-- name指定のアルファベット順 --> <ref name="NHK2023">“[https://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20230518/5010020301.html “怪童”中西太さん死去 西鉄黄金期の主力として活躍 90歳]”. ''福岡 NEWS WEB''. [[日本放送協会]]. (2023年5月18日) 2023年5月19日(UTC)閲覧。</ref> <!-- name指定の50音順 --> <ref name="四国新聞2023">「新旧怪童インタビュー 浅野翔吾×中西太」『[[四国新聞]]』2023年1月1日、第41面。</ref> <ref name="四国新聞2023a">「中西太さん死去 元西鉄「怪童」本塁打王5回 90歳、高松出身」『四国新聞』第46297号、2023年5月19日、第1面。</ref> <ref name="四国新聞2023b">「「優しい先輩」「影響大」 長嶋さん、教え子ら慎む」『四国新聞』第46297号、2023年5月19日、第13面(スポーツ)。</ref> <ref name="四国新聞2023c">「「怪童」中西太さん死去「悲しく寂しい」「巨星落つ」「もう1回、話を」」『四国新聞』第46297号、2023年5月19日、第21面(社会)。</ref> <ref name="四国新聞2023d">「「夢と感動与えた」「誇り」―高松市民からも慎む声」『四国新聞』第46297号、2023年5月19日、第21面(社会)。</ref> <ref name="時事2023">“[https://www.jiji.com/jc/article?k=2023051900126 掛布さんら恩人に感謝 中西さん死去、悼む声相次ぐ]”. ''jiji.com''. [[時事通信社]]. (2023年5月19日) 2023年5月20日(UTC)閲覧。</ref> <ref name="菅谷2023">菅谷斉「評伝 球史残る比類なき豪打」『四国新聞』第46297号、2023年5月19日、第13面(スポーツ)。</ref> <ref name="寺尾2023a">寺尾博和 (2023年5月18日). “[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202305180000324.html “怪童”中西太さん死去、90歳心不全 本塁打王5回、3球団で監督、イチローら育てた名伯楽]」''[[日刊スポーツ]]'' (2023年5月20日(UTC)閲覧。</ref> <ref name="寺尾2023b">寺尾博和 (2023年5月19日). “[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202305180001618.html 【悼む】中西太さんの原点「三原イズム」師匠で義父の三原脩さんまね、ぎっしり書き込まれた帳面]”. ''日刊スポーツNEWS'' 2023年5月19日(UTC)閲覧。</ref> <ref name="日刊スポーツ2023b">“[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202305180001155.html 栗山英樹監督「この世界一も、すべて中西さんのおかげ」中西太氏悼む「三原ノート」支えに世界一]”. ''日刊スポーツNEWS''. (2023年5月18日) 2023年5月19日(UTC)閲覧。</ref> }} == 関連項目 == * [[香川県出身の人物一覧]] * [[埼玉西武ライオンズの選手一覧]] == 外部リンク == {{NPB|31233805}} * [https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-126/ 野球殿堂 中西太] - 公益財団法人野球殿堂博物館 {{Navboxes |list= {{野球殿堂表彰者 (日本)}} {{埼玉西武ライオンズ歴代監督|西鉄ライオンズ|1962 - 1969}} {{北海道日本ハムファイターズ歴代監督|日本ハムファイターズ|1974 - 1975}} {{阪神タイガース歴代監督|阪神タイガース|1980.5.16 - 1981}} {{パシフィック・リーグ優勝監督}} {{日本シリーズ優秀選手}} {{日本プロ野球オールスターゲームMVP}} {{パシフィック・リーグMVP}} {{パシフィック・リーグ新人王}} {{パシフィック・リーグ首位打者}} {{パシフィック・リーグ本塁打王}} {{パシフィック・リーグ打点王}} {{パシフィック・リーグ ベストナイン|1953|1954|1955|1956|1957|1958|1961}} {{日本プロ野球トリプルスリー達成者}} {{NHK紅白歌合戦審査員}} }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:なかにし ふとし}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手]] [[Category:パシフィック・リーグ最優秀新人 (NPB)]] [[Category:本塁打王 (NPB)]] [[Category:首位打者 (NPB)]] [[Category:打点王 (NPB)]] [[Category:最優秀選手 (NPB)]] [[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]] [[Category:NPBオールスターゲームMVP]] [[Category:日本の野球監督]] [[Category:選手兼任監督]] [[Category:埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の監督]] [[Category:北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の監督]] [[Category:阪神タイガース及びその前身球団の監督]] [[Category:東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の監督|代なかにし ふとし]] [[Category:千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督|代なかにし ふとし]] [[Category:大阪近鉄バファローズ関連人物]] [[Category:読売ジャイアンツ関連人物]] [[Category:オリックス・バファローズ関連人物]] [[Category:日本の野球殿堂表彰者]] [[Category:野球解説者]] [[Category:高松第一高等学校出身の野球選手]] [[Category:香川県出身の人物]] [[Category:1933年生]] [[Category:2023年没]]
2004-04-10T00:07:43Z
2023-12-23T05:03:29Z
false
false
false
[ "Template:Cite news", "Template:Cite news2", "Template:Normdaten", "Template:出典の明記", "Template:Efn2", "Template:ISBN2", "Template:Notelist2", "Template:没年齢", "Template:年度別打撃成績", "Template:国立国会図書館書誌ID", "Template:Cite web", "Template:Otheruses", "Template:Infobox baseball player", "Template:R", "Template:By", "Template:Cite book", "Template:Navboxes", "Template:By2", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:NPB" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%A4%AA
3,960,064
おっさんのケーフェイ
『おっさんのケーフェイ』(英題:DYNAMITE WOLF)は、谷口恒平監督の日本映画。2017年制作、2019年2月16日公開。 オリジナルビデオ作品やMOOSIC LAB作品『あの娘はサブカルチャーが好き』(2013年)を発表してきた、谷口恒平初の劇場用長編作品。大阪市の助成事業「CO2」の一環として制作され、撮影はすべて大阪府で行われている。助成金60万の足りない部分は監督、プロデューサーの自己資金とクラウドファンディングで集められ、谷口は“最後の自主制作作品”と位置付けている。キャッチフレーズは「おっさんの嘘が子供たちをガチにする!?」。 実録を謳う心霊作品を取ってきた経験から、真実と虚構のないまぜの世界を描くことを決めており、もともと心霊もののだったプロットだった。しかしマッスル坂井主催の『マッスル』を見てプロレスものに書き換えたという経緯がある。 タイトルに使用された「ケーフェイ」はプロレス業界の隠語。ないまぜの世界の象徴として使用されるが、協力プロレスラーの助言により劇中では使用せず、説明もされていない。これは使用者により意味合いが異なり、時にはプロレス批判に使用される言葉のため。谷口は「映画を観終わった時、皆さんが《ケーフェイ》を感じ取ってくれれば嬉しい」と述べている。 小学生と自称プロレスラーの中年男によるプロレスを通じた交流を軸に、嘘と本当が混ざり合う瞬間を描いたコメディ。 小学生の大翔(ひろと)は夢中になれるものが何もなく冴えない日常を送っている。学校ではダンスに打ち込むクラスメイト・輝男からバカにされる。ある日の放課後。たまたま目についた道頓堀プロレスの試合会場に1人で入っていくと、そこではローカルプロレスの人気プロレスラー、ダイナマイトウルフの引退試合が行われていた。その試合を見て、大翔は今まで感じたことのない興奮を覚える。その帰り道、中学生に絡まれていた大翔は、たまたま河川敷で一人プロレスごっこをする謎の中年・坂田にプロレス技で助けられるのだが、坂田が見覚えのあるダイナマイトウルフのマスクを持っていたことで、友達を巻き込み、おっさんの元へプロレスを習いに通い詰める。しかしある日家族でテレビを見ていると、ダイナマイトウルフが市議会選挙に出るというニュースが流れ、そこでダイナマイトウルフは素顔を見せることになるのだが......。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『おっさんのケーフェイ』(英題:DYNAMITE WOLF)は、谷口恒平監督の日本映画。2017年制作、2019年2月16日公開。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "オリジナルビデオ作品やMOOSIC LAB作品『あの娘はサブカルチャーが好き』(2013年)を発表してきた、谷口恒平初の劇場用長編作品。大阪市の助成事業「CO2」の一環として制作され、撮影はすべて大阪府で行われている。助成金60万の足りない部分は監督、プロデューサーの自己資金とクラウドファンディングで集められ、谷口は“最後の自主制作作品”と位置付けている。キャッチフレーズは「おっさんの嘘が子供たちをガチにする!?」。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "実録を謳う心霊作品を取ってきた経験から、真実と虚構のないまぜの世界を描くことを決めており、もともと心霊もののだったプロットだった。しかしマッスル坂井主催の『マッスル』を見てプロレスものに書き換えたという経緯がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "タイトルに使用された「ケーフェイ」はプロレス業界の隠語。ないまぜの世界の象徴として使用されるが、協力プロレスラーの助言により劇中では使用せず、説明もされていない。これは使用者により意味合いが異なり、時にはプロレス批判に使用される言葉のため。谷口は「映画を観終わった時、皆さんが《ケーフェイ》を感じ取ってくれれば嬉しい」と述べている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "小学生と自称プロレスラーの中年男によるプロレスを通じた交流を軸に、嘘と本当が混ざり合う瞬間を描いたコメディ。", "title": "ストーリー" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "小学生の大翔(ひろと)は夢中になれるものが何もなく冴えない日常を送っている。学校ではダンスに打ち込むクラスメイト・輝男からバカにされる。ある日の放課後。たまたま目についた道頓堀プロレスの試合会場に1人で入っていくと、そこではローカルプロレスの人気プロレスラー、ダイナマイトウルフの引退試合が行われていた。その試合を見て、大翔は今まで感じたことのない興奮を覚える。その帰り道、中学生に絡まれていた大翔は、たまたま河川敷で一人プロレスごっこをする謎の中年・坂田にプロレス技で助けられるのだが、坂田が見覚えのあるダイナマイトウルフのマスクを持っていたことで、友達を巻き込み、おっさんの元へプロレスを習いに通い詰める。しかしある日家族でテレビを見ていると、ダイナマイトウルフが市議会選挙に出るというニュースが流れ、そこでダイナマイトウルフは素顔を見せることになるのだが......。", "title": "ストーリー" } ]
『おっさんのケーフェイ』は、谷口恒平監督の日本映画。2017年制作、2019年2月16日公開。
{{Infobox Film| | 作品名 = おっさんのケーフェイ | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[谷口恒平]] | 製作総指揮 = | 製作 = | 脚本 = 橋本夏 | 出演者 = [[川瀬陽太]]<br />[[松田優佑]]<br />[[南条隼人|赤城]] | 音楽 = 堀本陸、馬瀬みさき | 主題歌 = チッツ<br />『メタルディスコ』 | 撮影 = 金碩柱 | 編集 = 塩谷友幸 | 製作会社 = 花園シネマ | 配給 = [[インターフィルム]] | 公開 = {{flagicon|JPN}} 2019年2月16日 | 上映時間 = 71分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 制作費 = | 興行収入 = | 前作 = | 次作 = }} 『'''おっさんのケーフェイ'''』(英題:''DYNAMITE WOLF''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.oaff.jp/2017/ja/program/if01.html |title=おっさんのケーフェイ|publisher=OAFF2017|accessdate=2019年6月15日|date=}}</ref>)は、[[谷口恒平]]監督の[[日本映画]]。[[2017年]]制作、[[2019年]][[2月16日]]公開<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/310239 |title=川瀬陽太主演作「おっさんのケーフェイ」公開、正体不明の男と小学生の交流描く |publisher=お笑いナタリー |accessdate=2019年6月15日|date=2018年11月30日}}</ref>。 ==概要== オリジナルビデオ作品やMOOSIC LAB作品『あの娘はサブカルチャーが好き』(2013年)を発表してきた、谷口恒平初の劇場用長編作品。大阪市の助成事業「CO2」の一環として制作され、撮影はすべて大阪府で行われている<ref name="プロジェクト">{{Cite web|和書|url=https://motion-gallery.net/projects/ossannokayfabe |title=大阪を舞台にしたプロレス映画「おっさんのケーフェイ(仮)」(CO2助成作品)制作支援プロジェクト |publisher=クラウドファンディングのMotionGallery |accessdate=2019年6月15日|date=2017年3月31日}}</ref>。助成金60万の足りない部分は監督、プロデューサーの自己資金とクラウドファンディングで集められ、谷口は“最後の自主制作作品”と位置付けている<ref name="プロジェクト"/>。キャッチフレーズは「おっさんの嘘が子供たちをガチにする!?」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.allcinema.net/cinema/366377 |title=おっさんのケーフェイ|publisher=allcinema|accessdate=2019年6月15日|date=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=“プロレス×映画 タッグマッチ 70 分1本勝負!!”おっさんと子供に笑い、涙し、思わず応援した熱血エンターテイメント『おっさんのケーフェイ』がついに公開! - シネフィル - 映画とカルチャーWebマガジン|url=http://cinefil.tokyo/_ct/17232987|website=cinefil.tokyo|accessdate=2019-06-15|language=ja}}</ref>。 実録を謳う心霊作品を取ってきた経験から、真実と虚構のないまぜの世界を描くことを決めており、もともと心霊もののだったプロットだった。しかし[[マッスル坂井]]主催の『[[マッスル (プロレス)|マッスル]]』を見てプロレスものに書き換えた<ref>{{Cite web|和書|url=http://boku-pro.com/news/view/18148 |title=ダサカッコいいおっさんはプロレスラー!?『おっさんのケーフェイ』【多重ロマンチック的ぼくらのプロレス】 |publisher=ぼくらのプロレス |accessdate=2019年6月15日|date=2019/2/28}}</ref>という経緯がある。 タイトルに使用された「[[ケーフェイ]]」はプロレス業界の隠語。ないまぜの世界の象徴として使用されるが、協力プロレスラーの助言により劇中では使用せず、説明もされていない。これは使用者により意味合いが異なり、時にはプロレス批判に使用される言葉のため<ref>{{Cite web|和書|title=川瀬陽太さんは新たな視点を与えてくれる…『おっさんのケーフェイ』谷口恒平監督と空牙さんに聞く! {{!}} CineBoze 関西の映画シーンを伝えるサイト{{!}}キネ坊主|url=https://cineboze.com/2019/03/20/ossan_201903/|website=CineBoze|date=2019-03-20|accessdate=2019-06-15|language=ja}}</ref>。谷口は「映画を観終わった時、皆さんが《ケーフェイ》を感じ取ってくれれば嬉しい」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ossan-movie.com/blank-1 |title=スタッフ |publisher= 映画「おっさんのケーフェイ」|accessdate=2019年6月15日|date=}}</ref>と述べている。 == ストーリー == 小学生と自称[[プロレスラー]]の中年男によるプロレスを通じた交流を軸に、嘘と本当が混ざり合う瞬間を描いたコメディ。 小学生の大翔(ひろと)は夢中になれるものが何もなく冴えない日常を送っている。学校ではダンスに打ち込むクラスメイト・輝男からバカにされる。ある日の放課後。たまたま目についた[[道頓堀プロレス]]の試合会場に1人で入っていくと、そこではローカルプロレスの人気プロレスラー、ダイナマイトウルフの引退試合が行われていた。その試合を見て、大翔は今まで感じたことのない興奮を覚える。その帰り道、中学生に絡まれていた大翔は、たまたま河川敷で一人プロレスごっこをする謎の中年・坂田にプロレス技で助けられるのだが、坂田が見覚えのあるダイナマイトウルフの[[マスク]]を持っていたことで、友達を巻き込み、おっさんの元へプロレスを習いに通い詰める。しかしある日家族でテレビを見ていると、ダイナマイトウルフが市議会選挙に出るというニュースが流れ、そこでダイナマイトウルフは素顔を見せることになるのだが……。 == 登場人物 == ; 坂田光一 : 演 ‐ [[川瀬陽太]] : 河原で一人プロレスごっこを行う、よくわからないおじさん。その正体は!? ; 青木ヒロト : 演 ‐ [[松田優佑]] : 河原で暇を持て余す、いけてない小学生。勉強が得意なわけでも運動が得意なわけでもない。一時ダンス部に入るも、そのノリについていけず挫折している。 ; 森田真司 : 演 ‐ [[南条隼人|赤城]] : 市議会議員を目指すプロレスラー。 ; 丸山拓巳 : 演 ‐ [[小林陽翔]] : ヒロトのいけてない友人。 ; 北山直哉 : 演 ‐ [[埜田進]] : ヒロトのいけてない友人。 ; 川島輝男 : 演 ‐ [[神保舜莉紋]] : ダンスとラップが得意なイケてる小学生。ダンスはテレビ局にも取り上げられた。ヒロトのことをやや小ばかに扱う。 ; 靖隆 : 演 ‐ [[松浦祐也]] : 輝男の父。PTA会長。 ; 佳奈子 : 演 ‐ [[ぽんちくりん]] : 輝男の母。丸顔の佳奈子 ; ダンス講師 : 演 ‐ MoMa : 町のダンス教室の先生。テレビ取材が来るほどの実力者。 ; 政仁 : 演 ‐ 渡辺厚人 : ヒロトの父。教えは「嘘をつかない人になること」。 ; 佳奈子 : 演 ‐ 富永茜 : ヒロトの母。 ; 道恵 : 演 ‐ 伊藤壽子 : 坂田の母親。息子はプロレスラーだと信じているようだ。 ; 野洲圭吾 : 演 ‐ 原篤志 : 道頓堀プロレスで働くスタッフ。 ; ヒロトの担任 : 演 ‐ 小夏いっこ : ヒロトのクラスの担任教師。 ; JKリフレ嬢・サラ : 演 ‐ 辻凪 : 新人嬢。いわゆるJKリフレとしては平均点の対応をするのだが。 ; JKリフレ嬢・リナ : 演 ‐ [[山下りな]] : 金髪のリフレ嬢。プロレス技が的確で、リクエストに応じて強烈に締め上げる。 ; 冨宅飛駈 : 演 ‐ [[冨宅飛駈]] ; 空牙 : 演 ‐ [[空牙]] ; マグニチュード岸和田 : 演 ‐ [[マグニチュード岸和田]] ; 菊池悠人 : 演 ‐ [[菊池悠人]] ; スペル・デルフィン : 演 ‐ [[スペル・デルフィン]] ==スタッフ== *監督:谷口恒平 *脚本:橋本夏 *アソシエイトプロデューサー:岡田真樹 *撮影:金碩柱 *照明:市川高穂 *録音:松野泉 *美術:塩川節子 *編集:塩谷友幸 *音楽:堀本陸、馬瀬みさき *制作:和田裕也 *特別協力:[[道頓堀プロレス]] *プロレス監修:空牙 *マスク、コスチューム制作:[[ドラゴン・ユウキ]] *制作:花園シネマ *配給:インターフィルム == 音楽 == *主題歌:チッツ「メタルディスコ」作詞:ひっしー 作曲:チッツ(こんがりおんがく) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.ossan-movie.com/ 映画「おっさんのケーフェイ」公式サイト] * {{Allcinema title|366377|おっさんのケーフェイ}} * {{Kinejun title|91447|おっさんのケーフェイ}} {{DEFAULTSORT:おつさんのけえふえい}} [[Category:2019年の映画]] [[Category:プロレス映画]] [[Category:日本のスポーツ映画]] [[Category:MOTION GALLERYで資金調達した映画作品]]
2019-06-15T11:11:45Z
2023-10-03T08:54:51Z
false
false
false
[ "Template:Allcinema title", "Template:Kinejun title", "Template:Infobox Film", "Template:Reflist", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%A3%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A4
2,622,915
ウラジーミル・プチコフ
ウラジーミル・アンドレーエヴィチ・プチコフ(ロシア語: Влади́мир Андре́евич Пучко́в、ラテン文字転写の例:英語: Vladimir Andreyevich Puchkov, 1959年1月1日 - )は、ロシアの政治家。ドミトリー・メドヴェージェフ内閣でロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧相を務めた。中将、技術学博士候補。 1979年チュメニ高級軍事工学指揮学校(工兵士官学校に相当)を卒業する。 1988年クイビシェフ名称軍事工学アカデミーを修了する。 1991年「民間防衛の指揮とスタッフ」に関する資格を取得する。 2000年ロシア連邦大統領付属公務員アカデミーを修了する。 1979年から1983年まで、ソ連軍極東軍管区で工兵隊勤務。 1983年ペルミ州クングルの民間防衛本部に上級士官として勤務した。1986年から1991年まで、クイビシェフ名称軍事工学アカデミーの聴講生から始まり、準大学院生を経て、正規の大学院生となり修了している。1991年から1994年まで民間防衛に関する講座の副担当や講師を務めた。1995年全ロシア民間防衛・非常事態科学研究所科学研究管理部長。1997年ロシア非常事態省人命・領域保護活動部次長。1999年同省民間防護部次長。2003年同部長。2004年同省局長。2006年北西地域センター長。2007年7月21日から2012年5月21日まで、国家書記、ロシア非常事態省次官を経て、2012年5月17日、非常事態相代行。同年5月21日、ドミートリー・メドヴェージェフ内閣の非常事態相に任命される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ウラジーミル・アンドレーエヴィチ・プチコフ(ロシア語: Влади́мир Андре́евич Пучко́в、ラテン文字転写の例:英語: Vladimir Andreyevich Puchkov, 1959年1月1日 - )は、ロシアの政治家。ドミトリー・メドヴェージェフ内閣でロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧相を務めた。中将、技術学博士候補。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1979年チュメニ高級軍事工学指揮学校(工兵士官学校に相当)を卒業する。 1988年クイビシェフ名称軍事工学アカデミーを修了する。 1991年「民間防衛の指揮とスタッフ」に関する資格を取得する。 2000年ロシア連邦大統領付属公務員アカデミーを修了する。", "title": "経歴・概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1979年から1983年まで、ソ連軍極東軍管区で工兵隊勤務。 1983年ペルミ州クングルの民間防衛本部に上級士官として勤務した。1986年から1991年まで、クイビシェフ名称軍事工学アカデミーの聴講生から始まり、準大学院生を経て、正規の大学院生となり修了している。1991年から1994年まで民間防衛に関する講座の副担当や講師を務めた。1995年全ロシア民間防衛・非常事態科学研究所科学研究管理部長。1997年ロシア非常事態省人命・領域保護活動部次長。1999年同省民間防護部次長。2003年同部長。2004年同省局長。2006年北西地域センター長。2007年7月21日から2012年5月21日まで、国家書記、ロシア非常事態省次官を経て、2012年5月17日、非常事態相代行。同年5月21日、ドミートリー・メドヴェージェフ内閣の非常事態相に任命される。", "title": "経歴・概要" } ]
ウラジーミル・アンドレーエヴィチ・プチコフは、ロシアの政治家。ドミトリー・メドヴェージェフ内閣でロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧相を務めた。中将、技術学博士候補。
{{政治家 |人名 = ウラジーミル・プチコフ |各国語表記 = {{lang|ru|Владимир Андреевич Пучков}} |画像 = Vladimir Puchkov 2012.jpg |画像説明 = ウラジーミル・プチコフ(2012年4月26日撮影) |国略称 = {{RUS}} |生年月日 = {{生年月日と年齢|1959|1|1}} |出生地 = {{SSR}}<br/>{{SFSR}}、[[ヴォルゴグラード州|スターリングラード州]][[ノヴィンカ]] |没年月日 = |死没地 = |出身校 = チュメニ高級軍事工学指揮学校<br />クイビシェフ名称軍事工学アカデミー<br />ロシア連邦大統領付属国家公務員アカデミー |前職 = 工兵、軍事工学者、民間防衛・非常事態・防災等危機管理専門家 |現職 = [[ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧省|ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧相]] |所属政党 = ([[ソ連共産党]]→)<br />([[無所属|独立系]]→)<br />[[統一ロシア]] |称号・勲章 = [[技術学]][[博士候補]]、[[中将]] |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = Russia |職名 = [[ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧省|ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧相]] |内閣 = [[ドミートリー・メドヴェージェフ内閣]] |当選回数 = |就任日 = [[2012年]][[5月21日]] |退任日 = [[2018年]][[5月18日]] |退任理由 = }} '''ウラジーミル・アンドレーエヴィチ・プチコフ'''({{Lang-ru|Влади́мир Андре́евич Пучко́в}}、ラテン文字転写の例:{{lang-en|Vladimir Andreyevich Puchkov}}, [[1959年]][[1月1日]] - )は、[[ロシア]]の[[政治家]]。[[ドミトリー・メドヴェージェフ内閣]]で[[ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧省|ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧相]]を務めた。[[中将]]、[[技術学博士候補]]。 == 経歴・概要 == === 学歴 === [[1979年]]チュメニ高級軍事工学指揮学校(工兵士官学校に相当)を卒業する。 [[1988年]]クイビシェフ名称軍事工学アカデミーを修了する。 [[1991年]]「民間防衛の指揮とスタッフ」に関する資格を取得する。 [[2000年]]ロシア連邦大統領付属公務員アカデミーを修了する。 === 経歴 === [[1979年]]から[[1983年]]まで、ソ連軍極東軍管区で工兵隊勤務。 [[1983年]][[ペルミ州]][[クングル]]の民間防衛本部に上級士官として勤務した。[[1986年]]から[[1991年]]まで、クイビシェフ名称軍事工学アカデミーの聴講生から始まり、準大学院生を経て、正規の大学院生となり修了している。1991年から[[1994年]]まで民間防衛に関する講座の副担当や講師を務めた。[[1995年]]全ロシア民間防衛・非常事態科学研究所科学研究管理部長。[[1997年]]ロシア非常事態省人命・領域保護活動部次長。[[1999年]]同省民間防護部次長。[[2003年]]同部長。[[2004年]]同省局長。[[2006年]]北西地域センター長。[[2007年]][[7月21日]]から[[2012年]][[5月21日]]まで、国家書記、ロシア非常事態省次官<ref>[http://graph.document.kremlin.ru/page.aspx?920428 Указ Президента Российской Федерации от 21 июля 2007 года № 932 ≪О статс-секретаре ? заместителе Министра Российской Федерации по делам гражданской обороны, чрезвычайным ситуациям и ликвидации последствий стихийных бедствий≫]</ref><ref name="УПР647">[http://graph.document.kremlin.ru/page.aspx?1611790 Указ Президента Российской Федерации от 21 мая 2012 года № 647 ≪О Министре Российской Федерации по делам гражданской обороны, чрезвычайным ситуациям и ликвидации последствий стихийных бедствий≫]</ref>を経て、2012年[[5月17日]]、非常事態相代行。同年[[5月21日]]、[[ドミートリー・メドヴェージェフ内閣]]の非常事態相に任命される<ref name="УПР647" />。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == {{commonscat|Vladimir Puchkov}} * {{ru icon}}[http://sr.fondedin.ru/new/fullnews.php?subaction=showfull&id=1217488426&archive=1217837173&start_from=&ucat=14& Интервью В.Пучкова журналу «Стратегия России»] * {{ru icon}}[https://web.archive.org/web/20100310190341/www.mchs.gov.ru/mchs/ministry/?ID=3800 Биография на сайте МЧС России] {{先代次代|[[ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧省|ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧相]]|[[2012年]] - |[[セルゲイ・ショイグ]]|(現職)}} {{デフォルトソート:ふちこふ うらしいみる}} [[Category:ロシア連邦の閣僚]] [[Category:ロシアの軍人]] [[Category:アレクサンドル・ネフスキー勲章受章者 (ロシア連邦)]] [[Category:友好勲章受章者 (ロシア連邦)]] [[Category:勇敢勲章受章者]] [[Category:個人勇敢勲章受章者]] [[Category:ヴォルゴグラード州出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
null
2023-05-05T15:23:29Z
false
false
false
[ "Template:政治家", "Template:Lang-ru", "Template:Lang-en", "Template:Commonscat", "Template:Ru icon", "Template:先代次代" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%81%E3%82%B3%E3%83%95
4,509,633
赤石浩一
赤石 浩一(あかいし こういち、1962年〈昭和37年〉11月23日 - )は、日本の経産官僚。 1962年(昭和37年)11月23日、東京都で出生。当初は物理学者を志望していたが、政策立案に携わる仕事を志して、1985年(昭和60年)に東京大学法学部を卒業し、同年、通商産業省へ入省した。入省後、資源エネルギー庁省エネルギー石油代替エネルギー対策課、科学技術庁長官官房総務課、産業政策局商務流通グループ商務室を経て、1992年(平成4年)にハーバード大学へ留学。帰国後、資源エネルギー庁政策企画官、資源エネルギー庁長官官房国際課企画官(国際戦略担当)、経済産業研究所フェロー、資源エネルギー庁エネルギー政策企画室長、通商政策局米州課長、JETROブリュッセルセンター(日本機械輸出組合ブラッセル事務所)事務所長、商務情報政策局情報政策課長、経済産業省大臣官房会計課長併監査室長、内閣官房副長官補室日本経済再生総合事務局次長、経済産業省大臣官房審議官(通商政策局担当)、内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)併内閣府大臣官房審議官(科学技術・イノベーション担当)などを歴任。 立地政策、石油代替エネルギー政策、科学技術政策 、商品取引政策、自由時間政策、世界貿易機関、アジア太平洋経済協力、サービス産業などを担当した他、インターネット黎明期にインターネットビジネスを立ち上げて海外とのネットワーク形成に関わり、医療情報のデジタル化等に携わった。また、小泉政権下における経済産業省内のIT本部創設、民主党政権下における経済産業省の情報政策全般の総括を担い、第2次安倍政権下ではアベノミクスの第三の柱を担当。デジタル化へ向けた全般的な構造改革を打ち出し、日本・オーストラリア経済連携協定の交渉などをまとめた。 2018年(平成30年)7月27日、内閣府政策統括官(科学技術・イノベーション担当)に就任。在任中、ソサエティー5.0、AI戦略、スマートシティプラットフォーム、セキュリティを含んだサイバーフィジカルR&D等を推進した。 2019年(令和元年)7月9日、内閣官房内閣審議官に就任。 2021年(令和3年)4月1日、内閣府科学技術・イノベーション推進事務局長に就任。同年9月1日、デジタル庁デジタル審議官に就任。 2023年(令和5年)7月7日、退職。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "赤石 浩一(あかいし こういち、1962年〈昭和37年〉11月23日 - )は、日本の経産官僚。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1962年(昭和37年)11月23日、東京都で出生。当初は物理学者を志望していたが、政策立案に携わる仕事を志して、1985年(昭和60年)に東京大学法学部を卒業し、同年、通商産業省へ入省した。入省後、資源エネルギー庁省エネルギー石油代替エネルギー対策課、科学技術庁長官官房総務課、産業政策局商務流通グループ商務室を経て、1992年(平成4年)にハーバード大学へ留学。帰国後、資源エネルギー庁政策企画官、資源エネルギー庁長官官房国際課企画官(国際戦略担当)、経済産業研究所フェロー、資源エネルギー庁エネルギー政策企画室長、通商政策局米州課長、JETROブリュッセルセンター(日本機械輸出組合ブラッセル事務所)事務所長、商務情報政策局情報政策課長、経済産業省大臣官房会計課長併監査室長、内閣官房副長官補室日本経済再生総合事務局次長、経済産業省大臣官房審議官(通商政策局担当)、内閣官房内閣審議官(内閣官房副長官補付)併内閣府大臣官房審議官(科学技術・イノベーション担当)などを歴任。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "立地政策、石油代替エネルギー政策、科学技術政策 、商品取引政策、自由時間政策、世界貿易機関、アジア太平洋経済協力、サービス産業などを担当した他、インターネット黎明期にインターネットビジネスを立ち上げて海外とのネットワーク形成に関わり、医療情報のデジタル化等に携わった。また、小泉政権下における経済産業省内のIT本部創設、民主党政権下における経済産業省の情報政策全般の総括を担い、第2次安倍政権下ではアベノミクスの第三の柱を担当。デジタル化へ向けた全般的な構造改革を打ち出し、日本・オーストラリア経済連携協定の交渉などをまとめた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)7月27日、内閣府政策統括官(科学技術・イノベーション担当)に就任。在任中、ソサエティー5.0、AI戦略、スマートシティプラットフォーム、セキュリティを含んだサイバーフィジカルR&D等を推進した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2019年(令和元年)7月9日、内閣官房内閣審議官に就任。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)4月1日、内閣府科学技術・イノベーション推進事務局長に就任。同年9月1日、デジタル庁デジタル審議官に就任。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)7月7日、退職。", "title": "来歴" } ]
赤石 浩一は、日本の経産官僚。
{{官僚 |人名 = 赤石 浩一 |各国語表記 = あかいし こういち |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = {{生年月日と年齢|1962|11|23}}{{sfn|政官要覧社|2022|loc=783頁|ref=政官要覧2022}} |出生地 = {{JPN}}・[[東京都]]<ref name="教育新社">{{Cite news|url=https://www.kyoikushinsha.co.jp/rensai/ikenkoron/003/index.html|title=内閣官房 イノベーション総括官 赤石浩一氏 イノベーションは大学改革から|accessdate=2021-12-25|publisher=ジアース教育新社}}</ref><ref name="教育ネット">{{Cite web|和書|url=https://kyoiku.yomiuri.co.jp/rensai/contents/53.php|title=異見交論53(上) 「国立大学よ、世界を見てくれ」赤石浩一氏(内閣府政策統括官)|accessdate=2021-12-25|website=読売新聞教育ネットワーク|publisher=[[読売新聞社]]}}</ref> |没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |死没地 = |出身校 = [[東京大学]]<ref name="教育新社"/><ref name="教育ネット"/> |前職 = |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = |配偶者 = |子女 = |親族(政治家) = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = [[デジタル庁]]デジタル審議官 |就任日 = [[2021年]][[9月1日]]<ref name="デジ21">{{Cite press release|和書|url=https://cio.go.jp/sites/default/files/uploads/documents/digital/20210901_news_01.pdf|title=令和3年9月1日付 デジタル庁人事|date=2021-09-01|accessdate=2021-12-25|format=PDF|publisher=デジタル庁}}</ref> |退任日 = [[2023年]][[7月7日]]<ref name="デジ230707">{{Cite press release|和書|url=https://www.digital.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/c964c40e-834b-4c1a-9125-144413b0d20c/b2a9c1f1/20230630_news_member_notice_02.pdf|title=令和5年7月7日付 デジタル庁人事|date=2023-06-30|accessdate=2023-07-26|format=PDF|publisher=デジタル庁}}</ref> |国旗2 = JPN |職名2 = [[内閣府]]科学技術・イノベーション推進事務局長 |就任日2 = 2021年[[4月1日]]<ref name="朝日210401">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S14855435.html|title=内閣府人事(1日付)|date=2021-04-01|accessdate=2021-12-25|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|publisher=[[朝日新聞社]]}}</ref> |退任日2 = 2021年9月1日<ref name="デジ21"/> |国旗3 = JPN |職名3 = [[内閣官房]][[内閣審議官]] |就任日3 = [[2019年]][[7月9日]]<ref name="日経190702">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46842020S9A700C1905M00/|title=内閣審議官に木下氏 内閣官房|date=2019-07-02|accessdate=2021-12-25|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]}}</ref> |退任日3 = 2021年9月1日<ref name="デジ21"/> |国旗4 = JPN |職名4 = 内閣府[[政策統括官]](科学技術・イノベーション担当) |就任日4 = [[2018年]][[7月27日]]<ref name="内閣府辞令18">{{Cite press release|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/content/000025597.pdf|title=内閣府辞令|date=2018-07-27|accessdate=2021-12-25|format=PDF|publisher=[[内閣総理大臣官邸]]}}</ref> |退任日4 = 2019年7月9日<ref name="内閣府辞令19">{{Cite press release|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/content/000045821.pdf|title=内閣府辞令|date=2019-07-09|accessdate=2021-12-25|format=PDF|publisher=内閣総理大臣官邸}}</ref> }} '''赤石 浩一'''(あかいし こういち、[[1962年]]〈[[昭和]]37年〉[[11月23日]]{{sfn|政官要覧社|2022|loc=783頁|ref=政官要覧2022}} - )は、[[日本]]の[[経済産業省|経産]][[官僚]]。 == 来歴 == 1962年(昭和37年)11月23日、[[東京都]]で出生{{sfn|政官要覧社|2022|loc=783頁|ref=政官要覧2022}}<ref name="教育新社"/><ref name="教育ネット"/>。当初は[[物理学者]]を志望していたが、政策立案に携わる仕事を志して<ref name="日経191105">{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO51689310R01C19A1BC8000/?unlock=1|title=星空に願いを込めて 赤石浩一|date=2019-11-05|accessdate=2021-12-26|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社}}</ref>、[[1985年]](昭和60年)に[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京大学法学部]]を卒業し<ref name="新春対談">{{Cite web|和書|url=https://www.ace.or.jp/web/publication/cogenet_0010/vol21/pdf/cogenet21_03.pdf|title=脱炭素社会実現のためのエネルギーシステム 「システム思考で最新技術を社会に実装|accessdate=2021-12-25|format=PDF|publisher=コージェネ財団}}</ref>、同年、[[通商産業省]]へ入省した<ref name="経産研">{{Cite web|和書|url=https://www.rieti.go.jp/users/akaishi-koichi/|title=赤石浩一|accessdate=2021-12-26|publisher=経済産業研究所}}</ref>。入省後、[[資源エネルギー庁]]省エネルギー石油代替エネルギー対策課、[[科学技術庁]]長官官房総務課、産業政策局商務流通グループ商務室を経て<ref name="近未来フォーラム">{{Cite web|和書|url=https://www.seedplanning.co.jp/forum/eizo/2010/ex.html|title=近未来映像情報フォーラム 緊急特別企画「日本の新成長戦略と情報通信政策」|date=2010-06-30|accessdate=2021-12-26|publisher=シード・プランニング}}</ref>、[[1992年]]([[平成]]4年)に[[ハーバード大学]]へ留学<ref name="近未来フォーラム"/>。帰国後、資源エネルギー庁政策企画官、資源エネルギー庁長官官房国際課企画官(国際戦略担当)、[[経済産業研究所]]フェロー、資源エネルギー庁エネルギー政策企画室長、[[通商政策局]]米州課長、[[日本貿易振興機構|JETRO]]ブリュッセルセンター([[日本機械輸出組合]]ブラッセル事務所)事務所長、[[商務情報政策局]]情報政策課長、[[経済産業省大臣官房]]会計課長併監査室長、[[内閣官房副長官補]]室[[日本経済再生本部#日本経済再生総合事務局|日本経済再生総合事務局]]次長、経済産業省大臣官房審議官(通商政策局担当)、[[内閣官房]][[内閣審議官]](内閣官房副長官補付)併内閣府大臣官房審議官(科学技術・イノベーション担当)などを歴任<ref name="新春対談"/><ref name="経産研"/><ref name="近未来フォーラム"/>。 立地政策、石油代替エネルギー政策、科学技術政策 、商品取引政策、自由時間政策、[[世界貿易機関]]、[[アジア太平洋経済協力]]、[[サービス産業]]などを担当した<ref name="経産研"/>他、インターネット黎明期にインターネットビジネスを立ち上げて海外とのネットワーク形成に関わり、医療情報のデジタル化等に携わった<ref name="JST">{{Cite web|和書|url=https://www.jst.go.jp/ristex/hite/topics/435/Akashi_Koichi.html|title=赤石浩一|accessdate=2021-12-26|publisher=[[科学技術振興機構]]}}</ref><ref name="aisum">{{Cite web|和書|url=https://2019.aisum.jp/ja/speakers/recD4U7jojOc6r6Ny/profile|title= 赤石 浩一 内閣府 政策統括官(科学技術・イノベーション担当)|accessdate=2021-12-26|publisher=日本経済新聞社}}</ref>。また、[[小泉内閣|小泉政権]]下における経済産業省内のIT本部創設、[[民主党政権]]下における経済産業省の情報政策全般の総括を担い<ref name="JST"/>、[[安倍内閣#第2次安倍政権|第2次安倍政権]]下では[[アベノミクス]]の第三の柱を担当<ref name="JST"/>。デジタル化へ向けた全般的な[[構造改革]]を打ち出し、[[日本・オーストラリア経済連携協定]]の交渉などをまとめた<ref name="JST"/>。 2018年(平成30年)7月27日、[[内閣府]][[政策統括官]](科学技術・イノベーション担当)に就任<ref name="内閣府辞令18"/>。在任中、[[ソサエティー5.0]]、[[人工知能|AI]]戦略、スマートシティプラットフォーム、セキュリティを含んだサイバーフィジカルR&D等を推進した<ref name="aisum"/>。 2019年([[令和]]元年)7月9日、[[内閣官房]][[内閣審議官]]に就任<ref name="日経190702"/>。 2021年(令和3年)4月1日、内閣府科学技術・イノベーション推進事務局長に就任<ref name="朝日210401"/>。同年9月1日、[[デジタル庁]]デジタル審議官に就任<ref name="デジ21"/>。 2023年(令和5年)7月7日、退職<ref name="デジ230707"/>。 == 人物 == * 小学生の頃に寸劇でサラリーマンの「ペーぺー」を演じた経緯で同級生から「ペーぺー」という愛称で呼ばれていた<ref name="日経191105"/>。 * 経済学者の[[松井彰彦]]とは[[イギリス]]・[[サセックス]]の[[立教英国学院]]で出会い、小学生の頃は彼と[[サッカー]]に興じる仲であった<ref name="日経191105"/>。大学卒業後は音信不通となっていたが、赤石が経済産業研究所に勤めていた頃に再会した<ref name="日経191105"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書| title = 政官要覧 令和4年春号| publisher = 政官要覧社| date = 2022-01-27|ref = 政官要覧2022}} {{Start box}} {{S-gov}} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[デジタル庁]]デジタル審議官 | years = 2021年 - 2023年 | before = 新設 | after = [[二宮清治]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣府]]科学技術・イノベーション推進事務局長 | years = 2021年 | before = 新設 | after = [[松尾泰樹]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|JPN}} 内閣府[[政策統括官]](科学技術・イノベーション担当) | years = 2018年 - 2019年 | before = [[山脇良雄]] | after = 松尾泰樹 }} {{End box}} {{デフォルトソート:あかいし こういち}} [[Category:日本の経産官僚]] [[Category:日本の内閣府官僚]] [[Category:日本の内閣官房官僚]] [[Category:日本のデジタル官僚]] [[Category:経済産業研究所の人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:法学士取得者]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:存命人物]]
2021-12-26T18:56:23Z
2023-12-02T20:55:18Z
false
false
false
[ "Template:官僚", "Template:Sfn", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite news", "Template:Start box", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Citation", "Template:S-gov", "Template:Succession box", "Template:End box" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%9F%B3%E6%B5%A9%E4%B8%80
3,718,051
金徳現
金 徳現(キム・ドクヒョン、英語: Kim Deokhyeon、朝鮮語: 김덕현、1985年12月8日 ‐ )は、韓国・全羅南道宝城郡出身の陸上競技選手。専門は走幅跳と三段跳。走幅跳で8m22、三段跳で17m10の自己ベストを持つ、両種目の韓国記録保持者。オリンピックでは予選を突破できていないが、世界選手権では2007年大阪大会男子三段跳と2011年大邱大会男子走幅跳で決勝に進出している。また、アジア大会、アジア選手権、ユニバーシアードなどの国際大会では金メダルを獲得している。 2005年、自国開催となった9月の仁川アジア選手権 (en) 男子三段跳で16m78をマークし、1994年にPark Min-Sooが作った16m73の韓国記録を11年ぶり塗り替えて銅メダルを獲得した。11月の東アジア大会 (en) 男子三段跳では韓国新記録および大会新記録の16m79(+1.2)で優勝した。 2006年、シニア世界大会デビューとなった3月のモスクワ世界室内選手権男子三段跳では、15m99の室内韓国新記録をマークするも予選全体21位に終わった。9月のスーパー陸上横浜男子三段跳で自身の持つ韓国記録(16m79)を更新する16m88をマークすると、10月の大韓民国全国体育大会男子三段跳では韓国人初の17m超えとなる17m07(0.0)をマークした。 2007年、8月のバンコクユニバーシアード (en) 男子三段跳では出場選手唯一の17m超えとなる17m02(+0.7)で優勝を飾り、主要世界大会(オリンピック、世界選手権、世界室内選手権、世界ジュニア選手権、世界ユース選手権、ユニバーシアード)の三段跳で韓国人初となる金メダルを獲得した。屋外シニア世界大会デビューとなった同月の大阪世界選手権男子三段跳は、予選を全体8位の16m78(-0.3)で通過し、1997年アテネ大会と1999年セビリア大会の男子走高跳で8位と6位に入ったLee Jin-taek、1999年セビリア大会の女子砲丸投で10位に入ったLee Myung-sunに次ぐ、フィールド種目で韓国人3人目のファイナリストとなった。決勝は16m71(+1.1)と記録を落として9位に終わり、入賞には14cm届かなかった。 2008年、10月14日の大韓民国全国体育大会男子走幅跳で8m13(+1.3)をマーク。1987年のKim Won-jin(8m03)、1988年のKim Jong-il(8m)、1998年のSung Hee-Jun(8m01)に次ぐ、韓国人4人目の8mジャンパーとなり、Kim Won-jinの韓国記録を21年ぶりに塗り替えた。 2009年、6月5日の韓国選手権男子三段跳で17m10(+1.3)をマークし、自身の持つ韓国記録(17m07)を3年ぶりに更新した。7月のベオグラードユニバーシアード (en) には男子走幅跳と男子三段跳の2種目に出場すると、最初に行われた男子三段跳は16m75(+0.5)の5位に終わり連覇を逃した。しかし、男子走幅跳では決勝において、追い風参考記録ながら自己ベストおよび韓国記録を大幅に上回る8m41(+3.5)、公認記録では8m20(+0.4)の韓国新記録をマークするなど、8m超えを5回マークして優勝し、主要世界大会の走幅跳で韓国人初となる金メダルを獲得した。8月のベルリン世界選手権男子走幅跳では決勝進出に2cm届かず、7m99(-0.7)の予選全体15位に終わった。 2010年、11月の広州アジア大会男子走幅跳を8m11(-0.2)で制し、この種目では1958年東京大会のSuh Yong-joo、1982年ニューデリー大会と1986年ソウル大会のKim Won-jinに次ぐ、韓国人3人目のチャンピオンとなった。 2011年、自国開催となった9月の大邱世界選手権では、男子走幅跳予選を全体11位の8m02(+0.4)で通過し、この種目では韓国人初となる決勝に進出した。しかし、男子走幅跳決勝の前に行われた男子三段跳予選で脚を負傷したため、決勝を棄権した。なお、自国開催となった今大会において、予選ラウンドを通過して決勝に進出した韓国人選手は金徳現だけだった(一発決勝の種目は除く)。 2015年、6月の武漢アジア選手権男子三段跳を16m86(-0.1)で制し、2014年仁川アジア大会チャンピオンの曹碩(英語版)(16m77)などを抑え、この種目では初のアジアタイトルを獲得した。また、この種目では1987年シンガポール大会のPark Young-Junに次ぐ、韓国人2人目のチャンピオンとなった。アジアチャンピオンとして臨んだ8月の北京世界選手権男子三段跳は決勝進出に1cm届かず、16m72(+0.3)の予選全体14位に終わった。 2016年、6月10日のMESSE RIED LA-MEETING男子走幅跳で8m22(+0.4)をマークし、自身の持つ韓国記録(8m20)を7年ぶりに更新した。8月のリオデジャネイロオリンピック男子走幅跳では決勝進出に3cm届かず、7m82(+0.1)の予選全体14位に終わった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "金 徳現(キム・ドクヒョン、英語: Kim Deokhyeon、朝鮮語: 김덕현、1985年12月8日 ‐ )は、韓国・全羅南道宝城郡出身の陸上競技選手。専門は走幅跳と三段跳。走幅跳で8m22、三段跳で17m10の自己ベストを持つ、両種目の韓国記録保持者。オリンピックでは予選を突破できていないが、世界選手権では2007年大阪大会男子三段跳と2011年大邱大会男子走幅跳で決勝に進出している。また、アジア大会、アジア選手権、ユニバーシアードなどの国際大会では金メダルを獲得している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2005年、自国開催となった9月の仁川アジア選手権 (en) 男子三段跳で16m78をマークし、1994年にPark Min-Sooが作った16m73の韓国記録を11年ぶり塗り替えて銅メダルを獲得した。11月の東アジア大会 (en) 男子三段跳では韓国新記録および大会新記録の16m79(+1.2)で優勝した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2006年、シニア世界大会デビューとなった3月のモスクワ世界室内選手権男子三段跳では、15m99の室内韓国新記録をマークするも予選全体21位に終わった。9月のスーパー陸上横浜男子三段跳で自身の持つ韓国記録(16m79)を更新する16m88をマークすると、10月の大韓民国全国体育大会男子三段跳では韓国人初の17m超えとなる17m07(0.0)をマークした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2007年、8月のバンコクユニバーシアード (en) 男子三段跳では出場選手唯一の17m超えとなる17m02(+0.7)で優勝を飾り、主要世界大会(オリンピック、世界選手権、世界室内選手権、世界ジュニア選手権、世界ユース選手権、ユニバーシアード)の三段跳で韓国人初となる金メダルを獲得した。屋外シニア世界大会デビューとなった同月の大阪世界選手権男子三段跳は、予選を全体8位の16m78(-0.3)で通過し、1997年アテネ大会と1999年セビリア大会の男子走高跳で8位と6位に入ったLee Jin-taek、1999年セビリア大会の女子砲丸投で10位に入ったLee Myung-sunに次ぐ、フィールド種目で韓国人3人目のファイナリストとなった。決勝は16m71(+1.1)と記録を落として9位に終わり、入賞には14cm届かなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2008年、10月14日の大韓民国全国体育大会男子走幅跳で8m13(+1.3)をマーク。1987年のKim Won-jin(8m03)、1988年のKim Jong-il(8m)、1998年のSung Hee-Jun(8m01)に次ぐ、韓国人4人目の8mジャンパーとなり、Kim Won-jinの韓国記録を21年ぶりに塗り替えた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2009年、6月5日の韓国選手権男子三段跳で17m10(+1.3)をマークし、自身の持つ韓国記録(17m07)を3年ぶりに更新した。7月のベオグラードユニバーシアード (en) には男子走幅跳と男子三段跳の2種目に出場すると、最初に行われた男子三段跳は16m75(+0.5)の5位に終わり連覇を逃した。しかし、男子走幅跳では決勝において、追い風参考記録ながら自己ベストおよび韓国記録を大幅に上回る8m41(+3.5)、公認記録では8m20(+0.4)の韓国新記録をマークするなど、8m超えを5回マークして優勝し、主要世界大会の走幅跳で韓国人初となる金メダルを獲得した。8月のベルリン世界選手権男子走幅跳では決勝進出に2cm届かず、7m99(-0.7)の予選全体15位に終わった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2010年、11月の広州アジア大会男子走幅跳を8m11(-0.2)で制し、この種目では1958年東京大会のSuh Yong-joo、1982年ニューデリー大会と1986年ソウル大会のKim Won-jinに次ぐ、韓国人3人目のチャンピオンとなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2011年、自国開催となった9月の大邱世界選手権では、男子走幅跳予選を全体11位の8m02(+0.4)で通過し、この種目では韓国人初となる決勝に進出した。しかし、男子走幅跳決勝の前に行われた男子三段跳予選で脚を負傷したため、決勝を棄権した。なお、自国開催となった今大会において、予選ラウンドを通過して決勝に進出した韓国人選手は金徳現だけだった(一発決勝の種目は除く)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2015年、6月の武漢アジア選手権男子三段跳を16m86(-0.1)で制し、2014年仁川アジア大会チャンピオンの曹碩(英語版)(16m77)などを抑え、この種目では初のアジアタイトルを獲得した。また、この種目では1987年シンガポール大会のPark Young-Junに次ぐ、韓国人2人目のチャンピオンとなった。アジアチャンピオンとして臨んだ8月の北京世界選手権男子三段跳は決勝進出に1cm届かず、16m72(+0.3)の予選全体14位に終わった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2016年、6月10日のMESSE RIED LA-MEETING男子走幅跳で8m22(+0.4)をマークし、自身の持つ韓国記録(8m20)を7年ぶりに更新した。8月のリオデジャネイロオリンピック男子走幅跳では決勝進出に3cm届かず、7m82(+0.1)の予選全体14位に終わった。", "title": "経歴" } ]
金 徳現は、韓国・全羅南道宝城郡出身の陸上競技選手。専門は走幅跳と三段跳。走幅跳で8m22、三段跳で17m10の自己ベストを持つ、両種目の韓国記録保持者。オリンピックでは予選を突破できていないが、世界選手権では2007年大阪大会男子三段跳と2011年大邱大会男子走幅跳で決勝に進出している。また、アジア大会、アジア選手権、ユニバーシアードなどの国際大会では金メダルを獲得している。
{{Infobox 陸上選手 | 氏名 = 金 徳現 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | フルネーム = キム・ドクヒョン | ラテン文字 = Kim Deokhyeon | 愛称 = | 国籍 = {{KOR}} | 競技 = [[陸上競技]] (跳躍) | 種目 = [[走幅跳]]<br />[[三段跳]] | 所属 = | 大学 = {{Flagicon|KOR}} [[朝鮮大学校 (韓国)|朝鮮大学校]] | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1985|12|8}} | 出身地 = {{Flagicon|KOR}} [[全羅南道]][[宝城郡]] | 居住地 = | 没年月日 = | 死没地 = | 身長 = 180cm | 体重 = 68kg | turnedpro = | コーチ担当者 = | 引退 = | コーチ = | 公式サイト = | highestranking = Yes | オリンピック = '''走幅跳''' 予選14位 ([[2016年リオデジャネイロオリンピックの陸上競技|2016年]])<br />'''三段跳''' 予選18位 ([[2008年北京オリンピックの陸上競技|2008年]]) | 世界選手権 = '''走幅跳''' 決勝棄権 ([[2011年世界陸上競技選手権大会|2011年]])<br />'''三段跳''' 9位 ([[2007年世界陸上競技選手権大会|2007年]]) | 地域大会 = '''[[アジア競技大会陸上競技|アジア大会]]'''<br />'''走幅跳''' 優勝 ([[2010年アジア競技大会における陸上競技|2010年]])<br />'''三段跳''' 3位 ([[2006年アジア競技大会における陸上競技|2006年]], [[2014年アジア競技大会における陸上競技|2014年]]) | 国内大会 = | 世界ランク = | personalbests = Yes | 走幅跳 = 8m22 (2016年) [[File:Sport records icon NR.svg|22px|text-bottom|韓国記録]]<br />8m41[[追い風参考記録|w]] (2009年) | 三段跳 = 17m10 (2009年) [[File:Sport records icon NR.svg|22px|text-bottom|韓国記録]] | show-medals = | medaltemplates = {{MedalSport|男子 [[陸上競技]]}} {{MedalCountry | {{KOR}} }} {{MedalCompetition|[[アジア競技大会陸上競技|アジア大会]]}} {{MedalGold|[[2010年アジア競技大会における陸上競技|2010 広州]]|[[走幅跳]]}} {{MedalSilver|[[2014年アジア競技大会における陸上競技|2014 仁川]]|走幅跳}} {{MedalBronze|[[2006年アジア競技大会における陸上競技|2006 ドーハ]]|[[三段跳]]}} {{MedalBronze|2014 仁川|三段跳}} {{MedalCompetition|[[アジア陸上競技選手権大会|アジア選手権]]}} {{MedalGold|[[2015年アジア陸上競技選手権大会|2015 武漢]]|三段跳}} {{MedalSilver|2007 アンマン|三段跳}} {{MedalBronze|2005 仁川|三段跳}} {{MedalCompetition|[[東アジア競技大会|東アジア大会]]}} {{MedalGold|[[2005年東アジア競技大会|2005 マカオ]]|三段跳}} {{MedalCompetition|[[ユニバーシアード陸上競技|ユニバーシアード]]}} {{MedalGold|[[2007年夏季ユニバーシアード|2007 バンコク]]|三段跳}} {{MedalGold|[[2009年夏季ユニバーシアード|2009 ベオグラード]]|走幅跳}} }} '''金 徳現'''(キム・ドクヒョン、{{lang-en|Kim Deokhyeon}}、{{lang-ko|김덕현}}、[[1985年]][[12月8日]] ‐ )は、[[韓国]]・[[全羅南道]][[宝城郡]]出身の[[陸上競技]]選手。専門は[[走幅跳]]と[[三段跳]]。走幅跳で8m22、三段跳で17m10の自己ベストを持つ、両種目の韓国記録保持者。[[オリンピック陸上競技|オリンピック]]では予選を突破できていないが、[[世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]では[[2007年世界陸上競技選手権大会|2007年大阪大会]]男子三段跳と[[2011年世界陸上競技選手権大会|2011年大邱大会]]男子走幅跳で決勝に進出している。また、[[アジア競技大会陸上競技|アジア大会]]、[[アジア陸上競技選手権大会|アジア選手権]]、[[ユニバーシアード陸上競技|ユニバーシアード]]などの国際大会では金メダルを獲得している。 == 経歴 == 2005年、自国開催となった9月の[[アジア陸上競技選手権大会|仁川アジア選手権]]{{enlink|2005 Asian Athletics Championships|a=on}}男子三段跳で16m78をマークし、1994年にPark Min-Sooが作った16m73の韓国記録を11年ぶり塗り替えて銅メダルを獲得した。11月の[[2005年東アジア競技大会|東アジア大会]]{{enlink|Athletics at the 2005 East Asian Games|a=on}}男子三段跳では韓国新記録および大会新記録の16m79(+1.2)で優勝した<ref>{{cite web|url=http://www.knnews.co.kr/news/articleView.php?idxno=534235 |title=(동아대회) 김덕현 세단뛰기 한국新 `금' |publisher=''[[慶南新聞]]'' |date=2005-11-05 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>。 2006年、シニア世界大会デビューとなった3月の[[2006年世界室内陸上競技選手権大会|モスクワ世界室内選手権]]男子三段跳では、15m99の室内韓国新記録をマークするも予選全体21位に終わった<ref>{{PDFlink|[https://www.iaaf.org/download/competition?filename&#61;AT-TJ-M-Q----.RS6.pdf&path&#61;%5Cpdf%5C3483%5C&urlslug&#61;triple-jump-Official%20Results&updatedOn&#61;11%2F09%2F2012%2012%3A59%3A21 2006年世界室内選手権男子三段跳予選リザルト]|218&nbsp;[[キロバイト|KB]]}} ''[[国際陸上競技連盟]]'' 2017年12月18日閲覧</ref>。9月の[[スーパー陸上|スーパー陸上横浜]]男子三段跳で自身の持つ韓国記録(16m79)を更新する16m88をマークすると<ref>{{cite web|url=http://www.hani.co.kr/arti/sports/sports_general/159755.html |title=김덕현, 육상 세단뛰기 한국기록 |publisher=''[[ハンギョレ]]'' |date=2006-09-24 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>、10月の[[大韓民国全国体育大会]]男子三段跳では韓国人初の17m超えとなる17m07(0.0)をマークした<ref>{{cite web|url=http://www.hani.co.kr/arti/sports/sports_general/165716.html |title=세단뛰기 김덕현, 한국신 |publisher=''[[ハンギョレ]]'' |date=2006-10-19 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>。 2007年、8月の[[2007年夏季ユニバーシアード|バンコクユニバーシアード]]{{enlink|Athletics at the 2007 Summer Universiade|a=on}}男子三段跳では出場選手唯一の17m超えとなる17m02(+0.7)で優勝を飾り<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20120809052026/http://www.athletics.ca/files/FISUGAMES%20-%20FINALS2007.PDF 2007年ユニバーシアード決勝リザルト / 27ページ参照]|488&nbsp;[[キロバイト|KB]]}} ''[[2007年夏季ユニバーシアード|2007年ユニバーシアード]]'' 2017年12月18日閲覧</ref>、主要世界大会([[オリンピック陸上競技|オリンピック]]、[[世界陸上競技選手権大会|世界選手権]]、[[世界室内陸上競技選手権大会|世界室内選手権]]、[[世界ジュニア陸上競技選手権大会|世界ジュニア選手権]]、[[世界ユース陸上競技選手権大会|世界ユース選手権]]、[[ユニバーシアード陸上競技|ユニバーシアード]])の三段跳で韓国人初となる金メダルを獲得した<ref name="IAAF2015SH">{{PDFlink|[http://iaaf-ebooks.s3.amazonaws.com/2015/Beijing-2015-Statistics-Handbook/projet/IAAF-World-Championships-Beijing-2015.pdf World Championships Beijing 2015 Athletics Statistics Handbook / RESULTS FROM PAST MAJOR CHAMPIONSHIPS(81-490ページ参照)]|70.89&nbsp;[[メガバイト|MB]]}} [[国際陸上競技連盟]] 2017年12月18日閲覧</ref>。屋外シニア世界大会デビューとなった同月の[[2007年世界陸上競技選手権大会|大阪世界選手権]]男子三段跳は、予選を全体8位の16m78(-0.3)で通過し<ref>{{PDFlink|[https://www.iaaf.org/download/competition?filename&#61;AT-TJ-M-Q----.RS6.pdf&path&#61;%5Cpdf%5C3653%5C&urlslug&#61;triple-jump-Official%20Results&updatedOn&#61;08%2F12%2F2013%2013%3A30%3A50 2007年世界選手権男子三段跳予選リザルト]|273&nbsp;[[キロバイト|KB]]}} ''[[国際陸上競技連盟]]'' 2017年12月18日閲覧</ref>、[[1997年世界陸上競技選手権大会|1997年アテネ大会]]と[[1999年世界陸上競技選手権大会|1999年セビリア大会]]の男子走高跳で8位と6位に入った[[:en:Lee Jin-taek|Lee Jin-taek]]、1999年セビリア大会の女子砲丸投で10位に入った[[:en:Lee Myung-sun|Lee Myung-sun]]に次ぐ、フィールド種目で韓国人3人目のファイナリストとなった<ref>{{cite web|url=http://www.hani.co.kr/arti/sports/sports_general/231400.html |title=세단뛰기 김덕현, 8년만에 결승 진출 |publisher=''[[ハンギョレ]]'' |date=2007-08-25 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>。決勝は16m71(+1.1)と記録を落として9位に終わり、入賞には14cm届かなかった<ref>{{PDFlink|[https://www.iaaf.org/download/competition?filename&#61;AT-TJ-M-F--A--.RS1.pdf&path&#61;%5Cpdf%5C3653%5C&urlslug&#61;triple-jump-Official%20Results&updatedOn&#61;08%2F12%2F2013%2013%3A30%3A48 2007年世界選手権男子三段跳決勝リザルト]|242&nbsp;[[キロバイト|KB]]}} ''[[国際陸上競技連盟]]'' 2017年12月18日閲覧</ref>。 2008年、10月14日の大韓民国全国体育大会男子走幅跳で8m13(+1.3)をマーク。1987年の[[:en:Kim Won-jin (athlete)|Kim Won-jin]](8m03)、1988年の[[:en:Kim Jong-il (athlete)|Kim Jong-il]](8m)、1998年の[[:en:Sung Hee-Jun|Sung Hee-Jun]](8m01)に次ぐ、韓国人4人目の8mジャンパーとなり、Kim Won-jinの韓国記録を21年ぶりに塗り替えた<ref>{{cite web|url=http://www.hani.co.kr/arti/sports/sports_general/315962.html |title=멀리뛰기 김덕현, 21년만에 한국신 |publisher=''[[ハンギョレ]]'' |date=2008-10-15 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>。 2009年、6月5日の韓国選手権男子三段跳で17m10(+1.3)をマークし、自身の持つ韓国記録(17m07)を3年ぶりに更新した<ref>{{cite web|url=http://www.chosun.com/site/data/html_dir/2009/06/05/2009060501706.html |title=김덕현 세단뛰기 17m10 한국신기록 |publisher=''[[朝鮮日報]]'' |date=2009-06-06 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>。7月の[[2009年夏季ユニバーシアード|ベオグラードユニバーシアード]]{{enlink|Athletics at the 2009 Summer Universiade|a=on}}には男子走幅跳と男子三段跳の2種目に出場すると、最初に行われた男子三段跳は16m75(+0.5)の5位に終わり連覇を逃した<ref>{{Cite web|和書|url=http://results.ub2009.org:80/results/ENG/AT/ATR173A_AT0062E0000001ENG.htm |title=2009年ユニバーシアード男子三段跳決勝リザルト |publisher=''[[2009年夏季ユニバーシアード|2009年ユニバーシアード]]'' |accessdate=2017-12-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091125051925/http://results.ub2009.org:80/results/ENG/AT/ATR173A_AT0062E0000001ENG.htm |archivedate=2009-07}}</ref>。しかし、男子走幅跳では決勝において、[[追い風参考記録]]ながら自己ベストおよび韓国記録を大幅に上回る8m41(+3.5)、公認記録では8m20(+0.4)の韓国新記録をマークするなど、8m超えを5回マークして優勝し<ref>{{Cite web|和書|url=http://results.ub2009.org:80/results/ENG/AT/ATR173A_AT0061E0000001ENG.htm |title=2009年ユニバーシアード男子走幅跳決勝リザルト |publisher=''[[2009年夏季ユニバーシアード]]'' |accessdate=2017-12-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091129221251/http://results.ub2009.org:80/results/ENG/AT/ATR173A_AT0061E0000001ENG.htm |archivedate=2009-07}}</ref>、{{abbr|主要世界大会|オリンピック、世界選手権、世界室内選手権、世界ジュニア選手権、世界ユース選手権、ユニバーシアード}}の走幅跳で韓国人初となる金メダルを獲得した<ref name="IAAF2015SH" />。8月の[[2009年世界陸上競技選手権大会|ベルリン世界選手権]]男子走幅跳では決勝進出に2cm届かず、7m99(-0.7)の予選全体15位に終わった<ref>{{PDFlink|[https://www.iaaf.org/download/competition?filename&#61;AT-LJ-M-Q----.RS6.pdf&path&#61;%5Cpdf%5C3658%5C&urlslug&#61;long-jump-Official%20Results&updatedOn&#61;11%2F09%2F2012%2012%3A59%3A41 2009年世界選手権男子走幅跳予選リザルト]|107&nbsp;[[キロバイト|KB]]}} ''[[国際陸上競技連盟]]'' 2017年12月18日閲覧</ref>。 2010年、11月の[[2010年アジア競技大会における陸上競技|広州アジア大会]]男子走幅跳を8m11(-0.2)で制し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.todor66.com/athletics/Asian_Games/2010/Men_Long_Jump.html |title=2010年アジア大会男子走幅跳決勝リザルト |publisher=''Todor 66'' |date=2017-12-18 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>、この種目では[[1958年アジア競技大会|1958年東京大会]]の[[:en:Suh Yong-joo|Suh Yong-joo]]、[[1982年アジア競技大会|1982年ニューデリー大会]]と[[1986年アジア競技大会|1986年ソウル大会]]のKim Won-jinに次ぐ、韓国人3人目のチャンピオンとなった<ref name="IAAF2015SH" />。 2011年、自国開催となった9月の[[2011年世界陸上競技選手権大会|大邱世界選手権]]では、男子走幅跳予選を全体11位の8m02(+0.4)で通過し、この種目では韓国人初となる決勝に進出した<ref>{{PDFlink|[https://www.iaaf.org/download/competition?filename&#61;AT-LJ-M-q----.RS6.pdf&path&#61;%5Cpdf%5C4147%5C&urlslug&#61;long-jump-Official%20Results&updatedOn&#61;11%2F09%2F2012%2013%3A00%3A07 2011年世界選手権男子走幅跳予選リザルト]|169&nbsp;[[キロバイト|KB]]}} ''[[国際陸上競技連盟]]'' 2017年12月18日閲覧</ref><ref name="IAAF2015SH" />。しかし、男子走幅跳決勝の前に行われた男子三段跳予選で脚を負傷したため、決勝を棄権した<ref>{{Cite web|和書|url=http://japanese.joins.com/article/470/143470.html |title=<大邱世界陸上>キム・ドクヒョン、けがでトップ10の夢消える |publisher=''[[中央日報]](日本語版)'' |date=2011-09-03 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>。なお、自国開催となった今大会において、予選ラウンドを通過して決勝に進出した韓国人選手は金徳現だけだった(一発決勝の種目は除く)<ref>{{Cite web|和書|url=http://japanese.joins.com/article/490/143490.html?servcode=600&sectcode=600 |title=国際陸上競技連盟会長「大邱大会、陸上の面白さを見せた模範大会」 |publisher=''[[中央日報]](日本語版)'' |date=2011-09-05 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>。 2015年、6月の[[2015年アジア陸上競技選手権大会|武漢アジア選手権]]男子三段跳を16m86(-0.1)で制し、[[2014年アジア競技大会における陸上競技|2014年仁川アジア大会]]チャンピオンの{{仮リンク|曹碩|en|Cao Shuo}}(16m77)などを抑え、この種目では初のアジアタイトルを獲得した。また、この種目では1987年シンガポール大会のPark Young-Junに次ぐ、韓国人2人目のチャンピオンとなった<ref>{{PDFlink|[http://athleticsasia.org/index.php/results/21st-asian-athletics-championships-3-7-june-2015/41-asian-athletics-championship-2015-final-results/file 2015年アジア選手権リザルト(40ページ参照)]|581&nbsp;[[キロバイト|KB]]}} ''[[2015年アジア陸上競技選手権大会|2015年アジア選手権]]'' 2017年12月18日閲覧</ref><ref name="IAAF2015SH" />。アジアチャンピオンとして臨んだ8月の[[2015年世界陸上競技選手権大会|北京世界選手権]][[2015年世界陸上競技選手権大会・男子三段跳|男子三段跳]]は決勝進出に1cm届かず、16m72(+0.3)の予選全体14位に終わった<ref>{{PDFlink|[https://www.iaaf.org/download/competition?filename&#61;AT-TJ-M-q----.RS6.pdf&path&#61;%5Cpdf%5C4875%5C&urlslug&#61;triple-jump-Official%20Results&updatedOn&#61;08%2F26%2F2015%2002%3A59%3A01 2015年世界選手権男子三段跳予選リザルト]|234&nbsp;[[キロバイト|KB]]}} ''[[国際陸上競技連盟]]'' 2017年12月18日閲覧</ref>。 2016年、6月10日のMESSE RIED LA-MEETING男子走幅跳で8m22(+0.4)をマークし、自身の持つ韓国記録(8m20)を7年ぶりに更新した<ref>{{cite web|url=http://www.hani.co.kr/arti/sports/sports_general/747799.html |title=김덕현, 8m22…리우까지 뛰었다 |publisher=''[[ハンギョレ]]'' |date=2016-06-12 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>。8月の[[2016年リオデジャネイロオリンピックの陸上競技|リオデジャネイロオリンピック]]男子走幅跳では決勝進出に3cm届かず、7m82(+0.1)の予選全体14位に終わった<ref>{{cite web|url=https://www.iaaf.org/results/olympic-games/2016/the-xxxi-olympic-games-5771/men/long-jump/qualification/summary |title=2016年オリンピック男子走幅跳予選サマリー |publisher=''[[国際陸上競技連盟]]'' |date=2017-12-18 |accessdate=2017-12-18 }}</ref>。 == 自己ベスト == * 記録欄の( )内の数字は[[風速]]([[メートル毎秒|m/s]])で、+は追い風<!--、-は向かい風-->を意味する。 {| class="wikitable" ! 種目 ! 記録 ! 年月日 ! 場所 ! 備考 |- ! colspan="5" | 屋外 |- | rowspan="2" | [[走幅跳]] | 8m22 (+0.4) | 2016年6月10日 | {{Flagicon|AUT}} [[リート・イム・インクライス郡|リート]] | 韓国記録 |- | 8m41w (+3.5) | 2009年7月12日 | {{Flagicon|SRB}} [[ベオグラード]] | [[追い風参考記録]] |- | [[三段跳]] | 17m10 (+1.3) | 2009年6月5日 | {{Flagicon|KOR}} [[大邱広域市|大邱]] | 韓国記録 |- ! colspan="5" | 室内 |- | 三段跳 | 15m99 | 2006年3月11日 | {{Flagicon|RUS}} [[モスクワ]] | 室内韓国記録 |- |} == 主要大会成績 == * 備考欄の記録は当時のもの {| class="wikitable sortable" ! 年 ! 大会 ! 場所 ! 種目 ! 結果 ! 記録 ! 備考 |- | rowspan="2" | 2004 | rowspan="2" | [[2004年世界ジュニア陸上競技選手権大会|世界ジュニア選手権]] | rowspan="2" | {{Flagicon|ITA}} [[グロッセート]] | 走幅跳 | style="text-align: center;" | 予選 | 7m12 (-1.2) | |- | 三段跳 | style="text-align: center;" | 予選 | 15m40 (-0.4) | |- | rowspan="2" | 2005 | [[アジア陸上競技選手権大会|アジア選手権]]{{enlink|2005 Asian Athletics Championships|a=on}} | {{Flagicon|KOR}} [[仁川広域市|仁川]] | 三段跳 | style="background-color: #CC9966; text-align: center;" | 3位 | 16m78 | 韓国記録 |- | [[2005年東アジア競技大会|東アジア大会]]{{enlink|Athletics at the 2005 East Asian Games|a=on}} | {{Flagicon|CHN}} [[マカオ]] | 三段跳 | style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝 | 16m79 (+1.2) | 韓国記録<br />大会記録 |- | rowspan="2" | 2006 | [[2006年世界室内陸上競技選手権大会|世界室内選手権]] | {{Flagicon|RUS}} [[モスクワ]] | 三段跳 | style="text-align: center;" | 予選 | 15m99 | 室内韓国記録 |- | [[2006年アジア競技大会における陸上競技|アジア大会]] | {{Flagicon|QAT}} [[ドーハ]] | 三段跳 | style="background-color: #CC9966; text-align: center;" | 3位 | 16m87 (+0.5) | |- | rowspan="3" | 2007 | [[アジア陸上競技選手権大会|アジア選手権]]{{enlink|2007 Asian Athletics Championships|a=on}} | {{Flagicon|JOR}} [[アンマン]] | 三段跳 | style="background-color: silver; text-align: center;" | 2位 | 17m00 (+1.8) | |- | [[2007年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]{{enlink|Athletics at the 2007 Summer Universiade|a=on}} | {{Flagicon|THA}} [[バンコク]] | 三段跳 | style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝 | 17m02 (+0.7) | |- | [[2007年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]] | {{Flagicon|JPN}} [[大阪市|大阪]] | 三段跳 | style="text-align: center;" | 9位 | 16m71 (+1.1) | 予選16m78 (-0.3) |- | 2008 | [[2008年北京オリンピックの陸上競技|オリンピック]] | {{Flagicon|CHN}} [[北京市|北京]] | 三段跳 | style="text-align: center;" | 予選 | 16m88 (+0.4) | |- | rowspan="5" | 2009 | rowspan="2" | [[2009年夏季ユニバーシアード|ユニバーシアード]]{{enlink|Athletics at the 2009 Summer Universiade|a=on}} | rowspan="2" | {{Flagicon|SRB}} [[ベオグラード]] | 走幅跳 | style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝 | 8m41 (+3.5) | 公認記録8m20 (+0.4):韓国記録 |- | 三段跳 | style="text-align: center;" | 5位 | 16m75 (+0.5) | |- | rowspan="2" | [[2009年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]] | rowspan="2" | {{Flagicon|GER}} [[ベルリン]] | 走幅跳 | style="text-align: center;" | 予選 | 7m99 (-0.7) | |- | 三段跳 | style="text-align: center;" | 予選 | 16m58 (-0.2) | |- | [[アジア陸上競技選手権大会|アジア選手権]]{{enlink|2009 Asian Athletics Championships|a=on}} | {{Flagicon|CHN}} [[広州市|広州]] | 走幅跳 | style="text-align: center;" | 4位 | 7m93 (+1.6) | |- | rowspan="2" | 2010 | rowspan="2" | [[2010年アジア競技大会における陸上競技|アジア大会]] | rowspan="2" | {{Flagicon|CHN}} [[広州市|広州]] | 走幅跳 | style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝 | 8m11 (-0.2) | |- | 三段跳 | style="text-align: center;" | 5位 | 16m56 (+0.6) | |- | rowspan="2" | 2011 | rowspan="2" | [[2011年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]] | rowspan="2" | {{Flagicon|KOR}} [[大邱広域市|大邱]] | 走幅跳 | style="text-align: center;" | 決勝 | {{abbr|DNS|Did Not Start (棄権)}} | 予選8m02 (+0.4) |- | 三段跳 | style="text-align: center;" | 予選 | {{abbr|NM|No Mark (記録なし)}} | |- | 2012 | [[2012年ロンドンオリンピックの陸上競技|オリンピック]] | {{Flagicon|GBR}} [[ロンドン]] | 三段跳 | style="text-align: center;" | 予選 | 16m22 (-0.3) | |- | rowspan="2" | 2014 | rowspan="2" | [[2014年アジア競技大会における陸上競技|アジア大会]] | rowspan="2" | {{Flagicon|KOR}} [[仁川広域市|仁川]] | 走幅跳 | style="background-color: silver; text-align: center;" | 2位 | 7m90 (-0.2) | |- | 三段跳 | style="background-color: #CC9966; text-align: center;" | 3位 | 16m93 (+1.4) | |- | rowspan="2" | 2015 | [[2015年アジア陸上競技選手権大会|アジア選手権]] | {{Flagicon|CHN}} [[武漢市|武漢]] | 三段跳 | style="background-color: gold; text-align: center;" | 優勝 | 16m86 (-0.1) | |- | [[2015年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]] | {{Flagicon|CHN}} [[北京市|北京]] | [[2015年世界陸上競技選手権大会・男子三段跳|三段跳]] | style="text-align: center;" | 予選 | 16m72 (+0.3) | |- | rowspan="2" | 2016 | rowspan="2" | [[2016年リオデジャネイロオリンピックの陸上競技|オリンピック]] | rowspan="2" | {{Flagicon|BRA}} [[リオデジャネイロ]] | 走幅跳 | style="text-align: center;" | 予選 | 7m82 (+0.1) | |- | 三段跳 | style="text-align: center;" | 予選 | 16m36 (0.0) | |- | 2017 | [[2017年世界陸上競技選手権大会|世界選手権]] | {{Flagicon|GBR}} [[ロンドン]] | 走幅跳 | style="text-align: center;" | 予選 | 7m85 (+0.1) | |- |} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 外部リンク == *{{iaaf name|199274}} * {{Olympedia}} {{s-start}} {{s-ach|records}} {{succession box|title=男子走幅跳<br />韓国記録保持者<br />(8m13 - 8m22)|before=[[:en:Kim Won-jin (athlete)|Kim Won-jin]]<br />(8m03)|beforenote=1987年6月12日 |after=''未定'' |years= 2008年10月14日 - }} {{succession box|title=男子三段跳<br />韓国記録保持者<br />(16m78 - 17m10)|before=Park Min-Soo<br />(16m73)|beforenote=1994年6月18日 |after=''未定'' |years= 2017年3月5日 - }} {{s-end}} {{陸上競技アジア競技大会金メダリスト男子走幅跳}} {{アジア陸上競技選手権大会金メダリスト男子三段跳}} {{陸上競技ユニバーシアード金メダリスト男子走幅跳}} {{陸上競技ユニバーシアード金メダリスト男子三段跳}} {{Athletics-bio-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きむ とくひよん}} [[Category:男子走幅跳の選手]] [[Category:男子三段跳の選手]] [[Category:オリンピック陸上競技韓国代表選手]] [[Category:世界陸上選手権韓国代表選手]] [[Category:ユニバーシアード陸上競技韓国代表選手]] [[Category:韓国のユニバーシアード金メダリスト]] [[Category:ユニバーシアード陸上競技メダリスト]] [[Category:アジア競技大会陸上競技メダリスト]] [[Category:韓国のアジア競技大会金メダリスト]] [[Category:韓国のアジア競技大会銀メダリスト]] [[Category:韓国のアジア競技大会銅メダリスト]] [[Category:アジア陸上選手権メダリスト]] [[Category:全羅南道出身の人物]] [[Category:1985年生]] [[Category:存命人物]]
2017-12-19T07:10:33Z
2023-12-03T16:53:40Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:PDFlink", "Template:Olympedia", "Template:S-ach", "Template:Succession box", "Template:陸上競技ユニバーシアード金メダリスト男子三段跳", "Template:Enlink", "Template:陸上競技ユニバーシアード金メダリスト男子走幅跳", "Template:Athletics-bio-stub", "Template:S-start", "Template:仮リンク", "Template:Flagicon", "Template:Cite web", "Template:Iaaf name", "Template:陸上競技アジア競技大会金メダリスト男子走幅跳", "Template:Normdaten", "Template:Abbr", "Template:Lang-en", "Template:Lang-ko", "Template:S-end", "Template:アジア陸上競技選手権大会金メダリスト男子三段跳", "Template:Infobox 陸上選手" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%BE%B3%E7%8F%BE
2,941,951
バリー・パーカー
リチャード・バリー・パーカー(1867年11月18日 - 1947年2月21日)は、イングランドの建築家、都市計画家であり、アーツ・アンド・クラフツ運動に関わりがあった。特に、建築関係でレイモンド・アンウィンと共同事業を行ったことで知られている。 パーカーは、1867年、チェスターフィールドで、銀行支配人だったロバート・パーカー (Robert Parker) の息子として生まれた。ダービーにあったT・C・シモンズの美術アトリエ (T.C. Simmonds Atelier of Art) や、オルトリナム (Altrincham) のジョージ・フォークナー・アーミティッジ(George Faulkner Armitage) のスタジオで修行をした。1891年には、ダービーシャー州バクストン (Buxton) にいた父親の元に戻り、そこで父親のために大きな家を3軒設計した。 1896年、パーカーはレイモンド・アンウィンとパートナーシップを結んだ。パカーにとってアンウィンは、半いとこ (half cousin)であり、なおかつ姉エセル (Ethel) が1893年に結婚した相手、すなわち義兄であった。 彼らが最初期に手がけた仕事のひとつは、スタッフォードシャー州クレイトン (Clayton, Staffordshire) の農場の土地に、地元の陶器製造業者チャールズ・フレデリック・グッドフェロー (Charles Frederick Goodfellow) のために大きな家族向けの家を設計し、施工することだった。1899年に完成したこの家で、ふたりは、開放的な、廊下付きの庭や、多くの部屋に設えられたアーツ・アンド・クラフツ様式を取り入れた特注の家具や調度品など、内装も外装も様々な工夫が施すことを試みる機会を得た。 この家は、注文建築であり、当初はグッドフェロー・ハウスと名付けられたが、1926年に別の陶器製造業者コリー・ショーター(Arthur Colley Austin Shorter、1882年 - 1963年)がこの家を買い取った際に、チェットウィンド・ハウス (Chetwynd House) と改名し、その名が現在も引き継がれている。ショーターの2番目の妻は、イギリスの陶器デザイナークラリス・クリフ (Clarice Cliff) であったが、今日では、この家は彼女が住んでいた家としてもっぱら知られている。引退後の彼女は、ショーターとともに、また夫の死後も、広い庭を丹念に手入れしていた。 パーカーとアンウィンは1901年に、アーツ・アンド・クラフツ運動を労働者向けの住宅に及ぼすことを試みた『住宅建築の芸術 (The Art of Building a Home)』を共著として著した。 1902年、パーカーとアンウィンはヨーク近郊のニュー・イヤーズウィック (New Earswick) に模範村落を設計することを、親子であるジョセフ・ローントリー (Joseph Rowntree ) とシーボーム・ローントリー (Seebohm Rowntree) から依頼され、翌年には第一田園都市会社 (the First Garden City Company) の要請に基づいて計画を提出し、レッチワースの建設に参加する機会を得ることになった。彼らの他にも、ウィリアム・レザビー (William Lethaby) とハルゼー・リカルド (Halsey Ricardo)、ジョフリー・ルーカス (Geoffry Lucas) とシドニー・クランフィールド (Sidney Cranfield) の2組の建築家たちが、計画を提出した。 1903年、パーカーとアンウィンは、マンチェスター北部芸術労働者組合 (the Northern Art Workers Guild of Manchester) が主催した「都市近郊の小屋展覧会 (Cottages Near a Town Exhibit)」に参加した。1904年にレッチワースの計画が採用されると、ふたりはボルドック (Baldock) に第二の事務所を構え、さらに1907年には、最初から設計事務所として建てられたレッチワースの事務所に移った。1905年、彼らはヘンリエッタ・バーネット (Henrietta Barnett) の招きに応じ、新たに建設されるハムステッド・ガーデン・サバーブの設計を、エドウィン・ラッチェンスとともに行なうことになった。アンウィンは、1906年にレッチワースを離れてハムステッド (Hampstead) に赴き、パーカーはレッチワースに残って、開発全体の監督に当たるとともに、パーカー&アンウィンの共同名義で、275戸ほどの住宅や、多数の公共の建物を設計した。 1914年、アンウィンが公共事業関係の仕事を数多く引き受けるようになってきたのを受けて、パーカー&アンウィンの共同事業は解消されることになった。パーカーはその後も都市計画の実務を続け、1915年にはポルトガルのポルト、1917年から1919年にかけてはブラジルのサンパウロの都市計画に助言を与えた。1927年から、パーカーはマンチェスター市議会 (Manchester City Council) にウィゼンソー (Wythenshawe) の開発に関する助言を行なうようになり、この役割は1941年まで続いた。パーカーは1947年にレッチワースで亡くなった。79歳であった。 パーカーは、アメリカ合衆国の公園道路(パークウェイ)を賞賛しており、特にニューヨーク州ウエストチェスター郡の事例を讃えていたため、ウィゼンソーの計画にもプリンセス・パークウェイ (Princess Parkway) が組み込まれた。1929年に、王立都市計画家協会 (Royal Town Planning Institute) 会長として行なった演説の中で、パーカーはイギリスにもパークウェイを普及させたいという願いを述べており、それが新たに建設された主要道路におけるリボン・デベロップメントの問題に対してひとつの回答にもなるという考えを持っていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "リチャード・バリー・パーカー(1867年11月18日 - 1947年2月21日)は、イングランドの建築家、都市計画家であり、アーツ・アンド・クラフツ運動に関わりがあった。特に、建築関係でレイモンド・アンウィンと共同事業を行ったことで知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "パーカーは、1867年、チェスターフィールドで、銀行支配人だったロバート・パーカー (Robert Parker) の息子として生まれた。ダービーにあったT・C・シモンズの美術アトリエ (T.C. Simmonds Atelier of Art) や、オルトリナム (Altrincham) のジョージ・フォークナー・アーミティッジ(George Faulkner Armitage) のスタジオで修行をした。1891年には、ダービーシャー州バクストン (Buxton) にいた父親の元に戻り、そこで父親のために大きな家を3軒設計した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1896年、パーカーはレイモンド・アンウィンとパートナーシップを結んだ。パカーにとってアンウィンは、半いとこ (half cousin)であり、なおかつ姉エセル (Ethel) が1893年に結婚した相手、すなわち義兄であった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "彼らが最初期に手がけた仕事のひとつは、スタッフォードシャー州クレイトン (Clayton, Staffordshire) の農場の土地に、地元の陶器製造業者チャールズ・フレデリック・グッドフェロー (Charles Frederick Goodfellow) のために大きな家族向けの家を設計し、施工することだった。1899年に完成したこの家で、ふたりは、開放的な、廊下付きの庭や、多くの部屋に設えられたアーツ・アンド・クラフツ様式を取り入れた特注の家具や調度品など、内装も外装も様々な工夫が施すことを試みる機会を得た。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この家は、注文建築であり、当初はグッドフェロー・ハウスと名付けられたが、1926年に別の陶器製造業者コリー・ショーター(Arthur Colley Austin Shorter、1882年 - 1963年)がこの家を買い取った際に、チェットウィンド・ハウス (Chetwynd House) と改名し、その名が現在も引き継がれている。ショーターの2番目の妻は、イギリスの陶器デザイナークラリス・クリフ (Clarice Cliff) であったが、今日では、この家は彼女が住んでいた家としてもっぱら知られている。引退後の彼女は、ショーターとともに、また夫の死後も、広い庭を丹念に手入れしていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "パーカーとアンウィンは1901年に、アーツ・アンド・クラフツ運動を労働者向けの住宅に及ぼすことを試みた『住宅建築の芸術 (The Art of Building a Home)』を共著として著した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1902年、パーカーとアンウィンはヨーク近郊のニュー・イヤーズウィック (New Earswick) に模範村落を設計することを、親子であるジョセフ・ローントリー (Joseph Rowntree ) とシーボーム・ローントリー (Seebohm Rowntree) から依頼され、翌年には第一田園都市会社 (the First Garden City Company) の要請に基づいて計画を提出し、レッチワースの建設に参加する機会を得ることになった。彼らの他にも、ウィリアム・レザビー (William Lethaby) とハルゼー・リカルド (Halsey Ricardo)、ジョフリー・ルーカス (Geoffry Lucas) とシドニー・クランフィールド (Sidney Cranfield) の2組の建築家たちが、計画を提出した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1903年、パーカーとアンウィンは、マンチェスター北部芸術労働者組合 (the Northern Art Workers Guild of Manchester) が主催した「都市近郊の小屋展覧会 (Cottages Near a Town Exhibit)」に参加した。1904年にレッチワースの計画が採用されると、ふたりはボルドック (Baldock) に第二の事務所を構え、さらに1907年には、最初から設計事務所として建てられたレッチワースの事務所に移った。1905年、彼らはヘンリエッタ・バーネット (Henrietta Barnett) の招きに応じ、新たに建設されるハムステッド・ガーデン・サバーブの設計を、エドウィン・ラッチェンスとともに行なうことになった。アンウィンは、1906年にレッチワースを離れてハムステッド (Hampstead) に赴き、パーカーはレッチワースに残って、開発全体の監督に当たるとともに、パーカー&アンウィンの共同名義で、275戸ほどの住宅や、多数の公共の建物を設計した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1914年、アンウィンが公共事業関係の仕事を数多く引き受けるようになってきたのを受けて、パーカー&アンウィンの共同事業は解消されることになった。パーカーはその後も都市計画の実務を続け、1915年にはポルトガルのポルト、1917年から1919年にかけてはブラジルのサンパウロの都市計画に助言を与えた。1927年から、パーカーはマンチェスター市議会 (Manchester City Council) にウィゼンソー (Wythenshawe) の開発に関する助言を行なうようになり、この役割は1941年まで続いた。パーカーは1947年にレッチワースで亡くなった。79歳であった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "パーカーは、アメリカ合衆国の公園道路(パークウェイ)を賞賛しており、特にニューヨーク州ウエストチェスター郡の事例を讃えていたため、ウィゼンソーの計画にもプリンセス・パークウェイ (Princess Parkway) が組み込まれた。1929年に、王立都市計画家協会 (Royal Town Planning Institute) 会長として行なった演説の中で、パーカーはイギリスにもパークウェイを普及させたいという願いを述べており、それが新たに建設された主要道路におけるリボン・デベロップメントの問題に対してひとつの回答にもなるという考えを持っていた。", "title": "経歴" } ]
リチャード・バリー・パーカーは、イングランドの建築家、都市計画家であり、アーツ・アンド・クラフツ運動に関わりがあった。特に、建築関係でレイモンド・アンウィンと共同事業を行ったことで知られている。
'''リチャード・バリー・パーカー'''([[1867年]][[11月18日]] - [[1947年]][[2月21日]])は、[[イングランド]]の[[建築家]]、[[都市計画家]]であり、[[アーツ・アンド・クラフツ運動]]に関わりがあった。特に、建築関係で[[レイモンド・アンウィン]]と共同事業を行ったことで知られている。 == 経歴 == パーカーは、[[1867年]]、[[チェスターフィールド (イングランド)|チェスターフィールド]]で、銀行支配人だったロバート・パーカー (Robert Parker)<!--英語版に記事があるいずれの人物とも別人--> の息子として生まれた。[[ダービー (イギリス)|ダービー]]にあったT・C・シモンズの美術アトリエ (T.C. Simmonds Atelier of Art) や、[[オルトリナム]] ([[:en:Altrincham|Altrincham]]) のジョージ・フォークナー・アーミティッジ(George Faulkner Armitage) のスタジオで修行をした。[[1891年]]には、[[ダービーシャー]]州[[バクストン (ダービーシャー)|バクストン]] ([[:en:Buxton|Buxton]]) にいた父親の元に戻り、そこで父親のために大きな家を3軒設計した。 [[1896年]]、パーカーは[[レイモンド・アンウィン]]とパートナーシップを結んだ。パカーにとってアンウィンは、半いとこ (half cousin)<ref>「半いとこ」は親同士が異父(母)きょうだいである関係。</ref>であり、なおかつ姉エセル (Ethel) が[[1893年]]に結婚した相手、すなわち義兄であった<ref>{{Cite web|url=http://www.fau.usp.br/iphs/abstractsAndPapersFiles/Sessions/01/MILLER.pdf|format=PDF|first=Mervyn |last=Miller|title=Barry Parker: before and after Jardim America|year=2012|publisher=Universidade de São Paulo, Faculdade de Arquitetura e Urbanismo|page=3|accessdate=2014年3月4日}}</ref>。 彼らが最初期に手がけた仕事のひとつは、[[スタッフォードシャー]]州[[クレイトン (スタッフォードシャー)|クレイトン]] ([[:en:Clayton, Staffordshire|Clayton, Staffordshire]]) の農場の土地に、地元の陶器製造業者チャールズ・フレデリック・グッドフェロー (Charles Frederick Goodfellow) のために大きな家族向けの家を設計し、施工することだった。[[1899年]]に完成したこの家で、ふたりは、開放的な、廊下付きの庭や、多くの部屋に設えられたアーツ・アンド・クラフツ様式を取り入れた特注の家具や調度品など、内装も外装も様々な工夫が施すことを試みる機会を得た。 この家は、注文建築であり、当初はグッドフェロー・ハウスと名付けられたが、[[1926年]]に別の陶器製造業者コリー・ショーター(Arthur Colley Austin Shorter、[[1882年]] - [[1963年]])がこの家を買い取った際に、チェットウィンド・ハウス (Chetwynd House) と改名し、その名が現在も引き継がれている。ショーターの2番目の妻は、イギリスの陶器デザイナー[[クラリス・クリフ]] ([[:en:Clarice Cliff|Clarice Cliff]]) であったが、今日では、この家は彼女が住んでいた家としてもっぱら知られている。引退後の彼女は、ショーターとともに、また夫の死後も、広い庭を丹念に手入れしていた<ref>{{cite book |last=Griffin |first=Leonard |title=The Fantastic Flowers of Clarice Cliff |publisher=Pavilion/Chrysalis |year=1998/2001}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.thepotteries.org/city_limits/019.htm|title=in the footsteps of Clarice Cliff|publisher=Steve Birks|accessdate=2014年3月4日}}</ref>。 パーカーとアンウィンは[[1901年]]に、[[アーツ・アンド・クラフツ運動]]を労働者向けの住宅に及ぼすことを試みた『住宅建築の芸術 (''The Art of Building a Home'')』を共著として著した。 [[1902年]]、パーカーとアンウィンは[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]近郊の[[ニュー・イヤーズウィック]] ([[:en:New Earswick|New Earswick]]) に模範村落を設計することを、親子である[[ジョセフ・ローントリー (慈善活動家)|ジョセフ・ローントリー]] ([[:en:Joseph Rowntree (Philanthropist)|Joseph Rowntree]] ) と[[シーボーム・ローントリー]] ([[:en:Seebohm Rowntree|Seebohm Rowntree]]) から依頼され、翌年には第一田園都市会社 (the First Garden City Company) の要請に基づいて計画を提出し、[[レッチワース]]の建設に参加する機会を得ることになった。彼らの他にも、[[ウィリアム・レザビー]] ([[:en:William Lethaby|William Lethaby]]) と[[ハルゼー・リカルド]] ([[:en:Halsey Ricardo|Halsey Ricardo]])、[[トマス・ジョフリー・ルーカス|ジョフリー・ルーカス]] ([[:en:Thomas Geoffry Lucas|Geoffry Lucas]]) とシドニー・クランフィールド (Sidney Cranfield) の2組の建築家たちが、計画を提出した。 [[1903年]]、パーカーとアンウィンは、マンチェスター北部芸術労働者組合 (the Northern Art Workers Guild of Manchester) が主催した「都市近郊の小屋展覧会 (Cottages Near a Town Exhibit)」に参加した。[[1904年]]にレッチワースの計画が採用されると、ふたりは[[ボルドック]] ([[:en:Baldock|Baldock]]) に第二の事務所を構え、さらに[[1907年]]には、最初から設計事務所として建てられたレッチワースの事務所に移った。[[1905年]]、彼らは[[ヘンリエッタ・バーネット]] ([[:en:Henrietta Barnett|Henrietta Barnett]]) の招きに応じ、新たに建設される[[ハムステッド・ガーデン・サバーブ]]の設計を、[[エドウィン・ラッチェンス]]とともに行なうことになった。アンウィンは、[[1906年]]にレッチワースを離れて[[ハムステッド]] ([[:en:Hampstead|Hampstead]]) に赴き、パーカーはレッチワースに残って、開発全体の監督に当たるとともに、パーカー&アンウィンの共同名義で、275戸ほどの住宅や、多数の公共の建物を設計した。 [[1914年]]、アンウィンが公共事業関係の仕事を数多く引き受けるようになってきたのを受けて、パーカー&アンウィンの共同事業は解消されることになった<ref>{{Cite web|url=http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/Raymond_Unwin.htm |title=Raymond Unwin|publisher=Spartakus Educational|first=John |last=Simkin|accessdate=2014年3月4日}}</ref>。パーカーはその後も都市計画の実務を続け、[[1915年]]には[[ポルトガル]]の[[ポルト]]、[[1917年]]から[[1919年]]にかけては[[ブラジル]]の[[サンパウロ]]の都市計画に助言を与えた。[[1927年]]から、パーカーは[[マンチェスター市議会]] ([[:en:Manchester City Council|Manchester City Council]]) に[[ウィゼンソー]] ([[:en:Wythenshawe|Wythenshawe]]) の開発に関する助言を行なうようになり、この役割は[[1941年]]まで続いた。パーカーは[[1947年]]にレッチワースで亡くなった。79歳であった。 パーカーは、[[アメリカ合衆国]]の[[公園道路]](パークウェイ)を賞賛しており、特に[[ニューヨーク州]][[ウエストチェスター郡 (ニューヨーク州)|ウエストチェスター郡]]の事例を讃えていたため、ウィゼンソーの計画にも[[プリンセス・パークウェイ]] ([[:en:A5103 road|Princess Parkway]]) が組み込まれた。[[1929年]]に、[[王立都市計画家協会]] ([[:en:Royal Town Planning Institute|Royal Town Planning Institute]]) 会長として行なった演説の中で、パーカーはイギリスにもパークウェイを普及させたいという願いを述べており、それが新たに建設された主要道路におけるリボン・デベロップメントの問題に対してひとつの回答にもなるという考えを持っていた。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == *[http://www.codexgeo.co.uk/dsa/architect_full.php?id=M002214 DSA Architect Biography Report: Parker & Unwin] *[http://www.answers.com/topic/richard-barry-parker Richard Barry Paker], ''A Dictionary of Architecture and Landscape Architecture'', [[:en:Oxford University Press|Oxford University Press]]. {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はあかあ はりい}} [[Category:19世紀イギリスの建築家]] [[Category:20世紀イギリスの建築家]] [[Category:イギリスの都市計画家]] [[Category:チェスターフィールド出身の人物]] [[Category:1867年生]] [[Category:1947年没]]
null
2019-04-18T01:35:47Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC
2,636,175
加納直恒
加納 直恒(かのう なおつね)は、紀州藩家老。通称は五郎左衛門。 慶長5年(1600年)、鈴木直儀の次男として上総に生まれる。慶長15年(1610年)、母の姉佐阿が駿府城大奥で徳川家康の侍女を務めていた縁で、家康に小姓として召し出され200石を賜る。母の兄・加納久利の猶子として加納氏を称した。 慶長16年(1611年)、上洛して二条城で家康と会見した豊臣秀頼への答礼の使者として、大坂城に赴く徳川義直、頼将(頼宣)兄弟の供をする。慶長20年(1615年)大坂夏の陣の際に、家康、義直、頼宣の供をして出陣。後に、頼宣付きの家臣となり、元和5年(1619年)駿河で加増を受け知行300石。頼宣の紀州入りに従い、元和6年(1620年)加増を受け、知行2,000石となり60人の与力鉄砲同心を預かる。寛永20年(1643年)、大番頭となる。万治2年(1659年)、年寄列に加わる。 寛文7年(1667年)7月15日、隠居して家督を嫡男・政直に譲り、快遊と号した。貞享元年(1684年)10月4日、死去。享年85。 軍学者由井正雪が紀州藩家老の渡辺直綱を介して紀州藩に仕官を求めた際、渡辺が仕官の希望を藩主の頼宣に話したところ、直恒と協議するようにとのことで、渡辺が直恒に意見を問うと猛反対されたため、由井正雪の仕官は見送られた。後に正雪が慶安の変を引き起こすと直恒は、「仕官を反対したのは、このようなことを懸念したからであり、反対したのは一世一代の忠勤であった」と語った。(『加納五郎左衛門行状記』) 頼宣の寵臣の家老・牧野長虎が、対立する堀部佐左衛門を退けるため、大坂の陣の戦功の虚偽申告で磔にするよう訴えた際、直恒はこれに反論して口論となった。故に頼宣は長虎の言を容れず、恨んだ長虎は出奔して、頼宣に陰謀の疑いありと幕府に訴える事件を起こした。長虎は後に紀州藩の手で捕らえられ、田辺に幽閉された。(『加納五郎左衛門行状記』) 長保寺の徳川頼宣墓所の家臣達が献じた石灯籠の中に、直恒父子が献じ「加納五郎左衛門藤原直恒入道快遊」「加納平治右衛門藤原正直」と刻まれた灯篭がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "加納 直恒(かのう なおつね)は、紀州藩家老。通称は五郎左衛門。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "慶長5年(1600年)、鈴木直儀の次男として上総に生まれる。慶長15年(1610年)、母の姉佐阿が駿府城大奥で徳川家康の侍女を務めていた縁で、家康に小姓として召し出され200石を賜る。母の兄・加納久利の猶子として加納氏を称した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "慶長16年(1611年)、上洛して二条城で家康と会見した豊臣秀頼への答礼の使者として、大坂城に赴く徳川義直、頼将(頼宣)兄弟の供をする。慶長20年(1615年)大坂夏の陣の際に、家康、義直、頼宣の供をして出陣。後に、頼宣付きの家臣となり、元和5年(1619年)駿河で加増を受け知行300石。頼宣の紀州入りに従い、元和6年(1620年)加増を受け、知行2,000石となり60人の与力鉄砲同心を預かる。寛永20年(1643年)、大番頭となる。万治2年(1659年)、年寄列に加わる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "寛文7年(1667年)7月15日、隠居して家督を嫡男・政直に譲り、快遊と号した。貞享元年(1684年)10月4日、死去。享年85。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "軍学者由井正雪が紀州藩家老の渡辺直綱を介して紀州藩に仕官を求めた際、渡辺が仕官の希望を藩主の頼宣に話したところ、直恒と協議するようにとのことで、渡辺が直恒に意見を問うと猛反対されたため、由井正雪の仕官は見送られた。後に正雪が慶安の変を引き起こすと直恒は、「仕官を反対したのは、このようなことを懸念したからであり、反対したのは一世一代の忠勤であった」と語った。(『加納五郎左衛門行状記』)", "title": "人物・逸話" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "頼宣の寵臣の家老・牧野長虎が、対立する堀部佐左衛門を退けるため、大坂の陣の戦功の虚偽申告で磔にするよう訴えた際、直恒はこれに反論して口論となった。故に頼宣は長虎の言を容れず、恨んだ長虎は出奔して、頼宣に陰謀の疑いありと幕府に訴える事件を起こした。長虎は後に紀州藩の手で捕らえられ、田辺に幽閉された。(『加納五郎左衛門行状記』)", "title": "人物・逸話" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "長保寺の徳川頼宣墓所の家臣達が献じた石灯籠の中に、直恒父子が献じ「加納五郎左衛門藤原直恒入道快遊」「加納平治右衛門藤原正直」と刻まれた灯篭がある。", "title": "人物・逸話" } ]
加納 直恒は、紀州藩家老。通称は五郎左衛門。
{{参照方法|date=2019年1月}} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 加納 直恒 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[江戸時代]] | 生誕 = [[慶長]]5年([[1600年]]) | 死没 = [[貞享]]元年[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]([[1684年]][[11月10日]]) | 改名 = | 別名 = 五郎三郎、九十郎、数馬、五郎左衛門(通称)、快遊(隠居号) | 戒名 = | 墓所 = | 官位 = | 幕府 = [[江戸幕府]] | 主君 = [[徳川家康]]→[[徳川頼宣|頼宣]]→[[徳川光貞|光貞]] | 藩 = [[紀州藩]]家老 | 氏族 = [[加納氏]] | 父母 = 父:[[鈴木直儀]]、母:[[加納久直]]の娘 | 兄弟 = | 妻 = | 子 = '''[[加納政直|政直]]''' }} '''加納 直恒'''(かのう なおつね)は、[[紀州藩]]家老。通称は五郎左衛門。 ==生涯== [[慶長]]5年([[1600年]])、鈴木直儀の次男として上総に生まれる。[[慶長]]15年([[1610年]])、母の姉佐阿が[[駿府城]]大奥で[[徳川家康]]の[[侍女]]を務めていた縁で、家康に[[小姓]]として召し出され200石を賜る。母の兄・加納久利の[[猶子]]として加納氏を称した。<ref>加納氏は、[[松平泰親]]の庶子[[松平久親|久親]]の子孫で、後に、主君と同じ松平の[[苗字]]を称することを憚り、代々居住する加納を称した。また故あって、[[氏]]も[[藤原氏]]に改めた。</ref> 慶長16年([[1611年]])、上洛して[[二条城]]で家康と会見した[[豊臣秀頼]]への答礼の使者として、[[大坂城]]に赴く[[徳川義直]]、頼将(頼宣)兄弟の供をする。慶長20年([[1615年]])[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]の際に、家康、義直、頼宣の供をして出陣。後に、頼宣付きの家臣となり、[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])駿河で加増を受け知行300石。頼宣の紀州入りに従い、元和6年([[1620年]])加増を受け、知行2,000石となり60人の与力鉄砲同心を預かる。[[寛永]]20年([[1643年]])、大番頭となる。[[万治]]2年([[1659年]])、年寄列に加わる。 [[寛文]]7年([[1667年]])7月15日、隠居して家督を嫡男・政直に譲り、快遊と号した。[[貞享]]元年([[1684年]])10月4日、死去。享年85。 == 人物・逸話 == [[軍学者]][[由井正雪]]が紀州藩家老の[[渡辺直綱]]を介して[[紀州藩]]に仕官を求めた際、渡辺が仕官の希望を藩主の頼宣に話したところ、直恒と協議するようにとのことで、渡辺が直恒に意見を問うと猛反対されたため、由井正雪の仕官は見送られた。後に正雪が[[慶安の変]]を引き起こすと直恒は、「仕官を反対したのは、このようなことを懸念したからであり、反対したのは一世一代の忠勤であった」と語った。(『加納五郎左衛門行状記』) 頼宣の寵臣の家老・[[牧野長虎]]が、対立する堀部佐左衛門を退けるため、大坂の陣の戦功の虚偽申告で磔にするよう訴えた際、直恒はこれに反論して口論となった。故に頼宣は長虎の言を容れず、恨んだ長虎は出奔して、頼宣に陰謀の疑いありと幕府に訴える事件を起こした。長虎は後に紀州藩の手で捕らえられ、田辺に幽閉された。(『加納五郎左衛門行状記』) 長保寺の徳川頼宣墓所の家臣達が献じた石灯籠の中に、直恒父子が献じ「加納五郎左衛門藤原直恒入道快遊」「加納平治右衛門藤原正直」と刻まれた灯篭がある。 == 脚注 == <references /> ==参考文献== *『[[南紀徳川史]]』 {{DEFAULTSORT:かのう なおつね}} [[Category:加納氏|なおつね]] [[Category:紀州藩士]] [[Category:1600年生]] [[Category:1684年没]]
null
2020-06-09T02:08:29Z
false
false
false
[ "Template:参照方法", "Template:基礎情報 武士" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E7%9B%B4%E6%81%92
4,329
ボース粒子
ボース粒子 (ボースりゅうし、Boson、英語発音: [bóʊsɑn](ボゥソン)) とは、量子力学においてスピン角運動量の大きさに基づいて粒子を分類するときの呼称であり、 ħ {\displaystyle \hbar } の整数倍のスピンを伴う粒子の総称である。 その名称はインドの物理学者、サティエンドラ・ボース (Satyendra Nath Bose) に由来する。日本語ではボソンまたはボゾン とも呼ばれる。 場の量子論から、整数スピンを持つ粒子は、2つの同種粒子を入れ替えたとき、波動関数の符号が変化しない。つまり複数の同種のボース粒子からなる系の全波動関数を ψ, i 番目の粒子の座標を xi としたとき、 ψ ( ... , x i , ... , x j , ... ) = ψ ( ... , x j , ... , x i , ... ) {\displaystyle {\psi }(\ldots ,x_{i},\ldots ,x_{j},\ldots )={\psi }(\ldots ,x_{j},\ldots ,x_{i},\ldots )} のように i 番目と j 番目の粒子を入れ替えても、波動関数の正負が逆転しない。 すなわち、2つのボース粒子があってそれぞれの1粒子の波動関数が φ ,χ と表せるなら、2つのボース粒子の全波動関数は単に、 ψ ( x 1 , x 2 ) = φ ( x 1 ) χ ( x 2 ) {\displaystyle \psi (x_{1},x_{2})=\phi (x_{1})\chi (x_{2})} ではなく、この入れ替えについての性質から ψ ( x 1 , x 2 ) = φ ( x 1 ) χ ( x 2 ) + φ ( x 2 ) χ ( x 1 ) {\displaystyle \psi (x_{1},x_{2})=\phi (x_{1})\chi (x_{2})+\phi (x_{2})\chi (x_{1})} と表されなくてはならない。 フェルミ粒子と異なり、ボース粒子には2つの粒子が同じ1粒子波動関数をとっている ψ ( x 1 , x 2 ) = φ ( x 1 ) φ ( x 2 ) {\displaystyle \psi (x_{1},x_{2})=\phi (x_{1})\phi (x_{2})} のような状態が許される。すなわち、1つの体系内であっても同一の量子状態をいくつもの粒子がとりうる。この規則から、熱平衡状態にある1種類のボース粒子群からなる体系の従う量子統計が導かれ、これをボース=アインシュタイン統計という。 素粒子の間の相互作用を媒介するゲージ粒子である光子、ウィークボソン、グルーオン (いずれもスピン1) はボース粒子に分類される。入射光を完全に吸収する物体である黒体からの光の輻射の振動数分布 (プランク分布) はボース=アインシュタイン統計から導かれる。 未発見の粒子について、重力を媒介するゲージ粒子の重力子 (グラビトン) がスピン2のボース粒子と考えられている。 質量を担うヒッグス粒子はスピン0のボース粒子である。 中間子はすべてボース粒子である。π中間子やK中間子、D中間子、B中間子はスピン0、ρ中間子、ω中間子、φ中間子、J/ψ中間子はスピン1である。 また、凝縮物質の物理に現れるフォノンやマグノンのような準粒子、超伝導に関与するクーパー対もボース=アインシュタイン統計に従う。 ボース粒子の多体系とみなせる系として、2つの型がある 。 1つ目の型は、粒子が有限の質量を持ち、ボース粒子数が保存されるものである。この系の唯一の実例は液体ヘリウムである。 2つ目の型は、粒子が質量を持たず、ボース粒子数が保存されないものである。この例として光子や、固体内のフォノンがある。 このほかにもボース系の例は多くある。フェルミ粒子的な性格の強い系の中にも、フォノンに似た素励起が存在しうる。また強磁性体や反強磁性体においてもフォノンに似た素励起が重要となり、スピン波と呼ばれ、ボース粒子のように振る舞う。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ボース粒子 (ボースりゅうし、Boson、英語発音: [bóʊsɑn](ボゥソン)) とは、量子力学においてスピン角運動量の大きさに基づいて粒子を分類するときの呼称であり、 ħ {\\displaystyle \\hbar } の整数倍のスピンを伴う粒子の総称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "その名称はインドの物理学者、サティエンドラ・ボース (Satyendra Nath Bose) に由来する。日本語ではボソンまたはボゾン とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "場の量子論から、整数スピンを持つ粒子は、2つの同種粒子を入れ替えたとき、波動関数の符号が変化しない。つまり複数の同種のボース粒子からなる系の全波動関数を ψ, i 番目の粒子の座標を xi としたとき、", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ψ ( ... , x i , ... , x j , ... ) = ψ ( ... , x j , ... , x i , ... ) {\\displaystyle {\\psi }(\\ldots ,x_{i},\\ldots ,x_{j},\\ldots )={\\psi }(\\ldots ,x_{j},\\ldots ,x_{i},\\ldots )}", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "のように i 番目と j 番目の粒子を入れ替えても、波動関数の正負が逆転しない。", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "すなわち、2つのボース粒子があってそれぞれの1粒子の波動関数が φ ,χ と表せるなら、2つのボース粒子の全波動関数は単に、", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ψ ( x 1 , x 2 ) = φ ( x 1 ) χ ( x 2 ) {\\displaystyle \\psi (x_{1},x_{2})=\\phi (x_{1})\\chi (x_{2})}", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ではなく、この入れ替えについての性質から", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ψ ( x 1 , x 2 ) = φ ( x 1 ) χ ( x 2 ) + φ ( x 2 ) χ ( x 1 ) {\\displaystyle \\psi (x_{1},x_{2})=\\phi (x_{1})\\chi (x_{2})+\\phi (x_{2})\\chi (x_{1})}", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "と表されなくてはならない。", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "フェルミ粒子と異なり、ボース粒子には2つの粒子が同じ1粒子波動関数をとっている", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ψ ( x 1 , x 2 ) = φ ( x 1 ) φ ( x 2 ) {\\displaystyle \\psi (x_{1},x_{2})=\\phi (x_{1})\\phi (x_{2})}", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "のような状態が許される。すなわち、1つの体系内であっても同一の量子状態をいくつもの粒子がとりうる。この規則から、熱平衡状態にある1種類のボース粒子群からなる体系の従う量子統計が導かれ、これをボース=アインシュタイン統計という。", "title": "複数のボース粒子の系" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "素粒子の間の相互作用を媒介するゲージ粒子である光子、ウィークボソン、グルーオン (いずれもスピン1) はボース粒子に分類される。入射光を完全に吸収する物体である黒体からの光の輻射の振動数分布 (プランク分布) はボース=アインシュタイン統計から導かれる。", "title": "ボース粒子の例" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "未発見の粒子について、重力を媒介するゲージ粒子の重力子 (グラビトン) がスピン2のボース粒子と考えられている。", "title": "ボース粒子の例" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "質量を担うヒッグス粒子はスピン0のボース粒子である。", "title": "ボース粒子の例" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "中間子はすべてボース粒子である。π中間子やK中間子、D中間子、B中間子はスピン0、ρ中間子、ω中間子、φ中間子、J/ψ中間子はスピン1である。", "title": "ボース粒子の例" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、凝縮物質の物理に現れるフォノンやマグノンのような準粒子、超伝導に関与するクーパー対もボース=アインシュタイン統計に従う。", "title": "ボース粒子の例" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ボース粒子の多体系とみなせる系として、2つの型がある 。", "title": "ボース粒子の多体系" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1つ目の型は、粒子が有限の質量を持ち、ボース粒子数が保存されるものである。この系の唯一の実例は液体ヘリウムである。", "title": "ボース粒子の多体系" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2つ目の型は、粒子が質量を持たず、ボース粒子数が保存されないものである。この例として光子や、固体内のフォノンがある。", "title": "ボース粒子の多体系" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "このほかにもボース系の例は多くある。フェルミ粒子的な性格の強い系の中にも、フォノンに似た素励起が存在しうる。また強磁性体や反強磁性体においてもフォノンに似た素励起が重要となり、スピン波と呼ばれ、ボース粒子のように振る舞う。", "title": "ボース粒子の多体系" } ]
ボース粒子 (ボースりゅうし、Boson、) とは、量子力学においてスピン角運動量の大きさに基づいて粒子を分類するときの呼称であり、 ℏ の整数倍のスピンを伴う粒子の総称である。 その名称はインドの物理学者、サティエンドラ・ボース に由来する。日本語ではボソンまたはボゾン とも呼ばれる。
{{Redirect|ボゾン|アニメ『聖戦士ダンバイン』に登場する架空の兵器|ボゾン (聖戦士ダンバイン)}} {{出典の明記|date=2016年5月}} {{Infobox particle | 背景色 = | 名前 = ボース粒子 | 画像 = | 説明 = | 型数 = | 分類 = | 組成 = | 統計 = ボース=アインシュタイン統計 | グループ = | 世代 = | 相互作用 = [[強い相互作用]]<br />[[弱い相互作用]]<br />[[電磁相互作用]]<br />[[重力相互作用]] | 粒子 = | 反粒子 = | ステータス = | 理論化 = | 発見 = | 記号 = | 質量 = | 平均寿命 = | 崩壊粒子 = | 電荷 = | 荷電半径 = | 電気双極子モーメント = | 電気的分極率 = | 磁気モーメント = | 磁気的分極率 = | 色荷 = | スピン = <math>\hbar</math>の[[整数]]倍 | スピン状態数 = | レプトン数 = | バリオン数 = | ストレンジネス = | チャーム = | ボトムネス = | トップネス = | アイソスピン = | 弱アイソスピン = | 弱アイソスピン_3 = | 超電荷 = | 弱超電荷 = | カイラリティ = | B-L = | X荷 = | パリティ = | Gパリティ = | Cパリティ = | Rパリティ = }} '''ボース粒子''' (ボースりゅうし、[[:en:Boson|Boson]]、{{IPA-en|bóʊsɑn}}('''ボゥソン''')) とは、[[量子力学]]において[[スピン角運動量]]の大きさに基づいて粒子を分類するときの呼称であり、<math>\hbar</math>の[[整数]]倍のスピンを伴う粒子の総称である。 その名称はインドの物理学者、'''[[サティエンドラ・ボース]]''' (Satyendra Nath Bose) に由来する。日本語では'''ボソン'''または'''ボゾン''' とも呼ばれる。 == 複数のボース粒子の系 == {{main|同種粒子}} [[Image:Symmetricwave2.png|right|thumb|ボソンの二粒子状態に対応する対称な波動関数]] [[場の量子論]]から、整数スピンを持つ粒子は、2つの[[同種粒子]]を入れ替えたとき、[[波動関数]]の符号が変化しない。つまり複数の同種のボース粒子からなる系の全波動関数を &psi;, ''i'' 番目の粒子の座標を ''x<sub>i</sub>'' としたとき、 {{indent|<math>{\psi}( \ldots , x_{i}, \ldots, x_{j} , \ldots ) = {\psi}( \ldots , x_{j}, \ldots , x_{i} , \ldots )</math>}} のように ''i'' 番目と ''j'' 番目の粒子を入れ替えても、波動関数の正負が逆転しない。 すなわち、2つのボース粒子があってそれぞれの1粒子の波動関数が &phi; ,&chi; と表せるなら、2つのボース粒子の全波動関数は単に、 {{indent|<math>\psi(x_1, x_2) = \phi(x_1) \chi(x_2)</math>}} ではなく、この入れ替えについての性質から {{indent|<math>\psi(x_1, x_2) = \phi(x_1) \chi(x_2) + \phi(x_2) \chi(x_1)</math>}} と表されなくてはならない。 [[フェルミ粒子]]と異なり、ボース粒子には2つの粒子が同じ1粒子波動関数をとっている {{indent|<math>\psi(x_1, x_2) = \phi(x_1) \phi(x_2)</math>}} のような状態が許される。すなわち、1つの体系内であっても同一の[[量子状態]]をいくつもの粒子がとりうる。この規則から、熱平衡状態にある1種類のボース粒子群からなる体系の従う量子統計が導かれ、これを'''ボース=アインシュタイン統計'''という。<!--([[インド]]の[[物理学者]][[サティエンドラ・ボース]]と、物理学者[[アルベルト・アインシュタイン]]の名から命名された。)--> == ボース粒子の例 == [[素粒子]]の間の[[基本相互作用|相互作用]]を媒介する[[ゲージ粒子]]である[[光子]]、[[ウィークボソン]]、[[グルーオン]] (いずれもスピン1) はボース粒子に分類される。入射光を完全に吸収する物体である[[黒体]]からの光の輻射の振動数分布 (プランク分布) はボース=アインシュタイン統計から導かれる。 未発見の粒子について、重力を媒介するゲージ粒子の[[重力子]] (グラビトン) がスピン2のボース粒子と考えられている。 [[質量]]を担う[[ヒッグス粒子]]はスピン0のボース粒子である。 [[中間子]]はすべてボース粒子である。&pi;中間子やK中間子、D中間子、B中間子はスピン0、&rho;中間子、&omega;中間子、&phi;中間子、J/&psi;中間子はスピン1である。 また、[[凝縮物質の物理]]に現れる[[フォノン]]や[[マグノン]]のような[[準粒子]]、[[超伝導]]に関与する[[クーパー対]]もボース=アインシュタイン統計に従う。 == ボース粒子の多体系 == ボース粒子の多体系とみなせる系として、2つの型がある<ref>[[デイヴィッド・J・サウレス]]著『多体系の量子力学』松原武生・[[米沢富美子]]訳、[[吉岡書店]]、1965年{{要ページ番号|date=2019-06}}</ref> 。 1つ目の型は、粒子が有限の質量を持ち、ボース粒子数が保存されるものである。この系の唯一の実例は[[液体ヘリウム]]である。 2つ目の型は、粒子が質量を持たず、ボース粒子数が保存されないものである。この例として[[光子]]や、固体内の[[フォノン]]がある。 このほかにもボース系の例は多くある。フェルミ粒子的な性格の強い系の中にも、フォノンに似た素励起が存在しうる。また[[強磁性体]]や[[反強磁性体]]においてもフォノンに似た[[素励起]]が重要となり、[[スピン波]]と呼ばれ、ボース粒子のように振る舞う。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[統計力学]] * [[フェルミ粒子]] * [[標準模型]] * [[ボース=アインシュタイン凝縮]] * [[ボース分布関数]] * [[ボソン星]] * [[フォノン]] {{粒子の一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほおすりゆうし}} [[Category:素粒子]] [[Category:統計力学]] [[Category:量子力学]] [[Category:ボース粒子|*]] [[Category:サティエンドラ・ボース]] [[Category:物理学のエポニム]]
2003-03-16T15:26:36Z
2023-10-25T09:07:34Z
false
false
false
[ "Template:要ページ番号", "Template:Redirect", "Template:IPA-en", "Template:Main", "Template:Indent", "Template:Reflist", "Template:出典の明記", "Template:Infobox particle", "Template:脚注ヘルプ", "Template:粒子の一覧", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%B2%92%E5%AD%90
2,264,296
Wきっぷ
Wきっぷ(ダブルきっぷ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)東北本部がメインとなって発売している特別企画乗車券である。なお、本項では、新幹線Wきっぷ(新幹線ダブルきっぷ)及びしらゆきWきっぷについても当記事で説明する。 元々は東北本部管内では特別企画乗車券タイプの4枚綴り回数券や往復乗車券を発売していたが、これを名称統一し2枚綴り回数券タイプとしたものがWきっぷである。 2枚綴りで、普通列車の自由席が利用できる。別途特急券・急行券を購入すれば、特急(新幹線を含む)・急行列車が利用可能である。 これらの設定区間は、郡山 - 福島間を除く全ての区間で高速バスと競合しており、特に福島 - 仙台間と仙台 - 山形間は高速バスの2回券に対抗するため通常の乗車券よりも大幅な値引率となっている。 新幹線Wきっぷ(しんかんせんダブルきっぷ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)盛岡支社と東北本部及び高崎支社で発売している特別企画乗車券である。なお、2015年3月14日からは新潟支社管内でも、取り扱いが開始された(後述)。 2021年3月31日、タッチでGo!新幹線サービスエリア拡大に伴い、発売終了し、4月30日で利用終了となった。 しらゆきWきっぷ(しらゆきダブルきっぷ)は、新潟支社で発売されている特別企画乗車券である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Wきっぷ(ダブルきっぷ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)東北本部がメインとなって発売している特別企画乗車券である。なお、本項では、新幹線Wきっぷ(新幹線ダブルきっぷ)及びしらゆきWきっぷについても当記事で説明する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "元々は東北本部管内では特別企画乗車券タイプの4枚綴り回数券や往復乗車券を発売していたが、これを名称統一し2枚綴り回数券タイプとしたものがWきっぷである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2枚綴りで、普通列車の自由席が利用できる。別途特急券・急行券を購入すれば、特急(新幹線を含む)・急行列車が利用可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "これらの設定区間は、郡山 - 福島間を除く全ての区間で高速バスと競合しており、特に福島 - 仙台間と仙台 - 山形間は高速バスの2回券に対抗するため通常の乗車券よりも大幅な値引率となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "新幹線Wきっぷ(しんかんせんダブルきっぷ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)盛岡支社と東北本部及び高崎支社で発売している特別企画乗車券である。なお、2015年3月14日からは新潟支社管内でも、取り扱いが開始された(後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2021年3月31日、タッチでGo!新幹線サービスエリア拡大に伴い、発売終了し、4月30日で利用終了となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "しらゆきWきっぷ(しらゆきダブルきっぷ)は、新潟支社で発売されている特別企画乗車券である。", "title": "概要" } ]
Wきっぷ(ダブルきっぷ)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)東北本部がメインとなって発売している特別企画乗車券である。なお、本項では、新幹線Wきっぷ(新幹線ダブルきっぷ)及びしらゆきWきっぷについても当記事で説明する。
'''Wきっぷ'''(ダブルきっぷ)は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[東日本旅客鉄道東北本部|東北本部]]がメインとなって発売している[[特別企画乗車券]]である。なお、本項では、'''新幹線Wきっぷ'''(新幹線ダブルきっぷ)及び'''しらゆきWきっぷ'''についても当記事で説明する。 == 概要 == === Wきっぷ === <div style="text-align:right;float:right;"> [[ファイル:Wkippu Yamagata sendai 2011 2 22.jpg|thumb|none|250px|Wきっぷ山形 - 仙台間([[みどりの窓口]]・[[指定席券売機]]・[[マルス (システム)|マルス]]発行)]] </div> <div style="text-align:right;float:right;"> [[ファイル:Wkippu Fukushima sendai 2011 4 22.jpg|thumb|none|150px|Wきっぷ福島 - 仙台間([[自動券売機]]発行)]] </div> 元々は東北本部管内では特別企画乗車券タイプの4枚綴り回数券や往復乗車券を発売していたが、これを名称統一し2枚綴り回数券タイプとしたものがWきっぷである。 2枚綴りで、普通列車の自由席が利用できる。別途[[特別急行券|特急券]]・[[急行券]]を購入すれば、[[特別急行列車|特急]]([[新幹線]]を含む)・[[急行列車]]が利用可能である。 ==== 設定区間 ==== * [[福島駅 (福島県)|福島]] - [[仙台駅|仙台]](「福島・仙台往復きっぷ」後継商品) * 仙台 - [[山形駅|山形]](「仙山SSきっぷ」後継商品) * [[あおば通駅|あおば通]] - [[石巻駅|石巻]](「仙石SSきっぷ」後継商品) * 仙台 - [[いわき駅|いわき]] * 仙台 - [[気仙沼駅|気仙沼]]・[[盛駅|盛]](「仙台・南三陸往復きっぷ」後継商品) * [[郡山駅 (福島県)|郡山]] - 福島 * 郡山 - [[会津若松駅|会津若松]]・[[喜多方駅|喜多方]](「磐越西線トクトク回数券」後継商品) これらの設定区間は、郡山 - 福島間を除く全ての区間で[[高速バス]]と競合しており、特に福島 - 仙台間と仙台 - 山形間は高速バスの2回券に対抗するため通常の乗車券よりも大幅な値引率となっている。 ==== 沿革 ==== * [[2008年]][[7月1日]] - 「南三陸・仙台往復きっぷ」「仙台・南三陸往復きっぷ」の代替として、「仙台 - 気仙沼・盛」を設定。 * [[2014年]][[4月1日]] - 消費税増税に伴い、発売価格を変更。 * [[2019年]][[10月1日]] - 消費税増税に伴い、発売価格を変更<ref name="ticket20191001">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/tickets/jreast_ticket2019_0809A.pdf|title=2019年10月1日、消費税率引上げに伴うおトクなきっぷ発売価格改定のご案内|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|date=|accessdate=2020-11-13}}</ref>。 === 新幹線Wきっぷ === <div style="text-align:right;float:right;"> [[File:Shinkansen Wkippu Fukushima Sendai 2011 8 17.jpg|thumb|none|250px|新幹線Wきっぷ福島 - 仙台間(みどりの窓口・指定席券売機発行)]] </div> '''新幹線Wきっぷ'''(しんかんせんダブルきっぷ)は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[東日本旅客鉄道盛岡支社|盛岡支社]]と[[東日本旅客鉄道東北本部|東北本部]]及び[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]で発売している[[特別企画乗車券]]である。なお、2015年3月14日からは[[東日本旅客鉄道新潟支社|新潟支社]]管内でも、取り扱いが開始された(後述)。 [[2021年]][[3月31日]]、[[タッチでGo!新幹線]]サービスエリア拡大に伴い、発売終了し<ref name="jre20201113">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/20201112_ho01.pdf|title=タッチでGo!新幹線 サービスエリア拡大について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道株式会社|date=2020-11-12|accessdate=2020-11-13}}</ref>、4月30日で利用終了となった。 ==== 概要 ==== * Wきっぷの新幹線版であり、新幹線自由席が利用できる2枚綴りの回数券である。 * 当初は東北本部管内のみ設定されていたが、盛岡支社管内で設定されていた「新幹線自由席回数券」(6枚綴り)を2枚綴りにした上で新幹線Wきっぷに統合した。また[[東北新幹線]][[新青森駅|新青森]]開業に伴い、新設の七戸十和田発着分を除きそれまで発売されていた在来線利用の往復タイプの特別企画乗車券の後継商品としても設定された。 *仙台発着の商品は郡山 - 一ノ関間から仙台市内への通勤・通学利用を想定しており、距離にかかわらず仙台側において特定市内制度が適用される。ただし白石蔵王駅からの新幹線Wきっぷの設定はない。 * 高崎支社での設定は[[安中榛名駅]]利用者の利便性を図るためであり、以前は発売箇所が同駅に限られていた。また、『高崎⇔安中榛名』のきっぷは、「高崎⇔[[磯部駅 (群馬県)|磯部]]間」の[[信越本線|在来線区間]]の普通列車も利用可能。 * 弘前発着のきっぷは、弘前 - 新青森間の特急「[[つがる (列車)|つがる]]」<!---下記にあるJR東日本のホームページでは「在来線の特急列車」とあるが、該当する列車は「つがる」しかない為。--->の自由席を利用できる。 ==== 設定区間 ==== * [[仙台市]]内(仙台) - 会津若松・喜多方間(「会津往復きっぷ」後継商品) * 仙台市内 - 郡山 * 仙台市内 - 福島 * 仙台市内 - [[古川駅|古川]] * 仙台市内 - [[くりこま高原駅|くりこま高原]](「新幹線自由席回数券」後継商品) * 仙台市内 - [[一ノ関駅|一ノ関]](「新幹線自由席回数券」後継商品) * 一ノ関 - [[盛岡駅|盛岡]](「新幹線自由席回数券」後継商品) * [[水沢江刺駅|水沢江刺]] - 盛岡(「新幹線自由席回数券」後継商品) * [[北上駅|北上]] - 盛岡(「新幹線自由席回数券」後継商品) * 盛岡 - [[新青森駅|新青森]]・[[青森駅|青森]](「青森往復きっぷ」「盛岡往復きっぷ」後継商品) * 盛岡 - [[弘前駅|弘前]] * [[八戸駅|八戸]]・[[本八戸駅|本八戸]] - 新青森・青森(「青森往復きっぷ」「八戸往復きっぷ」後継商品) * 八戸・本八戸 - 弘前(「弘前往復きっぷ」「八戸往復きっぷ」後継商品) * [[七戸十和田駅|七戸十和田]] - 新青森・青森 * [[秋田新幹線]]区間内専用、[[秋田駅|秋田]]~盛岡間の各駅間 * [[安中榛名駅|安中榛名]] - [[高崎駅|高崎]] * 安中榛名 - [[軽井沢駅|軽井沢]] * [[新潟駅|新潟]] - [[燕三条駅|燕三条]](「[[Sきっぷ]]」後継商品) * 新潟 - [[長岡駅|長岡]](同上) * 新潟 - [[浦佐駅|浦佐]](同上) * 新潟 - [[越後湯沢駅|越後湯沢]](同上) * 長岡 - 燕三条(同上) ==== 沿革 ==== * [[2010年]] ** [[3月1日]] - 「仙台市内 - くりこま高原」「北上 - 盛岡」「水沢江刺 - 盛岡」を新たに設定。 ** [[12月4日]] - 「盛岡 - 新青森・青森」「盛岡 - 弘前」「八戸・本八戸 - 新青森・青森」「八戸・本八戸 - 弘前」「七戸十和田 - 新青森・青森」を新たに設定。 * [[2011年]]4月1日 - 「一ノ関 - 盛岡」を新たに設定。また「安中榛名 - 高崎」「安中榛名 - 軽井沢」はこれまで安中榛名駅限定発売であったが、同日発売分より両端の駅で購入可能となった。 * 2014年4月1日 - 消費税増税に伴い、発売価格を変更。 * 2015年3月14日 - [[上越新幹線]]区間のきっぷを新たに設定。 * 2019年10月1日 - 消費税増税に伴い、発売価格を変更<ref name="ticket20191001"/>。 * 2021年 ** 3月31日 - タッチでGo!新幹線サービスエリア拡大に伴い、発売終了<ref name="jre20201113"/>。 ** 4月30日 - 利用終了。 === しらゆきWきっぷ === '''しらゆきWきっぷ'''(しらゆきダブルきっぷ)は、[[東日本旅客鉄道新潟支社|新潟支社]]で発売されている特別企画乗車券である。 ==== 概要 ==== * 本きっぷは、特急「[[しらゆき (列車)|しらゆき]]」運行開始に伴い発売が開始され、「しらゆき」の'''自由席'''が利用できる2枚綴りの回数券である。 ==== 設定区間 ==== * 新潟 - [[柏崎駅|柏崎]] * 新潟 - [[直江津駅|直江津]]~[[新井駅 (新潟県)|新井]] * 長岡 - 直江津~新井 ==== 沿革 ==== {{節stub}} * 2015年3月14日 - 設定。 * 2019年10月1日 - 消費税増税に伴い、発売価格を変更<ref name="ticket20191001"/>。 * 2020年4月1日 - [[えちごトキめき鉄道]]の運賃改定に伴い、発売価格を変更。 == 注意点 == * 「八戸・本八戸 - 新青森・青森」と「八戸・本八戸 - 弘前」のきっぷで、[[青森市]]内または弘前駅から本八戸まで利用する場合、八戸駅では新幹線[[自動改札機]]<ref>八戸駅で新幹線自動改札機を通ると本きっぷが回収されるため。</ref>を利用せず、新幹線と[[青い森鉄道]]の有人改札を通らなければならない。<!---本八戸駅2番線ホームに「注意」の案内板が設置されている。--->なお、誤って本きっぷを八戸駅新幹線自動改札機を通した場合は、改めて青い森鉄道の自動券売機で乗車券を購入しなければならない。 * 気仙沼方面のWきっぷは発売自体はしているものの、[[東日本大震災]]以後の不通区間で[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]乗り換えが発生し乗車時間も以前よりかなり長くなっている。東北本線 - 大船渡線経由のルートは利用できない事になっている。駅内広告でも震災後しばらくの間、山形・福島方面などは掲示されていても気仙沼方面のWきっぷは広告から除外されていた。現在は柳津行直通BRTや専用道の整備が進み以前より利便性は向上している。 * 上越新幹線区間の'''新幹線Wきっぷ'''で、並行する在来線の特急自由席は利用可能だが、'''しらゆきWきっぷ'''で、並行する上越新幹線「新潟 - 長岡間」は利用できない(新幹線特急券を購入しても乗車不可)。 == 発売箇所 == * 該当駅及び周辺地区のJRみどりの窓口及び[[びゅうプラザ]]、[[自動券売機#指定券自動券売機|指定席券売機]]など。 ** 「福島 - 仙台」のWきっぷについては、[[仙台駅]]・[[福島駅 (福島県)|福島駅]]・[[東福島駅]]・[[伊達駅]]・[[桑折駅]]の短距離自動券売機でも購入可能。 ** 「山形 - 仙台」のWきっぷについては、仙台駅・[[東照宮駅]]・[[陸前落合駅]]・[[愛子駅]]の短距離自動券売機でも購入可能。 * しらゆきWきっぷについては、利用区間により、発売箇所が異なる。 ** 「新潟 - 柏崎」…新発田、豊栄、新崎、東新潟、新潟、越後石山、亀田、荻川、新津、白山、関屋、小針、寺尾、新潟大学前、内野、柏崎の各駅と、びゅうプラザ新潟。 ** 「新潟 - 直江津~新井」…新発田、豊栄、新崎、東新潟、新潟、越後石山、亀田、荻川、新津、五泉、白山、関屋、小針の各駅。 ** 「長岡 - 直江津~新井」…上越妙高、犀潟、長岡、見附、宮内、小千谷、越後川口の各駅。 ** なお、「新潟 - 直江津~新井」間と「長岡 - 直江津~新井」間のWきっぷに限り、[[えちごトキめき鉄道]]の直江津・春日山・高田・新井・妙高高原・糸魚川の各駅でも発売。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://www.jreast.co.jp/tickets/info.aspx?cmb_startpre=7&cmb_placearea=0&cmb_placepre=4&txt_year=2020&txt_month=10&txt_day=1&mode=area&SearchFlag=0&ctl00=%8c%9f%8d%f5&GoodsCd=2519 おトクなきっぷ:JR東日本 W(ダブル)きっぷ(2枚つづり)] * [https://www.jreast.co.jp/tickets/info.aspx?cmb_startpre=15&cmb_placearea=0&cmb_placepre=15&txt_year=2020&txt_month=10&txt_day=1&mode=area&SearchFlag=0&ctl00=%8c%9f%8d%f5&GoodsCd=2559 おトクなきっぷ:JR東日本 新幹線W(ダブル)きっぷ(2枚つづり)] * [https://www.jreast.co.jp/tickets/info.aspx?cmb_startpre=15&cmb_placearea=0&cmb_placepre=15&txt_year=2020&txt_month=10&txt_day=1&mode=area&SearchFlag=0&ctl00=%8c%9f%8d%f5&GoodsCd=2676 おトクなきっぷ:JR東日本 しらゆきW(ダブル)きっぷ(2枚つづり)] * {{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2010/20101013.pdf 東北新幹線新青森開業に伴う「おトクなきっぷ」の一部見直しについて]}} - JR東日本ホームページ(2010年10月21日リリース) [[Category:東日本旅客鉄道の特別企画乗車券]] [[Category:えちごトキめき鉄道|しらゆきたふるきつふ]] [[Category:東北新幹線|乗たふるきつふ]] [[Category:上越新幹線|乗たふるきつふ]] {{DEFAULTSORT:たふるきつふ}}
2010-12-30T01:59:16Z
2023-10-02T22:57:21Z
false
false
false
[ "Template:Cite web", "Template:PDFlink", "Template:節stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/W%E3%81%8D%E3%81%A3%E3%81%B7
3,880,124
Sub human bros
Sub Human Bros(サブ・ヒューマン・ブロス)は、Makoto SakamotoとYutaka Sakamotoの兄弟からなるハードウェアテクノユニット、ミュージシャンである。長崎県長崎市出身。ドイツ・ベルリンでのアーティスト活動を経て、2018年12月現在、Makoto Sakamotoはベルリン、Yutaka Sakamotoは九州を活動の拠点としている。 2009年にデビューシングル『Check Ass EP』を日本国内でリリース後、ダンスミュージックの聖地ドイツ・ベルリンへと活動の拠点を移した。 2013年から2015年にかけて録音されたファーストアルバム『Sub Human Bros』は、現代のダンスミュージックに欠けている“躍動”の一点に着目し、ライブパフォーマンスと同様、レコーディング時にPCを一切使用せず即興で曲展開をアレンジし、ハードウェアシンセサイザーの音色を操り、アナログコンソールでミックス、そのままリアルタイムでレコーディングしている。アルバムマスタリングは、近年の先鋭的エレクトロニック・ミュージックを裏から支え続ける職人Rashad Beckerが担当している。 ファーストアルバム『Sub Human Bros』に収録された『shb12001b』は、デモの段階でフランスのアンダーグラウンドレーベルFullPanda Recordsの主宰であるDasha Rushの耳に留まりリリースのリクエストを受け、この曲のオリジナルバージョンはリリース前にDasha Rush本人によってDOMMUNEでDJプレイされた。 2015年4月には、シングル『Over』がベルリンの老舗テクノレーベルEintakt Recordsから30thアニバーサリーとしてヴァイナルでリリースされ、デリック・メイが来日の際に購入した事で大きな話題となる。 マイク・ヴァン・ダイクは彼らの楽曲を紹介するためのDJ MIXを制作した。 その後もPLANET BAR BERLINをオーガナイズしながらGriessmuehleやChalet Club、Hoppetosseなどといったベルリン有数のクラブにて勢力的にライブアクトをこなす。 2018年3月にリリースしたセカンドアルバム『Dreamer』は、日本にインスパイアされ作られたという聴き心地の良いダンスミュージックアルバム。ライブレコーディングに近いダイナミックなサウンドを展開したファーストアルバムとは異なる、エモーショナルでアンビエンスに溢れたトラックが瑞々しい輝きを放つ。 2018年9月にはセカンドアルバムのリミックスアルバムとして『DREAMER REMIX』をリリース。総勢16組のアーティストが参加している。"Project YTK”を2019年1月、Sub Human Brosのフルアルバム3作目としてリリース
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Sub Human Bros(サブ・ヒューマン・ブロス)は、Makoto SakamotoとYutaka Sakamotoの兄弟からなるハードウェアテクノユニット、ミュージシャンである。長崎県長崎市出身。ドイツ・ベルリンでのアーティスト活動を経て、2018年12月現在、Makoto Sakamotoはベルリン、Yutaka Sakamotoは九州を活動の拠点としている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2009年にデビューシングル『Check Ass EP』を日本国内でリリース後、ダンスミュージックの聖地ドイツ・ベルリンへと活動の拠点を移した。 2013年から2015年にかけて録音されたファーストアルバム『Sub Human Bros』は、現代のダンスミュージックに欠けている“躍動”の一点に着目し、ライブパフォーマンスと同様、レコーディング時にPCを一切使用せず即興で曲展開をアレンジし、ハードウェアシンセサイザーの音色を操り、アナログコンソールでミックス、そのままリアルタイムでレコーディングしている。アルバムマスタリングは、近年の先鋭的エレクトロニック・ミュージックを裏から支え続ける職人Rashad Beckerが担当している。 ファーストアルバム『Sub Human Bros』に収録された『shb12001b』は、デモの段階でフランスのアンダーグラウンドレーベルFullPanda Recordsの主宰であるDasha Rushの耳に留まりリリースのリクエストを受け、この曲のオリジナルバージョンはリリース前にDasha Rush本人によってDOMMUNEでDJプレイされた。 2015年4月には、シングル『Over』がベルリンの老舗テクノレーベルEintakt Recordsから30thアニバーサリーとしてヴァイナルでリリースされ、デリック・メイが来日の際に購入した事で大きな話題となる。 マイク・ヴァン・ダイクは彼らの楽曲を紹介するためのDJ MIXを制作した。 その後もPLANET BAR BERLINをオーガナイズしながらGriessmuehleやChalet Club、Hoppetosseなどといったベルリン有数のクラブにて勢力的にライブアクトをこなす。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2018年3月にリリースしたセカンドアルバム『Dreamer』は、日本にインスパイアされ作られたという聴き心地の良いダンスミュージックアルバム。ライブレコーディングに近いダイナミックなサウンドを展開したファーストアルバムとは異なる、エモーショナルでアンビエンスに溢れたトラックが瑞々しい輝きを放つ。 2018年9月にはセカンドアルバムのリミックスアルバムとして『DREAMER REMIX』をリリース。総勢16組のアーティストが参加している。\"Project YTK”を2019年1月、Sub Human Brosのフルアルバム3作目としてリリース", "title": "略歴" } ]
Sub Human Bros(サブ・ヒューマン・ブロス)は、Makoto SakamotoとYutaka Sakamotoの兄弟からなるハードウェアテクノユニット、ミュージシャンである。長崎県長崎市出身。ドイツ・ベルリンでのアーティスト活動を経て、2018年12月現在、Makoto Sakamotoはベルリン、Yutaka Sakamotoは九州を活動の拠点としている。
{{複数の問題 |特筆性=2018年12月18日 (火) 00:32 (UTC)|分野=音楽 |Wikify=2018年12月18日 (火) 00:32 (UTC) }} '''Sub Human Bros'''(サブ・ヒューマン・ブロス)は、'''Makoto Sakamoto'''と'''Yutaka Sakamoto'''の兄弟からなるハードウェア[[テクノ]]ユニット、[[ミュージシャン]]である。[[長崎県]][[長崎市]]出身。[[ドイツ]]・[[ベルリン]]での[[アーティスト]]活動を経て、2018年12月現在、Makoto Sakamotoはベルリン、Yutaka Sakamotoは九州を活動の拠点としている。 == 略歴 == 2009年にデビューシングル『'''Check Ass EP'''』を日本国内でリリース後、ダンスミュージックの聖地ドイツ・ベルリンへと活動の拠点を移した。 2013年から2015年にかけて録音されたファーストアルバム『'''Sub Human Bros'''』は、現代のダンスミュージックに欠けている“躍動”の一点に着目し、ライブパフォーマンスと同様、レコーディング時にPCを一切使用せず即興で曲展開をアレンジし、ハードウェアシンセサイザーの音色を操り、アナログコンソールでミックス、そのままリアルタイムでレコーディングしている。アルバムマスタリングは、近年の先鋭的エレクトロニック・ミュージックを裏から支え続ける職人'''Rashad Becker'''が担当している。<br> ファーストアルバム『'''Sub Human Bros'''』に収録された『'''shb12001b'''』は、デモの段階でフランスのアンダーグラウンドレーベル'''FullPanda Records'''の主宰である'''Dasha Rush'''の耳に留まりリリースのリクエストを受け、この曲のオリジナルバージョンはリリース前にDasha Rush本人によって[[DOMMUNE]]でDJプレイされた<ref>{{Cite web|和書|date=2016-12-05 |url=https://diskunion.net/clubt/ct/news/article/1/63231 |title=待望のアナログ盤もリリース決定! |publisher=ディスクユニオン |accessdate=2018-12-17 }}</ref>。<br> 2015年4月には、シングル『'''Over'''』がベルリンの老舗テクノレーベル'''Eintakt Records'''から30thアニバーサリーとしてヴァイナルでリリースされ、'''[[デリック・メイ (ミュージシャン)|デリック・メイ]]'''が来日の際に購入した事で大きな話題となる。<br> '''[[マイク・ヴァン・ダイク]]'''は彼らの楽曲を紹介するためのDJ MIXを制作した<ref>{{Cite web |author=music 4 the microglobe |date=2016-01-21 |url=https://www.mixcloud.com/m4tm/music-4-the-microglobe-34-january-2016/ |title=Music 4 The Microglobe #34 |publisher=Mixcloud |accessdate=2018-12-17 }}</ref>。 その後も'''PLANET BAR BERLIN'''をオーガナイズしながら'''Griessmuehle'''や'''Chalet Club'''、'''Hoppetosse'''などといったベルリン有数のクラブにて勢力的にライブアクトをこなす<ref>{{Cite web |url=https://clubberia.com/ja/artists/6648-Sub-Human-Bros/ |title=Sub Human Bros |publisher=クラベリア |accessdate=2018-12-17 }}</ref>。 2018年3月にリリースしたセカンドアルバム『'''Dreamer'''』は、日本にインスパイアされ作られたという聴き心地の良いダンスミュージックアルバム。ライブレコーディングに近いダイナミックなサウンドを展開したファーストアルバムとは異なる、エモーショナルでアンビエンスに溢れたトラックが瑞々しい輝きを放つ。 2018年9月にはセカンドアルバムのリミックスアルバムとして『'''DREAMER REMIX'''』をリリース。総勢16組のアーティストが参加している<ref>{{Cite web|和書|date=2018-09-25 |url=https://senken.co.jp/posts/kmiyazawa63 |title=ベルリン拠点のジャパニーズ・テクノ・デュオ(宮沢香奈) |publisher=繊研新聞 |accessdate=2018-12-17 }}</ref>。"Project YTK”を2019年1月、Sub Human Brosのフルアルバム3作目としてリリース == ディスコグラフィ == == アルバム == {|class="wikitable" style=font-size:small |- !&nbsp; !発売日 !タイトル !規格品番 !収録曲 !備考 |- |1st |[[2015年]]12月10日 | '''Sub Human Bros''' |SHRCD002<br>SHB003 | # Introduction # Paranoid # Into a cold winter # Drive # Firebird # Shb12001b (album version) # Yet # Joined # Technopolis # Odyssey # Eclipse |Mastered by Rashad Becker at Dubplates & Mastering<br>“Sakamoto Brothers” Painting by Jiab Prachakul |- |2nd |[[2018年]]3月16日 | '''Dreamer''' |SHB006<br>SHRCD003<br>SHREP001 | # Aim # Hang Out # Dreamer # Live and let live # Movement # Grateful life # Revivals # Brother # While thinking about you... # Sunset |Mastered by Stefan Betke at Scape Mastering Berlin<br>Photography & Artwork by C. Yuhki Oka |- | |[[2018年]]9月29日 | '''DREAMER REMIX''' |SHB007<br>SHRCD004<br>SHRCD005 | # While Thinking About You (Discult Soundsystem Remix) # Live And Let Live (Kenji Tazaki Remix) # Hang Out (Sub Human Bros Remix) # Grateful Life (Mijk van Dijk Remix) # Brother (S Katz Remix) # Brother (ODD Remix) # Revivals (DJ Motora a.k.a Motra Green Remix) # Revivals (Yasuhisa Remix) # Sunset (Sub Human Bros Remix) # Sunset (O.R. Remix) # Grateful Life (Yasuhisa Remix) # Revivals (Red Pig Flower Remix) # While Thinking About You... (Ayako Mori Remix) # While Thinking About You... (T.B. Remix) # Live And Let Live (Gunnar Hemmerling Remix) # Brother (Chris Knipp Remix) # Movement (iSOP Remix) # Grateful Life (TN GHETTOWORK Remix) # Dreamer (Aananda Remix) |Mastered by Bert Olke GL Audio Berlin<br>Artwork by C. Yuhki Oka |- |3rd |[[2018年]]1月30日 |'''Project YTK''' |SHB008 SHRCD006 |1. Jellyfish 2. Aqua 3. Groovin 4. Acid Party 5. Digital Gangster 6. Twist 7. The Last Tribe 8 . Night Cruising feat 宙葉 aka KEIJI 9. Mount Inasa |Mastered by Bert Olke GL Audio Berlin Artwork by YTK aka Yutaka Sakamoto |- |} === シングル === * CHECK ASS EP(2009年5月21日) * Time is Running EP(2015年5月20日) * DREAMER EP(2018年7月18日) === その他 === * CHECK ASS KAZ NISHIMURA REMIX(2009年11月16日)※配信のみ * Oath(2010年11月26日)※配信のみ * Last Day of Magic - Original(2011年1月21日)※配信のみ * SUBHUMANBROS (live version) remastered 2017(2013年4月24日)※配信のみ * evolution eins remastered 2017(2014年5月20日)※配信のみ * JAPAN(2015年1月1日)※配信のみ * The Sun(2015年7月9日)※配信のみ * We are Talking about the Future(2016年4月6日)(Sub Human Bros + motra green)※配信のみ * 9th July(2016年8月24日)※配信のみ * Route Zero & Over (live version)(2017年1月1日)※配信のみ * FANTASTIC PLANET(2015年2月18日)※配信のみ == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[マイク・ヴァン・ダイク]] == 外部リンク == * [http://www.subhumanbros.com/ Sub Human Bros] - 公式ウェブサイト * [https://subhumanbros.bandcamp.com Sub Human Bros] - bandcamp * [https://www.facebook.com/SUBHUMANBROS Sub Human Bros] - Facebook * [https://www.youtube.com/user/SubHumanBros Sub Human Bros] - YouTube * [https://soundcloud.com/subhumanbros Sub Human Bros] - Soundcloud * [https://twitter.com/SubHumanBros Sub Human Bros] (@SubHumanBros) - twitter * [https://www.instagram.com/sub_human_bros_official/ Sub Human Bros] - Instagram * [https://vimeo.com/user83883065 Sub Human Bros] - Vimeo {{Music-bio-stub}} {{デフォルトソート:さふひゆうまんふろす}} [[Category:日本のテクノミュージシャン]] [[Category:日本の音楽ユニット]] [[Category:2人組の音楽グループ]] [[Category:兄弟姉妹の音楽デュオ]]
2018-12-17T09:31:27Z
2023-09-30T08:57:11Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Music-bio-stub", "Template:複数の問題" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/Sub_human_bros
3,804,200
ホセ・ルイス・ロドリゲス (パナマのサッカー選手)
ホセ・ルイス・ロドリゲス・フランシス(José Luis Rodríguez Francis, 1998年6月19日 - )は、パナマ・パナマ市出身のサッカー選手。FCファマリカン所属。パナマ代表。ポジションはFW。 地元クラブのチョリージョFCでプレーをはじめ、2015-16シーズンにトップチームに昇格。2015年7月17日のアトレティコ・チリキ戦でプロデビューを果たした。2016年4月2日のアリアンサFC戦でプロ初ゴールをマーク。 2016年、買取オプション付きのレンタルでKAAヘントのU-21チームに加入。2016年12月9日、買取オプションが行使され2019年までの契約を結んだ。 2018年9月、NKイストラ1961に移籍。 2019年2月1日、デポルティーボ・アラベスのBチームに加入。2019-20シーズン終盤にトップチームに昇格し、2020年7月1日のレアル・マドリード戦でラ・リーガ初出場。 2020年9月4日、アラベスと2022年までの契約を締結した後、CDルーゴへのローン移籍が発表された。 2021年7月30日、2021-22シーズンはスポルティング・デ・ヒホンにレンタル移籍することが発表された。 2022年8月15日、FCファマリカンに4年契約で移籍。 2015年3月、U-17代表の一員としてCONCACAF U-17選手権に参加、ハイチ戦でゴールを挙げた。 2018年5月14日、2018 FIFAワールドカップ暫定登録メンバーに選出された。大会直前に開催された北アイルランド代表との親善試合に出場しフル代表初キャップを刻んだ。 最終登録メンバーにも選出され、グループステージのベルギー戦で途中出場した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ホセ・ルイス・ロドリゲス・フランシス(José Luis Rodríguez Francis, 1998年6月19日 - )は、パナマ・パナマ市出身のサッカー選手。FCファマリカン所属。パナマ代表。ポジションはFW。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地元クラブのチョリージョFCでプレーをはじめ、2015-16シーズンにトップチームに昇格。2015年7月17日のアトレティコ・チリキ戦でプロデビューを果たした。2016年4月2日のアリアンサFC戦でプロ初ゴールをマーク。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2016年、買取オプション付きのレンタルでKAAヘントのU-21チームに加入。2016年12月9日、買取オプションが行使され2019年までの契約を結んだ。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2018年9月、NKイストラ1961に移籍。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2019年2月1日、デポルティーボ・アラベスのBチームに加入。2019-20シーズン終盤にトップチームに昇格し、2020年7月1日のレアル・マドリード戦でラ・リーガ初出場。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2020年9月4日、アラベスと2022年までの契約を締結した後、CDルーゴへのローン移籍が発表された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2021年7月30日、2021-22シーズンはスポルティング・デ・ヒホンにレンタル移籍することが発表された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2022年8月15日、FCファマリカンに4年契約で移籍。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2015年3月、U-17代表の一員としてCONCACAF U-17選手権に参加、ハイチ戦でゴールを挙げた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2018年5月14日、2018 FIFAワールドカップ暫定登録メンバーに選出された。大会直前に開催された北アイルランド代表との親善試合に出場しフル代表初キャップを刻んだ。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "最終登録メンバーにも選出され、グループステージのベルギー戦で途中出場した。", "title": "経歴" } ]
ホセ・ルイス・ロドリゲス・フランシスは、パナマ・パナマ市出身のサッカー選手。FCファマリカン所属。パナマ代表。ポジションはFW。
{{Otheruses|パナマのサッカー選手|その他の用法|ホセ・ルイス}} {{スペイン語圏の姓名|ロドリゲス|フランシス}} {{サッカー選手 |名前=ホセ・ルイス・ロドリゲス |画像=José Rodríguez.jpg |画像サイズ=230px |画像の説明=[[サッカーパナマ代表|パナマ代表]]でのロドリゲス(2018年) |本名=José Luis Rodríguez Francis |愛称= |カタカナ表記= |アルファベット表記= |原語名= |原語表記= |国={{PAN}} |誕生日={{生年月日と年齢|1998|6|19}} |出身地=[[パナマ市]] |身長=180cm |体重=77kg |所属チーム名={{Flagicon|POR}} [[FCファマリカン]] |ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]] |背番号=19 |利き足=右足 |ユース年1= |ユースクラブ1={{Flagicon|PAN}} [[チョリージョFC]] |年1=2015-2016 |クラブ1={{Flagicon|PAN}} [[チョリージョFC]] |出場1=16 |得点=1 |年2=2016 |クラブ2=→{{flagicon|BEL}} [[KAAヘント]]II (loan) |出場2=0 |得点2=0 |年3=2016-2018 |クラブ3={{Flagicon|BEL}} [[KAAヘント]]II |出場3=0 |得点3=0 |年4=2018 |クラブ4={{flagicon|CRO}} [[NKイストラ1961]] |出場4=8 |得点4=1 |年5=2018-2020 |クラブ5={{Flagicon|ESP}} [[デポルティーボ・アラベスB|アラベスB]] |出場5=37 |得点5=5 |年6=2020-2022 |クラブ6={{Flagicon|ESP}} [[デポルティーボ・アラベス|アラベス]] |出場6=1 |得点6=0 |年7=2020-2021 |クラブ7=→{{Flagicon|ESP}} [[CDルーゴ|ルーゴ]] (loan) |出場7=26 |得点7=5 |年8=2021-2022 |クラブ8=→{{flagicon|ESP}} [[スポルティング・デ・ヒホン|スポルティング・ヒホン]] (loan) |出場8=35 |得点8=3 |年9=2022- |クラブ9={{Flagicon|POR}} [[FCファマリカン|ファマリカン]] |出場9= |得点9= |クラブ成績更新日=2022年6月7日 |代表年1=2018- |代表1={{PANf}} |代表出場1=38 |代表得点1=2 |代表成績更新日=2022年6月7日 |監督年1= |監督チーム1= |}} '''ホセ・ルイス・ロドリゲス・フランシス'''('''José Luis Rodríguez Francis''', [[1998年]][[6月19日]] - )は、[[パナマ]]・[[パナマ市]]出身の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]。[[FCファマリカン]]所属。[[サッカーパナマ代表|パナマ代表]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。 == 経歴 == === クラブ === 地元クラブの[[チョリージョFC]]でプレーをはじめ、2015-16シーズンにトップチームに昇格。2015年7月17日の[[アトレティコ・チリキ]]戦でプロデビューを果たした。2016年4月2日の[[アリアンサFC]]戦でプロ初ゴールをマーク<ref>{{cite web |url=https://int.soccerway.com/matches/2016/04/03/panama/lpf/alianza-fc/chorrillo-fc/2184917/ |title=Alianza vs. Chorrillo – 3 April 2016 |website=Soccerway |publisher=[[Perform Group]] |date=3 April 2016 |access-date=3 April 2016}}</ref>。 2016年、買取オプション付きのレンタルで[[KAAヘント]]のU-21チームに加入<ref>{{cite web |url=http://www.worldfootball.net/player_summary/jose-luis-rodriguez_2/ |title=José Luis Rodríguez |website=WorldFootball.net |publisher=Heim:Spiel |access-date=29 May 2018}}</ref><ref>{{cite news |url=https://www.panamaamerica.com.pa/10-deportivo/jose-luis-rodriguez-ya-vistio-la-piel-del-kaa-gent-de-belgica-1031593 |title=José Luis Rodríguez ya vistió la piel del KAA Gent de Bélgica |trans-title=José Luis Rodríguez has already worn the kit of Belgium's KAA Gent |website=panamaamerica.com.pa |publisher=Panamá América |date=23 June 2016 |access-date=30 May 2018 |language=Spanish}}</ref><ref>{{cite news |url=http://futbolconsultants.com/jose-luis-rodriguez-al-futbol-de-belgica/ |title=José Luis Rodriguez al fútbol de Bélgica |trans-title=José Luis Rodríguez to Belgian football |website=futbolconsultants.com |publisher=[[Futbol Consultants]] |date=23 June 2016 |access-date=30 May 2018 |language=Spanish}}</ref>。2016年12月9日、買取オプションが行使され2019年までの契約を結んだ<ref>{{cite news |url=https://www.kaagent.be/en/supporter/news/10-12-2016/kaa-gent-neemt-jose-luis-rodriguez-definitief-over |title=KAA Gent sign Jose Luis Rodriguez on permanent deal |website=kaagent.be |publisher=K.A.A. Gent |date=10 December 2016 |access-date=30 May 2018}}</ref>。 2018年9月、[[NKイストラ1961]]に移籍<ref>{{cite news |url=https://www.24sata.hr/sport/veliko-pojacanje-istra-dovela-igraca-koji-je-igrao-sp-u-rusiji-590199 |title=Veliko pojačanje za Istru: Dovela igrača koji je igrao na SP u Rusiji |trans-title=Big signing for Istra: They signed player who played on the World Cup in Russia |website=24sata.hr |publisher=[[24 sata (Croatia)|24 sata]] |date=13 September 2019 |access-date=20 September 2018}}</ref>。 2019年2月1日、[[デポルティーボ・アラベス]]のBチームに加入<ref>[https://www.deportivoalaves.com/noticia/tomas-oneto-y-jose-luis-rodriguez-reforzaran-al-miniglorias Tomás Oneto y José Luis Rodríguez reforzarán al MiniGlorias], deportivoalaves.com, 1 February 2019</ref>。2019-20シーズン終盤にトップチームに昇格し、2020年7月1日の[[レアル・マドリード]]戦で[[プリメーラ・ディビシオン|ラ・リーガ]]初出場<ref>{{cite web|url=https://int.soccerway.com/matches/2020/07/10/spain/primera-division/real-madrid-club-de-futbol/deportivo-alaves/3059157/|title=REAL MADRID VS. DEPORTIVO ALAVÉS 2 - 0|publisher=Soccerway|date=2020-7-1|accessdate=2020-9-21}}</ref>。 2020年9月4日、アラベスと2022年までの契約を締結した後、[[CDルーゴ]]へのローン移籍が発表された<ref>{{cite web|url=https://www.deportivoalaves.com/noticia/jose-luis-rodriguez-cedido-al-cd-lugo|title=José Luis Rodríguez, cedido al CD Lugo|publisher=Deportivo Alavés|date=2020-9-4|accessdate=2020-9-21}}</ref>。 2021年7月30日、2021-22シーズンは[[スポルティング・デ・ヒホン]]にレンタル移籍することが発表された<ref>{{Cite web|title=José Luis Rodríguez refuerza el ataque del Sporting|url=https://www.realsporting.com/noticia/jose-luis-rodriguez-refuerza-el-ataque-del-sporting|date=2021-7-30|accessdate=2021-7-31|language=es|publisher=[[スポルティング・デ・ヒホン]]}}</ref>。 2022年8月15日、[[FCファマリカン]]に4年契約で移籍<ref>{{cite web|url=https://www.record.pt/futebol/futebol-nacional/liga-bwin/famalicao/detalhe/puma-rodriguez-e-reforco-para-o-ataque-do-famalicao|title=Puma Rodríguez é reforço para o ataque do Famalicão|trans-title=Puma Rodríguez is an addition for the attack of Famalicão|publisher=[[Record (newspaper)|Record]]|language=pt|date=15 August 2022|accessdate=2022-09-16}}</ref>。 === 代表 === 2015年3月、U-17代表の一員として[[CONCACAF U-17選手権]]に参加、ハイチ戦でゴールを挙げた<ref name="u17">{{cite web |url=http://www.concacaf.com/category/under-17s-men/game-detail/218512 |title=Under 17s – Men – Panama v Mexico |website=CONCACAF |date=28 February 2015 |access-date=16 July 2018 |dead-url=yes |archive-url=https://web.archive.org/web/20160304200652/http://www.concacaf.com/category/under-17s-men/game-detail/218512 |archive-date=4 March 2016}} {{cite web |url=http://www.concacaf.com/category/under-17s-men/game-detail/218518 |title=Under 17s – Men – Haiti v Panama |website=CONCACAF |date=3 March 2015 |access-date=16 July 2018 |dead-url=yes |archive-url=https://web.archive.org/web/20160305014304/http://www.concacaf.com/category/under-17s-men/game-detail/218518 |archive-date=5 March 2016}} {{cite web |url=http://www.concacaf.com/category/under-17s-men/game-detail/218525 |title=Under 17s – Men – Panama v Saint Lucia |website=CONCACAF |date=6 March 2015 |access-date=16 July 2018 |dead-url=yes |archive-url=https://web.archive.org/web/20160818080125/http://www.concacaf.com/category/under-17s-men/game-detail/218525 |archive-date=18 August 2016}} {{cite web |url=http://www.concacaf.com/category/under-17s-men/game-detail/218531 |title=Under 17s – Men – Costa Rica v Panama |website=CONCACAF |date=9 March 2015 |access-date=16 July 2018 |dead-url=yes |archive-url=https://web.archive.org/web/20160304091301/http://www.concacaf.com/category/under-17s-men/game-detail/218531 |archive-date=4 March 2016}}</ref>。 2018年5月14日、[[2018 FIFAワールドカップ]]暫定登録メンバーに選出された<ref>{{cite news |url=https://es.fifa.com/worldcup/news/panama-anuncia-su-lista-provisional-rusia-2018 |title=Panamá anuncia su lista provisional |trans-title=Panama announces its provisional list |website=FIFA.com |publisher=Fédération Internationale de Football Association |date=14 May 2018 |access-date=15 May 2018 |language=Spanish}}</ref>。大会直前に開催された北アイルランド代表との親善試合に出場しフル代表初キャップを刻んだ。 最終登録メンバーにも選出され<ref>{{cite news |last=Richards |first=Ricardo |url=http://www.telemetro.com/deportes/futbol/noticias/Panama-revela-jugadores-Mundial-Rusia_0_1140486507.html |title=Panamá revela lista de los 23 jugadores que irán al Mundial de Rusia 2018 |trans-title=Panama reveals list of the 23 players who will go to the 2018 World Cup in Russia |website=telemetro.com |publisher=[[Telemetro]] |date=30 May 2018 |access-date=30 May 2018 |language=Spanish}}</ref>、グループステージのベルギー戦で途中出場した<ref>{{cite web |url=https://resources.fifa.com/image/upload/eng-13-0618-bel-pan-fulltime-pdf-2960953.pdf?cloudid=mi7jyr0nmfxqkma90dk2 |title=Match report – Group G – Belgium-Panama |website=FIFA.com |publisher=Fédération Internationale de Football Association |format=PDF |date=18 June 2018 |access-date=18 June 2018}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{BDFutbol|26452|ホセ・ルイス・ロドリゲス}} * {{FIFA player|411176|ホセ・ルイス・ロドリゲス}} * {{NFT player|71251|ホセ・ルイス・ロドリゲス}} {{FCファマリカンのメンバー}} {{Navboxes |title = パナマ代表 出場大会 |titlestyle =background:#FF0000; color:white; |list1= {{2018 FIFAワールドカップパナマ代表}} {{2019 CONCACAFゴールドカップパナマ代表}} }} {{DEFAULTSORT:ろとりけす ほせ るいす}} [[Category:パナマのサッカー選手]] [[Category:NKイストラ1961の選手]] [[Category:デポルティーボ・アラベスBの選手]] [[Category:デポルティーボ・アラベスの選手]] [[Category:CDルーゴの選手]] [[Category:スポルティング・デ・ヒホンの選手]] [[Category:FCファマリカンの選手]] [[Category:サッカーパナマ代表選手]] [[Category:FIFAワールドカップパナマ代表選手]] [[Category:2018 FIFAワールドカップ出場選手]] [[Category:パナマ市出身の人物]] [[Category:1998年生]] [[Category:存命人物]]
null
2022-09-16T05:45:15Z
false
false
false
[ "Template:Otheruses", "Template:スペイン語圏の姓名", "Template:サッカー選手", "Template:Cite web", "Template:Cite news", "Template:BDFutbol", "Template:Reflist", "Template:FIFA player", "Template:NFT player", "Template:FCファマリカンのメンバー", "Template:Navboxes" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%82%B9_(%E3%83%91%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%81%AE%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E9%81%B8%E6%89%8B)
1,634,044
HTC Touch Diamond
HTC Touch Diamond(エイチティーシー タッチ ダイヤモンド)とは、HTCが世界各国で発売しているフルタッチパネルのスマートフォン。 香港市場に2008年5月に発売。6月までにヨーロッパの主要なキャリアで発売された。アメリカでは8月に発売。日本市場では、イー・モバイル向けのS21HTが10月に発売。ソフトバンクモバイル向けのSoftBank X04HTが11月に発売。NTTドコモ向けのdocomo PRO series HT-02Aが12月19日に発売開始。背面カバーが黒光りするダイヤモンドカットであるのが特徴であるが、S21HTだけは背面が平らである。基本仕様は同じであるが、HT-02Aはキャリアメールに対応していない(iモード.netモバイルモードは対応)のと、X04HTは通信速度が3.6Mbpsにとどまるといった違いがある。HT-02Aはiモードメールのプッシュ配信には対応していないが、moperaプッシュメールをサポートしている。NTT docomo HT-01A からキーボードを取り去って軽量化した簡略版である。マットコートの外装表面は高級感を感じさせるが、加水分解して経年変化でベトベトに溶けやすくなる。無水アルコールで拭き取れば普通の樹脂製の基材が出てくる。こうすれば触感が安っぽくなる反面、使いやすくなる。 使用バッテリーは 型番 HT02、形式 DIAM171、定格 3.7V/DC 1340mAh である。 NTT docomo HT-01A とは戦略的なターゲットが異なるため、その機種とは違い外部から差し込むタイプの microSDメモリなどに対応していない等、中途半端な過渡期の産物でもある。 インターフェースは、ほとんどタッチパネルで操作を行う。Touch FLO 3Dという、HTC社のタッチインターフェースを採用し、直感的に操作を行うことが出来る。 主なプリインストール、同梱アプリケーションは以下のとおり
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "HTC Touch Diamond(エイチティーシー タッチ ダイヤモンド)とは、HTCが世界各国で発売しているフルタッチパネルのスマートフォン。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "香港市場に2008年5月に発売。6月までにヨーロッパの主要なキャリアで発売された。アメリカでは8月に発売。日本市場では、イー・モバイル向けのS21HTが10月に発売。ソフトバンクモバイル向けのSoftBank X04HTが11月に発売。NTTドコモ向けのdocomo PRO series HT-02Aが12月19日に発売開始。背面カバーが黒光りするダイヤモンドカットであるのが特徴であるが、S21HTだけは背面が平らである。基本仕様は同じであるが、HT-02Aはキャリアメールに対応していない(iモード.netモバイルモードは対応)のと、X04HTは通信速度が3.6Mbpsにとどまるといった違いがある。HT-02Aはiモードメールのプッシュ配信には対応していないが、moperaプッシュメールをサポートしている。NTT docomo HT-01A からキーボードを取り去って軽量化した簡略版である。マットコートの外装表面は高級感を感じさせるが、加水分解して経年変化でベトベトに溶けやすくなる。無水アルコールで拭き取れば普通の樹脂製の基材が出てくる。こうすれば触感が安っぽくなる反面、使いやすくなる。 使用バッテリーは 型番 HT02、形式 DIAM171、定格 3.7V/DC 1340mAh である。 NTT docomo HT-01A とは戦略的なターゲットが異なるため、その機種とは違い外部から差し込むタイプの microSDメモリなどに対応していない等、中途半端な過渡期の産物でもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "インターフェースは、ほとんどタッチパネルで操作を行う。Touch FLO 3Dという、HTC社のタッチインターフェースを採用し、直感的に操作を行うことが出来る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "主なプリインストール、同梱アプリケーションは以下のとおり", "title": "アプリケーション" } ]
HTC Touch Diamondとは、HTCが世界各国で発売しているフルタッチパネルのスマートフォン。
{{Infobox 携帯電話の仕様表 | 機種名 = HTC Touch Diamond | 画像1 = [[ファイル:DocomoHT02a.jpg|150px]] | 画像2 = (参考)NTT docomo PRO series[[HT-02A]] | キャリア = | キャプション中のキャリア表示 = | 製造 = HTC (企業){{!}}HTC | 発売年 = [[2008年]] | 発売日 = | OS = Windows Mobile 6.1 Professional | CPU = MSM7201-528MHz | 通信方式 = [[GSM]]850/900/1800/1900MHz | データ通信方式 = [[HSDPA]]、[[GPRS]] | 利用周波数帯 = | 形状 = ストレート式 | 幅 = 51 | 長さ = 102 | 厚さ = 11.5 | 質量 = 110 | 連続通話時間 = | 連続待受時間 = | 充電時間 = | データフォルダ = 4[[ギガバイト|GB]] | 内部メモリ = | 外部メモリ = 非対応 | 日本語入力 = ○ | 電子決済機能 = なし | 赤外線通信機能 = なし | Bluetooth = [[Bluetooth]] 2.0 | 放送受信機能 = | 備考 = [[無線LAN]] ([[IEEE 802.11]]b/g)、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]、[[タッチパネル]] | メイン画面有無 = | メイン画面方式 = [[薄膜トランジスタ|TFT]] | メイン画面解像度 = [[Video Graphics Array|VGA]]液晶<br/>480×640ドット | メイン画面サイズ = 2.8インチ | メイン画面色数 = 約65536色 | サブ画面有無 = なし | メインカメラ有無 = | メインカメラ画素数 = 約320万 | メインカメラ方式 = [[CMOSイメージセンサ|CMOS]] | メインカメラ機能 = [[オートフォーカス]] | サブカメラ有無 = あり(docomo端末には非搭載) | サブカメラ画素数 = 約30万 | サブカメラ方式 = [[CMOSイメージセンサ|CMOS]] }} '''HTC Touch Diamond'''(エイチティーシー タッチ ダイヤモンド)とは、[[HTC (企業)|HTC]]が[[世界]]各国で発売しているフル[[タッチパネル]]の[[スマートフォン]]。 == 概要 == [[香港]]市場に2008年5月に発売。6月までにヨーロッパの主要なキャリアで発売された。アメリカでは8月に発売。日本市場では、[[イー・モバイル]]向けの[[S21HT]]が10月に発売。[[ソフトバンクモバイル]]向けの[[SoftBank X04HT]]が11月に発売。[[NTTドコモ]]向けの[[docomo PRO series]] [[HT-02A]]が12月19日に発売開始。背面カバーが黒光りするダイヤモンドカットであるのが特徴であるが、S21HTだけは背面が平らである。基本仕様は同じであるが、HT-02Aはキャリアメールに対応していない([[iモード.net#モバイルモード|iモード.netモバイルモードは対応]])のと、X04HTは通信速度が3.6Mbpsにとどまるといった違いがある。HT-02Aは[[iモードメール]]の[[プッシュ型電子メール|プッシュ配信]]には対応していないが、[[mopera]]プッシュメールをサポートしている。NTT docomo HT-01A からキーボードを取り去って軽量化した簡略版である。マットコートの外装表面は高級感を感じさせるが、加水分解して経年変化でベトベトに溶けやすくなる。無水アルコールで拭き取れば普通の樹脂製の基材が出てくる。こうすれば触感が安っぽくなる反面、使いやすくなる。 使用バッテリーは [[型番 HT02]]、[[形式 DIAM171]]、[[定格 3.7V/DC 1340mAh]] である。 NTT docomo HT-01A とは戦略的なターゲットが異なるため、その機種とは違い外部から差し込むタイプの microSDメモリなどに対応していない等、中途半端な過渡期の産物でもある。 インターフェースは、ほとんどタッチパネルで操作を行う。'''Touch FLO 3D'''という、HTC社のタッチインターフェースを採用し、直感的に操作を行うことが出来る。 == アプリケーション == 主なプリインストール、同梱アプリケーションは以下のとおり *[[Microsoft ActiveSync]](PC同期、[[Exchange Server]]との同期) *GPS *[[Opera]]モバイル [[Internet Explorer|IE]]モバイル *[[RSS]] HUB *[[Microsoft Word|Word]]モバイル、[[Microsoft Excel|Excel]]モバイル、[[Microsoft PowerPoint|PowerPoint]]モバイル、[[Adobe Reader]]、[[OneNote]]モバイル *[[ナビタイム]]、[[Google Maps]] *[[Windows Live]](メール、メッセンジャー) *Sprite Backup *[[Windows Media]]、オーディオブースター *[[YouTube]] *[[Zip (ファイルフォーマット)|Zip]] *FMラジオ *WorldCardモバイル(名刺読み取り) *メール *リモートデスクトップ *予定表 *辞書 翻訳 == 歴史 == *[[2008年]][[10月10日]] - [[イーモバイル]]向け[[S21HT]]発売 *2008年[[11月8日]] - [[ソフトバンクモバイル]]向け[[SoftBank X04HT]]発売 *2008年[[12月19日]] - [[NTTドコモ]]向け[[HT-02A]]発売 == 関連項目 == *[[docomo PRO series]] [[HT-02A]] - [[NTTドコモ]]向け *[[SoftBank X04HT]] - [[ソフトバンクモバイル]]向け *[[S21HT]] - [[イー・モバイル]]向け *[[HTC Touch Pro]] - 当シリーズに[[QWERTY]]キーボードを増設し、機能の強化を図ったフルタッチパネルスマートフォン。 == 外部リンク == [http://www.htc.com/jp/product.aspx?id=60162 HTC Touch Diamond] {{Windows CE端末}} [[Category:携帯電話端末 (HTC)]] [[Category:スマートフォン]] [[Category:Windows CE端末 (HTC)]] [[Category:2008年のハードウェア]]
null
2023-06-26T03:19:08Z
false
false
false
[ "Template:Windows CE端末", "Template:Infobox 携帯電話の仕様表" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/HTC_Touch_Diamond
634,976
菅原リサ
菅原 リサ(すがわら りさ, 1977年8月15日 - )は、日本の体操指導者で、元選手。埼玉県戸田高校卒業、日本体育大学体育学部体育学科入学。現姓は豊島。 埼玉県戸田市出身。父は1974年テヘランアジア大会の体操男子団体銀メダリスト、母は1972年全日本選手権で優勝しミュンヘンオリンピック代表という体操一家に生まれる。小さい頃の遊び場が体操場と言うだけあり、地元の戸田市スポーツセンターで小学校1年生の頃から本格的に体操を始めた。 1993年、地元の埼玉県立戸田高等学校に進学。翌1994年、NHK杯で初タイトルを獲得。同時に日本女子体操のエースであった小菅麻里の大会5連覇を阻止した。 1996年に戸田高校卒業後は日本体育大学に進学。その年から1998年までNHK杯3連覇を記録。また全日本選手権では、1996年から1999年までの4連覇を含む5回の優勝を果たしている。特に1996年の全日本は同じクラブの後輩でもある大畠佑紀との同点優勝となった。ちなみに全日本を母子で制したのは、史上初。 国際大会でも日本代表として活躍。大学進学の年にアトランタオリンピック代表として出場。アジア大会では、1994年広島大会で団体総合銀メダルと種目別ゆかで銅メダル、1998年バンコク大会で種目別ゆかで銅メダル、ユニバーシアードでは1997年シチリアで、種目別ゆかと平均台で金メダルを獲得した。 ライバル小菅ともども1990年代の日本女子体操をエースとしてリードしてきた。しかし大学在学中怪我を負ったことが原因で、バンコクアジア大会以降低迷が続いた。このため、1999年の中日カップを最後に引退した。その後、オーストラリアでのコーチ留学を経て、現在は自らの原点となった戸田市スポーツセンターで後進の指導にあたっている。 小菅は菅原にとって憧れの選手であり、プライベートでも大の仲良しだった。特にアトランタオリンピック団体出場を決めた1995年の世界選手権(福井県鯖江市)では競技終了後に喜びを分かち合ったが、その時「私の分まで頑張ってね」と激励され、思わず号泣したというエピソードがある(小菅はこの大会終了後に引退を表明した)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "菅原 リサ(すがわら りさ, 1977年8月15日 - )は、日本の体操指導者で、元選手。埼玉県戸田高校卒業、日本体育大学体育学部体育学科入学。現姓は豊島。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "埼玉県戸田市出身。父は1974年テヘランアジア大会の体操男子団体銀メダリスト、母は1972年全日本選手権で優勝しミュンヘンオリンピック代表という体操一家に生まれる。小さい頃の遊び場が体操場と言うだけあり、地元の戸田市スポーツセンターで小学校1年生の頃から本格的に体操を始めた。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1993年、地元の埼玉県立戸田高等学校に進学。翌1994年、NHK杯で初タイトルを獲得。同時に日本女子体操のエースであった小菅麻里の大会5連覇を阻止した。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1996年に戸田高校卒業後は日本体育大学に進学。その年から1998年までNHK杯3連覇を記録。また全日本選手権では、1996年から1999年までの4連覇を含む5回の優勝を果たしている。特に1996年の全日本は同じクラブの後輩でもある大畠佑紀との同点優勝となった。ちなみに全日本を母子で制したのは、史上初。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国際大会でも日本代表として活躍。大学進学の年にアトランタオリンピック代表として出場。アジア大会では、1994年広島大会で団体総合銀メダルと種目別ゆかで銅メダル、1998年バンコク大会で種目別ゆかで銅メダル、ユニバーシアードでは1997年シチリアで、種目別ゆかと平均台で金メダルを獲得した。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ライバル小菅ともども1990年代の日本女子体操をエースとしてリードしてきた。しかし大学在学中怪我を負ったことが原因で、バンコクアジア大会以降低迷が続いた。このため、1999年の中日カップを最後に引退した。その後、オーストラリアでのコーチ留学を経て、現在は自らの原点となった戸田市スポーツセンターで後進の指導にあたっている。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "小菅は菅原にとって憧れの選手であり、プライベートでも大の仲良しだった。特にアトランタオリンピック団体出場を決めた1995年の世界選手権(福井県鯖江市)では競技終了後に喜びを分かち合ったが、その時「私の分まで頑張ってね」と激励され、思わず号泣したというエピソードがある(小菅はこの大会終了後に引退を表明した)。", "title": "小菅麻里との関係" } ]
菅原 リサは、日本の体操指導者で、元選手。埼玉県戸田高校卒業、日本体育大学体育学部体育学科入学。現姓は豊島。
{{Infobox 体操選手 | 氏名 = 菅原リサ | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | フルネーム = 菅原 リサ | 愛称 = | 国籍 = {{JPN}} | 種目 = | 得意種目 = [[ゆか]] | 生年月日 ={{生年月日と年齢|1977|8|15}} | 生誕地 =[[埼玉県]][[戸田市]] | 故郷 = | 居住地 = | 没年月日 = | 死没地 = | 身長 = | 体重 = | 実績 = | 代表 = | 所属 = [[戸田市スポーツセンター]]→[[日本体育大学]] | 練習場 = | 学歴 = [[埼玉県立戸田高等学校]] | コーチ = | 補助 = | 元コーチ = | 振付師 = | 使用曲 = | 技名 = | 引退 = 1999年12月 | show-medals = yes |medaltemplates= {{MedalSport|女子 [[体操競技]]}} {{MedalCompetition|[[アジア競技大会|アジア大会]]}} {{MedalSilver|[[1994年アジア競技大会|1994]]|女子 団体総合}} {{MedalBronze|[[1994年アジア競技大会|1994]]|女子 [[ゆか]]}} {{MedalBronze|[[1998年アジア競技大会|1998]]|女子 ゆか}} {{MedalCompetition|[[ユニバーシアード]]}} {{MedalGold|1997|女子 ゆか}} {{MedalGold|1997|女子 [[平均台]]}} }} '''菅原 リサ'''(すがわら りさ, [[1977年]][[8月15日]] - )は、日本の体操指導者で、元選手。埼玉県戸田高校卒業、[[日本体育大学]]体育学部体育学科入学。現姓は豊島<ref>[https://todasports.jp/coach.html コーチ紹介|NPO戸田スポーツクラブ]</ref>。 == 来歴・人物 == [[埼玉県]][[戸田市]]出身。父は[[1974年]][[テヘラン]][[1974年アジア競技大会|アジア大会]]の体操男子団体銀メダリスト、母は[[1972年]][[全日本体操競技選手権|全日本選手権]]で優勝し[[ミュンヘンオリンピック]]代表という体操一家に生まれる。小さい頃の遊び場が体操場と言うだけあり、地元の[[戸田市スポーツセンター]]で小学校1年生の頃から本格的に体操を始めた。 [[1993年]]、地元の[[埼玉県立戸田翔陽高等学校|埼玉県立戸田高等学校]]に進学。翌[[1994年]]、[[NHK杯体操選手権|NHK杯]]で初タイトルを獲得。同時に日本女子体操のエースであった[[小菅麻里]]の大会5連覇を阻止した。 [[1996年]]に戸田高校卒業後は[[日本体育大学]]に進学。その年から[[1998年]]までNHK杯3連覇を記録。また全日本選手権では、1996年から[[1999年]]までの4連覇を含む5回の優勝を果たしている。特に1996年の全日本は同じクラブの後輩でもある[[大畠佑紀]]との同点優勝となった<ref>このようなケースは2006年の全日本で[[上村美揮]]、[[鶴見虹子]](共に[[朝日生命体操クラブ]]所属)が記録している</ref>。ちなみに全日本を母子で制したのは、史上初<ref>2013年に[[笹田夏実]](母親は[[加納弥生|笹田(旧姓・加納)弥生]])が母子制覇を達成。男子だと[[相原信行]]、[[相原豊|豊]]、[[塚原光男]]、[[塚原直也|直也]]親子が記録</ref>。 国際大会でも日本代表として活躍。大学進学の年に[[アトランタオリンピック]]代表として出場。[[アジア競技大会|アジア大会]]では、1994年[[1994年アジア競技大会|広島大会]]で団体総合銀メダルと種目別ゆかで銅メダル、1998年[[1998年アジア競技大会|バンコク大会]]で種目別ゆかで銅メダル、[[ユニバーシアード]]では1997年[[シチリア]]で、種目別ゆかと[[平均台]]で金メダルを獲得した。 ライバル小菅ともども[[1990年代]]の日本女子体操をエースとしてリードしてきた。しかし大学在学中怪我を負ったことが原因で、バンコクアジア大会以降低迷が続いた。このため、1999年の[[豊田国際体操競技大会|中日カップ]]を最後に引退した<ref>ただしこの時は選手としてではなく、競技終了後に行われた[[エキシビション]]に出場している</ref>。その後、[[オーストラリア]]でのコーチ留学を経て、現在は自らの原点となった戸田市スポーツセンターで後進の指導にあたっている<ref>両親も同じ戸田市スポーツセンターのコーチであり、親子2代で選手・コーチという経歴を持つ</ref>。 == 小菅麻里との関係 == 小菅は菅原にとって憧れの選手であり、プライベートでも大の仲良しだった。特にアトランタオリンピック団体出場を決めた[[1995年]]の[[世界体操競技選手権|世界選手権]]([[福井県]][[鯖江市]])では競技終了後に喜びを分かち合ったが、その時「私の分まで頑張ってね」と激励され、思わず号泣したというエピソードがある(小菅はこの大会終了後に引退を表明した)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Fig|17}} * {{Olympedia}} {{全日本体操選手権女子個人総合優勝}} {{NHK杯体操選手権女子個人総合優勝}} {{DEFAULTSORT:すかわら りさ}} [[Category:日本の女子体操競技選手]] [[Category:オリンピック体操日本代表選手]] [[Category:ユニバーシアード体操日本代表選手]] [[Category:日本のユニバーシアード金メダリスト]] [[Category:アジア競技大会体操日本代表選手]] [[Category:日本のアジア競技大会銀メダリスト]] [[Category:日本のアジア競技大会銅メダリスト]] [[Category:埼玉県出身のスポーツ選手]] [[Category:日本体育大学出身の人物]] [[Category:1977年生]] [[Category:存命人物]]
2006-08-09T06:15:38Z
2023-12-09T00:49:21Z
false
false
false
[ "Template:Infobox 体操選手", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Fig", "Template:Olympedia", "Template:全日本体操選手権女子個人総合優勝", "Template:NHK杯体操選手権女子個人総合優勝" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E3%83%AA%E3%82%B5
429,224
富田重政
冨田 重政(とだ しげまさ、永禄7年(1564年) - 寛永2年4月19日(1625年5月25日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣。父は越前の戦国大名朝倉氏の家臣で、富田流の門人だった山崎景邦。富田景政の婿養子。 子は冨田重家、富田重康、冨田宗高。官位は越後守。 通称は与六郎、六左衛門、治部左衛門、大炊。前田利家の家臣として仕え、1584年の能登国末森城の戦いでは一番槍の武功を挙げたことから利家の賞賛を受け、富田景政の娘を妻とした。また、景政の嫡男が戦死したため、景政の婿養子となった。 小田原征伐や関ヶ原の戦いにおいても、前田軍の武将として従軍している。これらの戦功から、1万3670石の所領を与えられた。 その後、前田利長が養子(異母弟)の前田利常に家督を譲った頃に重政も長男・重家に家督を譲り、隠居している。しかし利常に従って1614年からの大坂の陣にも参戦し、19人の敵兵の首級を挙げるという武功を立てた。 また1618年には、家督を継いだ長男・重家が24歳の若さで死去している(家督は重政の次男・重康が相続した)。 1625年に死去。享年62。 戦国時代における中条流の剣豪の一人であり、越後守の官位から「名人越後」と称されて恐れられた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "冨田 重政(とだ しげまさ、永禄7年(1564年) - 寛永2年4月19日(1625年5月25日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣。父は越前の戦国大名朝倉氏の家臣で、富田流の門人だった山崎景邦。富田景政の婿養子。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "子は冨田重家、富田重康、冨田宗高。官位は越後守。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "通称は与六郎、六左衛門、治部左衛門、大炊。前田利家の家臣として仕え、1584年の能登国末森城の戦いでは一番槍の武功を挙げたことから利家の賞賛を受け、富田景政の娘を妻とした。また、景政の嫡男が戦死したため、景政の婿養子となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "小田原征伐や関ヶ原の戦いにおいても、前田軍の武将として従軍している。これらの戦功から、1万3670石の所領を与えられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その後、前田利長が養子(異母弟)の前田利常に家督を譲った頃に重政も長男・重家に家督を譲り、隠居している。しかし利常に従って1614年からの大坂の陣にも参戦し、19人の敵兵の首級を挙げるという武功を立てた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また1618年には、家督を継いだ長男・重家が24歳の若さで死去している(家督は重政の次男・重康が相続した)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1625年に死去。享年62。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "戦国時代における中条流の剣豪の一人であり、越後守の官位から「名人越後」と称されて恐れられた。", "title": "概要" } ]
冨田 重政は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣。父は越前の戦国大名朝倉氏の家臣で、富田流の門人だった山崎景邦。富田景政の婿養子。 子は冨田重家、富田重康、冨田宗高。官位は越後守。
{{出典の明記| date = 2022-04}} '''冨田 重政'''(とだ しげまさ、[[永禄]]7年([[1564年]]) - [[寛永]]2年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]([[1625年]][[5月25日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[前田氏]]の家臣。父は[[越前国|越前]]の[[戦国大名]][[朝倉氏]]の家臣で、[[富田流]]の門人だった[[山崎景邦]]。[[富田景政]]の婿養子。 子は冨田重家、[[富田重康]]、冨田宗高。官位は越後守。 {{基礎情報 武士 | 氏名 = 富田重政 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]-[[江戸時代]]前期 | 生誕 = [[永禄]]7年([[1564年]]) | 死没 = [[寛永]]2年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]([[1625年]][[5月25日]]) | 改名 = | 別名 = 与六郎、六左衛門、治部左衛門、大炊 | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = | 霊名 = | 墓所 = | 官位 = 越後守 | 幕府 = [[江戸幕府]] | 主君 = [[前田利家]]→[[前田利長|利長]]→[[前田利常|利常]] | 藩 = [[加賀藩]] | 氏族 = [[富田氏]] | 父母 = 父:[[山崎景邦]]、養父:[[富田景政]] | 兄弟 = | 子 = 長男:'''''重家'''''、次男:'''''[[富田重康|重康]]'''''、三男:宗高 | 特記事項 = }} == 概要 == 通称は与六郎、六左衛門、治部左衛門、大炊。[[前田利家]]の家臣として仕え、[[1584年]]の[[能登国]][[末森城の戦い]]では一番槍の武功を挙げたことから利家の賞賛を受け、[[富田景政]]の娘を妻とした。また、景政の嫡男が戦死したため、景政の婿養子となった。 [[小田原征伐]]や[[関ヶ原の戦い]]においても、前田軍の武将として従軍している。これらの戦功から、1万3670石の所領を与えられた。 その後、[[前田利長]]が養子(異母弟)の[[前田利常]]に家督を譲った頃に重政も長男・重家に家督を譲り、隠居している。しかし利常に従って[[1614年]]からの[[大坂の陣]]にも参戦し、19人の敵兵の首級を挙げるという武功を立てた。 また1618年には、家督を継いだ長男・重家が24歳の若さで死去している(家督は重政の次男・重康が相続した)。 1625年に死去。享年62。 戦国時代における[[中条流]]の[[剣豪]]の一人であり、越後守の官位から「'''名人越後'''」と称されて恐れられた。 == 関連項目 == * [[中条流]] * [[富田流]] * [[一刀流]] == 脚注 == {{DEFAULTSORT:とた しけまさ}} [[Category:戦国武将]] [[Category:江戸時代の剣客]] [[Category:1564年生]] [[Category:1625年没]]
2006-01-25T14:19:22Z
2023-10-31T13:48:47Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:基礎情報 武士" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E9%87%8D%E6%94%BF
2,924,023
ゲイリー・セントクレア
ゲイリー・セントクレア(Gairy St Clair, 1975年2月2日 - )は、オーストラリアの男子プロボクサー。第21代IBF世界スーパーフェザー級王者。 ガイアナのジョージタウン出身で、現在はオーストラリアのニューサウスウェールズ州サザランドに在住、同じく活動拠点がある。 南アフリカ共和国のボクサーとは数多くの勝負を行っており、マルコム・クラッセンとカシウス・バロイの好敵手としても知られている。 KO負けが一つしかないタフが売りな技巧派。 セントクレアは1994年10月16日、ジョージタウンでデビューを果たし、4回判定勝ちの白星でデビューを飾った。 1996年8月16日、セントクレアは初の海外試合にアメリカ合衆国のリングに登場。ニューヨークヨンカーズ・レースウエイでライオネル・オードンと対戦し6回判定勝ちでアメリカデビューを飾った。 1998年12月18日、後の世界2階級制覇王者ディエゴ・コラレスと対戦し12回0-3の判定負けでキャリア初黒星。 1999年2月19日、ガイアナスーパーフェザー級王者ビンセント・ハワードと対戦し12回判定勝ちで王座獲得に成功した。 2001年8月3日、セントクレアはガイアナから国籍をオーストラリアに変更しての初戦でセブア・メンドシノと対戦し6回判定勝ちでオーストラリアデビューを飾った。 2002年4月19日、シドニーのラ・モンテージ・ファンクション・センターでIBFパンパシフィックスーパーフェザー級王座決定戦をジェームス・スワンと行い、12回TKO勝ちで王座獲得に成功した。 2004年7月17日、バート・アバポとWBFインターナショナルスーパーフェザー級王座決定戦を行い、6回2分0秒KO勝ちで王座獲得に成功した。 2004年8月27日、WBOインターコンチネンタルスーパーフェザー級王座決定戦をデチョ・ゴーキャットジムと行い12回3-0の判定勝ちで王座獲得に成功した。 2004年10月1日、テェオフィリウス・クアイェと対戦し11回2分25秒相手陣営のタオル投入のストップで初防衛に成功した。 2005年2月24日、シャミール・レイエスと対戦し12回44秒TKO勝ちで2度目の防衛に成功した。 2006年7月29日、世界初挑戦を南アフリカ共和国ケンプトンパークのエンペラーズ・パレスでIBF・IBO世界スーパーフェザー級王者カシウス・バロイに挑戦し、12回3-0(116-112、115-113、115-114)の判定勝ちでホームのバロイの圧倒的優位の下馬評を覆し王座獲得に成功した。 2006年11月4日、マルコム・クラッセンと対戦し12回1-2(115-113、111-117、112-118)の判定負けで初防衛に失敗し王座から陥落した。 2007年11月12日、カシウス・バロイとIBF世界スーパーフェザー級王者ムゾンケ・ファナへの挑戦権を賭けて対戦し12回0-3(2者が112-116、108-120)の判定負けで1年前のリベンジを許しファナへの挑戦権獲得に失敗した。 2008年2月2日、イギリスロンドンのエクセル展覧会センターでコモンウェルスイギリス連邦ライト級王者で後のスーパーライト級統一世界王者アミール・カーンと対戦し12回0-3(3者とも108-120)の大差判定負けで完封で王座獲得に失敗した。 2008年11月14日、WBF世界ライト級王者ムルンギシ・ディラミニと対戦し12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。 2009年3月11日、17戦全勝のIBFパンパシフィックパンパシフィックスーパーライト級王者レオナルド・ザッパヴィンガと対戦し12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。 2009年4月26日、IBFオーストラリアフェザー級王座決定戦をウガンダ出身で後にジョニー・ゴンサレスとIBO世界フェザー級王座を争うジャクソン・アシクと対戦し2回と9回にダウンを奪われ最後はレフェリーがそのまま試合をストップ。キャリア初のKO負けとなる9回2分2秒TKO負けで王座獲得に失敗した。 2011年3月25日、WBAパンアフリカンスーパーウェルター級王座決定戦をライアン・ウォルタースと行い、12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。 2012年8月10日、WBF世界ウェルター級王座決定戦並びにIBFパンパシフィックウェルター級王座決定戦を元IBF世界スーパーライト級王者ラブモア・ヌドゥと行い、12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。 2013年6月29日、ロベルト・オリャンと対戦。前回は判定で快勝していて今回が2度目の対戦。10回3-0の判定勝ちで完封で文句なしの決着を付けた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ゲイリー・セントクレア(Gairy St Clair, 1975年2月2日 - )は、オーストラリアの男子プロボクサー。第21代IBF世界スーパーフェザー級王者。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ガイアナのジョージタウン出身で、現在はオーストラリアのニューサウスウェールズ州サザランドに在住、同じく活動拠点がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "南アフリカ共和国のボクサーとは数多くの勝負を行っており、マルコム・クラッセンとカシウス・バロイの好敵手としても知られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "KO負けが一つしかないタフが売りな技巧派。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "セントクレアは1994年10月16日、ジョージタウンでデビューを果たし、4回判定勝ちの白星でデビューを飾った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1996年8月16日、セントクレアは初の海外試合にアメリカ合衆国のリングに登場。ニューヨークヨンカーズ・レースウエイでライオネル・オードンと対戦し6回判定勝ちでアメリカデビューを飾った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1998年12月18日、後の世界2階級制覇王者ディエゴ・コラレスと対戦し12回0-3の判定負けでキャリア初黒星。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1999年2月19日、ガイアナスーパーフェザー級王者ビンセント・ハワードと対戦し12回判定勝ちで王座獲得に成功した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2001年8月3日、セントクレアはガイアナから国籍をオーストラリアに変更しての初戦でセブア・メンドシノと対戦し6回判定勝ちでオーストラリアデビューを飾った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2002年4月19日、シドニーのラ・モンテージ・ファンクション・センターでIBFパンパシフィックスーパーフェザー級王座決定戦をジェームス・スワンと行い、12回TKO勝ちで王座獲得に成功した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2004年7月17日、バート・アバポとWBFインターナショナルスーパーフェザー級王座決定戦を行い、6回2分0秒KO勝ちで王座獲得に成功した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2004年8月27日、WBOインターコンチネンタルスーパーフェザー級王座決定戦をデチョ・ゴーキャットジムと行い12回3-0の判定勝ちで王座獲得に成功した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2004年10月1日、テェオフィリウス・クアイェと対戦し11回2分25秒相手陣営のタオル投入のストップで初防衛に成功した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2005年2月24日、シャミール・レイエスと対戦し12回44秒TKO勝ちで2度目の防衛に成功した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2006年7月29日、世界初挑戦を南アフリカ共和国ケンプトンパークのエンペラーズ・パレスでIBF・IBO世界スーパーフェザー級王者カシウス・バロイに挑戦し、12回3-0(116-112、115-113、115-114)の判定勝ちでホームのバロイの圧倒的優位の下馬評を覆し王座獲得に成功した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2006年11月4日、マルコム・クラッセンと対戦し12回1-2(115-113、111-117、112-118)の判定負けで初防衛に失敗し王座から陥落した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2007年11月12日、カシウス・バロイとIBF世界スーパーフェザー級王者ムゾンケ・ファナへの挑戦権を賭けて対戦し12回0-3(2者が112-116、108-120)の判定負けで1年前のリベンジを許しファナへの挑戦権獲得に失敗した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2008年2月2日、イギリスロンドンのエクセル展覧会センターでコモンウェルスイギリス連邦ライト級王者で後のスーパーライト級統一世界王者アミール・カーンと対戦し12回0-3(3者とも108-120)の大差判定負けで完封で王座獲得に失敗した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2008年11月14日、WBF世界ライト級王者ムルンギシ・ディラミニと対戦し12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2009年3月11日、17戦全勝のIBFパンパシフィックパンパシフィックスーパーライト級王者レオナルド・ザッパヴィンガと対戦し12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2009年4月26日、IBFオーストラリアフェザー級王座決定戦をウガンダ出身で後にジョニー・ゴンサレスとIBO世界フェザー級王座を争うジャクソン・アシクと対戦し2回と9回にダウンを奪われ最後はレフェリーがそのまま試合をストップ。キャリア初のKO負けとなる9回2分2秒TKO負けで王座獲得に失敗した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2011年3月25日、WBAパンアフリカンスーパーウェルター級王座決定戦をライアン・ウォルタースと行い、12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2012年8月10日、WBF世界ウェルター級王座決定戦並びにIBFパンパシフィックウェルター級王座決定戦を元IBF世界スーパーライト級王者ラブモア・ヌドゥと行い、12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2013年6月29日、ロベルト・オリャンと対戦。前回は判定で快勝していて今回が2度目の対戦。10回3-0の判定勝ちで完封で文句なしの決着を付けた。", "title": "来歴" } ]
ゲイリー・セントクレアは、オーストラリアの男子プロボクサー。第21代IBF世界スーパーフェザー級王者。 ガイアナのジョージタウン出身で、現在はオーストラリアのニューサウスウェールズ州サザランドに在住、同じく活動拠点がある。 南アフリカ共和国のボクサーとは数多くの勝負を行っており、マルコム・クラッセンとカシウス・バロイの好敵手としても知られている。 KO負けが一つしかないタフが売りな技巧派。
{{Boxing statsbox |name=ゲイリー・セントクレア |image= |realname=ゲイリー・セントクレア |nickname=Superman |weight=[[スーパーライト級]] |height=163cm |reach=165cm |nationality={{AUS}} |birth_date={{生年月日と年齢|1975|2|2}} |birth_place={{GUY}}[[ジョージタウン (ガイアナ)|ジョージタウン]] |death_date= |death_place= |style=[[オーソドックス]] |total=60 |wins=46 |KO=18 |losses=12 |draws=2 |no contests=0 |}} '''ゲイリー・セントクレア'''(Gairy St Clair, [[1975年]][[2月2日]] - )は、[[オーストラリア]]の男子[[プロボクサー]]。第21代[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界[[スーパーフェザー級]]王者。 [[ガイアナ]]の[[ジョージタウン (ガイアナ)|ジョージタウン]]出身で、現在は[[オーストラリア]]の[[ニューサウスウェールズ州]][[サザランド (オーストラリア)|サザランド]]に在住、同じく活動拠点がある。 [[南アフリカ共和国]]のボクサーとは数多くの勝負を行っており、[[マルコム・クラッセン]]と[[カシウス・バロイ]]の好敵手としても知られている。 [[ノックアウト|KO]]負けが一つしかないタフが売りな技巧派。 == 来歴 == セントクレアは[[1994年]]10月16日、ジョージタウンで[[デビュー]]を果たし、4回判定勝ちの白星でデビューを飾った。 [[1996年]]8月16日、セントクレアは初の海外試合に[[アメリカ合衆国]]の[[リング (格闘技)|リング]]に登場。[[ニューヨーク]]ヨンカーズ・レースウエイでライオネル・オードンと対戦し6回判定勝ちでアメリカデビューを飾った。 [[1998年]]12月18日、後の世界2階級制覇王者[[ディエゴ・コラレス]]と対戦し12回0-3の判定負けでキャリア初黒星。 1999年2月19日、ガイアナ[[スーパーフェザー級]]王者ビンセント・ハワードと対戦し12回判定勝ちで王座獲得に成功した。 [[2001年]]8月3日、セントクレアはガイアナから国籍を[[オーストラリア]]に変更しての初戦でセブア・メンドシノと対戦し6回判定勝ちでオーストラリアデビューを飾った。 [[2002年]]4月19日、[[シドニー]]のラ・モンテージ・ファンクション・センターで[[国際ボクシング連盟|IBF]]パンパシフィックスーパーフェザー級王座決定戦をジェームス・スワンと行い、12回TKO勝ちで王座獲得に成功した。 [[2004年]]7月17日、バート・アバポと[[世界ボクシング基金|WBF]]インターナショナルスーパーフェザー級王座決定戦を行い、6回2分0秒KO勝ちで王座獲得に成功した。 2004年8月27日、[[世界ボクシング機構|WBO]]インターコンチネンタルスーパーフェザー級王座決定戦をデチョ・ゴーキャットジムと行い12回3-0の判定勝ちで王座獲得に成功した。 2004年10月1日、テェオフィリウス・クアイェと対戦し11回2分25秒相手陣営のタオル投入のストップで初防衛に成功した。 [[2005年]]2月24日、シャミール・レイエスと対戦し12回44秒TKO勝ちで2度目の防衛に成功した。 [[2006年]]7月29日、世界初挑戦を南アフリカ共和国ケンプトンパークのエンペラーズ・パレスで[[国際ボクシング連盟|IBF]]・[[国際ボクシング機構|IBO]]世界スーパーフェザー級王者[[カシウス・バロイ]]に挑戦し、12回3-0(116-112、115-113、115-114)の判定勝ちでホームのバロイの圧倒的優位の下馬評を覆し王座獲得に成功した。 2006年11月4日、[[マルコム・クラッセン]]と対戦し12回1-2(115-113、111-117、112-118)の判定負けで初防衛に失敗し王座から陥落した。 [[2007年]]11月12日、カシウス・バロイとIBF世界スーパーフェザー級王者[[ムゾンケ・ファナ]]への挑戦権を賭けて対戦し12回0-3(2者が112-116、108-120)の判定負けで1年前のリベンジを許しファナへの挑戦権獲得に失敗した。 [[2008年]]2月2日、[[イギリス]][[ロンドン]]の[[エクセル展覧会センター]]でコモンウェルスイギリス連邦[[ライト級]]王者で後のスーパーライト級[[統一世界王者]][[アミール・カーン]]と対戦し12回0-3(3者とも108-120)の大差判定負けで完封で王座獲得に失敗した。 2008年11月14日、WBF世界ライト級王者ムルンギシ・ディラミニと対戦し12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。 [[2009年]]3月11日、17戦全勝のIBFパンパシフィックパンパシフィック[[スーパーライト級]]王者レオナルド・ザッパヴィンガと対戦し12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。 2009年4月26日、IBFオーストラリア[[フェザー級]]王座決定戦を[[ウガンダ]]出身で後に[[ジョニー・ゴンサレス]]と[[国際ボクシング機構|IBO]]世界フェザー級王座を争うジャクソン・アシクと対戦し2回と9回にダウンを奪われ最後はレフェリーがそのまま試合をストップ。キャリア初のKO負けとなる9回2分2秒TKO負けで王座獲得に失敗した。 [[2011年]]3月25日、[[世界ボクシング協会|WBA]]パンアフリカン[[スーパーウェルター級]]王座決定戦をライアン・ウォルタースと行い、12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。 [[2012年]]8月10日、WBF世界[[ウェルター級]]王座決定戦並びにIBFパンパシフィックウェルター級王座決定戦を元IBF世界[[スーパーライト級]]王者[[ラブモア・ヌドゥ]]と行い、12回0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。 [[2013年]]6月29日、ロベルト・オリャンと対戦。前回は判定で快勝していて今回が2度目の対戦。10回3-0の判定勝ちで完封で文句なしの決着を付けた。 == 獲得タイトル == * [[ガイアナ]][[スーパーフェザー級]]王座 * [[世界ボクシング基金|WBF]]インターナショナルスーパーフェザー級王座 * [[世界ボクシング機構|WBO]]インターコンチネンタルスーパーフェザー級王座 * [[国際ボクシング連盟|IBF]]パンパシフィックスーパーフェザー級王座 * [[国際ボクシング機構|IBO]]世界スーパーフェザー級王座 * 第21代IBF世界スーパーフェザー級王座(防衛0度) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[国際ボクシング連盟世界王者一覧|国際ボクシング連盟(IBF)世界王者一覧]] * [[国際ボクシング機構世界王者一覧|国際ボクシング機構(IBO)世界王者一覧]] == 外部リンク == * {{Boxrec|id=007786}} {{Championshiptitle||[[国際ボクシング連盟|IBF]]|世界[[スーパーフェザー級]]|カシウス・バロイ|マルコム・クラッセン|2006年7月29日 - 2006年11月4日}} {{Boxing-bio-stub}} {{DEFAULTSORT:せんとくれあ けいりい}} [[Category:オーストラリアの男子ボクサー]] [[Category:ガイアナの男子ボクサー]] [[Category:スーパーフェザー級世界王者]] [[Category:国際ボクシング連盟世界王者]] [[Category:国際ボクシング機構世界王者]] [[Category:ガイアナ・ジョージタウン出身の人物]] [[Category:1975年生]] [[Category:存命人物]]
null
2020-05-31T06:16:11Z
false
false
false
[ "Template:Boxing-bio-stub", "Template:Boxing statsbox", "Template:Reflist", "Template:Boxrec", "Template:Championshiptitle" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A2
4,065,050
岸田周三
岸田 周三(きしだ しゅうぞう、1974年8月8日 - )は、日本の愛知県出身の料理人。『レストラン カンテサンス』オーナーシェフ。「ミシュランガイド」から2008年以降、16年連続(2022年末時点)で三ツ星評価を受けている唯一の日本人フレンチシェフ。 東京都町田市生まれ。幼少期に愛知県豊明市に転居。 両親共働き、男子3人兄弟の末っ子として育つ。小学校の卒業文集には「将来の夢・料理人」と明記。1993年に名古屋調理師専門学校を卒業し、志摩観光ホテル『ラ・メール』(la mer/三重県)に就職。高橋忠之に師事。1996年、東京都渋谷区のフレンチレストラン『カーエムCUISINE KM FRANÇASE)』に入社し、シェフの宮代潔に師事。2000年、30万円の資金だけでフランスに渡る。2003年にパリ16区の『アストランス(Astrance)』で働きはじめ、2歳年上のシェフのパスカル・バルボに師事。最初は前菜を担当し、そのあとは魚担当。2004年には『アストランス』のスーシェフ(副料理長/シェフに次ぐポジション)に就任し3年間勤務した。 5年間のフランス修行で共に働いた本城昂結稀 等と共におまかせコース1つのみのレストラン「カンテサンス」を開店。2007年、ミシュランガイドで三つ星を獲得(当時の現役最年少)。2011年に独立し、東京都渋谷区北品川のフレンチレストラン「Quintessence(カンテサンス)/34席 80坪」のオーナーシェフに就任。2013年「ASIA’S 50 BEST RESTAURANTS 2013」16位を獲得。2017年、海洋資源保全活動団体「シェフス・フォー・ザ・ブルー」の立ち上げに参加し理事に就任。2020年、ミシュランガイドに新設された「グリーンスター」も獲得。ドラマ『グランメゾン★東京』の監修を担当した。 「プロデュイ:素材を尊重する」「キュイソン:火入れの追及」「アセゾネ:味付けへの配慮」の3つを徹底し、所々にユーモアや詩的なものを組み込む料理。新しい形の「キュイジーヌ・コンテンポレーヌ(現代的な料理)」を創造するとともに「次世代のスタンダード」を目指す「おまかせの1コース」。来店履歴は、一人ひとりのファイルをつくり、パソコンに入力。来店日、時間、人数、苦手なものなどから出した料理までを記録する。次に予約が入ったときには、そのファイルをもとにコースを考えるので、以前出した料理とダブることはない。 常にチャレンジする精神を持ち、様々なチャレンジ・コラボレーションも行っている。 自分達が当たり前に使う食材にも限りがあることやそれをむやみに濫用せず後世までのこせるよう大切にしたいという思いから、「シェフス フォー ザ ブルー(Chefs for the Blue)」という団体の立ち上げに参加し理事として活動。東京のトップシェフ30人以上と、食を専門とするジャーナリストで構成されている。 ラジオ
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "岸田 周三(きしだ しゅうぞう、1974年8月8日 - )は、日本の愛知県出身の料理人。『レストラン カンテサンス』オーナーシェフ。「ミシュランガイド」から2008年以降、16年連続(2022年末時点)で三ツ星評価を受けている唯一の日本人フレンチシェフ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京都町田市生まれ。幼少期に愛知県豊明市に転居。 両親共働き、男子3人兄弟の末っ子として育つ。小学校の卒業文集には「将来の夢・料理人」と明記。1993年に名古屋調理師専門学校を卒業し、志摩観光ホテル『ラ・メール』(la mer/三重県)に就職。高橋忠之に師事。1996年、東京都渋谷区のフレンチレストラン『カーエムCUISINE KM FRANÇASE)』に入社し、シェフの宮代潔に師事。2000年、30万円の資金だけでフランスに渡る。2003年にパリ16区の『アストランス(Astrance)』で働きはじめ、2歳年上のシェフのパスカル・バルボに師事。最初は前菜を担当し、そのあとは魚担当。2004年には『アストランス』のスーシェフ(副料理長/シェフに次ぐポジション)に就任し3年間勤務した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "5年間のフランス修行で共に働いた本城昂結稀 等と共におまかせコース1つのみのレストラン「カンテサンス」を開店。2007年、ミシュランガイドで三つ星を獲得(当時の現役最年少)。2011年に独立し、東京都渋谷区北品川のフレンチレストラン「Quintessence(カンテサンス)/34席 80坪」のオーナーシェフに就任。2013年「ASIA’S 50 BEST RESTAURANTS 2013」16位を獲得。2017年、海洋資源保全活動団体「シェフス・フォー・ザ・ブルー」の立ち上げに参加し理事に就任。2020年、ミシュランガイドに新設された「グリーンスター」も獲得。ドラマ『グランメゾン★東京』の監修を担当した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「プロデュイ:素材を尊重する」「キュイソン:火入れの追及」「アセゾネ:味付けへの配慮」の3つを徹底し、所々にユーモアや詩的なものを組み込む料理。新しい形の「キュイジーヌ・コンテンポレーヌ(現代的な料理)」を創造するとともに「次世代のスタンダード」を目指す「おまかせの1コース」。来店履歴は、一人ひとりのファイルをつくり、パソコンに入力。来店日、時間、人数、苦手なものなどから出した料理までを記録する。次に予約が入ったときには、そのファイルをもとにコースを考えるので、以前出した料理とダブることはない。", "title": "スタイル" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "常にチャレンジする精神を持ち、様々なチャレンジ・コラボレーションも行っている。", "title": "スタイル" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "自分達が当たり前に使う食材にも限りがあることやそれをむやみに濫用せず後世までのこせるよう大切にしたいという思いから、「シェフス フォー ザ ブルー(Chefs for the Blue)」という団体の立ち上げに参加し理事として活動。東京のトップシェフ30人以上と、食を専門とするジャーナリストで構成されている。", "title": "サスティナブルシーフード(水産資源保護)の活動" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ラジオ", "title": "メディア露出" } ]
岸田 周三は、日本の愛知県出身の料理人。『レストラン カンテサンス』オーナーシェフ。「ミシュランガイド」から2008年以降、16年連続(2022年末時点)で三ツ星評価を受けている唯一の日本人フレンチシェフ。
{{Infobox 人物|氏名=岸田 周三|ふりがな=きしだ しゅうぞう|画像=|画像サイズ=<!-- 省略値は180x180px -->|画像説明=|生年月日={{生年月日と年齢|1974|08|08}}|生誕地=[[愛知県]][[豊明市]]|没年月日=<!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} -->|死没地=|国籍={{jpn}} 日本|職業=料理人|著名な実績=|活動期間=1993年 -|影響を受けたもの=パスカル・バルボ<BR>高橋忠之(ラ・メール)<BR>宮代潔(カーエム)|流派=|出身校=|受賞=|出生名=Kishida Shuzo|公式サイト=https://www.quintessence.jp/}}'''岸田 周三'''(きしだ しゅうぞう、[[1974年]][[8月8日]] - )は、[[日本]]の[[愛知県]]出身の[[料理人]]。『レストラン [[クインテッセンス|カンテサンス]]』オーナーシェフ。「[[ミシュランガイド]]」から2008年以降、16年連続(2022年末時点)で三ツ星評価を受けている唯一の日本人フレンチシェフ。 == 来歴 == [[東京都]][[町田市]]生まれ。幼少期に[[愛知県]][[豊明市]]に転居。 両親共働き、男子3人兄弟の末っ子として育つ。小学校の卒業文集には「将来の夢・料理人」と明記。1993年に名古屋調理師専門学校を卒業し、[[志摩観光ホテル]]『ラ・メール』(la mer/[[三重県]])に就職。高橋忠之に師事。1996年、東京都渋谷区のフレンチレストラン『カーエムCUISINE '''KM''' FRANÇASE)』に入社し、シェフの宮代潔に師事。2000年、30万円の資金だけで[[フランス]]に渡る<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=メニューはおまかせコースただ一つ 三つ星「カンテサンス」岸田周三シェフの哲学:朝日新聞GLOBE+ |url=https://globe.asahi.com/article/14459216 |website=朝日新聞GLOBE+ |access-date=2022-09-24 |language=ja-JP}}</ref>。2003年にパリ16区の『アストランス(Astrance)』で働きはじめ、2歳年上のシェフのパスカル・バルボに師事。最初は前菜を担当し、そのあとは魚担当<ref>[https://www.inshokuten.com/foodist/article/6658/<nowiki> 三つ星シェフ『カンテサンス』岸田周三さんが学んだこと、目指していること] 「飲食店ドットコム」株式会社シンクロ・フード 、 2022年10月13日</nowiki></ref>。2004年には『アストランス』のスーシェフ(副料理長/シェフに次ぐポジション)に就任し3年間勤務した。 5年間のフランス修行で共に働いた本城昂結稀 等と共におまかせコース1つのみのレストラン「カンテサンス」を開店<ref>[https://oceans.tokyo.jp/article/detail/25734 13年連続、三ツ星獲得! 日本トップシェフが推す3000円以下の激旨ワイン3選] OCEANS & LIGHTHOUSE MEDIA ,2020.05.03</ref>。2007年、[[ミシュランガイド]]で三つ星を獲得(当時の現役最年少)。2011年に独立し<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.kaihouse.jp/guide-interview-shuzou-kishida-2/2/ |title=カンテサンス 三ツ星シェフの哲学 |accessdate=2020-01-16 |author=江藤詩文 |website=Kai House(カイハウス) |language=ja}}</ref>、東京都渋谷区[[北品川]]の[[フレンチ]]レストラン「'''Quintessence'''(カンテサンス)/34席 80坪」のオーナーシェフに就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://initiative.zenb.jp/voices/shuzou_kishida/ |title=ZENB イニシアティブ -「食べる」のぜんぶを、あたらしく |accessdate=2020-01-16 |last=Takahashi |first=Koji |website=ZENB イニシアティブ -「食べる」のぜんぶを、あたらしく |language=ja}}</ref>。2013年「ASIA’S 50 BEST RESTAURANTS 2013」16位を獲得。2017年、海洋資源保全活動団体「シェフス・フォー・ザ・ブルー」の立ち上げに参加し理事に就任<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/f8799f70167f8eaea432a3db22df4affc6e8a26d 海と山の旬がズレて、定番料理が変わってしまう? シェフから見た気候変動と食糧危機] 2023 ヤフー株式会社 ,8/9(水) 12:03</ref>。2020年、[[ミシュランガイド]]に新設された「グリーンスター」も獲得。ドラマ『[[グランメゾン東京|グランメゾン★東京]]』の監修<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/38266?page=2 「木村拓哉さんのアイデアに助けられました」三ツ星シェフが明かす『グランメゾン東京』監修秘話] 岸田周三シェフに有働由美子さんが迫る!「文藝春秋」編集部 文藝春秋 2020年6月号,2020/06/0</ref><ref name="tbs">{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/grandmaisontokyo/news/ |title=日曜劇場『グランメゾン東京』 |accessdate=2020-01-16 |last=TBS |date=2019-12-26 |website=TBSテレビ |language=ja}}</ref>を担当した。 == 年表 == * 1993年:志摩観光ホテルに入社<ref>[https://hitosara.com/0006060329/person.html Quintessence(カンテサンス)毎年連続三つ星を獲得し続ける若手フレンチの旗手] ヒトサラ(USEN Media)</ref>。(19歳) * 1996年:レストラン『カーエム』に入社。(23歳) * 2000年:単身、フランスへ。(26歳) 約2年間は、一ツ星から三ツ星まで4つの店で修業。 * 2003年:パリ『アストランス』で働く。 * 2004年:スーシェフに就任。 * 2005年:スペインで開催された、料理界でもっとも権威のあるガルシア・サントス主催の学会<LoMejor de la Gastronomia>に招かれ、シェフのパスカルと共にデモンストレーションを披露。 * 2006年:東京にレストラン『カンテサンス』をオープン。(32歳)<ref>[https://style.president.jp/watch/2022/1028_006470.php トップであり続けるために必要なこととは。カンテサンス・岸田周三シェフがヴァシュロン・コンスタンタンに感じた共通項] プレジデントオンライン PRESIDENT STYLE 格好いいビジネス人生。, October.2022</ref> * 2007年:「[[ミシュランガイド]]東京 2008」で三ツ星を現役最年少(33歳)で獲得。<ref>[https://www.chichi.co.jp/web/20200519_kishida/ 33歳でミシュラン三ツ星——「カンテサンス」オーナーシェフ・岸田周三を貫く挑戦の哲学]致知出版社 人間力・仕事力を高めるWEB chichi,2022年04月05日</ref> * 2011年:運営会社から独立、オーナーシェフに。 * 2013年:東京・北品川(御殿山)にレストランを移転。 * 2017年:「シェフス フォー ザ ブルー」の立ち上げに参加。 * 2020年:[[日本航空|日本航空(JAL)]]ファーストクラス機内食の監修<ref>[https://www.jal.co.jp/jp/ja/info/2020/inter/200901_08/ JAL機内食「空の上のレストラン」新たなスターシェフが登場 日本発ファーストクラス洋食に「カンテサンス」おまかせコースを提供] 日本航空 2020年8月31日</ref>。通販(ガトーオーコンテ/ガトー アルマニャッケ)を実施 == スタイル == 「プロデュイ:素材を尊重する」「キュイソン:火入れの追及」「アセゾネ:味付けへの配慮」の3つを徹底し、所々にユーモアや詩的なものを組み込む料理。新しい形の「キュイジーヌ・コンテンポレーヌ(現代的な料理)」を創造するとともに「次世代のスタンダード」を目指す「おまかせの1コース」。来店履歴は、一人ひとりのファイルをつくり、パソコンに入力。来店日、時間、人数、苦手なものなどから出した料理までを記録する。次に予約が入ったときには、そのファイルをもとにコースを考えるので、以前出した料理とダブることはない。<ref>[https://initiative.zenb.jp/voices/shuzou_kishida/ 日本の食を支える水産資源が危ない] PRESIDENT 2015年8月3日号 上島 寿子 フリーライター、2016/05/30 8:30</ref> * 6名の個室であれば「料理の写真撮影」OKだが、ダイニングはNG。 * ハーフパンツや[[ジャージー (衣類)|ジャージ]]等のスポーツウェア、[[サンダル]]、[[タンクトップ]]やTシャツ姿はNG。 * 旬に拘り、ギリギリの仕入れしかしない(料理のクオリティーを上げるため、素材の発注は前日にぴったり人数分だけ)。 * ランチ前、ディナー前の賄いに合わせて全員でミーティング。それぞれが客の情報を共有。 === スペシャリテ === * 「山羊乳のバヴァロワ」:京都の[[ヤギ乳|山羊乳]]で作ったバヴァロアに、料理の主役は、味の基本となるオリーブオイルと塩。オリーブオイルは年毎の作柄で味が異なるため、銘柄が固定ではない。塩はゲランド産フルール・ド・セル。トップに百合根とノワゼット(ヘーゼルナッツ)を散らす。一期一会を大切に、客の過去のデータを管理して、同じメニューは出さない方針の岸田が作り続ける、数少ない定番のひと皿。 * 「メレンゲのアイスクリーム」:焼きたてのメレンゲを粉々に砕いた粉をグラニュー糖がわりに使ったアイスクリームデザート。 === 新たな挑戦 === 常にチャレンジする精神を持ち、様々なチャレンジ・コラボレーションも行っている。 * 2015年5月 - アンドレ・チャン([[シンガポール]]・レストランアンドレ)コラボディナー([[ダイナースクラブ]]主催)<ref>[https://openers.jp/lounge/lounge_features/1269280 フランス料理界を牽引するふたりのシェフ、15年越しの競演ディナー開催|Diners Club] web magazine "OPENERS",2015年7月8日</ref> 2000年に南仏モンペリエにあるフランス料理の名店「ジャルダン・デ・サンス」でともに修業。<ref>[https://cuisine-kingdom.com/shuzo-andre 刺激し合うトップシェフ二人のコラボ!岸田周三さん、アンドレ・チャンさん] JFLA Holdings Inc.</ref> * 2016年2月 - 「台湾震災チャリティ・カレー」プータンノワール&スペアリブのポークカレー:大阪「ハジメ」[[米田肇]]、青山「フロリレージュ」川手寛康、神保町「傳」長谷川在佑 * 2017年1月 - 「第5回チャリティ・カレー」スープ・ド・ポワソンのカレー(魚介の旨味が凝縮したピリ辛サラサラ):六本木「ラ・ブリアンツァ」奥野義幸、外苑前「フロリレージュ」川手寛康、銀座「ラール・エ・ラ・マニエール」小清水寛美 * 2017年12月 - 【'''アストランス''' ✖ '''カンテサンス'''】コラボディナー([[ゴ・エ・ミヨ]]主催) * 2018年9月 - 「西日本応援チャリティ・カレー」バターチキンカレー(オマール入り):大阪「ハジメ」[[米田肇]]、大手町「星のや東京」浜田統之、神保町「傳」長谷川在佑 == 言葉 == * 「小学生の頃、『じゃがいものグラタン』をつくったことを覚えています。母は料理が好きで上手でしたが、仕事をしていたこともあり、子どもたちに料理を手伝ってもらおうとしました。しかし男3人のうち兄2人は全く関心を示さず、末っ子の私1人が母の思惑通りに料理好きになって、最終的に我が家のコックになりました」<ref>[https://in-shoku.info/foodfighters/vol464.html 第464回 レストランカンテサンス/restaurant Quintessence オーナーシェフ 岸田周三氏」出演:岸田周三(『カンテサンス』オーナーシェフ),長谷川初範(俳優)] in-職hyper(いんしょくハイパー) 飲食の戦士たち~飲食業界をリードする社長の軌跡 株式会社キイストン、14/12/2</ref> * 「変わることは、自分にとって成長を意味します。成長とは変わり続けること。『これでいい』と決めた瞬間から人は衰退していくものだと考えます。だから僕は現在に至るまで変わり続けているはずだし、そうでありたい」<ref>[https://cuisine-kingdom.com/quintessenceism/ 唯一無二の店!Part2 レストランカンテサンス 岸田周三さん] 料理王国 食の未来が見えるウェブマガジン JFLA Holdings Inc. 、2021年9月20日</ref> * 食の流行は常に変化していくものですが、食の本質とは何であるかは常に忘れてはいけないと自分を戒めています。''驚きや楽しさも大切ですけれど、僕は本物として残るものは、“おいしさ”だと思っています''。そのためにいちばん必要なものが、自然から恵まれた食材なのではないでしょうか(ミツカン ZENB インタビュー)<ref>[https://initiative.zenb.jp/voices/shuzou_kishida/ 日本の食を支える水産資源が危ない] ミツカン ZENBサイト、2019年2月</ref> == サスティナブルシーフード(水産資源保護)の活動 == 自分達が当たり前に使う食材にも限りがあることやそれをむやみに濫用せず後世までのこせるよう大切にしたいという思いから、「シェフス フォー ザ ブルー(Chefs for the Blue)」という団体の立ち上げに参加し理事として活動。東京のトップシェフ30人以上と、食を専門とするジャーナリストで構成されている。 == メディア露出== === テレビ番組 === *NHK『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』第77回「若き求道者、未踏の地へ」2008年2月5日 <ref>[https://www.nhk.or.jp/professional/2008/0205/index.html 若き求道者、未踏の地へ 第77回 2008年2月5日] [[フランス料理|フレンチ]][[レストラン]]「カンテサンス」[[シェフ]] [[プロフェッショナル 仕事の流儀]] 公式ホームページ </ref> *BSジャパン 『未来EYES』 2017年5月28日<ref>[https://www.bs-tvtokyo.co.jp/official/eyes/backnumber/170528/index.html レストラン カンテサンス Quintessence] BSテレ東『未来EYES』,2017年5月28日</ref> *BSフジ『パレ・ド・Z~おいしさの未来~』Episode15 2019年5月4日 *TBS『[[人生最高レストラン]]』2019年6月15日(土) [[パリ]]『アストランス』仔羊のロースト、[[香港]]『Celebrity Cuisine』クリスピーフライドチキン(ロンゴンガイ)、[[金沢市|石川県金沢市]]『片折』クエの刺し身、[[志摩観光ホテル]]「ラ・メール」鮑のステーキ(焦がしバターソース)、[[松陰神社]]『ブーランジェリー スドウ』ガレット・デ・ロワ:1月限定 *テレビ朝日『[[ごはんジャパン]]』駿河湾の魚 2019年06月29日<ref>[https://www.tv-asahi.co.jp/gohan-japan/backnumber/0020/ 「駿河湾の魚」出演:岸田周三(『カンテサンス』オーナーシェフ),長谷川初範(俳優)] 【ロケ地】静岡県焼津市、テレビ朝日公式「ごはんジャパン」 2019年06月29日</ref> *日本テレビ『[[アナザースカイ (テレビ番組)|アナザースカイ]]』第589回 フランス・パリ2020年3月6日<ref>[https://www.ntv.co.jp/anothersky2/articles/218xusovu6mstco7e4j.html 3月6日の「アナザースカイII」は岸田周三がフランス・パリへ] 日本テレビ アナザースカイ 公式ページ,2020.02.28</ref> *NHK『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』「緊急企画!プロのおうちごはん第2弾」2020年5月12日<ref>[https://www.nhk.jp/p/professional/ts/8X88ZVMGV5/episode/te/Z5K654RQLK/ 「緊急企画!プロのおうちごはん第2弾」] 自宅で過ごす時間を楽しくするために『食』を究めたプロフェッショナルが簡単・絶品レシピを自撮りで紹介。日本人初の三ツ星フレンチシェフとなった岸田周三さんは「じゃがいもグラタン」,NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』 公式サイト</ref> *フジテレビ『[[石橋、薪を焚べる]]』2000年6月24日 <ref>[https://www.fujitv.co.jp/makiokubel/archive_12.html 焚き人 シェフ・岸田周三(「カンテサンス」)] フジテレビ『石橋、薪を焚べる』第12回,2021年3月23日(火)</ref> *BS朝日『自分流 知の探究者たち』2023年4月8日(土)<ref>[https://www.bs-asahi.co.jp/jibunryu/lineup/prg_031/ フレンチシェフ 岸田周三] 自分流~“知”の探求者たち #31 BS Asahi,,2023年4月8日(土)</ref> ラジオ * [[J-WAVE]] 『9 CHEFS』(HOLIDAY SPECIAL)2020年9月21日 ナビゲーターは[[望月理恵]]。 === 新聞・雑誌 === *「ブルータス」東京海洋大学の勝川先生とサスティナブルシーフードについて対談 *GLOBE Breakthrough(突破する力 239) 朝日新聞 2021年10月3日<ref name=":0" /> === 本 === * 「一流の本質~20人の星を獲ったシェフたちの仕事論」大和書房 (2017年3月16日) == 岸田チルドレン == ;「カンテサンス」での修業を経て独立したシェフ・元スタッフたち <ref>[https://www.gqjapan.jp/life/food-restaurant/20180702/hitparade2018-4-kishidachildren カリスマシェフと卒業生に森脇慶子が切り込む!”岸田チルドレン”が牽引するNEOフレンチ] GQ Japan Condé Nast , 2018年7月3日</ref><ref>[https://www.pocket-concierge.jp/lp/hottopic/feature/quintessence/index.html 高級フレンチレストラン カンテサンス (Quintessence)で修業を積んで独立した6店をご紹介] Pocket Concierge 2018</ref> * 川手寛康 [[神谷町]]([[麻布台ヒルズ]])「フロリレージュ(Florilege)」 * 春田理宏 [[赤羽橋]]「クローニー(Crony)」 * 後藤祐輔 [[恵比寿 (渋谷区)|恵比寿]]「アムール(AMOUR)」 * 根本憲一 [[表参道 (原宿)|表参道]]「ネモ(NéMo)」 * 陣内翼 [[神楽坂]]「ジェフリー(Jfree)」 * 目黒浩太郎 [[代官山町|代官山]]「アビス(abysse)」 * 深谷博輝 [[白金台]]「アルゴリズム(l'algorithme)」 * 加山賢太 [[広尾 (渋谷区)|広尾]]「マルゴット エ バッチャーレ(Margotto e Baciare)」 * 小笠原圭介 [[四谷三丁目]]「オガサワラレストラン」 * 葛原将季 [[名古屋市]](車道・千種)「レミニセンス(Reminiscence)」 * 加瀬史也「オルグイユ(L'orgueil)」 == 関連項目 == * [[フランス料理]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://www.quintessence.jp/ Quintessence(カンテサンス)] * {{Instagram|kishidashuzo}} {{Food-stub}} {{People-substub}} {{DEFAULTSORT:きした しゆうそう}} [[Category:日本の料理人]] [[Category:食文化に関する人物]] [[Category:食品産業関係者]] [[Category:男性の料理人]] [[Category:ミシュランガイドで星を獲得した料理長]] [[Category:1974年生]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:存命人物]]
2020-01-14T18:07:22Z
2023-11-20T16:28:16Z
false
false
false
[ "Template:Infobox 人物", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Instagram", "Template:Food-stub", "Template:People-substub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E7%94%B0%E5%91%A8%E4%B8%89
4,236,966
夏隆
夏 隆(か りゅう、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の政治家。字は叔仁。荊州長沙郡臨湘県の人。 夏隆は母親が亡くなったときに、喪の期間の礼を厳格に守り、その間に風湿病(リウマチ)にかかり、片足が動かなくなり歩けなくなった。同郡の徐元休は名声で知られる人物であり、夏隆の母親の弔事を聞いて哀悼の意を表した。夏隆の母親が死んで10日の間に、夏隆の家には弔問に来た人々の名刺で満ちあふれたという。 夏隆が長沙郡の郡吏として仕えていた黄龍3年(231年)、武陵の蛮夷が反乱を起こした。呉帝孫権は武陵出身の太常の潘濬を反乱の平定に遣わせた。潘濬は遠征の途中で長沙郡を通過したとき、長沙太守は書をしたためて夏隆に持たせて潘濬の元へ遣わした。夏隆は潘濬の船団を追いかけたが、潘濬の船団が速すぎて追いつけそうもなかったため、夏隆は岸辺で抜刀し、潘濬の船団を指さして「盗賊団め!」と叫んだ。結果、潘濬の船団は停止して、岸辺に上陸して襲い掛かり夏隆を捕えた。夏隆はそのまま潘濬の元へ引っ立てられたが、潘濬は夏隆を聴取して事の次第を知った後、夏隆を機知に富み賢いと評価して、潘濬みずから夏隆の縄を解き、酒食をもって夏隆をもてなした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "夏 隆(か りゅう、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の政治家。字は叔仁。荊州長沙郡臨湘県の人。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "夏隆は母親が亡くなったときに、喪の期間の礼を厳格に守り、その間に風湿病(リウマチ)にかかり、片足が動かなくなり歩けなくなった。同郡の徐元休は名声で知られる人物であり、夏隆の母親の弔事を聞いて哀悼の意を表した。夏隆の母親が死んで10日の間に、夏隆の家には弔問に来た人々の名刺で満ちあふれたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "夏隆が長沙郡の郡吏として仕えていた黄龍3年(231年)、武陵の蛮夷が反乱を起こした。呉帝孫権は武陵出身の太常の潘濬を反乱の平定に遣わせた。潘濬は遠征の途中で長沙郡を通過したとき、長沙太守は書をしたためて夏隆に持たせて潘濬の元へ遣わした。夏隆は潘濬の船団を追いかけたが、潘濬の船団が速すぎて追いつけそうもなかったため、夏隆は岸辺で抜刀し、潘濬の船団を指さして「盗賊団め!」と叫んだ。結果、潘濬の船団は停止して、岸辺に上陸して襲い掛かり夏隆を捕えた。夏隆はそのまま潘濬の元へ引っ立てられたが、潘濬は夏隆を聴取して事の次第を知った後、夏隆を機知に富み賢いと評価して、潘濬みずから夏隆の縄を解き、酒食をもって夏隆をもてなした。", "title": "生涯" } ]
夏 隆は、中国三国時代の呉の政治家。字は叔仁。荊州長沙郡臨湘県の人。
'''夏 隆'''(か りゅう、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[政治家]]。[[字]]は'''叔仁<ref>『[[北堂書鈔]]』巻一百四引『[[長沙耆旧伝]]』</ref>'''。[[荊州]][[長沙郡]][[長沙県|臨湘県]]の人<ref>『北堂書鈔』巻一百四引『長沙耆旧伝』</ref>。 == 生涯 == 夏隆は母親が亡くなったときに、喪の期間の礼を厳格に守り、その間に[[関節リウマチ|風湿病]](リウマチ)にかかり、片足が動かなくなり歩けなくなった<ref>『[[太平御覧]]』巻七百四十引『長沙耆旧伝』</ref>。同郡の[[徐元休]]は名声で知られる人物であり、夏隆の母親の弔事を聞いて哀悼の意を表した。夏隆の母親が死んで10日の間に、夏隆の家には弔問に来た人々の名刺で満ちあふれたという<ref>『太平御覧』巻六百六引『長沙耆旧伝』</ref>。 夏隆が長沙郡の郡吏として仕えていた[[黄龍 (呉)|黄龍]]3年([[231年]])、[[武陵郡|武陵]]の蛮夷が反乱を起こした。呉帝[[孫権]]は武陵出身の[[太常]]の[[潘濬]]を反乱の平定に遣わせた<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志 [[孫権|呉主]]伝</ref>。潘濬は遠征の途中で長沙郡を通過したとき、長沙[[太守]]は書をしたためて夏隆に持たせて潘濬の元へ遣わした。夏隆は潘濬の船団を追いかけたが、潘濬の船団が速すぎて追いつけそうもなかったため、夏隆は岸辺で抜刀し、潘濬の船団を指さして「盗賊団め!」と叫んだ。結果、潘濬の船団は停止して、岸辺に上陸して襲い掛かり夏隆を捕えた。夏隆はそのまま潘濬の元へ引っ立てられたが、潘濬は夏隆を聴取して事の次第を知った後、夏隆を機知に富み賢いと評価して、潘濬みずから夏隆の縄を解き、酒食をもって夏隆をもてなした<ref>『太平御覧』巻七百七十一引『長沙耆旧伝』</ref>。 == 参考文献 == * 『[[長沙耆旧伝]]』 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:か りゆう}} [[Category:呉の人物]]
null
2022-01-03T11:56:57Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:脚注ヘルプ" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E9%9A%86
359,796
パシフィック電鉄
パシフィック電鉄(Pacific Electric Railway、略称PE)はアメリカ合衆国、カリフォルニア州南部で電気鉄道とバス事業を展開していた企業。 全盛期の軌道延長1,700km、路線延長800kmで、その中には複々線区間も含まれる。1910年代から20年代にかけては、「世界最大の電気鉄道」を自称した。インターアーバンの一種と区分されるが、通勤輸送での活躍や高密度の列車運行、路線建設と住宅開発を並行して行うなどの点で、他の地域の電鉄会社とは異色の存在で、その形態は日本の大手私鉄によく似ている。 パシフィック電鉄の路線網の建設は1890年代にはじまり、旅客営業は1961年まで続けられた。 ロサンゼルス都市圏全域をカバーする電鉄会社としてのパシフィック電鉄は、1911年の大合併により成立した。 この時合併した会社は、ロサンゼルスを中心に路線を展開していた(旧)パシフィック電鉄、ロサンゼルス・インターアーバン鉄道、ロサンゼルス・パシフィック鉄道、ロサンゼルス・レドンド鉄道の4社と内陸部のサンバナディーノ渓谷で路線展開していたサンバナディーノ・バレー電鉄、サン・バナディーノ・インターアーバン、レッドランド・セントラル、リバーサイド・アーリントン鉄道の4社、計8社であった。 このうち、1901年に設立された(旧)パシフィック電鉄やロサンゼルス・インターアーバン鉄道は、ヘンリー・ハンティントンという人物が設立した路線で、合併後の会社の路線の中核を担っていた。ヘンリー・ハンティントンはサザン・パシフィック鉄道の創設者の一人であるコリス・ハンティントンの甥で、カリフォルニア各地で電気鉄道の経営を行っていた。(旧)パシフィック電鉄やロサンゼルス・インターアーバン鉄道は彼の南カリフォルニアにおける地域開発の思想が反映されたものと言われているが、大合併時までにこれらの会社は彼の手を離れ、サザン・パシフィック鉄道の支配下に入っていた。 また、ロサンゼルス・パシフィック鉄道はハリウッドやサンタモニカ海岸を結んだ電鉄会社で、ロサンゼルス・レドンド鉄道は南西のレドンド海岸を結ぶ蒸気鉄道を電化した路線であった。どちらも狭軌 (1067mm) 路線として建設されたため、買収後に改軌が行われている。 大合併時、パシフィック電鉄の路線網はほぼ完成していた。その後の主な建設工事は、ロサンゼルス地区と、サンバナディーノ地区の路線の空白を埋める事を目的としたもので、1915年に完成している。 パシフィック電鉄の最盛期は1920年代前半にあり、1912年に約7000万人であった輸送客数は1924年に1億900万人となった。その後は減少に転じ、1929年には8800万人となるものの、他のインターアーバン路線と比べると、その減少の度合いは比較的少なかった。 しかし、ロサンゼルス郡の人口が1910年の50万人から1930年の220万人まで4倍に増加した事を考えるとこの業績は不十分なものであった。ロサンゼルス近辺をカバーしていたサザン・パシフィック鉄道は、パシフィック電鉄と連携輸送体制を深める代わりに、自社の近郊旅客輸送を廃止していて、ロサンゼルス郡内の郊外への通勤輸送はパシフィック電鉄の独占状態にあったのだが、路線の高規格化が進まなかった事からその役割を十分に果たしたとは言いがたかった。 高規格化が遅れたことには、ロサンゼルス都市圏での公共交通整備に関しての市民のコンセンサスが得られにくかった事が関係している。東部の都市では盛んに行われていた、補助金による新線建設は反対により行えず、高運賃に不満をもつ市民も多かった。沿線自治体の中にはパシフィック電鉄と袂を分かって独自にバス運行を行うところも現れた。自家用車が台頭する中、会社はバス路線の拡充を行い、利用客の繋ぎとめを図った(バス輸送を含む1930年の輸送客数は1億人を維持している)が、部分的な成功を収めるに過ぎなかった。 大恐慌はパシフィック電鉄の旅客輸送に大きな影響を与えた。鉄道による旅客輸送数は激減、会社は経営の効率化に迫られた。 効率化の手段として会社が注目したのはバスであった。バス車体は徐々に大型化し、信頼性も高まっていた。人件費の面においても、連結運転の場合でも、運転手に加え、各車両に車掌を乗務させる必要があった電車と、ワンマン運行(なお、運転手が運賃収受を行う「ワンマン」と車掌乗務をあらわす「ツーマン」は和製英語であるという誤解があるが、パシフィック電鉄を含むアメリカの当時の報告書、統計資料等で普通に用いられていた)のバスは大差が無かった。こうしたことから、パサデナ、ロングビーチなどの市内路線、サンバナディーノ近辺のローカル路線を手始めに路線のバス化が進められていった。効率化計画には、ロサンゼルス市内の路線をニューヨーク地下鉄やシカゴ高架鉄道の路線の水準まで高め、基幹路線を高速鉄道として存続させるという計画も含まれていたのだが、何度も計画は立てられたのに実行されず、路線の廃止ばかりが進んでいった。 1930年代末から40年代にかけては、サンバナディーノ近辺の路線を中心とした大規模な路線の廃止が行われ、車両の大量廃車も進められた。1941年以降はサンペドロにある造船所の工員輸送などを中心とした戦時輸送に対応するために、オークランドのサザン・パシフィック鉄道の近郊電車線の車両を導入し、輸送力強化を図ったが、一時期増加した利用客も戦争終結と共に鉄道から離れていった。 ロサンゼルスのフリーウェイの全容が固まった1950年前後に、第二期の大規模な路線廃止が行われた。複々線区間を含むパサデナへの路線、サンタモニカ海岸への路線など、ロングビーチに向かう路線以外の主要な路線はこの時期に廃止された。 この後、会社はバス化を前提として1953年、メトロポリタン・コーチ・ラインズに旅客列車運行権を売却する。メトロポリタン・コーチ・ラインズはハリウッドに向かう路線廃止を行ったが、フリーウェイ整備が進まなかった南部への路線は廃止しなかった。 パシフィック電鉄の残存する旅客サービスを完全に廃止させたのは、ロサンゼルス都市圏交通局である。交通局は1958年に結成、メトロポリタン・コーチラインズの他ロサンゼルスの路面電車とバスを運営するロサンゼルス・トランジット・ラインを買収した。パシフィック電鉄の残存路線については、モノレールを用いた高規格化を試み、累積赤字と高規格化の前段階であることを理由に最後まで残ったロングビーチ線を1961年に廃止した。しかし、交通局の計画したモノレールは、過去の高速鉄道計画と同様住民の反対に合い、結局実現しなかった。市内電車を運行し一部で三線軌条を利用することで路線を部分的に共用していた3フィート6インチ軌間のロサンゼルス鉄道も1963年までにバス転換されたことでロサンゼルス市内の軌道系交通機関は皆無となり、路線ネットワークが再び整備され始めるのは1980年代に計画され1990年に開業したロサンゼルス・メトロブルーラインまで実に30年近い歳月を要することになる。 パシフィック電鉄の路線は、北部、南部、西部の3つに分けられた。それぞれの地域の主要路線は以下の通りである。 車種は電車、電気機関車、ディーゼル機関車、貨車、電動貨車、事業用車等、極めて多岐に渡る。電車はPCCカーの5000形(5000クラス)を除き全て釣り掛け駆動であった。また、電車、電気機関車は最後まで全てトロリーポール集電であったほか、ディーゼル機関車もトロリーコンタクターを使用していた信号やポイントを動作させるためトロリーポールを装備していた。 電車は正式な形式とは別に現場通称ともいうべき略称を持っていた。これは形式の上2桁で呼ぶ場合と、主に運用された地区名称で呼ぶ場合、車両の特徴で呼ぶ場合とがあるが、主力をなした1200クラス等は増備時期によって "ロングビーチトゥエルヴ" などと地名を併せて呼称することもあった。 車両の更新、置き換えは頻繁に行われていた。初期の木造高床車には窓ガラスのない客室区画が存在していたが、そういった車両の多くは1920年代に鋼製低床車に置き換えられ廃車となり、残った車両には大改装が施されている。鋼製車に関してもワンマン運転への対応やサービス向上を目的としたバケットシート取り付けなどの近代化改装が施されている。営業期間の車両の総計は1000両を超えるが、大合併時に狭軌車両の名義のみの編入が行われており、さらにこういった車両の置き換えが行われていることから、一時点での運用車両数は最大でも300~500両程度で、1000両弱を運用していたロサンゼルス鉄道 (LARy) や、同時期の最大の路面電車運行都市で3500両の車両を運用していたあったシカゴのシカゴ・サーフェス・ラインなどに比べるとその規模はそれほど大きいものではなかった(会社の自称した「世界最大」は軌道延長を指していったものであることに留意する必要があろう)。 以下、電車の代表的なものを列記する。括弧内は略称である。 これらはその総数に比して現存するものは少ない。これは路線廃止による大量廃車がなされた1950年前後、朝鮮戦争勃発などからスクラップ価格が高騰しており、二次利用されることなくスクラップとして一括売却されたことが挙げられる。 とりわけ、編入車を含め約70両が在籍し、1920~40年代のPEの主力を務めた鋼製車1200クラスは、ビジネスカーこと1299号車等の例外を除きほぼ全滅してしまった。 現存するものは、殆どが末期まで残留したものや、木造車ばかりである。 パシフィック電鉄にまつわる非常に有名な話としてスネルの陰謀説がある。 これは「自動車の販売促進を狙うゼネラルモーターズや石油企業が、パシフィック電鉄を買収、バス化を行った」という内容で、ブラッドフォード・スネルという人物が、アメリカ連邦議会に告発書を提出、公聴会で実際にこの件をめぐっての審議が行われた。また、同様の議論が研究者やジャーナリストによって何度か行われた。 スネルの陰謀説は、日本においても「アメリカの路面電車は自動車会社が潰した」という形で広く伝わっている。しかし、この話をそのまま事実として受け止めることには問題がある。 まず、スネルの報告書(邦訳『クルマが鉄道を滅ぼした』)は誤りの多い本である。スネルはパシフィック電鉄の批判に当たって、"The Electric Interurban Railways in America" という本を参考にし、そこから「(GM支配下の)バス会社による電鉄会社の買収」の証拠を見出したとしているが、引用の過程においてシカゴ郊外の都市鉄道とワシントン州の地方鉄道を取り違えるなどの初歩的なミスが多く、彼がこの本から見出したと言うという事実はそういったミスの中から生まれた虚構に過ぎなかった。 また、文中に述べられたパシフィック電鉄の路線の一部がGM子会社のバス会社であるパシフィック・コーチ・ラインズに譲渡されたのは事実であったが、彼はその事実を正確に理解していなかった。パシフィック電鉄がこの会社に譲渡した路線は、ロサンゼルス北方の町グレンデールの市内路線の数kmで、もともと蒸気鉄道路線との連絡線として建設されたものを旅客営業に用いたものであったが、運行本数、利用客数ともに少ない盲腸路線に過ぎなかった。この路線の廃止時に、バス路線の運行効率化を図るために、バスを自社の直営とせずこの地域でバス事業を営んでいたパシフィック・コーチ・ラインズに譲渡したというのが真相であったのだが、スネルはこれを自動車会社を後ろ盾とした大規模な陰謀と誤解していたのである。 スネルの告発を検討する公聴会においては、"The Electric Interurban Railways in America" の著者であるUCLAのジョージ・ヒルトン教授が発言したが、ヒルトン教授は発言の中で、スネルの報告書を事実をあまりにも単純化しすぎていると批判した。 スネルの報告書が不正確なものであることはこのように証明されているのだが、彼の報告が不正確であったとしても、実際には別の形で陰謀が進められていた可能性はある。1935年にゼネラルモーターズがバス運行を行う子会社であるナショナル・シティ・ラインズを設立したのは事実(ただし、GMや関連石油会社はこの会社の大株主であっても、安定支配できるだけの持ち株を有していなかったという説もあり、ナショナルシティラインズへのGMの影響力がどれほどであったのかについては不明)であるし、この会社は全米の複数の都市の路面電車路線を買収し、バスに置き換えている。この会社は一時期ロサンゼルスの路面電車運行会社、ロサンゼルス・トランジット・ラインズの大株主でもあった。 ナショナル・シティ・ラインズが買収を行った路面電車路線は、人口数万から数十万人の小規模な都市のものが殆どで、1910年代の半ばには競争力を失っていたような路線であった。この時期に買収が行われたのは、1935年公益事業法で内部補助を伴う電力会社と路面電車会社の兼業が禁止され、電力会社による中小路面電車会社の支配体制が解体され、路面電車会社が新たな支配者を求めたからであった。ナショナル・シティ・ラインズの買収に関係なく、路面電車を廃止してバスに置き換える電鉄会社は多く、当時、「~エレクトリック・レイルウェイ」を名乗るバス専業の会社が無数に存在していたと言われている。 ナショナル・シティ・ラインズはフィラデルフィアやロサンゼルスの路面電車会社の株式を保有していたが、その支配力を用いて路面電車の廃止を行ったわけでもなかった。ロサンゼルスの路面電車はナショナル・シティ・ラインズによる支配中も存続を続け、残存路線はロサンゼルス都市圏交通局が全廃していた。フィラデルフィアの路面電車に至っては現在でも運行を続けている。無論、路線の削減は行われていたが、そのペースは他都市と変わらなかった。 利用者の自家用車への移行を促すため、ナショナル・シティ・ラインズの運行したバスのサービスの品質は故意に低く保たれたという言説も存在するが、その立証は難しい。パシフィック・コーチ・ラインズがパサデナ市内でパシフィック電鉄に代わってバス運行を行った際、ロサンゼルス - パサデナ間の電車の切符を持つ乗客への無料の乗り継ぎサービスはそのまま継続された。ナショナル・シティ・ラインズが支配したロサンゼルス・トランジット・ラインズでは、乗客誘致の為に、ショッピングセンター乗り入れ路線で、買い物客を対象にした運賃の割引を行っていた。こうしたサービスは、日本では先進的とされる事業者が近年実験的に取り入れるようになったサービスである。 ゼネラルモーターズはナショナル・シティ・ラインズの件で1950年代に独占禁止法で有罪判決を受けたが、それは、交通事業を営む子会社を設立することで、バス製造の独占を図ろうとしている件に関してであった。ゼネラルモーターズの公共交通への関与は全く否定できないものの、乗用車の販売を促進するためというよりは、自社で製造するバスの安定した販路を求めるために行ったものであると考えるのが妥当であり、この判決も、社会経済に大変動をもたらす陰謀に対するものというよりは、不公正な商取引を咎めたという類のものにすぎなかった。判決における少額の罰金をスネルは「名目ばかりの寛大な」と表現したが、判決によってゼネラルモーターズの公共交通運営は大幅に制限され、独占禁止法に対する判決としては決して寛大なものではなかった。実際、ナショナル・シティ・ラインズはこの時期を境に路線の展開を止めてしまっている。 また、ナショナル・シティ・ラインズは、公民権運動さなかのアラバマ州モンゴメリーのバスを運営していた事業者で、バス・ボイコットの一方の当事者でもあり(ローザ・パークスの項を参照)、スネルが報告書を提出した1970年代までに、その企業イメージが相当低下していた事が予想される。スネルの報告が受け入れられた背景に、こういった要素があることも考える必要があるであろう。 パシフィック電鉄は、通勤輸送の比重が大きく、路線の建設に伴い、郊外の開発が進んだという点で、他のアメリカのインターアーバンとは一線を画す存在である。これはアメリカの市街電車にはよく見られた特徴であるが、専用軌道主体で比較的高速の輸送を行った会社は他にはなく、アメリカの他地域の電気鉄道よりは日本の電化私鉄のほうによく似ていた。 パシフィック電鉄と日本の私鉄が類似するようになったのは、電気鉄道技術の発展にあわせて人口増加が進んだ事、地域内の幹線鉄道であるサザン・パシフィック鉄道の子会社であった事から他路線との住み分けが行えた事などにあるが、日本の初期の電鉄技術者・経営者の一部は路線建設にあたってパシフィック電鉄の視察を行っており、直接の影響を受ける側面もあった。 阪急電鉄、東京急行電鉄等は、鉄道延伸と宅地開発を並行して行うPE・ハンティントンの手法を創業期から積極的に取り入れ、成功した事例といえる。しかし、本家であるところのPEの沿線開発によるベッドタウンは、当初の中産階級住民がフリーウェイ網の拡大と共に、郊外のより広大な住宅に移り、代わって沿線は有色人種を中心とした“クルマも持てない”所得の低い住民の住む街となっていった。さらに、PE(最終期にはLAMTAロサンゼルス市交通営団に買収)路線廃止数年後かつてのロングビーチ線沿線でワッツ暴動が発生。この背景には、鉄道廃止により整備された公共交通を欠いた地域となったことへの市民の不満も一因であるとされる。この暴動と前後し、沿線のうちサンフェルナンド渓谷、サウス・セントラル周辺は全米有数の凶悪犯罪が多発するスラム化した地域となっていった(なお、ハリウッドやサンマリノといった全米有数の高級住宅地もPE沿線で、PEの建設に伴って開発された住宅地であり、沿線がすべてスラム化したというわけではない)。現在旧PE路線網をなぞるように整備が進むロサンゼルス郡都市圏交通局(通称ロサンゼルス・メトロ、略称LACMTA。LAMTAの後身)のライトレール路線網は、公共交通整備によるスラムクリアランスの意味合いが強いといわれ、実際自家用車を保有する層がこうした公共交通へと転移することは殆ど無い。このことを考えると、デベロッパーとしてのPEの手法は、本家たるロサンゼルスでは定着することなく終わり、むしろその密集度から移動手段を完全に自家用車に依存することが不可能な、日本の首都圏や京阪神地域等で定着を見たといえなくもない。 一方、日本では現在においてもPEを源流とする部分を垣間見ることができる。たとえば京浜急行電鉄の様な赤系統の電車車体色、名古屋鉄道や伊勢電気鉄道が採用したローマン書体の車両番号や電気機関車車体色等に影響が及んでいるといわれるほか、関東バスの車体色はパシフィック電鉄のバス車体色をほぼそのまま模している。但し地色は関東バスの白に対しパシフィック電鉄のそれは銀であった(1950年代初頭には関東バスも地を銀塗装としていた)。またロゴも類似した形状である。企業イメージをリードする車体塗装からも、初期の電気鉄道・バス事業者にとってPEはある種の規範として、常に脳裏に刻み込まれていたことがうかがえる。 サン・ペドロの海岸沿いには500クラス及び1001クラスが観光用に定期運行される "Waterfront Red Car Line" が存在する。500クラスは古い図面や後述の "Orange Empire Railway Museum" に保存されている(荒廃が著しい)車体を元に、船舶工場で木造車体を完全新造したレプリカであり、500・501の2両が在籍している。また、1001クラスは個人篤志家が950クラスの車体を購入し、1001クラスと同一スタイルに改造のうえ、1001クラス末尾1057の次番“1058”を名乗らせたものがその出自で、やはり完全なオリジナルではない。1001クラスは以前、特殊なゴムタイヤ台車とガソリンエンジンを装備してイベント時に道路上を走行する、いわば“バス”となっていたもので、Waterfront Red Car Line の開業に向けて線路を走る本来の電車に復元したものである。なお、復元前には映画『ロジャー・ラビット』に一瞬のみではあるが出演したこともある。 台車はいずれもオリジナルとは異なり、500クラスはACFテーラー、1001クラスは山陽電鉄より寄贈された日本製ボールドウィン系台車を使用しているほか、いずれの車輌ともトロリーバス用ポール、LAMTAレッドライン車両と共通品のコンプレッサー、本来鉱山機関車用の汎用モジュールスイッチを使用した主制御器を搭載するなど、単なる保存鉄道とは異なる、現代において安定して通常運行させるための工夫が随所に見られる。 この他、"Orange Empire Railway Museum" には、動態の300・400クラスをはじめ、1960年代以降も各地に残存したパシフィック電鉄の保存車が多数収容されている。その状態は車内外、足回りとも完全な状態のものから、もはや崩壊寸前の木造車体まで様々である。 旧PEロングビーチ線を事実上復活させたロサンゼルス・メトロブルーラインのLRV、及びサンフランシスコ市営鉄道のFラインを走るPCCカーには、パシフィック電鉄の塗装を模した車輌が存在する。ブルーラインのそれは、前面中央部に丸い前照灯を増設しているほか、車内も往年のPEの色にあわせた仕様となっている。サンフランシスコのそれは、フィラデルフィアSEPTAの中古車をかつての米国各都市の塗装としたうちのひとつで、厳密には実際の色調と若干異なるといわれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "パシフィック電鉄(Pacific Electric Railway、略称PE)はアメリカ合衆国、カリフォルニア州南部で電気鉄道とバス事業を展開していた企業。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "全盛期の軌道延長1,700km、路線延長800kmで、その中には複々線区間も含まれる。1910年代から20年代にかけては、「世界最大の電気鉄道」を自称した。インターアーバンの一種と区分されるが、通勤輸送での活躍や高密度の列車運行、路線建設と住宅開発を並行して行うなどの点で、他の地域の電鉄会社とは異色の存在で、その形態は日本の大手私鉄によく似ている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "パシフィック電鉄の路線網の建設は1890年代にはじまり、旅客営業は1961年まで続けられた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ロサンゼルス都市圏全域をカバーする電鉄会社としてのパシフィック電鉄は、1911年の大合併により成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この時合併した会社は、ロサンゼルスを中心に路線を展開していた(旧)パシフィック電鉄、ロサンゼルス・インターアーバン鉄道、ロサンゼルス・パシフィック鉄道、ロサンゼルス・レドンド鉄道の4社と内陸部のサンバナディーノ渓谷で路線展開していたサンバナディーノ・バレー電鉄、サン・バナディーノ・インターアーバン、レッドランド・セントラル、リバーサイド・アーリントン鉄道の4社、計8社であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "このうち、1901年に設立された(旧)パシフィック電鉄やロサンゼルス・インターアーバン鉄道は、ヘンリー・ハンティントンという人物が設立した路線で、合併後の会社の路線の中核を担っていた。ヘンリー・ハンティントンはサザン・パシフィック鉄道の創設者の一人であるコリス・ハンティントンの甥で、カリフォルニア各地で電気鉄道の経営を行っていた。(旧)パシフィック電鉄やロサンゼルス・インターアーバン鉄道は彼の南カリフォルニアにおける地域開発の思想が反映されたものと言われているが、大合併時までにこれらの会社は彼の手を離れ、サザン・パシフィック鉄道の支配下に入っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "また、ロサンゼルス・パシフィック鉄道はハリウッドやサンタモニカ海岸を結んだ電鉄会社で、ロサンゼルス・レドンド鉄道は南西のレドンド海岸を結ぶ蒸気鉄道を電化した路線であった。どちらも狭軌 (1067mm) 路線として建設されたため、買収後に改軌が行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大合併時、パシフィック電鉄の路線網はほぼ完成していた。その後の主な建設工事は、ロサンゼルス地区と、サンバナディーノ地区の路線の空白を埋める事を目的としたもので、1915年に完成している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "パシフィック電鉄の最盛期は1920年代前半にあり、1912年に約7000万人であった輸送客数は1924年に1億900万人となった。その後は減少に転じ、1929年には8800万人となるものの、他のインターアーバン路線と比べると、その減少の度合いは比較的少なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかし、ロサンゼルス郡の人口が1910年の50万人から1930年の220万人まで4倍に増加した事を考えるとこの業績は不十分なものであった。ロサンゼルス近辺をカバーしていたサザン・パシフィック鉄道は、パシフィック電鉄と連携輸送体制を深める代わりに、自社の近郊旅客輸送を廃止していて、ロサンゼルス郡内の郊外への通勤輸送はパシフィック電鉄の独占状態にあったのだが、路線の高規格化が進まなかった事からその役割を十分に果たしたとは言いがたかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "高規格化が遅れたことには、ロサンゼルス都市圏での公共交通整備に関しての市民のコンセンサスが得られにくかった事が関係している。東部の都市では盛んに行われていた、補助金による新線建設は反対により行えず、高運賃に不満をもつ市民も多かった。沿線自治体の中にはパシフィック電鉄と袂を分かって独自にバス運行を行うところも現れた。自家用車が台頭する中、会社はバス路線の拡充を行い、利用客の繋ぎとめを図った(バス輸送を含む1930年の輸送客数は1億人を維持している)が、部分的な成功を収めるに過ぎなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "大恐慌はパシフィック電鉄の旅客輸送に大きな影響を与えた。鉄道による旅客輸送数は激減、会社は経営の効率化に迫られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "効率化の手段として会社が注目したのはバスであった。バス車体は徐々に大型化し、信頼性も高まっていた。人件費の面においても、連結運転の場合でも、運転手に加え、各車両に車掌を乗務させる必要があった電車と、ワンマン運行(なお、運転手が運賃収受を行う「ワンマン」と車掌乗務をあらわす「ツーマン」は和製英語であるという誤解があるが、パシフィック電鉄を含むアメリカの当時の報告書、統計資料等で普通に用いられていた)のバスは大差が無かった。こうしたことから、パサデナ、ロングビーチなどの市内路線、サンバナディーノ近辺のローカル路線を手始めに路線のバス化が進められていった。効率化計画には、ロサンゼルス市内の路線をニューヨーク地下鉄やシカゴ高架鉄道の路線の水準まで高め、基幹路線を高速鉄道として存続させるという計画も含まれていたのだが、何度も計画は立てられたのに実行されず、路線の廃止ばかりが進んでいった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1930年代末から40年代にかけては、サンバナディーノ近辺の路線を中心とした大規模な路線の廃止が行われ、車両の大量廃車も進められた。1941年以降はサンペドロにある造船所の工員輸送などを中心とした戦時輸送に対応するために、オークランドのサザン・パシフィック鉄道の近郊電車線の車両を導入し、輸送力強化を図ったが、一時期増加した利用客も戦争終結と共に鉄道から離れていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ロサンゼルスのフリーウェイの全容が固まった1950年前後に、第二期の大規模な路線廃止が行われた。複々線区間を含むパサデナへの路線、サンタモニカ海岸への路線など、ロングビーチに向かう路線以外の主要な路線はこの時期に廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この後、会社はバス化を前提として1953年、メトロポリタン・コーチ・ラインズに旅客列車運行権を売却する。メトロポリタン・コーチ・ラインズはハリウッドに向かう路線廃止を行ったが、フリーウェイ整備が進まなかった南部への路線は廃止しなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "パシフィック電鉄の残存する旅客サービスを完全に廃止させたのは、ロサンゼルス都市圏交通局である。交通局は1958年に結成、メトロポリタン・コーチラインズの他ロサンゼルスの路面電車とバスを運営するロサンゼルス・トランジット・ラインを買収した。パシフィック電鉄の残存路線については、モノレールを用いた高規格化を試み、累積赤字と高規格化の前段階であることを理由に最後まで残ったロングビーチ線を1961年に廃止した。しかし、交通局の計画したモノレールは、過去の高速鉄道計画と同様住民の反対に合い、結局実現しなかった。市内電車を運行し一部で三線軌条を利用することで路線を部分的に共用していた3フィート6インチ軌間のロサンゼルス鉄道も1963年までにバス転換されたことでロサンゼルス市内の軌道系交通機関は皆無となり、路線ネットワークが再び整備され始めるのは1980年代に計画され1990年に開業したロサンゼルス・メトロブルーラインまで実に30年近い歳月を要することになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "パシフィック電鉄の路線は、北部、南部、西部の3つに分けられた。それぞれの地域の主要路線は以下の通りである。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "車種は電車、電気機関車、ディーゼル機関車、貨車、電動貨車、事業用車等、極めて多岐に渡る。電車はPCCカーの5000形(5000クラス)を除き全て釣り掛け駆動であった。また、電車、電気機関車は最後まで全てトロリーポール集電であったほか、ディーゼル機関車もトロリーコンタクターを使用していた信号やポイントを動作させるためトロリーポールを装備していた。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "電車は正式な形式とは別に現場通称ともいうべき略称を持っていた。これは形式の上2桁で呼ぶ場合と、主に運用された地区名称で呼ぶ場合、車両の特徴で呼ぶ場合とがあるが、主力をなした1200クラス等は増備時期によって \"ロングビーチトゥエルヴ\" などと地名を併せて呼称することもあった。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "車両の更新、置き換えは頻繁に行われていた。初期の木造高床車には窓ガラスのない客室区画が存在していたが、そういった車両の多くは1920年代に鋼製低床車に置き換えられ廃車となり、残った車両には大改装が施されている。鋼製車に関してもワンマン運転への対応やサービス向上を目的としたバケットシート取り付けなどの近代化改装が施されている。営業期間の車両の総計は1000両を超えるが、大合併時に狭軌車両の名義のみの編入が行われており、さらにこういった車両の置き換えが行われていることから、一時点での運用車両数は最大でも300~500両程度で、1000両弱を運用していたロサンゼルス鉄道 (LARy) や、同時期の最大の路面電車運行都市で3500両の車両を運用していたあったシカゴのシカゴ・サーフェス・ラインなどに比べるとその規模はそれほど大きいものではなかった(会社の自称した「世界最大」は軌道延長を指していったものであることに留意する必要があろう)。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "以下、電車の代表的なものを列記する。括弧内は略称である。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これらはその総数に比して現存するものは少ない。これは路線廃止による大量廃車がなされた1950年前後、朝鮮戦争勃発などからスクラップ価格が高騰しており、二次利用されることなくスクラップとして一括売却されたことが挙げられる。 とりわけ、編入車を含め約70両が在籍し、1920~40年代のPEの主力を務めた鋼製車1200クラスは、ビジネスカーこと1299号車等の例外を除きほぼ全滅してしまった。 現存するものは、殆どが末期まで残留したものや、木造車ばかりである。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "パシフィック電鉄にまつわる非常に有名な話としてスネルの陰謀説がある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "これは「自動車の販売促進を狙うゼネラルモーターズや石油企業が、パシフィック電鉄を買収、バス化を行った」という内容で、ブラッドフォード・スネルという人物が、アメリカ連邦議会に告発書を提出、公聴会で実際にこの件をめぐっての審議が行われた。また、同様の議論が研究者やジャーナリストによって何度か行われた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "スネルの陰謀説は、日本においても「アメリカの路面電車は自動車会社が潰した」という形で広く伝わっている。しかし、この話をそのまま事実として受け止めることには問題がある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "まず、スネルの報告書(邦訳『クルマが鉄道を滅ぼした』)は誤りの多い本である。スネルはパシフィック電鉄の批判に当たって、\"The Electric Interurban Railways in America\" という本を参考にし、そこから「(GM支配下の)バス会社による電鉄会社の買収」の証拠を見出したとしているが、引用の過程においてシカゴ郊外の都市鉄道とワシントン州の地方鉄道を取り違えるなどの初歩的なミスが多く、彼がこの本から見出したと言うという事実はそういったミスの中から生まれた虚構に過ぎなかった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、文中に述べられたパシフィック電鉄の路線の一部がGM子会社のバス会社であるパシフィック・コーチ・ラインズに譲渡されたのは事実であったが、彼はその事実を正確に理解していなかった。パシフィック電鉄がこの会社に譲渡した路線は、ロサンゼルス北方の町グレンデールの市内路線の数kmで、もともと蒸気鉄道路線との連絡線として建設されたものを旅客営業に用いたものであったが、運行本数、利用客数ともに少ない盲腸路線に過ぎなかった。この路線の廃止時に、バス路線の運行効率化を図るために、バスを自社の直営とせずこの地域でバス事業を営んでいたパシフィック・コーチ・ラインズに譲渡したというのが真相であったのだが、スネルはこれを自動車会社を後ろ盾とした大規模な陰謀と誤解していたのである。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "スネルの告発を検討する公聴会においては、\"The Electric Interurban Railways in America\" の著者であるUCLAのジョージ・ヒルトン教授が発言したが、ヒルトン教授は発言の中で、スネルの報告書を事実をあまりにも単純化しすぎていると批判した。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "スネルの報告書が不正確なものであることはこのように証明されているのだが、彼の報告が不正確であったとしても、実際には別の形で陰謀が進められていた可能性はある。1935年にゼネラルモーターズがバス運行を行う子会社であるナショナル・シティ・ラインズを設立したのは事実(ただし、GMや関連石油会社はこの会社の大株主であっても、安定支配できるだけの持ち株を有していなかったという説もあり、ナショナルシティラインズへのGMの影響力がどれほどであったのかについては不明)であるし、この会社は全米の複数の都市の路面電車路線を買収し、バスに置き換えている。この会社は一時期ロサンゼルスの路面電車運行会社、ロサンゼルス・トランジット・ラインズの大株主でもあった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ナショナル・シティ・ラインズが買収を行った路面電車路線は、人口数万から数十万人の小規模な都市のものが殆どで、1910年代の半ばには競争力を失っていたような路線であった。この時期に買収が行われたのは、1935年公益事業法で内部補助を伴う電力会社と路面電車会社の兼業が禁止され、電力会社による中小路面電車会社の支配体制が解体され、路面電車会社が新たな支配者を求めたからであった。ナショナル・シティ・ラインズの買収に関係なく、路面電車を廃止してバスに置き換える電鉄会社は多く、当時、「~エレクトリック・レイルウェイ」を名乗るバス専業の会社が無数に存在していたと言われている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ナショナル・シティ・ラインズはフィラデルフィアやロサンゼルスの路面電車会社の株式を保有していたが、その支配力を用いて路面電車の廃止を行ったわけでもなかった。ロサンゼルスの路面電車はナショナル・シティ・ラインズによる支配中も存続を続け、残存路線はロサンゼルス都市圏交通局が全廃していた。フィラデルフィアの路面電車に至っては現在でも運行を続けている。無論、路線の削減は行われていたが、そのペースは他都市と変わらなかった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "利用者の自家用車への移行を促すため、ナショナル・シティ・ラインズの運行したバスのサービスの品質は故意に低く保たれたという言説も存在するが、その立証は難しい。パシフィック・コーチ・ラインズがパサデナ市内でパシフィック電鉄に代わってバス運行を行った際、ロサンゼルス - パサデナ間の電車の切符を持つ乗客への無料の乗り継ぎサービスはそのまま継続された。ナショナル・シティ・ラインズが支配したロサンゼルス・トランジット・ラインズでは、乗客誘致の為に、ショッピングセンター乗り入れ路線で、買い物客を対象にした運賃の割引を行っていた。こうしたサービスは、日本では先進的とされる事業者が近年実験的に取り入れるようになったサービスである。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ゼネラルモーターズはナショナル・シティ・ラインズの件で1950年代に独占禁止法で有罪判決を受けたが、それは、交通事業を営む子会社を設立することで、バス製造の独占を図ろうとしている件に関してであった。ゼネラルモーターズの公共交通への関与は全く否定できないものの、乗用車の販売を促進するためというよりは、自社で製造するバスの安定した販路を求めるために行ったものであると考えるのが妥当であり、この判決も、社会経済に大変動をもたらす陰謀に対するものというよりは、不公正な商取引を咎めたという類のものにすぎなかった。判決における少額の罰金をスネルは「名目ばかりの寛大な」と表現したが、判決によってゼネラルモーターズの公共交通運営は大幅に制限され、独占禁止法に対する判決としては決して寛大なものではなかった。実際、ナショナル・シティ・ラインズはこの時期を境に路線の展開を止めてしまっている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、ナショナル・シティ・ラインズは、公民権運動さなかのアラバマ州モンゴメリーのバスを運営していた事業者で、バス・ボイコットの一方の当事者でもあり(ローザ・パークスの項を参照)、スネルが報告書を提出した1970年代までに、その企業イメージが相当低下していた事が予想される。スネルの報告が受け入れられた背景に、こういった要素があることも考える必要があるであろう。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "パシフィック電鉄は、通勤輸送の比重が大きく、路線の建設に伴い、郊外の開発が進んだという点で、他のアメリカのインターアーバンとは一線を画す存在である。これはアメリカの市街電車にはよく見られた特徴であるが、専用軌道主体で比較的高速の輸送を行った会社は他にはなく、アメリカの他地域の電気鉄道よりは日本の電化私鉄のほうによく似ていた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "パシフィック電鉄と日本の私鉄が類似するようになったのは、電気鉄道技術の発展にあわせて人口増加が進んだ事、地域内の幹線鉄道であるサザン・パシフィック鉄道の子会社であった事から他路線との住み分けが行えた事などにあるが、日本の初期の電鉄技術者・経営者の一部は路線建設にあたってパシフィック電鉄の視察を行っており、直接の影響を受ける側面もあった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "阪急電鉄、東京急行電鉄等は、鉄道延伸と宅地開発を並行して行うPE・ハンティントンの手法を創業期から積極的に取り入れ、成功した事例といえる。しかし、本家であるところのPEの沿線開発によるベッドタウンは、当初の中産階級住民がフリーウェイ網の拡大と共に、郊外のより広大な住宅に移り、代わって沿線は有色人種を中心とした“クルマも持てない”所得の低い住民の住む街となっていった。さらに、PE(最終期にはLAMTAロサンゼルス市交通営団に買収)路線廃止数年後かつてのロングビーチ線沿線でワッツ暴動が発生。この背景には、鉄道廃止により整備された公共交通を欠いた地域となったことへの市民の不満も一因であるとされる。この暴動と前後し、沿線のうちサンフェルナンド渓谷、サウス・セントラル周辺は全米有数の凶悪犯罪が多発するスラム化した地域となっていった(なお、ハリウッドやサンマリノといった全米有数の高級住宅地もPE沿線で、PEの建設に伴って開発された住宅地であり、沿線がすべてスラム化したというわけではない)。現在旧PE路線網をなぞるように整備が進むロサンゼルス郡都市圏交通局(通称ロサンゼルス・メトロ、略称LACMTA。LAMTAの後身)のライトレール路線網は、公共交通整備によるスラムクリアランスの意味合いが強いといわれ、実際自家用車を保有する層がこうした公共交通へと転移することは殆ど無い。このことを考えると、デベロッパーとしてのPEの手法は、本家たるロサンゼルスでは定着することなく終わり、むしろその密集度から移動手段を完全に自家用車に依存することが不可能な、日本の首都圏や京阪神地域等で定着を見たといえなくもない。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "一方、日本では現在においてもPEを源流とする部分を垣間見ることができる。たとえば京浜急行電鉄の様な赤系統の電車車体色、名古屋鉄道や伊勢電気鉄道が採用したローマン書体の車両番号や電気機関車車体色等に影響が及んでいるといわれるほか、関東バスの車体色はパシフィック電鉄のバス車体色をほぼそのまま模している。但し地色は関東バスの白に対しパシフィック電鉄のそれは銀であった(1950年代初頭には関東バスも地を銀塗装としていた)。またロゴも類似した形状である。企業イメージをリードする車体塗装からも、初期の電気鉄道・バス事業者にとってPEはある種の規範として、常に脳裏に刻み込まれていたことがうかがえる。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "サン・ペドロの海岸沿いには500クラス及び1001クラスが観光用に定期運行される \"Waterfront Red Car Line\" が存在する。500クラスは古い図面や後述の \"Orange Empire Railway Museum\" に保存されている(荒廃が著しい)車体を元に、船舶工場で木造車体を完全新造したレプリカであり、500・501の2両が在籍している。また、1001クラスは個人篤志家が950クラスの車体を購入し、1001クラスと同一スタイルに改造のうえ、1001クラス末尾1057の次番“1058”を名乗らせたものがその出自で、やはり完全なオリジナルではない。1001クラスは以前、特殊なゴムタイヤ台車とガソリンエンジンを装備してイベント時に道路上を走行する、いわば“バス”となっていたもので、Waterfront Red Car Line の開業に向けて線路を走る本来の電車に復元したものである。なお、復元前には映画『ロジャー・ラビット』に一瞬のみではあるが出演したこともある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "台車はいずれもオリジナルとは異なり、500クラスはACFテーラー、1001クラスは山陽電鉄より寄贈された日本製ボールドウィン系台車を使用しているほか、いずれの車輌ともトロリーバス用ポール、LAMTAレッドライン車両と共通品のコンプレッサー、本来鉱山機関車用の汎用モジュールスイッチを使用した主制御器を搭載するなど、単なる保存鉄道とは異なる、現代において安定して通常運行させるための工夫が随所に見られる。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この他、\"Orange Empire Railway Museum\" には、動態の300・400クラスをはじめ、1960年代以降も各地に残存したパシフィック電鉄の保存車が多数収容されている。その状態は車内外、足回りとも完全な状態のものから、もはや崩壊寸前の木造車体まで様々である。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "旧PEロングビーチ線を事実上復活させたロサンゼルス・メトロブルーラインのLRV、及びサンフランシスコ市営鉄道のFラインを走るPCCカーには、パシフィック電鉄の塗装を模した車輌が存在する。ブルーラインのそれは、前面中央部に丸い前照灯を増設しているほか、車内も往年のPEの色にあわせた仕様となっている。サンフランシスコのそれは、フィラデルフィアSEPTAの中古車をかつての米国各都市の塗装としたうちのひとつで、厳密には実際の色調と若干異なるといわれる。", "title": "その他" } ]
パシフィック電鉄はアメリカ合衆国、カリフォルニア州南部で電気鉄道とバス事業を展開していた企業。 全盛期の軌道延長1,700km、路線延長800kmで、その中には複々線区間も含まれる。1910年代から20年代にかけては、「世界最大の電気鉄道」を自称した。インターアーバンの一種と区分されるが、通勤輸送での活躍や高密度の列車運行、路線建設と住宅開発を並行して行うなどの点で、他の地域の電鉄会社とは異色の存在で、その形態は日本の大手私鉄によく似ている。 パシフィック電鉄の路線網の建設は1890年代にはじまり、旅客営業は1961年まで続けられた。
{{Infobox rail |railroad_name = パシフィック電鉄 |logo_filename = PELogo.svg |logo_size = 150px |system_map = |map_caption = |map_size = |marks = PE |image = |image_size = |image_caption = |locale = ロサンゼルス都市圏全域 |start_year = 1911 |end_year = 1961 |predecessor_line = パシフィック電鉄<br />ロサンゼルス・インターアーバン鉄道<br />ロサンゼルス・パシフィック鉄道<br />ロサンゼルス・レドンド鉄道<br />サンバナディーノ・バレー電鉄<br />サン・バナディーノ・インターアーバン<br />レッドランド・セントラル<br />リバーサイド・アーリントン鉄道 |successor_line = |gauge = {{RailGauge|sg}} |old_gauge = {{RailGauge|1067}}<br />(旧)ロサンゼルス・パシフィック鉄道<br />(旧)ロサンゼルス・レドンド鉄道 |electrification = |length = |hq_city = {{USA}}<br />[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]] |website = }} [[Image:pac-elec-depot-1910.jpg|thumb|325px|ロサンゼルスの[[ダウンタウン (ロサンゼルス)|ダウンタウン]]にあったパシフィック・エレクトリックの駅(1910年)]] {{出典の明記|date=2019年6月6日 (木) 01:31 (UTC)}} [[File:Los_Angeles_Pacific_Electric_Railways_(Red_Cars).svg|thumb|300px|{{Center| Los Angeles Pacific Electric Railways (Red Cars) network {{nowrap|([http://sharemap.org/public/Los_Angeles_Pacific_Electric_Railways_(Red_Cars) interactive version])}} }}]] '''パシフィック電鉄'''(Pacific Electric Railway、略称PE)は[[アメリカ合衆国]]、[[カリフォルニア州]]南部で[[電気鉄道]]と[[バス (交通機関)|バス]]事業を展開していた企業。 全盛期の軌道延長1,700km、路線延長800kmで、その中には[[複々線]]区間も含まれる。[[1910年代]]から[[1920年代|20年代]]にかけては、「世界最大の電気鉄道」を自称した。[[インターアーバン]]の一種と区分されるが、通勤輸送での活躍や高密度の列車運行、路線建設と住宅開発を並行して行うなどの点で、他の地域の電鉄会社とは異色の存在で、その形態は日本の大手私鉄によく似ている。 パシフィック電鉄の路線網の建設は[[1890年代]]にはじまり、旅客営業は[[1961年]]まで続けられた。 == 歴史 == [[Image:Old PE car at San Gabriel Mission circa 1905.jpg|thumb|right|250px|1905年[[:en:San Gabriel, California|サン・ガブリエル]]付近のパシフィック・エレクトリック]] === 大合併 === [[ロサンゼルス]]都市圏全域をカバーする電鉄会社としてのパシフィック電鉄は、1911年の大合併により成立した。 この時合併した会社は、ロサンゼルスを中心に路線を展開していた(旧)パシフィック電鉄、ロサンゼルス・インターアーバン鉄道、ロサンゼルス・パシフィック鉄道、ロサンゼルス・レドンド鉄道の4社と内陸部のサンバナディーノ渓谷で路線展開していたサンバナディーノ・バレー電鉄、サン・バナディーノ・インターアーバン、レッドランド・セントラル、リバーサイド・アーリントン鉄道の4社、計8社であった。 このうち、1901年に設立された(旧)パシフィック電鉄やロサンゼルス・インターアーバン鉄道は、ヘンリー・ハンティントンという人物が設立した路線で、合併後の会社の路線の中核を担っていた。ヘンリー・ハンティントンはサザン・パシフィック鉄道の創設者の一人であるコリス・ハンティントンの甥で、カリフォルニア各地で電気鉄道の経営を行っていた。(旧)パシフィック電鉄やロサンゼルス・インターアーバン鉄道は彼の[[南カリフォルニア]]における地域開発の思想が反映されたものと言われているが、大合併時までにこれらの会社は彼の手を離れ、サザン・パシフィック鉄道の支配下に入っていた。 また、ロサンゼルス・パシフィック鉄道はハリウッドやサンタモニカ海岸を結んだ電鉄会社で、ロサンゼルス・レドンド鉄道は南西のレドンド海岸を結ぶ蒸気鉄道を電化した路線であった。どちらも[[狭軌]] (1067mm) 路線として建設されたため、買収後に改軌が行われている。 大合併時、パシフィック電鉄の路線網はほぼ完成していた。その後の主な建設工事は、ロサンゼルス地区と、サンバナディーノ地区の路線の空白を埋める事を目的としたもので、1915年に完成している。 === 繁栄期の問題 === パシフィック電鉄の最盛期は1920年代前半にあり、1912年に約7000万人であった輸送客数は1924年に1億900万人となった。その後は減少に転じ、1929年には8800万人となるものの、他のインターアーバン路線と比べると、その減少の度合いは比較的少なかった。 しかし、ロサンゼルス郡の人口が1910年の50万人から1930年の220万人まで4倍に増加した事を考えるとこの業績は不十分なものであった。ロサンゼルス近辺をカバーしていたサザン・パシフィック鉄道は、パシフィック電鉄と連携輸送体制を深める代わりに、自社の近郊旅客輸送を廃止していて、ロサンゼルス郡内の郊外への通勤輸送はパシフィック電鉄の独占状態にあったのだが、路線の高規格化が進まなかった事からその役割を十分に果たしたとは言いがたかった。 高規格化が遅れたことには、ロサンゼルス都市圏での公共交通整備に関しての市民のコンセンサスが得られにくかった事が関係している。東部の都市では盛んに行われていた、補助金による新線建設は反対により行えず、高運賃に不満をもつ市民も多かった。沿線自治体の中にはパシフィック電鉄と袂を分かって独自にバス運行を行うところも現れた。自家用車が台頭する中、会社はバス路線の拡充を行い、利用客の繋ぎとめを図った(バス輸送を含む1930年の輸送客数は1億人を維持している)が、部分的な成功を収めるに過ぎなかった。 === 衰退 === 大恐慌はパシフィック電鉄の旅客輸送に大きな影響を与えた。鉄道による旅客輸送数は激減、会社は経営の効率化に迫られた。 [[ファイル:Los Angeles, California. Bulletin in Japanese, posted in window of store in "Little Tokyo" when res . . . - NARA - 536793.jpg|thumb|250px|right|[[日系人の強制収容]]を報じる1942年4月7日付[[羅府新報]]特報。中央付近に「PE(='''P'''acific '''E'''lectric)赤電車」の記述がある]] [[Image:SanPedro_to_SantaAnita.gif|thumb|250px|right|1942年4月5日、日系人の強制収容時のパシフィック電鉄]] 効率化の手段として会社が注目したのはバスであった。バス車体は徐々に大型化し、信頼性も高まっていた。人件費の面においても、連結運転の場合でも、運転手に加え、各車両に車掌を乗務させる必要があった電車と、[[ワンマン運転|ワンマン]]運行(なお、運転手が運賃収受を行う「ワンマン」と車掌乗務をあらわす「ツーマン」は和製英語であるという誤解があるが、パシフィック電鉄を含むアメリカの当時の報告書、統計資料等で普通に用いられていた)のバスは大差が無かった。こうしたことから、パサデナ、ロングビーチなどの市内路線、サンバナディーノ近辺のローカル路線を手始めに路線のバス化が進められていった。効率化計画には、ロサンゼルス市内の路線をニューヨーク地下鉄やシカゴ高架鉄道の路線の水準まで高め、基幹路線を高速鉄道として存続させるという計画も含まれていたのだが、何度も計画は立てられたのに実行されず、路線の廃止ばかりが進んでいった。 1930年代末から40年代にかけては、サンバナディーノ近辺の路線を中心とした大規模な路線の廃止が行われ、車両の大量廃車も進められた。1941年以降はサンペドロにある造船所の工員輸送などを中心とした戦時輸送に対応するために、オークランドのサザン・パシフィック鉄道の近郊電車線の車両を導入し、輸送力強化を図ったが、一時期増加した利用客も戦争終結と共に鉄道から離れていった。 ロサンゼルスのフリーウェイの全容が固まった1950年前後に、第二期の大規模な路線廃止が行われた。複々線区間を含むパサデナへの路線、サンタモニカ海岸への路線など、ロングビーチに向かう路線以外の主要な路線はこの時期に廃止された。 [[Image:BigRedCar.jpg|thumb|250px|right|メトロポリタン・コーチ・ラインズ時代のBig Red Car。前面形状から「owl([[フクロウ]])と呼ばれた(1955年・ロサンゼルス)]] この後、会社はバス化を前提として1953年、メトロポリタン・コーチ・ラインズに旅客列車運行権を売却する。メトロポリタン・コーチ・ラインズはハリウッドに向かう路線廃止を行ったが、フリーウェイ整備が進まなかった南部への路線は廃止しなかった。 パシフィック電鉄の残存する旅客サービスを完全に廃止させたのは、ロサンゼルス都市圏交通局である。交通局は1958年に結成、メトロポリタン・コーチラインズの他ロサンゼルスの路面電車とバスを運営するロサンゼルス・トランジット・ラインを買収した。パシフィック電鉄の残存路線については、モノレールを用いた高規格化を試み、累積赤字と高規格化の前段階であることを理由に最後まで残ったロングビーチ線を[[1961年]]に廃止した。しかし、交通局の計画したモノレールは、過去の高速鉄道計画と同様住民の反対に合い、結局実現しなかった。市内電車を運行し一部で[[三線軌条]]を利用することで路線を部分的に共用していた[[3フィート6インチ軌間]]の[[ロサンゼルス鉄道]]も[[1963年]]までにバス転換されたことでロサンゼルス市内の軌道系交通機関は皆無となり、路線ネットワークが再び整備され始めるのは[[1980年代]]に計画され[[1990年]]に開業した[[ロサンゼルス郡都市圏交通局|ロサンゼルス・メトロ]][[ロサンゼルス郡都市圏交通局ブルーライン|ブルーライン]]まで実に30年近い歳月を要することになる<ref>{{cite book | author = Jim Walker | title = Last of the Red Cars | publisher = INTERURBAN PRESS | date = 1991-09 | edition = 1 | page=P.41 | isbn = 1-56342-001-5 }}</ref>。 == 設備 == === 路線 === [[Image:Relief map Pacific Electric Railway.jpg|350px|thumb|パシフィック電鉄路線図(1920年)]] パシフィック電鉄の路線は、北部、南部、西部の3つに分けられた。それぞれの地域の主要路線は以下の通りである。 *北部地区(東部地区と通常呼ばれている地区も含む) :パサデナショートライン、サンバナディーノライン *南部地区 :ロングビーチライン、サンタアナライン、サンペドロライン、ホイッティアーライン、ニューポートビーチライン *西部地区 :サンタモニカライン、ベニスショートライン、サンタモニカエアライン === 車両 === [[画像:Pacific Electric Railway 1299.JPG|thumb|300px|1299号車「{{lang|en|'''Business Car'''}}」]] 車種は電車、電気機関車、ディーゼル機関車、貨車、電動貨車、事業用車等、極めて多岐に渡る。電車は[[PCCカー]]の[[パシフィック電鉄5000形電車|5000形]](5000クラス)を除き全て[[吊り掛け駆動方式|釣り掛け駆動]]であった。また、電車、電気機関車は最後まで全て[[トロリーポール]]集電であったほか、ディーゼル機関車も[[トロリーコンタクター]]を使用していた信号やポイントを動作させるためトロリーポールを装備していた。 電車は正式な形式とは別に現場通称ともいうべき略称を持っていた。これは形式の上2桁で呼ぶ場合と、主に運用された地区名称で呼ぶ場合、車両の特徴で呼ぶ場合とがあるが、主力をなした1200クラス等は増備時期によって "ロングビーチトゥエルヴ" などと地名を併せて呼称することもあった。 車両の更新、置き換えは頻繁に行われていた。初期の木造高床車には窓ガラスのない客室区画が存在していたが、そういった車両の多くは1920年代に鋼製低床車に置き換えられ廃車となり、残った車両には大改装が施されている。鋼製車に関してもワンマン運転への対応やサービス向上を目的としたバケットシート取り付けなどの近代化改装が施されている。営業期間の車両の総計は1000両を超えるが、大合併時に狭軌車両の名義のみの編入が行われており、さらにこういった車両の置き換えが行われていることから、一時点での運用車両数は最大でも300~500両程度で、1000両弱を運用していた'''[[ロサンゼルス鉄道|ロサンゼルス鉄道 (LARy)]]''' や、同時期の最大の路面電車運行都市で3500両の車両を運用していたあったシカゴの'''[[シカゴ・サーフェス・ライン]]'''などに比べるとその規模はそれほど大きいものではなかった(会社の自称した「世界最大」は軌道延長を指していったものであることに留意する必要があろう)。 以下、電車の代表的なものを列記する。括弧内は略称である。 *木造高床車 **200クラス **500クラス(ファイヴ) **800クラス(エイト) **950クラス(ヴェニスカー) **1001クラス(テン) <gallery widths="200"> File:Pacific_Electric_1001.jpg|1001クラス </gallery> *鋼製高床車 **1100クラス(イレヴン) **1200クラス(トゥエルヴ) **4500・4600クラス→300・400クラス(ブリンプ) *鋼製低床車 **600クラス→5050クラス([[パシフィック電鉄600形電車|ハリウッドカー]]) **[[パシフィック電鉄5000形電車|5000クラス]]([[PCCカー]]) これらはその総数に比して現存するものは少ない。これは路線廃止による大量廃車がなされた1950年前後、朝鮮戦争勃発などからスクラップ価格が高騰しており、二次利用されることなくスクラップとして一括売却されたことが挙げられる。 とりわけ、編入車を含め約70両が在籍し、1920~40年代のPEの主力を務めた鋼製車1200クラスは、[[プライベートカー|ビジネスカー]]こと1299号車等の例外を除きほぼ全滅してしまった。 現存するものは、殆どが末期まで残留したものや、木造車ばかりである。 == その他 == === 陰謀説とパシフィック電鉄 === {{main|アメリカ路面電車スキャンダル}} パシフィック電鉄にまつわる非常に有名な話としてスネルの[[陰謀]]説がある。 これは''「自動車の販売促進を狙う[[ゼネラルモーターズ]]や石油企業が、パシフィック電鉄を買収、バス化を行った」''という内容で、ブラッドフォード・スネルという人物が、アメリカ連邦議会に告発書を提出、公聴会で実際にこの件をめぐっての審議が行われた。また、同様の議論が研究者やジャーナリストによって何度か行われた。 ==== スネル報告書とその評価 ==== スネルの陰謀説は、日本においても「アメリカの路面電車は自動車会社が潰した」という形で広く伝わっている。しかし、この話をそのまま事実として受け止めることには問題がある。 まず、スネルの報告書(邦訳『クルマが鉄道を滅ぼした』)は誤りの多い本である。スネルはパシフィック電鉄の批判に当たって、"The Electric Interurban Railways in America" という本を参考にし、そこから「(GM支配下の)バス会社による電鉄会社の買収」の証拠を見出したとしているが、引用の過程においてシカゴ郊外の都市鉄道とワシントン州の地方鉄道を取り違えるなどの初歩的なミスが多く、彼がこの本から見出したと言うという事実はそういったミスの中から生まれた虚構に過ぎなかった。 また、文中に述べられたパシフィック電鉄の路線の一部がGM子会社のバス会社であるパシフィック・コーチ・ラインズに譲渡されたのは事実であったが、彼はその事実を正確に理解していなかった。パシフィック電鉄がこの会社に譲渡した路線は、ロサンゼルス北方の町グレンデールの市内路線の数kmで、もともと蒸気鉄道路線との連絡線として建設されたものを旅客営業に用いたものであったが、運行本数、利用客数ともに少ない盲腸路線に過ぎなかった。この路線の廃止時に、バス路線の運行効率化を図るために、バスを自社の直営とせずこの地域でバス事業を営んでいたパシフィック・コーチ・ラインズに譲渡したというのが真相であったのだが、スネルはこれを自動車会社を後ろ盾とした大規模な陰謀と誤解していたのである。 スネルの告発を検討する公聴会においては、"The Electric Interurban Railways in America" の著者である[[カリフォルニア大学ロサンゼルス校|UCLA]]のジョージ・ヒルトン教授が発言したが、ヒルトン教授は発言の中で、スネルの報告書を事実をあまりにも単純化しすぎていると批判した。 ==== GMのバス事業への進出と電鉄産業 ==== スネルの報告書が不正確なものであることはこのように証明されているのだが、彼の報告が不正確であったとしても、実際には別の形で陰謀が進められていた可能性はある。1935年にゼネラルモーターズがバス運行を行う子会社であるナショナル・シティ・ラインズを設立したのは事実(ただし、GMや関連石油会社はこの会社の大株主であっても、安定支配できるだけの持ち株を有していなかったという説もあり、ナショナルシティラインズへのGMの影響力がどれほどであったのかについては不明)であるし、この会社は全米の複数の都市の路面電車路線を買収し、バスに置き換えている。この会社は一時期ロサンゼルスの路面電車運行会社、ロサンゼルス・トランジット・ラインズの大株主でもあった。 ナショナル・シティ・ラインズが買収を行った路面電車路線は、人口数万から数十万人の小規模な都市のものが殆どで、1910年代の半ばには競争力を失っていたような路線であった。この時期に買収が行われたのは、1935年公益事業法で[[内部補助]]を伴う電力会社と路面電車会社の兼業が禁止され、電力会社による中小路面電車会社の支配体制が解体され、路面電車会社が新たな支配者を求めたからであった。ナショナル・シティ・ラインズの買収に関係なく、路面電車を廃止してバスに置き換える電鉄会社は多く、当時、「~エレクトリック・レイルウェイ」を名乗るバス専業の会社が無数に存在していたと言われている。 ナショナル・シティ・ラインズはフィラデルフィアやロサンゼルスの路面電車会社の株式を保有していたが、その支配力を用いて路面電車の廃止を行ったわけでもなかった。ロサンゼルスの路面電車はナショナル・シティ・ラインズによる支配中も存続を続け、残存路線はロサンゼルス都市圏交通局が全廃していた。フィラデルフィアの路面電車に至っては現在でも運行を続けている。無論、路線の削減は行われていたが、そのペースは他都市と変わらなかった。 利用者の自家用車への移行を促すため、ナショナル・シティ・ラインズの運行したバスのサービスの品質は故意に低く保たれたという言説も存在するが、その立証は難しい。パシフィック・コーチ・ラインズがパサデナ市内でパシフィック電鉄に代わってバス運行を行った際、ロサンゼルス - パサデナ間の電車の切符を持つ乗客への無料の乗り継ぎサービスはそのまま継続された。ナショナル・シティ・ラインズが支配したロサンゼルス・トランジット・ラインズでは、乗客誘致の為に、ショッピングセンター乗り入れ路線で、買い物客を対象にした運賃の割引を行っていた。こうしたサービスは、日本では先進的とされる事業者が近年実験的に取り入れるようになったサービスである。 ゼネラルモーターズはナショナル・シティ・ラインズの件で1950年代に独占禁止法で有罪判決を受けたが、それは、交通事業を営む子会社を設立することで、バス製造の独占を図ろうとしている件に関してであった。ゼネラルモーターズの公共交通への関与は全く否定できないものの、乗用車の販売を促進するためというよりは、自社で製造するバスの安定した販路を求めるために行ったものであると考えるのが妥当であり、この判決も、社会経済に大変動をもたらす陰謀に対するものというよりは、不公正な商取引を咎めたという類のものにすぎなかった。判決における少額の罰金をスネルは「名目ばかりの寛大な」と表現したが、判決によってゼネラルモーターズの公共交通運営は大幅に制限され、独占禁止法に対する判決としては決して寛大なものではなかった。実際、ナショナル・シティ・ラインズはこの時期を境に路線の展開を止めてしまっている。 また、ナショナル・シティ・ラインズは、[[公民権運動]]さなかのアラバマ州[[モンゴメリー (アラバマ州)|モンゴメリー]]のバスを運営していた事業者で、バス・ボイコットの一方の当事者でもあり([[ローザ・パークス]]の項を参照)、スネルが報告書を提出した1970年代までに、その企業イメージが相当低下していた事が予想される。スネルの報告が受け入れられた背景に、こういった要素があることも考える必要があるであろう。 ==== 関連事項 ==== *一連の議論は、その一部が日本にも伝えられた。スネルの報告書のみが翻訳されたため、『アメリカの自動車社会の成立には、自動車会社の都市鉄道撤去の戦略が大きく影響している』という誤解のもとになっている。 *[[都市伝説]]や[[陰謀論]]の1つの事例として取り上げられる事も多い。 *自動車会社の陰謀によりロサンゼルスの電気鉄道網が撤去されたと言う話題は、漫画『[[ゴルゴ13]]』や映画『[[ロジャー・ラビット]]』にも出てくる。 ===パシフィック電鉄と日本の私鉄=== パシフィック電鉄は、通勤輸送の比重が大きく、路線の建設に伴い、郊外の開発が進んだという点で、他のアメリカのインターアーバンとは一線を画す存在である。これはアメリカの市街電車にはよく見られた特徴であるが、専用軌道主体で比較的高速の輸送を行った会社は他にはなく、アメリカの他地域の電気鉄道よりは日本の電化私鉄のほうによく似ていた。 パシフィック電鉄と日本の私鉄が類似するようになったのは、電気鉄道技術の発展にあわせて人口増加が進んだ事、地域内の幹線鉄道であるサザン・パシフィック鉄道の子会社であった事から他路線との住み分けが行えた事などにあるが、日本の初期の電鉄技術者・経営者の一部は路線建設にあたってパシフィック電鉄の視察を行っており、直接の影響を受ける側面もあった。 [[阪急電鉄]]、[[東京急行電鉄]]等は、鉄道延伸と宅地開発を並行して行うPE・ハンティントンの手法を創業期から積極的に取り入れ、成功した事例といえる。しかし、本家であるところのPEの沿線開発によるベッドタウンは、当初の中産階級住民がフリーウェイ網の拡大と共に、郊外のより広大な住宅に移り、代わって沿線は有色人種を中心とした“クルマも持てない”所得の低い住民の住む街となっていった。さらに、PE(最終期にはLAMTAロサンゼルス市交通営団に買収)路線廃止数年後かつてのロングビーチ線沿線で[[ワッツ暴動]]が発生。この背景には、鉄道廃止により整備された公共交通を欠いた地域となったことへの市民の不満も一因であるとされる。この暴動と前後し、沿線のうちサンフェルナンド渓谷、サウス・セントラル周辺は全米有数の凶悪犯罪が多発する[[スラム]]化した地域となっていった(なお、ハリウッドやサンマリノといった全米有数の高級住宅地もPE沿線で、PEの建設に伴って開発された住宅地であり、沿線がすべてスラム化したというわけではない)。現在旧PE路線網をなぞるように整備が進む[[ロサンゼルス郡都市圏交通局]](通称ロサンゼルス・メトロ、略称LACMTA。LAMTAの後身)の[[ライトレール]]路線網は、公共交通整備によるスラムクリアランスの意味合いが強いといわれ、実際自家用車を保有する層がこうした公共交通へと転移することは殆ど無い。このことを考えると、デベロッパーとしてのPEの手法は、本家たるロサンゼルスでは定着することなく終わり、むしろその密集度から移動手段を完全に自家用車に依存することが不可能な、日本の首都圏や京阪神地域等で定着を見たといえなくもない。 一方、日本では現在においてもPEを源流とする部分を垣間見ることができる。たとえば[[京浜急行電鉄]]の様な<!--名鉄等の ←名鉄の場合は同社7000系「パノラマカー」での採用が嚆矢と思われます-->赤系統の電車車体色、[[名古屋鉄道]]や[[伊勢電気鉄道]]が採用した[[ローマン書体]]の車両番号や電気機関車車体色等に影響が及んでいるといわれるほか、[[関東バス]]の車体色はパシフィック電鉄のバス車体色をほぼそのまま模している。但し地色は関東バスの白に対しパシフィック電鉄のそれは銀であった(1950年代初頭には関東バスも地を銀塗装としていた)。またロゴも類似した形状である。企業イメージをリードする車体塗装からも、初期の電気鉄道・バス事業者にとってPEはある種の規範として、常に脳裏に刻み込まれていたことがうかがえる。 <gallery widths="200"> File:Keikyu1500_1643F.jpg|京急の電車の車体色はパシフィック電鉄を範として赤が基調 File:Nagoya-RW number592.jpg|名鉄のローマン書体の車番 File:KantoBus B5154.jpg|関東バスの車両。パシフィック電鉄のバス車体色をそのまま採用 </gallery> === 保存車と塗装復元車 === [[Image:Pacific Electric Replica 501 in San Pedro.jpg|thumb|250px|right|復元された501号車(サン・ペドロ)]] [[Image:Pacific Electric 1061 in SFO 12-28-04b.JPG|thumb|250px|right|[[サンフランシスコ市営鉄道]]Fラインの1061号車。パシフィック電鉄のPCCカーを再現したもので、パシフィック電鉄の塗装に似せて塗られている。]] サン・ペドロの海岸沿いには500クラス及び1001クラスが観光用に定期運行される "Waterfront Red Car Line" が存在する。500クラスは古い図面や後述の "Orange Empire Railway Museum" に保存されている(荒廃が著しい)車体を元に、船舶工場で木造車体を完全新造したレプリカであり、500・501の2両が在籍している。また、1001クラスは個人篤志家が950クラスの車体を購入し、1001クラスと同一スタイルに改造のうえ、1001クラス末尾1057の次番“1058”を名乗らせたものがその出自で、やはり完全なオリジナルではない。1001クラスは以前、特殊なゴムタイヤ台車とガソリンエンジンを装備してイベント時に道路上を走行する、いわば“バス”となっていたもので、Waterfront Red Car Line の開業に向けて線路を走る本来の電車に復元したものである。なお、復元前には映画『[[ロジャー・ラビット]]』に一瞬のみではあるが出演したこともある。 台車はいずれもオリジナルとは異なり、500クラスはACFテーラー、1001クラスは山陽電鉄より寄贈された日本製ボールドウィン系台車を使用しているほか、いずれの車輌ともトロリーバス用ポール、LAMTAレッドライン車両と共通品のコンプレッサー、本来鉱山機関車用の汎用モジュールスイッチを使用した主制御器を搭載するなど、単なる保存鉄道とは異なる、現代において安定して通常運行させるための工夫が随所に見られる。 この他、"Orange Empire Railway Museum" には、動態の300・400クラスをはじめ、1960年代以降も各地に残存したパシフィック電鉄の保存車が多数収容されている。その状態は車内外、足回りとも完全な状態のものから、もはや崩壊寸前の木造車体まで様々である。 旧PEロングビーチ線を事実上復活させた[[ロサンゼルス郡都市圏交通局|ロサンゼルス・メトロ]][[ロサンゼルス郡都市圏交通局ブルーライン|ブルーライン]]の[[ライトレール|LRV]]、及び[[サンフランシスコ市営鉄道]]のFラインを走るPCCカーには、パシフィック電鉄の塗装を模した車輌が存在する。ブルーラインのそれは、前面中央部に丸い前照灯を増設しているほか、車内も往年のPEの色にあわせた仕様となっている。サンフランシスコのそれは、[[フィラデルフィア]][[SEPTA]]の中古車をかつての米国各都市の塗装としたうちのひとつで、厳密には実際の色調と若干異なるといわれる。 == 登場作品 == *[[L.A.ノワール]] :[[2011年]]発売の[[コンピュータゲーム]]ソフト。[[1947年]]の[[ロサンゼルス]]が舞台であり、市中の街路をPCCカー([[パシフィック電鉄5000形電車|5000クラス]])が縦横に走っている。プレイヤーは利用することができない。作中ではトロリーコンタクター動作用のトロリーポールを備えた[[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン]]製のL型ディーゼル機関車も見ることができる。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[ロサンゼルス鉄道]] {{Commonscat|Pacific Electric Railway|パシフィック・エレクトリック}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はしふいつくてんてつ}} [[Category:かつて存在したアメリカ合衆国の鉄道事業者]] [[Category:カリフォルニア州の交通|廃はしふいつくてんてつ]] [[Category:カリフォルニア州の歴史]]
null
2023-04-17T09:58:01Z
false
false
false
[ "Template:Commonscat", "Template:Center", "Template:Lang", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:Infobox rail", "Template:出典の明記", "Template:Main", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B7%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E9%9B%BB%E9%89%84
3,010,436
陶璜
陶 璜(とう こう、? - 290年?)は、中国三国時代の呉から西晋にかけての武将。字は世英。揚州丹陽郡秣陵県の人。父は陶基。弟は陶濬・陶抗。子は陶融・陶威・陶淑。孫は陶綏。甥は陶湮・陶猷・陶回。『晋書』57巻に伝がある。 父と同じく呉に仕え、順調に出世した。 宝鼎3年(268年)11月、孫休の跡を継ぎ即位した孫晧は、大都督の修則や交州刺史の劉俊らを交州奪還に派兵したが、修則・劉俊が戦死し西晋の楊稷・毛炅らに撃退された。 建衡元年(269年)、呉は虞汜を監軍、薛珝を威南将軍・大都督、陶璜を蒼梧太守に任命した上で、再度交州奪還のため派兵した。陶璜らは荊州を経由し、建安郡を経由した監軍の李勗、督軍の徐存らと合浦で落ち合う予定だった。ところが翌建衡2年(270年)、李勗は道案内の馮斐の道程が通行に不利だとして馮斐を殺し、勝手に撤兵してしまった。このため李勗・徐存が家族ともども軍令違反で誅殺されてしまい、陶璜らは単独での戦闘を余儀なくされた。 虞汜・陶璜らの呉軍は、分水で楊稷らの西晋軍と戦ったが敗北し、合浦に退却した。薛珝は怒り、陶璜に対し「お前は自分から賊を討つと上表したのに、二人の将を失った。その責任はどこにあるのか」と追及した。陶璜が「私が思ったことが実行できず、また諸軍も互いに従わなかった。だから敗戦に至ったに過ぎない」と主張したので、薛珝はさらに怒りそのまま撤兵しようとした。しかし陶璜は数百の兵で西晋の九真太守であった董元の陣に夜襲を仕掛け、宝物を略奪して帰還してきた。このため戦果を見た薛珝は陶璜に謝り、前部督に任じて交州を治めさせた。 陶璜は正面からの戦いでは状況が悪いとみて、交阯郡の手前から海路で迂回し、直接九真郡を攻撃する作戦を立てた。董元が伏兵を仕掛け、偽装退却で呉軍を引きずり込もうとしたが、陶璜はあらかじめ長戟の兵を伏兵対策に控えて置いていたため、董元を破ることに成功した。さらに、事前に用意してあった絹数千匹を、扶厳の賊の頭目であった梁奇に与え、梁奇に一万余の軍勢で助けさせた。当時、董元配下の解系という者が勇将として知られていたが、弟の解象は呉に従っていた。そこで、陶璜は解象をこれ見よがしに傍へ侍らせ、董元の疑心暗鬼を煽り解系を殺害させた。陶璜は見事、九真郡の奪還に成功した。 同じ頃、滕脩が南岸の賊に苦戦していたので、陶璜は「南岸の連中は我々の塩と鉄を頼りにしている。(だから)断じて市場に出してはならない。そうすれば、(武器を)壊して農機具に充てざるを得なくなる。2年もしてから一戦すれば容易に滅ぼすことができるだろう」といった。滕脩は陶璜に従い、ついに賊を破った。その頃ちょうど虞汜が死去したため、陶璜は後任の交州刺史に任命された。 さらに建衡3年(271年)、陶璜率いる呉軍は楊稷・毛炅らの籠もる城を包囲した。既に霍弋は死去しており、西晋軍に援軍のあては無かった。霍弋は事前に楊稷・毛炅らと、百日以内に降伏したら一家をもろとも処刑することと、百日守った上での降伏なら自分が罪を引き受けることを誓約していた。果たして、百日も経たずに西晋軍の兵糧が尽きたため、彼らは降伏を願い出た。陶璜は霍弋と彼らの誓約を聞き及んでいたので、敢えて降伏を許さず、残りの日数分の兵糧を守備側に提供して籠城を続けさせた。配下の者たちが止めるよう諌めたが、陶璜は楊稷・毛炅らの家族を助命させることで、内外に呉の徳を宣伝しようとした。百日後、予定通り楊稷らは降伏した。 修則の子の修允は、父が毛炅に処刑されていたために仇討ちを望んだ。しかし陶璜は、毛炅の勇名を惜しみ助命するつもりであったので、これを許さなかった。ところが、毛炅には降伏するつもりは無く、陶璜を襲撃しようとしていたことが発覚した。陶璜が毛炅を捕らえ「晋の賊め」と責めると、毛炅は「呉の狗め。何が賊だ」と言い返した。腹を立てた者が生きたまま毛炅の腹を割くと、修允は臓を取り出して「これでもまだ賊が働けるというのか」といった。毛炅はなおも「吾の目的は汝らの孫晧を殺すことだ。汝の父など過去に死んだ狗ではないか」と罵ったが、とうとう処刑された。九真郡では功曹の李祚がなおも抵抗していたが、呉は季節を挟んだ長期戦の末これも攻め落とし、西晋から交州を奪還することに成功した。孫晧は陶璜を、使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧とした。さらに陶璜は、長年呉に従わなかった非漢民族も服属させ、武平・九徳・新昌の三郡、及び九真属国の三十余県を設置した。 天紀3年(279年)夏、郭馬が広州で叛乱を起こした。同年8月、滕脩が1万の兵士を率いて慌ただしく追討に赴いたが、始興で抵抗を受け先に進めなくなったため、徐陵督であった弟の陶濬が7000人を率いて、陶璜と協力して援軍に赴くことになった。 同年冬、西晋が大軍を動員して呉に侵攻して来た。陶濬が迎え撃つため建業に戻ったが、滕脩と陶璜は引き続き反乱鎮圧にあたった。しかし翌天紀4年(280年)、鎮圧できないまま、孫晧は西晋に降伏した。孫晧は自ら陶璜に手紙を書き、さらに陶璜の子の陶融を西晋への降伏のため派遣した。陶璜は命令を受け取ると数日間涙を流し、使者を派遣して印綬を洛陽(西晋の首都)に送った。西晋の司馬炎(武帝)は詔を下して元職に復職させた上で、陶璜を宛陵侯に封じ、さらに冠軍将軍に任命した。 西晋は天下を統一したので、常備軍の大幅な削減に着手した。しかし陶璜は、林邑を始めとする非漢民族の脅威や、また西晋の支配に従わない不服従民の多さなどを挙げ反対した。また、特産品の真珠が徴発されていたが、土地がやせ貧しい広州の住民には貴重な収入源となっていることを指摘し、徴発量を減らすよう上表した。司馬炎は全て聞き入れたという。 陶璜の交州統治は30年におよび、威厳と恩恵を周囲に示した。太熙元年(290年)に陶璜が亡くなると、州を挙げて慟哭の声が起こり、まるで慈悲深い親を亡くした喪中の子供のようであったという。西晋は後任に吾彦を任命した。後、子の陶威・陶淑、孫の陶綏(陶淑の子)も交州刺史となり、陶基から4代で5人の交州刺史、あるいは牧を輩出した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "陶 璜(とう こう、? - 290年?)は、中国三国時代の呉から西晋にかけての武将。字は世英。揚州丹陽郡秣陵県の人。父は陶基。弟は陶濬・陶抗。子は陶融・陶威・陶淑。孫は陶綏。甥は陶湮・陶猷・陶回。『晋書』57巻に伝がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "父と同じく呉に仕え、順調に出世した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "宝鼎3年(268年)11月、孫休の跡を継ぎ即位した孫晧は、大都督の修則や交州刺史の劉俊らを交州奪還に派兵したが、修則・劉俊が戦死し西晋の楊稷・毛炅らに撃退された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "建衡元年(269年)、呉は虞汜を監軍、薛珝を威南将軍・大都督、陶璜を蒼梧太守に任命した上で、再度交州奪還のため派兵した。陶璜らは荊州を経由し、建安郡を経由した監軍の李勗、督軍の徐存らと合浦で落ち合う予定だった。ところが翌建衡2年(270年)、李勗は道案内の馮斐の道程が通行に不利だとして馮斐を殺し、勝手に撤兵してしまった。このため李勗・徐存が家族ともども軍令違反で誅殺されてしまい、陶璜らは単独での戦闘を余儀なくされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "虞汜・陶璜らの呉軍は、分水で楊稷らの西晋軍と戦ったが敗北し、合浦に退却した。薛珝は怒り、陶璜に対し「お前は自分から賊を討つと上表したのに、二人の将を失った。その責任はどこにあるのか」と追及した。陶璜が「私が思ったことが実行できず、また諸軍も互いに従わなかった。だから敗戦に至ったに過ぎない」と主張したので、薛珝はさらに怒りそのまま撤兵しようとした。しかし陶璜は数百の兵で西晋の九真太守であった董元の陣に夜襲を仕掛け、宝物を略奪して帰還してきた。このため戦果を見た薛珝は陶璜に謝り、前部督に任じて交州を治めさせた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "陶璜は正面からの戦いでは状況が悪いとみて、交阯郡の手前から海路で迂回し、直接九真郡を攻撃する作戦を立てた。董元が伏兵を仕掛け、偽装退却で呉軍を引きずり込もうとしたが、陶璜はあらかじめ長戟の兵を伏兵対策に控えて置いていたため、董元を破ることに成功した。さらに、事前に用意してあった絹数千匹を、扶厳の賊の頭目であった梁奇に与え、梁奇に一万余の軍勢で助けさせた。当時、董元配下の解系という者が勇将として知られていたが、弟の解象は呉に従っていた。そこで、陶璜は解象をこれ見よがしに傍へ侍らせ、董元の疑心暗鬼を煽り解系を殺害させた。陶璜は見事、九真郡の奪還に成功した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "同じ頃、滕脩が南岸の賊に苦戦していたので、陶璜は「南岸の連中は我々の塩と鉄を頼りにしている。(だから)断じて市場に出してはならない。そうすれば、(武器を)壊して農機具に充てざるを得なくなる。2年もしてから一戦すれば容易に滅ぼすことができるだろう」といった。滕脩は陶璜に従い、ついに賊を破った。その頃ちょうど虞汜が死去したため、陶璜は後任の交州刺史に任命された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "さらに建衡3年(271年)、陶璜率いる呉軍は楊稷・毛炅らの籠もる城を包囲した。既に霍弋は死去しており、西晋軍に援軍のあては無かった。霍弋は事前に楊稷・毛炅らと、百日以内に降伏したら一家をもろとも処刑することと、百日守った上での降伏なら自分が罪を引き受けることを誓約していた。果たして、百日も経たずに西晋軍の兵糧が尽きたため、彼らは降伏を願い出た。陶璜は霍弋と彼らの誓約を聞き及んでいたので、敢えて降伏を許さず、残りの日数分の兵糧を守備側に提供して籠城を続けさせた。配下の者たちが止めるよう諌めたが、陶璜は楊稷・毛炅らの家族を助命させることで、内外に呉の徳を宣伝しようとした。百日後、予定通り楊稷らは降伏した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "修則の子の修允は、父が毛炅に処刑されていたために仇討ちを望んだ。しかし陶璜は、毛炅の勇名を惜しみ助命するつもりであったので、これを許さなかった。ところが、毛炅には降伏するつもりは無く、陶璜を襲撃しようとしていたことが発覚した。陶璜が毛炅を捕らえ「晋の賊め」と責めると、毛炅は「呉の狗め。何が賊だ」と言い返した。腹を立てた者が生きたまま毛炅の腹を割くと、修允は臓を取り出して「これでもまだ賊が働けるというのか」といった。毛炅はなおも「吾の目的は汝らの孫晧を殺すことだ。汝の父など過去に死んだ狗ではないか」と罵ったが、とうとう処刑された。九真郡では功曹の李祚がなおも抵抗していたが、呉は季節を挟んだ長期戦の末これも攻め落とし、西晋から交州を奪還することに成功した。孫晧は陶璜を、使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧とした。さらに陶璜は、長年呉に従わなかった非漢民族も服属させ、武平・九徳・新昌の三郡、及び九真属国の三十余県を設置した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "天紀3年(279年)夏、郭馬が広州で叛乱を起こした。同年8月、滕脩が1万の兵士を率いて慌ただしく追討に赴いたが、始興で抵抗を受け先に進めなくなったため、徐陵督であった弟の陶濬が7000人を率いて、陶璜と協力して援軍に赴くことになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "同年冬、西晋が大軍を動員して呉に侵攻して来た。陶濬が迎え撃つため建業に戻ったが、滕脩と陶璜は引き続き反乱鎮圧にあたった。しかし翌天紀4年(280年)、鎮圧できないまま、孫晧は西晋に降伏した。孫晧は自ら陶璜に手紙を書き、さらに陶璜の子の陶融を西晋への降伏のため派遣した。陶璜は命令を受け取ると数日間涙を流し、使者を派遣して印綬を洛陽(西晋の首都)に送った。西晋の司馬炎(武帝)は詔を下して元職に復職させた上で、陶璜を宛陵侯に封じ、さらに冠軍将軍に任命した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "西晋は天下を統一したので、常備軍の大幅な削減に着手した。しかし陶璜は、林邑を始めとする非漢民族の脅威や、また西晋の支配に従わない不服従民の多さなどを挙げ反対した。また、特産品の真珠が徴発されていたが、土地がやせ貧しい広州の住民には貴重な収入源となっていることを指摘し、徴発量を減らすよう上表した。司馬炎は全て聞き入れたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "陶璜の交州統治は30年におよび、威厳と恩恵を周囲に示した。太熙元年(290年)に陶璜が亡くなると、州を挙げて慟哭の声が起こり、まるで慈悲深い親を亡くした喪中の子供のようであったという。西晋は後任に吾彦を任命した。後、子の陶威・陶淑、孫の陶綏(陶淑の子)も交州刺史となり、陶基から4代で5人の交州刺史、あるいは牧を輩出した。", "title": "生涯" } ]
陶 璜は、中国三国時代の呉から西晋にかけての武将。字は世英。揚州丹陽郡秣陵県の人。父は陶基。弟は陶濬・陶抗。子は陶融・陶威・陶淑。孫は陶綏。甥は陶湮・陶猷・陶回。『晋書』57巻に伝がある。
'''陶 璜'''(とう こう、? - [[290年]]?<ref group="注釈"> [[呉廷燮]]『[[晋方鎮年表]]』によるものだが、陶璜は[[270年]]前後に[[虞汜]]の後を継いで交州刺史となり、30年前後も長きに亘って交州を統治したとあるので、没年もしくは統治期間のいずれかが誤っていると思われる。</ref>)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]から[[西晋]]にかけての武将。[[字]]は'''世英'''。[[揚州 (古代)|揚州]][[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽郡]]秣陵県の人。父は[[陶基]]。弟は[[陶濬]]・[[陶抗]]。子は[[陶融]]・[[陶威]]・[[陶淑]]。孫は[[陶綏]]。甥は[[陶湮]]・[[陶猷]]・[[陶回]]。『[[晋書]]』57巻に伝がある。 == 生涯 == {{出典の明記| section = 1| date = 2023-11}} 父と同じく呉に仕え、順調に出世した。 [[宝鼎]]3年([[268年]])11月、[[孫休]]の跡を継ぎ即位した[[孫晧]]は、[[都督|大都督]]の[[修則]]や[[交州]][[刺史]]の[[劉俊]]らを交州奪還に派兵したが、修則・劉俊が戦死し西晋の[[楊稷]]・[[毛炅]]らに撃退された。 [[建衡]]元年([[269年]])、呉は[[虞汜]]を監軍、[[薛珝]]を威南将軍・大都督、陶璜を[[蒼梧郡|蒼梧]][[太守]]に任命した上で、再度交州奪還のため派兵した。陶璜らは[[荊州]]を経由し、[[建安郡]]を経由した監軍の[[李勗]]、督軍の[[徐存]]らと[[合浦郡|合浦]]で落ち合う予定だった。ところが翌建衡2年([[270年]])、李勗は道案内の[[馮斐]]の道程が通行に不利だとして馮斐を殺し、勝手に撤兵してしまった。このため李勗・徐存が家族ともども軍令違反で誅殺されてしまい、陶璜らは単独での戦闘を余儀なくされた。 虞汜・陶璜らの呉軍は、分水で楊稷らの西晋軍と戦ったが敗北し、合浦に退却した。薛珝は怒り、陶璜に対し「お前は自分から賊を討つと上表したのに、二人の将を失った。その責任はどこにあるのか」と追及した。陶璜が「私が思ったことが実行できず、また諸軍も互いに従わなかった。だから敗戦に至ったに過ぎない」と主張したので、薛珝はさらに怒りそのまま撤兵しようとした。しかし陶璜は数百の兵で西晋の[[九真郡|九真]]太守であった[[董元]]の陣に夜襲を仕掛け、宝物を略奪して帰還してきた。このため戦果を見た薛珝は陶璜に謝り、前部督に任じて交州を治めさせた。 陶璜は正面からの戦いでは状況が悪いとみて、[[交阯郡]]の手前から海路で迂回し、直接九真郡を攻撃する作戦を立てた。董元が[[伏兵]]を仕掛け、[[偽装退却]]で呉軍を引きずり込もうとしたが、陶璜はあらかじめ長戟の兵を伏兵対策に控えて置いていたため、董元を破ることに成功した。さらに、事前に用意してあった絹数千匹を、扶厳の賊の頭目であった梁奇に与え、梁奇に一万余の軍勢で助けさせた。当時、董元配下の[[解系 (交州)|解系]]<ref group="注釈"> [[司馬倫]]に殺された[[解系]](同姓同名人物)とは別人。</ref>という者が勇将として知られていたが、弟の解象は呉に従っていた。そこで、陶璜は解象をこれ見よがしに傍へ侍らせ、董元の疑心暗鬼を煽り解系を殺害させた。陶璜は見事、九真郡の奪還に成功した。 同じ頃、[[滕脩]]が南岸の賊に苦戦していたので、陶璜は「南岸の連中は我々の塩と鉄を頼りにしている。(だから)断じて市場に出してはならない。そうすれば、(武器を)壊して農機具に充てざるを得なくなる。2年もしてから一戦すれば容易に滅ぼすことができるだろう」といった。滕脩は陶璜に従い、ついに賊を破った。その頃ちょうど虞汜が死去したため、陶璜は後任の交州刺史に任命された。 さらに建衡3年([[271年]])、陶璜率いる呉軍は楊稷・毛炅らの籠もる城を包囲した。既に[[霍弋]]は死去しており、西晋軍に援軍のあては無かった。霍弋は事前に楊稷・毛炅らと、百日以内に降伏したら一家をもろとも処刑することと、百日守った上での降伏なら自分が罪を引き受けることを誓約していた。果たして、百日も経たずに西晋軍の兵糧が尽きたため、彼らは降伏を願い出た。陶璜は霍弋と彼らの誓約を聞き及んでいたので、敢えて降伏を許さず、残りの日数分の兵糧を守備側に提供して籠城を続けさせた。配下の者たちが止めるよう諌めたが、陶璜は楊稷・毛炅らの家族を助命させることで、内外に呉の徳を宣伝しようとした。百日後、予定通り楊稷らは降伏した<ref>『[[華陽国志]]』によると、落城は[[王約]]の寝返りによるものだという。</ref>。 修則の子の[[修允]]は、父が毛炅に処刑されていたために仇討ちを望んだ。しかし陶璜は、毛炅の勇名を惜しみ助命するつもりであったので、これを許さなかった。ところが、毛炅には降伏するつもりは無く、陶璜を襲撃しようとしていたことが発覚した。陶璜が毛炅を捕らえ「晋の賊め」と責めると、毛炅は「呉の[[イヌ|狗]]め。何が賊だ」と言い返した。腹を立てた者が生きたまま毛炅の腹を割くと、修允は臓を取り出して「これでもまだ賊が働けるというのか」といった。毛炅はなおも「吾の目的は汝らの孫晧を殺すことだ。汝の父など過去に死んだ狗ではないか」と罵ったが、とうとう処刑された。九真郡では功曹の李祚がなおも抵抗していたが、呉は季節を挟んだ長期戦の末これも攻め落とし、西晋から交州を奪還することに成功した。孫晧は陶璜を、使持節・都督交州諸軍事・[[前将軍]]・交州牧とした。さらに陶璜は、長年呉に従わなかった非漢民族も服属させ、武平・九徳・新昌の三郡、及び九真属国の三十余県を設置した。 [[天紀]]3年([[279年]])夏、[[郭馬]]が[[広州 (広東省)|広州]]で叛乱を起こした。同年8月、滕脩が1万の兵士を率いて慌ただしく追討に赴いたが、[[始興県|始興]]で抵抗を受け先に進めなくなったため、徐陵督であった弟の陶濬が7000人を率いて、陶璜と協力して援軍に赴くことになった。 同年冬、西晋が大軍を動員して[[呉の滅亡 (三国)|呉に侵攻]]して来た。陶濬が迎え撃つため[[建業]]に戻ったが、滕脩と陶璜は引き続き反乱鎮圧にあたった。しかし翌天紀4年([[280年]])、鎮圧できないまま、孫晧は西晋に降伏した。孫晧は自ら陶璜に手紙を書き、さらに陶璜の子の陶融を西晋への降伏のため派遣した。陶璜は命令を受け取ると数日間涙を流し、使者を派遣して[[印綬]]を[[洛陽]](西晋の首都)に送った。西晋の[[司馬炎]](武帝)は詔を下して元職に復職させた上で、陶璜を宛陵侯に封じ、さらに冠軍将軍に任命した。 西晋は天下を統一したので、常備軍の大幅な削減に着手した。しかし陶璜は、[[チャンパ王国|林邑]]を始めとする非漢民族の脅威や、また西晋の支配に従わない不服従民の多さなどを挙げ反対した。また、特産品の[[真珠]]が徴発されていたが、土地がやせ貧しい広州の住民には貴重な収入源となっていることを指摘し、徴発量を減らすよう上表した。司馬炎は全て聞き入れたという。 陶璜の交州統治は30年におよび、威厳と恩恵を周囲に示した。[[太熙]]元年(290年)に陶璜が亡くなると、州を挙げて慟哭の声が起こり、まるで慈悲深い親を亡くした喪中の子供のようであったという。西晋は後任に[[吾彦]]を任命した。後、子の陶威・陶淑、孫の陶綏(陶淑の子)も交州刺史となり、陶基から4代で5人の交州刺史、あるいは牧を輩出した。 == 家系図 == {{familytree/start|style=font-size:80%;}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree |~| JI |v|HUANG|v|RONG | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |JI=[[陶基]]|HUANG='''陶璜'''|RONG=[[陶融]]}} {{familytree | | | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree | | | | |!| | | |)| WEI | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |WEI=[[陶威]]}} {{familytree | | | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree | | | | |!| | | |`| SHU |-| SUI | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |SHU=[[陶淑]]|SUI=[[陶綏]]}} {{familytree | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree | | | | |)| JUN |v|YIN1 |-| FU | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |JUN=[[陶濬]]|YIN1=[[陶湮]]|FU=[[陶馥]]}} {{familytree | | | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree | | | | |!| | | |`| YOU | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |YOU=[[陶猷]]}} {{familytree | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree | | | | |`|KANG |-| HUI |v|WANG | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |KANG=[[陶抗]]|HUI=[[陶回]]|WANG=[[陶汪]]}} {{familytree | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree | | | | | | | | | | | | |)| LOU | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |LOU=[[陶陋]]}} {{familytree | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree | | | | | | | | | | | | |)|YIN2 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |YIN2=[[陶隠]]}} {{familytree | | | | | | | | | | | | |!| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree | | | | | | | | | | | | |`|WUJI | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |WUJI=[[陶無忌]]}} {{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | }} {{familytree/end}} == 参考文献 == {{脚注の不足|section=1|date=2023-11}} * 『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』『呉書』巻3「孫晧伝」、同伝注『[[漢晋春秋]]』、『[[華陽国志]]』 * 『[[晋書]]』巻57「陶璜伝」 * 『[[補歴代史表]]』巻16「晋方鎮年表」 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈" /> === 出典 === <references /> {{DEFAULTSORT:とう こう}} [[Category:呉の人物]] [[Category:西晋の人物]] [[Category:290年没]]
2014-06-19T18:58:47Z
2023-11-12T05:51:20Z
false
false
false
[ "Template:Familytree/start", "Template:Familytree", "Template:Familytree/end", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E7%92%9C
494,631
勅令
勅令(ちょくれい)とは、天皇・皇帝・国王などの君主が直接発する命令・法令のこと。日本においては、法令の一形式で、天皇が発した法的効力のある命令を指す。対して勅許(ちょっきょ)とは、天皇の許可を指し、勅令による免許を意味する。 本項目では緊急勅令やいわゆる「ポツダム勅令」についての記述を含む。 1885年(明治18年)内閣制が発足。 1886年(明治19年)2月26日 公文式が勅令第1号として制定され、勅令という法形式が定められた。 1947年(昭和22年)5月2日、外国人登録令(昭和22年勅令第207号)が最後の勅令として制定された(この翌日に日本国憲法が施行された)。 大日本帝国憲法第9条に定められていた法形式であり、法律を執行するため又は公共の安寧秩序を保持し、及び国民の幸福を増進するために天皇が制定していた。憲法上、法律事項とされていない事項を対象とする場合は勅令による制定が可能であった。法律事項以外でも、軍に関することは軍令で、皇室に関することは皇室令で定めていたので、これらを除いたものが勅令事項とされていた。 日本国憲法施行後は、法律事項となったものを規定するものを除き、昭和22年政令第14号(日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令)第1項の規定により、政令と同一の効力を有するものとされており、位階令など一部には現在でも効力を有しているものがある。現在、勅令(法律の効力を持ついわゆる「ポツダム勅令」を除く。)は、前述のように政令としての効力があるため、その廃止や改正は政令により行われている。 勅令の公布手続は1886年制定の公文式及び1907年制定の公式令によって定められていた。公式令によれば、法律と同様に上諭を付けて公布され、天皇の御名 御璽の後に内閣総理大臣、場合によっては内閣総理大臣及び当該勅令条項を主管する国務大臣、あるいは内閣総理大臣以下全ての国務大臣による副署を加えて公布された。 「緊急勅令」とは、大日本帝国憲法第8条に基づき緊急時の法律に代わるものとして天皇が発布した命令である。緊急命令の一種ではあり、明治憲法下では勅令の形で行われた。緊急の際、法律事項について天皇が議会にかけずに発することができた。法形式として命令に属してはいたものの、法律と同等の効力が認められた。帝国議会の閉会中、公共の安全を保持し、またはその災厄を避けるため緊急の必要があるときに発する立法的緊急勅令(第8条)のほか、内外の状況によって帝国議会を召集できないときに財政上必要な処分をおこなうために発することを可とした、第70条規定の財政的緊急勅令があった。 以下の一覧で示されるものの大半は廃止されるか失効している。現に効力を有する又は有すると判断されているものについてはその旨特記する。 大日本帝国憲法下においては、予算不成立の場合、前年度予算を施行する(第71条)となっていたが、これを行う場合、勅令でその旨を公布した。 府県制(明治23年5月17日法律第35号)第89条第1項で府県会の解散は、勅令によるとされたため、勅令が制定された。 道府県制(明治32年3月16日法律第64号)では、道府県会の解散は「内務大臣ガ勅裁ヲ経テ命ズル」(第131条第1項)と改正されたため、以後は解散の勅令はなくなった。 戒厳の布告及び解除は勅令で行われた。 国葬令(大正15年10月21日勅令第324号)の制定後は、国家に偉勲ある者は特旨により国葬を行うことができるとされ、この特旨は、詔書により行われた。この国葬令制定前においては、個々の国葬の都度、個別の勅令より行われた。 貴族院の構成については勅令である貴族院令で定められたが、この改正には貴族院の議決を要する(貴族院令第13条)。 衆議院の構成は法律(即ち、衆議院のみならず貴族院の議決も必要)であるのに対し、貴族院については衆議院の介入をさせないようになっていた。 公文式には、条約についての規定がなく、条約の公布は勅令で行われていた。この場合は、無番号とされていた。公式令で条約についての規定が設けられた。 帝国政府ト白耳義国政府トノ間ニ締結セル裁判管轄権ニ関スル議定書(明治32年7月1日勅令) 病院船ニ関スル条約(明治40年5月24日条約第1号) 明治33年4月25日に公布された皇室婚嫁令、明治35年5月29日に公布された皇室誕生令は、官報、法令全書ともに法令番号のみならず「勅令」との表示もない。 しかし、官報目録では、勅令に分類しており、日本法令索引でも勅令に分類している。公式令以後なら皇室令となるべきものであった。 関東州及び南洋群島は、大日本帝国の統治下にあったが、租借地ないし委任統治領であるため大日本帝国憲法が適用されず、これらの統治は専ら大権の行使として勅令で行われた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "勅令(ちょくれい)とは、天皇・皇帝・国王などの君主が直接発する命令・法令のこと。日本においては、法令の一形式で、天皇が発した法的効力のある命令を指す。対して勅許(ちょっきょ)とは、天皇の許可を指し、勅令による免許を意味する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項目では緊急勅令やいわゆる「ポツダム勅令」についての記述を含む。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1885年(明治18年)内閣制が発足。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1886年(明治19年)2月26日 公文式が勅令第1号として制定され、勅令という法形式が定められた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)5月2日、外国人登録令(昭和22年勅令第207号)が最後の勅令として制定された(この翌日に日本国憲法が施行された)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大日本帝国憲法第9条に定められていた法形式であり、法律を執行するため又は公共の安寧秩序を保持し、及び国民の幸福を増進するために天皇が制定していた。憲法上、法律事項とされていない事項を対象とする場合は勅令による制定が可能であった。法律事項以外でも、軍に関することは軍令で、皇室に関することは皇室令で定めていたので、これらを除いたものが勅令事項とされていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日本国憲法施行後は、法律事項となったものを規定するものを除き、昭和22年政令第14号(日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令)第1項の規定により、政令と同一の効力を有するものとされており、位階令など一部には現在でも効力を有しているものがある。現在、勅令(法律の効力を持ついわゆる「ポツダム勅令」を除く。)は、前述のように政令としての効力があるため、その廃止や改正は政令により行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "勅令の公布手続は1886年制定の公文式及び1907年制定の公式令によって定められていた。公式令によれば、法律と同様に上諭を付けて公布され、天皇の御名 御璽の後に内閣総理大臣、場合によっては内閣総理大臣及び当該勅令条項を主管する国務大臣、あるいは内閣総理大臣以下全ての国務大臣による副署を加えて公布された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「緊急勅令」とは、大日本帝国憲法第8条に基づき緊急時の法律に代わるものとして天皇が発布した命令である。緊急命令の一種ではあり、明治憲法下では勅令の形で行われた。緊急の際、法律事項について天皇が議会にかけずに発することができた。法形式として命令に属してはいたものの、法律と同等の効力が認められた。帝国議会の閉会中、公共の安全を保持し、またはその災厄を避けるため緊急の必要があるときに発する立法的緊急勅令(第8条)のほか、内外の状況によって帝国議会を召集できないときに財政上必要な処分をおこなうために発することを可とした、第70条規定の財政的緊急勅令があった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "以下の一覧で示されるものの大半は廃止されるか失効している。現に効力を有する又は有すると判断されているものについてはその旨特記する。", "title": "主要な勅令" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "大日本帝国憲法下においては、予算不成立の場合、前年度予算を施行する(第71条)となっていたが、これを行う場合、勅令でその旨を公布した。", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "府県制(明治23年5月17日法律第35号)第89条第1項で府県会の解散は、勅令によるとされたため、勅令が制定された。", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "道府県制(明治32年3月16日法律第64号)では、道府県会の解散は「内務大臣ガ勅裁ヲ経テ命ズル」(第131条第1項)と改正されたため、以後は解散の勅令はなくなった。", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "戒厳の布告及び解除は勅令で行われた。", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "国葬令(大正15年10月21日勅令第324号)の制定後は、国家に偉勲ある者は特旨により国葬を行うことができるとされ、この特旨は、詔書により行われた。この国葬令制定前においては、個々の国葬の都度、個別の勅令より行われた。", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "貴族院の構成については勅令である貴族院令で定められたが、この改正には貴族院の議決を要する(貴族院令第13条)。", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "衆議院の構成は法律(即ち、衆議院のみならず貴族院の議決も必要)であるのに対し、貴族院については衆議院の介入をさせないようになっていた。", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "公文式には、条約についての規定がなく、条約の公布は勅令で行われていた。この場合は、無番号とされていた。公式令で条約についての規定が設けられた。", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "帝国政府ト白耳義国政府トノ間ニ締結セル裁判管轄権ニ関スル議定書(明治32年7月1日勅令)", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "病院船ニ関スル条約(明治40年5月24日条約第1号)", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "明治33年4月25日に公布された皇室婚嫁令、明治35年5月29日に公布された皇室誕生令は、官報、法令全書ともに法令番号のみならず「勅令」との表示もない。", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、官報目録では、勅令に分類しており、日本法令索引でも勅令に分類している。公式令以後なら皇室令となるべきものであった。", "title": "特別な勅令" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "関東州及び南洋群島は、大日本帝国の統治下にあったが、租借地ないし委任統治領であるため大日本帝国憲法が適用されず、これらの統治は専ら大権の行使として勅令で行われた。", "title": "特別な勅令" } ]
勅令(ちょくれい)とは、天皇・皇帝・国王などの君主が直接発する命令・法令のこと。日本においては、法令の一形式で、天皇が発した法的効力のある命令を指す。対して勅許(ちょっきょ)とは、天皇の許可を指し、勅令による免許を意味する。 本項目では緊急勅令やいわゆる「ポツダム勅令」についての記述を含む。
{{混同|勅旨|勅許}} {{Wikisourcecat|日本の勅令}} '''勅令'''(ちょくれい)とは、[[天皇]]・[[皇帝]]・[[国王]]などの[[君主]]が直接発する命令・[[法令]]のこと。[[日本]]においては、[[法令]]の一形式で、天皇が発した法的効力のある[[命令 (法規)|命令]]を指す。対して'''[[勅許]]'''(ちょっきょ)とは、天皇の許可を指し、勅令による免許を意味する。 本項目では[[緊急勅令]]やいわゆる「[[ポツダム命令|ポツダム勅令]]」についての記述を含む。 ==沿革== [[1885年]]([[明治]]18年)[[内閣]]制が発足。 [[1886年]](明治19年)[[2月26日]] [[公文式 (勅令)|公文式]]が勅令第1号として制定され、勅令という法形式が定められた。 [[1947年]]([[昭和]]22年)[[5月2日]]、[[外国人登録令]](昭和22年勅令第207号)が最後の勅令として制定された(この翌日に[[日本国憲法]]が施行された)。 ==概要== ===大日本帝国憲法=== [[大日本帝国憲法]][[大日本帝国憲法第9条|第9条]]に定められていた法形式であり、法律を執行するため又は公共の安寧秩序を保持し、及び国民の幸福を増進するために[[天皇]]が制定していた。憲法上、法律事項とされていない事項を対象とする場合は勅令による制定が可能であった。法律事項以外でも、[[軍]]に関することは[[軍令]]で、[[皇室]]に関することは[[皇室令]]で定めていたので、これらを除いたものが勅令事項とされていた。 ===日本国憲法=== {{main2|「[[ポツダム勅令]]」については、[[ポツダム命令]]の項を}} [[日本国憲法]]施行後は、法律事項となったものを規定するものを除き、昭和22年政令第14号(日本国憲法施行の際現に効力を有する勅令の規定の効力等に関する政令)第1項の規定により、[[政令]]と同一の効力を有するものとされており、[[位階令]]など一部には現在でも効力を有しているものがある。現在、勅令([[法律]]の効力を持ついわゆる「[[ポツダム命令|ポツダム勅令]]」を除く。)は、前述のように政令としての効力があるため、その廃止や改正は政令により行われている。 ===勅令の公布手続=== 勅令の公布手続は[[1886年]]制定の[[公文式 (勅令)|公文式]]及び[[1907年]]制定の[[公式令]]によって定められていた。公式令によれば、法律と同様に[[上諭]]を付けて公布され、天皇の[[御名御璽|御名 御璽]]の後に[[内閣総理大臣]]、場合によっては内閣総理大臣及び当該勅令条項を主管する[[国務大臣]]、あるいは[[内閣総理大臣]]以下全ての[[国務大臣]]による[[連署・副署|副署]]を加えて公布された。 ===緊急勅令=== {{main|[[緊急勅令]]}} 「緊急勅令」とは、[[大日本帝国憲法第8条]]に基づき緊急時の法律に代わるものとして天皇が発布した命令である。緊急命令の一種ではあり、明治憲法下では勅令の形で行われた。緊急の際、法律事項について天皇が議会にかけずに発することができた<ref name=en1988>『世界大百科事典』第2版(1988)</ref>。法形式として命令に属してはいたものの、法律と同等の効力が認められた<ref name=en1988/>。[[帝国議会]]の閉会中、公共の安全を保持し、またはその災厄を避けるため緊急の必要があるときに発する立法的緊急勅令(第8条)のほか、内外の状況によって帝国議会を召集できないときに財政上必要な処分をおこなうために発することを可とした、第70条規定の財政的緊急勅令があった<ref name=en1988/>。 <!--なにか誤解されているようですが、大正8年勅令304号は、[[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954178?tocOpened=1 大正8年6月23日付官報号外]]で公布されています。そして帝国議会へ承諾のため提出されましたが、衆議院で審議未了となり、失効しました。大正9年3月25日勅令第47号は、この失効を公布したものです。 ==== 勅令の効力の停止==== 1919年6月21日から23日の間に発布されたはずである[[大正8年勅令304号]]は官報に掲載されずにあったが、1920年、[[大日本帝国憲法第8条]]に基づく勅令によって効力を停止した。廃止された勅令の内容は、日本政府が[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[ハンガリー]]及び[[トルコ]]の個人や法人の財産を管理できるとするものであった([[第一次世界大戦]]絡み){{sfn|大正天皇|1920}}。 {{quote|第二条 政府は前条の財産の所有者、保管者其の他関係者に対し其の財産の所在、種類、数量、価額、権利状態其の他管理に必要なる事項の申告を命ずることを得|大正八年勅令三百四号(大正九年勅令四十七号により廃止)}}--> ==主要な勅令== 以下の一覧で示されるものの大半は廃止されるか失効している。現に効力を有する又は有すると判断されているものについてはその旨特記する。 ;明治時代 {{main|明治時代の日本の勅令一覧}} ;大正時代 {{main|大正時代の日本の勅令一覧}} ;昭和時代 {{main|昭和時代の日本の勅令一覧}} ==特別な勅令== ===前年度予算施行=== 大日本帝国憲法下においては、[[予算 (日本)|予算]]不成立の場合、前年度予算を施行する(第71条)となっていたが、これを行う場合、勅令でその旨を公布した。 ====勅令一覧==== # 明治二十五年度予算不成立ニ附キ前年度予算施行ノ件(明治25年3月18日勅令第28号) # 明治二十七年度ニ於テ前年度予算施行ノ件(明治27年2月17日勅令第19号) # 明治三十一年度ニ於テ前年度予算施行ノ件(明治31年2月9日勅令第22号) # 明治三十六年度ニ於テ前年度予算施行ノ件(明治36年2月6日勅令第9号) # 明治三十七年度ニ於テ前年度予算施行ノ件(明治37年2月3日勅令第16号) # 大正四年度ニ於テ前年度予算ヲ施行スル件(大正3年12月29日勅令第263号) # 大正六年度ニ於テ前年度予算ヲ施行スル件(大正6年2月21日勅令第23号) # 大正九年度ニ於テ前年度予算ヲ施行スルノ件(大正9年3月17日勅令第43号) # 大正十三年度ニ於テ前年度予算ヲ施行スルノ件ノ件(大正13年2月29日勅令第40号) # 昭和三年度ニ於テ前年度予算ヲ施行スルノ件(昭和3年3月15日勅令第29号) # 昭和五年度ニ於テ前年度予算ヲ施行スルノ件(昭和5年3月10日勅令第37号) # 昭和七年度ニ於テ前年度予算ヲ施行スルノ件(昭和7年3月14日勅令第23号) # 昭和十一年度ニ於テ前年度予算ヲ施行スルノ件(昭和11年3月26日勅令第29号) # 昭和二十一年度ニ於テ前年度予算ヲ施行スルノ件(昭和21年3月27日勅令第166号) ===府県会解散=== [[府県制]](明治23年5月17日法律第35号)第89条第1項で府県会の解散は、勅令によるとされたため、勅令が制定された。 道府県制(明治32年3月16日法律第64号)では、道府県会の解散は「内務大臣ガ勅裁ヲ経テ命ズル」(第131条第1項)と改正されたため、以後は解散の勅令はなくなった。 ====勅令一覧==== # 徳島県会解散ノ件(明治25年12月12日勅令第111号) # 石川県会解散ノ件(明治27年12月30日勅令第204号) # 石川県会解散ノ件(明治30年3月8日勅令第26号) # 石川県会解散ノ件(明治30年9月10日勅令第302号) # 青森県会解散ノ件(明治30年10月26日勅令第383号) # 石川県会解散ノ件(明治31年2月26日勅令第30号) # 秋田県会解散ノ件(明治31年12月1日勅令第338号) # 静岡県会解散ノ件(明治31年12月10日勅令第346号) # 福島県会解散ノ件(明治31年12月28日勅令第360号) # 福島県会解散ノ件(明治32年6月14日勅令第250号) ===戒厳布告、解除=== [[戒厳]]の布告及び解除は勅令で行われた。 ====勅令一覧==== # 戒厳宣告ノ件(明治27年10月6日勅令第174号) # 戒厳解止ノ件(明治28年6月19日勅令第76号) # 戒厳宣告ノ件(明治37年2月14日勅令第36号) # 戒厳宣告ノ件(明治37年2月14日勅令第37号) # 戒厳宣告ノ件(明治37年2月14日勅令第38号) # 戒厳宣告ノ件(明治37年2月14日勅令第39号) # 戒厳宣告ノ件(明治38年4月14日勅令第133号) # 戒厳宣告ノ件(明治38年5月13日勅令第160号) # 戒厳解止ノ件(明治38年7月7日勅令第193号) # 戒厳解止ノ件(明治38年10月16日勅令第219号) ===国葬=== [[国葬令]](大正15年10月21日勅令第324号)の制定後は、国家に偉勲ある者は特旨により[[国葬]]を行うことができるとされ、この特旨は、[[詔書]]により行われた。この国葬令制定前においては、個々の国葬の都度、個別の勅令より行われた。 ====勅令一覧==== # 故内大臣正一位大勲位公爵三条実美国葬ノ件(明治24年2月20日勅令第14号) # 熾仁親王殿下薨去ニ附キ国葬ノ件(明治28年1月24日勅令第11号) # 能久親王殿下薨去ニ附キ国葬ヲ行フ件(明治28年11月5日勅令第156号) # 公爵毛利元徳国葬ノ件(明治29年12月26日勅令第401号) # 故従一位勲一等公爵島津忠義国葬ノ件(明治30年12月28日勅令第458号) # 故元帥陸軍大将大勲位功二級彰仁親王国葬ノ件(明治36年2月18日勅令第16号) # 故枢密院議長従一位大勲位公爵伊藤博文国葬ノ件(明治42年10月27日勅令第314号) # 故議定官元帥海軍大将大勲位功三級威仁親王国葬ノ件(大正2年7月10日勅令第255号) # 故議定官内大臣元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵大山厳国葬ノ件(大正5年12月11日勅令第244号) # 故大勲位李太王国葬ノ件(大正8年1月27日勅令第9号) # 故議定官枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵山県有朋国葬ノ件(大正11年2月3日勅令第18号) # 故元帥陸軍大将大勲位功二級貞愛親王国葬ノ件(大正12年2月6日勅令第35号) # 故従一位大勲位公爵松方正義国葬ノ件(大正13年7月5日勅令第155号) # 大勲位李王国葬ノ件(大正15年4月27日勅令第87号) ===貴族院令=== [[貴族院 (日本)|貴族院]]の構成については勅令である[[貴族院令]]で定められたが、この改正には貴族院の議決を要する(貴族院令第13条)。  [[衆議院]]の構成は法律(即ち、衆議院のみならず貴族院の議決も必要)であるのに対し、貴族院については衆議院の介入をさせないようになっていた。 ===条約の公布=== 公文式には、[[条約]]についての規定がなく、条約の公布は勅令で行われていた。この場合は、無番号とされていた。公式令で条約についての規定が設けられた。 ====公文式時代の条約の例==== 帝国政府ト白耳義国政府トノ間ニ締結セル裁判管轄権ニ関スル議定書(明治32年7月1日勅令) ====公式例による条約の例==== 病院船ニ関スル条約(明治40年5月24日条約第1号) ===皇室婚嫁令・皇室誕生令=== 明治33年4月25日に公布された[[皇室婚嫁令]]、明治35年5月29日に公布された[[皇室誕生令]]は、官報、法令全書ともに法令番号のみならず「勅令」との表示もない。 しかし、官報目録では、勅令に分類しており、[[日本法令索引]]でも勅令に分類している。公式令以後なら皇室令となるべきものであった。 ===関東州及び南洋群島に関する法令=== [[関東州]]及び[[南洋群島]]は、[[大日本帝国]]の統治下にあったが、[[租借地]]ないし[[委任統治領]]であるため[[大日本帝国憲法]]が適用されず、これらの統治は専ら[[天皇大権|大権]]の行使として勅令で行われた<ref>[https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/gaiti-hourei.html 日本-旧外地法令の調べ方]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} === 参考文献 === *{{Cite book|和書|author=大正天皇|authorlink=大正天皇| translator=| title=[{{NDLDC|2954404/10}} 大正八年勅令三百四号の効力を将来に失わしむるの件 ]| page=| publisher=[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]『官報』1920年3月25日| location =| year=1920|date=3-25| isbn=| ref=harv}} == 関連項目 == *[[詔勅]] *[[天皇大権]] *[[太政官布告・太政官達]] *[[日本の廃止された法令]] *主に英米法系の勅許について **[[勅許]] **[[特許状]] *歴史上出された各地の勅令 **[[カノプス勅令]] **[[アントニヌス勅令]] **[[ミラノ勅令]] **{{仮リンク|テッサロニキ勅令|en|Edict of Thessalonica}} **ヘルスタル勅令(The Capitulary of Herstal) **{{仮リンク|キエルジー勅令|en|Capitulary of Quierzy}} **{{仮リンク|ヴォルムスの勅令|de|Wormser Edikt}} **[[ヴィレル・コトレの勅令]] **[[トルダの勅令]] **{{仮リンク|サン=ジェルマン勅令|en|Edict of Saint-Germain}}(一月勅令) **[[ナントの勅令]] **[[フォンテーヌブロー勅令]] **[[ベルリン勅令]] **{{仮リンク|七月勅令|en|July Ordinances}}(フランス) **[[ギュルハネ勅令]] **{{仮リンク|二月勅令|de|Februarerlasse}}(ドイツ) **[[十月勅令]](ロシア) [[Category:日本の勅令|*]] [[Category:命令 (制定法)|ちよくれい]]
null
2023-06-29T12:59:36Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:仮リンク", "Template:混同", "Template:Wikisourcecat", "Template:Main2", "Template:Main" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E4%BB%A4
3,000,823
和漢診療学
和漢診療学(わかんしんりょうがく、Wakan-shinryogaku、Japanese oriental medicine)は、「和漢の医方に現代西洋医学の視点を組み合わせた診療」、という定義を具現化した学問体系であり、東洋医学の知恵のみならず西洋医学の知識を併用している点において、俗に言われる“漢方”とは一線を画している。 漢方製剤と西洋医薬品が共に医療保険制度の中で臨床応用できるのは日本のみであり、両者を有機的に活用する視点に立つ学問である。西洋医学も実践できなければいけないという点で、現在のところ和漢診療を実践できる者は医師のみに限られている。 蘭学の勃興と共に、蘭方医が活躍する時代が到来し、多くの蘭方医は漢方を学んだ後に蘭方を学んでいたので、日常診療においては漢方と蘭方は適宜併用されていた。 華岡青洲(1760-1835)は、伝統医学に独自の工夫を加えた経口麻酔薬による全身麻酔と西洋から渡来した外科技術を併用して、乳癌の摘出に世界で初めて成功している。 明治維新政府の成立と共に、日本はドイツ(当時はプロシャ)医学を模範とすることになり、漢方を学んだ者には医師の資格を与えないこととなった。そのため、漢方は公的な医学教育の場から完全に排除された。 この困難な状況にあって、和田啓十郎(1872-1916)は、漢方の臨床的有用性を論じ、これを破棄することの誤りを主張した。その弟子である湯本求真(1876-1941)は、「東西医学の融合統一」を謳っている。これらの著作は絶滅の危機に瀕していた漢方の優れた点を主張したものであったが、漢方と西洋医学の併用によって治療を行うことで、優れた臨床効果が得られたという事例を具体的に記したものではなかった。 戦中・戦後に日本漢方復興のために尽力した人々としては、細野史郎(1899-1989)、大塚敬節(1900-1980)、矢数道明(1905-2002)、龍野一雄(1905-1976)、藤平健(1914-1997)、小倉重成(1916-1988)、坂口弘 (医師)(1921-2003)らが居るが、いずれも漢方の有用性と普遍的な臨床応用を示す立場からの活動であり、学問体系としての漢方と西洋医学の密接な関係性には明確に言及できずに終わってしまっていた。 個々の医師により東洋医学と西洋医学の併用は行われているのみで体系化されていなかった中、寺澤捷年(1944-)は、東洋医学と西洋医学の融合を学問の体系として初めて確立させ、和漢診療学という名称を最初に用いた。1979年に富山医科薬科大学(現富山大学)付属病院に招かれ、和漢診療部を創設。現代医療における漢方医学の重要性を説き、文部科学省にはたらきかけ1993年には同大学医学部に和漢診療学講座を設置した。更に2005年には千葉大学大学院医学研究院に和漢診療学講座を設置し、学問の場を広げた。教授退官後の現在は、彼の弟子である地野充時(1970-)らと共に千葉中央メディカルセンター和漢診療科にて実践し、大学病院を越えて市中病院にも学問の場を広げた。 1. 漢方の病態を西洋医学的手法によって科学的に解明し、この研究成果を基に漢方の臨床を展開する。瘀血病態の解明などがその一例である。 2. 漢方の診断学を普遍的な知の体系にするための各種の診断基準を作製する。 3. 方剤の薬理効果を解明し、漢方に学問的根拠を与えると共に、広く医療の場で容易に方剤を利用する道を拓く。 4. 方剤の臨床的有用性を二重盲検臨床比較試験などで明らかにする。 5. 各種の難治性疾患に対して漢方と西洋医学の併用によって、各々単独では得られない新たな治療法を開拓する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "和漢診療学(わかんしんりょうがく、Wakan-shinryogaku、Japanese oriental medicine)は、「和漢の医方に現代西洋医学の視点を組み合わせた診療」、という定義を具現化した学問体系であり、東洋医学の知恵のみならず西洋医学の知識を併用している点において、俗に言われる“漢方”とは一線を画している。 漢方製剤と西洋医薬品が共に医療保険制度の中で臨床応用できるのは日本のみであり、両者を有機的に活用する視点に立つ学問である。西洋医学も実践できなければいけないという点で、現在のところ和漢診療を実践できる者は医師のみに限られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "蘭学の勃興と共に、蘭方医が活躍する時代が到来し、多くの蘭方医は漢方を学んだ後に蘭方を学んでいたので、日常診療においては漢方と蘭方は適宜併用されていた。 華岡青洲(1760-1835)は、伝統医学に独自の工夫を加えた経口麻酔薬による全身麻酔と西洋から渡来した外科技術を併用して、乳癌の摘出に世界で初めて成功している。", "title": "成立までの流れ" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "明治維新政府の成立と共に、日本はドイツ(当時はプロシャ)医学を模範とすることになり、漢方を学んだ者には医師の資格を与えないこととなった。そのため、漢方は公的な医学教育の場から完全に排除された。 この困難な状況にあって、和田啓十郎(1872-1916)は、漢方の臨床的有用性を論じ、これを破棄することの誤りを主張した。その弟子である湯本求真(1876-1941)は、「東西医学の融合統一」を謳っている。これらの著作は絶滅の危機に瀕していた漢方の優れた点を主張したものであったが、漢方と西洋医学の併用によって治療を行うことで、優れた臨床効果が得られたという事例を具体的に記したものではなかった。 戦中・戦後に日本漢方復興のために尽力した人々としては、細野史郎(1899-1989)、大塚敬節(1900-1980)、矢数道明(1905-2002)、龍野一雄(1905-1976)、藤平健(1914-1997)、小倉重成(1916-1988)、坂口弘 (医師)(1921-2003)らが居るが、いずれも漢方の有用性と普遍的な臨床応用を示す立場からの活動であり、学問体系としての漢方と西洋医学の密接な関係性には明確に言及できずに終わってしまっていた。", "title": "成立までの流れ" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "個々の医師により東洋医学と西洋医学の併用は行われているのみで体系化されていなかった中、寺澤捷年(1944-)は、東洋医学と西洋医学の融合を学問の体系として初めて確立させ、和漢診療学という名称を最初に用いた。1979年に富山医科薬科大学(現富山大学)付属病院に招かれ、和漢診療部を創設。現代医療における漢方医学の重要性を説き、文部科学省にはたらきかけ1993年には同大学医学部に和漢診療学講座を設置した。更に2005年には千葉大学大学院医学研究院に和漢診療学講座を設置し、学問の場を広げた。教授退官後の現在は、彼の弟子である地野充時(1970-)らと共に千葉中央メディカルセンター和漢診療科にて実践し、大学病院を越えて市中病院にも学問の場を広げた。", "title": "成立までの流れ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1. 漢方の病態を西洋医学的手法によって科学的に解明し、この研究成果を基に漢方の臨床を展開する。瘀血病態の解明などがその一例である。 2. 漢方の診断学を普遍的な知の体系にするための各種の診断基準を作製する。 3. 方剤の薬理効果を解明し、漢方に学問的根拠を与えると共に、広く医療の場で容易に方剤を利用する道を拓く。 4. 方剤の臨床的有用性を二重盲検臨床比較試験などで明らかにする。 5. 各種の難治性疾患に対して漢方と西洋医学の併用によって、各々単独では得られない新たな治療法を開拓する。", "title": "学問内容" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "", "title": "学問内容" } ]
和漢診療学は、「和漢の医方に現代西洋医学の視点を組み合わせた診療」、という定義を具現化した学問体系であり、東洋医学の知恵のみならず西洋医学の知識を併用している点において、俗に言われる“漢方”とは一線を画している。 漢方製剤と西洋医薬品が共に医療保険制度の中で臨床応用できるのは日本のみであり、両者を有機的に活用する視点に立つ学問である。西洋医学も実践できなければいけないという点で、現在のところ和漢診療を実践できる者は医師のみに限られている。
'''和漢診療学'''(わかんしんりょうがく、{{lang|und|Wakan-shinryogaku}}、{{lang|en|Japanese oriental medicine}})は、「和漢の医方に現代[[西洋医学]]の視点を組み合わせた診療」<ref>新村 出編、広辞苑(第6版)、岩波書店、2008年、p3023</ref>、という定義を具現化した学問体系であり、[[東洋医学]]の知恵のみならず西洋医学の知識を併用している点において、俗に言われる“[[漢方]]”とは一線を画している。 漢方製剤と西洋医薬品が共に[[医療保険制度]]の中で臨床応用できるのは[[日本]]のみであり、両者を有機的に活用する視点に立つ学問である。西洋医学も実践できなければいけないという点で、現在のところ和漢診療を実践できる者は[[医師]]のみに限られている。 ==成立までの流れ== ===近世=== [[蘭学]]の勃興と共に、蘭方医が活躍する時代が到来し、多くの蘭方医は漢方を学んだ後に蘭方を学んでいたので、日常診療においては漢方と蘭方は適宜併用されていた。 [[華岡青洲]](1760-1835)は、伝統医学に独自の工夫を加えた経口麻酔薬による全身麻酔と西洋から渡来した外科技術を併用して、[[乳癌]]の摘出に世界で初めて成功している<ref>小川鼎三、医学の歴史、中公新書39。中央公論社、1968年、p151</ref>。 ===近代=== 明治維新政府の成立と共に、日本はドイツ(当時はプロシャ)医学を模範とすることになり<ref>小川鼎三、医学の歴史、中公新書39。中央公論社、1968年、p179</ref>、漢方を学んだ者には医師の資格を与えないこととなった。そのため、漢方は公的な医学教育の場から完全に排除された。 この困難な状況にあって、[[和田啓十郎]](1872-1916)は、漢方の臨床的有用性を論じ<ref>和田啓十郎、医界之鉄椎(複刻版)、たにぐち書店、2010</ref>、これを破棄することの誤りを主張した。その弟子である[[湯本求真]](1876-1941)は、「東西医学の融合統一」を謳っている<ref>湯本求真、皇漢医学(複刻版)、燎原書店、1976</ref>。これらの著作は絶滅の危機に瀕していた漢方の優れた点を主張したものであったが、漢方と西洋医学の併用によって治療を行うことで、優れた臨床効果が得られたという事例を具体的に記したものではなかった。 戦中・戦後に日本漢方復興のために尽力した人々としては、[[細野史郎]](1899-1989)<ref>細野史郎、漢方医学十講、創元社、1987</ref>、[[大塚敬節]](1900-1980)<ref>大塚敬節、漢方診療三十年、創元社、1965</ref>、[[矢数道明]](1905-2002)<ref>矢数道明、漢方処方解説、創元社、1966</ref>、[[龍野一雄]](1905-1976)<ref>龍野一雄、撰新・類聚方、中国漢方、1974</ref>、[[藤平健]](1914-1997)<ref>藤平 健、小倉重成、漢方概論、創元社、1979</ref>、[[小倉重成]](1916-1988)、[[坂口弘 (医師)]](1921-2003)らが居るが、いずれも漢方の有用性と普遍的な臨床応用を示す立場からの活動であり、学問体系としての漢方と西洋医学の密接な関係性には明確に言及できずに終わってしまっていた。 ===現代=== 個々の医師により東洋医学と西洋医学の併用は行われているのみで体系化されていなかった中、[[寺澤捷年]](1944-)は、東洋医学と西洋医学の融合を学問の体系として初めて確立させ、和漢診療学という名称を最初に用いた。1979年に富山医科薬科大学(現[[富山大学]])付属病院に招かれ、和漢診療部を創設。現代医療における漢方医学の重要性を説き、[[文部科学省]]にはたらきかけ1993年には同大学[[医学部]]に和漢診療学講座を設置した。更に2005年には[[千葉大学]]大学院医学研究院に和漢診療学講座を設置し、学問の場を広げた。教授退官後の現在は、彼の弟子である[[地野充時]](1970-)らと共に[[千葉中央メディカルセンター]]和漢診療科にて実践し、大学病院を越えて市中病院にも学問の場を広げた。 ==学問内容== 1. 漢方の病態を西洋医学的手法によって科学的に解明し、この研究成果を基に漢方の臨床を展開する。瘀血病態の解明などがその一例である<ref>Terasawa K., Bandou M., Tosa H., Toriizuka K., Hirate J.: Disposition of glycyrrhetic acid after oral administration of Kanzo-to and Syakuyaku-kanzo-to in the rat. J. Med. Pharm. Soc. WAKAN-YAKU, 3: 105-110, 1986. </ref><ref>Terasawa K., Itoh T., Motimoto Y., Hiyama Y., Tosa H.: The characteristics of the microcirculation of bulbar conjunctiva in “Oketsu” syndrome. J. Med. Pharm. Soc. WAKAN-YAKU, 5: 200-205, 1988. </ref><ref>Shintani T., Terasawa K., Imadaya A., Kusano Y., Toriizuka K.: Effects of Keishi-shakuyaku-chimo-to on erythrocyte antioxidant enzymes in patients with rheumatoid arthritis. J. Med. Pharm. Soc. WAKAN-YAKU, 7: 74-80, 1990. </ref>。<br> 2. 漢方の診断学を普遍的な知の体系にするための各種の診断基準を作製する<ref>寺澤捷年,篠田裕之,今田屋章,土佐寛順,坂東みゆ紀,佐藤伸彦:瘀血症の症候解折と診断基準の提唱.日本東洋医学誌,34: 1-17, 1983. </ref><ref>寺澤捷年、症例から学ぶ和漢診療学(改訂3版)、医学書院、2012年、p24、p33、p43、p51、p62</ref>。<br> 3. 方剤の薬理効果を解明し、漢方に学問的根拠を与えると共に、広く医療の場で容易に方剤を利用する道を拓く<ref>Tosa H., Hiyama Y., Itoh T., Morimoto Y., Terasawa K.: Effects of Keishi-bukuryo-gan on patients with cerebro-spinal vascular disease. J. Med. Pharm. Soc. WAKAN-YAKU, 6: 13-19, 1989.</ref><ref>Kohta K., Hikiami H., Shimada Y., Matsuda H., Hamazaki T., Terasawa K.: Effects of Keishi-bukuryo-gan on erythrocyte aggregability in patients with multiple old lacunar infarction. J. Med. Pharm. Soc. WAKAN-YAKU, 10: 251-259, 1993. </ref><ref>Shimada Y., Goto H., Itoh T., Sakakibara I., Kubo M., Sasaki H., Terasawa K.: Evaluation of the protective effects of alkaloids isolated from the hooks and stems of Uncaria sinensis on glutamate-induced neuronal death in cultured cerebellar granule cells from rats. J. Pharm. Pharmacol., 51: 715-722, 1999. </ref><ref>Mantani N., Imanishi N., Kawamata H., Terasawa K., Ochiai H.: Inhibitory effect of (+)-catechin on the growth of influenza A/PR/8 virus in MDCK cells. Planta Med., 67: 240-243, 2001. </ref><ref>Minamizawa K., Goto H., Shimada Y., Terasawa K., Haji A.: Effects of eppikahangeto, a Kampo formula, and Ephedrae herba against citric acid-induced laryngeal cough in guinea pigs. J. Pharmacol. Sci., 101: 118-125, 2006.</ref>。<br> 4. 方剤の臨床的有用性を二重盲検臨床比較試験などで明らかにする<ref>Terasawa K., Shimada Y., Kita T., Yamamoto T., Tosa H., Tanaka N., Saito E., Kanaki E., Goto S., Mizushima N., Fujioka M., Takase S., Seki H., Kimura I., Ogata T., Nakamura S., Araki G., Maruyama I., Maruyama Y., Takaori S.: Choto-san in the treatment of vascular dementia: a double-blind, placebo-controlled study. Phytomedicine, 4: 15-22, 1997. </ref><ref>寺澤捷年、喜多敏明、関矢信康編、EBM漢方(改訂2版)、医歯薬出版、2007</ref>。<br> 5. 各種の難治性疾患に対して漢方と西洋医学の併用によって、各々単独では得られない新たな治療法を開拓する<ref>引網宏彰,柴原直利,後藤博三,小暮敏明,長坂和彦,喜多敏明,嶋田 豊,伊藤 隆,寺澤捷年:糖尿病性細小血管症の発症・進展に対する和漢薬治療効果の検討.日本東洋医学雑誌,50: 841-850, 2000. </ref><ref>Kogure T., Sato N., Tahara E., Sakai S., Shimada Y., Ochiai H., Origasa H., Terasawa K.: Assessment of effects of traditional herbal medicines on elderly patients with weakness using a self-controlled trial. Geriatr. Gerontol. Int., 4: 169-174, 2004. </ref><ref>Chino A., Sakurai H., Choo M.K., Koizumi K., Shimada Y., Terasawa K., and Saiki I.:Juzentaihoto, a Kampo medicine, enhances IL-12 production by modulating Toll-like receptor 4 signaling pathways in murine peritoneal exudate macrophages. Int. Immunopharmacol., 5: 871-882, 2005. </ref>。 == 出典 == <references/> == 外部リンク == * [http://www.jsom.or.jp/ 日本東洋医学会] * [http://www.wakan-iyaku.gr.jp/index2.html 和漢医薬学会] * [http://aeam.umin.ac.jp/ 東亜医学協会] * [http://japan-kampo.com/ 日本漢方医学研究所] * [http://nitto-i-kyo.jp/ 日本東洋医学研究機関連絡協議会] * [http://www.med.u-toyama.ac.jp/wakan/ 国立大学法人富山大学医学部和漢診療学講座] * [http://www.m.chiba-u.ac.jp/class/wakan/ 千葉大学大学院医学研究院和漢診療学講座] * [http://www.ccmc.seikei-kai.or.jp/index.php 千葉中央メディカルセンター] {{DEFAULTSORT:わかんりんりょうがく}} [[Category:伝統医学]]
null
2014-06-05T03:14:20Z
false
false
false
[ "Template:Lang" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%BC%A2%E8%A8%BA%E7%99%82%E5%AD%A6
1,893,061
静岡まつり
静岡まつり(しずおかまつり)は、静岡県静岡市において、毎年4月17日(徳川家康の命日)の前の第1金曜日から日曜日の3日間にかけて静岡駅近くの駿府城公園や市街地を中心に賑やかに開催される静岡市の都市まつりである。「駿府で徳川家康が家臣を連れて花見をした」という故事にちなみ、昭和32年から始まった「大御所花見行列」をメインにした桜の花咲く頃のお祭りとして市民に親しまれている。 静岡まつりは、江戸時代に「廿日会祭(はつかえさい)」と呼ばれた旧暦2月20日に行われた静岡浅間神社の例祭が母体で、戦後、静岡市の観光事業として発展させ静岡を代表する祭りになったのが「静岡まつり」である。静岡浅間神社は、二千年前に創建され駿府国総社とあおがれ、境内には幾つもの神様が同居している伝統ある神社である。神部神社の大国主命(おおくにぬしのみこと)、浅間神社の木花咲耶耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、大歳御祖神社(おおとしみおや)の大歳御祖命、そして麓山神社(はやま)の大山祇神(おおやまつみのかみ)の神社である。神部神社は、国造りの神で国納めの守り神として、家康をはじめとする駿府の歴代の為政者から信仰を受けてきた。廿日会祭は、神部への奉納行事として生まれた祭りである。 家康は、当時、駿府の城下を江戸に負けない政治の中心とする為の町づくりに励んでいた。街並みを九十六町に分割し、京都の街並みのように碁盤の目に道路を区切った。戦火で焼け落ちた浅間神社を建替えて、町民のよりどころとしたが、何かが足りないと考えた。そして考え付いたのが、町民の心を奮い立たせる祭だった。大御所の家康が建穂神社(たきよう)を訪れたとき、子ども達が舞楽奉納するのを見て気に入り、「これを浅間神社に毎年2月20日に奉納するように」と決めた。以降、「廿日会祭」と名付けられ、駿府の城下を賑わすお祭りとなった。 歴史ある廿日会祭も、過去に二度中断した時期がある。一度目は、明治維新の時で明治28年(1895年)に復活し、この時、桜の咲く暖かい4月の開催に変更された。二度目は、太平洋戦争の時の7年間の中断であった。その後、昭和32年(1957年)、今までの祭りとはかけ離れた「静岡まつり」に変貌した、神事色を一掃し、人集めの行事にと衣替えした。昭和32年に第1回大会を開催し、以後、平成23年(2011年)と令和2年(2020年)(新型コロナウイルス感染症防止)を除き毎年行われ、桜の時期のイベントとして市民に定着している。 昭和32年(1957年)に第1回大会を開催し、以後、平成23年(2011年)と令和2年(2020年)(新型コロナウイルス感染症防止)を除き毎年行われ、桜の時期のイベントとして市民に定着している。 平成6年(1994年)開催の第40回大会からは、祭りは「見る(静)」から「参加(動)」の祭りと変わり、新たに「夜桜乱舞」と「駿府登城行列」が開始され、会場である静岡市街や駿府城公園では多くの観覧客でにぎわった。祭りは家康を前面に出して、行列を主体にする構成にした。京都の「時代まつり」を参考にして、京都府から衣装と小道具などを借り、衣装の着方から小道具の使い方の指導を受け、「大御所花見行列」が出来上がった。当初は、総勢200人を超す行列には、市長、市議、市民の代表などが加わり、沿道は大勢の見物客でにぎわった。 通常毎年4月の第1金曜日から3日間で行われるが、暦の関係上3月末から始まる場合もある(3月31日~4月6日の中で金曜日にあたる日を1日目とする)。また、静岡浅間神社の廿日会祭と呼応して行われ、静岡まつりの主な開場としては駿府城会場、青葉会場、追手町会場の3会場で開催される。 静岡まつりは「五つの物語」で構成されている 会場となるのは、駿府城公園には駿府城会場、静岡市中心街には青葉会場と追手町会場などが設けられ、様々なまつりが繰り広げられ多くの人々で賑わう。 花見行列は、徳川家康にゆかりのある御台所や大名を引き連れて、大御所(家康)の号令のもと駿府城下を練り歩く。城下の所々では、一般参加者がそれぞれの時代の装束を身にまとい、各種パフォーマンスが繰り広げられる。行列は2・3日目の土・日曜日に開催され、土曜日は駿府城の大演舞場で「出発式」が行われ、大御所・御台所などが行列の出発の号令をかける。続いて土・日曜日は「開門式」が行われ、駿府城の東御門が大御所の号令により開門され大御所花見行列(竹千代が日曜日に登場する)が出発する。行列のコースは、東御門出発から市役所前を通り浅間神社を訪れ、大拝殿前の舞殿に上がり参拝する。浅間神社は、家康の崇敬をうけた駿河国の総社で、静岡の町の基となった神社である。尚、当日が雨天の場合は、行列は中止され、静岡市役所本館で大御所お披露目会が行われる。 ※2011年は、東日本大震災の影響で、2020年は、新型コロナウイルスの感染の影響で、静岡まつりは中止となった。 駿府城下の追手町を舞台に、多くの市民が参加して家康が開いた花見の宴を盛り上げようと、市民参加型の踊り。2日目には「総踊り」、3日目には「城下さくら踊り」が何れも追手町会場にて行われる。 登城行列は2日目に行われ、大御所主催の花見に招かれた駿府の町民が時代衣装で着飾り、大御所への献上品を持ち大御所主催の花見に行進する市民参加型の行列である。行列のコースは、静岡駅の南側にある伊河麻神社を出発し、石田街道から静岡駅コンコース、呉服町通り、青葉公園、駿府城西門から駿府城会場へと登城する。尚、当日が雨天の場合は、行列は中止され翌日の3日目に行われる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "静岡まつり(しずおかまつり)は、静岡県静岡市において、毎年4月17日(徳川家康の命日)の前の第1金曜日から日曜日の3日間にかけて静岡駅近くの駿府城公園や市街地を中心に賑やかに開催される静岡市の都市まつりである。「駿府で徳川家康が家臣を連れて花見をした」という故事にちなみ、昭和32年から始まった「大御所花見行列」をメインにした桜の花咲く頃のお祭りとして市民に親しまれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "静岡まつりは、江戸時代に「廿日会祭(はつかえさい)」と呼ばれた旧暦2月20日に行われた静岡浅間神社の例祭が母体で、戦後、静岡市の観光事業として発展させ静岡を代表する祭りになったのが「静岡まつり」である。静岡浅間神社は、二千年前に創建され駿府国総社とあおがれ、境内には幾つもの神様が同居している伝統ある神社である。神部神社の大国主命(おおくにぬしのみこと)、浅間神社の木花咲耶耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、大歳御祖神社(おおとしみおや)の大歳御祖命、そして麓山神社(はやま)の大山祇神(おおやまつみのかみ)の神社である。神部神社は、国造りの神で国納めの守り神として、家康をはじめとする駿府の歴代の為政者から信仰を受けてきた。廿日会祭は、神部への奉納行事として生まれた祭りである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "家康は、当時、駿府の城下を江戸に負けない政治の中心とする為の町づくりに励んでいた。街並みを九十六町に分割し、京都の街並みのように碁盤の目に道路を区切った。戦火で焼け落ちた浅間神社を建替えて、町民のよりどころとしたが、何かが足りないと考えた。そして考え付いたのが、町民の心を奮い立たせる祭だった。大御所の家康が建穂神社(たきよう)を訪れたとき、子ども達が舞楽奉納するのを見て気に入り、「これを浅間神社に毎年2月20日に奉納するように」と決めた。以降、「廿日会祭」と名付けられ、駿府の城下を賑わすお祭りとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "歴史ある廿日会祭も、過去に二度中断した時期がある。一度目は、明治維新の時で明治28年(1895年)に復活し、この時、桜の咲く暖かい4月の開催に変更された。二度目は、太平洋戦争の時の7年間の中断であった。その後、昭和32年(1957年)、今までの祭りとはかけ離れた「静岡まつり」に変貌した、神事色を一掃し、人集めの行事にと衣替えした。昭和32年に第1回大会を開催し、以後、平成23年(2011年)と令和2年(2020年)(新型コロナウイルス感染症防止)を除き毎年行われ、桜の時期のイベントとして市民に定着している。 昭和32年(1957年)に第1回大会を開催し、以後、平成23年(2011年)と令和2年(2020年)(新型コロナウイルス感染症防止)を除き毎年行われ、桜の時期のイベントとして市民に定着している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "平成6年(1994年)開催の第40回大会からは、祭りは「見る(静)」から「参加(動)」の祭りと変わり、新たに「夜桜乱舞」と「駿府登城行列」が開始され、会場である静岡市街や駿府城公園では多くの観覧客でにぎわった。祭りは家康を前面に出して、行列を主体にする構成にした。京都の「時代まつり」を参考にして、京都府から衣装と小道具などを借り、衣装の着方から小道具の使い方の指導を受け、「大御所花見行列」が出来上がった。当初は、総勢200人を超す行列には、市長、市議、市民の代表などが加わり、沿道は大勢の見物客でにぎわった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "通常毎年4月の第1金曜日から3日間で行われるが、暦の関係上3月末から始まる場合もある(3月31日~4月6日の中で金曜日にあたる日を1日目とする)。また、静岡浅間神社の廿日会祭と呼応して行われ、静岡まつりの主な開場としては駿府城会場、青葉会場、追手町会場の3会場で開催される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "静岡まつりは「五つの物語」で構成されている", "title": "開催内容" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "会場となるのは、駿府城公園には駿府城会場、静岡市中心街には青葉会場と追手町会場などが設けられ、様々なまつりが繰り広げられ多くの人々で賑わう。", "title": "開催内容" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "花見行列は、徳川家康にゆかりのある御台所や大名を引き連れて、大御所(家康)の号令のもと駿府城下を練り歩く。城下の所々では、一般参加者がそれぞれの時代の装束を身にまとい、各種パフォーマンスが繰り広げられる。行列は2・3日目の土・日曜日に開催され、土曜日は駿府城の大演舞場で「出発式」が行われ、大御所・御台所などが行列の出発の号令をかける。続いて土・日曜日は「開門式」が行われ、駿府城の東御門が大御所の号令により開門され大御所花見行列(竹千代が日曜日に登場する)が出発する。行列のコースは、東御門出発から市役所前を通り浅間神社を訪れ、大拝殿前の舞殿に上がり参拝する。浅間神社は、家康の崇敬をうけた駿河国の総社で、静岡の町の基となった神社である。尚、当日が雨天の場合は、行列は中止され、静岡市役所本館で大御所お披露目会が行われる。", "title": "開催内容" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "※2011年は、東日本大震災の影響で、2020年は、新型コロナウイルスの感染の影響で、静岡まつりは中止となった。", "title": "開催内容" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "駿府城下の追手町を舞台に、多くの市民が参加して家康が開いた花見の宴を盛り上げようと、市民参加型の踊り。2日目には「総踊り」、3日目には「城下さくら踊り」が何れも追手町会場にて行われる。", "title": "開催内容" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "登城行列は2日目に行われ、大御所主催の花見に招かれた駿府の町民が時代衣装で着飾り、大御所への献上品を持ち大御所主催の花見に行進する市民参加型の行列である。行列のコースは、静岡駅の南側にある伊河麻神社を出発し、石田街道から静岡駅コンコース、呉服町通り、青葉公園、駿府城西門から駿府城会場へと登城する。尚、当日が雨天の場合は、行列は中止され翌日の3日目に行われる。", "title": "開催内容" } ]
静岡まつり(しずおかまつり)は、静岡県静岡市において、毎年4月17日(徳川家康の命日)の前の第1金曜日から日曜日の3日間にかけて静岡駅近くの駿府城公園や市街地を中心に賑やかに開催される静岡市の都市まつりである。「駿府で徳川家康が家臣を連れて花見をした」という故事にちなみ、昭和32年から始まった「大御所花見行列」をメインにした桜の花咲く頃のお祭りとして市民に親しまれている。
{{イベントインフォメーション | イベント名称 = 静岡まつり | 英文表記 = SHIZUOKA MATSURI | 画像 = Shizuoka Matsuri 20230402q.jpg | 画像サイズ = 280px | 画像説明 = 大御所花見行列<br />(駿府城東御門 2023年4月2日撮影) | 種類 = [[祭り]] | 通称 = | 正式名称 = 静岡まつり | 旧名称 = 静岡浅間神社廿日祭 | 開催時期 = [[4月17日]]([[徳川家康]]の[[命日]])近辺<ref name="shizuoka-guide">[https://shizuokamatsuri.com/ 『第67回 静岡まつり公式案内書』静岡まつり実行委員会、2023年11月7日閲覧]</ref> | 初回開催 = [[昭和]]32年([[1957年]])[[4月12日]](第1回)<ref name="shizuoka-guide"/> | 最終開催 = | 開催時間 = | 会場 = [[静岡浅間神社]]、[[静岡市歴史博物館]]、静岡大河ドラマ館、[[駿府城公園]]、他静岡市内周辺<ref name="shizuoka-guide"/> | 主催 = 静岡まつり実行委員会<ref name="shizuoka-guide"/> | 共催 = 静岡市<ref name="shizuoka-guide"/> | 後援 = 多数省略 | 協賛 = 静岡市自治会連合会、静岡商工会議所<ref name="shizuoka-guide"/> | 企画制作 = | 協力 = | 運営 = 静岡まつり実行委員会<ref name="shizuoka-guide"/> | プロデューサー = | 出展数 = | 来場者数 = 93万人(2023年(第67回)1日目12万人、2日目50万人、3日目31万人)<ref name="shizuoka-oshirase">[https://shizuokamatsuri.com/news/67april2/ 『静岡まつり』「第67回 静岡まつりの来場者総数は93万人でした」静岡まつり実行委員会、2023年4月2日、2023年11月7日閲覧]</ref> | 会場アクセス名 = | 最寄駅 = [[静岡駅]] | 直通バス = | 駐車場 = | URL = https://shizuokamatsuri.com/ | 特記事項 = }} '''静岡まつり'''(しずおかまつり)は、[[静岡県]][[静岡市]]において、毎年[[4月17日]]([[徳川家康]]の[[命日]])の前の第1[[金曜日]]から[[日曜日]]の3日間にかけて静岡駅近くの駿府城公園や市街地を中心に賑やかに開催される静岡市の都市まつりである<ref name="shizuoka-1">{{Cite web|和書|title=第67回 駿府大御所時代絵巻 静岡まつり|url=https://shizuokamatsuri.net/67th/guidbook67-s.pdf|website=静岡まつり実行委員会、静岡市、静岡市自治会連合会、静岡商工会議所|date=2023-03-|accessdate=2023-03-08|language=ja}}</ref>。「[[駿府]]で徳川家康が[[家臣]]を連れて花見をした」という故事にちなみ、[[昭和32年]]から始まった「大御所花見行列」をメインにした桜の花咲く頃のお祭りとして市民に親しまれている<ref name="shizuoka-1"/>。 == 概要 == 静岡まつりは、[[江戸時代]]に「廿日会祭(はつかえさい)」と呼ばれた旧暦2月20日に行われた[[静岡浅間神社]]の例祭が母体で<ref name="mainichi">『静岡の年輪 下』「静岡まつり」毎日新聞社編、1972年、2023年4月6日閲覧</ref>、戦後、静岡市の観光事業として発展させ静岡を代表する祭りになったのが「静岡まつり」である<ref name="mainichi"/>。静岡浅間神社は、二千年前に創建され[[駿府]]国総社とあおがれ、境内には幾つもの神様が同居している伝統ある神社である<ref name="mainichi"/>。[[神部神社]]の[[大国主命]](おおくにぬしのみこと)、[[浅間神社]]の木花咲耶耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、大歳御祖神社(おおとしみおや)の大歳御祖命、そして麓山神社(はやま)の[[大山祇神]](おおやまつみのかみ)の神社である<ref name="mainichi"/>。神部神社は、国造りの神で国納めの守り神として、家康をはじめとする駿府の歴代の為政者から信仰を受けてきた<ref name="mainichi"/>。廿日会祭は、神部への奉納行事として生まれた祭りである<ref name="mainichi"/>。 家康は、当時、駿府の城下を江戸に負けない政治の中心とする為の町づくりに励んでいた<ref name="mainichi"/>。街並みを九十六町に分割し、京都の街並みのように碁盤の目に道路を区切った<ref name="mainichi"/>。戦火で焼け落ちた浅間神社を建替えて、町民のよりどころとしたが、何かが足りないと考えた<ref name="mainichi"/>。そして考え付いたのが、町民の心を奮い立たせる祭だった<ref name="mainichi"/>。大御所の家康が建穂神社(たきよう)を訪れたとき、子ども達が舞楽奉納するのを見て気に入り、「これを浅間神社に毎年2月20日に奉納するように」と決めた<ref name="mainichi"/>。以降、「廿日会祭」と名付けられ、駿府の城下を賑わすお祭りとなった<ref name="mainichi"/>。 歴史ある廿日会祭も、過去に二度中断した時期がある<ref name="mainichi"/>。一度目は、[[明治維新]]の時で[[明治]]28年([[1895年]])に復活し、この時、桜の咲く暖かい4月の開催に変更された<ref name="mainichi"/>。二度目は、[[太平洋戦争]]の時の7年間の中断であった<ref name="mainichi"/>。その後、[[昭和]]32年([[1957年]])、今までの祭りとはかけ離れた「静岡まつり」に変貌した、神事色を一掃し、人集めの行事にと衣替えした<ref name="mainichi"/>。昭和32年に第1回大会を開催し、以後、[[平成]]23年([[2011年]])と[[令和]]2年([[2020年]])([[新型コロナウイルス感染症]]防止)を除き毎年行われ、桜の時期のイベントとして市民に定着している<ref name="shizuoka-1"/>。 [[昭和32年]]([[1957年]])に第1回大会を開催し、以後、[[平成23年]]([[2011年]])と[[令和2年]]([[2020年]])([[新型コロナウイルス感染症]]防止)を除き毎年行われ、桜の時期のイベントとして市民に定着している<ref name="shizuoka-1"/>。 平成6年([[1994年]])開催の第40回大会からは、祭りは「見る(静)」から「参加(動)」の祭りと変わり、新たに「夜桜乱舞」と「駿府登城行列」が開始され、会場である静岡市街や[[駿府城公園]]では多くの観覧客でにぎわった<ref name="shizuoka-1"/>。祭りは家康を前面に出して、行列を主体にする構成にした<ref name="mainichi"/>。京都の「時代まつり」を参考にして、[[京都府]]から衣装と小道具などを借り、衣装の着方から小道具の使い方の指導を受け、「大御所花見行列」が出来上がった<ref name="mainichi"/>。当初は、総勢200人を超す行列には、市長、市議、市民の代表などが加わり、沿道は大勢の見物客でにぎわった<ref name="mainichi"/>。 通常毎年4月の第1金曜日から3日間で行われるが、暦の関係上3月末から始まる場合もある(3月31日~4月6日の中で金曜日にあたる日を1日目とする)<ref name="shizuoka-1"/>。また、静岡浅間神社の廿日会祭と呼応して行われ、静岡まつりの主な開場としては駿府城会場、青葉会場、追手町会場の3会場で開催される<ref name="shizuoka-1"/>。 == 開催内容 == [[File:Shizuoka Matsuri Tedutsu hanabi 01.jpg|thumb|大御所観覧手筒花火(2023年)]] 静岡まつりは「五つの物語」で構成されている<ref name="shizuoka-1"/> * 一、 「前夜まつり」 - [[大御所 (江戸時代)|大御所]](徳川家康)に仕える家臣団結成の儀(1日目 駿府城会場 駿府大演舞場)、大御所が花見に行こうと呼びかける、市民が大御所の家臣団として結成の儀を行う<ref name="shizuoka-1"/>。数百の[[天灯|スカイランタン]]が打ち上げられる<ref name="shizuoka-1"/>。 * 二、 「駿府登城行列」 - 大御所の呼び掛けに応えて駿府城を目指す(2日目 [[伊河麻神社]]、青葉開場、駿府城会場)、大御所主催の花見に招かれた町民が、大御所への献上品を持ち[[武将|戦国武将]]、[[忍者]]、[[小町]]、町人、農民など[[衣装|時代衣装]]で駿府城へ行列する<ref name="shizuoka-1"/>。 * 三、 「大御所花見行列」 - 大御所とともに花見に出かける(2・3日目 駿府城会場、追手町会場、浅間神社、青葉会場)、大御所役には男性有名人(主に[[俳優]])が扮する(計2名)<ref name="shizuoka-1"/>。[[御台所]](みだいどころ)役は、毎年公募によって、静岡県外在住を含む静岡市出身者から選ばれる(以前は女優が扮していた)<ref name="shizuoka-1"/>。以前は「しずおかクイーン」(旧「ミスしずおか」)が担当していたが、[[平成24年]]([[2012年]])に「しずおかクイーン」が終了となって以降は主に公募によって上ろう役二名と合わせて選ばれる<ref name="shizuoka-1"/>。「しずおかクイーン」終了後の御台所役として、静岡市出身である[[桃華絵里]]が御台所を務めたことがある<ref name="shizuoka-1"/>。竹千代役は市内の小学生(男女不問)からオーディションで選ばれる<ref name="shizuoka-1"/>。 * 四、 「夜桜乱舞・城下さくら踊り」 - 花見の宴を盛り上げる(2・3日目 追手町会場他)、参加者が大御所・徳川家康が開いた花見の宴を盛り上げるため、市役所前の大通りを舞う市民参加型の総踊りである<ref name="shizuoka-1"/>。 * 五、 「大御所観覧[[手筒花火]]」 - 天下に[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の終焉を告げる(2・3日目 駿府城会場)、[[慶長|慶長18年]]([[1613年]])、徳川家康は駿府城で日本で初めて花火を見た<ref name="shizuoka-1"/>。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を終わらせ、火薬を平和利用にと家康が花火を推薦したといわれている<ref name="shizuoka-1"/>。 === 開催会場 === 会場となるのは、[[駿府城公園]]には駿府城会場、静岡市中心街には青葉会場と追手町会場などが設けられ、様々なまつりが繰り広げられ多くの人々で賑わう<ref name="shizuoka-1"/>。 * 駿府城会場 - 駿府大演舞場(前夜祭り・夜桜デモンストレーター・発式)、駿府屋台村、駿府城下町(花魁道中・変身処・はしごのり)、東御門、子ども夢広場、駿府小町茶屋、火縄銃・手筒花火、和太鼓演奏、本陣案内処<ref name="shizuoka-1"/>。 * 青葉会場 - 竹千代ワールド、子ども屋台処、安倍の市、おだっくい屋台処、シン・玉川座(青葉ステージ)、展示処(交通手段の発展)、駿府子ども瓦版屋、案内処<ref name="shizuoka-1"/>。 * 追手町会場 - 夜桜乱舞(総踊り・城下さくら踊り)<ref name="shizuoka-1"/>。 * 静岡浅間神社 - 古くから駿河の多くの人々の信仰を受けた神社で、家康の崇敬を受け、江戸幕府からも保護された<ref name="shizuoka-1"/>。静岡まつりでは、大御所花見行列のコースとなっており、大御所が家臣とともに訪れ大拝殿前の舞殿に上がり参拝する<ref name="shizuoka-1"/>。 * 静岡大河ドラマ館 - 静岡浅間神社の境内にあり、NHK大河ドラマ「どうする家康」の撮影で使用された衣装や小道具などが展示され、駿府と家康とのつながりなどを映像で紹介している<ref name="shizuoka-1"/>。 * [[静岡市歴史博物館]] - 2023年1月にグランドオープンされ、古代からの静岡の歴史、今井氏の歴史と家康の一生、駿府城と駿府城下町、東海道の歴史などが展示されている<ref name="shizuoka-1"/>。 === 大御所花見行列 === [[File:Shizuoka Matsuri 20230402b.jpg|thumb|開門式(2023年)]] 花見行列は、徳川家康にゆかりのある御台所や大名を引き連れて、大御所(家康)の号令のもと駿府城下を練り歩く<ref name="shizuoka-1"/>。城下の所々では、一般参加者がそれぞれの時代の装束を身にまとい、各種パフォーマンスが繰り広げられる<ref name="shizuoka-1"/>。行列は2・3日目の土・日曜日に開催され、土曜日は駿府城の大演舞場で「出発式」が行われ、大御所・御台所などが行列の出発の号令をかける<ref name="shizuoka-1"/>。続いて土・日曜日は「開門式」が行われ、駿府城の東御門が大御所の号令により開門され大御所花見行列(竹千代が日曜日に登場する)が出発する<ref name="shizuoka-1"/>。行列のコースは、東御門出発から市役所前を通り浅間神社を訪れ、大拝殿前の舞殿に上がり参拝する<ref name="shizuoka-1"/>。浅間神社は、家康の崇敬をうけた駿河国の総社で、静岡の町の基となった神社である<ref name="shizuoka-1"/>。尚、当日が雨天の場合は、行列は中止され、静岡市役所本館で大御所お披露目会が行われる<ref name="shizuoka-1"/>。 <gallery> Shizuoka Matsuri 20230402l.jpg|大御所 Shizuoka Matsuri 20230402h.jpg|[[今川義元]]と竹千代 Shizuoka Matsuri 20230402i.jpg|[[寿桂尼]]<ref>[https://www.at-s.com/news/article/shizuoka/1218399.html 今川義元の母 寿桂尼も登場 葵区・簾野さん務める 静岡まつり] 静岡新聞 2023年4月4日閲覧</ref> </gallery> ; 大御所役(2・3日目) {|class="wikitable" !開催年!!2日目!!3日目!!開催年!!2日目!!3日目!!開催年!!2日目!!3日目 |- |1995年(第41回)||||||2005年(第51回)||[[金子貴俊]]||[[加藤茶]]||2016年(第61回)||[[山下真司]]||[[杉本彩]]<ref>静岡まつり史上初の女性が務める大御所役となった。</ref> |- |1996年(第42回)||[[加藤剛]]||[[小嶋善吉]]<ref>当時の静岡市長。前年までは大御所役を2日目は一般からの公募、3日目は静岡市長が務めていた。</ref>||2006年(第52回)||[[太川陽介]]||[[大和田伸也]]||2017年(第62回)||[[田村亮 (お笑い芸人)|田村亮]]||[[国広富之]] |- |1997年(第43回)||[[榎木孝明]]||[[黒沢年男]]||2007年(第53回)||[[宇梶剛士]]||[[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]]||2018年(第63回)||[[寺島進]]||[[泉谷しげる]] |- |1998年(第44回)||[[伊吹吾郎|伊吹吾朗]]||[[若林豪]]||2008年(第54回)||[[沢村一樹]]||[[萩原流行]]||2019年(第64回)||[[間寛平]]||[[磯村勇斗]] |- |1999年(第45回)||[[羽賀研二]]||[[藤岡弘、]]||2009年(第55回)||[[杉浦太陽]]||[[松方弘樹]]||2021年(第65回)||[[加藤諒]]||[[前川泰之]] |- |2000年(第46回)||[[勝野洋]]||[[渡辺裕之]]||2010年(第56回)||[[筧利夫]]||[[錦野旦]]||2022年(第66回)||[[鈴木福]]||[[保阪尚希]] |- |2001年(第47回)||[[野村将希]]||[[あおい輝彦]]||2012年(第57回)<ref>2011年の中止に伴い、同年の大御所役に決定していた2人(W中尾)を翌年に起用した。</ref>||[[中尾明慶]]||[[中尾彬]]||2023年(第67回)||[[田中直樹 (お笑い芸人)|田中直樹]]||[[別所哲也]] |- |2002年(第48回)||[[梅沢富美男]]||[[角田信朗]]||2013年(第58回)||[[金子昇]]||[[江守徹]]|||||| |- |2003年(第49回)||[[照英]]||[[舞の海秀平]]||2014年(第59回)||[[大沼啓延]]||[[風間トオル]]|||||| |- |2004年(第50回)||[[加勢大周]]||[[石原良純]]||2015年(第60回)||[[松田悟志]]||[[西郷輝彦]]|||||| |} ※2011年は、[[東日本大震災]]の影響で、2020年は、[[新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの感染]]の影響で、静岡まつりは中止となった。 === 夜桜乱舞 === [[File:Shizuoka Matsuri yozakura rambu.jpg|thumb|夜桜乱舞・総踊り(2023年)]] 駿府城下の追手町を舞台に、多くの市民が参加して家康が開いた花見の宴を盛り上げようと、市民参加型の踊り<ref name="shizuoka-1"/>。2日目には「総踊り」、3日目には「城下さくら踊り」が何れも追手町会場にて行われる<ref name="shizuoka-1"/>。 * 例年2日間で延べ1万人もの方が総踊りに参加する、市民参加型の行事である。 * 総踊りの曲は「平成[[ちゃっきり節]]」「さくら’96」「竹千代殿どん」「SAKURA Doo-Wap」「踊忘 ODOVO」の5曲。各曲ジャズアップバージョン、ジャズスローバージョン、[[日本舞踊]]バージョンがある。 * 1996年より開催されており、開催当初は「平成[[ちゃっきり節]]」「さくら’96」のみだった。 *主な参加チームに「[[静岡大学]]よさこいサークルお茶ノ子祭々」「[[常葉大学]] 常大祭り組」「[[静岡英和女学院中学校・高等学校|静岡英和女学院]]」「日本舞踊協会 静岡県支部」「[[静清信用金庫]]」「[[TOKAI]]グループ」などがある。 *当日飛び入り参加できる「竹千代連」がある。事前に連に参加せずともこれを用いることで1人から総踊りに参加することが可能。 *3日目は[[日本舞踊]]バージョン(「平成[[ちゃっきり節]]」「さくら’96」「竹千代殿どん」の3曲)のみとなる。 *練習用CD・DVDが[[静岡市役所]]にて販売されており、YouTubeにも練習用動画が一部[https://www.youtube.com/channel/UCB7NvRFypOfKV486dWYXg_Q 公開]されている。 *開催の約三か月前より、静岡市内の体育館などで夜桜乱舞公式練習会がインストラクターの指導の下行われている。 *当日の会場の模様を[[ケーブルテレビ]]「[[トコちゃんねる静岡]]」にて生放送・録画で放映される。 === 駿府登城行列 === 登城行列は2日目に行われ、大御所主催の花見に招かれた駿府の町民が時代衣装で着飾り、大御所への献上品を持ち大御所主催の花見に行進する市民参加型の行列である<ref name="shizuoka-1"/>。行列のコースは、静岡駅の南側にある伊河麻神社を出発し、石田街道から静岡駅コンコース、呉服町通り、青葉公園、駿府城西門から駿府城会場へと登城する<ref name="shizuoka-1"/>。尚、当日が雨天の場合は、行列は中止され翌日の3日目に行われる<ref name="shizuoka-1"/>。 === その他 === * [[2011年]]は、同年[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]を受けて被災地及びその関係者の心情等を考慮し、中止されることが公式に発表された<ref>[http://www.shizuokamatsuri.com/blog/index.php?e=110 第55回静岡まつり開催中止について] 静岡まつりオフィシャルブログ 2011年3月17日閲覧</ref>。 * [[2020年]]の静岡まつりは、[[2019新型コロナウイルス]]の感染拡大リスクを考慮して中止した。また[[静岡浅間神社]]廿日会祭は[[神事]]のみ実施、[[稚児行列]]等の催事は一切中止される。 * 2020年(令和2年)10月31日-11月3日の四日間、新型コロナウイルスの感染拡大によって中止となった「[[大道芸ワールドカップin静岡]]」や「[[清水みなと祭り]]」等の静岡市のイベントと官民共同の開催で、駿府城公園と青葉シンボルロードに於いて「静岡まつり秋の陣・Shizuoka Oneheart Days」として、春に中止を余儀なくされた静岡まつりの代替となるイベントを開催した。この日程は本来は「大道芸ワールドカップn静岡」の開催を予定していた日程だった。翌2021年は10月9日(初日は飲食ブースのみ開催)-10月31日に開催されたが、2021年は参加する団体が前年より大幅に減った状態での開催となっている。 * 2020年(令和2年)11月16日、「第65回静岡まつり」を2021年(令和3年)4月2日-4日に開催すると発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2020-11-17|url=https://shizuokamatsuri.com/information/65nd/|title=第65回静岡まつりの開催日が決定|publisher=静岡まつり実行委員会|accessdate=2020-11-23}}</ref>。2021年(令和3年)2月28日、「第65回静岡まつり」を、感染拡大対策を行った上で「大御所花見行列」、「市民総踊り・夜桜乱舞」等の催事を取り止め、駿府城公園内及び青葉シンボルロードでのステージイベントを主体にする等規模を縮小して開催する事を発表<ref>{{Cite web|和書|date=2021-02-28|url=https://shizuokamatsuri.com/news/reducing/|title=第65回静岡まつりは縮小して開催されます|publisher=静岡まつり実行委員会|accessdate=2021-03-03}}</ref>。 * [[2021年]]11月18日、「第66回静岡まつり」を、[[2022年]](令和4年)4月1日-3日に開催すると発表、また静岡[[流鏑馬]]の150年ぶりの復活を発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2021-11-18|url=https://shizuokamatsuri.com/|title=第66回静岡まつり|publisher=静岡まつり実行委員会|accessdate=2021-11-21}}</ref><ref name="abusame">[https://www.shizuoka-yabusame.com/ 「静岡流鏑馬プロジェクト始動」、静岡まつり実行委員会、2021年11月21日閲覧]</ref>。 * 一時「[[富士山コスプレ世界大会]]」とのコラボレーションによって、「登城行列」への[[コスプレイヤー]]の参加や、[[コスプレ]]ステージイベントが開催されたが、静岡まつりの実行委員会側が「徳川家康が家臣を引き連れて花見を行ったことに因む時代絵巻」という静岡まつりのコンセプトを提示し、[[和装]]キャラクターでの参加を求めていたにもかかわらず、そのコンセプトとは全く相容れない和装ではないキャラクターのコスプレを行うコスプレイヤーが多数現れたことや、駿府城公園内等の立入禁止区画に勝手に立ち入って撮影を行ったり、指定された更衣室以外の場所で着替えやメイクを行うなど、マナー違反行為を行う参加者が多発し多くの苦情が静岡まつり実行委員会側に寄せたこと、また富士山コスプレ世界大会の実行委員会がそれらの事象に対して何ら対処を行わなかったため、富士山コスプレ世界大会が静岡まつり実行委員会から以後のコラボレーションを拒絶される事態を招いている。結局2017年の三回目開催を最後にこれ以後、静岡まつり会場内に於いてコスプレイベントは一切行われなくなっている。尚、このコラボレーションが富士山コスプレ世界大会側からオファーがあったものか、静岡まつり側からのオファーであったのかは明らかではない。 * 静岡まつりが始まってからは長らく静岡市が主導となって企画、運営がなされていたが、後に市民ボランティアが中心となった「静岡まつり実行委員会」が立ち上げられ、行政主導から市民主導のイベントに移行している。しかし一方で、静岡まつりの起源ともなった静岡浅間神社廿日会祭との乖離が顕著となり、一時は双方が対立する状況ともなったが、後に双方が再び歩み寄る形で共同での催事を行うことも増えている。 == 関連項目 == * [[廿日会祭の稚児舞]] * [[時代行列]] * [[静岡浅間神社]] * [[清水みなと祭り]] == 脚註 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{commonscat|Shizuoka Matsuri}} * [http://www.shizuokamatsuri.com/ 静岡まつり公式ホームページ] {{DEFAULTSORT:しすおかまつり}} [[Category:静岡県の行事・イベント]] [[Category:静岡市の祭り]] [[Category:葵区]] [[Category:徳川家康|祭しすおか]] [[Category:4月]] {{event-stub}}
2009-09-30T13:15:16Z
2023-12-04T18:50:46Z
false
false
false
[ "Template:イベントインフォメーション", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:Event-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A
3,588,184
塚田桂祐
塚田 桂祐(つかだ けいすけ、1956年 〈昭和31年〉- )は、日本の自治・総務官僚。2016年より流通経済大学法学部教授。茨城県筑西市(旧・下館市)出身。 1975年(昭和50年)、茨城県立水戸第一高等学校を卒業。1980年(昭和55年)、東京大学法学部を卒業。自治省に入省。1986年(昭和61年)、ハーバード大学ケネディ・スクール修了。公共経営学修士を取得。 1992年(平成4年)、埼玉県企画財政部次長となる。1997年(平成9年)、徳島県商工労働部長となる。1999年(平成11年)、農林水産省農村整備・活性化対策室長となる。 2001年(平成13年)、一般財団法人自治体国際化協会シドニー事務所 所長となる。2007年(平成19年)、総務省大臣官房参事官となる。2009年(平成21年)、 自治大学校副校長となる。 2010年(平成22年)、消防庁国民保護・防災部長となる。2011年(平成23年)には新潟県新潟市副市長を務め、また明治大学公共政策大学院 兼任講師としても教鞭を執る。2015年(平成27年)、2015年埼玉県知事選挙に立候補する。2016年(平成28年)、流通経済大学法学部教授として教鞭を執る。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "塚田 桂祐(つかだ けいすけ、1956年 〈昭和31年〉- )は、日本の自治・総務官僚。2016年より流通経済大学法学部教授。茨城県筑西市(旧・下館市)出身。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1975年(昭和50年)、茨城県立水戸第一高等学校を卒業。1980年(昭和55年)、東京大学法学部を卒業。自治省に入省。1986年(昭和61年)、ハーバード大学ケネディ・スクール修了。公共経営学修士を取得。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1992年(平成4年)、埼玉県企画財政部次長となる。1997年(平成9年)、徳島県商工労働部長となる。1999年(平成11年)、農林水産省農村整備・活性化対策室長となる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)、一般財団法人自治体国際化協会シドニー事務所 所長となる。2007年(平成19年)、総務省大臣官房参事官となる。2009年(平成21年)、 自治大学校副校長となる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)、消防庁国民保護・防災部長となる。2011年(平成23年)には新潟県新潟市副市長を務め、また明治大学公共政策大学院 兼任講師としても教鞭を執る。2015年(平成27年)、2015年埼玉県知事選挙に立候補する。2016年(平成28年)、流通経済大学法学部教授として教鞭を執る。", "title": "経歴" } ]
塚田 桂祐は、日本の自治・総務官僚。2016年より流通経済大学法学部教授。茨城県筑西市(旧・下館市)出身。
{{no footnotes|date=2020年5月}} {{ページ番号|date=2020年5月}} '''塚田 桂祐'''(つかだ けいすけ、[[1956年]] 〈[[昭和]]31年〉- )は、[[日本]]の[[総務省|自治・総務]][[官僚]]。[[2016年]]より[[流通経済大学]][[法学部]][[教授]]。[[茨城県]][[筑西市]](旧・[[下館市]])出身。 == 経歴 == [[1975年]]([[昭和]]50年)、[[茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校|茨城県立水戸第一高等学校]]を卒業。[[1980年]](昭和55年)、[[東京大学法学部]]を卒業。[[自治省]]に入省。[[1986年]](昭和61年)、[[ハーバード大学]][[ケネディスクール|ケネディ・スクール]]修了。[[公共経営学修士]]を取得。 [[1992年]]([[平成]]4年)、[[埼玉県]]企画財政部次長となる。[[1997年]](平成9年)、[[徳島県]]商工労働部長となる。[[1999年]](平成11年)、[[農林水産省]]農村整備・活性化対策室長となる。 [[2001年]](平成13年)、[[一般財団法人]][[自治体国際化協会]][[シドニー]]事務所 所長となる。[[2007年]](平成19年)、[[総務省]][[大臣官房]][[参事官]]となる。[[2009年]](平成21年)、 [[自治大学校]]副校長となる。 [[2010年]](平成22年)、[[消防庁]]国民保護・防災部長となる。[[2011年]](平成23年)には[[新潟県]][[新潟市]][[副市町村長|副市長]]を務め、また[[明治大学]][[公共政策大学院]] 兼任講師としても教鞭を執る。[[2015年]](平成27年)、[[2015年埼玉県知事選挙]]に立候補する。[[2016年]](平成28年)、[[流通経済大学]]法学部教授として教鞭を執る。 == 公的な職務 == *[[自治大学校]] [[客員教授]] * [[日本経済研究所]] 理事 == 著書 == * 「[https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%AE%E3%82%80%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%81%AF%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%8B%E2%80%95%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E7%AE%A1%E7%90%86%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AD%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E5%9B%BD%E9%9B%A3%E6%89%93%E7%A0%B4%E3%81%AB%E5%8B%95%E3%81%8F-%E5%A1%9A%E7%94%B0-%E6%A1%82%E7%A5%90/dp/4885462509 縮む日本に未来はあるか 危機管理のプロとして国難打破に動く]」([[2013年]]3月,[[展望社]]) == 論文 == * 「消防の国際貢献-アジアを中心に」([[2007年]],「消防防災」([[東京法令出版]]) * 「消防防災政策 消防防災におけるテロ対策について」([[2007年]],「消防防災」(東京法令出版) * 「地方議会海外事情 豪州編(上・下)」([[2008年]],「[[日経グローカル]]」,[[日本経済新聞社]]産業地域研究所) ほか == 参考文献・外部リンク == * {{facebook|keisuke.tsukada.10}} * [http://tsukadakeisuke.com/ 塚田桂祐ホームページ] * [http://www.rku.ac.jp/faculty/professor/168 教員紹介 塚田桂祐] - 流通経済大学  {{先代次代|徳島県商工労働部長|1997年 - 1999年|[[森一喜]]|[[飛田昌利]]}} {{先代次代|消防庁国民保護・防災部長|2010年 - 2011年|[[武居丈二]]|[[佐々木克樹]]}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:つかた けいすけ}} [[Category:日本の総務官僚]] [[Category:日本の防災に関する人物]] [[Category:埼玉県知事選挙の立候補経験者]] [[Category:新潟市副市長]] [[Category:流通経済大学の教員]] [[Category:Master of Public Administration取得者]] [[Category:法学士取得者]] [[Category:ハーバード大学出身の人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:茨城県立水戸第一高等学校出身の人物]] [[Category:茨城県出身の人物]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]]
2017-04-25T02:39:53Z
2023-12-25T13:03:12Z
false
false
false
[ "Template:No footnotes", "Template:ページ番号", "Template:Facebook", "Template:先代次代", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E7%94%B0%E6%A1%82%E7%A5%90
27,467
高血圧
高血圧(こうけつあつ、英語: Hypertension、高血圧症)とは、血圧が正常範囲を超えて高く維持されている状態のことを指す。高血圧自体の自覚症状は何もないことが多いが、虚血性心疾患、脳卒中、腎不全などの発症原因となるので臨床的には重大な状態である。 生活習慣病のひとつとされ、厚生労働省(2013年度)は男女共に最も通院者率が高い疾患として公表している(2位は男性が糖尿病、女性が腰痛)。 アメリカ合衆国では1995年に、成人全体の24%には高血圧があり、そのうちの53%の人は降圧剤を服用していた。日本高血圧学会によると、日本には4000万人の高血圧の人がいると推定されている。肥満、脂質異常症、糖尿病との合併は死の四重奏、syndrome X、インスリン抵抗性症候群などと称されていたが、これらは現在メタボリックシンドロームと呼ばれる。 日本高血圧学会では高血圧の基準を以下のように定めている。 すなわち、収縮期血圧が140mmHg以上または拡張期血圧が90mmHg以上に保たれた状態が高血圧であるとされている。しかし、近年の研究では血圧は高ければ高いだけ合併症のリスクが高まるため、収縮期血圧で120mmHg未満が生体の血管にとって負担が少ない血圧レベルとされている。 ここでの注意点は、血圧が高い状態が持続することが問題となるのであり、運動時や緊張した場合などの一過性の高血圧についての言及ではないことである。高血圧の診断基準は数回の測定の平均値を対象としている。運動や精神的な興奮で一過性に血圧が上がるのは生理的な反応であり、これは高血圧の概念とは違うものである。 血圧は1日の中でも変動している。そのため、計測する時間帯には正常値の基準を満たしているものの、その他のほとんどの時間帯には高血圧となっている場合がある。これを仮面高血圧と呼ぶ。また降圧剤が処方されている場合でも、その効果が切れている時間帯では安全域を外れている場合もあり、この点にも留意する必要がある。逆に、普段は正常血圧状態ではあるが、診察室で医師が測定すると血圧が上昇して、高血圧と診断されてしまう場合もあり、白衣高血圧と呼ばれる。 糖尿病患者では起立性低血圧の症例が有るため、座位だけでなく臥位・立位でも測定する。 上腕の血圧測定結果で左右の血圧差が生じることがある。血圧差は、上腕動脈或いは鎖骨下動脈の病変に起因すると考えられ、差が10mmHg以上の患者は心血管疾患による死亡リスクが有意に高い。また、家庭で測定を行う場合は高い側の腕で測定を行うことが推奨されている。 などとしている。 収縮期血圧の目標値は数回にわたり引き下げの変更が行われている。 大櫛ら(2008) によれば、血圧と死亡率を年令の関連をグラフにすると、120/80mmHg未満での死亡率が有意に低くなり、一見すると「血圧は低ければ低いほどよい」ように見えるが、年令別にみると男女共に年令に関係なく160/100mmHg未満までは循環器系疾患死亡率が上昇しない。一方、180/110mmHg以上の人を160/100mmHgと強く下げた場合に死亡率が上昇する傾向がある。また、高血圧症治療(降圧薬服用)は全ての世代でリスク要因であった。さらに、「基準値を年齢別・性別に設定すべきである」「160/100mmHg 以下では健康リスクとならない」「薬物治療は180/110mmHg以上を限定とし降圧は20mmHgまでとする」などの指摘を行っている。 血圧以外のリスク要因を加味し下記のように層別化される。 ※CeVD:脳血管疾患、af:心房細動、CKD:慢性腎臓病 現在、原因が特定できている場合とそうでない場合で大きく二分類して、原疾患が不明な「本態性高血圧症」と、特定の原因が明らかになっている「二次性高血圧」に分類するということが行われている。 現在の医学では、「本態性高血圧症」の割合がかなり多い。つまり現在の医学のレベルでは高血圧に関しては原因があまりよく判っていない場合のほうが多いということである。ただしこの二分類は、固定的に理解するのはあまり正しいとは言えず、医師が仕事を進めるうえでの便宜的なものだと理解したほうがよい。生物学的な原因と環境的な原因の両方が関与している可能性がある。 アメリカ心臓協会に発表された論文によれば、ラットによる動物実験で腸内細菌叢における腸内毒素症 (Dysbiosis) との関連を示したと報告された。アメリカ心臓協会は、抗生物質による高血圧治療を示した。 「二次性高血圧」(原因が特定されているもの)に関しては、いろいろな場合がある。 本態性高血圧の原因については、原因のよく判らないものを「本態性高血圧症」と呼ぶことにしているので、良く判っていないとされているが、「原因は単一ではなく、両親から受け継いだ遺伝的素因が、生まれてから成長し、高齢化するまでの食事、ストレスなどのさまざまな環境因子によって修飾されて高血圧が発生する」という説(モザイク説)がある。 食塩感受性高血圧の病態については、諸説あるが、名古屋市立大学医学部の木村玄次郎の説では摂取したナトリウムを腎から排泄しきれず、夜間も腎臓でナトリウム排泄のため多くの血流を要するnon-dipper型高血圧(夜間高血圧)が良い説明モデルとなる。non-dipper型高血圧ではナトリウム排泄を促進する利尿剤を投与することでnon-dipper型がdipper型へと変化することが認められており、ナトリウム排泄が食塩感受性の有無を規定する因子のひとつと論じている。 脂肪細胞が肥大化すると、血圧に関連して次のことが起こる。 これらのことにより高血圧を招く。肥満患者において高血圧症が多いのはこのためである。 肥満によるインスリン抵抗性は高インスリン血症をきたす。高インスリン血症は、腎尿細管へ直接作用してナトリウム貯留を引き起こし、これが水分を貯留し結果として血糖値を下げる作用につながるが、水分の貯留により高血圧を発症させることとなる。 この他、脳血管障害の急性期に著明な高血圧を来たすことが知られている。脳出血では応急的な降圧が必要だが、脳梗塞では寧ろ脳血流を保てなくなる恐れがあるため、降圧は行われない。 高血圧が持続すると強い圧力の血流が動脈の内膜にずり応力を加えると同時に血管内皮から血管収縮物質が分泌されることで、血管内皮が障害される。この修復過程で粥腫(アテローム)が形成され、動脈硬化の原因となる。慢性的疾患は大きく 「脳血管障害」、「心臓疾患」、「腎臓疾患」、「血管疾患」の4つに分類され、高血圧によって生じる動脈硬化の結果、以下のような合併症が発生する。 血圧は変動しやすいので、高血圧の診断は少なくとも2回以上の異なる機会における血圧測定値に基づいて行われるべきである。最近は家庭血圧計が普及しているが、家庭で自分自身で測定した血圧値の方が、診察室で医師や看護師によって測定した血圧値よりも将来の脳卒中や心筋梗塞の予測に有用であるとする疫学調査結果が相次いで報告されている。診察室での血圧測定では、白衣高血圧(医師による測定では本来の血圧より高くなる現象)や仮面高血圧(普段は高血圧なのに、診察室では正常血圧となる現象)が生じるため、必ずしも本来の血圧値を反映していないという考え方が普及している。家庭での正常血圧値は診察室での血圧値よりもやや低いために、家庭血圧では135/85mmHg以上を高血圧とする。家庭では朝食前に2回血圧を測定することが望ましい。心筋梗塞や脳卒中の発症は朝起床後に多発することから、早朝の高血圧管理が重要である。 脳卒中や心筋梗塞の発症には高血圧のみならず、喫煙、高脂血症、糖尿病、肥満などの他の危険因子も関与するために、危険因子や合併症も考慮した高血圧の層別化によって将来の脳卒中、心筋梗塞の危険度の予測能が高まる。 動脈硬化の診断や、腎機能、血圧反射機能といった自律神経機能などの診断も病態の把握に重要であり、動脈硬化の定量診断には脈波伝播速度計測なども行われている。血圧反射機能診断のためには、血圧変化に対する心拍反応や、動脈の血圧反射機能を診断する方法論も提案されている。精密な病態の診断が最適な治療には不可欠である。 臨床的には心臓超音波検査(心エコー)において、心重量の増大や左室肥大が観察される。 高血圧治療ガイドラインに定められた期間の食事療法や運動療法を行い、それでも140/90mmHgを超えている場合は降圧薬による薬物治療を開始する。 減塩1g/日ごとに収縮期血圧が約1mmHg減少するとの報告があり、原因によらず、ほぼ全ての高血圧患者で塩分(塩化ナトリウム)摂取制限は必須である。2006年の米国心臓協会(AHA)の勧告による食塩換算値の理想的な摂取量は3.8g/日以下とされているが、日本では目標値として6g/日以下が用いられている。日本の国民栄養調査によれば、「塩分制限をしている」と答えた人は、平均1.6gの食塩を減らしているに過ぎず、日本では多くの高血圧患者が、6g/日未満の目標値を達成できていない。欧米の介入試験の成績をみると、少なくとも6.5g/日まで食塩摂取量を落とさなければ有意の降圧は達成できない。 食品の含有量が食塩(塩化ナトリウム:NaCl)でなくナトリウム (Na) の表示の場合は、2.5倍して塩化ナトリウムに換算する。健康ブームに乗って「この天然塩はミネラル豊富なため多く摂っても高血圧にならない」などの宣伝が散見されるが、このような文言をうのみにすることは危険である。上記メカニズムにより、問題は塩の質ではなくナトリウムの量である。また、炭酸水素ナトリウム(重曹)やグルタミン酸ナトリウム(アミノ酸など)もナトリウム源となる。調味料として塩分をほとんど摂取しないヤノマミ族には高血圧を発症するものはおらず、健康に生活している ことから、日常生活で醤油・味噌を用いる日本では調味料としての食塩の摂取下限はないと考えられている。摂取する食塩の多く(77%)は、加工食品やレストランの食事に含まれる食塩である。なお、高血圧患者において、減塩療法だけで血圧を正常化できるのは、全患者の30%から40%とする報告がある。科学的研究が一貫して明らかにしているのは、食塩摂取を適度に減らすと、全ての年齢集団や民族集団において、高血圧の人でも正常血圧の人でも、程度の差はあっても、血圧が低下することである。 多数の人口を対象にした大規模な研究により判明しているのは、生活習慣の改善を行って、わずかな降圧しか達成されなかった場合でも、長い経過の中では、心血管系の病気のリスクを減らしていることである。英国の CASH(食塩と健康に関する合意形成運動)は、摂取食塩を1日に1gずつ減らすことができれば、英国全体では脳卒中と心筋梗塞を1年に1万3000件減らすことができると推定している。また、ある研究者は、米国において1日に3gの食塩を減らすことができれば、脳卒中を年に3万2000件〜6万6000件、心筋梗塞を年に5万4000件〜9万9000件減らすことができると推定してる。 減塩には、あらゆる関係者の努力が必要である。とくに、消費者自身が意図的に食塩を減らすこと、食品産業が加工食品中の食塩を減らすこと、一般向けに減塩のキャンペーンを行うことが重要である。フィンランド、英国、米国では、食品産業の協力を得て、減塩プログラムを実施し、意図的に食塩を減らすことに成功している。例えば英国では、最近、食品中の食塩を20%〜30%減らすことに成功した。減塩は、欧米諸国の政府の重要な政策課題となっており、最近の日本における減塩の取り組みは、国際的に見て相当に遅れている。 摂取食塩量の推定には、食べた食事から計算する方法、24時間の蓄尿を検査する方法、随時尿のクレアチニン値から推定する方法 がある。 血圧上昇を抑制する作用があり、早朝スポット尿検査からもカリウム摂取は重要と考えられている。カリウム摂取量が多い成人ほど収縮期および拡張期血圧が有意に低く、脳卒中リスクも低いことが報告されている。2012年WHO は、カリウム摂取のガイドラインを初めて発表し、推奨摂取量を90mmol/日(3519mg)以上とした。(カリウム 1mmol = 39.1mg) 腎臓に障害がなくカリウムを摂取しても問題がなければ、カリウムを豊富に含む野菜や果物や豆の摂取を増やすことによる降圧が期待できる。 マグネシウム、カルシウムにも、カリウムと同様の作用がある。 酒の摂取では一時的な血管拡張により降圧するが、飲酒習慣は血圧を上昇させることはよく知られている。毎日の飲酒習慣は 10歳の加齢に相当する血圧値を示す。降圧効果は1 - 2週間以内に現れる。大量飲酒者は急に飲酒の制限を行うと血圧上昇をすことがあるが、飲酒制限の継続により数日後から血圧は下がる。 エタノール換算量は、男性が20 - 30ml/日(日本酒換算1合前後)、女性が10 - 20ml/日、これ以下にするべきである。 米国政府は、高血圧を治療する食事療法としてダッシュダイエットを勧めている。野菜、果物、低脂肪乳を多く摂って、砂糖を減らすダイエットである。ある研究者が、降圧の効果を、減塩、運動、減量、節酒、ダッシュダイエット、で比較したところ、降圧が最も大きかったのは、ダッシュダイエットであった。米国心臓病協会AHAもダッシュダイエットを推奨している。 疫学研究から寒冷が血圧を上げることが示され、季節では冬季に血圧が高い。高血圧患者では冬季の寒冷刺激を緩和するために、トイレや浴室などの暖房も望まれる。入浴は熱すぎる風呂、冷水浴、サウナは避けるべきである。便秘に伴う排便時のいきみは、血圧を上昇させるので避ける。 夕食後から就寝までの時間が2時間未満の集団と、3 - 4時間空けた集団のロジスティック回帰分析を行った結果、3〜4時間空けると高血圧の予防につながる可能性が示唆された。 運動により拡張期血圧4-8mmHgの降圧が認められている。 有酸素運動が推奨されてきたが、木津直昭、稲島司らは、歩行速度との関連が指摘され速く歩くことが効果的と主張している。 喫煙など動脈硬化を促進する生活習慣も断つ必要がある。喫煙はβ遮断薬の降圧効果を減じる作用がある。 近年は大規模臨床試験がいくつも出そろい、高血圧治療指針(ガイドライン)では科学的根拠に基づいた降圧薬の選択を推奨している。 日本では依然として主治医の裁量ではある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "高血圧(こうけつあつ、英語: Hypertension、高血圧症)とは、血圧が正常範囲を超えて高く維持されている状態のことを指す。高血圧自体の自覚症状は何もないことが多いが、虚血性心疾患、脳卒中、腎不全などの発症原因となるので臨床的には重大な状態である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "生活習慣病のひとつとされ、厚生労働省(2013年度)は男女共に最も通院者率が高い疾患として公表している(2位は男性が糖尿病、女性が腰痛)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では1995年に、成人全体の24%には高血圧があり、そのうちの53%の人は降圧剤を服用していた。日本高血圧学会によると、日本には4000万人の高血圧の人がいると推定されている。肥満、脂質異常症、糖尿病との合併は死の四重奏、syndrome X、インスリン抵抗性症候群などと称されていたが、これらは現在メタボリックシンドロームと呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本高血圧学会では高血圧の基準を以下のように定めている。", "title": "定義(診断)" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "すなわち、収縮期血圧が140mmHg以上または拡張期血圧が90mmHg以上に保たれた状態が高血圧であるとされている。しかし、近年の研究では血圧は高ければ高いだけ合併症のリスクが高まるため、収縮期血圧で120mmHg未満が生体の血管にとって負担が少ない血圧レベルとされている。", "title": "定義(診断)" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ここでの注意点は、血圧が高い状態が持続することが問題となるのであり、運動時や緊張した場合などの一過性の高血圧についての言及ではないことである。高血圧の診断基準は数回の測定の平均値を対象としている。運動や精神的な興奮で一過性に血圧が上がるのは生理的な反応であり、これは高血圧の概念とは違うものである。", "title": "定義(診断)" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "血圧は1日の中でも変動している。そのため、計測する時間帯には正常値の基準を満たしているものの、その他のほとんどの時間帯には高血圧となっている場合がある。これを仮面高血圧と呼ぶ。また降圧剤が処方されている場合でも、その効果が切れている時間帯では安全域を外れている場合もあり、この点にも留意する必要がある。逆に、普段は正常血圧状態ではあるが、診察室で医師が測定すると血圧が上昇して、高血圧と診断されてしまう場合もあり、白衣高血圧と呼ばれる。", "title": "定義(診断)" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "糖尿病患者では起立性低血圧の症例が有るため、座位だけでなく臥位・立位でも測定する。", "title": "定義(診断)" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "上腕の血圧測定結果で左右の血圧差が生じることがある。血圧差は、上腕動脈或いは鎖骨下動脈の病変に起因すると考えられ、差が10mmHg以上の患者は心血管疾患による死亡リスクが有意に高い。また、家庭で測定を行う場合は高い側の腕で測定を行うことが推奨されている。", "title": "定義(診断)" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "などとしている。", "title": "定義(診断)" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "収縮期血圧の目標値は数回にわたり引き下げの変更が行われている。", "title": "定義(診断)" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "大櫛ら(2008) によれば、血圧と死亡率を年令の関連をグラフにすると、120/80mmHg未満での死亡率が有意に低くなり、一見すると「血圧は低ければ低いほどよい」ように見えるが、年令別にみると男女共に年令に関係なく160/100mmHg未満までは循環器系疾患死亡率が上昇しない。一方、180/110mmHg以上の人を160/100mmHgと強く下げた場合に死亡率が上昇する傾向がある。また、高血圧症治療(降圧薬服用)は全ての世代でリスク要因であった。さらに、「基準値を年齢別・性別に設定すべきである」「160/100mmHg 以下では健康リスクとならない」「薬物治療は180/110mmHg以上を限定とし降圧は20mmHgまでとする」などの指摘を行っている。", "title": "定義(診断)" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "血圧以外のリスク要因を加味し下記のように層別化される。", "title": "リスク分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "※CeVD:脳血管疾患、af:心房細動、CKD:慢性腎臓病", "title": "リスク分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "現在、原因が特定できている場合とそうでない場合で大きく二分類して、原疾患が不明な「本態性高血圧症」と、特定の原因が明らかになっている「二次性高血圧」に分類するということが行われている。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現在の医学では、「本態性高血圧症」の割合がかなり多い。つまり現在の医学のレベルでは高血圧に関しては原因があまりよく判っていない場合のほうが多いということである。ただしこの二分類は、固定的に理解するのはあまり正しいとは言えず、医師が仕事を進めるうえでの便宜的なものだと理解したほうがよい。生物学的な原因と環境的な原因の両方が関与している可能性がある。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アメリカ心臓協会に発表された論文によれば、ラットによる動物実験で腸内細菌叢における腸内毒素症 (Dysbiosis) との関連を示したと報告された。アメリカ心臓協会は、抗生物質による高血圧治療を示した。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "「二次性高血圧」(原因が特定されているもの)に関しては、いろいろな場合がある。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "本態性高血圧の原因については、原因のよく判らないものを「本態性高血圧症」と呼ぶことにしているので、良く判っていないとされているが、「原因は単一ではなく、両親から受け継いだ遺伝的素因が、生まれてから成長し、高齢化するまでの食事、ストレスなどのさまざまな環境因子によって修飾されて高血圧が発生する」という説(モザイク説)がある。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "食塩感受性高血圧の病態については、諸説あるが、名古屋市立大学医学部の木村玄次郎の説では摂取したナトリウムを腎から排泄しきれず、夜間も腎臓でナトリウム排泄のため多くの血流を要するnon-dipper型高血圧(夜間高血圧)が良い説明モデルとなる。non-dipper型高血圧ではナトリウム排泄を促進する利尿剤を投与することでnon-dipper型がdipper型へと変化することが認められており、ナトリウム排泄が食塩感受性の有無を規定する因子のひとつと論じている。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "脂肪細胞が肥大化すると、血圧に関連して次のことが起こる。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これらのことにより高血圧を招く。肥満患者において高血圧症が多いのはこのためである。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "肥満によるインスリン抵抗性は高インスリン血症をきたす。高インスリン血症は、腎尿細管へ直接作用してナトリウム貯留を引き起こし、これが水分を貯留し結果として血糖値を下げる作用につながるが、水分の貯留により高血圧を発症させることとなる。", "title": "原因" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この他、脳血管障害の急性期に著明な高血圧を来たすことが知られている。脳出血では応急的な降圧が必要だが、脳梗塞では寧ろ脳血流を保てなくなる恐れがあるため、降圧は行われない。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "高血圧が持続すると強い圧力の血流が動脈の内膜にずり応力を加えると同時に血管内皮から血管収縮物質が分泌されることで、血管内皮が障害される。この修復過程で粥腫(アテローム)が形成され、動脈硬化の原因となる。慢性的疾患は大きく 「脳血管障害」、「心臓疾患」、「腎臓疾患」、「血管疾患」の4つに分類され、高血圧によって生じる動脈硬化の結果、以下のような合併症が発生する。", "title": "高血圧の合併症" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "血圧は変動しやすいので、高血圧の診断は少なくとも2回以上の異なる機会における血圧測定値に基づいて行われるべきである。最近は家庭血圧計が普及しているが、家庭で自分自身で測定した血圧値の方が、診察室で医師や看護師によって測定した血圧値よりも将来の脳卒中や心筋梗塞の予測に有用であるとする疫学調査結果が相次いで報告されている。診察室での血圧測定では、白衣高血圧(医師による測定では本来の血圧より高くなる現象)や仮面高血圧(普段は高血圧なのに、診察室では正常血圧となる現象)が生じるため、必ずしも本来の血圧値を反映していないという考え方が普及している。家庭での正常血圧値は診察室での血圧値よりもやや低いために、家庭血圧では135/85mmHg以上を高血圧とする。家庭では朝食前に2回血圧を測定することが望ましい。心筋梗塞や脳卒中の発症は朝起床後に多発することから、早朝の高血圧管理が重要である。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "脳卒中や心筋梗塞の発症には高血圧のみならず、喫煙、高脂血症、糖尿病、肥満などの他の危険因子も関与するために、危険因子や合併症も考慮した高血圧の層別化によって将来の脳卒中、心筋梗塞の危険度の予測能が高まる。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "動脈硬化の診断や、腎機能、血圧反射機能といった自律神経機能などの診断も病態の把握に重要であり、動脈硬化の定量診断には脈波伝播速度計測なども行われている。血圧反射機能診断のためには、血圧変化に対する心拍反応や、動脈の血圧反射機能を診断する方法論も提案されている。精密な病態の診断が最適な治療には不可欠である。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "臨床的には心臓超音波検査(心エコー)において、心重量の増大や左室肥大が観察される。", "title": "診断" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "高血圧治療ガイドラインに定められた期間の食事療法や運動療法を行い、それでも140/90mmHgを超えている場合は降圧薬による薬物治療を開始する。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "減塩1g/日ごとに収縮期血圧が約1mmHg減少するとの報告があり、原因によらず、ほぼ全ての高血圧患者で塩分(塩化ナトリウム)摂取制限は必須である。2006年の米国心臓協会(AHA)の勧告による食塩換算値の理想的な摂取量は3.8g/日以下とされているが、日本では目標値として6g/日以下が用いられている。日本の国民栄養調査によれば、「塩分制限をしている」と答えた人は、平均1.6gの食塩を減らしているに過ぎず、日本では多くの高血圧患者が、6g/日未満の目標値を達成できていない。欧米の介入試験の成績をみると、少なくとも6.5g/日まで食塩摂取量を落とさなければ有意の降圧は達成できない。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "食品の含有量が食塩(塩化ナトリウム:NaCl)でなくナトリウム (Na) の表示の場合は、2.5倍して塩化ナトリウムに換算する。健康ブームに乗って「この天然塩はミネラル豊富なため多く摂っても高血圧にならない」などの宣伝が散見されるが、このような文言をうのみにすることは危険である。上記メカニズムにより、問題は塩の質ではなくナトリウムの量である。また、炭酸水素ナトリウム(重曹)やグルタミン酸ナトリウム(アミノ酸など)もナトリウム源となる。調味料として塩分をほとんど摂取しないヤノマミ族には高血圧を発症するものはおらず、健康に生活している ことから、日常生活で醤油・味噌を用いる日本では調味料としての食塩の摂取下限はないと考えられている。摂取する食塩の多く(77%)は、加工食品やレストランの食事に含まれる食塩である。なお、高血圧患者において、減塩療法だけで血圧を正常化できるのは、全患者の30%から40%とする報告がある。科学的研究が一貫して明らかにしているのは、食塩摂取を適度に減らすと、全ての年齢集団や民族集団において、高血圧の人でも正常血圧の人でも、程度の差はあっても、血圧が低下することである。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "多数の人口を対象にした大規模な研究により判明しているのは、生活習慣の改善を行って、わずかな降圧しか達成されなかった場合でも、長い経過の中では、心血管系の病気のリスクを減らしていることである。英国の CASH(食塩と健康に関する合意形成運動)は、摂取食塩を1日に1gずつ減らすことができれば、英国全体では脳卒中と心筋梗塞を1年に1万3000件減らすことができると推定している。また、ある研究者は、米国において1日に3gの食塩を減らすことができれば、脳卒中を年に3万2000件〜6万6000件、心筋梗塞を年に5万4000件〜9万9000件減らすことができると推定してる。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "減塩には、あらゆる関係者の努力が必要である。とくに、消費者自身が意図的に食塩を減らすこと、食品産業が加工食品中の食塩を減らすこと、一般向けに減塩のキャンペーンを行うことが重要である。フィンランド、英国、米国では、食品産業の協力を得て、減塩プログラムを実施し、意図的に食塩を減らすことに成功している。例えば英国では、最近、食品中の食塩を20%〜30%減らすことに成功した。減塩は、欧米諸国の政府の重要な政策課題となっており、最近の日本における減塩の取り組みは、国際的に見て相当に遅れている。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "摂取食塩量の推定には、食べた食事から計算する方法、24時間の蓄尿を検査する方法、随時尿のクレアチニン値から推定する方法 がある。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "血圧上昇を抑制する作用があり、早朝スポット尿検査からもカリウム摂取は重要と考えられている。カリウム摂取量が多い成人ほど収縮期および拡張期血圧が有意に低く、脳卒中リスクも低いことが報告されている。2012年WHO は、カリウム摂取のガイドラインを初めて発表し、推奨摂取量を90mmol/日(3519mg)以上とした。(カリウム 1mmol = 39.1mg)", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "腎臓に障害がなくカリウムを摂取しても問題がなければ、カリウムを豊富に含む野菜や果物や豆の摂取を増やすことによる降圧が期待できる。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "マグネシウム、カルシウムにも、カリウムと同様の作用がある。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "酒の摂取では一時的な血管拡張により降圧するが、飲酒習慣は血圧を上昇させることはよく知られている。毎日の飲酒習慣は 10歳の加齢に相当する血圧値を示す。降圧効果は1 - 2週間以内に現れる。大量飲酒者は急に飲酒の制限を行うと血圧上昇をすことがあるが、飲酒制限の継続により数日後から血圧は下がる。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "エタノール換算量は、男性が20 - 30ml/日(日本酒換算1合前後)、女性が10 - 20ml/日、これ以下にするべきである。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "米国政府は、高血圧を治療する食事療法としてダッシュダイエットを勧めている。野菜、果物、低脂肪乳を多く摂って、砂糖を減らすダイエットである。ある研究者が、降圧の効果を、減塩、運動、減量、節酒、ダッシュダイエット、で比較したところ、降圧が最も大きかったのは、ダッシュダイエットであった。米国心臓病協会AHAもダッシュダイエットを推奨している。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "疫学研究から寒冷が血圧を上げることが示され、季節では冬季に血圧が高い。高血圧患者では冬季の寒冷刺激を緩和するために、トイレや浴室などの暖房も望まれる。入浴は熱すぎる風呂、冷水浴、サウナは避けるべきである。便秘に伴う排便時のいきみは、血圧を上昇させるので避ける。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "夕食後から就寝までの時間が2時間未満の集団と、3 - 4時間空けた集団のロジスティック回帰分析を行った結果、3〜4時間空けると高血圧の予防につながる可能性が示唆された。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "運動により拡張期血圧4-8mmHgの降圧が認められている。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "有酸素運動が推奨されてきたが、木津直昭、稲島司らは、歩行速度との関連が指摘され速く歩くことが効果的と主張している。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "喫煙など動脈硬化を促進する生活習慣も断つ必要がある。喫煙はβ遮断薬の降圧効果を減じる作用がある。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "近年は大規模臨床試験がいくつも出そろい、高血圧治療指針(ガイドライン)では科学的根拠に基づいた降圧薬の選択を推奨している。", "title": "管理・治療" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "日本では依然として主治医の裁量ではある。", "title": "管理・治療" } ]
高血圧とは、血圧が正常範囲を超えて高く維持されている状態のことを指す。高血圧自体の自覚症状は何もないことが多いが、虚血性心疾患、脳卒中、腎不全などの発症原因となるので臨床的には重大な状態である。 生活習慣病のひとつとされ、厚生労働省(2013年度)は男女共に最も通院者率が高い疾患として公表している(2位は男性が糖尿病、女性が腰痛)。 アメリカ合衆国では1995年に、成人全体の24%には高血圧があり、そのうちの53%の人は降圧剤を服用していた。日本高血圧学会によると、日本には4000万人の高血圧の人がいると推定されている。肥満、脂質異常症、糖尿病との合併は死の四重奏、syndrome X、インスリン抵抗性症候群などと称されていたが、これらは現在メタボリックシンドロームと呼ばれる。
{{Expand English|fa=yes|date=2023年11月}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2016年12月 | ソートキー = 医 | 更新 = 2023年11月6日 (月) 04:23 (UTC) | 独自研究 = 2019年11月6日 (水) 23:45 (UTC) }} {{Infobox Disease |Name = 高血圧 / 高血圧症 |Image =Grade 1 hypertension.jpg |Width = 250px |Alt = |Caption = 動脈性高血圧を示している[[血圧計#自動血圧計|自動血圧計]](収縮期血圧(最高血圧)158[[水銀柱ミリメートル|水銀柱ミリメートル (mmHg)]]、拡張期血圧(最低血圧)99mmHg、[[心拍数]]80bpmを表示している) |ICD10 = {{ICD10|I|10||i|10}},{{ICD10|I|11||i|10}},{{ICD10|I|12||i|10}},<br>{{ICD10|I|13||i|10}},{{ICD10|I|15||i|10}} |ICD9 = {{ICD9|401.x}} |ICDO = |OMIM = 145500 |DiseasesDB = 6330 |MedlinePlus = 000468 |eMedicineSubj = med |eMedicineTopic = 1106 |MeshID = D006973 |MeshName = |GeneReviewsID = |GeneReviewsName = |KEGG = <!-- KEGG ヒト疾患 --> }} '''高血圧'''(こうけつあつ、{{lang-en|Hypertension}}、高血圧症)とは、[[血圧]]が正常範囲を超えて高く維持されている状態のことを指す。高血圧自体の[[自覚症状]]は何もないことが多いが、[[虚血性心疾患]]、[[脳卒中]]、[[腎不全]]などの発症原因となるので[[臨床]]的には重大な状態である。 '''[[生活習慣病]]'''のひとつとされ、[[厚生労働省]](2013年度)は男女共に最も通院者率が高い疾患として公表している(2位は男性が[[糖尿病]]、女性が[[腰痛]])。 [[アメリカ合衆国]]では1995年に、成人全体の24%には高血圧があり、そのうちの53%の人は[[降圧剤]]を服用していた<ref>[http://hyper.ahajournals.org/content/25/3/305.full Prevalence of Hypertension in the US Adult Population] Hypertension. 1995;25:305-313</ref>。[[日本高血圧学会]]によると、日本には4000万人の高血圧の人がいると推定されている。[[肥満]]、[[脂質異常症]]、[[糖尿病]]との合併は死の四重奏、syndrome X、[[インスリン]]抵抗性症候群などと称されていたが、これらは現在[[メタボリックシンドローム]]と呼ばれる。 == 定義(診断) == [[日本高血圧学会]]では高血圧の基準を以下のように定めている<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.jpnsh.jp/data/jsh2019/JSH2019_hp.pdf|title=高血圧治療ガイドライン 2019|accessdate=2021-11-24|publisher=日本高血圧学会|format=PDF}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+成人における血圧値の分類([[mmHg]]) |- !分類!!収縮期血圧|| !!拡張期血圧 |- |style="text-align:left" | 正常血圧 |style="text-align:center"|120未満||かつ||80未満 |- |style="text-align:left" | 正常高値血圧 |style="text-align:center"|120から129||かつ||80未満 |- |style="text-align:left" | 高値血圧 |style="text-align:center"|130から139||または||80から89 |- |style="text-align:left" | I度(軽症)高血圧 |style="text-align:center"|140から159||または||90から99 |- |style="text-align:left" | II度(中等症)高血圧 |style="text-align:center"|160から179||または||100から109 |- |style="text-align:left" | III度(重症)高血圧 |style="text-align:center"|180以上||または||110以上 |- |style="text-align:left" | 収縮期高血圧 |style="text-align:center"|140以上||かつ||90未満 |- |} すなわち、[[収縮期血圧]]が140mmHg以上または[[拡張期血圧]]が90mmHg以上に保たれた状態が高血圧であるとされている。しかし、近年の研究では血圧は高ければ高いだけ[[合併症]]のリスクが高まるため、収縮期血圧で120mmHg未満が生体の[[血管]]にとって負担が少ない血圧レベルとされている。 ここでの注意点は、血圧が高い状態が持続することが問題となるのであり、運動時や緊張した場合などの一過性の高血圧についての言及ではないことである。高血圧の診断基準は数回の測定の平均値を対象としている。運動や精神的な興奮で一過性に血圧が上がるのは生理的な反応であり、これは高血圧の概念とは違うものである。 血圧は1日の中でも変動している。そのため、計測する時間帯には正常値の基準を満たしているものの、その他のほとんどの時間帯には高血圧となっている場合がある。これを'''[[仮面高血圧]]'''と呼ぶ。また降圧剤が処方されている場合でも、その効果が切れている時間帯では安全域を外れている場合もあり、この点にも留意する必要がある。逆に、普段は正常血圧状態ではあるが、診察室で医師が測定すると血圧が上昇して、高血圧と診断されてしまう場合もあり、'''[[白衣高血圧]]'''と呼ばれる。 糖尿病患者では起立性[[低血圧]]の症例が有るため、座位だけでなく臥位・立位でも測定する。 上腕の血圧測定結果で左右の血圧差が生じることがある。血圧差は、上腕動脈或いは鎖骨下動脈の病変に起因すると考えられ、差が10mmHg以上の患者は心血管疾患による死亡リスクが有意に高い<ref>[https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/gakkai/esh2011/201106/520425.html 上腕血圧の左右差が大きいと死亡リスク上昇の可能性 第21回欧州高血圧学会:学会ダイジェスト] 日経メディカルオンライン 2011年6月24日配信 2011年6月27日閲覧。</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.arterial-stiffness.com/pdf/no08/048_049.pdf 一般地域住民における上腕血圧の 左右差に関する特徴と関連要因]}}</ref>。また、家庭で測定を行う場合は高い側の腕で測定を行うことが推奨されている<ref>[http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/disease/hypertension.html 高血圧疾病一覧] 国立循環器病情報サービス</ref>。 * 日本高血圧学会によれば「'''家庭血圧測定条件設定の指針'''」で、 # 測定部位:上腕が推奨。手首、指血圧計の使用は避ける。 # 朝の場合は、起床後1時間以内、排尿後、服薬前、朝食前の安静時、座位1分から2分後に測定。 # 夜の場合は就床前の安静時、座位1分から2分後に測定。 # 朝夜の、任意の期間の平均値と標準偏差によって評価。 # 家庭血圧は135/85 mmHg以上は治療対象、125/75 mmHg未満を正常血圧。 などとしている。 ;分類呼称について : 従来の分類呼称では、軽症/中等症/重症としていたが、「軽症高血圧であってもリスクを層別化した際に高リスクと判定され、重症高血圧と同程度の治療を必要とする可能性が想定されている」ことから、軽症をI度/中等症をII度/重症をIII度へと『高血圧治療ガイドライン2009』では変更している<ref>[http://www.jhf.or.jp/mediaWS/12th/index01.html 高血圧治療ガイドラインの改訂に関する記述] 日本心臓財団メディアワークショップ</ref>。 === 基準の変遷と指摘 === 収縮期血圧の目標値は数回にわたり引き下げの変更が行われている。 # 1987年、180mmHg 以下 # 2004年、140mmHg 以下 # 2008年、130mmHg 以下 大櫛ら(2008)<ref name=jami.28.125>大櫛陽一、小林祥泰、栗田由美子 ほか、[https://doi.org/10.14948/jami.28.125 【原著】高血圧治療ガイドラインのデータに基づく検証] 医療情報学 2008年 28巻 3号 p.125-137, {{doi|10.14948/jami.28.125}}</ref> によれば、血圧と死亡率を年令の関連をグラフにすると、120/80mmHg未満での死亡率が有意に低くなり、一見すると「血圧は低ければ低いほどよい」ように見えるが、年令別にみると男女共に年令に関係なく160/100mmHg未満までは循環器系疾患死亡率が上昇しない<ref name=jami.28.125 />。一方、180/110mmHg以上の人を160/100mmHgと強く下げた場合に死亡率が上昇する傾向がある<ref name=jami.28.125 />。また、高血圧症治療(降圧薬服用)は全ての世代でリスク要因であった<ref name=jami.28.125 />。さらに、「基準値を年齢別・性別に設定すべきである」「160/100mmHg 以下では健康リスクとならない」「薬物治療は180/110mmHg以上を限定とし降圧は20mmHgまでとする」などの指摘を行っている<ref name=jami.28.125 />。 == リスク分類 == 血圧以外のリスク要因を加味し下記のように層別化される。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+(診察室)血圧に基づいた脳心血管リスク層別化。高血圧治療ガイドライン2019<ref name=":0" /> より引用 |- !分類 !高値血圧<br />130-139/80-89 !I度高血圧<br />140-159/90-99 !II度高血圧<br />160-179/100-109 !III度高血圧<br />≧180/≧110 |- |'''リスク第一層'''<br />(予後影響因子なし) <!-- |style="background-color:#00ff00"|付加リスク無し -->|bgcolor=#ffff00|低リスク |bgcolor=#ffff00|低リスク |bgcolor=#ff8C00|中等リスク |bgcolor=#ff1a1a|高リスク |- |'''リスク第二層'''<br />(年齢65歳以上、男性、[[脂質異常症]]、喫煙のいずれかがある) |bgcolor=#ff8C00|中等リスク |bgcolor=#ff8C00|中等リスク |bgcolor=#ff1a1a|高リスク |bgcolor=#ff1a1a|高リスク |- |'''リスク第三層'''<br />([[脳血管疾患|CeVD既往]]、[[心房細動|非弁膜症性af]]、糖尿病、蛋白尿のあるCKDのいずれか、<br />または第二層の危険因子が3つ以上ある) |bgcolor=#ff1a1a|高リスク |bgcolor=#ff1a1a|高リスク |bgcolor=#ff1a1a|高リスク |bgcolor=#ff1a1a|高リスク |- |} ※CeVD:脳血管疾患、af:心房細動、CKD:慢性腎臓病 <!-- ※MetS(メタボリックシンドローム診断基準)<br />(1) 腹腔内脂肪蓄積 --- ウエスト周囲径 男性≧85センチメートル、女性≧90センチメートル (内臓脂肪面積 男女とも≧100平方センチメートルに相当)、<br />(2) 脂質値 --- 高トリグリセライド血症(≧150ミリグラム/デシリットル)かつ/または低HDL-C血症(<40ミリグラム/デシリットル)男女とも、<br />(3) 血圧値 --- 収縮期血圧≧130mmHgかつ/または拡張期血圧≧85mmHg、<br />(4) 血糖値 --- 空腹時高血糖(≧100ミリグラム/デシリットル)またはHbA1c(NGSP)≧5.6%<br /> 上記(1)であることに加えて、(2)-(4)のうち2項目以上該当する場合にメタボリックシンドロームと診断される。{{main|メタボリックシンドローム}}--> == 原因 == 現在、原因が特定できている場合とそうでない場合で大きく二分類して、原疾患が不明な「本態性高血圧症」と、特定の原因が明らかになっている「二次性高血圧」に分類するということが行われている。 現在の医学では、「本態性高血圧症」の割合がかなり多い。つまり現在の医学のレベルでは高血圧に関しては原因があまりよく判っていない場合のほうが多いということである。ただしこの二分類は、固定的に理解するのはあまり正しいとは言えず、医師が仕事を進めるうえでの便宜的なものだと理解したほうがよい<ref group="注釈">病気の実体論によって分類しているのではなく、医師が仕事を進めるうえでの便宜上の分類である。あくまで医師によって原因が特定できたかできなかったかという、医師側の状態によって分けているものであって、病気の実態論で二分類しているわけではない。ある医師にとっては「原因が特定できない」(=本態性高血圧症)とされていて「本態性高血圧症」とされた症状が、別の能力が高い医師が診断したら原因が特定できて「二次性高血圧」に分類することもありうるし、また、長期的に見て、検査方法の変化や、医学会の判断の変化などによって、見直されることもありうる。</ref>。生物学的な原因と環境的な原因の両方が関与している可能性がある<ref>{{Cite web |title=Discrimination at work is linked to high blood pressure |url=https://www.health.harvard.edu/blog/discrimination-at-work-is-linked-to-high-blood-pressure-202305302939 |website=Harvard Health |date=2023-05-30 |access-date=2023-06-01 |language=en}}</ref>。 [[アメリカ心臓協会]]に発表された論文によれば、ラットによる動物実験で[[腸内細菌叢]]における[[腸内毒素症]]{{enlink|Dysbiosis}}との関連を示したと報告された<ref name="AHA-hyper-1331">{{cite journal |author=Tao Yang, ''et al.'' |title=Gut Dysbiosis Is Linked to Hypertension Novelty and Significance. |journal=[[アメリカ心臓協会]]. (Hypertension) |date=2015-6 |volume=65 |issue=6 |pages=1330-41 |url=https://hyper.ahajournals.org/content/65/6/1331 |doi=10.1161/HYPERTENSIONAHA.115.05315}}</ref><ref name="pmid25870193">{{cite journal |author=Tao Yang, ''et al.'' |title=Gut dysbiosis is linked to hypertension. |journal=[[アメリカ心臓協会]]. (Hypertension) |volume=65 |issue=6 |pages=1331-40 |date=2015-1 |url=https://hyper.ahajournals.org/content/65/6/1331.long |doi=10.1161/HYPERTENSIONAHA.115.05315 |pmc=4433416 |pmid=25870193}}</ref>。アメリカ心臓協会は、[[抗生物質]]による高血圧治療を示した。{{main|#薬物療法(抗生物質)}} 「二次性高血圧」(原因が特定されているもの)に関しては、いろいろな場合がある<ref group="注釈">若年者の場合は原因が特定できる場合も多い。医師の言葉では「若年者高血圧症では二次性高血圧症が高頻度に存在する」などと表現する。 患者の年齢が上がるにつれて「二次性高血圧」の割合が減り、その分「本態性高血圧症」の割合が増える(これは、年齢を重ねるにつれ、人の身体にはさまざまな要因が重なっていてさまざまなことが複合的に起きるので、あまりにややこしくなって、医学的に何が本当の原因なのかうまく特定しきれない割合が増えることである)。 二次性高血圧症については「〜<u>性</u>高血圧症」と名付けられることが多いが、たとえば「A性高血圧症」という表現であれば、Aが高血圧の原因だと判断された高血圧であるとの意味である。 例えば、「副腎性高血圧症」は、副腎に問題があることが原因だと判断された高血圧、という意味の表現である。したがって原因についての分析が変更されると、名称が変更されることがある。 「二次性高血圧」(=原因が特定できている高血圧)には、副腎性高血圧症、腎血管性高血圧症、腎実質性高血圧などがある。褐色細胞腫、クッシング症候群が原因となって高血圧になることもある。</ref>。 本態性高血圧の原因については、原因のよく判らないものを「本態性高血圧症」と呼ぶことにしているので、良く判っていないとされているが、「原因は単一ではなく、両親から受け継いだ遺伝的素因が、生まれてから成長し、高齢化するまでの食事、ストレスなどのさまざまな環境因子によって修飾されて高血圧が発生する」という説(モザイク説)がある。 * 動脈硬化症による脳内酸欠:一般的に病院で「高血圧」と診断される大部分の原因は、上行大動脈の[[動脈硬化症]]による脳内酸欠を防ぐための血圧上昇である。この動脈硬化症の原因をさらに遡ると'''[[食生活]]'''や'''[[喫煙]]'''や'''運動不足'''である場合が多い。 * '''塩分の過剰摂取'''<ref>下澤達雄、穆勝宇、藤田敏郎、[https://doi.org/10.1271/kagakutoseibutsu.50.250 塩分の過剰摂取と高血圧の関係] 化学と生物 2012年 50巻 4号 p.250-254, {{doi|10.1271/kagakutoseibutsu.50.250}}</ref><ref name=fpj.127.387>岩本隆宏、[https://doi.org/10.1254/fpj.127.387 食塩感受性高血圧とNa{{sup|+}}/Ca{{sup|2+}}交換体:食塩負荷から血管トーヌス亢進への古くて新しい機序] 日本薬理学雑誌 2006年 127巻 5号 p.387-392, {{doi|10.1254/fpj.127.387}}</ref>:食塩の過剰摂取は、血圧の上昇を招き、心臓病や脳卒中のリスクを高める<ref>[http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/pamphlet/bp/pamph110.html 食塩と高血圧と循環器病] 国立循環器病研究センター</ref>。アフリカのマサイ族や南太平洋のフィジーの人々など未開の地では、塩分摂取が少ないので、高血圧の人はほとんど見当たらない<ref>「血圧を下げるレシピ」、NHK生活ほっとモーニング、NHK出版</ref>。動物に食塩を多く含むエサを与えると高血圧になる。日本人の食塩摂取量は、欧米人より多い。日本人の高血圧の発生には食塩過剰摂取の関与が強いとされる。厚生労働省の栄養所要量によれば、食塩の必要量は1日1.5[[グラム|グラム (g)]]であるが、日本人の食塩摂取量は1日平均11.2gである。 ** 海と異なって陸上には食塩の摂取源がないが、汗などで失うから、陸上動物は慢性的な食塩欠乏状態にある。陸上動物の体には、食物に含まれる食塩を大切に保持する仕組みがある。また、食塩を含む食物を美味しいと感じるように進化している。それで、多くの食塩を混入させた加工食品を好ましいと感じ、なかなか排除できないのである。 ** 世界保健機構WHOは、高血圧のある人もない人も、食塩摂取を5g/日以下にすることを強く推奨している。また米国国立健康研究所NIHは、51歳以上の人について、高血圧のある人もない人も、食塩摂取を3.8g/日以下にすることを推奨している。日本の [http://www.jpnsh.jp/download_gl.html 高血圧治療ガイドライン2014] 血圧治療ガイドラインでは、高血圧のある人に1日6g未満という減塩を推奨している。日本人の食塩嗜好は野菜の漬け物、梅干し、魚の塩漬けなど日本独自の食生活と関連がある。食塩摂取量に関して、静岡県浜松市遠州病院による2008年7月から2012年12月までに合計35,500人(男性22,749人 平均年齢56.3歳)を対象とした調査では、男性12.4g、女性8.4g で、ガイドラインの1日6.0g以下の推奨目標値を達成できているのはわずか3%であった<ref>[https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/gakkai/jcs2014/201403/535590.html 「食塩1日6.0g以下」達成率は高血圧患者のわずか3%] 日経メディカルオンライン 記事:2014年3月23日 閲覧:2014年3月24日</ref>。また、食塩(塩化ナトリウム)だけでなく、重曹([[炭酸水素ナトリウム]])、アミノ酸など([[グルタミン酸ナトリウム]])<ref>{{PDFlink|[http://www.nhlbi.nih.gov/files/docs/public/heart/hbp_low.pdf Your Guide to Lowering Blood Pressure]}} 米国厚生省 p13</ref> などを含む食品および胃腸薬の摂取に対しても注意喚起されている。 ** [[食塩]]の過剰摂取が高血圧の大きなリスクとなるのは、身体の[[電解質]]調節システムに原因がある。[[細胞外液]]中で[[ナトリウム]]をはじめとする電解質の濃度は厳密に保たれており、この調節には[[腎臓]]が大きな役割を果たしている。すなわち、濃度が正常より高いと[[飲水行動]]が促され、腎では水分の再吸収が促進される。反対に、濃度が低い場合は腎で水分の排泄が進む。その結果として、血中のナトリウムが過剰の場合は、濃度を一定に保つため水分量もそれに相関して保持され、全体として細胞外液量が過剰([[ハイパーボレミア]]:hypervolemia)となるのである。腎のナトリウム排泄能(通常、ナトリウム0.15-0.3モル/日<ref name=uppsala>Reference range list from Uppsala University Hospital ("Laborationslista"). Artnr 40284 Sj74a. Issued on April 22, 2008</ref>、食塩9-18g/日に相当)を超えて塩分を摂取している場合、上記のメカニズムで体液量が増加して高血圧を来す。ナトリウム過剰で高血圧をきたしやすい遺伝素因も存在することが確認されている。 * K(カリウム)、Mg(マグネシウム)、Ca(カルシウム)は、ナトリウムに対して拮抗的に働く。それらの元素を多く含む野菜、果物、牛乳などを充分に摂取すると、体内の過剰なナトリウムは、体外へ排泄される([[ダッシュダイエット]]参照)。 * [[肥満]]、[[飲酒]]なども高血圧の発症に関与するとされる(これも概して'''食生活'''に起因するものである)。 * '''[[ストレス (生体)|ストレス]]'''も高血圧の発症に関与するとされる。 * 血圧反射機能の障害なども高血圧の発症に関与するとされる。 * 両親の一方あるいは両方が高血圧であると高血圧を発症しやすいというデータがあるが、遺伝性についての要因分析に関しては慎重になる必要がある{{refnest|group="注釈"|ひとつのケースは、食習慣であり、人の味の好みは家庭の味の影響を受けるので、片方の親が塩味の濃いものを好むと結果として子供は濃い味に触れる機会が増え、塩分が強いほうに誘導される。薄味、濃い味の両方が食卓に並ぶことがある場合でも、概してどちらかと言えば濃い味のほうに誘導される傾向がある。結局、両親のどちらかが塩味の濃い味を好むと、子供まで塩味の濃い料理を選ぶ習慣がついてしまうことが多く、その結果どちらかの親が高血圧だと子まで高血圧になっているケース。この場合は、親の高血圧は本当の因子ではなく、どちらもともに高血圧は「結果」であり、本当の原因は《塩分のとりすぎ》や《生野菜不足》である。この場合は食習慣を改善することで結果は変えられる。もうひとつのケースは、遺伝的なもので親から受け継いだ遺伝子が影響している場合である。長野県では長年に渡り代々血圧が高い人が多く脳卒中も多く死亡率も全国平均と比較して高かったが、1981年から医師などの呼びかけによって食習慣を改善する運動を県民をあげてやったところ、わずか一世代のうちに長寿日本一になった。<ref>{{PDFlink|[https://www.pref.nagano.lg.jp/career/shokai/taike/documents/29hon02.pdf “食”を通じた健康寿命の延伸]}} 平成29年度政策研究 上小気流(上田)研究報告書</ref>つまり症状のデータ的としては、親から子へと固定的に引き継がれていても、大きな原因は 実は遺伝ではなく、食習慣であったわけである。日本人全般は「しょうゆ」や「漬物」によって塩分のとりすぎの傾向があり、にもかかわらずそれを自覚しておらず、自己申告形式で塩分摂取量を報告させてもしょうゆの使用量などまではきちんとカウントしては報告されず漏れてしまい、通常の調査では塩分摂取量の因子としての大きさを正確に因子分析しようとしても非常に困難である。長野県のように大規模に食生活の改善の運動をした結果、統計的にはっきりと表れて、はじめてその影響の大きさが判ることになる。以前の長野県で高血圧で病院を訪れる患者でも、医師が病院にやって来る患者だけを見て判断していると医師は「原因は不明」と感じ「本態性高血圧」に分類してしまう傾向があったが、患者の生活の場、患者たちが生活の場でどのようなものを実際に食べているのかという部分まで詳細に観察すれば、判断・診断は変わる可能性があるわけである。患者や地域住民の生活の中の場まで入っていって、そこで食べられているもの、地域の伝統食の実態・加工方法・調味方法を確認したり、食べ物の味を医師が自身の舌で確認したり塩分計で確認したりすれば、(その地域の人々は独特の習慣におぼれてしまっていて気づいていなくても)第三者的には実は、「原因は明明白白だ」ということもあるわけである。こうして「原因は塩分過多だ」とか「原因は野菜不足だ」と特定できれば、それはもはや単なる「本態性高血圧」ではなくなる。長野県の場合は、そうしたことに気付く医師がいて(来てくれて)、行政まで巻き込んで、食生活改善のための大きな運動を展開してくれたおかげで状況を変えられたわけである。}}。 * 砂糖が高血圧の原因の一つであるという説がある<ref>[http://www.foodaddictionsummit.org/docs/johnson-347ajcn%20review.pdf Potential role of sugar (fructose) in the epidemic of hypertension, obesity and the metabolic syndrome, diabetes, kidney disease, and cardiovascular disease] Richard Johnson</ref><ref>[http://www.ajconline.org/article/S0002-9149(14)01427-1/abstract An Unsavory Truth: Sugar, More than Salt, Predisposes to Hypertension and Chronic Disease]</ref><ref>[http://ajcn.nutrition.org/content/76/5/911.full Fructose, weight gain, and the insulin resistance syndrome]</ref><ref>[http://informahealthcare.com/doi/pdf/10.1586/erc.10.120 Just a spoonful of sugar helps the blood pressure go up]</ref>。仮説の一つによれば、砂糖のうち特に果糖が、インスリン抵抗性をもたらし、血糖値を上げ、糖化反応により動脈硬化を起こし、高血圧をもたらす。実際、米国国立健康研究所NIHによる高血圧食である[[ダッシュダイエット]]では、砂糖摂取を1日に約15グラム以下に制限するよう勧めている<ref>{{PDFlink|[http://www.nhlbi.nih.gov/files/docs/public/heart/dash_brief.pdf Your Guide To Lowering Your Blood Pressure With DASH]}} 米国厚生省</ref>。 * 睡眠不足が高血圧の原因の一つであるという説がある。睡眠時間が6時間と5時間のグループを比較すると、5時間のグループが高血圧になる割合が37%高い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.healthcare.omron.co.jp/resource/column/topics/94.html|title=あなたの高血圧・糖尿病は、睡眠不足が原因かも!?|accessdate=2016-04-21}}</ref>。 食塩感受性高血圧の病態については、諸説あるが、[[名古屋市立大学]]医学部の[[木村玄次郎]]の説では摂取したナトリウムを腎から排泄しきれず、夜間も腎臓でナトリウム排泄のため多くの血流を要するnon-dipper型高血圧(夜間高血圧)が良い説明モデルとなる。non-dipper型高血圧ではナトリウム排泄を促進する利尿剤を投与することでnon-dipper型がdipper型へと変化することが認められており、ナトリウム排泄が食塩感受性の有無を規定する因子のひとつと論じている<ref>木村玄次郎、[https://doi.org/10.14842/jpnjnephrol1959.36.1075 腎性機序に基づいた高血圧の新しい分類] 日本腎臓学会誌 Vol.36 (1994) No.10 P.1075-1081</ref>。 # [[アンジオテンシン]]はポリ[[ペプチド]]の一種で、昇圧作用を持つ[[オータコイド|生理活性物質]]である。アンジオテンシンI〜IVの4種がある。うち、アンジオテンシンII〜IVは心臓収縮力を高め、細動脈を収縮させることで血圧を上昇させる。腎臓の[[傍糸球体細胞]]から分泌される[[レニン]]の作用によって、[[アンジオテンシノーゲン]]からアミノ酸10残基から成るアンジオテンシンI が作り出され、これが[[アンジオテンシン変換酵素]]、[[キマーゼ]]、[[カテプシンG]]の働きによってC末端の2残基が切り離され、アンジオテンシンII に変換される。 # アンジオテンシンIIはACE2により、血管拡張作用と抗増殖作用を有するヘプタペプチドであるアンジオテンシン-(1-7)へと変換される。 # アンジオテンシンI は昇圧作用を有さず、アンジオテンシンII が最も強い活性を持つ。(アンジオテンシンIII は II の4割程度の活性で、IV はさらに低い)。 # アンジオテンシンII は[[副腎]]皮質にある受容体に結合すると、副腎皮質からの[[アルドステロン]]の合成・分泌が促進される。このアルドステロンの働きによって、腎集合管でのナトリウムの再吸収を促進し、これによって体液量が増加することにより、昇圧作用をもたらす<ref>[http://www.h.u-tokyo.ac.jp/research/topics/topics_archives/002.html 塩分の摂りすぎによる血圧上昇のしくみを解明] 東大病院研究トピックス 藤田敏郎</ref>。また、[[下垂体|脳下垂体]]に作用し利尿を抑えるホルモンである抗利尿ホルモンである[[バソプレッシン]](ADH)の分泌を促進し、水分の再吸収を促進することにより、昇圧作用をもたらす<ref>[http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2011/01/post-146.html 利尿を抑えるホルモン"バソプレシン"の脳の中の新たな作用を発見]、自然科学研究機構 生理学研究所 岡田泰伸ほか</ref>。 [[脂肪細胞]]が肥大化すると、血圧に関連して次のことが起こる。 # 過剰に分泌された[[レプチン]]が[[交感神経]]の活動を亢進させ、血管を収縮させることなどにより、血圧を上昇させる<ref name=ogawa>小川佳宏、阿部恵、中尾一和、[https://doi.org/10.2169/naika.90.705 レプチンと心血管病変] 日本内科学会雑誌 日本内科学会雑誌 2001年 90巻 4号 p.705-710, {{doi|10.2169/naika.90.705}}</ref>。 # [[レニン-アンジオテンシン系]]の活性化。アンジオテンシノーゲンは[[肝臓]]で産生されるが、肥大化脂肪細胞からも産生、分泌される。アンジオテンシノーゲンから生成された[[アンジオテンシン]]IIは、[[副腎皮質]]球状帯に作用してナトリウムの再吸収を促進する[[アルドステロン]]の分泌を促進し体内に水分を貯留する<ref>[http://www.h.u-tokyo.ac.jp/research/topics/topics_archives/002.html 研究トピックス 塩分の摂りすぎによる血圧上昇のしくみを解明] 東大病院 医学系研究科/医学部附属病院 腎臓・内分泌内科 藤田敏郎ほか</ref>。また、[[下垂体|脳下垂体]]に作用し利尿を抑えるホルモンである抗利尿ホルモンである[[バソプレッシン]](ADH)の分泌を促進し同じく体内に水分を貯留する<ref>[http://www.nips.ac.jp/contents/release/entry/2011/01/post-146.html 利尿を抑えるホルモン"バソプレシン"の脳の中の新たな作用を発見] 自然科学研究機構 生理学研究所 岡田泰伸ほか</ref>。 これらのことにより高血圧を招く。[[肥満]]患者において高血圧症が多いのはこのためである<ref name = hoshi>[http://polaris.hoshi.ac.jp/openresearch/kamata%20(adipocyte)--2.html 脂肪細胞とインスリン抵抗性] 星薬科大学オープンリサーチセンター 鎌田勝雄</ref>。 [[肥満]]による[[インスリン抵抗性]]は[[高インスリン血症]]をきたす。高インスリン血症は、腎[[尿細管]]へ直接作用して[[ナトリウム]]貯留を引き起こし、これが水分を貯留し結果として[[血糖値]]を下げる作用につながるが、水分の貯留により高血圧を発症させることとなる<ref>[http://polaris.hoshi.ac.jp/openresearch/kamata(pathophysiol).html#DM-BASE14 糖尿病の基礎知識] 星薬科大学オープンリサーチセンター 鎌田勝雄</ref>。 == 分類 == === 本態性高血圧症 === * '''本態性高血圧(原発性高血圧)''' 原因は単一ではなく、両親から受け継いだ遺伝素因に加えて、生後の成長過程、加齢プロセスにおける食事、ストレスなどのさまざまな生活習慣がモザイクのように複雑に絡みあって生じる病態(モザイク説)。高血圧患者の9割以上を占める。 ** [[食塩感受性高血圧]]は、遺伝的素因と食塩摂取過剰を兼ね持つもので、本態性高血圧の一部を占める。 === 二次性高血圧 === * '''二次性高血圧''' 明らかな原因疾患があって生じる高血圧をいい、以下のような疾患が原因となる。原因によっては外科手術などにより原疾患の治療を行えば完治する。 # '''[[大動脈縮窄症]]''' 先天性疾患。 # '''[[腎血管性高血圧]]''' [[腎動脈]]の狭窄があり、血流量の減った腎で[[レニン]]の分泌が亢進することで起きる。 # '''[[腎実質性高血圧]]''' 腎糸球体の障害により起こる。 # '''[[原発性アルドステロン症]]''' (primary aldosteronism; PA) [[副腎皮質]]の腫瘍から[[アルドステロン]]が過剰に分泌されるため起こる。 # '''[[偽性アルドステロン症]]''' [[グリチルリチン酸]]により、[[11-βHSD2活性]]が抑制され、[[コルチゾール]]代謝の阻害→コルチゾールの残存→[[ミネラルコルチコイド受容体]]刺激となる。 # '''Apparent Mineralocorticoid Excess症候群'''(AME症候群) 11-βHSDの異常からおこる[[常染色体劣性]]遺伝疾患。 # '''[[Liddle症候群]]''' [[低カリウム血症]]、[[代謝性アルカローシス]]を来す常染色体優性の遺伝性高血圧症。[[上皮性ナトリウムチャネル]](Epethelial Sodium Channel; ENaC)の異常から生じる。 # '''[[クッシング症候群]]''' [[副腎皮質]]の腫瘍から[[コルチゾール]]が過剰に分泌されるため起こる。 # '''[[褐色細胞腫]]''' [[副腎髄質]]や[[神経節]]の腫瘍から[[アドレナリン]]または[[ノルアドレナリン]]が過剰に分泌されるため起こる。 # '''[[高安動脈炎]]''' [[膠原病]]の一つ。 # '''甲状腺機能異常''' [[甲状腺機能亢進症]]や[[甲状腺機能低下症]]。 # '''[[妊娠高血圧症候群]]'''(妊娠中毒症より改名)。 # '''[[高カルシウム血症]] この他、[[脳血管障害]]の急性期に著明な高血圧を来たすことが知られている。[[脳出血]]では応急的な降圧が必要だが、[[脳梗塞]]では寧ろ脳血流を保てなくなる恐れがあるため、降圧は行われない。 == 高血圧の合併症 == 高血圧が持続すると強い圧力の血流が動脈の内膜に'''[[ずり応力]]'''を加えると同時に血管内皮から血管収縮物質が分泌されることで、血管内皮が障害される。この修復過程で'''[[粥腫]]([[アテローム]])'''が形成され、[[動脈硬化症|動脈硬化]]の原因となる。慢性的疾患は大きく 「脳血管障害」、「心臓疾患」、「腎臓疾患」、「血管疾患」の4つに分類され、高血圧によって生じる動脈硬化の結果、以下のような合併症が発生する。 === 脳血管障害 === ==== 脳卒中 ==== : 世界保健機構WHOは「[[脳卒中]]の62%は高血圧が原因である」と述べている<ref name="WHO2002">[ World Health Report 2002] WHO, p57</ref>。脳卒中は、[[脳出血]]と[[脳梗塞]]および[[クモ膜下出血]]に分類されるが、高血圧と関連が深いのは前2者である。脳出血は高血圧ともっとも関連するが、最近は降圧薬治療がうまく行われるようになったため、その頻度は減少してきている。一方、脳梗塞の頻度はむしろ増加し、その発症年齢も高齢化している。脳卒中の結果として片麻痺、失語症、認知症など寝たきりの原因となりやすい後遺症を残すため、社会的、経済的観点からも高血圧の予防はきわめて重要である。[[脳卒中]]の発症を予測する上では、収縮期血圧 (Systolic Blood Pressure;SBP) が性や[[人種]]に関係なく、脈圧・拡張期血圧 (Diastolic Blood Pressure;DBP) などと比べ、最も重要な因子であるという論文が American Journal of Hypertensionの2007年3月号に掲載された。また日本人でも収縮期血圧のみが脳卒中および心筋梗塞の長期リスクの評価指標に適しているとの報告がなされた (Circulation. 2009;119:1892-1898)。 ==== 心臓疾患 ==== ===== 虚血性心疾患 ===== : 世界保健機構WHOは「[[冠動脈疾患]]の49%は高血圧が原因である」と述べている<ref name="WHO2002" />。[[心筋梗塞]]や[[狭心症]]などの[[冠動脈]]の硬化によって心筋への血流が阻害されることで、心筋障害をきたす疾患群をいう。高血圧が虚血性心疾患の重大な危険因子であることは間違いがないが、高コレステロール血症、喫煙、[[糖尿病]]、肥満などの関与も大きい。最近は腹部内臓型肥満に合併した高血圧や[[高トリグリセライド血症]]、[[耐糖能異常]]などが冠動脈疾患のリスクであるとされ、[[メタボリック症候群]]として注目されている。欧米と比較すると、日本には脳卒中は多いが心筋梗塞は少ない。 ===== 心肥大、心不全 ===== : 高血圧が持続すると心臓の仕事量が増えて、[[心肥大|心筋が肥大]]してくる。肥大した心筋はさらに高血圧の負荷によって拡張し、最終的には[[心不全]]に陥る。また肥大した心筋では[[冠動脈]]からの血流も減少するために、[[虚血]]に陥りやすく、[[不整脈]]、[[虚血性心疾患]]の大きなリスクとなる。 ==== 腎臓疾患 ==== ===== 腎障害 ===== : [[腎臓]]の[[糸球体]]は[[細動脈]]の束になったものであり、高血圧によって傷害される。また、糸球体高血圧が[[レニン-アンギオテンシン系]]を賦活するためさらに血圧を上昇させる。糸球体は廃絶すると再生しないため、糸球体障害は残存糸球体への負荷をさらに強めることとなる。最終的には腎不全となり[[人工透析]]を受けなければならず、やはり社会的、経済的な負担は大きく、その進展予防は重要である。 === 血管疾患 === ==== 動脈瘤 ==== : 胸部や腹部の大動脈の壁の一部が動脈硬化性変化によって薄くなり、膨隆した状態を[[大動脈瘤|大動脈瘤と]]いう。内径が5センチメートル以上になると破裂する可能性が高くなるので、手術適応となる。また血管壁の中膜が裂けて、裂け目に血流が入り込み、大血管が膨隆する状態を[[解離性大動脈瘤]] といい、生命を脅かす危険な状態である。 ==== 閉塞性動脈硬化症 ==== : 主に下肢の動脈が、動脈硬化によって著しく狭小化するか、あるいは完全に閉塞した状態をいう。数十メートル歩くとふくらはぎが痛くなり、立ち止まると回復する場合には、この疾患を疑う。 ==== 眼障害 ==== : [[高血圧性網膜症]]や、網膜動脈・網膜静脈の閉塞症、視神経症などさまざまな[[眼障害]]を合併する。 === 急性症状 === ==== 高血圧緊急症 ==== : 慢性的な影響とは別に、急激な高血圧により[[脳圧]]が亢進し[[頭痛]]・[[視力障害]]などの急性症状を引き起こした状態は[[高血圧緊急症]]、または'''高血圧脳症'''と呼ばれる。治療として[[降圧薬]]および[[脳圧降下薬]]が投与される。 : 血圧降下により症状が消失することにより診断される。 ==== 食後低血圧 ==== : 腸が食物消化をするためには多くの血流が必要になる。そのため腸に大量の血液が集まると、腸以外の血圧は低下していくが、血圧維持のために自律的に「心拍増」、「他の部位の血管収縮」など作用により血圧を上昇させる。しかし、後述の起こしやすい人や血圧降下薬剤を服用している場合、血流は正常に腸へ集まるが薬剤の効果により血圧上昇が抑制され、結果的に低血圧の症状として'''めまい'''が発生することがある。血圧低下は一時的な物で、血流の腸への集中が解消されると低血圧症状も解消する<ref name="msd.home">[https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/06-心臓と血管の病気/心臓と血管の病気の症状/食後低血圧 食後低血圧] MSDマニュアル家庭版</ref>。高血圧な人、高齢者や自律神経系を管理する脳部位に障害を有する人([[パーキンソン病]]、多系統萎縮症、糖尿病)は起こしやすい。 === 代謝内分泌疾患 === ==== 高尿酸血症 ==== : 国立病院機構九州医療センターの研究によると、閾値を男性で尿酸値7.0mg/dL以上、女性で6.2mg/dL以上としたとき高血圧症患者が高尿酸血症を合併症とする率は男性 34.1%、女性 16.0%で認められ、約9割は排泄低下型の[[高尿酸血症]]であった<ref>[https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/gakkai/jsh2008/200810/508155.html 高血圧患者の高尿酸血症合併] 日経メディカルオンライン 2008.10.13</ref>。 == 診断 == 血圧は変動しやすいので、高血圧の診断は少なくとも2回以上の異なる機会における血圧測定値に基づいて行われるべきである。最近は家庭血圧計が普及しているが、家庭で自分自身で測定した血圧値の方が、診察室で医師や看護師によって測定した血圧値よりも将来の脳卒中や心筋梗塞の予測に有用であるとする疫学調査結果が相次いで報告されている。診察室での血圧測定では、[[白衣高血圧]](医師による測定では本来の血圧より高くなる現象)や[[仮面高血圧]](普段は高血圧なのに、診察室では正常血圧となる現象)が生じるため、必ずしも本来の血圧値を反映していないという考え方が普及している。家庭での正常血圧値は診察室での血圧値よりもやや低いために、家庭血圧では135/85mmHg以上を高血圧とする。家庭では朝食前に2回血圧を測定することが望ましい。心筋梗塞や脳卒中の発症は朝起床後に多発することから、早朝の高血圧管理が重要である。 脳卒中や心筋梗塞の発症には高血圧のみならず、喫煙、高脂血症、糖尿病、肥満などの他の危険因子も関与するために、[[危険因子]]や[[合併症]]も考慮した高血圧の層別化によって将来の脳卒中、心筋梗塞の危険度の予測能が高まる。 動脈硬化の診断や、腎機能、血圧反射機能といった自律神経機能などの診断も病態の把握に重要であり、動脈硬化の定量診断には脈波伝播速度計測なども行われている。血圧反射機能診断のためには、血圧変化に対する心拍反応や、動脈の血圧反射機能を診断する方法論も提案されている。精密な病態の診断が最適な治療には不可欠である。 臨床的には[[心臓超音波検査]](心エコー)において、心重量の増大や左室肥大が観察される<ref>長谷部直幸、赤坂和美、森平雅彦 ほか、[https://doi.org/10.4009/jsdt.36.1675 心不全防止の視点からみた高血圧管理 第48回日本透析医学会ワークショップより] 日本透析医学会雑誌 2003年 36巻 12号 p.1675-1676, {{doi|10.4009/jsdt.36.1675}}</ref>。 == 管理・治療 == 高血圧治療[[ガイドライン]]に定められた期間の[[食事療法]]や[[運動療法]]を行い、それでも140/90mmHgを超えている場合は降圧薬による薬物治療を開始する。 === 食事療法 === ==== 食塩制限(ナトリウム制限) ==== 減塩1g/日ごとに収縮期血圧が約1mmHg減少するとの報告があり、原因によらず、ほぼ全ての高血圧患者で塩分(塩化ナトリウム)摂取制限は必須である。2006年の米国心臓協会(AHA)の勧告による食塩換算値の理想的な摂取量は3.8g/日以下とされているが、日本では目標値として6g/日以下が用いられている。日本の国民栄養調査によれば、「塩分制限をしている」と答えた人は、平均1.6gの食塩を減らしているに過ぎず、日本では多くの高血圧患者が、6g/日未満の目標値を達成できていない。欧米の介入試験の成績をみると、少なくとも6.5g/日まで食塩摂取量を落とさなければ有意の降圧は達成できない<ref name="GL2014">[http://www.jpnsh.jp/download_gl.html 高血圧治療ガイドライン2014] 日本高血圧学会</ref>。 食品の含有量が食塩(塩化ナトリウム:NaCl)でなくナトリウム (Na) の表示の場合は、2.5倍して塩化ナトリウムに換算する。[[健康ブーム]]に乗って「この天然塩はミネラル豊富なため多く摂っても高血圧にならない」などの宣伝が散見されるが、このような文言をうのみにすることは危険である。上記メカニズムにより、問題は塩の質ではなくナトリウムの量である。また、炭酸水素ナトリウム(重曹)やグルタミン酸ナトリウム(アミノ酸など)もナトリウム源となる。調味料として塩分をほとんど摂取しない[[ヤノマミ族]]には高血圧を発症するものはおらず、健康に生活している<ref>[http://www.epi-c.jp/entry/e114_0_0013.html &#91;1989年文献&#93; ナトリウム摂取量が極端に低いヤノマミ族では,高血圧が見られなかった] INTERSALT</ref> ことから、日常生活で[[醤油]]・[[味噌]]を用いる日本では調味料としての食塩の摂取下限はないと考えられている。摂取する食塩の多く(77%)は、加工食品やレストランの食事に含まれる食塩である<ref>[http://www.cdc.gov/salt/food.htm Sodium and Food Sources] 米国疾病予防センターCDC</ref>。なお、高血圧患者において、減塩療法だけで血圧を正常化できるのは、全患者の30%から40%とする報告がある<ref>藤田敏郎、[https://doi.org/10.11457/swsj1965.42.134 食塩と高血圧] 日本海水学会誌 1988年 42巻 3号 p.134-136, {{doi|10.11457/swsj1965.42.134}}</ref>。科学的研究が一貫して明らかにしているのは、食塩摂取を適度に減らすと、全ての年齢集団や民族集団において、高血圧の人でも正常血圧の人でも、程度の差はあっても、血圧が低下することである<ref name="WHO-2013">{{PDFlink|[http://ish-world.com/downloads/pdf/global_brief_hypertension.pdf WHO]}} A global brief on Hypertension 「Salt Reduction」 p28</ref>。 多数の人口を対象にした大規模な研究により判明しているのは、生活習慣の改善を行って、わずかな降圧しか達成されなかった場合でも、長い経過の中では、心血管系の病気のリスクを減らしていることである<ref>{{PDFlink|[http://www.who.int/cardiovascular_diseases/guidelines/hypertension_guidelines.pdf WHO]}} International Society of Hypertension Writing Group</ref>。英国の [http://www.actiononsalt.org.uk/ CASH](食塩と健康に関する合意形成運動)は、摂取食塩を1日に1gずつ減らすことができれば、英国全体では脳卒中と心筋梗塞を1年に1万3000件減らすことができると推定している<ref>{{PDFlink|[http://www.worldactiononsalt.com/docs/news/2009/60360.pdf A comprehensive review on salt and health and current experience of worldwide salt reduction programmes]}}</ref>。また、ある研究者は、米国において1日に3gの食塩を減らすことができれば、脳卒中を年に3万2000件〜6万6000件、心筋梗塞を年に5万4000件〜9万9000件減らすことができると推定してる<ref>[http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa0907355 Projected Effect of Dietary Salt Reductions on Future Cardiovascular Disease]</ref>。 減塩には、あらゆる関係者の努力が必要である。とくに、消費者自身が意図的に食塩を減らすこと、[[食品産業]]が加工食品中の食塩を減らすこと、一般向けに減塩のキャンペーンを行うことが重要である<ref name="WHO-2013"/>。フィンランド、英国、米国では、食品産業の協力を得て、減塩プログラムを実施し、意図的に食塩を減らすことに成功している<ref name="WHO-2013"/>。例えば英国では、最近、食品中の食塩を20%〜30%減らすことに成功した。減塩は、欧米諸国の政府の重要な政策課題となっており<ref name="WHO-2013"/><ref>[http://www.cdc.gov/salt/ Salt] CDC</ref>、最近の日本における減塩の取り組みは、国際的に見て相当に遅れている<ref>[https://web.archive.org/web/20141011075243/http://www.nhk.or.jp/sakidori/backnumber/120617.html 減塩後進国ニッポン]</ref>。 摂取食塩量の推定には、食べた食事から計算する方法<ref>[http://fooddb.mext.go.jp/ 食品成分データベース]</ref>、24時間の蓄尿を検査する方法、随時尿のクレアチニン値から推定する方法<ref>[http://www.mnet.ne.jp/~tnomura/nacl.htm 1日塩分摂取量推定値]</ref> がある。 ==== カリウム摂取 ==== 血圧上昇を抑制する作用があり<ref>安東克之、藤田敏郎、山下亀次郎、[https://doi.org/10.2169/naika.72.882 本態性高血圧症患者におけるカリウムの降圧効果] 日本内科学会雑誌 1983年 72巻 7号 p.882-889, {{doi|10.2169/naika.72.882}}</ref>、早朝スポット尿検査からもカリウム摂取は重要と考えられている<ref>M.J. O'Donnell, et al. JAMA, 2011, 306(20); 2229-2238.</ref>。カリウム摂取量が多い成人ほど収縮期および拡張期血圧が有意に低く、脳卒中リスクも低いことが報告されている<ref name="nikkeimem201304"/>。[[2012年]]WHO は、[[カリウム]]摂取のガイドラインを初めて発表し、推奨摂取量を90mmol/日(3519mg)以上とした<ref name="nikkeimem201304">[https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/hotnews/bmj/201304/530057.html カリウム摂取量が多いほど血圧が低く、脳卒中リスクも低い] 日経メディカルオンライン 記事:2013.4.18 閲覧:2013.4.18</ref>。(カリウム 1mmol = 39.1mg) [[腎臓]]に障害がなくカリウムを摂取しても問題がなければ、カリウムを豊富に含む[[野菜]]や[[果物]]や[[豆]]の摂取を増やすことによる降圧が期待できる<ref>久代登志男、[https://doi.org/10.3143/geriatrics.47.123 高齢者高血圧治療のこつ] 日本老年医学会雑誌 2010年 47巻 2号 p.123-126, {{doi|10.3143/geriatrics.47.123}}</ref>。 マグネシウム、カルシウムにも、カリウムと同様の作用がある。 ==== 飲酒の制限(節酒) ==== [[酒]]の摂取では一時的な血管拡張により降圧するが、飲酒習慣は血圧を上昇させることはよく知られている。毎日の飲酒習慣は 10歳の加齢に相当する血圧値を示す<ref name="minds4946">[http://minds.jcqhc.or.jp/n/med/4/med0019/G0000180/0028 生活習慣の修正 -節酒-] 日本高血圧学会 ([http://minds.jcqhc.or.jp/ Minds医療情報サービス])</ref>。降圧効果は1 - 2週間以内に現れる。大量飲酒者は急に飲酒の制限を行うと血圧上昇をすことがあるが、飲酒制限の継続により数日後から血圧は下がる。 エタノール換算量は、男性が20 - 30ml/日(日本酒換算1合前後)、女性が10 - 20ml/日、これ以下にするべきである<ref name="minds4946" />。 ==== ダッシュダイエット ==== 米国政府は、高血圧を治療する食事療法として[[ダッシュダイエット]]を勧めている。野菜、果物、低脂肪乳を多く摂って、砂糖を減らすダイエットである。ある研究者が、降圧の効果を、減塩、運動、減量、節酒、ダッシュダイエット、で比較したところ、降圧が最も大きかったのは、ダッシュダイエットであった<ref name=GL2014 />。米国心臓病協会AHAもダッシュダイエットを推奨している。 === 生活習慣 === 疫学研究から寒冷が血圧を上げることが示され、季節では冬季に血圧が高い。高血圧患者では冬季の寒冷刺激を緩和するために、トイレや浴室などの暖房も望まれる。入浴は熱すぎる風呂、冷水浴、サウナは避けるべきである。便秘に伴う排便時のいきみは、血圧を上昇させるので避ける。 夕食後から就寝までの時間が2時間未満の集団と、3 - 4時間空けた集団の[[ロジスティック回帰]]分析を行った結果、3〜4時間空けると高血圧の予防につながる可能性が示唆された<ref>中本真理子、酒井徹、首藤恵泉 ほか、「[https://doi.org/10.4327/jsnfs.66.185 勤労者の夕食終了から就寝時間までの間隔と健康状態との関係]」 『日本栄養・食糧学会誌』 Vol.66 (2013) No.4 p.185-193, {{DOI|10.4327/jsnfs.66.185}}</ref>。 運動により拡張期血圧4-8mmHgの降圧が認められている<ref>National High Blood Pressure Education Program Working Group report on primary prevention of hypertension, Arch. Intern. Med., 153, 186-208 (1993)</ref>。 有酸素運動が推奨されてきたが、木津直昭、稲島司らは、歩行速度との関連が指摘され速く歩くことが効果的と主張している<ref>『血管を強くする歩き方』出版:東洋経済新報社 木津直昭著、稲島司著, 2014年 , ISBN:9784492045473</ref>。 === 禁煙 === 喫煙など動脈硬化を促進する生活習慣も断つ必要がある。喫煙はβ遮断薬の降圧効果を減じる作用がある<ref>[http://minds.jcqhc.or.jp/n/med/4/med0019/G0000180/0029 生活習慣の修正 -禁煙-] 日本高血圧学会 ([http://minds.jcqhc.or.jp/ Minds医療情報サービス])</ref>。 === 薬物療法(降圧薬) === 近年は大規模臨床試験がいくつも出そろい、高血圧治療指針(ガイドライン)では科学的根拠に基づいた[[降圧薬]]の選択を推奨している。 日本では依然として主治医の裁量ではある。 # Ca受容体拮抗薬は[[副作用]]が少なく血圧を大きく下げるため、多くの場合で有用である。エビデンスが豊富で、危険因子として特に比重の高い脳出血は、同剤の開発前後で明らかに減少している。[[虚血性心疾患]]においても、日本人では[[冠攣縮型狭心症]]の関与が大きく、Ca受容体拮抗薬が有効である。 # 降圧利尿薬は廉価であるが、耐糖能の悪化や[[尿酸]]値上昇、低カリウム血症といった副作用により、敬遠する医師が多かった。しかし多くの臨床試験によってACE阻害薬、アンジオテンシンII受容体拮抗薬などの最近の高価な降圧薬と同等か、それ以上の脳卒中、[[心筋梗塞]]予防、[[心不全]]改善、腎保護効果が明らかになっており、最近見直され処方する医師が増えている(例:[[インダパミド]]の項参照)。 # 日本の医療は国民皆保険でありコストを考える必要はあまりないため、たとえリスクの低い患者であっても最初から高価で切れ味の良いACE阻害薬やAII拮抗薬から始めても良いが、降圧利尿薬の選択をいつも考慮する。 {{main|高血圧治療薬}} # なにもリスクがない患者では、コストが安い[[利尿薬]]や[[カルシウム拮抗薬]]を第一選択とする。60歳未満ではACE阻害薬、アンジオテンシンII受容体拮抗薬、β遮断薬なども用いられる。 #降圧利尿薬は古典的な降圧薬であるが、低カリウム血症、耐糖能悪化、尿酸値上昇などの副作用にもかかわらず、最近の大規模臨床試験の結果では、アンジオテンシン変換酵素阻害薬(ACE阻害薬)、アンジオテンシンII受容体拮抗薬、Ca拮抗薬などの新しい世代の降圧薬に劣らない脳卒中、心筋梗塞予防効果が証明されており、米国では第一選択薬として強く推奨されている。降圧利尿薬は[[痛風]]の患者には使用するべきではない。また緑内障の発症を著しく促すことも最近明らかになっている。 # [[糖尿病]]や腎障害の患者では、[[アンギオテンシン変換酵素阻害薬|ACE阻害薬]]または[[アンギオテンシンII受容体拮抗薬|AII拮抗薬]]を第一選択とするが、これらの合併症がある場合には、130/80mmHg未満の一層厳格な降圧が必要とされるために長時間作用型Ca拮抗薬の併用も不可欠である。腎障害が高度な場合にはACE阻害薬やアンジオテンシンII受容体拮抗薬は用いることができない。 # [[心不全]]の患者では、ループ利尿薬に加えて、ACE阻害薬、アンジオテンシンII受容体拮抗薬の併用が有効である。最近[[交感神経β受容体遮断薬|βブロッカー]]の少量追加、K<sup>+</sup>保持性利尿薬も有効であるとのエビデンスも蓄積されている。 # [[虚血性心疾患]]の患者では、従来はβブロッカーが第一選択であったが、最近はACE阻害薬またはAII拮抗薬や長時間作用型[[Ca受容体拮抗薬]]の有用性も証明されている。特に、冠動脈のれん縮による狭心症合併例では長時間作用型Ca拮抗薬が有効である。 # 高齢者高血圧に関して、以前は根拠がないままに積極的な降圧は必要がないとされていたために、2000年版の日本の高血圧治療ガイドラインでも高齢者では高めの降圧目標値が設定されてきた。しかし最近の大規模臨床試験では、年齢に関わりなく積極的な降圧が必要であることを明らかにしており(HYVET studyなど)、欧米の高血圧治療ガイドラインでは年齢による降圧目標値の設定は行っていない。また日本の高血圧治療ガイドラインも、2004年版では高齢者高血圧も140/90mmHg未満までの降圧が必要であるというように変更された。 # 慢性腎臓病を合併した高血圧の治療については、2008年に[[日本腎臓学会]]・日本高血圧学会から共同でガイドラインが発表された。第1選択はレニン-アンジオテンシン系抑制薬とされ、第2選択は利尿薬またはCa拮抗薬、第3選択はCa拮抗薬または利尿薬とされている<ref>CKD診療ガイド高血圧編,p.9,東京医学社(2008)</ref>。 # 妊婦に対しては、多くの降圧薬に[[催奇形性]]があるか、ある恐れがあり、[[ヒドララジン]]、[[αメチルドーパ]]のみを使用する。 # [[交感神経α受容体遮断薬|αブロッカー]]は、基本的に推奨されないが、[[前立腺肥大症]]を合併している患者などでは有用かもしれない。しかし、αブロッカーは最近の大規模臨床試験では最も古典的な降圧薬である降圧利尿薬よりも脳卒中や心不全予防効果が劣ることが明らかになり<ref>The ALLHAT collaborative research group. [[ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション|JAMA]] 288:2981-2997, 2002</ref>、最近の欧米の治療ガイドラインでは第一選択薬から外されている。 <!--[[α2受容体アゴニスト]]のEBMは?--> == 研究事例 == ; ギャバロン茶による血圧上昇抑制作用 : 高血圧自然発症ラットにギャバロン茶を給与したところ、血圧上昇抑制作用が認められた<ref>大森正司, 矢野とし子, 岡本順子, 津志田藤二郎, 村井敏信, 樋口満, 「[https://doi.org/10.1271/nogeikagaku1924.61.1449 嫌気処理緑茶(ギャバロン茶)による高血圧自然発症ラットの血圧上昇抑制作用]」『日本農芸化学会誌』 1987年 61巻 11号 p.1449-1451, 日本農芸化学会, {{doi|10.1271/nogeikagaku1924.61.1449}}。</ref>。 ; 老年者高血圧の治療方針 : Ca拮抗薬はいずれの合併症にもよく用いられ、とくに腎障害、 閉塞性動脈硬化症で高頻度に用いられる。腎障害ではACE阻害薬が用いられる頻度が低い。β遮断薬は虚血性心疾患で用いられる以外は一般的に用いられない<ref>荻原俊男, 森本茂人, 中橋毅, 島本和明, 松本正幸, 大内尉義, 松岡博昭, 日和田邦男, 藤島正敏, [https://doi.org/10.3143/geriatrics.31.396 本邦における老年者高血圧に対する治療方針に関する検討]」『日本老年医学会雑誌』 1994年 31巻 5号 p.396-403, {{doi|10.3143/geriatrics.31.396}}。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 『[http://minds.jcqhc.or.jp/n/med/4/med0019/G0000180 高血圧治療ガイドライン2009【日本高血圧学会高血圧治療GL作成委員会/医療・GL(09年)】]』 日本高血圧学会 ([http://minds.jcqhc.or.jp/ Minds医療情報サービス]) * [http://www.jpnsh.jp/guideline_digital.html 高血圧治療ガイドライン2014 電子版] 日本高血圧学会 == 関連項目 == * [[動脈硬化症]] * [[低血圧]] * [[循環器科学]] * [[世界高血圧デー]]([[5月17日]]) == 外部リンク == <!-- ウィキペディアは宣伝目的のリンクを受け入れていません。ご協力をお願いします。[[Wikipedia:外部リンクの選び方]]を参照してください。--> * [http://www.ketsuatsu.net/ NPO法人日本高血圧協会] * [https://www.jpnsh.jp/ NPO法人日本高血圧学会] * [http://www.jsshp.jp/ 一般社団法人日本妊娠高血圧学会] * [https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/06-%E5%BF%83%E8%87%93%E3%81%A8%E8%A1%80%E7%AE%A1%E3%81%AE%E7%97%85%E6%B0%97/%E9%AB%98%E8%A1%80%E5%9C%A7/%E9%AB%98%E8%A1%80%E5%9C%A7 高血圧] - MSDマニュアル家庭版 * [https://www.japha.jp/general/byoki/hbp.html 高血圧ってどんな病気?] - 一般社団法人日本臨床内科医会 * {{PDFlink|[http://www.nhlbi.nih.gov/files/docs/public/heart/hbp_low.pdf Your Guide to Lowering Blood Pressure]}}{{en icon}} - 米国厚生省 * {{PDFlink|[https://www.nhlbi.nih.gov/files/docs/resources/heart/pphbp.pdf Primary Prevention of Hypertension]}}{{en icon}} - 米国厚生省 * {{PDFlink|[http://ish-world.com/downloads/pdf/global_brief_hypertension.pdf A global brief on Hypertension]}}{{en icon}} - 世界保健機構 (WHO)、2013年 * [https://www.yomiuri.co.jp/medical/20230706-OYT1T50373/ 体を上下動させて脳に適度な衝撃、すると高血圧が改善…国立障害者リハビリセンター (読売新聞2023年7月7日)] {{心血管疾患}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうけつあつ}} [[Category:症候]] [[Category:高血圧|*]] [[Category:加齢関連疾患]] [[Category:循環器学]] [[Category:ストレス]]
2003-11-18T14:30:00Z
2023-12-05T11:08:30Z
false
false
false
[ "Template:DOI", "Template:Infobox Disease", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Sup", "Template:Main", "Template:Refnest", "Template:PDFlink", "Template:Doi", "Template:Expand English", "Template:複数の問題", "Template:Cite journal", "Template:En icon", "Template:Lang-en", "Template:Enlink", "Template:心血管疾患", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E8%A1%80%E5%9C%A7
1,332,925
セント・ジョージ (バミューダ)
セント・ジョージ (St. George's、公式にはTown of St. GeorgeまたはSt. George's Town)は、バミューダ諸島のセント・ジョージ島にある町。 バミューダ諸島中最初に定住が進められた町であり、今日でもアメリカ州最古のイギリス植民地とされている(イギリスが最初に開拓に成功した北米植民地であるジェームズタウンは1699年に近郊のウィリアムズバーグへ街を移転しているため、現在では遺構が残るのみで人は住んでいない)。 セント・ジョージに初めて定住が始まったのは、最初のイングランド人植民者が偶然にバミューダ島に到来してから3年後の1612年だった。1609年、イングランド人植民者たちによるバージニア植民地ジェームズタウン開拓のための第3次支援団であった9艘の船団の内、シー・ヴェンチュア号(英語版)がハリケーンに巻き込まれ、バミューダ沖で漂流した。この船は、慎重に珊瑚礁内を進んでセント・ジョージズ島(英語版)へ降り立った。この植民者たちはイングランド海軍提督ジョージ・ソマーズと陸軍大将トーマス・ゲイツ(バージニア植民地の町ジェームズタウンの総督)に率いられた。生存者たちは新たに2隻の船をつくり、1610年にほとんどの人々がジェームズタウンを目指して旅を再開したが、その後もバージニア会社は島の所有を主張した。そのときにシー・ヴェンチュア号から残った3人の男性たちと、1612年に新たに送り込まれた60人の植民団が、隣のセント・デイヴィッズ島での短い滞在の後、悪天候時には船を守れるように遮蔽されている入り江にセント・ジョージの建設を始めた。 1615年、バージニア会社の株主たちは、北米植民のための二つ目の会社であるサマーズ諸島会社(英語版)を設立した。この会社は1686年に解散するまでバミューダの統治を行った。 この小さな町は歴史的に無視できない重要な場所とされる。バミューダの歴史のみならず(1815年までバミューダの首都であった)、セント・ジョージを形作るのを助ける中枢の役割を演じた。アメリカ独立戦争中、バミューダ住民は弾薬庫から必要とされた火薬を盗んでいた(弾薬庫はセント・ジョージを防衛する近隣の砦に供給されたもの)。当時バミューダ島北端の町トバッコ・ベイからジョージ・ワシントンの元へ密輸されていた。彼らはおそらく、セント・ジョージを拠点とする貿易をしていた荒廃したアメリカ連合国へ軍需品供給をして、南北戦争を長引かせた。 現在、セント・ジョージの歴史文化財は基本的に首都ハミルトンの経済発展によって手つかずのままである。建物のほとんどは17世紀から19世紀にかけ建てられたもので、名士たちは後世の変化のあらゆるしるしを隠し、町の景観を破壊しかねない発達を妨げる熟考した上の努力を行ってきた。例えば、電気やガスの配管、電話線などは地中に埋設され、街灯は町が栄えた時代の様式を採用している。バーバーズ・アレイやアント・ペギーズ・レーンなどの狭い通りは、数世紀前の姿をとどめている。 セント・ジョージには無駄な遺物はない。しかし、生活者の町であり、歴史的な建築物の機能は博物館のみならず、住居、レストラン、パブ、そして商店となっている。中心部のキングズ・スクエアでは、タウン・ホールと観光サービス局が側に立つ。広場にはさらし台のレプリカ、そしてかつて港へ醜聞の渦中の女性を沈めるのに使用されたという水責め椅子のレプリカがある。現在、地元ボランティアたちはこの風変わりな処罰をイベントとして復活させようとしている。 セント・ジョージ港内にあるオードナンス島はキングズ・スクエアの南に位置し、小さな橋で結ばれている。そこには難破船に乗員たちによってつくられた2隻の船の一つデリヴァランス号の模型があり、彼らを指揮したジョージ・ソマーズの等身大ブロンズ像がある。 町周囲の場所と同じく、オールド・ステイト・ハウス(1620年に建てられた最初の石造りの建物。バミューダ議会が置かれており諸島最古の建物である)のような多くの歴史的な場所がある。未完成の教会ではオールド・レクトリー、セント・ピーターズ教会(西半球最古のイギリス国教会の教会)、タッカー・ハウス、バミューダ・ナショナル・トラスト博物館がある。 1996年、セント・ジョージはジョージ・サマーズ卿の生誕地ドーセット州ライム・レジスと姉妹都市協定を結んだ。 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "セント・ジョージ (St. George's、公式にはTown of St. GeorgeまたはSt. George's Town)は、バミューダ諸島のセント・ジョージ島にある町。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "バミューダ諸島中最初に定住が進められた町であり、今日でもアメリカ州最古のイギリス植民地とされている(イギリスが最初に開拓に成功した北米植民地であるジェームズタウンは1699年に近郊のウィリアムズバーグへ街を移転しているため、現在では遺構が残るのみで人は住んでいない)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "セント・ジョージに初めて定住が始まったのは、最初のイングランド人植民者が偶然にバミューダ島に到来してから3年後の1612年だった。1609年、イングランド人植民者たちによるバージニア植民地ジェームズタウン開拓のための第3次支援団であった9艘の船団の内、シー・ヴェンチュア号(英語版)がハリケーンに巻き込まれ、バミューダ沖で漂流した。この船は、慎重に珊瑚礁内を進んでセント・ジョージズ島(英語版)へ降り立った。この植民者たちはイングランド海軍提督ジョージ・ソマーズと陸軍大将トーマス・ゲイツ(バージニア植民地の町ジェームズタウンの総督)に率いられた。生存者たちは新たに2隻の船をつくり、1610年にほとんどの人々がジェームズタウンを目指して旅を再開したが、その後もバージニア会社は島の所有を主張した。そのときにシー・ヴェンチュア号から残った3人の男性たちと、1612年に新たに送り込まれた60人の植民団が、隣のセント・デイヴィッズ島での短い滞在の後、悪天候時には船を守れるように遮蔽されている入り江にセント・ジョージの建設を始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1615年、バージニア会社の株主たちは、北米植民のための二つ目の会社であるサマーズ諸島会社(英語版)を設立した。この会社は1686年に解散するまでバミューダの統治を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この小さな町は歴史的に無視できない重要な場所とされる。バミューダの歴史のみならず(1815年までバミューダの首都であった)、セント・ジョージを形作るのを助ける中枢の役割を演じた。アメリカ独立戦争中、バミューダ住民は弾薬庫から必要とされた火薬を盗んでいた(弾薬庫はセント・ジョージを防衛する近隣の砦に供給されたもの)。当時バミューダ島北端の町トバッコ・ベイからジョージ・ワシントンの元へ密輸されていた。彼らはおそらく、セント・ジョージを拠点とする貿易をしていた荒廃したアメリカ連合国へ軍需品供給をして、南北戦争を長引かせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現在、セント・ジョージの歴史文化財は基本的に首都ハミルトンの経済発展によって手つかずのままである。建物のほとんどは17世紀から19世紀にかけ建てられたもので、名士たちは後世の変化のあらゆるしるしを隠し、町の景観を破壊しかねない発達を妨げる熟考した上の努力を行ってきた。例えば、電気やガスの配管、電話線などは地中に埋設され、街灯は町が栄えた時代の様式を採用している。バーバーズ・アレイやアント・ペギーズ・レーンなどの狭い通りは、数世紀前の姿をとどめている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "セント・ジョージには無駄な遺物はない。しかし、生活者の町であり、歴史的な建築物の機能は博物館のみならず、住居、レストラン、パブ、そして商店となっている。中心部のキングズ・スクエアでは、タウン・ホールと観光サービス局が側に立つ。広場にはさらし台のレプリカ、そしてかつて港へ醜聞の渦中の女性を沈めるのに使用されたという水責め椅子のレプリカがある。現在、地元ボランティアたちはこの風変わりな処罰をイベントとして復活させようとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "セント・ジョージ港内にあるオードナンス島はキングズ・スクエアの南に位置し、小さな橋で結ばれている。そこには難破船に乗員たちによってつくられた2隻の船の一つデリヴァランス号の模型があり、彼らを指揮したジョージ・ソマーズの等身大ブロンズ像がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "町周囲の場所と同じく、オールド・ステイト・ハウス(1620年に建てられた最初の石造りの建物。バミューダ議会が置かれており諸島最古の建物である)のような多くの歴史的な場所がある。未完成の教会ではオールド・レクトリー、セント・ピーターズ教会(西半球最古のイギリス国教会の教会)、タッカー・ハウス、バミューダ・ナショナル・トラスト博物館がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1996年、セント・ジョージはジョージ・サマーズ卿の生誕地ドーセット州ライム・レジスと姉妹都市協定を結んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。", "title": "観光" } ]
セント・ジョージ は、バミューダ諸島のセント・ジョージ島にある町。
{{世界の市 |正式名称 = セント・ジョージ |公用語名称 = Town of St. George<br/>St. George's Town |愛称 = |標語 = |画像 = St. George's-6.jpg |画像サイズ指定 = |画像の見出し = |市旗 = |市章 = |位置図 = Bmmap-StGeorges.png |位置図サイズ指定 = |位置図の見出し = |位置図B = |位置図2 = |位置図サイズ指定2 = |位置図の見出し2 = |位置図2B = |緯度度 =32 |緯度分 =22 |緯度秒 =46 |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 =64 |経度分 =40 |経度秒 =40 |E(東経)及びW(西経) = W |成立区分 = 定住化 |成立日 = 1612年 |成立区分1 = |成立日1 = |成立区分2 = |成立日2 = |旧名 = |創設者 = |下位区分名 = {{UK}} |下位区分種類1 = [[イギリスの海外領土|海外領土]] |下位区分名1 = {{BER}} |下位区分種類2 = [[バミューダの地方行政区画|行政区画]] |下位区分名2 = セント・ジョージ |下位区分種類3 = |下位区分名3 = |下位区分種類4 = |下位区分名4 = |規模 = 町 |最高行政執行者称号 = |最高行政執行者名 = |最高行政執行者所属党派 = |総面積(平方キロ) = 1.37 |総面積(平方マイル) = |陸上面積(平方キロ) = |陸上面積(平方マイル) = |水面面積(平方キロ) = |水面面積(平方マイル) = |水面面積比率 = |市街地面積(平方キロ) = |市街地面積(平方マイル) = |都市圏面積(平方キロ) = |都市圏面積(平方マイル) = |標高(メートル) = |標高(フィート) = |人口の時点 = [[2010年]][[5月20日]] |人口に関する備考 = |総人口 = 1,743 |人口密度(平方キロ当たり) = 1,272.26 |人口密度(平方マイル当たり) = |市街地人口 = |市街地人口密度(平方キロ) = |市街地人口密度(平方マイル) = |都市圏人口 = |都市圏人口密度(平方キロ) = |都市圏人口密度(平方マイル) = |等時帯 = [[大西洋標準時]] |協定世界時との時差 = -4 |夏時間の等時帯 = [[大西洋夏時間]] |夏時間の協定世界時との時差 = -3 |郵便番号の区分 = |郵便番号 = |市外局番 = |ナンバープレート = |ISOコード = |公式ウェブサイト = |備考 = }} {{世界遺産概要表| site_img = Image:Bermuda-Harbour and Town of St George.jpg| site_img_capt = セント・ジョージ港| site_img_width = 275px| ja_name = バミューダ島の古都<br />セント・ジョージと<br />関連要塞群| en_name = Historic Town of St. George and Related Fortifications, Bermuda| fr_name = Ville historique de St George et les fortifications associées, aux Bermudes| country = イギリス| criterion_c = (4)| rg_year = 2000年| ex_rg_year = | remarks = | url_no = 983| map_img = image:Bmmap-StGeorges.png| map_img_width = 275px| }} '''セント・ジョージ''' ('''St. George's'''、公式には'''Town of St. George'''または'''St. George's Town''')は、[[バミューダ諸島]]のセント・ジョージ島にある町<ref>{{Cite web |title=St George Parish Bermuda |url=https://www.bermuda-attractions.com/bermuda2_000022.htm |website=www.bermuda-attractions.com |access-date=2023-04-20}}</ref>。 ==概要== [[Image:Bermuda-The State House.jpg|thumb|200px|ステイト・ハウス。1620年から、首都がハミルトンへ移転する1815年までバミューダ議会が置かれていた]] [[Image:Bermuda-Saint Peter's Church.jpg|thumb|right|200px|セント・ピーターズ教会]] [[Image:Bermuda-Stewart Hall.jpg|thumb|right|200px|ステュアート・ホール]] バミューダ諸島中最初に定住が進められた町であり、今日でも[[アメリカ州]]最古の[[イギリス]]植民地とされている(イギリスが最初に開拓に成功した北米植民地である[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]は1699年に近郊の[[ウィリアムズバーグ (バージニア州)|ウィリアムズバーグ]]へ街を移転しているため、現在では遺構が残るのみで人は住んでいない)。 ==歴史== セント・ジョージに初めて定住が始まったのは、最初の[[イングランド人]]植民者が偶然にバミューダ島に到来してから3年後の1612年だった。1609年、イングランド人植民者たちによる[[バージニア植民地]][[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]開拓のための第3次支援団であった9艘の船団の内、{{仮リンク|シー・ヴェンチュア号|en|Sea Venture}}が[[ハリケーン]]に巻き込まれ、バミューダ沖で漂流した。この船は、慎重に[[珊瑚礁]]内を進んで{{仮リンク|セント・ジョージズ島|en|St. George's Island, Bermuda}}へ降り立った。この植民者たちはイングランド海軍提督[[ジョージ・ソマーズ]]と陸軍大将[[トーマス・ゲイツ]](バージニア植民地の町[[ジェームズタウン]]の総督)に率いられた。生存者たちは新たに2隻の船をつくり、1610年にほとんどの人々がジェームズタウンを目指して旅を再開したが、その後も[[バージニア会社]]は島の所有を主張した。そのときにシー・ヴェンチュア号から残った3人の男性たちと、1612年に新たに送り込まれた60人の植民団が、隣の[[セントデービッド島|セント・デイヴィッズ島]]での短い滞在の後、悪天候時には船を守れるように遮蔽されている[[入り江]]にセント・ジョージの建設を始めた。 1615年、バージニア会社の株主たちは、北米植民のための二つ目の会社である{{仮リンク|サマーズ諸島会社|en|Somers Isles Company}}を設立した。この会社は1686年に解散するまでバミューダの統治を行った。 この小さな町は歴史的に無視できない重要な場所とされる。バミューダの歴史のみならず(1815年までバミューダの首都であった)、セント・ジョージを形作るのを助ける中枢の役割を演じた。[[アメリカ独立戦争]]中、バミューダ住民は弾薬庫から必要とされた火薬を盗んでいた(弾薬庫はセント・ジョージを防衛する近隣の砦に供給されたもの)。当時バミューダ島北端の町トバッコ・ベイから[[ジョージ・ワシントン]]の元へ密輸されていた。彼らはおそらく、セント・ジョージを拠点とする貿易をしていた荒廃した[[アメリカ連合国]]へ軍需品供給をして、[[南北戦争]]を長引かせた。 現在、セント・ジョージの歴史文化財は基本的に首都[[ハミルトン (バミューダ)|ハミルトン]]の経済発展によって手つかずのままである。建物のほとんどは17世紀から19世紀にかけ建てられたもので、名士たちは後世の変化のあらゆるしるしを隠し、町の景観を破壊しかねない発達を妨げる熟考した上の努力を行ってきた。例えば、電気やガスの配管、電話線などは地中に埋設され、街灯は町が栄えた時代の様式を採用している。バーバーズ・アレイやアント・ペギーズ・レーンなどの狭い通りは、数世紀前の姿をとどめている。 セント・ジョージには無駄な遺物はない。しかし、生活者の町であり、歴史的な建築物の機能は博物館のみならず、住居、レストラン、パブ、そして商店となっている。中心部のキングズ・スクエアでは、タウン・ホールと観光サービス局が側に立つ。広場にはさらし台のレプリカ、そしてかつて港へ醜聞の渦中の女性を沈めるのに使用されたという[[水責め椅子]]のレプリカがある。現在、地元ボランティアたちはこの風変わりな処罰をイベントとして復活させようとしている。 セント・ジョージ港内にあるオードナンス島はキングズ・スクエアの南に位置し、小さな橋で結ばれている。そこには難破船に乗員たちによってつくられた2隻の船の一つデリヴァランス号の模型があり、彼らを指揮したジョージ・ソマーズの等身大ブロンズ像がある。 町周囲の場所と同じく、オールド・ステイト・ハウス(1620年に建てられた最初の石造りの建物。バミューダ議会が置かれており諸島最古の建物である)のような多くの歴史的な場所がある。未完成の教会ではオールド・レクトリー、セント・ピーターズ教会(西半球最古の[[イギリス国教会]]の教会)、タッカー・ハウス、バミューダ・ナショナル・トラスト博物館がある。 1996年、セント・ジョージはジョージ・サマーズ卿の生誕地[[ドーセット|ドーセット州]][[ライム・レジス]]と姉妹都市協定を結んだ。 ==対外関係== ===姉妹都市・提携都市=== *{{flagicon|UK}}{{flagicon|ENG}}[[:en:Lyme Regis|ライムレジス]]([[イギリス|イギリス連合王国]][[イングランド|イングランド国]] [[サウス・ウェスト・イングランド|南西イングランド地方]] [[ドーセット州]]) ==観光== ===世界遺産=== *バミューダ島の古都セント・ジョージと関連要塞群 ;世界遺産基準 {{世界遺産基準|4}} == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * Michael Jarvis, ''Bermuda's Architectural Heritage: St. George's'' (Bermuda National Trust, Hamilton, 1998) == 外部リンク == {{commons|Category:St. George's, Bermuda}} *[http://www.stgeorgesfoundation.com/ St. George's Foundation] *[http://www.bermuda-island.net/INTRODUCTION/Geography/Town_of_St_George.php Town of St. George] Detailed info from Bermuda-Island.net *[http://www.bermuda4u.com Bermuda 4U] - A comprehensive and independent guide to Bermuda *[http://www.bermuda-online.org/seetown.htm Bermuda online's St. George's page] *[http://66.55.123.29 Webcam] At Harbour Radio [https://web.archive.org/web/20070928203736/http://www.rccbermuda.bm/portal/server.pt?space=CommunityPage&control=SetCommunity&CommunityID=282&PageID=0] (located at Ft. George, above the Town) {{イギリスの世界遺産}} {{バミューダの地方行政区画}} {{Normdaten}} {{coord|32|22|46|N|64|40|40|W|display=title}} {{DEFAULTSORT:せんとしよおし}} [[Category:イギリスの世界遺産]] [[Category:世界遺産 さ行]] [[Category:バミューダ諸島の地理]] [[Category:2000年登録の世界遺産]] [[Category:市街地の世界遺産]] [[Category:北アメリカの港町]] [[Category:イギリス植民地建築の世界遺産]] [[Category:北アメリカの世界遺産]]
null
2023-07-14T16:20:28Z
false
false
false
[ "Template:バミューダの地方行政区画", "Template:Coord", "Template:世界遺産概要表", "Template:仮リンク", "Template:Flagicon", "Template:Cite web", "Template:Commons", "Template:世界の市", "Template:世界遺産基準", "Template:Reflist", "Template:イギリスの世界遺産", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8_(%E3%83%90%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%80)
4,117,956
カルデラ (バンド)
カルデラ(Caldera)は、ジャズ、ファンク、ロックとラテン音楽を組み合わせたアメリカ合衆国のバンドである。リターン・トゥ・フォーエヴァーやウェザー・リポートがカルデラに影響を与えているが、メンバーたちはソウル、アフロ・キューバン・ジャズ、サルサ、サンバ、ペルー音楽にも影響を受けた。 キーボード奏者のエドゥアルド・デル・バリオとギタリストのジョージ・ストランツ(ストランツ&ファラー)が率いるカルデラのメンバーは、ラテンアメリカとアメリカ合衆国の一部地域からやって来た。ベース奏者のディーン・コルテスとサックス奏者のスティーヴ・タヴァローニはアメリカで生まれたが、他のメンバーはコスタリカ(ストランツ)、アルゼンチン(デル・バリオ)、キューバ(ドラマーのカルロス・ヴェガ)、ブラジル(パーカッションのマイク・バイアーノ・アゼヴェド)で生まれた。 1976年、カルデラはキャピトル・レコードと契約し、セルフタイトルのデビュー・アルバムをレコーディングした。その後、1977年に『スカイ・アイランド』、1978年に『タイム&チャンス』、1979年に『英雄伝説』が続いた。アース・ウィンド・アンド・ファイアーのラリー・ダンが、アルバム『スカイ・アイランド』の共同プロデュースを務めた。カルデラの曲「Out of the Blue」は、1977年1月にビルボード・ホット・ソウル・シングル・チャートの95位に達した。アルバム『タイム&チャンス』は、1978年10月にビルボードのベストセラー・ジャズ・LPチャートで46位になった。「Ancient Source」という楽曲は、アメリカ人ラッパーのジョーイ・バッドアスによって彼の曲「95 Til' Infinity」の中にサンプリングされた。彼らのサード・アルバムを除くすべてのアルバムがCDで再発されている。 バンドは1979年に解散した。しかし、カルデラのメンバーのほとんどは、解散後もずっと忙しいままだった。ストランツは、イラン/ペルシャのギタリストであるアルデシール・ファラーと共にギターデュオ「ストランツ&ファラー (Strunz & Farah)」を結成し、デル・バリオは、1980年代と1990年代を通じて、アース・ウィンド・アンド・ファイアー、スタン・ゲッツ、ダイアン・リーヴスなどのアーティストと一緒に仕事した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "カルデラ(Caldera)は、ジャズ、ファンク、ロックとラテン音楽を組み合わせたアメリカ合衆国のバンドである。リターン・トゥ・フォーエヴァーやウェザー・リポートがカルデラに影響を与えているが、メンバーたちはソウル、アフロ・キューバン・ジャズ、サルサ、サンバ、ペルー音楽にも影響を受けた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "キーボード奏者のエドゥアルド・デル・バリオとギタリストのジョージ・ストランツ(ストランツ&ファラー)が率いるカルデラのメンバーは、ラテンアメリカとアメリカ合衆国の一部地域からやって来た。ベース奏者のディーン・コルテスとサックス奏者のスティーヴ・タヴァローニはアメリカで生まれたが、他のメンバーはコスタリカ(ストランツ)、アルゼンチン(デル・バリオ)、キューバ(ドラマーのカルロス・ヴェガ)、ブラジル(パーカッションのマイク・バイアーノ・アゼヴェド)で生まれた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1976年、カルデラはキャピトル・レコードと契約し、セルフタイトルのデビュー・アルバムをレコーディングした。その後、1977年に『スカイ・アイランド』、1978年に『タイム&チャンス』、1979年に『英雄伝説』が続いた。アース・ウィンド・アンド・ファイアーのラリー・ダンが、アルバム『スカイ・アイランド』の共同プロデュースを務めた。カルデラの曲「Out of the Blue」は、1977年1月にビルボード・ホット・ソウル・シングル・チャートの95位に達した。アルバム『タイム&チャンス』は、1978年10月にビルボードのベストセラー・ジャズ・LPチャートで46位になった。「Ancient Source」という楽曲は、アメリカ人ラッパーのジョーイ・バッドアスによって彼の曲「95 Til' Infinity」の中にサンプリングされた。彼らのサード・アルバムを除くすべてのアルバムがCDで再発されている。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "バンドは1979年に解散した。しかし、カルデラのメンバーのほとんどは、解散後もずっと忙しいままだった。ストランツは、イラン/ペルシャのギタリストであるアルデシール・ファラーと共にギターデュオ「ストランツ&ファラー (Strunz & Farah)」を結成し、デル・バリオは、1980年代と1990年代を通じて、アース・ウィンド・アンド・ファイアー、スタン・ゲッツ、ダイアン・リーヴスなどのアーティストと一緒に仕事した。", "title": "略歴" } ]
カルデラ(Caldera)は、ジャズ、ファンク、ロックとラテン音楽を組み合わせたアメリカ合衆国のバンドである。リターン・トゥ・フォーエヴァーやウェザー・リポートがカルデラに影響を与えているが、メンバーたちはソウル、アフロ・キューバン・ジャズ、サルサ、サンバ、ペルー音楽にも影響を受けた。
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = カルデラ<br />Caldera | Img = | Img_capt = | Img_size = <!-- サイズが220ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = | Background = group_or_band | Birth_name = <!--出生時の名前が公表されている場合にのみ記入--> | Alias = | Blood = | School_background = | Born = | Died = | Origin = {{USA}} [[ニューヨーク]] | Instrument = | Genre = [[フュージョン (音楽)|フュージョン]] | Occupation = | Years_active = [[1976年]] - [[1979年]] | Label = [[キャピトル・レコード]] | Production = | Associated_acts = | Influences = | URL = | Current_members = | Past_members = エドゥアルド・デル・バリオ<br />ジョージ・ストランツ<br />[[スティーヴ・タヴァローニ]]<br />カルロス・ヴェガ<br />マイク・バイアーノ・アゼヴェド | Notable_instruments = }} '''カルデラ'''('''Caldera''')は、[[ジャズ]]、[[ファンク]]、[[ロック (音楽)|ロック]]と[[ラテン音楽]]を組み合わせた[[アメリカ合衆国]]のバンドである。[[リターン・トゥ・フォーエヴァー]]や[[ウェザー・リポート]]がカルデラに影響を与えているが、メンバーたちは[[ソウルミュージック|ソウル]]、[[アフロ・キューバン・ジャズ]]、[[サルサ (音楽)|サルサ]]、[[サンバ]]、ペルー音楽にも影響を受けた<ref>{{Cite web|url=https://jazzjournal.co.uk/2019/07/04/caldera-caldera-sky-islands/|title=Caldera: Caldera / Sky Islands {{!}} Jazz Journal|last=Farbey|first=Roger|language=en-GB|access-date=2020-03-26}}</ref>。 == 略歴 == キーボード奏者のエドゥアルド・デル・バリオとギタリストのジョージ・ストランツ(ストランツ&ファラー)が率いるカルデラのメンバーは、[[ラテンアメリカ]]と[[アメリカ合衆国]]の一部地域からやって来た。ベース奏者のディーン・コルテスとサックス奏者の[[スティーヴ・タヴァローニ]]はアメリカで生まれたが、他のメンバーは[[コスタリカ]](ストランツ)、[[アルゼンチン]](デル・バリオ)、[[キューバ]](ドラマーのカルロス・ヴェガ)、[[ブラジル]](パーカッションのマイク・バイアーノ・アゼヴェド)で生まれた。 1976年、カルデラは[[キャピトル・レコード]]と契約し、セルフタイトルのデビュー・アルバムをレコーディングした。その後、1977年に『スカイ・アイランド』、1978年に『タイム&チャンス』、1979年に『英雄伝説』が続いた<ref>{{Cite web|url=https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1989-08-25-ca-818-story.html|title=2 Guitarists Seek Out the True-Blue Notes of Artistic Integrity and Audience Appeal|date=1989-08-25|website=Los Angeles Times|language=en-US|access-date=2020-03-25}}</ref>。[[アース・ウィンド・アンド・ファイアー]]のラリー・ダンが、アルバム『スカイ・アイランド』の共同プロデュースを務めた<ref>{{Cite web|url=https://www.keyboardmag.com/lessons/the-art-of-synth-soloing-larry-dunn|title=The Art of Synth Soloing: Larry Dunn|last=Kovarsky|first=Jerry|website=KeyboardMag|language=en-us|access-date=2020-03-26}}</ref>。カルデラの曲「Out of the Blue」は、1977年1月に[[ビルボード]]・ホット・ソウル・シングル・チャートの95位に達した<ref>{{Cite book|last=Inc|first=Nielsen Business Media|url=https://books.google.com/books?id=PkUEAAAAMBAJ&pg=PT98&lpg=PT98&dq=billboard+chart+position+for+%22out+of+the+blue%22+by+caldera&source=bl&ots=Oz9rFron4A&sig=ACfU3U1ADTErVUKQ5JQYpTQGwEW89oF2lg&hl=en&sa=X&ved=2ahUKEwio_7WmkJToAhWMt54KHYycAqAQ6AEwAHoECAgQAQ#v=onepage&q=caldera&f=false|title=Billboard|date=1977-01-22|publisher=Nielsen Business Media, Inc.|language=en}}</ref>。アルバム『タイム&チャンス』は、1978年10月にビルボードのベストセラー・ジャズ・LPチャートで46位になった<ref>{{Cite book|last=Inc|first=Nielsen Business Media|url=|title=Billboard|date=1978-10-28|publisher=Nielsen Business Media, Inc.|year=|isbn=|location=|pages=|language=en}}</ref>。「Ancient Source」という楽曲は、アメリカ人ラッパーの[[ジョーイ・バッドアス]]によって彼の曲「95 Til' Infinity」の中にサンプリングされた<ref>{{Cite web|url=https://www.whosampled.com/sample/215101/Joey-Bada$$-%2795-Til%27-Infinity-Caldera-Ancient-Source/|title=Joey Bada$$'s ''95 Til' Infinity' - Discover the Sample Source|website=WhoSampled|language=en|access-date=2020-03-26}}</ref>。彼らのサード・アルバムを除くすべてのアルバムがCDで再発されている。 バンドは1979年に解散した。しかし、カルデラのメンバーのほとんどは、解散後もずっと忙しいままだった。ストランツは、イラン/ペルシャのギタリストであるアルデシール・ファラーと共にギターデュオ「ストランツ&ファラー (Strunz & Farah)」を結成し、デル・バリオは、1980年代と1990年代を通じて、アース・ウィンド・アンド・ファイアー、[[スタン・ゲッツ]]、[[ダイアン・リーヴス]]などのアーティストと一緒に仕事した<ref>{{cite web | last = Henderson | first = Alex | authorlink = | coauthors = | title = Caldera Biography | work = | publisher = [[Allmusic]] | date = | url = {{Allmusic|class=artist|id=p10260|pure_url=yes}} | format = | doi = | accessdate = 2007-07-15 }}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.arts.gov/honors/jazz/dianne-reeves|title=Dianne Reeves|date=2017-06-12|website=NEA|language=en|access-date=2020-03-25}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.theatlantic.com/entertainment/archive/2012/11/that-groove-was-undeniable-making-earth-wind-fires-all-n-all/265323/|title='That Groove Was Undeniable': Making Earth, Wind & Fire's 'All 'N All'|last=Williams|first=Chris|date=2012-11-21|website=The Atlantic|language=en-US|access-date=2020-03-26}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.grammy.com/grammys/artists/eddie-del-barrio|title=Eddie Del Barrio|date=2019-11-19|website=GRAMMY.com|language=en|access-date=2020-03-26}}</ref>。 == ディスコグラフィ == === アルバム === *『カルデラ』 - ''Caldera'' (1976年) *『スカイ・アイランド』 - ''Sky Islands'' (1977年) *『タイム&チャンス』 - ''Time and Chance'' (1978年) *『英雄伝説』 - ''Dreamer'' (1979年) == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * {{Discogs artist|438876-Caldera-2}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かるてら}} [[Category:フュージョン・ミュージシャン]]
null
2023-04-13T03:22:02Z
false
false
false
[ "Template:Normdaten", "Template:Infobox Musician", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:Discogs artist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%A9_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)
1,256,120
ジョニー・カーソン
ジョン・ウィリアム・"ジョニー"・カーソン(John William "Johnny" Carson、1925年10月23日-2005年1月23日)はアメリカのテレビ司会者、コメディアン、俳優。 NBCの『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン』で1962年10月1日から1992年5月22日までの約30年に亘って司会を務め、「キング・オブ・レイト・ナイト」と呼ばれた。1992年の降板後、司会をジェイ・レノに引き継いだ。 アイオワ州コーニング出身。14歳で俳優デビュー。後にアメリカ海軍に召集。その後早朝のニュース番組でキャスターを務め、NBCの『ザ・トゥナイト・ショー』の司会に抜擢される。その後、同番組とカーソンはアメリカでも有数の人気を誇り、アカデミー賞授賞式の司会者も数回に渡り務めることとなった。 番組降板後、アニメ『ザ・シンプソンズ』、トーク番組『レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』にゲスト出演。2005年1月23日に、ロサンゼルス市内の病院で肺気腫により死去。79歳没。葬儀は密葬で行なわれ、ブッシュ大統領(当時)も哀悼の意を表した。また、ジェイ・レノ司会の『ザ・トゥナイト・ショー・ウィズ・ジェイ・レノ』でも追悼コーナーが設けられた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ジョン・ウィリアム・\"ジョニー\"・カーソン(John William \"Johnny\" Carson、1925年10月23日-2005年1月23日)はアメリカのテレビ司会者、コメディアン、俳優。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "NBCの『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン』で1962年10月1日から1992年5月22日までの約30年に亘って司会を務め、「キング・オブ・レイト・ナイト」と呼ばれた。1992年の降板後、司会をジェイ・レノに引き継いだ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アイオワ州コーニング出身。14歳で俳優デビュー。後にアメリカ海軍に召集。その後早朝のニュース番組でキャスターを務め、NBCの『ザ・トゥナイト・ショー』の司会に抜擢される。その後、同番組とカーソンはアメリカでも有数の人気を誇り、アカデミー賞授賞式の司会者も数回に渡り務めることとなった。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "番組降板後、アニメ『ザ・シンプソンズ』、トーク番組『レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン』にゲスト出演。2005年1月23日に、ロサンゼルス市内の病院で肺気腫により死去。79歳没。葬儀は密葬で行なわれ、ブッシュ大統領(当時)も哀悼の意を表した。また、ジェイ・レノ司会の『ザ・トゥナイト・ショー・ウィズ・ジェイ・レノ』でも追悼コーナーが設けられた。", "title": "略歴" } ]
ジョン・ウィリアム・"ジョニー"・カーソンはアメリカのテレビ司会者、コメディアン、俳優。 NBCの『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン』で1962年10月1日から1992年5月22日までの約30年に亘って司会を務め、「キング・オブ・レイト・ナイト」と呼ばれた。1992年の降板後、司会をジェイ・レノに引き継いだ。
{{Expand language |langcode=en |otherarticle=Johnny Carson |date=2022-02-19 |fa= |topic= |nodoc= |no interwiki= }} {{ActorActress | 芸名 = Johnny Carson | ふりがな = ジョニー・カーソン | 画像ファイル = JohnnyCarson1994.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = (1994年) | 本名 = John William Carson | 別名義 = | 出生地 = {{USA}} [[アイオワ州]][[コーニング (アイオワ州)|コーニング]] | 死没地 = {{USA}} [[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス市]] | 国籍 = {{USA}} | 民族 = | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1925 | 生月 = 10 | 生日 = 23 | 没年 = 2005 | 没月 = 1 | 没日 = 23 | 職業 = [[テレビ]][[司会者]]、[[コメディアン]]、[[俳優]] | ジャンル = [[テレビ番組]]、[[映画]] | 活動期間 = [[1950年]] - [[1994年]] | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = '''テレビ番組'''<br />『{{仮リンク|ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン|en|The Tonight Show Starring Johnny Carson}}』 | アカデミー賞 = | アリエル賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | エミー賞 = | グラミー賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | ジェミニ賞 = | ジニー賞 = | セザール賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | フィルムフェア賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | その他の賞 = | 備考 = }} '''ジョン・ウィリアム・"ジョニー"・カーソン'''(John William "Johnny" Carson、[[1925年]][[10月23日]]-[[2005年]][[1月23日]])は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[テレビ]][[司会者]]、[[コメディアン]]、[[俳優]]。 [[NBC]]の『[[:en:The Tonight Show Starring Johnny Carson|ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン]]』で[[1962年]][[10月1日]]から[[1992年]][[5月22日]]までの約30年に亘って司会を務め、「[[:en:Johnny Carson: King of Late Night|キング・オブ・レイト・ナイト]]」と呼ばれた。1992年の降板後、司会を[[ジェイ・レノ]]に引き継いだ。 == 略歴 == [[アイオワ州]][[コーニング (アイオワ州)|コーニング]]出身。14歳で俳優デビュー。後に[[アメリカ海軍]]に召集。その後早朝のニュース番組でキャスターを務め、[[NBC]]の『[[ザ・トゥナイト・ショー]]』の司会に抜擢される。その後、同番組とカーソンはアメリカでも有数の人気を誇り、[[アカデミー賞]]授賞式の司会者も数回に渡り務めることとなった。 番組降板後、アニメ『[[ザ・シンプソンズ]]』、トーク番組『[[レイト・ショー・ウィズ・デイヴィッド・レターマン]]』にゲスト出演。[[2005年]][[1月23日]]に、[[ロサンゼルス市]]内の病院で[[肺気腫]]により死去。{{没年齢|1925|10|23|2005|1|23}}。葬儀は[[密葬]]で行なわれ、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]大統領(当時)も哀悼の意を表した。また、[[ジェイ・レノ]]司会の『[[ザ・トゥナイト・ショー・ウィズ・ジェイ・レノ]]』でも追悼コーナーが設けられた。 == 関連項目 == * [[デヴィッド・レターマン]] * [[ジェイ・レノ]] * [[コナン・オブライエン]] * [[ジョニー (小惑星)]] - 1981年に発見された[[小惑星番号]]3252番の[[小惑星]]。カーソンにちなみ命名された。 == 外部リンク == *{{imdb|1992}} *[http://www.johnnycarson.com/ Official website] for ''The Tonight Show starring Johnny Carson'' {{先代次代|[[ザ・トゥナイト・ショー]]の司会者|[[1962年]][[10月1日]]~[[1992年]][[5月22日]]|[[ジャック・パール]]([[1957年]][[7月29日]]〜[[1962年]][[3月30日]])、様々な司会者([[1962年]][[4月2日]]〜[[1962年]][[9月28日]])|[[ジェイ・レノ]]}} {{アカデミー賞授賞式の司会者}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かあそん しよにい}} [[Category:アメリカ合衆国のコメディアン]] [[Category:アメリカ合衆国の男優]] [[Category:アカデミー賞司会者]] [[Category:エミー賞受賞者]] [[Category:ケネディ・センター名誉賞受賞者]] [[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]] [[Category:アイオワ州の人物]] [[Category:アイオワ州アダムズ郡出身の人物]] [[Category:1925年生]] [[Category:2005年没]]
null
2023-04-23T02:30:53Z
false
false
false
[ "Template:Expand language", "Template:ActorActress", "Template:没年齢", "Template:Imdb", "Template:先代次代", "Template:アカデミー賞授賞式の司会者", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3
3,412,030
ブライトバート・ニュース・ネットワーク
ブライトバート・ニュース・ネットワーク(英語: Breitbart News Network)は、アメリカ合衆国のオンラインニュースサイトで、ラジオ放送(Breitbart News Daily)も行っている。単にブライトバート(Breitbart)などとも呼ばれる。本社所在地はカリフォルニア州ロサンゼルス。 政治性向は極右であるとニューヨーク・タイムズは紹介している。ニューヨーク・タイムズは同サイトを、虚偽報道であり、女性嫌悪・人種差別的なサイトと批難している。また、真偽の定かでないデマ、陰謀論、および意図的に誤解を招く記事を一部発信し、白人至上主義、反移民に関する話題を掲載し、オルタナ右翼の代表的なメディアとされ、トランプ大統領の当選に大きな役割を果たした。 アレクサ・インターネットによれば、2014年の時点で世界の報道機関カテゴリーの中で上位50位に入るほどの規模となっている。 創業者でユダヤ系アメリカ人のアンドリュー・ブライトバート(英語版)によれば、彼がイスラエル滞在中に共同創業者となるラリー・ソロフとともに「既存のメディアは反イスラエル的すぎる」として「自由で親イスラエルなニュースサイト」を構想したことから始まった。アンドリューはリバタリアンに共感する「レーガン的保守主義者」で、ドラッジ・レポートの右腕的な存在だった。アンドリューはアイデアマンであり、超党派的だった初期のハフィントン・ポストでも働いており様々な助言をしたが、自身の思想と合わないため、袂を分かった。 2005年、アンドリュー・ブライトバートはニュースサイト「breitbart.com」を立ち上げた。このサイトはAP通信やロイター、AFP、FOXニュース、PR Newswire(英語版)などの通信社の記事や主要な全国紙の記事のリンクを集めた物で、リンクのうち特にドラッジ・レポートからのリンクは論争を呼び、初期の成長につながった。2007年には各社のビデオを集めたビデオ・ブログ「Breitbart.tv」を立ち上げ、WTAEニュース(英語版)のアンカーだった右派のスティーブン・バノンを雇い入れた。その後アンドリュー・ブライトバートがワシントン・タイムズで連載していたコラムを元に「BIG HOLLYWOOD」(2008年)が作られ、「BIG GOVERNMENT」(2009年9月)や「BIG JOURNALISM」(2010年1月)などのブログメディアが続いた。当時のブライトバートはハフィントン・ポストの右翼版を目指しており、アンソニー・ウェイナーの性的な醜聞(英語版)やシャーリー・シャーロッドの白人差別発言(英語版)、即時改革のためのコミュニティ組織の協会ACORONの隠しビデオ論争(英語版)などの独占記事を掲載した。 2012年3月、2012年アメリカ合衆国大統領選挙の最中に創業者のアンドリューが亡くなった。アンドリューは亡くなる前にウェブサイトをリンク収集型のニュース・アグリゲーターからタブロイド風に変項することを計画しており、死後すぐに再編が行われた。 2014年2月、会長のスティーブン・バノンは12人ほどの職員を増員し、テキサスとロンドンに地方局を開設すると発表した。この発表は事業拡大の第一歩であり、フロリダやカリフォルニア、カイロやエルサレムなどに事業を拡大していく計画だった。2014年のピュー研究所の調査によると、回答者の3%がブライトバートを閲覧しており、そのうちの79%の政治的価値観は中道右派だった。ブライトバートは営利企業であり、社員ですら「非公開会社なので所有者や背後関係は分からない」。しかし他社の報道によるとアンドリュー・ブライトバートの死後に後継者争いがあり、2015年現在の 出資者は計算機科学者でヘッジファンドCEOのロバート・マーサーだと言われている。 他社の報道によると、2016年アメリカ合衆国大統領選挙ではドナルド・トランプから現金を供与され好意的な報道を行っていると言われるが、ブライトバートは否定している。2016年8月、スティーブン・バノンがトランプ陣営の選挙対策本部の最高責任者に就任。2017年1月にトランプ大統領就任後は、新設ポストの大統領首席戦略官と上級顧問に指名されたが、いずれも同年8月に辞任し、重役として復職した。 英語版ウィキペディアでは、2018年9月2日に「ブライトバート・ニュース・ネットワークは信頼できないニュースサイトであり、Wikipediaの情報ソースとしてふさわしくない」として議論が立ち上げられ、投票の結果、出典としての使用が禁止された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ブライトバート・ニュース・ネットワーク(英語: Breitbart News Network)は、アメリカ合衆国のオンラインニュースサイトで、ラジオ放送(Breitbart News Daily)も行っている。単にブライトバート(Breitbart)などとも呼ばれる。本社所在地はカリフォルニア州ロサンゼルス。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "政治性向は極右であるとニューヨーク・タイムズは紹介している。ニューヨーク・タイムズは同サイトを、虚偽報道であり、女性嫌悪・人種差別的なサイトと批難している。また、真偽の定かでないデマ、陰謀論、および意図的に誤解を招く記事を一部発信し、白人至上主義、反移民に関する話題を掲載し、オルタナ右翼の代表的なメディアとされ、トランプ大統領の当選に大きな役割を果たした。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アレクサ・インターネットによれば、2014年の時点で世界の報道機関カテゴリーの中で上位50位に入るほどの規模となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "創業者でユダヤ系アメリカ人のアンドリュー・ブライトバート(英語版)によれば、彼がイスラエル滞在中に共同創業者となるラリー・ソロフとともに「既存のメディアは反イスラエル的すぎる」として「自由で親イスラエルなニュースサイト」を構想したことから始まった。アンドリューはリバタリアンに共感する「レーガン的保守主義者」で、ドラッジ・レポートの右腕的な存在だった。アンドリューはアイデアマンであり、超党派的だった初期のハフィントン・ポストでも働いており様々な助言をしたが、自身の思想と合わないため、袂を分かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2005年、アンドリュー・ブライトバートはニュースサイト「breitbart.com」を立ち上げた。このサイトはAP通信やロイター、AFP、FOXニュース、PR Newswire(英語版)などの通信社の記事や主要な全国紙の記事のリンクを集めた物で、リンクのうち特にドラッジ・レポートからのリンクは論争を呼び、初期の成長につながった。2007年には各社のビデオを集めたビデオ・ブログ「Breitbart.tv」を立ち上げ、WTAEニュース(英語版)のアンカーだった右派のスティーブン・バノンを雇い入れた。その後アンドリュー・ブライトバートがワシントン・タイムズで連載していたコラムを元に「BIG HOLLYWOOD」(2008年)が作られ、「BIG GOVERNMENT」(2009年9月)や「BIG JOURNALISM」(2010年1月)などのブログメディアが続いた。当時のブライトバートはハフィントン・ポストの右翼版を目指しており、アンソニー・ウェイナーの性的な醜聞(英語版)やシャーリー・シャーロッドの白人差別発言(英語版)、即時改革のためのコミュニティ組織の協会ACORONの隠しビデオ論争(英語版)などの独占記事を掲載した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2012年3月、2012年アメリカ合衆国大統領選挙の最中に創業者のアンドリューが亡くなった。アンドリューは亡くなる前にウェブサイトをリンク収集型のニュース・アグリゲーターからタブロイド風に変項することを計画しており、死後すぐに再編が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2014年2月、会長のスティーブン・バノンは12人ほどの職員を増員し、テキサスとロンドンに地方局を開設すると発表した。この発表は事業拡大の第一歩であり、フロリダやカリフォルニア、カイロやエルサレムなどに事業を拡大していく計画だった。2014年のピュー研究所の調査によると、回答者の3%がブライトバートを閲覧しており、そのうちの79%の政治的価値観は中道右派だった。ブライトバートは営利企業であり、社員ですら「非公開会社なので所有者や背後関係は分からない」。しかし他社の報道によるとアンドリュー・ブライトバートの死後に後継者争いがあり、2015年現在の 出資者は計算機科学者でヘッジファンドCEOのロバート・マーサーだと言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "他社の報道によると、2016年アメリカ合衆国大統領選挙ではドナルド・トランプから現金を供与され好意的な報道を行っていると言われるが、ブライトバートは否定している。2016年8月、スティーブン・バノンがトランプ陣営の選挙対策本部の最高責任者に就任。2017年1月にトランプ大統領就任後は、新設ポストの大統領首席戦略官と上級顧問に指名されたが、いずれも同年8月に辞任し、重役として復職した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "英語版ウィキペディアでは、2018年9月2日に「ブライトバート・ニュース・ネットワークは信頼できないニュースサイトであり、Wikipediaの情報ソースとしてふさわしくない」として議論が立ち上げられ、投票の結果、出典としての使用が禁止された。", "title": "歴史" } ]
ブライトバート・ニュース・ネットワークは、アメリカ合衆国のオンラインニュースサイトで、ラジオ放送も行っている。単にブライトバート(Breitbart)などとも呼ばれる。本社所在地はカリフォルニア州ロサンゼルス。 政治性向は極右であるとニューヨーク・タイムズは紹介している。ニューヨーク・タイムズは同サイトを、虚偽報道であり、女性嫌悪・人種差別的なサイトと批難している。また、真偽の定かでないデマ、陰謀論、および意図的に誤解を招く記事を一部発信し、白人至上主義、反移民に関する話題を掲載し、オルタナ右翼の代表的なメディアとされ、トランプ大統領の当選に大きな役割を果たした。 アレクサ・インターネットによれば、2014年の時点で世界の報道機関カテゴリーの中で上位50位に入るほどの規模となっている。
{{Infobox website | name = ブライトバート・ニュース・ネットワーク<br>Breitbart News Network | logo = [[File:Breitbart News.svg|236px]] | logocaption = | screenshot = | collapsible = | caption = | url = {{URL|http://www.breitbart.com}} | slogan = | commercial = 営利企業 | type = [[政治]]、[[保守]]、[[極右]] | registration = | language = [[英語]] | num_users = | content license = | owner = | author = [[アンドリュー・ブライトバート]] | editor = アレクサンダー・マーロウ<ref>{{cite news|last1=Byers|first1=Dylan|title=Breitbart News shakes up masthead|url=http://www.politico.com/blogs/media/2013/10/breitbart-news-shakes-up-masthead-175371.html|accessdate=August 17, 2015|publisher=Politico|date=October 17, 2013}}</ref> | launch date = 2005年(Breitbart.com)<br>2007年(Breitbart.tv) | current status = }} '''ブライトバート・ニュース・ネットワーク'''({{lang-en|Breitbart News Network}})は、[[アメリカ合衆国]]のオンライン[[ニュースサイト]]で、ラジオ放送(Breitbart News Daily)も行っている。単に'''ブライトバート'''({{lang|en|Breitbart}})などとも呼ばれる。本社所在地は[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]<ref>[http://www.slate.com/articles/news_and_politics/politics/2012/03/the_empire_that_andrew_breitbart_built_is_struggling_to_maintain_its_brand_now_that_its_founder_is_dead_.html Meet the Breitbarts]D. Weigel, Slate, 21 Mar 2012</ref>。 政治性向は[[極右]]である[[ニューヨーク・タイムズ|とニューヨーク・タイムズは紹介している]]<ref name="FarRight">* {{cite news|url=https://www.washingtonpost.com/politics/is-trumps-new-chief-strategist-a-racist-critics-say-so/2016/11/14/b72e2ab0-aa9d-11e6-a31b-4b6397e625d0_story.html|title=Is Trump's new chief strategist a racist? Critics say so.|last=Weigel|first=David|date=November 14, 2016|work=[[The Washington Post]]|access-date=December 3, 2016|url-status=live|archive-url=https://archive.is/tvmFY|archive-date=December 22, 2016|url-access=limited}} * {{cite news|url=https://www.newsweek.com/barack-obama-donald-trump-white-nationalism-stephen-bannon-521680|title=President Barack Obama Warns Against 'Us and Them' Nationalism|last=Gidda|first=Mirren|date=November 16, 2016|work=[[Newsweek]]|access-date=December 3, 2016|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20190427151806/https://www.newsweek.com/barack-obama-donald-trump-white-nationalism-stephen-bannon-521680|archive-date=April 27, 2019}} * {{cite news|url=https://www.csmonitor.com/World/Security-Watch/Backchannels/2015/0620/Beyond-Rhodesia-Dylann-Roof-s-manifesto-and-the-website-that-radicalized-him|title=Beyond Rhodesia, Dylann Roof's manifesto and the website that radicalized him|last=Murphy|first=Dan|date=June 20, 2015|work=[[クリスチャン・サイエンス・モニター]]|access-date=December 3, 2016|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20190404230049/https://www.csmonitor.com/World/Security-Watch/Backchannels/2015/0620/Beyond-Rhodesia-Dylann-Roof-s-manifesto-and-the-website-that-radicalized-him|archive-date=April 4, 2019}} * {{cite news|url=https://apnews.com/6a4338387e6847eeb6f59db3b8d1fb0a/donald-trumps-cabinet-picks-so-far|title=Donald Trump's Cabinet picks, so far|date=November 19, 2016|access-date=May 28, 2017|url-status=live|archive-url=https://archive.is/aEBbx|archive-date=October 30, 2019|agency=[[Associated Press]]}} * {{cite news|url=https://www.japantimes.co.jp/news/2016/11/24/world/politics-diplomacy-world/appnexus-bans-breitbart-ad-exchange-citing-hate-speech/|title=AppNexus bans Breitbart from ad exchange, citing hate speech|date=November 24, 2016|work=[[The Japan Times]]|access-date=December 3, 2016|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20181211173507/https://www.japantimes.co.jp/news/2016/11/24/world/politics-diplomacy-world/appnexus-bans-breitbart-ad-exchange-citing-hate-speech/|archive-date=December 11, 2018|agency=[[Reuters]]}} * {{cite news|url=https://www.smh.com.au/world/north-america/hate-crimes-surge-in-donald-trumps-america-20161117-gsrjpx.html|title=Make America hate again: how Donald Trump's victory has emboldened bigotry|last=McGeough|first=Paul|date=November 19, 2016|work=[[The Sydney Morning Herald]]|access-date=December 3, 2016|url-status=live|archive-url=https://archive.is/NxNFy|archive-date=October 30, 2019}}</ref>。[[ニューヨーク・タイムズ]]は同サイトを、[[虚偽報道]]であり、[[ミソジニー|女性嫌悪]]・[[人種差別|人種差別的]]なサイトと批難している<ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/2016/11/15/us/politics/stephen-bannon-breitbart-words.html|title=Stephen Bannon and Breitbart News, in Their Words|author=Daniel Victor|coauthors=Liam Stack|newspaper=ニューヨーク・タイムズ|date=2016-11-15}}</ref>。また、真偽の定かでない[[噂|デマ]]、[[陰謀論]]、および意図的に誤解を招く記事を一部発信し<ref>{{Cite web|url=https://www.latimes.com/nation/politics/trailguide/la-na-trailguide-updates-201611-htmlstory.html#what-is-the-alt-right-a-refresher-course-on-steve-bannons-fringe-brand-of-conservatism|title=What is the alt-right? A refresher course on Steve Bannon’s fringe brand of conservatism|accessdate=2016/11/15|publisher=Los Angeles Times}}</ref>、[[白人至上主義]]、[[反移民]]に関する話題を掲載し、[[オルタナ右翼]]の代表的なメディアとされ、[[ドナルド・トランプ|トランプ大統領]]の当選に大きな役割を果たした<ref>{{Cite web|和書|title=「偽ニュースサイト」が欧米を席巻 「小遣い稼ぎ」の投稿が政治を動かす|url=http://www.weekly-economist.com/2017/01/17/%E5%81%BD%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88-%E3%81%8C%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E3%82%92%E5%B8%AD%E5%B7%BB-%E5%B0%8F%E9%81%A3%E3%81%84%E7%A8%BC%E3%81%8E-%E3%81%AE%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%81%8C%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%82%92%E5%8B%95%E3%81%8B%E3%81%99/|website=週刊エコノミスト|date=2017-01-17|accessdate=2020-01-18|language=ja-JP}}</ref>。 [[アレクサ・インターネット]]によれば、2014年の時点で世界の報道機関カテゴリーの中で上位50位に入るほどの規模となっている<ref>[http://www.nytimes.com/2014/02/17/business/media/breitbart-news-network-plans-global-expansion.html Breitbart News Network Plans Global Expansion] L. Kaufman, The New York Times, 16 Feb 2014</ref>。 == 歴史 == ===前史=== [[ファイル:Andrew Breitbart (5450295200).jpg|サムネイル|アンドリュー・ブライトバート]] 創業者で[[ユダヤ系アメリカ人]]<ref>{{cite news|url=http://www.slate.com/articles/news_and_politics/politics/2010/03/what_is_andrew_breitbart_thinking.single.html |title=Big Breitbart: Andrew Breitbart is messing with you | author= Christopher Beam |journal =Slate Magazine |publisher= |accessdate=2016-10-14 | archiveurl= https://web.archive.org/web/20100322191051/http://www.slate.com/id/2247593| archivedate= March 22, 2010 | deadurl= no}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704471504574451703003340362.html?mod=WSJ_hpp_sections_opinion |title=The Weekend Interview With Andrew Breitbart: Taking On the 'Democrat-Media Complex' |work=The Wall Street Journal |accessdate=2016-10-14 | first=James | last=Taranto | date=October 16, 2009| archiveurl= https://web.archive.org/web/20091020224720/http://online.wsj.com/article/SB10001424052748704471504574451703003340362.html?mod=WSJ_hpp_sections_opinion| archivedate= October 20, 2009 | deadurl= no}}</ref>の{{仮リンク|アンドリュー・ブライトバート|en|Andrew Breitbart}}によれば、彼が[[イスラエル]]滞在中に共同創業者となる[[ラリー・ソロフ]]とともに「既存のメディアは反イスラエル的すぎる」として「自由で親イスラエルなニュースサイト」を構想したことから始まった<ref>{{Cite news|url=http://www.breitbart.com/big-journalism/2015/11/17/breitbart-news-network-born-in-the-usa-conceived-in-israel/ |title=Breitbart News Network: Born In The USA, Conceived In Israel |work=Breitbart News Network |accessdate=2016-11-14 | first= | last= | date=2015-11-17}}</ref>。アンドリューは[[リバタリアニズム|リバタリアン]]に共感する「[[ロナルド・レーガン|レーガン的]]保守主義者」で<ref name="c-span">[http://www.c-spanarchives.org/program/289587-8 Andrew Breitbart, Breitbart.com Publisher] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121002155759/http://www.c-spanarchives.org/program/289587-8 |date=2012年10月2日 }} [[C-SPAN]], October 22, 2009. Breitbart referred to the "Democrat-media complex" several times...</ref>、[[ドラッジ・レポート]]の右腕的な存在だった<ref name="huffington"/>。アンドリューはアイデアマンであり、超党派的だった初期の[[ハフィントン・ポスト]]でも働いており様々な助言をしたが、自身の思想と合わないため、袂を分かった<ref name="huffington">{{cite web|title=How Andrew Breitbart Helped Launch Huffington Post|url=http://www.buzzfeed.com/buzzfeedpolitics/how-andrew-breitbart-helped-launch-huffington-post|publisher=Buzzfeed|accessdate=24 April 2013}}</ref>。 ===誕生=== 2005年、アンドリュー・ブライトバートはニュースサイト「breitbart.com」を立ち上げた。このサイトは[[AP通信]]や[[ロイター]]、[[フランス通信社|AFP]]、[[FOXニュース]]、{{仮リンク|PR Newswire|en|PR Newswire}}などの通信社の記事や主要な全国紙の記事のリンクを集めた物で<ref name="nextwave">[[Rob Owen (journalist)|Owen, Rob]]. [http://www.post-gazette.com/pg/07075/769897-96.stm The next wave: Ex-WTAE anchor Scott Baker changes channel to run Web news site], ''[[Post-Gazette]]''</ref>、リンクのうち特に[[ドラッジ・レポート]]からのリンクは論争を呼び、初期の成長につながった。2007年には各社のビデオを集めたビデオ・ブログ「Breitbart.tv」を立ち上げ<ref name="nextwave"/>、{{仮リンク|WTAEニュース|en|WTAE-TV}}のアンカーだった右派の[[スティーブン・バノン]]を雇い入れた。その後アンドリュー・ブライトバートが[[ワシントン・タイムズ]]で連載していたコラムを元に「BIG HOLLYWOOD」(2008年)が作られ<ref name="breit-infidel">{{cite web|url=http://www.observer.com/2008/arts-culture/hollywood-infidel?page=0%2C1|title=Hollywood Infidel|date=March 16, 2007|accessdate=October 1, 2008|work=[[The New York Observer]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081002012926/http://www.observer.com/2008/arts-culture/hollywood-infidel?page=0%2C1|archivedate=2008年10月2日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、「BIG GOVERNMENT」(2009年9月)<ref name=exclusive>{{cite news|last1=Hall|first1=Colby|title=Exclusive Interview: Andrew Breitbart Announces Launch of New "Big" Sites|url=http://www.mediaite.com/online/andrew-breitbart-launching-new-sites/|accessdate=August 17, 2015|publisher=Mediaite|date=December 10, 2009}}</ref>や「BIG JOURNALISM」(2010年1月)<ref name=exclusive/>などのブログメディアが続いた。当時のブライトバートは[[ハフィントン・ポスト]]の右翼版を目指しており<ref name="Rainey_20120801" />、{{仮リンク|アンソニー・ウェイナーの性的な醜聞|en|Anthony Weiner sexting scandals}}や{{仮リンク|シャーリー・シャーロッドの白人差別発言|en|Firing of Shirley Sherrod}}、{{仮リンク|即時改革のためのコミュニティ組織の協会ACORONの隠しビデオ論争|en|ACORN 2009 undercover videos controversy}}などの独占記事を掲載した。 ===創業者の死と事業拡大=== 2012年3月、[[2012年アメリカ合衆国大統領選挙]]の最中に創業者のアンドリューが亡くなった<ref name=":2">{{Cite news | url = http://www.slate.com/articles/news_and_politics/politics/2012/03/the_empire_that_andrew_breitbart_built_is_struggling_to_maintain_its_brand_now_that_its_founder_is_dead_.html | title = Meet the Breitbarts | last = Weigel | first = David | date = March 21, 2012 | newspaper = Slate | language = en-US | issn = 1091-2339 | accessdate = March 1, 2016 }}</ref>。アンドリューは亡くなる前にウェブサイトをリンク収集型のニュース・アグリゲーターから[[タブロイド]]風に変項することを計画しており<ref name=":3">{{Cite web | url = http://www.buzzfeed.com/mckaycoppins/breitbarts-inheritors-battle-over-his-legacy#.dgaAW90Ng | title = Breitbart's Inheritors Battle Over His Legacy | last = Coppins | first = McKay | website = BuzzFeed | accessdate = March 1, 2016 }}</ref>、死後すぐに再編が行われた<ref name="Rainey_20120801">{{cite news|last1=Rainey|first1=James|title=Breitbart.com sets sights on ruling the conservative conversation|url=http://articles.latimes.com/2012/aug/01/entertainment/la-et-breitbart-20120801|accessdate=October 8, 2015|publisher=Los Angeles Times|date=August 1, 2012|quote= Just three days later, with the blessing of Breitbart's widow, Susie, they launched a redesigned Breitbart.com website.}}</ref><ref>{{cite news|last1=Boyle|first1=Matthew|title=Breitbart legacy lives on in relaunched websites, final column|url=http://dailycaller.com/2012/03/05/breitbart-legacy-lives-on-in-relaunched-websites-final-column/|accessdate=October 8, 2015|publisher=The Daily Caller|date=March 5, 2012|quote=...newly redesigned website that includes all of his 'Big' sites under a single umbrella.}}</ref>。 2014年2月、会長の[[スティーブン・バノン]]は12人ほどの職員を増員し、テキサスとロンドンに地方局を開設すると発表した。この発表は事業拡大の第一歩であり、[[フロリダ]]や[[カリフォルニア]]、[[カイロ]]や[[エルサレム]]などに事業を拡大していく計画だった<ref name="NYT-Global">{{cite web | url=http://www.nytimes.com/2014/02/17/business/media/breitbart-news-network-plans-global-expansion.html | title=Breitbart News Network Plans Global Expansion | publisher=New York Times | work=Media | date=February 16, 2014 | accessdate=January 10, 2015 | author=Kaufman, Leslie}}</ref>。2014年の[[ピュー研究所]]の調査によると、回答者の3%がブライトバートを閲覧しており、そのうちの79%の政治的価値観は中道右派だった<ref name="Pew">{{Citation |last= |first= |author-link= |date=October 21, 2014 |title=Where News Audiences Fit on the Political Spectrum: Consumers of Breitbart |publisher=''[[Pew Research Center]]'' |url=http://www.journalism.org/interactives/media-polarization/outlet/breitbart/ |accessdate=October 26, 2015 |quote=Just 3% of respondents get news from Breitbart in a typical week, and its audience is decidedly conservative: 79% have political values that are right-of-center ...." (31% are "mostly conservative" and 48% are "consistently conservative") }}</ref>。ブライトバートは[[営利事業|営利企業]]であり、社員ですら「非公開会社なので所有者や背後関係は分からない」<ref>{{cite news|last1=Gold|first1=Hadas|last2=Glueck|first2=Katie|last3=Vogel|first3=Kenneth|title=The Daily Cruz|url=http://www.politico.com/story/2015/07/ted-cruzs-secret-weapon-breitbartcom-119935|accessdate=December 26, 2015|publisher=Politico|date=July 10, 2015}}</ref>。しかし他社の報道によるとアンドリュー・ブライトバートの死後に後継者争いがあり<ref name=":3" />、2015年現在の 出資者は計算機科学者でヘッジファンドCEOの[[ロバート・マーサー]]だと言われている<ref>{{cite news|last1=Byers|first1=Dylan|title=Hedge-fund magnate backing Cruz is major investor in Breitbart News Network|url=http://www.politico.com/blogs/media/2015/04/hedge-fund-magnate-backing-cruz-is-major-investor-in-breitbart-news-network-205434#ixzz3vDkfDhjm|accessdate=December 26, 2015|publisher=Politico|date=April 13, 2015}}</ref>。 === トランプ大統領選挙 === 他社の報道によると、[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙]]では[[ドナルド・トランプ]]から現金を供与され好意的な報道を行っていると言われるが{{要出典|date=2016年1月}}、ブライトバートは否定している<ref name=":1">{{Cite web | url = http://www.buzzfeed.com/mckaycoppins/breitbart-staffers-believe-trump-has-given-money-to-site-for#.uwY6gZYVW | title = Breitbart Staffers Believe Trump Has Given Money To Site For Favorable Coverage | last = Coppins | first = McKay | website = BuzzFeed | accessdate = March 1, 2016 }}</ref>。2016年8月、[[スティーブン・バノン]]がトランプ陣営の選挙対策本部の最高責任者に就任<ref>{{Cite web|和書|author=Christina Wilkie |date=2016-08-18|url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/08/18/donald-trump_n_11580060.html |title=ドナルド・トランプ氏、「最も危険な政治フィクサー」起用で過激路線復活か |publisher=ハフィントンポスト |accessdate=2016-08-19}}</ref>。2017年1月にトランプ大統領就任後は、新設ポストの大統領首席戦略官と上級顧問に指名されたが、いずれも同年8月に辞任し、重役として復職した。 === 英語版ウィキペディアにおける出典への使用禁止 === [[英語版ウィキペディア]]では、[[2018年]][[9月2日]]に「ブライトバート・ニュース・ネットワークは信頼できないニュースサイトであり、Wikipediaの情報ソースとしてふさわしくない」として議論が立ち上げられ、投票の結果、出典としての使用が禁止された<ref>議論のアーカイブ:[[:en:Wikipedia:Reliable sources/Noticeboard/Archive 248#RfC: Breitbart]]</ref><ref>{{Cite news|title=Wikipediaが右派系のサイトを「信頼性に欠ける」として情報ソースに使用することを禁止|newspaper=[[GIGAZINE]]|date=2018-10-05|url=https://gigazine.net/news/20181005-wikipedia-bans-breitbart-source/|accessdate=2020-06-05|publisher=OSA}}</ref>。 == 関連項目 == * [[虚偽報道]](フェイク・ニュース) * [[右派]] * [[極右]] * [[ポピュリズム]] * [[全体主義]] * [[マイロ・ヤノプルス]] *[[スティーブン・バノン]] == 脚注 == {{reflist|2}} == 外部リンク == * [http://www.breitbart.com/ Breitbart News Network] {{オルタナ右翼}} {{DEFAULTSORT:ふらいとはあと にゆうす ねつとわあく}} [[Category:ロサンゼルス市の企業]] [[Category:アメリカ合衆国のニュースサイト]] [[Category:アメリカ合衆国の政治ウェブサイト]] [[Category:アメリカ合衆国のナショナリズム]] [[Category:2005年設立の企業]]
2016-05-04T02:40:03Z
2023-10-29T02:58:00Z
false
false
false
[ "Template:Lang", "Template:要出典", "Template:Citation", "Template:オルタナ右翼", "Template:Lang-en", "Template:仮リンク", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:Cite web", "Template:Webarchive", "Template:Infobox website" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF
934,946
自動
自動(じどう)とは、機械装置が人間などの他の力を必要としないで、能動的に作動することをいう。 自動は、何らかの機械装置が人(あるいはそれ以外の動物)の手を介さずに動作することを言うが、どの程度の動作をするかは同じ「自動」を関する装置でも、その種類によってまちまちである。 これらは一定の動作を行う上で動力を利用する場合もあれば、一定の操作による機械要素の状態変化を利用して、所定の動きを行うものもみられる。それらは単純なものでは規定範囲内で動作を繰り返すものではあるが、複雑なものともなると与えられた条件で内部機能を切替え、それら条件に対応するよう設計されたものも見られる。全自動(ぜんじどう、full automatic)と称して、無人で最初から最後まで人手を介さない場合もある。また、自動より人間が介入しないが劣る概念として半自動(はんじどう、semi automatic) 性質としての自動は、上に述べたとおり曖昧で、機械装置の種類によってもまちまちである。 古代ギリシャでは早くから、水力や風力を使用した自動システムが使用されていた。 からくりのような装置は、古代中国の時代には何らかの自動的性質を備える装置が存在していた。これらは時計であったり、好事家を慰めるための玩具であったり、あるいは何らかの娯楽を提供するものであったりと、様々である。世界的にも一定の動力を入力することで複雑な内部機構により様々な動作を目指した物品が作られていたが、実利的なものよりも、もっぱら有力者や権力者のための特殊な道具であったり、あるいは何らかの興行を目的としたものなどが主体であった。この方向性には、オートマタや自動演奏を行なう精巧な装置などが作られ、その幾らかは現存している。 本格的な自動システムの開発と利用が進んだのは、産業革命で複雑な機械装置が作られるようになり、更には電気が一般に利用されるようになって以降である。 当初の自動機器は、もっぱら実用品よりもその珍奇性を求めるために莫大な労力と富を投入して作られるものであった。これは産業の上で自動機器を導入するよりも、単に人員を雇用したほうが汎用性があったためであり、産業革命以前では大量生産の必然性も無く、すべてにおいて設計と制作にコストが掛かる機械装置で行うよりも、手作業で行ったほうが効率的であったためである。 しかし産業革命以降、着実に大量生産の必要性は増し、その一方で人力で何でも済ませるには人的コストが掛かるようになると、経済的な省力化を目的とした自動化が求められた。また大衆全体の生活の質が向上するに従って、快適性を目的にした自動化が求められていった。 次第に危険であったり過酷であるため人力での作業が困難な状況では安全確保のために自動機器の導入が進み、また単純であったり繰り返しの作業ではコスト削減と高速化のためにも自動化が進み、また快適性を求める上では煩わしいとか面倒臭いといった類の活動も自動化されている。その多くでは人の労力を自動機器が肩代わりすることで、より効率的な活動が可能となっている。 主に経営学や生産技術や業務の分野で経済的合理性に基づく目的で行われる自動化。産業の技術革新の要請から発達した。同じ人員のままで生産力を引き上げたり、より少ない人員で生産量を一定に保つときにしばしば自動化技術が導入される。省力化は、時には従来、生産や業務に携わっていた人が大幅に不要になる水準にまで進歩することもあり、産業革命期にもラッダイト運動が起こるなどしばしば衝突の要因にもなった。 例 人力による動作や手動(単独)による操作を簡略化あるいは全自動化して快適なものにする。あるいは、手動操作では一定の学習や熟練を必要とするものを自動制御に置き換えることでユーザビリティを向上させる。生産技術の効率化とは必ずしも直接結びついていない点で経済的な省力化と異なる。商品やサービスの発達にともなって付加価値を上げる目的で導入されることが多い。 例:
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "自動(じどう)とは、機械装置が人間などの他の力を必要としないで、能動的に作動することをいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "自動は、何らかの機械装置が人(あるいはそれ以外の動物)の手を介さずに動作することを言うが、どの程度の動作をするかは同じ「自動」を関する装置でも、その種類によってまちまちである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "これらは一定の動作を行う上で動力を利用する場合もあれば、一定の操作による機械要素の状態変化を利用して、所定の動きを行うものもみられる。それらは単純なものでは規定範囲内で動作を繰り返すものではあるが、複雑なものともなると与えられた条件で内部機能を切替え、それら条件に対応するよう設計されたものも見られる。全自動(ぜんじどう、full automatic)と称して、無人で最初から最後まで人手を介さない場合もある。また、自動より人間が介入しないが劣る概念として半自動(はんじどう、semi automatic)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "性質としての自動は、上に述べたとおり曖昧で、機械装置の種類によってもまちまちである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "古代ギリシャでは早くから、水力や風力を使用した自動システムが使用されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "からくりのような装置は、古代中国の時代には何らかの自動的性質を備える装置が存在していた。これらは時計であったり、好事家を慰めるための玩具であったり、あるいは何らかの娯楽を提供するものであったりと、様々である。世界的にも一定の動力を入力することで複雑な内部機構により様々な動作を目指した物品が作られていたが、実利的なものよりも、もっぱら有力者や権力者のための特殊な道具であったり、あるいは何らかの興行を目的としたものなどが主体であった。この方向性には、オートマタや自動演奏を行なう精巧な装置などが作られ、その幾らかは現存している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "本格的な自動システムの開発と利用が進んだのは、産業革命で複雑な機械装置が作られるようになり、更には電気が一般に利用されるようになって以降である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当初の自動機器は、もっぱら実用品よりもその珍奇性を求めるために莫大な労力と富を投入して作られるものであった。これは産業の上で自動機器を導入するよりも、単に人員を雇用したほうが汎用性があったためであり、産業革命以前では大量生産の必然性も無く、すべてにおいて設計と制作にコストが掛かる機械装置で行うよりも、手作業で行ったほうが効率的であったためである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし産業革命以降、着実に大量生産の必要性は増し、その一方で人力で何でも済ませるには人的コストが掛かるようになると、経済的な省力化を目的とした自動化が求められた。また大衆全体の生活の質が向上するに従って、快適性を目的にした自動化が求められていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "次第に危険であったり過酷であるため人力での作業が困難な状況では安全確保のために自動機器の導入が進み、また単純であったり繰り返しの作業ではコスト削減と高速化のためにも自動化が進み、また快適性を求める上では煩わしいとか面倒臭いといった類の活動も自動化されている。その多くでは人の労力を自動機器が肩代わりすることで、より効率的な活動が可能となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "主に経営学や生産技術や業務の分野で経済的合理性に基づく目的で行われる自動化。産業の技術革新の要請から発達した。同じ人員のままで生産力を引き上げたり、より少ない人員で生産量を一定に保つときにしばしば自動化技術が導入される。省力化は、時には従来、生産や業務に携わっていた人が大幅に不要になる水準にまで進歩することもあり、産業革命期にもラッダイト運動が起こるなどしばしば衝突の要因にもなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "例", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "人力による動作や手動(単独)による操作を簡略化あるいは全自動化して快適なものにする。あるいは、手動操作では一定の学習や熟練を必要とするものを自動制御に置き換えることでユーザビリティを向上させる。生産技術の効率化とは必ずしも直接結びついていない点で経済的な省力化と異なる。商品やサービスの発達にともなって付加価値を上げる目的で導入されることが多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "例:", "title": "歴史" } ]
自動(じどう)とは、機械装置が人間などの他の力を必要としないで、能動的に作動することをいう。
{{Otheruseslist|'''自動化'''の主な使用法|その他の使用法|オートメーション}} {{出典の明記|date=2023年7月}} '''自動'''(じどう)とは、[[機械]]装置が[[人間]]などの他の力を必要としないで、能動的に作動することをいう。 ==概要== 自動は、何らかの機械装置が人(あるいはそれ以外の[[動物]])の手を介さずに動作することを言うが、どの程度の動作をするかは同じ「自動」を関する装置でも、その種類によってまちまちである。 これらは一定の動作を行う上で[[動力]]を利用する場合もあれば、一定の操作による[[機械要素]]の状態変化を利用して、所定の動きを行うものもみられる。それらは単純なものでは規定範囲内で動作を繰り返すものではあるが、複雑なものともなると与えられた条件で内部機能を切替え、それら条件に対応するよう[[設計]]されたものも見られる。'''全自動'''(ぜんじどう、full automatic)と称して、'''[[無人]]'''で最初から最後まで人手を介さない場合もある。また、自動より人間が介入しないが劣る概念として'''半自動'''(はんじどう、semi automatic) 性質としての自動は、上に述べたとおり曖昧で、機械装置の種類によってもまちまちである。 == 歴史 == [[古代ギリシャ]]では早くから、水力や風力を使用した自動システムが使用されていた。 [[からくり]]のような装置は、古代中国の時代には何らかの自動的性質を備える装置が存在していた。これらは[[時計]]であったり、好事家を慰めるための[[玩具]]であったり、あるいは何らかの[[娯楽]]を提供するものであったりと、様々である。世界的にも一定の動力を入力することで複雑な内部機構により様々な動作を目指した物品が作られていたが、実利的なものよりも、もっぱら有力者や権力者のための特殊な道具であったり、あるいは何らかの[[興行]]を目的としたものなどが主体であった。この方向性には、[[オートマタ]]や[[自動演奏]]を行なう精巧な装置などが作られ、その幾らかは現存している。 本格的な自動システムの開発と利用が進んだのは、[[産業革命]]で複雑な機械装置が作られるようになり、更には[[電気]]が一般に利用されるようになって以降である。 ===自動化の目的=== 当初の自動機器は、もっぱら実用品よりもその珍奇性を求めるために莫大な労力と富を投入して作られるものであった。これは[[産業]]の上で自動機器を導入するよりも、単に人員を雇用したほうが汎用性があったためであり、産業革命以前では[[大量生産]]の必然性も無く、すべてにおいて設計と制作にコストが掛かる機械装置で行うよりも、手作業で行ったほうが効率的であったためである。 しかし産業革命以降、着実に大量生産の必要性は増し、その一方で人力で何でも済ませるには人的コストが掛かるようになると、[[経済]]的な[[省力化]]を目的とした自動化が求められた。また大衆全体の生活の質が向上するに従って、[[快適性]]を目的にした自動化が求められていった。 次第に危険であったり過酷であるため人力での作業が困難な状況では安全確保のために自動機器の導入が進み、また単純であったり繰り返しの作業ではコスト削減と高速化のためにも自動化が進み、また快適性を求める上では煩わしいとか面倒臭いといった類の活動も自動化されている。その多くでは人の労力を自動機器が肩代わりすることで、より効率的な活動が可能となっている。 ===経済的な省力化=== 主に[[経営学]]や[[生産技術]]や[[業務]]の分野で経済的合理性に基づく目的で行われる自動化。産業の[[技術革新]]の要請から発達した。同じ人員のままで生産力を引き上げたり、より少ない人員で生産量を一定に保つときにしばしば自動化技術が導入される。省力化は、時には従来、生産や業務に携わっていた人が大幅に不要になる水準にまで進歩することもあり、[[産業革命]]期にも[[ラッダイト運動]]が起こるなどしばしば衝突の要因にもなった。 例 *[[工場]]などの[[ファクトリーオートメーション]] *[[オフィスオートメーション]] *[[自動販売機]] - サービスを提供する側から見た省力化 ===快適性を目的にした自動化=== 人力による動作や手動(単独)による操作を簡略化あるいは全自動化して快適なものにする。あるいは、手動操作では一定の学習や熟練を必要とするものを[[自動制御]]に置き換えることで[[ユーザビリティ]]を向上させる。生産技術の効率化とは必ずしも直接結びついていない点で経済的な省力化と異なる。[[商品]]や[[サービス]]の発達にともなって[[付加価値]]を上げる目的で導入されることが多い。 例: *原始的な[[発火法]]に対する[[ライター]] *[[自動ドア]]、[[エスカレータ]]、[[エレベーター|エレベータ]]などの機器 *[[自動車]]の[[マニュアルトランスミッション]]に対する[[オートマチックトランスミッション]] *[[カメラ]]の手動フォーカスに対する[[オートフォーカス]] *[[全自動洗濯機]] == 関連項目 == {{Wiktionary}} *[[機械]]・[[機械化]] *[[装置]] *[[電気]] *[[手動]] *[[オートメーション]]・[[オートマチック]] *[[ヒューマノイド]] {{DEFAULTSORT:しとう}} [[Category:オートメーション|*しとう]] [[Category:ロボット工学]] [[Category:制御工学]] [[Category:人間工学]] [[Category:機械]] [[Category:快適技術]] [[Category:操縦技術]] [[Category:ユーザインタフェース]]
2007-03-19T12:18:26Z
2023-07-29T22:43:59Z
false
false
false
[ "Template:Wiktionary", "Template:Otheruseslist", "Template:出典の明記" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8B%95
424,067
パントレセレブル
パントレセレブル (Peintre Célèbre) は、アメリカ合衆国で生まれ、フランスで走った競走馬である。オリビエ・ペリエを背に、1997年のジョッケクルブ賞(フランスダービー)や凱旋門賞に優勝した。凱旋門賞を圧勝したことで、1990年代のヨーロッパ最強の一頭に現地では数えられている。馬名の意味は「有名画家」。 2戦1勝で2歳シーズンを終え、翌年グレフュール賞(1着)を叩いて挑んだジョッケクルブ賞ではオスカーに2馬身差をつける快勝。続くパリ大賞典も2馬身差で連勝した。その後は目標を凱旋門賞に定め休養に入り、秋初戦のニエル賞こそ不利があり2着に敗れるものの、本番の凱旋門賞では直線後続を突き放すとピルサドスキーに5馬身差を付け圧勝した。この着差は凱旋門賞においてリボー、シーバードの6馬身差に次いで大きなものであった。また、タイムも2分24秒6と従来の記録を一気に1秒7短縮するレースレコードを記録した。この年はカルティエ賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選出され、レーティングもヨーロッパ・クラシフィケーションからインターナショナル・クラシフィケーション(現ワールド・サラブレッド・レースホース・ランキング)に移行した1995年以降最高の139ポンドに達した。翌年も現役を続行する予定だったが屈腱炎を発症し引退した。 競走馬引退後に種牡馬となり、日本でも2001年(産駒は2002年産)にリース種牡馬として供用された。代表産駒にレイルリンクが優勝した2006年の凱旋門賞で2着となった牝馬プライドがおり、ダイジンなどが後継種牡馬となっている。2014年に種牡馬を引退し、功労馬として繋養されたが2021年頃に死亡した。クールモアスタッドに石碑が建立されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "パントレセレブル (Peintre Célèbre) は、アメリカ合衆国で生まれ、フランスで走った競走馬である。オリビエ・ペリエを背に、1997年のジョッケクルブ賞(フランスダービー)や凱旋門賞に優勝した。凱旋門賞を圧勝したことで、1990年代のヨーロッパ最強の一頭に現地では数えられている。馬名の意味は「有名画家」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2戦1勝で2歳シーズンを終え、翌年グレフュール賞(1着)を叩いて挑んだジョッケクルブ賞ではオスカーに2馬身差をつける快勝。続くパリ大賞典も2馬身差で連勝した。その後は目標を凱旋門賞に定め休養に入り、秋初戦のニエル賞こそ不利があり2着に敗れるものの、本番の凱旋門賞では直線後続を突き放すとピルサドスキーに5馬身差を付け圧勝した。この着差は凱旋門賞においてリボー、シーバードの6馬身差に次いで大きなものであった。また、タイムも2分24秒6と従来の記録を一気に1秒7短縮するレースレコードを記録した。この年はカルティエ賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選出され、レーティングもヨーロッパ・クラシフィケーションからインターナショナル・クラシフィケーション(現ワールド・サラブレッド・レースホース・ランキング)に移行した1995年以降最高の139ポンドに達した。翌年も現役を続行する予定だったが屈腱炎を発症し引退した。", "title": "戦績" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "競走馬引退後に種牡馬となり、日本でも2001年(産駒は2002年産)にリース種牡馬として供用された。代表産駒にレイルリンクが優勝した2006年の凱旋門賞で2着となった牝馬プライドがおり、ダイジンなどが後継種牡馬となっている。2014年に種牡馬を引退し、功労馬として繋養されたが2021年頃に死亡した。クールモアスタッドに石碑が建立されている。", "title": "種牡馬として" } ]
パントレセレブル は、アメリカ合衆国で生まれ、フランスで走った競走馬である。オリビエ・ペリエを背に、1997年のジョッケクルブ賞(フランスダービー)や凱旋門賞に優勝した。凱旋門賞を圧勝したことで、1990年代のヨーロッパ最強の一頭に現地では数えられている。馬名の意味は「有名画家」。
{{出典の明記|date=2015年8月}} {{競走馬 |名 = パントレセレブル |性 = [[牡馬|牡]] |色 = [[栗毛]] |英 = {{lang|fr|Peintre Célèbre}} |画 = [[File:Owner Ecurie Wildenstein.svg|120px]] |説 = ダニエル・ウィルデンシュタインの勝負服 |種 = [[サラブレッド]] |生 = [[1994年]][[3月17日]] |死 = [[2021年]] |父 = [[ヌレイエフ|Nureyev]] |母 = Peintre Bleue |母父 = [[アリダー|Alydar]] |産 = [[ダニエル・ウィルデンシュタイン|Daniel Widenstein]] |国 = {{USA}} |主 = Daniel Widenstein |調 = [[アンドレ・ファーブル|Andre Fabre]]([[フランス]]) |績 = 7戦5勝 |金 = 1450万[[フランス・フラン|フラン]] |}} '''パントレセレブル''' ({{lang|fr|Peintre Célèbre}}) は、[[アメリカ合衆国]]で生まれ、[[フランス]]で走った[[競走馬]]である。[[オリビエ・ペリエ]]を背に、[[1997年]]の[[ジョッケクルブ賞]](フランスダービー)や[[凱旋門賞]]に優勝した。凱旋門賞を圧勝したことで、1990年代のヨーロッパ最強の一頭に現地では数えられている。馬名の意味は「有名画家」。 == 戦績 == 2戦1勝で2歳シーズンを終え、翌年[[グレフュール賞]](1着)を叩いて挑んだジョッケクルブ賞ではオスカーに2馬身差をつける快勝。続く[[パリ大賞典]]も2馬身差で連勝した。その後は目標を凱旋門賞に定め休養に入り、秋初戦の[[ニエル賞]]こそ不利があり2着に敗れるものの、本番の凱旋門賞では直線後続を突き放すと[[ピルサドスキー]]に5馬身差を付け圧勝した。この着差は凱旋門賞において[[リボー]]、[[シーバード]]の6馬身差に次いで大きなものであった。また、タイムも2分24秒6と従来の記録を一気に1秒7短縮するレースレコードを記録した。この年は[[カルティエ賞]]年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選出され、レーティングもヨーロッパ・クラシフィケーションからインターナショナル・クラシフィケーション(現[[ワールド・サラブレッド・レースホース・ランキング]])に移行した[[1995年]]以降最高の139[[ポンド (質量)|ポンド]]に達した。翌年も現役を続行する予定だったが[[屈腱炎]]を発症し引退した。 === 戦績表 === {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size: smaller;" !出走日!!競馬場!!競走名!!格!!距離!!着順!!騎手!!着差!!1着(2着)馬 |- |1996.08.18||[[ドーヴィル競馬場|ドーヴィル]]||ロシェノワール賞||||芝1600[[メートル|m]]||style="color: darkred"|1着||[[オリビエ・ペリエ|O.ペリエ]]||2馬身|| (New Frontier) |- |1996.09.08||[[パリロンシャン競馬場|ロンシャン]]||シェーヌ賞||G3||芝1600m||style="color:darkgreen"|3着||O.ペリエ||1 1/4馬身||Nombre Premier |- |1997.04.20||ロンシャン||[[グレフュール賞]]||G2||芝2100m||style="color: darkred"|1着||O.ペリエ||2馬身|| (Astarabad) |- |1997.06.01||[[シャンティ競馬場|シャンティ]]||[[ジョッケクルブ賞]]||G1||芝2400m||style="color: darkred"|1着||O.ペリエ||2馬身|| (Oscar) |- |1997.06.22||ロンシャン||[[パリ大賞典]]||G1||芝2000m||style="color: darkred"|1着||O.ペリエ||2馬身|| (Ithaki) |- |1997.09.14||ロンシャン||[[ニエル賞]]||G2||芝2400m||style="color: darkblue"|2着||O.ペリエ||クビ||Rajpoute |- |1997.10.05||ロンシャン||[[凱旋門賞]]||G1||芝2400m||style="color: darkred"|1着||O.ペリエ||5馬身|| ([[ピルサドスキー|Pilsudski]]) |} == 種牡馬として == 競走馬引退後に[[種牡馬]]となり、日本でも[[2001年]](産駒は2002年産)にリース種牡馬として供用された。代表産駒に[[レイルリンク]]が優勝した[[2006年]]の凱旋門賞で2着となった牝馬[[プライド_(競走馬)|プライド]]がおり、ダイジンなどが後継種牡馬となっている。[[2014年]]に種牡馬を引退し<ref>{{Cite web | url = https://www.saibanin.courts.go.jp/index.html | title = パントレセレブル種牡馬を引退 | publisher = netkeiba | accessdate = 2023-11-01 }}</ref>、功労馬として繋養されたが[[2021年]]頃に死亡した。クールモアスタッドに石碑が建立されている。<ref>{{Cite tweet|user=tooru_naka |number=1719285499641397560 |title=パントレセレブルの石碑の写真 |access-date=2023-11-01}}</ref> === 主な産駒 === *2000年産 **ダイジン([[ドイチェスダービー]]、[[クレディスイスPBポカル]]) **[[プライド_(競走馬)|プライド]]([[チャンピオンステークス]]、[[サンクルー大賞]]、[[香港カップ]]、[[凱旋門賞]]2着) **ヴァレーアンシャンテ([[香港ヴァーズ]]) **ミスターセレブリティ([[ジョージメインステークス]]) **ミスターサンドグローパー([[ウェストオーストラリアンダービー]]) *2001年産 **キャッスルデール([[サンタアニタダービー]]、[[シューメイカーマイルステークス|シューメイカーブリーダーズカップマイルステークス]]) **パールオブラヴ([[グランクリテリウム (イタリア)|イタリアグランクリテリウム]]) *2004年産 **[[ヘレンマスコット]]([[香港クラシックマイル]]、[[香港ダービー]]) *2005年産 **ベルエトセレブル([[サンタラリ賞]]) *2006年産 **バイワード([[プリンスオブウェールズステークス_(イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]]) === 日本調教馬 === *シュフルール(春麗ジャンプステークス) *サイキョウワールド(サンタクロースステークス) === ブルードメアサイアーとしての代表産駒 === *2006年産 **[[レッドカドー|Red Cadeaux]](香港ヴァーズ) **Gathering([[レイルウェイステークス (オーストラリア)|レールウェイステークス]]) *2008年産 **Cambina([[アメリカンオークスステークス|アメリカンオークス]]) *2009年産 **Nymphea([[ベルリン大賞]]) *2010年産 **[[タレント (競走馬)|Talent]]([[イギリスオークス]]) **Protectionist([[メルボルンカップ]]、ベルリン大賞) *2011年産 **Vadamos([[ムーラン・ド・ロンシャン賞]]) *2012年産 **Nightflower([[オイロパ賞]]2回) **Nutan(ドイチェスダービー) *2013年産 **[[パキスタンスター|Pakistan Star]]([[クイーンエリザベス2世カップ (香港)|クイーンエリザベス2世カップ]]、[[香港チャンピオンズ&チャターカップ]]) **Hit Emerit(亜・セレクシオン大賞) *2017年産 **Huetor([[ドゥームベンカップ]]2回) *2018年産 **India(オイロパ賞) == 特徴 == *主戦騎手のペリエはパントレセレブルについて、「上の指示に従ってれば、そのスピードをフルに発揮できることを理解してる賢い馬で、彼に跨ってるときは最高級のワインを飲んでるような気分だった。」と評している。 == 血統表 == {{競走馬血統表| name = パントレセレブル (Peintre Celebre)| inf = [[ヌレイエフ系]] / [[ネイティヴダンサー|Native Dancer]] 4×4=12.50%、[[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]]5×5=6.26%、[[ナスルーラ|Nasrullah]]5×5=6.25%| f = [[ヌレイエフ|Nureyev]] 1977<br />[[アメリカ合衆国|アメリカ]] 鹿毛| ff = [[ノーザンダンサー|Northern Dancer]] 1961<br />[[カナダ]] 鹿毛| fm = [[スペシャル (競走馬)|Special]] 1969<br />アメリカ 鹿毛| fff = [[ニアークティック|Nearctic]] 1954| ffm = [[ナタルマ|Natalma]] 1957| fmf = [[フォルリ (競走馬)|Forli]] 1963| fmm = [[ソング (競走馬)|Thong]] 1964| ffff= [[ネアルコ|Nearco]]| fffm= [[レディアンジェラ|Lady Angela]]| ffmf= '''[[ネイティヴダンサー|Native Dancer]]'''| ffmm= [[アルマームード|Almahmoud]]| fmff= Aristphanes| fmfm= Trevisa| fmmf= [[ナンタラ|Nantallah]]| fmmm= Rough shod| m = Peinture Bleue 1987<br />アメリカ 栗毛| mf = [[アリダー|Alydar]] 1975<br />アメリカ 栗毛| mm = Petoroleuse 1978<br />[[アイルランド]] 鹿毛| mff = [[レイズアネイティヴ|Raise a Native]] 1961| mfm = Sweet Tooth 1965| mmf = [[ハビタット (競走馬)|Habitat]] 1966| mmm = Plencia 1968| mfff = '''Native Dancer'''| mffm = Raise You| mfmf = On-and-on| mfmm = Plum cake| mmff = [[サーゲイロード|Sir Gaylord]]| mmfm = Little Hut| mmmf = Le Haar| mmmm = Petite Saguenay [[ファミリーナンバー|F-No.]][[9号族|9]]| }} == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * {{競走馬成績|netkeiba=000a000271|jbis=0000365262|racingpost=455293/peintre-celebre}} {{タイムフォーム年度代表馬}} {{カルティエ賞年度代表馬}} {{カルティエ賞最優秀3歳牡馬}} {{凱旋門賞勝ち馬}} {{DEFAULTSORT:はんとれせれふる}} [[Category:1994年生 (競走馬)|仏はんとれせれふる]] [[Category:サラブレッド]] [[Category:アメリカ合衆国生産の競走馬]] [[Category:フランス調教の競走馬]] [[Category:アイルランド供用種牡馬]] [[Category:アルゼンチン供用種牡馬]] [[Category:オーストラリア供用種牡馬]] [[Category:日本供用種牡馬]] [[Category:2021年没]]
2006-01-19T05:11:29Z
2023-12-23T01:39:47Z
false
false
false
[ "Template:競走馬成績", "Template:カルティエ賞年度代表馬", "Template:カルティエ賞最優秀3歳牡馬", "Template:凱旋門賞勝ち馬", "Template:出典の明記", "Template:Lang", "Template:Cite web", "Template:Cite tweet", "Template:競走馬", "Template:競走馬血統表", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%96%E3%83%AB
813,013
利潤
利潤(りじゅん、英: profit)とは、「利益」や「もうけ」のことであり、その中でも特に、企業の総収益(売上高)からすべての費用(賃金・利子等々、すべての費用)を引いたあとに残る金額のことを指す。 利潤とは主に、企業が(生産や流通などの)経済活動を行い取引を行った後に得られる金額のことである。 マルクス経済学においては剰余価値を前貸し資本が資本の循環を通じて生み出した剰余価値の現象形態であると考えている。 経済学の新古典派経済学などは、しばしば「企業はこの利潤を最大化することを常に考えながら意思を決定し、行動している。」という仮定(仮説)を置いている(→利潤最大化)。 資本主義経済においてはこの利潤を各企業が自由な商業活動で追求することで常に価格競争などの競争原理が働いている、とする。 経済学の理論においては、利潤の捉え方について、しばしば調査や検証も行なわれないまま、上記のような極端な単純化や定式化が行なわれている。だが、企業が実現したいのは、利潤を最大化することとは限らない。例えば、株式会社というものは、企業の所有者と経営者が別であることも可能で、所有と経営の分離していることがしばしばあるわけであるが、日本のそのタイプの株式会社では、(利潤を度外視し)しばしば売上高の極大化を目的に掲げるものもある(あるいは、かつてかなりの数存在した)。人間というのは「(企業は、経営は)利潤を最大化さえすればよいのだ」などと考えだすと、「市場を独占して暴利をむさぼればいいんだ」、などと考えたり、「自分以外の人々に不正な方法で損害を与えてでも、自分だけ巨大な利潤を得ればよいのだ」などと考える輩が出てくることがある。現実の世界では、利潤を至上のものと信じて疑わず利潤の過度な追求を行なうことが、企業による様々な反社会的行為・犯罪行為を生んでいるということは、報道等々によってしばしば指摘され批判されている。それが高じてくると「利潤の追求などというものは全て悪だ」という考え方も現れることになり、利潤を追求する様を全て忌み嫌ったり、それを呪っている人もいる。 ただし、利潤の追求が社会に様々な害悪を生み出していることは事実であるとしても、あらゆる利潤の追求を全て完全に否定されてしまうと、商業活動のみならず、組織的活動すら行なうことが困難となってしまうことが多い。そこで、折り合いをつけるための様々な考え方が提起されている。例えば「適正な利潤」を実現することが経営の目的だとする説もある。例えば、松下幸之助などが、(利潤の最大化という概念などは持ち出さず)「適正利潤の確保」という概念で説明している。松下は、次のように述べる。 企業の社会性というのは、いつでも非常に大事なことである。しかし、だからといって利潤を追求してはいけない、ということをつけ加えていいのかどうか。 企業は利潤を追求してはならない、いわば薄利でやったほうがいい。できるだけ儲からないほうがいい、奉仕に変えたほうがいいんだということが、真の意味の社会性になるかどうかというと、これは非常に疑問やと思うんです。 「企業の社会性と利潤の追求」という見出しはあるが、「企業の社会性と適正利潤の確保」という見出しはあまりない。(経営者には)その義務があるというか、そういうふうにしなければならない。 — 松下幸之助『経営にもダムのゆとり』 そして、この説明に続き、その理由として企業が納税することが社会にとっても必要であることなどを挙げている。 企業の社会性というのは、いつでも非常に大事なことであるということは、言われ続けている。例えば、立石義雄は「企業というのは社会の公器である」という言い方でそれを表現している。ピーター・ドラッカーは、企業にとって利潤が重要であることは認めてはいるものの、「企業の経営目的は利潤ではなく、顧客の創造である」とも述べている。あまたいる経営者の中には、「自社は、社会貢献できればいいので、利潤は出なくていい。コストを払った後に赤字にさえならなければ、利潤は小さくてかまわない。それが自社のそして私の存在意義だ」と考える人もいる。その一方で、新古典派の仮定そのままに「自社の利潤だけを最大化したい」としか考えていない経営者もいる。松下幸之助に類似した考え方を採用している人もいる。バランスをいかにとるかに心を砕いている経営者もいる。 どの程度の利潤が適正なのかということは、ただひとつの回答があるというものでもなく、経営者にとって永遠のテーマでもあるとも言えよう。 会計上の利益と経済学上の利潤は同義ではなく、以下のような差異がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "利潤(りじゅん、英: profit)とは、「利益」や「もうけ」のことであり、その中でも特に、企業の総収益(売上高)からすべての費用(賃金・利子等々、すべての費用)を引いたあとに残る金額のことを指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "利潤とは主に、企業が(生産や流通などの)経済活動を行い取引を行った後に得られる金額のことである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "マルクス経済学においては剰余価値を前貸し資本が資本の循環を通じて生み出した剰余価値の現象形態であると考えている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "経済学の新古典派経済学などは、しばしば「企業はこの利潤を最大化することを常に考えながら意思を決定し、行動している。」という仮定(仮説)を置いている(→利潤最大化)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "資本主義経済においてはこの利潤を各企業が自由な商業活動で追求することで常に価格競争などの競争原理が働いている、とする。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "経済学の理論においては、利潤の捉え方について、しばしば調査や検証も行なわれないまま、上記のような極端な単純化や定式化が行なわれている。だが、企業が実現したいのは、利潤を最大化することとは限らない。例えば、株式会社というものは、企業の所有者と経営者が別であることも可能で、所有と経営の分離していることがしばしばあるわけであるが、日本のそのタイプの株式会社では、(利潤を度外視し)しばしば売上高の極大化を目的に掲げるものもある(あるいは、かつてかなりの数存在した)。人間というのは「(企業は、経営は)利潤を最大化さえすればよいのだ」などと考えだすと、「市場を独占して暴利をむさぼればいいんだ」、などと考えたり、「自分以外の人々に不正な方法で損害を与えてでも、自分だけ巨大な利潤を得ればよいのだ」などと考える輩が出てくることがある。現実の世界では、利潤を至上のものと信じて疑わず利潤の過度な追求を行なうことが、企業による様々な反社会的行為・犯罪行為を生んでいるということは、報道等々によってしばしば指摘され批判されている。それが高じてくると「利潤の追求などというものは全て悪だ」という考え方も現れることになり、利潤を追求する様を全て忌み嫌ったり、それを呪っている人もいる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ただし、利潤の追求が社会に様々な害悪を生み出していることは事実であるとしても、あらゆる利潤の追求を全て完全に否定されてしまうと、商業活動のみならず、組織的活動すら行なうことが困難となってしまうことが多い。そこで、折り合いをつけるための様々な考え方が提起されている。例えば「適正な利潤」を実現することが経営の目的だとする説もある。例えば、松下幸之助などが、(利潤の最大化という概念などは持ち出さず)「適正利潤の確保」という概念で説明している。松下は、次のように述べる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "企業の社会性というのは、いつでも非常に大事なことである。しかし、だからといって利潤を追求してはいけない、ということをつけ加えていいのかどうか。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "企業は利潤を追求してはならない、いわば薄利でやったほうがいい。できるだけ儲からないほうがいい、奉仕に変えたほうがいいんだということが、真の意味の社会性になるかどうかというと、これは非常に疑問やと思うんです。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「企業の社会性と利潤の追求」という見出しはあるが、「企業の社会性と適正利潤の確保」という見出しはあまりない。(経営者には)その義務があるというか、そういうふうにしなければならない。 — 松下幸之助『経営にもダムのゆとり』", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "そして、この説明に続き、その理由として企業が納税することが社会にとっても必要であることなどを挙げている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "企業の社会性というのは、いつでも非常に大事なことであるということは、言われ続けている。例えば、立石義雄は「企業というのは社会の公器である」という言い方でそれを表現している。ピーター・ドラッカーは、企業にとって利潤が重要であることは認めてはいるものの、「企業の経営目的は利潤ではなく、顧客の創造である」とも述べている。あまたいる経営者の中には、「自社は、社会貢献できればいいので、利潤は出なくていい。コストを払った後に赤字にさえならなければ、利潤は小さくてかまわない。それが自社のそして私の存在意義だ」と考える人もいる。その一方で、新古典派の仮定そのままに「自社の利潤だけを最大化したい」としか考えていない経営者もいる。松下幸之助に類似した考え方を採用している人もいる。バランスをいかにとるかに心を砕いている経営者もいる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "どの程度の利潤が適正なのかということは、ただひとつの回答があるというものでもなく、経営者にとって永遠のテーマでもあるとも言えよう。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "会計上の利益と経済学上の利潤は同義ではなく、以下のような差異がある。", "title": "利益との違い" } ]
利潤とは、「利益」や「もうけ」のことであり、その中でも特に、企業の総収益(売上高)からすべての費用(賃金・利子等々、すべての費用)を引いたあとに残る金額のことを指す。
'''利潤'''(りじゅん、{{lang-en-short|profit}})とは、「[[利益]]」や「もうけ」のことであり<ref name="daijisen">[[デジタル大辞泉]]</ref>、その中でも特に、[[企業]]の総[[収益]]([[売上高]])からすべての[[費用]]([[賃金]]・[[利子]]等々、すべての費用)を引いたあとに残る金額のことを指す<ref name="daijisen"/>。<!--[[企業]]の売上から[[コスト]]をひいた残差である。{{要出典|date=2011-7}}--><!--{{要出典範囲|[[賃金]]や[[利子]]などに並ぶ主要な所得の一つである。|date=2011-7}}--> == 概説 == 利潤とは主に、企業が([[生産]]や[[流通]]などの)経済活動を行い[[取引]]を行った後に得られる金額のことである。 [[マルクス経済学]]においては[[剰余価値]]を前貸し資本が[[資本の循環]]を通じて生み出した[[剰余価値]]の現象形態であると考えている{{要出典|date=2010年1月}}。<!-- 2010/1/2 03:33(UTC) --> 経済学の[[新古典派経済学]]などは、しばしば「企業はこの利潤を最大化することを常に考えながら意思を決定し、行動している。」という仮定([[仮説]])を置いている(→[[利潤最大化]])<ref group="注">「企業は利潤の最大化を''めざして行動している''」という定式化は、企業や経営者がどう動いているかということを学問として分析する<!--ために置かれた、そして無理やりにでも[[線形代数]]で単純化して表現する-->ために導入されている、ひとつの単純化された仮定([[仮説]])である。 だが、一般向け入門書や、商売人の言説などで、新古典派の定式を「企業は利潤の最大化を''めざせばいいのだ''」などと、勝手に読み替えたり、言い換えてしまっていることがある。これでは、欲望正当化のキャッチコピーや、人々を扇動するための[[スローガン]]になってしまっていることになる。 これは、この新古典派の定式(仮説)が、「正しい」あるいは「間違っている」という以前の、誤った置き換え、誤謬である。 人々が''どう動いているのか''、というテーマ(過去や現在の実態の分析)というテーマと、''どう動くのが望ましいのか''というテーマ(より好ましい姿、あるべき姿の設計)は、全く別のテーマである。</ref>。 資本主義経済においてはこの利潤を各企業が自由な商業活動で追求することで常に[[価格競争]]などの競争原理が働いている、とする。 経済学の理論においては、利潤の捉え方について、しばしば調査や検証も行なわれないまま、上記のような極端な単純化や定式化が行なわれている。だが、企業が実現したいのは、利潤を最大化することとは限らない<ref name="hijikata">{{cite|和書 |author=土方千代子 |author2=惟野裕美子 |title=「経営学」の基本がすべてわかる本 |page=57}}</ref>。例えば、[[株式会社]]というものは、企業の所有者と経営者が別であることも可能で、[[所有と経営の分離]]していることがしばしばあるわけであるが、日本のそのタイプの株式会社では、(利潤を度外視し)しばしば[[売上高]]の極大化を目的に掲げるものもある<ref name="hijikata"/>(あるいは、かつてかなりの数存在した)。人間というのは「(企業は、経営は)利潤を最大化さえすればよいのだ」などと考えだすと、「市場を独占して暴利をむさぼればいいんだ」<ref name="hijikata"/>、などと考えたり、「自分以外の人々に不正な方法で損害を与えてでも、自分だけ巨大な利潤を得ればよいのだ」などと考える輩が出てくることがある。現実の世界では、利潤を至上のものと信じて疑わず利潤の過度な追求を行なうことが、企業による様々な反社会的行為・犯罪行為を生んでいるということは、報道等々によってしばしば指摘され批判されている。それが高じてくると「利潤の追求などというものは全て悪だ」という考え方も現れることになり、利潤を追求する様を全て忌み嫌ったり、それを呪っている人もいる。 ただし、利潤の追求が社会に様々な害悪を生み出していることは事実であるとしても、あらゆる利潤の追求を全て完全に否定されてしまうと、商業活動のみならず、組織的活動すら行なうことが困難となってしまうことが多い。そこで、折り合いをつけるための様々な考え方が提起されている。例えば「適正な利潤」を実現することが経営の目的だとする説もある<ref name="hijikata"/>。例えば、[[松下幸之助]]などが、(利潤の最大化という概念などは持ち出さず)「''適正利潤''の確保」<ref>{{cite|和書 |title=松下幸之助の経営問答 |page=73}}</ref>という概念で説明している。松下は、次のように述べる。 {{Quotation| 企業の社会性というのは、いつでも非常に大事なことである。しかし、だからといって利潤を追求してはいけない、ということをつけ加えていいのかどうか。 企業は利潤を追求してはならない、いわば薄利でやったほうがいい。できるだけ儲からないほうがいい、奉仕に変えたほうがいいんだということが、真の意味の社会性になるかどうかというと、これは非常に疑問やと思うんです。 「企業の社会性と利潤の追求」という見出しはあるが、「企業の社会性と適正利潤の確保」という見出しはあまりない。(経営者には)その義務があるというか、そういうふうにしなければならない。|松下幸之助『経営にもダムのゆとり』<ref name="matsushita">{{cite|和書 |author=松下幸之助 |title=経営にもダムのゆとり |page=185}}</ref> }} そして、この説明に続き、その理由として企業が納税することが社会にとっても必要であることなどを挙げている。 企業の[[社会性]]というのは、いつでも非常に大事なことである<ref>{{cite|和書| author=松下幸之助 |title=経営にもダムのゆとり}}</ref>ということは、言われ続けている。例えば、立石義雄は「企業というのは社会の公器である」という言い方でそれを表現している<ref>{{cite|和書 |author=立石義雄 |title=未来から選ばれる企業: オムロンの「感知力」経営}}</ref>。[[ピーター・ドラッカー]]は、企業にとって利潤が重要であることは認めてはいるものの、「企業の経営目的は利潤ではなく、[[顧客]]の創造である」とも述べている<ref name="hijikata"/>。あまたいる経営者の中には、「自社は、社会貢献できればいいので、利潤は出なくていい。コストを払った後に赤字にさえならなければ、利潤は小さくてかまわない。それが自社のそして私の存在意義だ」と考える人もいる。その一方で、新古典派の仮定そのままに「自社の利潤だけを最大化したい」としか考えていない経営者もいる。松下幸之助に類似した考え方を採用している人もいる。バランスをいかにとるかに心を砕いている経営者もいる。 どの程度の利潤が適正なのかということは、ただひとつの回答があるというものでもなく、[[経営者]]にとって永遠のテーマでもあるとも言えよう。 == 利益との違い == 会計上の利益と経済学上の利潤は同義ではなく、以下のような差異がある<ref name="odagiri">{{cite|和書 |title=企業経済学 |edition=2 |publisher=東洋経済新報社 |author=小田切宏之 |year=2010 |page=33}}</ref>。 * [[機会費用]]を経済学では費用とみなすが、会計上は利益とされる。 * 資産価値の変動に伴う[[キャピタル・ゲイン]]またはキャピタル・ロスは、会計上は計上されない。ただし売却に大きな制約がなく、価値の変動そのものが利益に直結する金融商品などを除く。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[経営学]] * [[経済学]]([[マルクス経済学]]、[[近代経済学]]) * [[企業]]、[[経営]] * [[経済]] [[資本]] [[生産]] [[市場]] [[価格]] * [[利潤率]] [[剰余価値]] * [[超過利潤]] {{経済学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:りしゆん}} [[Category:経営学]] [[Category:経済学]] [[Category:資本主義]]
null
2023-02-19T13:43:13Z
false
false
false
[ "Template:要出典", "Template:Quotation", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Lang-en-short", "Template:Notelist2", "Template:Cite", "Template:経済学", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E6%BD%A4
1,571,095
ヘヴン (遠藤淑子の漫画)
『ヘヴン』は、遠藤淑子による日本の漫画。1998年から1999年にかけて『MELODY』(白泉社)に掲載された。全3話。同社の花とゆめコミックスより単行本化されている。 その後、前日譚にあたる『ヘヴン2』が同じく『MELODY』に2000年から2001年にかけて掲載された。全5話。こちらも花とゆめコミックスにて単行本化されている。 白泉社文庫からは2作品をまとめて『ヘヴン』のタイトルで出版されている(全1巻)。 本項ではこの2作品を併せて扱う。 二十数年前の「戦争」によって荒廃した世界。陸軍を辞めて求職中のマットは、偶然から人型ロボット・ルークのオーナーとなる。2人は巻き込まれた事件を通じて、人間性の喪失を目の当たりにする一方、荒廃した世界における希望を見つけることとなる。 「戦争」が起こる数十年前。ジョナサンは大学の寮でデイビーという少年と同室となる。ロボット工学者になるのが夢のデイビーは、成績こそ芳しくなかったものの、優しい性格で皆から慕われており、またジョナサンもデイビーに救われた。だが、そのデイビーはテロ組織に誘拐され帰らぬ人となってしまう。 やがてジョナサンはデイビーの夢を継ぎロボット工学者となり、軍から暗殺用ロボット製作の依頼を受ける。ちょうどその折、デイビーがテロ組織に狙われたのは自分にも遠因があることを知る。復讐のため作られたその暗殺用ロボットこそルークであった。 コミックスおよび文庫版のおまけ漫画。ルークの金物屋でのアルバイトの様子などを描く。 本編がほぼ一貫してシリアスな雰囲気であるのに対して、こちらはルークがロボットであることをネタとした4コマ形式のコメディになっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『ヘヴン』は、遠藤淑子による日本の漫画。1998年から1999年にかけて『MELODY』(白泉社)に掲載された。全3話。同社の花とゆめコミックスより単行本化されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "その後、前日譚にあたる『ヘヴン2』が同じく『MELODY』に2000年から2001年にかけて掲載された。全5話。こちらも花とゆめコミックスにて単行本化されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "白泉社文庫からは2作品をまとめて『ヘヴン』のタイトルで出版されている(全1巻)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本項ではこの2作品を併せて扱う。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "二十数年前の「戦争」によって荒廃した世界。陸軍を辞めて求職中のマットは、偶然から人型ロボット・ルークのオーナーとなる。2人は巻き込まれた事件を通じて、人間性の喪失を目の当たりにする一方、荒廃した世界における希望を見つけることとなる。", "title": "ヘヴン" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「戦争」が起こる数十年前。ジョナサンは大学の寮でデイビーという少年と同室となる。ロボット工学者になるのが夢のデイビーは、成績こそ芳しくなかったものの、優しい性格で皆から慕われており、またジョナサンもデイビーに救われた。だが、そのデイビーはテロ組織に誘拐され帰らぬ人となってしまう。", "title": "ヘヴン2" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "やがてジョナサンはデイビーの夢を継ぎロボット工学者となり、軍から暗殺用ロボット製作の依頼を受ける。ちょうどその折、デイビーがテロ組織に狙われたのは自分にも遠因があることを知る。復讐のため作られたその暗殺用ロボットこそルークであった。", "title": "ヘヴン2" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "コミックスおよび文庫版のおまけ漫画。ルークの金物屋でのアルバイトの様子などを描く。", "title": "金物屋のルークくん" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "本編がほぼ一貫してシリアスな雰囲気であるのに対して、こちらはルークがロボットであることをネタとした4コマ形式のコメディになっている。", "title": "金物屋のルークくん" } ]
『ヘヴン』は、遠藤淑子による日本の漫画。1998年から1999年にかけて『MELODY』(白泉社)に掲載された。全3話。同社の花とゆめコミックスより単行本化されている。 その後、前日譚にあたる『ヘヴン2』が同じく『MELODY』に2000年から2001年にかけて掲載された。全5話。こちらも花とゆめコミックスにて単行本化されている。 白泉社文庫からは2作品をまとめて『ヘヴン』のタイトルで出版されている(全1巻)。 本項ではこの2作品を併せて扱う。
『'''ヘヴン'''』は、[[遠藤淑子]]による[[日本]]の[[漫画]]。[[1998年]]から[[1999年]]にかけて『[[MELODY (雑誌)|MELODY]]』([[白泉社]])に掲載された。全3話。同社の[[花とゆめコミックス]]より単行本化されている。 その後、前日譚にあたる『'''ヘヴン2'''』が同じく『MELODY』に[[2000年]]から[[2001年]]にかけて掲載された。全5話。こちらも花とゆめコミックスにて単行本化されている。 白泉社文庫からは2作品をまとめて『ヘヴン』のタイトルで出版されている(全1巻)。 本項ではこの2作品を併せて扱う。 == ヘヴン == === あらすじ === 二十数年前の「戦争」によって荒廃した世界。陸軍を辞めて求職中の'''マット'''は、偶然から人型ロボット・'''ルーク'''のオーナーとなる。2人は巻き込まれた事件を通じて、人間性の喪失を目の当たりにする一方、荒廃した世界における希望を見つけることとなる。 === 主な登場人物 === ; マット・デイリー : 本作品の主人公。本名はマーサ。女性だがよく男性と間違えられる。陸軍に6年間勤めていたが、新任の司令官にセクハラを受けて反撃し、鼻の骨を粉砕してしまったため除隊になった。軍在籍中にとった医療アシスタントの資格を活かして働こうとするがうまくいっていない。 ; ルーク : 戦前に作られた、少年の外見をしたロボット。型式は'''LU-K5'''型。アルファベットの5文字目が「E」であるため、読み替えて「'''LUKE'''」→「'''ルーク'''」と呼ばれる。非常に精巧に作られており、技術の衰退した現在では同じものは作れないと見られる。ある街で(修理出来ないと思われていたため)叩き売られていたが、買った男にマットがケンカで勝ったことにより、マットの所有物となる。その後、所有権はホリーに移った。外見が人間と変わらないことを利用して表向きはマットの弟として生活し、金物屋でアルバイトをしている。 : 実は軍が暗殺用に作ったロボットであり、開発の経緯が『[[#ヘヴン2|ヘヴン2]]』にて描かれた。 ; ホリー : マットの姉。放射能の影響で身体が弱く、入退院を繰り返している。また、肉体的な成長も遅れており、一見するとマットより年下の少女にしか見えない。田舎で祖母と暮らしている。 ; クリス・ディヴィス : マットが軍に在籍中に同じ部隊にいた男。現在の階級は中佐。父親が軍の要職についている。様々なトラブルを起こしてはその責任をマットに押し付けたため、マットからは疫病神扱いされている。 : 実は「完璧な人間を作り出す」という目的で遺伝子操作で生まれた人間の第1号だが、能力的には特筆すべき点はなかった。その後遺伝子操作で生まれた人間の多くが精神的に問題を抱えており破壊衝動に突き動かされる者も少なくないため、自分もそうなるのではないかと危惧している。 == ヘヴン2 == === あらすじ === 「戦争」が起こる数十年前。'''ジョナサン'''は大学の寮で'''デイビー'''という少年と同室となる。ロボット工学者になるのが夢のデイビーは、成績こそ芳しくなかったものの、優しい性格で皆から慕われており、またジョナサンもデイビーに救われた。だが、そのデイビーはテロ組織に誘拐され帰らぬ人となってしまう。 やがてジョナサンはデイビーの夢を継ぎロボット工学者となり、軍から暗殺用ロボット製作の依頼を受ける。ちょうどその折、デイビーがテロ組織に狙われたのは自分にも遠因があることを知る。復讐のため作られたその暗殺用ロボットこそ'''ルーク'''であった。 === 主な登場人物 === ; ジョナサン・ルー : 本作品の実質的な主人公。大学の寮でデイビーと同室となる。兄のダグがマフィアの一員であり、その仲間に引き入れられそうになっていたところをデイビーに救われる。デイビーの死後はその夢を継いでロボット工学者になり、おもちゃメーカーで働いていたが、自分がデイビーの死の遠因になっていたことを知り、軍から依頼された暗殺用ロボット・ルークを開発する。復讐は成功したが、デイビーと同じ顔をしたルークに殺人をさせたことを悔やみ、「もしお前に人を殺すなと命じる者がいたら、その者を守れ」と言い遺した。 ; デイビー・トレヴァー : ジョナサンと大学の寮でデイビーと同室となった少年。学校の成績は留年すれすれだったが、パソコンの修理は得意で、ロボット工学者を目指していた。優しい性格で皆から慕われていた。実は大学にも奨学金を出資しているエクソン社社長の隠し子だった。そのため自然保護テロ組織「ネイチャーガーディアンズ」に誘拐され、巻き込まれて誘拐された少女・キャシーを逃すため犠牲になり命を落とす。 : 遺伝子は保存されており、'''クリス・ディヴィス'''の遺伝子の母体となった。 ; アシュレイ・ロビンソン : ジョナサンやデイビーの級友。数学者の家系で、その重責から初めは誰にも心を開かなかったが、デイビーに数学を教えるうちに徐々に変わっていく。後にジョナサンと結婚、娘・リサをもうける。 ; レベッカ・デイリー : ジョナサンの友人。通称・'''ベッキー'''。デイリーは結婚後の姓(旧姓は不明)。デイビーとはジョナサンを通じて仲良くなるが、その直後にデイビーが他界。当時はパブのウェイトレスだったが、生前のデイビーに応援してもらったことを受け、自分のレストランを持つに至る。後に常連客だったマシューと結婚。 : 結婚後の姓がデイリーであること、夫の名前である'''マシュー'''の愛称も「マット」であることから、'''マット'''との血縁関係があることが示唆されるが、詳細は不明。 ; リサ : ジョナサンとアシュレイの娘。 ; マシュー・デイリー : ベッキーの夫。元はベッキーのレストランの常連客。かなりの大柄だが涙もろい。 ; エド・ノール : 「自然の党」所属の上院議員。かつて自然保護テロ組織「ネイチャーガーディアンズ」に所属し、デイビーを誘拐、殺害した張本人。 ; ディヴィス : 軍の中尉(後に大佐)。ジョナサンに軍の暗殺用ロボット開発を依頼する。クリス・ディヴィスの先祖だと考えられるが詳細は語られていない。 ; キャシー・シンガー : デイビーと共に誘拐された少女。デイビーの助けで逃亡に成功したが、しばらく事件に関する記憶を失っていた。記憶を取り戻した後、デイビーの最期と事件の実行犯の情報を伝えるためジョナサンの元を訪れる。 ; フィル・ケリー : ジョナサン達の大学の同期で、ジャーナリスト。デイビー誘拐事件について追跡を続けていた。 ; ルーク : ジョナサンが開発した暗殺用ロボット。『[[#ヘヴン|ヘヴン]]』も参照。 == 金物屋のルークくん == コミックスおよび文庫版のおまけ漫画。ルークの金物屋でのアルバイトの様子などを描く。 本編がほぼ一貫してシリアスな雰囲気であるのに対して、こちらはルークがロボットであることをネタとした4コマ形式のコメディになっている。 == 書誌情報 == * 遠藤淑子 『ヘヴン』 白泉社 花とゆめコミックス、2000年1月10日初版発行、ISBN 4-592-17752-5 * 遠藤淑子 『ヘヴン2』 白泉社 花とゆめコミックス、2001年9月10日初版発行、ISBN 4-592-17226-4 * 遠藤淑子 『ヘヴン』 白泉社 白泉社文庫、2010年1月20日初版発行、ISBN 978-4-592-88798-0 == 備考 == * [[2002年]][[星雲賞]]コミック部門参考候補作。 * 白泉社文庫版の発売に際しては、「'''エンコミ!2010'''」と題して、『[[なごみクラブ]]』([[竹書房]])および『[[今月のわんこ生活]]』([[大都社]])との3社3冊同時発売のキャンペーンが行われた。 {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:へうん}} [[Category:遠藤淑子の漫画作品]] [[Category:漫画作品 へ|うん]] [[Category:MELODY]] [[Category:SF漫画作品]] [[Category:1998年の漫画]]
null
2022-12-26T05:38:58Z
false
false
false
[ "Template:Manga-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B4%E3%83%B3_(%E9%81%A0%E8%97%A4%E6%B7%91%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%BC%AB%E7%94%BB)
66,317
アムールトラ
アムールトラ (Panthera tigris altaica、簡体字中国語: 东北虎) は、ネコ科に属するトラの一亜種。altaicaとは、ロシアの西シベリアのアルタイ地方の意味。現在はロシア極東の沿海地方およびハバロフスク地方の、アムール川および中国東北部を含むウスリー川流域、長白山地区でのみ生息が確認されているが、かつては中国満洲、朝鮮半島、モンゴル、シベリアに広く分布しており、その生息範囲は中央アジアや西アジアにまで伸びていた。 現存する8つのトラの亜種でも大型の体躯を持ち、ネコ科の中でも最大の亜種である。雄の個体では全長3 m、体重350 kgを超えた例も報告されている。2009年に行われた遺伝学的調査で、かつては別の亜種とみられていた西アジアのカスピトラ(絶滅)が、現在生息しているアムールトラとほぼ同一であることが判明した。 雄の個体では体長(頭胴長)2.5 m(長さの比較資料:1 E0 m)、体重300 kgにも達する。しかし近年では、生息地における獲物の不足により痩せた個体が多く見られ、現状での野生個体の体格面ではベンガルトラの方が大型と指摘もされることも多い。飼育個体は野生個体よりも大きくなる傾向があり、中には体重450 kgを超える個体もいる。ベンガルトラに比べて体長は長いが、体高ではベンガルトラより低くなる傾向が強い。 現生のネコ科の最大種であるが、2013年に発表された研究ではイエネコとDNAの95.6%を共有していることが指摘された。 極めて寒冷な地域、シベリアのタイガ (針葉樹林) 等を主な生息域としていることから、他の亜種に比して深く長い体毛をそなえている。冬毛は夏毛の3倍以上の長さになる。 昼夜行性で、獲物の動きが低下する夜間に盛んに活動する場合があり、気温が零下を下回る真冬であっても、夜間には活発に動いている事が観察されている。 主にイノシシ、アカシカ、ノロジカ、ジャコウジカ、ヘラジカ、ツキノワグマ、ヒグマなどを捕食する。狩りは待ち伏せ型で、背丈の高い草や、低木や灌木のような場所に身を潜めて獲物が通りかかるのを待ち、獲物が間合いに近付いた際に襲いかかる。キジ科や、カモ科などの大型鳥類、水辺ではカワカマスやソウギョのような大型魚類を狙うこともある。 夏場は水辺を好み、そこで水浴びや泳いで体温を下げたり、寄生虫や吸血昆虫から身を守る。冬場は雪と林の中に紛れて獲物を待ち伏せる。メスは自分の夫となるオスの隣接する縄張り部分を住処とし、オスは単独生活で付かず離れずで妻と子供を守り、子育てはもっぱらメスだけが行う。オスは自分の子供には寛容だが、他の個体や、その子供には容赦なく攻撃し、殺してしまう事もある。これはメスにも度々起こるが、メスは体格差からオスとの争いは避ける事が多い。 子供が成長して独り立ちするのに約2年かかる。子離れはベンガルトラと同様にメスの方が早い。成獣は人間以外に天敵は殆どいないが、獲物を競合する関係では、タイリクオオカミやアムールヒョウがいる。飼育下での寿命は、約15〜20年。 主な生息域は、ロシアと中国東北部の国境を流れるアムール川やウスリー川(アムール川の支流)周辺のタイガ (針葉樹林) である。また、北朝鮮での生息も確認されている。北朝鮮での生息状況の詳細は不明だが、白頭山周辺が本種の生息地域として紹介されることが多い。 近年、アムールトラの個体数は500頭程度にまで落ち込んでいると推測され絶滅が危惧されている。一時期は自然破壊のために絶滅寸前まで追い込まれていたものの、冷戦終結後にアメリカを中心とした西側の動物保護団体による保護活動が進み生息環境も改善されつつあるため、徐々にではあるが個体数は回復傾向にある。しかし、今度は逆にアムールトラの生息拡大が、アムールヒョウの生息を脅かすという事態も起きており、新たな課題となっている。 また、後述するような、人間の自然開発による人里への接近や、人や家畜を襲う事件もまた、昔から避けられない無視出来ない問題である。 アムールトラ1頭あたり1,000平方キロ(東京都の面積の半分)の森林が必要だとされるが、沿海地方では森林伐採が進みタイガの面積が30%も減少するなど、その生息地が脅かされている。また、トラの骨などが高級酒の原料として高値で取引されているため、密猟も数多い。これらの原因で個体数は激減し、国際自然保護連合が発表しているレッドリストでも絶滅危惧種に指定され、対策が必要と指摘されている。ウラジオストク郊外のラズドリノエ (沿海州)(ロシア語版)では、地元住民がボランティアで、親と死別してさまよう幼いアムールトラを保護飼育し、野生復帰を試みているものの、現状では厳しくサーカスなどに送られる個体も多い。 日本では2019年現在、24の動物園でアムールトラが飼育されており、繁殖にも力を入れている。 日本の戦国時代の武将・加藤清正が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の陣中にあったとき虎退治をしたとの逸話があるが、この虎はアムールトラであったと考えられる。 アムールトラを描いた文学作品で最も有名なのは、ニコライ・A・バイコフ(Nikolaĭ Apollonovich Baĭkov)の『偉大なる王(ワン)』が挙げられる。バイコフ自身のハンターとしての経験と、トラの生態調査によって創作され、日本でも戦後児童誌などで出版されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アムールトラ (Panthera tigris altaica、簡体字中国語: 东北虎) は、ネコ科に属するトラの一亜種。altaicaとは、ロシアの西シベリアのアルタイ地方の意味。現在はロシア極東の沿海地方およびハバロフスク地方の、アムール川および中国東北部を含むウスリー川流域、長白山地区でのみ生息が確認されているが、かつては中国満洲、朝鮮半島、モンゴル、シベリアに広く分布しており、その生息範囲は中央アジアや西アジアにまで伸びていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "現存する8つのトラの亜種でも大型の体躯を持ち、ネコ科の中でも最大の亜種である。雄の個体では全長3 m、体重350 kgを超えた例も報告されている。2009年に行われた遺伝学的調査で、かつては別の亜種とみられていた西アジアのカスピトラ(絶滅)が、現在生息しているアムールトラとほぼ同一であることが判明した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "雄の個体では体長(頭胴長)2.5 m(長さの比較資料:1 E0 m)、体重300 kgにも達する。しかし近年では、生息地における獲物の不足により痩せた個体が多く見られ、現状での野生個体の体格面ではベンガルトラの方が大型と指摘もされることも多い。飼育個体は野生個体よりも大きくなる傾向があり、中には体重450 kgを超える個体もいる。ベンガルトラに比べて体長は長いが、体高ではベンガルトラより低くなる傾向が強い。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現生のネコ科の最大種であるが、2013年に発表された研究ではイエネコとDNAの95.6%を共有していることが指摘された。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "極めて寒冷な地域、シベリアのタイガ (針葉樹林) 等を主な生息域としていることから、他の亜種に比して深く長い体毛をそなえている。冬毛は夏毛の3倍以上の長さになる。", "title": "形態" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "昼夜行性で、獲物の動きが低下する夜間に盛んに活動する場合があり、気温が零下を下回る真冬であっても、夜間には活発に動いている事が観察されている。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "主にイノシシ、アカシカ、ノロジカ、ジャコウジカ、ヘラジカ、ツキノワグマ、ヒグマなどを捕食する。狩りは待ち伏せ型で、背丈の高い草や、低木や灌木のような場所に身を潜めて獲物が通りかかるのを待ち、獲物が間合いに近付いた際に襲いかかる。キジ科や、カモ科などの大型鳥類、水辺ではカワカマスやソウギョのような大型魚類を狙うこともある。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "夏場は水辺を好み、そこで水浴びや泳いで体温を下げたり、寄生虫や吸血昆虫から身を守る。冬場は雪と林の中に紛れて獲物を待ち伏せる。メスは自分の夫となるオスの隣接する縄張り部分を住処とし、オスは単独生活で付かず離れずで妻と子供を守り、子育てはもっぱらメスだけが行う。オスは自分の子供には寛容だが、他の個体や、その子供には容赦なく攻撃し、殺してしまう事もある。これはメスにも度々起こるが、メスは体格差からオスとの争いは避ける事が多い。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "子供が成長して独り立ちするのに約2年かかる。子離れはベンガルトラと同様にメスの方が早い。成獣は人間以外に天敵は殆どいないが、獲物を競合する関係では、タイリクオオカミやアムールヒョウがいる。飼育下での寿命は、約15〜20年。", "title": "生態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "主な生息域は、ロシアと中国東北部の国境を流れるアムール川やウスリー川(アムール川の支流)周辺のタイガ (針葉樹林) である。また、北朝鮮での生息も確認されている。北朝鮮での生息状況の詳細は不明だが、白頭山周辺が本種の生息地域として紹介されることが多い。", "title": "生息" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "近年、アムールトラの個体数は500頭程度にまで落ち込んでいると推測され絶滅が危惧されている。一時期は自然破壊のために絶滅寸前まで追い込まれていたものの、冷戦終結後にアメリカを中心とした西側の動物保護団体による保護活動が進み生息環境も改善されつつあるため、徐々にではあるが個体数は回復傾向にある。しかし、今度は逆にアムールトラの生息拡大が、アムールヒョウの生息を脅かすという事態も起きており、新たな課題となっている。", "title": "生息" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、後述するような、人間の自然開発による人里への接近や、人や家畜を襲う事件もまた、昔から避けられない無視出来ない問題である。", "title": "生息" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アムールトラ1頭あたり1,000平方キロ(東京都の面積の半分)の森林が必要だとされるが、沿海地方では森林伐採が進みタイガの面積が30%も減少するなど、その生息地が脅かされている。また、トラの骨などが高級酒の原料として高値で取引されているため、密猟も数多い。これらの原因で個体数は激減し、国際自然保護連合が発表しているレッドリストでも絶滅危惧種に指定され、対策が必要と指摘されている。ウラジオストク郊外のラズドリノエ (沿海州)(ロシア語版)では、地元住民がボランティアで、親と死別してさまよう幼いアムールトラを保護飼育し、野生復帰を試みているものの、現状では厳しくサーカスなどに送られる個体も多い。", "title": "生息" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本では2019年現在、24の動物園でアムールトラが飼育されており、繁殖にも力を入れている。", "title": "生息" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本の戦国時代の武将・加藤清正が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の陣中にあったとき虎退治をしたとの逸話があるが、この虎はアムールトラであったと考えられる。", "title": "清正の虎退治" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アムールトラを描いた文学作品で最も有名なのは、ニコライ・A・バイコフ(Nikolaĭ Apollonovich Baĭkov)の『偉大なる王(ワン)』が挙げられる。バイコフ自身のハンターとしての経験と、トラの生態調査によって創作され、日本でも戦後児童誌などで出版されている。", "title": "文学" } ]
アムールトラ は、ネコ科に属するトラの一亜種。altaicaとは、ロシアの西シベリアのアルタイ地方の意味。現在はロシア極東の沿海地方およびハバロフスク地方の、アムール川および中国東北部を含むウスリー川流域、長白山地区でのみ生息が確認されているが、かつては中国満洲、朝鮮半島、モンゴル、シベリアに広く分布しており、その生息範囲は中央アジアや西アジアにまで伸びていた。 現存する8つのトラの亜種でも大型の体躯を持ち、ネコ科の中でも最大の亜種である。雄の個体では全長3 m、体重350 kgを超えた例も報告されている。2009年に行われた遺伝学的調査で、かつては別の亜種とみられていた西アジアのカスピトラ(絶滅)が、現在生息しているアムールトラとほぼ同一であることが判明した。
{{生物分類表 |名称=アムールトラ |色 = pink |画像=[[画像:P.t.altaica Tomak Male.jpg|250px]] |画像キャプション = アムールトラ |省略 = 哺乳綱 |目=[[ネコ目]] [[:w:Carnivora|Carnivora]] |科=[[ネコ科]] [[:w:Felidae|Felidae]] |属=[[ヒョウ属]] ''[[:w:Panthera|Panthera]] |種=[[トラ]] ''P.tigris '' |亜種='''アムールトラ''' ''P. t. altaica'' |学名=''Panthera tigris altaica'' |英名 = [[w:Siberian tiger|Siberian tiger]] |和名 = アムールトラ<br/>チョウセントラ<br/>シベリアトラ |status = EN |status_text = * [[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]附属書I |生息図 = [[File:Panthera tigris tigris range map 1800s and 2010s.png|230px]] |生息図キャプション = 生息域 }} '''アムールトラ''' (''Panthera tigris altaica''、{{lang-zh-hans|东北虎}}) は、[[ネコ科]]に属する[[トラ]]の一[[亜種]]。altaicaとは、[[ロシア]]の[[西シベリア]]の[[アルタイ地方]]の意味<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.smma.jp/column/%e6%9d%a5%e5%b9%b4%e3%81%ae%e5%b9%b2%e6%94%af%e3%81%ae%e5%8b%95%e7%89%a9%e3%80%8c%e3%83%88%e3%83%a9%e3%80%8d%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6-2/ |title=来年の干支の動物「トラ」について | 見験楽学 けんけんがくがく |publisher=仙台・宮城ミュージアムアライアンス(SMMA)事務局 |accessdate=2019-03-22}}</ref>。現在は[[ロシア]][[極東ロシア|極東]]の[[沿海地方]]および[[ハバロフスク地方]]の、[[アムール川]]および中国東北部を含む[[ウスリー川]]流域、[[白頭山|長白山]]地区でのみ生息が確認されているが、かつては[[満洲|中国満洲]]、[[朝鮮半島]]、[[モンゴル国|モンゴル]]、[[シベリア]]に広く分布しており、その生息範囲は[[中央アジア]]や[[西アジア]]にまで伸びていた。 現存する8つのトラの亜種でも大型の体躯を持ち、[[ネコ科]]の中でも最大種の一つである。雄の個体では全長3&nbsp;m、体重350&nbsp;kgを超えた例も報告されている<ref>{{Cite web |url=http://www.tigers.ca/Tigerworld/W3A5.html |title=SIBERIAN TIGER |publisher= |accessdate=2019-03-22}}</ref>。[[2009年]]に行われた遺伝学的調査で、かつては別の亜種とみられていた西アジアの[[カスピトラ]](絶滅)が、現在生息しているアムールトラとほぼ同一であることが判明した<ref>Driscoll CA, Yamaguchi N, Bar-Gal GK, Roca AL, Luo S, et al. 2009. Mitochondrial Phylogeography Illuminates the Origin of the Extinct Caspian Tiger and Its Relationship to the Amur Tiger. PLoS ONE 4(1): e4125. doi:10.1371/journal.pone.0004125. [http://www.plosone.org/article/info:doi/10.1371/journal.pone.0004125 Plosone.org]</ref>。 == 形態 == 雄の個体では[[体長]](頭胴長)2.5&nbsp;m({{smaller|長さの比較資料}}:[[1 E0 m]])、体重300&nbsp;kgにも達する。しかし近年では、生息地における獲物の不足により痩せた個体が多く見られ<ref>{{Cite web |url=http://www.tigers.ru/articles/tab_eng.html |title=Table 1. Location, physical status, size and circumstances of deaths of Amur tiger males in the Russian Far East, 1970-1994. |publisher= |accessdate=2019-03-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120329210250/http://www.tigers.ru/articles/tab_eng.html |archivedate=2012-05-29}}</ref>、現状での野生個体の体格面では[[ベンガルトラ]]の方が大型と指摘もされることも多い{{efn2|ただし[[動物園]]等の飼育個体では、アムールトラがベンガルトラより一周り大きくなる傾向がある。}}。飼育個体は野生個体よりも大きくなる傾向があり、中には体重450&nbsp;kgを超える個体もいる<ref>{{Cite web |url=https://www.telegraph.co.uk/news/2017/02/08/chubby-tigers-seen-china-zoo/ |title=Chubby tigers seen at China zoo  |publisher=Telegraph Media Group Limited |accessdate=2019-03-22}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://openbeast.com/4535 |title=SABRE Foundation |publisher=OpenBeast |accessdate=2019-03-22}}</ref>。ベンガルトラに比べて体長は長いが、体高ではベンガルトラより低くなる傾向が強い。 現生のネコ科の最大種であるが、2013年に発表された研究では[[ネコ|イエネコ]]と[[デオキシリボ核酸|DNA]]の95.6%を共有していることが指摘された<ref>{{Cite book |和書 |title=ネコ前史 君たちはなぜそんなに愛されるのか |series=ナショナル ジオグラフィック 別冊 |publisher=日経ナショナル ジオグラフィック |date=2023-07-14 |page=12 |isbn=978-4-86313-584-0}}</ref>。 極めて寒冷な地域、[[シベリア]]の[[タイガ]] ([[針葉樹林]]) 等を主な生息域としていることから、他の亜種に比して深く長い体毛をそなえている。<!--ベンガルトラの「ホワイトタイガー」のような、いわゆる[[白変種]]は、本種ではまだ確認されていない。-->冬毛は夏毛の3倍以上の長さになる。 == 生態 == [[ファイル:Amersfoort Zoo Siberian Tigers.jpg|左|thumb|母子のアムールトラ]] 昼夜行性で、獲物の動きが低下する夜間に盛んに活動する場合があり、気温が零下を下回る真冬であっても、夜間には活発に動いている事が観察されている。 [[ファイル:Diorama - Museo civico di storia naturale (Milan) - cropped and adjusted.jpg|thumb|右|[[タイリクシカ]]を追撃するアムールトラのジオラマ]] 主に[[イノシシ]]、[[アカシカ]]、[[ノロジカ]]、[[ジャコウジカ]]、[[ヘラジカ]]、[[ツキノワグマ]]、[[ヒグマ]]などを捕食する。狩りは待ち伏せ型で、背丈の高い草や、低木や灌木のような場所に身を潜めて獲物が通りかかるのを待ち、獲物が間合いに近付いた際に襲いかかる。狩りの成功率は高くはなく、20%以下だといわれ、ヒグマ相手の場合では、失敗したら深傷を負ったり、逆に殺されるリスクも伴う。[[キジ科]]や、[[カモ科]]などの大型鳥類、水辺では[[カワカマス属|カワカマス]]や[[ソウギョ]]のような大型魚類を狙うこともある。 夏場は水辺を好み、そこで水浴びや泳いで体温を下げたり、寄生虫や吸血昆虫から身を守る。冬場は雪と林の中に紛れて獲物を待ち伏せる。メスは自分の夫となるオスの隣接する縄張り部分を住処とし、オスは単独生活で付かず離れずで妻と子供を守り、子育てはもっぱらメスだけが行う。オスは自分の子供には寛容だが、他の個体や、その子供には容赦なく攻撃し、殺してしまう事もある。これはメスにも度々起こるが、メスは体格差からオスとの争いは避ける事が多い。 子供が成長して独り立ちするのに約2年かかる。子離れはベンガルトラと同様にメスの方が早い。成獣は人間以外に天敵は殆どいないが、獲物を競合する関係では、[[オオカミ|タイリクオオカミ]]やアムールヒョウがいる。飼育下での寿命は、約15〜20年。 == 生息 == 主な生息域は、[[ロシア]]と[[中国東北部]]の国境を流れる[[アムール川]]や[[ウスリー川]](アムール川の支流)周辺のタイガ (針葉樹林) である。また、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]での生息も確認されている。北朝鮮での生息状況の詳細は不明だが、[[白頭山]]周辺が本種の生息地域として紹介されることが多い。 === 生息の現状 === 近年、アムールトラの個体数は500頭程度にまで落ち込んでいると推測され[[絶滅]]が危惧されている。一時期は[[自然破壊]]のために絶滅寸前まで追い込まれていたものの、[[冷戦]]終結後に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を中心とした西側の[[動物保護団体]]による保護活動が進み生息環境も改善されつつあるため、徐々にではあるが個体数は回復傾向にある。しかし、今度は逆にアムールトラの生息拡大が、[[アムールヒョウ]]の生息を脅かすという事態も起きており、新たな課題となっている。 また、後述するような、人間の自然開発による人里への接近や、人や家畜を襲う事件もまた、昔から避けられない無視出来ない問題である。 === 絶滅の危機に瀕するアムールトラ === [[画像:Releasing a Siberian tiger in Russia.webm|thumb|左|ロシアでシベリアトラを放す]] アムールトラ1頭あたり1,000平方キロ([[東京都]]の面積の半分)の[[森林]]が必要だとされるが、沿海地方では森林伐採が進み[[タイガ]]の面積が30%も減少するなど、その生息地が脅かされている。また、トラの[[骨]]などが高級酒の原料として高値で取引されているため、[[密猟]]も数多い。これらの原因で個体数は激減し、[[国際自然保護連合]]が発表している[[レッドリスト]]でも[[絶滅危惧種]]に指定され、対策が必要と指摘されている。[[ウラジオストク]]郊外の{{仮リンク|ラズドリノエ (沿海州)|ru|Раздольное (Приморский край)}}では、地元住民が[[ボランティア]]で、親と死別してさまよう幼いアムールトラを保護飼育し、野生復帰を試みているものの、現状では厳しく[[サーカス]]などに送られる個体も多い{{sfn|松尾|2010}}。 === 飼育の現状 === [[日本]]では2019年現在、24の[[動物園]]でアムールトラが[[飼育]]されており<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.foejapan.org/siberia/amutora/zoolinks.html |title=森林保全と生物多様性 |publisher=国際環境NGO FoE Japan |accessdate=2019-03-22}}</ref>、[[繁殖]]にも力を入れている。 == 清正の虎退治 == 日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]・[[加藤清正]]が[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵(文禄・慶長の役)]]の陣中にあったとき虎退治をしたとの逸話があるが、この虎はアムールトラであったと考えられる。 == 文学 == アムールトラを描いた文学作品で最も有名なのは、ニコライ・A・バイコフ([[:ru:Байков, Николай Аполлонович|Nikolaĭ Apollonovich Baĭkov]])の『'''偉大なる王(ワン)'''』が挙げられる。バイコフ自身のハンターとしての経験と、トラの生態調査によって創作され、日本でも戦後児童誌などで出版されている。 == 関連文献 == * [[福田俊司]]1995年『ウスリートラを追って-シベリア5年間の撮影記録-』偕成社 * [[千葉県立中央博物館]]編2000年『知られざる極東ロシアの自然-ヒグマ・シベリアトラの大地を旅する-平成12年度特別展解説書』 * [[関啓子]]2009年『ユーラシア・ブックレットNo.144 アムールトラに魅せられて-極東の自然・環境・人間-』[[東洋書店]] * [[あんずゆき]]2009年『いのちかがやけ!タイガとココア-障がいをもって生まれたアムールトラのきょうだい-』文溪堂 * [[林るみ]](文)・[[釧路市動物園]](写真)2009年『タイガとココア-障がいをもつアムールトラの命の記録-』朝日新聞出版 * [[山根正伸]]2009年「木材-アムールトラの棲む森はいま-」窪田順平編『モノの越境と地球環境問題-グローバル化時代の〈知産知消〉-(地球研叢書)』昭和堂 * [[高麗美術館]]編2010年『朝鮮虎展-2010年庚寅高麗美術館新春特別展-』 * 福田俊司2010年「SUPER VISION ついに撮影成功!野生のアムールトラ」『[[ニュートン (雑誌)|Newton]]』30(10)ニュートンプレス == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == <!-- 本記事の出典として使われていない文献は、ここではなく「関連文献」節に記入してください。 --> *{{cite journal |和書 |author=松尾寛|title=ウラジオストク・レポート第3回 ロシア極東・アムールトラを守れ |journal=[[テレビでロシア語]] |volume=2010年6月号 |date= |publisher=NHK出版 |editor=日本放送協会, NHK出版 |series=NHKテキスト語学シリーズ |ref={{SfnRef|松尾|2010}} }}(NHK[[ニュースウオッチ9]]2010年4月22日放送 [http://cgi4.nhk.or.jp/eco-channel/jp/movie/play.cgi?movie=j_nw9_20100422_0264 「絶滅の危機アムールトラを救え」]{{リンク切れ|date=2019年3月22日 (金) 08:04 (UTC)}}を活字化したもの) == 外部リンク == {{Commons&cat|Panthera_tigris_altaica|Panthera_tigris_altaica}} {{Wikispecies|Panthera_tigris_altaica}} *{{Wayback|url=https://www.city.sapporo.jp/zoo/b_f/b_08/db111.html |title=アムールトラ |date=20030707220142}} - 円山動物園 {{Animal-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あむうるとら}} [[Category:ネコ科]] [[Category:トラ|亜あむうるとら]] [[Category:ワシントン条約附属書I]] [[Category:沿海地方]]
2004-03-18T13:06:54Z
2023-12-18T11:41:37Z
false
false
false
[ "Template:生物分類表", "Template:Commons&cat", "Template:Animal-stub", "Template:Lang-zh-hans", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:Cite book", "Template:リンク切れ", "Template:Wikispecies", "Template:Wayback", "Template:Smaller", "Template:仮リンク", "Template:Sfn", "Template:Notelist2", "Template:Reflist", "Template:Cite journal", "Template:Normdaten", "Template:Efn2" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9
729,083
ホセ・フェラー
ホセ・フェラー(José Ferrer、1912年1月8日 - 1992年1月26日)は、プエルトリコ出身の映画監督、俳優。本名は、ホセ・ビセンテ・フェレール・デ・オテーロ・イ・シントロン(Jose Vicente Ferrer de Otero y Cintron)。また、日本語表記や発音では、ホセ・ファ(ー)ラーとも呼ばれる。 俳優のミゲル・フェラーは息子。テニス選手のジジ・フェルナンデスはいとこ。ミゲル・ファーラーの母で3人目の妻だった歌手ローズマリー・クルーニーの甥には俳優のジョージ・クルーニーがいる。 10歳ぐらいの頃に母国からアメリカに渡ったといわれ、ニューヨークに居を構えて学生時代をすごす。ニューヨーク大学、プリンストン大学にまなび、在学中は建築家をめざして勉学に励んだ。そのころ、大学では学生の間で学生劇が流行り、彼もその活動にのめりこむううち、俳優という職業に魅せられて1935年、ブロードウェイの舞台に立つまでになった。 次第に才能を発揮し、コメディからシェイクスピア作品まで幅広くこなし30代のころには演出も手がけるなど、舞台で地位を確立した。戦後、映画界にも進出し、1948年『ジャンヌ・ダーク』ではシャルル7世役を演じて本格的に映画デビュー。舞台時代に培った実力が余りなく活かされ、アカデミー助演男優賞候補となったほか、1950年の主演作『シラノ・ド・ベルジュラック』で遂にアカデミー主演男優賞を受賞。オスカー像を掲げ、名優の仲間入りを果たした。 その後も『赤い風車』では2度目のアカデミー主演男優賞候補に、同時に舞台でも活動を続け、1952年までに2度トニー賞も受賞した。以降は、1955年に映画『生き残った二人』を監督し、監督業でも名を連ねた他、映画でもB級、大作問わず数多く出演し、名バイプレイヤーとして親しまれた。 1961年(昭和36年)11月に来日している。 1970年代にはTVにも夥しく出演。幅広く数多くの役柄をこなした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ホセ・フェラー(José Ferrer、1912年1月8日 - 1992年1月26日)は、プエルトリコ出身の映画監督、俳優。本名は、ホセ・ビセンテ・フェレール・デ・オテーロ・イ・シントロン(Jose Vicente Ferrer de Otero y Cintron)。また、日本語表記や発音では、ホセ・ファ(ー)ラーとも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "俳優のミゲル・フェラーは息子。テニス選手のジジ・フェルナンデスはいとこ。ミゲル・ファーラーの母で3人目の妻だった歌手ローズマリー・クルーニーの甥には俳優のジョージ・クルーニーがいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "10歳ぐらいの頃に母国からアメリカに渡ったといわれ、ニューヨークに居を構えて学生時代をすごす。ニューヨーク大学、プリンストン大学にまなび、在学中は建築家をめざして勉学に励んだ。そのころ、大学では学生の間で学生劇が流行り、彼もその活動にのめりこむううち、俳優という職業に魅せられて1935年、ブロードウェイの舞台に立つまでになった。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "次第に才能を発揮し、コメディからシェイクスピア作品まで幅広くこなし30代のころには演出も手がけるなど、舞台で地位を確立した。戦後、映画界にも進出し、1948年『ジャンヌ・ダーク』ではシャルル7世役を演じて本格的に映画デビュー。舞台時代に培った実力が余りなく活かされ、アカデミー助演男優賞候補となったほか、1950年の主演作『シラノ・ド・ベルジュラック』で遂にアカデミー主演男優賞を受賞。オスカー像を掲げ、名優の仲間入りを果たした。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その後も『赤い風車』では2度目のアカデミー主演男優賞候補に、同時に舞台でも活動を続け、1952年までに2度トニー賞も受賞した。以降は、1955年に映画『生き残った二人』を監督し、監督業でも名を連ねた他、映画でもB級、大作問わず数多く出演し、名バイプレイヤーとして親しまれた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1961年(昭和36年)11月に来日している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1970年代にはTVにも夥しく出演。幅広く数多くの役柄をこなした。", "title": "人物" } ]
ホセ・フェラーは、プエルトリコ出身の映画監督、俳優。本名は、ホセ・ビセンテ・フェレール・デ・オテーロ・イ・シントロン。また、日本語表記や発音では、ホセ・ファ(ー)ラーとも呼ばれる。 俳優のミゲル・フェラーは息子。テニス選手のジジ・フェルナンデスはいとこ。ミゲル・ファーラーの母で3人目の妻だった歌手ローズマリー・クルーニーの甥には俳優のジョージ・クルーニーがいる。
{{スペイン語圏の姓名|フェレール・デ・オテーロ|イ・シントロン}} {{ActorActress | 芸名 = ホセ・フェラー<br />José Ferrer | ふりがな = | 画像ファイル = Jose Ferrer in Caine Mutiny.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = 『[[ケイン号の叛乱]]』出演時 | 本名 = José Vicente Ferrer de Otero y Cintrón | 別名義 = | 愛称 = | 出生地 = [[プエルトリコ]] [[サンフアン (プエルトリコ)|サンフアン]] | 死没地 = [[フロリダ州]]コーラルゲーブルズ | 国籍 = | 身長 = | 血液型 = | 生年 = 1912 | 生月 = 1 | 生日 = 8 | 没年 = 1992 | 没月 = 1 | 没日 = 26 | 職業 = [[俳優]]、[[映画監督]] | ジャンル = | 活動期間 = 1935年–1992年 | 活動内容 = | 配偶者 = Uta Hagen (1938-1948)<br />Phyllis Hill (1948-1953)<br />[[ローズマリー・クルーニー]] (1953-1961, 1964-1967)<br />Stella Magee (1992-1992) | 著名な家族 = [[ミゲル・フェラー]](息子) | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->『[[赤い風車]]』(1952年) | アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]'''<br />[[第23回アカデミー賞|1950年]]『[[シラノ・ド・ベルジュラック]]』 | ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)|主演男優賞(ドラマ部門)]]'''<br />[[1950年]]『シラノ・ド・ベルジュラック』 }} '''ホセ・フェラー'''('''José Ferrer'''、[[1912年]][[1月8日]] - [[1992年]][[1月26日]])は、[[プエルトリコ]]出身の映画監督、俳優。本名は、'''ホセ・ビセンテ・フェレール・デ・オテーロ・イ・シントロン'''('''Jose Vicente Ferrer de Otero y Cintron''')。また、日本語表記や発音では、'''ホセ・ファ(ー)ラー'''とも呼ばれる。 俳優の[[ミゲル・フェラー]]は息子。テニス選手の[[ジジ・フェルナンデス]]はいとこ<ref>[http://www.wtatennis.com/players/player/60014/title/gigi-fernandez#bio Gigi Fernandez | WTA Tennis]</ref>。ミゲル・ファーラーの母で3人目の妻だった歌手[[ローズマリー・クルーニー]]の甥には俳優の[[ジョージ・クルーニー]]がいる。 == 人物 == 10歳ぐらいの頃に母国から[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡ったといわれ、[[ニューヨーク]]に居を構えて学生時代をすごす。[[ニューヨーク大学]]、[[プリンストン大学]]にまなび、在学中は[[建築家]]をめざして勉学に励んだ。そのころ、大学では学生の間で学生劇が流行り、彼もその活動にのめりこむううち、俳優という職業に魅せられて1935年、[[ブロードウェイ]]の舞台に立つまでになった。 次第に才能を発揮し、コメディから[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]作品まで幅広くこなし30代のころには演出も手がけるなど、舞台で地位を確立した。戦後、映画界にも進出し、1948年『[[ジャンヌ・ダーク]]』では[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]役を演じて本格的に映画デビュー。舞台時代に培った実力が余りなく活かされ、[[アカデミー助演男優賞]]候補となったほか、1950年の主演作『[[シラノ・ド・ベルジュラック (1950年の映画)|シラノ・ド・ベルジュラック]]』で遂に[[アカデミー主演男優賞]]を受賞。オスカー像を掲げ、名優の仲間入りを果たした。 その後も『[[赤い風車]]』では2度目のアカデミー主演男優賞候補に、同時に舞台でも活動を続け、1952年までに2度[[トニー賞]]も受賞した。以降は、1955年に映画『生き残った二人』を監督し、監督業でも名を連ねた他、映画でもB級、大作問わず数多く出演し、名バイプレイヤーとして親しまれた。 [[1961年]](昭和36年)[[11月]]に来日している。 1970年代にはTVにも夥しく出演。幅広く数多くの役柄をこなした。 == 受賞歴 == * [[アカデミー主演男優賞]](シラノ・ド・ベルジュラック、1950年) * [[ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門)]](同上) * [[英国アカデミー賞]]国外男優賞部門(ケイン号の叛乱、1954年) * [[トニー賞]](1947年、1952年) == 主な出演作品 == === 映画 === {| class="wikitable" |- !公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考 |- | 1948 || [[ジャンヌ・ダーク]]<br />''Joan of Arc'' || [[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]] || |- | 1949 || 疑惑の渦巻<br />''Whirlpool'' || デヴィッド・コルヴォ || |- | rowspan="2"| 1950 || [[シラノ・ド・ベルジュラック (1950年の映画)|シラノ・ド・ベルジュラック]]<br />''Cyrano de Bergerac'' || [[シラノ・ド・ベルジュラック]] || [[第23回アカデミー賞|第23回]][[アカデミー主演男優賞]]受賞<br />[[第8回ゴールデングローブ賞|第8回]][[ゴールデングローブ賞 映画部門 主演男優賞 (ドラマ部門)]]受賞 |- | 危機の男<br />''Crisis'' || ラウル・ファラーゴ || |- | rowspan="2"| 1952 || [[ニューヨークの異邦人]]<br />''Anything Can Happen'' || ジョルジ・パパシヴィリ || |- | [[赤い風車]]<br />''Moulin Rouge'' || [[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|アンリ・ロートレック]] || |- | 1953 || 雨に濡れた欲情<br />''Miss Sadie Thompson'' || アルフレッド・デヴィッドソン || |- | 1954 || [[ケイン号の叛乱]]<br />''The Caine Mutiny'' || バーニー・グリーンウォルド大尉 || [[英国アカデミー賞]]国外男優賞受賞 |- | rowspan="3"| 1955 || [[我が心に君深く]]<br />''Deep in My Heart'' || シグマンド・ロムバーグ || 主題歌「夢見る頃を過ぎても ( ''When I Grow Too Old To Dream'' ) 」も歌う。 |- | [[もず (1955年の映画)|もず]]<br />''The Shrike'' || ジム・ダウンズ || 兼監督 |- | 生き残った二人<br />''The Cokleshell Heroes'' || ストリンガー少佐 || 兼監督 |- | 1962 || [[アラビアのロレンス]]<br />''Lawrence of Arabia'' || ベイ将軍 || |- | rowspan="2"| 1963 || ベルリンからの脱走列車<br />''Stop Train 349'' || コーワン || |- | [[暗殺5時12分]]<br />''Nine Hours to Rama'' || ダス警視 || |- | rowspan="2"| 1965 || [[偉大な生涯の物語]]<br />''The Greatest Story Ever Told'' || [[ヘロデ・アンティパス]] || |- | [[愚か者の船]]<br />''Ship of Fools'' || ジークフリート・リーバー || |- | 1967 || セルバンテス<br />''Cervantes'' || ハッサン・ベイ || |- | rowspan="2"| 1975 || ロリーポップ<br />''Forever Young, Forever Free'' || アルベルト神父 || |- | [[暗殺指令・虎狼の手口]]<br />''El clan de los inmorales'' || リード警部 || |- | rowspan="3"| 1976 || ドラキュラ・ゾルタン<br />''Zoltan...Hound of Doracula'' || ブランコ || |- | [[弾丸特急ジェット・バス]]<br />''The Big Bus'' || アイアンマン || |- | [[さすらいの航海]]<br />''Voyage of the Damned'' || マヌエル・ベニテス || |- | rowspan="3"| 1977 || 誰が風を見たか?<br />''Who Has Seen the Wind'' || ベン || |- | クラッシュ!<br />''Crash!'' || マーク・デンヌ || |- | センチネル<br />''The Sentinel'' || 司祭 || |- | rowspan="2"| 1978 || [[スウォーム]]<br />''The Swarm'' || アンドリュース博士 || |- | [[アトランチスの謎 (1978年の映画)|アトランチスの謎]]<br />''The Amazing Captain Nemo'' || ネモ船長 || |- | 1979 || [[悲愁 (1978年の映画)|悲愁]]<br />''Fedora'' || ヴァンド || |- | 1980 || [[バトルクリーク・ブロー]]<br />''The Big Brawl'' || ドミニチ || |- | 1981 || ブラッディ・バースデイ/天使の顔をした悪魔の子供たち<br />''Bloody Birthday'' || 医師 || |- | rowspan="2"| 1982 || [[サマー・ナイト]]<br />''A Midsummer Night's Sex Comedy'' || レオポルド || |- | エーゲ海の伝説<br />''Blood Tide'' || ネレウス || |- | rowspan="2"| 1983 || [[メル・ブルックスの大脱走]]<br />''To Be Or Not To Be'' || シレツキー教授 || |- | ビーイング<br />''The Being'' || ゴードン・レイン市長 || |- | rowspan="3"| 1984 || [[デューン/砂の惑星 (1984年の映画)|砂の惑星]]<br />''Dune'' || 大王皇帝シャダム4世 || |- | [[地獄で眠れ]]<br />''The Evil That Men Do'' || ヘクター・ロメリン博士 || |- | デッド・シティ・カクテル/夜を葬れ<br />''Seduced'' || ジェームズ・キリアン || テレビ映画 |- | rowspan="2"| 1990 || リンカーン/アメリカを統一した男<br />''The Perfect Tribute'' || エドワード・エヴェレット || テレビ映画 |- | [[地獄の女囚コマンド]]<br />''Hired To Kill'' || ペトロス・ラリス || |- | 1994 || [[デューン/砂の惑星 (1984年の映画)#再編集版|砂の惑星・特別篇]]<br />''Dune'' || 大王皇帝シャダム4世 || 1984年の映画の再編集版 |- |} === テレビ === * [[ネーム・オブ・ザ・ゲーム]] ''The Name of the Game: Tarot''(1970) * [[刑事コジャック]] スペシャル ''Kojak'' (1973) * [[刑事コロンボ]] 愛情の計算 ''Columbo: Mind Over Mayhem'' (1973) * [[ロアルド・ダール劇場]]予期せぬ出来事「[[南から来た男]]」 ''Tales of the Unexpected: Man from the South'' (1979) * ジョージ・ワシントン ''George Washington'' (1984) ミニシリーズ == 監督作品 == * 生き残った二人 ''The Cokleshell Heroes'' (1955) * [[青春の旅情]] ''Return to Peyton Place'' (1961) * [[ステート・フェア (1962年の映画)|ステート・フェア]] ''State Fair'' (1962) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Allcinema name|4814}} * {{Kinejun name|4493}} * {{Imdb|id=0001207|name=José Ferrer}} {{ホセ・フェラー}} {{アカデミー賞主演男優賞 1941-1960}} {{ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門) 1943-1960}} {{トニー賞授賞式の司会者}} {{Normdaten}} {{actor-stub}} {{DEFAULTSORT:ふえらあ ほせ}} [[Category:プエルトリコの俳優]] [[Category:アメリカ合衆国の男優]] [[Category:アメリカ合衆国の映画監督]] [[Category:アカデミー賞受賞者]] [[Category:トニー賞受賞者]] [[Category:ゴールデングローブ賞受賞者]] [[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]] [[Category:プエルトリコ系アメリカ人]] [[Category:プエルトリコ・サンフアン出身の人物]] [[Category:1912年生]] [[Category:1992年没]] [[Category:国民芸術勲章受賞者]]
2006-10-17T16:38:54Z
2023-10-05T22:53:29Z
false
false
false
[ "Template:スペイン語圏の姓名", "Template:ActorActress", "Template:Kinejun name", "Template:ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門) 1943-1960", "Template:トニー賞授賞式の司会者", "Template:Normdaten", "Template:Actor-stub", "Template:Reflist", "Template:Allcinema name", "Template:Imdb", "Template:ホセ・フェラー", "Template:アカデミー賞主演男優賞 1941-1960" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BC
714,677
坂(さか、英: slope)は、一方は高く一方は低い(つまり)傾斜のある道(坂道)。また傾斜のある場所(傾斜地、坂地)。またその傾斜。 坂が多いのは例えば、山岳地帯や、丘陵地帯、また海岸近くまで山が迫った土地などである。坂道は、山腹や丘陵地帯や台地のふちなどに道路を作ると出来がちであり、そうした傾斜地の上に造られた市街地には特に坂道が多い。そうした土地でも特にトンネルや大規模な造成工事が行われる前に開発された市街地には坂道が多く存在する。 坂が多いことで世界的に有名な市街地としては、米国のサンフランシスコ、ポルトガルのリスボン、イタリアのナポリなどが挙げられる。こうした土地にはケーブルカーが導入されている場合も多い。日本では坂が多い街としては(観光地としても有名なので)長崎、小樽、尾道、熱海などが挙げられ、(関東の住民などには)東京も坂が多い都市であることが知られている(山手線の内側は、武蔵野台地の端でギザギザになっている)。(ただしそれは有名な観光地でもあるので好んで名が挙げられる、ということであって、実際には、例えば日本では富士吉田市、富士宮市等、観光地としての知名度は低くても「全域が坂道だらけ」という市町村は日本全国数えきれないほどある。世界でも事情は同様である。) 坂道が多く存在することで「坂のまち」などと通称される都市がある。例:小樽市、長崎市、サンフランシスコ市。 反対に「坂が少ない国」として世界的に有名なのはオランダである。 ニュージーランド南部の都市ダニーデンにあるボールドウィン・ストリートは勾配35度でギネスブックに世界一急な坂として登録されており観光名所になっている。2019年6月6日の計測の結果、ウェールズのフォルズ・ペン・スレフの勾配がボールドウィン・ストリートをしのぐ37.45%であることが確認され、同年7月16日にギネス世界記録が更新された。 カリフォルニア州サンフランシスコのロンバード・ストリートは1ブロックの短い距離の中に8つのカーブを有し「世界一曲がりくねった坂道」として知られている。ロンバード・ストリートは多くの映画のロケ地にもなっている。しかし、休暇シーズンには1日に数千人が訪れる観光スポットであり、慢性的な交通渋滞が問題になっており、サンフランシスコではインターネットを通じた予約制と通行料の徴収が検討されている。 欧米での最急縦断勾配は、米国では地方部の補助幹線道路(設計速度20マイル区間)の山岳部で16%、欧州では設計速度40km/h区間で9%とされている例がある。なお、米国などでは日本のように低速での最急縦断勾配の基準は設けられていない。 米国のAASHTOでは幹線道路、都市部の補助幹線道路、地方部の補助幹線道路について、それぞれ平坦部、起伏部、山岳部に分けて最急縦断勾配の基準が決められている。 日本では川沿いの平坦な地形(平地または盆地)に都市が形成されることが多いが、天然の入り江沿いで発達することの多い港湾都市は一般に地形的に海岸ぎりぎりまで山地が迫っていることもあって、発達の過程で山地まで都市区域が広がることがあり、結果として港町に坂が多く見られる。具体的には、長崎、小樽、尾道、熱海などである。東京23区内では、港区は80以上の末尾に「坂」のつく通り名があり、また、神戸の旧市街地は南北に走る通りのほとんどが坂道であるため、坂道であっても地名、通り名に「坂」という名称を付けられることは少ない。 日本の道路構造令では設計速度120km/hで2%(特例値5%)、設計速度20km/hで9%(特例値12%)の基準が規定されている。なお、道路構造令ではないが、農林水産省の林道規定などにも基準が設けられている。 多くの市町村では、条例で坂の傾斜の限界を定めているが、限界を超えた傾斜であっても滑り止め舗装を条件に認めている例が多い。以下に挙げられているのは滑り止め舗装が行われていない状態での上限値である。滑り止め舗装が行われている場合は、特に上限値を定めていない自治体と滑り止め舗装による上限値を別に定めている自治体が神奈川県足柄下郡箱根町(滑り止め無しの上限9%、滑り止め有りの上限10%)をはじめ少数存在するが、上限値を定めていない場合でも行政の判断による認可に委ねられている状態であり、急斜面に滑り止め舗装を行う場合でも認可されない可能性は留保されている。 坂の存在する場所に多く地名として坂が名づけられることがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "坂(さか、英: slope)は、一方は高く一方は低い(つまり)傾斜のある道(坂道)。また傾斜のある場所(傾斜地、坂地)。またその傾斜。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "坂が多いのは例えば、山岳地帯や、丘陵地帯、また海岸近くまで山が迫った土地などである。坂道は、山腹や丘陵地帯や台地のふちなどに道路を作ると出来がちであり、そうした傾斜地の上に造られた市街地には特に坂道が多い。そうした土地でも特にトンネルや大規模な造成工事が行われる前に開発された市街地には坂道が多く存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "坂が多いことで世界的に有名な市街地としては、米国のサンフランシスコ、ポルトガルのリスボン、イタリアのナポリなどが挙げられる。こうした土地にはケーブルカーが導入されている場合も多い。日本では坂が多い街としては(観光地としても有名なので)長崎、小樽、尾道、熱海などが挙げられ、(関東の住民などには)東京も坂が多い都市であることが知られている(山手線の内側は、武蔵野台地の端でギザギザになっている)。(ただしそれは有名な観光地でもあるので好んで名が挙げられる、ということであって、実際には、例えば日本では富士吉田市、富士宮市等、観光地としての知名度は低くても「全域が坂道だらけ」という市町村は日本全国数えきれないほどある。世界でも事情は同様である。)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "坂道が多く存在することで「坂のまち」などと通称される都市がある。例:小樽市、長崎市、サンフランシスコ市。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "反対に「坂が少ない国」として世界的に有名なのはオランダである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ニュージーランド南部の都市ダニーデンにあるボールドウィン・ストリートは勾配35度でギネスブックに世界一急な坂として登録されており観光名所になっている。2019年6月6日の計測の結果、ウェールズのフォルズ・ペン・スレフの勾配がボールドウィン・ストリートをしのぐ37.45%であることが確認され、同年7月16日にギネス世界記録が更新された。", "title": "記録を有する坂" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "カリフォルニア州サンフランシスコのロンバード・ストリートは1ブロックの短い距離の中に8つのカーブを有し「世界一曲がりくねった坂道」として知られている。ロンバード・ストリートは多くの映画のロケ地にもなっている。しかし、休暇シーズンには1日に数千人が訪れる観光スポットであり、慢性的な交通渋滞が問題になっており、サンフランシスコではインターネットを通じた予約制と通行料の徴収が検討されている。", "title": "記録を有する坂" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "欧米での最急縦断勾配は、米国では地方部の補助幹線道路(設計速度20マイル区間)の山岳部で16%、欧州では設計速度40km/h区間で9%とされている例がある。なお、米国などでは日本のように低速での最急縦断勾配の基準は設けられていない。", "title": "欧米における坂" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "米国のAASHTOでは幹線道路、都市部の補助幹線道路、地方部の補助幹線道路について、それぞれ平坦部、起伏部、山岳部に分けて最急縦断勾配の基準が決められている。", "title": "欧米における坂" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "日本では川沿いの平坦な地形(平地または盆地)に都市が形成されることが多いが、天然の入り江沿いで発達することの多い港湾都市は一般に地形的に海岸ぎりぎりまで山地が迫っていることもあって、発達の過程で山地まで都市区域が広がることがあり、結果として港町に坂が多く見られる。具体的には、長崎、小樽、尾道、熱海などである。東京23区内では、港区は80以上の末尾に「坂」のつく通り名があり、また、神戸の旧市街地は南北に走る通りのほとんどが坂道であるため、坂道であっても地名、通り名に「坂」という名称を付けられることは少ない。", "title": "日本における坂" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本の道路構造令では設計速度120km/hで2%(特例値5%)、設計速度20km/hで9%(特例値12%)の基準が規定されている。なお、道路構造令ではないが、農林水産省の林道規定などにも基準が設けられている。", "title": "日本における坂" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "多くの市町村では、条例で坂の傾斜の限界を定めているが、限界を超えた傾斜であっても滑り止め舗装を条件に認めている例が多い。以下に挙げられているのは滑り止め舗装が行われていない状態での上限値である。滑り止め舗装が行われている場合は、特に上限値を定めていない自治体と滑り止め舗装による上限値を別に定めている自治体が神奈川県足柄下郡箱根町(滑り止め無しの上限9%、滑り止め有りの上限10%)をはじめ少数存在するが、上限値を定めていない場合でも行政の判断による認可に委ねられている状態であり、急斜面に滑り止め舗装を行う場合でも認可されない可能性は留保されている。", "title": "日本における坂" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "坂の存在する場所に多く地名として坂が名づけられることがある。", "title": "日本における坂" } ]
坂は、一方は高く一方は低い(つまり)傾斜のある道(坂道)。また傾斜のある場所(傾斜地、坂地)。またその傾斜。
{{redirect|坂道}} {{otheruses||地名|#地名としての「坂」}} '''坂'''(さか、{{lang-en-short|slope}})は、一方は高く一方は低い(つまり)[[勾配|傾斜]]のある[[道路|道]]<ref>広辞苑第六版「坂」</ref><ref name="digitaldaijisen">デジタル大辞泉「坂」</ref>(坂道)。また傾斜のある[[場所 (地理学)|場所]]<ref>小学館『日本国語大辞典』</ref>(傾斜地、坂地)。またその傾斜<ref name="digitaldaijisen" />。<ref group="注釈">傾斜地を指す場合は「坂になる」などの使い方をする地域もある{{どこ|date=2018年10月}}{{要出典|date=2018年10月}}。</ref> == 概要 == 坂が多いのは例えば、山岳地帯や、[[丘陵]]地帯、また海岸近くまで[[山]]が迫った土地などである。坂道は、山腹や丘陵地帯や[[台地]]のふちなどに道路を作ると出来がちであり、そうした傾斜地の上に造られた[[市街地]]には特に坂道が多い。そうした土地でも特に[[トンネル]]や大規模な造成工事が行われる前に開発された市街地には坂道が多く存在する。 坂が多いことで世界的に有名な市街地としては、米国の[[サンフランシスコ]]、ポルトガルの[[リスボン]]、イタリアの[[ナポリ]]などが挙げられる。こうした土地には[[ケーブルカー]]が導入されている場合も多い。日本では坂が多い街としては(観光地としても有名なので)[[長崎市|長崎]]、[[小樽]]、[[尾道]]、[[熱海]]などが挙げられ、(関東の住民などには)[[東京]]も坂が多い都市であることが知られている(山手線の内側は、[[武蔵野台地]]の端でギザギザになっている)。(ただしそれは有名な観光地でもあるので好んで名が挙げられる、ということであって、実際には、例えば日本では[[富士吉田市]]、[[富士宮市]]等、観光地としての知名度は低くても「全域が坂道だらけ」という市町村は日本全国数えきれないほどある。世界でも事情は同様である。) 坂道が多く存在することで「坂のまち」などと通称される都市がある。例:[[小樽市]]<ref>例:[http://www.city.otaru.hokkaido.jp/simin/koho/sakamati/ 広報おたる連載「おたる坂まち散歩」]</ref>、[[長崎市]]<ref>例:[https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902036895146770 坂の町の汚水ます設置基準-長崎市]</ref>、[[サンフランシスコ]]市<ref>例:[http://www.nhk.or.jp/sekaimachi/detail/data/090501.html NHK・世界ふれあい街歩き・サンフランシスコ]</ref>。 反対に「坂が少ない国」として世界的に有名なのは[[オランダ]]である。 == 記録を有する坂 == [[ニュージーランド]]南部の都市[[ダニーデン]]にある[[ボールドウィン・ストリート]]は勾配35度で[[ギネス世界記録|ギネスブック]]に世界一急な坂として登録されており観光名所になっている<ref>[http://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/oceania/new_zealand/DUD/119834/ ボールドウィン・ストリート] JTBガイド</ref>。2019年6月6日の計測の結果、[[ウェールズ]]の[[フォルズ・ペン・スレフ]]の勾配がボールドウィン・ストリートをしのぐ37.45%であることが確認され、同年7月16日にギネス世界記録が更新された<ref>{{Cite news|title=世界一「急な通り」に認定 英ウェールズの住民、NZの名所から記録奪う|newspaper=[[BBC]]|date=2019-7-16|url=https://www.bbc.com/japanese/49001369/|accessdate=2022-11-28}}</ref><ref>{{Cite news|title=世界で「最も急な坂道」、英ウェールズでギネス認定|newspaper=[[ロイター通信]]|date=2019-7-17|url=https://jp.reuters.com/article/britain-street-idJPKCN1UC04Z/|access-date=2022-11-28}}</ref>。 [[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]の[[ロンバード・ストリート (サンフランシスコ)|ロンバード・ストリート]]は1ブロックの短い距離の中に8つのカーブを有し「世界一曲がりくねった坂道」として知られている<ref>[http://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/north_america/the_united_states_of_america/SFO/103330/index.html ロンバード・ストリート] JTBガイド</ref>。ロンバード・ストリートは多くの映画のロケ地にもなっている<ref name="sankei20210130">「[https://www.sankei.com/photo/story/news/190416/sty1904160008-n1.html 「世界一の坂道」有料化検討 米サンフランシスコ]」『[[産経新聞]]』2019年4月16日、2021年1月30日閲覧</ref>。しかし、休暇シーズンには1日に数千人が訪れる観光スポットであり、慢性的な交通渋滞が問題になっており、サンフランシスコではインターネットを通じた予約制と通行料の徴収が検討されている<ref name="sankei20210130" />。 == 欧米における坂 == === 最急縦断勾配 === 欧米での最急縦断勾配は、米国では地方部の補助幹線道路(設計速度20マイル区間)の山岳部で16%、欧州では設計速度40km/h区間で9%とされている例がある<ref name="nilim" />。なお、米国などでは日本のように低速での最急縦断勾配の基準は設けられていない<ref name="nilim" />。 ==== 米国 ==== 米国のAASHTOでは幹線道路、都市部の補助幹線道路、地方部の補助幹線道路について、それぞれ平坦部、起伏部、山岳部に分けて最急縦断勾配の基準が決められている<ref name="nilim">「[http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0667pdf/ks066707.pdf 3.縦断勾配の限界に関する検討]」[[国土技術政策総合研究所]]、2021年1月30日閲覧</ref>。 ==== 欧州 ==== * [[ドイツ]]のRAS-Lでは、設計速度40km/hの区間で8%、120km/hの区間で4%の最急縦断勾配の基準が決められている<ref name="nilim" />。 * [[フランス]]のICTAALでは、設計速度80km/hの区間で6%、120km/hの区間で4%の最急縦断勾配の基準が決められている<ref name="nilim" />。 * [[オーストリア]]のRVSでは、設計速度40km/hの区間で9%、140km/hの区間で3%の最急縦断勾配の基準が決められている<ref name="nilim" />。 === ギャラリー === <gallery> MasonStSF.jpg|サンフランシスコ・メイスン通り PL road sign A-23.svg|ドライバーに坂道への注意を喚起する[[道路標識]]([[ポーランド]])。 </gallery> == 日本における坂 == [[日本]]では川沿いの平坦な地形([[平野|平地]]または[[盆地]])に[[都市]]が形成されることが多いが、天然の入り江沿いで発達することの多い港湾都市は一般に地形的に[[海岸]]ぎりぎりまで[[山地]]が迫っていることもあって、発達の過程で山地まで都市区域が広がることがあり、結果として港町に坂が多く見られる。具体的には、[[長崎市|長崎]]、[[小樽市|小樽]]、[[尾道市|尾道]]、[[熱海市|熱海]]などである。[[特別区|東京23区]]内では、[[港区 (東京都)|港区]]は80以上の末尾に「坂」のつく通り名があり、また、[[神戸市|神戸]]の旧市街地は南北に走る通りのほとんどが坂道であるため、坂道であっても地名、通り名に「坂」という名称を付けられることは少ない。 === 道路構造 === ==== 道路構造令 ==== 日本の[[道路構造令]]では設計速度120km/hで2%(特例値5%)、設計速度20km/hで9%(特例値12%)の基準が規定されている<ref name="nilim" />。なお、道路構造令ではないが、農林水産省の林道規定などにも基準が設けられている<ref name="nilim" />。 ==== 条例による勾配限界 ==== 多くの市町村では、[[条例]]で坂の傾斜の限界を定めているが、限界を超えた傾斜であっても[[滑り止め]]舗装を条件に認めている例が多い。以下に挙げられているのは滑り止め舗装が行われていない状態での上限値である。滑り止め舗装が行われている場合は、特に上限値を定めていない[[地方公共団体|自治体]]と滑り止め舗装による上限値を別に定めている自治体が[[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]](滑り止め無しの上限9%、滑り止め有りの上限10%)をはじめ少数存在するが、上限値を定めていない場合でも行政の判断による[[認可]]に委ねられている状態であり、急斜面に滑り止め舗装を行う場合でも認可されない可能性は留保されている。 *10% - [[埼玉県]][[川口市]] *9% - [[福岡県]][[筑紫野市]]、[[神奈川県]][[横須賀市]]、[[東京都]][[西多摩郡]]など *6% - [[愛知県]][[豊田市]]、[[静岡県]][[袋井市]]、[[山形県]][[南陽市]]など *5% - [[栃木県]][[宇都宮市]] === 地名としての「坂」 === '''坂'''の存在する場所に多く地名として'''坂'''が名づけられることがある。 {{See also|[[:Category:日本の坂]]}} <!--この項は「坂」という地名について記してある項です。「○○坂」など具体的な坂の地名については別項を立ち上げてください。--> *[[広島県]][[安芸郡 (広島県)|安芸郡]]に存在する町。[[坂町]]を参照のこと。 *愛知県[[豊田市]][[椿立町]]にある字。かつての愛知県[[東加茂郡]][[足助町]]大字椿立にある小字。 *愛知県[[新城市]][[中宇利]]に存在する字。 *[[千葉県]][[松戸市]][[松戸 (松戸市)|松戸]]にある小字。 *[[青森県]][[弘前市]]に存在する大字。かつての青森県[[中津軽郡]][[相馬村 (青森県)|相馬村]]大字坂。 *青森県[[八戸市]]大字新井田に存在する小字。 *かつて[[愛知県]][[東加茂郡]][[旭町 (愛知県東加茂郡)|旭町]][[大字]]小瀧野にあった[[小字]]。 *かつて[[茨城県]][[茨城郡]][[中台村]]に存在した字。現在の茨城県[[小美玉市]]中台。 *かつての[[大阪]]の略称。[[1868年]]以前、大阪は「大坂」と表記され、「来坂」「帰坂」などの[[熟語]]の一部として用いられることがあった。「大坂」の名は[[室町時代]]末期から使用されたものであるが、この名が実在の坂を由来としているか否かは定かではない。 === ギャラリー === <gallery> 画像:Stone stairway Kiyomizu-dera.JPG|京都市・[[重要伝統的建造物群保存地区|重伝建]]「[[産寧坂]](三年坂)」 画像:Onomichi senkoji-shinmichi01n3872.jpg|広島県尾道市・千光寺新道 画像:Hachimanzaka Hakodate Hokkaido pref Japan02n.jpg|北海道函館市元町の八幡坂 画像:Kitanozaka04s3200.jpg|兵庫県神戸市中央区・[[北野町山本通|北野坂]] 画像:Wakayama Castle15bs4592.jpg|城郭の例([[和歌山城]]裏坂) 画像:Nogizaka.jpg|滑り止めのためのゼブラ方式<ref>[http://www.h-road-s.co.jp/service/suberidome/cases031.html すべり止め舗装 適用例] - 株式会社 北海道ロードサービス</ref>の例(東京都港区・[[乃木坂]]) 画像:Sanko zaka 1.jpg|滑り止めのためのマーキングの例(東京都港区・[[三光坂]]) 画像:Slope to Substation.jpg|滑り止めのためのマーキングの例(長崎県長崎市・通称:変電所の坂) 画像:Road Akita.jpg|秋田県 画像:Chikumaviewline.jpg|長野県小諸市御牧ヶ原・[[千曲川左岸広域農道|千曲ビューライン]] </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> ==関連項目== {{Wiktionary}} *[[坂道発進]] - [[坂道発進補助装置]] *[[登坂車線]] *[[峠]] *[[斜路]] (=スロープ) *[[階段]] *[[線形 (路線)]] *[[日本坂道学会]] *[[タモリ]] - 坂道が好きなことでも有名。2000年には[[山野勝]]と「日本坂道学会」を結成して副会長を自称し、『[[TOKYO★1週間|TOKYO1週間]]』誌上で坂に関する[[随筆|エッセイ]]を連載する。それをまとめた書籍が『[[タモリのTOKYO坂道美学入門]]』(ISBN 4063527239)として出版されている([[2004年]])。 *[[傾斜地建築]] *[[坂道シリーズ]] ==外部リンク== {{Commonscat|Steep roads|Steep roads}} * [http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/ 東京23区の坂道] * [http://saka.30maps.com/ 坂マップ] 思い出の坂はありますか? * [http://www.yzbit.com/hakodadi/saka/saka.html 函館の坂道案内] * [http://www.youtube.com/watch?v=SR7uHySuiuQ コレ坂] 坂動画データベース {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さか}} [[Category:坂|*]] [[Category:地形]] [[Category:道路]] [[Category:線形 (路線)]]
2006-10-07T06:58:23Z
2023-12-28T11:47:39Z
false
false
false
[ "Template:Wiktionary", "Template:Normdaten", "Template:Redirect", "Template:Otheruses", "Template:Lang-en-short", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:どこ", "Template:See also", "Template:要出典", "Template:Cite news", "Template:Commonscat" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82
4,115,850
江藤隆
江藤 隆(えとう たかし、1951年 - )は、日本の国土交通技官。千葉市下水道局長や、国土交通省下水道部長、公益財団法人日本下水道新技術機構理事長等を歴任した。 熊本県生まれ。熊本県立熊本高等学校を経て、1976年九州大学大学院工学研究科土木工学専攻修了、建設省入省。1982年建設省中部地方建設局建設専門官。1995年日本下水道事業団計画部計画課長代理。1987年石川県土木部参事兼下水道室長。1989年石川県土木部下水道課長。1990年建設省都市局下水道部下水道企画課長補佐。1992年日本下水道事業団技術開発研修本部技術開発部技術開発課長。1993年日本下水道事業団業務部援助課長。1994年日本下水道事業団工務部工務課長。1996年建設省都市局下水道部公共下水道課町村下水道対策官。1997年千葉市下水道局長。1999年財団法人下水道新技術推進機構研究第一部長。2001年国土交通省東北地方整備局河川部長。2003年日本下水道事業団計画部長。2004年国土交通省都市・地域整備局下水道部下水道事業課長。2006年国土交通省都市・地域整備局下水道部長。2008年退官、財団法人下水道新技術推進機構専務理事。2015年公益財団法人日本下水道新技術機構理事長。2021年瑞宝中綬章受章。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "江藤 隆(えとう たかし、1951年 - )は、日本の国土交通技官。千葉市下水道局長や、国土交通省下水道部長、公益財団法人日本下水道新技術機構理事長等を歴任した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "熊本県生まれ。熊本県立熊本高等学校を経て、1976年九州大学大学院工学研究科土木工学専攻修了、建設省入省。1982年建設省中部地方建設局建設専門官。1995年日本下水道事業団計画部計画課長代理。1987年石川県土木部参事兼下水道室長。1989年石川県土木部下水道課長。1990年建設省都市局下水道部下水道企画課長補佐。1992年日本下水道事業団技術開発研修本部技術開発部技術開発課長。1993年日本下水道事業団業務部援助課長。1994年日本下水道事業団工務部工務課長。1996年建設省都市局下水道部公共下水道課町村下水道対策官。1997年千葉市下水道局長。1999年財団法人下水道新技術推進機構研究第一部長。2001年国土交通省東北地方整備局河川部長。2003年日本下水道事業団計画部長。2004年国土交通省都市・地域整備局下水道部下水道事業課長。2006年国土交通省都市・地域整備局下水道部長。2008年退官、財団法人下水道新技術推進機構専務理事。2015年公益財団法人日本下水道新技術機構理事長。2021年瑞宝中綬章受章。", "title": "人物・経歴" } ]
江藤 隆は、日本の国土交通技官。千葉市下水道局長や、国土交通省下水道部長、公益財団法人日本下水道新技術機構理事長等を歴任した。
'''江藤 隆'''(えとう たかし、[[1951年]] - )は、[[日本]]の[[国土交通省|国土交通]][[技官]]。[[千葉市]][[下水道局]]長や、[[国土交通省]][[下水道]]部長、[[公益財団法人]]日本下水道新技術機構[[理事長]]等を歴任した。 == 人物・経歴 == [[熊本県]]生まれ<ref>[https://www.jiwet.or.jp/newsletter/20111130/seikai.pdf 「ニューズレター(創刊号)・コラムの人は!」]下水道機構情報PLUS+ Vol1 No1 2011.11 第1号</ref>。[[熊本県立熊本高等学校]]を経て<ref>「霞が関人物録&#12893; 熊本県=活躍する熊本高と済々黌高の出身者」医薬経済 1411号 (2012年01月01日発売)医薬経済社</ref>、1976年[[九州大学大学院工学研究院・大学院工学府・工学部|九州大学大学院工学研究科]][[土木工学]]専攻修了、[[建設省]]入省。1982年建設省[[中部地方建設局]]建設専門官。1995年[[日本下水道事業団]]計画部計画[[課長#中央省庁における位置づけ|課長代理]]。1987年[[石川県]]土木部[[参事]]兼[[下水道]]室長。1989年石川県土木部下水道課長。1990年[[建設省都市局]]下水道部下水道企画[[課長#中央省庁における位置づけ|課長補佐]]。1992年日本下水道事業団技術開発研修本部技術開発部[[技術開発]]課長。1993年日本下水道事業団業務部[[援助]]課長。1994年日本下水道事業団工務部工務課長。1996年建設省都市局下水道部[[公共下水道]]課町村下水道対策官。1997年[[千葉市]][[下水道局]]長。1999年財団法人[[下水道新技術推進機構]]研究第一部長。2001年[[国土交通省]][[東北地方整備局]]河川部長。2003年日本下水道事業団計画部長。2004年国土交通省[[国土交通省都市・地域整備局|都市・地域整備局]]下水道部[[下水道事業]]課長。2006年国土交通省都市・地域整備局下水道部長。2008年退官、財団法人下水道新技術推進機構専務理事<ref>[http://www.amst.gr.jp/images/koenkai.pdf 膜分離技術振興協会 平成 21 年度 技術講演会及び懇親会への出席のお願い]平成 21 年 4 月 16 日 有限責任中間法人膜分離技術振興協会</ref><ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/40007345046 「日本上下水道情報 江藤隆・国土交通省下水道事業課長--下水道行政の現状と方向性〔含 中文〕」]中日水務信息 〔1〕, 62-64, 2004-09 水道産業新聞社</ref>。2015年公益財団法人日本下水道新技術機構[[理事|理事長]]<ref>[https://www.jiwet.or.jp/about/%E5%BD%B9%E5%93%A1%E3%81%AE%E9%81%B8%E4%BB%BB%E3%81%AB%E4%BF%82%E3%82%8B%E9%80%8F%E6%98%8E%E6%80%A7%E3%81%AE%E7%A2%BA%E4%BF%9D%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6 役員の選任に係る透明性の確保について]公益財団法人日本下水道新技術機構</ref>。2021年[[瑞宝中綬章]]受章<ref>[https://mainichi.jp/articles/20211103/ddm/010/040/017000c 秋の叙勲受章者]毎日新聞 2021/11/3 東京朝刊</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{先代次代|国土交通省下水道部長|2006年 - 2008年|[[谷戸善彦]]|[[松井正樹]]}} {{先代次代|日本下水道新技術機構理事長|2015年 - 2021年|[[石川忠男]]|[[花木啓祐]]}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:えとう たかし}} [[Category:瑞宝中綬章受章者]] [[Category:日本の国土交通技官]] [[Category:日本の土木技術者]] [[Category:日本下水道事業団の人物]] [[Category:千葉県内の地方公務員出身の人物]] [[Category:工学修士取得者]] [[Category:九州大学出身の人物]] [[Category:熊本県立熊本高等学校出身の人物]] [[Category:熊本県出身の人物]] [[Category:存命人物]] [[Category:1951年生]]
2020-04-13T09:16:48Z
2023-07-30T00:24:42Z
false
false
false
[ "Template:先代次代", "Template:People-stub", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%97%A4%E9%9A%86
797
プラモデル
プラモデルとは、組み立て式の模型の一種。適度に分割して成形されたプラスチック製の部品群(ランナー)と、組み立て説明書などをセットにしたキットの形で販売される。 「プラモデル」という用語は、日本初と称してプラモデルを発売したマルサン商店が考案した登録商標であるが、現在ではより広義にメーカーを問わずプラスチックモデルキット全般を意味する言葉として使われている。プラモと呼ばれることもある。英語ではプラスチック・モデル (Plastic Model) またはコンストラクションキット (Construction Kit:主にイギリス英語)などと呼称される。 プラモデルという商標は、「プラスチック製模型おもちゃ及びその組立キットその他のおもちゃ、人形」(第555762号、1960年9月登録)、「新聞、雑誌、その他の定期刊行物」(第731152号、1967年1月登録)および「模型」(第1846016号、1986年2月登録)に関して日本プラモデル工業協同組合が権利を所有し、組合員は自由に使用できる。他にキヤノン株式会社が別のものを対象にプラモデルという商標を持っていた時期がある。 プラモデルという名称は、マルサンが1959年(昭和34年)に商標登録したもので、他のメーカーは「プラ模型」「プラキット」など言い方を変えるか、一般名称である「プラスチックモデル」を用いる必要があった。ただし、一般消費者や小売店のレベルでは、マルサン商店が権利を所有していた時期から、プラモデルはプラスチックモデル全般を表す用語として広く使用されていた。 商標権は1968年(昭和43年)の倒産後再建されたマルサンから1974年(昭和49年)に大手問屋の三ツ星商店に売却され、1975年(昭和50年)日本プラスチックモデル工業協同組合に移譲された。現在は、加盟する各社は自由に使ってかまわないことになっている。また、日本プラモデル工業協同組合の組合員である童友社は、「日本プラモデル工業協同組合に未加盟の模型メーカーは『プラモデル』という言葉を自社製品の紹介に使用できない」旨の説明を行っている。 日本ではプラスチック製の組み立てキットのうち、一般的な模型店で扱われるものをプラモデルとし、ほぼ同様の製品であってもそれ以外の玩具売り場、(菓子のおまけとして)菓子売り場、鉄道模型店で扱われるものは玩具、食玩、鉄道模型などと区別されることも多い。一般的な模型店で扱われる狭義のプラモデルとそれ以外のプラモデル形商品は、取り扱っている問屋が異なる場合が多く、流通上別個として扱われており、玩具店と模型店、売り場の別など小売レベルでも一定の線引きがなされているが、厳密ではない。特にキャラクターモデル・玩具においては区別は渾然としており、現タカラトミーのゾイドやプラクションのように、組み立てる楽しみを取り入れたりコスト削減のために、プラモデルと同様の組み立てキットの形態をとる玩具も存在する。逆に模型区分であっても、ガンプラに代表される、顧客へのハードルを下げるためにスナップフィットや塗装不要化などの配慮がなされた商品もある。またSDガンダムや上述のゾイドなど、同シリーズに玩具と模型が混在する例もあり、エンドユーザーレベルからは模型と玩具の中間的で区分がはっきりしないものも少なくない。 基本的には、ランナーと呼ばれる枠に繋がった状態の部品と組み立て説明書が含まれる。その他にも接着剤、マーキング用のデカール、組み立てる際に必要となるもの(ネジ止めが必要なプラモデルには簡易ドライバーなど)が付属する場合もある。これらが商品のイラストや完成写真等を印刷したボール紙の箱に箱詰めされ、出荷されている。小型のものについてはブリスターパックやビニール袋に入れて売られている場合もある。 動力装置を取り付けないことを前提とするプラモデルをディスプレイキット(またはディスプレイモデル)という。完成品を展示(ディスプレイ)することを目的とすることからこう呼ばれる。 組み立てる際に付属もしくは別売の駆動装置を取り付け、走行・駆動させることを目的としたプラモデルもある。電動のモーターを取り付け、乾電池などを動力源として駆動するものをモーターライズキット(モーターライズモデル)という。またゼンマイで駆動するプラモデルもある。 実在の飛行機・艦艇・戦車・自動車・建築物等、もしくは実在するにはいたらなかった計画兵器等を扱った「スケールモデル」と、SFやアニメ等を扱った「架空のもの」に大別される。スケールモデルにはディフォルメされたものも含める場合がある。アニメ・ゲーム等に登場する車・戦車・船などでは、スケールモデル(一部パーツ変更やキャラクターグッズが追加されることもある)がキャラクターのパッケージで販売されている。 実物が存在するもの、または設計・企画された物を縮小した模型をスケールモデルと呼ぶ。プラモデルが最初に普及した英米では、ヤード・ポンド法を用いていたため縮尺は「1フィート(12インチ)を何インチに縮小」するかが基本であり、例えば1/4インチ(または1/4”)スケールといえば1フィートを1/4インチに縮小することで1/48スケールを表す。従って「国際標準スケール」には分母が12の倍数のものが多い。しかし、鉄道模型のようにフィートをミリメートルに換算した縮尺(1フィートを4 mmとするもの=4 mmスケール(1/76))を採用する物や、メーカーの都合(箱のサイズや、走行ギミックのためのギアボックスや電池の内蔵)のために決定され、積極的なシリーズ展開のために自然に「標準」になってしまったものもあり、後者の代表がタミヤの1/35である。またバイクのスケールである1/9は、イタリアのプロター社から始まったものである。1/50は航空機ソリッドモデルの標準スケールである。 アニメーション、特撮といった映像作品や、漫画、小説、家庭用ゲーム等に登場する架空の兵器や登場人物などを取り扱ったもの。その多くはSF設定の作品である。キャラクターモデルと称される場合も多い。通常は設定資料の寸法から縮尺に見合った寸法を割り出し設計されるが、初期にはパッケージに収容可能な寸法から縮尺を割り出す箱スケールものも多く存在した。 バンダイのガンダムシリーズの成功から1/144、1/100などのものが主流だが、スケールモデル同様に縮尺も多彩である。一例を挙げると1/20、1/35、1/60、1/72、1/220などがある。 世界で最初に発売されたプラモデルは、フロッグのブランドで動力付きの木製模型飛行機を販売していたイギリスのIMA社 (International Model Aircraft Ltd.) が、1936年に発売したフロッグ・ペンギンシリーズである。 当時の新素材であったプラスチックで模型を作る技術は、イギリス軍が教育に使用する航空機や軍用車両等の識別用モデルをプラスチックで作る技術を応用したものである。 フロッグ・ペンギンシリーズは1/72に統一された航空機のキットで、第二次世界大戦により中断されるまでに英国機を中心に30点ほどが発売された。 第二次世界大戦中にはアメリカ国内でもプラスチック製の識別用モデルは多数作成され、大戦が終結すると、ホーク、レンウォール等の複数のメーカーがアメリカでもプラモデルの製造を始めた。 1950年代に入ると、オーロラ、リンドバーグ、レベル、モノグラム等のさらに多くのアメリカのメーカーがプラモデルの生産を始め、ヨーロッパでもイギリスのエアフィックスやフランスのエレール等が活動を開始し、プラモデルは急速に普及していった。 フロッグやエアフィックスといったイギリスのメーカーの航空機キットが最初から1/72で統一されていたのに対し、アメリカのメーカーの初期のキットは箱のサイズに合わせた箱スケールのものが多かったが、1950年代後半以降スケールの統一の動きが進み、多くのメーカーが1/72とともに1/48 (1/4インチスケール) を航空機の統一スケールとして採用し、むしろ1/48の方をメインとした。 また、初期のプラモデルメーカーの多くが木製模型飛行機のメーカーであったこともあり、初期のプラモデルは航空機が中心であったが、1950年代半ば以降、艦船、戦車、自動車等のモデルも徐々に増加していった。 そして1960年代は、欧米の多くのメーカーが数多くの名作キットを生み出す、プラモデルの黄金時代となる。 1990年代から今世紀以降は、ドラゴンをはじめとした東アジア系と、チェコのエデュアルド、ウクライナのICMなどをはじめとする東欧系のメーカーから多くの新製品が発売されている。 日本にプラモデルが渡ってきたのはアメリカでプラモデルが普及を始めた1950年代初めで、主に在日米軍関係者によって持ち込まれたが、日本の木製模型メーカーの注目を得るには至らなかった。1956 - 57年になると少数ではあるが外国製のプラモデルを輸入して販売する店も現れ、玩具メーカーのマルサン商店や模型メーカーの日本模型などがプラモデル国産化への模索を開始した。1955年頃から海外メーカーのプラモデルの下請け製造を開始していた日本プラスチックは1956年10月頃、日本初のプラモデルの「ゼロ戦」を発売、その後1957年春にはゴム動力の「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売した、また「和工樹脂」は1958年10月頃、「ダットサン1000」のプラモデルを発売した。その2ヶ月後、マルサン商店は「原子力潜水艦ノーチラス号」等4点のキットを発売した。なお、同時発売した「ダットサン1000」のキットは「和工樹脂」の製品にマルサンのロゴマークのシールを貼ったものである。 1950年代後期から1960年代は、戦記映画の人気や雑誌・出版物での第二次世界大戦戦記特集に後押しされた軍艦や飛行機などの実物の縮尺模型が主だったが、1960年代後半の今井科学(後のイマイ)による「サンダーバード」シリーズの大ヒットによりキャラクターモデルという分野が確立。その後のスーパーカーブームでもプラモデルはブームの一端を担った。 1980年代前半のガンプラ(ガンダムのプラモデル)ブームでプラモデルはブームの主役の座を得た。ガンプラの大ヒットを受けて起きたリアルロボットアニメブームでは、プラモデルは主力商品に位置付けられて積極的な製品開発が行われたが、ガンプラブームを再現するには至らなかった。一方、1960 - 1970年代のプラモデル市場を支えてきたスケールカーモデルも市場から撤退するメーカーもあった。また、改造車ブームが背景にあり、旧車を中心とした族車のキットが発売されたものの、自動車をはじめとしたスケールモデルはまだ玩具の領域から脱することはできなかった。そんな中、1980年代後半のミニ四駆ブームでプラモデルは再び脚光を浴びたが、その後は新しい分野でのプラモデルブームは起きていない。 1990年代末頃から模型業界にもファクトリーオートメーション(FA)の導入が進み、プラモデル製品開発の労力が大きく縮減された。それまで設計、原型試作、金型製作と、時に差し戻しもある各工程を専門技術者に頼り、多大な時間とコストを要していたものが、3DCADによりコンピュータ上で最初から立体として設計を行い、自動制御や3Dプリンタにより原型、製品金型の製作まで行えるシステムが確立したことで大幅に工程が短縮した。また、スライド金型の導入は複雑な形状の成形を可能にし、設計の容易化と部品点数削減に一役買った。それらの恩恵により、コトブキヤやウェーブのように資本力の小さいガレージキットメーカーからプラモデル事業に新規参入した会社が牽引する形で、特にキャラクターモデルの分野ではそれまで採算ラインに達しなかったマイナー作品からの商品化が飛躍的に増加した。 2000年代以後は、経済産業省の工業統計表によると「プラスチックモデルキット」全体の出荷額は、1998年の199億円に対して2007年は113億円と大幅に減少している。ガンプラは安定した売り上げを記録し続けるものの近年は漸減傾向にあり、飛行機やAFVなどスケールモデルは大幅な衰退傾向にある。プラモデル市場の衰退については、急激な勢いで進む少子化と、縮小する市場のパイをめぐってのテレビゲーム等の他の玩具との競争、製品面ではマニアックな商品が増えて初心者が近寄り難くなった点や、部品点数の増加などからモデルの組み立てに高度化を要求する傾向が目立つことなどが要因としてあげられている。また高品質低価格化が進む食玩などの塗装済み完成品模型や、1990年代末から市場が活性化したミニチュアカーがプラモデル市場を圧迫しているとの指摘もある。ミニチュアカーや食玩等の完成品市場には京商や青島文化教材社などの模型専門メーカーも参入しているほか、タミヤに関しても完成品ミニカーやミニ四駆、ダンガンレーサー、RCカー等の完成品を販売することがある。 2006年頃からプラモデル市場の縮小の影響や原油価格高騰のため、プラモデルや塗料などが値上げされる傾向にある。老舗メーカーでは上記の製品開発システムの刷新がうまくいかなかったり、製造部門においても射出成型機が多品種少量生産むけの小容量型へ移行が進んだことにより、旧製品の金型が使用できなくなり不良資産化する恐れが出てきており、老朽化によるメンテナンスコストの上昇が重くのしかかる等、業界は曲がり角に差し掛かっている。 2000年代後半からは、カーモデルにキャラクターデカールをセットした「痛車」や、「ガールズ&パンツァー」に登場する戦車、「艦隊これくしょん -艦これ-」や「蒼き鋼のアルペジオ」の艦船キット(ウォーターラインシリーズベース)など、キャラクターとコラボレーションしたスケールキットがブームとなった。また、1980年代から1990年代のフォーミュラ1、ロードレースバイクのキットが新規開発されるなど、当時製品化されなかった車種を補完するような展開も見られる。先述した組み立ての難しさを減らすために、塗装済みや部品点数を敢えて減らしたキットも登場するようになった。 近年、模型雑誌では通常のプラモデルを「インジェクションキット」と呼んで完成品やガレージキットと区別することもある。 静岡県の静岡市を中心とする地域はプラモデルやラジコンを代表に玩具産業が盛んで、タミヤ(静岡市駿河区)やバンダイ(静岡市葵区)、アオシマ(静岡市葵区)、ハセガワ(焼津市)など大手玩具・模型メーカーが本社や工場を静岡県内においている。特にプラモデルに関しては全国売上シェア約90%である(2010年統計で92%)。 駿河国(現在の静岡県の一部)には徳川家ゆかりの富士山本宮浅間大社(富士宮市)と、静岡浅間神社(静岡市)などの浅間神社が多数所在し、時の将軍の指示により、寛永年間と文化年間の二度にわたり静岡浅間神社の大造営を行った。その際に全国から様々な職人達が駿府(現在の静岡市付近)へ集められたが、造営が長期に渡ったため造営終了後も職人達の多くがそのまま駿府に定住し、その木工技術を活用して家具やひな人形、仏壇、蒔絵などの生産を始めた。 その木工技法は代々受け継がれ、1932年(昭和7年)に、アオシマの創業者である青島次郎が、伝統技法を利用して木製の動力付き模型飛行機を製造販売したことを契機に、県内に多くの木製模型メーカーが誕生した。その後、第二次世界大戦中は、原料不足から他県の木工産業が生産不能に陥るなか、静岡県は国から『重要木工県』という指定を受けていたことで、主に学校教材用として木製模型の生産も続けられた。 戦後1950年(昭和25年)以降欧米のプラモデルが輸入され始めても静岡の模型メーカーの反応は鈍かったが、国産プラモデルが発売されプラモデルの人気が上昇すると、静岡の各メーカーも1960年以降プラモデルの生産に順次参入し、木製模型からプラモデルへの転換が急速に進んだ。1970年代に静岡4社共同企画により実現したウォーターラインシリーズや、その後1980代には社会現象にもなったガンプラブーム、ミニ四駆ブームいずれも、静岡の企業からの発信(生産出荷)であり、現在の「静岡=プラモデル」の構図が成り立つこととなった。 2010年7月24日から2011年3月27日までの期間、「模型の世界首都 静岡ホビーフェア」を静岡市で開催し、実物大ガンダムを展示するなど、模型(プラモデル)の町・静岡を全国にPRした。入場者数は160万7485人だった。この人気を受けて、2011年6月には日本初の模型専門博物館である静岡ホビースクエアが開館した。 模型製作にはさまざまな工具を用いる。もちろん、全てを利用しなくても製作は可能であるが、基本中の基本としてプラモデル用のニッパーとカッターはある方が望ましい。なおニッパーなどの切断工具の防錆・保護用のメンテナンスキットもある。 プラモデルに含まれるデカールや箱絵には、社会的要因による制限が一部加えられている。そのために製品化や旧製品の再生産が困難になったり、やむを得ず一部分の完璧な再現を断念せざるを得なかったりといった問題も生じている。 プラモデルにおいては、部品の分割方法や面の表現、対象の立体としての解釈など設計段階で開発者の個性が強く表れる。異なるメーカーが同一の題材を製品化した際に、他のメーカーの商品をコピーしたと指摘される場合が有る。これは前述の分割方法や成型パーツの配列などにおいて、他社の既存製品と比較し同一または酷似しているものが対象となる。 ただし他の工業製品と同じく、金型や製品が他社に売却、またはOEM供給されて別パッケージで発売されることがあり、これがコピー品と間違われやすい。また、1/72以下の小スケールのキットでは、部品分割に個性を発揮できる余地が少ないため、偶然似通った部品分割となる場合もある。 日本のプラモデル黎明期には、先行するアメリカやイギリスのキット製品を原型としてコピーしたものが存在した。原型製品とは異なるパーツ配列としたり、原型製品と比較しギミックやモールドを新しく追加または省略したコピー製品も存在した。部品分割が全く異なっていても、形状の特徴から他の製品を参考にしているのが明らかなものもあった。 プラモデルのコピー製品では、原型製品において模型雑誌やモデラーから問題点として指摘された部分を修正したり、原型メーカーが発売していない派生製品を発売する場合もある。ただし、大部分のコピー製品は精密度において原型製品に劣っている。 ここでは具体的なコピー製品の例として韓国のアカデミー製品について解説する。 ほか
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "プラモデルとは、組み立て式の模型の一種。適度に分割して成形されたプラスチック製の部品群(ランナー)と、組み立て説明書などをセットにしたキットの形で販売される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「プラモデル」という用語は、日本初と称してプラモデルを発売したマルサン商店が考案した登録商標であるが、現在ではより広義にメーカーを問わずプラスチックモデルキット全般を意味する言葉として使われている。プラモと呼ばれることもある。英語ではプラスチック・モデル (Plastic Model) またはコンストラクションキット (Construction Kit:主にイギリス英語)などと呼称される。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "プラモデルという商標は、「プラスチック製模型おもちゃ及びその組立キットその他のおもちゃ、人形」(第555762号、1960年9月登録)、「新聞、雑誌、その他の定期刊行物」(第731152号、1967年1月登録)および「模型」(第1846016号、1986年2月登録)に関して日本プラモデル工業協同組合が権利を所有し、組合員は自由に使用できる。他にキヤノン株式会社が別のものを対象にプラモデルという商標を持っていた時期がある。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "プラモデルという名称は、マルサンが1959年(昭和34年)に商標登録したもので、他のメーカーは「プラ模型」「プラキット」など言い方を変えるか、一般名称である「プラスチックモデル」を用いる必要があった。ただし、一般消費者や小売店のレベルでは、マルサン商店が権利を所有していた時期から、プラモデルはプラスチックモデル全般を表す用語として広く使用されていた。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "商標権は1968年(昭和43年)の倒産後再建されたマルサンから1974年(昭和49年)に大手問屋の三ツ星商店に売却され、1975年(昭和50年)日本プラスチックモデル工業協同組合に移譲された。現在は、加盟する各社は自由に使ってかまわないことになっている。また、日本プラモデル工業協同組合の組合員である童友社は、「日本プラモデル工業協同組合に未加盟の模型メーカーは『プラモデル』という言葉を自社製品の紹介に使用できない」旨の説明を行っている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本ではプラスチック製の組み立てキットのうち、一般的な模型店で扱われるものをプラモデルとし、ほぼ同様の製品であってもそれ以外の玩具売り場、(菓子のおまけとして)菓子売り場、鉄道模型店で扱われるものは玩具、食玩、鉄道模型などと区別されることも多い。一般的な模型店で扱われる狭義のプラモデルとそれ以外のプラモデル形商品は、取り扱っている問屋が異なる場合が多く、流通上別個として扱われており、玩具店と模型店、売り場の別など小売レベルでも一定の線引きがなされているが、厳密ではない。特にキャラクターモデル・玩具においては区別は渾然としており、現タカラトミーのゾイドやプラクションのように、組み立てる楽しみを取り入れたりコスト削減のために、プラモデルと同様の組み立てキットの形態をとる玩具も存在する。逆に模型区分であっても、ガンプラに代表される、顧客へのハードルを下げるためにスナップフィットや塗装不要化などの配慮がなされた商品もある。またSDガンダムや上述のゾイドなど、同シリーズに玩具と模型が混在する例もあり、エンドユーザーレベルからは模型と玩具の中間的で区分がはっきりしないものも少なくない。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "基本的には、ランナーと呼ばれる枠に繋がった状態の部品と組み立て説明書が含まれる。その他にも接着剤、マーキング用のデカール、組み立てる際に必要となるもの(ネジ止めが必要なプラモデルには簡易ドライバーなど)が付属する場合もある。これらが商品のイラストや完成写真等を印刷したボール紙の箱に箱詰めされ、出荷されている。小型のものについてはブリスターパックやビニール袋に入れて売られている場合もある。", "title": "製品構成" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "動力装置を取り付けないことを前提とするプラモデルをディスプレイキット(またはディスプレイモデル)という。完成品を展示(ディスプレイ)することを目的とすることからこう呼ばれる。", "title": "プラモデルの分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "組み立てる際に付属もしくは別売の駆動装置を取り付け、走行・駆動させることを目的としたプラモデルもある。電動のモーターを取り付け、乾電池などを動力源として駆動するものをモーターライズキット(モーターライズモデル)という。またゼンマイで駆動するプラモデルもある。", "title": "プラモデルの分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "実在の飛行機・艦艇・戦車・自動車・建築物等、もしくは実在するにはいたらなかった計画兵器等を扱った「スケールモデル」と、SFやアニメ等を扱った「架空のもの」に大別される。スケールモデルにはディフォルメされたものも含める場合がある。アニメ・ゲーム等に登場する車・戦車・船などでは、スケールモデル(一部パーツ変更やキャラクターグッズが追加されることもある)がキャラクターのパッケージで販売されている。", "title": "プラモデルの分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "実物が存在するもの、または設計・企画された物を縮小した模型をスケールモデルと呼ぶ。プラモデルが最初に普及した英米では、ヤード・ポンド法を用いていたため縮尺は「1フィート(12インチ)を何インチに縮小」するかが基本であり、例えば1/4インチ(または1/4”)スケールといえば1フィートを1/4インチに縮小することで1/48スケールを表す。従って「国際標準スケール」には分母が12の倍数のものが多い。しかし、鉄道模型のようにフィートをミリメートルに換算した縮尺(1フィートを4 mmとするもの=4 mmスケール(1/76))を採用する物や、メーカーの都合(箱のサイズや、走行ギミックのためのギアボックスや電池の内蔵)のために決定され、積極的なシリーズ展開のために自然に「標準」になってしまったものもあり、後者の代表がタミヤの1/35である。またバイクのスケールである1/9は、イタリアのプロター社から始まったものである。1/50は航空機ソリッドモデルの標準スケールである。", "title": "プラモデルの分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アニメーション、特撮といった映像作品や、漫画、小説、家庭用ゲーム等に登場する架空の兵器や登場人物などを取り扱ったもの。その多くはSF設定の作品である。キャラクターモデルと称される場合も多い。通常は設定資料の寸法から縮尺に見合った寸法を割り出し設計されるが、初期にはパッケージに収容可能な寸法から縮尺を割り出す箱スケールものも多く存在した。 バンダイのガンダムシリーズの成功から1/144、1/100などのものが主流だが、スケールモデル同様に縮尺も多彩である。一例を挙げると1/20、1/35、1/60、1/72、1/220などがある。", "title": "プラモデルの分類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "世界で最初に発売されたプラモデルは、フロッグのブランドで動力付きの木製模型飛行機を販売していたイギリスのIMA社 (International Model Aircraft Ltd.) が、1936年に発売したフロッグ・ペンギンシリーズである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "当時の新素材であったプラスチックで模型を作る技術は、イギリス軍が教育に使用する航空機や軍用車両等の識別用モデルをプラスチックで作る技術を応用したものである。 フロッグ・ペンギンシリーズは1/72に統一された航空機のキットで、第二次世界大戦により中断されるまでに英国機を中心に30点ほどが発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中にはアメリカ国内でもプラスチック製の識別用モデルは多数作成され、大戦が終結すると、ホーク、レンウォール等の複数のメーカーがアメリカでもプラモデルの製造を始めた。 1950年代に入ると、オーロラ、リンドバーグ、レベル、モノグラム等のさらに多くのアメリカのメーカーがプラモデルの生産を始め、ヨーロッパでもイギリスのエアフィックスやフランスのエレール等が活動を開始し、プラモデルは急速に普及していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "フロッグやエアフィックスといったイギリスのメーカーの航空機キットが最初から1/72で統一されていたのに対し、アメリカのメーカーの初期のキットは箱のサイズに合わせた箱スケールのものが多かったが、1950年代後半以降スケールの統一の動きが進み、多くのメーカーが1/72とともに1/48 (1/4インチスケール) を航空機の統一スケールとして採用し、むしろ1/48の方をメインとした。 また、初期のプラモデルメーカーの多くが木製模型飛行機のメーカーであったこともあり、初期のプラモデルは航空機が中心であったが、1950年代半ば以降、艦船、戦車、自動車等のモデルも徐々に増加していった。 そして1960年代は、欧米の多くのメーカーが数多くの名作キットを生み出す、プラモデルの黄金時代となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1990年代から今世紀以降は、ドラゴンをはじめとした東アジア系と、チェコのエデュアルド、ウクライナのICMなどをはじめとする東欧系のメーカーから多くの新製品が発売されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "日本にプラモデルが渡ってきたのはアメリカでプラモデルが普及を始めた1950年代初めで、主に在日米軍関係者によって持ち込まれたが、日本の木製模型メーカーの注目を得るには至らなかった。1956 - 57年になると少数ではあるが外国製のプラモデルを輸入して販売する店も現れ、玩具メーカーのマルサン商店や模型メーカーの日本模型などがプラモデル国産化への模索を開始した。1955年頃から海外メーカーのプラモデルの下請け製造を開始していた日本プラスチックは1956年10月頃、日本初のプラモデルの「ゼロ戦」を発売、その後1957年春にはゴム動力の「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売した、また「和工樹脂」は1958年10月頃、「ダットサン1000」のプラモデルを発売した。その2ヶ月後、マルサン商店は「原子力潜水艦ノーチラス号」等4点のキットを発売した。なお、同時発売した「ダットサン1000」のキットは「和工樹脂」の製品にマルサンのロゴマークのシールを貼ったものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1950年代後期から1960年代は、戦記映画の人気や雑誌・出版物での第二次世界大戦戦記特集に後押しされた軍艦や飛行機などの実物の縮尺模型が主だったが、1960年代後半の今井科学(後のイマイ)による「サンダーバード」シリーズの大ヒットによりキャラクターモデルという分野が確立。その後のスーパーカーブームでもプラモデルはブームの一端を担った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1980年代前半のガンプラ(ガンダムのプラモデル)ブームでプラモデルはブームの主役の座を得た。ガンプラの大ヒットを受けて起きたリアルロボットアニメブームでは、プラモデルは主力商品に位置付けられて積極的な製品開発が行われたが、ガンプラブームを再現するには至らなかった。一方、1960 - 1970年代のプラモデル市場を支えてきたスケールカーモデルも市場から撤退するメーカーもあった。また、改造車ブームが背景にあり、旧車を中心とした族車のキットが発売されたものの、自動車をはじめとしたスケールモデルはまだ玩具の領域から脱することはできなかった。そんな中、1980年代後半のミニ四駆ブームでプラモデルは再び脚光を浴びたが、その後は新しい分野でのプラモデルブームは起きていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1990年代末頃から模型業界にもファクトリーオートメーション(FA)の導入が進み、プラモデル製品開発の労力が大きく縮減された。それまで設計、原型試作、金型製作と、時に差し戻しもある各工程を専門技術者に頼り、多大な時間とコストを要していたものが、3DCADによりコンピュータ上で最初から立体として設計を行い、自動制御や3Dプリンタにより原型、製品金型の製作まで行えるシステムが確立したことで大幅に工程が短縮した。また、スライド金型の導入は複雑な形状の成形を可能にし、設計の容易化と部品点数削減に一役買った。それらの恩恵により、コトブキヤやウェーブのように資本力の小さいガレージキットメーカーからプラモデル事業に新規参入した会社が牽引する形で、特にキャラクターモデルの分野ではそれまで採算ラインに達しなかったマイナー作品からの商品化が飛躍的に増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2000年代以後は、経済産業省の工業統計表によると「プラスチックモデルキット」全体の出荷額は、1998年の199億円に対して2007年は113億円と大幅に減少している。ガンプラは安定した売り上げを記録し続けるものの近年は漸減傾向にあり、飛行機やAFVなどスケールモデルは大幅な衰退傾向にある。プラモデル市場の衰退については、急激な勢いで進む少子化と、縮小する市場のパイをめぐってのテレビゲーム等の他の玩具との競争、製品面ではマニアックな商品が増えて初心者が近寄り難くなった点や、部品点数の増加などからモデルの組み立てに高度化を要求する傾向が目立つことなどが要因としてあげられている。また高品質低価格化が進む食玩などの塗装済み完成品模型や、1990年代末から市場が活性化したミニチュアカーがプラモデル市場を圧迫しているとの指摘もある。ミニチュアカーや食玩等の完成品市場には京商や青島文化教材社などの模型専門メーカーも参入しているほか、タミヤに関しても完成品ミニカーやミニ四駆、ダンガンレーサー、RCカー等の完成品を販売することがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2006年頃からプラモデル市場の縮小の影響や原油価格高騰のため、プラモデルや塗料などが値上げされる傾向にある。老舗メーカーでは上記の製品開発システムの刷新がうまくいかなかったり、製造部門においても射出成型機が多品種少量生産むけの小容量型へ移行が進んだことにより、旧製品の金型が使用できなくなり不良資産化する恐れが出てきており、老朽化によるメンテナンスコストの上昇が重くのしかかる等、業界は曲がり角に差し掛かっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2000年代後半からは、カーモデルにキャラクターデカールをセットした「痛車」や、「ガールズ&パンツァー」に登場する戦車、「艦隊これくしょん -艦これ-」や「蒼き鋼のアルペジオ」の艦船キット(ウォーターラインシリーズベース)など、キャラクターとコラボレーションしたスケールキットがブームとなった。また、1980年代から1990年代のフォーミュラ1、ロードレースバイクのキットが新規開発されるなど、当時製品化されなかった車種を補完するような展開も見られる。先述した組み立ての難しさを減らすために、塗装済みや部品点数を敢えて減らしたキットも登場するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "近年、模型雑誌では通常のプラモデルを「インジェクションキット」と呼んで完成品やガレージキットと区別することもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "静岡県の静岡市を中心とする地域はプラモデルやラジコンを代表に玩具産業が盛んで、タミヤ(静岡市駿河区)やバンダイ(静岡市葵区)、アオシマ(静岡市葵区)、ハセガワ(焼津市)など大手玩具・模型メーカーが本社や工場を静岡県内においている。特にプラモデルに関しては全国売上シェア約90%である(2010年統計で92%)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "駿河国(現在の静岡県の一部)には徳川家ゆかりの富士山本宮浅間大社(富士宮市)と、静岡浅間神社(静岡市)などの浅間神社が多数所在し、時の将軍の指示により、寛永年間と文化年間の二度にわたり静岡浅間神社の大造営を行った。その際に全国から様々な職人達が駿府(現在の静岡市付近)へ集められたが、造営が長期に渡ったため造営終了後も職人達の多くがそのまま駿府に定住し、その木工技術を活用して家具やひな人形、仏壇、蒔絵などの生産を始めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "その木工技法は代々受け継がれ、1932年(昭和7年)に、アオシマの創業者である青島次郎が、伝統技法を利用して木製の動力付き模型飛行機を製造販売したことを契機に、県内に多くの木製模型メーカーが誕生した。その後、第二次世界大戦中は、原料不足から他県の木工産業が生産不能に陥るなか、静岡県は国から『重要木工県』という指定を受けていたことで、主に学校教材用として木製模型の生産も続けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "戦後1950年(昭和25年)以降欧米のプラモデルが輸入され始めても静岡の模型メーカーの反応は鈍かったが、国産プラモデルが発売されプラモデルの人気が上昇すると、静岡の各メーカーも1960年以降プラモデルの生産に順次参入し、木製模型からプラモデルへの転換が急速に進んだ。1970年代に静岡4社共同企画により実現したウォーターラインシリーズや、その後1980代には社会現象にもなったガンプラブーム、ミニ四駆ブームいずれも、静岡の企業からの発信(生産出荷)であり、現在の「静岡=プラモデル」の構図が成り立つこととなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2010年7月24日から2011年3月27日までの期間、「模型の世界首都 静岡ホビーフェア」を静岡市で開催し、実物大ガンダムを展示するなど、模型(プラモデル)の町・静岡を全国にPRした。入場者数は160万7485人だった。この人気を受けて、2011年6月には日本初の模型専門博物館である静岡ホビースクエアが開館した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "模型製作にはさまざまな工具を用いる。もちろん、全てを利用しなくても製作は可能であるが、基本中の基本としてプラモデル用のニッパーとカッターはある方が望ましい。なおニッパーなどの切断工具の防錆・保護用のメンテナンスキットもある。", "title": "模型製作に用いる工具と材料" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "プラモデルに含まれるデカールや箱絵には、社会的要因による制限が一部加えられている。そのために製品化や旧製品の再生産が困難になったり、やむを得ず一部分の完璧な再現を断念せざるを得なかったりといった問題も生じている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "プラモデルにおいては、部品の分割方法や面の表現、対象の立体としての解釈など設計段階で開発者の個性が強く表れる。異なるメーカーが同一の題材を製品化した際に、他のメーカーの商品をコピーしたと指摘される場合が有る。これは前述の分割方法や成型パーツの配列などにおいて、他社の既存製品と比較し同一または酷似しているものが対象となる。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ただし他の工業製品と同じく、金型や製品が他社に売却、またはOEM供給されて別パッケージで発売されることがあり、これがコピー品と間違われやすい。また、1/72以下の小スケールのキットでは、部品分割に個性を発揮できる余地が少ないため、偶然似通った部品分割となる場合もある。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本のプラモデル黎明期には、先行するアメリカやイギリスのキット製品を原型としてコピーしたものが存在した。原型製品とは異なるパーツ配列としたり、原型製品と比較しギミックやモールドを新しく追加または省略したコピー製品も存在した。部品分割が全く異なっていても、形状の特徴から他の製品を参考にしているのが明らかなものもあった。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "プラモデルのコピー製品では、原型製品において模型雑誌やモデラーから問題点として指摘された部分を修正したり、原型メーカーが発売していない派生製品を発売する場合もある。ただし、大部分のコピー製品は精密度において原型製品に劣っている。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ここでは具体的なコピー製品の例として韓国のアカデミー製品について解説する。", "title": "製品" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ほか", "title": "模型メーカー・業者" } ]
プラモデルとは、組み立て式の模型の一種。適度に分割して成形されたプラスチック製の部品群(ランナー)と、組み立て説明書などをセットにしたキットの形で販売される。
{{Redirect|プラモ|秋田県のアイドルグループ|pramo}} {{複数の問題 |出典の明記=2020-04 |独自研究=2020-04 |参照方法=2020-04 }} [[ファイル:South-Goodwin.jpg|thumb|right|250px|プラモデルに塗装をする少年]] '''プラモデル'''とは、組み立て式の[[模型]]の一種。適度に分割して成形された[[合成樹脂|プラスチック]]製の部品群(ランナー)と、組み立て説明書などをセットにしたキットの形で販売される。 == 名称 == 「'''プラモデル'''」という用語は、[[日本]]初と称してプラモデルを発売した[[マルサン商店]]が考案した[[商標|登録商標]]であるが、現在ではより広義にメーカーを問わず'''プラスチックモデルキット'''全般を意味する言葉として使われている。'''プラモ'''と呼ばれることもある{{Efn|{{Harv|くらじたかし|2001}}によればマルサン商店はプラモデルと同時に「プラスチックモデル」と「プラモ」も商標登録したが数年後に取り下げたとされ、どちらも1960年代前半には既に一般的な名称として使用されている。初の国産プラモデルの発売を報じた昭和33年12月15日付の『日本模型新聞』の記事でも、「プラスチック・モデル・キット」をマルサン商店の登録商標としている。}}。[[英語]]ではプラスチック・モデル (''Plastic Model'') またはコンストラクションキット (''Construction Kit'':主に[[イギリス英語]])などと呼称される。 === 商標としてのプラモデル === '''プラモデル'''という商標は、「プラスチック製模型おもちゃ及びその組立キットその他のおもちゃ、人形」(第555762号、1960年9月登録)、「新聞、雑誌、その他の定期刊行物」(第731152号、1967年1月登録)および「模型」(第1846016号、1986年2月登録)に関して日本プラモデル工業協同組合が権利を所有し、組合員は自由に使用できる。他に[[キヤノン|キヤノン株式会社]]が別のものを対象に'''プラモデル'''という商標を持っていた時期がある。 '''プラモデル'''という名称は、[[マルサン商店|マルサン]]が[[1959年]](昭和34年)に商標登録したもので、他のメーカーは「プラ模型」「プラキット」など言い方を変えるか、一般名称である「プラスチックモデル」を用いる必要があった{{Efn|当時マルサン商店は小売店に対しても他社製品を「プラモデル」と呼ばないよう強く求めていた。また「プラモデルと呼べるのはマルサンだけ」というキャッチフレーズは自社がプラモデルのパイオニアであることを誇示するとともに、「プラモデル」の普通名詞化をけん制する意味合いも強かった。}}。ただし、一般消費者や[[小売|小売店]]のレベルでは、マルサン商店が権利を所有していた時期から、プラモデルはプラスチックモデル全般を表す用語として広く使用されていた。 商標権は[[1968年]](昭和43年)の[[倒産]]後再建されたマルサンから[[1974年]](昭和49年)に大手問屋の[[三ツ星商店]]に売却され、[[1975年]](昭和50年)日本プラスチックモデル工業協同組合に移譲された{{Efn|{{Harv|神永英司|2009|page=175}}には1975年に三ツ星商店に売却され、翌年日本プラスチックモデル工業協同組合に移譲されたと解釈できる記述があるが、日本プラモデル工業協同組合の公式サイトでは1975年に権利を得たとされている。}}。現在は、加盟する各社は自由に使ってかまわないことになっている{{Efn|{{Harv|日本プラモデル工業協同組合|2008|page=179}}には「日本プラモデル工業協同組合加盟各社は自由に使用できる」旨の記述がある。一方、{{Harv|日本プラモデル工業協同組合|2008|page=66}}には「現在ではプラスチックモデルの愛称として誰でも自由に使えるようになっている」との記述もある。}}。また、日本プラモデル工業協同組合の組合員である[[童友社]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://hobbyshow.co.jp/union/ |title = 日本プラモデル工業協同組合の紹介 |publisher = [[全日本模型ホビーショー]] |date = |accessdate=2022-05-04}}</ref>は、「日本プラモデル工業協同組合に未加盟の模型メーカーは『プラモデル』という言葉を自社製品の紹介に使用できない」旨の説明を行っている<ref>(株)童友社 公式アカウント {{Cite Tweet |user = @DOYUSHAofficial |number = 1493452286634315778 |title = 気にされる方もいらっしゃるかもしれませんのでマジレスします。両ブランド共、製品の中で「プラモデル」の呼称を使っていないので問題ありません。雑誌社が記事の中で「プラモデル」を使うのも問題ありません。未加入のメーカー様が、自社製品の紹介に「プラモデル」の呼称を使うの禁じています。 |date = 2022-02-15 |accessdate = 2022-05-04}}</ref>。 == 定義 == {{要出典範囲|日本ではプラスチック製の組み立てキットのうち、一般的な模型店で扱われるものをプラモデルとし、ほぼ同様の製品であってもそれ以外の玩具売り場、(菓子のおまけとして)菓子売り場、鉄道模型店で扱われるものは玩具、食玩、鉄道模型などと区別されることも多い。一般的な模型店で扱われる狭義のプラモデルとそれ以外のプラモデル形商品は、取り扱っている問屋が異なる場合が多く、流通上別個として扱われており、玩具店と模型店、売り場の別など小売レベルでも一定の線引きがなされているが、厳密ではない。特にキャラクターモデル・玩具においては区別は渾然としており、現タカラトミーのゾイドやプラクションのように、組み立てる楽しみを取り入れたりコスト削減のために、プラモデルと同様の組み立てキットの形態をとる玩具も存在する。逆に模型区分であっても、ガンプラに代表される、顧客へのハードルを下げるためにスナップフィットや塗装不要化などの配慮がなされた商品もある。またSDガンダムや上述のゾイドなど、同シリーズに玩具と模型が混在する例もあり、エンドユーザーレベルからは模型と玩具の中間的で区分がはっきりしないものも少なくない。|date=2023年6月}} == 製品構成 == 基本的には、'''ランナー'''と呼ばれる枠に繋がった状態の'''部品'''と'''組み立て説明書'''が含まれる{{Sfn|尹大栄|2012|p=16}}。その他にも'''接着剤'''、マーキング用の'''[[デカール]]'''、組み立てる際に必要となるもの(ネジ止めが必要なプラモデルには簡易ドライバーなど)が付属する場合もある。これらが商品のイラストや完成写真等を印刷したボール紙の箱に箱詰めされ、出荷されている。小型のものについては[[ブリスターパック]]やビニール袋に入れて売られている場合もある。 ; 組み立て説明書 : インスト(インストラクション)とも呼ばれる。組み立て手順以外に塗装する場合の色指定や塗装図、模型に関する情報などが併記されていることも多い。[[ソリッドモデル]]や[[模型航空機|ライトプレーン]]の説明書が図面中心で設計図とも呼ばれていた名残であるが、設計図と呼称されることもある。また小型のプラモデルでは組み立て説明書が箱の裏面等に印刷されている場合もある。 ; [[接着剤]] :[[File:プラモデル同梱用の接着剤.JPG|thumb|right|付属の接着剤]] : 近年では組立てに必要な場合でも付属しないことが多いが、1980年代頃まではほとんどのキットに小型のチューブや平行四辺形のパックに入ったものが付属していた{{Efn|付属の接着剤は短期間での使い切りを前提としていたため(キャップ付も存在する)、使い勝手が悪く量も十分ではなかったので、別売のビン入り接着剤を使用するモデラーが多かった。}}。接着剤を使用せずに組み立てられる、[[スナップフィット]]キットと呼ばれるプラモデルも増えている。 ; [[デカール]] : [[ガンプラ]]等の初心者向けの製品では[[シール]]やドライデカール([[インスタントレタリング]])が付属する場合もあるが、スライドマークとも呼ばれる水転写(スライド)方式のものが付属することが多い。 == プラモデルの分類 == === 動力装置の有無による分類 === 動力装置を取り付けないことを前提とするプラモデルを'''ディスプレイキット'''(または'''ディスプレイモデル'''{{Sfn|尹大栄|2012|p=16}})という。完成品を展示(ディスプレイ)することを目的とすることからこう呼ばれる。 組み立てる際に付属もしくは別売の駆動装置を取り付け、走行・駆動させることを目的としたプラモデルもある。電動の[[電動機|モーター]]を取り付け、[[乾電池]]などを動力源として駆動するものを'''モーターライズキット'''('''モーターライズモデル'''{{Sfn|尹大栄|2012|p=16}})という。また[[ぜんまいばね|ゼンマイ]]で駆動するプラモデルもある。 === 製法による分類 === [[ファイル:Plastic-model-F18.jpg|thumb|right|250px|射出成形されたプラモデルの一例]] [[ファイル:Wyvern kit.JPG|thumb|right|250px|バキュームフォームキットの一例]] ; インジェクションキット([[射出成形]]キット) : [[金型]]の中に熱で溶けたプラスチックを高圧で流し込んで成形されたキット。大量生産に向き、パーツの精度も高い。製造には精密な金型と、大掛かりな射出成形の設備が必要となるためにイニシャルコストが高いのが難点。製法上、パーツに金型の合わせ目である[[パーティングライン]]が生じる欠点もある。樹脂の通り道であるランナーがあるのが射出成形品の特徴である。ランナーと部品を結ぶゲートはピンゲートにすることで小さくなるが、樹脂の通り道が小さくなるため、生産性が犠牲となる。金型は定期的に整備を続ければ長持ちし、事実40年以上生産され続けているキットもある。一般的なインジェクションキットの他、樹脂や[[電鋳]]や軽合金による[[簡易金型]]による「[[簡易インジェクション]]キット」という物もあり、これは型の寿命が短い代わりにコストを下げることができるため、マニア向けの少数生産キット製造の手段として用いられることが多い。通常のインジェクションキットより部品の精度が劣る物が多いが、[[MPM (模型メーカー)|MPM]]のような一部のチェコ製合金型のものは通常のインジェクションキットに迫る出来の物もある。 ; [[バキュームフォーム]]キット(真空成形キット) : 熱でやわらかくしたシート状のプラスチックを、型に押し付けて成形したキット。通称「モナカ」。単純に押し付ける手法をヒートプレスと呼び、プラスチックシートと型の間の空気を吸い出して密着させる手法をバキュームフォームと呼ぶ。(例:卵の透明プラスチックケース)型が1枚で済むので少ない設備投資で成形できるが、大量生産にはあまり向かない。雄型を使う場合を雄型成形(ドレープフォーミング)、雌型を使う場合を雌型成形(ストレートフォーミング)という。雌型を使用する場合には表面の細部の[[モールディング|モールド]]の再現が可能である。比較的、流線型の成形に向くこともあり、マイナーな航空機がこのバキュームキットで販売される傾向にあるほか、RCカーのポリカーボネート製ボディはほぼこの製法を用いる。成型品はかなり肉厚が薄くなるため補強が必要であるなど製作難易度は高い。また細部など真空成形の困難な部品はインジェクションやレジン、メタル、エッチング等のパーツが組み合わされる場合が多い。バキュームフォームキットは[[ガレージキット]]として扱われることが多いが、インジェクションキットの中に簡易ジオラマベースや帆船の帆、[[簡易インジェクション]]キットのキャノピーパーツなどの形で真空成形パーツが含まれる場合もある。 ; [[押出成形]] : 熱で溶けたプラスチックをダイと呼ばれるノズルから[[ところてん|トコロテン]]のように押し出して成形する。断面の形が同じものを無限に成形できる。プラモデルのキットが押出成形されることはまずありえないが、各種[[プラ素材]]がこの成形方法である。 ; [[3Dプリンタ|3Dプリント]] :[[3Dプリンタ]]の普及とともに、3Dプリンタ による出力で[[バキュームフォーム]]の型や簡易インジェクション型の出力、レジンキットの原型、或いは製品そのものを[[ガレージキット]]等の少量生産向けに出力する事例も見られるようになってきている。背景には高性能の[[3DCAD]]の低価格化、無料化、3Dプリンタを始めとする出力環境の高性能化、低価格化が挙げられ、新たな潮流となりつつある。3Dデータを元に3Dプリント出力を専門に請け負う業者もある。 ; [[ブロー成形]] : [[ペットボトル]]や[[ポリタンク]]の製造と同様に溶融した樹脂に内圧を加えて加工するブロー成形が一部の製品に導入されている。1/12スケールの[[ガンダム]]のように細部の再現性は射出成形品に劣るものの、[[金型]]の製造費用が1桁から物によっては2桁低いので初期投資費用がかからず、少量生産に適する。 === 対象分野による分類 === 実在の飛行機・艦艇・戦車・自動車・建築物等、もしくは実在するにはいたらなかった計画兵器等を扱った「'''スケールモデル'''」と、SFやアニメ等を扱った「'''架空のもの'''」に大別される。スケールモデルにはディフォルメされたものも含める場合がある。アニメ・ゲーム等に登場する車・戦車・船などでは、スケールモデル(一部パーツ変更やキャラクターグッズが追加されることもある)がキャラクターのパッケージで販売されている。 ==== スケールモデル ==== {{Main|スケールモデル}} 実物が存在するもの、または設計・企画された物を縮小した模型を[[スケールモデル]]と呼ぶ{{Sfn|尹大栄|2012|p=16}}。プラモデルが最初に普及した英米では、ヤード・ポンド法を用いていたため縮尺は「1フィート(12インチ)を何インチに縮小」するかが基本であり{{Sfn|尹大栄|2012|p=16}}、例えば1/4インチ(または1/4”)スケールといえば1フィートを1/4インチに縮小することで[[1/48スケール]]を表す。従って「国際標準スケール」には分母が12の倍数のものが多い。しかし、鉄道模型のようにフィートをミリメートルに換算した縮尺(1フィートを4 mmとするもの=4 mmスケール(1/76))を採用する物や、メーカーの都合(箱のサイズや、走行ギミックのためのギアボックスや電池の内蔵)のために決定され、積極的なシリーズ展開のために自然に「[[デファクトスタンダード|標準]]」になってしまったものもあり、後者の代表がタミヤの1/35である{{Sfn|尹大栄|2012|p=16}}。またバイクのスケールである1/9は、[[イタリア]]のプロター社から始まったものである。1/50は航空機ソリッドモデルの標準スケールである。 * [[艦船]] [[1/72]]、1/144、1/200、1/350、1/400、[[1/500スケール|1/500]]、1/600、[[1/700]]、1/720、1/800、1/1000、1/1200 などのスケールがあり、最も種類が多いのは静岡のメーカー四社が共同で展開した[[ウォーターラインシリーズ]]に採用された1/700である。近年はハセガワの[[三笠 (戦艦)|三笠]]を皮切りに[[1/350スケール]]の新製品のラッシュが続いている。また[[日本模型]]の30センチシリーズは1/700〜1/1100程度に相当する。民間船は(日本国内メーカーでは特に)少ない。帆船はスケールの統一は少なく、レベルの1/96、エレールの1/100、1/150、イマイ(アオシマ)の1/350などでそれぞれ数種類の船がそろえられる。一部メーカーの製品にはモーターと電池により水上走行が可能なモーターライズキットが存在する。 * [[陸|陸上]][[兵器]]([[戦車]]、[[大砲]]、[[装甲車]]、[[兵士]]など)1/15、1/16、1/24、1/25、1/30、1/32、1/35、1/48、1/50、1/72、1/76、1/87、1/144、1/350、1/700 などのスケールがある。現代の主流は1/35、1/48、1/72、1/144であり、その中でも、タミヤが採用し日本国内メーカーが追従、以後[[イタレリ]]、[[エッシー (模型メーカー)|エッシー]]、エレールなど日本国外のメーカーも従った1/35が圧倒的なアイテム数を誇る。このため米英のメーカーが展開していた1/32(メタルフィギュアの54 mmスケール)ミリタリー物は少数派になってしまった。 * [[航空機]]([[固定翼機]]、[[回転翼機]]など)1/24、1/32、1/35、1/48、1/50、1/72、[[1/100スケール|1/100]]、1/144、1/200、1/350、1/700 などのスケールがあり、ディテールアップが楽しめる1/48、コレクション性の高い1/72が主流である。1/24や1/32といった大型キットは、中国メーカーの参入を契機に{{いつ範囲|近年|date=2016年10月}}はキット数が増えつつある。また一部のヘリコプターは、陸上兵器の標準スケールに合わせて1/35でモデル化されている。コレクションモデルとして1/144や1/100スケールも人気である。なお航空機のプラモデルというと軍用機がメインと思われがちだが、民間機とくに旅客機も豊富でデカール変えなどで多数の航空会社のカラーリングを再現している。スペシャルマーキングなどの特別塗装を施した機体のキットも人気である。 * [[宇宙開発]]([[ロケット]]、[[宇宙船]]、[[探査機]]など)スペースシャトルなどは航空機と近いスケールだが、探査機から巨大な宇宙ステーションまで含むため、スケールに統一性無し。 * [[自動車]] 1/8、1/12、1/16、1/20、1/24、1/32、1/43などがあり、市販車(高級車含む)、[[レーシングカー]]とも1/24が主流であるが、[[フォーミュラカー]]は近年は1/20が主流である。日本のトラックやバスなどは1/32スケールが多い。1/43は[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]の主要スケールであり、ホワイトメタルやレジンキャスト製の[[ガレージキット]]も多い。一部、ミリタリーモデルの派生として 1/35も増えつつある。 * [[オートバイ]] 1/6、1/8、1/9、1/12などがあり、レース用、市販用とも1/12が主流である。 * [[鉄道車両]](ディスプレイキットもしくは、電池等の動力源を内蔵したモーターライズキットで、[[鉄道模型]]への流用を考慮していない物)1/35、1/50、1/76、1/80、1/150などがある。日本においても鉄道車両のプラモデルは、かつて鉄道模型が金属製品主流だった時代に一ジャンルを築いたが、Nゲージを中心としたプラスチック製品の発展とともに、鉄道模型の陰に隠れた存在になってしまい、1980年代後半以降2010年代まで新製品のほとんどない時期が続いた{{Efn|但し2002年に鉄道模型化可能な組み立て式鉄道玩具[[Bトレインショーティー]]が発売されている。}}。その一方で、一般のプラモデルとは流通経路や購入者層の異なる鉄道模型の中には実質的なプラモデルであるプラスチック製の組み立てキットがあり、こちらは1970年代後半以降製品を充実させた。日本以外のメーカーでは、[[ミリタリーモデル]]の一部として軍で使用された機関車や貨車などのプラモデルが製品化されている。 * [[鉄道模型]]用の建築物(ストラクチャー)1/22.5(G)、1/43.5(O)、1/76(OO)、1/87(HO)、1/120(TT)、1/148(イギリスのN)、1/150(日本のN)、1/160(欧米のN)、1/220(Z)などがあり、主に鉄道模型のスケールに合わせているが、1/100前後としてTTとHOの両方で、1/200前後としてNとZの両方で使えるようにしている製品も存在する。これらは通常鉄道模型のアクセサリーとして扱われるため一般のプラモデルとは流通経路が異なっているが、[[ジオラマ]]製作などに流用される場合も多い。 * アクションフィギュアとそのアクセサリー(机・椅子、ぶらんこ、トイレなど)1/12スケール程度。 * [[建築物]]([[姫路城]]、[[五重塔]]など)1/700、1/350、1/200が多いがスケールに統一性無し。 * [[甲冑]]、 [[刀]] 1/3、1/4スケール。 * [[箱庭]](農家などのモデルに、付属の種を植えて育てることができる)スケールに統一性無し(同シリーズの店舗などは1/60、屋台は1/25)。 * [[拳銃]]([[スタームルガー・ブラックホーク|ルガー・スーパーブラックホーク]]、[[コルト・パイソン]]など)[[手榴弾]] など 原則として1/1。ギミック付のキットも存在する。 * [[動物]](人体模型、[[アリイ]]の[[コアラ]]、[[ラッコ]]、[[エリマキトカゲ]]、[[タミヤ]]の1/35[[恐竜]]など)実物の数倍の昆虫や、1/1の小鳥から1/76程度の恐竜までスケールは様々。日本国外のメーカーに比較的製品が多い。 * その他、[[楽器]]([[ドラムセット]]など)、[[家庭用電気機械器具|家電]]([[扇風機]]、オーディオなど)扇風機はモーターを内蔵し、実際に扇風機としての機能を果たす。ある意味では模型ではなく1/1の扇風機そのものであると言える。オーディオは小型スピーカーを内蔵し、ヘッドホンステレオなどに接続して実際に鳴らすことが可能な製品も存在した。多くは国内メーカーの実在の製品を1/3 - 1/10程度にそのままスケールダウンさせたものである。 ==== 架空のもの ==== [[アニメーション]]、[[特撮]]といった映像作品や、[[漫画]]、[[小説]]、[[家庭用ゲーム]]等に登場する架空の兵器や登場人物などを取り扱ったもの{{Sfn|尹大栄|2012|p=16}}。その多くは[[サイエンス・フィクション|SF]]設定の作品である。[[キャラクターモデル]]と称される場合も多い。通常は設定資料の寸法から縮尺に見合った寸法を割り出し設計されるが、初期にはパッケージに収容可能な寸法から縮尺を割り出す'''箱スケール'''ものも多く存在した。 バンダイのガンダムシリーズの成功から1/144、1/100などのものが主流だが、スケールモデル同様に縮尺も多彩である。一例を挙げると1/20、1/35、1/60、1/72、1/220などがある。 *人間に近いサイズのキャラクター([[仮面ライダーシリーズ|仮面ライダー]]、[[妖怪ウォッチ]]、その他デフォルメキャラクターなど) ::過去には [[オバケのQ太郎]]、[[がんばれ!!ロボコン]]、[[Dr.スランプ]]、[[うる星やつら]]など、多くのキャラクターのキットがあった。2000年代以降は、組み立て式アクションフィギュアと呼べる商品が増えている。 *実在の車などに近いメカ(仮面ライダーのオートバイ、[[西部警察]]の特殊車両、[[バットモービル]]、[[デロリアン (タイムマシン)|デロリアン]]など) ::カーモデルや航空機などスケールキットと同様のフォーマット、ディテールで設計された商品も多い。 *ロボット物(ガンダム、マクロス、ボトムズなど) ::1980年代くらいまでは合体・変形などがセールスポイントであったが、ガンダム以降は広い可動によるアクションポージングや、内部構造ディテールにもこだわったアイテムが登場している。 *その他のSFメカ ([[宇宙戦艦ヤマト]]、[[スター・ウォーズ]]、[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]、[[マイティジャック]]など) ::実写作品では、撮影に使われたプロップに対するスケールモデルとしての解釈もある。 == 歴史 == === プラモデルの誕生と普及 === 世界で最初に発売されたプラモデルは、[[フロッグ (模型メーカー)|フロッグ]]のブランドで動力付きの木製[[模型航空機|模型飛行機]]を販売していたイギリスのIMA社 (International Model Aircraft Ltd.) が、1936年に発売したフロッグ・ペンギンシリーズ[http://www.frogpenguin.com/frog/01_beginning.html]である。 当時の新素材であったプラスチックで模型を作る技術は、イギリス軍が教育に使用する航空機や軍用車両等の識別用モデルをプラスチックで作る技術を応用したものである。 フロッグ・ペンギンシリーズは[[1/72スケール|1/72]]に統一された[[航空機]]のキットで、[[第二次世界大戦]]により中断されるまでに英国機を中心に30点ほどが発売された。 第二次世界大戦中にはアメリカ国内でもプラスチック製の識別用モデルは多数作成され、大戦が終結すると、ホーク、レンウォール等の複数のメーカーがアメリカでもプラモデルの製造を始めた。 1950年代に入ると、オーロラ、リンドバーグ、[[レベル (模型メーカー)|レベル]]、[[モノグラム (模型メーカー)|モノグラム]]等のさらに多くのアメリカのメーカーがプラモデルの生産を始め、ヨーロッパでもイギリスの[[エアフィックス]]やフランスの[[エレール]]等が活動を開始し、プラモデルは急速に普及していった。 フロッグやエアフィックスといったイギリスのメーカーの航空機キットが最初から1/72で統一されていたのに対し、アメリカのメーカーの初期のキットは箱のサイズに合わせた箱スケールのものが多かったが、1950年代後半以降スケールの統一の動きが進み、多くのメーカーが1/72とともに[[1/48スケール|1/48]] (1/4インチスケール) を航空機の統一スケールとして採用し、むしろ1/48の方をメインとした。 また、初期のプラモデルメーカーの多くが木製模型飛行機のメーカーであったこともあり、初期のプラモデルは航空機が中心であったが、1950年代半ば以降、艦船、戦車、自動車等のモデルも徐々に増加していった。 そして1960年代は、欧米の多くのメーカーが数多くの名作キットを生み出す、プラモデルの[[黄金時代]]となる。 1990年代から今世紀以降は、ドラゴンをはじめとした東アジア系と、チェコのエデュアルド、ウクライナのICMなどをはじめとする東欧系のメーカーから多くの新製品が発売されている。 === 日本における歴史 === 日本にプラモデルが渡ってきたのは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でプラモデルが普及を始めた1950年代初めで、主に在日米軍関係者によって持ち込まれた{{Sfn|尹大栄|2012|p=14}}が、日本の木製模型メーカーの注目を得るには至らなかった。1956 - 57年になると少数ではあるが外国製のプラモデルを輸入して販売する店も現れ、玩具メーカーの[[マルサン商店]]や模型メーカーの[[日本模型]]などがプラモデル国産化への模索を開始した。1955年頃から海外メーカーのプラモデルの下請け製造を開始していた[[日本プラスチック]]は1956年10月頃、日本初のプラモデルの「ゼロ戦」を発売、その後1957年春にはゴム動力の「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売した、また「和工樹脂」は1958年10月頃、「ダットサン1000」のプラモデルを発売した。その2ヶ月後、マルサン商店は「原子力潜水艦ノーチラス号」等4点のキットを発売した。なお、同時発売した「ダットサン1000」のキットは「和工樹脂」の製品にマルサンのロゴマークのシールを貼ったものである。 [[1950年代]]後期から[[1960年代]]は、戦記映画の人気や雑誌・出版物での[[第二次世界大戦]]戦記特集に後押しされた[[軍艦]]や[[飛行機]]などの実物の[[スケールモデル|縮尺模型]]が主だったが、1960年代後半の[[今井科学]](後のイマイ)による「[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]」シリーズの大ヒットにより[[キャラクターモデル]]という分野が確立。その後の[[スーパーカーブーム]]でもプラモデルはブームの一端を担った。 [[1980年代]]前半の[[ガンプラ]](ガンダムのプラモデル)ブームでプラモデルはブームの主役の座を得た。ガンプラの大ヒットを受けて起きた[[リアルロボット]]アニメブームでは、プラモデルは主力商品に位置付けられて積極的な製品開発が行われたが、ガンプラブームを再現するには至らなかった。一方、1960 - 1970年代のプラモデル市場を支えてきたスケールカーモデルも市場から撤退するメーカーもあった。また、改造車ブームが背景にあり、旧車を中心とした族車のキットが発売されたものの、自動車をはじめとしたスケールモデルはまだ玩具の領域から脱することはできなかった。そんな中、1980年代後半の[[ミニ四駆]]ブームでプラモデルは再び脚光を浴びたが、その後は新しい分野でのプラモデルブームは起きていない。 [[1990年代]]末頃から模型業界にも[[ファクトリーオートメーション]](FA)の導入が進み、プラモデル製品開発の労力が大きく縮減された。それまで設計、原型試作、金型製作と、時に差し戻しもある各工程を専門技術者に頼り、多大な時間とコストを要していたものが、3D[[CAD]]によりコンピュータ上で最初から立体として設計を行い、[[NC加工|自動制御]]や[[3Dプリンタ]]により原型、製品金型の製作まで行えるシステムが確立したことで大幅に工程が短縮した。また、スライド金型の導入は複雑な形状の成形を可能にし、設計の容易化と部品点数削減に一役買った。それらの恩恵により、[[コトブキヤ]]や[[ウェーブ (模型メーカー)|ウェーブ]]のように資本力の小さい[[ガレージキット]]メーカーからプラモデル事業に新規参入した会社が牽引する形で、特にキャラクターモデルの分野ではそれまで採算ラインに達しなかったマイナー作品からの商品化が飛躍的に増加した。 [[2000年代]]以後は、経済産業省の工業統計表によると「プラスチックモデルキット」全体の出荷額は、[[1998年]]の199億円に対して[[2007年]]は113億円と大幅に減少している<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/shopping/news/TKY201004180319.html |title=ガンプラ、国産一筋30年 品質こだわり4億個 |newspaper=朝日新聞 |date=2010年4月19日 |accessdate=2010-04-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100420230121/www.asahi.com/shopping/news/TKY201004180319.html |archivedate=2010-04-20}}</ref>。ガンプラは安定した売り上げを記録し続けるものの近年は漸減傾向にあり、飛行機やAFVなどスケールモデルは大幅な衰退傾向にある。プラモデル市場の衰退については、急激な勢いで進む[[少子化]]{{Sfn|尹大栄|2012|p=17}}と、縮小する市場のパイをめぐっての[[テレビゲーム]]等の他の玩具との競争{{Sfn|尹大栄|2012|p=17}}、製品面ではマニアックな商品が増えて初心者が近寄り難くなった点や{{Efn|一例としてカーモデルでは、1990年代まではセダンやコンパクトカー、軽自動車やワンボックスカーといった一般的な現行車が製品化されていたが、2000年代以降はスーパーカーやレーシングカー、[[旧車]]といった趣味性の強い車種の製品化が増え、前述した車種の製品化が大幅に減少している。}}、部品点数の増加などからモデルの組み立てに高度化を要求する傾向が目立つこと{{Efn|プロの自動車モデラーである北澤志朗氏は「クルマ好きの人でも、スケールモデルは塗装することを知らない人が多い。複雑な部品の成型が可能になったことにより、かえってパーツが細かくなりすぎてどこから手を付ければいいのか分からず、説明書もアルファベットの記号ばかりで分かりにくい。組み立てにも様々な道具が必要で、一式揃えるとなるとその価格はプラモデル1点以上になってしまう。そうした様々な要因がプラモ離れにつながっているのではないか」と述べている。<ref>{{Cite magazine|和書|magazine=[[モデル・カーズ]] 2016年11月号 |page=119 |publisher=[[ネコ・パブリッシング]]}}</ref>}}などが要因としてあげられている。また高品質低価格化が進む[[食玩]]などの塗装済み完成品模型{{Sfn|尹大栄|2012|p=17}}や、1990年代末から市場が活性化したミニチュアカー{{Efn|とりわけ、2010年代以降は1/18、1/24とスケールモデルと直接競合するビッグスケールのミニカーも多数登場している。}}がプラモデル市場を圧迫しているとの指摘もある。ミニチュアカーや食玩等の完成品市場には[[京商]]や[[青島文化教材社]]などの模型専門メーカーも参入しているほか、[[タミヤ]]に関しても完成品ミニカーやミニ四駆、ダンガンレーサー、RCカー等の完成品を販売することがある。 [[2006年]]頃からプラモデル市場の縮小の影響や[[原油価格]]高騰のため、プラモデルや塗料などが値上げされる傾向にある。老舗メーカーでは上記の製品開発システムの刷新がうまくいかなかったり、製造部門においても射出成型機が多品種少量生産むけの小容量型へ移行が進んだことにより、旧製品の金型が使用できなくなり不良資産化する恐れが出てきており、老朽化によるメンテナンスコストの上昇が重くのしかかる等、業界は曲がり角に差し掛かっている。 2000年代後半からは、カーモデルにキャラクターデカールをセットした「[[痛車]]」や、「[[ガールズ&パンツァー]]」に登場する戦車、「[[艦隊これくしょん -艦これ-]]」や「[[蒼き鋼のアルペジオ]]」の艦船キット([[ウォーターラインシリーズ]]ベース)など、キャラクターとコラボレーションしたスケールキットがブームとなった。また、1980年代から1990年代の[[フォーミュラ1]]、[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]バイクのキットが新規開発されるなど、当時製品化されなかった車種を補完するような展開も見られる。先述した組み立ての難しさを減らすために、塗装済みや部品点数を敢えて減らしたキットも登場するようになった。 近年、模型雑誌では通常のプラモデルを「インジェクションキット」と呼んで完成品やガレージキットと区別することもある。 === 静岡とプラモデル === {{参照方法|date=2015年11月|section=1}} [[静岡県]]の静岡市を中心とする地域はプラモデルやラジコンを代表に玩具産業が盛んで、[[タミヤ]]([[静岡市]][[駿河区]])や[[バンダイ]](静岡市[[葵区]])、[[青島文化教材社|アオシマ]](静岡市葵区)、[[ハセガワ]]([[焼津市]])など大手玩具・模型メーカーが本社や工場を静岡県内においている{{Sfn|尹大栄|2012|p=13-14}}。特にプラモデルに関しては全国売上シェア約90%である(2010年統計で92%<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.shizuoka.jp/j-no1/m_pmkit.html |title=プラモデルの出荷額日本一 |publisher=静岡県 |accessdate=2013-12-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131217212817/https://www.pref.shizuoka.jp/j-no1/m_pmkit.html |archivedate=2013-12-17}}</ref>)。 [[駿河国]](現在の静岡県の一部)には[[徳川氏|徳川家]]ゆかりの[[富士山本宮浅間大社]]([[富士宮市]])<!--(ちなみに[[富士山]]の八合目以上の土地が今でも富士山本宮浅間大社の私有地であるのも徳川家康の寄進によるもの)-->と、[[静岡浅間神社]](静岡市)などの[[浅間神社]]が多数所在し、時の将軍の指示により、[[寛永]]年間と[[文化 (元号)|文化]]年間の二度にわたり静岡浅間神社の大造営を行った{{Sfn|尹大栄|2012|p=14}}。その際に全国から様々な職人達が[[駿府]](現在の静岡市付近)へ集められたが、造営が長期に渡ったため造営終了後も職人達の多くがそのまま駿府に定住し、その木工技術を活用して家具やひな人形、仏壇、蒔絵などの生産を始めた{{Sfn|尹大栄|2012|p=14}}。 その木工技法は代々受け継がれ、[[1932年]](昭和7年)に、アオシマの創業者である青島次郎が、伝統技法を利用して木製の動力付き模型飛行機を製造販売したことを契機に、県内に多くの木製模型メーカーが誕生した{{Sfn|尹大栄|2012|p=14}}。その後、[[第二次世界大戦]]中は、原料不足から他県の木工産業が生産不能に陥るなか、静岡県は国から『重要木工県』という指定を受けていたことで、主に学校教材用として木製模型の生産も続けられた。 戦後[[1950年]](昭和25年)以降欧米のプラモデルが輸入され始めても静岡の模型メーカーの反応は鈍かったが、国産プラモデルが発売されプラモデルの人気が上昇すると、静岡の各メーカーも[[1960年]]以降プラモデルの生産に順次参入し、木製模型からプラモデルへの転換が急速に進んだ。1970年代に静岡4社共同企画により実現した[[ウォーターラインシリーズ]]や、その後1980代には社会現象にもなった[[ガンプラ]]ブーム、[[ミニ四駆]]ブームいずれも、静岡の企業からの発信(生産出荷)であり、現在の「静岡=プラモデル」の構図が成り立つこととなった。 [[2010年]][[7月24日]]から[[2011年]][[3月27日]]までの期間、「[[模型の世界首都 静岡ホビーフェア]]」を静岡市で開催し、[[ガンダム (架空の兵器)#実物大ガンダム|実物大ガンダム]]を展示するなど、模型(プラモデル)の町・静岡を全国にPRした。入場者数は160万7485人だった。この人気を受けて、2011年6月には日本初の模型専門博物館である[[静岡ホビースクエア]]が開館した。 == 模型製作に用いる工具と材料 == [[画像:Nipper.JPG|thumb|right|200px|タミヤ製ニッパー]] 模型製作にはさまざまな工具を用いる。もちろん、全てを利用しなくても製作は可能であるが、基本中の基本としてプラモデル用のニッパーとカッターはある方が望ましい。なおニッパーなどの切断工具の防錆・保護用のメンテナンスキットもある。 ; [[ニッパー (工具)|ニッパー]] : ランナーから部品を切り離すのに用いる。ゲートと部品の間が狭くキットなどもあり、通常のニッパーでは部品に直接傷がつくのを避けるために刃の薄いプラモデル用のニッパーが望ましい。模型用の歯の薄い製品は強く握ると歯が痛むので丁寧に扱うと良い。真鍮線や[[エッチングパーツ]]など金属を切断する場合は刃こぼれを防ぐため、金属用のニッパーを用いる。また、一部[[ガンプラ]]は、ニッパーを使用しなくても簡単にランナーから部品を切り離せる物がある。 ; [[カッターナイフ|カッター]](Pカッター{{Efn|Pカッターは[[オルファ]]の商品名だが、同種の工具の通称としても使用される。}}、デザインナイフ、[[けがき針]]等を含む) : 主にニッパーで切断したあとのゲート処理、パーティングラインの除去、部品の切断・加工やモールドを彫刻するためなどに用いる。使用する際はカッターマットを用いたほうがよい。カッターナイフは本体に替え刃を内蔵するタイプで、替え刃は数枚をまとめたブレードになっており折って新しい刃に交換する。主に大きなもの、直線を切る作業向けの製品である。デザインナイフ(アートナイフ)は替刃を一枚ずつ交換するタイプで、曲線を切るなどの細かい作業向け製品である。両者とも刃先の角度が異なった替え刃があり、用途に応じて選べるようになっている。Pカッター(厚手のプラスチック板などの切断に使う製品)や'''[[ラインチゼル]]'''とけがき針は主に筋彫りに使用される。 ; [[ピンセット]] : 小さい部品を掴んだり、手の脂が付着するのをさけるため、シールやデカール等を貼る際に用いる。ピンセットはオランダ語由来の外来語。ツイーザー、トゥイーザーなどの英語読みの名称で市販されている場合もある。基本的には金属製だが、特殊なプラスチックで作られたピンセットもある。 ; [[やすり|金属やすり]]、[[紙やすり]]、その他のやすり類 : ニッパーやカッターで処理しきれないゲート跡など綺麗にするために用いる。やすりは元々金属製であり、本来は金属やすりという呼び方は無いが、紙やすりと区別するため模型用語として一般化している。紙やすりは「サンドペーパー」、耐水性のものは「(耐)水ペーパー」とも呼ばれるが、略して「ペーパー」と呼ばれることが多い。部品の表面を削ったり整えたりするために用いる。最近はラッピングフィルム(研磨剤付きのプラスチックフィルム)やスポンジ研磨材も使用される。また、金属部品などの加工に[[ダイヤモンドやすり]]を使用することもある。 : なお筋彫りに特化した非常に薄い幅の刃を持つ"スジボリヤスリ"という製品もある。 ; [[ピンバイス]] : パーツに穴をあけるための細いドリル刃(0.1 mm - 3 mm程度)を保持した状態のものをピンバイスと呼ぶことが多い。本来ピンバイスは小径の棒状のものを保持する固定具([[バイス]])でドリルの刃の部分は含まないのだが、模型ではドリルでの穴あけ以外ではあまり用いられない。 ; プラモデル用(ホビー用)のこぎり・レザーソー・糸のこぎり : 部品を切断するために用いる薄刃ののこぎり。改造する際に使われることが多い。かつては米国エグザクト社のレザーソーが代表的なブランドだった。後にエッチングで作られた薄く目の細かいノコギリであるハセガワ(トライツール)のモデリングソーや、タミヤの薄刃クラフトのこ、シモムラアレック(プラッツ)のハイパーカットソーなど、ホビー専用のものが登場している。 ; [[接着剤]](セメント) : 元来は二つ以上の物質の接着に用いられるものだが、後述の'''パテ'''として使用可能なものもある。最近は後述の様に強固な接着の為ではなく、仮止めや完成品の耐震・安定展示用の一時(仮)接着を目的としたものも出回り始めている。 :; プラスチックセメント :: 部品同士を接着するために用いる。材料を溶かし、溶剤が蒸発して硬化することで接着される。以前は接着が必要なプラモデルにはチューブ入り等の接着剤が付属している場合が多かったが、現在では一部の外国製キットを除いて付属しておらず、別途購入しておく必要がある。樹脂分を含む「トロトロ型(貼り合せ型)」と溶剤分だけの「サラサラ型(流し込み型)」とに大別される。前者はセメダイン社の瓶入りの製品やタミヤ、グンゼ産業(現在の[[GSIクレオス]])等模型メーカー製品など古くから販売されている。後者はタカラのプロセメントなど少数派であったが、1990年代になってから種類が増え、2000年代には石油系溶剤を含まない[[リモネン]]を主成分にした物も増えており、有機溶剤の匂いがきつくないなどの利点があるため、使用するモデラーも増えてきている。また、最近のガンプラ等のプラモデルでは接着剤を使用しなくても製作可能なスナップフィット・キットがほとんどであるが、パーツを組み合わせたときに出来る'''"合わせ目"'''を消すために用いることも多い。ただし、スケールモデルではパーツ自体が非常に薄くなっている場合も多くあり、接着剤ではパーツの変形などのトラブルが起きやすいため、擦り合わせで密着度を上げて合わせ目を無くす。 :; [[瞬間接着剤]] :: 「シアノアクリレート」という特殊な樹脂が主成分の接着剤であり、空気中などの水分と急速に反応し、数秒から数分で硬化する。金属との接着のように、溶剤に侵されない材質や、異なる材質同士を接着する場合に用いられる。近年はプラモデルでも再現性向上のためにエッチングパーツなどの異素材部品を含む物が多く、製作の必需品となっている。ただし透明パーツなどに使ったり近くにおいてあると、接着剤の成分で"曇って"しまうこともある。こうした白化現象を避ける意味で効果促進剤を使う。また、低白化タイプの製品もある。この他には耐衝撃用などもあり、使用対象、強度、粘度、硬化時間などの異なる様々な製品がある。また通常は無色透明なものが多いが、白色や黒色など色のついた商品も出回り出している。 :; 一時接着剤 :: 貼って剥がせる再剥離可能型の接着剤で、仮止めや、完成した模型を地震その他の不慮の際にも倒さないで(安定して)展示する為の一時的固定に利用される。当初は紙等にシールの様に粘着性と再剥離性を与える為に開発され写真製版等から再剥離可能型の粘着剤スプレーが出回り始めた。かつては安定展示用には粘着テープを輪の様にして展示品と台座双方を接着していたり完成品に穴を開け真鍮線等を差し込んで固定していたりしていたが、現在では同じ表面特性を持つ粘着型防振ゲルと共に耐震・安全展示用途での利用が始まっている。 : ; [[パテ (材料) | パテ]] : 部品のへこみなどを埋めるために用いる充填材。また、プラモデルの形状変更やオリジナルの造形にも用いられる。硬化した後にカッターなどで切削・成形する事が可能だが、パテによっては切削性の悪いものもある。プラモデル製作で使用されるのはラッカーパテ、[[エポキシパテ]]、ポリパテ(ポリエステルパテ)の3種類が多い。最近では光硬化型パテや瞬間接着パテも発売されている。これは硬化までの時間が短く用途によっては非常に便利である。 :; ラッカーパテ :: 文字通りラッカー系溶剤を含み、溶剤が揮発することで硬化する。この際、溶剤が揮発した分の体積が減少する(肉痩せ、あるいは[[ヒケ]]という)。従って分厚く盛る場合には向かず、傷や部品のヒケの修正などに用いられることが多い。プラパテと略称されることもある。 :; エポキシパテ(エポパテ) :: 粘土状の2種類の基剤をほぼ同量混和して用いる。混ぜ合わせた後の作業時間は早くて1分 - 5分、通常は数十分から数時間で、おおむね一日程度で完全硬化する。ヒケはあまり起きない。種類によっては完全に固まるとかなり硬くなるので、適度な硬さの段階で切削すると加工性がよい。2種類のパテが均一になるよう混ぜ合わせるのが使用上の注意である。模型用のほかに木工用や金属用のものが市販されている。エポキシパテの成分は[[エポキシ樹脂]]項目を参照。皮膚が弱い場合には手袋必須である。日本以外ではミリプットのブランドのものが使われており、日本ではポリパテよりも導入が遅かった。一般向けとしてセメダイン社の製品、模型用としてはタカラの「改造くん」が1980年代前半から存在し、その後1980年代後半からフィギュア制作などに多用され、各社から模型用の新製品が発売されていった。 :; ポリパテ :: 主剤に硬化剤を練り込んで使用する。硬化時間は硬化剤の割合や気温によって変化するが、数分から数十分と早い。臭気が強いので換気必須である。1980年代前半のガンプラブーム当時、[[スクラッチビルド]]のために自動車の修理用品である「ニッペ厚付けパテ」が使用され、その後模型専用の物が開発されていった。 :; 紫外線硬化パテ(光硬化パテ、UV硬化パテ) :: 太陽光や蛍光灯の至近距離に近づけると紫外線と反応して短時間で硬化する。硬化が早く、作業の効率化に大いに役立つが、場合によっては盛ってから1分とたたないうちに固まってしまうため、手早い作業が必要。現在最も高性能なパテといえるが、値段も通常のパテよりも高い。ただし、最近では少量がデコアート用に使い切り分量(5[[グラム]]程度)で百円均一の店などで販売され、それまでのアクリルパテに代わり主流となっている。なお一部の製品は空気に触れていると硬化しない(嫌気性の)ものがある。 :; 瞬間接着パテ :: 液剤と粉末を混合すると数秒 - 数十秒で硬化する物で、作業が早い反面、物性的に脆い(それでもスチレン樹脂よりは丈夫である)。作業性を高める為に硬化促進剤とその速度を調整する緩衝剤とを併用する事もある(GSIクレオス製品等)。 : この他、元々接着剤や[[ネイルアート]]方面で利用されていた'''アクリルパテ'''がある。粉末のパウダーと液体のリキッドの混合による二液混合型で、硬化開始時間が少々長く(それでも最短で1分以内には硬化開始)、また硬化に紫外線が要らず安価なのでUV硬化パテよりは普及が早かった。現在はネイルアート方面では硬化剤のいらないUV硬化パテに主役の座を明け渡し、模型やデコアート用マテリアルとしての利用が多くなってきている。接着剤としても有用であり、'''プラリペア'''などの商品名で流通している。 ; [[塗料]] : プラモデルを塗装するために用いる。ラッカー系、アクリル系、エナメル系等いくつか種類がある。塗料はその特質を知って使いこなすことが重要である。なお瓶入りの他に常温で蒸発し加圧する液化ガスを圧力源とする"缶スプレー"があり、瓶入りの塗料を同様の塗装加工に用いる為のアイテム([[ガイアノーツ]]"イージーペインター"等)も存在する。 :; ラッカー系塗料 :: 日本で多用されている、乾燥が速く強固な塗膜が形成できる利点を持つ塗料。通称は「ラッカー系」であるが正しくは非水溶性の有機溶剤を用いた「アクリル樹脂塗料」(MR.HOBBYでは溶剤系アクリル樹脂塗料と記載)である。溶剤の蒸発により樹脂が塗膜を形成するため、アクリルラッカーに分類される。溶剤が非水溶性であることを強調するために「油性アクリル系塗料」と呼ばれることもあるが、「油性」は本来動植物由来の油脂を表す用語であり、石油由来の有機溶剤に使用するのは厳密には正しくない。ラッカーの一種ではあるが、昭和30年代に模型用として売られていた「マメラッカー」などのプラスチックを溶かすほど溶剤の強い、本来の[[ラッカー]](ニトロセルロースラッカー)とは別物である。トルエンなどが含まれる業務用塗料ほどではないが、他の模型用塗料に比べ溶剤の臭いや毒性が強く、換気せずに長時間吸入すると中毒を起こす。また揮発性、引火性が強いことにも注意。マルサンのプラカラーを皮切りに、レベルカラー(後に[[Mr.カラー]])、モデルカラー、モノグラムカラー、ガイアカラーなど、多くのブランドが存在した。なお、模型専用塗料以外の模型向けの塗料にはトルエンなどを含むものもあるため注意が必要である。 :; 水溶性アクリル樹脂塗料 :: アクリル系とも呼ばれる。溶剤として[[アルコール]]系の水溶性の有機溶剤に水を混入したものを使用している。水で希釈することも可能だが、乾燥時間が増し光沢面に塗れなくなることもあるので、プラモデルに塗る場合は専用溶剤で希釈することが多い。臭いや毒性はラッカー系より抑えられている。引火性も低く安全性が高いものの、塗膜はラッカー系より弱く、上からラッカー系塗料を塗ると侵される。[[GSIクレオス]]の「[[水性ホビーカラー]]」と「[[アクリジョン]]」、タミヤの「[[タミヤカラー#アクリル塗料|アクリルペイント]]」が代表的な国産の水溶性アクリル樹脂塗料であり、1980年代初めの発売以来順次改良されているが、使い勝手や塗膜強度の面で敬遠するモデラーもまだ少なくない。最近は、国産とは異なる性質の優れた外国製品も入手しやすくなっており、スケールモデルでは珍しい存在ではなくなった。なお国産商品も改良が進み、これまで希釈性の問題でエアブラシ塗装に不向きとされていた欠点も改善されつつある{{Efn|これまでのエアブラシ用の調整を簡便化したエアブラシ専用うすめ液との等倍希釈で簡単に使用可能となった。}}。なおアクリジョンの為の汎用うすめ液は水と専用うすめ液とがあるが、専用うすめ液は後述の"リターダー"として働く為に使い過ぎるとなかなか乾かなくなる。なお、アクリジョンの薄め液は生産終了となり、リターダーが販売されるようになった(エアブラシ用薄め液は改良して継続販売)。 :; エマルジョン系 :: 広義には水溶性アクリル塗料に含まれる低溶剤の塗料。臭気がほとんどなく、水性アクリル、水性ホビーカラーは水でも可能だがアクリルシンナーが推奨されるのに対して、完全に水道水のみで、希釈や洗浄が可能(ただし、乾ききった場合には水溶性でなくなるので専用ツールクリーナーが必要)。乾燥は速く、塗膜も強め。代表ブランドは、シタデルカラーやアクリジョンなど。 :; エナメル系塗料 :: 専用の溶剤(工業[[ガソリン]]系)で希釈する。上記2種類の塗料と異なり、塗装後空気に触れることで化学反応が起き固化する。エナメル系塗料は乾燥が遅く筆塗りでもムラができにくい利点がある。乾燥後の塗膜は光沢に優れる。多湿な日本の気候には不向き<{{Efn|ただし[[エアブラシ]]による塗装では、ラッカー系では多湿環境下で白く曇る(「かぶり」と言う)が、エナメル系では起きない。}}だが欧米では一般的な模型用塗料として用いられている。また他種の塗料の塗膜を侵さない事から[[ウェザリング]]に用いられる事が多い。ただし下地がつや消しの場合、顔料が染み付いて取れなくなることがある。塩ビ(ソフトビニール製キットやポリキャップなど)は侵され劣化するので避けた方がよい。またスナップフィットなどで常に力の加わっている部分に使用すると、溶剤の浸透によりパーツが破損する場合もある。最近、紫外線をカットするクリアー塗料の上に塗布した場合に白化する現象が話題となった。「[[タミヤカラー#エナメル塗料|タミヤカラー]]」が事実上唯一の国産エナメル塗料であるが、イギリスの[[ハンブロール]]社製のエナメル塗料も塗料単体や塗料付キットとして輸入されて一部の模型店で入手できる。 : 塗料は模型用塗料だけでなく、絵画用のアクリル[[絵具]]や[[油絵具]]、[[パステル]]、[[コピック]]なども用いられる。 : 塗料に添加して性状を調節する添加剤(メディウム)がいくつかある。光沢を抑える'''フラットベース'''、乾燥を遅らせ、筆ムラやかぶりを抑える'''リターダー'''、塗料の粘度を抑える'''うすめ液'''などが典型的。うすめ液そのものがリターダーや金属色の質感を向上する添加剤を含んでいることもある。うすめ液はラッカー用、エナメル用など、使用する塗料に合った専用品を用意する必要がある。なお、フラットベースの逆の作用を持つものはなく、塗装後に光沢の強い(全光沢或いは半光沢の)トップコートで調節する。 : ; [[筆]] : 平筆、丸筆と細部塗装用の面相筆があると便利。学校の授業などで使った水彩画用を流用することもできるが、塗料の溶剤によって毛を束ねる接着剤が溶け出し、最終的にはバラバラになる可能性があるため、模型用のものを使用するのが望ましい。 ; [[エアブラシ]] : 筆塗りでは難しい、ムラの無い一様な塗面やグラデーション塗装に使う。缶スプレーと比べて、自由な色が使える・吹き出し量の調整が可能というメリットがある。ある領域全体に塗装されるため、塗装前に、マスキングや塗装順番を考えた部品改造が必要になる場合もある。以前はピースコン等の一部製品を除きイラスト・写真修正用の高価な物が多く一般的ではなかったが、近年は模型メーカーから比較的低価格の製品が発売される様になった。 : 塗料噴霧用の端末器具としてはハンドピースが用いられる。気体加圧源としては高圧気体のボンベを用いる"スプレー缶(エア缶)"か電気を動力源とした"エアコンプレッサ"が用いられる。通常は加圧源で加圧気体と塗料の双方の吐出量が制限される為に加圧源の性能如何では塗料の吐出に影響を及ぼす場合がある。低圧型のコンプレッサでは上手く扱えない塗料も存在する。ハンドピースには加圧気体と塗料の吐出量を共に同時に調整可能なもの(ダブルアクション)の他に加圧気体と塗料の吐出量を同時に調整不可能なもの(シングルアクション)も存在する。ダブルアクションのハンドピースを用いると細い幅の塗装も可能となる(加圧源の吐出量を低く調整する必要がある)。なおこの技法は全ての塗装技法中で最も塗料の消費量が少ない。 : 塗装作業中には塗料の霧状微細粉末や溶剤の揮発気体が周囲に飛散するので、作業者はマスクなどでの防護が必要となる。その為飛散物を強制的に吸い取る装置も存在し市販されている。 ; [[マスキングテープ]] : 塗装の際、塗り分けを行うために色をのせない部分を覆って色が付かないようにする粘着剤つきの紙テープ。仮組みなどの際に粘着力の低いテープとしても用いる。また同様の目的の為に、塗布することで柔軟なマスキング膜を形成する液状のマスキングゾル{{Efn|実質はプラ素材と接着しない性質をもつ水性接着剤で、ゴム素材の有無で特性が変化する。}}という商品もある。 ; [[サーフェイサー]] : ヤスリがけで付いた表面の微細な傷などを埋める為や塗料の食い付きを良くする為に使われる。主に塗装の前段階として用いる。筆塗りの他、缶スプレーやエアブラシを用いて吹きつけて使用する。市販されている物の主な成分は溶液に溶いたラッカー系パテ(溶きパテ)とほぼ同様の物である。傷やヘコミなどを見分けやすいグレー色が一般的だが、[[フィギュア]]など用にホワイトや肌色の製品もある。細かい彫刻が潰れることを嫌い、使用しないモデラーもいる{{Efn|なおサーフェイサーを用いない面に塗装する技法を"サフレス塗装"と呼ぶ。}}。 ; プライマー : 金属(メタルパーツやエッチングパーツ)、レジンなど塗料の食い付きが良くない素材に塗装する場合に使用する下地塗料。通常は無色透明。プラモデル用に開発されたもの以外は、プラスチックを侵す恐れがある。上記サーフェイサーを兼ねた"プライマーサーフェイサー(プラサフ)"もある。 ; トップコート : 塗装した個所の表面保護に使用する、透明な塗料。ステッカーやデカール、インスタントレタリング(インレタ)などの保護にも有用。光沢、半つや、つや消しとがあり、被塗物の質感を調節する場合にも用いられる。[[金属光沢]]を与えるメタリック色は、これを塗布するとかぶりが生じる(白っぽく曇る)ものもあり、代用としてプライマーを吹き付けることもあるが、こちらは金属光沢を生み出す顔料が流れてしまう{{Efn|これを防ぐ技法として、比較的遠方から乾燥速度を調整して半乾きの霧状で塗布して行う"砂吹き"があり、この後に出来る梨地の表面を研磨平滑化する"磨き込み"作業を以って仕上げそれに拠って金属光沢を守る事が出来る。この技法はその他に塗装が光沢仕上げの場合にも応用が利く為に主に自動車(二輪・四輪)模型で多用される。}}ことがあるため、金属らしい質感が重要な個所を一切保護しない場合もある。 ; デカール定着剤 : デカールを軟化させ、模型表面の凹凸への密着性を高めるための補助剤。デカールを貼った上から塗布して軟化させるものをデカール軟化剤(マークソフター)、接着力を持ち先に塗布した上にデカールをセットするものをデカール定着剤(デカールフィッター、マークセッター)と区別する場合もある。デカールの種類と定着剤の相性により軟化の程度に差があり、しわ等が生じる或いはデカールが破損する場合もあるので事前の確認が必要。 ; [[綿棒]] : デカールを貼付する際に出る余分な水分を脱脂綿に吸わせる、デカール貼付位置の微調整、あるいは[[ウェザリング]]や[[スミ入れ (模型)|墨入れ]]を施す際に用いられる。使い勝手としては化粧用に開発された先の細いものが良い為に模型専用のものもこの形状になっている。 == 製品 == === よく使われる素材・材質 === ; [[ポリスチレン]] (PS = Poly-Styrene) : プラモデルの材料としては最も多く使用される。プラモデルで「プラ」といった場合、広義では[[合成樹脂]]一般(ABSなども含める)をさすが、狭義ではポリスチレンのみを指す。[[エナメル]]系溶剤に侵食され、劣化する性質がある。透明のものは飛行機キットのキャノピーや[[自動車]]キットの窓[[ガラス]]などに用いられるが、しなやかさがないため非常に砕けやすく、[[瞬間接着剤]]などで白濁することも多い。[[タミヤ]]や[[エバーグリーン]]{{要曖昧さ回避|date=2022年11月}}ブランドの[[プラ素材|各種素材]]もポリスチレンである。ドイツ語であるスチロール (Styrol) と呼ばれることもある。 ; [[ABS樹脂|ABS]] (ABS = Acrylonitrile-Butadiene-Styrene) : [[アクリロニトリル]]、[[ブタジエン]]ゴム、[[スチレン]]を混ぜたもの。配合比率によって物性に差はあるが、ポリスチレンよりも割れにくく磨耗も少ない。このため、負荷のかかるキャラクター模型の関節部や動力模型のシャーシ(ミニ四駆や電動RC)などのパーツがABSで成型されることが多い。溶融接着には専用のABS樹脂用の接着剤を必要とする。また切削性もポリチスチレンよりも粘り気が強い。 ; [[ポリプロピレン]] (PP = Poly-Propylene)、[[ポリエチレン]](PE=polyethene) : いわゆるポリキャップとして[[ロボット]]キットなどの関節部[[蝶番|ヒンジ]]に多用される軟質樹脂。柔軟性が高く磨耗が少ない反面、ほとんど[[やすり|ヤスリ]]がけができない、そのままでは塗装もできないといった欠点もある。モーター走行する戦車キットのベルト式キャタピラとして、1970年代からゴム製のものに代わって多く使われるようになり、ディスプレイモデル用としても使用されている。 ; その他の樹脂 :# [[アサフレックス]] - スチレン系の合成樹脂。曲げると変形が残る程度の柔軟性で、塗装も接着もできる。 :# [[エラストマー]] - ゴムに近い性質だが、射出成型が可能なスチレン系樹脂。<!--タミヤのゴムキャタピラ?--> :# [[ポリアセタール]] (POM) - 軸受などに使用される。塗装や接着が困難。 : ; 金属類 : [[画像:Brass photoetch sheet.jpg|thumb|right|200px|1/350[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]用エッチングパーツ]] : [[エッチングパーツ]]や自動車の[[軸 (機械要素)|シャフト]]、[[ギア]]ボックス、[[ネジ]]など各種[[金属]]が補助的に使用される。 === 有名なシリーズ === * [[ミリタリーミニチュアシリーズ]] 1/35 タミヤ * [[ウォーターラインシリーズ]] 1/700 タミヤ、長谷川製作所、青島文化教材社 * [[ミニボックスシリーズ]]1/72 ハセガワ * [[ミニボックスEシリーズ]]1/72 ハセガワ * [[機甲師団シリーズ]]1/48 バンダイ * [[デコトラシリーズ]]1/32 青島文化教材社 * [[ガンプラ]] 各種スケール バンダイスピリッツ(以下バンダイ) * [[マシーネンクリーガー]] 日東、ウェーブ、ハセガワ * [[ロボダッチ]] 今井科学 一部は青島文化教材社から再発売 * 合体マシン 青島文化教材社 * アニメスケール 各種スケール 青島文化教材社 * [[ミニ四駆]] 1/32 タミヤ * [[たまごひこーき]] ハセガワ *[[フレームアームズ]]・[[フレームアームズ・ガール|フレームアームズガール]] 壽屋 *[[D-Style(プラモデル)|D-Style]] 壽屋 *[[デスクトップアーミー]] メガハウス *[[MODEROID]] グッドスマイルカンパニー * [[Figure-rise Standard]] バンダイ === デカールの制限 === {{Double image stack|right|Colin McRae Subaru Impreza WRC.jpg|Colin McRae's Subaru Impreza 555 crop.jpg|200|たばこ広告禁止の影響例:[[スバル・インプレッサ]]WRC(実車)の555仕様とノンタバコ仕様。<br>この実車と同様に、模型もロゴの削除・差し替えを強いられる場合がある。}} プラモデルに含まれるデカールや[[箱絵]]には、社会的要因による制限が一部加えられている。そのために製品化や旧製品の再生産が困難になったり、やむを得ず一部分の完璧な再現を断念せざるを得なかったりといった問題も生じている。 ;タバコ広告 :1990年代以降、多くの国で[[タバコ広告]]の規制が強化された。そのため、多くの[[フォーミュラ1|F1]]、[[世界ラリー選手権|WRC]]といった[[レーシングカー|レースカー]]のキットに付けられていたタバコメーカーの[[スポンサー]][[ロゴタイプ|ロゴ]]も規制の対象とされ、その後発売されたF1レースカー製品ではデカールからタバコメーカーのロゴが削除されたり、別のものに差し替えられてしまっている。タバコメーカーがメインスポンサーだった一部の車種では、削除や差し替えすら難しいためキット自体が生産困難な状態となっているものもある。 ;その他企業ロゴに関する制限 :2000年代以降は企業の[[知的財産権]]管理強化の関係から、タバコ以外の企業についてもロゴが削除・或いは差し替えられたものが現れている。 ;ハーケンクロイツ :[[第二次世界大戦]]時のドイツ機の[[垂直尾翼]]に描かれていた[[ハーケンクロイツ|鉤十字]](スワスティカ)は、[[ナチス・ドイツ]]の[[シンボルマーク]]であり、現在ドイツでは公の場での使用や掲示が法律により禁止されている。その影響で、1990年代以降多くのメーカーでは箱絵とデカールからスワスティカや本来ナチスとは無関係の[[フィンランド]]の[[ハカリスティ]]を削除している。日本国内ではスワスティカの使用に全く制限はないが、輸出を考慮して日本メーカーの多くもこれに倣っている。一部の日本メーカーでは日本国内出荷分にのみスワスティカのデカールを付けているが、多くの場合箱絵は勿論組立て説明書にも明示は無く、オマケ扱いとなっている。また、スワスティカを十字や田の字形に変えたり、二分割してそのままではスワスティカに見えない形でデカールにしているメーカーもある。 === コピー製品 === プラモデルにおいては、部品の分割方法や面の表現、対象の立体としての解釈など設計段階で開発者の個性が強く表れる。異なるメーカーが同一の題材を製品化した際に、他のメーカーの商品をコピーしたと指摘される場合が有る。これは前述の分割方法や成型パーツの配列などにおいて、他社の既存製品と比較し同一または酷似しているものが対象となる。 ただし他の工業製品と同じく、金型や製品が他社に売却、または[[OEM]]供給されて別パッケージで発売されることがあり、これがコピー品と間違われやすい。また、1/72以下の小スケールのキットでは、部品分割に個性を発揮できる余地が少ないため、偶然似通った部品分割となる場合もある。 日本のプラモデル黎明期には、先行するアメリカやイギリスのキット製品を原型としてコピーしたものが存在した。原型製品とは異なるパーツ配列としたり、原型製品と比較しギミックやモールドを新しく追加または省略したコピー製品も存在した。部品分割が全く異なっていても、形状の特徴から他の製品を参考にしているのが明らかなものもあった。 プラモデルのコピー製品では、原型製品において模型雑誌やモデラーから問題点として指摘された部分を修正したり、原型メーカーが発売していない派生製品を発売する場合もある。ただし、大部分のコピー製品は精密度において原型製品に劣っている。 ここでは具体的なコピー製品の例として韓国の[[アカデミー科学|アカデミー]]製品について解説する{{Efn|アカデミーを例にしているが、1990年代までは韓国や中国のプラモデルメーカーのほとんどがコピー製品を作っており、特にアカデミーが悪質とか、数が多いということはない。}}。<!--なおこの項目は[[著作権法]]に抵触する虞のある情報{{Efn|記事内容が他の所からコピーしたと云う事ではなく、'''コピー商品という行為自体が'''…と云う意味である。なお、現在国際的に著作権法を持たない国や地域ではこれらの行為の虞が多分に存在する。}}でもあるので利用の際は注意を要する。--> ; 1/72 [[A-10 (航空機)|A-10]] 1/72 [[MiG-23 (航空機)|MiG-23/27]] 1/48 [[F-16 (戦闘機)|F-16]] : [[ハセガワ]]製品が原型と指摘されているアカデミー製品。A-10やMiG-23/27では開発時期の古い原型キットの凸モールドが凹モールドへ修正された。F-16では同一パッケージで複数の形式に対応すべく細かい部品の分割手法が変更され、各種搭載品を追加するなどの修正が行われた。 ; 1/35 [[M113]]・[[M60パットン]]・[[メルカバ (戦車)|メルカバ]]・[[センチュリオン]] : [[タミヤ]]製品が原型と指摘されているアカデミー製品。原型製品とは異なり、大量のアクセサリーの追加や原型には無い改良型(M113)や発展型の車両(メルカバ)、[[イスラエル国防軍]]仕様(M113、M60)などが発売された。例えばメルカバIIIなどは転輪パーツ以外はオリジナルとなっており、高価な[[ガレージキット]]を購入したり[[スクラッチビルド]]をする必要が無くなったため、購入者からすれば恩恵の方が大きいとも言える。なおセンチュリオンは日本には輸入されていないが、生産停止となったタミヤ製品に代わって欧米市場ではポピュラーな製品となった。 ; 1/48 [[Su-27 (航空機)|Su-27]] : アカデミー製品が原型と指摘されている[[トランペッター (企業)|トランペッター]]製品。原型キットの問題点をそのままコピーしており工作精度の問題から原型に劣る。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{脚注の不足|date=2020-10-12|section=1}} * {{Cite book|和書|title=日本プラモデル興亡史 -わたしの模型人生- |author=井田博 |publisher=文春ネスコ |isbn=4890361871}} * {{Cite book|和書|title=田宮模型の仕事 木製モデルからミニ四駆まで |author=田宮俊作 |publisher=文春ネスコ |year=1997 |isbn=9784890369508}} * {{Cite book|和書|title=田宮模型をつくった人々 |author=田宮俊作 |publisher=文藝春秋 |year=2004 |isbn=9784163662503}} * {{Cite book|和書|title=プラモデル進化論―ゼロ戦からPGガンダムまで |author=今柊二 |publisher=イーストプレス |year=2000 |isbn=9784872572148}} * {{Cite book|和書|author=平野克己 |title=高荷義之―プラモデル・パッケージの世界 |publisher=大日本絵画 |year=1999 |isbn=9784499227087}} * {{Cite book|和書|editor=日本プラモデル工業協同組合 |title=日本プラモデル50年史 |publisher=文藝春秋企画出版部 |year=2008 |isbn=978-4-16-008063-8 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=神永英司 |title=マルサン物語 玩具黄金時代伝説 |publisher=朝日新聞出版 |year=2009 |isbn=978-4-02-250550-7 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=くらじたかし |title=マルサン―ブルマァクの仕事 |series=文春文庫 |year=2001 |isbn=978-4-16-765607-2 |ref=harv}} * {{Cite journal|和書|journal=地域イノベーション |author=尹大栄 |publisher=法政大学地域研究センター |year=2012 |title=プラモデル産業 |doi=10.15002/00008192 |format=PDF |ref=harv}} *『ニッサン グラフ』 昭和34年6月号 *『モーターファン』 昭和34年1月号 *『青木固 回顧録』 日精樹脂工業 平成元年出版 * 日本模型新聞{{Full citation needed|date=2020年10月}} == 模型メーカー・業者 == * [[タミヤ]] * [[BANDAI SPIRITS]] * [[GSIクレオス]] * [[青島文化教材社]] * [[ハセガワ]] * [[ファインモールド]] * [[フジミ模型]] * [[宮沢模型]] * [[メトロ科学模型]] * [[坂井精機]] ほか == 外部リンク == {{external media |video1={{YouTube|ALLwe1Tls2c|THE MAKING (92) プラモデルができるまで}} }} * [http://business1.plala.or.jp/plamodel/ 日本プラモデル工業協同組合] * [https://hnavi.net/ 模型屋なび](全国模型販売店紹介サイト) {{模型}} {{デフォルトソート:ふらもてる}} [[Category:プラモデル|*]] [[Category:登録商標]]
2003-02-10T05:27:40Z
2024-01-01T00:51:09Z
false
false
false
[ "Template:複数の問題", "Template:Efn", "Template:脚注の不足", "Template:模型", "Template:Double image stack", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Cite web", "Template:Cite Tweet", "Template:要出典範囲", "Template:Main", "Template:要曖昧さ回避", "Template:Cite book", "Template:参照方法", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:Cite journal", "Template:Full citation needed", "Template:Redirect", "Template:Sfn", "Template:いつ範囲", "Template:External media" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB
13,814
マカーム
マカームとは、 マカーム(maqām, مقام。複数形はマカーマート maqāmāt)はアラビア語で「留まるところ」を意味し、「場所」「壇」「地位」などの意味で使われる普通名詞だが、中近東の音楽では特に音楽理論用語として使われ、「旋法の体系、システム」を意味する語である。 音楽理論用語としてのマカームは、「旋法の体系、システム」といったようなものである。「アラブ音楽の『音階』」と説明されることも多い。旋律や音楽様式、楽曲体系そのものを指すときもある。マカームは、旋律型の集合体、旋律の型・パターンの集まりでもある。「音階と旋律のめぐり方を併せ持ったもの」とも言える。同じ音程構造、つまり同じ音階型を共有するマカームもある。その時は旋律のめぐり方や雰囲気などによって区別される。そして、通常2つ以上のジンス(جنس jins,複数形はアジュナース,ajnās اجناس 古代ギリシア語のγένος [genos,ゲノス]より。「種類」の意)と呼ばれる「テトラコルド程度の範囲の音域の旋律の単位、旋律の種」によって構成されている。マカームを西洋音楽の音階と比べると、中立音程(3/4音など)の使用が特徴的である。 代表的なマカームはラースト。半音ではなく、4分の1音下げる記号をここで仮にとすると、だいたい次のような「音階」である、と描写されることが多い。 C,D,E,F,G,A,B Eの音はEフラットよりは高いがEナチュラルよりは低い音となる。どの程度になるかは時代・地域・楽派などによって違うが、たとえばEは音程比27:22(約354.547セント)となる。 マカームの理論付けにおいて重要な役割を果たした人物としてイスハーク・アルマウスィリー(アッバース朝期の音楽家)、キンディー(9世紀、イスラム哲学の創始者としても有名)、ファーラービー(10世紀、哲学者として有名、キターブ・アルムースィーカー・アルカビール Kitāb al-mūsīqá al-kabīr كتاب الموسيقى الكبير「音楽の大書、音楽大全」の著者)、イブン・スィーナー(哲学者。「治癒の書」キターブ・アルシファ Kitāb al-Shifā' には音楽理論に関する章がある)、サフィー・アッ・ディーン・ウルマウィー(Ṣafī al-Dīn al-Urmawī、1216年頃現イラン西部のウルミア生まれ-1294年没、13世紀の神秘主義者。アッバース朝最後のカリフ・ムスタアスィムに仕え、キターブ・アルアドワール Kitāb al-Adwār كتاب الأدوار「旋法の書」の著者)などが挙げられる。またアブドゥッラフマーン・ジャーミーも簡潔にまとめた論文を残している。(純粋の音楽家ではないのは、当時のイスラム知識人は万事に興味を持ち、手を出すのが普通だったから)。またキンディーらの理論は古代ギリシアの音楽理論著作の流れを受け継いでいると言える内容で、その意味ではマカームの理論にはアリストクセノス、アルキュタス、プトレマイオス、ピタゴラスなどが関わっているとも言える(マカームが1オクターブを越え、2オクターブに渡って定義されているのは古代ギリシアの音階論と関係がある)。 トルコのマカームmakam、イランのアーヴァーズ、ダストガーフ、アゼルバイジャンのムガーム、ウズベキスタンのマコーム(マカーム)、中国・新疆ウイグル自治区のムカム(マカム、マカーム)、モーリタニアのブハールも、アラブ音楽のマカームと同様のものである。 他の音楽文化圏では、西洋古典音楽における「旋法」、インド古典音楽における「ラーガ」、中部ジャワ伝統音楽におけるパトゥッ(パテット)、日本の雅楽における「調」である。 以下に、各種のマカームについて例を挙げるが、マカームの説明は参考とした資料によって違いが大きく、ここでは表記に一体性が取れないことを注記する。 出発音マブダア(開始音)、開始音アーガーズ、終止音カラール(決定音)、強調音ガンマーズ(支配音)、中間停止音マルカズ、副終止音ザヒール(ダヒールとも)などの機能音が定義される。 古典音楽のマカームの伝統は、大きくマシュリク (東アラブ古典音楽)とマグリブ (西アラブ古典音楽、アラブ・アンダルース音楽、ヌーバ・マアルーフ、マアルーフ)の伝統に分かれる。 ジンス(旋律の種)とは、上述のようにマカームの構成要素である。マカームはいくつかのジンスから組み立てられており、ジンスは3つの音、4つの音あるいは5つの音からできている。ここでは、1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をqと表記する(なお、このqという表記は一般的ではないのに注意。よく使われるのは、フラット記号の縦の線、棒の部分に左上から右下へ向かう斜めの線を付け加えたものである)。 ここでは、1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をq、1/4シャープ(半音ではなく1/4音あげる)を+と表記する。 主音(メロディ・曲・旋律の最後の音、終わりの音)が非常に重要であり、演奏家は絶対にこれを間違えてはいけない。これを間違えると違うマカームになってしまう。また、主音からはじまる第1ジンス(最初のジンス)も重要で、この第1ジンスが大体の場合そのマカームの肝である。 1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をqと表記する。「/」は上行形/下行形をしめす。 イラクのバグダードで伝えられてきた声楽および小編成の器楽合奏(タフト(Takht)、ジャウクあるいはチャルギーなどとも呼ばれる)でよく用いられるマカーム。演奏の際の編成は独唱者(マカームチーあるいはカーリーと呼ばれる)、サントゥール、ジョウザ(胡弓のようなもの)、ドゥフ(タンバリンのようなもの)、ダラブッカなどからなる。 別資料。 {}で囲まれた音は終止音あるいは中心音をあらわす。qは1/4音低いことをあらわす。+は1/4音高いことをあらわす。 ダマスカスでのアラブ音楽のマカームの基本的なもの。 単数形タブウ(もしくはタバア)、複数形トゥブーウ。サナーアート(複数形。単数形サヌア)とも言われる。 サフィー・アッディーンは、主要なものをマカーマート、派生的なものをアーヴァーザートと呼んだ。 ラテン文字によるトルコ語の正書法ではマカームはmakamと表記する。複数形はアラビア語に基づくmakamatが用いられるが、トルコ語固有の複数形語尾を用いてmakamlarとも言う。 イラン伝統音楽の旋法。7種類のダストガーと5種類の派生、アーヴァーズの全12種類がある。ダストは「手」、ガーはDogāhやSegāhのgāhと同じ。旋律型グーシェgushehを持つ。 アゼルバイジャンのムガームについては情報が少ないが、アゼルバイジャンの作曲家で、ショスタコーヴィチの弟子カラ・カラーエフ(バレエ音楽「雷の道」が有名)によればムガームとは「アゼルバイジャン特有の旋法の名称、またはその旋法を基とし、組曲と狂詩曲を結合したような構成を持つ楽曲形式の名称」と定義される。 7つの主要なムガームがあるとされ、 シャシュマカーム(Shashmaqom、6つのマカームを意味する)は長大な一連の曲の集まり、組曲である。ラーストならラーストという「音階・旋法」で統一された声楽曲や器楽曲の集まり、そしてその体系である。音楽体系とも言い得る。 シャシュマカームには以下の6つの「旋法」があり、6つの長大な「曲群」にあたる。 17世紀ころにブハラやホラズムの宮廷音楽家によってかたちづくられていった。タスニフ(tasnif, テスニフとも)、タルジェ(tardzhe)、ガルドゥン(gardun)、ムハマス(mukhammas)、サキル(sakil)の5つの楽章からなるムシキロト(mushkilot, 「困難」の意、器楽部分)とサラフバル(sarakhbar)、タルキン(talkin)、ナスル(nasr)、ウファル(ufar)の4楽章からなるナスル(nasr, 「散文」の意、声楽部分)から構成されている。 ウイグル族のムカム(マカム、マカームとも)は長大な一連の曲の集まり。楽曲体系。音楽様式。「新疆のウイグルの大曲(ムカム)芸術」としてユネスコの無形文化遺産に登録されている。 10世紀から13世紀にかけて、突厥族の間でその基礎が固められ、14世紀になって天山山脈の南北の地方に広がり、15世紀には「ムカム」の語も、ムカムとしての構造も一応整ったといわれている。 ムカムを構造的にも不動のものとして確立させたのは、16世紀、ヤルカンド汗国の2代目の君主アブドヴァシデの妃、アマンニサが時の優れたムカムの演唱家、カディールと協力して、民間に散逸散在していたムカムのチョンラクマン(チョン・ナグマとも)、ダスタン、マイシュラップ(マシュラップとも)を整理し体系化したことに因るものとされている。(楽師伝 - ウイグルの古典音楽家の詳細について書いてある) ウイグル族の住むそれぞれの都市に伝承されている。 ヤルカンドの近くにある小さな村(バスで大体1時間半程)、メリケット(メルキット)には12ムカムの古い形、12ムカムより歴史の古い?ドラン・ムカム Dollan Muqamが残っているという。 アラブのマカームなどと、同じ様な名前が散見される。 ムカムとは楽曲の体系。曲の集合体。1ムカム分演奏すると大体2時間はかかる。12ムカム全てとなると、丸々1日はかかる。12ムカム全曲を聴ける機会は今日はまずない。大概はあるムカムのごく一部を断片的に演奏したりする場合がほとんどで、それも合奏ではなく、単独楽器で演奏されたり、多少演奏されやすく手が加えられた簡易版を演奏する場合も多い。経験をつんだウイグルの音楽家でも、1ムカム分を覚えるのは至難の業で、12ムカムの内1ムカムだけでも覚えて演奏出来れば賞賛に値するとされる。東アラブ古典音楽における「ワスラ」、トルコにおける「ファスル」といった組曲形式(あるいは組歌形式;いくつもの声楽・器楽曲を集めたもの。能でいう「番組」)にあたる?また西アラブ古典音楽における「ヌーバ」、「マアルーフ」、ウズベキスタンやタジキスタンにおける「シャシュマコーム;6つのマコーム」も曲の集合体というので、ムカムに似ているかもしれない。イランにおける「ラディーフ」も同様のもの? 名前はチョンラクマン、ダスタン、マイシュラップとも。 モーリタニアには、ブハール(複数形はブフール)と呼ばれる「旋法」のようなものが30以上存在する。 ヒンドゥースターニー音楽(北インド古典音楽)には、ペルシャやアラビアから来たといわれるラーガ、ヘセイニ(Heseini)、ヘジャス(Hejaz)、カフィ(Kafi)、バハル(Bahar)等がある。 カシミールのスーフィー音楽ではマカームという言葉が使われる。ただしマカーム・トーディーなどと言い実態はマカームの伝統より北インドのラーガの伝統に近い。(トーディーは北インド、ヒンドゥースターニー音楽でよく使われるラーガの一つ。)いずれにせよこれらはインドの異端の響きである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "マカームとは、", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "マカーム(maqām, مقام。複数形はマカーマート maqāmāt)はアラビア語で「留まるところ」を意味し、「場所」「壇」「地位」などの意味で使われる普通名詞だが、中近東の音楽では特に音楽理論用語として使われ、「旋法の体系、システム」を意味する語である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "音楽理論用語としてのマカームは、「旋法の体系、システム」といったようなものである。「アラブ音楽の『音階』」と説明されることも多い。旋律や音楽様式、楽曲体系そのものを指すときもある。マカームは、旋律型の集合体、旋律の型・パターンの集まりでもある。「音階と旋律のめぐり方を併せ持ったもの」とも言える。同じ音程構造、つまり同じ音階型を共有するマカームもある。その時は旋律のめぐり方や雰囲気などによって区別される。そして、通常2つ以上のジンス(جنس jins,複数形はアジュナース,ajnās اجناس 古代ギリシア語のγένος [genos,ゲノス]より。「種類」の意)と呼ばれる「テトラコルド程度の範囲の音域の旋律の単位、旋律の種」によって構成されている。マカームを西洋音楽の音階と比べると、中立音程(3/4音など)の使用が特徴的である。", "title": "音楽理論用語としてのマカーム" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "代表的なマカームはラースト。半音ではなく、4分の1音下げる記号をここで仮にとすると、だいたい次のような「音階」である、と描写されることが多い。", "title": "音楽理論用語としてのマカーム" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "C,D,E,F,G,A,B", "title": "音楽理論用語としてのマカーム" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Eの音はEフラットよりは高いがEナチュラルよりは低い音となる。どの程度になるかは時代・地域・楽派などによって違うが、たとえばEは音程比27:22(約354.547セント)となる。", "title": "音楽理論用語としてのマカーム" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "マカームの理論付けにおいて重要な役割を果たした人物としてイスハーク・アルマウスィリー(アッバース朝期の音楽家)、キンディー(9世紀、イスラム哲学の創始者としても有名)、ファーラービー(10世紀、哲学者として有名、キターブ・アルムースィーカー・アルカビール Kitāb al-mūsīqá al-kabīr كتاب الموسيقى الكبير「音楽の大書、音楽大全」の著者)、イブン・スィーナー(哲学者。「治癒の書」キターブ・アルシファ Kitāb al-Shifā' には音楽理論に関する章がある)、サフィー・アッ・ディーン・ウルマウィー(Ṣafī al-Dīn al-Urmawī、1216年頃現イラン西部のウルミア生まれ-1294年没、13世紀の神秘主義者。アッバース朝最後のカリフ・ムスタアスィムに仕え、キターブ・アルアドワール Kitāb al-Adwār كتاب الأدوار「旋法の書」の著者)などが挙げられる。またアブドゥッラフマーン・ジャーミーも簡潔にまとめた論文を残している。(純粋の音楽家ではないのは、当時のイスラム知識人は万事に興味を持ち、手を出すのが普通だったから)。またキンディーらの理論は古代ギリシアの音楽理論著作の流れを受け継いでいると言える内容で、その意味ではマカームの理論にはアリストクセノス、アルキュタス、プトレマイオス、ピタゴラスなどが関わっているとも言える(マカームが1オクターブを越え、2オクターブに渡って定義されているのは古代ギリシアの音階論と関係がある)。", "title": "音楽理論用語としてのマカーム" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "トルコのマカームmakam、イランのアーヴァーズ、ダストガーフ、アゼルバイジャンのムガーム、ウズベキスタンのマコーム(マカーム)、中国・新疆ウイグル自治区のムカム(マカム、マカーム)、モーリタニアのブハールも、アラブ音楽のマカームと同様のものである。", "title": "音楽理論用語としてのマカーム" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "他の音楽文化圏では、西洋古典音楽における「旋法」、インド古典音楽における「ラーガ」、中部ジャワ伝統音楽におけるパトゥッ(パテット)、日本の雅楽における「調」である。", "title": "音楽理論用語としてのマカーム" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "以下に、各種のマカームについて例を挙げるが、マカームの説明は参考とした資料によって違いが大きく、ここでは表記に一体性が取れないことを注記する。", "title": "音楽理論用語としてのマカーム" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "出発音マブダア(開始音)、開始音アーガーズ、終止音カラール(決定音)、強調音ガンマーズ(支配音)、中間停止音マルカズ、副終止音ザヒール(ダヒールとも)などの機能音が定義される。", "title": "音楽理論用語としてのマカーム" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "古典音楽のマカームの伝統は、大きくマシュリク (東アラブ古典音楽)とマグリブ (西アラブ古典音楽、アラブ・アンダルース音楽、ヌーバ・マアルーフ、マアルーフ)の伝統に分かれる。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ジンス(旋律の種)とは、上述のようにマカームの構成要素である。マカームはいくつかのジンスから組み立てられており、ジンスは3つの音、4つの音あるいは5つの音からできている。ここでは、1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をqと表記する(なお、このqという表記は一般的ではないのに注意。よく使われるのは、フラット記号の縦の線、棒の部分に左上から右下へ向かう斜めの線を付け加えたものである)。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ここでは、1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をq、1/4シャープ(半音ではなく1/4音あげる)を+と表記する。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "主音(メロディ・曲・旋律の最後の音、終わりの音)が非常に重要であり、演奏家は絶対にこれを間違えてはいけない。これを間違えると違うマカームになってしまう。また、主音からはじまる第1ジンス(最初のジンス)も重要で、この第1ジンスが大体の場合そのマカームの肝である。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をqと表記する。「/」は上行形/下行形をしめす。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "イラクのバグダードで伝えられてきた声楽および小編成の器楽合奏(タフト(Takht)、ジャウクあるいはチャルギーなどとも呼ばれる)でよく用いられるマカーム。演奏の際の編成は独唱者(マカームチーあるいはカーリーと呼ばれる)、サントゥール、ジョウザ(胡弓のようなもの)、ドゥフ(タンバリンのようなもの)、ダラブッカなどからなる。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "別資料。 {}で囲まれた音は終止音あるいは中心音をあらわす。qは1/4音低いことをあらわす。+は1/4音高いことをあらわす。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ダマスカスでのアラブ音楽のマカームの基本的なもの。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "単数形タブウ(もしくはタバア)、複数形トゥブーウ。サナーアート(複数形。単数形サヌア)とも言われる。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "サフィー・アッディーンは、主要なものをマカーマート、派生的なものをアーヴァーザートと呼んだ。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ラテン文字によるトルコ語の正書法ではマカームはmakamと表記する。複数形はアラビア語に基づくmakamatが用いられるが、トルコ語固有の複数形語尾を用いてmakamlarとも言う。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "イラン伝統音楽の旋法。7種類のダストガーと5種類の派生、アーヴァーズの全12種類がある。ダストは「手」、ガーはDogāhやSegāhのgāhと同じ。旋律型グーシェgushehを持つ。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "アゼルバイジャンのムガームについては情報が少ないが、アゼルバイジャンの作曲家で、ショスタコーヴィチの弟子カラ・カラーエフ(バレエ音楽「雷の道」が有名)によればムガームとは「アゼルバイジャン特有の旋法の名称、またはその旋法を基とし、組曲と狂詩曲を結合したような構成を持つ楽曲形式の名称」と定義される。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "7つの主要なムガームがあるとされ、", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "シャシュマカーム(Shashmaqom、6つのマカームを意味する)は長大な一連の曲の集まり、組曲である。ラーストならラーストという「音階・旋法」で統一された声楽曲や器楽曲の集まり、そしてその体系である。音楽体系とも言い得る。 シャシュマカームには以下の6つの「旋法」があり、6つの長大な「曲群」にあたる。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "17世紀ころにブハラやホラズムの宮廷音楽家によってかたちづくられていった。タスニフ(tasnif, テスニフとも)、タルジェ(tardzhe)、ガルドゥン(gardun)、ムハマス(mukhammas)、サキル(sakil)の5つの楽章からなるムシキロト(mushkilot, 「困難」の意、器楽部分)とサラフバル(sarakhbar)、タルキン(talkin)、ナスル(nasr)、ウファル(ufar)の4楽章からなるナスル(nasr, 「散文」の意、声楽部分)から構成されている。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ウイグル族のムカム(マカム、マカームとも)は長大な一連の曲の集まり。楽曲体系。音楽様式。「新疆のウイグルの大曲(ムカム)芸術」としてユネスコの無形文化遺産に登録されている。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "10世紀から13世紀にかけて、突厥族の間でその基礎が固められ、14世紀になって天山山脈の南北の地方に広がり、15世紀には「ムカム」の語も、ムカムとしての構造も一応整ったといわれている。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ムカムを構造的にも不動のものとして確立させたのは、16世紀、ヤルカンド汗国の2代目の君主アブドヴァシデの妃、アマンニサが時の優れたムカムの演唱家、カディールと協力して、民間に散逸散在していたムカムのチョンラクマン(チョン・ナグマとも)、ダスタン、マイシュラップ(マシュラップとも)を整理し体系化したことに因るものとされている。(楽師伝 - ウイグルの古典音楽家の詳細について書いてある)", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ウイグル族の住むそれぞれの都市に伝承されている。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ヤルカンドの近くにある小さな村(バスで大体1時間半程)、メリケット(メルキット)には12ムカムの古い形、12ムカムより歴史の古い?ドラン・ムカム Dollan Muqamが残っているという。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アラブのマカームなどと、同じ様な名前が散見される。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ムカムとは楽曲の体系。曲の集合体。1ムカム分演奏すると大体2時間はかかる。12ムカム全てとなると、丸々1日はかかる。12ムカム全曲を聴ける機会は今日はまずない。大概はあるムカムのごく一部を断片的に演奏したりする場合がほとんどで、それも合奏ではなく、単独楽器で演奏されたり、多少演奏されやすく手が加えられた簡易版を演奏する場合も多い。経験をつんだウイグルの音楽家でも、1ムカム分を覚えるのは至難の業で、12ムカムの内1ムカムだけでも覚えて演奏出来れば賞賛に値するとされる。東アラブ古典音楽における「ワスラ」、トルコにおける「ファスル」といった組曲形式(あるいは組歌形式;いくつもの声楽・器楽曲を集めたもの。能でいう「番組」)にあたる?また西アラブ古典音楽における「ヌーバ」、「マアルーフ」、ウズベキスタンやタジキスタンにおける「シャシュマコーム;6つのマコーム」も曲の集合体というので、ムカムに似ているかもしれない。イランにおける「ラディーフ」も同様のもの?", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "名前はチョンラクマン、ダスタン、マイシュラップとも。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "モーリタニアには、ブハール(複数形はブフール)と呼ばれる「旋法」のようなものが30以上存在する。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ヒンドゥースターニー音楽(北インド古典音楽)には、ペルシャやアラビアから来たといわれるラーガ、ヘセイニ(Heseini)、ヘジャス(Hejaz)、カフィ(Kafi)、バハル(Bahar)等がある。", "title": "各地のマカーム" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "カシミールのスーフィー音楽ではマカームという言葉が使われる。ただしマカーム・トーディーなどと言い実態はマカームの伝統より北インドのラーガの伝統に近い。(トーディーは北インド、ヒンドゥースターニー音楽でよく使われるラーガの一つ。)いずれにせよこれらはインドの異端の響きである。", "title": "各地のマカーム" } ]
マカームとは、 アラビア音楽の用語。以下で詳説。 ハンガリーの民謡デュオ名。 マカームはアラビア語で「留まるところ」を意味し、「場所」「壇」「地位」などの意味で使われる普通名詞だが、中近東の音楽では特に音楽理論用語として使われ、「旋法の体系、システム」を意味する語である。
'''マカーム'''とは、 #アラビア音楽の用語。以下で詳説。 #[[ハンガリー]]の民謡[[デュエット|デュオ]]名。 ---- '''マカーム'''('''maqām, مقام'''。複数形はマカーマート maqāmāt)は[[アラビア語]]で「留まるところ」を意味し、「場所」「壇」「地位」などの意味で使われる普通名詞だが、[[中近東]]の[[音楽]]では特に音楽理論用語として使われ、「[[旋法]]の体系、システム」を意味する語である。 ==音楽理論用語としてのマカーム== 音楽理論用語としてのマカームは、「[[旋法]]の体系、システム」といったようなものである。「[[アラブ音楽]]の『[[音階]]』」と説明されることも多い。[[旋律]]や音楽様式、楽曲体系そのものを指すときもある。マカームは、旋律型の集合体、旋律の型・パターンの集まりでもある。「音階と旋律のめぐり方を併せ持ったもの」とも言える。同じ音程構造、つまり同じ音階型を共有するマカームもある。その時は旋律のめぐり方や雰囲気などによって区別される。そして、通常2つ以上の'''ジンス'''(جنس jins,複数形はアジュナース,ajnās اجناس 古代ギリシア語のγένος [genos,ゲノス]より。「種類」の意)と呼ばれる「[[テトラコルド]]程度の範囲の音域の旋律の単位、旋律の種」によって構成されている。マカームを西洋音楽の音階と比べると、中立[[音程]](3/4音など)の使用が特徴的である。 代表的なマカームは[[ラースト]]。半音ではなく、4分の1音下げる記号をここで仮に[[Image:arabic music notation half flat.svg|9px]]とすると、だいたい次のような「音階」である、と描写されることが多い。 C,D,E[[Image:arabic music notation half flat.svg|9px]],F,G,A,B[[Image:arabic music notation half flat.svg|9px]] [[Image:Rast scale.svg|400px|thumb|ラースト]] E[[Image:arabic music notation half flat.svg|9px]]の音はEフラットよりは高いがEナチュラルよりは低い音となる。どの程度になるかは時代・地域・楽派などによって違うが、たとえばE[[Image:arabic music notation half flat.svg|9px]]は音程比27:22(約354.547セント)となる。 [[image:Al-Urmawi.JPG|400px|thumb|ウルマウィーの音楽理論書のひとつ ''Risāla al-Sharafiyya'']] マカームの理論付けにおいて重要な役割を果たした人物としてイスハーク・アルマウスィリー(アッバース朝期の音楽家)、[[キンディー]]([[9世紀]]、[[イスラム哲学]]の創始者としても有名)、[[ファーラービー]]([[10世紀]]、[[哲学者]]として有名、キターブ・アルムースィーカー・アルカビール Kitāb al-mūsīqá al-kabīr كتاب الموسيقى الكبير「音楽の大書、音楽大全」の著者)、[[イブン・スィーナー]](哲学者。「[[治癒の書]]」キターブ・アルシファ Kitāb al-Shifā' には音楽理論に関する章がある)、[[サフィー・アッ・ディーン・ウルマウィー]]([[:en:Safi al-Din al-Urmawi|Ṣafī al-Dīn al-Urmawī]]、1216年頃現イラン西部の[[ウルミア]]生まれ-1294年没、[[13世紀]]の[[スーフィー|神秘主義者]]。[[アッバース朝]]最後のカリフ・[[ムスタアスィム]]に仕え、キターブ・アルアドワール Kitāb al-Adwār كتاب الأدوار「旋法の書」の著者)などが挙げられる。また[[ジャーミー|アブドゥッラフマーン・ジャーミー]]も簡潔にまとめた論文を残している<ref>Risāla-yi mūsīqī「音楽論」旋法とリズム周期について述べた論文</ref>。(純粋の音楽家ではないのは、当時の[[ウラマー|イスラム知識人]]は万事に興味を持ち、手を出すのが普通だったから)。またキンディーらの理論は[[古代ギリシア]]の音楽理論著作の流れを受け継いでいると言える内容で、その意味ではマカームの理論には[[アリストクセノス]]、[[アルキュタス]]、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]、[[ピタゴラス]]などが関わっているとも言える(マカームが1オクターブを越え、2オクターブに渡って定義されているのは古代ギリシアの音階論と関係がある)。 [[トルコ音楽|トルコ]]のマカームmakam、[[イラン]]のアーヴァーズ、ダストガーフ、[[アゼルバイジャン]]のムガーム、[[ウズベキスタン]]のマコーム(マカーム)、[[中華人民共和国|中国]]・[[新疆ウイグル自治区]]のムカム(マカム、マカーム)、[[モーリタニア]]のブハールも、アラブ音楽のマカームと同様のものである。 他の音楽文化圏では、西洋古典音楽における「[[旋法]]」、[[インド]]古典音楽における「[[ラーガ]]」、中部[[ジャワ島|ジャワ]]伝統音楽におけるパトゥッ(パテット)、日本の[[雅楽]]における「調」である。 以下に、各種のマカームについて例を挙げるが、マカームの説明は参考とした資料によって違いが大きく、ここでは表記に一体性が取れないことを注記する<ref>名前が違う、つづりが違う、発音が違う、「音階」が違う、音程構成が違う、マカームの中で重要とされる音が違う、どのようなジンスで構成されているかが違う…等</ref>。 出発音マブダア(開始音)、開始音アーガーズ、終止音カラール(決定音)、強調音ガンマーズ(支配音)、中間停止音マルカズ、副終止音ザヒール(ダヒールとも)などの機能音が定義される。 ==各地のマカーム== ===アラブのマカーム=== 古典音楽のマカームの伝統は、大きく[[マシュリク]] (東アラブ古典音楽)と[[マグリブ]] (西アラブ古典音楽、アラブ・アンダルース音楽、ヌーバ・マアルーフ、マアルーフ)の伝統に分かれる。 ====アラブのジンス==== [[ジンス]](旋律の種)とは、上述のようにマカームの構成要素である。マカームはいくつかのジンスから組み立てられており、ジンスは3つの音、4つの音あるいは5つの音からできている。ここでは、1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をqと表記する(なお、このqという表記は一般的ではないのに注意。よく使われるのは、フラット記号の縦の線、棒の部分に左上から右下へ向かう斜めの線を付け加えたものである)。 *アウジュ・アーラー - Bq,C,D#,EqあるいはBq,C,D#,E *アジャムعجم(アラビア語で「ペルシア人」の意) - Bb,C,D。 *ウッシャーク - A,B,C,DまたはA,B,C,D,E Aからはじまるナハーワンド。ナハーワンド、ブサーリクはほぼ同じものを指す。 *ザーウィール - ラーストの変化形。C,D,Eq,F#,G *サーズカール - ラーストの変化形。C,D#,Eq,F,G *サバー - D,Eq,F,GbまたはD,Eq,F,Gb,A *シパール - F,G#,A,Bb,C。 *スィカーフ([[ペルシア語]]の「セガーフ」) - Eq,F,G *ジハールカーフ(ペルシア語の「チャハールガーフ」) - F,G,A,BbまたはF,G,A,Bb,C *クルディー(「[[クルド人]]」) - D,Eb,F,GまたはD,Eb,F,G,A。 *ナウアシュル・・・C,D,Eb,F#,G。ナグリーズと同じ *ナグリーズ・・・C,D,Eb,F#,G。ヒサールはほぼ同じものを指す *ナジュディー・・・F,G,A,Bq,C *ナハーワンド(ニハーワンドとも。地名[[ニハーヴァンド]]に由来) - C,D,Eb,FまたはC,D,Eb,F,G ブサーリク、ウッシャークはほぼ同じものを指す。 *バハルシューラク - C,E,F。 *バヤーティーبياتي - D,Eq,F,GまたはD,Eq,F,G,A *ヒサール - D,E,F,G#,A。Dからはじまるナグリーズ。 *ヒジャーズ(ヒジャーズィーとも。地名[[ヒジャーズ]]に由来) - D,Eb,F#,GまたはD,Eb,F#,G,A *ブサーリク - D,E,F,GまたはD,E,F,G,A Dからはじまるナハーワンド。 *マーフール - C,D,E,F,G ジハールカーフとほぼ同じ。 *ムスタアール - Eq,F#,G シカーフの変化形。 *ラースト - C,D,Eq,FまたはC,D,Eq,F,G *ラクブ - D,Eq,F,Gq,A {| class="wikitable" |- | アジャム (عجم) トリコルド, B♭から始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_ajam.jpg]] | バヤーティーBayati (بياتي) テトラコルド, Dから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_bayati.jpg]] | ヒジャーズHijaz (حجاز) テトラコルド, Dから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_hijaz.jpg]] |- | クルドKurd (كرد) テトラコルド, Dから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_kurd.jpg]] | ナハワンドNahawand (نهاوند) テトラコルド, Cから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_nahawand.jpg]] | ニクリーズNikriz (نكريز) ペンタコルド, Cから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_nikriz.jpg]] |- | ラーストRast (راست) テトラコルド, Cから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_rast.jpg]] | サバーSaba (صبا) テトラコルド, Dから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_saba.jpg]] | スィカSikah (سيكاه) トリコルド, Eqから始まる<br/>[[Image:Arabic_maqam_jins_sikah.jpg]] |} ====東アラブ古典音楽で使われるマカーム==== ここでは、1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をq、1/4シャープ(半音ではなく1/4音あげる)を+と表記する。 主音(メロディ・曲・旋律の最後の音、終わりの音)が非常に重要であり、演奏家は絶対にこれを間違えてはいけない。これを間違えると違うマカームになってしまう。また、主音からはじまる第1ジンス(最初のジンス)も重要で、この第1ジンスが大体の場合そのマカームの肝である。 *ヤガーフ **ヤガーフ(イェカー) - ペルシャ語で「第1度」の意。 **:「音階」風に説明すると、G,A,Bq,C,D,E,F+,G。 **:(G,A,Bq,C;ラースト)+(D,E,F#,G;チャハールガーフ),(D,E,F+,G;ラースト)+(G,A,Bq,C;ラースト)+(D,Eb,F#,G;ヒジャーズィー)/(G,F,Eq,D;バヤーティー)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク)+(G,F,Eq,D,C;ラースト),(G,F,Eq,D;バヤーティー)+(C,Bq,A,G;ラースト) **シャット・アラバーン(シュドアラバーン) **:「音階」風に説明すると、G,Ab,B,C,D,Eb,F#,G。(G,Ab,B,C,D)+(D,Eb,F#,G)。ジンス構成はヒジャーズ+ヒジャーズ。出発音をGに変えたマカーム・ヒジャーズカールの移調形。 **ラーバット・ファザー **ディルカスィーダー **ファラハ・ファザー **:「音階」風に説明すると、G,A,Bb,C,D,Eb,F,G。(G,A,Bb,C,D)+(D,Eb,F,G)。ジンス構成はニハーワンド+クルディー。出発音をGに変えたマカーム・ニハーワンドの移調形とも説明される。ただ、ニハーワンドと違ってアジャムの[[トリコルド]](Bb,C,D)が旋律の中に現れてくるなどの特徴をもつため単にニハーワンドの移調形とは言えない。違うマカームである。(G,A,Bb,C;ニハーワンド)+(Bb,C,D;アジャム)+(D,Eb,F,G;クルディー) **スルターニー・ヤガーフ(スルターニー・イェカー) **:「音階」風に説明すると、G,A,Bb,C,D,Eb,F#,G。(G,A,Bb,C)+(D,Eb,F#,G)。ジンス構成はニハーワンド+ヒジャーズ。出発音をGに変えたマカーム・ニハーワンドの移調形。 *フサイニー・ウシャイラーン(ホセイニー・アシラーン) **フサイニー・ウシャイラーン **:「音階」風に説明すると、A,Bq,C,D,Eq,F,G,A。(A,Bq,C,D)+(D,Eq,F,G,A)? **バヤーティー・ウシャイラーン **ヒジャージー・ウシャイラーン **:「音階」風に説明すると、A,Bq,C,D,Eb,F#,G,A。(A,Bq,C,D)+(D,Eb,F#,G,A)? **ブサーリク・ウシャイラーン **シャウキ・タラブ **ニフフト **スージディル **:「音階」風に説明すると、A,Bb,C#,D,E,F,G#,A。(A,Bb,C#,D)+(D,E,F,G#,A)。 **:また(A,Bb,C#,D,E)+(E,F,G#,A)で、出発音をAに変えたマカーム・ヒジャーズカールの移調形とも言う。 *アジャム・ウシャイラーン **アジャム・ウシャイラーン(アージャーム・アシーラーン) **:「音階」風に説明すると、Bb,C,D,Eb,F,G,A,Bb **タルズ・ジャディード - 「新タルズ」 **シャウキ・アフザー(シュークアフザ) **:「音階」風に説明すると、Bb,C,D,Eb,F,Gb,A,Bb **シャウキ・アーウィル *イラク **イラーク(アラク) **:「音階」風に説明すると、Bq,C,D,Eq,F,G,A,Bq。(Bq,C,D)+(D,Eq,F,G)+(G,A,Bq)。 **:(Bq,C,D;スィガーフ on Bq)+(D,Eq,F,G;バヤーティー on D)+(G,A,Bq,C,D;ラースト on G),(Bq,C,D;スィガーフ on Bq)+(D,Eq,F,G,A;バヤーティー on D),(Eq,F,G,A,Bq;スィガーフ on Eq)/(Bq,A,G,F,Eq;スィガーフ on Eq)+(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(D,C,Bq;スィガーフ on Bq) **:イラークという名前はサフィー・アッディーンの論文にも現れる。 **:Bqに移調されたマカーム・スィカーフとも **アウジュ **ファラハナーク **:「音階」風に説明すると、Bq,C,D,E,F#,G,A,Bq。(Bq,C,D)+(D,E,F#,G)+(G,A,Bq)。 **ディルカシュ・ハーウラーン **バスター・イスファハーン **ラーバット・アルアルワー(ラーハット・アルワ) **:「音階」風に説明すると、Bq,C,D,Eb,F#,G,A,Bq。(Bq,C,D)+(D,Eb,F#,G)+(G,A,Bq)。 **:(Bq,C,D;スィガーフ on Bq)+(D,Eb,F#,G;ヒジャーズィー on D)+(G,A,Bq,C,D;ラースト on G)+(D,Eb,F#,G,A;ヒジャーズィー on D)/(A,G,F#,Eb,D;ヒジャーズィー on D),(A,G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F#,Eb,D;ヒジャーズィー on D)+(D,C,Bq;スィガーフ on Bq) **:Bqに移調されたマカーム・フッザームとも **バスター・ニガール(ブスタニカル、ベステニカルとも) **:「音階」風に説明すると、Bq,C,D,Eq,F,Gb,A,Bb。 **:(Bq,C,D;スィガーフ on Bq)+(D,Eq,F,Gb,A;サバー on D)+(A,Bb,C,D;クルディー on A),(G,A,Bq,C,D;ラースト on G)+(D,Eq,F,Gb,A;サバー on D)/(A,Gb,F,Eq,D;サバー on D)+(D,C,Bb,A;クルディー on A)+(A,Gb,F,Eq,D;サバー on D)+(D,C,Bq;スィガーフ on Bq) **ラウナク・ヌマー **アウジュ・アーラー *ラースト **ラースト **:「音階」風に説明すると、C,D,Eq,F,G,A,Bq,C。(C,D,Eq,F,G)+(G,A,Bq,C)。 **:上行形(C,D,Eq,F,G;ラースト)+(G,A,Bq,C;ラースト)/下降形(C,Bb,A,G;ナハーワンド)+(G,F,Eq,D,C;ラースト)とも。 **:ジンス構成。第1ジンス(C,D,Eq,F,G;ラースト on C),(Eq,F,G;シガーフ on Eq)+第2ジンス(G,A,Bq,C;ラースト on G)+第3ジンス(C,D,Eq,F,G;ラースト on C)+第4ジンス(G,A,Bq,C;ラースト on G)/第4ジンス(C,Bq,A,G;ラースト on G)+第3ジンス(G,F,Eq,D,C;ラースト on C)+第2ジンス(C,Bq,A,G;ラースト on G),(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+第1ジンス(G,F,Eq,D,C;ラースト on C) **:ラーストはサフィー・アッディーンの論文にも現れる。古典的、アカデミックな雰囲気。 **ラースト・カビール - 「大ラースト」 **ナイルーズ・ラースト **:単にナイルーズとも。ラーストに含まれるとも言う。 **:「音階」風に説明すると、C,D,Eq,F,G,Aq,Bb,C。(C,D,Eq,F,G)+(G,Aq,Bb,C)。ラースト+バヤーティー。 **ラースト・ジャディード - 「新ラースト」 **ラハーウィー - この名前はサフィー・アッディーンの論文にも現れる。 **スージナーク(スーズナーク、スージナックとも) **:「音階」風に説明すると、C,D,Eq,F,G,Ab,B,C。(C,D,Eq,F,G)+(G,Ab,B,C)。 **:マカーム・ラーストに似ている、ラーストに含まれる、ラーストの変化形とも。 **:(C,D,Eq,F,G;ラースト on C)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズィー on G)+(C,D,Eb,F,G;ブーサーリク on C)+(G,Ab,B;ヒジャーズィー on G)/(B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,Eq,D,C;ラースト on C)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq,D,C;ラースト on C) **スージディル・アーラー **:「音階」風に説明すると、C,D,Eq,F,G,A,Bb,C?。(C,D,Eq,F)+(F,G,A,Bb,C)?。 **ブズルグ(ブズルク) - この名前はサフィー・アッディーンの論文にも現れる。 **サーズカール **:(C,D#,Eq,F,G;サーズカール)+(G,A,Bq,C;ラースト)+(C,D,Eq,F;ラースト)+(F,G,A,Bb;チャハールガーフ)/(Bb,A,G,F;チャハールガーフ)+(F,Eq,D,C;ラースト)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク)+(G,F,Eq,D,C;ラースト),(G,F,Eq,D#,C;サーズカール) **バサンディーダー **ナグリーズ(ニクリーズ、ナクリーズとも) **:「音階」風に説明すると、C,D,Eb,F#,G,A,Bb,C。(C,D,Eb,F#,G)+(G,A,Bb,C)。 **:(C,D,Eb,F#,G;ナグリーズ on C)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)+(C,D,Eb,F#,G;ナグリーズ on C)+(G,A,Bb;ブーサーリク on G)/(Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F#,Eb,D,C;ナグリーズ on C)+(C,Bq,A,G;ラースト on G)+(G,F#,Eb,D,C;ナグリーズ on C) **タルズ・ナウィーン **:「音階」風に説明すると、C,Db,Eb,F,Gb,A,Bb,C。(C,Db,Eb,F)+(F,Gb,A,Bb,C)。 **:(C,Db,Eb,F;クルディー)+(F,Gb,A,Bb,C;ヒジャーズィー)+(C,Db,E,F;ヒジャーズィー)+(F,G,Ab,Bb;ニハーワンド)/(Bb,A,Gb,F;ヒジャーズィー)+(F,Eb,Db,C;クルディー)+(C,Bb,A,Gb,F;ヒジャーズィー)+(F,Eb,Db,C;クルディー) **マーフール **:「音階」風に説明すると、C,D,Eq,F,G,A,B,C。(C,D,Eq,F,G)+(G,A,B,C)。 **:上行形(C,D,Eq,F,G;ラースト)+(G,A,B,C;アジャム)/下降形(C,Bb,A,G;ナハーワンド)+(G,F,Eq,D,C;ラースト)とも。 **:(C,D,Eq,F,G;ラースト)+(G,A,B,C;チャハールガーフ)+(C,D,Eq,F,G;ラースト)+(G,A,B;チャハールガーフ)/(B,A,G;チャハールガーフ)+(G,F,Eq,D,C;ラースト)+(C,B,Ab,Gヒジャーズィー;),(C,Bb,A,G;ブーサーリク)+(G,F,E,D,C;チャハールガーフ),(G,F#,Eb,D,C;ナグリーズ),(G,F,Eq,D,C;ラースト) **ザーウィル **ディル・ニスィーン **ニハーワンド(ナハワンド、ニハーウェンド、ニハーヴァンド、ナハーヴァンドとも) **:上行形(C,D,Eb,F,G;ニハーワンド)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズ)/下降形(C,Bb,Ab,G;クルディー)+(G,F,Eb,D,C;ニハーワンド)という風にも説明される。西洋古典音楽の短調と説明されることもある;ちなみに短調と違って「悲しい雰囲気」とされていない。 **:(C,D,Eb,F;ニハーワンド on C)+(F,G,Ab,Bb,C;ニハーワンド on F)+(C,D,Eb,F;ニハーワンド on C)+(F,G,Ab,Bb;ニハーワンド on F)/(Bb,Ab,G,F;ニハーワンド on F)+(F,Eb,D,C;ニハーワンド on C)+(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G),(C,B,Ab,G,F;ナグリーズ on F),(C,Bb,Ab,G,F;ニハーワンド on F)+(F,Eb,D,C;ニハーワンド on C) **ニハーワンド・カビール - 「大ニハーワンド」 **ニハーワンド・ルーミー - 「[[ローマ]]のニハーワンド」 **ニハーワンド・ムラッサ **:スンブラーSunblahとも。「音階」風に説明すると、C,D,Eb,F,Gb,A,Bb,C。(C,D,Eb,F;ニハーワンド)+(F,Gb,A,Bb;ヒジャーズ)+C。 **ナウアシュウル(ナワサル、ナワ・アサル、ナウアシュルとも) **:「音階」風に説明すると、C,D,Eb,F#,G,Ab,B,C。(C,D,Eb,F#,G)+(G,Ab,B,C)。 **:最初の3音(C,D,Eb)が部分的なニハーワンド・テトラコードであることに注目。さらに第2音(D)が半音低い以外は、マカーム・アサルクルドに似ている。 **:(C,D,Eb,F#,G;ナウアシュル on C)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズィー on G)+(C,D,Eb,F#,G;ナウアシュル on C)+(G,Ab,B;ヒジャーズィー on G)/(B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F#,Eb,D,C;ナウアシュル on C)+(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F#,Eb,D,C;ナウアシュル on C) **ハヤーン **ヒジャーズカール(ヒジャーズカル) **:「音階」風に説明すると、C,Db,E,F,G,Ab,B,C。(C,Db,E,F,G)+(G,Ab,B,C)。 **:(C,Db,E,F,G;ヒジャーズィー on C)+(G,Ab,B,C;ヒジャズィー on G)+(C,Db,E,F,G;ヒジャーズィー on C),(C,D,Eb,F,G;ニハーワンド on C)+(G,Ab,B;ヒジャーズィー on G)/(B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,E,Db,C;ヒジャーズィー on C)+(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G),(C,Bb,Ab,G,F;ニハーワンド on F)+(G,F,E,Db,C;ヒジャーズィー on C) **ザングーラ(ザングラー) **:「音階」風に説明すると、C,Db,E,F,G,A,Bb,C?。(C,Db,E,F)+(F,G,A,Bb,C)?。 **:(C,Db,E,F,G;ヒジャーズィー)+(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ),(A,Bq,C,Db;サバー)+(C,Db,E,F,G;ヒジャーズィー)/(G,F,E,D,C;チャハールガーフ)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク),(C,Bb,A,G,F;チャハールガーフ)+(G,F,E,Db,C;ヒジャーズィー) **:トルコでゼンギュレ? **ヒジャーズカール・クルディー(ヒジャーズカール・クルド、クルディリ・ヒジャーズカルとも) **:「音階」風に説明すると、C,Db,Eb,F,G,Ab,Bb,C。 **:(C,Db,Eb,F,G;クルディー)+(G,Ab,Bb,C;クルディー) **:マカーム・ヒジャーズカルクルドはマカーム・クルドと同じ音程の間隔(音程構成)を持つが、マカーム・クルドでは、支配的な音が第4音上にあり、ヒジャーズカル・クルドでは支配的な音が第5音上にあるので、ヒジャーズカル・クルドはマカーム・クルドの転換されたバージョン(移調形)ではない、とも。 **:(C,Db,Eb,F,G;クルディー on C)+(F,G,Ab,Bb,C;ブーサーリク on F)+(C,Db,Eb,F,G;クルディー on C)+(G,Ab,Bb;クルディー on G)/(Bb,Ab,G;クルディー on G)+(G,F,Eb,Db,C;クルディー on C)+(C,Bb,Ab,G,F;ブーサーリク on F)+(G,F,Eb,Db,C;クルディー on C) [[Image:Maqam Hijaz Kar Kurd.png|400px|thumb|Maqam Hijaz Kar Kurd,この例では上行時と下降時の音階が違う]] **パンジュガーフ - ペルシャ語で「第5度」の意。 **シャウキ・ディル *ドゥガーフ **ドゥガーフ - ペルシャ語で「第2度」の意。 **バヤーティー(バヤート) **:「音階」風に説明すると、D,Eq,F,G,A,Bb,C,D。(D,Eq,F,G)+(G,A,Bb,C,D)。 **:(D,Eq,F,G;バヤーティー on D)+(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ on F)+(D,Eq,F,G;バヤーティー on D)+(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ on F)/(C,Bb,A,G,F;チャハールガーフ on F)+(G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(Eb,D,C,Bb;アジャム on Bb),(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq,D;バヤーティー on D) **:生き生きとして大衆的な雰囲気のマカーム。 **:最初の3音がD,Eq,Fでマカーム・サバーと同じである事に注意。マカーム・バヤーティーにおけるFの音の強調はそれと関係する?(曲によってはチャハールガーフ(F,G,A,Bb)のジンスが感じられないこともある) **:マカーム・サバーに移調(あるいは転調、転マカーム、というか・・・)しやすい事もある? **バヤーティー・スルターニー - 「[[スルタン]]のバヤーティー」 **バヤーティー・シュリ Bayati Shuri・・・カルジュガル参照。 **ウシャーク・トゥルキー(ウシャーク・チュルク) **:単にウシャークとも。「[[トルコ]]のウシャーク」の意。 **:「音階」風に説明すると、D,E,F,G,Aq,Bb,C,D。(D,E,F,G;ニハーワンド)+(G,Aq,Bb,C;バヤーティー)+D。このマカームでは、第3音(F)のチューニングが通常より低くなされる。 **ハウジー **フサイニー(ホセイニー) **:「音階」風に説明すると、D,Eq,F,G,A,Bq,C,D。(D,Eq,F,G,A)+(A,Bq,C,D)。 **:(D,Eq,F,G,A;バヤーティー on D)+(A,Bq,C,D;バヤーティー on A)+(D,Eq,F,G,A;バヤーティー on D)+(A,Bb,C;クルディー on A)/(C,Bb,A;クルディー on A)+(A,G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(A,G,F,Eq,D;バヤーティー on D) **:サフィー・アッディーンの論文にも現れる。人名フサインより。 **カルジュガル(カールジュガール、カール・ジハルとも) **:「音階」風に説明すると、D,Eq,F,G,Ab,B,C,D。(D,Eq,F,G)+(G,Ab,B,C,D)。 **:バヤーティー・シュリBayati Shuriとも言う **:(D,Eq,F,G;バヤーティー on D)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズィー on G)+(D,Eb,F,G;クルディー on D),(C,D,Eb,F,G;ニハーワンド on C)+(G,Ab,B,C;ヒジャズィー on G)/(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,Eb,D,C;ニハーワンド on C)+(C,B,Ab,G,F;ナグリーズ on F),(D,C,Bb,A,G;ニハーワンド on G),(D,C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,Eq,D;バヤーティー on D) **イスファハーン(地名[[イスファハーン]]から) - サフィー・アッディーンの論文にも現れる。 **イスファハーナク **ニシャーブーラク **アジャム **アジャム・ムラッサ **ナワー **アルディバール **シパール **クツク **スルターニー・イラーク **ヒサール **:「音階」風に説明すると、D,E,F,G#,A,Bb,C#,D。(D,E,F,G#,A)+(A,Bb,C#,D)。ジンス構成はナウアシュル+ヒジャーズィー。出発音をDに変えたマカーム・ナウアシュルの移調形。 **ジールグーラー **ムハッヤル(ムハイイェル) **ターヒル **グルイザール **バヤーティー・アラバーン **カルダーン **ヒジャーズィー(ヒジャーズとも) **:「音階」風に説明すると、D,Eb,F#,G,A,Bb,C,D。(D,Eb,F#,G)+(G,A,Bb,C,D)。 **:(D,Eb,F#,G;ヒジャーズィー on D)+(G,A,Bb,C,D;ブーサーリク on G),(G,A,Bq,C,D;ラースト on G)+(D,E,F,G;ブーサーリク on D)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)/(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,E,D;ブサーリク on D),(G,F#,Eb,D;ヒジャーズィー on D)+(D,C#,Bb,A;ヒジャーズィー on A)+(A,G,F#,Eb,D;ヒジャーズィー on D) **:サフィー・アッディーンの論文にも現れる。地名[[ヒジャーズ]]に由来 **シャーフ・ナーズ(シャーナーズ) **:「音階」風に説明すると、D,Eb,F#,G,A,Bb,C#,D。(D,Eb,F#,G,A)+(A,Bb,C#,D)。ジンス構成はヒジャーズ+ヒジャーズ。出発音をDに変えたマカーム・ヒジャーズカールの移調形。 **サバー **:「音階」風に説明すると、D,Eq,F,Gb,A,Bb,C,DあるいはD,Eq,F,Gb,A,Bb,C,DbあるいはD,Eq,F,Gb,A,Bb,C,Db,E,F。 **:最初の3音がD,Eq,Fでマカーム・バヤーティーと同じである事に注意。マカーム・バヤーティーの仲間に分類されることもある。 **:(D,Eq,F,Gb,A;サバー),(D,Eq,F;バヤーティー)+(F,Gb,A,Bb,C;ヒジャーズィー)+(C,Db,E,F;ヒジャーズィー)+(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ)/(C,Bb,A,Gb,F;ヒジャーズィー)+(A,Gb,F,Eq,D;サバー)+(D,C,Bb;アジャム),(Bb,A,Gb,F;ヒジャーズィー)+(F,Eq,D;バヤーティー),(A,Gb,F,Eq,D;サバー) **:夜の果ての倦怠感の雰囲気。 **:マカーム・バヤーティーに移調(あるいは転調、転マカーム?)しやすい事もある、とも。 **サバー・ナジュディー **サバー・ザンザマー **ナージ・ニヤーズ **ラクブ **:(D,Eq,F,Gq,A;ラクブ),(D,Eb,F,G;クルディー)+(F,G,A,Bb;チャハールガーフ),(Bb,C,D;アジャム)+(D,Eq,F,G;バヤーティー)/(G,F,Eb,D;クルディー)+(D,C,Bq,A,G;ラースト),(D,C,Bb;アジャム),(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク)+(G,F,Eq,D;バヤーティー) **:このマカームはラクブのジンス(D,Eq,F,Gq,A)に特徴がある。 **クルディー(クルド) **:「音階」風に説明すると、D,Eb,F,G,A,Bb,C,D。(D,Eb,F,G)+(G,A,Bb,C,D)。 **:(D,Eb,F,G;クルディー on D),(D,Eq,F,G;バヤーティー on D)+(G,A,Bb,C,D;ブーサーリク on G),(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ on F)+(D,Eb,F,G;クルディー on D)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)/(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eb,D;クルディー on D)+(D,C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eb,D;クルディー on D) ***アジャム・クルディー ***ムハッヤル・クルディー(ムハイイェル・クルディー) ***ヒサール・クルディー ***サバー・クルディー ***シャーフナーズ・クルディー ***ナワー・クルディー **アサル・クルド(クルディリ・ナワ・アサルとも) **:「音階」風に説明すると、D,Eb,F,G#,A,Bb,C#,D。(D,Eb,F,G#,A;アサル・クルド)+(A,Bb,C#,D;ヒジャーズィー)。最初の3音が部分的なクルドの[[テトラコルド]]であることに注目。さらに第2音が半音低い以外は、マカーム・ナウアシュルに似ている。 **ブーサーリク **ザウキ・タラブ *シガーフ **シガーフ(スィカー、セガー、シカ) **:「音階」風に説明すると、Eq,F,G,A,Bq,C,D,Eq。(Eq,F,G)+(G,A,Bq,C)+(C,D,Eq)。 **:(Eq,F,G;シガーフ on Eq)+(G,A,Bq,C;ラースト on G),(Bq,C,D;スィガーフ on Bq)+(C,D,Eq,F,G;ラースト on C),(Eq,F,G;スィガーフ on Eq)+(G,A,Bq,C;ラースト on G)/(C,Bq,A,G;ラースト on G)+(G,F,Eq,D,C;ラースト on C)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq;スィガーフ on Eq) **:ペルシャ語で「第3度」の意。深遠、神秘的な雰囲気。 **:Dの音がD#になることがよくある **フッザーム(ヒザーム) **:「音階」風に説明すると、Eq,F,G,Ab,B,C,D,Eq。(Eq,F,G)+(G,Ab,B,C)+(C,D,Eq)。 **:(Eq,F,G;スィガーフ on Eq)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズィー on G),(F,G,Ab,B,C;ナグリーズ on F)+(C,D,Eb,F#,G;ナグリーズ on C)+(G,Ab,B,C;ヒジャーズィー on G)/(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,Eq,D,C;ラースト on C),(G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq;スィガーフ on Eq) **:Dの音がD#になることがよくある **:これをマカーム・スィカーフと言うこともある。 **ムスタアール **:「音階」風に説明すると、Eq,F#,G,A,Bb,C,D,Eq。(Eq,F#,G)+(G,A,Bb,C)+(C,D,Eq)。 **:(Eq,F#,G;ムスタアール on Eq)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)+(C,D,Eq,F#,G;ザーウィール on C),(Eq,F#,G;ムスタアール on Eq)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)/(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F#,Eq;ムスタアール on Eq),(G,F#,Eq,D,C;ザーウィール on C)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G),(C,Bq,A,G;ラースト on G)+(G,F#,Eq;ムスタアール on Eq) **マヤー **:「音階」風に説明すると、Eq,F,G,A,Bb,C,D,Eq。(Eq,F,G)+(G,A,Bb,C)+(C,D,Eq)。 **:(Eq,F,G;スィカーフ on Eq)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)+(C,D,Eq,F,G;ラースト on C)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G)/(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq,D,C;ラースト on C),(G,F,Eq,D;バヤーティー on D)+(C,Bb,A,G;ブーサーリク on G)+(G,F,Eq;スィカーフ on Eq) **ラマル **:(Eq,F,G;スィカーフ on Eq)+(G,Aq,Bb,C,D;バヤーティー on G),(Bb,C,D;アジャム on Bb),(A,Bq,C,Db,E;サバー on A)+(Eq,F,G;スィカーフ on Eq)/(G,F,Eq;スィカーフ on Eq),(G,F,Eq,D#,C;サーズカール on C)+(C,Bb,A;クルディー on A),(C,Bb,Aq,G;バヤーティー on G)+(G,F,Eq;スィカーフ on Eq) **::スィカーフ(Eq,F,G)+バヤーティー(G,Aq,Bb,C)+サバー(A,Bq,C,Db) **ワジュハ・アルディバール **:(Eq,F,G;スィカーフ on Eq)+(G,A,Bb,C;ブーサーリク on G),(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ on F)+(C,D,Eb,F,G;ブーサーリク on C),(D,Eb,F,G;クルディー on D)/(G,F,Eb,D;クルディー on D),(G,F,Eb,D,C;ブーサーリク on C)+(C,B,Ab,G,F;ナグリーズ on F),(C,B,Ab,G;ヒジャーズィー on G)+(G,F,Eq;スィカーフ on Eq) *ブーサーリク **ニシャーブール **スィアール **:「音階」風に説明すると、(E,F#,G)+(G,A,Bq,C)+(C,D,E)? **:(E,F#,G;ニハーワンド),(Eq,F,G;スィカーフ)+(G,A,Bq,C,D;ラースト),(G,A,Bb,C;ブーサーリク),(A,Bq,C,D;バヤーティー),(Bq,C,D;スィカーフ)+(E,F#,G;ニハーワンド)/(G,F,Eq;スィカーフ),(G,F,Eq,D#,C;サーズカール)+(C,Bq,A;バヤーティー),(C,Bq,A,G;ラースト)+(G,F#,E;ニハーワンド) *チャハールガーフ - ペルシャ語で「第4度」の意。 **シャーワル **チャハールカーフ **:「音階」風に説明すると、F,G,A,Bb,C,D,Eq,F/F,Eb,D,C,Bb,A,G,F **チャハールガーフ・アラビー - 「[[アラブ]]のチャハールガーフ」 **:(F,G,A,Bb;チャハールガーフ)+(C,D,E,F;チャハールガーフ),(Bb,C,D;アジャム),(A,Bq,C,D;バヤーティー)+(F,G,A,Bb;チャハールガーフ)/(Bb,A,G,F;チャハールガーフ)+(F,E,D,C;チャハールガーフ),(D,C,Bb;アジャム)+(Bb,A,G,F;チャハールガーフ) **チャハルガーフ・トゥルキー - 「[[トルコ]]のチャハールガーフ」。トルコ古典音楽のチャールギャーフにあたる? **:(F,Gb,A,Bb,C;ヒジャーズィー),(F,G,A,Bb,C;チャハールガーフ),(Bb,C,D;アジャム)+(C,D,Eq,F;ラースト)+(F,Gb,A,Bb;ヒジャーズィー)/(Bb,A,G,F;チャハールガーフ)+(F,Eq,D,C;ラースト)+(D,C,Bb;アジャム),(C,Bb,A,Gb,F;ヒジャーズィー) **ナジュディー(地名[[ナジュド]]に由来) **:(F,G,A,Bq,C;ナジュディー),(G,A,Bq,C;ラースト)+(C,D,Eq,F;ラースト)+(F,G,A,Bb;チャハールガーフ) =====イラク===== ======イラクの主要なマカーム8種====== 1/4フラット(半音ではなく1/4音さげる)をqと表記する。「/」は上行形/下行形をしめす。 *ラースト Rāst・・・C,D,Eq,F,G,A,Bq,C/C,Bb,A,G,F,Eq,D,C *バヤート Bayāt・・・D,Eq,F,G,A,Bb,C,D/D,C,Bb,A,G,F,Eq,D *サバー Sabā・・・D,Eq,F,Gb,A,Bb,C,D/D,C,Bb,A,Gb,F,Eq,D *セガーフ Segāh・・・Eq,F,G,Ab,B,C,D,Eq/Eq,D,C,B,Ab,G,F,Eq *ヒジャーズ Hijāz・・・D,Eb,F#,G,A,Bb,C,D/D,C,Bb,A,G,F#,Eb,D *ヒジャーズカール・クルド Hijāzkār Kurd・・・D,Eb,F,G,A,Bb,C,D/D,C,Bb,A,G,F,Eb,D *ニハーワンド Nihāwand・・・C,D,Eb,F,G,Ab,Bb,C/C,Bb,Ab,G,F,Eb,D,C *アジャム ‘Ajam・・・F,G,A,Bb,C,D,Eq,F/F,Eb,D,C,Bb,A,G,F ======イラクのマカーム====== *ラーミー Lāmī・・・(B,C,D,E)+(E,F,G,A) ======イラクのイラーキー・マカーム(バグダーディー・マカーム)====== イラクのバグダードで伝えられてきた声楽および小編成の器楽合奏(タフト(Takht)、ジャウクあるいはチャルギーなどとも呼ばれる)でよく用いられるマカーム。演奏の際の編成は独唱者(マカームチーあるいはカーリーと呼ばれる)、サントゥール、ジョウザ(胡弓のようなもの)、ドゥフ(タンバリンのようなもの)、ダラブッカなどからなる。 *ラースト *バヤート *スィガーフ *ヒジャーズ・アッディーワーン *サバー *アジャム *アシーラーン *フセイニー(フサイニー) 別資料。<br> {}で囲まれた音は終止音あるいは中心音をあらわす。qは1/4音低いことをあらわす。+は1/4音高いことをあらわす。 *ラースト *:({C},D,Eq,F,G)+(G,A,Bb,C) *バヤート *:({D},Eq,F,G)+(G,A,Bb,C) *スィガーフ *:(C,D,{Eq})+({Eq},F,G) *ヒジャーズ *:({D},Eb,F#,{G})+({G},A,Bb,C) *サバー *:({D},Eq,F,Gb) *アジャム *:(F,G+,A,{Bb})+({Bb},C,D,Eb,F) *クルド *:(D,Eb,F,{G})+({G},Ab,Bb,C) *ナハワンド *:({C},D,Eb,F,G)+(G,Ab,Bb,C) =====[[シリア]]===== [[ダマスカス]]での[[アラブ音楽]]のマカームの基本的なもの<ref>ダマスカス音楽院で[[伝統音楽]]を教授しているA.Ailushによる</ref>。 *ラスト Rast *:(C,D,Eq,F,G)+(G,A,Bq,C) *バヤティ Bayati *:(D,Eq,F,G)+(G,A,Bb,C,D) *サバー Sabah *:D,Eq,F,Gb,A,Bb,C,D *シガ Siga *:(Eq,F,G)+(G,A,Bq,C),C,D,Eq *ヒジャーズカル・クルディ Hijazkar Kurdi *:(C,Db,Eb,F)+(G,Ab,B,C) *ヒジャーズ Hijaz *:(D,Eb,F#,G)+(G,A,Bb,C,D) *ナハワンド Nahawand *:(C,D,Eb,D,F,G)+(G,Ab,Bb,C) *ナクリーズ Nakriz *:(C,D,Eb,F#,G)+(F#,G,A,Bb,C) *アジャム・ウシャイラーン Ajam Ushairan *:(Bb,C,D)+(D,Eb,F,G,A)+(G,A,Bb) ====マグリブのトゥブーウ==== 単数形タブウ(もしくはタバア)、複数形トゥブーウ。サナーアート(複数形。単数形サヌア)とも言われる。 =====モロッコの26のトゥブーウ===== *1 **ラマル・アルマーヤ **フサイン(フシーン) **インクイラーブ・アッラマル(インケラーブ・アッラマル) **ハムダーン(アル・ハムダーン) *2 **イスバハン(アル・イスバハーン。イスファハーン) **ザワルカンド(ザウラカンド) *3 **マーヤ(アル・マーヤ) *4 **ラスド・アッディール(ラスド・アッダイル) *5 **アッイスティフラール(イステヘラール) **イラーク・アルアラブ *6 **ラスド(クナーウィー、アルラスドとも) **ヒサール **ジーダーン(ザイダーン) **マズムーム *7 **ガリーバ・アル・フサイン(ガリーバト・アル・フスィーン) **ガリーバ・アル・ムハッラル(アッガリーバ・アル・ムハッララ)。 **シーカ(アル・スィーカ) *8 **ヒジャーズ・アル・カビール(アル・ヒジャーズ・アル・カビール) **ムジャンナブ・アッ・ダイル(ムジャンナブ・アッ・ディール) **アル・マシュリキー・アッ・サギール(マシュレキー・アッサギール) *9 **アル・ヒジャーズ・アル・マシュリキー(ヒジャーズ・アル・マシュレキー) **マシュリキー(アル・マシュリキー、マシュレキー) *10 **イラーク・アルアジャム *11 **ウッシャーク(アル・ウッシャーク) **ラマル・アッ・ダイル(ラマル・アッ・ディール) **ダイル(アッ・ディール) =====アルジェリアの16のトゥブーウ===== *ラマル・アルマーヤ *ディール(ダイル) *ムジャンバ *フスィーン(フサイン) *ラマル *グリーブ *ジーダーン *ラスド *マズムーン *シーカ *ラスド・アッディール(ラスド・アッダイル) *マーヤ *イラーク *ジャールカ *ムッワール *ガリーバト・アルフシーン(ガリーバ・アル・フサイン) =====チュニジア===== ======チュニジアの13のトゥブーウ====== *ディール(ダイル) *イラーク *シーカ *フスィーン(フサイン) *ラスド *ラマル・アルマーヤ *ナワー *アバアイン *ラスド・アッディール(ラスド・アッダイル) *ラマル *アスバハーン *マズムーム *マーヤ ======チュニジアの29のトゥブーウ====== *ディール(ダイル) *ラスド・アッディール(ラスド・アッダイル) *イステヘラール・アッディール(イスティフラール・アッダイル) *ムジャンナブ・アッディール *ラハーウィー *ラスド *(フスィーン)ニーリーズ *フスィーン・アジャム(フサイン・アジャム) *フスィーン・アスル(フサイン・アスル) *フスィーン・サバー(フサイン・サバー) *フスィーン・ウシャイラーン(フサイン・ウシャイラーン) *ヒジャーズィー *ウッシャーク *サバー *イラーク *ムハイール・イラーク *ラマル *アスブアイン *ナワー *イラーク・アスル *ラマル・マーヤ *イスバハーン(イスファハーンのこと) *スィーカ *マーヤ *アジャム *アジャム・ウシャイラーン *マズムーム *アルザーウィー *ムハイール・スィーカ =====リビアの13のトゥブーウ===== *ラスド *ディール *ラスド・アッディール *マーヤ *イラーク *シーカ *ラマル・アルマーヤ *フシーン *ナワー *イスバハーン *アスバアイン *ラマル *マズムーム・ムハッイル ====サフィー・アッディーンによる12のマカーマートと6つのアーヴァーザート==== [[サフィー・アッディーン]]は、主要なものをマカーマート、派生的なものをアーヴァーザートと呼んだ。 *12のマカーマート **ウッシャーク **ナヴァー **ブーサリーク **ラースト **イラーク **イスファハーン **ズィルアーフカンド **ブズルク **ザンクーラ **ラハーウィー **フサイニー **ヒジャーズィー *6つのアーヴァーザート **カワーシュト **カルダーニーヤー **ナウルーズ **マーヤ **サルマク **シャーハナーズ ====ジャミーの「音楽論(第1部作曲論)」に記述されている12のマカーム==== *ウッシャーク *ナヴァー *ブサリーク *ラースト *フサイニー *ヒジャーズ *ラハヴィー *ザングーラ *イラーク *イスファハーン *ジラフカンド *ブズルク ===トルコのマカーム(makam)=== [[ラテン文字]]による[[トルコ語]]の正書法ではマカームはmakamと表記する。複数形はアラビア語に基づくmakamatが用いられるが、トルコ語固有の複数形語尾を用いてmakamlarとも言う。 ====トルコ古典音楽で用いられる音程==== *コマ(koma) - ファズラ(fazla)とも。9/8の音程比の[[全音]](約203.910[[セント (音楽)|セント]])を9等分した大きさの音程。約22.66セント。 *バキイェ(bakiye) - 4コンマの大きさ。約90.56セント。 *キュチュク・ミュジェンネプ(küçük mücennep) - 5コンマの大きさ。約113.20セント。 *ビュユク・ミュジェンネプ(büyük mücennep) - 8コンマの大きさ。約181.12セント。 *タニーニー(tanînî) - 9コンマの大きさ。約203.76セント。 *アルトゥク・イキリ(artık ikili) - 12コンマの大きさ。約271.68セント。 **このように、イラン音楽やインド音楽よりもはるかに小さな音程を用い、それを駆使するのがトルコ音楽である。西洋人や日本人のほとんどはこれらを音程とはみなせないが、訓練を受けた現地民は立派に使いこなしている。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !音程名<br>(''Aralığın adı'') !コマの値<br>(''Koma olarak değeri'') !シンボル<br>(''Simge'') |- |''koma'' あるいは ''fazla''||1|| F |- |''eksik bakiye''|| 3|| E |- |''bakiye''|| 4|| B |- |''kücük mücenneb''|| 5|| S |- |''büyük mücenneb''|| 8|| K |- |''tanîni''|| 9|| T |- |''artık ikili''|| 12 ~ 13|| A |} ====テトラコルド(''dörtlüler'')とペンタコルド(''beşliler'')==== *チャールギャーフ(Çargâh) - 音程の間隔は、タニーニー、タニーニー、バキイェもしくはタニーニー、タニーニー、バキイェ、タニーニー。 *プーセリク(Puselik, Buselik) - 音程の間隔は、タニーニー、バキイェ、タニーニーもしくはタニーニー、バキイェ、タニーニー、タニーニー。 *キュルディー(Kürdî) - 音程の間隔は、バキイェ、タニーニー、タニーニーもしくはバキイェ、タニーニー、タニーニー、タニーニー。 *ラースト(Rast) - 音程の間隔は、タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプもしくはタニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー。 *ウッシャーク(Uşşak) - 音程の間隔は、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニーもしくはビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー、タニーニー。 **音程の間隔がビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー、タニーニーの時ヒュセイニー(Hüseynî)とも言う。 *ヒジャーズ(Hicaz) - 音程の間隔は、キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプもしくはキュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー。 *サバー(Sabâ) - 音程の間隔は、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ。 *セギャーフ(Segâh) - 音程の間隔は、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、タニーニー。 *ヒュッザーム(Hüzzam) - 音程の間隔は、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー・キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ。 *ニクリーズ(Nikriz) - 音程の間隔は、タニーニー、キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ。 *ペンチギャーフ(Pençgâh) - 音程の間隔は、タニーニー、タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ。 *フェラフナーク(Ferahnâk) - 音程の間隔は、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー・タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ。 ====基本マカーム(単純マカーム)13種==== *チャールギャーフ(Çargâh) - チャールギャーフ(タニーニー、タニーニー、バキイェ、タニーニー)+チャールギャーフ(タニーニー、タニーニー、バキイェ)。 *:チャールギャーフは、ペルシア語のチャールガーフにあたる。「四度目」の意。 *プーセリク(Puselik, Buselik) - プーセリク(タニーニー、バキイェ、タニーニー、タニーニー)+ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ) *キュルディー(Kürdî) - キュルディー(バキイェ、タニーニー、タニーニー)+プーセリク(タニーニー、バキイェ、タニーニー、タニーニー)。 *ラースト(Rast) - ラースト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ラースト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ) *ウッシャーク(Uşşak) - ウッシャーク(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+プーセリク(タニーニー、バキイェ、タニーニー、タニーニー) *:ウッシャークのジンスで使われるビュユク・ミュゼンネプは理論では8コンマだが、実際の演奏では7コンマになる。 *ヒュセイニー(Hüseynî) - ヒュセイニー(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー、タニーニー)+ウッシャーク(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー) *ネヴァー(Neva) - ウッシャーク(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ラースト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー) *ヒジャーズ(Hicaz) - ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ)+ラスト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー) *ヒュマーユーン(Hümayun) - ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ)+プーセリク(タニーニー、バキーイェ、タニーニー、タニーニー) *ウッザール(Uzzal) - ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ウッシャーク(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー) *ゼンギュレ(Zengüle) - ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ) *:ゼングーレ(Zengûle)とも言う。 *カルジュアル(Karcığar) - ウッシャーク(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー) *スーズィナーク(Suzinak) - ラースト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+ヒジャーズ(キュチュク・ミュジェンネプ、アルトゥク・イキリ、キュチュク・ミュジェンネプ) ====その他のよく使われるマカーム==== *セギャーフ(Segâh) *アジェム・アシーラーン(Acem Aşiran) *アジェム・キュルディー(Acem Kürdî)複合マカーム?最初(B,C,D,E)+(E,F#,G,A,B)の音階で、次(G,A,B,C,D)+(D,E,F#,G)に移り変わって、最後にまた(B,C,D,E)+(E,F#,G,A,B)に戻る? *ベヤーティー(Beyâtî)(ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ、タニーニー)+(タニーニー、バキイェ、タニーニー、タニーニー) *マーフル(Mâhur) *スルターニー・イェギャーフ(Sultanî Yegâh) *ニハーヴェンド(Nihavend) *キュルディリ・ヒジャーズキャール(Kürdili Hicazkâr) *スーズィディル(Suzidil) *ヒジャーズキャール(Hicazkâr) *フェラーフフェザー(Ferahfeza) *イェギャーフ(Yegâh) *シェヴクフェザー(Şevkfeza) *ウラーク(Irak) *エヴィチ(Eviç) *ベステニギャール(Bestenigâr) *フェラフナーク(Ferahnâk) *ウスファハーン(Isfahân) *シェフナーズ(Şehnaz) *サバー(Sabâ) *ヒュッザーム(Hüzzam) *ムハッイェル(Muhayyer) *ヒジャーズ・ヒュマユーン(Hicaz Hümayun) *ACEM *ACEM-BÛSELİK *ARAZBÂR *ARAZBÂR-BÛSELİK *AŞK-EFZÂ *BESTE-ISFAHÂN *BEYÂTÎ-ARABÂN *BEYÂTÎ-ARABÂN-BÛSELİK *BEYÂTÎ-BÛSELİK *BÛSELİK *BÛSELİK-AŞÎRÂN *BÜZÜRK *ÇÂRGÂH *DİLKEŞ-HÂVERÂN *DİLKEŞÎDE *DÜGÂH *EVC-ÂRÂ *EVC-BÛSELİK *EVC-HÛZÎ *EVC-MÂYE *FERAHNÂK-AŞÎRÂN *GERDÂNİYYE *GERDÂNİYYE-BÛSELİK *GERDÂNİYYE-KÜRDÎ *GÜL'İZÂR *HİCÂZ *HİCÂZ-AŞÎRÂN *HİCÂZ-BÛSELİK *HİCÂZ-ZEMZEME *HİCÂZ ZÎRGÛLE *HİSÂR *HİSÂR-BÛSELİK *HÛZÎ *HÜSEYNÎ *HÜSEYNÎ-AŞÎRÂN *HÜSEYNÎ-ZEMZEME *HÜZZÂM-I CEDÎD *KARCIĞAR *KÜRDÎ *MÂHÛR-BÛSELİK *MÂYE *MUHAYYER-BÛSELİK *MUHAYYERKÜRDÎ *MUHAYYER-SÜNBÜLE *MÜSTEÂR *NEVÂ *NEVÂ-BÛSELİK *NEVÂ-KÜRDÎ *NEV-ESER *NİHÂVEND-İ KEBÎR *NİKRÎZ *NİŞÂBÛR *NİŞÂBÛREK *NÜHÜFT *PENCGÂH *PESENDÎDE *RÂHATÜLERVÂH *RAST *RAST-I CEDÎD *REHÂVÎ *SABÂ-BÛSELİK *SABÂ-ZEMZEME *SÂZ-KÂR - (13コマの大きさの音程、4コマの大きさの音程(バキイェ)、5コマの大きさの音程(キュチュク・ミュジェンネプ)、9コマの大きさの音程(タニーニー))+ラスト(タニーニー、ビュユク・ミュジェンネプ、キュチュク・ミュジェンネプ)? *SEGÂH-ARABÂN *SİPİHR *SÛZ-İ DİL-ÂRÂ *SÛZ-NÂK *ŞEDD-İ ARABÂN *ŞEHNÂZ-BÛSELİK *ŞEVK-İ TARAB *TÂHİR *TÂHİR-BÛSELİK *UŞŞAK *UZZÂL *ZÂVİL *ZÎRGÛLE'Lİ SÛZ-NÂK ====トルコ軍楽([[メフテル]])で使われるマカーム==== *アジェム(Acem) *ウッザール(Uzzal) *ウッシャーク(Uşşak) *ウラーク(Irak) *エヴィチ(Eviç) *ギュリザール(Gülizâr) *キュルディー(Kürdî) *サバー(Sabâ) *スュンビュレ(Sünbüle) *セギャーフ(Segâh) - 具体的な曲例:シュレイマン王子の行進曲 *ターヒル(Tahir) *チャールギャーフ(Çargâh) *ニクリーズ(Nikriz) *ネヴァー(Neva) *ヒュセイニー(Hüseynî) - 具体的な曲例:古い陸軍行進曲「ジェッディン・デデン(祖先も祖父も)」 *プーセリク(Puselik, Buselik) *ベヤーティー(Beyâtî) *ペンチギャーフ(Pençgâh) *マーフル(Mâhur) - 具体的な曲例:軍隊行進曲(別名帝国戦のマーチ) *ムハッイェル(Muhayyer) *ラースト(Rast) - 具体的な曲例:陸軍行進曲(イスマイル・ハック・ベイによる)、テクビル行進曲、シヴァストポル行進曲 *ラハトゥルエルヴァーフ(Rahatülervah) *レハーヴィー(Rehavî) ===イランの[[ダストガー|ダストガーフ]](Dastgāh دستگاه)、アーヴァーズ(Āvāz)=== イラン伝統音楽の旋法。7種類の[[ダストガー]]と5種類の派生、アーヴァーズの全12種類がある。ダストは「手」、ガーはDogāhやSegāhのgāhと同じ。旋律型グーシェgushehを持つ。 ====ダストガーフ(Dastgāh)==== *シュール(Shūr) *:E(主音;シャーヘド),F+,G,A,B,C,D,E *ナヴァー(Navā, ナヴァーはペルシア語で「旋律」を意味する。アラブのナワー、トルコのネヴァーの語源) *:D,Eb(終止音;イースト;不安定に途切れる),F,G(主音;シャーヘド),A,Bb,C,D *セガーフ(Segāh, セガーフはペルシア語で「第三番目」の意。アラブのスィカーフ、トルコのセギャーフの語源) *:C,D,Eb(主音;シャーヘド),F,G,Ab,Bb(変化音;モテガイル音,狭い範囲で高低に動かし得る音),C *チャハールガーフ(Chahārgāh, チャハールガーフはペルシア語で「第四番目」の意。トルコのチャハールギャーフの語源) *:C(主音;シャーヘド),Db,E,F,G,Ab,B,C *ラーストパンジュガーフ(Rāstpanjgāh, ラーストはペルシア語で「真なるもの」、パンジュガーフは「第五番目」を意味する。「第5度上のラースト」) *:F(主音;シャーヘド),G,A,Bb,C,D,Eb,F *マーフル(Māhur) *:C(主音;シャーヘド),D,E,F,G,A(変化音,Abに変化する場合もある;モテガイル音,狭い範囲で高低に動かし得る音),B,C *:ダストガーフ・マーフールに含まれる重要なグーシェ(gūshe)として次の名前が挙げられる。マーフル(もしくはダルアーマド Dar-āmad、高み)、ダード(Dād, 叫び)、ホスロヴァーニー(Khosrovāni, ホスロー王の旋律)、ヘサール(Hesār, 砦)、デルケシュ(Delkesh, 魅惑)、シェキャステ(Shekaste, 傷心)、アラーク(‘arāq, イラク)、ラーキ(Rāk, [[ラーガ]])、サーキーナーメ(Sāqīnāme, 酔人の書)、スーフィーナーメ Sūfīnāme, 神秘主義者の書) *ホマーユーン(Homāyūn) *:G(主音),Ab,B,C,D,Eb,F,G ====アーヴァーズ āvāz==== *バヤーテ・エスファハーン(Bayāt-e Esfahān, [[エスファハーン]]のバヤート) - ホマーユーンから派生したものと考えられている。 *:C(主音;シャーヘド),D,Eb,F,G,Ab(終止音;イースト),B,C *バヤーテ・トルク(Bayāt-e tork, トルコ人のバヤート) - シュールから派生したものと考えられている。 *:E,F+,G(主音;シャーヘド),A,B,C,D(終止音;イースト),E *:音がEより下に行くことがない *アブー・アター(Abu ‘atā) - シュールから派生したものと考えられている。 *:E,F+(終止音;イースト),G,A(主音;シャーヘド),B,C,D,E *:あるいはE,F+(出発音アーガーズ&終止音イースト),G,A(主音シャーヘド),B,C,D,Eとも。 *アフシャーリー(Afshāri, [[アフシャール部族]]) - シュールから派生したものと考えられている。 *:E,F+(終止音;イースト),G,A(主音;シャーヘド),Bb(変化音;モテガイル音),C,D,E *ダシュティー(Dashti, 草原) - シュールから派生したものと考えられている。 *:E(終止音;イースト),F+,G(出発音;アーガーズ),A,B(あるいはBb,主音シャーヘド&変化音モテガイル),C,D,E ===アゼルバイジャンのムガーム Mugām=== アゼルバイジャンのムガームについては情報が少ないが、アゼルバイジャンの作曲家で、ショスタコーヴィチの弟子[[カラ・カラーエフ]](バレエ音楽「雷の道」が有名)によればムガームとは「アゼルバイジャン特有の旋法の名称、またはその旋法を基とし、組曲と狂詩曲を結合したような構成を持つ楽曲形式の名称」と定義される<ref>[http://www2.tky.3web.ne.jp/~veter/um/composer/Amirov.htm ヴェーテルのページ"Proshchad Vetra">Fikret Amirov バレエ音楽「アラビアン・ナイト」]による</ref>。 7つの主要なムガームがあるとされ、 *マフル Makhour? *セギャハ Seguiakh?(「3番目」の意) *ラスト Rast *バヤティ・シラズ Baiati-Chiraz?(「シラズの歌」の意) *他今のところ不明 ===ウズベキスタンやタジキスタンのシャシュマカーム=== [[シャシュマカーム]](Shashmaqom、6つのマカームを意味する)は長大な一連の曲の集まり、組曲である。ラーストならラーストという「音階・旋法」で統一された声楽曲や器楽曲の集まり、そしてその体系である。音楽体系とも言い得る。<br> シャシュマカームには以下の6つの「旋法」があり、6つの長大な「曲群」にあたる。 *ブズルク(Buzruk) - 「大旋法」の意。 *ラースト(Rost) - 「真の旋法」の意。 *ナヴァー(Navo) - 「旋律的旋法」の意。 *ドゥガーフ(Dugokh) - 「第2旋法」の意。 *セガーフ(Segokh) - 「第3旋法」の意。 *イラーク(Irok) - 「イラクの旋法」の意。 [[17世紀]]ころに[[ブハラ・ハン国|ブハラ]]や[[ヒヴァ・ハン国|ホラズム]]の宮廷音楽家によってかたちづくられていった。タスニフ(tasnif, テスニフとも)、タルジェ(tardzhe)、ガルドゥン(gardun)、ムハマス(mukhammas)、サキル(sakil)の5つの楽章からなるムシキロト(mushkilot, 「困難」の意、器楽部分)とサラフバル(sarakhbar)、タルキン(talkin)、ナスル(nasr)、ウファル(ufar)の4楽章からなるナスル(nasr, 「散文」の意、声楽部分)から構成されている。 ===ウイグルのムカム音楽=== [[ウイグル族]]のムカム<ref>この節は「[http://yui-wsh.kir.jp/ Yuighur.com【ゆいぐる どっとこむ】]」および、「{{Cite web|和書|url=http://www.hannan-u.ac.jp/learn/lecture/2003/1.html |title=生涯学習公開講座 シルクロード少数民族文化紀行―悠久の伝承文学探訪記(抄録) |publisher=[[阪南大学]] |accessdate=2003-10-13 |archiveurl=https://archive.is/20031013224603/http://www.hannan-u.ac.jp/learn/lecture/2003/1.html |archivedate=2003年10月13日 |deadlinkdate=2017年9月 }}(国際コミュニケーション学部教授[[高橋庸一郎]]、2003年6月21日(土)14:00~16:00)」を参考にした。</ref>(マカム、マカームとも)は長大な一連の曲の集まり。楽曲体系。音楽様式。「新疆のウイグルの大曲(ムカム)芸術」として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録されている<ref>[http://www.accu.or.jp/masterpiece/10apa_jp.htm 外部リンク]</ref>。 [[10世紀]]から[[13世紀]]にかけて、[[突厥]]族の間でその基礎が固められ、[[14世紀]]になって[[天山山脈]]の南北の地方に広がり、[[15世紀]]には「ムカム」の語も、ムカムとしての構造も一応整ったといわれている。 ムカムを構造的にも不動のものとして確立させたのは、[[16世紀]]、[[ヤルカンド汗国]]の2代目の君主アブドヴァシデの妃、[[アマニサハン|アマンニサ]]<ref>アマンニサハンとも。[[ヤルカンド]]に[[墓]]がある</ref>が時の優れたムカムの演唱家、カディールと協力して、民間に散逸散在していたムカムのチョンラクマン(チョン・ナグマとも)、ダスタン、マイシュラップ(マシュラップとも)を整理し体系化したことに因るものとされている。(楽師伝 - ウイグルの古典音楽家の詳細について書いてある) ウイグル族の住むそれぞれの都市に伝承されている。 *カシュガル・ムカム - 別名12ムカムとも。全部演奏するには1日かかるといわれている。 *ハミ・ムカム *タラン・ムカム *イリ・ムカム ヤルカンドの近くにある小さな村(バスで大体1時間半程)、メリケット(メルキット)には12ムカムの古い形、12ムカムより歴史の古い?ドラン・ムカム Dollan Muqamが残っているという。 ;12ムカムの名前 アラブのマカームなどと、同じ様な名前が散見される。 *ラック RAK *チャビアット CHABBIAT *ムシャーヴラク MUSAVIRAK *チャリガー CHARIGAH *:ペルシア語(チャハールガーフ;「第4番目」の意)が語源?。イランのダストガーフにチャハールガーフ、東アラブ古典音楽のマカームにジハールカーフ、アルジェリアのトゥブーウにジャールカ、トルコのマカームにチャールギャーフ、イランのダストガーフにチャハールガーフがある。 *パンジガ PANJIGAH *:ペルシャ語が語源?トルコのマカームにペンチギャーフ、イランのダストガーフにラーストパンジュガーフ、東アラブ古典音楽のマカームにパンジュガーフがある。 *オザール OZ'HAL *:トルコのマカームにウッザールがある。 *アジェム AJAM *:「ペルシャ人」の意。アラビア語が語源?チュニジアのトゥブーウにアジャム、トルコのマカームにアジェム、イラクのマカームにアジャムがある。 *ウッシャーク OSHSHAQ *:トルコのマカームにウッシャーク、モロッコのトゥブーウにウッシャーク(アル・ウッシャーク)、チュニジアのトゥブーウにウッシャーク、サフィー・アッディーンの論文にマカーマート・ウッシャークがある。 *バヤット BAYAT *:アラブのバヤーティーにあたる?トルコのマカームにベヤーティー、イランのアーヴァーズにバヤーテ・エスファハーン、バヤーテ・トルク、イラクのマカームにバヤートがある。 *ナーヴァ NAWA *:「旋律」。ペルシャ語が語源。イランのダストガーフにナヴァー、チュニジアのトゥブーウにナワー、リビアのトゥブーウにナワー、サフィー・アッディーンの論文にマカーマート・ナヴァー、ジャミーの「音楽論(第1部作曲論)」に記述されているマカームにナヴァー、トルコのマカームにネヴァー、ウズベキスタンやタジキスタンのシャシュマカームにナヴァー(Navo)、東アラブ古典音楽のマカームにナワーがある。 *セガー SIGAH *:「第3番目」。ペルシャ語が語源。イランのダストガーフにセガーフ、モロッコのトゥブーウにシーカ(アル・スィーカ)、アルジェリアのトゥブーウにシーカ、チュニジアのトゥブーウにシーカ(スィーカ)、リビアのトゥブーウにシーカ、トルコのマカームにセギャーフ、ウズベキスタンやタジキスタンのシャシュマカームにセガーフ(Segokh)、東アラブ古典音楽のマカームにシガーフ(スィカー、セガー、シカ)、イラクのマカームにスィガーフ、セガーフがある。 *イラーク IRAQ *:「[[イラク]]」の意。モロッコのトゥブーウにイラーク・アルアラブ、イラーク・アルアジャム、アルジェリアのトゥブーウにイラーク、チュニジアのトゥブーウにイラーク、リビアのトゥブーウにイラーク、サフィー・アッディーンの論文にマカーマート・イラーク、ジャミーの「音楽論(第1部作曲論)」に記述されているマカームにイラーク、トルコのマカームにウラーク、ウズベキスタンやタジキスタンのシャシュマカームにイラーク(Irok)がある。 ;ムカムの構造 ムカムとは楽曲の体系。曲の集合体。1ムカム分演奏すると大体2時間はかかる。12ムカム全てとなると、丸々1日はかかる。12ムカム全曲を聴ける機会は今日はまずない。大概はあるムカムのごく一部を断片的に演奏したりする場合がほとんどで、それも合奏ではなく、単独楽器で演奏されたり、多少演奏されやすく手が加えられた簡易版を演奏する場合も多い。経験をつんだウイグルの音楽家でも、1ムカム分を覚えるのは至難の業で、12ムカムの内1ムカムだけでも覚えて演奏出来れば賞賛に値するとされる。東アラブ古典音楽における「ワスラ」、トルコにおける「ファスル」といった組曲形式(あるいは組歌形式;いくつもの声楽・器楽曲を集めたもの。能でいう「番組」)にあたる?また西アラブ古典音楽における「ヌーバ」、「マアルーフ」、ウズベキスタンやタジキスタンにおける「シャシュマコーム;6つのマコーム」も曲の集合体というので、ムカムに似ているかもしれない。イランにおける「ラディーフ」も同様のもの? *チョン・ナグマ部 Chon Naghma *:チョンは「大きな」という意味。ナグマは「楽曲」(アラビア語のナグマ;旋律の意;が語源?)。字句通り、かなり規模が大きく、中は細部に別れている。ムカムによっては、チョン・ナグマ部に含まれるヌスカがなかったり、ジュラがなかったりもする **バス・ムカム Bas muqam **:バス・ムカムは、ちょうど1つのムカムの序奏部に当たるところで、拍子がなく、浪々と語られる感じでうたわれる。この部分だけで延々何分もある。アラブのタクスィーム(マカームに基づいた器楽の[[即興演奏]])、ラヤーリー(マカームに基づいた声楽の即興演奏)にあたる? **ヌスカ Nuska **:ヌスカは、アラビア語が語源。ムカムによってはない場合もある。 **タイゼ Tazi **:タイゼも、アラビア語が語源。 **サリクァ Saliqa **ジュラ Jula **:ムカムによってはない場合もある。 **セネム Senam **タキット Takit *ダスタン部分 Dastan *:ダスタンは物語、叙事詩を意味する。([[中央アジア]]のトゥルクメニスタンには「[[デスタン]]」と呼ばれる物語の弾き語りがある<ref>演目例:デスタン「シャセネムとガリブ」、デスタン「キョル・オグルィ」</ref>。) *:ダスタン部も、マシュラップ部と同様に第2ダスタンまでだけのムカムがあったり、第7ダスタンまであるものがあったり、と曲数は様々。 *:チャビアットムカムのダスタンは非常に長い時間を要するため、最近では第1ダスタンのみ演奏し終わらせることが多い。(本当は第2ダスタン、マシュラップ・・・と、曲が続いている) **第1ダスタン **第2ダスタン **第3ダスタン **・・・ *マシュラップ部 Mesrap *:第2マシュラップまでだけのムカムがあったり、第7マシュラップまであるものがあったり、と曲数は様々。マシュラップはチョン・ナグマやダスタンよりも、歌詞が大衆的に書かれているせいなのか、ウイグルの祭りや収穫の時期などに、これ単独で演奏され、踊りの曲として使用される場合が多い。基本的にマシュラップは、第1マシュラップが8分の7拍子となっているものがほとんどで、第2、第3マシュラップとなるに連れ、2拍子系の拍子に変化していき、テンポも段々と速くなって行く。全てのマシュラップの最後には、最初の序奏バス・ムカームを連想させる無拍子の旋律が奏され終了する。形式が明確なのも特徴。 **第1マシュラップ **第2マシュラップ **第3マシュラップ **・・・ 名前はチョンラクマン、ダスタン、マイシュラップとも。 ===モーリタニアのムーア古典音楽で使われるブハール=== [[モーリタニア]]には、ブハール(複数形はブフール)と呼ばれる「旋法」のようなものが30以上存在する。 *カール Karr・・・楽しみ、喜びを表現 *ファーグ・・・勇気、力、誇りを表現(戦争) *バイギ Baigi・・・憧憬、憂愁、悲嘆を表現 ===インド音楽との関わり=== [[ヒンドゥースターニー音楽]]([[北インド]]古典音楽)には、ペルシャやアラビアから来たといわれる[[ラーガ]]、ヘセイニ(Heseini)、ヘジャス(Hejaz)、カフィ(Kafi)、バハル(Bahar)等がある<ref>[http://www2m.biglobe.ne.jp/~m-souda/mysouda/music/pelican/volume1/nonwest/india/india4.html#muslim The Pelican History of Music>3. インド>北インドと南インドの伝統、ムスリムの影響]より</ref>。 *フセーニー・カーンナラー<ref>[[B.C.デーヴァ]]「インド音楽序説」([[中川博志]]訳)269頁</ref>(Huseni Kanhara) - 上行CDEb,FGA,BbC/下降CABbG,FG,EbFD,C *ヒジャーズ<ref>B.C.デーヴァ「インド音楽序説」(中川博志訳)269頁</ref>(Hijaz) - 上行CDEFGAbBbC/下降CBbAbG,F,EFG,DbC ====西北インド、カシミール地方のマカーム==== [[カシミール]]のスーフィー音楽ではマカームという言葉が使われる。ただしマカーム・トーディーなどと言い実態はマカームの伝統より[[北インド]]の[[ラーガ]]の伝統に近い。(トーディーは北インド、ヒンドゥースターニー音楽でよく使われるラーガの一つ。)いずれにせよこれらはインドの異端の響きである。 ==脚注== {{Reflist}} ==参考資料== *『音楽大事典』(平凡社) **[[柘植元一]]「西アジア」 **[[森田稔]]「中央アジア」 **柘植元一「マカーム」 **柘植元一「アフリカ(マグレブ)」 *『民族音楽大集成』(50枚組レコード集、キングレコード、1981年3月) **[[小泉文夫]]「解説書」74~77ページ *『ラルース世界音楽事典』(福武書店) **J.-C.C.「マカーム」 **J.-C.C.「アラブ」 **J.-C.C.「イラク」 *[[サラーフ・アルマハディ]]『アラブ音楽-構造・歴史・楽器学・古典39譜傍付』([[松田嘉子訳]]、PASTORALE、1998年) *[[ポール・コラール]]、[[ユルゲン・エルスナー]]『人間と音楽の歴史 北アフリカ』(音楽之友社) *[[粟倉宏子]]「[[シリア正教会]]:聖餐式の音組織」・・・「諸民族の音-小泉文夫先生追悼論文集」所収、661ページ、編集委員会 編、音楽之友社、昭和61年第1刷 *[[B.C.デーヴァ]]「インド音楽序説」([[中川博志]]訳)東方出版、1994年 *Rodolphe d'Erlanger, ''La musique arabe'' 第5巻、第6巻 *Mahmoud Guettat, ''La musique classique du Maghreb'', Sindbad, 1980. *Cameron Powers: Arabic Musical Scales – Basic Maqam Notation. GL, Boulders CO, ISBN 0-9745882-4-5. *Kurt u. Ursula Reinhard: Musik der Türkei. Bd. 1: Die Kunstmusik. Heinrichshofen, Wilhelmshaven 1984. *Marius Schneider: Raga – Maqam – Nomos. In: Die Musik in Geschichte und Gegenwart. Band 10. Kassel 1962, S. 1864–1868. *el-Mahdi, Salah (1972). La musique arabe : structures, historique, organologie. Paris, France: Alphonse Leduc, Editions Musicales. ISBN 2-85689-029-6. *Lagrange, Frédéric (1996). Musiques d'Égypte. Cité de la musique / Actes Sud. ISBN 2-7427-0711-5. *Marcus, Scott Lloyd (1989). Arab music theory in the modern period (Ph.D. dissertation). Los Angeles: University of California. OCLC 20767535. *Racy, Ali Jihad (2003). Making Music in the Arab World: The Culture and Artistry of Ṭarab. Publisher: Cambridge ; New York: Cambridge University Press. ISBN 0-521-30414-8. *Maalouf, Shireen (2002). History of Arabic music theory. Lebanon: Université Saint-Esprit de Kaslik. OCLC 52037253. ==外部リンク== *[http://www.maqamworld.com/index.html Arabic Maqam World]{{en icon}} *[http://www.neyzen.com/ NEY - Neyzen.com]{{tr icon}} *[http://www.arab-music.com/ arab-music.com] *[http://www.pizmonim.com// Sephardic Pizmonim Project] - [[日本語]]で読むことができる。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まかあむ}} [[Category:中近東の音楽]] [[category:民族音楽]] [[Category:旋法]] [[Category:無形文化遺産]] [[Category:中国の無形文化遺産]]
2003-08-23T05:34:55Z
2023-10-31T00:32:06Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:En icon", "Template:Tr icon", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%A0
3,578,251
SILHOUETTE FROM THE SKYLIT
SILHOUETTE FROM THE SKYLIT(シルエット・フロム・ザ・スカイリット)は、日本のロックバンド。略称は「汁」、「シルエット」、「SFTS」など。 福岡発、渋谷を拠点に活動するエモーショナルロックバンド。 2011年に1st EP「The Great and Desperate」、2012年に1stアルバム「Arche」をリリース。 2013年にはRed Bull主催バンドコンテスト「Red Bull Live On The Road 2013」にて優勝。 2014年、2nd EP「THE WORLD WILL NEVER SAVE YOU」、2ndアルバム「The Reflections」、1stシングル「Blue Echo / Closer」を立て続けにリリース。3作品共に、インディーズオリコンウィークリーチャートへのランクインの快挙を達成。 「Red Bull Live On The Road 2013」優勝副賞の海外レコーディングにて「Blue Echo / Closer」をRed Bull Studio NYにてレコーディング。 帰国後、KNOTFEST JAPAN 2014のオープニングアクトとして、幕張メッセのステージにて海外の名立たるアーティストとの共演を果たす。 2015年には「NipponCon」(ドイツ)への出演も果たしている。 2016年に自身の集大成となる3rdアルバム「Heracles」をリリースし、オリコンインディーズチャート6位、オリコンチャート14位を記録。 同年5月に行われた同アルバムのリリースツアーファイナルではTSUTAYA O-WESTをソールドアウト。 8月には初の台湾の大型ロックフェス「No Fear Festival」に出演しSPYAIRらと共演。初の台湾公演にもかかわらず、現地のファンが物販に長蛇の列を作るほど認知が広がっている。 2017年より新メンバーKiyoをギターに迎え、自主企画「SILHOUETTE FEST(通称:汁フェス)」をソールドアウトするなど、さらなる精力的な活動を見せている。 2007年 2008年 2010年 2011年 2012年 2013年 2014年 2015年 2016年 2017年 2018年 2019年 2020年 2021年 2022年
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "SILHOUETTE FROM THE SKYLIT(シルエット・フロム・ザ・スカイリット)は、日本のロックバンド。略称は「汁」、「シルエット」、「SFTS」など。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "福岡発、渋谷を拠点に活動するエモーショナルロックバンド。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2011年に1st EP「The Great and Desperate」、2012年に1stアルバム「Arche」をリリース。 2013年にはRed Bull主催バンドコンテスト「Red Bull Live On The Road 2013」にて優勝。 2014年、2nd EP「THE WORLD WILL NEVER SAVE YOU」、2ndアルバム「The Reflections」、1stシングル「Blue Echo / Closer」を立て続けにリリース。3作品共に、インディーズオリコンウィークリーチャートへのランクインの快挙を達成。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「Red Bull Live On The Road 2013」優勝副賞の海外レコーディングにて「Blue Echo / Closer」をRed Bull Studio NYにてレコーディング。 帰国後、KNOTFEST JAPAN 2014のオープニングアクトとして、幕張メッセのステージにて海外の名立たるアーティストとの共演を果たす。 2015年には「NipponCon」(ドイツ)への出演も果たしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2016年に自身の集大成となる3rdアルバム「Heracles」をリリースし、オリコンインディーズチャート6位、オリコンチャート14位を記録。 同年5月に行われた同アルバムのリリースツアーファイナルではTSUTAYA O-WESTをソールドアウト。 8月には初の台湾の大型ロックフェス「No Fear Festival」に出演しSPYAIRらと共演。初の台湾公演にもかかわらず、現地のファンが物販に長蛇の列を作るほど認知が広がっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2017年より新メンバーKiyoをギターに迎え、自主企画「SILHOUETTE FEST(通称:汁フェス)」をソールドアウトするなど、さらなる精力的な活動を見せている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2007年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2008年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2010年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2011年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2012年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2013年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2014年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2015年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2016年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2017年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2018年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2019年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2020年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2021年", "title": "バイオグラフィー" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2022年", "title": "バイオグラフィー" } ]
SILHOUETTE FROM THE SKYLIT(シルエット・フロム・ザ・スカイリット)は、日本のロックバンド。略称は「汁」、「シルエット」、「SFTS」など。
{{出典の明記|date=2017-4}} {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |名前= SILHOUETTE FROM THE SKYLIT |画像= |画像説明= |画像サイズ= <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |画像補正= <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |背景色= band |別名= <!-- グループの別名義や旧活動名を記入。愛称(ニックネーム)や略称ではありません。 --> |出身地={{JPN}} [[福岡県]] |ジャンル= [[オルタナティヴ・ロック]]<br />[[ポスト・ロック]]<br />[[エモ]]<br />[[ポスト・ハードコア]] |活動期間= [[2008年]] - |レーベル= [[Stoic Records]](2011年 - 2014年) |事務所= [[KAIROS]](2013年 - 2016年) |共同作業者= |公式サイト= [http://www.silhouettefromtheskylit.com/ SILHOUETTE FROM THE SKYLIT Official Website] |メンバー=SeshiroX([[ボーカル]])<br />Kiyo([[ギター]])<br />廣田哲朗([[ベース (弦楽器)|ベース]])<br />K.O.U([[ドラムセット|ドラムス]]) |旧メンバー= Rockwell([[ギター]]) }} '''SILHOUETTE FROM THE SKYLIT'''(シルエット・フロム・ザ・スカイリット)は、[[日本]]の[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]。略称は「'''汁'''」、「'''シルエット'''」、「'''SFTS'''」など。 == メンバー == ; SeshiroX(セシロックス) : Vocal担当。1月3日生まれ。 ; Kiyo(キヨ) : Guitar担当。6月12日生まれ。2017年1月加入。 ; 廣田 哲朗(ヒロタ テツロウ) : Bass担当。4月11日生まれ。 ; K.O.U(コウ/キング・オブ・ウエダ) : Drums担当。4月5日生まれ。 === 旧メンバー === ; [[Rockwell (ミュージシャン)|Rockwell(ロックウェル)]] : Guitar担当。6月4日生まれ。2010年から2016年8月まで活動。 == 概要 == [[福岡県|福岡]]発、[[渋谷]]を拠点に活動するエモーショナルロックバンド。 2011年に1st EP「The Great and Desperate」、2012年に1st[[アルバム]]「Arche」をリリース。<br /> 2013年には[[Red Bull]]主催バンドコンテスト「Red Bull Live On The Road 2013」にて優勝<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000096606 SILHOUETTE FROM THE SKYLIT、バンドオーディションでグランプリを獲得 | BARKS]</ref>。<br /> 2014年、2nd EP「THE WORLD WILL NEVER SAVE YOU」、2ndアルバム「The Reflections」、1st[[シングル]]「Blue Echo / Closer」を立て続けにリリース。3作品共に、[[インディーズ]][[オリコン|オリコンウィークリーチャート]]へのランクインの快挙を達成。 「Red Bull Live On The Road 2013」優勝副賞の海外レコーディングにて「Blue Echo / Closer」をRed Bull Studio NYにてレコーディング。<br /> 帰国後、[[KNOTFEST|KNOTFEST JAPAN 2014]]のオープニングアクトとして、[[幕張メッセ]]のステージにて海外の名立たるアーティストとの共演を果たす。<br /> 2015年には「NipponCon」(ドイツ)への出演も果たしている。 2016年に自身の集大成となる3rdアルバム「Heracles」をリリースし、オリコンインディーズチャート6位、オリコンチャート14位を記録。<br /> 同年5月に行われた同アルバムのリリースツアーファイナルでは[[TSUTAYA O-WEST]]をソールドアウト。<br /> 8月には初の[[台湾]]の大型ロックフェス「No Fear Festival」に出演し[[SPYAIR]]らと共演。初の台湾公演にもかかわらず、現地のファンが物販に長蛇の列を作るほど認知が広がっている。 2017年より新メンバーKiyoをギターに迎え、自主企画「SILHOUETTE FEST(通称:汁フェス)」をソールドアウトするなど、さらなる精力的な活動を見せている。 == バイオグラフィー == 2007年 * 2年間の米国留学から帰国した "SeshiroX" が「様々なバンドのプレーヤーをサポートに迎える」形で前身となるプロジェクトバンドを立ち上げる。 2008年 * SILHOUETTE FROM THE SKYLITに改名。 2010年 * プロジェクトに参加していた"RockWeell" "廣田哲朗" "K.O.U"がバンドメンバーとして正式加入、活動を本格化させる。 2011年 * 6月 活動の拠点を福岡から東京に移す。 * 12月 1st EP "The Great and Desperate" を初の全国リリース<ref>[https://gekirock.com/interview/2011/12/silhouette_from_the_skylit.php 福岡発、ポスト・スクリーモ・バンドSilhouette From The SkylitのファーストEPが完成! | 激ロック インタビュー]</ref><ref>[https://www.jungle.ne.jp/sp_post/silhouette-from-the-skylit/ Silhouette from the Skylit 高い表現力を誇るラウドシーンの超新星 信頼で繋がった4人が限界を超えた | JUNGLE☆LIFE]</ref>。 2012年 * 10月 1st Album "Arche" をリリース<ref>[https://gekirock.com/interview/2012/10/silhouette_from_the_skylit_1.php さらなる高みへ飛び立つときは来た!!FUNERAL FOR A FRIENDを手掛けたShawn Josephをエンジニアに起用した1stフル・アルバム『Arche』ここに完成!! | 激ロック インタビュー]</ref>。 2013年 * 4月 [[Club_Asia|渋谷club asia]]にて "Arche" リリースツアーファイナルを行う。 * 8月 [[SUMMER SONIC|SUMMER SONIC 2013]]出演。 * 11月 Red Bull主催バンドコンテスト"Red Bull Live On The Road 2013"優勝。 2014年 * 1月 2nd EP "THE WORLD WILL NEVER SAVE YOU" をリリース<ref>[https://gekirock.com/interview/2014/01/silhouette_from_the_skylit_2.php Red Bullのロック・バンド・オーディション企画で優勝を勝ち取り、勢いにのるSilhouette from the Skylitが新作をリリース!! | 激ロック インタビュー]</ref>。インディーズオリコンウィークリーチャートにて、初登場16位の快挙を成し遂げる。リリースツアーは全国11ヶ所にて実施。 * 3月14日 渋谷CYCLONEにて行われたツアーファイナルは、SOLD OUT公演となる。 * 6月 "Red Bull Live On The Road 2013" 優勝のプライズである海外レコーディングで渡米。Red Bull NY Studioにてレコーディングを行う。 (1st SINGLE "Blue Echo / Closer") * 7月 2nd Album "The Reflections"をリリース。インディーズオリコンウィークリーチャートにて、初登場18位。全国18都市22公演のツアーを実施。 * 9月19日 渋谷club asiaにてツアーファイナルを迎える。また、ツアーと平行して "Red Bull Live On The Road 2013" WINNERとして、 "Red Bull Live On The Road 2014"トラックツアー(全国5会場、うち1会場は荒天中止)、"Red Bull Live On The Road 2014 FINAL"公演へ出演。 * 8月 SUMMER SONIC 2014出演。 * 10月 [[ロードレース世界選手権|MOTO GP]]日本グランプリのMOTO STAGEにて開催されたRed Bull Live On The Road at MOTO GPへ出演。 * 11月 [[KNOTFEST|KNOTFEST JAPAN 2014]]出演<ref>[https://gekirock.com/news/2014/09/knotfest-japan-2014_7th-lineup.php SLIPKNOT主催フェス"KNOTFEST JAPAN 2014"、最終ラインナップにMISS MAY I、KNOCK OUT MONKEY、CRYSTAL LAKE、MAKE MY DAYら6組が決定!タイムテーブルも公開! | 激ロック ニュース]</ref>。 * 12月 1st SINGLE "Blue Echo / Closer" をリリース。 2015年 * 2月 渋谷CYCLONEにて初のワンマン公演を行い、SOLD OUTさせる。("Blue Echo / Closer" リリースツアーファイナル) * 6月 "Nipponcon 2015" (ドイツ)に出演。初の海外ライブを経験する。 2016年 * 1月 3rd Album "Heracles"をリリース。 * 5月 [[渋谷O-WEST]]にて、自身2回目のワンマン公演を行い500人を動員しSOLD OUTさせる。("Heracles" リリースツアーファイナル) * 8月 "No Fear Festival 2016"(台湾)に出演。 * 8月 RockWell 脱退 2017年 * 1月 Kiyo加入。SILHOUETTE FEST vol.11(w/バンドごっこ、ISAAC)を新宿Club SCIENCEにて開催。SOLD OUTさせる。 * 4月 Zephyren presents A.V.E.S.T project vol.10に出演。 * 8月 2nd SINGLE "いいからテーピングだ。"をリリース<ref>[https://natalie.mu/music/news/235967 SILHOUETTE FROM THE SKYLIT、“らしい変化”見せる新シングル - 音楽ナタリー]</ref><ref>[https://media.muevo.jp/articles/6214 SILHOUETTE FROM THE SKYLIT ――“ごたくはいいから聴いて!”加速するパワフルなナンバー | muevo voice]</ref>。 * 12月 [[CLUB_QUATTRO|渋谷CLUB QUATTRO]]にて無料ワンマン公演を敢行、SOLD OUTさせる。("いいからテーピングだ。" リリースツアーファイナル) 2018年 * 1月 3rd EP "WIRED"をリリース<ref>[http://www.edia.co.jp/news/press/show-by-rock-silhouette-from-the-skylit20180118.html 『SHOW BY ROCK!!』 タイアップアーティスト『SILHOUETTE FROM THE SKYLIT』の楽曲を新たに追加!|株式会社エディア]</ref>。 * 5月 [[LIQUIDROOM|恵比寿LIQUIDROOM]]にて、ツアーファイナルを開催。("WIRED" リリースツアーファイナル) 2019年 * 1月 10th Anniversary ワンマンを渋谷CYCLONEにて開催。SOLD OUTさせる。 * 2月 渋谷TSUTAYA O-WESTにて自主企画「汁御膳vol.1」を開催。 * 11月 「SHOW BY ROCK!!」3969 GRATEFUL ROCK FESTIVAL出演<ref>[https://news.ponycanyon.co.jp/2019/10/34854 「SHOW BY ROCK!!」3969 GRATEFUL ROCK FESTIVALに早見沙織、松井恵理子、植田真梨恵、SILHOUETTE FROM THE SKYLITが出演決定! | PONYCANYON NEWS]</ref>。 * 12月 渋谷club asiaにて 10th Anniversary ワンマン「NEVER EVER GET ENOUGH」を開催。SOLD OUTさせる。 * 12月 配信SINGLE "Hundred Lies"をリリース。 2020年 * 9月 オンラインイベント "[[SHOW_BY_ROCK!!#ライブイベント|SHOW BY ROCK!! 3969 Festival 2020〜6(ROCK)時間だょ♪全ロッカー集合!!〜]]" 出演。 * 11月 配信SINGLE "Before Summer Ends"をリリース。 * 12月 4th EP "Get New Airs On"を配信リリース。 2021年 * 1月 配信SINGLE "HIT IT HARD"をリリース。 2022年 * 4月 5th EP "To Be Continued"配信リリース。 == ディスコグラフィー == === 会場限定盤 === {|class="wikitable" style=text-align:center;font-size:small |- !&nbsp; !発売日 !タイトル !style="width:45%"|収録曲 |- |1st Demo |[[2009年]] ! '''Everywhere''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全2曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Everywhere # Fuels To Run Out</div></div> |- |2nd Demo |[[2009年]] ! '''CRY FOR THE MOON ''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全2曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # CRY FOR THE MOON # Can't Get Over You </div></div> |- |3rd Demo |[[2010年]] ! '''HOLLOW IN THE SUN ''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全2曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # HOLLOW IN THE SUN # Unsheathed </div></div> |- |} === シングル === {|class="wikitable" style=text-align:center;font-size:small |- !&nbsp; !発売日 !タイトル !style="width:45%"|収録曲 !規格品番 |- | |[[2012年]] ! '''SEEK MY WAY OUT ''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全2曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # SEEK MY WAY OUT # Puddle -demo.ver-</div></div> |Brush Music Store限定販売 </div></div> |- |1st |[[2014年]][[12月3日]] ! '''Blue Echo / Closer''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全3曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Blue Echo # Closer #Sheltered</div></div> |SRBM-1008 |- |2nd |[[2017年]][[8月2日]] ! '''いいからテーピングだ。''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全3曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # いいからテーピングだ。 # Beyond Six Degrees #モーゼの海割を防ぎたい君に贈るたった3つの解</div></div> |GREAT-0001 |- |} === 配信限定シングル === {|class="wikitable" style=font-size:small |- !発売日 !タイトル !レーベル |- |2019年12月28日 | '''Hundred Lies''' | rowspan="6" | Great Scott Records |- |2020年11月2日 | '''Before Summer Ends''' |- |2021年1月15日 | '''HIT IT HARD''' |- |2023年9月9日 | '''アナクロパレード''' |- |2023年10月28日 | '''Invitation to Anew''' |- |2023年12月4日 | '''Bitter Sinners''' |- |} === アルバム === {|class="wikitable" style=text-align:center;font-size:small |- !&nbsp; !発売日 !タイトル !style="width:31%"|収録曲 !規格品番 |- |1st EP |[[2011年]][[12月23日]] ! '''The Great and Desperate ''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全6曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Raise Your Voice # Skyline # Cipher # Fake and Going to Fade # Rainfall # Take Other One, She Said </div></div> |SRBM-1003 |- |1st Full |[[2012年]][[10月3日]] ! ''' Arche''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全12曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Seek My Way Out # Parallel Lines # Hero Killed In Overnight # Rusty Bell # Fleeting Story # Stay In The Middle # Cross The Rubicon # See Me Falling # California Gurls # Lights And Shades # Sapphire # Fake And Going To Fade (Acoustic) </div></div> |SRBM-1004 |- |2nd EP |[[2014年]][[1月22日]] ! '''THE WORLD WILL NEVER SAVE YOU''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全5曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Never Save You # Spring # I'm Not Here For This # Moniker # Parallel Lines -piano ver.- </div></div> |SRBM-1005 |- |2nd Full |[[2014年]][[7月2日]] ! '''The Reflections''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全10曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Complete Me # Unsheathed # Confessions # Total Mistake # Two Left Feet # Sonar # Sweet Misunderstanding # Never Say Never # Hate This Place # Live For The Night </div></div> |SRBM-1006 |- |3rd Full |[[2016年]][[1月6日]] ! '''Heracles''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全10曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Growing Pains # Emperor Time # The UNreal # Alternative # Closer # Fractale Circuit # Devils Inside # Crazy And Trusty # Blue Echo # 22 </div></div> |KIRS-1003 |- |3rd EP |[[2018年]][[1月3日]] ! '''WIRED''' |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">全7曲</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> # Warning # Lesson of March # Keep Myself Upd8ed # ハリガネーゼ # シーシュポスの気持ち # 冬靄 # Pray </div></div> |GREAT-0002 |- |4th EP |[[2020年]][[12月1日]] ! '''Get New Airs On''' |全5曲 | |- |5th EP |[[2022年]][[4月11日]] ! '''To Be Continued''' |全6曲 | |- |} === 参加作品 === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! 発売日 !! 商品名 !! 歌 !! 楽曲 !! 備考 |- | rowspan="2" | 2018年8月29日 | rowspan="2" | ENDLESS!!!! | {{vau|SHOWBYROCK!! Family|1}} | 「ENDLESS!!!!」 | rowspan="2" | ゲーム『[[SHOW BY ROCK!!]]』関連曲 |- | {{vau|SHOWBYROCK!! Family|2}} | 「Eternal Unity -明日へのメロディ-」 |- |} === ミュージックビデオ === {|class=wikitable border="1" cellpadding="3" style="font-size:smaller;" |- |style="text-align:center" | '''曲名''' |- |「[https://www.youtube.com/watch?v=Vxx2nIfoN8w Fake and going to fade]」 |- |「[https://www.youtube.com/watch?v=owActgUsdSI Seek My Way Out]」「[https://www.youtube.com/watch?v=4_VTeg4WxjA California Gurls]」 |- |「[https://www.youtube.com/watch?v=DCElCMMKxj4 NEVER SAVE YOU]」 |- |「[https://www.youtube.com/watch?v=_eNZLQtsYgE Unsheathed]」 |- |「[https://www.youtube.com/watch?v=EG9JI07Vpzg Blue Echo]」「[https://www.youtube.com/watch?v=F8bcdxHEkWo Closer]」 |- |「[https://www.youtube.com/watch?v=Ypi8GM81q1o Growing Pains]」 「[https://www.youtube.com/watch?v=QtYTRTQy2iU Emperor Time]」 |- |「[https://www.youtube.com/watch?v=JdM3kstbdfA いいからテーピングだ。]」 |- |} == 出演 == * [[SHOW BY ROCK!!]](2013年7月30日、[[iOS]] / [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]) ** [[サンリオ]]が原作の[[音楽ゲーム]]。ゲーム内に登場しているバンド「デモンズベノム」への楽曲提供をしている。キャラクター自体もバンドメンバーたちをモチーフにしている。ボーカルのSeshiroXは自身をモデルにしたデモンバットの声も担当しており、ゲーム内には2018年3月30日より実装された。 * [[SHOW BY ROCK!! Fes A Live]](2020年3月12日、iOS / Android) ** リリース時からタイアップ楽曲が収録されている。 == 脚注 == {{Vau}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[SHOW BY ROCK!!]] == 外部リンク == * [http://www.silhouettefromtheskylit.com/ SILHOUETTE FROM THE SKYLIT Official Site] * {{Twitter|sfts_info|SILHOUETTE FROM THE SKYLIT }} ** {{Twitter|seshirox_sfts|SeshiroX}} ** {{Twitter|kiyo_sfts|Kiyo}} ** {{Twitter|tetsurou_sfts|廣田哲朗}} ** {{Twitter|kou5845_sfts|K.O.U}} * {{Facebook|sfts.info|SILHOUETTE FROM THE SKYLIT(official)}} {{デフォルトソート:しるえつとふろむさすかいりつと}} [[Category:日本のロック・バンド]] [[Category:2008年に結成した音楽グループ]] [[Category:4人組の音楽グループ]]
2017-04-01T09:15:58Z
2023-12-07T15:06:07Z
false
false
false
[ "Template:Vau", "Template:Reflist", "Template:Twitter", "Template:Facebook", "Template:出典の明記", "Template:Infobox Musician" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/SILHOUETTE_FROM_THE_SKYLIT
3,914,064
フレッチャー・ノートン (初代グラントリー男爵)
初代グラントリー男爵(英語版)フレッチャー・ノートン(英語: Fletcher Norton, 1st Baron Grantley PC、1716年6月23日 - 1789年1月1日)は、グレートブリテン王国の法律家、政治家。1756年から1782年まで庶民院議員を務め、1770年から1780年には庶民院議長を務めた。退任後の1782年、グラントリー男爵に叙された。 グラントリー(英語版)出身のトマス・ノートン(Thomas Norton)と妻エリザベスの長男として、1716年6月23日にグラントリーで生まれた。1734年11月14日にミドル・テンプル入りを果たし、1739年7月6日に法廷弁護士免許を取得した。その後の数年間は法務に不活発だったが、やがて開業して多くの収入を得るようになり、長年の間北部巡回裁判区(英語版)を主導し、王座裁判所(英語版)で活動した。1754年、勅選弁護士(英語版)に選ばれた。 1754年イギリス総選挙ではアップルビー選挙区(英語版)で出馬して敗れたが、選挙が無効とされたため、1756年3月の再選挙で当選した。1761年イギリス総選挙でウィガン選挙区(英語版)に鞍替えして当選、1762年1月25日にナイトに叙され、ランカスター王権伯領の法務次官(英語版)に任命された。1762年10月20日、オックスフォード大学の民法学博士(英語版)を授与され、1763年のミカエル学期(英語版)(秋学期)には法務次官としてジョン・ウィルクスへの追訴を担当(当時の法務長官は空位)したが、サー・ジョン・ラッシュアウト(英語版)は追訴がノートン自らが起こしたものであり、その背景に選挙があることを指摘した。いずれにしても、ノートンは1763年12月16日に法務長官に就任した。1764年2月に一般逮捕状を違法とする法案が討議されたとき、「もし私が裁判官だったら、この法案を酔っぱらった門番によるものと同じように扱うだろう」と発言して物議を醸した。同年11月に記録長官(英語版)のトマス・クラーク(英語版)が死去したとき、後任にノートンを任命する話が持ち上がったが、大法官のノーティントン伯爵に否決され立ち消えとなった。 1765年4月に貴族院で第5代バイロン男爵をウィリアム・チャーワース殺害の容疑で起訴したが、7月にはロッキンガム侯爵内閣の成立により罷免された。1768年イギリス総選挙ではギルフォード選挙区(英語版)で立候補して当選、以降叙爵まで同選挙区で当選し続けた。1769年2月1日、ウィルクス追訴の件におけるマンスフィールド男爵(英語版)の行動を弁護、19日に南トレント巡回裁判官(英語版)に任命され、3月22日に枢密顧問官に任命された。1769年5月のミドルセックス選挙区(英語版)の補選をめぐるウィルクスとラットレル卿(英語版)ではラットレル卿の当選を宣言する議案に賛成、ジョージ・グレンヴィルと論争を繰り広げた。 1770年1月22日、ノース卿の推薦でジョン・カストの後任として庶民院議長に当選、得票数ではホイッグ党の候補より116票多かった。2月16日、議会でサー・ウィリアム・メレディス(英語版)と激しく口論、庶民院秘書(英語版)ジョン・ハットセル(英語版)が議事録からノートンの発言を削除するよう命じたが、ノートンの発言を批判する動議が長く、白熱した討議を経てようやく否決された。1771年3月25日、庶民院議長としてブラス・クロスビー(英語版)をロンドン塔送りにする令状に署名した。1772年王室婚姻法(英語版)をめぐる庶民院委員会での審議では王権蔑視罪(英語版)として刑罰を定めるよう主張した。1774年2月11日、ジョン・ホーン・トーク(英語版)による、ノートンが庶民院議長として不公正に行動したと主張した手紙を討議に持ち出し、全会一致で手紙が名誉毀損であると議決した。 1774年イギリス総選挙の後、11月29日に議会が開会すると、全会一致で議長に再選された。1777年5月7日、王室費増額の法案が審議されるとき、国王ジョージ3世に対し、法案が「国王陛下ができる限りの支出をはるかに超える」王室費を与えると発言して物議を醸し、一部では批判されたが、14日にロンドンの名誉市民権(英語版)を与えられる(すなわち、ロンドン市からの支援である)などの支持があったため、このときは乗り越えた。ただし、名誉市民権を与えた記録は見つかっていないという。その後も1780年のエドマンド・バークの法案など王室費をめぐる争いが続き、ついにジョージ3世がノートンが再選すべきでないと態度を明らかにするようになり、ノース卿内閣の閣僚もノートンの健康の悪化を口実に彼を推薦しなかった。その結果、1780年イギリス総選挙の後の10月31日に議会が開会すると、チャールズ・ウルフラン・コーンウォールが203票で議長に当選、ノートンは134票で落選した。11月20日、ノートンへの感謝決議が136票対96票で可決された。 1781年12月12日、対アメリカ戦争を終結させるサー・ジェームズ・ラウザー(英語版)の決議に賛成する演説をして、1782年3月8日にはジョン・キャヴェンディッシュ卿(英語版)の内閣不信任決議案に賛成した。1782年4月9日、マーケンフィールドのグラントリー男爵に叙され、16日に貴族院入りを果たした。叙爵の背景にはロッキンガム侯爵とシェルバーン伯爵の政争があったとされ、シェルバーン伯爵がロッキンガム侯爵の知らないところでジョン・ダニングの叙爵を働きかけて成功したためロッキンガム侯爵がノートンの叙爵を要求したという。このことはロッキンガム侯爵の政敵だったノートンの転向を意味したが、彼が貴族院の弁論に参加することは少なく、1783年のチャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド会社法案(イギリス東インド会社の国有化法案)に反対、1784年の小ピットの東インド会社法案(英語版)に賛成したことが知られているだけである。1784年3月5日に貿易と国外プランテーションに関する枢密委員会の一員に任命され、1786年8月23日に委員会が再設立されたときもその一員に任命された。1788年3月19日に東インド宣言法案(East India Declaratory Bill)の第三読会に反対したときが議会における最後の演説であり、翌1789年1月1日にリンカーンズ・イン・フィールズの自宅で死去した。 英国人名事典はノートンを原則のなく庶民院議長には適さない人物と酷評、ホレス・ウォルポールもノートンを批判した。ナサニエル・ラクソールはノートンが庶民院議長として攻撃的で軽率であったと評した。 1741年5月21日にグレース・チャプル(Grace Chapple、1803年10月30日没)と結婚、5男2女をもうけた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "初代グラントリー男爵(英語版)フレッチャー・ノートン(英語: Fletcher Norton, 1st Baron Grantley PC、1716年6月23日 - 1789年1月1日)は、グレートブリテン王国の法律家、政治家。1756年から1782年まで庶民院議員を務め、1770年から1780年には庶民院議長を務めた。退任後の1782年、グラントリー男爵に叙された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "グラントリー(英語版)出身のトマス・ノートン(Thomas Norton)と妻エリザベスの長男として、1716年6月23日にグラントリーで生まれた。1734年11月14日にミドル・テンプル入りを果たし、1739年7月6日に法廷弁護士免許を取得した。その後の数年間は法務に不活発だったが、やがて開業して多くの収入を得るようになり、長年の間北部巡回裁判区(英語版)を主導し、王座裁判所(英語版)で活動した。1754年、勅選弁護士(英語版)に選ばれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1754年イギリス総選挙ではアップルビー選挙区(英語版)で出馬して敗れたが、選挙が無効とされたため、1756年3月の再選挙で当選した。1761年イギリス総選挙でウィガン選挙区(英語版)に鞍替えして当選、1762年1月25日にナイトに叙され、ランカスター王権伯領の法務次官(英語版)に任命された。1762年10月20日、オックスフォード大学の民法学博士(英語版)を授与され、1763年のミカエル学期(英語版)(秋学期)には法務次官としてジョン・ウィルクスへの追訴を担当(当時の法務長官は空位)したが、サー・ジョン・ラッシュアウト(英語版)は追訴がノートン自らが起こしたものであり、その背景に選挙があることを指摘した。いずれにしても、ノートンは1763年12月16日に法務長官に就任した。1764年2月に一般逮捕状を違法とする法案が討議されたとき、「もし私が裁判官だったら、この法案を酔っぱらった門番によるものと同じように扱うだろう」と発言して物議を醸した。同年11月に記録長官(英語版)のトマス・クラーク(英語版)が死去したとき、後任にノートンを任命する話が持ち上がったが、大法官のノーティントン伯爵に否決され立ち消えとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1765年4月に貴族院で第5代バイロン男爵をウィリアム・チャーワース殺害の容疑で起訴したが、7月にはロッキンガム侯爵内閣の成立により罷免された。1768年イギリス総選挙ではギルフォード選挙区(英語版)で立候補して当選、以降叙爵まで同選挙区で当選し続けた。1769年2月1日、ウィルクス追訴の件におけるマンスフィールド男爵(英語版)の行動を弁護、19日に南トレント巡回裁判官(英語版)に任命され、3月22日に枢密顧問官に任命された。1769年5月のミドルセックス選挙区(英語版)の補選をめぐるウィルクスとラットレル卿(英語版)ではラットレル卿の当選を宣言する議案に賛成、ジョージ・グレンヴィルと論争を繰り広げた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1770年1月22日、ノース卿の推薦でジョン・カストの後任として庶民院議長に当選、得票数ではホイッグ党の候補より116票多かった。2月16日、議会でサー・ウィリアム・メレディス(英語版)と激しく口論、庶民院秘書(英語版)ジョン・ハットセル(英語版)が議事録からノートンの発言を削除するよう命じたが、ノートンの発言を批判する動議が長く、白熱した討議を経てようやく否決された。1771年3月25日、庶民院議長としてブラス・クロスビー(英語版)をロンドン塔送りにする令状に署名した。1772年王室婚姻法(英語版)をめぐる庶民院委員会での審議では王権蔑視罪(英語版)として刑罰を定めるよう主張した。1774年2月11日、ジョン・ホーン・トーク(英語版)による、ノートンが庶民院議長として不公正に行動したと主張した手紙を討議に持ち出し、全会一致で手紙が名誉毀損であると議決した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1774年イギリス総選挙の後、11月29日に議会が開会すると、全会一致で議長に再選された。1777年5月7日、王室費増額の法案が審議されるとき、国王ジョージ3世に対し、法案が「国王陛下ができる限りの支出をはるかに超える」王室費を与えると発言して物議を醸し、一部では批判されたが、14日にロンドンの名誉市民権(英語版)を与えられる(すなわち、ロンドン市からの支援である)などの支持があったため、このときは乗り越えた。ただし、名誉市民権を与えた記録は見つかっていないという。その後も1780年のエドマンド・バークの法案など王室費をめぐる争いが続き、ついにジョージ3世がノートンが再選すべきでないと態度を明らかにするようになり、ノース卿内閣の閣僚もノートンの健康の悪化を口実に彼を推薦しなかった。その結果、1780年イギリス総選挙の後の10月31日に議会が開会すると、チャールズ・ウルフラン・コーンウォールが203票で議長に当選、ノートンは134票で落選した。11月20日、ノートンへの感謝決議が136票対96票で可決された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1781年12月12日、対アメリカ戦争を終結させるサー・ジェームズ・ラウザー(英語版)の決議に賛成する演説をして、1782年3月8日にはジョン・キャヴェンディッシュ卿(英語版)の内閣不信任決議案に賛成した。1782年4月9日、マーケンフィールドのグラントリー男爵に叙され、16日に貴族院入りを果たした。叙爵の背景にはロッキンガム侯爵とシェルバーン伯爵の政争があったとされ、シェルバーン伯爵がロッキンガム侯爵の知らないところでジョン・ダニングの叙爵を働きかけて成功したためロッキンガム侯爵がノートンの叙爵を要求したという。このことはロッキンガム侯爵の政敵だったノートンの転向を意味したが、彼が貴族院の弁論に参加することは少なく、1783年のチャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド会社法案(イギリス東インド会社の国有化法案)に反対、1784年の小ピットの東インド会社法案(英語版)に賛成したことが知られているだけである。1784年3月5日に貿易と国外プランテーションに関する枢密委員会の一員に任命され、1786年8月23日に委員会が再設立されたときもその一員に任命された。1788年3月19日に東インド宣言法案(East India Declaratory Bill)の第三読会に反対したときが議会における最後の演説であり、翌1789年1月1日にリンカーンズ・イン・フィールズの自宅で死去した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "英国人名事典はノートンを原則のなく庶民院議長には適さない人物と酷評、ホレス・ウォルポールもノートンを批判した。ナサニエル・ラクソールはノートンが庶民院議長として攻撃的で軽率であったと評した。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1741年5月21日にグレース・チャプル(Grace Chapple、1803年10月30日没)と結婚、5男2女をもうけた。", "title": "家族" } ]
初代グラントリー男爵フレッチャー・ノートンは、グレートブリテン王国の法律家、政治家。1756年から1782年まで庶民院議員を務め、1770年から1780年には庶民院議長を務めた。退任後の1782年、グラントリー男爵に叙された。
[[ファイル:Fletcher Norton.jpg|thumb|right|フレッチャー・ノートン、[[ウィリアム・ビーチー]]作]] '''初代{{仮リンク|グラントリー男爵|en|Baron Grantley}}フレッチャー・ノートン'''({{lang-en|Fletcher Norton, 1st Baron Grantley}} {{post-nominals|country=GBR|PC}}、[[1716年]][[6月23日]] - [[1789年]][[1月1日]])は、[[グレートブリテン王国]]の法律家、政治家。1756年から1782年まで[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を務め、1770年から1780年には[[庶民院議長 (イギリス)|庶民院議長]]を務めた。退任後の1782年、グラントリー男爵に叙された。 == 生涯 == {{仮リンク|グラントリー (イングランド)|en|Grantley, North Yorkshire|label=グラントリー}}出身のトマス・ノートン({{lang|en|Thomas Norton}})と妻エリザベス<ref name="DNB">{{Cite DNB|wstitle=Norton, Fletcher|volume=41|pages=209-212|last=Barker|first=George Fisher Russell}}</ref>の長男として、1716年6月23日にグラントリーで生まれた<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Grantley, Fletcher Norton|volume=12|page=360}}</ref>。1734年11月14日に[[ミドル・テンプル]]入りを果たし、1739年7月6日に[[法廷弁護士]]免許を取得した<ref name="DNB" />。その後の数年間は法務に不活発だったが、やがて開業して多くの収入を得るようになり、長年の間{{仮リンク|北部巡回裁判区|en|Northern Circuit}}を主導し、{{仮リンク|王座裁判所 (イングランド)|en|Court of King's Bench (England)|label=王座裁判所}}で活動した<ref name="DNB" />。1754年、{{仮リンク|勅選弁護士|en|Queen's Counsel}}に選ばれた<ref name="DNB" /><ref name="EB1911" />。 [[1754年イギリス総選挙]]では{{仮リンク|アップルビー選挙区|en|Appleby (UK Parliament constituency)}}で出馬して敗れたが、選挙が無効とされたため、1756年3月の再選挙で当選した<ref name="DNB" />。[[1761年イギリス総選挙]]で{{仮リンク|ウィガン選挙区|en|Wigan (UK Parliament constituency)}}に鞍替えして当選、1762年1月25日に[[ナイト]]に叙され、[[ランカシャー|ランカスター王権伯領]]の{{仮リンク|法務次官 (イギリス)|en|Solicitor General for England and Wales|label=法務次官}}に任命された<ref name="DNB" />。1762年10月20日、[[オックスフォード大学]]の{{仮リンク|民法学博士|en|Doctor of Civil Law}}を授与され、1763年の{{仮リンク|ミカエル学期|en|Michaelmas term}}(秋学期)には法務次官として[[ジョン・ウィルクス]]への追訴を担当(当時の法務長官は空位)したが、{{仮リンク|ジョン・ラッシュアウト (第4代準男爵)|en|Sir John Rushout, 4th Baronet|label=サー・ジョン・ラッシュアウト}}は追訴がノートン自らが起こしたものであり、その背景に選挙があることを指摘した<ref name="DNB" />。いずれにしても、ノートンは1763年12月16日に[[法務長官 (イギリス)|法務長官]]に就任した<ref name="DNB" />。1764年2月に一般逮捕状を違法とする法案が討議されたとき、「もし私が裁判官だったら、この法案を酔っぱらった門番によるものと同じように扱うだろう」と発言して物議を醸した<ref name="DNB" />。同年11月に{{仮リンク|記録長官|en|Master of the Rolls}}の{{仮リンク|トマス・クラーク (裁判官)|en|Thomas Clarke (judge)|label=トマス・クラーク}}が死去したとき、後任にノートンを任命する話が持ち上がったが、[[大法官]]の[[ロバート・ヘンリー (初代ノーティントン伯爵)|ノーティントン伯爵]]に否決され立ち消えとなった<ref name="DNB" />。 1765年4月に貴族院で[[ウィリアム・バイロン (第5代バイロン男爵)|第5代バイロン男爵]]をウィリアム・チャーワース殺害の容疑で起訴したが、7月には[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|ロッキンガム侯爵]]内閣の成立により罷免された<ref name="DNB" />。[[1768年イギリス総選挙]]では{{仮リンク|ギルフォード選挙区|en|Guildford (UK Parliament constituency)}}で立候補して当選、以降叙爵まで同選挙区で当選し続けた<ref name="DNB" />。1769年2月1日、ウィルクス追訴の件における{{仮リンク|ウィリアム・マレー (初代マンスフィールド伯爵)|en|William Murray, 1st Earl of Mansfield|label=マンスフィールド男爵}}の行動を弁護、19日に南トレント{{仮リンク|巡回裁判官|en|Justice in Eyre}}に任命され、3月22日に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]に任命された<ref name="DNB" />。1769年5月の{{仮リンク|ミドルセックス選挙区|en|Middlesex (UK Parliament constituency)}}の補選をめぐるウィルクスと{{仮リンク|ヘンリー・ラットレル (第2代カーハンプトン伯爵)|en|Henry Luttrell, 2nd Earl of Carhampton|label=ラットレル卿}}ではラットレル卿の当選を宣言する議案に賛成、[[ジョージ・グレンヴィル]]と論争を繰り広げた<ref name="DNB" />。 1770年1月22日、[[フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵)|ノース卿]]の推薦で[[ジョン・カスト (第3代準男爵)|ジョン・カスト]]の後任として[[庶民院議長 (イギリス)|庶民院議長]]に当選、得票数では[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の候補より116票多かった<ref name="DNB" />。2月16日、議会で{{仮リンク|ウィリアム・メレディス (第3代準男爵)|en|Sir William Meredith, 3rd Baronet|label=サー・ウィリアム・メレディス}}と激しく口論、{{仮リンク|庶民院秘書|en|Clerk of the House of Commons}}{{仮リンク|ジョン・ハットセル|en|John Hatsell}}が議事録からノートンの発言を削除するよう命じたが、ノートンの発言を批判する動議が長く、白熱した討議を経てようやく否決された<ref name="DNB" />。1771年3月25日、庶民院議長として{{仮リンク|ブラス・クロスビー|en|Brass Crosby}}を[[ロンドン塔]]送りにする令状に署名した<ref name="DNB" />。{{仮リンク|1772年王室婚姻法|en|Royal Marriages Act 1772}}をめぐる庶民院委員会での審議では{{仮リンク|王権蔑視罪|en|Praemunire}}として刑罰を定めるよう主張した<ref name="DNB" />。1774年2月11日、{{仮リンク|ジョン・ホーン・トーク|en|John Horne Tooke}}による、ノートンが庶民院議長として不公正に行動したと主張した手紙を討議に持ち出し、全会一致で手紙が名誉毀損であると議決した<ref name="DNB" />。 [[1774年イギリス総選挙]]の後、11月29日に議会が開会すると、全会一致で議長に再選された<ref name="DNB" />。1777年5月7日<ref name="DNB" />、[[王室費]]増額の法案が審議されるとき、国王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]に対し、法案が「国王陛下ができる限りの支出をはるかに超える」王室費を与えると発言して物議を醸し、一部では批判されたが、14日に[[ロンドン]]の{{仮リンク|名誉市民権|en|Freedom of the City}}を与えられる(すなわち、ロンドン市からの支援である)などの支持があったため、このときは乗り越えた<ref name="EB1911" />。ただし、名誉市民権を与えた記録は見つかっていないという<ref name="DNB" />。その後も1780年の[[エドマンド・バーク]]の法案など王室費をめぐる争いが続き、ついにジョージ3世がノートンが再選すべきでないと態度を明らかにするようになり、ノース卿内閣の閣僚もノートンの健康の悪化を口実に彼を推薦しなかった<ref name="DNB" />。その結果、[[1780年イギリス総選挙]]の後の10月31日に議会が開会すると、[[チャールズ・ウルフラン・コーンウォール]]が203票で議長に当選、ノートンは134票で落選した<ref name="DNB" />。11月20日、ノートンへの感謝決議が136票対96票で可決された<ref name="DNB" />。 1781年12月12日、[[アメリカ独立戦争|対アメリカ戦争]]を終結させる{{仮リンク|ジェームズ・ラウザー (初代ローダーデイル伯爵)|en|James Lowther, 1st Earl of Lonsdale|label=サー・ジェームズ・ラウザー}}の決議に賛成する演説をして、1782年3月8日には{{仮リンク|ジョン・キャヴェンディッシュ (1732-1796)|en|Lord John Cavendish|label=ジョン・キャヴェンディッシュ卿}}の内閣不信任決議案に賛成した<ref name="DNB" />。1782年4月9日、マーケンフィールドのグラントリー男爵に叙され、16日に[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]入りを果たした<ref name="DNB" />。叙爵の背景にはロッキンガム侯爵と[[ウィリアム・ペティ (第2代シェルバーン伯)|シェルバーン伯爵]]の政争があったとされ、シェルバーン伯爵がロッキンガム侯爵の知らないところで[[ジョン・ダニング (初代アシュバートン男爵)|ジョン・ダニング]]の叙爵を働きかけて成功したためロッキンガム侯爵がノートンの叙爵を要求したという<ref name="DNB" />。このことはロッキンガム侯爵の政敵だったノートンの転向を意味したが、彼が貴族院の弁論に参加することは少なく、1783年の[[チャールズ・ジェームズ・フォックス]]の東インド会社法案([[イギリス東インド会社]]の国有化法案)に反対、1784年の[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]の{{仮リンク|1784年東インド会社法|en|Pitt's India Act|label=東インド会社法案}}に賛成したことが知られているだけである<ref name="DNB" />。1784年3月5日に貿易と国外プランテーションに関する枢密委員会の一員に任命され、1786年8月23日に委員会が再設立されたときもその一員に任命された。1788年3月19日に東インド宣言法案({{lang|en|East India Declaratory Bill}})の第三読会に反対したときが議会における最後の演説であり、翌1789年1月1日に[[リンカーンズ・イン・フィールズ]]の自宅で死去した<ref name="DNB" />。 == 評価 == [[英国人名事典]]はノートンを原則のなく庶民院議長には適さない人物と酷評、[[ホレス・ウォルポール]]もノートンを批判した<ref name="DNB" />。[[ナサニエル・ラクソール (初代準男爵)|ナサニエル・ラクソール]]はノートンが庶民院議長として攻撃的で軽率であったと評した<ref name="EB1911" />。 == 家族 == 1741年5月21日にグレース・チャプル({{lang|en|Grace Chapple}}、1803年10月30日没)と結婚、5男2女をもうけた<ref name="DNB" />。 *{{仮リンク|ウィリアム・ノートン (第2代グラントリー男爵)|en|William Norton, 2nd Baron Grantley|label=ウィリアム}}(1742年 - 1822年) *フレッチャー(1744年 - 1820年) *{{仮リンク|チャプル・ノートン|en|Chapple Norton|label=チャプル}}(1746年 - 1818年) *{{仮リンク|エドワード・ノートン (イギリス庶民院議員)|en|Edward Norton (MP)|label=エドワード}}(1750年 - 1786年) *トマス - 夭折 *グレース - 夭折 *グレース(1752年 - 1813年) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *{{Internet Archive author|name=Fletcher Norton|birth=1716|death=1789}} *{{NPG name}} *{{UK National Archives ID}} {{s-start}} {{s-par|gb}} {{s-bef|before = ウィリアム・リー|before2 = {{仮リンク|フィリップ・ホニーウッド (1785年没)|en|Philip Honywood (died 1785)|label=フィリップ・ホニーウッド}}}} {{s-ttl|title = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員({{仮リンク|アップルビー選挙区|en|Appleby (UK Parliament constituency)}}選出)|years = 1756年 - [[1761年イギリス総選挙|1761年]]|with = {{仮リンク|フィリップ・ホニーウッド (1785年没)|en|Philip Honywood (died 1785)|label=フィリップ・ホニーウッド}}}} {{s-aft|after = {{仮リンク|ジョン・スタンウィックス|en|John Stanwix}}|after2 = {{仮リンク|フィリップ・ホニーウッド (1785年没)|en|Philip Honywood (died 1785)|label=フィリップ・ホニーウッド}}}} {{s-bef|before = {{仮リンク|ウィリアム・メレディス (第3代準男爵)|en|Sir William Meredith, 3rd Baronet|label=サー・ウィリアム・メレディス準男爵}}|before2 = リチャード・バリー}} {{s-ttl|title = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員({{仮リンク|ウィガン選挙区|en|Wigan (UK Parliament constituency)}}選出)|years = [[1761年イギリス総選挙|1761年]] - [[1768年イギリス総選挙|1768年]]|with = {{仮リンク|サイモン・ラットレル (初代カーハンプトン伯爵)|en|Simon Luttrell, 1st Earl of Carhampton|label=サイモン・ラットレル}}}} {{s-aft|after = {{仮リンク|ジョージ・ビング (1735-1789)|en|George Byng (1735–1789)|label=ジョージ・ビング}}|after2 = {{仮リンク|ボーモント・ホッタム (第2代ホッタム男爵)|en|Beaumont Hotham, 2nd Baron Hotham|label=ボーモント・ホッタム}}}} {{s-bef|before = {{仮リンク|ジョージ・エルウィル (第4代準男爵)|en|Sir John Elwill, 4th Baronet|label=サー・ジョージ・エルウィル準男爵}}|before2 = {{仮リンク|ジョージ・オンズロー (イギリスの軍人)|en|George Onslow (British Army officer)|label=ジョージ・オンズロー}}}} {{s-ttl|title = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員({{仮リンク|ギルフォード選挙区|en|Guildford (UK Parliament constituency)}}選出)|years = [[1768年イギリス総選挙|1768年]] - 1782年|with = {{仮リンク|ジョージ・オンズロー (イギリスの軍人)|en|George Onslow (British Army officer)|label=ジョージ・オンズロー}}}} {{s-aft|after = {{仮リンク|ウィリアム・ノートン (第2代グラントリー男爵)|en|William Norton, 2nd Baron Grantley|label=ウィリアム・ノートン}}|after2 = {{仮リンク|ジョージ・オンズロー (イギリスの軍人)|en|George Onslow (British Army officer)|label=ジョージ・オンズロー}}}} {{s-legal}} {{s-bef|before=[[チャールズ・ヨーク]]}} {{s-ttl|title={{仮リンク|法務次官 (イギリス)|en|Solicitor General for England and Wales|label=法務次官}}|years=1762年 - 1763年}} {{s-aft|after=[[ウィリアム・デ・グレイ (初代ウォルシンガム男爵)|ウィリアム・デ・グレイ]]}} {{s-bef|before=[[チャールズ・ヨーク]]}} {{s-ttl|title=[[法務長官 (イギリス)|法務長官]]|years=1763年 - 1765年}} {{s-aft|after=[[チャールズ・ヨーク]]}} {{s-bef|before=[[チャールズ・コーンウォリス|コーンウォリス伯爵]]}} {{s-ttl|title={{仮リンク|巡回裁判官|en|Justice in Eyre}}<br />南トレント|years=1769年 - 1789年}} {{s-aft|after=[[トマス・タウンゼンド (初代シドニー子爵)|シドニー子爵]]}} {{s-off}} {{s-bef|before=[[ジョン・カスト (第3代準男爵)|サー・ジョン・カスト]]}} {{s-ttl|title=[[庶民院議長 (イギリス)|庶民院議長]]| years=1770年 - 1780年}} {{s-aft|after=[[チャールズ・ウルフラン・コーンウォール]] }} {{s-reg|gb}} {{s-new|creation}} {{s-ttl|title={{仮リンク|グラントリー男爵|en|Baron Grantley}}|years=1782年 - 1789年 }} {{s-aft|after={{仮リンク|ウィリアム・ノートン (第2代グラントリー男爵)|en|William Norton, 2nd Baron Grantley|label=ウィリアム・ノートン}} }} {{s-end}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くらんとりい1}} [[Category:グレートブリテン王国の政治家]] [[Category:イギリスの法務長官]] [[Category:イギリスの法務次官]] [[Category:ウェストモーランド選出のイギリス庶民院議員]] [[Category:ランカシャー選出のイギリス庶民院議員]] [[Category:サリー選出のイギリス庶民院議員]] [[Category:イギリスの庶民院議長]] [[Category:王立協会フェロー]] [[Category:グレートブリテン貴族の男爵]] [[Category:ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ出身の人物]] [[Category:ミドル・テンプル出身の人物]] [[Category:バラ・オブ・ハロゲイト出身の人物]] [[Category:1716年生]] [[Category:1789年没]]
2019-03-05T14:43:47Z
2023-12-22T20:16:34Z
false
false
false
[ "Template:Post-nominals", "Template:Cite DNB", "Template:Cite EB1911", "Template:S-bef", "Template:S-new", "Template:S-par", "Template:S-aft", "Template:S-reg", "Template:Normdaten", "Template:仮リンク", "Template:Lang-en", "Template:UK National Archives ID", "Template:S-end", "Template:S-legal", "Template:S-off", "Template:Lang", "Template:Reflist", "Template:Internet Archive author", "Template:NPG name", "Template:S-start", "Template:S-ttl" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E7%94%B7%E7%88%B5)
3,405,068
ヘルムート・グレトルップ
ヘルムート・グレトルップ(Helmut Gröttrup、1916年2月12日 - 1981年7月5日)はドイツ人の宇宙工学者。 第二次世界大戦中はV2ロケットの誘導制御関係の開発に従事した。ドイツの敗戦時に彼は一度はアメリカ軍に投降したものの、他の複数の科学者達と共にソビエトの開発に参加することを望んだ。 グレトルップはフォン・ブラウンの下で働く事を望まなかったとされる。グレトルップはソビエトに接近してロシアのロケット開発で上級の地位を得ることを希望した。1945年9月9日から1946年10月22日にかけてグレトルップのチームはドイツ国内のソビエトの占領地域(後の東ドイツ)で勤務した。彼の上司だったセルゲイ・コロリョフはソビエトのロケット開発を主導する宇宙工学者だった。1946年の秋にチームはソビエト国内で20機のV2ロケットを新しく設立されたカプースチン・ヤールの研究施設で打ち上げるためにソビエトのグロドミリャ島へ移動させられた。島内は鉄条網で囲まれ、24時間監視下での生活を強いられた。(但し、待遇は同じ職位のソビエト人よりも高額だったとされる。)かつて閉鎖都市ズナメンスク(Znamensk)として知られた基地は1946年5月13日にドイツ人の専門家達のために専用に設立された。ヴァシーリー・ヴォズニュク(Vasily Voznyuk)少将(1946年から1973年まで試験場の長も務めた)の指揮下で建設され、1947年10月18日にドイツから接収した最初のV2ロケットが打ち上げられた。 グレトルップは1946年から1953年にかけてNII-88の支所のあるグロドミリャ島でG-1、G-2、G-4、G-5の開発を主導したが、これらは全て実用化されず、机上の段階に留まった。隔絶された島内では理論面での研究に留まり、ロケット開発に不可欠な実機を使用した大規模な実験は不可能だった。 1950年代後半に入るとソビエトの技術が向上してドイツ人技術者達は徐々に帰国した。その頃にはヴァレンティン・グルシュコやアレクセイ・イサーエフのチームが開発したロケットエンジンがドイツ人技術者達のエンジンを凌駕していた。 ドイツに帰国後はソビエトの要請によりロケット技術に関する業務には就かず、ICカードシステムの開発に関与した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ヘルムート・グレトルップ(Helmut Gröttrup、1916年2月12日 - 1981年7月5日)はドイツ人の宇宙工学者。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦中はV2ロケットの誘導制御関係の開発に従事した。ドイツの敗戦時に彼は一度はアメリカ軍に投降したものの、他の複数の科学者達と共にソビエトの開発に参加することを望んだ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "グレトルップはフォン・ブラウンの下で働く事を望まなかったとされる。グレトルップはソビエトに接近してロシアのロケット開発で上級の地位を得ることを希望した。1945年9月9日から1946年10月22日にかけてグレトルップのチームはドイツ国内のソビエトの占領地域(後の東ドイツ)で勤務した。彼の上司だったセルゲイ・コロリョフはソビエトのロケット開発を主導する宇宙工学者だった。1946年の秋にチームはソビエト国内で20機のV2ロケットを新しく設立されたカプースチン・ヤールの研究施設で打ち上げるためにソビエトのグロドミリャ島へ移動させられた。島内は鉄条網で囲まれ、24時間監視下での生活を強いられた。(但し、待遇は同じ職位のソビエト人よりも高額だったとされる。)かつて閉鎖都市ズナメンスク(Znamensk)として知られた基地は1946年5月13日にドイツ人の専門家達のために専用に設立された。ヴァシーリー・ヴォズニュク(Vasily Voznyuk)少将(1946年から1973年まで試験場の長も務めた)の指揮下で建設され、1947年10月18日にドイツから接収した最初のV2ロケットが打ち上げられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "グレトルップは1946年から1953年にかけてNII-88の支所のあるグロドミリャ島でG-1、G-2、G-4、G-5の開発を主導したが、これらは全て実用化されず、机上の段階に留まった。隔絶された島内では理論面での研究に留まり、ロケット開発に不可欠な実機を使用した大規模な実験は不可能だった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1950年代後半に入るとソビエトの技術が向上してドイツ人技術者達は徐々に帰国した。その頃にはヴァレンティン・グルシュコやアレクセイ・イサーエフのチームが開発したロケットエンジンがドイツ人技術者達のエンジンを凌駕していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ドイツに帰国後はソビエトの要請によりロケット技術に関する業務には就かず、ICカードシステムの開発に関与した。", "title": "概要" } ]
ヘルムート・グレトルップ(Helmut Gröttrup、1916年2月12日 - 1981年7月5日)はドイツ人の宇宙工学者。
'''ヘルムート・グレトルップ'''(''Helmut Gröttrup''、[[1916年]][[2月12日]] - [[1981年]][[7月5日]])はドイツ人の宇宙工学者。 == 概要 == 第二次世界大戦中は[[V2ロケット]]の誘導制御関係の開発に従事した。ドイツの敗戦時に彼は一度はアメリカ軍に投降したものの、他の複数の科学者達と共にソビエトの開発に参加することを望んだ<ref name="grottrup">[http://soviethammer.blogspot.com/2015/05/helmut-grottrup.html Helmut Gröttrup ]</ref>。 グレトルップは[[ヴェルナー・フォン・ブラウン|フォン・ブラウン]]の下で働く事を望まなかったとされる<ref name="grottrup" />。グレトルップはソビエトに接近してロシアのロケット開発で上級の地位を得ることを希望した。1945年9月9日から1946年10月22日にかけてグレトルップのチームはドイツ国内のソビエトの占領地域(後の東ドイツ)で勤務した<ref name="grottrup" />。彼の上司だった[[セルゲイ・コロリョフ]]はソビエトのロケット開発を主導する宇宙工学者だった<ref name="grottrup" />。1946年の秋にチームはソビエト国内で20機のV2ロケットを新しく設立された[[カプースチン・ヤール]]の研究施設で打ち上げるためにソビエトの[[グロドミリャ島]]へ移動させられた。島内は鉄条網で囲まれ、24時間監視下での生活を強いられた<ref name="Gorodomlya ">[http://www.russianspaceweb.com/gorodomlya.html History of the Gorodomlya Island]</ref>。(但し、待遇は同じ職位のソビエト人よりも高額だったとされる<ref name="Germans in Moscow">[http://www.russianspaceweb.com/a4_team_moscow.html Germans in Moscow]</ref>。)かつて[[閉鎖都市]][[ズナメンスク (アストラハン州)|ズナメンスク]](Znamensk)として知られた基地は1946年5月13日にドイツ人の専門家達のために専用に設立された。ヴァシーリー・ヴォズニュク(Vasily Voznyuk)少将(1946年から1973年まで試験場の長も務めた)の指揮下で建設され、1947年10月18日にドイツから接収した最初のV2ロケットが打ち上げられた<ref name="grottrup" />。 グレトルップは1946年から1953年にかけて[[NII-88]]の支所のある[[グロドミリャ島]]で[[G-1 (ロケット)|G-1]]、G-2、G-4、G-5の開発を主導したが、これらは全て実用化されず、机上の段階に留まった。隔絶された島内では理論面での研究に留まり、ロケット開発に不可欠な実機を使用した大規模な実験は不可能だった。 1950年代後半に入るとソビエトの技術が向上してドイツ人技術者達は徐々に帰国した。その頃には[[ヴァレンティン・グルシュコ]]や[[アレクセイ・イサーエフ]]のチームが開発した[[ロケットエンジン]]がドイツ人技術者達のエンジンを凌駕していた<ref name="grottrup" />。 ドイツに帰国後はソビエトの要請によりロケット技術に関する業務には就かず、ICカードシステムの開発に関与した<ref>[http://thelib.ru/books/pervushin_anton/108_minut_izmenivshie_mir-read-4.html онлайн-чтение (стр. 4)]</ref>。 == 関連項目 == * [[V2ロケット]] * [[アグリガット (ロケット)#A8|アグリガット A8]] * [[ヴァッサーファル (ミサイル)|ヴァッサーファル]] * [[G-1 (ロケット)]] * [[シュペルV-2]] - 同時期フランスでドイツ人技術者達によって[[V2ロケット]]の発展型として開発が進められたがこちらも上層部の決定により完成しなかった。 * [[ヴァイキング (ロケット)|ヴァイキング]] * [[ICカード]] == 脚注 == {{Reflist}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:くれとるつふ へるむうと}} [[Category:ソビエト連邦の宇宙開発]] [[Category:ドイツの航空機技術者]] [[Category:ドイツの宇宙工学者]] [[Category:ケルン出身の人物]] [[Category:1916年生]] [[Category:1981年没]]
null
2018-05-07T03:12:33Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%97
521,910
辻井昭雄
辻井 昭雄(つじい あきお、1932年(昭和7年)12月19日 - )は、日本の実業家。近畿日本鉄道相談役(前会長、前々社長)。 大阪府出身。旧制大阪府立八尾中学校入学、戦後の学制改革時に大阪府立山本高等学校に転校し卒業。京都大学経済学部卒業後、1956年に近畿日本鉄道へ入社。1989年に取締役、1999年に社長に就任し、2003年より会長を務める。2007年6月の株主総会後の取締役会をもって、相談役に退いた。 近畿日本鉄道社長時代には、近鉄グループの再編に着手、経営悪化していた関連会社・施設の閉鎖や売却、解散などを行い、後任の山口昌紀の代まで引き続き、グループのスリム化を押し進め(社長を務めた4年間は赤字決算)後にプロ野球再編問題が起こり、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブが合併してオリックス・バファローズを誕生させる遠因を作った。なお、大阪近鉄バファローズのオーナーにはなっていない。 現在は、関西経営者協会会長を務めている。なお、関西経営者協会会長も相談役に退くにあたり退任する。その他には朝日放送取締役、関西電力取締役、日野自動車監査役、イニシアティブス・オブ・チェンジ理事などを歴任。2018年秋の叙勲で旭日重光章を受章。 趣味は絵画と少林寺拳法。奈良県生駒市在住。近鉄の首脳経験者では数少ない学園前駅界隈の在住者でない人物であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "辻井 昭雄(つじい あきお、1932年(昭和7年)12月19日 - )は、日本の実業家。近畿日本鉄道相談役(前会長、前々社長)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大阪府出身。旧制大阪府立八尾中学校入学、戦後の学制改革時に大阪府立山本高等学校に転校し卒業。京都大学経済学部卒業後、1956年に近畿日本鉄道へ入社。1989年に取締役、1999年に社長に就任し、2003年より会長を務める。2007年6月の株主総会後の取締役会をもって、相談役に退いた。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "近畿日本鉄道社長時代には、近鉄グループの再編に着手、経営悪化していた関連会社・施設の閉鎖や売却、解散などを行い、後任の山口昌紀の代まで引き続き、グループのスリム化を押し進め(社長を務めた4年間は赤字決算)後にプロ野球再編問題が起こり、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブが合併してオリックス・バファローズを誕生させる遠因を作った。なお、大阪近鉄バファローズのオーナーにはなっていない。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現在は、関西経営者協会会長を務めている。なお、関西経営者協会会長も相談役に退くにあたり退任する。その他には朝日放送取締役、関西電力取締役、日野自動車監査役、イニシアティブス・オブ・チェンジ理事などを歴任。2018年秋の叙勲で旭日重光章を受章。", "title": "来歴・人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "趣味は絵画と少林寺拳法。奈良県生駒市在住。近鉄の首脳経験者では数少ない学園前駅界隈の在住者でない人物であった。", "title": "来歴・人物" } ]
辻井 昭雄は、日本の実業家。近畿日本鉄道相談役(前会長、前々社長)。
'''辻井 昭雄'''(つじい あきお、[[1932年]]([[昭和]]7年)[[12月19日]] - )は、[[日本]]の[[実業家]]。[[近畿日本鉄道]][[相談役]](前[[会長]]、前々[[社長]])。 == 来歴・人物 == [[大阪府]]出身。[[大阪府立八尾高等学校|旧制大阪府立八尾中学校]]入学、戦後の[[学制改革]]時に[[大阪府立山本高等学校]]に転校し卒業。[[京都大学大学院経済学研究科・経済学部|京都大学経済学部]]卒業後、[[1956年]]に近畿日本鉄道へ入社。[[1989年]]に[[取締役]]、[[1999年]]に[[社長]]に就任し、[[2003年]]より会長を務める。[[2007年]]6月の[[株主総会]]後の取締役会をもって、[[相談役]]に退いた。 近畿日本鉄道社長時代には、[[近鉄グループ]]の再編に着手、経営悪化していた関連会社・施設の閉鎖や売却、解散などを行い、後任の[[山口昌紀]]の代まで引き続き、グループのスリム化を押し進め(社長を務めた4年間は赤字決算)後に[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]が起こり、[[大阪近鉄バファローズ]]と[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]が合併してオリックス・バファローズを誕生させる遠因を作った。なお、大阪近鉄バファローズのオーナーにはなっていない。 現在は、[[関西経営者協会]]会長を務めている。なお、関西経営者協会会長も相談役に退くにあたり退任する。その他には朝日放送<ref>会社法人としては現在の[[朝日放送グループホールディングス]]。放送局としては現在の[[朝日放送テレビ]]・[[朝日放送ラジオ]]。</ref>取締役、[[関西電力]]取締役、[[日野自動車]]監査役、[[イニシアティブス・オブ・チェンジ]]理事<ref>[http://cauxforum.net/node/32228 IC役員名簿]</ref>などを歴任。2018年秋の叙勲で[[旭日重光章]]を受章<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/181103/cpd1811030500001-n1.htm|title=秋の叙勲 桐花大綬章に今井敬元経団連会長|accessdate=2023-01-24|publisher=[[SankeiBiz]]|date =2018/11/3|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181105144944/http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/181103/cpd1811030500001-n1.htm|archivedate=2018年11月5日|deadlinkdate=2023年1月}}</ref>。 趣味は[[絵画]]と[[少林寺拳法]]。[[奈良県]][[生駒市]]在住。近鉄の首脳経験者では数少ない[[学園前駅 (奈良県)|学園前駅]]界隈の在住者でない人物であった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連人物 == * [[佐伯勇]] * [[上山善紀]] * [[田代和]] * [[小林哲也 (近畿日本鉄道)|小林哲也]](現会長) {{先代次代|[[近畿日本鉄道|近畿日本鉄道社長]]|第13代:([[1999年]]~[[2003年]])|[[田代和]]|[[山口昌紀]]}} {{rail-stub}} {{people-stub}} {{デフォルトソート:つしい あきお}} [[Category:近畿日本鉄道の人物]] [[Category:日本の鉄道実業家]] [[Category:朝日放送の人物]] [[Category:日野自動車の役員]] [[Category:旭日重光章受章者]] [[Category:京都大学出身の人物]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1932年生]] [[Category:存命人物]]
2006-04-29T15:00:52Z
2023-12-03T01:03:54Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:先代次代", "Template:Rail-stub", "Template:People-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E4%BA%95%E6%98%AD%E9%9B%84
410,245
曇徴
曇徴(どんちょう、生没年不詳)は、610年3月に高句麗の嬰陽王が法定とともに日本の朝廷に貢上し、来日した僧である。 『日本書紀』には、高句麗王は、彩色・紙墨の技術者である僧曇徴を貢上したとある(貢上=「貢物を差し上げる」)。『日本書紀』には、次のような記述がある。 『日本書紀』には、この部分以外に曇徴の記述はない。『聖徳太子伝暦』(917年、または992年成立)には、聖徳太子が曇徴を斑鳩宮に招いて、その後に法隆寺に止住させたとある。しかし、当該書は後世に盛んに書かれた神話的太子伝の集大成であり、史実性が疑問視されており、加えて、この逸話は先行するどの聖徳太子伝にも見当たらない。なお、この際に曇徴は、前世では南岳恵思禅師(ここでは聖徳太子の前世)の弟子であったと答えている。 日本で初めて製紙の記事がみられるのは『日本書紀』巻22の推古天皇18年のところで、「春三月に高麗から曇徴、法定という2人の僧が来日したが、曇徴は中国古典に通じていたうえに、絵の具や紙、墨をつくる名人であり、また日本で初めて水力で臼を動かした」とあるのが文献上の初見である。しかし、この記事では曇徴が最初に紙を漉いたとは書いてなく、いわば技術導入と解される。実際、製紙技術はすでに中国から伝えられており、また、古墳時代の壁画に黒、朱、緑、黄などの彩色がすでに用いられているため、墨は相当早い時期に中国から輸入されていたとみられ、曇徴が紙墨の製法を伝えたとされることが事実か否かの確証はない。製紙の記述がここにおいて初出するという理由から、曇徴は日本における製紙の創製者とみなす意見がある。しかし、仮に曇徴によって初めてもたらされたのなら、碾磑の場合と同様にそう記されていたはずであるとして、寿岳文章は、諸文献を精査した上で、この記述は僧侶でありながら、儒学にも通じ、工芸面にも暗くなかった曇徴への讃辞であり、彼が絵具や紙墨を初めて作ったという意味に解するよりも、その製作にかけてはなかなかの達人であった、と取るのが妥当であるとしている。戸籍用紙などの多くの紙を必要とする国家機構の整備が、この時代にはすでに始まっていたことも、曇徴以前に製紙技術が伝わっていた可能性を支持している。事実、紙そのものは、外交文書や私用の土産品としてすでに古墳時代に中国から日本に伝えられており、日本のどこかですでに製紙がおこなわれていたとみられる。当時の紙は貴重品であり、中国からもたらされる紙は唐紙とよばれる舶来品だった。 韓国では、法隆寺金堂壁画は曇徴の手によるものと主張されることがあり、『グローバル世界大百科事典』や『韓国民族文化大百科事典』にも記述されており、韓国の歴史教科書もそのように教えている。韓国の歴史教科書は「高句麗もたくさんの文化を日本に伝えてあげた。高句麗の僧侶彗慈は聖徳太子の師であり、曇徴は紙、墨、硯を作る技術を教えてあげ、法隆寺金堂壁画も彼の作品として知られている」と記述している。しかし、それを支持する史料は一切なく(また現在の法隆寺は7世紀後半に再建されたものである)、俗説である。勝岡寛次は「韓国お得意の『ウリジナル』歴史も登場する。...確たる歴史資料がないため作者不明とされているのをいいことに金堂壁画が朝鮮人の作だとする手前勝手な主張には開いた口が塞がらない」と評している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "曇徴(どんちょう、生没年不詳)は、610年3月に高句麗の嬰陽王が法定とともに日本の朝廷に貢上し、来日した僧である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『日本書紀』には、高句麗王は、彩色・紙墨の技術者である僧曇徴を貢上したとある(貢上=「貢物を差し上げる」)。『日本書紀』には、次のような記述がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "『日本書紀』には、この部分以外に曇徴の記述はない。『聖徳太子伝暦』(917年、または992年成立)には、聖徳太子が曇徴を斑鳩宮に招いて、その後に法隆寺に止住させたとある。しかし、当該書は後世に盛んに書かれた神話的太子伝の集大成であり、史実性が疑問視されており、加えて、この逸話は先行するどの聖徳太子伝にも見当たらない。なお、この際に曇徴は、前世では南岳恵思禅師(ここでは聖徳太子の前世)の弟子であったと答えている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本で初めて製紙の記事がみられるのは『日本書紀』巻22の推古天皇18年のところで、「春三月に高麗から曇徴、法定という2人の僧が来日したが、曇徴は中国古典に通じていたうえに、絵の具や紙、墨をつくる名人であり、また日本で初めて水力で臼を動かした」とあるのが文献上の初見である。しかし、この記事では曇徴が最初に紙を漉いたとは書いてなく、いわば技術導入と解される。実際、製紙技術はすでに中国から伝えられており、また、古墳時代の壁画に黒、朱、緑、黄などの彩色がすでに用いられているため、墨は相当早い時期に中国から輸入されていたとみられ、曇徴が紙墨の製法を伝えたとされることが事実か否かの確証はない。製紙の記述がここにおいて初出するという理由から、曇徴は日本における製紙の創製者とみなす意見がある。しかし、仮に曇徴によって初めてもたらされたのなら、碾磑の場合と同様にそう記されていたはずであるとして、寿岳文章は、諸文献を精査した上で、この記述は僧侶でありながら、儒学にも通じ、工芸面にも暗くなかった曇徴への讃辞であり、彼が絵具や紙墨を初めて作ったという意味に解するよりも、その製作にかけてはなかなかの達人であった、と取るのが妥当であるとしている。戸籍用紙などの多くの紙を必要とする国家機構の整備が、この時代にはすでに始まっていたことも、曇徴以前に製紙技術が伝わっていた可能性を支持している。事実、紙そのものは、外交文書や私用の土産品としてすでに古墳時代に中国から日本に伝えられており、日本のどこかですでに製紙がおこなわれていたとみられる。当時の紙は貴重品であり、中国からもたらされる紙は唐紙とよばれる舶来品だった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "韓国では、法隆寺金堂壁画は曇徴の手によるものと主張されることがあり、『グローバル世界大百科事典』や『韓国民族文化大百科事典』にも記述されており、韓国の歴史教科書もそのように教えている。韓国の歴史教科書は「高句麗もたくさんの文化を日本に伝えてあげた。高句麗の僧侶彗慈は聖徳太子の師であり、曇徴は紙、墨、硯を作る技術を教えてあげ、法隆寺金堂壁画も彼の作品として知られている」と記述している。しかし、それを支持する史料は一切なく(また現在の法隆寺は7世紀後半に再建されたものである)、俗説である。勝岡寛次は「韓国お得意の『ウリジナル』歴史も登場する。...確たる歴史資料がないため作者不明とされているのをいいことに金堂壁画が朝鮮人の作だとする手前勝手な主張には開いた口が塞がらない」と評している。", "title": "韓国における曇徴" } ]
曇徴(どんちょう、生没年不詳)は、610年3月に高句麗の嬰陽王が法定とともに日本の朝廷に貢上し、来日した僧である。
'''曇徴'''(どんちょう、[[生没年不詳]])は、[[610年]][[3月]]に[[高句麗]]の[[嬰陽王]]が[[法定_(僧侶)|法定]]とともに[[朝廷 (日本)|日本の朝廷]]に貢上し、来日した[[僧]]である<ref name="コトバンク"/>。 == 概要 == 『[[日本書紀]]』には、[[朝鮮の君主一覧|高句麗王]]は、彩色・紙墨の技術者である僧曇徴を貢上したとある(貢上=「貢物を差し上げる」)<ref name="コトバンク"/>。『[[日本書紀]]』には、次のような記述がある。 {{quotation|{{lang|zh-Hant|十八年春三月,高麗王貢上僧曇徴・[[法定_(僧侶)|法定]]曇徴知五經。且能作彩色及紙墨,并造碾磑。蓋造碾磑,始于是時歟。}}<br /> <br />[[推古天皇]]十八年(西暦[[610年]])春三月に、高麗王は僧の曇徴と法定(ほうじょう、ほうてい)を貢いだ。曇徴は[[五経]]に通じていた。絵の具や紙墨をよく作り、さらには碾磑<ref>碾磑(みずうす、てんがい)とは、穀物を挽くための、水力を利用した臼のこと。その後の日本では、殆ど普及することはなかった。</ref>も作った。思うに、碾磑を作ることは、この時より始まったのだろうか。|日本書紀|巻第二十二|推古紀<ref>『[[元亨釈書]]』(1322年成立)は、この記述を写したもの。「釋曇徴。推古十八年三月。高麗國貢來。沙門法定共之。微渉外學善五經。又有伎藝。造碾磑工彩畫」。日本書紀の「彩色」は絵の具のことであるが(『新編日本古典文学全集 (3) 日本書紀 (2)』, 小学館, 1996, p.562)、[[虎関師錬]]は「彩画が巧みであった」と解釈している。</ref>}} 『[[日本書紀]]』には、この部分以外に曇徴の記述はない。『[[聖徳太子伝暦]]』(917年、または992年成立)には、[[聖徳太子]]が曇徴を[[斑鳩宮]]に招いて、その後に[[法隆寺]]に止住させたとある<ref>「十八年春三月。高麗僧曇徴。法定二口來。太子引入斑鳩宮。問之以昔身微言。二僧百拜。啓太子曰。我等學道年久。未知天眼。今遙想昔。殿下弟子而遊衡山者也。太子命曰。師等遲來。宜住吾寺。即置法隆寺」</ref>。しかし、当該書は後世に盛んに書かれた神話的太子伝の集大成であり、史実性が疑問視されており、加えて、この逸話は先行するどの聖徳太子伝にも見当たらない<ref>{{Cite book|和書|author=坂本太郎|authorlink=坂本太郎 (歴史学者)|title=聖徳太子|series=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|date=1997}}</ref>。なお、この際に曇徴は、前世では南岳恵思禅師(ここでは[[聖徳太子]]の前世)の弟子であったと答えている<ref name="コトバンク"/>。 日本で初めて製紙の記事がみられるのは『[[日本書紀]]』巻22の推古天皇18年のところで、「春三月に高麗から曇徴、法定という2人の僧が来日したが、曇徴は[[中国の古典の時代別一覧|中国古典]]に通じていたうえに、絵の具や紙、墨をつくる名人であり、また日本で初めて水力で臼を動かした」とあるのが文献上の初見である<ref name="和紙"/><ref name="コトバンク"/>。しかし、この記事では曇徴が最初に紙を漉いたとは書いてなく、いわば技術導入と解される<ref name="和紙"/>。実際、製紙技術はすでに[[中国]]から伝えられており、また、[[古墳時代]]の[[壁画]]に[[黒]]、[[朱色|朱]]、[[緑]]、[[黄色|黄]]などの彩色がすでに用いられているため、[[墨]]は相当早い時期に中国から[[輸入]]されていたとみられ、曇徴が紙墨の製法を伝えたとされることが事実か否かの確証はない<ref name="コトバンク">{{Kotobank|曇徴}}</ref>。製紙の記述がここにおいて初出するという理由から、曇徴は日本における製紙の創製者とみなす意見がある。しかし、仮に曇徴によって初めてもたらされたのなら、碾磑の場合と同様にそう記されていたはずであるとして、[[寿岳文章]]は、諸文献を精査した上で、この記述は僧侶でありながら、儒学にも通じ、工芸面にも暗くなかった曇徴への讃辞であり、彼が絵具や紙墨を初めて作ったという意味に解するよりも、その製作にかけてはなかなかの達人であった、と取るのが妥当であるとしている<ref>{{Cite book|和書|author=寿岳文章|authorlink=寿岳文章|title=日本の紙|series=[[日本歴史叢書]]|publisher=[[吉川弘文館]]|date=1996-05-01|ISBN=4642066381|pages=1-21}}</ref>。戸籍用紙などの多くの紙を必要とする国家機構の整備が、この時代にはすでに始まっていたことも、曇徴以前に製紙技術が伝わっていた可能性を支持している<ref>{{Cite book|和書|author=柳橋真|authorlink=柳橋真|title=和紙|series=世界大百科事典 第2版|publisher=[[平凡社]]|date=2007}}</ref>。事実、紙そのものは、外交文書や私用の[[土産|土産品]]としてすでに[[古墳時代]]に中国から日本に伝えられており、日本のどこかですでに製紙がおこなわれていたとみられる<ref name="和紙"/>。当時の紙は貴重品であり、中国からもたらされる紙は[[唐紙]]とよばれる舶来品だった<ref name="和紙">{{Kotobank|和紙}}</ref>。 == 韓国における曇徴 == [[大韓民国|韓国]]では、[[法隆寺金堂壁画]]は曇徴の手によるものと主張されることがあり、『[[グローバル世界大百科事典]]』<ref>[http://ko.wikisource.org/wiki/%EA%B8%80%EB%A1%9C%EB%B2%8C_%EC%84%B8%EA%B3%84_%EB%8C%80%EB%B0%B1%EA%B3%BC%EC%82%AC%EC%A0%84/%ED%95%9C%EA%B5%AD%EC%82%AC/%EA%B3%A0%EB%8C%80%EC%82%AC%ED%9A%8C%EC%9D%98_%EB%B0%9C%EC%A0%84/%EC%82%BC%EA%B5%AD%EC%9D%98_%EC%84%B1%EB%A6%BD%EA%B3%BC_%EB%B0%9C%EC%A0%84/%EA%B3%A0%EB%8C%80%EB%AC%B8%ED%99%94%EC%9D%98_%EB%B0%9C%EC%A0%84#.EB.8B.B4.EC.A7.95 グローバル世界大百科事典]{{ko}}</ref>や『[[韓国民族文化大百科事典]]』<ref>{{Cite book|和書|year=|url=https://web.archive.org/web/20110609231137/http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=289933&v=43|title=담징 曇徵|publisher=[[韓国民族文化大百科事典]]}}{{ko}}</ref>にも記述されており、[[大韓民国|韓国]]の[[教科書|歴史教科書]]もそのように教えている<ref>{{Cite book|和書|year=2000|url=https://web.archive.org/web/20130728100241/http://f17.aaacafe.ne.jp/~kasiwa/korea/textbook_korea/3_4.html|title=Ⅲ 古代社会の発展|publisher=[[明石書店]]|series=新版韓国の歴史 国定韓国高等学校歴史教科書}}</ref>。[[大韓民国|韓国]]の[[教科書|歴史教科書]]は「[[高句麗]]もたくさんの文化を日本に伝えてあげた。高句麗の僧侶[[彗慈]]は[[聖徳太子]]の師であり、曇徴は[[紙]]、[[墨]]、[[硯]]を作る技術を教えてあげ、法隆寺金堂壁画も彼の作品として知られている」と記述している<ref name="NEWSポストセブン">{{Cite news|date=2013-07-28|title=歴史の共同研究 聞く耳持たぬ中韓ではなく米台と始めるべき|journal=[[NEWSポストセブン]]|url=https://www.news-postseven.com/archives/20130728_200027.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150209201923/https://www.news-postseven.com/archives/20130728_200027.html|archivedate=2015-02-09}}</ref>。しかし、それを支持する史料は一切なく(また現在の法隆寺は7世紀後半に再建されたものである)、俗説である。[[勝岡寛次]]は「韓国お得意の『[[韓国起源説|ウリジナル]]』歴史も登場する。…確たる歴史資料がないため作者不明とされているのをいいことに金堂壁画が朝鮮人の作だとする手前勝手な主張には開いた口が塞がらない」と評している<ref name="NEWSポストセブン"/>。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[王仁]] {{DEFAULTSORT:とんちよう}} [[Category:7世紀朝鮮の僧]] [[Category:7世紀日本の僧]] [[Category:高句麗の僧]] [[Category:飛鳥時代の僧]] [[Category:渡来人]] [[Category:飛鳥時代の外国人]] [[Category:前近代の日本の朝鮮人]] [[Category:前近代の朝鮮系日本人]] [[Category:生没年不詳]] [[Category:法隆寺]]
2006-01-02T07:40:42Z
2023-11-26T16:29:12Z
false
false
false
[ "Template:Quotation", "Template:Reflist", "Template:Kotobank", "Template:Cite book", "Template:Ko", "Template:Cite news" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%87%E5%BE%B4
421,145
トレヴァー・ホーン
トレヴァー・チャールズ・ホーン(Trevor Charles Horn, CBE, 1949年7月15日 - )は、イギリスの音楽プロデューサー、作曲家・編曲家、作詞家、ミュージシャン。 コンポーザー・アレンジャー・ミュージシャン等を多岐にこなし、自らもユニットの一員として行動することもある。しかし、普段は表舞台に立つミュージシャン・シンガーソングライターとしての活動よりも、セッション・作品の製作指揮・イメージ造形・マニピュレーター・ミキシング作業等スタジオでの裏方・レコーディング・エンジニアとしての作業が中心である。 レコーディングにおいてはクレジットされていない部分でもプロデュース対象者・制作スタッフの目を盗み、アレンジ作業、パート部分の弾き直し・弾き足しを行い、デジタル・オーディオ・ワークステーションを駆使し妥協なく隅々まで編集する等、演奏面でも数多くの作品に関与する。 「ラジオ・スターの悲劇」のヒットで知られるバグルス、イエスのボーカリストを経て、1982年に音楽出版社のパーフェクトソングス、1983年にZTTレコーズを立ち上げ、プロデューサーとしての活動を始める。 かつて本人がインタビューで、ジョン・アンダーソンの後釜としてイエスのツアーに出ているとき、観客の反応はジョン・アンダーソンではないイエスのボーカリストに対しては冷淡な反応で、それに耐えきれない気持ちが大きくなり、その事がイエスのボーカリストとしての活動を辞める切っ掛けになった、とプロデューサーへ転向した理由を語っていた。妻のジル・シンクレアがSarm Studioを経営していたこともあり、自然とプロデュースの方向へ進んだ、というのがプロデューサーとしての活動を始める契機にもなっている。 ホーンの名を一躍有名にしたのが、復活したイエスであった。アルバム『90125』をプロデュースし、「ロンリー・ハート」を全米1位に送り込む。この曲のイントロで聴けるオーケストラが一斉に楽器を鳴らしたような「ジャン!」という音はオーケストラル・ヒットと呼ばれ、一世を風靡した。この音の正体はフェアライトCMIというオーストラリア製のサンプラーで再生したもので、ホーンは当時最先端だったこのデジタル機器を駆使して斬新で刺激的なサウンドを作り出し、一躍時の人となった。 自身のプロジェクトであるアート・オブ・ノイズや、人気黒人モデルのグレイス・ジョーンズ、クラウディア・ブリュッケンがフロント・ヴォーカリストのドイツ出身の男2女2の4人組のプロパガンダ等の作品などはまさに時代の最先端を行くサウンドに満ちあふれており、先鋭的なニュー・ウェイヴ系アーティストに与えた影響は大きい。またフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのセンセーショナルなイメージ戦略(トレヴァー・ホーンの操り人形と皮肉られたほど)に見られるような「仕掛人」としての側面も持ち合わせていた。 1984年のバンド・エイドによるチャリティ「Do They Know It's Christmas」にもプロデューサーとして参加し、市販されたメイキング・ビデオにて彼の姿を見ることができる。また、この頃プロデュースしたABCの 『The Look of Love(ルック・オブ・ラブ)』や、ゴドレイ&クレームの『Cry(クライ)』のプロモーションビデオでも、1カットだけ出演している。 近年では、ベル・アンド・セバスチャン、808 State、シャルロット・チャーチ、シール、t.A.T.u.の世界デビューにおけるプロデュースを手がけている。 2004年11月にウェンブリーで行われたトレヴァー・ホーンの25周年記念コンサート「Produced By Trevor Horn: A Concert For Prince Trust」にはトレヴァー・ホーンがプロデュースしたアーティストが顔を揃え、冒頭ではバグルスの「ラジオ・スターの悲劇」をジェフ・ダウンズと共に自ら披露した。他にもアート・オブ・ノイズの「Close (to the edit)」のビートを構成していたドラム音素材の演奏者であるアラン・ホワイト本人がドラム・フィル担当で演奏し、トレヴァー・ホーンはサンプリングで演奏していたベース・ラインをエレクトリック・ベースで弾き、サンプリングされて使われていたブラス・ヒットは本物のブラス・セクションが演奏するなど、イントロのサンプリング部分以外は全て生演奏というスタイルで聴かせるなど、当時のサウンドを別の解釈で演奏した。またイエスも参加し、アルバム『90125』制作時のエピソードなどを語った。さらにフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドは「Welcome To The Pleasuredome」などのライブ演奏を行った。 2010年12月、大英帝国勲章・コマンダー(司令官)を授与される。2011年7月、イエスの新作「フライ・フロム・ヒア」をプロデュースしている。 2017年には連続テレビアニメ作品『THE REFLECTION -ザ・リフレクション-』において劇伴を含めたオリジナル・サウンドトラック全般を担当。劇中歌「SKY SHOW」では久々にソロ歌唱も披露した。本編にも「プロデューサーのトレヴァー・ホーン」というキャラクターが登場し、主要なキャラクターと会話する場面も見られた。また、同作のテーマソングとなる9nineの「SunSunSunrise」も自ら手掛ける。この楽曲がトレヴァーにとって初めての日本人アーティストプロデュース作品となった。 2022年10月、Nine Eight Booksより自伝"Adventures in Modern Recording: From ABC to ZTT"を出版する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "トレヴァー・チャールズ・ホーン(Trevor Charles Horn, CBE, 1949年7月15日 - )は、イギリスの音楽プロデューサー、作曲家・編曲家、作詞家、ミュージシャン。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "コンポーザー・アレンジャー・ミュージシャン等を多岐にこなし、自らもユニットの一員として行動することもある。しかし、普段は表舞台に立つミュージシャン・シンガーソングライターとしての活動よりも、セッション・作品の製作指揮・イメージ造形・マニピュレーター・ミキシング作業等スタジオでの裏方・レコーディング・エンジニアとしての作業が中心である。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "レコーディングにおいてはクレジットされていない部分でもプロデュース対象者・制作スタッフの目を盗み、アレンジ作業、パート部分の弾き直し・弾き足しを行い、デジタル・オーディオ・ワークステーションを駆使し妥協なく隅々まで編集する等、演奏面でも数多くの作品に関与する。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「ラジオ・スターの悲劇」のヒットで知られるバグルス、イエスのボーカリストを経て、1982年に音楽出版社のパーフェクトソングス、1983年にZTTレコーズを立ち上げ、プロデューサーとしての活動を始める。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "かつて本人がインタビューで、ジョン・アンダーソンの後釜としてイエスのツアーに出ているとき、観客の反応はジョン・アンダーソンではないイエスのボーカリストに対しては冷淡な反応で、それに耐えきれない気持ちが大きくなり、その事がイエスのボーカリストとしての活動を辞める切っ掛けになった、とプロデューサーへ転向した理由を語っていた。妻のジル・シンクレアがSarm Studioを経営していたこともあり、自然とプロデュースの方向へ進んだ、というのがプロデューサーとしての活動を始める契機にもなっている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ホーンの名を一躍有名にしたのが、復活したイエスであった。アルバム『90125』をプロデュースし、「ロンリー・ハート」を全米1位に送り込む。この曲のイントロで聴けるオーケストラが一斉に楽器を鳴らしたような「ジャン!」という音はオーケストラル・ヒットと呼ばれ、一世を風靡した。この音の正体はフェアライトCMIというオーストラリア製のサンプラーで再生したもので、ホーンは当時最先端だったこのデジタル機器を駆使して斬新で刺激的なサウンドを作り出し、一躍時の人となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "自身のプロジェクトであるアート・オブ・ノイズや、人気黒人モデルのグレイス・ジョーンズ、クラウディア・ブリュッケンがフロント・ヴォーカリストのドイツ出身の男2女2の4人組のプロパガンダ等の作品などはまさに時代の最先端を行くサウンドに満ちあふれており、先鋭的なニュー・ウェイヴ系アーティストに与えた影響は大きい。またフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのセンセーショナルなイメージ戦略(トレヴァー・ホーンの操り人形と皮肉られたほど)に見られるような「仕掛人」としての側面も持ち合わせていた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1984年のバンド・エイドによるチャリティ「Do They Know It's Christmas」にもプロデューサーとして参加し、市販されたメイキング・ビデオにて彼の姿を見ることができる。また、この頃プロデュースしたABCの 『The Look of Love(ルック・オブ・ラブ)』や、ゴドレイ&クレームの『Cry(クライ)』のプロモーションビデオでも、1カットだけ出演している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "近年では、ベル・アンド・セバスチャン、808 State、シャルロット・チャーチ、シール、t.A.T.u.の世界デビューにおけるプロデュースを手がけている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2004年11月にウェンブリーで行われたトレヴァー・ホーンの25周年記念コンサート「Produced By Trevor Horn: A Concert For Prince Trust」にはトレヴァー・ホーンがプロデュースしたアーティストが顔を揃え、冒頭ではバグルスの「ラジオ・スターの悲劇」をジェフ・ダウンズと共に自ら披露した。他にもアート・オブ・ノイズの「Close (to the edit)」のビートを構成していたドラム音素材の演奏者であるアラン・ホワイト本人がドラム・フィル担当で演奏し、トレヴァー・ホーンはサンプリングで演奏していたベース・ラインをエレクトリック・ベースで弾き、サンプリングされて使われていたブラス・ヒットは本物のブラス・セクションが演奏するなど、イントロのサンプリング部分以外は全て生演奏というスタイルで聴かせるなど、当時のサウンドを別の解釈で演奏した。またイエスも参加し、アルバム『90125』制作時のエピソードなどを語った。さらにフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドは「Welcome To The Pleasuredome」などのライブ演奏を行った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2010年12月、大英帝国勲章・コマンダー(司令官)を授与される。2011年7月、イエスの新作「フライ・フロム・ヒア」をプロデュースしている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2017年には連続テレビアニメ作品『THE REFLECTION -ザ・リフレクション-』において劇伴を含めたオリジナル・サウンドトラック全般を担当。劇中歌「SKY SHOW」では久々にソロ歌唱も披露した。本編にも「プロデューサーのトレヴァー・ホーン」というキャラクターが登場し、主要なキャラクターと会話する場面も見られた。また、同作のテーマソングとなる9nineの「SunSunSunrise」も自ら手掛ける。この楽曲がトレヴァーにとって初めての日本人アーティストプロデュース作品となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2022年10月、Nine Eight Booksより自伝\"Adventures in Modern Recording: From ABC to ZTT\"を出版する。", "title": "来歴" } ]
トレヴァー・チャールズ・ホーンは、イギリスの音楽プロデューサー、作曲家・編曲家、作詞家、ミュージシャン。
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = トレヴァー・ホーン<br/>(Trevor Horn) | honorific_suffix =[[大英帝国勲章|CBE]] | Img = Trevor Horn (cropped2).jpg | Img_capt = 1984年撮影 | Img_size = 220px | Background = maker | Birth_name = トレヴァー・チャールズ・ホーン<br/>(Trevor Charles Horn) | Alias = | Born = {{生年月日と年齢|1949|7|15}} | Died = | Origin = {{ENG}} [[ダラム]] | spouse = | Instrument = [[ベース (弦楽器)|ベース]]<br />[[キーボード (楽器)|キーボード]]<br />[[シンセサイザー]] | Genre = [[テクノポップ]]<br />[[プログレッシブ・ロック]]<br />[[ディスコ (音楽)|ディスコミュージック]]<br />[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]<br />[[アンプラグド]]<br />[[クラシック音楽]]<br />etc... | Occupation = [[音楽プロデューサー]]<br />[[作曲家]]<br />[[キーボーディスト]]<br />[[ベーシスト]] | Years_active = [[1970年]] – | Label = [[ZTTレコーズ]] | Associated_acts = [[ロル・クレーム]] | Influences = [[イエス (バンド)|Yes]] | URL = [http://www.trevorhorn.com/ Official Site (英文)] }} '''トレヴァー・チャールズ・ホーン'''('''Trevor Charles Horn, [[大英帝国勲章|CBE]]''', [[1949年]][[7月15日]] - )は、イギリスの[[音楽プロデューサー]]、[[作曲家]]・[[編曲家]]、[[作詞家]]、[[ミュージシャン]]。 == 作風 == コンポーザー・アレンジャー・ミュージシャン等を多岐にこなし、自らもユニットの一員として行動することもある。しかし、普段は表舞台に立つミュージシャン・シンガーソングライターとしての活動よりも、セッション・作品の製作指揮・イメージ造形・[[マニピュレーター]]・[[ミキシング]]作業等スタジオでの裏方・[[レコーディング・エンジニア]]としての作業が中心である。 レコーディングにおいてはクレジットされていない部分でもプロデュース対象者・制作スタッフの目を盗み、アレンジ作業、パート部分の弾き直し・弾き足しを行い、[[デジタル・オーディオ・ワークステーション]]を駆使し妥協なく隅々まで編集する等、演奏面でも数多くの作品に関与する。 == 来歴 == ; プロデューサーとして 「[[ラジオ・スターの悲劇]]」のヒットで知られる[[バグルス]]、[[イエス (バンド)|イエス]]のボーカリストを経て、[[1982年]]に音楽出版社のパーフェクトソングス、[[1983年]]に[[ZTTレコーズ]]を立ち上げ、プロデューサーとしての活動を始める。 ; イエスへの参加と離脱 かつて本人がインタビューで、[[ジョン・アンダーソン (音楽家)|ジョン・アンダーソン]]の後釜としてイエスのツアーに出ているとき、観客の反応はジョン・アンダーソンではないイエスのボーカリストに対しては冷淡な反応で、それに耐えきれない気持ちが大きくなり、その事がイエスのボーカリストとしての活動を辞める切っ掛けになった、とプロデューサーへ転向した理由を語っていた。妻のジル・シンクレアがSarm Studioを経営していたこともあり、自然とプロデュースの方向へ進んだ、というのがプロデューサーとしての活動を始める契機にもなっている。 ; 90125 ホーンの名を一躍有名にしたのが、復活したイエスであった。アルバム『[[ロンリー・ハート|90125]]』をプロデュースし、「ロンリー・ハート」を全米1位に送り込む。この曲のイントロで聴ける[[オーケストラ]]が一斉に[[楽器]]を鳴らしたような「ジャン!」という音は[[オーケストラル・ヒット]]と呼ばれ、一世を風靡した。この音の正体は[[フェアライトCMI]]というオーストラリア製の[[サンプラー]]で再生したもので、ホーンは当時最先端だったこのデジタル機器を駆使して斬新で刺激的なサウンドを作り出し、一躍時の人となった。 ; プロデュース・ワーク 自身のプロジェクトである[[アート・オブ・ノイズ]]や、人気黒人モデルの[[グレイス・ジョーンズ]]、[[クラウディア・ブリュッケン]]がフロント・ヴォーカリストの[[ドイツ]]出身の男2女2の4人組の[[プロパガンダ (バンド)|プロパガンダ]]等の作品などはまさに時代の最先端を行くサウンドに満ちあふれており、先鋭的な[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]系アーティストに与えた影響は大きい。また[[フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド]]のセンセーショナルなイメージ戦略(トレヴァー・ホーンの操り人形と皮肉られたほど)に見られるような「仕掛人」としての側面も持ち合わせていた。 1984年の[[バンド・エイド]]によるチャリティ「[[:en:Do_They_Know_It's_Christmas%3F|Do They Know It's Christmas]]」にもプロデューサーとして参加し、市販されたメイキング・ビデオにて彼の姿を見ることができる。また、この頃プロデュースした[[ABC (バンド)|ABC]]の 『The Look of Love(ルック・オブ・ラブ)』や、[[ゴドレイ&クレーム]]の『Cry(クライ)』の[[プロモーションビデオ]]でも、1カットだけ出演している。 近年では、[[ベル・アンド・セバスチャン]]、[[808 State]]、[[シャルロット・チャーチ]]、[[シール (歌手)|シール]]、[[t.A.T.u.]]の世界デビューにおけるプロデュースを手がけている。 ; 25周年記念コンサート 2004年11月にウェンブリーで行われたトレヴァー・ホーンの25周年記念コンサート「Produced By Trevor Horn: A Concert For Prince Trust」にはトレヴァー・ホーンがプロデュースしたアーティストが顔を揃え、冒頭ではバグルスの「ラジオ・スターの悲劇」を[[ジェフ・ダウンズ]]と共に自ら披露した。他にもアート・オブ・ノイズの「Close (to the edit)」のビートを構成していたドラム音素材の演奏者であるアラン・ホワイト本人がドラム・フィル担当で演奏し、トレヴァー・ホーンはサンプリングで演奏していたベース・ラインをエレクトリック・ベースで弾き、サンプリングされて使われていたブラス・ヒットは本物のブラス・セクションが演奏するなど、イントロのサンプリング部分以外は全て生演奏というスタイルで聴かせるなど、当時のサウンドを別の解釈で演奏した。またイエスも参加し、アルバム『90125』制作時のエピソードなどを語った。さらにフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドは「Welcome To The Pleasuredome」などのライブ演奏を行った。 ; その後 [[2010年]]12月、[[大英帝国勲章]]・コマンダー(司令官)を授与される。[[2011年]][[7月]]、イエスの新作「[[フライ・フロム・ヒア]]」をプロデュースしている。 [[2017年]]には連続テレビアニメ作品『[[THE REFLECTION|THE REFLECTION -ザ・リフレクション-]]』において[[劇伴]]を含めたオリジナル・サウンドトラック全般を担当。劇中歌「SKY SHOW」では久々にソロ歌唱も披露した。本編にも「プロデューサーのトレヴァー・ホーン」というキャラクターが登場し、主要なキャラクターと会話する場面も見られた。また、同作のテーマソングとなる[[9nine]]の「[[SunSunSunrise/ゆるとぴあ|SunSunSunrise]]」も自ら手掛ける。この楽曲がトレヴァーにとって初めての日本人アーティストプロデュース作品となった。 2022年10月、Nine Eight Booksより自伝"Adventures in Modern Recording: From ABC to ZTT"を出版する。 == 参加ユニット == *[[Chromium (ユニット)|Chromium]] *[[バグルス|The Buggles]] *[[イエス (バンド)|Yes]] *[[アート・オブ・ノイズ|Art of Noise]] *[[The Producers]] == 代表作 == ; 詳しくは[[トレヴァー・ホーンの作品一覧]]を参照。 *[[1979年]] [[バグルス|The Buggles]] 『[[ラジオ・スターの悲劇 (アルバム)|The Age of Plastic]]』 *[[1981年]] The Buggles 『[[モダン・レコーディングの冒険|Adventures in Modern Recording]]』 *[[1982年]] [[ABC (バンド)|ABC]] 『[[The Lexicon of Love]]』 *[[1983年]] [[イエス (バンド)|Yes]] 『[[ロンリー・ハート|90125]]』 *[[1984年]] [[フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッド|Frankie Goes To Hollywood]] 『[[Welcome To The Pleasuredome]]』 *[[1994年]] [[シール (歌手)|Seal]] 『[[Seal II]]』 *[[2002年]] [[t.A.T.u.]] 『[[200 Km/h In The Wrong Lane]]』 *[[2017年]] Trevor Horn 『[[The Reflection Wave One—Original Soundtrack]]』 *[[2019年]] Trevor Horn 『[[Reimagines the Eighties]]』 ==外部リンク== *[http://www.trevorhorn.com/ Official Site (英文)] *{{Facebook|trevorhornofficial}} *{{Discogs artist | artist = Trevor Horn}} {{イエス (バンド)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほおん とれうあ}} [[Category:イエスのメンバー]] [[Category:イギリスの音楽プロデューサー]] [[Category:イングランドのシンガーソングライター]] [[Category:イギリスのベーシスト]] [[Category:ブリット・アワード受賞者]] [[Category:ダラム出身の人物]] [[Category:1949年生]] [[Category:存命人物]]
null
2022-10-14T16:30:57Z
false
false
false
[ "Template:Infobox Musician", "Template:Facebook", "Template:Discogs artist", "Template:イエス (バンド)", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%B3
2,083,733
エル・プラタ級モニター
エル・プラタ級はアルゼンチン海軍の航洋型モニター、ないし囲砲塔艦。「エル・プラタ (El Plata)」と「ロス・アンデス (Los Andes)」の2隻がイギリスのレアード社で建造され、前者は1874年8月29日、後者は1874年10月29日に進水。1925年ごろと1929年ごろにそれぞれ解体された。 満載排水量1500トン、水線長186フィート0インチ (56.69m)、幅44フィート0インチ (13.41m)。または排水量1535トン、全長186フィート (56.7m)、垂線間長179.8フィート (54.8m)、幅44フィート3インチ (13.5m)。乾舷はジョン・エリクソン型モニターより高い。 艦中央部に連装砲塔が1基あり、そこにアームストロング23cm前装砲を搭載した。1901年には20.3cm後装施条砲に換装された。他の兵装は4インチ砲2門、9ポンド砲2門、3ポンド砲2門。「ロス・アンデス」は他にノルデンフェルト1インチ機銃を4艇搭載した。1901年時の兵装は203mm前装砲2門と114mm砲2門とも。 機関出力は750指示馬力、2軸推進で速力9,5ノット。煙突は1本で、砲塔の後ろにある。 装甲は鉄製で、厚さは水線装甲が最大152mm、砲塔基部周りのブレストワークが203mmから229mm、砲室前面が229mmで他が203mm。または装甲帯90-152mm、砲塔203-254mm、甲板25mm。 砲塔の前後は甲板室となっているが、その幅は狭く、また左右の砲身を離して搭載していることから真正面に主砲を発射できたという。 1878年、アルゼンチンのグアノ採取許可書を持つ外国船がパタゴニア沿岸でチリに拿捕されると「ロス・アンデス」はスループと砲艦各1隻と共に派遣される。12月2日にSanta Cruz着いたが、チリ側は既に撤収した後であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エル・プラタ級はアルゼンチン海軍の航洋型モニター、ないし囲砲塔艦。「エル・プラタ (El Plata)」と「ロス・アンデス (Los Andes)」の2隻がイギリスのレアード社で建造され、前者は1874年8月29日、後者は1874年10月29日に進水。1925年ごろと1929年ごろにそれぞれ解体された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "満載排水量1500トン、水線長186フィート0インチ (56.69m)、幅44フィート0インチ (13.41m)。または排水量1535トン、全長186フィート (56.7m)、垂線間長179.8フィート (54.8m)、幅44フィート3インチ (13.5m)。乾舷はジョン・エリクソン型モニターより高い。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "艦中央部に連装砲塔が1基あり、そこにアームストロング23cm前装砲を搭載した。1901年には20.3cm後装施条砲に換装された。他の兵装は4インチ砲2門、9ポンド砲2門、3ポンド砲2門。「ロス・アンデス」は他にノルデンフェルト1インチ機銃を4艇搭載した。1901年時の兵装は203mm前装砲2門と114mm砲2門とも。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "機関出力は750指示馬力、2軸推進で速力9,5ノット。煙突は1本で、砲塔の後ろにある。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "装甲は鉄製で、厚さは水線装甲が最大152mm、砲塔基部周りのブレストワークが203mmから229mm、砲室前面が229mmで他が203mm。または装甲帯90-152mm、砲塔203-254mm、甲板25mm。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "砲塔の前後は甲板室となっているが、その幅は狭く、また左右の砲身を離して搭載していることから真正面に主砲を発射できたという。", "title": "設計" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1878年、アルゼンチンのグアノ採取許可書を持つ外国船がパタゴニア沿岸でチリに拿捕されると「ロス・アンデス」はスループと砲艦各1隻と共に派遣される。12月2日にSanta Cruz着いたが、チリ側は既に撤収した後であった。", "title": "運用" } ]
エル・プラタ級はアルゼンチン海軍の航洋型モニター、ないし囲砲塔艦。「エル・プラタ」と「ロス・アンデス」の2隻がイギリスのレアード社で建造され、前者は1874年8月29日、後者は1874年10月29日に進水。1925年ごろと1929年ごろにそれぞれ解体された。
[[File:Monitor El Plata.jpg|thumb|「エル・プラタ」]] [[File:Monitor Los Andes -1874-1930.jpg|thumb|1905年ごろの「ロス・アンデス」]] '''エル・プラタ級'''は[[アルゼンチン海軍]]の[[モニター艦|航洋型モニター]]、ないし囲砲塔艦<ref name=橋本320>『海防戦艦』320ページ</ref>。「エル・プラタ (El Plata)」と「ロス・アンデス (Los Andes)」の2隻がイギリスのレアード社で建造され、前者は1874年8月29日、後者は1874年10月29日に[[進水]]<ref name=conway401>''Conway's All the World's Fighting Ships 1860-1905'', p. 401</ref>。1925年ごろと1929年ごろにそれぞれ解体された<ref name=conway401/>。 ==設計== 満載排水量1500トン、水線長186フィート0インチ (56.69m)、幅44フィート0インチ (13.41m)<ref name=conway401/>。または排水量1535トン、全長186フィート (56.7m)、垂線間長179.8フィート (54.8m)、幅44フィート3インチ (13.5m)<ref name=Silverstone11>''Directory of the World's Capital Ships'', p. 11</ref>。[[乾舷]]は[[ジョン・エリクソン (モニター)|ジョン・エリクソン]]型モニターより高い<ref name=橋本320/>。 艦中央部に連装砲塔が1基あり、そこにアームストロング23cm前装砲を搭載した<ref name=橋本320/>。1901年には20.3cm後装施条砲に換装された<ref name=橋本320/>。他の兵装は4インチ砲2門、9ポンド砲2門、3ポンド砲2門<ref name=conway401/>。「ロス・アンデス」は他にノルデンフェルト1インチ機銃を4艇搭載した<ref name=conway401/>。1901年時の兵装は203mm前装砲2門と114mm砲2門<ref name=Silverstone11/>とも。 機関出力は750[[指示馬力]]、2軸推進で速力9,5ノット<ref name=conway401/>。煙突は1本で、砲塔の後ろにある<ref name=橋本320/>。 装甲は鉄製で、厚さは水線装甲が最大152mm、砲塔基部周りのブレストワークが203mmから229mm、砲室前面が229mmで他が203mm<ref name=橋本320/>。または装甲帯90-152mm、砲塔203-254mm、甲板25mm<ref name=Silverstone11/>。 砲塔の前後は甲板室となっているが、その幅は狭く、また左右の砲身を離して搭載していることから真正面に主砲を発射できたという<ref>『海防戦艦』320ページ、''Conway's All the World's Fighting Ships 1860-1905'', p. 401, ''Directory of the World's Capital Ships'', p. 11</ref>。 ==運用== 1878年、アルゼンチンのグアノ採取許可書を持つ外国船がパタゴニア沿岸でチリに拿捕されると「ロス・アンデス」はスループと砲艦各1隻と共に派遣される<ref name=Rauch297>"CRUISERS for ARGENTINA", p. 297</ref>。12月2日にSanta Cruz着いたが、チリ側は既に撤収した後であった<ref name=Rauch297/>。 ==脚注== {{Reflist}} ==参考文献== *橋本若路『海防戦艦 設計・建造・運用 1872~1938』イカロス出版、2022年、ISBN 978-4-8022-1172-7 *''Conway's All the World's Fighting Ships 1860-1905'', Conway Maritime Press. 1979, ISBN 0-8317-0302-4 *Paul H Silverstone, ''Directory of the World's Capital Ships'', Hippocrene Books, 1984, ISBN 0-88254-979-0 *Georg von Rauch, "CRUISERS for ARGENTINA", Warship International, 1978, Vol. 15, No. 4, pp. 297-317 == 関連項目 == * [[アルゼンチン海軍艦艇一覧]] ==外部リンク== *[http://www.histarmar.com.ar/Armada%20Argentina/Buques1852-1899/Monitores/MonitorElPlata1875.htm MONITOR A.R.A. "EL PLATA" 1875]本級についての説明。 {{DEFAULTSORT:ら ふらたきゆうもにたあ}} [[Category:アルゼンチン海軍の艦船]] [[Category:モニター艦]]
null
2023-03-13T14:27:54Z
false
false
false
[ "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BF%E7%B4%9A%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%83%BC
578,616
ボーダコム
ボーダコム(英語: Vodacom)は、南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市都市圏に本社を置く携帯電話事業を営む企業である。 国内約2,300万人(約58%)の顧客を持つ南アフリカ最大の携帯電話会社で、国際携帯ネットワークであるボーダフォンの一部である。 南アフリカに3G、UMTSネットワークを初めて展開した企業でもあり、HSDPAの提供も行っている。また、GSMサービスを南アフリカ、タンザニア、レソト、モザンビーク、コンゴ民主共和国で提供している。キリマンジャロも提供範囲に入っており、これはGSM提供範囲の中で世界一高い場所である。 1993年、政府が出資する電気通信企業のテルコムSAとボーダフォン、投資会社のヴェンフィンの3社による合弁事業として設立された。出資比率の割合はテルコムSAが50%、ボーダフォンが35%、ヴェンフィンが15%であった。 2005年11月、ボーダフォンはヴェンフィン株の99.8%を約160億 ランド(約20億 ユーロ)で買収することに合意した。その後ヴェンフィンの資産はボーダコムの株式15%を除き処分され、これによりボーダフォンはテルコムSAとともにボーダコム株を50%を保有することになった。 南アフリカで開催される2010 FIFAワールドカップの主要サポーターでもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ボーダコム(英語: Vodacom)は、南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市都市圏に本社を置く携帯電話事業を営む企業である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "国内約2,300万人(約58%)の顧客を持つ南アフリカ最大の携帯電話会社で、国際携帯ネットワークであるボーダフォンの一部である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "南アフリカに3G、UMTSネットワークを初めて展開した企業でもあり、HSDPAの提供も行っている。また、GSMサービスを南アフリカ、タンザニア、レソト、モザンビーク、コンゴ民主共和国で提供している。キリマンジャロも提供範囲に入っており、これはGSM提供範囲の中で世界一高い場所である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1993年、政府が出資する電気通信企業のテルコムSAとボーダフォン、投資会社のヴェンフィンの3社による合弁事業として設立された。出資比率の割合はテルコムSAが50%、ボーダフォンが35%、ヴェンフィンが15%であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2005年11月、ボーダフォンはヴェンフィン株の99.8%を約160億 ランド(約20億 ユーロ)で買収することに合意した。その後ヴェンフィンの資産はボーダコムの株式15%を除き処分され、これによりボーダフォンはテルコムSAとともにボーダコム株を50%を保有することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "南アフリカで開催される2010 FIFAワールドカップの主要サポーターでもある。", "title": "事業" } ]
ボーダコムは、南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市都市圏に本社を置く携帯電話事業を営む企業である。
{{基礎情報 会社 |社名 = ボーダコム |英文社名 = {{Lang|en|Vodacom}} |ロゴ = |種類 = |市場情報 = |略称 = Vodacom |国籍 = {{ZAF}} |郵便番号 = |本社所在地 = [[ハウテン州]][[ヨハネスブルグ|ヨハネスブルグ市都市圏]] |設立 = [[1993年]] |業種 = 情報・通信業 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = 携帯電話 |代表者 = |資本金 = |売上高 = |総資産 = |従業員数 = |決算期 = |主要株主 = テレコム南アフリカ(50%)、<br/>[[ボーダフォン]](50%) |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = [http://www.vodacom.co.za/ Vodacom] |特記事項 = }} '''ボーダコム'''({{Lang-en|'''Vodacom'''}})は、[[南アフリカ共和国]][[ハウテン州]][[ヨハネスブルグ|ヨハネスブルグ市都市圏]]に本社を置く[[携帯電話]]事業を営む[[企業]]である。 == 概要 == 国内約2,300万人(約58%)の顧客を持つ南アフリカ最大の携帯電話会社で、国際携帯ネットワークである[[ボーダフォン]]の一部である。 南アフリカに[[3G]]、[[UMTS]]ネットワークを初めて展開した企業でもあり、[[HSDPA]]の提供も行っている。また、[[GSM]]サービスを南アフリカ、[[タンザニア]]、[[レソト]]、[[モザンビーク]]、[[コンゴ民主共和国]]で提供している。[[キリマンジャロ]]も提供範囲に入っており、これはGSM提供範囲の中で世界一高い場所である。 == 歴史 == [[1993年]]、政府が出資する[[電気通信]]企業の[[テルコムSA]]とボーダフォン、投資会社の[[w:VenFin|ヴェンフィン]]の3社による[[合弁事業]]として設立された。出資比率の割合はテルコムSAが50%、ボーダフォンが35%、ヴェンフィンが15%であった。 [[2005年]]11月、ボーダフォンはヴェンフィン株の99.8%を約160億 [[ランド (通貨)|ランド]](約20億 [[ユーロ]])で買収することに合意した。その後ヴェンフィンの資産はボーダコムの株式15%を除き処分され、これによりボーダフォンはテルコムSAとともにボーダコム株を50%を保有することになった。 == 事業 == === 協賛 === ;[[ラグビーユニオン|ラグビー]] *[[カリーカップ]] **[[ブルー・ブルズ]](ボーダコム・ブルー・ブルズ) **[[フリーステイト・チーターズ]](ボーダコム・フリーステイト・チーターズ) **[[ウェスタン・プロヴィンス]](ボーダコム・ウェスタン・プロヴィンス) *[[スーパーラグビー]] **[[ブルズ (ラグビー)|ブルズ]](ボーダコム・ブルズ) *[[トライ・ネイションズ]] **[[ラグビー南アフリカ共和国代表|スプリングボクス]] ;[[サッカー]] *[[南アフリカ共和国サッカー協会]] **[[サッカー南アフリカ共和国代表]](バハナ・バハナ) **[[w:South Africa women's national football team|サッカー南アフリカ共和国女子代表]](バヤナ・バヤナ) **アマジタ - 20歳以下代表チーム *[[プレミアサッカーリーグ]] **[[オーランド・パイレーツFC]] **[[カイザー・チーフスFC]] **[[w:Bloemfontein Celtic|ブルームフォンテーン・セルテックFC]] 南アフリカで開催される[[2010 FIFAワールドカップ]]の主要サポーターでもある。 ;[[命名権]](ネーミングライツ) *[[フリーステイト・スタジアム]](ボーダコム・パーク・スタジアム) *[[ニューランズ・スタジアム]](命名権を行使しないことを表明) *[[ロフタス・ヴァースフェルド・スタジアム]](セキュリコー・ロフタス・スタジアムから初期のスタジアム名に改称) == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 関連項目 == *南アフリカ共和国の携帯電話事業者 **モバイル・テレフォン・ネットワーク **セル・C **ヴァージンモバイル == 外部リンク == *[http://www.vodacom.co.za/ Vodacom](公式サイト){{en icon}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほおたこむ}} [[Category:各国の電気通信事業者]] [[Category:各国の携帯電話事業者]] [[Category:南アフリカ共和国の多国籍企業]] [[Category:ボーダフォン]]
null
2023-02-19T23:07:30Z
false
false
false
[ "Template:基礎情報 会社", "Template:Lang-en", "Template:En icon", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%80%E3%82%B3%E3%83%A0
2,476,157
安子島祐義
安子島祐義(あこがしま すけよし、生没年不詳)は、室町時代の武将。陸奥国安積郡安子島城主。本姓は藤原氏。家系は藤原南家の流れを汲む安積伊東氏の庶流 安子島氏。 室町時代、陸奥出羽両国は室町幕府の支配下であったが、明徳3年(1392年)、それまで対立関係にあった室町幕府の3代将軍足利義満と鎌倉府二代鎌倉公方足利氏満が和解して以降、奥羽は鎌倉府の管轄下に入った。三代 鎌倉公方 足利満兼は弟の満貞、満直を陸奥国岩瀬郡稲村、安積郡篠川に派遣し、それぞれ稲村御所、篠川御所として奥羽の国人を統括させた。しかし、実際には幕府より派遣された奥州探題 大崎氏や羽州探題 最上氏、伊達氏、蘆名氏など京都扶持衆など幕府方勢力は顕在であり、奥羽の国人のすべてが鎌倉府に帰服したわけではなかった。その中で奥羽は幕府勢力と鎌倉府勢力に二分して争ったのである。 その中で、当初、鎌倉府方の一方の首領であった、足利満直に忠誠を尽くす国人衆が白河結城氏の小峰満政はじめ仙道の諸将30名が連判状をつくり、満直の与党となった。この書状に連署した武将の中に、安積郡安子島の領主であった安子島祐義がいる。しかし、稲村御所 足利満貞があくまで鎌倉府方の武将として活動し、四代鎌倉公方 足利持氏とともに幕府の追討を受けて亡くなったのに対し、篠川御所 満直は幕府方の京都扶持衆として生き残ることになった。しかし、下総の結城氏の当主 結城氏朝・持朝が持氏の遺児 足利春王丸・安王丸を奉じて挙兵した結城合戦が起こると、満直は結城氏に呼応した奥州諸将の軍勢に襲われ、滅亡。満直の下に集った30将からなる連判同盟はここに潰えることとなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "安子島祐義(あこがしま すけよし、生没年不詳)は、室町時代の武将。陸奥国安積郡安子島城主。本姓は藤原氏。家系は藤原南家の流れを汲む安積伊東氏の庶流 安子島氏。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "室町時代、陸奥出羽両国は室町幕府の支配下であったが、明徳3年(1392年)、それまで対立関係にあった室町幕府の3代将軍足利義満と鎌倉府二代鎌倉公方足利氏満が和解して以降、奥羽は鎌倉府の管轄下に入った。三代 鎌倉公方 足利満兼は弟の満貞、満直を陸奥国岩瀬郡稲村、安積郡篠川に派遣し、それぞれ稲村御所、篠川御所として奥羽の国人を統括させた。しかし、実際には幕府より派遣された奥州探題 大崎氏や羽州探題 最上氏、伊達氏、蘆名氏など京都扶持衆など幕府方勢力は顕在であり、奥羽の国人のすべてが鎌倉府に帰服したわけではなかった。その中で奥羽は幕府勢力と鎌倉府勢力に二分して争ったのである。 その中で、当初、鎌倉府方の一方の首領であった、足利満直に忠誠を尽くす国人衆が白河結城氏の小峰満政はじめ仙道の諸将30名が連判状をつくり、満直の与党となった。この書状に連署した武将の中に、安積郡安子島の領主であった安子島祐義がいる。しかし、稲村御所 足利満貞があくまで鎌倉府方の武将として活動し、四代鎌倉公方 足利持氏とともに幕府の追討を受けて亡くなったのに対し、篠川御所 満直は幕府方の京都扶持衆として生き残ることになった。しかし、下総の結城氏の当主 結城氏朝・持朝が持氏の遺児 足利春王丸・安王丸を奉じて挙兵した結城合戦が起こると、満直は結城氏に呼応した奥州諸将の軍勢に襲われ、滅亡。満直の下に集った30将からなる連判同盟はここに潰えることとなった。", "title": "経歴" } ]
安子島祐義は、室町時代の武将。陸奥国安積郡安子島城主。本姓は藤原氏。家系は藤原南家の流れを汲む安積伊東氏の庶流 安子島氏。
{{出典の明記|date=2021-11}} '''安子島祐義'''(あこがしま すけよし、生没年不詳)は、[[室町時代]]の[[武将]]。[[陸奥国]][[安積郡]][[安子島城]]主。[[本姓]]は[[藤原氏]]。[[家系]]は[[藤原南家]]の流れを汲む[[伊東氏#安積伊東氏|安積伊東氏]]の[[庶家|庶流]] [[安子島氏]]。 ==経歴== 室町時代、陸奥[[出羽国|出羽]]両国は[[室町幕府]]の支配下であったが、[[明徳]]3年([[1392年]])、それまで対立関係にあった室町幕府の3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]と[[鎌倉府]]二代[[鎌倉公方]][[足利氏満]]が和解して以降、[[奥羽]]は鎌倉府の管轄下に入った。三代 鎌倉公方 [[足利満兼]]は弟の[[足利満貞|満貞]]、[[足利満直|満直]]を陸奥国[[岩瀬郡]]稲村、安積郡篠川に派遣し、それぞれ稲村御所、篠川御所として奥羽の国人を統括させた。しかし、実際には[[室町幕府|幕府]]より派遣された[[奥州探題]] [[大崎氏]]や[[羽州探題]] [[最上氏]]、[[伊達氏]]、[[蘆名氏]]など[[京都扶持衆]]など幕府方勢力は顕在であり、奥羽の国人のすべてが鎌倉府に帰服したわけではなかった。その中で奥羽は幕府勢力と鎌倉府勢力に二分して争ったのである。 その中で、当初、鎌倉府方の一方の首領であった、足利満直に忠誠を尽くす[[国人|国人衆]]が[[白河結城氏]]の[[小峰満政]]はじめ仙道の諸将30名が連判状をつくり、満直の与党となった。この書状に連署した武将の中に、安積郡安子島の領主であった安子島祐義がいる。しかし、稲村御所 足利満貞があくまで鎌倉府方の武将として活動し、四代[[鎌倉公方]] [[足利持氏]]とともに幕府の追討を受けて亡くなったのに対し、篠川御所 満直は幕府方の[[京都扶持衆]]として生き残ることになった。しかし、[[下総国|下総]]の[[結城氏]]の当主 [[結城氏朝]]・[[結城持朝|持朝]]が持氏の遺児 [[足利春王丸]]・[[足利安王丸|安王丸]]を奉じて挙兵した[[結城合戦]]が起こると、満直は結城氏に呼応した奥州諸将の軍勢に襲われ、滅亡。満直の下に集った30将からなる連判同盟はここに潰えることとなった<ref>なお、当時の史料 笹川殿應永十一年の連署に、「阿古島藤原祐義」とある。詳しくは[[太田亮]][[編集|編]]『姓氏家系大辞典第1巻』([[角川書店]]、[[1963年]]) 63頁参照。</ref>。 ==脚注== {{Reflist}} ==参照文献== *太田亮編『姓氏家系大辞典第1巻』(角川書店、1963年) == 関連項目 == * [[安子島氏]] {{DEFAULTSORT:あこかしま すけよし}} [[Category:陸奥国人領主]] [[Category:室町時代の人物]] [[Category:生没年不詳]]
null
2022-11-29T13:28:06Z
false
false
false
[ "Template:出典の明記", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AD%90%E5%B3%B6%E7%A5%90%E7%BE%A9
1,580,357
麻生内閣
麻生内閣(あそうないかく)は、衆議院議員、自由民主党総裁の麻生太郎が第92代内閣総理大臣に任命され、2008年(平成20年)9月24日から2009年(平成21年)9月16日まで続いた日本の内閣。 内閣総理大臣福田康夫の辞任に伴う福田康夫改造内閣の総辞職を受けて発足した。 2009年(平成21年)7月21日に衆議院を解散し、8月30日の総選挙にて鳩山由紀夫率いる民主党に過半数を奪われ、9月16日の鳩山由紀夫内閣成立とともに政権を明け渡したことから、本内閣は民主党への政権交代まで約10年続いた第1次自公連立政権最後の内閣である。 第170回国会において2008年(平成20年)9月24日に内閣総理大臣指名選挙が行われた。前任の福田康夫就任時と同じくねじれ国会のあおりを受け、前回同様に衆参で首班指名が異なり、衆議院は自由民主党総裁の麻生太郎を指名し、参議院は、民主党代表の小沢一郎を指名した。両院協議会でも成案を得るに至らず、衆議院の優越により衆議院で指名された麻生太郎を国会の指名として衆議院議長が奏上した。指名当日に宮中における内閣総理大臣の親任式、並びに、国務大臣及び内閣官房副長官ら認証官任命式を経て正式に成立した。 通常、記者会見において閣僚名簿を読み上げるのは内閣官房長官であるが、今回は麻生自らが閣僚名簿を読み上げ、併せて「それぞれの閣僚に具体的にやってもらいたい仕事」についても説明した。 2008年(平成20年)9月25日の閣議では内閣法第9条の規定に基づき、首相に事故があった場合の臨時代理就任予定者の順位を河村建夫、与謝野馨、鳩山邦夫、中川昭一、甘利明の順とすることを決定した。また、同日の閣僚懇談会では行財政改革の一環として、歴代内閣と同様に閣僚給与の1割を国庫に返納することを申し合わせた。 9月29日、麻生首相は記者団から内閣の名前を聞かれ、「ネーミングはみなさん(報道機関)がすること」と、自らは内閣へのネーミングは行わないことを表明した。 自民党内の圧倒的人気を得た麻生首相は「選挙の顔」として、解散ができなかった福田にかわり「解散、総選挙を行うことを前提に」首相になったとも言われ、野党も速やかな衆議院解散、総選挙の実施を要求した。「選挙管理内閣」などとメディアおよび野党はレッテル攻勢に終始し衆院解散に追い込むことを企図しており、また自民内部でも足並みが乱れ、当初から独自の政策を開陳する機会に恵まれなかった(→麻生おろし)。 記者の首相に対する「ぶら下がり」取材では、9月24日の内閣発足後1か月間に、28回中少なくとも17回で解散が話題になったが、麻生首相はいずれも解散・総選挙の時期の明言を避けた が、麻生自身も自らの論文で「国民に信を問おうと思う」との表現を使い、当初は就任直後臨時国会冒頭の解散を思い描いていたと見られる。すでに総裁選の最中、9月半ばには政務担当秘書官村松一郎に衆院解散の際に読み上げる「解散原稿」の準備を指示、また、民主党代表小沢一郎に所信表明への回答を10月3日までに要求する所信表明演説も準備され、この時点では各党の代表質問が終わる10月3日の解散を念頭に置いていたとされる。しかし、リーマン・ショックに端を発する世界金融危機により、10月16日に東京株式市場が史上2番目の急落を記録。麻生首相は財務大臣兼内閣府特命担当大臣中川昭一らと協議して、金融危機に対応するため、解散の先送りを決定した が、「解散の先送り」が問題視され、内閣支持率は急落した。朝日新聞によれば、麻生首相は11月19日夜、年末年始の解散の可能性について細田博之幹事長らと相談したが、内閣支持率の急落に伴い「今は麻生では戦えない」とする自民党内の懸念を感じた細田らに真っ向から反対されて断念した。 組閣直後の内閣支持率は50%前後と振るわず、その後も低迷した。2008年(平成20年)12月8日に公表された各新聞の世論調査では、内閣支持率が21%(読売・毎日)・20%(朝日)まで下落した。この頃には自民党内での分派行動も目立ち、麻生首相は選挙の顔としての評価を大きく落とした。 麻生内閣発足直後にはサブプライムローン問題に端を発した世界金融危機の影響を日本も受け始めており、麻生首相は、「当面は『景気対策』、中期的には『財政再建』、中長期的には『改革による経済成長』」という経済対策を表明した が、その財源の裏付けとなる第二次補正予算案が年内の臨時国会ではなく、年明けの通常国会に提出するという国会運営が朝日新聞から批判された(読売新聞 や産経新聞 は与野党合意ができなかった自民党と民主党を共に批判した)。 低支持率の背景には、麻生首相が国会答弁で踏襲を『ふしゅう』と読み間違えたこと が大きく問題視され、強い批判を受けた こともあるが、支持率の急落は麻生首相のみの責任とは言えず、前任者(安倍、福田)2代連続の「政権投げ出し」で国民が自民党に不信感を持ったことも背景にあった。また、参議院で第1党の地位にある最大野党の民主党は当初、協力的な姿勢を見せていたが、解散総選挙の先送りが表明されると対立路線を明確にし国会運営が困難になった(ねじれ国会)。また、自民党の内部からも速やかな政策実現を求める有志議員の会が麻生内閣の政策を積極的に批判し、党内の重鎮津島雄二から「敵(民主党)に塩を送っている」と評された。 国会における与野党の対立や自民党内における麻生おろしは、麻生内閣のみならず自民党への支持を一層失わせることになったが、この時点では民主党が圧倒的に支持を得ている状況にはなっておらず、大連立や政界再編の可能性があると見られていた。 「言論NPO」が2009年(平成21年)1月6日に発表した「麻生政権100日評価アンケート」によれば、支持率は11.0%、不支持率は70.8%だった。また、読売新聞社が2009年(平成21年)1月上旬におこなった調査では不支持率が前回と比べ5.6ポイント増の72.3%となった。 2月17日には財務大臣中川昭一がローマでの「もうろう会見」への批判を受けて辞任、直後の調査では9.7%まで支持率が低下した。3月には、民主党代表の小沢一郎に関するスキャンダルなどの影響で内閣支持率が若干回復傾向となり、日本経済新聞とテレビ東京が4月26日に実施した合同世論調査では32%(前回比7ポイント増)、産経新聞とFNNが4月25日と26日の両日に実施した合同世論調査では28.2%(前回比7.4ポイント増)に上昇した。しかし、5月に入ると、鳩山由紀夫の民主党代表就任や日本郵政社長の進退問題に端を発して総務大臣鳩山邦夫が更迭されたことを境に再び下落に転じ、毎日新聞が6月中旬に実施した全国世論調査では19%(前回比5ポイント減)、産経新聞とFNNが実施した合同世論調査でも17.5%(前回比9.9ポイント減) となり、再び20%を割り込む事態となった。両紙は共に、「麻生内閣は再び危険水域に入った」と報じた。 2009年(平成21年)2月の中頃から、自民党内でも「麻生おろし」の動きが表面化してきた。この状況下で民主党幹部の中には「私たちがやるべきことは首相を守ることだ。いたぶるけど辞めさせないことが大事だ」としてあくまで辞任に追い込みたい他の野党から一歩引いた姿勢を示すものもあった。 追い込まれた麻生内閣は、郵政民営化路線を見直す方向に舵を切り党内に残る反民営化勢力に訴えることで「麻生おろし」に対抗しようとした。2月5日の衆院予算委員会での「(郵政民営化に)賛成じゃありませんでした」との発言。当時郵政行政を所管する総務大臣だった麻生首相の発言に批判が集まると「最初は賛成ではなかった。しかし2年間にいろいろ勉強させていただいて、(中略)民営化したほうがいいというように最終的に思いました」と2月9日に訂正した。郵政選挙で得た自公の衆議院過半数を基礎として成立している内閣が、解散もせず、その時点での選挙の民意である郵政民営化に逆行すると捉えられかねない動きをすることに対して、2月18日に小泉元総理が「呆れたを通り越して、笑っちゃう」と発言し一連の動きを抑え込んだ。しかし、日本郵政社長西川善文社長人事問題では「総務大臣が適切に判断されるものと思います」と西川社長の退任を図ろうとする総務大臣鳩山邦夫を繰り返し擁護。郵政造反復党組の消費者行政推進担当大臣野田聖子も「総務大臣が判断すればいい」と発言。しかし、5月18日の指名委員会による西川社長の続投が決まり、自分と差し違えても西川退陣を迫る鳩山邦夫を6月12日麻生首相は事実上の更迭を行い、郵政民営化路線の見直しにより麻生おろしへ対抗しようとした試みは最終的に挫折した。そして、麻生内閣の迷走と自民党内の分裂をますます印象づける結果となった。また、月末には総選挙前の党四役の交代人事に着手 しようとするも党内からの反発で断念するなど決断にぶれが多く出た結果、麻生離れは進行した。元幹事長の中川秀直が「自ら降りていただきたい」と述べるなど、党内からも公然と退陣要求が出た。 麻生首相は7月13日、21日に衆議院を解散し、8月30日投開票の日程で総選挙を断行する意向を異例の「解散予告」の形で表明した。民主党の首相問責決議案が参院で可決されることを想定し、7月14日の衆院解散も検討したが、2009年(平成21年)の東京都議選で与党が大敗し、立ち直るのに日にちをあけたいという事情に配慮して、与党幹部と協議し憲法の規定でもっとも遅くなる8月30日投開票で合意した。なお14日の問責決議案可決の結果、野党が審議に応じず、国会は会期末を待たず事実上閉幕した。 7月13日の「解散予告」の後は、各種調査の議席予測等を受け、2008年(平成20年)秋に解散しておけばよかったという与党議員の不満も出た。解散直前まで自民党が首相に麻生を擁するか混乱した影響は大きく、前官房長官の町村信孝も地元で「自民が勝てば麻生政権が続くのか」と問われるなど、情勢悪化に歯止めがきかなかった。 その後も自民党では署名により両院議員総会を開催しての総裁選前倒しなどが企図されたが、開催は見送られ懇談会となった。不満な議員が別のマニフェストを作る分裂的な動きなども出たが、小選挙区制では党非公認だと比例区での復活の可能性がなくなることで牽制され、7月21日に予定通り衆議院は解散された。しかし、党利党略でさえない、「麻生おろし」を封じるための解散だったとも評された。 2009年(平成21年)8月30日の第45回衆議院議員総選挙では民主党への政権交代が確定し、自民党が記録的大敗を喫した。総務大臣佐藤勉、財務大臣与謝野馨、文部科学大臣塩谷立、国家公安委員会委員長林幹雄、行政改革担当大臣甘利明、消費者行政推進担当大臣野田聖子と6人もの現職の国務大臣が小選挙区で落選した(6人全員比例復活した)。また、2月に財務大臣•金融担当大臣を辞任した中川昭一は大臣辞任の影響もあり小選挙区で落選、比例復活も次点でできず、落選した。 その夜に麻生首相が選挙対策本部でのNHKとの中継会見にて事実上の退陣を表明した。 選挙後の9月に組まれていた国際会議について、G20財務大臣・中央銀行総裁会議では財務大臣与謝野馨が体調不良を理由に欠席し、WTO閣僚会合では農林水産大臣石破茂、経済産業大臣二階俊博が欠席したことに対して「閣僚としての責務と、最後の仕事を放棄した」との批判があった。 2009年(平成21年)9月16日、麻生首相は特別国会の召集に当たり、憲法の規定に従い内閣総辞職を臨時閣議で決定した。麻生首相は退任記者会見で「残念ながら道半ばで退任することになった。」と述べ、内閣総理大臣官邸を後にした。同日、後継政権として鳩山由紀夫内閣が発足した。 麻生内閣は景気対策最優先の政権運営で日本経済の立て直しを目指した。就任直後の2008年(平成20年)10月16日の平成20年度第1次補正予算成立を皮切りに、2009年(平成21年)明けに同第2次補正予算、平成21年度予算、同第1次補正予算と半年余りで4回の経済対策を行った。特に平成20年度第1・2次補正予算と平成21年度予算の3つを合わせて政府は「景気対策の3段ロケット」と称した。各対策の要点は以下の通り。 このほかにも、金融機能強化法改正、国民年金法改正、労働者派遣法改正、外貨準備高からIMFへ10億円の貸出など行った。 また、「当面は景気対策、中期的に財政再建、中長期的には改革による経済成長」と述べ、社会保障と税財政に関する「中期プログラム」と景気回復後に遅滞なくかつ段階的に消費税を含む税制抜本改革を行うとした税制改正に意欲を示した。 中小企業を金融危機の被害から保護するため、金融機関に対して日本政策金融公庫からの信用供与を実施し、中小企業に対する長期資金貸付・新発社債購入・コミットメント・ラインの設定、大企業向け融資を通じた関連の中堅・中小企業への資金供給および保証などを実施した。また、中小企業向けの税金の優遇制度として、中小企業に対して、当期の欠損金を前期に繰戻すことで、前年度に納めた法人税の還付を受けることができる優遇制度である繰戻し還付金を導入した。 「自由と繁栄の弧」構想の下で、価値の外交を推進した。代表的な例として、安全保障、経済、環境、エネルギーなど幅広い分野で両国の戦略的協調を進めるため、訪日したインドのマンモハン・シン首相との首脳会談で日印安全保障協力共同宣言に署名した。また、12月18日、オーストラリアとの防衛協力と情報共有を推進する日豪の安全保障協力促進の共同文書を発表した。 ロシア連邦に対しては、大統領ドミートリー・メドヴェージェフの招きに応じ、南樺太を訪問した。南樺太は帰属未確定地のため、日本国政府はロシアの領土とは公式に認めておらず、戦後の歴代政権は内閣総理大臣が訪問することを避けてきた が、麻生首相はロシア側の出入国手続きに則り南樺太を日帰りで訪問し、さらに帰京後に皇居で記帳を行った。皇居での記帳は「外国」から帰国した際に行われるため、麻生首相が南樺太をロシア領だと事実上認めたと受け止められ議論となった。第171回国会では、古本伸一郎が麻生首相の一連の行為を疑問視し「記帳はダメを押したのではないか」 と発言するなど、南樺太がロシア領だと追認したことになるとの指摘がなされた。これを受け、行政制度および地方行財政を所管する総務大臣鳩山邦夫が、麻生首相の行為について「正直、実に微妙な問題だなと思う」 と答弁した。さらに、南樺太での日露首脳会談では、麻生首相が北方領土問題について面積二等分論に言及し、四島一括返還論の放棄を示唆した。戦後の日本の歴代政権は一貫して四島の一括返還を主張しており、大きな方針転換となった。 2008年(平成20年)12月13日、福岡県太宰府市の九州国立博物館で初の単独開催となる日中韓首脳会議(「第1回日中韓サミット」)が開催された。 韓国が導入を目指し積極的に推進していたサマータイム制度については、2009年(平成21年)6月28日の日韓首脳会談後の記者会見において記者の問いに対し、麻生首相が「やるなら一緒にやるというのは極めて効果が大きい。」 と発言し、韓国と同時に日本でも導入すればより高い効果が見込めるとの考えを示した。 麻生首相は、いち早く日本の手持ちのドルのIMFへの融資を発表した。IMFはアイスランドに緊急融資を行い、同国外相の政治顧問は「日本のおかげ」と感謝した。11月14日ドミニク・ストロス=カーンIMF専務理事は、日本の資金提供・リーダーシップ・多国間協調主義などの取組みを人類の歴史上最大の貢献だと評価した。11月15日、日本と世銀が途上国の銀行支援ファンド設立決定をするなど経済危機に対し、世界のリーダーシップを取り、各国から高い評価を得るが、日本国内ではほとんど報道されなかった。 2009年(平成21年)2月14日、イタリア・ローマで開催されたG7財務大臣・中央銀行総裁会議で、世界的同時不況を乗り越えるため、各国共財政出動をすることが確認された。 その会議で、日本がIMFに1000億ドル(10兆円)相当のドルを融資したことが評価された。 麻生首相は2009年(平成21年)6月に、中央アジア・コーカサス地方のインフラ整備を支援する「ユーラシア・クロスロード構想」を発表し、「この地域で安定と繁栄が相乗効果を上げれば、世界経済を大きく押し上げる。中国、インド、ロシアは、そのための重要なパートナーで、こうした構想に、今申し上げた国々が関心を持つことを歓迎する。」と周辺国に参加を呼びかけた。この構想の具体的な支援内容としては「中央アジアからアフガニスタンを経て、アラビア海に至るルートの道路や鉄道の整備」「中央アジアからコーカサスを経て欧州に至るルートにあるカスピ海沿岸の港湾整備」の2点が挙げられている。 本内閣の特徴としては、国務大臣の平均年齢が58.2歳と前内閣から4歳近く若返ったことがあげられる。これは、内閣府特命担当大臣で初入閣した小渕優子が任命時34歳と9か月と戦後最年少での国務大臣就任となったことを含めて50代以下が10人を占めたことによる。しかし、前内閣からの再任者が5名おり、初入閣も5人と安倍内閣の11人の半分以下で、平均当選回数(衆院議員のみ)は6.5回で安倍内閣と同じで小泉内閣の5.8回を上回り、必ずしも「若返り」を意図した結果ではない。 父または祖父が内閣総理大臣経験者である国務大臣が、吉田茂の孫である麻生太郎首相を筆頭に、鳩山、中曾根、小渕と4人おり、これらを含めた“世襲政治家”が福田改造内閣の9人を上回る11人の多数に及び、マスコミや野党は“世襲内閣”“若旦那内閣”などと称し、安倍に次いで“おぼっちゃま内閣”とまで揶揄した。また、小泉以来4代続いて地盤を世襲した政治家であること、安倍以来3代続いて祖父に内閣総理大臣経験者を持つことも批判された。 首相を除く無派閥が4人と小泉以降の4内閣の中では最も多かったが、麻生首相が自民党内少数派閥出身で他の多数派閥の支持により成立した経緯の上での派閥均衡・論功行賞人事とも指摘された。女性閣僚は野田と小渕の2人で、民間人閣僚は総務大臣増田寛也の退任により0人となった。 また、中央省庁再編によって“財政と金融行政との分離(財金分離)”が実行されて以降初めて、1人の国務大臣が財務大臣と内閣府特命担当大臣(金融)とを兼務した(小渕内閣以降の大蔵大臣および金融再生委員会委員長の時代を含む)。麻生首相はこの点を「役所を1つにするかは(兼務を)やってみなければ分からない」とし、旧大蔵省の復活を示唆した。 小泉内閣以降、組閣人事情報は一切漏らさない秘密主義が続いてきたが、麻生内閣の組閣に当たっては自民党総裁選の最中から、事前に人事情報が外部に漏れたためにたびたび報道され、総裁選から休日を挟んでの首相指名・組閣当日の朝には報道各社が閣僚名簿を発表するという、近年では異例の事態となった。 9月29日の臨時閣議で決められた副大臣および大臣政務官の人事についてであるが、橋本聖子が外務副大臣に、大村秀章が厚生労働副大臣にそれぞれ任命されたことを除いて全員が再任された。 内閣の発足から一年も経たないうちに、主要な役職に就く者の離任が相次ぐ事態となった。 組閣から5日後、国土交通大臣中山成彬が失言問題を理由に国務大臣を免官された。2009年(平成21年)1月には、松浪健太が定額給付金制度に反対して第2次補正予算案採決を棄権したため、内閣府大臣政務官を免官された。2月には、財務大臣中川昭一が先進7か国財務大臣・中央銀行総裁会議にて酩酊状態で会見を行ったため、国務大臣を免官された。3月には、平田耕一が国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範違反の発覚のため財務副大臣を免官された。5月には、鴻池祥肇が女性問題と議員歳費法抵触の発覚のため内閣官房副長官を免官された。6月12日には、総務大臣鳩山邦夫が日本郵政社長の西川善文の続投に抗議し、国務大臣を免官された。同日、戸井田徹が鳩山の更迭に抗議し、厚生労働大臣政務官を免官された。 また、麻生首相の郵政民営化見直し発言に反発した早川忠孝が法務大臣政務官の辞任を表明するも、慰留を受けて撤回した。鳩山の更迭に反発した古川禎久も環境大臣政務官を辞任する考えを近未来政治研究会に伝えたが、その後撤回した。 国務大臣の免官が相次いだが、2009年(平成21年)7月1日までに新任されたのは金子国務大臣のみであり、それ以外については、既存の国務大臣に複数の職を兼務させる手法を採ったため、同日までは国務大臣の数が中央省庁再編後において最小の内閣であった。その後の7月2日に、前の福田康夫改造内閣で入閣していた林芳正および林幹雄の2名が再入閣し、林(芳)国務大臣が与謝野国務大臣の内閣府特命担当大臣(経済財政政策)の職を、林(幹)国務大臣が佐藤国務大臣の国家公安委員会委員長および内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)の職をそれぞれ引き継いだ。 所属政党・出身: 自由民主党(町村派) 自由民主党(古賀派) 自由民主党(津島派) 自由民主党(麻生派) 自由民主党(伊吹派) 自由民主党(山崎派) 自由民主党(谷垣G) 自由民主党(高村派) 自由民主党(二階派) 自由民主党(無派閥) 公明党 中央省庁・民間
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "麻生内閣(あそうないかく)は、衆議院議員、自由民主党総裁の麻生太郎が第92代内閣総理大臣に任命され、2008年(平成20年)9月24日から2009年(平成21年)9月16日まで続いた日本の内閣。 内閣総理大臣福田康夫の辞任に伴う福田康夫改造内閣の総辞職を受けて発足した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)7月21日に衆議院を解散し、8月30日の総選挙にて鳩山由紀夫率いる民主党に過半数を奪われ、9月16日の鳩山由紀夫内閣成立とともに政権を明け渡したことから、本内閣は民主党への政権交代まで約10年続いた第1次自公連立政権最後の内閣である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "第170回国会において2008年(平成20年)9月24日に内閣総理大臣指名選挙が行われた。前任の福田康夫就任時と同じくねじれ国会のあおりを受け、前回同様に衆参で首班指名が異なり、衆議院は自由民主党総裁の麻生太郎を指名し、参議院は、民主党代表の小沢一郎を指名した。両院協議会でも成案を得るに至らず、衆議院の優越により衆議院で指名された麻生太郎を国会の指名として衆議院議長が奏上した。指名当日に宮中における内閣総理大臣の親任式、並びに、国務大臣及び内閣官房副長官ら認証官任命式を経て正式に成立した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "通常、記者会見において閣僚名簿を読み上げるのは内閣官房長官であるが、今回は麻生自らが閣僚名簿を読み上げ、併せて「それぞれの閣僚に具体的にやってもらいたい仕事」についても説明した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2008年(平成20年)9月25日の閣議では内閣法第9条の規定に基づき、首相に事故があった場合の臨時代理就任予定者の順位を河村建夫、与謝野馨、鳩山邦夫、中川昭一、甘利明の順とすることを決定した。また、同日の閣僚懇談会では行財政改革の一環として、歴代内閣と同様に閣僚給与の1割を国庫に返納することを申し合わせた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "9月29日、麻生首相は記者団から内閣の名前を聞かれ、「ネーミングはみなさん(報道機関)がすること」と、自らは内閣へのネーミングは行わないことを表明した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "自民党内の圧倒的人気を得た麻生首相は「選挙の顔」として、解散ができなかった福田にかわり「解散、総選挙を行うことを前提に」首相になったとも言われ、野党も速やかな衆議院解散、総選挙の実施を要求した。「選挙管理内閣」などとメディアおよび野党はレッテル攻勢に終始し衆院解散に追い込むことを企図しており、また自民内部でも足並みが乱れ、当初から独自の政策を開陳する機会に恵まれなかった(→麻生おろし)。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "記者の首相に対する「ぶら下がり」取材では、9月24日の内閣発足後1か月間に、28回中少なくとも17回で解散が話題になったが、麻生首相はいずれも解散・総選挙の時期の明言を避けた が、麻生自身も自らの論文で「国民に信を問おうと思う」との表現を使い、当初は就任直後臨時国会冒頭の解散を思い描いていたと見られる。すでに総裁選の最中、9月半ばには政務担当秘書官村松一郎に衆院解散の際に読み上げる「解散原稿」の準備を指示、また、民主党代表小沢一郎に所信表明への回答を10月3日までに要求する所信表明演説も準備され、この時点では各党の代表質問が終わる10月3日の解散を念頭に置いていたとされる。しかし、リーマン・ショックに端を発する世界金融危機により、10月16日に東京株式市場が史上2番目の急落を記録。麻生首相は財務大臣兼内閣府特命担当大臣中川昭一らと協議して、金融危機に対応するため、解散の先送りを決定した が、「解散の先送り」が問題視され、内閣支持率は急落した。朝日新聞によれば、麻生首相は11月19日夜、年末年始の解散の可能性について細田博之幹事長らと相談したが、内閣支持率の急落に伴い「今は麻生では戦えない」とする自民党内の懸念を感じた細田らに真っ向から反対されて断念した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "組閣直後の内閣支持率は50%前後と振るわず、その後も低迷した。2008年(平成20年)12月8日に公表された各新聞の世論調査では、内閣支持率が21%(読売・毎日)・20%(朝日)まで下落した。この頃には自民党内での分派行動も目立ち、麻生首相は選挙の顔としての評価を大きく落とした。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "麻生内閣発足直後にはサブプライムローン問題に端を発した世界金融危機の影響を日本も受け始めており、麻生首相は、「当面は『景気対策』、中期的には『財政再建』、中長期的には『改革による経済成長』」という経済対策を表明した が、その財源の裏付けとなる第二次補正予算案が年内の臨時国会ではなく、年明けの通常国会に提出するという国会運営が朝日新聞から批判された(読売新聞 や産経新聞 は与野党合意ができなかった自民党と民主党を共に批判した)。 低支持率の背景には、麻生首相が国会答弁で踏襲を『ふしゅう』と読み間違えたこと が大きく問題視され、強い批判を受けた こともあるが、支持率の急落は麻生首相のみの責任とは言えず、前任者(安倍、福田)2代連続の「政権投げ出し」で国民が自民党に不信感を持ったことも背景にあった。また、参議院で第1党の地位にある最大野党の民主党は当初、協力的な姿勢を見せていたが、解散総選挙の先送りが表明されると対立路線を明確にし国会運営が困難になった(ねじれ国会)。また、自民党の内部からも速やかな政策実現を求める有志議員の会が麻生内閣の政策を積極的に批判し、党内の重鎮津島雄二から「敵(民主党)に塩を送っている」と評された。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "国会における与野党の対立や自民党内における麻生おろしは、麻生内閣のみならず自民党への支持を一層失わせることになったが、この時点では民主党が圧倒的に支持を得ている状況にはなっておらず、大連立や政界再編の可能性があると見られていた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「言論NPO」が2009年(平成21年)1月6日に発表した「麻生政権100日評価アンケート」によれば、支持率は11.0%、不支持率は70.8%だった。また、読売新聞社が2009年(平成21年)1月上旬におこなった調査では不支持率が前回と比べ5.6ポイント増の72.3%となった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2月17日には財務大臣中川昭一がローマでの「もうろう会見」への批判を受けて辞任、直後の調査では9.7%まで支持率が低下した。3月には、民主党代表の小沢一郎に関するスキャンダルなどの影響で内閣支持率が若干回復傾向となり、日本経済新聞とテレビ東京が4月26日に実施した合同世論調査では32%(前回比7ポイント増)、産経新聞とFNNが4月25日と26日の両日に実施した合同世論調査では28.2%(前回比7.4ポイント増)に上昇した。しかし、5月に入ると、鳩山由紀夫の民主党代表就任や日本郵政社長の進退問題に端を発して総務大臣鳩山邦夫が更迭されたことを境に再び下落に転じ、毎日新聞が6月中旬に実施した全国世論調査では19%(前回比5ポイント減)、産経新聞とFNNが実施した合同世論調査でも17.5%(前回比9.9ポイント減) となり、再び20%を割り込む事態となった。両紙は共に、「麻生内閣は再び危険水域に入った」と報じた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)2月の中頃から、自民党内でも「麻生おろし」の動きが表面化してきた。この状況下で民主党幹部の中には「私たちがやるべきことは首相を守ることだ。いたぶるけど辞めさせないことが大事だ」としてあくまで辞任に追い込みたい他の野党から一歩引いた姿勢を示すものもあった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "追い込まれた麻生内閣は、郵政民営化路線を見直す方向に舵を切り党内に残る反民営化勢力に訴えることで「麻生おろし」に対抗しようとした。2月5日の衆院予算委員会での「(郵政民営化に)賛成じゃありませんでした」との発言。当時郵政行政を所管する総務大臣だった麻生首相の発言に批判が集まると「最初は賛成ではなかった。しかし2年間にいろいろ勉強させていただいて、(中略)民営化したほうがいいというように最終的に思いました」と2月9日に訂正した。郵政選挙で得た自公の衆議院過半数を基礎として成立している内閣が、解散もせず、その時点での選挙の民意である郵政民営化に逆行すると捉えられかねない動きをすることに対して、2月18日に小泉元総理が「呆れたを通り越して、笑っちゃう」と発言し一連の動きを抑え込んだ。しかし、日本郵政社長西川善文社長人事問題では「総務大臣が適切に判断されるものと思います」と西川社長の退任を図ろうとする総務大臣鳩山邦夫を繰り返し擁護。郵政造反復党組の消費者行政推進担当大臣野田聖子も「総務大臣が判断すればいい」と発言。しかし、5月18日の指名委員会による西川社長の続投が決まり、自分と差し違えても西川退陣を迫る鳩山邦夫を6月12日麻生首相は事実上の更迭を行い、郵政民営化路線の見直しにより麻生おろしへ対抗しようとした試みは最終的に挫折した。そして、麻生内閣の迷走と自民党内の分裂をますます印象づける結果となった。また、月末には総選挙前の党四役の交代人事に着手 しようとするも党内からの反発で断念するなど決断にぶれが多く出た結果、麻生離れは進行した。元幹事長の中川秀直が「自ら降りていただきたい」と述べるなど、党内からも公然と退陣要求が出た。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "麻生首相は7月13日、21日に衆議院を解散し、8月30日投開票の日程で総選挙を断行する意向を異例の「解散予告」の形で表明した。民主党の首相問責決議案が参院で可決されることを想定し、7月14日の衆院解散も検討したが、2009年(平成21年)の東京都議選で与党が大敗し、立ち直るのに日にちをあけたいという事情に配慮して、与党幹部と協議し憲法の規定でもっとも遅くなる8月30日投開票で合意した。なお14日の問責決議案可決の結果、野党が審議に応じず、国会は会期末を待たず事実上閉幕した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "7月13日の「解散予告」の後は、各種調査の議席予測等を受け、2008年(平成20年)秋に解散しておけばよかったという与党議員の不満も出た。解散直前まで自民党が首相に麻生を擁するか混乱した影響は大きく、前官房長官の町村信孝も地元で「自民が勝てば麻生政権が続くのか」と問われるなど、情勢悪化に歯止めがきかなかった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後も自民党では署名により両院議員総会を開催しての総裁選前倒しなどが企図されたが、開催は見送られ懇談会となった。不満な議員が別のマニフェストを作る分裂的な動きなども出たが、小選挙区制では党非公認だと比例区での復活の可能性がなくなることで牽制され、7月21日に予定通り衆議院は解散された。しかし、党利党略でさえない、「麻生おろし」を封じるための解散だったとも評された。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)8月30日の第45回衆議院議員総選挙では民主党への政権交代が確定し、自民党が記録的大敗を喫した。総務大臣佐藤勉、財務大臣与謝野馨、文部科学大臣塩谷立、国家公安委員会委員長林幹雄、行政改革担当大臣甘利明、消費者行政推進担当大臣野田聖子と6人もの現職の国務大臣が小選挙区で落選した(6人全員比例復活した)。また、2月に財務大臣•金融担当大臣を辞任した中川昭一は大臣辞任の影響もあり小選挙区で落選、比例復活も次点でできず、落選した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "その夜に麻生首相が選挙対策本部でのNHKとの中継会見にて事実上の退陣を表明した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "選挙後の9月に組まれていた国際会議について、G20財務大臣・中央銀行総裁会議では財務大臣与謝野馨が体調不良を理由に欠席し、WTO閣僚会合では農林水産大臣石破茂、経済産業大臣二階俊博が欠席したことに対して「閣僚としての責務と、最後の仕事を放棄した」との批判があった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)9月16日、麻生首相は特別国会の召集に当たり、憲法の規定に従い内閣総辞職を臨時閣議で決定した。麻生首相は退任記者会見で「残念ながら道半ばで退任することになった。」と述べ、内閣総理大臣官邸を後にした。同日、後継政権として鳩山由紀夫内閣が発足した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "麻生内閣は景気対策最優先の政権運営で日本経済の立て直しを目指した。就任直後の2008年(平成20年)10月16日の平成20年度第1次補正予算成立を皮切りに、2009年(平成21年)明けに同第2次補正予算、平成21年度予算、同第1次補正予算と半年余りで4回の経済対策を行った。特に平成20年度第1・2次補正予算と平成21年度予算の3つを合わせて政府は「景気対策の3段ロケット」と称した。各対策の要点は以下の通り。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "このほかにも、金融機能強化法改正、国民年金法改正、労働者派遣法改正、外貨準備高からIMFへ10億円の貸出など行った。 また、「当面は景気対策、中期的に財政再建、中長期的には改革による経済成長」と述べ、社会保障と税財政に関する「中期プログラム」と景気回復後に遅滞なくかつ段階的に消費税を含む税制抜本改革を行うとした税制改正に意欲を示した。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "中小企業を金融危機の被害から保護するため、金融機関に対して日本政策金融公庫からの信用供与を実施し、中小企業に対する長期資金貸付・新発社債購入・コミットメント・ラインの設定、大企業向け融資を通じた関連の中堅・中小企業への資金供給および保証などを実施した。また、中小企業向けの税金の優遇制度として、中小企業に対して、当期の欠損金を前期に繰戻すことで、前年度に納めた法人税の還付を受けることができる優遇制度である繰戻し還付金を導入した。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "「自由と繁栄の弧」構想の下で、価値の外交を推進した。代表的な例として、安全保障、経済、環境、エネルギーなど幅広い分野で両国の戦略的協調を進めるため、訪日したインドのマンモハン・シン首相との首脳会談で日印安全保障協力共同宣言に署名した。また、12月18日、オーストラリアとの防衛協力と情報共有を推進する日豪の安全保障協力促進の共同文書を発表した。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ロシア連邦に対しては、大統領ドミートリー・メドヴェージェフの招きに応じ、南樺太を訪問した。南樺太は帰属未確定地のため、日本国政府はロシアの領土とは公式に認めておらず、戦後の歴代政権は内閣総理大臣が訪問することを避けてきた が、麻生首相はロシア側の出入国手続きに則り南樺太を日帰りで訪問し、さらに帰京後に皇居で記帳を行った。皇居での記帳は「外国」から帰国した際に行われるため、麻生首相が南樺太をロシア領だと事実上認めたと受け止められ議論となった。第171回国会では、古本伸一郎が麻生首相の一連の行為を疑問視し「記帳はダメを押したのではないか」 と発言するなど、南樺太がロシア領だと追認したことになるとの指摘がなされた。これを受け、行政制度および地方行財政を所管する総務大臣鳩山邦夫が、麻生首相の行為について「正直、実に微妙な問題だなと思う」 と答弁した。さらに、南樺太での日露首脳会談では、麻生首相が北方領土問題について面積二等分論に言及し、四島一括返還論の放棄を示唆した。戦後の日本の歴代政権は一貫して四島の一括返還を主張しており、大きな方針転換となった。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2008年(平成20年)12月13日、福岡県太宰府市の九州国立博物館で初の単独開催となる日中韓首脳会議(「第1回日中韓サミット」)が開催された。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "韓国が導入を目指し積極的に推進していたサマータイム制度については、2009年(平成21年)6月28日の日韓首脳会談後の記者会見において記者の問いに対し、麻生首相が「やるなら一緒にやるというのは極めて効果が大きい。」 と発言し、韓国と同時に日本でも導入すればより高い効果が見込めるとの考えを示した。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "麻生首相は、いち早く日本の手持ちのドルのIMFへの融資を発表した。IMFはアイスランドに緊急融資を行い、同国外相の政治顧問は「日本のおかげ」と感謝した。11月14日ドミニク・ストロス=カーンIMF専務理事は、日本の資金提供・リーダーシップ・多国間協調主義などの取組みを人類の歴史上最大の貢献だと評価した。11月15日、日本と世銀が途上国の銀行支援ファンド設立決定をするなど経済危機に対し、世界のリーダーシップを取り、各国から高い評価を得るが、日本国内ではほとんど報道されなかった。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)2月14日、イタリア・ローマで開催されたG7財務大臣・中央銀行総裁会議で、世界的同時不況を乗り越えるため、各国共財政出動をすることが確認された。 その会議で、日本がIMFに1000億ドル(10兆円)相当のドルを融資したことが評価された。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "麻生首相は2009年(平成21年)6月に、中央アジア・コーカサス地方のインフラ整備を支援する「ユーラシア・クロスロード構想」を発表し、「この地域で安定と繁栄が相乗効果を上げれば、世界経済を大きく押し上げる。中国、インド、ロシアは、そのための重要なパートナーで、こうした構想に、今申し上げた国々が関心を持つことを歓迎する。」と周辺国に参加を呼びかけた。この構想の具体的な支援内容としては「中央アジアからアフガニスタンを経て、アラビア海に至るルートの道路や鉄道の整備」「中央アジアからコーカサスを経て欧州に至るルートにあるカスピ海沿岸の港湾整備」の2点が挙げられている。", "title": "政策" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "本内閣の特徴としては、国務大臣の平均年齢が58.2歳と前内閣から4歳近く若返ったことがあげられる。これは、内閣府特命担当大臣で初入閣した小渕優子が任命時34歳と9か月と戦後最年少での国務大臣就任となったことを含めて50代以下が10人を占めたことによる。しかし、前内閣からの再任者が5名おり、初入閣も5人と安倍内閣の11人の半分以下で、平均当選回数(衆院議員のみ)は6.5回で安倍内閣と同じで小泉内閣の5.8回を上回り、必ずしも「若返り」を意図した結果ではない。", "title": "人事" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "父または祖父が内閣総理大臣経験者である国務大臣が、吉田茂の孫である麻生太郎首相を筆頭に、鳩山、中曾根、小渕と4人おり、これらを含めた“世襲政治家”が福田改造内閣の9人を上回る11人の多数に及び、マスコミや野党は“世襲内閣”“若旦那内閣”などと称し、安倍に次いで“おぼっちゃま内閣”とまで揶揄した。また、小泉以来4代続いて地盤を世襲した政治家であること、安倍以来3代続いて祖父に内閣総理大臣経験者を持つことも批判された。", "title": "人事" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "首相を除く無派閥が4人と小泉以降の4内閣の中では最も多かったが、麻生首相が自民党内少数派閥出身で他の多数派閥の支持により成立した経緯の上での派閥均衡・論功行賞人事とも指摘された。女性閣僚は野田と小渕の2人で、民間人閣僚は総務大臣増田寛也の退任により0人となった。", "title": "人事" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、中央省庁再編によって“財政と金融行政との分離(財金分離)”が実行されて以降初めて、1人の国務大臣が財務大臣と内閣府特命担当大臣(金融)とを兼務した(小渕内閣以降の大蔵大臣および金融再生委員会委員長の時代を含む)。麻生首相はこの点を「役所を1つにするかは(兼務を)やってみなければ分からない」とし、旧大蔵省の復活を示唆した。", "title": "人事" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "小泉内閣以降、組閣人事情報は一切漏らさない秘密主義が続いてきたが、麻生内閣の組閣に当たっては自民党総裁選の最中から、事前に人事情報が外部に漏れたためにたびたび報道され、総裁選から休日を挟んでの首相指名・組閣当日の朝には報道各社が閣僚名簿を発表するという、近年では異例の事態となった。", "title": "人事" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "9月29日の臨時閣議で決められた副大臣および大臣政務官の人事についてであるが、橋本聖子が外務副大臣に、大村秀章が厚生労働副大臣にそれぞれ任命されたことを除いて全員が再任された。", "title": "人事" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "内閣の発足から一年も経たないうちに、主要な役職に就く者の離任が相次ぐ事態となった。", "title": "人事" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "組閣から5日後、国土交通大臣中山成彬が失言問題を理由に国務大臣を免官された。2009年(平成21年)1月には、松浪健太が定額給付金制度に反対して第2次補正予算案採決を棄権したため、内閣府大臣政務官を免官された。2月には、財務大臣中川昭一が先進7か国財務大臣・中央銀行総裁会議にて酩酊状態で会見を行ったため、国務大臣を免官された。3月には、平田耕一が国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範違反の発覚のため財務副大臣を免官された。5月には、鴻池祥肇が女性問題と議員歳費法抵触の発覚のため内閣官房副長官を免官された。6月12日には、総務大臣鳩山邦夫が日本郵政社長の西川善文の続投に抗議し、国務大臣を免官された。同日、戸井田徹が鳩山の更迭に抗議し、厚生労働大臣政務官を免官された。", "title": "人事" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、麻生首相の郵政民営化見直し発言に反発した早川忠孝が法務大臣政務官の辞任を表明するも、慰留を受けて撤回した。鳩山の更迭に反発した古川禎久も環境大臣政務官を辞任する考えを近未来政治研究会に伝えたが、その後撤回した。", "title": "人事" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "国務大臣の免官が相次いだが、2009年(平成21年)7月1日までに新任されたのは金子国務大臣のみであり、それ以外については、既存の国務大臣に複数の職を兼務させる手法を採ったため、同日までは国務大臣の数が中央省庁再編後において最小の内閣であった。その後の7月2日に、前の福田康夫改造内閣で入閣していた林芳正および林幹雄の2名が再入閣し、林(芳)国務大臣が与謝野国務大臣の内閣府特命担当大臣(経済財政政策)の職を、林(幹)国務大臣が佐藤国務大臣の国家公安委員会委員長および内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)の職をそれぞれ引き継いだ。", "title": "人事" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "所属政党・出身:", "title": "国務大臣" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "自由民主党(町村派) 自由民主党(古賀派) 自由民主党(津島派) 自由民主党(麻生派) 自由民主党(伊吹派)", "title": "国務大臣" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "自由民主党(山崎派) 自由民主党(谷垣G) 自由民主党(高村派) 自由民主党(二階派) 自由民主党(無派閥) 公明党", "title": "国務大臣" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "中央省庁・民間", "title": "国務大臣" } ]
麻生内閣(あそうないかく)は、衆議院議員、自由民主党総裁の麻生太郎が第92代内閣総理大臣に任命され、2008年(平成20年)9月24日から2009年(平成21年)9月16日まで続いた日本の内閣。 内閣総理大臣福田康夫の辞任に伴う福田康夫改造内閣の総辞職を受けて発足した。 2009年(平成21年)7月21日に衆議院を解散し、8月30日の総選挙にて鳩山由紀夫率いる民主党に過半数を奪われ、9月16日の鳩山由紀夫内閣成立とともに政権を明け渡したことから、本内閣は民主党への政権交代まで約10年続いた第1次自公連立政権最後の内閣である。
{{日本の内閣記事 |内閣名 = 麻生内閣 |ふりがな = あそうないかく |画像 = [[ファイル:Tarō Asō Cabinet 20080924.jpg|220px]] |代数 = 92 |首相名 = 麻生太郎 |前職 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]、[[自由民主党総裁]] |成立年 = [[2008年]](平成20年) |成立月日 = 9月24日 |終了年 = [[2009年]](平成21年) |終了月日 = 9月16日 |与党 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]、[[公明党]] |選挙 = [[第45回衆議院議員総選挙]] |解散 = 2009年(平成21年)[[7月21日]] |名簿 = https://www.kantei.go.jp/jp/asodaijin/080924/index.html }} 内閣総理大臣[[福田康夫]]の辞任に伴う[[福田康夫内閣 (改造)|福田康夫改造内閣]]の[[内閣総辞職|総辞職]]を受けて発足した。 [[2009年]](平成21年)[[7月21日]]に衆議院を解散し、[[第45回衆議院議員総選挙|8月30日の総選挙]]にて[[鳩山由紀夫]]率いる[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]に過半数を奪われ、[[9月16日]]の[[鳩山由紀夫内閣]]成立とともに[[政権]]を明け渡したことから、本内閣は民主党への[[政権交代]]まで約10年続いた第1次[[自公連立政権]]最後の内閣である。 == 経過 == === 組閣 === [[第170回国会]]において[[2008年]](平成20年)[[9月24日]]に[[内閣総理大臣指名選挙]]が行われた。前任の福田康夫就任時と同じく[[ねじれ国会]]のあおりを受け、前回同様に衆参で首班指名が異なり、[[衆議院]]は[[自由民主党総裁]]の[[麻生太郎]]を指名し、[[参議院]]は、[[民主党代表]]の[[小沢一郎]]を指名した。[[両院協議会]]でも成案を得るに至らず、[[衆議院の優越]]により衆議院で指名された麻生太郎を国会の指名として[[衆議院議長]]が[[奏上]]した。指名当日に[[宮中]]における[[内閣総理大臣]]の[[親任式]]、並びに、[[国務大臣]]及び[[内閣官房副長官]]ら[[認証官任命式]]を経て正式に成立した。 通常、[[記者会見]]において閣僚名簿を読み上げるのは[[内閣官房長官]]であるが、今回は麻生自らが閣僚名簿を読み上げ、併せて「それぞれの閣僚に具体的にやってもらいたい仕事」についても説明した。 2008年(平成20年)[[9月25日]]の[[閣議 (日本)|閣議]]では[[内閣法]]第9条の規定に基づき、首相に事故があった場合の臨時代理就任予定者の順位を[[河村建夫]]、[[与謝野馨]]、[[鳩山邦夫]]、[[中川昭一]]、[[甘利明]]の順とすることを決定した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/rireki/2008/09/25.html |title=官房長官記者発表 |accessdate=2016年8月28日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160915223847/http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/rireki/2008/09/25.html |archivedate=2016年9月15日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。また、同日の閣僚懇談会では[[行政改革|行財政改革]]の一環として、歴代内閣と同様に閣僚[[給与]]の1割を[[国庫]]に返納することを申し合わせた。 [[9月29日]]、麻生首相は記者団から内閣の名前を聞かれ、「ネーミングはみなさん([[報道機関]])がすること」と、自らは内閣へのネーミングは行わないことを表明した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080929/plc0809292251030-n1.htm 内閣の名前?「興味がない」と麻生首相 2008年9月29日MSN産経ニュース]{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。 === 解散総選挙を求める声 === 自民党内の圧倒的人気を得た麻生首相は「選挙の顔」として<ref name="asa20090721e">朝日新聞、2009年7月21日、東京版夕刊、1面。</ref>、解散ができなかった福田にかわり<ref>朝日新聞、2009年7月14日、東京版朝刊、39面。</ref>「解散、総選挙を行うことを前提に」首相になったとも言われ<ref>[[御厨貴]]は2008年(平成20年)10月28日 [[TBSテレビ|TBS]][[時事放談]] 、朝日新聞、2009年7月14日、東京版朝刊、15面でこう述べた。</ref>、[[野党]]も速やかな[[衆議院解散]]、[[衆議院議員総選挙|総選挙]]の実施を要求した。「[[選挙管理内閣]]」などとメディア<ref>「決戦へ陣形が整った 麻生『選挙管理』内閣が発足」東京新聞社説2008年9月25日 [http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008092502000133.html] {{Wayback|url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008092502000133.html |date=20080928064513 }}、「「麻生カラー」前面に 事実上の「選挙管理内閣」」2008年9月24日朝日新聞、その他社説等・日本新聞協会 [http://www.pressnet.or.jp/publication/view/081007_186.html] {{Wayback|url=http://www.pressnet.or.jp/publication/view/081007_186.html |date=20111016204812 }}</ref>および野党<ref>第170回衆議院予算委員会平成20年10月07日岡田克也(発言者番号197)、第170回参議院外交防衛委員会平成20年10月28日牧山ひろえ(発言者番号163)、第170回衆議院本会議平成20年11月28日保坂展人(発言者番号9)</ref>はレッテル攻勢に終始し衆院解散に追い込むことを企図しており、また自民内部でも足並みが乱れ、当初から独自の政策を開陳する機会に恵まれなかった(→[[麻生おろし]])。 記者の首相に対する「[[ぶら下がり]]」取材では、9月24日の内閣発足後1か月間に、28回中少なくとも17回で解散が話題になったが、麻生首相はいずれも解散・総選挙の時期の明言を避けた<ref>[https://web.archive.org/web/20080414212142/http://mainichi.jp/select/seiji/primeminister/archive/ 「首相VS記者団」アーカイブ]、 ''毎日.jp''、毎日新聞社.</ref><ref group="注釈">報道メディアが解散時期を探った背景に、テレビ局が選挙関連特番の日程を決められない、新聞社が投票日まで人事異動を凍結したといった事情を指摘する報道もある。[[ゲンダイ|Gendai.net]][http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_tarou_aso2__20081012_22/story/12gendainet02038713/ 大手マスコミ全部を敵に回した麻生首相]</ref> が、麻生自身も自らの論文で「[[国民]]に信を問おうと思う」との表現を使い、当初は就任直後臨時国会冒頭の解散を思い描いていたと見られる<ref>朝日新聞、2009年7月15日、東京版朝刊、3面。</ref>。すでに総裁選の最中、9月半ばには政務担当秘書官村松一郎に衆院解散の際に読み上げる「解散原稿」の準備を指示、また、民主党代表小沢一郎に所信表明への回答を10月3日までに要求する[[所信表明演説]]も準備され、この時点では各党の[[代表質問]]が終わる10月3日の解散を念頭に置いていたとされる<ref name="yomi1031">「混沌政局」読売新聞、2008年10月31日、東京版朝刊、1面。</ref>。しかし、[[リーマン・ショック]]に端を発する[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]により、10月16日に東京株式市場が史上2番目の急落を記録。麻生首相は財務大臣兼内閣府特命担当大臣[[中川昭一]]らと協議して、金融危機に対応するため、解散の先送りを決定した<ref>朝日新聞、2008年11月2日、東京版朝刊、2面</ref> が、「解散の先送り」が問題視され、[[内閣支持率]]は急落した。朝日新聞によれば、麻生首相は11月19日夜、[[年末年始]]の解散の可能性について[[細田博之]]幹事長らと相談したが、内閣支持率の急落に伴い「今は麻生では戦えない」とする自民党内の懸念を感じた細田らに真っ向から反対されて断念した<ref>「麻生首相では戦えない―党内懸念」朝日新聞、2008年12月2日、東京版朝刊、1面</ref>。 === 支持率の推移 === [[ファイル:麻生内閣の支持率推移.png|thumb|320px|alt=麻生内閣の支持率推移|発足から半年間の内閣支持率推移。12月調査で大きく支持を落とした。共同通信による電話世論調査結果に基づく]] 組閣直後の内閣支持率は50%前後と振るわず、その後も低迷した。2008年(平成20年)12月8日に公表された各新聞の[[世論調査]]では、内閣支持率が21%(読売・毎日)・20%(朝日)まで下落した。この頃には自民党内での分派行動も目立ち<ref>朝日新聞、2008年12月9日、東京版朝刊、1面。</ref>、麻生首相は選挙の顔としての評価を大きく落とした<ref name="koube1">前田幸夫(東大准教授)、『自民の信頼喪失 底流に』、神戸新聞、2008年12月28日、14版朝刊、2面</ref>。 麻生内閣発足直後には[[サブプライムローン]]問題に端を発した世界金融危機の影響を日本も受け始めており、麻生首相は、「当面は『景気対策』、中期的には『財政再建』、中長期的には『改革による経済成長』」という経済対策を表明した<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-35160820081128 "当面は「景気対策」など3段階で経済財政政策進める=基本方針案" ロイター]</ref> が、その財源の裏付けとなる第二次補正予算案が年内の[[臨時会|臨時国会]]ではなく、年明けの[[常会|通常国会]]に提出するという国会運営が[[朝日新聞]]から批判された(読売新聞<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20081224-OYT1T00851.htm 臨時国会閉幕 解散政局で「政策」が沈んだ]{{リンク切れ|date=2010年3月}}</ref> や産経新聞<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/081225/stt0812250334001-n1.htm |title=【主張】国会閉幕 機能回復し経済対策競え |accessdate=2010年1月17日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090221041742/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/081225/stt0812250334001-n1.htm |archivedate=2009年2月21日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref> は与野党合意ができなかった自民党と[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]を共に批判した)。 低支持率の背景には、麻生首相が国会答弁で踏襲を『ふしゅう』と読み間違えたこと<ref>[http://www.asahi.com/politics/update/1110/TKY200811100225.html 朝日新聞 2008年11月10日22時9分 「村山談話をフシュウ?」首相誤読 議事録は「踏襲」(藤田直央)]</ref> が大きく問題視され、強い批判を受けた<ref>毎日新聞 2010年5月9日 東京朝刊 [https://archive.is/20120710030656/mainichi.jp/select/opinion/hansya/news/20100509ddm004070017000c.html]""([[毎日新聞]]論説副委員長・与良正男 「麻生前首相が資質を問われ始めたのは[[漢字]]の誤読が発覚してからだ」)</ref> こともあるが、支持率の急落は麻生首相のみの責任とは言えず、前任者([[安倍晋三|安倍]]、[[福田康夫|福田]])2代連続の「[[政権]]投げ出し」で[[国民]]が自民党に不信感を持ったことも背景にあった。また、参議院で第1党の地位にある最大[[野党]]の民主党は当初、協力的な姿勢を見せていたが、解散総選挙の先送りが表明されると対立路線を明確にし国会運営が困難になった([[ねじれ国会]])。また、自民党の内部からも[[速やかな政策実現を求める有志議員の会]]が麻生内閣の[[政策]]を積極的に批判し、党内の重鎮[[津島雄二]]から「敵(民主党)に塩を送っている」と評された。 国会における与野党の対立や自民党内における[[麻生おろし]]は、麻生内閣のみならず自民党への支持を一層失わせることになったが、この時点では民主党が圧倒的に支持を得ている状況にはなっておらず、大連立や政界再編の可能性があると見られていた<ref name=koube1/><ref>{{Cite web |last=Dickie |first=Mure |date=2008-12-08 |url=http://www.ft.com/cms/s/0/4a04d94c-c541-11dd-b516-000077b07658.html |title=Japanese premier’s fumbles leave LDP vulnerable |work=FT.com |publisher=Financial Times |language=英語 |accessdate=2008-12-25 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=時事通信社 |date=2008-12-23 |url=http://jp.ibtimes.com/article/biznews/081223/25957.html |title=解散先送りの代償深刻=麻生政権3カ月、誤算の連鎖 |work=IBTimes |publisher=財経新聞社 |accessdate=2008-12-27 }}{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2008-12-24 |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081224/plc0812241338014-n1.htm |title=野党の雇用法案、衆院解散決議案を否決 |work=MSN産経ニュース |publisher=産経新聞社 |accessdate=2008-12-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101021002840/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081224/plc0812241338014-n1.htm |archivedate=2010年10月21日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。 「[[言論エヌピーオー|言論NPO]]」が2009年(平成21年)1月6日に発表した「麻生政権100日評価アンケート」によれば、支持率は11.0%、不支持率は70.8%だった<ref>{{Cite press release | 和書 | title = 「麻生政権100日」評価 結果公表 | publisher = 言論エヌピーオー | date = 2009-01-06 | url = http://www.genron-npo.net/aso100days/003380.html | accessdate = 2009-12-28 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090430121011/http://www.genron-npo.net/aso100days/003380.html | archivedate = 2009年4月30日 | deadurl = yes }}</ref>。また、読売新聞社が2009年(平成21年)1月上旬におこなった調査では不支持率が前回と比べ5.6ポイント増の72.3%となった。 2月17日には財務大臣[[中川昭一]]が[[ローマ]]での「もうろう会見」への批判を受けて辞任、直後の調査では9.7%まで支持率が低下した<ref>{{Cite web|和書 | date = 2009-02-15 | url = http://www.ntv.co.jp/yoron/200902/soku-index.html | title = 2009年2月定例世論調査 | publisher = [[日本テレビ放送網|日本テレビ]] | accessdate = 2010-03-01 }}</ref>。3月には、[[民主党代表]]の[[小沢一郎]]に関するスキャンダルなどの影響で内閣支持率が若干回復傾向となり、[[日本経済新聞]]と[[テレビ東京]]が4月26日に実施した合同世論調査では32%(前回比7ポイント増)<ref>{{cite news | url = http://www.nikkei.co.jp/sp2/nt22/20090426AS3S2600L26042009.html | title = (4/26)内閣支持率32%、7ポイント上昇 日経世論調査 | newspaper = 日本経済新聞 | date = 2009-04-26 | accessdate = 2009-12-29 }}{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>、[[産経新聞]]と[[フジニュースネットワーク|FNN]]が4月25日と26日の両日に実施した合同世論調査では28.2%(前回比7.4ポイント増)に上昇した<ref>{{cite news | url = http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090427/stt0904271144004-n1.htm | title = 【FNN合同世論調査】内閣支持率28・2%に上昇 衆院選の比例投票先では自民が民主上回る (1/2ページ) | newspaper = 産経新聞 | date = 2009-04-27 | accessdate = 2010-01-17 | publication-date = | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090430034411/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090427/stt0904271144004-n1.htm | archivedate = 2009年4月30日 }}</ref>。しかし、5月に入ると、[[鳩山由紀夫]]の民主党代表就任や[[日本郵政]]社長の進退問題に端を発して総務大臣鳩山邦夫が更迭されたことを境に再び下落に転じ、[[毎日新聞]]が6月中旬に実施した全国世論調査では19%(前回比5ポイント減)<ref name="mainichi20090615-1229">{{cite news | url = https://megalodon.jp/2009-0615-1336-28/mainichi.jp/select/wadai/news/20090615k0000e010012000c.html | title = 毎日世論調査:麻生内閣支持率下落19%…再び危険水域に | newspaper = 毎日新聞 | date = 2009-06-15 | accessdate = 2009-12-29 }}</ref>、産経新聞とFNNが実施した合同世論調査でも17.5%(前回比9.9ポイント減)<ref name="sankei20090622-1229">{{cite news | url = https://megalodon.jp/2009-0623-1805-40/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090622-00000072-san-pol | title = 内閣支持率急落17・5% 7割「鳩山氏更迭は不適切」 本社・FNN世論調査 | newspaper = 産経新聞 | date = 2009-06-22 | accessdate = 2009-12-29 }}</ref> となり、再び20%を割り込む事態となった。両紙は共に、「麻生内閣は再び危険水域に入った」と報じた<ref name="mainichi20090615-1229"/><ref name="sankei20090622-1229"/>。 === 「麻生おろし」の暗闘と衆議院解散 === 2009年(平成21年)2月の中頃から、自民党内でも「[[麻生おろし]]」の動きが表面化してきた。この状況下で民主党幹部の中には「私たちがやるべきことは首相を守ることだ。いたぶるけど辞めさせないことが大事だ」としてあくまで辞任に追い込みたい他の[[野党]]から一歩引いた姿勢を示すものもあった<ref>「麻生降ろし」戸惑う民主 本音は“麻生首相のままで選挙”2月19日 産経新聞</ref>。<!-- が、社民・国民新の要請を受け、野党3党は参議院での、「問責決議案」の提出を検討することで大筋、合意した<ref>[http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090221AT3S2001B20022009.html 民主、「首相問責」時期探る 決議案参院提出を検討 2009年2月21日 日経]</ref>。--> 追い込まれた麻生内閣は、[[郵政民営化]]路線を見直す方向に舵を切り党内に残る反民営化勢力に訴えることで「麻生おろし」に対抗しようとした。2月5日の衆院予算委員会での「(郵政民営化に)賛成じゃありませんでした」との発言。当時郵政行政を所管する総務大臣だった麻生首相の発言に批判が集まると「最初は賛成ではなかった。しかし2年間にいろいろ勉強させていただいて、(中略)民営化したほうがいいというように最終的に思いました」と2月9日に訂正した。郵政選挙で得た自公の衆議院過半数を基礎として成立している内閣が、解散もせず、その時点での選挙の民意である郵政民営化に逆行すると捉えられかねない動きをすることに対して、2月18日に小泉元総理が「呆れたを通り越して、笑っちゃう」と発言し一連の動きを抑え込んだ。しかし、[[日本郵政]]社長[[西川善文]]社長人事問題では「総務大臣が適切に判断されるものと思います」と西川社長の退任を図ろうとする総務大臣[[鳩山邦夫]]を繰り返し擁護。郵政造反復党組の消費者行政推進担当大臣[[野田聖子]]も「総務大臣が判断すればいい」と発言。しかし、5月18日の指名委員会による西川社長の続投が決まり、自分と差し違えても西川退陣を迫る鳩山邦夫を6月12日麻生首相は事実上の[[更迭]]を行い、郵政民営化路線の見直しにより麻生おろしへ対抗しようとした試みは最終的に挫折した。そして、麻生内閣の迷走と自民党内の分裂をますます印象づける結果となった。また、月末には[[第45回衆議院議員総選挙|総選挙]]前の[[党四役]]の交代人事に着手<ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090626k0000e010086000c.html |title=自民党:役員人事で一部閣僚交代も 麻生首相方針 2009年6月26日 毎日新聞 |accessdate=2009年6月27日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090627202632/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090626k0000e010086000c.html |archivedate=2009年6月27日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref> しようとするも党内からの反発で断念するなど決断にぶれが多く出た結果<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/v2?id=20090621konmei_seikyoku2009_12|title=首相、自民役員人事は断念|accessdate=2023-08-18|publisher=時事通信}}</ref><!-- <ref>[http://mainichi.jp/select/today/news/20090630k0000m010082000c.html 麻生首相:党人事を断念…自民内反発受け 2009年6月30日 毎日新聞]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref> -->、麻生離れは進行した。元幹事長の[[中川秀直]]が「自ら降りていただきたい」と述べるなど、党内からも公然と退陣要求が出た<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol&k=2009062900904 「麻生降ろし」へうごめき=首相サイドは警戒2009年6月29日 時事通信]</ref><ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009062900742 首相に退陣要求=「自爆解散」絶対阻止-中川秀氏 2009年6月29日 時事通信]</ref>。 麻生首相は7月13日、21日に衆議院を解散し、8月30日投開票の日程で総選挙を断行する意向を異例の「解散予告」の形で表明した。民主党の首相[[問責決議]]案が参院で可決されることを想定し、7月14日の衆院解散も検討したが、2009年(平成21年)の[[2009年東京都議会議員選挙|東京都議選]]で[[与党]]が大敗し、立ち直るのに日にちをあけたいという事情に配慮して、与党幹部と協議し憲法の規定でもっとも遅くなる8月30日投開票で合意した。なお14日の問責決議案可決の結果、野党が審議に応じず、国会は会期末を待たず事実上閉幕した<ref>朝日新聞、2009年7月14日、東京版朝刊、1面。同15日朝刊、1、3面。</ref>。 7月13日の「解散予告」の後は、各種調査の議席予測等を受け、2008年(平成20年)秋に解散しておけばよかったという与党議員の不満も出た<ref>朝日新聞、2009年7月18日、東京版朝刊、17面。</ref>。解散直前まで自民党が首相に麻生を擁するか混乱した影響は大きく、前官房長官の[[町村信孝]]も地元で「自民が勝てば麻生政権が続くのか」と問われるなど、情勢悪化に歯止めがきかなかった<ref>朝日新聞、2009年8月30日、東京版朝刊、2面。</ref>。 その後も自民党では署名により[[議員総会|両院議員総会]]を開催しての総裁選前倒しなどが企図されたが、開催は見送られ懇談会となった。不満な議員が別のマニフェストを作る分裂的な動きなども出たが<ref>朝日新聞、2009年7月18日、東京版朝刊、3面。</ref>、[[小選挙区制]]では党非公認だと比例区での復活の可能性がなくなることで牽制され<ref>朝日新聞、2009年7月19日、東京版朝刊、1面。</ref>、7月21日に予定通り衆議院は解散された<ref name="asa20090721e" />。しかし、党利党略でさえない、「麻生おろし」を封じるための解散だったとも評された<ref>朝日新聞、2009年7月22日、東京版夕刊、1面。</ref>。 === 退陣、民主党への政権交代 === {{see also|第45回衆議院議員総選挙}} [[ファイル:20090914 Taro Aso and Yukio Hatoyama kaidan1.jpg|サムネイル|2009年9月14日、政権交代を前に会談する[[鳩山由紀夫]]次期[[内閣総理大臣]]([[民主党代表]])と[[麻生太郎]]内閣総理大臣([[自由民主党総裁|自民党総裁]])]] 2009年(平成21年)8月30日の[[第45回衆議院議員総選挙]]では民主党への政権交代が確定し、自民党が記録的大敗を喫した。総務大臣[[佐藤勉]]、財務大臣[[与謝野馨]]、文部科学大臣[[塩谷立]]、国家公安委員会委員長[[林幹雄]]、行政改革担当大臣[[甘利明]]、消費者行政推進担当大臣[[野田聖子]]と6人もの現職の国務大臣が小選挙区で落選した(6人全員比例復活した)。また、2月に財務大臣•金融担当大臣を辞任した[[中川昭一]]は大臣辞任の影響もあり小選挙区で落選、比例復活も次点でできず、落選した。 その夜に麻生首相が選挙対策本部での[[日本放送協会|NHK]]との中継会見にて事実上の退陣を表明した。 選挙後の9月に組まれていた国際会議について、[[G20]][[財務大臣・中央銀行総裁会議]]では財務大臣与謝野馨が体調不良を理由に欠席し、[[世界貿易機関|WTO閣僚会合]]では農林水産大臣石破茂、経済産業大臣二階俊博が欠席したことに対して「閣僚としての責務と、最後の仕事を放棄した」との批判があった<ref>『読売新聞』「編集手帳」2009年9月6日、東京版朝刊、1面。</ref>。 [[File:Resignation of the Asō Cabinet 20090916.jpg|thumb|内閣総辞職に際して花束を贈呈される内閣総理大臣の麻生]] 2009年(平成21年)9月16日、麻生首相は[[特別会|特別国会]]の召集に当たり、憲法の規定に従い[[内閣総辞職]]を臨時[[閣議 (日本)|閣議]]で決定した。麻生首相は退任記者会見で「残念ながら道半ばで退任することになった。」と述べ、[[内閣総理大臣官邸]]を後にした<ref>[http://www.asahi.com/senkyo2009/news/TKY200909160033.html 麻生内閣が総辞職 首相会見、最後は笑顔] 朝日新聞 2009年9月16日</ref>。同日、後継政権として[[鳩山由紀夫内閣]]が発足した。 == 政策 == === 経済 === 麻生内閣は景気対策最優先の政権運営で日本経済の立て直しを目指した。就任直後の2008年(平成20年)10月16日の平成20年度第1次補正予算成立を皮切りに、2009年(平成21年)明けに同第2次補正予算、平成21年度予算、同第1次補正予算と半年余りで4回の経済対策を行った。特に平成20年度第1・2次補正予算と平成21年度予算の3つを合わせて政府は「景気対策の3段ロケット」と称した。各対策の要点は以下の通り。 ;【平成20年度第1次補正予算】‐総額11.5兆円(「安心実現のための緊急総合対策」) *生活者への支援 ・高齢者の医療費負担軽減など‐2500億円 *[[中小企業]]への支援 **[[緊急保証制度|緊急保証]]枠‐6兆円 **政府系金融の緊急貸出枠‐3兆円 *地方の活性化 **緊急防災・災害復旧等‐4400億円 ;【平成20年度第2次補正予算】‐総額27兆円(「生活対策」) *生活者への支援 **[[定額給付金]]の実施‐2兆円 **自治体による雇用機会創出‐4000億円(基金) **妊婦健診の無料化‐800億円 **離職者への住宅・生活支援 *中小企業への支援 **保証・貸出枠‐30兆円に拡大 **金融機関への資本注入枠‐10兆円追加 *地方の活性化 **地方活性化交付金‐6000億円 **[[高速道路]]料金の大幅引き下げ‐5000億円 ;【平成21年度予算】‐総額37兆円(「生活防衛のための緊急対策」) *生活者への支援 **非正規労働者への[[雇用保険]]適用‐1700億円 **雇用保険料引き下げ‐6400億円 **[[出産一時金]]の増額 **住宅減税‐3400億円 **[[低排出ガス車認定制度#エコカー減税|エコカー減税]]‐2100億円 *中小企業への支援 **省エネ設備等の投資促進減税‐1900億円 **中小企業への税率引き下げ等‐2400億円 *地方の活性化 **雇用創出のための交付金増額‐1兆円 **地域活力基盤創造交付金‐9400億円 ;【平成21年度補正予算】‐総額15.7兆円(「経済危機対策」) *生活者への支援 **[[雇用調整助成金]]、再就職支援、能力開発、雇用創出、住宅・生活支援等‐1.9兆円 **社会保障、消費者政策の抜本的強化、防災・安全対策、治安体制の整備等‐1.7兆円 *金融対策 **中小企業等資金繰り、株式市場、住宅・土地金融等‐3兆円 *地方の活性化 **地方自治体への財政支援等2.6兆円 *成長戦略 **低炭素革命‐1.6兆円 **底力発揮・21世紀型インフラ整備‐2.6兆円 **健康長寿・子育て‐2兆円 **家電エコポイント制度創設 - 2946億円 このほかにも、[[金融機能強化法]]改正、[[国民年金法]]改正、労働者派遣法改正、外貨準備高から[[国際通貨基金|IMF]]へ10億円の貸出など行った。 また、「当面は景気対策、中期的に財政再建、中長期的には改革による経済成長」と述べ、社会保障と税財政に関する「中期プログラム」と景気回復後に遅滞なくかつ段階的に消費税を含む税制抜本改革を行うとした税制改正に意欲を示した。 ==== 中小企業に対する支援 ==== [[中小企業]]を金融危機の被害から保護するため、金融機関に対して[[日本政策金融公庫]]からの信用供与を実施し、中小企業に対する長期資金貸付・新発社債購入・コミットメント・ラインの設定、大企業向け融資を通じた関連の中堅・中小企業への資金供給および保証などを実施した<ref>[http://www.mof.go.jp/jouhou/seisakukinyu/kikinintei/090707.htm 企業の資金繰り支援のための危機対応業務の内容を拡充しました(平成21年7月3日):財務省]</ref>。また、中小企業向けの税金の優遇制度として、中小企業に対して、当期の欠損金を前期に繰戻すことで、前年度に納めた法人税の還付を受けることができる優遇制度である[[繰戻し還付金]]を導入した。 === 外交 === 「[[価値観外交#自由と繁栄の弧|自由と繁栄の弧]]」構想の下で、[[価値観外交|価値の外交]]を推進した。代表的な例として、安全保障、経済、環境、エネルギーなど幅広い分野で両国の戦略的協調を進めるため、訪日した[[インド]]の[[マンモハン・シン]]首相との首脳会談で[[日印安全保障協力共同宣言]]に署名した。また、[[12月18日]]、[[オーストラリア]]との防衛協力と情報共有を推進する日豪の安全保障協力促進の共同文書を発表した。 [[ロシア|ロシア連邦]]に対しては、[[ロシア連邦大統領|大統領]][[ドミートリー・メドヴェージェフ]]の招きに応じ、[[南樺太]]を訪問した。南樺太は帰属未確定地のため、[[日本国政府]]はロシアの領土とは公式に認めておらず、戦後の歴代政権は内閣総理大臣が訪問することを避けてきた<ref name="sankei20090220">{{cite news | url = https://megalodon.jp/2009-0228-1407-01/sankei.jp.msn.com/politics/policy/090220/plc0902202136016-n1.htm | title = 首相のサハリン訪問後の記帳、総務相「微妙な問題 | newspaper = 産経新聞 | date = 2009-02-20 | accessdate = 2010-01-16 }}</ref> が、麻生首相はロシア側の出入国手続きに則り南樺太を日帰りで訪問し、さらに帰京後に[[皇居]]で記帳を行った<ref name="sankei20090220"/>。皇居での記帳は「外国」から帰国した際に行われるため、麻生首相が南樺太をロシア領だと事実上認めたと受け止められ議論となった。[[第171回国会]]では、[[古本伸一郎]]が麻生首相の一連の行為を疑問視し「記帳はダメを押したのではないか」<ref name="sankei20090220"/> と発言するなど、南樺太がロシア領だと追認したことになるとの指摘がなされた。これを受け、行政制度および地方行財政を所管する総務大臣鳩山邦夫が、麻生首相の行為について「正直、実に微妙な問題だなと思う」<ref name="sankei20090220"/> と答弁した。さらに、南樺太での日露首脳会談では、麻生首相が[[北方領土問題]]について面積二等分論に言及し、四島一括返還論の放棄を示唆した。戦後の日本の歴代政権は一貫して四島の一括返還を主張しており、大きな方針転換となった。 [[2008年]](平成20年)[[12月13日]]、[[福岡県]][[太宰府市]]の[[九州国立博物館]]で初の単独開催となる日中韓首脳会議(「第1回[[日中韓サミット]]」)が開催された。 [[大韓民国|韓国]]が導入を目指し積極的に推進していた[[夏時間|サマータイム]]制度については、[[2009年]](平成21年)[[6月28日]]の日韓首脳会談後の記者会見において記者の問いに対し、麻生首相が「やるなら一緒にやるというのは極めて効果が大きい。」<ref>{{Cite web|和書|title=日韓首脳会談共同記者会見|url=https://www.kantei.go.jp/jp/asospeech/2009/06/28kyodo.html|publisher=[[外務省]]|date=2009-06-28|accessdate=2018-08-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180809122135/https://www.kantei.go.jp/jp/asospeech/2009/06/28kyodo.html|archivedate=2018年8月9日|deadlinkdate=2020年2月}}</ref><ref>{{cite news | url = http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090629/plc0906290018001-n2.htm | title = 【日韓首脳共同会見(下)】麻生首相「サマータイムやるなら日韓同時で」(28日夕) (2/2ページ) | newspaper = 産経新聞 | date = 2009-06-29 | accessdate = 2010-01-16 }}{{リンク切れ|date=2018年8月}}</ref> と発言し、韓国と同時に日本でも導入すればより高い効果が見込めるとの考えを示した。 {{要出典範囲|date=2013年10月24日 (木) 13:33 (UTC)|麻生首相は、いち早く日本の手持ちのドルの[[国際通貨基金|IMF]]への融資を発表した。IMFは[[アイスランド]]に緊急融資を行い、同国外相の政治顧問は「日本のおかげ」と感謝した。[[11月14日]][[ドミニク・ストロス=カーン]]IMF専務理事は、日本の資金提供・リーダーシップ・多国間協調主義などの取組みを人類の歴史上最大の貢献だと評価した。[[11月15日]]、日本と世銀が途上国の銀行支援ファンド設立決定をするなど経済危機に対し、世界のリーダーシップを取り、各国から高い評価を得るが、日本国内ではほとんど報道されなかった}}。 {{要出典範囲|date=2013年10月24日 (木) 13:33 (UTC)|[[2009年]](平成21年)[[2月14日]]、[[イタリア]]・[[ローマ]]で開催された[[G7]][[財務大臣・中央銀行総裁会議]]で、世界的同時不況を乗り越えるため、各国共財政出動をすることが確認された。 その会議で、日本がIMFに1000億ドル(10兆円)相当のドルを融資したことが評価された}}。 ==== ユーラシア・クロスロード構想 ==== 麻生首相は2009年(平成21年)6月に、[[中央アジア]]・[[コーカサス]]地方の[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備を支援する「ユーラシア・クロスロード構想」を発表し、「この地域で安定と繁栄が相乗効果を上げれば、世界経済を大きく押し上げる。[[中華人民共和国|中国]]、[[インド]]、[[ロシア]]は、そのための重要なパートナーで、こうした構想に、今申し上げた国々が関心を持つことを歓迎する。」と周辺国に参加を呼びかけた。この構想の具体的な支援内容としては「[[中央アジア]]から[[アフガニスタン]]を経て、[[アラビア海]]に至るルートの[[道路]]や[[鉄道]]の整備」「[[中央アジア]]から[[コーカサス]]を経て[[ヨーロッパ|欧州]]に至るルートにある[[カスピ海]]沿岸の[[港湾]]整備」の2点が挙げられている<ref>[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] (2009/06/30 18:36 JST) 麻生首相:中央アジア支援に新構想、中印ロに連携呼び掛け-講演 -[http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=infoseek_jp&sid=aK2rPlQG3FV4]</ref>。 == 人事 == === 特徴 === 本内閣の特徴としては、国務大臣の平均年齢が58.2歳と前内閣から4歳近く若返ったことがあげられる。これは、[[内閣府特命担当大臣]]で初入閣した[[小渕優子]]が任命時34歳と9か月と[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]最年少での国務大臣就任となったことを含めて50代以下が10人を占めたことによる。しかし、[[福田康夫内閣 (改造)|前内閣]]からの再任者が5名おり、初入閣も5人と安倍内閣の11人の半分以下で、平均当選回数(衆院議員のみ)は6.5回で安倍内閣と同じで小泉内閣の5.8回を上回り、必ずしも「若返り」を意図した結果ではない<ref name="mainichi080924">{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/today/news/20080925k0000m010105000c.html |title=麻生新内閣:2世議員、最多の10人…過去3内閣比較 2008年9月24日毎日新聞 |accessdate=2008年9月24日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080924230104/http://mainichi.jp/select/today/news/20080925k0000m010105000c.html |archivedate=2008年9月24日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。 父または祖父が内閣総理大臣経験者である国務大臣が、[[吉田茂]]の孫である[[麻生太郎]]首相を筆頭に、鳩山、中曾根、小渕と4人おり、これらを含めた“[[世襲政治家]]”が福田改造内閣の9人を上回る11人の多数に及び<ref name="mainichi080924" />、[[マスメディア|マスコミ]]や[[野党]]は“世襲内閣”“若旦那内閣”などと称し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2008092702000090.html |title=中日春秋 2008年9月27日中日新聞 |accessdate=2008年9月28日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080928200329/http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2008092702000090.html |archivedate=2008年9月28日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>、安倍に次いで“おぼっちゃま内閣”とまで揶揄した<ref>J-CAST テレビウォッチ [https://www.j-cast.com/tv/2008/09/26027590.html 麻生新内閣「親が大臣です。あっそう」2008年9月26日]</ref>。また、小泉以来4代続いて地盤を世襲した政治家であること、安倍以来3代続いて祖父に内閣総理大臣経験者を持つことも批判された<ref>{{Cite web|和書| author=辛貞録 特派員(東京) | date=2008-09-24 | url=http://www.chosunonline.com/article/20080924000036 | title=「世襲」首相が4代続く日本 | publisher=朝鮮日報 | accessdate=2008-10-11 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20080926225122/http://www.chosunonline.com/article/20080924000036 | archivedate=2008年9月26日 | deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。 首相を除く無派閥が4人と小泉以降の4内閣の中では最も多かったが、麻生首相が自民党内少数派閥出身で他の多数派閥の支持により成立した経緯の上での派閥均衡・論功行賞人事とも指摘された<ref name="mainichi080924" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080924-OYT1T00816.htm |title=「文教族のお友達内閣」総裁選圧勝の論功行賞も 2008年9月25日読売新聞 |accessdate=2008年9月28日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080928132540/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080924-OYT1T00816.htm |archivedate=2008年9月28日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。女性閣僚は野田と小渕の2人で、[[民間人閣僚]]は総務大臣[[増田寛也]]の退任により0人となった。 また、[[中央省庁再編]]によって“財政と金融行政との分離(財金分離)”が実行されて以降初めて、1人の国務大臣が財務大臣と内閣府特命担当大臣(金融)とを兼務した([[小渕内閣]]以降の[[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]および[[金融再生委員会委員長]]の時代を含む)。麻生首相はこの点を「役所を1つにするかは(兼務を)やってみなければ分からない」とし、旧[[大蔵省]]の復活を示唆した<ref>[https://web.archive.org/web/20090826232209/http://www.47news.jp/CN/200809/CN2008092401000955.html 財務省と金融庁の再統合も 大臣兼務、両立に懸念 2008.09.24共同通信]</ref>。 小泉内閣以降、組閣人事情報は一切漏らさない秘密主義が続いてきたが、麻生内閣の組閣に当たっては自民党総裁選の最中から、事前に人事情報が外部に漏れたためにたびたび[[報道]]され、総裁選から[[休日]]を挟んでの首相指名・組閣当日の朝には報道各社が閣僚名簿を発表するという、近年では異例の事態となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.zakzak.co.jp/top/200809/t2008092507_all.html |title=ドタバタ二転三転、組閣の舞台裏…森元首相が強権 2008年9月25日夕刊フジ |accessdate=2008年9月28日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080928051033/http://www.zakzak.co.jp/top/200809/t2008092507_all.html |archivedate=2008年9月28日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。 9月29日の臨時閣議で決められた副大臣および大臣政務官の人事についてであるが、橋本聖子が外務副大臣に、大村秀章が厚生労働副大臣にそれぞれ任命されたことを除いて全員が再任された<ref>[http://www.sponichi.co.jp/society/news/2008/09/28/kiji/K20080928Z00001170.html 副大臣・政務官人事/外務橋本、厚労大村氏] スポニチアネックス 2008年9月28日</ref>。 === 相次ぐ離任 === 内閣の発足から一年も経たないうちに、主要な役職に就く者の離任が相次ぐ事態となった。 組閣から5日後、国土交通大臣[[中山成彬]]が失言問題を理由に国務大臣を免官された。2009年(平成21年)1月には、[[松浪健太]]が[[定額給付金]]制度に反対して第2次補正予算案採決を棄権したため、[[内閣府大臣政務官]]を免官された。2月には、財務大臣[[中川昭一]]が[[G7|先進7か国]][[財務大臣・中央銀行総裁会議]]にて酩酊状態で会見を行ったため、国務大臣を免官された。3月には、[[平田耕一]]が[[国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範]]違反の発覚のため[[財務副大臣]]を免官された。5月には、[[鴻池祥肇]]が女性問題と議員歳費法抵触の発覚のため[[内閣官房副長官]]を免官された。[[6月12日]]には、総務大臣[[鳩山邦夫]]が[[日本郵政]][[社長]]の[[西川善文]]の続投に抗議し、国務大臣を免官された。同日、[[戸井田徹]]が鳩山の更迭に抗議し、[[厚生労働大臣政務官]]を免官された。 また、麻生首相の[[郵政民営化]]見直し発言に反発した[[早川忠孝]]が[[法務大臣政務官]]の辞任を表明するも<ref>「自民・早川氏が政務官辞任の意向――ブログでは麻生首相批判」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090210/stt0902101037002-n1.htm 自民・早川氏が政務官辞任の意向 ブログでは麻生首相批判 - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090210/stt0902101037002-n1.htm |date=20090213213059 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[2月10日]]。</ref>、慰留を受けて撤回した<ref>「早川政務官が一転『辞意撤回』――ブログでは麻生首相批判」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090210/plc0902101503012-n1.htm 早川政務官が一転「辞意撤回」 ブログでは麻生首相批判 - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090210/plc0902101503012-n1.htm |date=20090213212240 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[2月10日]]。</ref>。鳩山の更迭に反発した[[古川禎久]]も[[環境大臣政務官]]を辞任する考えを[[近未来政治研究会]]に伝えたが、その後撤回した<ref>「戸井田政務官が辞表提出――古川氏は辞任撤回」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090612/plc0906122023020-n1.htm 戸井田政務官が辞表提出 古川氏は辞任撤回 - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090612/plc0906122023020-n1.htm |date=20090625175009 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[6月12日]]。</ref>。 国務大臣の免官が相次いだが、[[2009年]](平成21年)[[7月1日]]までに新任されたのは金子国土交通大臣のみであり、それ以外については、既存の国務大臣に複数の職を兼務させる手法を採ったため、同日までは国務大臣の数が[[中央省庁再編]]後において最小の内閣であった<ref>「閣僚数、省庁再編後で最少に=麻生内閣、相次ぐ兼務で」『[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009061201033 時事ドットコム:閣僚数、省庁再編後で最少に=麻生内閣、相次ぐ兼務で]』[[時事通信社]]、[[2009年]][[6月12日]]。</ref>。その後の[[7月2日]]に、前の[[福田康夫内閣 (改造)|福田康夫改造内閣]]で入閣していた[[林芳正]]および[[林幹雄]]の2名が再入閣し、林(芳)国務大臣が与謝野国務大臣の内閣府特命担当大臣(経済財政政策)の職を、林(幹)国務大臣が佐藤国務大臣の国家公安委員会委員長および内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)の職をそれぞれ引き継いだ。 == 国務大臣 == '''所属政党・出身:''' {{color box|#e5ccff}} [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]([[町村派]]) {{color box|#ffffcc}} 自由民主党([[宏池会|古賀派]]) {{color box|#ccffff}} 自由民主党([[津島派]]) {{color box|#ffe5cc}} 自由民主党([[志公会|麻生派]]) {{color box|#c1e0ff}} 自由民主党([[志帥会|伊吹派]]) {{color box|#ccffe5}} 自由民主党([[近未来政治研究会|山崎派]]) {{color box|#ffccff}} 自由民主党([[有隣会|谷垣G]]) {{color box|#ffe4b5}} 自由民主党([[番町政策研究所|高村派]]){{color box|#BC8F8F}} [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]([[新しい波 (派閥)|二階派]]) {{color box|#B6FBB6}} 自由民主党(無派閥) {{color box|#ffc1e0}} [[公明党]]  {{color box|#dcdcdc}} 中央省庁・民間 {| class="wikitable" ! 職名 ! colspan="2" | 氏名 ! 所属 ! 特命事項等 ! 備考 |-style="background:#ffe5cc" ! [[内閣総理大臣]] | [[ファイル:Taro Aso 20080924.jpg|代替文=|60ピクセル]] | [[麻生太郎]] | [[衆議院]]<br />[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]<br />([[志公会|麻生派]]) | | [[自由民主党総裁]]<br />再入閣 |-style="background:#ccffff" ! rowspan="2" | [[総務大臣]]<br />[[内閣府特命担当大臣]]<br />([[内閣府特命担当大臣(地方分権改革担当)|地方分権改革]]) | [[ファイル:Kunio Hatoyama 200809.jpg|60px]] | [[鳩山邦夫]] | style="white-space:nowrap;" | 衆議院<br />自由民主党<br />([[平成研究会|津島派]]) | [[内閣総理大臣臨時代理]]第3順位指定 | style="white-space:nowrap;" | 再入閣<br /><small>[[2009年]][[6月12日]]免</small> |-style="background:#ffffcc" | [[ファイル:Tsutomu_Sat%C5%8D 2008.jpg|60px]] | [[佐藤勉]] | 衆議院<br />自由民主党<br />([[宏池会|古賀派]]) | | <small>2009年6月12日命</small> |-style="background:#ffe5cc" ! [[法務大臣]] | [[ファイル:Eisuke Mori.jpg|60px]] | [[森英介]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(麻生派) | | 初入閣 |-style="background:#c1e0ff" ! [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] | [[ファイル:Hirofumi Nakasone 2008.jpg|60px]] | style="white-space:nowrap;" | [[中曽根弘文]] | [[参議院]]<br />自由民主党<br />([[志帥会|伊吹派]]) | | 再入閣 |-style="background:#c1e0ff" ! rowspan="2" | [[財務大臣 (日本)|財務大臣]]<br />内閣府特命担当大臣<br />([[内閣府特命担当大臣(金融担当)|金融]]) | [[File:Shoichi Nakagawa 2004.jpg|60px]] | [[中川昭一]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(伊吹派) | 内閣総理大臣臨時代理第4順位指定 | 再入閣<br /><small>2009年[[2月17日]]免</small> |-style="background:#B6FBB6" | [[File:Kaoru Yosano 2008.jpg|60px]] | [[与謝野馨]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(無派閥) | 内閣総理大臣臨時代理第2順位指定 | <small>2009年2月17日命</small> |-style="background:#e5ccff" ! [[文部科学大臣]] | [[ファイル:Ryu Shionoya Monbukagakudaijin.jpg|60ピクセル]] | [[塩谷立]] | 衆議院<br />自由民主党<br />([[清和政策研究会|町村派]]) | [[国立国会図書館連絡調整委員会]]委員 | 初入閣 |-style="background:#B6FBB6" ! [[厚生労働大臣]] | [[ファイル:Yoichi Masuzoe 20080924.jpg|60px]] | [[舛添要一]] | 参議院<br />自由民主党<br />(無派閥) | | 再任 |-style="background:#ccffff" ! [[農林水産大臣]] | [[ファイル:Shigeru Ishiba 2008.jpg|60px]] | [[石破茂]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(津島派) | 内閣総理大臣臨時代理第5順位指定<ref group="注釈" name="ReferenceA">2009年(平成21年)6月12日 - 2009年(平成21年)9月16日</ref> | 再入閣 |-style="background:#BC8F8F" ! [[経済産業大臣]] | [[ファイル:Toshihiro Nikai 20080924.jpg|60px]] | [[二階俊博]] | 衆議院<br />自由民主党<br />([[新しい波 (派閥)|二階派]]) | 内閣総理大臣臨時代理第5順位指定<ref group="注釈" name="ReferenceB">2009年(平成21年)2月17日 - 2009年(平成21年)6月12日</ref><br />→第4順位指定<ref group="注釈" name="ReferenceA"/> | 再任 |-style="background:#e5ccff" ! rowspan="3" | [[国土交通大臣]] | [[ファイル:Nariaki_Nakayama_Monbukagakudaijin.jpg|60px]] | [[中山成彬]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(町村派) | | 再入閣<br /><small>2008年[[9月28日]]免</small> |-style="background:#c1e0ff" | [[ファイル:Takeo Kawamura 20080924.jpg|60px]] | style="white-space:nowrap" | [[河村建夫]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(伊吹派) | | <small>臨時代理<br />2008年9月28日指定<br />2008年[[9月29日]]指定解除</small> |-style="background:#ffffcc" | [[ファイル:Kaneko-Kazuyoshi 2003.jpg|60px]] | [[金子一義]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(古賀派) | | 再入閣<br /><small>2008年9月29日命</small> |-style="background:#ffc1e0" ! [[環境大臣]] | [[ファイル:Tetsuo_Sait%C5%8D.jpg|60px]] | [[斉藤鉄夫]] | 衆議院<br />[[公明党]] | | 再任 |-style="background:#B6FBB6" ! [[防衛大臣]] | [[ファイル:Yasukazu Hamada 20080924.jpg|60px]] | [[浜田靖一]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(無派閥) | | 初入閣 |-style="background:#c1e0ff" ! [[内閣官房長官]] | [[ファイル:Takeo Kawamura 20080924.jpg|60px]] | [[河村建夫]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(伊吹派) | [[拉致問題対策本部#拉致問題担当大臣|拉致問題担当]]<br/>内閣総理大臣臨時代理第1順位指定 | 再入閣 |-style="background:#ffffcc" ! rowspan="2" style="white-space:nowrap" | [[国家公安委員会委員長]]<br />内閣府特命担当大臣<br />([[内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)|沖縄及び北方対策]]<br />[[内閣府特命担当大臣(防災担当)|防災]]) | [[ファイル:Tsutomu_Sat%C5%8D 2008.jpg|60px]] | [[佐藤勉]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(古賀派) | | 初入閣<br /><small>2009年[[7月2日]]免</small> |-style="background:#ccffe5" | [[ファイル:Motoo Hayashi 20080802.jpg|60px]] | [[林幹雄]] | 衆議院<br />自由民主党<br />([[近未来政治研究会|山崎派]]) | | 再入閣<br /><small>2009年7月2日命</small> |-style="background:#B6FBB6" ! rowspan="2" | 内閣府特命担当大臣<br />([[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済財政政策]]) | [[ファイル:Kaoru Yosano 2008.jpg|60px]] | [[与謝野馨]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(無派閥) | 内閣総理大臣臨時代理第2順位指定 | 再任<br /><small>2009年7月2日免</small> |-style="background:#ffffcc" | [[ファイル:Y. Hayashi.png|60px]] | [[林芳正]] | 参議院<br />自由民主党<br />(古賀派) | | 再入閣<br /><small>2009年7月2日命</small> |-style="background:#ccffe5" ! 内閣府特命担当大臣<br />([[内閣府特命担当大臣(規制改革担当)|規制改革]]) | [[ファイル:Amari Akira 1-3.jpg|60px]] | [[甘利明]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(山崎派) | [[行政改革担当大臣|行政改革担当]]<br />[[国家公務員制度改革推進本部#歴代の公務員制度改革担当大臣|公務員制度改革担当]]<br />内閣総理大臣臨時代理第5順位指定<ref group="注釈">2008年(平成20年)9月24日 - 2009年(平成21年)2月17日</ref><br />→第4順位指定<ref group="注釈" name="ReferenceB"/><br />→第3順位指定<ref group="注釈" name="ReferenceA"/> | 再入閣 |-style="background:#B6FBB6" ! 内閣府特命担当大臣<br />([[内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)|科学技術政策]]<br />[[内閣府特命担当大臣(食品安全担当)|食品安全]]<br />[[内閣府特命担当大臣(消費者担当)|消費者]]) | [[ファイル:Seiko Noda 200809.jpg|60px]] | [[野田聖子]] | 衆議院<br />自由民主党<br/>(無派閥) | | 再任 |-style="background:#ccffff" ! 内閣府特命担当大臣<br />([[内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)|少子化対策]]<br />[[内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)|男女共同参画]]) | [[ファイル:Yuko Obuchi 20080924.jpg|60px]] | [[小渕優子]] | 衆議院<br />自由民主党<br />(津島派) | | 初入閣 |} * [[2008年]](平成20年)[[9月24日]]組閣 * 組閣時の平均年齢:58歳 ** 最年長:70歳([[与謝野馨]]) ** 最年少:34歳([[小渕優子]]) * 2009年(平成21年)9月1日付で、野田国務大臣は[[担当大臣|内閣の担当大臣]]たる消費者行政推進担当大臣の職を解かれ、内閣府特命担当大臣(消費者)の職を命ぜられた。 == 内閣官房副長官等 == {|class="wikitable" !style="white-space:nowrap"|職名!!! colspan="2" | 氏名!!担当!!所属等!!備考 |- !rowspan="4"|[[内閣官房副長官]] |[[File:19matsumoto.jpg|60px]]||[[松本純]]||rowspan="3"|政務担当||[[衆議院]]<br />[[志公会|麻生派]]|| |- |[[ファイル:Yoshitada Konoike 20080924.jpg|60px]]||[[鴻池祥肇]]||[[参議院]]<br />麻生派||[[2009年]](平成21年)[[5月13日]]免官 |- |[[ファイル:20asano.jpg|60px]]||[[浅野勝人]]||参議院<br />麻生派||2009年(平成21年)5月13日任命 |- |[[ファイル:Uruma_Iwao_2008.jpg|60px]]||[[漆間巌]]||事務担当||元[[警察庁長官]]|| |- ![[内閣法制局長官]] |[[ファイル:Reiichi Miyazaki 200609.jpg|60px]]||[[宮崎礼壹|宮﨑礼壹]]||||元[[内閣法制局|内閣法制次長]]||再任 |} * 副長官は[[2008年]](平成20年)[[9月24日]]、法制局長官は同[[9月25日]]任命。 == 内閣総理大臣補佐官 == {|class="wikitable" !style="white-space:nowrap"|職名!!! colspan="2" | 氏名!!担当!!所属等!!備考 |- !rowspan="2"|[[内閣総理大臣補佐官]] |[[ファイル:Kyōko Nakayama.jpg|60px]]||[[中山恭子]]||[[拉致問題対策本部|拉致問題]]担当||[[参議院]]<br />[[清和政策研究会|町村派]]||[[2008年]](平成20年)[[9月27日]]任命 |- |[[ファイル:Shunichi Yamaguchi 20081030.jpg|60px]]||[[山口俊一]]||地方再生担当||[[衆議院]]<br />[[志公会|麻生派]]||[[2008年]](平成20年)[[9月30日]]任命 |} == 副大臣 == {|class="wikitable" !職名!!氏名!!所属等!!備考 |- !rowspan="3"|[[内閣府副大臣]] |[[増原義剛]]||[[衆議院]]、[[志帥会|伊吹派]]|| rowspan="7" |再任 |- |[[宮澤洋一]]||衆議院、[[宏池会|古賀派]] |- |[[谷本龍哉]]||衆議院、[[清和政策研究会|町村派]] |- !rowspan="2"|[[総務副大臣]] |[[石崎岳]]||衆議院、町村派 |- |[[倉田雅年]]||衆議院、[[平成研究会|津島派]] |- ![[法務副大臣]] |[[佐藤剛男]]||衆議院、[[近未来政治研究会|山崎派]] |- !rowspan="2"|[[外務副大臣]] |[[伊藤信太郎]]||衆議院、[[番町政策研究所|高村派]] |- |[[橋本聖子]]||参議院、町村派|| |- !rowspan="3"|[[財務副大臣]] |[[石田真敏]]||衆議院、山崎派||[[2009年]](平成21年)[[3月30日]]任命 |- |[[竹下亘]]|| rowspan="2" |衆議院、津島派||再任 |- |[[平田耕一]]||再任<br />2009年(平成21年)[[3月26日]]免官 |- !rowspan="2"|[[文部科学副大臣]] |[[松野博一]]||衆議院、町村派|| rowspan="2" |再任 |- |[[山内俊夫]]||[[参議院]]、山崎派 |- !rowspan="2"|[[厚生労働副大臣]] |[[大村秀章]]||衆議院、津島派|| |- |[[渡辺孝男 (政治家)|渡辺孝男]]||参議院、[[公明党]]|| rowspan="9" |再任 |- !rowspan="2"|[[農林水産副大臣]] |[[近藤基彦]]||衆議院、古賀派 |- |[[石田祝稔]]||衆議院、公明党 |- !rowspan="2"|[[経済産業副大臣]] |[[高市早苗]]||衆議院、町村派 |- |[[吉川貴盛]]||衆議院、津島派 |- !rowspan="2"|[[国土交通副大臣]] |[[金子恭之]]||衆議院、山崎派 |- |[[加納時男]]||参議院、古賀派 |- ![[環境副大臣]] |[[吉野正芳]]||衆議院、町村派 |- ![[防衛副大臣]] |[[北村誠吾]]||衆議院、古賀派 |} * [[2008年]](平成20年)[[9月29日]]任命。 == 大臣政務官 == {|class="wikitable" !職名!!氏名!!所属等!!備考 |- !rowspan="4"|[[内閣府大臣政務官]] |[[宇野治]]||[[衆議院]]、[[志帥会|伊吹派]]|| rowspan="2" |再任 |- ||[[並木正芳]]||衆議院、[[清和政策研究会|町村派]] |- ||[[松浪健太]]||衆議院、伊吹派||再任<br />[[2009年]](平成21年)[[1月14日]]免官 |- ||[[岡本芳郎]]||衆議院、[[平成研究会|津島派]]||2009年(平成21年)1月14日任命 |- !rowspan="3"|[[総務大臣政務官]] |[[坂本哲志]]||衆議院、[[近未来政治研究会|山崎派]]|| rowspan="12" |再任 |- ||[[鈴木淳司]]||衆議院、町村派 |- ||[[中村博彦]]||[[参議院]]、町村派 |- ![[法務大臣政務官]] |[[早川忠孝]]|| rowspan="3" |衆議院、町村派 |- !rowspan="3"|[[外務大臣政務官]] |[[柴山昌彦]] |- ||[[西村康稔]] |- ||[[御法川信英]]||衆議院、無派閥 |- !rowspan="2"|[[財務大臣政務官]] |[[三ツ矢憲生]]||衆議院、[[宏池会|古賀派]] |- ||[[末松信介]]||参議院、町村派 |- !rowspan="2"|[[文部科学大臣政務官]] |[[萩生田光一]]||衆議院、町村派 |- ||[[浮島とも子]]||参議院、[[公明党]] |- !rowspan="2"|[[厚生労働大臣政務官]] |[[金子善次郎]]||衆議院、[[新しい波 (派閥)|二階派]] |- ||[[戸井田徹]]||衆議院、津島派||再任<br/>2009年(平成21年)6月16日免官 |- !rowspan="2"|[[農林水産大臣政務官]] |[[江藤拓]]||衆議院、伊吹派|| rowspan="10" |再任 |- ||[[野村哲郎]]||参議院、津島派 |- !rowspan="2"|[[経済産業大臣政務官]] |[[谷合正明]]||参議院、公明党 |- ||[[松村祥史]]||参議院、津島派 |- !rowspan="3"|[[国土交通大臣政務官]] |[[谷口和史]]||衆議院、公明党 |- ||[[西銘恒三郎]]||衆議院、津島派 |- ||[[岡田直樹]]||参議院、町村派 |- ![[環境大臣政務官]] |[[古川禎久]]|| rowspan="2" |衆議院、山崎派 |- !rowspan="2"|[[防衛大臣政務官]] |[[武田良太]] |- ||[[岸信夫]]||参議院、町村派 |} *[[2008年]](平成20年)[[9月29日]]任命。 == 内閣の動き == === 2008年(平成20年) === ==== 9月 ==== * [[9月24日]] - [[自由民主党総裁]]・[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]][[麻生太郎]]が[[国会 (日本)|国会]]の指名に基づき、[[天皇]][[明仁]]から[[内閣総理大臣]]に任命され、麻生内閣発足。 * 9月25日([[東部夏時間|EDT]]) - 麻生首相が[[国際連合総会]]に出席。 * [[9月27日]] - 参議院議員[[中山恭子]]を[[内閣総理大臣補佐官]]に任命し、9月29日に辞令交付。 * [[9月29日]] - [[衆議院]]、[[参議院]]の本会議にて麻生首相が[[所信表明演説]]。麻生内閣は[[副大臣]]及び[[大臣政務官]]を任命。 * 9月30日 - 衆議院議員[[山口俊一]]を内閣総理大臣補佐官に任命。 ==== 10月 ==== [[File:G7-finance minsters-central bankers - Oct 2008.jpg|thumb|200px|[[2008年|2008]](平成20)年[[10月10日]]([[東部夏時間|EDT]])、<br>[[G7]][[財務大臣・中央銀行総裁会議]]に出席した財務大臣中川昭一(前列右から3人目)]] * [[10月2日]] - 衆議院本会議にて麻生首相が「[[村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」]]」の踏襲を表明。 * [[10月3日]] - [[中学校]][[学習指導要領]]の解説書をめぐる[[竹島 (代表的なトピック)|竹島]]の記述について「竹島が[[北方地域|北方領土]]と同様にわが国の固有の領土であることは明確にされている」とする答弁書を閣議決定した。<ref>{{Cite news |url = http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081003/plc0810031126007-n1.htm |title = 竹島も「わが国固有の領土」は明確 政府が答弁書 |newspaper = 産経新聞 |publisher = MSN産経ニュース |date = 2008-10-3 |accessdate = 2009-11-01 |publication-date = |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090212165633/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081003/plc0810031126007-n1.htm |archivedate = 2009年2月12日 }}</ref>。 * [[10月10日]] - [[内閣官房]][[参与]](地方再生担当)に前[[北九州市|北九州市長]][[末吉興一]]の起用を発表。 * 10月10日([[東部夏時間|EDT]]) - 財務大臣中川昭一が[[G7]][[財務大臣・中央銀行総裁会議]]に出席。 * 10月16日 - 平成20年度1次補正予算が成立。 * [[10月26日]] - [[東京都]][[千代田区]]にて麻生首相が就任後初の街頭演説。 ==== 11月 ==== [[File:Cumbre de Washington.jpg|thumb|200px|[[2008年|2008]](平成20)年[[11月15日]]([[東部標準時|EST]])、<br>[[G20|20ヶ国]][[首脳]][[会議]]に出席した麻生首相(後列右から3人目)]] * [[11月4日]] - 麻生内閣が[[国籍法 (日本)|国籍法]]改正案を[[閣議 (日本)#日本国憲法下|閣議決定]]<ref name="sankei20081104">[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/081104/stt0811041103002-n1.htm 日本人父と外国人母の婚外子、国籍取得要件から「婚姻」外す - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/081104/stt0811041103002-n1.htm |date=20090312075529 }} [[産経デジタル]] [[2008年]][[11月4日]]</ref>、[[第170回国会]]にて閣法として提出し可決・成立させた。 * [[11月12日]] - 2兆円の「定額給付金」決定。 * [[11月14日]] - [[ワシントンD.C.]]で緊急首脳会議(金融サミット)開催( - [[11月15日|15日]])。 * [[11月22日]] - [[リマ]]で[[アジア太平洋経済協力会議]](APEC)首脳会議開催( - [[11月23日|23日]])。 * [[11月28日]] - 麻生首相が民主党代表小沢一郎と党首討論。 ==== 12月 ==== * [[12月4日]] - 日本国政府の配信する[[動画]]にて、麻生首相が「[[1941年]][[12月]]に[[第二次世界大戦]]が[[真珠湾攻撃]]で始まる」<ref>『[http://www.kantei.go.jp/jp/asovideo/2008/12/6000/normal_play6000.html 第10回太郎ちゃんねる]』[[内閣官房|内閣官房内閣広報室]]。</ref><ref name=mainichi20090225>西田進一郎「麻生首相:『第二次世界大戦は真珠湾攻撃が始まり』――『訂正しません』答弁書閣議決定」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090225ddm005010098000c.html 麻生首相:「第二次世界大戦は真珠湾攻撃が始まり」 「訂正しません」答弁書閣議決定 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[2月25日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090225ddm005010098000c.html |date=20090228071630 }}</ref> と発言。[[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]][[田中康夫]]が発言の訂正を要求するなど騒動となったが、翌年[[2月24日]]に訂正を拒否する答弁書を[[閣議 (日本)|閣議決定]]<ref name=mainichi20090225/>。 * [[12月5日]] - 日本人と外国人の間に生まれた子どもの国籍取得要件から父母の婚姻を外すことを柱とする[[国籍法]]改正案、残業代を引き上げる改正[[労働基準法]]が成立した。 * [[12月9日]] ** 政府は「新たな雇用対策に関する関係閣僚会議」を開き、追加雇用対策を決定。3年間で2兆円規模の事業費を投入して、140万人の雇用の下支えを目指す。 ** 政府は、雇用情勢の悪化を受け、契約が終わった非正規労働者を社宅から退去させずに無償で貸与する企業に助成金を支給する制度の創設を決定した。また、12日には非正規労働者救済のため、住居費や生活費など最大186万円を低利で融資することを決めた。 * [[12月12日]] ** 衆議院の再議決により[[テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法|新テロ特措法]]の1年延長、[[金融機能強化法]]改正案が成立。 ** 政府の青少年育成推進本部が[[青少年育成大綱]]を決定。 ** 国立がんセンターなど6センターが独立行政法人になることを決定。 ** 麻生首相が急激な景気後退や雇用悪化に対応するため、総額23兆円規模の追加景気対策「生活防衛のための緊急対策」を発表。 * [[12月13日]] - 日中韓首脳会議。3カ国間の未来志向で包括的な協力の探求をうたった共同声明に署名した。 * [[12月16日]] - 総務大臣鳩山邦夫は、各府省庁に対し、民間企業などとの随意契約を競争性の高い一般競争入札に移行するよう改善を勧告した。 * [[12月18日]] ** 政府の[[教育再生懇談会]]は、教科書の質・量の充実などを求める第2次報告を麻生首相に提出した。 ** 日本とオーストラリアの外務、防衛担当閣僚による定期協議(2プラス2)が東京で開催。相互の協力を盛り込んだ共同声明を発表。 * [[12月19日]] ** 保護者が国民健康保険料を滞納し、保険証のない「無保険」となった子供が必要な治療を受けられるよう保険証を交付する改正国民健康保険法が成立 ** 在職中の不祥事などが発覚した国家公務員に、退職金を強制的に返納させることを可能にする改正国家公務員退職手当法が成立 ** 中小企業に障害者雇用を促すための改正障害者雇用促進法が成立。 * [[12月22日]] - 文部科学省が高校の学習指導要領改定案を発表。08年3月の小中学校の改定に続き、「[[ゆとり教育]]」からの転換を目指す内容。 * [[12月24日]] ** 税財政抜本改革への道筋を示した「中期プログラム」が閣議決定される。同日、麻生首相は、社会保障費の安定財源を確保するため、2011年度から消費税率を引き上げる考えを改めて表明した。 ** 衆議院本会議で、民主党が提出した衆院解散要求決議案が否決される。 * [[12月25日]] - 臨時国会が閉会(会期は93日間)。政府が新規に提出した15法案のうち、成立したのは10本。 * [[12月26日]] ** 麻生首相は衆院予算委員会で「[[尖閣諸島]]は日本固有の領土である以上、日米安全保障条約の対象となる」と発言。中国外務省から強い抗議を受ける<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009022600965 時事通信 尖閣めぐる首相発言に抗議=中国]</ref>。 ** 2009年度の介護報酬が決定。介護職員の待遇改善のため、全体で3.0%引き上げられる。 ** 総務大臣鳩山邦夫が、地方圏から大都市圏への人口流出防止を目指す「定住自立圏構想」の推進要綱を発表した。 * [[12月27日]] ** 「非正規」支援へ雇用促進住宅3万戸供給 ** [[竹島問題]]パンフレットを新たに7か国語で作成 * [[12月28日]] - 農業法人への出資制限緩和。企業の参入促す === 2009年(平成21年) === ==== 1月 ==== * [[1月3日]] - 麻生首相は、イスラエル軍による[[パレスチナ]]の[[ガザ]]空爆について、[[パレスチナ自治政府]]大統領の[[マフムード・アッバース]]議長と電話で協議。空爆で被害を受けたガザ地区の救済のため総額1000万ドル規模の人道支援を行う考えを表明した。 * [[1月4日]] ** 麻生首相が念頭の記者会見で明仁の即位20年、御成婚50周年のお祝いを述べた後、[[書初め]]として「安心」「活力」の文字を披露<ref>『[http://www.kantei.go.jp/jp/asophoto/2009/01/04nentou.html 麻生総理の動き-麻生内閣総理大臣年頭記者会見-] {{Wayback|url=http://www.kantei.go.jp/jp/asophoto/2009/01/04nentou.html |date=20090209190332 }}』[[内閣官房]]内閣広報室、[[2009年]][[1月4日]]。</ref>。また、年頭の所感では、米国発の世界的な金融・経済危機に触れ、「国民の景気や生活に対する不安を取り除くため、政府は全力を尽くす。世界で最も早くこの不況から脱出するのは日本だ」と危機脱出に向けた決意を表明した。また、「日本、日本人はその底力にもっと自信を持っていい」とし、持論である「日本の底力」を強調。「望むべき未来を切りひらくために、行動を起こさなければならない」と国民に協力を呼びかけた。 ** 中国のガス田「樫」単独開発に対し、「合意違反」と抗議 * [[1月5日]] ** [[第171回国会]]召集。平成20年度第2次補正予算が提出され、財務大臣中川昭一が「生活対策」、「生活防衛のための緊急対策」などの経済対策について説明する財政演説が行われる。 ** [[派遣村]]のために旧学校施設を宿泊用に開放 *[[1月6日]] - 麻生首相が内閣総理大臣官邸で[[経済財政諮問会議]]を開催。「経済財政の中長期方針と10年展望」について議論。「短期の計画(2011年まで)として、世界経済の混乱から国民生活を守り、景気回復を最優先で図ること」「中期の計画として、『中福祉・中負担』による継続的な社会保障制度と、その安定財源の確保を行う」「長期の計画として、積極的な規制改革によって、新しい産業と雇用を生み出す」という3つの方針が確認される。 *[[1月8日]] ** 麻生首相は衆議院予算委員会で「1次補正予算、2次補正予算、平成21年度予算を切れ目なく実施していくことが、不況からの脱出にとって極めて重要」との認識を述べた。また、予算の内容は、雇用問題および資金繰りを最重要課題にしていることを説明した。 ** 「[[スーダン|スーダン共和国]]における武装解除・動員解除・社会復帰計画」に関する書簡の交換 ** 年金記録漏れ対応処理の迅速化のため、対応職員を280人から500人に増やす * [[1月9日]] - 麻生首相は内閣総理大臣官邸で安全保障と防衛力に関する懇談会を開催。2004年に閣議決定された「防衛計画の大綱」を、周辺諸国の変化などに伴って見直すことが目的<ref>[[防衛省]][http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2009/2009/html/l2232000.html]</ref> * [[1月11日]] ** 麻生首相が韓国を訪問。[[日本経済団体連合会]]の御手洗富士夫会長やトヨタ自動車の[[張富士夫]]会長など18人の財界人が同行する。日本の財界人が首相に同行して韓国を訪問するのは初めてであり、[[李明博]]大統領の要望を受けて、麻生首相が財界に呼びかけて実現した<ref>{{Cite news |url = http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=109835&servcode=A00&sectcode=A10 |title = 11日訪韓の麻生首相、「会長、一緒にソウルに行きましょう」 |newspaper = 中央日報 |publisher = 47NEWS |date = 2009-01-10 |accessdate = 2009-11-05 }}</ref>。 ** [[カンボジア]]に対する無償資金協力「ローレンチェリー頭首工改修計画(詳細設計)」及び「感染症対策強化計画」 * [[1月12日]] - 麻生首相と[[李明博]]韓国大統領は「国際社会で共に貢献する日韓関係」を表明。日韓首脳会談共同記者会見で、[[アフガニスタン]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、世界の金融危機などに対してを具体化して取り組むと発表した。 * [[1月13日]] ** 麻生首相が内閣総理大臣官邸で「新型インフルエンザ対策本部会合」を開催。国内侵入を防ぐための「[[水際対策]]」の最優先の課題としながらも、国内に侵入した場合の対策についても検討を行った。 ** [[内閣府大臣政務官]][[松浪健太]]が、[[衆議院]]での2008年度第2次補正予算案採決を棄権<ref>「自民、松浪健太氏が棄権――2次補正予算案採決」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090113/plc0901131929014-n1.htm 自民、松浪健太氏が棄権 2次補正予算案採決 - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090113/plc0901131929014-n1.htm |date=20090201191052 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[1月13日]]。</ref>。同日、松浪は辞表を提出し、内閣官房長官河村建夫により受理された<ref>「造反の松浪氏、政務官の辞表提出――自民離党は否定」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090113/plc0901132106016-n1.htm 造反の松浪氏、政務官の辞表提出 自民離党は否定 - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090113/plc0901132106016-n1.htm |date=20090131195406 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[1月13日]]。</ref>。しかし、麻生首相は松浪の辞任を認めず、翌日松浪を免官し、後任に[[岡本芳郎]]を任命<ref>「採決棄権の松浪政務官は『罷免』――後任に岡本氏」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090114/stt0901141147005-n1.htm 採決棄権の松浪政務官は「罷免」 後任に岡本氏 - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090114/stt0901141147005-n1.htm |date=20090201201408 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[1月14日]]。</ref>。 * [[1月14日]] - 麻生首相はオルメルト・イスラエル首相に特使を派遣し、パレスチナ自治区ガザでの即時停戦を強く要請した。 * 1月15日 - 主要国の交通担当閣僚らが、交通分野での地球温暖化や大気汚染対策を話し合う初の国際会議「交通分野における地球環境・エネルギーに関する大臣会合」が東京で開催。国土交通大臣[[金子一義]]が参加し、産業分野ごとの二酸化炭素削減可能量を算出する「セクター別アプローチ」への理解も求めた。 * [[1月21日]] - 障害福祉サービスの資産要件撤廃 * [[1月23日]] ** [[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]滑走路、地下に眠る遺骨捜索要望受け島内移設へ ** [[遺棄化学兵器問題|遺棄化学兵器]]処理「[[ハルバ嶺]]」事業凍結。事業費を大幅削減 * [[1月25日]] - 航空機からロケット打ち上げ、実用化研究に着手 * [[1月27日]] ** 平成20年度2次補正予算が成立。 ** 環境省が処分半減を目的に犬猫収容施設拡充 * [[1月29日]] - 食品偽装業者をすべて公表するため、JAS法の運用指針を改正 ==== 2月 ==== [[File:Timothy F Geithner and Shoichi Nakagawa 20090213.jpg|thumb|200px|[[2009年|2009]](平成21)年[[2月13日]]([[中央ヨーロッパ時間|CET]])、<br />[[財務大臣・中央銀行総裁会議|先進7ヶ国財務大臣・中央銀行総裁会議]]に先立ち[[アメリカ合衆国財務長官]][[ティモシー・フランツ・ガイトナー|ガイトナー]](左)と会談する財務大臣中川昭一(右)]] * [[2月1日]] - ゲリラ豪雨対策のため、全国8ヶ所に水害予報センターを設置へ * [[2月4日]] - 領海侵入監視を強化するため、[[尖閣諸島]]周辺に海上保安庁のヘリ搭載巡視船を常置 * [[2月4日]] - 沖縄の不発弾被害に10億円基金を創設 * [[2月14日]] - 世界金融危機支援として[[国際通貨基金|IMF]]に1000億ドルの拠出。 * [[2月17日]] - [[財務大臣 (日本)|財務大臣]][[中川昭一]]が、記者会見にて2009年度(平成21年度)予算案[[衆議院]]通過後の辞任を表明するが、その後再度会見を開き、即日辞任を表明<ref>{{cite news |url = http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081208-188927/news/20090217-OYT1T01213.htm |title = 朝は「続投」夕方に辞任…迷走・中川氏に大ブーイング |publisher = 読売新聞 |date = 2009年2月18日 |accessdate = 2009年11月22日 |newspaper = |publication-date = |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090302095638/http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081208-188927/news/20090217-OYT1T01213.htm |archivedate = 2009年3月2日 }}</ref>。与謝野国務大臣が財務大臣と内閣府特命担当大臣(金融)とを兼務。 * [[2月18日]]([[ウラジオストク時間|VLAT]]) - [[ロシア]][[ロシア連邦大統領|大統領]][[ドミートリー・メドヴェージェフ]]の招きに応じ、麻生首相が所属未確定地である[[南樺太]]を訪問<ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/seiji/aso/news/20090210k0000m010131000c.html |title=毎日新聞 2009年2月10日 |accessdate=2009年2月19日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090221210400/http://mainichi.jp/select/seiji/aso/news/20090210k0000m010131000c.html |archivedate=2009年2月21日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。メドヴェージェフとの会談にて、[[北方地域|北方領土]]四島一括返還論の放棄に言及<ref>[http://mainichi.jp/select/world/news/20090218dde001010019000c.html 毎日新聞 2009年2月18日]{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref>。さらに、麻生首相が帰京後に[[皇居]]で記帳したため、総務大臣鳩山邦夫らから問題視された<ref>「首相のサハリン訪問後の記帳、総務相『微妙な問題』」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090220/plc0902202136016-n1.htm 首相のサハリン訪問後の記帳、総務相「微妙な問題」 - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090220/plc0902202136016-n1.htm |date=20090223194913 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[2月20日]]。</ref>。 * [[2月19日]] - [[ソマリア]]支援グループ「ソマリア国際連絡グループ」に参加 * [[2月23日]] - 日韓新時代共同研究プロジェクトが発足。 * [[2月24日]] - 内閣府特命担当大臣甘利明が、与謝野国務大臣の職の兼務について「いずれ解かないといけない。そのときはミニ改造が行われる。その規模を大胆にするのは1つの選択肢だ」<ref>「甘利行革相『いずれ大幅改造も』」『[http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090224AT3S2400E24022009.html NIKKEI NET(日経ネット):政治ニュース-政策、国会など政治関連から行政ニュースまで]』[[日本経済新聞社]]、[[2009年]][[2月24日]]。 {{Wayback|url=http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090224AT3S2400E24022009.html |date=20090227121640 }}</ref> と述べ、[[内閣改造]]の時期や規模に言及。内閣官房長官河村建夫らから批判的な意見が相次ぎ<ref>「行革相の内閣改造発言に波紋――『命取り』との指摘も」『[http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090224AT3S2402B24022009.html NIKKEI NET(日経ネット):政治ニュース-政策、国会など政治関連から行政ニュースまで]』[[日本経済新聞社]]、[[2009年]][[2月24日]]。 {{Wayback|url=http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090224AT3S2402B24022009.html |date=20090227073146 }}</ref>、3日後に釈明<ref>「内閣改造発言を釈明=甘利行革相」『[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009022700295 時事ドットコム:内閣改造発言を釈明=甘利行革相]』[[時事通信社]]、[[2009年]][[2月27日]]。 {{Wayback|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009022700295 |date=20150426162243 }}</ref>。 * 2月24日(EST) - [[アメリカ合衆国]]にて日米首脳会談。冒頭、麻生首相は[[通訳]]を介さず[[英語]]で会談したが、[[アメリカ合衆国大統領]][[バラク・オバマ]]には通じず、[[ホワイトハウス]]公式会見録には「聴取不可」<ref name=oikawakawakami20090225>及川正也・川上克己「日米首脳会談:共同会見空振り、米メディアも反応冷ややか」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090225k0000e010087000c.html 日米首脳会談:共同会見空振り、米メディアも反応冷ややか - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[2月25日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090225k0000e010087000c.html |date=20090228061225 }}</ref>「聞き取れない」<ref>小川聡「得意のはずが…麻生さんの英語、米側『聞き取れない』」『[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090225-OYT1T00827.htm 得意のはずが…麻生さんの英語、米側「聞き取れない」 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』[[読売新聞]]、[[2009年]][[2月25日]]。 {{Wayback|url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090225-OYT1T00827.htm |date=20090226154916 }}</ref> と記載。[[外務省]]が共同記者会見の開催を打診したが、ホワイトハウスに拒否され開催できず<ref name=oikawakawakami20090225/>。 ==== 3月 ==== * [[3月4日]] ** 平成20年度(2008年度)2次補正予算の関連法が衆議院の再議決により成立。 ** [[尖閣諸島]]が[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]の対象であることを[[アメリカ合衆国連邦政府]]に確認。 * [[3月6日]] - [[ニート]][[ひきこもり]]の支援法案を閣議決定 * [[3月13日]] - [[ソマリア沖海賊の対策部隊派遣|ソマリア沖の海賊対策のため海上警備行動発令]]。翌14日に[[護衛艦]]2隻が[[呉基地]]を出港。 * [[3月16日]] - [[経済危機克服のための「有識者会合」]]開催( - [[3月21日]])。 * [[3月18日]] - 海洋基本計画を閣議決定。EEZ資源の商業化明記 * [[3月27日]] - 平成21年度(2009年度)当初予算が成立。 * [[3月30日]] - [[フィナンシャル・タイムズ]]からのインタビューの席上、麻生首相が、景気対策の重要性について「理解している国とそうでない国がある。[[ドイツ]]がそれに当たる」<ref>藤沢志穂子「麻生首相がドイツを名指しで『批判』」『[http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/090402/fnc0904020938009-n1.htm 麻生首相がドイツを名指しで「批判」 - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/090402/fnc0904020938009-n1.htm |date=20090405004518 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[4月2日]]。</ref> と発言した<ref>"Transcript: FT interview with Taro Aso", ''[http://www.ft.com/cms/s/0/97c9badc-1dfa-11de-830b-00144feabdc0.html FT.com / World - Transcript: FT interview with Taro Aso]'', [[フィナンシャル・タイムズ|Financial Times]], [[3月31日|March 31]], [[2009年|2009]].</ref>。この発言が同紙により報じられたため<ref>Mure Dickie, "Aso lays bare G20 split on downturn", ''[http://www.ft.com/cms/s/0/137b240e-1e23-11de-830b-00144feabdc0.html FT.com / Global Economy - Aso lays bare G20 split on downturn]'', [[フィナンシャル・タイムズ|Financial Times]], [[3月31日|March 31]], [[2009年|2009]].</ref>、名指しで批判されたドイツ側は反発を強め、[[連邦首相 (ドイツ)|連邦首相]][[アンゲラ・メルケル]]が「我々の見解ではドイツは多大な貢献をしている。(現在進めていることがらを)性急に進めようとするのは、本当に無意味なことだ」<ref>小谷守彦「メルケル独首相:麻生首相発言に不快感」『[http://mainichi.jp/select/world/news/20090402dde007030053000c.html メルケル独首相:麻生首相発言に不快感 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[4月2日]]。{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref> と批判した。政府報道官トーマス・ステッグも、ドイツの包括的な景気対策が迅速に実行された点を指摘したうえで、「われわれは列の最後にいるのではない。むしろ一番先頭で先導役を務めている」<ref>[[ロイター]]「経済危機対応で主導的な役割強調、麻生首相の批判に反論=ドイツ政府」『[http://jp.reuters.com/article/marketEyeNews/idJPnJT834806820090401 経済危機対応で主導的な役割強調、麻生首相の批判に反論=ドイツ政府 | マネーニュース | 最新経済ニュース | Reuters]』[[トムソン・ロイター]]、[[2009年]][[4月1日]]。</ref> と反論した。 ==== 4月 ==== * [[4月1日]] ** 麻生首相が[[イギリス]]・[[ロンドン]]で[[ゴードン・ブラウン|ブラウン]][[イギリスの首相|英国首相]]、[[シルヴィオ・ベルルスコーニ|ベルルスコーニ]][[イタリア]]首相と会談。[[北朝鮮によるミサイル発射実験 (2009年)|北朝鮮によるミサイル発射実験]]が行われた場合、[[国際連合安全保障理事会決議|国連安全保障理事会決議]]違反として対応することを三者で確認した。 ** 麻生首相がイギリス・ロンドンで[[大韓民国|韓国]]の[[李明博]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]と会談。[[北朝鮮によるミサイル発射実験]]は、[[国際連合安全保障理事会決議|国連安全保障理事会決議]]違反であることを確認しあう。また、日本の[[ミサイル]]防衛について、李大統領は「日本は国民を守るためにいかなる措置も取ることができるし、韓国としても認めている」と述べ、迎撃を容認する考えを示した。その後、[[インドネシア]]の[[スシロ・バンバン・ユドヨノ|ユドヨノ]]大統領と会談し、北朝鮮によるミサイル発射実験を日本国政府は認めないことを説明。ユドヨノ大統領も「地域の平和と安定を損なうものだ。発射を強行するなら、安保理の議題に乗せ、話し合うべきだ」と理解を示した。 ** 内閣官房長官河村建夫が、[[スーダン]]の[[オマル・アル=バシール|バシール]]大統領の特使と会談。[[国際刑事裁判所]]が[[ダルフール紛争|ダルフール地方での大量虐殺]]で逮捕状を発付したことについて「日本は国際刑事裁判の締約国であり、その決定を尊重する立場にある」と表明。スーダン側から「反政府勢力に誤ったメッセージを与え、和平プロセスに悪影響を与える」と批判を受けた。 ** 麻生首相が[[郵政民営化]]の進捗状況を監視する郵政民営化委員に[[斎藤聖美]]を起用([[冨山和彦]]の退任に伴う後任人事)。 * [[4月2日]] ** 麻生首相が第二回金融サミットに参加。経済回復には「アジアが開かれた成長センターとして成長する必要がある」と強調。アジア各国を対象に緊急財政支援円借款3000億円を含む最大2兆円の[[政府開発援助]](ODA)を供与する方針を正式に表明した。[[開発途上国]]に対し、貿易保険を活用して2年間で220億ドルを支援する考えも明らかにした。閉幕後、国際連合の[[潘基文]]事務総長と会談。潘事務総長は日本のイニシアティブを高く評価すると述べた。 ** 麻生首相はロンドンの記者会見で、オバマ大統領と北朝鮮のミサイル問題をめぐり意見交換をし、北朝鮮によるミサイル発射実験が実施された場合、国連安保理決議違反として、安保理に上程することについて、賛意を受けたことを明らかにした。 ** 北朝鮮経済制裁について、拉致問題などの進展がないことから、政府は1年延長する方針を決定した。 * [[4月3日]] ** 麻生首相はイギリス・ロンドンで中国の[[胡錦濤]]国家主席と会談し、[[中国製毒餃子事件]]や東シナ海ガス田の共同開発問題などについて意見交換を行った。また、北朝鮮によるミサイル発射実験について、国連安保理決議違反であることを訴えたが、胡国家主席は「冷静な対処をすることが重要だ」と懸念を示すだけに留まった。 ** 麻生首相が本部長を務める政府の[[宇宙開発戦略本部]]が、宇宙基本計画5ヵ年計画の骨子案を有識者で構成される専門調査会に提出する。月面調査に2速歩行ロボットの起用を検討するなど、日本の得意分野を活かす一方で、防衛目的を含む施策に踏み込んでいることなどが特徴。 * [[4月5日]] - [[北朝鮮によるミサイル発射実験 (2009年)|北朝鮮がテポドン2号を発射する]]。麻生首相は、情報集約会議、安全保障会議を相次いで開催し、日本国の領域の安全確認等を行うとともに、北朝鮮に対しては厳重な抗議を行い、国連に対しては安全保障理事会緊急会合の召集を要請した。 * [[4月6日]] ** 麻生首相が財務大臣与謝野馨と会談し、追加経済対策の財政支出について、国内総生産([[国内総生産|GDP]])比で2%を超える規模(10兆円)とするよう指示した。経済対策に伴う補正規模としては、1998年度第3次補正の7.6兆円を上回る過去最大規模となる。麻生首相は「日本の経済成長率見込みは先進諸国で一番落ちている。国際協調という点では、ロンドンサミットでも皆で財政出動をしていこうという結論が出ている」と意義を説明した。 ** 麻生首相が[[ベネズエラ]]の[[ウゴ・チャベス|チャベス]]大統領と会談。ベネズエラのオリノコ油田開発などエネルギー分野における協力を一層強化していくことで一致した。 ** 麻生首相が、内閣総理大臣官邸で[[知的財産戦略本部]]の会合を開催し、「日本ブランド戦略」や知的財産についての議論し、国際的な競争力強化を目標とした「第3期知的財産戦略の基本方針」を決定した。 * [[4月7日]] ** 麻生首相は国と地域との役割分担や各分野での政策目標などを提示するための有識者会議を設置することを表明。会議の名称は「安心社会実現会議」。人事は首相主導で行われ、前総務大臣[[増田寛也]]、[[張富士夫]]トヨタ自動車会長、[[宮本太郎]]北大大学院教授(故[[宮本顕治]]元共産党議長の長男)や、[[薬害肝炎|薬害C型肝炎集団訴訟]]の[[山口美智子]]全国原告団代表など15名。 ** 衆議院本会議において、北朝鮮の長距離弾道ミサイル発射に抗議する決議が賛成多数で可決。共産党や社民党は「ミサイルか人工衛星か現時点で判断できない」として反対をし、全会一致での可決は成らなかった。 ** 麻生首相、総務大臣鳩山邦夫、財務大臣与謝野馨らは[[経済財政諮問会議]]で、[[吉川洋]]・東大大学院教授ら有識者たちと経済危機の克服に必要な財政支出の規模を協議した。危機を回避するためには、最大15兆円前後の需要を創出する必要があり、そのために10兆円程度の財政支出が必要との試算を示した。 * [[4月8日]] - 第43回国家公務員合同初任研修の開講式に出席し、「私は公務員バッシングにくみしない。公務員は内閣の従業員だ。優秀さを疑ったことはない」と激励した。 * [[4月9日]] ** 麻生首相が[[日本記者クラブ]]で、2020年までの日本の国家戦略として、「低炭素革命で、世界をリードする国」「安心・元気な健康長寿社会」「日本の魅力発揮」を掲げて、説明を行った。同時にアジア戦略として「アジア経済倍増へ向けた成長構想」についても説明を行った。この中で麻生首相は日本の優れた面として「額に汗して働く。そして、チーム全体として、高い成果をあげていく組織力」と述べ、「この組織力の伝統がある限り、日本の未来は明るい」と強調した。 ** 麻生首相が本部長を務める政府のIT戦略本部は、景気対策と生活の利便性向上を目的とした「デジタル新時代に向けた新たな戦略 3か年緊急プラン」を決定した。電子政府(住民票の申請などを自宅から行うことができる「国民電子私書箱」の開設)や医師不足に対応したネットによる遠隔地診断、教育分野(デジタル教科書などITを活用した最先端の教育モデルの推進)などの施策によって3年間で3兆円規模のIT関連投資を行い、50万人の雇用創出を目標としている。 ** 麻生首相が[[ジョン・マケイン]]米[[上院議員]]と会談。北朝鮮問題を含むアジア太平洋の地域情勢、金融・国際経済などについて意見交換し、日米同盟の強化が重要との認識で一致した。 ** 麻生首相が[[ラグビーワールドカップ]]招致委員会の最高顧問として、視察のため来日した[[ワールドラグビー|国際ラグビー評議会]]のラパセ会長と会談した。ラパセ会長は「政財界のサポートや、アジアでラグビーを普及させる計画に好印象を持った」と評価した。 ** 麻生首相が退任する[[ジェイムズ・アンドリュー・ケリー|ジェームズ・ケリー]]在日米海軍司令官に対して、「原子力空母の配備は日米同盟の力強さを世界に示しており、配備を円滑に進めたケリーの功績に政府として感謝を表明したい」とメッセージを送る。 * [[4月11日]] - 麻生首相は[[ASEAN+3]]出席のため[[タイ王国]]の[[パタヤ]]を訪問したが、タイの[[アピシット・ウェーチャチーワ]]現政権に反対するグループ([[タクシン・チナワット]]元首相派)が[[デモンストレーション]]活動を行い、国際会議場を取り囲んだため、[[ヘリコプター]]で現地を脱出し、[[日本国政府専用機]]で緊急帰国した。 * [[4月24日]] - [[世界保健機関|WHO]]は[[アメリカ合衆国]]と[[メキシコ合衆国]]で豚を起源とする[[2009年新型インフルエンザの世界的流行|新型インフルエンザの世界的流行]]が確認され、人間同士によるインフルエンザ感染事例が報告されたと発表<ref>[https://archive.is/20120711101746/mainichi.jp/select/jiken/news/20090425k0000m040131000c.html 豚インフルエンザ:メキシコで60人死亡]{{リンク切れ|date=2010年3月}} 毎日新聞 2009年4月25日閲覧.</ref>。 * [[4月25日]] - 麻生首相がアジア・エネルギー産消国閣僚会合に出席する。 * [[4月26日]] - 麻生首相が[[インフルエンザウイルスA(H1N1)pdm09|新型インフルエンザ]][[検疫]]体制の強化や[[在外日本人]]への情報提供などの体制を指示、[[厚生労働省]]や[[地方公共団体|自治体]]に電話相談窓口が開設された。翌27日には、厚生労働省が感染の疑いのある帰国者・入国者を留め置く停留施設を[[成田市|成田]]周辺で約500室を確保した<ref>{{cite news |title=4空港周辺に一時隔離施設=成田で500室確保-豚インフルで厚労省 |newspaper=時事通信 |date=2009-04-27 |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=200904/2009042700881&rel=y&g=soc}}{{リンク切れ|date=2013-7-11}}</ref>。 * [[4月28日]] ** [[日本国政府]]は「新型インフルエンザの発生」を宣言し、麻生首相を本部長とする全国務大臣参加の「[[新型インフルエンザ等対策閣僚会議|新型インフルエンザ対策本部]]」設置<ref>[https://web.archive.org/web/20090430083101/http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090428-OYT1T00220.htm 政府、豚インフルで「対策本部」設置…首相を本部長に], ''YOMIURI ONLINE'', 読売新聞社(2009-04-28). 2009-05-09閲覧.</ref>。メキシコを対象に、不要不急の渡航延期を求める史上初の感染症危険情報を出す<ref>[https://web.archive.org/web/20090505084504/http://mainichi.jp/select/science/swineinfluenza/archive/news/2009/04/20090428dde001040027000c.html 豚インフルエンザ:WHO、警戒引き上げ 日本政府、「新型」発生を宣言], ''毎日jp'', 毎日新聞社(2009-04-28). 2009-05-09閲覧.</ref>。 **[[国立メディア芸術総合センター]]計画について、衆議院本会議で[[鳩山由紀夫]]から「国営漫画喫茶、アニメの殿堂。巨額の国費を投じて設置すべきものなのか」と批判される(のちに自民党が下野したため計画は中止された)。 ==== 5月 ==== * [[5月4日]] - [[チェコ]]訪問時、麻生首相が「変わった質問は[[チェコスロバキア]]に限った問題でない」などと発言し、訪問先の国名を誤って呼称。{{要出典|date=2010年1月}} *[[5月7日]] - 厚生労働大臣舛添要一が7日の[[衆議院]][[予算委員会]]で、[[新型インフルエンザ]]対策に関し、「毒性の高い[[鳥インフルエンザ]]を想定したもので、経済活動、学校に問題があれば緩和する」とし<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20090508-OYT8T00263.htm|title=新型インフル、感染2400人超す|work=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|date=2009-05-08|accessdate=2009-05-09}}</ref>、8日の会見で「フェーズ(警戒水準)が6に上がったら緊急対策本部を開き、学校の臨時休業措置など、行動計画の[[弾力的運用]]を検討したい」と表明<ref>{{Cite news |date=2009-05-08|url=http://sankei.jp.msn.com/life/body/090508/bdy0905080950006-n1.htm|title=【新型インフル】フェーズ6にも国内事情で柔軟対応 舛添厚労相|publisher=産経新聞|accessdate=2009-05-09}}</ref>。 * 5月9日 - 厚生労働省は9日午前、[[成田国際空港]]にて日本国内で初めて新型インフルエンザによる感染者が確認されたと発表<ref> {{Cite web|和書|date=2009年5月9日11時52分|url=http://www.asahi.com/international/update/0509/TKY200905090102.html|title=大阪の高校生ら訪問のオンタリオ州、感染者数カナダ最多|publisher=朝日新聞|accessdate=2009-05-09}} </ref>。 * [[5月15日]] - [[安心社会実現会議]]にて、麻生首相が、[[厚生労働省]]分割の検討を表明<ref>『[http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ansin_jitugen/kaisai/dai04/04siryou4.pdf 平成21年5月15日(水)安心社会実現会議(第3回)]』[[2009年]][[5月15日]]、2頁。</ref>。4日後、[[経済財政諮問会議]]にて、麻生首相は「安心社会実現会議の時に、厚生労働省の話が出た。あの時に私が言ったのは、単なる『厚生労働省を分割しましょう』という次元の話ではなくて、国民生活関係省と医療関係に分けるという話をした」<ref>『[http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2009/0519/shimon-s.pdf 平成21年第12回経済財政諮問会議議事要旨]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}』[[2009年]][[5月19日]]、18頁。</ref>と発言したうえで、内閣府特命担当大臣[[与謝野馨]]に二分割の具体案検討を指示<ref>「与謝野大臣の諮問会議レポート」『[http://www.keizai-shimon.go.jp/minutes/2009/0519/report.html 平成21年会議結果 第12回会議 会議レポート:内閣府 経済財政諮問会議]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}』[[内閣府|内閣府政策統括官(経済財政運営担当)経済財政ウェブサイト室]]、[[2009年]][[5月19日]]。</ref><ref>上田宏明「麻生首相:厚労省分割の具体案の検討指示――与謝野財務相に」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090520k0000m010112000c.html 麻生首相:厚労省分割の具体案の検討指示 与謝野財務相に - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[5月19日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090520k0000m010112000c.html |date=20090521090401 }}</ref><ref>鈴木直「厚労省分割:『解体』で不信解消…首相、政権公約に」『[http://mainichi.jp/select/today/archive/news/2009/05/20/20090521k0000m010122000c.html 厚労省分割:「解体」で不信解消…首相、政権公約に - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[5月20日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/today/archive/news/2009/05/20/20090521k0000m010122000c.html |date=20090611180328 }}</ref>。しかし、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]から異論が相次ぎ<ref>坂口裕彦・影山哲也「厚労省分割:当面断念――関係の6閣僚で合意できず」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090529k0000m010144000c.html 厚労省分割:当面断念 関係の6閣僚で合意できず - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[5月28日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090529k0000m010144000c.html |date=20090531181512 }}</ref>、閣僚らの調整も不調に終わると<ref>「厚労省分割、結論出ず=関係閣僚協議」『[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009052800455 時事ドットコム:厚労省分割、結論出ず=関係閣僚協議]』[[時事通信社]]、[[5月28日]]。 {{Wayback|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009052800455 |date=20150402132721 }}</ref>、[[5月28日]]に麻生首相は一転して「(厚労省分割の検討を)やろうと言った覚えはない」<ref>「迷走再現? 首相、厚労省分割『最初からこだわってない』」『[http://www.asahi.com/politics/update/0528/TKY200905280344.html asahi.com(朝日新聞社):迷走再現?首相、厚労省分割「最初からこだわってない」 - 政治]』[[朝日新聞社]]、[[5月28日]]。</ref> と発言した。さらに、麻生首相は「[[渡邉恒雄|渡辺]]さんが最初に言われたセリフだった」<ref>「厚労省分割取り下げ――首相『最初からこだわらず』」『[[日本経済新聞]]』44307号、14版、[[日本経済新聞社]]、[[2009年]][[5月19日]]、2頁。</ref> と主張し、麻生ではなく[[読売新聞グループ本社]][[会長]][[渡邉恒雄]]の提案だったと釈明した。これを受け、安心社会実現会議委員の[[山口美智子]]が「一委員の提案した厚労省分割・再編が[[報道]]された。[[第44回衆議院議員総選挙|衆院選]]の[[パフォーマンス]]を思わせる。党利党略だ」<ref name=nikkei20090529>「厚労省分割めぐり――安心会議が紛糾『党利党略』『無礼だ』」『[[日本経済新聞]]』44307号、14版、[[日本経済新聞社]]、[[2009年]][[5月19日]]、2頁。</ref> と批判。これら一連の発言に対し、渡邉が「取り消せ。無礼だ」<ref name=nikkei20090529/> と激昂する事態となった。 * [[5月16日]] ** 厚生労働省は、[[兵庫県]][[神戸市]]内の県立高校に通う、海外渡航歴の無い高校3年生の男子生徒(17歳)について、新型インフルエンザへの感染が確認されたと発表した。日本での感染は初めて<ref>{{Cite web|和書|date=2009年5月16日11時58分|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090516-OYT1T00394.htm|title=新型インフル、神戸で国内初の感染確認…渡航歴ない高3|publisher=読売新聞|accessdate=2009-09-20}}</ref>。その後、夜までに累計で高校生8人の感染が確認された<ref>{{Cite web|和書|date=2009年5月17日1時57分|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090516-OYT1T00687.htm|title=神戸の感染確認、県立高2校の生徒8人に|publisher=読売新聞|accessdate=2009-09-20}}</ref>。 ** 日本国政府は、この事態を受けて、内閣総理大臣官邸で[[新型インフルエンザ等対策閣僚会議|新型インフルエンザ対策本部]]の幹事会を開き、新型インフルエンザ対策行動計画の対策レベルを第1段階(海外発生期)から第2段階(国内発生早期)に引き上げることを確認した<ref>{{Cite web|和書|date=2009年5月16日15時58分|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090516-OYT1T00561.htm|title=新型インフル対策「国内発生早期」に引き上げ確認|publisher=読売新聞|accessdate=2009-09-20}}</ref>。 * [[5月22日]] ** 日本国政府は麻生首相と全国務大臣による「[[新型インフルエンザ等対策閣僚会議|新型インフルエンザ対策本部]]」の会合を開いた。この中で、新型インフルエンザが弱毒性であることを踏まえた新たな「[[基本的対処方針分科会|基本的対処方針]]」を決定し、今後の対策を感染拡大の防止と[[糖尿病]]などの持病があり重篤化する恐れのある人の感染防止・治療に集中するとした<ref>{{Cite web|和書|date=2009年5月22日3時14分|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090522-OYT1T00005.htm|title=患者数で地域分けて対応、自宅療養も認める…政府新方針|publisher=読売新聞|accessdate=2009-09-26}}</ref>。 ** また、厚生労働省別途「運用方針」を定め、「患者が少数で感染拡大防止に努めるべき地域」と「急速な患者数の増加が見られ重症化の防止に重点を置くべき地域」の二つに分類した。[[大阪府]]や[[兵庫県]]のような「急速な患者数の増加が見られ重症化の防止に重点を置くべき地域」に分類された地域では、一般の医療機関での診療や自宅療養を認めるなどした<ref>{{Cite web|和書|date=2009年5月22日3時14分|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090522-OYT1T00005.htm|title=患者数で地域分けて対応、自宅療養も認める…政府新方針|publisher=読売新聞|accessdate=2009-09-26}}</ref>。 ** このほか、水際対策も大幅に縮小され、メキシコ、米本土、カナダからの旅客便の一律の機内検疫は終了した。また、患者の周辺にいた旅客の停留措置も行わないこととした<ref>{{Cite web|和書|date=2009年5月22日3時14分|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090522-OYT1T00005.htm|title=患者数で地域分けて対応、自宅療養も認める…政府新方針|publisher=読売新聞|accessdate=2009-09-26}}</ref>。 ==== 6月 ==== * [[6月11日]] - [[領海等における外国船舶の航行に関する法律]]が公布される。 * [[6月12日]] - 総務大臣鳩山邦夫が[[日本郵政]]社長の[[西川善文]]の続投決定に抗議しての辞職。同日[[厚生労働大臣政務官]][[戸井田徹]]が総務大臣の更迭に抗議して辞職した。 * [[6月13日]] - 国連安保理は、北朝鮮に対して制裁を課す[[国際連合安全保障理事会決議1874|決議1874]]を全会一致で採択。 ==== 7月 ==== * [[7月2日]] - 前内閣で入閣していた[[林芳正]]と[[林幹雄]]の2名が再入閣し、与謝野国務大臣の内閣府特命担当大臣(経済財政政策)の職と佐藤国務大臣の国家公安委員会委員長と内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)の職をぞれぞれ引き継いだ。 [[ファイル:Turugi river 2009.07.JPG|thumb|200px|[[平成21年7月中国・九州北部豪雨|中国・九州北部豪雨]]により氾濫した剣川]] * [[7月13日]] - 麻生首相が政府・与党連絡会議に出席し、東京都議会議員選挙での自由民主党敗北について「自民党内のごたごたが悪影響を与えた」<ref>「都議選敗北で陳謝=麻生首相」『[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200907/2009071300448 時事ドットコム:都議選敗北で陳謝=麻生首相]』[[時事通信社]]、[[2009年]][[7月13日]]。</ref> と分析した。 * [[7月14日]] - 自由民主党選挙対策委員長[[古賀誠]]が辞意表明。古賀だけの責任ではなく執行部全体の責任だとして自由民主党参議院議員会長[[尾辻秀久]]も辞意表明。[[自由民主党幹事長]][[細田博之]]が慰留。 * [[7月17日]] - 「住民基本台帳法の一部を改正する法律」が成立。2012年に[[外国人登録法]]は廃止され、[[在日外国人]]は日本人と同様に[[住民基本台帳]]で管理されるようになる<ref>[http://www.immi-moj.go.jp/newimmiact/newimmiact.html 入管法が変わります!-新たな在留管理制度]</ref>。 * [[7月24日]] - [[厚生労働省]]は[[インフルエンザウイルスA(H1N1)pdm09|新型インフルエンザ]]の全数検査を全国で中止するよう通達を出し、[[発熱外来]]も多くの[[保健所]]で廃止し、全ての医療機関で受診、治療を受けられるようにした<ref>{{Cite web|和書|date=2009年7月24日13時43分|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090724-OYT1T00578.htm|title=新型インフル再び拡大の恐れ、感染5000人突破|publisher=読売新聞|accessdate=2009-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090727145258/http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090724-OYT1T00578.htm|archivedate=2009年7月27日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。これにより、通常の[[季節性インフルエンザ]]とほぼ同等の扱いとなるが<ref>{{Cite web|和書|date=2009年6月19日14時47分|url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090619-OYT1T00346.htm|title=新型インフル、全医療機関で診療…厚労省が運用指針改定|publisher=読売新聞|accessdate=2009-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090623092737/http://www.yomiuri.co.jp/feature/20090425-436828/news/20090619-OYT1T00346.htm|archivedate=2009年6月23日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>、都市部以外では依然として独自に自治体内の新型感染者数の全数調査を行うなど、依然特別扱いしている地方も多く、全国で対応が統一されるには至らなかった。 ==== 8月 ==== [[ファイル:ShizuokaokiJishin-Ishigaki.jpg|thumb|200px|[[駿河湾地震 (2009年)|駿河湾地震]]により崩壊した[[駿府城|駿府城址]]の[[外堀]]]] * [[8月9日]] - [[平成21年台風第9号|台風第9号]]により多数の被害が発生。 * [[8月11日]] - 最大震度6弱の[[駿河湾地震 (2009年)|駿河湾地震]]が発生。[[東名高速道路]]の崩壊、[[中部電力]][[浜岡原子力発電所]]での[[放射性物質]][[ヨウ素]]131の外部漏出<ref>「浜岡原発、排出ガスから微量の放射性物質」『[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090820-OYT1T00622.htm 浜岡原発、排出ガスから微量の放射性物質 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』[[読売新聞]]、[[2009年]][[8月20日]]。 {{Wayback|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090820-OYT1T00622.htm |date=20090821142048 }}</ref><ref>舟津進「静岡・浜岡原発:5号機、排ガスに微量放射性物質」『[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090821ddm012040139000c.html 静岡・浜岡原発:5号機、排ガスに微量放射性物質 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[8月21日]]。{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref>、広範囲の断水など、大きな被害が発生。現地での救援・復旧作業が続くなか、内閣府特命担当大臣林幹雄は「被害状況を把握し、地元自治体と連携して政府一丸となって対策にあたりたい」<ref name="yomiuri20090811">「静岡沖地震、『政府一丸で対策』と林防災相」『[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090811-OYT1T00607.htm 静岡沖地震、「政府一丸で対策」と林防災相 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}』[[読売新聞]]、[[2009年]][[8月11日]]。</ref> とのコメントを発表したものの、現地入りせず午後には台風第9号に被災した[[兵庫県]]と[[岡山県]]を訪問<ref name="yomiuri20090811"/>。内閣官房長官河村建夫は、被災地には政府視察団を派遣しないと表明<ref>「静岡県沖地震――官邸に対策室」『[http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2009081102000249.html 東京新聞:静岡県沖地震 官邸に対策室:政治(TOKYO Web)]』[[中日新聞社]]、[[2009年]][[8月11日]]。{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref>。麻生も[[内閣総理大臣官邸#危機管理センター|内閣総理大臣官邸危機管理センター]]での陣頭指揮は執らず、午後には[[鈴木貫太郎記念館]]の見学などのため[[千葉県]]を訪問<ref>「【麻生日誌】11日」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090812/plc0908120317003-n1.htm 【麻生日誌】11日 - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090812/plc0908120317003-n1.htm |date=20090814183321 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[8月12日]]。</ref>。 * [[8月15日]] - 麻生首相が[[全国戦没者追悼式]]に出席。内閣府特命担当大臣野田聖子が[[靖国神社]]参拝。 * 8月18日 - 衆議院議員総選挙出陣式にて財務大臣与謝野馨が立ち眩みを起こし、心配した支持者らから与謝野の容態について問い合わせが殺到<ref>http://www.asahi.com/politics/update/0818/TKY200908180219.html</ref><ref>http://www.asahi.com/politics/update/0820/TKY200908200219.html</ref>。 * [[8月27日]] - 総務大臣佐藤勉の「現在の社外取締役ではなく、新たに外部から登用」<ref name="hashida20090828">橋田正城「日本郵政会長に西岡氏――社外取締役から『内部昇格』」『[http://www.asahi.com/business/update/0828/TKY200908270419.html asahi.com(朝日新聞社):日本郵政会長に西岡氏 社外取締役から「内部昇格」 - ビジネス・経済]』[[朝日新聞社]]、[[2009年]][[8月28日]]。</ref> すべしとの指示を無視し、[[日本郵政]]が[[取締役]][[西岡喬]]の会長昇任を発表<ref name="yomiuri20090827">「日本郵政会長、西岡・三菱重工相談役が就任」『[http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20090827-OYT1T00603.htm 日本郵政会長、西岡・三菱重工相談役が就任 : 経済ニュース : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)]』[[読売新聞]]、[[2009年]][[8月27日]]。{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref>。日本郵政は佐藤にも報告済だと説明し<ref name="hashida20090828"/><ref name="yomiuri20090827"/>、内閣官房長官[[河村建夫]]は西岡の会長昇任を追認すると表明<ref>影山哲也「郵政会長人事:『取締役会の意思尊重』河村長官」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090828k0000e010067000c.html 郵政会長人事:「取締役会の意思尊重」河村長官 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[8月28日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090828k0000e010067000c.html |date=20090908181753 }}</ref>。 * [[8月30日]] - [[第45回衆議院議員総選挙]]施行。[[大臣政務官]]ら麻生内閣の主要メンバーが多数落選。[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]](代表:[[鳩山由紀夫]])への政権交代確定と自由民主党の敗北により退陣を表明<ref>[http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090831NT002Y22630082009.html 麻生首相、総裁も辞任へ] {{Wayback|url=http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090831NT002Y22630082009.html |date=20090902151643 }} 日本経済新聞 2009年8月30日閲覧</ref>。麻生首相は敗因について「自由民主党に対する積年の不満やら不信やらが積み重なった」<ref>「衆院選――自民・麻生総裁、『自民党に対する積年の不満や不信が積み重なったもの』」『[http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00161960.html FNNニュース: 衆院選 自民・麻生総...]』<!--titleタグの原文ママ-->[[フジニュースネットワーク]]、[[2009年]][[8月30日]]。{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref> と分析。 * [[8月31日]] - 麻生首相が[[自由民主党総裁]]の辞任を正式表明<ref>「【09衆院選】麻生首相が党総裁辞任を正式表明」『[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090831/stt0908311407006-n1.htm 【09衆院選】麻生首相が党総裁辞任を正式表明 - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090831/stt0908311407006-n1.htm |date=20090903124454 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[8月31日]]。</ref>。 ==== 9月 ==== [[ファイル:Sanno Park Tower 2007-02.jpg|thumb|200px|[[消費者庁]]が設置された[[山王パークタワー]]]] * [[9月1日]] - [[消費者庁]]が設置される。 * [[9月3日]] - 麻生首相が、[[日本経済団体連合会]]など支援諸団体を回り、衆議院議員総選挙敗北を謝罪<ref>{{Cite web|和書|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090903/stt0909031817018-n1.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2009年9月3日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090907223012/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090903/stt0909031817018-n1.htm |archivedate=2009年9月7日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。 * [[9月16日]] - 麻生首相が、臨時[[閣議 (日本)|閣議]]に於いて[[内閣総辞職]]を決定。[[鳩山由紀夫内閣]]成立。 ==批判== ===2008年(平成20年)=== * [[9月25日]] - 国家公安委員会委員長佐藤勉が「私も今、[[選挙運動]]ということで[[農家]]などを訪れると、この件([[事故米]]不正転売)については本当に真剣に考えてくれという話がある」<ref>MSN産経ニュース『[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080925/stt0809250813003-n1.htm 【麻生内閣誕生】国家公安委員長の佐藤氏、献金疑惑を釈明 「事前運動」発言も] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080925/stt0809250813003-n1.htm |date=20080927075610 }}』2008年9月25日</ref> と発言し、[[公職選挙法]]に違反する事前運動と指摘され、同日[[警察庁]]を通じ発言を訂正。 * 9月25日 - 国土交通大臣中山成彬が[[三里塚闘争]]の空港反対派を「ゴネ得」<ref name=msn20080926>MSN産経ニュース『[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080926/stt0809261253015-n1.htm 「成田反対ゴネ得」「日本は単一民族」 中山国交相「誤解招く」と撤回] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080926/stt0809261253015-n1.htm |date=20081003012129 }}』2008年9月26日</ref> と指摘したり「日本は随分内向きな、[[単一民族]]」<ref name=msn20080926/> と発言するなどし、同日撤回。 * 9月25日 - 内閣官房長官河村建夫が代表を務める自由民主党山口県第三選挙区支部にて、談合容疑で検挙された企業から摘発後も献金を受領していたことが発覚し、河村が謝罪<ref>MSN産経ニュース『[http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080925/crm0809251148013-n1.htm 河村官房長官に談合摘発企業から寄付 事実認め謝罪] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080925/crm0809251148013-n1.htm |date=20080928210319 }}』2008年9月25日</ref>。 * [[9月26日]] - 財務大臣中川昭一の[[資金管理団体]]にて、[[建設業法]]違反で[[指名停止]]処分を受けた企業の経営者から献金を受領していたことが発覚し<ref>MSN産経ニュース『[http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080926/crm0809260132001-n1.htm 建設業法違反の違反建設業者から献金 中川財務相の団体に] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080926/crm0809260132001-n1.htm |date=20080927080640 }}』2008年9月26日。</ref>、同日の会見で返還を表明<ref>トムソン・ロイター『[http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-33949420080926 違反建設業者からの献金は事実、返還したい=財務・金融相]』2008年9月26日。</ref>。 * 9月27日 - 国土交通大臣中山成彬が「日本の教育の[[がん]]は日教組([[日本教職員組合]])だ」<!--原文ママ--><ref>毎日新聞『[http://mainichi.jp/select/today/news/20080928k0000m010068000c.html 中山国交相:「がんは日教組、解体しなければ」宮崎で発言]』2008年9月27日 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/today/news/20080928k0000m010068000c.html |date=20080928130527 }}</ref>「日教組は解体しなきゃいかんと思っている」<ref>MSN産経ニュース『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080927/plc0809271546001-n1.htm 「日教組は解体すべき」中山国交相、自らの進退「推移見守りたい」] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080927/plc0809271546001-n1.htm |date=20080929225519 }}』2008年9月27日</ref> と発言。同日、中山が代表を務める自由民主党宮崎県第一選挙区支部にて、談合で公正取引委員会から排除勧告を受けた企業から献金を受領していたことが発覚<ref>時事通信『[http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008092700214 談合2社から献金72万円=中山国交相の自民支部-宮崎]』2008年9月27日 {{Wayback|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008092700214 |date=20150402121917 }}</ref>。 * [[9月28日]] - 国土交通大臣中山成彬が三里塚闘争に関する発言の責任を取って辞任、内閣官房長官河村建夫が臨時代理に就任し<ref>毎日新聞『[http://mainichi.jp/select/today/news/20080928k0000e010011000c.html 中山国交相:問題発言で引責、辞任 官房長官が臨時代理]』2008年9月28日 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/today/news/20080928k0000e010011000c.html |date=20080928130448 }}</ref><ref>日本経済新聞『[http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20080929AT3S2801028092008.html 首相、国交相辞任「任命責任あった。心からおわび」]』2008年9月28日{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref>、翌日、衆議院議員金子一義を後任に任命<ref>日本経済新聞『[http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080929AT3S2900929092008.html 金子国交相が正式就任]』2008年9月29日{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref><ref>毎日新聞『[http://mainichi.jp/life/money/news/20080930k0000m020071000c.html 金子国交相:中山氏、閣僚として不適切な発言…就任会見]』2008年9月29日 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/life/money/news/20080930k0000m020071000c.html |date=20081002041702 }}</ref>。 * 9月29日 - 財務副大臣竹下亘が代表を務める自由民主党島根県第二選挙区支部にて、中国地方整備局より指名停止処分中の企業から献金を受領していたことが発覚し、同支部が返金を表明<ref>MSN産経ニュース『[http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080929/crm0809292226034-n1.htm 指名停止企業から献金 竹下副大臣の自民支部]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}』2008年9月29日</ref><ref>asahi.com『[http://www.asahi.com/politics/update/0930/OSK200809300013.html 指名停止企業から献金20万円 竹下亘副大臣の政党支部]』2008年9月30日 {{Wayback|url=http://www.asahi.com/politics/update/0930/OSK200809300013.html |date=20081003044311 }}</ref>。 * [[9月30日]] - 麻生首相が代表を務める自由民主党福岡県第八選挙区支部にて、[[独占禁止法]]違反で排除勧告を受けた企業や国立病院汚職事件で逮捕者を出した企業から献金を受領していたことが発覚<ref>http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=20080930005332008/09/30 {{Wayback|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2008093000533 |date=20150402153853 }}</ref>。 * [[10月1日]] - 内閣官房長官河村建夫が、元公設秘書の自宅マンションを政治団体3団体の事務所として届け、家賃を無償としていたが事務所費として2200万円を計上したことが発覚<ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20081002k0000m040093000c.html |title=事務所費:河村官房長官の政治団体、元秘書の自宅で計上 |accessdate=2008年10月1日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081002025410/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20081002k0000m040093000c.html |archivedate=2008年10月2日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。 * 10月2日 - 外務大臣中曾根弘文が代表を務める自由民主党群馬県参議院選挙区第一支部にて、独占禁止法違反で排除勧告を受けた企業から献金を受領していたことが発覚<ref>四国新聞『[https://www.shikoku-np.co.jp/national/main/article.aspx?id=20081002000496 外相の自民支部に125万/排除勧告の企業から献金]』2008年10月3日。</ref> し、翌日の記者会見で返還を表明<ref name=nikkei20081004>「処分企業から献金発覚――閣僚、相次ぎ返還表明」『日本経済新聞』日本経済新聞社、2008年10月4日、2面。</ref>。 * 10月2日 - 国土交通大臣金子一義が代表を務める自由民主党岐阜県第四選挙区支部にて、独占禁止法違反で排除勧告を受けた企業から献金を受領していたことが発覚<ref name=kyodo20081002>共同通信『[https://web.archive.org/web/20081005064702/http://www.47news.jp/CN/200810/CN2008100201000346.html 談合関与企業から献金 金子、野田2閣僚の党支部]』2008年10月2日。</ref> し、翌日の記者会見で返還を表明<ref name=nikkei20081004/>。 * 10月2日 -内閣府特命担当大臣野田聖子が代表を務める自由民主党岐阜県第一選挙区支部にて、独占禁止法違反で排除勧告を受けた企業から献金を受領していたことが発覚<ref name=kyodo20081002/> し、翌日の記者会見で返還を表明<ref name=nikkei20081004/>。 * [[10月3日]] - 内閣官房長官河村建夫の政治団体が、事務所を無償貸与されながら[[政治資金収支報告書]]に記載していなかったと発表<ref>「無償貸与の政治団体事務所――官房長官、寄付報告せず」『日本経済新聞』日本経済新聞社、2008年10月4日、2面。</ref>。 * 10月3日 - 総務大臣鳩山邦夫が講演で「[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は[[地下水]]を掘って[[農業]]をやる。[[井戸]]を深く掘れば最後に[[ヒ素]]が出てくる。[[和歌山市|和歌山]]で[[和歌山毒物カレー事件|ヒ素カレー事件]]があったが、和歌山に行かなくたってヒ素入りの[[穀物]]ができる」<ref>石川貴教『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20081010ddm041010055000c.html 鳩山総務相:毒物カレー発言、和歌山市長に謝罪]』[[毎日新聞社]]、[[2008年]][[10月10日]]。{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref> と発言し<ref>asahi.com『[http://www.asahi.com/politics/update/1009/OSK200810090051.html 鳩山総務相の「ヒ素」発言 和歌山市長が抗議文]』2008年10月9日。 {{Wayback|url=http://www.asahi.com/politics/update/1009/OSK200810090051.html |date=20081011074735 }}</ref>、[[10月9日]]に[[和歌山市|和歌山]][[市町村長|市長]][[大橋建一]]に謝罪<ref>asahi.com『[http://www.asahi.com/politics/update/1009/TKY200810090261.html ヒ素発言「不愉快な思い抱かせた」 鳩山氏が謝罪の書簡]』2008年10月9日。 {{Wayback|url=http://www.asahi.com/politics/update/1009/TKY200810090261.html |date=20081012102957 }}</ref>。 * [[10月4日]] - 経済産業大臣二階俊博が代表を務める自由民主党和歌山県第三選挙区支部にて、営業停止処分や指名停止処分を受けた企業から献金を受領していたことが発覚<ref>読売新聞『[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081005-OYT1T00240.htm 二階経産相の支部も、談合企業などから253万寄付受ける]』2008年10月5日。 {{Wayback|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081005-OYT1T00240.htm |date=20081005211733 }}</ref>。 * [[10月8日]] - [[携帯電話]]の持込を禁止した参議院規則に違反し、財務大臣中川昭一が参議院本会議中に携帯電話で[[テレビ]]鑑賞していたことが発覚し、[[参議院議長]][[江田五月]]に謝罪<ref name=mainichi20081008>毎日新聞『[http://mainichi.jp/select/today/news/20081009k0000m010040000c.html 中川財務相:参院本会議でワンセグ観賞 江田議長に陳謝]』2008年10月8日。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/today/news/20081009k0000m010040000c.html |date=20081011175104 }}</ref><ref name=sankei20081008>MSN産経ニュース『[http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/081008/stt0810082327009-n1.htm 中川財務相、与謝野経済財政担当相が議場ワンセグ視聴問題で陳謝] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/081008/stt0810082327009-n1.htm |date=20081012155305 }}』2008年10月8日。</ref>。また、携帯電話の持ち主であり本会議中に中川に貸した内閣府特命担当大臣与謝野馨も江田に謝罪<ref name=mainichi20081008/><ref name=sankei20081008/>。 ===2009年(平成21年)=== * [[1月26日]] - 文部科学大臣[[塩谷立]]、国土交通大臣[[金子一義]]、防衛大臣[[浜田靖一]]、内閣官房長官[[河村建夫]]、内閣府特命担当大臣[[甘利明]]ら5人の[[資金管理団体]]が職員を雇用しながら[[労働保険]]に未加入だったことが発覚し<ref>稲垣衆史・秋山信一・中村かさね「労働保険:5閣僚事務所が未加入――強制知らず秘書分など」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090126k0000m040111000c.html 労働保険:5閣僚事務所が未加入 強制知らず秘書分など - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[1月26日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090126k0000m040111000c.html |date=20090129180550 }}</ref>、内閣総理大臣官邸にて河村が謝罪会見<ref>坂口裕彦「不適切と認め『厳正に対応』…官房長官」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090126k0000e040056000c.html 労働保険未加入:自民本部の指示を放置 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[1月26日]]。 {{Webarchive|url=https://archive.fo/20090215104306/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090126k0000e040056000c.html |date=2009年2月15日 }}</ref>。 * [[1月31日]] - 2009年度予算案提出直後にもかかわらず内閣総理大臣補佐官[[山口俊一]]が2009年度補正予算編成を示唆したため、3日後に衆議院[[予算委員会]]理事会にて謝罪、衆議院[[予算委員会|予算委員長]][[衛藤征士郎]]から注意処分<ref>野口武則『[http://mainichi.jp/select/today/news/20090203k0000e010011000c.html 山口首相補佐官:「09年度補正」発言で陳謝 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[2月3日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/today/news/20090203k0000e010011000c.html |date=20090206173239 }}</ref>。 * [[2月14日]]([[中央ヨーロッパ時間|CET]]) - [[財務大臣・中央銀行総裁会議|先進7ヶ国財務大臣・中央銀行総裁会議]]後の記者会見にて、[[財務大臣 (日本)|財務大臣]][[中川昭一]]が呂律が回らず不明瞭な受け答えを繰り返した<ref>藤原章生「中川財務相:変調?――G7会見でろれつ回らず」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090216k0000m010062000c.html 中川財務相:変調? G7会見でろれつ回らず - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[2月15日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090216k0000m010062000c.html |date=20090217050452 }}</ref>。帰国後、「[[風邪薬]]を(ローマに向かう)[[飛行機]]の中で飲んだ。それが多めになってしまったことが原因。[[酒]]も飛行機で飲み、その相乗効果で誤解を招いたのは事実で申し訳ない」<ref>清水憲司・坂口裕彦「中川財務相:陳謝、『機内で風邪薬、酒も…相乗効果で』」『[http://mainichi.jp/select/today/news/20090216k0000e010067000c.html 中川財務相:陳謝、「機内で風邪薬、酒も…相乗効果で」 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[2月16日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/today/news/20090216k0000e010067000c.html |date=20090217171054 }}</ref> と陳謝したうえで進退を内閣総理大臣に委ねると表明<ref>Chisa Fujioka, Yuzo Saeki and Tetsushi Kajimoto, "REFILE-UPDATE 2-Japan finmin denies drunk at G7,faces call to go", ''[http://www.reuters.com/article/usDollarRpt/idUST22909120090216 REFILE-UPDATE 2-Japan finmin denies drunk at G7,faces call to go | Currencies | Reuters]'', edited by John Chalmers, [[トムソン・ロイター|Thomson Reuters]], [[2月16日|February 16]]、 [[2009年|2009]].</ref>。 * [[2月20日]] - [[内閣総理大臣秘書官]][[村松一郎]]が、麻生太郎の[[秘書]]を務めていた際に[[医学部]]進学希望者に対し[[文部省]][[審議官]]経験者を紹介していたことが発覚<ref>『[http://mainichi.jp/select/today/news/20090220k0000m040147000c.html 医学部進学口利き:「紹介、何が悪い」麻生氏秘書 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[2月20日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/today/news/20090220k0000m040147000c.html |date=20090221035850 }}</ref>。同日、[[文部科学大臣]][[塩谷立]]は「そういった口利きはあってはならないことで、もしあれば大変遺憾」<ref>『[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090220dde041040045000c.html 医学部進学口利き:麻生氏秘書、文科相が調査の意向 官房長官「細心の注意を」 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[2月20日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090220dde041040045000c.html |date=20090223114352 }}</ref> として調査の開始を表明。麻生首相は「報道されている内容はその通り」<ref>野口武則『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090221k0000m040046000c.html 麻生氏秘書口利き:首相「報道その通り」 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[2月20日]]。{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref> と認め、村松に対し厳重注意。 * [[3月5日]] - [[西松建設]]違法献金事件について、[[政府高官]]が「[[自由民主党 (日本)|自民党]]に及ぶことは絶対にない。金額が違う」<ref>「西松献金事件『自民党に及ばぬは本意でない』――政府高官が釈明」『[http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090307AT3S0603C06032009.html NIKKEI NET(日経ネット):政治ニュース-政策、国会など政治関連から行政ニュースまで]』[[日本経済新聞社]]、[[2009年]][[3月8日]]。 {{Wayback|url=http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090307AT3S0603C06032009.html |date=20090310055938 }}</ref>と発言。3日後、内閣官房長官河村建夫がテレビ出演し、オフレコ発言した政府高官が[[内閣官房副長官]][[漆間巌]]だったと公表{{リンク切れ|date=2009年11月}}<ref>「『自民には及ばない』政府高官発言は漆間氏――官房長官明かす」『[http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090308NT000Y07308032009.html NIKKEI NET(日経ネット):政治ニュース-政策、国会など政治関連から行政ニュースまで]』[[日本経済新聞社]]、[[2009年]][[3月8日]]。 {{Wayback|url=http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090308NT000Y07308032009.html |date=20090311030110 }}</ref>。「極めて不適切で、誤解を招く発言だった」<ref>「違法献金:『自民党に波及せず』発言は漆間官房副長官」『[http://mainichi.jp/select/today/news/20090308k0000e010007000c.html 違法献金:「自民党に波及せず」発言は漆間官房副長官 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[3月8日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/today/news/20090308k0000e010007000c.html |date=20090311040835 }}</ref> として、漆間を厳重注意処分。 * [[5月13日]] - 週刊誌により[[内閣官房副長官]][[鴻池祥肇]]の女性問題が報じられ、公務用の[[国会議員]]専用無料パスを使用し女性と旅行したことが発覚し、議員歳費法に抵触すると指摘。鴻池は辞任し[[浅野勝人]]が後任に就任。同日、内閣官房長官河村建夫は「首相は任命した人に[[不祥事]]があれば自分に[[責任]]があるとかねて言っている。任命[[責任]]は避けられない」<ref>『[http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090513/plc0905131005005-n1.htm 鴻池官房副長官が辞任、女性問題報道で 後任は浅野氏 (1/2ページ) - MSN産経ニュース] {{Wayback|url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090513/plc0905131005005-n1.htm |date=20090516032413 }}』[[産経デジタル]]、[[2009年]][[5月13日]]。</ref> と述べて謝罪したが、麻生首相は「(辞任は)健康上の理由だ。健康まで任命責任なのか分かりかねる」<ref>『[http://www.47news.jp/CN/200905/CN2009051301000813.html 首相、鴻池氏の任命責任を否定 野党は強く批判 - 47NEWS(よんななニュース)]』[[2009年]][[5月13日]]。</ref> と反論。しかし翌日、麻生首相は「これまで辞めた方々の任命責任はすべてあると言ってきた。今回も例外ではない」<ref>坂口裕彦「麻生首相:『任命責任ある』鴻池官房副長官辞任で発言撤回」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090515k0000m010115000c.html 麻生首相:「任命責任ある」鴻池官房副長官辞任で発言撤回 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[5月14日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090515k0000m010115000c.html |date=20090517112422 }}</ref> と述べ、任命責任を認め謝罪。 * [[7月2日]] - 国家公安委員会委員長兼内閣府特命担当大臣林幹雄が支部長を務める自由民主党千葉県第十選挙区支部が、土建業者からの寄附金を政治資金収支報告書に記載していないことが発覚<ref>長野宏美「林公安委員長:寄付20万円記載漏れ」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090703k0000m010099000c.html 林公安委員長:寄付20万円記載漏れ - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[7月2日]]。 {{Wayback|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090703k0000m010099000c.html |date=20090704075057 }}</ref>。土建業者側は、林の[[公設秘書]]に[[東京国際空港]]関連工事の口利きを依頼し寄附だけでなくホテル代や飲食代も肩代わりしていたと主張しており「金だけとって仕事をくれないなんて詐欺だ」<ref name="mainichi20090702">長野宏美「林国家公安委員長:地元団体、寄付20万円記載漏れ――『業者からホテル代』は否定」『[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090703ddm041010100000c.html 林国家公安委員長:地元団体、寄付20万円記載漏れ 「業者からホテル代」は否定 - 毎日jp(毎日新聞)]』[[毎日新聞社]]、[[2009年]][[7月2日]]。{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref> と批判。公設秘書も、金銭の受け取りは否定したが、接待を受けたことや寄附金を政治資金収支報告書に記載しなかったことを認めている<ref name="mainichi20090702"/>。林は[[警察庁]]にて記者会見を開き、「金銭の授受は一切ない」<ref>「秘書の接待、一部認める=口利き、パー券記載漏れも-林国家公安委員長が就任会見」『[http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009070200800 ]』[[時事通信社]]2009/07/02-19:19</ref> と主張したが、口利きについては公設秘書が土木業者を元受業者に紹介したと説明し、公設秘書と土木業者が会食した可能性があると述べたうえで、政治資金収支報告書への寄附金未記載も認め謝罪。 * [[6月30日]] - [[農林水産副大臣]][[近藤基彦]]が、役員給与として建設会社から総額およそ1880万円を受け取っていたことが発覚<ref>「大臣規範、近藤氏が抵触=農水副大臣就任後も月給188万円」[http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=pol_30&k=2009063000436]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。「[[国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範]]」違反と指摘され、返金を表明し謝罪<ref>「近藤副大臣が兼職報酬を返還」[http://www.nhk.or.jp/news/k10013963121000.html NHKニュース 近藤副大臣が兼職 報酬を返還]、NHK、[[2009年]][[6月30日]]。{{リンク切れ|date=2009年11月}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wikinews|麻生内閣発足、第92代首相に麻生太郎氏 - 自ら閣僚名簿を発表 : 日本|麻生首相、所信表明演説 - 突然の交代と中山大臣問題を演説前に陳謝}} * [[2008年自由民主党総裁選挙]] * [[2008年の政治]] * [[2009年の政治]] * [[第170回国会]] * [[第171回国会]] * [[麻生内閣メールマガジン]] == 外部リンク == * {{Wayback|url=https://www.kantei.go.jp/jp/asodaijin/080924/index.html |title=麻生内閣閣僚等名簿(首相官邸公式ウェブサイト) |date=20080928112425}} * {{NHK放送史|D0009030781_00000|麻生太郎内閣誕生}} {{日本国歴代内閣|[[福田康夫内閣 (改造)|福田康夫改造内閣]]|麻生内閣|平成20年(2008年)9月24日 - 平成21年(2009年)9月16日|[[鳩山由紀夫内閣]]}} {{DEFAULTSORT:あそうないかく}} [[Category:平成時代の内閣]] [[Category:自公連立政権]] [[Category:2008年の日本の政治]] [[Category:2009年の日本の政治]] [[Category:麻生太郎|ないかく]] [[Category:舛添要一]]
2008-09-23T09:05:04Z
2023-12-26T04:32:42Z
false
false
false
[ "Template:日本の内閣記事", "Template:要出典範囲", "Template:Cite web", "Template:要出典", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Wayback", "Template:Wikinews", "Template:日本国歴代内閣", "Template:See also", "Template:リンク切れ", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:Webarchive", "Template:Color box", "Template:Notelist", "Template:Cite press release", "Template:NHK放送史" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%86%85%E9%96%A3
4,265,873
三根正亮
三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:1871年2月24日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月13日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省や鉄道院の技官を経て民間に入り大同電力常務取締役などを務めた。福岡県出身。 三根正亮は、明治4年1月6日(新暦:1871年2月24日)、福岡県三根幾次の長男として生まれた。1890年(明治23年)福岡県立尋常中学修猷館、1892年(明治25年)7月熊本の第五高等中学校工科を経て、1895年(明治28年)7月帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。大学在学中に京都電気鉄道の設計に関与している。 卒業後はすぐに逓信省へ入省。1895年8月高等官に叙され電信建築技師となり、逓信省通信局勤務を命ぜられる。翌1896年(明治29年)4月、逓信技師に任ぜられる。また当時課題となっていた都市電気軌道の拡大に伴う地中埋設鉄管の電蝕問題に関する調査を命ぜられ、アメリカへと渡る。翌年に帰国した後は逓信技師として電気事業の指導・監督にあたり、1900年(明治33年)3月からは農商務省特許局審査官も兼ねた。1905年(明治38年)になり4月に逓信省では逓信技師から通信技師へと移るが、5月31日付で依願により通信技師・特許局審査官ともに免官となった。 官職を辞した三根は東京電力株式会社の技師長に就任した。同社は山梨県を流れる相模川(桂川)の水利権と横浜・沼津・静岡3市への電力供給権を持つ電力会社で、資本金は600万円、社長は浅田徳則であった。ただし東京電力は未開業のまま1907年(明治40年)7月東京電灯へと吸収された。また東京電力技師長の傍ら高知県営水力発電事業にも参加する。県営発電事業は吉野川水系穴内川から香長平野へと水を引く甫喜ヶ峰疎水を活用するもので、平山発電所として1906年12月着工・1909年(明治42年)2月竣工に至る。三根はこの発電所の設計を担当した。 1909年6月11日、官界に戻って鉄道院技師に任ぜられた。翌年時点の職員録には東部鉄道管理局電気課長を務めるとある。1913年(大正2年)5月、鉄道管理局組織変更に伴い東京鉄道管理局電気課長に就任。鉄道院時代には官営水力発電事業や信越本線碓氷峠区間における第三軌条方式の電化工事などに携わった。1914年(大正3年)12月勲五等瑞宝章受章。翌1915年(大正4年)6月5日、勅任官である高等官二等に昇格するが、同日付で依願により鉄道院技師を免官となった。退官後、30日付で正五位に叙されている。 2度目の退官後は京都の島津製作所に入り蓄電池部技師長に就任する。島津製作所が蓄電池事業の大規模化を試みた際には、三根が斡旋して大倉喜八郎の出資を取り付けた。大倉の出資を加えた新会社・日本電池(現・ジーエス・ユアサコーポレーション)の設立に発起人や創立委員として参画する。1917年(大正6年)1月に会社が発足すると役員には選ばれていないものの技師長を務めたが、在任期間は短く半年後の6月30日付で病気のため退職した。 1917年から翌年にかけて再度アメリカへ渡り、水力発電事業や電気製鉄事業を視察。帰国すると木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)の設立に加わり、1918年(大正7年)9月8日付の会社設立とともに常務取締役に就任した。同社は名古屋の電力会社名古屋電灯が木曽川開発や電気製鉄事業を目的に設立した新会社である。社長は福澤桃介。三根は3人いた常務のうちの1人で、名古屋の本社とは別に東京に置かれた東京出張所で勤務した。この時期、福澤系の企業では他にも製鋼用人造黒鉛電極の自給を目的とする東海電極製造(現・東海カーボン)の監査役を1918年4月の会社設立から1920年(大正9年)11月にかけて務めている。 1919年(大正8年)、木曽電気興業によって関西地方への長距離送電を目指す大阪送電という会社が設立される。同社は1921年(大正10年)2月に母体の木曽電気興業と日本水力を合併し、大同電力へと発展する。この合併に先立つ1920年11月に合併会社からの役員を入れた際、三根も常務取締役に選ばれた。大同電力では5人いた常務のうちの1人である。常務時代は名古屋勤務で、木曽川・矢作川その他の水力開発に従事した。また旧木曽電気製鉄から引き継いだ鉄鋼事業を大同電力本体から分離して1921年11月に大同製鋼(大同特殊鋼の前身)が設立されると取締役の一人となった。ただし翌1922年(大正11年)7月に大同製鋼が電気製鋼所の事業を統合して大同電気製鋼所となった際に退いており、在任期間は1年に満たない。 福澤系企業に携わる傍ら、1917年11月、小穴秀一が自身の電気器具工場を法人化して小穴製作所(後の日本電気精器、現・TDKラムダ)を設立した際に、小穴の友人として三根も取締役に就任した。以後1924年(大正13年)まで在任している。 1925年(大正14年)12月、大同電力常務を辞任。1923年10月から務めた大同電力傍系会社神岡水電の監査役も1928年(昭和3年)4月に退いた。そして常務辞任後も留任していた大同電力取締役についても翌1929年(昭和4年)12月26日付の任期満了をもって退任した。同年12月中に小穴製作所顧問も病気療養のため辞任し、以後隠居生活を送った。1939年(昭和14年)7月13日、病気のため死去、享年69。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "三根 正亮(みね せいりょう、明治4年1月6日〈新暦:1871年2月24日〉 - 1939年〈昭和14年〉7月13日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省や鉄道院の技官を経て民間に入り大同電力常務取締役などを務めた。福岡県出身。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "三根正亮は、明治4年1月6日(新暦:1871年2月24日)、福岡県三根幾次の長男として生まれた。1890年(明治23年)福岡県立尋常中学修猷館、1892年(明治25年)7月熊本の第五高等中学校工科を経て、1895年(明治28年)7月帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。大学在学中に京都電気鉄道の設計に関与している。", "title": "技官時代" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "卒業後はすぐに逓信省へ入省。1895年8月高等官に叙され電信建築技師となり、逓信省通信局勤務を命ぜられる。翌1896年(明治29年)4月、逓信技師に任ぜられる。また当時課題となっていた都市電気軌道の拡大に伴う地中埋設鉄管の電蝕問題に関する調査を命ぜられ、アメリカへと渡る。翌年に帰国した後は逓信技師として電気事業の指導・監督にあたり、1900年(明治33年)3月からは農商務省特許局審査官も兼ねた。1905年(明治38年)になり4月に逓信省では逓信技師から通信技師へと移るが、5月31日付で依願により通信技師・特許局審査官ともに免官となった。", "title": "技官時代" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "官職を辞した三根は東京電力株式会社の技師長に就任した。同社は山梨県を流れる相模川(桂川)の水利権と横浜・沼津・静岡3市への電力供給権を持つ電力会社で、資本金は600万円、社長は浅田徳則であった。ただし東京電力は未開業のまま1907年(明治40年)7月東京電灯へと吸収された。また東京電力技師長の傍ら高知県営水力発電事業にも参加する。県営発電事業は吉野川水系穴内川から香長平野へと水を引く甫喜ヶ峰疎水を活用するもので、平山発電所として1906年12月着工・1909年(明治42年)2月竣工に至る。三根はこの発電所の設計を担当した。", "title": "技官時代" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1909年6月11日、官界に戻って鉄道院技師に任ぜられた。翌年時点の職員録には東部鉄道管理局電気課長を務めるとある。1913年(大正2年)5月、鉄道管理局組織変更に伴い東京鉄道管理局電気課長に就任。鉄道院時代には官営水力発電事業や信越本線碓氷峠区間における第三軌条方式の電化工事などに携わった。1914年(大正3年)12月勲五等瑞宝章受章。翌1915年(大正4年)6月5日、勅任官である高等官二等に昇格するが、同日付で依願により鉄道院技師を免官となった。退官後、30日付で正五位に叙されている。", "title": "技官時代" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2度目の退官後は京都の島津製作所に入り蓄電池部技師長に就任する。島津製作所が蓄電池事業の大規模化を試みた際には、三根が斡旋して大倉喜八郎の出資を取り付けた。大倉の出資を加えた新会社・日本電池(現・ジーエス・ユアサコーポレーション)の設立に発起人や創立委員として参画する。1917年(大正6年)1月に会社が発足すると役員には選ばれていないものの技師長を務めたが、在任期間は短く半年後の6月30日付で病気のため退職した。", "title": "民間時代" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1917年から翌年にかけて再度アメリカへ渡り、水力発電事業や電気製鉄事業を視察。帰国すると木曽電気製鉄(後の木曽電気興業)の設立に加わり、1918年(大正7年)9月8日付の会社設立とともに常務取締役に就任した。同社は名古屋の電力会社名古屋電灯が木曽川開発や電気製鉄事業を目的に設立した新会社である。社長は福澤桃介。三根は3人いた常務のうちの1人で、名古屋の本社とは別に東京に置かれた東京出張所で勤務した。この時期、福澤系の企業では他にも製鋼用人造黒鉛電極の自給を目的とする東海電極製造(現・東海カーボン)の監査役を1918年4月の会社設立から1920年(大正9年)11月にかけて務めている。", "title": "民間時代" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1919年(大正8年)、木曽電気興業によって関西地方への長距離送電を目指す大阪送電という会社が設立される。同社は1921年(大正10年)2月に母体の木曽電気興業と日本水力を合併し、大同電力へと発展する。この合併に先立つ1920年11月に合併会社からの役員を入れた際、三根も常務取締役に選ばれた。大同電力では5人いた常務のうちの1人である。常務時代は名古屋勤務で、木曽川・矢作川その他の水力開発に従事した。また旧木曽電気製鉄から引き継いだ鉄鋼事業を大同電力本体から分離して1921年11月に大同製鋼(大同特殊鋼の前身)が設立されると取締役の一人となった。ただし翌1922年(大正11年)7月に大同製鋼が電気製鋼所の事業を統合して大同電気製鋼所となった際に退いており、在任期間は1年に満たない。", "title": "民間時代" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "福澤系企業に携わる傍ら、1917年11月、小穴秀一が自身の電気器具工場を法人化して小穴製作所(後の日本電気精器、現・TDKラムダ)を設立した際に、小穴の友人として三根も取締役に就任した。以後1924年(大正13年)まで在任している。", "title": "民間時代" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1925年(大正14年)12月、大同電力常務を辞任。1923年10月から務めた大同電力傍系会社神岡水電の監査役も1928年(昭和3年)4月に退いた。そして常務辞任後も留任していた大同電力取締役についても翌1929年(昭和4年)12月26日付の任期満了をもって退任した。同年12月中に小穴製作所顧問も病気療養のため辞任し、以後隠居生活を送った。1939年(昭和14年)7月13日、病気のため死去、享年69。", "title": "民間時代" } ]
三根 正亮は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。逓信省や鉄道院の技官を経て民間に入り大同電力常務取締役などを務めた。福岡県出身。
[[ファイル:Mine Seiryo.jpg|thumb|大同電力時代の肖像写真]] '''三根 正亮'''(みね せいりょう、[[明治4年]][[1月6日 (旧暦)|1月6日]]〈新暦:[[1871年]][[2月24日]]〉 - [[1939年]]〈[[昭和]]14年〉[[7月13日]])は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の電気[[技術者]]、[[実業家]]。[[逓信省]]や[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]の[[技官]]を経て民間に入り[[大同電力]]常務取締役などを務めた。[[福岡県]]出身。 == 技官時代 == 三根正亮は、[[明治4年]][[1月6日 (旧暦)|1月6日]](新暦:[[1871年]][[2月24日]])、[[福岡県]]三根幾次の長男として生まれた<ref name="koshin4">[[#koshin4|『人事興信録』第4版]]み13頁。{{NDLJP|1703995/905}}</ref>。[[1890年]](明治23年)[[福岡県立修猷館高等学校|福岡県立尋常中学修猷館]]<ref>『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員1頁</ref>、[[1892年]](明治25年)7月[[熊本市|熊本]]の[[第五高等学校 (旧制)|第五高等中学校]]工科<ref>『第五高等学校一覧(自昭和11年至昭和12年)』(第五高等学校編、1936年)174頁</ref><ref>「学事 第五高等中学校卒業証書授与式」『[[官報]]』第2718号、1892年7月20日付。{{NDLJP|2945983/3}}</ref>を経て、[[1895年]](明治28年)7月[[東京大学|帝国大学]][[東京大学大学院工学系研究科・工学部|工科大学]]電気工学科を卒業した<ref>『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名200頁</ref><ref name="koshin4"/><ref>「学事 帝国大学各分科大学卒業証書授与式」『官報』第3611号、1895年7月13日付。{{NDLJP|2946886/4}}</ref>。大学在学中に[[京都電気鉄道]]の設計に関与している<ref name="baba">[[#baba|『名古屋新百人物』]]28-30頁。{{NDLJP|913388/20}}</ref>。 卒業後はすぐに[[逓信省]]へ入省<ref name="zaikai">[[#zaikai2500|『財界二千五百人集』]]495頁。{{NDLJP|1447438/271}}</ref>。1895年8月[[高等官]]に叙され電信建築技師となり<ref>「叙任及辞令」『官報』第3643号、1895年8月20日付。{{NDLJP|2946918/3}}</ref>、逓信省通信局勤務を命ぜられる<ref>「叙任及辞令」『官報』第3644号、1895年8月21日付。{{NDLJP|2946919/4}}</ref>。翌[[1896年]](明治29年)4月、逓信技師に任ぜられる<ref>「叙任及辞令」『官報』第3836号、1896年4月16日付。{{NDLJP|2947115/3}}</ref>。また当時課題となっていた[[路面電車|都市電気軌道]]の拡大に伴う地中埋設鉄管の[[電蝕]]問題に関する調査を命ぜられ、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へと渡る<ref name="zaikai"/>。翌年に帰国した後は逓信技師として電気事業の指導・監督にあたり<ref name="zaikai"/>、[[1900年]](明治33年)3月からは[[農商務省 (日本)|農商務省]][[特許庁|特許局]]審査官も兼ねた<ref>「叙任及辞令」『官報』第5013号、1900年3月22日付。{{NDLJP|2948306/7}}</ref>。[[1905年]](明治38年)になり4月に逓信省では逓信技師から通信技師へと移るが<ref>「叙任及辞令」『官報』第6541号、1905年4月24日付。{{NDLJP|2949873/7}}</ref>、5月31日付で依願により通信技師・特許局審査官ともに免官となった<ref>「叙任及辞令」『官報』第6574号、1905年6月1日付。{{NDLJP|2949907/14}}</ref>。 官職を辞した三根は東京電力株式会社<!--[[東京電力 (1925-1928)]]とは無関係-->の技師長に就任した<ref name="zaikai"/>。同社は[[山梨県]]を流れる[[相模川|相模川(桂川)]]の[[水利権]]と[[横浜市|横浜]]・[[沼津市|沼津]]・[[静岡市|静岡]]3市への電力供給権を持つ電力会社で、[[資本金]]は600万円、社長は[[浅田徳則]]であった<ref name="kanto">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]118-119頁</ref>。ただし東京電力は未開業のまま[[1907年]](明治40年)7月[[東京電灯]]へと吸収された<ref name="kanto"/>。また東京電力技師長の傍ら[[高知県営電気供給事業|高知県営水力発電事業]]にも参加する<ref name="zaikai"/>。県営発電事業は[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]水系穴内川から[[香長平野]]へと水を引く甫喜ヶ峰疎水を活用するもので、平山発電所として1906年12月着工・[[1909年]](明治42年)2月竣工に至る<ref>[[#turbo|『ターボ機械第20巻第1号』]]</ref>。三根はこの発電所の設計を担当した<ref name="baba"/>。 1909年6月11日、官界に戻って[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]技師に任ぜられた<ref>「叙任及辞令」『官報』第7788号、1909年6月12日付。{{NDLJP|2951138/5}}</ref>。翌年時点の職員録には東部鉄道管理局電気課長を務めるとある<ref>『職員録』明治43年(甲)16頁。{{NDLJP|779798/36}}</ref>。[[1913年]](大正2年)5月、[[鉄道管理局]]組織変更に伴い東京鉄道管理局電気課長に就任<ref>「叙任及辞令」『官報』第228号、1913年5月6日付。{{NDLJP|2952326/6}}</ref>。鉄道院時代には官営水力発電事業や[[信越本線]][[碓氷峠]]区間における[[第三軌条方式]]の[[鉄道の電化|電化]]工事などに携わった<ref name="zaikai"/>。[[1914年]](大正3年)12月[[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]受章<ref>「叙任及辞令」『官報』第720号、1914年12月24日付。{{NDLJP|2952827/7}}</ref>。翌[[1915年]](大正4年)6月5日、[[勅任官]]である高等官二等に昇格するが、同日付で依願により鉄道院技師を免官となった<ref>「叙任及辞令」『官報』第853号、1915年6月7日付。{{NDLJP|2952959/4}}</ref>。退官後、30日付で[[正五位]]に叙されている<ref>「叙任及辞令」『官報』第874号、1915年7月1日付。{{NDLJP|2952980/2}}</ref>。 == 民間時代 == 2度目の退官後は[[京都市|京都]]の[[島津製作所]]に入り蓄電池部技師長に就任する<ref name="zaikai"/>。島津製作所が[[二次電池|蓄電池]]事業の大規模化を試みた際には、三根が斡旋して[[大倉喜八郎]]の出資を取り付けた<ref name="gs">[[#gs|『日本電池株式会社二十年史』]]21-24頁</ref>。大倉の出資を加えた新会社・日本電池(現・[[ジーエス・ユアサコーポレーション]])の設立に発起人や創立委員として参画する<ref name="gs"/>。[[1917年]](大正6年)1月に会社が発足すると役員には選ばれていないものの技師長を務めたが、在任期間は短く半年後の6月30日付で病気のため退職した<ref>[[#gs|『日本電池株式会社二十年史』]]34-36頁</ref><ref>[[#gs|『日本電池株式会社二十年史』]]206頁(巻末年譜)</ref>。 1917年から翌年にかけて再度アメリカへ渡り、水力発電事業や電気製鉄事業を視察<ref name="zaikai"/>。帰国すると[[木曽電気製鉄]](後の木曽電気興業)の設立に加わり<ref name="zaikai"/>、[[1918年]](大正7年)9月8日付の会社設立とともに常務取締役に就任した<ref name="steel-66">[[#steel|『大同製鋼50年史』]]66-74頁</ref>。同社は[[名古屋市|名古屋]]の電力会社[[名古屋電灯]]が[[木曽川]]開発や電気製鉄事業を目的に設立した新会社である。社長は[[福澤桃介]]。三根は3人いた常務のうちの1人で、名古屋の本社とは別に[[東京市|東京]]に置かれた東京出張所で勤務した<ref name="steel-66"/>。この時期、福澤系の企業では他にも製鋼用[[人造黒鉛電極]]の自給を目的とする東海電極製造(現・[[東海カーボン]])の監査役を1918年4月の会社設立から[[1920年]](大正9年)11月にかけて務めている<ref>[[#carbon|『東海カーボン六十五年史』]]21-24頁・360-361頁(「役員任期一覧表」)</ref>。 [[1919年]](大正8年)、木曽電気興業によって関西地方への長距離送電を目指す大阪送電という会社が設立される。同社は[[1921年]](大正10年)2月に母体の木曽電気興業と[[日本水力]]を合併し、[[大同電力]]へと発展する。この合併に先立つ1920年11月に合併会社からの役員を入れた際、三根も常務取締役に選ばれた<ref>[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]53-54頁</ref>。大同電力では5人いた常務のうちの1人である<ref name="daido-62">[[#daido|『大同電力株式会社沿革史』]]62-63頁</ref>。常務時代は名古屋勤務で<ref name="baba"/>、木曽川・[[矢作川]]その他の水力開発に従事した<ref name="zaikai"/>。また旧木曽電気製鉄から引き継いだ鉄鋼事業を大同電力本体から分離して1921年11月に大同製鋼([[大同特殊鋼]]の前身)が設立されると取締役の一人となった<ref>[[#steel|『大同製鋼50年史』]]77-81頁</ref>。ただし翌[[1922年]](大正11年)7月に大同製鋼が[[木曽川電力|電気製鋼所]]の事業を統合して大同電気製鋼所となった際に退いており、在任期間は1年に満たない<ref>[[#steel|『大同製鋼50年史』]]82-89頁・巻末「役員在任期間一覧表」</ref>。 福澤系企業に携わる傍ら、1917年11月、小穴秀一が自身の電気器具工場を法人化して小穴製作所(後の日本電気精器、現・[[TDKラムダ]])を設立した際に、小穴の友人として三根も取締役に就任した<ref>[[#seiki|『日本電気精器七十五年史』]]3-4頁</ref>。以後[[1924年]](大正13年)まで在任している<ref>[[#seiki|『日本電気精器七十五年史』]]144頁</ref>。 [[1925年]](大正14年)12月、大同電力常務を辞任<ref name="daido-62"/>。1923年10月から務めた大同電力傍系会社[[神岡水電]]の監査役も[[1928年]](昭和3年)4月に退いた<ref>「商業登記 神岡水電株式会社変更」『官報』号外、1924年5月19日付。{{NDLJP|2955667/10}}</ref><ref>「商業登記 神岡水電株式会社変更」『官報』第481号、1928年8月3日付。{{NDLJP|2956942/10}}</ref>。そして常務辞任後も留任していた大同電力取締役についても翌[[1929年]](昭和4年)12月26日付の任期満了をもって退任した<ref name="daido-62"/><ref>「大同電力株式会社昭和5年上期第22期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。同年12月中に小穴製作所顧問も病気療養のため辞任し、以後隠居生活を送った<ref name="zaikai"/>。[[1939年]](昭和14年)[[7月13日]]、病気のため死去、享年69<ref>[[#teishin|『逓信協会雑誌』第374号]]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author= |title=故名誉会員三根正亮氏 |journal=逓信協会雑誌 |issue=374 |publisher=[[通信文化協会|逓信協会]] |date=1939-10 |pages=108 |ref=teishin }} * {{Cite journal|和書|author=川内憲之 |title=<シリーズ日本の発電所> 四国電力平山発電所 |journal=ターボ機械 |volume=20 |number=1 |publisher=ターボ機械協会 |date=1992-01 |pages=64-65 |url=https://doi.org/10.11458/tsj1973.20.58 |doi=10.11458/tsj1973.20.58 |ref=turbo }} * {{Cite book|和書|author=人事興信所(編)|title=人事興信録 |volume=第4版 |publisher=人事興信所 |year=1915 |id={{NDLJP|1703995}} |ref=koshin4 }} * {{Cite book|和書|editor=大同製鋼|editor-link=大同特殊鋼|title=大同製鋼50年史 |publisher=大同製鋼 |year=1967 |ref=steel }} * {{Cite book|和書|author=大同電力社史編纂事務所(編)|title=大同電力株式会社沿革史 |publisher=大同電力社史編纂事務所 |year=1941 |ref=daido }} * {{Cite book|和書|author=東海カーボン社史編纂委員会(編)|title=東海カーボン六十五年史 |publisher=[[東海カーボン]] |year=1983 |ref=carbon }} * {{Cite book|和書|editor=東京電力|editor-link=東京電力ホールディングス|title=関東の電気事業と東京電力 |publisher=東京電力 |year=2002 |ref=kanto }} * {{Cite book|和書|author=中西利八(編)|title=財界二千五百人集 |publisher=財界二千五百人集編纂部 |year=1934 |id={{NDLJP|1447438}} |ref=zaikai2500 }} * {{Cite book|和書|author=日本電気精器株式会社社史編集委員会(編)|title=日本電気精器七十五年史 |publisher=[[TDKラムダ|日本電気精器]] |year=1991 |ref=seiki }} * {{Cite book|和書|editor=日本電池|editor-link=ジーエス・ユアサコーポレーション|title=日本電池株式会社二十年史 |publisher=日本電池 |year=1937 |ref=gs }} * {{Cite book|和書|author=馬場籍生 |title=名古屋新百人物 |publisher=珊珊社 |year=1921 |id={{NDLJP|913388}} |ref=baba }} == 関連項目 == * [[関口寿]]・[[近藤茂 (技術者)]] - 電気技術者で大同電力発足当初の常務 * [[読書発電所]] - 大同電力が建設した発電所。発電所前の木曽川に架かる「三根橋」は三根に由来する。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みね せいりよう}} [[Category:日本の電気技術者]] [[Category:日本の鉄道技術者]] [[Category:日本の逓信官僚]] [[Category:日本の鉄道官僚]] [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:大同電力の人物]] [[Category:大同特殊鋼の人物]] [[Category:島津製作所の人物]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:福岡県立修猷館高等学校出身の人物]] [[Category:福岡県出身の人物]] [[Category:正五位受位者]] [[Category:勲五等瑞宝章受章者]] [[Category:1871年生]] [[Category:1939年没]]
null
2023-02-22T17:43:54Z
false
false
false
[ "Template:Cite journal", "Template:Cite book", "Template:Normdaten", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:NDLJP" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%A0%B9%E6%AD%A3%E4%BA%AE
3,083,413
ヤン・ファン・デル・フーフェン
ヤン・ファン・デル・フーフェン(Jan van der Hoeven、1801年2月9日 - 1868年3月10日)は、オランダの動物学者である。主著の『動物学ハンドブック』("Handboek der Dierkunde" 1827–1833)はドイツ語や英語に翻訳された。爬虫類、哺乳類や昆虫、原始的な脊索動物までを簡明に解説した。 ロッテルダムの裕福な商人の家に生まれた。1819年にライデンに移り、1822年の物理学、1824年に医学の学位を得た。パリで暮らした後、ロッテルダムで家庭医として働いた。1826年にライデン大学の動物学と鉱物学の教授に任じられた。ドイツロマン主義に影響を与えたヨハン・ゴットフリート・ヘルダーやオランダ文芸復興運動のウィレム・ビルデルデイク(Willem Bilderdijk)に尊敬し、影響を受けた。 19世紀までに、科学の分化、専門化が進んだなかで、ファン・デル・フーフェンは古いタイプの科学者でゼネラリストであった。専門的、理論的でなかった。1834年に博物学、生理学の雑誌を創刊した。中等教育のための生物学の教科書を執筆したが、ライデン大学でラテン語で講義を行った最後の教授の一人である。1860年に大学を退職した。1858年にスウェーデン王立科学アカデミーの外国人に選ばれた。1864年にラテン語の生物学の教科書、"Philosophia Zoologica"を執筆した 。、
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ヤン・ファン・デル・フーフェン(Jan van der Hoeven、1801年2月9日 - 1868年3月10日)は、オランダの動物学者である。主著の『動物学ハンドブック』(\"Handboek der Dierkunde\" 1827–1833)はドイツ語や英語に翻訳された。爬虫類、哺乳類や昆虫、原始的な脊索動物までを簡明に解説した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ロッテルダムの裕福な商人の家に生まれた。1819年にライデンに移り、1822年の物理学、1824年に医学の学位を得た。パリで暮らした後、ロッテルダムで家庭医として働いた。1826年にライデン大学の動物学と鉱物学の教授に任じられた。ドイツロマン主義に影響を与えたヨハン・ゴットフリート・ヘルダーやオランダ文芸復興運動のウィレム・ビルデルデイク(Willem Bilderdijk)に尊敬し、影響を受けた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "19世紀までに、科学の分化、専門化が進んだなかで、ファン・デル・フーフェンは古いタイプの科学者でゼネラリストであった。専門的、理論的でなかった。1834年に博物学、生理学の雑誌を創刊した。中等教育のための生物学の教科書を執筆したが、ライデン大学でラテン語で講義を行った最後の教授の一人である。1860年に大学を退職した。1858年にスウェーデン王立科学アカデミーの外国人に選ばれた。1864年にラテン語の生物学の教科書、\"Philosophia Zoologica\"を執筆した 。、", "title": "略歴" } ]
ヤン・ファン・デル・フーフェンは、オランダの動物学者である。主著の『動物学ハンドブック』はドイツ語や英語に翻訳された。爬虫類、哺乳類や昆虫、原始的な脊索動物までを簡明に解説した。
[[File:Jan van der Hoeven 1801 – 1868.jpg|thumb|Jan van der Hoeven]] '''ヤン・ファン・デル・フーフェン'''(Jan van der Hoeven、[[1801年]][[2月9日]] - [[1868年]][[3月10日]])は、[[オランダ]]の[[動物学]]者である。主著の『動物学ハンドブック』("''Handboek der Dierkunde''" 1827–1833)は[[ドイツ語]]や[[英語]]に翻訳された。[[爬虫類]]、[[哺乳類]]や[[昆虫]]、原始的な[[脊索動物]]までを簡明に解説した。 ==略歴== [[ロッテルダム]]の裕福な商人の家に生まれた。1819年に[[ライデン]]に移り、1822年の[[物理学]]、1824年に[[医学]]の学位を得た。[[パリ]]で暮らした後、ロッテルダムで家庭医として働いた。1826年に[[ライデン大学]]の動物学と[[鉱物学]]の教授に任じられた。ドイツ[[ロマン主義]]に影響を与えた[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]やオランダ文芸復興運動のウィレム・ビルデルデイク(Willem Bilderdijk)に尊敬し、影響を受けた。 19世紀までに、科学の分化、専門化が進んだなかで、ファン・デル・フーフェンは古いタイプの科学者でゼネラリストであった。専門的、理論的でなかった。1834年に[[博物学]]、[[生理学]]の雑誌を創刊した。中等教育のための[[生物学]]の教科書を執筆したが、ライデン大学で[[ラテン語]]で講義を行った最後の教授の一人である。1860年に大学を退職した。1858年に[[スウェーデン王立科学アカデミー]]の外国人に選ばれた。1864年にラテン語の生物学の教科書、"''Philosophia Zoologica''"を執筆した<ref name=Hoeven>{{cite book|last=Hoeven|first=Jan van der|title=Philosophia zoologica|year=1864|publisher=E. J. Brill|isbn=|url=https://books.google.com.br/books?id=u0AAAAAAQAAJ&printsec=frontcover&hl=pt-BR&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false}} {{OCLC|14197403}}</ref> 。、 {{Botanist|Hoeven}} ==著作== * ''Handboek der Dierkunde'' (1827–1833), first edition, [https://books.google.com.br/books?id=iiUOAAAAQAAJ&dq=bibliogroup%3A%22Handboek%20der%20dierkunde%2C%20of%20grondbeginsels%20dre%20natuurlyke%20geschiedenis%20van%20het%20dierenryk%22&hl=pt-BR&pg=PP5#v=onepage&q&f=false Part 1], [https://books.google.com.br/books?id=DkNCAQAAMAAJ&dq=Handboek%20de%20dierkunde%201833&hl=pt-BR&pg=PP7#v=onepage&q&f=false Part 2], [https://books.google.com.br/books?id=7QUOAAAAQAAJ&dq=Handboek%20de%20dierkunde%201833&hl=pt-BR&pg=PP5#v=onepage&q=1835&f=false Plates]. * ''Handboek der Dierkunde'' (1846–1855), second edition, [https://books.google.com.br/books?id=yIo-AAAAcAAJ&printsec=frontcover&dq=editions:C63u76hHEmwC&hl=pt-BR&sa=X&ei=VQNVVOqYDcGqgwSJtoCYBw&ved=0CBwQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false Part 1], [https://books.google.com.br/books?id=KYs-AAAAcAAJ&printsec=frontcover&hl=pt-BR&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false Part 2]. English translation: ''[http://www.biodiversitylibrary.org/bibliography/11794#/summary Handbook of zoology]'' (1856-1858). German translation: ''[http://www.biodiversitylibrary.org/bibliography/3983#/summary Handbuch der zoologie]'' (1850-1856). ==参考文献== {{Reflist}} ==関連文献== *Anonym 1867-1868: [Hoeven, J. van der] ''Proc. Linn. Soc. London'' 1867-68 CX-CXI *Anonym 1868 [Hoeven, J. van der] ''Ann. Mag. Nat. Hist.'' (6), London [1](4) *Osborn, H. 1952 ''A Brief History of Entomology Including Time of Demosthenes and Aristotle to Modern Times with over Five Hundred Portraits''. Columbus, Ohio, The Spahr & Glenn Company. *Lubach, D. (1868) Jan van der Hoeven geschetst door. In: Album der Natuur, p.&nbsp;161-165. {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふあんてるふうふえん やん}} [[Category:オランダの動物学者]] [[Category:ライデン大学の教員]] [[Category:オランダ王立芸術科学アカデミー会員]] [[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]] [[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]] [[Category:バイエルン科学アカデミー会員]] [[Category:ロッテルダム出身の人物]] [[Category:1801年生]] [[Category:1868年没]]
2014-11-01T23:29:59Z
2023-12-06T09:59:31Z
false
false
false
[ "Template:Reflist", "Template:Cite book", "Template:OCLC", "Template:Normdaten", "Template:Botanist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%B3
1,634,856
酒井高徳
酒井 高徳(さかい ごうとく、1991年3月14日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ヴィッセル神戸所属。ポジションはディフェンダー(サイドバック)、ミッドフィールダー。元日本代表。 四人兄弟の次男で、兄は柔道家の酒井高喜、弟はプロサッカー選手の酒井宣福 (名古屋グランパス所属) 、酒井高聖。 日本人の父親とドイツ人の母親との間にアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市で生まれ、2歳の時父親の仕事の都合で新潟県三条市に引っ越した。 10歳でサッカーを始め、三条サッカースポーツ少年団、レザーFSジュニアユースを経て、2006年にJAPANサッカーカレッジ高等部に進学し、開志学園高等学校に籍を置くとともに、アルビレックス新潟ユースに入団。寮生活によって、勉強とサッカーを両立させた。2008年には、2種登録選手としてトップチームにも在籍した。同年11月5日に昇格が発表された。2種登録期間中の11月15日、とりぎんバードスタジアムで行われた天皇杯5回戦(対戦相手: FC東京)に出場し、公式戦に初出場した。 2009年3月7日に味の素スタジアムで開催されたJ1第1節(対戦相手: FC東京)にてリーグ戦に初出場した。同年度は途中出場を中心にリーグ戦18試合に出場した。2010年度よりレギュラーとして試合出場するようになり、翌2011年10月1日の横浜F・マリノス戦(東北電力ビッグスワンスタジアム)にてプロ初得点を挙げた。 2011年12月23日、ブンデスリーガ・VfBシュトゥットガルトへの期限付き移籍が発表された。期限は2013年6月30日まで。新潟の生え抜きの選手が欧州のクラブに移籍するケースはこれが初である。2012年2月11日、第21節ヘルタ・ベルリン戦でスタメンフル出場しブンデスリーガ初出場を果たした。以降途中加入ながらレギュラーに定着し、地元紙からその活躍を絶賛されドイツ紙『WELT』からドイツ代表に招集すべきと報道された。 2013年1月10日、VfBシュトゥットガルトへ完全移籍。契約は16年6月まで。 2015年2月14日、ブンデスリーガ第21節ホッフェンハイム戦でブンデスリーガ初得点を決めた。2014-15シーズンは、開幕当初こそスタメンで起用されたが、チームが残留争いの渦中に立たされたシーズン終盤は控えに甘んじることが多かった。 シュトゥットガルトでの出場機会は減少した為、移籍を検討。シュトゥットガルトの監督(2011年当時)であったブルーノ・ラッバディアの熱望を受け、2015年7月5日にハンブルガーSVへ完全移籍した。11月7日、第12節ダルムシュタット戦で初先発。2016年2月7日、第20節ケルン戦以降はレギュラーに定着し、3月6日、第25節ヘルタ・ベルリン戦ではブンデスリーガ通算100試合出場を記録。 2016年11月18日、マルクス・ギズドル監督からチームキャプテンに指名された。ブンデスリーガで日本人選手がチームキャプテンを務めるのはこれが史上初である。また、この時より本職であるサイドバックだけでなく、ボランチでプレーする事も増えた。2017年1月28日、ブンデスリーガ第18節FCインゴルシュタット04では自身約2年ぶりのゴールとなるミドルシュートを決めた。最終節、同じく1部残留を争うVfLヴォルフスブルク戦ではフル出場し、2-1の勝利に貢献。結果的にキャプテン就任時はリーグ最下位だったチームを1部残留させる事に成功した。シーズン終了後には今まで一度も2部に降格した事のないチームのキャプテンを任される事について「何が何でも『2部に降格させた初めてのキャプテンが日本人だ』なんていうのは、もう絶対に、絶対に俺のプライドが許さないっていう感じのがありました。その重圧っていうのはすごくありましたね。何なら最終節の試合の途中でも『マジかよ』と思いながらプレーした時間帯もありました」とプレッシャーがかかっていた心境を吐露した。 2017-18シーズンもキャプテンとしてプレーするも、チームは55年目のシーズンでクラブ史上初の2部降格が決定した。スュペル・リグのベシクタシュJKが関心を示していたものの、シーズン終了後にハンブルガーとの契約を延長し、残留した。 2018-19シーズンは、終盤まで自動昇格圏内の2位以内を維持していたが終盤に大失速し、プレーオフに参戦できる3位にも入れず、4位に終わった。1年での昇格を逃したチームの状況によりサポーターから槍玉にあげられ、最終節のMSVデュースブルク戦ではサポーターからブーイングを浴びせられた。そのブーイングに対して、試合終了後にルイス・ホルトビーらチームメイトが批判し、酒井をかばっている。しかし、昇格を逃した戦犯扱いは変わらず、19-20シーズンに向けてのキャンプに参加した酒井が映っている写真がチームのInstagramに上がると、それが炎上する事態となった。 2019年8月14日、ヴィッセル神戸への完全移籍を発表した。8月17日、第23節の浦和レッズ戦で2011年以来8年ぶりのJリーグ復帰を果たした。以降は神戸の主力選手として活躍し、翌年1月1日に行われた鹿島アントラーズとの天皇杯決勝戦で勝利し、自身初のタイトルを獲得した。 2020年1月13日、石川県羽咋郡宝達志水町の特使になる。3月30日、2019新型コロナウイルスに感染した事が発覚し入院。4月25日に退院した。Jリーガーとして初の新型コロナウイルス感染者となった。9月5日、第14節の湘南ベルマーレ戦で神戸移籍後初ゴールを挙げた。J1リーグでの得点は9年ぶりとなった。自身初のAFCチャンピオンズリーグでは6試合に出場し、ベスト4進出に貢献した。 2021年シーズンは、リーグ戦全38試合にフル出場し、ACL圏内で神戸のJ1最高順位となるリーグ3位に貢献。また、オーナーの三木谷浩史が選ぶ「三木谷良一賞」を受賞し、Jリーグ優秀選手賞にも選出された。 2022年シーズンも前年に引き続きリーグ戦全34試合にスタメン出場。メディアからは「鉄人」と称された。 2023年シーズンは開幕から右サイドバックを任され、第3節のガンバ大阪戦でプロ入り後自身初となる1試合2ゴールを決めた。チームに負傷者が続出したこともありチーム状況によってはセンターバックを任され、シーズン終盤に盟友山口蛍が負傷欠場した際にはボランチとして穴を埋めるなどそのポリバレントぶりを遺憾なく発揮。また高いリーダーシップでチームを統率するなど、クラブを初のJ1リーグ優勝に導いた。シーズン終了後には自身初のJリーグベストイレブンに選出された。 2006年、U-16日本代表に選出され、以後U-17、U-18と各カテゴリの代表チームに選出された。2008年にはU-20日本代表へも選出され、SBSカップ 国際ユースサッカーへ出場した。 2010年1月6日にはAFCアジアカップ2011最終予選第5戦(対戦相手: イエメン)に出場する日本代表に選出された が、これがA代表への初選出であった。2010 FIFAワールドカップでは代表チームに選出されなかったが、サポートメンバーの一員としてチームに帯同した。 同年10月にはAFC U-19選手権2010に出場するU-19日本代表チームに選出され、ミッドフィールダーとして3試合に出場したが、準々決勝で敗退し2011 FIFA U-20ワールドカップへの出場権を得る事はできなかった。12月にはAFCアジアカップ2011本大会に出場する日本代表に選出された が、腰痛のためチームから離脱した。 2011年6月より、U-22日本代表に選出されロンドンオリンピック予選 に出場した。2012年のオリンピック本大会のメンバーにも選出され、右SBの酒井宏樹、左SBの徳永悠平のバックアップという位置付けながら 酒井宏樹の負傷もあって4試合に出場し、ベスト4入りに貢献した。 2012年9月6日に故郷、新潟にある新潟スタジアムで行われたキリンチャレンジカップ2012、対UAE戦でA代表デビューを果たした。 2014年5月12日にW杯ブラジル大会の日本代表メンバーに選出された。しかし、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。 日本代表がハビエル・アギーレ体制になってからは、それまで右SBを務めていた内田篤人の負傷離脱などの影響で重用されるようになり、アギーレ体制での試合全てに出場する。2015年1月のAFCアジアカップ2015でも全ての試合で先発フル出場するも、チームは準々決勝で敗れた。 代表監督がヴァイッド・ハリルホジッチに変わってからも引き続き召集され、当時クラブで担当していた事もあり、手薄であったDHとして出場した試合もあったが、目立った活躍ができずDH要員から構想外となると、両SBのバックアッパーと言う立場は変わらなかった。2018年5月31日にW杯ロシア大会の日本代表メンバーに選出された。第3戦のポーランド戦に先発でW杯初出場を果たしたが、ポジションは本来とは違う右MFであった。敗退後に、「次のW杯を、僕は目指すつもりはない。未来と希望がある選手が目指したほうがいい」と述べ、今大会を最後のW杯とする意向を明かしている。 利き足含めスポーツを行う際は右利きだが、利き手は左である。ちなみに筆記も左手で行うが、サインは右手で書く。 フィジカルが強く、長い距離をアップダウンすることができるスタミナが持ち味で、左右サイドハーフのポジションでもプレーする事ができる。「キックは両足とも自信がある」と語っており、利き足ではない左足のフリーキックを託されることもある。また、対人守備おいて絶対的な安定感をみせチームからの信頼は厚い(後述)。 ハンブルガーSVの監督であるブルーノ・ラッバディアからは「彼のメンタリティーはピカイチ」「彼はものすごくフレキシブルな選手。両利きで、左サイドバックも右サイドバックもできる。それに、攻撃の起点としても強力だ」などと称賛されている。 ドルトムントU-17の監督として2013-14シーズンから2季連続優勝などしたハネス・ボルフ監督には「『6番のポジション』でもプレーできるサイドバックはなかなかいないから」とユーティリティー性を同じく評価されている(6番とは守備的ミッドフィルダーのポジション)。 その他の公式戦 その他の国際公式戦
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "酒井 高徳(さかい ごうとく、1991年3月14日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ヴィッセル神戸所属。ポジションはディフェンダー(サイドバック)、ミッドフィールダー。元日本代表。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "四人兄弟の次男で、兄は柔道家の酒井高喜、弟はプロサッカー選手の酒井宣福 (名古屋グランパス所属) 、酒井高聖。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本人の父親とドイツ人の母親との間にアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市で生まれ、2歳の時父親の仕事の都合で新潟県三条市に引っ越した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "10歳でサッカーを始め、三条サッカースポーツ少年団、レザーFSジュニアユースを経て、2006年にJAPANサッカーカレッジ高等部に進学し、開志学園高等学校に籍を置くとともに、アルビレックス新潟ユースに入団。寮生活によって、勉強とサッカーを両立させた。2008年には、2種登録選手としてトップチームにも在籍した。同年11月5日に昇格が発表された。2種登録期間中の11月15日、とりぎんバードスタジアムで行われた天皇杯5回戦(対戦相手: FC東京)に出場し、公式戦に初出場した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2009年3月7日に味の素スタジアムで開催されたJ1第1節(対戦相手: FC東京)にてリーグ戦に初出場した。同年度は途中出場を中心にリーグ戦18試合に出場した。2010年度よりレギュラーとして試合出場するようになり、翌2011年10月1日の横浜F・マリノス戦(東北電力ビッグスワンスタジアム)にてプロ初得点を挙げた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2011年12月23日、ブンデスリーガ・VfBシュトゥットガルトへの期限付き移籍が発表された。期限は2013年6月30日まで。新潟の生え抜きの選手が欧州のクラブに移籍するケースはこれが初である。2012年2月11日、第21節ヘルタ・ベルリン戦でスタメンフル出場しブンデスリーガ初出場を果たした。以降途中加入ながらレギュラーに定着し、地元紙からその活躍を絶賛されドイツ紙『WELT』からドイツ代表に招集すべきと報道された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2013年1月10日、VfBシュトゥットガルトへ完全移籍。契約は16年6月まで。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2015年2月14日、ブンデスリーガ第21節ホッフェンハイム戦でブンデスリーガ初得点を決めた。2014-15シーズンは、開幕当初こそスタメンで起用されたが、チームが残留争いの渦中に立たされたシーズン終盤は控えに甘んじることが多かった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "シュトゥットガルトでの出場機会は減少した為、移籍を検討。シュトゥットガルトの監督(2011年当時)であったブルーノ・ラッバディアの熱望を受け、2015年7月5日にハンブルガーSVへ完全移籍した。11月7日、第12節ダルムシュタット戦で初先発。2016年2月7日、第20節ケルン戦以降はレギュラーに定着し、3月6日、第25節ヘルタ・ベルリン戦ではブンデスリーガ通算100試合出場を記録。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2016年11月18日、マルクス・ギズドル監督からチームキャプテンに指名された。ブンデスリーガで日本人選手がチームキャプテンを務めるのはこれが史上初である。また、この時より本職であるサイドバックだけでなく、ボランチでプレーする事も増えた。2017年1月28日、ブンデスリーガ第18節FCインゴルシュタット04では自身約2年ぶりのゴールとなるミドルシュートを決めた。最終節、同じく1部残留を争うVfLヴォルフスブルク戦ではフル出場し、2-1の勝利に貢献。結果的にキャプテン就任時はリーグ最下位だったチームを1部残留させる事に成功した。シーズン終了後には今まで一度も2部に降格した事のないチームのキャプテンを任される事について「何が何でも『2部に降格させた初めてのキャプテンが日本人だ』なんていうのは、もう絶対に、絶対に俺のプライドが許さないっていう感じのがありました。その重圧っていうのはすごくありましたね。何なら最終節の試合の途中でも『マジかよ』と思いながらプレーした時間帯もありました」とプレッシャーがかかっていた心境を吐露した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2017-18シーズンもキャプテンとしてプレーするも、チームは55年目のシーズンでクラブ史上初の2部降格が決定した。スュペル・リグのベシクタシュJKが関心を示していたものの、シーズン終了後にハンブルガーとの契約を延長し、残留した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2018-19シーズンは、終盤まで自動昇格圏内の2位以内を維持していたが終盤に大失速し、プレーオフに参戦できる3位にも入れず、4位に終わった。1年での昇格を逃したチームの状況によりサポーターから槍玉にあげられ、最終節のMSVデュースブルク戦ではサポーターからブーイングを浴びせられた。そのブーイングに対して、試合終了後にルイス・ホルトビーらチームメイトが批判し、酒井をかばっている。しかし、昇格を逃した戦犯扱いは変わらず、19-20シーズンに向けてのキャンプに参加した酒井が映っている写真がチームのInstagramに上がると、それが炎上する事態となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2019年8月14日、ヴィッセル神戸への完全移籍を発表した。8月17日、第23節の浦和レッズ戦で2011年以来8年ぶりのJリーグ復帰を果たした。以降は神戸の主力選手として活躍し、翌年1月1日に行われた鹿島アントラーズとの天皇杯決勝戦で勝利し、自身初のタイトルを獲得した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2020年1月13日、石川県羽咋郡宝達志水町の特使になる。3月30日、2019新型コロナウイルスに感染した事が発覚し入院。4月25日に退院した。Jリーガーとして初の新型コロナウイルス感染者となった。9月5日、第14節の湘南ベルマーレ戦で神戸移籍後初ゴールを挙げた。J1リーグでの得点は9年ぶりとなった。自身初のAFCチャンピオンズリーグでは6試合に出場し、ベスト4進出に貢献した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2021年シーズンは、リーグ戦全38試合にフル出場し、ACL圏内で神戸のJ1最高順位となるリーグ3位に貢献。また、オーナーの三木谷浩史が選ぶ「三木谷良一賞」を受賞し、Jリーグ優秀選手賞にも選出された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2022年シーズンも前年に引き続きリーグ戦全34試合にスタメン出場。メディアからは「鉄人」と称された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2023年シーズンは開幕から右サイドバックを任され、第3節のガンバ大阪戦でプロ入り後自身初となる1試合2ゴールを決めた。チームに負傷者が続出したこともありチーム状況によってはセンターバックを任され、シーズン終盤に盟友山口蛍が負傷欠場した際にはボランチとして穴を埋めるなどそのポリバレントぶりを遺憾なく発揮。また高いリーダーシップでチームを統率するなど、クラブを初のJ1リーグ優勝に導いた。シーズン終了後には自身初のJリーグベストイレブンに選出された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2006年、U-16日本代表に選出され、以後U-17、U-18と各カテゴリの代表チームに選出された。2008年にはU-20日本代表へも選出され、SBSカップ 国際ユースサッカーへ出場した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2010年1月6日にはAFCアジアカップ2011最終予選第5戦(対戦相手: イエメン)に出場する日本代表に選出された が、これがA代表への初選出であった。2010 FIFAワールドカップでは代表チームに選出されなかったが、サポートメンバーの一員としてチームに帯同した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "同年10月にはAFC U-19選手権2010に出場するU-19日本代表チームに選出され、ミッドフィールダーとして3試合に出場したが、準々決勝で敗退し2011 FIFA U-20ワールドカップへの出場権を得る事はできなかった。12月にはAFCアジアカップ2011本大会に出場する日本代表に選出された が、腰痛のためチームから離脱した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2011年6月より、U-22日本代表に選出されロンドンオリンピック予選 に出場した。2012年のオリンピック本大会のメンバーにも選出され、右SBの酒井宏樹、左SBの徳永悠平のバックアップという位置付けながら 酒井宏樹の負傷もあって4試合に出場し、ベスト4入りに貢献した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2012年9月6日に故郷、新潟にある新潟スタジアムで行われたキリンチャレンジカップ2012、対UAE戦でA代表デビューを果たした。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2014年5月12日にW杯ブラジル大会の日本代表メンバーに選出された。しかし、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本代表がハビエル・アギーレ体制になってからは、それまで右SBを務めていた内田篤人の負傷離脱などの影響で重用されるようになり、アギーレ体制での試合全てに出場する。2015年1月のAFCアジアカップ2015でも全ての試合で先発フル出場するも、チームは準々決勝で敗れた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "代表監督がヴァイッド・ハリルホジッチに変わってからも引き続き召集され、当時クラブで担当していた事もあり、手薄であったDHとして出場した試合もあったが、目立った活躍ができずDH要員から構想外となると、両SBのバックアッパーと言う立場は変わらなかった。2018年5月31日にW杯ロシア大会の日本代表メンバーに選出された。第3戦のポーランド戦に先発でW杯初出場を果たしたが、ポジションは本来とは違う右MFであった。敗退後に、「次のW杯を、僕は目指すつもりはない。未来と希望がある選手が目指したほうがいい」と述べ、今大会を最後のW杯とする意向を明かしている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "利き足含めスポーツを行う際は右利きだが、利き手は左である。ちなみに筆記も左手で行うが、サインは右手で書く。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "フィジカルが強く、長い距離をアップダウンすることができるスタミナが持ち味で、左右サイドハーフのポジションでもプレーする事ができる。「キックは両足とも自信がある」と語っており、利き足ではない左足のフリーキックを託されることもある。また、対人守備おいて絶対的な安定感をみせチームからの信頼は厚い(後述)。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ハンブルガーSVの監督であるブルーノ・ラッバディアからは「彼のメンタリティーはピカイチ」「彼はものすごくフレキシブルな選手。両利きで、左サイドバックも右サイドバックもできる。それに、攻撃の起点としても強力だ」などと称賛されている。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ドルトムントU-17の監督として2013-14シーズンから2季連続優勝などしたハネス・ボルフ監督には「『6番のポジション』でもプレーできるサイドバックはなかなかいないから」とユーティリティー性を同じく評価されている(6番とは守備的ミッドフィルダーのポジション)。", "title": "プレースタイル" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その他の公式戦", "title": "個人成績" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "その他の国際公式戦", "title": "個人成績" } ]
酒井 高徳は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ヴィッセル神戸所属。ポジションはディフェンダー(サイドバック)、ミッドフィールダー。元日本代表。 四人兄弟の次男で、兄は柔道家の酒井高喜、弟はプロサッカー選手の酒井宣福 (名古屋グランパス所属) 、酒井高聖。
{{サッカー選手 | 名前 = 酒井 高徳 | 画像 = Gotoku Sakai 2018.jpg | 画像サイズ = 230px | 画像の説明 = [[サッカー日本代表|日本代表]]時代(2018年) | 本名 = | 愛称 = ゴートク、ゴウ、ゴートク饅頭<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150707-00010000-theworld-socc [移籍]ハンブルク、DF酒井高徳の獲得を正式発表 「ようこそゴウ!」] YAHOO!ニュース 2015年7月7日</ref> | カタカナ表記 = サカイ ゴウトク | アルファベット表記 = SAKAI Gotoku | 原語名 = | 原語表記 = | 国 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1991|3|14}} | 出身地 ={{USA}}<br />[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク市]] | 没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|||}}テンプレートを使用 --> | 身長 = 176cm | 体重 = 74kg | 血液型 = A型 | 所属チーム名 = {{Flagicon|JPN}} [[ヴィッセル神戸]] | ポジション = [[ディフェンダー (サッカー)|DF]]([[ディフェンダー (サッカー)#サイドバック|SB]])/ [[ミッドフィールダー|MF]] | 背番号 = 24 | 利き足 = 右足 | ユースクラブ1 = 三条サッカースポーツ少年団(三条市立大崎小学校)<ref name="NIC">[http://www.nippou-ranpoku.com/kawara/no.55_01.pdf NIC参上!かわらばん No.55 2009年5月15日] (PDF) [[新潟日報]]三条地区販売店 2011.10.2 08:31 (UTC) 閲覧</ref> | ユースクラブ2 = レザーFSジュニアユース(三条市立大崎中学校)<ref name="NIC"/> | ユースクラブ3 = アルビレックス新潟ユース([[開志学園高等学校]]) | ユース年1 = 2000-2002 | ユース年2 = 2003-2005 | ユース年3 = 2006-2008 | クラブ1 = {{Flagicon|JPN}} [[アルビレックス新潟]] | クラブ2 = →{{Flagicon|GER}} [[VfBシュトゥットガルト]](loan) | クラブ3 = {{Flagicon|GER}} VfBシュトゥットガルト | クラブ4 = {{Flagicon|GER}} [[ハンブルガーSV]] | クラブ5 = {{Flagicon|JPN}} [[ヴィッセル神戸]] | 年1 = 2009-2013 | 年2 = 2011-2013 | 年3 = 2013-2015 | 年4 = 2015-2019 | 年5 = 2019- | 出場1 = 74 | 得点1 = 0 | 出場2 = 28 | 得点2 = 0 | 出場3 = 59 | 得点3 = 1 | 出場4 = 114 | 得点4 = 1 | 出場5 = 145 | 得点5 = 5 | クラブ成績更新日 = 2023年12月3日 | 代表1={{fbu|20|JPN|name=日本U-19}} | 代表2={{fbu|23|JPN|name=日本U-23}} |代表3 = {{fb|JPN}} | 代表年1 = 2010 | 代表年2 = 2011-2012 | 代表年3 = 2012-2018<ref name=daihyo>{{Cite news|title=酒井 高徳|work=サッカー日本代表データベース|url=http://www.jfootball-db.com/players_sa/gotoku_sakai.html}}</ref> | 代表出場1 = 3 | 代表得点1 = 0 | 代表出場2 = 13 | 代表得点2 = 0 | 代表出場3 = 42 | 代表得点3 = 0 | 代表成績更新日 = 2018年6月29日 | 監督年 = | 監督チーム = | medaltemplates = }} '''酒井 高徳'''(さかい ごうとく、[[1991年]][[3月14日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]][[ニューヨーク市]]出身の[[プロサッカー選手]]。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]・[[ヴィッセル神戸]]所属。ポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]([[ディフェンダー (サッカー)#サイドバック|サイドバック]])、[[ミッドフィールダー]]。元[[サッカー日本代表|日本代表]]。 四人兄弟の次男で、兄は[[柔道|柔道家]]の[[酒井高喜]]、弟は[[プロサッカー選手]]の[[酒井宣福]] ([[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]所属) 、[[酒井高聖]]。 == 来歴 == === プロ入り前 === [[日本人]]の父親と[[ドイツ人]]の母親との間に[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]][[ニューヨーク市]]で生まれ、2歳の時父親の仕事の都合で[[新潟県]][[三条市]]に引っ越した<ref>{{Cite web|和書| author = 藤江直人| date = 2010-12-27| url = http://www.plus-blog.sportsnavi.com/ronspo/article/127| title = ザックJAPAN 酒井高徳の可能性! by 藤江直人 || work = 「論スポ」編集長の水道橋の不夜城!| language = 日本語| accessdate = 2011-10-07}}{{リンク切れ|date=2020年9月}}</ref>。 === アルビレックス新潟時代 === 10歳でサッカーを始め、三条サッカースポーツ少年団、レザーFSジュニアユースを経て、2006年に[[JAPANサッカーカレッジ]]高等部に進学し、[[開志学園高等学校]]に籍を置くとともに、[[アルビレックス新潟]]ユースに入団。寮生活によって、勉強とサッカーを両立させた<ref>[http://cups-y.com/route.html 「進路実績」] - JAPANサッカーカレッジ高等部、2018年8月21日閲覧。</ref>。2008年には、[[2種登録選手]]としてトップチームにも在籍した<ref>[http://www.j-league.or.jp/release/000/00002267.html 登録選手 追加・変更・抹消のお知らせ] [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]公式サイト 2008.3.21付ニュースリリース</ref>。同年11月5日に昇格が発表された<ref>[http://www.albirex.co.jp/past/news/2008-11.html 酒井 高徳 選手 来季新加入内定のお知らせ] [[アルビレックス新潟]]公式サイト 2008.11.5付ニュースリリース</ref>。2種登録期間中の11月15日、[[鳥取市営サッカー場|とりぎんバードスタジアム]]で行われた[[第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]5回戦(対戦相手: [[FC東京]])に出場し<ref>[http://www.jfa.or.jp/match/matches/2008/tennouhai/schedule_result/pdf/result_72.pdf 公式記録 第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会5回戦 アルビレックス新潟vsFC東京] (PDF) [[日本サッカー協会|JFA]]公式サイト 2011.10.2 09:07 (UTC) 閲覧</ref>、公式戦に初出場した。 2009年3月7日に[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]で開催されたJ1第1節(対戦相手: FC東京)にてリーグ戦に初出場した。同年度は途中出場を中心にリーグ戦18試合に出場した。2010年度よりレギュラーとして試合出場するようになり<ref>2010年度は全34試合中24試合がフル出場であった。[http://www.j-league.or.jp/data/view.php?c=niigata&t=p_record&g=j1_1&y=2010 Jリーグデータ アルビレックス新潟 2010 Jリーグ ディヴィジョン1 選手出場記録] (Jリーグ公式サイト、2011.10.2 09:22 (UTC) 閲覧) 参照。</ref>、翌2011年10月1日の[[横浜F・マリノス]]戦([[新潟スタジアム|東北電力ビッグスワンスタジアム]])にてプロ初得点を挙げた<ref>[http://liveweb.archive.org/http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp1-20111002-843755.html U22酒井高J1初ゴール!新潟快勝/J1] 日刊スポーツ 2011.10.2付記事 (アーカイヴ)</ref>。 === VfBシュトゥットガルト時代=== [[Image:VfB GotokuSakai.jpg|thumb|left|160px|[[VfBシュトゥットガルト|シュトゥットガルト]]時代(2013年)]] 2011年12月23日、[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]・[[VfBシュトゥットガルト]]への期限付き移籍が発表された<ref>[http://www.albirex.co.jp/tools/page_store/news_4400.html 酒井高徳選手 VfBシュツットガルト(ドイツ・ブンデスリーガ)へ期限付き移籍のお知らせ ]</ref><ref>[http://www.vfb.de/de/aktuell/meldungen/news/2011/ausleihe-sakai/page/3278-0-3-1324636854.html?f3 Ein Deutsch-Japaner für den VfB ] VfBシュトゥットガルト公式HP 2011年12月23日付 (2012年1月7日閲覧)</ref>。期限は[[2013年]]6月30日まで。新潟の生え抜きの選手が欧州のクラブに移籍するケースはこれが初である。2012年2月11日、第21節[[ヘルタ・ベルリン]]戦でスタメンフル出場しブンデスリーガ初出場を果たした。以降途中加入ながらレギュラーに定着し、地元紙からその活躍を絶賛されドイツ紙『WELT』から[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]に招集すべきと報道された<ref>{{Cite news|title=ドイツ紙がシュトゥット酒井高徳に注目「いますぐ彼を帰化させるべき」|author=|newspaper=サッカーキング|date=2012-04-16|url=http://www.soccer-king.jp/news/world/20120416/18273.html|accessdate=2015-01-28}}</ref>。 2013年1月10日、VfBシュトゥットガルトへ完全移籍<ref>[http://www.albirex.co.jp/news/top_team/37778 酒井 高徳選手 VfBシュツットガルト(ドイツ・ブンデスリーガ)へ完全移籍のお知らせ]</ref>。契約は16年6月まで。<!-- https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20130111-1070565.html --> 2015年2月14日、ブンデスリーガ第21節[[TSG 1899ホッフェンハイム|ホッフェンハイム]]戦でブンデスリーガ初得点を決めた。2014-15シーズンは、開幕当初こそスタメンで起用されたが、チームが残留争いの渦中に立たされたシーズン終盤は控えに甘んじることが多かった。 === ハンブルガーSV時代=== シュトゥットガルトでの出場機会は減少した為、移籍を検討。シュトゥットガルトの監督(2011年当時)であった[[ブルーノ・ラッバディア]]の熱望を受け、2015年7月5日に[[ハンブルガーSV]]へ完全移籍した<ref>[http://www.hsv.de/teams/meldungen/bundesliga/2015/juni/gotoku-sakai-vor-wechsel-zum-hsv/ Angereist - Gotoku Sakai beim Team in Laax] ハンブルガーSV公式HP 2015年7月5日付 (2015年7月6日閲覧)</ref>。11月7日、第12節[[SVダルムシュタット98|ダルムシュタット]]戦で初先発。2016年2月7日、第20節[[1.FCケルン|ケルン]]戦以降はレギュラーに定着し、3月6日、第25節ヘルタ・ベルリン戦ではブンデスリーガ通算100試合出場を記録<ref>{{Cite web|和書|title=100試合目のベストパフォーマンス。 酒井高徳がブンデスで得た存在感。|publisher=Number Web|date=2016-3-12|url=http://number.bunshun.jp/articles/-/825262|accessdate=2016-3-12}}</ref>。 2016年11月18日、[[マルクス・ギズドル]]監督からチームキャプテンに指名された<ref>{{Cite web|和書|title=酒井高徳がハンブルガーSVの新主将に就任…監督「全てを兼ね備えている」|publisher=Soccer king|date=2016-11-18|url=http://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20161118/517240.html|accessdate=2016-11-18}}</ref>。ブンデスリーガで日本人選手がチームキャプテンを務めるのはこれが史上初である<ref>山口裕平、”[http://www.goal.com/jp/news/123/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84/2016/11/20/29704822/%E3%81%AA%E3%81%9C%E9%85%92%E4%BA%95%E9%AB%98%E5%BE%B3%E3%81%AF%E4%B8%BB%E5%B0%86%E3%81%AB%E6%8C%87%E5%90%8D%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B%E7%8F%BE%E5%9C%B0%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AB%E8%A1%9D%E6%92%83%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%81%9F%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%83%8F%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0 なぜ酒井高徳は主将に指名されたのか?現地メディアに衝撃を与えた人物像とは/コラム]”、Goal.com、2016年11月20日、2018年8月19日閲覧。</ref>。また、この時より本職であるサイドバックだけでなく、ボランチでプレーする事も増えた。2017年1月28日、ブンデスリーガ第18節[[FCインゴルシュタット04]]では自身約2年ぶりのゴールとなるミドルシュートを決めた。最終節、同じく1部残留を争う[[VfLヴォルフスブルク]]戦ではフル出場し、2-1の勝利に貢献<ref>[https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20170521/590522.html “名門の主将”という重圧を背負った酒井高徳、残留に安堵の涙「ホッとした」] サッカーキング 2017年5月21日</ref>。結果的にキャプテン就任時はリーグ最下位だったチームを1部残留させる事に成功した<ref>[http://www.jsports.co.jp/press/article/N2017052311381002.html 劇的逆転弾で最終戦勝利。酒井高徳のハンブルガーSVがギリギリの残留決定] JSports 2017年5月23日</ref>。シーズン終了後には今まで一度も2部に降格した事のないチームのキャプテンを任される事について「何が何でも『2部に降格させた初めてのキャプテンが日本人だ』なんていうのは、もう絶対に、絶対に俺のプライドが許さないっていう感じのがありました。その重圧っていうのはすごくありましたね。何なら最終節の試合の途中でも『マジかよ』と思いながらプレーした時間帯もありました」とプレッシャーがかかっていた心境を吐露した<ref>[http://www.goal.com/jp/news/123/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84/2017/05/24/35792962/%E9%85%92%E4%BA%95%E9%AB%98%E5%BE%B3%E3%81%8C%E4%B8%BB%E5%B0%86%E3%81%AE%E9%87%8D%E5%9C%A7%E3%82%92%E5%90%90%E9%9C%B2%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%AF%80%E3%81%AE%E8%A9%A6%E5%90%88%E4%B8%AD%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%81%8B%E3%82%88%E3%81%A8%E6%80%9D%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%81%97%E3%81%9F 酒井高徳が主将の重圧を吐露「最終節の試合中『マジかよ』と思いながらプレーした」] Goal.com 2017年5月24日</ref>。 2017-18シーズンもキャプテンとしてプレーするも、チームは55年目のシーズンでクラブ史上初の2部降格が決定した<ref>[https://www.nikkansports.com/m/soccer/world/news/201805130000327_m.html?mode=all 伊藤V弾アシストも降格 酒井高徳涙こらえ「残念」] 日刊スポーツ 2018年5月13日</ref>。[[スュペル・リグ]]の[[ベシクタシュJK]]が関心を示していたものの、シーズン終了後にハンブルガーとの契約を延長し、残留した。 2018-19シーズンは、終盤まで自動昇格圏内の2位以内を維持していたが終盤に大失速し、プレーオフに参戦できる3位にも入れず、4位に終わった。1年での昇格を逃したチームの状況によりサポーターから槍玉にあげられ、最終節の[[MSVデュースブルク]]戦ではサポーターからブーイングを浴びせられた<ref>[https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=62843 「アンチはくたばれ!」ハンブルクからの退団が決まった酒井高徳。批判していた古巣サポーターの反応は…] サッカーダイジェストWeb 2019年08月14日</ref>。そのブーイングに対して、試合終了後に[[ルイス・ホルトビー]]らチームメイトが批判し、酒井をかばっている<ref>[https://web.gekisaka.jp/news/detail/?276180-276180-fl 最終節のブーイングは「去り際かなと…」酒井高徳を直撃、日本復帰の可能性は?] ゲキサカ 2019年6月6日</ref>。しかし、昇格を逃した戦犯扱いは変わらず、19-20シーズンに向けてのキャンプに参加した酒井が映っている写真がチームのInstagramに上がると、それが炎上する事態となった<ref>[https://www.goal.com/jp/ニュース/批判が収まらない酒井高徳クラブや同僚が反応退団のホルトビー彼は一体何をやった/1q95i4pe6men71czx22qg4mpe7 批判が収まらない酒井高徳、クラブや同僚が反応…退団のホルトビー「彼は一体何をやった?」] Goal.com 2019年7月5日</ref>。 === ヴィッセル神戸時代 === 2019年8月14日、[[ヴィッセル神戸]]への完全移籍を発表した<ref>[https://www.vissel-kobe.co.jp/news/article/16526.html DF酒井高徳選手がハンブルガーSV(ドイツ)より完全移籍加入のお知らせ] 2019年8月14日 ヴィッセル神戸</ref>。8月17日、第23節の[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]戦で2011年以来8年ぶりのJリーグ復帰を果たした<ref>[https://www.daily.co.jp/opinion-d/2019/08/23/0012632229.shtml 【サッカー】守備の安定だけではない J1神戸DF酒井高徳の加入効果] サンケイスポーツ(2019年8月23日)</ref>。以降は神戸の主力選手として活躍し、翌年1月1日に行われた[[鹿島アントラーズ]]との[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]決勝戦で勝利し、自身初のタイトルを獲得した。 2020年1月13日、[[石川県]][[羽咋郡]][[宝達志水町]]の特使になる<ref>[https://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20200113105.htm J1神戸の酒井選手 宝達志水町の「特使」に キャンプや教室計画] 2020年1月13日 北國新聞</ref>。3月30日、[[2019新型コロナウイルス]]に感染した事が発覚し入院。4月25日に退院した。Jリーガーとして初の新型コロナウイルス感染者となった<ref>[https://web.gekisaka.jp/news/detail/?301337-301337-fl 酒井高徳が退院後初コメント「コロナウィルスの恐ろしさを痛感しました」] ゲキサカ 2020年4月29日</ref>。9月5日、第14節の[[湘南ベルマーレ]]戦で神戸移籍後初ゴールを挙げた。J1リーグでの得点は9年ぶりとなった<ref>[https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=78713 【J1採点&寸評】湘南1-1神戸|9年ぶりJ1ゴールの酒井高徳の評価は? チームに6試合ぶりの先制点をもたらしたDFがMOMに!] サッカーダイジェスト 2020年9月6日</ref>。自身初の[[AFCチャンピオンズリーグ]]では6試合に出場し、ベスト4進出に貢献した。 2021年シーズンは、リーグ戦全38試合にフル出場し、ACL圏内で神戸のJ1最高順位となるリーグ3位に貢献。また、オーナーの[[三木谷浩史]]が選ぶ「三木谷良一賞」を受賞し<ref>[https://www.daily.co.jp/soccer/2021/11/27/0014873847.shtml 神戸・酒井高徳が「三木谷良一賞」受賞 唯一リーグ戦全試合出場、チームへの提言も] デイリースポーツ 2021年11月27 日</ref>、Jリーグ優秀選手賞にも選出された<ref>[https://www.vissel-kobe.co.jp/news/article/19422.html 「2021Jリーグ優秀選手賞」受賞のお知らせ] ヴィッセル神戸 2021年12月5日</ref>。 2022年シーズンも前年に引き続きリーグ戦全34試合にスタメン出場。メディアからは「鉄人」と称された。 2023年シーズンは開幕から右サイドバックを任され、第3節の[[ガンバ大阪]]戦でプロ入り後自身初となる1試合2ゴールを決めた。チームに負傷者が続出したこともありチーム状況によってはセンターバックを任され、シーズン終盤に盟友[[山口蛍]]が負傷欠場した際にはボランチとして穴を埋めるなどその[[ユーティリティープレイヤー|ポリバレント]]ぶりを遺憾なく発揮。また高いリーダーシップでチームを統率するなど、クラブを初のJ1リーグ優勝に導いた。シーズン終了後には自身初の[[Jリーグベストイレブン]]に選出された。 === 日本代表 === [[Image:JAP-POL (13).jpg|thumb|right|200px|[[2018 FIFAワールドカップ|2018ワールドカップ]]・[[2018 FIFAワールドカップ・グループH|グループH]]、対[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]戦]] 2006年、U-16日本代表に選出され、以後U-17、U-18と各カテゴリの代表チームに選出された。2008年には[[U-20サッカー日本代表|U-20日本代表]]へも選出され、[[SBSカップ 国際ユースサッカー]]へ出場した<ref>[http://www.jfa.or.jp/national_team/topics/2008/b20080819_2.html U-19日本代表 SBSカップ2008 国際ユースサッカー 参加選手の変更] JFA公式サイト 2008.8.19付ニュースリリース</ref>。 2010年1月6日には[[AFCアジアカップ2011 (予選)|AFCアジアカップ2011最終予選]]第5戦(対戦相手: [[サッカーイエメン代表|イエメン]])に出場する[[サッカー日本代表|日本代表]]に選出された<ref>[http://samuraiblue.jp/timeline/20100106/ 2011 AFCアジアカップ最終予選 イエメンvs日本] JFA公式サイト 2011.10.2 10:08 (UTC) 閲覧</ref> が、これがA代表への初選出であった。[[2010 FIFAワールドカップ]]では代表チームに選出されなかったが、サポートメンバーの一員としてチームに帯同した<ref>[http://samuraiblue.jp/newscenter/press_release/news_000158.html 2010FIFAワールドカップ 南アフリカ SAMURAI BLUE(日本代表)サポートメンバー] JFA公式サイト 2011.5.17付ニュースリリース</ref>。 同年10月には[[AFC U-19選手権2010]]に出場するU-19日本代表チームに選出され、[[ミッドフィールダー]]として3試合に出場したが、準々決勝で敗退し[[2011 FIFA U-20ワールドカップ]]への出場権を得る事はできなかった。12月には[[AFCアジアカップ2011|AFCアジアカップ2011本大会]]に出場する日本代表に選出された<ref>[http://samuraiblue.jp/newscenter/press_release/news_000244.html AFCアジアカップカタール2011 SAMURAI BLUE(日本代表)メンバー] JFA公式サイト 2010.12.24付ニュースリリース</ref> が、腰痛のためチームから離脱した<ref>[http://samuraiblue.jp/newscenter/press_release/news_000252.html AFCアジアカップカタール2011 SAMURAI BLUE(日本代表)選手変更のお知らせ] JFA公式サイト 2011.1.8付ニュースリリース</ref>。 2011年6月より、U-22日本代表に選出され[[2012年ロンドンオリンピックのサッカー競技・アジア予選|ロンドンオリンピック予選]] に出場した<ref>[http://www.jfa.or.jp/national_team/2012/2012u23_opq/groupC/match_page/m26.html 男子サッカーアジア最終予選/ロンドンオリンピック予選 groupC] JFA公式サイト 2011.10.2 10:44 (UTC) 閲覧</ref>。2012年のオリンピック本大会のメンバーにも選出され、右SBの[[酒井宏樹]]、左SBの[[徳永悠平]]のバックアップという位置付けながら<ref>[http://www.soccer-king.jp/sk_column/article/64047.html 衰えぬ気迫とスピードで成長を続ける酒井高徳] SOCCER KING 2012.08.04</ref> 酒井宏樹の負傷もあって4試合に出場し、ベスト4入りに貢献した。 2012年9月6日に故郷、新潟にある[[新潟スタジアム]]で行われた[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ]]2012、対[[サッカーアラブ首長国連邦代表|UAE]]戦でA代表デビューを果たした<ref name=daihyo/>。 2014年5月12日に[[2014 FIFAワールドカップ|W杯ブラジル大会]]の日本代表メンバーに選出された<ref>{{Cite web|和書|date=2014-05-12 |url=http://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20140512/189065.html |title=W杯臨む日本代表メンバー23名が発表…本田や香川ら、大久保も選出 |publisher=サッカーキング |accessdate=2014-05-13}}</ref>。しかし、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。 日本代表が[[ハビエル・アギーレ]]体制になってからは、それまで右SBを務めていた[[内田篤人]]の負傷離脱などの影響で重用されるようになり、アギーレ体制での試合全てに出場する<ref>{{Cite web|和書|date=2015-01-06 |url=http://www.soccer-king.jp/news/japan/20150106/266756.html |title=アギーレ体制全試合出場の酒井高…内田の離脱で一気にレギュラーへ |publisher=サッカーキング |accessdate=2015-02-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015-01-26 |url=http://www.jsports.co.jp/press/article/N2015012611153802_2.html |title=酒井高徳は懸命に奮闘も、内田篤人の穴を感じさせた2015年アジアカップ |publisher=JSports |accessdate=2015-02-10}}</ref>。[[2015年]]1月の[[AFCアジアカップ2015]]でも全ての試合で先発フル出場するも、チームは準々決勝で敗れた。 代表監督が[[ヴァイッド・ハリルホジッチ]]に変わってからも引き続き召集され、当時クラブで担当していた事もあり、手薄であったDHとして出場した試合もあったが、目立った活躍ができずDH要員から構想外となると、両SBのバックアッパーと言う立場は変わらなかった。2018年5月31日に[[2018 FIFAワールドカップ|W杯ロシア大会]]の日本代表メンバーに選出された<ref>{{Cite web|和書|date=2018-05-31 |url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20180531/767357.html |title=日本代表、ロシアW杯メンバー23名決定! 浅野、三竿、井手口が落選 |publisher=サッカーキング |accessdate=2018-05-31}}</ref>。第3戦の[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]戦に先発でW杯初出場を果たしたが、ポジションは本来とは違う右MFであった。敗退後に、「次のW杯を、僕は目指すつもりはない。未来と希望がある選手が目指したほうがいい」と述べ、今大会を最後のW杯とする意向を明かしている<ref>[https://www.nikkansports.com/m/soccer/russia2018/news/201807030000406_m.html?mode=all 酒井高徳は今大会を最後に「未来と希望ある選手が」] 日刊スポーツ 2018年7月3日</ref>。 == 人物 == 利き足含めスポーツを行う際は右利きだが、利き手は左である<ref>[https://www.soccerdigestweb.com/news/detail4/id=9207 【独占ロングインタビュー】酒井高徳が語るシュツットガルトでの3年半|前編](2015年5月20日)にて、「投げるのは右だけど、食事の時には左。」と発言</ref>。ちなみに筆記も左手で行うが、サインは右手で書く。 == プレースタイル == フィジカルが強く、長い距離をアップダウンすることができるスタミナが持ち味で<ref>アルビレックス新潟オフィシャルハンドブック2009</ref>、左右サイドハーフのポジションでもプレーする事ができる<ref>[http://liveweb.archive.org/http://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/p-sc-tp2-20110919-837251.html U22で唯一のパパ!20歳DF酒井高先発へ] [[日刊スポーツ]] 2011.9.19付記事 (アーカイヴ)</ref>。「キックは両足とも自信がある」と語っており、利き足ではない左足のフリーキックを託されることもある<ref>[http://www.asahi.com/worldcup/column/theroad/TKY201205090195.html 酒井高徳、持ち味は修正力] asahi.com 2012年5月10日配信、2015年10月31日閲覧。</ref>。また、対人守備おいて絶対的な安定感をみせチームからの信頼は厚い(後述)<ref>サッカーダイジェスト 2016 J1&J2&J3 選手名鑑</ref>。 ハンブルガーSVの監督である[[ブルーノ・ラッバディア]]からは「彼のメンタリティーはピカイチ」「彼はものすごくフレキシブルな選手。両利きで、左サイドバックも右サイドバックもできる。それに、攻撃の起点としても強力だ」などと称賛されている<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20150703/327535.html HSV指揮官が惚れ込んだ酒井高徳、独紙も隅から隅までベタ褒め] サッカーキング 2015年7月3日配信、2015年10月31日閲覧。</ref>。 ドルトムントU-17の監督として2013-14シーズンから2季連続優勝などした[[ハネス・ボルフ]]監督には「『6番のポジション』でもプレーできるサイドバックはなかなかいないから」とユーティリティー性を同じく評価されている<ref>{{Cite web|和書|title=酒井高徳は「重要すぎる選手」。新システムの中心に選ばれた理由。|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/833536|website=Number Web|accessdate=2019-03-18|language=|publisher=|author=ミムラユウスケ|quote=「オマエはもうすぐ、28歳か……。大丈夫だ。このまま俺と一緒にやっていけば、オマエは成長していけるぞ! 『6番のポジション』でもプレーできるサイドバックはなかなかいないから」}}</ref>(6番とは守備的ミッドフィルダーのポジション<ref>{{Cite web|和書|title=指導現場でも重宝。ドイツで流通するポジション名と“背番号” {{!}} footballista.jp|url=https://www.footballista.jp/column/39935|website=footballista|accessdate=2019-03-18|language=ja|publisher=|quote=ドイツでは現場レベルでもいまだに番号で呼ばれるポジションがいくつかある。「ゼクサー」(6番)は守備的MF}}</ref>)。 == 所属クラブ == * {{0|000000}} - 2002年 三条SSS (大崎小) * 2003年 - 2005年 レザーFSJr.ユース (大崎中) * 2006年 - 2008年 アルビレックス新潟ユース ([[開志学園高等学校|開志学園高]]) * 2009年 - 2013年 [[アルビレックス新潟]] ** 2011年12月 - 2013年1月 [[VfBシュトゥットガルト]] ([[期限付き移籍]]) * 2013年1月 - 2015年 VfBシュトゥットガルト * 2015年 - 2019年8月 [[ハンブルガーSV]] * 2019年8月 - [[ヴィッセル神戸]] == 個人成績 == {{サッカー選手国内成績表 top|yy}} {{サッカー選手国内成績表 th|日本|all}} |- |[[2008年のJリーグ|2008]]||rowspan="4"|[[アルビレックス新潟|新潟]]||29||rowspan="4"|[[J1リーグ|J1]]||0||0||0||0||1||0||1||0 |- |[[2009年のJリーグ|2009]]||rowspan="3"|24||18||0||4||0||1||0||23||0 |- |[[2010年のJリーグ|2010]]||31||0||4||0||0||0||35||0 |- |[[2011年のJリーグ|2011]]||25||1||3||0||2||0||30||1 {{サッカー選手国内成績表 th|ドイツ|all}} |- |[[ドイツ・ブンデスリーガ2011-2012|2011-12]]||rowspan="4"|[[VfBシュトゥットガルト|シュトゥットガルト]]||rowspan="4"|2||rowspan="7"|[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデス1部]]||14||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-|||14||0 |- |[[ドイツ・ブンデスリーガ2012-2013|2012-13]]||27||0||colspan="2"|-||4||0||31||0 |- |[[ドイツ・ブンデスリーガ2013-2014|2013-14]]||28||0||colspan="2"|-||2||0||30||0 |- |[[ドイツ・ブンデスリーガ2014-2015|2014-15]]||18||1||colspan="2"|-||1||0||19||1 |- |[[ドイツ・ブンデスリーガ2015-2016|2015-16]]||rowspan=4|[[ハンブルガーSV]]||rowspan=4|24||22||0||colspan="2"|-||1||0||23||0 |- |[[ドイツ・ブンデスリーガ2016-2017|2016-17]]||33||1||colspan="2"|-||4||0||37||1 |- |[[ドイツ・ブンデスリーガ2017-2018|2017-18]]||28||0||colspan="2"|-||1||0||29||0 |- |[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)2018-2019|2018-19]]||[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|ブンデス2部]]||31||0||colspan="2"|-||3||0||34||0 {{サッカー選手国内成績表 th|日本|all}} |- |[[2019年のJリーグ|2019]]||rowspan=5|[[ヴィッセル神戸|神戸]]||rowspan=5|24||rowspan=5|J1||12||0||colspan="2"|-||4||0||16||0 |- |[[2020年のJリーグ|2020]]||32||1||1||0||colspan="2"|-||33||1 |- |[[2021年のJリーグ|2021]]||38||1||7||0||2||0||47||1 |- |[[2022年のJリーグ|2022]]||34||1||1||0||3||1||38||2 |- |[[2023年のJリーグ|2023]]||29 ||2 ||1 ||0 ||3 ||0 ||33 ||2 {{サッカー選手国内成績表 通算始|3|日本|J1}}219||6||21||0||16||1||256||7 {{サッカー選手国内成績表 通算行|ドイツ|ブンデス1部}}170||2||colspan="2"|-||13||0||183||2 {{サッカー選手国内成績表 通算行|ドイツ|ブンデス2部}}31||0||colspan="2"|-||3||0||34||0 {{サッカー選手国内成績表 通算終}}420||8||21||0||32||1||473||9 |} *2008年は2種登録 その他の公式戦 * 2020年 ** [[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP]] 1試合0得点 {{サッカー選手国際成績表 top|1|}} {{サッカー選手国際成績表 th|UEFA|1|}} |[[UEFAヨーロッパリーグ 2012-13|2012-13]]||rowspan="2"|[[VfBシュトゥットガルト|シュトゥットガルト]]||rowspan="2"|2||9||1 |- |[[UEFAヨーロッパリーグ 2013-14|2013-14]]||2||0 |- {{サッカー選手国際成績表 th|AFC|1}} |[[AFCチャンピオンズリーグ2020|2020]]||rowspan=2|[[ヴィッセル神戸|神戸]]||rowspan=2|24||6<ref group="注釈">実際には計7試合に出場したが、第1節の[[ジョホール・ダルル・タクジムFC]]戦が無効試合となった。</ref>||0 |- |[[AFCチャンピオンズリーグ2022|2022]]||5||0 |- !通算!!colspan="2"|UEFA |11||1 |- !通算!!colspan="2"|AFC |11||0 |- |} その他の国際公式戦 * 2012年 ** [[UEFAヨーロッパリーグ 2012-13]] 予選プレーオフ 9試合1得点 * 2012年 ** [[UEFAヨーロッパリーグ 2013-14]] 予選プレーオフ 2試合0得点 * 2022年 ** [[AFCチャンピオンズリーグ2022]]・プレーオフ 1試合0得点 == 日本代表歴 == === 出場大会 === * U-15日本代表(2006年) * U-16日本代表(2007年) * U-17日本代表(2008年) * U-18日本代表 ** 2009年 [[AFC U-19選手権2010 (予選)]] (出場4試合2得点) * U-19日本代表 ** 2010年 [[AFC U-19選手権2010]] (出場3試合0得点) * [[U-20サッカー日本代表|U-20日本代表]] ** 2010年 [[仙台カップ国際ユースサッカー大会]] * [[U-23サッカー日本代表|U-23日本代表]] ** 2011年-2012年 [[2012年ロンドンオリンピックのサッカー競技・アジア予選|ロンドンオリンピック アジア予選]](出場2試合0得点) ** 2012年 [[トゥーロン国際大会]] ** 2012年 [[2012年ロンドンオリンピックのサッカー競技|ロンドンオリンピック]] (出場4試合0得点) * [[サッカー日本代表|日本代表]] **2013年 [[FIFAコンフェデレーションズカップ2013]] **2014年 [[2014 FIFAワールドカップ]] **2015年 [[AFCアジアカップ2015]] **2016年 [[キリンカップサッカー2016]] **2018年 [[2018 FIFAワールドカップ]] === 試合数 === * 国際Aマッチ 42試合 0得点 (2012年 - 2018年)<ref name=daihyo/> {{サッカー代表個人成績|日本|1}} |- |[[2012年のサッカー日本代表|2012]]||2||0 |- |[[2013年のサッカー日本代表|2013]]||9||0 |- |[[2014年のサッカー日本代表|2014]]||7||0 |- |[[2015年のサッカー日本代表|2015]]||7||0 |- |[[2016年のサッカー日本代表|2016]]||7||0 |- |[[2017年のサッカー日本代表|2017]]||4||0 |- |[[2018年のサッカー日本代表|2018]]||6||0 |- !通算 |42||0 |} === 出場 === {| class="wikitable" |+ !No. !開催日 !開催都市 !スタジアム !対戦国 !結果 !監督 !大会 |- |1. |2012年9月6日||{{Flagicon|JPN}}[[新潟市|新潟]]||[[新潟スタジアム|東北電力ビッグスワンスタジアム]]||{{UAEf}}||○1-0|| rowspan="12" |[[アルベルト・ザッケローニ|ザッケローニ]]||[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ2012]] |- |2. |2012年11月14日||{{Flagicon|OMN}}[[オマーン]]||[[スルタン・カーブース・スポーツコンプレックス]]||{{OMNf}}||○2-1||[[2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選|2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選]] |- |3. |2013年2月6日||{{Flagicon|JPN}}[[神戸]]||[[御崎公園球技場|ホームズスタジアム神戸]]||{{LVAf}}||○3-0||[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ2013]] |- |4. |2013年3月22日||{{Flagicon|UAE}}[[アル・アイン]]||[[ハリーファ国際スタジアム|ハリファインターナショナルスタジアム]]||{{CANf}}||○2-1||国際親善試合 |- |5. |2013年3月26日||{{Flagicon|SAU}}[[ブライダ]]||[[キング・アブドゥッラー・スポーツシティ]]||{{JORf}}||●1-2||[[2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選|2014 FIFAワールドカップ・アジア最終予選]] |- |6. |2013年8月14日||{{Flagicon|JPN}}[[宮城県|宮城]]||[[宮城スタジアム]]||{{URYf}}||●2-4|| rowspan="3" |[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ2013]] |- |7. |2013年9月6日||{{Flagicon|JPN}}[[大阪]]||[[長居陸上競技場|大阪長居スタジアム]]||{{GTMf}}||○3-0 |- |8. |2013年9月10日||{{Flagicon|JPN}}[[横浜市|横浜]]||[[横浜国際総合競技場]]||{{GHAf}}||○3-1 |- |9. |2013年10月15日||{{Flagicon|BLR}}[[ジョジナ]]||[[エドゥアルド・ストレリツォフ・スタジアム|トルペド・スタジアム]]||{{BLRf}}||●0-1|| rowspan="3" |国際親善試合 |- |10. |2013年11月16日||{{Flagicon|BEL}}[[ヘンク]]||[[クリスタル・アレナ]]||{{NLDf}}||△2-2 |- |11. |2013年11月19日||{{Flagicon|BEL}}[[ブリュッセル]]||[[ボードゥアン国王競技場]]||{{BELf}}||○3-2 |- |12. |2014年3月5日||{{Flagicon|JPN}}[[東京]]||[[国立競技場]]||{{NZLf}}||○4-2|| rowspan="4" |[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ2014]] |- |13. |2014年9月5日||{{Flagicon|JPN}}[[札幌市|札幌]]||[[札幌ドーム]]||{{URYf}}||●0-2|| rowspan="10" |[[ハビエル・アギーレ|アギーレ]] |- |14. |2014年9月9日||{{Flagicon|JPN}}横浜||[[横浜国際総合競技場]]||{{VENf}}||○3-0 |- |15. |2014年10月10日||{{Flagicon|JPN}}新潟||[[新潟スタジアム|デンカビックスワンスタジアム]]||{{JAMf}}||○1-0 |- |16. |2014年10月14日||{{Flagicon|SGP}}[[カラン]]||[[シンガポール・ナショナルスタジアム]]||{{BRAf}}||●0-4||国際親善試合 |- |17. |2014年11月14日||{{Flagicon|JPN}}[[豊田市|豊田]]||[[豊田スタジアム]]||{{HNDf}}||○6-0|| rowspan="2" |[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ2014]] |- |18. |2014年11月18日||{{Flagicon|JPN}}[[大阪]]||[[長居陸上競技場|ヤンマースタジアム長居]]||{{AUSf}}||○2-1 |- |19. |2015年1月12日||{{Flagicon|AUS}}[[ニューカッスル (ニューサウスウェールズ州)|ニューカッスル]]||[[ニューカッスル国際スポーツセンター|ニューカッスル・スタジアム]]||{{PSEf}}||○4-0|| rowspan="4" |[[AFCアジアカップ2015]] |- |20. |2015年1月16日||{{Flagicon|AUS}}[[ブリスベン]]||[[サンコープ・スタジアム|ブリスベン・スタジアム]]||{{IRQf}}||○1-0 |- |21. |2015年1月20日||{{Flagicon|AUS}}[[メルボルン]]||[[メルボルン・レクタンギュラー・スタジアム]]||{{JORf}}||○2-0 |- |22. |2015年1月23日||{{Flagicon|AUS}}[[シドニー]]||[[スタジアム・オーストラリア]]||{{UAEf}}||●1-1 (PK4-5) |- |23. |2015年3月31日||{{Flagicon|JPN}}[[東京]]||[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム]]||{{UZBf}}||○5-1|| rowspan="16" |[[ヴァイッド・ハリルホジッチ|ハリルホジッチ]]||JALチャレンジカップ2015 |- |24. |2015年10月8日||{{Flagicon|OMN}}[[マスカット]]||[[シーブ・スタジアム]]||{{SYRf}}||○3-0||[[2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選]]兼[[AFCアジアカップ2019 (予選)|AFCアジアカップUAE予選]] |- |25. |2015年10月13日||{{Flagicon|IRN}}[[テヘラン]]||[[アザディスタジアム]]||{{IRNf}}||△1-1||国際親善試合 |- |26. |2016年3月29日||{{Flagicon|JPN}}さいたま||[[埼玉スタジアム2002]]||{{SYRf}}||○5-0||[[2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選]]兼[[AFCアジアカップ2019 (予選)|AFCアジアカップUAE予選]] |- |27. |2016年6月7日||{{Flagicon|JPN}}[[大阪]]||[[市立吹田サッカースタジアム]]||{{BIHf}}||●1-2||[[キリンカップサッカー2016]] |- |28. |2016年9月1日||{{Flagicon|JPN}}さいたま||[[埼玉スタジアム2002]]||{{UAEf}}||●1-2|| rowspan="4" |[[2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選|2018 FIFAワールドカップ・アジア最終予選]] |- |29. |2016年9月6日||{{Flagicon|THA}}[[バンコク]]||[[ラジャマンガラ競技場]]||{{THAf}}||○2-0 |- |30. |2016年10月6日||{{Flagicon|JPN}}さいたま||[[埼玉スタジアム2002]]||{{IRQf}}||○2-1 |- |31. |2016年10月11日||{{Flagicon|AUS}}[[メルボルン]]||[[ドックランズ・スタジアム]]||{{AUSf}}||△1-1 |- |32. |2016年11月11日||{{Flagicon|JPN}}[[茨城県|茨城]]||[[茨城県立カシマサッカースタジアム]]||{{OMNf}}||○4-0||[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ2016]] |- |33. |2017年3月28日||{{Flagicon|JPN}}さいたま||[[埼玉スタジアム2002]]||{{THAf}}||○4-0|| rowspan="2" |[[2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選|2018 FIFAワールドカップ・アジア最終予選]] |- |34. |2017年6月13日||{{Flagicon|IRN}}[[テヘラン]]||[[シャヒード・ダストゲルディ・スタジアム]]||{{IRQf}}||△1-1 |- |35. |2017年10月10日||{{Flagicon|JPN}}横浜||[[横浜国際総合競技場|日産スタジアム]]||{{HTIf}}||△3-3||[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ2017]] |- |36. |2017年11月14日||{{Flagicon|BEL}}[[ブルッヘ]]||[[ヤン・ブレイデルスタディオン]]||{{BELf}}||●0-1|| rowspan="2" |国際親善試合 |- |37. |2018年3月23日||{{Flagicon|BEL}}[[リエージュ]]||[[スタッド・モーリス・デュフラン]]||{{MLIf}}||△1-1 |- |38. |2018年3月27日||{{Flagicon|BEL}}[[リエージュ]]||[[スタッド・モーリス・デュフラン]]||{{UKRf}}||●1-2|| rowspan="2" |[[サッカー日本代表の国際親善試合|キリンチャレンジカップ2018]] |- |39. |2018年5月30日||{{Flagicon|JPN}}横浜||[[横浜国際総合競技場|日産スタジアム]]||{{GHAf}}||●0-2|| rowspan="4" |[[西野朗]] |- |40. |2018年6月8日||{{Flagicon|CHE}}[[ルガーノ]]||[[Cornaredo Stadium|スタディオ・コルナレド]]||{{Flagicon|CHE}}[[スイス]]||●0-2|| rowspan="2" |国際親善試合 |- |41. |2018年6月12日||{{Flagicon|AUT}}[[インスブルック]]||[[ティヴォリ・シュターディオン]]||{{PRYf}}||○4-2 |- |42. |2018年6月28日||{{Flagicon|RUS}}[[ヴォルゴグラード]]||[[ヴォルゴグラード・アリーナ]]||{{POLf}}||●0-1||[[2018 FIFAワールドカップ]] |} == タイトル == === クラブ === ;ヴィッセル神戸 * [[J1リーグ]]:1回([[2023年のJリーグ|2023年]]) * [[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会]]:1回([[天皇杯 JFA 第99回全日本サッカー選手権大会|2019年]]) * [[スーパーカップ (日本サッカー)|FUJI XEROX SUPER CUP]]:1回([[2020年のスーパーカップ (日本サッカー)|2020年]]) === 個人 === * [[Jリーグベストイレブン]]:1回(2023年) * [[仙台カップ国際ユースサッカー大会]]優秀選手賞(2010年)<ref>[http://sendaicup.jp/result/y2010/ 2010年 試合結果] [[仙台カップ国際ユースサッカー大会]]公式サイト 2011.10.2 10:49 (UTC) 閲覧</ref> == 関連作品 == === 書籍 === * 『W~ダブル~ - 人とは違う、それでもいい -』([[ワニブックス]]、2019年、ISBN 978-4-8470-9786-7)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wani.co.jp/event.php?id=6218 |title=W~ダブル~ - 人とは違う、それでもいい -(酒井高徳) |publisher=[[ワニブックス]] |accessdate=2019-12-13}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ---- * Jリーグ出場記録 ** {{Jリーグ出場記録 |niigata|1|2008}}、{{Jリーグ出場記録 |niigata|1|2009}}、{{Jリーグ出場記録 |niigata|1|2010}}、{{Jリーグ出場記録 |niigata|1|2011}} == 関連項目 == * [[兄弟スポーツ選手一覧]] * [[新潟県出身の人物一覧]] * [[アルビレックス新潟の選手一覧]] * [[ヨーロッパのサッカーリーグに所属する日本人選手一覧]] * [[ドイツ・ブンデスリーガに所属する日本人サッカー選手一覧]] * [[ヴィッセル神戸の選手一覧]] == 外部リンク == * [http://www.sakaigotoku.com/ 酒井高徳オフィシャルウェブサイト] *{{Sports links}} * {{Wayback|url=http://blogs.yahoo.co.jp/goutokukouenkai |title=後援会ブログ |date=20191101000000}} * {{Twitter|sakai_go1123|酒井高徳/Gotoku Sakai}} * {{Instagram|sakai_go1123|GotokuSakai_official}} {{ヴィッセル神戸のメンバー}} {{Jリーグベストイレブン (DF)}} {{Navboxes |title= 日本代表 - 出場大会 |titlestyle=background:#0000DD; color:white; border:1px solid #0202FF |list1= {{AFC U-19選手権2010日本代表}} {{第40回トゥーロン国際大会日本代表}} {{ロンドンオリンピック サッカー日本代表}} {{FIFAコンフェデレーションズカップ2013 日本代表}} {{2014 FIFAワールドカップ日本代表}} {{AFCアジアカップ2015 日本代表}} {{2018 FIFAワールドカップ日本代表}} }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さかい こうとく}} [[Category:日本のサッカー選手]] [[Category:サッカー日本代表選手]] [[Category:FIFAワールドカップ日本代表選手]] [[Category:2014 FIFAワールドカップ出場選手]] [[Category:2018 FIFAワールドカップ出場選手]] [[Category:FIFAコンフェデレーションズカップ日本代表選手]] [[Category:FIFAコンフェデレーションズカップ2013出場選手]] [[Category:AFCアジアカップ日本代表選手]] [[Category:AFCアジアカップ2015出場選手]] [[Category:オリンピックサッカー日本代表選手]] [[Category:2012年ロンドンオリンピックサッカー出場選手]] [[Category:アルビレックス新潟の選手]] [[Category:VfBシュトゥットガルトの選手]] [[Category:ハンブルガーSVの選手]] [[Category:ヴィッセル神戸の選手]] [[Category:サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)の日本人選手]] [[Category:ドイツ系日本人]] [[Category:ニューヨーク市出身の人物]] [[Category:新潟県出身の人物]] [[Category:1991年生]] [[Category:存命人物]]
2008-12-07T14:58:47Z
2023-12-07T07:08:43Z
false
false
false
[ "Template:サッカー選手国際成績表 top", "Template:サッカー代表個人成績", "Template:IRNf", "Template:HTIf", "Template:CANf", "Template:BRAf", "Template:サッカー選手国内成績表 th", "Template:サッカー選手国際成績表 th", "Template:MLIf", "Template:PRYf", "Template:Twitter", "Template:サッカー選手国内成績表 通算終", "Template:SYRf", "Template:Flagicon", "Template:GTMf", "Template:IRQf", "Template:UZBf", "Template:VENf", "Template:HNDf", "Template:Jリーグ出場記録", "Template:LVAf", "Template:BELf", "Template:Instagram", "Template:Normdaten", "Template:Cite web", "Template:Cite news", "Template:ヴィッセル神戸のメンバー", "Template:サッカー選手国内成績表 top", "Template:UAEf", "Template:リンク切れ", "Template:Navboxes", "Template:JORf", "Template:JAMf", "Template:PSEf", "Template:サッカー選手国内成績表 通算行", "Template:NLDf", "Template:BIHf", "Template:0", "Template:サッカー選手国内成績表 通算始", "Template:BLRf", "Template:THAf", "Template:Wayback", "Template:Sports links", "Template:サッカー選手", "Template:URYf", "Template:Reflist", "Template:OMNf", "Template:POLf", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Jリーグベストイレブン (DF)", "Template:GHAf", "Template:NZLf", "Template:AUSf", "Template:UKRf" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E9%AB%98%E5%BE%B3
4,632,686
SUN AUDITION 〜君の声優ストーリーをつくろう!〜
『SUN AUDITION 〜君の声優ストーリーをつくろう!〜』(サンオーディション きみのせいゆうストーリーをつくろう)は、日本で2022年に開催された同名の声優ユニット公開オーディションを題材とするドキュメンタリー番組。 2022年5月28日(27日深夜)から10月1日(9月30日深夜)までBS12 トゥエルビ「アニメ26」枠で不定期放送(全6回)。トゥエルビの本放送から2日遅れで、インターネット放送局のABEMAでも配信されている。 「SUN AUDITION」は、声優事務所の81プロデュースが演技・歌・ダンスの3要素を兼備した声優ガールズユニットの発掘を目的として新規に立ち上げたオーディション企画である。合格者は81プロデュースへの所属とユニバーサルミュージックからのメジャーデビューが確約され、特別後援に名を連ねる豊島区の地域PR活動への参加を予定している。 応募者総数は3,347名で、東京と大阪の2会場で実施された二次審査の通過者20名が「ファイナリスト」として2022年4月10日に池袋のサンシャインシティ噴水広場でお披露目イベントに臨んだ。その後、演技・歌唱・ダンスの実技による三次審査を経て最終候補が12名に絞られ、7月に合格者8名が決定。この8名により声優ユニット「IBERIs&」(イベリスアンド)を結成し、8月20日に同じ会場でデビューイベントを行った。 他、各部門
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『SUN AUDITION 〜君の声優ストーリーをつくろう!〜』(サンオーディション きみのせいゆうストーリーをつくろう)は、日本で2022年に開催された同名の声優ユニット公開オーディションを題材とするドキュメンタリー番組。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2022年5月28日(27日深夜)から10月1日(9月30日深夜)までBS12 トゥエルビ「アニメ26」枠で不定期放送(全6回)。トゥエルビの本放送から2日遅れで、インターネット放送局のABEMAでも配信されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「SUN AUDITION」は、声優事務所の81プロデュースが演技・歌・ダンスの3要素を兼備した声優ガールズユニットの発掘を目的として新規に立ち上げたオーディション企画である。合格者は81プロデュースへの所属とユニバーサルミュージックからのメジャーデビューが確約され、特別後援に名を連ねる豊島区の地域PR活動への参加を予定している。", "title": "オーディション概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "応募者総数は3,347名で、東京と大阪の2会場で実施された二次審査の通過者20名が「ファイナリスト」として2022年4月10日に池袋のサンシャインシティ噴水広場でお披露目イベントに臨んだ。その後、演技・歌唱・ダンスの実技による三次審査を経て最終候補が12名に絞られ、7月に合格者8名が決定。この8名により声優ユニット「IBERIs&」(イベリスアンド)を結成し、8月20日に同じ会場でデビューイベントを行った。", "title": "オーディション概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "他、各部門", "title": "オーディション概要" } ]
『SUN AUDITION 〜君の声優ストーリーをつくろう!〜』は、日本で2022年に開催された同名の声優ユニット公開オーディションを題材とするドキュメンタリー番組。 2022年5月28日(27日深夜)から10月1日(9月30日深夜)までBS12 トゥエルビ「アニメ26」枠で不定期放送(全6回)。トゥエルビの本放送から2日遅れで、インターネット放送局のABEMAでも配信されている。
{{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = SUN AUDITION 〜君の<br />声優ストーリーをつくろう!〜 | 画像 = <!--入力例:Example.svg--> | 画像サイズ = <!--pxを含まない入力例:200--> | 画像サイズ自動補正比 = | 画像の代替テキスト = | 画像説明 = | 別名 = | ジャンル = [[オーディション]]、[[ドキュメンタリー]] | 原作 = | 原案 = | 企画 = SUN AUDITION運営委員会 | 構成 = | 脚本 = <!--「作」も使用可--> | 台本 = | 総監督 = | 監督 = | 演出 = | 監修 = | クリエイティブ・ディレクター = | 司会者 = [[神尾晋一郎]]<br />[[本泉莉奈]]<br />[[稗田寧々]] | 出演者 = | アナウンサー = | 審査員 = | 声の出演 = | ナレーター = [[酒巻光宏]] | テーマ曲作者 = | 音楽 = | 作曲 = | OPテーマ = | EDテーマ = | 国・地域 = {{JPN}} | 言語 = 日本語 | 時代設定 = | シーズン数 = | シリーズ数 = | 話数 = | 各話リスト = | 各話の長さ = | エグゼクティブ・プロデューサー = | プロデューサー = | 制作プロデューサー = | 撮影地 = | 撮影監督 = | 撮影体制 = | 編集 = | 制作 = | 製作 = | 配給 = | 製作費 = <!--「放送」ヘッダ--> | ヘッダ = 放送 <!--既定値は「放送」--> | ネット配信 = | 放送チャンネル = [[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|BS12 トゥエルビ]]、[[AbemaTV]] | 映像形式 = | 音声形式 = | 放送国 = {{JPN}} | 放送期間 = [[2022年]][[5月28日]] - [[10月1日]] | 放送時間 = 土曜日 02:30 - 03:00<br />※不定期 | 放送枠 = [[アニメ26]] | 放送分 = 30 | 放送回数 = 全6回 | 外部リンク = https://www.twellv.co.jp/program/documentary/sun-audition/ | 外部リンク名 = BS12 トゥエルビ番組紹介 | 副次的外部リンク = https://abema.tv/video/title/218-445 | 副次的外部リンク名 = ABEMA配信ページ | ヘッダ1 = | ネット配信1 = | 司会者1 = | 出演者1 = | 審査員1 = | 声の出演1 = | ナレーター1 = | アナウンサー1 = | OPテーマ1 = | EDテーマ1 = | 放送チャンネル1 = <!--「放送局1」も使用可--> | 映像形式1 = | 音声形式1 = | 放送国1 = | 放送期間1 = | 放送時間1 = | 放送枠1 = | 各話の長さ1 = <!--「放送分1」も使用可--> | 放送回数1 = | 外部リンク1 = | 外部リンク名1 = <!--既定値は「公式ウェブサイト」--> <!--以下、数字は「20」まで--> <!--「番組年表」ヘッダ--> | 前作 = | 次作 = | 関連番組 = <!--脚注--> | 特記事項 = }} 『'''SUN AUDITION 〜君の声優ストーリーをつくろう!〜'''』(サンオーディション きみのせいゆうストーリーをつくろう)は、[[日本]]で[[2022年]]に開催された同名の[[声優ユニット]]公開[[オーディション]]を題材とする[[ドキュメンタリー]]番組。 2022年[[5月28日]](27日深夜)から[[10月1日]](9月30日深夜)まで[[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|BS12 トゥエルビ]]「[[アニメ26]]」枠で不定期放送(全6回)。トゥエルビの本放送から2日遅れで、インターネット放送局の[[ABEMA]]でも配信されている。 == オーディション概要 == '''「SUN AUDITION」'''は、[[声優]]事務所の[[81プロデュース]]が演技・歌・ダンスの3要素を兼備した声優ガールズユニットの発掘を目的として新規に立ち上げたオーディション企画である<ref name="m20220407">{{Cite news|date=2022-04-07|title=SUN AUDITION:ファイナリスト20人発表 SNSも開設 声優ガールズユニット発掘オーディション|url=https://mantan-web.jp/article/20220407dog00m200014000c.html|work=[[MANTANWEB]]|accessdate=2022-07-26}}</ref>。合格者は81プロデュースへの所属と[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]からのメジャーデビューが確約され、特別後援に名を連ねる[[豊島区]]の地域PR活動への参加を予定している<ref>{{Cite news|date=2021-11-28|title=81プロデュースが歌・ダンスの3つを兼ね備えた声優ガールズユニットを発掘「SUN AUDITION」開催|url=https://deview.co.jp/News?am_article_id=2215525|work=[[De☆View]]|publisher=oricon ME|accessdate=2022-07-26}}</ref>。 応募者総数は3,347名で<ref name="prt20220506">{{Cite web|和書|date=2022-05-06|title=声優ガールズユニット発掘プロジェクト「SUN AUDITION」オーディション番組のBS12 トゥエルビ初回放送日が 5月27日(金)に決定! さらにABEMAでの配信が決定!|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000010.000081122.html|work=81プロデュース|publisher=[[PR TIMES]]|accessdate=2022-07-26}}</ref>、[[東京]]と[[大阪]]の2会場で実施された二次審査の通過者20名が「ファイナリスト」として2022年[[4月10日]]に[[池袋]]の[[サンシャインシティ]]噴水広場でお披露目イベントに臨んだ<ref>{{Cite news|date=2022-04-22|title=声優ガールズユニット発掘オーディション、デビュー目指すファイナリスト20人お披露目|url=https://girlsnews.tv/voice/391979|work=GirlsNews|publisher=レゾリューション|accessdate=2022-07-26}}</ref>。その後、演技・歌唱・ダンスの実技による三次審査を経て最終候補が12名に絞られ、7月に合格者8名が決定<ref name="prt20220725">{{Cite web|和書|date=2022-0725|title=声優ガールズユニット発掘プロジェクト「SUN AUDITION」デビューメンバーついに決定! 合格者のコメントが到着! ダンスMV&新アー写が公開! さらに、8/20(土)お披露目イベント開催決定!|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000011.000081122.html|work=81プロデュース|publisher=PR TIMES|accessdate=2022-07-26}}</ref>。この8名により声優ユニット「'''[[IBERIs&]]'''」(イベリスアンド)を結成し、[[8月20日]]に同じ会場でデビューイベントを行った<ref>{{Cite news|date=2022-10-02|title=声優ガールズユニットメンバー発掘企画「SUN AUDITION」episode6 番組レポート到着! 声優アーティストの夢を追いかけた彼女達の物語がいよいよ完結、新たな一歩に注目|url= https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1664371380 |work=[[アニメイトタイムズ]]|accessdate=2022-10-02}}</ref>。 === SUN AUDITION運営委員会 === * 81プロデュース * ユニバーサルミュージック * サンシャインシティ * [[ハピネット]] * [[ムービック]] * [[講談社]] * Mixalive TOKYO * ワールド・ハイビジョン・チャンネル(BS12 トゥエルビ) ; 特別後援 * 豊島区 === 審査員 === * 審査委員長:南沢道義(81プロデュース代表取締役社長) * 審査員(演技):[[中尾隆聖]]、[[水島裕 (声優)|水島裕]] * 特別審査員:[[高野之夫]](豊島区長) 他、各部門 == 合格者 == {{Seealso|IBERIs&}} * プロフィールは2022年7月25日時点<ref name="at20220725">{{Cite news|date=2022-07-25|title=声優&アーティストデビューの夢をつかんだ彼女たちの“未来”に注目! 声優ガールズユニットオーディション企画「SUN AUDITION」合格者8名にインタビュー!|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1658722785|work=[[アニメイトタイムズ]]|accessdate=2022-07-26}}</ref>。 {| class="sortable wikitable" style="font-size:90%; text-align:left; line-height:1.25em; margin:10px 0px;" ! 氏名(読み) ! 出身地 ! 身長 ! 年齢 |- | <span style="display:none;speak:none;">いけだももか</span><span style="font-size:80%;">いけだ ももか</span><br /><span style="font-size:115%;">'''池田 百々香'''</span> | [[大阪府]] | 156cm | 19 |- | <span style="display:none;speak:none;">おおはしみさき</span><span style="font-size:80%;">おおはし みさき</span><br /><span style="font-size:115%;">'''大橋 海咲'''</span> | [[新潟県]] | 160cm | 22 |- | <span style="display:none;speak:none;">おがわはなか</span><span style="font-size:80%;">おがわ はなか</span><br /><span style="font-size:115%;">'''小川 華果'''</span> | [[北海道]] | 151cm | 21 |- | <span style="display:none;speak:none;">すずきひなの</span><span style="font-size:80%;">すずき ひなの</span><br /><span style="font-size:115%;">'''鈴木 日菜'''</span> | [[千葉県]] | 151cm | 15 |- | <span style="display:none;speak:none;">そのだれい</span><span style="font-size:80%;">そのだ れい</span><br /><span style="font-size:115%;">'''園田 れい'''</span> | [[神奈川県]] | 153cm | 20 |- | <span style="display:none;speak:none;">にしおももこ</span><span style="font-size:80%;">にしお ももこ</span><br /><span style="font-size:115%;">'''西尾 桃子'''</span> | [[兵庫県]] | 155cm | 19 |- | <span style="display:none;speak:none;">はまざきななみ</span><span style="font-size:80%;">はまざき ななみ</span><br /><span style="font-size:115%;">'''浜崎 七海'''</span> | [[東京都]] | 163.5cm | 18 |- | <span style="display:none;speak:none;">みなみはるか</span><span style="font-size:80%;">みなみ はるか</span><br /><span style="font-size:115%;">'''三波 春香'''</span> | [[沖縄県]] | 150cm | 22 |} == 番組キャスト == * MC:[[神尾晋一郎]]、[[本泉莉奈]]、[[稗田寧々]] * ナレーション:[[酒巻光宏]] == テーマソング == ; 「Catch the SUN」(ユニバーサルミュージック) : 作詞:柿沼雅美 作曲・編曲:Masanori Takumi, Adam Kapit, Tyler Shamy, Tova Litvin 歌:[[Anna (女性タレント)|Anna]] == 放送スケジュール == * BS12 トゥエルビ「アニメ26」枠で不定期放送。全6回。 : 土曜日(金曜深夜) 02:30 - 03:00 : ※episode 5のみ日曜21:30 - 22:00に放送時間変更<ref name="ep5">{{Cite web|和書|title=【最新情報】episode5放送時間変更のお知らせ|url=https://sun-audition.jp/8100/|work=SUN AUDITION|accessdate=2022-07-26}}</ref>。 # 5月28日 # 6月11日 # 6月25日 # 7月9日 # 7月24日<ref name="ep5" /> # 10月1日 * ABEMA : 不定期日曜日 0:00配信開始 : BS12 トゥエルビの2日遅れ(episode 5の配信時間は変更無し)<ref name="ep5" />。 == 出典 == {{Reflist|2}} == 外部リンク == * {{Wayback| date=20221208031144| url=https://sun-audition.jp/| title=SUN AUDITION – 君のストーリーをつくろう!~君が声優アーティストになる物語~}} ** {{Twitter|sunad_yourstory}}{{リンク切れ| date=2023-09-29}} ** {{Instagram|sun_audition}}{{リンク切れ| date=2023-09-29}} ** {{TikTok|sun_audition}}{{リンク切れ| date=2023-09-29}} ** {{YouTube channel|UCt0S4TcgXmK7KujLUk2_XwA|title=【公式】SUN AUDITION channel}}{{リンク切れ| date=2023-09-29}} * [https://www.twellv.co.jp/program/documentary/sun-audition/ SUN AUDITION ~君の声優ストーリーをつくろう!~ (BS12の番組紹介)] {{81プロデュース}} {{Tv-stub}} {{Voice-stub}} {{デフォルトソート:さんおおていしよんきみのせいゆうすとおりいをつくろう}} [[Category:81プロデュース|*さんおおていしよん]] [[Category:ユニバーサルミュージックジャパンの映像作品]] [[Category:TwellVの深夜番組]] [[Category:TwellVのドキュメンタリー番組]] [[Category:2022年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:オーディション番組]]
2022-07-26T02:48:13Z
2023-10-22T17:59:55Z
false
false
false
[ "Template:Twitter", "Template:リンク切れ", "Template:YouTube channel", "Template:Tv-stub", "Template:Seealso", "Template:Wayback", "Template:Instagram", "Template:TikTok", "Template:Voice-stub", "Template:Reflist", "Template:Cite news", "Template:81プロデュース", "Template:基礎情報 テレビ番組", "Template:Cite web" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/SUN_AUDITION_%E3%80%9C%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%A3%B0%E5%84%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8D%E3%81%86!%E3%80%9C
3,384,453
アシュボーン男爵
アシュボーン男爵(英: Baron Ashbourne)は、イギリスの貴族、男爵、連合王国貴族爵位。政治家エドワード・ギブソンが1885年に叙されたのに始まる。 保守党の政治家エドワード・ギブソン(1837–1913)は、ヴィクトリア朝後期からエドワード朝初期の保守党政権下でアイルランド大法官(英語版)を3期にわたって務めた(在職1885年-1886年、1886年-1892年、1895年-1905年)。その最初の就任に際しての1885年7月4日にミース州におけるアシュボーンのアシュボーン男爵(Baron Ashbourne, of Ashbourne in the County of Meath)に叙された。 彼の死後、長男ウィリアム・ギブソン(英語版)(1868–1942)が2代男爵位を継承した。しかし彼には子供がなかったので、彼の死後には甥(初代男爵の三男エドワードの長男)にあたるエドワード・ラッセル・ギブソン(1901–1983)が3代男爵位を継承した。彼は海軍中将まで昇進した海軍軍人だった。 2020年現在の当主はその孫である5代男爵エドワード・チャールズ・デ・オリエ・ギブソン(1967-)である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アシュボーン男爵(英: Baron Ashbourne)は、イギリスの貴族、男爵、連合王国貴族爵位。政治家エドワード・ギブソンが1885年に叙されたのに始まる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "保守党の政治家エドワード・ギブソン(1837–1913)は、ヴィクトリア朝後期からエドワード朝初期の保守党政権下でアイルランド大法官(英語版)を3期にわたって務めた(在職1885年-1886年、1886年-1892年、1895年-1905年)。その最初の就任に際しての1885年7月4日にミース州におけるアシュボーンのアシュボーン男爵(Baron Ashbourne, of Ashbourne in the County of Meath)に叙された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "彼の死後、長男ウィリアム・ギブソン(英語版)(1868–1942)が2代男爵位を継承した。しかし彼には子供がなかったので、彼の死後には甥(初代男爵の三男エドワードの長男)にあたるエドワード・ラッセル・ギブソン(1901–1983)が3代男爵位を継承した。彼は海軍中将まで昇進した海軍軍人だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2020年現在の当主はその孫である5代男爵エドワード・チャールズ・デ・オリエ・ギブソン(1967-)である。", "title": "歴史" } ]
アシュボーン男爵は、イギリスの貴族、男爵、連合王国貴族爵位。政治家エドワード・ギブソンが1885年に叙されたのに始まる。
{{infobox peerage title|name=アシュボーン男爵|present holder=5代男爵[[エドワード・ギブソン (第5代アシュボーン男爵)|エドワード・ギブソン]]|motto='''Coelestes Pandite Portae'''<br>{{fontsize|small|(Open, o ye heavenly gates!)}}|former seat=|family seat=|extinction date=|status=存続|subsidiary titles=なし|remainder to=|heir presumptive=|heir apparent=エドワード・ギブソン閣下|last holder=|image=[[File:Coronet of a British Baron.svg|centre|90px]][[File:Ashbourne_Escutcheon.png|center|100px]]|first holder=初代男爵[[エドワード・ギブソン_(初代アシュボーン男爵)|エドワード・ギブソン]]|baronetage=|peerage=[[連合王国貴族]]|monarch=[[ヴィクトリア_(イギリス女王)|ヴィクトリア]]|creation=|creation date=[[1885年]][[7月4日]]|caption=<div class="toccolours mw-collapsible mw-collapsed"> '''[[紋章記述]]''' <div class="mw-collapsible-content">'''Arms''':Ermine three Keys fesswise in pale Azure and in chief as many Trefoils slipped Vert '''Crest''':A Pelican in her piety on a Bank of Reeds proper '''Supporters''':Dexter: a Female Figure representing Mercy standing upon a Fasces proper habited Argent charged on the breast with a Trefoil slipped Vert and resting her right hand on a Sword point downwards proper Pommel Or; Sinister: a like Figure representing Justice habited charged and standing as the dexter holding in her right hand a Balance and in the left a Sword erect proper</div> </div>|alt=|image_size=|footnotes=}}'''アシュボーン男爵'''({{lang-en-short|Baron Ashbourne}})は、イギリスの[[貴族]]、[[男爵]]、[[連合王国貴族]]爵位。政治家[[エドワード・ギブソン (初代アシュボーン男爵)|エドワード・ギブソン]]が[[1885年]]に叙されたのに始まる。 == 歴史 == [[保守党 (イギリス)|保守党]]の政治家[[エドワード・ギブソン (初代アシュボーン男爵)|エドワード・ギブソン]]<small>(1837–1913)</small>は、[[ヴィクトリア朝]]後期から[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード朝]]初期の保守党政権下で{{仮リンク|アイルランド大法官|en|Lord Chancellor of Ireland}}を3期にわたって務めた(在職[[1885年]]-[[1886年]]、1886年-[[1892年]]、[[1895年]]-[[1905年]])<ref name=":1">{{Cite ODNB|id=33389|title=Gibson, Edward, first Baron Ashbourne (1837–1913)|last=Jackson|first=Alvin}}</ref>。その最初の就任に際しての[[1885年]][[7月4日]]に'''ミース州におけるアシュボーンのアシュボーン男爵'''{{Fontsize|small|(Baron Ashbourne, of Ashbourne in the County of Meath)}}に叙された<ref name=":1" /><ref name="CP BA">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/ashbourne1885.htm|title=Ashbourne, Baron (UK, 1885)|accessdate= 2016-3-17 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref>{{LondonGazette|issue=25486|date=3 July 1885|startpage=3060|accessdate=2020-07-04}}</ref>。 彼の死後、長男{{仮リンク|ウィリアム・ギブソン (第2代アシュボーン男爵)|label=ウィリアム・ギブソン|en|William Gibson, 2nd Baron Ashbourne}}<small>(1868–1942)</small>が2代男爵位を継承した。しかし彼には子供がなかったので、彼の死後には甥(初代男爵の三男エドワードの長男)にあたる[[エドワード・ギブソン (第3代アシュボーン男爵)|エドワード・ラッセル・ギブソン]]<small>(1901–1983)</small>が3代男爵位を継承した。彼は海軍中将まで昇進した海軍軍人だった<ref name="CP BA"/><ref name=":0">{{Who's Who|surname=Ashbourne|othernames=3rd Baron cr 1885 (Edward Russell Gibson)|id=U161559|type=was|volume=1920–2021|edition=2019, December 01|accessed=2021年7月4日}}</ref>。 [[2020年]]現在の当主はその孫である5代男爵[[エドワード・ギブソン (第5代アシュボーン男爵)|エドワード・チャールズ・デ・オリエ・ギブソン]]<small>(1967-)</small>である<ref name="CP BA"/>。 == アシュボーン男爵 (1886年)== *初代アシュボーン男爵'''[[エドワード・ギブソン (初代アシュボーン男爵)|エドワード・ギブソン]]''' (1837–1913) *2代アシュボーン男爵'''{{仮リンク|ウィリアム・ギブソン (第2代アシュボーン男爵)|label=ウィリアム・ギブソン|en|William Gibson, 2nd Baron Ashbourne}}''' (1868–1942) *3代アシュボーン男爵'''[[エドワード・ギブソン (第3代アシュボーン男爵)|エドワード・ラッセル・ギブソン]]''' (1901–1983) *4代アシュボーン男爵'''[[エドワード・ギブソン (第4代アシュボーン男爵)|エドワード・バリー・グリーンヴィル・ギブソン]]''' (1933-2020) *5代アシュボーン男爵'''[[エドワード・ギブソン (第5代アシュボーン男爵)|エドワード・チャールズ・デ・オリエ・ギブソン]]''' (1967-) **[[法定推定相続人]]は現当主の息子エドワード・アレクサンダー・ギブソン (2002-) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{reflist|group=注釈|1}}--> === 出典 === <div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|1}} == 関連項目 == * [[ヴァイオレット・ギブソン]] - 初代アシュボーン男爵の娘で、[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]の暗殺未遂犯 </div> {{デフォルトソート:あしゆほんたんしやく}} [[Category:連合王国貴族の男爵位]] [[Category:1885年設立]]
null
2021-07-04T12:45:29Z
false
false
false
[ "Template:Cite ODNB", "Template:LondonGazette", "Template:Who's Who", "Template:Lang-en-short", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Reflist", "Template:Cite web", "Template:Infobox peerage title", "Template:仮リンク", "Template:Fontsize" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%B3%E7%94%B7%E7%88%B5
620,452
河野康弘
河野康弘(こうの やすひろ、1953年11月13日 - )は、日本のジャズピアニスト。奈良県生駒市出身、奈良県立郡山高等学校卒業、大阪芸術大学芸術学部中退。 大学中退後、矢沢永吉のバックバンド、中村雅俊の伴奏などを務め、 1983年にジャズピアニストとしてアルバム「ピース」河野康弘トリオ+1でデビュー。 1988年 リチャード・デイビス(B)とツアー。 1991年 湾岸戦争をきっかけに平和と環境保護をテーマに活動をはじめ組曲「四万十川」発表。 湾岸戦争をきっかけに、「ジャズ」というジャンルにとらわれず、スタンダードから童謡まで広く扱うようになる。 1992年 約450万台のピアノが眠っていることを知り「冬眠ピアノお目覚めコンサート」開始。 1993年 第三世界ショップ伊丹に協力してケニアに日本の不要ピアノを贈る。ピアノリサイクル活動の開始。 1994年 「河野康弘と愉快な仲間たち」結成、自然を扱った楽曲を演奏する。 1994年~1996年 ブリュッセルピアノフェスティバル参加 1996年 南アフリカへ文化交流に参加 1997年 8月6日・広島現代美術館で世界ではじめての被爆ピアノ演奏 1998年 8月6日・原爆ドーム前でマル・ウォルドロンと被爆ピアノ2台での平和コンサート開催 1988年~2007年 南アフリカ共和国からレインボースターズ(多人種の子どもコーラス)を招き平和コンサート「地球ハーモニー」開催 1999年 イスラエル・パレスチナ自治地区公演 2001年 ベトナム公演、北アフリカ・エリトリア公演 2002年 ピースボート乗船 船上平和コンサート開催。 2004年 タイ王国公演 2007年 韓国公演 2008年 朝鮮民主主義共和国公演 2012年 東京から放射能避難して京都に拠点を移す 2015年~2017年 ジンバブエのジャナグルと地球ハーモニーコンサート開催 2019年 世界11ヵ国(日本を含む)にリサイクルピアノ寄贈300台になる 2022年11月18日 三枚目のリーダーアルバム「Song of Island 河野康弘Trio+1」 がイギリスBBEより全世界発売
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "河野康弘(こうの やすひろ、1953年11月13日 - )は、日本のジャズピアニスト。奈良県生駒市出身、奈良県立郡山高等学校卒業、大阪芸術大学芸術学部中退。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大学中退後、矢沢永吉のバックバンド、中村雅俊の伴奏などを務め、", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1983年にジャズピアニストとしてアルバム「ピース」河野康弘トリオ+1でデビュー。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1988年 リチャード・デイビス(B)とツアー。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1991年 湾岸戦争をきっかけに平和と環境保護をテーマに活動をはじめ組曲「四万十川」発表。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "湾岸戦争をきっかけに、「ジャズ」というジャンルにとらわれず、スタンダードから童謡まで広く扱うようになる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1992年 約450万台のピアノが眠っていることを知り「冬眠ピアノお目覚めコンサート」開始。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1993年 第三世界ショップ伊丹に協力してケニアに日本の不要ピアノを贈る。ピアノリサイクル活動の開始。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1994年 「河野康弘と愉快な仲間たち」結成、自然を扱った楽曲を演奏する。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1994年~1996年 ブリュッセルピアノフェスティバル参加 1996年 南アフリカへ文化交流に参加", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1997年 8月6日・広島現代美術館で世界ではじめての被爆ピアノ演奏", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1998年 8月6日・原爆ドーム前でマル・ウォルドロンと被爆ピアノ2台での平和コンサート開催", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1988年~2007年 南アフリカ共和国からレインボースターズ(多人種の子どもコーラス)を招き平和コンサート「地球ハーモニー」開催", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1999年 イスラエル・パレスチナ自治地区公演", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2001年 ベトナム公演、北アフリカ・エリトリア公演", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2002年 ピースボート乗船 船上平和コンサート開催。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2004年 タイ王国公演", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2007年 韓国公演", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2008年 朝鮮民主主義共和国公演", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2012年 東京から放射能避難して京都に拠点を移す", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2015年~2017年 ジンバブエのジャナグルと地球ハーモニーコンサート開催 2019年 世界11ヵ国(日本を含む)にリサイクルピアノ寄贈300台になる", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2022年11月18日 三枚目のリーダーアルバム「Song of Island 河野康弘Trio+1」 がイギリスBBEより全世界発売", "title": "来歴" } ]
河野康弘は、日本のジャズピアニスト。奈良県生駒市出身、奈良県立郡山高等学校卒業、大阪芸術大学芸術学部中退。
{{Infobox YouTube personality | name = 河野康弘 | website = [https://yasuhiro-kono.jimdofree.com/ 河野康弘ホームページ] | channel_display_name = Yasuhiro Kono Jazz piano | channel_direct_url = @YasuhiroKono | channel_display_name2 = | channel_url2 = | years_active = 2006年11月16日 - | genre = [[音楽]]・[[政治]] | subscribers = 4630人 | views = 5,030,690回 | silver_button = | silver_year = | gold_button = | gold_year = | stats_update = {{dts|2023-4-13}} }} '''河野康弘'''(こうの やすひろ、[[1953年]][[11月13日]] - )は、[[日本]]の[[ジャズ]][[ピアニスト]]。[[奈良県]][[生駒市]]出身、[[奈良県立郡山高等学校]]卒業、[[大阪芸術大学]][[芸術学部]]中退。 == 来歴 == 大学中退後、[[矢沢永吉]]のバックバンド、[[中村雅俊]]の伴奏などを務め、 [[1983年]]にジャズピアニストとしてアルバム「ピース」河野康弘トリオ+1でデビュー。 1988年 リチャード・デイビス(B)とツアー。 1991年 湾岸戦争をきっかけに平和と環境保護をテーマに活動をはじめ組曲「四万十川」発表。 [[湾岸戦争]]をきっかけに、「ジャズ」というジャンルにとらわれず、スタンダードから[[童謡]]まで広く扱うようになる。 1992年 約450万台のピアノが眠っていることを知り「冬眠ピアノお目覚めコンサート」開始。 1993年 第三世界ショップ伊丹に協力してケニアに日本の不要ピアノを贈る。ピアノリサイクル活動の開始。 1994年 「河野康弘と愉快な仲間たち」結成、自然を扱った楽曲を演奏する。 1994年~1996年 ブリュッセルピアノフェスティバル参加 1996年 南アフリカへ文化交流に参加 1997年 8月6日・広島現代美術館で世界ではじめての[[被爆ピアノ]]演奏<ref>https://earth-harmony.jimdofree.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC/</ref> 1998年 8月6日・原爆ドーム前でマル・ウォルドロンと被爆ピアノ2台での平和コンサート開催 1988年~2007年 南アフリカ共和国からレインボースターズ(多人種の子どもコーラス)を招き平和コンサート「地球ハーモニー」開催 1999年 イスラエル・パレスチナ自治地区公演<ref>https://earth-harmony.jimdofree.com/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A/</ref> 2001年 ベトナム公演<ref>https://earth-harmony.jimdofree.com/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0/</ref>、北アフリカ・エリトリア公演<ref>https://earth-harmony.jimdofree.com/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2/</ref> 2002年 ピースボート乗船 船上平和コンサート開催。 2004年 タイ王国公演<ref>https://earth-harmony.jimdofree.com/%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%8E%8B%E5%9B%BD/</ref> 2007年 韓国公演<ref>https://earth-harmony.jimdofree.com/%E5%8D%97%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2/</ref> 2008年 朝鮮民主主義共和国公演<ref>https://earth-harmony.jimdofree.com/%E5%8C%97%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2/</ref> 2012年 東京から放射能避難して京都に拠点を移す 2015年~2017年 ジンバブエのジャナグルと地球ハーモニーコンサート開催 2019年 世界11ヵ国(日本を含む)にリサイクルピアノ寄贈300台になる 2022年11月18日 三枚目のリーダーアルバム「Song of Island 河野康弘Trio+1」 がイギリスBBEより全世界発売 == 著書 == *『お目覚めピアノでワッハッハ〜世界をつなぐ地球ハーモニー』河野康弘・河野明佳 共著 (リサイクル文化社) == アルバム&曲 == *『ピース』 *『ワッハッハ60分一本笑舞』 *『可部列車で行こう!!』 *『冬眠ピアノお目覚めコンサート』 *『もののけ姫』 *『BRUSSELS PIANO FESTIVAL III』 *『テイク・ファイブ』 *『組曲 大淀川』 *『源流からのメッセージ』 *『心 “HEART”』 *『PRINCESS SAYAKA』 *『組曲 四万十川』 *『組曲 江の川』 *『DAVIS & KONO DUO』 *『組曲 嵐山』 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *公式サイト [https://yasuhiro-kono.jimdofree.com/ 公式サイト] *[https://web.archive.org/web/20040402113044/http://www.ne.jp/asahi/wahaha/wahaha/ 旧公式サイト] {{Music-bio-stub}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:こうの やすひろ}} [[Category:日本のジャズ・ミュージシャン]] [[Category:奈良県立郡山高等学校出身の人物]] [[Category:奈良県出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:存命人物]]
null
2023-04-14T03:22:54Z
false
false
false
[ "Template:Infobox YouTube personality", "Template:Reflist", "Template:Music-bio-stub", "Template:Authority control" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%BA%B7%E5%BC%98
4,798,111
福岡市道舞鶴薬院線
福岡市道舞鶴薬院線(ふくおかしどうまいづるやくいんせん)は、全区間が福岡市の「都心部」の中にあり、中央区舞鶴一丁目の福祉センター交差点から南に向かって、都心部の中でも3地区の「都心核」の一つとされる天神周辺地区の西側を貫通し、同区薬院三丁目の平尾1丁目交差点に至る全長が1,878.12メートルの市道(幹線二級市町村道)である。この路線のうち、天神三丁目と舞鶴一丁目との間を抜ける区間は親不孝通りと、大名一丁目及び二丁目と天神二丁目との間を抜ける区間は天神西通りと呼ばれる。 福岡市道舞鶴薬院線の特徴は、同市の「都心部」を南北方向に並走する複数の主要幹線道路の一つであり、互いに交通機能を補完しながらネットワークを形成していること、全区間に亘って両側の用途地域が商業地域に指定されており、商業施設が集積していることである。これらの並走する幹線道路を西から順にあげると次の通りである。 なお、国道202号との交差点より約180メートルの区間には既存の道路が存在せず、直接は繋がっていない。 この路線の名称については、国道202号の北側に関しては、次の道路愛称(通称)の方が通りがよく、出版されている地図などの表記にも使われている。 この路線は都市計画道路として、「薬院舞鶴線」の名称で都市計画の決定がなされており、起点が中央区薬院()三丁目(平尾一丁目交差点)、終点が舞鶴()一丁目福祉センター交差点、延長(総延長)が2,050メートルの路線で、国道202号より南側の区間は2023年現在で未整備である。未整備区間の状況は次の通り。 この路線に接続又は近接する主な施設を起点の北から順にあげると以下の通り。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "福岡市道舞鶴薬院線(ふくおかしどうまいづるやくいんせん)は、全区間が福岡市の「都心部」の中にあり、中央区舞鶴一丁目の福祉センター交差点から南に向かって、都心部の中でも3地区の「都心核」の一つとされる天神周辺地区の西側を貫通し、同区薬院三丁目の平尾1丁目交差点に至る全長が1,878.12メートルの市道(幹線二級市町村道)である。この路線のうち、天神三丁目と舞鶴一丁目との間を抜ける区間は親不孝通りと、大名一丁目及び二丁目と天神二丁目との間を抜ける区間は天神西通りと呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "福岡市道舞鶴薬院線の特徴は、同市の「都心部」を南北方向に並走する複数の主要幹線道路の一つであり、互いに交通機能を補完しながらネットワークを形成していること、全区間に亘って両側の用途地域が商業地域に指定されており、商業施設が集積していることである。これらの並走する幹線道路を西から順にあげると次の通りである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、国道202号との交差点より約180メートルの区間には既存の道路が存在せず、直接は繋がっていない。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この路線の名称については、国道202号の北側に関しては、次の道路愛称(通称)の方が通りがよく、出版されている地図などの表記にも使われている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この路線は都市計画道路として、「薬院舞鶴線」の名称で都市計画の決定がなされており、起点が中央区薬院()三丁目(平尾一丁目交差点)、終点が舞鶴()一丁目福祉センター交差点、延長(総延長)が2,050メートルの路線で、国道202号より南側の区間は2023年現在で未整備である。未整備区間の状況は次の通り。", "title": "都市計画道路" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この路線に接続又は近接する主な施設を起点の北から順にあげると以下の通り。", "title": "接続、近接する主な施設" } ]
福岡市道舞鶴薬院線(ふくおかしどうまいづるやくいんせん)は、全区間が福岡市の「都心部」の中にあり、中央区舞鶴一丁目の福祉センター交差点から南に向かって、都心部の中でも3地区の「都心核」の一つとされる天神周辺地区の西側を貫通し、同区薬院三丁目の平尾1丁目交差点に至る全長が1,878.12メートルの市道(幹線二級市町村道)である。この路線のうち、天神三丁目と舞鶴一丁目との間を抜ける区間は親不孝通りと、大名一丁目及び二丁目と天神二丁目との間を抜ける区間は天神西通りと呼ばれる。
{{Infobox road |種別・系統 = [[市町村道|幹線二級市町村道]] |アイコン = |名前 = 福岡市道舞鶴薬院線 |名前の補足 = |副名 = |副名の補足 = |地図画像 = {{maplink2|text='''福岡市道舞鶴薬院線'''の地図|frame=yes|plain=yes|type=shape|zoom=15|frame-align=center|frame-long=130.397417|frame-lat=33.586556|frame-width=300|frame-height=570|from=Japan/Fukuoka-ken/Fukuoka-shi/Maizuru-yakuin Street.map}} |総延長 = 1,878.12 [[メートル|m]]<ref name ="rosei">{{Cite web|和書| author = 福岡市道路下水道局管理部路政課 | url = http://rosei.city.fukuoka.lg.jp/road/index.html | title = 福岡市路線情報提供システム | accessdate = 2023-06-17 }}→利用条件に同意→検索等</ref> |実延長 = |現道 = |海上区間 = |制定年 = |開通年 = |廃止年 = |道路の方角 = |起点 = [[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]][[舞鶴 (福岡市)|舞鶴]]一丁目{{ウィキ座標|33|35|40.18|N|130|23|39.06|E|scale:10000|[[那の津通り]]の福祉センター交差点}}<ref name ="rosei" /> |起点方角 = 北 |環状線通過都市 = |主な経由国 = |主な経由都市 = |終点 = 福岡市中央区[[薬院]]三丁目{{ウィキ座標|33|34|38.54|N|130|24|2.09|E|scale:10000|{{読み|[[高宮通り]]|たかみやどおり}}の平尾1丁目交差点}}<ref name ="rosei" /> |終点方角 = 南 |接続する主な道路 = }} '''福岡市道舞鶴薬院線'''(ふくおかしどうまいづるやくいんせん)は、全区間が[[福岡市]]の「都心部」{{Efn|「都心部」の[[都市計画]]における位置づけについては、『第9次福岡市基本計画』<ref>{{Cite web|和書| author=福岡市総務企画局企画調整部企画課 | url=https://www.city.fukuoka.lg.jp/soki/kikaku/shisei/fukuokashikihonkosokihonkeikaku/kihonkonsoukihonkeikaku9.html | title =福岡市基本構想・第9次福岡市基本計画 | publisher = | accessdate =2023-04-18 }}→『第9次福岡市基本計画』(PDF)の48、56ページ</ref>の「都市空間構想図」において、具体的には東は[[御笠川]]、南は[[百年橋通り]]、西は[[大正通り (福岡市)|大正通り]]に囲まれた地域とされている<ref name="toshikeikaku-mp" >{{Cite web|和書| author = 福岡市都市計画課 | url = https://www.city.fukuoka.lg.jp/jutaku-toshi/toshikeikaku/machi/toshikeikaku-mp.html | title = 福岡市都市計画マスタープラン | publisher = 福岡市 | accessdate = 2023-06-01 }}、[[都市計画法]]第18条の2に基づき市町村が定める都市計画に関する基本的な方針→23、29、31、33、34ページ</ref>。なお、『第9次福岡市基本計画』が2012年(平成24年)12月21日に策定されたときは、目標年次が2022年度末(令和4年度末)とされていたが、令和5年2月20日の市議会の議決を得て、2年延期された<ref>{{Cite web|和書| author=福岡市議会事務局議事課 | url=https://www.city.fukuoka.lg.jp/gikaizimukyoku/giji/shisei/1committee3_5_3.html | title =令和5年/総務財政委員会 | publisher = | accessdate =2023-04-09 }}→第1回定例会→議案第26号/第9次福岡市基本計画の変更について</ref>。}}の中にあり、[[中央区 (福岡市)|中央区]][[舞鶴 (福岡市)|舞鶴]]一丁目の福祉センター交差点から南に向かって、都心部の中でも3地区の「都心核」{{Efn|都心部のなかでも特に[[天神 (福岡市)|天神]]・[[渡辺通 (福岡市)|渡辺通]]地区、博多駅周辺地区、ウォーターフロント地区([[築港本町|博多ふ頭]]及び[[沖浜町 (福岡市)|中央ふ頭]])の3地区が都心部の核とされている<ref name="toshikeikaku-mp" />。}}の一つとされる[[天神 (福岡市)|天神]]周辺地区の西側を貫通し、同区{{読み|[[薬院]]|やくいん}}三丁目の平尾1丁目交差点に至る全長が1,878.12[[メートル]]<ref name ="rosei" />の[[市町村道|市道]](幹線二級市町村道)である。この路線のうち、天神三丁目と[[舞鶴 (福岡市)|舞鶴]]一丁目との間を抜ける区間は'''[[親不孝通り]]'''と、[[大名 (福岡市)|大名]]一丁目及び二丁目と天神二丁目との間を抜ける区間は'''[[天神西通り]]'''と呼ばれる<ref name="nicknames of the Streets in Fukuoka City">これらの道路愛称、通称は[[福岡市]]が指定する[[福岡市道路愛称]]ではない。{{Cite web|和書| author = 福岡市道路下水道局管理部路政課 | url = https://www.city.fukuoka.lg.jp/doro-gesuido/dorokanri/hp/003.html | title = 福岡市/道路愛称 | publisher = | accessdate = 2023-07-03 }}</ref>。 == 特徴 == 福岡市道舞鶴薬院線の特徴は、同市の「都心部」<ref name="toshikeikaku-mp" />を南北方向に並走する複数の主要幹線道路の一つであり、互いに交通機能を補完しながらネットワークを形成していること、全区間に亘って両側の[[用途地域]]が[[商業地域]]に指定されており、[[店|商業施設]]が集積していることである。これらの並走する幹線道路を西から順にあげると次の通りである。 *[[福岡市道長浜博多駅1号線|市道長浜博多駅1号線]]及び[[福岡市道長浜博多駅2号線|2号線]]([[大正通り (福岡市)|大正通り]]) *'''市道舞鶴薬院線'''('''親不孝通り'''及び'''天神西通り''') *[[福岡県道602号後野福岡線|福岡県道602号]]([[渡辺通り]]) *[[福岡県道554号須崎天神線|福岡県道554号]] *[[福岡県道553号東光寺竹下春吉線|福岡県道553号]] *[[福岡県道43号博多停車場線|福岡県道43号]]及び[[福岡県道44号博多港線|福岡県道44号]]([[大博通り]]) なお、[[国道202号]]との交差点より約180メートルの区間には既存の道路が存在せず、直接は繋がっていない。 この路線の名称については、国道202号の北側に関しては、次の道路愛称(通称)の方が通りがよく、出版されている地図などの表記にも使われている<ref name="nicknames of the Streets in Fukuoka City" />。 *'''[[親不孝通り]]'''([[舞鶴 (福岡市)|舞鶴]]一丁目の福祉センター交差点から[[大名 (福岡市)|大名]]二丁目の舞鶴1丁目交差点まで) *'''[[天神西通り]]'''(大名二丁目の舞鶴1丁目交差点から大名一丁目の国道202号との交差点まで) == 都市計画道路 == この路線は[[都市計画道路]]として、「'''薬院舞鶴線'''」{{Efn|起終点が現行の路線名とは逆。}}の名称で都市計画の決定がなされており、起点が中央区{{読み仮名|薬院|やくいん}}三丁目({{ウィキ座標|33|34|38.54|N|130|24|2.09|E|scale:10000|平尾一丁目交差点}})、終点が{{読み仮名|舞鶴|まいづる}}一丁目{{ウィキ座標|33|35|40.18|N|130|23|39.06|E|scale:10000|福祉センター交差点}}、延長(総延長)が2,050メートルの路線{{Efn|路線番号:3・5・1-82、路線名称:薬院舞鶴線、種別:幹線街路、当初決定告示:戦復院6号、S21.4.20、最終決定告示:市13号、H29.1.26<ref name="toshikoutu" >{{Cite web|和書| author=福岡市住宅都市局都市計画部交通計画課 | url=https://www.city.fukuoka.lg.jp/jutaku-toshi/kotsukeikaku/machi/toshikoutu/015_2.html | title =都市計画道路一覧(概要) | publisher = | accessdate =2023-07-04 }}→や行→薬院舞鶴線(PDF)</ref><ref name="toshikeikaku-mp" /><ref name="webmap" >{{Cite web|和書| author=福岡市 | url=https://webmap.city.fukuoka.lg.jp/fukuoka/Map | title =福岡市Webまっぷ | publisher = | accessdate =2023-07-04 }}→字図情報、都市計画情報、行政情報</ref>}}で、国道202号より南側の区間は2023年現在で未整備である。未整備区間の状況は次の通り<ref>{{Cite web|和書| author=福岡市道路下水道局計画部道路計画課 | url=https://www.city.fukuoka.lg.jp/doro-gesuido/dorokeikaku/hp/actionplan2024.html | title =福岡市道路整備アクションプラン2024 | publisher = | accessdate =2023-07-04 }}→福岡市道路整備アクションプラン2024 (PDF)→42、44ページ</ref>。 *{{読み|今泉|いまいずみ}}一丁目、二丁目及び{{読み|薬院|やくいん}}一丁目 **区間:[[大名 (福岡市)|大名]]一丁目の[[国道202号]]との交差点(名称なし)から{{読み|薬院|やくいん}}三丁目の{{読み|城東橋|じょうとうばし}}交差点まで **進捗状況:調査、検討 **備考:現在は[[丁字路]]である国道202号との交差点より約180メートルの区間は、拡幅の対象となる道路が存在しないため、直接は繋がっていないが、この区間を新設することにより[[十字路]]とする計画となっている。また{{読み|[[今泉 (福岡市)|今泉]]|いまいずみ}}は[[狭隘道路]]が多い{{Efn|国道202号の南側に広がる今泉は、[[太平洋戦争]]の後に進められた[[戦災復興都市計画]]による[[土地区画整理事業]]の施工地区から外れ、古くから市街地が形成されている地区であり、幅員4メートル未満の狭隘道路が多いため、災害時の安全性などが課題となっている。}}。 *薬院三丁目及び平尾一丁目 **区間:城東橋交差点から{{読み|薬院|やくいん}}三丁目の平尾1丁目交差点まで **進捗状況:未整備 == 接続する主な通り == {|class="wikitable" style="font-size:small" |+接続する主な通りの一覧表<ref name ="rosei" /> !style="border-bottom:3px solid blue"|交差する道路 !style="border-bottom:3px solid blue" colspan="2"|市町村名 !style="border-bottom:3px solid blue" colspan="2"|交差する場所 |- |[[福岡市道千鳥橋唐人町線]]([[那の津通り]]) |rowspan="6" style="width:1em"|[[福岡市]] |rowspan="6" style="width:1em"|[[中央区 (福岡市)|中央区]] |rowspan="1" style="width:7em"|[[舞鶴 (福岡市)|舞鶴]]一丁目 |rowspan="1" |福祉センター交差点、始点 |- |[[福岡市道博多姪浜線]]([[昭和通り (福岡市)|昭和通り]]) |rowspan="2" |[[大名 (福岡市)|大名]]二丁目 |舞鶴1丁目交差点 |- |[[福岡市道千代今宿線]]([[明治通り (福岡市)|明治通り]]) |天神西交差点 |- |[[国道202号]]([[国体道路]]) |大名一丁目 |(名称なし交差点) |- |[[福岡市道博多駅草ヶ江線]]([[城南線]]) |[[薬院]]三丁目 |{{読み|城東橋|じょうとうばし}}交差点 |- |[[福岡県道31号福岡筑紫野線]]([[高宮通り]]) |{{読み|薬院|やくいん}}三丁目 |平尾1丁目交差点、終点 |} == 接続、近接する主な施設 == この路線に接続又は近接する主な施設を起点の北から順にあげると以下の通り。 {{columns-list|2| * *長浜公園{{Efn|所在地:810-0073中央区舞鶴一丁目7番、公園種別:街区公園、面積:4,549m<sup>2</sup>、開園年度:1968<ref name="park" >{{Cite web|和書| author= 公益財団法人福岡市緑のまちづくり協会 | url = https://www.midorimachi.jp/park/ | title = 公園等検索 | publisher = | accessdate = 2023-07-04 }}→キーワード検索等</ref>}} *[[カトリック大名町教会]] *西鉄グランドホテル([[西鉄ホテルズ]]) *[[新天町 (福岡市)|新天町]] *[[岩田屋]] *[[薬院駅]] }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{columns-list|2|{{Notelist}}}} === 出典 === {{columns-list|2|{{Reflist}}}} {{Commonscat|Maizuru-yakuin Street}} {{デフォルトソート:まいつるやくいんせん}} [[Category:福岡市道]] [[Category:福岡市中央区の交通]] {{Road-stub}}
2023-07-04T07:00:56Z
2023-11-29T16:48:44Z
false
false
false
[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Commonscat", "Template:Infobox road", "Template:Efn", "Template:読み", "Template:Columns-list", "Template:読み仮名", "Template:ウィキ座標", "Template:Cite web", "Template:Road-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82%E9%81%93%E8%88%9E%E9%B6%B4%E8%96%AC%E9%99%A2%E7%B7%9A
1,579,005
ギャビー・カサドシュ
ギャビー・カサドシュ(Gaby Casadesus, 1901年8月9日 – 1999年11月12日)は、フランスのピアニスト。マルセイユ出身で旧姓ロテ(l'Hôte)。有名なピアニストのロベール・カサドシュと結婚し、息子ジャンを儲ける。ジャンもまた両親を継いで著名なピアニストになった。 パリ音楽院でルイ・ディエメとマルグリット・ロンに師事し、16歳のときピアノで首席となる。この頃にドビュッシーに出会い、自分の作品を講評してもらった。ドビュッシーの愛娘シューシューとも親しくなったが、間もなく彼女はジフテリアに斃れてしまう。その後、当時のフランスでは最も名誉のあった賞、パージュ賞(Prix Pagès)を授与された。 1921年にロベール・カサドシュと結婚し、2人でカサドシュ・デュオを結成し、4手ピアノ作品を数多く録音した。 その後はソリストとしても著名になり、モシュコフスキーやフォーレ、フローラン・シュミット、ラヴェルらと親交を結び、その指導のもとに作品の解釈を行なった。レパートリーには、バロック音楽の作曲家や、メンデルスゾーンの作品が含まれていた(ギャビー・カサドシュはメンデルスゾーンのピアノ曲の擁護者でもあった)。 教師としては、アメリカ合衆国やフォンテーヌブロー・アメリカ音楽院、サン=ジャン=ド=リュズのモーリス・ラヴェル・アカデミー、ザルツブルク・モーツァルテウムで教鞭を執った。グラント・ヨハネセンやオデット・ヴァラブレーグ=ヴュールビュルジェール(Odette Valabrègue Wurtzburger)とともにクリーヴランドに、ロベール・カサドシュ国際ピアノコンクールを創立した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ギャビー・カサドシュ(Gaby Casadesus, 1901年8月9日 – 1999年11月12日)は、フランスのピアニスト。マルセイユ出身で旧姓ロテ(l'Hôte)。有名なピアニストのロベール・カサドシュと結婚し、息子ジャンを儲ける。ジャンもまた両親を継いで著名なピアニストになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "パリ音楽院でルイ・ディエメとマルグリット・ロンに師事し、16歳のときピアノで首席となる。この頃にドビュッシーに出会い、自分の作品を講評してもらった。ドビュッシーの愛娘シューシューとも親しくなったが、間もなく彼女はジフテリアに斃れてしまう。その後、当時のフランスでは最も名誉のあった賞、パージュ賞(Prix Pagès)を授与された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1921年にロベール・カサドシュと結婚し、2人でカサドシュ・デュオを結成し、4手ピアノ作品を数多く録音した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その後はソリストとしても著名になり、モシュコフスキーやフォーレ、フローラン・シュミット、ラヴェルらと親交を結び、その指導のもとに作品の解釈を行なった。レパートリーには、バロック音楽の作曲家や、メンデルスゾーンの作品が含まれていた(ギャビー・カサドシュはメンデルスゾーンのピアノ曲の擁護者でもあった)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "教師としては、アメリカ合衆国やフォンテーヌブロー・アメリカ音楽院、サン=ジャン=ド=リュズのモーリス・ラヴェル・アカデミー、ザルツブルク・モーツァルテウムで教鞭を執った。グラント・ヨハネセンやオデット・ヴァラブレーグ=ヴュールビュルジェール(Odette Valabrègue Wurtzburger)とともにクリーヴランドに、ロベール・カサドシュ国際ピアノコンクールを創立した。", "title": "経歴" } ]
ギャビー・カサドシュは、フランスのピアニスト。マルセイユ出身で旧姓ロテ(l'Hôte)。有名なピアニストのロベール・カサドシュと結婚し、息子ジャンを儲ける。ジャンもまた両親を継いで著名なピアニストになった。
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = ギャビー・カサドシュ | Img =Robert et Gaby CASADESUS.jpg | Img_capt = ギャビーと夫の[[ロベール・カサドシュ]] | Img_size = 320px | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = classic | Born = {{生年月日|1901|8|9}} | Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --> | Alias = | Blood = <!-- 個人のみ --> | School_background = [[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]] | Died = {{死亡年月日と没年齢|1901|8|9|1999|11|12}} | Origin = {{FRA}}、[[マルセイユ]] | Instrument = [[ピアノ]] | Genre = [[クラシック音楽]] | Occupation = [[ピアニスト]] | Years_active = | Label = | Production = | Associated_acts = | Influences = | URL = | Current_members = <!-- グループのみ --> | Past_members = <!-- グループのみ --> | Notable_instruments = }} '''ギャビー・カサドシュ'''(Gaby Casadesus, [[1901年]][[8月9日]] &ndash; [[1999年]][[11月12日]]<ref>http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/obituary-gaby-casadesus-1126866.html</ref>)は、[[フランス]]の[[ピアニスト]]。[[マルセイユ]]出身で旧姓ロテ(l'Hôte)。有名なピアニストの[[ロベール・カサドシュ]]と結婚し、息子[[ジャン・カサドシュ|ジャン]]を儲ける。ジャンもまた両親を継いで著名なピアニストになった。 == 経歴 == [[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]で[[ルイ・ディエメ]]と[[マルグリット・ロン]]に師事し、16歳のとき[[ピアノ]]で首席となる。この頃に[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]に出会い、自分の作品を講評してもらった。ドビュッシーの愛娘シューシューとも親しくなったが、間もなく彼女は[[ジフテリア]]に斃れてしまう。その後、当時のフランスでは最も名誉のあった賞、パージュ賞(Prix Pagès)を授与された。 [[1921年]]にロベール・カサドシュと結婚し、2人でカサドシュ・デュオを結成し、[[連弾|4手ピアノ]]作品を数多く録音した。 その後はソリストとしても著名になり、[[モーリッツ・モシュコフスキ|モシュコフスキー]]や[[ガブリエル・フォーレ|フォーレ]]、[[フローラン・シュミット]]、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]らと親交を結び、その指導のもとに作品の解釈を行なった。レパートリーには、[[バロック音楽]]の作曲家や、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の作品が含まれていた(ギャビー・カサドシュはメンデルスゾーンのピアノ曲の擁護者でもあった)。 教師としては、[[アメリカ合衆国]]や[[フォンテーヌブロー]]・[[アメリカ音楽院]]、[[サン=ジャン=ド=リュズ]]のモーリス・ラヴェル・アカデミー、[[ザルツブルク]]・[[モーツァルテウム音楽大学|モーツァルテウム]]で教鞭を執った。[[グラント・ヨハネセン]]やオデット・ヴァラブレーグ=ヴュールビュルジェール(Odette Valabrègue Wurtzburger)とともに[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーヴランド]]に、[[ロベール・カサドシュ国際ピアノコンクール]]を創立した。 == 脚注 == <references /> {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かさとしゆ きやひ}} [[Category:フランスのクラシック音楽のピアニスト]] [[Category:カサドシュ家|きやひ]] [[Category:マルセイユ出身の人物]] [[Category:1901年生]] [[Category:1999年没]]
null
2020-06-18T12:57:17Z
false
false
false
[ "Template:Infobox Musician", "Template:Normdaten" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%B5%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%A5
577,276
クロエ
クロエ (Chloe, Chloë, Chlöe, Chloé フランス語発音: [klɔe] 英語発音: [ˈkloui], ギリシア語: Χλόη) は、ヨーロッパ系の女性名。 ギリシア語で「緑の若い穂」「新緑」「新芽」「若草」「若枝」など、若い植物に関連する意味を持つ女性の名前である。ギリシア神話の豊穣の女神であるデメテルの持つ多くの別称の1つでもある。デメテルの叙事詩に関連し、「開花」「野原の緑の守護者」「豊穣」などの意味も持つ。また、古代ギリシアの恋愛物語『ダフニスとクロエ』に登場することで知られる。そして、新約聖書のコリントの信徒への手紙一1章11節にも「クロエの家」という表現で登場する。 クロエはもともとは「輝く」「黄金」「黄色」「緑色」などを表すインド・ヨーロッパ祖語の語根「*ǵhelh2-」に由来すると考えられる。なお、葉緑素「クロロフィル (Chlorophyll)」などに付く英語の科学的接頭辞「クロロ-(Chloro-)」も、同じ語根の「*ǵhelh2-」から派生したとされるギリシア語の「クロロス(Χλωρός, Khloros)」から由来する。クロロスは春の植物に関連し、「薄緑色の」「黄緑色の」「新鮮な」「みずみずしい」などを意味する。 クロエは人気のある古代ギリシア語の女性の名前であり、地域によっては今も人気が高い。1990年代初頭からイギリスで非常に人気があった。北アイルランドでは、1997年から2002年までの新生児の名前で最も人気があった。アメリカでは女児の名前ランキングで2002年にトップで2010年には10位以内だったが、2016年までの間に20位となる。 フランスでは2022年に女児名前ランキングが8位だった。オーストラリアのニューサウスウェールズ州では2021年に8位であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "クロエ (Chloe, Chloë, Chlöe, Chloé フランス語発音: [klɔe] 英語発音: [ˈkloui], ギリシア語: Χλόη) は、ヨーロッパ系の女性名。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ギリシア語で「緑の若い穂」「新緑」「新芽」「若草」「若枝」など、若い植物に関連する意味を持つ女性の名前である。ギリシア神話の豊穣の女神であるデメテルの持つ多くの別称の1つでもある。デメテルの叙事詩に関連し、「開花」「野原の緑の守護者」「豊穣」などの意味も持つ。また、古代ギリシアの恋愛物語『ダフニスとクロエ』に登場することで知られる。そして、新約聖書のコリントの信徒への手紙一1章11節にも「クロエの家」という表現で登場する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "クロエはもともとは「輝く」「黄金」「黄色」「緑色」などを表すインド・ヨーロッパ祖語の語根「*ǵhelh2-」に由来すると考えられる。なお、葉緑素「クロロフィル (Chlorophyll)」などに付く英語の科学的接頭辞「クロロ-(Chloro-)」も、同じ語根の「*ǵhelh2-」から派生したとされるギリシア語の「クロロス(Χλωρός, Khloros)」から由来する。クロロスは春の植物に関連し、「薄緑色の」「黄緑色の」「新鮮な」「みずみずしい」などを意味する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "クロエは人気のある古代ギリシア語の女性の名前であり、地域によっては今も人気が高い。1990年代初頭からイギリスで非常に人気があった。北アイルランドでは、1997年から2002年までの新生児の名前で最も人気があった。アメリカでは女児の名前ランキングで2002年にトップで2010年には10位以内だったが、2016年までの間に20位となる。 フランスでは2022年に女児名前ランキングが8位だった。オーストラリアのニューサウスウェールズ州では2021年に8位であった。", "title": "概要" } ]
クロエ は、ヨーロッパ系の女性名。
{{特殊文字|説明=「e」や「o」に[[トレマ]]または[[ウムラウト]]がつく場合がある([[ë]]・[[ö]])、そして[[発音記号]]}} '''クロエ''' (Chloe, Chloë, Chlöe, Chloé {{IPA-fr|klɔe}} {{IPA-en|ˈkloui}}, {{lang-gr|Χλόη}}) は、ヨーロッパ系の女性名。 {{Infobox name | name = クロエ | spelling = {{lang-gr|Χλόη}} | image = Ceres by Osmar Schindler.jpg | caption = 豊穣の女神[[デーメーテール|デメテル]] 、<br />別称の1つに「クロエ」がある{{sfn|古川晴風|1989|p=1201}}。<br />題名『[[ケレース|ケレス]]』作者:{{仮リンク|オズマール・シンドラー|en|Osmar Schindler}}、制作年:1900-1903。 | pronunciation= {{IPA-el|ˈxlo.i}} | gender = [[女性]] | meaning = デメテルの[[叙事詩]]、緑の茂み、新芽など{{sfn|古川晴風|1989|p=1201}}。 | region = | origin = [[ギリシア語]] | related names = | footnotes = }} == 概要 == ギリシア語で「緑の若い穂」「新緑」「新芽」「若草」「若枝」など、若い植物に関連する意味を持つ女性の名前である{{sfn|古川晴風|1989|p=1201}}。[[ギリシア神話]]の豊穣の女神である[[デーメーテール|デメテル]]の持つ多くの別称の1つでもある{{sfn|古川晴風|1989|p=1201}}<ref>{{LSJ|xlo/h|χλόη|longref}}</ref>。デメテルの叙事詩に関連し、「開花」「野原の緑の守護者{{efn2|特に人の手の入ってない未開拓地域の植物の守護者。}}」「[[豊穣]]{{Efn2|豊作の同意語で主に穀物などの農作物が豊かに実ることやその様子<ref>{{Cite web|title=豊穣(ほうじょう)の意味 - goo国語辞書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%B1%8A%E7%A9%A3/|website=[[goo辞書]]|publisher=[[NTTレゾナント]]|accessdate=2022-6-5}}</ref>。}}」などの意味も持つ<ref name="jo1">{{Citation|url=https://journals.openedition.org/pallas/3278|title=Déméter Chloê. Bref retour sur une question ouverter|language=fr|last=Georgoudi|first=Stella|website=Openedition Journals|publisher=Centre pour l'édition électronique ouverte|date=2011-3-1|accessdate=2022-5-1}}</ref><ref name="perseus1">{{Cite web|url=https://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus:text:1999.04.0104:entry=chloe-bio-1|title=A Dictionary of Greek and Roman biography and mythology,Chloe|author=[[ウィリアム・スミス (辞書編集者)]]|website=[[ペルセウス電子図書館]]|publisher=[[タフツ大学]]|language=en|accessdate=2022-4-30}}</ref>。また、古代ギリシアの恋愛物語『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』に登場することで知られる<ref name="pare37700">{{Cite web|url=https://www.parents.fr/prenoms/chloe-37700|title=Prénom Chloé : origine – signification – étymologie|PARENTS.fr|author=La rédaction|web site=PARENTS|language=fr|date=2020-1-1|accessdate=2022-5-1}}</ref>。そして、[[新約聖書]]の[[コリントの信徒への手紙一]]1章11節にも「クロエの家」という表現で登場する<ref name="oremus">{{Cite web|url=https://bible.oremus.org/?passage=1%20Corinthians%201:11&version=nrsv|title=oremus Bible Browser : 1 Corinthians 1:11|website=oremus Bible Browser|language=en|date=2019-4-22|accessdate=2022-4-30}}</ref><ref name="bible-ja">{{Cite web|url=https://www.bible.com/ja/bible/1819/1CO.1.%E6%96%B0%E5%85%B1%E5%90%8C%E8%A8%B3|title=コリントの信徒への手紙一 1|新共同訳 聖書|YouVersion|publisher=[[日本聖書協会]]|year=1987|accessdate=2022-4-30}}</ref>。 クロエはもともとは「輝く」「黄金」「黄色」「緑色」などを表す[[インド・ヨーロッパ祖語]]の[[語根]]「*ǵʰelh₂-」に由来すると考えられる<ref>{{Cite web|url=https://en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Indo-European/g%CA%B0leh%E2%82%82d%CA%B0-|title=Reconstruction:Proto-Indo-European/gʰleh₂dʰ- - Wiktionary|website=en.wiktionary.org|language=en|accessdate=2022-04-30}}</ref><ref name="etymon1">{{Cite web|url=https://www.etymonline.com/word/Chloe|title=chloe | Etymology, origin and meaning of the name chloe by etymonline|website=[[オンライン・エティモロジー・ディクショナリー]]|publisher=ダグラス・ハーパー|language=en|year=2001|accessdate=2022-4-30}}</ref>。なお、葉緑素「クロロフィル (Chlorophyll)」などに付く英語の科学的接頭辞「クロロ-(Chloro-)」も、同じ語根の「*ǵʰelh₂-」から派生したとされるギリシア語の「クロロス(Χλωρός, Khloros)」から由来する<ref name="etymon2">{{Cite web|url=https://www.etymonline.com/word/chloro-|title=chloro- | Meaning of suffix chloro- by etymonline|website=[[オンライン・エティモロジー・ディクショナリー]]|publisher=ダグラス・ハーパー|language=en|year=2001|accessdate=2022-4-30}}</ref>。クロロスは春の植物に関連し、「薄緑色の」「黄緑色の」「新鮮な」「みずみずしい」などを意味する{{sfn|古川晴風|1989|p=1201}}。 クロエは人気のある古代ギリシア語の女性の名前であり、地域によっては今も人気が高い<ref name="baby">{{Cite web|url=https://www.babycenter.com/baby-names/details/chloe-1001|title=Chloe - Girl's name meaning, origin, and popularity|BabyCenter|last=Blanding|first=Tahirah|publisher=BabyCenter, LLC.|accessdate=2022-5-1}}</ref>。1990年代初頭からイギリスで非常に人気があった。[[北アイルランド]]では、1997年から2002年までの新生児の名前で最も人気があった<ref>{{cite press release|title=Jack and Emma were the most popular first names in Northern Ireland in 2003| publisher =Northern Ireland Statistics and Research Agency|date=2004-1-2| access-date =2022-5-1| url = http://www.groni.gov.uk/Publication/512004111434.pdf| format = PDF|quote = Jack and Emma were the most popular first names given to children whose births were registered in Northern Ireland in 2003| url-status = dead| archive-url = https://web.archive.org/web/20060929210813/https://www.groni.gov.uk/Publication/512004111434.pdf| archive-date =2006-9-29}}</ref>。アメリカでは女児の名前ランキングで2002年にトップで2010年には10位以内だったが<ref name="nikkei2015">{{Cite news|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO86660780S5A510C1000000/|title=シャーロット人気? 名前に潜む「流行の法則」|author=小林明|newspaper=NIKKEI STYLE|publisher=[[日本経済新聞社]]・[[日経BP]]|date=2015-5-15|accessdate=2022-5-1}}</ref>、2016年までの間に20位となる<ref name="nikkei2018">{{Cite news|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO26117550V20C18A1000000/|title=米女児名は「エマ」が人気 男児より流行の周期は短く|author=小林明|newspaper=NIKKEI STYLE|publisher=[[日本経済新聞社]]・[[日経BP]]|date=2018-2-16|accessdate=2022-5-1}}</ref>。 フランスでは2022年に女児名前ランキングが8位だった<ref name="pare2022">{{Cite web|url=https://www.parents.fr/prenoms/top-100-des-prenoms-de-filles-100989|title=Prénom fille : top 100 des prénoms féminins en 2022 - Prenom fille|PARENTS.fr|author=Frédérique Payen|author2=Ann-Patricia Pitois|website=PARENTS|language=fr|date=2021-10-31|accessdate=2022-5-1}}</ref>。オーストラリアのニューサウスウェールズ州では2021年に8位であった<ref name="daily2021">{{Cite web|url=https://www.dailymail.co.uk/femail/parenting/article-10771733/The-100-baby-names-New-South-Wales-revealed-Oliver-Olivia-coming-first.html|title=The top 100 baby names in New South Wales have been revealed with Oliver and Olivia coming in first|Daily Mail Online|author=Frédérique Payen|author2=Ann-Patricia Pitois|website=Dailymail|last=Allingham|first=Louise|language=en|date=2022-5-1|accessdate=2022-5-1}}</ref>。 == 実在の人物 == * {{仮リンク|クロエ・アーサー|en|Chloe Arthur}} - [[スコットランド]]のサッカー選手([[ミッドフィールダー|MF]])、[[サッカースコットランド女子代表|同国代表]]。 * [[クロエ・アグニュー]] - [[アイルランド]]の歌手。[[ケルティック・ウーマン]]のメンバー。 * [[クロエ・イング]] - [[シンガポール]]のフィギュアスケート選手。 * [[クロエ・ウェッブ]] - [[アメリカ合衆国]]出身の女優。 * [[クロエ・カーダシアン]] - アメリカ合衆国の女性ソーシャライト、タレント。 * [[クロエ・キム]] - アメリカ合衆国の[[スノーボード|スノーボーダー]] * [[クロエ・グレース・モレッツ]] - アメリカ合衆国の女優、モデル。 * [[クロエ・ケリー]] - [[イングランド]]のサッカー選手([[フォワード (サッカー)|FW]])、[[サッカーイングランド女子代表|同国代表]]。 * {{仮リンク|クロエ・サットン|en|Chloe Sutton}} - アメリカ合衆国の競泳選手([[自由形]])。 * {{仮リンク|クロエ・ジャクソン|en|Chloe Jackson}} - アメリカ合衆国の[[WNBA]]のバスケットボール選手([[ポイントガード|PG]])。 * {{仮リンク|クロエ・スウォーブリック|en|Chlöe Swarbrick}} - ニュージーランドの政治家、[[インターネット・ミーム]]『{{仮リンク|OK ブーマー|en|OK Boomer}}』の発信者。 * [[クロエ・セヴィニー]] - アメリカ合衆国の女優。 * [[クロエ・チェンゲリ]] - アメリカ合衆国の女優。 * [[クロエ・デュプイー]] - [[フランス]]出身の女子フィギュアスケート選手。 * {{仮リンク|クロエ・パケ|en|Chloé Paquet}} - フランスのテニス選手。 * [[クロエ・ハンスリップ]] - [[イギリス]]のヴァイオリニスト。 * {{仮リンク|クロエ・ピエール|fr|Chloé Pierel}} - フランスのサッカー選手(FW)。 * {{仮リンク|クロエ・フィリップ|fr|Chloé Philippe}} - フランスのサッカー選手(MF)。 * [[クロエ・ブリッジス]] - アメリカ合衆国の女優、声優。 * [[クロエ・ベネット]] - アメリカ合衆国の女優。 * {{仮リンク|クロエ・ペプロー|en|Chloe Peplow}} - イングランドのサッカー選手(MF)。 * [[クロエ・マーシャル]] - イギリスのモデル。 * {{仮リンク|クロエ・マカーデル|en|Chloe McCardel}} - [[オーストラリア]]の[[オープンウォータースイミング]]選手。 * [[クロエ・ラム]] - [[香港]]の女優。 * [[クロエ・ルイス]] - アメリカ合衆国出身の女性フィギュアスケート選手。 * {{仮リンク|クロエ・ロガーゾ|en|Chloe Logarzo}} - オーストラリアのサッカー選手(MF)、[[サッカーオーストラリア女子代表|同国代表]]。 * [[優希クロエ]] - アイドルグループ「純情のアフィリア」のメンバー。 == 架空のキャラクター == * 古代ギリシアの恋愛物語『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』のヒロイン。 * 小説『[[日々の泡]]』のヒロイン。 * クロエ・オベール - ライトノベル『[[転生したらスライムだった件]]』の登場人物。 * 黒瀬クロエ - 漫画『[[BLOOD ALONE]]』の主人公。 * クロエ - 漫画『[[キン肉マンII世]]』の登場人物。[[ウォーズマン#クロエ]]を参照。 * クロエ・マンスフィールド - 漫画『[[終末のハーレム]]』の登場人物。[[終末のハーレムの登場人物#クロエ・マンスフィールド]]を参照。 * [[クロエ・オブライエン]] - テレビドラマ『[[24 -TWENTY FOUR-]]』の登場人物。 * クロエ・クーリック - アニメ『[[創聖のアクエリオン]]』シリーズの登場人物。 * テレビアニメ『[[ノワール (アニメ)|ノワール]]』の登場人物。 * テレビアニメ『[[狼と香辛料]]』の登場人物。 * テレビアニメ『[[電脳コイル]]』に登場する犬。 * クロエ・ヴァレンス - ゲーム『[[テイルズ オブ レジェンディア]]』の登場人物。 * クロエ・ルメール - ゲーム『[[ガールフレンド(仮)]]』のヒロイン。 * 嘉神川クロエ - ゲーム『[[メモリーズオフ6 〜T-wave〜]]』のヒロインの1人。[[Memories Offシリーズの登場人物#メモリーズオフ6 〜T-wave〜初出]]を参照。 * ゲーム『[[クロエのレクイエム]]』の登場人物。作品の略称としても用いられる。 * ゲーム『[[ラストピリオド -終わりなき螺旋の物語-]]』の登場人物。 * クロエ・バーデンベルク -『公爵夫人の50のお茶レシピ』の主人公・ヒロイン。 == その他 == * [[クロエ (ブランド)]] - フランスの女性高級ブランドメーカー。 * [[クロエ (ルフェーブルの絵画)]] - [[ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル]]による1875年の絵画。 * [[クロエ (映画)]] - 2001年公開の日本映画。 * [[クロエ (小惑星)]] - 小惑星帯に位置するK型小惑星。 * [[CHLOE/クロエ]] - 2009年制作の、アトム・エゴヤン監督による映画。 * Chloe - [[デューク・エリントン]]作曲の楽曲。 * [[クロエ出版]] - 日本の出版社。 * クロエ(Where are you now)- 佐野元春の楽曲。 * Cloe(クロエ) - アニメ「[[地球少女アルジュナ#主題歌|地球少女アルジュナ]]」の挿入歌。歌:山本千夏 / 作曲:[[菅野よう子]] / 作詞:[[菅野よう子|Gabriela Robin]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{Cite book|和書|author=古川晴風|year=1989|date=1989-09-01|title=ギリシャ語辞典|publisher=大学書林|id=ISBN 978-447-5-00120-5|ref=harv}} == 関連項目 == * [[黒江]] (同音の地名、姓) * {{prefix}} * {{intitle}} {{DEFAULTSORT:くろえ}} [[Category:英語の女性名]] [[Category:フランス語の女性名]] [[Category:ギリシャ語の女性名]]
2006-06-20T14:54:40Z
2023-12-27T13:51:27Z
false
false
false
[ "Template:IPA-fr", "Template:IPA-en", "Template:Infobox name", "Template:Efn2", "Template:Cite press release", "Template:Cite news", "Template:Cite book", "Template:特殊文字", "Template:Intitle", "Template:Notelist2", "Template:LSJ", "Template:Citation", "Template:Prefix", "Template:Lang-gr", "Template:仮リンク", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:Sfn", "Template:Reflist" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%A8