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相川村 (愛知県)
相川村(あいかわむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。 蜆川の流域に位置していた。 蜆川、仁皇川に沿って形成された村であるため。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "相川村(あいかわむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "蜆川の流域に位置していた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "蜆川、仁皇川に沿って形成された村であるため。", "title": "歴史" } ]
相川村(あいかわむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1906年7月16日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = 田原町、'''相川村'''、[[童浦村]]、[[大久保村 (愛知県)|大久保村]] → [[田原市|田原町]] | 現在の自治体 = [[田原市]] | よみがな = あいかわむら | 自治体名 = 相川村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 愛知県 | 郡 = [[渥美郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 1845 | 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』63頁 | 人口の時点 = 1891年 | 隣接自治体 = [[杉山村]]、[[六連村]]、[[神戸村 (愛知県渥美郡)|神戸村]]、田原町、童浦村 | 所在地 = 渥美郡相川村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''相川村'''(あいかわむら{{R|変遷}})は、[[愛知県]][[渥美郡]]にあった[[村]]。現在の[[田原市]]の一部にあたる。 == 地理 == 蜆川の流域に位置していた{{R|角川}}。 *海洋:[[田原湾]]{{R|角川}} == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)10月1日、[[町村制]]の施行により、渥美郡谷熊村、豊島村、六連村(一部)が合併して村制施行し、'''相川村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』2頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 23 愛知県』63頁。</ref>。旧村名を継承した谷熊、豊島、六連の3大字を編成{{R|角川}}。 *[[1906年]](明治39年)7月16日、渥美郡田原町、童浦村、大久保村と合併し、'''[[田原市|田原町]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 === 地名の由来 === 蜆川、仁皇川に沿って形成された村であるため{{R|角川}}。 == 産業 == *農業<ref>「谷熊〈田原町〉」『角川日本地名大辞典 23 愛知県』1346-1347頁。</ref> == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[愛知県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:あいかわむら}} [[Category:渥美郡]] [[Category:田原市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1906年廃止の日本の市町村]]
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鯨の骨 (2023年の映画)
『鯨の骨』(くじらのほね)は、2023年10月13日公開の日本映画。監督は大江崇允。落合モトキとあのがダブル主演を務めている。 AR(拡張現実)を題材にリアルとバーチャルが混濁する世界を描いた作品。ARアプリにはまり込んでいくサラリーマン・間宮を落合モトキが、ARアプリでカリスマ的存在となっている少女・明日香をあのが演じる。映画のキャッチコピーは「都会の夜はまるで深海のよう」。 本作の主題歌「鯨の骨」は、映画の共演者でありアーティストのあのが作詞・作曲を担当した。大江監督からの依頼を受け、映画の撮影中に感じたことを詩に反映し、劇中の明日香の切ない想いを表現している。この楽曲は、彼女の1stアルバム「猫猫吐吐」に収録される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『鯨の骨』(くじらのほね)は、2023年10月13日公開の日本映画。監督は大江崇允。落合モトキとあのがダブル主演を務めている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "AR(拡張現実)を題材にリアルとバーチャルが混濁する世界を描いた作品。ARアプリにはまり込んでいくサラリーマン・間宮を落合モトキが、ARアプリでカリスマ的存在となっている少女・明日香をあのが演じる。映画のキャッチコピーは「都会の夜はまるで深海のよう」。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "本作の主題歌「鯨の骨」は、映画の共演者でありアーティストのあのが作詞・作曲を担当した。大江監督からの依頼を受け、映画の撮影中に感じたことを詩に反映し、劇中の明日香の切ない想いを表現している。この楽曲は、彼女の1stアルバム「猫猫吐吐」に収録される。", "title": "主題歌" } ]
『鯨の骨』(くじらのほね)は、2023年10月13日公開の日本映画。監督は大江崇允。落合モトキとあのがダブル主演を務めている。
{{Infobox Film | 作品名 = 鯨の骨 | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[大江崇允]] | 脚本 = 菊池開人<br />大江崇允 | 原案 = | 原作 = | 製作 = 近藤多聞<br />片山武志 | 製作総指揮 = | ナレーター = | 出演者 = [[落合モトキ]]<br />[[あの]]<br />[[横田真悠]]<br />[[大西礼芳]]<br />[[内村遥]]<br />[[松澤匠]]<br />猪股俊明<br />[[宇野祥平]] | 音楽 = [[渡邊琢磨]] | 主題歌 = [[ano]]「鯨の骨」 | 撮影 = | 編集 = | 制作会社 = [[C&Iエンタテインメント]] | 製作会社 = [[カルチュア・エンタテインメント]] | 配給 = [[カルチュア・パブリッシャーズ]] | 公開 = {{Flagicon|JPN}} 2023年10月13日 | 上映時間 = 88分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 製作費 = | 興行収入 = | 配給収入 = | 前作 = | 次作 = }} 『'''鯨の骨'''』(くじらのほね)は、[[2023年]]10月13日公開の[[日本映画]]。監督は[[大江崇允]]。[[落合モトキ]]と[[あの]]がダブル主演を務めている。 == 概要 == AR(拡張現実)を題材にリアルとバーチャルが混濁する世界を描いた作品。ARアプリにはまり込んでいくサラリーマン・間宮を落合モトキが、ARアプリでカリスマ的存在となっている少女・明日香をあのが演じる。映画の[[キャッチコピー]]は「'''都会の夜はまるで深海のよう'''」<ref>{{Cite web |title=映画『鯨の骨』公式サイト |url=https://www.culture-pub.jp/kujiranohone/ |website=映画『鯨の骨』公式サイト |access-date=2023-12-27}}</ref>。 == あらすじ == {{要あらすじ}} == キャスト == * 間宮 - [[落合モトキ]] * 明日香 - [[あの]] * 凛 - [[横田真悠]] * 由香理 - [[大西礼芳]] * しんさん - [[宇野祥平]] * [[内村遥]] * [[松澤匠]] * 猪俣俊明 == スタッフ == * 監督:大江崇允 * 脚本:菊池開人、大江崇允 * 音楽:渡邊琢磨 * 主題歌:[[あの|ano]]「鯨の骨」<ref name=":0">{{Cite web |title=『鯨の骨』特別映像【主題歌】ver.&新ビジュアル解禁! |url=https://www.culture-pub.jp/ |website=カルチュア・パブリッシャーズ|CULTURE PUBLISHERS |access-date=2023-12-27 |language=ja}}</ref> * プロデューサー:近藤多聞、片山武志 * エグゼクティブプロデューサー:後藤哲 * スーパーバイジングプロデューサー:久保田修 * 共同プロデューサー:田中美幸 * 撮影:米倉伸 * 照明:高井大樹 * 録音:阪口和 * 美術装飾:田中智子 * 編集・VFXスーパーバイザー:西山理彦 * 監督補:山下久義 * 制作担当:福島伸司 * スタイリスト:神田百実 * ヘアメイク:風間啓子 * ダイアログエディター:野村みき * リレコーディングミキサー:大保達哉 * 製作幹事:カルチュア・エンタテインメント * 制作プロダクション:C&Iエンタテインメント * 配給:カルチュア・パブリッシャーズ == 主題歌 == 本作の主題歌「鯨の骨」は、映画の共演者でありアーティストのあのが作詞・作曲を担当した。大江監督からの依頼を受け、映画の撮影中に感じたことを詩に反映し、劇中の明日香の切ない想いを表現している。この楽曲は、彼女の1stアルバム「猫猫吐吐」に収録される<ref name=":0" />。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://www.culture-pub.jp/kujiranohone/ 映画『鯨の骨』公式サイト] * [https://twitter.com/kujiranohone_mv 映画『鯨の骨』公式] (@kujiranohone_mv) - Twitter * [https://www.instagram.com/kujiranohone_mv/ 映画『鯨の骨』公式] (@kujiranohone_mv) - Instagram * [https://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=98554 鯨の骨] - [[キネマ旬報映画データベース|KINENOTE]] * [https://moviewalker.jp/mv82017/ 鯨の骨] - [[MOVIE WALKER PRESS]] * [[imdbtitle:28153529|Kujira no Hone]] - [[IMDb]]'''(英語)''' {{DEFAULTSORT:くしらのほね}} [[Category:2023年の映画]] [[Category:日本のサスペンス映画]] [[Category:カルチュア・コンビニエンス・クラブの映画作品]] [[Category:大江崇允の監督作品]]
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藤野重夫
藤野 重夫(ふじの しげお、1903年1月24日 - 1983年7月31日)は、日本の銀行家。 兵庫県出身。1927年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。 1951年3月に北海道銀行常務に就任し、1961年11月に専務を経て、1965年5月に頭取に就任し、1967年11月には監査役に就任。 1967年12月には北海道テレビ放送会長に就任。 1974年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年7月31日間質性肺炎のために死去。80歳没。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "藤野 重夫(ふじの しげお、1903年1月24日 - 1983年7月31日)は、日本の銀行家。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "兵庫県出身。1927年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に朝鮮銀行に入行。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1951年3月に北海道銀行常務に就任し、1961年11月に専務を経て、1965年5月に頭取に就任し、1967年11月には監査役に就任。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1967年12月には北海道テレビ放送会長に就任。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1974年4月に勲三等瑞宝章を受章。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1983年7月31日間質性肺炎のために死去。80歳没。", "title": "経歴" } ]
藤野 重夫は、日本の銀行家。
'''藤野 重夫'''(ふじの しげお、[[1903年]][[1月24日]] - [[1983年]][[7月31日]])は、日本の[[銀行家]]。 == 経歴 == [[兵庫県]]出身{{sfn|人事興信所|1979|loc=ふ114頁|ref=jinji-30-ge}}。[[1927年]]に[[京都大学|京都帝国大学]]経済学部を卒業し、同年に[[朝鮮銀行]]に入行{{sfn|人事興信所|1979|loc=ふ114頁|ref=jinji-30-ge}}。 [[1951年]]3月に[[北海道銀行]]常務に就任し、[[1961年]]11月に専務を経て、[[1965年]]5月に頭取に就任し、[[1967年]]11月には監査役に就任{{sfn|人事興信所|1979|loc=ふ114頁|ref=jinji-30-ge}}。 [[1967年]]12月には[[北海道テレビ放送]]会長に就任{{sfn|人事興信所|1979|loc=ふ114頁|ref=jinji-30-ge}}。 [[1974年]]4月に[[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]を受章{{sfn|人事興信所|1979|loc=ふ114頁|ref=jinji-30-ge}}。 [[1983年]][[7月31日]][[間質性肺炎]]のために死去<ref>1983年 8月2日 日本経済新聞 朝刊 p23</ref>。{{没年齢|1903|1|24|1983|7|31}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author = 人事興信所 編|title = 人事興信録 第30版 下|publisher = 人事興信所|series = |volume = |edition = |date = 1979|pages = |url = |ref = jinji-30-ge}} {{先代次代|北海道銀行頭取|第2代:1965年 - 1967年|[[島本融]]|[[森鼻武芳]]}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふしの しけお}} [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:日本の銀行家]] [[Category:朝鮮銀行の人物]] [[Category:ほくほくフィナンシャルグループの人物]] [[Category:北海道テレビ放送の人物]] [[Category:勲三等瑞宝章受章者]] [[Category:京都大学出身の人物]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1903年生]] [[Category:1983年没]]
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ワールドダイスター 夢のステラリウムのディスコグラフィ
ワールドダイスター 夢のステラリウムのディスコグラフィでは、主にLantisから発売された、ワールドダイスター 夢のステラリウムの関連CDについて記述する。 2023年12月27日に、Vocal Album Vol.1「プラネタリウム・レヴュー」が発売される。今回のアルバムは「銀河座」のメンバーが歌唱する楽曲を中心に集めたものとなっている。、また、劇団ごとのアルバムCDが順次発売される。レーベルはLantisが担当している。 対象店舗にてご購入いただいた方に「劇団ロゴアクリルスタンド」が渡される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ワールドダイスター 夢のステラリウムのディスコグラフィでは、主にLantisから発売された、ワールドダイスター 夢のステラリウムの関連CDについて記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2023年12月27日に、Vocal Album Vol.1「プラネタリウム・レヴュー」が発売される。今回のアルバムは「銀河座」のメンバーが歌唱する楽曲を中心に集めたものとなっている。、また、劇団ごとのアルバムCDが順次発売される。レーベルはLantisが担当している。", "title": "アルバム" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "対象店舗にてご購入いただいた方に「劇団ロゴアクリルスタンド」が渡される。", "title": "アルバム" } ]
ワールドダイスター 夢のステラリウムのディスコグラフィでは、主にLantisから発売された、ワールドダイスター 夢のステラリウムの関連CDについて記述する。
{{Uncategorized|date=2023年12月}}{{Pathnav|ワールドダイスター 夢のステラリウム|frame=1}} '''ワールドダイスター 夢のステラリウムのディスコグラフィ'''では、主に[[Lantis]]から発売された、[[ワールドダイスター 夢のステラリウム]]の関連CDについて記述する。 == アルバム == === Vocal Album Vol.1「プラネタリウム・レヴュー」 === {{Infobox Album | Name = Vocal Album Vol.1「プラネタリウム・レヴュー」 | Cover = | Type = [[アルバム]] | Artist = 銀河座 | Released = | Recorded = | Genre = [[J-POP]]、[[キャラクターソング]] | Length = 50分21秒<ref name="Tower Records">{{Cite web|title=Vocal Album Vol.1「プラネタリウム・レヴュー」 | Lantis web site|url=https://tower.jp/item/6202799/|work=[[タワーレコード]]|date=2023-12-27|accessdate=2023-12-28}}</ref> | Label = Lantis | Producer = | Reviews = | Chart position = | Certification = | Last album = | This album = | Next album = | Misc = | EAN = | Tracklist = }} 2023年12月27日に、Vocal Album Vol.1「プラネタリウム・レヴュー」が発売される。今回のアルバムは「銀河座」のメンバーが歌唱する楽曲を中心に集めたものとなっている。<ref>{{Cite news|url=https://lantis.jp/news.php?id=1697716853|title=リズムゲームアプリ『ワールドダイスター 夢のステラリウム』 Vocalアルバム第1弾がリリース決定!|date=2023-10-19|accessdate=2023-11-29}}</ref>、また、劇団ごとのアルバムCDが順次発売される。<ref>{{Cite web|title=ユメステ特番 Vol.1|url=https://www.youtube.com/watch?v=VMDQlSzh2Ro|date=2023-10-19|accessdate=2023-11-29}}</ref>レーベルは[[Lantis]]が担当している<ref>{{Cite web|title=Vocal Album Vol.1「プラネタリウム・レヴュー」 - ゲームアプリ『ワールドダイスター 夢のステラリウム』 - 銀河座 | Lantis web site|url=https://www.lantis.jp/release-item/LACA-25075.html|date=2023-12-27|accessdate=2023-12-27}}</ref>。 対象店舗にて購入すると「劇団ロゴアクリルスタンド」が購入者特典として渡される<ref>{{Cite news|url=https://lantis.jp/news.php?id=1698462047|title=ゲームアプリ『ワールドダイスター 夢のステラリウム』Vocal Album Vol.1「プラネタリウム・レヴュー」購入者特典デザインが決定!!|date=2023-11-29|accessdate=2023-11-29}}</ref>。 {{tracklist | collapsed = | headline = Vocal Album Vol.1「プラネタリウム・レヴュー」<ref name="Tower Records" /> | extra_column = 歌 | total_length = auto | lyrics_credits = yes | music_credits = yes | arrangements_credits = yes | title1 = '''プラネタリウム・レヴュー''' | lyrics1 = [[松井洋平]] | music1 = 塩原大貴 | arranger1 = 塩原大貴 | extra1 = 銀河座 | length1 = 3:40 | title2 = '''勿忘唄''' | lyrics2 = 志村真白 | music2 = 志村真白 | arranger2 = 志村真白 | extra2 = 千寿 暦 <br />ラモーナ・ウォルフ | length2 = 3:59 | title3 = '''悠久月華''' | lyrics3 = 志村真白 | music3 = 志村真白 | arranger3 = 志村真白 | extra3 = 志村真白 | length3 = 4:42 | title4 = '''ウタカタメロディ''' | lyrics4 = 常楽寺澪 | music4 = YUU for YOU<br />常楽寺澪 | arranger4 = YUU for YOU | extra4 = 王 雪<br />ラモーナ・ウォルフ | length4 = 3:40 | title5 = '''巡る暦の花のように''' | lyrics5 = 松井洋平 | music5 = [[光増ハジメ]] | arranger5 = 光増ハジメ | extra5 = 千寿 暦 | length5 = 3:39 | title6 = '''てぃだんちゅ MEETS てぃんがーら!''' | lyrics6 = 松井洋平 | music6 = 尾崎豪 | arranger6 = 尾崎豪 | extra6 = 与那国緋花里 | length6 = 3:44 | title7 = '''情熱リベレイション''' | lyrics7 = 松井洋平 | music7 = 光増ハジメ | arranger7 = 光増ハジメ | extra7 = 千寿 暦 <br />ラモーナ・ウォルフ | length7 = 3:47 | title8 = '''暁星アストレーション''' | lyrics8 = 志村真白 | music8 = 志村真白 | arranger8 = 志村真白 | extra8 = カトリナ・グリーベル <br />ラモーナ・ウォルフ | length8 = 4:08 | title9 = '''夏の夜空に光る雪''' | lyrics9 = 松井洋平 | music9 = 鈴木裕明 | arranger9 = 鈴木裕明 | extra9 = 王 雪<br />リリヤ・クルトベイ | length9 = 4:01 | title10 = '''革命ダンス''' | lyrics10 = 志村真白 | music10 = 志村真白 | arranger10 = 志村真白 | extra10 = 柳場ぱんだ<br />与那国緋花里 | length10 = 4:13 | title11 = '''So long, Say Goodbye''' | lyrics11 = 松井洋平 | music11 = [[EFFY]] | arranger11 = EFFY | extra11 = ラモーナ・ウォルフ | length11 = 3:18 | title12 = '''小さな奇跡の降る夜に''' | lyrics12 = 松井洋平 | music12 = 松坂康司 | arranger12 = 松坂康司 | extra12 = リリヤ・クルトベイ<br />ラモーナ・ウォルフ | length12 = 3:53 | title13 = '''夢のステラリウム''' | lyrics13 = 松井洋平 | music13 = 光増ハジメ | arranger13 = 光増ハジメ | extra13 = 銀河座 | length13 = 3:30 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> [[Category:ワールドダイスター]] [[Category:21世紀の日本の音楽]] [[Category:ランティスのアルバム]] [[Category:ゲームソング一覧]]
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円満寺 (大阪市福島区)
円満寺(えんまんじ)は、大阪府大阪市福島区玉川に位置する浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は居原山。本尊は阿弥陀如来。 1533年(天文2年)に創建。円満寺がある旧野田村は本願寺の勢力下にあり、証如が野田村を訪れた際に敵方に狙われ、証如を守るために戦い命を落とした野田村の21人を弔うために建立された。 証如は泉州に逃れたが、21人が亡くなった悲報を聞くと野田村の村人たちに一命をとりとめた感謝の気持ちを記した一通の書状を送り、この書状が2003年(平成15年)に大阪市有形文化財に指定された。 1759年(宝暦9年)に「親鸞聖人御画像」、「蓮如上人御画像」、「聖徳太子並びに七高僧御画像」を授かり円満寺に所蔵されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "円満寺(えんまんじ)は、大阪府大阪市福島区玉川に位置する浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は居原山。本尊は阿弥陀如来。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1533年(天文2年)に創建。円満寺がある旧野田村は本願寺の勢力下にあり、証如が野田村を訪れた際に敵方に狙われ、証如を守るために戦い命を落とした野田村の21人を弔うために建立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "証如は泉州に逃れたが、21人が亡くなった悲報を聞くと野田村の村人たちに一命をとりとめた感謝の気持ちを記した一通の書状を送り、この書状が2003年(平成15年)に大阪市有形文化財に指定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1759年(宝暦9年)に「親鸞聖人御画像」、「蓮如上人御画像」、「聖徳太子並びに七高僧御画像」を授かり円満寺に所蔵されている。", "title": "歴史" } ]
円満寺(えんまんじ)は、大阪府大阪市福島区玉川に位置する浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は居原山。本尊は阿弥陀如来。
{{日本の寺院 |名称 = 円満寺 |画像 = {{画像募集中|cat=大阪市}} |所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[玉川 (大阪市)|玉川]]4丁目4-25 |山号 = 居原山 |院号 = |宗派 = [[浄土真宗本願寺派]] |本尊 = [[阿弥陀如来]] |創建年 = [[1533年]]([[天文]]2年) |開基 = |正式名 = 居原山 円満寺 |札所等 = |文化財 = |公式HP = https://fukusima-enmanji.org/ |公式HP名 = 居原山 圓満寺 }} '''円満寺'''(えんまんじ)は、[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[玉川 (大阪市)|玉川]]に位置する[[浄土真宗本願寺派]]の[[寺院]]である。山号は居原山。本尊は[[阿弥陀如来]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kitamido.or.jp/kyomusho/kk_jiindata/%E5%9C%93%E6%BA%80%E5%AF%BA-3/|title=圓満寺|publisher=北御堂|accessdate=2023-12-27}}</ref>。 == 歴史 == [[1533年]]([[天文]]2年)に創建。円満寺がある旧野田村は[[本願寺]]の勢力下にあり、[[証如]]が野田村を訪れた際に敵方に狙われ、証如を守るために戦い命を落とした野田村の21人を弔うために建立された<ref>『大阪府全志』([[1922年]]、大阪府全志発行所)</ref>。 証如は[[泉州]]に逃れたが、21人が亡くなった悲報を聞くと野田村の村人たちに一命をとりとめた感謝の気持ちを記した一通の書状を送り、この書状が[[2003年]]([[平成]]15年)に大阪市有形文化財に指定された<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://fukusima-enmanji.org/aboutus/index.php#access|title=圓満寺の成り立ち(沿革)|publisher=居原山圓満寺|accessdate=2023-12-26}}</ref>。 [[1674年]]([[延宝]]2年)には[[本願寺]]の東西分裂に際して円満寺から枝分かれして[[極楽寺 (大阪市福島区)|極楽寺]]が新たに寺の西側に創建された。[[1759年]]([[宝暦]]9年)に「[[親鸞]]聖人御画像」、「[[蓮如]]上人御画像」、「[[聖徳太子]]並びに七高僧御画像」を授かり円満寺に所蔵されている<ref name=":0" />。 == 交通 == * [[西日本旅客鉄道|JR]]「[[野田駅 (JR西日本)|野田駅]]」より徒歩で約10分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://fukusima-enmanji.org/ 居原山圓満寺] * [https://www.kitamido.or.jp/kyomusho/kk_jiindata/%E5%9C%93%E6%BA%80%E5%AF%BA-3/ 圓満寺] - 北御堂 {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:えんまんし}} [[Category:大阪市の寺]] [[Category:浄土真宗本願寺派の寺院]] [[Category:福島区の歴史]] [[Category:福島区の建築物]]
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阿原町 (半田市)
阿原町(あわらちょう)は、愛知県半田市の地名。 半田市北東部に位置する。東は亀崎町、南は新居町、北は亀崎常盤町に接する。 国勢調査による人口および世帯数の推移。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "阿原町(あわらちょう)は、愛知県半田市の地名。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "半田市北東部に位置する。東は亀崎町、南は新居町、北は亀崎常盤町に接する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "国勢調査による人口および世帯数の推移。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "", "title": "歴史" } ]
阿原町(あわらちょう)は、愛知県半田市の地名。
{{Pathnav|日本|愛知県|半田市|'''阿原町'''|hide=1|frame=1}} {{Infobox settlement | name = 阿原町 | settlement_type = [[町丁]] | image_skyline = <!--- 関連する画像ファイル ---> | imagesize = 270px | image_caption = <!--- 画像の説明 ---> | image_map = | map_caption = 阿原町の位置 | pushpin_map = Japan Aichi | latd = 34 | latm = 54 | lats = 47.64 | latNS = N | longd = 136 | longm = 57 | longs = 34.7 | longEW = E | subdivision_type = [[国の一覧|国]] | subdivision_name = {{JPN}} | subdivision_type1 = [[都道府県]] | subdivision_name1 = {{Flag|愛知県}} | subdivision_type2 = [[市町村]] | subdivision_name2 = [[File:Flag of Handa, Aichi.svg|border|25px]][[半田市]] | established_title1 = 町名制定 | established_date1 = | area_footnotes = <ref group=WEB name="area">{{Cite web|url=https://toukei-labo.com/2015/?tdfk=23&city=23205|title=愛知県半田市の町丁・字一覧|publisher=人口統計ラボ|language=日本語|accessdate=2023-11-25}}</ref> | area_total_km2 = 0.04788446 | elevation_footnotes = <!--- 標高(<ref group=WEB>) ---> | elevation_m = <!--- 標高 ---> | population_as_of= 2020年(令和2年)10月1日現在 | population_footnotes = {{R|group=WEB|R2国勢調査}} | population_total = 258 | population_density_km2 = auto | timezone1 = [[日本標準時]] | utc_offset1 = +9 | postal_code_type = [[郵便番号]] | postal_code = 475-0031<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232050&cmp=1&mode=list&addr=|title=愛知県半田市の郵便番号一覧|publisher=日本郵便|accessdate=2023-11-25}}</ref> | area_code = 0569<ref group=WEB name=areacode>{{Cite web|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000141817.pdf|format=PDF||title=市外局番の一覧|publisher=総務省|date=2022-03-01|accessdate=2022-03-22}}</ref> | registration_plate = [[愛知運輸支局|名古屋]] | footnotes = }} '''阿原町'''(あわらちょう)は、[[愛知県]][[半田市]]の地名。 == 地理 == 半田市北東部に位置する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1815}}。東は[[亀崎町 (半田市)|亀崎町]]、南は[[新居町 (半田市)|新居町]]、北は[[亀崎常盤町]]に接する{{sfn|「角川日本地名大辞典」編纂委員会|1989|p=1815}}。 === 学区 === == 歴史 == === 町名の由来 === === 人口の変遷 === [[国勢調査]]による人口および世帯数の推移。 {| class="wikitable" |- |1995年(平成7年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000023630251&fileKind=1|format=CSV|title=平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-03-28|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref> |style="text-align:right"|52世帯<br>129人||<div style="width:5.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:12.9px;height:10px;background:#9999ff"></div> |- |2000年(平成12年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025137780&fileKind=1|format=CSV|title=平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-05-30|accessdate=2021-07-20|language=ja}}</ref> |style="text-align:right"|62世帯<br>174人||<div style="width:6.2px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:17.4px;height:10px;background:#9999ff"></div> |- |2005年(平成17年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000025514226&fileKind=1|format=CSV|title=平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等|author=総務省統計局|date=2014-06-27|accessdate=2021-07-21|language=ja}}</ref> |style="text-align:right"|61世帯<br>176人||<div style="width:6.1px;height:10px;background:#66dd66"></div><br><div style="width:17.6px;height:10px;background:#9999ff"></div> |- |2010年(平成22年)<ref group=WEB>{{Cite web|url=https://www.e-stat.go.jp/stat-search/file-download?statInfId=000012671534&fileKind=1|format=CSV|title=平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 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名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜
『名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜』(めいとういせかいのゆかいたくき アラフォーおんせんマニアのてんせいさきは のんびりおんせんてんごくでした)は、綿涙粉緒による日本のライトノベル。小説投稿サイト「ノベルアップ+」(ホビージャパン)にて2019年9月6日より連載中。2020年には「第2回ノベルアップ+小説大賞」(同社)に入賞し、2021年からはHJノベルス(同社)より書籍化されている。イラストは吉武。 メディアミックスとして、佐々木マサヒトによる漫画版が、『ファイアクロス』内のウェブコミック配信サイト『コミックファイア』にて2021年11月19日より連載中。2024年よりテレビアニメが放送予定。 綿涙が、大学時代には風呂部に入っていたほど温泉が好きだったことが、温泉をモチーフとした小説を書くきっかけとなった。執筆するうえでは、あまり不幸な展開にならないように気を付けている。 温泉好きの湯川好蔵は、秘湯を探している最中に盗撮と間違われ、逃げている最中に崖から転落して死亡してしまう。落ちる際に鳥居を守ったことでお稲荷様に感謝され、異世界へと転生することになる。その世界にも温泉があるものの「死の泉」と呼ばれ忌避されていることを知った好蔵は、お稲荷様の使いである繭玉とともに異世界で温泉の魅力を伝えることを決意する。 2024年1月よりTOKYO MXほかにて5分枠の短編アニメとして放送予定。「ノベルアップ+」発の作品では初のアニメ化となる。テレビ放送のほか、AnimeFestaでは「湯気なしver.」を独占配信。 ASMRのボイスドラマが配信予定。
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『名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜』は、綿涙粉緒による日本のライトノベル。小説投稿サイト「ノベルアップ+」(ホビージャパン)にて2019年9月6日より連載中。2020年には「第2回ノベルアップ+小説大賞」(同社)に入賞し、2021年からはHJノベルス(同社)より書籍化されている。イラストは吉武。 メディアミックスとして、佐々木マサヒトによる漫画版が、『ファイアクロス』内のウェブコミック配信サイト『コミックファイア』にて2021年11月19日より連載中。2024年よりテレビアニメが放送予定。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = 名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの<br />転生先は、のんびり温泉天国でした〜 | 画像 = | サイズ = | 説明 = | ジャンル = [[異世界 (ジャンル)|異世界ファンタジー]]、[[温泉]] }} {{Infobox animanga/Novel | タイトル = | 原作・原案など = | 著者 = 綿涙粉緒 | イラスト = 吉武 | 出版社 = [[ホビージャパン]] | 他出版社 = | 掲載誌 = [[ノベルアップ+]] | レーベル = [[HJノベルス]] | 開始号 = 2019年9月6日 | 終了号 = | 開始日 = 2021年8月19日 | 終了日 = | 発表期間 = | 巻数 = 既刊3巻(2022年8月現在) | 話数 = | その他 = | インターネット = 1 }} {{Infobox animanga/Manga | タイトル = | 作者 = 綿涙粉緒(原作)<br />吉武(キャラクター原案) | 作画 = [[佐々木マサヒト]] | 出版社 = ホビージャパン | 他出版社 = | 掲載誌 = [[コミックファイア]] | レーベル = [[HJコミックス]] | 開始日 = 2021年11月19日 | 終了日 = | 発表期間 = | 巻数 = 既刊2巻(2023年12月現在) | 話数 = | その他 = | インターネット = 1 }} {{Infobox animanga/TVAnime | タイトル = | 原作 = 綿涙粉緒 | 総監督 = | 監督 = 峯友則 | シリーズディレクター = | シリーズ構成 = 香椎葉平 | 脚本 = 香椎葉平 | キャラクターデザイン = 保村成 | メカニックデザイン = | 音楽 = | アニメーション制作 = [[BloomZ]]、[[ウルフズベイン]] | 製作 = 「異世界の湯」製作委員会 | 放送局 = [[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]ほか | 放送開始 = 2024年1月12日 | 放送終了 = | 話数 = | その他 = | インターネット = }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:ライトノベル|ライトノベル]]・[[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] | ウィキポータル = [[Portal:文学|文学]]・[[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜'''』(めいとういせかいのゆかいたくき アラフォーおんせんマニアのてんせいさきは のんびりおんせんてんごくでした)は、綿涙粉緒による[[日本]]の[[ライトノベル]]。[[小説投稿サイト]]「[[ノベルアップ+]]」([[ホビージャパン]])にて2019年9月6日より連載中<ref>{{Cite web|和書|url=https://novelup.plus/story/662145012|title=名湯『異世界の湯』開拓記(綿涙粉緒)|website=小説投稿サイトノベルアップ+|publisher=ホビージャパン|accessdate=2023-12-27}}</ref>。2020年には「第2回ノベルアップ+小説大賞」(同社)に入賞し<ref>{{Cite news|和書|url=https://ln-news.com/articles/109258|title=第2回ノベルアップ+小説大賞の最終選考結果が発表 「大賞」に1作品など6作品が受賞|newspaper=ラノベニュースオンライン|publisher=Days|date=2020-08-01|accessdate=2023-12-27}}</ref>、2021年からは[[HJノベルス]](同社)より書籍化されている。イラストは吉武。 メディアミックスとして、[[佐々木マサヒト]]による漫画版が、『[[ファイアクロス]]』内の[[ウェブコミック配信サイト]]『[[コミックファイア]]』にて2021年11月19日より連載中<ref>{{Cite news|和書|url=https://ln-news.com/articles/112750|title=『名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜』のコミカライズ連載が開始|newspaper=ラノベニュースオンライン|publisher=Days|date=2021-11-20|accessdate=2023-12-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://firecross.jp/ebook/series/423|title=名湯『異世界の湯』開拓記|website=ファイアCROSS|publisher=ホビージャパン|accessdate=2023-12-27}}</ref>。2024年よりテレビアニメが放送予定。 == 制作 == 綿涙が、大学時代には風呂部に入っていたほど温泉が好きだったことが、温泉をモチーフとした小説を書くきっかけとなった<ref name="novelup20231215">{{Cite web|和書|url=https://novelup.plus/info/detail/interview_menrui|title=ノベプラ初のアニメ化作品・誕生秘話 綿涙粉緒さんインタビュー|work=インタビュー|website=小説投稿サイトノベルアップ+|publisher=ホビージャパン|date=2023-12-15|accessdate=2023-12-27}}</ref>。執筆するうえでは、あまり不幸な展開にならないように気を付けている{{R|novelup20231215}}。 == あらすじ == 温泉好きの'''湯川好蔵'''は、秘湯を探している最中に盗撮と間違われ、逃げている最中に崖から転落して死亡してしまう。落ちる際に鳥居を守ったことでお稲荷様に感謝され、異世界へと転生することになる。その世界にも温泉があるものの「死の泉」と呼ばれ忌避されていることを知った好蔵は、お稲荷様の使いである'''繭玉'''とともに異世界で温泉の魅力を伝えることを決意する。 == 登場キャラクター == ; 湯川好蔵(ゆかわ こうぞう) : 声 - [[常盤昌平]]<ref name="staffcast">{{Cite web|和書|url=https://isekainoyu.com/staffcast.html|title=STAFF&CAST|website=名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜|accessdate=2023-12-27}}</ref> : 温泉マニアの35歳の男性。インターネットでは「温泉饅頭3世」の名で活動していた。 ; 繭玉(まゆだま) : 声 - [[三宅麻理恵]]{{R|staffcast}} : お稲荷様の使いの姫。 ; リリウム : 声 - [[恋糸りあ]]{{R|staffcast}} : エルフ族の少女。 ; オーヘンデック : 声 - [[倉持京子]]{{R|staffcast}} : リリウムの姉でエルフ族の族長。 ; ルイルイ : 声 - [[宮咲あかり]]{{R|staffcast}} : 異世界を統べる王。異世界転生してきた人間。 ; 小町(こまち) : 声 - [[宮世真理子]]{{R|staffcast}} : ルイルイのお世話係。繭玉の先輩。 == 書誌情報 == === 小説 === * 綿涙粉緒(著)・吉武(イラスト) 『名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜』 [[ホビージャパン]]〈[[HJノベルス]]〉、既刊3巻(2022年8月19日現在) *# 2021年8月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://firecross.jp/hjnovels/product/1387|title=名湯『異世界の湯』開拓記 1〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜|website=HJノベルス公式Webサイト|publisher=ホビージャパン|accessdate=2023-12-26}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7986-2573-7}} *# 2021年12月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://firecross.jp/hjnovels/product/1427|title=名湯『異世界の湯』開拓記 2〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜|website=HJノベルス公式Webサイト|publisher=ホビージャパン|accessdate=2023-12-26}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7986-2697-0}} *# 2022年8月19日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://firecross.jp/hjnovels/product/1539|title=名湯『異世界の湯』開拓記 3〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜|website=HJノベルス公式Webサイト|publisher=ホビージャパン|accessdate=2023-12-26}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7986-2899-8}} === 漫画 === * 綿涙粉緒(著)・吉武(キャラクター原案)・[[佐々木マサヒト]](漫画) 『名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜』 ホビージャパン〈[[HJコミックス]]〉、既刊2巻(2023年12月28日現在) *# 2022年8月1日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://firecross.jp/comic/product/1534|title=名湯『異世界の湯』開拓記 1〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜|website=コミックファイア公式Webサイト|publisher=ホビージャパン|accessdate=2023-12-26}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7986-2894-3}} *# 2023年12月28日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://firecross.jp/comic/product/1793|title=名湯『異世界の湯』開拓記 2〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜|website=コミックファイア公式Webサイト|publisher=ホビージャパン|accessdate=2023-12-26}}</ref>、{{ISBN2|978-4-7986-3391-6}} == テレビアニメ == {{放送前の番組|section=1|date=2023年12月27日 (水) 15:27 (UTC)}} 2024年1月より[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]ほかにて5分枠の短編アニメとして放送予定<ref name="animeanime20231126">{{Cite news|和書|url=https://animeanime.jp/article/2023/11/26/81478.html|title=VTuber・恋糸りあ&倉持京子が声優に挑戦! 異世界“混浴”ノベル「名湯『異世界の湯』開拓記」ショートアニメ&ASMRドラマ化|newspaper=アニメ!アニメ!|publisher=イード|date=2023-11-26|accessdate=2023-12-27}}</ref>。「ノベルアップ+」発の作品では初のアニメ化となる{{R|novelup20231215}}。テレビ放送のほか、[[AnimeFesta]]では「湯気なしver.」を独占配信{{R|animeanime20231126}}。 === スタッフ === * 原作 - 綿涙粉緒{{R|staffcast}} * キャラクター原案 - 吉武{{R|staffcast}} * 漫画 - [[佐々木マサヒト]]{{R|staffcast}} * 監督 - 峯友則{{R|staffcast}} * シリーズ構成・脚本 - 香椎葉平{{R|staffcast}} * キャラクターデザイン - 保村成{{R|staffcast}} * 美術監督 - 三宅昌和{{R|staffcast}} * 美術設定 - 平栁悟{{R|staffcast}} * 色彩設計 - 村口冬仁{{R|staffcast}} * 編集 - 河上尚{{R|staffcast}} * 撮影監督 - 坂野正弥{{R|staffcast}} * 音楽制作 - YAB EntertainMent{{R|staffcast}} * アニメーション制作 - [[BloomZ]]、[[ウルフズベイン]]{{R|staffcast}} * 制作協力 - 月虹{{R|staffcast}} * 製作 - 「異世界の湯」製作委員会{{R|staffcast}} === 主題歌 === ; 「Baby love! Baby please!」<ref>{{Cite web|和書|url=https://isekainoyu.com/music.html|title=MUSIC|website=名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜|accessdate=2023-12-27}}</ref> : [[ギルドロップス]]による主題歌。作詞・作曲・編曲は[[SUPA LOVE]]の金崎真士。 === 放送局 === {{放送期間 | 放送期間 | 放送時間 | 放送局 | 対象地域 | 備考 | 2024年1月12日 - | 金曜 1:00 - 1:05(木曜深夜) | [[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]] | [[東京都]] | | 2024年1月18日 - | 木曜 1:00 - 1:05(水曜深夜) | [[BSフジ]] | [[全国放送|日本全域]] | [[日本における衛星放送#BSデジタル放送|BS]]/[[4K 8Kテレビ放送|BS4K放送]] / 『[[アニメギルド]]』枠 | ref={{Cite web|和書|url=https://isekainoyu.com/onair.html|title=ONAIR|website=名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜|accessdate=2023-12-27}} | refname=onair }} {{放送期間 | media=インターネット | 配信開始日 | 配信時間 | 配信サイト | 備考 | | {{Nowrap|2024年1月12日}} | {{Nowrap|金曜 1:05(木曜深夜) 更新}} | [[AnimeFesta]] | 湯気なしver. | | | | [[dアニメストア]] | | | 2024年1月15日 | 月曜 12:00 更新 | {{Flatlist|class=hlist-pipe| * [[U-NEXT]] * [[アニメ放題]] * [[DMM TV]] * [[ABEMA]] * [[フジテレビオンデマンド|FOD]] * [[Lemino]] * [[バンダイチャンネル]] * [[Hulu]] * ふらっと動画 * [[ニコニコチャンネル]] * HAPPY!動画 * WATCHA * [[Amazon Prime Video]] }}| | | 2024年1月17日 | 火曜 0:00(月曜深夜) 更新 | {{Flatlist|class=hlist-pipe| * [[TELASA]] * [[J:COMオンデマンド|J:COM STREAM]] * milplus }}| | | 2024年4月1日 | 月曜 12:00 更新 | {{Flatlist|class=hlist-pipe| * [[ビデオマーケット]] * [[music.jp]] * [[カンテレドーガ]] }}| | | refname=onair }} == ボイスドラマ == [[ASMR]]のボイスドラマが配信予定{{R|animeanime20231126}}。 == 出典 == {{Reflist|30em}} == 外部リンク == * [https://novelup.plus/story/662145012 名湯『異世界の湯』開拓記(綿涙粉緒)] - 小説投稿サイトノベルアップ+ * {{Official|https://novelup.plus/features/isekainoyu|name=異世界の湯アニメ化特設ページ}} - 小説投稿サイトノベルアップ+ * [https://isekainoyu.com/ 名湯『異世界の湯』開拓記 〜アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした〜] - アニメ公式サイト * {{Twitter|isekainoyuanime|アニメ「異世界の湯」公式}} {{デフォルトソート:めいとういせかいのゆかいたくき}} [[Category:2019年の小説]] [[Category:HJノベルス]] [[Category:オンライン小説]] [[Category:日本のファンタジー小説]] [[Category:ハイファンタジー小説]] [[Category:温泉を題材とした作品]] [[Category:異世界への転生・転移を題材とした作品]] [[Category:漫画作品 め|いとういせかいのゆかいたくき]] [[Category:2021年の漫画]] [[Category:ウェブコミック配信サイト掲載漫画作品]] [[Category:ハイファンタジー漫画]] [[Category:アニメ作品 め|いとういせかいのゆ]] [[Category:2024年のテレビアニメ]] [[Category:ウルフズベイン]] [[Category:UHFアニメ]] [[Category:ローカルテレビ局の短編アニメ]] [[Category:HJノベルスのアニメ作品]] [[Category:ハイファンタジーアニメ]] [[Category:継続中の作品]] [[Category:長大な項目名]]
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フアニータ・デル・カルメン・リオス・エルナンデス
フアニータ・デル・カルメン・リオス・エルナンデス(スペイン語:Juanita del Carmen Ríos Hernández、1977年1月11日- )は、メキシコの犯罪者、実業家。犯罪組織・麻薬カルテルであるロス・セタスの幹部。ロス・セタスの元リーダーであるミゲル・トレビーニョ・モラレスの妻として知られている。
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フアニータ・デル・カルメン・リオス・エルナンデス(スペイン語:Juanita del Carmen Ríos Hernández、1977年1月11日- )は、メキシコの犯罪者、実業家。犯罪組織・麻薬カルテルであるロス・セタスの幹部。ロス・セタスの元リーダーであるミゲル・トレビーニョ・モラレスの妻として知られている。
'''フアニータ・デル・カルメン・リオス・エルナンデス'''([[スペイン語]]:Juanita del Carmen Ríos Hernández、[[1977年]][[1月11日]]- )は、[[メキシコ]]の犯罪者、実業家。[[組織犯罪|犯罪組織]]・[[麻薬カルテル]]である'''[[ロス・セタス]]'''の幹部<ref>{{Cite web |title=Juanita Del Carmen RIOS HERNANDEZ |url=https://www.opensanctions.org/entities/NK-dr5ro8h2j5eEfiLFaechdr/ |website=OpenSanctions.org |date=1977-01-11 |access-date=2023-12-27 |language=en}}</ref>。ロス・セタスの元リーダーである[[ミゲル・トレビーニョ・モラレス]]の妻として知られている<ref>{{Cite web |title=¿Quién es la esposa del "Z-40"? La busca EU por narco |url=https://www.elimparcial.com/sonora/mexico/Quien-es-la-esposa-del-Z-40-La-busca-EU-por-narco-20140215-0102.html |website=Noticias de México {{!}} EL IMPARCIAL |date=2014-02-15 |access-date=2023-12-27 |language=es}}</ref><ref>{{Cite web |title=Esposa del Z-40 de las más buscadas por EU |url=https://animalpolitico.com/2014/02/esposa-del-z-40-de-las-mas-buscadas-por-eu |website=Animal Politico |date=2014-02-14 |access-date=2023-12-27 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=El Departamento del Tesoro sanciona a la esposa del líder de 'Los Zetas' |url=https://expansion.mx/nacional/2014/02/14/el-departamento-del-tesoro-sanciona-a-la-esposa-del-lider-de-los-zetas |website=Expansión |date=2014-02-14 |access-date=2023-12-27 |language=en}}</ref>。{{Infobox 人物|氏名=フアニータ・デル・カルメン・リオス・エルナンデス<br />Juanita del Carmen Ríos Hernández|ふりがな=|画像=|画像サイズ=|画像説明=|出生名=Juanita del Carmen Ríos Hernández <br/>(フアニータ・デル・カルメン・リオス・エルナンデス)|生年月日={{生年月日と年齢|1977|1|11}}|生誕地={{MEX}}<br/>[[タマウリパス州]]|失踪年月日=|失踪地=|現況=逃走中<br/>[[アメリカ]]からの制裁対象|没年月日=|死没地=|死因=|遺体発見=|墓地=|記念碑=|住居=|国籍={{MEX}}|別名=|民族=[[メキシコ人]]|市民権={{MEX}}|教育=|出身校=|職業=麻薬密売人<br/>実業家|活動期間=|雇用者=Distribuidora e Importadora de Productos Médicos del Norte(ノーザン・メディカル製品の販売代理店および輸入業会社)<br/>[[ロス・セタス]]|団体=Distribuidora e Importadora de Productos Médicos del Norte(ノーザン・メディカル製品の販売代理店および輸入業会社)<br/>[[ロス・セタス]]|代理人=|著名な実績=[[ロス・セタス]]の元リーダー[[ミゲル・トレビーニョ・モラレス]]の妻|業績=|流派=|影響を受けたもの=|影響を与えたもの=|活動拠点={{MEX}}<br/>[[タマウリパス州]]|給料=|純資産=|身長=|体重=|テレビ番組=|肩書き=企業経営<br/>ロス・セタスの幹部|任期=|前任者=|後任者=|政党=|政治活動=|敵対者=[[メキシコ軍]]<br/>メキシコ警察<br/>[[アメリカ政府]]<br/>[[ガルフ・カルテル]]|取締役会=|宗教=|宗派=|罪名=[[資金洗浄]]|有罪判決=|犯罪者現況=逃走中/指名手配中<br/>アメリカ国内の資産凍結及びアメリカ国民との取引禁止|配偶者=[[ミゲル・トレビーニョ・モラレス]]([[ロス・セタス]]の元リーダー/逮捕・収監中)|非婚配偶者=|子供=|親=|親戚=[[ホセ・トレビーニョ・モラレス]](義兄)<br/>[[オマール・トレビーニョ・モラレス]](義弟)<br/>[[フアン・フランシスコ・トレビーニョ・モラレス]](義弟)<br/>[[レイナ・ジェシカ・トレビーニョ]](義妹)<br/>フアン・フランシスコ・トレビーニョ・チャベス(夫の甥) <br/>[[イスマエル・ブライアン・トレビーニョ]](通称:エル・ゴルド/夫の甥)|コールサイン=|受賞=|署名=|署名サイズ=|公式サイト=|補足=}} ==脚注== ===出典=== <references /> ==関係項目== *[[ミゲル・トレビーニョ・モラレス]] *[[ロス・セタス]] *[[メキシコ麻薬戦争]] {{Mexico-stub}} {{DEFAULTSORT:ふあにーた・でる・かるめん・りおす・えるなんです}} [[Category:メキシコの犯罪者]] [[Category:タマウリパス州出身の人物]] [[Category:1977年生]] [[Category:存命人物]]
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新潟電力
新潟電力株式会社(にいがたでんりょく かぶしきがいしゃ)は、明治末期から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。新潟県新潟市を本拠とした電力会社の一つ。 1907年(明治40年)に新潟水力電気株式会社(にいがたすいりょくでんき)の社名で設立され、1909年(明治42年)に開業した。新潟電力への社名変更は1930年(昭和5年)のことで、同じく新潟市を本拠とする新潟電気(旧・新潟水電)との合併に伴う。最盛期には新潟県下越地方の大部分と中越地方北部、福島県会津地方の一部を供給区域とした。 1942年(昭和17年)、電力国家管理の強化に伴い日本発送電と東北配電(東北電力の前身)に設備を出資して解散した。 新潟電力株式会社は、1907年(明治40年)から1942年(昭和17年)までの35年間にわたり新潟県新潟市に存在した電力会社である。ただし設立から1930年(昭和5年)の改称までは「新潟水力電気株式会社」という社名であり、この社名を称した期間の方が長い。 新潟水力電気は阿賀野川水系早出川での水力発電計画を起業の起源とする。発起人は長岡市にあった石油会社宝田石油の関係者と、県内第一号の電気事業者新潟電灯(1896 - 1909年)の旧経営陣が中心で、1907年6月会社設立に至る。発電所完成により1909年(明治42年)3月に開業し、発電所のある新潟県下越地方のうち五泉・新津・新潟市、中越地方北部のうち加茂・三条・見附・栃尾といった地域で順次供給を始めた。このうち新潟市内は新潟電灯の事業を引き継いだ新潟水電(1907年設立・1920年新潟電気へ改組)と供給区域が重複する形となり、同社との間には動力用電力市場をめぐって競争が生じた。 1910年代半ばより自社の電源開発が停滞し購入電力への依存度を高めたが、1920年代に入ると阿賀野川水系実川での発電所建設を推進し、事業統合により福島県会津地方にも発電所を取得した。1929年(昭和4年)、競合会社の新潟電気が大手電力会社東邦電力の傘下に入る。これを機に新潟水力電気と新潟電気の間で合併交渉が進展し、1930年1月に新潟水力電気が新潟電気を合併する形で合同が実現した。合併に伴い同年2月より新潟水力電気は社名を新潟電力へと改めている。この合同で電源に阿賀野川(大川)の大型発電所などが加わり、供給区域は下越地方の大部分と会津地方の一部にも拡大した。 1938年(昭和13年)には会津地方を流れる阿賀野川水系伊南川に出力2万キロワット超の大規模発電所を新設。さらに1940年(昭和15年)にかけて会津地方の小規模事業者と下越地方北部に残る村上水電を統合した。しかしながら最盛期は長続きせず、電力国家管理政策の強化に伴って1941年(昭和16年)に発送電事業を担う国策会社日本発送電に対し一部設備を、国策配電会社東北配電に対し残余設備をそれぞれ出資するよう国から命ぜられる。翌1942年4月に両社への出資が実行に移され、事業を失った新潟電力は同年5月に解散した。 旧新潟電力の供給区域や設備は、太平洋戦争後の1951年(昭和26年)5月に実施の電気事業再編成で基本的に東北電力へと継承されたが、福島県内の発電所1か所のみ東京電力へと引き継がれている。 1898年(明治31年)3月、新潟県下で第一号の電気事業者として新潟市に新潟電灯株式会社が開業した。同社の電源は小規模な火力発電であり、発電所は市内白山浦にある本社隣接地に置かれた。1900年(明治33年)には古志郡長岡町(現・長岡市)でも火力発電による個人経営の電気事業が開業し、新潟県には火力発電による電気事業者が2つ並ぶ形となった。 他方で、火力発電が先行した県内の動きに反し周辺地域では水力発電が盛んであった。特に1899年(明治32年)6月に福島県郡山市で開業した郡山絹糸紡績(東部電力の前身)は、安積疏水の発電所から当時の国内最高電圧にあたる11キロボルト(1万1000ボルト)という送電電圧をもって郡山市街まで24キロメートルに及ぶ長距離送電を行った。こうした長距離高圧送電の実用化により、水力発電の適地が近隣にない都市でも水力発電の採用が広がっていく。新潟県下ではまず山口権三郎が信濃川での水力発電を志し、山口の死後事業を引き継いだ北越水力電気組(後の北越水力電気)が1904年(明治37年)12月に塩殿発電所を完成させ、長岡や小千谷での供給を始めた。次いで1906年(明治39年)6月には中頸城郡高田町(現・上越市)の上越電気が関川の水力発電所を電源とする電気事業の許可を得た(翌年開業)。 県内外で水力発電が拡がりをみせる中、火力発電で営業する新潟電灯社内でも水力発電計画が検討されるようになった。その主導者は取締役の一人中野平弥(県下の大地主・鉄工所経営)である。中野は新潟市内から40キロメートル以内の適地を探求した結果、北蒲原郡笹岡村(現・阿賀野市)を流れる阿賀野川水系大荒川での水力発電を企画し、1905年(明治38年)になって具体的計画を会社に対して提案した。同じ頃、社外でも日露戦争後の好景気に乗じた起業の動きがあり、木村松二郎(長岡市)ら石油事業で財を成した実業家により中蒲原郡川内村(現・五泉市)を流れる阿賀野川水系早出川での水力発電が企画された。 こうして新潟周辺では短期間に2つの水力発電計画案が出現したのであるが、このことで新潟電灯社内に深刻な対立が生じた。中野平弥は自身の調査にかかる大荒川の計画を主張したが、それ以外の役員は早出川での計画を未完成のうちに新潟電灯で買収する方が有利であると主張したのである。路線対立の末、1906年11月、社長の鈴木長八(回漕業)を含む中野平弥以外の全役員が辞任する事態となった。新潟電灯に残った中野は自ら社長となり、大荒川での水力発電計画を推進して翌1907年(明治40年)11月には資本金30万円で新会社・新潟水電を立ち上げた。 新潟電灯社内が揺れる中、早出川での水力発電計画は木村松二郎らから清水常作ら宝田石油(長岡市)関係者に引き継がれており、1906年10月27日に清水ほか6名の名義で改めて水利権の出願がなされた。清水らは同年12月27日に逓信省に対し「新潟水力電気株式会社」の電気事業経営許可も申請している。水利権は翌1907年1月14日付で許可され、事業許可は中野平弥主宰の新潟水電と競合したものの5月22日付で下りた。新潟水力電気が当初供給区域として許可を得た地域は以下の通りである。 起業目論見書に記された新潟水力電気の発起人は計35名からなる。長岡の宝田石油関係からは清水常作・渡辺六松(ともに大株主)や山田又七(社長)、渡辺藤吉(専務取締役)が発起人に参加。また清水らが県内有力者のほか石油取引を通じて親交のあった東京・名古屋・大阪の実業家にも起業への参加を呼びかけたことから、大阪の才賀藤吉(才賀電機商会代表)・岩下清周、東京の鈴木久五郎など県外の人物も多く名を連ねた。さらに社内対立で新潟電灯から去った鈴木長八らも中野平弥に対抗する目的で新潟水力電気の起業に合流し、旧役員のうち鈴木のほか小出喜七郎(新潟の洋物商)と斎藤喜十郎(新潟商業銀行専務)が発起人となっている。資本金は150万円に設定され、総株数3万株のうち2万2000株は発起人で引き受けるものとされた(残り8000株の株主は公募)。 電気事業経営許可と株式の第1回払込の完了をうけて、1907年6月21日、長岡市内の商業会議所建物にて新潟水力電気の創立総会が開催された。総会にて選ばれた役員は取締役が鈴木長八・清水常作・小出喜七郎・渡辺藤吉・才賀藤吉・松尾平次郎(大阪)・山内芳三郎(名古屋)の7名、監査役が斎藤喜十郎ほか3名である。その中から初代社長に鈴木、専務に清水が就いている。設立準備段階での創立事務所は長岡市内の清水常作邸に置かれていたが、発足に際し本社は新潟市上大川前通十番地に構えた。 設立2か月後の1907年8月、新潟水力電気では早出川にて第一発電所の工事に着手した。11月からは沼垂・亀田・新津・五泉・村松の5町に申込所を設けて電灯・電力供給の勧誘と予約募集を始めた。2年後の1909年(明治42年)3月、第一発電所が落成する。同発電所は出力500キロワットで、中蒲原郡川内村大字小面谷(現・五泉市小面谷)に立地した。一方、変電所は五泉・新津・沼垂の3か所に配置している。これら施設の完成をうけて、逓信省の検査が完了した1909年3月4日より試験点灯を開始。そして3月11日より試験点灯から営業に移行した。 開業とともに配電が始まった地域は中蒲原郡新津町・五泉町・村松町の3町で、開業時は467戸の需要家に対し1711灯の電灯を点灯した(動力用電力の供給は未開業)。1909年5月からは電力供給区域である新潟市内と沼垂町での供給も開始。さらに7月から順次新津油田(金津油田・小口油田)へ電力供給を始め、12月からは亀田町でも配電した。12月末時点での電灯点灯数は3710灯、動力用電力供給は電動機83台・計356馬力(約265キロワット)であった。電力利用は石油鉱業向けが過半を占め、他に精米業や製材業、鉄工業などで利用された。その後も新津油田を中心に電力供給の申込みが相次いだことから供給力増加が必要となり、1911年(明治44年)より早出川支流の杉川に第二発電所(出力400キロワット)を起工した。場所は中蒲原郡川内村大字下杉川(現・五泉市下杉川)である。 加茂・三条方面に対しては第二発電所の完成を待って配電する予定であったが、早期供給の要望に応え、従来使用していた炭素線電球(発光部分に炭素線を用いる白熱電球)を消費電力の少ない金属線電球(発光部分に金属線を用いる白熱電球)に切り替え供給余力を捻出することで、予定を早めて1911年11月より供給を始めた。第二発電所は翌1912年(明治45年)5月に完成、さらに翌1913年(大正2年)9月には沼垂火力発電所(出力500キロワット)を追加して需要増加に応じた。発電力充実を機に供給を南へと広げ、1912年6月より南蒲原郡見附町・今町と古志郡栃尾町(後の栃尾市)、1914年(大正3年)1月より三島郡与板町での供給をそれぞれ始めている。順調な需要増加により、同年末時点では電灯点灯数1万8754灯・動力用電力供給1510馬力(約1126キロワット)を数えた。 このように開業後の成績は良好であったが、初期の新潟水力電気は資金調達が景気変動に左右されるという問題を抱えた。これは株主に石油鉱業家が多かったことによる。特に1909年5月の第2回株式払込の際には払込不能の株主が多く発生し、3万株のうち6千株余りが失権株となってしまった。この失権株の整理に地元有力者の応援を求めたことから、これを契機として県外株主の退出と株式の県内回帰が進んでいく。大株主の異動を反映して才賀藤吉ら県外役員が退出した結果、1913年1月、地元の白勢春三(新潟銀行専務)と鍵富三作(県下の大地主で新潟銀行取締役)が取締役に就任する。1912年(大正元年)11月に専務の清水常作が死去し、次いで1914年5月に社長の鈴木長八も辞任すると、白勢春三を社長とする新体制が発足した。 新潟水力電気の開業と同時期、中野平弥が主宰する新潟水電も開業した。同社は1909年3月に新潟電灯の事業を継承した上で、5月13日より大荒川発電所(出力443キロワット)から新潟市内と沼垂町への供給を開始。あわせて旧新潟電灯時代には未開業であった動力用電力供給も開始している。 新潟水力電気の新潟進出に対し、新潟水電では水力発電所が完成し次第料金を引き下げること、新潟水力電気から電灯供給を受ける場合には2000ワット(10燭灯60灯相当)超の取付けが必要な上に自家用電灯扱いになり手続きが煩雑になることを告知して需要家の流出防止に努めた。それでも新潟水力電気では開業までの間に新潟市において約300馬力、沼垂町において約200馬力の電力供給予約を集めたという。そのため新潟水力電気が開業すると新潟市・沼垂町では需要家争奪戦が勃発、市内では至る所で道路の両側に両社の配電線が対峙する形となる。需要家に対しては規定以下の料金での供給が行われ、昼間専用の供給であるはずのところに昼夜間の送電をなしたり、器具の表示灯に余分な電灯を添えたりすることもあったという。1913年には新潟水電側が需要家に動力使用組合を組織させ、引き留めのため様々な特典を与えるようになった。1916年(大正5年)2月になると新潟水力電気側も同様の組合を組織させて規定の半額での電力供給を始めた。 後述のように、新潟水力電気側では1910年代半ば以降新規発電所を建設できず、しばらく発電力は水力900キロワット・火力500キロワットで固定された。他方、新潟水電では1915年(大正4年)9月に出力1900キロワットの飯豊川第一発電所を完成させ、発電力を2848キロワット(水力4か所)に引き上げた。飯豊川第一発電所の完成を機に新潟水電は大口電力供給が可能となり、北越板紙(後の北越製紙新潟工場)などへの電力供給を開始し供給成績を大きく伸ばした。新潟市内における電力供給成績は1915年11月末時点で新潟水電が598.5馬力(約446キロワット)、新潟水力電気が413.0馬力(約308キロワット)であったが、この差はその後さらに拡大していき、1918年(大正7年)11月末時点では新潟水電の2587.75馬力(約1930キロワット)に対して新潟水力電気は995.5馬力(約742キロワット)に留まった。 新潟水電と新潟水力電気の競争は新潟市外にも飛び火した。近郊の中蒲原郡亀田町では新潟水力電気が先に供給を始めていたが、1916年上期になって新潟水電も供給を始め、同地にある織布工場への電力供給を新潟水力電気から奪取した。さらに新潟水電は1918年に新潟水力電気の地盤である新津油田への割り込みを図ったが、これは供給認可自体を得られず失敗した。それでも新潟水力電気側は採掘業者と協定して原油相場の上下に随伴する電力料金制を定めて採掘業者に優遇を与えた。 1918年5月、新潟水電を主宰する専務中野平弥が死去した。この直後、新潟県知事が新潟水電と新潟水力電気の両社に対して合同を勧告したが、同年6月新潟水電側が合併を希望しない旨を表明して合同の動きは流れた。さらに翌1919年(大正8年)春から翌年にかけて越後鉄道専務の久須美東馬が合同を斡旋したが、やはり新潟水電側に意思がなく失敗に終わる。1920年(大正9年)11月、新潟水電は資金調達の都合から資本金1000万円の新会社・新潟電気(社長斎藤彦太郎・専務中野四郎太)を立ち上げて事業を新会社へと移した。 第二発電所と沼垂火力発電所を完成させた後、新潟水力電気では新潟県内各地で水力発電地点の調査研究にあたったが有力な地点を欠いたため、費用・工期を踏まえて自社発電所建設ではなく猪苗代水力電気からの受電によって供給力を増強する方針を立てた。この猪苗代水力電気は福島県を流れる阿賀野川水系日橋川(猪苗代湖が水源)において大型電源開発を進めていた電力会社で、1914年10月より猪苗代第一発電所(出力3万7500キロワット)を運転していた。社長の白勢春三と猪苗代水力電気の専務白石直治が旧知の間柄であったという縁もあり交渉が進められた結果、1914年12月に受電契約が成立する。契約の概要は、新潟水力電気側で受電設備を用意の上、最大2400キロワット(初年度は1000キロワット)を10年間受電する、というものであった。 1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると不況が発生し、石油鉱業の不振から1915年上期には電力供給成績が前期比2割減となるという痛手を負った。しかしこの不況は一時的で、間もなく大戦景気が発生すると電灯・電力需要は急伸していく。猪苗代送電線(日橋 - 五泉間・送電電圧55キロボルト)の完成に伴い1916年3月より猪苗代水力電気からの受電が始まると新潟水力電気では電灯・電力の勧誘商戦を展開し、4月末までの1か月半で電灯5280灯・電力235馬力の需要獲得に成功する。その後も供給区域を拡大しつつ供給拡大に努めた。大戦景気期の1918年下期に電灯点灯数は4万灯に到達、大戦初期に一時1000キロワットを下回っていた電力供給は大口供給も含めて4000キロワットを超える規模になっている。 電力需要の中心である石油鉱業に関しては、新津油田に加えて1917年(大正6年)より三条・長岡方面の大面油田や東山油田への供給を開始する。また新津油田では1914年8月に宝田石油と共同で削井機の電動化を試みた。大戦景気期に興隆した化学工業も需要家に加え、1917年3月より加納亜鉛へ600キロワット、翌1918年6月より高田商会大寺製錬所へ1000キロワットの送電を始めた。双方とも亜鉛の電解精錬を行う工場で、前者は福島県耶麻郡加納村(現・喜多方市)、後者は耶麻郡磐梯村(現・磐梯町)にあった。大戦景気期には小口の電力需要も伸長しており、織物業・鉄工業・金属加工業などの中小工場で電動機が普及し、農村においても灌漑・排水用動力として電動機利用が増えていった。 大戦景気期下の1917年12月、全国的な水不足が発生し、水力発電量低下により新潟水力電気管内では特に南部の三条・見附・栃尾方面で停電が頻発するようになった。三条の動力使用組合が主張するところによると、新潟水力電気は亀田・新潟方面への送電を優先し管内への平等な送電を行っていなかったという。三条では金属加工業、見附・栃尾では織物業が盛んであったため停電は産業への影響が大きく、需要家らは会社側に停電時の補償を求めて運動を始めた。中でも三条の動力使用組合は料金不払い運動を行う構えをみせた。1918年3月、会社側から停電が3時間以上に及ぶ場合は電力料金を一部控除するという妥協が出されて停電問題はひとまず解決に向かった。 順調な事業拡大の一方で、社内では問題が相次いだ。一つは資金問題で、猪苗代送電線建設費を日本勧業銀行からの借入れで調達したが不足するため、1915年7月に増資を決定した。増資額は25万円(増資後の資本金は175万円に)に過ぎず、しかも大戦勃発直後の金融事情を踏まえて年率8パーセントの配当を保証する優先株式の発行によるものであったが、そでれも株主に引受けを拒む者が多く5000株のうち1200株余りが宙に浮きその処理に時間を要した(増資完了は1916年3月)。次いで1917年上期、元専務清水常作による社名冒用手形の濫発が発覚、訴訟敗訴により手形債務約2万1000円が発生した。これに沼垂火力発電所の廃止・売却による損失も重なったため、同期の決算では約1万7000円の欠損が生じている。その一方、このころには金融市場が安定していたため1917年11月低利社債への借り換えに成功し、支払利息の軽減を実現。業績も改善に向かい、1919年9月、350万円への倍額増資を決定した。 第一次世界大戦終結後の1920年春、戦後恐慌が発生する。新潟水力電気管内では電灯の休灯が相次ぎ、化学工業向けの大口供給が消滅するなどの影響はあったものの一時的で、電灯・電力需要ともに増加傾向が続いた。その対応のため、翌1921年(大正10年)3月猪苗代水力電気からの受電高を4000キロワットへと増加。自社発電所建設も再開して同年6月から東蒲原郡豊実村(現・阿賀町豊実)を流れる阿賀野川水系実川の開発に着手した。これらの措置で供給力に余裕が生じたため1921年8月より電灯増設の勧誘商戦を展開した結果、1922年(大正11年)上期に電灯数は10万灯に達している。経営面では1920年代に入ると業績が安定し、初めて年率10パーセントの配当を出せるようになる。増資も円滑に進み、1921年11月には再度の倍額増資を決定して資本金を700万円に引き上げた。 1922年、新潟水力電気では設立以来最初の事業統合として高浪電気株式会社と東北電化株式会社の合併を決定した。合併は同年12月24日株主総会での決議を経て翌1923年(大正12年)5月10日の合併報告総会をもって完了。合併により資本金を55万円増して755万円とした。合併した高浪電気は古志郡東谷村(後の栃尾市)にあった小規模事業者で、川上淳一郎の個人事業として1918年6月に開業。1920年12月25日に資本金10万円をもって高浪電気が設立され、事業が法人化されていた。もう一方の東北電化は1917年3月17日東京に設立され、元は福島県内の郡山・磐梯・小野新町に工場を構えてフェロアロイの製造にあたっていた。東北電化は工場電源として福島県耶麻郡駒形村(現・喜多方市)に日橋川から取水する金川発電所(出力1200キロワット)を1919年10月より運転しており、新潟水力電気では合併により同発電所を引き継いでいる。 1923年4月、実川に建設していた小荒発電所(出力3300キロワット)が完成した。その後も実川開発を続け、1926年(大正15年)1月に下平発電所(出力3192キロワット)、同年10月に赤倉発電所(出力2237キロワット)を相次ぎ完成させる。さらに1928年(昭和3年)5月には新潟市山ノ下に渇水期の補給用兼故障時の応急用として沼垂火力発電所(出力5000キロワット)を新設した。これらの電源開発により自社発電力は水力1万1229キロワット・火力5000キロワットに達し、従来の電源の主力であった受電を上回る規模となった。開発中の1925年(大正14年)6月、建設費調達のため445万円の増資を決議し、資本金を1200万円としている。 1923年4月、受電元の猪苗代水力電気が関東地方地盤の大手電力会社東京電灯に合併された。この東京電灯は、新潟県南部を流れる信濃川水系中津川にて信越電力が開発する中津川第一・第二両発電所(出力計5万7000キロワット)の電力を県内で販売すべく、同年9月に中津川第二発電所から長岡変電所へと至る長岡送電線(送電電圧66キロボルト)を建設する。東京電灯の長岡進出にあわせまず新潟電気が最大3000キロワットの受電を契約。新潟水力電気でも1925年2月になって最大3000キロワットを長岡変電所経由で受電するという契約を締結し、同所から自社の見附変電所へ至る送電線を翌1926年1月に完成させて長岡経由での受電も開始した。1929年(昭和4年)9月の変更時点における東京電灯からの受電は猪苗代第一発電所経由が3000キロワット、長岡変電所経由が2000キロワットである。 1927年(昭和2年)10月25日、新潟水力電気は傍系会社として新潟市内に阿賀川水力電気株式会社を設立した。発起人吉野周太郎ほか20名が1918年に申請していた福島県内を流れる阿賀川(阿賀野川)の水利権が1927年5月に許可されたことに伴う起業である。新潟水力電気では同社の株式6万株(資本金300万円)のうち4万7600株を持っており、専務の白勢量作が同社社長を兼ねた。しかし阿賀川水力電気は開業に至らないまま1929年10月、阿賀川開発を進める東京電灯系の発電会社東信電気に合併された。 新潟市内(旧沼垂町域を含む)と亀田町で供給区域が重複する新潟電気(旧・新潟水電)との電力需要家争奪戦は両社とも供給力不足が目立った1920年前後の時期には一時緩和されていたが、1923年頃より再燃した。その結果競争の弊害が随所に顕在化したことから両社間で営業に関する交渉が進められ、1924年(大正13年)12月営業不可侵協定の締結に至った。協定内容は、供給区域が重複する地域では需要家の争奪を目的とする勧誘・宣伝その他一切の競争的行為を禁ずる、供給料金・供給条件は意見交換の上でできるだけ統一する、両社は相互に相手の需要家に対する供給権を尊重し侵害しない、相手の需要家より供給の申込みがあった場合は相手側の承諾を得て供給する、大口需要家以外は各自の供給規定にて定めた料金・条件に沿って供給する、などであった。協定後も新規需要家をめぐる小競り合いがあったものの、年を追うごとに両社の関係は改善に向かった。 1920年代は慢性的な不況下にあったとはいえ、工場の合理化という名目で機械化が進んだことから電力需要の増加傾向は続いた。1923年10月、管内のうち五泉と村松を結ぶ蒲原鉄道が新潟県内最初の電気鉄道が開業すると、新潟水力電気では同社に100キロワットの電力供給を始め、新たに電気鉄道という需要家を加えた。奥川開発が進んだ1926年1月からは新潟市内にある北越製紙新潟工場に対し常時1200キロワットという大口供給を開始している。さらに関係会社として1926年2月新潟電気工業を設立し、同社を通じて新潟市内に炭化カルシウム(カーバイド)工場を建設、1200キロワットの電力需要を自ら生み出した。一方、電灯供給部門では不況下での需要喚起策として数年ごとに勧誘商戦を展開した。家庭向けでは新潟市内の富裕層向けに電熱器具の普及も図ったが、時期尚早でこれは定着しなかった。 様々な需要喚起策が採られていた最中の1926年12月8日、風雪により送電線と一次変電所の五泉変電所に故障が生じ、管内全域が停電するという事故が発生した。この停電を契機としてにわかに会社に対する非難の声が拡がり、電気料金値下げ運動が各地で発生、料金不払い同盟結成の動きまで生じる。非難の拡大をうけて会社側では供給規定に定められた停電補償を上回る料金割引を出すとともに 、将来的な値下げを約束して事態の沈静化に努めた。料金値下げは翌1927年上期に配当率を引き下げ準備した上で同年10月電灯料金の値下げを、11月電力料金の値下げを実施している。 需要増加により1926年下期に電灯取付数は20万灯に到達し、電力供給は1万キロワットを超えた。新潟水力電気時代最末期、1929年11月末時点における電灯取付数は22万9357灯(点灯数22万2125灯)、電力供給は動力用1万1491馬力・大口電力6250キロワット・電熱457キロワットの計1万5279.3キロワットであった。 同じ新潟市に本拠を置く新潟水力電気と新潟電気(旧・新潟水電)を合同させようとする動きは前述の通り1910年代末から存在した。1920年代に入っても仲介の試みが相次いでおり、まず川北電気企業社(大阪)社長川北栄夫が合同を斡旋したが失敗、1924年には新潟県知事が合併を勧告したが新潟電気側に意思がなく頓挫した。営業不可侵協定締結後、1927年春の金融恐慌発生を機に地元有力者が合併を勧告したがこれも不成功であった。 合同に向けた動きが進展しない中、新潟電気は新潟水力電気ではなく大手電力会社の一つ東邦電力との提携を選択した。この東邦電力は東京に本社を置き中京地方と北部九州を地盤とした電力会社であるが、1920年代末になって供給区域から離れた東北地方進出を図り福島電灯・東部電力・二本松電気など福島県の会社を相次いで傘下に収めていた。1929年3月、新潟電気は東邦電力と資本提携に関する契約を締結。自社株を持たせていた新潟電気証券という傍系会社を東邦電力傘下の東邦証券保有に買収させ、その後新潟電気証券を新潟電気本体に合併させる(同年6月実施)、という形で東邦電力の傘下に入った。これらの操作で東邦証券保有は新潟電気の株式50万株(資本金2500万円)のうち23万4千株を持つ筆頭株主となっている。新潟電気では傘下入りに伴い東邦電力から常務取締役に山県鼎一(東邦電力社員)、取締役に松永安左エ門(東邦電力社長)を迎えた。 新潟電気の東邦電力傘下入りを契機として、これまで何度も破談となっていた新潟水力電気との合併交渉が松永安左エ門らの仲介により一挙に進展をみせた。そして1929年9月14日、合併契約締結に至る。この当時、新潟電気は資本金2500万円、新潟水力電気は資本金1200万円と会社の規模は新潟電気が上回っていたが、合併では新潟水力電気側が存続会社で新潟電気は解散するものとされた。合併比率は1対1(対等合併)、合併期日は1929年12月24日と定められた。9月29日、新潟水力電気・新潟電気ともに臨時株主総会を開いて合併を承認。12月23日の新潟水力電気定時株主総会では一足先に山県鼎一が同社の取締役に加えられた。 合併契約上の合併期日であった1929年12月24日付で逓信省より合併認可が下りたが、期日前に間に合わなかったため合併日は繰り延べられ翌1930年(昭和5年)1月8日付となった。同年2月1日、存続会社の新潟水力電気で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了する。この総会にて新潟水力電気は「新潟電力株式会社」へと改称。さらに役員の総改選を行い取締役11名と監査役6名を選出、その中から社長に松永安左エ門、副社長に白勢量作、常務に山県鼎一をそれぞれ互選した。なお新潟水力電気社長の白勢春三と旧新潟電気社長の斎藤彦太郎は役員には入らず、ともに相談役に回っている。新経営陣のうち副社長となった白勢量作は白勢春三の長男であり、1914年7月から新潟水力電気で常務取締役、1923年12月からは専務取締役を務めていた。 新潟電気を合併したことで、新潟水力電気改め新潟電力は資本金3700万円(払込資本金3025万5000円)という大型電力会社へと発展した。供給区域についても、これまで下越地方の約半分(主として信濃川右岸・阿賀野川左岸の地域)と中越地方北部に限られていたものが合併により燕など信濃川左岸地域や新発田など阿賀野川右岸地域が加わって下越地方の大部分(岩船郡のみ範囲外)に拡大し、福島県会津地方の一部にも及んだ。合併後最初の決算となった1930年5月末時点での供給成績は電灯取付数が56万3361灯(うち点灯数53万4222灯)、電力供給が普通電力(小口)2万1668馬力・特約電力(大口)9350キロワット・電熱1127キロワットの計2万6641キロワットであった。 世界恐慌の只中に発足する形となった新潟電力では発足に際し、電源を充実しつつ二重設備を整理して供給設備の完全を期し、安価で良質な電気を豊富に供給するとの方針を打ち出した。 発電設備については、まず1930年8月に旧新潟電気が官営八幡製鉄所から貸借して使用していた赤谷発電所(出力270キロワット)を返却。次いで翌1931年(昭和6年)11月に周波数60ヘルツのまま残る旧新潟電気の大荒川上流発電所(出力443キロワット)および大荒川下流発電所(出力235キロワット)を廃止した。これら整理の結果、1931年下期以後の自社発電力は水力2万9580キロワット・火力8000キロワットとなっている。 送電設備の整理については、旧新潟電気の送電幹線である大川発電所(出力1万2520キロワット・福島県北会津郡大戸村=現・会津若松市)から新潟へ至る送電線との連系を図った。具体的には、1931年6月東蒲原郡両鹿瀬村(現・阿賀町)に鹿瀬変電所を新設し、同所を実川系統(下平・赤倉・小荒各発電所から五泉・新潟へと至る送電線)との結節点としたのである。さらに鹿瀬変電所には東京電灯鹿瀬変電所からの受電用送電線も引きこまれた。他方で、既設送電線のうち木柱のまま残っていた日橋 - 鹿瀬間は撤去され、1916年から続いた猪苗代第一発電所への接続が切られた。長年の懸案であった新潟市内の配電線整理も新潟電力発足後直ちに着手され、1931年までに3分の1が撤去された。 電源についてはその他、新潟電気の合併に伴い村上水電(岩船郡村上町=現・村上市所在)からの受電が加わった。受電高は当初1200キロワット、1932年(昭和7年)10月以降は最大1850キロワットである。また1931年10月より新たに会津電力からの受電も加わった。受電地点は大川発電所と会津電力戸ノ口堰第一発電所の2か所で、受電高は6000キロワットであった。また新潟水力電気時代から続く東京電灯からの受電は、旧新潟電気と合併契約を交わした1929年9月に契約が改められ、受電高は最大1万キロワットとされた。これは毎年250キロワットずつ受電を増加する契約であり、1937年(昭和12年)末時点では1万2000キロワットの受電となっている。 受電を中心に供給力が拡大されたものの、1930年代初頭の時期は不況で需要増加率が低下した。これは主として中小工業の疲弊を反映した小口電力減少によるものだが、大口電力需要は小幅ながら増加を続けたためキロワット時で見た販売量が前年度比で減少に転じたことはない。それでも供給力拡大のペースより劣るため多量の余剰電力を抱える形となった。この時期、管内で電気料金値下げ運動が盛んになり需要開拓は困難になっていたが、新潟電力では農村への配電線整備を進めて農業用小口電力需要の増加に成功。また1931年11月のラジオ放送開始(新潟放送局開設)を機に受信機と受信機用電力の勧誘を行った。 1931年後半の満洲事変勃発や金輸出再禁止に刺激されて全国的に重化学工業が発展すると、新潟電力管内でも1934年(昭和9年)頃より金属精錬・化学工業向けの大口電力需要が増大した。需要増に伴い短期間で余剰電力が解消されると会社では自社電源拡張の方針を固め、1935年(昭和10年)、水利権を保持したまま未開発であった阿賀野川水系伊南川(福島県)での発電所建設に動き出した。この伊南川発電所は旧新潟電気が1921年10月に水利権を得ていた地点にあたる。1936年(昭和11年)3月、まず発電所建設地の福島県南会津郡横田村大字越川(現・金山町越川)と鹿瀬変電所を結ぶ伊南川送電線を新設。そして1938年(昭和13年)10月より伊南川発電所の運転を開始した。発電所出力は2万1400キロワットと社内最大で、完成後の自社発電力は水力5万1979キロワット・火力8000キロワットとなっている(1939年末時点)。 伊南川発電所建設中にあたる1938年4月、国策会社を通じた発電・送電事業の国家管理を規定する「電力管理法」が公布された。同法は、1930年代後半から政府内で本格化していた電気事業に対する国家統制の強化を目指す動きが第一次近衛文麿内閣(1937年発足)の下で法制化に至ったものである。翌1939年(昭和14年)4月、国家管理を担う国策会社として日本発送電が発足したが、既存事業者から集められた電力設備は当初範囲が限定的で主要火力発電設備・送電線に限られた。このため日本発送電設立に際して新潟県・東北6県から日本発送電へ設備を出資した事業者はなかった。ただし新潟電力の周辺では東京電灯鹿瀬・長岡両変電所と関連送電線が出資対象設備となり、東京電灯は新潟電力に対する電力供給を日本発送電へと移管している。移管後、1939年末時点での日本発送電からの受電電力は最大1万4500キロワットであった(村上水電・会津電力からの受電は従来のまま)。 1930年代の需要増加により、電灯取付数は1933年(昭和8年)下期に60万灯を超えた。電力供給については1932年下期に3万キロワットを超えたのち1935年下期には4万キロワットに到達する。さらに最後の成績公表となった1939年5月末時点での供給成績は、電灯取付数が72万7196灯、電力供給が普通電力1万8680馬力・季節電力1万7947馬力・特約電力3万9224キロワット・電熱1518キロワットの計6万8066キロワットであった。 1939年末時点であるが、逓信省の資料によると3000キロワット以上を供給する大口電力需要家には新潟市内の北越製紙新潟工場(最大8200キロワット供給)と日本鋼管新潟電気製鉄所(最大5000キロワット供給)の2工場が存在した。最大の需要家となった北越製紙新潟工場では、1935年から1938年にかけて新聞用紙増産のため抄紙機やパルプ製造設備の建設が相次いでいた。さらにレーヨンパルプ工場として1938年から隣接地に北越パルプ新潟工場を操業したが、新潟電力では同工場にも電力供給を行っている(1939年末時点で1700キロワット)。もう一方の日本鋼管新潟電気製鉄所は1935年10月に建設。アーク式電気炉を操業してフェロアロイ(合金鉄)の製造にあたっていた。 上記2工場以外にも、前述の新潟電気工業が1200キロワット電気炉2台と1050キロワット電気炉1台で炭化カルシウムの製造を、同じく関係会社の新潟電化(1933年11月設立)が1000キロワット電気炉3台でフェロアロイの製造を、ともに新潟電力からの受電で行った。そのほか、電気事業者に対する電力供給として会津電力と村上水電に対する供給各3000キロワットがあった(1939年末時点)。これらに比べると小規模ながら、電気鉄道に対する電力供給として蒲原鉄道へ300キロワット、新潟電鉄へ350キロワットをそれぞれ送電した(同上)。 電気事業を所管する逓信省は、前述の電力国家管理具体化に関連し、1936年から翌年にかけて配電事業統制の方針を打ち出した。この当時、限られた範囲だけを供給区域とする小規模電気事業者が全国的に散在していたが、規模の小ささ故に大規模事業者との間には経営内容や電気供給の質で格差を生じていた。そのことを問題視した逓信省では上記方針を打ち出し、小規模電気事業の整理・統合を進めることによって経営採算の不均衡是正や料金低下を目指したのである。本省の方針に従って各逓信局が動いて関係事業者に対し事業統合を勧奨・斡旋した結果、全国的に事業統合が活発化していった。 1937年7月、東北6県を管轄する仙台逓信局では管内17社の代表を集めて合同案を提示した。この際に新潟電力が勧告されたのは福島県会津地方にある6つの小規模事業の統合である。新潟電力では翌1938年から1940年(昭和15年)にかけて、このうち5事業を次のように統合した。 福島県側での事業統合の一方、新潟県側では県当局と同地の越佐電気協会が逓信当局の勧告を踏まえて県内事業再編の計画を立てた。その概略は、下越・中越地方の事業を新潟電力に、上越地方の事業を高田の中央電気に、佐渡島の事業を佐渡電灯にそれぞれ集約するというものである。福島県側での事業統合が終わると新潟電力では新潟県側での事業統合に動き村上水電の合併を決定、1940年8月5日の臨時株主総会にて合併を決議した。先に触れたように村上水電は岩船郡村上町にあった電力会社で、胎内川の第一発電所(出力610キロワット)と荒川の荒川発電所(出力2130キロワット)、内燃力発電所の村上発電所(出力760キロワット)の3発電所を擁して岩船郡内での供給にあたっていた。 村上水電の合併は1940年10月31日付で逓信省より認可された。同年11月25日、新潟電力で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了している。合併時、村上水電の資本金は240万円であったが、合併に伴う新潟電力の資本金増加は216万円であり、合併後の資本金は3916万円となっている。以降、下越・中越地方には新潟電力と長岡市の北越水力電気が残るだけとなったが、その合同は実現していない。 1939年に日本発送電設立という形で一旦落着した電力国家管理政策であったが、1940年代に入ると第二次近衛内閣の下で国家管理をより強化する方向へと再検討され始め、既存電気事業者の解体と日本発送電の体制強化・配電事業の国家統制にまで踏み込んだ「第二次電力国家管理」政策が急速に具体化されていく。そして1941年(昭和16年)4月に発送電管理強化のための電力管理法施行令改正が実行され、同年8月には配電事業統合を規定する「配電統制令」の施行に至った。 第二次電力国家管理における日本発送電への設備出資は1941年10月1日付の第一次出資と翌1942年(昭和17年)4月1日付の第二次出資に分割し実施された。今回の出資対象には従来対象外であった一部水力発電所(出力5000キロワット超の水力発電所とそれらに関連する水力発電所)も含まれており、新潟電力では第二次出資に関し1941年8月2日付で設備出資命令を受け取った。その出資対象設備は以下の通りである。 配電事業統合に関しては、新潟県の配電事業は東北6県の事業とともに国策配電会社東北配電へと再編されることが決まり、1941年9月6日付で逓信大臣より新潟県および東北6県に立地する主要事業者13社に対し「東北配電株式会社設立命令書」が発出された。新潟電力もその受命者の一つであり(新潟県下では他に中央電気と北越水力電気が受命)、水力発電所12か所、火力発電所2か所、送電線38路線、変電所28か所、それに配電区域内にある配電設備・需要者屋内設備・営業設備の一切を東北配電へと出資するよう命ぜられた。受命直後の9月17日、東北配電の第1回設立委員会が開かれ、その席で新潟電力社長白勢量作(1936年6月松永安左エ門に代わり社長昇格)が東北配電設立委員長に選任された。 翌1942年1月15日、新潟電力では臨時株主総会を開いて東北配電設立委員が作成した書面を承認する手続きを済ませた。同年4月1日、日本発送電に対する設備出資(第二次出資)と東北配電の設立が実行に移される。日本発送電に対する出資設備の評価額は2181万7567円50銭とされ、出資の対価として新潟電力は日本発送電の株式43万6351株(払込総額2181万7550円)と端数分の現金17円50銭を受け取った。一方、東北配電に対する出資設備評価額は3653万9350円とされ、ここから東北配電へ引き継ぐ社債490万8000円を差し引いた金額(3163万3150円)を元に東北配電株式56万1927株(払込総額2809万6350円)と現金353万5000円を交付されている。東北配電初代社長には新潟電力から白勢量作が就いた。 設備出資を終えた新潟電力は、1942年5月11日、臨時株主総会を開いて解散を決議し、即日解散した。 解散前年、1941年(昭和16年)5月時点における新潟電力の本社・支社・出張所所在地は以下の通りであった。特記のない限り新潟県内である。 これらのうち新潟市上大川前通五番町の本社建物は鉄筋コンクリート構造の3階建てで、新潟水力電気時代の1927年11月に竣工した。新潟電力解散後、同地には東北配電新潟支店および後身の東北電力新潟支店が置かれている。 新潟水力電気時代、1915年(大正4年)6月末時点の供給区域は以下の通り。これには未開業の地域を含む。 新潟水力電気時代末期、1929年(昭和4年)6月末時点の供給区域は以下の通り。 新潟電力時代、1938年(昭和13年)12月末時点の供給区域は以下の通り。 1925年下期に古志郡中野俣村・半蔵金村および東蒲原郡西川村・東川村・上条村・小川村にて配電を開始したことで、この時点の許可済み供給区域内に未開業の区域はなくなった。これ以降に自社で供給区域拡張の許可を得て配電を始めた地域は次の4村である。 1938年に統合した伊南川水力電気・黒谷川水力電気・御蔵入電気の供給区域は次の通り(いずれも1937年末時点)。 新潟電力の供給区域が広がる新潟・福島両県は、1942年4月に配電統制により新潟電力その他を統合して設立された東北配電の配電区域に含まれる。太平洋戦争後、1951年(昭和26年)5月1日実施の電気事業再編成では東北配電区域をそのまま引き継いで東北電力が発足した。 新潟電力では、電力国家管理直前の時点で水力発電所20か所・火力発電所2か所、総出力6万7480キロワットを運転していた。以下、自社建設発電所を中心に、これら発電所の概要を記す。 新潟水力電気時代の最初の発電所が第一発電所である。所在地は移転前が新潟県中蒲原郡川内村大字小面谷字シマ(現・五泉市小面谷)、移転後が川内村大字松野(現・五泉市松野)。1907年(明治40年)8月に起工され、1909年(明治42年)3月4日付で逓信省の使用認可が下りた。 阿賀野川水系早出川に建設された発電所である。移転前の発電所出力は500キロワットで、発電設備はスイス製フランシス水車1台およびブラウン・ボベリ製三相交流発電機1台からなった。1921年(大正10年)11月、下流に移転の上改造され発電所出力が900キロワットに引き上げられる。移転後の発電設備はスイス・エッシャーウイス製フランシス水車1台と米国ウェスティングハウス・エレクトリック製1200キロボルトアンペア発電機1台である。発生電力の周波数は移転前・移転後とも50ヘルツに設定されている(他の発電所と共通)。送電線は五泉変電所へと繋がった(送電電圧11キロボルト)。 1942年4月、配電統制で新潟電力から東北配電へと出資された。東北配電では「早出発電所」と称する。1951年5月の電気事業再編成では東北電力に継承されている。 早出川の第一発電所に続く2番目の発電所が第二発電所である。所在地は中蒲原郡川内村大字下杉川字コイ上り(現・五泉市下杉川)。1911年(明治44年)4月に起工され、翌1912年(明治45年)5月24日付で使用認可が下りた。 早出川支流の杉川に位置する。発電設備はエッシャーウイス製フランシス水車2台およびウェスティングハウス製235キロボルトアンペア発電機2台からなり、発電所出力は400キロワットであった。送電線は第一発電所へと繋がる(送電電圧11キロボルト)。 第一発電所とともに1942年に東北配電へと出資された。東北配電では「杉川発電所」と称する。同じく1951年東北電力に引き継がれた。 1920年代に阿賀野川水系実川にて相次いで建設された発電所のうち最初のものが小荒発電所である。所在地は新潟県東蒲原郡豊実村大字豊田(現・阿賀町豊実)。1921年6月に着工され、1923年(大正12年)4月19日付で使用認可が下りた。 実川の最下流に位置する。発電設備は電業社製フランシス水車2台および芝浦製作所製2100キロボルトアンペア発電機2台。発電所出力は当初3300キロワット、1942年時点では3700キロワットである。送電線は下平発電所と五泉変電所・新潟変電所を繋ぐ実川線(送電電圧66キロボルト)が経由する。 小荒発電所は1942年4月電力国家管理のため新潟電力から日本発送電へと出資。次いで1951年5月の電気事業再編成で東北電力へと移管された。1999年(平成11年)になって老朽化のため東北電力グループの東星興業(現・東北自然エネルギー)による再開発工事が着手されると小荒発電所は廃止され、取水堰のみ転用・改良の上で約1.8キロメートル下流に代替となる新小荒発電所が新設されている。 阿賀野川水系実川には小荒発電所に続いて下平発電所と赤倉発電所が開発された。所在地はともに東蒲原郡豊実村大字実川(現・阿賀町豊実)。1924年(大正13年)11月にそろって起工され、1926年(大正15年)1月13日付でまず下平発電所の、次いで同年10月2日付で赤倉発電所の使用認可がそれぞれ下りた。 実川の上流側に位置する。下平発電所は実川に取水堰を持つが、赤倉発電所は下平発電所の放水と支流裏川からの取水によって発電する仕組みである。発電設備は下平発電所が日立製作所製フランシス水車・2150キロボルトアンペア発電機各2台、赤倉発電所が電業社製フランシス水車2台・芝浦製作所製2800キロボルトアンペア発電機1台。発電所出力はそれぞれ3192キロワット(1942年時点では3830キロワット)と2237キロワット(同2510キロワット)である。両発電所は6.6キロボルト送電線で繋がる。 両発電所は小荒発電所と同じく1942年より日本発送電、1951年より東北電力に属する。1999年に始まった東星興業による再開発工事では、下平発電所は導水路を延長する形で約600メートル下流へと移設され新下平発電所となった。一方、赤倉発電所はこの再開発で発電力が縮小されたものの東北電力の手で延命化工事が施され維持されている。 新潟水力電気時代に合併で取得した発電所に金川発電所がある。所在地は福島県耶麻郡駒形村大字金橋(現・喜多方市塩川町金橋)で、社内最初の福島県側に位置する発電所でもある。東北電化株式会社という化学工業会社が自家用発電所として1919年(大正8年)10月に完成させたのが起源で、1923年に東北電化を合併したことで新潟水力電気が引き継いだ。 阿賀野川水系日橋川にある発電所の一つで、東京電灯猪苗代第四発電所(1926年完成)のすぐ下流側に立地する。取水口や水路は狐堰用水という灌漑用水のものを利用している。発電設備は電業社製フランシス水車2台・芝浦製作所製750キロボルトアンペア発電機2台からなり、発電所出力は1200キロワットである。送電線は当初日橋変電所(後述)へと繋がったが、1931年(昭和6年)6月になって東京電灯猪苗代第四発電所との間に送電線が整備され、発生電力は東京電灯の送電線を介して送電される形となった。 金川発電所は1942年4月の電力国家管理で日本発送電へ移管された後、1951年5月の電気事業再編成で猪苗代湖周辺発電所の運営を一貫させる狙いから旧新潟電力の発電所としては唯一東京電力に継承された。 新潟電力発足後に唯一新設された発電所として伊南川発電所がある。旧新潟電気が1921年10月に出力1万8000キロワットの計画で水利権を得た地点にあたり、1935年(昭和10年)9月になって発電所工事施行認可を取得の上着工された。3年後の1938年(昭和13年)10月12日付で使用認可があり、同日運転を開始している。所在地は福島県大沼郡横田村大字越川字四石田(現・金山町越川)。 阿賀野川水系只見川の支流伊南川から取水する。取水地点は南会津郡小梁村大字小林(現・只見町小林)で、ここには川に洪水吐付きの取水堰(小林ダム)を設ける。取水口から伸びる導水路は9.6キロメートルの長さがあり、伊南川沿いを離れて只見川岸(伊南川合流点よりも下流側)の発電所へと至る。特徴的な水路設備として、導水路の途中で合流する支水路の先に位置する調整池がある。この調整池は地形の都合上導水路水面より高い位置にあるため貯水にあたってはポンプ揚水を必要とする。これとは別に、上部水槽手前に副調整池も設けている。 発電設備は日立製作所製の縦軸フランシス水車・1万キロボルトアンペア発電機各3台からなる。発電所出力は運転開始時2万1300キロワットであったが、その後1939年時点では2万1400キロワット、1942年時点では2万4000キロワットへとそれぞれ増強されている。送電線は伊南川線(送電電圧66キロボルト)が伊南川発電所を起点に伸びる。 伊南川発電所は1942年より日本発送電、1951年より東北電力に属する。ただし只見川の本名ダム建設に伴い発電所建屋がダム湖に沈む位置にあったことから、1954年(昭和29年)5月、80メートル上流側の高台に移設された。移転に際し水車・発電機は各1台にまとめられており、新潟電力時代からの設備は転用されていない。 自社建設の火力発電所として沼垂発電所が存在した。初代と2代目の2つがあり、どちらも新潟市内の旧沼垂町域に位置したが場所は異なる。 初代沼垂発電所は新潟市流作場字沼原にあった。第一・第二両発電所に続いて1913年(大正2年)9月26日に竣工したが、3年後、1916年(大正5年)12月5日付で廃止されている。汽力発電設備としてボイラー2缶とウェスティングハウス製パーソンズ式蒸気タービン・発電機各1台を有し、発電所出力は500キロワットであった。 2代目の沼垂発電所は新潟市山ノ下字古湊にあった。着工は1927年(昭和2年)8月、使用認可は1928年(昭和3年)5月18日である。渇水期の水力発電量低下を補うための補給用発電所として、また供給設備の故障発生時に応急的に稼働させる予備発電所として建設された。応急用としての機能を高めるべく、一般的な汽力発電設備のほかに建設費がかさむものの起動時間の短いディーゼルエンジンによる内燃力発電設備を併用する点が特徴。汽力発電設備はエッシャーウイス製ボイラー2缶(燃料は石炭)、同社製ツェリー式蒸気タービン1台、ドイツ・シーメンス製5000キロボルトアンペア発電機1台からなり、内燃力発電設備は新潟鐵工所製2サイクルエンジン1台と日立製作所製1500キロボルトアンペア発電機1台からなる。発電所出力は5000キロワット(汽力4000キロワット・内燃力1000キロワット)である。 2代目沼垂発電所は1942年より東北配電、1951年以降は東北電力に属したが、1959年(昭和34年)3月に廃止され山の下変電所へと格下げされた。 1930年1月の新潟電気合併により同社から引き継いだ発電所は水力9か所・火力1か所、総出力2万2299キロワットに及ぶ。ただしそのうち水力3か所(計948キロワット)は翌年までに廃止・譲渡されている。この3か所を除く旧新潟電気引継ぎの発電所一覧は以下の通り。 旧新潟電気発電所のうち大川・奥川第一・奥川第二の3発電所は日本発送電へ、残る宮川・飯豊川第一・飯豊川第二・新潟火力の4発電所は東北配電へ出資された。いずれも1951年以降は東北電力に属する。 1938年から1940年にかけての事業統合で取得した発電所は以下の8か所である。 上記発電所のうち旧村上水電の村上発電所は1942年時点では存在しない。それ以外の7発電所は東北配電へと出資されたが、1942年末時点の発電所一覧からは黒谷川発電所が消えている。加えて1943年(昭和18年)7月に玉川発電所も廃止された。従って東北電力へと引き継がれたのは内川・大志・滝谷川・黒川・荒川の5発電所に限られる。 新潟水力電気時代の1916年3月、猪苗代水力電気第一発電所(後の東京電灯猪苗代第一発電所)からの受電が開始された。この際に新設された送電線は、発電所から約150メートル離れた自社の日橋発電所(福島県河沼郡日橋村八田=現・会津若松市河東町八田)を起点に、新潟県中蒲原郡五泉町(現・五泉市)の五泉変電所へ至る路線である。日橋・五泉間の送電電圧は55キロボルトに設定された。小荒発電所からの送電線(津川変電所で日橋・五泉間送電線に接続)も建設当初は55キロボルトの送電電圧を用いている。1923年7月には五泉変電所から沼垂変電所(新潟市流作場)までの55キロボルト送電線も完成した。 1930年に新潟電気を合併したことで、大川発電所から新潟変電所(中蒲原郡石山村紫竹=現・新潟市)へと至る送電線「大川線」を引き継いだ。同線の途中、宝坂変電所(福島県河沼郡宝坂村宝坂=現・西会津町宝坂大字宝坂)では奥川発電所とを繋ぐ送電線が接続する。翌1931年6月、宝坂変電所の新潟寄り、東蒲原郡両鹿瀬村大字鹿瀬(現・阿賀町鹿瀬)に鹿瀬変電所が新設され、同所で大川線と下平・小荒発電所からの実川線(1932年11月66キロボルトに昇圧)が交差する形とされた。また鹿瀬変電所整備とともに約3キロメートル離れた東京電灯鹿瀬変電所とを繋ぐ「鹿瀬線」も建設された。東京電灯鹿瀬変電所は阿賀野川にある東信電気鹿瀬発電所構内に立地しており、猪苗代第四発電所とを結ぶ東京電灯阿賀野川線(送電電圧154キロボルト)の起点でもある。 送電線整備の一方、1932年11月に日橋・鹿瀬間の送電線は廃止され猪苗代第一発電所への接続が切られた。1936年3月、伊南川発電所完成に先立ち同発電所と鹿瀬変電所を結ぶ66キロボルト線「伊南川線」が完成。さらに1938年4月には鹿瀬変電所から五泉変電所へ至る66キロボルト線「鹿五線」が実川線とは別途整備された。 その他の主要送電線として、五泉変電所と南蒲原郡見附町(現・見附市)の見附変電所を結ぶ「見附線」、同所と長岡市の東京電灯長岡変電所を結ぶ「長岡線」があった。前者は1927年2月55キロボルト線として整備されたのち1932年11月66キロボルトに昇圧。後者は1926年1月の建設時から66キロボルト線である。 1942年4月の日本発送電に対する設備出資では関連する送電線も出資対象となった。範囲は鹿瀬以東で、大川線の一部(大川・鹿瀬間)や実川線の一部(下平・鹿瀬間)のほか鹿瀬変電所に集まる伊南川線・鹿瀬線、赤倉線(赤倉・下平間)、奥川発電所関連3路線、金川発電所関連1路線の9路線からなる。その他、宝坂変電所と鹿瀬変電所も出資された。 新潟電力の関係会社には新潟電鉄・新潟電気工業・新潟電化の3社があった。 新潟電鉄株式会社は、新潟水力電気専務奥山亀蔵らの発起により中ノ口川沿いに新潟市内白山駅前と西蒲原郡燕町(現・燕市)を結ぶ電気鉄道を敷設すべく1929年6月30日に設立された。当初の社名は「中ノ口電気鉄道株式会社」(1932年6月新潟電鉄へ改称)、資本金は150万円である。設計変更で遅れたが1932年4月より着工し、翌1933年4月北側の東関屋 - 白根間で開業、8月には南側の白根 - 燕間でも開業した。 工事中にあたる1931年6月、新潟電力から新潟市内での軌道敷設権を譲り受けた。これは旧新潟電気が新潟駅前と白山駅前を結ぶ路面電車建設のため許可を得ていたものである。敷設権譲渡は現物出資の形が採られており、中ノ口電気鉄道は40万円を増資して新潟電力に対し後配株を交付している。1933年7月、敷設権引継ぎ区間を一部含む県庁前 - 東関屋間が開通し、当初予定の県庁前 - 燕間の路線が全線完成した。その後萬代橋を挟む新潟駅前 - 県庁前間の路面電車敷設が予定されていたものの着工に至らなかった。 新潟電力解散後の1943年12月、新潟電鉄はバス事業者の新潟合同自動車と合併し新潟交通株式会社となった。 余剰電力消化を目的とする関係会社の一つに新潟電気工業株式会社がある。同社は1926年2月1日資本金2万5000円で設立され、新潟市沼垂字上王瀬に工場を設置の上、電気炉による炭化カルシウム(カーバイド)製造を行った。 1943年、瀬賀金次に株式を買収される。戦後は溶解アセチレンの製造にも進んだが1962年(昭和37年)にカーバイド用電気炉の一部をフェロアロイ(合金鉄)製造に転換する。しかし新潟地震とカーバイド需要減の影響で経営難に陥り、1966年(昭和41年)になって三井物産・第四銀行の支援を受けて新会社・株式会社新潟電工へと移行した。 新潟電化株式会社も新潟電気工業同様の電力消化を目的とする関係会社であり、1933年11月13日、資本金10万円で設立された。工場を新潟市山ノ下に構え、電気炉によってフェロアロイ(フェロシリコン・フェロマンガン)の製造にあたった。 1943年12月、新潟電化の事業は新潟市内でフェロアロイ工場(新潟電気製鉄所)を営む日本鋼管へと買収され、電気炉3基は同社工場へと移設された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "新潟電力株式会社(にいがたでんりょく かぶしきがいしゃ)は、明治末期から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。新潟県新潟市を本拠とした電力会社の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1907年(明治40年)に新潟水力電気株式会社(にいがたすいりょくでんき)の社名で設立され、1909年(明治42年)に開業した。新潟電力への社名変更は1930年(昭和5年)のことで、同じく新潟市を本拠とする新潟電気(旧・新潟水電)との合併に伴う。最盛期には新潟県下越地方の大部分と中越地方北部、福島県会津地方の一部を供給区域とした。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1942年(昭和17年)、電力国家管理の強化に伴い日本発送電と東北配電(東北電力の前身)に設備を出資して解散した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "新潟電力株式会社は、1907年(明治40年)から1942年(昭和17年)までの35年間にわたり新潟県新潟市に存在した電力会社である。ただし設立から1930年(昭和5年)の改称までは「新潟水力電気株式会社」という社名であり、この社名を称した期間の方が長い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "新潟水力電気は阿賀野川水系早出川での水力発電計画を起業の起源とする。発起人は長岡市にあった石油会社宝田石油の関係者と、県内第一号の電気事業者新潟電灯(1896 - 1909年)の旧経営陣が中心で、1907年6月会社設立に至る。発電所完成により1909年(明治42年)3月に開業し、発電所のある新潟県下越地方のうち五泉・新津・新潟市、中越地方北部のうち加茂・三条・見附・栃尾といった地域で順次供給を始めた。このうち新潟市内は新潟電灯の事業を引き継いだ新潟水電(1907年設立・1920年新潟電気へ改組)と供給区域が重複する形となり、同社との間には動力用電力市場をめぐって競争が生じた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1910年代半ばより自社の電源開発が停滞し購入電力への依存度を高めたが、1920年代に入ると阿賀野川水系実川での発電所建設を推進し、事業統合により福島県会津地方にも発電所を取得した。1929年(昭和4年)、競合会社の新潟電気が大手電力会社東邦電力の傘下に入る。これを機に新潟水力電気と新潟電気の間で合併交渉が進展し、1930年1月に新潟水力電気が新潟電気を合併する形で合同が実現した。合併に伴い同年2月より新潟水力電気は社名を新潟電力へと改めている。この合同で電源に阿賀野川(大川)の大型発電所などが加わり、供給区域は下越地方の大部分と会津地方の一部にも拡大した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1938年(昭和13年)には会津地方を流れる阿賀野川水系伊南川に出力2万キロワット超の大規模発電所を新設。さらに1940年(昭和15年)にかけて会津地方の小規模事業者と下越地方北部に残る村上水電を統合した。しかしながら最盛期は長続きせず、電力国家管理政策の強化に伴って1941年(昭和16年)に発送電事業を担う国策会社日本発送電に対し一部設備を、国策配電会社東北配電に対し残余設備をそれぞれ出資するよう国から命ぜられる。翌1942年4月に両社への出資が実行に移され、事業を失った新潟電力は同年5月に解散した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "旧新潟電力の供給区域や設備は、太平洋戦争後の1951年(昭和26年)5月に実施の電気事業再編成で基本的に東北電力へと継承されたが、福島県内の発電所1か所のみ東京電力へと引き継がれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1898年(明治31年)3月、新潟県下で第一号の電気事業者として新潟市に新潟電灯株式会社が開業した。同社の電源は小規模な火力発電であり、発電所は市内白山浦にある本社隣接地に置かれた。1900年(明治33年)には古志郡長岡町(現・長岡市)でも火力発電による個人経営の電気事業が開業し、新潟県には火力発電による電気事業者が2つ並ぶ形となった。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "他方で、火力発電が先行した県内の動きに反し周辺地域では水力発電が盛んであった。特に1899年(明治32年)6月に福島県郡山市で開業した郡山絹糸紡績(東部電力の前身)は、安積疏水の発電所から当時の国内最高電圧にあたる11キロボルト(1万1000ボルト)という送電電圧をもって郡山市街まで24キロメートルに及ぶ長距離送電を行った。こうした長距離高圧送電の実用化により、水力発電の適地が近隣にない都市でも水力発電の採用が広がっていく。新潟県下ではまず山口権三郎が信濃川での水力発電を志し、山口の死後事業を引き継いだ北越水力電気組(後の北越水力電気)が1904年(明治37年)12月に塩殿発電所を完成させ、長岡や小千谷での供給を始めた。次いで1906年(明治39年)6月には中頸城郡高田町(現・上越市)の上越電気が関川の水力発電所を電源とする電気事業の許可を得た(翌年開業)。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "県内外で水力発電が拡がりをみせる中、火力発電で営業する新潟電灯社内でも水力発電計画が検討されるようになった。その主導者は取締役の一人中野平弥(県下の大地主・鉄工所経営)である。中野は新潟市内から40キロメートル以内の適地を探求した結果、北蒲原郡笹岡村(現・阿賀野市)を流れる阿賀野川水系大荒川での水力発電を企画し、1905年(明治38年)になって具体的計画を会社に対して提案した。同じ頃、社外でも日露戦争後の好景気に乗じた起業の動きがあり、木村松二郎(長岡市)ら石油事業で財を成した実業家により中蒲原郡川内村(現・五泉市)を流れる阿賀野川水系早出川での水力発電が企画された。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "こうして新潟周辺では短期間に2つの水力発電計画案が出現したのであるが、このことで新潟電灯社内に深刻な対立が生じた。中野平弥は自身の調査にかかる大荒川の計画を主張したが、それ以外の役員は早出川での計画を未完成のうちに新潟電灯で買収する方が有利であると主張したのである。路線対立の末、1906年11月、社長の鈴木長八(回漕業)を含む中野平弥以外の全役員が辞任する事態となった。新潟電灯に残った中野は自ら社長となり、大荒川での水力発電計画を推進して翌1907年(明治40年)11月には資本金30万円で新会社・新潟水電を立ち上げた。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "新潟電灯社内が揺れる中、早出川での水力発電計画は木村松二郎らから清水常作ら宝田石油(長岡市)関係者に引き継がれており、1906年10月27日に清水ほか6名の名義で改めて水利権の出願がなされた。清水らは同年12月27日に逓信省に対し「新潟水力電気株式会社」の電気事業経営許可も申請している。水利権は翌1907年1月14日付で許可され、事業許可は中野平弥主宰の新潟水電と競合したものの5月22日付で下りた。新潟水力電気が当初供給区域として許可を得た地域は以下の通りである。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "起業目論見書に記された新潟水力電気の発起人は計35名からなる。長岡の宝田石油関係からは清水常作・渡辺六松(ともに大株主)や山田又七(社長)、渡辺藤吉(専務取締役)が発起人に参加。また清水らが県内有力者のほか石油取引を通じて親交のあった東京・名古屋・大阪の実業家にも起業への参加を呼びかけたことから、大阪の才賀藤吉(才賀電機商会代表)・岩下清周、東京の鈴木久五郎など県外の人物も多く名を連ねた。さらに社内対立で新潟電灯から去った鈴木長八らも中野平弥に対抗する目的で新潟水力電気の起業に合流し、旧役員のうち鈴木のほか小出喜七郎(新潟の洋物商)と斎藤喜十郎(新潟商業銀行専務)が発起人となっている。資本金は150万円に設定され、総株数3万株のうち2万2000株は発起人で引き受けるものとされた(残り8000株の株主は公募)。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "電気事業経営許可と株式の第1回払込の完了をうけて、1907年6月21日、長岡市内の商業会議所建物にて新潟水力電気の創立総会が開催された。総会にて選ばれた役員は取締役が鈴木長八・清水常作・小出喜七郎・渡辺藤吉・才賀藤吉・松尾平次郎(大阪)・山内芳三郎(名古屋)の7名、監査役が斎藤喜十郎ほか3名である。その中から初代社長に鈴木、専務に清水が就いている。設立準備段階での創立事務所は長岡市内の清水常作邸に置かれていたが、発足に際し本社は新潟市上大川前通十番地に構えた。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "設立2か月後の1907年8月、新潟水力電気では早出川にて第一発電所の工事に着手した。11月からは沼垂・亀田・新津・五泉・村松の5町に申込所を設けて電灯・電力供給の勧誘と予約募集を始めた。2年後の1909年(明治42年)3月、第一発電所が落成する。同発電所は出力500キロワットで、中蒲原郡川内村大字小面谷(現・五泉市小面谷)に立地した。一方、変電所は五泉・新津・沼垂の3か所に配置している。これら施設の完成をうけて、逓信省の検査が完了した1909年3月4日より試験点灯を開始。そして3月11日より試験点灯から営業に移行した。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "開業とともに配電が始まった地域は中蒲原郡新津町・五泉町・村松町の3町で、開業時は467戸の需要家に対し1711灯の電灯を点灯した(動力用電力の供給は未開業)。1909年5月からは電力供給区域である新潟市内と沼垂町での供給も開始。さらに7月から順次新津油田(金津油田・小口油田)へ電力供給を始め、12月からは亀田町でも配電した。12月末時点での電灯点灯数は3710灯、動力用電力供給は電動機83台・計356馬力(約265キロワット)であった。電力利用は石油鉱業向けが過半を占め、他に精米業や製材業、鉄工業などで利用された。その後も新津油田を中心に電力供給の申込みが相次いだことから供給力増加が必要となり、1911年(明治44年)より早出川支流の杉川に第二発電所(出力400キロワット)を起工した。場所は中蒲原郡川内村大字下杉川(現・五泉市下杉川)である。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "加茂・三条方面に対しては第二発電所の完成を待って配電する予定であったが、早期供給の要望に応え、従来使用していた炭素線電球(発光部分に炭素線を用いる白熱電球)を消費電力の少ない金属線電球(発光部分に金属線を用いる白熱電球)に切り替え供給余力を捻出することで、予定を早めて1911年11月より供給を始めた。第二発電所は翌1912年(明治45年)5月に完成、さらに翌1913年(大正2年)9月には沼垂火力発電所(出力500キロワット)を追加して需要増加に応じた。発電力充実を機に供給を南へと広げ、1912年6月より南蒲原郡見附町・今町と古志郡栃尾町(後の栃尾市)、1914年(大正3年)1月より三島郡与板町での供給をそれぞれ始めている。順調な需要増加により、同年末時点では電灯点灯数1万8754灯・動力用電力供給1510馬力(約1126キロワット)を数えた。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このように開業後の成績は良好であったが、初期の新潟水力電気は資金調達が景気変動に左右されるという問題を抱えた。これは株主に石油鉱業家が多かったことによる。特に1909年5月の第2回株式払込の際には払込不能の株主が多く発生し、3万株のうち6千株余りが失権株となってしまった。この失権株の整理に地元有力者の応援を求めたことから、これを契機として県外株主の退出と株式の県内回帰が進んでいく。大株主の異動を反映して才賀藤吉ら県外役員が退出した結果、1913年1月、地元の白勢春三(新潟銀行専務)と鍵富三作(県下の大地主で新潟銀行取締役)が取締役に就任する。1912年(大正元年)11月に専務の清水常作が死去し、次いで1914年5月に社長の鈴木長八も辞任すると、白勢春三を社長とする新体制が発足した。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "新潟水力電気の開業と同時期、中野平弥が主宰する新潟水電も開業した。同社は1909年3月に新潟電灯の事業を継承した上で、5月13日より大荒川発電所(出力443キロワット)から新潟市内と沼垂町への供給を開始。あわせて旧新潟電灯時代には未開業であった動力用電力供給も開始している。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "新潟水力電気の新潟進出に対し、新潟水電では水力発電所が完成し次第料金を引き下げること、新潟水力電気から電灯供給を受ける場合には2000ワット(10燭灯60灯相当)超の取付けが必要な上に自家用電灯扱いになり手続きが煩雑になることを告知して需要家の流出防止に努めた。それでも新潟水力電気では開業までの間に新潟市において約300馬力、沼垂町において約200馬力の電力供給予約を集めたという。そのため新潟水力電気が開業すると新潟市・沼垂町では需要家争奪戦が勃発、市内では至る所で道路の両側に両社の配電線が対峙する形となる。需要家に対しては規定以下の料金での供給が行われ、昼間専用の供給であるはずのところに昼夜間の送電をなしたり、器具の表示灯に余分な電灯を添えたりすることもあったという。1913年には新潟水電側が需要家に動力使用組合を組織させ、引き留めのため様々な特典を与えるようになった。1916年(大正5年)2月になると新潟水力電気側も同様の組合を組織させて規定の半額での電力供給を始めた。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "後述のように、新潟水力電気側では1910年代半ば以降新規発電所を建設できず、しばらく発電力は水力900キロワット・火力500キロワットで固定された。他方、新潟水電では1915年(大正4年)9月に出力1900キロワットの飯豊川第一発電所を完成させ、発電力を2848キロワット(水力4か所)に引き上げた。飯豊川第一発電所の完成を機に新潟水電は大口電力供給が可能となり、北越板紙(後の北越製紙新潟工場)などへの電力供給を開始し供給成績を大きく伸ばした。新潟市内における電力供給成績は1915年11月末時点で新潟水電が598.5馬力(約446キロワット)、新潟水力電気が413.0馬力(約308キロワット)であったが、この差はその後さらに拡大していき、1918年(大正7年)11月末時点では新潟水電の2587.75馬力(約1930キロワット)に対して新潟水力電気は995.5馬力(約742キロワット)に留まった。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "新潟水電と新潟水力電気の競争は新潟市外にも飛び火した。近郊の中蒲原郡亀田町では新潟水力電気が先に供給を始めていたが、1916年上期になって新潟水電も供給を始め、同地にある織布工場への電力供給を新潟水力電気から奪取した。さらに新潟水電は1918年に新潟水力電気の地盤である新津油田への割り込みを図ったが、これは供給認可自体を得られず失敗した。それでも新潟水力電気側は採掘業者と協定して原油相場の上下に随伴する電力料金制を定めて採掘業者に優遇を与えた。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1918年5月、新潟水電を主宰する専務中野平弥が死去した。この直後、新潟県知事が新潟水電と新潟水力電気の両社に対して合同を勧告したが、同年6月新潟水電側が合併を希望しない旨を表明して合同の動きは流れた。さらに翌1919年(大正8年)春から翌年にかけて越後鉄道専務の久須美東馬が合同を斡旋したが、やはり新潟水電側に意思がなく失敗に終わる。1920年(大正9年)11月、新潟水電は資金調達の都合から資本金1000万円の新会社・新潟電気(社長斎藤彦太郎・専務中野四郎太)を立ち上げて事業を新会社へと移した。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第二発電所と沼垂火力発電所を完成させた後、新潟水力電気では新潟県内各地で水力発電地点の調査研究にあたったが有力な地点を欠いたため、費用・工期を踏まえて自社発電所建設ではなく猪苗代水力電気からの受電によって供給力を増強する方針を立てた。この猪苗代水力電気は福島県を流れる阿賀野川水系日橋川(猪苗代湖が水源)において大型電源開発を進めていた電力会社で、1914年10月より猪苗代第一発電所(出力3万7500キロワット)を運転していた。社長の白勢春三と猪苗代水力電気の専務白石直治が旧知の間柄であったという縁もあり交渉が進められた結果、1914年12月に受電契約が成立する。契約の概要は、新潟水力電気側で受電設備を用意の上、最大2400キロワット(初年度は1000キロワット)を10年間受電する、というものであった。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると不況が発生し、石油鉱業の不振から1915年上期には電力供給成績が前期比2割減となるという痛手を負った。しかしこの不況は一時的で、間もなく大戦景気が発生すると電灯・電力需要は急伸していく。猪苗代送電線(日橋 - 五泉間・送電電圧55キロボルト)の完成に伴い1916年3月より猪苗代水力電気からの受電が始まると新潟水力電気では電灯・電力の勧誘商戦を展開し、4月末までの1か月半で電灯5280灯・電力235馬力の需要獲得に成功する。その後も供給区域を拡大しつつ供給拡大に努めた。大戦景気期の1918年下期に電灯点灯数は4万灯に到達、大戦初期に一時1000キロワットを下回っていた電力供給は大口供給も含めて4000キロワットを超える規模になっている。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "電力需要の中心である石油鉱業に関しては、新津油田に加えて1917年(大正6年)より三条・長岡方面の大面油田や東山油田への供給を開始する。また新津油田では1914年8月に宝田石油と共同で削井機の電動化を試みた。大戦景気期に興隆した化学工業も需要家に加え、1917年3月より加納亜鉛へ600キロワット、翌1918年6月より高田商会大寺製錬所へ1000キロワットの送電を始めた。双方とも亜鉛の電解精錬を行う工場で、前者は福島県耶麻郡加納村(現・喜多方市)、後者は耶麻郡磐梯村(現・磐梯町)にあった。大戦景気期には小口の電力需要も伸長しており、織物業・鉄工業・金属加工業などの中小工場で電動機が普及し、農村においても灌漑・排水用動力として電動機利用が増えていった。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "大戦景気期下の1917年12月、全国的な水不足が発生し、水力発電量低下により新潟水力電気管内では特に南部の三条・見附・栃尾方面で停電が頻発するようになった。三条の動力使用組合が主張するところによると、新潟水力電気は亀田・新潟方面への送電を優先し管内への平等な送電を行っていなかったという。三条では金属加工業、見附・栃尾では織物業が盛んであったため停電は産業への影響が大きく、需要家らは会社側に停電時の補償を求めて運動を始めた。中でも三条の動力使用組合は料金不払い運動を行う構えをみせた。1918年3月、会社側から停電が3時間以上に及ぶ場合は電力料金を一部控除するという妥協が出されて停電問題はひとまず解決に向かった。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "順調な事業拡大の一方で、社内では問題が相次いだ。一つは資金問題で、猪苗代送電線建設費を日本勧業銀行からの借入れで調達したが不足するため、1915年7月に増資を決定した。増資額は25万円(増資後の資本金は175万円に)に過ぎず、しかも大戦勃発直後の金融事情を踏まえて年率8パーセントの配当を保証する優先株式の発行によるものであったが、そでれも株主に引受けを拒む者が多く5000株のうち1200株余りが宙に浮きその処理に時間を要した(増資完了は1916年3月)。次いで1917年上期、元専務清水常作による社名冒用手形の濫発が発覚、訴訟敗訴により手形債務約2万1000円が発生した。これに沼垂火力発電所の廃止・売却による損失も重なったため、同期の決算では約1万7000円の欠損が生じている。その一方、このころには金融市場が安定していたため1917年11月低利社債への借り換えに成功し、支払利息の軽減を実現。業績も改善に向かい、1919年9月、350万円への倍額増資を決定した。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦終結後の1920年春、戦後恐慌が発生する。新潟水力電気管内では電灯の休灯が相次ぎ、化学工業向けの大口供給が消滅するなどの影響はあったものの一時的で、電灯・電力需要ともに増加傾向が続いた。その対応のため、翌1921年(大正10年)3月猪苗代水力電気からの受電高を4000キロワットへと増加。自社発電所建設も再開して同年6月から東蒲原郡豊実村(現・阿賀町豊実)を流れる阿賀野川水系実川の開発に着手した。これらの措置で供給力に余裕が生じたため1921年8月より電灯増設の勧誘商戦を展開した結果、1922年(大正11年)上期に電灯数は10万灯に達している。経営面では1920年代に入ると業績が安定し、初めて年率10パーセントの配当を出せるようになる。増資も円滑に進み、1921年11月には再度の倍額増資を決定して資本金を700万円に引き上げた。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1922年、新潟水力電気では設立以来最初の事業統合として高浪電気株式会社と東北電化株式会社の合併を決定した。合併は同年12月24日株主総会での決議を経て翌1923年(大正12年)5月10日の合併報告総会をもって完了。合併により資本金を55万円増して755万円とした。合併した高浪電気は古志郡東谷村(後の栃尾市)にあった小規模事業者で、川上淳一郎の個人事業として1918年6月に開業。1920年12月25日に資本金10万円をもって高浪電気が設立され、事業が法人化されていた。もう一方の東北電化は1917年3月17日東京に設立され、元は福島県内の郡山・磐梯・小野新町に工場を構えてフェロアロイの製造にあたっていた。東北電化は工場電源として福島県耶麻郡駒形村(現・喜多方市)に日橋川から取水する金川発電所(出力1200キロワット)を1919年10月より運転しており、新潟水力電気では合併により同発電所を引き継いでいる。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1923年4月、実川に建設していた小荒発電所(出力3300キロワット)が完成した。その後も実川開発を続け、1926年(大正15年)1月に下平発電所(出力3192キロワット)、同年10月に赤倉発電所(出力2237キロワット)を相次ぎ完成させる。さらに1928年(昭和3年)5月には新潟市山ノ下に渇水期の補給用兼故障時の応急用として沼垂火力発電所(出力5000キロワット)を新設した。これらの電源開発により自社発電力は水力1万1229キロワット・火力5000キロワットに達し、従来の電源の主力であった受電を上回る規模となった。開発中の1925年(大正14年)6月、建設費調達のため445万円の増資を決議し、資本金を1200万円としている。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1923年4月、受電元の猪苗代水力電気が関東地方地盤の大手電力会社東京電灯に合併された。この東京電灯は、新潟県南部を流れる信濃川水系中津川にて信越電力が開発する中津川第一・第二両発電所(出力計5万7000キロワット)の電力を県内で販売すべく、同年9月に中津川第二発電所から長岡変電所へと至る長岡送電線(送電電圧66キロボルト)を建設する。東京電灯の長岡進出にあわせまず新潟電気が最大3000キロワットの受電を契約。新潟水力電気でも1925年2月になって最大3000キロワットを長岡変電所経由で受電するという契約を締結し、同所から自社の見附変電所へ至る送電線を翌1926年1月に完成させて長岡経由での受電も開始した。1929年(昭和4年)9月の変更時点における東京電灯からの受電は猪苗代第一発電所経由が3000キロワット、長岡変電所経由が2000キロワットである。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1927年(昭和2年)10月25日、新潟水力電気は傍系会社として新潟市内に阿賀川水力電気株式会社を設立した。発起人吉野周太郎ほか20名が1918年に申請していた福島県内を流れる阿賀川(阿賀野川)の水利権が1927年5月に許可されたことに伴う起業である。新潟水力電気では同社の株式6万株(資本金300万円)のうち4万7600株を持っており、専務の白勢量作が同社社長を兼ねた。しかし阿賀川水力電気は開業に至らないまま1929年10月、阿賀川開発を進める東京電灯系の発電会社東信電気に合併された。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "新潟市内(旧沼垂町域を含む)と亀田町で供給区域が重複する新潟電気(旧・新潟水電)との電力需要家争奪戦は両社とも供給力不足が目立った1920年前後の時期には一時緩和されていたが、1923年頃より再燃した。その結果競争の弊害が随所に顕在化したことから両社間で営業に関する交渉が進められ、1924年(大正13年)12月営業不可侵協定の締結に至った。協定内容は、供給区域が重複する地域では需要家の争奪を目的とする勧誘・宣伝その他一切の競争的行為を禁ずる、供給料金・供給条件は意見交換の上でできるだけ統一する、両社は相互に相手の需要家に対する供給権を尊重し侵害しない、相手の需要家より供給の申込みがあった場合は相手側の承諾を得て供給する、大口需要家以外は各自の供給規定にて定めた料金・条件に沿って供給する、などであった。協定後も新規需要家をめぐる小競り合いがあったものの、年を追うごとに両社の関係は改善に向かった。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1920年代は慢性的な不況下にあったとはいえ、工場の合理化という名目で機械化が進んだことから電力需要の増加傾向は続いた。1923年10月、管内のうち五泉と村松を結ぶ蒲原鉄道が新潟県内最初の電気鉄道が開業すると、新潟水力電気では同社に100キロワットの電力供給を始め、新たに電気鉄道という需要家を加えた。奥川開発が進んだ1926年1月からは新潟市内にある北越製紙新潟工場に対し常時1200キロワットという大口供給を開始している。さらに関係会社として1926年2月新潟電気工業を設立し、同社を通じて新潟市内に炭化カルシウム(カーバイド)工場を建設、1200キロワットの電力需要を自ら生み出した。一方、電灯供給部門では不況下での需要喚起策として数年ごとに勧誘商戦を展開した。家庭向けでは新潟市内の富裕層向けに電熱器具の普及も図ったが、時期尚早でこれは定着しなかった。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "様々な需要喚起策が採られていた最中の1926年12月8日、風雪により送電線と一次変電所の五泉変電所に故障が生じ、管内全域が停電するという事故が発生した。この停電を契機としてにわかに会社に対する非難の声が拡がり、電気料金値下げ運動が各地で発生、料金不払い同盟結成の動きまで生じる。非難の拡大をうけて会社側では供給規定に定められた停電補償を上回る料金割引を出すとともに 、将来的な値下げを約束して事態の沈静化に努めた。料金値下げは翌1927年上期に配当率を引き下げ準備した上で同年10月電灯料金の値下げを、11月電力料金の値下げを実施している。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "需要増加により1926年下期に電灯取付数は20万灯に到達し、電力供給は1万キロワットを超えた。新潟水力電気時代最末期、1929年11月末時点における電灯取付数は22万9357灯(点灯数22万2125灯)、電力供給は動力用1万1491馬力・大口電力6250キロワット・電熱457キロワットの計1万5279.3キロワットであった。", "title": "沿革:新潟水力電気時代" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "同じ新潟市に本拠を置く新潟水力電気と新潟電気(旧・新潟水電)を合同させようとする動きは前述の通り1910年代末から存在した。1920年代に入っても仲介の試みが相次いでおり、まず川北電気企業社(大阪)社長川北栄夫が合同を斡旋したが失敗、1924年には新潟県知事が合併を勧告したが新潟電気側に意思がなく頓挫した。営業不可侵協定締結後、1927年春の金融恐慌発生を機に地元有力者が合併を勧告したがこれも不成功であった。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "合同に向けた動きが進展しない中、新潟電気は新潟水力電気ではなく大手電力会社の一つ東邦電力との提携を選択した。この東邦電力は東京に本社を置き中京地方と北部九州を地盤とした電力会社であるが、1920年代末になって供給区域から離れた東北地方進出を図り福島電灯・東部電力・二本松電気など福島県の会社を相次いで傘下に収めていた。1929年3月、新潟電気は東邦電力と資本提携に関する契約を締結。自社株を持たせていた新潟電気証券という傍系会社を東邦電力傘下の東邦証券保有に買収させ、その後新潟電気証券を新潟電気本体に合併させる(同年6月実施)、という形で東邦電力の傘下に入った。これらの操作で東邦証券保有は新潟電気の株式50万株(資本金2500万円)のうち23万4千株を持つ筆頭株主となっている。新潟電気では傘下入りに伴い東邦電力から常務取締役に山県鼎一(東邦電力社員)、取締役に松永安左エ門(東邦電力社長)を迎えた。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "新潟電気の東邦電力傘下入りを契機として、これまで何度も破談となっていた新潟水力電気との合併交渉が松永安左エ門らの仲介により一挙に進展をみせた。そして1929年9月14日、合併契約締結に至る。この当時、新潟電気は資本金2500万円、新潟水力電気は資本金1200万円と会社の規模は新潟電気が上回っていたが、合併では新潟水力電気側が存続会社で新潟電気は解散するものとされた。合併比率は1対1(対等合併)、合併期日は1929年12月24日と定められた。9月29日、新潟水力電気・新潟電気ともに臨時株主総会を開いて合併を承認。12月23日の新潟水力電気定時株主総会では一足先に山県鼎一が同社の取締役に加えられた。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "合併契約上の合併期日であった1929年12月24日付で逓信省より合併認可が下りたが、期日前に間に合わなかったため合併日は繰り延べられ翌1930年(昭和5年)1月8日付となった。同年2月1日、存続会社の新潟水力電気で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了する。この総会にて新潟水力電気は「新潟電力株式会社」へと改称。さらに役員の総改選を行い取締役11名と監査役6名を選出、その中から社長に松永安左エ門、副社長に白勢量作、常務に山県鼎一をそれぞれ互選した。なお新潟水力電気社長の白勢春三と旧新潟電気社長の斎藤彦太郎は役員には入らず、ともに相談役に回っている。新経営陣のうち副社長となった白勢量作は白勢春三の長男であり、1914年7月から新潟水力電気で常務取締役、1923年12月からは専務取締役を務めていた。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "新潟電気を合併したことで、新潟水力電気改め新潟電力は資本金3700万円(払込資本金3025万5000円)という大型電力会社へと発展した。供給区域についても、これまで下越地方の約半分(主として信濃川右岸・阿賀野川左岸の地域)と中越地方北部に限られていたものが合併により燕など信濃川左岸地域や新発田など阿賀野川右岸地域が加わって下越地方の大部分(岩船郡のみ範囲外)に拡大し、福島県会津地方の一部にも及んだ。合併後最初の決算となった1930年5月末時点での供給成績は電灯取付数が56万3361灯(うち点灯数53万4222灯)、電力供給が普通電力(小口)2万1668馬力・特約電力(大口)9350キロワット・電熱1127キロワットの計2万6641キロワットであった。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "世界恐慌の只中に発足する形となった新潟電力では発足に際し、電源を充実しつつ二重設備を整理して供給設備の完全を期し、安価で良質な電気を豊富に供給するとの方針を打ち出した。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "発電設備については、まず1930年8月に旧新潟電気が官営八幡製鉄所から貸借して使用していた赤谷発電所(出力270キロワット)を返却。次いで翌1931年(昭和6年)11月に周波数60ヘルツのまま残る旧新潟電気の大荒川上流発電所(出力443キロワット)および大荒川下流発電所(出力235キロワット)を廃止した。これら整理の結果、1931年下期以後の自社発電力は水力2万9580キロワット・火力8000キロワットとなっている。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "送電設備の整理については、旧新潟電気の送電幹線である大川発電所(出力1万2520キロワット・福島県北会津郡大戸村=現・会津若松市)から新潟へ至る送電線との連系を図った。具体的には、1931年6月東蒲原郡両鹿瀬村(現・阿賀町)に鹿瀬変電所を新設し、同所を実川系統(下平・赤倉・小荒各発電所から五泉・新潟へと至る送電線)との結節点としたのである。さらに鹿瀬変電所には東京電灯鹿瀬変電所からの受電用送電線も引きこまれた。他方で、既設送電線のうち木柱のまま残っていた日橋 - 鹿瀬間は撤去され、1916年から続いた猪苗代第一発電所への接続が切られた。長年の懸案であった新潟市内の配電線整理も新潟電力発足後直ちに着手され、1931年までに3分の1が撤去された。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "電源についてはその他、新潟電気の合併に伴い村上水電(岩船郡村上町=現・村上市所在)からの受電が加わった。受電高は当初1200キロワット、1932年(昭和7年)10月以降は最大1850キロワットである。また1931年10月より新たに会津電力からの受電も加わった。受電地点は大川発電所と会津電力戸ノ口堰第一発電所の2か所で、受電高は6000キロワットであった。また新潟水力電気時代から続く東京電灯からの受電は、旧新潟電気と合併契約を交わした1929年9月に契約が改められ、受電高は最大1万キロワットとされた。これは毎年250キロワットずつ受電を増加する契約であり、1937年(昭和12年)末時点では1万2000キロワットの受電となっている。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "受電を中心に供給力が拡大されたものの、1930年代初頭の時期は不況で需要増加率が低下した。これは主として中小工業の疲弊を反映した小口電力減少によるものだが、大口電力需要は小幅ながら増加を続けたためキロワット時で見た販売量が前年度比で減少に転じたことはない。それでも供給力拡大のペースより劣るため多量の余剰電力を抱える形となった。この時期、管内で電気料金値下げ運動が盛んになり需要開拓は困難になっていたが、新潟電力では農村への配電線整備を進めて農業用小口電力需要の増加に成功。また1931年11月のラジオ放送開始(新潟放送局開設)を機に受信機と受信機用電力の勧誘を行った。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1931年後半の満洲事変勃発や金輸出再禁止に刺激されて全国的に重化学工業が発展すると、新潟電力管内でも1934年(昭和9年)頃より金属精錬・化学工業向けの大口電力需要が増大した。需要増に伴い短期間で余剰電力が解消されると会社では自社電源拡張の方針を固め、1935年(昭和10年)、水利権を保持したまま未開発であった阿賀野川水系伊南川(福島県)での発電所建設に動き出した。この伊南川発電所は旧新潟電気が1921年10月に水利権を得ていた地点にあたる。1936年(昭和11年)3月、まず発電所建設地の福島県南会津郡横田村大字越川(現・金山町越川)と鹿瀬変電所を結ぶ伊南川送電線を新設。そして1938年(昭和13年)10月より伊南川発電所の運転を開始した。発電所出力は2万1400キロワットと社内最大で、完成後の自社発電力は水力5万1979キロワット・火力8000キロワットとなっている(1939年末時点)。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "伊南川発電所建設中にあたる1938年4月、国策会社を通じた発電・送電事業の国家管理を規定する「電力管理法」が公布された。同法は、1930年代後半から政府内で本格化していた電気事業に対する国家統制の強化を目指す動きが第一次近衛文麿内閣(1937年発足)の下で法制化に至ったものである。翌1939年(昭和14年)4月、国家管理を担う国策会社として日本発送電が発足したが、既存事業者から集められた電力設備は当初範囲が限定的で主要火力発電設備・送電線に限られた。このため日本発送電設立に際して新潟県・東北6県から日本発送電へ設備を出資した事業者はなかった。ただし新潟電力の周辺では東京電灯鹿瀬・長岡両変電所と関連送電線が出資対象設備となり、東京電灯は新潟電力に対する電力供給を日本発送電へと移管している。移管後、1939年末時点での日本発送電からの受電電力は最大1万4500キロワットであった(村上水電・会津電力からの受電は従来のまま)。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1930年代の需要増加により、電灯取付数は1933年(昭和8年)下期に60万灯を超えた。電力供給については1932年下期に3万キロワットを超えたのち1935年下期には4万キロワットに到達する。さらに最後の成績公表となった1939年5月末時点での供給成績は、電灯取付数が72万7196灯、電力供給が普通電力1万8680馬力・季節電力1万7947馬力・特約電力3万9224キロワット・電熱1518キロワットの計6万8066キロワットであった。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1939年末時点であるが、逓信省の資料によると3000キロワット以上を供給する大口電力需要家には新潟市内の北越製紙新潟工場(最大8200キロワット供給)と日本鋼管新潟電気製鉄所(最大5000キロワット供給)の2工場が存在した。最大の需要家となった北越製紙新潟工場では、1935年から1938年にかけて新聞用紙増産のため抄紙機やパルプ製造設備の建設が相次いでいた。さらにレーヨンパルプ工場として1938年から隣接地に北越パルプ新潟工場を操業したが、新潟電力では同工場にも電力供給を行っている(1939年末時点で1700キロワット)。もう一方の日本鋼管新潟電気製鉄所は1935年10月に建設。アーク式電気炉を操業してフェロアロイ(合金鉄)の製造にあたっていた。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "上記2工場以外にも、前述の新潟電気工業が1200キロワット電気炉2台と1050キロワット電気炉1台で炭化カルシウムの製造を、同じく関係会社の新潟電化(1933年11月設立)が1000キロワット電気炉3台でフェロアロイの製造を、ともに新潟電力からの受電で行った。そのほか、電気事業者に対する電力供給として会津電力と村上水電に対する供給各3000キロワットがあった(1939年末時点)。これらに比べると小規模ながら、電気鉄道に対する電力供給として蒲原鉄道へ300キロワット、新潟電鉄へ350キロワットをそれぞれ送電した(同上)。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "電気事業を所管する逓信省は、前述の電力国家管理具体化に関連し、1936年から翌年にかけて配電事業統制の方針を打ち出した。この当時、限られた範囲だけを供給区域とする小規模電気事業者が全国的に散在していたが、規模の小ささ故に大規模事業者との間には経営内容や電気供給の質で格差を生じていた。そのことを問題視した逓信省では上記方針を打ち出し、小規模電気事業の整理・統合を進めることによって経営採算の不均衡是正や料金低下を目指したのである。本省の方針に従って各逓信局が動いて関係事業者に対し事業統合を勧奨・斡旋した結果、全国的に事業統合が活発化していった。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1937年7月、東北6県を管轄する仙台逓信局では管内17社の代表を集めて合同案を提示した。この際に新潟電力が勧告されたのは福島県会津地方にある6つの小規模事業の統合である。新潟電力では翌1938年から1940年(昭和15年)にかけて、このうち5事業を次のように統合した。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "福島県側での事業統合の一方、新潟県側では県当局と同地の越佐電気協会が逓信当局の勧告を踏まえて県内事業再編の計画を立てた。その概略は、下越・中越地方の事業を新潟電力に、上越地方の事業を高田の中央電気に、佐渡島の事業を佐渡電灯にそれぞれ集約するというものである。福島県側での事業統合が終わると新潟電力では新潟県側での事業統合に動き村上水電の合併を決定、1940年8月5日の臨時株主総会にて合併を決議した。先に触れたように村上水電は岩船郡村上町にあった電力会社で、胎内川の第一発電所(出力610キロワット)と荒川の荒川発電所(出力2130キロワット)、内燃力発電所の村上発電所(出力760キロワット)の3発電所を擁して岩船郡内での供給にあたっていた。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "村上水電の合併は1940年10月31日付で逓信省より認可された。同年11月25日、新潟電力で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了している。合併時、村上水電の資本金は240万円であったが、合併に伴う新潟電力の資本金増加は216万円であり、合併後の資本金は3916万円となっている。以降、下越・中越地方には新潟電力と長岡市の北越水力電気が残るだけとなったが、その合同は実現していない。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1939年に日本発送電設立という形で一旦落着した電力国家管理政策であったが、1940年代に入ると第二次近衛内閣の下で国家管理をより強化する方向へと再検討され始め、既存電気事業者の解体と日本発送電の体制強化・配電事業の国家統制にまで踏み込んだ「第二次電力国家管理」政策が急速に具体化されていく。そして1941年(昭和16年)4月に発送電管理強化のための電力管理法施行令改正が実行され、同年8月には配電事業統合を規定する「配電統制令」の施行に至った。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "第二次電力国家管理における日本発送電への設備出資は1941年10月1日付の第一次出資と翌1942年(昭和17年)4月1日付の第二次出資に分割し実施された。今回の出資対象には従来対象外であった一部水力発電所(出力5000キロワット超の水力発電所とそれらに関連する水力発電所)も含まれており、新潟電力では第二次出資に関し1941年8月2日付で設備出資命令を受け取った。その出資対象設備は以下の通りである。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "配電事業統合に関しては、新潟県の配電事業は東北6県の事業とともに国策配電会社東北配電へと再編されることが決まり、1941年9月6日付で逓信大臣より新潟県および東北6県に立地する主要事業者13社に対し「東北配電株式会社設立命令書」が発出された。新潟電力もその受命者の一つであり(新潟県下では他に中央電気と北越水力電気が受命)、水力発電所12か所、火力発電所2か所、送電線38路線、変電所28か所、それに配電区域内にある配電設備・需要者屋内設備・営業設備の一切を東北配電へと出資するよう命ぜられた。受命直後の9月17日、東北配電の第1回設立委員会が開かれ、その席で新潟電力社長白勢量作(1936年6月松永安左エ門に代わり社長昇格)が東北配電設立委員長に選任された。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "翌1942年1月15日、新潟電力では臨時株主総会を開いて東北配電設立委員が作成した書面を承認する手続きを済ませた。同年4月1日、日本発送電に対する設備出資(第二次出資)と東北配電の設立が実行に移される。日本発送電に対する出資設備の評価額は2181万7567円50銭とされ、出資の対価として新潟電力は日本発送電の株式43万6351株(払込総額2181万7550円)と端数分の現金17円50銭を受け取った。一方、東北配電に対する出資設備評価額は3653万9350円とされ、ここから東北配電へ引き継ぐ社債490万8000円を差し引いた金額(3163万3150円)を元に東北配電株式56万1927株(払込総額2809万6350円)と現金353万5000円を交付されている。東北配電初代社長には新潟電力から白勢量作が就いた。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "設備出資を終えた新潟電力は、1942年5月11日、臨時株主総会を開いて解散を決議し、即日解散した。", "title": "沿革:新潟電力時代" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "解散前年、1941年(昭和16年)5月時点における新潟電力の本社・支社・出張所所在地は以下の通りであった。特記のない限り新潟県内である。", "title": "本社・支社・出張所所在地" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "これらのうち新潟市上大川前通五番町の本社建物は鉄筋コンクリート構造の3階建てで、新潟水力電気時代の1927年11月に竣工した。新潟電力解散後、同地には東北配電新潟支店および後身の東北電力新潟支店が置かれている。", "title": "本社・支社・出張所所在地" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "新潟水力電気時代、1915年(大正4年)6月末時点の供給区域は以下の通り。これには未開業の地域を含む。", "title": "供給区域" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "新潟水力電気時代末期、1929年(昭和4年)6月末時点の供給区域は以下の通り。", "title": "供給区域" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "新潟電力時代、1938年(昭和13年)12月末時点の供給区域は以下の通り。", "title": "供給区域" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1925年下期に古志郡中野俣村・半蔵金村および東蒲原郡西川村・東川村・上条村・小川村にて配電を開始したことで、この時点の許可済み供給区域内に未開業の区域はなくなった。これ以降に自社で供給区域拡張の許可を得て配電を始めた地域は次の4村である。", "title": "供給区域" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1938年に統合した伊南川水力電気・黒谷川水力電気・御蔵入電気の供給区域は次の通り(いずれも1937年末時点)。", "title": "供給区域" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "新潟電力の供給区域が広がる新潟・福島両県は、1942年4月に配電統制により新潟電力その他を統合して設立された東北配電の配電区域に含まれる。太平洋戦争後、1951年(昭和26年)5月1日実施の電気事業再編成では東北配電区域をそのまま引き継いで東北電力が発足した。", "title": "供給区域" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "新潟電力では、電力国家管理直前の時点で水力発電所20か所・火力発電所2か所、総出力6万7480キロワットを運転していた。以下、自社建設発電所を中心に、これら発電所の概要を記す。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "新潟水力電気時代の最初の発電所が第一発電所である。所在地は移転前が新潟県中蒲原郡川内村大字小面谷字シマ(現・五泉市小面谷)、移転後が川内村大字松野(現・五泉市松野)。1907年(明治40年)8月に起工され、1909年(明治42年)3月4日付で逓信省の使用認可が下りた。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "阿賀野川水系早出川に建設された発電所である。移転前の発電所出力は500キロワットで、発電設備はスイス製フランシス水車1台およびブラウン・ボベリ製三相交流発電機1台からなった。1921年(大正10年)11月、下流に移転の上改造され発電所出力が900キロワットに引き上げられる。移転後の発電設備はスイス・エッシャーウイス製フランシス水車1台と米国ウェスティングハウス・エレクトリック製1200キロボルトアンペア発電機1台である。発生電力の周波数は移転前・移転後とも50ヘルツに設定されている(他の発電所と共通)。送電線は五泉変電所へと繋がった(送電電圧11キロボルト)。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1942年4月、配電統制で新潟電力から東北配電へと出資された。東北配電では「早出発電所」と称する。1951年5月の電気事業再編成では東北電力に継承されている。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "早出川の第一発電所に続く2番目の発電所が第二発電所である。所在地は中蒲原郡川内村大字下杉川字コイ上り(現・五泉市下杉川)。1911年(明治44年)4月に起工され、翌1912年(明治45年)5月24日付で使用認可が下りた。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "早出川支流の杉川に位置する。発電設備はエッシャーウイス製フランシス水車2台およびウェスティングハウス製235キロボルトアンペア発電機2台からなり、発電所出力は400キロワットであった。送電線は第一発電所へと繋がる(送電電圧11キロボルト)。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "第一発電所とともに1942年に東北配電へと出資された。東北配電では「杉川発電所」と称する。同じく1951年東北電力に引き継がれた。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1920年代に阿賀野川水系実川にて相次いで建設された発電所のうち最初のものが小荒発電所である。所在地は新潟県東蒲原郡豊実村大字豊田(現・阿賀町豊実)。1921年6月に着工され、1923年(大正12年)4月19日付で使用認可が下りた。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "実川の最下流に位置する。発電設備は電業社製フランシス水車2台および芝浦製作所製2100キロボルトアンペア発電機2台。発電所出力は当初3300キロワット、1942年時点では3700キロワットである。送電線は下平発電所と五泉変電所・新潟変電所を繋ぐ実川線(送電電圧66キロボルト)が経由する。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "小荒発電所は1942年4月電力国家管理のため新潟電力から日本発送電へと出資。次いで1951年5月の電気事業再編成で東北電力へと移管された。1999年(平成11年)になって老朽化のため東北電力グループの東星興業(現・東北自然エネルギー)による再開発工事が着手されると小荒発電所は廃止され、取水堰のみ転用・改良の上で約1.8キロメートル下流に代替となる新小荒発電所が新設されている。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "阿賀野川水系実川には小荒発電所に続いて下平発電所と赤倉発電所が開発された。所在地はともに東蒲原郡豊実村大字実川(現・阿賀町豊実)。1924年(大正13年)11月にそろって起工され、1926年(大正15年)1月13日付でまず下平発電所の、次いで同年10月2日付で赤倉発電所の使用認可がそれぞれ下りた。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "実川の上流側に位置する。下平発電所は実川に取水堰を持つが、赤倉発電所は下平発電所の放水と支流裏川からの取水によって発電する仕組みである。発電設備は下平発電所が日立製作所製フランシス水車・2150キロボルトアンペア発電機各2台、赤倉発電所が電業社製フランシス水車2台・芝浦製作所製2800キロボルトアンペア発電機1台。発電所出力はそれぞれ3192キロワット(1942年時点では3830キロワット)と2237キロワット(同2510キロワット)である。両発電所は6.6キロボルト送電線で繋がる。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "両発電所は小荒発電所と同じく1942年より日本発送電、1951年より東北電力に属する。1999年に始まった東星興業による再開発工事では、下平発電所は導水路を延長する形で約600メートル下流へと移設され新下平発電所となった。一方、赤倉発電所はこの再開発で発電力が縮小されたものの東北電力の手で延命化工事が施され維持されている。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "新潟水力電気時代に合併で取得した発電所に金川発電所がある。所在地は福島県耶麻郡駒形村大字金橋(現・喜多方市塩川町金橋)で、社内最初の福島県側に位置する発電所でもある。東北電化株式会社という化学工業会社が自家用発電所として1919年(大正8年)10月に完成させたのが起源で、1923年に東北電化を合併したことで新潟水力電気が引き継いだ。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "阿賀野川水系日橋川にある発電所の一つで、東京電灯猪苗代第四発電所(1926年完成)のすぐ下流側に立地する。取水口や水路は狐堰用水という灌漑用水のものを利用している。発電設備は電業社製フランシス水車2台・芝浦製作所製750キロボルトアンペア発電機2台からなり、発電所出力は1200キロワットである。送電線は当初日橋変電所(後述)へと繋がったが、1931年(昭和6年)6月になって東京電灯猪苗代第四発電所との間に送電線が整備され、発生電力は東京電灯の送電線を介して送電される形となった。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "金川発電所は1942年4月の電力国家管理で日本発送電へ移管された後、1951年5月の電気事業再編成で猪苗代湖周辺発電所の運営を一貫させる狙いから旧新潟電力の発電所としては唯一東京電力に継承された。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "新潟電力発足後に唯一新設された発電所として伊南川発電所がある。旧新潟電気が1921年10月に出力1万8000キロワットの計画で水利権を得た地点にあたり、1935年(昭和10年)9月になって発電所工事施行認可を取得の上着工された。3年後の1938年(昭和13年)10月12日付で使用認可があり、同日運転を開始している。所在地は福島県大沼郡横田村大字越川字四石田(現・金山町越川)。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "阿賀野川水系只見川の支流伊南川から取水する。取水地点は南会津郡小梁村大字小林(現・只見町小林)で、ここには川に洪水吐付きの取水堰(小林ダム)を設ける。取水口から伸びる導水路は9.6キロメートルの長さがあり、伊南川沿いを離れて只見川岸(伊南川合流点よりも下流側)の発電所へと至る。特徴的な水路設備として、導水路の途中で合流する支水路の先に位置する調整池がある。この調整池は地形の都合上導水路水面より高い位置にあるため貯水にあたってはポンプ揚水を必要とする。これとは別に、上部水槽手前に副調整池も設けている。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "発電設備は日立製作所製の縦軸フランシス水車・1万キロボルトアンペア発電機各3台からなる。発電所出力は運転開始時2万1300キロワットであったが、その後1939年時点では2万1400キロワット、1942年時点では2万4000キロワットへとそれぞれ増強されている。送電線は伊南川線(送電電圧66キロボルト)が伊南川発電所を起点に伸びる。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "伊南川発電所は1942年より日本発送電、1951年より東北電力に属する。ただし只見川の本名ダム建設に伴い発電所建屋がダム湖に沈む位置にあったことから、1954年(昭和29年)5月、80メートル上流側の高台に移設された。移転に際し水車・発電機は各1台にまとめられており、新潟電力時代からの設備は転用されていない。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "自社建設の火力発電所として沼垂発電所が存在した。初代と2代目の2つがあり、どちらも新潟市内の旧沼垂町域に位置したが場所は異なる。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "初代沼垂発電所は新潟市流作場字沼原にあった。第一・第二両発電所に続いて1913年(大正2年)9月26日に竣工したが、3年後、1916年(大正5年)12月5日付で廃止されている。汽力発電設備としてボイラー2缶とウェスティングハウス製パーソンズ式蒸気タービン・発電機各1台を有し、発電所出力は500キロワットであった。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2代目の沼垂発電所は新潟市山ノ下字古湊にあった。着工は1927年(昭和2年)8月、使用認可は1928年(昭和3年)5月18日である。渇水期の水力発電量低下を補うための補給用発電所として、また供給設備の故障発生時に応急的に稼働させる予備発電所として建設された。応急用としての機能を高めるべく、一般的な汽力発電設備のほかに建設費がかさむものの起動時間の短いディーゼルエンジンによる内燃力発電設備を併用する点が特徴。汽力発電設備はエッシャーウイス製ボイラー2缶(燃料は石炭)、同社製ツェリー式蒸気タービン1台、ドイツ・シーメンス製5000キロボルトアンペア発電機1台からなり、内燃力発電設備は新潟鐵工所製2サイクルエンジン1台と日立製作所製1500キロボルトアンペア発電機1台からなる。発電所出力は5000キロワット(汽力4000キロワット・内燃力1000キロワット)である。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2代目沼垂発電所は1942年より東北配電、1951年以降は東北電力に属したが、1959年(昭和34年)3月に廃止され山の下変電所へと格下げされた。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1930年1月の新潟電気合併により同社から引き継いだ発電所は水力9か所・火力1か所、総出力2万2299キロワットに及ぶ。ただしそのうち水力3か所(計948キロワット)は翌年までに廃止・譲渡されている。この3か所を除く旧新潟電気引継ぎの発電所一覧は以下の通り。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "旧新潟電気発電所のうち大川・奥川第一・奥川第二の3発電所は日本発送電へ、残る宮川・飯豊川第一・飯豊川第二・新潟火力の4発電所は東北配電へ出資された。いずれも1951年以降は東北電力に属する。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "1938年から1940年にかけての事業統合で取得した発電所は以下の8か所である。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "上記発電所のうち旧村上水電の村上発電所は1942年時点では存在しない。それ以外の7発電所は東北配電へと出資されたが、1942年末時点の発電所一覧からは黒谷川発電所が消えている。加えて1943年(昭和18年)7月に玉川発電所も廃止された。従って東北電力へと引き継がれたのは内川・大志・滝谷川・黒川・荒川の5発電所に限られる。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "新潟水力電気時代の1916年3月、猪苗代水力電気第一発電所(後の東京電灯猪苗代第一発電所)からの受電が開始された。この際に新設された送電線は、発電所から約150メートル離れた自社の日橋発電所(福島県河沼郡日橋村八田=現・会津若松市河東町八田)を起点に、新潟県中蒲原郡五泉町(現・五泉市)の五泉変電所へ至る路線である。日橋・五泉間の送電電圧は55キロボルトに設定された。小荒発電所からの送電線(津川変電所で日橋・五泉間送電線に接続)も建設当初は55キロボルトの送電電圧を用いている。1923年7月には五泉変電所から沼垂変電所(新潟市流作場)までの55キロボルト送電線も完成した。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "1930年に新潟電気を合併したことで、大川発電所から新潟変電所(中蒲原郡石山村紫竹=現・新潟市)へと至る送電線「大川線」を引き継いだ。同線の途中、宝坂変電所(福島県河沼郡宝坂村宝坂=現・西会津町宝坂大字宝坂)では奥川発電所とを繋ぐ送電線が接続する。翌1931年6月、宝坂変電所の新潟寄り、東蒲原郡両鹿瀬村大字鹿瀬(現・阿賀町鹿瀬)に鹿瀬変電所が新設され、同所で大川線と下平・小荒発電所からの実川線(1932年11月66キロボルトに昇圧)が交差する形とされた。また鹿瀬変電所整備とともに約3キロメートル離れた東京電灯鹿瀬変電所とを繋ぐ「鹿瀬線」も建設された。東京電灯鹿瀬変電所は阿賀野川にある東信電気鹿瀬発電所構内に立地しており、猪苗代第四発電所とを結ぶ東京電灯阿賀野川線(送電電圧154キロボルト)の起点でもある。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "送電線整備の一方、1932年11月に日橋・鹿瀬間の送電線は廃止され猪苗代第一発電所への接続が切られた。1936年3月、伊南川発電所完成に先立ち同発電所と鹿瀬変電所を結ぶ66キロボルト線「伊南川線」が完成。さらに1938年4月には鹿瀬変電所から五泉変電所へ至る66キロボルト線「鹿五線」が実川線とは別途整備された。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "その他の主要送電線として、五泉変電所と南蒲原郡見附町(現・見附市)の見附変電所を結ぶ「見附線」、同所と長岡市の東京電灯長岡変電所を結ぶ「長岡線」があった。前者は1927年2月55キロボルト線として整備されたのち1932年11月66キロボルトに昇圧。後者は1926年1月の建設時から66キロボルト線である。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "1942年4月の日本発送電に対する設備出資では関連する送電線も出資対象となった。範囲は鹿瀬以東で、大川線の一部(大川・鹿瀬間)や実川線の一部(下平・鹿瀬間)のほか鹿瀬変電所に集まる伊南川線・鹿瀬線、赤倉線(赤倉・下平間)、奥川発電所関連3路線、金川発電所関連1路線の9路線からなる。その他、宝坂変電所と鹿瀬変電所も出資された。", "title": "発電所" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "新潟電力の関係会社には新潟電鉄・新潟電気工業・新潟電化の3社があった。", "title": "関係会社" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "新潟電鉄株式会社は、新潟水力電気専務奥山亀蔵らの発起により中ノ口川沿いに新潟市内白山駅前と西蒲原郡燕町(現・燕市)を結ぶ電気鉄道を敷設すべく1929年6月30日に設立された。当初の社名は「中ノ口電気鉄道株式会社」(1932年6月新潟電鉄へ改称)、資本金は150万円である。設計変更で遅れたが1932年4月より着工し、翌1933年4月北側の東関屋 - 白根間で開業、8月には南側の白根 - 燕間でも開業した。", "title": "関係会社" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "工事中にあたる1931年6月、新潟電力から新潟市内での軌道敷設権を譲り受けた。これは旧新潟電気が新潟駅前と白山駅前を結ぶ路面電車建設のため許可を得ていたものである。敷設権譲渡は現物出資の形が採られており、中ノ口電気鉄道は40万円を増資して新潟電力に対し後配株を交付している。1933年7月、敷設権引継ぎ区間を一部含む県庁前 - 東関屋間が開通し、当初予定の県庁前 - 燕間の路線が全線完成した。その後萬代橋を挟む新潟駅前 - 県庁前間の路面電車敷設が予定されていたものの着工に至らなかった。", "title": "関係会社" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "新潟電力解散後の1943年12月、新潟電鉄はバス事業者の新潟合同自動車と合併し新潟交通株式会社となった。", "title": "関係会社" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "余剰電力消化を目的とする関係会社の一つに新潟電気工業株式会社がある。同社は1926年2月1日資本金2万5000円で設立され、新潟市沼垂字上王瀬に工場を設置の上、電気炉による炭化カルシウム(カーバイド)製造を行った。", "title": "関係会社" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "1943年、瀬賀金次に株式を買収される。戦後は溶解アセチレンの製造にも進んだが1962年(昭和37年)にカーバイド用電気炉の一部をフェロアロイ(合金鉄)製造に転換する。しかし新潟地震とカーバイド需要減の影響で経営難に陥り、1966年(昭和41年)になって三井物産・第四銀行の支援を受けて新会社・株式会社新潟電工へと移行した。", "title": "関係会社" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "新潟電化株式会社も新潟電気工業同様の電力消化を目的とする関係会社であり、1933年11月13日、資本金10万円で設立された。工場を新潟市山ノ下に構え、電気炉によってフェロアロイ(フェロシリコン・フェロマンガン)の製造にあたった。", "title": "関係会社" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "1943年12月、新潟電化の事業は新潟市内でフェロアロイ工場(新潟電気製鉄所)を営む日本鋼管へと買収され、電気炉3基は同社工場へと移設された。", "title": "関係会社" } ]
新潟電力株式会社は、明治末期から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。新潟県新潟市を本拠とした電力会社の一つ。 1907年(明治40年)に新潟水力電気株式会社(にいがたすいりょくでんき)の社名で設立され、1909年(明治42年)に開業した。新潟電力への社名変更は1930年(昭和5年)のことで、同じく新潟市を本拠とする新潟電気(旧・新潟水電)との合併に伴う。最盛期には新潟県下越地方の大部分と中越地方北部、福島県会津地方の一部を供給区域とした。 1942年(昭和17年)、電力国家管理の強化に伴い日本発送電と東北配電(東北電力の前身)に設備を出資して解散した。
{{基礎情報 戦前企業 |社名 = 新潟電力株式会社 |画像 = |画像説明 = |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |略称 = |本社所在地 = {{Flagicon|JPN1889}} [[新潟県]][[新潟市]]<br />[[上大川前通]]五番町84番地 |設立 = [[1907年]](明治40年)[[6月21日]]<ref name="kanpo19070713">「[{{NDLDC|2950557/14}} 商業登記]」『[[官報]]』第7211号、1907年7月13日</ref><br />(新潟水力電気株式会社として設立) |解散 = [[1942年]](昭和17年)[[5月15日]]<ref name="kanpo19420515">「[{{NDLDC|2961103/25}} 公示催告 新潟電力株式会社]」『官報』第4601号、1942年5月15日</ref> |業種 = [[:Category:日本の電気事業者 (戦前)|電気]] |事業内容 = [[電力会社|電気供給事業]] |歴代社長 = [[鈴木長八]](1907-1914年)<br />[[白勢春三]](1914-1930年)<br />[[松永安左エ門]](1930-1936年)<br />[[白勢量作]](1936-1942年) |公称資本金 = 3916万円 |払込資本金 = 3855万5200円 |株式数 = 旧株:76万1600株(額面50円払込済)<br />新株:2万1600株(22円払込) |総資産 = 5080万9375円(未払込資本金除く) |収入 = 578万4701円 |支出 = 405万2336円 |利益金 = 173万2365円 |配当率 = 年率8.0% |決算期 = 5月末・11月末(年2回) |株主数 = 4514人 |主要株主 = [[東邦電力]] (20.6%)、新潟貯蓄銀行 (7.5%)、白瀬合名 (5.3%)、中野組 (4.4%)、中野興業 (2.4%) |特記事項 = 資本金以下は1941年11月期決算時点<ref name="report69">「新潟電力株式会社第69回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref><ref name="kabu1942">[[#kabu1942|『株式年鑑』昭和17年度]]631頁。{{NDLJP|1069958/323}}</ref> }} '''新潟電力株式会社'''(にいがたでんりょく かぶしきがいしゃ)は、[[明治]]末期から[[昭和]]戦前期にかけて存在した[[日本の電力会社]]である。[[新潟県]][[新潟市]]を本拠とした電力会社の一つ。 [[1907年]](明治40年)に'''新潟水力電気株式会社'''(にいがたすいりょくでんき)の社名で設立され、[[1909年]](明治42年)に開業した。新潟電力への社名変更は[[1930年]](昭和5年)のことで、同じく新潟市を本拠とする[[新潟電気]](旧・新潟水電)との合併に伴う。最盛期には新潟県[[下越地方]]の大部分と[[中越地方]]北部、[[福島県]][[会津|会津地方]]の一部を供給区域とした。 [[1942年]](昭和17年)、電力国家管理の強化に伴い[[日本発送電]]と[[東北配電]]([[東北電力]]の前身)に設備を出資して[[解散]]した。 == 概要 == 新潟電力株式会社は、[[1907年]](明治40年)から[[1942年]](昭和17年)までの35年間にわたり[[新潟県]][[新潟市]]に存在した電力会社である。ただし設立から[[1930年]](昭和5年)の改称までは「新潟水力電気株式会社」という社名であり、この社名を称した期間の方が長い。 新潟水力電気は[[阿賀野川]]水系[[早出川]]での[[水力発電]]計画を起業の起源とする。発起人は[[長岡市]]にあった石油会社[[宝田石油]]の関係者と、県内第一号の電気事業者新潟電灯(1896 - 1909年)の旧経営陣が中心で、1907年6月会社設立に至る。発電所完成により[[1909年]](明治42年)3月に開業し、発電所のある新潟県[[下越地方]]のうち[[五泉市|五泉]]・[[新津市|新津]]・新潟市、[[中越地方]]北部のうち[[加茂市|加茂]]・[[三条市|三条]]・[[見附市|見附]]・[[栃尾市|栃尾]]といった地域で順次供給を始めた。このうち新潟市内は新潟電灯の事業を引き継いだ新潟水電(1907年設立・1920年[[新潟電気]]へ改組)と供給区域が重複する形となり、同社との間には[[電動機|動力用]]電力市場をめぐって競争が生じた。 1910年代半ばより自社の電源開発が停滞し購入電力への依存度を高めたが、1920年代に入ると阿賀野川水系実川での発電所建設を推進し、事業統合により[[福島県]][[会津|会津地方]]にも発電所を取得した。[[1929年]](昭和4年)、競合会社の新潟電気が大手電力会社[[東邦電力]]の傘下に入る。これを機に新潟水力電気と新潟電気の間で合併交渉が進展し、1930年1月に新潟水力電気が新潟電気を合併する形で合同が実現した。合併に伴い同年2月より新潟水力電気は社名を新潟電力へと改めている。この合同で電源に阿賀野川(大川)の大型発電所などが加わり、供給区域は下越地方の大部分と会津地方の一部にも拡大した。 [[1938年]](昭和13年)には会津地方を流れる阿賀野川水系[[伊南川]]に出力2万[[ワット|キロワット]]超の大規模発電所を新設。さらに[[1940年]](昭和15年)にかけて会津地方の小規模事業者と下越地方北部に残る[[村上水電]]を統合した。しかしながら最盛期は長続きせず、電力国家管理政策の強化に伴って[[1941年]](昭和16年)に発送電事業を担う国策会社[[日本発送電]]に対し一部設備を、国策配電会社[[東北配電]]に対し残余設備をそれぞれ[[現物出資|出資]]するよう国から命ぜられる。翌1942年4月に両社への出資が実行に移され、事業を失った新潟電力は同年5月に[[解散]]した。 旧新潟電力の供給区域や設備は、[[太平洋戦争]]後の[[1951年]](昭和26年)5月に実施の[[電気事業再編成令|電気事業再編成]]で基本的に[[東北電力]]へと継承されたが、福島県内の発電所1か所のみ[[東京電力ホールディングス|東京電力]]へと引き継がれている。 == 沿革:新潟水力電気時代 == === 新潟電灯の社内対立 === [[1898年]](明治31年)3月、[[新潟県]]下で第一号の電気事業者として[[新潟市]]に[[新潟電気#沿革:新潟電灯・新潟水電時代|新潟電灯株式会社]]が開業した<ref name="tohoku-218">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]218-225頁</ref>。同社の電源は小規模な[[火力発電]]であり、発電所は市内[[白山浦 (新潟市)|白山浦]]にある本社隣接地に置かれた<ref name="nep-134">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]134-142頁</ref>。[[1900年]](明治33年)には[[古志郡]]長岡町(現・[[長岡市]])でも火力発電による個人経営の電気事業が開業し、新潟県には火力発電による電気事業者が2つ並ぶ形となった<ref name="tohoku-218"/>。 他方で、火力発電が先行した県内の動きに反し周辺地域では[[水力発電]]が盛んであった。特に[[1899年]](明治32年)6月に[[福島県]][[郡山市]]で開業した郡山絹糸紡績([[東部電力]]の前身)は、[[安積疏水]]の発電所から当時の国内最高[[電圧]]にあたる11キロボルト(1万1000[[ボルト (単位)|ボルト]])という送電電圧をもって郡山市街まで24キロメートルに及ぶ長距離送電を行った<ref>[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]184-187頁</ref>。こうした長距離高圧送電の実用化により、水力発電の適地が近隣にない都市でも水力発電の採用が広がっていく<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]90-93頁</ref>。新潟県下ではまず[[山口権三郎]]が[[信濃川]]での水力発電を志し、山口の死後事業を引き継いだ北越水力電気組(後の[[北越水力電気]])が[[1904年]](明治37年)12月に[[塩殿発電所]]を完成させ、長岡や[[小千谷市|小千谷]]での供給を始めた<ref name="tohoku-218"/>。次いで[[1906年]](明治39年)6月には[[中頸城郡]][[高田市|高田町]](現・[[上越市]])の[[中央電気|上越電気]]が[[関川 (信越)|関川]]の水力発電所を電源とする電気事業の許可を得た(翌年開業)<ref name="tohoku-218"/>。 県内外で水力発電が拡がりをみせる中、火力発電で営業する新潟電灯社内でも水力発電計画が検討されるようになった。その主導者は[[取締役]]の一人[[中野平弥]](県下の大地主<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』第3版]]な47頁</ref>・鉄工所経営<ref name="nakano">[[#nakano|『新潟市合併町村の歴史』史料編5]] 280-282頁</ref>)である<ref name="nep-147">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]147-151頁</ref>。中野は新潟市内から40キロメートル以内の適地を探求した結果、[[北蒲原郡]][[笹岡村 (新潟県北蒲原郡)|笹岡村]](現・[[阿賀野市]])を流れる[[阿賀野川]]水系大荒川での水力発電を企画し、[[1905年]](明治38年)になって具体的計画を会社に対して提案した<ref name="nep-147"/>。同じ頃、社外でも[[日露戦争]]後の好景気に乗じた起業の動きがあり、木村松二郎(長岡市<ref name="nep-20"/>)ら[[石油]]事業で財を成した実業家により[[中蒲原郡]][[川内村 (新潟県)|川内村]](現・[[五泉市]])を流れる阿賀野川水系[[早出川]]での水力発電が企画された<ref name="nep-14">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]14-19頁</ref>。 こうして新潟周辺では短期間に2つの水力発電計画案が出現したのであるが、このことで新潟電灯社内に深刻な対立が生じた<ref name="nep-147"/>。中野平弥は自身の調査にかかる大荒川の計画を主張したが、それ以外の役員は早出川での計画を未完成のうちに新潟電灯で買収する方が有利であると主張したのである<ref name="nep-147"/>。路線対立の末、1906年11月、社長の[[鈴木長八]](回漕業<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』第3版]]す16頁</ref>)を含む中野平弥以外の全役員が辞任する事態となった<ref name="nep-134"/><ref name="nep-77">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]77-85頁</ref>。新潟電灯に残った中野は自ら社長となり、大荒川での水力発電計画を推進して翌[[1907年]](明治40年)11月には[[資本金]]30万円で新会社・新潟水電を立ち上げた<ref name="nep-134"/>。 === 新潟水力電気の設立 === 新潟電灯社内が揺れる中、早出川での水力発電計画は木村松二郎らから[[清水常作]]ら[[宝田石油]](長岡市)関係者に引き継がれており、1906年10月27日に清水ほか6名の名義で改めて[[水利権]]の出願がなされた<ref name="nep-14"/>。清水らは同年12月27日に[[逓信省]]に対し「新潟水力電気株式会社」の電気事業経営許可も申請している<ref name="nep-14"/>。水利権は翌1907年1月14日付で許可され、事業許可は中野平弥主宰の新潟水電と競合したものの5月22日付で下りた<ref name="nep-14"/>。新潟水力電気が当初供給区域として許可を得た地域は以下の通りである<ref name="yoran1">[[#yoran1|『電気事業要覧』明治40年]]11-12頁。{{NDLJP|805420/27}}</ref>。 * 新潟市 * 中蒲原郡[[沼垂町]]・[[亀田町 (新潟県)|亀田町]]・[[新津市|新津町]](現・新潟市) * 中蒲原郡[[五泉町]]・[[村松町]](現・五泉市) * [[南蒲原郡]]加茂町(現・[[加茂市]]) * 南蒲原郡三条町・[[本成寺村]](現・[[三条市]]) * 南蒲原郡見附町・[[今町]](現・[[見附市]]) * 南蒲原郡[[中之島町|中之島村]](現・[[長岡市]]) ** これらのうち新潟市内と沼垂町(1914年新潟市に編入)は新潟電灯とそれを引き継ぐ予定の新潟水電に優先権が認められたため、新潟水力電気側は電灯・電力供給区域ではなく電力供給区域の扱いとして許可されている<ref name="nep-14"/>。そのため同地で[[電灯]]供給を行う場合は1邸宅または1構内につき2000ワット以下の供給は不可という制限が付された(電灯以外の目的で電気を使用する場合は無制限)<ref name="nep-14"/>。 起業目論見書に記された新潟水力電気の発起人は計35名からなる<ref name="nep-20">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]20-27頁</ref>。長岡の宝田石油関係からは清水常作・渡辺六松(ともに大株主<ref name="mumei">[[#mumei190905|『無名通信』第1巻第2号]]</ref>)や[[山田又七]](社長<ref name="mumei"/>)、渡辺藤吉(専務取締役<ref name="mumei"/>)が発起人に参加<ref name="nep-20"/>。また清水らが県内有力者のほか石油取引を通じて親交のあった[[東京]]・[[名古屋市|名古屋]]・[[大阪市|大阪]]の実業家にも起業への参加を呼びかけたことから<ref name="nep-14"/>、大阪の[[才賀藤吉]](才賀電機商会代表<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』第3版]]さ9頁</ref>)・[[岩下清周]]、東京の[[鈴木久五郎]]など県外の人物も多く名を連ねた<ref name="nep-20"/>。さらに社内対立で新潟電灯から去った鈴木長八らも中野平弥に対抗する目的で新潟水力電気の起業に合流し<ref name="nep-77"/>、旧役員のうち鈴木のほか小出喜七郎(新潟の洋物商<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』第3版]]こ3頁</ref>)と[[斎藤喜十郎]](新潟商業銀行専務<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』第3版]]さ5頁(斎藤庫吉)</ref>)が発起人となっている<ref name="nep-20"/>。資本金は150万円に設定され、総株数3万株のうち2万2000株は発起人で引き受けるものとされた(残り8000株の株主は公募)<ref name="nep-20"/>。 電気事業経営許可と株式の第1回払込の完了をうけて、1907年[[6月21日]]、長岡市内の商業会議所建物にて新潟水力電気の創立総会が開催された<ref name="nep-31">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]31-32頁</ref>。総会にて選ばれた役員は取締役が鈴木長八・清水常作・小出喜七郎・渡辺藤吉・才賀藤吉・松尾平次郎(大阪)・山内芳三郎(名古屋)の7名、[[監査役]]が斎藤喜十郎ほか3名である<ref name="nep-31"/>。その中から初代社長に鈴木、専務に清水が就いている<ref name="nep-31"/>。設立準備段階での創立事務所は長岡市内の清水常作邸に置かれていたが<ref name="nep-14"/>、発足に際し本社は新潟市[[上大川前通]]十番地に構えた<ref name="nep-37">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]37-42頁</ref>。 === 開業と経営陣の交代 === [[ファイル:Shirose Shunzo.jpg|thumb|upright|第2代社長[[白勢春三]]]] 設立2か月後の1907年8月、新潟水力電気では早出川にて第一発電所の工事に着手した<ref name="nep-232">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]232-237頁(巻末年譜)</ref>。11月からは沼垂・亀田・新津・五泉・村松の5町に申込所を設けて電灯・電力供給の勧誘と予約募集を始めた<ref name="nep-37"/>。2年後の[[1909年]](明治42年)3月、第一発電所が落成する<ref name="nep-37"/>。同発電所は出力500キロワットで、中蒲原郡川内村大字小面谷(現・五泉市小面谷)に立地した<ref name="mura">[[#muramatsu|『村松町史』下巻]]574-577頁</ref>。一方、[[変電所]]は五泉・新津・沼垂の3か所に配置している<ref name="nep-211">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]211-223頁</ref>。これら施設の完成をうけて、逓信省の検査が完了した1909年3月4日より試験点灯を開始<ref name="report4">「新潟水力電気株式会社第4回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。そして[[3月11日]]より試験点灯から営業に移行した<ref name="report4"/>。 開業とともに配電が始まった地域は中蒲原郡新津町・五泉町・村松町の3町で、開業時は467戸の需要家に対し1711灯の電灯を点灯した(動力用電力の供給は未開業)<ref name="nep-37"/>。1909年5月からは電力供給区域である新潟市内と沼垂町での供給も開始<ref name="nep-37"/>。さらに7月から順次[[新津油田]](金津油田・小口油田)へ電力供給を始め<ref name="nep-37"/>、12月からは亀田町でも配電した<ref name="nep-232"/>。12月末時点での電灯点灯数は3710灯、動力用電力供給は電動機83台・計356[[馬力]](約265キロワット)であった<ref name="nep-37"/>。電力利用は石油鉱業向けが過半を占め、他に[[精米|精米業]]や[[製材|製材業]]、鉄工業などで利用された<ref name="nep-37"/>。その後も新津油田を中心に電力供給の申込みが相次いだことから供給力増加が必要となり、[[1911年]](明治44年)より早出川支流の杉川に第二発電所(出力400キロワット)を起工した<ref name="nep-37"/>。場所は中蒲原郡川内村大字下杉川(現・五泉市下杉川)である<ref name="nep-207">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]207-211頁</ref>。 加茂・三条方面に対しては第二発電所の完成を待って配電する予定であったが、早期供給の要望に応え、従来使用していた炭素線電球(発光部分に[[炭素|炭素線]]を用いる[[白熱電球]])を消費電力の少ない金属線電球(発光部分に金属線を用いる白熱電球)に切り替え{{Refnest|group=注釈|このとき金属線電球に置き換えられたのは五泉・村松両町の電灯<ref name="gendai191609"/>。全面切り替えは遅く、1921年時点でも少数炭素線電球が残る<ref>[[#yoran14|『電気事業要覧』第14回]]338-339頁</ref>。}}供給余力を捻出することで、予定を早めて1911年11月より供給を始めた<ref name="nep-37"/>。第二発電所は翌[[1912年]](明治45年)5月に完成、さらに翌[[1913年]](大正2年)9月には沼垂火力発電所(出力500キロワット)を追加して需要増加に応じた<ref name="nep-37"/>。発電力充実を機に供給を南へと広げ、1912年6月より南蒲原郡見附町・今町と[[古志郡]]栃尾町(後の[[栃尾市]])、[[1914年]](大正3年)1月より[[三島郡 (新潟県)|三島郡]][[与板町]]での供給をそれぞれ始めている<ref name="nep-232"/>。順調な需要増加により、同年末時点では電灯点灯数1万8754灯・動力用電力供給1510馬力(約1126キロワット)を数えた<ref name="nep-37"/>。 このように開業後の成績は良好であったが、初期の新潟水力電気は資金調達が景気変動に左右されるという問題を抱えた<ref name="nep-42">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]42-46頁</ref>。これは株主に石油鉱業家が多かったことによる<ref name="nep-42"/>。特に1909年5月の第2回株式払込の際には払込不能の株主が多く発生し、3万株のうち6千株余りが失権株となってしまった<ref name="nep-42"/>。この失権株の整理に地元有力者の応援を求めたことから、これを契機として県外株主の退出と株式の県内回帰が進んでいく<ref name="nep-42"/>。大株主の異動を反映して才賀藤吉ら県外役員が退出した結果、1913年1月、地元の[[白勢春三]]([[第四銀行|新潟銀行]]専務<ref name="sj-107">[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]107-108頁</ref>)と[[鍵富三作]](県下の大地主で新潟銀行取締役<ref>[[#genkon|『日本現今人名辞典』第3版]]か85頁</ref>)が取締役に就任する<ref name="nep-42"/>。1912年(大正元年)11月に専務の清水常作が死去し、次いで1914年5月に社長の鈴木長八も辞任すると、白勢春三を社長とする新体制が発足した<ref name="nep-42"/>。 === 新潟水電との競争 === 新潟水力電気の開業と同時期、中野平弥が主宰する新潟水電も開業した。同社は1909年3月に新潟電灯の事業を継承した上で、5月13日より大荒川発電所(出力443キロワット)から新潟市内と沼垂町への供給を開始<ref name="nep-147"/>。あわせて旧新潟電灯時代には未開業であった動力用電力供給も開始している<ref name="nep-147"/>。 新潟水力電気の新潟進出に対し、新潟水電では水力発電所が完成し次第料金を引き下げること、新潟水力電気から電灯供給を受ける場合には2000ワット(10燭灯60灯相当)超の取付けが必要な上に自家用電灯扱いになり手続きが煩雑になることを告知して需要家の流出防止に努めた<ref name="nep-77"/>。それでも新潟水力電気では開業までの間に新潟市において約300馬力、沼垂町において約200馬力の電力供給予約を集めたという<ref name="nep-77"/>。そのため新潟水力電気が開業すると新潟市・沼垂町では需要家争奪戦が勃発、市内では至る所で道路の両側に両社の配電線が対峙する形となる<ref name="nep-77"/>。需要家に対しては規定以下の料金での供給が行われ、昼間専用の供給であるはずのところに昼夜間の送電をなしたり、器具の表示灯に余分な電灯を添えたりすることもあったという<ref name="nep-77"/>。1913年には新潟水電側が需要家に動力使用組合を組織させ、引き留めのため様々な特典を与えるようになった<ref name="nep-77"/>。[[1916年]](大正5年)2月になると新潟水力電気側も同様の組合を組織させて規定の半額での電力供給を始めた<ref name="nep-77"/>。 後述のように、新潟水力電気側では1910年代半ば以降新規発電所を建設できず、しばらく発電力は水力900キロワット・火力500キロワットで固定された。他方、新潟水電では[[1915年]](大正4年)9月に出力1900キロワットの飯豊川第一発電所を完成させ、発電力を2848キロワット(水力4か所)に引き上げた<ref name="nep-147"/>。飯豊川第一発電所の完成を機に新潟水電は大口電力供給が可能となり、北越板紙(後の[[北越コーポレーション|北越製紙]]新潟工場)などへの電力供給を開始し供給成績を大きく伸ばした<ref name="reportS17">「新潟水電株式会社第17回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。新潟市内における電力供給成績は1915年11月末時点で新潟水電が598.5馬力(約446キロワット)<ref name="reportS17"/>、新潟水力電気が413.0馬力(約308キロワット)であったが<ref>「新潟水力電気株式会社第17回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、この差はその後さらに拡大していき、[[1918年]](大正7年)11月末時点では新潟水電の2587.75馬力(約1930キロワット)に対して新潟水力電気は995.5馬力(約742キロワット)に留まった<ref>「新潟水電第23回事業報告書」「新潟水力電気株式会社第23回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 新潟水電と新潟水力電気の競争は新潟市外にも飛び火した。近郊の中蒲原郡亀田町では新潟水力電気が先に供給を始めていたが<ref name="nep-37"/>、1916年上期になって新潟水電も供給を始め<ref>「新潟水電株式会社第18回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、同地にある織布工場への電力供給を新潟水力電気から奪取した<ref name="nep-77"/>。さらに新潟水電は1918年に新潟水力電気の地盤である新津油田への割り込みを図ったが、これは供給認可自体を得られず失敗した<ref name="nep-77"/>。それでも新潟水力電気側は採掘業者と協定して[[原油]]相場の上下に随伴する電力料金制を定めて採掘業者に優遇を与えた<ref name="nep-77"/>。 1918年5月、新潟水電を主宰する専務中野平弥が死去した<ref name="nep-85">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]85-92頁</ref>。この直後、新潟県知事が新潟水電と新潟水力電気の両社に対して合同を勧告したが、同年6月新潟水電側が合併を希望しない旨を表明して合同の動きは流れた<ref name="nep-85"/>。さらに翌[[1919年]](大正8年)春から翌年にかけて[[越後鉄道]]専務の[[久須美東馬]]が合同を斡旋したが、やはり新潟水電側に意思がなく失敗に終わる<ref name="nep-85"/>。[[1920年]](大正9年)11月、新潟水電は資金調達の都合から資本金1000万円の新会社・[[新潟電気]](社長[[斎藤彦太郎]]・専務[[中野四郎太]])を立ち上げて事業を新会社へと移した<ref name="nep-155">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]155-166頁</ref>。 === 大戦景気への対応 === [[ファイル:Naoji Shiraishi.png|thumb|upright|猪苗代水力電気初代専務[[白石直治]]]] 第二発電所と沼垂火力発電所を完成させた後、新潟水力電気では新潟県内各地で水力発電地点の調査研究にあたったが有力な地点を欠いたため、費用・工期を踏まえて自社発電所建設ではなく[[猪苗代水力電気]]からの受電によって供給力を増強する方針を立てた<ref name="nep-47">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]47-49頁</ref>。この猪苗代水力電気は福島県を流れる阿賀野川水系[[日橋川]]([[猪苗代湖]]が水源)において大型電源開発を進めていた電力会社で、1914年10月より[[猪苗代第一発電所]](出力3万7500キロワット)を運転していた<ref name="kanto-207">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]207-218頁</ref>。社長の白勢春三と猪苗代水力電気の専務[[白石直治]]が旧知の間柄であったという縁もあり交渉が進められた結果、1914年12月に受電契約が成立する<ref name="nep-47"/>。契約の概要は、新潟水力電気側で受電設備を用意の上、最大2400キロワット(初年度は1000キロワット)を10年間受電する、というものであった<ref name="nep-47"/>。 1914年7月に[[第一次世界大戦]]が勃発すると不況が発生し、石油鉱業の不振から1915年上期には電力供給成績が前期比2割減となるという痛手を負った<ref name="nep-49">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]49-53頁</ref>。しかしこの不況は一時的で、間もなく[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]が発生すると電灯・電力需要は急伸していく<ref name="nep-49"/>。猪苗代送電線(日橋 - 五泉間・送電電圧55キロボルト)の完成に伴い1916年3月より猪苗代水力電気からの受電が始まると新潟水力電気では電灯・電力の勧誘商戦を展開し、4月末までの1か月半で電灯5280灯・電力235馬力の需要獲得に成功する<ref name="nep-49"/>。その後も供給区域を拡大しつつ供給拡大に努めた<ref name="nep-49"/>。大戦景気期の1918年下期に電灯点灯数は4万灯に到達、大戦初期に一時1000キロワットを下回っていた電力供給は大口供給も含めて4000キロワットを超える規模になっている<ref name="nep-supply">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]付図「電灯電力供給概況」</ref>。 電力需要の中心である石油鉱業に関しては、新津油田に加えて[[1917年]](大正6年)より三条・長岡方面の[[大面油田]]や[[東山油田]]への供給を開始する<ref name="nep-49"/>。また新津油田では1914年8月に宝田石油と共同で削井機の電動化を試みた<ref name="nep-49"/>。大戦景気期に興隆した[[化学工業]]も需要家に加え、1917年3月より加納亜鉛へ600キロワット、翌1918年6月より[[高田商会]]大寺製錬所へ1000キロワットの送電を始めた<ref name="nep-49"/>。双方とも[[亜鉛]]の[[電解精錬]]を行う工場で、前者は福島県[[耶麻郡]][[加納村 (福島県)|加納村]](現・[[喜多方市]])、後者は耶麻郡磐梯村(現・[[磐梯町]])にあった<ref>[[#denka191712|『電気化学』第2巻第12号]]</ref>。大戦景気期には小口の電力需要も伸長しており、織物業・鉄工業・金属加工業などの中小工場で電動機が普及し、農村においても[[灌漑]]・排水用動力として電動機利用が増えていった<ref name="nep-49"/>。 大戦景気期下の1917年12月、全国的な水不足が発生し、水力発電量低下により新潟水力電気管内では特に南部の三条・見附・栃尾方面で[[停電]]が頻発するようになった<ref name="mitsuke">[[#mitsuke|『見附市史』下巻(二)]]33-36頁</ref><ref name="tochio">[[#tochio|『栃尾市史』中巻]]558-559頁</ref>。三条の動力使用組合が主張するところによると、新潟水力電気は亀田・新潟方面への送電を優先し管内への平等な送電を行っていなかったという<ref name="mitsuke"/>。三条では金属加工業、見附・栃尾では織物業が盛んであったため停電は産業への影響が大きく<ref name="mitsuke"/><ref name="tochio"/>、需要家らは会社側に停電時の補償を求めて運動を始めた<ref name="mitsuke"/>。中でも三条の動力使用組合は料金不払い運動を行う構えをみせた<ref name="mitsuke"/>。1918年3月、会社側から停電が3時間以上に及ぶ場合は電力料金を一部控除するという妥協が出されて停電問題はひとまず解決に向かった<ref name="mitsuke"/>。 順調な事業拡大の一方で、社内では問題が相次いだ。一つは資金問題で、猪苗代送電線建設費を[[日本勧業銀行]]からの借入れで調達したが不足するため、1915年7月に増資を決定した<ref name="nep-47"/>。増資額は25万円(増資後の資本金は175万円に)に過ぎず、しかも大戦勃発直後の金融事情を踏まえて年率8パーセントの配当を保証する[[優先株式]]の発行によるものであったが、そでれも株主に引受けを拒む者が多く5000株のうち1200株余りが宙に浮きその処理に時間を要した(増資完了は1916年3月)<ref name="nep-47"/>。次いで1917年上期、元専務清水常作による社名冒用[[手形]]の濫発が発覚、訴訟敗訴により手形債務約2万1000円が発生した<ref name="nep-53">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]53-55頁</ref>。これに沼垂火力発電所の廃止・売却による損失も重なったため、同期の決算では約1万7000円の欠損が生じている<ref name="nep-53"/>。その一方、このころには金融市場が安定していたため1917年11月低利[[社債]]への借り換えに成功し、支払利息の軽減を実現<ref name="nep-53"/>。業績も改善に向かい、1919年9月、350万円への倍額増資を決定した<ref name="nep-53"/>。 === 電源の充実 === 第一次世界大戦終結後の1920年春、[[戦後恐慌]]が発生する。新潟水力電気管内では電灯の休灯が相次ぎ、化学工業向けの大口供給が消滅するなどの影響はあったものの一時的で、電灯・電力需要ともに増加傾向が続いた<ref name="nep-49"/>。その対応のため、翌[[1921年]](大正10年)3月猪苗代水力電気からの受電高を4000キロワットへと増加<ref name="nep-49"/>。自社発電所建設も再開して同年6月から[[東蒲原郡]][[豊実村 (新潟県)|豊実村]](現・[[阿賀町]]豊実)を流れる阿賀野川水系実川の開発に着手した<ref name="nep-49"/>。これらの措置で供給力に余裕が生じたため1921年8月より電灯増設の勧誘商戦を展開した結果、[[1922年]](大正11年)上期に電灯数は10万灯に達している<ref name="nep-49"/>。経営面では1920年代に入ると業績が安定し、初めて年率10パーセントの配当を出せるようになる<ref name="nep-53"/>。増資も円滑に進み、1921年11月には再度の倍額増資を決定して資本金を700万円に引き上げた<ref name="nep-53"/>。 1922年、新潟水力電気では設立以来最初の事業統合として高浪電気株式会社と東北電化株式会社の合併を決定した。合併は同年12月24日株主総会での決議を経て翌[[1923年]](大正12年)5月10日の合併報告総会をもって完了<ref name="report32">「新潟水力電気株式会社第32回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。合併により資本金を55万円増して755万円とした<ref name="nep-53"/>。合併した高浪電気は古志郡[[東谷村 (新潟県)|東谷村]](後の栃尾市)にあった小規模事業者で、[[川上淳一郎]]の個人事業として1918年6月に開業<ref name="tohoku-232">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]232頁</ref>。1920年12月25日に資本金10万円をもって高浪電気が設立され<ref>「[{{NDLDC|2954748/23}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第2633号附録、1921年5月13日</ref>、事業が法人化されていた<ref name="tohoku-232"/>。もう一方の東北電化は1917年3月17日東京に設立され<ref>「[{{NDLDC|2953519/7}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第1406号、1917年4月12日</ref>、元は福島県内の郡山・磐梯・[[小野新町]]に工場を構えて[[フェロアロイ]]の製造にあたっていた<ref>[[#denka191805|『電気化学』第3巻第5号]]</ref>。東北電化は工場電源として福島県耶麻郡[[駒形村 (福島県)|駒形村]](現・喜多方市)に日橋川から取水する金川発電所(出力1200キロワット)を1919年10月より運転しており<ref name="inawa">[[#inawashiro|『猪苗代湖利水史』]]54-56・61-62頁</ref>、新潟水力電気では合併により同発電所を引き継いでいる<ref name="nep-53"/>。 1923年4月、実川に建設していた小荒発電所(出力3300キロワット)が完成した<ref name="nep-57">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]57-61頁</ref>。その後も実川開発を続け、[[1926年]](大正15年)1月に下平発電所(出力3192キロワット)、同年10月に赤倉発電所(出力2237キロワット)を相次ぎ完成させる<ref name="nep-57"/>。さらに[[1928年]](昭和3年)5月には新潟市[[山下 (新潟市)|山ノ下]]に[[渇水|渇水期]]の補給用兼故障時の応急用として沼垂火力発電所(出力5000キロワット)を新設した<ref name="jps-301">[[#jps|『日本の発電所』東部日本篇]]301-306頁</ref>。これらの電源開発により自社発電力は水力1万1229キロワット・火力5000キロワットに達し、従来の電源の主力であった受電を上回る規模となった<ref name="nep-57"/>。開発中の[[1925年]](大正14年)6月、建設費調達のため445万円の増資を決議し、資本金を1200万円としている<ref name="nep-71">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]71-74頁</ref>。 1923年4月、受電元の猪苗代水力電気が[[関東地方]]地盤の大手電力会社[[東京電灯]]に合併された<ref name="kanto-207"/>。この東京電灯は、新潟県南部を流れる信濃川水系[[中津川 (信濃川水系)|中津川]]にて[[信越電力]]が開発する中津川第一・第二両発電所(出力計5万7000キロワット)の電力を県内で販売すべく、同年9月に中津川第二発電所から長岡変電所へと至る長岡送電線(送電電圧66キロボルト)を建設する<ref name="tsunan">[[#tsunan|『津南町史』通史編下巻]]314-319頁</ref>。東京電灯の長岡進出にあわせまず新潟電気が最大3000キロワットの受電を契約<ref>「新潟電気株式会社第4回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。新潟水力電気でも1925年2月になって最大3000キロワットを長岡変電所経由で受電するという契約を締結し、同所から自社の見附変電所へ至る送電線を翌1926年1月に完成させて長岡経由での受電も開始した<ref name="nep-240">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]240-245頁(巻末年譜)</ref>。[[1929年]](昭和4年)9月の変更時点における東京電灯からの受電は猪苗代第一発電所経由が3000キロワット、長岡変電所経由が2000キロワットである<ref name="nep-57"/>。 [[1927年]](昭和2年)10月25日<ref name="tadami">[[#tadami|『電源只見川開発史』]]28-32頁</ref>、新潟水力電気は傍系会社として新潟市内に阿賀川水力電気株式会社を設立した<ref name="asajima">[[#asajima|麻島昭一「東信電気の成立と発展」]]30頁</ref>。発起人[[吉野周太郎 (10代)|吉野周太郎]]ほか20名が1918年に申請していた福島県内を流れる阿賀川(阿賀野川)の水利権が1927年5月に許可されたことに伴う起業である<ref name="asajima"/>。新潟水力電気では同社の株式6万株(資本金300万円)のうち4万7600株を持っており、専務の[[白勢量作]]が同社社長を兼ねた<ref name="asajima"/>。しかし阿賀川水力電気は開業に至らないまま1929年10月、阿賀川開発を進める東京電灯系の発電会社[[東信電気]]に合併された<ref name="asajima"/>。 === 1920年代の需要開拓 === [[ファイル:Nakano Shirota.jpg|thumb|upright|新潟電気専務[[中野四郎太]]]] 新潟市内(旧沼垂町域を含む)と亀田町で供給区域が重複する新潟電気(旧・新潟水電)との電力需要家争奪戦は両社とも供給力不足が目立った1920年前後の時期には一時緩和されていたが、1923年頃より再燃した<ref name="nep-77"/>。その結果競争の弊害が随所に顕在化したことから両社間で営業に関する交渉が進められ、[[1924年]](大正13年)12月営業不可侵協定の締結に至った<ref name="nep-77"/>。協定内容は、供給区域が重複する地域では需要家の争奪を目的とする勧誘・宣伝その他一切の競争的行為を禁ずる、供給料金・供給条件は意見交換の上でできるだけ統一する、両社は相互に相手の需要家に対する供給権を尊重し侵害しない、相手の需要家より供給の申込みがあった場合は相手側の承諾を得て供給する、大口需要家以外は各自の供給規定にて定めた料金・条件に沿って供給する、などであった<ref name="nep-77"/>。協定後も新規需要家をめぐる小競り合いがあったものの、年を追うごとに両社の関係は改善に向かった<ref name="nep-77"/>。 1920年代は慢性的な不況下にあったとはいえ、工場の合理化という名目で機械化が進んだことから電力需要の増加傾向は続いた<ref name="nep-57"/>。1923年10月、管内のうち五泉と村松を結ぶ[[蒲原鉄道線|蒲原鉄道]]が新潟県内最初の[[電気鉄道]]が開業すると<ref>[[#muramatsu|『村松町史』下巻]]584-585頁</ref>、新潟水力電気では同社に100キロワットの電力供給を始め、新たに電気鉄道という需要家を加えた<ref name="nep-65">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]65-71頁</ref>。奥川開発が進んだ1926年1月からは新潟市内にある北越製紙新潟工場に対し常時1200キロワットという大口供給を開始している<ref name="nep-65"/>。さらに関係会社として1926年2月新潟電気工業を設立し、同社を通じて新潟市内に[[炭化カルシウム]](カーバイド)工場を建設、1200キロワットの電力需要を自ら生み出した<ref name="nep-65"/><ref name="nep-176">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]176-181頁</ref>。一方、電灯供給部門では不況下での需要喚起策として数年ごとに勧誘商戦を展開した<ref name="nep-65"/>。家庭向けでは新潟市内の富裕層向けに[[電熱]]器具の普及も図ったが、時期尚早でこれは定着しなかった<ref name="nep-65"/>。 様々な需要喚起策が採られていた最中の1926年12月8日、風雪により送電線と一次変電所の五泉変電所に故障が生じ、管内全域が停電するという事故が発生した<ref name="nep-65"/>。この停電を契機としてにわかに会社に対する非難の声が拡がり、電気料金値下げ運動が各地で発生、料金不払い同盟結成の動きまで生じる<ref name="nep-65"/>。非難の拡大をうけて会社側では供給規定に定められた停電補償を上回る料金割引を出すとともに 、将来的な値下げを約束して事態の沈静化に努めた<ref name="nep-65"/>。料金値下げは翌1927年上期に配当率を引き下げ準備した上で同年10月電灯料金の値下げを、11月電力料金の値下げを実施している<ref name="nep-65"/>。 需要増加により1926年下期に電灯取付数は20万灯に到達し、電力供給は1万キロワットを超えた<ref name="nep-supply"/>。新潟水力電気時代最末期、1929年11月末時点における電灯取付数は22万9357灯(点灯数22万2125灯)、電力供給は動力用1万1491馬力・大口電力6250キロワット・電熱457キロワットの計1万5279.3キロワットであった<ref name="nep-supply"/><ref name="nep-65"/>。 == 沿革:新潟電力時代 == === 新潟電気の合併 === [[ファイル:Matsunaga Yasuzaemon (before 1923).jpg|thumb|upright|新潟水力電気との合併を仲介した東邦電力社長[[松永安左エ門]] ]] 同じ新潟市に本拠を置く新潟水力電気と[[新潟電気]](旧・新潟水電)を合同させようとする動きは前述の通り1910年代末から存在した<ref name="nep-85"/>。1920年代に入っても仲介の試みが相次いでおり、まず川北電気企業社(大阪)社長[[川北栄夫]]が合同を斡旋したが失敗、1924年には新潟県知事が合併を勧告したが新潟電気側に意思がなく頓挫した<ref name="nep-85"/>。営業不可侵協定締結後、1927年春の[[昭和金融恐慌|金融恐慌]]発生を機に地元有力者が合併を勧告したがこれも不成功であった<ref name="nep-85"/>。 合同に向けた動きが進展しない中、新潟電気は新潟水力電気ではなく大手電力会社の一つ[[東邦電力]]との提携を選択した<ref name="nep-85"/>。この東邦電力は東京に本社を置き[[中京圏|中京地方]]と[[北部九州]]を地盤とした電力会社であるが、1920年代末になって供給区域から離れた東北地方進出を図り[[福島電灯]]・[[東部電力]]・[[二本松電気]]など福島県の会社を相次いで傘下に収めていた<ref name="toho-472">[[#toho|『東邦電力史』]]472-482頁</ref>。1929年3月、新潟電気は東邦電力と資本提携に関する契約を締結<ref name="nep-155"/>。自社株を持たせていた新潟電気証券という傍系会社を東邦電力傘下の[[東邦電力#東邦証券保有|東邦証券保有]]に買収させ、その後新潟電気証券を新潟電気本体に合併させる(同年6月実施)、という形で東邦電力の傘下に入った<ref name="nep-155"/>。これらの操作で東邦証券保有は新潟電気の株式50万株(資本金2500万円)のうち23万4千株を持つ筆頭株主となっている<ref name="nep-85"/>。新潟電気では傘下入りに伴い東邦電力から常務取締役に[[山県鼎一]](東邦電力社員)、取締役に[[松永安左エ門]](東邦電力社長)を迎えた<ref name="toho-472"/>。 新潟電気の東邦電力傘下入りを契機として、これまで何度も破談となっていた新潟水力電気との合併交渉が松永安左エ門らの仲介により一挙に進展をみせた<ref name="nep-85"/>。そして1929年9月14日、合併契約締結に至る<ref name="nep-85"/>。この当時、新潟電気は資本金2500万円、新潟水力電気は資本金1200万円と会社の規模は新潟電気が上回っていたが、合併では新潟水力電気側が存続会社で新潟電気は解散するものとされた<ref name="nep-85"/>。合併比率は1対1(対等合併)、合併期日は1929年12月24日と定められた<ref name="nep-85"/>。9月29日、新潟水力電気・新潟電気ともに臨時株主総会を開いて合併を承認<ref name="nep-85"/>。12月23日の新潟水力電気定時株主総会では一足先に山県鼎一が同社の取締役に加えられた<ref name="report46">「新潟電力株式会社第46回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 合併契約上の合併期日であった1929年12月24日付で逓信省より合併認可が下りたが、期日前に間に合わなかったため合併日は繰り延べられ翌[[1930年]](昭和5年)[[1月8日]]付となった<ref name="nep-85"/>。同年2月1日、存続会社の新潟水力電気で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了する<ref name="nep-85"/>。この総会にて新潟水力電気は「[[新潟電力|新潟電力株式会社]]」へと改称<ref name="nep-85"/>。さらに役員の総改選を行い取締役11名と監査役6名を選出、その中から社長に松永安左エ門、副社長に[[白勢量作]]、常務に山県鼎一をそれぞれ互選した<ref name="nep-85"/>。なお新潟水力電気社長の白勢春三と旧新潟電気社長の斎藤彦太郎は役員には入らず、ともに[[相談役]]に回っている<ref name="nep-85"/>。新経営陣のうち副社長となった白勢量作は白勢春三の長男であり<ref name="sj-104">[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]104-106頁</ref>、1914年7月から新潟水力電気で常務取締役、1923年12月からは専務取締役を務めていた<ref name="nep-195">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]195-203頁</ref>。 新潟電気を合併したことで、新潟水力電気改め新潟電力は資本金3700万円(払込資本金3025万5000円)という大型電力会社へと発展した<ref name="nep-85"/>。供給区域についても、これまで[[下越地方]]の約半分(主として信濃川右岸・阿賀野川左岸の地域)と[[中越地方]]北部に限られていたものが合併により[[燕市|燕]]など信濃川左岸地域や[[新発田市|新発田]]など阿賀野川右岸地域が加わって下越地方の大部分([[岩船郡]]のみ範囲外)に拡大し、福島県[[会津|会津地方]]の一部にも及んだ<ref>[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]付図「新潟電力株式会社 供給区域拡張発達図」</ref>。合併後最初の決算となった1930年5月末時点での供給成績は電灯取付数が56万3361灯(うち点灯数53万4222灯)、電力供給が普通電力(小口)2万1668馬力・特約電力(大口)9350キロワット・電熱1127キロワットの計2万6641キロワットであった<ref name="nep-supply"/><ref name="report46"/>。 === 合併後の合理化 === [[世界恐慌]]の只中に発足する形となった新潟電力では発足に際し、電源を充実しつつ二重設備を整理して供給設備の完全を期し、安価で良質な電気を豊富に供給するとの方針を打ち出した<ref name="nep-95">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]95-103頁</ref>。 発電設備については、まず1930年8月に旧新潟電気が[[官営八幡製鐵所|官営八幡製鉄所]]から貸借して使用していた赤谷発電所(出力270キロワット)を返却<ref name="nep-95"/>。次いで翌[[1931年]](昭和6年)11月に[[商用電源周波数|周波数]]60[[ヘルツ]]のまま残る旧新潟電気の大荒川上流発電所(出力443キロワット)および大荒川下流発電所(出力235キロワット)を廃止した<ref name="nep-95"/>。これら整理の結果、1931年下期以後の自社発電力は水力2万9580キロワット・火力8000キロワットとなっている<ref>[[#dia1934|ダイヤモンド社『銀行会社年鑑』昭和9年版]]74-75頁。{{NDLJP|1075539/53}}</ref>。 送電設備の整理については、旧新潟電気の送電幹線である大川発電所(出力1万2520キロワット・福島県[[北会津郡]][[大戸村]]=現・[[会津若松市]])から新潟へ至る送電線との連系を図った<ref name="nep-95"/>。具体的には、1931年6月東蒲原郡[[両鹿瀬村]](現・阿賀町)に鹿瀬変電所を新設し<ref name="nep-211"/>、同所を実川系統(下平・赤倉・小荒各発電所から五泉・新潟へと至る送電線)との結節点としたのである<ref name="nep-95"/>。さらに鹿瀬変電所には東京電灯鹿瀬変電所からの受電用送電線も引きこまれた<ref name="nep-95"/>。他方で、既設送電線のうち木柱のまま残っていた日橋 - 鹿瀬間は撤去され、1916年から続いた猪苗代第一発電所への接続が切られた<ref name="nep-95"/>。長年の懸案であった新潟市内の配電線整理も新潟電力発足後直ちに着手され、1931年までに3分の1が撤去された<ref name="nep-95"/>。 電源についてはその他、新潟電気の合併に伴い[[村上水電]](岩船郡[[村上町]]=現・[[村上市]]所在)からの受電が加わった<ref name="nep-207"/>。受電高は当初1200キロワット、[[1932年]](昭和7年)10月以降は最大1850キロワットである<ref name="nep-207"/>。また1931年10月より新たに会津電力からの受電も加わった<ref name="nep-246">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]246-250頁(巻末年譜)</ref>。受電地点は大川発電所と会津電力戸ノ口堰第一発電所の2か所で、受電高は6000キロワットであった<ref name="nep-207"/>。また新潟水力電気時代から続く東京電灯からの受電は、旧新潟電気と合併契約を交わした1929年9月に契約が改められ、受電高は最大1万キロワットとされた<ref name="nep-246"/>。これは毎年250キロワットずつ受電を増加する契約であり<ref name="nep-207"/>、[[1937年]](昭和12年)末時点では1万2000キロワットの受電となっている<ref>[[#yoran29|『電気事業要覧』第29回]]846頁。{{NDLJP|1073650/471}}</ref>。 受電を中心に供給力が拡大されたものの、1930年代初頭の時期は不況で需要増加率が低下した<ref name="nep-103">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]103-113頁</ref>。これは主として中小工業の疲弊を反映した小口電力減少によるものだが、大口電力需要は小幅ながら増加を続けたため[[キロワット時]]で見た販売量が前年度比で減少に転じたことはない<ref name="nep-103"/>。それでも供給力拡大のペースより劣るため多量の余剰電力を抱える形となった<ref name="nep-103"/>。この時期、管内で電気料金値下げ運動が盛んになり需要開拓は困難になっていたが、新潟電力では農村への配電線整備を進めて農業用小口電力需要の増加に成功<ref name="nep-103"/>。また1931年11月の[[ラジオ放送]]開始([[NHK新潟放送局|新潟放送局]]開設)を機に[[受信機]]と受信機用電力の勧誘を行った<ref name="nep-103"/>。 === 伊南川発電所建設 === 1931年後半の[[満洲事変]]勃発や[[金解禁|金輸出再禁止]]に刺激されて全国的に重化学工業が発展すると、新潟電力管内でも[[1934年]](昭和9年)頃より金属精錬・化学工業向けの大口電力需要が増大した<ref name="nep-117">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]117-122頁</ref>。需要増に伴い短期間で余剰電力が解消されると会社では自社電源拡張の方針を固め、[[1935年]](昭和10年)、水利権を保持したまま未開発であった阿賀野川水系[[伊南川]](福島県)での発電所建設に動き出した<ref name="nep-117"/>。この伊南川発電所は旧新潟電気が1921年10月に水利権を得ていた地点にあたる<ref name="reportD2">「新潟電気株式会社第2回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。[[1936年]](昭和11年)3月、まず発電所建設地の福島県[[南会津郡]][[横田村 (福島県)|横田村]]大字越川(現・[[金山町 (福島県)|金山町]]越川)と鹿瀬変電所を結ぶ伊南川送電線を新設<ref name="nep-117"/>。そして[[1938年]](昭和13年)10月より伊南川発電所の運転を開始した<ref name="report63">「新潟電力株式会社第63回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。発電所出力は2万1400キロワットと社内最大で、完成後の自社発電力は水力5万1979キロワット・火力8000キロワットとなっている(1939年末時点)<ref name="y31-711">[[#yoran31|『電気事業要覧』第31回]]711-715頁。{{NDLJP|1077029/371}}</ref>。 伊南川発電所建設中にあたる1938年4月、国策会社を通じた発電・送電事業の国家管理を規定する「[[電力管理法]]」が公布された<ref name="kanto-503">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]503-509・511-512頁</ref>。同法は、1930年代後半から政府内で本格化していた電気事業に対する国家統制の強化を目指す動きが[[第1次近衛内閣|第一次近衛文麿内閣]](1937年発足)の下で法制化に至ったものである<ref name="kanto-503"/>。翌[[1939年]](昭和14年)4月、国家管理を担う国策会社として[[日本発送電]]が発足したが、既存事業者から集められた電力設備は当初範囲が限定的で主要火力発電設備・送電線に限られた<ref name="kanto-503"/>。このため日本発送電設立に際して新潟県・東北6県から日本発送電へ設備を[[現物出資|出資]]した事業者はなかった<ref name="tohoku-303">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]303-305頁</ref>。ただし新潟電力の周辺では東京電灯鹿瀬・長岡両変電所と関連送電線が出資対象設備となり<ref>「[{{NDLDC|2959973/21}} 日本発送電株式会社法第五条の規定に依る出資に関する公告]」『官報』第3482号、1938年8月11日</ref>、東京電灯は新潟電力に対する電力供給を日本発送電へと移管している<ref>[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]530頁</ref>。移管後、1939年末時点での日本発送電からの受電電力は最大1万4500キロワットであった(村上水電・会津電力からの受電は従来のまま)<ref name="y31-711"/>。 1930年代の需要増加により、電灯取付数は[[1933年]](昭和8年)下期に60万灯を超えた<ref name="nep-supply"/>。電力供給については1932年下期に3万キロワットを超えたのち1935年下期には4万キロワットに到達する<ref name="nep-supply"/>。さらに最後の成績公表となった1939年5月末時点での供給成績は、電灯取付数が72万7196灯、電力供給が普通電力1万8680馬力・季節電力1万7947馬力・特約電力3万9224キロワット・電熱1518キロワットの計6万8066キロワット<!--馬力→kWは0.746を掛け換算-->であった<ref name="report64">「新潟電力株式会社第64回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 1939年末時点であるが、逓信省の資料によると3000キロワット以上を供給する大口電力需要家には新潟市内の[[北越コーポレーション|北越製紙]]新潟工場(最大8200キロワット供給)と[[日本鋼管]]新潟電気製鉄所(最大5000キロワット供給)の2工場が存在した<ref name="y31-790">[[#yoran31|『電気事業要覧』第31回]]790頁。{{NDLJP|1077029/410}}</ref>。最大の需要家となった北越製紙新潟工場では、1935年から1938年にかけて[[新聞紙|新聞用紙]]増産のため[[抄紙機]]や[[パルプ]]製造設備の建設が相次いでいた<ref>[[#paper|『北越製紙百年史』]]120-123頁</ref>。さらに[[レーヨン]]パルプ工場として1938年から隣接地に北越パルプ新潟工場を操業したが<ref>[[#paper|『北越製紙百年史』]]112-114頁</ref>、新潟電力では同工場にも電力供給を行っている(1939年末時点で1700キロワット)<ref name="y31-790"/>。もう一方の日本鋼管新潟電気製鉄所は1935年10月に建設<ref name="nkk">[[#nkk|『日本鋼管株式会社四十年史』]]736-739頁</ref>。[[アーク炉|アーク式電気炉]]を操業して[[フェロアロイ]](合金鉄)の製造にあたっていた<ref name="nkk"/>。 上記2工場以外にも、前述の新潟電気工業が1200キロワット電気炉2台と1050キロワット電気炉1台で炭化カルシウムの製造を、同じく関係会社の新潟電化(1933年11月設立)が1000キロワット電気炉3台でフェロアロイの製造を、ともに新潟電力からの受電で行った<ref name="nep-176"/>。そのほか、電気事業者に対する電力供給として会津電力{{Refnest|group=注釈|会津電力は新潟電力から受けた電力3000キロワットをそのまま[[日本曹達]]会津工場へ供給した<ref name="y31-711"/><ref name="y31-790"/>。同工場(現・日曹金属化学)は福島県耶麻郡[[磐梯町|磐梯村]]に位置する亜鉛・合金鉄工場で、かつての高田商会大寺製錬所を日本曹達が再生したもの<ref>[[#nisso|『日本曹達70年史』]]28-29頁</ref>。}}と村上水電に対する供給各3000キロワットがあった(1939年末時点)<ref name="y31-711"/>。これらに比べると小規模ながら、電気鉄道に対する電力供給として蒲原鉄道へ300キロワット、[[新潟交通電車線|新潟電鉄]]へ350キロワットをそれぞれ送電した(同上)<ref name="y31-711"/>。 === 隣接事業者の統合 === 電気事業を所管する逓信省は、前述の電力国家管理具体化に関連し、1936年から翌年にかけて配電事業統制の方針を打ち出した<ref name="nenpo1938-79">[[#nenpo1938|『電気年報』昭和13年版]]79-88頁</ref>。この当時、限られた範囲だけを供給区域とする小規模電気事業者が全国的に散在していたが、規模の小ささ故に大規模事業者との間には経営内容や電気供給の質で格差を生じていた<ref name="nenpo1938-79"/>。そのことを問題視した逓信省では上記方針を打ち出し、小規模電気事業の整理・統合を進めることによって経営採算の不均衡是正や料金低下を目指したのである<ref name="nenpo1938-79"/>。本省の方針に従って各逓信局が動いて関係事業者に対し事業統合を勧奨・斡旋した結果、全国的に事業統合が活発化していった<ref name="nenpo1938-79"/>。 1937年7月、東北6県を管轄する仙台逓信局では管内17社の代表を集めて合同案を提示した<ref name="nenpo1938-94">[[#nenpo1938|『電気年報』昭和13年版]]94-95頁</ref>。この際に新潟電力が勧告されたのは福島県会津地方にある6つの小規模事業の統合である<ref name="nenpo1938-94"/>。新潟電力では翌1938年から[[1940年]](昭和15年)にかけて、このうち5事業を次のように統合した。 ; 伊南川水力電気株式会社 : 1938年6月30日付で逓信省より事業譲受認可を得て、7月1日事業を継承<ref name="report63"/>。 : 伊南川水力電気は1919年3月26日、南会津郡[[伊南村 (福島県)|伊南村]]大字古町(現・[[南会津町]]古町)に設立<ref>「[{{NDLDC|2954180/23}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第2067号附録、1919年6月25日</ref>。同年11月に伊南川ほか2村を供給区域として開業した<ref name="tohoku-205">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]205-206頁</ref>。開業後は内川発電所(水力・出力165キロワット)を建設したほか、1927年9月には[[舘岩村]]の舘岩水力電気株式会社(1920年6月開業)から事業を譲り受けて社業を拡げた<ref name="tohoku-205"/>。新潟電力統合時の資本金は20万円<ref name="n24-38">[[#nenkan24|『電気年鑑』昭和14年]]本邦電気界38-40頁</ref>。 ; 黒谷川水力電気株式会社 : 1938年9月30日付で事業譲受認可を得て10月1日事業を継承<ref name="report63"/>。 : 黒川水力電気は1920年3月21日、若松市(現・会津若松市)に設立<ref>「[{{NDLDC|2954684/25}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第2569号附録、1921年2月26日</ref>(ただし1921年4月に南会津郡[[朝日村 (福島県)|朝日村]]大字黒谷=現・[[只見町]]黒谷へ移転<ref>「[{{NDLDC|2954805/21}} 商業登記 黒谷川水力電気株式会社変更]」『官報』第2690号附録、1921年7月19日</ref>)。1922年9月に朝日村ほか4村を供給区域として黒谷川発電所(水力・出力50キロワット)を電源に開業した<ref name="tohoku-211">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]211-213頁</ref>。統合時の資本金は15万円<ref name="n24-38"/>。 ; 御蔵入電気株式会社 : 1938年11月30日付で事業譲受認可を得て12月1日事業を継承<ref name="report63"/><ref name="report64"/>。 : 御蔵入電気は1921年10月11日、大沼郡[[川口村 (福島県)|川口村]]大字川口(現・金山町川口)に設立<ref>「[{{NDLDC|2954939/54}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第2823号附録、1921年12月28日</ref>。1922年11月に川口村ほか4村を供給区域として受電により開業し、追って大志発電所(水力・出力47キロワット)を完成させた<ref name="tohoku-211"/>。統合時の資本金は20万円<ref name="n24-38"/>。 ; 株式会社昭電社 : 1940年8月31日付で事業譲受認可<ref name="report67">「新潟電力株式会社第67回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 : 玉川水力電気株式会社として1921年12月8日、大沼郡[[野尻村 (福島県)|野尻村]](後の[[昭和村 (福島県)|昭和村]])大字下中津川に設立<ref>「[{{NDLDC|2954988/24}} 商業登記 株式会社設立]」『官報』第2872号附録、1922年3月2日</ref>。1923年1月に野尻村ほか1村を供給区域として玉川発電所(水力・出力15キロワット)を電源に開業した<ref name="tohoku-211"/>。昭電社への社名変更は1930年8月である<ref>「[{{NDLDC|2957614/14}} 商業登記 玉川水力電気株式会社変更]」『官報』第1147号、1930年10月24日</ref>。新潟電力統合時の資本金は5万円<ref name="n26-6">[[#nenkan26|『電気年鑑』昭和16年]]本邦電気界6頁</ref>。 ; [[東京電灯]]野沢区域 : これのみ事業の一部を譲り受けたもの。1939年2月20日付で東京電灯との間に同社野沢派出所管内の電気事業を譲り受ける旨の契約を締結し、4月28日譲受認可を得た上で5月1日事業を引き継いだ<ref name="report64"/>。継承設備には滝谷川発電所(水力・出力445キロワット<ref name="tadami-20"/>)と変電所2か所を含む<ref name="report64"/>。 : 前身の野沢電気株式会社は[[河沼郡]][[野沢町 (福島県)|野沢町]](現・[[西会津町]])などを供給区域として1917年5月に開業<ref name="tadami-20">[[#tadami|『電源只見川開発史』]]20-27頁</ref>。1919年に只見川水力電気株式会社へと社名を改めたが1926年東北電力へと合併される<ref>[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]201頁</ref>。この東北電力は阿賀野川水系[[只見川]]に水利権を持つ発電会社であったが開発着手に至らず1928年東京発電(旧・[[信越電力]])に合併され、次いで東京電灯へと吸収された<ref name="tadami-20"/>。 福島県側での事業統合の一方、新潟県側では県当局と同地の越佐電気協会が逓信当局の勧告を踏まえて県内事業再編の計画を立てた<ref name="nenpo1938-94"/>。その概略は、下越・中越地方の事業を新潟電力に、上越地方の事業を[[高田市|高田]]の[[中央電気]]に、[[佐渡島]]の事業を[[佐渡電灯]]にそれぞれ集約するというものである<ref name="nenpo1938-94"/>。福島県側での事業統合が終わると新潟電力では新潟県側での事業統合に動き村上水電の合併を決定、1940年8月5日の臨時株主総会にて合併を決議した<ref name="report67"/>。先に触れたように村上水電は岩船郡村上町にあった電力会社で、[[胎内川]]の第一発電所(出力610キロワット)と[[荒川 (羽越)|荒川]]の荒川発電所(出力2130キロワット)、[[内燃力発電|内燃力発電所]]の村上発電所(出力760キロワット)の3発電所を擁して岩船郡内での供給にあたっていた<ref name="tohoku-229">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]229頁</ref><ref name="iwafune">[[#iwafune|『自然及文化上より観たる岩船郡』]]71-74頁</ref>。 村上水電の合併は1940年10月31日付で逓信省より認可された<ref name="report67"/>。同年11月25日、新潟電力で合併報告総会が開かれて合併手続きが完了している<ref name="report67"/>。合併時、村上水電の資本金は240万円であったが<ref name="n26-6"/>、合併に伴う新潟電力の資本金増加は216万円であり<ref name="report67"/>、合併後の資本金は3916万円となっている<ref name="kabu1942"/>。以降、下越・中越地方には新潟電力と長岡市の[[北越水力電気]]が残るだけとなったが、その合同は実現していない。 === 電力国家管理と解散 === [[ファイル:Shirose Ryosaku.jpg|thumb|upright|最後の新潟電力社長[[白勢量作]](東北配電初代社長)]] 1939年に日本発送電設立という形で一旦落着した電力国家管理政策であったが、1940年代に入ると[[第2次近衛内閣|第二次近衛内閣]]の下で国家管理をより強化する方向へと再検討され始め、既存電気事業者の解体と日本発送電の体制強化・配電事業の国家統制にまで踏み込んだ「第二次電力国家管理」政策が急速に具体化されていく<ref name="kanto-513">[[#kanto|『関東の電気事業と東京電力』]]513-516頁</ref>。そして[[1941年]](昭和16年)4月に発送電管理強化のための電力管理法施行令改正が実行され、同年8月には配電事業統合を規定する「[[配電統制令]]」の施行に至った<ref name="kanto-513"/>。 第二次電力国家管理における日本発送電への設備出資は1941年10月1日付の第一次出資と翌[[1942年]](昭和17年)4月1日付の第二次出資に分割し実施された<ref name="chugai">「[{{新聞記事文庫|url|0100073851|title=電力再構成の前進 (一〜六)|oldmeta=00056711}} 電力再構成の前進]」『[[中外商業新報]]』1942年4月8日 - 18日連載(神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」収録)</ref>。今回の出資対象には従来対象外であった一部水力発電所(出力5000キロワット超の水力発電所とそれらに関連する水力発電所)も含まれており<ref name="chugai"/>、新潟電力では第二次出資に関し1941年8月2日付で設備出資命令を受け取った<ref name="ha3-16">[[#hassoden3|『日本発送電社史』業務編]]16-18頁</ref>。その出資対象設備は以下の通りである<ref name="kanpo19410802">「[{{NDLDC|2960869/20}} 日本発送電株式会社法第五条の規定に依る出資に関する公告]」『官報』第4371号、1941年8月2日付</ref>。 * 発電設備 : 8か所(金川・大川・奥川・奥川第二・伊南川・赤倉・下平・小荒) * 送電路線 : 9路線(大川発電所 - 鹿瀬変電所間「大川線」など) * 変電設備 : 2か所(鹿瀬・宝坂) 配電事業統合に関しては、新潟県の配電事業は東北6県の事業とともに国策配電会社[[東北配電]]へと再編されることが決まり、1941年9月6日付で逓信大臣より新潟県および東北6県に立地する主要事業者13社に対し「東北配電株式会社設立命令書」が発出された<ref name="tohoku-303"/>。新潟電力もその受命者の一つであり(新潟県下では他に中央電気と北越水力電気が受命)<ref name="tohoku-303"/>、水力発電所12か所、火力発電所2か所、送電線38路線、変電所28か所、それに配電区域内にある配電設備・需要者屋内設備・営業設備の一切を東北配電へと出資するよう命ぜられた<ref>「[{{NDLDC|2960911/17}} 配電統制令第三条第二項の規定に依る配電株式会社設立命令に関する公告]」『官報』第4413号、1941年9月20日<br />「[{{NDLDC|2960978/26}} 配電統制令第三条第二項の規定に依る配電株式会社設立命令中事項変更に関する公告]」『官報』第4478号、1941年12月10日</ref>。受命直後の9月17日、東北配電の第1回設立委員会が開かれ、その席で新潟電力社長白勢量作(1936年6月松永安左エ門に代わり社長昇格<ref name="nep-195"/>)が東北配電設立委員長に選任された<ref name="tohoku-303"/>。 翌1942年1月15日、新潟電力では臨時株主総会を開いて東北配電設立委員が作成した書面を承認する手続きを済ませた<ref name="liquidate1">「新潟電力株式会社清算事務所第1回事務報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。同年4月1日、日本発送電に対する設備出資(第二次出資)と東北配電の設立が実行に移される<ref name="tohoku-303"/>。日本発送電に対する出資設備の評価額は2181万7567円50銭とされ、出資の対価として新潟電力は日本発送電の株式43万6351株(払込総額2181万7550円)と端数分の現金17円50銭を受け取った<ref name="ha3-16"/>。一方、東北配電に対する出資設備評価額は3653万9350円とされ、ここから東北配電へ引き継ぐ[[社債]]490万8000円を差し引いた金額(3163万3150円)を元に東北配電株式56万1927株(払込総額2809万6350円)と現金353万5000円を交付されている<ref name="tohoku-334">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]334-336頁</ref>。東北配電初代社長には新潟電力から白勢量作が就いた<ref name="chugai"/>。 設備出資を終えた新潟電力は、1942年[[5月11日]]、臨時株主総会を開いて[[解散]]を決議し、即日解散した<ref name="liquidate1"/>。 == 年表 == === 新潟水力電気 === * [[1898年]](明治31年) ** [[3月25日]] - 新潟電灯開業<ref name="yoran1"/>。 * [[1907年]](明治40年) ** [[5月22日]] - 新潟水力電気に対し[[逓信省]]より電気事業経営許可<ref name="nep-14"/>。 ** [[6月21日]] - '''新潟水力電気株式会社'''設立。資本金150万円、本店[[新潟市]][[上大川前通]]十番町1876番地<ref name="kanpo19070713"/>、初代社長[[鈴木長八]]<ref name="nep-31"/>。 ** [[11月13日]] - 新潟市内に別系統の会社として新潟水電(後の[[新潟電気]])が発足<ref name="nep-134"/>。 * [[1909年]](明治42年) ** [[3月4日]] - 第一発電所使用認可<ref name="nep-37"/>。 ** [[3月11日]] - 開業し[[村松町|村松]]・[[五泉市|五泉]]・[[新津市|新津]]の3町にて供給開始<ref name="nep-37"/>。 ** 5月 - 新潟市内での供給を開始<ref name="nep-37"/>。 * [[1911年]](明治44年) ** [[11月25日]] - [[加茂市|加茂]]・[[三条市|三条]]方面での供給を開始<ref name="nep-232"/>。 * [[1912年]](明治45年) ** [[5月24日]] - 第二発電所使用認可<ref name="nep-232"/>。 ** [[6月11日]] - [[見附市|見附]]・[[栃尾市|栃尾]]方面での供給を開始<ref name="nep-232"/>。 * [[1913年]](大正2年) ** [[9月26日]] - 沼垂発電所(初代)落成<ref name="nep-232"/>。 * [[1914年]](大正3年) ** [[5月18日]] - 第2代社長に[[白勢春三]]就任<ref name="nep-232"/>。 * [[1915年]](大正4年) ** [[7月26日]] - [[優先株式]]発行による25万円の増資を決議<ref>「[{{NDLDC|2953228/18}} 商業登記 新潟水力電気株式会社資本増加]」『官報』第1118号附録、1916年4月26日</ref>。 * [[1916年]](大正5年) ** [[3月10日]] - [[猪苗代水力電気]]からの受電を開始<ref name="nep-232"/>。 ** [[10月23日]] - 本店を新潟市上大川前通七番町1236番地1へ移転(登記日)<ref>「[{{NDLDC|2953386/19}} 商業登記 新潟水力電気株式会社変更]」『官報』第1275号、1916年10月30日</ref>。 ** [[12月5日]] - 沼垂発電所(初代)廃止<ref name="nep-232"/>。 * [[1921年]](大正10年) ** [[11月12日]] - 350万円の増資を決議<ref>「[{{NDLDC|2955093/20}} 商業登記 新潟水力電気株式会社資本増加]」『官報』第2975号附録、1922年7月3日</ref>、資本金700万円となる<ref name="nep-53"/>。 * [[1923年]](大正12年) ** [[4月1日]] - 猪苗代水力電気は[[東京電灯]]に合併<ref name="kanto-207"/>。 ** [[4月19日]] - 小荒発電所使用認可<ref name="report32"/>。 ** [[5月10日]] - 東北電化株式会社・高浪電気株式会社を合併<ref name="kanpo19231214">「[{{NDLDC|2955541/15}} 商業登記 新潟水力電気株式会社合併・新潟水力電気株式会社本店移転]」『官報』第3394号附録、1923年12月14日</ref>。資本金755万円となる<ref name="nep-71"/>。 ** [[5月22日]] - 本店を新潟市上大川前通六番町1197番地へ移転<ref name="kanpo19231214"/>。 * [[1925年]](大正14年) ** [[6月27日]] - 445万円の増資を決議<ref>「[{{NDLDC|2956154/21}} 商業登記 新潟水力電気株式会社資本増加]」『官報』第4003号附録、1925年12月26日</ref>、資本金1200万円となる<ref name="nep-71"/>。 * [[1926年]](大正15年) ** [[1月7日]] - 東京電灯からの受電(長岡変電所経由)を開始<ref name="nep-240"/>。 ** [[1月13日]] - 下平発電所使用認可<ref name="nep-240"/>。 ** [[2月1日]] - 関係会社として新潟電気工業株式会社を設立<ref name="nep-176"/>。 ** [[10月2日]] - 赤倉発電所使用認可<ref name="nep-240"/>。 * [[1927年]](昭和2年) ** [[10月25日]] - 関係会社として阿賀川水力電気株式会社を設立(ただし1929年10月[[東信電気]]が吸収)<ref name="tadami"/><ref name="asajima"/>。 ** [[12月22日]] - 本店を新潟市上大川前通五番町84番地へ移転<ref>「[{{NDLDC|2956797/13}} 商業登記 新潟水力電気株式会社移転]」『官報』第336号、1928年2月14日</ref>。 * [[1928年]](昭和3年) ** [[5月18日]] - 沼垂発電所(2代)使用認可<ref name="nep-240"/>。 * [[1929年]](昭和4年) ** [[6月30日]] - 関係会社として中ノ口電気鉄道株式会社(後の新潟電鉄、現・[[新潟交通]])を設立<ref name="nep-176"/>。 ** [[9月14日]] - 新潟電気との間で合併契約締結<ref name="nep-85"/>。 ** [[9月29日]] - 株主総会にて新潟電気の合併を決議<ref name="nep-85"/>。 ** [[12月24日]] - 逓信省より新潟電気の合併認可<ref name="nep-85"/>。 === 新潟電力 === * [[1930年]](昭和5年) ** [[1月8日]] - 新潟水力電気は新潟電気を合併。資本金3700万円となる<ref name="nep-85"/>。 ** 2月1日 - 新潟水力電気から'''新潟電力株式会社'''へ社名変更。社長[[松永安左エ門]]・副社長[[白勢量作]]就任<ref name="nep-85"/>。 ** [[8月16日]] - 旧新潟電気の赤谷発電所を[[官営八幡製鐵所|八幡製鉄所]]へ返却<ref name="nep-246"/>。 * [[1931年]](昭和6年) ** [[6月9日]] - 新潟市内軌道敷設権を中ノ口電気鉄道へ譲渡<ref name="nep-246"/>。 ** [[10月5日]] - 会津電力からの受電を開始<ref name="nep-246"/>。 ** [[11月27日]] - 旧新潟電気の大荒川上流・大荒川下流両発電所を廃止<ref name="nep-246"/>。 * [[1933年]](昭和8年) ** [[11月13日]] - 関係会社として新潟電化株式会社を設立<ref name="nep-176"/>。 * [[1936年]](昭和11年) ** 6月27日 - 白勢量作が社長に昇格(第4代)<ref name="nep-195"/>。 * [[1938年]](昭和13年) ** [[7月1日]] - 伊南川水力電気株式会社より事業を譲り受ける<ref name="report63"/>。 ** [[10月1日]] - 黒谷川水力電気株式会社より事業を譲り受ける<ref name="report63"/>。 ** [[10月12日]] - 伊南川発電所使用認可・運転開始<ref name="report63"/>。 ** [[12月1日]] - 御蔵入電気株式会社より事業を譲り受ける<ref name="report64"/>。 * [[1939年]](昭和14年) ** [[5月1日]] - 東京電灯より同社野沢派出所管内の事業を譲り受ける<ref name="report64"/>。 * [[1940年]](昭和15年) ** [[8月31日]] - 株式会社昭電社の事業譲受につき認可<ref name="report67"/>。 ** [[11月25日]] - [[村上水電|村上水電株式会社]]を合併<ref name="report67"/>。資本金3916万円となる<ref name="kabu1942"/>。 * [[1941年]](昭和16年) ** [[8月2日]] - [[電力管理法]]による[[日本発送電]]に対する設備出資命令を受命<ref name="ha3-16"/>。 ** [[9月6日]] - [[配電統制令]]による[[東北配電]]設立命令を受命<ref name="tohoku-303"/>。 * [[1942年]](昭和17年) ** 4月1日 - 日本発送電・東北配電に対し設備を[[現物出資|出資]]<ref name="ha3-16"/><ref name="tohoku-334"/>。 ** [[5月15日]] - 新潟電力'''[[解散]]'''<ref name="kanpo19420515"/>。 == 本社・支社・出張所所在地 == 解散前年、1941年(昭和16年)5月時点における新潟電力の本社・支社・出張所所在地は以下の通りであった<ref>[[#nenkan26|『電気年鑑』昭和16年]]電気事業一覧27-29頁</ref>。特記のない限り[[新潟県]]内である。 * 本社 : [[新潟市]][[上大川前通]]五番町84番地(現・新潟市[[中央区 (新潟市)|中央区]]) * 支社(1か所) ** 村上支社 : [[岩船郡]][[村上本町]](現・[[村上市]]) * 営業所(1か所) ** 新潟営業所 : 本社に同じ * 出張所(17か所) ** 亀田出張所 : [[中蒲原郡]][[亀田町 (新潟県)|亀田町]](現・新潟市[[江南区 (新潟市)|江南区]]) ** 新津出張所 : 中蒲原郡[[新津市|新津町]](現・新潟市[[秋葉区]]) ** 五泉出張所 : 中蒲原郡[[五泉町]](現・[[五泉市]]) ** 加茂出張所 : [[南蒲原郡]]加茂町(現・[[加茂市]]) ** 三条出張所 : [[三条市]]一ノ木戸 ** 見附出張所 : 南蒲原郡見附町(現・[[見附市]]) ** 栃尾出張所 : [[古志郡]][[栃尾市|栃尾町]](現・[[長岡市]]) ** 脇野出張所 : [[三島郡 (新潟県)|三島郡]][[脇野町]](同上) ** 燕出張所 : [[西蒲原郡]][[燕町]](現・[[燕市]]) ** 巻出張所 : 西蒲原郡[[巻町]](現・新潟市[[西蒲区]]) ** 白根出張所 : 中蒲原郡[[白根市|白根町]](現・新潟市[[南区 (新潟市)|南区]]) ** 水原出張所 : [[北蒲原郡]][[水原町]](現・[[阿賀野市]]) ** 新発田出張所 : 北蒲原郡新発田町(現・[[新発田市]]) ** 津川出張所 : [[東蒲原郡]][[津川町]](現・[[阿賀町]]) ** 高田出張所 : [[福島県]][[大沼郡]][[高田町 (福島県)|高田町]](現・[[会津美里町]]) ** 野沢出張所 : 福島県[[河沼郡]][[野沢町 (福島県)|野沢町]](現・[[西会津町]]) ** 小林出張所 : 福島県[[南会津郡]][[小梁村]](現・[[只見町]]) これらのうち新潟市上大川前通五番町の本社建物は[[鉄筋コンクリート構造]]の3階建てで、新潟水力電気時代の1927年11月に竣工した<ref name="nep-71"/>。新潟電力解散後、同地には東北配電新潟支店および後身の[[東北電力]]新潟支店が置かれている<ref name="tohoku-626">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]626-627頁</ref>。 == 供給区域 == === 1915年時点の区域一覧 === 新潟水力電気時代、1915年(大正4年)6月末時点の供給区域は以下の通り<ref>[[#yoran8|『電気事業要覧』第8回]]62-63頁。{{NDLJP|975001/60}}</ref>。これには未開業の地域を含む。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- !style="background-color:#cee;" colspan="2"|[[新潟県]](1市5郡) |- !style="white-space:nowrap;"|市部<br />(1市) |[[新潟市]]【電力のみ】 |- !style="white-space:nowrap;"|[[西蒲原郡]]<br />(1村) |[[坂井輪村]](現・新潟市) |- !style="white-space:nowrap;"|[[中蒲原郡]]<br />(4町9村) |[[石山村 (新潟県)|石山村]]・[[大江山村]]・[[亀田町 (新潟県)|亀田町]]・[[早通村]]・[[両川村 (新潟県)|両川村]]・[[荻川村]]・[[新津市|新津町]]・[[金津村 (新潟県)|金津村]](現・新潟市)、[[新関村]](現・新潟市・[[五泉市]])、<br />[[五泉町]]・[[橋田村]]・[[菅名村]]・[[村松町]](現・五泉市) |- !style="white-space:nowrap;"|[[南蒲原郡]]<br />(4町7村) |[[加茂市|加茂町]]・[[下条村 (新潟県南蒲原郡)|下条村]](現・[[加茂市]])、<br />[[三条市|三条町]]・[[大崎村 (新潟県南蒲原郡)|大崎村]]・[[本成寺村]](現・[[三条市]])、<br />[[見附市|見附町]]・[[庄川村]]・[[葛巻村]]・[[今町]]・[[坂井村 (新潟県)|坂井村]](現・[[見附市]])、<br />[[中之島町|中之島村]](現・[[長岡市]]) |- !style="white-space:nowrap;"|[[古志郡]]<br />(1町5村) |[[北谷村 (新潟県)|北谷村]](現・見附市)、[[上北谷村]](現・見附市・長岡市)、<br />[[山本村 (新潟県)|山本村]]・[[荷頃村]]・[[栃尾市|栃尾町]]・[[下塩谷村]](現・長岡市) |- !style="white-space:nowrap;"|[[三島郡 (新潟県)|三島郡]]<br />(1町6村) |[[与板町]]・[[大津村 (新潟県三島郡)|大津村]]・[[脇野町|脇野町村]]・[[日吉村 (新潟県三島郡)|日吉村]]・[[関原町|関原村]]・[[日越村]]・[[宮本村 (新潟県)|宮本村]](現・長岡市) |} === 1929年時点の区域一覧 === 新潟水力電気時代末期、1929年(昭和4年)6月末時点の供給区域は以下の通り<ref>[[#yoran21|『電気事業要覧』第21回]]488-489頁。{{NDLJP|1077038/274}}</ref>。 * 他の事業者の供給区域にも含まれる市町村には「【一部】」という表記を付した。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- !style="background-color:#cee;" colspan="2"|新潟県(1市7郡) |- !style="white-space:nowrap;"|市部<br />(1市) |新潟市【電力のみ】 |- !style="white-space:nowrap;"|[[北蒲原郡]]<br />(1村) |[[岡方村]](現・新潟市) |- !style="white-space:nowrap;"|西蒲原郡<br />(1村) |坂井輪村【一部】 |- !style="white-space:nowrap;"|中蒲原郡<br />(4町18村) |石山村・大江山村・亀田町・両川村・[[大郷村 (新潟県)|大郷村]]・[[鷲巻村]]・[[根岸村 (新潟県)|根岸村]]・荻川村・[[小合村]]・新津町【一部】・金津村(現・新潟市)、新関村(現・新潟市・五泉市)、<br />五泉町・橋田村・[[巣本村]]・[[川東村 (新潟県中蒲原郡)|川東村]]・菅名村・村松町・[[大蒲原村]]・[[十全村]]・[[川内村 (新潟県)|川内村]](現・五泉市)、[[七谷村]](現・加茂市) |- !style="white-space:nowrap;"|[[東蒲原郡]]<br />(6村) |[[西川村 (新潟県東蒲原郡)|西川村]]・[[東川村 (新潟県)|東川村]]・[[上条村 (新潟県東蒲原郡)|上条村]]・[[小川村 (新潟県)|小川村]]・[[日出谷村]]・[[豊実村 (新潟県)|豊実村]](現・[[阿賀町]]) |- !style="white-space:nowrap;"|南蒲原郡<br />(4町13村) |加茂町・下条村(現・加茂市)、<br />三条町【一部】・[[井栗村]]・大崎村・本成寺村・[[福島村 (新潟県)|福島村]]・[[大面村]]・[[長沢村 (新潟県南蒲原郡)|長沢村]]・[[鹿峠村]]・[[森町村]](現・三条市)、<br />見附町・庄川村・葛巻村・今町・[[新潟村]](現・見附市)、<br />中之島村(現・長岡市) |- !style="white-space:nowrap;"|古志郡<br />(1町16村) |北谷村(現・見附市)、上北谷村(現・見附市・長岡市)、<br />[[新組村]](現・長岡市・見附市)、[[黒条村]]・[[下川西村]]・[[上川西村]]・[[福戸村]]・山本村・荷頃村・栃尾町・下塩谷村・[[上塩谷村]]・[[東谷村 (新潟県)|東谷村]]・[[入東谷村]]・[[西谷村 (新潟県)|西谷村]]・[[中野俣村]]・[[半蔵金村]](現・長岡市) |- !style="white-space:nowrap;"|三島郡<br />(1町10村) |与板町・[[黒川村 (新潟県三島郡)|黒川村]]・大津村・脇野町村・日吉村・[[王寺川村]]・関原村・日越村・[[深才村]]【一部】・宮本村・[[大積村]](現・長岡市) |} === 1938年時点の区域一覧 === 新潟電力時代、1938年(昭和13年)12月末時点の供給区域は以下の通り<ref>[[#yoran30|『電気事業要覧』第30回]]570-572頁。{{NDLJP|1073660/316}}</ref>。 * 他の事業者の供給区域にも含まれる市町村には「【一部】」という表記を付した。 * 1939年以後に統合する東京電灯(野沢区域)・昭電社・村上水電の供給区域も併記している。 {| class="wikitable" style="font-size:small;" |- !style="background-color:#cee;" colspan="2"|新潟県(2市8郡) |- !style="white-space:nowrap;"|市部<br />(2市) |新潟市、[[三条市]] |- !style="white-space:nowrap;" rowspan="2"|北蒲原郡<br />(4町30村) |[[乙村]]・[[黒川村 (新潟県北蒲原郡)|黒川村]]以外の郡内各町村(現・新潟市・[[聖籠町]]・[[阿賀野市]]・[[新発田市]]・[[胎内市]]) |- |【村上水電区域】乙村・黒川村(現・胎内市) |- !style="white-space:nowrap;"|東蒲原郡<br />(1町10村) |郡内全町村(現・五泉市・阿賀町) |- !style="white-space:nowrap;"|中蒲原郡<br />(6町28村) |郡内全町村(現・新潟市・五泉市・加茂市) |- !style="white-space:nowrap;"|南蒲原郡<br />(3町14村) |郡内全町村(現・三条市・加茂市・[[燕市]]・見附市・長岡市・[[田上町]]) |- !style="white-space:nowrap;"|西蒲原郡<br />(6町28村) |郡内全町村(現・新潟市・燕市・[[弥彦村]]) |- !style="white-space:nowrap;"|三島郡<br />(4町11村) |[[大河津村]](現・長岡市・燕市)、[[寺泊町]]・[[桐島村]]・[[島田村 (新潟県)|島田村]]・与板町・黒川村・大津村・脇野町・日吉村・王寺川村・関原町・日越村・深才村【一部】・宮本村・大積村(現・長岡市) |- !style="white-space:nowrap;"|[[刈羽郡]]<br />(1村) |[[中通村 (新潟県刈羽郡)|中通村]]【一部】(現・[[刈羽村]]) |- !style="white-space:nowrap;"|古志郡<br />(1町16村) |北谷村(現・見附市)、上北谷村(現・見附市・長岡市)、<br />新組村(現・長岡市・見附市)、黒条村・下川西村・上川西村・福戸村・山本村・荷頃村・栃尾町・下塩谷村・上塩谷村・東谷村・入東谷村・西谷村・中野俣村・半蔵金村(現・長岡市) |- !style="white-space:nowrap;"|[[岩船郡]] |【村上水電区域】[[粟島浦村]]以外の郡内各町村(現・[[村上市]]・[[関川村]]) |- !style="background-color:#cee;" colspan="2"|[[福島県]](5郡) |- !style="white-space:nowrap;"|[[耶麻郡]]<br />(1村) |[[奥川村]](現・[[西会津町]]) |- !style="white-space:nowrap;" rowspan="2"|[[河沼郡]]<br />(1村) |[[群岡村]]【一部】(現・西会津町) |- |【東京電灯野沢区域】群岡村【一部】・[[宝坂村]]・[[上野尻村]]・[[野沢町 (福島県)|野沢町]]・[[登世島村]]・[[尾野本村]]・[[睦合村 (福島県河沼郡)|睦合村]]・[[下谷村]](現・西会津町)、柳津村(現・[[柳津町]]) |- !style="white-space:nowrap;" rowspan="3"|[[大沼郡]]<br />(2町13村)<!--要覧30では御蔵入電気統合が未反映だが修正--> |[[高田町 (福島県)|高田町]]・[[赤沢村 (福島県)|赤沢村]]・[[永井野村]]・[[藤川村 (福島県)|藤川村]]・[[旭村 (福島県大沼郡)|旭村]]・[[東尾岐村]]・[[尾岐村]]・[[会津本郷町|本郷町]]・[[玉路村]]・[[新鶴村]](現・[[会津美里町]])、<br />[[沼沢村]]・[[川口村 (福島県)|川口村]]・[[本名村]]・[[横田村 (福島県)|横田村]]・[[大滝村 (福島県)|大滝村]](現・[[金山町 (福島県)|金山町]]) |- |【東京電灯野沢区域】[[西方村 (福島県)|西方村]]・[[原谷村 (福島県)|原谷村]]・[[西川村 (福島県)|西川村]]・[[三谷村 (福島県)|三谷村]](現・[[三島町]])、[[中ノ川村]]・[[東川村 (福島県)|東川村]](現・河沼郡柳津町) |- |【昭電社区域】[[昭和村 (福島県)|昭和村]] |- !style="white-space:nowrap;"|[[北会津郡]]<br />(5村) |[[川南村 (福島県)|川南村]]・[[舘ノ内村]]・[[荒井村 (福島県北会津郡)|荒井村]]・[[門田町 (会津若松市)|門田村]]【一部】・[[大戸村]]【一部】(現・[[会津若松市]]) |- !style="white-space:nowrap;"|[[南会津郡]]<br />(11村) |[[江川村 (福島県)|江川村]]【一部】(現・[[下郷町]])、<br />[[只見町|伊北村]]・[[朝日村 (福島県)|朝日村]]・[[小梁村]]・[[布沢村]]・[[八幡村 (福島県南会津郡)|八幡村]](現・[[只見町]])、<br />[[富田村 (福島県南会津郡)|富田村]]・[[大宮村 (福島県)|大宮村]]・[[伊南村 (福島県)|伊南村]]・[[大川村 (福島県)|大川村]]・[[舘岩村]](現・[[南会津町]]) |} === 供給区域に関する備考 === 1925年下期に古志郡中野俣村・半蔵金村および東蒲原郡西川村・東川村・上条村・小川村にて配電を開始したことで、この時点の許可済み供給区域内に未開業の区域はなくなった<ref>「新潟水力電気株式会社第37回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。これ以降に自社で供給区域拡張の許可を得て配電を始めた地域は次の4村である。 * 1929年11月供給開始 : 新潟県刈羽郡中通村大字黒川・油田<ref name="nep-246"/> * 1931年3月供給開始 : 福島県南会津郡江川村大字小沼崎<ref name="nep-246"/> * 1931年10月供給開始 : 福島県北会津郡大戸村芦ノ牧<ref name="nep-246"/> * 1934年8月供給開始 : 新潟県西蒲原郡[[浦浜村]]<ref>「新潟電力株式会社第55回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref> 1938年に統合した伊南川水力電気・黒谷川水力電気・御蔵入電気の供給区域は次の通り(いずれも1937年末時点)<ref>[[#yoran29|『電気事業要覧』第29回]]708-709頁</ref>。 * 旧伊南川水力電気区域 : 福島県南会津郡富田村・大宮村・伊南村・大川村・舘岩村 * 旧黒谷川水力電気区域 : 福島県南会津郡伊北村・朝日村・小梁村・布沢村・八幡村 * 旧御蔵入電気区域 : 福島県大沼郡沼沢村・川口村・本名村・横田村・大滝村 新潟電力の供給区域が広がる新潟・福島両県は、1942年4月に[[配電統制令|配電統制]]により新潟電力その他を統合して設立された[[東北配電]]の配電区域に含まれる<ref name="tohoku-303"/>。[[太平洋戦争]]後、[[1951年]](昭和26年)5月1日実施の[[電気事業再編成令|電気事業再編成]]では東北配電区域をそのまま引き継いで[[東北電力]]が発足した<ref name="tohoku-626"/>。 == 発電所 == 新潟電力では、電力国家管理直前の時点で[[水力発電|水力発電所]]20か所・[[火力発電所]]2か所、総出力6万7480キロワットを運転していた<ref name="tohoku-243">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]243-244頁</ref>。以下、自社建設発電所を中心に、これら発電所の概要を記す。 === 第一発電所 === : 位置 : {{Coord|37|40|12.5|N|139|14|11.5|E|region:JP|name=早出発電所}} 新潟水力電気時代の最初の発電所が'''第一発電所'''である。所在地は移転前が新潟県[[中蒲原郡]][[川内村 (新潟県)|川内村]]大字小面谷字シマ<ref name="kanpo19150424">「[{{NDLDC|2952923/8}} 工場財団]」『官報』第816号、1915年4月24日</ref>(現・[[五泉市]]小面谷)、移転後が川内村大字松野<ref name="nep-207"/>(現・五泉市松野)。[[1907年]](明治40年)8月に起工され、[[1909年]](明治42年)3月4日付で逓信省の使用認可が下りた<ref name="nep-232"/>。 [[阿賀野川]]水系[[早出川]]に建設された発電所である<ref name="mura"/>。移転前の発電所出力は500キロワットで<ref name="nep-207"/>、発電設備は[[スイス]]製[[フランシス水車]]1台および[[ブラウン・ボベリ]]製[[三相交流]][[発電機]]1台からなった<ref name="y8-206">[[#yoran8|『電気事業要覧』第8回]]206-207頁。{{NDLJP|975001/133}}</ref>。[[1921年]](大正10年)11月、下流に移転の上改造され発電所出力が900キロワットに引き上げられる<ref name="nep-49"/>。移転後の発電設備はスイス・[[エッシャーウイス]]製フランシス水車1台と[[アメリカ合衆国|米国]][[ウェスティングハウス・エレクトリック]]製1200[[ボルトアンペア|キロボルトアンペア]]発電機1台である<ref name="y29-976">[[#yoran29|『電気事業要覧』第29回]]976-977頁。{{NDLJP|1073650/536}}</ref>。発生電力の[[商用電源周波数|周波数]]は移転前・移転後とも50[[ヘルツ]]に設定されている(他の発電所と共通)<ref name="y8-206"/><ref name="y29-976"/>。送電線は五泉変電所へと繋がった(送電電圧11キロボルト)<ref name="nep-225">[[#nep|『新潟電力株式会社三十年史』]]225-231頁</ref>。 1942年4月、配電統制で新潟電力から東北配電へと出資された<ref name="kanpo19420424">「[{{NDLDC|2961087/16}} 東北配電株式会社 土地の使用の契約に基き有する権利義務継承公告]」『官報』第4585号、1942年4月24日</ref>。東北配電では「早出発電所」と称する<ref name="y34-166">[[#yoran34|『電気事業要覧』第34回]]166-167頁</ref>。1951年5月の電気事業再編成では東北電力に継承されている<ref name="shinden">[[#shinden|『新電力事業銘鑑』]]186-188頁</ref>。 === 第二発電所 === : 位置 : {{Coord|37|38|57.8|N|139|14|38.0|E|region:JP|name=杉川発電所}} 早出川の第一発電所に続く2番目の発電所が'''第二発電所'''である。所在地は中蒲原郡川内村大字下杉川字コイ上り<ref name="kanpo19150424"/>(現・五泉市下杉川)。[[1911年]](明治44年)4月に起工され、翌[[1912年]](明治45年)5月24日付で使用認可が下りた<ref name="nep-232"/>。 早出川支流の杉川に位置する<ref name="mura"/>。発電設備はエッシャーウイス製フランシス水車2台およびウェスティングハウス製235キロボルトアンペア発電機2台からなり<ref name="y29-976"/>、発電所出力は400キロワットであった<ref name="nep-207"/>。送電線は第一発電所へと繋がる(送電電圧11キロボルト)<ref name="nep-225"/>。 第一発電所とともに1942年に東北配電へと出資された<ref name="kanpo19420424"/>。東北配電では「杉川発電所」と称する<ref name="y34-166"/>。同じく1951年東北電力に引き継がれた<ref name="shinden"/>。 === 小荒発電所 === : 位置 : {{Coord|37|43|35.0|N|139|34|3.3|E|region:JP|name=小荒発電所跡}} 1920年代に阿賀野川水系実川にて相次いで建設された発電所のうち最初のものが'''小荒発電所'''である。所在地は新潟県[[東蒲原郡]][[豊実村 (新潟県)|豊実村]]大字豊田<ref name="nep-207"/>(現・[[阿賀町]]豊実)。1921年6月に着工され<ref name="nep-49"/>、[[1923年]](大正12年)4月19日付で使用認可が下りた<ref name="report32"/>。 実川の最下流に位置する<ref name="epce286">[[#epce286|『電力土木』第286号]]</ref>。発電設備は[[電業社機械製作所|電業社]]製フランシス水車2台および[[東芝|芝浦製作所]]製2100キロボルトアンペア発電機2台<ref name="y29-976"/>。発電所出力は当初3300キロワット<ref name="nep-207"/>、1942年時点では3700キロワットである<ref name="tohoku-243"/>。送電線は下平発電所と五泉変電所・新潟変電所を繋ぐ実川線(送電電圧66キロボルト)が経由する<ref name="nep-225"/>。 小荒発電所は1942年4月電力国家管理のため新潟電力から[[日本発送電]]へと出資<ref name="tohoku-486">[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]486頁</ref>。次いで1951年5月の電気事業再編成で東北電力へと移管された<ref name="shinden"/>。[[1999年]](平成11年)になって老朽化のため東北電力グループの東星興業(現・[[東北自然エネルギー]])による再開発工事が着手されると小荒発電所は廃止され、取水堰のみ転用・改良の上で約1.8キロメートル下流に代替となる新小荒発電所が新設されている<ref name="epce286"/>。 === 下平・赤倉発電所 === : 下平発電所位置 : {{Coord|37|44|27.7|N|139|36|33.5|E|region:JP|name=下平発電所跡}} : 赤倉発電所位置 : {{Coord|37|44|27.3|N|139|36|11.3|E|region:JP|name=赤倉発電所}} 阿賀野川水系実川には小荒発電所に続いて'''下平発電所'''と'''赤倉発電所'''が開発された。所在地はともに東蒲原郡豊実村大字実川<ref name="nep-207"/>(現・阿賀町豊実)。[[1924年]](大正13年)11月にそろって起工され、[[1926年]](大正15年)1月13日付でまず下平発電所の、次いで同年10月2日付で赤倉発電所の使用認可がそれぞれ下りた<ref name="nep-240"/>。 実川の上流側に位置する<ref name="epce286"/>。下平発電所は実川に取水堰を持つが<ref name="epce286"/>、赤倉発電所は下平発電所の放水と支流裏川からの取水によって発電する仕組みである<ref name="hydro1931">[[#hydro1931|『許可水力地点要覧』]](1930年末時点)90-97頁。{{NDLJP|1187651/53}}</ref>。発電設備は下平発電所が[[日立製作所]]製フランシス水車・2150キロボルトアンペア発電機各2台、赤倉発電所が電業社製フランシス水車2台・芝浦製作所製2800キロボルトアンペア発電機1台<ref name="y29-976"/>。発電所出力はそれぞれ3192キロワット(1942年時点では3830キロワット)と2237キロワット(同2510キロワット)である<ref name="nep-207"/><ref name="tohoku-243"/>。両発電所は6.6キロボルト送電線で繋がる<ref name="nep-225"/>。 両発電所は小荒発電所と同じく1942年より日本発送電<ref name="tohoku-486"/>、1951年より東北電力に属する<ref name="shinden"/>。1999年に始まった東星興業による再開発工事では、下平発電所は導水路を延長する形で約600メートル下流へと移設され新下平発電所となった<ref name="epce286"/>。一方、赤倉発電所はこの再開発で発電力が縮小されたものの東北電力の手で延命化工事が施され維持されている<ref name="epce286"/>。 === 金川発電所 === : 位置 : {{Coord|37|34|54.5|N|139|55|13.0|E|region:JP|name=金川発電所}} 新潟水力電気時代に合併で取得した発電所に'''金川発電所'''がある。所在地は福島県[[耶麻郡]][[駒形村 (福島県)|駒形村]]大字金橋<ref name="nep-207"/>(現・[[喜多方市]]塩川町金橋)で、社内最初の福島県側に位置する発電所でもある。東北電化株式会社という化学工業会社が自家用発電所として[[1919年]](大正8年)10月に完成させたのが起源で<ref name="inawa"/>、1923年に東北電化を合併したことで新潟水力電気が引き継いだ<ref name="nep-53"/>。 阿賀野川水系[[日橋川]]にある発電所の一つで、[[東京電灯]]猪苗代第四発電所(1926年完成)のすぐ下流側に立地する<ref name="inawa"/>。取水口や水路は狐堰用水という[[灌漑]]用水のものを利用している<ref name="inawa"/>。発電設備は電業社製フランシス水車2台・芝浦製作所製750キロボルトアンペア発電機2台からなり<ref name="y29-976"/>、発電所出力は1200キロワットである<ref name="nep-207"/>。送電線は当初日橋変電所(後述)へと繋がったが<ref name="grid1927">[[#grid1927|『新潟県並東北六県送電幹線概要』]]32頁</ref>、[[1931年]](昭和6年)6月になって東京電灯猪苗代第四発電所との間に送電線が整備され<ref name="nep-225"/>、発生電力は東京電灯の送電線を介して送電される形となった<ref name="nep-95"/>。 金川発電所は1942年4月の電力国家管理で日本発送電へ移管された後<ref name="tohoku-486"/>、1951年5月の電気事業再編成で[[猪苗代湖]]周辺発電所の運営を一貫させる狙いから旧新潟電力の発電所としては唯一[[東京電力ホールディングス|東京電力]]に継承された<ref>[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]532頁</ref>。 === 伊南川発電所 === : 位置 : {{Coord|37|23|50.0|N|139|27|44.0|E|region:JP|name=伊南川発電所}} 新潟電力発足後に唯一新設された発電所として'''伊南川発電所'''がある。旧[[新潟電気]]が1921年10月に出力1万8000キロワットの計画で[[水利権]]を得た地点にあたり<ref name="reportD2"/>、[[1935年]](昭和10年)9月になって発電所工事施行認可を取得の上着工された<ref name="nep-117"/>。3年後の[[1938年]](昭和13年)10月12日付で使用認可があり、同日運転を開始している<ref name="report63"/>。所在地は福島県[[大沼郡]][[横田村 (福島県)|横田村]]大字越川字四石田<ref name="n24-9">[[#nenkan24|『電気年鑑』昭和14年]]本邦電気界9頁</ref>(現・[[金山町 (福島県)|金山町]]越川)。 阿賀野川水系[[只見川]]の支流[[伊南川]]から取水する<ref name="nep-117"/>。取水地点は[[南会津郡]][[小梁村]]大字小林(現・[[只見町]]小林)で<ref name="nep-117"/>、ここには川に洪水吐付きの取水堰(小林ダム)を設ける<ref name="hep134">[[#hep134|『発電水力』第134号]]</ref>。取水口から伸びる導水路は9.6キロメートルの長さがあり、伊南川沿いを離れて只見川岸(伊南川合流点よりも下流側)の発電所へと至る<ref name="hep134"/>。特徴的な水路設備として、導水路の途中で合流する支水路の先に位置する調整池がある<ref name="psp46">[[#psp46|『動力』別冊第46号]]106-107頁</ref>。この調整池は地形の都合上導水路水面より高い位置にあるため貯水にあたっては[[ポンプ]]揚水を必要とする<ref name="psp46"/>。これとは別に、上部水槽手前に副調整池も設けている<ref name="psp46"/>。 発電設備は日立製作所製の縦軸フランシス水車・1万キロボルトアンペア発電機各3台からなる<ref name="y31-846">[[#yoran31|『電気事業要覧』第31回]]846-849頁。{{NDLJP|1077029/438}}</ref>。発電所出力は運転開始時2万1300キロワットであったが<ref name="n24-9"/>、その後1939年時点では2万1400キロワット<ref name="y31-846"/>、1942年時点では2万4000キロワットへとそれぞれ増強されている<ref name="tohoku-243"/>。送電線は伊南川線(送電電圧66キロボルト)が伊南川発電所を起点に伸びる<ref name="nep-225"/>。 伊南川発電所は1942年より日本発送電<ref name="tohoku-486"/>、1951年より東北電力に属する<ref name="shinden"/>。ただし只見川の[[本名ダム]]建設に伴い発電所建屋がダム湖に沈む位置にあったことから、[[1954年]](昭和29年)5月、80メートル上流側の高台に移設された<ref name="hep134"/>。移転に際し水車・発電機は各1台にまとめられており、新潟電力時代からの設備は転用されていない<ref name="hep134"/>。 === 沼垂発電所 === 自社建設の火力発電所として'''沼垂発電所'''が存在した。初代と2代目の2つがあり、どちらも新潟市内の旧[[沼垂町]]域に位置したが場所は異なる。 初代沼垂発電所は新潟市[[流作場 (新潟市)|流作場]]字沼原にあった<ref name="kanpo19150424"/>。第一・第二両発電所に続いて[[1913年]](大正2年)9月26日に竣工したが、3年後、[[1916年]](大正5年)12月5日付で廃止されている<ref name="nep-232"/>。[[汽力発電]]設備として[[ボイラー]]2缶とウェスティングハウス製パーソンズ式[[蒸気タービン]]・発電機各1台を有し、発電所出力は500キロワットであった<ref name="y8-206"/>。 2代目の沼垂発電所は新潟市[[山下 (新潟市)|山ノ下]]字古湊にあった<ref name="jps-301"/>。着工は[[1927年]](昭和2年)8月<ref name="jps-301"/>、使用認可は[[1928年]](昭和3年)5月18日である<ref name="nep-240"/>。[[渇水|渇水期]]の水力発電量低下を補うための補給用発電所として、また供給設備の故障発生時に応急的に稼働させる予備発電所として建設された<ref name="jps-301"/>。応急用としての機能を高めるべく、一般的な汽力発電設備のほかに建設費がかさむものの起動時間の短い[[ディーゼルエンジン]]による[[内燃力発電]]設備を併用する点が特徴<ref name="jps-301"/>。汽力発電設備はエッシャーウイス製ボイラー2缶(燃料は[[石炭]])、同社製ツェリー式蒸気タービン1台、[[ドイツ]]・[[シーメンス]]製5000キロボルトアンペア発電機1台からなり、内燃力発電設備は[[新潟鐵工所]]製[[2ストローク機関|2サイクルエンジン]]1台と日立製作所製1500キロボルトアンペア発電機1台からなる<ref name="jps-301"/>。発電所出力は5000キロワット(汽力4000キロワット・内燃力1000キロワット)である<ref name="jps-301"/>。 2代目沼垂発電所は1942年より東北配電<ref name="kanpo19420424"/>、1951年以降は東北電力に属したが<ref name="shinden"/>、[[1959年]](昭和34年)3月に廃止され山の下変電所へと格下げされた<ref>[[#tohoku|『東北地方電気事業史』]]910頁</ref>。 === その他の発電所 === ==== 旧新潟電気引継 ==== 1930年1月の新潟電気合併により同社から引き継いだ発電所は水力9か所・火力1か所、総出力2万2299キロワットに及ぶ。ただしそのうち水力3か所(計948キロワット)は翌年までに廃止・譲渡されている。この3か所を除く旧新潟電気引継ぎの発電所一覧は以下の通り。 : 各発電所の概要は[[新潟電気#発電所]]を参照。 {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;" |- !style="background-color:#aee;" colspan="5"|水力発電所 |- !style="background-color:#cee;"|発電所名 !style="background-color:#cee;"|出力 ([[キロワット|kW]])<br /><ref name="nep-207"/><ref name="tohoku-243"/> !style="background-color:#cee;"|所在地<ref name="nep-207"/> !style="background-color:#cee;"|河川名<ref name="hydro1931"/> !style="background-color:#cee;"|備考 |- !{{ウィキ座標|37|21|51.5|N|139|54|22.0|E|region:JP|name=大川発電所跡|大川}} |12,520 |福島県[[北会津郡]][[大戸村]]芦ノ牧<br />(現・[[会津若松市]]大戸町芦ノ牧) |大川(阿賀野川) | |- !{{ウィキ座標|37|25|29.3|N|139|48|3.5|E|region:JP|name=宮川発電所|宮川}} |450<br />→820 |福島県大沼郡[[尾岐村]]尾岐窪<br />(現・[[会津美里町]]尾岐窪) |阿賀野川水系<br />宮川・源太川 |1937年下期出力増加<ref>「新潟電力株式会社第61回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref> |- !{{ウィキ座標|37|39|42.7|N|139|37|21.1|E|region:JP|name=奥川第一発電所|奥川}}<br />(奥川第一) |1,000 |福島県耶麻郡[[奥川村]]元島<br />(現・[[西会津町]]奥川大字元島) |阿賀野川水系奥川 | |- !{{ウィキ座標|37|39|38.9|N|139|37|4.2|E|region:JP|name=奥川第二発電所|奥川第二}} |638<br />→560 |福島県耶麻郡奥川村元島<br />(現・西会津町奥川大字元島) |阿賀野川水系奥川 |1936年7月出力減少<ref name="nep-207"/> |- !style="white-space:nowrap;"|{{ウィキ座標|37|49|32.0|N|139|26|17.5|E|region:JP|name=旧飯豊川第一発電所|飯豊川第一}} |1,900 |新潟県[[北蒲原郡]][[赤谷村]]滝谷<br />(現・[[新発田市]]滝谷) |[[加治川|飯豊川(加治川)]] | |- !{{ウィキ座標|37|52|9.0|N|139|24|39.5|E|region:JP|name=飯豊川第二発電所|飯豊川第二}} |1,843 |新潟県北蒲原郡[[川東村 (新潟県北蒲原郡)|川東村]]小戸<br />(現・新発田市小戸) |飯豊川(加治川) | |- !style="background-color:#eaa;" colspan="5"|火力発電所 |- !style="background-color:#ecc;"|発電所名 !style="background-color:#ecc;"|出力 (kW)<br /><ref name="nep-207"/><ref name="tohoku-243"/> !style="background-color:#ecc;"|所在地<ref name="nep-207"/> !style="background-color:#ecc;"|原動機種類<ref name="y31-974">[[#yoran31|『電気事業要覧』第31回]]974-975頁。{{NDLJP|1077029/502}}</ref> !style="background-color:#ecc;"|備考 |- !新潟火力 |3,000<br />→3,500 |新潟県新潟市[[沼垂 (新潟市)|沼垂]]字中王瀬 |汽力<br />(蒸気タービン) |1942年時点では出力3,500 kW |} 旧新潟電気発電所のうち大川・奥川第一・奥川第二の3発電所は日本発送電へ<ref name="tohoku-486"/>、残る宮川・飯豊川第一・飯豊川第二・新潟火力の4発電所は東北配電へ出資された<ref name="kanpo19420424"/>。いずれも1951年以降は東北電力に属する<ref name="shinden"/>。 ==== その他会社引継 ==== 1938年から1940年にかけての事業統合で取得した発電所は以下の8か所である。 {| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:center;" |- !style="background-color:#aee;" colspan="5"|水力発電所 |- !style="background-color:#cee;"|発電所名 !style="background-color:#cee;"|出力 (kW)<br /><ref name="y31-711"/><ref name="tohoku-243"/> !style="background-color:#cee;"|所在地 !style="background-color:#cee;"|河川名 !style="background-color:#cee;"|前所有者 |- !{{ウィキ座標|37|8|38.0|N|139|29|29.0|E|region:JP|name=内川発電所|内川}} |165<br />→500 |福島県南会津郡[[大川村 (福島県)|大川村]]内川<ref>[[#nenkan14|『電気年鑑』昭和4年]]本邦電気界8頁</ref><br />(現・[[南会津町]]内川) |阿賀野川水系[[伊南川|檜枝岐川]]<ref name="hydro1931"/> |伊南川水力電気 |- !黒谷川 |50 |福島県南会津郡[[朝日村 (福島県)|朝日村]]黒谷<ref name="tago">[[#tago|田子健吉『福島県河川の研究』]]、第一表「工事完成水力発電地点表」。{{NDLJP|971804/66}}</ref><br />(現・只見町黒谷) |阿賀野川水系黒谷川<ref name="tago"/> |黒谷川水力電気 |- !玉川 |15 |福島県大沼郡[[昭和村 (福島県)|昭和村]]下中津川<ref name="tago"/> |阿賀野川水系<br />野尻川支流玉川<ref name="tago"/> |昭電社 |- !大志 |47 |福島県大沼郡[[沼沢村]]大志<ref name="n13">[[#nenkan13|『電気年鑑』昭和3年]]本邦電気界18頁</ref><br />(現・金山町大志) |阿賀野川水系木冷川<ref name="n13"/><br />(大志用水<ref name="n13"/>) |御蔵入電気 |- !{{ウィキ座標|37|25|14.0|N|139|41|19.3|E|region:JP|name=滝谷川発電所|滝谷川}} |445 |福島県大沼郡[[中ノ川村]]冑中<ref name="tago"/><br />(現・[[河沼郡]][[柳津町]]冑中) |阿賀野川水系滝谷川<ref name="hydro1931"/> |[[東京電灯]] |- !{{ウィキ座標|38|3|56.0|N|139|27|7.5|E|region:JP|name=黒川発電所|黒川}} |610 |新潟県北蒲原郡[[黒川村 (新潟県北蒲原郡)|黒川村]]下館<ref name="iwafune"/><br />(現・[[胎内市]]下館) |[[胎内川]]<ref name="hydro1931"/> |[[村上水電]] |- !{{ウィキ座標|38|4|35.5|N|139|35|50.7|E|region:JP|name=鷹ノ巣発電所跡|荒川}} |2,130 |新潟県[[岩船郡]][[女川村]]湯沢<ref name="iwafune"/><br />(現・[[関川村]]湯沢) |[[荒川 (羽越)|荒川]]<ref name="hydro1931"/> |村上水電 |- !style="background-color:#eaa;" colspan="5"|火力発電所 |- !style="background-color:#ecc;"|発電所名 !style="background-color:#ecc;"|出力 (kW)<br /><ref name="y31-711"/> !style="background-color:#ecc;"|所在地<ref name="y31-711"/> !style="background-color:#ecc;"|原動機種類<ref name="y31-974"/> !style="background-color:#ecc;"|備考 |- !村上 |760 |新潟県岩船郡[[村上本町]]<br />(現・[[村上市]]) |内燃力<br />(ディーゼルエンジン) |村上水電 |} 上記発電所のうち旧村上水電の村上発電所は1942年時点では存在しない<ref name="tohoku-243"/>。それ以外の7発電所は東北配電へと出資されたが<ref name="kanpo19420424"/>、1942年末時点の発電所一覧からは黒谷川発電所が消えている<ref name="y34-166"/>。加えて[[1943年]](昭和18年)7月に玉川発電所も廃止された<ref>[[#yoran35|『電気事業要覧』第35回]]96頁</ref>。従って東北電力へと引き継がれたのは内川・大志・滝谷川・黒川・荒川の5発電所に限られる<ref name="shinden"/>。 === 主要送電線網 === 新潟水力電気時代の1916年3月、[[猪苗代水力電気]]第一発電所(後の[[東京電灯]][[猪苗代第一発電所]])からの受電が開始された<ref name="gendai191609">[[#gendai191609|『現代之電機』第2巻第9号]]</ref>。この際に新設された送電線は、発電所から約150メートル離れた自社の日橋発電所(福島県河沼郡[[日橋村]]八田=現・会津若松市河東町八田)を起点に、新潟県中蒲原郡[[五泉町]](現・五泉市)の五泉変電所へ至る路線である<ref name="gendai191609"/>。日橋・五泉間の送電電圧は55キロボルトに設定された<ref name="gendai191609"/>。小荒発電所からの送電線(津川変電所で日橋・五泉間送電線に接続<ref name="nep-95"/>)も建設当初は55キロボルトの送電電圧を用いている<ref name="grid1927"/>。1923年7月には五泉変電所から沼垂変電所(新潟市[[流作場 (新潟市)|流作場]])までの55キロボルト送電線も完成した<ref name="nep-240"/>。 1930年に新潟電気を合併したことで、大川発電所から新潟変電所(中蒲原郡[[石山村 (新潟県)|石山村]][[紫竹 (新潟市)|紫竹]]=現・新潟市)へと至る送電線「大川線」を引き継いだ<ref name="nep-225"/>。同線の途中、宝坂変電所(福島県河沼郡[[宝坂村]]宝坂<ref name="nep-211"/>=現・西会津町宝坂大字宝坂)では奥川発電所とを繋ぐ送電線が接続する<ref name="nep-225"/>。翌1931年6月、宝坂変電所の新潟寄り、東蒲原郡[[両鹿瀬村]]大字鹿瀬(現・阿賀町鹿瀬)に鹿瀬変電所が新設され<ref name="nep-211"/>、同所で大川線と下平・小荒発電所からの実川線(1932年11月66キロボルトに昇圧)が交差する形とされた<ref name="nep-95"/><ref name="nep-225"/>。また鹿瀬変電所整備とともに約3キロメートル離れた東京電灯鹿瀬変電所とを繋ぐ「鹿瀬線」も建設された<ref name="nep-225"/>。東京電灯鹿瀬変電所は阿賀野川にある[[東信電気]][[鹿瀬ダム|鹿瀬発電所]]構内に立地しており、猪苗代第四発電所とを結ぶ東京電灯阿賀野川線(送電電圧154キロボルト)の起点でもある<ref>[[#jps|『日本の発電所』東部日本篇]]195-210頁</ref>。 送電線整備の一方、1932年11月に日橋・鹿瀬間の送電線は廃止され猪苗代第一発電所への接続が切られた<ref>「新潟電力株式会社第51回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。1936年3月、伊南川発電所完成に先立ち同発電所と鹿瀬変電所を結ぶ66キロボルト線「伊南川線」が完成<ref name="nep-117"/>。さらに1938年4月には鹿瀬変電所から五泉変電所へ至る66キロボルト線「鹿五線」が実川線とは別途整備された<ref>[[#yoran31|『電気事業要覧』第31回]]1020-1023頁</ref>。 その他の主要送電線として、五泉変電所と南蒲原郡見附町(現・[[見附市]])の見附変電所を結ぶ「見附線」、同所と[[長岡市]]の東京電灯長岡変電所を結ぶ「長岡線」があった<ref name="nep-225"/>。前者は1927年2月55キロボルト線として整備されたのち1932年11月66キロボルトに昇圧<ref name="nep-225"/>。後者は1926年1月の建設時から66キロボルト線である<ref name="nep-225"/>。 1942年4月の日本発送電に対する設備出資では関連する送電線も出資対象となった。範囲は鹿瀬以東で、大川線の一部(大川・鹿瀬間)や実川線の一部(下平・鹿瀬間)のほか鹿瀬変電所に集まる伊南川線・鹿瀬線、赤倉線(赤倉・下平間)、奥川発電所関連3路線、金川発電所関連1路線の9路線からなる<ref name="kanpo19410802"/>。その他、宝坂変電所と鹿瀬変電所も出資された<ref name="kanpo19410802"/>。 == 関係会社 == 新潟電力の関係会社には新潟電鉄・新潟電気工業・新潟電化の3社があった。 === 新潟電鉄 === [[ファイル:Bandaibashi-Bridge 20130929.JPG|thumb|[[信濃川]]に架かる[[萬代橋]](2013年)。新潟電鉄は萬代橋に路面電車を敷設する計画を持っていた。]] {{Main|新潟交通電車線}} 新潟電鉄株式会社は、新潟水力電気専務[[奥山亀蔵]]らの発起により[[中ノ口川]]沿いに新潟市内[[白山駅 (新潟県)|白山駅]]前と西蒲原郡燕町(現・[[燕市]])を結ぶ電気鉄道を敷設すべく1929年6月30日に設立された<ref name="kotsu-91">[[#kotsu|『新潟交通20年史』]]91-99頁</ref>。当初の社名は「中ノ口電気鉄道株式会社」(1932年6月新潟電鉄へ改称)、資本金は150万円である<ref name="kotsu-91"/>。設計変更で遅れたが1932年4月より着工し、翌1933年4月北側の[[東関屋駅|東関屋]] - [[白根駅|白根]]間で開業、8月には南側の白根 - [[燕駅|燕]]間でも開業した<ref name="kotsu-91"/>。 工事中にあたる1931年6月、新潟電力から新潟市内での軌道敷設権を譲り受けた<ref name="nep-246"/>。これは旧新潟電気が[[新潟駅]]前と白山駅前を結ぶ[[路面電車]]建設のため許可を得ていたものである<ref name="kotsu-91"/>。敷設権譲渡は[[現物出資]]の形が採られており、中ノ口電気鉄道は40万円を増資して新潟電力に対し後配株を交付している<ref name="kotsu-91"/>。1933年7月、敷設権引継ぎ区間を一部含む[[白山前駅|県庁前]] - 東関屋間が開通し、当初予定の県庁前 - 燕間の路線が全線完成した<ref name="kotsu-91"/>。その後[[萬代橋]]を挟む新潟駅前 - 県庁前間の路面電車敷設が予定されていたものの着工に至らなかった<ref name="kotsu-91"/>。 新潟電力解散後の1943年12月、新潟電鉄はバス事業者の新潟合同自動車と合併し[[新潟交通|新潟交通株式会社]]となった<ref>[[#kotsu|『新潟交通20年史』]]113頁</ref>。 === 新潟電気工業 === 余剰電力消化を目的とする関係会社の一つに新潟電気工業株式会社がある<ref name="nep-176"/>。同社は1926年2月1日資本金2万5000円で設立され、新潟市[[沼垂 (新潟市)|沼垂]]字上王瀬に工場を設置の上、電気炉による[[炭化カルシウム]](カーバイド)製造を行った<ref name="nep-176"/>。 1943年、瀬賀金次に株式を買収される<ref name="carbide">[[#carbide|『カーバイド工業の歩み』]]305頁</ref>。戦後は溶解[[アセチレン]]の製造にも進んだが[[1962年]](昭和37年)にカーバイド用電気炉の一部を[[フェロアロイ]](合金鉄)製造に転換する<ref name="carbide"/>。しかし[[新潟地震]]とカーバイド需要減の影響で経営難に陥り、[[1966年]](昭和41年)になって[[三井物産]]・[[第四銀行]]の支援を受けて新会社・株式会社新潟電工<!--この会社も現存しない模様-->へと移行した<ref name="carbide"/>。 === 新潟電化 === 新潟電化株式会社も新潟電気工業同様の電力消化を目的とする関係会社であり、1933年11月13日、資本金10万円で設立された<ref name="nep-176"/>。工場を新潟市[[山下 (新潟市)|山ノ下]]に構え、電気炉によってフェロアロイ([[フェロシリコン]]・[[フェロマンガン]])の製造にあたった<ref name="nep-176"/>。 1943年12月、新潟電化の事業は新潟市内でフェロアロイ工場(新潟電気製鉄所)を営む[[日本鋼管]]へと買収され、電気炉3基は同社工場へと移設された<ref name="nkk"/>。 == 人物 == === 新潟水力電気時代 === [[ファイル:Saito Kijuro.jpg|thumb|upright|設立時から1930年まで監査役を務めた[[斎藤喜十郎]]]] 新潟水力電気時代、[[新潟電気]]との合併直前にあたる1929年下期時点の役員は以下の11名であった<ref>「新潟水力電気株式会社第45回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 * '''[[取締役]]''' ** [[白勢春三]] - '''[[社長]]'''。[[第四銀行]](旧新潟銀行)・新潟貯蓄銀行頭取<ref name="sj-107"/>。 ** [[白勢量作]] - '''専務'''。春三の長男で[[新潟白勢財閥|白勢財閥]]後継者<ref name="sj-104"/>。 ** [[奥山亀蔵]] - '''常務'''。元宮城県土木課長<ref>[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]23-26頁</ref>。 ** 藤田簡吉 - 新潟市の[[船問屋|回漕業者]]<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]フ60-61頁</ref>。 ** 平田豊次郎 - [[東蒲原郡]][[津川町]]の農家、新潟県多額納税者<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]ヒ40頁</ref>。 ** 田巻堅太郎 - [[南蒲原郡]][[田上町|田上村]]の農家、新潟県多額納税者<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]タ67頁</ref>。 ** 会津亦質 - 取締役兼総務部長(元[[支配人]])<ref name="nep-195"/>。 * '''[[監査役]]''' ** [[斎藤喜十郎]] - [[倉庫業]]経営兼新潟銀行(旧新潟商業銀行)頭取、新潟県多額納税者<ref>[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]96-97頁。[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]サ69頁</ref>。 ** 竹山正男 - 竹山病院(新潟市)院長<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]タ193頁</ref>。 ** [[松木弘]] - 新潟市の[[弁護士]]・政治家<ref>[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]75-76頁</ref>。 ** [[中野忠太郎]] - [[中蒲原郡]][[金津村 (新潟県)|金津村]]の実業家([[石油]]採掘業中野興業経営)、[[中野貫一]]長男<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]ナ65頁</ref>。 なお1929年12月に[[山県鼎一]](新潟電気専務。就任前は[[東邦電力]]調度課長<ref>[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]72-73頁</ref>)が取締役に補選されている<ref name="report46"/>。 === 新潟電力時代 === 1930年2月に開かれた新潟電気合併の報告総会にて、新潟水力電気時代からの役員は総辞職の上で新役員が選出された<ref name="report46"/>。この改選以降、すなわち新潟電力時代の役員は以下の計25名である。 * '''取締役''' ** 白勢量作 - '''副社長'''のち'''社長'''(1936年6月昇格)<ref name="nep-195"/>。解散まで社長在職<ref name="kabu1942"/>。 ** 山県鼎一 - '''常務'''のち'''専務'''(1936年6月昇格)<ref name="nep-195"/>。解散まで専務在職<ref name="kabu1942"/>。常務時代は営業部長兼<ref name="nep-195"/>。 ** 奥山亀蔵 - 1939年6月取締役退任<ref name="report65">「新潟電力株式会社第65回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>。 ** 藤田簡吉 - 解散まで取締役在職<ref name="kabu1942"/>。 ** 田巻堅太郎 - 解散まで取締役在職<ref name="kabu1942"/>。 ** 松木弘 - 1936年6月監査役へ異動<ref name="nep-195"/>。 ** [[松永安左エ門]] - '''社長'''。新潟電気取締役から異動<ref name="reportD18">「新潟電気株式会社第18回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)</ref>、1936年6月退任<ref name="nep-195"/>。社外では東邦電力社長<ref name="toho-list">[[#toho|『東邦電力史』]]巻末付図「役員在任期間一覧表」</ref>。 ** [[中野四郎太]] - 新潟電気専務から異動<ref name="reportD18"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。[[中野平弥]]四男で[[新潟交通|新潟合同自動車]]社長<ref>[[#kotsu|『新潟交通20年史』]]205-206頁</ref>。 ** 中野欽治 - 新潟電気取締役から異動<ref name="reportD18"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。中野平弥嫡孫・中野組代表<ref>[[#showajinbutsu|『昭和新潟人物誌』]]62-63頁</ref> ** 田代与三久 - 新潟電気取締役から異動<ref name="reportD18"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。福島県[[耶麻郡]][[山都村]]の実業家<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]タ17頁</ref>。 ** 古島安二 - 新潟電気監査役から異動<ref name="reportD18"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。東邦電力社員(社長付)<ref>[[#nenkan14|『電気年鑑』昭和4年]]電気事業一覧212頁</ref>、1930年5月より[[東邦電力#東邦証券保有|東邦証券保有]]取締役<ref>「[{{NDLDC|2957573/6}} 商業登記 東邦証券保有株式会社変更]」『官報』第1106号、1930年9月4日</ref>。 ** 畑時雄 - '''常務'''。1936年6月就任<ref name="nep-195"/>、解散まで常務在職<ref name="kabu1942"/>。社員重役で技術部長から異動<ref name="nep-195"/>。 ** [[竹岡陽一]] - 1936年6月就任<ref name="nep-195"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。東邦電力専務のち社長<ref name="toho-list"/>。 ** 二宮孝順 - 1939年6月就任<ref name="report65"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。[[北蒲原郡]][[聖籠町|聖籠村]]の農家・大地主<ref>[[#koshin11b|『人事興信録』第11版下]]ニ3頁</ref>。 ** 佐藤泰造 - 1940年11月就任<ref name="report67"/>([[村上水電]]社長から異動<ref name="tohoku-229"/>)、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。[[岩船郡]][[関谷村]]の農家<ref>[[#koshin11a|『人事興信録』第11版上]]サ55頁</ref>。 * '''監査役''' ** 竹山正男 - 1934年6月監査役退任<ref name="nep-195"/>。 ** 中野忠太郎 - 1936年6月監査役退任<ref name="nep-195"/>。 ** 会津亦質 - 1941年死去<ref name="liquidate1"/>。 ** 飯村俊二 - 新潟電気常務から異動<ref name="reportD18"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。中野平弥の女婿<ref name="nakano"/>。 ** 佐野良太郎 - 新潟電気監査役から異動<ref name="reportD18"/>、1935年3月死去<ref name="nep-195"/>。北蒲原郡[[中浦村 (新潟県)|中浦村]]の人物<ref>「[{{NDLDC|2957450/14}} 商業登記 新潟水力電気株式会社合併・変更]」『官報』第983号、1930年4月12日</ref>。 ** [[高桑確一]] - 1930年2月就任<ref name="nep-195"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。[[合同電気]]常務のち副社長<ref>[[#koshin8|『人事興信録』第8版]]タ99頁。[[#koshin11b|『人事興信録』第11版下]]タ144頁</ref>。 ** [[井手徳一]] - 1934年6月就任<ref name="nep-195"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。東邦証券保有社長<ref>[[#toho|『東邦電力史』]]464-471頁</ref>。 ** 松木弘 - 1936年6月異動<ref name="nep-195"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。 ** 片山三男三 - 1936年6月就任<ref name="nep-195"/>、1940年退任<ref name="report67"/>。元支配人兼総務部長<ref name="nep-195"/>。 ** 今川幸吉 - 1940年6月就任<ref name="report67"/>、1941年退任<ref name="report69"/>。元総務部主計課長<ref name="nep-195"/>。 ** 渥美重雄 - 1941年6月就任<ref name="report69"/>、解散まで在職<ref name="kabu1942"/>。元営業部長<ref name="nep-195"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 企業史 === * {{Cite book|和書|editor=東京電力 |editor-link=東京電力ホールディングス |title=関東の電気事業と東京電力 |publisher=東京電力 |year=2002 |ref=kanto }} * {{Cite book|和書|editor=東邦電力史編纂委員会 |title=東邦電力史 |publisher=東邦電力史刊行会 |year=1962 |id={{NDLJP|2500729}} |ref=toho }} * {{Cite book|和書|editor=東北電力 |editor-link=東北電力 |title=東北地方電気事業史 |publisher=東北電力 |year=1960 |id={{NDLJP|2491854}} |ref=tohoku }} * {{Cite book|和書|editor=日本鋼管 |editor-link=日本鋼管 |title=日本鋼管株式会社四十年史 |publisher=日本鋼管 |year=1952 |id={{NDLJP|2464787}} |ref=nkk }} * {{Cite book|和書|editor=日本曹達企画本部社史編纂室 |title=日本曹達70年史 |publisher=[[日本曹達]] |year=1992 |ref=nisso }} * {{Cite book|和書|editor=新潟交通二十年史編纂室 |title=新潟交通20年史 |publisher=新潟交通 |year=1966 |id={{NDLJP|2517951}} |ref=kotsu }} * {{Cite book|和書|editor=新潟電力 |title=新潟電力株式会社三十年史 |publisher=新潟電力 |year=1937 |id={{NDLJP|1222181}} |ref=nep }} * {{Cite book|和書|editor=日本発送電解散記念事業委員会 |title=日本発送電社史 |issue=業務編 |publisher=日本発送電解散記念事業委員会 |year=1955 |id={{NDLJP|2463192}} |ref=hassoden3 }} * {{Cite book|和書|editor=北越製紙百年史編纂委員会 |title=北越製紙百年史 |publisher=[[北越コーポレーション|北越製紙]] |year=2007 |ref=paper }} === 官庁資料 === * {{Cite book|和書|editor=公益事業委員会 |title=新電力事業銘鑑 |publisher=[[日刊工業新聞社]] |year=1951 |id={{NDLJP|2458668}} |ref=shinden }} * {{Cite book|和書|author= |title=電気事業要覧 |issue=明治40年 |publisher=[[逓信省]]電気局 |year=1908 |id={{NDLJP|805420}} |ref=yoran1 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=電気事業要覧 |issue=第8回 |publisher=逓信協会 |year=1916 |id={{NDLJP|975001}} |ref=yoran8 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=電気事業要覧 |issue=第14回 |publisher=電気協会 |year=1922 |id={{NDLJP|975007}} |ref=yoran14 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=電気事業要覧 |issue=第21回 |publisher=電気協会 |year=1930 |id={{NDLJP|1077038}} |ref=yoran21 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=電気事業要覧 |issue=第29回 |publisher=電気協会 |year=1938 |id={{NDLJP|1073650}} |ref=yoran29 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=電気事業要覧 |issue=第30回 |publisher=電気協会 |year=1939 |id={{NDLJP|1073660}} |ref=yoran30 }} * {{Cite book|和書|editor=電気庁 |title=電気事業要覧 |issue=第31回 |publisher=電気協会 |year=1940 |id={{NDLJP|1077029}} |ref=yoran31 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=電気事業要覧 |issue=第34回 |publisher=電気協会 |year=1943 |id={{NDLJP|1900192}} |ref=yoran34 }} * {{Cite book|和書|editor=通商産業省公益事業局 |editor-link=通商産業省 |title=電気事業要覧 |issue=第35回 |publisher=[[日本電気協会]] |year=1953 |id={{NDLJP|2481571}} |ref=yoran35 }} * {{Cite book|和書|editor=逓信省電気局 |title=許可水力地点要覧 |publisher=逓信省電気局 |year=1931 |id={{NDLJP|1187651}} |ref=hydro1931 }} === 自治体資料 === * {{Cite book|和書|editor=津南町史編さん委員会 |title=津南町史 |issue=通史編下巻 |publisher=[[津南町]]役場 |year=1985 |id={{NDLJP|9539829}} |ref=tsunan }} * {{Cite book|和書|editor=栃尾市史編集委員会 |title=栃尾市史 |issue=中巻 |publisher=栃尾市役所 |year=1979 |id={{NDLJP|9538026}} |ref=tochio }} * {{Cite book|和書|editor=新潟市合併町村史編集室 |title=新潟市合併町村の歴史 |issue=史料編5(補遺編)|publisher=新潟市合併町村史編集室 |year=1985 |id={{NDLJP|11038252}} |ref=nakano }} * {{Cite book|和書|editor=見附市史編集委員会 |title=見附市史 |issue=下巻(二)|publisher=見附市役所 |year=1983 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佐藤俊明 (曖昧さ回避)
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佐藤俊明 - 曹洞宗僧侶 佐藤俊明 (経済学者) - 駒澤大学名誉教授 佐藤俊明 (生理学者) - 元千葉大学大学院医学研究院薬理学准教授
* [[佐藤俊明]] - [[曹洞宗]][[僧侶]] * [[佐藤俊明 (経済学者)]] - [[駒澤大学]]名誉教授 * [[佐藤俊明 (生理学者)]] - 元[[千葉大学]]大学院医学研究院薬理学准教授 {{人名の曖昧さ回避}} {{デフォルトソート:さとう としあき}}
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極楽寺 (大阪市福島区)
極楽寺(ごくらくじ)は、大阪府大阪市福島区玉川に位置する真宗大谷派の寺院である。山号は清浄山。本尊は阿弥陀如来。 1674年(延宝2年)に本願寺が東西で分裂することになったため、円満寺から枝分かれして創建された。そのため真宗大谷派の「野田御坊」と呼ばれている。 境内にはかつて証如がこの地である野田村を訪れた際に敵方に狙われ、証如を守るために戦って命を落とした野田村の21人の墓である「21人討死之墓」が建立されている。また山門前には野田城址の碑が建立している。
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極楽寺(ごくらくじ)は、大阪府大阪市福島区玉川に位置する真宗大谷派の寺院である。山号は清浄山。本尊は阿弥陀如来。
{{日本の寺院 |名称 = 極楽寺 |画像 = [[ファイル:Nodaj5.jpg|300px]] |所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[玉川 (大阪市)|玉川]]4丁目3-7 |山号 = 清浄山 |院号 = |宗派 = [[真宗大谷派]] |本尊 = [[阿弥陀如来]] |創建年 = [[1674年]]([[延宝]]2年) |開基 = |正式名 = 清浄山 極楽寺 |別称 = 野田御坊 |札所等 = |文化財 = |公式HP = |公式HP名 = }} [[ファイル:Osaka-Noda-Castle-Monument.jpg|thumb|240px|right|[[野田城 (摂津国)|野田城]]址]] '''極楽寺'''(ごくらくじ)は、[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[玉川 (大阪市)|玉川]]に位置する[[真宗大谷派]]の[[寺院]]である。山号は清浄山。本尊は[[阿弥陀如来]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://yaokami.jp/1275049/|title=極楽寺|publisher=八百万の神|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 歴史 == [[1674年]]([[延宝]]2年)に[[本願寺]]が東西で分裂することになったため、[[円満寺 (大阪市福島区)|円満寺]]から枝分かれして創建された<ref>『大阪府全志』([[1922年]]、大阪府全志発行所)</ref>。そのため[[真宗大谷派]]の「野田御坊」と呼ばれている<ref name=":0" />。 境内にはかつて[[証如]]がこの地である野田村を訪れた際に敵方に狙われ、証如を守るために戦って命を落とした野田村の21人の墓である「21人討死之墓」が建立されている。また山門前には[[野田城 (摂津国)|野田城]]址の碑が建立している<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.e-ohaka.com/temple_detail/id028637.html|title=極楽寺|publisher=いいお墓|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 交通 == * [[西日本旅客鉄道|JR]]「[[野田駅 (JR西日本)|野田駅]]」より徒歩で約5分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://fukushima-osaka.mypl.net/article/sakura_fukushima-osaka/10286 【玉川】野田城跡(極楽寺)] - まいぷれ * [https://4travel.jp/dm_shisetsu/11382223 極楽寺] - フォートラベル {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:こくらくし}} [[Category:大阪市の寺]] [[Category:真宗大谷派の寺院]] [[Category:福島区の歴史]] [[Category:福島区の建築物]]
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極楽寺 (徳島県美波町)
極楽寺(ごくらくじ)は、徳島県海部郡美波町に位置する高野山真言宗の寺院である。山号は海見山。本尊は大日如来。 1680年(延宝8年)に宥増によって創建。明神山の麓である伊座利地区に位置し、目の前には太平洋が見渡せる。 境内には樹齢が200年以上のソテツがあり、かつては8月13日に境内で盆踊りが催されていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "極楽寺(ごくらくじ)は、徳島県海部郡美波町に位置する高野山真言宗の寺院である。山号は海見山。本尊は大日如来。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1680年(延宝8年)に宥増によって創建。明神山の麓である伊座利地区に位置し、目の前には太平洋が見渡せる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "境内には樹齢が200年以上のソテツがあり、かつては8月13日に境内で盆踊りが催されていた。", "title": "歴史" } ]
極楽寺(ごくらくじ)は、徳島県海部郡美波町に位置する高野山真言宗の寺院である。山号は海見山。本尊は大日如来。
{{日本の寺院 |名称 = 極楽寺 |画像 = [[ファイル:海見山 極楽寺.jpeg|300px]] |所在地 = [[徳島県]][[海部郡 (徳島県)|海部郡]][[美波町]]大字伊座利226 |山号 = 海見山 |院号 = |宗派 = [[高野山真言宗]] |本尊 = [[大日如来]] |創建年 = [[1680年]]([[延宝]]8年) |開基 = 宥増 |正式名 = 海見山 極楽寺 |札所等 = |文化財 = |公式HP = http://izarigokurakuji.web.fc2.com/ |公式HP名 = 海見山極楽寺 }} '''極楽寺'''(ごくらくじ)は、[[徳島県]][[海部郡 (徳島県)|海部郡]][[美波町]]に位置する[[高野山真言宗]]の[[寺院]]である。山号は海見山。本尊は[[大日如来]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://yaokami.jp/1365506/|title=極楽寺|publisher=八百万の神|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 歴史 == [[1680年]]([[延宝]]8年)に宥増によって創建。[[明神山 (徳島県阿南市・美波町)|明神山]]の麓である伊座利地区に位置し、目の前には[[太平洋]]が見渡せる<ref>{{Cite web|和書|url=http://izarigokurakuji.web.fc2.com/|title=お寺の紹介|publisher=海見山極楽寺|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 境内には樹齢が200年以上の[[ソテツ]]があり、かつては[[8月13日]]に境内で盆踊りが催されていた<ref>『[[角川日本地名大辞典]] 36 徳島県』([[1986年]] ISBN 4040013603)</ref>。 == 交通 == * [[四国旅客鉄道|JR]]「[[阿波福井駅]]」より車で約30分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://izarigokurakuji.web.fc2.com/ 海見山極楽寺] {{Buddhism-stub}} {{DEFAULTSORT:こくらくし}} [[Category:徳島県の寺]] [[Category:高野山真言宗の寺院]] [[Category:美波町の歴史]] [[Category:美波町の建築物]]
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ジャンヌの裁き
『ジャンヌの裁き』(ジャンヌのさばき)は、2024年1月12日からテレビ東京系「ドラマ8」枠にて放送予定のテレビドラマ。主演は玉木宏。
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『ジャンヌの裁き』(ジャンヌのさばき)は、2024年1月12日からテレビ東京系「ドラマ8」枠にて放送予定のテレビドラマ。主演は玉木宏。
{{放送前の番組|date=2023-12}} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = ジャンヌの裁き | 画像 = <!--入力例:Example.svg--> | 画像サイズ = <!--pxを含まない入力例:200--> | 画像サイズ自動補正比 = | 画像の代替テキスト = | 画像説明 = | 別名 = | ジャンル = [[連続ドラマ]] | 原作 = | 原案 = | 企画 = [[田淵俊彦]](協力・アドバイザー) | 構成 = | 脚本 = [[泉澤陽子]]<br />[[大北はるか]]<br />いとう菜のは | 台本 = | 総監督 = | 監督 = | 演出 = [[西浦正記]]<br />池辺安智<br />三木茂 | 監修 = | クリエイティブ・ディレクター = | 司会者 = | 出演者 = [[玉木宏]]<br />[[桜井ユキ]]<br />[[音尾琢真]]<br />[[優香]]<br />[[高岡早紀]]<br />[[田中直樹 (お笑い芸人)|田中直樹]]([[ココリコ]])<!-- ドラマ公式サイトの表記に準拠しています --> | 審査員 = | 声の出演 = | ナレーター = | アナウンサー = | テーマ曲作者 = | 音楽 = | 作曲 = | OPテーマ = | EDテーマ = [[ケツメイシ]]「We GO」 | 国・地域 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 時代設定 = | シーズン数 = | シリーズ数 = | 話数 = | 各話リスト = | 各話の長さ = <!--「製作」ヘッダ--> | チーフ・プロデューサー = 濱谷晃一([[テレビ東京]]) | プロデューサー = 北川俊樹(テレビ東京)<br />中島叶(テレビ東京)<br />平部隆明([[ホリプロ]])<br />河添太(オランジュ) | 制作プロデューサー = | 撮影地 = | 撮影監督 = | 撮影体制 = | 編集 = | 制作 = テレビ東京<br />ホリプロ | 製作 = 「ジャンヌの裁き」製作委員会 | 配給 = | 製作費 = <!--「放送」ヘッダ--> | ヘッダ = 放送 | ネット配信 = | 放送チャンネル = [[TXNネットワーク|テレビ東京系列]] | 映像形式 = [[文字多重放送]] | 音声形式 = [[ステレオ放送]] | 放送国 = {{JPN}} | 放送期間 = 2024年1月12日 - (予定) | 放送時間 = 金曜 20:00 - 20:54 | 放送枠 = [[ドラマ8 (テレビ東京)|ドラマ8]] | 放送分 = 54 | 放送回数 = | 外部リンク = https://www.tv-tokyo.co.jp/jeannenosabaki/ | 外部リンク名 = 公式サイト | 副次的外部リンク = | 副次的外部リンク名 = <!--既定値は「公式ウェブサイト2」--> <!--以下、数字は「20」まで--> <!--「番組年表」ヘッダ-->| 前作 = | 次作 = | 関連番組 = <!--脚注--> | 特記事項 = <!-- 初回は15分拡大(20:00 - 21:09)。 --> }} 『'''ジャンヌの裁き'''』(ジャンヌのさばき)は、[[2024年]][[1月12日]]から<!-- [[月日]]まで -->[[TXNネットワーク|テレビ東京系]]「[[ドラマ8 (テレビ東京)|ドラマ8]]」枠にて放送予定の[[テレビドラマ]]<ref name="oricon2304171">{{Cite web|和書|title=玉木宏、5年ぶりテレ東ドラマ主演 “検察審査員”に任命された少女漫画家役に「良きチームを作り撮影に臨みたい」|url=https://www.oricon.co.jp/news/2304171/full/|website=[[オリコン|ORICON NEWS]]|publisher=oricon ME|date=2023-11-18|accessdate=2023-12-27}}</ref>。主演は[[玉木宏]]{{R|oricon2304171}}。 == あらすじ == <!-- 外部サイトや書籍からのコピペ・丸写しによる著作権侵害はしないでください。削除の対象となり、投稿者はブロックされる可能性もあります。 --> {{要あらすじ}} == 登場人物 == ; 越前剛太郎(えちぜん ごうたろう) : 演 - [[玉木宏]] : [[少女漫画|少女漫画家]]「さんぷう みなみ」。世間からは女性と思われている、[[一人親家庭|シングルファーザー]]である。[[検察審査員]]に選ばれる。 ; 近藤ふみ(こんどう ふみ) : 演 - [[桜井ユキ]]<ref name="oricon2305671">{{Cite web|和書|title=玉木宏主演『ジャンヌの裁き』出演者発表 桜井ユキ、音尾琢真、優香、高岡早紀、田中直樹【コメント到着】|url=https://www.oricon.co.jp/news/2305671/full/|website=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2023-12-08|accessdate=2023-12-27}}</ref><ref name="tokyo4244">{{Cite web|和書|title=玉木宏主演!検察審査会と共に、絶対権力・検察に立ち向かう勇敢な弁護士、元妻の新聞記者、小学校の同級生の刑事など物語を盛り上げる個性豊かなレギュラーキャストを解禁!!桜井ユキ・音尾琢真・優香・高岡早紀・田中直樹(ココリコ)|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/jeannenosabaki/news/#!/id/4244|website=ドラマ8「ジャンヌの裁き」|publisher=[[テレビ東京]]|date=2023-12-08|accessdate=2023-12-28}}</ref> : 弁護士。[[検察審査会]]の審査補助員。 ; 寿就一(ことぶき しゅういち) : 演 - [[音尾琢真]]{{R|oricon2305671|tokyo4244}} : [[刑事]]。剛太郎とは小学校の同級生。 ; 草壁佐和子(くさかべ さわこ) : 演 - [[優香]]{{R|oricon2305671}}{{R|tokyo4244}} : 新聞記者。剛太郎の元妻。 ; 甲野美弥(こうの みや) : 演 - [[高岡早紀]]{{R|oricon2305671|tokyo4244}} : [[ネイルサロン]]経営者。検察審査員。 ; 桧山卯之助(ひやま うのすけ) : 演 - [[田中直樹 (お笑い芸人)|田中直樹]]([[ココリコ]]){{R|oricon2305671|tokyo4244}} : 東京地検特捜部長。 == スタッフ == * 脚本 - [[泉澤陽子]]、[[大北はるか]]、いとう菜のは{{R|tokyo4244}} * 主題歌 - [[ケツメイシ]]「We GO」([[avex trax]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tvlife.jp/drama/645314 |title=ケツメイシの書き下ろし新曲「We GO」が『ジャンヌの裁き』主題歌に決定 玉木宏「勇気を出して、前に進もうとしている人への応援ソングになると思います」|website=[[TV LIFE|TV LIFE web]]|publisher=[[ワン・パブリッシング]]|date=2023-12-18|accessdate=2023-12-27}}</ref> * 演出 - [[西浦正記]]、池辺安智、三木茂{{R|tokyo4244}} * チーフプロデューサー - 濱谷晃一([[テレビ東京]]){{R|tokyo4244}} * プロデューサー - 北川俊樹(テレビ東京)、中島叶(テレビ東京)、平部隆明([[ホリプロ]])、河添太(オランジュ){{R|tokyo4244}} * 企画協力・アドバイザー - [[田淵俊彦]]{{R|tokyo4244}} * 製作著作 - 「ジャンヌの裁き」製作委員会 * 制作 - テレビ東京、ホリプロ <!-- == 放送日程 == ※ 放送予定の回の情報については、その回の放送が予定通り終了した後の加筆を心がけられますようお願いします。[[プロジェクト:テレビドラマ#執筆する際の注意|放送終了前に公表された放送予定等の番組情報を確定事実のように記述することは厳に避けて下さい。]] --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|30em}} == 外部リンク == * [https://www.tv-tokyo.co.jp/jeannenosabaki/ ドラマ8「ジャンヌの裁き」] - [[テレビ東京]] ** {{Twitter|tx_dorama8|ジャンヌの裁き【テレビ東京公式】}} ** {{Instagram|tx_dorama8|ジャンヌの裁き【テレビ東京公式】}} ** {{TikTok|tx_dorama8|ジャンヌの裁き【テレビ東京公式】}} {{前後番組 | 放送局 = [[テレビ東京]][[TXNネットワーク|系列]] | 放送枠 = [[ドラマ8 (テレビ東京)|ドラマ8]] | 番組名 = ジャンヌの裁き<br />(2024年1月12日 - 〈予定〉) | 前番組 = [[ハイエナ (テレビドラマ)|ハイエナ]]<br />(2023年10月20日 - 12月8日) | 次番組 =   }} {{ドラマ8 (テレビ東京)}} {{tv-stub}} {{デフォルトソート:しやんぬのさはき}} [[Category:2024年のテレビドラマ]] [[Category:ドラマ8 (テレビ東京)]] [[Category:裁判ドラマ]] [[Category:漫画を題材としたテレビドラマ]] [[Category:ホリプロのテレビドラマ]]
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実相寺 (徳島市)
実相寺(じっそうじ)は、徳島県徳島市城南町にある浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。 創建年は不詳。眉山の麓にあり、東側の勢見山の麓にはかつては末寺の無縁寺があった。現在は無縁寺は焼香庵となっており、徳島県に妖怪伝説として伝わるオッパショ石が存在する。 また実相寺の境内には書家の富永眉峰と画家の井川鳴門の墓がある。
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実相寺(じっそうじ)は、徳島県徳島市城南町にある浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。
{{日本の寺院 |名称 = 実相寺 |画像 = {{画像募集中|cat=徳島市}} |所在地 = [[徳島県]][[徳島市]][[城南町 (徳島市)|城南町]]1丁目2番22号 |山号 = |宗派 = [[浄土宗]] |本尊 = [[阿弥陀如来]] |創建年 = 不詳 |開基 = |正式名 = 実相寺 |札所等 = |文化財 = }} '''実相寺'''(じっそうじ)は、[[徳島県]][[徳島市]][[城南町 (徳島市)|城南町]]にある[[浄土宗]]の[[寺院]]。本尊は[[阿弥陀如来]]<ref>{{Cite web|url=http://otera.jodo.or.jp/temple/40-030/|title=実相寺|publisher=浄土宗|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 歴史 == 創建年は不詳。[[眉山 (徳島市)|眉山]]の麓にあり、東側の[[勢見山]]の麓にはかつては末寺の無縁寺があった。現在は無縁寺は[[焼香庵]]となっており、徳島県に妖怪伝説として伝わる[[オッパショ石]]が存在する<ref>『[[角川日本地名大辞典]] 36 徳島県』([[1986年]] ISBN 4040013603)</ref>。 また実相寺の境内には書家の[[富永眉峰]]と画家の[[井川鳴門]]の墓がある<ref>{{Cite web|url=https://www.e-ohaka.com/detail/id1302328145-758757.html|title=実相寺霊園|publisher=いいお墓|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 墓所 == * [[富永眉峰]] - [[書家]] * [[井川鳴門]] - [[画家]] == 交通 == * [[四国旅客鉄道|JR]]「[[二軒屋駅]]」より徒歩で約10分。 * [[徳島自動車道]]「[[徳島インターチェンジ]]」より車で約15分。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://otera.jodo.or.jp/temple/40-030/ 実相寺] - 浄土宗 {{DEFAULTSORT:しつそうし}} [[Category:徳島市の寺]] [[Category:浄土宗の寺院]] {{Buddhism-stub}}
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イスタンブール運河
イスタンブール運河はトルコで建設中の運河である。ボスポラス海峡と並行して、イスタンブールのヨーロッパ側を2分する形で運河を建設して黒海とマルマラ海を結ぶ。延長約45km、幅275メートル、深さ20.75メートル。2021年6月に、エルドアン大統領が列席して運河に掛かる橋の起工式が行われた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イスタンブール運河はトルコで建設中の運河である。ボスポラス海峡と並行して、イスタンブールのヨーロッパ側を2分する形で運河を建設して黒海とマルマラ海を結ぶ。延長約45km、幅275メートル、深さ20.75メートル。2021年6月に、エルドアン大統領が列席して運河に掛かる橋の起工式が行われた。", "title": null } ]
イスタンブール運河はトルコで建設中の運河である。ボスポラス海峡と並行して、イスタンブールのヨーロッパ側を2分する形で運河を建設して黒海とマルマラ海を結ぶ。延長約45km、幅275メートル、深さ20.75メートル。2021年6月に、エルドアン大統領が列席して運河に掛かる橋の起工式が行われた。
[[File:Istanbul canal map.svg|thumb|イスタンブール運河の計画経路]] '''イスタンブール運河'''(イスタンブールうんが、''Istanbul Canal'')は、[[トルコ]]で建設中の運河である。[[ボスポラス海峡]]と並行して、[[イスタンブール]]のヨーロッパ側を2分する形で運河を建設して[[黒海]]と[[マルマラ海]]を結ぶ。 延長約45km、幅275メートル、深さ20.75メートル。目的は、並行するボスポラス海峡の混雑緩和が目的だが、反対意見も多く、国論を二分している。総工費は150億ドル。完成は、6年後と予定されているので、2027年の見込み。2021年6月に、[[エルドアン]]大統領が列席して運河に掛かる橋の起工式が行われた<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR2642W0W1A620C2000000/ トルコ大統領、巨大運河を起工 総工費1.6兆円 日本経済新聞]</ref>。 ==反対意見== Arab Newsが2019年12月29日に伝えたところに依ると、野党のイスタンブール市長であるエクレム・イマモールは、環境に壊滅的な影響を与え、多額の建設資金も調達が困難になると指摘したという。環境アナリストのヨルク・イシクも、今建設計画が事前の環境調査をクリアしているのかどうか不明だという。 トルコのイルカー・バスバグ元参謀長は運河計画を批判し、もっとも周辺諸国が懸念しているのは、この運河が[[モントルー条約]]を脅かす可能性である。この条約は、1936年に調印されたもので、トルコがボスポラス・[[ダーダネルス海峡]]を管理し、この戦略的水路への軍艦のアクセスを制限するというものである。この条約は平時に民間の船は、その海峡を自由に航行できるが、軍艦にはこれを制限している。ただし、これは自然の水路であるボスポラス・ダーダネルス海峡についてのことで、人工の運河については言及がない。従って、人工の運河は軍事艦船の通行に支障がないという理屈も可能になる。だから、この運河が完成すれば、トルコとロシアの間で深刻な軍事的な緊張が深まるという懸念があるという。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.arabnews.jp/article/features/article_6510/|title=トルコの「クレイジーな」運河計画は批判の波にさらされる|publisher=Arab News|date=2019-12-29|accessdate=2023-12-28}}</ref> == 出典 == {{Reflist}} {{運河}} {{DEFAULTSORT:いすたんふうるうんか}} [[Category:ヨーロッパの運河]]
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水上篤
水上 篤(みずかみ あつし、1978年〈昭和53年〉6月8日 - )は、日本の実業家・著作家(書籍・動画)・投資家・発明家・農業経営者。山梨県山梨市出身。 大学を卒業し、C+A(Coelacanth and Associates)での勤務を経て、26歳でアメリカのニューヨークに渡る。そこで[Rafael Viñoly Architectsという著名な建築設計事務所での経験を積みつつ、2007年には自らのビジョンを追求するために自身の会社を立ち上げる。 ニューヨークでの生活は自分自身の考え方や哲学に深い影響を与え、リトリートでワークバランスや人生の時間の使い方の大切さを再認識。お金だけでは幸せになれないと気づき、ヒントは生まれ故郷での「農業」にあると思い日本へと帰国。 帰国当初は、耕作放棄地などを少しずつ買い、いろいろな農作物を作るところから始める。そして、2009年にぶどう観光農園をリニューアルスタートさせ、更なる飛躍を目指して2010年に農業生産法人株式会社hototoを設立。 関東で最大の週末農業スクールhototoもスタートさせ、卒業生は既に750名以上。 無農薬野菜の育て方や加工品、そして建築の指導にも尽力し、多くの人々に健康で豊かな生活を提案している。 その後も、2014年には郷土料理店「完熟屋」、2015年には子供たちの創造性を育む造形教室「きりんぐみ」をオープン。 そして、2021年にはその多岐にわたる活動が認められ、山梨県立大学の特任教授に就任。 現在、自分と同じように、経済的にも精神的にも自由な生活を手に入れることができる「農FIRE」を多くの人にも実現して欲しいという思いから「農FIREスクール」を開講している。 その他に、日本テレビ、NHK、テレビ朝日、山梨放送などのメディア出演や、全国での講演、高校や市町村での授業もおこなっている。
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水上 篤は、日本の実業家・著作家(書籍・動画)・投資家・発明家・農業経営者。山梨県山梨市出身。
{{Infobox 人物 |氏名= 水上 篤 |ふりがな= みずかみ あつし | 画像 = |画像説明= 2021年1月、山梨県にて | 画像補正 = <!-- “yes” --> |出生名= 水上 篤 |生年月日= <!-- {{生年月日と年齢|1978|6|8}} --> |生誕地= <!-- {{JPN}}・[[山梨県]][[山梨市]] --> |没年月日= |死没地= |国籍= <!-- {{JPN}} --> |別名= |職業= [[実業家]]・[[著作家]](書籍・動画)・[[投資家]]・[[発明家]]・[[建築家]]・[[農業]][[経営者]] | 公式サイト = [https://hototo.jp// 農業生産法人株式会社hototo] |著名な実績= |代表作= 『資金300万円で農FIRE』[https://www.amazon.co.jp/%E8%B3%87%E9%87%91%EF%BC%93%EF%BC%90%EF%BC%90%E4%B8%87%E5%86%86%E3%81%A7%E8%BE%B2FIRE%E3%80%8C%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%80%81%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%82%82%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%82%82%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%AA%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%82%92%E6%89%8B%E3%81%AB%E5%85%A5%E3%82%8C%E3%82%8B%EF%BC%81-%E6%B0%B4%E4%B8%8A-%E7%AF%A4/dp/4761277025/ref=sr_1_1?dib=eyJ2IjoiMSJ9.1iDo2_xJWJzGKZMNhUUiqQ.Lv-c8E18ZOKGw2fUI08zOcfxIW4efoeu4TapVFO85n8&dib_tag=se&keywords=9784761277024&qid=1703692744&sr=8-1] }} '''水上 篤'''(みずかみ あつし、[[1978年]]〈[[昭和53年]]〉[[6月8日]] - )は、[[日本]]の[[実業家]]・[[著作家]](書籍・動画)・[[投資家]]・[[発明家]]・[[建築家]]・[[農業]][[経営者]]。[[山梨県]][[山梨市]]出身。 == 略歴 == 大学を卒業し、[https://www.c-and-a.co.jp/en/ C+A(Coelacanth and Associates)]での勤務を経て、26歳で[[アメリカ]]の[[ニューヨーク]]に渡る。そこで[https://vinoly.com/ Rafael Viñoly Architects]という著名な建築設計事務所での経験を積みつつ、[[2007年]]には自らのビジョンを追求するために自身の会社を立ち上げる。 [[ニューヨーク]]での生活は自分自身の考え方や哲学に深い影響を与え、リトリートでワークバランスや人生の時間の使い方の大切さを再認識。お金だけでは幸せになれないと気づき、ヒントは生まれ故郷での「[[農業]]」にあると思い日本へと帰国。 帰国当初は、耕作放棄地などを少しずつ買い、いろいろな農作物を作るところから始める。そして、[[2009年]]にぶどう観光農園をリニューアルスタートさせ、更なる飛躍を目指して2010年に[https://hototo.jp// 農業生産法人株式会社hototo]を設立。 関東で最大の[https://www.syunou.com// 週末農業スクールhototo]もスタートさせ、卒業生は既に750名以上。 無農薬野菜の育て方や加工品、そして建築の指導にも尽力し、多くの人々に健康で豊かな生活を提案している。 その後も、[[2014年]]には郷土料理店[https://kanjyukuya.jp/ 「完熟屋」]、[[2015年]]には子供たちの創造性を育む造形教室[https://hototoartschool.jimdofree.com/ 「きりんぐみ」]をオープン。 そして、[[2021年]]にはその多岐にわたる活動が認められ、[[山梨県立大学]]の[[特任教授]]に就任。 現在、自分と同じように、経済的にも精神的にも自由な生活を手に入れることができる「農FIRE」を多くの人にも実現して欲しいという思いから「農FIREスクール」を開講している。 その他に、[[日本テレビ]]、[[NHK]]、[[テレビ朝日]]、[[山梨放送]]などのメディア出演や、全国での講演、高校や市町村での授業もおこなっている。 == 書籍 == === 著書 === ;2023年 *『資金300万円で農FIRE』[https://www.amazon.co.jp/%E8%B3%87%E9%87%91%EF%BC%93%EF%BC%90%EF%BC%90%E4%B8%87%E5%86%86%E3%81%A7%E8%BE%B2FIRE%E3%80%8C%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%80%81%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%82%82%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%82%82%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%AA%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%82%92%E6%89%8B%E3%81%AB%E5%85%A5%E3%82%8C%E3%82%8B%EF%BC%81-%E6%B0%B4%E4%B8%8A-%E7%AF%A4/dp/4761277025/ref=sr_1_1?dib=eyJ2IjoiMSJ9.1iDo2_xJWJzGKZMNhUUiqQ.Lv-c8E18ZOKGw2fUI08zOcfxIW4efoeu4TapVFO85n8&dib_tag=se&keywords=9784761277024&qid=1703692744&sr=8-1](2023年11月22日、[[かんき出版]]、ISBN 9784761277024) == 出演 == ;2016年 *「山梨いまじん「人を育てる ~」農業生産法人hototo 」水上篤~」(2016年6月22日放送分)<ref name="山梨いまじん「人を育てる ~」農業生産法人hototo 」水上篤~」">{{Cite web|和書 |url=https://www.pref.yamanashi.jp/koucho/tv/ima160622.html |title=UTY 山梨いまじん「人を育てる ~農業生産法人hototo 水上篤~」 |accessdate=2023-12-28 |date=2016年06月22日放送分 |publisher=}}</ref>[[テレビ山梨]] == 関連著名人 == * [[ラファエル・ヴィニオリ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===出典=== {{Reflist}} == 外部リンク == ; 公式ウェブサイト *[https://hototo.jp// 農業生産法人株式会社hototo] *[https://budou-nashi.com/ ツチと実] 各種ぶどう狩り、ピザ体験、バーベキュー、ネット販売、桃の販売 ; SNS * {{Instagram|atsushi_mizukami_hototo|水上篤}} * {{Twitter|hototomiz|水上篤/起業家}} * {{Facebook|atsushi.mizukami|Atsushi Mizukami}} {{DEFAULTSORT:みずかみ あつし}} [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:日本の企業創立者]] [[Category:21世紀日本の建築家]] [[Category:日本のインターネットの人物]] [[Category:日本の男性著作家]] [[Category:日本の自己啓発書作家]] [[Category:山梨県立大学の教員]] [[Category:日本の男性YouTuber]] [[Category:山梨県出身の人物]] [[Category:1978年生]] [[Category:存命人物]]
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在ジャマイカ日本国大使館
在ジャマイカ日本国大使館(英語: Embassy of Japan in Jamaica)は、ジャマイカの首都キングストンにある日本の大使館。 ジャマイカに加えて、バハマとベリーズも兼轄している。 NCB Towers, North Tower, 6th Floor, 2 Oxford Road, Kingston 5
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在ジャマイカ日本国大使館は、ジャマイカの首都キングストンにある日本の大使館。 ジャマイカに加えて、バハマとベリーズも兼轄している。
{{Infobox diplomatic mission | name = 在ジャマイカ日本国大使館<br/>Embassy of Japan in Jamaica | image = {{画像募集中|cat=ジャマイカ}} | caption = | coordinates = | location = {{JAM}} | address = NCB Towers, North Tower, 6th Floor, 2 Oxford Road, Kingston 5 | opened = [[1964年]](兼勤駐在官事務所)<br/>[[1995年]](大使館実館) | ambassador = [[渥美恭弘]] | jurisdiction = {{JAM}}・{{BHS}}・{{BLZ}} | website = {{URL|https://www.jamaica.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/}} }} '''在ジャマイカ日本国大使館'''({{lang-en|Embassy of Japan in Jamaica}})は、[[ジャマイカ]]の[[首都]][[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]にある[[日本]]の[[大使館]]。 ジャマイカに加えて、[[バハマ]]と[[ベリーズ]]も兼轄している<ref name="zaigai"/>。 == 沿革 == * [[1952年]]4月28日、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]の発効により日本国が独立、当時[[ジャマイカ]]を領有していた[[イギリス]]も同条約締結国のうちの一国<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/sf3_07.pdf VI 平和条約の批准・発効]</ref> * [[1962年]]8月6日、ジャマイカがイギリスから独立し、日本は独立と同時にジャマイカを主権国家として承認<ref name="Basic Data by MOFA of Japan">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/jamaica/data.html ジャマイカ基礎データ | 外務省]</ref> * [[1964年]]5月12日、'''在ジャマイカ[[兼勤駐在官事務所]]'''として[[キングストン (ジャマイカ)|キングストン]]に大使館が開館<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1965/s40-fuhyou-2.htm 昭和40年版わが外交の近況 > 付表 わが国在外公館の新設、昇格状況(昭和三十九年四月から昭和四十年三月まで)]</ref>、但しその後30年近くにわたって[[特命全権大使]]は[[ドミニカ共和国]]常駐であった<ref name="Basic Data by MOFA of Japan"/> * [[1975年]]11月、駐在官がキングストン常駐開始<ref name="Basic Data by MOFA of Japan"/>(駐在官の対外的な肩書は臨時代理大使<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S62-959.pdf ◎青年海外協力隊の派遣に関する日本国政府とジャマイカ政府との間の交換公文]</ref>) * [[1995年]]1月、兼勤駐在官事務所に代わって、キングストンに'''在ジャマイカ日本国大使館'''の実館が開設<ref name="Basic Data by MOFA of Japan"/>、キングストン常駐の初代大使には[[在ニューヨーク日本国総領事館]][[公使]]の[[大久保基]]が任命された<ref>[https://www.yomitime.com/hito/63_nakanishi.html ニューヨーク・イベント情報紙 よみタイム]</ref> * 1995年9月7日、キングストン常駐の大久保基大使が兼轄大使として在[[バハマ]]大使に任命され、キングストンの大使館が'''在バハマ日本国大使館'''としての兼轄を開始<ref>[https://search.kanpoo.jp/r/19950907h1726p5-1a/ 人事異動 内閣 1995/09/07 平成7年 官報本紙 第1726号 - 官報検索!]</ref> * [[2006年]]1月1日、キングストンの大使館が'''[[在ベリーズ日本国大使館]]'''としての兼轄を開始<ref name="zaigai">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/zaigai/list/cs_ame/jamaica.html 在ジャマイカ日本国大使館 | 外務省]</ref> == 住所 == NCB Towers, North Tower, 6th Floor, 2 Oxford Road, Kingston 5<ref>[https://www.jamaica.emb-japan.go.jp/itpr_ja/aboutus.html 大使館案内 | 在ジャマイカ日本国大使館]</ref> == 出典・脚注 == {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[日本とジャマイカの関係]] * [[駐日ジャマイカ大使館]] == 外部リンク == * [https://www.jamaica.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/ 在ジャマイカ日本国大使館]、[https://www.jamaica.emb-japan.go.jp/itprtop_en/index.html 同] {{en icon}} ** [https://www.jamaica.emb-japan.go.jp/jointad/bs/ja/ 在バハマ日本国大使館]、[https://www.jamaica.emb-japan.go.jp/jointad/bs/en/ 同] {{en icon}} * {{Facebook|JapanEmbJamaica}} * {{Instagram|embassyofjapaninjamaica}} {{在ジャマイカ日本大使}} {{在ベリーズ日本大使}} {{日本の在外公館}} {{DEFAULTSORT:さいしやまいかにほんこくたいしかん}} [[Category:大使館]] [[Category:日本の在外公館|しやまいか]] [[Category:在ジャマイカ外国公館|にほん]] [[Category:在バハマ外国公館|にほん]] [[Category:在ベリーズ外国公館|にほん]] [[Category:キングストン]] [[Category:日本・ジャマイカ関係]] [[Category:日本・バハマ関係]] [[Category:日本・ベリーズ関係]] [[Category:1964年設立の政府機関]]<!--兼勤駐在官事務所--> [[Category:1995年設立の政府機関]]<!--大使館実館-->
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キム・ジョンヒョク
キム・ジョンヒョク(朝鮮語: 김종혁、英語: KIM Jong-Hyeok、1983年3月31日 - )は韓国のサッカー審判員。2009年から国際サッカー連盟 (FIFA) に国際審判員として登録されている。 学生時代はサッカー選手として活動していたが、前十字靭帯断裂の大怪我を負ったことで選手生活を断念、審判の道へと進む。 2009年からKリーグで専任審判員となると共に、大韓サッカー協会 (KFA) によりFIFA国際審判員リストに登録。東アジアサッカー選手権2010にて国際大会デビューを果たす。2013年からはAFCチャンピオンズリーグでも主審を務めており、2015年大会の決勝では1stレグで主審を務めた。 韓国では最も評価の高い主審の一人で2018 FIFAワールドカップの審判団の有力候補だったが、健康状態の悪化に伴い派遣が見送られた。
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キム・ジョンヒョクは韓国のサッカー審判員。2009年から国際サッカー連盟 (FIFA) に国際審判員として登録されている。
{{infobox football official 2 | name = | image = | fullname = 김종혁 | dateofbirth = {{Birth date and age|1983|03|31}} | cityofbirth = | countryofbirth = {{KOR}} | dateofdeath = <!-- {{Death date and age|YYYY|MM|DD|YYYY|MM|DD}}を使用 (死没日のあとに誕生日を入力) --> | cityofdeath = | countryofdeath = | otheroccupation = | years1 = 2009- | league1 = [[Kリーグ1]] | role1 = 審判員 | internationalyears1 = 2009- | confederation1 = [[FIFA国際審判員リスト|FIFA登録]] | internationalrole1 = 審判員 | internationalyears2 = | confederation2 = | internationalrole2 = }} '''キム・ジョンヒョク'''(金鐘赫、{{lang-ko|김종혁}}、{{Lang-en|KIM Jong-Hyeok}}、1983年3月31日 - )は[[大韓民国|韓国]]の[[審判員 (サッカー)|サッカー審判員]]。2009年から[[国際サッカー連盟]] (FIFA) に国際審判員として登録されている<ref>{{Cite web |url=https://digitalhub.fifa.com/m/357d1bbadb3ef112/original/2023-FIFA-Refereeing-International-Lists.pdf |title=2023 Refereeing International Lists |website=FIFA.com |language=en |accessdate=2023-12-27}}</ref>。 == 来歴 == 学生時代はサッカー選手として活動していたが、[[前十字靭帯損傷|前十字靭帯断裂]]の大怪我を負ったことで選手生活を断念、審判の道へと進む<ref name="chosun20180331">{{Cite web |language=ko |url=https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2018/03/31/2018033100107.html |title=[아하 그렇구나]러시아 월드컵에 한국심판 왜 없지?|website=朝鮮日報 |date=2018-03-31 |accessdate=2023-12-27}}</ref>。 2009年から[[Kリーグ1|Kリーグ]]で専任審判員となる<ref>{{Cite web |language=ko |url=https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2015/03/27/2015032703178.html |title=김종혁-윤광열-양병은 FIFA U-20 월드컵 심판|website=朝鮮日報 |date=2015-03-27 |accessdate=2023-12-27}}</ref>と共に、[[大韓サッカー協会]] (KFA) によりFIFA国際審判員リストに登録。[[東アジアサッカー選手権2010]]にて国際大会デビューを果たす。2013年からは[[AFCチャンピオンズリーグ]]でも主審を務めており、[[AFCチャンピオンズリーグ2015 決勝|2015年大会の決勝]]では1stレグで主審を務めた。 韓国では最も評価の高い主審の一人で[[2018 FIFAワールドカップ]]の審判団の有力候補だったが、健康状態の悪化に伴い派遣が見送られた<ref name="chosun20180331"/>。 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Sports links}} {{DEFAULTSORT:きむ しよんひよく}} [[Category:韓国のサッカー審判員]] [[Category:1983年生]] [[Category:存命人物]]
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N.Y.の弁慶
『N.Y.の弁慶』(にゅーよーくのべんけい)は、毛利甚八の原作を谷口ジローが作画した日本の漫画作品である。 谷口ジローによる最後のハードボイルド作品とされている。物語の舞台となった米国で、高く評価されている。その米国では、先ず雑誌で連載され、その後に単行本が発行された。 ニューヨークを舞台に「弁慶」と呼ばれる謎の東洋人が仇討ち代行人として暗躍する。 『ビッグコミックオリジナル』第18巻第24号(1991年10月28日増刊(10)号)から第19巻第15号(1992年6月28日増刊(6)号)までの各号に掲載された。 英語のほか、中国語、ドイツ語及びフランス語に翻訳された。
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『N.Y.の弁慶』(にゅーよーくのべんけい)は、毛利甚八の原作を谷口ジローが作画した日本の漫画作品である。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = N.Y.の弁慶 | 画像 = | サイズ = | 説明 = | ジャンル = }} {{Infobox animanga/Manga | タイトル = N.Y.の弁慶 | 作者 = 毛利甚八(原作)<br />谷口ジロー(作画) | 出版社 = 小学館 | 掲載誌 = ビッグコミックオリジナル | レーベル = | 発行日 = | 発売日 = | 開始号 = 1991年10月28日増刊号 | 終了号 = 1992年6月28日増刊号 | 開始日 = | 終了日 = | 巻数 = | 話数 = 全7話 }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = | ウィキポータル = }} 『'''N.Y.の弁慶'''』(にゅーよーくのべんけい)は、[[毛利甚八]]の原作を[[谷口ジロー]]が作画した日本の漫画作品である。 == 概説 == 谷口ジローによる最後のハードボイルド作品とされている{{sfn|『描くひと 谷口ジロー』|pp=149-170|loc=谷口ジローが語る 3}}。物語の舞台となった米国で、高く評価されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.popimage.com/content/viewnews.cgi?newsid1061367560,19262, |title=REVIEW: BENKEI IN NEW YORK |accessdate=2023-12-28 |author=Christopher Butcher |date= |work=PopImage |publisher= |language=en |archiveurl=https://web.archive.org/web/20030831115816/http://www.popimage.com/content/viewnews.cgi?newsid1061367560,19262, |archivedate=2003-08-31 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://mangabookshelf.com/2012/03/20/the-best-manga-youre-not-reading-benkei-in-new-york/ |title=The Best Manga You’re Not Reading: Benkei in New York |accessdate=2023-12-28 |author=Katherine Dacey |date=2012-03-20 |work=Manga Bookshelf |publisher= |language=en }}</ref>。その米国では、先ず雑誌で連載され、その後に単行本が発行された{{Efn2|『N.Y.の弁慶』は、米誌『PULP』第4巻第7号から第5巻第1号まで連載された。}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animenewsnetwork.com/news/2000-02-22/anime-news-briefs |title=Anime News Briefs |accessdate=2023-12-28 |date=2000-02-22 |work=Anime News Network |publisher= |language=en }}</ref>。 == あらすじ == ニューヨークを舞台に「弁慶」と呼ばれる謎の東洋人が仇討ち代行人として暗躍する。 == 初出 == 『[[ビッグコミックオリジナル]]』第18巻第24号(1991年10月28日増刊(10)号)から第19巻第15号(1992年6月28日増刊(6)号)までの各号に掲載された{{sfn|『谷口ジロー 描くよろこび』|pp=122-128|loc=谷口ジロー発表作品初出誌&単行本データ}}。 == 単行本 == {{節スタブ}} 英語のほか、中国語、ドイツ語及びフランス語に翻訳された。 ;日本語 *{{Cite book|和書|title=N.Y.の弁慶 |edition= |date=1996-06-01 |publisher=小学館 |series=ビッグコミックススペシャル |isbn=4-09-183793-X }} ;英語 *{{Cite book|title=BENKEI IN NEW YORK |edition= |date=2001 |publisher=Viz Communications |isbn=1-56931-629-5 }} == 脚註 == {{脚注ヘルプ}} === 註釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|title=谷口ジロー 描くよろこび |date=2018-10-24 |publisher=平凡社 |location=東京 |series=コロナ・ブックス |isbn=978-4-582-63514-0 |ncid=BB27731733 |oclc=1059471619 |id={{全国書誌番号|23127035}} |ref={{SfnRef|『谷口ジロー 描くよろこび』}} }} *{{Cite book|和書|author=ブノワ・ペータース |editor=染谷誠 |title=描くひと 谷口ジロー |date=2019-09-29 |publisher=双葉社 |location=東京 |isbn=978-4-575-31492-2 |ncid=BB29080545 |oclc=1126777928 |id={{全国書誌番号|23284053}} |ref={{SfnRef|『描くひと 谷口ジロー』}} }} {{デフォルトソート:にゆうよおくのへんけい}} [[Category:漫画作品 に|ゆうよおくのへんけい]] [[Category:1991年の漫画]] [[Category:谷口ジローの漫画作品]] [[Category:ニューヨーク市を舞台とした漫画作品]]
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捜索者 (漫画)
『捜索者』(そうさくしゃ)は、日本国の漫画家、 谷口ジローの漫画作品である。 志賀岳史は、亡き親友の娘が失踪したという連絡を受け、親友との約束を守るため東京へ向かった。 『ビッグコミック』第32巻第11号(1999年5月10日(9)号)から第31巻第27号(1999年11月10日(21)号)までの各号に掲載された。 中国語のほか、スペイン語、ドイツ語、英語、ポーランド語、ポーランド語及びフランス語に翻訳された。
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『捜索者』(そうさくしゃ)は、日本国の漫画家、 谷口ジローの漫画作品である。
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ピーテル・ポッテル
ピーテル・シモンスゾーン・ポッテル(Pieter Symonsz. Potter、1597年4月18日頃 - 1652年10月4日)は、オランダの画家、版画家、ステンドグラス作家、工芸家である。 オランダ西部、エンクホイゼンでガラス工芸家の息子に生まれた。 父親から技術を学び、ステンドグラス制作者としてエンクホイゼンで働くようになった。ウィレム・バルツィウス(Willem Bartsius: 1612-1657)というエンクホイゼンの画家の姉と結婚し、1925年に画家になった息子のパウルス・ポッテル(1625-1654)が生まれた。1628年から1631年の間はライデンで、職人組合に入会し、1629年には組合長を務めた。静物画家のヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘームと親しくなり、その息子のコルネリス・デ・ヘーム(c.1631-1695)の洗礼式の立会人を務めている。1631年にアムステルダムに移り、その後も家族とデルフトなどいろいろな町で働き、息子のパウルス・ポッテルは1647年にデン・ハーグの聖ルカ組合の会員になっている。 風俗画を描いたアムステルダムの画家アントニー・パラメデスゾーン(1602-1673)やレンブラント・ファン・レイン(1606-1669)と同時代の画家で、同じような雰囲気の風俗画を描いたことで知られている。 1652年にアムステルダムで亡くなった。息子のパウルス・ポッテル以外に弟子がいたかどうかは知られていない。
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ピーテル・シモンスゾーン・ポッテルは、オランダの画家、版画家、ステンドグラス作家、工芸家である。
{{Infobox 芸術家 | bgcolour = #6495ED | name = ピーテル・ポッテル<br>Pieter Potter | image = File:Portrait de l'artiste en cuirasse et coiffé d'un béret à plume - Pieter Potter - musée du Louvre.jpg | imagesize = 180px | caption = 自画像とされる肖像画 (1634) | birthdate = {{birth date|1597|4|18}} | location = [[エンクホイゼン]] | deathdate = {{death date and age|1652|10|4|1597|4|18}} | deathplace = [[アムステルダム]] | field = | training = | movement = | works = | patrons = | influenced by = | influenced = | awards = }} '''ピーテル・シモンスゾーン・ポッテル'''(Pieter Symonsz. Potter、[[1597年]][[4月18日]]頃 - [[1652年]][[10月4日]])は、[[オランダ]]の画家、版画家、ステンドグラス作家、工芸家である。 == 略歴 == オランダ西部、[[エンクホイゼン]]でガラス工芸家の息子に生まれた<ref name=web>[http://www.wga.hu/bio/p/potter/pieter/biograph.html The Web Gallery of Art]</ref>。 父親から技術を学び、ステンドグラス制作者としてエンクホイゼンで働くようになった。ウィレム・バルツィウス(Willem Bartsius: 1612-1657)というエンクホイゼンの画家の姉と結婚し<ref name=RKD>[https://rkd.nl/en/explore/artists/64520 Pieter Symonsz Potter] in the RKD</ref>、1925年に画家になった息子の[[パウルス・ポッテル]](1625-1654)が生まれた。1628年から1631年の間はライデンで、職人組合に入会し、1629年には組合長を務めた。静物画家の[[ヤン・ダーフィッツゾーン・デ・ヘーム]]と親しくなり、その息子の[[コルネリス・デ・ヘーム]](c.1631-1695)の洗礼式の立会人を務めている。1631年に[[アムステルダム]]に移り、その後も家族と[[デルフト]]などいろいろな町で働き、息子のパウルス・ポッテルは1647年に[[デン・ハーグ]]の[[聖ルカ組合]]の会員になっている<ref name=RKD/>。 風俗画を描いたアムステルダムの画家[[アントニー・パラメデスゾーン]](1602-1673)や[[レンブラント・ファン・レイン]](1606-1669)と同時代の画家で、同じような雰囲気の風俗画を描いたことで知られている。 1652年にアムステルダムで亡くなった。息子のパウルス・ポッテル以外に弟子がいたかどうかは知られていない。 == 作品 == <gallery mode="nolines" widths="200" heights="150"> File:Pieter Symonsz. Potter 001.jpg|羊飼い (c.1650) <br> [[ブダペスト美術館]] File:A merry company Pieter Symonsz. Potter.jpg|愉快な仲間たち (c.1650) <br> [[ブダペスト美術館]] File:Pieter Symonsz Potter - W izbie alchemika.jpg|錬金術師の部屋 <br> [[ヴァヴェル城]] File:Pieter Symonsz Potter Die Scheune 1632.jpg|納屋 </gallery> == 参考文献 == {{Reflist}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほつてる ひいてる}} [[Category:17世紀オランダの画家]] [[Category:北ホラント州出身の人物]] [[Category:1597年代生]] [[Category:1652年没]]
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メディアウィズ
株式会社メディアウィズ(Media With, inc.)は、オウンドメディアの運営・運営代行や投資家向け支援ツールの開発・提供および広告関連事業を行っている企業。 代表取締役も投資家であることから自社メディア、開発ツールなどは主に投資家向けである。 海外FXジャーナル - 海外FX専門の情報サイト 税金計算ツール - 国内FX・海外FX対応の税金計算シミュレーションツール 株式会社グローバル・ファイナンス
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株式会社メディアウィズは、オウンドメディアの運営・運営代行や投資家向け支援ツールの開発・提供および広告関連事業を行っている企業。 代表取締役も投資家であることから自社メディア、開発ツールなどは主に投資家向けである。
{{複数の問題 | 一次資料 = 2023年12月 | 特筆性 = 2023-12 | 宣伝 =2023年12月28日 (木) 22:06 (UTC) }} {{テンプレート変数不備|date=2023年12月|テンプレート1=基礎情報 会社|変数1=業種}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社メディアウィズ | 英文社名 = Media With, inc. | 種類 = [[株式会社]] | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 150-0002 | 本社所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[渋谷]]2-19-15<br />[[宮益坂ビルディング]]609 | 設立 = [[2021年]][[12月]] | 業種 = 4013 | 事業内容 = 広告関連事業<br />オウンドメディア運営<br />オウンドメディアの運営代行<br />デジタルマーケティング支援<br />SEOコンサルティング | 代表者 = 桑原崚(代表取締役) | 資本金 = 300,000円 | 外部リンク = https://mediawith.co.jp/ }} '''株式会社メディアウィズ''' (Media With, inc.) は、[[オウンドメディア]]の運営・運営代行や[[投資家]]向け支援ツールの開発・提供および広告関連事業を行っている企業<ref>{{Cite web |和書 |title=株式会社メディアウィズ {{!}} Media With, inc. |url=https://mediawith.co.jp/ |website=株式会社メディアウィズ |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 [[代表取締役]]も投資家であることから<ref>{{Cite web |和書 |title=Titan FX - Trade forex online with a leading forex broker |url=https://titanfx.com/ |website=Titan FX |date=2023-12-27 |access-date=2023-12-28 |language=en}}{{出典無効|date=2023年12月|title=リンク先の内容を確認したが、メディアウィズの代表取締役に関する記述がどこにも無い。リンクを間違えてはいないのか?}}</ref>、自社メディアや開発ツールなどは主に投資家向けである<ref name="PR Newswire APAC">{{Cite press release |和書 |title=海外FXジャーナルが国内FX・海外FXの両方に対応した税金計算シミュレーションツールをリリース-PR Newswire APAC |url=https://jp.prnasia.com/story/95284-3.shtml |website=jp.prnasia.com |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 == 沿革 == * 2020年3月 桑原崚が個人でインターネットメディアを設立<ref>{{Cite web |和書 |title=活躍する卒業生 {{!}} 先輩・卒業生の声 {{!}} 進路情報 {{!}} 日本大学三島高等学校 |url=https://www.mishima.hs.nihon-u.ac.jp/shs/interview/graduates/ |website=www.mishima.hs.nihon-u.ac.jp |access-date=2023-12-28}}{{出典無効|date=2023年12月|title=リンク先の内容を確認したが、この人物が2020年3月に設立したと分かる記述がどこにも無い。これも貼るリンクを間違えてはいないのか?}}</ref> * 2020年9月 個人事業主としてメディア運営を開始 * 2021年9月 インターネットメディアの運営代行事業を開始 * 2021年12月 株式会社メディアウィズ (Media With, inc.) を設立<ref>{{Cite web |和書 |title=株式会社メディアウィズ 桑原 崚|東商 社長ネット |東京商工会議所 |url=https://www.tokyo-cci.or.jp/shachonet/profile/2119.html |website=www.tokyo-cci.or.jp |access-date=2023-12-28}}{{出典無効|date=2023年12月|title=リンク先には2021年に会社設立をしたと分かる記述はあるのだが、12月に設立したとは書かれていない。}}</ref> * 2022年1月 オウンドメディアの運営を開始 * 2022年2月 本社所在地を[[東京都]][[渋谷区]]に移転 * 2023年7月 関連会社として株式会社グローバル・ファイナンスを設立<ref>{{Cite web |和書 |title=会社概要 |url=https://mediawith.co.jp/company/ |website=株式会社メディアウィズ |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref> == 主な開発・提供サービス == * 海外FXジャーナル - 海外[[外国為替証拠金取引|FX]]専門の情報サイト<ref name="PR Newswire APAC" /> * 税金計算ツール - 国内FX・海外FX対応の税金計算シミュレーションツール == 関連企業 == 株式会社グローバル・ファイナンス * インターネットメディア事業 * インターネット広告の運用 * DX支援事業<ref>{{Cite web |和書 |title=事業内容 |url=https://global-finance.co.jp/business/ |website=株式会社グローバル・ファイナンス |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Company-stub}} {{DEFAULTSORT:めていあういす}} [[Category:日本のインターネット企業]] [[Category:渋谷区の企業]] [[Category:2021年設立の企業]]
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童浦村
童浦村(どうほむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。 汐川河口の左岸に位置していた。 平安時代に付近の入江が童(わらべ)の浦と称され、それが変形したもの。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "童浦村(どうほむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "汐川河口の左岸に位置していた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "平安時代に付近の入江が童(わらべ)の浦と称され、それが変形したもの。", "title": "歴史" } ]
童浦村(どうほむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1906年7月16日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = 田原町、[[相川村 (愛知県)|相川村]]、'''童浦村'''、[[大久保村 (愛知県)|大久保村]] → [[田原市|田原町]] | 現在の自治体 = [[田原市]] | よみがな = どうほむら | 自治体名 = 童浦村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 愛知県 | 郡 = [[渥美郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 3334 | 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』878頁 | 人口の時点 = 1891年 | 隣接自治体 = 相川村、田原町、[[野田村 (愛知県)|野田村]] | 所在地 = 渥美郡童浦村大字浦 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''童浦村'''(どうほむら{{R|変遷}})は、[[愛知県]][[渥美郡]]にあった[[村]]。現在の[[田原市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[汐川]]河口の左岸に位置していた{{R|角川}}。 *海洋:[[田原湾]]{{R|角川}} == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)10月1日、[[町村制]]の施行により、渥美郡浦村、波瀬村、片浜村、白谷村、吉胡村が合併して村制施行し、'''童浦村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』508頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 23 愛知県』878頁。</ref>。旧村名を継承した浦、波瀬、片浜、白谷、吉胡の5大字を編成{{R|角川}}。 *[[1906年]](明治39年)7月16日、渥美郡田原町、相川村、大久保村と合併し、'''[[田原市|田原町]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 === 地名の由来 === [[平安時代]]に付近の入江が童(わらべ)の浦と称され、それが変形したもの{{R|角川}}。 == 産業 == *農業、漁業<ref>「浦〈田原町〉」『角川日本地名大辞典 23 愛知県』235頁。</ref> == 教育 == *[[1892年]](明治25年)童浦尋常高等小学校が開校{{R|角川}}。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[愛知県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:とうほむら}} [[Category:渥美郡]] [[Category:田原市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1906年廃止の日本の市町村]]
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エルンスト・フォン・アスター
エルンスト・フォン・アスター(Ernst Von Aster、1880年2月18日 - 1948年10月22日)は、ドイツの哲学者である。ベルリン出身。 テオドール・リップス、論理実証主義の影響をもとに新しい唯名論を立てようとした。
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エルンスト・フォン・アスターは、ドイツの哲学者である。ベルリン出身。 テオドール・リップス、論理実証主義の影響をもとに新しい唯名論を立てようとした。
{{Expand German|date=2023年12月}} '''エルンスト・フォン・アスター'''(Ernst Von Aster、[[1880年]][[2月18日]] - [[1948年]][[10月22日]])は、ドイツの哲学者である。ベルリン出身。 [[テオドール・リップス]]、[[論理実証主義]]の影響をもとに新しい[[唯名論]]を立てようとした。 == 主著 == *「哲学史」1935年 {{DEFAULTSORT:えるんすと}} [[Category:ベルリン出身の人物]] [[Category:19世紀ドイツの哲学者]] [[Category:論理実証主義]]
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大分介護福祉士専門学校
大分介護福祉士専門学校(おおいたかいごふくししせんもんがっこう)は、大分県大分市に所在していた専門学校。 1999年4月開校。 設置者は学校法人平松学園。 介護福祉士学科を設置。 2021年募集停止。
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大分介護福祉士専門学校(おおいたかいごふくししせんもんがっこう)は、大分県大分市に所在していた専門学校。
'''大分介護福祉士専門学校'''(おおいたかいごふくししせんもんがっこう)は、[[大分県]][[大分市]]に所在していた専門学校。 == 概要 == [[1999年]]4月開校<ref name=":0">{{Cite web |title=募集停止について|大分介護福祉士専門学校|学校法人平松学園|公式 |url=https://www.hiramatsu.ac.jp/kaigo/about |access-date=2023-12-28}}</ref>。 設置者は[[学校法人平松学園]]<ref name=":1">{{Cite web |title=挨拶・概要|学校法人平松学園|公式 |url=https://www.hiramatsu.ac.jp/kaigo/greeting |access-date=2023-12-28}}</ref>。 介護福祉士学科を設置<ref name=":1" />。 [[2021年]]募集停止<ref name=":0" />。 == 脚注 == {{Reflist}}{{デフォルトソート:おおいたかいこふくししせんもんかつこう}} [[Category:大分県の専修学校]]
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掌善寺
掌善寺(しょうぜんじ)は、岡山市南区にある寺院。臨済宗妙心寺派。 児島高徳を開基とし、大光国師を開山とするという。『児島郡誌』には、創立を正和二年(1313)とされている。 掌善寺本堂は、平成30年3月20日に掌善寺本堂 附鬼瓦(しょうぜんじほんどう つけたりおにがわ)として文化財に指定されている。 観音堂も掌善寺観音堂 附棟札4枚(しょうぜんじかんのんどう つけたりむなふだよんまい)として有形文化財(建造物)に指定されている。
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掌善寺(しょうぜんじ)は、岡山市南区にある寺院。臨済宗妙心寺派。
{{日本の寺院 |名称 = 掌善寺 |画像 = |画像説明 = |所在地 = [[岡山県]][[岡山市]][[南区 (岡山市)|南区]]郡972 |位置 = {{Coord|34|34|47|N|133|57|38|E|region:JP_type:landmark_scale:10000|display=inline,title}} |緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |経度度 = |経度分 = |経度秒 = |山号 = |院号 = |宗旨 = [[臨済宗]] |宗派 = [[臨済宗妙心寺派]] |寺格 = |鎮守神 = |本尊 = |創建年 = 1313年 |開山 = 大光国師 |開基 = 児島高徳 |中興年 = |中興 = |正式名 = 童子山 掌善寺 |別称 = 掌善寺 |札所等 = |文化財 = 本堂、観音堂 |公式HP = |公式HP名 = |地図 = Japan Okayama |地図2 = }} '''掌善寺'''(しょうぜんじ)は、[[岡山市]][[南区 (岡山市)|南区]]にある[[臨済宗妙心寺派]]の[[寺院]]<ref>{{Cite web |title=卍童児山 掌善寺|岡山県岡山市南区 - 八百万の神 |url=https://yaokami.jp/1335279/ |website=八百万の神 - 日本の神社・寺院検索サイト |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 == 歴史 == 児島高徳を開基とし、大光国師を開山とするという。『児島郡誌』には、創立を正和二年(1313)とされている<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-okayama-koori-syouzenzi.htm |title=童児山 掌善寺 |access-date=2023-12-28}}</ref>。 == 文化財 == 掌善寺本堂は、平成30年3月20日に掌善寺本堂 附鬼瓦(しょうぜんじほんどう つけたりおにがわ)として市の文化財に指定されている<ref>{{Cite web |title=掌善寺本堂 附鬼瓦 文化遺産オンライン |url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/366717 |website=bunka.nii.ac.jp |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=掌善寺本堂 附鬼瓦 |url=https://www.city.okayama.jp/life/0000043312.html |website=岡山市 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 観音堂も掌善寺観音堂 附棟札4枚(しょうぜんじかんのんどう つけたりむなふだよんまい)として市の有形文化財(建造物)に指定されている<ref>{{Cite web |title=掌善寺観音堂 附棟札4枚 文化遺産オンライン |url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/389408 |website=bunka.nii.ac.jp |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=掌善寺観音堂 附棟札4枚 |url=https://www.city.okayama.jp/life/0000043313.html |website=岡山市 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 == 年中行事 == * 4月 花まつり * 7月 秋葉祭り<ref>{{Cite web |title=【岡山市南区】7月22日は掌善寺で『秋葉祭り』が開催されます。今回は初の試みでキッチンカーや屋台が登場! |url=https://okayamanakaku-minamiku-higashiku.goguynet.jp/2023/07/19/shozenji_akibamatsuri_2023/ |website=号外NET 岡山市 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{文化遺産オンライン|366717|掌善寺本堂 附鬼瓦}} * {{文化遺産オンライン|389408|掌善寺観音堂 附棟札4枚}} {{Buddhism2}}{{DEFAULTSORT:しようせんし}} [[Category:岡山市の寺]] [[Category:岡山市南区の歴史]] [[Category:岡山市南区の建築物]] [[Category:臨済宗妙心寺派の寺院]]
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エーリッヒ・アディッケス
エーリッヒ・アディッケス(1866−1928)は、ドイツの哲学者、文献学者。 1904年からエバーハルト・カール大学テュービンゲンの教授。 文献学者としては、カントの遺稿(アカデミー版『カント全集』収録)、カントの文献目録の編者として知られる。 主著には、『カントと物自体』がある。
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エーリッヒ・アディッケス(1866−1928)は、ドイツの哲学者、文献学者。
[[ファイル:Emil Stumpp Erich Adickes.jpg|サムネイル|エーリッヒ・アディッケスの肖像]] '''エーリッヒ・アディッケスErich Adickes''' (1866年 - 1928年)は、ドイツの[[哲学者]]、[[文献学者]]。 == 概要 == [[エバーハルト・カール大学テュービンゲン]]で教鞭をとる。 文献学者としては、[[イマヌエル・カント|カント]]の遺稿(アカデミー版『カント全集』収録)、カントの文献目録の編者として知られる。 有名なドイツのカント派哲学者の1人である。 == 主著 == *『カントと物自体』など {{DEFAULTSORT:ええりつひ}} [[Category:19世紀ドイツの哲学者]] [[Category:文献学者]] [[Category:エバーハルト・カール大学テュービンゲンの教員]] [[Category:イマヌエル・カント]]
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ニコラ・アバニャーノ
ニコラ アバニャーノとは、イタリアの哲学者で、イタリア実存主義哲学の代表者、トリノ大学教授。 ナポリ大学在学中からベネデット・クローチェ、ジョヴァンニ・ジェンティーレに代表される新ヘーゲル主義の超克を企て、「可能性の哲学」として現象学、実存主義に目を向ける。 現代イギリス、アメリカの経験論的哲学にも興味を示す。 『哲学的思惟における非合理的要素の必要』 Le sorgenti irrazionali del pensiero 1923年 『実存の構造』 La struttura dell'esistenza 1939年 『実証的実存主義』 Esistenzialismo positivo 1948年など。
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ニコラ アバニャーノとは、イタリアの哲学者で、イタリア実存主義哲学の代表者、トリノ大学教授。
'''ニコラ・アバニャーノ'''(Nicola Abagnano、1901年7月15日 - 1990年9月9日)は、[[イタリア]]の[[哲学者]]、[[実存主義|イタリア実存主義哲学]]の代表者。[[トリノ大学]]教授。[[サレルノ]]出身。 == 概要 == [[フェデリコ2世ナポリ大学|ナポリ大学]]在学中から[[ベネデット・クローチェ]]、[[ジョヴァンニ・ジェンティーレ]]に代表される[[新ヘーゲル主義]]の超克を企て、「可能性の哲学」として[[現象学]]、[[実存主義]]に目を向ける。 現代イギリス、アメリカの経験論的哲学にも興味を示す。 1990年9月9日に[[ミラノ]]で亡くなる。 == 主著 == *『哲学的思惟における非合理的要素の必要』 Le sorgenti irrazionali del pensiero 1923年 *『実存の構造』 La struttura dell'esistenza 1939年 *『実証的実存主義』 Esistenzialismo positivo 1948年 ほか {{DEFAULTSORT:あはにやあの にこら}} [[Category:19世紀イタリアの哲学者]] [[Category:サレルノ出身の人物]] [[Category:トリノ大学の教員]] [[Category:実存主義者]]
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凍土の旅人
『凍土の旅人』(とうどのたびびと)は、日本国の漫画家、 谷口ジローの漫画作品である。 一攫千金を狙って極寒の地を訪れた男は、ただ一人狩りをして暮らす老人と出会った。 『ビッグコミックオリジナル』第30巻(2003年7月2日増刊号(ビッグコミック1))に掲載された。 フランス語のほか、スペイン語、ドイツ語、英語、イタリア語及びポーランド語に翻訳された。 選集『凍土の旅人 谷口ジロー傑作集』に所収された。
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『凍土の旅人』(とうどのたびびと)は、日本国の漫画家、 谷口ジローの漫画作品である。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = 凍土の旅人 | 画像 = | サイズ = | 説明 = | ジャンル = }} {{Infobox animanga/Manga | タイトル = 凍土の旅人 | 作者 = 谷口ジロー | 出版社 = 小学館 | 掲載誌 = ビッグコミックオリジナル<br />第30巻(2003年7月2日増刊号(ビッグコミック1)) | レーベル = | 発行日 = | 発売日 = | 開始号 = | 終了号 = | 開始日 = | 終了日 = | 巻数 = | 話数 = 読み切り }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = | ウィキポータル = }} 『'''凍土の旅人'''』(とうどのたびびと)は、日本国の漫画家、 [[谷口ジロー]]の漫画作品である。 == あらすじ == 一攫千金を狙って極寒の地を訪れた男は、ただ一人狩りをして暮らす老人と出会った。 == 初出 == 『ビッグコミックオリジナル』第30巻(2003年7月2日増刊号(ビッグコミック1))に掲載された{{sfn|『谷口ジロー 描くよろこび』|pp=122-128|loc=谷口ジロー発表作品初出誌&単行本データ}}。 == 単行本 == {{節スタブ}} フランス語のほか、スペイン語、ドイツ語、英語、イタリア語及びポーランド語に翻訳された{{sfn|『描くひと 谷口ジロー』|pp=256-263|loc=書誌一覧}}。 ;日本語 選集『凍土の旅人 谷口ジロー傑作集』に所収された。 *{{Cite book|和書|title=凍土の旅人 谷口ジロー傑作集 |date=2005-01 |publisher=小学館 |series=ビッグコミックススペシャル |isbn=4-09-183716-6 |chapter=凍土の旅人 }}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.s-book.com/plsql/com2_detail?isbn=4091837166 |title=凍土の旅人 |accessdate=2023-12-28 |date=2004 |work=s-book.com |publisher=一ツ橋企画 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050104033302/http://www.s-book.com/plsql/com2_detail?isbn=4091837166 |archivedate=2005-01-04 }}</ref> *{{Cite book|和書|title=野生の中へ 谷口ジロー狩猟短編傑作集 |date=2022-11 |publisher=山と溪谷社 |isbn=978-4-635-04944-3 |chapter=凍土の旅人 }}<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/497878 |title=「野生の中へ 谷口ジロー狩猟短編傑作集」発売、「西風は白い」など7作品収録 |accessdate=2023-12-24 |date=2022-10-17|work=コミックナタリー |publisher=ナタリー }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamakei.co.jp/products/2822049440.html |title=ヤマケイ文庫 野生の中へ 谷口ジロー狩猟短編傑作集 |accessdate=2023-12-24 |publisher=山と溪谷社 }}</ref> == 脚註 == {{脚注ヘルプ}}<!-- === 註釈 === {{notelist2}} --> === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書|title=谷口ジロー 描くよろこび |date=2018-10-24 |publisher=平凡社 |location=東京 |series=コロナ・ブックス |isbn=978-4-582-63514-0 |ncid=BB27731733 |oclc=1059471619 |id={{全国書誌番号|23127035}} |ref={{SfnRef|『谷口ジロー 描くよろこび』}} }} *{{Cite book|和書|author=ブノワ・ペータース |editor=染谷誠 |title=描くひと 谷口ジロー |date=2019-09-29 |publisher=双葉社 |location=東京 |isbn=978-4-575-31492-2 |ncid=BB29080545 |oclc=1126777928 |id={{全国書誌番号|23284053}} |ref={{SfnRef|『描くひと 谷口ジロー』}} }} {{デフォルトソート:とうとのたひひと}} [[Category:漫画作品 と|うとのたひひと]] [[Category:2003年の漫画]] [[Category:谷口ジローの漫画作品]]
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渋瀬雅彦
渋瀬 雅彦(しぶせ まさひこ)は、日本の経営学者。経営学博士(法政大学)。横浜商科大学商学部准教授。日本ダイレクトマーケティング学会奨励賞受賞。 市場調査の会社に新卒入社で10年ほど勤務した後、法政大学大学院経営学研究科(法政ビジネススクール)に入学。仕事と勉強を両立させながら、修士課程及び博士後期課程を修了する。大学院を卒業し横浜商科大学商学部に着任。日本大学や江戸川大学の非常勤講師、法政大学イノベーション・マネジメント研究センター客員研究員を務める。 公益財団法人吉田秀雄記念事業財団 の大学院生の部における奨励賞、日本ダイレクトマーケティング学会の奨励賞を受賞。
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渋瀬 雅彦は、日本の経営学者。経営学博士(法政大学)。横浜商科大学商学部准教授。日本ダイレクトマーケティング学会奨励賞受賞。
'''渋瀬 雅彦'''(しぶせ まさひこ)は、日本の[[経営学者]]。経営学博士([[法政大学]])。[[横浜商科大学]]商学部准教授<ref>[https://www.shodai.ac.jp/teacher/detail/124 教員紹介. 横浜商科大学]2023年12月28日閲覧。</ref>。日本ダイレクトマーケティング学会奨励賞受賞。 == 略歴・人物 == 市場調査の会社に新卒入社で10年ほど勤務した後、[[法政大学大学院経営学研究科・経営学部|法政大学大学院経営学研究科]](法政ビジネススクール)に入学。仕事と勉強を両立させながら、修士課程及び博士後期課程を修了する。大学院を卒業し[[横浜商科大学]]商学部に着任。[[日本大学]]や[[江戸川大学]]の非常勤講師、法政大学イノベーション・マネジメント研究センター客員研究員を務める<ref>[https://hbs.ws.hosei.ac.jp/voice/202106235001.html 学生の声. HBS]2023年12月28日閲覧。</ref>。 公益財団法人吉田秀雄記念事業財団 の大学院生の部における奨励賞、日本ダイレクトマーケティング学会の奨励賞を受賞。 == 著作等 == === 共著 === * 『ベーシック経営学 ー学びの扉ー』(ムイスリ出版、2022年) === 論文 === * 『クロスメディア環境下におけるオンラインビデオ広告の効果』(公益財団法人吉田秀雄記念事業財団、平成28年度研究助成(学生の部)研究報告書、2018年) * 『オンラインビデオ広告の効果を規定する要因 : 完全視聴と広告認知に着目した実証分析』(Direct Marketing Review 19 18-40、2020年) * 『ソーシャルメディア上で拡散・共有された 広告情報の効果に関する実証研究 ― 一般消費者が拡散・共有した広告情報の受信者側の効果 ―』(日本マーケティング学会 カンファレンス・プロシーディングス 9 368-376、2020年) * 『クロスメディア環境下における広告コミュニケーション効果』(法政大学博士論文、2021年)など == 専門分野 == * [[マーケティング]] * [[消費者行動分析|消費者行動]] == 受賞歴 == * 「公益財団法人吉田秀雄記念事業財団 大学院生の部」奨励賞(2017年) * 「日本ダイレクトマーケティング学会」奨励賞(2020年) == 脚注 == [[Category:日本の経営学者]] [[Category:横浜商科大学の教員]] [[Category:法政大学出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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西口一希
西口 一希(にしぐち かずき、1967年- )は、日本の実業家、経営コンサルタント、投資家。P&Gジャパン、ロート製薬、ロクシタン、スマートニュースのマーケティングや経営に携わったのち、株式会社Strategy Partners代表取締役。M-Force株式会社共同創業者。 1967年、兵庫県生まれ。大阪大学経済学部卒業後、1990年にP&Gジャパンに入社。マーケティング本部にて、ブランドマネージャー、マーケティングディレクターとして「パンパース」「パンテーン」「プリングルズ」「ヴィダルサスーン」などのブランド担当。 2006年にロート製薬に参画。2006年ロート製薬に入社、執行役員マーケティング本部長として「肌ラボ」「Obagi」「デ・オウ」「ロート目薬」等の60以上のブランドを統括。 2015年、ロクシタンジャポン代表取締役社長に就任。翌年、ロクシタングループ過去最高利益を達成した。のち、アジア人初のグローバルエグゼクティブコミッティメンバー、ロクシタン社外取締役戦略顧問を務めた。 2017年にスマートニュースに参画、日本および米国のマーケティング担当 執行役員に就任。累計ダウンロード数5,000万、月間使用者数2,000万人を達成した。2019年8月、同社は企業評価金額が10億ドル(約1,000億)を超える国内3社目のユニコーン企業へと急成長する。 2019年、M-Forceを共同創業。あわせて同年よりStrategy Partners代表取締役。事業会社経営および経営コンサルタント、投資家として国内外の複数企業を支援する。 2020年、M-Force、調査会社のマクロミル、明治大学 商学部 専任講師の加藤拓巳氏との共同研究として、ビジネス指標に関する調査を開始。2021年以降、論文等で結果を発表している。
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西口 一希は、日本の実業家、経営コンサルタント、投資家。P&Gジャパン、ロート製薬、ロクシタン、スマートニュースのマーケティングや経営に携わったのち、株式会社Strategy Partners代表取締役。M-Force株式会社共同創業者。
{{複数の問題 |存命人物の出典明記 = 2023年12月 <!-- 1b. --> |一次資料 = 2023年12月 |宣伝 = 2023年12月 }} {{Infobox 人物|職業=[[実業家]]|出身校=[[大阪大学]]経済学部|国籍=日本||生年月日=[[1967年]]|名前=西口 一希|ふりがな=にしぐち かずき}} '''西口 一希'''(にしぐち かずき、[[1967年]]- )は、[[日本]]の[[実業家]]、[[経営コンサルタント]]、投資家。[[P&Gジャパン]]、[[ロート製薬]]、[[ロクシタン]]、[[スマートニュース]]のマーケティングや経営に携わったのち、株式会社Strategy Partners代表取締役。M-Force株式会社共同創業者。 == 経歴 == 1967年、兵庫県生まれ。大阪大学経済学部卒業後、1990年に[[P&Gジャパン]]に入社<ref>{{Cite web |url=https://www.careerinq.com/interview/manager/loccitane/004745.shtml |title=プロ経営者インタビュー 西口 一希 氏 |access-date=2023-12-29 |date=2015年12月 |website=キャリアインキュベーション}}</ref>。マーケティング本部にて、ブランドマネージャー、マーケティングディレクターとして「パンパース」「パンテーン」「プリングルズ」「ヴィダルサスーン」などのブランド担当<ref>{{Cite web |url=https://xtrend.nikkei.com/authors/18/nishiguchi_kazuki/?i_cid=nbpnxr_child |title=日経クロストレンド アドバイザリーボード・著者 西口一希 |access-date=2023年12月29日 |website=日経クロストレンド}}</ref>。 2006年に[[ロート製薬]]に参画。2006年ロート製薬に入社、執行役員マーケティング本部長として「肌ラボ」「Obagi」「デ・オウ」「ロート目薬」等の60以上のブランドを統括<ref>{{Cite web |url=https://diamond.jp/articles/-/190806 |title=長く同じ会社にいる人から新しいものは出てこない。――足立光×西口一希 対談(前編) |access-date=2023年12月29日 |date=2019年1月16日 |website=ダイヤモンド・オンライン}}</ref>。 2015年、[[ロクシタン]]ジャポン代表取締役社長に就任<ref>{{Cite web |url=https://digiday.jp/brands/loccitane_nishiguchi_kazuki_interview/ |title=「最終的に競合となるのは、デジタルベンチャー」:ロクシタンジャポン代表取締役社長 西口一希氏 |access-date=2023年12月29日 |date=2016年3月3日 |website=DIGIDAY}}</ref>。翌年、ロクシタングループ過去最高利益を達成した<ref>{{Cite web |url=https://newspicks.com/news/4904127/body/ |title=【西口一希】ロクシタンジャポン社長に就任。最高売り上げ達成 |access-date=2023年12月29日 |website=NewsPicks |date=2020年6月19日}}</ref>。のち、アジア人初のグローバルエグゼクティブコミッティメンバー、ロクシタン社外取締役戦略顧問を務めた<ref>{{Cite web |url=https://www.jmca.jp/prod/teacher/10903 |title=日本経営合理化協会 講師案内 西口一希 |access-date=2023年12月29日 |publisher=日本経営合理化協会}}</ref>。 2017年に[[スマートニュース]]に参画、日本および米国のマーケティング担当 執行役員に就任<ref>{{Cite web |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000157.000007945.html |title=スマートニュース、元ロクシタン代表の西口一希がマーケティング担当執行役員に就任 |access-date=2023年12月29日 |publisher=PR TIMES |date=2017年5月1日}}</ref>。累計ダウンロード数5,000万、月間使用者数2,000万人を達成した<ref>{{Cite web |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2109/13/news006.html |title=【アプリダウンロード数は日米で5000万超】スマートニュースのグローバルなプロダクト開発を支える「プロダクトマネージャーの役割」とは |access-date=2023年12月29日 |website=ITmedia ビジネスオンライン |date=2021年09月15日}}</ref>。2019年8月、同社は企業評価金額が10億ドル(約1,000億)を超える国内3社目のユニコーン企業へと急成長する<ref>{{Cite web |url=https://business.nikkei.com/atcl/seminar/20/00045/082000013/ |title=ユニコーン化を達成したスマートニュースの「顧客起点」 |access-date=2023年12月29日 |date=2021年8月25日 |website=日経ビジネス電子版}}</ref>。 2019年、M-Forceを共同創業。あわせて同年よりStrategy Partners代表取締役。事業会社経営および経営コンサルタント、投資家として国内外の複数企業を支援する<ref>{{Cite web |url=https://note.com/macromill/n/n070b91a9b14e |title=西口一希氏、ビジネスを成長させる「顧客起点」の概念とは? |access-date=2023年12月29日 |date=2022年10月19日 |website=マクロミル公式note}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://markezine.jp/article/detail/41046 |title=経営にLTVを実装する。西口一希氏が語る、経営とマーケティングを「顧客起点」でつなぐ方法 |access-date=2023年12月29日 |date=2023年1月24日 |website=MarkeZine}}</ref>。 2020年、M-Force、調査会社の[[マクロミル]]、明治大学 商学部 専任講師の加藤拓巳氏との共同研究として、ビジネス指標に関する調査を開始。2021年以降、論文等で結果を発表している<ref>{{Cite web |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000569.000000624.html |title=マーケットシェア拡大に有効な新KPIを特定 |access-date=2023年12月29日 |publisher=PR TIMES |date=2021年3月18日}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000009.000061269.html |title=9segs®︎によるNPI®︎、マーケットシェア拡大の先行指標としての優位性を確認 |access-date=2023年12月29日 |publisher=PR TIMES |date=2022年5月19日}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Kato|first=Takumi|last2=Takenaka|first2=Nobu|last3=Ito|first3=Rie|last4=Nishiguchi|first4=Kazuki|date=2023-12-01|title=Selection versus scale: Loyalty indices for brand management|url=https://doi.org/10.1057/s41270-022-00191-6|journal=Journal of Marketing Analytics|volume=11|issue=4|pages=836–853|language=en|doi=10.1057/s41270-022-00191-6|issn=2050-3326}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Kato|first=Takumi|last2=Takenaka|first2=Nobu|last3=Ito|first3=Rie|last4=Nishiguchi|first4=Kazuki|date=2023-12-02|title=Selection is superior to scale: determining brand loyalty highly correlated to market share|url=https://doi.org/10.1057/s41270-023-00270-2|journal=Journal of Marketing Analytics|language=en|doi=10.1057/s41270-023-00270-2|issn=2050-3326}}</ref>。 == 著書 == * 『たった一人の分析から事業は成長する 実践 顧客起点マーケティング』(2019年)[[翔泳社]] * 『N1 마케팅』(顧客起点マーケティング 韓国語版)(2020年)동양북스/東洋ブックス * 『讓大眾小眾都買單的 單一顧客分析法』(顧客起点マーケティング 台湾語版)(2020年)采實出版集團/ACME Publishing * 『Succeed Through Customer Knowledge: A Guide to Practical Customer-originated Marketing』(顧客起点マーケティング 英語版)(2021年)One Peace Books * 『アフターコロナのマーケティング戦略 最重要ポイント40』([[足立光]]と共著) (2020年)[[ダイヤモンド社]] * 『マンガでわかる新しいマーケティング 一人の顧客分析からアイデアをつくる方法』(2021年)[[池田書店]] * 『企業の「成長の壁」を突破する改革 顧客起点の経営』(2022年)[[日経BP]]    * 『マーケティングを学んだけれど、どう使えばいいかわからない人へ』(2023年)[[日本実業出版社]] == 脚注 == <references /> {{デフォルトソート:にしくち かすき}} [[Category:日本の実業家]] [[Category:日本の経営コンサルタント]] [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:マーケター]] [[Category:マーケティング・コンサルタント]] [[Category:大阪大学出身の人物]] [[Category:1967年生]] [[Category:存命人物]]
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塩谷桑平
塩谷 桑平(しおのや そうへい、旧姓・広岡、1876年(明治9年)3月 - 没年不明)は、日本の商人(酒類商)、実業家、政治家。中遠鉄道、袋井運送、日本莚縄各社長。袋井合同運送取締役。静岡県磐田郡袋井町長。 静岡県・広岡久左衛門の長男。1887年に塩谷紳太郎の養子となり1900年に家督を相続する。酒類醸造仲買商を営む。 趣味は書画、骨董。宗教は曹洞宗、禅宗。住所は静岡県磐田郡袋井町田端、笠西村高尾(のち袋井町高尾、現・袋井市高尾町)。
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塩谷 桑平は、日本の商人(酒類商)、実業家、政治家。中遠鉄道、袋井運送、日本莚縄各社長。袋井合同運送取締役。静岡県磐田郡袋井町長。
'''塩谷 桑平'''(しおのや そうへい、旧姓・'''広岡'''、[[1876年]]([[明治]]9年)[[3月]]<ref name="jinji13">[{{NDLDC|3430443/972}} 『人事興信録 第13版 上』]補遺(上巻)66頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月28日閲覧。</ref> - [[没年不明]])は、[[日本]]の[[商人]]([[酒]]類商)<ref name="taisyu13">[{{NDLDC|3017420/45}} 『大衆人事録 第13版中部篇』]静岡27頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月28日閲覧。</ref>、[[実業家]]、[[政治家]]。[[中遠鉄道]]、袋井運送、日本莚縄各社長<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11">[{{NDLDC|1072916/1088}} 『人事興信録 第11版 上』]シ22 - 23頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月29日閲覧。</ref>。袋井合同運送取締役<ref name="jinji13"/>。静岡県磐田郡[[袋井市|袋井町]]長。 == 経歴 == 静岡県・広岡久左衛門の長男<ref name="jinji13"/><ref name="taisyu13"/>。[[1887年]]に塩谷紳太郎の養子となり[[1900年]]に[[家督]]を相続する<ref name="jinji13"/>。酒類[[醸造]]仲買商を営む<ref name="denwa1922">[{{NDLDC|923607/131}} 『静岡県下全部電話番号便覧 大正11年9月10日現在』]201頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月28日閲覧。</ref>。 == 人物 == 趣味は[[書画]]、[[骨董品|骨董]]<ref name="jinji13"/><ref name="taisyu13"/><ref name="jinji11"/>。宗教は[[曹洞宗]]<ref name="jinji13"/>、[[禅宗]]<ref name="taisyu13"/><ref name="jinji11"/>。住所は[[静岡県]]磐田郡袋井町田端<ref name="jinji13"/>、[[笠西村]]高尾<ref name="denwa1922"/>(のち袋井町高尾<ref name="taisyu13"/>、現・袋井市高尾町)。 == 家族 == ; 塩谷家 * 妻・'''きく'''([[1883年]] - ?、静岡、古田庄太郎の二女)<ref name="jinji13"/> * 長男・'''喜男'''([[1908年]] - ?)<ref name="taisyu13"/> * 三男([[分家]])<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11"/> * 五男(静岡、原田藤四郎の[[養子縁組|養子]]となる)<ref name="jinji13"/><ref name="jinji11"/> * 六男・'''邦夫'''([[1917年]] - ?)<ref name="taisyu13"/> * 七男・'''[[塩谷一夫|一夫]]'''<ref name="taisyu13"/>([[1920年]] - [[1989年]]、衆議院議員) * 孫・'''[[塩谷立|立]]'''(衆議院議員、[[1950年]] - ) == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 美容新報社編『静岡県下全部電話番号便覧 大正11年9月10日現在』美容新報社、1922年。 * 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937年。 * 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第13版中部篇』帝国秘密探偵社、1940年。 * 人事興信所編『[[人事興信録]] 第13版 上』人事興信所、1941年。 {{businessperson-stub}} {{DEFAULTSORT:しおのや そうへい}} [[Category:日本の商人]] [[Category:日本の醸造家]] [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:静岡県出身の人物]] [[Category:静岡県の市町村長]] [[Category:1876年生]] [[Category:没年不明]]
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プラウィット・ウォンスワン
プラウィット・ウォンスワン(タイ語: ประวิตร วงษ์สุวรรณ, ラテン文字転写: Prawit Wongsuwaan、1945年8月11日 -)は、タイ王国の軍人(陸軍大将)、政治家。タイでは、愛称であるポム(タイ語:ป้อม)や、ポムおじさん(タイ語:ลุงป้อม、ルン・ポム)と呼ばれることが多い。 1945年8月11日、当時県(チャンワット)の地位であったプラナコーン県(現在のプラナコーン区)にて、プラサート・ウォンスワン少将とサイサニー夫人との間に生まれた。 1962年聖ガブリエル大学(タイ語版)卒業、1965年タイ王国士官学校予科卒業。1969年チュラチョームクラオ陸軍士官学校卒業。1997年陸軍司令部・参謀大学(タイ語版)、王立防衛大学校(タイ語版)卒業。 軍属中は東部地域第1軍地域(タイ語版)に所属し、歩兵第21連隊国王親衛隊(タイ語版)(別名「東部の虎部隊」)の上級将校として軍人生活を送った。この軍人生活によって、後輩であるプラユット・チャンオチャとも出会っている。 2008年、アピシット・ウェーチャチーワ内閣の発足に伴い国防大臣に就任する。翌年には首相令98/2009号に基づいて緊急事態解決局長顧問に任命される。 2010年の年末、反独裁民主戦線(UDD)の赤シャツ隊によるデモの鎮圧に伴う警備活動がタイ国民の目に留まり、「ポム・タルッパーウ」と呼ばれた。 この時期、彼は民兵組織の統率力や指導力から「ピーヤイ」と呼ばれ始め、その言葉の通り、プラユットの軍事的指導に当たり、彼の昇進を助けたことからこの時期より彼らの関係は強固なものとなった。 2014年、プラユット率いるNCPOによるクーデター発生後、NCPOの諮問委員長に任命され、さらに副首相、国防大臣も兼任しながら50以上の政治委員会の委員長も務めた。 2020年、国民国家の力党(タイ語版)(PPRP)の年次総会において、党第2代党首に選出され、プラウィットによる親軍的党体制が発足した。 2022年、プラユットの首相任期問題において、憲法裁判所からの首相職一時停止の命令に従い、プラユットは8月から10月までの1ヶ月の間、副首相であったプラウィットに首相代理を委任した。 同年の後半、それまで親軍派の第一党として確固たる政権与党としての存在力を確立していたPPRP党内において、これからの政治的方向性についてプラユットの間で対立が生じた。プラユットはPPRPでの政治生命は保証できないと判断すると、翌年1月にPPRPを離党、親プラユット派のタイ団結国家建設党に入党。これにPPRPやプラウィットはより民主的なイメージを自身らに定着させる活動を行った。 5月の総選挙に伴い下野。大きく議席を削られたものの、政治生命に終止符を打ったプラユットと違い、党首や議員の地位は維持し続けている。 2018年、自身のFacebookや公式の場で、国家汚職追放委員会(NACC)に申告していないとされる高級腕時計25個以上、総額約120億円の資産が未申告の状態で所持している状態だとして疑惑が浮上し、プラウィット自身は友人の借り物であり申告の必要性はないとして疑惑の火消しに忙殺された。NACCは時計の持ち主に事情を聴いており、事態は沈静化したが、彼のイメージに大きく傷跡が残る結果となった。 2018年、プーケットで起きた船の沈没事故について、「中国人観光客を連れてきたのは中国人。観光客の話だ。自分自身を沈めたんだ。彼は命令に背き、従わなかった。どうすれば信頼を勝ち取れる?」と発言。これに中国政府や国内外の世論はプラウィットを強く非難し、謝罪に追い込まれるなど事態が悪化。彼の行為は友好的であった泰中関係をさらに悪化させた。 2019年に起きたケニアホテル襲撃事件について、「武装勢力(アル・シャバブ)が襲撃した理由の一つとして、ホテルの料理のおいしさに起因すると思う。」と発言。これに国内外で一閣僚として発言してもよいのかなどという困惑や指摘の声が上がり、海外メディアの多くは唖然の声を発した。
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プラウィット・ウォンスワンは、タイ王国の軍人(陸軍大将)、政治家。タイでは、愛称であるポム(タイ語:ป้อม)や、ポムおじさん(タイ語:ลุงป้อม、ルン・ポム)と呼ばれることが多い。
{{政治家 | 人名 = プラウィット・ウォンスワン | 各国語表記 = ประวิตร วงษ์สุวรรณ | 画像 = Prawit Wongsuwan (2018) cropped.jpg | 画像サイズ = 230px | 画像説明 = | 国略称 = {{THA}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1945|8|11}} | 出生地 = {{THA}} [[バンコク]] [[プラナコーン区]] | 没年月日 = | 死没地 = | 出身校 = [[w:National Defence College of Thailand|タイ王国防衛大学]]<br>[[チュラチョームクラオ陸軍士官学校]] | 前職 = | 現職 = | 所属政党 = [[国民国家の力党]] | 称号・勲章 = | サイン = | ウェブサイト = | サイトタイトル = | 国旗 = THA | 職名 = [[File:Seal_of_the_Parliament_of_Thailand.svg|25px]] [[タイ|タイ王国]][[人民代表院|人民代表院議員]] | 就任日 = [[2023年]][[5月14日]] | 退任日 = 現職 | 元首職 = [[タイ君主一覧|国王]] | 元首 = [[ラーマ10世]] | 職名2 = [[File:Flag of Palang Pracharath Party (Since 2020).svg|25px]] [[国民国家の力党]]党首 | 就任日2 = [[2020年]][[6月27日]] | 退任日2 = 現職 | 親族(政治家) = | 配偶者 = | 国旗3 = THA | 職名3 = {{flagicon image|Flag of the Royal Thai Army.svg}} 第34代 [[タイ王国陸軍|陸軍]][[司令官]] | 内閣3 = [[タクシン・チナワット|タクシン]]内閣 | 就任日3 = [[2004年]][[10月1日]] | 退任日3 = [[2005年]][[9月30日]] | 元首職3 = 国王 | 元首3 = [[ラーマ9世]] | 国旗4 = THA | 職名4 = [[File:Emblem_of_the_Ministry_of_Defence_of_Thailand.svg|25px]] 第34代 [[国防省 (タイ)|防衛大臣]] | 内閣4 = [[アピシット・ウェーチャチーワ|アピシット]]内閣 | 就任日4 = [[2008年]][[12月20日]] | 退任日4 = [[2011年]][[8月9日]] | 元首職4 = 国王 | 元首4 = ラーマ9世 | 国旗5 = | 職名5 = 第37代 防衛大臣 | 内閣5 = (NCPO暫定政権)→[[プラユット・チャンオチャ|プラユット]]内閣 | 就任日5 = [[2014年]][[8月30日]] | 退任日5 = [[2019年]][[7月10日]] | 元首職5 = 国王 | 元首5 = ラーマ9世<br>ラーマ10世 }} {{基礎情報 軍人 |氏名 = プラウィット・ウォンスワン |各国語表記 = ประวิตร วงษ์สุวรรณ |箱サイズ = |生年月日 = {{生年月日と年齢|1945|8|11}} |没年月日 = |画像 = General_Prawit_Wongsuwan.jpg |画像サイズ = |画像説明 = |渾名 = |生誕地 = {{THA}} [[バンコク]] [[プラナコーン区]] |死没地 = |所属組織 = {{flagicon image|Flag of the Royal Thai Army.svg}} [[タイ王国陸軍]] |軍歴 = [[1969年]] - [[2005年]] |最終階級 = [[File:RTA OF-9 (General).svg|10px]] [[大将]] |除隊後 = [[政治家]] |墓所 = |署名 = }} '''プラウィット・ウォンスワン'''({{翻字併記|th|ประวิตร วงษ์สุวรรณ|Prawit Wongsuwaan}}、[[1945年]][[8月11日]] -)は、[[タイ王国]]の[[軍人]]([[陸軍大将]])、[[政治家]]。タイでは、愛称である'''ポム(タイ語:ป้อม)'''や、'''ポムおじさん(タイ語:ลุงป้อม、ルン・ポム)'''と呼ばれることが多い。 == 経歴 == [[1945年]][[8月11日]]、当時[[チャンワット|県(チャンワット)]]の地位であったプラナコーン県(現在の[[プラナコーン区]])にて、プラサート・ウォンスワン少将とサイサニー夫人との間に生まれた。 1962年{{仮リンク|聖ガブリエル大学|th|โรงเรียนเซนต์คาเบรียล}}卒業、[[1965年]][[タイ王国士官学校予科]]卒業。[[1969年]][[チュラチョームクラオ陸軍士官学校]]卒業。1997年{{仮リンク|陸軍司令部・参謀大学|th|โรงเรียนเสนาธิการทหารบก}}、{{仮リンク|王立防衛大学校|th|วิทยาลัยป้องกันราชอาณาจักร}}卒業。 軍属中は[[タイ中部#東部|東部地域]]{{仮リンク|第1軍地域|th|กองทัพภาคที่_1}}に所属し、{{仮リンク|歩兵第21連隊国王親衛隊|th|กรมทหารราบที่_21_รักษาพระองค์}}(別名「東部の虎部隊」)の上級将校として軍人生活を送った。この軍人生活によって、後輩である[[プラユット・チャンオチャ]]とも出会っている。 [[2008年]]、[[アピシット・ウェーチャチーワ]]内閣の発足に伴い[[国防省 (タイ)|国防大臣]]に就任する。翌年には首相令98/2009号に基づいて緊急事態解決局長顧問に任命される。 2010年の年末、[[反独裁民主戦線]](UDD)の赤シャツ隊によるデモの鎮圧に伴う警備活動がタイ国民の目に留まり、「ポム・タルッパーウ」<ref>タルッパーウ('''ทะลุเป้า''')は[[タイ語]]で目標を上回るという意味。</ref>と呼ばれた。 この時期、彼は民兵組織の統率力や指導力から「ピーヤイ」<ref>ピーヤイ(พี่ใหญ่)はタイ語で「兄貴」という意味。</ref>と呼ばれ始め、その言葉の通り、プラユットの軍事的指導に当たり、彼の昇進を助けたことからこの時期より彼らの関係は強固なものとなった。 2014年、プラユット率いるNCPOによるクーデター発生後、NCPOの諮問委員長に任命され、さらに副首相、国防大臣も兼任しながら50以上の政治委員会の委員長も務めた。<ref>王室官報より、https://ratchakitcha.soc.go.th/pdfdownload/?id=2017969<nowiki/>。</ref><ref>[[バンコック・ポスト]]より、https://www.bangkokpost.com/thailand/politics/1523046/prawit-moved-to-ease-work<nowiki/>。</ref> 2020年、{{仮リンク|国民国家の力党|th|พรรคพลังประชารัฐ}}(PPRP)の年次総会において、党第2代党首に選出され、プラウィットによる親軍的党体制が発足した。<ref>{{Cite web |title=[[タイ・ラット]]より、เปิดรายชื่อ กรรมการบริหารพรรคพลังประชารัฐชุดใหม่ ใต้การนำของ “ลุงป้อม” |url=https://www.thairath.co.th/news/politic/1877560 |website=www.thairath.co.th |date=2020-06-27 |access-date=2023-12-28 |language=th}}</ref> 2022年、プラユットの首相任期問題において、憲法裁判所からの首相職一時停止の命令に従い、プラユットは8月から10月までの1ヶ月の間、副首相であったプラウィットに首相代理を委任した。<ref>{{Cite news |title=タイ憲法裁、プラユット首相の職務停止 任期見直し巡り |url=https://jp.reuters.com/article/idUSKBN2PU0EV/ |work=Reuters |date=2022-08-24 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |title=Prayuth Chan-ocha: Thai court suspends PM and coup leader |url=https://www.bbc.com/news/world-asia-62656348 |date=2022-08-24 |access-date=2023-12-28 |language=en-GB}}</ref><ref>{{Cite web |title=ด่วน “บิ๊กตู่” เป็นนายกรัฐมนตรีต่อ ศาลรัฐธรรมนูญวินิจฉัย ยังไม่ครบ 8 ปี |url=https://www.thairath.co.th/news/politic/2513762 |website=www.thairath.co.th |date=2022-09-30 |access-date=2023-12-28 |language=th}}</ref><ref>{{Cite web |title=Thai Prime Minister Prayuth can continue in office, court rules |url=https://www.aljazeera.com/news/2022/9/30/thai-court-to-rule-on-prime-minister-prayuths-political-future |website=Al Jazeera |access-date=2023-12-28 |language=en}}</ref><ref>{{Cite news |title=タイ首相職務復帰へ、憲法裁が任期上限超えていないと判断 |url=https://jp.reuters.com/article/idUSKBN2QV0SS/ |work=Reuters |date=2022-09-30 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref> 同年の後半、それまで親軍派の第一党として確固たる政権与党としての存在力を確立していたPPRP党内において、これからの政治的方向性についてプラユットの間で対立が生じた。<ref>{{Cite news|和書 |title=ร้าว แต่ยังไม่แตก พลังประชารัฐในภาวะ “มังกรสองหัว” |url=https://www.bbc.com/thai/thailand-58703178 |work=BBC News ไทย |access-date=2023-12-28 |language=th |date=}}</ref>プラユットはPPRPでの政治生命は保証できないと判断すると、翌年1月にPPRPを離党、親プラユット派の[[タイ団結国家建設党]]に入党。<ref>{{Cite web |title=นักการเมืองเต็มตัว 'บิ๊กตู่' สมัครสมาชิก รทสช. ขึ้นเวทีร่ายยาวภารกิจเพื่อคนไทยทั้งชาติ |url=https://www.thaipost.net/hi-light/299540/ |date=2023-01-09 |access-date=2023-12-28 |language=th |last=หนึ่ง}}</ref>これにPPRPやプラウィットはより民主的なイメージを自身らに定着させる活動を行った。<ref>{{Cite web |title=เลือกตั้ง 2566 : เบื้องหลัง “จดหมายเปิดใจ” และ “ลุงป้อมเปิดอกคุยสื่อ” |url=https://www.bbc.com/thai/articles/crg573d8x41o |website=BBC News ไทย |date=2023-04-12 |access-date=2023-12-28 |language=th}}</ref> 5月の総選挙に伴い下野。大きく議席を削られたものの、政治生命に終止符を打ったプラユットと違い、党首や議員の地位は維持し続けている。 == スキャンダル・疑惑 == === 高級時計などの資産未開示疑惑 === [[2018年]]、自身の[[Facebook]]や公式の場で、国家汚職追放委員会(NACC)に申告していないとされる高級腕時計25個以上、総額約120億円の資産が未申告の状態で所持している状態だとして疑惑が浮上し、プラウィット自身は友人の借り物であり申告の必要性はないとして疑惑の火消しに忙殺された。NACCは時計の持ち主に事情を聴いており、事態は沈静化したが、彼のイメージに大きく傷跡が残る結果となった。<ref>{{Cite web |title=タイ副首相、未申告の高級時計25個所持? 友人から借りたと釈明 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3159821 |website=www.afpbb.com |date=2018-01-24 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=อ้าง “บิ๊กป้อม” ยืมแหวนเพชรแม่มาใส่ ส่วนนาฬิกาหรูนักธุรกิจเพื่อนรักให้ยืมมา |url=https://mgronline.com/politics/detail/9600000124459 |website=mgronline.com |date=2017-12-10 |access-date=2023-12-28 |language=th}}</ref><ref>{{Cite web |title=จับตาบิ๊กป้อมแจงปปช.แหวนแม่-นาฬิกาเพื่อน |url=https://mgronline.com/daily/detail/9600000124513 |website=mgronline.com |date=2017-12-10 |access-date=2023-12-28 |language=th}}</ref> === 2018年プーケット船沈没事故に対する失言 === 2018年、プーケットで起きた船の沈没事故について、「中国人観光客を連れてきたのは中国人。観光客の話だ。自分自身を沈めたんだ。彼は命令に背き、従わなかった。どうすれば信頼を勝ち取れる?」と発言。これに中国政府や国内外の世論はプラウィットを強く非難し、謝罪に追い込まれるなど事態が悪化。彼の行為は友好的であった泰中関係をさらに悪化させた。<ref>{{Cite news |title=เรือล่มภูเก็ต: สื่อทางการจีนไม่พอใจคำพูด ประวิตร ที่ว่า "เขาทำของเขาเอง" |url=https://www.bbc.com/thai/thailand-44762120 |work=BBC News ไทย |access-date=2023-12-28 |language=th}}</ref> === [[ケニアホテル襲撃事件]]に対する失言 === 2019年に起きたケニアホテル襲撃事件について、「武装勢力([[アル・シャバブ (ソマリア)|アル・シャバブ]])が襲撃した理由の一つとして、ホテルの料理のおいしさに起因すると思う。」と発言。これに国内外で一閣僚として発言してもよいのかなどという困惑や指摘の声が上がり、海外メディアの多くは唖然の声を発した。<ref>{{Cite web |title=สื่อนอกอึ้ง ‘ประวิตร’ บอกกลุ่มติดอาวุธโจมตีรร.ดุสิตในเคนยา อาจเพราะอาหารอร่อย |url=https://www.thairath.co.th/news/foreign/1472381 |website=www.thairath.co.th |date=2019-01-17 |access-date=2023-12-28 |language=th}}</ref> == 栄典 == ==== タイの栄典 ==== * 1950年 - [[File:King Rama IX Coronation Medal (Thailand) ribbon.svg]]ラーマ9世戴冠メダル * 2008年 - [[File:The_Boy_Scout_Citation_Medal_-_1st_Class_(Thailand)_ribbon.svg]]第一級ボーイスカウト勲章 * 1983年 - [[File:Chakra_Mala_Medal_(Thailand)_ribbon.svg]]チャクラ・マーラーメダル * 1974年 - [[File:Border_Service_Medal_(Thailand)_ribbon.svg]]国境警備勲章 * 1982年 - [[File:Freeman_Safeguarding_Medal_-_1st_Class_(Thailand)_ribbon.svg]]第一級解放奴隷防衛勲章 * 1973年 - [[File:Victory_Medal_-_Vietnam_War_with_flames_(Thailand)_ribbon.svg]]ベトナム戦勝メダル(炎装飾) * 2005年 - [[File:Order_of_Chula_Chom_Klao_-_3rd_Class_upper_(Thailand)_ribbon.svg]][[チュラチョームクラーオ勲章#等級|チュラチョームクラーオ勲章勲三特等グランド・コンパニオン]] * 2000年 - [[File:Order_of_the_Crown_of_Thailand_-_Special_Class_(Thailand)_ribbon.svg]][[タイ王冠勲章#概要|タイ王冠勲章勲特等ナイト・グランド・コルドン]] * 2003年 - [[File:Order_of_the_White_Elephant_-_Special_Class_(Thailand)_ribbon.svg]][[白象勲章#等級|白象勲章勲特等ナイト・グランド・コルドン]] ==== 海外の栄典 ==== * {{SGP}} : 2005年 - [[File:Pingat_Jasa_Gemilang_(Tentera)_ribbon.png]]ピンガット・ジャサ・ゲミラン(テンテラ)コイン * {{LAO}} : 2010年 - [[File:Red_ribbon_bar_-_general_use.svg|100px]]チャイ・ミートラパープメダル * {{USA}} : 不明 - [[File:Army_Commendation_Medal_ribbon.svg|100px]]陸軍表敬メダル * {{VSO}} : 不明 - [[File:VNCivilActionsRibbon-2.svg]]シルバーアクションユニット・ツァイヒェン<br> 不明 - [[File:Republic_of_Vietnam_Campaign_Medal_ribbon,_with_60-_clasp.svg]]対ベトナム活動コイン == 脚注 == {{デフォルトソート:うおんすわん ふらういつと}} [[Category:タイの軍人]] [[Category:20世紀の軍人]] [[Category:21世紀の軍人]] [[Category:1945年生]] [[Category:存命人物]] <references /> {{s-start}} {{s-mil}} {{s-bef|before={{仮リンク|チャイヤシット・シナワット|th|ชัยสิทธิ์ ชินวัตร}}}} {{s-ttl|title= {{flagicon image|Flag of the Royal Thai Army.svg}} [[タイ王国陸軍]]司令官|years=第34代:2004年 – 2005年}} {{s-aft|after=[[ソンティ・ブンヤラットカリン]]}} |- {{s-off}} {{s-bef|before=[[プラユット・チャンオチャ]]}} {{s-ttl|title=[[File:Seal_of_the_Office_of_the_Prime_Minister_of_Thailand.svg|25px]] [[タイの首相|首相]]代理|years=2022年}} {{s-aft|after=プラユット・チャンオチャ}} |- {{s-bef|before= {{仮リンク|プラチャー・プロムノック|th|ประชา พรหมนอก}}}} {{s-ttl|title=[[File:Seal_of_the_Office_of_the_Prime_Minister_of_Thailand.svg|25px]] 第61・62代内閣 副首相|years=第116代:2014年 - 2019年}} {{s-aft|after={{仮リンク|プーミターム・ウェーチャヤチャーイ|th|ภูมิธรรม เวชยชัย}}<br>{{仮リンク|ソムサック・テーップスティーン|th|สมศักดิ์ เทพสุทิน}}<br> {{仮リンク|パンプリー・パヒーッターヌコーン|th|ปานปรีย์ พหิทธานุกร}}<br> {{仮リンク|アヌティン・チャンウィーラクーン|th|อนุทิน ชาญวีรกูล}}<br> {{仮リンク|パチャラワット・ウォンスワン|th|พัชรวาท วงษ์สุวรรณ}}(弟)<br> {{仮リンク|ピーラファン・サリーラタヴィファーク|th|พีระพันธุ์ สาลีรัฐวิภาค}}<br>}} {{s-bef|before=[[ソムチャーイ・ウォンサワット]]<br><br/>[[インラック・シナワトラ]]}} {{s-ttl|title=[[File:Emblem_of_the_Ministry_of_Defence_of_Thailand.svg|25px]] [[国防省 (タイ)|防衛大臣]]|years=第34代:2008年 - 2011年<br>第37代:2014年 - 2019年}} {{s-aft|after={{仮リンク|ユッタサック・サシプラファー|th|ยุทธศักดิ์ ศศิประภา}}<br><br/>プラユット・チャンオチャ}} |- {{end box}} [[Category:バンコク出身の人物]]
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エスタディオ・デポルティーボ・カリ
エスタディオ・デポルティーボ・カリ(スペイン語: Estadio Deportivo Cali)は、コロンビア・バジェ・デル・カウカ県パルミラにあるサッカー専用スタジアム。2010年に開場し、デポルティーボ・カリがホームスタジアムとして使用している。 エクアドルの建築家ホセ・ビセンテ・ビテーリ設計の下、2001年8月24日に新スタジアムの建設工事が着工した。総工費7,500万ドルを投じて2010年2月21日に竣工を迎えた。なお、スタジアムでの試合は2008年10月から試験的に実施されており、2008年11月にはコロンビア代表の国際Aマッチも行われている。 スタジアムはサンティアゴ・デ・カリとパルミラを直線上に結んだ中央部分に位置しており、周囲は田畑に囲まれている。東と西スタンドは屋根に覆われているが、北と南スタンドは屋根がない。2015年よりコンクリートの舗装のみだったスタンドに緑に塗装されたプラスチック製の座席を設置している。
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エスタディオ・デポルティーボ・カリは、コロンビア・バジェ・デル・カウカ県パルミラにあるサッカー専用スタジアム。2010年に開場し、デポルティーボ・カリがホームスタジアムとして使用している。
{{スタジアム情報ボックス |スタジアム名称 = エスタディオ・デポルティーボ・カリ<br />Estadio Deportivo Cali |愛称 = |画像 = <br />2023年のスタジアム {{Infobox mapframe|zoom=13|frame-width=300|type=point|marker=soccer}} |所在地 = {{COL}} [[パルミラ (コロンビア)|パルミラ]] |位置 = {{coord|03|31|17.79|N|76|25|01.33|W|type:landmark|display=inline, title}} |起工 = 2001年8月24日 |開場 = 2010年2月21日 |修繕 = |拡張 = |閉場 = |取り壊し = |所有者 = [[デポルティーボ・カリ]] |運用者 = 同上 |グラウンド = [[芝|天然芝]] |ピッチサイズ = 110 x 75m |照明 = |大型映像装置 = |建設費 = 7,500万ドル |設計者 = {{flagicon|ECU}} ホセ・ビセンテ・ビテーリ |建設者 = |ウェブサイト = [https://estadiodeportivocali.co/ estadiodeportivocali.co] |旧称 = |使用チーム、大会 = [[デポルティーボ・カリ]](2010年-) |収容能力 = 52,000人 |アクセス = }} '''エスタディオ・デポルティーボ・カリ'''({{lang-es|Estadio Deportivo Cali}})は、[[コロンビア]]・[[バジェ・デル・カウカ県]][[パルミラ (コロンビア)|パルミラ]]にある[[サッカー専用スタジアム]]。2010年に開場し、[[デポルティーボ・カリ]]がホームスタジアムとして使用している。 == 概要 == エクアドルの建築家ホセ・ビセンテ・ビテーリ設計の下、2001年8月24日に新スタジアムの建設工事が着工した<ref>{{Cite web|title=Estadio Deportivo Cali|url=https://web.archive.org/web/20150713052601/http://www.delacarreracavanzo.com/nuevo/es/institucional/101-estadio-cali|accessdate=2023-12-28|language=es}}</ref>。総工費7,500万ドルを投じて2010年2月21日に竣工を迎えた。なお、スタジアムでの試合は2008年10月から試験的に実施されており、2008年11月には[[サッカーコロンビア代表|コロンビア代表]]の[[国際Aマッチ]]も行われている<ref>{{Cite web|title=CRONICA DEPORTIVA|url=http://www.estadiodeportivocali.com.co/dc/index.php/historia/cronica-deportiva.html|date=2008-11-19|accessdate=2023-12-28|language=es|publisher=}}</ref>。 スタジアムは[[サンティアゴ・デ・カリ]]と[[パルミラ (コロンビア)|パルミラ]]を直線上に結んだ中央部分に位置しており、周囲は田畑に囲まれている。東と西スタンドは屋根に覆われているが、北と南スタンドは屋根がない。2015年よりコンクリートの舗装のみだったスタンドに緑に塗装されたプラスチック製の座席を設置している<ref>{{Cite web|title=El Metropolitano se pinta de rojo, blanco y azul, y su aforo baja a 50 000 puestos|url=http://www.elheraldo.co/deportes/el-metropolitano-se-pinta-de-rojo-blanco-y-azul-y-su-aforo-baja-49612-puestos|accessdate=2023-12-28|language=es|publisher=El Heraldo}}</ref>。 == 開催された主な大会・試合 == *[[国際Aマッチ]] {| class="wikitable" |- !日付!!チーム#1!!結果!!チーム#2!!ラウンド |- |2008年11月19日||{{COLf}}||align="center"|1-0||{{NGAf}}||親善試合 |} == ギャラリー == <gallery widths="200" style="font-size:98%;"> ファイル:FRV en Norte.jpg|2008年の内観 ファイル:SportingCali12.png|2010年の内観 ファイル:Glorioso vs luqueño 17.jpg|2017年の内観 </gallery> {{wide image|Deportivo Cali vs Boca Juniors Libertadores 24.jpg|900px|<center>2016年に撮影されたパノラマ</center>}} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Estadio Deportivo Cali}} *[https://estadiodeportivocali.co/ 公式ウェブサイト] {{es icon}} {{デフォルトソート:てほるていほ かり}} [[Category:コロンビアのサッカー競技施設]] [[Category:バジェ・デル・カウカ県]] [[Category:2010年開設のスポーツ施設]]
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本條晴一郎
本條 晴一郎(ほんじょう せいいちろう)は、日本の経営学者。学術博士(東京大学)。経営学博士(法政大学)。静岡大学学術院工学領域事業開発マネジメント(MOT)系列准教授。法政大学イノベーション・マネジメント研究センター 客員研究員。防災士。 筑波大学附属駒場高等学校、東京大学教養学部理科一類入学を経て、東京大学大学院総合文化研究科にて広域科学を専攻し、博士後期課程を修了。学術振興会特別研究員、龍谷大学アフラシア平和開発研究センター公募研究員、中央農業総合研究センター生産支援システム研究チームリサーチフェロー、東京大学東洋文化研究所特任研究員、NTTドコモモバイル社会研究所副主任研究員などを務めつつ、2021年に法政大学大学院経営学研究科経営学専攻、博士課程を修了した。 日本マーケティング学会 理事、日本消費者行動研究学会 幹事 なども担当。
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本條 晴一郎は、日本の経営学者。学術博士(東京大学)。経営学博士(法政大学)。静岡大学学術院工学領域事業開発マネジメント(MOT)系列准教授。法政大学イノベーション・マネジメント研究センター 客員研究員。防災士。
{{Infobox 学者 |名前= 本條 晴一郎<br />ほんじょう せいいちろう |画像= |画像サイズ= |画像代替説明= |画像説明= |全名= |別名= |誕生名= |生年月日= <!-- {{生年月日と年齢|YYYY|MM|DD}} --> |生誕地= <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> |没年月日= <!-- {{死亡年月日と没年齢|YYYY|MM|DD|YYYY|MM|DD}} --> |死没地= <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> |死因= |居住= |市民権= |国籍= |出身校= [[東京大学教養学部]] |配偶者= |両親= |子供= |時代= |活動地域= |学派= |研究分野= [[商学]]<br/>[[自然科学]] |研究機関= [[静岡大学]] |博士課程指導教員= |他の指導教員= |博士論文指導学生= |主な指導学生= |学位= [[学術博士]](東京大学)<br/>[[経営学博士]](法政大学) |称号= |特筆すべき概念= |主な業績= |主要な作品= 『消費者によるイノベーション : 分野外情報の有効性』(千倉書房、2022年) |影響を受けた人物= |影響を与えた人物= |学会= |主な受賞歴= 「日本商業学会」著書部門 奨励賞 |署名= |公式サイト= |脚注= }} '''本條 晴一郎'''(ほんじょう せいいちろう)は、日本の[[経営学者]]。学術博士([[東京大学]])。経営学博士([[法政大学]])。[[静岡大学]]学術院工学領域事業開発マネジメント(MOT)系列准教授。法政大学イノベーション・マネジメント研究センター 客員研究員<ref>[https://riim.ws.hosei.ac.jp/staff/staff_detail.html 本條 晴一郎. 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター]2023年12月28日閲覧。</ref>。[[防災士]]<ref>[https://tdb.shizuoka.ac.jp/RDB/public/Default2.aspx?id=11221&l=0 本條 晴一郎. 静岡大学]2023年12月28日閲覧。</ref>。 == 略歴・人物 == [[筑波大学附属駒場高等学校]]、[[東京大学教養学部]]理科一類入学を経て、[[東京大学大学院総合文化研究科・教養学部|東京大学大学院総合文化研究科]]にて広域科学を専攻し、博士後期課程を修了。学術振興会特別研究員、龍谷大学アフラシア平和開発研究センター公募研究員、中央農業総合研究センター生産支援システム研究チームリサーチフェロー、東京大学東洋文化研究所特任研究員、NTTドコモモバイル社会研究所副主任研究員などを務めつつ、2021年に[[法政大学大学院経営学研究科・経営学部|法政大学大学院経営学研究科]]経営学専攻、博士課程を修了した。 日本マーケティング学会 理事、日本消費者行動研究学会 幹事 なども担当。 == 著作等 == === 単著・共著 === * 『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・キーワード編』(メディア総合研究所、2006年) * 『ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)』([[光文社]]、2007年) * 『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・キーワード編 (文春文庫)』([[文藝春秋]]、2009年) * 『紛争解決 暴力と非暴力 (アフラシア叢書)』([[ミネルヴァ書房]]、2010年) * 『災害に強い情報社会―東日本大震災とモバイル・コミュニケーション』([[エヌティティ出版]]、2013年) * 『モバイル社会の未来:2035年へのロードマップ』(NTT出版、2013年) * 『恋愛ドラマとケータイ (青弓社ライブラリー) 』(青弓社、2014年) * 『デジタル・ワークシフト—マーケティングを変えるキーワード30』(2018年) * 『1からのデジタル・マーケティング』(碩学舎、2019年) * 『消費者によるイノベーション: 分野外情報の有効性』([[千倉書房]]、2022年) == 専門分野 == * [[自然科学]] * [[商学]] == 受賞歴 == * 「日本マーケティング学会カンファレンス2016」ベストペーパー(ドクターコース)賞(2016年) * 「日本消費者行動研究学会」第16回JACS論文プロポーザル賞 優秀賞(2016年) * 「株式会社碩学舎」第5回碩学舎賞 一席(2018年) * 「日本マーケティング学会」ベストオーラルペーパー賞(2019年) == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:ほんしよう せいいちろう}} [[Category:日本の経営学者]] [[Category:静岡大学の教員]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:法政大学出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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今尾の左義長
今尾の左義長とは・・・・・ 多くの「どんど焼き」とか「左義長」の火祭りは小正月(1月14日・15日)を中心に年神を送る火祭りとして、正月飾り等を一定の地に積み、それを焚きあげる方式をとっておりますが、 今尾の左義長の場合は13の町内ごとに作成した青竹の作り物(竹お神輿または左義長という)を各町内より秋葉神社まで担いだり、引いたり(吊り込み)して奉納し、 その竹神輿を焚きあげるという特色のある神事で全国唯一の方式で行っている火祭りの神事です。 左義長の大きさは、大人用みこしで直径2メートル、高さ5メートル、重さ1.5トンぐらいあると云われています。 昭和55年(1980年)に岐阜県の「重要無形民俗文化財」に指定されました。 ※安部鉦二さん今尾の左義長より引用
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井川鳴門
井川 鳴門(いかわ めいもん、1751年(宝暦元年) - 1806年(文化2年12月25日))は、江戸時代の画家。書家。阿波国出身。本姓は橘。名は貢。字は君錫。通称は源兵衛。別号に雪下園、淑慎斎。 名東郡沖浜浦(現在の徳島市沖浜町)の藩士である島田家の出で、井川家の養子となる。京都に出て水墨画と書を学び、名古屋に移住し、晩年は江戸で画業を営んだ。作品に「雪下園画梅譜」などがある。 1806年(文化2年12月25日)、死去。享年55。墓所は徳島県徳島市城南町の実相寺。
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井川 鳴門は、江戸時代の画家。書家。阿波国出身。本姓は橘。名は貢。字は君錫。通称は源兵衛。別号に雪下園、淑慎斎。
'''井川 鳴門'''(いかわ めいもん、[[1751年]]([[宝暦]]元年) - [[1806年]][[2月13日]]([[文化 (元号)|文化]]2年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]))は、[[江戸時代]]の[[画家]]。[[書家]]。[[阿波国]]出身。本姓は橘。名は貢。字は君錫。通称は源兵衛。別号に雪下園、淑慎斎。 == 生涯 == [[名東郡]]沖浜浦(現在の[[徳島市]][[沖浜町 (徳島市)|沖浜町]])の藩士である島田家の出で、井川家の養子となる<ref>『徳島市史 第4巻』([[1973年]]、[[徳島市]])</ref>。[[京都]]に出て[[水墨画]]と[[書]]を学び、[[名古屋]]に移住し、晩年は[[江戸]]で画業を営んだ。作品に「雪下園画梅譜」などがある<ref>『名古屋市史 第1巻』([[名古屋市]]、[[1934年]])</ref>。 [[1806年]][[2月13日]]([[文化 (元号)|文化]]2年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]])、死去。享年55。墓所は[[徳島県]][[徳島市]][[城南町 (徳島市)|城南町]]の[[実相寺 (徳島市)|実相寺]]<ref>『徳島の研究第4巻』(淸文堂、[[1982年]])</ref>。 == 脚注 == <references /> {{Japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:いかわ めいもん}} [[Category:18世紀日本の画家]] [[Category:19世紀日本の画家]] [[Category:江戸時代の画家]] [[Category:阿波国の人物]] [[Category:1751年生]] [[Category:1806年没]]
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ウィルソンビル (オレゴン州)
ウィルソンビル(Wilsonville)は、アメリカ合衆国オレゴン州のクラカマス郡にある都市。人口は2万6664人(2020年)。ポートランドの南西25キロメートルに位置しており、ポートランド都市圏に含まれる。 町の歴史は1846年にアルフォンソ・ブーンがウィラメット川の岸辺に入植したことに始まる。彼は探検家ダニエル・ブーンの孫である。1890年には鉄道が開通した。1968年の自治体設立時の人口は1,000人ほどだった。近年はポートランド都市圏の拡大に伴いベッドタウン化が進行しており人口は急速に増加している。市内の大きな事業所としては、フリアーシステムズ本社とメンター・グラフィックス本社が挙げられる。アメリカ西海岸の幹線道路である州間高速道路5号線が市内を縦断しているため、物流業の事業所も多い。 福島県喜多方市の姉妹都市である。
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ウィルソンビル(Wilsonville)は、アメリカ合衆国オレゴン州のクラカマス郡にある都市。人口は2万6664人(2020年)。ポートランドの南西25キロメートルに位置しており、ポートランド都市圏に含まれる。 町の歴史は1846年にアルフォンソ・ブーンがウィラメット川の岸辺に入植したことに始まる。彼は探検家ダニエル・ブーンの孫である。1890年には鉄道が開通した。1968年の自治体設立時の人口は1,000人ほどだった。近年はポートランド都市圏の拡大に伴いベッドタウン化が進行しており人口は急速に増加している。市内の大きな事業所としては、フリアーシステムズ本社とメンター・グラフィックス本社が挙げられる。アメリカ西海岸の幹線道路である州間高速道路5号線が市内を縦断しているため、物流業の事業所も多い。 福島県喜多方市の姉妹都市である。
{{Infobox settlement |name = ウィルソンビル |official_name = Wilsonville |settlement_type = 市 |image_skyline = Wilsonville Oregon city hall southeast.JPG |imagesize = |image_caption = 市役所 |nickname = |motto = 奉仕は誇り |image_map = Clackamas_County_Oregon_Incorporated_and_Unincorporated_areas_Wilsonville_Highlighted.svg |mapsize = 250px |map_caption = クラカマス郡内の位置 |coordinates = {{coord|45|18|24|N|122|45|59|W|region:US-OR|display=inline,title}} |subdivision_type = 国 |subdivision_name = {{USA}} |subdivision_type1 = 州 |subdivision_name1 = [[オレゴン州]] |subdivision_type2 = 郡 |subdivision_name2 = [[クラカマス郡 (オレゴン州)|クラカマス郡]] |established_title = 法人化 |established_date = 1968年10月10日 |unit_pref = Metric |area_footnotes = <ref name="TigerWebMapServer">{{cite web|title=ArcGIS REST Services Directory|url=https://tigerweb.geo.census.gov/arcgis/rest/services/TIGERweb/Places_CouSub_ConCity_SubMCD/MapServer/5/query?where=STATE='41'&outFields=NAME,STATE,PLACE,AREALAND,AREAWATER,LSADC,CENTLAT,CENTLON&orderByFields=PLACE&returnGeometry=false&returnTrueCurves=false&f=json|publisher=United States Census Bureau|accessdate=October 12, 2022}}</ref> | area_total_km2 = 20.09 | area_total_sq_mi = 7.76 | area_land_km2 = 19.56 | area_land_sq_mi = 7.55 | area_water_km2 = 0.53 | area_water_sq_mi = 0.21 | elevation_footnotes = <ref name=gnis>{{GNIS|2412277}}</ref> | elevation_ft = 177 | population_as_of = 2020年 | population_footnotes = <ref>{{citeweb|url=https://www.census.gov/quickfacts/fact/table/wilsonvillecityoregon/PST045222|title=Quickfacts.census.gov|accessdate=28 Dec 2023}}</ref> | population_total = 26,664 | website = {{URL|http://www.ci.wilsonville.or.us/}} | footnotes = }} '''ウィルソンビル'''(Wilsonville)は、[[アメリカ合衆国]][[オレゴン州]]の[[クラカマス郡 (オレゴン州)|クラカマス郡]]にある都市。人口は2万6664人(2020年)。[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]の南西25キロメートルに位置しており、[[ポートランド都市圏]]に含まれる。 町の歴史は1846年にアルフォンソ・ブーンが[[ウィラメット川]]の岸辺に[[入植]]したことに始まる。彼は探検家[[ダニエル・ブーン]]の[[孫]]である<ref>{{citeweb|url=https://wilsonvillechamber.com/relocation/history/|title=Wilsonville Chamber.com|accessdate=27 Dec 2023}}</ref>。1890年には鉄道が開通した。1968年の自治体設立時の人口は1,000人ほどだった。近年はポートランド都市圏の拡大に伴い[[ベッドタウン]]化が進行しており人口は急速に増加している。市内の大きな事業所としては、[[フリアーシステムズ]]本社と[[メンター・グラフィックス]]本社が挙げられる。[[アメリカ西海岸]]の幹線道路である[[州間高速道路5号線]]が市内を縦断しているため、[[物流業]]の事業所も多い。 [[福島県]][[喜多方市]]の[[姉妹都市]]である。 == 出典 == {{reflist}} {{オレゴン州}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ういるそんひる}} [[Category:オレゴン州の都市]] [[Category:クラカマス郡 (オレゴン州)]] [[Category:ポートランド都市圏]]
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第77回ライスボウル
第77回ライスボウル(Rice Bowl 77 by Prudential)は、2023年シーズンのXリーグのチャンピオンを決めるアメリカンフットボールの試合。2024年1月3日に東京ドームで開催される。 ディビジョンAからパナソニック インパルス、ディビジョンBから富士通フロンティアーズが出場し対戦する。キックオフは日本時間15時(UTC+9)。 パナソニック インパルスと富士通フロンティアーズが対戦する77回目のライスボウル。インパルスは3年連続18回目の決勝進出で、出場回数を全チーム最多の18回に伸ばした。対するフロンティアーズは11年連続15回目の出場であり、自身の持つ10年連続出場の記録を更新した。勝利すれば、インパルスは2015年の第29回ジャパンXボウル以来7年ぶり8度目、フロンティアーズは昨年の第76回ライスボウル以来3年連続8度目のXリーグ優勝となる。両チームが決勝で対戦するのは3年連続6回目で、過去の対戦成績はインパルスが2勝、フロンティアーズが3勝である。3年連続同一カードでの開催はXリーグ史上初である。 パナソニックを母体とする実業団チーム。1988年シーズンに初めて社会人決勝戦進出し、1990年シーズンに初の社会人優勝を果たした。その後は、創部20年目にあたる1994年、1995年、創部30年目の2004年、2007年、2008年、2015年シーズンの計7回の社会人優勝を果たしている。Xリーグ決勝進出は今年を含めて18回であり、リーグ最多である。 今シーズンは開幕戦のノジマ相模原戦を30-10で快勝すると、その後全試合で2タッチダウン以上という得点力で勝利を積み上げ、レギュラーシーズン全勝、ディビジョンA1位でプレーオフに進出した。 クオーターファイナルはアサヒビールと対戦。試合開始直後にWRミッチェル・ビクタージャモーのビッグリターンで流れに乗り、オフェンス・ディフェンス・キッキングすべてで安定した試合運びを見せた。第3Q終了時点には27点差をつけて、相手の得点を許さず圧勝した。セミファイナルはIBMと対戦し、強力なオフェンスでTDを重ね、24点差をつける圧勝でライスボウル進出を決めた。 富士通を母体とする実業団チーム。2013年シーズンから11年連続の決勝進出であり、過去10年で最も勢いのあるチームの一つである。チーム創設以来中堅チームとして決勝へ進出する機会は少なかったが、2009年シーズンからの14年間では、決勝進出12回、優勝7回と圧倒的な成績を誇り、オービックと同率のリーグ4連覇の記録も保持する強豪チームである。 昨シーズン王者のフロンティアーズは、今シーズンもQB高木翼、WRサマジー・グラント、RBトラショーン・ニクソンを擁する強力なオフェンス陣と、DLマシス・ジョー、DBブロンソン・ビーティ―らのディフェンス陣のバランスのとれた陣容で、レギュラーシーズン平均得点・平均失点ともにリーグトップの成績を誇った。レギュラーシーズンを全勝し、ディビジョンB1位でプレーオフに進出した。 クオーターファイナルでは東京ガスに先制点を許したが、第2Qに逆転し、その後フィールドゴールでリードを広げて勝利した。セミファイナルではオービックと対戦。WRサマジー・グラントのワンハンドキャッチTDで一時はリードを広げたが、第4QにオービックのRB李のTDで同点に追いつかれた。しかし試合終盤にRBトラショーン・ニクソンのTDで勝ち越し、これが決勝点となりライスボウル進出を決めた。 試合前に行われるオープニングショーでは、Xリーグの各チームのチアリーダーズによるショーが行われる。 2023年11月6日、ロックバンドのWANIMAがヘッドライナーとしてパフォーマンスを行うと発表された。
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第77回ライスボウルは、2023年シーズンのXリーグのチャンピオンを決めるアメリカンフットボールの試合。2024年1月3日に東京ドームで開催される。 ディビジョンAからパナソニック インパルス、ディビジョンBから富士通フロンティアーズが出場し対戦する。キックオフは日本時間15時(UTC+9)。
{{予定されているスポーツイベント}} {{アメリカンフットボールの試合 | name = プルデンシャル生命杯<br/>第77回ライスボウル | image = | caption = '''Rice Bowl 77 by Prudential''' | visitor = [[パナソニック インパルス|パナソニック<br/>インパルス]] | home = [[富士通フロンティアーズ|富士通<br/>フロンティアーズ]] | visitor abbr = PI | home abbr = FF | visitor coach = 荒木延祥 | home coach = 山本洋 | visitor total = | home total = | visitor qtr1 = | visitor qtr2 = | visitor qtr3 = | visitor qtr4 = | home qtr1 = | home qtr2 = | home qtr3 = | home qtr4 = | date = 2024年1月3日 | stadium = [[東京ドーム]] | city = [[東京都]][[文京区]] | attendance = | odds = | MVP = | anthem = | coin_toss = | referee = | halftime = [[WANIMA]] | network = [[NHK BS]] | announcers = }} '''第77回[[ライスボウル]]'''(Rice Bowl 77 by Prudential)は、[[2023年のXリーグ|2023年シーズン]]の[[Xリーグ]]のチャンピオンを決める[[アメリカンフットボール]]の試合。2024年1月3日に[[東京ドーム]]で開催される。 ディビジョンAから[[パナソニック インパルス]]、ディビジョンBから[[富士通フロンティアーズ]]が出場し対戦する。キックオフは[[日本標準時|日本時間]]15時([[協定世界時|UTC+9]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://xleague.jp/feature/ricebowl77 |title=アメリカンフットボール日本選手権プルデンシャル生命杯第77回ライスボウル|publisher=Xリーグ|accessdate=2023-12-1}}</ref>。 == 出場チーム == [[パナソニック インパルス]]と[[富士通フロンティアーズ]]が対戦する77回目の[[ライスボウル]]。インパルスは3年連続18回目の決勝進出で、出場回数を全チーム最多の18回に伸ばした。対するフロンティアーズは11年連続15回目の出場であり、自身の持つ10年連続出場の記録を更新した。勝利すれば、インパルスは2015年の第29回ジャパンXボウル以来7年ぶり8度目、フロンティアーズは昨年の第76回ライスボウル以来3年連続8度目のXリーグ優勝となる。両チームが決勝で対戦するのは3年連続6回目で、過去の対戦成績はインパルスが2勝、フロンティアーズが3勝である。3年連続同一カードでの開催はXリーグ史上初である。 :{| class="wikitable", style="text-align:center;font-size:85%; |bgcolor=01589F|<span style="color:white;"><small>'''インパルス勝利'''</small></span> |bgcolor=808080|<span style="color:white;"><small>'''引き分け'''</small></span> |bgcolor=FF0000|<span style="color:white;"><small>'''フロンティアーズ勝利'''</small></span> |} {| class="wikitable", style="text-align:center;font-size:85%; ! シーズン !! 大会 !! 勝者 !! スコア !! 敗者 |- |2007 |第21回ジャパンXボウル ||松下電工インパルス||bgcolor=01589F|<center><span style="color:white;">33–13</span>||富士通フロンティアーズ |- |2015 |第29回ジャパンXボウル ||パナソニック インパルス||bgcolor=01589F|<center><span style="color:white;">24–21||富士通フロンティアーズ</span> |- |[[2019年のXリーグ|2019]] |第33回ジャパンXボウル ||富士通フロンティアーズ||bgcolor=FF0000|<center><span style="color:white;">28–26||パナソニック インパルス</span> |- |[[2021年のXリーグ|2021]] |第75回ライスボウル ||富士通フロンティアーズ||bgcolor=FF0000|<center><span style="color:white;">24–18</span>||パナソニック インパルス |- |[[2022年のXリーグ|2022]] |第76回ライスボウル ||富士通フロンティアーズ||bgcolor=FF0000|<center><span style="color:white;">29–21</span>||パナソニック インパルス |- |} === パナソニック インパルス === {{main|パナソニック インパルス}} [[パナソニック]]を母体とする[[実業団]]チーム。1988年シーズンに初めて社会人決勝戦進出し、1990年シーズンに初の社会人優勝を果たした。その後は、創部20年目にあたる1994年、1995年、創部30年目の2004年、2007年、2008年、2015年シーズンの計7回の社会人優勝を果たしている。Xリーグ決勝進出は今年を含めて18回であり、リーグ最多である。 今シーズンは開幕戦のノジマ相模原戦を30-10で快勝すると、その後全試合で2タッチダウン以上という得点力で勝利を積み上げ、レギュラーシーズン全勝、ディビジョンA1位でプレーオフに進出した。 クオーターファイナルはアサヒビールと対戦。試合開始直後にWRミッチェル・ビクタージャモーのビッグリターンで流れに乗り、オフェンス・ディフェンス・キッキングすべてで安定した試合運びを見せた。第3Q終了時点には27点差をつけて、相手の得点を許さず圧勝した。セミファイナルはIBMと対戦し、強力なオフェンスでTDを重ね、24点差をつける圧勝でライスボウル進出を決めた。 === 富士通フロンティアーズ === {{main|富士通フロンティアーズ}} [[富士通]]を母体とする実業団チーム。2013年シーズンから11年連続の決勝進出であり、過去10年で最も勢いのあるチームの一つである。チーム創設以来中堅チームとして決勝へ進出する機会は少なかったが、2009年シーズンからの14年間では、決勝進出12回、優勝7回と圧倒的な成績を誇り、[[オービックシーガルズ|オービック]]と同率のリーグ4連覇の記録も保持する強豪チームである。 昨シーズン王者のフロンティアーズは、今シーズンもQB高木翼、WRサマジー・グラント、RBトラショーン・ニクソンを擁する強力なオフェンス陣と、DLマシス・ジョー、DBブロンソン・ビーティ―らのディフェンス陣のバランスのとれた陣容で、レギュラーシーズン平均得点・平均失点ともにリーグトップの成績を誇った。レギュラーシーズンを全勝し、ディビジョンB1位でプレーオフに進出した。 クオーターファイナルでは東京ガスに先制点を許したが、第2Qに逆転し、その後フィールドゴールでリードを広げて勝利した。セミファイナルではオービックと対戦。WRサマジー・グラントのワンハンドキャッチTDで一時はリードを広げたが、第4QにオービックのRB李のTDで同点に追いつかれた。しかし試合終盤にRBトラショーン・ニクソンのTDで勝ち越し、これが決勝点となりライスボウル進出を決めた。 === 両チームの戦績 === {| style="background-color: transparent; width:100%;" | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:90%;" |+パナソニックの戦績 ! 週 !! 日付 !! 相手 !! 結果 !! 勝敗 |- !colspan=5|レギュラーシーズン |-style="background:#cfc" ! 1 | 9/9 | [[相模原ライズ|ノジマ相模原ライズ]] | 30-10 | 1-0 |-style="background:#cfc" ! 2 | 9/23 | [[東京ガスクリエイターズ]] | 28-21 | 2-0 |-style="background:#cfc" ! 3 | 10/8 | [[電通キャタピラーズ]] | 65-0 | 3-0 |-style="background:#cfc" ! 4 | 10/22 | [[アサヒ飲料チャレンジャーズ|アサヒ飲料クラブチャレンジャーズ]] | 40-13 | 4-0 |-style="background:#cfc" ! 5 | 11/4 | [[オービックシーガルズ]] | 14-9 | 5-0 |- ! colspan=5| プレーオフ(Div.A 1位) |-style="background:#cfc" !QF |11/19 | アサヒビールシルバースター | 27-0 | |- |-style="background:#cfc" !SF |12/10 | IBM BIG BLUE | 47-23 | |- |colspan="5" style="text-align:center;" scope="row"|{{colorbox|#cfc|勝利}} {{colorbox|#fcc|敗戦}} |- ! colspan=5|過去3年の戦績 |- !年!! colspan=2|結果!!{{abbr|順位|レギュラーシーズン順位}}!!{{abbr|勝敗|レギュラーシーズン勝敗}} |- ![[2020年のXリーグ|2020]] | colspan=2|レギュラーシーズン敗退 | - | 1-1 |- ![[2021年のXリーグ|2021]] | colspan=2|ライスボウル敗退 | 1位 | 7-0 |- ![[2022年のXリーグ|2022]] | colspan=2|ライスボウル敗退 | A1位 | 5-0 |- |colspan="5" style="text-align:center;" scope="row"|'''QF''':クオーターファイナル<br /> '''SF''':セミファイナル |} | style=" text-align: left; vertical-align:top ;float:left;" | {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:90%;" |+富士通の戦績 ! 週 !! 日付 !! 相手 !! 結果 !! 勝敗 |- !colspan=5|レギュラーシーズン |-style="background:#cfc" ! 1 | 9/9 | [[エレコム神戸ファイニーズ]] | 31–14 | 1–0 |-style="background:#cfc" ! 2 | 9/24 | [[胎内ディアーズ]] | 60–3 | 2–0 |-style="background:#cfc" ! 3 | 10/8 | [[福岡SUNS|otonari福岡SUNS]] | 73–0 | 3–0 |-style="background:#cfc" ! 4 | 10/22 | [[アサヒビールシルバースター]] | 37–10 | 4–0 |-style="background:#cfc" ! 5 | 11/5 | [[IBMビッグブルー|IBM BIG BLUE]] | 43–7 | 5–0 |- ! colspan=5| プレーオフ(Div.B 1位) |-style="background:#cfc" !QF |11/19 | 東京ガスクリエイターズ | 10-3 | |-style="background:#cfc" !SF |12/10 | オービックシーガルズ | 24-17 | |- |colspan="5" style="text-align:center;" scope="row"|{{colorbox|#cfc|勝利}} {{colorbox|#fcc|敗戦}} |- ! colspan=5|過去3年の戦績 |- !年!! colspan=2|結果!!{{abbr|順位|レギュラーシーズン順位}}!!{{abbr|勝敗|レギュラーシーズン勝敗}} |- ![[2020年のXリーグ|2020]] | colspan=2|ジャパンXボウル敗退 | - | 3-0 |- ![[2021年のXリーグ|2021]] | colspan=2|'''ライスボウル制覇''' | 2位 | 6-1 |- ![[2022年のXリーグ|2022]] | colspan=2|'''ライスボウル制覇''' | B1位 | 5-0 |- |colspan="5" style="text-align:center;" scope="row"|'''QF''':クオーターファイナル<br /> '''SF''':セミファイナル <br /> |} |} == エンターテイメント == === 試合前 === 試合前に行われるオープニングショーでは、Xリーグの各チームのチアリーダーズによるショーが行われる。 === ハーフタイムショー === [[2023年]][[11月6日]]、[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]の[[WANIMA]]がヘッドライナーとしてパフォーマンスを行うと発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://xleague.jp/news/42088 |title=ライスボウルハーフタイムショーにWANIMAの出演が決定!! 来年1月3日東京ドームが特別ライブ会場に!|publisher=Xリーグ|date=2023-11-6|accessdate=2023-11-6}}</ref>。 == シーズン・トーナメント == === 順位推移表 === {{Col-begin}} {{Col-2}} {{#invoke:Sports rbr table|table |title=Division A |sortable=y |legendpos=b |labelnowrap=yes |color_1=1st |text_1=1位 |color_2=green1 |text_2=2位 |color_3=blue1 |text_3=3位 |color_6=red1 |text_6=入替戦 |source=[https://xleague.jp/schedule/2023l=日程・結果 X LEAGUE公式サイト] |update=complete <!--チーム(修正不要)--> |name_PI=[[パナソニック インパルス]] |name_OS=[[オービックシーガルズ]] |name_NR=[[相模原ライズ|ノジマ相模原ライズ]] |name_TC=[[東京ガスクリエイターズ]] |name_AC=[[アサヒ飲料チャレンジャーズ|アサヒ飲料チャレンジャーズ]] |name_DC=[[電通キャタピラーズ]] <!-- 順位変動 --> |team1 =PI |pos_PI=2/3/1/1/1 |team2 =OS |pos_OS=1/1/2/2/2 |team3 =NR |pos_NR=5/5/5/5/3 |team4 =TC |pos_TC=4/4/4/4/4 |team5 =AC |pos_AC=3/2/3/3/5 |team6 =DC |pos_DC=6/6/6/6/6 }} {{Col-2}} {{#invoke:Sports rbr table|table |title=Division B |sortable=y |legendpos=b |labelnowrap=yes |color_1=1st |text_1=1位 |color_2=green1 |text_2=2位 |color_3=blue1 |text_3=3位 |color_6=red1 |text_6=入替戦 |source=[https://xleague.jp/schedule/2023l=日程・結果 X LEAGUE公式サイト] |update=complete <!--チーム(修正不要)--> |name_FF=[[富士通フロンティアーズ]] |name_IB=[[IBMビッグブルー]] |name_EF=[[エレコム神戸ファイニーズ]] |name_AS=[[アサヒビールシルバースター]] |name_FS=[[福岡SUNS]] |name_TD=[[胎内ディアーズ]] <!-- 順位変動 --> |team1 =FF |pos_FF=2/1/1/1/1 |team2 =IB |pos_IB=1/2/2/2/2 |team3 =EF |pos_EF=5/5/4/4/3 |team4 =AS |pos_AS=3/3/3/3/4 |team5 =FS |pos_FS=6/4/6/6/5 |team6 =TD |pos_TD=4/6/5/5/6 }} {{Col-end}} === トーナメント === {{8TeamBracket | RD1='''クォーターファイナル''' | RD2='''セミファイナル''' | RD3='''第77回[[ライスボウル]]''' | teamwidth=16 | RD1-seed1= | RD1-team1=[[アサヒビールシルバースター|アサヒビール]] | RD1-score1=0 | RD1-seed2= | RD1-team2='''[[パナソニック インパルス|パナソニック]]''' | RD1-score2='''27''' | RD1-seed3= | RD1-team3=[[相模原ライズ|ノジマ相模原]] | RD1-score3=21 | RD1-seed4= | RD1-team4='''[[IBMビッグブルー|IBM]]''' | RD1-score4='''24''' | RD1-seed5= | RD1-team5=[[エレコム神戸ファイニーズ|エレコム神戸]] | RD1-score5=7 | RD1-seed6= | RD1-team6='''[[オービックシーガルズ|オービック]]''' | RD1-score6='''17''' | RD1-seed7= | RD1-team7=[[東京ガスクリエイターズ|東京ガス]] | RD1-score7=3 | RD1-seed8= | RD1-team8='''[[富士通フロンティアーズ|富士通]]''' | RD1-score8='''10''' | RD2-seed1= | RD2-team1=IBM | RD2-score1=23 | RD2-seed2= | RD2-team2='''パナソニック''' | RD2-score2='''47''' | RD2-seed3= | RD2-team3=オービック | RD2-score3=17 | RD2-seed4= | RD2-team4='''富士通''' | RD2-score4='''24''' | RD3-seed1= | RD3-team1=パナソニック | RD3-score1= | RD3-seed2= | RD3-team2=富士通 | RD3-score2= }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[2023年のXリーグ]] *[[第76回ライスボウル]] *[[第78回ライスボウル]] {{Xリーグ}} {{各年のXリーグ}} {{sports-stub}} {{デフォルトソート:らいすほうる77}} [[Category:Xリーグ|77]] [[Category:2024年の日本のスポーツ]] [[Category:2024年の東京都]] [[Category:2024年1月]]
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大久保村 (愛知県)
大久保村(おおくぼむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。 渥美半島の中央部、藤尾山・西山の南麓に位置していた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大久保村(おおくぼむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "渥美半島の中央部、藤尾山・西山の南麓に位置していた。", "title": "地理" } ]
大久保村(おおくぼむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1906年7月16日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = 田原町、[[相川村 (愛知県)|相川村]]、[[童浦村]]、[[大久保村 (愛知県)|大久保村]] → [[田原市|田原町]] | 現在の自治体 = [[田原市]] | よみがな = おおくぼむら | 自治体名 = 大久保村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 愛知県 | 郡 = [[渥美郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = | 人口の出典 = | 人口の時点 = | 隣接自治体 = 田原町、[[神戸村 (愛知県渥美郡)|神戸村]]、[[高松村 (愛知県渥美郡)|高松村]]、[[野田村 (愛知県)|野田村]] | 所在地 = 渥美郡大久保村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''大久保村'''(おおくぼむら{{R|変遷}})は、[[愛知県]][[渥美郡]]にあった[[村]]。現在の[[田原市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[渥美半島]]の中央部、藤尾山・西山の南麓に位置していた{{R|角川}}。 == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)10月1日、[[町村制]]の施行により、渥美郡野田村、大久保村、芦村、仁崎村が合併して村制施行し、'''[[野田村 (愛知県)|野田村]]'''が発足<ref>『市町村名変遷辞典』614頁。</ref>。旧村名を継承した野田、大久保、芦村、仁崎の4大字を編成<ref>『角川日本地名大辞典 23 愛知県』1046頁。</ref>。 *[[1891年]](明治24年)4月15日、渥美郡野田村の大字大久保が分立し、村制施行して'''大久保村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』122頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 23 愛知県』264頁。</ref>。大字は編成せず{{R|角川}}。 *[[1903年]](明治36年)大久保蚕業組合設立{{R|角川}} *[[1906年]](明治39年)7月16日、渥美郡田原町、相川村、童浦村と合併し、'''[[田原市|田原町]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。合併後、田原町大久保となる{{R|角川}}。 == 産業 == *農業{{R|角川}} == 教育 == *[[1892年]](明治25年)尋常小学野田学校分校が大久保尋常小学校に改称{{R|角川}}。1907年(明治40年)田原町南部尋常高等小学校となる{{R|角川}}。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[愛知県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:おおくほむら}} [[Category:渥美郡]] [[Category:田原市域の廃止市町村]] [[Category:1891年設置の日本の市町村]] [[Category:1906年廃止の日本の市町村]]
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ミッツ・マングローブのかしこラジオ
『ミッツ・マングローブのかしこラジオ』は、MBSラジオで2023年度のナイターシーズンオフ期間中の2023年11月9日から毎週木曜18:00 - 20:00「不惑のMラジ木曜日」として生放送されているラジオ番組。 同番組は昭和・平成の音楽やテレビをこよなく愛し、メインパーソナリティを務めるミッツ・マングローブが至極の音楽とカルチャートークで、リスナーの感性を目覚めさせる番組でミッツのパートナーには個性豊かなMBSアナウンサーが週替わりで登場する。 ミッツは活動の拠点を東京に置いているが、番組は東京都赤坂の赤坂Bizタワー28階にあるMBS東京支社のラジオスタジオからではなく茶屋町のMBS大阪本社のラジオスタジオから生放送されているため当番組の生放送が実施されている木曜日は東海道新幹線に乗車して来阪している。 毎週木曜 18:00 - 20:00
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『ミッツ・マングローブのかしこラジオ』は、MBSラジオで2023年度のナイターシーズンオフ期間中の2023年11月9日から毎週木曜18:00 - 20:00「不惑のMラジ木曜日」として生放送されているラジオ番組。
{{基礎情報 ラジオ番組 | 番組名 = ミッツ・マングローブのかしこラジオ | 画像 = <!-- [[File:|200px]] ※「File:」の後に画像ファイルを貼る。画像サイズの変更は「200px」の数字を変える。 --> | 画像説明 = | 愛称 = | ジャンル = トーク番組 | 放送方式 = 生放送 | 放送期間 = [[2023年]][[11月9日]] - | 放送時間 = 毎週木曜18:00 - 20:00 | 放送回数 = | 放送局 = [[MBSラジオ]] | 制作 = | ネットワーク = | パーソナリティ = [[ミッツ・マングローブ]]</br>MBSアナウンサー(週替わり) | スポンサー = [[アンダーツリー|キコーナ]] | 公式サイト = https://www.mbs1179.com/3/ }} '''『ミッツ・マングローブのかしこラジオ』'''は、[[MBSラジオ]]で[[2023年]]度のナイターシーズンオフ期間中の[[2023年]][[11月9日]]から毎週木曜18:00 - 20:00「[[不惑のMラジ]]木曜日」として生放送されているラジオ番組。 == 概要 == 同番組は昭和・平成の音楽やテレビをこよなく愛し、メインパーソナリティを務める[[ミッツ・マングローブ]]が至極の音楽とカルチャートークで、リスナーの感性を目覚めさせる番組でミッツのパートナーには個性豊かなMBSアナウンサーが週替わりで登場する。 ミッツは活動の拠点を東京に置いているが、番組は[[東京都]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の[[赤坂Bizタワー]]28階にあるMBS東京支社のラジオスタジオからではなく茶屋町のMBS大阪本社のラジオスタジオから生放送されているため当番組の生放送が実施されている木曜日は[[東海道新幹線]]に乗車して来阪している。 == 放送時間 == 毎週木曜 18:00 - 20:00 == 出演者 == * [[ミッツ・マングローブ]] * MBSアナウンサー(週替わり) == 主なコーナー == *「大阪かしこニュース」 **関西に縁がないミッツに毎週極めて細かい関西に特化したニュースを紹介するコーナー。 *「しこラジプレイバックカルチャー」 **80年代から90年代のカルチャーからどんなものが流行ったか、CM、流行語、資料をもとに毎週1年ごとに振り返るコーナーでコーナーの終盤にはミッツ自身が作成したその年の流行曲をメドレーで流す。 *「ぽちっと♪Mラジ普及懇談会」 **radikoのエリアフリーで番組を聴くほどラジオが好きなミッツに[[MBSラジオ]]で放送されている番組の中から毎週1つ取り上げてその番組の魅力について紹介するコーナーで、ミッツはどれぐらいその番組を聴きたくなったかを3段階で評価する。 == 外部リンク == * [https://www.mbs1179.com/3/ 公式サイト ] * {{twitter|kashikoradio}} {{radio-substub}} {{DEFAULTSORT:みつつまんくろおふのかしこらしお}} [[Category:2023年のラジオ番組 (日本)]] [[Category:MBSラジオの番組]]
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神田昌幸
神田 昌幸(かんだ まさゆき)は、日本の国土交通技官。倉敷市助役、富山市副市長、筑波大学客員教授、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会施設整備調整局長、国土交通大学校副校長等を経て、全日本スキー連盟理事、大阪府特別参与、大阪市特別参与。 京都府生まれ。洛南高等学校を経て、1986年京都大学大学院工学研究科土木工学専攻修了、建設省入省。建設省土木研究所構造橋梁部橋梁研究室主任研究員を経て、1997年建設省都市局街路課長補佐。 1999年建設省道路局国道課長補佐。2000年建設省東北地方建設局酒田工事事務所長。2002年国土交通省都市・地域整備局都市計画課企画専門官。 2005年倉敷市助役。2007年国土交通省都市・地域整備局街路課企画専門官。2008年国土交通省都市・地域整備局街路交通施設課街路事業調整官。2010年国土交通省都市・地域整備局まちづくり推進課都市総合事業推進室長。 2011年富山市副市長、まちづくりとやま代表取締役社長、富山ライトレール代表取締役副社長。2012年あいの風とやま鉄道取締役。2015年国土交通省都市局街路交通施設課長。2016年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会施設整備調整局長。 2018年国土交通大学校副校長。同年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会パラリンピック競技大会組織委員会輸送局長。2020年全日本スキー連盟理事。2021年日本スノースポーツ&リゾーツ協議会副会長。 2022年大阪府特別参与、大阪市特別参与、大和ハウス工業都市環境創造部常務理事。筑波大学大学院客員教授、京都大学大学院非常勤講師、東京工業大学環境・社会理工学院土木・環境工学系非常勤講師等も歴任した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "神田 昌幸(かんだ まさゆき)は、日本の国土交通技官。倉敷市助役、富山市副市長、筑波大学客員教授、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会施設整備調整局長、国土交通大学校副校長等を経て、全日本スキー連盟理事、大阪府特別参与、大阪市特別参与。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "京都府生まれ。洛南高等学校を経て、1986年京都大学大学院工学研究科土木工学専攻修了、建設省入省。建設省土木研究所構造橋梁部橋梁研究室主任研究員を経て、1997年建設省都市局街路課長補佐。", "title": "人物・経歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1999年建設省道路局国道課長補佐。2000年建設省東北地方建設局酒田工事事務所長。2002年国土交通省都市・地域整備局都市計画課企画専門官。", "title": "人物・経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2005年倉敷市助役。2007年国土交通省都市・地域整備局街路課企画専門官。2008年国土交通省都市・地域整備局街路交通施設課街路事業調整官。2010年国土交通省都市・地域整備局まちづくり推進課都市総合事業推進室長。", "title": "人物・経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2011年富山市副市長、まちづくりとやま代表取締役社長、富山ライトレール代表取締役副社長。2012年あいの風とやま鉄道取締役。2015年国土交通省都市局街路交通施設課長。2016年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会施設整備調整局長。", "title": "人物・経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2018年国土交通大学校副校長。同年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会パラリンピック競技大会組織委員会輸送局長。2020年全日本スキー連盟理事。2021年日本スノースポーツ&リゾーツ協議会副会長。", "title": "人物・経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2022年大阪府特別参与、大阪市特別参与、大和ハウス工業都市環境創造部常務理事。筑波大学大学院客員教授、京都大学大学院非常勤講師、東京工業大学環境・社会理工学院土木・環境工学系非常勤講師等も歴任した。", "title": "人物・経歴" } ]
神田 昌幸は、日本の国土交通技官。倉敷市助役、富山市副市長、筑波大学客員教授、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会施設整備調整局長、国土交通大学校副校長等を経て、全日本スキー連盟理事、大阪府特別参与、大阪市特別参与。
'''神田 昌幸'''(かんだ まさゆき)は、[[日本]]の[[国土]][[交通]][[技官]]。[[倉敷市]][[助役]]、[[富山市]][[副市町村長|副市長]]、[[筑波大学]][[客員教授]]、[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会]]施設整備調整[[局長]]、[[国土交通大学校]]副校長等を経て、[[全日本スキー連盟]][[理事]]、[[大阪府]]特別参与、[[大阪市]]特別参与。 ==人物・経歴== [[京都府]]生まれ。[[洛南高等学校]]を経て、1986年[[京都大学大学院工学研究科]][[土木工学]]専攻修了、[[建設省]]入省<ref>[https://mainichi.jp/articles/20181030/org/00m/010/028000c 毎日フォーラム・霞が関ふるさと記京都府(上)]毎日新聞2018/11/9 09:48</ref><ref name="pa">[http://www.parkingpress.jp/taidan/pdf/202205.pdf 元(公財)東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 輸送局長 大和ハウス工業株式会社 常務理事 大阪府・市 特別参与/(公財)全日本スキー連盟 理事 神田 昌幸]自転車・バイク・自動車駐車場 パーキングプレス</ref><ref name="nu">[https://number.bunshun.jp/articles/-/841184?page=2 東京五輪の難題・交通管理に挑む。国交省の“異才”は何を考えたか。]NumberWeb 2019/10/23 07:00</ref>。建設省[[土木研究所]]構造橋梁部橋梁研究室[[主任研究員]]を経て、1997年[[建設省都市局]][[街路]]課長補佐。 1999年建設省道路局[[国道]]課長補佐。2000年建設省[[東北地方建設局]][[酒田市|酒田]]工事事務所長。2002年[[国土交通省]][[都市・地域整備局]]都市計画課企画専門官。 2005年[[倉敷市]][[助役]]。2007年国土交通省都市・地域整備局街路課企画専門官。2008年国土交通省都市・地域整備局街路交通施設課街路事業調整官。2010年国土交通省都市・地域整備局まちづくり推進課都市総合事業推進室長。 2011年[[富山市]][[副市町村長|副市長]]、まちづくりとやま[[代表取締役]][[社長]]、[[富山ライトレール]]代表取締役副社長<ref name="pa"/>。2012年[[あいの風とやま鉄道]]取締役<ref>[https://ainokaze.co.jp/pc/pdf/settlement_h25.pdf 第2期事業報告書 事業報告]</ref>。2015年国土交通省都市局街路交通施設課長。2016年[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会]]施設整備調整局長<ref name="nu"/>。 2018年[[国土交通大学校]]副校長。同年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会パラリンピック競技大会組織委員会輸送局長<ref name="nu"/>。2020年[[全日本スキー連盟]][[理事]]<ref name="sn"/>。2021年[[日本スノースポーツ&リゾーツ協議会]]副会長<ref name="pa"/><ref name="sn"/>。 2022年[[大阪府]]特別参与、[[大阪市]]特別参与、[[大和ハウス工業]]都市環境創造部常務理事<ref name="sn">[https://snow.or.jp/actions/docs/20220413_Contribution.pdf 環境志向型のスノーリゾート地を目指す] 日本スノースポーツ&リゾーツ協議会</ref><ref>[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/16323/00000000/tokubetsukomon_list_230817.pdf 特別顧問等一覧(特別顧問12名、特別参与14名)]大阪府</ref>。[[筑波大学]]大学院[[客員教授]]<ref>[https://www.kansai-u.ac.jp/mt/archives/pdf/111219_n_lecture.pdf 経済学部 講演会] 関西大学</ref>、京都大学大学院非常勤講師、[[東京工業大学環境・社会理工学院]]土木・環境工学系非常勤講師等も歴任した<ref name="nu"/><ref>[https://www.cpij.or.jp/com/proj/g141.html 第141回まちづくり懇話会のご案内東京2020大会の輸送と交通マネジメント]日本都市計画学会</ref>。 == 脚注 == <references /> {{-}} {{先代次代|富山市副市長|2011年 - 2015年|[[廣瀬隆正]]|[[中村純 (国土交通技官)|中村純]]}} {{先代次代|東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会施設整備調整局長→輸送局長|2016年 - 2022年|[[廣瀬隆正]]|解散}} {{先代次代|国土交通大学校副校長|2018年|[[工藤啓 (国土交通技官)|工藤啓]]|[[阪口進一]]}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:かんた まさゆき}} [[Category:日本の都市計画官僚]] [[Category:2020年東京オリンピック・パラリンピック]] [[Category:日本の国土交通技官]] [[Category:土木研究所の人物]] [[Category:工学修士取得者]] [[Category:京都大学出身の人物]] [[Category:洛南高等学校出身の人物]] [[Category:京都府出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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シュレーディンガー (曲)
『シュレーディンガー』は、KinKi Kidsの47枚目のシングル。2023年12月27日発売。発売元はジャニーズ・エンタテイメント・レコード。 初回盤A(CD+Blu-ray/DVD)、初回盤B(CDのみ)、通常盤(CDのみ)で発売。 表題曲「シュレーディンガー」は、王道ポップスにシティ・ポップの要素を加えた新しくも懐かしいサウンドを感じるナンバーで、2人がきらびやかな衣装でダンスをするMVが11月18日22:00にYouTubeでプレミア公開された。振付は2人のアイデアや希望も取り入れながらYOSHIEが担当した。 クレジット出典 約16分収録予定。
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『シュレーディンガー』は、KinKi Kidsの47枚目のシングル。2023年12月27日発売。発売元はジャニーズ・エンタテイメント・レコード。
{{Infobox Single <!-- プロジェクト:楽曲 をご覧ください --> | Name = シュレーディンガー | Artist = [[KinKi Kids]] | B-side = {{plainlist| *Precious Life(初回盤A) *Midway of Life(初回盤B) *世界中を I LOVE YOU(通常盤) *消えないトーチライト(通常盤) }} | Released = [[2023年]][[12月27日]] | Genre = [[J-POP]] | Label = [[ジャニーズ・エンタテイメント|ジャニーズ・エンタテイメント・レコード]] | Format = [[シングル|12cmCD]] | Lyricist = [[山崎あおい]] | Composer = [[U-key zone]] | Producer = | Certification = | Chart position = | Last single = [[The Story of Us]]<br/>(2023年) | This single = '''シュレーディンガー'''<br/>(2023年) | Next single = }} 『'''シュレーディンガー'''』は、[[KinKi Kids]]の47枚目の[[シングル]]<ref name="oricon20231117">{{Cite web|和書| url = https://www.oricon.co.jp/news/2302911/full/| title = KinKi Kids、47枚目シングル「シュレーディンガー」12・27発売 MVプレミア公開決定| date = 2023-11-17| website = ORICON NEWS| publisher = oricon ME| accessdate = 2023-12-28}}</ref>。[[2023年]][[12月27日]]発売。発売元は[[ジャニーズ・エンタテイメント|ジャニーズ・エンタテイメント・レコード]]<ref name="JE">{{Cite web|和書| url = https://www.jehp.jp/s/je/discography/JECN-0814| title = シュレーディンガー|KinKi Kids| website = Johnny's Entertainment Record| publisher = ジャニーズ・エンタテイメント| accessdate = 2023-12-28}}</ref>。 == 解説 == 初回盤A(CD+Blu-ray/DVD)、初回盤B(CDのみ)、通常盤(CDのみ)で発売<ref name="JE" />。 表題曲「シュレーディンガー」は、王道ポップスに[[シティ・ポップ]]の要素を加えた新しくも懐かしいサウンドを感じるナンバーで<ref name="oricon20231117" />、2人がきらびやかな衣装でダンスをするMVが11月18日22:00にYouTubeでプレミア公開された<ref>{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/music/news/549481| title = KinKi Kidsニューシングル「シュレーディンガー」は山崎あおい作詞| date = 2023-11-17| website = 音楽ナタリー| publisher = ナターシャ| accessdate = 2023-12-28}}</ref>。振付は2人のアイデアや希望も取り入れながらYOSHIEが担当した<ref>{{Cite tweet|author=YOSHIE|user=yoshiebbc|number=1725867055944176026|title=ついに!MVショートバージョン公開‼️いつまでも最高なお二人 本当にカッコいい曲です。…|date=2023-11-18|access-date=2023-12-28}}</ref>。 == 仕様・特典 == ; 仕様<ref name="JE" /> :* 初回盤A・初回盤B・通常盤 - 3面6Pジャケット : ; 先着購入特典<ref name="JE" /> : 形態ごとに絵柄は異なるが<ref name="oricon20231117" />、CD+Blu-ray、CD+DVDは共通デザイン。 :* 初回盤A - クリアファイルA(A4サイズ) :* 初回盤B - クリアファイルB(A4サイズ) :* 通常盤 - クリアファイルC(A4サイズ) : ; 封入特典<ref name="JE" /> : 本作の全形態に封入されているシリアルコード1つと、12月13日に発売済のアルバム『[[P album]]』の全形態に封入されているシリアルコード1つ、計2つを期間内に登録することで「[[P album#「P goods & Performance配信」キャンペーン|P goods & Performance配信]]」キャンペーンに1口分応募可能。 :* 初回盤A - 「シュレーディンガー」シリアルコード :* 初回盤B - 「KinKi Kids ニャンコ ステッカー」4枚、「シュレーディンガー」シリアルコード :* 通常盤 - 「シュレーディンガー」シリアルコード(初回プレスのみ) == 収録曲 == クレジット出典<ref name="JE" /> === 初回盤A === ==== CD ==== #'''シュレーディンガー''' #:作詞:[[山崎あおい]] #:作曲:[[U-key zone]] #:編曲:[[堂島孝平]]、sugerbeans、U-key zone #'''Precious Life''' #:作詞:田中花乃、[[Shusui]] #:作曲:Shusui、Fredrik Hult、Ola Larsson #:編曲:Ola Larsson、Fredrik Hult # シュレーディンガー -Backing Track- ==== Blu-ray/DVD ==== 約16分収録予定。 # '''シュレーディンガー Music Video & Making''' # '''シュレーディンガー Music Video Dance Ver.''' === 初回盤B === # シュレーディンガー #'''Midway of Life''' #:作詞:[[前田たかひろ]] #:作曲:[[林田健司]] #:編曲:[[宗本康兵|363820]] #:コーラスアレンジ:[[岩崎元是]] === 通常盤 === # シュレーディンガー #'''世界中を I LOVE YOU''' #:作詞:[[堂本剛]] #:作曲:Funk Uchino、Gigi、Ryota Nakai #:編曲:斉藤伸也([[ONIGAWARA]]) #:コーラスアレンジ:Ko-saku #'''消えないトーチライト''' #:作詞・作曲:編曲:堂島孝平 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===出典=== {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.jehp.jp/s/je/discography/JECN-0814 シュレーディンガー] - Johnny's Entertainment Record * [https://www.johnnys-net.jp/page?id=discoDetail&artist=8&data=2858 シュレーディンガー] - FAMILY CLUB Official Site * {{YouTube|J1Mv0-ERHDM|KinKi Kids 「シュレーディンガー」 Music Video(short ver.)}} {{KinKi Kids}} {{Single-stub}} {{DEFAULTSORT:しゆれえていんかあ}} [[Category:KinKi Kidsの楽曲]] [[Category:2023年のシングル]] [[Category:ジャニーズエンタテイメントの楽曲]] [[Category:楽曲 し|ゆれえていんかあ]]
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安藤寛夫
安藤寛夫は、1976年(昭和51年)に自由ヶ丘にオープンした昭和30年代をコンセプトにした駄菓子屋「となりのみよちゃん」の創業者兼デザイナー。 昭和30〜38年までの9年間、渋谷区立富ヶ谷小学校、渋谷区立上原中学校に通っており、その間、自宅の30m程先にあった富ヶ谷1丁目の駄菓子屋「こんどう」に毎日のように通っていた。 この原体験が「となりのみよちゃん」のコンセプトでもあり、重要なアイデンティティーとなる。 その後、多摩美術大学グラフィックデザイン科を卒業、大手レコード会社を経て27才の時に「となりのみよちゃん」を創業。後に多くのレトロ系オリジナル商品を制作している。 当時、「となりのみよちゃん」が掘り起こした駄菓子や小物玩具類が再び市民権を得て、現在ではコンビニやスーパーの定番商品にもなっているものもある。
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安藤寛夫は、1976年(昭和51年)に自由ヶ丘にオープンした昭和30年代をコンセプトにした駄菓子屋「となりのみよちゃん」の創業者兼デザイナー。
{{独自研究 |date = 2023-12}} '''安藤 寛夫'''(あんどう ひろお)は、日本の実業家、デザイナー。 1976年(昭和51年)に自由ヶ丘にオープンした[[昭和30年代]]をコンセプトにした[[駄菓子屋]]「[[となりのみよちゃん]]」の[[起業家|創業者]]兼[[デザイナー]]。 == 人物・来歴 == 昭和30〜38年までの9年間、[[渋谷区立富谷小学校|渋谷区立富ヶ谷小学校]]、[[渋谷区立上原中学校]]に通っており、その間、自宅の30m程先にあった富ヶ谷1丁目の駄菓子屋「こんどう」に毎日のように通っていた。 この原体験が「[[となりのみよちゃん]]」の[[コンセプト]]でもあり、重要なアイデンティティーとなる。 その後、[[多摩美術大学]]グラフィックデザイン科を卒業、大手レコード会社を経て27才の時に「[[となりのみよちゃん]]」を創業。後に多くのレトロ系オリジナル商品を制作している。 当時、「[[となりのみよちゃん]]」が掘り起こした[[駄菓子]]や小物玩具類が再び市民権を得て、現在では[[コンビニエンスストア|コンビニ]]やスーパーの定番商品にもなっているものもある。 == 外部リンク == * [https://instagram.com/tonarinomiyochan1976/ となりのみよちゃん] (@tonarinomiyochan1976) - Instagram {{DEFAULTSORT:あんとう ひろお}} [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:日本のデザイナー]]
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テンプ
テンプ(英:balance wheel,balance)とは螺旋状のねじりゼンマイによって中心位置に戻されながら、回転する錘付き歯車である。これが脱進機を動かすことによって時計は正確な時間を刻むことが出来る。テンプは共振によって特定の振動数で運動する調和振動子になっている。 現代に至るまで機械式時計の中枢部として一般的に使用されている部品で近代になってクオーツ時計が登場するまで全ての携帯できる時計に必須の部品であった。 1980年代まで、テンプはクロノメーター、銀行の金庫の時間ロック、軍需品の時限装置、目覚まし時計、キッチンタイマー、ストップウォッチなど広く使用されていた技術だったが、クォーツ技術がこれらの用途を引き継ぎ、現在残っている主な用途は高給機械式時計である。 21世紀の時計のテンプは通常、ベリリウム、銅、鉄の低熱膨張合金であるグリュシデュール製で、スプリングはニヴァロックスなどの低熱弾性係数合金である。 2つの合金がマッチングされているため、残留温度応答が相殺され、温度誤差がさらに小さくなる。空気抵抗を減らすためにホイールは滑らかで、ピボットは精密なジュエルベアリングで支えられている。旧式のバランス・ホイールは、リムの周囲に錘のネジを使用してポイズ(バランス)を調整していたが、現代のホイールは、工場でコンピューター・ポイズド加工が施され、レーザーでリムに正確なピットを焼き付けてバランスをとっている。 テンプは1回のスイングで約1.5回転する。ひげゼンマイが通る細いスリットが先端にあるレバーである。このレバーによって、スリットの後ろにあるゼンマイの部分が固定される。レバーを動かすと、スリットがヒゲゼンマイを上下にスライドさせ、有効長が変わる事でテンプの共振振動数が変わる。調速機はゼンマイの働きを妨げるため、クロノメーターや一部の精密時計には、ジャイロマックスのような調速機のない「フリースプラング」テンプが採用されている。 そのレートはテンプのリムにあるウェイトネジで調整される。 テンプの振動数は、伝統的に1時間あたりのビートを意味するBPH(Beats Per Hour)で測定されるが、ビート/秒やHzも使用される。1拍の長さは、テンプを1回転させ、テンプの向きを反転させる間である。精密な腕時計のテンプは動き回る影響を受けにくくするために速いビートで設計されている。 目覚まし時計やキッチンタイマーは毎秒4拍(14,400BPH)であることが多い。1970年代以前に製造された時計は通常、毎秒5拍(18,000 BPH)が一般的だが、現代の時計は毎秒6拍(21,600 BPH)、毎秒8拍(28,800 BPH)、毎秒10拍(36,000 BPH)である。オーデマ・ピゲは現在、毎秒12拍(43,200 BPH)という非常に高いテンプ振動数の時計を製造している。 第二次世界大戦中、エルジンは毎秒40ビート(144,000 BPH)で作動する非常に精密なストップウォッチを製造して「ジッターバグ」というニックネームを得た。 腕時計に使われるテンプの精度は、1日の誤差数秒程度である。最も精度の高いテンプ式機械時計は、マリンクロノメーターと呼ばれるもので、天測航行用の船舶に搭載され、経度を決定するための正確な時刻情報源として使用されていた。第二次世界大戦までには、1日0.1秒の精度を達成していた。 テンプの振動周期 T(秒)は、1 サイクル(2拍動)に必要な時間で、ホイールの慣性モーメント I(キログラム・ メートル )とヒゲゼンマイの硬さ(ばね定数)κ(ニュートン・メートル/ラジアン)によって決まる。 テンプは14世紀のヨーロッパで最初の機械式時計とともに登場したが、いつ、どこで最初に使われたのかは正確にはわかっていない。これは、フォリオと呼ばれる初期の慣性計時装置を改良したもので、中央で回転するまっすぐな棒の両端に錘がついており、前後に振動する。フォリオの錘は、時計の速度を調整するために、棒をスライドさせることができた。北欧の最初の時計はフォリオを使用し、南欧の時計はテンプを使用した。 最初はブラケット・クロックやランタン・クロックとして、そして1500年以降は最初の大型時計として、時計が小型化されるにつれて、フォリオットの代わりにテンプが使われるようになった。 テンプの重量の多くが軸から離れたリムにかかるため、テンプは同じ大きさのフォリオよりも大きな慣性モーメントを持ち、より正確に時間を刻むことができた。また、空気抵抗が少なく、温度変化による熱膨張の誤差を部分的に補正する形状でもあった。 初期のテンプはもう一つの重要な要素であるヒゲゼンマイを欠いていたため、精度が低かった。初期のヒゲゼンマイは、ガンギ車の歯と接触していたアオリ旗が歯の先端をすり抜け(「エスケープ」)、脱進機の作用が逆転して歯車が反対方向に押し戻されるまで、脱進機によって一方向に押されていました。このような「慣性」車では、加速度は駆動力に比例する。ヒゲゼンマイのない時計では、駆動力は歯車を加速させる力と、減速させ逆転させる力の両方を提供する。駆動力が増加すれば、加速と減速の両方が増加し、その結果、歯車はより速く前後に押されることになる。このため、計時は脱進機によって加えられる力に強く依存することになる。時計では、主ゼンマイから与えられる駆動力は、時計の歯車列を通して脱進機に加えられ、主ゼンマイが巻き戻されるにつれて、時計が動いている間に減少していった。駆動力を均等化する何らかの手段がなければ、ゼンマイが巻き上げられる間の走行時間中にゼンマイの巻上げ力が低下し、時計の速度が低下してしまう。そのため、ヒゲゼンマイ以前の時計には、脱進機に到達するゼンマイの力を均等化するためのヒューズ(場合によってはスタックヒューズ)が必要とされ、最小限の精度しか達成できなかったのです。 このような装置があっても、ヒゲゼンマイ以前の時計は非常に不正確だった。 ヒゲゼンマイのアイデアは、車輪の回転を制限するために追加された弾力性のある豚毛の縁石が、その精度を向上させるという観察から着想を得た。 ロバート・フックが1658年に初めてテンプに金属バネを応用し、ジャン・ド・オートフィーユとクリスティアン・ホイヘンスが1674年に現在の渦巻き型に改良した。 ゼンマイを追加することで、ヒゲゼンマイは現代の時計の基本である調和振動子となった。つまり、歯車は自然な共振周波数または「ビート」で振動し、摩擦や駆動力の変化による振動速度の変化に抵抗する。この重要な技術革新により、時計の精度が大幅に向上し、1日数時間の誤差が1日10分にまで改善された、高価なノベルティから有用なタイムキーパーへと変貌を遂げた。 ヒゲゼンマイが追加された後、精度不良の主な原因として残ったのは温度変化による影響だった。初期の時計は、ヒゲゼンマイはプレーン・スチールで、テンプは真鍮かスチール製であった。 温度変化による誤差を修正するためにテンプの外縁は2つの金属の「サンドイッチ」で作られている。内側にある鋼鉄の層と、外側にある真鍮の層が融合している、真鍮の熱膨張は鋼鉄よりも大きいため、このバイメタルは温められると鋼鉄側に曲がる。リムは車輪のスポークの横の2箇所で切り開かれ、2本の円形のバイメタルの「腕」を持つS字形(図参照)に似ている。このホイールは「Zバランス」と呼ばれることもある。温度が上昇すると、アームはホイールの中心に向かって内側に曲がり、質量を内側に移動させることで、天秤の慣性モーメントを減少させる。この慣性モーメントの減少が、弱くなったヒゲゼンマイが生み出すトルクの減少を補うのである。この補正量は、腕に取り付けられた可動式の重りによって調整される。このタイプのテンプを搭載したマリンクロノメーターの誤差は、広い温度範囲で1日3~4秒に過ぎなかった。 1870年代には温度補正テンプが一般的に使用されるようになった。 温度による影響を補正していない時計では、弱くなったヒゲゼンマイがテンプを中心に戻すのに時間がかかるためビートが遅くなり、時計は遅れが発生する。フェルディナント・ベルトゥーは1773年に、通常の真鍮製テンプとスチール製ヒゲゼンマイを使用した時計が33°Cの温度上昇にさらされた場合、1日あたり393秒(6分半)もの誤差が生じることを発見した。 航海中の天測に正確な時計が必要だったため、18世紀のイギリスとフランスでは高精度な時計の開発が盛んに行われた。マリン・クロノメーターに1日1秒の誤差があったとしても、2ヶ月の航海では測定値に17マイル(約27km)の誤差が生じる。ジョン・ハリソンは1753年、ゼンマイにバイメタルの「補正カーブ」を使用することで、テンプの温度補正を初めて行い、マリンクロノメーターH4とH5を完成させた。これらの時計は1日1秒の精度を達成したが、補正カーブは複雑であったため、それ以降は使用されることが無かった。 よりシンプルな解決策は、1765年頃にピエール・ルロワによって考案され、ジョン・アーノルドとトーマス・アーンショーによって改良された。重要なのは、テンプの大きさを温度によって変化させることだった。温度が高くなるにつれてテンプの直径が小さくなるようにすれば、慣性モーメントが小さくなり、ヒゲゼンマイの力が弱まるのを補うことができる。 これを実現するために、テンプの外縁は2つの金属の「サンドイッチ」で作られている。内側にある鋼鉄の層と、外側にある真鍮の層が融合している、真鍮の熱膨張は鋼鉄よりも大きいため、このバイメタルは温められると鋼鉄側に曲がる。リムは車輪のスポークの横の2箇所で切り開かれ、2本の円形のバイメタルの「腕」を持つS字形(図参照)に似ている。このホイールは「Zバランス」と呼ばれることもある。温度が上昇すると、アームはホイールの中心に向かって内側に曲がり、質量を内側に移動させることで、天秤の慣性モーメントを減少させる。この慣性モーメントの減少が、弱くなったヒゲゼンマイが生み出すトルクの減少を補うのである。この補正量は、腕に取り付けられた可動式の重りによって調整される。このタイプのテンプを搭載したマリンクロノメーターの誤差は、広い温度範囲で1日3~4秒に過ぎなかった。 1870年代には温度補正テンプが一般的に使用されるようになった。 標準的なアーンショーの補正テンプは、温度変化による誤差を劇的に減少させたが、完全に誤差をなくすことはでなかった。J.G.ウルリッヒが最初に説明したように、ある低温と高温で正しい時刻を刻むように調整されたテンプは、中間の温度では1日あたり数秒速くなる。その理由は、テンプの慣性モーメントが補正アームの半径の2乗、つまり温度の2乗として変化するからである。しかし、スプリングの弾性は温度によって直線的に変化する。 この問題を軽減するため、クロノメーターを製造するメーカーは様々な補助補正機構を搭載して誤差を日差1秒以下に抑えた。例えば、テンプの内側に小さなバイメタルのアームを取り付けた。このような補正機構は、テンプの中心に向かって一方向にしか曲げられないが、外側に曲げようとすると、テンプによって妨げられる。ブロックされた動きは非線形温度応答を引き起こし、ゼンマイの弾性変化をわずかに良好に補正することができた。1850年から1914年にかけて、グリニッジ天文台で毎年行われた試験で1位になったクロノメーターのほとんどは、補助補正機構を備えたものであった。 補助補正機構は複雑なため、一般的な時計に使用されることは無かった。 バイメタル式テンプは、冶金学の進歩によって20世紀初頭には使われなくなった。シャルル・エドゥアール・ギヨームが1896年に熱膨張率の非常に低いニッケル鋼合金であるインバーと、広い温度範囲にわたって弾性率が変化しない合金であるエリンバーをヒゲゼンマイ用に発明してノーベル賞を受賞した。エリンバールのスプリングを備えたソリッドなインバー製テンプは、温度による影響をほとんど受けなかったため、調整が難しかったバイメタル製テンプに取って代わった。 インバーとエリンバーを開発する前、ギヨームはバイメタルテンプの中間温度誤差を負の二次温度係数で補正する合金も発明している。アニバルと名付けられたこの合金は、インバーをわずかに変化させたものである。この合金は鋼鉄製ヒゲゼンマイの温度効果をほぼ完全に打ち消すものであったが、それでもギョームひげゼンマイとして知られるバイメタルテンプが必要であった。この方式は使われなくなり、エリンバー製ヒゲゼンマイを使用したシングルメタルのインバーテンプが主流となった。
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テンプは1回のスイングで約1.5回転する。ひげゼンマイが通る細いスリットが先端にあるレバーである。このレバーによって、スリットの後ろにあるゼンマイの部分が固定される。レバーを動かすと、スリットがヒゲゼンマイを上下にスライドさせ、有効長が変わる事でテンプの共振振動数が変わる。調速機はゼンマイの働きを妨げるため、クロノメーターや一部の精密時計には、ジャイロマックスのような調速機のない「フリースプラング」テンプが採用されている。 そのレートはテンプのリムにあるウェイトネジで調整される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "テンプの振動数は、伝統的に1時間あたりのビートを意味するBPH(Beats Per Hour)で測定されるが、ビート/秒やHzも使用される。1拍の長さは、テンプを1回転させ、テンプの向きを反転させる間である。精密な腕時計のテンプは動き回る影響を受けにくくするために速いビートで設計されている。 目覚まし時計やキッチンタイマーは毎秒4拍(14,400BPH)であることが多い。1970年代以前に製造された時計は通常、毎秒5拍(18,000 BPH)が一般的だが、現代の時計は毎秒6拍(21,600 BPH)、毎秒8拍(28,800 BPH)、毎秒10拍(36,000 BPH)である。オーデマ・ピゲは現在、毎秒12拍(43,200 BPH)という非常に高いテンプ振動数の時計を製造している。 第二次世界大戦中、エルジンは毎秒40ビート(144,000 BPH)で作動する非常に精密なストップウォッチを製造して「ジッターバグ」というニックネームを得た。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "腕時計に使われるテンプの精度は、1日の誤差数秒程度である。最も精度の高いテンプ式機械時計は、マリンクロノメーターと呼ばれるもので、天測航行用の船舶に搭載され、経度を決定するための正確な時刻情報源として使用されていた。第二次世界大戦までには、1日0.1秒の精度を達成していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "テンプの振動周期 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テンプ(英:balance wheel,balance)とは螺旋状のねじりゼンマイによって中心位置に戻されながら、回転する錘付き歯車である。これが脱進機を動かすことによって時計は正確な時間を刻むことが出来る。テンプは共振によって特定の振動数で運動する調和振動子になっている。 現代に至るまで機械式時計の中枢部として一般的に使用されている部品で近代になってクオーツ時計が登場するまで全ての携帯できる時計に必須の部品であった。
{{Stack|[[File:Floating Balance Escapement.gif|thumb|マントルクロックのテンプ、上部に螺旋状のヒゲゼンマイが見える。]] [[File:Alarm Clock Balance Wheel.jpg|thumb|220px|1950年代のLux Mfg.社製目覚まし時計]] [[File:Chinese movement escapement and jewels.jpg|right|thumb|現代のテンプ]]}} '''テンプ(英:balance wheel,balance)'''とは螺旋状のねじりゼンマイによって中心位置に戻されながら、回転する錘付き歯車である。これが脱進機を動かすことによって時計は正確な時間を刻むことが出来る。テンプは共振によって特定の振動数で運動する[[調和振動子]]になっている。 現代に至るまで機械式時計の中枢部として一般的に使用されている部品で近代になってクオーツ時計が登場するまで全ての携帯できる時計に必須の部品であった。 == 概要 == 1980年代まで、テンプはクロノメーター、銀行の金庫の時間ロック、軍需品の時限装置、目覚まし時計、キッチンタイマー、ストップウォッチなど広く使用されていた技術だったが、クォーツ技術がこれらの用途を引き継ぎ、現在残っている主な用途は高給機械式時計である。 21世紀の時計のテンプは通常、ベリリウム、銅、鉄の低熱膨張合金であるグリュシデュール製で、スプリングはニヴァロックスなどの低熱弾性係数合金である。<ref name="Odets">{{Cite web |author=Odets |first=Walt |year=2007 |title=The Balance Wheel of a Watch |website=The Horologium |publisher=TimeZone.com |url=http://www.timezone.com/library/horologium/horologium0013 |access-date=2007-06-16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070706233745/http://www.timezone.com/library/horologium/horologium0013 |archive-date=6 July 2007 |url-status=dead}}</ref> 2つの合金がマッチングされているため、残留温度応答が相殺され、温度誤差がさらに小さくなる。空気抵抗を減らすためにホイールは滑らかで、ピボットは精密なジュエルベアリングで支えられている。旧式のバランス・ホイールは、リムの周囲に錘のネジを使用してポイズ(バランス)を調整していたが、現代のホイールは、工場でコンピューター・ポイズド加工が施され、レーザーでリムに正確なピットを焼き付けてバランスをとっている。<ref>{{Cite web |author=Odets |first=Walt |year=2005 |title=Balance Wheel Assembly |website=Glossary of Watch Parts |publisher=TimeZone Watch School |url=http://www.timezonewatchschool.com/WatchSchool/Glossary/Glossary%20-%20Balance%20Assembly/glossary%20-%20balance%20assembly.shtml |access-date=2007-06-15}}</ref> テンプは1回のスイングで約1.5回転する。ひげゼンマイが通る細いスリットが先端にあるレバーである。このレバーによって、スリットの後ろにあるゼンマイの部分が固定される。レバーを動かすと、スリットがヒゲゼンマイを上下にスライドさせ、有効長が変わる事でテンプの共振振動数が変わる。調速機はゼンマイの働きを妨げるため、クロノメーターや一部の精密時計には、ジャイロマックスのような調速機のない「フリースプラング」テンプが採用されている。<ref name="Odets" /> そのレートはテンプのリムにあるウェイトネジで調整される。 テンプの振動数は、伝統的に1時間あたりのビートを意味するBPH(Beats Per Hour)で測定されるが、ビート/秒やHzも使用される。1拍の長さは、テンプを1回転させ、テンプの向きを反転させる間である。精密な腕時計のテンプは動き回る影響を受けにくくするために速いビートで設計されている。<ref>{{Cite web |author=Arnstein |first=Walt |year=2007 |title=Does faster mean more accurate?, TimeZone.com |url=http://www.timezone.com/library/comarticles/comarticles0017 |access-date=2007-06-15 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070608035956/http://www.timezone.com/library/comarticles/comarticles0017 |archive-date=2007-06-08 |url-status=dead}}</ref> 目覚まし時計やキッチンタイマーは毎秒4拍(14,400BPH)であることが多い。1970年代以前に製造された時計は通常、毎秒5拍(18,000 BPH)が一般的だが、現代の時計は毎秒6拍(21,600 BPH)、毎秒8拍(28,800 BPH)、毎秒10拍(36,000 BPH)である。オーデマ・ピゲは現在、毎秒12拍(43,200 BPH)という非常に高いテンプ振動数の時計を製造している。<ref name="Audemars">{{Cite web |title=Jules Audemars Watch with Audemars Piguet Escapement |website=Audemars press release |publisher=Professional Watches magazine |date=19 January 2009 |url=http://professionalwatches.com/2009/01/sihh_2009_jules_audemars_with.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20091228174548/http://professionalwatches.com/2009/01/sihh_2009_jules_audemars_with.html |archive-date=2009-12-28 |url-status=dead |access-date=15 October 2020}}</ref> 第二次世界大戦中、エルジンは毎秒40ビート(144,000 BPH)で作動する非常に精密なストップウォッチを製造して「ジッターバグ」というニックネームを得た。<ref>{{Cite web |author=Schlitt |first=Wayne |year=2002 |title=The Elgin Collector's Site |url=http://elginwatches.org/databases/watch_codes.html |access-date=2007-06-20}}</ref> 腕時計に使われるテンプの精度は、1日の誤差数秒程度である。最も精度の高いテンプ式機械時計は、マリンクロノメーターと呼ばれるもので、天測航行用の船舶に搭載され、経度を決定するための正確な時刻情報源として使用されていた。第二次世界大戦までには、1日0.1秒の精度を達成していた。<ref>{{Cite encyclopedia |encyclopedia=Encyclopædia Britannica online |title=Marine Chronometer}}</ref> == 振動の周期 == テンプの振動周期 T(秒)は、1 サイクル(2拍動)に必要な時間で、ホイールの慣性モーメント I(キログラム・ メートル<sup>2</sup> )とヒゲゼンマイの硬さ([[ばね定数]])κ(ニュートン・メートル/ラジアン)によって決まる。 : <math>T = 2 \pi \sqrt{ \frac {I}{\kappa} } \,</math> == 歴史 == [[ファイル:Giovanni_Di_Dondi_clock_.png|左|サムネイル|おそらく現存する最も古いテンプの絵は[[ジョバンニ・デ・ドンディ]]の天文時計(1364年、イタリア、パドヴァ製)。ヒゲゼンマイ(王冠の形、上部)は2秒のビートを持っていた。1364年に出版された彼の1364年の論文''[https://books.google.co.jp/books?id=o8Nb5KLBxVQC&dq=balance+wheel&pg=PA106&redir_esc=y#v=onepage&q=balance%20wheel&f=false Il Tractatus Astarii]''からのイラスト]] テンプは14世紀のヨーロッパで最初の機械式時計とともに登場したが、いつ、どこで最初に使われたのかは正確にはわかっていない。これは、フォリオと呼ばれる初期の慣性計時装置を改良したもので、中央で回転するまっすぐな棒の両端に錘がついており、前後に振動する。フォリオの錘は、時計の速度を調整するために、棒をスライドさせることができた。北欧の最初の時計はフォリオを使用し、南欧の時計はテンプを使用した。<ref>{{Cite book |last=White |first=Lynn Jr. |title=Medieval Technology and Social Change |year=1966 |publisher=Oxford Press |isbn=978-0-19-500266-9}}, p. 124</ref> 最初はブラケット・クロックやランタン・クロックとして、そして1500年以降は最初の大型時計として、時計が小型化されるにつれて、フォリオットの代わりにテンプが使われるようになった。<ref>{{Cite book |last=Milham |first=Willis I. |title=Time and Timekeepers |year=1945 |publisher=MacMillan |location=New York |isbn=0-7808-0008-7}}, p. 92</ref> テンプの重量の多くが軸から離れたリムにかかるため、テンプは同じ大きさのフォリオよりも大きな慣性モーメントを持ち、より正確に時間を刻むことができた。また、空気抵抗が少なく、温度変化による熱膨張の誤差を部分的に補正する形状でもあった。<ref name="Headrick">{{Cite journal|last=Headrick|first=Michael|date=April 2002|title=Origin and Evolution of the Anchor Clock Escapement|url=http://www.geocities.com/mvhw/anchor.html|volume=22|issue=2|pages=41–52|accessdate=2007-06-06|doi=10.1109/37.993314}}</ref> === ヒゲゼンマイの追加 === [[ファイル:Balance_Wheel_in_Early_Watch_Berthoud.png|サムネイル|18世紀のフランス製時計に使われていた初期のヒゲゼンマイ付きテンプ]] 初期のテンプはもう一つの重要な要素であるヒゲゼンマイを欠いていたため、精度が低かった。初期のヒゲゼンマイは、ガンギ車の歯と接触していたアオリ旗が歯の先端をすり抜け(「エスケープ」)、脱進機の作用が逆転して歯車が反対方向に押し戻されるまで、脱進機によって一方向に押されていました。このような「慣性」車では、加速度は駆動力に比例する。ヒゲゼンマイのない時計では、駆動力は歯車を加速させる力と、減速させ逆転させる力の両方を提供する。駆動力が増加すれば、加速と減速の両方が増加し、その結果、歯車はより速く前後に押されることになる。このため、計時は脱進機によって加えられる力に強く依存することになる。時計では、主ゼンマイから与えられる駆動力は、時計の歯車列を通して脱進機に加えられ、主ゼンマイが巻き戻されるにつれて、時計が動いている間に減少していった。駆動力を均等化する何らかの手段がなければ、ゼンマイが巻き上げられる間の走行時間中にゼンマイの巻上げ力が低下し、時計の速度が低下してしまう。そのため、ヒゲゼンマイ以前の時計には、脱進機に到達するゼンマイの力を均等化するためのヒューズ(場合によってはスタックヒューズ)が必要とされ、最小限の精度しか達成できなかったのです。<ref>"Brittens Old Clocks & Watches" Edited by Cecil Clutton, G H Baillie & C A Ilbert, Ninth Edition Revised and Enlarged by Cecil Clutton. Bloomsbury Books London 1986 {{ISBN2|0906223695}} page 16</ref> このような装置があっても、ヒゲゼンマイ以前の時計は非常に不正確だった。 ヒゲゼンマイのアイデアは、車輪の回転を制限するために追加された弾力性のある豚毛の縁石が、その精度を向上させるという観察から着想を得た。<ref>{{Cite book |last=Britten |first=Frederick J. |title=On the Springing and Adjusting of Watches |year=1898 |publisher=Spon & Chamberlain |location=New York |url=https://books.google.com/books?id=1SgJAAAAIAAJ&pg=PA9 |access-date=2008-04-16}} p. 9</ref><ref>{{Cite book |last=Brearley |first=Harry C. |title=Time Telling through the Ages |year=1919 |publisher=Doubleday |location=New York |url=https://books.google.com/books?id=UO3j49UJ17wC&pg=RA1-PA109 |access-date=2008-04-16}} pp. 108–109</ref> ロバート・フックが1658年に初めてテンプに金属バネを応用し、ジャン・ド・オートフィーユとクリスティアン・ホイヘンスが1674年に現在の渦巻き型に改良した。<ref name="Headrick">{{Cite journal|last=Headrick|first=Michael|date=April 2002|title=Origin and Evolution of the Anchor Clock Escapement|url=http://www.geocities.com/mvhw/anchor.html|volume=22|issue=2|pages=41–52|accessdate=2007-06-06|doi=10.1109/37.993314}}</ref> <ref>{{Cite book |last=Hautefeuille |first=Jean de (1647-1724) Auteur du texte |url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k327485w |title=Construction nouvelle de trois montres portatives, d'un nouveau balancier en forme de croix,... d'un gnomon spéculaire... et autres curiositez, par M. l'abbé de Haute-Feuille. [Orléans, juin 1722.] |date=1722 |language=EN}}</ref> ゼンマイを追加することで、ヒゲゼンマイは現代の時計の基本である[[調和振動子]]となった。つまり、歯車は自然な共振周波数または「ビート」で振動し、摩擦や駆動力の変化による振動速度の変化に抵抗する。この重要な技術革新により、時計の精度が大幅に向上し、1日数時間の誤差が1日10分にまで改善された、<ref name="NIST">{{Cite web |year=2004 |title=A Revolution in Timekeeping |website=A Walk Through Time |publisher=[[National Institute of Standards and Technology]] |url=https://www.nist.gov/pml/time-and-frequency-division/popular-links/walk-through-time/walk-through-time-revolution |access-date=2022-10-13}}</ref>高価なノベルティから有用なタイムキーパーへと変貌を遂げた。 === 温度エラー === ヒゲゼンマイが追加された後、精度不良の主な原因として残ったのは温度変化による影響だった。初期の時計は、ヒゲゼンマイはプレーン・スチールで、テンプは真鍮かスチール製であった。 温度変化による誤差を修正するためにテンプの外縁は2つの金属の「サンドイッチ」で作られている。内側にある鋼鉄の層と、外側にある真鍮の層が融合している、真鍮の熱膨張は鋼鉄よりも大きいため、このバイメタルは温められると鋼鉄側に曲がる。リムは車輪のスポークの横の2箇所で切り開かれ、2本の円形のバイメタルの「腕」を持つS字形(図参照)に似ている。このホイールは「Zバランス」と呼ばれることもある。温度が上昇すると、アームはホイールの中心に向かって内側に曲がり、質量を内側に移動させることで、天秤の慣性モーメントを減少させる。この慣性モーメントの減少が、弱くなったヒゲゼンマイが生み出すトルクの減少を補うのである。この補正量は、腕に取り付けられた可動式の重りによって調整される。このタイプのテンプを搭載したマリンクロノメーターの誤差は、広い温度範囲で1日3~4秒に過ぎなかった。<ref>{{Cite book |last=Glasgow |first=David |title=Watch and Clock Making |year=1885 |publisher=Cassel & Co. |location=London |url=https://books.google.com/books?id=9wUFAAAAQAAJ |access-date=2008-04-16}} p. 227</ref> 1870年代には温度補正テンプが一般的に使用されるようになった。 温度による影響を補正していない時計では、弱くなったヒゲゼンマイがテンプを中心に戻すのに時間がかかるためビートが遅くなり、時計は遅れが発生する。フェルディナント・ベルトゥーは1773年に、通常の真鍮製テンプとスチール製ヒゲゼンマイを使用した時計が33℃の温度上昇にさらされた場合、1日あたり393秒(6分半)もの誤差が生じることを発見した。 === 温度補正テンプ === [[ファイル:Pocket_Watch_Balance_Wheel.jpg|右|サムネイル|[[バイメタル]]を使った温度補正テンプ、1900年代初期の懐中時計から。直径17mm。 (1)対向する一対の錘をアームの端に近づけると温度補正が大きくなる。(2)スポークに近い位置にある一対のウエイトのネジを外すと、振動数が遅くなる。1つのウェイトを調整すると、ポイズ(バランス)が変わる。]] 航海中の天測に正確な時計が必要だったため、18世紀のイギリスとフランスでは高精度な時計の開発が盛んに行われた。マリン・クロノメーターに1日1秒の誤差があったとしても、2ヶ月の航海では測定値に17マイル(約27km)の誤差が生じる。[[ジョン・ハリソン (時計職人)|ジョン・ハリソン]]は1753年、ゼンマイに[[バイメタル]]の「補正カーブ」を使用することで、テンプの温度補正を初めて行い、マリンクロノメーターH4とH5を完成させた。これらの時計は1日1秒の精度を達成したが、補正カーブは複雑であったため、それ以降は使用されることが無かった。 よりシンプルな解決策は、1765年頃にピエール・ルロワによって考案され、ジョン・アーノルドとトーマス・アーンショーによって改良された。重要なのは、テンプの大きさを温度によって変化させることだった。温度が高くなるにつれてテンプの直径が小さくなるようにすれば、慣性モーメントが小さくなり、ヒゲゼンマイの力が弱まるのを補うことができる。 これを実現するために、テンプの外縁は2つの金属の「サンドイッチ」で作られている。内側にある鋼鉄の層と、外側にある真鍮の層が融合している、真鍮の熱膨張は鋼鉄よりも大きいため、このバイメタルは温められると鋼鉄側に曲がる。リムは車輪のスポークの横の2箇所で切り開かれ、2本の円形のバイメタルの「腕」を持つS字形(図参照)に似ている。このホイールは「Zバランス」と呼ばれることもある。温度が上昇すると、アームはホイールの中心に向かって内側に曲がり、質量を内側に移動させることで、天秤の慣性モーメントを減少させる。この慣性モーメントの減少が、弱くなったヒゲゼンマイが生み出すトルクの減少を補うのである。この補正量は、腕に取り付けられた可動式の重りによって調整される。このタイプのテンプを搭載したマリンクロノメーターの誤差は、広い温度範囲で1日3~4秒に過ぎなかった。<ref>{{Cite book |last=Glasgow |first=David |title=Watch and Clock Making |year=1885 |publisher=Cassel & Co. |location=London |url=https://books.google.com/books?id=9wUFAAAAQAAJ |access-date=2008-04-16}} p. 227</ref> 1870年代には温度補正テンプが一般的に使用されるようになった。 === 温度誤差 === [[ファイル:Early_Chronometer_Balance_Wheels.png|右|サムネイル|500x500ピクセル|1800年代半ばのマリン・クロノメーター用テンプ、温度変化による誤差を軽減するためのさまざまな「補助補正」システムが付いている。]] 標準的なアーンショーの補正テンプは、温度変化による誤差を劇的に減少させたが、完全に誤差をなくすことはでなかった。J.G.ウルリッヒが最初に説明したように、ある低温と高温で正しい時刻を刻むように調整されたテンプは、中間の温度では1日あたり数秒速くなる。その理由は、テンプの慣性モーメントが補正アームの半径の2乗、つまり温度の2乗として変化するからである。しかし、スプリングの弾性は温度によって直線的に変化する。 この問題を軽減するため、クロノメーターを製造するメーカーは様々な補助補正機構を搭載して誤差を日差1秒以下に抑えた。例えば、テンプの内側に小さなバイメタルのアームを取り付けた。このような補正機構は、テンプの中心に向かって一方向にしか曲げられないが、外側に曲げようとすると、テンプによって妨げられる。ブロックされた動きは非線形温度応答を引き起こし、ゼンマイの弾性変化をわずかに良好に補正することができた。1850年から1914年にかけて、グリニッジ天文台で毎年行われた試験で1位になったクロノメーターのほとんどは、補助補正機構を備えたものであった。 補助補正機構は複雑なため、一般的な時計に使用されることは無かった。 === 新しい合金素材 === [[ファイル:Benrus_Watch_Balance_Wheel_2.jpg|サムネイル|1950年代に製造されたベンラス社製ETA1280ムーブメントに搭載された低温効率合金製ヒゲゼンマイ]] [[バイメタル]]式テンプは、冶金学の進歩によって20世紀初頭には使われなくなった。[[シャルル・エドゥアール・ギヨーム]]が1896年に熱膨張率の非常に低いニッケル鋼合金である[[インバー]]と、広い温度範囲にわたって弾性率が変化しない合金である[[エリンバー]]をヒゲゼンマイ用に発明してノーベル賞を受賞した。エリンバールのスプリングを備えたソリッドなインバー製テンプは、温度による影響をほとんど受けなかったため、調整が難しかったバイメタル製テンプに取って代わった。 インバーとエリンバーを開発する前、ギヨームはバイメタルテンプの中間温度誤差を負の二次温度係数で補正する合金も発明している。アニバルと名付けられたこの合金は、インバーをわずかに変化させたものである。この合金は鋼鉄製ヒゲゼンマイの温度効果をほぼ完全に打ち消すものであったが、それでもギョームひげゼンマイとして知られるバイメタルテンプが必要であった。この方式は使われなくなり、エリンバー製ヒゲゼンマイを使用したシングルメタルのインバーテンプが主流となった。 : 二次係数は物質の膨張方程式における位置によって定義される。 : <math> \ell_\theta = \ell_0 \left(1 + \alpha \theta + \beta \theta^2\right) \,</math> : <math>\scriptstyle \ell_0</math>は基準温度における試料の長さ : <math>\scriptstyle \theta</math> は基準温度より高い温度 : <math>\scriptstyle \ell_\theta</math> <math>\scriptstyle \theta</math>における基準温度 : <math>\scriptstyle \alpha</math> 線膨張係数 : <math>\scriptstyle \beta</math> 二次膨張係数 == 資料 == <references group="" responsive="1"></references> == リファレンス == * {{Cite web |author=Choi |first=Fred |title=William Simcock Massey Type III pocket watch |date=2007-05-26 |publisher=YouTube |url=https://www.youtube.com/watch?v=U2PlpbwdJBE |archive-url=https://ghostarchive.org/varchive/youtube/20211212/U2PlpbwdJBE |archive-date=2021-12-12 |url-status=live |access-date=2008-04-26}} Video of antique mid-19th century watch showing the balance wheel turning * {{Cite web |author=Costa |first=Alan |year=1998 |title=The History of Watches |publisher=Atmos Man |url=http://www.atmos-man.com/historyo.html |access-date=2007-06-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070717114219/http://www.atmos-man.com/historyo.html |archive-date=2007-07-17 |url-status=dead}} History of watches, on commercial website. * {{Cite web |author=Markl |first=Xavier |year=2016 |title=Monochrome-Watches A technical perspective the regulating organ of the watch |url=https://monochrome-watches.com/technical-perspective-guide-regulating-organ |access-date=2023/12/27}} Monochrome-Watches A technical perspective the regulating organ of the watch * Oliver Mundy, [http://www.horologia.co.uk/watchcabinet.html The Watch Cabinet] Pictures of a private collection of antique watches from 1710 to 1908, showing many different varieties of balance wheel. == 外部リンク == * {{Cite web |author=Choi |first=Fred |title=William Simcock Massey Type III pocket watch |date=2007-05-26 |publisher=YouTube |url=https://www.youtube.com/watch?v=U2PlpbwdJBE |archive-url=https://ghostarchive.org/varchive/youtube/20211212/U2PlpbwdJBE |archive-date=2021-12-12 |url-status=live |access-date=2008-04-26}} Video of antique mid-19th century watch showing the balance wheel turning * {{Cite web |author=Costa |first=Alan |year=1998 |title=The History of Watches |publisher=Atmos Man |url=http://www.atmos-man.com/historyo.html |access-date=2007-06-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070717114219/http://www.atmos-man.com/historyo.html |archive-date=2007-07-17 |url-status=dead}} History of watches, on commercial website. * {{Cite web |author=Markl |first=Xavier |year=2016 |title=Monochrome-Watches A technical perspective the regulating organ of the watch |url=https://monochrome-watches.com/technical-perspective-guide-regulating-organ |access-date=2023/12/27}} Monochrome-Watches A technical perspective the regulating organ of the watch * Oliver Mundy, [http://www.horologia.co.uk/watchcabinet.html The Watch Cabinet] Pictures of a private collection of antique watches from 1710 to 1908, showing many different varieties of balance wheel. [[Category:時計]]
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オーストラリア陸軍の装備品一覧
オーストラリア陸軍の装備品一覧(オーストラリアりくぐんのそうびひんいちらん)は、オーストラリア陸軍が保有している装備品の一覧である。個人用武器、車両、航空機、艦船、衣類に分割することができる。 陸軍は若干の固定翼機と多くのヘリコプターを運用する。
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{{Expand English|List of equipment of the Australian Army|date=2023年12月}} {{Refimprove|date=December 2023}} '''オーストラリア陸軍の装備品一覧'''(オーストラリアりくぐんのそうびひんいちらん)は、[[オーストラリア陸軍]]が保有している装備品の一覧である。個人用[[武器]]、[[車両]]、[[航空機]]、[[艦船]]、[[衣類]]に分割することができる。 ==武器== ===拳銃=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!使用弾薬!!開発!!備考 |- |[[SIG SAUER P320]] | [[File:Sig Sauer P320 X-Carry Danish Configuration.jpg|150px]] |rowspan="4"|[[9x19mmパラベラム弾|9×19mm]] |{{USA}} |<ref name="LAND159Sept22"/> |- |[[FN ブローニング・ハイパワー]] | [[File:2 RAR soldier firing a M9 pistol during RIMPAC 2018 - cropped.jpg|150px]] || {{BEL}} || P320 X Carry Proによって代替中<ref>{{cite web|url=https://www.army.gov.au/our-work/equipment-and-clothing/small-arms/self-loading-pistol-9-millimetre-mark-3|title=Self-Loading Pistol 9 millimetre Mark 3|publisher=Australian Army|access-date=17 March 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20170228085827/https://www.army.gov.au/our-work/equipment-and-clothing/small-arms/self-loading-pistol-9-millimetre-mark-3|archive-date=28 February 2017|url-status=live|df=dmy-all}}</ref> <ref name="LAND159Sept22"/> |- |[[H&K USP]] || [[File:HKUSP.png|150px]] || {{GER}} ||特殊部隊が使用<ref>{{cite journal |author=Deane-Peter Baker & WO1 W|title=Force Protection's Last Resort: Evaluating the Browning Hi-Power Mk III for the Australian Army of Tomorrow |journal=Australian Army Journal |date=Winter 2015 |volume=XII |issue=1 |page=125 |url=https://researchcentre.army.gov.au/sites/default/files/aaj_2015_1.pdf |access-date=13 December 2020 |issn=1448-2843}}</ref> |} ===短機関銃=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!使用弾薬!!開発!!備考 |- style="background:#efefef; color:black" |[[H&K MP5|MP5]]|| [[File:Hkmp5count-terr-wiki.jpg|150px]] || [[9x19mmパラベラム弾|9×19mm]] || rowspan="2"|{{GER}} || SIG MCX代替中<ref name="ADMSept22">{{cite news |last1=Blenkin |first1=Max |title=Details around NIOA's Land 159 offer |url=https://www.australiandefence.com.au/news/details-around-nioa-s-land-159-offer |access-date=6 October 2022 |work=Australian Defence Magazine |date=6 October 2022}}</ref><ref name="LAND159Sept22"/> |} ===自動小銃=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!使用弾薬!!開発!!備考 |- |[[EF88小銃|EF88]]|| [[File:EF88 (Enhance F88 'Austeyr').png|150px]] || [[5.56x45mm NATO弾|5.56×45mm]] || {{AUS}} || オーストラリア国防軍の標準的な個人用武器である<ref name="Thales2015"/><ref name="Thales2015">{{cite press release |title=New era as F90 assault rifle enters Australian Defence Force service |url=https://www.thalesgroup.com/en/worldwide/press-release/new-era-f90-assault-rifle-enters-australian-defence-force-service |website=Thales Group |access-date=5 May 2023 |date=4 August 2015}}</ref><ref name="EF88"/><ref name="EF88"/><ref name="EF88suppressor"/> |- |[[M4カービン|M4]]|| [[File:M4A1 ACOG.png|150px]] || [[5.56x45mm NATO弾|5.56×45mm]] || {{USA}} || 特殊部隊が使用。オーストラリアでの正式名称はM4A5 |- |[[H&K HK416|HK416]] || [[File:HK416N.png|150px]] || [[5.56x45mm NATO弾|5.56×45mm]] || {{GER}} || 特殊部隊が使用 |- |[[SIG MCX]]|| [[File:SIG-MCX-Rifle.jpeg|150px]] || [[.300 AAC Blackout|300 BLK]] || {{USA}} || 特殊部隊が使用 |- |[[L1A1]] || [[File:SLRL1A1.jpg|150px]] || [[7.62x51mm NATO弾|7.62×51mm]] || {{UK}} || 儀式用のみ |- |} ===散弾銃=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!使用弾薬!!開発!!備考 |- |[[レミントンM870|M870]] || [[File:Flickr - ~Steve Z~ - 870.jpg|150px]]|| 12ゲージ || {{USA}} || ベネリM3代替中<ref>{{cite web|url=http://www.defence.gov.au/dmo/Multimedia/Threads_Issue_4_2012-9-6062.pdf|title=Threads Newsletter: Issue Four 2012|date=2012|publisher=Defence Materiel Organisation, Department of Defence, Australian Government|page=3|quote=Confirming a new stock on the 870P shotgun meets the operator's requirements.|access-date=17 March 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20160705032817/http://www.defence.gov.au/dmo/Multimedia/Threads_Issue_4_2012-9-6062.pdf|archive-date=5 July 2016|url-status=live|df=dmy-all}}</ref> |- |[[ベネリM3]] || [[File:Benelli M3 Super 90.jpg|150px]]|| 12ゲージ || {{ITA}} || |} ===[[機関銃]]=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!使用弾薬!!開発!!備考 |- |[[5.56mm機関銃MINIMI]] || [[File:An Australian soldier with a F89 light machine gun in 2010.jpg|150px]]||[[5.56x45mm NATO弾|5.56×45mm]] || {{BEL}} || <ref>{{cite web |title=F89 and Para Minimi |url=https://www.army.gov.au/our-work/equipment-uniforms/equipment/small-arms/f89-and-para-minimi |website=Australian Army |access-date=13 March 2023}}</ref> |- |[[7.62mm機関銃MAXIMI]] || [[File:Mk 48 PEO Soldier.jpg|150px]]||[[7.62x51mm NATO弾|7.62×51mm]] || {{BEL}} || <ref>{{cite news|last1=Juchniewicz|first1=Maj Nathan|last2=Manchip|first2=Capt James|title=Gun maximises combat power|url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1258/1258.pdf|newspaper=Army News: The Soldiers' Newspaper|date=12 May 2011|publisher=Department of Defence|location=Canberra|page=4|issn=0729-5685|edition=1258 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190813222656/http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1258/1258.pdf |archive-date=13 August 2019 |url-status=dead}}</ref> |- |[[FN MAG|FN MAG 58]] || [[File:Australian Army soldier armed with a FN MAG machine gun in Afghanistan during 2010 - cropped.jpg|150px]]||[[7.62x51mm NATO弾|7.62×51mm]] || {{BEL}} || |- |[[12.7mm重機関銃]] || [[File:Australian soldier manning a heavy machine gun in a High Mobility Transporter during Talisman Sabre 2019.jpg|150px]]||[[12.7x99mm NATO弾|.50 BMG]]|| {{USA}} || |} ===[[狙撃銃]]=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!使用弾薬!!開発!!備考 |- |[[L96A1|SR-98]] || [[File:Accuracy International Arctic Warfare - Psg 90 G24.png|150px]]||[[7.62x51mm NATO弾|7.62×51mm]]|| {{UK}} || |- |[[アキュラシーインターナショナル AW50|AW50]] || [[File:AW50.png|150px]]||[[12.7x99mm NATO弾|.50 BMG]]|| {{UK}} || <ref>{{cite news|last=Garland |first=CPL Jonathan |title=Materiel in its sights |newspaper=Army News: The Soldiers' Newspaper |publisher=Department of Defence|location=Canberra|edition=1061 |url=http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1061/topstories/story11.htm |date=10 October 2002 |issn=0729-5685 |archive-url=https://web.archive.org/web/20030120084520/http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1061/topstories/story11.htm |archive-date=20 January 2003 |url-status=dead}}</ref> |- | [[:en:Blaser R93 Tactical]] || [[File:Blaser R93 LRS2 .308 Win 4thNovSniperCompetition06.jpg|150px]]||[[.338ラプア・マグナム|.338 LM]]|| {{GER}} || <ref>{{cite news|last=Garland |first=CPL Jonathan |title=Materiel in its sights |newspaper=Army News: The Soldiers' Newspaper |publisher=Department of Defence|location=Canberra|edition=1061 |url=http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1061/topstories/story11.htm |date=10 October 2002 |issn=0729-5685 |archive-url=https://web.archive.org/web/20030120084520/http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1061/topstories/story11.htm |archive-date=20 January 2003 |url-status=dead}}</ref> |- | [[H&K HK417]] || [[File:KWA HK417A2.jpg|150px]]||[[7.62x51mm NATO弾|7.62×51mm]]|| {{GER}} || <ref>{{cite news|last1=Juchniewicz |first1=Lt-Col Nathan |title=New weapon to go the distance |newspaper=Army News: The Soldiers' Newspaper |publisher=Department of Defence |location=Canberra |edition=1263 |url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1263/1263.pdf |date=21 July 2011 |page=3 |issn=0729-5685 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190813222656/http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1263/1263.pdf |archive-date=13 August 2019 |url-status=dead}}</ref> |- | [[SR-25]] || [[File:SR-25-Mk11--Our-IDF-2018-IZE-024.jpg|150px]]||[[7.62x51mm NATO弾|7.62×51mm]]|| {{USA}} || |- | [[Mk14 EBR]] || [[File:PEO M14 EBR.jpg|150px]]||[[7.62x51mm NATO弾|7.62×51mm]]|| {{USA}} || |- |[[バレットM82|M82]] || [[File:191003-Z-XK920-1044 - M107 .50 Caliber Sniper Rifle (Image 2 of 14).jpg|150px]]||[[12.7x99mm NATO弾|.50 BMG]]|| {{USA}} || M107A1代替中<ref name="LAND159Sept22">{{cite press release |title=ADF signs up for next generation of weapons |url=https://news.defence.gov.au/media/media-releases/adf-signs-next-generation-weapons |website=Defence News |publisher=Department of Defence |access-date=5 October 2022 |date=30 September 2022}}</ref> |- |} === [[銃剣]] === {| class="wikitable" !名称!!画像!!使用弾薬!!開発!!備考 |- |[[M7 (銃剣)]] || [[File:Bayonet-Knife M7.jpg|150px]]|||| {{USA}} || 陸軍は1990年代初頭に3万本のM7銃剣を入手した。<ref name="ArmyNews1992"/><ref name="WorldBayonets">{{cite web |title=Bayonets of Australia |url=https://worldbayonets.com/Bayonet_Identification_Guide/Australia/Australia_2.html |website=worldbayonets.com - The Collector's Edge |access-date=13 March 2023}}</ref><ref name="Senate1991">{{cite web |author1=Minister for Defence Robert Ray |title=Bayonets (Question No. 1468) |url=https://parlinfo.aph.gov.au/parlInfo/search/display/display.w3p;query=Id%3A%22chamber%2Fhansards%2F1991-12-11%2F0135%22 |website=Parliament of Australia |publisher=Senate Hansard |access-date=9 May 2023 |date=11 December 1991}}</ref> |- |[[M9 (銃剣)]] || [[File:Bayonet-Knife M9 w Scabbard.jpg|150px]]|||| {{USA}} || M9は陸軍の主要な戦闘用ナイフである。陸軍は1990年代初頭に14,000本以上のM9を入手し、F88オーステイアに装着した。<ref name="ArmyNews1992">{{cite news|title=US knives cut into Aussie kit|url=http://nla.gov.au/nla.news-page29910635|newspaper=Army News: The Soldiers' Newspaper|date=13 February 1992|publisher=Department of Defence|location=Canberra|page=1|issn=0729-5685|edition=805}}</ref><ref name="Senate1991"/> |- |} ===[[擲弾]]=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!使用弾薬!!開発!!備考 |- |[[:en:Mk 47 Striker|Mk 47 Striker LWAGL]] || [[File:MK47.jpg|150px]] || [[40mmグレネード#40mm×53|40mm×53]] || {{USA}} || [[弾帯|ベルト給弾]]<ref>{{cite news|last1=McLennan|first1=Lt-Col Ben|title=Soldier lethality game changer|url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1371/1371a.pdf|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1371|date=21 April 2016|publisher=Department of Defence|location=Canberra, Australia|issn=0729-5685|archive-url=https://web.archive.org/web/20160826085018/http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1371/1371a.pdf|archive-date=26 August 2016|url-status=dead}}</ref> |- |[[:en:F1 grenade (Australia)]] || [[File:F3 Grenade.jpg|150px]]|||| {{AUS}} || |- |[[M203]] || [[File:PEO M203A2 Grenade Launcher.png|150px]]||[[40mmグレネード#40mm×46|40mm×46]]|| {{USA}} || <ref>{{cite press release |title=New Grenade Launcher for the Australian Defence Force |url=http://www.defence.gov.au/media/DeptTpl.cfm?CurrentId=329 |website=Department of Defence |archive-url=https://web.archive.org/web/20010711090859/http://www.defence.gov.au/media/DeptTpl.cfm?CurrentId=329 |archive-date=11 July 2001 |id=99/00 |date=17 May 2000 |url-status=dead}}</ref><ref>{{cite news|title=40mm given green light |url=http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1027/story01.htm|work=Army: The Soldiers' Newspaper |edition=1027| date=24 May 2001 |publisher=Department of Defence|location=Canberra, Australia| issn=0729-5685| archive-url=https://web.archive.org/web/20010720160309/http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1027/story01.htm| archive-date=20 July 2001|url-status=dead}}</ref> |- |SL40 || [[File:SL40 GLA (cropped) LHS.jpg|150px]]||[[40mmグレネード#40mm×46|40mm×46]]|| {{AUT}}<BR>{{AUS}} || Steyr GL40 サイドオープニンググレネードランチャー、Lithgow Arms社製、EF88小銃用にSL40と命名された。<ref>{{cite press release |title=Steyr Mannlicher grenade launcher chosen for new Australian rifle |url=https://www.thalesgroup.com/en/australia/press-release/steyr-mannlicher-grenade-launcher-chosen-new-australian-rifle |website=Thales Australia |archive-url=https://web.archive.org/web/20140403021759/https://www.thalesgroup.com/en/australia/press-release/steyr-mannlicher-grenade-launcher-chosen-new-australian-rifle |archive-date=3 April 2014 |date=21 January 2014 |url-status=dead}}</ref><ref name="TFB">{{cite web |last1=Vining |first1=Miles |title=Hands on with the SL40 UBGL/Standalone Grenade Launcher from Lithgow Arms |url=https://www.thefirearmblog.com/blog/2018/11/16/hands-on-with-the-sl40-ubgl-standalone-grenade-launcher-from-lithgow-arms/ |website=The Firearm Blog |access-date=19 September 2022 |date=16 November 2018}}</ref> |- |SL40 stand-alone || [[File:SL40 GLA (cropped) LHS.jpg|150px]]||[[40mmグレネード#40mm×46|40mm×46]]|| {{AUT}}<BR>{{AUS}} || Lithgowアームズ社製のSteyr GL40スタンドアローン・フレーム・バリアントで、Daniel Defense DDM4アジャスタブル・ストックとErgo AR15グリップを装備。<ref name="TFB"/><ref>{{cite web |title=Enhanced F88 Austeyr |url=https://www.defence.gov.au/project/enhanced-f88-austeyr |website=Department of Defence |access-date=19 September 2022 |date=November 2021|quote=LAND 125 Phase 3C .. project was increased in July 2018 to encompass ancillary sub-systems including: .. Standalone Grenade Launcher Stock..}}</ref> |- |} ===[[対戦車兵器|個人携行対戦車兵器]]=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!使用弾薬!!開発!!備考 |- |[[M72 LAW]] ||[[File:M72A2 LAW.png|150px]] ||72mm|| {{USA}} || |- |[[カールグスタフ (無反動砲)|M3 MAAWS]] ||[[File:210915-F-MJ351-2012 - 3 Geronimo paratroopers fire anti-tank weapons (Image 17 of 17).jpg|150px]] ||[[カールグスタフ (無反動砲)#要目|84x246mmR]]|| {{SWE}} || M4代替中<ref name="CarlM4">{{cite news|last1=Bree|first1=WO2 Max|title=New, lighter 84 coming down range|url=https://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1487.pdf|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1487|date=29 April 2021|publisher=Department of Defence|location=Canberra, Australia|issn=0729-5685|page=7|access-date=5 October 2021}}</ref><ref name="CarlM4"/><ref>{{cite news |last1=Dominguez |first1=Gabriel |title=Australia orders Carl-Gustaf M4 weapon systems |url=https://www.janes.com/article/82780/australia-orders-carl-gustaf-m4-weapon-systems |website=www.janes.com |publisher=Jane's IHS |location=London |date=5 September 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180905182519/https://www.janes.com/article/82780/australia-orders-carl-gustaf-m4-weapon-systems |archive-date=5 September 2018 |url-status=dead |df=dmy-all }}</ref><ref name="CarlM4"/><ref name="CarlM4"/> |- |[[FGM-148 ジャベリン]] || [[File:FGM-148 Javelin - ID DM-SD-04-07567.JPEG|150px]] || || {{USA}} ||<ref>{{cite news|last1=Liston|first1=MAJ John|title=Watch out, armour|url=http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1089/topstories/story03.htm|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1089|publisher=Department of Defence|location=Canberra|issn=0729-5685|archive-url=https://web.archive.org/web/20040111013606/http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1089/topstories/story03.htm|archive-date=11 January 2004|date=18 December 2003}}</ref><ref>{{cite news|last1=Hetherington|first1=Pte Andrew|title=In with a bang|url=http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1135/topstories/story10.htm|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1135|publisher=Department of Defence|location=Canberra|issn=0729-5685|archive-url=https://web.archive.org/web/20071120023003/http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1135/topstories/story10.htm|archive-date=20 November 2007|date=15 December 2005}}</ref> |- |} ==火砲== ===迫撃砲=== {|class="wikitable" !名称!!画像!!口径!!開発!!調達数!!備考 |- |[[M224 60mm 迫撃砲|M224]] || [[File:M224A1 60mm Mortar.jpg|150px]] || [[M224 60mm 迫撃砲#諸元・性能|60&nbsp;mm]] || {{USA}} || ''不明'' || <ref>{{cite journal |last1=O’Donnell |first1=MAJ Robert |title=Platforms and Effectors |url=http://artilleryhistory.org/todays_gunline/joint_fires/joint_fires_circular_2019.pdf |journal=Joint Fires Circular |issue=1|publisher=Army Joint Fires Cell Combat Support Program |access-date=13 December 2020 |page=7 |date=2019}}</ref> |- |- style="background:#efefef; color:black" |[[M252 81mm 迫撃砲|M252]] || [[File:M252A1 81mm mortar.jpg|150px]] || [[M252 81mm 迫撃砲#操作|81&nbsp;mm]] || {{USA}} || ''不明'' ||<ref name="ArmyNews2019">{{cite news|last1=Bree|first1=Sgt Max|title=New tricks and mortar|url=https://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1446.pdf|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1446|date=11 July 2019|publisher=Department of Defence|location=Canberra, Australia|issn=0729-5685|page=5|access-date=14 December 2020}}</ref><ref name="DTR2019">{{cite journal |title=New 81mm mortar capability being delivered |journal=Defence Technology Review |date=August 2019 |issue=56 |page=5 |url=https://defencetechnologyreview.partica.online/defence-technology-review/dtr-aug-2019/flipbook/4/ |access-date=13 December 2020 |publisher=Sabot Media |location=Sydney}}</ref><ref name="ArmyNews2019"/><ref name="DTR2019"/> |- |} ===榴弾砲=== {|class="wikitable" !名称!!画像!!口径!!開発!!調達数!!備考 |- |- style="background:#efefef; color:black" |[[M777 155mm榴弾砲|M777]] || [[File:M777A2 howitzer at the 2018 ADFA Open Day.jpg|150px]] || 155mm ||rowspan="2"|{{US}} || 48 ||<ref>{{Cite news|last=Bergmann|first=Kym|title=Push is on to bring out the big guns|newspaper=[[The Australian]]|publisher=News Ltd|date=23 October 2010|url=http://www.theaustralian.com.au/national-affairs/defence/push-is-on-to-bring-out-the-big-guns/story-e6frg8yo-1225940262119|access-date=4 January 2011}}</ref><ref>{{cite press release |title=Australia - M777A2 155mm Light-weight Howitzers |url=https://www.dsca.mil/press-media/major-arms-sales/australia-m777a2-155mm-light-weight-howitzers|website=Defense Security Cooperation Agency |access-date=20 November 2022 |date=17 July 2008 |series=08-78}}</ref><ref>{{cite press release|author1=Minister for Defence Stephen Smith |author2= Minister for Defence Materiel Jason Clare |title=19 new Howitzer guns for the Army |url=http://www.minister.defence.gov.au/2012/10/16/minister-for-defence-and-minister-for-defence-materiel-joint-media-release-19-new-howitzer-guns-for-the-army-2/ |website=Department of Defence Ministers |archive-url=https://web.archive.org/web/20121019114535/http://www.minister.defence.gov.au/2012/10/16/minister-for-defence-and-minister-for-defence-materiel-joint-media-release-19-new-howitzer-guns-for-the-army-2/ |archive-date=19 October 2012 |date=16 October 2012 |url-status=dead}}</ref><ref>{{cite news |last1=Kerr |first1=Julian |title=Making the M777 more lethal |url=https://www.australiandefence.com.au/defence/land/making-the-m777-more-lethal |access-date=15 September 2022 |work=Australian Defence Magazine |date=9 November 2019 |archive-url=https://web.archive.org/web/20191202204121/https://www.australiandefence.com.au/defence/land/making-the-m777-more-lethal |archive-date=2 December 2019 |url-status=dead}}</ref><ref>{{cite press release |title=DMO ‘young gun’ recognised for howitzer munition project management excellence |url=http://www.defence.gov.au/dmo/NewsMedia/DMONews/BenBurrows |website=Defence Material Organisation |publisher=Department of Defence |archive-url=https://web.archive.org/web/20150221150759/http://www.defence.gov.au/dmo/NewsMedia/DMONews/BenBurrows |archive-date=21 February 2015 |date=18 November 2014 |url-status=dead}}</ref><ref>{{cite press release |title=Defence Purchases New Anti-tank Artillery Round |url=http://www.defence.gov.au/media/departmentaltpl.cfm?CurrentId=7131 |website=Department of Defence |access-date=8 November 2023 |archive-url=https://web.archive.org/web/20071011035538/http://www.defence.gov.au/media/departmentaltpl.cfm?CurrentId=7131 |archive-date=11 October 2007 |date=3 October 2007 |url-status=dead}}</ref><ref>{{cite press release |author1=Prime Minister Scott Morrison |author2= Defence Minister Peter Dutton |title=Australia to provide additional support to Ukraine |url=https://www.peterdutton.com.au/joint-media-release-australia-to-provide-additional-support-to-ukraine/ |website=Peter Dutton MP|access-date=15 September 2022 |date=27 April 2022}}</ref> |- |} ===[[対空兵器]]=== {|class="wikitable" !名称!!画像!!開発!!調達数!!備考 |- |[[RBS 70]] ||[[File:Australian_RBS-70_team_during_Exercise_Talisman_Sabre_21.jpg|180px]] |||| {{SWE}} || NASAMS代替中<ref>{{Cite web|title = ADM: Weapons: Anti-air capability study looks to futuristic technologies {{!}} ADM Sep 08|url = http://www.australiandefence.com.au/47D1BC50-F807-11DD-8DFE0050568C22C9|website = www.australiandefence.com.au|access-date = 3 February 2016|archive-url = https://web.archive.org/web/20150907053200/http://www.australiandefence.com.au/47D1BC50-F807-11DD-8DFE0050568C22C9|archive-date = 7 September 2015|url-status = live|df = dmy-all}}</ref><ref>{{Cite web|title = Australia Orders Carl Gustav Ammunition and Bolide Missiles|url = http://www.deagel.com/news/Australia-Orders-Carl-Gustav-Ammunition-and-Bolide-Missiles_n000000204.aspx|website = www.deagel.com|access-date = 3 February 2016|archive-url = https://web.archive.org/web/20170906035636/http://www.deagel.com/news/Australia-Orders-Carl-Gustav-Ammunition-and-Bolide-Missiles_n000000204.aspx|archive-date = 6 September 2017|url-status = live|df = dmy-all}}</ref><ref name="SRGBAD"/> |- |} ==車両== ===多用途装輪車両=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!開発!!調達量!!備考 |- | [[ブッシュマスター (装甲車)|ブッシュマスター]] | [[File:Bushmaster at the 2016 ADFA Open Day.jpg|150px]] | {{AUS}} | 1,052 | 陸軍は合計1,052台のブッシュマスター保護機動車を発注し、2005年半ばに納入が開始された。陸軍は、ブッシュマスターのためのプロジェクトNINGAUIの下で11の自己保護適応ローラーキット(SPARK)地雷ローラーマーク2(SMR2)を取得した。2023年5月、2022年にウクライナに寄贈された90機のブッシュマスターの後継として、78機のブッシュマスターが発注された。<ref>{{Cite news|title=More vehicles on the way|newspaper=Army News: The Soldiers' Newspaper|location=Canberra|page=16|publisher=Australian Department of Defence|date=26 May 2011|url=http://www.defence.gov.au/news/armynews|archive-url=https://web.archive.org/web/20051210053040/http://www.defence.gov.au/news/armynews/|archive-date=10 December 2005|url-status=live|df=dmy-all}}</ref><ref name="PBS1213"/><ref>{{cite web |title=Bushmaster fitted with Self Protection Adaptive Roller Kit |url=http://www.army.gov.au/Our-future/Projects/Project-NINGAUI/Bushmaster-fitted-with-Self-Protection-Adaptive-Roller-Kit |website=Australian Army |archive-url=https://web.archive.org/web/20130329193538/http://army.gov.au/Our-future/Projects/Project-NINGAUI/Bushmaster-fitted-with-Self-Protection-Adaptive-Roller-Kit |archive-date=29 March 2013 |url-status=dead}}</ref><ref name="May2023order">{{cite press release |author1=Minister for Defence Industry Pat Conroy |title=New Bushmasters for the Australian Defence Force |url=https://www.minister.defence.gov.au/media-releases/2023-05-17/new-bushmasters-australian-defence-force |website=Department of Defence Ministers |access-date=17 May 2023 |date=17 May 2023}}</ref><ref>{{cite press release |author1=Prime Minister Anthony Albanese |author2=Defence Minister Richard Marles |title=Additional support for Ukraine |url=https://www.minister.defence.gov.au/media-releases/2022-10-27/additional-support-ukraine |website=Defence Ministers |publisher=Department of Defence |date=27 October 2022 |access-date=25 May 2023}}</ref> |- | [[ハーケイ (装甲車)|ハーケイ]] | [[File:Hawkei_DSC02320.JPG|150px]] | {{AUS}} | 233 | 陸軍はランドローバー・ペレンティの一部を置き換えるため、ホーケイ保護機動車・軽(PMV-L)1,100台を発注した。PMV-Lはブッシュマスターより小型で、重量は約半分。CH-47Fチヌーク・ヘリコプターに吊り下げて運ぶことができる。2022年6月現在、陸軍は233台のホーケイを保有している。<ref>{{cite news|last=Tufrey |first=LS Jayson |title=Our vehicle of the future |url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1362/1362.pdf |work=Army: The Soldiers' Newspaper |edition=1362 |date=22 October 2015 |pages=2–3|publisher=Department of Defence |location=Canberra, Australia |issn=0729-5685 |archive-url=https://web.archive.org/web/20170218212114/http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1362/1362.pdf |archive-date=18 February 2017 |url-status=dead}}</ref><ref>{{cite book |author=The Auditor-General |title=2021–22 Major Projects Report: Department of Defence |date=2023 |publisher=Australian National Audit Office |location=Canberra |isbn=9781760337865 |series=Auditor-General Report No.12 2022–23 |url=https://www.anao.gov.au/sites/default/files/2023-02/Auditor-General_Report_2022-23_12.pdf |page=206 |access-date=23 May 2023}}</ref> |- | [[メルセデス・ベンツ・Gクラス|G-Wagon]] | [[File:Australian Soldiers with 2nd Battalion, Royal Australian Regiment dismark from HMAS Canberra and come ashore at Kawaihae Pier, Hawaii during RIMPAC 2016 (Cropped).jpg|150px]] | {{GER}} | 2,268 | ADFは、陸軍のランドローバー・ペレンティの一部を置き換えるため、合計2,268台のGワゴンを購入した。Gワゴンのバリエーションは、6x6のバリエーションを含む10種類ある。<ref name="Gwagon">{{cite web|title=G Wagon|url=http://www.army.gov.au/Our-work/Equipment-and-clothing/Vehicles/G-Wagon|website=Australian Army|date=15 July 2015|archive-url=https://web.archive.org/web/20160817160216/http://army.gov.au/Our-work/Equipment-and-clothing/Vehicles/G-Wagon|archive-date=17 August 2016|url-status=dead}}</ref><ref>{{cite news|last1=Ridgway|first1=Steve|title=$350m wagon deal|url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1202/1202.pdf|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1202|date=13 November 2008|page=2|publisher=Department of Defence|location=Canberra, Australia|issn=0729-5685|archive-url=https://web.archive.org/web/20170202001249/http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1202/1202.pdf|archive-date=2 February 2017|url-status=dead}}</ref><ref>{{cite web|title=G-wagon booklet|url=http://www.army.gov.au/~/media/Army/Our%20work/Equipment%20and%20clothing/Vehicles/G%20wagon/G%20wagon%20booklet.pdf|archive-url=https://web.archive.org/web/20160105090112/http://www.army.gov.au/~/media/Army/Our%20work/Equipment%20and%20clothing/Vehicles/G%20wagon/G%20wagon%20booklet.pdf|url-status=dead|archive-date=5 January 2016|website=Australian Army |date=July 2015}}</ref> |} ===[[貨物自動車|トラック]]=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!開発!!調達量!!備考 |- | [[:en:RMMV HX range of tactical trucks|RMMV HX45]] | [[File:45M_28_Camo.jpg|150px]] | {{GER}} | 3,580 | ADFは、装甲保護された、または保護されていないラインメタルMANトラックのフリートを運用している。ADFはプロジェクト・ランド121フェーズ3Bの下で2,536台のトラックを発注した。最初のトラックは2016年4月に陸軍に納入され、2017年2月に就役した。40Mはウニモグに取って代わった。HX77はマックに取って代わった。HX81はSライナーに取って代わる。42Mは中型回収、45Mは大型回収に使用される。トラックの約40%には装甲保護が施されている。2018年、ADFはプロジェクト・ランド121フェーズ5Bのもと、さらに1,044台の中型・大型トラックを発注した。<ref>{{cite web |title=Overlander - Medium Heavy Capability, Field Vehicles, Modules and Trailers |url=http://www.defence.gov.au/casg/EquippingDefence/LAND121PH3B-MHC |website=Department of Defence |publisher=Capability Acquisition and Sustainment Group |archive-url=https://web.archive.org/web/20160421105505/http://www.defence.gov.au/casg/EquippingDefence/LAND121PH3B-MHC |archive-date=21 April 2016 |date=December 2014 |url-status=dead}}</ref><ref name="ArmynewsApril2016">{{cite news|last=Bree |first=Cpl Max |title=New MAN in town |url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1371/1371a.pdf |newspaper=Army News: The Soldiers' Newspaper |date=21 April 2016 |publisher=Department of Defence |location=Canberra |page=2 |issn=0729-5685 |edition=1371 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190711173752/http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1371/1371a.pdf |archive-date=11 July 2019 |url-status=dead}}</ref><ref>{{cite news|last=Bree |first=Cpl Max |title=New trucks a hit with drivers at 7CSSB |url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1397/1397.pdf |newspaper=Army News: The Soldiers' Newspaper |date=1 June 2017 |publisher=Department of Defence |location=Canberra |page=9 |issn=0729-5685 |edition=1397 |archive-url=https://webarchive.nla.gov.au/awa/20190510112653/http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1397/1397.pdf |archive-date=10 May 2019 |url-status=dead}}{{cbignore|bot=medic}}</ref><ref name="ArmynewsOct2013">{{cite news| title=High-tech Transporters |url=http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1316/1316.pdf |newspaper=Army News: The Soldiers' Newspaper |date=24 October 2013 |publisher=Department of Defence |location=Canberra |no-pp=yes |page=Special liftout Land 121 Phase 3B pages 2–3 |issn=0729-5685 |edition=1316 |archive-url=https://webarchive.nla.gov.au/awa/20140304035212/http://www.defence.gov.au/news/armynews/editions/1316/1316.pdf |archive-date=4 March 2014 |url-status=dead}}{{cbignore|bot=medic}}</ref><ref name="ArmynewsOct2013"/><ref name="ArmynewsOct2013"/><ref>{{cite journal |last1=Freeman |first1=Maj Lyndsay |title=A Modern Fleet for the Modern Battlefield |journal=Par Oneri - Australian Army Transport Journal |date=2017 |issue=49 |page=159 |url=http://ract.org.au/sites/default/files/RACT%20Journal%202017.pdf |access-date=25 May 2023}}</ref><ref name="ArmynewsOct2013"/><ref name="ArmynewsApril2016"/><ref>{{cite press release |author=Minister for Defence Industry Christopher Pyne |title=On the road: New trucks for the ADF |url=https://www.minister.defence.gov.au/media-releases/2018-07-25/road-new-trucks-adf |website=Department of Defence Ministers |access-date=25 May 2023 |date=25 July 2018}}</ref><ref>{{cite press release|title=Major contract extension expected |url=https://www.rheinmetall-defence.com/en/rheinmetall_defence/public_relations/news/latest_news/index_17728.php |website=Rheinmetall |date=25 July 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180831002452/https://www.rheinmetall-defence.com/en/rheinmetall_defence/public_relations/news/latest_news/index_17728.php |archive-date=31 August 2018 |url-status=dead}}</ref> |- | [[:en:SC Group|HMT Extenda]] | [[File:Extenda.jpg|150px]] | {{UK}} | 31 | 陸軍は、特殊空挺連隊が使用するHMTエクステンダMK1ナリーパトロール車両31両を購入し、長距離パトロール車両に代わってIEDからの装甲防御を提供する。この名前は、イラク戦争のためにクウェートで展開前訓練中に死亡したデビッド・ナリー陸軍准尉に由来する。さらに、第2コマンド連隊のために89台のHMTエクステンダMK2が発注され、4つの構成に組み替え可能である。<ref>{{Cite web|title=Australian army soon to get Nary vehicles|url=http://www.upi.com/Business_News/Security-Industry/2011/07/21/Australian-army-soon-to-get-Nary-vehicles/UPI-85331311243420/|work=United Press International|date=21 July 2011|access-date=5 December 2015|archive-url=https://web.archive.org/web/20160304043506/http://www.upi.com/Business_News/Security-Industry/2011/07/21/Australian-army-soon-to-get-Nary-vehicles/UPI-85331311243420/|archive-date=4 March 2016|url-status=live|df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite press release|author=Minister for Defence Materiel Jason Clare|title=Minister for Defence Materiel – New Special Operations vehicle prototype delivered|url=http://www.minister.defence.gov.au/2012/12/13/minister-for-defence-materiel-media-release-new-special-operations-vehicle-prototype-delivered/|publisher=Department of Defence|date=13 December 2012|access-date=9 August 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160827044752/http://www.minister.defence.gov.au/2012/12/13/minister-for-defence-materiel-media-release-new-special-operations-vehicle-prototype-delivered/|archive-date=27 August 2016|url-status=dead|df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite web|title=Contract signed for Special Operations Vehicles|url=http://www.defence.gov.au/dmo/NewsMedia/DMOBulletin/Contract-signed-for-Special-Operations-Vehicles|website=Capability Acquisition and Sustainment Group (CASG)|publisher=Department of Defence|access-date=16 September 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160919070035/http://www.defence.gov.au/dmo/NewsMedia/DMOBulletin/Contract-signed-for-Special-Operations-Vehicles|archive-date=19 September 2016|url-status=live|df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite press release|title=Supacat to deliver 89 Special Operations Vehicles – Commando under $105m contract for JP2097 Ph 1B (REDFIN) Program|url=http://supacat.com/newsevents/news/supacat-to-deliver-89-special-operations-vehicles-commando-under-105m-contract-for-jp2097-ph-1b-redfin-program/|website=Supacat|access-date=16 September 2016|date=19 August 2014|archive-url=https://web.archive.org/web/20160916212640/http://supacat.com/newsevents/news/supacat-to-deliver-89-special-operations-vehicles-commando-under-105m-contract-for-jp2097-ph-1b-redfin-program/|archive-date=16 September 2016|url-status=live|df=dmy-all}}</ref> |} ===[[軍用車両#主な軍用車両|装甲車両]]=== {| class="wikitable" !名称!!画像!!開発!!調達量!!備考 |- style="background:#efefef; color:black" | [[M1エイブラムス]] | [[File:Exercise Gold Eagle smooth ride for Aussie, Marine tanks 130914-M-AL626-0138.jpg|left|150px]] | {{USA}} | 59 | [[主力戦車]]<br />M1A2SEPv3代替中<ref name="ArmourDTR2016">{{cite news|title=Australian Armoured Vehicle Programs to 2030 |url=http://dtrmagazine.com/wp-content/uploads/2016/08/Australian-Armoured-Vehicle-Programs-to-2030-Special-Supplement.pdf |work=Defence Technology Review |access-date=5 October 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20161229033914/http://dtrmagazine.com/wp-content/uploads/2016/08/Australian-Armoured-Vehicle-Programs-to-2030-Special-Supplement.pdf |archive-date=29 December 2016 |date=September 2016 |url-status=dead}}</ref><ref name="AbramsJan22">{{cite press release |author1=Minister for Defence Peter Dutton |title=Enhancing the ADF's armoured combat capability |url=https://www.minister.defence.gov.au/media-releases/2022-01-10/enhancing-adfs-armoured-combat-capability |website=Defence Ministers |publisher=Department of Defence |access-date=17 September 2022 |date=10 January 2022}}</ref><ref name="USFMS21" /> |- | [[ASLAV]] | [[File:ASLAV_in_Afghanistan_2011.jpg|left|150px]] | {{CAN}}<BR>{{AUS}} | 257<ref>{{Cite web |title=ASLAV - Australian LAV |url=https://www.tanks-encyclopedia.com/coldwar/Australia/ASLAV.php |access-date=2023-07-25 |website=www.tanks-encyclopedia.com}}</ref> | [[偵察戦闘車]]<br />ボクサー代替中<ref name="auto">{{cite web|title=Australian Armoured Vehicle Programs to 2030|url=http://dtrmagazine.com/wp-content/uploads/2016/08/Australian-Armoured-Vehicle-Programs-to-2030-Special-Supplement.pdf|access-date=18 June 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20161229033914/http://dtrmagazine.com/wp-content/uploads/2016/08/Australian-Armoured-Vehicle-Programs-to-2030-Special-Supplement.pdf|archive-date=29 December 2016|url-status=live|df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.defenceconnect.com.au/land-amphibious/2023-land-400-phase-2-decision-revealed|title=LAND 400 Phase 2 decision revealed|first=Amelia|last=McMahon|date=12 March 2018|access-date=14 March 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180313214330/https://www.defenceconnect.com.au/land-amphibious/2023-land-400-phase-2-decision-revealed|archive-date=13 March 2018|url-status=live|df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.abc.net.au/news/2018-03-14/ipswich-qld-wins-5-billion-army-purchase-light-armoured-vehicle/9545186?section=business|title=Queensland trounces Victoria in bid for $5 billion Army deal|newspaper=ABC News|date=14 March 2018|access-date=14 March 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180314171320/http://www.abc.net.au/news/2018-03-14/ipswich-qld-wins-5-billion-army-purchase-light-armoured-vehicle/9545186?section=business|archive-date=14 March 2018|url-status=live|df=dmy-all}}</ref> |- | [[ボクサー装輪装甲車|ボクサー]] | [[File:Boxer_Land_400.jpg|left|150px]] | {{GER}}<BR>{{NLD}} | 68<ref>{{cite news |title=LAND FORCES 2021 – Australian Army receives 25th Boxer CRV |url=https://adbr.com.au/land-forces-2021-australian-army-receives-25th-boxer-crv/ |access-date=17 September 2022 |issue=Australian Defence Business Review |date=2 June 2021}}</ref> | [[偵察戦闘車]]<ref>{{cite web |last1=Dominguez |first1=Gabriel |title=Australia orders 211 Boxer wheeled armoured vehicles |url=https://www.janes.com/article/82437/australia-orders-211-boxer-wheeled-armoured-vehicles |website=www.janes.com |publisher=IHS Janes |access-date=18 August 2018 |location=London |language=en |date=17 August 2018 |archive-url=https://web.archive.org/web/20180817223306/https://www.janes.com/article/82437/australia-orders-211-boxer-wheeled-armoured-vehicles |archive-date=17 August 2018 |url-status=live |df=dmy-all }}</ref><ref>{{cite web|title=Joint media release – Prime Minister, Minister for Defence Industry and Minister for Defence – New Vehicles to protect our troops and create 1450 jobs|url=https://www.minister.defence.gov.au/minister/marise-payne/media-releases/joint-media-release-prime-minister-minister-defence-industry|access-date=15 March 2018|date=14 March 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180315133922/https://www.minister.defence.gov.au/minister/marise-payne/media-releases/joint-media-release-prime-minister-minister-defence-industry|archive-date=15 March 2018|url-status=live|df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.defence.gov.au/dmo/equippingdefence/land400|title=land400 – Capability Acquisition and Sustainment|website=www.defence.gov.au|access-date=4 April 2018|archive-url=https://web.archive.org/web/20180325023806/http://www.defence.gov.au/dmo/equippingdefence/land400|archive-date=25 March 2018|url-status=live|df=dmy-all}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://defense-update.com/20190121_iron-fists-aps-for-the-australian-boxers.html|title=Iron Fists APS for the Australian Boxers|date=21 January 2019}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://adbr.com.au/boxer-crv-to-get-an-iron-fist/|title = Boxer CRV to get an Iron Fist?|date = 22 January 2019}}</ref> |- | [[M113]] | [[File:M113AS4 during Predator's Strike 2011.jpg|left|150px]] | {{USA}} | 431 | [[K21歩兵戦闘車|AS21]]代替中<ref name="M113">{{cite news|last1=Houston and Handel|first1=Bill and Paul|title=Half a century's service|url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1348/1348.pdf|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1348|date=9 April 2015|publisher=Department of Defence|location=Canberra, Australia|issn=0729-5685|archive-url=https://web.archive.org/web/20170202000808/http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1348/1348.pdf|archive-date=2 February 2017|url-status=dead}}</ref><ref>{{cite web|title=M113AS4 Armoured Personnel Carrier|url=http://www.army.gov.au/Our-work/Equipment-and-clothing/Vehicles/M113AS4|website=Australian Army|access-date=8 August 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20160725235154/http://www.army.gov.au/Our-work/Equipment-and-clothing/Vehicles/M113AS4|archive-date=25 July 2016|url-status=dead|df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite web |last1=Mitzer |first1=Stijn |last2=Oliemans |first2=Joost |title=Arms From Down Under: Australia’s Aid To Ukraine |url=https://www.oryxspioenkop.com/2022/07/arms-from-down-under-australias-aid-to.html |website=Oryxspioenkop |access-date=16 March 2023 |date=6 July 2022}}</ref><ref name=":0">{{Cite news |date=2023-04-21 |title=Army projects drastically cut as Australia fast-tracks massive build-up of land-based missiles |language=en-AU |work=ABC News |url=https://www.abc.net.au/news/2023-04-21/army-projects-drastically-cut-in-defence-shakeup/102254536 |access-date=2023-04-21}}</ref><ref>https://www.defence.gov.au/news-events/news/2023-07-27/redback-bring-army-some-sting</ref><ref name="traffic">{{Cite web|和書|title=韓国の歩兵戦闘車が独ラインメタルを破り豪軍に採用! 約6700億円規模|url=https://trafficnews.jp/post/127196|website=乗りものニュース|accessdate=2023-07-30|language=ja}}</ref> |- | [[M88装甲回収車]] | [[File:Australian M88 Hercules during Talisman Sabre 2011.jpg|left|150px]] | {{USA}} | 13 | [[装甲回収車]]<ref name="ArmourDTR2016" /><ref>{{cite press release |author1=Minister for Defence Industry Christopher Pyne |title=HERCULES armoured recovery vehicles delivered |url=https://www.minister.defence.gov.au/minister/christopher-pyne/media-releases/hercules-armoured-recovery-vehicles-delivered |access-date=5 October 2021 |work=Department of Defence Ministers |date=20 April 2017}}</ref><ref name="AbramsJan22" /><ref name="USFMS21" /> |- | [[:en:JCB HMEE]] | [[File:HMEE-with-slat-armor-001.jpg|left|150px]] | {{UK}} | 8 | [[戦闘工兵車]] |- | [[:en:Husky VMMD|HUSKY Mark III]] | [[File:Huskies_150131-A-ID878-095.jpg|left|150px]] | {{ZAF}} | 12 | [[戦闘工兵車]]<ref name="PBS1213"/> |- | [[:en:John Deere|John Deere 450J bulldozers]] | | {{USA}} | 21 | [[戦闘工兵車]]<ref>{{cite web |title=John Deere dozers join the ranks |url=https://hitachicm.com.au/solutions/construction/john-deere-dozers-join-the-ranks |website=Hitachi Construction Machinery Australia |archive-url=https://web.archive.org/web/20190308172029/https://hitachicm.com.au/solutions/construction/john-deere-dozers-join-the-ranks |archive-date=8 March 2019 |url-status=dead}}</ref><ref>{{cite book |author1=Department of Defence |title=2011-2012 Defence annual report |publisher=Commonwealth of Australia |isbn=9780642297709 |page=186 |chapter=Part Two: Defence Materiel Organisation |url=https://www.defence.gov.au/sites/default/files/2021-10/AR-2011-12.pdf |access-date=17 September 2022}}</ref> |- |} ===車載武器=== * 主武装ではないが、[[FN MAG|FN MAG 58]]、[[Mk19 自動擲弾銃|Mk19]]、[[ブローニングM2重機関銃|M2]]は車両に搭載できる。 * [[M134 (機関銃)|M134ミニガン]]は[[7.62x51mm NATO弾]]を毎分3,000発から4,000発発射できる。 * [[ブローニングM2重機関銃|M3P機関銃]]はM2重機関銃の火力増強版であり、[[アベンジャーシステム]]及び[[OH-58 カイオワ]]に搭載できる。 * [[GAU-19]]は[[12.7x99mm NATO弾]]を発射する[[ガトリング砲|ガトリングガン]]であり、[[ヘリコプター]]に搭載できる。 * [[M230機関砲|M230チェーンガン]]は[[30mm口径弾|30x113mm弾]]を毎分625発発射でき、[[AH-64D アパッチ・ロングボウ|AH-64]]及び[[UH-60 ブラックホーク#HH-60/MH-60|MH-60]]に搭載できる。<ref>{{cite web|author=John Pike |url=http://www.globalsecurity.org/military/systems/aircraft/systems/m230.htm |title=M230 Automatic Gun |publisher=Globalsecurity.org |accessdate=27 May 2011}}</ref> * [[M242 ブッシュマスター|M242]]は[[25mm口径弾|25x137mm弾]]を毎分200発発射できる。[[ASLAV]]の主武装の一つであり、様々な[[対空兵器]]や[[海軍]]の対水上兵器として使用されている。.<ref>{{cite web|author=John Pike |url=http://www.globalsecurity.org/military/systems/aircraft/systems/m242.htm |title=M242 Bushmaster 25&nbsp;mm Automatic Gun |publisher=Globalsecurity.org |date=25 January 2006 |accessdate=27 May 2011}}</ref> ==航空機== 陸軍は若干の固定翼機と多くのヘリコプターを運用する。<ref>[http://www.aviationweek.com/aw/sourcebook/content.jsp?channelName=pro&story=xml/sourcebook_xml/2009/01/26/AW_01_26_2009_p0240-112924-158.xml&headline=World%20Military%20Aircraft%20Inventory%20-%20United+States].</ref> {{See also|各国軍の航空配備一覧}} ===[[ヘリコプター]]=== {|class="wikitable" ! 名称 ! 画像 ! 開発 ! 用途 ! 派生系 ! 調達数 ! 備考 |- | [[ティーガー (航空機)|Tiger ARH]] | [[File:ARH Tiger.jpg|150px]] | {{FRA}} | [[攻撃ヘリコプター]] | Tiger ARH | 22 | [[AH-64]]代替中<ref>{{cite news |last1=Pittaway |first1=Nigel |title=ADF to acquire more Hellfire missiles |url=https://www.australiandefence.com.au/defence/land/adf-to-acquire-more-hellfire-missiles |access-date=8 November 2023 |work=Australian Defence Magazine |date=20 January 2022}}</ref> <ref name="Apache"/><ref>{{cite news |last1=McLaughlin |first1=Andrew |title=Airbus doubles-down on Tiger replacement proposal |url=https://adbr.com.au/airbus-doubles-down-on-tiger-replacement-proposal/ |access-date=18 January 2022 |work=Australian Defence Business Review |date=7 October 2020}}</ref> |- | [[NH90 (航空機)|MRH-90]] | [[File:Australian MRH-90 lands on USS Green Bay (LPD-20) in July 2015.JPG|150px]] | {{FRA}} | [[輸送機|輸送ヘリコプター]] | MRH-90 | 41 | [[UH-60]]代替中<ref name="Janes2015">{{cite news|last=Kerr|first=Julian|url=http://www.janes.com/article/56386/australian-army-to-extend-black-hawk-service-lives-for-special-forces-use|title=Australian Army to extend Black Hawk service lives for special forces use|work=IHS Jane's Defence Weekly|date=1 December 2015|access-date=3 December 2015|archive-url=https://web.archive.org/web/20160105000134/http://www.janes.com/article/56386/australian-army-to-extend-black-hawk-service-lives-for-special-forces-use|archive-date=5 January 2016|url-status=dead|df=dmy-all}}</ref> <ref name="ANAO2014" /><ref name="ADM2016">{{cite news |last1=Kerr |first1=Julian |title=Air: MRH90 Taipan – reaching for 2016 milestones |url=http://www.australiandefence.com.au/news/air-mrh90-taipan-reaching-for-2016-milestones |access-date=5 October 2018 |work=Australian Defence Magazine |date=1 February 2016}}</ref><ref name="ADBR21">{{cite news |last1=McLaughlin |first1=Andrew |title=With a new Black Hawk on the way, the original is retired |url=https://adbr.com.au/with-a-new-black-hawk-on-the-way-the-original-is-retired/ |access-date=18 January 2022 |work=Australian Defence Business Review |date=10 December 2021}}</ref><ref name="MRH90retired">{{cite press release |author1=Minister for Defence Richard Marles |author2=Minister for Defence Industry Pat Conroy |title=Army helicopter fleet update |url=https://www.minister.defence.gov.au/media-releases/2023-09-29/army-helicopter-fleet-update |website=Department of Defence Ministers |access-date=14 October 2023 |date=29 September 2023}}</ref><ref name="BlackHawk2023"/> |- | [[UH-60]] | [[File:US Army UH-60M (cropped).jpg|150px]] | {{USA}} | [[輸送機|輸送ヘリコプター]] | UH-60M | 40 | <ref name="MRH90retired"/><ref name="BlackHawk2023"/><ref name="MRH90retired"/><ref name="BlackHawk2023"/><ref name="UH60MAug23">{{cite news |last1=Greene |first1=Andrew |title=Army's first new Black Hawks arrive as 'secretive' Taipan crash investigation continues |url=https://www.abc.net.au/news/2023-08-07/new-army-black-hawks-arrive-as-taipan-probe-continues/102695564 |access-date=14 October 2023 |work=ABC News |publisher=Australian Broadcasting Corporation |date=7 August 2023}}</ref> |- | [[アグスタウエストランド AW139|AW139]] | [[File:MIAS 260915 AFM AW139 (cropped).jpg|150px]] | {{ITA}} | [[輸送機|輸送ヘリコプター]] | UH-60M | 5 | <ref name="Army2021">{{cite web |title=Army aviation capability bolstered |url=https://www.defence.gov.au/news-events/news/2021-10-28/army-aviation-capability-bolstered |website=Department of Defence |access-date=14 May 2023 |date=28 October 2021}}</ref><ref>{{cite news |last1=Hurst |first1=Daniel |title=Defence spends $37m on private helicopter hire after troubles with its own $15bn chopper program |url=https://www.theguardian.com/australia-news/2021/may/27/defences-37m-spending-on-private-helicopter-hire-beyond-a-joke-labor-says |access-date=14 May 2023 |work=The Guardian |date=27 May 2021}}</ref><ref name="Leonardo">{{cite press release |title=Leonardo: Toll Helicopters orders two more AW139s supporting the Australian Defence Force (ADF) |url=https://www.leonardo.com/en/press-release-detail/-/detail/01.03.2023-leonardo-toll-helicopters-orders-two-more-aw139s-supporting-the-australian-defence-force-adf-. |website=Leonardo |access-date=14 May 2023 |date=1 March 2023}}</ref><ref name="Army2021"/><ref name="Leonardo"/><ref name="Leonardo"/> |- | [[CH-47 (航空機)|CH-47]] | [[File:A15-302 during Talisman Sabre 2021.jpg|150px]] | {{USA}} | [[輸送機|輸送ヘリコプター]] | CH-47F | 14 | <ref>{{cite book |author1=Australian National Audit Office |title=2016–17 Major Projects Report – Department of Defence |date=2018 |publisher=The Auditor-General |location=Canberra |isbn=9781760333256 |url=https://www.anao.gov.au/sites/g/files/net4981/f/ANAO_Report_2017-2018_26_complete.pdf |access-date=29 August 2018 |id=ANAO Report No.26 2017–18 |chapter=AIR 9000 Phase 5C Project Data Summary Sheet |archive-url=https://web.archive.org/web/20180829212251/https://www.anao.gov.au/sites/g/files/net4981/f/ANAO_Report_2017-2018_26_complete.pdf |archive-date=29 August 2018 |url-status=live |df=dmy-all }}</ref> <ref>{{cite news|title=Boeing Completes CH-47F Deliveries to Australian Army|url=http://www.asiapacificdefencereporter.com/articles/692/Boeing-completes-CH-47F-Chinook-deliveries-to-Australian-Army|work=Asia-Pacific Defence Reporter|date=12 September 2015|archive-url=https://web.archive.org/web/20160822034753/http://www.asiapacificdefencereporter.com/articles/692/Boeing-completes-CH-47F-Chinook-deliveries-to-Australian-Army|archive-date=2016-08-22|url-status=dead}}</ref><ref>{{cite report |author1=Department of Defence |title=Statement of Evidence for Land 4502 Phase 1 Additional CH-47F Chinook Facilities Project |url=https://www.aph.gov.au/Parliamentary_Business/Committees/Joint/Public_Works/Land4502Phase1/Submissions |publisher=Parliamentary Standing Committee On Public Works, Commonwealth of Australia |access-date=5 October 2021 |date=August 2018}}</ref><ref>{{cite news|title=New Chinooks arrive|url=https://downloads.realviewdigital.com/pdf/army-news/july-22-2021.pdf|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1493|date=2 July 2021|publisher=Department of Defence|location=Canberra, Australia|issn=0729-5685|page=3|access-date=5 October 2021}}</ref><ref>{{cite news|title=Extra lift for capability|url=https://downloads.realviewdigital.com/pdf/army-news/july-7-2022.pdf|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1515|date=7 July 2022|publisher=Department of Defence|location=Canberra, Australia|issn=0729-5685|page=7|access-date=17 September 2022}}</ref> |- | [[ユーロコプター EC 135|EC135]] | [[File:Joint Helicopter Aircrew Training School (N52-014) Airbus Helicopter EC135T2+ at Wagga Wagga Airport.jpg|150px]] | {{FRA}} | [[輸送機|輸送ヘリコプター]] | | 15 | <ref>{{cite press release|title=Minister for Defence – New training system for ADF helicopter crews|url=http://www.minister.defence.gov.au/2014/10/23/new-training-system-for-adf-helicopter-crews/|publisher=Department of Defence|date=23 October 2014|access-date=1 August 2016|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20160825183833/http://www.minister.defence.gov.au/2014/10/23/new-training-system-for-adf-helicopter-crews/|archive-date=25 August 2016|df=dmy-all}}</ref> |- |} {{notes}} {{reflist|group=Note}} ==艦船([[軍艦|水上艦艇]])== {| class="wikitable" ! 名称!!画像!!種類!!派生系!!調達数 |- | [[LARC (軍用車両)|LARC]] | [[File:Australian Army LARC-V in 2013.jpg|150px]] | [[LCU|汎用揚陸艇]] | | 15<ref name="Watercraft">{{cite news|last1=Morley|first1=Sgt Dave|title=Specialists rest easy|url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1344/1344.pdf|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1344|date=12 February 2015|publisher=Department of Defence|location=Canberra, Australia|issn=0729-5685|access-date=26 November 2016|archive-url=https://web.archive.org/web/20161126194428/http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1344/1344.pdf|archive-date=26 November 2016|url-status=live|df=dmy-all}}</ref><ref name="RACT policy">{{cite web|title=Naming of RACT watercraft (Policy statement)|url=http://www.ract.org.au/Archived/sites/default/files/armywatercraftnaming.pdf|website=Royal Australian Corps of Transport|publisher=Royal Australian Corps of Transport|access-date=26 November 2016|date=24 October 2006|archive-url=https://web.archive.org/web/20161127022406/http://www.ract.org.au/Archived/sites/default/files/armywatercraftnaming.pdf|archive-date=27 November 2016|url-status=live|df=dmy-all}}</ref> |- | [[:en:LCM-8]] | [[File:Australian Army LCM-8 during Exercise Talisman Sabre 2021.jpg|150px]] | [[LCU|汎用揚陸艇]] | | 12<ref name="Watercraft" /><ref name="RACT policy" /> |- |} ==衣類== {| class="wikitable" |+現在の服装 !名称 !迷彩柄名 !迷彩 !画像 !備考 |- | [[:en:Australian Multicam Camouflage Uniform|AMCU]] | AMCU | [[File:CSA hosts office call iho Australian Chief of Army (35019039060) (cropped).jpg|125px]] | [[File:Australian soldier armed with an EF88 during Exercise Balikatan 23.jpg|125px]] |オーストラリア陸軍の標準的な戦闘服。その迷彩パターンは、以前のDPCU(Disruptive Pattern Camouflage Uniform:破壊的パターン迷彩服)に基づいたカラーパレットと形状を使用し、Crye Precision MultiCamから派生したものである。AMCUは2014年後半から第3旅団に支給され、2016年1月から最終的なデザイン展開が開始された。<ref name="AMCU">{{cite press release |title=Army launches next generation uniform |url=https://www.army.gov.au/media-room/media-releases/army-launches-next-generation-uniform |website=Australian Army |date=22 September 2014}}</ref><ref name="Factsheet">{{cite web |title=Australian Multicam Camouflage Uniform (AMCU) Factsheet |url=https://www.army.gov.au/sites/g/files/net1846/f/amcu_factsheet.pdf |website=Australian Army |date=September 2014}}</ref><ref name="NewsAug16">{{cite news|title=Focused on the future|url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1379/1379b.pdf|access-date=10 August 2019|work=Army: The Soldiers' Newspaper|edition=1379|publisher=Department of Defence|location=Canberra|issn=0729-5685|date=11 August 2016}}</ref><ref name="Contactuniform">{{cite magazine|last1=Marr |first1=Lt. Col. Harry |title=AMCU |magazine=CONTACT Air Land & Sea |date=September 2016 |issue=51 |url=https://www.contactairlandandsea.com/free_contact/contact51/contact51.pdf |access-date=13 August 2019 |publisher=Contact Publishing |location=Minnamurra |issn=1449-2385}}</ref> |- | Tiered Combat Helmet (TCH) | AMCU | [[File:CSA hosts office call iho Australian Chief of Army (35019039060) (cropped).jpg|125px]] | [[File:Australian soldier during an exercise at Camp Taji in August 2018.jpg|125px]] |オーストラリア陸軍の標準支給戦闘ヘルメットは、Tiered Combat Helmet(TCH)に指定されたTeam WendyのEXFIL Ballisticヘルメットである。EXFIL Ballisticは2015年のLand 125 Phase 3BでTier 2とTier 3に採用された。<ref name="TeamWendy">{{cite press release |title=Australian Defense Force selects Team Wendy EXFIIL Ballistic Helmet |url=https://www.teamwendy.com/about/media-kit/press-releases/december-2015/australian-defense-dorce-selects-team-wendy-exfil |website=Team Wendy |access-date=21 November 2019 |date=19 December 2015}}</ref><ref name="ArmyNewsMar2016">{{cite news|last1=McLennan |first1=Lt-Col Ben |title=Optimal Performance |url=http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1369/1369.pdf |work=Army: The Soldiers' Newspaper |edition=1369 |publisher=Department of Defence |location=Canberra |issn=0729-5685 |date=24 March 2016 |pages=16-17 |archive-url=https://web.archive.org/web/20161018123353/http://www.defence.gov.au/Publications/NewsPapers/Army/editions/1369/1369.pdf |archive-date=18 October 2016|url-status=dead}}</ref><ref name="TeamWendy"/><ref name="ArmyNewsMar2016"/> |- |} ==関連項目== *[[オーストラリア軍]] *[[オーストラリア国防軍]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} {{Australian Defence Force}} [[Category:兵器の一覧]] {{デフォルトソート:あめりかりくくんのそうひひんいちらん}}
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阪口進一
阪口 進一(さかぐち しんいち)は、日本の国土交通技官、技術士。市原市副市長、鹿児島市副市長、国土交通大学校副校長、さいたま市副市長などを歴任した。市原市自治功労者特別表彰受賞。 大阪大学工学部土木工学科卒業。1988年建設省入省。国土交通省総合政策局国際建設課海外協力官を経て、2001年国土交通省都市・地域整備局市街地整備課長補佐。2003年群馬県土木部都市施設課長。2004年群馬県県土整備局都市施設課長。2005年市原市助役。 2007年市原市副市長。2008年国土交通省都市局まちづくり推進課企画専門官。2011年国土交通省都市局街路交通施設課街路事業調整官。同年内閣官房内閣参事官(内閣官房副長官補付)、内閣官房東日本大震災復興対策本部事務局参事官。 2012年復興庁統括官付参事官。2013年鹿児島市副市長、鹿児島市水族館公社副理事長。同年市原市市制施行50周年式典で市原市自治功労者特別表彰を受賞。2017年国土交通省都市局都市安全課長、不動産鑑定士試験短答式試験試験委員。 2018年国土交通大学校副校長。2019年さいたま市副市長、ルミネ取締役。2021年国土交通省大臣官房付、即日辞職、神戸製鋼所顧問。技術士 (建設部門)、技術士 (都市計画)。
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阪口 進一は、日本の国土交通技官、技術士。市原市副市長、鹿児島市副市長、国土交通大学校副校長、さいたま市副市長などを歴任した。市原市自治功労者特別表彰受賞。
'''阪口 進一'''(さかぐち しんいち)は、[[日本]]の[[国土]][[交通]][[技官]]、[[技術士]]。[[市原市]][[副市町村長|副市長]]、[[鹿児島市]]副市長、[[国土交通大学校]]副校長、[[さいたま市]]副市長などを歴任した。市原市自治功労者特別表彰受賞。 ==人物・経歴== [[大阪大学工学部]][[土木工学科]]卒業<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/prohe1975/32/0/32_0_263/_article/-char/ja 停滞成層水域の水温構造年周変化に関する考察]水理講演会論文集/32 巻 (1988)</ref>。1988年[[建設省]]入省。[[国土交通省総合政策局]]国際建設課海外協力官を経て、2001年国土交通省[[都市・地域整備局]]市街地整備課長補佐。2003年[[群馬県]]土木部都市施設課長。2004年群馬県県土整備局都市施設課長。2005年[[市原市]]助役。 2007年市原市[[副市町村長|副市長]]。2008年[[国土交通省都市局]]まちづくり推進課企画専門官。2011年国土交通省都市局街路交通施設課街路事業調整官。同年[[内閣官房]][[内閣参事官]]([[内閣官房副長官補]]付)、内閣官房[[東日本大震災復興対策本部]]事務局参事官<ref>官報平成23年本紙第5587号 10頁</ref>。 2012年[[復興庁]]統括官付参事官<ref>[https://www.reconstruction.go.jp/topics/Taro-120229_Hpkeisaiyou_kachoukyuu.pdf 復興庁人事異動]</ref>。2013年[[鹿児島市]]副市長、[[鹿児島市水族館公社]]副理事長<ref>[https://ioworld.jp/corporation/wp-content/uploads/2016/08/ed424ef3fca8f157398ce3c2749d5da4.pdf 公益財団法人鹿児島市水族館公社 役員名簿]</ref>。同年市原市市制施行50周年式典で市原市自治功労者特別表彰を受賞<ref>[https://prdurbanosichapp1.blob.core.windows.net/common-article/60237492ece4651c88c18382/251201_2.pdf (敬称略、団体 98・人 294 全(受賞団体・特]市原市</ref>。2017年国土交通省都市局都市安全課長<ref>官報平成29年号外第182号 1頁</ref>、[[不動産鑑定士試験]]短答式試験試験委員<ref>官報平成29年本紙第7099号 5頁</ref>。 2018年[[国土交通大学校]]副校長<ref>[https://news.kotsu.co.jp/Contents/20180905/b4880393-f9df-43e3-b621-a87733ab142d 国土交通省人事 9月1日、2日付]交通新聞2018.09.05</ref>。2019年[[さいたま市]]副市長<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190629/ddl/k11/010/176000c さいたま市議会 副市長に阪口氏、人事案など可決 /埼玉 ]毎日新聞 2019/6/29 地方版 有料記事 165文字</ref>、[[ルミネ]][[取締役]]<ref>[https://senken.co.jp/posts/hr-lumine-190930 《人事・機構》ルミネ(9月26日)]繊研新聞2019/09/30 06:19 </ref>。2021年[[国土交通省大臣官房]]付、即日辞職<ref>[https://www.logi-today.com/428049 国交省、21年4月1日付人事異動(3070人)] Logistics Today2021年4月1日 (木)</ref>、[[神戸製鋼所]][[顧問]]<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/houkoku_r031221_siryou.pdf 国家公務員法第106条の25第1項等の規定に基づく国家公務員の再就職状況の報告(令和3年7月1日~同年9月30日分)] 令和3年12月21日 内閣官房内閣人事局</ref>。[[技術士 (建設部門)]]、[[技術士]] ([[都市計画]])<ref>[http://kagoshima-pe.org/npo/lecturer/Seminar19.pdf 平成27年度 NPO法人 鹿児島技術士の会 講演会報告]</ref>。 == 脚注 == <references /> {{-}} {{先代次代|市原市助役→副市長|2005年 - 2008年|[[西山幸治]]|[[西井洋史]]}} {{先代次代|国土交通大学校副校長|2018年 - 2019年|[[神田昌幸]]|[[平井節生]]}} {{先代次代|さいたま市副市長|2019年 - 2021年|[[松本勝正]]|[[小川博之]]}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:さかくち しんいち}} [[Category:日本の都市計画官僚]] [[Category:日本の内閣官房官僚]] [[Category:技術士]] [[Category:千葉県内の地方公務員出身の人物]] [[Category:さいたま市副市長]] [[Category:日本の国土交通技官]] [[Category:工学士取得者]] [[Category:大阪大学出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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青柳公也
青柳 公也(あおやぎ きんや、1955年4月4日 - )は茨城県出身のプロゴルファー。 茨城県立取手第一高等学校卒業。 1984年にプロ入りし、1989年には同郷・同年で高校も同じ須藤聡明とペアを組んだアコムダブルスでロジャー・マッカイ&ウェイン・スミスのオーストラリアペアをプレーオフで下してプロ初優勝を飾った。 2003年のアコムインターナショナルを最後にレギュラーツアーから引退し、2015年には群馬県オープン(シニア)で佐野修一・須藤・野口裕樹夫に次ぐ6位に入った。
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青柳 公也は茨城県出身のプロゴルファー。
{{ゴルファー |名前=青柳 公也 |ラテン文字=Kinya AOYAGI |画像= |国籍={{JPN}} |生年月日={{生年月日と年齢|1955|4|4}} |没年月日= |出身地=[[茨城県]] |身長=175cm |体重=88kg |血液型= |利き手= |経歴= |プロ転向= |優勝歴= |初優勝= |賞金王= |ベストスコア= |世界ランキング最高位= |賞金ランキング最高位= }} '''青柳 公也'''(あおやぎ きんや、[[1955年]][[4月4日]] - )は[[茨城県]]出身の[[プロゴルファー]]。 == 来歴 == [[茨城県立取手第一高等学校|取手一高]]<ref name="青柳公也プロフィール">[http://www.smile-pga.jp/profile/?id=000340 青柳 公也 アオヤギ キンヤ KINYA AOYAGI]</ref>時代は[[野球]]部に在籍し、後にプロゴルファーになっている同年の[[須藤聡明]]がチームメイトで<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.golfdigest.co.jp/digest/column/back9/2005/20051129d.asp|title=日本シニアオープン、1打差で優勝を逃すも 1発シードを決めた「ラッキー」な須藤聡明|date=2005-11-07|work=週刊ゴルフダイジェスト 11/29号|accessdate=2023-12-31|publisher=ゴルフダイジェスト社}}</ref>、2年次の[[1972年]][[第44回選抜高等学校野球大会|春]]と3年次の[[1973年]][[第55回全国高等学校野球選手権大会|夏]]には[[阪神甲子園球場|甲子園]]に出場している<ref>[https://www.pga.or.jp/data/2006/data/senshu.html 2006年シニアプロフィール]</ref>。 [[1984年]]にプロ入りし<ref name="青柳公也プロフィール" />、[[1989年]]には須藤とペアを組んだ[[アコムインターナショナル|アコムダブルス]]で[[:en:Roger Mackay|ロジャー・マッカイ]]&ウェイン・スミスの[[オーストラリア]]ペアをプレーオフで下してプロ初優勝を飾った<ref>{{cite news |title=Japanese pair wins title |url=https://www.newspapers.com/image/641535778/ |access-date=1 February 2021 |work=Fort Worth Star-Telegram |date=6 November 1989 |location=Fort Worth, Texas |page=18 |via=Newspapers.com |url-access=subscription}}</ref>。 [[2003年]]のアコムインターナショナル<ref>[https://www.jgto.org/player/340/result 青柳 公也選手 年度別大会成績 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site]</ref>を最後にレギュラーツアーから引退し、[[2015年]]には群馬県オープン(シニア)で[[佐野修一]]・須藤・[[野口裕樹夫]]に次ぐ6位に入った<ref>[https://www2.jomo-news.co.jp/gga/kiroku/h27/g/150809.pdf 2015群馬県オープンゴルフ選手権 新玉村ゴルフ場 2015年8月9日(日)]</ref>。 == 主な優勝 == * 1989年 - アコムダブルス == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [https://www.jgto.org/player/340/profile 青柳 公也選手 プロフィール - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あおやき きんや}} [[Category:日本の男子プロゴルファー]] [[Category:野球出身のゴルファー]] [[Category:茨城県出身の人物]] [[Category:1955年生]] [[Category:存命人物]]
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西井洋史
西井 洋史(にしい ひろし)は、日本の国土交通技官、技術士。市原市副市長等を経て、土木研究所つ土砂管理研究グループ長や、国土技術政策総合研究所土砂災害研究部長、砂防学会理事を務めた。 1987年京都大学農学部林学科卒業、建設省入省(北陸地方建設局金沢工事事務所)。建設省河川局砂防部砂防課長補佐を経て、1999年国土庁防災局防災業務課長補佐。2001年国土交通省河川局砂防部保全課課長補佐。2002年国土交通省河川局砂防部保全課企画専門官。 2003年国土交通省北陸地方整備局湯沢砂防事務所長。2005年国土交通省四国地方整備局河川部河川調査官。2006年愛媛県土木部河川港湾局砂防課長。2008年市原市副市長、市原市職員互助会理事長。 2011年国土交通省関東地方整備局富士川砂防事務所長。2013年国土交通省水管理・国土保全局砂防部保全課保全調整官、砂防関係工事安全施工管理技術研究発表会実行委員会委員長。2015年国土交通省四国地方整備局河川部長。 2017年土木研究所つくば中央研究所土砂管理研究グループ長。2019年国土技術政策総合研究所土砂災害研究部長、砂防学会理事。2020年気候変動を踏まえた砂防技術検討会委員。同年国土交通省大臣官房付、退官、日本工営株式会社大阪支店理事兼技師長。2022年日本工営株式会社大阪支店シニアエンジニア。
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西井 洋史は、日本の国土交通技官、技術士。市原市副市長等を経て、土木研究所つ土砂管理研究グループ長や、国土技術政策総合研究所土砂災害研究部長、砂防学会理事を務めた。
'''西井 洋史'''(にしい ひろし)は、[[日本]]の[[国土]][[交通]][[技官]]、[[技術士]]。[[市原市]][[副市町村長|副市長]]等を経て、[[土木研究所]]土砂管理研究グループ長や、[[国土技術政策総合研究所]]土砂災害研究部長、[[砂防学会]]理事を務めた。 ==人物・経歴== 1987年[[京都大学農学部]][[林学科]]卒業、[[建設省]]入省(北陸[[地方建設局]][[金沢市|金沢]]工事事務所)。建設省[[河川局]]砂防部砂防課長補佐を経て、1999年[[国土庁]]防災局防災業務課長補佐。2001年国土交通省河川局砂防部保全課課長補佐。2002年[[国土交通省]]河川局砂防部保全課企画専門官。2003年国土交通省[[北陸地方整備局]][[湯沢市|湯沢]]砂防事務所長<ref>官報平成15年本紙第3609号 7頁</ref>。 2005年国土交通省[[四国地方整備局]]河川部河川調査官<ref>官報平成17年号外第104号 24頁</ref>。2006年[[愛媛県]]土木部河川[[港湾局]]砂防課長。2008年[[市原市]][[副市町村長|副市長]]、市原市職員互助会[[理事長]]<ref>[https://www.asahi.com/fashion/article/TKY201106080459.html ポロシャツでクールに支援 千葉・市原で販売、希望殺到]朝日新聞デジタル2011年6月9日0時46分</ref>。2011年国土交通省[[関東地方整備局]][[富士川]]砂防事務所長<ref>官報平成23年本紙第5647号 7頁</ref>。2013年国土交通省[[水管理・国土保全局]]砂防部保全課保全調整官<ref>官報平成25年号外第122号 4頁</ref>、砂防関係工事安全施工管理技術研究発表会実行委員会委員長。 2015年国土交通省四国地方整備局河川部長<ref>官報平成27年号外第292号 16頁</ref>。2017年[[土木研究所]]つくば中央研究所土砂管理研究グループ長<ref>[https://www.pwrc.or.jp/thesis_shouroku/thesis_pdf/1801-P041-043_nishii.pdf - 41 - 特集報文:変革する土木技術のさらなる展開 多様化する土砂災害への対応を目指す 西井洋史土木技術資料 60-1(2018) - 41 - 特集報文:変革する土木技術のさらなる展開 多様化する土砂災害への対応を目指す]土木技術資料 60-1(2018) </ref>。2019年[[国土技術政策総合研究所]]土砂災害研究部長、[[砂防学会]]理事。2020年気候変動を踏まえた砂防技術検討会委員<ref>[https://www.mlit.go.jp/river/sabo/committee_kikohendo/200108/00haiseki.pdf 「気候変動を踏まえた砂防技術検討会」(第1回)]</ref><ref>[https://jsece.or.jp/wp-content/uploads/2020/06/executj_2018.pdf 第4期(公社)砂防学会役員名簿]</ref>。同年[[国土交通省大臣官房]]付、退官、[[日本工営]]株式会社大阪支店理事兼技師長<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/houkoku_r030326_siryou.pdf 国家公務員法第106条の25第1項等の規定に基づく国家公務員の再就職状況の報告(令和2年10月1日~同年12月31日分)]令和3年3月26日 内閣官房内閣人事局</ref>。2022年日本工営株式会社大阪支店シニアエンジニア<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZTSJP10801_Q2A310C2000000/ 人事、日本工営]日本経済新聞2022年3月10日 17:05</ref>。 == 脚注 == <references /> {{-}} {{先代次代|市原市副市長|2008年 - 2011年|[[阪口進一]]|[[三橋さゆり]]}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:にしい ひろし}} [[Category:土木研究所の人物]] [[Category:砂防|人にしい ひろし]] [[Category:日本の国土交通技官]] [[Category:千葉県内の地方公務員出身の人物]] [[Category:農学士取得者]] [[Category:京都大学出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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幕張ベイパーク スカイグランドタワー
幕張ベイパーク スカイグランドタワー(まくはりベイパーク スカイグランドタワー)は、千葉県千葉市美浜区の幕張ベイパークB-2街区に所在する超高層マンション。タワー棟と、敷地内にクリニック・商業施設が設置されている。 土地利用基本計画名称は幕張新都心若葉住宅地区・文教地区未利用地都市計画マスタープランであり、幕張海浜公園から幕張ベイパーク入口・および海浜幕張駅にほど近いB-2街区(区画)に所在する。48階建てのタワーマンション、および敷地内にクリニック棟(小児科、歯科、整形外科、処方薬局)、商業施設棟(飲食店舗、スポーツジム)、自走式駐車場、で構成されている。 タワーマンション棟は、地上48階建て全826戸の超高層マンションとなっている。地上高172.4mであり、千葉県内で最も高いマンションとなっている。設計・監理および施工は熊谷組、デベロッパーは三井不動産レジデンシャル、野村不動産、三菱地所レジデンス、伊藤忠都市開発、東方地所、富士見地所、袖ヶ浦興業、管理会社は三井不動産レジデンシャルサービスが行っている。
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幕張ベイパーク スカイグランドタワーは、千葉県千葉市美浜区の幕張ベイパークB-2街区に所在する超高層マンション。タワー棟と、敷地内にクリニック・商業施設が設置されている。
{{Pathnav|幕張新都心|幕張ベイパーク|frame = 1}} {{基礎情報 超高層ビル |ビルディング名称 = 幕張ベイパーク<br />スカイグランドタワー |画像 = 幕張ベイパーク スカイグランドタワー 公園側より撮影した全景.jpg |画像説明 = |画像2 = |画像説明2 = |位置図種類 = Japan Chiba |郵便番号 = 261-0014 |所在地 = [[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]]若葉3丁目 |緯度度 = 35|緯度分 = 38|緯度秒 = 48 |経度度 = 140|経度分 = 3|経度秒 = 11 |座標右上表示 = No |状態 = 完成 |着工 = 2018年1月15日 |建設期間 = |竣工 = 2021年2月 |開業 = 2021年3月下旬(入居開始) |解体 = |崩落 = |使用目的 = 共同住宅(826戸)<br />店舗、駐車場 |建設費 = |アンテナ_尖塔 = |屋上 = |最上階 = |階数 = 地上48階 |構造形式 = RC造、一部鉄骨造<br />中間免震構造 |敷地面積= 18,983.88|敷地面積ref= |敷地面積備考= |建築面積= 7,093.08|建築面積ref= |建築面積備考= |延床面積= |延床面積ref= |延床面積備考= |高さ = 172.4 m |エレベーター数 = 9基<ref group = "注">高層用:4基、低層用:5基</ref> |戸数 = 826戸 |駐車台数= |設計 = [[熊谷組|株式会社熊谷組]] |構造エンジニア = |施工 = |デベロッパー = 三井不動産レジデンシャル株式会社<br />野村不動産株式会社<br />三菱地所レジデンス株式会社<br />伊藤忠都市開発株式会社<br />東方地所株式会社<br />株式会社富士見地所<br />袖ヶ浦興業株式会社 |所有者 = |管理運営 = 三井不動産レジデンシャルサービス株式会社 }} '''幕張ベイパーク スカイグランドタワー'''(まくはりベイパーク スカイグランドタワー)は、[[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]]の[[幕張ベイパーク]]B-2街区に所在する[[超高層マンション]]。タワー棟と敷地内にクリニック・商業施設が設置されている。 == 概要 == 土地利用基本計画名称は[[幕張新都心]]若葉住宅地区・[[文教地区]]未利用地[[都市計画マスタープラン]]であり、[[幕張海浜公園]]から[[幕張ベイパーク]]入口・および海浜幕張駅にほど近いB-2街区(区画)に所在する。48階建てのタワーマンション、および敷地内にクリニック棟(小児科、歯科、整形外科、処方薬局)、商業施設棟(飲食店舗、スポーツジム)、自走式[[駐車場]]、で構成されている。 タワーマンション棟は、地上48階建て全826戸の超高層マンションとなっている<ref>{{Cite web |title=幕張ベイパーク スカイグランドタワー {{!}} 【三井のすまいLOOP公式】 |url=https://www.31mansion.com/makuhari_baypark_skygrand_tower/ |website=www.31mansion.com |access-date=2023-12-28}}</ref>。地上高172.4mであり、千葉県内で最も高いマンションとなっている<ref>{{Cite web |title=デザイン|幕張ベイパーク スカイグランドタワー {{!}} 幕張ベイパーク スカイグランドタワー |url=https://www.31mansion.com/makuhari_baypark_skygrand_tower/mansion/design/ |website=www.31mansion.com |access-date=2023-12-28}}</ref><ref>{{Cite web |title=千葉県の超高層ビルデータベース |url=https://www.blue-style.com/area/chiba/ |website=www.blue-style.com |access-date=2023-12-28}}</ref>。設計・監理および施工は[[熊谷組]]、[[デベロッパー (開発業者)|デベロッパー]]は[[三井不動産レジデンシャル]]、[[野村不動産]]、[[三菱地所レジデンス]]、[[伊藤忠都市開発]]、[[東方地所]]、[[富士見地所]]、[[袖ヶ浦興業]]、管理会社は[[三井不動産レジデンシャルサービス]]が行っている<ref>{{Cite web |title=物件概要|幕張ベイパーク スカイグランドタワー {{!}} 幕張ベイパーク スカイグランドタワー |url=https://www.31mansion.com/makuhari_baypark_skygrand_tower/mansion/outline/ |website=www.31mansion.com |access-date=2023-12-28}}</ref><ref>{{Cite web |title=幕張ベイパーク スカイグランドタワー |url=https://skyskysky.net/construction/202044.html |website=skyskysky.net |access-date=2023-12-28}}</ref>。 == 施設 == * 住戸:826戸 * ロビーラウンジ(1階) * コンシェルジュデスク(1階) * キッズルーム(1階) * コミュニティルーム(1階) * スカイビューラウンジ(39階) * [[駐車場]] * [[駐輪場]] * バイク置場 * その他施設・設備: ** 宅配ロッカー ** 共用レンタル自転車 ** [[トランクルーム]] == 沿革 == * 着工:2008年1月15日 * 竣工:2021年2月 * 入居:2021年3月下旬より開始 == アクセス == === 公共交通機関 === * [[東日本旅客鉄道|JR東日本]] [[海浜幕張駅]] 徒歩約13分 === 自動車 === * 最寄りの[[インターチェンジ]] ** [[東関東自動車道]] [[湾岸千葉インターチェンジ]] == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == * [[千葉県の超高層建築物の一覧]] * [[マンション]] * [[超高層マンション]] * [[幕張新都心]] ** [[幕張ベイタウン]] ** [[幕張ベイパーク]] == 外部リンク == * [https://skyscraperpage.com/cities/?buildingID=112642 Makuhari Bay Park Sky Grand Tower - SkyscraperPage.com] * [https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/makuhari/makuharishintoshinbaytown.html#wakabajutakuchiku 幕張ベイパーク(若葉住宅地区)|千葉市] * [https://www.b-pam.com/ 幕張ベイパークエリアマネジメント(B-Pam)] {{幕張新都心}} {{千葉市の超高層ビル}} {{DEFAULTSORT:まくはりへいはあく すかいくらんとたわあ}} [[Category:幕張新都心|へいはあくすかいくらんとたわあ]] [[Category:美浜区の地理]] [[Category:千葉県の新興住宅地]]
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捜査報告書
捜査報告書(そうさほうこくしょ)は、刑事事件において捜査の内容や結果について報告するために作成する文書を指す。 捜査報告書には様々な種類があり、犯罪の発生直後に作成する犯罪発生報告書、実況見分調書、写真撮影報告書、被害者調書など、逮捕状請求の際の被疑者判明報告書、逮捕状請求報告書などがある。 捜査報告書の内容として供述が含まれている場合は、供述代用書面として伝聞証拠となることから、伝聞例外の要件を満せば証拠能力が認められる。したがって、捜査報告書が供述録取書の性格を有するのであれば、刑事訴訟法321条1項3号または322条1項の要件を満たす必要がある。 また、捜査報告書が実況見分調書の性格を有するのであれば、321条3項の要件を満たす必要があり、鑑定受託者(科捜研など)の鑑定書ならば、321条4項の要件を満たす必要がある。なお、警察官がXの供述を録取した捜査報告書(供述録取書)の場合、警察官の供述とXの供述とが含まれているので、警察官の供述の伝聞性はXが捜査報告書に署名押印することにより払拭されるので、再伝聞とはならない。 捜査報告書は、検察官が証拠として申請し、被告人側が証拠採用に同意すれば証拠となる。否認事件など、被告人が証拠採用を拒否した場合は、作成者の警察官が法廷に出廷し、作成状況等について証言すれば証拠採用されることになる。捜査報告書に含まれる供述につき、要証事実との関係で供述内容の真実性が問題とならない場合は伝聞証拠にはならない。 捜査報告書は、被疑者を検察へ送致する際に重要な捜査書類となる。検察は、警察から送付される捜査報告書に加えて、供述調書などに基づき起訴の可否を判断するため、起訴の判断に必要な証拠となる捜査書類として使用されることを目的としている。
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捜査報告書(そうさほうこくしょ)は、刑事事件において捜査の内容や結果について報告するために作成する文書を指す。 捜査報告書には様々な種類があり、犯罪の発生直後に作成する犯罪発生報告書、実況見分調書、写真撮影報告書、被害者調書など、逮捕状請求の際の被疑者判明報告書、逮捕状請求報告書などがある。 捜査報告書の内容として供述が含まれている場合は、供述代用書面として伝聞証拠となることから、伝聞例外の要件を満せば証拠能力が認められる。したがって、捜査報告書が供述録取書の性格を有するのであれば、刑事訴訟法321条1項3号または322条1項の要件を満たす必要がある。 また、捜査報告書が実況見分調書の性格を有するのであれば、321条3項の要件を満たす必要があり、鑑定受託者(科捜研など)の鑑定書ならば、321条4項の要件を満たす必要がある。なお、警察官がXの供述を録取した捜査報告書(供述録取書)の場合、警察官の供述とXの供述とが含まれているので、警察官の供述の伝聞性はXが捜査報告書に署名押印することにより払拭されるので、再伝聞とはならない。 捜査報告書は、検察官が証拠として申請し、被告人側が証拠採用に同意すれば証拠となる。否認事件など、被告人が証拠採用を拒否した場合は、作成者の警察官が法廷に出廷し、作成状況等について証言すれば証拠採用されることになる。捜査報告書に含まれる供述につき、要証事実との関係で供述内容の真実性が問題とならない場合は伝聞証拠にはならない。 捜査報告書は、被疑者を検察へ送致する際に重要な捜査書類となる。検察は、警察から送付される捜査報告書に加えて、供述調書などに基づき起訴の可否を判断するため、起訴の判断に必要な証拠となる捜査書類として使用されることを目的としている。
{{law}} '''捜査報告書'''(そうさほうこくしょ)は、[[刑事事件]]において[[捜査]]の内容や結果について[[上司]]に報告するために作成される[[文書]]を指す<ref>[https://tachibanashobo.co.jp/html/upload/save_image/product_trial/080911263662f1c5dcae5a5_%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E5%BC%8F%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E6%9B%B8%E9%A1%9E%E4%BD%9C%E6%88%90%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%80%94%E7%AC%AC2%E7%89%88%E3%80%95_%E8%A9%A6%E8%AA%AD.pdf ブロック式捜査書類作成マニュアル〔第2版〕 - 立花書房]</ref>。 捜査報告書には様々な種類があり、犯罪の発生直後に作成する犯罪発生報告書、実況見分調書、写真撮影報告書、被害者調書など、[[逮捕状]]請求の際の被疑者判明報告書、逮捕状請求報告書などがある。 捜査報告書の内容として供述が含まれている場合は、供述代用書面として[[伝聞証拠]]となることから、[[伝聞証拠禁止の原則#伝聞例外|伝聞例外]]の要件を満せば証拠能力が認められる。したがって、捜査報告書が供述録取書の性格を有するのであれば、[[刑事訴訟法]]321条1項3号または322条1項の要件を満たす必要がある。 また、捜査報告書が[[実況見分|実況見分調書]]の性格を有するのであれば、321条3項の要件を満たす必要があり、鑑定受託者([[科学捜査研究所|科捜研]]など)の[[鑑定書]]ならば、321条4項の要件を満たす必要がある。なお、警察官がXの供述を録取した捜査報告書(供述録取書)の場合、警察官の供述とXの供述とが含まれているので、警察官の供述の伝聞性はXが捜査報告書に署名押印することにより払拭されるので、再伝聞とはならない。 捜査報告書は、[[検察官]]が証拠として申請し、[[被告人]]側が証拠採用に同意すれば証拠となる。否認事件など、被告人が証拠採用を拒否した場合は、作成者の警察官が法廷に出廷し、作成状況等について証言すれば証拠採用されることになる。捜査報告書に含まれる供述につき、[[要証事実]]との関係で供述内容の真実性が問題とならない場合は伝聞証拠にはならない。 捜査報告書は、[[被疑者]]を検察へ[[送致]]する際に重要な捜査書類となる。検察は、警察から送付される捜査報告書に加えて、供述調書などに基づき[[起訴]]の可否を判断するため、起訴の判断に必要な証拠となる捜査書類として使用されることを目的としている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[司法警察員面前調書]] * [[裁判官面前調書]] * [[検察官面前調書]] * [[伝聞証拠禁止の原則]] * [[供述証拠]] {{DEFAULTSORT:そうさほうこくしよ}} [[Category:文書]] [[Category:日本の刑事証拠法]]
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ピオケん
ピオケん、(11月29日)は、日本のシンガーソングライター、ピアニスト、東京都出身 2022年TikTokアカウント開設 2022年12月「吸っちゃった。(beta版)」「YouTuber.(beta版)」をTikTok、ポケカラにて公開。 2023年1月16日「BlackBox(beta版)」をTikTokにて公開 2023年3月9日 「桜(beta版)」をTikTokにて公開 2023年7月29日 「HERO(beta版)」をTikTokにて公開 2023年10月29日ピオケん公式キャラクター「ピオケんくん」リニューアル 2023年11月9日hakunaユーザー「卯」の誕生を祝っ てhakunaユーザー「せせ」「きっどくん」のラップのビート制作を担当した 2023年12月11日hakunaライブ、インスタライブ、tiktokライブにて重大発表 2023年、ソロデビューを果たす。同年12月、「緑の惑星」「虹色ストリーミング」「Nemesis Virus」をリリース。 2023年12月12日「緑の惑星」「虹色ストリーミング」をtiktokにて公開 2023年11月9日hakunaユーザー「卯」の誕生を祝っ てhakunaユーザー「せせ」「きっどくん」のラップのビート制作を担当した
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ピオケん、(11月29日)は、日本のシンガーソングライター、ピアニスト、東京都出身
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上野パーキングエリア
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'''上野パーキングエリア'''(うえのパーキングエリア)は、以下の2施設に共通する名称である。 * [[上野パーキングエリア (三重県)]] - [[三重県]][[伊賀市]]にある[[名阪国道]]のパーキングエリア。 * [[上野パーキングエリア (岡山県)]] - [[岡山県]][[真庭市]]にある[[米子自動車道]]のパーキングエリア。 ==関連項目== * [[上野 (曖昧さ回避)]] * [[パーキングエリア]] ---- {{Aimai}} {{デフォルトソート:うえのはあきんくえりあ}} [[Category:同名のサービスエリア・パーキングエリア]]
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加藤恒太郎
加藤 恒太郎(かとう こうたろう)は、日本の国土交通技官。豊田市副市長や、奈良県県土マネジメント部長、国土交通省中部地方整備局副局長などを歴任した。 北海道出身。1985年北海道大学工学部卒業、建設省入省。1998年建設省道路局道路交通管理課長補佐。2001年から国土技術政策総合研究所高度情報化研究センター高度道路交通システム研究室主任研究官を務め、ETCの研究開発を行った。2002年国土交通省道路局企画課企画専門官。2004年国土交通省中国地方整備局岡山国道事務所長。2006年国土交通省総合政策局建設業課建設業技術企画官。2007年豊田市副市長。2010年国土交通省道路局環境安全課道路交通安全対策室長。 2012年国土交通省四国地方整備局道路部長。2014年奈良県県土マネジメント部長。2017年日本高速道路保有・債務返済機構理事。2020年国土交通省中部地方整備局副局長、土木学会中部支部評議員。2021年退官、日立造船株式会社顧問。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "加藤 恒太郎(かとう こうたろう)は、日本の国土交通技官。豊田市副市長や、奈良県県土マネジメント部長、国土交通省中部地方整備局副局長などを歴任した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "北海道出身。1985年北海道大学工学部卒業、建設省入省。1998年建設省道路局道路交通管理課長補佐。2001年から国土技術政策総合研究所高度情報化研究センター高度道路交通システム研究室主任研究官を務め、ETCの研究開発を行った。2002年国土交通省道路局企画課企画専門官。2004年国土交通省中国地方整備局岡山国道事務所長。2006年国土交通省総合政策局建設業課建設業技術企画官。2007年豊田市副市長。2010年国土交通省道路局環境安全課道路交通安全対策室長。 2012年国土交通省四国地方整備局道路部長。2014年奈良県県土マネジメント部長。2017年日本高速道路保有・債務返済機構理事。2020年国土交通省中部地方整備局副局長、土木学会中部支部評議員。2021年退官、日立造船株式会社顧問。", "title": "人物・経歴" } ]
加藤 恒太郎は、日本の国土交通技官。豊田市副市長や、奈良県県土マネジメント部長、国土交通省中部地方整備局副局長などを歴任した。
'''加藤 恒太郎'''(かとう こうたろう)は、[[日本]]の[[国土]][[交通]][[技官]]。[[豊田市]][[副市町村長|副市長]]や、[[奈良県]]県土マネジメント部長、[[国土交通省]][[中部地方整備局]]副局長などを歴任した。 == 人物・経歴 == [[北海道]]出身。1985年[[北海道大学工学部]]卒業、[[建設省]]入省。1998年建設省[[道路局]]道路交通管理課長補佐。2001年から[[国土技術政策総合研究所]]高度情報化研究センター[[高度道路交通システム]]研究室主任研究官を務め、[[ETC]]の[[研究開発]]を行った。2002年国土交通省道路局企画課企画専門官。2004年国土交通省[[中国地方整備局]]岡山国道事務所長。2006年[[国土交通省総合政策局]]建設業課建設業技術企画官。2007年[[豊田市]]副市長。2010年国土交通省道路局環境安全課道路交通安全対策室長。 2012年国土交通省[[四国地方整備局]]道路部長。2014年[[奈良県]]県土マネジメント部長。2017年[[日本高速道路保有・債務返済機構]][[理事]]<ref>[https://www.kentsu.co.jp/webnews/view.asp?cd=120510200011&area=6&yyyy=2012 加藤恒太郎(かとう・こうたろう=国土交通省四国地方整備局道路部長)]建通新聞2012/5/15</ref><ref>[https://www.kensetsunews.com/single?news_code=OK0000012050701001_08 この人・四国地方整備局道路部長 加藤恒太郎さん]建設通信新聞</ref>。2020年国土交通省[[中部地方整備局]]副局長、[[土木学会]]中部支部[[商議員]]<ref>[https://jsce-chubu.jp/chubu/wp-content/uploads/2021/05/boardmember-2021.pdf 令和3年度中部支部役員名簿]</ref>。2021年退官、[[日立造船]]株式会社[[顧問]]<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/files/houkoku_r040325_siryou.pdf 国家公務員法第106条の25第1項等の規定に基づく国家公務員の再就職状況の報告(令和3年10月1日~同年12月31日分] 令和4年3月25日 内閣官房内閣人事局</ref>。 == 著書 == *『知能道路2001 : Smartway』([[徳山日出男]], [[岩﨑泰彦]]と共著)[[日本経済新聞社]] 1998年 == 脚注 == {{Reflist}} {{先代次代|豊田市副市長|2007年 - 2010年|[[菊地春海]]|[[永田健‎]]}} {{先代次代|奈良県県土マネジメント部長|2014年 - 2017年|[[大庭孝之]]|[[山田哲也 (国土交通技官)|山田哲也]]}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:かとう こうたろう}} [[Category:日本の国土交通技官]] [[Category:愛知県内の地方公務員出身の人物]] [[Category:工学士取得者]] [[Category:北海道大学出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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山内ジャヘル琉人
山内 ジャヘル 琉人(やまうち じゃへる りゅうと、2002年12月5日 - )は、沖縄県出身のバスケットボール選手。B.LEAGUEの川崎ブレイブサンダースに所属している。ポジションはシューティングガード。 仙台大学附属明成高等学校では3年時の第73回全国高等学校バスケットボール選手権大会で優勝し、大会ベスト5に選出された。 高校卒業後は大東文化大学へ進学し、3年時のリーグ戦で優秀選手賞を受賞した。 2023年12月27日に特別指定選手として川崎ブレイブサンダースに加入した。 2022年のユニバーシティゲームズ、2023年の李相佰杯争奪日韓学生バスケットボール競技大会で日本代表に選出された。
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山内 ジャヘル 琉人は、沖縄県出身のバスケットボール選手。B.LEAGUEの川崎ブレイブサンダースに所属している。ポジションはシューティングガード。
{{バスケットボール選手 | 名前 = 山内 ジャヘル 琉人 | アルファベット表記 = Jaheru Ryuto Yamauchi | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 所属チーム名 = 川崎ブレイブサンダース | 背番号 = 45 | ポジション = [[シューティングガード|SG]] | リーグ = [[B.LEAGUE]] | シュート = | 愛称 = | 国 = {{JPN}} | 出身地 = [[沖縄県]] | 誕生日 = {{生年月日と年齢|2002|12|5}} | 身長 = 190cm | 体重 = 92kg | ウィングスパン = | 高校 = [[仙台大学附属明成高等学校]] | 大学 = [[大東文化大学ベアーズ|大東文化大学]] | ドラフト年 = | プロ開始年 = | プロ引退年 = | 所属年1 = [[Bリーグ 2023-24|2023–]] | 所属1 = ※[[川崎ブレイブサンダース]] | 所属のみ2 = yes | 賞歴 = | CAP数 = {{JPNmb}} | show-medals = yes | medaltemplates = }} '''山内 ジャヘル 琉人'''(やまうち ジャヘル りゅうと、[[2002年]][[12月5日]] - )は、[[沖縄県]]出身の[[バスケットボール]]選手。[[B.LEAGUE]]の[[川崎ブレイブサンダース]]に所属している。ポジションは[[シューティングガード]]。 == 経歴 == [[仙台大学附属明成高等学校]]では3年時の[[第73回全国高等学校バスケットボール選手権大会]]で優勝し、大会ベスト5に選出された<ref>{{Cite web |title=大会ベスト5…仙台大明成から越田大翔、山内ジャヘル琉人、山﨑一渉が受賞、東山から米須玲音、ムトンボ・ジャン・ピエールが選出 |url=https://basketballking.jp/news/japan/highschool/20201229/303089.html |website=バスケットボールキング |date=2020-12-29 |access-date=2023-12-28 |language=ja |first=SEESAW GAME |last=Inc}}</ref>。 高校卒業後は[[大東文化大学]]へ進学し、3年時のリーグ戦で優秀選手賞を受賞した<ref>{{Cite web |title=B1川崎に山内ジャヘル琉人が特別指定選手として加入…仙台大明成のウインターカップ優勝メンバー |url=https://basketballking.jp/news/japan/univ/20231227/467521.html |website=バスケットボールキング |date=2023-12-27 |access-date=2023-12-28 |language=ja |first=SEESAW GAME |last=Inc}}</ref>。 2023年12月27日に特別指定選手として[[川崎ブレイブサンダース]]に加入した<ref>{{Cite web |title=山内ジャヘル琉人選手(特別指定選手)加入のお知らせ |url=https://kawasaki-bravethunders.com/news/detail/id=20580 |website=川崎ブレイブサンダース |date=2023-12-27 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 == 代表歴 == 2022年の[[2021年夏季ユニバーシアード|ユニバーシティゲームズ]]、2023年の[[李相佰杯争奪日韓学生バスケットボール競技大会]]で日本代表に選出された。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[沖縄県出身の人物一覧]] == 外部リンク == * {{Instagram|jah.ryu.25}} {{川崎ブレイブサンダース}} {{DEFAULTSORT:やまうち しやへる りゆうき}} [[Category:日本の男子バスケットボール選手]] [[Category:アメリカ系日本人のバスケットボール選手]] [[Category:大東文化大学出身の人物]] [[Category:特別指定選手として川崎ブレイブサンダースに登録された選手]] [[Category:沖縄県出身の人物]] [[Category:2001年生]] [[Category:存命人物]]
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フィリップ・オベール・ド・ガスペ
フィリップ・オベール・ド・ガスペ(1786年10月30日〜1871年1月29日)は、フランス系カナダ人の作家、法律家。 フランス系カナダ文学の最初の重要な作家と言われる。 ケベックの出身。 19世紀中葉の民族主義の高まりのなかで76歳にして、イギリスによる征服 (1760) の時代を扱った歴史小説『往時のカナダ人』を書き、有名になる。 1871年にケベックで死んだ。
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フィリップ・オベール・ド・ガスペ(1786年10月30日〜1871年1月29日)は、フランス系カナダ人の作家、法律家。 フランス系カナダ文学の最初の重要な作家と言われる。
{{Expand language|langcode=fr|langcode2=en|date=2023年12月}}{{Infobox 作家|name=Philippe-Joseph Aubert de Gaspé|image=Philippe-Joseph Aubert de Gaspé.jpg|image_size=225px|caption=オーベール・ド・ガスぺ、1863-64年に撮影された写真からのリトグラフ|pseudonym=|birth_date={{birth date|1786|10|30|df=y}}|birth_place=[[カナダ]] [[ケベック]], [[:en:Province of Quebec (1763–1791)|Province of Quebec]], イギリス領北アメリカ|death_date={{death date and age|1871|01|29|1786|10|30|df=y}}|death_place=カナダ ケベック|occupation=Writer and [[:en:Seigneurial system of New France|seigneur]]|influences=|influenced=}} {{Portal 文学}} '''フィリップ・オベール・ド・ガスペ'''(フィリップ=ジョゼフ・ド・ガスペ、Philippe-Joseph Aubert de Gaspé、1786年10月30日〜1871年1月29日) は、[[フランス系カナダ人]]の作家、法律家。 19世紀中葉の民族主義の高まりのなかで76歳にして、イギリスによる征服 (1760) の時代を扱った歴史小説『往時のカナダ人』を書き、有名になる。フランス系カナダ文学の最初の重要な作家と言われる<ref name="ce">{{Cite encyclopedia |title=Philippe-Joseph Aubert de Gaspé |encyclopedia=Canadian Encyclopedia}}</ref>。 == 生涯 == {{節翻訳スタブ|Philippe-Joseph Aubert de Gaspé}} 1786年、ピエール=イグナス・オーベール・ド・ガスぺ候と、シャルル=フランソワ・タリュー・ド・ラノディエール候の娘カトリーヌ・タリュー・ド・ラノディエールの子としてケベック・シティに生まれる。オーベール・ド・ガスぺ家は、1693年にルイ14世によって貴族に列せられた名家<ref>{{Cite encyclopedia |title=AUBERT DE LA CHESNAYE, CHARLES |encyclopedia=Dictionary of Canadian Biography}}</ref>。フィリップ=ジョセフの祖父イグナス=フィリップ・オベール・ド・ガスぺは、ルイ=ジョセフ・ド・モンカルムの下でカリヨン(タイコンデロガ)で戦った<ref>{{Cite encyclopedia |title=AUBERT DE GASPÉ, IGNACE-PHILIPPE |encyclopedia=Dictionary of Canadian Biography}}</ref>。その後、ジョセフはセント・ローレンス川沿いにある一族の地所を相続した<ref>{{Cite web |title=Philippe Aubert de Gaspé |url=https://www.britannica.com/biography/Philippe-Aubert-de-Gaspe |access-date=17 July 2022}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考資料 == * {{Catholic|wstitle=Philippe-Aubert de Gaspe|author=Lionel Lindsay}} == 外部リンク == * [http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?&id_nbr=4802 Biography at the ''Dictionary of Canadian Biography Online''] * Works by Philippe-Joseph Aubert de Gaspé at LibriVox (public domain audiobooks) * [[doi:10.47123/ALMY4164|''Les Anciens Canadiens'' on ''Bibliothèque mobile de littérature québécoise'']] (HTML) {{Writer-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おへえる と かすへ ふいりつふ}} [[Category:19世紀カナダの小説家]] [[Category:1871年没]] [[Category:1786年生]] [[Category:フランス系カナダ人]] [[Category:ケベック・シティー出身の人物]]
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法福寺 (各務原市)
法福寺(ほうふくじ)は岐阜県各務原市各務車洞にある大日如来を本尊とする高野山真言宗の寺院で、山号は美濃高野山。美濃新四国23番札所。 昭和48年(1973年)に現在地に建立された。本尊の大日如来の他に、毘沙門天、弘法大師ならびに不動明王を祀る。境内には食事処と画廊を兼ねた風庵が設けられている。
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法福寺(ほうふくじ)は岐阜県各務原市各務車洞にある大日如来を本尊とする高野山真言宗の寺院で、山号は美濃高野山。美濃新四国23番札所。 昭和48年(1973年)に現在地に建立された。本尊の大日如来の他に、毘沙門天、弘法大師ならびに不動明王を祀る。境内には食事処と画廊を兼ねた風庵が設けられている。
{{日本の寺院 |名称 = 法福寺 |画像 = |所在地 = [[岐阜県]][[各務原市]]各務車洞6799-3 | 緯度度 = 35 | 緯度分 = 25 | 緯度秒 = 13.1 | N(北緯)及びS(南緯) = N | 経度度 = 136 |経度分 = 55 | 経度秒 = 33.5 | E(東経)及びW(西経) = E |山号 = 美濃高野山 |宗派 = 高野山真言宗 |本尊 = 大日如来 |創建年 = 昭和48年(1973年) |開基 = |開山 = |中興 = |中興年 = |正式名 = |別称 = |札所等 = 美濃新四国23番 |文化財 = }} '''法福寺'''(ほうふくじ)は[[岐阜県]][[各務原市]]各務車洞にある[[大日如来]]を本尊とする[[高野山真言宗]]の寺院で、山号は美濃高野山。[[美濃新四国]]23番札所。 昭和48年(1973年)に現在地に建立された。本尊の大日如来の他に、[[毘沙門天]]、[[弘法大師]]ならびに[[不動明王]]を祀る。境内には食事処と画廊を兼ねた風庵が設けられている。 ==外部リンク== *[https://hofukuji.com/ 公式サイト] == 参考文献 == *岐阜県仏教会事務局 『寺院名鑑』 p.36 2001年 {{DEFAULTSORT:ほうふくし}} [[Category:高野山真言宗の寺院]] [[Category:各務原市の歴史]] [[Category:各務原市の建築物]] [[Category:岐阜県の寺]] [[Category:大日如来を本尊とする寺]]
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適切な距離
『適切な距離』は、大江崇允監督の日本映画。2011年製作、2012年9月1日公開。2011年、第7回CO2(シネアスト・オーガニゼイション大阪)で最高賞であるシネアスト大阪市長賞(グランプリ)を受賞。また、主演男優賞も内村遥に授与された。 『適切な距離』は、会話のない親子が日記のみで交流する姿を描いたドラマ。この作品は、大阪市が若手監督の育成と新作の支援を目的として始めたプロジェクト「CO2(シネアスト・オーガニゼイション大阪)」の一環として制作された。第7回CO2では大森一樹、黒沢清をはじめとする審査員全員から高く評価された。また、主演男優賞を内村遥が受賞し、最高賞であるシネアスト大阪市長賞(グランプリ)を獲得。国内外の映画祭での成功を受けて劇場公開も果たした。 演劇学科に通う大学生の雄司は生まれてからずっと母・和美と二人で暮らしている。二人の間には会話はなく、コミュニケーションを取らなくなって久しい。正月、雄司の元に昔授業で書いた小学生時分の自分からの年賀状が届く。「まだ日記を書いていますか?」という年賀状。それを機に、雄司は再び日記を書き始める。だがある日、雄司は日記にしか書いていない情報を和美が知っているということに気付く。和美に問い詰めるが反応はない。そんな中、雄司もまたひょんなことから和美の日記を発見してしまう。恐る恐る和美の日記を開くと、そこには死産したはずの雄司の弟・礼司と楽しく生活する和美の様子が書かれており、雄司が死産したことになっていた。腹を立てた雄司は、仕返しのために自分の日記に和美を傷つけるための嘘を書き始める。それは、20年前に離婚して消息を絶ったはずの父に会いに行くという嘘の日記だった。父は優しく、離婚の原因は和美のせいだと取れるような日記。コミュニケーションを取らない二人だけの家族の中で、日記の嘘がやがて自分達の理想の家族像を浮かび上がらせ、日記の中で理想の家族が誕生していく...。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『適切な距離』は、大江崇允監督の日本映画。2011年製作、2012年9月1日公開。2011年、第7回CO2(シネアスト・オーガニゼイション大阪)で最高賞であるシネアスト大阪市長賞(グランプリ)を受賞。また、主演男優賞も内村遥に授与された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『適切な距離』は、会話のない親子が日記のみで交流する姿を描いたドラマ。この作品は、大阪市が若手監督の育成と新作の支援を目的として始めたプロジェクト「CO2(シネアスト・オーガニゼイション大阪)」の一環として制作された。第7回CO2では大森一樹、黒沢清をはじめとする審査員全員から高く評価された。また、主演男優賞を内村遥が受賞し、最高賞であるシネアスト大阪市長賞(グランプリ)を獲得。国内外の映画祭での成功を受けて劇場公開も果たした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "演劇学科に通う大学生の雄司は生まれてからずっと母・和美と二人で暮らしている。二人の間には会話はなく、コミュニケーションを取らなくなって久しい。正月、雄司の元に昔授業で書いた小学生時分の自分からの年賀状が届く。「まだ日記を書いていますか?」という年賀状。それを機に、雄司は再び日記を書き始める。だがある日、雄司は日記にしか書いていない情報を和美が知っているということに気付く。和美に問い詰めるが反応はない。そんな中、雄司もまたひょんなことから和美の日記を発見してしまう。恐る恐る和美の日記を開くと、そこには死産したはずの雄司の弟・礼司と楽しく生活する和美の様子が書かれており、雄司が死産したことになっていた。腹を立てた雄司は、仕返しのために自分の日記に和美を傷つけるための嘘を書き始める。それは、20年前に離婚して消息を絶ったはずの父に会いに行くという嘘の日記だった。父は優しく、離婚の原因は和美のせいだと取れるような日記。コミュニケーションを取らない二人だけの家族の中で、日記の嘘がやがて自分達の理想の家族像を浮かび上がらせ、日記の中で理想の家族が誕生していく...。", "title": "あらすじ" } ]
『適切な距離』は、大江崇允監督の日本映画。2011年製作、2012年9月1日公開。2011年、第7回CO2(シネアスト・オーガニゼイション大阪)で最高賞であるシネアスト大阪市長賞(グランプリ)を受賞。また、主演男優賞も内村遥に授与された。
<!-- 削除についての議論が終了するまで、下記のメッセージ部分は除去しないでください。もしあなたがこのテンプレートを除去した場合、差し戻されます。またページが保護されることもあります。 --> {{Sakujo/本体|2023年12月28日|適切な距離}} <!-- 削除についての議論が終了するまで、上記部分は削除しないでください。 --> {{Copyrights}} {{Infobox Film | 作品名 = 適切な距離 | 原題 = Nice to Meet You | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[大江崇允]] | 脚本 = 大江崇允 | 原案 = | 原作 = 菊池開人 | 製作 = [[戸田彬弘]] | 製作総指揮 = | ナレーター = | 出演者 = [[内村遥]]<br />辰寿広美<br />時光陸<br />佐々木麻由子<br />大江雅子<br />堀川重人<br />日下部拓也 | 音楽 = [[石塚玲依]] | 主題歌 = | 撮影 = | 編集 = | 制作会社 = | 製作会社 = [[チーズfilm]] | 配給 = | 公開 = {{Flagicon|JPN}} 2012年9月1日 | 上映時間 = 92分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 製作費 = | 興行収入 = | 配給収入 = | 前作 = | 次作 = }} 『'''適切な距離'''』(てきせつなきょり、''Nice to Meet You'')は、[[大江崇允]]監督の日本映画。2011年製作、2012年9月1日公開。 2011年、第7回CO2(シネアスト・オーガニゼイション大阪)で最高賞であるシネアスト大阪市長賞(グランプリ)を受賞。また、主演男優賞も[[内村遥]]に授与された<ref name=":0">{{Cite web |title=シネアスト・オーガニゼーション・大阪エキシビション-CO2 |url=https://co2ex.org/old/2011/03/7co2.html |website=co2ex.org |access-date=2023-12-28}}</ref>。 == 概要 == 大阪市が若手監督の育成と新作の支援を目的として始めたプロジェクト「CO2(シネアスト・オーガニゼイション大阪)」の一環として制作された。第7回CO2では大森一樹、黒沢清をはじめとする審査員全員から高く評価された。また、主演男優賞を内村遥が受賞し、最高賞であるシネアスト大阪市長賞(グランプリ)を獲得。国内外の映画祭での成功を受けて劇場公開も果たした。 == あらすじ == {{要あらすじ}} <!-- 「あなた以外の人が制作したウェブページや書籍の文章・画像・音声などや、それを修正したり翻訳したもの」の転載はお止めください。 「Wikipedia:ガイドブック 著作権に注意#投稿してはいけないもの」参照 --> 大学生の雄司と母・和美は、長い間不仲だった。ある日、雄司は昔自分が書いた年賀状を受け取り、再び日記を書き始める。しかし、雄司は和美が自分の日記に書かれている情報を知っていることに気づく。驚いた雄司は和美の日記を見つけ、そこには弟・礼司との楽しい生活が書かれていた。 == キャスト == * 雄司(大学生) - [[内村遥]] * 和美(雄司の母) - 辰寿広美 * 礼司(雄司の弟) - 時光陸 * 佐々木麻由子 * 大江雅子 * 堀川重人 * 日下部拓哉 == スタッフ == * 監督:[[大江崇允]] * プロデューサー:[[戸田彬弘]] * 原作:菊池開人 * 脚本:大江崇允 * 撮影監督:三浦コーチン * 撮影:櫻井伸嘉 * 録音:竹内遊 * 美術:寄川ゆかり * 衣装:増川智子 * メイク:平野未緒 * 音楽:[[石塚玲依]] * エンディングテーマ:柳川瀬祐子 * 制作:[[チーズfilm]] == 主な受賞歴 == * 第7回CO2(シネアスト・オーガニゼイション⼤阪) シネアスト大阪市長賞(グランプリ)・主演男優賞([[内村遥]])<ref name=":0" /> * 第1回World Gate Film Festival 長編部門・グランプリ<ref>{{Cite web |title=第1回 World Gate Film Festival 各部門グランプリ決定!(株式会社ドリームキッド プレスリリース) |url=https://www.zaikei.co.jp/releases/187953/ |website=財経新聞 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref> * 第2回ハノイ国際映画祭 長編コンペディション部門 ノミネート<ref name=":1">{{Cite web |title=8/01/COURT/第5回『CINEASTE 3.0 −デジタル時代の映像作家たち−』 |url=http://www.hikarie8.com/court/2013/10/cineaste-30-1.shtml |website=8/ |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref> * 第13回チョンジュ国際映画祭 World Cinema部門 ノミネート<ref name=":1" /> * 第13回[[ニッポン・コネクション|Nippon Connection]] ニッポン・ヴィジョンズ部門 ノミネート<ref>{{Cite web |title=Nippon Visions - Nipponconnection Film Festival 2013 |url=https://2013.nipponconnection.com/visions.html |website=2013.nipponconnection.com |access-date=2023-12-28}}</ref> == 脚注 == <references /> == 外部リンク == * [http://tekisetsu.blog.fc2.com/ 映画『適切な距離』公式blog] - FC2 * [https://twitter.com/tekisetsu 映画『適切な距離』](@tekisetsu) - Twitter * [https://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=55067 適切な距離] - [[キネマ旬報映画データベース|KINENOTE]] * [https://moviewalker.jp/mv51116/ 適切な距離] - [[MOVIE WALKER PRESS]] * [https://www.imdb.com/title/tt28758580/?ref_=fn_al_tt_8 Nice to Meet You] - [[IMDb]]'''(英語)''' {{DEFAULTSORT:てきせつなきより}} [[Category:2012年の映画]] [[Category:大江崇允の監督作品]]
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第7回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)大会Town club cup 2023
第7回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUP 2023(だい7かいにほんくらぶゆーすさっかーせんしゅけんあんだー18たうんくらぶかっぷ2023)は2023年に行われた日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUPの2023年度の大会。 全国9地域の代表16チーム 北海道(0)、東北(1)、関東(6)、北信越(1)、東海(1)、関西(4)、中国(1)、四国(0)、九州(2) ※北海道1枠を関東へ四国1枠を関西へ付与する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "第7回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUP 2023(だい7かいにほんくらぶゆーすさっかーせんしゅけんあんだー18たうんくらぶかっぷ2023)は2023年に行われた日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUPの2023年度の大会。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "全国9地域の代表16チーム", "title": "出場チーム" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "北海道(0)、東北(1)、関東(6)、北信越(1)、東海(1)、関西(4)、中国(1)、四国(0)、九州(2) ※北海道1枠を関東へ四国1枠を関西へ付与する。", "title": "出場チーム" } ]
第7回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUP 2023(だい7かいにほんくらぶゆーすさっかーせんしゅけんあんだー18たうんくらぶかっぷ2023)は2023年に行われた日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUPの2023年度の大会。
{{Infobox football tournament season | title = 第7回 日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUP 2023 | year = | other_titles = | image = | imagesize = | caption = | country = {{JPN}} | dates = 2023年12月26日-12月29日 | num_teams = [[#出場チーム|16]] | champions = [[愛知FC]] | runner-up = | matches = 32 | goals = | attendance = | top goal scorer = 井上龍司([[エストレラ姫路FC]]) | player = 角野俊輔(愛知FC U-18) | prevseason = [[第6回日本クラブユースサッカー選手権_(U-18)大会Town_club_cup_2022|2022]] | nextseason = [[第8回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUP 2024|2024]] }} '''第7回日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUP 2023'''(だい7かいにほんくらぶゆーすさっかーせんしゅけんあんだー18たうんくらぶかっぷ2023)は2023年に行われた[[日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUP]]の[[2023年]]度の大会。<ref>[https://www.jcy.jp/town-club-cup-2023 第7回 日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUP 2023]jcy.jp</ref> == 出場チーム== 全国9地域の代表16チーム 北海道(0)、東北(1)、関東(6)、北信越(1)、東海(1)、関西(4)、中国(1)、四国(0)、九州(2) ※北海道1枠を関東へ四国1枠を関西へ付与する。 :塩釜FCユース(5) :[[東京23FC]] U-18(初) :[[ブリオベッカ浦安]]U-18(6) :SOLTILO FC U-18(2) :千葉SC U-18(4) :アイデンティみらいU-18(2) :QUON FD(2) :[[栃木シティFC]] U-18(2) :[[愛知FC]] U-18(4) :Honda FC U-18(6) 北信越代表とのプレーオフにより出場決定 :FC KOKOKU(2) :センアーノ神戸ユース(3) :エストレラ姫路FC U-18(5) :枚方FCカンテラ(5) :アクート岡山SC(2) :春日イーグルスFC U-18(2) == トーナメント == {{Round16 | RD1 = 1回戦 | RD2 = ラウンド8 | RD3 = 準決勝 | RD4 = 決勝 | | 東京23FC| 1<br>(PK3) | '''春日イーグルスFC'''| 1<br>(PK5) | | '''QUON FD'''| 3 | 枚方FC| 0 | | '''SOLTILO FC'''| '''2''' | Honda FC|0 | | '''塩釜FC'''|'''3''' | FC KOKOKU| 0 | | '''愛知FC'''| 3 | 栃木シティ| 1 | | '''アイデンティみらい'''| '''1<br>(PK5)''' | センアーノ神戸| 1<br>(PK4) | | エストレラ姫路| 2<br>(PK6) | '''千葉SC'''| '''2<br>(PK7)''' | | アクート岡山| 0 | '''ブリオベッカ浦安'''| '''4''' <!-- ラウンド8 --> | | 春日イーグルスFC | 1 | '''QUON FD'''| '''4''' | | '''SOLTILO FC'''| '''1''' | 塩釜FC| 0 | | '''QUON FD''| '''6''' | アイデンティみらい| 0 | | 千葉SC|1 | '''ブリオベッカ浦安'''|'''3''' <!--準決勝 --> | | QUON FD |0 | '''SOLTILO FC'''|'''1''' | |'''愛知FC'''|'''3''' |ブリオベッカ浦安|1 <!-- 決勝 --> | | SOLTILO FC|0 | '''愛知FC''' |'''2''' <!-- 3位決定戦 --> | |'''QUON FD'''|'''2<br />(PK5)''' |ブリオベッカ浦安|2<br />(PK3) }} === 5位トーナメント === {{Round4-with third | RD1 = 5位トーナメント1回戦 | RD2 = 5位決定戦 | RD3 = 7位決定戦 | |春日イーグルスFC|0 |'''塩釜FC'''|'''6''' | |'''アイデンティみらい'''| '''1''' |千葉SC|0 | |'''塩釜FC'''|'''1<br />(PK5)''' |アイデンティみらい|1<br />(PK3) | |春日イーグルスFC|1 |'''千葉SC'''|'''4''' }} === 9位決定戦トーナメント === {{Round8-with third | RD1 = 敗者戦1回戦 | RD2 = 敗者戦2回戦 | RD3 = 9位決定戦 | RD4 = 11位決定戦 | |東京23FC|2 |'''枚方FC'''|'''5''' | |'''Honda FC'''|'''6''' |FC KOKOKU|0 | |栃木シティ|0 |'''センアーノ神戸'''|'''1''' | |'''エストレラ姫路'''|'''7''' |アクート岡山|0 <!-- 敗者戦2回戦 --> | |'''枚方FC'''|'''2''' |Honda FC|0 | |'''センアーノ神戸'''|'''2<br>(PK6)''' |エストレラ姫路|2<br>(PK5) <!-- 9位決定戦 --> | |'''枚方FC'''|'''2''' |センアーノ神戸|1 <!--11位決定戦--> | |Honda FC|1 |'''エストレラ姫路'''|'''3''' }} === 13位トーナメント === {{Round4-with third | RD1 = 敗者戦 | RD2 = 13位決定戦 | RD3 = 15位決定戦 | |東京23FC|0 |'''FC KOKOKU'''|'''6''' | |'''栃木シティ'''|'''1<br>(PK9)''' |アクート岡山|1<br>(PK8) <!-- 13位決定戦 --> | |'''FC KOKOKU''' | '''3''' |栃木シティ|1 <!-- 15位決定戦 --> | |'''東京23FC'''|'''6''' |アクート岡山|2 }} == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == *[https://www.jcy.jp/town-club-cup-2023 公式サイト(日本クラブユースサッカー連盟)] *[https://www.goalnote.net/detail.php?tid=15470 大会サイト(goal note.net)] {{日本のサッカー2023}} {{Footy-stub}} {{デフォルトソート:にほんくらふゆうすさつかあせんしゆけんU-18たうんくらふかつふ2023}} [[Category:2023年の日本のサッカー|くらふゆうすせんしゆけんU-18たうんくらふかつふ]] [[Category:日本クラブユースサッカー選手権 (U-18)Town Club CUP 2023|2023]] [[Category:2023年12月]] [[Category:長大な項目名]]
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レガレイラ
レガレイラ(欧字名:Regaleira、2021年4月12日 - )は、日本の競走馬。2023年のホープフルステークスの勝ち馬である。 馬名の意味は、ポルトガル中西部の都市シントラにある宮殿。 7月9日、函館競馬場第5レースの2歳新馬戦(芝1800m)で、鞍上クリストフ・ルメールにてデビュー。道中6番手の位置から逃げ粘るセットアップを強烈な末脚で差し切り、単勝1.4倍の圧倒的1番人気にこたえデビュー戦を勝利で飾った。 続いて、10月21日にリステッド競走のアイビーステークスに出走。前走に引き続き、ここでも単勝1倍台の人気を集めた。レースは3番手で運んで直線で懸命の追い上げを見せたが、ダノンエアズロックに及ばず3着に敗れた。 12月28日、初の重賞・初のGI挑戦として中山競馬場で行われたホープフルステークスに出走。スタートから後方2・3番手を追走すると、直線で外から抜群の切れ味を発揮して先に抜け出したシンエンペラーを差し切って優勝した。牝馬のホープフルステークス制覇は牡牝混合になった2000年以降では初めてとなった。また牝馬による牡牝混合2歳GI制覇は朝日杯フューチュリティステークスや牡牝混合時代の阪神3歳ステークスを含めてもグレード制導入前、1980年朝日杯の覇者テンモン以来43年ぶりとなった。また、種牡馬のスワーヴリチャード産駒ではGI競走初制覇となった。 以下の内容は、JBISサーチおよびnetkeiba.comの情報に基づく。
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レガレイラは、日本の競走馬。2023年のホープフルステークスの勝ち馬である。 馬名の意味は、ポルトガル中西部の都市シントラにある宮殿。
{{現役競走馬}} {{競走馬 | 名 = レガレイラ | 英 = {{lang|en|Regaleira}}<ref name="jbis"/> | 画 = [[File:皐月賞出てくるなら是非とも行くしかねぇな?.jpg|250px]] | 説 = 第40回[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]優勝時(2023年12月28日) | 性 = [[牝馬|牝]]<ref name="jbis"/> | 色 = [[鹿毛]]<ref name="jbis"/> | 種 = [[サラブレッド]]<ref name="jbis"/> | 生 = {{生年月日と馬齢|p=0|2021|04|12}}<ref name="jbis"/> | 死 = | 登 = | 抹 = | 父 = [[スワーヴリチャード]]<ref name="jbis"/> | 母 = ロカ<ref name="jbis"/> | 母父 = [[ハービンジャー]]<ref name="jbis"/> | 国 = {{JPN}}([[北海道]][[安平町]])<ref name="jbis"/> | 産 = [[ノーザンファーム]]<ref name="jbis"/> | 主 = (有)[[サンデーレーシング]]<ref name="jbis"/> | 調 = [[木村哲也 (競馬)|木村哲也]]([[美浦トレーニングセンター|美浦]])<ref name="jbis"/> | 冠 = | 績 = 3戦2勝<ref name="jbis"/> | 金 = 8277万9000円<ref name="jbis"/><br />(2023年12月28日現在) | medaltemplates = {{MedalGI|[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルS]]|2023年}} }} '''レガレイラ'''(欧字名:{{lang|en|Regaleira}}、[[2021年]][[4月12日]] - )は、[[日本]]の[[競走馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001337645/|title=レガレイラ|work=JBISサーチ|publisher=公益財団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-12-28}}</ref>。[[2023年]]の[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]の勝ち馬である。 馬名の意味は、[[ポルトガル]]中西部の都市[[シントラ]]にある宮殿<ref>{{Cite web|url=https://www.jra.go.jp/JRADB/accessU.html?CNAME=pw01dud002021105898/A5|title=競走馬情報 - レガレイラ|website=jra.go.jp|publisher=[[日本中央競馬会]]|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 戦績 == ===2歳(2023年)=== 7月9日、[[函館競馬場]]第5レースの2歳新馬戦(芝1800m)で、鞍上[[クリストフ・ルメール]]にてデビュー。道中6番手の位置から逃げ粘る[[セットアップ (競走馬)|セットアップ]]を強烈な末脚で差し切り、単勝1.4倍の圧倒的1番人気にこたえデビュー戦を勝利で飾った<ref>{{cite web|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=235860|title=【新馬戦】レガレイラ 抜群の切れ味発揮 ルメール「いい瞬発力」|website=netkeiba.com|date=2023年07月10日|accessdate=2023年12月29日}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2023/07/10/kiji/20230710s00004000011000c.html|title=【函館5R・新馬戦】レガレイラ断然の1番人気に応えた ルメール「いい瞬発力」|website=スポニチアネックス|date=2023年07月10日|accessdate=2023年12月29日}}</ref>。 続いて、10月21日に[[リステッド競走]]のアイビーステークスに出走。前走に引き続き、ここでも単勝1倍台の人気を集めた。レースは3番手で運んで直線で懸命の追い上げを見せたが、ダノンエアズロックに及ばず3着に敗れた<ref>{{cite web|url=https://umatoku.hochi.co.jp/articles/20231021-OHT1T51145.html|title=【アイビーS】1番人気レガレイラは最速タイ32秒7の末脚も及ばず3着 ルメール騎手「勝った馬が強すぎました」|website=ウマトク|date=2023年10月21日|accessdate=2023年12月29日}}</ref>。 12月28日、初の重賞・初のGI挑戦として[[中山競馬場]]で行われた[[ホープフルステークス_(中央競馬)|ホープフルステークス]]に出走。スタートから後方2・3番手を追走すると、直線で外から抜群の切れ味を発揮して先に抜け出した[[シンエンペラー]]を差し切って優勝した。[[牝馬]]のホープフルステークス制覇は牡牝混合になった2000年以降では初めてとなった。また牝馬による牡牝混合2歳GI制覇は[[朝日杯フューチュリティステークス]]や牡牝混合時代の[[阪神ジュベナイルフィリーズ#歴代優勝馬|阪神3歳ステークス]]を含めてもグレード制導入前、1980年朝日杯の覇者[[テンモン]]以来43年ぶりとなった。また、種牡馬の[[スワーヴリチャード]]産駒ではGI競走初制覇となった<ref>{{cite web|url=https://tospo-keiba.jp/breaking_news/40625|title=【ホープフルS】〝史上初〟牝馬Vレガレイラは早くも皐月賞に照準 〝凄まじい爆発力〟は牡馬戦線でも通用するか|website=東スポ競馬|date=2023/12/28|accessdate=2023年12月29日}}</ref><ref>{{cite web|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=252294|title=【ホープフルS結果】牝馬のレガレイラが差し切りV!|website=netkeiba.com|date=2023/12/28|accessdate=2023年12月29日}}</ref>。 == 競走成績 == 以下の内容は、JBISサーチ<ref name="jbisrcd">{{Cite web|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001337645/record/|title=レガレイラ 競走成績|website=JBISサーチ|publisher=公益社団法人[[日本軽種馬協会]]|accessdate=2023-12-28}}</ref>およびnetkeiba.com<ref name="netrcd">{{Cite web|url=https://db.netkeiba.com/horse/result/2021105898/|title=レガレイラの競走成績|website=netkeiba.com|publisher=Net Dreamers Co., Ltd.|accessdate=2023-12-28}}</ref>の情報に基づく。 {| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;" ! 競走日 !! nowrap| 競馬場 !! 競走名 !! 格 !! 距離(馬場) !! 頭<br />数 !! 枠<br />番 !! 馬<br />番 !! オッズ<br />(人気) !! 着順 !! タイム<br />(上り3F) !! 着差 !! 騎手 !! 斤量<br />[kg] !! 1着馬(2着馬)!! 馬体重<br />[kg] |- |[[2023年|2023.]][[7月9日|{{0}}7.{{0}}9]] |[[函館競馬場|函館]] |[[新馬|2歳新馬]] | |芝1800m(良) |9 |6 |6 |{{0|00}}1.4{{0}}(1人) |{{0}}{{color|darkred|1着}} |{{0|R}}1:49.8(34.3) |{{Nowiki|-}}0.2 |{{0}}[[クリストフ・ルメール|C.ルメール]] |55 |([[セットアップ (競走馬)|セットアップ]]) |452 |- |{{0|0000.}}[[10月21日|10.21]] |[[東京競馬場|東京]] |[[アイビーステークス|アイビーS]] |{{L}} |芝1800m(良) |6 |3 |3 |{{0|00}}1.5{{0}}(1人) |{{0}}{{color|darkgreen|3着}} |{{0|R}}1:48.4(32.7) |{{0|-}}0.2 |{{0}}C.ルメール |55 |ダノンエアズロック |456 |- |{{0|0000.}}[[12月28日|12.28]] |[[中山競馬場|中山]] |[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルS]] |{{GI}} |芝2000m(良) |16 |7 |13 |{{0|00}}3.1{{0}}(1人) |{{0}}{{color|darkred|1着}} |{{color|darkred|R2:00.2}}(35.0) |{{Nowiki|-}}0.1 |{{0}}C.ルメール |55 |([[シンエンペラー]]) |454 |} *タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す *競走成績は2023年12月28日現在 == 血統表 == {{競走馬血統表 |name = レガレイラ |ref1 = <ref name="JBIS_p">{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001337645/pedigree/|title=血統情報:5代血統表|レガレイラ|website=JBISサーチ|publisher=[[日本軽種馬協会]] |accessdate=2023-12-28}}</ref>, <ref name="netkeiba">{{Cite web|和書|url=https://db.netkeiba.com/horse/ped/2021105898/|title=レガレイラの血統表|website=netkeiba.com|accessdate=2023-12-28}}</ref> |mlin = [[サンデーサイレンス系]]([[ヘイロー系]]) |ref2 = <ref>{{Cite web|和書|url=https://umatoku.hochi.co.jp/data/horse/21105898|title=レガレイラ - 競走馬詳細 - UMATOKU|website=馬トク|publisher=報知新聞社|accessdate=2023-12-28}}</ref> |flin = ロカ系 |FN = [[2号族|2-f]] |ref3 = <ref name="JBIS_p"/> |inbr = [[サンデーサイレンス]] [[奇跡の血量|3×4=18.75%]]、[[リファール|Lyphard]] 5×5=6.25% |ref4 = <ref name="JBIS_p"/>, <ref name="netkeiba"/> |f = [[スワーヴリチャード]]<br />栗毛 2014 |m = ロカ<br />鹿毛 2012 |ff = [[ハーツクライ]]<br />鹿毛 2001 |fm = ピラリマ<br />黒鹿毛 2005 |mf = [[ハービンジャー|Harbinger]]<br />鹿毛 2006 |mm = ランズエッジ<br />鹿毛 2006 |fff = '''[[サンデーサイレンス]]''' |ffm = [[アイリッシュダンス (競走馬)|アイリッシュダンス]] |fmf = [[アンブライドルズソング|Unbridled's Song]] |fmm = キャリアコレクション |mff = [[ダンシリ|Dansili]] |mfm = Penang Pearl |mmf = [[ダンスインザダーク]] |mmm = [[ウインドインハーヘア]] |ffff = [[ヘイロー (競走馬)|Halo]] |fffm = [[ウィッシングウェル|Wishing Well]] |ffmf = [[トニービン]] |ffmm = ビューパーダンス |fmff = [[アンブライドルド|Unbridled]] |fmfm = Trolley Song |fmmf = General Meeting |fmmm = River of Stars |mfff = [[デインヒル]] |mffm = [[ハシリ|Hasili]] |mfmf = [[ベーリング (競走馬)|Bering]] |mfmm = Guapa |mmff = '''サンデーサイレンス''' |mmfm = [[ダンシングキイ]] |mmmf = [[アルザオ|Alzao]] |mmmm = Burghclere |}} *母ロカはJRA1勝、2015年の[[クイーンカップ]]3着の実績がある。 *全兄に2022年の[[毎日杯]]3着の実績があるドゥラドーレス(父[[ドゥラメンテ]])を持つ。 *祖母ランズエッジの半兄に[[ブラックタイド]]と[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]がいる。 *3代母ウインドインハーヘアは1995年[[バイエルン大賞|アラルポカル]]勝ち馬。 *5代母[[ハイクレア]]は1974年[[ディアヌ賞|仏オークス]]、[[1000ギニーステークス|英1000ギニー]]勝ち馬。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{競走馬成績|netkeiba=2021105898|yahoo=2021105898|jbis=0001337645}} {{ホープフルステークス勝ち馬}} {{デフォルトソート:れかれいら}} [[Category:2021年生 (競走馬)|日れかれいら]] [[Category:サラブレッド]] [[Category:日本生産の競走馬]] [[Category:日本調教の競走馬]] [[Category:父内国産の競走馬]]
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神徳昭裕
神徳 昭裕(じんとく あきひろ、1977年7月23日 - )は、日本の実業家。八代目儀兵衛・取締役CMO。 兵庫県加古川市生まれ。兵庫県立東播磨高校、流通科学大学流通学部卒業。ニッセン入社。2009年マーケティング本部モバイルチームマネージャー。モバイルEC売上を3年で200億円まで成長させた。 2019年から八代目儀兵衛・CMOを務め、通販事業の強化にあたった。2021年から取締役に就任。セブン‐イレブンおにぎり監修プロジェクト担当を務める。
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神徳 昭裕は、日本の実業家。八代目儀兵衛・取締役CMO。 兵庫県加古川市生まれ。兵庫県立東播磨高校、流通科学大学流通学部卒業。ニッセン入社。2009年マーケティング本部モバイルチームマネージャー。モバイルEC売上を3年で200億円まで成長させた。 2019年から八代目儀兵衛・CMOを務め、通販事業の強化にあたった。2021年から取締役に就任。セブン‐イレブンおにぎり監修プロジェクト担当を務める。
'''神徳 昭裕'''(じんとく あきひろ、[[1977年]][[7月23日]] - )は、[[日本]]の[[実業家]]。八代目儀兵衛・取締役[[CMO]]<ref>{{Cite web |title=企業情報 {{!}} 株式会社八代目儀兵衛 |url=http://hachidaime.com/company/ |website=株式会社八代目儀兵衛・総合情報サイト(業務用米・ノベルティ・コラボ・採用) |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 == 来歴 == [[兵庫県]][[加古川市]]生まれ。[[兵庫県立東播磨高等学校]]、[[流通科学大学]]流通学部卒業。[[ニッセンホールディングス|ニッセン]]入社。2009年マーケティング本部モバイルチームマネージャー。モバイルEC売上を3年で200億円まで成長させた<ref>{{Cite web |title=クルマ離れ抑制と家具販売、若年層にスマートフォンでリーチ |url=https://xtrend.nikkei.com/atcl/case/nmg/18/223399/ |website=日経クロストレンド |access-date=2023-12-28 |language=ja |last=日経クロストレンド}}</ref>。 2019年から八代目儀兵衛・CMOを務め、通販事業の強化にあたった<ref>{{Cite web |title=【人】 / V字回復のキーマン(2023年7月20日号) {{!}} 連載記事 {{!}} 日本流通産業新聞 |url=https://www.bci.co.jp/nichiryu/serial/4510 |website=日流ウェブ |access-date=2023-12-28}}</ref>。2021年から取締役に就任。[[セブン-イレブン|セブン‐イレブン]]おにぎり監修プロジェクト担当を務める<ref>{{Cite web |title=セブン史上初おにぎりの米を監修でヒット 八代目儀兵衛、3つの改革 |url=https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00896/00004/ |website=日経クロストレンド |access-date=2023-12-28 |language=ja |last=日経クロストレンド}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://twitter.com/jintokuakihiro 神徳 昭裕 | 八代目儀兵衛 取締役CMO (@jintokuakihiro)] * [https://commerce.summit-japan.com/akihiro_jintoku/ 神徳 昭裕 | Commerce Summit 2023 - Comexposium Japan] * https://newspicks.com/user/117200/ {{DEFAULTSORT:しんとく あきひろ}} [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:流通科学大学出身の人物]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1977年生]] [[Category:存命人物]]
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アンハッピーリフレイン
『アンハッピーリフレイン』は、2011年5月18日にドワンゴ・ミュージックエンタテインメントから発売された、日本のボカロP・wowakaの1作目のフルアルバム。
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『アンハッピーリフレイン』は、2011年5月18日にドワンゴ・ミュージックエンタテインメントから発売された、日本のボカロP・wowakaの1作目のフルアルバム。
{{Infobox Album | Name = アンハッピーリフレイン | Type = Album | Artist = [[wowaka]] | Released = [[2011年]][[5月18日]] | Recorded = | Genre = [[J-POP]]<br/>[[ボカロ (音楽ジャンル)|ボカロ]] | Length = | Label = [[ドワンゴ・ユーザーエンタテインメント|ドワンゴ・ミュージックエンタテインメント]] | Producer = | Last album = SEVEN GIRLS' DISCORD<br/>([[2010年]]) | This album = '''アンハッピーリフレイン'''<br/>([[2011年]]) | Certification = | Chart position = * 週間6位([[オリコンチャート|オリコン]])<ref>[https://www.oricon.co.jp/prof/498225/products/912466/1/ wowaka/アンハッピーリフレイン(オリコン)] </ref> | Misc = {{external music video|{{YouTube|hkKoaWTjVds|「グレーゾーンにて。」}}<br />{{YouTube|sVRGyUnOWtY|「テノヒラ」}}<br />{{YouTube|DXcY0HUURKw|「ラインアート」}}<br />{{YouTube|uxNoOPetZ6g|「とおせんぼ」}}<br />{{YouTube|0aDhPfeNtwg|「僕のサイノウ」}}<br />{{YouTube|b_cuMcDWwsI&|「裏表ラバーズ」}}<br />{{YouTube|e5JjR7XVtEo|「ずれていく」}}<br />{{YouTube|6nrK6iTVkz4|「積み木の人形」}}<br />{{YouTube|vnw8zURAxkU|「ローリンガール」}}<br />{{YouTube|ZB75e7vzX0I|「ワールズエンド・ダンスホール」}}<br />{{YouTube|uMlv9VWAxko|「アンハッピーリフレイン」}}|Type = Album}} }} {{external media | align = right | video1 = [https://sp.nicovideo.jp/watch/sm14441671?ref=user_video wowakaクロスフェードデモ「アンハッピーリフレイン] }} 『'''アンハッピーリフレイン'''』は、[[2011年]][[5月18日]]に[[ドワンゴ・ユーザーエンタテインメント|ドワンゴ・ミュージックエンタテインメント]]から発売された、[[日本]]の[[ボカロP]]・[[wowaka]]の1作目の[[フルアルバム]]。 == 収録内容 == {{tracklist | headline = Disc1 | total_length = | arrangements_credits = | all_writing = [[wowaka]] | all_arrangements = [[wowaka]] | title1 = アンハッピーリフレイン | note1 = | arranger1 = | length1 = 3:46 | title2 = ローリンガール | note2 = | arranger2 = | length2 = 3:11 | title3 = 積み木の人形 | note3 = | arranger3 = | length3 = 2:47 | title4 = 僕のサイノウ | note4 = | arranger4 = | length4 = 4:45 | title5 = 日常と地球の額縁 | note5 = | arranger5 = | length5 = 3:43 | title6 = テノヒラ | note6 = | arranger6 = | length6 = 4:57 | title7 = とおせんぼ | note7 = | arranger7 = | length7 = 3:30 | title8 = ラインアート | note8 = | arranger8 = | length8 = 3:19 | title9 = 裏表ラバーズ | note9 = | arranger9 = | length9 = 3:05 | title10 = グレーゾーンにて。 | note10 = | arranger10 = | length10 = 2:42 | title11 = ずれていく | note11 = | arranger11 = | length11 = 2:28 | title12 = リバシブルドール | note12 = | arranger12 = | length12 = 3:40 | title13 = ワールズエンド・ダンスホール | note13 = | arranger13 = | length13 = 3:33 | title14 = プリズムキューブ | note14 = | arranger14 = | length14 = 3:20 }} {{tracklist | headline = Disc2 | total_length = | arrangements_credits =yes | all_writing = [[wowaka]] | all_arrangements = | title1 = 裏表ラバーズ reverse Edge mix | note1 = | arranger1 =キャプテンミライ | length1 = 4:12 | title2 = とおせんぼ 天変地異編 | note2 = | arranger2 =acane_madder | length2 = 3:28 | title3 = ローリンガール 風林火山編 | note3 = | arranger3 =acane_madder | length3 = 3:01 | title4 = 僕のサイノウ dnb mix | note4 =feat. ぱごだ | arranger4 =とく | length4 = 6:11 | title5 = 積み木の人形 rnb mix | note5 =feat. ぱごだ | arranger5 =とく | length5 = 5:27 | title6 = ずれていく postrock mix | note6 = | arranger6 =whoo | length6 = 2:41 | title7 = ワールズエンド・ダンスホール dexholic mix | note7 = | arranger7 =dixie flatline | length7 = 4:50 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Album-stub}} [[Category:2011年のアルバム]]
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大庭孝之
大庭 孝之(おおば たかゆき)は、日本の国土交通技官。奈良県県土マネジメント部長、東京都三環状道路整備推進部長、国土交通大学校副校長などを歴任した。 神奈川県出身。1988年東京大学大学院工学系研究科修了、建設省入省。大学では天文部に所属し、鉄道や飛行機が好きで交通工学を専攻した。建設省東北地方建設局道路部道路計画第二課長を経て、1996年建設省道路局企画課課長補佐。 1997年建設省道路局国道課課長補佐。1999年高知県企画部情報企画課長。2001年国土交通省東北地方整備局郡山国道事務所長。2003年国土交通省道路局道路事業分析評価室企画専門官。2005年国土交通省道路局有料道路課企画専門官。2006年国土交通省関東地方整備局千葉国道事務所長。 2008年国土交通省総合政策局総務課国際建設技術企画官。2009年国土交通省道路局高度道路交通システム推進室長。2011年奈良県土木部長。2013年奈良県県土マネジメント部長。2014年国土交通省中部地方整備局道路部長。 2015年首都高速道路会社計画・環境部長。2018年東京都建設局三環状道路整備推進部長。2020年日本高速道路保有・債務返済機構理事。2021年国土交通大学校副校長。2022年国土交通省大臣官房付、退官、建設資源広域利用センター常務取締役。
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大庭 孝之は、日本の国土交通技官。奈良県県土マネジメント部長、東京都三環状道路整備推進部長、国土交通大学校副校長などを歴任した。
'''大庭 孝之'''(おおば たかゆき)は、[[日本]]の[[国土]][[交通]][[技官]]。[[奈良県]]県土マネジメント部長、[[東京都]][[3環状9放射|三環状道路]]整備推進部長、[[国土交通大学校]]副校長などを歴任した。 == 人物・経歴 == [[神奈川県]]出身。1988年[[東京大学大学院工学系研究科]]修了、[[建設省]]入省。大学では[[天文]]部に所属し、[[鉄道]]や[[飛行機]]が好きで[[交通工学]]を専攻した<ref>「この人・中部地方整備局道路部長 大庭孝之さん」建設通信新聞2014年4月25日 </ref>。建設省東北[[地方建設局]]道路部道路計画第二課長を経て、1996年建設省[[道路局]]企画課課長補佐。 1997年建設省道路局[[国道]]課課長補佐。1999年[[高知県]]企画部情報企画課長。2001年[[国土交通省]][[東北地方整備局]]郡山国道事務所長<ref>官報平成13年本紙第3223号 5頁</ref>。2003年国土交通省道路局道路事業分析評価室企画専門官<ref>官報平成15年号外第98号 17頁</ref>。2005年国土交通省道路局[[有料道路]]課企画専門官。2006年国土交通省[[関東地方整備局]]千葉国道事務所長<ref>官報平成18年本紙第4391号 9頁</ref>。 2008年[[国土交通省総合政策局]]総務課国際建設技術企画官<ref>官報平成20年号外第90号 7頁</ref>。2009年国土交通省道路局高度道路交通システム推進室長。2011年[[奈良県]]土木部長。2013年奈良県県土マネジメント部長。2014年国土交通省[[中部地方整備局]]道路部長<ref>官報平成26年号外第114号 8頁</ref>。 2015年[[首都高速道路]]会社計画・環境部長。2018年[[東京都建設局]][[3環状9放射|三環状道路]]整備推進部長。2020年[[日本高速道路保有・債務返済機構]][[理事]]。2021年[[国土交通大学校]]副校長。2022年[[国土交通省大臣官房]]付、退官、[[建設資源広域利用センター]][[常務取締役]]<ref>[https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/106-25-1-3/pdf/all.pdf 国家公務員法第106条の25第1項等の規定に基づく報告の概要(令和4年10月1日~同年12月31日分)]首相官邸</ref><ref>[https://www.jmd.co.jp/article.php?no=271409 国土交通省、人事異動]日本海事新聞2021年10月01日 デイリー版2面</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{先代次代|奈良県土木部長→県土マネジメント部長|2011年 - 2014年|[[川崎茂信]]|[[加藤恒太郎]]}} {{先代次代|国土交通大学校副校長|2021年 - 2022年|[[澁谷慎一]]|[[岩見洋一]]}} {{People-stub}} {{DEFAULTSORT:おおは たかゆき}} [[Category:日本の国土交通技官]] [[Category:東京都庁職員]] [[Category:工学修士取得者]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:神奈川県出身の人物]]
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ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉
『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』(ウマむすめ プリティーダービー しんじだいのとびら)は、2024年5月24日に公開予定のCygamesPictures制作による日本のアニメーション映画。Cygamesによるメディアミックスプロジェクト「ウマ娘 プリティーダービー」を原案とした映画作品。 2023年12月28日、テレビアニメ第3期『ウマ娘 プリティーダービー Season 3』第13話(最終回)の放送終了後、初の映画化作品として本作の制作が決定したことが告知された。アニメーション制作スタジオは2023年のWebアニメ『ウマ娘 プリティーダービー ROAD TO THE TOP』の制作に関わったCygamesPicturesが担当する。 ストーリーはジャングルポケットを主人公に、同世代のライバルたちとの競い合いを新たな物語として展開する。ティザービジュアルでは「最強はオレだ」をキャッチコピーに、ジャングルポケットが熱き戦いに向かっていく姿が描かれている。
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『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』は、2024年5月24日に公開予定のCygamesPictures制作による日本のアニメーション映画。Cygamesによるメディアミックスプロジェクト「ウマ娘 プリティーダービー」を原案とした映画作品。
{{Pathnav|ウマ娘 プリティーダービー|frame=1}} {{公開前の映画|date=2023年12月}} {{Infobox Film | 作品名 = ウマ娘 プリティーダービー<br />新時代の扉 | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = 山本健 | 脚本 = [[吉村清子]] | 原案 = | 原作 = [[Cygames]] | 製作 = | 製作総指揮 = | ナレーター = | 出演者 = | 音楽 = | 主題歌 = | 撮影 = | 編集 = | 制作会社 = [[CygamesPictures]] | 製作会社 = [[製作委員会方式|劇場版「ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉」製作委員会]] | 配給 = {{Flagicon|JPN}} [[東宝]] | 公開 = {{Flagicon|JPN}} [[2024年]][[5月24日]] | 上映時間 = | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 製作費 = | 興行収入 = | 配給収入 = | 前作 = | 次作 = }} 『'''ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉'''』(ウマむすめ プリティーダービー しんじだいのとびら)は、[[2024年]][[5月24日]]に公開予定の[[CygamesPictures]]制作による[[日本]]の[[アニメーション映画]]。[[Cygames]]によるメディアミックスプロジェクト「[[ウマ娘 プリティーダービー]]」を原案とした映画作品。 == 概要 == 2023年12月28日、[[テレビアニメ]]第3期『[[ウマ娘 プリティーダービー (テレビアニメ)|ウマ娘 プリティーダービー Season 3]]』第13話(最終回)の放送終了後、初の映画化作品として本作の制作が決定したことが告知された<ref>{{Cite web|url=https://dengekionline.com/articles/215818/|title=『ウマ娘』初の映画『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』が制作決定。公開は2024年5月24日。ジャングルポケットが主人公でアグネスタキオン、マンハッタンカフェと競い合う|work=電撃オンライン|publisher=KADOKAWA Game Linkage|date=2023-12-28|accessdate=2023-12-28}}</ref>。アニメーション制作スタジオは2023年の[[Webアニメ]]『[[ウマ娘 プリティーダービー ROAD TO THE TOP]]』の制作に関わった[[CygamesPictures]]が担当する。 [[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]を主人公に、同世代のライバルたちとの競い合いを新たなストーリーとして展開する<ref>{{Cite web|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0140763|title=「ウマ娘」初映画化決定 主人公はジャングルポケット『新時代の扉』2024年5月24日公開|publisher=シネマトゥデイ|date=2023-12-28|accessdate=2023-12-28}}</ref>。ティザービジュアルでは「最強はオレだ」をキャッチコピーに、ジャングルポケットが熱き戦いに向かっていく姿が描かれている<ref>{{Cite web|url=https://natalie.mu/comic/news/555103|title=「ウマ娘」が初の映画化!主人公はジャングルポケット ティザービジュ&特報映像も|work=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-12-28|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 登場キャラクター == {{Main|ウマ娘 プリティーダービー#登場キャラクター}} ; [[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]] : 声 - [[藤本侑里]]<ref name="caststaff">{{Cite web|url=https://movie-umamusume.jp/|title=CAST&STAFF|work=劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』 公式サイト|accessdate=2023-12-28}}</ref> : 本作の主人公。 ; [[アグネスタキオン]] : 声 - [[上坂すみれ]]{{R|caststaff}} ; [[マンハッタンカフェ]] : 声 - [[小倉唯]]{{R|caststaff}} == スタッフ == * 原作 - [[Cygames]]{{R|caststaff}} * 監督 - 山本健{{R|caststaff}} * シナリオディレクター・ストーリー構成 - 小針哲也{{R|caststaff}} * 脚本 - [[吉村清子]]{{R|caststaff}} * キャラクターデザイン・総作画監督 - 山崎淳{{R|caststaff}} * アニメーション制作 - [[CygamesPictures]]{{R|caststaff}} * 配給 - [[東宝]]{{R|caststaff}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Official|1=https://movie-umamusume.jp/|name=劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』 公式サイト}} * {{Twitter|uma_musu_movie|劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』}} {{Cygames}} {{デフォルトソート:うまむすめふりていいたあひいしんしたいのとひら}} [[Category:萌え擬人化]] [[Category:アニメ作品 う|まむすめふりていいたあひいしんしたいのとひら]] [[Category:2024年のアニメ映画]] [[Category:東宝製作のアニメ映画]] [[Category:Cygamesのアニメ作品]] [[Category:競馬映画]] [[Category:擬人化キャラクターを主人公にしたアニメ作品]]
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田中英泰
・プロサッカー三種 ・東京都練馬区出身 ・2003年7月6日 【経歴】 ・南が丘がFC ・コレーガSC ・FC東京むさし ・桐光学園 ・ヴァルミエラFC 〜現在
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・プロサッカー三種 ・東京都練馬区出身 ・2003年7月6日 【経歴】 ・南が丘がFC ・コレーガSC ・FC東京むさし ・桐光学園 ・ヴァルミエラFC 〜現在
{{即時削除|記事1|百科事典としての解説に足る定義なし|コメント=[https://valmierafc.com/team/ ヴァルミエラFCの公式サイト]にこの人物の名はなく、2023年5月に[https://fccolost.net/%e5%85%a5%e5%9b%a3%e9%81%b8%e6%89%8b%e3%81%ae%e3%81%8a%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9b%ef%bc%88%e7%94%b0%e4%b8%ad-%e8%8b%b1%e6%b3%b0%e9%81%b8%e6%89%8b%ef%bc%89/ 埼玉県リーグのクラブ]に入団しているようです}} ・プロサッカー選手 ・東京都練馬区出身 ・2003年7月6日 【経歴】 ・南が丘がFC ・コレーガSC ・FC東京むさし ・桐光学園 ・ヴァルミエラFC 〜現在
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小櫃裕太郎
小櫃裕太郎(こびつ ゆうたろう、2000年6月26日-)は朝日放送テレビのアナウンサー。 2000年6月26日、東京都北区出身。高校時代に人気グループ「EXILE」に憧れ、LDHボーカルオーディションを受け応募者3万人から144人まで残った経験がある。成蹊大学を卒業後、2023年4月付で朝日放送テレビに入社。同期入社は大仁田美咲。育成担当アナウンサーは武田和歌子。 前述の通り、高校時代に人気グループ「EXILE」に憧れ、LDHボーカルオーディションを受け応募者3万人から144人まで残った経験がある。趣味は靴磨き、地図アプリで世界遺産巡り、筋トレ、生ハム作りで、特技はディズニー映画『アラジン』のワンシーンを、主人公になりきってそれっぽく歌えること。 目標はTBSテレビの安住紳一郎であると、初お披露目の際に語っている。 ニックネームはこび、こびちゃん、こびっちゃん、ぽっぷ。
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小櫃裕太郎(こびつ ゆうたろう、2000年6月26日-)は朝日放送テレビのアナウンサー。
{{特筆性|人物|date=2023年12月28日 (木) 12:49 (UTC)}} {{基礎情報 アナウンサー | 名前 = 小櫃 裕太郎 | ふりがな = こびつ ゆうたろう | 画像ファイル = | 画像サイズ = <!-- ある場合のみ、220px以内 --> | 画像コメント = | 本名 = | 愛称 = | 出身地 = {{JPN}} [[東京都]][[北区 (東京都)|北区]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日と年齢|2000|6|26}} <!-- 亡くなった場合は没年月日の項目を使用 --> | 没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|生年|月|日|没年|月|日}} --> | 身長 = | 血液型 = <!--[[ABO式血液型|型]]--> | 最終学歴 = [[成蹊大学]] | 在籍局 = [[朝日放送テレビ]] | 所属事務所 = <!-- 契約アナウンサーの場合に使用 --> | 部署 = | 職歴 = | 活動期間 = | ジャンル = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 公式サイト = [https://www.asahi.co.jp/ann/profile/kobitsu.html プロフィール] | 現在の担当番組 = <!-- 代表的なもののみ --> | 過去の担当番組 = [[おはよう朝日です]](火・水曜)<br />[[news おかえり]](木曜) | その他 = | 備考 = }} '''小櫃 裕太郎'''(こびつ ゆうたろう、[[2000年]][[6月26日]] - )は[[朝日放送テレビ]]の[[アナウンサー]]。[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]出身。 == 経歴 == [[成蹊大学]]を卒業後、[[2023年]]4月付で[[朝日放送テレビ]]に入社。同期入社は[[大仁田美咲]]。育成担当アナウンサーは[[武田和歌子]]<ref>{{Cite web |title=ABC新人アナ番組デビュー 会社の柱になる存在に |url=https://www.nnn.co.jp/articles/-/93468 |website=大阪日日新聞 |date=2023-07-16 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=朝日放送テレビ|アナアナ|小櫃 裕太郎 |url=https://www.asahi.co.jp/ann/profile/kobitsu.html |website=www.asahi.co.jp |access-date=2023-12-28}}</ref>。 7月5日に同局の早朝番組「[[おはよう朝日です]]」で[[初鳴き]]を果たした。 == 人物 == 高校時代に人気グループ「[[EXILE]]」に憧れ、[[LDH (芸能プロダクション)|LDH]]ボーカルオーディションを受け応募者3万人から144人まで残った経験がある。 趣味は靴磨き、地図アプリで世界遺産巡り、筋トレ、生ハム作り。 特技はディズニー映画『[[アラジン (1992年の映画)|アラジン]]』のワンシーンを、主人公になりきってそれっぽく歌えること<ref>{{Cite web |title=ABC新人アナウンサーがラジオデビュー!2人の異色の経歴を掘り下げます『おはようパーソナリティ小縣裕介です』 {{!}} radiko news(ラジコニュース) |url=https://news.radiko.jp/article/station/ABC/91529/ |website=news.radiko.jp |date=2023-07-06 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 目標は[[TBSテレビ]]の[[安住紳一郎]]であると、初お披露目の際に語っている<ref>{{Cite web |title=画像・写真 {{!}} ABC新人アナ2人の魅力光る LDHオーディションで3万人→144人に残った小櫃アナ、虎党&驚きの軟体芸披露の大仁田アナ【コメントあり】 1枚目 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2285706/photo/1/ |website=ORICON NEWS |access-date=2023-12-28}}</ref>。 愛称:こび、こびちゃん、こびっちゃん、ぽっぷ<ref>{{Cite web |title=朝日放送テレビ|アナアナ|ひよこ日記2023 小櫃裕太郎 プロフィール |url=https://www.asahi.co.jp/ann/shinjin/2023profile01.html |website=www.asahi.co.jp |access-date=2023-12-28}}</ref>。 == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.asahi.co.jp/ann/profile/kobitsu.html プロフィール] - 朝日放送テレビ {{朝日放送テレビアナウンサー}} {{Ana-stub}} {{DEFAULTSORT:こひつ ゆうたろう}} [[Category:朝日放送テレビのアナウンサー]] [[Category:成蹊大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:2000年生]] [[Category:存命人物]]
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一月の声に歓びを刻め
「一月の声に歓びを刻め」(いちがつのこえによろこびをきざめ)は、日本の映像作家、映画監督の三島有紀子が「ある出来事」をモチーフに、自主映画として企画がスタートし、47年間見つめ続けたオリジナル脚本による作品。 中島(北海道・洞爺湖)、八丈島(伊豆諸島)、堂島(大阪)の3つの「島」を舞台に、3人の物語が交錯する。 主人公のマキは家族が集まり、おせち料理を楽しむが、亡くした娘の存在が喪失感を与える。誠は娘の海が5年ぶりに帰省した際、妊娠していることがわかり、複雑な気持ちになる。れいこは元恋人の葬儀に参列するために故郷を訪れ、レンタル彼氏と一夜を過ごすことを決意する。彼女はトラウマから人に触れられないが、自分を変えるために行動する。 ※出典 ※出典
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "「一月の声に歓びを刻め」(いちがつのこえによろこびをきざめ)は、日本の映像作家、映画監督の三島有紀子が「ある出来事」をモチーフに、自主映画として企画がスタートし、47年間見つめ続けたオリジナル脚本による作品。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "中島(北海道・洞爺湖)、八丈島(伊豆諸島)、堂島(大阪)の3つの「島」を舞台に、3人の物語が交錯する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "主人公のマキは家族が集まり、おせち料理を楽しむが、亡くした娘の存在が喪失感を与える。誠は娘の海が5年ぶりに帰省した際、妊娠していることがわかり、複雑な気持ちになる。れいこは元恋人の葬儀に参列するために故郷を訪れ、レンタル彼氏と一夜を過ごすことを決意する。彼女はトラウマから人に触れられないが、自分を変えるために行動する。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "※出典", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "※出典", "title": "スタッフ" } ]
「一月の声に歓びを刻め」(いちがつのこえによろこびをきざめ)は、日本の映像作家、映画監督の三島有紀子が「ある出来事」をモチーフに、⾃主映画として企画がスタートし、47年間見つめ続けたオリジナル脚本による作品。 中島(北海道・洞爺湖)、八丈島(伊豆諸島)、堂島(大阪)の3つの「島」を舞台に、3人の物語が交錯する。
{{公開前の映画|date=2023年12月28日 (木) 08:47 (UTC)}} {{Infobox Film | 作品名 = 一月の声に歓びを刻め | 原題 = | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[三島有紀子]] | 脚本 = [[三島有紀子]] | 原案 = | 原作 = | 製作 = | 製作総指揮 = | ナレーター = | 出演者 = [[前田敦子]]<br/>[[カルーセル麻紀]]<br/>[[哀川翔]]<br/>[[坂東龍汰]]<br/>[[片岡礼子]]<br/>[[宇野祥平]]<br/>[[原田龍二]]<br/>[[松本妃代]]<br/>[[とよた真帆]] | 音楽 = | 主題歌 = | 撮影 = | 編集 = | 制作会社 = | 製作会社 = ブーケガルニフイルム | 配給 = [[東京テアトル]] | 公開 = {{flagicon|JPN}} 2024年2月9日 | 上映時間 = 118分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 製作費 = | 興行収入 = | 配給収入 = | 前作 = | 次作 = }} 「'''一月の声に歓びを刻め'''」(いちがつのこえによろこびをきざめ)は、日本の映像作家、映画監督の[[三島有紀子]]が「ある出来事」をモチーフに、⾃主映画として企画がスタートし、47年間見つめ続けたオリジナル脚本による作品<ref name=":0">[https://ichikoe.com/ 映画「一月の声に歓びを刻め」公式ページ]</ref>。 中島(北海道・洞爺湖)、八丈島(伊豆諸島)、堂島(大阪)の3つの「島」を舞台に、3人の物語が交錯する<ref name=":1">[https://eiga.com/movie/100393/ 一月の声に歓びを刻め] - 映画.com</ref>。 == あらすじ == 主人公のマキは家族が集まり、おせち料理を楽しむが、亡くした娘の存在が喪失感を与える。誠は娘の海が5年ぶりに帰省した際、妊娠していることがわかり、複雑な気持ちになる。れいこは元恋人の葬儀に参列するために故郷を訪れ、レンタル彼氏と一夜を過ごすことを決意する。彼女はトラウマから人に触れられないが、自分を変えるために行動する。 == キャスト == ※出典<ref name=":1" /> * れいこ(マキの次女) - [[前田敦子]] * マキ(れいこの母) - [[カルーセル麻紀]] * 誠(酪農家、海の父) - [[哀川翔]] * トト・モレッティ - [[坂東龍汰]] * 美砂子 - [[片岡礼子]] * 正夫 - [[宇野祥平]] * 龍 - [[原田龍二]] * 海 - [[松本妃代]] * さら - 長田詩音 * 真歩 - [[とよた真帆]] == スタッフ == ※出典<ref name=":1" /> * 監督:[[三島有紀子]] * 脚本:[[三島有紀子]] * プロデューサー:[[山嵜晋平]]、[[三島有紀子]] * 音楽:[[田中拓人]] * 編集:[[加藤ひとみ]] * 撮影:山村卓也、米倉伸(八丈島) * 照明:津覇実人(洞爺湖)、後閑健太(八丈島)、菰田大輔(大阪) * 録音:小黒健太郎、大竹修二(八丈島) * 美術:三藤秀仁(洞爺湖/大阪) * 装飾:徳田あゆみ(八丈島) * スタイリスト:齋藤ますみ * ヘアメイク:河本花葉 * フードスタイリスト:石森いづみ、篠原成徳、廣瀬里穂 * 助監督:山城研二(洞爺湖/大阪)、大城義弘(八丈島) * 制作担当:越智喜明(洞爺湖)、佐野優(大阪) * 整音:小黒健太郎 * 音響効果:勝亦さくら * サウンドアドバイザー:浦田和治 * 俳句:佐藤香津樹 * 協力:石森いづみ、石森均 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://ichikoe.com/ 映画「一月の声に歓びを刻め」公式ページ] * [https://twitter.com/ichikoe_movie 映画「一月の声に歓びを刻め」公式ページ](@ichikoe_movie) - Twitter * [https://www.instagram.com/ichikoe_movie/ 映画「一月の声に歓びを刻め」公式ページ](@ichikoe_movie) - Instagram {{DEFAULTSORT:いちかつのこえによろこひをきさめ}} [[Category:2024年の映画]] [[Category:三島有紀子の監督映画]] [[Category:東京都を舞台とした映画作品]] [[Category:大阪府を舞台とした映画作品]] [[Category:北海道を舞台とした映画作品]]
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Γ-ジャスモラクトン
γ-ジャスモラクトン(ガンマ-ジャスモラクトン)はラクトンの一種である。ジャスミンの精油の主要な香気成分として1978年に発見され、その後ペパーミント油からも発見された。ジャスミンラクトンがδ-ジャスモラクトンとも呼ばれることがあるため、本物質は先頭にγを付けて区別する必要がある。 側鎖に二重結合、環内に1個の不斉炭素原子があることから幾何異性体と光学異性体が考えられる。天然に存在するのはcis-(+)(S)-体であるが、(-)(R)-体は50倍ほど香気が強い。工業的にはcis-3-ヘキセノールを原料に作られる。 拡散性のあるフルーティ・フローラル調の香気を持ち、バター、ナッツ、クリーム、ミルク系のフレーバーに使用される。
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{{chembox | Verifiedfields = changed | Watchedfields = changed | verifiedrevid = | Name = γ-ジャスモラクトン<br />γ-Jasmo lactone | ImageFile = | ImageName = 200px | IUPACName = 7-decen-1,4-lactone | OtherNames =7-デセノラクトン<br />γ-3-ヘキセニルブチロラクトン |Section1={{Chembox Identifiers | CASNo_Ref = | CASNo = 67114-38-9 | SMILES = CCC=CCCC1CCC(=O)O1<ref name="jglobal">[https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200907021184177746 γ-ジャスモラクトン]([[J-GLOBAL]])</ref> | PubChem = | ChemSpiderID_Ref = {{chemspidercite|changed|chemspider}} | ChemSpiderID = | ChEBI_Ref = | ChEBI = | InChI = 1S/C10H16O2/c1-2-3-4-5-6-9-7-8-10(11)12-9/h3-4,9H,2,5-8H2,1H3{{r|jglobal}} | InChIKey = NKNGVPNCSFZRSM-UHFFFAOYSA-N{{r|jglobal}} | StdInChI_Ref = | StdInChI = | StdInChIKey_Ref = | StdInChIKey = }} |Section2={{Chembox Properties | C=10 | H=16 | O=2 | Appearance = 無色の液体 | Density = | MeltingPtC = | BoilingPtC =127-129 | BoilingPt_notes = 0.53kPa | BoilingPt_ref =<ref name="gousei">{{Harv|合成香料編集委員会|2016|pp=462-463}}</ref> | Solubility=不溶 | Solubility1 = [[アルコール]]、[[油]]類に可溶{{r|gousei}}。 | Solvent1 = 溶媒 }} |Section3={{Chembox Hazards | FlashPt = }} | Section4 = {{Chembox Related | OtherCpds = [[ジャスミンラクトン]] | Function = 異性体 | OtherFunctn = [[C10H16O2|{{Chem|C|10|H|16|O|2}}]]を参照 }} }} '''γ-ジャスモラクトン'''(ガンマ-ジャスモラクトン)は[[ラクトン]]の一種である。[[ジャスミン]]の[[精油]]の主要な香気成分として[[1978年]]に発見され、その後[[ペパーミント]]油からも発見された。[[ジャスミンラクトン]]がδ-ジャスモラクトンとも呼ばれることがあるため、本物質は先頭に[[γ]]を付けて区別する必要がある{{r|gousei}}。 == 構造 == 側鎖に[[二重結合]]、環内に1個の[[キラル中心|不斉炭素]]原子があることから[[シス–トランス異性体|幾何異性体]]と[[光学異性体]]が考えられる。天然に存在するのは''cis''-(+)(''S'')-体であるが、(-)(''R'')-体は50倍ほど香気が強い。工業的には[[青葉アルコール|''cis''-3-ヘキセノール]]を原料に作られる{{r|gousei}}。 == 香料 == 拡散性のあるフルーティ・フローラル調の香気を持ち、[[バター]]、[[種実類|ナッツ]]、[[クリーム (食品)|クリーム]]、[[乳製品|ミルク]]系のフレーバーに使用される{{r|gousei}}。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author = 合成香料編集委員会|year = 2016|title = 合成香料 化学と商品知識(増補新版)|publisher = [[化学工業日報社]]|isbn = 978-4-87326-677-0|ref ={{SfnRef|合成香料編集委員会|2016}}}} {{DEFAULTSORT:しやすもらくとん}} [[Category:ラクトン]] [[Category:香料]]
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トゥルッフ・トゥルウィス
トゥルッフ・トゥルウィス(ウェールズ語発音: [tuːɾχ tɾʊɨθ])は、アーサー王伝説のおける怪物級の猪で、ウェールズ語で書かれた『マビノギオン』(1100年頃)の枝篇のひとつ『キルッフとオルウェン』では、アーサー王やその一族郎党や、他に加えられた特殊能力者、猟犬、道具などを得てのち、初めてその狩猟に挑み必須アイテムの取得を果たし、王の縁者キルッフの婚姻探求を助太刀する。 アーサー王の猟犬はウェールズ語の物語ではカヴァス(ウェールズ語: Cafall)だが、その伝承はより古く、ラテン語の史書『ブリトン人の歴史』(9世紀)にも王が猟犬カバル(ラテン語: Cabalを伴わせてトロイント(ラテン語: Troynt)を狩ったという故事が記載される。 また7世紀の古哀歌「Gwarchan Cynfelyn キンヴェリンの詩歌)」(仮訳題名)にもこの猪名(単語)が言及されており、これが文献上の初出である。他にも、中期ウェールズ語時代の数編に言及されている ウェールズ語で「猪トゥルウィス」の意と解すことが出来、かつてはアイルランド神話における猪トリアス(Triath)よりの派生語か同根語との論説も提唱されたが、近年では関連性に否定的見解がみられる( § 語源参照)。 アーサー王が猪トロイント(≈トゥルッフ・トゥルウィス)を、猟犬カバル(≈カヴァス)を用いて狩ったという故事は、古くは伝ネンニウス著『ブリトン人の歴史』(9世紀)写本の多くに付帯する「ブリタニアの奇蹟」(De Mirabilibus Britanniae)と呼ばれる部分にみつかる。(全文はブリトン人の歴史 § アーサーの犬カバルの引用を参照)。猪トロイントの名は、正しくはトロイトの異読みを取るべきだともされる。 中世ウェールズの物語集『マビノギオン』の枝篇「キルッフとオルウェン」によれば、トゥルッフ・トゥルウィスは、タレッズ公(タレッズ・ウレディク)の息子で、元は王族だったがその罪ゆえに神によって豚類(hwch)に変身させられた}}。毒のしたたる剛毛をもち、耳の間に櫛と鋏と剃刀を隠し持つ。 このキルフッフ求婚譚(花嫁探しの旅)では、主人公キルフッフは、継母の呪いによって、イスバザデン・ペンカウルの娘オルウェンのみしか妻に娶ることはできない運命となる。 その探求(花嫁と婚姻)を成就するには、イスバザデンが課する39の課題(anoeth、複数形anoetheu)を達成せねばならない。 トゥルッフ・トゥルウィスの耳のあいだの櫛・鋏・剃刀はそのうちの最大難関である。当初言及されない剃刀は、後のくだりで追加されている。 この猪より得た理髪用アイテムも含め、課題のほとんど多くは、新婦の父たるイスバザデンの髪や髭を整えるためのものである。 イスバザデンは、トゥルッフ・トゥルウィスを狩れるのはエリの息子グライト 飼っている犬ドゥルトウィン のみで、さらにその犬用の繋ぎ紐(リーシュ)、首輪、鎖が要り、その犬を使い慣らせる(英語版)唯一の猟犬使いモドロンの息子マボン(英語版)を勧誘しなければならない。 しかしこれ以外にも、この猪狩りには犬が必要である(詳細はカヴァス § 犬のリスト)。リムヒの二匹の仔狼が要るとされるが、これらが得られたという記述に欠ける。しかし、本来はその二匹のためのリーシュは、髯男ディシスの髭を引っこ抜いて作られる。この二匹も扱い手が指名されていた。更には、アネトとアイスレムという犬たちは、ついにトゥルッフ・トゥルウィスがコーンウォールから海へと追われた結末後も、泳ぎ追い続けたという。 他にも、特定の人員や、馬・装備など、結局はアーサー王(アルスル)と、お抱えの狩人たちどももが要求されている: 巨人ウルナッハ(Wrnach Gawr)の剣(cledyf))は、この猪を殺しうる唯一の武器という触れ込みだったが、アーサーの手の者が巨人を斃すのに使ったものの、猪には果たして試されなかった。 トゥルウィス猪の狩猟は、作品後半の大部分を占める゙、その追跡の様子は、地理的な行程、動員される人海を含め詳細に描写される。キルッフ自身も参加するが、アーサーと郎党が活躍する。 トゥルッフ・トゥルウィスとその七匹の子猪は、アイルランドまで遠征してアーサー軍が見つけ出した。そこからウェールズまで追いたて、けっきょくコーンウォールで追い詰めた。メヌー(英語版)は、鳥の姿を借り空飛ぶ斥候となってアイルランドを探索、目的の櫛・鋏を持った猪と七匹の子猪を発見。急下降して宝を掠め取ろうとするが、銀色の剛毛一本のみをついばみ、毒がつたわって不随となる。 アーサー勢の戦いの末、猪はアーサーの本国に移動し、ユーヤスとタウィーの間(y rwng Tawy ac Euyas; "Tawy and Ewyas"、不詳だがウェールズ南東部あたり)を侵した。アーサーは、セヴァーン河口(英語版)(ウェールズ語: Aber Hafren)に諸々の軍勢を終結させ、特にコーンウォルとデヴォンの者たちに、なんとしても猪をその河口付近に足止めさせろ、と命じた。結局は封じこめにに失敗して突破されるが、セヴァーン川に押さえつけているうちに剃刀・鋏そして櫛を奪取するに成功した。猪は川底に足がかりをつけた拍子に飛び出してしまったが、コーンウォルの端まで追い詰め、海に転落させた。どこに行ったか行方知れずだが、いまだにアネトとアイスレムの2匹が追いつづける、と伝わる ちなみにもう一頭、猪の長エスキスエルウィン(英語版)の狩猟も、イスバザデンの理髪には必要であった。 ウェールズ語twrchは「猪、豚」の意であり、トゥルッフ・トゥルウィスは「猪・トゥルウィス」を意味する。アイルランド伝承の猪王トリアス(Triath ri torcraide)と同源の可能性は提示されたが、疑問視もされる。ジョン・リースは、古アイルランド語の言葉が中世ウェールズに移入された可能性を是としたが、 レイチェル・ブロムウィッチ(英語版)は、そのような文化交流が必ずしもあったと結論付けるには至らない、とした。 ブロムウィッチによれば、"Trwyth" の綴りは書写生の誤記に由来するもので、元来の語形はtrwydだとしている。一方、このtrwyd の語尾子音 -d と -t の混同により、ラテン語文書ではTroyntやTroitの名称が生じたとする。古い形がTrwydであることは、既述の古歌「キンヴェリンの詩歌」(仮訳名)の出例でも確認できる トゥルッフ・トゥルウィスは、フランス文学のアーサー物語で、人間や他の猪に姿を変えて再登場させられている、という考察がある。 クレティアン・ド・トロワ作の『エレックとエニード(英語版)』に登場する円卓騎士 アレスの息子トール(Tor le fils Arés, アリエスの子トー卿)が、そのような再登場だという説は、イドリス・レウェリン・フォスター(英語版)が提唱した。さらには、この「アレス」こそが、じつは正しく伝承された、本来の父親の名前に近いのだ、という意見すらある。 また、トゥルッフ・トゥルウィスのキャラクターは、円卓騎士カラドックの物語のなかで、その数奇な兄弟として再登場させられた、という説がある。これは『ペルスヴァル第一続編』の一部、いわゆる「カラドックの書」で展開される。カラドックは、自分が由緒正しい貴族の父親ではなかったと知って激怒し、母を寝取った相手の間男(すなわち実父)である魔術師エリアヴル(Eliavres)に強制的に、牝馬、牝犬、雌豚と交尾させ、その獣からそれぞれカラドックの兄弟たちが生まれた。雌豚の子は猪でトルタン(Tortain)と名付けられており、これがウェールズの猪トゥルウィス伝承に由来する、とガストン・パリスが提唱した。
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トゥルッフ・トゥルウィス()は、アーサー王伝説のおける怪物級の猪で、ウェールズ語で書かれた『マビノギオン』(1100年頃)の枝篇のひとつ『キルッフとオルウェン』では、アーサー王やその一族郎党や、他に加えられた特殊能力者、猟犬、道具などを得てのち、初めてその狩猟に挑み必須アイテムの取得を果たし、王の縁者キルッフの婚姻探求を助太刀する。 アーサー王の猟犬はウェールズ語の物語ではカヴァスだが、その伝承はより古く、ラテン語の史書『ブリトン人の歴史』(9世紀)にも王が猟犬カバル」(仮訳題名)にもこの猪名(単語)が言及されており、これが文献上の初出である。他にも、中期ウェールズ語時代の数編に言及されている ウェールズ語で「猪トゥルウィス」の意と解すことが出来、かつてはアイルランド神話における猪トリアス(Triath)よりの派生語か同根語との論説も提唱されたが、近年では関連性に否定的見解がみられる( § 語源参照)。
{{Infobox person | name = トゥルッフ・トゥルウィス | image = Detail_of_Twrch_Trwyth_sculpture_-_geograph.org.uk_-_915217.jpg | alt = トゥルッフ・トゥルウィスら三頭のイノシシの塑像。トニー・ウッドマン<!--Tony Woodman-->作。 | caption = Tony Woodman 作トゥルッフ・トゥルウィスたちの塑像 | parents = タレッズ・ウレディク(Taredd Wledig) | children =7頭{{Unbulleted list |銀毛のグリギン(Grugyn Gwrych Ereint) |殺し屋スルウィドウグ (Llwydawg Govynnyad) |トゥルッフ・スラウィンTwrch Llawin |グウィス Gwys |バヌー Banw |ベンウィグ Bennwig |無記名の一頭}} }} '''トゥルッフ・トゥルウィス'''({{IPA-cy|tuːɾχ tɾʊɨθ}})は、[[アーサー王伝説]]のおける怪物級の[[猪]]で、ウェールズ語で書かれた『[[マビノギオン]]』(1100年頃)の枝篇のひとつ『[[キルッフ|キルッフとオルウェン]]』では、アーサー王やその一族郎党や、他に加えられた特殊能力者、猟犬、道具などを得てのち、初めてその狩猟に挑み必須アイテムの取得を果たし、王の縁者キルッフの婚姻探求を助太刀する。[[File:Twrch trwyth.wav|thumb|Twrch trwythの発音音声ファイル]] [[アーサー王]]の[[猟犬]]はウェールズ語の物語では[[カヴァス]]({{lang-cy|Cafall}})だが、その伝承はより古く、ラテン語の史書『[[ブリトン人の歴史]]』(9世紀)にも王が猟犬カバル({{lang-la|Cabal}}{{Refn|group="注"|{{lang-la|Cabal}}<small>(定本/''H''本)</small>, {{lang-la|caball}}<small>(''K''本)</small>, {{lang-la|caballus}}<small>(''D''本<sup>1</sup>本)</small>, {{lang-la|caballus}}<small>(''D''本<sup>2</sup>本・''G''・本)</small>)}}を伴わせて'''トロイント'''({{lang-la|Troynt}}{{Refn|group="注"|{{lang-la|Troynt}}<small>(定本/''H''・''K''本)</small>, {{lang|la|Troit}} <small>(''C''本<sup>1</sup>''D''・''G''・''Q''本)</small>,{{lang|la|Terit}} <small>(''C<sup>2</sup>''・''L''本 )</small>。}})<ref>{{harvnb|Mommsen|1898}} p. 217, note to line 18</ref>を狩ったという故事が記載される。 また7世紀の古哀歌「Gwarchan Cynfelyn<ref>[http://www.maryjones.us/ctexts/a04.html The Lay of Cynfelyn], at the Celtic Literature Collective of the Mary Jones website</ref> キンヴェリンの詩歌<!--カンヴェリンの歌-->)」(仮訳題名){{efn2|{{仮リンク|アネイリンの書|en|Book of Aneirin|label=《アネイリンの書》}}所収}}にもこの猪名(単語)が言及されており、これが文献上の初出である{{sfnp|Roberts|1962|p=91}}{{Refn|この古詩に言及があることは、既に[[シャーロット・ゲスト]]が編本注(1849年)で指摘する<ref>{{harvp|Guest ed., tr.|1849|pp=356–357}} (Notes to "Twrch Trwyth" -- page 286)</ref><ref name="bromwich1996"/>。 のちに{{仮リンク|ジョン・リース|en|John Rhŷs}}は1885年論文で{{仮リンク|ダニエル・シルヴァン・エヴァンス|en|Daniel Silvan Evans}}が言及に着目したとしており、{{仮リンク|ウィリアム・フォーブス・スキーン|en|William Forbes Skene}}編訳『'Four Ancient Books』第1巻の当詩の英訳もサリヴァンに拠るとする<ref name="rhys1885"/>}}。他にも、[[中期ウェールズ語]]時代の数編に言及されている<ref>{{harvp|Bromwich|Evans|1992|pp=lxv, 131}}. 版本、行、作家/作品、抜粋引用(当該の猪名は斜体)が p. lxv にみえるが、後述する注釈にてこれらを列挙しておく<!--ロシア版 [[ru:Турх Труйт]] でも列挙されていた--></ref> ウェールズ語で「猪トゥルウィス」の意と解すことが出来、かつては[[アイルランド神話]]における猪トリアス({{lang|sga|Triath}})よりの派生語か[[同根語]]との論説も提唱されたが、近年では関連性に否定的見解がみられる({{section link||語源}}参照)。 ==ブリトン人の歴史== アーサー王が猪トロイント(≈トゥルッフ・トゥルウィス)を、猟犬カバル(≈カヴァス)を用いて狩ったという故事は、古くは伝[[ネンニウス]]著『ブリトン人の歴史』(9世紀)写本の多くに付帯する「ブリタニアの奇蹟」({{lang|la|De Mirabilibus Britanniae}})と呼ばれる部分にみつかる{{sfnp|森野|1991|pp=87–88}}{{sfnp|Guest ed., tr.|1849|pp=358–360}}<ref name=higham2018"/>。(全文<ref>英訳:{{cite wikisource |title=Wonders of Britain, Ch. 73 |wslink=Six Old English Chronicles/Nennius's History of the Britons (Annotated)#1:73 |author= |translator=J. A. Giles |translator-link=:en:John Allen Giles |wslanguage=en |quote=There is another marvel in the region which is called [[:en:Buellt|Buelt]].. }}及び{{harvp|Guest ed., tr.|1849|p=359}}</ref>は{{section link|ブリトン人の歴史|アーサーの犬カバル}}の引用を参照)。猪トロイントの名は、正しくはトロイトの異読みを取るべきだともされる<ref name="fletcher">Robert Huntington Fletcher, '' {{URL|1=https://books.google.com/books?id=z-DF4eJ8-ZoC&pg=PA320 |2=The Arthurian material in the chronicles}}'', p.320: "Two names in the ''Mirabilia'' should be replaced by better variant readings, Troynt by Troit, and Anir by Amr".</ref>。 ==キルッフとオルウェン== 中世ウェールズの物語集『[[マビノギオン]]』の枝篇「キルッフとオルウェン」<ref name="注">{{harvp|中野訳|2000}}。以下、固有名詞等のカナ表記は、原則、この訳のものにしたがう。</ref><ref>{{harvp|中野|1999|p=124}}では「キルーフとオルウェン」と表記。{{harvp|森野|1992}}では「キルフッフ」とするが、{{harvp|森野訳|2019}}では 「キルフーフがオルウェンを手に入れたる次第」と題する。</ref>によれば、トゥルッフ・トゥルウィスは、タレッズ公(タレッズ・ウレディク<!--Taredd Wledig-->{{sfnp|Jones|Jones trr.|1993|p=98}})の息子で<ref>{{harvp|Guest ed., tr.|1849|p=286}}では"son of Prince Tared"</ref>、元は王族だったがその罪<!--bechawt-->ゆえに神<!--duw-->によって豚類({{lang|cy|hwch}})に変身させられた{{sfnp|Guest ed., tr.|1849|pp=241, 309}}}}<ref>{{harvp|Jones|Jones trr.|1993|p=109}} apud {{harvp|Robichaud|2007|p=82}}</ref>。毒<!--gwenwyn-->のしたたる[[剛毛]]<!--[g]wrych-->をもち{{sfnp|Guest ed., tr.|1849|pp=239, 307}}{{sfnp|Robichaud|2007|p=81}}、耳の間に[[櫛]]<!--grib(crib)-->と[[鋏]]{{efn2|{{harvp|中野|1999|p=124}}に"櫛とはさみ(剃刀もふくまれることがある)"とある。中期ウェールズ語:{{lang|wlm|gwelleu}}; 現代形 {{lang|cy|gwellau, gwellaif}}、古語{{lang|owl|guillihim}}で、「鋏」、特に羊刈り用バサミの含みがあるとも指摘<ref name="falileyev2000"/>。}}と[[剃刀]]<!--ellyn-->を隠し持つ{{sfnp|Guest ed., tr.|1849|pp=242, 310}}。 このキルフッフ求婚譚{{sfnp|森野|1992|p=90}}(花嫁探しの旅{{sfnp|森野|1992|p=97}})では、主人公キルフッフは、継母の呪いによって、イスバザデン・ペンカウル{{Refn|group="注"|{{harvp|森野|1992|p=89}}では"アスバザデン"、{{harvp|中野|1999|p=124}}では"イスバズァデン"}}の娘オルウェンのみしか妻に娶ることはできない運命となる{{sfnp|森野|1992|p=89}}。 === 課題 === その探求(花嫁と婚姻)を成就するには、イスバザデンが課する39の課題({{lang|cy|anoeth}}、複数形{{lang|cy|anoetheu}}){{Refn|group="注"|"課題"は{{harvp|中野|1999|p=124}}による。{{sfnp|森野|1992}}では、「アノイス」とウェールズ語の仮名表記で解説している(p. 102)。また、最終目的の花嫁が「探求」なので、数多くの「課題」を「探求」と称するのは避けた。}}を達成せねばならない。 トゥルッフ・トゥルウィスの耳のあいだの櫛・鋏・剃刀はそのうちの最大難関である{{sfnp|中野|1999|p=124}}。当初言及されない剃刀は、後のくだりで追加されている{{sfnp|Sheehan|2005|loc=p. 24, n54}}{{sfnp|Sturzer|2005|loc=p. 160, n76}}。 この猪より得た理髪用アイテムも含め、課題のほとんど多くは、新婦の父たるイスバザデンの髪や髭を整えるためのものである{{sfnp|Sheehan|2005|p=6}}{{Refn|group="注"|課題の約半分はトゥルッフ・トゥルウィスイノシシ狩りのため(あるいは間接的にその要因や犬の必要品も含む)。課題#21~39({{harvp|Dehghani|2006–2007|pp=293–294}}の39課題表、{{harvp|Edel|1983|pp=263–264}}の39課題リスト参照)}}。 === 付帯する課題 === イスバザデンは、トゥルッフ・トゥルウィスを狩れるのはエリの息子グライト{{efn2|{{harvp|中野|1999|p=125}} の表記が"ドルドウィン(Greit mab Eri)"。Greid とも。}} 飼っている犬ドゥルトウィン{{efn2|{{harvp|中野|1999|p=125}} の表記は"ドルドウィン(Drutwyn)"。Drudwynとも。}} のみで、さらにその犬用の繋ぎ紐([[リーシュ]]){{Refn|group="注"|中野訳は"革紐"だが、{{harvp|中野|1999|p=125}} は"繋ぐ紐"とある。英訳は "leash"、中期ウェールズ語は"{{lang|wlm|cynllyuan/kyn(n)llyuan(n)}}"だが<ref>{{harvp|Guest ed., tr.|1849}}, p. 225, "namyn kynllyuan kwrs cant ewin", p. 286, "except the leash of Cwrs Cant Ewin"}}</ref>{{sfnp|Bromwich|Evans|1992|pp=131, 192}}、現代辞書には"{{lang|cy|cynllyfan}}"と載り、材質は特に皮革だとしていない<ref name="evans-dict-cynllyfan"/>。}}、首輪、鎖が要り、その犬を{{仮リンク|テイミング|en|tame animals|label=使い慣らせる}}唯一の猟犬使い{{仮リンク|モドロンの息子マボン|en|Mabon ap Modron}}{{Refn|group="注"|"モドロンの息子マボン( Mabon fab Modron ))"{{sfnp|森野|1992|p=88}} 。マボン・アプ・モドロン(Mabon ap Modron, map Modron)の表記もある。}}を勧誘しなければならない{{Refn|group="注"|マボン用の馬と、マボンを見つけ出すための者も、それぞれ一個の課題。馬はグウィン・メグドゥン(Guyn Mygtwn<ref name="nakano2011"/>/Gwynn Mygdwn{{sfnp|Bromwich|2014|p=lxxxiv}} 'White Dun-Mane' {{sfnp|Bromwich|2014|p=lxxxiv}} であり、「暗白色のたてがみを持つグウィン」<ref name="nakano2011"/>の解説もあるが、ウェールズ語 {{lang|cy|mwng}} "mane たてがみ" + {{lang|cy|ddwn}} "[[:en:wikt:russet|wikt:russet]]/dun 赤茶色" と追って解析されている{{sfnp|Bromwich|2014|p=128}}。また、三行詩だと Myngrwn 'Arched/Hacked Mane'の異読みもある{{sfnp|Bromwich|2014|pp=lxxxiv, 128}}。}}{{Refn|課題の#22 ドルドウィン、#23 百の爪持つコルス(Cors Cant Ewin)の皮紐、#24 百の手をもつカンハスティ(Canhastyr Can Llaw)の首輪(紐に繫ぐため)、#25 百の繋ぎ持つキリッズ(Cilydd Canhastyr)の鎖(紐・首輪をつなぎとめるため)、#26 モロドンの息子マボン(Mabon ap/fab Modron)が犬を操る、#27 マボン用の馬、グウィン・メグドゥン (Guyn Mygtwn<ref name="nakano2011"/>)、#28 アエルの息子エイドエル(Eidoel mab Aer)は、マボンを探し出すのに必要。前述{{harvp|Dehghani|2006–2007|pp=293–294}}の表、{{harvp|Edel|1983|pp=263–264}} のリスト、および#40に至る{{harvp|Bromwich|Evans|1992|pp=xlvii–xlviii}}のリスト参照。}}。 しかしこれ以外にも、この猪狩りには犬が必要である(詳細は{{section link|カヴァス|犬のリスト}})。リムヒ<!--Rhymhi-->の二匹の仔狼が要るとされるが<ref>#30 "two pups of the bitch Rhymhi" が挿入され全40まである{{harvp|Bromwich|Evans|1992|pp=xlvii–xlviii}}のリスト。</ref>、これらが得られたという記述に欠ける{{sfnp|Sheehan|2005|p=7}}。しかし、本来はその二匹のためのリーシュは、髯男ディシス<!--ディスィスとも-->の髭を引っこ抜いて作られる<ref>#30 "a leash of the beard of Dillus Farfawg ("the Bearded") to hold the two pups "</ref><ref name="roberts1976"/>{{Refn|group="注"|しかし{{harvp|中野|1999|p=125}}では<!--この二匹は得たとされないためか、-->"髭男ディスィス(Diilus{{sic}})の髭"は、犬ドルドウィンのためとしている。}}{{Refn|group="注"|なお、その"髭を引きながら引っこ抜く"({{lang|cy|tynnu}}){{sfnp|中野|1999|p=125}}ための道具は、木製ピンセットであり(原文直訳だと「木製ナイフ」と読めるが<ref>{{harvp|Guest ed., tr.|1849}}, p. 236, "[a]chyllell prenneu", p. 302 "wooden tweezers"</ref>)、複合語"cyllebren"は辞書に、おそらく「木製ピンセット」のような道具である、と記載される<ref name="evans-dict-cyllellbren"/>。}}。この二匹も扱い手が指名されていた<ref>#31 野生児キネディル (Cynedyr Cyledyr Wyllt) ' the Wild ' が(#30の)仔狼の二匹を操るため</ref>。更には、アネト{{efn2|Aned}}とアイスレム{{efn2|Aethlem}}という犬たちは<ref>#36、前述 {{harvp|Edel|1983|pp=263–264}}、{{harvp|Dehghani|2006–2007|pp=293–294}}; #36、{{harvp|Bromwich|Evans|1992|pp=xlvii–xlviii}}.</ref>、ついにトゥルッフ・トゥルウィスがコーンウォールから海へと追われた結末後も、泳ぎ追い続けたという<ref name="davis-tr2014"/>。 他にも、特定の人員や、馬・装備など、結局はアーサー王(アルスル)と、お抱えの狩人たちどもも{{Refn|#37(出典同上)。}}が要求されている: * ゲール人ガルセリト<!--Garselyd Wyddel-->というアイルランドの首席狩人({{lang|cy|pen-{{linktext|cynydd |Iwerddon|pref=:en:wikt}}}})<ref name="evans-dict-cynydd"/>{{Refn|#29 Garselyd Wyddel (出典同上)。{{harvp|Guest ed., tr.|1849}}, p. 226, "Garselit wydel pennkynyd iwrddon yw", p. 286, "except the leash of Cwrs Cant Ewin"}}{{Refn|group="注"|中村訳では"イウェルゾンびとガルセリト"と表記するが、ここでは"ゲール人/ゴイデル人" Wyddel に言換えた。いずれにしろアイルランド(イウェルゾン)の人を意味する。}} * {{仮リンク|ニッズの息子グウィン|en|Gwyn ap Nudd}}を狩人に{{Refn|#32(出典同上)。}}{{Refn|group="注"|グウィン・アプ・ニッズとも{{sfnp|森野|1992|p=107}}。}} **その乗馬としてディ(Du){{Refn|#33(出典同上)。}} * フランス王グウィレンヒン<!--Guilenhin-->{{Refn|#34、{{harvp|Dehghani|2006–2007|pp=293–294}}の表に"Gwilenhin, king of France, to hunt Twrch Trwth"と、原文訳{{harvp|Guest ed., tr.|1849|p=290}}:"Until Gilennhin the king of France shall come, the Twrch Trwyth cannot be hunted"とトゥルウィス猪狩りの要員だと明記される。}}{{Refn|group="注"|[[ウィリアム征服王]]のことだとされるが、物語上、トゥルウィス猪により落命する<ref name="nakano2002"/>{{sfnp|Edel|loc=p. 259, n1}}}}。 * アリン・ダヴェドの息子(mab Alun Dyfed){{Refn|#35(出典同上)。}}{{Refn|group="注"|ここでは名は不詳だが、アリン・ダヴェドの息子デヴェルの名で「ロナブイの夢」や「エルビンの息子ゲライント」には登場する{{harvp|Bromwich|Evans|1992|p=72}}。}}を犬の放ち役{{Refn|#35 "Alun Dyfed's son to act as unleasher" (出典同上)。{{harvp|Guest ed., tr.|1849}}, p. 226, "mab alun dyuet. gellyngwr da yw hwnnw", p. 286, "son of Alun Dyved; he is well skilled in letting loose the dogs". 現代語に訂正すると{{lang|cy|gollyngwr}}: {{lang|cy|[[:en:wikt:gollwng|gollwng]]+{{lang|cy|gollyngwr}}「放つ者、解放者」. }}}} <!--#36 は既出の"dogs Aned and Aethelm"--> * ブルッフ、キヴルッフ、セヴルッフら三名他、うからやから{{Refn|#38 "Bwlch, Cyfwlch, Syfwlch, and company to hunt" (出典同上)。三名はクレディフ・ディヴルッフ(Cleddyf Difwlch)の孫ら{{sfnp|Guest ed., tr.|1849|pp=211, 267}}。}}{{Refn|group="注"|色々な親族のみならず、三人の武器、孫の三匹の犬グラス、グレイシック、グレイサット({{section link|カヴァス|犬のリスト}}参照)や、三頭の馬カス、クアス、カヴァス(Call, Cuall, Cavall)もついてくる}} 巨人ウルナッハ(Wrnach Gawr)の剣({{lang|cy|cledyf}}){{sfnp|森野|1992|p=88}})は、この猪を殺しうる唯一の武器という触れ込みだったが{{Refn|最終#39(出典同上)。}}<ref>{{harvp|Guest tr.|1877|p=239}}, "Cledyf wrnach gawr. ny/ledir vyth namyn ac ef"; p. 291: "The sword of Gwrnach the Giant; he will never be slain except therewith".</ref>{{efn2|再現原型 *Gwrnach は{{仮リンク|ジョン・リース|en|John Rhŷs}}や{{仮リンク|トーマス・フランシス・オラヒリー|en|T. F. O'Rahilly|label=T・F・オラヒリー}}が提唱したが{{harvp|Bromwich|Evans|1992|p=138}}では否定的である。}}、アーサーの手の者が巨人を斃すのに使ったものの、猪には果たして試されなかった{{sfnp|Sheehan|2005|pp=8–9, 13, 15}}。 === 狩猟の経緯 === トゥルウィス猪の狩猟は、作品後半の大部分を占める゙{{sfnp|Sheehan|2005|p=6}}、その追跡の様子は、地理的な行程、動員される人海を含め詳細に描写される。キルッフ自身も参加するが、アーサーと郎党が活躍する。 トゥルッフ・トゥルウィスとその七匹の子猪は、アイルランドまで遠征してアーサー軍が見つけ出した。そこからウェールズまで追いたて、けっきょく[[コーンウォール]]で追い詰めた{{sfnp|Sims-Williams|2011|p=141}}。<!--タイルグワエズの息子-->{{仮リンク|メヌー|en|Menw}}<!--mab Teirgwaedd-->は、鳥の姿を借り空飛ぶ斥候となってアイルランドを探索、目的の櫛・鋏を持った猪と七匹の子猪を発見。急下降して宝を掠め取ろうとするが、銀色の剛毛{{sfnp|Guest ed., tr.|1849|p=310}}一本のみをついばみ、毒がつたわって不随となる{{sfnp|Guest ed., tr.|1849|pp=306–307}}。 アーサー勢の戦いの末、猪はアーサーの本国に移動し、ユーヤスとタウィーの間({{lang|wlm|y rwng Tawy ac Euyas}}; "Tawy and Ewyas"、不詳だがウェールズ南東部あたり<ref name="loomis-tr1984"/>)を侵した。アーサーは、{{仮リンク|セヴァーン川の三角江|en|Severn Estuary|label=セヴァーン河口}}({{lang-cy|Aber Hafren}})に諸々の軍勢を終結させ、特にコーンウォルとデヴォンの者たちに、なんとしても猪をその河口付近に足止めさせろ、と命じた{{efn2|コーンウォルへの侵入を死守せよと。}}。結局は封じこめにに失敗して突破されるが、[[セヴァーン川]]に押さえつけているうちに剃刀・鋏そして櫛を奪取するに成功した。猪は川底に足がかりをつけた拍子に飛び出してしまったが、コーンウォルの端まで追い詰め、海に転落させた。どこに行ったか行方知れずだが、いまだにアネトとアイスレムの2匹が追いつづける、と伝わる<ref name="davis-tr2014"/><ref>{{harvp|Sheehan|2005|p=15}}: "retains the glamour of the titan who could yet return", citing John Hines who "compares Twrch Trwyth to Arthur", at: {{cite journal|last=Hines |first=John |author-link=<!--John Hines (archaeologist), Cardiff University--> |title= Welsh and English: mutual origins in post-Roman Britain? |journal=Studia Celtica |volume=34 |date=2000 |url=https://books.google.com/books?id=D1hiAAAAMAAJ&q=Trwyth |pages=82–83<!--81–103-->}}</ref> ちなみにもう一頭、猪の長{{仮リンク|エスキスエルウィン|en|Ysgithyrwyn}}{{efn2|森野訳:アスギスルウィン・ペンバエズ}}の狩猟も、イスバザデンの理髪には必要であった{{Refn|#15および付帯の#16, 17(出典同上)。}}。 ==語源== ウェールズ語{{lang|cy|twrch}}は「猪、豚」の意であり{{efn2|{{仮リンク|ウィリアム・オーウェン・ピュー|en|William Owen Pughe}}の辞書の解説をによれば、さらには堀穴をつくる者、特に四つん這いになった猪、沢が地に沈下した地形もこう呼ばれるとする。}}<ref name="pughe1832-dict-twrch"/>、トゥルッフ・トゥルウィスは「猪・トゥルウィス」を意味する。アイルランド伝承の猪王トリアス({{lang|sga|Triath ri torcraide}}){{Refn|group="注"|『{{仮リンク|コルマクの語彙集|en|Sanas Cormaic}}』に {{lang|sga|Orc tréith}} 「トリアス猪」、『[[アイルランド来寇の書]]』にも {{lang|sga|Orc tréith}} とみえる<ref>Macalister ed., tr., LGE 1st Red. ¶ 317, LGE 2nd Red. ¶344, 3rd Red. ¶369)</ref>。}}と同源の可能性は提示されたが、疑問視もされる{{sfnp|Bromwich|Evans|1992|p=131}}。ジョン・リースは、古アイルランド語の言葉が中世ウェールズに移入された可能性を是としたが<ref>{{harvp|Rhys|1901|pp=520–522}}; cf. {{harvp|Sims-Williams|2011|pp=39–41}}</ref>、 {{仮リンク|レイチェル・ブロムウィッチ|en|Rachel Bromwich}}は、そのような文化交流が必ずしもあったと結論付けるには至らない、とした<ref>{{harvp|Bromwich|Evans|1992|pp=lxix–lxx}} ''apud'' {{harvp|Sims-Williams|2011|p=41}} and n71</ref>。 ブロムウィッチによれば、"Trwyth" の綴りは書写生の誤記に由来するもので、元来の語形<!--original form-->は''trwyd''だとしている。一方、この''trwyd'' の語尾子音 -d と -t の混同により、ラテン語文書では''Troynt''や''Troit''の名称が生じたとする{{sfnp|Bromwich|Evans|1992|p=lxvi|ps=<!--: "<!--Troynt . Troit = Trwyd with wy < oe < oi and -t misread at some stage by a copyist of CO as -th ( see n . to ll.669–70 )"-->}}。古い形が''Trwyd''であることは、既述の古歌「キンヴェリンの詩歌」(仮訳名)の出例でも確認できる{{efn2|ブロムウィッチの古例は<!-- ''CA'' (''Canu Aneirin'' v. 1340), Ifor Williams 編-->''Gwarchan Cynfelyn'' : "Gweilging ''torch trychdrwyt'' / trychinfwrch trychethin"(斜体は彼女による)と"-t"の語末である。次例は [[:en:Cynddelw Brydydd Mawr|Cynddelw]]: "Keffitor ymdwr am ''drwyd'' hevelyt/ '' Twrch '' teryt y ar uwyd"。3例目は[[:en:Gruffudd ap Maredudd ap Dafydd|Gruffudd ap Maredudd]]: "milwr torch trin mal ''aerdwrch trwyt''"。 4例目は<!--GIG [Gwaith Iolo Goch]版本より-->[[:en:Iolo Goch|Iolo Goch]], ''[[:cy:s:Syr Hywel y Fwyall|Syr Hywel y Fwyal]]'': "A gŵr gwynllwyd, Twrch Trwyd trin,/ Nawswyllt yn rhoi farneiswin".}}<ref>{{harvp|Bromwich|Evans|1992|pp=lxv, 131}}<!--"provide secure evidence that ''trwyd'' was the original form"-->; {{harvp|Sims-Williams|2011|pp=40–41}}も参照。</ref> == フランス文学への派生 == トゥルッフ・トゥルウィスは、フランス文学のアーサー物語で、人間や他の猪に姿を変えて再登場させられている、という考察がある。 [[クレティアン・ド・トロワ]]作の『{{仮リンク|エレックとエニード|en|Erec and Enide}}』に登場する[[円卓騎士]] アレスの息子トール(Tor le fils Arés, アリエスの子トー卿)が、そのような再登場だという説は、{{仮リンク|イドリス・フォスター|en|Erec and Enide|label=イドリス・レウェリン・フォスター}}が提唱した<ref>Foster, Idris Llewelyn (1959) "Arthurian Literature in the middle ages", cited by {{harvp|Roberts|1962|p=94}}</ref>。さらには、この「アレス」こそが、じつは正しく伝承された、本来の父親の名前に近いのだ、という意見すらある<ref>{{cite journal|last=Péron |first=Goulven |author-link=<!--Goulven Péron--> |title=Un géant nommé Spézet |journal=Cahiers du Centre généalogique et historique du Poher |number=26 |date=October 2009 |url= |pages=48–52 |lang=fr}}</ref>。 また、トゥルッフ・トゥルウィスのキャラクターは、円卓騎士{{仮リンク|カラドック|en|Caradoc}}の物語のなかで、その数奇な兄弟として再登場させられた、という説がある。これは『[[ペルスヴァルまたは聖杯の物語|ペルスヴァル第一続編]]』の一部、いわゆる「カラドックの書」で展開される。カラドックは、自分が由緒正しい貴族の父親ではなかったと知って激怒し、母を[[寝取られ|寝取った]]相手の間男(すなわち実父)である魔術師エリアヴル(Eliavres)に強制的に、牝馬、牝犬{{efn2|厳密には{{仮リンク|サイトハウンド|fr|lévrier|preserve=1}}(≈[[グレイハウンド (犬種)|グレイハウンド]])。}}、雌豚と交尾させ、その獣からそれぞれカラドックの兄弟たちが生まれた。雌豚の子は猪でトルタン(Tortain)と名付けられており、これがウェールズの猪トゥルウィス伝承に由来する、と[[ガストン・パリス]]が提唱した{{sfnp|Roberts|1962|p=93}}。 <!-- ==大衆文化== *Twrch Trwyth is the name of a Welsh traditional dance group based in [[Clwb Ifor Bach]], [[Cardiff]].<ref>[http://www.folkwales.org.uk/dance.html Folk Wales] Retrieved October 2012</ref> *Y Twrch Trwyth is also the mascot of [[Ysgol Dyffryn Aman]] (formally Amman Valley Comprehensive School and Amman Valley Grammar School) in Ammanford, [[Carmarthenshire]], [[South West Wales]]. * In the 2016 summer event of the mobile game ''[[Fate/Grand Order]]'', Twrch Trwyth is the [[Boss_(video_games)#Final_boss|final boss]]. --> == 注釈 == {{notelist2}} ==出典== ;脚注 {{Reflist|2|refs= <ref name="bromwich1996">{{citation|last=Bromwich |first=Rachel |author-link=:en:Rachel Bromwich |chapter=''The Mabinogion'' and Lady Charlotte Guest |editor-last=Sullivan |editor-first=((C. W., III)) |editor-link=<!--Charles William Sullivan III--> |title=The Mabinogi: A Book of Essays |location=New York |publisher=Garland |date=1996 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=5IWflKkhVuAC&pg=PA13 |page=13<!--3–18--> |isbn=<!-- 0815314825, -->9780815314820}}</ref> <ref name="davis-tr2014">{{cite book|translator=((Davis, Craig)) |translator-link=<!--Craig Davis (Celticist)--> |chapter=Arthur in Early Wales/''Culhwch and Owen'' |editor1-last=Kibler |editor1-first=William W. |editor1-link=<!--William W. Kibler--> |editor2-last=Palmer|editor2-first=R. Barton |editor2-link=<!--R. Barton Palmer -->|title=Medieval Arthurian Epic and Romance: Eight New Translations |location=Jefferson, NC |publisher=McFarland |year=2014 |url=https://books.google.com/books?id=MFmDBAAAQBAJ&pg=PA97 |page=97<!--70–98-->|isbn=<!--1476614660, -->978-0-7864-4779-4}}</ref> <ref name="evans-dict-cyllellbren">{{harvp|Evans|1893}}. "{{URL|1=https://books.google.com/books?id=m0FCAQAAMAAJ&pg=PA1140 |2=cyllellbren}}", 'probably two flat pieces of wood.. in the form of tweezers'.</ref> <ref name="evans-dict-cynllyfan">{{cite encyclopedia|last=Evans |first=Daniel Silvan |author-link=:en:Daniel Silvan Evans |entry=cynllyfan |title=A Dictionary of the Welsh Language: C-Cyw |location= |publisher=W. Spurrell |year=1893 |entry-url=https://books.google.com/books?id=m0FCAQAAMAAJ&pg=PA1192 |page=1192}}</ref> <ref name="evans-dict-cynydd">{{harvp|Evans|1893}}. "{{URL|1=https://books.google.com/books?id=m0FCAQAAMAAJ&pg=PA1221 |2=cynydd}}", huntsman.</ref> <ref name="falileyev2000">{{cite encyclopedia|last=Falileyev|first=Alexander |author-link=<!--Фалилеев, Александр Игоревич--> |entry=guillihim |title=Etymological Glossary of Old Welsh |location=Tübingen |publisher= Max Niemeyer |year=2000 |entry-url=https://books.google.com/books?id=c8qMTAsYqNsC&pg=PA68 |page=68 |isbn=<!--3-484-42918-6, -->978-3-484-42918-5}}</ref> <ref name=higham2018">{{cite book|last=Higham |first=Nicholas J. |author-link=:en:N. J. Higham |title=King Arthur: The Making of the Legend |place= |publisher=Yale University Press |date=2018 |orig-date=1932 |url=https://books.google.com/books?id=dn11DwAAQBAJ&pg=PA204 |pages=204–207 |isbn=<!--0300240864, --> 9780300240863}}</ref> <ref name="loomis-tr1984">{{cite book|translator=((Loomis, Richard M.)) |translator-link=<!--Richard M. 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Owen |author-link=:en:William Owen Pughe |entry=twrch |title=A Dictionary of the Welsh language |edition=2 |volume=2 |location=Denbigh |publisher=Thomas Gee |year=1832 |entry-url=https://books.google.com/books?id=ldRuzjBeT4cC&pg=PA592 |page=592}}</ref> <ref name="rhys1885">{{cite journal|last=Rhys |first=John |author-link=:en:John Rhŷs |title=Notes on the Language of Old Welsh Poetry |journal=Revue celtique |volume=6 |date=1883–1885 |url=https://books.google.com/books?id=AoANAAAAQAAJ&pg=PA37 |pages=37–38<!--14–61-->}}</ref> <ref name="roberts1976">{{cite book|last=Roberts |first=Brynley F. |authorlink=:en:Brynley F. Roberts |chapter=Tales and Romances |editor1-last=Jarman |editor1-first=A. O. H. |editor1-link=<!--Alfred Owen Hughes Jarman --> |editor2-last= |editor2-first=|editor2-link=<!--Gwilym Rees Hughesn --> |title=A Guide to Welsh Literature |volume=1 |location=Swansea |publisher=C. Davies |year=1991 |url=https://books.google.com/books?id=CChXAAAAYAAJ&q=Dillus |page=218<!--203–243--> }}</ref> }} ;参照文献 {{refbegin}} {{Wikisourcelang|1=en|2=The Mabinogion/Kilhwch and Olwen|3=Kilhwch and Olwen''}} {{Wikisourcelang|1=en|2=History of the Britons#Wonders of Britain|3=History of the Britons (Wonders of Britain)''}} ;(編本・訳本) * {{cite book|和書|ref={{SfnRef|中野訳|2000}} |author=中野節子 |author-link=<!--中野節子--> |chapter=キルッフとオルウェン |title=マビノギオン―中世ウェールズ幻想物語集 |publisher=JULA出版局 |date=2000 |url= |pages= |isbn=4882841932 |isbn2=‎9784882841937}} * {{cite book|和書|ref={{SfnRef|森野訳|2019}} |author=森野聡子 |author-link=<!--森野聡子--> |chapter=キルフーフがオルウェンを手に入れたる次第 マビノギの第一の枝 |title=ウェールズ語原典訳マビノギオン |publisher=原書房 |date=2019 |url= |pages= |isbn=4562056908 |isbn2=9784562056903}}‎ * {{citation|ref={{SfnRef|Guest ed., tr.|1849}}|last=Guest |first=Lady Charlotte |author-link=<!--Lady Charlotte Guest--> |author-mask=[[:en:Lady Charlotte Guest|Guest, Lady Charlotte]], ed., tr. |title=The Mabinogion: From the Llyfr Coch o Hergest|volume=2 |url=https://books.google.com/books?id=aFUAAAAAcAAJ&pg=PA195 |place=London| publisher= Longman, Brown, Green, and Longmans|year=1849}}<!-- (Geraint ab Erbin (W).. p.&nbsp;4 (E)..p.&nbsp;67; Kilhwch ac Olwen (W).. p.&nbsp;195 (E)..p.&nbsp;249) --> ** {{citation |ref={{SfnRef|Guest tr.|1877}} |editor-last=Guest |editor-first=Lady Charlotte |editor-link=:en:Lady Charlotte Guest |title= The Mabinogion: from the Welsh of the Llyfr coch o Hergest (The red book of Hergest) in the library of Jesus College, Oxford |date=1877 |location=London |publisher=Bernard Quaritch |url=https://archive.org/details/mabinogionfromwe00schruoft/}} *{{citation|ref={{SfnRef|Jones|Jones trr.|1993}}|last1=Jones |first1=Gwyn |author1-link=<!--Gwyn Jones (author)--> |last2=Jones |first2=Thomas |author2-link=<!--T. 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Gwynn Jones|Jones, Thomas]], trr. |chapter=Culhwch and Olwen |title=The Mabinogion |pages=80–113 |series=Everyman Library|place=London|publisher=J.M.Dent |year=1993|isbn=0-460-87297-4}} (Revised edition 1993; Indexed 1989; first published Everyman Library 1949,<!---初版は古書などでみるとタイトルページにヒマワリぽいイラストが入っており、books.google で 1949 版とするいくつかは照合せず、一例では"Last printed 1966"版だった--> republished [https://books.google.com/books?newbks=1&newbks_redir=0&hl=ja&id=DyF5AAAAIAAJ 1974]) *{{citation|editor1-last=Bromwich |editor1-first=Rachel |editor1-link=:en:Rachel Bromwich |editor2-last=Evans |editor2-first=Daniel Simon |editor2-link=<!--Daniel Simon Evans--> |title=Culhwch and Olwen: an edition and study of the oldest Arthurian tale |location=Cardiff |publisher=University of Wales Press |date=1992 |url=https://books.google.com/books?id=zzkcAQAAIAAJ&q=Trwyd |pages= |isbn=070831127X<!--, 9780708311271-->}} ;(Texts of the Mirabilia of Historia Brittonum) * {{citation|editor-last=Mommsen |editor-first=Theodor |editor-link=:en:Theodor Mommsen |title=Historia Brittonvm cvm additamentis Nennii|work=Chronica Minora|volume=3|pages=111–222|series=Monumenta Germaniae Historica, Auctorum Antiquissimi xiii|place=Berlin|year=1898|url=https://archive.org/details/chronicaminorasa13momm/|format=Internet Archive}} * {{citation|editor-last=Stevenson |editor-first=Joseph |editor-link=<!--Joseph Stevenson--> |title=Nennii Historia Britonum ad fidem codicum manuscriptorum|work=Publications of the English Historical Society|volume=4|publisher=sumptibus Societatis|year=1838|url=https://books.google.com/books?id=VEUMAAAAIAAJ}} (Latin text of the "De Mirabilibus Britanniae", §73) * {{citation|editor-last=Todd |editor-first=James Henthorn |editor-link=<!----> |editor-mask=Todd, James Henthorn, tr. |title=Leabhar Breathnach annso sis (The Irish version of the Historia Britonum of Nennius) |place=Dublin|publisher=Irish Archaeological Society|year=1848|url=https://books.google.com/books?id=rioNAAAAYAAJ}} *{{citation|author=R|title=The Wonders of the Island of Britain|journal=Cambrian Quarterly Magazine and Celtic Repertory|volume=2|year=1830|url=https://books.google.com/books?id=3KI2AAAAMAAJ&pg=PA60 |pages=60–}} (unable to identity author by his monogaram "R") ;(研究書) * {{cite journal|和書|ref={{SfnRef|中野|1999}} |author=中野節子 |author-link=<!--中野節子--> |title=ウェールズのアーサーをめぐって(1)--歴史と文学の中から |trans-title=On the Welsh Arthur (1) : As a Tribal Hero |journal=大妻女子大学紀要. 文系 |volume=31 |date=1999<!---03--> |url=https://otsuma.repo.nii.ac.jp/record/3110/files/KJ00000597417.pdf |pages=119–130|hdl=<!-- https://otsuma.repo.nii.ac.jp/records/3110 -->}} * {{cite journal|和書|ref={{SfnRef|森野|1992}} |author=森野聡子 |author-link=<!--森野聡子--> |title=ブリテン神話の中のアーサー |journal=静岡大学教養部研究報告 |volume=28 |number=1 |date=1992年9月1日 |url=https://books.google.com/books?id=tE84AAAAMAAJ&q=カバル |pages=85–107}} *{{citation|editor-last=Bromwich |editor-first=Rachel |editor-link=:en:Rachel Bromwich |title=Trioedd Ynys Prydain |edition=4 |place=Cardiff |publisher=University of Wales Press |year=2014 |origyear=1961 |pages= |url=https://books.google.com/books?id=K2euBwAAQBAJ&pg=PR84 |isbn=<!--1783161469, -->9781783161461}} *{{cite journal|last=Dehghani |first=Fiona |author-link=<!-- Fiona Dehghani --> |title=The Anoetheu Dialogue in Culhwch ac Olwen |journal=Proceedings of the Harvard Celtic Colloquium |volume=26/27 |date=2006–2007 |url=https://books.google.com/books?id=eDNSAQAAIAAJ&q=Trwyth |pages=291–305 |jstor=40732062}} *{{cite journal|last=Edel |first=Doris |author-link=<!-- Doris Edel --> |title=The Catalogues in Culhwch ac Olwen and Insular Celtic Learning |journal=Bulletin of the Board of Celtic Studies |volume=30 |date=1983 |url=https://books.google.com/books?id=YmghAQAAMAAJ&q=Wrnach+Trwyth |pages=253–273}} *{{cite book|last=Fletcher |first=Robert Huntington |author-link=<!--Robert Huntington Fletcher -->|title=The Arthurian material in the chronicles |publisher=Modern Language Departments of Harvard University/Ginn & Co. |year=1906 |pages=32-4 |url=https://books.google.co.jp/books?id=CdwWAAAAYAAJ |archiveurl=https://archive.org/details/arthurianmateri00fletgoog|archivedate=3-11-2008 |series=Studies and Notes in Philology and Literature 10 }} *{{citation|last=Rhys |first=John |author-link=:en:John Rhys |title=Celtic folklore: Welsh and Man x|volume=2 |year=1901 |place=Oxford |publisher=Clarendon Press |url=https://books.google.com/books?id=ASXaAAAAMAAJ&pg=PA537 |format=google|pages=520–522, 537–579}} *{{cite journal|last=Roberts |first=Ruth |author-link=<!-- Ruth Roberts --> |title=Twrch Trwyth, Tortain, Tors fils Ares |journal=Bibliographical Bulletin of the International Arthurian Society<!--Bulletin bibliographique de la Société Internationale Arthurienne--> |number=14 |date=1962 |url=https://books.google.com/books?id=zd8YAQAAIAAJ&pg=RA4-PA91 |pages=91–98}} *{{cite book|last=Roberts |first=Brynley F. |authorlink=:en:Brynley F. Roberts |chapter=3 ''Cuhlhwch ac Olwen'', the Triads, Saints' Lives |editor1-last=Bromwich |editor1-first=Rachel |editor1-link=:en:Rachel Bromwich |editor2-last=Jarman |editor2-first=A. O. H. |editor2-link=<!--Alfred Owen Hughes Jarman --> |editor3-last=Roberts |editor3-first=Brynley F. |editor3-link=:en:Brynley F. Roberts |title=The Arthur of the Welsh: The Arthurian Legend in Medieval Welsh Literature |location=Cardiff |publisher=University of Wales Press |year=1991 |url= https://books.google.com/books?id=G4oEEAAAQBAJ&pg=PA90 |pages=73–96 |isbn=<!--178683734X, -->9781786837349}} *{{cite book|last=Robichaud |first=Paul |author-link=<!--Paul Robichaud (scholar)--> |title=Making the Past Present: David Jones, the Middle Ages and Modernism |publisher=Catholic University of America Press |year=2007 |url=https://books.google.com/books?id=s8lHcTcd8LwC&pg=PA81 |pages= |isbn=<!--0813214793, -->9780813214795}} *{{cite journal|last=Sheehan |first=Sarah |author-link=<!-- Sarah Sheehan --> |title=Giants, Boar-hunts, and Barbering: Masculinity in 'Culhwch ac Olwen' |journal=Arthuriana |volume=15 |number=3 |date=Fall 2005 |url= |pages=3–25 |jstor=27870699}} *{{citation|last=Sims-Williams |first=Patrick |author-link=<!--Patrick Sims-Williams--> |title=Irish Influence on Medieval Welsh Literature |publisher=[[Oxford University Press]] |date=2011 |url=https://books.google.com/books?id=4QgWDAAAQBAJ&pg=PA141 |page= |isbn=0-19-958865-1}} *{{cite journal|last=Sturzer |first=Ned |author-link=<!--Ned Sturzer--> |title=The Purpose of Culhwch ac Olwen |journal=Studia Celtica |volume=39 |date=2005 |url=https://books.google.com/books?id=VFliAAAAMAAJ&q=razor |pages=145–167}} {{refend}} ==関連記事== * [[:cy:Hwch Ddu Gwta]] * [[トロイント]]-ネンニウスのラテン語史で、アーサーが追ったイノシシ * [[ヘンウェン]]({{lang-cy|Henwen}}:)-ウェールズ三題詩で、キャスパリーグを産み落とした雌豚 * [[エスキスエルウィン]]({{lang-cy|Ysgithrwyn}})-『[[キルッフ]] とオルウェン』の別のイノシシ ==外部リンク== {{Linktext|twrch|pref=en:wikt}} * {{cite web|ref=none|author=toroia|url=http://www.toroia.info/dict/?%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E8%AA%9E%E6%B4%BE/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%90%E3%82%B6%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%AB |title=ケルト語派/イスバザデン・ペンカウル |website=Encyclopædia of Monsters / Fabelwesen |date=2013-09-11 |access-date=2023-12-26}} * {{cite web|ref=none|author=岡沢秋 |url=http://www.moonover.jp/2goukan/mabinogi/item.htm |title=「マビノギオン」に登場する武器防具 |website=無限∞空間 |date=<!--sans date--> |access-date=2023-12-26}} * [http://www.kingarthur.justwizard.com/Culhwch_and_Olwen.html#Cabal Reference to Historia Britonum and notes on the Hunt] {{アーサー王物語}} <!--{{Celtic mythology (Welsh)}}--> {{デフォルトソート:とうるつふ}} [[Category:アーサー王伝説]] [[Category:アーサー王伝説の人物]] [[Category:ケルト神話の生物]] [[Category:ウェールズ神話]] [[Category:神話・伝説の獣]] [[Category:神話・伝説の豚・猪]]
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イヴァン・アルヒヴァルド・グスマン・サラザール
イヴァン・アルヒヴァルド・グスマン・サラザール(スペイン語: Iván Archivaldo Guzmán Salazar、1983年8月15日 - )は、メキシコの犯罪者、麻薬密売人。父親は麻薬王の異名を持つホアキン・グスマン(通称:エル・チャポ)であり、ホアキン・グスマンが逮捕されアメリカに移送されてからはメキシコ最大の麻薬カルテル「シナロア・カルテル」の最高幹部に就任したとされている
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福井勝也
福井 勝也(フクイ カツヤ、1997年9月7日 - )は、日本のプロボクサー。東京都世田谷区出身。帝拳ボクシングジム所属。 4歳から父(俊輔)よりボクシングを教わり始める。5歳でオークラボクシングジムに入会。9歳で協栄ボクシングジムに転ジム。駿台学園高校1年で全国高校選抜にて準優勝。高3でインターハイ優勝。東洋大学卒業後、帝拳ボクシングジム移籍。移籍後プロに転向。 カテゴリ:
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福井 勝也は、日本のプロボクサー。東京都世田谷区出身。帝拳ボクシングジム所属。
'''福井 勝也'''(フクイ カツヤ、[[1996年]][[9月7日]] - )は、[[日本]]の[[プロボクサー]]<ref name=":0">[https://www.teiken.com/profile/fukui.html 選手プロフィール 福井勝也] - 帝拳ジム公式サイト</ref>。東京都世田谷区出身。[[帝拳ボクシングジム]]所属<ref name=":0" />。 == 来歴 == 4歳から父よりボクシングを教わり始める。また通っていた保育園の同級生にJ1湘南ベルマーレで活躍しているディサロ 燦シルヴァーノ(ディサロ あきらシルヴァーノ)がいる。 5歳でオークラボクシングジムに入会。9歳で協栄ボクシングジムに転ジム。 駿台学園高校1年で全国高校選抜にて準優勝。高3でインターハイ優勝。 東洋大学卒業後、帝拳ボクシングジム移籍。移籍後、プロに転向。 担当トレーナーは第57代日本バンタム級王者、第24代OPBF東洋太平洋スーパーバンタム級王者の大和心 == 戦績 == ・アマチュア - 75戦59勝16敗 * プロ - 6戦6勝(5KO)無敗 * 1 2019.09.07 ◯ 2R KO キム・サンフン(韓国)プロデビュー戦 * 2 2019.11.07 ◯ 2R TKO チャックリット・ラーチャコット (タイ) * 3 2021.03.25 ◯ 8R 判定 英洸貴(カシミ) * 4 2022.06.13 ◯ 7R TKO ジェイソン・ブエナオブラ (フィリピン) * 5 2023.06.03 ◯ 6R TKO スー・ハンビン (韓国) * 6 2023.10.07 ◯ 4R TKO ジェトロ・パブスタン (フィリピン) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://twitter.com/Katsuya0907 福井勝也] @Katsuya0907 - Twitter * [https://www.instagram.com/katsuya97_/ 福井勝也] @katsuya97_ - Instagram * [https://www.teiken.com/profile/fukui.html 選手プロフィール 福井勝也] - 帝拳ジム公式サイト {{DEFAULTSORT:ふくい かつや}} [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:東洋大学出身の人物]] [[Category:日本の男子ボクサー]]
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高松村 (愛知県渥美郡)
高松村(たかまつむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。 大日川の流域に位置していた。
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高松村(たかまつむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1906年7月16日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = 赤羽根村、'''高松村'''、[[若戸村]] → [[赤羽根町|赤羽根村]] | 現在の自治体 = [[田原市]] | よみがな = たかまつむら | 自治体名 = 高松村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 愛知県 | 郡 = [[渥美郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 2415 | 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』784頁 | 人口の時点 = 1891年 | 隣接自治体 = [[神戸村 (愛知県渥美郡)|神戸村]]、[[大久保村 (愛知県)|大久保村]]、[[野田村 (愛知県)|野田村]]、赤羽根村 | 所在地 = 渥美郡高松村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''高松村'''(たかまつむら{{R|変遷}})は、[[愛知県]][[渥美郡]]にあった[[村]]。現在の[[田原市]]の一部にあたる。 == 地理 == 大日川の流域に位置していた{{R|角川}}。 *半島:[[渥美半島]]{{R|角川}} *海洋:[[太平洋]]{{R|角川}} == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)10月1日、[[町村制]]の施行により、渥美郡高松村が単独で村制施行し、'''高松村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』450頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 23 愛知県』784頁。</ref>。大字は編成せず{{R|角川}}。 *[[1906年]](明治39年)7月16日、渥美郡赤羽根村、若戸村と合併し、'''[[赤羽根町|赤羽根村]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 == 産業 == *農業{{R|角川}} == 教育 == *[[1873年]](明治6年)高松学校創立{{R|角川}}。1887年(明治20年)高松分教場となる{{R|角川}}。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[愛知県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:たかまつむら}} [[Category:渥美郡]] [[Category:田原市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1906年廃止の日本の市町村]]
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ウェイン・ウィリアムズ
ウェイン・ウィリアムズ(Wayne Bertram Williams 1958年5月27日- )はアメリカの連続殺人犯で、1981年にジョージア州アトランタで起こった2人の成人男性の殺害で終身刑で服役しているが、裁判には至っていないものの、実際には子供から大人まで30人を殺害した1979-81年のアトランタ連続殺人(英語版)の犯人と考えられている。 ウェイン・ウィリアムズは1958年5月27日に共に教師をするホーマー・ウィリアムズとフェイ・ウィリアムズの息子としてジョージア州アトランタのディキシーヒルズに生まれる。高校を卒業する頃にはラジオとジャーナリズムに強い関心を持ち、自分の放送局を作った。地元のラジオ局WIGOやWAOKに入り浸るようになり、ラジオ局の局員たちと仲良くなった彼はポップミュージックのプロデューサーやマネジャーを手伝い始める。 アトランタで殺人事件が続く中で、ウィリアムズに最初に容疑がかけられたのは1981年5月22日だった。複数の遺体が発見されたチャタフーチ川付近を捜査中のチームは、ジェームズ・ジャクソン公園道路の橋付近で"何か大きな物が橋から川へ落とされた"ような大きな水音を聞いた。 音が聞こえた午前2時50分頃、最初に橋から出てきたのはウィリアムズの車だった。警察の職務質問にウィリアムズは、"翌朝、若手の歌手シェリル・ジョンソンが隣の市でオーディションを受けるので、その住所を下調べに行くところだ"と答えたが、のちにウィリアムズが警察に教えた電話番号も、シェリル・ジョンソンも嘘と判明した。 2日後の5月24日、川の中から27歳のナサニエル・カーターの全裸の遺体が発見される。彼は4日前から行方不明で、最後に目撃されたときウィリアムズと一緒にいた。司法解剖では、死因は窒息とされたが、絞殺によるものとはされなかった。警察はチャタフーチ川で聞いた水音はウィリアムズが被害者を川に投げ落としたときのものと考えた。 ウィリアムズはポリグラフテストに3回引っかかっている。別の被害者のジミー・レイ・ペインから採取された毛と繊維は、彼の部屋、車、犬にあったものと一致した。また、被害者が殺害されたころ、ウィリアムズの顔や腕には引っかき傷があったという証言もあり、捜査員たちはそれが被害者の抵抗によってつけられたものと推定した。ウィリアムズは自宅前で記者会見をし、自らポリグラフテストに引っかかったことを公表し、それは法廷では証拠になりえず、自分は無実だと訴えている。 6月3日から4日にかけてFBI本部で12時間におよぶ聴取を受けたあと逮捕も起訴もされず解放されたが、引き続き監視下におかれた。 1981年6月21日、ウィリアムズはカーターとペインの殺人容疑で逮捕され、翌年1月6日からフルトン郡で裁判が始まった。2ヶ月に及ぶ裁判で検察はウィリアムズの家と車から採集された19の繊維(ベッドカバー、バスルーム、手袋、服、犬、そして断面が三つ葉の形の珍しいカーペットの繊維)が被害者たちのものと一致したと立証している。また、生前の被害者がウィリアムズと一緒にいたという目撃者の証言は、ウィリアムズが証言した所在と矛盾すると訴えた。ウィリアムズは自ら証言台に立ったが、怒り出し好戦的な態度を示したことで陪審員との間に溝ができた。2月27日、12時間の評議の後、陪審員はカーターとペインの殺人容疑に対し有罪の判決を出し、終身刑が言い渡される。彼が容疑がかかってからは、付近の殺人事件が止んでいる。 1990年代になり、ウィリアムズは人身保護の請求を提出し再審を要求するが、バッツ群高等裁判所の裁判官ハル・クレイグは訴えを拒否した。ジョージア州法務長官サーバート・ベイカーは"これで上訴手続きが終わったわけではないが、請求が棄却された結果には満足している"とし、"法務局として彼の有罪判決を維持するために力を尽くす"とコメントしている。2004年の初め、彼は再び再審請求を提出している。その中で彼の弁護士は、法執行当局はクー・クラックス・クランの関与を示す証拠を隠し、彼と犯行を結びつけたカーペットの繊維は科学的な調査に基づいていないと主張している。2006年10月17日、連邦裁判所は、この訴えを却下した。 ウィリアムズはアトランタの連続児童殺人で起訴されたことはないが、警察当局は22人の殺人(うち18人が未成年)は彼の犯行と見做している。 ウィリアムズはテルフェア州刑務所に収監されており、2019年11月20日に再び仮出獄申請をするも否決されたので2027年11月まで仮出獄の申請はできなくなっている。 ウィリアムズは当初から事件への関与を否定し、アトランタの当局が人種間の争いを避けるためにクー・クラックス・クランが殺人に関与した証拠を隠していると主張している。彼の弁護士は、有罪判決は"深刻な誤審"であり無実の男の人生の大半を投獄し、本当の殺人犯を野放しにしていると述べた。一方で彼を告訴したジョセフ・ドローレットは、有罪判決を支持し"ウィリアムズの逮捕後に殺人は止み、それ以来、何も起こっていない"と強調している。 他に捜査の正確性と判決の有効性について非難する者もいる。作家のジェームス・ボールドウィンは彼のエッセー The Evidence of Things Not Seen (1985)でウィリアムズの罪に疑問を呈している。近所の住民や被害者の親の中には、両親ともに教師の家に生まれたウィリアムズが、こんなに多くの殺人事件を犯したと信じていないものもいる。 2005年5月6日、ディカーブ郡の警察署長ルイ・グラハムはウィリアムズの犯行と思われている1981年2月から5月に郡内で起きた4件の殺人事件の再調査を命じる。この発表は、ウィリアムズがやってもいない殺人で批判されていると考える遺族には歓迎された。 事件当時、隣接するフルトン郡の副署長だったグラハムが言うには、再調査の決断はウィリアムズが潔白だという信念に突き動かされただけであり、また、殺人罪で有罪となったディカーブ郡の前の保安官シドニー・ドーシー(英語版)が当時の殺人課の刑事であったこともウィリアムズが不正に殺人の罪を負わされていると信じる理由で、"もし逮捕されたのが白人だったら、全米規模の暴動が起こっていただろう"とグラハムは述べている。ドーシーは現在、対立候補の殺害を命じたことで終身刑の判決を受け服役中である。 フルトン郡の当局は、管轄下で起きたいずれの殺人事件についても再調査は行わなかった。 2005年8月に報告によれば、クー・クラックス・クランの関係者であり白人至上主義者で、また、事件当初に容疑がかけられていたチャールズ・T・サンダースが、当局による盗聴で事件を称えている会話内容が記録されている。さらに、サンダースは殺人について公には何ら語っていないが、ジョージア州捜査局の情報提供者には殺人犯が"未来の数千のニガーを全滅させた"と話したと1981年に記録されている。サンダースの元友人を名乗る者は、雑誌スピンの記事にある殺人事件は、サンダースとその兄弟の手柄と話したとドキュメンタリー作家でアトランタモンスターの主催者であるペイン・リンジーに答えている。 サンダースには、クー・クラックス・クランの組織的関与したことを直接ほのめかすこともなく、また組織の誰の犯行と信じさせるような言動もない。ただ、彼とウィリアムズの家のカーペットが同じもので、どちらも白のジャーマン・シェパードを飼っていたことが何と運の良いことかと呟いたとされる。 匿名の元友人は続けて言った。"一旦、ウェイン・ウィリアムズに罪を押し付けたら、警察は終わりさ。そこで捜査を終える" サンダースと彼の2人の兄弟がクー・クラックス・クランの関与を否定したポリグラフテストにパスしたことで、警察は組織の調査をやめてしまった。2006年7月21日、事件の調査は再び終了とされた。 元FBIプロファイラーのジョン・E・ダグラスは著書 Mindhunter: Inside the FBI's Elite Serial Crime Unit の中で、彼の私見として"科学捜査と行動証拠は、ウェイン・ウィリアムズがアトランタで11人の若者を殺したことを疑う余地なく示している。"とする一方で、"1979年から81年に起こった子どもたちの殺害と失踪事件のすべて(あるいは、そのほとんど)を彼の犯行に結びつける確固たる証拠もない"と言っている。 2007年にFBIは1人の被害者から見つかった二本の毛のDNAテストを行っている。ミトコンドリアDNAの配列は、全人口の99.5%、黒人に限っても98%の確率で他人と一致しないことから容疑者から除外が可能なものだが、ウィリアムズのDNA配列は証拠と一致した。 2010年、事件当時11歳のパトリック・バルタザールの遺体から採取された頭髪のDNA鑑定が行われた。結論を出すまでに至らなかったが、被害者と同じDNA配列を持つものは、FBIにある黒人のデータベースの1,148のサンプルのうちウィリアムズを含めて、たった29人しか一致しなかった。 バルタザールの件は他の10人の被害者とともにウィリアムズの裁判の陪審員に証拠提出されているが、彼はいずれの事件においても有罪となってはいない。 2007年にはカリフォルニア大学デービス校の獣医学部の遺伝子研究所で、被害者バルタザールの遺体から採取された犬の毛の鑑定が行われた。証拠の犬の毛は、ウィリアムズの家で飼われていたジャーマンシェパードのものと同じ遺伝子配列を持つことが確認されたが、研究所の所長エリザベス・ウィクタムによると、調査結果は"かなり重要"ではあるものの結論には至らなかった。調査できたのはミトコンドリアDNAで、核DNAと違ってミトコンドリアDNAでは犬の個体まで識別できない。報告書では、ウィリアムズ家の犬と同じDNA配列と確認できたものの、DNA配列の一致はおよそ100頭に1頭の割合で起こりうると記されている。FBIの報告書は、バルタザール事件の容疑者として"ウェイン・ウィリアムズを除外できない"と述べている。 2015年4月に公開された司法省の研究では、80年代から90年代にかけて行われたFBI調査官の毛の鑑定は、専門的な基準に合致しない恐れがあると結論づけている。その直後、被告側の弁護人リン・ワトレーは、司法省の出した結論は、新たに再審請求を行うに十分な根拠だと発表したが、検察官は証拠の毛はウィリアムズの有罪を決める証拠の中で小さなものに過ぎないと反論している。 2019年3月21日、アトランタ市長のケイシャ・ランス・ボトムスとアトランタ警察長エリカ・シールズは、アトランタ市警、フルトン郡検察局、およびジョージア州捜査局は、殺人事件の証拠を再調査すべきと発表した。記者会見でボトムス市長は"もしかするとテストされるべきものが残っていないかも知れない。しかし、我々の行動は歴史が判断してくれると考える。そのとき我々は(事実の解明に)努力したと言うことができる"と述べた。 2019年、アトランタに住むダーウィン・ジェームスとアイザック・ロジャースは、それぞれ1979年と1981年に誘拐されそうになったと主張した。 いくつかのメディアにおいて、ウィリアムズは敵役として登場している。
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{{Infobox Serial Killer|罪名=殺人罪|victims=2(20-29人の被害者がいると推定)|名前=|image_name=Wayne Williams.webp|image_size=225px|alt=ウェイン・ウィリアムズ|subject_name=ウェイン・ウィリアムズ|native_name=Wayne Bertram Williams|birth_date={{生年月日と年齢|1958|5|27}}|生年月日=|出身地=|nationality={{USA}}|locations=[[ジョージア州]][[アトランタ]]|country={{USA}}|判決=終身刑|犠牲者数=|逮捕日=1981年6月21日}} === 概要 === '''ウェイン・ウィリアムズ'''('''Wayne Bertram Williams''' 1958年5月27日- )はアメリカの[[シリアルキラー|連続殺人犯]]で、1981年にジョージア州アトランタで起こった2人の成人男性の殺害で終身刑で服役している<ref>{{Cite book |edition=3. ed |title=Criminalistics: an introduction to forensic science |publisher=Prentice-Hall |date=1987 |location=Englewood Cliffs, NJ |isbn=978-0-13-193269-2 |first=Richard |last=Saferstein}}</ref>が、裁判には至っていないものの、実際には子供から大人まで30人を殺害した{{仮リンク|1979-81年のアトランタ連続殺人|en|Atlanta murders of 1979–1981}}の犯人と考えられている<ref name=":0">{{Cite news |title=Atlanta Jury Convicts Williams of Two Murders |url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1982/02/28/atlanta-jury-convicts-williams-of-two-murders/b2e80d83-6fb0-4a00-86d9-8e9d5ba6b270/ |work=Washington Post |date=1982-02-28 |access-date=2023-12-25 |issn=0190-8286 |language=en-US |first=Art |last=Harris}}</ref>。 === 幼少期から学生時代 === ウェイン・ウィリアムズは1958年5月27日に共に教師をするホーマー・ウィリアムズとフェイ・ウィリアムズの息子としてジョージア州アトランタのディキシーヒルズに生まれる。高校を卒業する頃にはラジオとジャーナリズムに強い関心を持ち、自分の放送局を作った。地元のラジオ局WIGOやWAOKに入り浸るようになり、ラジオ局の局員たちと仲良くなった彼はポップミュージックのプロデューサーやマネジャーを手伝い始める。<ref>{{Cite news |title=SUSPECT IN ATLANTA: YOUNG, BIG IDEAS, BUT A CAREER OF LIMITED ACHIEVEMENTS |url=https://www.nytimes.com/1981/06/22/us/suspect-in-atlanta-young-big-ideas-but-a-career-of-limited-achievements.html |work=The New York Times |date=1981-06-22 |access-date=2023-12-25 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Reginald |last=Stuart |first2=Special To the New York |last2=Times}}</ref> === アトランタの殺人事件 === アトランタで殺人事件が続く中で、ウィリアムズに最初に容疑がかけられたのは1981年5月22日だった。複数の遺体が発見されたチャタフーチ川付近を捜査中のチームは、ジェームズ・ジャクソン公園道路の橋付近で"何か大きな物が橋から川へ落とされた"ような大きな水音を聞いた。<ref>{{Cite news |title=ATLANTA OFFICER SAYS SUSPECT CAR HALTED ON BRIDGE |url=https://www.nytimes.com/1982/01/09/us/atlanta-officer-says-suspect-car-halted-on-bridge.html |work=The New York Times |date=1982-01-09 |access-date=2023-12-26 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Wendell Rawls |last=Jr |first2=Special To the New York |last2=Times}}</ref><ref>{{Cite web |title=Gadsden Times - Google ニュース アーカイブ検索 |url=https://news.google.com/newspapers?nid=1891&dat=19820221&id=MqUfAAAAIBAJ&pg=3807,3137509 |website=news.google.com |access-date=2023-12-26}}</ref> 音が聞こえた午前2時50分頃、最初に橋から出てきたのはウィリアムズの車だった。警察の職務質問にウィリアムズは、"翌朝、若手の歌手シェリル・ジョンソンが隣の市でオーディションを受けるので、その住所を下調べに行くところだ"と答えたが、のちにウィリアムズが警察に教えた電話番号も、シェリル・ジョンソンも嘘と判明した。<ref>{{Cite web |title=CNN.com - Transcripts |url=https://transcripts.cnn.com/show/se/date/2011-07-04/segment/02 |website=transcripts.cnn.com |access-date=2023-12-26}}</ref> 2日後の5月24日、川の中から27歳のナサニエル・カーターの全裸の遺体が発見される。彼は4日前から行方不明で、最後に目撃されたときウィリアムズと一緒にいた。司法解剖では、死因は窒息とされたが、絞殺によるものとはされなかった。警察はチャタフーチ川で聞いた水音はウィリアムズが被害者を川に投げ落としたときのものと考えた。<ref name=":1">{{Cite web |title=Victims linked to Atlanta serial killings - CNN.com |url=http://www.cnn.com/2010/CRIME/05/31/atlanta.murders.victims/index.html |website=www.cnn.com |access-date=2023-12-26 |language=en}}</ref> ウィリアムズは[[ポリグラフ|ポリグラフテスト]]に3回引っかかっている。別の被害者のジミー・レイ・ペインから採取された毛と繊維は、彼の部屋、車、犬にあったものと一致した。また、被害者が殺害されたころ、ウィリアムズの顔や腕には引っかき傷があったという証言もあり、捜査員たちはそれが被害者の抵抗によってつけられたものと推定した。<ref name=":1" />ウィリアムズは自宅前で記者会見をし、自らポリグラフテストに引っかかったことを公表し、それは法廷では証拠になりえず、自分は無実だと訴えている。<ref>{{Cite web |title=CNN viewers: Williams 'guilty' in Atlanta child murders - CNN.com |url=http://www.cnn.com/2010/CRIME/06/11/atlanta.murders.poll.ireport/index.html |website=www.cnn.com |access-date=2023-12-26 |language=en}}</ref> 6月3日から4日にかけてFBI本部で12時間におよぶ聴取を受けたあと逮捕も起訴もされず解放されたが、引き続き監視下におかれた。<ref>{{Cite news |title=From 1981: Wayne Williams is charged in Nathaniel Cater’s slaying |url=https://www.ajc.com/news/crime--law/wayne-williams-charged-nathaniel-cater-slaying/l11zKO68bhhQsA9ce1C6UJ/ |work=The Atlanta Journal-Constitution |access-date=2023-12-26 |issn=1539-7459 |language=English |first=Ken |last=Willis |first2=Tony |last2=Cooper}}</ref> === 逮捕から裁判 === 1981年6月21日、ウィリアムズはカーターとペインの殺人容疑で逮捕され<ref>{{Cite news |title=Lawyer Sees Hope for Retrial in Atlanta Murders |url=https://www.nytimes.com/1987/08/30/us/lawyer-sees-hope-for-retrial-in-atlanta-murders.html |work=The New York Times |date=1987-08-30 |access-date=2023-12-26 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Special to the New York |last=Times}}</ref>、翌年1月6日から[[フルトン郡 (ジョージア州)|フルトン郡]]で裁判が始まった。2ヶ月に及ぶ裁判で検察はウィリアムズの家と車から採集された19の繊維(ベッドカバー、バスルーム、手袋、服、犬、そして断面が三つ葉の形の珍しいカーペットの繊維)が被害者たちのものと一致したと立証している。また、生前の被害者がウィリアムズと一緒にいたという目撃者の証言は、ウィリアムズが証言した所在と矛盾すると訴えた。<ref name=":2">{{Cite news |title=FINAL TESTIMONY HURTS DEFENSE IN ATLANTA TRIAL |url=https://www.nytimes.com/1982/02/25/us/final-testimony-hurts-defense-in-atlanta-trial.html |work=The New York Times |date=1982-02-25 |access-date=2023-12-26 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=Wendell Rawls |last=Jr |first2=Special To the New York |last2=Times}}</ref>ウィリアムズは自ら証言台に立ったが、怒り出し好戦的な態度を示したことで陪審員との間に溝ができた。<ref name=":2" />2月27日、12時間の評議の後、陪審員はカーターとペインの殺人容疑に対し有罪の判決を出し、2つの[[終身刑]](逐次執行)が言い渡される。彼に容疑がかかってからは、付近の殺人事件が止んでいる。<ref name=":0" /> 1990年代になり、ウィリアムズは[[ヘイビアス・コーパス|人身保護の請求]]を提出し再審を要求するが、[[バッツ郡 (ジョージア州)|バッツ群]]高等裁判所の裁判官ハル・クレイグは訴えを棄却した。ジョージア州法務長官サーバート・ベイカーは"これで上訴手続きが終わったわけではないが、請求が棄却された結果には満足している"とし、"法務局として彼の有罪判決を維持するために力を尽くす"とコメントしている。<ref>{{Cite web |title=ATTORNEY GENERAL BAKER ANNOUNCES WAYNE WILLIAMS' CONVICTIONS UPHELD {{!}} Office of the Attorney General |url=https://law.georgia.gov/press-releases/1998-07-10/attorney-general-baker-announces-wayne-williams-convictions-upheld |website=law.georgia.gov |access-date=2023-12-26 |language=en}}</ref>2004年の初め、彼は再び再審請求を提出している。その中で彼の弁護士は、法執行当局は[[クー・クラックス・クラン]]の関与を示す証拠を隠し、彼と犯行を結びつけたカーペットの繊維は科学的な調査に基づいていないと主張している。2006年10月17日、連邦裁判所は、この訴えを棄却した。 === 結果 === ウィリアムズはアトランタの連続児童殺人で起訴されたことはないが、警察当局は22人の殺人(うち18人が未成年)は彼の犯行と見做している。<ref name=":1" /> ウィリアムズはテルフェア州刑務所に収監されており、2019年11月20日に再び仮出獄申請をするも否決されたので2027年11月まで仮出獄の申請はできなくなっている。 === 捜査の再開 === ウィリアムズは当初から事件への関与を否定し、アトランタの当局が人種間の争いを避けるためにクー・クラックス・クランが殺人に関与した証拠を隠していると主張している。彼の弁護士は、有罪判決は"深刻な誤審"であり無実の男の人生の大半を投獄し、本当の殺人犯を野放しにしていると述べた。<ref>{{Cite web |title=Was the Wrong Person Convicted in the Atlanta Child Murders? |url=https://people.howstuffworks.com/was-wrong-person-convicted-in-atlanta-child-murders.htm |website=HowStuffWorks |date=2018-01-26 |access-date=2023-12-26 |language=en-us}}</ref>一方で彼を告訴したジョセフ・ドローレットは、有罪判決を支持し"ウィリアムズの逮捕後に殺人は止み、それ以来、何も起こっていない"と強調している。<ref>{{Cite web |title=Police Reopen Atlanta Child Killing Cases |url=https://www.foxnews.com/story/police-reopen-atlanta-child-killing-cases |website=Associated Press |date=2015-03-25 |access-date=2023-12-26 |language=en-US}}</ref> 他に捜査の正確性と判決の有効性について非難する者もいる。作家のジェームス・ボールドウィンは彼の[[随筆|エッセー]] [[:en:The_Evidence_of_Things_Not_Seen|''The Evidence of Things Not Seen'']] (1985)でウィリアムズの罪に疑問を呈している。近所の住民や被害者の親の中には、両親ともに教師の家に生まれたウィリアムズが、こんなに多くの殺人事件を犯したと信じていないものもいる。 2005年5月6日、[[ディカーブ郡 (ジョージア州)|ディカーブ郡]]の警察署長ルイ・グラハムはウィリアムズの犯行と思われている1981年2月から5月に郡内で起きた4件の殺人事件の再調査を命じる。この発表は、ウィリアムズがやってもいない殺人で批判されていると考える遺族には歓迎された。 事件当時、隣接するフルトン郡の副署長だったグラハムが言うには、再調査の決断はウィリアムズが潔白だという信念に突き動かされただけであり、また、殺人罪で有罪となったディカーブ郡の前の保安官{{仮リンク|シドニー・ドーシー|en|Sidney Dorsey}}が当時の殺人課の刑事であったこともウィリアムズが不正に殺人の罪を負わされていると信じる理由で、"もし逮捕されたのが白人だったら、全米規模の暴動が起こっていただろう"とグラハムは述べている。<ref>{{Cite web |url=http://articles.cnn.com/2005-05-07/justice/wayne.williams_1_unsolved-murder-cold-case-squad-murder-cases?_s=PM:LAW |title=Cold-case squad to probe decades-old Atlanta murders |access-date=Dec 27, 2023 |publisher=CNN Justice |archive-url=https://archive.md/20120708220719/http://articles.cnn.com/2005-05-07/justice/wayne.williams_1_unsolved-murder-cold-case-squad-murder-cases?_s=PM:LAW |archive-date=July 8, 2012 |url-status=unfit}}</ref>ドーシーは現在、対立候補の殺害を命じたことで終身刑の判決を受け服役中である。<ref>{{Cite news |title=Former Sheriff Guilty in Successor's Killing |url=https://www.nytimes.com/2002/07/11/us/former-sheriff-guilty-in-successor-s-killing.html |work=The New York Times |date=2002-07-11 |access-date=2023-12-26 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=The Associated |last=Press}}</ref> フルトン郡の当局は、管轄下で起きたいずれの殺人事件についても再調査は行わなかった。 2005年8月に報告によれば、クー・クラックス・クランの関係者であり白人至上主義者で、また、事件当初に容疑がかけられていたチャールズ・T・サンダースが、当局による盗聴で事件を称えている会話内容が記録されている。さらに、サンダースは殺人について公には何ら語っていないが、ジョージア州捜査局の情報提供者には殺人犯が"未来の数千の[[Nワード|ニガー]]を全滅させた"<ref>{{Cite news |title=Klan Was Probed in Child Killings In Atlanta |url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/08/06/AR2005080601039.html |date=2005-08-07 |access-date=2023-12-26 |issn=0190-8286 |language=en-US |first=Harry R. |last=Weber}}</ref>と話したと1981年に記録されている。サンダースの元友人を名乗る者は、雑誌[[スピン (雑誌)|スピン]]の記事にある殺人事件は、サンダースとその兄弟の手柄と話したとドキュメンタリー作家でアトランタモンスターの主催者であるペイン・リンジーに答えている。 サンダースには、クー・クラックス・クランの組織的関与したことを直接ほのめかすこともなく、また組織の誰の犯行と信じさせるような言動もない。ただ、彼とウィリアムズの家のカーペットが同じもので、どちらも白の[[ジャーマン・シェパード・ドッグ|ジャーマン・シェパード]]を飼っていたことが何と運の良いことかと呟いたとされる。 匿名の元友人は続けて言った。"一旦、ウェイン・ウィリアムズに罪を押し付けたら、警察は終わりさ。そこで捜査を終える"<ref>{{Cite web |title=Atlanta Monster |url=https://atlantamonster.com/ |website=atlantamonster.com |access-date=2023-12-26 |language=en-US |quote=Season 1 Episode 7: Conspiracy? 36:50.}}</ref> サンダースと彼の2人の兄弟がクー・クラックス・クランの関与を否定したポリグラフテストにパスしたことで、警察は組織の調査をやめてしまった。2006年7月21日、事件の調査は再び終了とされた。<ref>{{Cite web |url=http://www.chron.com/CDA/archives/archive.mpl/1991_814713/was-wayne-williams-framed-recruiter-for-kkk-said-t.html |title=Was Wayne Williams framed?/Recruiter for KKK said to admit role in Atlanta murders |access-date=Dec 27 2023 |publisher=Houston Chronicle |archive-url=https://web.archive.org/web/20120615140549/http://www.chron.com/CDA/archives/archive.mpl/1991_814713/was-wayne-williams-framed-recruiter-for-kkk-said-t.html |archive-date=June 15, 2012 |url-status=unfit}}</ref><ref>{{Cite book |title=ABA Journal |url=https://books.google.co.jp/books?id=PBxUpILloWwC&q=%22niggers%22&pg=PA36&redir_esc=y#v=snippet&q=%22niggers%22&f=false |publisher=American Bar Association |date=1992-05 |language=en |first=American Bar |last=Association}}</ref> 元FBIプロファイラーの[[:en:John_E._Douglas|ジョン・E・ダグラス]]は著書 ''[[:en:Mindhunter:_Inside_the_FBI's_Elite_Serial_Crime_Unit|Mindhunter: Inside the FBI's Elite Serial Crime Unit]] の中で、彼の私見として"科学捜査と行動証拠は、ウェイン・ウィリアムズがアトランタで11人の若者を殺したことを疑う余地なく示している。"とする一方で、''"1979年から81年に起こった子どもたちの殺害と失踪事件のすべて(あるいは、そのほとんど)を彼の犯行に結びつける確固たる証拠もない"と言っている。<ref name=":3">{{Cite book |title=Mindhunter: Inside the FBI's Elite Serial Crime Unit |url=https://books.google.co.jp/books/about/Mindhunter.html?id=bgj6kXeIgYMC&redir_esc=y |publisher=Simon and Schuster |date=1998-11-26 |isbn=978-0-684-86447-1 |language=en |first=John E. |last=Douglas |first2=Mark |last2=Olshaker}}</ref> 2007年にFBIは1人の被害者から見つかった二本の毛のDNAテストを行っている。ミトコンドリアDNAの配列は、全人口の99.5%、黒人に限っても98%の確率で他人と一致しないことから容疑者から除外が可能なものだが、ウィリアムズのDNA配列は証拠と一致した。<ref name=":3" /> 2010年、事件当時11歳のパトリック・バルタザールの遺体から採取された頭髪のDNA鑑定が行われた。結論を出すまでに至らなかったが、被害者と同じDNA配列を持つものは、FBIにある黒人のデータベースの1,148のサンプルのうちウィリアムズを含めて、たった29人しか一致しなかった。<ref>{{Cite web |title=DNA test strengthens Atlanta child killings case - CNN.com |url=http://www.cnn.com/2010/CRIME/06/09/williams.dna.test/index.html |website=www.cnn.com |access-date=2023-12-28 |language=en}}</ref> バルタザールの件は他の10人の被害者とともにウィリアムズの裁判の陪審員に証拠提出されているが、彼はいずれの事件においても有罪となってはいない。<ref name=":4">{{Cite news |title=DA: DNA Tests Link Williams to Killings |url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/06/26/AR2007062601058.html |date=2007-06-26 |access-date=2023-12-28 |issn=0190-8286 |language=en-US |first=HARRY R. |last=WEBER}}</ref> 2007年には[[カリフォルニア大学デービス校]]の獣医学部の遺伝子研究所で、被害者バルタザールの遺体から採取された犬の毛の鑑定が行われた。証拠の犬の毛は、ウィリアムズの家で飼われていたジャーマンシェパードのものと同じ遺伝子配列を持つことが確認されたが、研究所の所長エリザベス・ウィクタムによると、調査結果は"かなり重要"ではあるものの結論には至らなかった。調査できたのはミトコンドリアDNAで、核DNAと違ってミトコンドリアDNAでは犬の個体まで識別できない。報告書では、ウィリアムズ家の犬と同じDNA配列と確認できたものの、DNA配列の一致はおよそ100頭に1頭の割合で起こりうると記されている。<ref name=":4" />FBIの報告書は、バルタザール事件の容疑者として"ウェイン・ウィリアムズを除外できない"と述べている。<ref>{{Cite web |title=DNA test strengthens Atlanta child killings case - CNN.com |url=http://www.cnn.com/2010/CRIME/06/09/williams.dna.test/index.html |website=www.cnn.com |access-date=2023-12-28 |language=en}}</ref> 2015年4月に公開された司法省の研究では、80年代から90年代にかけて行われたFBI調査官の毛の鑑定は、専門的な基準に合致しない恐れがあると結論づけている。その直後、被告側の弁護人リン・ワトレーは、司法省の出した結論は、新たに再審請求を行うに十分な根拠だと発表したが、検察官は証拠の毛はウィリアムズの有罪を決める証拠の中で小さなものに過ぎないと反論している。 2019年3月21日、アトランタ市長のケイシャ・ランス・ボトムスとアトランタ警察長エリカ・シールズは、アトランタ市警、フルトン郡検察局、およびジョージア州捜査局は、殺人事件の証拠を再調査すべきと発表した。記者会見でボトムス市長は"もしかするとテストされるべきものが残っていないかも知れない。しかし、我々の行動は歴史が判断してくれると考える。そのとき我々は(事実の解明に)努力したと言うことができる"と述べた。<ref>{{Cite news |title=Authorities plan to re-test Atlanta Child Murders evidence |url=https://www.ajc.com/news/breaking-atlanta-mayor-announces-new-look-atlanta-child-murders/3LXuKcCzoaIeJkzF0PwBkM/ |work=The Atlanta Journal-Constitution |access-date=2023-12-28 |issn=1539-7459 |language=English |first=Joshua |last=Sharpe}}</ref><ref>{{Cite web |title=TPR : The Public's Radio : TPR |url=https://thepublicsradio.org/article/atlantas-mayor-pushes-for-review-in-child-murders-cases |website=thepublicsradio.org |access-date=2023-12-28}}</ref> 2019年、アトランタに住むダーウィン・ジェームスとアイザック・ロジャースは、それぞれ1979年と1981年に誘拐されそうになったと主張した。<ref>{{Cite news |title=He says he escaped the Atlanta Child Murders suspect. Now he’s talking. |url=https://www.ajc.com/news/crime--law/says-escaped-the-atlanta-child-murders-suspect-now-talking/IHE056DNiE9FJZMgrFRpdM/ |work=The Atlanta Journal-Constitution |access-date=2023-12-28 |issn=1539-7459 |language=English |first=Joshua |last=Sharpe}}</ref><ref>{{Cite web |title=Man Recounts Fleeing as Child From 'Atlanta Monster' Suspect Wayne Williams: 'He Was on a Mission' |url=https://people.com/crime/wayne-williams-atlanta-monster-suspect-man-recounts-fleeing/ |website=Peoplemag |access-date=2023-12-28 |language=en}}</ref> === メディア === いくつかのメディアにおいて、ウィリアムズは敵役として登場している。 * 1985年のドラマシリーズ "''[[:en:The_Atlanta_Child_Murders_(miniseries)|The Atlanta Child Murders]]''"でカルバン・レベルズが演じている。 * 2000年にはShowtimeがクレ・ベネット主演のドラマ映画 "''[[:en:Who_Killed_Atlanta's_Children?|Who Killed Atlanta's Children]]?"を放送した。'' * 2018年に実話犯罪を扱うポッドキャストでウィリアムズとアトランタの連続児童殺人を題材にした''[[:en:Atlanta_Monster|Atlanta Monster]]が放送された。'' * 2019年、[[Netflix|ネットフリックス]]のドラマ、[[マインドハンター (テレビドラマ)|マインドハンター]]のシーズン2で[[チャールズ・マンソン]]や[[デビッド・バーコウィッツ]]と並んで取り上げられる。 === 脚注 === [[Category:シリアルキラー]] [[Category:アメリカ合衆国のシリアルキラー|うえいんういりあむす]]
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ふくいのおいしい水
ふくいのおいしい水は、福井県環境政策課が科学的に認められた湧水を指定するものである。 環境省は全国各地の名水を「名水百選」として選定する事業を1985年から行っていた。福井県内からも上中町(当時、現若狭町)の瓜割の滝、大野市の御清水、小浜市の鵜の瀬が選ばれていた。知名度が低く、イメージ戦略が重要だった福井県は2005年、「ふくいのおいしい水」として県内の名水を認定する事業を予算化、独自の認定基準制定や水質調査などを実施し、2006年には最初の認定箇所25箇所を公表した。 福井県環境政策課
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ふくいのおいしい水は、福井県環境政策課が科学的に認められた湧水を指定するものである。 環境省は全国各地の名水を「名水百選」として選定する事業を1985年から行っていた。福井県内からも上中町(当時、現若狭町)の瓜割の滝、大野市の御清水、小浜市の鵜の瀬が選ばれていた。知名度が低く、イメージ戦略が重要だった福井県は2005年、「ふくいのおいしい水」として県内の名水を認定する事業を予算化、独自の認定基準制定や水質調査などを実施し、2006年には最初の認定箇所25箇所を公表した。
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エマ・コロネル・アイスプロ
エマ・コロネル・アイスプロ(英語:Emma Coronel Aispuro、スペイン語:Emma Coronel Aispuro、 1989年7月2日 - )は、アメリカのミス・コンテスト優勝者、犯罪者。メキシコ最大の犯罪組織にして麻薬カルテルとされている「シナロア・カルテル」の創設者兼元リーダーで麻薬王の異名をもつ「ホアキン・グスマン」(エル・チャポ)の妻として知られている。
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エマ・コロネル・アイスプロ(英語:Emma Coronel Aispuro、スペイン語:Emma Coronel Aispuro、 1989年7月2日 - )は、アメリカのミス・コンテスト優勝者、犯罪者。メキシコ最大の犯罪組織にして麻薬カルテルとされている「シナロア・カルテル」の創設者兼元リーダーで麻薬王の異名をもつ「ホアキン・グスマン」(エル・チャポ)の妻として知られている。
'''エマ・コロネル・アイスプロ'''<ref name=":0">{{Cite web |title=Mexican cartel leader's wife gives birth in U.S., official says - CNN.com |url=https://web.archive.org/web/20110929133251/http://www.cnn.com/2011/09/28/us/cartel-kingpin-twins/index.html |website=web.archive.org |date=2011-09-29 |access-date=2023-12-28}}</ref>([[英語]]:Emma Coronel Aispuro、[[スペイン語]]:Emma Coronel Aispuro、 [[1989年]][[7月2日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]生まれの[[チカーノ|メキシコ系アメリカ人]]でメキシコの[[ミス・コンテスト]]優勝者、[[犯罪|犯罪者]]。[[メキシコ]]最大の[[組織犯罪|犯罪組織]]にして[[麻薬カルテル]]とされている'''「[[シナロア・カルテル]]」'''の創設者兼元リーダーで'''麻薬王'''の異名をもつ「'''[[ホアキン・グスマン]]'''」('''エル・チャポ''')の妻として知られている<ref name=":0" /><ref>{{Cite web |title=Cuando El Chapo se casó con Emma I... |url=https://www.proceso.com.mx/reportajes/2014/2/22/cuando-el-chapo-se-caso-con-emma-i-129466.html |website=www.proceso.com.mx |access-date=2023-12-28 |language=spanish}}</ref>。{{Infobox 人物|氏名=エマ・コロネル・アイスプロ<br/> Emma Coronel Aispuro|ふりがな=|画像=|画像サイズ=|画像説明=|出生名=Emma Coronel Aispuro<br/>(エマ・コロネル・アイスプロ)|生年月日={{生年月日と年齢|1989|7|2}}|生誕地={{USA}}、[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]|失踪年月日=|失踪地=|現況=釈放済|没年月日=|死没地=|死因=|遺体発見=|墓地=|記念碑=|住居=|国籍={{USA}}|別名=|民族=[[メキシコ系アメリカ人]]|市民権={{USA}}|教育=|出身校=|職業=|活動期間=|雇用者=|団体=[[シナロア・カルテル]]|代理人=|著名な実績=[[ホアキン・グスマン]]の妻|業績=|流派=|影響を受けたもの=|影響を与えたもの=|活動拠点=|給料=|純資産=|身長=|体重=|テレビ番組=|肩書き=幹部|任期=|前任者=|後任者=|政党=|政治活動=|敵対者=|取締役会=|宗教=|宗派=|罪名=[[密輸|麻薬密輸]]<br/>[[麻薬密売]]|有罪判決=*アメリカへの麻薬密輸*は|犯罪者現況=3年間の懲役を得て4年間の保護観察期間中(釈放済み)<br/>・アメリカでの麻薬密売<br/>・金融商品洗浄の証拠隠滅<br/>・指定された重要な外国麻薬密売業者の資産における取引および取引への従事<br/>懲役3年・保護観察期間4年の有罪判決|配偶者=[[ホアキン・グスマン]] (通称:エル・チャポ/終身刑でアメリカの刑務所に収監中)|非婚配偶者=|子供=2人<br/>娘(双子の姉)<br/>娘(双子の妹)|親=父親:[[イネス・コロネル・バレラス]]<br/>母親:[[ブランカ・エステラ・アイスプロ]]|親戚=[[イネス・オマール・コロネル]](兄)<br/>|コールサイン=|受賞=|署名=|署名サイズ=|公式サイト=|補足=}} ==脚注== ===出典=== <references /> ==関連項目== *[[メキシコ麻薬戦争]] *[[シナロア・カルテル]] *[[ホアキン・グスマン]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えま・ころねる・あいすぷろ}} [[Category:カリフォルニア州の人物]] [[Category:アメリカの犯罪者]] [[Category:1989年生]] [[Category:存命人物]]
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タラ川
タラ川(セルビア語: Тара, Tara)は、モンテネグロとボスニア・ヘルツェゴビナを流れる河川である。オパシュニツァ川とヴェルシャ川の合流から始まり、146kmを経てピヴァ川と合流しドリナ川と改名する河川で、146kmのうち141kmがモンテネグロ国内かモンテネグロ国境となっている。世界三位の長さを持つ渓谷であるタラ川渓谷で著名であり、渓谷はドゥルミトルの一部として世界遺産に登録されている。 ドナウイトウの棲息地として知られている。 ラフティングで非常に有名な河川である。ブルストノヴィチャからシュチェパン・ポリェに至る18kmのルートが有名で、このルートではジュルジェヴィチャ・タラ川橋の下を潜る。より手前のスプラヴィスタからシュチェパン・ポリェに至るルートも存在している。 ヨーロッパラフティング選手権の開催地にも選ばれたことがあり、2005年と2009年にこの地で実施されている。 モンテネグロとスルプスカ共和国では下流のドリナ川と併せてタラ川渓谷に水力発電用ダムを建設する計画がしばしば持ち上がるが、ドリナ川のものの計画ですら建設に漕ぎ着けられていない。 2005年4月にはドリナ川のブル・ビイェラ水力発電所建設計画が環境問題を原因として立ち消えになった。しかし2018年にこの計画の建設会社が設立され再び建設に動き出すものの、環境への問題から中止と建設が二転三転している。
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タラ川は、モンテネグロとボスニア・ヘルツェゴビナを流れる河川である。オパシュニツァ川とヴェルシャ川の合流から始まり、146kmを経てピヴァ川と合流しドリナ川と改名する河川で、146kmのうち141kmがモンテネグロ国内かモンテネグロ国境となっている。世界三位の長さを持つ渓谷であるタラ川渓谷で著名であり、渓谷はドゥルミトルの一部として世界遺産に登録されている。
{{Infobox river | name = タラ川 | name_other = | image = Tara River Canyon.jpg | image_caption = タラ川渓谷 | image_size = 180 | subdivision_type1 = 国 | subdivision_name1 = {{MNE}}<br />{{BIH}} | source1 = オパシュニツァ川とヴェルシャ川の合流 | source1_location = コモヴィ山脈 | source1_coordinates= | source1_elevation = | mouth_location = [[ドリナ川]] | mouth_coordinates = {{coord|43.3484|18.8396|type:river|display=it}} | mouth_elevation = | progression = [[ドリナ川]]→[[サヴァ川]]→[[ドナウ川]]→[[黒海]] | length = {{convert|146|km|abbr=on}}<ref name=Yearbook/> | discharge1_avg = | basin_size = {{convert|2006|km2|abbr=on}} {{GeoQuelle|Sava||14}} }} [[Image:Djurdjevica Tara bridge.jpg|right|thumb|[[ジュルジェヴィチャ・タラ川橋]]]] [[Image:Rafting Tara.jpg|thumb|250px|right|タラ川でのラフティング]] '''タラ川'''(タラがわ、{{lang-sr|Тара, Tara}})は、[[モンテネグロ]]と[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]を流れる河川である。オパシュニツァ川とヴェルシャ川の合流から始まり、146kmを経て[[ピヴァ川]]と合流し[[ドリナ川]]と改名する河川で、146kmのうち141kmがモンテネグロ国内かモンテネグロ国境となっている<ref name=Yearbook>[http://monstat.org/userfiles/file/publikacije/godisnjak%202017/1.pdf Statistical Yearbook of Montenegro 2017, Geography], Statistical Office of Montenegro</ref>。世界三位の長さを持つ[[渓谷]]である[[タラ川渓谷]]で著名であり、渓谷は[[ドゥルミトル]]の一部として世界遺産に登録されている。 ==生物== [[ドナウイトウ]]の棲息地や[[ヤナギ]]、[[ボスニアマツ]]、{{仮リンク|セイヨウハンノキ|en|Alnus incana}}、{{仮リンク|ヨーロッパハンノキ|en|Alnus glutinosa}}、[[ヨーロッパクロマツ]]、[[ブナ属]]などの木の生息地として知られている。1976年に[[川]]、[[湖]]、[[ヒース]]、[[泥炭地]]、[[ボグ]]、{{仮リンク|ガラ場|en|Scree}}などが多いタラ川流域は[[ユネスコ]]の[[生物圏保護区]]に指定された<ref>{{Cite web |url=https://en.unesco.org/biosphere/eu-na/tara-basin |title=Tara River Basin Biosphere Reserve, Montenegro |access-date=2023/12/28 |year=2020 |month=2 |website=UNESCO}}</ref>。 ==観光== [[File:Rafting on the Tara river.jpg|thumb|left|タラ川でのラフティング]] [[ラフティング]]で非常に有名な河川である。ブルストノヴィチャからシュチェパン・ポリェに至る18kmのルートが有名で、このルートでは[[ジュルジェヴィチャ・タラ川橋]]の下を潜る。より手前のスプラヴィスタからシュチェパン・ポリェに至るルートも存在している。 ヨーロッパラフティング選手権の開催地にも選ばれたことがあり、2005年と2009年にこの地で実施されている<ref>[http://www.intraftfed.com/competition/WRC2009.html WRC2009 in Bosnia and Herzegovina] {{Webarchive|url=http://arquivo.pt/wayback/20091006224103/http%3A//www.intraftfed.com/competition/WRC2009.html |date=2009-10-06 }}</ref>。 ==ダム計画== モンテネグロと[[スルプスカ共和国]]では下流のドリナ川と併せてタラ川渓谷に水力発電用ダムを建設する計画がしばしば持ち上がるが、ドリナ川のものの計画ですら建設に漕ぎ着けられていない<ref>[http://www.hesvrbas.com/eng/?p=buk Hydroelectric Power Plant BUK BIJELA]</ref><ref>[http://www.hesvrbas.com/eng/?p=srbinje Hydroelectric Power Plant FOČA]</ref><ref>[http://www.hydroworld.com/index/display/article-display/99999/articles/hrhrw/News/Bosnian_Serbs_Serbia_advance_Drina_River_hydro.html Hydroelectric plants on Drina river]</ref>。 2005年4月にはドリナ川の[[ブル・ビイェラ水力発電所]]建設計画が環境問題を原因として立ち消えになった。しかし2018年にこの計画の建設会社が設立され再び建設に動き出すものの、環境への問題から中止と建設が二転三転している<ref name="HE-Buk-Bijela-capital.ba">{{cite web |title=S zakašnjenjem od godinu dana osniva se "HE Buk Bijela" |url=http://www.capital.ba/s-zakasnjenjem-od-godinu-dana-osniva-se-he-buk-bijela/ |website=capital.ba |date=18 July 2018 |access-date=8 September 2018 |language=sr-RS}}</ref>。 ==参考文献== {{reflist}} ==外部リンク== {{commons category|Tara River}} {{DEFAULTSORT:たらかわ}} [[Category:ヨーロッパの複数の国を流れる河川]] [[Category:国境を流れる河川]] [[Category:モンテネグロの河川]] [[Category:ボスニア・ヘルツェゴビナの河川]] [[Category:ボスニア・ヘルツェゴビナ=モンテネグロ国境]] [[Category:ドリナ川の支流]] [[Category:生物圏保護区]]
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出崎海岸
出崎海岸は、岡山県玉野市にある海水浴場。2013年に閉鎖された、とされている。
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出崎海岸は、岡山県玉野市にある海水浴場。2013年に閉鎖された、とされている。
<mapframe latitude="34.522278552529336" longitude="133.9974246881632" zoom="11" width="300" height="250">{ "type": "FeatureCollection", "features": [ { "type": "Feature", "properties": {}, "geometry": { "type": "Point", "coordinates": [ 133.995438, 34.524096 ] } } ] }</mapframe> '''出崎海岸'''(でさきかいがん)は、[[岡山県]][[玉野市]]にある海水浴場<ref>{{Cite web |title=出崎海岸(岡山・玉野・赤磐)の施設情報|ゼンリンいつもNAVI |url=https://www.its-mo.com/poi/KNK_ZPOI-00000000000001851389/ |website=www.its-mo.com |access-date=2023-12-28}}</ref>。2013年に閉鎖されたとされている<ref>{{Cite web |title=出崎海水浴場閉鎖 - きゃんつくばっと |url=https://kyantsukubatto.blogspot.com/2013/04/Desaki-Bathing-beach.html |website=出崎海水浴場閉鎖 - きゃんつくばっと |access-date=2023-12-28}}</ref>。 == 概要 == 海水浴場としての需要が低下した後、犬専用のビーチとしてしばらく営業していたが、それも現在は閉鎖されている<ref>{{Cite web |title=【2023年】出崎ドッグ専用ビーチの最新情報、写真・レビュー、アクセス・営業時間、周辺の人気観光スポット・グルメ |url=https://jp.trip.com/travel-guide/attraction/tamano/desaki-dog-beach-58276268/ |website=TRIP.COM |access-date=2023-12-28 |language=ja-JP}}</ref>。 一方で釣り場としては、主に磯釣りのポイントとしては、海水浴場時代から地元の愛好家に親しまれている<ref>{{Cite web |title=玉野市の釣り場・ポイント情報「沼の港(名称不明)」 |url=https://hopeless-fishing.com/numa-no-minato/ |website=近所で何か釣るブログ |date=2022-06-11 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。釣り場としての主なターゲットは、ベラ、メバル、カサゴである<ref>{{Cite web |title=出崎埠頭の釣果・釣り場情報【2023年最新】 アングラーズ {{!}} 釣果400万件の魚釣り情報サイト |url=https://anglers.jp/areas/2080 |website=アングラーズ {{!}} 釣果400万件の魚釣り情報サイト |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=【お客様釣果情報】 出崎沖 ツバス・アコウ 岡山本店 |url=https://f-time.jp/okyakusama09251800/ |website=釣り具のタイム |date=2021-09-25 |access-date=2023-12-28 |language=ja |last=manbo}}</ref>。 == 周辺情報 == 岡山県にある出崎海岸は、美しい景色と豊かな自然が魅力の海岸である。瀬戸内海に面しており、水が透き通っていて、周囲を囲む山々とのコントラストが美しい。特に、夏場における海と遠くに見える瀬戸内の島々とのコントラストは絶景である。 海岸には、数100m~1km程度にわたる砂浜が広がっている。海水浴場として賑わっていた時代、夏には多くの人で賑わいを見せていた。一方で、秋から冬にかけては静かで落ち着いた雰囲気がある。また、海水浴だけでなく、釣り、サーフィン、マリンジェットなど、様々なマリンスポーツを楽しむことができる穴場スポットとなっている。 海岸からは、瀬戸内海に浮かぶ島々を望むことができる。特に、小豆島や直島などのアート島として知られる島々は、美術館やアート作品が点在しており、アート好きにはたまらないスポットとなっている。 また、出崎海岸周辺には、歴史的な建造物や自然豊かな公園など、見どころがたくさんあり、岡山県南部の地元民が楽しむ場となっている。 == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:でさきかいがん}} [[Category:2013年廃止の施設]] [[Category:日本の海水浴場]] [[Category:玉野市の地理]]
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若戸村
若戸村(わかとむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。 渥美半島の中央部に位置していた。 合併村名の各一文字を組み合わせたもの。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "若戸村(わかとむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "渥美半島の中央部に位置していた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "合併村名の各一文字を組み合わせたもの。", "title": "歴史" } ]
若戸村(わかとむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1906年7月16日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = 赤羽根村、[[高松村 (愛知県渥美郡)|高松村]]、'''若戸村''' → [[赤羽根町|赤羽根村]] | 現在の自治体 = [[田原市]] | よみがな = わかとむら | 自治体名 = 若戸村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 愛知県 | 郡 = [[渥美郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 2483 | 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』1419頁 | 人口の時点 = 1891年 | 隣接自治体 = 赤羽根村、[[泉村 (愛知県)|泉村]]、[[和地村 (愛知県)|和地村]] | 所在地 = 渥美郡若戸村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''若戸村'''(わかとむら{{R|変遷}}{{R|角川}})は、[[愛知県]][[渥美郡]]にあった[[村]]。現在の[[田原市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[渥美半島]]の中央部に位置していた{{R|角川}}。 *河川:池尻川<ref name=角若>「若見〈赤羽根町〉」『角川日本地名大辞典 23 愛知県』1420頁。</ref>、庄五郎川<ref name=角戸>「越戸〈赤羽根町〉」『角川日本地名大辞典 23 愛知県』333頁。</ref>、弘法川{{R|角戸}} *山岳:[[大山 (愛知県)|大山]]{{R|角戸}} *海洋:[[遠州灘]]{{R|角川}} == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)10月1日、[[町村制]]の施行により、渥美郡若見村、越戸村が合併して村制施行し、'''若戸村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』858頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 23 愛知県』1419頁。</ref>。旧村名を継承した若見、越戸の2大字を編成{{R|角川}}。 *[[1906年]](明治39年)7月16日、渥美郡赤羽根村、高松村と合併し、'''[[赤羽根町|赤羽根村]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。 === 地名の由来 === 合併村名の各一文字を組み合わせたもの{{R|角川}}。 == 産業 == *農業、漁業{{R|角若}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[愛知県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:わかとむら}} [[Category:渥美郡]] [[Category:田原市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1906年廃止の日本の市町村]] [[Category:合成地名]]
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高田土居
高田土居(たかだどい)は、和歌山県日高郡みなべ町気佐藤(旧・紀伊国日高郡南部荘)にあった城館。高田城や高田要害、三鍋城とも呼ばれ、高田土居城とも呼称される。みなべ町指定文化財(「高田の土居城跡」)。 高野山蓮華乗院の所領である南部荘に所在し、条里型地割が残る八丁田圃の南端に位置していた。当初は南部荘の灌漑用水開削に伴う施設として築かれたとみられ、その後、紀伊守護・畠山氏により紀伊奥郡支配のための拠点として整備されたと考えられる。城主と伝えられる野辺氏は奥郡小守護代として紀伊に入部しており、高田土居は紀南を広く管轄する拠点となっていた。 高田土居は、15世紀前半に構築された時点で2重の堀に囲まれ、土塁も備えていた。15世紀後半には城域を拡張して、南北225メートル、東西150メートルの規模となっており、大野(海南市)や広(広川町)の守護館を超える広さとなっている。 15世紀中頃に始まる畠山政長と畠山義就の家督争いにおいて、その争奪戦の対象となった。文正2年(1467年)1月、義就の養子の畠山政国が高田土居とみられる「三鍋城」を攻め落として、その周辺の郷1,000軒ほどを焼き払ったという(『経覚私要鈔』)。文明9年(1477年)10月には畠山義就方の勢力が「高田要害」に攻め寄せ、政長方に付く湯河氏が後詰として軍勢を派遣し、合戦を行った。文明15年(1483年)8月には義就方の牢人らが「高田之要害」を攻めている。明応5年(1498年)から永正5年(1508年)の間のものとされる書状では、義就流の畠山基家・義英方の勢力が高田土居に籠城している様子が記されている。 大永2年(1522年)に畠山氏の家臣である野辺慶景の居城の平須賀城が落城したと伝わり、それ以降野辺氏の姿が見えなくなっているが、それに伴い高田土居の名前も史料上確認できなくなる。畠山氏の支配が後退し、高田土居が使用されなくなったためと考えられる。 その後、16世紀半ばまでには館はなくなり、その跡地には鋳造工房が作られた。井戸の跡を利用した溶解炉や鋳物を保管する土蔵などがあったことが、発掘調査から判明している。 1997年(平成9年)より、高田土居北部に阪和自動車道のみなべインターチェンジが建設されるのに伴って発掘調査が行われた。その結果、それまで城として認識されていた範囲が内郭部であり、高田土居がそれに加え外郭部を備えていたことなどが明らかとなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "高田土居(たかだどい)は、和歌山県日高郡みなべ町気佐藤(旧・紀伊国日高郡南部荘)にあった城館。高田城や高田要害、三鍋城とも呼ばれ、高田土居城とも呼称される。みなべ町指定文化財(「高田の土居城跡」)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "高野山蓮華乗院の所領である南部荘に所在し、条里型地割が残る八丁田圃の南端に位置していた。当初は南部荘の灌漑用水開削に伴う施設として築かれたとみられ、その後、紀伊守護・畠山氏により紀伊奥郡支配のための拠点として整備されたと考えられる。城主と伝えられる野辺氏は奥郡小守護代として紀伊に入部しており、高田土居は紀南を広く管轄する拠点となっていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "高田土居は、15世紀前半に構築された時点で2重の堀に囲まれ、土塁も備えていた。15世紀後半には城域を拡張して、南北225メートル、東西150メートルの規模となっており、大野(海南市)や広(広川町)の守護館を超える広さとなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "15世紀中頃に始まる畠山政長と畠山義就の家督争いにおいて、その争奪戦の対象となった。文正2年(1467年)1月、義就の養子の畠山政国が高田土居とみられる「三鍋城」を攻め落として、その周辺の郷1,000軒ほどを焼き払ったという(『経覚私要鈔』)。文明9年(1477年)10月には畠山義就方の勢力が「高田要害」に攻め寄せ、政長方に付く湯河氏が後詰として軍勢を派遣し、合戦を行った。文明15年(1483年)8月には義就方の牢人らが「高田之要害」を攻めている。明応5年(1498年)から永正5年(1508年)の間のものとされる書状では、義就流の畠山基家・義英方の勢力が高田土居に籠城している様子が記されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "大永2年(1522年)に畠山氏の家臣である野辺慶景の居城の平須賀城が落城したと伝わり、それ以降野辺氏の姿が見えなくなっているが、それに伴い高田土居の名前も史料上確認できなくなる。畠山氏の支配が後退し、高田土居が使用されなくなったためと考えられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その後、16世紀半ばまでには館はなくなり、その跡地には鋳造工房が作られた。井戸の跡を利用した溶解炉や鋳物を保管する土蔵などがあったことが、発掘調査から判明している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1997年(平成9年)より、高田土居北部に阪和自動車道のみなべインターチェンジが建設されるのに伴って発掘調査が行われた。その結果、それまで城として認識されていた範囲が内郭部であり、高田土居がそれに加え外郭部を備えていたことなどが明らかとなった。", "title": "概要" } ]
高田土居(たかだどい)は、和歌山県日高郡みなべ町気佐藤(旧・紀伊国日高郡南部荘)にあった城館。高田城や高田要害、三鍋城とも呼ばれ、高田土居城とも呼称される。みなべ町指定文化財(「高田の土居城跡」)。
{{日本の城郭概要表 |name = 高田土居 |pref = 和歌山県 |img = <!-- 写真 --> |img_capt = <!-- 写真の説明 --> |img_width= <!-- 写真幅 --> |ar_called = 高田城、高田要害、三鍋城、高田土居城 |struct = [[平城]]<ref name="大系">{{Citation|和書|editor1-last=平井|editor1-first=聖|editor1-link=平井聖|editor2-last=村井|editor2-first=益男|editor2-link=村井益男|editor3-last=村田|editor3-first=修三|editor3-link=村田修三|year=1980|title=[[日本城郭大系]] 第10巻 三重・奈良・和歌山|publisher=[[新人物往来社]]|id={{全国書誌番号|80036837}}|pages=501–502}}</ref> |tower_struct = <!-- 天守構造 --> |builders = 畠山氏{{sfn|和歌山県文化財センター|2006|p=105}} |build_y = [[15世紀]]前半{{sfn|和歌山県文化財センター|2006|pp=77–78}} |revamp = <!-- 主な改修者 --> |rulers = 野辺氏 |reject_y = [[16世紀]]前半 |remains = [[曲輪]]、[[土塁]]、[[堀|横堀]]<ref name="和歌山">{{Citation|和書|editor=和歌山城郭調査研究会|year=2019|title=戦国和歌山の群雄と城館|publisher=戎光祥出版|series=図説 日本の城郭シリーズ12|isbn=978-4-86403-311-4|pages=60–61}}</ref> |cultural asset = [[みなべ町]]指定文化財 |registered cultural asset = <!-- 登録文化財 --> |remains number = <!-- 埋蔵文化財包蔵地番号 --> |rebuilding things = <!-- 再建造物 --> | latd = 33 |latm = 46 |lats = 39.8<!-- 緯度 --> | longd = 135 |longm = 19 |longs = 31.4<!-- 経度 --> |map = Japan Wakayama<!-- 地図 --> |map_mark = 日本の城跡<!-- アイコン --> |map_label = 高田土居<!-- ラベル --> |map_label_position = bottom<!-- ラベル位置 --> }} '''高田土居'''(たかだどい)は、[[和歌山県]][[日高郡 (和歌山県)|日高郡]][[みなべ町]]気佐藤(旧・[[紀伊国]]日高郡南部荘)にあった城館<ref name="和歌山" />。'''高田城'''<ref name="大系" /><ref name="和歌山" />や'''高田要害'''<ref name="和歌山" />、'''三鍋城'''とも呼ばれ<ref name="和歌山" />、'''高田土居城'''とも呼称される<ref name="大系" />。みなべ町指定[[文化財]](「高田の土居城跡」)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.minabe.lg.jp/docs/2022041400012/|title=資料編|page=79|work=みなべ町地域防災計画(令和3年度修正)|publisher=みなべ町|date=2022-04-14|accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 概要 == [[高野山]]蓮華乗院の所領である南部荘に所在し{{sfn|新谷|2017|p=11}}、[[条里制|条里]]型地割が残る八丁田圃の南端に位置していた{{sfn|和歌山県文化財センター|2006|p=6}}。当初は南部荘の灌漑用水開削に伴う施設として築かれたとみられ{{sfn|新谷|2017|p=11}}、その後、紀伊[[守護]]・[[畠山氏]]により紀伊奥郡支配のための拠点として整備されたと考えられる<ref name="和歌山" />。城主と伝えられる野辺氏は奥郡小守護代として紀伊に入部しており<ref name="弓倉">{{Citation|和書|last=弓倉|first=弘年|year=2006|chapter=紀伊の野辺氏|title=中世後期畿内近国守護の研究|publisher=清文堂出版|isbn=4-7924-0616-1|pages=172–181}}</ref>、高田土居は[[紀南]]を広く管轄する拠点となっていた{{sfn|新谷|2017|p=31}}。 高田土居は、[[15世紀]]前半に構築された時点で2重の[[堀]]に囲まれ<ref name="和歌山" />、[[土塁]]も備えていた{{sfn|新谷|2017|p=11}}。15世紀後半には城域を拡張して、南北225メートル、東西150メートルの規模となっており<ref name="和歌山" />、大野([[海南市]]{{sfn|新谷|2017|p=9}})や広([[広川町 (和歌山県)|広川町]]{{sfn|新谷|2017|p=14}})の守護館を超える広さとなっている{{sfn|新谷|2017|p=31}}。 15世紀中頃に始まる[[畠山政長]]と[[畠山義就]]の家督争いにおいて、その争奪戦の対象となった{{sfn|新谷|2017|pp=14–20}}。[[文正]]2年([[1467年]])1月、義就の養子の[[畠山政国 (総州家)|畠山政国]]が高田土居とみられる「三鍋城」を攻め落として、その周辺の郷1,000軒ほどを焼き払ったという(『[[経覚]]私要鈔』){{sfn|新谷|2017|p=17}}。[[文明 (日本)|文明]]9年([[1477年]])10月には畠山義就方の勢力が「高田要害」に攻め寄せ、政長方に付く[[湯河氏]]が後詰として軍勢を派遣し、合戦を行った{{sfn|新谷|2017|p=17}}。文明15年([[1483年]])8月には義就方の[[浪人|牢人]]らが「高田之要害」を攻めている{{sfn|新谷|2017|p=18}}。[[明応]]5年([[1498年]])から[[永正]]5年([[1508年]])の間のものとされる書状では、義就流の[[畠山義豊|畠山基家]]・[[畠山義英|義英]]方の勢力が高田土居に籠城している様子が記されている{{sfn|新谷|2017|p=18}}。 [[大永]]2年([[1522年]])に畠山氏の家臣である[[野辺慶景]]の居城の[[平須賀城]]が落城したと伝わり、それ以降野辺氏の姿が見えなくなっているが<ref name="弓倉" />、それに伴い高田土居の名前も史料上確認できなくなる<ref name="和歌山" />。畠山氏の支配が後退し、高田土居が使用されなくなったためと考えられる<ref name="和歌山" />。 その後、[[16世紀]]半ばまでには館はなくなり、その跡地には[[鋳造]]工房が作られた<ref name="和歌山" />{{sfn|和歌山県文化財センター|2006|p=82}}。井戸の跡を利用した溶解[[炉]]や[[鋳物]]を保管する[[土蔵]]などがあったことが、[[発掘調査]]から判明している<ref name="和歌山" />。 [[1997年]]([[平成]]9年)より、高田土居北部に[[阪和自動車道]]の[[みなべインターチェンジ]]が建設されるのに伴って発掘調査が行われた{{sfn|和歌山県文化財センター|2006|p=105}}。その結果、それまで城として認識されていた範囲が内郭部であり{{efn|城の規模について、『風土記新御撰附御尋之品書上帳』には「長三拾四間程(約62メートル)、横二拾四間程(約44メートル)」とあり、『日本城郭大系』では「35m×35m」(内郭の位置する台地については「東西60m×南北40m」)とされている<ref name="大系" />。}}、高田土居がそれに加え外郭部を備えていたことなどが明らかとなった{{sfn|和歌山県文化財センター|2006|p=105}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|last=新谷|first=和之|year=2017|chapter=紀伊国における守護拠点の形成と展開|editor1-last=小谷|editor1-first=利明|editor1-link=小谷利明|editor2-last=弓倉|editor2-first=弘年|editor2-link=弓倉弘年|title=南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆|publisher=[[戎光祥出版]]|series=戎光祥中世史論集 第5巻|isbn=978-4-86403-267-4}} * {{Citation|和書|editor=和歌山県文化財センター|year=2006|title=高田土居城跡・徳蔵地区遺跡・大塚遺跡―県道上富田南部線道路改良工事に伴う発掘調査報告書―|publisher=和歌山県文化財センター|url=http://wabunse.or.jp/report/excavation_report/files/hakkutsu_102.pdf}} {{デフォルトソート:たかたとい}} [[Category:和歌山県の城]] [[Category:現存しない和歌山県の建築物]] [[Category:みなべ町の建築物|廃たかたとい]] [[Category:みなべ町の歴史]] [[Category:紀伊国の城]] [[Category:河内畠山氏|城たかたとい]]
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プロフラビン
プロフラビン(英: proflavine、proflavin)はアクリフラビン誘導体の一種である。3,6-ジアミノアクリジン(英: 3,6-diaminoacridine)とも呼ばれる。多くのグラム陽性菌に対して消毒作用がある。硫酸塩や塩酸塩が消毒薬として使用されており、以前は泌尿器用消毒薬としても使用されていた。 2つのアミノ基を有する平面多環芳香族化合物で、水に可溶である。中性水溶液中で444 nmの青色領域に吸収極大を持つ。核酸塩基対の間にインターカレーションする性質を持ち、がん細胞の複製を阻害することから、がん治療におけるDNA標的インターカレーターとして広く研究されてきた。また、蛍光色素でもあることから顕微鏡による生体内イメージングに用いられることがある。
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プロフラビンはアクリフラビン誘導体の一種である。3,6-ジアミノアクリジンとも呼ばれる。多くのグラム陽性菌に対して消毒作用がある。硫酸塩や塩酸塩が消毒薬として使用されており、以前は泌尿器用消毒薬としても使用されていた。
{{chembox | 出典= |ImageFile=Acridine-3,6-diamine 200.svg |ImageSize=250px |IUPACName= Acridine-3,6-diamine |OtherNames = |Section1= {{Chembox Identifiers | ChemSpiderID_Ref = {{chemspidercite|correct|chemspider}} | ChemSpiderID = 6832 | ChEMBL = 55400 | StdInChI_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChI = 1S/C13H11N3/c14-10-3-1-8-5-9-2-4-11(15)7-13(9)16-12(8)6-10/h1-7H,14-15H2 | StdInChIKey_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChIKey = WDVSHHCDHLJJJR-UHFFFAOYSA-N | CASNo_Ref = {{cascite|correct|CAS}} | CASNo=92-62-6 | 日化辞番号 = J3.930F | PubChem = 7099 | DrugBank_Ref = {{drugbankcite|correct|drugbank}} | DrugBank = DB01123 | KEGG_Ref = {{keggcite|correct|kegg}} | KEGG = C11181 | UNII_Ref = {{fdacite|correct|FDA}} | UNII = CY3RNB3K4T | ChEBI = 8452 | SMILES = n1c3c(cc2c1cc(N)cc2)ccc(c3)N }} |Section2= {{Chembox Properties |C=13|H=11|N=3 | Appearance = 薄い黄色~褐色の固体 | Density= | MeltingPt = 280 °C | BoilingPt= | pKa= | Solubility = 可溶 }} |Section3= {{Chembox Hazards | MainHazards= | FlashPt= | Autoignition= }} }} '''プロフラビン'''({{lang-en-short|proflavine}}、proflavin)は[[アクリフラビン]]誘導体の一種である。'''3,6-ジアミノアクリジン'''({{lang-en-short|3,6-diaminoacridine}})とも呼ばれる。多くの[[グラム陽性菌]]に対して消毒作用がある<ref>{{Cite journal|last=Denny|date=2002|title=Acridine Derivatives as Chemotherapeutic Agents|url=http://www.ingentaconnect.com/content/ben/cmc/2002/00000009/00000018/art00002|journal=Current Medicinal Chemistry|volume=9|issue=18|doi=10.2174/0929867023369277}}</ref>。硫酸塩や塩酸塩が局所消毒薬として使用されており、以前は泌尿器用消毒薬としても使用されていた<ref>{{Cite journal|last=Nash|first=Seymour C.|last2=Ketcham|first2=Alfred S.|last3=Smith|first3=Robert R.|date=1962-03|title=Effect of Local Irrigation with Proflavine Hemisulfate on Wounds Seeded with Tumor Cells An Experimental Study:|url=http://journals.lww.com/00000658-196203000-00023|journal=Annals of Surgery|volume=155|issue=3|pages=465–471|language=en|doi=10.1097/00000658-196203000-00023|issn=0003-4932}}</ref>。 == 性質 == 2つの[[アミノ基]]を有する平面多環芳香族化合物で、水に可溶である。中性水溶液中で444 nmの青色領域に吸収極大を持つ<ref>{{Cite journal|last=Gatasheh|first=Mansour K.|last2=Kannan|first2=S.|last3=Hemalatha|first3=K.|last4=Imrana|first4=N.|date=2017-12|title=Proflavine an acridine DNA intercalating agent and strong antimicrobial possessing potential properties of carcinogen|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S2405609X17301446|journal=Karbala International Journal of Modern Science|volume=3|issue=4|pages=272–278|language=en|doi=10.1016/j.kijoms.2017.07.003}}</ref>。[[塩基対|核酸塩基対]]の間に[[インターカレーション]]する性質を持ち、がん細胞の複製を阻害することから、がん治療におけるDNA標的インターカレーターとして広く研究されてきた<ref>{{Cite journal|last=Basu|first=Anirban|last2=Suresh Kumar|first2=Gopinatha|date=2015-08|title=Thermodynamic characterization of proflavine–DNA binding through microcalorimetric studies|url=https://linkinghub.elsevier.com/retrieve/pii/S0021961415000713|journal=The Journal of Chemical Thermodynamics|volume=87|pages=1–7|language=en|doi=10.1016/j.jct.2015.03.009}}</ref>。また、[[蛍光色素]]でもあることから顕微鏡による生体内イメージングに用いられることがある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == *[[アクリジンイエロー]] *[[アクリジンオレンジ]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふろふらひん}} [[Category:殺菌消毒薬]] [[Category:含窒素複素環式化合物]] [[Category:多環芳香族化合物]] [[Category:アクリジン]] [[Category:蛍光色素]] [[Category:DNA結合物質]]
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アブ・ヌラディン・ルスタモフ
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和地村 (愛知県)
和地村(わじむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。 古来から片浜十三里と称される海沿いの帯状の台地に位置していた。 次の諸説あり。
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和地村(わじむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1906年7月16日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = [[堀切村 (愛知県)|堀切村]]、'''和地村'''、[[伊良湖村]] → [[伊良湖岬村]] | 現在の自治体 = [[田原市]] | よみがな = わじむら | 自治体名 = 和地村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 愛知県 | 郡 = [[渥美郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 1719 | 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』1423頁 | 人口の時点 = 1891年 | 隣接自治体 = [[若戸村]]、[[泉村 (愛知県)|泉村]]、[[清田村 (愛知県)|清田村]]、[[福江町 (愛知県)|福江町]]、堀切村 | 所在地 = 渥美郡和地村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''和地村'''(わじむら{{R|変遷}})は、[[愛知県]][[渥美郡]]にあった[[村]]。現在の[[田原市]]の一部にあたる。 == 地理 == 古来から片浜十三里と称される海沿いの帯状の台地に位置していた{{R|角川}}。 *海洋:[[遠州灘]]{{R|角川}} == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)10月1日、[[町村制]]の施行により、渥美郡和地村が単独で村制施行し、'''和地村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』860頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 23 愛知県』1423頁。</ref>。大字は編成せず{{R|角川}}。 *[[1900年]](明治33年)養蚕伝習所開設{{R|角川}} *[[1906年]](明治39年)7月16日、渥美郡堀切村、伊良湖村と合併し、'''[[伊良湖岬村]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。合併後、伊良湖岬村和地となる{{R|角川}}。 === 地名の由来 === 次の諸説あり{{R|角川}}。 #『[[和名類聚抄|和名抄]]』に記載の和太郷に比定され、和太地から和地となった。 #『和名抄』が和地を和太と誤記した。 == 産業 == *農業、漁業{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[愛知県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:わしむら}} [[Category:渥美郡]] [[Category:田原市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1906年廃止の日本の市町村]]
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はりぼて (映画)
『はりぼて』は、2020年公開の日本のドキュメンタリー映画。 2016年から2017年にかけて政務活動費を不正受給や架空請求した問題で富山市議会議員が計14名辞職した。 2017年、『はりぼて 腐敗議会と記者たちの攻防』(チューリップテレビ)が放送され、番組部門(テレビドキュメンタリー番組)で第43回放送文化基金賞で優秀賞を受賞した。 放送された番組を元に映画が製作され、2020年8月に公開された。
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『はりぼて』は、2020年公開の日本のドキュメンタリー映画。
{{Infobox Film | 作品名 = はりぼて | 画像 = | 画像サイズ = | 画像解説 = | 監督 = [[五百旗頭幸男]]<br>[[砂沢智史]] | 製作 = [[服部寿人]] | 出演者 = 五百旗頭幸男<br>[[山根基世]]<br>[[佐久田脩]] | 音楽 = [[田渕夏海]] | 撮影 = 西田豊和 | 編集 = 西田豊和 | 製作会社 = | 配給 = [[彩プロ]] | 公開 = {{flagicon|Japan}} 2020年8月16日 | 上映時間 = 100分 | 製作国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 興行収入 = }} 『'''はりぼて'''』は、[[2020年]]公開の[[日本]]の[[ドキュメンタリー]][[映画]]。 == 背景・概要 == {{see|富山市議会#不祥事}} 2016年から2017年にかけて[[政務活動費]]を不正受給や架空請求した問題で[[富山市議会]]議員が計14名辞職した<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJ9H0J57J9GPUZB01D.html 市政報告会60回…請求の経費全て架空 富山政活費不正]朝日新聞デジタル 2023年12月28日閲覧</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASJ977R6FJ97PUZB01Q.html|title=政活費不正、総額469万円に 富山市議が辞職願|accessdate=2023年12月28日|publisher=朝日新聞 2016年9月8日 11時41分}}</ref><ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160913/k10010684601000.html?utm_int=detail_contents_news-related-auto_001 富山市議会 不正で議員3人が辞職 さらに2人辞職へ]{{リンク切れ|date=2019年12月}} NHKニュース 2023年12月28日閲覧</ref><ref>{{Cite news | url = http://www.sankei.com/region/news/160912/rgn1609120001-n1.html | title = 富山政活費不正自民市議「領収書偽造」謝罪し3人目辞職 | newspaper = 産経ニュース | publisher = 産経新聞社 | date = 2016-9-12 | accessdate = 2023-12-28 }}</ref><ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160915/k10010686931000.html?utm_int=detail_contents_news-related-auto_001 富山市議会 政務活動費の不正で新たに1人が辞職願]{{リンク切れ|date=2019年12月}}NHKニュース 2023年12月28日閲覧</ref><ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160915/k10010687451000.html 富山市議会 政務活動費の不正 辞職議員は7人に]{{リンク切れ|date=2019年12月}}NHKニュース 2023年12月28日閲覧</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20160916/k00/00m/010/116000c 8人目が辞意、政活費不正]毎日新聞 2023年12月28日閲覧</ref><ref>{{Cite news |title= ついに市議会議長が議員辞職へ 不正受給発覚後、9人目 議員報酬値上げの「首謀者」|newspaper=産経ニュース|agency=産業経済新聞社|date= 2016-9-19|url=http://www.sankei.com/affairs/news/160919/afr1609190018-n1.html|accessdate=2023-12-28}}</ref><ref>[http://www.sankei.com/west/news/160927/wst1609270055-n1.html 【富山市議政活費不正】今度は「架空視察」、10人目の辞職へ 「事務員が気を利かせたのでは」と釈明も… - 産経WEST]</ref><ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016092900894&g=pol 富山市議、また辞職=11人目、政活費を架空請求:時事ドットコム]</ref><ref>[http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20161004205.htm 12人目浦田氏が辞職 富山市議会の政活費不正 - 富山県のニュース | 北國新聞社]{{リンク切れ|date=2019年12月}}</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20161109/k00/00m/040/020000c 富山市議会:13人目辞職…補選2日後、再び欠員状態に]毎日新聞 。</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASK3Q5K6RK3QPUZB00T.html 富山市議会、14人目が辞職 政調費不正問題:朝日新聞デジタル]</ref>。 2017年、『はりぼて 腐敗議会と記者たちの攻防』([[チューリップテレビ]])が放送され、番組部門(テレビ[[ドキュメンタリー番組]])で第43回放送文化基金賞で優秀賞を受賞した。 放送された番組を元に映画が製作され、2020年8月に公開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://moviewalker.jp/mv71333/|title=はりぼて|website=MOVIE WALKER PRESS|accessdate=2023-12-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://maidonanews.jp/article/13616450|title = 笑っちゃうけど笑えない政治“喜劇” 調査報道で議員の不正を暴いた地方局の奮闘が映画に|publisher = まいどなニュース|date = 2020-08-10|accessdate = 2023-12-28}}</ref>。 == 出演者 == * 五百旗頭幸男 * [[山根基世]] * [[佐久田脩]] == スタッフ == * 監督 - 五百旗頭幸男、砂沢智史 * プロデューサー - [[服部寿人]] * 撮影 - 西田豊和 * 編集 - 西田豊和 * 音楽 - [[田渕夏海]] * 配給 - [[彩プロ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[劇場版 センキョナンデス]] * [[香川1区 (映画)]] == 外部リンク == * {{official website|https://haribote.ayapro.ne.jp/|映画「はりぼて」公式サイト 2020年8/16公開}} * {{twitter|haribotemovie|映画『はりぼて』公式}} * {{Allcinema title|372897|はりぼて}} * {{IMDb title|13237263|はりぼて}} {{五百旗頭幸男監督作品}} {{DEFAULTSORT:はりほて}} [[Category:五百旗頭幸男の監督映画]] [[Category:2020年の映画]] [[Category:日本のドキュメンタリー映画]] [[Category:日本の政治映画]] [[Category:選挙を題材とした作品]] [[Category:富山県を舞台とした映画作品]] [[Category:政治に関するドキュメンタリー映画]]
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はりぼて(映画)
『はりぼて』は、2020年公開の日本のドキュメンタリー映画。 2016年から2017年にかけて政務活動費を不正受給や架空請求した問題で富山市議会議員が計14名辞職したref>8人目が辞意、政活費不正毎日新聞 2023年12月28日閲覧</ref>。 2017年、『はりぼて 腐敗議会と記者たちの攻防』(チューリップテレビ)が放送され、番組部門(テレビドキュメンタリー番組)で第43回放送文化基金賞で優秀賞を受賞した。 放送された番組を元に映画が製作され、2020年8月に公開された。
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『はりぼて』は、2020年公開の日本のドキュメンタリー映画。
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トム・ヘンドリクソン
トム・ヘンドリクソン(Tom Hendrickson、1994年9月1日 - )は、JAPAN RUGBY LEAGUE ONE花園近鉄ライナーズに所属するラグビー選手。 エクセター・チーフス、レッドルースR.F.C.、コーニッシュ・パイレーツ、プリマス・アルビオンRFC、エクセター・チーフスを経て、2023年、花園近鉄ライナーズに加入。
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トム・ヘンドリクソンは、JAPAN RUGBY LEAGUE ONE花園近鉄ライナーズに所属するラグビー選手。
{{Infobox Rugby biography | 名前 = トム・ヘンドリクソン | 画像 = | キャプション = | フルネーム = Thomas Craig Gilbert Hendrickson | 愛称 = | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1994|9|1}} | 出身地 = {{NZL}} [[ネルソン (ニュージーランド)|ネルソン]] | 没年月日 = | 死去地 = | 身長 = {{height|m=1.85}} | 体重 = {{convert|103|kg|stlb|abbr=on}} | 職業 = | 配偶者 = | 子供 = | 親族 = | 学校 = | 大学 = | ポジション = [[ラグビーのポジション#スリークォーターバック|センター]] | アマチュア年 = | アマチュアクラブ = | アマチュア更新日 = | クラブ年 =2017-2023<br /> <br /> <br /> <br />2023- | クラブ = [[エクセター・チーフス]]<br />レッドルースR.F.C.<br />[[コーニッシュ・パイレーツ]]<br />プリマス・アルビオンRFC<br />[[花園近鉄ライナーズ|花園L]] | クラブ出場 = | クラブ得点 = | クラブ更新日 = | 在籍チーム = | 州代表年 = | 州代表 = | 州代表出場 = | 州代表得点 = | 州代表更新日 = | スーパーラグビー年 = | スーパーラグビー = | スーパーラグビー出場 = | スーパーラグビー得点 = | スーパーラグビー所属チーム = | スーパーラグビー更新日 = | 国代表 = | 国代表年 = | 国代表出場 = | 国代表得点 = | 国代表更新日 = | 国セブンズ代表 = | 国セブンズ年 = | 国セブンズ代表更新日 = | コーチクラブ = | コーチ年 = | コーチ更新日 = }} '''トム・ヘンドリクソン'''(Tom Hendrickson、[[1994年]][[9月1日]] - )は、[[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE]][[花園近鉄ライナーズ]]に所属する[[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手。 == プロフィール == *[[ニュージーランド]][[ネルソン (ニュージーランド)|ネルソン]]出身<ref>[https://www.exeterchiefs.co.uk/players/tom-hendrickson Exeterchiefs Tom Hendrickson] . Exeterchiefs. 2023年12月28日閲覧。</ref>。 *ポジションは[[ラグビーのポジション#スリークォーターバック|センター(CTB)]]。 *身長 185cm、体重 103kg == 来歴 == [[エクセター・チーフス]]、レッドルースR.F.C.、[[コーニッシュ・パイレーツ]]、プリマス・アルビオンRFC、エクセター・チーフス<ref>[https://www.itsrugby.co.uk/players/tom-hendrickson-30723.html Itsrugby Tom Hendrickson] . Itsrugby. 2023年12月28日閲覧。</ref>を経て、[[2023年]]、[[花園近鉄ライナーズ]]に加入<ref>[https://hanazono-liners.jp/2023/12/28/shin/ 新加入選手のお知らせ] . 花園近鉄ライナーズ公式サイト(2023年12月28日). 2023年12月28日閲覧。</ref>。 == 出典 == {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[エクセター・チーフス]] *[[コーニッシュ・パイレーツ]] *[[花園近鉄ライナーズ]] == 外部リンク == *[https://www.ultimaterugby.com/tom-hendrickson ultimaterugby Tom Hendrickson] {{Rugbyunion-bio-stub}} {{花園近鉄ライナーズ スコッド}} {{デフォルトソート:へんとりくそん とむ}} [[Category:在日外国人のラグビー選手]] [[Category:ニュージーランドのラグビーユニオン選手]] [[Category:エクセター・チーフスの選手]] [[Category:コーニッシュ・パイレーツの選手]] [[Category:花園近鉄ライナーズ及びその前身チームの選手]] [[Category:ニュージーランド出身の人物]] [[Category:1994年生]] [[Category:存命人物]]
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ブガッティ・EB112
ブガッティ・EB112は1993年にブガッティが発表した4ドアファストバックサルーンタイプのコンセプトカーである。 EB112はブガッティが、イタルデザインのジョルジェット・ジウジアーロにEB110のサルーンモデルのデザインを依頼したのがきっかけで誕生した。ジウジアーロはタイプ57 ギャリビエを彷彿とさせるようなレトロスタイルの、4ドアファストバックサルーンをデザインした。ボディはオールアルミ製で、シャーシにはEB110と共通のカーボンファイバー製シャーシが使用されている。 1994年4月3日には、新生ブガッティのオープニングセレモニーが六本木のアークヒルズで行われ、数十台のブガッティと当時初上陸したばかりのEB110とともに、EB112も展示された。また、当時ブガッティ会長を務めていたロマーノ・アルティオーリ夫妻を迎えて、皇居や国会議事堂周辺をパレードランした。 EB112は3台のみ製造されており、2013年にかつてギルド・パランカ・パストールが所有していた黒のEB112(s/n 39003)がモナコで走行しているところを目撃されている。この個体は後にドイツ人のMarc Gindrofに売却されている。ブルゴーニュ色の個体(s/n 39001)はイタルデザインが所有し、アンスラサイト色の個体(s/n 39002)は2021年に、ドイツのディーラーであるシャルトクリッセ(Schaltkulisse)によってロシア人に販売された。販売された価格は240万ユーロ(約3億2000万円)で、これはセダン史上最高額となる価格である。黒色の個体(s/n 39003)は、3台の中で唯一、公道走行が可能である。 エンジンはフォルクスワーゲンが設計したV型12気筒エンジンを搭載し、最高出力456PS (335kW; 450hp)、最大トルク649Nm (479lb・ft)を発揮する。このエンジンは各シリンダーに5つのバルブを備えており、EB110のエンジンが3.5Lだったのに対して6.0Lまで拡張されている。フロントエンジンだが、車の中心よりに配置されており、重量配分が大幅に向上している。EB112は4輪駆動を搭載している。0-100km/hは4.3秒で、最高速度は300km/h (186mph)と公表されている。ロマーノ・アルティオーリは、そのハンドリングを「ゴーカートに似ていて、フラットに曲がり、EB110よりも運転するのが楽しい」と評した。 EB112は1993年3月のジュネーブモーターショーで発表された。型破りなデザインのため賛否両論あったが、オートモビリア誌はこの車を「世界で最も美しい車」と名付けた。 EB112はコンセプトカーのため、開発はブガッティの工場、ショーカーは製造ラインで作られた。1995年にブガッティが倒産した際、会社の資産の一部が実業家のギルド・パランカ・パストールによって購入され、その中には未完成のEB112が3台(うち1台は完成品)とスペアパーツも含まれていた。未完成だった2台は、パストールが所有するモナコレーシングチームによって1998年に完成された。1台はブラックの外装(s/n 39003)、1台はダーク・アンスラサイト色の外装で仕上げられた(s/n 39002)。残る1台(倒産前に完成していた個体)はブルゴーニュ色の外装で仕上げられている(s/n 39001)。ブルゴーニュの個体はテールライトがバンパー一体型になっているが、それ以外の2台はバンパーの上にテールライトが配置されており、デザインが異なっている。 EB112の4ドアデザインはその後も受け継がれ、W18エンジンを搭載したEB218、2009年に16C ガリビエールなどが登場している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ブガッティ・EB112は1993年にブガッティが発表した4ドアファストバックサルーンタイプのコンセプトカーである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "EB112はブガッティが、イタルデザインのジョルジェット・ジウジアーロにEB110のサルーンモデルのデザインを依頼したのがきっかけで誕生した。ジウジアーロはタイプ57 ギャリビエを彷彿とさせるようなレトロスタイルの、4ドアファストバックサルーンをデザインした。ボディはオールアルミ製で、シャーシにはEB110と共通のカーボンファイバー製シャーシが使用されている。 1994年4月3日には、新生ブガッティのオープニングセレモニーが六本木のアークヒルズで行われ、数十台のブガッティと当時初上陸したばかりのEB110とともに、EB112も展示された。また、当時ブガッティ会長を務めていたロマーノ・アルティオーリ夫妻を迎えて、皇居や国会議事堂周辺をパレードランした。 EB112は3台のみ製造されており、2013年にかつてギルド・パランカ・パストールが所有していた黒のEB112(s/n 39003)がモナコで走行しているところを目撃されている。この個体は後にドイツ人のMarc Gindrofに売却されている。ブルゴーニュ色の個体(s/n 39001)はイタルデザインが所有し、アンスラサイト色の個体(s/n 39002)は2021年に、ドイツのディーラーであるシャルトクリッセ(Schaltkulisse)によってロシア人に販売された。販売された価格は240万ユーロ(約3億2000万円)で、これはセダン史上最高額となる価格である。黒色の個体(s/n 39003)は、3台の中で唯一、公道走行が可能である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "エンジンはフォルクスワーゲンが設計したV型12気筒エンジンを搭載し、最高出力456PS (335kW; 450hp)、最大トルク649Nm (479lb・ft)を発揮する。このエンジンは各シリンダーに5つのバルブを備えており、EB110のエンジンが3.5Lだったのに対して6.0Lまで拡張されている。フロントエンジンだが、車の中心よりに配置されており、重量配分が大幅に向上している。EB112は4輪駆動を搭載している。0-100km/hは4.3秒で、最高速度は300km/h (186mph)と公表されている。ロマーノ・アルティオーリは、そのハンドリングを「ゴーカートに似ていて、フラットに曲がり、EB110よりも運転するのが楽しい」と評した。", "title": "パワートレイン" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "EB112は1993年3月のジュネーブモーターショーで発表された。型破りなデザインのため賛否両論あったが、オートモビリア誌はこの車を「世界で最も美しい車」と名付けた。 EB112はコンセプトカーのため、開発はブガッティの工場、ショーカーは製造ラインで作られた。1995年にブガッティが倒産した際、会社の資産の一部が実業家のギルド・パランカ・パストールによって購入され、その中には未完成のEB112が3台(うち1台は完成品)とスペアパーツも含まれていた。未完成だった2台は、パストールが所有するモナコレーシングチームによって1998年に完成された。1台はブラックの外装(s/n 39003)、1台はダーク・アンスラサイト色の外装で仕上げられた(s/n 39002)。残る1台(倒産前に完成していた個体)はブルゴーニュ色の外装で仕上げられている(s/n 39001)。ブルゴーニュの個体はテールライトがバンパー一体型になっているが、それ以外の2台はバンパーの上にテールライトが配置されており、デザインが異なっている。 EB112の4ドアデザインはその後も受け継がれ、W18エンジンを搭載したEB218、2009年に16C ガリビエールなどが登場している。", "title": "生産" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "", "title": "生産" } ]
ブガッティ・EB112は1993年にブガッティが発表した4ドアファストバックサルーンタイプのコンセプトカーである。
{{Infobox_自動車のスペック表| 車種=普通自動車| 車名=ブガッティ・EB112| 1枚目画像名=Bugatti EB112 sedan 4door.jpg| 製造国={{FRA}}| 製造期間=1993年〜1998年| デザイン=ジョルジェット・ジウジアーロ| ボディタイプ=4ドアファストバックサルーン| エンジン位置=フロントエンジン| 駆動方式=4WD| エンジン=6.0L V12| 最高出力=456PS (335kW; 450hp)| 最大トルク=649Nm (479lb・ft)| 変速機=6速MT| ホイールベース=3,100mm (122.0インチ)| 全長=5,070mm (199.6インチ)| 全幅=1,960mm (77.2インチ)| 全高=1,405mm (55.3インチ)| 車両重量=1,800kg (3,968ポンド)| 先代=[[ブガッティ・タイプ57]]| 後継=[[ブガッティ・EB218]]}} '''ブガッティ・EB112'''は1993年に[[ブガッティ]]が発表した4ドアファストバックサルーンタイプの[[コンセプトカー]]である。 [[File:Bugatti EB 112 rear.jpg|thumb|EB112 リア]] == 概要 == EB112はブガッティが、[[イタルデザイン]]の[[ジョルジェット・ジウジアーロ]]に[[ブガッティ・EB110|EB110]]のサルーンモデルのデザインを依頼したのがきっかけで誕生した。ジウジアーロは[[ブガッティ・タイプ57|タイプ57 ギャリビエ]]を彷彿とさせるようなレトロスタイルの、4ドアファストバックサルーンをデザインした。ボディはオール[[アルミ]]製で、[[シャシ|シャーシ]]にはEB110と共通の[[炭素繊維|カーボンファイバー]]製シャーシが使用されている。 1994年4月3日には、新生ブガッティのオープニングセレモニーが六本木の[[アークヒルズ]]で行われ、数十台のブガッティと当時初上陸したばかりのEB110とともに、EB112も展示された。また、当時ブガッティ会長を務めていた[[ロマーノ・アルティオーリ]]夫妻を迎えて、[[皇居]]や[[国会議事堂]]周辺をパレードランした。<ref>https://www.gqjapan.jp/cars/article/20200615-eb112</ref> EB112は3台のみ製造されており、2013年にかつて[[ギルド・パランカ・パストール]]が所有していた黒のEB112(s/n 39003)が[[モナコ]]で走行しているところを目撃されている。この個体は後にドイツ人のMarc Gindrofに売却されている。<ref>https://www.classicdriver.com/en/cars/bugatti/eb112</ref><ref>https://gtspirit.com/</ref>ブルゴーニュ色の個体(s/n 39001)はイタルデザインが所有し、アンスラサイト色の個体(s/n 39002)は2021年に、ドイツのディーラーであるシャルトクリッセ(Schaltkulisse)によってロシア人に販売された。販売された価格は240万ユーロ(約3億2000万円)で、これはセダン史上最高額となる価格である。<ref>http://yo.spc.free.fr/Bugatti%20register/110_proto/EB112_39002.htm</ref><ref>https://www.thesupercarblog.com/ultra-rare-bugatti-eb112-sold-to-two-individuals-at-the-same-time/</ref><ref>https://intensive911.com/french-car-brand/bugatti/245529/</ref>黒色の個体(s/n 39003)は、3台の中で唯一、公道走行が可能である。 == パワートレイン == エンジンは[[フォルクスワーゲン]]が設計した[[V型12気筒エンジン]]を搭載し、最高出力456PS (335kW; 450hp)、最大トルク649Nm (479lb・ft)を発揮する。このエンジンは各シリンダーに5つのバルブを備えており、EB110のエンジンが3.5Lだったのに対して6.0Lまで拡張されている。フロントエンジンだが、車の中心よりに配置されており、重量配分が大幅に向上している。EB112は4輪駆動を搭載している。0-100km/hは4.3秒で、最高速度は300km/h (186mph)と公表されている。<ref>https://jalopnik.com/heres-the-bugatti-eb112-v12-sedan-that-never-was-1676857190</ref>ロマーノ・アルティオーリは、そのハンドリングを「ゴーカートに似ていて、フラットに曲がり、EB110よりも運転するのが楽しい」と評した。 == 生産 == EB112は1993年3月の[[ジュネーブモーターショー]]で発表された。型破りなデザインのため賛否両論あったが、オートモビリア誌はこの車を「世界で最も美しい車」と名付けた。<ref>https://jalopnik.com/heres-the-bugatti-eb112-v12-sedan-that-never-was-1676857190</ref> EB112はコンセプトカーのため、開発はブガッティの工場、ショーカーは製造ラインで作られた。1995年にブガッティが倒産した際、会社の資産の一部が実業家のギルド・パランカ・パストールによって購入され、その中には未完成のEB112が3台(うち1台は完成品)とスペアパーツも含まれていた。未完成だった2台は、パストールが所有するモナコレーシングチームによって1998年に完成された。1台はブラックの外装(s/n 39003)、1台はダーク・アンスラサイト色の外装で仕上げられた(s/n 39002)。残る1台(倒産前に完成していた個体)はブルゴーニュ色の外装で仕上げられている(s/n 39001)。<ref>https://www.classicdriver.com/en/cars/bugatti/eb112</ref><ref>http://yo.spc.free.fr/Bugatti%20register/110_proto/EB112_39002.htm</ref><ref>https://octane.jp/articles/detail/8203</ref>ブルゴーニュの個体はテールライトがバンパー一体型になっているが、それ以外の2台はバンパーの上にテールライトが配置されており、デザインが異なっている。 EB112の4ドアデザインはその後も受け継がれ、W18エンジンを搭載した[[ブガッティ・EB218|EB218]]、2009年に[[ブガッティ・オトモビル #16C・ガリビエ・コンセプト|16C ガリビエール]]などが登場している。 == 参照 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ブガッティ]] * [[ブガッティ・オトモビル]] * [[ブガッティ・EB118]] * [[ブガッティ・EB218]] == 外部リンク == [[Category:ブガッティの車種|EB112]] [[Category:ブガッティのコンセプトカー]]
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醒めた炎
醒めた炎(さめたほのお)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "醒めた炎(さめたほのお)", "title": null } ]
醒めた炎(さめたほのお) 醒めた炎 (イリュージョンのアルバム) - イングランドのバンド、イリュージョンが1977年に発表したアルバム。原題はOut of the Mist。 醒めた炎 (トム・ヴァーレインのアルバム) - アメリカのミュージシャン、トム・ヴァーレインが1979年に発表したアルバム。原題はTom Verlaine。 醒めた炎 - 木戸孝允伝 - 村松剛の著書。
'''醒めた炎'''(さめたほのお) *[[醒めた炎 (イリュージョンのアルバム)]] - イングランドのバンド、[[イリュージョン (バンド)|イリュージョン]]が1977年に発表したアルバム。原題は''Out of the Mist''。 *{{仮リンク|醒めた炎 (トム・ヴァーレインのアルバム)|en|Tom Verlaine (album)}} - アメリカのミュージシャン、[[トム・ヴァーレイン]]が1979年に発表したアルバム。原題は''Tom Verlaine''。 *醒めた炎 - 木戸孝允伝 - [[村松剛]]の著書。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:さめたほのお}} [[Category:同名の作品]]
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ブガッティ・EB118
ブガッティ・EB118はブガッティが1998年のパリモーターショーで発表したコンセプトカーである。 EB118は1998年のパリモーターショーで発表され、翌1999年のジュネーブモーターショーと東京モーターショーに、EB218とともに展示された。デザイナーはイタルデザインのジョルジェット・ジウジアーロで、そのデザインは1931年のタイプ50(フランス語版)と57SC アトランティックからインスピレーションを受けている。生産台数はコンセプトカーが1台製造されたのみで、量産はされていない。 EB118にはフォルクスワーゲン設計のW18エンジンが搭載され、最高出力563PS (414kW; 555hp)、最大トルク649Nm (479lb・ft)を発揮する。また、ディアブロに搭載された四輪駆動システムを備えている。このパワートレインは1999年のEB218と18/3 シロン(英語版)にも搭載された。
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ブガッティ・EB118はブガッティが1998年のパリモーターショーで発表したコンセプトカーである。
{{Infobox_自動車のスペック表| 車種=普通自動車| 車名=ブガッティ・EB118| 1枚目画像名=Bugatti EB 118 1.jpg| 製造国={{FRA}}| デザイン=ジョルジェット・ジウジアーロ| ボディタイプ=2ドアクーペ| エンジン位置=縦置きフロントエンジン| 駆動方式=AWD| エンジン=6.3L W18エンジン| 最高出力=563PS (414kW; 555hp)/4,800rpm| 最大トルク=650Nm (479lb・ft)/4,000rpm| 変速機=5速MT| 全長=5,050mm (198.8インチ)| 全幅=1,989mm (78.3インチ)| 全高=1,420mm (55.9インチ)| ホイールベース=3,155mm (124.2インチ)}} '''ブガッティ・EB118'''は[[ブガッティ・オトモビル|ブガッティ]]が1998年の[[パリモーターショー]]で発表した[[コンセプトカー]]である。<ref>https://web.archive.org/web/20110708045049/http://www.italdesign.it/project/bugatti-eb-118-eng</ref> == 概要 == EB118は1998年のパリモーターショーで発表され、翌1999年の[[ジュネーブモーターショー]]と[[東京モーターショー]]に、[[ブガッティ・EB218|EB218]]とともに展示された。デザイナーは[[イタルデザイン]]の[[ジョルジェット・ジウジアーロ]]で、そのデザインは1931年の{{仮リンク|ブガッティ・タイプ50|label=タイプ50|fr|Bugatti Type 50}}と[[ブガッティ・タイプ57|57SC アトランティック]]からインスピレーションを受けている。生産台数はコンセプトカーが1台製造されたのみで、量産はされていない。 == パワートレイン == EB118には[[フォルクスワーゲン]]設計のW18エンジンが搭載され、最高出力563PS (414kW; 555hp)、最大トルク649Nm (479lb・ft)を発揮する。また、[[ランボルギーニ・ディアブロ|ディアブロ]]に搭載された四輪駆動システムを備えている。このパワートレインは1999年のEB218と{{仮リンク|ブガッティ・18/3 シロン|label=18/3 シロン|en|Bugatti 18/3 Chiron}}にも搭載された。 == 参照 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ブガッティ]] * [[ブガッティ・オトモビル]] * [[ブガッティ・EB112]] * [[ブガッティ・EB218]] == 外部リンク == [[Category:ブガッティの車種|EB118]] [[Category:ブガッティのコンセプトカー]]
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醒めた炎 (イリュージョンのアルバム)
『醒めた炎』(原題:Out of the Mist)は、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド、イリュージョンが1977年に発表した初のスタジオ・アルバム。 元々は初期ルネッサンスのメンバー全員が再結集した編成だったが、1976年5月にキース・レルフが死去した後、新メンバーのジョン・ナイツブリッジ(ギター)とエディ・マクニール(ドラムス)が迎えられ、本来ドラマーであったジム・マッカーティは、ボーカルに比重を置くようになった。「フェイス・オブ・イエスタデイ」は、マッカーティがルネッサンス時代に発表した曲のリメイクである。 本作はアメリカでチャート入りを果たし、1977年7月2日付のBillboard 200で初登場188位となって、最終的には最高163位を記録した。ポール・コリンズはオールミュージックにおいて5点満点中3点を付け「ホウケンの豊潤なキーボードとジェーン・レルフの澄み切ったボーカルを主体とした、過去の音作りを再興させている」「ルネッサンスの熱心なファンであれば必携」と評している。 特記なき楽曲はジム・マッカーティ作。
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『醒めた炎』は、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド、イリュージョンが1977年に発表した初のスタジオ・アルバム。
{{Infobox Album | Name = 醒めた炎 | Type = [[スタジオ・アルバム]] | Artist = [[イリュージョン (バンド)|イリュージョン]] | Released = [[1977年]] | Recorded = [[ハマースミス]] アイランド・スタジオ | Genre = [[プログレッシブ・ロック]] | Length = 35分55秒 | Label = [[アイランド・レコード]] | Producer = ダグ・ボギー、イリュージョン | Reviews = *[[オールミュージック|AllMusic]] {{Rating-5|3}}<ref name=collins>{{Cite web |url=https://www.allmusic.com/album/out-of-the-mist-mw0000365788 |last=Collins |first=Paul |title=Illusion - Out of the Mist Album Reviews, Songs & More |publisher=AllMusic |accessdate=2023-12-28}}</ref> | Chart position = *163位(アメリカ<ref name=billboard200>{{Cite web |url=https://www.billboard.com/charts/billboard-200/1977-08-13/ |title=Billboard 200 - WEEK OF AUGUST 13, 1977 |publisher=Billboard |accessdate=2023-12-28}}</ref>) | Certification = | Last album = | This album = '''醒めた炎'''<br />(1977年) | Next album = [[幻想への翼]]<br />(1978年) }} 『'''醒めた炎'''』(さめたほのお、原題:''Out of the Mist'')は、[[イギリス]]の[[プログレッシブ・ロック]]・[[バンド (音楽)|バンド]]、[[イリュージョン (バンド)|イリュージョン]]が[[1977年]]に発表した初の[[スタジオ・アルバム]]。 == 背景 == 元々は初期[[ルネッサンス (バンド)|ルネッサンス]]のメンバー全員が再結集した編成だったが、1976年5月に[[キース・レルフ]]が死去した後、新メンバーのジョン・ナイツブリッジ(ギター)とエディ・マクニール(ドラムス)が迎えられ、本来ドラマーであった[[ジム・マッカーティ]]は、ボーカルに比重を置くようになった<ref>CD『Out of the Mist + Illusion』(Edsel Records, EDCD 369)英文ライナーノーツ(ジム・マッカーティ、1994年2月)</ref>。「フェイス・オブ・イエスタデイ」は、マッカーティがルネッサンス時代に発表した曲のリメイクである<ref>{{Cite web |url=https://dmme.net/interview-with-jim-mccarty-yardbirds-pt2 |title=Interview with JIM McCARTY (THE YARDBIRDS) - Part 2 |publisher=DMME.net |date=2014-06 |accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 反響・評価 == 本作はアメリカでチャート入りを果たし、1977年7月2日付の[[Billboard 200]]で初登場188位となって<ref>{{Cite web |url=https://www.billboard.com/charts/billboard-200/1977-07-01/ |title=Billboard 200 - WEEK OF JULY 2, 1977 |publisher=Billboard |accessdate=2023-12-28}}</ref>、最終的には最高163位を記録した<ref name=billboard200 />。ポール・コリンズは[[オールミュージック]]において5点満点中3点を付け「ホウケンの豊潤なキーボードとジェーン・レルフの澄み切ったボーカルを主体とした、過去の音作りを再興させている」「ルネッサンスの熱心なファンであれば必携」と評している<ref name=collins />。 == 収録曲 == 特記なき楽曲は[[ジム・マッカーティ]]作。 #イザドラ "Isadora" – 6:59 #自由への道 "Roads to Freedom" (Jim McCarty, John Hawken) – 3:55 #ビューティフル・カントリー "Beautiful Country" (J. McCarty, J. Hawken) – 4:22 #ソロ・フライト "Solo Flight" (J. McCarty, J. Hawken) – 4:23 #エヴリホエア・ユー・ゴー "Everywhere You Go" – 3:19 #フェイス・オブ・イエスタデイ "Face of Yesterday" – 5:46 #キャンドルズ・アー・バーニング "Candles Are Burning" – 7:12 == 参加ミュージシャン == *[[ジェーン・レルフ]] - [[ボーカル]] *[[ジム・マッカーティ]] - ボーカル、[[アコースティック・ギター]]、[[パーカッション]] *ジョン・ナイツブリッジ - [[エレクトリック・ギター]] *ジョン・ホウケン - [[ピアノ]]、[[ローズ・ピアノ]]、[[オルガン]]、[[メロトロン]]、[[シンセサイザー]] *ルイス・セナモ - [[エレクトリックベース]] *エディ・マクニール - [[ドラムセット|ドラムス]]、パーカッション == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==外部リンク== *{{discogs master|master=128275}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さめたほのお}} [[Category:イリュージョンのアルバム]] [[Category:1977年のデビュー・アルバム]] [[Category:アイランド・レコードのアルバム]]
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幻想への翼
『幻想への翼』(原題:Illusion)は、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド、イリュージョンが1978年に発表した2作目のスタジオ・アルバム。 かつてバンドの中心人物ジム・マッカーティと共にヤードバーズで活動していたポール・サミュエル=スミスが、プロデューサーに起用された。前作『醒めた炎』(1977年)がアメリカでチャート入りしたにもかかわらず、本作のアメリカ盤LPの発売は見送られた。 1994年には『醒めた炎』との2 in 1 CDとして再発され、2005年には日本のユニバーサルミュージックより、単体で紙ジャケットCDとして再発された。 特記なき楽曲はジム・マッカーティ作。 アディショナル・ミュージシャン
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『幻想への翼』は、イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド、イリュージョンが1978年に発表した2作目のスタジオ・アルバム。
{{Infobox Album | Name = 幻想への翼 | Type = [[スタジオ・アルバム]] | Artist = [[イリュージョン (バンド)|イリュージョン]] | Released = [[1978年]] | Recorded = [[ロンドン]] {{仮リンク|モーガン・スタジオ|en|Morgan Studios}} | Genre = [[プログレッシブ・ロック]] | Length = 37分28秒 | Label = [[アイランド・レコード]] | Producer = [[ポール・サミュエル=スミス]] | Reviews = | Chart position = | Certification = | Last album = [[醒めた炎 (イリュージョンのアルバム)|醒めた炎]]<br />(1977年) | This album = '''幻想への翼'''<br />(1978年) | Next album = [[エンシャンテッド・カレス]]<br />(1989年) }} 『'''幻想への翼'''<ref group="注釈">日本初回盤LP (ILS-81098)、2009年再発CD (UICY-94097)の帯およびライナーノーツの表記に準拠。2005年再発CD (UICY-9540)の帯およびライナーノーツでは『'''幻想の翼'''』と表記されていた。</ref>』(げんそうへのつばさ、原題:''Illusion'')は、[[イギリス]]の[[プログレッシブ・ロック]]・[[バンド (音楽)|バンド]]、[[イリュージョン (バンド)|イリュージョン]]が[[1978年]]に発表した2作目の[[スタジオ・アルバム]]。 == 解説 == かつてバンドの中心人物[[ジム・マッカーティ]]と共に[[ヤードバーズ]]で活動していた[[ポール・サミュエル=スミス]]が、プロデューサーに起用された<ref>{{Cite web |url=https://www.goldminemag.com/columns/celebrating-a-marvelous-illusion-birthed-from-original-lineup-of-renaissance |last=Thompson |first=Dave |title=Celebrating a marvelous Illusion birthed from original lineup of Renaissance |publisher=Project M Group |work=Goldmine Magazine |date=2023-08-11 |accessdate=2023-12-28}}</ref>。前作『[[醒めた炎 (イリュージョンのアルバム)|醒めた炎]]』(1977年)がアメリカでチャート入りしたにもかかわらず、本作のアメリカ盤LPの発売は見送られた<ref>CD『Out of the Mist + Illusion』(Edsel Records, EDCD 369)英文ライナーノーツ(ジム・マッカーティ、1994年2月)</ref>。 1994年には『醒めた炎』との2 in 1 CDとして再発され<ref>{{Cite web |url=https://www.allmusic.com/album/out-of-the-mist-illusion-mw0000186145 |title=Illusion - Out of the Mist/Illusion Album Reviews, Songs & More |publisher=AllMusic |accessdate=2023-12-28}}</ref>、2005年には日本の[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]より、単体で紙ジャケットCDとして再発された<ref>{{Cite web |url=https://www.cdjournal.com/main/news/-/8302 |title=英国70年代ロック隠れ名盤、限定で紙ジャケット化! |publisher=音楽出版社|work=CDJournal |date=2005-02-18 |accessdate=2023-12-28}}</ref>。 == 収録曲 == 特記なき楽曲はジム・マッカーティ作。 #マドンナ・ブルー "Madonna Blue" – 6:47 #ネヴァー・ビー・ザ・セイム "Never Be the Same" – 3:18 #ルイのテーマ "Louis' Theme" (Jane Relf, Louis Cennamo) – 7:42 #波濤を越える翼 "Wings Across the Sea" – 4:49 #クルージング・ノーホエア "Cruising Nowhere" – 5:01 #奇跡の男 "Man of Miracles" (J. Relf, Jim McCarty, John Hawken) – 3:28 #ザ・レヴォリューショナリー "The Revolutionary" (J. McCarty, J. Hawken) – 6:15 == 参加ミュージシャン == *[[ジェーン・レルフ]] - [[ボーカル]]、バッキング・ボーカル *[[ジム・マッカーティ]] - ボーカル、[[アコースティック・ギター]]、[[パーカッション]]、バッキング・ボーカル *ジョン・ナイツブリッジ - [[リードギター]]、アコースティック・ギター *ジョン・ホウケン - [[ピアノ]]、[[ローズ・ピアノ]]、[[ハモンドオルガン]]、[[ハープシコード]]、[[メロトロン]]、[[シンセサイザー]] *ルイス・セナモ - [[エレクトリックベース]] *エディ・マクニール - [[ドラムセット|ドラムス]]、パーカッション、[[チューブラーベル]]、[[ティンパニ]]、[[ヴィブラフォン]]、エフェクト '''アディショナル・ミュージシャン''' *[[ポール・サミュエル=スミス]] - バッキング・ボーカル *ロバート・カービー - [[ストリングス]]・[[編曲|アレンジ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} ==外部リンク== *{{discogs master|master=7151}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:けんそうへのつはさ}} [[Category:イリュージョンのアルバム]] [[Category:1978年のアルバム]] [[Category:アイランド・レコードのアルバム]] [[Category:ポール・サミュエル=スミスがプロデュースしたアルバム]]
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中山村 (愛知県)
中山村(なかやまむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。 渥美半島の西端に位置していた。
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中山村(なかやまむら)は、愛知県渥美郡にあった村。現在の田原市の一部にあたる。
{{日本の町村 (廃止) | 廃止日 = 1906年7月16日 | 廃止理由 = 新設合併 | 廃止詳細 = 福江町、[[清田村 (愛知県)|清田村]]、'''中山村''' → [[福江町 (愛知県)|福江町]] | 現在の自治体 = [[田原市]] | よみがな = なかやまむら | 自治体名 = 中山村 | 区分 = 村 | 都道府県 = 愛知県 | 郡 = [[渥美郡]] | 面積 = | 境界未定 = | 人口 = 3855 | 人口の出典 = 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』960頁 | 人口の時点 = 1891年 | 隣接自治体 = [[泉村 (愛知県)|泉村]]、福江町、[[堀切村 (愛知県)|堀切村]]、[[伊良湖村]] | 所在地 = 渥美郡中山村 | 座標 = | 位置画像 = | 特記事項 = }} '''中山村'''(なかやまむら{{R|変遷}})は、[[愛知県]][[渥美郡]]にあった[[村]]。現在の[[田原市]]の一部にあたる。 == 地理 == [[渥美半島]]の西端に位置していた{{R|角川}}。 *河川:天白川{{R|角川}} *海洋:[[伊勢湾]] == 歴史 == *[[1889年]](明治22年)10月1日、[[町村制]]の施行により、渥美郡中山村が単独で村制施行し、'''中山村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』566頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 23 愛知県』960-961頁。</ref>。大字は編成せず{{R|角川}}。 *[[1901年]](明治34年)から1905年にかけて西山地区が陸軍試砲場となった{{R|角川}}。 *[[1905年]](明治38年)中山[[郵便局]]開設{{R|角川}} *[[1906年]](明治39年)7月16日、渥美郡福江町、清田村と合併し、'''[[福江町 (愛知県)|福江町]]'''が存続して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。合併後、福江町中山となる{{R|角川}}。 == 産業 == *農業、漁業{{R|角川}} == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 23 愛知県 * 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。 == 関連項目 == * [[愛知県の廃止市町村一覧]] {{デフォルトソート:なかやまむら}} [[Category:渥美郡]] [[Category:田原市域の廃止市町村]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]] [[Category:1906年廃止の日本の市町村]]
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スティーヴン・リーコック
スティーヴン・リーコック(Stephen Leacock、1869年12月30日、イギリス、スワンモア−1944年3月28日、カナダ、トロント)は、カナダのユーモア作家、経済学者、政治学者、教授。 フルネームはスティーヴン・バトラー・リーコック(Stephen Butler Leacock)。 イギリスに生まれた。 6歳のときにカナダへ移住。 トロント大学、シカゴ大学に学び、1903年からマギル大学で約 30年間経済学を講じ,名物教授として有名であった。 しかし本領はユーモア小説で、最も著名な『町の日向点描』Sunshine Sketches of a Little Town(1912)をはじめとして、『ノンセンス小説集』Nonsense Novels(1911),『わがイギリス発見』My Discovery of England(1922)など多数の短編集を著した。 批評家としても健筆をふるい,『マーク・トウェーン』Mark Twain(1932),『チャールズ・ディケンズ』Charles Dickens(1933)などの評伝がある。 ほかに,自伝『あとに残した少年』The Boy I Left Behind(1946)がある。
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スティーヴン・リーコック(Stephen Leacock、1869年12月30日、イギリス、スワンモア−1944年3月28日、カナダ、トロント)は、カナダのユーモア作家、経済学者、政治学者、教授。
{{出典の明記|date=2023-12}} {{Expand English|date=2023年12月}} スティーヴン・リーコック(Stephen Leacock、1869年12月30日、イギリス、スワンモア−1944年3月28日、カナダ、トロント)は、カナダのユーモア作家、経済学者、政治学者、教授。 == 生涯 == [[ファイル:Stephen Leacock.jpg|サムネイル|スティーヴン・リーコック]] フルネームはスティーヴン・バトラー・リーコック(Stephen Butler Leacock)。 イギリスに生まれた。 6歳のときにカナダへ移住。 [[トロント大学]]、[[シカゴ大学]]に学び、1903年から[[マギル大学]]で約 30年間経済学を講じ,名物教授として有名であった。 しかし本領はユーモア小説で、最も著名な『町の日向点描』Sunshine Sketches of a Little Town(1912)をはじめとして、『ノンセンス小説集』Nonsense Novels(1911),『わがイギリス発見』My Discovery of England(1922)など多数の短編集を著した。 批評家としても健筆をふるい,『[[マーク・トウェイン]]』Mark Twain(1932),『[[チャールズ・ディケンズ]]』Charles Dickens(1933)などの評伝がある。 ほかに,自伝『あとに残した少年』The Boy I Left Behind(1946)がある。 [[ファイル:Stephen Leacock Graduation photo 15-v2.jpg|サムネイル|スティーヴン・リーコックの卒業写真]] == 脚注 == {{DEFAULTSORT:りいこつく すていいふん}} [[Category:カナダの小説家]] [[Category:トロント出身の人物]] [[Category:1869年生]] [[Category:1944年没]] [[ファイル:Leacock NYT photos.png|サムネイル|スティーヴン・リーコックの肖像]] [[ファイル:Leacock signed photo.png|サムネイル|スティーヴン・リーコックとそのサイン]] [[ファイル:Stephen Leacock's Patio Work Table, Orillia.jpg|サムネイル|スティーヴン・リーコックが使っていた机と椅子]] [[ファイル:Stephen Leacock's Typewriter, Orillia.jpg|サムネイル|スティーヴン・リーコックのタイプライター]] [[Category:マギル大学の教員]]
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ブガッティ・EB218
ブガッティ・EB218は1999年にブガッティが発表したコンセプトカーである。 EB218は1999年のパリモーターショーで発表され、EB118が発表された翌年に発表された。この車はブガッティがフォルクスワーゲン傘下になってから2番目に発表されたコンセプトカーで、EB112、EB118に引き続き、ジョルジェット・ジウジアーロによってデザインされた。 ブガッティは、イタルデザインのジョルジェット・ジウジアーロに、EB112の後継に当たるモデルのデザインを依頼した。EB218はEB112よりも全長が315mm (12.4インチ)長くなっている。EB218はボンネット、バンパー、ライト等のデザインがEB112と異なっている。EB112のようなハッチバックスタイルではなく、サルーンのようなスタイルになっており、タイプ101 Guilor(英語版)からインスピレーションを得ている。 インテリアはシンプルかつ豪華で、ベージュの革シートや、計器類や送風口が備えられた木製ダッシュボードを備えている。 EB218はEB118と同じW18エンジンと、ディアブロと共通の全輪駆動システムが搭載されている。このシステムは18/3 シロンコンセプト(英語版)にも搭載された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ブガッティ・EB218は1999年にブガッティが発表したコンセプトカーである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "EB218は1999年のパリモーターショーで発表され、EB118が発表された翌年に発表された。この車はブガッティがフォルクスワーゲン傘下になってから2番目に発表されたコンセプトカーで、EB112、EB118に引き続き、ジョルジェット・ジウジアーロによってデザインされた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ブガッティは、イタルデザインのジョルジェット・ジウジアーロに、EB112の後継に当たるモデルのデザインを依頼した。EB218はEB112よりも全長が315mm (12.4インチ)長くなっている。EB218はボンネット、バンパー、ライト等のデザインがEB112と異なっている。EB112のようなハッチバックスタイルではなく、サルーンのようなスタイルになっており、タイプ101 Guilor(英語版)からインスピレーションを得ている。 インテリアはシンプルかつ豪華で、ベージュの革シートや、計器類や送風口が備えられた木製ダッシュボードを備えている。", "title": "デザイン" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "EB218はEB118と同じW18エンジンと、ディアブロと共通の全輪駆動システムが搭載されている。このシステムは18/3 シロンコンセプト(英語版)にも搭載された。", "title": "パワートレイン" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "", "title": "パワートレイン" } ]
ブガッティ・EB218は1999年にブガッティが発表したコンセプトカーである。
{{Infobox_自動車のスペック表| 車種=普通自動車| 車名=ブガッティ・EB218| 1枚目画像名=BugattiEB218.JPG| 製造国={{FRA}}| デザイン=[[ジョルジェット・ジウジアーロ]]| ボディタイプ=4ドアサルーン| エンジン位置=フロントエンジン| 駆動方式=AWD| エンジン=6.3L 72バルブ W18気筒| 最高出力=563PS (414kW; 555hp)| 最大トルク=649Nm (479lb・ft)| 変速機=5速AT| ホイールベース=3,000mm (118.1インチ)| 全長=5,349mm (210.6インチ)| 全幅=1,989mm (78.3インチ)| 全高=1,455mm (57.3インチ)| 車両重量=2,176.78kg (4,799ポンド)| 先代=[[ブガッティ・EB112]]| 後継=[[ブガッティ・16C ガリビエール]]}} '''ブガッティ・EB218'''は1999年に[[ブガッティ・オトモビル|ブガッティ]]が発表した[[コンセプトカー]]である。 == 概要 == EB218は1999年の[[パリモーターショー]]で発表され、[[ブガッティ・EB118|EB118]]が発表された翌年に発表された。<ref>https://www.conceptcarz.com/vehicle/z146/Bugatti-EB218.aspx</ref>この車はブガッティが[[フォルクスワーゲン]]傘下になってから2番目に発表されたコンセプトカーで、[[ブガッティ・EB112|EB112]]、EB118に引き続き、[[ジョルジェット・ジウジアーロ]]によってデザインされた。 == デザイン == ブガッティは、[[イタルデザイン]]のジョルジェット・ジウジアーロに、EB112の後継に当たるモデルのデザインを依頼した。EB218はEB112よりも全長が315mm (12.4インチ)長くなっている。EB218は[[ボンネット (自動車)|ボンネット]]、[[バンパー]]、ライト等のデザインがEB112と異なっている。EB112のようなハッチバックスタイルではなく、サルーンのようなスタイルになっており、{{仮リンク|ブガッティ・タイプ101|label=タイプ101 Guilor|en|Bugatti Type 101}}からインスピレーションを得ている。 インテリアはシンプルかつ豪華で、ベージュの革シートや、計器類や送風口が備えられた木製[[ダッシュボード (自動車)|ダッシュボード]]を備えている。 == パワートレイン == EB218はEB118と同じW18エンジンと、[[ランボルギーニ・ディアブロ|ディアブロ]]と共通の全輪駆動システムが搭載されている。このシステムは{{仮リンク|ブガッティ・18/3 シロン|label=18/3 シロンコンセプト|en|Bugatti 18/3 Chiron}}にも搭載された。 == 参照 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ブガッティ]] * [[ブガッティ・オトモビル]] * [[ブガッティ・EB112]] * [[ブガッティ・EB118]] == 外部リンク == https://www.ultimatecarpage.com/car/78/Bugatti-EB-218-Concept.html https://www.motor1.com/news/174094/bugatti-id90-eb-concepts/ [[Category:ブガッティの車種|EB218]] [[Category:ブガッティのコンセプトカー]]
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バルサラハガバ・バトボルド
バルサラハガバ・バトボルド(モンゴル語表記:Батболдын Барслхагва、英語表記: Barslkhagva Batbold、1986年2月26日 - )は、モンゴルの俳優、プロデューサー、実業家。Fantastic Production 所属。愛称はバルサー(英語表記:Barsaa)。 モンゴル国ウランバートル出身。モンゴル国立芸術文化大学の演劇クラスに入学し、テレビと演劇でキャリアをスタート。 所属事務所のFantastic Productionは、2008年に友人7人と立ち上げ、2021年から海外作品への出演を増やしている。俳優業以外ではモンゴルの伝統的なデザインを取り入れたアパレルブランド会社BARSを経営。 2022年10月にモンゴルで『VIVANT』のオーディションを受け出演が決定。スキンヘッド案もあったが福澤克雄監督と相談しロングヘアのままとなった。 日本語でのBarslkhagva Batboldの発音が難しいこともあり、各メディアでのカタカナ表記にゆれがある。(例:バルサラハガバ・バタボルド、バルスルハグヴア・バトボルドなど)そのためファンの間では愛称のバルサーで呼ぶことが多い。 日本のアニメではドラえもん、ドラゴンボール、ONE PIECE、NARUTO -ナルト-、鬼滅の刃、呪術廻戦、チェンソーマンがお気に入りだと語っている。モンゴルでアメリカ映画の『SAYURI』(05年)を観て以来、役所広司のファンである。好きな日本食はすき焼き。 2023年初来日。一回目はVIVANTの撮影で、二回目の来日時はVIVANT放送開始後だったため行く先々で声をかけられたことに驚いたとインタビューで回答した。2023年9月、VIVANT第9話放送直前のVIVANT緊急生放送150分SP(VIVANT祭り)出演のため来日。当日本番前に赤坂サカスに登場しファンと交流を行った。 インテックス大阪で開催したツーリズムEXPOジャパン2023のモンゴルブースにて乾杯の音頭を取った。また、当イベントでは一緒に来日したアディエル役のTsaschikher Khatanzorig(ツァスチヘル・ハタンゾリグ)と整理券配布による撮影会が開催された。
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バルサラハガバ・バトボルドは、モンゴルの俳優、プロデューサー、実業家。Fantastic Production 所属。愛称はバルサー(英語表記:Barsaa)。
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ボルボ・ツンドラ
ボルボ・ツンドラ(Volvo Tundra)は1979年にベルトーネによって設計及び製造されたコンセプトカーである。 ツンドラはボルボ・343をベースにして開発され、デザインはマルチェロ・ガンディーニによるものだった。ツンドラのデザインはシルエットとFW11用に考えられていたデザインテーマを流用して考えられた。しかし、ボルボはこのデザインをモダンすぎると考え、市場に出すのは難しいと考えたため、市販されることはなかった。 ベルトーネが同じデザインをシトロエンに販売し、BXとして販売されたと伝えられることもあるが、2つの似たデザインが同じデザイン会社から発表されただけである。 エンジンは、1.4L 4気筒エンジンを搭載しており、最高出力70PS (51kW)を発揮する。また、ツンドラにはデジタルスピードメーターが搭載されている。
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ボルボ・ツンドラは1979年にベルトーネによって設計及び製造されたコンセプトカーである。
{{Infobox_自動車のスペック表| 車種=普通自動車| 車名=ボルボ・ツンドラ| デザイン=[[マルチェロ・ガンディーニ]]| エンジン=1.4L 4気筒エンジン| エンジン位置=フロントエンジン| 最高出力=70PS (51kW)}} '''ボルボ・ツンドラ'''(''Volvo Tundra'')は1979年に[[ベルトーネ]]によって設計及び製造された[[コンセプトカー]]である。 == 概要 == ツンドラは[[ボルボ・343]]をベースにして開発され、デザインは[[マルチェロ・ガンディーニ]]によるものだった。ツンドラのデザインは[[ランボルギーニ・シルエット|シルエット]]と[[リライアント・FW11|FW11]]用に考えられていたデザインテーマを流用して考えられた。しかし、[[ボルボ・カーズ|ボルボ]]はこのデザインをモダンすぎると考え、市場に出すのは難しいと考えたため、市販されることはなかった。<ref>https://www.motor1.com/volvo/</ref> ベルトーネが同じデザインを[[シトロエン]]に販売し、[[シトロエン・BX|BX]]として販売されたと伝えられることもあるが<ref>https://web.archive.org/web/20200215071057/https://www.mestmotor.se/automotorsport/artiklar/nyheter/20140705/volvos-konstiga-konceptbil-som-blev-en-citroen/</ref>、2つの似たデザインが同じデザイン会社から発表されただけである。<ref>https://www.citroenet.org.uk/prototypes/xb/xb.html</ref> エンジンは、1.4L 4気筒エンジンを搭載しており、最高出力70PS (51kW)を発揮する。また、ツンドラにはデジタル[[スピードメーター]]が搭載されている。 == 参照 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ボルボ・カーズ|ボルボ]] * [[ベルトーネ]] == 外部リンク == {{DEFAULTSORT:ほるほ つんとら}} [[Category:ボルボのコンセプトカー]]
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2024年の航空
2024年の航空(2024ねんのこうくう)では、2024年(令和6年)に起こった、または予定されている航空関係の出来事をまとめる。 2023年の航空 - 2024年の航空 - 2025年の航空
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{{各年の航空ヘッダ|2024}} '''2024年の航空'''(2024ねんのこうくう)では、[[2024年]](令和6年)に起こった、または予定されている航空関係の出来事をまとめる。 [[2023年の航空]] - '''2024年の航空''' - [[2025年の航空]] == 出来事・予定 == === 全般・月不明 === * [[国際航空運送協会]]はこの年の世界の航空総旅客数が47億人、総収益が9640億ドルとなり、いずれも過去最多を更新すると予測している<ref>[https://www.travelvoice.jp/20231208-154720 2024年の世界の航空旅客数は史上最多の47億人と予測、総収益も過去最高か、国際航空運送協会が推計] トラベルボイス、2023年12月8日</ref> *[[北バリ国際空港]]が[[インドネシア]][[バリ州]][[ブレレン県]]に完成する予定<ref>[https://news.lifenesia.com/?p=20677 北バリ新空港、2024年に完成予定] PAGI PAGI POST、2022年1月9日</ref>。 === 1月 === * [[1月31日]] - [[トキエア]]は[[新潟空港]]と[[札幌飛行場]]を結ぶ直行便を就航し、1日に2往復運航する<ref>[https://www.niikei.jp/891238/ 【2024年1月31日に就航予定】トキエアの長谷川社長が会見、新潟=札幌(丘珠)線の就航予定日を発表] にいがた経済新聞社、2023年11月29日</ref>。 === 3月 === * [[3月13日]] - [[ZIPAIR Tokyo]]は[[成田国際空港]]と[[バンクーバー国際空港]]を結ぶ直行便を就航し、週に3往復運航する<ref>[https://www.naa.jp/jp/docs/20231227_TZP.pdf ZIPAIR、2024年3月13日より 成田=バンクーバー線に新規就航!] 成田空港会社、2023年12月27日</ref>。 === 4月 === * [[2024年問題]]への対応として、[[ヤマトホールディングス]]が貨物専用便を就航する<ref>[https://news.tv-asahi.co.jp/news_economy/articles/000322976.html ヤマトが貨物専用機を導入 背景に“物流2024年問題” 来年4月就航] テレビ朝日、2023年11月6日</ref>。 === 5月 === * [[フィンエアー]]が[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]前まで運航していた[[中部国際空港]]と[[ヘルシンキ・ヴァンター国際空港]]を結ぶ直行便が復活する<ref>[https://www.nagoyatv.com/news/?id=021572 中部空港で欧州便が2024年5月に運航再開 ヘルシンキと週2便 2020年3月以来] 名古屋テレビ、2023年11月8日</ref>。 == 脚注 == {{Reflist}} {{各年の航空}} {{デフォルトソート:2024ねんのこうくう}} [[Category:2024年の航空|*]]
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ヤーノシュ・ツェグレディ
ヤーノシュ・ツェグレディ(Janos Cegledy,1937年生まれ)は、ハンガリー生まれのユダヤ人ピアニスト、教授で、ホロコースト生存者。 ヤーノシュ・ツェグレディは、ハンガリーのブダペストに生まれた。 10歳の時にニュージーランドに移住した。 ビクトリア大学 卒業後、ドイツ学術交流会(DAAD)の奨学金を得て、ドイツのザールラント州立音楽大学音楽院でフォルデシュ・アンドールに3年間師事。その御ロンドン王立音楽アカデミー、ギルドホール音楽演劇学校でディプロマを取得。 初来日は1967年、デビューリサイタル及びNHKテレビに出演する。日本でもその実力を高く評価され、日本国内外で演奏活動や作曲活動を本格的に開始する。 2000年以降の主な活動は、2001年イェール大学、ワシントン大学 、デンバー大学などでレクチャー開催、2007年東京でソロリサイタル開催、2016年ブラジル・アポロ文化祭でコンサート出演等、精力的に活動している。 またレシェティツキ国際ピアノコンクール(台湾)、大阪国際音楽コンクール等、国内外のコンクール審査は数多い。後進の育成、美しい音楽の普及の一環として、1991年日本レシェティツキソサエティを発足。会長として尽力し続ける。 東邦音楽大学教授、武蔵野音楽大学講師を歴任し、現在は、ニュージーランド音楽学校(ヴィクトリア大学分校)客員教授、レシェティツキ国際サマーアカデミー(ウィーン)常任教授をしている。
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ヤーノシュ・ツェグレディ(Janos Cegledy,1937年生まれ)は、ハンガリー生まれのユダヤ人ピアニスト、教授で、ホロコースト生存者。
{{複数の問題 |存命人物の出典皆無=2023年12月 |Wikify=2023年12月 }} ヤーノシュ・ツェグレディ(Janos Cegledy,[[1937年]]生まれ)は、ハンガリー生まれのユダヤ人ピアニスト、教授で、ホロコースト生還者。 == 生涯 == ヤーノシュ・ツェグレディは、ハンガリーのブダペストに生まれた。 7歳でホロコーストから生き延びた。  10歳の時に[[ニュージーランド]]に移住した。 [[ビクトリア大学 (カナダ)|ビクトリア大学]] 卒業後、[[ドイツ学術交流会|ドイツ学術交流会(DAAD)]]の奨学金を得て、ドイツのザールラント州立音楽大学音楽院で[[フォルデシュ・アンドール]]に3年間師事。その御[[王立音楽アカデミー]]、[[ギルドホール音楽演劇学校]]で[[ディプロマ]]を取得。 初来日は1967年、デビューリサイタル及びNHKのテレビ番組に出演する。日本でもその実力を高く評価され、日本国内外で演奏活動や作曲活動を本格的に開始する。 2000年以降の主な活動は、2001年[[イェール大学]]、[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]] 、[[デンバー大学]]などでレクチャー開催、2007年東京でソロリサイタル開催、2016年ブラジル・アポロ文化祭でコンサート出演等、精力的に活動している。 また[[テオドル・レシェティツキ|レシェティツキ]]国際ピアノコンクール(台湾)、大阪国際音楽コンクール等、国内外のコンクール審査は数多い。後進の育成、美しい音楽の普及の一環として、1991年日本レシェティツキソサエティを発足。会長として尽力し続ける。 [[東邦音楽大学]]教授、[[武蔵野音楽大学]]講師を歴任し、現在は、ニュージーランド音楽学校(ヴィクトリア大学分校)客員教授、レシェティツキ国際サマーアカデミー(ウィーン)常任教授をしている。 == 脚注 == {{DEFAULTSORT:つえくれてい やあのしゆ}} [[category:ハンガリーのピアニスト]] [[category:1937年生]] [[Category:東邦音楽大学の教員 (音楽)]] [[Category:武蔵野音楽大学の教員 (音楽)]]
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小林信正
小林 信正(こばやし のぶまさ)は、テレビ番組プロデューサー。 日本心霊科学協会常任理事、元フジテレビ・チーフプロデューサー。 東京写真大学で映像技術、慶應義塾大学で心理学を専攻。 霊能力や超能力や死後や霊や先祖の因縁や生まれ変わりなどの現在の科学では証明できないものの存在を固く信じる。 テレビの創成期からテレビ局のプロデューサーを務め、その間に国内外で330人ほどの超能力者を取材してきた。 1968年に『小川宏ショー』で超常現象コーナーの製作に携わる。それから世界の霊能者や超能力者と交流をする。超常現象のテレビ番組を多数制作する。 1991年4月12日に放送された『世紀末!!異次元パワー!超常現象を見た!!』をプロデュースする。どこまで超常現象を検証できるかとの観点で製作。 2001年に『怪奇!心霊写真 ーこれが霊界からの映像だ!ー』を製作。 定年退職してからも団体を通じて心霊研究に携わる。 丹波哲郎は盟友。
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小林 信正は、テレビ番組プロデューサー。
'''小林 信正'''(こばやし のぶまさ)は、[[テレビ番組]][[プロデューサー]]。 == 概要 == [[日本心霊科学協会]]常任理事、元[[フジテレビ]]・チーフプロデューサー<ref name=":0">{{Cite web |title=イベント一覧 - 東京大学ホームカミングデイ |url=https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/alumni/interact/hcd/hcd2007/event/index.html |website=www.u-tokyo.ac.jp |access-date=2023-12-28}}</ref>。 [[東京写真大学]]で映像技術、[[慶應義塾大学]]で[[心理学]]を専攻<ref name=":0" />。 [[霊能力]]や[[超能力]]や[[死後]]や[[霊]]や[[先祖]]の[[因縁]]や[[生まれ変わり]]などの現在の[[科学]]では証明できないものの存在を固く信じる<ref name=":1">{{Cite web |title=伝説の心霊番組プロデューサーの体験告白「あなたは信じますか?」/ムー民のためのブックガイド|webムー 世界の謎と不思議のニュース&考察コラム |url=https://web-mu.jp/column/27134/ |website=webムー 世界の謎と不思議のニュース&考察コラム |date=2023-10-08 |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 [[テレビ]]の創成期から[[テレビ局]]のプロデューサーを務め、その間に国内外で330人ほどの超能力者を取材してきた<ref name=":1" />。 [[1968年]]に『[[小川宏ショー]]』で超常現象コーナーの製作に携わる。それから世界の霊能者や超能力者と交流をする。超常現象のテレビ番組を多数制作する<ref name=":0" />。 [[1991年]][[4月12日]]に放送された『世紀末!!異次元パワー!超常現象を見た!!』をプロデュースする。どこまで超常現象を検証できるかとの観点で製作<ref>{{Cite web |title=(4ページ目)「凡人にはない力をもっている」「やらせは一切ない」“驚異の霊能力者”こと宜保愛子が変えたオカルト番組の“常識”とは |url=https://bunshun.jp/articles/-/47071 |website=文春オンライン |access-date=2023-12-28 |first=高橋 |last=直子}}</ref>。 [[2001年]]に『怪奇!心霊写真 ーこれが霊界からの映像だ!ー』を製作<ref>{{Cite web |title=カンテレドーガ|関西テレビの動画配信サービス【初回30日間無料】 |url=https://ktv-smart.jp/ |website=カンテレドーガ |access-date=2023-12-28 |language=ja}}</ref>。 [[定年退職]]してからも団体を通じて心霊研究に携わる<ref name=":1" />。 [[丹波哲郎]]は盟友<ref name=":1" />。 == 脚注 == {{Reflist}}{{デフォルトソート:こはやしのふまさ}} [[Category:日本のテレビプロデューサー]]
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メナヘム・プレスラー
メナヘム・プレスラー生年月日:(1923年12月16日から2023年5月6日)は、ドイツ出身、イスラエル系アメリカ人のピアニスト。学術教師でもあった。 ドイツ マクデブルクで生まれる。 地元の教会でオルガニストにピアノを教わる。 しかし、ナチスの台頭によりドイツからパレスチナに移る。 1946年にサンフランシスコのコンクールでドビュッシー賞を受賞する。 世界各国でユージン・オーマンディなどの有名指揮者と共演した。 ボザール・トリオ共同設立者で、彼もこの楽団と仕事をしていることで知られており、2008 年に解散するまで、数百回の録音と数千回のコンサートで演奏した。 1969年初来日。 1996年、カーネギーホールでソロデビューする。 インディアナ大学システム特別教授を務める。 パリ管弦楽団やベルリン・フィルなど各国の楽団とも共演する。
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メナヘム・プレスラー生年月日:(1923年12月16日から2023年5月6日)は、ドイツ出身、イスラエル系アメリカ人のピアニスト。学術教師でもあった。
{{出典の明記|date=2023-12}} {{Expand English|date=2023年12月}} メナヘム・プレスラー生年月日:(1923年12月16日から2023年5月6日)は、ドイツ出身、イスラエル系アメリカ人のピアニスト。学術教師でもあった。 == 概要 == [[ファイル:Menahem Pressler 2009 (cropped) (cropped).jpg|サムネイル|メナヘム・プレスラー 2009年]] ドイツ マクデブルクで生まれる。 地元の教会でオルガニストにピアノを教わる。 しかし、ナチスの台頭によりドイツからパレスチナに移る。 1946年にサンフランシスコのコンクールでドビュッシー賞を受賞する。 世界各国で[[ユージン・オーマンディ]]などの有名指揮者と共演した。 [[ボザール・トリオ]]共同設立者で、彼もこの楽団と仕事をしていることで知られており、2008 年に解散するまで、数百回の録音と数千回のコンサートで演奏した。 1969年初来日。 1996年、カーネギーホールでソロデビューする。 [[インディアナ大学システム]]特別教授を務める。 パリ管弦楽団やベルリン・フィルなど各国の楽団とも共演する。 イギリス ロンドンで99歳で亡くなる。
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